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[20306] 【世界観クロス:Cthulhu神話TRPG】蜘蛛の糸の繋がる先は【完結】
Name: へびさんマン◆29ccac37 ID:4dc27135
Date: 2024/08/02 22:27
プロローグあるいは後日譚

 ここは学院長室。
 学院の統括者の部屋。……実際は色ボケ爺の居城である。

「はー、どっかに美人秘書でも落ちてないかのう」

 おおむね毎日がこんな調子である。

「適当にかどわかして来ればいいじゃないか。オールド・オスマン」

 そこに茶々を入れる杖が一振り。まあ、私のことなのだが。







蜘蛛の糸の繋がる先は 0.プロローグあるいは後日譚






 このハルケギニアにはインテリジェンス・ウェポン――“意思を持つ器物”なるものを作る技術がある。
 今はもはや失伝しつつある技術ではあるが、その産物はいたるところに存在する。
 人間が意識していないだけで、地表全ては既に我々インテリジェンスアイテムのネットワークによって掌握されつつあるのだ。
 インテリジェンス・スタッフ……いや、インテリジェンス・メイスである私もそのネットワークを担う一員である。
 銘を〈ウード169号〉、あるいは単に〈169号〉とも言う。
 製作者の名前と製造番号からそう言われている。
 もうちょっとこう、そのネーミングセンスはどうにかならなかったのかと常々思う。
 何百年もこの名前に付き合うことを想定せずに付けたらしいが、わが製作者ながら迂闊だ。あるいは嫌がらせかもしれない。

 まあ、同類があと168本あることを考えれば少しは慰めになるか。

「いやさ、ウード君、その短絡的な発想はいかがかと思うぞい」
「これまでだってやってきたことじゃないか、オールド・オスマン。
 悪辣貴族のその腕から哀れな平民の娘を助け出し、匿っては生きる術を与えてきただろう。
 まあそれも、多少の義侠心と多大な下心からだろうが」

 むしろ100%下心だろう、この爺の場合。

「それの何処が拐かしてることになるのかのう」
「誘拐は誘拐だろうが。
 まあ、しかし一時期は虐げられる平民の希望の星だったじゃないか、“鼠小僧”。
 実際に役得もあったんだろう?」

 一時期はこの爺も義賊なんて呼ばれていたものだ。
 だが、助けた娘に恩義を売ってそれを切っ掛けに、あんなことやこんなことをして楽しんでいたのを知っているぞ、オスマン。
 そして未だそっち方面でも現役であることも。

「もう二百年も前の話を蒸し返さんといてくれい。
 おぅおぅ、モートソグニルや、このかわいそうな爺を慰めてくれるのかね。
 それナッツをやろう」

 そうして、机の下から出てくる白鼠。

「2つかのう?3つ?……この食いしんぼさんめ!!」

 すばやい動きでオスマンの手から投げられたナッツを咥える鼠はオスマンの使い魔であるモートソグニル。
 昔はこの鼠の曾々々々々々々々々々々……祖父さんにあたる鼠と一緒に暴虐貴族の屋敷に忍び込んでは暴れまわったものだ。
 モートソグニルが屋敷を調べ、私とオスマンの魔法が貴族を粉砕する。
 抜群のコンビネーションであった。

 私〈ウード169号〉は『偏在』の魔法を補助することを目的に作られた魔道具である。
 どっかの〈地下水〉とかいう暗殺ナイフと違って、平民でも魔法が使えるようにしたりはできないが、私を杖として契約すれば、風のスクエアでなくても、どの属性でもライン程度の能力があれば偏在の魔法を使うことができる。
 『偏在』の魔法を使うのに必要なイメージの部分を私が肩代わりすることで、実際のランク以上の魔法を使えるのだ。

 いわんや、かの『偉大なる』オスマンが私を使えば、文字通りのワンマン・バタリオン(一人大隊)も不可能ではない。
 レミングスのように圧倒的な人数で屋敷を襲って、短時間に荒らし尽くしてすぐに撤退する。
 ああ、華麗なる日々。ついたあだ名が義賊“鼠小僧”。ああ懐かしい。


 地中に張り巡らされたネットワーク状のインテリジェンスアイテムを通じて、私が意識を移動させれば、他の同類のインテリジェンスアイテムと同調して、例えば宇宙からこのハルケギニアを見下ろせるし、海中遊泳だろうが、マグマの音を子守唄にうたた寝することだって出来る。

 このハルケギニアで『ウード』シリーズが知れない情報は無い。
 なにせ、このハルケギニアの、いや世界の全てを知りたいと願ったメイジが作り出したのが、この『ウード』シリーズなのだから。

 地中、海中、空中、宇宙……いたるところに『ウード』シリーズやその端末は存在する。

 そしてこの学院……ハルケギニア最初の総合『私立』学院である私立ミスカトニック学院は、彼の願いを継ぐ研究者を養成する場所である。

 国のためでもなく、始祖のためでもなく、ただ、世界の理を探求するための組織。
 財力も政治的影響力も武力もずば抜けて所持するくせに、それを世界を分析するためにしか用いない組織。
 逆に言えば、その障害となる全てを、財力で、政治力で、武力で捻じ伏せて進んできた組織。

 全てが『始祖の恩寵』で片付けられていた世界に科学を持ち込んだ、最初にして最大の異端。そしてこの学院の創立者。

 私たち『ウード』シリーズの製作者にして、このオスマン老の恩人。

 ウードシリーズの最上位『ウード零号』に魂を転写し、今もハルケギニアの何処かで知識の蒐集を続けている、好奇心の亡者。

 矮人と異形と蟲の軍団を従え、邪教を崇拝した狂人。

 その、ウード・ド・シャンリットは今から遙か千年前に、あふれ出る好奇心と、ここではない何処かの知識を持ってこのハルケギニアに生まれたという。

=================================

開いて下さってありがとうございます

以下、注意書きです。
ジャンルは世界観クロスモノ。「ゼロの使い魔」×「クトゥルフ神話TRPG『クトゥルフの呼び声』」です。暫くはクトゥルフ要素は出てきませんが。本編より外伝の方がクトゥルフ色濃い目です。あと外伝は基本的に一話完結です。
時間軸はルイズ達が活躍する1000年ほど前から始まります。転生モノ、テンプレ、内政系、最低系要素を含みます。あと邪気眼要素。
暗黒神話要素、ダーク系、グロテスク描写、蜘蛛とか蟲が苦手な人は避けたほうが良いかも知れません。生理的に受け付けないという人も多いかと思います。独自解釈や独自設定もそれなりに登場します。
現在、第一部(ウード(第一部主人公)の死まで)完結。第二部の原作時間軸編を投稿中です。

原作時間軸編だけ読みたい人は、
[29]    第一部終了時点の用語・人物などの覚書
[36]   外伝7.シャンリットの七不思議 その7『千年教師長』
あたりに目を通していただけると、より分かりやすいかと思います。

仮投稿 2010.07.15
追記 2010.07.16
チラ裏へ 2010.07.17
タイトル変更 2010.07.18  (旧題:ハルケギニアの蒐集家) 
追記 2010.08.31
2010.07.21 誤字訂正

2010.09.26 注意書きとプロローグを統合。
2010.10.02 注意書きにちょこちょこ追記。
2010.11.02 追記
改稿作業漸く終了。全体的に人称を変更しました。色々と描写を増やしたり視点を変えたりしています。
その他、改訂前後の差異は、主人公ウードの扱いが概ね悪くなっているくらいですかね。
2010.11.06 追記
嘘予告を一本化。
2010.11.21
嘘予告削除。外伝7(第一部(原作1200年前)~第二部(原作開始)までの間章)を更新中です。
2010.12.27 原作時間軸編開始 キャラクターの背景とか国際情勢とか色々改変がありますが、その辺りは追々話の中で説明していきたいと思ってます。
2011.01.05 板変更しました チラ裏→ゼロ魔板

クトゥルフ神話TRPG以外にも、作者の趣味で他作品のセリフやら小道具やらが登場します。
2011.05.10 注意書き追加
2012.08.10 sage。生きてます。いつの間にか連載しだして二年経過。更新はお待ちくださいませ……。
2012.12.25 誤字修正中
2013.05.04 完結しました!

本作は、「株式会社アークライト」及び「株式会社KADOKAWA」が権利を有する『クトゥルフ神話TRPG』シリーズの二次創作物です。

Call of Cthulhu is copyright ©1981, 2015, 2019 by Chaosium Inc. ;all rights reserved. Arranged by Arclight Inc.
Call of Cthulhu is a registered trademark of Chaosium Inc.
PUBLISHED BY KADOKAWA CORPORATION 「クトゥルフ神話TRPG」「新クトゥルフ神話TRPG」



[20306] 蜘蛛の糸の繋がる先は 1.死をくぐり抜けてなお残るもの
Name: へびさんマン◆29ccac37 ID:4dc27135
Date: 2012/12/25 21:19
――――幸い、側を見ますと、翡翠のような色をした蓮の葉の上に、極楽の蜘蛛が一匹、美しい銀色の糸をかけて居ります。
――――御釈迦様はその蜘蛛の糸をそっと御手に御取りになって、玉のような白蓮(しらはす)の間から、遥か下にある地獄の底へ、まっすぐにそれを御下しなさいました。


  ――「蜘蛛の糸」/芥川龍之介 著 より引用







 死んだと思ったら、生きていた。いや、九死に一生とかいう話ではなく、確かに死んでいたはずなのだが。
 私は死病に冒され、病院で息を引き取ったのだ。

 苦しみに苦しみ抜いて、何処か奈落より深くに落ちてゆくような果てしない喪失感。
 その果てしない落下の途中で何か網のようなものに引っかかったような、無我夢中で何かをつかんだような気もするが、とにかく私は死んだはずだ。
 そこから生き返れるほどにはまだ科学は発達していなかったように思う。もっとも、科学の発達具合なんて、今では確認のしようも無い。


 何故か?


 ここが、魔法使いのいる中世ファンタジーな世界だからだ! 私は生まれ変わったのだ!
 死に際のヴィジョンはお釈迦様の蜘蛛の糸でも掴んだということなのだろう。蜘蛛の糸が繋がっていた先は天国じゃなくて異世界だったようだが。

 生まれ変わった後のこの世界(正確には私が誕生した一地方)はハルケギニアと言い、およそ5000年前に降臨した始祖ブリミルが魔法を広め、メイジと平民による階級社会を形成している。
 工業技術などは中世から近世のヨーロッパ程度。
 地理的にもおおよそヨーロッパに対応しているようだ。
 大国ガリア、宗教都市国家ロマリア、白の国アルビオン、水の国トリステインなどの国家がハルケギニアには存在しており、その他にも、中東に該当する“サハラ”や中国に該当する“東方”という地域があるようだ。
 東方は別の言葉では“ロバ・アル・カリイエ”というらしい。私の前世のある物語の言葉では“最果ての虚空”とかいう意味で、砂漠の真ん中の“無名都市”の別名だったはずだが、関連があるのだろうか。
 さらに白の国アルビオンはなんと空を飛ぶ巨大な大地だという。まさにファンタジー。
 ハルケギニアの海と大地の上をふらふら周遊しているらしいが……、下水が雨になって落ちてきたりしないのだろうか?

 ハルケギニアには始祖由来のこれら4つの大国家の他にも数々の都市国家が存在し、離合集散を繰り返しながら、安定して停滞した社会を作っている。
 調べた限り少なくとも2000年近くは技術や文明が停滞している。今のハルケギニア人が2000年前に行っても何の違和感も無く生活できるだろう。
 ともすれば、それ以上前でも大差ない社会だったのではなかろうか。

 私はトリステインの伯爵家の長男として生を受けた。
 貴族に生まれついたのは全く持って幸運としか言いようが無い。
 平民に生まれついたのなら、文字すら満足に習えなかっただろうから。

 そして何よりも魔法が使えるというのが素晴らしい!
 魔法とは何なのか、精神力とは何か、どのような作用で物体に影響を与えているのか、杖と契約しなければ魔法を使えないというが「契約」とは一体何だ、『レビテーション』とは、使い魔の召喚とは、『固定化』とは、『錬金』とは、『硬化』とは、一体なんだ!
 興味が尽きない、限界を知りたい、突き詰めて極めたい。
 この世界を、ハルケギニアを解剖し尽くしたい! 世界の根源を、宇宙の始原を、周囲の微細な現象の法則を知り尽くしたい!

 この身を焦がすような知識欲は前世から引き継いできたものだろうか。
 ……恐らくはそうなのだろう。

 今は朧な前世の思い出。知識はあれど、衝動はあれど、それに伴う実感がない。
 唯一確かな実感として残っているのは、死の苦しみと喪失感。
 死に際に砕けた魂は、おそらく私の人間性というものを根こそぎにしてしまったのだ。
 その砕けた魂の、それでも砕けずに残った部分こそ、今の私の構成要素なのだろう。

 だが、悲観はするまい。
 “ヒト”は生まれながらに“人間”ではなく、育つ過程で“人間”になるものなのだ。
 獣に育てられた少女が狼少女になるように、普通に育てば、私も人間としての感性を取り戻せるだろう。
 前世の知識を持ちながらにして普通に育てば、だが。

 ああ、神様、居るかどうかは知らないが、この苦界に私を再び放り込んでくれるとは最悪だ。
 またあれだけ苦しんで死ななきゃならないかと想像すると怖気が走る。
 だが、最高に感謝している!
 魔法だと! 幻獣だと! なんて、なんてなんて! 興味をそそられる題材だ!
 ああ、神様、仏様、ご先祖様、本当にありがとう!

 湧き上がる衝動は身を焦がさんばかりで、知識を求め、世界の姿を知れと突き動かしてくる。
 しかし、それを成すには今の自分は貧弱に過ぎる。
 もどかしい、もどかしい、もどかしい、もどかし過ぎる!
 狂って死んでしまいそうだ!






 蜘蛛の糸の繋がる先は 1.死をくぐり抜けてなお残るものがあるとすればそれこそが魂の本質
 






 シャンリット伯爵家の長子が生まれた日は、よく晴れた秋の日だった。

 一時は呼吸が止まるなどして、赤ん坊は生死の境をさ迷ったが、なんとか赤子は復活した。
 ひと安心した産婆や伯爵夫妻がふと窓の外を見ると、景色が銀色に霞がかって見える。

「おお、これは“遊糸”じゃないか」

 シャンリット伯爵のフィリップが呟く。
 このようなよく晴れた秋の日には、“遊糸”といってシャンリットを覆う深い森の木々の先から、無数の絹糸が揺らめきながら天に伸びるのが通例である。
 卵から孵化した子蜘蛛が風に乗って遠くへ生息域を広げるために天へと蜘蛛糸を伸ばすのだ。蜘蛛糸は風を受け、子蜘蛛ごと糸を風で運ぶのだ。
 穏やかな風の中、さらさらと木々の葉が擦れる音がする。その中を、蜘蛛糸が光を反射して銀糸のようにキラキラと輝いている。

「しかもこの量はすごいぞ、私も初めて見る規模だ」
「まあ、そうなんですか?」
「ああ、きっとこの子はこの領地に愛され祝福されているのさ。間違いない」

 フィリップと、その妻であるエリーゼが会話を交し合う。
 伯爵家の長男が生まれたこの日、森からは、それを祝福するかのように、常の10倍をやすやすと越える程の数の蜘蛛糸が上空に伸びていた。
 蜘蛛糸は互いに寄り集まり、その密度によってベールのようになっている。
 それはまるで蜘蛛たちが、シャンリット家伯爵長男――“ウード・ド・シャンリット”の誕生の祝いに産着を編んでいるかのようだった。

 シャンリット家は代々蜘蛛を使い魔とすることが多い。
 蜘蛛は豊穣のシンボルでもあるため、蜘蛛に祝福された子供として、伯爵夫妻を始めとして領内ではシャンリット領発展の吉兆だと捉えられた。



 ウードは不思議な赤ん坊であった。
 大人しい子で夜泣きなど、親を困らせることは殆どしなかったが、唯一、静かな空間は嫌いだったようだ。周りで誰かが話しをしている間は、例え自分に話しかけられなくともじっとおとなしくしている。
 否、じっと静かに観察している、という表現の方が正しいだろう。

 眠る時間以外は全て会話を“聴く”ことだけに集中しているようだ。
 もっとも赤子のウードの内心を見ることが出来れば、彼が授乳や排泄の世話の羞恥から意識を逸らす為に周囲に気を遣っていたとも分かるだろうが、実際は“お喋りを聴くのが好きな大人しい子”という扱いだった。

 ウードが異常性を発揮し始めるのは、言葉を話し出した頃である。
 まず第一声からして、尋常の赤ん坊ではない。

「ほんをください」

 父や母を呼ぶでもなく、本。しかもいきなり文として成立する言葉を話したのだ。
 まだ這いつくばって動くことも出来ない時分であるのに。
 そのように請われた乳母(赤子とは言え、領主の息子から丁寧語でお願いされては断れなかった)が、恐る恐る本を与えて開いてみせると、しかめっ面をして、また言葉を発する。

「じがよめないです。じをおしえてください。じしょもください」

 というように、いささか舌っ足らずな声で更に要求を重ねてきた。
 次の日から、乳母の仕事に文字教育と読み聞かせが加わった。

 先ずは始祖ブリミルについての説話や伝説からだ。乳母に抱き抱えられて、本を一緒に読んでいく。

「ぶりみるさまって、なに?」
「ブリミル様とは、魔法を齎した方なのですよ。とぉっても偉いんです」

 “魔法”という言葉にウードは大きく反応した。
 大きくとは言っても、彼の場合は無反応が常の不気味な幼児なので、眼を大きく見開いたくらいだが。
 この些細な変化が分かるのは常に傍に居る乳母くらいのものだ。

「そうなんだ」
「ここトリステインの王様はブリミル様の血を最も濃く引いてらっしゃる方の一人なんですよー。勿論、ウード様にもブリミル様の血は流れているので、魔法が使えるはずです」

 魔法が自分にも使えると聞いて、ウードはとても嬉しそうに笑った。
「くふふ……」と不気味に囁くように。
 何処までも陰性の子供であったが、乳母は慣れたものであったので、特に気にせずに本のページを進める。

 歩けるようになると、ウードは父親である伯爵の書斎や書庫に籠り、そこにある蔵書を片っ端から読み始めた。
 今日は父フィリップの書斎で土魔法の基礎について書かれた本を読んでいる。
 伯爵も書斎で書類仕事をしているが親子間の会話はなく、静かな時間が流れている。
 フィリップの方は漸く一段落したようで、執務机の前で軽く伸びをすると、書斎の隅で本を読んでいるウードに気がついて驚く。
 あまりに気配が希薄だったので忘れてしまっていたのだ。

 実は我が子には密偵としての素質でもあるのかも知れないと思いつつも、話しかける。

「ウード、そんなに本ばかり読んでいてはキノコが生えてしまうぞ」
「父上。きちんと運動もしています。ノワールが張った蜘蛛の巣をアスレチック替わりにしたりして」

 ノワールとは伯爵の使い魔の巨大な蜘蛛だ。
 頭の先から腹の先までで3メイル、足まで合わせると5メイルはある。
 いつもは中庭に大きな巣を架けて微睡んでいるが、時に屋敷の南に出てきて日光浴をしたりしている。

「まてまて。それはそれで危ないからな?
 頭からマルカジリにされてしまうかも知れないし、落ちてケガをしたらどうする」
「ノワールは父上の使い魔ですし、私にも懐いています。
 さっきも落ちそうになりましたが、直ぐに助けてくれましたよ」
「こら、やっぱり落ちそうになってるじゃないか」

 書斎に籠るその一方で、出入りの商人と家宰が会話するのを聴いたり、メイドが姦しく会話しているのを横で聞いたりなどなど館内を神出鬼没に動きまわっては、人の会話を聴くのは相変わらずであった。

「ウード様を見かけませんでしたか?」
「ウード様? えーっと、確かさっき向こうの廊下で見かけました」
「そうですか。ありがとうございます」
「でも、また何処か書庫にでも移動されてるかも知れませんよ」
「書庫はもう探しました。全く今日はどちらに行ってらっしゃるのやら」

 魔法があると知ってからは、それを教えてくれるように伯爵に頼み込んだ。何度も何度も。
 伯爵はまだ幼い我が子に、「もっと大きくなってから」と言い聞かせた。
 魔法を扱うためには、ある程度の肉体の成長と、精神の成熟を待たねばならない。
 精神の成熟についてはウードは合格点を満たしているようにも見える。
 だが肉体の成熟についてはまだまだ全く魔法を使うには足りない。
 少なくとも4歳になってからでなくては、教えることが出来ないとウードに言い聞かせた。
 貴族として魔法を扱う心構えを学んでからでないと、魔法を教えることは出来ないとも伝えた。
 ウードは聡明であり、きちんと理を説けばそれ以上のワガママを重ねることは殆ど無かった。

 魔法の習得が叶わないと分かると、ウードはさらに知識への傾倒を深めた。
 シャンリット家に保管された本はウードが3歳になる頃には既に読み尽くされてしまっていた。

 3歳からは両親である伯爵夫妻の言いつけで礼法の勉強を始め、伯爵が周辺の貴族の屋敷に出向く際には同席するようになった。
 伯爵としては同年代の子供と交流して欲しいという思惑があったのだろうが、ウード自身は周辺の貴族の持つ本を読みたいがために同道しただけであった。
 挨拶が済み、子供同士で適当に遊ぶと、直ぐにその貴族の書斎に入って本を読んでいいかと父親の伯爵を介して訪問先の当主に尋ね、そして書斎に籠りっきりになった。
 当然、訪問先の貴族の子供にとってそんなウードは“つまらない奴”でしかないので、段々とウードが招かれる回数も減っていった。
 しかし、その頃にはウードの方も周辺の貴族の蔵書は読み終えていたため、大して気にした風はなかった。



 4歳になり、漸く、魔法の習得について許可が下りた。
 ウードは嬉々として伯爵からのプレゼントである杖を受け取った。
「くふふふふふふ」と囁くような笑いが非常に耳に障るが、誰ももはや気にしない。
 母親のエリーゼはハルケギニアの生物図鑑をプレゼントした。
 平民にも流通しているような安価な物ではなく、全編彩色済みの高級品だ。
 こちらも非常に喜んで、感極まってウードは二人に抱きついた。
 ウードにしては珍しい行動に、フィリップとエリーゼは驚き、次に満面の笑みで抱きしめ返した。

 数日して杖との契約が済んだ頃、最初の魔法の講義が始まった。
 講師は家宰の老齢の男だ。先代当主が病で亡くなる前から務めている。
 外部から講師を招くことも考えたが、これまで異常な行動を繰り返してきたウードを、彼に初対面の人間に任せるのは不安が大きすぎた。

「えー、ウード様。先ずは何から習いたいですか?」
「『偏在』」
「それは風のスクエアスペルですから無理です」
「分かってますよ、爺や、冗句です。『念力』、『ディテクトマジック』、『錬金』の順で教えてください。スペルはもう分かっているので、実践からお願いいたします」

 外部の講師に任せられないのはこれが理由でもあった。
 彼は知識の面では下手な講師を凌駕するだろうからだ。
 そして、そのことが外部に漏れるのは余り良くない。
 シャンリット家の立場は、現伯爵夫妻の騎士物語的な大恋愛の所為で非常に微妙なのだ。
 余計な波風は立てたくないというのが、長年仕えてきた家宰としての講師の男の考えであった。

「分かりました。少々変則的ですが、問題ないでしょう。
 フィリップ様は土のトライアングルメイジですから、ウード様が始めに練習する系統魔法としては確かに土の『錬金』が良いでしょうね。
 『レビテーション』は宜しいのですか? 大抵は空を飛ぶ魔法を初めに習いたがるものですが」
「空なんか魔法が無くても飛べるじゃないですか。
 子供じゃ飛べても少しの時間だけですし。
 それより『念力』の方が重要です! 本棚の上の方の本を取るのが楽になります」
「まさかそれが理由ですか?」
「それも理由の一つということですが、それだけではありません。
 手で触れないようなものも簡単に扱えるようになります」

 どうやら、ウードの中ではそれなりの理論があるようだ。
 最近はウード自身の魔法についての考えを講釈することも多く、家臣の何人かと魔法談義などに花を咲かせているのを見掛けるようになった。
 それ自体は引き籠っていた以前よりは良い傾向だろう。

 一方で小遣いを貰えるようになったこともあるのだろうが、奇行にも拍車がかかっている。
 この間はモノサシや分銅などを取寄させては、それぞれを比べてみて「精度が悪すぎる……」と打ちひしがれていた。





 ついに念願の魔法を使えるようになった。
 私もこれで貴族の一員として認められるというものだ。

 契約の原理は不明なものの、一応は形式通りに杖の契約とやらも済ませたところである。
 自分でも形式に則って行なっただけなので、何がどうなったのか全く分からない。

 今現在は、『念力』と『ディテクトマジック』を使うことが出来るようになったところだ。
 どちらもコモンマジックと呼ばれる、どんな魔法使いにも使えるという基本的な魔法である。

『念力』あるいは『念動』はモノを動かす魔法で、『ディテクトマジック』は魔法がかかっているかどうかなどを調べる魔法だ。
 『念力』を初めに覚えたのは、最も簡単で、成果が眼に見えやすい魔法だからだ。
 本当は『ディテクトマジック』から覚えたかったが、魔法を成功させるイメージを掴んでおかないと『ディテクトマジック』が成功しているか分からないと思ったのだ。

 他の魔法で慣れてからという考えは良い線行っていると思う。
 私自身も馴染みの薄かった魔法という概念にも慣れてきたようだ。

 そして問題は『ディテクトマジック』だ。これはどうやら様々な使い方がされているようだ。
 メジャーなのは魔法の掛かった物品かどうかを調べるもので、魔道具などに反応して発光させるというものだ。
 しかし他にも例えば宝石の原石に『ディテクトマジック』を掛けて、内部の傷の場所を調べて『錬金』で補修したりというのは高位の土メイジであれば可能だと文献に書いてあった。
 一方で人体に掛けることで“水の淀み”(おそらく腫瘍のことと思われる)の場所を見定めて取り除くなどの使い方もあるそうだ。
 『ディテクトマジック』とは電子顕微鏡からレントゲン的な使い方まで非常に応用範囲の広い、奥が深い魔法なのだ。

 『錬金』で金銀などの貴金属を作ることが出来れば、これから先の研究資金にも困らないので、是非とも身につけたいのだが、どうにもこれが難しい。
 ハルケギニアでこれまで試されたやり方では、高位の土メイジでなくては『錬金』で貴金属を作ることが出来ないとされている。

 しかし、やっていることは銅を作るのであれ、金を作るのであれ、原子の変換には変わりない。
 実際の難易度には金も銀も銅も珪石も関係ないのではないかと私は考えている。
 まあ、原子核として安定する鉄や鉛が作り易いとか、ウラン等の鉛よりも重い重金属は作りづらいなどの特性はあるのかも知れないが。

 そこで考えたのが『ディテクトマジック』を極めて、原子核や電子、素粒子の動きを捉えられるようになれば、貴金属の『錬金』も容易になるのではないかということだ。
 その為に、私は『ディテクトマジック』を繰り返した。幼児なので寝食を忘れてという不健康なことはしなかったが。

 水分子の構造調査を行った時のことを例に挙げよう。
 水分子の構造については幸いにして生まれた時から知っていた。
 あとはこれを『ディテクトマジック』で感じ取れるかどうかなのだが、その前に純水の作成という難題が立ちはだかった。
 混ざりものがあっては、上手く分子を感じ取ることが出来ないのではないかと思ったのだ。

 父上に頼んで、幾つか私の覚えている実験用のガラス器具を作成してもらった。
 それを使って蒸留水を作り、『ディテクトマジック』を使った。

 結果、あまりの情報の奔流に飲まれて数秒意識を失ってしまった。
 どうやら0.1リーブルほどの重さの水の中にある水分子の細かな挙動が一度に送られてきて、脳の処理能力をオーバーしたらしい。
 意識を取り戻したときには、私は床に転がっていた。
 幸い、実験器具を倒したりなどはしなかったので、倒れたことは家人にバレることは無かった。

 『ディテクトマジック』を覚えて一ヶ月ほどは、そうして覚えている限りの純物質を(前世の小学校の実験レベルではあるが)作っては調べてを繰り返した。
 勿論、魔法の学習も並行して。

 私の探究の道は始まったばかりだ。こんな所で立ち止まっては居られない!
 

======================================================

2010.07.18 初出
2010.07.21 誤字等修正
2010.09.26 修正、分割、追記



[20306] 蜘蛛の糸の繋がる先は 2.王道に勝る近道なし
Name: へびさんマン◆29ccac37 ID:4dc27135
Date: 2010/09/26 14:00
 ウードが杖と契約してを覚えて1年ほど経ち、使える魔法も『錬金』(ハルケギニア一般レベル)、『固定化』、『発火』、『集水』、『治癒』、『レビテーション』とバリエーションが増えていった。
 『ディテクトマジック』の性能調査も、コツが掴めてきたのか、脳のキャパシティが上がったのか、なんとか分子、原子レベルの把握ができるようになった。

 そして、ついに彼は念願の金銀の『錬金』をマスターしたのだ!
 しかし同時に大量に鉛が出来てしまったという……。
 やはり、鉛の方が核力的に安定だからだろう。
 ハッキリ言って使う労力に対して身入りが合わない。金貨一枚分の金を作るのに何日掛かることやらと言う有様だった。
 金に重さが近い水銀からならもっと効率良く作れるのだろうが、水銀は中毒が怖いのでウードは敬遠している。

 実は内心、核をいじっていて放射線に被曝していないか戦々恐々である。
 安心な作業環境のためにガイガーカウンターの作成が急務である。

 だがまあ、収穫もあるにはあった。
 炭をダイヤモンドに変換できるようになったのだ。屑石ばかりではあるが。
 工業材料としてくらいなら使えるだろう。
 何年かダイヤモンドの『錬金』ばかりやっていれば熟練して大粒のものも作れるだろうが、別にウードはダイヤモンド職人になりたい訳ではないのだ。

 他の宝石も同様で粗雑な小結晶なら簡単に作ることが出来るが、大きな単結晶は数年は試行錯誤して作らないと難しいようだ。
 ダイヤモンドよりも結晶構造の欠陥だとか添加物に気を使わないといけないから、むしろ色石の方が難しい。

 ただ、ウードとしては様々な知識を蒐集したいだけなのである。
 宝石屋になりたいのではない。人生が二度三度あればそういう人生を送ってもいいだろう、とは考えているが。

 一年間の徹底的な修行と前世から引き継いだ認識のお陰で、一発でタンパク質分子の構造を決定できるくらいまで『ディテクトマジック』は上達したし、『錬金』も一般のハルケギニアのメイジとは違ったレベルで使えるようになった(恐らくは)。
 何より、今まで見えていなかったものを『ディテクトマジック』という第6の感覚で見ることが出来たのは、彼としては非常に楽しかったようで、時間を無駄にしたとかそういうことは感じていない。

 さて、ウードが一年間『ディテクトマジック』にひたすら時間を費やした結果分かったことは、安易に金銀を作って儲けることは出来ない、宝石も熟練が必要というものだった。
 ハルケギニア5000年、流石にその歴史は伊達ではない。

(研究資金を得るためには、貴族としてはやはり領地経営を効率化して、そこから資金を得るのが王道だろうか。
 こちらの方が場合によっては宝石作りよりも時間がかかるかも知れないが……)

 折角天与のもの(貴族の地位と領地)があるのだからそれを使うのが一番いいだろう。
 まあ、ウードが経営に口を出せるようになるのは早くても十数年は後だが、そちらの道を考えるに越したことは無い。
 このまま行けば、父フィリップの爵位と領地を継ぐのはウードなのだから。
 先ずは領地について現状と過去のデータの分析が必要となる。

(父上に過去の帳簿について聞いてみるか)

 最近、庭の一角を改造して与えられた研究室と言う名の隔離場所を飛び出し、ウードはフィリップの執務室に『フライ』で低空飛行して向かう。
 精神力鍛錬のために常日頃から魔法を使うようにしているのだ。





 蜘蛛の糸の繋がる先は 2.王道に勝る近道なし





「父上……」
「おお、ウードか、どうした」
「執務中に済みません。お願いがあって参りました」

 私譲りの濃いブラウンの髪をした幼子が、ふよふよと『レビテーション』で浮いてこちらに寄ってくる。この可愛い子はウード・ド・シャンリット。
 我が愛しの妻、エリーゼとの間に生まれた、シャンリット伯爵家の長男だ。

 そしてウードはこのシャンリット家が始まって以来の天才でもある。或いは鬼才と言っても良いだろう。
 1歳になるかならないかで言葉を話し、文字を覚え、2歳から3歳の2年間で難解な蔵書を読み尽くした。
 4歳の時には杖と契約し、5歳の今では土のメイジとしての才能の片鱗を見せ始めている。

 子供とは思えない落ち着きを見せたかと思えば、時に突拍子も無いことをやらかして、私たちをひやひやさせることもある。
 だが、血の繋がった我が子には変わりなく、愛しい。
 そして、将来に期待が持てる。

 私の無茶のせいで、現在はシャンリット家は窮状に立たされている。
 子に親の負債を押し付ける気はないのだが、もしも領地立て直し半ばにして私が倒れても、あとにこのウードが控えていてくれるなら、安心出来るというものだ。
 長い間仕えてくれた家宰の爺やも、もう年だし、早熟な我が子には爺やが存命なうちに存分に彼から学んで欲しいと思う。

 妻もウードを溺愛し、熱心に教育している。
 最近はそろそろ二人目が生まれそうなので、大事をとって安静にさせているが。

 さて、今日は一体何の用だろうか。
 ウードは手間のかからない子だったし、頼みごとなんて滅多に無いことだ。
 以前に実験器具のガラス容器の作成を頼まれたことくらいだろうか。ガラスや水晶の『錬金』は私の得意とするところだからな。

「父上、このシャンリットの事について、詳しく知りたいのですが、昔の帳簿などは何処にしまってあるでしょうか」
「昔の帳簿か……。確か、先祖代々の日記などと一緒に、書庫の奥に仕舞ってあったはずだ。
 とはいえ、帳簿だけでは分からないだろうから今後は礼法や魔法の勉強に加えて、領地のことについても教えるように爺やに伝えておこう」
「ありがとうございます。ところで、もし今、時間が空いていましたら、現状の領地の状況について少し教えていただきたいのですが」

 まあ、政務も一段落したところだし、ウードと話をするのも良いだろう。
 領地の運営についてというのは親子の会話としては味気ない話題だが、これが思いの外盛り上がった。
 まあ、貴族なのだから領地運営の話題で親子の会話が成り立っても全く不思議ではないのだが。

「今日、領民から幻獣の討伐について陳情を受けていてな。ワイバーンという竜の一種なのだが」
「腕が羽になっている竜ですよね。肉食だと図鑑で読みましたが、普段は何を食べているのです?」
「普段は森の中の鹿やゴブリンなどの亜人、川に住む魚を食べているようだ。
 人里に降りてくることは稀だが、風竜か火竜にでも住処を追われたのかも知れないな」
「成程。討伐されたワイバーンの死体はどうするんですか?」
「死体? 皮を剥いだり肉を取ったり、使える部分はすべて使うな。
 骨も肝も秘薬の原料になるから、丸ごと全て売り払ったり領民に配ったり……ってどうした、微妙に沈んだ顔をして」
「いえ、良ければ剥製や骨格標本にしたいと思っていたので、ちょっと期待が外れて落ち込んだだけです……」

 感情をあまり顕さないウードにしては珍しく、分かりやすく沈んだ顔をしたので気になって聞いてみれば……。
 ウードの奇癖として拾い癖がある。あるいは蒐集癖。
 いつの間にかどこからか動物の死体を拾ってきては標本にしてしまうのだ。
 今では庭の使用していなかった納屋を改築してウードの標本小屋にしている。
 改築の際は興味深そうに人足や親方のメイジの動きをウードが見ていたのを覚えている。

 シャンリットは辺境にある領地だ。
 森が深く、特に蟲――中でも蜘蛛が多いことで有名だ。
 必然、標本小屋には虫の標本が溢れ返ることになり、今では近づきたがる者はあまり居ない。

 使用人たちの評価も、不気味な子、というので固定されている。
 感情発露に乏しく、何を考えているのか読めないのがそれに拍車を掛けている。

 ウードも人を避けたい時にはその小屋に籠ると決めているようで、何かしら私たちの理解の及ばない実験をする時はその離れの小屋を使っている。
 人嫌いとまでは行かないようだが、人付き合いは苦手なようだ。

「では、今日は色々とお話を有難うございました。
 今後の習い事については領地のことについてもよろしくお願い致します」
「うむ、良いだろう。爺やに伝えておくよ」
「では、今日は一先ず残りの時間で、そのご先祖様の日記を読んでみることにします。
 帳簿とは違って、そちらは知識無しでも読めるでしょうから」
「そうするといい。まあ、あまり根を詰めすぎない様にな」
「父上の方こそ」

 そう言ってウードは『念力』で扉を開き、『レビテーション』で浮いて出て行く。
 扉を閉める時は『念力』ではなくて手を使ったようだ。二つの魔法の同時使用は難しいからな。

 日記は100年分、いや下手したら1000年分以上の量があるだろうから結構読み応えはあるはずだ。私は読んだことはないが。
 爺やの方で教材を用意するのにも時間がかかるだろうし、一先ずは、その日記で我慢してもらうか……。

 実践はともかく、知識という面ではウードは父である私を追い抜きつつある。
 全く、我が子ながら頼もしいことだ。
 しかもこんなに幼い時分から領地経営に興味を持ってくれるとは期待が持てる。
 あんまりに本の虫だから研究者にでもなるのかと心配していたのだが、それは無用なお世話だったようだ。

 しかしどうしたものか。
 家宰である爺やにあまり負担を寄せるわけにはいかないし、別に家庭教師を雇うべきだろうか。
 だが、今のシャンリット家の収入では雇える教師もたかが知れているし……。
 来年生まれる子の為の出産時の秘薬も買わなくてはいけないし、ああ、全くどうしたものか。

 妻と駆け落ち同然にこの領地に引っ込んだ時には、ここまで困窮するとは思わなかった。
 ウードには苦労を掛けるだろうが、この子ならきっとと思わせるものがある。
 ウードが生まれたときのあの銀糸が飛び交う光景は、きっとこのシャンリットの土地が祝福していたに違いないのだ。

 不気味な趣味でも別に構わない。目を瞑ろう。
 異端審問官の目も、利益が見込まれるのならなんとか逸らしてみせよう。
 だから、頼んだぞ、ウード。シャンリットの将来はお前の肩に懸かっている!





 ウード自身理解していたことではあるが、いつの世も、研究のためにはお金が掛かる。
 研究に限らず何につけても金、金、カネ。世の中、金だ。
 領地経営もその例には漏れない。

 領地が豊かでもない伯爵家では、その収入も高が知れている。
 金がないのは首がないのと同じだ、とはウードの前世の諺である。
 収入を増やすためには投資が必要だが、どうやらそのような余裕も現在の所はシャンリット家には無いようだ。

(さて、当面の課題は領地を富ませることですかね。
 私が継ぐ予定の領地でもあるし、将来、研究に専念するためにも、収入は多いほうが良いですね)

 膨大な量の本をパラパラと捲っていくウードの手は、決して休むことがない。
 傍目には幼子がページを捲って遊んでいるようにも見えるだろうが、実は一瞬ページを眼に収めるだけでその内容を読み取っているのだ。
 『ディテクトマジック』による超々精密計測を一年間修行した副作用により、ウードはかなりの情報処理能力を知らず知らずの内に身につけていた。

 ……ゼロが30桁くらい続くような数の原子について処理を行っていたのだから、これくらい身に付かなくては困る。
 というか、むしろそれにしては遅い。
 脳がオーバーヒートして鼻血の海に沈むことを繰り返した一年間は何だったというのか。

 ウードが原子や電子の概念を持っているからか、『ディテクトマジック』の精密化を徹底して修行した所為か不明だが、『錬金』の魔法でそれらを操作することも比較的容易であった。
 それでも、原子数が多くなると頭が混乱して制御が甘くなるので貴金属の作成は難しい。
 ウードのやり方では大体、元素番号が鉄を超える辺りから急に元素変換の難易度が上がる。

 また元素変換の『錬金』の亜種なのか何なのか分からないが、物質の状態を操作することは比較的簡単に実現した。
 まあ、元素変換に比べれば状態変化くらい楽勝だろうとウード自身が考えていたからかも知れない。
 固体から液体、または気体へと変化させることが出来たし、プラズマ化(イオン化)することも簡単に出来た。逆もまたしかり。

 『ライトニングクラウド』という雷を発生させる風の上級スペルがあるが、そんなもの使わずに空気中の分子を電離させて電光を発生させることも出来た。
 ……恐らくは『ライトニングクラウド』とは別の作用機序なのだろうけれども。

 プラズマ化する魔法は火系統だろうし、気体を液体にする魔法は水系統なのだろうが、ウードの中では、これらの状態操作を広義の物質操作(=『錬金』)として捉えているので、『錬金』で再現出来るようだ。
 魔法行使には本人の認識が大事だという証左だろう。

 土水火風と魔法を4系統に便宜上は分けているものの、今後研究する上では別の分類を考えるのが妥当だと思われる。

 閑話休題。ページを捲っていたウードの手がはたと止まる。

(むー、自分で言うのも何ですが、ショッパイですね、シャンリット領って)

 ご先祖様が必死に治めてきた領地に対して酷い言い草であった。





 さて、私が領地を富ませるにあたって、まずはシャンリット家が治める土地の現状分析が大事だ。
 ということで私は暇を見てはご先祖の残した日記や、帳簿などをペラペラとめくっている。
 シャンリット家に長年仕えてきた爺やからも、講義を受けている。

 それによって、おおよそ、シャンリットがどのような土地なのかも分かってきた。

 このシャンリット伯爵家の治める土地は、可もなく不可もなくといった土地だ。
 痩せているという訳でもないし、特産品があるわけでもない。

 強いて言うなら、代々の当主の使い魔がジャイアントワームだったりブラックウィドウだったりしたので、養蚕業というか絹の生産を少しだけしている位だろうか。
 それでも特産品と呼ぶには程遠い生産量だ。
 まあ、非常に高価なものではあるし、シャンリットのスパイダーシルクと言えばかつては高級生地の代名詞だったとか。
 今は、落ち目になってしまっているそうだが……。

 私は屑ダイヤモンドの『錬金』ぐらいは容易いのでそれを公開すれば特産にも出来るのだが、それは伏せておこう。
 簡単に作ることができる屑石とはいえ、これを研磨に使えばダイヤモンドのカットがかなり簡単になるから、下手したらダイヤモンドの価格が暴落することにもなりかねない。
 加工の困難さが、ダイヤモンドが高価な原因の一つであるからだ。

 ……いや、そもそもこの世界ではダイヤモンドに宝石としての価値が認められていないということはないだろうか。
 まあ『ブレイド』や『錬金』の魔法で加工は出来そうだから、流通してはいるのだろうけれど。
 それでも私の屑石を使ったヤスリを用いれば、加工するのに金剛石を削れるほどの高位メイジの手が要らなくなるということで、一定の需要は見込めるかも知れない。

 話をシャンリット領の事に戻そう。
 領地は殆どが山と森に覆われており、そこにはゴブリンやオークが比較的多く生息している。
 また森の中には糸を吐いたり繭を作ったりする虫・幻獣が多く生息しているらしい。シャンリットの土地の特色だとか。

 森が多く平地は少なく、街道の発達は未熟で首都から遠く、そもそも人口が少ない。
 多分森の中の亜人の方が人間より多いくらいだろう。このあたりはマイナスポイントだな。

 まともにやったら、領地を富ませるまでに10年単位の時間が掛かるだろう。

 プラスポイントとしては、土地がそこそこ広いことと森林資源が豊富なこと、水には困らないことだろうか。
 森は開墾すれば良い農地になるだろう。
 山も領境になるくらい峻厳なものだが、なにか鉱脈があるかも知れないし。

 こちらの世界には魔法なんて出鱈目な力があるのだ。
 領地開発にはこれを活用しないわけには行かないだろう。
 というか、なんでそういう方面に魔法が活用されていないのだろうか。
 きちんと計画を立てれば、10年といわずにもっと短い期間でも発展させられるはずだろうに。

 例えば領内に鉱山があれば、手っ取り早いのは流通の改善だろう。
 鉄道機関車は無理だとしても、領内に鉄道馬車を引いて、製錬所を作れば税収は増えるだろう。
 シャンリットには今のところ特産品になるような鉱石は産出しないけど。

 現状、手を着けられそうなのは、正確な領内の把握(人口や耕地面積その他諸々)とそれに伴う徴税の適正化、農作の効率化や道路整備、公衆衛生の指導や幻獣討伐などの若年死亡率の低下策くらいだろうか。

 しかし、私が表立って何かやれば、さすがにそれは行き過ぎだろうし……。
 私は、今はまだ伯爵家の嫡男に過ぎず、改革を断行出来るほどの権限もない。
 というか、意見を出してもそれが採用されるとも思えない。
 色々意見を出しすぎれば、今以上に怪しまれるだろうし、場合によっては腐れ神官につかまって異端審問にもかけられかねない。
 良くて廃嫡されて、気狂いとして一生領地に幽閉されるくらいか。

 異端審問の拷問の末に火炙りにされるのはゴメンだ。
 死病にかかって死ぬより苦しいのではないだろうか? それともあっさり酸欠で死ねるのだろうか。
 いや、神官連中なら、水魔法で延命させて、より長く苦しめさせそうだ。

 ふむ、しかしどうしたものかな。
 自分が実権を握るまで大人しくしておくか?

 いや、それまで待てないぞ。
 この知的好奇心と呼ぶに生ぬるい衝動を持て余す。
 今でさえ狂いそうだというのに。
 標本を作成して、並べて見て悦に入ることで軽減できてはいるが。

 バレないようにこっそりと魔法を使って、色々やってみよう。
 魔法の練習にもなるし。というか娯楽に乏しいから他にやることも無いし。

 そうだな。今植えられている作物の品種改良や、土壌改良ならば今までの延長だし、もしバレても、いきなり異端審問ってことはないだろう。
 ……ないはずだ。……ないといいなあ。
 何にしても着手するなら第一次産業からだろう、先ずは。

 作物の遺伝子を弄れるようになれば、幻獣や魔物にも適応出来るだろうか。
 幻獣の家畜化や改良を行うのも良いかもしれない。
 例えば、繭を作ったり糸を出す幻獣を家畜化し、細々とやっている絹の生産を立派な産業にするとか。
 ゴブリンなどの亜人を従順にさせて奴隷化するとか。

 まあ、魔法で何が出来るのかの限界を実験する意味も込めて色々やってみるか。
 むしろ私としてはこちらの実験の方がメインになるな。魔法研究か、楽しみだな。

 異端審問に掛けられないように、秘密裏に事を進める方法を考えなければならない。
 畑に『錬金』で肥料を施すにしても、その様子をあまり見られたくないし、そもそも頻繁に出歩くことも出来ない。

 遠く離れたところから魔法が使えればいいのだが。そうすれば屋敷の中から領地の畑に『錬金』したり、他にも色々出来るだろうし。

 しかし、杖から離れたところに魔法を使うのは難しい。

 ……ということは、杖そのものを伸ばせばいいんじゃなかろうか?
 逆転の発想。この考えはイケそうな気がする。





 部屋のベッドの中で私は杖に意識を集中させる。
 とはいっても、私の握るそれは通常のメイジが持つタクトのようなものではない。
 それは黒く光沢を持った、自分の身長の1.5倍の長さはあろうかという鞭。
 カウボーイが牛の群れを誘導する際に用いる“牛追い鞭”だ。
 それを手に持ち、ベッドから垂らして床に這わせる。

 この鞭は、初めにもらった杖を中心にして、前世ではカーボンナノチューブと呼ばれていたモノを杖を覆うように『錬金』で作り出して覆い、それを束ねて作ったものだ。

 もとはどれくらい小さな対象を杖として認識できるか、そしてどこまで大きい対象を杖として認識できるかを試すために始めたものだ。
 結果は、小さい方はおよそ視認出来る大きさなら問題なかった。
 大きい方は検証中だが、感触としては、ひと繋がりの分子としてカーボンナノチューブを伸ばす分には、どれだけ長く大きくしても杖として認識出来そうである。

 材質がカーボンナノチューブなのは、簡単には千切れないようにするためだ。
 あとは、現代科学的ロマンとも言える。

 実際的な問題として、材料となる炭(炭素単体)が安価で手に入るというのも大きい。
 珪素も地殻には多いが単体の入手が困難なので却下である。

 いつかカーボンナノチューブを利用して軌道エレベータでも作ってやろうかと思っている。
 風石の魔力を調整していけば、案外簡単に衛星を打ち上げられるのではなかろうか。
 風石がどんな原理で浮いてるのか分からないが。重力遮断だろうか?
 天空大陸たるアルビオンごと宮崎映画のラピュタのラストみたいに宇宙に飛ばせたりするかも知れない。

 『レビテーション』や風石の浮力が、重力操作あるいは質量操作によるものなら非常に興味深い。
 私が元居た世界では未だ発見されていなかったが、重力の媒介となる重力子、もしくは質量を発生させるヒッグス場に対して何らかの影響を与えているのだろうか。
 そうだとすれば、重力(あるいは質量)の軽減だけではなくて逆に加重をかけたり質量を増大させることも出来るかも知れない。
 最終的にはマイクロブラックホールも出来るかもしれない?

 現在、重力加速度の値を知る為の実験を行っているのだが、そのうち『レビテーション』下での実験も行うつもりだ。
 真空下で実験を行えば、『レビテーション』の作用が質量の減少なのか、重力加速度の軽減なのかハッキリするだろう。

 話をカーボンナノチューブに戻そう。
 カーボンナノチューブの束(私は〈黒糸〉と言っている)の一端は私の体の中に入り込み、全身に根を張るように張り巡らされている。
 これは神経系に並行する形で全身を覆っており、今後、ディテクトマジックでの体内の状況把握や、水魔法による成長促進などに使おうと思っている。
 最近、移動にも常に『レビテーション』や『念力』を用いていたので筋肉が萎え気味であったのを気にしていたのだ。

 もちろん、体内の〈黒糸〉も杖として契約しているものの延長であるので、今後は一見無手でも体内の〈黒糸〉を媒体に魔法を使えるだろう。
 間違って体内で『ブレイド』の魔法を発動したら、体中がぐずぐずのミンチになるだろうが……。

 〈黒糸〉のもう一端は床に触れたところから伸ばして、領地の地面の中を縦横無尽に這わせている。
 “秘密裏に領地を豊かにする方法”として私が考えたのは、伸ばした杖によって遠隔地から『錬金』による地質改良を行うというものだ。
 地味だが、確実に効果があがるだろう。

 幸いにして杖を伸ばして魔法を使うという試みは成功し、コツを掴めば伸ばした杖の何処ででも魔法を発動させることが出来そうだ。

 とはいえ、領地に広げている方の〈黒糸〉とは常時接続している訳にもいかないので、必要なときに応じて手持ちの鞭状の杖か体内から〈黒糸〉を伸ばしては地下のネットワークに接続するとしよう。
 手元の鞭状の杖と地下のカーボンナノチューブネットワークは接続した時点でひとつの巨大な単分子になるため、ありがたい事に、接続の度にいちいち杖として契約しなおす必要は無いようだ。

 地下のネットワークの方はまだ、この領地の主要街道をカバーしたくらいだが、それでもなかなかの広範囲をカバーしていると言えよう。
 夜な夜なこれの拡張に気絶するまで精神力を注ぎ込み、〈黒糸〉のカバー範囲を伸ばしているおかげだ。まあ、シャンリットでは街道自体がそれほど発達していないというのもあるが。

 毎晩倒れるまで精神力を酷使していれば当然だが、ドットメイジながらも精神力のキャパシティはかなり伸びている。
 精神力のキャパシティはランクが上がれば増えるというものではない。メイジとしてのランクが上がることで変化するのは、足せる系統の数と消費する精神力の効率だ。

 ラインになればドットの時の半分の精神力の消費でドットの魔法が使える。
 しかし、ラインの魔法はドットの魔法の倍の精神力を消費するため、ドットの時にドットの魔法8発で息切れしていたメイジなら、ラインになってもラインの魔法8発で息切れしてしまう。
 ドットの魔法なら効率が上がった分、16発使えるようになるが。
 だから、系統を足す訓練とは別に、精神力のキャパシティを増大させる訓練が必要なのだ。
 ゲームで言えばIntとMPの違いと言ったところだろうか。

 まあ、それはともかく、毎日『錬金』で〈黒糸〉の杖を伸ばしているばかりではない。
 ナノチューブのような細かいものの『錬金』と同時に、私はこれまでの一年と同様にマクロレベルからナノレベルまでの解析にも力を入れている。
 『ディテクトマジック』という魔法は、精密に使えば、電子顕微鏡も真っ青な性能を発揮することが出来るのだ。
 これを使わない手はない。
 〈黒糸〉を作る際にも『ディテクトマジック』は大いに役に立った。これが無ければ、カーボンナノチューブが出来たかどうか確認できなかっただろう。

 将来的には、この〈黒糸〉のネットワークを用いて、様々な物質の特性や領地にいる生物の生態など何から何まで解析したいと思っている。
 特に地質学や生態学、系統学に対する興味がある。
 中世の時代なら博物学と言った方がいいかも知れない。
 領地に張り巡らせているのは、そういった博物学的調査を行うための下準備だ。
 あとは面積調査や地形調査などの為でもある。

 だが、解析のためにはまず記録が必要であり、記録には多くの人員や、作業効率化のための専用の魔道具が必要となるだろう。
 正確な時計や、正確な量り、正確な定規も必要だ。

 以前、領内で使われている幾つかの定規を見せてもらったが、精度が悪くて使い物にならなかった。
 出来ればこれも早い内に改善したい。

 そうだな、領内を調べるためだけの新たな幻獣やインテリジェンスアイテムを創りだすのも有効かもしれない。
 それらの魔道具やキメラ作成の研究もしなくてはならない。まあ、先ずは足元固めか。

 やりたい事が多すぎてこれではいくつ身があっても足りないな。

 そういえば、風の魔法には、分身を作ることが出来る『偏在』という魔法があるそうだ。
 その原理も気になるが、できる事なら、その『偏在』の魔法を使えるようになりたいものだ。

 それとも土メイジの私ならば、遠隔操作型のゴーレムを複数使役できるほうが効率が良いのだろうか?
 いやいや、それとも、それとも……



 延々と今後のことを考えながら、私はいつものように魔法の使いすぎによる精神力切れで意識を手放した。

 気絶する前の浮遊感と落下感は、前世の死に際のことを思い出す。
 底の見えない深淵と、掴んだ蜘蛛の糸。
 遠く暗闇に浮かぶ赤い瞳は、蜘蛛の巣の主のものだろうか。

 ――ああ神だか仏だか、邪神だか知らないが、あなたには本当に感謝している。


 さあ、二度目の生を存分に楽しもうじゃないか。


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ウードは転生に気づいた時点でSAN値激減。
正気を失って、異常な好奇心と、蜘蛛への偏愛を獲得しています。
『先代の日記』は重要アイテム?

2010.07.18 初出
2010.07.21 誤字等修正
2010.09.26 人称など修正



[20306] 蜘蛛の糸の繋がる先は 3.命の尊さを実感しながらジェノサイド
Name: へびさんマン◆29ccac37 ID:4dc27135
Date: 2012/12/25 21:22
 ウードがカーボンナノチューブを杖にすることを思いついてから1ヶ月ほどが過ぎた。

 まあ結局彼自身のためではあるが、伯爵夫妻(フィリップとエリーゼ)の思惑通り、ウードは貴族の義務に目覚め、将来自分が継ぐべき領地について勉強し、策謀を巡らせ始めた。
 しかし詰まる所の動機としては、研究には金が必要だということであった。
 特に不労所得が。
 パトロン探した方が早い場合もあるが、普通は貴族であるウードの方がパトロンとなるべき立場である。

 彼自身も、自分ひとりで一代で様々な事象の探究を終えられるとは思っておらず、将来的に一大研究所を構えたいとは漠然と考えている。
 その為にも、シャンリット領には発展してもらわないと困るのである。

 ウードはこつこつ毎日、ナノチューブのネットワーク〈黒糸〉を拡張しながら、そのネットワークを通じて街道の表面の地面に『硬化』を掛けたり、田畑に伸ばした先端を介して窒素系やリン系の物質をこっそり『錬金』したり、領民の持つ農具の先端に『硬化』と『固定化』をかけたりして地道に努力をしていた。

 そのおかげか、日に日に精神力の容量も増え、魔法の扱いも巧みになっている。
 広範囲に張り巡らせた〈黒糸〉の任意の場所に『遠見』や『錬金』の魔法を発動させたり、〈黒糸〉をソナーのように使って地表・地下の様子を探ったりするのも大分慣れてきた。
 未だに二つ以上の属性を足して扱うことはできないが。

 まあ、路面の舗装や地質改良などの成果が領地に現れるのは1年は掛かるだろう。何事にも時間は必要なのだ。

 ドットレベルとはいえ、魔法の練習でやるべき事は沢山ある。
 それに今後、何かの拍子に戦争や何かに出ることがあるかもしれないので、一応、戦闘への魔法の応用も考えている。

 今のところ、戦闘に使う魔法に関しては、鞭から糸くらいの太さの〈黒糸〉に『ブレイド』を纏わせ、それを『念動』で操作する似非鋼糸術を想定している。
 ウード自身のメイジとしての才能がどの程度あるのか分からないので、ひとまず今使える魔法で戦法を考えたのである。
 まあ、彼自身が鋼糸術とか曲弦技に憧れがあったという事情もある。
 吸血鬼漫画の元ゴミ処理係な執事とか。
 最終目標は今のところその位のレベルの戦術級(空中戦艦撃墜可能レベル)の戦闘力である。

 その他にも将来的に領地を豊かにする方法をいろいろと考えている。
 例えば、作物の遺伝子改良のために、遺伝子導入ウィルスを作ってばら撒くとか。
 もちろん、下手したらバイオハザードなので特定作物以外に感染しないようにとか、空気中では生きられないようにとか、安全策を講じる必要があるのだが。

 これは、秘密裏に品種改良を行うなら、植物体を一本一本改造するよりも、ウィルスを使って広範囲で自動的に改良していったほうがいいのではないかとウードが考えたからだ。
 実際に行うかどうか予定は未定だが。

 あと、ウードは自分の体を実験台として、体中に張り巡らせたナノチューブ〈黒糸〉を介して筋肉や骨の成長・強化や体の様々な働きを『ディテクトマジック』で調査している。
 このまま分析結果を元に身体強化を進めれば、6歳児ながらに異常な体力と頑丈さを得られそうだと、「くふふふふ……」と含み笑いをしていた。
 標本に囲まれて不気味に笑う6歳児である。
 神官が見たら即座に悪魔祓いモード突入であることは間違いない。

 また、体内の調査を通じて、肉体強化の他にも、魔法を使う際に脳のどこが活性化するかなどを解明することが出来た。

 ウードの身近にスクウェアメイジはいないが、機会があればスクエアメイジの脳の働きを調査し、他のメイジと比較することで無理やりランクを上げる方法を見つけることができるだろう。
 さらに突き進めれば平民でもスクエアメイジにすることもできるかもしれない。
 先程の肉体改造プランと合わせれば、スクエアメイジからなる人外の膂力を発揮する軍団ができるかも……と、ウードは夢想している。

 まずは実験を行ってメイジ化脳改造の手法を確立したいのだが、いきなり人体実験するわけにもいかない。
 恐らく、100は下らない失敗作が生じるだろう。

 実験は数をこなす必要がある。
 夢想するよりも実験動物の安定供給の確立が先決であった。
 前世におけるマウスやショウジョウバエ、シロイヌナズナに該当するような実験動物が。

 他にもウードにはやりたい事が沢山あった。
 マジックアイテムの構造解析も行いたいし、風石の力を浮力に変換するフネの仕組みも知りたい、と、その知識欲は際限がなかった。

(やりたい事が沢山ありすぎて、人手が全く足りない。ここは是非とも『偏在』の魔法を身につけたいものだ)

 しかしながらウードは土のメイジなので、『偏在』を身につけることは難しいだろう。
 そもそもスクエアスペルである『偏在』を未だドットであるウードが使うことは難しいだろう。
 原理も不明であるしことだし。
 彼の身近に『偏在』の使い手が居て、彼が『ディテクトマジック』に一年間打ち込んだ時のように、数年掛けて作用原理を解き明かして、何とかドットメイジでも使用可能な別アプローチを考え点けば、『偏在(仮)』を使えるかも知れない。

 だがそれなら人を雇ったほうが早い。
 どうしても『偏在』の原理を今直ぐに解明したいというなら今この瞬間からウードは研究を始めるだろうが、今のところ、そこまで優先順位は高くない。

 ちなみに、ウードの魔法適性は彼の自己申告による割合で言うと、土:5、水:3、火:1、風:1だそうだ。
 基準はウード自身の感覚でしかないのだが、まあ、母親のエリーゼが水のトライアングルで、父親のフィリップが土のトライアングルだから妥当なところだろう。
 人によっては特定の系統が全く使えなかったりということもあるので、そういう意味では彼は恵まれている方だろう。

(『偏在』が無理ならば、自律型の情報収集用のガーゴイルでも作ってみるのが良いだろうか。
 私はアイテム作成に有利な土系統がメイン系統だし。
 あるいは、蜂が蜜を集めるように、本能で情報収集と蓄積を行うような情報収集用の幻獣でも作れないだろうか。
 生命操作に関わりが深い水系統も得意だし)

 そういえば、前居た世界では、イカは宇宙人が情報収集のために作ったカメラユニットだとかいう話があったな、とウードは連想する。
 イカである理由は、その身体に対して不必要に目の機能が発達しているからだという。
 情報収集用の生物を作る、という彼の発想はそんな与太話から来ている。

 それに奴隷種族や奉仕種族の作成というのは、イヌの家畜化以来数千年の歴史を持つ発想だ。
 生物界では寄生や共生は当たり前であるし、早々珍しいものではないだろう。

(何にしても、それらのマジックアイテム作成技術や魔法生物作成技術は必要だ)

 情報収集の補助用にこれらの技術は使えるはずだ。
 知りたいことは多すぎて、ウード自身の手だけでは全く足りないのだから。
 シャンリット家の庭の片隅に建てられている、ウード自身の研究室内をウロウロと歩きまわり、収められた標本群を見回しながら考え事を続ける。

(……何も全てを自分で調べることは無いのだし。
 奴隷種族はともかく、一人で無理なら人手を借りるべきだ。
 ひょっとしたら情報の流通が遅いだけで既に同じようなことを調べている人が居るかも知れない。
 それなら、ある所から知識や技術を持って来ればいい。
 つまり、知識を持った人間から記憶を吸い上げればいい)

 はたと、うろついていたウードの足が止まる。
 目の前には寄生虫の液浸標本が並んでいる。
 豚の解体の際に捨てられた腸の内容物から『念力』で拾い上げたもので、人獣共通の寄生虫ではないかとウードは睨んでいるのだが、今は関係ない。

(……ん? なんかナチュラルに記憶を搾取するみたいな発想が出てきたが、これってどうなんだ、人として)

 最近、頓(とみ)に思考がヒトから離れつつあるウードであった。
 ヒト同士のコミュニケーションが不足しているサインである。
 まあ、水魔法には実際に『読心』という記憶を読み取る魔法が存在する。
 他にも行動を強制する『ギアス』(後催眠暗示のようなもの)が存在する以上、その掛かり具合を確認するために頭の中を覗く魔法というのも存在するのだ。
 別アプローチとしては、〈黒糸〉を脳に刺せば記憶を読めるかもしれないが、間違って殺してしまってはコトだし、既存の魔法に記憶を読む魔法があるならその魔法を習得するのが確実だろう。

 他の人間の研究を知ろうというのなら、掛かる時間を度外視すれば魔法で吸い上げたりしなくとも、論文を発表し評価する仕組みを作り上げる方が数段マシである。
 人道的にも、世界の発展のためにも。
 国際的な論文評価機構というか、研究者同士のギルドと言うか、そういうものを作るというのもウードは超々長期的視野には入れている。

(研究者ギルドを作るという手もあるけど、この世界では行われている研究の多くは魔法関連だし、魔法技術が軍事に直結してるから、そうそう上手くはいかないだろうな。
 特定の家の秘伝の魔法なんてのはゴロゴロ存在しているらしいし。
 というか、個人の資質に頼りすぎてて、そのうえ感覚で魔法を使ってるから、下手したら一代限りの魔法なんてのも多そうだ)

 ウードの『ディテクトマジック』も、既にもはやオリジナル魔法の一種だろう。
 一応、ロマリアの方で不定期に十数年に一度、魔法の総覧を作って、新魔法について始祖正統の魔法かどうかを評価・登録・管理する部署があるが、その御眼鏡に適ったところで、貰えるのは名誉のみ。
 寧ろ、登録料という名の寄付金を取られるのである。
 何処の世界でも神官連中は悪辣だという証左であろう。

 その名誉を求めるものはそれなりに多いが、十数年に一度くらいしか編纂しないため、それがあることすら知らないメイジの方が多いとも言われている。

 しかも総覧に載せるかどうか評価する基準は、大抵が戦場での戦果しか無いものだから、現在総覧に載っていて広く知られている魔法というのは戦闘用の魔法が非常に多くなってしまっている。
 これには戦勝国家のプロパガンダ的な一面も無きにしも有らずだが。「うちの国はこんな凄い魔法で勝ったんだぞ、どうだカッコいいだろう!」的な。
 あと、登録料がそれなりに高いので、勝って羽振りが良くないと登録しようという気にならないという面もある。

 もちろん、国ごとの魔法学院にはその国ごとの教科書もあるし、そこにはアカデミーの研究結果を受けての魔法の新運用法が載っている。
 しかし、国家にとって、諸侯貴族とはあまり力をつけられても困る存在であり、画期的に領地を富ませる魔法なんてのは教科書には載っていないようだ。
 教科書に載っていることといえば、いつどこと戦争して勝ったのか負けたのか、始祖以来の王室の歴史は、といった事柄であり、それが修飾語過多な文で綴られているのだ。

 もはや魔法学院は魔法を教える場所ではなく、諸侯貴族の子女に愛国心と王家への忠誠心を植えつけて反乱を抑止することが第一目的となっていた。
 そのため諸侯は子女を、少なくとも爵位や領地の継承者を魔法学院に入学させることが半ば義務となっている。
 これは諸侯に対する人質の意味合いも大きい。

(まあ、それはともかく情報を集める布石として、何にしても人の多く集まる王都まで〈黒糸〉を伸ばさなくては、な。
 王立図書館や魔法学院、アカデミーの蔵書も気になるし)







  蜘蛛の糸の繋がる先は 3.命の尊さを実感しながらジェノサイド







 母上がそろそろ出産である。
 この時代の出産は、魔法があるとは言え、まだまだ命の危険を伴うものである。

 とはいえ、貴族ともなれば水の秘薬を用いて痛みを和らげたり、分娩を促進したりも可能であるため、それほどの危険は無いだろう。

 勿論というか、なんというか妊娠促進薬や避妊薬もあるのだとか。
 あと惚れ薬やら媚薬やら。

 無理やり精神を高揚させる薬を使えば、メイジのランクくらいすぐに上がりそうなものだが、そんな話は聞かない。
 きっと秘匿されているのだろう。
 あるいは副作用が大きいから禁止されているのかも。

「おぎゃああああ、おぎゃああああ!」

 どうやら赤ん坊が生まれたらしい。
 母上、お疲れ様です。

 そう言えば、転生して生まれて直ぐのことや胎内での記憶は無いな。
 私もああして取り上げられたのだろうか。

 生まれる直前の記憶としては糸を伝って登ってきたようなヴィジョンはあるのだが。
 普通は生まれる時の記憶って、産道をくぐる時のトンネルを抜けるようなヴィジョンが多いと聞いたような?

「よくやった! エリーゼ! 可愛らしい女の子だぞ!」

 父上が興奮しているな。
 やはり男親にとって娘というものは特別らしい。

「ウード! これがお前の妹だ! 兄としてしっかり守ってやってくれ!」
「勿論です。父上。兄は妹を守るものだと決まっています。きっとこの子は母上に似た美人になるでしょう」
「うむうむ、やはりそう思うか! きっと美人になるぞ!」

 といっても、今の段階では猿と変わらないがな。

 猿、猿か。確か、領地の端にゴブリンの根城があったな。他にも北の森にオークの群れもいたか。
 ゴブリンとは群れで暮らす人型の魔物で、猿か老人のような顔で子供の背丈をしている。益獣害獣で言えば害獣に区分される。
 オークは豚面の肥満体で、その脂肪の鎧と桁外れの膂力で、戦士5人をまともに相手に出来る位の戦力を持っている。

 どういう原理か不明だが、どちらも人間の女性の胎を苗床に殖えることが出来るという、邪悪な種族である。
 オークにもゴブリンにもそれぞれの種族のメスがいるのに関わらず、だ。
 機会があれば、いつかそのメカニズムを解明してやりたいものだ。
 逆にオークやゴブリンの雌が人間の子供を孕むかどうかというのは聞いたことが無い。実験くらいはされてそうだが。
 アカデミーにはそういった資料もあるだろうか。

 さて、それらハルケギニア特有の幻獣の体の構造も調べたいし、領民の不安を除くためにも実験がてら討伐しとくかな?
 実験がメインだろうって?……その通りです、ハイ。

「ウードはまた難しい顔をして。そんなにしてると禿げるわよ?」

 ……母上、出産なんて大仕事の後の割りに元気ですね。

「母は強しという奴よ~」

 そうですか。さすが母上。
 水のトライアングルですから出産程度は楽勝なのですね。
 その調子で弟も産んでくれると助かります。
 私は領地経営より研究を優先したいので、とびきり優秀な弟が欲しいです。

「なに言ってるの、長男なのだからしっかりしなさいよ。
 それに、あなた以上に頭イイ子は早々生まれないだろうし。
 期待してるのよ、お兄ちゃん」

 ……そうですか。

 ……やはり少なくとも政務を執る『私』と、研究する『私』で、二つは体が必要な気がしてきた。
 『偏在』の魔法が良いだろうか、やはり。
 いや、信頼できる腹心を見つける方が良いか?

 まあいい。ひとまず、先程の思いつきを実行に移そう。
 オークとゴブリンの討伐だ。思い立ったら即実行である。

 しかし、妹は本当にかわいいな。
 サルみたいな顔だが、なんかとても愛しく思えてくる。
 母上も凄い。命の誕生ってのは、なんかこう、感動するな。

 どうせ生まれ変わるなら、女性に生まれて今生では出産の感動というものを味わってみたかったものだ。





 その後、寝る直前、ウードは、先ずは領地の西の端にあるゴブリンの群落に〈黒糸〉伝いに意識を飛ばしていた。
 草木も眠る丑三つ時……という訳では無いが、ゴブリンは眠ってしまっているようだ。
 森の開けた場所に簡単な柵と小さな小屋が幾つも立っている。

 既に〈黒糸〉はシャンリットの領地ほぼ全てをカバーしており、どこに何がいるかを知ることなんて、ウードにとっては朝飯前なのだ。
 ……いや朝飯前は言い過ぎである。流石にそこまで細かくは無理だ。幾ら彼でも頭がパンクする。
 種を明かすと〈黒糸〉を張り巡らせている範囲について地図を作成して地表に何があるか地上を『遠見』で見てマッピングしているからだ。
 今ウードの手元にあるのは大まかに地形を書き込んだ地図くらいだが、そこから更に拡大して精細な情報を書き込んだものを作成中である。

 地図を作成するにあたって、〈黒糸〉と『遠見』の魔法からの情報を描き写すマッピング技術と、それを記録しておくための紙……の代替となるフィルム状のものと、インクの『錬金』、それらに対する『固定化』が上達した。

 ゴブリンの集落は、その領内の詳細バージョンの地図作成の際にウードが偶然見つけたものだ。
 ずいぶん辺鄙な所に村があるということで不審に思い、詳しく『遠見』で見てみたら、住んでたのはゴブリンだったという訳だ。

 廃村にでも住み着いたのだろうか。
 ゴブリンに住居を作るような知能はないというのが通説である。
 しかし、廃村にしては、建っている小屋のサイズはゴブリンサイズである……。

(突然変異だろうか?)

 突然変異あるいは、何者かに統率されている、既に改造済み……様々な考えがウードの脳裏に浮かぶが、答えは出ない。
 先程、ウードが『錬金』で〈黒糸〉を地下から伸展させたため、このゴブリンの集落の、その粗末な小屋の全てに至るまで、〈黒糸〉は張り巡らされている。
 それどころか、寝静まったゴブリンの一匹一匹に至るまで、〈黒糸〉は侵しており、もはやウードが念じるだけで、ゴブリンたちは脳幹をズタズタに破壊されることは明らかであった。

 では、なぜ直ぐにそうしないかというと、使い道を考えているからだ。

 50匹からなるこのゴブリンの集落の使い道を考えている。

(これから作成し、領内に普及させる予定の作物の毒見役はどうだろう。
 鼠並みに良く増え、鼠よりは人に生態的特徴が近いこいつらは、最適な実験動物であると言える。
 遺伝子構造的にも人に近いものがある。というか、こいつらは多分人を基に作られた生物なのだろう。
 何時、誰にというのは分からないが。
 案外、私と同じように奴隷用の幻獣を作ろうと考えた奴がいたのかもしれない)

 あるいは、精神力の外部タンクとして使う事も出来るかもしれない、単純労働力としても使って良し、などなど色々な使い道がウードの頭の中を巡る。

 ゴブリンは魔法は使えないらしいが、これだけ人間に近ければ、メイジの遺伝子を導入したり脳改造を施せば系統魔法を使えるだろう。
 しかも、突然変異か何か分からないが、この集落のゴブリンは今まで知られているゴブリンより知能が高いようであるし。

 ひとつの杖に対して複数のメイジが契約出来るのかどうか不明であるが、もし可能なら、ゴブリンたちも〈黒糸〉のネットワークに対して契約させて、その精神力を束ねることも出来るかも知れない。
 ウード自身は魔法を発動させる命令だけして、実際の発動は〈黒糸〉を介して接続しているゴブリンたちにやらせる事が出来れば、ゴブリンのバックアップを受けたウードはこの世界で最強の個人戦力を持つことになるだろう。
 ゴブリンに魔法を使わせることでウード自身は精神力を殆ど使わずに魔法が発動できるし、複数属性の多重発動や、王家に伝わるというスクエアを超える戦略級魔法すら簡単に使用可能になるではないだろうか。

 これだと空を飛んでいる時には〈黒糸〉から離れるから、使えなくなる欠点があるが……、解決方法はいくらでもあるだろう。

 まあ、何にせよ、すぐに殺すのは惜しいと、ウードは結論付ける。
 自在に使役することができるならば、ゴブリンやオークといった亜人は労働力として非常に使い勝手がいいだろう。

(まあ、オークよりはゴブリンかな。繁殖速度が凄いし、ここのは知能高そうだし。
 よし、この方向で考えるか。
 品種改良して、家畜化し知能を高め、奴隷……奉仕種族として使役する。
 労働力としてはもちろん、戦力としても使えるかもしれない。
 というか、わざわざ人間集めて組織を作るより、最初から自分に絶対服従な感じの洗脳を施した亜人の奴隷の方が使えるかも知れないな。
 世俗の余計なしがらみもないし)

 世俗に縛られない独自戦力というのは、非常に魅力的に思えた。
 この頃、ウードは自分が異端であることを、強く認識し始めていた。それ故に、同じ人間で賛同する者を見つけるのは非常に難しいだろうとも考えていた。
 だから、自分の好きに出来る奴隷種族を作るというのは、とてもとてもイイ考えのように思えたのだ。

(……くふふふふ。
 ならば早速改造だな! 系統魔法を使えるように脳改造する実験体としても使わせてもらおう。
 いろいろ交配して、魔法的素質の高いものを作り出しても面白いかもしれない。まずは家畜化からだが。
 ああ、エルフや吸血鬼や翼人の先住魔法の秘密も知りたくなってきたぞ!)

 興奮した様子で、自室の布団の中で身悶えるウード。今にも高笑いを始めそうである。やはり、ハタから見ると悪魔憑きのように見える。
 『遠見(有線式)』でゴブリンの集落を観察するのを続行する。ゴブリンたちは脳幹を〈黒糸〉に侵されているせいでピクリとも寝返りを打たない。

(やることが多すぎるな、やはり。
 どうにかして『偏在』を使えるようにならねばならないだろうか。
 〈遠見の鏡〉など、魔法を補助する道具があるのだから、『偏在』を補助する魔道具があってもいいはずだ)

 〈遠見の鏡〉というのは、その名の通り、一定領域内の任意の場所を〈遠見〉で見ることの出来る鏡型のマジックアイテムである。
 牢獄などに設置されることが多いというが、意外と扱いが難しいらしい。少なくとも専任の職人が必要な程度には。

(魔道具にはおそらく、メイジが詠唱する際の精神力の動きを擬似的に再現する回路が組み込まれている。
 それに精神力を流すことで、刻まれた術式どおりに魔法が発動される……という仕組みだと以前読んだ本には書いてあった。
 これを逆に利用すれば、例えば、『ライトニングクラウド』を発生させる杖があれば、電流を魔力に変換できるかも知れない)

 既にウードの思考はゴブリンのことから離れていってしまっている。
 ゴブリンたちの脳を侵していた〈黒糸〉は脳にその一部を残した状態で切断され、その際のノイズで一瞬ビクリとゴブリンたちが痙攣する。

(既存の物を集めて解析したいな。
 現役のマジックアイテム作成者にも師事したい。うーむ、やはり体が一つじゃ足りないな。
 『偏在』のような効果を表すアイテムとして、スキルニルというのがあるのをこの間、本で読んで知ったが、あれが手に入らないものだろうか。
 何でも、血を吸った相手に化けられるそうだ。非常に仕組みが気になる。……『偏在』よりはスキルニルの方が現実的であろうか)

 ウードの意識は〈黒糸〉のネットワーク上を滑って移動していく。
 ゴブリンの村に、いつもの夜が戻った。しかし、それはこの日が最後となるかも知れなかった。





 私はゴブリンの集落から意識を離し、今度は北に向けて移動させた。北の森の中にあるオークの群れだ。
 森の中は今のところ静かなものである。双月は明るいが、この森の中までは照らすことは出来ない。

 オークが寝静まってから、〈黒糸〉を突き刺して脳だけ破壊するのがスマートだったのだが、今回は実戦訓練というか戦闘実証というか、構想を練ってきた鋼糸術など、〈黒糸〉を活用した戦法を試そうと思う。

 先ずはオーソドックスな使い方として、鋼糸術を試してみる。

 〈黒糸〉を細く長く出して、『念動』で寝入っているオークの首に絡みつかせる。そして端を一気に引っ張って絞り、切断する!

 殆ど抵抗を感じずに、首を切断することが出来た。じわじわと切断面から血が滲むが、直ぐには首は千切れ無かった。
 切断面が鋭利すぎたのかもしれない。オークの生命力は切ったそばから首を繋げてしまったのだろうか?

 先ほどと同じように〈黒糸〉を巻きつけ、今度は首を掬い上げるようなベクトルを加えて引っ張った。
 ごろりと悲鳴も上げずにオークの首が転がり、胴体から血が吹き出す。

 その血の匂いに気づいて周囲のオークが起き出すが、問題ない。
 何せ、本体の私は遠く離れた屋敷の寝室から〈黒糸〉を操っているのだから。
 ……今後も戦場に出るようなことはないと良いのだが。
 戦場に出るようなハメになっても、精巧なゴーレムを身代わりに立てて自分は安全圏に居るのがベストだ。

 戦闘に勝利する手段とは、つまるところ、如何に自分を安全圏に置いて相手を攻撃出来るかを突き詰めることだと思う。
 槍しかり、狙撃銃しかり、ミサイルしかり。
 アウトレンジからの一方的な蹂躙が武器の進化のひとつの究極だと思う。

 誰だって痛い思いはしたくないのだ。もちろん私だってそうだ。
 ヒトほど痛がりな動物はいないとも言うし。

 それに私は何も成し遂げていない。
 世界の真理を何も知っていない。
 そんなんじゃあ、もう一度死んでやることは出来ない。


 血の匂いに興奮して集まってきたオークに、まとめて〈黒糸〉を巻き付かせてバラバラに切断、惨殺する。
 傷口から迸る血が、辺りを染め上げる。
 ドサドサと体のパーツが落ちる音と、更にまき散らされた血と臓物の匂いで、群れ中のオークが武器を手に集まってくる。

 集まってきたオークの一匹が血溜まりに足をついた瞬間に、その下から無数の〈黒糸〉を地面から生やして、足裏から脛半ばまで侵食させる。
 あたり一面に既に〈黒糸〉を張り巡らせてあるので、『錬金』でいくらでも何処からでも〈黒糸〉を作り出せるのだ。

 急に、文字通り足に根が生えたかのように動けなくなるオーク。そいつはつんのめって、前に……つまり臓物の海に倒れる。
 瞬時に、倒れたオークの全身と散らばって折り重なっているオークだったモノにも〈黒糸〉を侵食させる。
 バラバラになったパーツを〈黒糸〉を縮めて引き寄せ、転んだオークの表面に密着させ、縫合する。
 そしてオークと散らばっていた臓物を縫いつけた接合面にある〈黒糸〉全体で『治癒』を発動させる。
 かなり精神力が持って行かれる感覚がするが、実験のためなら全く惜しくない。

 〈黒糸〉は鋼糸であり、かつ杖でもあるために、このような真似が出来る。
 視認出来ない遠隔地で魔法を使っているせいか、〈黒糸〉表面から離れたところには効果を表せないのが、欠点といえば欠点だろうか。
 これも、熟練すれば解決される類のような気がするが。
 あるいは、『遠見』の魔法を他の魔法と併用出来るようになるとか。
 今は〈黒糸〉を伝わる触覚と断続的に切り替えて使う『遠見』の魔法の光景をもとに魔法行使してるからな。

 臓物との継ぎ接ぎオークに『治癒』を使ったのは、亡き戦友の遺志を継いで戦友の腕を自分に繋いで4本の腕で戦い続けたという、ある水メイジの逸話を試したくなったからだ。

 そして『治癒』は効果を発揮し、死にたての死体は、生きているオークを中心にして接続され、醜悪な肉の塊となった。
 私のレベルでは軽い切り傷を塞ぐくらいの『治癒』しか出来ないが、〈黒糸〉で事前に肉片同士を縫い合わせていれば傷を塞ぐ程度の『治癒』で充分だ。

 転んだオークからは腕や足が無秩序に生え、合間にテラテラと光る臓物が見える。
 中心になったオークが哀れな鳴き声を上げている。

 ……どうやら接続は成功のようだが、流石に神経は通っていないか。
 阿修羅みたいな六臂オークにでも出来るかと思ったが、そこまで魔法は万能ではないようだ。
 というか、これは私のランクが足りないからだな。
 細胞レベルでの小さな領域の『治癒』なら〈黒糸〉によって威力を集中させられる分、私は通常のドットメイジよりも強力な治癒力を出せるが、新しい腕をつける、というような骨格レベルでの改造には実力が不足しているようだ。

 見るに堪えない醜悪な肉塊にトドメを刺すべく魔法を唱える。
 使う魔法は火魔法の初歩『発火』。
 それを肉塊に張り巡らせた〈黒糸〉の表面で使用する。

 〈黒糸〉の表面から数ミリの空間の温度が瞬く間に上昇し、みるみるうちに肉はジュウジュウと茹だり凝り固まって炭化し、やがて発火する。
 仲間がワケの分からない肉塊になり、目の前で焼け焦げていく中で、さすがのオーク達も恐慌をきたして逃げ出した。

 私は『発火』の魔法を使っている最中なので、他の魔法は使えない。
 魔法の複数同時行使に至るは、まだまだ熟練度が足りない。
 だが、既にこの森は私の領域だ。

 逃がしはしない。

 森の中には、この群れの周りを囲むように〈黒糸〉が縦横に張り巡らされているため、決して逃げることはできないだろう。
 案の定、逃げた先で網にかかったのだろう。
 木々の間に張り巡らされた〈黒糸〉に突っ込んで、切り刻まれたであろうオークたちの断末魔が聞こえてくる。

 『発火』の発動を一旦止め、残りのオークを討伐しに意識を移動させる。
 〈黒糸〉の上で意識を滑らせるのは、音よりもずっと速い。
 光にも匹敵するだろう。
 まあ、予め意識を移す場所を明確に定義しないといけないのだが。その為に〈黒糸〉の伸展領域には番地のように番号を振ってある。

 あるオークには心臓に突き刺した〈黒糸〉の先で『集水』を使った。
 心臓が送り出す以上の血液が魔法によって無理やり集められて、心臓が破裂して死んだ。

 あるオークは下半身を〈黒糸〉で地面に縫いつけて、上半身だけを『フライ』で飛ばして殺した。
 千切れた上半身と下半身を腸がだらしなく繋ぐ醜怪なオブジェが出来上がった。
 更に細切れにして『発火』で燃やした。

 あるオークには、全身に浸透させた〈黒糸〉から『エア・カッター』を生じさせて、細切れのミンチにした。

 あるオークは生きたまま身体をじわじわと『錬金』して、彫像に変えた。
 どうやら、生きている生物であっても、微細領域に限れば『錬金』は成功するらしい。
 これが魔法が使えるメイジや先住種族であれば分からないが。

 自分が現場にいない気楽さからか、あるいは体に引っ張られて子供特有の残酷さでも発揮したのか、私は思いつく限りのあらゆる魔法で殺していった。

 オークの脳内で『錬金』を用いて水分を一気に気体に変化させて、頭蓋骨を破裂させた。

 内臓に張り巡らせた〈黒糸〉に『ブレイド』を纏わせて内側からズタズタにした。

 〈黒糸〉を操って、まとめて切断した。


 後に残ったのは、オーク10数匹分の原型もとどめない肉片の山ばかり。
 それの後始末として、『集水』の魔法で、肉片の中の水分を片っ端から集めて死体を乾かしていく。
 伝染病などが怖いから、後は血とナレ、肉とナレって訳には行かないのだ。

 後半は魔法実験みたいになってしまったが、まあ、曲弦技の練習にはなったと思う。
 あとはどれだけの数の〈黒糸〉を同時に知覚して動かすことが出来るか、である。
 『念力』による〈黒糸〉の同時複数の操作が出来るようになったら、次は『念動』と他の魔法の並列使用を練習しよう。
 そうして、他の魔法も同時に使いこなせれば、さらに殲滅力が上がるだろう。

 まあ、私の理想は絶対安全圏からの遠隔攻撃だから戦場に出る気はさらさら無いのだが。

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2010.07.18 初出
2010.07.21 誤字修正/一部追記
2010.09.26 修正、追記など



[20306] 蜘蛛の糸の繋がる先は 4.著作権はまだ存在しない
Name: へびさんマン◆29ccac37 ID:4dc27135
Date: 2012/12/25 21:24
 さて、ウードの妹が生まれてから半年余りが過ぎた。
 ちなみに妹の名前はメイリーンと言う。

 今頃は父親のフィリップ・ド・シャンリット伯爵がトリステイン王国王都トリスタニアの紋章院に登録に行っている頃だろう。
 登録しに行って直ぐに亡くなったら、登録したのが無駄になるから、生まれた年のうちに紋章院に登録すればいいことになっている。

 シャンリット家長女の名前は異国の花の名前からとってある。
 名に因んだ可憐な少女に育って欲しいという願いが込められている。
 恐らくは実際にそうなるだろう。多分。

 兄がウードだけれど。
 何とか、きっと。花のような可憐な女の子に。
 そんな両親の願いが込められている。


 ウードが以前に見つけた知能が高そうなゴブリンの集落に対しては、家畜化のために選別を行っている最中である。
 気性の荒いモノは間引き、悪食で育ちが早く大人しい性格のモノを残すようにしている。
 何を食べさせてもよくて、すぐに殖えて、扱いやすいというのは実験動物として大切なことだからである。

 あとは、将来的に魔法を使えるようにする計画なので、脳が大きいものや舌や喉の形が発語に適しているものを優先的に残している。
 また、同様のことを他にも幾つか見つけたゴブリンの集落に対しても行っている。
 複数の集落から望む形質を持つものを選別し、欲しい形質を濃く持つもの同士を掛け合わせるというのは品種作成に必要なことだ。
 今のところ、8つの形質に絞ってそれぞれに特化した血筋を創り上げようとしているところである。

 脳が大きい者。手先が器用な者。舌や喉の形が整っている者。気性が大人しく勤勉な者。
 食事量に対してよく成長する者。好奇心旺盛な者。病気に強い者。性成熟が早い者。

 これらの8つの原原々種から、2つづつを引き継ぐ原々種を作成し、その掛け合わせによって4つの形質を持ちあわせる原種を作り、最終的には特化させた8つの形質全てを受け継ぐように品種を作成する計画である。
 今後も品種改良は続ける予定なので、目的とする8形質を持っていないゴブリンたちもむやみに殺したりはしない。
 時々は野生種の血を入れないと血統が弱り、奇形や不妊が多くなってしまうのだ。

 ここまでは“ゴブリンメイジ化計画”の下準備の段階である。
 今後もまだまだ沢山やることがある。
 山積である。相変わらず、人手が欲しいと言っている。

 そのなかでも、今、一番ウードが力を入れていることは精神作用系の水魔法の習得である。
 『スリープクラウド』もウードが最近習得した魔法の一つだ。

(水魔法って何なんだろうか……。
 一気圧下常温での水を媒介とする魔法行使に特化した系統……って訳でもないみたいだが。
 第一、眠らせるイメージでって何なんだ……。
 いやまあ、そんな説明で習得できた私も私だが)

 『スリープクラウド』が精神作用系なのか、催眠ガスを『錬金』しているような魔法なのかはいまいち分からない所である。
 専門家の間でも意見が分かれているらしい。

 ウードは使っている個人によってそのどちらかに分かれる、もしくは複合的に作用しているのだと仮説を立てている。
 人によっては強力な磁場を局所的に発生させて脳の特定領域の神経活動を誘発もしくは阻害して眠らせる、とかいうパターンもあるかも知れない。

 ウードの場合は相手の“脳の活動状態を睡眠時の自分の物と近しく変えるように”イメージして『スリープクラウド』を唱えている。
 ……同じ感覚で“死人の脳と同じ状態になるように”イメージして『スリープクラウド』を唱えたらどうなるのかというのは、目下ゴブリンやオーク相手に実験中である。
 『スリープクラウド』という名前の即死呪文が出来上がるかも知れない。
 魔法はイメージ次第だと言われているが、果たして。

 精神作用系の水魔法の中でも、記憶操作系の魔法を早く習得したいので、そのようにイメージして訓練に勤しんでいる。
 様々な人の記憶を〈黒糸〉を介して覗ければ、より簡単により多くの知識を集めることが出来るだろう。

 これらの精神系の水魔法には禁術の『制約(ギアス)』なども該当するのだが、当然そんな物騒な魔法を6歳児に教えてくれるわけもなく、今は『スリープクラウド』や簡単な診療魔法など、水魔法の初歩を母親のエリーゼから習っているだけだ。
 もちろん精神系だけではなくて、水魔法の他の分野にもウードは興味がある。
 生物の体や細胞などを更に細かく精査する魔法や、魔法生物の作成もいずれ本格的に学ぶ予定である。
 オーク鬼やゴブリン相手に『治癒』と外科的手法を合わせて色々と実験を行っているが、おそらくはキメラ用に特化した魔法の方が効率はいいだろう。
 母親のエリーゼは水の国の王家に近しい血筋を引く水魔法のエリートである。
 彼女から学べばウードもその水の国5000年の奥義を習得できるかも知れない。

 ちなみに、エリーゼは水のトライアングルで、二つ名は“虹彩”というそうだ。“虹彩”といっても別に目の中にあるそれでは無い。
 小さい頃から、霧を操って虹を作るのが得意だったらしく、それに因んで付けられたらしい。

 多くの水メイジが雨の日を得意とする中で、エリーゼは晴れの日ほど殲滅力が上がると言う珍しい水メイジである。
 得意な魔法は、空中に広範囲に浮かべた水滴を操作して、太陽光線を敵に収束させるというオリジナルの魔法。
 その名も『集光(ソーラーレイ)』。
 名前からは絶対に水魔法とは思えない。詐欺である。実際、炸裂するのは灼熱の白光である。
 しかも射程距離が数リーグにも達する対軍規模の魔法であり、状況によっては、その簡素な名前からは想像も出来ない様な威力を出すそうだ。

 最大出力でやった際には、竜は焼き落とすわ、フネは燃やすわ、敵兵は甲冑ごと蒸し焼きになるわと、まさに地獄絵図だったそうだ。
 古参の傭兵の中には、生でその焦熱地獄を見たことある者も居るらしく、『“虹彩”とは敵対するな』とはその筋では有名らしい。
 遠目で見るには、上空に巨大な円環状の虹が見えて綺麗らしいのだが、実は虹が見える場所は全て射程内なのである。

 まあ、この魔法、本気の戦闘出力で使うには並外れた精神集中と、かなり開けたスペースが必要なため、攻城戦や籠城戦、平原での会戦開始直後など全力全開に出来るシチュエーションが限られるのが僅かな救いだろうか。
 最大出力を長時間維持するには無風の環境か、それに近い状況を風メイジたちに作り出させる必要があるし、使っている本人は無防備になるので絶対無敵というわけでもない。

 あとは、この魔法には広範囲の水滴を把握し操作するために飛び抜けた認識力とセンス、トライアングル以上の実力が必要だから、現状ではシャンリット家に嫁いだエリーゼしか使える者はいないらしい。
 彼女の息子のウードには水の才能は遺伝しなかったようだが、娘のメイリーンにはそれが遺伝したのかしなかったのだろうか……。
 もしも“虹彩”の後継者が現れるなら、シャンリットの地は暫くは安泰だろう。

 この魔法『集光』の維持には精々水滴を浮かべておくくらいの力しか使わないので、適性があって集中力さえ続けば、太陽が出ている限りは攻撃を続けることが出来る。
 威力の割には非常にコストパフォーマンスに優れた魔法と言えるだろう。
 まあ普通はその集中力が続かないのだが。

 考えても見て欲しい。
 上空数百メイルまでに数万とも数億ともつかない水滴を浮かべ、その形状を操作し位置を制御するなんて人間業ではない。
 正気の沙汰とも思えない。化物だ、と言わざるをえない。

 しかし、ウードが『ディテクトマジック』をわずか一年で超々微細領域感知魔法に磨きあげられたのは、母親のエリーゼから認識力やセンスが遺伝したおかげかも知れない。
 何せ、原子単位で『錬金』を制御しようと思ったら、その操作する原子数は数億では効かないのだ。
 たかだか1リーブルの〈黒糸〉を作るにしても10の26乗以上もの数の原子を制御しなくてはならない。
 ウードも大概に化物である。

 自分は安全圏にいて攻撃しようって発想も、親譲りなのかも知れない。
 だが、母親のエリーゼは戦略級の遠距離攻撃使いでも父親のフィリップは近接メインのメイジなので、流石にそこまで遺伝に原因を求めるのは間違っているだろう。
 戦場に出たエリーゼの護衛をしたのが父であるフィリップだとか。

 さて、話を戻すが、水魔法の他にも文献によると獣人の得意とする先住魔法にも精神操作系の魔法はあるのだという。
 獣人の先住魔法では、人格の植え付けすらも可能だそうだ。
 もしも獣人と合う機会があれば、彼らに人格植え付け魔法やその他精神系の魔法のコツを聞いてみるのも良いだろう。

 まあ獣人なんてそうそう見つかるものではないし、彼らが教えてくれるとは思えないが。







  蜘蛛の糸の繋がる先は 4.著作権? ナニソレ美味しいの? 関係無いが蜘蛛は豊穣のシンボルらしい







 一通りエリーゼから水魔法について習った結果、記憶を覗く魔法はあるらしいのだが、トライアングル以上の実力が無いと使えないとされていることが判明し、ウードは落胆した。
 ウードの『錬金』で金を作ることが出来たという例があるから一概にトライアングルでないと使用できないとは言えない。
 とはいえ、『錬金』の場合と違って前世知識は通用しそうに無いのでウード自身も期待薄だとは思っている。

 倫理上の問題から、記憶を覗く『読心』という魔法は当然のごとく禁呪指定である。
 拷問吏の一族には代々受け継がれているらしいが、普通の水メイジはそういう魔法が存在している事実くらいしか知らないはずだ。

「因みに、母上は『読心』を使えるのですか?」
「うふふ、まあね。でも、秘密にしておいてね?
 あなたが水のトライアングルになったら使い方を教えてあげても良いけど」
「おぉ! 頑張ります」

 張り切るウード。ウードの場合、水は土に比べて適性面で劣るが、目標があれば上達は早いだろう。
 意味深げに笑うエリーゼ。何か面白いことを思いついたようである。

「……でも、悪用しそうだから『集光』5発を凌いだらってことにしとくわ」
「……母上、実は教える気無いでしょう。『集光』は終わりが無い広域殲滅魔法だと父上から聞いていますよ。それを5発も耐え切れる訳無いでしょう」
「あら、じゃあ1発なら耐えられるのかしら?」

 ウードは少し考える。天から降り注ぐ光の柱。それを凌いで相手に一撃入れるにはどうするか。
 有効なのは鏡だろうか? あとは勝負の条件。距離や罠、開けた場所かどうか。

「……それは距離によると思います。遠距離では絶望的です。
 近距離なら鏡の盾を作って盲滅法に撃てば或いはこちらが死ぬ前に……」
「あら、随分な自信じゃないの。秘策でもありそうね」
「いえ、自信なんてありません。黒焦げになった自分しか想像できません」

 むしろ焦げる前に蒸発する。対軍規模の魔法の威力を一点に集中したらどうなるだろうか。
 彼は上空の虹の輪から放たれた細い光の筋が、彼自身が掲げた鏡の盾ごと両断する様を幻視した。

 エリーゼは公爵令嬢だったのだと父親のフィリップが言っていたのをウードは思い出した。
 水の国「トリステイン」の公爵家という事は、当然ながら水系統の魔法には明るいだろうし、自身の配下にそういったことを生業にする一族がいてもおかしくは無い。
 恐らく、ウードが『集光』を凌ぎきれば実際に『読心』を教えてくれるだろう。

「ふふ、まあ、精進なさい。『読心』の他にも覚えるべき水魔法は沢山あるでしょうから」
「はい。頑張ります」

 一応、エリーゼから水系統を教えてもらった成果として、ウードは『スリープクラウド』の他にも『治癒』の応用の『活性』といった魔法を習得している。
 『活性』は植物や動物の成長促進に使われる魔法だ。
 とはいえ、ドットでは精々、蕾を咲かせるくらいが関の山である。

 『活性』は出力か持続時間が上がれば、農業革命どころではない魔法である。日本の昔話、“花咲爺さん”の真似事が出来るようになる。
 それを何故誰も利用しないのか?
 労力の割に採算が取れないマイナーな魔法であるということも原因としてあげられる。

 だが、最も大きな原因はこの魔法の副作用にある。
 成長を活性化させるが、それに伴う栄養摂取は高速化される訳ではないのだ。
 その為、例えばこの魔法を使って麦を高速成長させた場合、途中で栄養不足で枯死するか、実が出来てもスカスカの売り物にならないものになってしまうのだ。
 他にも植物の急成長によって土地の力が急激に失われるとか、そういう副作用もあるようだ。

 考え事をしながら、エリーゼの部屋を辞し、庭の片隅にある研究小屋を目指す。
 最近は地下室の増築にも力を入れつつある。
 ウード本人としては研究室というよりも秘密基地のつもりで楽しんで作っている。
 標本や本の量が多くなりすぎているという切実なスペース問題もあるのだが。

(精神系やキメラ作成などに関わる魔法は、魔法の運用を工夫してもラインにならないと難しいかもしれない。
 母上や他の水メイジからも話を聞いて、イメージを固めて行こう)

 研究を進めるにしても、やはりランクの低さがネックになってくるか、とウードは自身の魔法の一層の向上を決意する。
 水魔法については、しばらくは診察用の魔法に磨きをかけていくしかないだろう。
 細胞内の小器官の働きや、遺伝子の発現、ウィルスなどまで視えるくらいに鍛えれば、新たなアプローチの魔法を思いつくかも知れない。
 ちなみに『集光』もエリーゼから教えてもらったが無理だったようだ。〈黒糸〉をうまく使って似たようなことは出来るかも知れないが。

(今のランクで記憶を読む魔法は使えないから、ランクの低さを補うマジックアイテムを買うか作るかしないといけないな、やはり)

 しかし、ランクを上げるマジックアイテムの作り方等これまで読んだ本には書いてなかったし、そもそもそんなものがあれば、もっと普及しているはずである。

 研究室の扉を開き、中に入ると、数々の標本群がウードを迎える。
 アルコールやホルマリンの独特の臭気がする。
 『固定化』で蒸発を抑えているが、それでも臭うものは臭うのだ。

(それとも脳改造して無理やりランクを上げるか……。いや、これは最後の手段だな)

 実行するにしても、ゴブリンを使った動物実験とその経過観察が必要だろう。
 少なくとも数年では技術確立は無理だろうし、その間にウードのメイジとしてのランクも自然に上がるかも知れない。
 正攻法が取れるときは、正攻法で行うのが一番だ。

 標本の様子を見ながら『固定化』の掛け直しが必要なモノがないか確認しながら、埃を払っていく。

 しかし、『錬金』の魔法と同様に、精神系の魔法も発想の転換で使えるようになりそうなものではある。
 原子の概念は前世の記憶からイメージ付きやすいが、精神とか知性となると上手くイメージが沸かないので望み薄だが。
 地道にこちらの魔法の概念を覚えつつ、身につけるしか無いのだろう。なんとももどかしい話だ、とウードは思う。

 実は記憶を読むマジックアイテムについては一応あてがあるのだが。
 これは散々言っている人手不足を解決することのできるアイテムでもある。

 つまり、スキルニルである。
 血を吸った相手に化けるこのマジックアイテムは、その性質上、記憶や人格の転写を行える。
 それも使用者が魔法を使うことなしにである。このメカニズムを解明すれば、簡単に人の記憶を手にいれることができるだろう。

 また、ウード自身やあるいは誰か優秀な者の血をスキルニルに吸わせれば、人手も簡単に増やせる。
 どの道、そのスキルニルを見つけるための伝手もなければ、お金もないのだが。
 魔法学院の宝物庫にはあるようだが、流石にウードも王家のものを盗むほどには覚悟は決まっていない。

 ウードは古くなったり壊れたりして屋敷で使わなくなったマジックアイテムを分解した際のガラクタ類を整理しながら、まだ見ぬ幾多のマジックアイテムに想いを馳せる。

(うーむ、一先ずは地道な鍛錬と勉強しかないか。
 取り敢えず、王都の図書館の蔵書を読むための遠隔地情報収集用ゴーレムを作るくらいはしておくか。
 王都まで〈黒糸〉を伸ばしたものの、領内の地図作成や亜人・幻獣の秘密裏な討伐や蒐集などをしていたから、結局手をつけてなかったんだよな)

 ゴーレムは人に似せた質感で作って怪しまれないようにすることが可能になっている。
 自律行動可能なガーゴイルにすることは未だ出来ないため、〈黒糸〉での有線操作の形になる。
 ゴーレムの視界を介して本を読むことは、ごく近い距離では可能だということが分かっている。
 無意識に軽い『遠見』の魔法をゴーレム作成の魔法に組み込んでいるようだ。

 研究小屋の書庫も少しずつ充実し始めている。
 だが、まだまだ専門書の類は少なく、基礎的なものしか無い。

(まず読まなきゃならないのは、スキルニルなどのマジックアイテム作製技術かな。
 農作物などの品種改良のために魔法生物作成技術なんかも読みたい。あと記憶操作系の水魔法とか。これは禁書庫だろうか?)





 ……と思って私は早速その日の晩に王都の図書館にゴーレムを侵入させて書物を読ませたのだが、全く内容が頭に入ってこなかった。

 〈黒糸〉は王都の図書館の内部まで伸ばしているから、図書館内で〈黒糸〉を起点にゴーレムを生成。〈黒糸〉を介した有線操作でゴーレムを動かし、本を選ばせて、『遠見』の魔法でページを見たのだが、ゴーレムの遠隔操作と周辺の警戒に意識を割きすぎて、本を読む事に集中できなかったのだ。

 やはり本は手元で読むものに限る。
 ということは、つまり、ゴーレムが見た景色を元に本をまるごと手元に複製して、後で読めば良いのではなかろうか。

 うむ、そうしよう。著作権など知ったことか。
 そんな概念はこの世界には無い。
 どの道、手元に資料があった方が研究ははかどるのだし。

 因みに、図書館の本を読む時に『念動』で開き、〈黒糸〉をページの上に持って行って『遠見』を発動させても、ゴーレムを操るのと同じ効果があるが、人に似せていた方が怪しまれずに済むだろうという配慮からゴーレムを使っている。
 夜中に知らない人が本を読んでいるのと、本が一人でに浮いてページが捲れていくのとではどちらがホラーだろうか。
 実際はページをめくる度に『レビテーション』や『念動』を細かい操作で発動させるより、ゴーレムを維持し続けた方が楽なのでゴーレムを使っているだけなのだが。

 本の複写方法としては『遠見』の魔法でゴーレムが見た景色を投影し、それをこちらで焼き付ければイケるはず……と、まあ要するに写真だな。

 まずは転写用の印画紙が必要だな。ベースとなるフィルムと感光剤は恐らく『錬金』で作れるだろう。
 印画紙、というかインクや感光剤の研究が必要だな。
 まあ、酸化銀系から開発するか。銀の『錬金』は難しいが、極微量なら大丈夫だろう。
 ジアゾ化合物系は未だ自信ないし。
 最終的にはフルカラーにしたいがまずはモノクロでいいだろう。

 『遠見』と『錬金』なら今の私のレベルでもなんとかなりそうであるし……、うむ、いけそうだ。
 風魔法の素質が乏しいから『遠見』ではあまり遠くまで見えないのではないかという心配は、発動体である杖自体を伸ばすという暴挙により解決済みである。
 〈黒糸〉付近なら問題なく『遠見』で見ることが出来る。
 有線式の『遠見』を、果たして『遠見』と呼んでいいのか疑問ではあるが。

 さて、一応、写本を行うプロセスとしては、次のようなものだろうか。


準備:
「複写・製本作業用の暗室を自宅の地下などに作る」
「図書館の床に伸ばした〈黒糸〉から本をめくるゴーレムを創りだす」
「シャンリットの屋敷の地下の暗室内に作業用のゴーレムを作る」
「大量の印画紙を暗室内に『錬金』で作成しておく」
「暗室内に図書館の景色を『遠見』の魔法で投影する仕組みを作る」

作業手順:
「王立図書館のゴーレムにページを捲らせる」
  ↓
「ゴーレムを通じて『遠見』の魔法でページを暗室に映す」
  ↓
「用意した印画紙に、映った模様を転写する」
  ↓
「転写されたら、映像を何かで遮り、その間に印画紙を交換する」
  ↓
「工程繰り返し」

後始末:
「転写された印画紙は暗室から出す前に『固定化』をかける」
「読み取った本を一冊分ごとに製本して、別に屋敷の地下に作った書庫に内容ごとに分類して並べる」


 ふむ、これなら『遠見』の魔法じゃなくても、光ファイバーで映像を映せば十分かもしれないな。
 どうせゴーレムは有線操作なのだし光ファイバーを既存の〈黒糸〉の上に追加するくらい出来るだろう。
 いや、どうしても映像がぼけるだろうから『遠見』の魔法の方が確実か?

 まあ、いい。試行錯誤と実験だ!!





 最近、私の息子ことウードはゴーレムの操作に熱心だ。

 少し前まではガラス作りに熱心で、プリズムとかいう三角の棒で虹を作ったり、老いて目が悪くなった執事にメガネを自作してやったりしていた。
 私も“晶壁”の二つ名を持つメイジだから、ウードから度々助言を求められた。
 今は種類の違う水晶を入れ子構造にして遠くの光を届ける管、確か“光ファイバー”とか言っていたが、そういったものも作っているようだ。
 これがあれば伝声管で声を伝えるように、遠くの景色を好きな場所に伝えられるようになるらしい。
 ……『遠見』の魔法との違いがわからないが。
 我が妻のエリーゼにも助言を求めていて、光を操るコツを聞いていたようだ。……『集光』の魔法を覚えるつもりなのだろうか。

 その一月程前は、真っ暗な部屋の中で秘薬作りをしていた。手を真っ黒にしていたが、インクでも作っていたのかもしれない。

 今は人間そっくりのゴーレムを作っては、召使いにさせるかのごとく、自分の身の周りの世話をさせている。

 元からの使用人がいるからそんなものは必要ないと言っても、魔法の練習なのだからと押し通されてしまった。
 ……私が息子に対して甘いという事実もある。まあ、使用人たちもあの庭の片隅の研究小屋“洞窟(グロッタ)”に入らなくて済むようになったから助かっているようだ。

 まあ、一ヶ月もしないうちに、また別のことを始めるだろうから、使用人たちには気にしないように言っておいた。

 使用人たちももう慣れたもので、「また坊ちゃんの実験ですか」と言った風情であった。
 大体、一ヶ月から二ヶ月単位でウードは異なる実験というか奇行を繰り返している。
 かなり飽きっぽいのかもしれない。

 今も人型のゴーレムを操っているかと思えば、全く別の奇妙な形のゴーレムを作ったりもしている。
 机から腕が生えたようなゴーレムで、机の上のものを腕で掴んで位置をずらしたりしている。
 腕フェチなのだろうか?
 それにあんな限定された動作しかできないものなど使えないと思うのだが、息子によると、もとから一定の動作しかさせないつもりだから、この形の方が精神力の節約になる、ということらしい。

 まあ、奇行は多少目立つものの、それも天才ゆえの行動なのだろう。そう思うことにしている、精神衛生上。

 この間など、ウードの部屋に入ったときは驚かされたものだ。
 そこには一流の画家でも書けないだろうという位に精密な風景画や、妻や娘のメイリーンなどを描いた人物画が沢山、無造作に積み重ねられていたのだ。

 いつの間に絵画の勉強をしたのかと問うてみたところ、どうやらそれは絵画ではないようだ。
 写真と言って、カメラと言う箱の中に映された風景を印画紙というマジックアイテムに『固定化』したものだそうだ。

 時々なにか箱を持ってこちらを覗いていると思ったら、それだったらしい。

 もちろん、妻やメイリーンの写真は譲ってもらった。また、その後にそのカメラで全員の写真を撮った。
 これは素晴らしい。家族の写真は今も額に入れて飾ってある。
 これからもじゃんじゃん撮るように言ったが、返答はつれないものだった。

「じゃあ父上が撮って下さい。使い方を教えますし、印画紙が無くなったら言っていただければ作りますし」

 ということで、カメラと印画紙を譲ってもらった。

 どうやら既にカメラには飽きてしまった後だったらしい。
 撮ったあとなら『固定化』を掛けるだけなので、それくらいなら私にも出来る。印画紙の『錬金』は教えてもらえなかったので出来ないが。

 それに、ウードの写真が無いのはどうも寂しかったところだ。
 これからはウードの写真も撮って、思い出を増やしていこうと思う。

 これだけでは父親として情けないので、カメラの代わりに何かしてやれることはないかと言ってみたところ、マジックアイテムの作り方を本格的に習いたいので、誰か紹介してくれないかということだった。
 また、ゴーレムを扱う際のコツについても助言して欲しいそうだ。

 それと、王都に行く時は、図書館や書店に行きたいから是非連れていって欲しいと言ってきた。出入りの商人に小遣いの範囲で本を頼んでいるのは知っていたが、それだけではウードの好奇心を満たすには足りないらしい。

 私の友人でマジックアイテムの作成に長けた者も、今は王都にいるので丁度いいだろう。
 ゴーレム操作については、私からも教えるが、その友人からも助言してもらうように伝えよう。
 それではすぐに友人に手紙を書いて連絡をとるとしよう。息子のことも、このカメラも自慢したいしな。





 父上の使い魔は巨大な蜘蛛である。

 全長2メイル程の黒い蜘蛛(ブラックウィドウ)で、屋敷の壁に張り付いて日向ぼっこしている姿をよく見かける。
 緑と金色の縞模様の腹が、毒々しくて印象的だ。

 名前は『ノワール』。黒いからクロって安直な……。
 この種類は普通は深い森にいるので日光は避けるはずなのだが、使い魔になったことで太陽光も平気になったのだろうか。

 私は何故か、こう曰く言いがたいのだが、惹かれるものがあって、ノワールを見かけたら近づいて触るようにしている。
 腹に生えたビロードのような産毛の手触りがなんとも心地いい。
 大顎と八つの目の凶悪な面構えも何故か愛らしく思えるから不思議なものだ。
 それに何故か、傍に居るととても安心するのだ。

 餌は週に一度ほど、生きた鳥を食わせているらしい。
 野生の状態ではそこまで頻繁に食べなくともいいそうだ。
 栄養状態がいいからか、野生種の倍くらいの大きさになっている。
 もう十年近く使い魔として過ごしているそうだ。
 ……実は野生のブラックウィドウとは違う種類なのかもしれない。

 一緒に南側の庭で日向ぼっこしながら、ノワールの腹とかを撫でているとうつらうつらしてくる。

 そうしていると決まって、夢うつつの中でノワールが私に話しかけてくる。
 夢の中だからか、不思議なことに、なんとなくだが、こいつの言いたいことが分かる。

 ノワールの本名が『◯jgだいkj』(発音不能、彼らの言葉で“つややかな”という意味らしい)だということとか。
 シャンリットとアtらchなcha様との古い古い盟約に従い蜘蛛の眷属はシャンリットの地(血?)を守るために守護を与えているとか。
 シャンリットの者に呼び出されたのは良いものの我らの主神たるアtらchなcha様への感謝を忘れており非常に憤慨しているとか。
 日向ぼっこも案外悪くないとか。
 お前からは懐かしい匂いがするとか。
 もっと撫でてくれとか。
 この毛並みは自慢なのだとか、何とか。

 話している内容の9割は毛並み自慢だったが、なんか聞き逃せ無いことも言っていたように思う。
 どうせ夢のなかの話だけど。起きたら殆ど憶えていないけど。

 こいつの横にいると、まるで母の胎内に居るかのような、安心感を感じる。

 いや、もっと前? 胎内に居た時よりももっと? 生まれる前? 死んだ後?


 前世で死んだ後、ここに生まれる前。
 果てしない落下の最中に、私は何に遭ったのだったか。


 深淵の谷。


 蜘蛛の糸。


 赤い瞳。



     アtらchなcha?




「……ハッ!?」

 どうやらまた、ノワールの横で眠ってしまっていたらしい。
 全く、凄まじい癒し系だな、こいつ。

 夢の中までノワールが出てくるとは、ひょっとして惚れてしまったのかも分かもしれない。
 すべすべの毛並みとこのプヨプヨした腹には惚れても仕方ないと思う。

 普段はあまり昼寝中の夢の内容なんか覚えてはいないが、今回は珍しいことに一つだけ覚えていた。

 アtらchなcha。アトラクナチャ。アトラク=ナクア。アトラナート。

 ……何で、前世のコズミックホラーの蜘蛛の神性の名前が出てくるのだろう?
 フィクションじゃなかったのだろうか、あれは。
 いや。この世界(ファンタジー)ならあり得るのか……?

 ご先祖様の日記をもう一度読み返してみよう。
 何か書いてあるかも知れない。

================================================
クトゥルフ神話的に日記って死亡フラグですよね。
まあ、ウード君はデフォルトでSAN値ゼロ近辺ですけど。

2010.07.18 初出
2010.07.21 誤字修正
2010.09.26 色々修正、追記



[20306]   外伝1.ご先祖様の日記
Name: へびさんマン◆29ccac37 ID:4dc27135
Date: 2010/10/05 19:07
 これは始まりの話。
 シャンリット家に伝わっていた――今は失われた話。
 ある神との約束の――呪いの話。





 自室に置かれた机を前に、『レビテーション』で自重を軽くして少し勢いをつけて椅子に腰掛ける。
 背が足りないので足は床につかず、後ろから見たら背もたれに身体がすっぽり隠れているように見えるだろう。
 『ライト』を唱えて手元の視界を確保し、慎重に、今にも崩れそうな羊皮紙の束をめくる。

 今、私が読んでいるのはシャンリット家の書庫に眠っていた、先祖の日記や帳簿の中でも一等に古いものの一つだ。
 仕舞い込まれていた書庫から、『固定化』をかけ直して『レビテーション』でここまで運んできたのだ。

 流し読みして所々に記されている日付を見るに、どうやら2000年位前の人物の日記のようだ。
 シャンリット家の歴史が始まったのも大体それ位らしいから、ひょっとしたら開祖の日記なのかも知れない。

 当時は高価だったであろう羊皮紙にわざわざ書き記す内容とは一体何か。

 他に読むものもないし、このシャンリットの由来を知るのも悪いことではないだろう。






 蜘蛛の糸の繋がる先は 外伝1.ご先祖様の日記って探索者的にどう考えても死亡フラグだろ常考






『この度、東の反乱者共を打ちとったカドで王よりこの土地――シャンリットを賜った。
 これよりこのラリバール・ウーズ・ド・シャンリット、粉骨砕身して祖国のためにこの土地を治めると誓う』

『北の領境となっている山地に質の悪い亜人共が棲み着いているらしい。
 奴らは非常に俊敏で、獰猛で、鋭い爪と歯を持ち、山から降りてきては領民を脅かすという』

『忌々しいトロールどもめ!あのヴーアミ族め!
 知性のない野蛮人の分際で王より賜りし我が領地を荒らすとは!
 根絶やしにしてやらねば気が収まらぬ!』

『大規模な集落をゴーレムで押しつぶしてやった!
 始祖の力を思い知ったか、ヴーアミの獣面どもめ。
 まだまだヴーアミの集落はあるという。
 奴らの棲む洞窟も一つ一つ潰して回らねばなるまい』

『4、5の洞窟を我が土の秘技によって埋め尽くしてやった。
 執拗に何度も何度も土の槍を『錬金』し、洞窟のあった場所に突き刺してやったから生き残りは居ないだろう。
 それにしても洞窟が多い上に深い。
 全く何処まで続いているのか。
 魔法で埋めた洞窟もひょっとしたら遙か深くまで続いていて、ヴーアミのトロールどもを取り逃がしたかも知れぬ。
 地上に通じる出口を全て潰した上で、追いかけて根絶やしにしてくれる』

『洞窟をひたすらに潰している。
 それにしてもここには蜘蛛が多い。
 森全体が蜘蛛の巣によってまるでヴェールに覆われているようだ。
 領地内のトロール共は殆ど殺しつくすことが出来たように思う』

『大きな穴が新しく山腹に出来ていた。
 根絶やしにしたと思っていたヴーアミどもは未だ残っていたのだ!
 今までの意趣返しか、思いもよらぬ量の亜人共に奇襲を受けた家臣たちの何人かは始祖の御元へ旅立つことになった。
 奴らは我らを奇襲して混乱させた後に一つの村を襲い、その村人を根こそぎ連れていった。
 始祖よ、彼らを憐れみ給え』

『これ以上の犠牲を出す前に、奴らトロールを根絶やしにせねばならぬ。
 幸い、あれから新しく出来た洞窟はない。
 あの大きな新しい洞窟に向かい、地の底までも追い詰めて、最後の一匹までも殺しつくしてくれる。
 このラリバール・ウーズ・ド・シャンリットの土地でこれ以上好き勝手させたとあっては、王に顔向けできぬ』

『精鋭を連れて、大きな洞窟を降りてゆく。
 『ライト』の明かりが洞窟の闇を照らす。
 新しく出来た洞窟だというのに、もう蜘蛛が巣を張っている。
 所々に、ヴーアミ族がつまみ食いしたのだろう、人のものと思われる内臓や骨の一部が落ちている』

『深い洞窟を土の魔法で均しながら5リーグ程も進んだだろうか。いや、もっとかも知れない。
 奴らの棲み家に近づくにつれて、ケモノ臭さ、腐敗臭、濁ったあらゆる嫌悪感をかきたてる臭いが強くなる。
 それよりももっと恐ろしく、恐怖をかきたてる空気が、滲み出してきているのが分かる。
 土メイジの私でも感じられる、このおぞましさを孕んだ腐った空気を、家臣の風メイジはどう思っているだろうか』

『開けた場所に出た。何らかの魔術的な篝火が焚かれ、明るく照らされたその中心には何か異教のものを思わせる祭壇らしきものがあった。
 無骨な岩と、人間や獣の骨で組み上げられたそれは、真新しい血でベッタリと汚れており、胸糞悪くなる腐臭に血の彩りを加えていた。
 トロール共が跪くのとは逆側には、何らかの巨大な生き物が座っていたであろう巨大な台座があった。
 今はそこには何の影もない。まるで『サモン・サーヴァント』でも使ったかのように巨大な異形は掻き消えてしまったのだろうか。
 ああ、我々は間に合わなかったのだ!
 哀れな村人はその祭壇で、何らかの巨大な異形に食い尽くされてしまったのだ!
 家臣の一人が耐えきれずに悲鳴を上げて魔法を放つ。
 ヴーアミ族が我々に気が付き身を翻して向かってくる。
 我々は、遮二無二に魔法を放つ。
 粗方はその魔法に切り刻まれ、燃やされ、串刺しにされたが、何匹か更に奥に逃げたようだ』

『ここで逃がしてはまた勢力を増して再来するかも知れない。
 私がこの地に封ぜられたのは、その腕を見込まれて、亜人を殺し尽くし、民に安寧をもたらす為なのだ。
 この奥へ、ここまでとは違って空虚な雰囲気を醸しだす、更に洞窟の奥へと向かわなくてはならない』

『怖気づく家臣を叱咤し、トロールを追って更に更に洞窟を奥へと向かう。
 蜘蛛の糸がそこかしこに張り巡らされ、洞窟全体が絹糸に覆われたかのようだ。
 魔法で傷を負ったヴーアミの足跡が続いているのが、『ライト』に照らされて淡く光る蜘蛛糸の中に赤黒く沈んで見える』

『不意にまた広い空間に出た。
 今度は先も見えぬほどに広い断崖の上のようだ。
 虚ろな空気が辺りを覆っている。
 ヴーアミはその底も見えぬ断崖に架かる吊り橋のような綱の上を歩いている。
 好機だ。
 我々は『風の槌』で忌まわしいトロール共を綱の上から弾き飛ばした』

『奴らの悍ましい断末魔が響き、掠れ、消えてゆく。
 どれだけこの谷は深いのだろうか。
 全くトロールが下に着地する音が聞こえない。
 これで、この地のトロール共は根絶やしに出来た筈だ』

『貴族としての責務を果たし、この忌まわしく恐ろしい地の底から去ろうとした時、それは我らの目の前に現れた。
 あのヴーアミの断末魔を聞きつけたのだろう。
 谷に架かる綱の上を、恐ろしい速度でこちらに向かってきたものがあった。
 人の身程もある漆黒の身体に、長く節くれ立った蜘蛛の足を生やし、真っ赤な瞳を持つ生き物だ。
 こちらを珍しものでも観るかのように睨め上げ、しかし猜疑心を隠そうともせずにそれらが入り交じった不気味な表情を浮かべた。
 真っ赤な瞳がこちらを見た瞬間、我々はその恐ろしい瞳に魅入られて仕舞い、身体は痺れ、ルーンの詠唱すら不可能になった』

『蜘蛛の口が動き、言葉を発する。

「良き哉。丁度小腹が空いていた所。我が眷属の数も増やしたかったところだ」

 精神を犯すようなその声は、虚しくも恐ろしげに深淵の谷に響いていった。
 その蜘蛛の化物は、我々を素早くその頑丈な糸で巻き取ると、何事か口元で唱え、その鋭い牙を首筋に近づけて毒を注入していった。

「毒の呪いを受けて生き残れば眷属に変化する。耐えられずに死ねばそのまま喰ろうてくれよう」

 灼熱に焼かれるような痛みが首筋から全身に走り、――やがて私は意識を失った』

『次に目を覚ましたときには、蜘蛛の化物の赤い瞳が目の前にあった。

「ふむ、解せぬ。毒の洗礼を受けても死なぬし、我が眷属に変態もせぬか。
 今は腹も空いておらぬし、お前が眷属に変化せぬ理由を探る時間もない。
 我はこの谷に延々と営々と橋を架けねばならぬゆえ」

 私の家臣はどうなったのだろうか。
 
「我が毒に耐えたならば、人の身とは言えそれは我が眷属と同じこと。
 我が深淵の谷にお前たちのような邪魔者が入らぬよう、お前は地の上からこの地を守護せよ。
 帰り道にツァトゥグァに襲われぬように、毒の呪いの上から我が祝福を受けて行くが良い」
 
 目の前の蜘蛛神は何事か唱え、私に纏わり付く糸を断ち切った。
 詠唱を聞いた私は、再び朦朧としながら、来た道を登り始めた』

『再び私が意識を取り戻したのは、地上に出てからである』



『あの日から、あの深淵の谷の夢を見る。
 あの蜘蛛が私を急き立てるのだ。祀れ、守護せよ、と』

『かつての家臣たちが、恐ろしい赤目の蜘蛛の元で糸を紡いでいる。
 もはや人の姿は留めぬ彼らは、粛々と巣を架け続けている』

『私は、本当は毒で気を失ったのでは無かったのだ。
 私は、私は。
 あのおぞましく冒涜的な光景に耐えきれず、部下たちの叫びに耳を閉ざして――』

『苦しみ悶える家臣が、引き攣ったように動きを止め、ゴツゴツとした何かが皮膚の下で蠢き、みるみるうちに大きく膨れ上がってしまった背中にビシリとヒビが入る。
 黒い毛に覆われた節足が8本突き出し、メリメリとヒビを押し広げる。
 部下の背から、脱皮するように蜘蛛が這い出る。
 それに応じて、彼の身体は萎んでいく。皺くちゃになっていく』

『緑と金色の毒々しい腹をした、真っ黒な腕の蜘蛛だ。不吉な蜘蛛だ』

『何度も夢に見る。
 何度も。何度も』

『何度も。何度も。何度も』

『私もこうなるのだろうか。
 私の子供も、ああなるのだろうか』

『助けてください、始祖ブリミルよ。
 何でもしますから』

『どうか。どうか。
 ああ。ブリミル』

『始祖よ。どうか。助けて下さい。ああ』
『始祖ブリミルよ、あの赤目の蜘蛛を追い払ってください』
『夢の中で急き立てる、あの蜘蛛をどうにかしてください』




『どうか、神様。毎晩、もう一年も夢で追い立てられるのです。段々と迫ってくるのです。あんなにも捧げたではありませんか』
『助けて神様。神様。信仰の証が必要なのでしょうか。一体、これ以上何をすればいいのです』
『助けて下さい。神様。神様。お願いです。もう私は何もかも捧げました。ですから、お願いです』




『ああ。蜘蛛の神様。ですからどうか、シャンリット家に祝福を』










 ……あー。私は何も見なかった。見なかった事にしたい。でも、もう後戻りはできない。
 というか、父上はこのこと知っているのだろうか。聞いたら薮蛇になりそうだから聞くに聞けないが。

 何か他の日記も嫌な予感がする。でも気になる。私の、この一族のルーツは一体何だというのか。

 とりあえず、この日記の内容は私の胸の中に仕舞っておこう。
 ああ、今までと世界がまるで違って見える。
 前世の知識がある時点で自分が異物だとは思っていたが、まさか一族そのものが異物だとは思いもしなかった。

==================================
よく考えたら、アトラク=ナクア様をキチンと書いてないなと思って。
『七つの呪い』からラリバール・ウーズさんに出演してもらいました。

ヴーアミ族≒トロール。
なので当SSの世界観ではトロールはツァトゥグァを信仰している設定で。
普段はン・カイに居るツァトゥグァ様を召喚して生贄捧げる感じ。

系統魔法で無双してるのは、それだけラリバール・ウーズが強かったってことで。

2010.07.31 サブタイトルを変更
2010.09.26 人称を変更



[20306] 蜘蛛の糸の繋がる先は 5.レベルアップは唐突に
Name: へびさんマン◆29ccac37 ID:4dc27135
Date: 2012/12/30 23:40
 ウード・ド・シャンリットは、不思議に思っていることがある。
 それは自分の父方の家族の事についてである。

 ウードの父フィリップは、紋章院の登録によればシャンリット伯爵家の次男として生を受けたとされている。
 フィリップの上には一人、兄が居たのだ。
 だが実際に爵位を継いだのは、フィリップである。

 ウードは自分に伯父が居たということなど、紋章院に忍び込ませたゴーレムに貴族の台帳を写し取らせて(無断で)、それを見るまで全く知らなかった。
 伯父本人どころか、従兄弟にも会ったことは無い。
 母方の親族は、父と母の仕出かした騒動によって絶交状態であるため、これまた会ったことはない。
 だから父方の親族が全滅状態であるということも、今まで全く気にならなかった。

 だがこれは本来異常なことである。
 中世貴族とは、ウードの持つ知識によれば血縁者が大勢居て然るべきなのだ。
 実際、紋章院から写本して盗み出した台帳には、複雑な血縁関係によって成り立つ一門が幾つも記されていた。
 この世界でも普通の貴族は、何人も子が居ることが普通なのだ。

 フィリップの兄の没年は、フィリップの父と母の没年と全く同じであった。
 それは、ウードが生まれた年の前の年であった。
 ウードの祖父母(フィリップの父母)の没年に、フィリップは伯爵位を継いでいる。

 表向きは、フィリップの父母と兄は、流行病で亡くなった事になっている。
 何でも数刻のうちに、内臓がどろどろに溶けて無くなり、皮だけになってしまう奇病なのだという。
 シャンリットの屋敷に詰めていた使用人も全滅している。
 無事だったのは、フィリップの起こした不祥事(スキャンダル)に対処するために名代として王都に派遣されていた家宰の爺やと、王軍でエリーゼの護衛を務めていたフィリップのみだ。

 城下の領民にもこの奇病に因る被害者が出ている。
 だが、流行病という割には、被害者が少なすぎる。
 夜中に外を出歩いていた若い男女と、森の奥に入りすぎて帰りの遅れた猟師のみだったのだ。
 これでは流行病というよりも、まるで通り魔かモンスターにでも襲われたかのようではないか!

(父上が伯父や祖父を謀殺したとは考えられない。恐らく、何かがあったのだ)

 ウードはある日に偶然目を通した、開祖の日記を見て以来、他の先祖の日記や様々な記録、家系図などを見ては、シャンリット家の血筋に隠された秘密について研究を行っている。
 それによれば、祖父たちを襲った流行病は、100年から200年に一度くらいのペースで領内に現れているようだ。ウードの祖父の時の奇病の猛威の、約150年前にはひとつの村を壊滅させたと記録が残っている。
 そして決まって、その年に伯爵位の継承が行われている。

 これまでシャンリット家2000年の歴史で起こった事件について纏めた年表を前にして、ウードは唸る。

(本当は、もう見当はついているんだ。でも出来れば外れていて欲しい。確実な所は、爺やに聞いてみないと)







  蜘蛛の糸の繋がる先は 5.レベルアップは唐突に、しかし積み重ねこそが重要







「メイリーン、こっち! こっち向いて!」
「うー?」
「良いね! その角度!」

 激写! という様子で庭園で、バッタを追いかける赤子、メイリーンを更にカメラで追いかけて行っているのは、赤子の父親のフィリップである。
 最近は執務を放り出してカメラを掲げてメイリーンを写真に撮っている。
 アルバム――アルバムは1冊で100枚入るもので、透明フィルムが各ページに貼られているウード謹製のものである――約20冊に及ぶメイリーンの写真が既に撮られている。
 親馬鹿である。ウードはあまり手間のかからない子だった分、その反動でメイリーンを可愛がっているのだろう。


 因みに残った執務の皺寄せは家宰の爺やと、何故かウードの下に行っている。

「爺や」
「何でしょう、ウード様」
「何で私は父上の執務を手伝っているんだろうね?」

 所変わってこちらは執務室。
 ウードと爺やが執務を執り行っている。ウードの目には隈が見て取れる。
 爺やは書類を置き、ウードの方を見る。

「何でも何も、フィリップ様が執務を放り出しがちなので、ウード様の講師をする時間が取れなくなりそうだと申しましたら
 『じゃあ、私が爺やの執務を手伝うよ。父上が許可してくれたらだけど、少し早い実務訓練だと思えば、減った分の講師の時間も補えるだろうし』
 と仰ったからではありませんか。まあ私もまさかフィリップ様が許可なさるとは思いませんでしたが」
「私も父上が許可するとは思わなかったよ」

 結局のところ、ウードの自業自得なのであった。
 フィリップが娘馬鹿になったのも大元を辿ればウードがあまりに世話を掛けない子供だったからであると言えなくもない。
 何だかんだ文句を言いつつも、爺やの指導のもとで執務を続けるウードであった。
 国内法や領内法を参照にして住民からの陳情を処理し、家長のフィリップの判断が必要なものはフィリップに回すという仕事を通じて、ウードは現在のシャンリット領の様子を知って行っている。

「しかし、ウード様。随分と顔色が悪いですが、大丈夫ですか?」
「……問題ないよ。気になるというなら、水の流れを操って隈くらいは隠すけど」
「いえ、そこまでして頂く事ではありません」

 実はウードはこうして執務を行う傍らでも、足元から〈黒糸〉を垂らして、その〈黒糸〉の拡張と王立図書館の所蔵物の写本を継続して行っているのだ。
 疲れが見て取れるのは、精神力の回復する間もなく魔法を行使し続けているせいである。
 夜は夜で、昼間に写本した本を通読しているので、本当にいつ休んでいるのか分からない位だ。

 母エリーゼが「たまには休みを取って趣味にでも充てなさい」と言っても、趣味の時間には色々な物質の構造や物性を『ディテクトマジック』で調べているのでどの道、ウードは四六時中魔法を使っている事になる。
 8歳にしてここまで魔法や知識の習得に傾倒するのは、異常である。
 まるで何かから逃避しているかようだ。具体的には眠ることから逃げているように思える。

「なあ、爺や」
「何でしょう」
「……。……いや、何でもない」

 最近は執務手伝い中に、ウードが唐突に爺やに話しかけて、視線と手をさ迷わせては「何でもない」というのが通例となっている。
 爺やの方も、それ以上は追求しない。
 執務室は再び、羊皮紙を捲る音とペンを走らせる音のみになる。

 そのままその日はフィリップが戻って来るまで、いつも通りの執務手伝いの時間が過ぎていった。





 双月が輝く夜。
 シャンリット家の邸宅の庭の片隅にあるウードの研究室“洞窟(グロッタ)”にはまだ光が灯っている。
 ウードは机の上に広げたグラフを見ている。
 それはここ2年間の重力加速度の増減を表したものである。

「減ってる、な。最初は誤差かと思ったけど」

 元々は重力加速度を決定するために計測をしていたのだが、計測器を精密にしていくに従って、1ヶ月単位で極々微小な差が生じていったのだ。
 気になって双月が南中する時間に継続して記録を取り続けた結果、2年間継続して重力加速度は減少を続けていたと判明したのだ。
 しかも、シャンリット内の領地各地で例外無く減少していた。

「ふむ。重力加速度の減少か。魔法がある時点で物理法則が違うかも知れないが、あえて仮説を立てるとするなら……。
 地軸の歳差運動で遠心力が変動している、未知の巨大な遊星がハルケギニア星に近づきつつある影響、巨人が『レビテーション』を大地に掛けている、観測誤差、張り巡らせた〈黒糸〉の影響……」

 机から離れて標本の中を歩き回るウード。
 日々増えていく結晶、生物液浸標本、骨格標本、写本の類は案外綺麗に纏められている。
 地上部分に収まりきれなかった部分は研究室“グロッタ”の地下拡張部分に収められている。

「歳差運動は、他の星の動きを見るに却下。
 未知の巨大な遊星というのも不明。電波望遠鏡などで観測するまで保留。
 巨人の『レビテーション』は巨人の存在が実証できないので不明。
 観測誤差……は否定出来ないが、継続して減少してるし……。
 いや、器具自体が『レビテーション』の力を帯びたとか? 鉄が地磁気を帯びたみたいに?」

 うろうろと考え事を続けるウード。
 薄暗い中をうろうろ、うろうろ。

「確かに観測器具は2年間変えていなかった。
 この一帯に何かあるのか、それとも〈黒糸〉の影響か……。でも、地下も地上も空中も特に何もないぞ。
 いや、もっと深い、のか?
 ……先ずは実験器具を一新して、あとは、地下にもっと〈黒糸〉を伸ばそう」

 思い付きと次に行うべき行動をグラフの端にメモし、頭を切り替える。程なくして地下800メイルの辺りで増加し続ける風石溜りが見つかるのだが、それは数日後の話である。
 机の前に座り、グラフの書かれた紙を片付ける。羊皮紙ではなくて、ウードが『錬金』した紙である。
 ウードは自分の属性を“炭素系特化”と定めたようで、日々新たな物質が無いかと、身の回りの物を『ディテクトマジック』で調べては、性質を調べている。

「地下の標本庫や写本書庫が一杯になって来ているのは、まあ、また拡張すれば良いか。
 検索用の魔道具か何かが今後必要になるかも知れないな。
 今度、師匠に何か無いか聞いてみるか」

 ウードの言う“師匠”とは、父フィリップの紹介で2年前に引き合わされた王都の土メイジの職人である。
 月に一度、シャンリットに招いて、ガーゴイルや魔道具制作の助言を貰っているのだ。
 写本用ゴーレムのガーゴイル化によって、作業ラインが増えたため、写本速度は初期の10倍近くになっている。

「あー、あと何だっけ。
 図書館にいつ行っても本を読んでる貴族が居るとか王都で噂になっているとか、師匠が言っていたな。
 それって多分、私の写本用ゴーレムだよな」

 ウードの造形の腕前の向上や色素分子のコレクションが増えたことで、真に迫った、本物と見分けがつかないような人型ゴーレムを作ることが出来るようになったのだ。
 その為、当初は夜中に行っていた王立図書館での写本作業を昼間から行えるようになったのだ。
 因みに、王都の噂とは“精神を本に呑み込まれた男たちが、失われた精神の欠片を探して本を片っ端から読んでいる”というものだ。
 有りうるのが困る。人皮で装丁されたどこぞの魔道書なんかもありそうである。

「まあ、あとで写本ガーゴイル(読み取り用)の行動パターンを見直しておくか。
 あとは庭園の花壇に植えた秘薬の材料になる植物の生育状況を見回っておこう。いやいや、今日新しく追加された本でも読むかな……」

 夜は更けるが、研究小屋の明かりはまだまだ消えそうになかった。





「師匠。先日の課題として出された『ライト』の魔道具です。
 一応、光るようにできましたけど、なんだか光量が安定しないものがあるんです」
「んー、原因も特定できない?」

 私が今、相談している相手は、マジックアイテム作りの師匠だ。
 父上の友人で、マジックアイテム作りに長けているそうだ。

 ガーゴイルの作成方法や、それをゴーレムに応用することによる操作負荷の軽減などについての相談にも乗ってもらった。
 師匠自身はトライアングルの土メイジで、父上によると王都でも名の知れた職人だそうだ。
 友人の誼ということで、格安で家庭教師をしてもらっている。
 それだけなら悪い気もするが、まあ、〈カメラ〉やその他、私の子どもらしい(?)自由な発想を見聞き出来て、
 それだけでも充分な報酬だと師匠自身は感じているらしいので、私ががあまり気を回しすぎるのも良くないか。

「きちんとルーンは刻んだんですけど……」
「どーれ、見してみ」
「こちらです」

 そう言って、師匠に自作の魔道具を手渡す。
 師匠はそれを矯めつ眇めつ見るが、首をかしげている。

「なー、ウード君や」
「なんでしょう師匠」

 やはり何か不手際があったんだろうか。

「んー、私にはどこにもルーンなんて見えやしやんだが」

 ああ、そういう事か。

「いえいえ、ちゃんと彫ってありますよ。
 発光部の基部にチョッと。ディテクトマジック使ってみればわかりますけど」
「んー?」

 そう言って師匠は杖を振ると、確かに基部が『ディテクトマジック』に反応して光るのを確かめた。

「ウード君や。こんなに細かくルーンを刻んだら、ふとした拍子に魔力が跳び跳びに流れたりして
 とてもじゃないが安定した出力は出せやしないよ」
「え、そうなんですか。そのまま小さくすればいいってわけではないんですね」

 魔力の整流にも気を使わなくてはならないということか。確かにそれは必要だろうな。
 だが、整流と言っても、そもそも、どういう規則で魔道具内を流れているのかよく分からない。
 まず、電圧とか電流みたいに単位みたいなものがハッキリと存在しないし。

「こーんなに細かく刻むんだったら、幾つか同じルーンを並べて、一つ二つのルーンが起動しなくても大丈夫なようにするとか、
 ルーンを刻むところの材質を変えて、他のところに魔力が逃げてルーンが迂回されないように工夫しないと、ウード君」
「複数のルーンを並列に刻むのはやってみたんですが、そしたら何故か急に水が滴りだしまして」

 『ライト』の魔道具でシャワーが出るとか予想外にもほどがある。
 水はすぐに魔法で蒸発させたけど。

「あー、それはルーンを魔力が走るときにジグザグに走っちゃって、変な意味になっちゃったんだろうね。
 爆発とかしなかった分、マシだと思うよ。結構、危ないんだから」

 ルーンが縦読みされたということなのか!?
 でも逆に上手く使えば、一つの回路で複数の効果を発揮出来るようになるかも知れない。

「いーつも思うけど、こんなに細かく刻まなくても良いんじゃないかな。
 ルーンの間に余裕を持ってやれば、君、『ライト』のマジックアイテムくらいすぐに作れるだろう?」
「確かに普通の『ライト』のマジックアイテムは作れましたけど。
 でも、こういう物は小さく出来るなら小さくした方が良いと思うんですよ、絶対」

 重厚長大も良いが、私的に使える物資が少ない現状では、精密加工に走るべきだと思う今日この頃。
 ここ数年、物質の構造解析などばかりやっていたせいか、自分が習得している主な魔法も、かなり偏っている。

 分子構造解析レベルの『ディテクトマジック』。
 ナノレベルで構造制御出来る『錬金』。
 〈黒糸〉をマイクロ領域の探針(プローブ)として自在に操れる『念動』。
 ……いつの間にか、超超精密加工に特化してしまっているのだ。

 水の診療探査魔法も、細胞内部を感知出来るように練習中だし。
 まあ、診療魔法は細かく見るだけじゃなくて全体を見渡して体内のバランスをみるというのも重要だからあまり細かいことばかりやっていても片手落ちなんだけど。

「まーね。小さくすれば、その分色んなものに組み込めるからね。
 このレベルの細かさで、出力も安定させられたら、指輪とかのアクセサリーの台座に組み込んで、宝石を光らせたり出来るかもね」
「小さくすれば、その分、製作に使う精神力も少なくなりますし、慣れれば一気に何十個も『錬金』で作れます。
 そういったパーツを組み合わせて、複雑なマジックアイテムを作るのも可能なんじゃないかと思うんです」

 同じ効果を表すにしても、大魔法を一行程としてアイテムに込めるか、小魔法を複数工程でアイテムに込めて大魔法と同じ効果を出すかというアプローチの違いである。
 ハルケギニアでは、前者のマジックアイテムが主流、というか全てである。
 だが、私はランクの制限から後者のアプローチを取らざるを得ない。

 前世の知識から、家電や電子回路などのイメージが強く残っているという理由もあるのだが。
 モジュール化したものやパーツを組み合わせるという認識が強いのである。

「むー、パーツを組み合わせるなんて前例があまりないから、悪いけど僕じゃあそっちについては助言できないなあ」
「参考資料とかないですかね?」

 今のところ、写本の中にはそういうアプローチの本は無かったのだ。

「えーと、済まない、この間から時々探してみてるんだが、見つからないんだ。
 同業者の集まりでも聞いてみたんだが、心当たりはないそうだよ」
「そうですか」

 まあ、王立図書館の蔵書に無い時点で、あまり期待はしていなかったが。

「でーも、僕を含めて、そのやり方に興味を持ったような奴らも何人か居たから、
 そいつらも含めて手探りで進めていこうとしてるよ。しばらく時間はかかるだろうけど」
「そうですか、それしかないですね。……では師匠、今後もよろしくお願いいたします」

 コツコツ研究を進めていくしかないか。
 でもまあ、他の人の手も借りられるなら、一人でやるよりは格段に早く進むだろう。
 今後に期待、である。

 あ、資料管理・検索用のインテリジェンスアイテムやガーゴイルが無いか、聞いてみようかな。
 地下書庫の管理用に欲しいんだが。
 聞いたら直ぐに資料の場所を答えてくれるような、こう近未来的なインターフェイスが良いな。

 王立図書館では実用化されてそうだけど、写本作業中には見かけたことはないな……。
 まあ、司書が全部の蔵書を把握してるとかだろうか。
 いちいちインテリジェンスアイテムを準備するよりはコスト的に良いのだろうし、あそこの司書長職は世襲らしいから雇用維持の側面からもインテリジェンスアイテムやガーゴイルに置き換えるのは難しいのかもしれない。

「あー、それは良いんだが。ちゃんと寝てる? 隈、すごいよ?」
「……大丈夫です」





「ウード」
「何でしょう、母上」

 ウードが師匠から講義を受けた後に廊下を歩いていると、その足音に気づいて部屋から出た母エリーゼが声を掛けてきた。
 エリーゼは懐から杖を取り出し、優雅に振るう。

「『ヒーリング』」
「あ……」

 穏やかな淡い水色の光が、ウードの全身を包む。
 体内の水の流れを整える魔法が、ウードの疲労を取り去っていく。

「あまり無理をしてはいけません。一体何をそんなに悩んでいるのです?」
「……。何でも有りませんよ。『ヒーリング』有難うございました」
「こら、待ちなさい。私にも話せない様なことなのですか?」

 さっさと去ろうとしたウードをエリーゼは引き止める。
 まあお茶でも、と言いながら、出てきた部屋にウードを引きこむ。
 部屋に控えていた侍女にウードの分のお茶を淹れるように命じると、椅子に座る。

「母上、あの、午後の爺やの講義が」
「サボりなさい。さあ、じっくり、お話ししましょう?」
「う……」

 自分の母から立ち上るオーラに、思わずたじろぐウード。
 蛇に睨まれた蛙状態の母(蛇)と子(蛙)。
 侍女が淹れたウードの分のティーカップが置かれ、コトリと音をたてたのを切っ掛けに再び時が動き出す。
 ぎくしゃくとウードがエリーゼの前に座る。

「あなたの育てたハーブを使ったお茶よ。少し私が手を加えたから、軽い回復魔法薬みたいに働くはずよ」
「……いただきます」
「ウード、最近魔法を使い続けているでしょう? その上、寝ていない。
 魔法を使い通しなのに精神力が尽きないのは何故か。それは極度の興奮・緊張状態にある所為ね。
 恐らく、あなたの身体に起こりつつある変化についての不安もあるのでしょうけど」

 ウードが母の最後の言葉に顔を上げ、目を見開く。

「母上、知っているのですか……?」
「まあ、ずっとフィリップの『変容』を抑えてきたのは私ですからね。
 あの人はそんな事は全然知らないけども」

 悪戯気にエリーゼは微笑む。

「水のエキスパートに、体調のことで隠し事は不可能よ?
 いざとなったら、私が抑えてあげるから。そんなに不安に思わないこと」
「……はい。ありがとう、ございます」

 涙ぐむウードはそれを隠すように一気にハーブティーを飲み干す。
 野性味のある香気が鼻孔を満たす。
 伯爵夫人が飲むにはワイルド過ぎる味だ。ウードの為にわざわざ用意していたのだろう。

「まあ、話は終わり。じゃあ、爺やの所に行ってらっしゃい。
 “訊きたい事”はちゃんと訊くのよ? 先延ばしにせずに」
「はい。行ってきます」

 椅子から立ち上がり、侍女が開けた扉に向かってウードは歩く。

「でも、母上も無理はしないで下さいね。
 この『大変容』を父上と私の2人分も抑えるなんて、いくら母上でも無茶です。
 これはそれほどに強力な呪いです。自分の事は、自分で何とかします。
 有難うございました」

 そう言って、ウードは廊下を『フライ』で飛んで行った。

「……全く、あの子ったら。たまには親らしいことさせなさいよ」

 そう呟くエリーゼを残して。





 講義の時間になったのにウード様がまだいらっしゃいません。
 まあ、奥様から「今日は遅くなるかも」と伝えられていますので、そろそろいらっしゃるとは思うのですが。

 あ、いらっしゃったようです。
 扉が開いて、ウード様がこちらに歩いてこられます。
 心なしか顔色も朝より良くなっているようです。奥様が治療されたのでしょう。

「爺や。遅くなってすまない」
「いえ、問題ございません」
「単刀直入に訊きたいことがある」

 何やら決然としたものが顔から伺えます。
 何事でしょうか。

「祖父のことだ。答えてもらう」

 ウード様の言葉を理解した瞬間、私の呼吸は確かに止まりました。

「嘘は言うな。絶対にだ。
 “祖父はまだ生きている”な?」

 なんと、何故、ウード様がその事を。

「生きているんだな、やはり。
 変容し、ヒトの皮を捨てて、狂気に塗れて館の者と領民を殺して、生きてるんだな!?」

 私の蒼白な顔色から答えを察したのでしょう。捲し立てながらウード様が近づいて来ます。

「蜘蛛になって、ヒトの中身を溶かして啜り、今はアトラク=ナクアの下で糸を紡いでいる……。
 そうなのだろう? 爺や、何とか言ってくれ」
「どうして、どうしてご存知なのですか……?」

 ウード様が近づくに従って、私は後ずさります。

「日記だ。先祖の残した日記から読み解いた。
 そして、あとは状況の不自然さからだ」

 後ずさりすぎて、部屋の壁に背中が着いてしまいました。
 聡明だとは思っていましたが、まさかそれだけの情報でこの結論に行き着くとは思いませんでした。
 いえ、それでも、幾ら何でも“ヒトが蜘蛛になる”なんて飛躍が過ぎます。
 ウード様は尚も私に近づいて来ます。

「爺や、祖父は蜘蛛に脱皮する数年前から、夢を見ると言っていなかったか」

 ウード様の纏う鬼気が一層強くなります。
 まるで、先代様の話は前振りだったと言わんばかりです。

「た、確かに、あの事件の日の一年前から、赤目の蜘蛛の夢を……見る、と」
「成程、一年か」
「まさ、か。ウード様も、なのですか?」

 なんと言うことか。
 まさか、御年8歳にして、先代様と同じように……?

「祖父の没年は64歳だったか。呪いの進行速度が8倍だとすれば、私はもう、2ヶ月も無い計算だな」

 やがてウード様はくつくつと顔を俯けて含み笑いで肩を震わせ始めました。

「なんと、お労しや……」
「くふふふ、まて早まるな、まだ狂ってなどいない。既に対抗策は打っている。呪いの進行速度は正直予想外ではあったが、な。くふふふふ」

 そうしてくつくつと笑い続けるウード様。段々と鬼気が強まっていきます。
 ウード様の中で決定的な何かが変わってしまったのでしょう。

「くふふふふ。何も問題ない。なぁんにも、問題ない。大丈夫、だいじょうぶだ。
 まだ私は何も成し遂げてはいないからな。今、ヒトを辞めるわけにはいかん。くふふ」

 ウード様は暫く笑い続けました。
 そうしているうちに落ち着いたのか、またこちらに目を向けます。
 光の加減でしょうか。ウード様の瞳が、不吉に真っ赤に輝いたように見えました。

「それで、祖父の最期の言葉くらいは聞いているのだろう? 教えろ」

 確かにフィリップ様を王都から連れ帰った時、屋敷の異常に気付いた私は先行して屋敷内へと突入致しました。
 そこで大蜘蛛に変化していた先代様と、そうとは気づかずに魔法を交わしている内に、一瞬だけ先代様が正気に戻られました。
 そして、最期に一言私に託し、先代様は森の方へと跳ね去って行かれたのです。

「最期に『シャンリットを頼む、フィリップを支えてやってくれ』と一言だけ。
 その後は正気のうちにアトラク=ナクアの下へ向かわなくては今以上に被害を出してしまう、と跳び去って行かれました」
「……そうか。ありがとう。父上には祖父の最期は伝えてないんだな?」
「はい、フィリップ様にはお伝えしておりません。王政府にも、誰にも。私しか知る者は居ません」

 あの後、先代様の葬儀、フィリップ様の伯爵位継承やフィリップ様とエリーゼ様の結婚式など立て続けに大きな行事が重なったこともあり、先代様の身に何が起こったのか気にする者は居ませんでした。

「分かった。真実を話してくれてありがとう。
 ……今日の講義は明日以降に回してもらっても良いか? 色々と考えたいことがあるんだ」
「はい、その方が宜しいかと」
「ああ。では、また明日。これからもよろしく頼む」

 ウード様はそう言い残すと直ぐに飛び上がり、『念動』で窓を開けると庭の研究室へと飛んで行かれました。





 爺やに祖父の事を聞き糺した翌日。
 久しぶりによく眠れた所為か、体が軽く、頭もすっきりしている。もう、悩みについては吹っ切れた。
 くふふふふ。この上もなく良い気分だ。今ならラインスペルでも何でも使えそうだ。

 昨日、爺やの話を聞いて確信が持てた。
 このシャンリットの血には、深淵の谷の蜘蛛神“アトラク=ナクア”の呪いが開祖以来染み付いている。
 開祖がアトラク=ナクアの毒を受けても、かの神の眷属に変化しなかったのは、僅かにその呪いの発現を――『大変容』を遅らせていたに過ぎなかったのだ。

 だから、時が至れば、蜘蛛神の眷属に変化してしまう。しかも、子孫にその呪いは血を介して遺伝してしまっている。
 『大変容』を起こした先祖たちが残した日記からは、アトラク=ナクアが夢に現れてから数ヶ月から数年で、完全に蜘蛛に変異してしまうということが読み取れた。
 私の場合は、残り2ヶ月もないだろう。

 通常ならば。

 だが幸いにして、私は、自分の体内に張り巡らせた〈黒糸〉のお陰で、自分の体に起こりつつある変化をかなり早い段階から知ることが出来た。
 蜘蛛に変異しつつある身体の内側を、〈黒糸〉で物理的に繋ぎ留め、水魔法も併用して『大変容』を抑える目処が立っている。
 ドットメイジのままでは、その成功確率に不安が残っていたが、もしも、今日、この時点でラインメイジに昇格できたというのならば、あと少なくとも10年は蜘蛛化の呪いを抑えることが出来るだろう。

 これまで以上に急いでコトを進めなくてはならない。私がヒトの姿を留めていられるうちに。





 月に何度か有る父上との魔法訓練の時間に、物は試しとラインスペルを使ってみたら、成功した。
 父上に非常に喜ばれた。

「おお、凄いじゃないか、ウード!」
「いえ、まだまだです。修練が必要です」
「いやいや、8歳でラインなど、そうそう居るものではない。期待しているぞ!
 これでシャンリット家も安泰というものだ」

 8歳にしてラインとは天才だと言われたが、まだまだだと思う。
 それに早熟なだけで、きっと20に成る頃には只の人ですよ、父上。
 まあ、20までこの身体が持つか分からないのですが。

 だから、「伯爵家の跡継ぎとして、俺が磨いた近接格闘技術も教えないとな!」なんて言わないで下さい。
 少なくとも体が出来上がり始める年にならないと、危ないでしょ?
 まだ8歳のモヤシっ子ですよ?

「何、エリーゼから聞いているぞ。
 既にかなり筋肉も付けているそうじゃないか」
「母上がそんな事を?」

 ……昨日『ヒーリング』を掛けられた時に同時に診察されたのだろう。
 私が自分に肉体改造を行っていることは分かっている、と。

「でも、ほら、父上。
 父上が得意なの得物は剣杖でしょ。
 私の得物って鞭だし、今から他のに持ち替えるのも……」
「何、問題ない。
 学んでもらうのは魔法と合わせた足運びとか間合いの取り方とか、『硬化』を用いた防御とか、そういう基礎技術からだ。得物は関係ない。
 むしろその他は実戦形式の訓練で補う」
「……お断りします!」

 そう言って、私は脱兎の如く逃げ出した。


『ウードは逃げ出した!』
『フィリップの魔法!“晶壁”!ウードの目の前に水晶の壁が現れた!』
『ウードは“ブレイド”を唱え、鞭を振るった!“ブレイド・ウィップ”!水晶の壁が切り裂かれた!』
『フィリップの魔法!“晶壁”!ウードの目の前に水晶の壁が現れた!
 フィリップの魔法!“晶壁”!ウードの右手側に水晶の壁が現れた!
 フィリップの魔法!“晶壁”!ウードの左手側に水晶の壁が現れた!
 フィリップの魔法!“晶壁”!ウードの背後に水晶の壁が現れた!』
『ウードは囲まれてしまった!ウードは逃げられない!』
『……』
『訓練内容に“近接格闘術・基礎”が加わりました』


 まあそんな感じで結局格闘訓練を受けることになってしまった。

 ……父上は土のトライアングルで二つ名は“晶壁”。
 水晶の錬金が得意で、近接戦闘に定評が有るメイジだったそうだ。
 特に一対一の戦いに強く、水晶の壁を自在に生成して足場にして縦横無尽に駆け抜け飛び回ったり、水晶の弾幕を飛ばしたり、相手を水晶漬けにしたり……。
 母上に聴かされた話によると、父上が戦う姿はキラキラしててとてもカッコよかったらしい。
 ……まあそりゃ見栄えは良かろう。

 父上は魔法の才能の開花が遅かったらしく、十代の頃は専ら体力を鍛え、格闘訓練に精を出していたとか。
 しかし、軍で母上に初めて会った時に、一目惚れ。
 まるで雷に打たれたような感覚がして、頭が真っ白になって気づいたらいつの間にかドットからトライアングルに成っていたそうな。

 ……一目惚れでランクアップとか。物語の中の話だと思っていたが、実在するとは。
 しかも母上の話に拠ると、この時の刺激に反応してか父上の身体の『大変容』が母上の目の前で一気に進行したとか。
 母上が変容のことを知っていたのはその所為か。身体の中の水の流れが、ヒトではありえない形に変わっていくのが目の前で展開されれば、優秀な水メイジならば気が付くだろう。
 そして、『大変容』に興味を持ったのを切っ掛けに母上は父上自身にも興味を持ったそうだ。

 因みに、父上はその場でプロポーズしたらしい。

 それにしても一気に2ランクアップって非常識にもほどがあるだろう、父上。
 いや、むしろ母上の魔性の美貌を褒めるべきだろうか?

 母上にはこのとき既に婚約者が居たが、なんと父上はその婚約者と決闘して母上との結婚の権利を勝ち取ったとか。
 もちろん、父上にも名目上の婚約者は居たらしいが、こちらはあっさり婚約破棄できたらしい。
 その決闘の際に用いたのが『晶壁』の魔法であり、決闘場を水晶の壁が隙間なく囲った様子からその決闘は『クリスタル・デスマッチ』と呼ばれ、今でも軍の語り種なのだとか。

 ……本当なのだろうか。

 というか、未だに私が母方の祖父母に顔を合わせてないないのは、略奪愛だったからなんだろうな。
 決闘を行って体裁は整えたけど、母上の実家的には歓迎出来ないだろうし、半ば駆け落ちみたいなものだったらしいし。
 少なくとも、母上の実家とその元婚約者の家の二つは敵に回してるんだろう。

 母上の実家って結構大貴族だったとか聞いたような気がするんだ。確か公爵?
 ああ、領内を通る商人の数が、ご先祖様の日記に書いてあるのよりの妙に少ないのもその所為か!
 公爵家から圧力掛けられてるのか!

 経済封鎖されてるって、これ、かなり厳しいのでは……?
 まあ順当に考えれば、父上が誠心誠意謝るしかないのだろうし、向こうも経済的に圧力をかけてこちらに頭を下げさせるつもりだったのだろうが……。

 だが、今現在、別にシャンリット伯爵家は困窮していない。
 私が密かに魔法の練習がてら土壌改良したり、街路を補強したおかげか、そこそこ豊かになっている。
 亜人の被害もいつの間にかというか、私がハイペースで亜人どもを実験材料に使ううちに無くなったし、治安も改善している。
 商人が少ないのは、こんな辺境の地だから元々といえば元々だから、あまりダメージになっていないのかも知れない。

 父上も圧力に負けないように独自に領内の商会を支援して、領内の産業の育成や物流の活性化に力を入れている。
 最近漸く、領内に限ってならその商会の商売も軌道に乗ってきたところらしい。
 まあ、それも結婚してから、母上自身のコネと領地経営の知識あっての話であり、父上ひとりだけじゃどうにもならなかっただろう。
 母上との結婚が原因なのだから、母上の力で解決したところでプラマイゼロだが。

 母上のコネは、大貴族の令嬢だけあってかなり広い。
 学生時代の友人とかだけでも、結構将来有望なエリートが多いらしいし。
 友人たちも、まさか母上が辺境の田舎伯爵の元に駆け落ち同然に嫁にいくなんて予想してなかっただろうけど。
 そこで縁が切れてもおかしくは無いが、母上には対軍規模魔法『集光』(極太レーザー)がある。

 例えば母上が「虹が見たいわね~」と言えば、それは即ち「『集光』で薙ぎ払うぞ」という意味である。
 本人にその意図がなくても周囲はそう捉える。
 ……まるっきり恫喝だが、ハルケギニアでは力あるものは正義なのである。

 領内の物流の掌握には、私が〈黒糸〉を張り巡らせる過程で作った、領内の詳細な地図が大いに役に立ったそうだ。別に、私が提供したわけではないのだが、勝手に持ち出されてしまっていた。
 父上や母上は時々、私の研究小屋“グロッタ”に有るものを見ては役に立ちそうなのを見繕っているらしい。
 カメラの件で味を占めたのだろうか。カメラは現在、シャンリット領のちょっとした特産だ。

 まあ本当にバレちゃまずい資料は出入口を隠蔽した地下書庫に封印してるから、いくら資料を漁られてもいいけれど。
 例えばゴブリンのメイジ化研究のレポートや、シャンリット家の血筋に掛かった、アトラク=ナクアの呪わしい祝福についてなどは、地下に封印してある。

 というわけで、まあ、今のところは父上が無理に母方の実家に頭下げる必要もないそうだ。
 そういう訳なら気にしないでおこう。私は研究に専念したいし。
 ……放っておいても大丈夫だよな……?

 まあ、余裕があれば何か手を打っておくべきかな。税収が増えるに越したことはない。
 労働力としてゴブリンが使えるようになったら、工場や農場でも作って働かせてみるか。
 領地や領民が豊かになることに越したことはないのだ。領内の治安維持の意味でも。衣食足りて礼節を知るという奴だ。

 さて、私に残された時間は決して多くない。
 少なくとも10年。長くとも、20年、といった所だろうか。
 魔法の腕前がトライアングルに上がれば、それよりも長い時間、『大変容』を抑えることが出来るだろうが……。

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2010.07.18 初出
2010.09.27 修正
この話が一番修正激しいかも。
自分の血統に宿るものを正確に認識したことで、ウードの狂気は加速します。
最大正気度を90下げる代償に9のPOWを獲得し、メイジとしてのランクも上昇しました。そんなイメージです。



[20306] 蜘蛛の糸の繋がる先は 6.召喚執行中 家畜化進行中
Name: へびさんマン◆29ccac37 ID:4dc27135
Date: 2012/12/30 23:40
 ウードがラインメイジ昇格してから2年。
 ウードが数年前から〈黒糸〉を介して秘密裏に行ってきた領地の土壌改良や街道整備、害獣の駆逐の結果、シャンリット領の税収は増加傾向にある。
 何とかウードとメイリーンを魔法学院に通わせることが出来そうだと、納められた税の帳簿を見ながら、フィリップと爺やは胸をなで下ろしている。

 ウードの妹メイリーンは4歳を過ぎ、フィリップが撮った彼女の写真のアルバムもそろそろ40冊近い数になっている。
 実はウードのアルバムも既に10冊くらいあるそうだ。
 フィリップの使い魔である大蜘蛛、ノワールの腹を枕にして兄妹で眠っている様を収めた写真などは会心の出来だ、とは母エリーゼの評価である。
 その内、写真のコンテストでもやろう、とかフィリップが言い始めるかも知れない。

 ウードはラインメイジに昇格した日を境にますます精力的に動くようになった。

 例えば、シャンリット家の発明として世に出ている〈カメラ〉について、『ライト』を強化したフラッシュを搭載したり、独自の非銀塩系感光剤を開発したり、精神力を供給することで印画紙の作成から写真の固定化までを自動で行う無補給式のポラロイドカメラを開発したりした。
 これらのカメラは、ウードの魔道具作りの師匠が所属する工房から製品化されて世に出され、売上の一部をシャンリット家がパテント料として頂く形を取っている。
 特に水晶の『錬金』を得意とするフィリップが手がけたレンズを搭載したものは、極々少数しか出まわらないため最高級品となっている。元々、フィリップが趣味で始めたレンズづくりの上、社交会でフィリップに親しい者でないと譲り受けることはないのだから当然、価値など付けられないものとなる。

 その他にも公表はしていないが、ウードは自分の為に、書庫や標本庫内の温度・湿度を一定に保つ魔道具を作ったりもした。
 風魔法による空気撹拌、『ディテクトマジック』による温度・湿度の感知、それを元にして火魔法による加熱、水魔法による加湿・吸湿と冷却を行う優れものである。
 この動力源としては風石から抽出する魔力を用いている。

 動力源の風石であるが、地下深くの風石溜りまで〈黒糸〉を伸ばして、採掘せずに魔力のみを抽出する方法を確立している。
 これはウードのここ2年間の一番の成果と言っていいだろう。
 何度か魔力抽出実験に失敗して、地下深くで風石の魔力が開放されて地層が浮力によって断裂し、中規模な地震が起こったが、現在では安定した出力を得ることが可能になっている。

 風石の鉱脈から魔力を抽出する魔道具を地下に『錬金』で生成し、風石鉱脈に植物の根のように張り巡らされた〈黒糸〉から魔力を抽出して地上に送るという仕組みだ。
 風石の魔力の伝達をどうするか懸念だったが、精神力を伝わらせるのと同様に、杖として契約した〈黒糸〉を伝導路として用いることが出来たのは行幸だった。
 〈黒糸〉から周りの岩石に魔力が拡散しないように、周囲を魔力を通しづらい物質で覆って、地中から部屋の空調魔道具まで配線している。
 エネルギー伝達の際の効率や、風属性から他の属性を発動させる際の効率など、改善の余地は大いにある。しかし、風石は腐るほどあるのだ。現段階では多少のロスは問題ない。効率化は将来の課題だ。

 そして、大規模な風石鉱脈を使えるようになったことで、ウードの研究は更に一層の飛躍を見せることになる。

 現状を例えれば、大規模な油田を掘り当て、それを利用する火力発電所や精製施設を造ったような状況だと言えば、そのとんでもなさが想像付くだろうか。
 一個人の枠を越えたエネルギーが利用可能になったのだ。しかも、“魔力”という強力かつ非常に汎用的な形で。







  蜘蛛の糸の繋がる先は 6.召喚執行中 家畜化進行中







「ふむ、ゴブリンの品種改良も随分と進んできたが……、まだ系統魔法の発現に至ったモノは出ないな」

 庭の一角の研究室“グロッタ”の地下室にて、ウードは唸る。
 『ライト』によって照らされる室内は、壁が薄緑色をしている。血の赤に対する補色だ。
 部屋の端に設けられた机には、ゴブリンの血統図が広げられている。

 風石鉱脈の活用によってゴブリンの選別及び品種改良も大きく進んでいる。
 風石の魔力を動力源に魔道具を動かし、それによって『活性』の魔法をゴブリンの集落全体に常時かけ続けることで、成長を早め、誕生~次世代の出産までを大体60日くらいに短縮した結果、品種改良の速度が上がったのだ。
 もともと最初から早熟なゴブリンばかり選んで品種を形成してきたと言うのもあるが。

 『活性』の魔法によって、ゴブリンたちの成熟速度は通常の15倍くらいに加速されている。
 この成長速度に対して食料生産と栄養摂取が間に合わないため、人工飼料として、糖やアミノ酸、脂質を、やはり風石の魔力から『錬金』で作って賄っている状態だ。
 改造ゴブリンの腸内細菌の構成なども、この人工飼料に適応したものに変化しているだろう。胃や腸も退化しているに違いない。

 生まれてくる胎児はかなり未熟な状態で生まれてくる。親ゴブリンの身体が大きくないため、胎児もそこまで大きくなれないのだ。
 生まれたら直ぐに全身に点滴を刺して、栄養を注入させる。また、胃にチューブを突っ込んで流動食も食べさせる。
 『活性』の魔道具を導入した当初は、栄養摂取が成長速度についていかなくて餓死する個体が続出したものだった。

「うーむ。次に掛け合わせる血統はどれが良いだろうか……」

 血統図と最近生まれた世代のゴブリンらのデータを見ながら、ウードは悩む。
 どの個体を残し、どれを切り捨てるのか……。育種の素人であるウードは、手探りでここまで進めてきた。
 ちなみに現在資料を見ている部屋は解剖後の標本を収める部屋である。ここ2年はゴブリンの品種改良による奴隷種族作成を主眼に行っているので、周囲もゴブリンの標本で溢れかえっている。

 ゴブリンがある程度育ってくると、その中から望む形質を持ったもの同士――例えば脳が大きく、発語可能な喉の構造を持っているゴブリンを選んで、それぞれを掛け合わせて長所を兼ね備えた品種を作成する。
 繁殖は自然受精の場合もあるし、〈黒糸〉を使って卵子と精子を取り出して人工授精させる場合もある。
 その他、成長が早いように特化させたグループや、病気に強くなるように特化したグループなど、原種となる集団を幾つも作成する。
 時には血統が濁らないように野生種の血統を戻し交配したりもする。

 ここ半年は2世代ほど前に作った発語・知能特化の原種をベースに品種改良を行っている。
 そのため、どの群れでも全体の知性も上がり、素の状態で言語を理解し、抽象的な概念も理解出来るようになった。
 群れの統率は、ゴブリンに扮したゴーレムに行わせている。もちろん、そのゴーレムの操作はウードが行っている。

 足掛け4年半の品種改良の結果、拙いながらも、ゴブリンたちは言葉を話せるようになっている。
 言葉を話せるようになることは、『魔法を使うゴブリン』を作るにあたって、非常に大事なファクターである。

 品種改良で知性を高める一方で、もともと存在していていた遺伝的多様性の大部分が失われてしまったかも知れない。
 その中には、非常に有用な形質もあったかも知れない……。選ぶこととは、選ばれなかったものを捨てることなのだ。
 しかし、ゴブリンの野生種はハルケギニア中に存在するのだから、有用な形質を取り込むのは、知性が高く成長と繁殖が早い品種を確立させてからでも遅くないだろう。

 一応、これまでに作成してきたゴブリンの品種は没になったものも含めて、卵子と精子を冷凍して保存している。
 品種が確立される頃には、ウードのメイジとしてのランクも上がって、受精卵を遺伝子レベルで任意に改良可能な水魔法を扱えるようになっているだろう。
 ……水魔法で遺伝子改良が可能なのかどうかというのは、前例がないので不明だ。場合によっては新しく遺伝子改造用の魔法が必要になるだろう。

 成長したゴブリンは、一旦、『活性』の魔道具の効果範囲から離して、労働力として扱ったり、実験動物として使ったりしている。

 例えば統率用のゴブリンゴーレムの指導のもと、人語を解するゴブリンたちには杖との契約を試させてみたりなど。
 しかし残念ながら、素の状態では杖の契約が出来るゴブリンはいなかった。
 犬頭の魔物であるコボルトの中に稀にコボルトシャーマンというのがいるように、知性が高くなれば精霊魔法が使えるのかも知れないが、残念なことにそちらの兆候もなさそうである。

「やはり脳改造しか無いか」

 それならば、とウードはかねてから構想していた脳改造によるゴブリンのメイジ化を試みることにした。
 幸いにして、これまでの私自身や父母、家臣団に対してこっそり行った魔法使用時の脳の働きの調査から大まかなヴィジョンは見えている。

「改造に際しては結構な数の失敗作が生じるだろうが、まあ、仕方ない。犠牲はつきものだということにしておこう」

 ウードは予め作っておいた、ヒトの脳とゴブリンの脳の機能領域の対応表を取り出すと、ゴブリンのどの部分をどのように改造するのかプランを練り始めた。





 数ヵ月後、100体に迫ろうかという失敗を経て、漸くゴブリンのメイジ化は成功した。

 〈黒糸〉によって脳の一部に無理やり人間のメイジと同様の回路を作り、それを水魔法によって馴染ませ、徐々に〈黒糸〉からゴブリン自身の脳細胞に置き換える。
 この方法によって、後天的に系統魔法の才能を発現させることができたのだ。
 ゴブリンの脳の中で傷つけてはいけない部位の見極めや、水魔法による脳回路の回復などで失敗を繰り返した。

「知性と言語機能を損なわずに、魔法を身につけさせるのは本当に骨が折れたな。
 だが、まあ、これで第一段階クリアーだ」

 〈黒糸〉と水魔法で脳の一部をメイジの脳と同じように改造したゴブリン達で、杖の契約を試させたところ、契約はうまく行った。
 そのゴブリンらの魔法の実力は、ドットにも満たないくらいであるが、これからウードが行おうとする実験にはこれで充分である。

 その実験は、ウードの中でも非常に関心度が高い実験である。

「『サモン・サーヴァント』と『コントラクト・サーヴァント』の仕組みの解明のための実験……。
 四大系統以外の方法。その先鞭をつける実験の準備が漸く整った」

 このコモンマジックの中でも特異な魔法仕組みを解明し、それらの魔法を他の魔法に応用出来れば、もっと多くのことが出来るようになるだろう。
 もっと多くの事を知ることが出来るようになるだろう。

 さて、これら二つの魔法はセットで扱われているが、実際はかなり異なった魔法である。
 しかも、それぞれが非常に複雑な魔法であり、どのようなメイジでも行使可能だという事実が奇跡だと思える。
 この魔法を形式化したブリミルは、確かに“始祖”と崇められるに相応しい天才だったのだろう。

 まず『サモン・サーヴァント』は、大まかに“探査”と“ゲート作成”の2つのプロセスから成り立っている。

 詳しく言うと、最初に、呪文を唱える術者の適性の分析。
 次に、術者に最適な使い魔をハルケギニア中から探すための、大規模かつ精細で複合的な探査。
 位置情報はおろか、種族・性別・性格まで把握可能という恐ろしい精度の探査術式が組み込まれているはずだ。
 そして探査結果に様々な観点から順位付けを行い、その総合的上位に位置する対象の付近に転移ゲートを作成する。
 これらのプロセスが組み合わさって初めて、『サモン・サーヴァント』は成功するのだ。

「『サモン・サーヴァント』か。
 ……『運命に従いし』とかいう文言があるから、ひょっとしたら本当にアカシックレコード的な何かから『運命』を読んでるのかも知れないが。
 それはそれで興味深い。もしも読み取ることが可能ならば、全知全能にも至るだろう」

 次に『コントラクト・サーヴァント』だが、非常に強力な肉体および精神の改造術式であるのは疑いの余地がない。
 効果としては使い魔となる対象への知性の付与や、主への服従の刷り込み、その他の特殊能力の付与が挙げられる。
 また、『コントラクト・サーヴァント』は術者の体にも影響しているはずだ。
 使い魔との感覚共有というのは、使い魔側と術者側の両方で、相互の送受信体制が整わなければ実現できないのだから。

「『コントラクト・サーヴァント』の性能がどの程度か分からないが、ひょっとすればこの血脈に潜む『蜘蛛化の大変容』という呪いをどうにか出来るかも知れない……」

 『サモン・サーヴァント』や『コントラクト・サーヴァント』を構成するこれらの探査魔法やゲート魔法、精神・肉体改造魔法を自在に使いこなすことが出来れば、この世界についての知識の習得や、各地の探索、それに必要な労働力の獲得などに大きな力を発揮することが出来るだろう。
 呪文の効果も強力であるが、加えてこれらの術式自体も大変興味深いものであるし。

 いままでウードが自分で実験を行わなかったのは、何か危険な生物が出てくるかもしれない、という危惧もあるが、「使い魔は一人に一つ」、「契約解除はどちらかの死をもってのみ」ということで、彼一人だけでは数をこなせなかったせいでもある。
 メイジとしてのランクが上がらないと、上位の幻獣などは召喚されない、という事情もあるのだが。
 なんにしても一生モノなのだから、慎重になってしまったのだ。

「しかし、下手をしたら、『コントラクトサーヴァント』を切っ掛けにして私自身の『大変容』の呪いが一気に進む危険もある……。
 出来れば、自分で召喚を行う際には、トライアングルメイジ以上の実力を身につけて、抵抗力を増してからにすべきだろうな」

 というわけで、ゴブリンたちの一部が『サモン・サーヴァント』と『コントラクト・サーヴァント』を使用出来るようになって初めて実験が出来るようになったのだ。
 ゴブリンたちなら、術式後の影響をいくら調べても文句を言わないし、誰からも文句は言われない。

 ちなみに、ゴブリンの集落は、ウードの操るゴブリンゴーレムを、神託を受ける巫女として頂点に置くという宗教的権威に基づく社会構成となっている。
 もちろん、この場合の神託とは巫女ゴブリンを介したウードの言葉である。
 メイジ化の脳改造も、一種の成人の儀式のようなものとしてゴブリンたちには教育してある。

 そのためメイジ化技術のために犠牲になった……殉教したゴブリンたちには、宗教的な名誉が与えられているし、彼ら自身も喜んで礎になった。
 成人の儀式を行えるのは技術的にも、宗教上の位階的にも、巫女であるゴブリンゴーレムのみである。
 このメイジ化を行うようになってから、さらに巫女としての権威は上昇したため、品種改良中のゴブリンたちは一種の狂信的集団に成っている。
 ゴブリンゴーレムはまさに作り物のような美しさ(ゴブリンの美的感覚で)をしているため、カリスマ性も更にアップである。

 ゴブリンとはいえ、ウードが品種改良を行った集落のゴブリンは、その早熟化の影響かどうか知らないが、本来の醜悪なしわくちゃの顔ではなく、人間の子供のような、割と見れる顔つきになってきている。
 幼形成熟(ネオテニー)という現象だろう。
 つまり、その中で美人に位置する巫女ゴーレムは見た目は褐色の5~6歳の幼児に見えるのである。

 ちなみにゴブリンたちが信仰する宗教の詔は「いあいあ」という感じで、信仰神は奈落の底の更に下に住まうという大蜘蛛神と言う設定だ。
 領地に広がる〈黒糸〉の杖を深淵の谷にかかる蜘蛛の巣に見立てたのだ。

 なぜ、ウードがこの神性を信仰神にあげたのかと言うと、信仰させることで、少しでも深淵の蜘蛛神を慰撫し、シャンリット家の呪いの進行を抑えられないかと藁にも縋る気持ちがあったからだ。
 ウードの先祖の日記によれば、実際にこの土地の地下からはアトラク=ナクアやツァトゥグアのいる場所へ通じる道があるらしいので、信仰対象として不適当ということはあるまい。

「アトラク=ナクア様、か。
 毎日毎日、夢枕に立たれるものだから、私自身も信仰してしまいそうだ。
 実際、このハルケギニアに生まれ変わる前の“蜘蛛の糸のヴィジョン”は、アトラク=ナクアの張った糸に引っかかったのだろうし、な」

 何らかの理由で、次元の狭間の深淵の谷を墜ちていくウードの前世の魂を、蜘蛛神が気まぐれに拾いあげて、眷属の身体に押し込んだということなのだろう。
 そういう点では、ウードはアトラク=ナクアに感謝を捧げている。

「生まれ変わった先の身体が呪われているとかいうのは、二度目の人生という圧倒的な恩恵を前にすれば、些細な事だとも言える。
 実際、今のところは何とかなっているわけだし」

 最近、急に伸びだした四肢を眺めてウードは溜め息をつく。
 何とか呪いの進行は抑えているが、それでも魂自体がアトラク=ナクアの眷属と化している影響を受けて、まるで蜘蛛の様にアンバランスに四肢が伸びているのだ。


 ゴブリンたちの衣装はウードが操る巫女の指導のもと作らせており、メスは生成風のワンピース、オスは同じく生成風の短パンにシャツとしている。
 材料は主に、風石の魔力を動力源に『錬金』で作成した合成高分子である。
 他にも農場で生産中の綿や麻、家畜化の研究中の蚕や蜘蛛などの絹糸も材料として用いている。

 機織りはこの時代の機織り機を使って、ゴブリンたちに行わせている。
 布地や糸にまつわる仕事は、アトラク=ナクアの信徒であるゴブリンの中では宗教儀式的側面もあるため、メイジ化ゴブリン社会内での地位は高い。

 ゴブリンたちには、衣服の生産の他にも、農場・家畜の管理を行わせている。
 知性はまだまだだし魔法を使える者も多くないが、指示されたことは忠実にこなしてくれるので、そのくらいの労働はこなせるのだ。

 ゴブリンの品種改良とともに、作物や家畜の品種改良も行っている。
 こちらも『活性』の魔道具のおかげでかなり効率が上がったものだ。
 最初は手探りでやり方を探していたが、現在では収量の増加や耐病性などの面で従来品種を上回る品種を幾つか生み出すことが出来た。
 将来的にはシャンリットの領地でこれらを生産させて、税収を更にアップさせるつもりだ。

「『サモン・サーヴァント』と『コントラクト・サーヴァント』の実験だが、まあ、しばらくは事例収集と、それぞれの呪文の際の魔力の流れをディテクトマジックで解析する作業になるか。
 どうせ、ドットにも満たない行使者ではそんなに大した使い魔も召喚されないだろうが、万一に備えて、召喚の儀式場は〈黒糸〉で念入りに封鎖しておこう。
 あと、水中の生き物が召喚されたときに備えて水場も要るか」

 これまでメイジ化改造済みのゴブリンに召喚されたのは、ほとんど全てが蟲系の動物であった。
 信仰対象がアトラク=ナクアであることと関係があるのかも知れない。
 一例のみ半獣半植物のバロメッツが召喚されたが、これも実は枝葉に付いていた蟲を召喚した弾みに出てきたのかも知れない。
 その辺りの様々なパラメータとの相関は事例収集してからの分析が待たれる。





 私がゴブリンの召喚の儀式を観察しつつ、呼び出した使い魔の観察記録をつけるようにと、巫女としてゴブリンたちに“神託”を出したりしているうちに、妹、メイリーンの5歳の誕生日が近づいてきている。
 初夏の頃、メイリーンの名前の元となった蔓植物が花を付け始める時期。

 誕生日ということで、父上は杖をプレゼントするらしい。妹も魔法に興味を持ち出したので良い頃合だろう。
 ……そういえば、私が父上にもらった杖はあっという間に鞭に改造してしまったのだったな。悪いことをしたなあ。

 母上は、メイリーンにオパールのネックレスをあげるらしい。
 オパールは輝きを維持するために水が必要という宝石である。水属性の母上らしいプレゼントだ。
 また、水を内部に含む特性上、水の秘薬を染み込ませておく事も出来るため、いざという時の備えになるとか。……覚えておこう。
 プレイ・オブ・カラーの虹の輝きは妹もきっと気に入るだろう。

 さて、リサーチの結果以上のようなことが分かったのだが、私は何をあげるべきだろうか。

 まずは普段のメイリーンの様子を見てみよう。

 普段、メイリーンが何をしているかというと、午前は文字と礼法の勉強をして、昼寝して、午後は趣味の秘薬の勉強をしたり、世話係の侍女とともに庭を駆け回ったりして遊んでいる。
 午後の遊びには、暇なときは私も参加している。実際はメイリーンに『変容』の兆候が現れないかどうかをこっそり診察するという目的もあるのだが。
 内容はおままごと、というかイーヴァルディごっこなんかをしている。

 イーヴァルディ役がメイリーンで、敵役が私、侍女は囚われのヒロイン役で大体固定されている。
 敵役をやるときは、割と本気でドラゴン型のゴーレムを作ったりして相手をしている。
 オークやゴブリンの解剖経験や自分の体内調査の経験、また、趣味の物質研究でいろんな色素を作った経験から、骨格を考慮したリアルな動きをする、肌の色まで本物に見えるようなドラゴンゴーレムを作ってやると、非常に喜ばれた。
 怖がられなかったのはちょっとショックだったので、怖くなかったのか聞いてみたところ、

「にーさまのごーれむなら、ぜったいわたしをきずつけないから、こわくないよっ」

 ということであった。
 可愛いな、こいつめ! と思わず撫で回してしまったのは不可抗力である。

 妹は母上譲りの銀糸のようなサラサラ髪に、父上譲りのブラウンの瞳をしている。
 顔立ちは全体的に母上に似ていて、将来は美人系の顔立ちになりそうだ。

 夜寝る前に読んでもらう本は、『イーヴァルディの勇者』シリーズか、始祖ブリミル関連の逸話が多いらしく、中でも、イーヴァルディが単身で竜に挑む話がお気に入りだとは、母上の弁である。
 昼間のママゴトもその話の再現ごっこである。

 うーむ、ずいぶん勇ましい娘になりつつあるようだ。
 おそらく、〈黒糸〉を妹の体内に這わせて筋力や骨格を若干強化させているのが響いているのだろう。
 ……妹相手に鬼畜なことやってると言うな。
 自分自身に対して実験し、ゴブリンにも何十体、何百体と施術した術式だから危険はないぞ。

 というか、肉体強化は母上からも頼まれたことなのだ。
 小さな子供はちょっとした風邪なんかで死ぬことも多いし、体を強くさせたいのだろう。
 母上からは、アトラク=ナクアの呪いによる『大変容』を抑えるためにも、私自身に施している処置と同じ処置をするようにと、強くお願いされたのだ。

 さて、一応、プレゼント案は二つある。
 一つはドレスで、もう一つは武器にもなる魔道具だ。

 今は男勝りとはいえ、それは周囲の誘導でどうにでもなるだろうし、兄としてはせめて公式の場ではおしとやかに見えるようになって欲しいという思いもある。
 武器は危ないし、これはまだ大きくなってからだな。
 よし、ではドレスを作るとしよう。今の私の技術の粋を凝らしたものを作るとしよう!





 というわけで誕生日会当日。
 食事も一段落し、いよいよプレゼントタイムである。

 先ずは私のプレゼントからである。気に入ってくれるだろうか。

「メイリーン、これは私からだ。改めて、お誕生日おめでとう」
「ありがとう、にーさま! あけていい?」
「ああ、開けてくれ。気に入ってくれると嬉しいのだがね」

 そして、メイリーンは手渡された箱を開けていく。中から現れたのは一着のドレスである。

 フリフリで女の子らしい衣装だ。
 色は鮮やかな青を基調とし、アクセントにモルフォ蝶の模様を、実物と同じように構造色を使って再現している。
 ダンスをすれば構造色による反射が青や虹に煌めき、幾匹もの蝶が乱舞しているような華やかさと神秘性を醸しだすだろう。
 また、要所要所に下品にならない程度に金糸や小さな宝石をあしらっている。

 きっと母上が贈るオパールのネックレスも似合うはずだ。

 メイリーンは目を丸くしていたが、やがて、満面の笑みになると、こちらに駆け寄ってきた。

「にーさま、ありがとう! だいすき!」

 私の腰に抱きつく妹を見ていると、幸せな気分になってくる。
 私や母上が存命な間は、この子が蜘蛛へと変じてしまうことはないだろうが、その後のことを考えると気が重い。
 メイリーンだけではなく、子孫全てに対して呪いを抑えるための何らかの装置を残しておく必要があるだろう。

「メイリーン、父上と母上からプレゼントをもらったら着て見せてくれるかい?」
「はいっ、にーさま!」

 母上が待っているので、そちらに促す。

「メイちゃん、お母さんからはこれよ~。水の精霊様が守ってくださるように願いを込めたネックレス。
 お兄ちゃんのドレスにもきっと似合うわ」

 そう言って、メイリーンの首にネックレスを掛ける。
 なるほど、あれには水の精霊の涙が染み込ませてあるようだ。
 神秘的な光を放っていて美しいし、危急の備えとしても最適だ。

「ありがとう、かあさま! きらきらしててきれいねっ!」
「気に入ってくれて嬉しいわ。メイちゃんは私に似て美人さんだから、きっと似合うわよ~」

 さて、最後に父上の番である。

「メイリーン、私からは杖をプレゼントだ。貴族としての最初の一歩だな」
「ありがとう、とうさま! これからはわたしにもまほうをおしえてくださいねっ」

 父上が贈ったのは、父上が使っているのと同じような木製の杖……ではなく、ユニコーンの角から削り出した高級品だった。
 ずいぶん奮発したなあ、父上。流石、親馬鹿。まあ、メイリーンは可愛いから仕方ない。

 最後に、私が贈ったドレスを着て、ネックレスを付けて杖を構えるメイリーンを中心にして写真撮影をした。
 最近新しく作った、フルカラーバージョンのカメラである。
 シャッターは爺やに頼んだ。

 ドレスに着替えたメイリーンは非常に可憐だった。まさに妖精の如し。
 将来間違いなくシスコンに成っているだろう自分が容易に想像できてしまう。
 ……今もシスコンだろうって? 否定出来ないな。





 メイリーンの誕生会後、メイリーンを寝かしつけるのをフィリップに押し付けて(フィリップは嬉々として引き受けた)、ウードとその母エリーゼはある部屋で膝を詰めていた。

「母上、メイリーンには『大変容』のことを伝えるおつもりですか?」
「伝えないならそれに越したことはないわね」
「それはそうなのですが……」

 『サイレント』も掛けている上に部屋の扉は爺やが見張っており、誰か聞き耳を立てている者が居るわけでも無いのだが、自然とヒソヒソ声になる母子。

「第一、メイリーンに伝えるなら、フィリップにも伝えないといけないでしょう?
 私は嫌よ、あの人が狂ったりするのを見るのは。
 義父様と義母様、義兄様が亡くなった時も取り乱して大変だったんだから」
「ああ、確かにそれは大変そうですね……」

 まあ、肉親が全員残らず皮だけの死体になったというのは、通常の人間にとっては発狂モノである。
 フィリップが息子娘を溺愛するのは、実は肉親を亡くした反動であったりする。

「大変なんてものじゃなかったわよ。
 その時ちょうど、あなたがお腹に居ることが分かったから持ち直したようなものの」
「じゃあ、父上にはずっと秘密にするしかありませんね……。
 でも、メイリーンが嫁いでいって私たちの手の届かないところに行ったらどうするんです?」
「それは……あなたが何とかしなさい。兄でしょう」

 ウードは自分の魔法使用媒介である〈黒糸〉をハルケギニア中に拡張しようとしているので、確かにウードならばメイリーンが何処にいても『大変容』の抑制が出来るだろう。
 ウードとしても妹にはきちんとヒトとしての一生を送ってもらいたいので、そうするつもりである。

「それは、勿論。杖に賭けて」
「頼んだわよ?」
「任されました。
 それでは、『大変容』を起こすくらいにシャンリットの血を色濃く引く分家が無いかどうか調べた結果なのですが……」

 夜の会合は続く。
 ウードは持ち込んだ炭を『錬金』でシート状にすると、その表面の色彩を細かく調整して頭の中に仕舞っていた情報をシート上に転写する。
 即席のディスプレイになったシートに『硬化』を掛けて固めると、髪の毛の幅より薄いシートは一本の皺もない平面となった。
 それにはハルケギニアの地図と家系図、関連する幾つかのデータが示されていた。

「現在の所は、そこまで色濃くシャンリットの血を残す家はありません。
 150年ほど前に“皮だけ残して死ぬ奇病”が出た際には、他の土地でも一斉に同様の病が流行したと記録に残っていました。
 恐らくはその時に、領外の家系は断絶したものと考えられます」
「そう。でも、それだとおかしくないかしら?
 シャンリットの歴史は2000年。何度か“奇病”の流行があったのでしょう? それだと血が途絶えてしまうわ」
「私もそれは考えました。
 これは仮説ですが、恐らくは“奇病”――『大変容』の呪いの進行を止める何らかの儀式が本家には継承されていたのだと思われます。
 実際、シャンリット家の本家に連なる血筋で当時の当主以外に“奇病”の犠牲者が出たのは実は150年前が初めてでした。ついでに言えば、領外で“奇病”が確認されたのも150年前が初めてです。
 そして150年前に生き残ったのは、その当時の本家の血筋……私や父上の直系の赤ん坊が一人だけです」

 ウードが述べた仮説の意味するところは何か。
 エリーゼがウードの言葉を理解するのを待って、ウードは話を続ける。

「これは、あくまで私の考えに過ぎませんが、“奇病”自体が、その呪いを遅らせる儀式によって引き起こされるものではないかと」
「……続けて頂戴」
「はい。考えられるのは“生贄”です。
 自分たちが『変容』する代わりに、村人たちを神に捧げ、呪いを肩代わりさせる。それを“奇病”として公式には記録させたのではないかと思います
 また、100年から200年に一度、何らかの原因で呪いが強まる時期があるのだと思います。
 “奇病”の流行の際に当主が亡くなっているのは、当主の死がトリガーなのか、呪いの強度の目安になっているのか、儀式に必要なのか、それは不明ですが」

 空中に『レビテーション』で浮かべた表に書かれた情報を示しながら、ウードは続ける。
 その中でも150年前の“奇病”の流行を示す点は、シャンリットを中心としてトリステイン各地に大きく広がっている。
 同時に各地で大蜘蛛を見かけたという報告もある。

「そして150年前の、シャンリット家の血筋の“一斉発症”ですが、恐らくは儀式の逆転です。
 故意か事故かは分かりませんが」
「成程、遅らせる儀式を逆転させれば、“呪い”を受け継いでいる者は“呪い”が急激に進行して一斉に変化するというわけね?
 一応の筋は通っているわね……」

 しかし、これは所詮仮説に過ぎない。
 何ら裏付けはないのだ。

「ただ単にこれら全ては、神の気まぐれ、偶然の一致という可能性もあります。
 この仮説では私と父の直系の先祖が150年前に一人生き残った理由が説明出来ていませんし。
 どちらにしても、生贄を必要とするような儀式を使用するつもりはありませんし、既に口伝は失われているので意味はないですが」
「まあ、呪いを抑えることが出来そうだというのが分かっただけでも収穫よ。何とか方法を探しましょう」

 エリーゼのその言葉を皮切りに、データを示していた資料は一瞬で灰も残さず燃え上がり、『サイレント』は解除された。
 母子はめいめいの寝室へと引き上げていった。


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2010.07.18 初出
2010.09.27 修正・追記
2010.09.29 修正・追記

蜘蛛化の呪いは、マレウス・モンストロルム掲載の“アトラック=ナチャの娘”からインスピレーションを得て。
後は感染呪術とか形代とかをイメージ。



[20306] 蜘蛛の糸の繋がる先は 7.肉林と人面樹
Name: へびさんマン◆29ccac37 ID:4dc27135
Date: 2012/12/30 23:41
 ウードがゴブリンたちに『サモン・サーヴァント』、『コントラクト・サーヴァント』を行わせるようになってから2年余り。
 順調にハルケギニア中の小型動物、小型幻獣の図鑑や飼育方法のノウハウが蓄積されてきつつ有る。

 蜘蛛や百足、竃馬、七節、蠍、甲虫、蠅、蝶、蜂、芋虫……呼び出されるのが虫ばっかりなのは、やはり土地柄なのだろうか。
 まあおかげで、養蜂や養蚕の手法確立の目処も立ちそうだし、他にも蛆虫を使った残飯の分解肥料化も可能になりそうだ。

 寄生虫系の使い魔も時々召喚される。これらはまさに一心同体。
 寄生虫系の使い魔は契約後に宿主に寄生することで、宿主の能力を大幅に引き上げるらしい。
 この方向で研究すれば、無敵の肉体を持った戦士を作成することも夢ではない? ……考えておこう。

 強力な幻獣や遠くに生息する幻獣は、ドットにも満たないレベルのゴブリンたちでは、やはり召喚出来ない様だ。
 ゴブリンの品種改良も続けているから、将来的にはもっと強力な使い魔も召喚出来るだろうけれど……。
 ……しかしそれでもきっと巨大な虫の幻獣が呼び出されるんだろう……。ジャイアントスコーピオンとか。

 虫ばかりが呼び出される中で、目を惹くのは、半獣半植物の幻獣である『バロメッツ』や、人の首が鈴生りになる『人面樹』だ。
 本当に極々稀にではあるが、虫以外の生物も召喚される。
 いや、極々稀というか、この二種以外には蟲しか召喚されていないが。

 バロメッツとは、木の実の中から生まれてくる小さな羊である。スキタイの羊とも言う。
 実から生まれた羊は大きくなると普通の羊と変わらなくなるが、そのヘソにはバロメッツの種が入っているという。
 あるいは別の伝承では、殺された羊の血から発生し、へその緒が地面につながっていて一定範囲以上は動けない羊とされており、周囲の草を食べ尽くすと餓死するという。

 ウードの前世の世界では、綿花の見間違いから羊が樹に生るという伝承が生まれたと推測されていたが、ここハルケギニアでは実在したらしい。

 ゴブリンに召喚されたのは、前者のタイプの種から育つバロメッツである。
 召喚されたのは『サモン・サーヴァント』の実験を始めた当初、つまり2年前だ。
 幸運なことに、召喚されたバロメッツは木の実から半分だけ生まれ出た状態であり、さらに実が生っていた枝ごと召喚された。
 それによって母樹の枝の一部を手にいれることが出来た。

 召喚された母樹の一部から挿し木で苗木を育て、最適な育成条件などをゴブリンたちに調査させた。
 現在では森の一部(3アルパン程)がバロメッツ及び、その派生品種で占められている。
 『活性』の魔法サマ様である。これが無ければ、最初の挿し木の時点で、バロメッツを根付かせることはできなかっただろう。

 また生育条件調査と並行させてこれを“ゴブリンのなる木”(名づけるとしたら『バロブリン』か?)に品種改良した。
 とりあえず、実の中で育つ動物を決定している遺伝子部位を特定して、それを羊からゴブリンに組み替えたのだ。
 キメラ作製技術書などを読み漁った甲斐があり、そのような改造が可能になったのだ。

 これで、遺伝子的に均一な(実験動物として最適な)ゴブリンを量産する事が可能になったし、良い形質を発現したゴブリンの個体を直ぐに増やすことが出来るようになった。

 同様にして、鳥や魚も木の実から生まれさせることが出来るようになり、将来的に領地で普及させるための様々な動物・幻獣の品種改良や量産を行う基盤が整備出来た。

 人跡未踏の領地の山中は、大規模なプランテーションに変貌しており、そこかしこに皮袋のような丈夫な薄い膜に包まれた動物の胎児達のシルエットが樹に生っているのが見える。
 まるで肉の林である。茂った枝葉で薄暗い中に、顔や四肢が浮き出た実が生っている悍ましい光景は、心臓の弱いものならば昇天ものである。

 実からかすかに蒸発する胎漿の甘ったるいような匂いのその中を、ゴブリンメイジ達が歩き、土魔法で肥料を施したり、弱った樹や実の中の胎児達の様子を見ては水魔法で調整したりしている。
 死産の状態になった実を除いたり、過密状態で育てているために生じるストレス性の病気が蔓延らないように適切に世話をしたり、害虫を見つけては潰したりしている。
 たまに枝変わりなどで有用な品種が生まれることもあり、世話係のゴブリンメイジはそういった枝変わりを見つける役目もある。

 胎漿の匂いにつられて獣が集まらないように、この一帯の気流は周りに漏れ出ないように魔道具で広範囲で操作されている。
 渦巻くように集められた空気は、ところどころに開いている穴から活性炭を詰めた地下道を通し、脱臭したあとに離れた場所に放出している。
 無理やり下降気流を作っているおかげで、このあたりは雲が出来づらくなっており、ほぼ毎日快晴だ。
 まあ、水は地下から汲み上げたり水魔法で施しているから雨が降らなくてもいいし、陽の光が燦々と降り注ぐから生育にはコチラのほうがいいが。

 キメラ作製技術については、『羊のDNA』という大きな塊を『ゴブリンのDNA』という大きな塊に置き換えるくらいは出来るようになったが、『ゴブリンのDNA』の中で『系統魔法を使う遺伝子』とか『脳を大きくする遺伝子』、『早熟遺伝子』などを個別に特定して弄るにはまだまだ研究と熟練が足りない。
 まあ、実験の被験体兼研究者に使えるゴブリンの量産体制が整ったので、そちらも進展するだろう。

 一方で、『サモン・サーヴァント』と『コントラクト・サーヴァント』の魔法の解析は難航している。
 この魔法、複雑すぎるのだ。
 とてもではないが、ウードのみで解析できるものではない。

 知能強化した品種改良ゴブリン達にも研究をさせているが、まだまだ目処は立たない。
 とりあえず、現在はこれまでに記録したデータを元にして、召喚者と被召喚生物の相関を調べさせているところだ。







  蜘蛛の糸の繋がる先は 7.ゴブリン村の名物は肉林と人面樹らしい







 人面樹は花や実の代わりに人の頭が成ると言う植物である。
 風が吹くと、その頭がケタケタ笑い、やがては萎れて落下していくという。
 その、人の頭は別に意思を持っているわけでもなく、ただ単に人の頭に似ているだけの花だという話だったのだが。

 人面樹が召喚されたのはつい先日のことである。
 召喚用の儀式場に、60ばかりの人の頭を付けた高さ10メイルほどの樹が鎮座している。
 枝に付く葉は疎らで、その高さに比べてアンバランスに太い幹と、その中央に口を開いている大きなウロが特徴的だ。
 まるでそれは樹が大きく口を開けて、入り込んでくるものを今にも咀嚼しようとしているようにも見える。
 何よりも特徴的なのは太い幹の天辺からまるで噴水のように幾本も伸びる枝と、その先に鈴生りになっている人の頭部。

 召喚されて間もないので、今はこの植物をよく観察しているという段階だ。

 植物が召喚されるのはバロメッツ以来だ。
 これは植物かどうかは微妙だろうか?
 ……まあ、人面樹もバロメッツも半分は動物みたいなものだが。

 しかしこの人面樹に咲いているのは、伝承に聞く『人の頭の形をした花』なんかではなくて、『人の頭』そのものだ。
 喋れないという話だったけれど、喋っている。むしろ呻いている。

 生で見たら一瞬で正気を失いかねないレベルだ。

 ほとんどの生首は正気を失って「あ~、う~」と呻くだけだが、幾つかは正気を残していたのが居たので、巫女ゴブリンゴーレムに話をさせる。
 巫女ゴブリンゴーレムの見た目は褐色美幼女だから警戒心も抱かないだろう。

 精悍そうな顔をした老人の生首に話しかけさせる。

「人面樹さん、人面樹さん、私の話は分かりますか?」
「……お嬢ちゃん、わしは人間だよ。人面樹なんかじゃない」

 何だ、どういう事だろう? ……元人間ってことなのだろうか?

「じゃあ、お爺さんは何処の誰さん?」
「わしはアルパ村の村長だったんだ。もうずいぶんと前のことになるがね」
「アルパ村? 前に暇つぶしで読んだ怪談集にそんな村が出てきたような」

 確か……「一夜にして村人全員が首なし死体になった村」という事件のあった村だ。
 「首なし死体」……か、じゃあ首は何処に行ったんだろうか?

「昔の話だよ。わしの村には、『死者と話せる木』という言い伝えがあったのさ。
 まあ、この木のことなのだがね。
 この木の虚に死んだ者を投げ込むと、数日後にその生首が木に成るんだ。
 そして、今、嬢ちゃんと話しているように、話すことが出来るようになる。
 とはいえ、その木は森の中の何処に生えているかも定かじゃないし、長いこと迷信の類だと思われていたのさ」
「でも、迷信じゃなかった?」

 実際にこの木は存在していて、ゴブリンの集落に使い魔として召喚された。
 しかも、恐らく村人全ての生首を鈴生りにした状態で。それはつまり。

「そう、迷信じゃなかった」

 そう言って、村長は滔々と語る。


――あるとき村の樵の妻と娘が死んだんだ。風邪をこじらせてしまってね。
――妻子の死後、その樵はひどく憔悴してしまった。まあ、無理もない。
――ふらりと森に入って、幾日か帰らないこともあった。きっと彼はこの頃から、この人面樹を探していたんだろうね。

――――そして、ある時を境に、また元気に働くようになった。村人は一先ず、彼が調子を取り戻したことを喜んだ。


 その時に樵は既にこの人面樹に妻子を捧げて、頭だけ生き返らせていたんだろう。

「そういうことだ。
 そして、運命の日がやってくる。
 幼い娘の生首は、言ったんだ。
 『寂しい、村のみんなに、会いたい』と」

 そして樵は……

「まずは幼い子供、娘の遊び友達が行方不明になった。
 子供を探しに行った親兄弟も森から帰らなかった。
 森に一番詳しいのは樵だ。森は彼の領域だった。
 村に残った者は老人ばかり。あっという間に斧を持った樵に皆殺しにされた」

 老人の生首は溜息を一つ。

「……その後は察しがつくだろう?」



 樵は首を刈り取り、両手に抱えて人面樹に捧げたのだ。
 そうして、皆、人面樹の花になってしまいました。

「この人面樹は、もともと、木の虚に獲物をおびき寄せて、溶かして食べる植物なのさ。
 普通はネズミや鳥なんかを捕食する。
 捕まえて食べた獲物の一部を生やすことで、更に他の獲物を呼びこむんだ。
 大体は頭を生やす。そして鳴き声を真似て、同種の鳥や小動物を呼び込む」

 なるほど、でも、やけに事の顛末を詳しく知っている。
 その話によると、村長もあっという間に、わけわからないうちに殺されたのだろうから、知らない筈では?
 褐色の幼女がそう尋ねると、村長の生首が答える。

「最後には樵も自殺して、人面樹の虚に身を投げたのさ。そして私と同じように花になった。
 首根っこが繋がっているせいか、花は互いの記憶が読めるらしくてね。
 だから、何があったのか、彼がどんな気持ちだったのか。
 彼の娘は、彼の妻は、そして村人たちはどんな気持ちだったのか、よくわかる。分かってしまう」
「よく正気を保っていられますね、あなたは」
「いや、召喚されるまでは意識は無かったよ。
 これはきっと使い魔のルーンの効果だろう。この木自体が、知性を獲得したせいだと思う。
 皆の記憶が、木の本体に吸い取られて行っているのを感じるよ。
 それで、私の意識への負担が減って、そのおかげで独立した思考を保っていられる。
 でも、それももう終わりだろうね。ほら、記憶を吸われた花はもう用済みに成るみたいだ」

 確かに、花は萎れて次々と落ちている。ぽとり、ぽとりと。
 頭が萎れて落ちるたびに人面樹は活力を取り戻し、青々と葉を茂らせていく。
 花の重みに引かれて撓んでいた枝は、徐々に重力に逆らって逆立ってゆく。

 今目の前の彼も、みるみるうちに頬がコケ、目は落ち窪み、ミイラのような顔になって、そして――ポロリと落ちた。

 断末魔も何もない。それは静かな終わりだった。

 残ったのは青葉を茂らせる人面樹のみ。
 大口のウロを哄笑するように開けている人面樹がその緑髪を逆立てている。

「巫女様、こノ木はドウシマショう?」

 人面樹を召喚したゴブリンが話しかけてくる。
 口語を話せるようになったとはいえ、まだまだ発声器官は未発達なので発音もたどたどしい。

「あなたの使い魔なのですから、大事にして下さい。
 あと、人面樹から知識を引き出す訓練をして下さい」

 〈黒糸〉を介して巫女ゴブリンゴーレムを操りながら、ウードは考える。

(若干、気味が悪いが、これは充分に使える。
 村長や樵がどう思うか知らないが、せいぜい有効活用させてもらおう)

 例えば、寿命で死んだ高官の墓を暴けば、政府の秘密が直ぐに手に入る。
 古くから続く家系の当主の死体が手に入れば、秘伝の魔法も手に入るだろう。
 死体からしか情報を手に入れられないから、情報の鮮度は落ちるが、問題ない。
 鮮度の高い情報は別の方法で手にいれれば良いだけだ。

(これを召喚したゴブリンは、バロメッツに組み込んで量産することに決定だな。
 同じ遺伝子から作ったゴブリンは同じような使い魔を召喚することが、実験から分かっているし。
 恐らく、人面樹を株分けしてやれば、量産型ゴブリンは株分けされた人面樹を召喚するだろう。
 それに元が同じ木なら、『コントラクト・サーヴァント』を行った後で、枝や根を繋げてやれば、蓄積された知識を繋げた樹同士で共有することが出来る公算が高い)

 使い魔にした人面樹による記憶の蓄積、バロメッツとの連携など、様々なプランを考えつつ、ゴブリンに追加の指示を出す。

「ああ、それと」
「なんデシょう、巫女様?」

 人面樹の幹に額を当てているゴブリンに声を掛ける。早速知識の共有を試しているのだろう。

「あなたに家名と役職を与えます。
 そして、バロメッツから生まれることとなるあなたの姉妹も、人面樹を使い魔に出来たならそれに連なることとします」
「ハッ、光栄でス!」

 バロメッツは使い魔ではなくても役に立つが、人面樹は使い魔にしてラインを形成しなくては、蓄積した知識の活用が出来ない。

(人面樹を使い魔とするゴブリンの血統(氏族)に家名を与え、役職を固定させよう。
 人面樹とのリンクを利用出来れば、人面樹に蓄積された知識と経験を活用してさらなる発展をもたらす存在になるはずだ)

 これによって、ウードが自由に使える人員は(その内実はゴブリンではあるものの)大幅に増え、その知識レベルも格段に向上するだろう。

「家名は〈レゴソフィア〉。役職は知識の収蔵と管理です。
 人面樹の特性を生かし、多くの知識を蓄え、後世に残すのです。我らゴブリンの発展と大蜘蛛神様の為に」
「我らゴブリンの発展ト、大蜘蛛神サマノ為に!」

 品種改良を初めて6年近く。ゴブリンたちもかなり知恵がついてきたようだ。
 途中から『活性』の魔道具による成長促進を使えるようになったし、最初から数えると十数世代は品種改良を行っている。

 今は、集落の運営がうまく行っているが、そのうちクーデターでも起こされる危険を、ウードは想定しているのだろうか。
 ウードも、ゴブリンが知恵をつけてきたからクーデターもありうるとは考えている。

(クーデターなど起こそうものなら、逆に巫女を殺した天罰としてゴブリンを殲滅するから問題なし)

 殺すだけなら、〈黒糸〉を操れば直ぐだ。
 巫女自体もゴーレムだから遠方のウード本体が無事ならいくらでも再生可能である。
 ゴブリンたちも殲滅して数が減っても、バロメッツから生まれさせればいくらでも補充可能であることだし。

 巫女がゴーレムだとバレたら求心力が落ちるかも知れないという心配も確かにあった。
 だが、実は巫女がゴーレムだと言うのは既にバレていたりする。
 既に、系統魔法を使えるゴブリンは量産しているから、巫女がゴーレムだというのは彼らが使う『ディテクトマジック』を通じてバレている。

 それでも、問題ない。
 巫女は大蜘蛛神の操り人形と言うことにしてあるからだ。この場合は比喩ではなく文字通りの意味で。
 だから、巫女がゴーレムなのは神の操り人形である以上当然なのだ。

 今のところは、この運営体制で問題は生じていない。
 それに、共同体に有利なことをしている限りは、クーデターなどで排斥されたりしないだろう。
 だがゴブリンたちの数も増えている現状、巫女による統率も限界があるだろうし、ウードの目も手も時間も足りない。
 そのうち、ゴブリンたちの統治機構を、宗教的権威とは別に構成する必要があるだろう。

 とはいえ、ゴブリンの集落には完全に邪神信仰が根付いてしまっている。
 嘘から出た真というか、もはや始まりが何であったかなんて関係の無いレベルまで宗教が確立されているし、ここまでの信仰があれば、実際にアトラク=ナクア復活の一助になるのではなかろうか? とさえ思える。

(かの神性は復活を望むようなものではないが……。
 少しでも『蜘蛛化の大変容』を抑える助けになれば良いのだが)

 ウードはそう思いながら、最近、また一層伸びた自分の手足を見る。
 シルエットの印象が蜘蛛に近づいているようだ。
 そして、前世の知識を元にした統治機構のイメージを形にするべく机に向かう。
 今回召喚した人面樹に記憶を食わせるとすれば、先ずは官僚か商会の長などの組織運営に長けていた人物にしようと思いながら。





 シャンリットの領地ではゴブリンやオークと言った亜人の被害がここ6年ほどで激減している。
 オークはウードが生体実験がてら殲滅したし、ゴブリンは家畜化して管理下に置いているから当然だ。
 ほかの幻獣も地下に黒糸が張り巡らされているのが感覚でわかるのか、あまり寄り付かなくなった。

 あるいは本当に邪神の加護かも知れない。
 しかし、盗賊の被害はここ一ヶ月で急に増えた。

 領内の平民が盗賊化したわけではなく、隣の領などから流れ込んできているのだ。
 シャンリットの領地から逃げて行った幻獣にねぐらを潰された連中などが。
 幻獣の件については非公式ながら周辺の領からシャンリット家に抗議が来ている。

「幻獣がシャンリットから流入して畑が荒らされたとか抗議されても、ウチとしては本当に何もしてないのだからどうしようも無いんだが。
 というかこちらとしても野盗が増えた件で難儀してるというのに。なあ、爺や」
「そのとおりです。自然現象でしょうから、どうしようもないのですが」

 現在、ウードと爺やが執務を執り行っている。
 隣領からの抗議の文は、その中に紛れ込んでいたものだ。

「治安維持隊の予算削ったのは失敗だったかな」
「まさか、幻獣が減った代わりに盗賊が増えるとは思いますまい。
 仕方ないと思いますよ」

 シャンリットの領内は豊かに成ってきているから、領民で盗賊に身をやつす者は殆ど居ない。
 だが、当主が意図せぬうちにいつの間にか豊かになった領地に対して、伯爵家の治安維持隊は増強されたりしてない。

 いや、もともと伯爵家の政策として領地を豊かにしたのだったら、当然、治安維持対策もするだろうけど、そういうわけではないのだ。
 だから、治安維持部隊の拡大が間に合っていない。むしろ、亜人被害が減ってから少し縮小されていた。
 そして、そんな領地はカモにされるだけだった。





 夢見が悪い。
 徐々に私の認識が書き換えられているようにも思える。
 何故、目が覚めて手足が4本しか無い、だなんて思ってしまうのだろう。蜘蛛でもないのだから4本で良いのだ。
 体内の変化も〈黒糸〉で押さえつけるのが難しくなってきているし、そちらに引き摺られているのだろうか。

 ここ数年はこの呪いについての研究が忙しかったからと、政務の方を疎かにしていたのが良くなかったのだろうか。
 『大変容』対策にかまけて、盗賊問題に対する対処が遅れてしまった。

 近くの国境で大規模な会戦があったのが二ヶ月前。
 そこで雇われていた傭兵連中や敗残兵が野盗化したのだ。

 しかも周辺の領主たちは、シャンリットから野生の幻獣が逃げ散ったの時の意趣返しか何か分からないが、盗賊たちをシャンリット家の方に追い込んだのだ。

 何が『途中で幻獣の群れに襲われて取り逃がしてしまった。貴領に於かれましても注意されたし』だ。
 白々しい。幻獣が云々は当て付けか。

 あまりにも侵入する数が多いから周辺領主が結託した私掠団かと思ったが、経緯としては全然そうでは無いらしい。
 純粋に自然発生的なものだとか。
 まあ、シャンリット領の通商や領民にダメージが出ているから結果的には変わらないが。

 最初に被害が出たのは、私が管理していたゴブリンの集落の方だ。
 山の中に畑やらバーナクル(バロメッツの鳥バージョン)やらを作っているから、それが山に逃げ込んだ連中に先ず狙われたようだ。

 ゴブリンは見た目は既にただの子供にしか見えないし、手頃な獲物に見えたんだろうな。
 実験農場の野菜畑や家畜類などに被害が出ていたので、巫女ゴーレムにメイジ化ゴブリンを率いらせて掃討した。

 ドットレベルの魔法も満足に使えないメイジ化ゴブリンだが、こちらは領内に張り巡らされた〈黒糸〉で相手の居場所を正確に把握している。
 闇討ち、待ち伏せ、不意打ち何でもありだ。
 相手にスクエアクラスがいてもこの戦法なら打倒するのに何の問題もない。
 こちらにも少なくない被害が出たが、それはバロメッツから補充可能だから問題なし。

 討ち取った盗賊は、人面樹に捧げて情報奪取。敵に容赦はしない。死んでも利用させてもらおう。
 貴族の敗残兵から幾つか有用な情報が手に入ったので、後で活用させてもらうことにする。
 彼らの屋敷にある先祖伝来のマジックアイテムとか、秘伝の魔法の事とか。

 また、高ランクのメイジはゴブリンに遺伝子を組み込む材料に使うために、生殖器等を切り分けて、系統とランクと殺害日などをラベルして冷凍&固定化しておいた。
 これを使うかどうかは未知数だが、まあ、無駄にはなるまい。
 採取した標本はゴブリン村の地下に作った標本収蔵庫に収めてある。

 ゴブリンの集落を狙う奴らはこうして、人知れず排除されていった。
 ゴブリン集落をスルーしようとしても〈黒糸〉を通じて場所を特定し、野盗だと確認し次第に、ゴブリンに命じて殲滅していった。

 だが、高ランクメイジを含む幾つかの集団の通過を許してしまった。
 なかなか練度の高い一団で、土魔法による障害物や水魔法の霧でこちらの追跡を振り切っていったのだ。
 こうなるとなかなかゴブリンに襲わせて排除させるわけにも行かない。
 あまり人里にゴブリンたちを近づけると、逆にゴブリンが討伐対象にされるかも知れないからだ。

 人里に野盗たちが近付く程に〈黒糸〉による振動感知だけでは領民たちとの区別が難しくなるため、排除のペースが落ちていった。
 ある程度の目星をつけて『遠見』の魔法を併用して目視確認しながらの討伐となるし、私自身の時間も多くを割くことは出来ない。
 まあ、それでも森の中で討ち漏らした幾つかの盗賊団は殲滅できたし、それとなく領軍にも野盗のおおよその位置の情報を流すことも出来た。
 領軍の彼らも頑張ってくれたが、どうしても領民に被害が出てしまった。

 貴族が君臨を許されているのは、こういった時に領民の安全を守るためだ。

 そして私は13歳になろうかというところで、そろそろ初陣を果たしてもおかしくない年だ。
 実は最近弟も生まれたし、万一死んでも跡取りは居る。……妹弟の呪いを押さえなくてはいけないから、死ぬ気はさらさら無いが。
 魔法学園入学も再来年辺りに控えているし、時期的にはベストかも知れない。



 前線に出るのは甚だ遺憾ではあるが、仕方あるまい。
 シャンリットの土地を侵した代償は高く付くのだと、知らしめてやらねばなるまい。くふふ。

 そう、ここはアトラク=ナクアの呪われた祭壇。
 シャンリット家は、そこを司る蜘蛛の祭司。

 くふふ、ふふふ。聖域を侵す不届き者には、相応の報いを。くふふふふふ。

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2010.07.18 初出
2010.09.29 修正



[20306] 蜘蛛の糸の繋がる先は 8.弱肉強食テュラリルラ
Name: へびさんマン◆29ccac37 ID:4dc27135
Date: 2012/12/30 23:42
 喉が渇いて目が覚める。
 『集水』で水を空気中から抽出して口へと運ぶ。
 揺れる鶏卵ほどの水の玉が開けた口から吸い込まれる。

 だが、水を飲んでも渇きはおさまらない。

 ぎしぎしと右肺が軋む。
 咳込むが、何も出てこない。

 漠然と人を殺したいと思った。
 根拠は無いのだが、殺してその血を飲めばこの渇きも癒されるような気がしたのだ。





 領内に侵入した盗賊討伐だが、なんとウード一人で放り出されることになった。家長であるフィリップの決定だ。

 13歳になるかならないかというラインメイジを一人で放り出し、その上、元敵国軍の野盗化した敗残兵の一団を壊滅しろ、と。
 しかも初陣であるのに、だ。

「父上、母上、あなた方はアホですか。アホですよね? アホに決まってる!」

 常の彼には珍しくそのように声を荒らげた。情緒不安定になっているようだ。
 相変わらず夢見が悪いのだろうか、眼も紅く充血しているように見える。
 しかし、そのウードの剣幕を前にして、何事でも無いかのようにフィリップとエリーゼは答える。

「グリフォンは我が子を巣から突き落とすものだ! 頑張れ、ウード、お前なら出来る!」
「あなたなら問題ないと思ったのだけれど」

 フィリップがグッと親指を立てるジェスチャーをする。やたらと爽やかである。ウードが陰気なのに対して、フィリップは陽気な性格のようだ。
 エリーゼは優雅に朝食後のティーカップを傾けている。

「相手にはトライアングルやスクエアも含まれるそうじゃありませんか。
 ラインメイジの私が勝てるはずありません」
「正面からぶつかれば、ね。ならば正面からぶつからなければ良いのよ」

 エリーゼは事も無げに言う。確かに、搦手ならば幾らでも方法はある。
 母に言ってもダメだと分かると、ウードは矛先を父に向ける。
 
「父上、伯爵家の嫡男として、個人の武勇を誇っても仕方ないと思いませんか!?
 戦場では部隊を率いるのだから、まず順番としては部隊を率いての戦いに随行して手際を見て学ぶというステップが必要だと思うのですが」
「それを言ったら、勇将でなければ兵は付いて来ないとも言える。この位で怖気付いていてはいけないぞ。
 大体、俺はお前なら出来ると思って任せているんだ。俺は出来無い事は口にしない。
 最低でも威力偵察、出来れば殲滅、もっと言えば、全員を生かしたまま捕縛できれば最良だな」

 無茶苦茶を言う夫婦であるが、これはウードの実力を知っているからである。
 ウードが〈黒糸〉を束ねた鞭を、魔法の杖として契約していることは家族や家臣にとって既に周知のことである。
 領地に同様のものを張り巡らせているというのは知られては居ないが、手に持った鞭から糸を伸ばして、さらにその伸ばした先でも魔法を使えるというのは知られている。

「とにかく、行って来なさい。まあ、あまり研究室に篭りっぱなしでも良くないだろうし、気分転換も兼ねて、ね」
「……わかりました」

 これ以上逆らっても無駄だと悟ったのか、ウードは肩を落とす。
 そんなウードを残してフィリップとエリーゼは退出しようとする。
 メイリーンも二人に合わせて朝食の席を立つ。

「お兄様、無理はなさらないで下さいね……」
「ありがとう、心配してくれるのはメイリーンだけだよ」

 「きちんと睡眠は摂ってくださいね」と言ってメイリーンが食堂を出て、フィリップもそれに続く。
 フィリップは『レビテーション』でまだ赤子のロベールを浮かべて、一緒に連れて行く。
 フィリップを先に行かせ、エリーゼはウードに囁く。

「……それに、実はヒトを喰らいたくて堪らないのでしょう? 右肺に影が“診える”わ。まあ、戦利品は好きにして良いからストレス発散だと思って行って来なさい」
「……! 母上、何故それを」
「フィリップも最近は時々、そんな風になるのよ。目が紅く輝いて、情緒不安定で。流石にそこまで水の流れが淀んだりはしないけど。
 そういう時は決まって、喰いちぎる程に激しく求めてくるの。
 まあ私なら肉を噛み切られても直ぐに治せるし、そんなのに耐えられるのは他に居ないだろうから浮気の心配をしなくて良くなったのは良いことね」

 まさに獣のようなのよ、と少し艶っぽい様子でウードに囁くエリーゼ。頬に手を当ててうっとりしている。
 夫婦の夜の営みについて仄めかされて渋面を作るウード。自分の親のそういう下世話な話なんて聞きたくもない。

「まあ、あまり溜め過ぎるのは良くないわ。あなたは特に呪いが強いみたいだから、余計に進行するわよ?
 そういえば、コトが済んだ後はフィリップの影も消えてるから、あなたも誰かとそういう関係になったら解消されるかも?
 適当な誰かを宛てがってあげても良いのだけれど。そうだ、初夜権でも使って村から……」
「……ストレス発散だと思って行って来ます!」

 尚も続けようとしたエリーゼの言葉を遮って、ウードはフィリップに続いて部屋を出る。エリーゼは悪戯気にくすくすと笑っている。ウードはからかわれたのだ。

 研究室に寄って必要なものを準備しなくては、とウードは『フライ』で庭の片隅にある自分の研究室“グロッタ”へ向かう。







 蜘蛛の糸の繋がる先は 8.弱肉強食テュラリルラ







 準備を整えたウードは地下の風石の魔力を使って、地面から少し浮いて滑るように移動する。
 馬に乗れないので仕方ない。
 いくら頑張っても乗馬は無理だったのだ。
 何故か馬が嫌悪感を顕にウードを振り払うせいで。

 父フィリップも普通の乗馬は苦手らしいが、バイコーンには乗れるらしい。
 ユニコーンには近寄れもしないらしいが。
 シャンリットの血筋の方の祖父も曽祖父もそうだったらしい。
 アトラク=ナクアは邪神だから、その呪いが関係してるのだろうか。

「まあ、低空『フライ』の方が馬より速いしな。……負け惜しみではないぞ」

 落馬した時の腰の痛みを思い出して、苦虫を噛み潰した顔になるウード。

 『フライ』の魔力は彼の自前のものだけでは足りないので、裾から垂らした〈黒糸〉を通じて、地下の風石から取り出している。
 だから余り高く飛ぶことは出来ない。
 高く飛ぶと魔力供給用に接地してる〈黒糸〉が地上の構造物をスパスパ切ってしまうのだ。
 飛んでいて、気づいたら下を歩いていた村人が真っ二つとかいう事態は避けたい。

 魔力伝導を無線化する研究もしているが、今の所実用化の目処は立っていない。
 空気中に満ちている魔力が邪魔をするのか、上手く行かないのだ。
 水中では電波が拡散するのと同じようなものだろうか?

「巨大蜘蛛型ゴーレムでも作って乗って行ってもいいが、あれだと盗賊に気づかれて無用の警戒を与えそうだしな……」

 何度か休憩を挟んで3時間ばかり空中を疾駆し、盗賊たちが根城にしている廃村まであと少しの所に到着した。事前に場所は把握している。
 ……廃村というが、ここを廃村にしたのは盗賊団である。ウードが〈黒糸〉を通じて以前に測量したときまでは普通の村だったはずだ。
 懐から事前に領民から聴取した盗賊団の陣容についての報告書を取り出す。

「盗賊団、というか敗残兵達は50名ばかり。一個小隊くらいか?
 これまでの被害などから分かってるのは、相手には少なくとも10名はメイジが居て、トライアングル以上が2名以上。
 その内少なくとも1名はスクエア、か」

 隣領とその更に東の都市国家が少し大きめの会戦を行ったのが、およそ2ヶ月前。
 都市国家側の部隊の一つが、トリステイン側に突出しすぎて、そこを都市国家側の本陣から分断され、包囲殲滅されたそうだ。だが、一部はその包囲網を突破して、戦場の側面に突き抜けたのだ。
 トリステイン側の殲滅の網を逃れた、その部隊の中でも腕利きが中心になり、都市国家側やトリステイン側の傭兵団から零れた人員を吸収しつつ、略奪を繰り返してシャンリットまでやって来たという訳だ。

 ちなみに、都市国家の側は敗戦によってトリステイン側に一つの街を切り取られた。
 シャンリットの隣領の不作による戦争であり、都市国家側の街は略奪の憂き目に遭ったことだろう。
 不作はシャンリットの〈黒糸〉を逃れて溢れだした幻獣たちによる被害が原因であるため、間接的にはウードが招いた戦争だとも言えるかも知れない。
 帰るべき領主を失った都市国家側の兵は、そのまま山賊となったのだろう。

 盗賊団の陣営に高位のメイジが多いのはそういう理由である。彼らは激戦を潜り抜けた精兵だ。
 ハッキリ言って、まともにやったらウード一人では捕まえられる筈が無いだろう。

「だが、まあ、正面切って戦う気は毛頭無いから問題無いな」

 準備万端整えて、戦い始めた状態で既に相手詰んでいるというのがウードの理想形だ。
 準備とは言ったものの、ウードがやることはそれほど無い。
 手元の杖から更に〈黒糸〉を伸ばして、何が起こっても対処できるように更に密度を高めていく。それだけだ。

 鞭状の杖から、〈黒糸〉を垂らし地面を這わせて伸ばしていく。
 それはまるで黒い水が音もなく川を作っていくような、あるいは蟻や百足の列がゾワゾワと進軍していくような光景だ。
 標的の廃村を包み込むように、その黒い川は広がり、そして飲み込んだ。これで、あの廃村はウードの手の中も同然だ。

 あとは全員が寝静まる頃を待って、奇襲を仕掛けるのみ。

「さて、ひと眠りしたら夜襲をかけるかね」

 ウードはその場に『錬金』の応用で即席の地下室を作り出すと、その中に入り、入り口を空気穴を残して塞ぐ。
 空気循環用の『ウィンド』の魔道具を作っておくのも忘れない。
 適当に寝具を『錬金』すると、ウードはそれに包まって寝息を立て始める。

――ぎしり。

 眠ったウードの右肺から、何かが擦れるような、軋るような音がした。





 時は過ぎて、夜半、双月が天頂に登る頃。

「はぁ~あっ。眠い~」
「全くだ、少尉は神経質すぎるぜ。こんなとこに誰も来やしねぇっての」

 カンテラを持って村の中を歩くのは、人影が2つ。
 会話の内容からするに、盗賊団の一員で、夜の警備中というところだろう。

「森の中で小人どもに追いかけられたせいだろけど、森を降りてからは全然何も無いしな」
「なあ、夜警はもう良いんじゃないかなって思うんだが、どうよ?」
「じゃあお前が少尉に言えよ」
「いやいや、無理だろ、怖すぎる。スクエアなんて化けモンだよ」

 “少尉”というのは彼らの上官だろう。
 おそらくは盗賊団のリーダーであるスクエアメイジ。
 土の使い手らしく、盗賊行為を行う際は村ごと囲む壁を出したり、大きなゴーレムで荷馬車ごとさらったりしていたという目撃情報がある。


 だが、どれだけ魔法の才能があろうとも、この夜に彼らを襲った襲撃者にとっては関係の無い話であった。

「夜回りが終わったら、また女どものところにでも行くかな~」
「はん、お前も好きだね~。この幼女趣味が!」
「何だと、年増好きめ!……まあ、確かに美人ではあったが。あと15年若けりゃな」
「熟れた身体が良いんじゃねえか。ガキなんかとヤって何が楽しいんだか」

 下世話な話をしながら、盗賊の2人は歩く。

 彼らが賢明なら、空中を漂うか細い糸に気付けただろうか。
 彼らが敏感なら、周囲の草むらや森から何の虫や獣の声もしないことに気づいただろうか。
 彼らが善良なら、もしかしたら襲撃者は見逃してくれただろうか。

 だが彼らは、自分たちが蜘蛛の糸に絡め取られた哀れな獲物であることに気付けなかった。
 耳が痛いほどの静寂が村を包んでいることも、虫や獣の声を打ち消している魔法の存在にも気がつかなかった。
 ましてや敵国のメイジである彼らは平民に対して善良であろうはずも無く、ゆえに今夜の襲撃者はそんな彼らに一片の情けを掛ける理由も持ち合わせてはいなかった。

 2人の夜警が異変に気づいたのは、お互いの会話が『サイレント』の魔法で掻き消された時点だった。
 ――それは致命的に遅すぎたが、早く気付けたところで何が出来たというのか。

 まず、声が掻き消え、次に物陰から何かが顔に飛んできて視界と口を完全に塞ぐ。
 次に四肢が断ち切られ、血も吹き出ないうちに傷口が何かで塞がれた。
 傷口を覆った何かは素早く肉体に適合し、完全に止血する。

 それに遅れて漸く二人の体幹が地面に落ち、蠢く土『アースハンド』によって地面に拘束されていく。
 最後に『眠りの霧』を受けて、夜警の2人は深い深い眠りについた。





 盗賊団のリーダー、“少尉”と呼ばれた男は、夜中でもあるに関わらず、目を覚まして杖を握り締めていた。
 昼間に盗賊団が仮のネグラとしていたこの村を襲った正体不明の怖気。
 占い師でもない少尉には詳しくは分からないが、どうにも致命的な予感がして、こんな時間まで神経を磨り減らしながら起きていたのだ。

 そして果たして、その予感は当たっていた。
 双月が傾き始める頃合、不吉な魔力が村を包んだのを少尉は感じ取った。

 ――来たか!

 少尉はまず『暗視』の魔法を発動させる。
 次に土の『錬金』の呪文を唱え、床下の土や家の壁を意識に上らせる。
 イメージするのは針のような鋭さを持ち、鉄よりも頑強な槍だ。外敵を滅ぼす最強の槍だ。イーヴァルディーの勇者が持つような、竜すら滅ぼす槍だ。
 残りは最後のトリガーワードを呟き、イメージした魔法を現実化するだけ。

 注意深く部屋の外に出る。
 周囲で動くものの気配は無い。
 不自然なほどに、何も無い。

(夜警は既にやられてしまっていると考えた方が良いだろう)

 それどころか、ここまで付き従ってくれた自分の部下たちもやられてしまっているかも知れない。
 外は夜の静けさではなく、『サイレント』による平坦で人工的な静けさが満ちている。
 開放空間である村全体を覆うほどの『サイレント』を使うということは。

(相手は風メイジか)

 『サイレント』の効果は屋敷の中にまで及んでいる。
 自分の足音すらも掻き消される不自然な静けさの中、少尉は部下たちが詰めている部屋へと足を進める。
 相当の手練である風メイジを相手に、一人では心許無い。

 視認さえ出来れば圧倒的な質量で押しつぶせるだろうが、死角から襲われては対処できないだろう。
 暗殺に秀でた風メイジほど恐ろしいものは無い。
 部下の助力が必要だ。

(領主の私軍が来たのだとすれば、一人ではあるまい。
 既に包囲されていると見たほうが良いか? いや、包囲するような大軍ならば昼間から見張りが気づくはず。
 『サイレント』を使っているということは、こちらに気づかせたくないということか)

 相手は少数だと予想する。
 そして本気で殺しに掛かってきているとも。襲撃者はこちらを誰一人逃す気が無いのだ。

(先に相手を見つける。そして速攻で殺す。それ以外に手は無い)

 漸く部下たちが寝ている部屋に辿り着いた。
 強く戸を叩くが、その音すらも『サイレント』の魔法は吸収してしまう。

 戸を開ける。
 しばらく待つが、中から出てくるモノは無かった。
 ……中に潜んでいた者は居なかったが、逆に言えば、部下たちもこの異常時に関わらず起きてはいなかったということ。

 練度不足ということは、彼の部下に限って有り得ない。
 地獄のような撤退戦を生き残り、山中に何故か仕掛けられていたブービートラップの数々を潜り抜け、あまり見かけない小さな亜人たちの仕掛ける『マジックアロー』をかわしてここまで生き残ってきたのだ。
 そんな修羅場を生き延びた部下たちが、こんな時に眠りこけているだなんて、絶対に有り得ないことだった。

 では、何故誰も反応していないのか。
 『暗視』で強化された視力が、部下の眠る部屋を映し出した時に、その理由が明らかになった。


 鉄錆の臭いが鼻を衝く。
 薄暗い中、石造りの床に赤黒い血が広がっている。全てのベッドから血が滴っている。ベッドの下を基点にして染み入るように赤黒く床を変色させている。
 しかし、その量は圧倒的に少なかった。戦場を駆けた少尉は知っている。人が死ぬ時にどれほどの血が流れるのか、知っている。この程度の流血ならば、部下は死んではいないかもしれない。
 赤黒く染まったシーツ。秋口に差し掛かったこの季節、まだまだ夏の寝具を使っている。薄いその毛布から部下の指が覗いている。足の先が覗いている。

 しかし、それが本来着いているべき胴体が、ベッドの上には存在しなかった。
 四肢の膨らみのみを残して、毛布はぺたりと凹んでいる。
 胴体は? 誰がこんな酷い事を。

 胴体はどこだ。
 何故誰も気づかなかった?
 隣でこのような悍ましいことが行われているのに気づかなかったのか?

 馬鹿な。そんな筈は無い。
 胴体は何処だ、おい、一体何処にある。
 まだ今なら『治癒』で手足を繋ぎ直すことが出来るかも知れない。
 探さなくては。
 
 部屋の中のベッドをもう一度見回す。
 全て同じように四肢だけを残して他に何も無い。
 成程、出血が少なかったのはその所為か。
 確かに胴体の血液が出ていなければ、この程度の出血で済むだろう。

 壁に影が見える。
 上着掛けはあんなところにあっただろうか。
 壁の上。

 ベッドの頭の方の壁だ。
 上着と帽子を掛けたような影が見える。
 上着と帽子?
 いや違う、あれは。

 あそこに。
 壁に。
 壁に吊るされているのは。
 胴体だ。

 部下の胴体だ。
 畜生! 何てことを!


 少尉と呼ばれていた男が動揺した瞬間。
 それを狙っていたかのように、床から伸びたか細い糸が彼の四肢に絡みつく。
 その糸は、彼の部下にしたのと同じように、少尉の四肢を断ち切って行く。

(畜生……!)

 杖を握っていた右手も離れていく。
 最後に呟いた「『錬金』……」という言葉は、効果を表さずに霧散する。





 そうして、夜も更ける頃には廃村の中には呻き声一つ上げられない達磨が沢山転がっているという状況だ。
 最初の一人から、全部片付けるのには一時間もかかっていない。

「最後の隊長さんらしき人は、慎重に慎重を重ねて狙った甲斐もあって、大して抵抗も受けずに済んだ。
 自爆覚悟の全方位『ジャベリン』とかも覚悟してたんだが、部下思いの人で助かったな」

 この盗賊たちは適当な台車に乗せて、屋敷までゴーレムで引きずって行くこととなる。
 敵国の人間であり、ウードからしてみれば領民に危害を加えた犯罪者だ。容赦してやる理由が存在しない。
 屋敷まで帰ったら、処刑されて晒し者にされるだろう。

「人んちの庭で好き勝手やるからそうなる」

 バケツリレー的に『アースハンド』を使って盗賊団の胴体(トルソー)を運んで一纏めにする。

――ぎしぎし、がちがち。

 ある廃屋には、村の住人の死体が詰め込まれていた。
 人身売買の商品になるような少年少女や若い女性以外の全ての住人は、殺されていた。

――がちがち、ぎちぎち。

 その女性たちも、まあ、悲惨な状況だ。
 特に、売り物にせずに“使用用”にすると割り切られた女性などは四肢の腱は切られ、その傷が膿んだりして衰弱している。
 それに、盗賊どもの慰み者にされたせいで、精神的にもかなり壊れてしまっている。

――ぎちぎち、みしみし。

 碌に服も纏わぬ女性たち。
 傷が膿んで饐えた臭いがする。
 獣臭。呻き声。意味を成さない呟き、啜り泣きが聞こえる。

――みしみし、きしきし。

 光が広がる。
 淡い水色。『ヒーリング』の光。

 女性たちに感染していた細菌を殺し、傷を癒していく。
 精神の傷までは、ウードでは癒すことは出来ない。
 出来るのは、ただ眠らせるだけ。『スリープクラウド』。

――きしきし、ぎちぎち。

 右肺が軋んで、疼く。
 母上は何と言っていたか。

『戦利品は好きにして良いから』

 そうか。そうだ。
 奴らを使おう。
 別に一人くらい居なくなっても、構うまい。

――ぎちぎち、ぎしぎし。

 ウードは盗賊団の胴体(トルソー)を並べた広場に向かう。
 幽鬼のような足取りで、並べられたトルソーへと近寄る。
 そのトルソーの一体に近づき、蹲る。
 ウードのその手には、いつの間にか、薄く鋭い刃が握られている。

――ぎしぎし、きちきち。

 その手を、自分の首元へと持っていくと。
 首筋から右肩までを一直線に切り裂いた。

――ぎしり。

 その切り口からは、血ではなく、大きな節のある触腕が飛び出した。
 牙だ。大顎だ。毒牙だ。片刃の牙だ。表面は月の光を吸収してつやの無い黒色をしている。
 鋭い針が二の腕ほどもある甲殻の先に付いている。その大顎は、首筋と細い甲殻で繋がっている。関節部は何かの液体が貯められているようで、膨らんでいる。毒袋だろうか。

「ああ、がまんできない。はやく、はやく、はやく」

 鋭い針が先に付いた蜘蛛の大顎が、きちきちと軋む音を奏でながら、犠牲者を求めて物欲しげに振るわれる。
 そして遂には、横たわっているトルソーに牙が突き刺さる。

――どくん、どくん、どくん。

 牙が脈動し、犠牲者のその内側に、毒袋に濃縮されていたナニかを注入する。
 それに従い関節の毒袋が萎んでいく。

――どく、どく、どく。

「あはぁああ……」

 恍惚となるウード。
 横たわる盗賊の胴体に毒が行き渡る。
 大顎に貯められていた毒が全て無くなると、その蜘蛛の大顎は根元から落ちた。
 ウードの目に正気の光が戻ると、自分が何をしたのか認識して、尻餅を付いたまま後ずさる。


 毒を注入された犠牲者は、細かく痙攣している。
 まるで咆哮するように大きく口を開き、背骨を反らせる。

「――――ッ」

 声にならない叫びが上がり、皮膚が蠢き、不規則に盛り上がっていく。
 ウードはその様子を、蒼白になって見ている。

 やがて、皮膚の蠢きは無くなる。
 そして四肢の切断面や目、鼻、口、全てから大小様々の蜘蛛が這い出してくる。
 ぞろぞろ、うぞうぞ、ぐねぐね。

 そうだ、ウードは呪いを移したのだ。
 いよいよ自分の身の内に留めておけなくなった呪いを、凝縮して、蜘蛛の顎の形に整え、毒液にして注入することで、他人を形代にして移したのだ。

 その結果、呪いの毒を注入された男は、その身の内を無数の蜘蛛へと転じさせられて死んだのだ。

「ぐぅっ。こ、れで。まだ、暫くは、時間が稼げるはず」

 皮だけになった盗賊団の男を前に、蒼白な顔のまま息を荒げて蹲るウード。
 その足元を、犠牲になった男から生まれた蜘蛛が、幾匹も這って去っていく。

 ウードは右側の鎖骨、肩甲骨、第一肋骨と右肺を、毒蜘蛛の片大顎に変じさせた為に、大きく消耗している。
 水魔法を駆使すれば補うことが出来るだろうが、今直ぐには無理だ。

「ああ、くそ。呪いを移すのは上手く行ったが、やっぱり形代となる生贄が必要か。
 体内で毒素を凝縮させるだけじゃ、駄目だった。誰かに注入しないと、凝縮させたその周りを蝕むだけだ」

 体内に張り巡らせた〈黒糸〉を介して魔力を流して、身体を変容させようとする呪いの毒素を一箇所に集めることに、ウードは成功していた。
 しかし、毒素はどういう訳か、体内で移動させることは出来ても、外に排出することはできなかった。
 ウードは“毒素”として認識しているが、実際は実体がないモノなのかも知れない。
 先程、盗賊の男に注入されたのも、物理的な実体ではなくて、もっと魂に作用するような霊的なものだったのだろうか。

「この残った皮は標本に加えるかな……。それとも鞣(なめ)して本の装丁にでも使うか」

 傍らのぺちゃんこになった人皮を見て思うのはその程度であった。
 ヒトを殺した感慨なんてものは別に去来しない。
 それは彼がヒトではなくなりつつあるからだろうか。

「ごちそうさまでした。いや、別に食べてはいないけど」

 自分が生き延びる糧にした命に、一頻り祈りを捧げて、ゲホゲホと咳き込むウード。
 この呪い移しを使えば、他の家族が呪いを発症する前に誰かに呪いを移して対処することも出来るだろう。
 生贄が確保できないときは、最悪、自分に移し替えるか、改造ゴブリンを使うなどしても良い。

「あぅあぁ、ぐはぁぁああ。息しづらい。右肺無いし。畜生、どうやって再生させようか。取り敢えずは骨は復元しないと不便でしょうが無い」

 だらりと垂れた右腕を押さえながら、ウードは悪態をつく。
 ふらふらと村の中のとある廃屋に歩を進める。殺された村人の死体が詰め込まれた廃屋だ。

 ウードが廃屋の扉を開けると、わぁあんと死体に集っていた蠅が一斉に飛び立った。
 ウードは顔を顰めて廃屋から離れると、廃屋の中まで伸ばしていた〈黒糸〉で廃屋の中に酸素を大量に『錬金』し、『発火』の魔法で一気に燃焼させる。
 空中を浮遊していた蠅は一息に燃え上がり、爆音とともに廃屋の窓や扉が吹き飛んだ。
 生き物が焼ける臭いがする。

 ウードは適当な死体を『念力』で燃え盛る廃屋から取り出すと、取り出した死体の火を消す。
 『錬金』あるいは『集水』の応用で、気相から液相に変化させた窒素を燃える死体の上から注いだのだ。

 炎を吹き上げる廃屋は、『錬金』で壁の隙間を塞いで空気の循環を無くしてやって、これ以上燃え広がらないようにしておく。

 ウードは足元の死体を見る。液体窒素を掛けられて表面にうっすらと霜が降りている。髪や皮膚は焼け焦げていて、顔は判別できないが、骨格から見るに若い男のようだ。
 周囲の土から何枚か薄いフィルム状のものを『錬金』し、『硬化』を掛けて即席のメスとする。
 それを『念力』で幾つも器用に操り、死体の肩を開き、骨を取り出していく。
 これほど複雑に『念力』を使うことが出来る者は、ハルケギニアには殆ど居ないだろう。数年間の修練と、数々の解剖実験・生体実験の経験の賜である。

「材料は、確保」

 死体から鎖骨、肩甲骨、肋骨を切り出すと、一息つく。
 今度は、自分の体を切り開き、これらの骨を埋めこまなくてはいけないのだ。

 深呼吸。燃えた肉の匂いが鼻腔を満たす。
 深呼吸。右肺が無いせいで上手く呼吸できない。
 深呼吸。水魔法で自分の右肩の神経を麻痺させる。

「よし」

 覚悟を決める。
 これから行う手順を思い浮かべる。
 一気に、痛みを感じないうちにやってしまわなくてはならない。

 取り出した骨と、薄刃のメスを周囲に浮かべる。
 いざ、と努めて無心になって自分の肩に刃を入れる。
 皮を切り、筋肉を分け開いて、本来骨のあるべき場所に、死体から取り出した骨を埋めていく。

 息を止めて、1分ほど。右肩口から背中にかけて切開する。
 まずは肋骨を在るべき位置に。筋肉を『念力』で肋骨の形に押し広げて、挿入する。
 深呼吸、は出来ないので浅く、息を吸う。

 肋骨に腱や筋肉を纏わり着かせる。
 肩甲骨、鎖骨も同様に作業を続ける。
 骨と一緒に蜘蛛の顎に変異してしまって、無くなっている腱や筋肉は、とりあえず後回し。
 応急的に〈黒糸〉を使って骨の位置だけは固定する。ウードの額を汗が流れ落ちる。顔面も蒼白だ。

「ぐううぅっ」

 術式開始後15分。
 失っていた骨は埋め終わり、正しい位置に固定した。
 だが、骨を埋めて、それで終わりではない。正常な骨と同じように血管や神経などを復元させなくてはならない。
 『治癒』を使ったり、体内の別の場所から幹細胞を〈黒糸〉を細かく使って移送したりして、骨の周囲や内部を復元していく。

「取り敢えず、朝までゆっくり、じっくり時間をかけて復元させよう」

 安全な作業場所を確保するために、昼間と同じように、ウードはルーンを唱えて土を操って地下室を作る。
 咳き込み、悪態をつきながらもずぶずぶと彼は地面に沈んでいく。





 あー、朝だ。
 光が眩しい。溶ける。
 昨夜は大変だったな。

 鎖骨と肩甲骨が無いから右腕上がらないし。
 右肺無くて息しづらいし。
 呪いとか人食いの衝動とかは収まったから良かったが。……一時的なものだろうけれど。

 さてこの村はどうしたものか。
 このまま放っておくと亜人が住み着くし……。
 ああ、いや、そうかいっその事、そういうことにすればいいのか。

 この廃村に私の配下のゴブリンを住ませるようにすれば良い。
 今あるスペースでは手狭になっていた所だし、作成した新種の作物を広めるための交易拠点も欲しかった所だ。
 いい加減、ゴブリンたちも表に出しても良い頃合いだろう。

 大体、自分の自由にできるお金が少なすぎる。
 カメラのパテントの一部は頂いてるものの、もっと欲しいのだ。
 そうしないとマジックアイテムや秘薬、水精霊の涙、土石、火石を揃えるのに全然資金が足りない。
 書籍は勝手に写本するからいいんだけど。

 幸い、魔改造したゴブリンたちはかなり見た目が人間に近くなってるから、ゴブリンだとバレることはあるまい。
 ゴブリンたちを子供と偽っての人身売買は今のところ考えていない。ゴブリンの売春とかも、まだ早い。
 ゴブリンたちをトリステイン社会に浸透させる上で必要なら行うつもりではいるが。

 年齢構成が子供ばかりだと怪しまれるから、成人型ゴーレムかガーゴイルも結構な数が必要だろうな。
 商人との交渉の矢面や商会の直接のオーナー名義には、その成人タイプのゴーレムかガーゴイルを使えば良いだろう。

 あと、村に残された女性たちの処置だが……取り敢えずはゴブリンたちに世話をさせよう。
 見た目少女である雌ゴブリンの方が、私なんかより適当だろう。

 村に女性や少年少女が残っていたことは伝わっていないはず。
 悪いが、村の女性らは既に死んでいた事にさせてもらう。
 それに、彼女らを仮に家臣たちに引き渡したところで、お金を払えない彼女らに有効な治療を施してやれる訳でもない。

 平民の損害に対する保証なんて概念はないのである。もちろん予算が無いという事情もあるのだが。
 生きるべき村と家族を失った彼女らは、このままではどちらにしても生きていけない。
 それよりはゴブリンの村の中であっても、生まれ育ったこの村で生きていて貰いたいと、私は思う。

 彼女らはそうは望まないかも知れないけど。所詮は私の自己満足だけれど。

 ……さて、じゃあ早速、ここに一番近いゴブリンの集落から何匹か派遣させるか。
 いや、各集落から、だな。魔法の扱いに長けた奴を派遣させよう。
 各集落の巫女ゴーレムには『新天地を開拓し、人間と交易せよと天啓が降りた』とかなんとか言わせるか。
 人面樹の苗木も持ち寄らせれば、それぞれの集落の木に蓄積させた記憶を統合する良い機会にもなる。

 先ずは荒れた村の立て直しと周辺の開墾、街道などのインフラ整備だな。
 そして同時に人面樹とバロメッツや、新品種の作物を植えて生活基盤を整えさせよう。
 それまでは、ゴブリンの各集落から食料品を運ばせなきゃならないな。

 ゴブリンの集落には道を通す訳には行かないから、輸送は『レビテーション』か『フライ』で空からか?
 あるいは穴を掘って地下から? ……地下道なんてそう簡単に整備できないから、最初は空からだな。
 インフラ整備には各ゴーレムの集落を繋ぐ地下道の整備も含めさせておこう。

 ゴブリンたちが到着するまでは、私が造ったゴーレムに生き残りの女性らの相手をさせることにする。
 ゴーレムのタイプは巫女ゴブリンタイプ。
 女性型の方がトラウマを刺激しないだろうし、ここに到着したゴブリンの統率役も必要だからこその選択である。


 そろそろ遠隔操作するゴーレムが多くなりすぎてるな。
 王都の写本用の奴はほぼルーチンワークのためにガーゴイル化しているから負担はそうでもないが、
 巫女ゴブリンゴーレムは逐次色々判断しなくちゃならないから、直接操作しないといけない。
 最大で同時稼動は3~5体くらいが限界か。

 巫女ゴブリンゴーレムは、20以上のゴブリンの集落に対して、最大同時稼動数が常に3体以下になるように
 タイムスケジュールを調整しながら集落の運営を行わせている。

 また、ゴブリンの集落から寄せられる各種レポート――例えば、新種の作物の開発状況や、召喚魔法の研究、召喚された生物の生態研究、人面樹から読み取った記憶の中で有用な情報についてなどなど――や、王立図書館その他からの写本もそれらと並行して読んでいるし、私本体の礼法や魔法の訓練もあるから、脳のリソース的にかなりイッパイ一杯な状況だ。
 むしろ、パンクしてないのが凄い。ハルケギニア人の脳は化物か。私やシャンリットの血脈だけが特殊なのだろうか。
 まあ、いっぱいいっぱいだったからこそ野盗の領内への侵入を気づくのが遅れて、水際で防げなかったという面もあるのだが。

 さて、あらかた村の中も見て回ったし、後始末はゴーレムに任せて帰るかな。
 ああそうだ、地下に『活性』の魔法を発生させる魔道具を作っていかないとな。
 この魔道具は農業にはもはや欠かせない。忘れるところだった。





 さて、悪党どもを蜘蛛型ゴーレムで引きずって帰還しましたよー。
 父上に報告だなー、と、その前に。

 前後左右上方を確認。
 うむ、メイリーンは居ないな。

 達磨になってる犯罪者なんか、メイリーンの自家製秘薬の格好の実験材料にされるだけだからな。
 情報を聞き出す前に廃人になられちゃ困る。
 それに、達磨の人体なんか普通は目の毒にしかならんからな。普通は。

「おやウード様、お帰りなさいませ。その様子ですと首尾は上々だったようですね」
「ああ、爺や。いい所に。この犯罪者連中さ、メイリーンにはバレないように連れってってくれないか?」
「ああ。そうですね。メイリーン様に見つかるのは不味いですね」
「頼んだぞ」

 妹は家臣たちにも愛されてるのさ。
 メイリーンは可愛いからな。
 ……同時にマッドアルケミストなことも知れ渡ってるが。

 どうしてこうなった。
 私の妹だからか?

 さて、では、早く父上のところに行きますか。
 報告するまでが初陣ですよ、ということで。





 報告自体は恙無く終了した。
 盗賊どもと一緒に、略奪にあっていた物品も回収してきたから証拠は充分。
 自白も秘薬と水魔法を使えばすぐに引き出せるだろう。

 村にいた女性や子供たちの件については誤魔化しておいた。
 村の跡地についてだが、交通の要衝からも外れているので再開発などはせずにそのままにするそうだ。
 つまり、しばらくは好き勝手に出来るということだ。

 実験農場が欲しいから、今回被害に遭った廃村を使って良いか尋ねると少しの逡巡の後に許可を貰えた。
 ゴブリンを住み着かせて残された女性や子供の世話をさせつつ、適当に村が復興してきたら伯爵領に再登録することにしよう。





「お兄様、大丈夫でしたかっ?」
「メイリーン、心配してくれてありがとう。大丈夫だよ」
「そうですよね。お兄様がたかが野盗にどうにかされるはず有りませんものっ!」

 翌日の朝食の席。メイリーンから心配された。

 母上はなんだかニヤニヤした視線を送ってくる。
 私の中にあった呪いの毒の淀みが無くなった事とか、略奪に付き物の強姦の被害者の事とかを合わせて、下衆の勘繰りを巡らせているのだろう。
 そう言えば、母上は父上から、性交を通じて呪いの毒素を移されている可能性もあるのか……。脳がやられちゃいないだろうな。

 まあ、毒を注入したときは、確かにアレの時と同様かそれ以上に気持良かったが……。
 ……癖にならないように気をつけないといけない。本気で。

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2010.07.18 初投稿
2010.09.29 修正 旧題:7.ヒトとは嬉々として同族殺しを行う種である
2010.10.02 修正。 ウード君が邪気眼(邪気肺?)を患ったようです。ところで邪気肺と書くと、邪気姉と見間違えません?



[20306] 蜘蛛の糸の繋がる先は 9.イニシエーション
Name: へびさんマン◆29ccac37 ID:4dc27135
Date: 2012/12/30 23:45
 夢とは潜在意識の顕れであるという。

 或いは、昼間に記憶したものを再整理する間に生じるノイズ。
 或いは、普遍的無意識から浮かび上がる、何がしかの啓示。それは原初の混沌から放射される精神エネルギーを、自我まで届ける道筋。
 或いは、現実と表裏一体の夢の国(ドリームランド)で過ごす、私であり別人でもある誰かの記憶。
 はたまた、前世の記憶。生まれ変わる時の記憶。

 夢の中で、私は絹糸に覆われていた。
 纏わり付くこの糸は、私を捕らえているのだろうか。
 それとも、蚕の繭のように外敵から守ってくれているのだろうか。

 自分が人の姿をしているのかどうかも、定かではない。ドリームランドにて知性ある者はヒトだけではないのだ。
 何も見えない。瞼も閉じているのかどうか分からない。
 何も聞こえない。自分の鼓動さえも聞こえない。この身体に心臓はあるのだろうか。
 何も匂わない。果たしてこの身体に鼻があるのか。

 身体に触れるのは、さらさらした絹の感触のみ。
 あとは痛覚。あるいは痛みの記憶のフラッシュバック。幻痛。でも痛いものは痛い。痛い。痛い。痛い。

 刺された。痛い。切られた。痛い。剥がされた。痛い。轢かれた。痛い。潰された。痛い。焼かれた。痛い。溶かされた痛い凍らされた痛い分かたれた痛い返して痛い砕かれた痛い混ぜられた痛い引き千切られた痛い痛い心細い植え付けられた痛い埋め込まれた痛い返してもらった少し痛くない生えてきた分からない掻き分けられた痛い食われた痛い吸い尽くされた分からない置き換えられた痛くない同化された痛くない育っていく痛くない。

 もう、痛くない。くふふ。痛くない。くふふふふふ。

 痛いって何だっけ。くふふ。
 分からない。くふふふふふ。何にも分からない。

 なら教えてもらおう。くふふ。どうやって?
 傷つけて? そう、傷つけて。切り開いて。腑分けして。そうすれば分かる。
 じゃあ誰を? 私を? 誰かを? 世界を?
 くふふふふ、さあ、分からない。何にも分からない。

 だから知ろう。全部試そう。調べ尽くそう。全部全部全部。





 右肩が疼いて目が覚めた。どうやら、研究室で資料を見ながら眠ってしまっていたらしい。椅子の上で資料を広げた机に突っ伏していたようだ。何か夢を見ていた気がする。
 いつもと変わらず、寝起きには、四肢の感覚に違和感がある。もう2、3本手足が多くても良いような、そんな感じ。アタッチメントでも着けてみればしっくり来るだろうか、何て思いつつ、伸びをする。
 背骨を鳴らして反り返りつつ、周囲を見回すと、薄ぼんやりと光る窓辺が存外に近くにあると気がつく。月光に照らされた蔓植物が窓枠の端に手を掛けているのが見える。そんなに伸ばしても月には届かないよ、なんて思いながら伸び過ぎた蔓を『念力』で壁から引き剥がしておく。蔓はゆっくりと向こう側に倒れていった。

 屋敷の庭の片隅の研究室は“ウードの洞窟(グロッタ)”と屋敷の者からは呼ばれている。この部屋とも、もう十年近くになる付き合いだ。
 確かに一見不気味な標本たちで埋め尽くされたこの研究室からは、洞窟と呼ぶに相応しい神秘的で幻想的なものを感じ取れても不思議ではない。

「イタタタタ。やっぱり、まだ骨が馴染んでないのかな」

 盗賊討伐の際に、体内に溜まりに溜まった蜘蛛化の呪力の毒素を排出した。取った方法は、右の鎖骨から右肺にかけて毒素を凝縮させ、そこを毒牙へと変化させて他の誰かに呪いを打ち込むというもの。
 その際に捕縛した盗賊の一人を生贄にした。“呪い”という性質上、誰かを形代にして移すことしか出来なかったのだ。
 呪いを移された盗賊は、無数の蜘蛛になって死んだ。ヒトを犠牲にしたが、領民を生贄に捧げたであろう先祖たちの所業に比べれば、万倍もマシだ。いや、言い訳に過ぎない。このままでは私は、次は“家族を生贄にするよりマシ”と言いながら領民を容易く手に掛けることだろう。自戒しなくては。

 生贄に捧げた男は、果たして死んだのだろうか。確かに蜘蛛に変化した。しかし、蜘蛛に変化しただけで、彼の魂は死んでいないのかも知れない。
 出来ればあの時に化生した蜘蛛たちは回収しておくべきだった。

 そうすればその蜘蛛が盗賊の男と自我の連続性を保っているか調べられたかも知れない。蜘蛛になっても彼は彼のままの思考を保っていたのかも知れないのに。魂の本質に迫る研究が出来たのかも知れないのに。

 残念だ。

「まあ、あの時は変じた蜘蛛を回収するとかどうとか以前に、自分の身体がピンチだったから仕方ない。
 肋骨やら肩甲骨やらの骨の修復で一杯いっぱいだったから……」

 文字通り骨抜きにされた右肩周辺に、近くの廃屋に詰め込まれていた死体から材料を移送して骨やら肉やらを一晩掛けて再構築したのだ。
 あの後は右肩周辺を中心に熱が出て、屋敷に帰った次の日から暫く寝込んでしまった。家族にも心配をかけた。

 ふと、ケースに入れて壁に掛けられた、何かの甲殻類の脚のようなものを見る。

 それは、艶のない黒い色の、二の腕ほどもある大きな犬歯のような形をした大きな甲殻であった。
 牙の先端には、更に鋭い爪のようなものが付いており、逆の牙の根元側は節になっていて牙本体よりは幾分か細い甲殻が連接している。

 この甲殻は私の身体を食い破って生えてきた、大蜘蛛の毒牙だ。
 これが右の首元から生えてきて、盗賊の男に『蜘蛛化の大変容』の毒を注入したのだ。
 野盗が化生した蜘蛛は持ち帰ることは出来なかったが、こちらの牙は持ち帰ることが出来た。

 この毒牙を研究して分かったのは、これが矢張り私自身の組織が変成して生じたものであるということだ。
 私の首元には、この毒牙が確かに私と連接していた証拠である、甲殻の関節の名残がある。

 DNA的には、この甲殻も、私の蜘蛛化していない部分も同一なのではないだろうか。
 今のところ制限酵素やPCR法などが開発中であるため、正確には把握できないものの、おそらくはDNAは私自身のものと変わりはないのだと思う。
 水魔法による探査の感触は、この毒牙と私とが同一のDNAのようだと伝えて来る。

 蟲とヒトの遺伝子の違いというのは驚くほど少ない。
 では、蟲とヒトとを隔てるものは何か。
 それは端的に言えば、遺伝子の発現順序である。

 どの建物も使う材料は大差無い。
 それでも、この世に出来上がる建物は千差万別だ。
 それと同じように、ヒトも蟲も使われている材料は似たようなものなのだ。
 違うのは、それをどう組み立てるのか。

「蟲もヒトも似たようなもの」

 だから、遺伝子に何かで――例えば水の魔力で影響を与え、その発現順序をあたかも蟲と同じように調整(エミュレート)してやれば、その部分は蟲になるはずなのである。
 材料について言えば、既にヒトである私の遺伝子にも蟲と同じ素材が揃っているのだから、不足はないはずなのだ。
 この額縁に飾ってあるこの蜘蛛の大顎は、そのようにして出来上がったのに違いないのだ。ヒトの材料を使って蟲を組み立てたのだ。
 何か呪的な力によって遺伝子の発現順序が書き換えられたのだろう。

「魔法で遺伝子の発現を上書き出来るのかなあ、DNA自体には影響与えずに……?
 それが可能だとして、じゃあ、その魔法だか呪いだかは何を参照してるんだ? 何か魔法的な核のようなものがあるのか、それともアカシックレコード?」

 未だこの世界には分からないことが溢れている。
 そのことを思うと胸が躍る一方で、焦りも大きくなる。

「私が生きているうちに一体どれほどの事が出来るだろう?
 もっと知りたいのに」

 もっと精密な観測機器が必要だ。
 もっと多くの志を同じくする人手が必要だ。
 もっと時間が、エネルギーが、資金が、権力が必要だ。

 なによりもっと知識が欲しい!
 際限ない知への渇望が、魂を焦がしていく。

「もっともっと知りたい。何もかも。
 もっと、もっともっともっともっともっと……」

 ぎしり、と、無くなった右肺が軋んだ気がした。





 ウードが管轄しているゴブリンたちには『ウード・ド・シャンリットが死んだら、その死体は何があっても蒐集しろ』という命令が下されている。それこそ墓暴きでも何でも、手段は問わない、という風に。
 これで、ウードがヒトのまま死んで、なおかつ、頭部が無事ならば、ウードしかこの世界で持っていない『前世の世界』の知識は、人面樹の中に残るのだ。
 だが、ウードの人格までを含めて、ずっと引き継いでいくことが出来るかどうかは不明である。彼としては、永劫に知識の蒐集を続けたいのだが。


 所変わって、ここはその為の技術の検証施設。ゴブリンたちの暮らすシャンリットの森の奥深くに用意された施設だ。
 その中の『ライト』の魔道具によって真昼のごとく照らされた実験畝に、ゴブリンたちを生み出す樹(バロメッツ)と、記憶を喰らう人面樹が配置されている。
 バロメッツには幾つかの実が生っている。実の中で動く胎児の影が、透けて見える。

 その内の一つが、熟したのだろうか。白衣を着た褐色の肌の子供が駆け寄り、実の付け根から『エア・カッター』で切り取って収穫する。白衣の子供は、素早く実の皮を切開する。実の中からは漿液が溢れ、ヒトの胎児よりさらに小さなゴブリンの胎児が姿を現す。

 生まれた胎児は担架で運ばれ、無菌ケースに入れられると、身体中に栄養注入用のチューブを刺される。
 そして成長を促進させる『活性』の魔法が効いた区画に移され、さらなる成長を促されるのだ。

「……ぅう。ここは? オレは確か、戦場で……」
「ハイ! ミスタ……えーと、何だっけ?」

 先程の実が収穫されて3時間ほど。収穫された胎児は、喋ることが出来る程度には成長した。

 だが、通常は直ぐに喋ることが出来るようにはならない。
 知能が育っていないのだから当然だ。

 にもかかわらず、この赤子は言葉を話している。
 それを覗き込む白衣の少女も、その事に疑問は抱いていないようだ。

『ミスタ・スミス、です。ドクター。私が読み取った記憶によれば』
「ああ、そうだった。ありがとう、ミス・プリマ・レゴソフィア」
『関係ないことはすぐに忘れますね、ドクターは』
「いやいや、面目ない。些細なことはつい忘れちゃうね」
『些細なことが決定的に重要になることもあります。くれぐれもお気をつけを』
「あはは、さすが〈レゴソフィア〉氏族。耳が痛いね。“無目的にかつ無制限に蒐集すべし”だっけ」
『その通りです。我々はどんな些細な記憶であれ蒐集することを家訓にしていますので』

 どこからか“プリマ・レゴソフィア”と呼ばれた女性の声が響く。何かしらの魔道具でこの部屋をモニターしているのだろうか。この声も魔道具か何かで隔たった部屋に届かせているのだろう。
 ドクターというのは目覚めた赤子を覗き込んでいる少女だろう。彼女は年の頃は5歳か6歳ほどに見える。

「ど、くたー?」
「ええ、私はドクター。目覚めの調子は如何? ミスタ・スミス」
「ここは何処だ? オレは、死んだと思ったんだが」

 その赤子の問い掛けにドクターはニコッと笑って答える。

「ええ、ミスタ・スミス、あなたは死んだ。でも、ここは残念ながら天国じゃない。あなたは生き返った、いえ、生まれ変わったの」
「……冗談はよしてくれないか、お嬢ちゃん」
「冗談じゃないんだなあ、これが」

 ドクターはケース越しに赤子――ミスタ・スミスに答える。

「そして、更に残念ながらあなたは悪い魔法使いによって実験材料にされる……いいえ、今、正に実験材料になっているところなんだなあ、これが」
「……は?」
「今は人面樹が死体から取り出した記憶を、人面樹に接木してキメラ化したバロメッツの中の胎児に摺り込む研究をしている。あなたはその栄えある被験者というわけ。おめでとう!」
「え、ああ、ありがとう?」

 赤子はよく分からないという表情を未発達な表情筋で何とか表現している。

「それで今は、移植する記憶について、どこまで削って良いか、とか、何が人格を構成する要素なのか、とか、移植する記憶を調整する方法とかについて研究を行ってる」
「は、はあ」

 そんな赤子を無視して、ドクターは話を続ける。赤子が理解してるかどうかなど関係無い。話したいから話しているだけ、という事のようだ。

「ミスタ・スミス、その被験者であるあなたの記憶は虫食いになっているはずなんだけど、その辺どうよ? 昔の記憶がなくても、それでも“あなた”は自分を“ミスタ・スミス”だと認識できてる?」
「う、え? 記憶?」
「そう、具体的には15歳以前の記憶が無いはずなんだけど」
「……え?」

 赤子のミスタ・スミスは、そう言われて思い出そうとする。

 だが、全く思い出せない。

 混乱する赤子に、何処からとも無く“プリマ・レゴソフィア”の声が掛かる。

『あなたが5歳の時に3歳下の弟が風邪を引いて亡くなったことは覚えているかしら? 6歳の時に村の教会に新しく赴任した若いシスターに初恋を抱いたことは? あなたが12歳の時にあなたの父親と母親は流行病で亡くなって、あなたも半死半生になったのだけど記憶に残っているかしら? 14歳の時に村を飛び出して傭兵になったのだけれど、その時に“大金持ちになって帰ってきてやる”と決意したことは? 15歳になったばかりの頃に初めてヒトを殺したことは覚えている? 戦勝祝いの端金で娼婦を抱いたことは忘れてしまっている?』

 分からない、分からない、分からない。
 何処からか聞こえてくる少女の声が語る内容には覚えがない。
 合っているのか、間違っているのか、それも分からない。
 何が欠けているのかすらも、思い出せない。
 父の顔は? 母の顔は? オレの兄弟は? 出身の村は何処だった?

「まあ、尋問はこの辺にしておこうか。それで重要なことなんだが、私たちは記憶を読む魔法が使えないんだ。だから、あなたが忘れているか覚えているかというのは現状じゃあ確かめようが無い。でも、死体からは記憶を蒐集することが出来る。そこで君には生まれてすぐで申し訳ないんだけど、また死んで人面樹の糧になってもらわなければならない」
「…………」
「ありゃ、聞こえてないかな? まあ良いか。じゃあおやすみ、ミスタ・スミス」

 ドクターはケースに『眠りの霧』を注入し、眠った赤子ごとケースを運ぶ。
 そして先程の実験畝のある区画に移動すると、その赤子を収穫したバロメッツの隣の人面樹の前に立つ。
 人面樹の枝は水平に幾つか伸びていて、周囲を取り囲むように植わっているバロメッツの幹へと融合している。
 人面樹の傍らには、ワインレッドの長髪の幼子が寄り添うように立っている。

「じゃあ、あとはよろしくねー。ミス・プリマ・レゴソフィア」
「はい、ご苦労様です。ドクター」

 ミスタ・スミスと呼ばれた赤子は、ケースから出され、“プリマ・レゴソフィア”と呼ばれた紅い長髪の幼児に足を持たれて無造作に逆さ吊りにされる。
 そして、そのまま人面樹の幹に空いた大きな虚(うろ)に放り込まれた。
 虚から投げ入れられた餌に反応して、触手のような蔦が内部の壁から伸びて赤子を絡めとり、その口や目や耳から内部へと押し入って根を張っていく。
 人面樹の幹に刻まれた使い魔のルーンが輝き、虚の中の赤子からその記憶や人格を根こそぎ吸収し、その身体も消化する。

「次の被験者はどういう条件だっけ?」
「次も“ミスタ・スミス”です。詳しく言うと、今度は15歳までの記憶しかない筈の“ミスタ・スミス”です」
「ん、了解了解。じゃあ、死産とか奇形にならないようにきちんとバロメッツを見張っとくよ。アトラク=ナクア様の御加護を、ミス」
「よろしくお願いします。あなたにもアトラク=ナクア様の御加護を、ドクター」





 人面樹を使い魔にするゴブリンの氏族は、別に生まれつき記憶を植え付けなくとも、人面樹経由で知識や経験を継承できる。
 しかし、その氏族だけで集落を形成するとゴブリンたちに多様性が生まれなくなってしまう。
 同じ種類の使い魔を安定して召喚するには、かなりシビアな遺伝的条件をクリアしなくてはならないのだ。

 人面樹を召喚出来るゴブリンは総じて体力がなく、筋肉も付きづらいという特徴がある。
 だが、それらの欠点を遺伝的に克服させると今度は人面樹を召喚できなくなってしまう。
 ジレンマだ。

 力が強い氏族とか、魔法が得意な氏族とか、他にも様々に特化した氏族を作成しようとしており、現在は原種のレパートリーも増えていっている。
 そして知識の継承は非常に魅力的であり、人面樹の〈レゴソフィア〉氏族だけに限るのは惜しいというのも事実だ。
 それゆえの人面樹とバロメッツのキメラの研究である。

 継承するのは知識や経験のみではない。
 信仰心や忠誠心といった強い情動を先天的に植えつけることも簡単になるはずだ。

 人面樹に吸わせたのは人間だけではない。
 集落のゴブリンは基本的に死んだ後には人面樹の糧となり、その知識と経験を一族のために還元しているのだ。
 その知識と経験を蓄積するのと同時に、人面樹は数万のゴブリンの感情(例えば知的好奇心や蜘蛛神への信仰)をも吸って蓄積しているのだから、それを植えつけるのも容易いはず。

 実際、研究を初めて1年くらい経っているが、人面樹とバロメッツのキメラは一応形になっている。
 現在は実用化のための実験を進めている段階だ。





 話は変わって、ゴブリンのメイジ化技術であるが、漸く最大でライン程度ランクまでの改造が可能になった。
 しかも、遺伝的な改造も継続して施しているため、脳改造を施さなくてもコモンマジック程度は使えるようになった。
 この進歩は盗賊の中に居た高ランクメイジの遺伝子や脳構造を直接研究出来たのが大きい。
 それに味をしめて、ゴブリンたちは近隣で戦争が起こる度に死体の首を漁りに行っている。

 メイジが戦死することなんか早々無いが、それでもいくらか収穫はある。
 死体の他にも未使用の水の秘薬や、マジックアイテムなんかも運が良ければ回収出来る。
 戦場で息絶えた高位の幻獣の死骸からサンプルも手に入り、それらの幻獣を調教するために必要な知識も幻獣乗りのメイジの死体から手に入れられた。

 ゴブリンメイジの魔法ランクと知能が上がったことで、任せられる作業も増え、研究の進展も早くなっている。
 現在はウード自身が行っている研究は少なくなり、専ら現場で研究を行っているゴブリンから寄せられる報告書を読んで、指示を行う日々を送っている。







 蜘蛛の糸の繋がる先は 9.入会儀礼(イニシエーション)は共同体の絆を深めるのに有効
 






 『サモン・サーヴァント』の研究だが、未だに探査術式やゲート術式のみを抽出することは出来ていない。
 その代わり、術者と被召喚生物の関連について大まかにだが判明している。
 現在は、その関係性を利用して、被召喚生物を使い潰す形で、ゲート輸送を実用化しようと奮闘中だ(ゴブリンたちが)。

 例えば、ネズミを召喚したメイジが居たとする。
 そのネズミ(オリジナル)のクローンをバロメッツで作り、クローンを離れた場所に持っていく。
 オリジナルのネズミを殺して、再び召喚の呪文を唱えれば、ほぼ100%の確率でクローンネズミの前にゲートが開く。
 あとはそのゲートに輸送したい物を突っ込めばOKだ。

 高等な動物だとクローンとオリジナルで記憶などが違う所為か、完全に100%ゲートがクローンの前に開くというわけには行かないようだ。
 かと言って単純すぎる生き物だと個体間の違いが少なすぎてクローン以外の個体の前にゲートが開いたりしてしまう。
 あとは術者の体調によっても召喚ゲートの開く先が異なる。
 術者の体調や、召喚される側の記憶とか、そんな些細な違いを読み取れる『サモン・サーヴァント』の探査術式というのも凄まじいものである。

 研究の結果、被召喚生物として最適だと判断されたのは巨大なカブトムシの幼虫のような幻獣――ジャイアント・ラーヴァだ。要するに巨大な蛆虫である。
 動きが鈍いため誤ってゲートに飛び込む危険も少ないし、現れるゲートの大きさも手頃な感じで非常にグッド。
 ジャイアント・ラーヴァがこの輸送システムの犠牲者として選ばれたのは、もともとゴブリンの集落で流通していた小型コンテナのサイズに近かったからという理由もある。

 ジャイアント・ラーヴァは個体間の遺伝的多様性は大きいようだが、精神性はあんまり発達していないようで記憶の違いを考える必要はないという要因もある。
 脱皮の月齢を間違えなければ狙ったとおりの幼虫の前に召喚ゲートを開くことができる。
 バロメッツによってジャイアント・ラーヴァのクローンを簡単に作ることができるので、物資の輸送に関しては前述の方法で召喚ゲートを通じて一瞬で離れた2地点を結ぶことが出来るようになった。

 ゲートを閉じたいときは呼び出される側のジャイアント・ラーヴァを殺処分すればいい。
 次の日には別の若い月齢のクローン幼虫が脱皮しているので、再びゴブリンが『サモン・サーヴァント』の呪文を唱えれば前日と同じ場所にゲートを作成出来る。

 まだ召喚ゲートを用いた輸送では、荷物の輸送は行っているが、生物の輸送は殆ど行っていない。
 せいぜい実験レベルで行っているくらいだ。
 それは召喚ゲートの通過でどんな影響があるのか不明だからだ。
 少なくとも、ゲートを通った生物を朦朧化させる効果は確認されているし、他にも何らかの洗脳効果はあると思われる。

 ゴブリン達は宗教を絡めた道徳教育を基幹にして、信仰によって社会秩序を構築している。
 だが指導者である巫女ゴブリンはウードが同時制御出来る数に限りがあるため、今後ゴブリンの生息圏を広げるなら巫女ゴブリン無しでもきちんと社会秩序を維持できるようにしなければならない。
 そのために巫女ゴーレムなしでも社会運営出来るように、三権分立など、ウードの前世の社会制度とハルケギニアの社会制度を参考に整えてきている所である。

 とはいえ、やがては全ゴブリンに対して知識の継承を行い、基礎知識としての道徳心や常識をプリセット出来るようになるので、現在の宗教中心の社会制度はそれが実現できるまでの繋ぎという位置付けになるだろう。
 人面樹とバロメッツのキメラ化によって知識や経験が継承されるようになれば、非常に大きなパラダイムシフトが起こるだろうし、それにともなってゴブリンの精神性や社会形態も変容するはずだ。

 ここ一年は行政・立法・司法のそれぞれの機関の整備、憲法となるべき基本方針の設定、その他の細々としたことを行ってきた。
 今では改造ゴブリンたちの集落の運営については、殆どウードの手を離れてしまっている。
 実際の運用面では、ゴブリンたちの方が人面樹に吸わせた知識と経験を利用できる分、ウードよりも上手(うわて)なのだ。
 あとは、他の地域に拡大浸透していく際に実地で微調整すればいいだろう。





 ゴブリンたちの憲法について。
   ――ウードの研究室に保管されているメモからの抜粋。

『3つの基本理念を置き、それとアトラク=ナクアの蜘蛛神教の戒律を合わせて統制を行う。
 基本理念は以下の3つ。“真理探究”、“全体最適”、“日進月歩”。

 “真理探究”とは、無論、私の知識欲を満たすための各種の研究を行わせるために掲げた目標である。
 ゴブリンたちを改造したのは元々こういったことに使う手足を確保するためだったのだから、当然だ。
 ここに基本的人権の概念は考慮しない。人体実験が真理の探究に必要なら、それを妨げない。

 人面樹があるのでゴブリンたちは死を恐れない。
 それは死んでも人面樹の形作る広大なネットワークに溶けて祖霊と一体化することが分かっているため。
 死を恐れないから生きていることに対して余り執着を覚えず、人体実験や優生学に対する忌避感もとても薄い。
 その分、人面樹に知識を継承されないような死に方……焼死などの頭部が著しく損傷する死に方は忌み嫌われているようだ。

 さらに近年は前世の記憶持ちとも、黄泉がえりとも言えるゴブリン達も増えている。
 実体験として死後の世界を経験したものがいるので、死への不安は非常に小さくなっている。
 ……死を経験したことで狂気に侵され、その辺りを気にする感性などなどが摩滅しているだけかも知れない。


 “全体最適”というのは種の利益を常に考えると言うこと。
 個人の利益ではなくて、常に広い視野を持って全体の利益を目指すということ。
 その為には自己犠牲も厭わない精神。寛容さ、道徳心などなど。
 “Un pour tous, Tous pour un(一人は皆の為に、皆は一人の為に)”の精神。
 “真理探究”と種の繁栄のために最適化を行い続けるという精神。


 “日進月歩”というのは社会の停滞を防ぎ、技術的・思想的に常に新しいものを目指すということ。
 より早く、より簡単に、より安く、より楽にを心がけて、相互扶助でゴブリン全体を繁栄させるためのスローガンとしてこの理念を置く。
 上記二つに反しない限りは優先される。
 まあ、もとからゴブリンたちは好奇心旺盛になるように交配を重ねられているからわざわざ掲げなくても勝手に色々と新しいことを開発していくだろう。

 ~(中略)~

 うまくこれらの制度を回すためには、後数年は現在のシャンリットの領地内の集落で経験を積まないといけないだろう。人面樹に蓄積されたトリステインの官僚の記憶なども上手く使う必要がある。
 私にはあまり時間は残されていないので、全世界の動植物などを調べ尽くすためには、社会制度の構築と同時並行でゴブリンの本格的な拡大政策を実施する必要がある。

 ~(中略。次第にゴブリンの憲法とはかけ離れた話題になっていく)~

 改造ゴブリンの生息域拡大について

 進出先
  ガリア(リュティス)、サハラ、その他ハルケギニア諸国の首都(アルビオンは空中大陸で〈黒糸〉の範囲外なので除く)
  地図の未開部分、東方、海洋、未知の空中大陸(存在不確定)

 進出の目的
  地質調査、地図作成、先住種族の捜索・交流(特にアラクネー!)、図書の蒐集、動植物の蒐集、ヒト(或いはエルフ)の死体からの知識及び経験の蒐集など←←墓暴き? 拉致?

 進出方法
  風船でバロメッツの種を飛ばす、フネで空挺部隊を運ぶ、〈黒糸〉伸展(風石の魔力を用いた自己組織化で幾何級数的に伸ばせないか)、空中型ガーゴイルの利用、いっそICBM、月まで届けごぶりんろけっと

 ~(中略。段々と文字が乱れていく)~

 んぐああ、いあ、あとらっくなちゃ、ふんくすふ、びひい・いた、いいぐうるうるぅ、いいぐるぁああ、いあ、あとらっくなちゃ、ん・かい・い、ほおる・うふる、てぃぎい・いり・り、いいぐるぅ、くぶとぅか、ふんじいすく、あとらっくなちゃ、いあああ、いあああ、じい・いふうる、とぅぐじいふす、ふんじいすく、ふんくすふ、るくとぅうす、ん・かい・い、いあいあ、あとらっくなちゃ

 ~(後略。以下延々と雑多な走り書きとも象形文字とも分からない線の集まりが続く。最後は用紙の左上に向かって一直線に線が端まで伸びており、用紙中程にヨダレか何かで濡れた跡がある)~』





 地平の彼方に峻険な山脈が見える。
 その山裾から、豊かな森林が一面に広がっている。
 その森の中を貫く土色が一本。街道なのだろう。

 その街道をノシノシと歩く巨大な蜘蛛が見える。全高は周囲の木々の梢と同じくらい。5メイルはあるだろうか。
 ユウレイグモのようなシルエットをしたその巨大蜘蛛は、細長い脚をゆらゆらと運びながら、その長大な脚に見合った歩幅で、街道を馬の走りと同じくらいのスピードで進んでいく。
 蜘蛛の背の甲は何故か透明になっており、その中にあるリクライニングシートに座っている人影が見える。

「眠い。眠い、眠い、眠い。延々と森だ。単調な景色で眠くなるな。
 ガーゴイル化技術を応用して自動操縦に出来ないだろうか。地図を登録して、目的地に向かう感じで」

 中に座っているのはウード・ド・シャンリット、14歳である。
 その目元には深い隈が刻まれている。

「んー、結構森の木の実が食われているみたいだな。蛙苺なんかが全然見当たらない。オークやゴブリンが居なくなったから森の動物が増えてるのかな。領民には狩猟や開墾を推奨してるが、亜人が居なくなって出来たニッチを早々埋められはしないか」

 オークを絶滅させたのは早計だったかなー、などと呟きながらウードは蜘蛛型ゴーレムを進めさせる。
 すると下草の生えた森から、手入れの行き届いた果樹園へと風景が一変する。
 だが、この果樹園、ただの果樹園ではない。仔羊や仔牛、家鴨などがその実の中から現れるという、バロメッツの食肉生産用品種が植えられているのだ。
 微かに漿液の甘ったるい匂いが広がり、分厚い革のような果皮の下では時々胎児達が動いているのが見える。

「んー、バロメッツの栽培も順調そう。新しい品種が出来たら、それを一気に量産できるのは強みだな。特にこの間の仔牛の頬肉の煮込みなんか、もう柔らかくって甘くって濃厚で、最高だったなあ」

 シャンリット伯爵家に納められた物品の中に、この果樹園で採れた仔牛があったのだ。
 ちなみに未だに税を金納ではなく物納にしている地域もある。例えば他にも、新しい小麦の品種なども税の形として認めている。
 とはいえ、各村落の貨幣経済への組み込みは労働力の流動化上必要な課題であるので、やがては金納に一本化されるだろう。

 ウードが回想しているのは、仔牛の頬肉を赤ワインとハシバミ草などの香味野菜でじっくり煮込んだ料理である。それに濃厚なソースを掛けて頂くのだ。
 ウードの弟ロベールの誕生会で饗された料理で、家族の誰にも絶賛された。
 まだ幼いロベールでも食べられるように、ほとんど噛まずに飲み込めるくらいに柔らかく煮込まれた頬肉は、シェフ特製の赤ワインベースのソース(炒めた小麦粉と各種野菜の出汁、鶏や仔牛の肉汁を濃縮したものだとか)をかけた絶品である。

 蜘蛛ゴーレムがバロメッツの肉林の中を進んでいく。
 木々の間に生成り色の服を着た子供くらいの人影がちらほら見える。
 よく見ると杖を振って果樹の世話をしたり、収穫したりしているようだ。

「おー、やってるやってる。改造ゴブリンたちもこの村に馴染んできてる、のかな? 報告書では『交流は順調』としか書いてなかったけど。もっと村の人達と交流してるところを見てみないと判断できないな」

 実は今、ウードが向かっている村は、二年弱前に盗賊団によって廃村にされた村である。
 その村はウードが実験農場にすると言う名目で、父フィリップから借り受けたものだ。
 シャンリット領のあちこちに分散している改造ゴブリンの集落から、選りすぐった精鋭を集めて村の復興を行い、シャンリット領の発展に使えそうな技術を普及させる拠点にしようと現在開発中の村である。

 やがてバロメッツの林は途切れ、パレットに置かれた絵の具のように綺麗に色彩が分けられた一面の花畑と、その向こうの灰色の6階建てから10階建てほどの墓石のような建造物群、更に向こうに堀と城壁に囲まれた要塞のようなものが目に飛び込んでくる。
 村の中心に立つ要塞はシャンリット家の別邸である。……ということになっているが、ウードたちシャンリット家の面々は一度も訪れたことがない。村の雇用創設のためだけに作られたような館である。
 バロメッツの林は墓場より不気味だということで、村の生き残りの女性達は作業をしたがらなかった。その為彼女たちの労働の場として、別に職場を作る必要があったのだ。

 今現在は館の維持のためのメイドとして多くの村人が働いている。庭師とか料理人として働く少年たちの姿もちらほら。
 村は働き盛りの年代が全滅しているので、かなり人口構成が偏っている。
 館のメイドの他にも、蚕などの絹糸が取れる動物を利用した織物作りや、村の清掃などを生き残りの村人たちには行ってもらっている。
 その他、魔道具に使う部品作りや、簡単な電気部品作りの為の工場を建設中であり、将来的には更に職業選択の幅を広げたいと、ウードは思っている。

「まあ、今現在は建物ばっかり先に建ててしまって、人手は全く足りてないんだが。足りない人手はゴブリンで補填中な訳で。実際、各ゴブリン集落とは地下に鉄道引いて繋げてるし、そこから労働力や物資を移しているが、その内、シャンリット内の他の人間の村からも出稼ぎとか移民を募らないとな」

 村の復興初期に物資を運ぶために各ゴブリンの集落と地下鉄で繋げてある。
 そういった経緯からこの村が地下鉄(ゴブリンのみ利用可能)のハブになって居る。
 地下道や村の建物、城砦の建築にはゴブリンメイジが総出で関わっており、『錬金』、『浮遊』、『硬化』、『固定化』を使って建築した。
 地下道なんかは巨大オケラの使い魔が活躍した。ぷよぷよぷにぷにの腹と頑丈な前脚が魅力的な奴だ。

「この村には将来的にはシャンリット領の稼ぎ頭になって貰わないといけないから、最低でも数万人くらいは収容できるようにしときたい。
 けど、都市計画の立て方なんて知らないからなあ。街路を整備して、分かりやすい番地をつけるとか、商業区と工業区と農業区と居住区を分けるとか位しか思いつかない。
 まあ、現状はこれまで通り、試行錯誤でやるしか無いか」

 ウードが今回村を訪れたのは、この村を中心としたゴブリンの商会を立ち上げようという計画の進捗確認の視察のためである。
 ゴブリンたちだけではどうしても入手できない品物(火石や土石、水精霊の涙、古い魔道具など)もあるので、商会設立によってそれらを既存のハルケギニア経済圏から入手する窓口とする、という目的もある。
 表向きは『シャンリット領の流通改善、産業育成、雇用創出に民間と領主とが協力して当たるための新しい形の事業主体の設立』という長ったらしくよく分からないが、如何にも説得力がありそうな題目を掲げている。

「先ずはそれっぽい目的を設定することが大切なのだ。
 私企業なのに利益獲得を明言しない辺り胡散臭さが漂っているが……、第三セクターみたいなもんだと説明すれば父上の了解も何とか……」

 事業説明案のレジュメを見ながらウードは呟く。
 最終的には『総合私立学院』を設立し、ハルケギニアの研究を行うための学術組織を立ち上げるところまで行きたいと、ウードは構想している。
 父フィリップに説明する予定の商会設立の目的には、今のところ含めていないが、事業が軌道に乗れば機を見て説明するつもりである。
 『総合私立学院』なんてものを創ろうと思ったら、領主であるフィリップの協力は欠かせない。

 ウードが商会関連の資料を見ている間にも、一直線の道をユウレイグモ型のゴーレムは進んでいく。
 花畑に差し掛かり、ゴーレムのキャノピーに花の香りが満ちる。
 養蜂や香水精製、生花の栽培も商会で行う予定の事業には含められている。
 生花は地下の風石の無尽蔵のエネルギーと成長促進水魔法『活性』の組み合わせが最も活かしやすい分野でもある。

 何気に花の品種改良はゴブリンが主体となって行っている。
 ウードから言い始めたことではなくて、ゴブリンたち自ら言い出したのだ。
 花はゴブリンたちにとっても安らぎらしい。ストレスのない研究環境作成に必須なのだとか。彼らは全く意思のない家畜ではないのだ。

 ついでなので、花の蜜の代わりに〈水精霊の涙〉を分泌する植物が無いかどうか、あったとしたら栽培できないか、無かったら作れないかというのを研究させている。
 それを集める蜂の開発も並行して研究中だ。蜜蜂を使い魔にしているゴブリンの氏族もあるので、彼らが中心となって進めている。
 この研究成果が実れば、医療衛生に革命が起きるだろう。

「商会の運営は商人の記憶を引き継がせたゴブリンメイジとかに任せりゃいいだろう、多分」

 最近は人面樹に知識を蓄積させるために、戦場の死体漁りだけでなく、王都や近隣の村の墓暴きなどもしている。
 そこで老練な職人や商人の死体を手に入れ、知識を収奪するのだ。
 死んでいったゴブリンたちも人面樹の糧にし、さらに経験を循環蓄積させている。
 これで、バロメッツとのリンクが完全なものになって生前の知識経験を備えたゴブリンを作ることが出来るようになればさらにさらに技術と経験の蓄積は加速するだろう。

「……なんか墓暴きとか人として倫理的にかなり致命的なことに手を出しているが、今更なので気にしない。気にしない。時間が無いんだから形振り構っちゃいられないんだ」





「若様、ようこそいらっしゃいました」
「お久しぶり。どうかな、調子は?」

 村の城砦に到着したウードは、村落の代表、兼、城砦の名代に任命している家臣の男に迎えられる。
 男はウードが従者もつけずに来ていることに驚くが、昔からウードがそういう格式事に無頓着であり、使用人たちもウードの趣味を気味悪がっていて及び腰だったことを思い出すと、一人納得する。ウード様だから仕方ない。

「若様が遣わしてくれた子たちが働き者で助かってますよ」
「それは良かった。まあ、その位の援助は当然だ。私の発案した初の事業なのだからな。
 ここにはこれから設立するシャンリット領内最大の商会になる予定の“アトラナート商会”の本拠地にする予定なんだし」
「そ、それは責任重大ですな」

 名代の男は急に聞かされてうろたえる。

「まあ、今まで通りにやってくれれば良いさ。面倒なことは全部、私の子飼いの矮人たちがやってくれる」
「はあ、そうですか。それはそれで、物足りないというか、寂しいというか」
「くふふ、まあ、ちょっとした休暇だと思えば良い。その内、ここを発展させた功績ということで、父上も君を大きく取り立ててくれるだろう。それまでの辛抱だ」

 ウードの発案した開発事業であるのに、その功績を奪って良いのだろうかと男は考えるが、本人が良いと言っているのだから良いのだろう。

「しかしまさか2年もかからないうちにここまでの規模の村になるとは……」
「全ては始祖の御業である“魔法”の御蔭さ。それにここまで大きくしてしまえば、父上に商会設立を説明するにも楽だ」

 堀に架かっている跳ね橋の上を歩いていく。
 堀の中には色鮮やかなタニア鯉が泳いでいるのが分かる。
 食用ではなく観賞用の品種を育てているのだ。
 今のところ錦タニア鯉の飼育は全くブームになっていないから、先ずは商会の方で魚飼育のブームを創り出す必要があるが。

「おお、タニア鯉も綺麗に育っているな」
「はい、最近は私も教えてもらって、鯉を育てております。
 他にも様々な魚を育てさせていただいています」
「くふふ、そうそう、どうせ時間はあるからそういう趣味の時間に思いっ切り費やすと良い。
 出来れば、観賞魚の飼育を他の人に広めて貰えれば最高だな。観賞魚の入門本でも書いてみないか?」
「それも良いですね。考えさせていただきます」

 跳ね橋を渡ると、ずらりと並んだ使用人たちが頭を下げて出迎える。

「若様、ようこそいらっしゃいました」

 ウードが入城すると一斉に歓迎の挨拶を唱和する。

「ああ、ご苦労」
「さあ、若様こちらです」

 ウードは14歳ながら精一杯鷹揚に頷き、名代の家臣の先導に従ってさらに館の中へと向かう。
 城館の前庭にも花が咲き乱れている。
 噴水や水路も複雑な幾何学模様に組み合わされており、水路には色鮮やかな魚たちが泳いでいるのが見える。

「綺麗に整備されているな。良い事だ」
「恐れいります、若様」

 ふと、ウードは水面に映った自分の姿を見る。
 身長は170サントほど。胴体とはアンバランスに長い手足はまるで蜘蛛のようだ。黒い羅紗、紅い裏地のマントを纏い、黒い牛追い鞭を腰に付けているのは、ミスマッチで道化のようにも見える。
 だが、纏う雰囲気は不吉そのもの。目元の深い隈が、凶悪な印象を加速させる。
 そして死神を傍らに置いているかのような寒気を纏っている。臨死の大病人のような、死の気配。

 振り返ると、この城を初めて訪れる主を見て、使用人たちの間に緊張が走るのが感じ取られた。
 正気からは程遠い雰囲気を纏ったウードは、二年ほど前のあの盗賊どもによる略奪の日を想起させるのだろう。
 トラウマが蘇ったのか、震えている女性使用人も見える。

「……どうしました? 若様?」
「何でもない。案内してくれ」

 促されて、ウードは現在の村の開発状況の進捗を訊くために城の中に入っていく。
 その瞳には、悼むような色が微かに浮かんでいたが、すぐに消えてしまった。





 城の中での話を終えて、ウードは村に設けられた教会へと足を運ぶ。
 先導するのは神父と、その助手か何かだと思われる褐色の5歳くらいの少年だ。

 生成の簡素な服と短パンを履いている、活発そうな男の子だ。
 だが、この子は人間ではない。この村に派遣されたゴブリンメイジのうちの一匹である。
 代々寄生虫を使い魔にし、その寄生虫を身に宿すことによる身体能力などの強化を持ち味とする氏族の一員だ。

 使い魔となる寄生虫は、彼ら氏族の肉体とともに品種改良されている。
 ゴブリン氏族との共進化によって、もはや元の寄生虫とは殆ど別種だ。
 使い魔との共生を行う彼らの氏族の名前は〈バオー〉である。

 まだ、無敵の生物とまではいかないが、共進化の最終的な終着点として、ウードはあの来訪者〈バオー〉を目指している。
 『メイジと使い魔は一心同体』を文字通り体現した氏族でもある。

 ウードはこの村で漸く、巫女ゴブリン型ゴーレムを介してではなく、“ウード・ド・シャンリット”として初めてゴブリンとコンタクトを取ったのだ。

 そして、実は先導する神父も、人間ではない。ガーゴイルだ。
 ここに赴任した神父が少しタチが悪かったので、排除し、特製のガーゴイルで成り代わらせたのだ。

 今からウードが向かっている教会には、ブリミル教の礼拝所に加えて、地下部分に蜘蛛神教の礼拝スペースを設けている。
 ウードは今からソコに向かい、アトラク=ナクアに誓いを立てるのだ。
 ゴブリンたちに信用してもらうための“入会儀式(イニシエーション)”を受けるのだ。

「……ウード様。本当に宜しいのですか?」

 ゴブリンの少年がウードに尋ねる。領主の息子がブリミル教を捨てて異端に身を染めることについて聞いているのだろう。

「勿論だ。この身は既に半分近くアトラク=ナクア様の眷属に成り果ててしまっている。その私が信仰を捧げない訳には行かないだろう」
「それなら宜しいのですが……」
「……この地の領主の使い魔に蜘蛛が多かったこともあって、蜘蛛に関する逸話は元から結構な数がある。
 蜘蛛に祈りを捧げていてもそれらの逸話にあやかっているのかと思われるだけだろうから早々異端だとは思われないだろう。
 この地の逸話の中には、『サモン・サーヴァント』で喚び出した“アラクネー”という半人半蜘蛛の幻獣と結ばれたなんて話もあるくらいだ」
「そうなのですか」

 ゴブリンの少年は目を見開く。本当に知らなかったのだろう。

「ブリミル教の宗教的権威はハルケギニア社会では強固なものだ。
 だが、それを誤魔化す手がない訳でもない」

 そう言ってウードは神父の男を指す。神父はガーゴイルに入れ替えられる前は、神職にありながら強欲だと有名だった。

「そこの彼みたいに、異端審問と称して成金を処刑して財産を掠め盗ろうとするような奴は、どんどん排除してくれて良い。
 そちらの方が世のためだろう。
 今は打って変わって、清貧な暮らしで聖職者の鑑だと評判だそうじゃないか、ええ、神父さん」
「この身体になってからは、味が良く分かりませんので。食欲もなく、眠りも欲さず、性欲の欠片もないというのでは、研究する以外に無聊を慰める手段がないのですよ」
「結構なことだ。研究第一というのは私も同意する所だ」

 神父の姿をしたガーゴイルが受け答えをする。

 系統魔法は、術者の覚悟がその威力や効果を引き上げるということが分かっている。
 土系統の才能に優れたメイジが決死の覚悟でその生命を燃やして作ったガーゴイルは、非常に完成度が高いのだ。
 人を完全に模すほどに。

 土系統に優れたゴブリンメイジに寿命が迫れば、自身の命を燃やして自身の人格を焼き付けたガーゴイルを作るのがゴブリンの村での習わしだ。
 命を燃やし尽くしたゴブリンメイジの遺体は、人面樹に捧げられ、死の間際までの経験が――決死でガーゴイルを作ったノウハウがまでもが蒐集され、次世代に還元される。

 成り代わらせるに当たっては、対象となる汚職神官の人となりや交友関係を徹底的に調べ上げた上で殺して人面樹に捧げる。
 そしてその記憶を人面樹からダウンロードしたゴブリンは、そのゴブリンの生命を犠牲にして精巧なガーゴイルを作り上げるのだ。
 ガーゴイルは神官の記憶とゴブリンの記憶と人格を引き継いでいるので、外見を神官に似せてやれば、入れ替わりは完了だ。

「ウード様、着きました」
「地下への入口は?」
「ブリミル像の下です。こちらへ」
 
 教会に着いた3つの人影は、するりと中に入っていく。
 礼拝堂の奥にあるブリミル像を、ゴブリンの少年が『念力』で動かすと、地下への穴が現れる。
 そこに神父のガーゴイルが飛び込むと垂直に10メイルほど落下して、静かに着地する。
 ガーゴイルは魔法が使えないので、内部機構のみで落下の衝撃を殺しきった。生体素材を埋め込んで魔法を使えるようになるガーゴイルの研究も行われているが、実現はしていない。

 ウードとゴブリンの少年も、神父に続き、『レビテーション』でふわりと落着する。

 玄室の中には特殊な香が焚き染められていた。
 幻覚性の薬草やキノコを用い、水魔法を得意とするゴブリンが調合したものだ。

 見回せば薄暗がりの中に赤く輝く目が幾つもあると気がつく。
 地下空洞の礼拝所の中には既に大勢のゴブリンがウードの宣誓を見届けようと集まっていたのだ。

 玄室内に、太鼓の低いリズムが満ち始める。太鼓の音は風の魔法によって大きく、低く響き、聞く者の細胞を揺らす。
 ゴブリンたちがリズムに合わせて身体を揺すり、足踏みをする。

 外は丁度、逢魔が時。

 ウードはその怪しげなリズムに揺られながら、ゴブリンたちが開けた花道の上を前に進み、祭壇の前に立っている巫女ゴブリンの横に並び立つ。ウードが操る巫女ゴブリン型のゴーレム。

 ……そう、これから始まるのは自作自演の茶番劇なのだ。巫女ゴブリンを操っているのは、ウード自身なのだから。
 本当は、こんなイニシエーションなど行わずとも、ゴブリンらがウードを裏切るというのは殆ど有り得ないし、ウードがゴブリンたちを切り捨てることも有り得ないのだ。
 だが、ポーズというのは実社会では、形骸化していても重要である場合がしばしばある。今回のイニシエーションではハッキリとウードが彼らゴブリンの身内になったことを示す必要があるのだ。

 そう、茶番劇だ。――茶番劇のはずだった。

 巫女ゴブリンの姿をしたゴーレムが意味のない詠唱を、太鼓のリズムに乗せて捧げる。ウードもそれに続く。
 周囲のゴブリンも、低く唸るような詠唱に合わせて、心臓の鼓動のようなリズムで詠唱を行う。
 そして祝詞は終盤に差し掛かる。

「アトラク=ナクア様に宣誓を。ウード・ド・シャンリット」
「私、ウード・ド・シャンリットはアトラク=ナクア様に血の忠誠を捧げる。魂の忠誠を捧げる。全てを捧げる。その証に我が身に刻印を」
「その血脈に刻印を。その魂に刻印を。その忠誠に刻印を。いあ、あとらっくなちゃ」

 ウードは跪き、右肩を露出する。刻印をすれば、あとはウードが巫女が言った聖句を繰り返すことで入会儀式(イニシエーション)は終了する。
 巫女ゴブリンが跪いたウードの右肩に手を当て、水と火の魔法を使って、蜘蛛の形をした刻印を施す。
 じゅう、と焼ける音と共に黒くて紅い刻印が、ウードの右肩に顕れる。

 異変が生じたのはこの時であった。
 右肩の刻印が独りでに蠢き、その右前脚にあたる部分が、ウードの右肩から右腕へと侵食したのだ。

「がっ、がああああああ!?」

 その侵食に伴う焼け付く痛みに、否、右肩を中心に身体の中から引き裂かれるような痛みに、ウードがのたうち回る。
 ウードの思考が途切れたために、巫女ゴブリンはその動きを止めている。

「ああああっ!?」

 周囲のゴブリンたちはウードのその醜態に驚くが、直後に起こった事態に動きを止めてしまう。
 転げまわっていたウードが痙攣しながら跪き、右腕を捧げるように祭壇の方へ向けたときにそれは起こった。

 ウードが掲げた右肩に向かって、周囲の壁や地面から、紅黒く輝く無数の糸が伸びて、絡みついたのだ。

 禍々しい力の奔流を、その場に居る誰もが感じ取った。
 それは何本ものか細い糸が寄り集まるようなイメージで、掲げられたウードの右腕へと収束する。

「あああああぁぁぁああああぁぁああっ!!」

 ウードの右肩から先が弾け飛ぶ。
 右腕は縦に二つに裂けて、硬質化していく。
 肩からは、大きな蜘蛛の顎と、短な触肢が生じる。
 大きな顎は、かつての夜に盗賊に突き刺した顎とそっくり同じものだ。
 
 見る見るうちに、そこには右の首筋から肩、腕にかけて、蜘蛛の大顎と、短い触肢、そして2本の脚へと変じていく。

 蜘蛛の異形への変異。纏わり付く糸のような呪力。
 それはアトラク=ナクアの眷属の証。
 自然と、ゴブリンたちは皆、跪き、新しい蜘蛛の祭司、ウード・ド・シャンリットに平伏する形になる。
 皆がウードを自らの戴くべき神官として認めたのだ。

「ぐううう、あああ。いいいぃぃああぁぁ、あああとらああっくなああちゃぁぁああ!!」

 ウードは痛みに神経を焼かれながらも吼声をあげて、最後の祝詞を唱える。

 ウードに取って誤算だったのは、デタラメのはずの儀式が、アトラク=ナクアの居城の上で繰り返され、ゴブリンたちの信仰を集めていくうちに、本当にアトラク=ナクアの加護を得るに相応しいものに昇華されていたことであろう。

 アトラク=ナクアは神である。
 邪神であっても神である以上、捧げられる言葉の如何に関わらず、そこに真摯な想いが捧げられ続けていれば、それに応えることもある。
 “神”という存在が、そういうものであるというだけだ。信仰とはそういうシステムなのだ。

 さらにウードは、転生の過程で魂がアトラク=ナクアに直接触れ、その血脈にもアトラク=ナクアの毒の祝福が与えられているという、神官に成るに十分過ぎる条件を備えていた。
 幾万の信仰によって形成された新しい儀式と相乗して、彼の血脈の呪いが一気に進行し、この事態を引き起こしたのだ。

 ゴブリンたちの崇める蜘蛛神教は、アトラク=ナクアの呪わしい祝福を受け継いでいるシャンリットの血脈を得て、真に、その宗教として完成を見たのであった。

 一方ウードは自分の全精神力、そして〈黒糸〉で集めることの出来る風石の魔力も限界まで運用して『蜘蛛化の大変容』を抑えこもうとしていた。
 彼の右肩、右肺を蝕んだ呪いは、更に蠢いて彼を本当の眷属に相応しい形に変容させようとしている。

「あああああっ!! まだだ、まだ、私は! 何も、何も何も、成し遂げていない!!」

 ウードは、正に身を裂く激痛に耐え、その呪いに抗う。
 流れる呪いの魔力を体内に張り巡らせた〈黒糸〉へと導き、コントロールしようとする。
 そうして〈黒糸〉に乗せた呪いの力を、それを上回る精神力の勢いを以てして、押し流そうというのだ。

「世界は、謎に満ちている! 分からない、分からない、分からないことだらけだ! だから!!」

 〈黒糸〉の上を呪いを押しのけて流れる精神力の源は、変容への恐怖と、未練。
 未知の知識への未練、真理への渇望。魂が砕けてもなお残った、ウードの源泉。

「だから、まだ、死ねない!!」

 ウードの精神力が大きくうねる。
 地下から汲み上げる風石の魔力が、更に強くなる。
 脈動する魔力のオーラが、呪いと拮抗し、飽和する。

 腰に結わえていた〈黒糸〉で出来た牛追い鞭が独りでに解け、二つに別れたウードの腕と肩から生える触肢に巻きついていく。
 それは不気味に燐光を発しながら、蜘蛛の脚となった右肩、右腕を再び一つにしようと絞めつける。
 〈黒糸〉は蜘蛛脚の外骨格に融合し、不恰好ながらも2本の節足をヒトの腕ような形に無理やり纏め上げていく。

 再び一つに纏め上げられたそれは、ヒトの腕のように見えるが故に、却って不自然で冒涜的であった。
 そしてウードの身体を変容させようとする毒の呪いは、諦めたかのように勢いを失い、右の首筋から生える大顎へと収束され、そこに蟠って毒袋を作る。


 やがて、その変異は落ち着き、ウードは精神力を使い果たして崩れ落ちる。

 静寂、そして歓声。ゴブリンたちは、彼らの崇める神が齎したその変容の奇跡に熱狂した。

 右肩から異形の毒牙を生やし、右腕を無理矢理に固めたウードは、その熱狂的な歓声の中も昏々と眠り続けた。

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2010.07.18 初出
2010.07.21 誤字修正
2010.10.02 修正。9割近く書き直した気がする。あとウード君が邪気眼スキル「く、オレの封印された右手が疼く……!」を獲得しました。もう諦めていっそ蜘蛛になっちゃいなよYOU。ヒトとしての意識は残らないかもしれないけども。
2010.10.05 修正。呪いに打ち克ったのは、ダイス神のお導き。クリティカル(絶対成功)が出たということで。
2010.10.11 副題変更(旧題:フランケンシュタイン・コンプレックス)



[20306] 蜘蛛の糸の繋がる先は 10.因縁はまるでダンゴムシのように
Name: へびさんマン◆29ccac37 ID:4dc27135
Date: 2010/10/06 19:06
 蜘蛛神教のイニシエーションの後に意識を失ったウードはゴブリンたちの手によって運ばれて、丁重に治療を受ける。
 治療と言っても、蜘蛛化の呪いが活性化した影響で変容した右肩部分は手の付けようがないので、安静にして栄養点滴を行うくらいであるが。

 そうして、数時間してから、夜半にウードは目を覚ました。

 目を覚ました彼が思ったのは、無事に生き残ることが出来たのだという感慨と、もはや後戻りできない所まで来たのだという諦観にも似た思いであった。
 そして、ボーっとする頭で、黒い甲殻に覆われて節が目立つ右腕と、首筋から生えた大顎を撫でたり眺めたりする。

 背中側は右肩から背骨まで半ば甲殻化しており、右脇腹は抉れた形で固まっている。……どうやらこの右脇腹の抉れた部分に大顎を折り畳めそうだ。指は、2本しか無い。二つの節足が癒合した所為だろう。手はザリガニのハサミのようになってしまっていて、細かな感覚毛に覆われ、さらに先端には鋭いカギ爪が3本ずつ付いている。
 右腕は、全体的に鋭角な印象で、黒っぽい色で濃淡があり、見方によっては縞があるようにも見える。所々にやはり感覚毛がピンと生えている。
 ウードは右手を様々に動かしてその動作を確かめながら、先程彼自身の身に起きた『変容』の急進行について考察する。

「おそらく、繰り返すうちに儀式自体が“ホンモノ”になってしまっていたんだろう。
 そして、それに加えて他にも様々な要因があった。シャンリットの血脈に宿る『蜘蛛化の大変容』の呪い、私が生まれ変わるときにアトラク=ナクア様に行き遭った事、私が地下に蜘蛛の巣のように〈黒糸〉を張り巡らさせているというアトラク=ナクア様との相同性……この辺りも重なったんだろうな。
 変容の呪いを抑えこむことが出来たのは、偶然か、はたまた私のメイジとしての格がトライアングルにでも上がったのか、それともアトラク=ナクア様が願いを聞き届けてくださったのか……」

 最後に呪いと精神力が鬩ぎ合いをしていた時に、ふっと呪いの抵抗が弱まったことを思い出す。
 神の呪いに、一個人の精神力が勝てようはずもない。あれは、呪いが自らその行き先を変えたような感触であった。果たして、それは神の思し召しなのか……。偶然であるなら、またいつ呪いが再発するか分からない。
 もしもイニシエーションを切っ掛けにトライアングルに昇格したというのであれば、それは喜ばしいことだが。あとで魔法を試してみよう、とウードは心に留めておく。

 ウードはまた眼を閉じて、眠ることにする。
 さて、この腕を家族にどう言い訳しようか、それとも隠し通せるだろうか、取り敢えず水使いである母上にバレるのは時間の問題だとして、矢張りこれを隠すような義手を作るべきだろうか、と延々考えながら。
 その考え事のお陰で、眠っている間、彼の妹のメイリーンが涙目で「お兄様、この薬を飲めばその腕もバッチリ治りますわっ! 飲んでくださいましっ!」と言って紫の煙の出るどう見ても毒薬なブツを勧めてくるという悪夢に魘されることとなる。充分あり得る事態であるため、妙なリアリティがあった。





 結局教会に一晩泊まったウードは、翌朝起きて直ぐに右腕を覆い隠すための義手を『錬金』して、一応の体裁を整える。鏡を見て『錬金』した義手を確認する。
 左手と比べてアンバランスだが、一見して不自然に見えない程度にはなっている。
 右手の代わりに器用に『念力』で食器を操って朝食を摂り、教会を出て再びこの村の中央に位置する城砦へと歩く。朝露に濡れた路傍の花も、日が昇ればその花びらを広げるだろう。城砦に向かう道すがらチラホラと農作業に出てくる村人やゴブリンとすれ違い、挨拶を交わす。

「ふむ、やはりトライアングルに昇格したかな? 精神力への負担が少なっているようだ。まあアレだけの精神の鬩ぎ合いを経験してランクアップしていなかったら、それはそれで凹むが」

 右手の義手の感触を確かめながら、ウードはそう独り言ちる。
 肌色の膜を上から被せ、指きちんと5本つけられた義手だ。各指の操作は『念力』で行うようになっている。義手の上には白手袋をしており、また服もゆったりしたものに替えているから、そうそう義手だとは気づかれないだろう。
 水メイジに“診られた”ら、直ぐに右腕に異常があることが知られるだろうから、こちらの対策も考えなくてはならない。

 城の者たちには、昨晩、ウードが教会から帰らなかった理由は、神父と宗教談義で盛り上がってしまっていたからだと言うことにしておいた。
 過去からの奇行の積み重ねで、こう言った時もさほど怪しまれないのは、何と言うべきか。
 村で栽培している新品種をふんだんに使った昼食を城で名代の男と食べ、村を辞する。
 再びユウレイグモのようなシルエットのゴーレムに乗り込むと、花畑、バロメッツの果樹園、森林地帯を越えて一路シャンリット家の本邸へ。

「ああ、この腕のこと、どう説明しようかな。気が重い……」





 ウードは帰るやいなや家族への挨拶もそこそこに、庭の隅の自分の研究室“グロッタ”へ引っ込んだ。
 そうしてグロッタに母エリーゼと家宰の老爺を呼び寄せると、自分の身の呪いが進行したことを義手を外して示してみせた。

 様々な標本が並ぶ中で、3人は今後のことを話し合う。

「母上、このままでは私は早晩、ヒトでなくなってしまうと思います」
「……肩ごと切って、他の誰かの肩と入れ替えてしまうとか出来ないの?」
「一度右腕を切り落とそうとしたのですが、そうすると、大顎の毒袋に凝縮された呪いが他の場所へ移ろうとしました。根本的解決にはならなさそうですし、次は脳も含めて頭ごと変異するかもしれません」

 あーでもない、こーでもないと母子が意見を戦わせる中、家宰の老爺が口を開く。

「私にいい考えがございます」
「ん、爺や、言ってみなさい」

 エリーゼが促す。そして老人は信じがたいことを言う。

「呪いを私に移してくださいまし。そうすれば収まるのでしょう?」

 2人が息を呑む。
 正気なのかと老爺の瞳を見遣るが、狂気の色は伺えない。
 そこに見えたのは決然とした覚悟のみである。

 確かにそれはウードも考えたことだ。誰かに呪いを移すことで、呪いの進行を押さえられるのは既に実証済みだ。
 だが、今回もまたそれをやってしまっては、今後段々と歯止めが効かなくなるのではないか、と彼は危惧し、躊躇っていたのだ。

「それは……、出来ない」
「何故ですか。もう既に一度、同じ事をされていらっしゃるでしょう」

 そう、毒牙で呪いを移すというのは、既に経験している。捕縛した盗賊を生贄にしたことがある。その事もこの場に居る2人には話してしまっている。

「確かに、それが一番確実で合理的だ。呪いを誰かを生贄にして移すのが、現状では最も手っ取り早く確実だ。安易な手段だとも言えるが」
「では、その生贄には私をお使いください。私ももう長く生き過ぎました」

 それに、と老爺は続ける。

「蜘蛛になれば、先代様の下へと向かい、再びお仕えすることも出来るでしょう」
「爺や……」

 彼は蜘蛛に変化してしてしまった先代シャンリット伯爵、ウードの祖父の下に行きたいというのだ。
 先代当主の変容に気が付かず、何も出来なかった事をこの老いた家宰は自責しているのだろうか。
 そこにエリーゼが口を挟む。

「ウード。実は爺やはもう長くないのよ。全身に腫瘍が出来ているの」
「何ですって。本当なのか、爺や?」

 ウードは爺やに確認する。

「はい、ウード様。本当でございます」

 ウードが念のために診察用の『ディテクトマジック』を用いる。
 確かに、不自然に血流が集まっている場所が幾つかあると分かった。それが恐らく腫瘍だろう。
 ウードであれば、老爺の体内に〈黒糸〉を侵入させてその腫瘍を切除する事もできるだろうが、それをこの家宰は望むだろうか。

「……そうか。私なら、治せるかも知れんが……、良いのか、治さなくて」
「もう、充分に生きました。それに、フィリップ様にこれ以上、先代様のことを隠し立てするのにも疲れましたので」

 ウードの父フィリップは、シャンリットの血脈に宿る蜘蛛の呪いのことや、フィリップの父である先代伯爵の最期など、何も知らない。
 フィリップにも様々な症状は表れているだろうが、その都度、彼の妻であるエリーゼが体調を調整したり呪いの捌け口になっているのだ。エリーゼの胎内に移された呪いは、月のものと一緒に流れていくそうだ。

「――本当に、良いんだな?」

 ウードが家宰の老人に、あまりにも重い秘密を抱えてきた忠臣に確認をする。

「お願いいたします」

 老爺の返事を聞くと、ウードは立ち上がり、服を肌蹴る。そして同じく立ち上がっていた爺やを抱きしめる。

「母上、爺やが痛みを感じないように、魔法でサポートをお願いいたします」
「分かったわ」

 エリーゼが杖を構え、痛みを和らげる魔法を使い始める。

「爺や……」
「ウード様も大きくなられて……」
「今まで、ありがとう。そして済まない」

 自然とこれまでの事が思い出され、ウードの目から涙が溢れる。初めて魔法を教えてもらったこと、礼法の授業で怒られたこと、一緒に執務をしたこと……。
 別れを惜しむように一層強く抱きしめると、爺やもそれに応える。爺やの身体はまさに折れそうなほどに細く脆く、重病人のそれであった。その事にウードは一層切なくなると同時に、まだそんな感傷を感じることが出来る部分が自分に残っていたことに安堵する。

「いえ、良いのです」
「もしも会えたなら、お祖父様に宜しく頼む」
「はい」
「本当に、済まない。そしてありがとう」

 この場に居る皆の頬を涙が伝う。

「――いただきます」

 そう言うと、普段はウードの右の脇腹に隠されていた毒牙が鎌首をもたげる。
 大きな毒牙。それは躊躇うように数瞬、切っ先を揺らし、老人の背中へと打ち込まれた。
 毒牙の付け根の関節部にある毒袋から、侵された者を蜘蛛に変えてしまう毒が送り込まれる。

 泣いて歯を食いしばりながら、ウードは爺やに食らいついた。

 濃縮された強力な毒は、あっという間に爺やの体内を大小様々な蜘蛛に変えながら、侵食していく。
 エリーゼが唱えるヒーリングの光が、老爺の痛みを和らげる。
 やがて毒牙を撃ちこまれた背中を起点に、主に胴体から下半身が無数の蜘蛛に変わって、老いた忠臣は絶命した。
 幸い、エリーゼが血流を操作したことと、毒があまりに強すぎて上半身に回る前に触れた場所を片っ端から蜘蛛に変えてしまったため、老人の胸から上の部分は蜘蛛にならずに原型を留めている。

 死に顔は安らかであった。例えそれが筋肉の弛緩によって齎された偽りの安らかさだったとしても。

「爺や……。お祖父様に宜しく」

 ウードが毒牙を抜き取り、再び自らの脇腹の窪みへと折り畳む。
 ウードの大顎の毒袋は家宰の老人の献身の甲斐あって、殆ど空になってしまっている。
 老爺の体内から生まれいでた無数の蜘蛛たちは、ウードのグロッタからめいめいに這い出して、外へと散らばっていった。
 アトラク=ナクアが橋を架けている深淵の谷にいるであろうウードの祖父に、この小蜘蛛たちは会えるであろうか。


 翌日、爺やの葬儀が密やかに行われた。
 屋敷のものはウードの父フィリップを始めとして皆、この長年の忠臣の死に涙し、悲嘆に暮れた。

 これはウードを含めて誰も知らない事だが、後日、埋葬された爺やの遺体からは密かに首が刈り取られて、棺桶の中には精巧な人形が残されることとなる。
 そして爺やの首は他の死体たちの首と同じように人面樹に捧げられてしまった。
 ゴブリンたちの知識収奪のための墓暴きは、ウードの身内であるとかそういったことは考慮されていないためであった……。

 その事実をウードが知った時に、果たして彼はどう思うであろうか?
 その非情さに憤り、死してなお弄ばれた者を悼むほどの人間性は彼に残されているだろうか?
 それとも爺やの経験がそのまま失われずに、蒐集され蓄積されたことを喜ぶだろうか?





 日差しの強い夏が去り、小蜘蛛の遊糸の漂う秋が過ぎ、静かな冬も越えて、季節は巡り春がやって来ようとしていた。

 ここはシャンリット領のとある村。

「はーい、トマトを育てる方はこっちの苗を取って行ってくださいねー。小麦は、こっちの種籾を使ってください、新しい品種です。育て方はこちらに書いてあります。読めない方は、読める方に読んでもらうか、文字教室に行って文字を習って下さーい。勿論、僕に聞いてもらってもいいですよー」
「おーい、坊主、こっちの苗はなんだ?」

 村の広場に作物の苗や種が所狭しと並べられている。7~8歳の丁稚と思われる少年少女たちがパタパタと忙しなく動いては、やって来る農民たちに対応し、苗や種を配っている。良く日に焼けた肌をした少年少女たちは皆、蜘蛛の意匠をあしらったエプロンを付けている。同じエプロンを付けている大人もチラホラと目につき、やはり対応を行っている。

「それはカボチャですねー。害虫や病気に強くて、甘くて美味しいものです」
「ホントにタダで持って行っていいのか? しかも肥料まで貰って……」

 若干遠慮がちな農民を前にして、丁稚の少年はにっこりと笑って応対する。

「ええ、持って行ってもらって構いません。まあ、作ってもらった分はうちの商会の方で適正な値段で買い取らせてもらいます。売るときに他の商会に売らないようにしてもらえば、それで充分です。あ、持って行く時は、台帳に名前書いてくださいね。書けなければ代筆しますけど」
「ん、じゃあ代筆を頼む。ブラン通りのトーマスだ」

 丁稚の少年は蜘蛛の絵柄のエプロンのポケットから台帳を取り出すと、聞き取った名前を書き記す。

「ブラン通りのトーマスさんですね。カボチャを20本、と。あ、別に全部が全部アトラナート商会で配った奴に替える必要は無いですよ。少しずつ試して行ってもらえれば良いので」
「ああ、流石に初めての作物を畑全部に植えつけるような博打打ちは居ないだろうよ」

 去年の秋頃から、シャンリット内の村落に、アトラナート商会という新しい商会が店を構えるようになった。
 冬に入る頃には、行商も通らないような寒村から、大きな街まで、何処に行ってもアトラナート商会の店が軒を出すようになった。
 冬の農閑期にも商店の軒先には野菜や肉が並び、貧しくて飢えた村人には暖かなスープやパンを出す代わりとして、彼らの時間を貰って文字や計算を教えたりした。食べ物をあげる代わりに、他にも畑を開墾するのを手伝ってもらったり、井戸を掘るのを手伝ってもらったり。
 また、夜も明るくなる永続『ライト』の魔道具を各家庭に絵本や教材とセットで無償で配ったり、病人を無償で診たりもしている。

 そして、春。アトラナート商会は農民たちに商会の新種の作物を配っている。

「それもそうですね。あ、どんなモノが取れるかイメージ湧かないかも知れないので、去年商会で採れた野菜を使った試食用の料理も向こうに用意していますよ。是非食べてください。自信作なんですから!」
「おお、相変わらず気前がいいねえ、坊主のところは」
「いえいえ、皆さんが良い作物を作って、私たちが皆さんから作物を買う。そして、その皆さんに払ったお金で、またウチの商会で買い物してもらえれば良いんです!」

 そう言って、少年は胸を張る。農民の男――トーマスは愉快そうに笑って、少年の頭を撫でてやる。

「ははは、その成りでも一端に商人な訳だな! しかし、学もあって魔法も使えて、ってお前ら一体何でこんな辺鄙なトコで商人やってるんだ? もっと貴族の召使でも何でも、良い職もあるだろうに」
「うーん、まあ、今でも貴族の召使みたいなもんですよ。この商会はウード様……伯爵家の若様の肝入りですからねー。領民が豊かになるようにって、若様が作った新品種をこうやって配ってるのも、井戸掘ったり、畑広げたり、下水道を作ったり、計算や文字を教えたり、『ライト』を配ったりってのも、全部そうです」
「へぇ! そりゃあ素晴らしい若様じゃないか!」

 こうやって口コミで領民のウード人気(伯爵家に対する好感度)を上げることも、アトラナート商会の業務の一環である。

「『知ることの喜びを多くの人に味わってもらいたい。その為には先ず、生活に余裕が必要だ』というのが口癖だそうです。領民皆に、広く教育を行き渡らせたいんだそうですよ」
「へえ、えらいことを考えるお人だね。まあ、生活に余裕が必要ってのは、同意するよ」
「ああ、そうだ、もし職に困ってる人がいたらうちの商会に言ってもらえれば、斡旋するので、そちらも宜しくお願いしますね」
「ははは、随分手広いな。えーと何処だっけ、花畑が綺麗で大きな建物が沢山あるって言う、そうだ確かダレニエ村ってとこで働き手を募集してるんだっけか」

 ゴブリンの商会の拠点となっている村――ダレニエ村(蜘蛛の村という意味)の方は順調に発展しており、およそ一年前に村の商品を捌くために立ち上げた商会はかなりの利益を上げ、多くの税を伯爵領にもたらしているそうだ。

 そのゴブリンたちの商会の名前は“アトラナート商会”。
 蜘蛛の意匠をトレードマークにした商会である。蜘蛛は豊穣のシンボルでもあるため、別にトレードマークとして用いても不思議な話ではない。
 ゴブリンが中枢を占める商会であるのは秘中の秘である。というか中枢の主要構成人員はゴブリンかゴーレムかガーゴイルである。
 この村でトーマスに応対した少年もゴブリンであるし、周りの蜘蛛のエプロンを着けているのはゴブリンか、でなければガーゴイルである。

 ちなみに商会構成員のガーゴイルはほぼ人間と変わらない動作・思考が出来る。
 領内の汚職神官たちと入れ替わっているガーゴイルと同じで、ゴブリンメイジ達が命と引き換えに作り出した分身とも言えるガーゴイルだ。
 最近はアトラナート商会の売上から幾らかを『土石』の購入に充て、それを用いさせることで更にガーゴイルの精度を向上させている。

 アトラナート商会は『サモン・サーヴァント』のゲートを利用した輸送網を構築しており、シャンリット領内ではどの村にもアトラナート商会の商店が節操なく出店している。

 商っているのは食料品や高性能で安価な日用品や、新種の作物の種、肥料、病気によく効く薬などなど。
 地域への浸透や新作物の普及のために結構無料で商品を配ったりもしている。
 正直、採算は度外視である。これは将来への投資であるからして。『シャンリット領の流通改善、産業育成、雇用創出に民間と領主とが協力して当たるための新しい形の事業主体』というの商会であるため、これで良いのだ。

 アトラナート商会の事業の中でも特に新種の作物の普及は非常に重要だ。
 文明の発展には食料供給の余剰とそれに伴う労働力の余剰が不可欠だからだ。

 収穫量が多くなるように改良した作物を普及させれば、それによって余剰が発生する。
 そして、税や自家使用分以外の余剰分は適正価格で商会が買い取りすることとなっている。
 買取の際は全商店で共通規格の升や秤を使っている。度量衡の普及も商会の一つの仕事である。

 また、農村の方では商会が銀行も兼ねている。口座を作って作物買取の代金を振り込むのだ。
 辺境の村まで貨幣経済に組み込むこともアトラナート商会拡大の目的の一端である。

 商店には各種商品のカタログも取り揃えており取寄も行っている。
 一両日中には大抵のものが届くということで評判は大変よろしい。
 召喚ゲートを使った流通網は、世界最速だろう。

 商会の店員は基本的には全てゴブリンメイジである。背格好の問題から名目上は丁稚とか小間使いと言うことになっている。
 ちなみに店長はゴブリンの人格を焼き付けた大人型ガーゴイルである。

 店員のゴブリンメイジは村のインフラ整備なども暇を見て、時には村人と協力して行っている。
 ガーゴイル店長はガーゴイルゆえに魔法を使えない為、魔法を使うのは丁稚役のゴブリンメイジの仕事だ。
 その奉仕活動の中でも井戸と揚水機の製作は村人にかなり喜ばれた。

 それで、お近づきの印としてお守りと称して商会の紋――蜘蛛の意匠をあしらい、アトラク=ナクアの文字を刻んだもの――を村人に配るのだ。
 『ほら、領主サマの使い魔にあやかってね。身につけてると悪いことから守ってくれるんだ』とか言って。
 何気に地道に蜘蛛神教の普及活動を行っているゴブリンたちであった。

 他にもキャラクター戦略として、取り敢えずは始祖の使い魔であるヴィンダールヴと共に蜘蛛の幻獣がブリミルを助ける話なんかを捏ぞ…げふん。発掘して絵本にして配っている。
 配った絵本を利用して農閑期には、村人に読み書きや計算を教える教室を開いたりもしている。

 教室に来てくれた人たちに、お菓子や料理を出すのも忘れない。
 農民は基本的に時間が無いのだから、来てくれたお礼はしないといけないからだ。この時に出す料理は新種の作物の試食も兼ねている。
 読み書き出来るようになれば、養蚕や養蜂、新技術、新作物の育成方法の普及もマニュアルを配って行えるようになるから、大分楽になるはずだ。

 教育や情報戦はこのハルケギニアでは大抵の場合は教会が抑えてしまっているものだが、シャンリットの領内に限っては神官たちをガーゴイルに入れ替えてしまっているから、教会のネットワークとの軋轢も無い。
 教会の神父に入れ替わったガーゴイルと、商会の各村落の支店が構成するネットワークで、流通のみならず情報網もアトラナート商会が握っている。
 本格的に私立学院を設立するという事態になれば、王宮の許可も必要になるかも知れないが、現状は全て伯爵家の裁量で行えている。

 ここまで様々な事業に手を出してもアトラナート商会が破綻していない。
 それ所か大きく利益を上げている。
 アトラナート商会が大きな利益を上げることが出来たのは、何より、奴隷扱いのゴブリンたちを使っているので人件費が抑えられるという理由が大きい。ゴブリンはバロメッツからポコポコ生まれさせることが出来るし、知識経験を引き継いでいる状態で生まれるから即戦力になるし。
 あとは地下の風石からほぼ無尽蔵にエネルギーをタダで取り出すことができるからというのもある。

 アトラナート商会は勿論、トリステインの王都、トリスタニアや各地の大都市にも支店を構えている。こちらで商っているのは、セレブ向けに、シャンリット伯爵が発明したとされる〈カメラ〉や、香水、婦人向けのスパイダーシルクや新素材によるドレスなどなど。また、庶民向けには新鮮で旨みたっぷりの野菜を売り出している。
 最初は売り先の確保が難しかったが、地道な営業と品質の高さからあっという間にシェアに食い込んだ。この際に人面樹に吸わせた商人たちの知識・ノウハウも大いに役に立った。
 召喚ゲートを用いた物流では関所を通らないため関税が掛からず、他の商人に比べて圧倒的な安さを誇っているのも大きな勝因である。

 このカラクリに気づいたら関税に意味が無いと悟って、所得税や法人税に切り替えてくるだろうがそれまでは好き勝手やる算段である。
 ちなみにシャンリット領内では既に関税は撤廃済みである。懇切丁寧にシャンリット伯爵に関税撤廃後の流通の活発化の予想と法人税による税収増加を説いたためだ。
 まあ、最後には、関税撤廃後の税収減については、向こう二十年間は減った分をアトラナート商会が保証するということを確約する、という切り札を切らざるを得なかったのだが……。
 とは言っても元から流通は活発ではなかったので、関税収入はたかが知れた金額でしか無い。仮に減税分を補填するとしても、アトラナート商会の大きな負担にはならないだろう。

 アトラナート商会はゲート輸送による関税無視の輸送のカラクリで結構な利益を確保している。最初は他の商会からの輸送を一手に請け負ったりして荒稼ぎした。お陰で商会の馬車の護衛を生業にしていた傭兵たちの仕事がガクッと減ったとかで、嫌がらせを受けたこともあったが、まあそのような輩は闇から闇に葬られ、人面樹の餌となった。
 他にも、内緒であるが、裏ルートからゴブリンメイジを娼館や各商店の丁稚として割安で人足として提供している。

 商会の利益は各村のインフラ整備や教育、新品種や新商品の研究開発などの投資に振り分けられている。


 あまり派手に儲けていると、各所から目をつけられるかも知れないので、不穏な動きが無いか、周囲の動きには気を配るようにゴブリンたちは気を付けている。娼館や貴族の館で奉公させられているゴブリンたちとも、連絡を取り続け、様々な情報を取得している。
 また、人的なネットワークだけでなく、ウードはゴブリンメイジ達にも〈黒糸〉の杖の秘密を教え、それを用いた諜報活動もさせている。

 どうやら、複数のメイジが一つの杖を用いることは問題ないようで、ゴブリンたちも問題なく〈黒糸〉を使えている。
 〈黒糸〉を教えたのは蜘蛛神教に対する貢献の一環でもある。
 蜘蛛の糸のように大地を覆った〈黒糸〉は、ゴブリンメイジたちの信仰対象であるアトラク=ナクアともイメージが被るため、ウードは更にゴブリンたちの社会の中で尊敬を集めるようになった。

 〈黒糸〉をきちんと杖として認識出来るのも、ゴブリンたちが蜘蛛神教の信徒であるということが大きいのかもしれない。
 だが、もしも、ゴブリンが捕まって拷問されて〈黒糸〉の秘密が漏れたらまずいので、現在、使用者認証機能を〈黒糸〉に付加できないかウードが思案中である。

 ウードの杖であるカーボンナノチューブ集合体〈黒糸〉はもはやトリステイン全土を隈なく覆っており、現在は世界中に張り巡らせるべく拡大中である。
 カバー範囲拡大に際しては地下の風石の魔力を用いており、魔道具によって自動で〈黒糸〉を伸展させている。
 また、広げた先に風石の鉱脈があればそこから魔力を補給するというエンドレスループを形成させているので、幾何級数的に拡大スピードが上がっており、試算ではあと2年も掛からずにこの惑星を一通り覆えると出ている。
 そこから得られる情報を解析するには何十年と、いや百年単位で時間がかかるだろうが。

 〈黒糸〉の伸展と同時にそこから得られた情報の解析をゴブリンたちが急いでいるが、このままでは確実に百年単位で時間がかかる。
 地底からだけではなくて空からの情報も、つまりボトムアップだけではなくてトップダウンの情報も取得し、両面からの解析が必要だと思われる。
 そのためゴブリンたちは空から様々な情報を観測できるような、飛行型のガーゴイルを開発しようと躍起になっている。最終的には静止衛星軌道に拠点を作ろうと画策しているようだ。

 同時にコンピュータもしくは、それに類するインテリジェントアイテムの開発も行っている。
 情報処理速度の向上もまた急務であった。
 半導体素子の作成も研究させているが、まだまだ時間がかかりそうだ。

 なにせ、電気関係の物理法則の実証から入ったのだ。
 まあ、これまで、各種の数学的公理の証明だとか微積分法の開発だとか、精確な単位の設定だとかをやっていたのに比べれば、格段の進歩ではある。
 現在はモノの加工精度がまだまだであるので、加工精度や測定器の精度の向上を重点的に行っている。
 取り敢えず、電磁誘導やコンデンサや抵抗器、トランジスタ、モーター、電池など基本的な概念はウードからゴブリンたちに伝えてあるので、その内に実用化されるだろう。







 蜘蛛の糸の繋がる先は 10.過去の因縁はまるでダンゴムシのように隙間から這い出してくるのだ



 



 さてウード・ド・シャンリット15歳、いよいよ魔法学院入学の年である。
 彼は現在、自分の研究室“グロッタ”で学院に持っていくものを準備している。

「あー、これとこれは別に『錬金』で作り直せば良いか。
 こっちの書類はまだ見てないから、行きの道程で読むか」

 名門トリステイン魔法学院。王都近くの閑静な場所にあるその学び舎に通うことは貴族嫡子のステータスである。
 また学院在籍中の恋愛関係は、既に婚約していても関係なく優先されるという暗黙の了解により、玉の輿を狙う女子学生の狩場ともなっている。
 ウードは片腕が半ば不具になってしまったが、それでも父母の熱心な勧めで学院に入学する運びとなった。

 学院を卒業するまでのウードの主な目標は、学院に集まる貴族子弟とのコネクションの確立である。
 あとは〈黒糸〉の使用において使用者認証機能を設ける為に、学院の教師陣から教えを請うことである。方法としては例えば杖自体に知性を付加して使用者を判断させるというのが出来ないかと、ウードは考えている。

「研究は何処ででも出来る。折角学院に行くんだから、コネクション作りを頑張らなくては。アトラナート商会の拡大、ひいては総合大学の設立のためにも、コネは必要だ。
 母上を見ていて思ったが、学院時代のコネクションはやはり非常に有効だ。アトラナート商会が発足するまでシャンリット領が保ったのは実質、母上のコネクションのお陰だし」

 ウードの父母が身分違いの恋の末に駆け落ちしたことに端を発して、シャンリット領はウードの母エリーゼの実家である公爵家の意向で経済的な封鎖が行われていた。
 アトラナート商会も有形無形の妨害を受けているが、アトラナート商会でしか商っていない商品や作物も多いことや、品質や精度の高いモノを扱っているということで、徐々に信頼を獲得し、他領にも食い込んでいっている。

「そういえばいい感じにお金が集まってきてるから、商会には魔道具やインテリジェンスアイテムの蒐集を更に強化するように指示を出すか。
 今はもう製法が失われた古の魔道具を研究解析して、その機能を再現出来るようにしたい。
 特に〈ゲートの鏡〉が欲しい。ゴブリンからの報告によると、2つの鏡同士を繋ぐという魔道具があるらしいんだが……。これが手に入れば、今は〈サモン・サーヴァント〉の召喚ゲートで行ってるのをもっと安定させることも出来るし、生物の輸送も出来るようになるだろうし……」

 荷物纏めの最中に見つけた書類を読み返しながらウードは呟く。
 今読んでいるのは、現在ゴブリンたちが捜索している古い魔道具についての目録だ。
 それらが手に入ることによる恩恵について、荷造りを中断してウードはあれやこれやと頭を巡らせ始める。

「マジックアイテムといえば、王都には師匠も居るし、学院に行く途中には挨拶しとかないとなー。
 色々と相談したいこともあるし、3年は何かとお世話になるかも知れないし、きちんとしとかないと。
 お土産は何がいいだろうか、やはりお菓子か何かだろうか? マジックアイテム作成に使える精霊石の類?
 ……家事手伝い用にゴブリンメイジでも一匹連れて行って行った方が喜ばれる気がするなあ」

 師匠は家事が徹底的にダメだから、などと師匠について思い出しつつ、読んでいた目録を放り出して、荷造りに戻る。
 マジックアイテム作りの師匠のことを思い出すと、連想で、ウードの魔法の師匠であった老爺のことも思い出される。

 そう、ウードが呪いを移して殺したあの老人だ。
 彼のお陰で、ウードは今の所、呪いに苛まれることなく普段通りに振舞えている。
 だが、何分やむを得ず緊急であり、そして老爺も望んでいたという事情があったとしても、身内に等しい人間を殺すという体験は、ウードの箍を確実に緩めてしまっている。

 そんなこんなで時に思索に暮れ、時に感傷に浸りつつもウードは準備を進めていく。
 片腕が上手く使えないので、『念力』を器用に使って物をドンドンと移していく。



 数日後。出立の日。門前に家族が並び、ウードを見送る。ウードの前にはユウレイグモ型の足長のゴーレムが待機している。ゴーレムの胴体部分にはシャンリット家の紋章が刻印されている。

「では、行ってきます、父上、母上」
「ああ、しっかりと学んでくるのだぞ」
「他の貴族の方に粗相のないようにね~」

 商会による領内開発のテコ入れによって税収増の見込みが立ったため、魔法学院に入学するにあたっての金銭的問題は解消されている。
 魔法学院のある王都周辺まではシャンリット領から馬車で10日。竜籠でも2日はかかっていた。こんな辺境では、魔法学院に入学するのも一苦労なのである。
 学費もバカにならないし、物価の差もあるし、やたら舞踏会系の学校行事が多かったりして見栄を張るお金も必要だし……。まあ、諸侯以上の嫡子は魔法学院で学ぶことが半ば義務になっているのでウードの場合は通わないという選択肢は無いのだが。

 「片腕が不具になったので廃嫡して下さい。魔法学院にも通わせて貰わなくて結構です」とウードは父母に伝えたのだが、フィリップの「家計に余裕はあるから取り敢えず魔法学院は出ておけ。廃嫡云々はその後はっきりさせる」という言葉で魔法学院行きが決定したのだ。
 一昔前のシャンリット家の収入では、嫡男のウードはともかく、妹のメイリーンや弟のロベールを入学させるお金は無かっただろう。
 アトラナート商会の尽力により、領地収入が増える見通しが立った今なら、ウードの弟妹を魔法学院に入学させても財政的に何の痛痒もない。

「じゃあ、またな、メイリーン、ロベール」
「はい、お兄様。長期休暇の折には、必ず帰ってきて下さいね」
「おにーちゃん、どこかいくのー?」

 弟のロベールは2歳半ばで、まだまだウードが何処かに行くことが良く分かっていないようだ。まあ、メイリーンがいるからウードが居なくなっても寂しい思いはしないだろう。
 帰ってきたら弟に忘れられていた、なんてことが無いように、必ず長期休暇は帰るようにしよう、とウードは思う。

「ああ、帰って来るさ。ロベールに忘れられても困るしな」
「ぼく、わすれないよー!」
「ふふ、帰ってらっしゃるのを心待ちにしてますわ」

 妹のメイリーンは最近ますます母のエリーゼに似てその美貌に磨きをかけている。
 メイリーンはエリーゼの水メイジの才能を受け継いだらしく、霧を操って虹を作ってはロベールをあやしている。あの対軍魔法『集光(ソーラーレイ)』を継承する日もそう遠くはないかも知れない。
 母のエリーゼは体術が苦手だったため接近戦に弱かったが、メイリーンは幼い頃からの筋力強化もあり、父フィリップから格闘の手解きも受けているので恐らく接近戦にも強くなるだろう。末恐ろしい話である。

 また、水メイジらしく、メイリーンは秘薬にも興味があるようだ。ウードのグロッタの地下にある秘密標本庫には、メイリーンの興味を惹きそうな劇薬の類も多数保管されている。
 今更手遅れの感はあるが、それらが見つけられて、今以上にメイリーンのマッド・アルケミストの方面への技能が向上するのも恐ろしいので、厳重に封印が施してある。
 液体を操る水メイジが、ニトログリセリンの『錬金』を覚えたらと思うと恐ろしいものがある。王水の鞭でも充分怖いが。きっとメイリーンは将来は、近距離では格闘、中距離では劇物で出来た『ウォーター・ウィップ』、遠距離では『集光(ソーラーレイ)』と無敵の性能を誇るメイジになるだろう。

 グロッタの傍を離れる以上、地下の秘密倉庫の隠蔽にはこれまでより一層注意せねば、とウードは心に誓う。あの中には見られると不味いものが多すぎるのだ。『錬金』で出入口は完全に密閉しているから、滅多なことではバレないだろうけれども。

「夏期休暇の折には、帰郷します。
 アトラナート商会に、遠隔地を繋ぐ魔道具が無いか探させていますし、多分、夏期休暇にはそれで王都とウチの領地を繋げるでしょう」
「おお、そうか、そんなものがあるのか。全く、彼らの手は本当に長いのだな」

 だが、とフィリップは渋面を作って言葉を続ける。

「まあ、今の伯爵家があるのは彼らに依る部分も大きいのだが、本当に得体の知れない連中だ。
 ウードからの紹介じゃなければ、付き合ったりはしなかっただろう」
「まあまあ、いいじゃないですか、あなた。
 彼らもシャンリット領の為に動いているのですから」

 伯爵家内のアトラナート商会に対する評価は、『得体が知れないが便利』、『若様のお気に入り』、『財政の救世主』、『矮人ども』といったところだ。
 アトラナート商会が領内から排除されるほど険悪ではないし、そもそも排除するには伯爵家が受けている利益が大きくなりすぎている。アトラナート商会も、上手くニッチを突くことで既存の商会との軋轢を避けたり、あるいは吸収合併したりしているようだ。

 ちなみに、2地点を繋ぐ鏡の魔道具というのは、人面樹に吸わせた貴族の記憶から在処が判明したものだ。さる貴族が愛人(大貴族の未亡人)との逢引に使っていたらしい。緊急避難路の意味合いもあるのだろうが。
 つまり、逢引用の別荘と貴族宅を繋ぐものと、その逢引用の別荘と愛人宅を繋ぐものの2組の鏡があるのだ。2組あれば、王都とシャンリット領を繋ぐ分と、複製を作るための研究用の分も確保出来る。

 現在、ゴブリンたちは、手段を問わず鏡の確保を急いでいるところである。
 この鏡を解析すれば、行き詰まっている『サモン・サーヴァント』のゲート術式の研究も進展するだろう。

「では、名残惜しいですが、行って参ります」
「ああ、気をつけてな、ウード」

 ウードは蜘蛛型ゴーレムの背にあるキャノピーを開けて、手荷物を放り込み、『レビテーション』を使って自身も内部のリクライニングシートに乗り込むと、ゴーレムを操って王都へ向けて街路を進ませる。
 その他の大きな荷物は商会の宅配サービスを用いて学院まで届けてもらう手筈になっている。

 ユウレイグモ型のゴーレムはその長い脚をゆらゆらと大きく揺らしながら街路を進み、徐々に屋敷から遠ざかっていく。
 ゴーレムはガーゴイル化されており、王都までの街路は自動操縦で進むことが出来るようになっている。馬車を操る御者ゴーレムの応用である。
 これでウードが寝てる間も蜘蛛型ゴーレムを行軍させることが出来る。恐らく丸2日も動かし続ければ王都まで着くだろう。

 ウードは手荷物の中から、今日中に目を通さなければいけない書類を取り出して読み始める。
 移動中も〈黒糸〉を通じて商会のゴブリンメイジたちとは連絡を取れるし、商売は水物であるので決裁を滞らせる訳にはいかないのであった。新しい書類も〈黒糸〉を通じて『遠見』の魔法で手元に映される。必要なら写真の要領で紙に焼き付けることも可能だ。
 その他にも日々新しい研究成果が報告されるので、ウードとしてはそれを読むのが純粋に楽しみだということもある。





 葡萄畑や田園地帯を通り抜けて、到着したのはトリスタニア。
 遠目から見ても王城が目立つその街は、トリステインの王都。王のお膝元である。
 シャンリット家の別邸もあり、何名か家臣が詰めている。今後は商会関連や総合大学開設のための根回しに、パーティを開催したりなどでよく利用するようになるだろう。

「うーむ、目ぼしい古道具屋とかはもうゴブリンたちが見て回っているし、王立図書館の本も必要なものは粗方は写本しているし。
 師匠に会いに来たり、商会関連の折衝を行うときに来るくらいかな。たまにはウチの別邸に顔を出すのもいいかも知れない」

 アトラナート商会トリスタニア支店は郊外に建設してある。全体的に鋭角が少なく、円や球を連想させる建物で、巨大な倉庫を併設している。
 そこでウードは預けていた荷物を受け取る。『サモン・サーヴァント』の召喚ゲートを利用した輸送によって、シャンリット領で預けた荷物はウードのゴーレムより早く王都に着いていたのだ

「ウード様、お預かりしていたお荷物はこちらです」
「ああ、ありがとう」

 王都の支店に詰めているゴブリンは、特に身体が大きい氏族が多い。
 系統魔法の才能はそれほどでもないが、成長の調整や、様々な幻獣の遺伝子をキメラ技術で混ぜることで強靭な肉体を得ている氏族だ。
 あまり小柄すぎると、王都の衛兵から補導を受けたりするので、10歳くらいに見える氏族が外回り要員として主に配置されている。内勤は様々な氏族が入り交じっているが。

 幻獣とゴブリンメイジのキメラは幾つかの氏族系統が存在し、身体能力強化に特化したものや魔法能力強化に特化したものなどがある。血統によっては翼人のように翼があったり、ミノタウロスのように蹄や角があったりする者も居る。
 彼らはあまりに遺伝子が混ざりすぎていて子どもが残せないため、一代限りの宿命だが、バロメッツによる量産によって子どもが産めない欠点は気にする必要が無くなっている。

 ゴブリンたちの量産にあたって、伝染病の発生には特に気をつけさせている。アトラナート商会の本拠地であるダレニエ村でも、公衆衛生の徹底をしている。都市化による人口の過密化は常に疫病の流行と隣合わせであるからだ。
 今のところ、天然痘や結核、ペストやエイズ、インフルエンザなどの致命的な流行は起こっていないが、将来的にそういったことが起こらないとも限らない。
 品種改良によって遺伝的多様性に乏しくなっているから、伝染病はゴブリンたちにとって致命的になりかねない。
 ひとつの対策として、使い魔の寄生虫と融合する〈バオー〉氏族の研究によって、氏族以外のゴブリンでも免疫力や生命力を強化出来る融合共生虫も開発中である。

 ゴブリンの伝染病だけでなく、バロメッツや人面樹の伝染病や害虫の発生にも気を使っている。
 特に人面樹が全滅すると、大きな知的財産の損失である。

 動物同士、植物同士のキメラが可能な以上、病原体のキメラというのもゴブリンの研究所では研究されている。
 強毒型インフルエンザやエボラ出血熱、天然痘、ペストなど、前世の世界にあったような病原菌やウィルスはこの世界にも存在する。
 それらを蒐集し、研究し、対抗策を考えたりする研究施設なのだが、その過程で超強力なキメラウィルスが出来たりもする。

 何かの拍子にバイオハザードが起こったりしないように、危機管理だけはしっかり行っているが……いつか何かをやらかしそうである。ウードの性質は“迂闊”であるからして。
 まあ、それも含めた対策(フェイルセーフ)は考えられてはいるのだが……。

 街並みは郊外の田園風景から、雑多で活気あふれる居住区へと変貌していた。
 公衆衛生について考えを巡らせつつも、従者姿の荷物持ちゴーレムを引き連れてウードは歩く。

 やがて、職人たちが軒を連ねる通りに入り、ウードの師匠のアトリエに到着する。
 ドアノッカーを鳴らす。
 中で『サイレント』を掛けていなければ誰かが応対するだろう。

「……どちらさまで」
「ウード・ド・シャンリットと申します。こちらの親方に世話になったものです。この度、魔法学院に入学することになったのでそのご挨拶に」
「ああ、これは失礼を。確かに親方から伺っております。こちらへどうぞ」

 師匠の徒弟と思われる少年に促されて、工房に併設された事務所に通される。
 ここの工房はカメラの製造でかなり儲けておりそのお金で拡張したのだという。現在もアトラナート商会から委託されてカメラの製造を行っている。
 王都にアトラナート商会が進出する際には、職人同士のつながりを通じて色々と口を利いてもらったりしている。

「おーおー、ウード君、久しぶり」
「師匠も壮健そうで何よりです。あ、こちらはつまらないものですが」

 事務所に通されたウードは師匠と向き合い、ずっしりと精霊石や金銀など何やらいろいろ詰まった箱を渡すと、簡単に挨拶をして近況について話し合う。
 カメラの価格をどうするかとか新商品の開発とか色々と。

「では師匠、今日はこれくらいでお暇します。また近くに来たときは寄らせてもらいます」
「なーに、君ならいつでも大歓迎だよ。
 それより、その腕は大丈夫かい? 吊っているけど、それ、利き腕だろう?」
「ああ、この右腕ですか。ちょっと幻獣討伐の時にやらかしてズタズタになっちゃいまして……。いやはやお恥ずかしい。
 普段は『念力』を使って身の回りの事をしているから支障はないですよ」

 今では『念力』の方が手よりも器用なくらいです、などと、ウードはあらかじめ考えていた言い訳を口にする。
 蜘蛛に変容した右腕は、いつもは三角巾で吊り下げた形に固定しているのだ。
 対外的には幻獣討伐の時に負った傷が元で不具になったと言うことにしている。

「ふーん、君が傷を負うトコなんか想像できないけどね」
「まあ、慢心していたんでしょう。では失礼します」
「あー、じゃあ、また今度な。ウード君」

 師匠の工房を後にしたウードは少しトリスタニアの街並みを見て回る。
 日が傾き始め、夕飯を提供する食堂などは早速仕込みを初めているようだ。料理の匂いがそこかしこから風に乗ってやって来る。

 また、忙しく荷車を引いて動いているゴブリンたちもちらほら見かける。
 アトラナート商会の宅配サービスのゴブリンたちであったり、他の商会の人足として割安で雇われているゴブリンたちだろう。
 もっと日が傾いて、夜が深まってから色町の方へ行けば、ひょっとすれば特殊な嗜好を満たすために娼館で働いているゴブリンたちの姿も見られるかも知れない。

「ふむふむ、ゴブリンたちの浸透も順調? かな」

 再び郊外まで来たウードはアトラナート商会トリスタニア支店の前に停めていたユウレイグモ型ゴーレムに乗り込む。
 ゴーレムの後ろには商会で受け取った荷物を詰めたコンテナを結わえ付けている。
 コンテナを『レビテーション』で浮かすと、そのままゴーレムを魔法学院の方へと進ませる。

「まあ、夕日が沈むまでには着けるだろう」

 道すがら、何台かの馬車とすれ違う。恐らくは王都から魔法学院に今季入学する生徒やその荷物を運んでいった帰りだろう。
 行き交ったり追い抜いた者たちは、ウードの大きな異形のゴーレムを見て、驚いたり眉を潜めたりなど様々な反応を返してきた。

 中には護衛のメイジが牽制のために杖を向けてきたものもあった。

「おいおい、蜘蛛の異形で驚いていたら、ドラゴンなんかに行き遭った時はどうするつもりだよ。心構えが足りないんじゃないか?」

 蜘蛛の足は8本。ゴーレムを歩かせていても4本は常に地面に付いている。重心を安定させるには3本接地していれば充分だ。つまり、その気になれば5本を迎撃に回すことが出来る。
 ウードは、8本ある脚のうちの1本を振るって、ある馬車の護衛のメイジが生み出した『火球』を振り払い、霧散させる。
 そして直ぐに残りの脚を使って跳躍する。『火球』を放ってきた護衛メイジを飛び越して、街道を跳ねて魔法学院に向かう。

 まあ、5メイルはある蜘蛛の化け物みたいなのが向こうからやって来たらビックリするという気持ちも分からないわけではない。
 だが、このハルケギニアに暮らす以上はどんな異形の使い魔に遭っても吃驚しない度量を身に付けておくべきだろう、とウードは思う。ウードの乗るゴーレムは確かに悪趣味ではあるが、決して非常識な姿形ではない。このハルケギニアの動物として充分にあり得る形をしている。

「ああ、もう、王都で普通の馬車に乗り換えてくるべきだったか」

 跳躍に伴ってダイナミックに揺れるコックピット内で、そうやって後悔する。ゴーレム後部に結わえた浮遊コンテナがゴーレムにぶつかってガツンガツンと衝撃を伝えてくる。

 その時、跳躍した方向から夕闇を払わんばかりの眩い火の手が迫る。
 先程霧散させた牽制目的の『火球』を上回る勢いの――明らかにトライアングルクラスの炎がウードのゴーレムを襲わんとする。

「う、わ! 何だ!?」
「あああああああ! 蜘蛛! 蜘蛛! こっち来るな! あっち行けええええぇぇええ!」

 キャノピーの向こうから、恐慌に駆られた絶叫が聞こえる。
 若い男の声だ。学院の生徒だろうか?
 鉄をも溶かす炎が次々とウードの乗る蜘蛛型ゴーレムに発射される。発射元はウードの前を行く馬車のようだ。

「あああああああ! キモイ! どっか行けええええ!!」
「ちょ、おま、やめ! 当たる当たる! うわあああ!」

 その連射される高温『火球』をウードはぴょんぴょんとゴーレムを跳躍させ、風を纏わせた脚で振り払って逸らして避ける。
 幾ら何でもトライアングルスペルが直撃すればタダでは済まない。
 その回避の挙動がまた何か癇に障ったのだろうか。飛んでくる『火球』の勢いが増す。

「うわあああああ! 避けんな! あああああああ! その動きがキモイ! 当たれよ! クソッ!!」
「おおお!?」

 轟々と『火球』がコックピットを掠める度にウードは冷や汗を流す。既にゴーレムの脚のうち3本は『火球』を迎撃するうちに熔け落ちてしまっている。

「やってられん! 全速前進!!」
「うをおおおおおお! 死にさらせええええ! 蜘蛛めえええ!」

 ウードは残った5本の脚をグッと縮ませると、そこに蓄積させた弾性エネルギーを一気に開放する!
 急加速による凄まじい加速度がウードの身体にかかる。
 体内の〈黒糸〉によってウードの肉体強度は大きく上がっているが、それでも耐え難い加速度だ。

「うあ、きつい……! 気持ち悪い、酔いそう」

 着地して、再び跳躍。着地、跳躍、着地、跳躍、着地、跳躍……。
 前後左右上下に揺れるゴーレムの中で、ウードは先程の魔法を放った馬車について考える。追い越すときにちらりと見えた馬車の紋章にウードは見覚えがあった。

「あのトライアングルクラスの『火球』を撃ってきた馬車の紋章には覚えがある。
 確か、母上の元婚約者の家系の紋章だったハズだ。そう、父上が昔、母上を賭けた決闘で下した相手の紋章だ。
 名前はなんと言ったか……ドラクロワ、だったか、確か」

 シャンリット家に恨みを持っている家は幾つもあるが、ウードの両親絡みでは二つの家が主に敵となる。
 一つは母方の実家である公爵家。
 もう一つがウードの母エリーゼの元婚約者であるドラクロワ家。

「まさか父上にノされた本人が乗っていたって事はあるまいが、話に尾鰭がついて一族でウチのことを敵視しているという可能性はある、か?
 まあ向こうの家にしてみれば、メンツを潰されたのだから順当か。
 しかも、母上の実家は、未だにあっちの家に肩入れしているから調子づいてるんだろう。
 というか、肩入れも何も母方の実家の公爵家の一門だからな、ドラクロワ家って」

 本来であれば、ドラクロワ家としては公爵令嬢と婚姻関係を結んで家臣団の中での地位を磐石にするという腹積もりだったのだろう。
 しかし、ウードの父フィリップに略奪愛されたことによってそれもご破算になったというわけだ。

「先程の絶叫を聞くに、こっちがシャンリット家と知って魔法を放ってきたわけではなさそうだが……。
 何だったんだ? 蜘蛛になんかトラウマでもあるのか? 蜘蛛恐怖症(アラクノフォビア)?」

 顔はウードの方からは見えなかったが、最悪の初対面であったことは間違いないだろう。

「本当にアラクノフォビアだったら、絶対に俺とは相容れないな。蜘蛛の可愛さが分からんとか、永久に分かり合える気がしない。
 まあ、色々因縁もあるし、ともかく関わらないようにしよう。そうしよう」

 ウードの行く先に漸く魔法学院の塔と城壁が見え始めた。





 学院に到着したウードが案内された寮の部屋は4階の角部屋だった。
 図書室まで遠いのが玉に瑕だが、まあ、『フライ』の魔法を使えば問題なさそうだ。

 ウードは着いて早々、寮の部屋と言わず、学院の建物全てに〈黒糸〉を浸透させていく。
 学院の敷地には元々〈黒糸〉を張り巡らせてあったが、その上に更に濃密に張り巡らせる。
 いつ、何処に居ても瞬時に〈黒糸〉にアクセス出来るようにしておかないとウードは安心できないのだ。体内の〈黒糸〉を媒介にすれば無手でも魔法は使えるとは言え、やはり周りも〈黒糸〉に覆われているかそうでないかでは安心感が違うらしい。

「勘の良い人間は、〈黒糸〉が張り巡らされたことに気づくかもしれんが……、構うものか。
 何かが張り巡らされていることには気づくだろうが、それが私の〈黒糸〉の杖だとは気がつくまい」

 〈黒糸〉がウードのものだと気づいたところで、それはそれで問題ないだろう。
 そうなれば、学院は既にウードの腹の中も同然だという慄然たる事実に気が付き、決してウードに近づこうとはしないだろうから。

 日は沈み、夜は更けて、明けて、日は昇り、また傾いて、再び夕日。
 ウードは丸一日かけて〈黒糸〉を学院中に偏執的なまでに張り巡らせた。これで、この学院でのウードの死角は無くなった。
 奇襲に完全に対応できるとは言いきれないが、この〈黒糸〉の結界の中ではそうそう死ぬことも無いだろう。

「うむ、これで安心だ。この〈黒糸〉による蜘蛛の巣の中で無いと、もはや落ち着かないからな。
 あとは研究室作りかな。何処か学院の隅の地下にでも造ろう」

 もはや〈黒糸〉を張り巡らせるのは習性と言って良いレベルではないだろうか。
 そして巣を張った後、ウードは、誰にも見られない場所に“洞窟(グロッタ)”を造ろうと決意する。
 〈黒糸〉に認証機能を付ける研究をしなくてはならないのだ。

「研究室を造ったら、まずはインテリジェンスアイテムの作製と、それを杖として使用しようとした際に、そもそも契約出来るのか否かの検証。
 また、杖として契約出来るとして、インテリジェンスアイテム側から契約拒否や魔法行使の制限が可能かどうか……」

 越してきたばかりの寮の一室を歩き回るウード。丸一日ずっと〈黒糸〉を錬金し続けていたのでお腹がすいているが、そんなものは炭の塊と空気から最低限、糖とアミノ酸と脂肪酸を錬金して、塩分とかリン酸類を原子核変換の『錬金』で作って血管に点滴すれば解決だ。因みに排泄物も体内の〈黒糸〉で『錬金』すれば綺麗サッパリ無くなる。研究生活十数年、このウード、引きこもりの為の魔法は既に完成させている!
 標本群も写本の類も置かれていないので、書類が山と積まれている実家の研究室と違い、彼の歩みを邪魔するものは無い。シャンリットの屋敷のグロッタでは、そこかしこに置いてある標本群と目が合ったり、積み上げられた書類の影から滲み出る名状しがたい気配があったりして、またそれが彼にブレークスルーを齎したりするのだが、それもこの部屋にはない。

 歩き回るウードは、吊っていた右手を自由にし、嵌めていた義手を外すと、黒々とした甲殻を矯めつ眇めつ眺める。
 ヒトで言うならば手首の辺りから、それは二股に別れている。
 ウードは丁寧に、その鋏のような形の指を曲げて開いて動作を確認し、そこにびっしりと生えている感覚毛をゆっくりと逆立てていく。

 長い間誰も使っていなかったために淀んだ空気の、その埃っぽい匂いを、ウードは右手で感じた。埃だけではない。此処の前の住人の残り香さえも感じられる。この指先は嗅覚も兼ね備えているのだ。
 敏感な感覚毛は、部屋の中の些細な風の動きを伝えて来る。風メイジもかくやという精度があるのかも知れない。
 ぐっ、と3爪の生えた2つの指を握り締めると、思考は別のところに向かう。

「あの『火球』……、ドラクロワ家のメイジは同学年だろうか? 家紋入りの馬車だったから、入学準備だろうし。
 ……一悶着起きなければ良いんだけれど」

 だがそれきり同級生(推定)についての思考を打ち切る。杞憂していても始まらないし、家同士で対立しているからこそ篭絡する価値はあるとも言えたが、実際に会ってみなくては話しは始まらないだろう。

 もう一度研究室の場所の策定に思考を戻す
 ウードが漏れ聞く限りでは、この学院には〈遠見の鏡〉という魔道具があるようなので、その範囲に入らないような場所に造らなくてはならない。
 〈黒糸〉によってマッピングした学院地図を頭に浮かべながら、ウードは地下研究室の設計図を描くべく寮部屋に備え付けの机に向かう。

「入学式までには研究室を完成させたいな。突貫作業になるが、どうせ他にやることもないし。人足としてゴブリンを幾つか借りてくるべきだろうか……」

 その日から入学式当日まで一週間あまり、ウードの部屋の明かりは消えることがなかった。

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馬車で1日に進める距離を約70KMと仮定。(巡航速度15KM/h 一日5時間稼働)
王都までは700KMくらい。
竜籠は、時速70KMが巡航速度で、一日に5時間乗ったとして2日かかると計算。

多脚戦車的な蜘蛛型ゴーレムは足の長さもあり、巡航速度25Km/hで、24時間稼働とした

2010.07.18 初出
2010.07.21 誤字修正
2010.10.05 ユウレイグモ≒エヴァンゲリヲン(テレビ版)第9使徒マトリエルみたいなイメージです
2010.10.06 修正 



[20306]   外伝2.知り合いの知り合いって誰だろう
Name: へびさんマン◆29ccac37 ID:4dc27135
Date: 2010/10/05 18:54
 周囲には無数の人体が転がっている。
 そしてそれら全ては、死んでいる。
 完全に死んでいる。

 その胸に大きな孔を開けて死んでいる。
 吸い尽くされて死んでいる。
 吸い尽くされたから死んでいる。そう、その魂を。

 死体の中、動きを止めないものが二つ。
 一つは4足で駆け、走るたびに粘液らしき腐汁をボタボタとまき散らしている。
 もう一つは小柄な人影。片足を怪我しているのだろう、引きずるようにして走っている。……否、逃げ回っている。

「はあっ、はあっ、はあっ」

 小柄な人影……ナックルガードが付いた短剣を手に構えた幼い少女に、4足の膿に塗れた獣が襲いかかる。
 少女は間一髪、その獣の爪をいなし、牙を避け、獣の口から伸びる鋭い針のような舌を短剣で切断する。その動きは老練な格闘家のそれであった。無駄を排し、己の身体を鍛えるためにのみ年月を費やしてきた者が到達しうる動作だ。少女は獣の動きを避けて体制を崩しつつも、相手の舌を切断し、さらに倒れこみざま飛び掛ってきた獣の腹へと蹴りを放つ。

 だが、哀しいかな。彼女の攻撃は獣に対してほとんど全く効果を顕さなかった。
 突いても切っても殴っても投げても、それらは獣にほとんど何もダメージを与えなかった。
 唯一有効だったのは、この獣が現れた瞬間に、まだ周りの死体が生きていたときに誰かが命中させた『火球』の魔法だけ。

 それ以外はまるで霧霞を相手にしているかのように、手応えが殆ど全くなかった。

「はあっ、はあっ、はあっ」

 だが、それでも全く手応えが無いわけではない。少しずつ、だが確実に、ダメージは蓄積しているのだ!
 問題は、獣が倒れるより早く、幼い少女の方に限界が来るだろうということ。彼女の命の砂時計の残りは、確実に少なくなっていた。負傷した足から流れ出るその血液が、確実に彼女の命を運び去っている。

「ああああああっ!! 来るさね!! イヌッコロ!!」

 しかし、いや。だからこそ、彼女の精神は燃え上がっていた。
 素早く転がって体勢を整えると、彼女は腰を低く下ろして、構えを取った。その瞬間、獣が撒き散らす腐敗した臭いに満ちたこの空間に、凛とした張り詰めた弦のような清澄さが交じる。

 交錯する二つの影。

 果たして倒れ伏したのは、少女の方であった。脇腹を大きく爪で抉られた彼女は、息も絶え絶えになっている。
 それを見て、満足気にゆっくりと近づく、悍ましい4本足の何か。

「……る、……す、で……」

 今にも死にそうな真っ青の顔で、彼女は何事かを呟く。
 身に纏う青黒いヘドロのような分泌物を垂らして、イヌのような何かが近づく。

 ひた。ひた。ひた。

 青息吐息の少女に狙いを定め、イヌの口から魂を啜る悍ましい舌が伸びる。

 その瞬間であった! 少女の身体を魔法の光が包んだのは!

 少女は囁いていた詠唱を完成させ、『錬金』の魔法を行使したのだ!
 行使するのは、ただの錬金ではない! “死体”を材料に自らの身体を復元させる、禁忌の生体『錬金』!
 通常は不可能とされるそれを可能にするのは、彼女の身に宿る共生蟲! 宿主の危機に感応し、共生蟲はその『錬金』に必要な詳細な身体イメージを補完する!

 失われた肉体を補完し、失った血液を補完し、消費した精神力は昂揚した精神が補完した。
 完調した少女は素早く獣の舌を避け、転がり、跳んで再び体制を立て直す。

「来な、イヌッコロ。周りにある死体は100体余り。
 ――残機100、皆の仇討ちだ、これがゼロになるまで付き合ってもらうさね!」

 再び少女と獣が交錯する――!





 アトラナート商会。
 蜘蛛の意匠をトレードマークにするこの商会は、王都の東側にずっと行ったところ、トリステインの端にあるシャンリット領にその本拠地を置く。
 古くはスパイダーシルクで有名だった土地から、最近頭角を現してきた商会である。

 非常に旨い作物を町村の小型商店に卸すということで王都から辺境の村々まで評判になっている。
 絵を主体にしたチラシを用いて、文盲の平民層もターゲットにした広告宣伝を行ったことも功を奏しているようだ。
 地域密着型とやらをモットーにして、様々な地域に次々と蜘蛛の子を散らすように(?)支店を広げている。

 商品はニンジンっぽいものやカブっぽいもの、その他キャベツなどの様々な菜っ葉モノが主力である。
 それぞれは昔からトリステインでも食べられていたものだが、アトラナート商会が商うものは苦味が少なく、甘みが多く、またいつも新鮮で、値段は若干高いもののそれは品質相応ということで人気を博しているのだ。
 豊穣を表す蜘蛛の看板は伊達ではないのだと、周囲に印象づけるものだった。
 また甘味料を始めとする各種調味料も人気である。砂糖の他にも、「ぐるたみんさん」だとか何とかいう新しい調味料も扱っている。

 最初の頃は、それら商会の新商品を使って料理を作り、タダで配ったりして宣伝に務めていた。
 タダで料理を配るなんて何を考えているのか、神官の真似事かと周りの者は不思議に思っていたのも、今は懐かしい。
 彼らが扱う商品には異国の野菜なんかもあったから、そうでもしなければ彼らの街への浸透はもっと遅くなっていただろう。

 高品質な小麦粉も商っているが、大規模な栽培は行っていないのか未だ市場には殆ど出まわっていない。
 一部の高級料理店に直接に卸しているくらいのものである。
 今後取引量を増やすそうだが、まだまだ市井に出回るほどには価格は下がらないと見られている。
 暫くはアトラナート印の小麦粉は高級品の扱いのままだろう。

 そのアトラナート商会が新しい商いを始めるのだという。
 蜘蛛の看板を掲げているからてっきりスパイダーシルクでも商うものかと思ったら、「確実」、「迅速」をモットーにした荷運びの請負を行うのだという。

 そういえば、彼らが卸す野菜はいつも同じ大きさの紙の箱(段ボール箱、というらしい)に詰められて送られてくる。
 段ボール箱を山積みにしたリアカーを引いて、小柄な子どもが街路を馬車よりも速い速度で疾走して各商店に届ける風景は、元気で微笑ましい光景として街の朝の風物詩と化しつつある。

 新サービスのキャッチコピー曰く、「トリステイン内なら何処でも1箱10スゥ!急ぎの荷物はアトラナート商会にお任せあれ!」とのこと。
 いつも新鮮な野菜をトリステイン中に運んでいる輸送システムを用いて、運送業を始めようというのだ。

 野菜を卸す先の各地の商店の軒先を借りて集荷を行ない、それを一箇所に集め、行き先ごとにまとめて配送先まで運ぶらしい。
 荷物は野菜を届ける段ボール箱と同じサイズのものを一単位として受け付けるそうだ。
 段ボールコンテナはアトラナート商会で無料で用意しており、顧客にはそれを利用してもらう手筈になっている。

 一箱からの小口顧客だけでなく、大口の顧客用の比較的割安なプランもあるのだとか。

 サービスが始まる前からも、どうやってトリステイン中を半日程度で結ぶのか、市井や運送業者の噂の種になっていた。
 この時点では皆、「随分トバシた宣伝をしてるなぁ。」というような呆れたような冷笑的な意見が大勢であったが。

 実際にサービスが始まって、あのキャッチコピーが嘘でないと知れると、呆れは驚愕に、冷笑は感嘆に変わった。
 この驚愕の新サービスの秘密を皆がこぞって噂し合った。

「フネを使ってるのさ。」「いやぁ、ドラゴンを沢山使ってるとか?」「ジャイアントモールさ。地面を掘って行ってるんだ。」「魔法だろう。」「魔法か。」「魔法だろうな。」

 真実を探るものも居たが、いずれも人知れぬうちに姿を消してしまった。
 蜘蛛の巣に突っ込む蝶はどうなるのか、それは帰って来ない探索者たちが無言で、だが雄弁に語っている。

 帰らずの犠牲者が語るのは、即ち『アトラナート商会を探るべからず。』ということ。
 今では真偽の定かではない都市伝説の一つとなっている。



――知り合いの知り合いがさぁ、夜中にアトラナート商会の倉庫に忍び込もうとしたらしいんだけどね――



 誰が語り始めたのか定かではないが、娯楽の少ない世の中で噂話はあっという間に広がった。

 それでも子供の姿をした異物は、少しずつトリステインの社会に侵入しつつあった。

 便利で善良そうだが、杳として由来の知れない彼らを、皆が不気味に思いつつも。徐々に。徐々に。







 蜘蛛の糸の繋がる先は 外伝2.知り合いの知り合いって誰だろう






 アトラナート商会トリステイン支部、王都郊外にある集配場。
 金属製の板と骨組みを組み合わせた倉庫が林立するその場所は、ウードの名義で使用権を買い取った郊外の居住区を潰して作ったものである。
 極力鋭角を排された建物は、柔和に周囲の田園風景に溶け込んでいる。

 暮れなずむ夕日に染まる長閑な郊外にあるその場所は、現在、戦場だった。

 アトラナート商会が採用しているのは、朝夕に集荷したモノを召喚ゲート作成専門のゴブリンメイジたちが作った召喚ゲートを通じて移送するというシステムである。
 メイジと召喚動物を遺伝子レベルで規格化したアトラナート商会にか出来ない輸送方法だと言える。
 その都合上、送付を行う第一集配庫では国内80箇所の主要集配所同士を結ぶゲートが自処以外の各集配所向けに79門、常に稼動状態になっている。
 2つのゲートを繋ぐようにベルトコンベアが配置され、その上を小型コンテナが流れてゆく。

「おいぃ!これ伝票とゲートが間違ってるぞ!」

 全てが全て規格化された小型コンテナによって移送されるので、伝票のチェックは重要である。外見からは中身が分からないのだ。
 そして集配の間違いは即座にアトラナート商会自体の運送サービスの信用へと直結する。
 誤配を防ぐために、何重ものチェックを経て誤りが起こらないように業務フローが整備されている。
 予め野菜の卸しを行うことでゲート輸送システムのブラッシュアップと、従業員の慣熟をしていなければ、いきなり運送業を始めても配送間違いを繰り返して、信用を失い、失敗していただろう。

「あぁ、幼虫(ジャイアント・ラーヴァ)がゲートに!」
「ゲート消滅しますぅ!」
「第24支部に連絡、幼虫の殺処分!
 こっちは予備の幼虫を定位置に着けとけ!」
「ハイですぅ!」

 時々、このように召喚ゲートを維持するためのジャイアント・ラーヴァ(大きなカブトムシの幼虫)がゲートに飛び込んで、役目を果たしたゲートが消滅することもある。
 そんな時は、幼虫を殺して、同じ遺伝情報を持つクローンの幼虫を再召喚することでゲートを再構築する。
 因みに、支部同士の連絡は〈黒糸〉と呼ばれる、この地を蜘蛛の糸のように覆っている、魔法の杖の拡大発展版のようなものを通じて行われる。

 業務を行っているのは百名近いゴブリンと、彼らが操るそれに倍する数のゴーレムである。
 ゴーレムと言っても別に人型をしている訳ではない。
 いや、人型も勿論あるのだが、他にもベルトコンベア型だったり、リフトカー型だったり、ターンテーブル型だったり、アーム型だったりと、様々なタイプがある。
 それらが組み合わさり、次々と荷物を分類しゲートに流していく。

「あー、これはド・シャンリットねェ。こっちはド・ロレーヌねェ。割れ物注意でェ。」
「ハイ、これは1番ゲート、こっちは32番ゲートで。32番は割れ物注意。」

 リフトカー(型ゴーレム)が町中からリアカーに積まれて集められた荷物を運び、ベルトコンベア(型ゴーレム)に載せる。
 ベルトコンベア(型ゴーレム)を流れるコンテナの伝票をゴブリンが見て行き先を確認し、ターンテーブル(型ゴーレム)を回して、次々に該当するゲートに繋がるベルトコンベアー(型ゴー(以下略))に流していく。
 ベルトコンベアー(型(ry))を流れる途中でも幾人かのゴブリンがチェックを行う。

「あー、もう、面倒臭い。疲れたー。」
「あー、研究してー。」
「あー、シャンリットに帰りたいー。」

 因みに。

「あー。」「あーー。」「あーーー。」

 ここで働くゴブリン達は。

「いー。」「あーー。」「いーあー。」
「いあいあ五月蝿いさね、お前たち。
 強制労働で済ませるだけ慈悲深いってもんさね。
 本来ならお前ら全員実験棟行きさね。」

 殆ど全てがゴブリン社会での犯罪者である。

「牢名主の姐御ー。」「人のことはー。」「言えないくせにー。」

 罪状は様々。

 相手の同意を得ずに解剖したりとか。
 作成した秘薬を相手の同意を得ずに晩餐に混ぜたりとか。
 酔って人面樹を燃やそうとしたりとか。

「はん、捕まったのは運が悪かったからさね。次は上手くヤルさね。
 お前らにもココから出たらカッコいい外骨格着けてやるさね?」
「お断りします。」「お断りします。」「お断りします。」

 相手の同意を得ずに何十、何百人とキメラ(仮面ライダー的なサムシング)に改造したりとか。

――そんな行き過ぎたり迂闊だったりするような、どこか彼らの品種作成者に似た者たちが人間社会での奉仕労働に従事している。

 犯罪者以外は人間社会や組織の効率的運営、犯罪者の心理などを間近で研究したいという奇特なゴブリンたちである。
 囚人ゴブリンたちはモチベーションは低いが、サボると刑期が延びるので割と真面目だ。
 ただでさえ短いゴブリンの一生。大体、ヒトの4倍のスピードで老けるので刑期延長は切実な問題だ。
 その上、幼児期は『活性』の魔法の影響でハイスピードで過ぎるため青春なんて殆ど無い上に、働き盛りの期間も10年も無い位だ。

 まあ、適当に駄弁りながらも彼らは作業だけはこなす。

 山と積まれた送配用のコンテナは減り、次々と他の支部から送られてくる荷物が受領用の倉庫のベルトコンベアーを流れていく。
 受領用の倉庫では、配送先の住所に合わせて更に別の小支部のゲートに送ったり等しつつ、分類を進める。
 そうして最終的には村や町の家々に配送されていくのだ。

 そして翌日中には

「ちわーす、アトラナート商会でーす。」

 と、矮人が戸口を叩くことになる。





 小口の輸送の他にも、大口輸送もやっている。
 大口の輸送は専属直通契約のみで、召喚ゲートを常時稼動させて次々と多様な荷物を運んでいる。
 小口輸送よりは割安だが、その分規模が大きいので売上には貢献している。

 もともと囚人を使っているため人件費は然程掛かっておらず、ゴブリンの精神力で動く様々な特異型ゴーレムを組み合わせたシステムで効率化されていることもあり、売上の7割以上が粗利となる。

 最初は半信半疑で受け入れられたこのサービスは、あっという間にトリステイン中で評判になり、旧来の馬車や商隊による運送業を圧迫し始めた。
 何せ、郵便すらマトモに届くか分からないご時世に、国内どこでも半日で確実に配送するサービスが生まれたのだ。
 大多数がそちらに流れるのも時間の問題であった。

 そうなると割を食うのは他の運送業者や、その商隊や馬車の護衛についていた傭兵、関税や河川税で儲けていた領主などなど。
 アトラナート商会はそれらの多くの者を敵に回すことになった。

「アトラナート商会?
 奴らのせいでこっちは商売上がったりだ。ギルドにも入ってないくせに出しゃばりやがって。
 こっちは何百年この商売続けてきたと思ってやがるんだ、あの新参のガキどもめ……。」
「最近はとんと荷馬車も走らなくなっちまったよ。
 傭兵も食い上げだが、山賊連中も困ってんじゃねえのかね。」
「あの蜘蛛どもめ!矮人め!
 奴らのせいで今年の税は激減だ!」

 上手く他の業者を吸収したり出来ればよかったのだろうが、旧来とは全く違う運送方法の上、外部に秘密を漏らすわけには行かないので吸収合併は不可能。
 傭兵なんかはゴブリンメイジが居るから、アトラナート商会ではそもそも雇う必要もないし。

 領主連中はアトラナート商会が領境抜けをやってないかどうか疑っているらしい。

「フネを使っていない以上、絶対にどこかの抜け道を通っているはずだ!森の中も土の中も、全て探せぃ!!」

 余った傭兵を雇って関所の他にも領境に目を光らせることにしたようだが、アトラナート商会はそもそも不法越境なんかしていないから捕まるはずもなく。
 領主たちは余計な経費を使っただけに終わった。
 アトラナート商会に対してその輸送方法の秘密を探るべく密偵を放つ者もいたが、その密偵が帰ることはなかった。

 逆に運送以外の商人の多くは運送費の圧縮と関税のスルーによる経費削減でホクホクであるため、アトラナート商会を贔屓にしてくれるようになった。

「いやぁ~、アトラナート商会様サマですな。
 お陰で荷を失うことも無くなりましたし、何より、早くそして安く荷が届くようになりました。
 ……関税ですか?さぁ、私たちは彼らに頼んでいるだけですからねぇ。何も知りませんよ。
 第一、関税を払うのもコミであの値段なんでしょう?当然。
 まあ、余計な詮索をしてもいいことはありませんしナ。」

 光あれば影あり、捨てる神あれば拾う神あり、というわけだ。

 尤もアトラナート商会としても全ての運送業者を駆逐しようとか考えているわけでもないから、適当な所で既存業者が巻き返してくれるのを期待しているのだが。
 幾らゴブリンたちのマンパワーが無尽蔵であるとは言え、到底トリステイン中の貨物を運べるほどではないのだから。

 遅きに失した感はあるが、輸送業者のギルドはアトラナート商会に加盟を求め、また重量あたりの料金の値上げを要求した。
 アトラナート商会は値上げに応じ、旧来から所属していた食品関連のギルドのみならず、輸送業者のギルドにも加盟した。

 加盟の際にこれまでの混乱の迷惑料代わりとして多くの負担金を支払ったのは余談である。
 ちなみにアトラナート商会をギルドに加盟させる為に折衝に赴いたギルド幹部は、アトラナート商会加盟後には大層発言力が増したそうな。
 やはり金は力である。商人の世界では特に。

 今後はアトラナート商会の輸送サービスの顧客は、緊急性が高い貨物や重量あたりの単価が高い貨物を運ぶ商人を中心に落ち着いていくだろう。





 アトラナート商会の集配場の造りには奇妙な特徴がある。
 偏執的なまでに部屋の角や梁の接線が丸く、円く、まぁるく塗り込められており、何処にも直角が存在しないのだ。

「いやあ、今日は“イヌ”が出なくて良かったですねェ。」
「ああ。全くだ。
 今でも新人が時々やっちまうらしいが、それ以外でもたまに、ゲートを作る“角度”が悪いとアレが出るもんな。」
「えェ、えェ、ゲートの途中で何にも無いのに荷が引っかかると、こう『ビクッ』となりますよねェ。」
「ああ、身構えちまうよな。それに臭いしな、“イヌ”は。」
「あの臭いはどうにかなりませんかねェ。」
「辟易するよな。」

「でもまあ、我慢するしか無いでしょうねェ。
 それでも人死が出なくなった分、最初の頃よりは随分マシになったものですねェ。」
「何人も吸い殺されたんだよなぁ。」
「そりゃあ酷いもんでしたねェ。今はキチンと対策出来てますけどねェ。」

「その頃の話は、実体験としては知らねーんだよな。
 一応、断片的にだが引き継いだ記憶の中にはあるんだが。」
「ありゃりゃ、あの時吸われた奴らの一人だったんですねェ。こりゃまた奇遇ですねェ。
 じゃあ『前世』と同じ罪状でこっちに来たんですかねェ?」
「ま、恥ずかしながらね。業が深いというか何と言うか、またヤッちまってな。
 そういえば俺の『前世』と同期ってことは、あんたはもう結構ここ長いんだな。」

「えェ、えェ。私と同じくらい長いのは、あとは牢名主の姐御くらいですねェ。
 あの時、姐御がまぁるい土壁で包んでくれてなきゃ、私ゃ今生きてませんねェ。」
「何でも聞いた話じゃ、一人で“イヌ”を退散させたんだろ?」
「らしいですけどねェ。私ゃ土壁越しのあの恐ろしい“イヌ”の声を聞いただけで気を遣っちまいましてねェ。」
「まあ仕方ないさ。俺の『前世』だって似たようなもんだったし。」
「まあ、姐御がスゲェ方だってのは間違いないですねェ。」
「違いない。」



「おい、お前たち手が止まってるさね。
 早くノルマこなして帰りたいんだから、サボるんじゃないさね!」

「へい、姐御。」「スミマセンですねェ。」
「モタモタしてたら、こないだ入り込んできた密偵みたいに改造の材料にしてやるさね!」

(これさえ無きゃ、いい人なのになぁ。)(もったいない話ですねェ。)





 今日もみんな噂してる。


――知り合いの知り合いがさぁ、夜中にアトラナート商会の倉庫に忍び込もうとしたらしいんだけどね――


 だけどおかしな話じゃないかな。

 彼らの秘密を知って帰った者は居ないのに、なぜそんな『実の所の話』が噂になるの?

 本当は、探索者は皆が皆、悍ましい拷問や実験の果てに死んでいったというのに。


 噂を始めたのは一体、誰なのだろう?

 噂を始めたのは一体、何なのだろう?


 知り合いの知り合いって誰?

 その人って前とは様子が違ったりしていない?

 夜中に全く眠らなかったり、殆ど食事をしなくなったり、そんな事は無い?


 ……そのヒトはホントに人間なのかな?


 ふふふ、いつの間にか、ナニかと入れ替わってたりしてね。





 なあんて。なあんちゃって。

 え、私は誰かって?





 ふふふ、さあ、誰かの知り合いの知り合いなんじゃないかな、きっと。ふふふ。あはは。


==========================

迷走中。まあ、いいか。試行錯誤、試行錯誤。

補足。
文中の“イヌ”=【時の腐肉喰らい】ティンダロスの猟犬
通常の「曲線」の時空に住む生物とは異なり、異常な「角度」の時空に住む。
時空間を渡る者は彼らに接触しないように注意するべし。
彼らは時を超え、空間を超えて、悪臭と共に鋭角(一説には120°以下の角度とも)から煙を立ち昇らせて、その中から顕れる。

青っぽい膿のようなものが全身から滴っており、細いストローのような舌で犠牲者からナニかを啜る。
このナニかは血だったり、或いは魂や精神に由来するものであったり、その定義は定かではない。
猟犬とは言うものの、犬ではなく、正確には「イヌっぽいと言われているナニか」である。伝聞形なのは、基本的に犠牲者は生き残らないため。

彼らは不死であり、一度付け狙われたら逃れるすべはない。
もし仮に退散せしむれば、暫くは狙われることはないだろう。

……サモン・サーヴァントのゲートは明らかに時空を超えるっぽいので、四六時中開きっぱなしだと、こう言う良くない角度に住むものが引っかかるんじゃないかなと思ったり。

2010.07.31 初出
2010.10.05 修正、加筆



[20306] 蜘蛛の糸の繋がる先は 11.魔法学院とは言うものの
Name: へびさんマン◆29ccac37 ID:4dc27135
Date: 2010/10/09 09:20
 昼間も薄暗いヴェストリの広場。
 普段は人気のないそこで、二人の人影が杖を向け合って対峙していた。
 周囲には少なくないギャラリーがたむろし、遠巻きに推移を見守っている。

 ギャラリーの中にはチラホラと随分と小柄な人影も見える。
 トリステインでは余り見かけない褐色の肌をしている子供だが、魔法学院の従業員を務めるくらいなのだからそれなりの教養はあるのだろう。
 ……言わずと知れたシャンリットの改造ゴブリンたちである。こんなところまで浸透しているのだ。

 観衆の中、対峙する一方はジャン=マルク・ドラクロワ。
 彼は自身の特性を表すかのような淡い赤毛の炎髪をかき上げ、もう一方に啖呵を切る。
 その様子は、180サントに届かんばかりの長身と、鍛えているのであろう大型の幻獣を思わせるような屈強な体躯と合わさって、まるで獅子のような印象を見るものに与える。
 今日の入学式典の為に着てきたのだろう、濃紺のマントが学院の制服に映える。

「我が名はジャン=マルク・ドラクロワ。
 ウード・ド・シャンリット! 決闘だ! 決闘である!
 ここで会ったが百年目、我がドラクロワ家がシャンリット家に劣ってなどいないことを証明してくれる!」

 ジャン=マルクはタクトをもう一方の人影に向けて、そう宣言した。

 対するのは、170サントと少しの背丈を黒い羅紗のマントに包んだ少年。右腕は障碍があるのか吊り下げた形で固定されている。マントの襟は長く、首筋を隠してしまっている。ブラウンの髪と同色の瞳。その瞳には何の感情も浮かんでいないように見える。
 貧弱ではないが、筋骨隆々とは言えないシルエットと、体幹に不釣合に長い手足は見るものに節足動物じみた――――まるで蜘蛛のような印象を与える。
 杖代わりの黒光りする鞭を持つ左腕を、その鞭と同様にだらりと吊り下げる姿からは、覇気など微塵も感じられない。
 だが、その目元に刻まれた隈と合わさって、彼はとてつもなく不吉な雰囲気を発散していた。見るものを遠ざける怖気ではなく、見るものを絡めとる不吉さだ。

「どうしてこうなった……」

 見るからに悪役の彼、ウード・ド・シャンリットが漏らした呟きには、大量の後悔が込められていた。







 蜘蛛の糸の繋がる先は 11.魔法学院とは言うものの授業の殆どは自国の歴史と領地経営についてだったり



 



 何が悪かったのかといえば、結局ウードの自業自得で片付けられてしまう話である。

 ウードはドラクロワ家の事など頭の中からすっかり追い出して、入寮してから学校が始まるまでの一週間ずっと研究の為の施設を学院内に作ろうと奔走し、寝不足になりつつも全精力を傾けて地下スペースの作成と機材の生成・運び込みを行った。

 その甲斐あって、たったの一週間で、学院近くの森に広大な地下スペースとその維持用の空調魔道具、照明や実験機器を用意出来た。
 出入口としては寮棟から地下に向かう階段を無断で作り、森の地下室までは地下道で繋げてある。いざという時の学院からの緊急脱出ロも兼ねさせるためだ。

 結局その建築作業に入学式の当日の未明まで掛かり、完全に寝不足の状態でウードは式に臨んだ。
 一週間ずっと排泄物は『錬金』で分解し、栄養は空気中から『錬金』して摂取するという、霞を食って生きるという東方の仙人ばりのことを不眠不休で続けていれば流石に彼も限界が来る。右腕が蜘蛛に変化してから精神的にもさらに人外に近づいたウードだが、8日連続徹夜はまだ無理だった。
 そして注意力散漫なまま周囲の確認もせずに適当に座った席の隣に、あれだけ危険視していたドラクロワ家の者が居るとも気付かずに、ウードは入学式の最中に堂々と居眠りをしてしまったのだ。

 そこで居眠りを注意してきたジャン=マルクに対して、邪険に「うるさい、寝かせてくれ」と返して彼を逆上させた挙句、注意してきたのがドラクロワ家の者だと気づいて、暴言を吐くウード。

「ああ、私のゴーレムに『火球』を放ってきた臆病者か。蜘蛛が怖いです、ママ~ってか? くふふふ、ふふふふふ」

 寝不足で自制心という回路がスルーされてしまったのか、脳から口へと直通で本音を呟いてしまったのが運の尽き。しかも自分の発言がツボに嵌ったのか、ケタケタと笑い始める始末。
 向こうも隣りに座る黒い羅紗のマントの不気味な男が奇怪なゴーレムを操って街道を跳ね飛んで行った者で、しかも因縁浅からぬシャンリット家の者だと気づいたらしく、そこからは売り言葉に買い言葉。

「はン。そっちこそ俺の『火球』に恐れを成して逃げ出したくせに」
「くふふ、くはは。逃げた? ああ、逃げましたとも。寧ろあの状況じゃ戦ったら負けだろうに。
 “街道をゴーレムに乗って行ってたらいきなり魔法を撃たれので反撃したら相手が死にました”なんて事になったら、そっちこそ不名誉だろうに」
「ほほう、それはつまり、戦えばお前は俺を殺せると、そういうことだな?」
「くふ、くふ、くふふ。ん、まあ、そういう事だな。ミスタ・ドラクロワ」
「じゃあ、証明してもらおうか! ミスタ・シャンリット!!」

 ぴしゃりと白手袋を叩き付けられて、あっという間に流れ流れて、冒頭の状況に。
 寝不足は良くないという話である。あるいは短気は損気。どちらの言葉がどちらの当事者に向けられたものかは、察しが付くだろう。





 ヴェストリの広場に佇むウードは思案する。

(さて、どうしたものだろうか。
 挑発したのはこちらなのだが、事ここに至っては私から折れて謝るという選択肢は無い)

 ドラクロワ家に対して譲れないのはシャンリット家も同じなのだ。メンツとはかくも面倒なものである。まあ、その体面の御陰で助かる場合もあるから一概に害悪とは言えないのだが。
 こうなれば勝者が敗者に慈悲を施す形で、相手の健闘を讃えて何もかも無かった事にするという、騎士物語でありがちな方向に持っていくしか無いだろうか、とウードは寝不足で回らない頭で考える。
 そうとなれば当然、ウードが負けるのは論外となる。負けた場合に相手が何を要求してくるか分からないのだから。

(圧勝してしまうのが一番イイが……、難しいかも知れんな。
 〈黒糸〉を使った戦闘をわざわざ見物人の居る中で晒すつもりも無いし。私は寝不足で精神力切れかけ……まあ、それは地下の風石溜りから魔力を援用するから良いとして。
 相手は戦闘に適した火メイジの上、体も鍛えているようだし、油断したら、こりゃ死ぬな)

 ウードは相対するジャン・マルク=ドラクロワの姿形を上から下まで視線で絡めとるように見る。

(ただでさえ、正面戦闘なんか苦手なのにマトモに戦ったら勝てる要素がない。
 となれば、私が勝つとしたら、不意打ち以外にありえない……か?
 負けるのは選択肢に無い以上、どんな策を弄してでも勝つ必要があるが……、それ以上に死ぬのはゴメンだな……)

 死への恐怖、それが惹起するのは、知識への渇望と変容への忌避。
 右半身に畳んだ異形の牙、蜘蛛の大顎が軋み、そこに秘められた呪いの気配が溢れ出す。





「我が名はウード・ド・シャンリット。
 決闘は確かに承った、ジャン=マルク・ドラクロワ。
 では立会人と勝敗条件、そして賭けるものはどうする」

 突如としてその身から暗黒の気配を発し始めたウードに、立ち会うジャン=マルクも見物人もたじろぐ。
 見物人の中に混ざる小柄なゴブリンたちは、何処と無くその気配に当てられてうっとりしているようだが、それに気付いた者は居なかった。

「……っ。立会人はそこの彼に頼もう。
 ……そこの君、俺と奴の準備が整ったと思ったら、一声掛けて、この金貨を弾いてくれないか?」

 ジャン=マルクは見物人の一人に、金貨を投げて渡す。

「ウード・ド・シャンリット、彼が弾いた金貨が地面に着いたら決闘開始だ。
 勝敗条件は、杖を落とすか、負けを認めるか、『治癒』が必要な大怪我をするかだ」
「殺しは無しだな?」

 ウードが尋ねると、一瞬、周囲がざわめく。

「一応、な。だが……」
「分かっている、全力でヤることに変わりはないと言いたいのだろう。
 それにもとから火メイジに手加減など期待していない。一応の確認だ。
 精々、事故で消し炭にされないように気を付けるだけだ」

 そう言ってウードは肩をすくめて見せる。
 その仕草がいちいちジャン=マルクの癇に障る。

 まるでヒトのような仕草だ、ヒトデナシのくせにヒトの皮を被って。

 何故かそんな声が精神の奥の本能から聞こえたような気がして、ジャン=マルクはゾッとする。
 果たして自分は初対面の人間にそんな感想を持つような性格だっただろうか?

「……、分かっているならいい。
 勝者は敗者に一つ命令出来る権利を賭けようじゃないか。俺が勝ったら、最大限の誠意を示して謝ってもらうぞ」
「良いだろう。五体投地でも何でもしてやろうじゃないか。それと勝っても負けても禍根無しだぞ、ドラクロワ」
「望むところだ、ド・シャンリット」

 それを最後のやり取りにして、両者は杖と鞭を構える。

 急遽立会人に指名された小柄な栗毛の少年が声をあげる。

「で、ではっ、決闘、は、始め!」

 そして、立会人の彼の手からコインが空に――

「あ」

 ――舞わずにポロリと落ちた。

「む!」「ちいッ!!」

 だがこの不意打ちにも、ウードとジャン=マルクの両者は動じず、魔法を紡ぐ。

 ジャン=マルクは、ウードの鞭を見て中距離は不利だと感じたのか、それとも接近戦が得意なのか、駆けながら『ブレイド』を唱える。片腕が使えないウード相手なら、接近戦は有効だろう。
 対するウードは『砂塵』の魔法を唱え、自分の足元から土煙を発生させ、ジャン=マルクの視界を閉ざす。

「しゃらくさい!」

 炎刃一閃。
 その土埃は炎を伴なう『ブレイド』によって巻き起こった熱風によって、吹き流され、消え去ってしまう。
 鋼鉄をも溶かすトライアングルの炎を凝縮した魔法の刃。
 周囲の見物人にまでその熱波は届いただろう。

 そしてジャン=マルクは次の瞬間には更に踏み込み、返す刃で、砂塵が晴れて目の前に現れたウードの右腕を切り飛ばそうとする。

 何故右腕を狙ったのか、それはあの右手がいけないものだからだ、だから焼き払ってしまわなくてはならない。ジャン=マルクはその本能の訴えに従って杖を振るう。

 しかしウードはバックステップしてそれを避ける。
 『フライ』の魔法を併用したのか、ひと飛びで数メイルは後退る。

「『錬金』、土の珠」

 そしてジャン=マルクとの間の地面を、『錬金』の魔法で直径1サント大のガラス玉のようなもので埋め尽くしてしまう。

「……何のつもりだ、シャンリット」
「くふ、何って、見りゃあ分かるだろう? 近づかれないようにと思ってね」
「こんな見え見えの罠に引っかかるものか! 『炎球』!!」

 轟々と燃え盛る炎の玉がジャン=マルクの持つタクトから繰り出されてウードに迫る。

「『念力』」

 だが、その炎は届かない。見えない壁によって押し留められ、周囲の空気と掻き混ぜられるようにして霧散してしまう。

「な! 何をした! 貴様!」

 通常では考えられない現象に、ジャン=マルクは狼狽するが、それでも手は緩めない。何発も『炎球』を連射する。
 しかし、その全てが、塞き止められて掻き消される。

「何って、そりゃあ、『念力』だよ。見えない魔力の手で押さえて、炎の分子の振動を押さえつけつつ空気と混ぜてやっただけだ。
 ほら、私の右腕はこんなんだろう?」

 ウードは雁字搦めに固定された自分の腕を掲げてみせる。
 中身は見えないが、あれはきっと醜いに違いない。悍ましい腐汁に満ちているに決まっている。だから、早急に焼き尽くさなければ。ジャン=マルクはウードの右腕目がけて更に魔法を発射する。
 だが、ウードには届かない。全て空中で分解される。炎の玉は、まるで蕾が花開くように捻じ広げられて散っていく。通常の、物を持ち上げるだけの『念力』では不可能な芸当だが、ピンポイントで精密かつ複雑に空気を動かすことによって、ウードにはそれが可能なのだった。

「こんな腕だから身の回りの事を全部『念力』でやってるうちに、こういう使い方も出来るようになった。
 本当は『エア・シールド』とか『エア・ハンマー』の魔法もこれと同じ理屈で、『念力』で空気を固めたり動かしたりしているだけなのかも知れないな」
「変則的な風使いというわけか」
「……くふふ。まあ、そんな理解でいいさ。じゃあ、反撃させてもらう」

 次に出るのは『エア・ハンマー』か『ウィンド・ブレイク』か『エア・カッター』か、と身構えるジャン=マルク。

 それを嘲笑うかのようにして、ウードは短くルーンワードを唱える。
 唱えたのは“風”ではなくて“火”。
 火の魔法の初歩の初歩。

「『発火』」

 『発火』の魔法はしかし、炎を生じることは無かった。その代わりに。

 ばちん、と。何の脈絡もなく、地面にばらまかれていたガラス玉の一つが弾けるように音を超えるような速さで飛び上がり、一直線にジャン=マルクの肩へと突き刺さった。
 その勢いでジャン=マルクはよろめき、片膝をつく。

「ぐう、な、何だ!?」
「勝負有りだ、ジャン=マルク・ドラクロワ。負傷したから君の負けだ。なあ、審判!」

 まるで『土弾(ブレット)』のようにして飛び上がったガラス玉が、ジャン=マルクの肩に食い込んでいた。
 審判の声が響く。

「え、あ。勝負有り! 勝者、ウード・ド・シャンリット!」

 観衆も何が起こったのか理解出来ていない、という様子だ。

「な、今のが『発火』だと? 『土弾』じゃないのか!?」
「まあ、トリックだよ、トリック。風使いに見せかけて『念力』、『発火』のスペルで『土弾』。
 魔力が与えたエネルギーを熱エネルギーにするか運動エネルギーにするかの違いであって、『発火』も『土弾』も似たようなものだからな、少なくとも私にとっては。
 まあ効率で言えば、矢張り土を飛ばすには『土弾』の魔法の方が良いんだが、意表は突けただろう?」

 確かに意表を突かれた。ジャン=マルクは防御の『炎壁』も間に合わず、避けることが出来なかった。
 いや『炎壁』が間に合っていたとしても、今度はジャン=マルクの『炎壁』の内側のガラス玉を弾丸にして、ウードは攻撃を仕掛けただろう。

「ぐぅ、卑怯者め……! 小細工ばかり弄しおって」
「ふん、『卑怯者め』、か。なら私も言わせて貰おう、卑怯者」
「何だと!?」

 激昂するジャン=マルクを尻目にウードは続ける。

「まあ、聞けよ。敗者には勝者の講釈を聞く義務があるだろうが。
 ……私は寝不足で精神力もほぼ空っぽの最悪のコンディション、得意系統は攻撃には向きづらい“土”で、見ての通り、ウェイトも違うし、片腕は使えない。
 そんな状況で、正々堂々真正面から撃ちあって、斬り合って、果たして私には勝ち目が有ったのかな? 無いだろう?
 ――卑怯だぞ、その才能、その体躯」
「そんなものは屁理屈だ!」

 だが、ウードは勝者で、ジャン=マルクは敗者。
 屁理屈だと叫ぶのは勝手だが、いくら言っても負け犬の遠吠えにしかならないと、ジャン=マルクは理解しているだろうか。

「屁理屈で結構。理解してもらおうとも思っていない。
 君のその全てが先祖から受け継いだものであり、また君の努力の賜物であることは分かるよ。
 ただ、私の小細工もそれと同じで私の研究の賜物だと言いたいだけだ」

 別にお説教するつもりはないから、とウードは決闘の賞品について話題を向け直す。

「だがまあ、折角勝ったのだから約束は守ってもらう。
 願いを聞いてもらおう」
「……良いだろう。何でも言え」

 ジャン=マルクが身構える。
 この不吉な男が、ヒトデナシの蜘蛛が何を言ってくるのか、まるで予想ができない。
 ウード・ド・シャンリットという男は、自分の常識とは違う理論で行動しているのだと、ジャン=マルクは先程の決闘で嫌というほど理解した。
 だから身構える。

 どんな無理難題を申し付けてやろうか、何かの実験材料にしてやろうかとウードは考えるが、それは止めた。
 決闘前に考えていたように、自分の寛容さを見せて、シャンリット家とドラクロワ家の間の禍根を少しでも無くすための良い機会でもある。

 元々ウードは、学院にはコネクション作りのためにやって来たのであるし、ここで下手なことを強制するのは得策ではない。
 かと言ってあまりにも軽い願いだと、ウードが他の者から甞められる。

(精々罰ゲーム程度に留めるのが妥当か)

 ウードはそう考えると、『治癒』の魔法を唱えて、ジャン=マルクの傷を癒す。
 直ぐに弾痕は塞がった。

 そしてウードは傍らに大きな砂時計と、2メイル四方の立方体の密室を『錬金』して作り出す。
 立方体の方には扉が一つ付いている。

「……そうだな、じゃあ傷も治したところで、一つ勝負の続きと行こうじゃないか。罰ゲームだ。
 この砂時計の砂が落ちきるまでの間、まあ、5分ほどか、その立方体の部屋の中で何も声を上げないでくれ」

 立方体の小部屋の扉を開いて、中を観衆にも見せる。
 ライトの魔道具で中は照らされており、内側にも砂時計が設けられている。
 それ以外には何も無い。

「それで充分だ。私が君にお願いするのはそれだけだ。静かに、中に居れば良い。
 まあ、この部屋はかなり壁も厚いからそうそう大きな声を出さない限りは、バレないだろうが……、そうだな、外まで君の声が聞こえなかったら君の勝ち、ということにしよう。
 君がその中に入っている間は、私から君の身体に傷をつけるようなことはしないと私の信じる神に誓おう。
 観衆の皆が宣誓の証人だ」

 目の前のジャン=マルクが呆気にとられるのが分かる。
 周囲もウードの方を見て首を傾げている。

「……それだけでいいのか?」
「もちろんだとも。君が5分間見事に耐え切ったら、私は誠心誠意、全ての所業を謝ろう。
 私の信じる神に誓って、杖に賭けて。何なら君が勝てば私を下僕にしてくれても良い。
 耐え切れなくて、声を上げても、つまり私が勝っても、私からはこれ以上君に要求を重ねることはないから安心してくれ」

 怪訝な顔をしているジャン=マルクや観衆に対して、さらにウードは条件を重ねた。
 胡散臭さが増していく。

「くふふ、じゃあ、早くこの部屋に入ってくれ。さあ、早く」

 何より、ウードの顔が隠しきれ無い愉悦に歪んでいるのが怪しすぎた。
 促されて渋々、ジャン=マルクは中に入る。部屋の内と外の砂時計が逆さまになり、砂を落とし始める。
 ウードがその部屋の扉を、ゆっくりと閉じる。

「じゃあ、この“蜘蛛の小部屋”を存分に堪能してくれ。蜘蛛恐怖症(アラクノフォビア)のジャン=マルク・ドラクロワ」
「おい、シャンリット! 貴様、今、何と言った!?」
「びっしりみっちりな小蜘蛛たちは、別に噛み付いたりはしないからさ。別に本物じゃないし。アラクノフォビアを克服するいい機会じゃあないか。くふふ」

 いつの間にか、部屋の中に入ったジャン=マルクの足首を『土の手(アースハンド)』が固定している。逃げられない。ジャン=マルクの顔が蒼白になる。

「おい、まて、閉めるな、やめろ! やめてくれ!」
「くふふ。駄ぁ目だね。罰ゲームなんだからさ……、くふふふふ」

 バタン、と無情にも小部屋の扉は閉められる。

 直後。
 5分も待つこともなく、ジャン=マルクの悲鳴が響き渡った。
 しかし、部屋の扉は5分間しっかりと閉じられて、開くことはなかった。

 決闘の見物に集まった観衆たちは扉の外でけたけたと笑い転げるウードを見て、「ああ、こいつに関わるのだけは絶対にゴメンだ」と思ったとか思わなかったとか。
 果たしてウードはこんな調子のままで学院でのコネクションを確立することが出来るのかどうなのか。

 ちなみに。

 ウードが『砂塵』の魔法を使ってジャン=マルクの視界を遮った時点で、彼自身は足元に穴を掘り、身代わりの精巧なゴーレムを残して地中に潜んでいたのだが、その事には誰も気付かなかった。
 出るタイミングを逸してしまったので、罰ゲームの開始時点で、彼はそのまま地中を移動して、一週間掛けて作った自慢の研究室で高見の見物と決め込んでいた。


 その後。
 恐怖の蜘蛛部屋に5分間突っ込まれて気絶したジャン=マルクをウードゴーレムが取り出して(彼の蜘蛛へのトラウマにまた新たな一ページが刻まれたのは言うまでもない)。
 ウードゴーレムによってジャン=マルクは医務室に連れていかれて(見ていた女生徒達がお耽美な方面を想像して歓声を上げていた)。
 連れて行ったウードゴーレムがまだ医務室に居るうちに、ウード本体が秘密の地下通路を通って寮に帰ったものだから、生徒たちに寮の廊下と医務室で同時に目撃されてしまい。
 「あれ、ウードって『偏在』使えるの?」「風の4乗?」「土のトライアングルって言ってたぞ」「じゃあ、ゴーレムじゃね?」「そしたらどっちがホンモノだよ?」「実は双子?」とか何とか噂が流れるようになったそうだ。





 後日、ジャン=マルクともども決闘騒ぎを咎められて教員に呼び出されて一緒に反省文書かされたり、何だかんだで同じクラスだと判明したりして、いつの間にか2人は悪くない友人関係(?)を築いている。
 具体的にはウードがジャン=マルクをからかっているだけだが。

 他にも同じトライアングル同士ということで授業でもペアになることが多かったために自然とある程度は仲良くなったというのもある。
 あとはウードの思考が行き詰まった時のストレス解消に行う、軽い格闘訓練の相手をジャン=マルクに頼んだり。
 格闘訓練の相手が居なかったのは、ジャン=マルクも同じだったらしく、渋々仕方なくという風情ではあるが引き受けてくれた。
 ジャン=マルクの家は武門なので、とっさの時の無手の格闘術も手解きを受けているとかで、在学中の格闘訓練の相手を必要としていたのは彼も同様だったようだ。

 とはいえ、純粋な格闘戦ではウードがジャン=マルクに勝てるはずもなく。

「せいっ!」
「ふっ!」
「せいっ! やっ!」

 今日もウードは投げ飛ばされて地面に叩き付けられて極められていた。
 ドラクロワ家の関節技(サブミッション)は、何でも開祖が暴れ韻竜を調伏したときに余りの痛さに韻竜が泣いて謝ったとか言う謂れがあるらしい。
 竜を制した家なので、“ドラクロワ”の家名を賜ったそうだ。

「ああああああ! もげる! 左がもげる! 止めて! もう止めて!」
「ん~? “プリーズ”が足りんな~?」
「止めて下さい、ジャン=マルク・ドラクロワ様」
「聞こえんなあ~?」
「おい、調子に乗るなよ。蜘蛛塗れにされたいのか」
「スンマセン。勘弁してください」

 即座にジャン=マルクはウードの左腕を離す。
 左腕をほぐしながらウードは立ち上がる。

「離してくれればいいさ。身体を動かして私の気も晴れたし」
「まあ、俺も良い運動になったよ。また宜しく頼む」
「……次の週くらいにな」

 そう言ってウードは『フライ』で飛び上がって学院の自分の部屋へと向かう。
 一方、炎髪の獅子の方にはきゃいきゃい言いながら女の子たちが手に手に水筒やらタオルやらを持って近づいていく。
 これは人間的魅力の差であろう。

 義侠心に溢れた漢であるジャン=マルクには男女問わず友人が多いのだ。
 ウードの方は……まあ、お察し……、としか。

 ジャン=マルクに近づいた女子の一人が彼に話しかける。

「ジャン=マルクはどうしてミスタ・シャンリットと親しくするんだい? あんな不気味な男とは付き合わない方が良いと思うのだけれど」

 もう何度も聞かれた質問だ。ジャン=マルクの答えはいつも変わらない。

「魔法の実力が確かだというのが先ず一つ。格闘訓練に偏見を持たずに付き合ってくれる奴だというのが一つ。
 ……だが、最も大きいのは危機管理、という側面だな。ウードに目をつけられた時点で、もうあいつの蜘蛛の糸からは逃れられないのさ。ならば、積極的に関わっていって影響を与えてやって、あいつがもたらす被害を軽減するしかないと思ってね。あいつが俺の目に届かない範囲で蠕動してる方が、よっぽど恐ろしいよ。
 最初の印象こそ最悪だし、今でも苦手意識はある。でも、アレはそういうもの、人間じゃなくて“ウード・ド・シャンリット”という分類なんだと考えられるようになったから、そこまで怖くはなくなったな。
 下手に人間だと考えるから、不気味に思えるのさ。アレは人間じゃなくて、何か別のモノなんだと思えば、気楽だよ」
「何だか、そこまで言われるミスタ・シャンリットが逆に哀れに思えてくるね」
「別にあの蜘蛛野郎は人間にどう思われようが、気にしないと思うがね」





 ウードは〈黒糸〉の杖に対する使用者認証機能付加の研究も学生生活と並行して行っている。

 作成している場所は、入学式前に駆けずり回って建造した地下空間内部だ。
 学院長の使う〈遠見の鏡〉の範囲内に入らないように見極める作業が一番大変だったという。
 見られちゃ不味いものは、今のところは余り所蔵されていないが、今後は宜しく無いものが増えると思われる。

 学院の寮の1階、普段は誰も来ないような陰気な場所に秘密の地下道の入口の階段はある。
 普段は『錬金』で封をされて、その入口は隠蔽されている。

 寮の秘密の階段からは一直線に、灰色の石灰のような材質で出来た通路が、学院を囲む森の一角へと伸びている。
 森の地下に、ウードが造った排水空調照明完備の研究施設があるのだ。

 内観はまさに、魔術師の研究室……というわけでもなく、大学とかの実験室、研究室を想像してもらえればいいだろう。あるいは学校の理科室。
 幾つかの部屋に別れており、資料庫だったり標本庫だったり、作業場だったりと、研究するのに必要なものはあらかた揃えられている。

 ウードは入学してすぐに、インテリジェントアイテムの作製と、それを魔法発動体とするための契約を行った。
 まずは、精神力が流れる感覚をインテリジェンスアイテムが感じ取れるのかどうかを確認するためだ。

 最初に作ったのは小さなナイフ形のインテリジェンスアイテムだった。銘は〈ウード1号〉と名付けられた。……適当であった。
 〈1号〉を作り上げるだけで膨大な量の風石の魔力を消費したり、紆余曲折様々な苦労があったのだが、そこは割愛する。

 実際にウードが契約して魔法媒体として使ってみたところ、どうやらインテリジェンスアイテムの人工知性の方でも精神力が自らに流れる感覚は感知出来るようだ。

 次に検証したのは、インテリジェンスアイテムの意思で使用者の魔法の妨害が可能かどうかである。

 結論から言えば、これは条件付きで可能であった。
 杖に込められた精神力は何らかの形で放出する必要があるため、完全に魔法の発動を止めることは不可能だったのだが、インテリジェンスアイテムの意志によって、精神力を別の方向に逸らすことは可能であった。
 使用者の魔法の発動を妨害するためには、インテリジェンスアイテムに精神力が流れている間の短い時間で、使用者の魔法行使に割り込んで、込められた精神力を使って別の魔法を発動させる必要があるようだ。

 その次に検証するのは、各個人の精神力のパターンに差があるのか、あったとしてインテリジェンスアイテムに込められた人工知性はその違いをどの程度感知できるのか、である。


 ある虚無の曜日、ウードは王都に来ていた。
 いつものように蜘蛛型のゴーレムを駆って、でもなく、バイコーンに優雅に跨って、でもなく、低空フライで街道を滑るように飛んで、でもなく、……研究室から王都まで繋がる長大な地下道を通って、である。
 学院の研究室と王都のアトラナート商会支部の地下を繋ぐトンネルは、ゴブリンメイジ達の労働によって人知れず造られていた。

 改造ゴブリンたちの測量技術と建築技術は、数十リーグの地下道を両端から掘り始めて寸分の狂いなく繋げることを可能にしていた。
 圧倒的な速度での技術の進歩である。
 これは、ゴブリンたちがハルケギニアの建築家の知識を蒐奪したことや、これまでにもシャンリット領で大規模建築の経験を積んできてそれが新しく生まれる世代にも継承還元されていること、ゴブリンたちの寿命の短さ故の集中力、便利な系統魔法……などの様々な複数の要因が重なった結果の進歩である。

「地下道を通って到着したのは、トリスタニア。王城はあるが、果たしてこの街は要塞になるのだろうか? 増加する都市人口に伴って拡張され入り組む市街。王軍はこの路地の一本一本まで把握出来ているのかどうか」

 そう言って、王都の路地裏を歩くウード。
 前の週にもウードは王都に出たのだが、その時にアトラナート商会のゴブリンメイジに既にウード自身が契約したインテリジェントアイテムを渡し、ゴブリンにもそれを杖として契約するように命じていた。
 そしてつい先ほど、地下道の王都側の出口(アトラナート商会トリスタニア支店)から出た際に、ゴブリンから杖として契約された後のインテリジェンスナイフを受け取っている。

 小振りなナイフを弄びながら、ウードは王都の路地を歩く。
 ウードの格好は、如何にも平民メイジという格好であった。
 学院のマントは着けておらず、色褪せたローブに身を包んでいる。古着屋で手に入れたものだ。

 路地裏を歩くのに不自然でなく、なおかつ余計なトラブルを呼び込まないようにという配慮から落ちぶれメイジ風の格好に落ち着いたらしい。
 ひょっとしたら、腰に結えられた牛追い鞭を見れば、どこかのサーカスの売れない猛獣使いかとでも思われるのかも知れなかった。
 何にせよウダツの上がらなさそうな風貌ではあった。

 ウードは手で弄んでいたナイフ――インテリジェンスアイテムである〈1号〉に話しかける。

「ん~、で。精神力の個人差は分かりそうか? 〈1号〉?」
【じゅうぶんわかります。ただ……】
「おお、そうか。しかし懸念があるんだな?」

 ウードは受け取ったインテリジェンスナイフ〈1号〉に、杖として振るわれた時の感触を尋ねる。
 〈1号〉が棒読みで無感情な受け答えなのは、これがウードが初めて作ったインテリジェンスアイテムだからということもあるし、〈1号〉が学習発展途上だということもある。
 年月を重ねれば、知性も成長し、ともすれば何か特殊な能力を得るかも知れない。

【はい。ながれるせいしんりょくから、こじんのパターンをわりだして、えいしょうわりこみをおこなうとすれば】
「行うとすれば? 時間が足りない?」
【はい、そうです。えいしょうかいしから、えいしょうしゅうりょうまでの時間では、まりょくパターンにんしきが、せいいっぱいです。さいしょから、ぼうがいするつもりなら、わりこみはできるのですが】

 ウードは〈1号〉の感想を聞きつつ今後のインテリジェンスアイテム作成の方向を考える。

「うーむ、やはりただ漫然と作れば良いって訳じゃないんだなあ。魔力パターンの認識力強化、魔力パターンの記憶、魔力パターンに応じた権限の設定、流れている魔力と記憶されているパターンの検索照合の高速化……」
【きおくは、もっとかくちょうせいを、持たせた方が、良いとおもいます。いまのわたしでは、たぶん、1000にんくらいを、きおくするので、せいいっぱいです。まりょくパターンのにんしきは、むずかしいです】
「成程。そうすると、全部を一つのインテリジェンスアイテムに担わせるんじゃなくて、分業して各専門の人工知能もしくは魔道具と、それらを統括する人工知能を別で作った方が良いかもしれないな」
「かも、しれません」

 他にもウードとナイフは何事か言葉を交わし、それを基にウードは大まかな方針を決定したようだ。
 どうやら、先ずは幾つか更にインテリジェンスアイテムを作ってみて、それから魔力パターン認識や記憶力や検索照合能力に関するパラメーターを向上させる具体的な方法をウードは探っていくと決めたらしい。
 しばらくは毎日、精神力が尽きるまでインテリジェンスアイテムを試作して数をこなして経験を積む日々が続くだろう。

「まあ、学習による魔力パターン認識の向上も調べたいから、また後で〈1号〉はゴブリンに返すことになるな」
【そんな、ひどい。れつあくひんだから、すてられるのですね】
「そういう訳じゃないけれど。でも私のところでは、使う機会が殆ど無いからなあ。済まないとは思うが、これも運命だと思って。頑張って学習して成長するのを期待してるよ」
【うう、わかりまひた。がんがりまひゅ】
「おお、インテリジェンスアイテムでも台詞を噛むのか」

 割とどうでもいい所に感心するウードであった。

 ちなみにこの路地裏、ウードが毎回通るたびに浮浪者やらゴロツキやらを“強制勧誘”(略取とも言う)して、アトラナート商会本店のあるシャンリット領ダレニエ村に送り込んでいったので静かで平穏である。
 アトラナート商会のゴブリンたちの方でも、王都の地理把握を兼ねた路地清掃やらを王政府に無断で自主的に行っている。清掃は地域浸透策の一端でもあり、王都以外の街でも積極的に行っている。
 清掃の際は、資源ゴミは街の浮浪者たちの生きる糧なので、それ以外の汚物を主に回収している。

「んー、今日は“勧誘”出来そうな輩は居ないな」
【さいきん、ごろつきれんちゅうのあいだでも、うわさになっているそうです】
「噂? どんなだ? アトラナート商会から意図的に流してる“知り合いの知り合い”シリーズの都市伝説じゃなくて?」
【しぜんはっせいのうわさみたいです。“みぎうでをつった、ろーぶのおとこ、ちゅうい、さらわれるから、きをつけろ”】
「誰かに見られてたのかな。まあ、不愉快な輩が視界に入らなければ私としては別に良いんだが。無理にダレニエ村の人を増やすこともないし」

 現在は、そういった浮浪者たちの収入源となっているような、資源ゴミの買取元締めみたいな業者を買収乗っ取りしようとアトラナート商会では画策中である。
 住所不定の人間でもそういった業者の顧客だったりするので、各都市の住人の戸籍調査や移民募集などを行なおうという時にはきっと役に立つはずだ。いつか、そのうち。

 他にも死体からの知識蒐集のために、教会をガーゴイルの成り代わりによって陥落させ、葬儀屋も傘下に収めて、あらゆる死体から知識を蒐集する仕組みを整えようと蠕動している。
 今でもアトラナート商会では引き取り手のない無縁仏を積極的に“買い取って”は人面樹に捧げている。

 ひょっとしたら、ゴブリンたちが人知れず死体を回収した所為で、迷宮入りどころか発覚さえしていない殺人事件もあるかも知れない。
 一応は、アトラナート商会が回収した死体は、管理番号が付けられ、一通り解剖されて死因などを調べられる。そして顔写真や指紋、DNA、回収された時の状況等々のパーソナルデータを取って、データベースに登録した後に、人面樹に捧げられている。
 街を駆けずり回っている清掃ゴブリンや下働きゴブリン、配達ゴブリンなどが、『誰それが失踪した』とかいう街の噂を聞けば、ひょっとしたらそのデータの中から該当者を見付け出して、データを元に綺麗に死体を『錬金』で一から復元して届けてくれるかも知れない。

【そういえば、したい、一つ、かえしました】
「へえ、無縁仏の中から身元が分かったのがあったのか」
【しょうふのおんな、20さいくらい、王都でころされてました。でも、こきょうは、ずっとひがしでした。ひがしの村の、のうかのむすめ、にねん前から、ゆくえふめい】
「ふうん、大方、東の方で盗賊にでも攫われて、そのまま人買いに売られ、王都の女衒に買われて、痴情の縺れで殺された、とかかね。ありそうな話だ。
 それより、よく身元が分かったな。〈1号〉が調べたのか?」

 蒐集され記録されたパーソナルデータは、数えるのも馬鹿らしいくらいの分厚い冊子に書き込まれて、あるいは管理番号付きの遺伝子サンプルとして、もしくは人面樹の中の記憶として、シャンリット領に収められている。
 これらの情報の管理も非常に大きな課題となっている。

【ひまなじかん、むえんぼとけのしゃしんと、はかあばきしたしたいの、しゃしんのデータ、みせてもらって、くらべてました。しょうふのおんなと、ひがしのむらのはかばのおじいさん、ピンときたので、しらべてもらったら、けつえんかんけい、ありでした。
 ほかにも、ひゃくにんくらいは、みもと、わかりそうです】
「おお! やるじゃないか、〈1号〉! 処理能力高かったんだな!」
【おほめいただき、きょうえつしごく。うれしい、です】





 魔法学院は教育の場であると同時に、社交の場という側面が非常に大きい。
 毎月のように開かれる舞踏会も、その一環である。学校イベントの舞踏会を通じて、紳士淑女としてのマナーを磨き、学院生同士のコネクションを広げていくのだ。

 ジャン=マルクはその長身や魔法の実力とも合わさって、上級生からも結構な人気者だ。
 女性からだけでなく、明朗快活な性格から先輩男子からも好意的に受け止められている。
 本人も将来は魔法衛士隊に入りたいと言っていたし、魔法の才能もあって将来有望なエリートなのだ。

 ウードの方は……いつも寝不足で隈を作っていたり、授業を自分に似せたゴーレムに受けさせたりしてるから、得体のしれない奴という扱いされている。
 寝不足なのは夜遅くまでインテリジェントアイテムの作成を行っているからだ。一応、授業に出ないで留年するというのは避けたいようなので、苦肉の策としてゴーレムを代役に立てているようだ。
 学院では歴史や領地経営の授業も多いが、歴史は自国賛美が過ぎるし領地経営は、今まで読んだ本や前世知識の方が高度だったからウードに取っては聞く価値は余りないので、ゴーレムに代返させているという事情もある。

 ウード自身としては学院の授業について、ハルケギニアでの一般的な考え方がどんなものか知るためには有効だ、というくらいにしか考えていない。
 ガーゴイルやインテリジェンスアイテムを専門にしてる教師には、授業時間以外も質問に行って、助言してもらったり、意見を戦わせたりしているようだが。

 ウードは学院の中では変人扱いではあるが、それでも舞踏会では、田舎とは言え最近発展してきているという噂のシャンリット伯爵家の嫡男で、しかもうまい作物を卸すと評判のアトラナート商会のオーナーでもあるということで、少なくない数の女の子と知り合いになっている。
 日頃からジャン=マルクと一緒にいることが多かったから、ひょっとしたらそっちが本命の子も多いのかも知れないが。

 舞踏会は幾つかあるが、中でも新入生歓迎イベントであるスレイプニィルの舞踏会はウードの印象に強く残った。

 スレイプニィルの舞踏会は、〈真実の鏡〉という自分が憧れている姿に自身を変化させるマジックアイテムの力によって仮装して舞踏会を楽しむというものだ。
 クラスの大半は歴史上の英雄や王族、父母兄姉に化けてしまっていたようだ。
 有名人はバッティングすることが多く、美男子として有名な今代の王太子の姿が少なくとも20人は見受けられた。

 ジャン=マルクは彼自身の長兄の姿に変わっていたから、ウードは直ぐに見つけることが出来た。
 ジャン=マルクは実は側妾の子である。
 彼の長兄というのが、ウードの母エリーゼの元婚約者であり、ドラクロワ家の本妻の子で、長男で、現ドラクロワ家当主である。
 今はその長兄がドラクロワ家を継いでいて、妾の子なのに魔法の才能に溢れているジャン=マルクの実家での風当たりは強いようだ。
 それでも、その長兄に憧れる気持ちはあったのだろう。〈真実の鏡〉で姿を真似てしまうほどには。

 因みにウードは、なんと人間どころか、幻獣の“アラクネー”に化けてしまって、非常に目立ってしまった。

 “アラクネー”とは、人間の上半身に蜘蛛の体が付いている幻獣で、森深くに暮らしていると言われている。
 6本の節足と、糸を溜め込んだ蜘蛛の腹が印象的な幻獣だ。
 ウードが来年の召喚の儀式で狙っている幻獣でもある。

 人間以外に化けてしまったのは、学院の舞踏会の歴史でも彼が初めてらしい。
〈真実の鏡〉で半人半蜘蛛の姿になったのは、ウードの身体と魂が、シャンリットの血脈に宿る『蜘蛛化の大変容』の呪いによって、実際に半分以上はアトラク=ナクアの眷属に変化してしまっていることを反映しているのだろう。
 ジャン=マルクには「それでこそシャンリットだ」と思いっきり笑われている。

「いいじゃねえか、蜘蛛の腹はプニプニなんだぞ、プニプニ。ほれ、触ってみろ。
 いつか家に招いてやるから、ジャン=マルクも家の父上の使い魔の大蜘蛛、ノワールの腹で癒されるがいい」
「俺が蜘蛛恐怖症だって知ってて言ってるな?」
「知ってるさ。私が馬車がわりに使ってる蜘蛛型多脚ゴーレムに思わず『火球』放つくらい嫌いなんだろう?
 今もアラクネに化けた私を視界に入れて、顔を蒼白にしてるし目が泳いでるぞ。持ってるワインも波立ってるし」
「……分かってるなら、さっさと何処かに行ってくれ。あるいは適当な服を錬金して、その蜘蛛脚だけでも隠してくれ。流石に俺としても、淑女の前で膝が震えっぱなしというのは避けたい」

 ウードはジャン=マルクの申し入れに応えて、壁の方に動く。6本の節足がわしゃわしゃと動くのに、周囲の参加者が眉をひそめる。
 その場に留まってジャン=マルクを苛め続けても良かったのだが、それよりも、この仮装舞踏会に使われた〈真実の鏡〉の仕組みの方にウードの思考は流れていった。

(恐らく離れた場所から“憧れの人”という願望を写しとって、鏡の前の人物に『フェイスチェンジ』を掛けているのだろうけど……。
 でも『フェイスチェンジ』って高位のスペルだぞ。離れた場所から思念を読み取る魔法も、水の上級スペルだし。
 それがあんな魔道具で実現出来るなら、『偏在』を生み出す魔道具も探せば存在するのではなかろうか。いや、無くとも創りだすことは出来そうだ……)

 ちなみにアラクネーに化けたウードにダンスを申し込むものは居なかった。
 一体どんなステップを踏めばいいのやら、ウード自身も分からなかったので、それはそれで助かっていたのだが。
 くるくる踊る学院生を眺めながら、ウードは思考を続ける。

(とはいえ、今更『偏在』が使えてもあまり意味はないな。
 ガーゴイルや改良ゴブリンたちのお陰で、人手不足は解消されているし。
 まあ、研究するのは無駄にはならないだろうけど)

 学院の宝物庫に保管されている数々の魔道具についても、宝物庫内部まで浸透させた〈黒糸〉を介して調査中である。
 盗み出しはしていないが、その性能や原理については目下解析中である。





 特別な行事が無い限り、ウードはインテリジェンスアイテムを作成したり、各地のゴブリンから寄せられる報告書に目を通したり、ジャン=マルクと組み手したりして日々を過ごした。
 虚無の曜日には、王都に行って買い物をしたり、城下町に居るマジックアイテム作りの師匠と議論を交わしたり、師匠や学校の教員の伝手で、マジックアイテムの工房を見せてもらったりもした。

 夏期休暇に入る頃には、離れた場所を繋ぐ鏡型のマジックアイテムが手に入り、アトラナート商会の王都支部の会館と、シャンリット領の商会本部を短時間で行き来できるようになった。
 これによって、両親弟妹も王都に来れるようになったし、ウードの里帰りも一瞬で終わるようになった。

 2対のワープゲートの魔道具のうち、1対は王都⇔シャンリット領を繋ぎ、もう1対はレプリカを作るための研究用としている。
 『サモン・サーヴァント』の召喚ゲート作成についての研究・解析が行き詰っていたが、ゲートレプリカ研究によって何らかの進展があるのではないかと、ゴブリンたちの中では期待されている。

 長期休暇ではシャンリット領に帰ったり、各地のゴブリンの集落に視察に出かけたりと、大変充実した日々を送った。
 アトラナート商会も大規模になってきたため、商船を幾つか所有している。
 物品の輸送はまだ、〈ゲートの鏡〉のレプリカが出来ていないので、旧来通りの『サモン・サーヴァント』による召喚ゲートを用いているが、人員の輸送はフネを使っているのだ。

 夏季休暇中は商会の商船を利用して妹のメイリーン、弟のロベールも連れて、他国やサハラの集落を巡った。

 サハラにもゴブリンの集落は作っており、限定的にだがエルフとも交流している。
 エルフたちには、ゴブリンたちはハルケギニア人とは違う由来を持つ、ゴブリン由来の新しい亜人種であることは説明してある。

 エルフたちの技術力の高さは見習うべき点が多々有り、スパイを忍び込ませたりして技術をすこしずつ盗んでいる。
 また、技術だけでなく、その社会制度も参考になる点が多い。
 長命種のエルフと、人間に比べても短命なゴブリンたちでは、考え方などで違いが大きいため、社会制度を学んでもそのまま流用することは出来ないが、それでも長年かけて洗練された社会からは学ぶべき点が多い。

 ちなみに、改良ゴブリンたちはエルフたちに〈樹木の民〉と呼ばれている。
 もはや元のゴブリンとは殆ど別の種類になっているから、ゴブリンと呼ぶのは憚られたそうだ。
 そこでバロメッツの樹から生まれることから、〈樹木の民〉と呼ぶことにしたとか。

 エルフは接してみると案外、異教徒にも寛容であった。
 というか、蜘蛛神も彼らが信仰している“大いなる意思”のうちの一つの構成要素だと思っている節がある。多神教なのだろうか。

 ……本当にそうだとしたら、ハスターやらクトゥルフやらの他の神性も存在するのだろうか。
 そういえば……この惑星を覆うように伸展させている〈黒糸〉の、ちょうど前の世界でいう太平洋の到達不可能極(全ての陸地から最も遠い地点)の辺りに、大規模な海中遺跡が見つかったって報告が成されている。
 その時はアルビオンみたいな浮遊大陸が浮力を失って沈んだものだろうと考えられていたが、ひょっとするとルルイエ神殿かも知れない。

 いやいや、マーマンとかそういう水中種族の都市かもしれない。ルルイエだと考えるのは早計だろう。

 ……いや、この世界のマーマンは『深きものども』そのままの種族だった……。
 ルルイエ(推定)には偉大なるクトゥルフが眠っているのだろう……。
 マーマンたちの勢力とも交流を持つ必要がありそうだ。
 マーマンだけではなく、エルフや他の先住種族に伝わる神性に関する伝承も確認する必要があるだろう。

 夏期休暇後は、また普段の学院生活である。収穫の時期の秋休みはないのか気になったが、支配階級の貴族には農耕のスケジュールはあまり関係無いのか、存在しないようだ。

 この頃から学院内にアトラナート商会の支店を出せないかウードは学院長と交渉を開始したらしい。
 交渉は最終的に冬まで掛かったが、利益のうち三割を上納することで決着を見たようだ。
 ウードが進級してから(新年度から)の出店が決定している。

 これでいちいち王都まで出向かなくて済むようになったとウードは喜んでいた。
 学院生の生活も随分便利になるのではなかろうか。

 時は過ぎ、冬も半ば、雪の降る頃には始祖の降臨祭である。
 ブリミル教の信者ではないから、積極的にブリミル教の祭りに参加するのに拒否感を感じたという理由もあるが。
 降臨祭自体は、おそらくは土着の冬至(ミッドウィンター)の祭りでも吸収したのだろうから、実際は余りブリミル教とは関係無いのかも知れない。

 〈黒糸〉の杖に対する使用者認証機能の付加についてだが、ウードも100を超える数のインテリジェンスアイテムを作っているうちに、段々と完成度の高いものが作れるようになっていった。

 そこで、この降臨祭前後の学院が静かになる時期を見計らって、この惑星(ハルケギニア星)の大地に張り巡らせて根づいている彼の魔法の杖〈黒糸〉(単分子カーボンナノチューブネットワーク)を遂にインテリジェンスアイテム化することにした。

 使用者の精神力を判別する感受性と、魔法詠唱にインタラプトする高速詠唱を兼ね備えた“管制人格”を想像し、それを〈黒糸〉に定着させる作業である。
 今までに作成した全てのインテリジェンスアイテム(〈1号〉から〈103号〉まで)の全てに対して、ウードは魔法の杖としての契約を行っている。
 〈黒糸〉に人工知能を付加する魔法については、これら全てのマジックアイテムにウードを通じて地下から汲み上げた風石の魔力を流し、ウード自身を含めて104つの知性によって同時並行でインテリジェンスアイテム化を行うという計画となっている。

1.ウードが大地に張り巡らせた〈黒糸〉を通じて、自分の精神力を呼び水に地下の風石溜りから魔力を汲み上げる。
2.ウードが杖として契約している〈1号〉から〈103号〉までの全てのインテリジェンスアイテムに魔力を配分する。
3.インテリジェンスアイテムズが配分された魔力を用いて何段階もの複雑な魔法を順番に途切れなく行使して、〈黒糸〉をインテリジェンスアイテム化する。
4.この全工程に順調に行って7日間要すると予想されるので、その間の魔力ポンプと化しているウードの身体の維持などを、タスク待ち状態のインテリジェンスアイテムが行う。
5.最終工程である人格の方向性付けはウードが行う。

「では、〈黒糸〉管制人格〈零号〉の作成を開始する」
【イエス、マスター!】
「これから私は厖大な魔力を汲み上げて分配供給しつつ、全体の進捗を見ることに集中しなくてはならない。
 排泄物の処理とか、栄養補給とか、過熱した脳回路の冷却とか、失敗した工程のリカバリーとか、色々指示出すと思うから、頼んだ」
【イエス、マスター!】

 寒い日々が続く中、7日7晩の予定が手戻りなどで延びに延びて、最終的には全工程終了まで10日掛かった。

 その後も、作成した管制人格のある程度の教育が終わるまで、数ヶ月は掛かると予想されている。
 もちろん、管制人格はウードに忠実になるように設計してある。
 ……というか、管制人格〈零号〉はウードの人格を半ばトレースしたものであるし、その存在理由の根幹に“知識の蒐集、真理の探究”を置いているので、自然とウードの意向に従うような性格に育つだろう。

 魔法詠唱にインタラプト出来るという性質上、〈黒糸〉を杖として契約しているメイジが精神力を込めれば、それを利用して〈黒糸〉自身の意思で魔法を行使できる。
 というか風石から魔力を汲み上げられるので、管制人格――名称〈零号〉単体での魔法行使可能だ。
 使用許可の無い者が〈黒糸〉を使えないようにするというのが主目的だったのだから、〈黒糸〉単体で魔法行使出来るのは完全に副産物である。主目的のセキュリティ問題の方は完全にクリアされそうだから、全くもって問題ないのだが。

 自己拡張と最適化は、〈黒糸〉の管制人格〈零号〉に任せられることとなった。
 〈零号〉は地下の風石の魔力も利用出来るため、『錬金』を用いた〈黒糸〉自体の伸展や、圧倒的な速度での自己進化が期待出来るだろう。

 将来的には、人面樹に蓄積された情報とのリンク確立や、電子部品の技術を応用して惑星規模のハイパーコンピュータに仕立て上げたりすることも可能なのではないかと、ウードは夢想している。
 まあウードとしては、そこは自分の構想だけ伝えて実現については〈黒糸〉自身や改良ゴブリンメイジたちに任せるつもりではあるが。

「ああー! これで何か漸く一段落って感じだな。
 もはや後は、〈零号〉や改造ゴブリンたちが研究するのを待ってれば、私の元には勝手に情報が集まるはずだ。
 よく頑張った、私。
 心残りとしては、あとは研究者間の相互の繋がりというか、論文発表の場を設けるというか、それに関連するような大学を作ることくらいだな!」

 ウードはどうやら、次の目標を定めたようだ。
 高度な研究を行う大学の設立。

「シャンリットを、学術都市にしたいなあ。
 生きた証を残すというわけじゃないが、シャンリットの子孫たちに自由に研究に勤しめる環境を残したい。
 ゴブリンやインテリジェンスアイテム視点の知識だけじゃなくて、ハルケギニア人の視点からの知識もあった方が良い、というかそういう視点の知識も是非知りたいし」

 心中では、また別の考えも頭をもたげる。

「そういえば、フランケンシュタイン博士の怪物とか、HALとか……被造物による反乱はありがちだが……、大丈夫だろうか?
 改造ゴブリンたちを作った時点でこの手の懸念は常にあったし、もはや手遅れな規模ではあるのだが……。
 この手の『造物主への反逆』というのは、きっと元を辿れば、創世神話に行き着くんだろうけど、後世では私とその作品たちの関係もそれに準えられるのかも知れんな」

 人間が神に作られたものだとするなら、どこかで神からの自立が必要になる。
 その中の一つが『神殺し』の物語だ。
 造物主である神への反逆によって、人間は漸く自分たち自身の運命の主となれるのだ。

 あるいは種の進化として、親(=造物主)を超えなければならないというのがインプットされているのかも知れない。
 そして、『神殺し(=親殺し)』の物語は超えてゆく者(=被造物、子供)としてのカタルシスと、打ち倒される者(=神、親)としての恐怖が表裏一体となっている物語だ。

「さて、私はどちらなのだろう?
 自分の生みの親たる世界や、信じ従おうとしている蜘蛛の邪神をバラバラに解剖して滅ぼそうとする役なのか。
 それとも、自分が作り出したゴブリンたちや、インテリジェンスアイテム達によって弑逆される役なのか」

 邪神が蔓延るこの世界では、いくら足掻こうとも、どうあっても、彼やその作品たるゴブリンやインテリジェンスアイテムは取るに足らない者に過ぎない。
 ウードはこの数ヵ月後、自分もまた運命に翻弄される儚い存在なのだと思い知ることになる。
 『サモン・サーヴァント』は、その呪文にあるとおりに、彼の数奇な“運命”を顕現させることとなる。





 さて、いよいよ春となり、冬芽の芽生えと共に、ウードやジャン=マルクは魔法学院の2年生に進級した。
 2年目のメインイベントといえば使い魔召喚の儀式である。

「さて、私の呼び出す使い魔は何だろうか?
 雌のアラクネーでも呼び出せれば良いのだが」

 多分、ヒトとの間に子供を作るよりは、半人半蜘蛛のアラクネーとの方が子どもが出来やすいのではないか、などと思いつつあるウードであった。



 真っ青な空の下の緑の草原。

 ウードが呪文を紡ぐ。


 そして彼の“運命”に従って、召喚の銀鏡から落ちてきたのは直径20サントくらいのメタリックな真珠のようなものだった。

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ウード君がラインのままならアラクネーを呼び出してキャッキャウフフ出来たのにね。残念!

2010.07.18 初投稿
2010.10.09 修正



[20306] 蜘蛛の糸の繋がる先は 12.ぐはあん ふたぐん しゃっど-める
Name: へびさんマン◆29ccac37 ID:4dc27135
Date: 2010/11/01 14:42
 〈黒糸〉の伸展によって、この惑星“ハルケギニア星(仮称)”の地図の空白はほぼ埋まりつつある。
 地上海中も含めての精度の高い地図だ。
 その地図から入植出来そうな場所や地下資源がありそうな場所の特定を行ない、そこにゴブリンの一団を派遣して開拓していくことが今後の課題である。

 未開地の調査を進める上では先住種族との交流もおろそかに出来ない。
 彼らが祀る神の中には、現在も地上に影響を及ぼしているものもあるかも知れない。情報が必要だ。
 シャンリット領のトロール(ヴーアミ族)やオーク鬼は絶滅させられているが、その他の種族については出来る限り穏便に接触する必要があるだろう。

 というものの、〈黒糸〉による調査は地下からのものなので、実際に地上に何が住んでいるかというのは分からない。翼人のように季節ごとに住居を変える種族もあることだし。
 先住種族との交流は現地に派遣された開拓団の出たとこ勝負になるだろう。
 その辺りについて今後は空からの事前調査が望まれるところである。

 アルビオンという宙に浮く大陸があるのだから、他にも空飛ぶ土地はあるかも知れない。
 そのような浮遊大陸の発見は〈黒糸〉に頼らずに行う必要がある。
 例えば電波式のレーダーであったり、人工衛星からの撮影だったり。

 空から調査する手段として飛行型のガーゴイルや魔法生物の研究をゴブリンたちは行っている。
 コスト的には魔法生物の方を採用することになりそうだが、果たして。
 空中からの調査手法について担当している部門長曰く。

「魔法生物にしても虫型か鳥型かはたまたドラゴン型か、悩むところであるが、それぞれにメリットが有るのだから、人員の許す限りは同時並行でも構わないだろう。
 魔法生物を偵察用として採用した場合は、人面樹に喰わせることで偵察に行った魔法生物の見聞きした情報を統合することが容易いのも魅力だ。恐らくは使い魔化することが可能な昆虫類を採用することになるだろうが……。
 ガーゴイルの場合、生物が侵入できない場所――火山地帯や超高高度での活躍が望まれるので、こちらも研究を進めている」

 とのことだ。


 シャンリットから未開の新天地に派遣する「開拓団」は最低5人の構成となる。

 まずはキメラ人面樹(バロメッツと融合キメラ化)を使い魔にしたゴブリンメイジ。水系統だと尚好し。
 入植地の食料生産・補給を一手に管理することになる。
 人面樹を育てて知識を蓄積し、現地の動植物や環境の研究を行う要でもある。
 初めに家名を賜った〈レゴソフィア〉氏族を中心とする者たちである。

「些細な事が決定的に重要なのです。あらゆる記憶を蒐集し、全て記録することが使命です。あ、あっちに珍しい蟲が……」


 次に〈黒糸〉と契約してそれを自在に操り、住居などを作り、土質改良も出来る土系統のゴブリンメイジ。
 バロメッツが育成可能な環境を整えたり、拠点の作成・整備を行う土建屋だ。
 全世界に張り巡らされている〈黒糸〉からの支援を受けられる者たちで、参謀役・情報管制官でもある。
 〈黒糸〉を通じて各地の拠点と連絡を取り合う役目だ。
 〈ウェッブ〉氏族と呼ばれる、特に〈黒糸〉の運用に特に長けた氏族から選ばれることが多い。

「おーい、拠点の建物は作ったぞー。それと総本部からの通達も来たから、連絡ー。あれ? 一人足りなくない?」


 前衛としては、使い魔として契約した身体強化型の寄生虫を宿した屈強なゴブリン戦士。
 〈バオー〉氏族と呼ばれる彼らは、その屈強な体を活かして拠点の守りや未開地の積極的な開拓を行う。
 その体力を活かして、皆を守り、サポートするのが役目だ。
 肉弾戦闘のエキスパートでもある彼らは、氏族全体で連綿と武術を高め続けている。
 人面樹に修行で高めた功夫を還元することが出来るので、彼らは生まれながらに熟練の経験を持っている。
 とはいえ、経験だけあっても体がその経験通りに動くかどうかは別問題なので、彼らは常に研鑽を怠らない。単体での生存能力では最も秀でているだろう。

「熊捕ってきたぜ、熊。いやー、結構手強かったね。久々に良い運動になったよ。あ、レゴソフィアならさっき擦れ違ったぜ。蝶を追いかけてた」


 後衛としては、様々な幻獣種とのキメラ化によって魔法を強化された異形のゴブリンメイジ。
 大規模な魔法を使うことを専門とするこの〈ルイン〉氏族は、多くの魔獣の因子を血に取り入れた者たちだ。
 各個人によってその姿は竜鱗を持っていたり、水かきがあったり、羽があったりと様々だ。
 〈ウェッブ〉氏族と協力して大規模な土地の開拓を行ったり、〈レゴソフィア〉氏族の植物栽培を魔法で助けたりと万能な活躍が可能だ。
 魔法の実践に関しては、〈ルイン〉氏族の右に出るものは居ない。

「スンスン。まだ匂いで追えますけど、どうします? 200メイル位離れた所に居るみたいですから、私の『念力』射程内ですし、充分連れ戻せますよ」


 最後に彼ら4人を統率する指揮官役のゴブリンメイジ。
 リーダー役は特にどのような特技を持っていなればならないとか決まっているわけではない。
 統率に必要な経験と適性があれば、持っている技能は関係ないのだ。
 先住種族との交渉や隊の纏めに相応の社交術が要求されるので、政治家や商人の経験をダウンロードした者が任命されることが多いが。

「またレゴソフィアが先走ったのか。ルイン、頼む、連れ戻してくれ。そしてサンプル採取は後だともう一度伝えて欲しい。
 あと、バオーは勝手に野生動物捕ってくるな。もし熊がこの辺の信仰の対象だったらどうするんだ。
 ウェッブ、総本部からは何だって? ああ、この前要請していた翼人について詳しい人材の件だな。了解だ。
 ……ああ、お帰り、レゴソフィア。この後は翼人との交渉もあるんだからこれ以上胃が痛くなるような事を増やさないでくれ……」

 このような5人構成の一団をフネで狙ったポイントに降ろすことで、入植の足がかりとする。
 彼らには、必要な物資、様々な品種のバロメッツの苗木と、使い魔契約済みのキメラツリー(人面樹とバロメッツのキメラ)を持たせて送り出す。

 降り立った一団は、その土地を苗木の生育に適した土壌に変えて、襲ってくる現地の幻獣を排除したり、現地の生物のサンプルを採取したりしながら、苗木を植えて、『活性』の魔道具を作成し生活基盤を整えていく。
 数カ月もすれば、『活性』の影響で成長が早められた苗木から、その土地生まれのゴブリンの第一世代が誕生するだろう。
 現地に先住民族が居た場合には、彼らと交渉して拠点を作っても問題ない場所を教えてもらうか、何らかの対価(宝石や甘味料など)で土地を買い取ることになるだろう。

 あとは徐々に数を増やしつつ、〈黒糸〉を介してトリステインの本拠地や他の開拓団と連絡をとりながらその地に浸透していくだけだ。

 開拓団の派遣と並行して、ゴブリン型バロメッツの種を気球であちこちに向けて飛ばすという『ふ号作戦』みたいなものも行って居る。
 こちらは種が何処に辿り着くか分からない上、落着した場所に『活性』の魔道具があるわけではないため、成功率や成長速度に大幅に劣るが、コストメリットが非常に大きい。
 上手く樹が育ってゴブリンが生まれれば〈黒糸〉を通じて連絡が来る手筈になっている。
 将来的には気球ではなくて、飛行型のガーゴイルに『活性』の魔道具を積み、運搬と着陸後の世話をさせようというプロジェクトも進行中である。

 こうやって、徐々にゴブリンたちはハルケギニア文化圏の外にその勢力圏を拡大していっている。
 現地の珍しい動植物のサンプルは、定期的に開拓団の元にフネが回って回収している。
 持ち帰られたサンプルの研究は全く間に合っていないが、今は無制限かつ無目的に、そして貪欲にサンプルを回収している。

 ウードは勿論のことゴブリンたちも、将来的にこれらのサンプルが研究されるのを心待ちにしているし、積極的に研究を行っている。
 それはゴブリンたちが好奇心旺盛なように品種改良されているということもあるが、それ以上にウードの知的好奇心の衝動を移植されてしまっているからだ。







 蜘蛛の糸の繋がる先は 12.ぐはあん ふたぐん しゃっど-める ひゅあす ねぐぐ・ふ
 






 ウードはトライアングルに昇格してから水魔法のトライアングルスペルである記憶操作魔法が使えるようになっているのだ。
 そして、〈黒糸〉のインテリジェンスアイテム化後からその魔法の練習を行なっていたウードは、記憶操作魔法に完熟するとゴブリンに自らの記憶の移植を行ったのだ。

 記憶を読んだり、あるいは植えつける魔法というのは脳にダイレクトに影響を与えるため、非常に制御が難しい。
 ……ウードが“記憶制御魔法は脳を弄るもの”という先入観を持っているからかも知れない。
 ウードの魔法練習の実験台になったゴブリンたちの何人もが廃人になってしまった。

 廃人になった後でも人面樹に記憶を吸わせてやれば、魔法で頭を弄られている時の感想を聞くことが出来るので、その感想をフィードバックすることでウードの記憶制御系の魔法熟練度は見る見る上達した。
 また、ウードは、虚無の曜日には出来るだけシャンリット領に帰り、母エリーゼからも水魔法を教えてもらうことで、召喚儀式の頃までには記憶の読み取りと植え付けの魔法を実用レベルまで高めることが出来た。
 記憶操作魔法は本来禁呪とされる術式であるためエリーゼはその習得に条件を課していた。“『集光(ソーラーレイ)』5発耐久”がその条件である。ウードはそれを耐え切ったのだ! 朝から晩まで、4回のインターバルを挟みつつも延々と降り注ぐ収束太陽光。時にそれは弱火でじっくり蒸し焼きにするように、時にそれは激しく地面を蒸発させて蒸気爆発(水蒸気ではなく岩石の蒸気化によるもの)を起こし、また時には何よりも鋭い光の刃になって鏡の盾を切り裂いたが、ウードはその全てを退け……退け……られたら良かったのにね。軍一つ丸々壊滅させる魔法を個人用に収束したものを防ぎきるなんて不可能だった。広い平原の10リーグ離れた場所から狙ってくるエリーゼに対して、ウードは障害物を構築して物陰を増やして一刻も同じ場所に留まらないように移動しつつ、彼女の集中力が切れるのを伺っていたのだが、狙いが絞れないときは広範囲の温度上昇を狙った攻撃をされ、身を晒そうものなら一点収束の光線で穿たれ、物陰に隠れたのを見れば物陰ごと蒸気爆発で吹き飛ばさんと狙われる。『集光』の魔法は空中の無数の水滴を操るというその性質上、応答性が悪いのでウードに収束光線が直撃することはなかったが、当たりをつけての広範囲攻撃は避けようがなかった。日が沈むころには、ウードは再起不能直前のボロ雑巾状態であった。

「よく耐えました。ウード。約束通りに禁呪を教えましょう」
「はぁっ……、ぜっ、是非とも、お願い、っ、します、母上」
「傷を治してから私の部屋に来なさい。いつでも教えてあげるわよ」

 ウードが記憶の植え付けが出来るようになって初めにやったことは、ウード自身のの記憶を適当なゴブリンに植えつけて、そのゴブリンを人面樹に吸収させることだった。
 これによって、未だにゴブリンたちに伝えきれていない現代知識の殆どを、人面樹の記憶の群れの中に紛れ込ませることが出来た。
 ウードが記憶操作魔法の慣熟訓練中に失敗して発狂させてしまったゴブリンたちには、ウードの心の底で渦巻く狂わんばかりの未知への探究心だけは植え付けられてしまっていた。
 彼の狂的な探究心はそれを植え付けられた狂えるゴブリンを消化吸収した人面樹群、ひいてはそこから記憶を受け取るゴブリンたちの精神を汚染していった。

 〈黒糸〉の管制人格〈零号〉を作り上げた時点で、〈黒糸〉を杖として契約している全てのメイジの精神力を統合して、賛美歌詠唱と同様の仕組みで、それでいて賛美歌詠唱より高い効率で強力な魔法を使えるようになっている。
 ウードが記憶操作魔法を覚えたため、その魔法の媒体(杖)となった〈黒糸〉管制人格〈零号〉も、自らに流れたその魔力から同様の魔法を学習して、使用可能になった。
 〈黒糸〉を使って魔法を使うと、管制人格〈零号〉もその魔法を覚えるというのは、この時に初めて明らかになった。

「まさか魔法をラーニング出来るとは……」
【マスター、もっと色々魔法を教えてください!】

 もっと早くこの事実が知れていれば、ウードがわざわざ記憶操作魔法を習得しなくてもよかったのだが。
 早くから分かっていれば、記憶操作魔法が使えるメイジの経験をダウンロードしたゴブリンメイジに〈黒糸〉と契約させて魔法を使わせることで、管制人格〈零号〉に記憶操作魔法を覚えさせることが出来ただろうに……。

 ちなみに讃美歌詠唱とはロマリアの聖堂騎士団の十八番で、過酷な修練によって息を合わせた聖堂騎士たちが力をあわせて魔法を使うものである。
 巷では、息を合わせるために聖堂騎士達は体を重ね合わせているのだとかいう陰口も叩かれている。
 ……知りたくなかったことだが、以前に聖堂騎士の訓練風景をゴブリンたちが〈黒糸〉経由の『遠見』で偵察した際には、団員の寮からガチュンガチュンと夜ごと連結音が響いていた。
 ロマリアは「光の国」だが、実は薔薇の国でもあったのだ。

 閑話休題。

 人面樹には多くのメイジの経験が詰まっているので、それを〈零号〉にも転写出来れば、〈零号〉は今よりも多くの魔法を使えるようになるだろう。
 試しに管制人格〈零号〉に『読心』の魔法で人面樹の記憶を読み取らせてみたのだが、それは上手くいかなかった。
 『読心』の魔法は、人面樹には対応していないらしい。

 イメージとしては『読心』というアプリケーションに対して人面樹がストックしている記憶ファイルの拡張子が異なっているとか、そういう感じだろうか。
 だが、ゴブリンからは『読心』の魔法で問題なく記憶を吸い出すことが出来た。
 そのため、面倒だが、人面樹を使い魔としているゴブリンメイジに一旦人面樹がストックしている記憶を引き出させて、そのゴブリンメイジの脳から〈黒糸〉の〈零号〉に記憶(知識・経験)ダウンロードさせるという迂回経路を用いている。

 これで、ラインだろうがドットだろうが関係なく〈黒糸〉と契約すれば〈零号〉の補助によって大魔法を発動させることが可能になった。
 まあ、可能になったからと言って、それを誰でも使いこなせるというわけではない。

 膨大にストックされている魔法術式の記憶の中から目当てのものを探し出して使うというのは非常に面倒くさいのだ。
 〈黒糸〉と契約しているゴブリンメイジたちは、〈黒糸〉に刻一刻と蓄積されていく各地の情報と、人面樹から転写される記憶を分かりやすくかつ使い易いように整理する事に日夜追われている。

 人面樹を使い魔とするゴブリンメイジも同様の悩みを古くから抱えていた。
 日々増え続ける死者の記憶情報の中から意味のあるものを拾い上げ、あるいは害悪となるものを隔離したりする作業は気が遠くなるほど時間がかかるものである。
 作業中に気狂いの意志に触れて正気を数日失うということも結構ザラにあるようだ。

 バロメッツとのキメラ人面樹が作られるようになってからは、新たに生まれるゴブリンに植えつける記憶をコーディネートする役割も生まれた。
 まあ基本的には一年から数カ月に一度“基礎記憶”――義務教育課程みたいなもの――を共同体全体で制定し、氏族や職業によって更に専門性が必要な場合はオプションを追加するという具合になっている。
 特にオプションを定めない場合は、ランダムに記憶を追加して、それによって新たな発想や発明が生まれるのを促している。
 一方で功績著しい者については、生前の人格をまるごと移植することすら許されている。

 ここに至り、〈黒糸〉の管理を行う〈ウェッブ〉氏族と、人面樹を使い魔とする〈レゴソフィア〉氏族の間で、記憶ファイルの拡張子や整理大系についての論争が巻き起こった。

「人面樹の記憶体系の方が古いんだからこのままじゃ駄目か? 今更新しいやり方に変えるなんて無理だ」
「しかし、今後は〈黒糸〉経由で情報を検索することも多くなります。今の体系では対応できなくなります」
「将来的には統一の必要があるのは明白だし、整理する情報量がこれ以上増える前に対応するべきだと思います」
「じゃあ、人面樹側と〈零号〉の側で使いやすいように、実践的で見易い整理体系を新しく作り直さないと」
「それでしたらこちらに案があります」
「半年で新体系をまとめるぞ」
「では半年後に記憶再整理用の人員を大幅増員するように人口生産管理部門に申請してきます」

 最終的にはどちらの長所も取り入れた形の基準を制定するに至り、〈ウェッブ〉&〈レゴソフィア〉の両氏族をバロメッツで大幅に増員して今までに記憶蓄積された情報の再整理を一気呵成に行った。

 再整理後に過剰となった人員はそれぞれ開拓中の土地に送られたり、それ以外の未開地の開拓に赴くことになった。
 まあ、実験動物の扱いになるよりはマシということで、一時増員された両氏族のゴブリンメイジ達は散り散りに広がり、さらにゴブリンメイジの文化圏が広がることとなる。

 また、誰でも高ランクの魔法が使えるとそれはそれで困ったことになるため、〈黒糸〉上の情報へのアクセス権や〈黒糸〉経由での魔法発動にはその危険度や機密度によって一定の認定試験を課す免許制をとることになっている。
 ウードは認定試験関係なく最上位者の設定である。造物主特権というわけだ。
 免許が無い者が〈黒糸〉を杖として使おうとしても、込められた精神力は分散され〈黒糸〉の全く見当違いの場所で発動したり、タイミングが合えば別の者が行使する魔法に上乗せされたりすることになる。
 元々、セキュリティ対策に作り出された管制人格〈零号〉であったため、使用者認証や権限設定には抜かりはなかった。

 免許を持ったゴブリンなら実際の本人のランクに関係なく高度な魔法を使えるようになったため、体質的にライン辺りが才能限界となっている一般のゴブリンメイジ達でも『読心』を使用可能になった。
 魔法専用に調整されている〈ルイン〉氏族ならば生まれながらにスクエアなのだが、それ以外の氏族では頑張ってもラインが良いところだったのが大進歩である。
 誰でも高度な魔法が使えるようになったので、魔法特化の〈ルイン〉氏族の存在価値が消滅したように思えるかも知れないが、〈ルイン〉氏族はその内に取り込んだ種族の特性を生かした固有魔法を使えることが強みでもあるし、〈黒糸〉に登録されていない先進的な魔法の使い方の研究実践部隊としての役目がある。


 読心魔法の使い手が増えた為、エルフの高度な魔法技術を掠め取るべくサハラに駐在させているゴブリンメイジ達を現在暗躍させているところである。
 精霊力の利用に関してはエルフにかなり水を開けられているため、その分野に関して特に諜報を強化している。
 持続可能な発展のためには、環境に大きな負荷を与えないエルフ式の技術が大いに参考となるだろうからだ。





 学院の男子寮の4階。
 ジャン=マルク・ドラクロワはその見事な体躯で風を切りつつ、その角部屋を目指して歩いていた。
 目指す先は多くの生徒、どころか清掃のメイドですら滅多に近づかない部屋。
 魔窟と言われるその部屋は住人が蜘蛛愛好家(アラクノフィリア)であるにも関わらず、常に蜘蛛の巣一つない清潔さを保っている。
 精神を落ち着かせる花の香りが漂う一角は、そう、何あろうウード・ド・シャンリットの居室である。

「入れてくれー、ウード」

 ノックを二回。寮の部屋の扉は、密度の高い高級木独特の感触を返してくる。

「あー、ジャン=マルクか。ちょっと待ってろ、今開ける。『念力』」

 『アンロック』の魔法ではなく、錠の内部を精確に遠隔地から『念力』で操作して開けるなんて無駄なことは、この学院でもウードくらいしか行わないだろう。
 何でも『アンロック』が使えないという噂もあるが、真実かどうかは不明である。
 ウードの『念力』は解錠に引き続いて行使され続ける。追加の呪文が唱えられることなくドアノブが回り、扉が開く。

 ウードは執務室然とした寮の一室で、黙々と書類を処理しているところだったようだ。
 衝立で見えないように仕切られた向こうで、ウードが書類を打っている軽快なスタンプ音が聞こえる。

「ジャン=マルク、来てもらったところ済まないがそこに掛けて待っていて貰えないか。目を通さなくてはいけない書類が山とあるのでな。あと書類は覗くなよ?」
「分かってる分かってる。紅茶と茶菓子はいつもの所にあるよな?」

 勝手知ったる他人の部屋ということで、ジャン=マルクは自分で勝手に紅茶を準備しようとする。
 戸棚からティーセットを取り出し、ティーバッグの入った缶の蓋を開ける。紅茶の茶葉の香りと共に柑橘系の良い香りが広がる。ベルガモットという柑橘類から採れた精油をまぶしたフレーバーティだ。
 これはウードが実質的なオーナーを務めるアトラナート商会で卸している新商品の紅茶である。
 ジャン=マルクは毎週毎週ウードの部屋に届けられる、アトラナート商会の様々な新商品の紅茶を飲むのを楽しみにしているのだった。

「うむ、今回もいい香りだ。お前の所は毎回毎回いい仕事してるなあ」
「そう言って貰えるとウチの従業員も喜ぶよ。飲んだらそいつの感想聞かせてくれ。参考にさせてもらうから」

 カタカタとタイプ音をさせながらウードはジャン=マルクに答える。
 ウードの舌はもはや人間の舌とは味覚が違っているらしく、彼が試作品を食べても全くハルケギニア人向け商品に対しては意味を成さないらしい。
 そのため最近はジャン=マルクたちを始めとした同級生に試飲やら試食やらを頼んでいる状況である。

 ちなみにウードが読んでいるのは、各地に送り出された開拓団からの報告書や、回収されたサンプルの研究結果、電気関係や数学関係の各種法則の実証結果、新しいマジックアイテム、作物の新品種、キメラ人面樹から生まれるゴブリンに関する記憶の制御技術、寄生融合型使い魔とその宿主の共進化的強化の進展、アトラナート商会の経営状況などなど……である。
 新種や自然法則の発見、新技術・新商品の開発もそうだが、それらにともなって引き起こされる社会構造の変化やそれに対応するための組織再編、法律の整理など、考えなければいけないことは沢山ある。
 大半の業務はゴブリンたちに任せてしまっているが、それでもウードが決裁する書類は多いのだ。

 報告連絡相談は〈黒糸〉と契約したメイジ同士で『遠見』の魔法を用いてテレビ会議風に行うことも出来るので、学院の森の外れの地下に作った研究室には、『遠見』会議専用の部屋が設けてある。
 また、ウードがシャンリットの実家にいた頃に培った写本のプロセスを応用して書類はFAXのように遠隔地と送受できるようになっている。
 ウードが今見ている書類は、そうやって送られて来たものだ。

「ふんふんふーん。『集水』してー、『加熱』で適温にしてー、と」
「ああ、そうだ、茶菓子も今回のは新作だから感想が欲しい。何なら彼女に持って行ってもらっても構わんから」
「んー、了解了解。……あとは蒸らすだけー、と」

 ジャン=マルクが茶葉に湯を注ぐと、その香りが部屋に満ちる。
 フルーティな精油の香りと紅茶本来の芳香が絶妙なバランスでマッチしている。
 ちゃきちゃきと手馴れた様子で二人用が精々の小さなテーブルに、茶器を配置していく。

「それにしてもこの“ティーバッグ”ってのは便利だよなあ。よくこんなものを考えついたよ」
「潜在的な需要はあったと思うがね。そのまま湯に入れても問題なくて雑味が出ないで薄くて丈夫な紙ってのが、技術的には他の商会では真似できなかったんだろう。まあ、紙じゃなくても絹でも何でも良いんだが」
「絹なんか使って作ってもお前の所の商会より安くはならないだろうけどな」

 アトラナート商会の扱う紅茶は、その品種や香味の豊富さだけでなく、ティーバッグという便利な発明によって一気に市場に食い込んだのだ。
 これはウードの発案ではなく、ウードの記憶を転写されたゴブリンが思いついた(思い出した?)ものだ。

「いや、そうでもないだろう。高品質の多品種を扱うのがウチの商会の売りだから。安価品の市場開拓については、他所の所に丸投げだ」
「商人たちには呆れるよな。アトラナート商会で新商品が出たら、直ぐに真似するんだから。生き馬の目を抜くとは良く言ったものだ」
「まあ、品質でウチが後続に負けることは有り得ないから真似されても平気だがな。きちんと固定客はついてるし、質の違いが分かる人は買ってくれる。蜘蛛の看板騙る奴らには消えてもらうが」
「かはは、おお、怖いねえ。王都でそんなことをやる奴が居るものか。“蜘蛛の巣に飛び込む蝶の末路は――”って皆が噂してるぜ」
「最近は他国にもアトラナート商会のブランドが広まったから、詐欺まがいにウチの看板掲げて騙す奴がまたぞろ湧いてきた。信用を汚す輩には相応の末路を、ということでお陰で消毒部隊がてんやわんやだ」

 カタカタ、と続いていたタイプ音が漸く止まる。
 ギシリと椅子の背もたれが軋む音と、ウードが伸びをする不抜けた声がする。
 もしこの場にジャン=マルクが居なければ、ウードは右脇腹に畳んでいる蜘蛛の大顎も伸ばして晒していただろう。その場合のシルエットは軽くホラーである。

 ちなみに、先程から響いいていたタイプ音はウードがゴブリンたちに頼んで作ってもらった、タイプライターもどきが発していたものである。
 基本は地球式のタイプライターと同じで、インクリボンと各文字型のスタンプとそれに対応するキーなどから成る機械である。
 機構学の発展に伴って複雑な機械も作ることが可能になってきたのだ。複雑な機械の作成には、歯車等の部品の精度向上もだが、それを設計する際の理論の発達も必要である。
 とはいえまだ量産には至っておらず、このタイプライターはゴブリンの職人たちの技術の粋を凝らした一点物である。

 地球式と違う点は打刻するスタンプに『レビテーション』を掛けてあり、動かすのに必要な力を軽減していることと、打刻する時の騒音対策として『サイレント』を常時発生させる魔道具が組み込まれていること、タイプ後の紙に自動的に『錬金』で表面保護加工して『固定化』を掛けるくらいである。
 スタンプする部分には定期的に『固定化』と『硬化』を掛けているから摩耗もそれほどしないし、もし摩耗しても『錬金』で簡単に修理できる。
 また、規格消耗品のインクリボンや紙を自動で作成する付属の魔道具も開発してあるため、精神力のみのコストでこのタイプライターを運用出来るようになっている。

 半導体の研究も進んでおり、そのお陰で、トランジスタが開発出来たらしい。真空管と同時開発中である。
 まだ信用性が足りないが、これで2~3年中には電卓が出来るはずである。恐らく初期型は重さ1リーブルくらいになるだろうが。
 カーボンナノチューブが作成できるので、職人の粋を凝らした一点物ならば、現時点でもかなり高集積なものが作れるだろうと思われる。

 トランジスタがあれば真空管は要らないのではないかと思うかも知れないが、大電流を流す際にはトランジスタより真空管の方が適しているので真空管の研究も必要である。
 風魔法で真空も簡単に作れるし、クリーンルーム内でゴーレムに作業させるのも簡単に実現出来そうだ。
 何より、ウードの記憶から西暦2000年代以降の情報化社会の青写真を見てしまったゴブリンたちの発奮ぶりが凄まじい。
 パソコン、もしくはその類似品の開発による事務仕事の負荷軽減は、現在のゴブリンたちの最重要課題となっている。

「ふぅ~~~あっ。ああ、疲れた。済まん、待たせたな。書類仕事が長引いた」
「ああ、いや丁度紅茶も入った所だ。問題ない」
「紅茶飲んだら、少し胃を落ち着けてから走って組み手とするか。それで良いよな? ジャン=マルク」
「大丈夫だ。じゃあ、茶菓子は後の方が良いかね」

 衝立の向こうから出てきたウードは、ジャン=マルクが紅茶を入れているテーブルの椅子を引くとそこに腰掛ける。

 今は新学期。ウードとジャン=マルクは魔法学院の二年に無事進級したのだ。
 つまり、進級試験である使い魔召喚の儀式はクリアしたわけだが、ウードが呼び出した使い魔が問題だった。
 彼の望みどおりに雌のアラクネーでも呼び出せていたら、今頃はこうやって男二人でお茶なんかせずにウードは美人アラクネーとの親睦を深めているところだろう。

 紅茶に口をつけていたジャン=マルクの視線が、ふと戸棚の一角に鉱物標本のように安置されている金属色の球体に向けられる。
 直径20サントほどの鈍色の真球が、赤いふかふかの台座の上に置かれている。

「なあ、ウード。あれってやっぱり卵なのか?」
「……多分」
「何の卵だ? 竜か? 孵ったら教えてくれよ」
「……私が生きてる間には孵化しないで欲しいね。あと生まれても、君は見ない方がいいと思う。トラウマを増やしたくなければ」

 遠い目をしてさらに何事か呟きつつ卵を眺めるウード。
 疑問符を浮かべつつも、ウードと会話が通じないことはままあるので、気にせずに紅茶に集中するジャン=マルク。フレーバーティも中々良い、無醗酵のグリーンティにも手を出すべきか、いや、紅茶を究めるのが先かなど思いを馳せる。

 いつこの卵の親御さんが来るか夜毎に戦々恐々、とか、邪神はもうアトラク=ナクア様だけで充分、とかいうウードの呟きはジャン=マルクには聞こえなかったようだ。

 鈍い輝きを返す卵が、中に入っているものの胎動に合わせて微かに揺れた。もう明日にも孵化しそうだ。





 ウードが呼び出したのは真ん丸い金属光沢を持つ直径20サントほどの球体だった。鉱物学者ならば岩屋真珠(ケイヴ・パール)とでも名付けるかも知れない。

 監督の教師は「何かの卵だろう」と言っていたし、ウードもそう判断した。彼の感情はその判断を否定したがっていたが。

 一応、監督教員の見守る中、卵の殻に『コントラクト・サーヴァント』を行った。
 ウードが懸念していた契約による召喚者側の肉体改造(使い魔との感覚共有を受信するための変化など)の影響による彼自身の蜘蛛化の呪いについては、若干活性化したものの充分に押さえ込める範囲であったため問題を生じなかった。

 卵の方には目に見える範囲にルーンは刻まれなかった。
 しかしウードが感覚共有を試したところ、これまで彼自身では感知出来なかった感覚を感じたので、契約は成立したものと思われた。

 その時ウードが感じ取った感覚は名状し難く、深い泥濘の中でもがくようなと言えばいいのか、あるいは竜の腹の中で溶かされていくようなと言うのか、とにかく粘液質の狭い空間に閉じ込められているようなものであった。
 また、そういった触覚自体も未だ未熟な状態であるようで、卵の中の使い魔と感覚同調したウードは、むず痒いような感覚と共に、その感覚神経自体が成熟し研ぎ澄まされていくのを感じ取った。
 そう、それはその球体の中で急速に成長していたのだ、まるで、使い魔契約を発端に眠りから覚めたかのように。

 光沢のある球体はウードの部屋に持ち帰られ、ふかふかの布の上に鉱物試料のように安置されている。

 そうして召喚から一週間程度の時間が経った。
 今、その球体はかすかに振動している。
 もうすぐ孵化するのだ。
 胎動する卵を前にウードは、その時が来るのを待っている。

「――これが私が思っている通りの、恐るべき地中種族の卵だとすれば、孵化したあとには大量の液体状有機物……血液などが必要になるはずだ」

 卵が一際激しく振動し、その殻が溶けるようにして孔が開いた。
 中からは腐った肉汁のような不快で不衛生な臭気が溢れ出し、花の香りが焚き染められていたウードの部屋を汚染していく。
 まるでこの部屋の主が瞬時に卵の中の物へと書き換えられたかのような錯覚を覚える。

 はたして殻を破って出てきたのは、粘液に包まれた灰色のイカのような生物だった。あるいは細長いイソギンチャクのような。
 細長い先細りの灰色の円筒状の身体を持ち、頭部に当たる場所には無数の触手がイカかイソギンチャクのように蠢いている。
 全長は30サント弱といったところだろうか。
 巨大な灰色のミミズのように見える。

 やはりこれは「クトーニアン」の卵だったのだ!

 慄然とするウード目がけて、腐汁を滴らせる妖虫はその全身を躍動させて襲いかかった。

「うをえあ?!」

 急な事態にウードの対処は遅れてしまった。充分予期していた事態であったのに! 邪悪で穢らわしい気配に当てられて動きが鈍ったところを付け込まれたのだ。
 びたん、とウードの剥き出しの左手に、クトーニアンの妖虫は纏わりつき、その触手の先に開いている円形に歯の並んだ口を捩じり込ませて、穿孔させて行く。

「あづぁっ、ちい、は、な、れ、ろ!」

 ウードは自分の体液を啜って脈動する触肢を見るや、反射的に左手を思いっ切り振り抜き、妖虫を遠心力で引き剥がそうとする。
 なんども振り回されるうちに妖虫はその加速度に負けてウードの左手から離れ、部屋の壁の方へと吹き飛んでいく。
 妖虫が壁にぶつかる寸前、ウードの『念力』が妖虫を捉えて、宙吊りにする。

「はあ、はあ、危ない危ない。結構跳躍力あるのな、こいつ。びっくりした」

 一先ず危機を脱したウードは、『念力』の不可視の触腕に捉えられてびたんびたんと蠢くクトーニアンの幼生に目を向ける。
 感覚共有を行うと、生まれたばかりのクトーニアンの感情が伝わる。
 どうやら卵の中に居た幼生体にもルーンは無事に刻まれていたようだ。

(……おなか……すいた……。おなかすいたおなかすいたクワセロすわせろおなかすいたおなかすいた――)

 感覚共有で繋がったウードさえも狂わそうとするような圧倒的な飢餓感が使い魔のラインを通じて襲ってくる。

「ああ、やっぱりそう来たか! しかし、既に準備済みだ! だから私の血は吸うな!」

 クトーニアンの生態について何故か知識を持っていたウードは、木っ端肉を細かく砕いてミルクを混ぜあわせたものに、ゴブリンを高速成長させる際に用いる高カロリー飼料を混ぜたものを餌として予め用意していたのだ。
 知識が前世からのものなのか、それとも『コントラクト・サーヴァント』によってウードに新たに刻まれたものなのかどうかは判然としない。

「思う存分喰らうが良い!」

 というわけでウードはタライになみなみと注いだ餌の前に幼虫を『念力』で運んで降ろしてやる。

「うわあ、左手がねとねとで穴だらけに……。暫くはあのヌルヌルは触りたくない。卵の状態で契約出来たのは幸運だったかも知れない。
 孵化直後だったら、契約のキスした途端に血を吸われていただろうし。……いや逆にルーンを刻む痛みで幼生の方が死ぬか。
 彼らは生まれた直後は熱にもダメージにも弱いからな……。あのまま振り払った勢いで壁に叩きつけてたら殺してしまっていたかも知れん」

 ウードは『治癒』で左腕を修復しつつ、使い魔に食事のイメージを送り、目の前のタライの中の流動食が餌なのだと教えてやる。
 クトーニアンの幼生はそのイメージを受けて、触肢を蠢かせる。そして流動体状の餌に触れると、触肢を脈動させて啜り始めた。

(えさ、しょくじ、おいしい、うま……うま……)

 どうやらお気に召してくれたようだ。見る見るうちにタライの中の餌が減り、それに応じてクトーニアンが膨らんでいく。
 この勢いだと今月から学内に出店したアトラナート商会魔法学院購買部支店に、近いうちに飼料の追加発注をする必要がありそうだ。

 さて、とウードは考える。

 一応、彼が思っていた通りのものが生まれてきたわけだが、一体どうしたものだろうか。この記すことすら憚られる使い魔を。
 さらに言えば、成体のクトーニアンはその子供に対して異常な執着を見せるという性質があったはずである。
 最小サイズで30メイル級の成虫の群れに押しかけられたらたまらない。
 素直に押しかけてくるならともかく、クトーニアンの能力で巨大地震でも起こされたらハルケギニアが滅ぶ。

(にんげん、たべもの、もっと。おまえのち、まずかった。うまいもの、もっと)
「もう食べ終わったのか。早いな。ちょっと待ってろ。あと勝手に吸っておいて不味かったって酷い感想だな。
 まあ、餌を食べつくしても大丈夫なように、更にその5倍は用意してあるんだ。ほら、たんとお食べ~」
(……うま~、うまうま……)
「よく入るな。……というかさっきより体が大きくなってないか、こいつ」

 この短時間で消化して成長しているというのか? 確かにウードの記憶によればクトーニアンは非常に成長が早く、半年で数メイルになるということだが。それにしても成長速度が早いのではないだろうか。

「今のうちにもっと追加の飼料を持って来るか、『錬金』しなくては足りなくなるな……」

 クトーニアンは個体同士でテレパシー機能がある。
 現在、封印から起きているクトーニアンがどれだけ居るか不明であるが、ここトリステイン魔法学院に幼生が居ることは掴んでいるだろう。
 ……だが、ウードも伊達に〈黒糸〉を地球上に張り巡らせてはいない。
 地中を移動するクトーニアンの影をソナーのように振動反響で捉えることは出来るはずだ、とウードは思いつく。

「先ずは、アフリカに当たる地域から確認だな。
 確か、記憶によるとクトーニアン達がその首魁のシュド=メルと共に閉じ込められていたのがあの辺りだ」

 ウードは身体の中の〈黒糸〉を伸ばし、惑星を覆う巨大な〈黒糸〉のネットワークに接続する。

「……〈黒糸〉の管制人格、〈零号〉よ、アフリカ地域の地中に何か居ないか、探査を頼む。あと、このハルケギニア地域に地中から向かう何かが居ないかどうか、監視してくれ」
【あいあい、マスター。まあ、5分ほど待っててくれ。それにしても厄介な使い魔を引き当てたねー】

 返事をしたのは、この間〈黒糸〉をインテリジェンスアイテム化した際に作り上げた管制人格、その名も〈零号〉だ。
 この管制人格のおかげで、各地の情報収集や、蒐集した資料の管理が格段に楽になっている。

「とりあえず、成体がこちらに向かってなければ問題ないんだが。……いや、成体のクトーニアンとコンタクトが取れなくても問題か。クトーニアンの育て方なんか全く知らんしな」
【じゃあ、クトーニアンの成体を見つけたら、取り敢えずはコンタクトを取ってみるってことで。もし『子供を返せー』って言ってきたらどうする?】
「返すしか無いだろう。親元に居る方が幸せに決まってるんだし、クトーニアンはそこまで敵対的な種族じゃなかったと思うし。自信ないけど」

 というか、返さないって選択肢を取ったらハルケギニアの大地がマントルに沈む事になるのは明らかである。少なくとも耐震性という概念もない魔法学院の建物は、地震攻撃によって無残に倒壊するだろう。

【あいあい、解析結果来たよ。……今のところ、振動探知が効く範囲ではクトーニアンらしき影は無いね。
 大体、あれって惑星の核付近に居るんでしょ?普通は振動探知が効く範囲に居ないよ?】
「それもそうか……。まあ、引き続き警戒頼む。
 それと火山活動や地震活動が活発化したり、マントル対流がおかしいところがあったら直ぐに知らせてくれ」
【あいあい、了解。……ん、ちょうどシャンリットの辺りでマントルの流れが乱れてるね。
 結構なスピードで何かがマントルの中を泳いでるっぽい。振動探知の範囲内には捉えられないけど、これ、クトーニアンかな?】
「ハルケギニア終了のお知らせ」
【猶予は余りないみたい。……そこの幼生ちゃんから使い魔の感覚共有通してテレパシー使ってコンタクト取れない?】
「……。はっ! そうだな、やってみるよ」

 ウードは意識を部屋の中に戻して、クトーニアンの幼生に目を向ける。
 食事はたらい6杯目に突入しているところのようだ。ストックはもう無いようなので、また作っておかないとならないだろう。

 ウードが念話で話しかけようとしたその時、クトーニアンが丁度鎌首をもたげてこちらに頭を向けた。
 液状飼料が滴って、脈動する触肢が悍ましげだ。

(おい、人間、メシ寄越せ)

 先に向こうから念話が来た。しかも何か知性上がっているように感じられる。やはり成長している? 傍に脱皮殻も見えるから恐らくそうだろう。
 などと高速で思考しつつ、ウードは返事をする。

「ご飯持ってきてあげるから、今のうちに親御さんに話しつけてもらえないかな~?
 何なら、他の幼生の餌をこっちで一括で準備してもいいし。
 迎えに来るなら出来れば穏便に、とお願いしたいんだけど……テレパス使えるよね?」
(早くしろよ、人間。まあ、大人たちには話をつけて置いてやろう。
 メシはなかなか美味かったしな。)
「頼むよ~。マジで」

 今のうちに無くなった餌を補充しようと、ウードは『錬金』の魔法を行使する。
 〈黒糸〉に付加された人工知性体〈零号〉が記憶しているレパートリーの中から、高カロリー流動食や各種のミネラルなどなどを選び、幾つか配合比率の異なる餌を作り出す。

(……おい人間。話つけたぞ。大人たちから伝言だ。
 『取り敢えず、地震とかは勘弁してやるけど、そっちに行くまでに子供になにかあったら分かってるだろうな?』だそうだ。)
「『もちろんです。寛大な対処、感謝の極み』と伝えてくれ……」
(伝えておくから、メシを早く持って来い)

 クトーニアンの成虫たちへの取り成しは何とか見通しが立ちそうであった。

「今、魔法で作っている所だから。もう少しだけ待ってね――」
(メシ持ってこないなら、お前から吸うぞ。ちゅうちゅう吸うぞ、不味いけど我慢して――)
「すぐ作るから! だから吸わないで、死んじゃうから」

 ウードは『錬金』の魔法を使って、クトーニアンの餌を合成していく。
 合成しては流動状にして幼虫に渡し、また『錬金』で餌を合成して……、とわんこ蕎麦状態である。
 ウード自身が慣れてきたので工程をルーチンワーク化して、全自動に切り替えようとした時に〈零号〉から通信が入った。

【マスター。マントルの対流の乱れが少し収まったみたい。このペースなら明後日くらいにはクトーニアンの皆さんが到着するんじゃないかな】
「〈零号〉、モニターご苦労様。
 ……え、“皆さん”? “皆さん”って言った?」
【大体30匹くらいは居るみたい。】
「シュド=メルさんは? シュド=メルさんは居ないよね、流石に?」

 テレパシーで会話を傍受していたクトーニアンの幼虫がそのやり取りに割り込む。

(人間、大首魁はわざわざ一匹のために出張ったりしない。まだ孵化を待つ卵が沢山あるのだからな。
 それよりメシだ。さっさと次のを用意しないとホントにお前から吸うぞ、蜘蛛男)

 クトーニアンの幼虫はいつの間にか1メイル近い巨体に育っていた。
 既に跳躍などしなくとも、この狭い部屋の中でならば充分に妖虫の触手の射程内にウードは収められている。

「えーと、このままだと部屋に入りきらなくなりそうだから校庭に出てもらえないかな?」
(うむ? 別にこのまま床を掘って、下の階の者を吸っていっても――)
「やめなさいねー。『レビテーション』」
(問答無用か。普通のニンゲンも食べてみたかったのだが)
「そのうちに、ということで。今は勘弁を」

 ウードは数百リーブルの巨体にあっという間に成長した使い魔を『レビテーション』で窓からそっと校庭に降ろす。
 その間に学院中に張り巡らせた〈黒糸〉を通じて、校庭にクトーニアンの餌を『錬金』で生産する自動作業ラインを作っておく。

「……一気に大きくなり過ぎだろう。何なんだ、一体」

 再びわんこ蕎麦状態に落ち着いた使い魔を、寮室の窓から見下ろしてウードは呟く。
 既に大きくなる過ぎて変化が分かりづらいが、クトーニアンの幼生は着実に大きくなっているようだ。





「えーと、ここを『錬金』すればいいのか?」
(そうだニンゲン。この辺りは水が多いからな。地下深く、マントルまでな)
「マントルまで!?」

 現在は夕暮れ。双月が明るく照らし始めている召喚の草原にウードは立っている。クトーニアンの姿は見えないが、地中からテレパスを飛ばしているのだろう。
 クトーニアンの卵が孵化した日の夕刻である。
 敵対的な者の手に落ちたのでは無いということを幼生から成虫たちにテレパスで説明してもらったウードは、何とかトリステインにやって来るクトーニアンを2体まで減らしてもらうことに成功していた。

 この3日後の深夜には、成虫のクトーニアンが到着する。
 真夜中にしたのはウードが周辺住民に配慮したためである。流石に隠匿するべきモノについては隠匿しようという気が残っているらしい。
 今回のクトーニアンの来訪は、ウードの下で生まれた幼虫の今後についての方針確認のためである。

 とはいえ、実際は既に大凡の合意は両者間で取れている。
 テレパスで幼虫にクトーニアン式の教育を行い、ウードからお願いをする使い魔の仕事についてはほぼ免除すること。ただし幼虫に対して充分な対価を示し、それに幼虫が合意すればその限りではない。
 幼虫が傷ついたり死ぬようなことがあれば、ウードは死刑確定。先ずはシャンリットの地下にある標本庫などを破壊しウードの蒐集したコレクションを消滅させて精神的ダメージを与え、その後は血族を惨殺して絶望の淵に陥れた後に本人を殺すとクトーニアンたちは言ってきている。
 しかしアトラク=ナクアの封ぜられている土地であるシャンリットを攻撃するということは、蜘蛛の祭司であるウードの全面的な抵抗を意味する。ウードに幼虫を殺す利益がないのでそのような事態には発展しないだろうけれども、もしそうなれば両者にとって不毛な争いになるだろうと予想される。

「マントルまで何十リーグあると思ってるんだ……」
(何。別に掘り返せと言っているわけではない。水を通さないようにして欲しいだけだ)
「……取り敢えず、やってみる」

 クトーニアンという地中種族はその種族的特性として大量の水が弱点で、水を浴びると酸をかけたかのように身体が溶けてしまう。
 そのため水の国トリステインの地下から幼虫をマントルまで送り返すにしても、マントルからクトーニアンの成虫を誘き寄せるにしても、マントルまでの水気を排した安全な通路を造らなくてはいけないのである。

 ウードは精神を集中する。

 次の瞬間、草原の中央が急に爆発して吹き飛んで、その衝撃で地面が揺れた。爆発に伴う大音響は『サイレント』の魔法によって掻き消された。地響きはおよそ震度1と言ったところか。学院の者は誰も気づかないだろう。

(ぐうう。何だ、今のは。ニンゲン、何をした!?)
「何って、地下構造の震動探査のために衝撃波を」
(事前に言え、馬鹿者! 身体に衝撃が響いたぞ!)
「ああ、多少はダメージあるんだ、やっぱり」
(実験か!? 実験なのだな!? 貴様!!)

 ウードが『錬金』した発破を爆破することで衝撃波が生じ、その伝わる速さや反射・干渉を〈黒糸〉で拾うことによって地下深くの地形を観測するのである。
 波の速度と媒質となる固体の粗密に関する方程式は既にゴブリンたちが研究しているので、それを流用してやれば地下の組成を知ることが出来るという寸法だ。この研究は近い将来に地下都市を建設するための布石でもある。
 先程その探査のために生じさせた衝撃波が地下に居たクトーニアンの幼虫を直撃したようだ。

「ん~、大体地下の水脈や地質のイメージは掴んだ。あとは該当部分にまで〈黒糸〉を伸ばして、『錬金』でこの広場の下を迂回するように水脈を変えてやれば良い訳だな」
(さっさとやれ)
「無茶言うね。まあ、なんとか3日後までにはマントルまで不透水層の通路を作ってみせるが」

 ウードは地下から風石の魔力を汲み上げて、水を通しやすい礫の層と水を通さない粘土の層を入れ替えるようなイメージで草原の地下とその周囲を『錬金』していく。草原の地下に位置する土地から段々と水が押し退けられて、不透水層に変化していく。地下水脈の流れが巨大な杭を刺されたかのようにして変化する。
 ある程度その作業が進むと、ウードは地質改変に使用していた『錬金』の制御を、彼の杖である〈黒糸〉のネットワークに宿る人工知性体〈零号〉に譲り渡す。

「〈零号〉、魔法の制御は覚えたよな? この調子でマントルまでの道を作ってくれ」
【あいあい、マスター。ばっちり覚えましたよー】
「じゃあ宜しく頼む」

 ウードは〈零号〉に魔法行使を任せると、自らは寮の部屋へと戻るために『フライ』を使って浮かび上がる。

(ニンゲン、食事は何処に用意するのだ?)

 そこに思念で問いかけるのは彼の使い魔となった地虫の幼虫だ。
 その問いにウードは森の一角の適当な場――彼が学院の近くに設けている地下研究室からは遠く、しかし人目につかない場所を思い浮かべ、それを共感覚によって己の使い魔に伝達する。

「今イメージした場所に自動で食事を用意させる装置を準備して――準備し終わった。3日後まで大人しくしてくれよ」
(……ふむ、成程。場所は分かった。食事が不味かったら承知しないぞ)
「不味かったら先ずは私に言え。改善してみるから。ヒトを喰うと面倒になるから、絶対にやめろよ?」
(お前が用意する食事によるな)

 ウードは自分よりも明らかに高位の存在が何故使い魔として呼ばれたのだろうと頭を抱えたくなった。
 しかし、先ずは3日後である。クトーニアンの卵を喚び出した自らの運命とやらを呪いつつも、ウードは意識を切り替え、夕闇の中を寮棟へと飛翔した。



 そして3日後。時は真夜中。煌々と双月が草原を照らし出す。草原にはウードとクトーニアンの幼生がその姿を現していた。
 それまでの間ずっと食事を続けていたクトーニアンの幼生は、二~三度脱皮して10メイル程に成長していた。驚異的な成長スピードである。
 予定通り、成虫のクトーニアンが地上へとやって来るための杭状の不透水層は準備出来ている。

 その時であった。地の底から湧き上がる不気味な詠唱が聞こえてきたのは。

《――け・はいいえ えぷ-んぐふ ふる・ふうる ぐはあん ふたぐん け・はいいえ ふたぐん んぐふ しゃっど-める――》

 ウードはその精神を抉るような詠唱に、本能的に飛び退る。

《――はい ぐはあん おるる・え えぷ ふる・ふうる しゃっど-める いかん-いかんいかす ふる・ふうる おるる・え ぐはあん――》

 彼の身体は臨戦態勢に移行する。腰を低く落とし、普段は仕舞われていた蜘蛛の右腕と大顎が姿を現す。

《――えぷ えぷ-ええす ふる・ふうる ぐはあん ぐはあん ふたぐん しゃっど-める ひゅあす ねぐぐ・ふ――》

 微かな地響きと共に、何本もの人の胴体ほどもある大きな触手が勢い良く草原から突き出す。
 そしてそのぬらぬらと月光を反射する触手に引き続き、その大元である頭部と思われる部分が現れる。
 2匹のクトーニアンの成虫が、まるで久々の地上に歓喜するかのように触手を振り乱して立ち上がったのだ。

 2匹のクトーニアンの成虫は、何がしかの精神的な手段で幼虫と会話を交わしたものと思われる。
 彼らはその触肢を怪しげにくねらせ身悶えすると、早々に地中へと去っていった。
 交わされた会話の内容はウードには知る由もなかったが、クトーニアン達は、ウードの使い魔となった幼虫に以下のようなコメントを残していったそうだ。

『これだけ大きければ、もはや庇護の必要もないな』

 ……何しに来たんだアンタら。

 地響きを立てて詠唱と共に地面を溶かして颯爽と去っていくクトーニアンたちを前にして、ウードはそう思ったそうだが、口には出さなかった。
 彼とてまだ命は惜しい。咄嗟に出してしまった蜘蛛の牙を、再び右脇腹に収めつつ、先程どのような会話を交わしたのか自らの使い魔に尋ねてみる。

 それによると、クトーニアンとしての教育はテレパスで行うこととし、イザという時に備えてシャンリット家の領地の地下に1匹待機することになったそうだ。
 王都近くは水脈が多いため大地が湿っぽくて、居心地が悪いとのこと。さすがは水の国である。

「でもなんでシャンリットの領地の地下なんだよ。せめてどっか別のところに行ってくれ。ウチの領地の地下には研究室やら地下道やらが沢山あるんだぞ。何かの拍子にダメになったらどうしてくれる」

 地表に来たクトーニアンはウードの使い魔になった幼生に名前を付けていった。
 人間には発音不可能だが、あえて発音するなら『ルマゴ=マダリ』という名前だという。
 『成長の早いもの』とか『簡単に成長する』とかいう意味らしい。

 やはりクトーニアンの中でもルマゴ=マダリの成長スピードは異常だったようだ。
 ひょっとするとこれは使い魔のルーンが何か変な効果でも発現している所為かも知れない、とウードは考える。
 卵の中の胚の段階でルーンを刻んだためか、ルマゴ=マダリのルーンは胚の成長にともなって身体のあらゆる場所に複雑に織り込まれてしまっていて、その全容を確認することは出来ない。
 主と使い魔の間の共感覚は正常に作用しているが、一度調査してみる必要があるだろう。

 御せる筈もない使い魔を得てしまったウードであるが、一転して考えを切り替えることとする。

「クトーニアンはもう数万年も、いやひょっとすれば十数億年もこの惑星に居着いているんだ。
 高度な独自技術も持っているし、上手く取引を行うことが出来れば彼らの技術を学ぶことも出来る、か。使い魔としてクトーニアンの卵を召喚できたのは良い切っ掛けかもしれない。
 問題は私の側から提供できるものが何か有るのか、ということだが……。
 水を操って退ける魔道具か、あるいは食料くらいだろうか……。彼らの嗜好品について分かれば何か用意できるのだが」

 クトーニアンが使えるような水除の魔道具の開発や、彼らが好むような食料について研究させる指示をアトラナート商会に出すべく、ウードは考えを纏める。
 何にしても、使い魔となったルマゴ=マダリとのコミニュケーションは必須である。
 彼は使い魔に尋ねるべき事柄を脳内でピックアップしつつ、寮棟に戻ろうとしていた。

 そこで、はたと建物の影に人影を認める。
 ウードはらしくもなく焦りを覚える。
 一部始終を見られていたのではあるまいか、そんな危惧が頭をよぎる。

「しまった、見られたか!?」

 クトーニアンたちを見られただけならばまだ良い。
 使い魔とその親が来ていただけだと誤魔化しも利く。
 だがあの時彼は迂闊にもクトーニアンから感じ取った根源的な怖気に反応して、自らの半ば蜘蛛に変化した右腕と、明らかにヒトには存在するはずもない大顎を掲げてしまっていた。

 茫然自失としているように動きを止めたその人影に向かってウードは急いで、しかし警戒を抱かせないように慎重に近づいていく。

==============================

というわけで呼び出されたのは【地を穿つ魔】クトーニアンでした。
ウード君は触手プレイでも楽しめばいいと思うよ。
タイトルはクトーニアンが穴を掘る時の詠唱というか鳴き声というか、まあそんなのから。

2010.07.18 初出
2010.07.21 誤字修正
2010.10.11 修正
2010.11.01 誤字修正



[20306] 蜘蛛の糸の繋がる先は 13.呪いの侵食
Name: へびさんマン◆29ccac37 ID:4dc27135
Date: 2010/10/13 20:54
 私が最初にあの片腕を吊った陰気な貴族様に遭ったのは少し前のことでした。

 その日、私は寮棟の掃除当番でした。
 学院の男子寮の一角には誰も近寄らない場所があると先任のメイドから聞いていました。

 ここで働かせてもらえるようになってから、まだ日が浅かったのですが、やはりそれはいけないと思ったんです。
 責任感の欠如というか……。職場の暗黙の了解というのがあるのだとは思いますが、お給金を戴いている以上はきちんと仕事をしないと。
 まあ私がそういうやり残しというのが気になる性格だというのもありますが。周囲の人には神経質過ぎるとよく言われます。

 しかし、実際来てみると誰も近寄らないという割には、その一角は清潔そのものです。
 ここの部屋の住人の方が掃除をしているのでしょうか?
 そうだとしたら益々、学院のメイドの怠慢です。共用スペースの清掃は、私たちの役目なのですから。

 何かの香が焚き染めてあるのか、花のような果物のような爽やかな香りが満ちています。
 その部屋の住人は、そういった細やかな気遣いが出来る人のようです。

 それは兎も角、掃除をしようと私はそこに近づいたんです。

「あっ!」
「……ん?」

 その時です。不意に開いた扉から出てきた貴族様に、私はぶつかってしまいました。
 黒いマントで全身を覆って、右腕を吊っていて、何処と無く不吉な印象を与える深い隈が特徴の……って。
 ……悪名高い、シャンリットの蜘蛛公子? 私、どうなっちゃうんでしょう。

 メイドの先輩から聞かされる幾つもの不気味な噂話の主人公、それがシャンリットの蜘蛛公子、ウード・ド・シャンリット様です。
 王都で良くも悪くも評判のアトラナート商会の、実質的なオーナだそうなんですが……。

 というか何でこんな時間に寮の部屋に居るんでしょう?
 今はまだお昼前。授業時間中のはずです。そうじゃなきゃ、私だって男子寮の廊下を一人で歩くなんて真似はしません。

「申し訳有りません!」

 とにかく、謝っておきました。
 貴族の方と、それもあの蜘蛛公子とトラブルになったらどんな目に遭うか分かりません。
 頭一つ下げるだけでそれを回避できるのなら安いものです。

「ん、ああ。気をつけてくれ。あ、そうだ、これも何かの縁だから、君の職場仲間にこれを分けてもらって良いかな?」

 ぶつかったことに対しては大して気にした風もなく、ミスタ・シャンリットは部屋の中から一抱えもある紙の箱――アトラナート商会の荷物配送に使われている段ボール箱を魔法で引き寄せました。
 そしてそれを何とこちらにさし出してきたんです。

「ウチの商会から送られてきた試作品の菓子類なんだけどさ、流石に私一人じゃあ食べきれなくってね。良ければ給仕の皆で食べてもらえるかな」
「ふえぇ?」

 少し呆然とする私に対して、それだけ言うと、ミスタ・シャンリットはお菓子の詰まっているという箱を置いて、颯爽と去って行きました。
 置かれた箱からは確かに甘い匂いがします。
 少し離れた場所からまたミスタ・シャンリットの声がして。

「ああ、そうだ。これはチップね。食べた人から感想を貰って来るのも忘れないで欲しいんだ。じゃあ、まあ、急がないけど絶対に忘れないでね」
「ええっ、あの?!」

 その言葉と共に金貨(!)が数枚飛んできます。
 太っ腹すぎてもはやここまで来ると怪しいレベルです。
 しかも反射的に飛んできた金貨を受け取ってしまいました。
 返そうにもミスタ・シャンリットはもはや見えなくなってしまっていますし、貴族の方からの贈り物を返す訳にもいきません。

 その後案外重い段ボール箱を運ぶためにメイド仲間の先輩を呼んできたり、中に入っていたお菓子が上等な砂糖を沢山使った高級品でとても美味しかったり、それによってミスタ・シャンリットの評価が若干上がったりして。
 ちなみに金貨を頂いたのは内緒です。
 というかよくよく聞いてみるとミスタ・シャンリットはいつもメイドにチップをあげているそうですね。
 それがあまりに法外な額なので、“アレなサービス”を期待されているのでは?、という疑惑がメイド仲間ではあるみたいです。

 いやいや、多分、そんな感じじゃないですよ? きっと。視線に思春期の男子にありがちなねちっこさも有りませんでしたし。
 それにワザワザ学院のメイドに手を出さなくても普通に娼婦くらい買えるでしょうし、そうじゃなくても縁談くらい幾らでもありそうじゃないですか。
 ああいや、大量のチップを貰って勘違いしたメイドの先輩がモーションかけても全然気付いてもらえなかったって話もありますね。不能か同性愛者なんじゃないかという話もあります。何にしても目立つ人です、ミスタ・シャンリットは。

 えーと、何の話でしたっけ。ああ、そうだ。
 それで貰ったお菓子の感想を一通り聞いて、紙に書いて纏めたんです、私。字の読み書きくらいは出来るんですよ。
 感想記入用の紙は段ボール箱に同封されてましたし、親切なことに。

 それで私が、忘れないうちにその感想をミスタ・シャンリットに渡そうと考えて。
 え、部屋にそっと紙だけ置いてくれば良いじゃないかって?
 それがですね、多分、ミスタ・シャンリットは箱の中身のお菓子も見てないみたいでしたし、私の名前も知らないでしょうから、紙を置いただけじゃ誰からの何の感想か分からないんじゃないかと思ったんです。

 まあお菓子の感想を書き込んだ紙を手渡しして、それが縁で、その後も何度か同じように試食を頼まれたり。


 それから数日後のある日の真夜中でしょうか。確か、スレイプニィルの舞踏会があった週だったと思います。
 夜中に誰かに呼ばれたような気がして目が醒めたんです。
 ……その3日前くらいから、時々どこかから声が聞こえてたんですよね。

 最初――その3日前のお昼は『お腹空いた』って聞こえたんです。
 貴族の方の悪戯かな、と思ったんです。時々、風メイジの方が『伝声』の魔法って言うんですかね、遠くまで声を届かせる魔法で、こう、卑猥な事を囁いてきたりって、あるんです。その類かと思って。
 でも何か変だったんですよね。その後は『蜘蛛の味、不味い』とか『身体痒い、脱皮』とか何かよく分からない事を言ってくるんです。
 幻聴、かも知れないって、そう思いました。
 新しい環境に慣れなくて、参ってるのかなって。

 でも、そうじゃ無かったみたいでした。
 その最初に幻聴が聞こえた日の夕暮れ、丁度夕食の時間でした。
 幻聴じゃなくて、幻痛、と言うのか。いえ、幻聴も勿論聞こえたんです。『――――っ!』って声にならない声でした。幻聴なのに変ですよね?
 もっとおかしいのは、同時に感じた幻痛の方です。一気に全身が痺れた、というか、急に全身の感覚が無くなってガクーンってなって。何て言うんでしょう、高いところから墜ちて地面に叩き付けられたらそんな感じになるのかなって感じで。もう、ホント、頭の中はパニックで。身体に力は入らないし。

 その、幻痛と言うのは他の人も感じたみたいでした。
 私ほど酷く痛んだわけじゃないみたいですけど、全身にピリっと痺れるような感じがしたそうです。
 その時は私は全身の痛みで気絶しちゃってて、後から他の同僚から聞いた話ですけど。

 結局そのあとは次の日まで私は目が醒めなくって、そのまま眠ってしまったんです。

 気絶している間に変な夢見たんです。

 土の中を泳ぐ夢。
 長い身体をくねらせてスイスイと土の中を泳ぐんです。
 不思議ですよね、土の中なのに全然何も抵抗なんて無いんです。

 で、やっぱり声が聞こえるんです。
 昼間に聞こえたのと同じ声で。
 『お腹空いた』って。

『おなかすいた、おなかすいた、おなかすいた』
『獲物見つけた、接近、血を吸う、お腹空いた』
『逃がさない、鹿、森の中、関係無い、逃がさない、逃がさない』

 夢の中で、森の中を走る鹿を捕まえて、触手を――あれ、触手?
 まあ兎に角、鹿の首筋に口を近づけて血を吸ったんです。暴れるのを手――触手? で押さえて。

 美味しかったなあ。
 今まで食べたどんなお菓子より、ずうぅっと美味しかった。
 すっごくすっごく美味しかったんです。
 吸血鬼の気持ちも分かるかも、なんて。

 次の日起きたとき、思わず同室の女の子の上に乗っかって首筋に噛み付こうとしちゃいました。いやあ、うっかりうっかり。
 まあ途中でその娘が起きちゃって、なんか変な誤解されちゃいましたけど。

 その日も、その次の日も声が聞こえたんです。
 でも相変わらず『お腹空いた』くらいしか聞こえなくて。あとは『味を変えて』とか『蜘蛛はやっぱり不味かった』とか『ニンゲンも食べたい』とか。
 もう仕事中も関係無く聞こえてくるんです。参っちゃって参っちゃって。2日連続で同室の娘の首筋に噛み付きそうになって、危なかったですね。

 えっと、それで、そう、最初に声が聞こえた日の3日後ですね。
 夜中に、これまでとは違う声が聞こえて。
 『ぐはあん ふたぐん』とか『しゃっど-める』とか、何とか。


 崇めよ、讃えよ、グ・ハーンに眠るシャッド=メルを。


 え、あれ、何か私今言いました?

 あれ?

 まあいいです。

 その声に釣られて起きて、気がついたら学院の建物の脇に来ていて。
 月光に照らされる3本の太いモノがグネグネと蠢いて、いい眺めでした。太いのが2本と、小さいのが1本。肉感的でー、存在感が凄くってー。
 その波動がですね、こう、ぐわーっというか、じゅわわーっていうか、もう凄くって。
 恍惚って感じですよー! きゃー、恥ずかしいっ。何だったんだろう、あれ。

 え、人?
 そう言えばその3柱の間に何か居たような気がしますけど。
 んー、確か蜘蛛? 兎に角、蟲っぽい人。いや、人っぽい蟲?

 太い2本が地面の中に帰って行ってですね、私は何かこう、感動に打ち震えるって感じで腰が抜けちゃって。その後かな。
 まあ、それでその蜘蛛の人、多分ミスタ・シャンリットだったんじゃないかな、が、ヘタリこんでる私の方に来て言うんです。
 気味悪い笑顔で。普段笑わない人の笑顔って、なんか違和感ありますよねー。蜘蛛なのに笑顔って、ねー、自分の中身を分かってやってるのかって感じ。
 で、その蟲の人、人? が『ここで見たことは忘れろ。人には言うな』って言うんです。

 その後の記憶は無いから、多分そこで眠らされたのか、気を失ったのか。気がついたら自分の部屋で寝てました。
 同じ部屋の娘によると、夜中にフラッと起きていった私は、おんなじ様にフラッと帰ってきたらしいですけど。

 で、起きた私は寝ぼけたまま『そういえばねー、ミスタ・シャンリットって蜘蛛なんだよー』って言っちゃったんです。

 口止めされてたんですけどね? ついつい……。
 え、その娘の反応ですか?
 『その話はもう先輩から聞いたよー』でしたね。
 前から噂になってたので、何も不思議はないって感じですね。
 寧ろ生粋のニンゲンだったらソッチの方が皆は驚くかも?

 あれ、そんなに肩を落としてどうしたんです?

 そう言えば、あなた見かけないメイドですね? 新人さん? 美味しそうだから吸ってもいいですか? ああ、待って、少しだけ、少しだけだから!

 あれ? ここの角曲がったはずじゃ? 居ない?
 ハッ!! あれが噂に聞く“学院校舎の妖精”!?





 ところ変わってウードの部屋。
 『遠見』の魔法によってウードはメイドの会話の一部始終を見ていた。

 いや、見ていたというのは正確ではない。
 最後に立ち去った方のメイドはウードが魔法によって創りだした精巧なゴーレムであり、最初から最後まで、メイドと会話をしていたのは他でもないウードだったのだ。

「うーむ、下手に記憶を操作しなくても大丈夫そうだな。
 私の蜘蛛の腕とか顎とか見られたかと思ったが、そりゃあ、一緒に居たクトーニアンの方が印象に残るよな。
 しかもあの三つ編みメガネのメイドの娘はなんか感受性が強いのか、クトーニアンのテレパシーを傍受してるみたいだし」

 そのメガネのメイド娘は血液嗜好症(ヘマトフィリア)に成り掛けてるような様子だったが、その程度の異変はウードには異変のうちには入らないようだ。

「しかし、普通に私が人間じゃないような噂が流れてるのか……。まあ放っておくか」

 ついでに自分の評価についてもあまり気にしていないようだ。
 変に否定して回る方法も無いし、そんなことをして回ったら逆に疑惑が深まるだろうから、この場合は放置しておくのが正解なのかも知れない。







 蜘蛛の糸の繋がる先は 13.呪いの侵食は留まらず、迂闊な性格は治りもせず



 



 ウードの使い魔のルマゴ=マダリだが、一年間で一般的なクトーニアンの成虫サイズである30メイルの2倍、60メイルの巨体に成長した。
 しかもまだまだ彼女の成長は止まっていないのだ。
 詳しく調べてみたところ、ルマゴ=マダリに刻まれたルーンの効能は『成長』であるようだ。

 全組織に入り交じってしまってルーンの全体像が分からなかったが、三次元トポロジー的な解析とか、発生時の細胞の移動を逆算することで何とかルーンを導き出したのだ。
 このルーンは、ヒトより長命な使い魔の幼生を呼び出したときに刻まれやすいもので、ドラゴンの幼生などによく刻まれる。
 召喚主が存命なうちに成体になれるように成長速度が強化されるのだ。

 このままいけば、大首魁シュド=メルに匹敵する巨体になれるかも知れないと彼女は浮かれている。
 ……あと、このルマゴ=マダリというクトーニアンだが、実は雌らしい。クトーニアンに貴重な雌である。
 クトーニアンの雌というのは、およそ8~9匹に1匹の割合でしか生まれないのだ。
 新しく生まれた雌は、彼らの種族にとって非常に貴重なのだ。

 彼女の成長速度を鑑みれば、その繁殖周期も通常のクトーニアンの周期よりも短くなるのではなかろうか。
 おそらく一度に産み落とす卵の数も、巨体にふさわしい数になるだろう。
 ルマゴ=マダリの言う所によると、身体が成長し、知性が成熟し魔力も増大してシュド=メルに相応しい位階になれば、その偉大なる大首魁の子を孕む栄誉に与ることも出来るかも知れないという。

 シュド=メルの直系クトーニアンが、ウードが使い魔召喚したせいで量産されるようになるかも知れない。

「私のせいで旧支配者大復活で人類終了のお知らせ、という事になるのは嫌だなあ。とはいえ、私に出来ることはもはや無いからどう仕様も無いんだが」

 ぶつぶつと呟きながら寮の部屋でタイピング仕事を行っているウード。
 ちなみに現在は『深海の驚異』という題名で、マーマン(深きものども)やその他の深海に封ぜられた魔神たちについてそれとなく仄めかしつつも割と真っ当な深海紹介本を執筆中である。

「ルマゴ=マダリの力は今の私を大きく上回っているし。使い魔に出来たのは力が弱い卵の時だったからであって現在は支配できてるわけじゃないし。旧支配者どもを敵に回すなんて考えたくも無いな。かといって文明保護の観点から人類絶滅は考え直してもらいたいのだが。ああ、そうかそうだな避難場所として何処か空中か宇宙にコロニーでも作ってハルケギニア人類文明を保存するくらいしとくべきかな」

 クトーニアン達を退治したい場合は、彼らの近くまで〈黒糸〉を伸ばして、そこに弱点の放射性物質を大量に『錬金』すれば大打撃を与えることは出来るかも知れない。
 そこまでして敵対する理由がないからウードは決してそんな事はしないだろうし、そこまでやってもクトーニアンの首魁たるシュド=メルは死なないだろう。

 60メイルもの巨体になったルマゴ=マダリを学院近くに置いておくわけにはいかないので、彼女は既に地中のクトーニアンの集落に戻ってもらっている。
 トリステイン付近は彼女の苦手な水が多いということもある。
 ルマゴ=マダリにはアトラナート商会が開発した水除の魔道具を埋め込んでいるので、理論上は彼女の魔力が尽きない限りは海の中でも平気で動けるはずだ。

 流石に実際に水をかぶっても大丈夫かどうか試すのが怖くて実験出来ていないが。
 
 時々、彼女から話を聞いたクトーニアンの一部が同じ水除の魔道具を埋め込んでくれと地表に頼みに来る。
 以前に召喚の草原の地下を不透水層に錬金したため、そこを通り道として地上付近に来ては、精神感応で学院の使用人を操ってウードを呼びに来させている。
 大抵伝令役には冒頭でウードのメイド型ゴーレムと会話していた血液嗜好症を発症した三つ編みメガネのメイドの彼女である。

 ウードを直接精神操作できないのか聞いてみたところ、別の神性の加護があるため不可能ということだ。
 絡みつく糸のビジョンが見えるから、加護神性は恐らくはアトラク=ナクアだろう、とも。まあ加護と言うよりは呪いらしいが。

 ウードはクトーニアンたちに魔道具を埋め込んでやる代わりに、この惑星に現存する旧支配者達の情報を聞かせてもらうことにしている。
 今のところ聞けたのはルルイエ(?不確定)にはやっぱりクトゥルフが眠ってると言うくらいだが。
 ウードのところに来たのは年若いクトーニアンばかりで、その他の旧支配者については確実そうな情報は無かった。

 あと、魔道具を埋め込むついでに恋の相談もされたりしている。最近急成長の注目株、ルマゴ=マダリの気を引きたいんだそうだ。
 取り敢えず、ウードはルマゴ=マダリの好物の人工飼料について教えておいた。
 高カロリー飼料はルマゴ=マダリの要求を元に様々なバリエーションをゴブリンたちに作らせているので、地表に来るクトーニアンには定期的に持っていって貰っている。

 既にゴブリンたちとクトーニアンも面通しをしている。
 クトーニアンという恐るべき種族がこの星の地核に居ることや、アトラク=ナクアのような神性が他にも居るだろうことはゴブリンたちにも伝わっている。
 これで別の神性を崇める新興宗教が台頭してゴブリンたちの内部が宗教的に割れても困るが、今のところはそんな事は起こっていない。

「地下都市の建設とか宇宙コロニーとかも現在プロジェクト進行中だっけ。商会の拡張もそろそろもう要らないよなあ。地下都市が出来ればゴブリンたちだけで経済完結できるし。ハルケギニア人の社会に影響与えすぎるのは宜しくないし、と。んーと、『地下都市作成後の土砂の再利用方法:大規模太陽光発電塔の建設』? 良いね、どんどんやれ。ついでに電力・精霊石の変換回路の研究も急げ、と追記しとこう」

 高速でタイピングして執筆しつつ、合間合間に報告書にも目を通していくウード。
 報告書へのコメントについてはもう一台のタイプライターを『念力』で動かして打刻している。
 ウードの身体意識的には腕が4本あるような認識がしっくり来ているので、2台のタイプライターを使うのも余裕綽々である。

「そういえば二つ名って何を名乗れば良いんだろうか。ジャン=マルクは“炎獅子”とか言われてたが。自称? 他称? 自称だと私は“黒糸”だな、シャンリットで暮らしてた頃から言われてたし。他にも“蜘蛛”とか“狂気”とかあるが、なんだかなあ」

 他のことに考え事を割きつつも、ウードは自著『深海の驚異』を書き進めていく。
 その一方で様々な報告書も目を通して消化していく。

「うーん? ああ、もう少ししたらロベールの誕生日か。5歳だから、何がいいかなー。杖は父上か母上が贈るだろうし。うーん、総天然色の図鑑とか? ちょうど世界中の生き物の図鑑も作ろうと思ってたんだよなー。いや、新種の飛行型のキメラの幼生体とか良いかも。どうせロベールも私や父上と同じように普通の馬には嫌われて乗れないだろうからな。調教役のゴブリンも一緒につけて、幼い頃から懐かせれば使い魔じゃなくても大丈夫だろう。うむ、そうしよう。大型幻獣の所有許可については今度王都に行く時に申請するかな」

 自分の弟にプレゼントするものを考えて、ふとタイプしていた指と『念力』の不可視の触腕が停止する。
 そこに丁度ノックの音が重なる。
 ウードは『念力』でドアを開けると入室を促す。

「どうぞ、開いてるよ」

 中に入ってきたのはメイド服を着た少女だ。大きな円形のメガネと後ろで三つ編みにした長い黒髪が特徴的だ。
 少女はずかずかとウードの部屋に入ると、唐突に切り出す。その目の瞳孔は開いており、焦点は合っていない。
 腐った土の匂いが半ば実体を持って、瘴気のように押し寄せてむわっと匂ってくる。土の魔物の気配である。

「ミスタ・シャンリット、庭に来て下さい」
「……クトーニアンの方ですか。またこのメイドを操って……。了解です、すぐに向かいます」
「早く」

 メイドの少女は訥々と言葉を繰り出す。
 ウードの方でも一応仕事は一段落したところであり、丁度クトーニアンに用があったところだ。
 向かうのは吝かではない。

 メイドの少女を退出させると、扉を閉めて窓からクトーニアンが待っているであろう召喚の草原へ向かう。

 相変わらず双月が矢鱈に明るい。

「避難所としての宇宙コロニーとか地底都市とか、あとは月面都市なんかも検討中なんだったか、ゴブリンたちの方では確か。ムーンビーストあたりが月に居そうなもんだが……」

 『フライ』でクトーニアンの元に向かうウードは月を見て宇宙へ広がらんとしている彼の作品群を思う。
 その調子でこの世の全てを解剖しつくして、あらゆる秘密のヴェールを剥がして貰いたい、と彼は願う。
 たとえその先に混沌の破滅しか待っていないとしても、である。

 考え事をする間にクトーニアン用のマントル-地表間の通路となってしまった草原の一角へと降り立つ。
 樹樹や下草からの湿気がウードの体感温度を下げていく。
 若干の寒気を覚えたウードは羅紗のマントを『錬金』で少し伸ばして、その前面を閉じる。それで冷気は遮られた。

 辺り一帯に腐敗した臭いが満ちている。そこに地中からの声が直接頭蓋に響く。
 クトーニアンからの精神感応だ。
 その感触の微妙な差異から、ウードはルマゴ=マダリとは異なる個体のようだ、と判断する。
 そもそも、ウードの使い魔たるルマゴ=マダリならば使い魔特有の共感覚によって連絡可能なのでメイドを操って寄越すなんてことはないのだ。

「何用でしょうか?」
(よく来た。この身体に貴様らの言う〈水除の魔道具〉とやらを埋め込んで欲しい)
「承知しました。お安い御用です。その代わりに埋め込む際に生体組織を少し頂いても宜しいでしょうか」
(うむ、構わん)
「ありがたき幸せ」

 ウードは早速地中に居るクトーニアンまで〈黒糸〉の杖を伸ばす。
 〈黒糸〉に付加された知性である〈零号〉が記憶している『錬金』のバリエーションから『ウォーター・ウィップ』の魔道具の拡張発展版の設計図を読み出し、それをクトーニアンの身体の近くに幾つも作成する。

「これから埋め込む魔道具は水を意のままに操る魔道具です。矮小な人の身では精々数分水を操るのが関の山ですが、クトーニアンの方なら湖一杯の水を何時間でも操ることが可能でしょう。基本的には操ろうと意識しない場合は体表に触れようとする水を弾くのみとなります」
(うむ、承知した)
「では、埋め込み手術を開始します」

 ウードは多くの魔力を注ぎ込んだ『ブレイド』でクトーニアンの頑丈な表皮を小さく切り裂き、そこに先程作成した『ウォーター・ウィップ』の魔道具を埋め込んでいく。
 体幹に沿って幾つも同じ作業を繰り返す。本当は一つで十分なのだが、複数埋め込むむことで万が一魔道具が作動しなくなった場合の危険を低くしているのだ。

(ふむ、少し擽ったいのだな)
「動かないでくださいよ。もうすぐ終わりますので」

 最後に傷口を『治癒』して終了である。

「終わりました」
(ご苦労。して、採取した我の組織はどうするつもりか)
「くふふ、弟にですね、キメラの相棒をプレゼントしようと思いまして。より強い種族の細胞を使いたくて、ですね。もしあなたさまの組織を使わせて頂ければ幸いです」

 ウードは丁寧に礼をしつつ申し入れる。見えてはないかも知れないが、その辺りは気持ちの問題である。

(……ふむ。家族、血族のための贈り物ということならば、我にもそのような気持ちは理解できる。良かろう、使うがいい)

 自分の細胞がニンゲンのペットにされることに対して反感を持たれるかと思われたが、案外とすんなり話が通った。

(その代わり、あのルマゴ=マダリに刻まれたルーンの効果についての研究を進めろ。アレがあれば我が一族はさらに強力になる)
「分かっております。使い魔のルーンの研究成果が出れば、クトーニアンの皆様にもご報告いたします」
(ああ、頼むぞ。では、我は帰る。蜘蛛の祭司よ、さらばだ。……まあ、またあの伝令の女絡みで会うこともあるかも知れないがな)
「あれ? 気に入ったんですか、あのメガネのメイドの娘? まさか」
(ふん、何、たまには人間社会に混ざってみるのも良いやも知れんと思っただけだ。水も克服したわけだしな)

 地中深く遠ざかっていくクトーニアンの気配を確認しながら、ウードは笑みを浮かべる。
 夜の草原で堪え切れないといった様子で笑い出す。
 やがてその表現の一角が泥状に変化し、その中から、先程のクトーニアンの体組織を収めた一抱えほどの容器がごぽりと浮上してきた。

「くふふふふ。ふふふ、ふふ。久しぶりに自分の手で研究してみるのも良いかも知れないなあ! どんなキメラにしようか。クトーニアンと火竜のキメラなんかどうだろう。触手を悍ましくくゆらせながら空を飛ぶもの! くふふ、早速研究室に行って制作に取り掛からないといけないなあ。くふふふふ」

 その何やらわからないブユブユとした肉塊を収めた容器を『念力』で掴み上げて、ウードは夜の闇を湛える森へと足を踏み入れる。
 彼の地下研究室はその闇の向こうに進んだところ、深い森の下にあるのだ。
 不愉快な囁くような笑い声を漏らしながら、ウードは森へと消えてゆく。


 ちなみに後日、血液嗜好症でひと騒動起こしたメイドにウードはとある人物を紹介して、その結果見事彼らは夫婦となり、そのメイドは結婚退職したらしい。
 夫となった人物が、濃い土の気配を纏わせていたことは些細なことだろう。
 遥か古代からこの惑星に棲んでいる先住種族たるクトーニアンが、全身の姿を変える高度な先住魔法たる『変化』の魔法を知っていても不思議でもないというのも、また些細なことだろう。

 その夫婦はとても幸せそうだということだ。
 特に妻の惚れ込み具合が激しいらしく、夫と自分は心と心で繋がっていると周囲に触れ回っているという。
 彼らの住居の近くで行方不明になる者が多いとしても、些細なことなのかも知れない。





 学院3年生ともなれば、卒業課題というものもそろそろ気にしないといけなくなる。
 ウードはそんなもの既に終わってるが、ジャン=マルクを始めとして、まだテーマも決めてない輩も多いようだ。

「ウード、卒業課題は決めたか?」

 もはや習慣となったと言っても過言ではないウードの部屋での男ふたりのムサイお茶会にて、ジャン=マルクから卒業課題の話題が振られたのは自然な成り行きであった。
 コトリとウードがティーカップをソーサーに置くと、口を開く。

「伊達に授業サボって研究してるわけじゃない。そんなもんはとっくに終わっている」
「自慢できることじゃないだろう。参考までに聞いても?」
「『クトーニアンの生態とその脅威~古の先住種族について~』」

 これはクトーニアンについての研究結果と、彼らから聞いた様々な旧支配者についての話をウードがまとめたものだ。
 一応、クトーニアン達のレビューを通ったもので、上手い具合に直接的表現を避けて仄めかしに留めている。

「絶対、禁書に指定されるぞ。そんなもの」

 ウードの使い魔を一度遠目で見たことのあるジャン=マルクは、その時に感じた本能的な恐怖を思い出して鳥肌を立てる。あれはよくないものだった。

「うちの商会から出すのは大体禁書にされるから、今更だな。
 それにある程度の精神力の持ち主じゃないと見えないように細工してある。
 精神力が多ければ多いほど読めるページが増えるようになっている。
 最終章まで読めば、この星の古い神性についてはほとんどマスター出来るだろうな。
 まあ、結構な読解力が必要だろうけど」
「学院の教師を全員発狂させるつもりか!?」
「そのためのプロテクトだっつーの。発狂しないギリギリのラインまで見極めて開放するようになってる。
 まあ、もし誰かが写本したとしたら、そっちの写本を見た奴の精神までは責任持てんがね」

 提出用に製本したものは、持ち手の精神力を感知して文章を浮き上がらせるようなインテリジェンスアイテムに仕立ててるが、写本までは流石にその範疇外である。

「というか、全く読める教員が居なかったらどうするつもりだ。落第するぞ」
「そんな事はないだろ。学院長とかかなりの精神力だし。あれくらいあれば全部読める。というか、火のスクエアのお前くらいの精神力があれば、大体読めるようにしてある」
 それでも駄目な時は別の課題を提出するよ。例えばこの前見せた『世界地図』とか」

 ジャン=マルクはウード(というかアトラナート商会)が使っているという『世界地図』を思い出す。
 広大な海原と大陸、思ったよりもずっと小さなハルケギニアのトリステイン。
 彼はその時確かに自分の世界観が崩壊する音を聞いた。

「それはロマリアの神官が来るだろ。というか、誰か信じるのが居るかね。俺も未だに半信半疑なんだが。
 もっと普通なのは無いのか。具体的には俺が参考に出来そうな奴」
「君が参考に出来そうなやつねー。何かあったかなー」

 ウードは『念力』で積み上げた書類の山を掻き分けて、探してみる。

「あ、火メイジならこれとかどうだ、『生ける炎の召喚と使役について』」
「却下だ」

 炎が生きている、とはどういう事なのだろうか。
 考え込むジャン=マルクを尻目に、この辺一帯焼き尽くされてもかなわんわな、と呟きつつ捜索を続行するウード。

「まあ、これはネタだからな。ホントに呼び出せるかどうかも分からんし。というか夜空の星のどれがフォーマルハウトか分からんからなー」
「いいから、次だ次。」
「それが人にモノを頼む態度か。……あ、これとかどうだ。『温度と炎の色の関係』」

 黒体放射とか含めるとかなり奥深いテーマではある。
 色とは何か、から始めると一年では終わらなくなるだろうが。

「良いテーマだが、既に貴様が商会の人間に全部調べさせとるだろうが。アトラナート商会の売店の書籍棚に同じものが並んでたぞ」

 学院のアトラナート商会支店は昨年から営業を始めており、ウードやゴブリンたちが執筆した本も店頭に並べられている。

「あ、そういやそうだ。昔同じテーマでやってた人が居たからそれの増補改訂版ってことで出させたんだった。珍しく異端審問とか気にしなくていい内容だったし、直ぐ出版指示したんだったか」
「また別名で出版か? お前は一体幾つペンネーム持ってるんだか。」

 アトラナート商会の出版した本は、内容によっては“信仰を否定するものである”として発売禁止処分を喰らうことが多々ある。ウードはその度にペンネームを変えているのだ。

「さあ? 禁書指定されるたびに名前変えてるからもう分からん。
 じゃあ、これなんかどうだ?『熱の仕事当量について』。恐らく歴史に名が残るぞ」
「『仕事』ってなんだ、一体」

 というかその前に、先ずは単位系の正確な定義から行わなくてはならないだろう。

「そこの概念から説明せなならんのかよ。面倒だな。じゃあ、『低温の限界、高温の限界』とかどうだ?」
「う~ん、高温はともかく、低温の方がなあ。」

 低温の方は火メイジの領分じゃないのだろうか?
 ウードの認識では、熱エネルギー関連は火魔法というイメージを持っているので、極低温も火メイジの領分だと思い込んでいる。

「わがままなやっちゃな。じゃあこれだ。『熱膨張とそれに伴う機構の破損』」
「職人がやるようなもので、貴族的じゃない。もっと魔法に関するものはないのか」

 職人になるメイジも多いが、貴族専門の魔法学院に来るような生徒は普通は職人にはならない。
 というかそれ以前に熱動力の機関が存在しないハルケギニアでは熱膨張によって機関が変形して破損するなんて現象自体が生じないだろうから需要もない。

「じゃあ、『熱と光の違い ~『ライト』は火魔法か否か~』でどうだ」
「お、それ良いな」

 実際、『ライト』が火魔法なのかコモンマジックなのかというのは、この時代の専門家の間でも議論が分かれている。
 というか、土水火風の分類自体が何か間違っているような、とウードは常々考えている。
 そのため、作用する力によって系統を分ける試みがゴブリンたちの中では行われている。電磁力系、重力系、ファンデルワールス力系、核力系……、と。
 だが、肝心のそれら全ての力に影響を与え、かつ万能の触媒としても働く“魔力”というものの正体が不明なので、頓挫している分野でもある。

「じゃあ、それで決定と。参考資料にこのメモをやろう」
「助かる。……あー、ついでに彼女の分も何か見繕ってくれるとありがたいんだが……」
「あー、まあいいけど。風メイジだったよな、彼女。じゃあ、まあこの辺の風石関連の書類を持っていってくれ。
 風石機関の効率とか、風石の精錬とか、いくらでも研究テーマはあると思うし。
 あ、風石の自然発生機序はやめとけよ?」

 なぜか自然増加する地下の風石鉱脈であったが、その元となっているエネルギーは不明である。
 地核の熱であるとか、別宇宙から流入するエネルギーだとか……色々な説があるが、中には、大気や海洋に蓄えられた太陽熱エネルギーが何らかのシステムで地中に移送されるのではないかという説もある。
 簡単にいえば“台風→風石”の仮説である。幾ら何でも無理があるだろう。

「ん? なんかあるのか?」
「世の中には知らない方が良いことが色々とな。全く世界は謎に満ちている。
 それとも風ならこっちにしとくか?『雷の発生原理とその本質について』とか『雲の種類と発生状況』とか。
 ……風石関連と天候関連両方持っていってくれればいいか。それと解説が必要なようだったら呼んでくれ」
「恩に着る」
「いいってことよ」

 これで惚気話をもう少し抑えてくれたらなお有り難いのだが、とウードは思う。
 だが瞬時にそれを諦める。あの二人が惚気話を出さないというのが逆に想像できない。それほどのバカップルなのである、ジャン=マルクとその恋人は。
 一時期、ジャン=マルクの彼女に嫉妬した女子の一部が嫌がらせしようとしてたが、あまりの人目を憚らないイチャつきっぷりにその気を挫かれていたのをウードは知っている。

 嫌がらせはしなくて正解だろう。
 当時から既に風のトライアングルだった彼女(現スクエア)の感覚からすれば、遠くの声もまるで耳元で囁いているように聞こえていただろうし。
 嫌がらせを実行に移していたら、きっとそいつは竜巻に巻き上げられて強制的に紐なしバンジーをする羽目になっただろう。

「ああ、しかし風属性か。対人戦では風属性が一番使い勝手がいいよな。大体何でもできるし」
「殲滅戦なら火メイジの独壇場だぞ。誰にも負けん。既にこの火の腕前を見込まれて王都の近衛からも誘いが来ている」
「さらに風と火がタッグを組むと、殲滅力が格段に上がるもんなあ。実はジャン=マルクとその彼女も込みでの入隊の誘いじゃないのか?」

 ジャン=マルクとウードが組み手をやってる最中に、ジャン=マルクの彼女がこっそり援護して炎を強風で焚きつけてくることもよくある。
 本人はこっそりやっているつもりなんだろうが、実際に魔法を使っているジャン=マルクと、命の危険が倍増するウードにはバレバレである。
 その時は危うくウードは消し炭になるところだった。むしろ一気に蒸発しかねん勢いだった。死ねる。

「きっと君ら二人の相性なら、王家のみに伝わるというヘクサゴンやオクタゴンのスペルも使えると思うよ」

 ウードは茶化すように言う。
 ゴブリンの人面樹に吸わせた知識の中には、王族の知識も含まれており、そのため秘伝とされるスクエア以上のスペルもウードは知っている。
 さっき渡した書籍の中にそういうのを紛れ込ませておくのも一興か、とこっそりウードは書籍の隙間に、秘伝についての記述を浮かび上がらせた薄いシートを『錬金』で瞬時に作成して挟み込ませる。
 もしも本当にジャン=マルクたち二人がオクタゴンスペルを会得して次の組み手で使って来たら塵すら残らない可能性があるが、まあなんとかなるだろう、とウードは軽く考えていた。



 ……尤も、その認識が甘かったことを次の組み手で思い知る事になるのだが。

 その後数日してから、ウードはジャン=マルクとその彼女と組み手を行った。

「ジャン=マルク、この間の本に“オクタゴンスペル”のコツを挟んでおいたと思うんだが、読んだか?」
「ああ! やっぱりお前だったのか、あれ。本当にやるのか? 王族にしか使えないって話じゃないのか」
「大丈夫だろう。血の繋がりよりもなお強い二人の愛情があれば、不可能も可能になるというのは物語の定番じゃないか」

 適当にウードが二人を煽る。

「じゃあ、ミスタ・シャンリット。的を用意して下さらないかしら?」
「了解了解」

 ジャン=マルクの彼女の要請を受けて、ウードは20メイルほどの高さの人形の土人形を作り出す。

「ちょっと大きすぎやしないかしら」
「オクタゴンスペルは何でも一軍を滅ぼせるそうじゃないか。あのくらい俺達の愛があれば吹き飛ばせるさ、ハニー」

 ジャン=マルクは彼女のことをハニーと呼んでいる。
 土人形を前に気炎を上げるジャン=マルクとその彼女。
 ウードは巨大ゴーレムの脇へと退避する。

「じゃあ、二人共、息を合わせて巨大な火炎竜巻をイメージして。詠唱中はお互いの魔力的リズムを感じて互いに高め合っていくように気をつけてくれ」
「わかったわ」「言われなくても」

 ウードの合図で二人が詠唱を始める。
 ジャン=マルクの“火”の4乗、その彼女の“風”の4乗。
 お互いが相手のことを思う気持ちが、精神の繋がりが、呪文の詠唱を噛みあわせて魔力のうねりを高め合う。

「おおお……」

 芸術的なまでの魔力の高まりに、ウードが思わず見とれてしまう。

 ――その一瞬が明暗を分けた。

「『フレイム』……」「……『トルネード』!!」
「おおおおお! 素晴らし――」

 最後のトリガーワードと共に土人形を火炎竜巻が包み、見る見るうちにそのゴーレムを蒸発させて小さくしていく。
 輻射熱だけで竜巻の周辺の木々や草は発火し、その残骸は次々と吸い込まれて燃えてゆく。

 そして火炎竜巻の威力はそれだけに留まらなかった。

「――ぃぃいいい?!」

 周囲のモノを呑み込みながら肥大する火炎竜巻はあっという間にウードを燃やし尽くそうと迫る!

 輻射熱だけでウードの服と皮膚が一気に燃え上がり、沸騰する。
 瞬時にウードは『フライ』の魔法で効果範囲から逃れ、間に何枚もの金属光沢の壁を作り、輻射熱を反射して防ぐ。
 それでも竜巻に一番近かったウードの左腕は、半ば以上熔け落ちてしまった。

 洒落にならない威力であった。
 地面は溶けて、学院の壁一面丸ごと膨張する火炎竜巻で吹き飛ばされた。
 慣れない呪文はジャン=マルクたち二人の精神力を全て吸い尽くしてしまい、精神力の枯渇によって二人は意識を失った。

 ガラス化した灰が降り積もる中、瀕死で裸のウードと気を失った二人が残された。

 なぜ王族が諸侯貴族のトップに立てるのか、ウードはその身で思い知った。

 自分の迂闊さを呪いつつも、彼は全身を冷やして『治癒』を掛けつつ、変異した右腕を隠すように燃え尽きた義手を『錬金』で再構築する。
 体内の熱ショックを起こしている細胞のタンパク質やDNAの損傷・変性を修復しつつ、出来る限りの火傷を治していく。
 
 王家単体でほかの雑多な貴族を圧倒できる武力を持っているから、彼らは5000年の永きに渡って君臨しているのである。
 オクタゴンスペルは城砦を灰燼に帰せるほどのものであるのだ。
 余波だけでウードは瀕死の重傷に陥っている。戦場で軍隊にぶつければ一体どうなることか。

 術者であるジャン=マルクたちに被害が出なかったのがせめてもの幸いか、とウードは考える。
 かつてウードが行っていた、双子のゴブリンたちによる同時多重詠唱の実験結果を元に考えれば、ウードの立ち位置は充分に効果範囲外だったはずである。

「やはり“愛”が威力を引き上げたのか? ……否定出来ないのが辛いな。全くこの世は分からないことだらけだ。だから、今回も死んでやるわけには行かない……」

 ウードは自分の身体の修復を〈黒糸・零号〉に任せると、意識を落とす。


 ジャン=マルクたちもあれだけの威力になるとは思わなかったようで、意識を取り戻した後で必死にウードに謝った。
 ウードの傷は深刻であったが、ウード本人は気にした風もなかった。
 寧ろ、ジャン=マルクたちがオクタゴンスペルを使えるということを王室に知られないかということを、逆にウードが心配していた。

 オクタゴンスペルの流出は王家による武力を背景とした統治に大きなダメージを与えるだろう。
 諸侯がオクタゴンスペルを運用し始めたら、武力のバランスは崩れて世の中はあっという間に乱世になりかねない。
 それも戦場で戦略級魔法が飛び交うような乱世に。
 それを防ぐために、王家はオクタゴンスペルの流出を防いでいるのだろうし、流出させた者は誰であれ許さないに違いない。

 オクタゴンスペルが使えるとバレたら彼らも王家に追われるようになるだろうから、無闇矢鱈と喋ったりはしないだろうが、ウードからも念を入れてジャン=マルクたちに秘密にするようにお願いをしておいた。
 オクタゴンスペルの秘密厳守をもって、ウードの負傷に対する慰謝料代わりとする、ということをウードから申し出たのだ。
 甘い措置だと思われるかも知れないが、ウードはそのくらいで充分だと考えている。死ななければ安いものだ、と考えているというのは、達観し過ぎだろうか。
 まあ、最初に唆したのはウードなので自業自得だと思っている節もある。

 ちなみに吹き飛んだ学院の外壁修繕はウードの伝手でアトラナート商会に頼むことで割安にし、その費用は3人で均等に負担することとなった





 ウードは学院をサボって王都に来ていた。
 目深くローブを着込んでいるが、その中身は包帯まみれである。
 ジャン=マルクとその彼女のペアの放ったオクタゴンスペルによる火傷である。
 包帯の下には〈水精霊の涙〉を染み込ませた湿布を全身に貼っている。

 学院には負傷の療養のために一旦実家の領地に帰ると申請を出している。
 何しろ、左腕の二の腕の半ばまでが熔け落ちて欠損し、その他の皮膚もかなりの部分が炭化してしまっているのだ。
 普通ならばいつ死んでしまってもおかしくはない重症である。

 彼が生きているのは、単に彼自身の生への未練――世界に残る未知への未練の成せる業だ。
 勿論、彼自身の血に宿る呪いが一役買っているということもある。
 魔法への抵抗力が高いのか、単に偶然か、ウードの蜘蛛の右腕は殆ど無傷のままであった。
 そしてまた、再生した皮膚の大部分は、ヒトの皮膚ではなくて蜘蛛のような丈夫なクチクラを分泌する層へと斑(まだら)に置き換わりつつある。

 包帯でぐるぐる巻きにされているウードの後ろには、従者らしき小柄な人影――ゴブリンが2名付き従っている。
 一人はウードの手荷物を持っており、もう一人は覆いで半ば以上隠された大きな檻を引きずっている。
 実際には『レビテーション』によってその檻は地面から若干浮いているから、引きずっているという表現は正確ではないが。

 雑踏を抜けて、ウードとその従者たちはアトラナート商会のトリスタニア支店へと入っていく。
 そこに置いてある〈ゲートの鏡〉を通って、商会の本拠地が置いてありウードの実家でもあるシャンリット領へ赴くためだ。

 シャンリット領へと帰る理由の一つは、言わずもがな、ウードの治療のため。
 もう一つは、檻の中に閉じ込められたキメラを弟であるロベールにプレゼントすること。
 最後は学院卒業後のウード自身の進路についてだ。

 一応、アカデミーからウードに誘いは来ているが……、まあこれは蹴っても問題ないだろう。
 アカデミーに属すると、大っぴらにゴブリンとの繋がりを利用できなくなって、却って研究の幅が狭められてしまうと思われた。
 生活費という意味ではウードは、仕事に就く必然性は薄い。
 むしろ数々の異端本の著者であると目されているウードにオファーが来たのが不思議でならない。ロマリアが怖くないのだろうか。あるいは異端本を幾つも出しつつもロマリアに決定的な手を打たせていないという、アトラナート商会の組織力を取り込もうと目論んだのか。

 ゲートによって鏡同士を繋ぐという魔道具も解析が進み、その試作レプリカも学院卒業までには出来そうである。
 現在稼働している〈ゲートの鏡〉は、王都とシャンリット領を結ぶもののみである。それと解析用の予備がもう一組。

 アトラナート商会の建物の中をウードたち3人は通って行く。
 途中、折衝の資料を持った商会員と彼の担当取引先の者と思われる男たちとすれ違う。
 この王都の建物は主に商談を行うための部屋を設けてあり、調度もそれに合わせて華美過ぎず、しかし足元を見られない程度には高級そうなものを揃えてある。
 普段であればウードも商会のオーナーとして取引先の男たちに挨拶をしたりなどするのだが、今回はちょっと人に見せられない顔になっているので、それはパスである。

 〈ゲートの鏡〉を設置してある部屋に辿り着くと、その扉を従者役のゴブリンが恭しく開く。
 6メイル四方ほどの部屋の真ん中に一つの鏡が凛と鎮座している。

 ウードは鏡を作動させるキーワードを唱える。
 鏡の表面がそれに呼応するように、景色を反射するのではなく靄のような銀色になり、湖面のように静かに揺らぐ。
 ウードはその銀色の鏡面へズカズカと歩んでいき、直ぐに呑み込まれた。
 揺らぐ鏡面に、従者のゴブリンが急ぎ足で飛び込んでいく。





 ウードがシャンリット領へ〈鏡〉の転移通路を抜けて到着してから2時間ほど経過した。

 ウードは現在、シャンリット領のゴブリンの村の地下施設で皮膚再建手術を受けている。
 移植用の皮膚はウードの細胞を培養したものである。
 現在は〈水精霊の涙〉を満たしたプールの中で張り替えた皮膚が馴染むのを待っている。
 〈水精霊の涙〉を蜜として分泌する植物の栽培が軌道に乗ってきたのでこんな贅沢な使い方ができる。

 だが、その皮膚は、全ての部分を張り替えたにも関わらず、斑に蜘蛛のクチクラ外殻に変化したままだ。

「……蜘蛛の外殻に変化した部分が治らない?」
「はい。ヒトの皮膚に張り替えた直後に、殆ど瞬時にクチクラを分泌する組織へと変化してしまうようです」
「うーむ、やはり呪いか?」
「そこは祝福と言って下さい、蜘蛛神教の神官としては」
「くふふ、まあ確かにね」

 〈水精霊の涙〉の補助と人面樹からフィードバックされた経験に裏打ちされた確かな魔法行使、そして長年の魔法生物研究によって、ゴブリン村の医療技術はハルケギニアでもトップクラスになっている。
 ウードの前世の世界よりも高水準なのではないだろうか。
 全身の皮膚の張替えなんていう無茶も、この村ではそう難しくない手術に分類されるのだ。

 当然明日は抗生物質を飲んで一日安静にしなくてはならないが、その程度だ。
 〈水精霊の涙〉でも抗生物質の代わりにはなるが、コスト的には抗生物質の方が安いので術後の服用は抗生物質を用いている。
 抗生物質をはじめとする薬品類は『錬金』による分子レベルでの設計が可能であるため、ゴブリンの集落では副作用が少なくかつピンポイントで効果を発揮するものが作成されている。

 この高度医療センターに詰めているのは殆どが、基礎記憶の他にオプションとして治癒専門の水メイジの経験を複数人分先天的に持っているような熟練のゴブリンメイジだ。
  テーラーメイドの医療というのも実用レベルに至ろうとしていのも、彼らが長年に渡って細胞や病原菌の酵素などの働きを調べてきた積み重ねの賜物である。

 全身に〈黒糸〉を張り巡らせているウードならば、抗生物質等使わずとも、自分の体内のウィルスを一つ一つ物理的に潰して回るなんてこともできるのだが。
 体力や集中力の消耗が激しいし薬飲んだ方が早いからそんな事はしないだろうけれども。

「うーむ。自分の体内の〈黒糸〉で診察してみても何でそんな変化が起こってるのか分からないんだが。余りに自然に変化している、不自然なはずなのに」
「私も、ついこれが自然な状態かと思ってしまいました。それほどにさり気なくしかし完膚なきまでに変化しています。『ディテクトマジック』では異常が感知できません」
「まあ、これも我らが神の齎した奇跡ということか? 右腕といい、この皮膚といい……」
「我々も総力を上げて必ずや解析して見せます」
「ああ、症例の記録と解析を宜しく頼む」

 同じフロアではウードの他にも移植手術後の馴化処置を受けているゴブリンが居る。
 皮膚の移植の他にも、腕や脚や翼の移植手術なんてのも行われている。
 ゴブリンたちは先天的に知識や身体特性を与えられているが、全くその後の道の選択自由が無いというわけではない。

 大半は氏族ごとに職能も固定されているし、氏族以外の者がその固有の職業に入っていくのは確かに難しいが、本人が望んでなおかつ対価を払えば、人面樹からの追加の知識・経験の獲得だって肉体的な改造だって行うことが出来るし、それらによって能力さえ得れば望む職業に就くことが出来る。

 とは言っても実際は、生まれる時点で知識技能と共に興味の方向もある程度決められているため7割5分は予定されていた職種に就くことになる。
 100%興味の方向を固定化しないのは、流動的な残りの2割5分によってうまい具合に社会制度の硬直化を防いでもらいたいという目論見があるからだ。
 そういう背景も有り、皮膚の移植による強化くらいは刺青を入れるような気軽さで行われているのである。
 羽根を生やしたりするのに比べれば皮膚移植程度どうってことはない。

 移植のほかにも〈水精霊の涙〉をベースにした刺青によってルーンを刻んで魔法的な強化を施すというのもこの施設では行っている。
 ちなみに人気があるのは『レビテーション』の刺青だ。魔力を流すと刺青に接している物の重量を軽減する効果がある。
 荷物を軽くするのに便利だからという理由で手のひらに彫り込む者が多い。

 この技術には使い魔のルーンと身体の魔法的な結び付きの研究と、マジックアイテムに刻むルーンの研究を応用している。
 流石に始祖の使い魔のルーンは再現出来ていないが。せめて実物があればレプリカくらいは可能にしてみせるとその道の研究者ゴブリンたちは息巻いている。
 ブリミル教の研究を行っているゴブリンたちは、誰かが意図的に始祖やその使い魔たちの痕跡を消して回ったのではないかなどと議論している。

「で、左腕の方もこれ以上はどうしようもないわけだな」
「ええ、こちらも半ばまで熔けた部分を腕ごと培養して移植したのですが……」

 ウードは青い粘性の液体から左腕を掲げる。
 ウードは首筋から順に左腕に視線を動かしていく。
 二の腕の半ばまで失われていた左腕は、肩から肘の部分までは生白い人工培養の皮膚に張り替えたばかりだ。
 そこを部分的に黒っぽいのような紫色なような甲殻が覆っていて、蟲とヒトを交ぜた冒涜的なオブジェとなっている

 さらに肘から先に視線を動かすと、そこからは完全に蜘蛛の甲殻に変化してしまっているのが分かる。
 硬いキチン質とタンパク質の多い柔らかな関節が組み合わされた巨大な蜘蛛の脚となって、肘から先は2本に別れてしまっている。
 それぞれの脚の先には右手と同様に3つの爪が見える。

 ウードの右腕が掌から二股の蜘蛛足に別れているのに対して、左腕は肘から別れてしまっているのだ。

「何度か付け替えたんだが、全部こうなってしまうんだよな」
「そうですね。付け替えを何度も行ったお陰で、変異していく際のデータは多く揃いましたが」
「それはせめてもの僥倖だな」
「ですね」

 そう言って、ウードは〈水精霊の涙〉が満たされた浴槽に全身を浸ける。
 顔まで完全に浸かる。
 酸素供給は気管に孔を開けてそこからチューブを通して吸入させている。

 明後日には完全に皮膚も馴染み、シャンリット家の本邸の方へ出向くことが出来るだろう。





 皮膚再建手術から3日後。
 ウードはシャンリット家の本邸で母であるエリーゼと膝詰めで話し合っていた。

 エリーゼの侍女は同席していない。
 そして、家宰だった老爺は、もう、いない。
 ウードが殺してしまったから、もういない。
 シャンリットの血脈の秘密を知る者たちが密談を行っている。

「本気なのね?」
「ええ、母上。私は家を継ぐことは出来ません。――爵位と領地の継承権を放棄します」

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2010.07.18 初登場
2010.10.13 修正 まるで別の話になってます



[20306] 蜘蛛の糸の繋がる先は 14.命短し、奔走せよ
Name: へびさんマン◆29ccac37 ID:4dc27135
Date: 2010/10/16 00:08
 シャンリット家の第三子、ロベール・ド・シャンリットが5歳の時の誕生パーティのことである。

 ロベールは、父フィリップからは杖を、母エリーゼからは仕立てのいい服を、姉のメイリーンからは短剣とそれに塗るための毒薬と解毒剤をプレゼントされた。
 ちなみにメイリーンの毒薬セットはメイリーンお手製のものである。幼い弟にプレゼントするものではないのだが、彼女なりに今の自分の最高傑作をプレゼントしようと考えた結果そうなったらしい。

 そして長兄のウードからは見るも悍ましい幻獣がプレゼントされた。
 丈夫な首輪をつけられて、調教役の矮人(系統魔法が使えるように品種改良されたゴブリン)に連れられたそれは、体長は1メイルほどの大きさであった。
 見たこともないその幻獣は、一見すると竜の変種のようにも見える。

 竜の顎、竜の頭、竜の首、竜の胴体、竜の尾。
 しかしその四肢と翼は竜では有り得なかった。

 翼に当たるところからは、左右3本ずつ、3対6本の鞭のように長い触腕が伸びている。
 それぞれの触腕の表面はまるでミミズかウナギのような艶やかで滑らかな粘膜で覆われていて、妖しく蠢いている。その先には猛禽の嘴のような非常に硬質な物が付いており、そこは口としても使用できるようであった。
 四肢はそのしなやかな触腕を何本も束ねたような、太い蔦を撚り合わせたような形になっている。動物の四肢の皮を剥いで筋繊維を剥き出しにすれば同じような外見になるかも知れない。先端は1本に纏められており、柔らかい触腕を保護するためか、硬い金属製の爪――馬の蹄に着ける蹄鉄のようなものだろうか――が装着されている。
 背中からは6本の触腕の他にも、短い触手が悩ましげに伸縮している。

「うわ、ウード、これは……?」

 その外見に気圧されて、家長のフィリップが思わず尋ねる。

「これはさる古代の生物と火竜とのキメラです、父上」
「古代の生物……?」
「はい、太古の昔からこの大地の奥深くに棲んでいる、知性を持った強力な魔獣です。最近偶然にも彼らと接触を持つ幸運に恵まれ、弟のためにと体の一部を分けてもらったのです」

 ウードは父に、このキメラの謂れを話す。
 実験の失敗によって全身に火傷を負いその皮膚を張り替えたのだと言うが、その後遺症かウードが浮かべた微笑は不自然に引き攣っている。
 まるで人の皮を被った何か別のもののようだ。

 ロベールは兄と父の会話を聞いているのか、自分の身の丈ほどもあるキメラを前に動きを止めている。
 やはり幼い子にはこの悍まし気なキメラは少々ショッキングだったのだろうか。

「あ、あにうえ! こ、これ、これ」
「落ち着け、ロベール。何だ、やはり怖いか? 嫌なら幾つか他の幻獣も用意出来るから、そっちにするか?」
「いやじゃない! ぼくこれがいい!!」

 何とこの5歳児、触手を蠢かしてふしゅるふしゅると言っているキメラを気に入ったらしい。
 流石はシャンリットの血筋、というか、ウードの弟。あの兄にしてこの弟ありといったところだろうか。
 近寄っては恐る恐る触手を撫でて、その感触を楽しんでいる。

「……。まあロベールが気に入ったんなら、私としては良いのだが。ウード、あれはどの程度まで大きくなるのだ?」
「さあ、分かりません」
「は? 分からない?」
「恐らく、少なくとも全長30メイルは超えると思います。100メイルを越えてもおかしく有りませんね。寿命は1000年以上は保証します」

 クトーニアンの平均サイズは30メイルであるが、そのなかで一番卓越した個体は1000メイルを超えるという。
 寿命もクトーニアン基準で考えれば、数千年はあるだろう。韻竜でもその程度には長寿だ。

「そうなら竜舎を新築せねばならんな」
「もし必要ならば量産して、空中触手騎士団なんてのも出来ますが」

 空中触手騎士団(ルフト・フゥラー・リッター)を想像したフィリップは頭痛を覚えた。
 触手を蠢かせてその先から全方位にドラゴンブレスをまき散らして飛びまわる無双の竜騎兵。

「襲われる方が不憫でならんな。というか竜騎士隊の所持は伯爵家では権限がないから不可能だ」
「では陞爵するまで保留ということで」

 設立する気はあるのかよ、とフィリップは心のなかでツッコミを入れる。ひょっとすればもう既に準備出来ているのかも知れなかった。ウードは人に内緒で事を進める事が多いのだ。
 我が子ながらウードの思考回路はイマイチ理解出来ないフィリップであった。

 ロベールは触手を生やした竜のキメラに跨って、嬉しそうにノシノシと歩きまわらせている。
 御者の矮人が注意深く見守っているので、あちらは危険はなさそうだ。

「ああ、そうだ父上。ついでなのでこの機会に言いますけれど」

 一呼吸。

「私を廃嫡してもらえませんか?」
「……ん? 何だって?」

 急に話題を転換したウードに、フィリップは思わず問い質す。
 何やら穏やかではない言葉が聞こえたような気するが、頭が理解を拒んでいる。

「廃嫡してください」
「誰を?」
「私を」
「え?」
「ウード・ド・シャンリットはシャンリット家の領地と爵位の継承権を放棄します」
「えええええええ?!」

 淡々と言葉を重ねるウードに、フィリップは絶叫で返す。
 確かにウードは魔法学院に入学する前にも、片腕を不具にしたことを理由に継承権を放棄したいと言っていた。
 だがそれに対してフィリップが待ったをかけて、取り敢えず魔法学院卒業までは現状に留めておいたのだ。

「何故にですのっ? お兄様!」

 そこにシャンリット家の長女メイリーンが割って入る。
 今は丁度13歳を過ぎた頃で、徐々に女性的な膨らみが目立ってきている。
 金糸のような繊細な髪と、朝露に映える凛とした花のような顔立ちは母のエリーゼに生き写しであるかのようだ。
 父を虜にして一目惚れさせ、あまつさえその衝撃でドットからトライアングルへと成長させてしまうような、あの魔性の美貌の片鱗を見せ始めている。
 ただ、ブラウンの瞳は父であるフィリップから受け継いだ精悍さをその内に秘めているように感じられる。

 自分の兄が言った言葉を、彼女は否定したがっていた。
 彼女は自分の兄の優秀さを間近で見てきたし、風変わりだが自分に優しい兄のことを誇りに思っているのだ。
 そんな兄がシャンリット領を治めてくれれば、きっと皆が繁栄を享受できるようになる、と、そう思っていたのに。

「何故、何故なんですかっ!?」
「そうだ、何故だ、ウード。その右腕のことか? それなら気にするものは居ないと前から言っているだろう」

 メイリーンとフィリップは、その真意をウードに問い質す。

「貴族の義務には、2つあると私は考えています」

 そんな二人の質問には直接は答えずに、ウードは話し始める。

「1つは領地を治め、領民を守り、繁栄させること。こちらに関しては、私は充分以上の自負を持っています」
「ならば……」

 ならば継げばいいじゃないかと言い募ろうとしたフィリップを遮り、ウードは続ける。

「そしてもう1つ。血を残すこと。土地と血脈を保ってこその貴族です。私では、こちらを果たせません」

 血を残せない。確かにそれは貴族として重大な欠陥である。不能者を領主に置いた後には、その次代で継承権を主張しあう親類縁者によって領地は切り裂かれることもあるだろう。

「何故私が血を残せないのか。単純にこの身体が永くないというのが1つ。
 もう1つ決定的な理由として……、アレがもげてしまいましたから、私には子供をつくることが出来ません」
「は?」「アレ?」

 一瞬、不理解の表情を浮かべるフィリップとメイリーン。
 そしてウードの最後の言葉を理解して、オスとして蒼白になるフィリップと、思春期に差し掛かった乙女として顔を真っ赤に染めるメイリーン。
 ちらりと両者ともウードの股間に目を向ける。ウードの履いているパンツは股のゆとりが普通の男性物よりも少なく、女性物の乗馬用パンツのような作りに見える。

「うわあ、本当か? ウード? 大丈夫なのか?」
「な、なななな、お兄様の破廉恥!」

 心配げに訊いてくる父フィリップとは対照的に、メイリーンは真っ赤な顔のまま大きな音を立てて扉を開くと逃げ出すように広間を後にした。
 そのやり取りをよそに触手でふしゅるしゅるなキメラと戯れるロベールはキメラに乗ったまま「姉上ー、待ってー」と追いかけていった。

「まあ、そういう訳で、ロベールの教育が本格化する前に正式に私は継承権を放棄し、ロベールの方を跡取りとして育てて貰いたいなあ、と思いまして」
「そういう事情なら、確かに仕方ないが。うわあ。ウード、お前平気なのか? というか何をしたんだ?」
「実験に失敗して全身を大火傷したときに、玉と竿が完全に炭化しました」

 それを聞いて更に血の気が失せるフィリップ。きゅっと、縮み上がったのだ。
 この場に同席した男性の家臣や使用人も、顔面を蒼白にして同情の視線をウードに送っている。中には股間を押さえている者も居る。
 取り敢えずこの話は充分だ、とフィリップは話題転換を図る。

「あ、あと、だな。先が永くない、ということについても詳しく」
「それは私の方から話します」

 そこにフィリップの妻、エリーゼが口を挟む。
 一連の衝撃的な流れについて動じていない所を見るに、彼女は事前にウードから相談を受けていたのだろう。

「エリーゼ。それは水メイジとして、ウードを診断した結果ということだな?」
「そうよ、フィリップ。
 ウードはあなたのお父様やお兄様を襲ったのと恐らくは同種の奇病に冒されているわ。
 幸い、発見が早かったことから封じ込めは出来ているけれど、完全じゃない」

 シャンリットを度々襲ったという、謎の奇病。
 ウードがそれに罹っているというのだ。
 エリーゼは自分の息子の運命を沈痛そうな表情で語る。

「他の人に感染しないように処置はしてあるけれど、本人の身体の中で進行するのは、その速度を抑えるので手一杯。
 あと10年から15年、長く見積もっても20年の内に、ウードは死ぬでしょうね。
 早ければひょっとすれば今日にでも、次の瞬間にでも。瞼を開ければ、ウードは皮だけを残して溶け消えているかも知れない。
 それ程に、今の状態は危険なのよ」

 自らの息子の死を予言する母親の心中は如何ばかりか。
 誕生会の広間に、陰鬱な沈黙が下りる。







 蜘蛛の糸の繋がる先は 14.命短し、奔走せよウード・ド・シャンリット



 



 まあ戯言だけどね、などとウードはその心中で赤い舌を出す。
 そう、先程エリーゼが語ったウードの病状に関しては、1つ嘘がある。

 まずウードは病気ではない。
 これは呪いとも祝福とも言えるものである。
 遠い遠い先祖から受け継いだ、蜘蛛の神様からの贈り物だ。

 ウードはこの呪いについて、別に悪感情は持っていない。
 隙があれば自分を蜘蛛へと変じさせようとすることには辟易しているが、二度目の生を授けてくれた神との絆でもあり、先日の火と風のオクタゴンスペルによる全身火傷の際には呪いがウードの命を繋いぐように働いたことをウードは体感しているからだ。

 だが、呪いを病に置き換えたこと以外は本当のことである。
 男性のシンボルが炭になってポロリともげたことも本当だし、彼の身が十数年しか持たないだろうというのも本当だ。
 実はクローン技術によって外性器を復活させることは十分可能であるし、呪いに関してもゴブリンたちを生贄にして呪いを移して――かつて家宰の老爺にしたように牙から毒液の形で呪いを転嫁して――やればもっと命数を長引かせることも可能であるのだが。

 重々しい空気の中、沈黙を破り、フィリップが口を開く。

「そういうことであれば、よかろう。確かにウードを廃嫡し、ロベールに当主としての教育を行うべきだろうな。私自身、急に兄上が亡くなられて自分に家の正統が舞い込んできたときは苦労をした。ロベールもそうなると分かっていれば、先に手を打っておきたいとも思う」
「ご理解いただき恐悦です、父上」
「……というか、お前は平気なのか? ウード。男としては既に死に、命数も少なく、その上で廃嫡されれば、その後どうしようというのだ」

 この質問をウードは待っていたのだ。
 廃嫡され、貴族ではなくなったウードがどうするのか。
 それを示さなくては、やがてロベールとウードの間で正統を巡ってお家騒動だなんてことにも成りかねない。
 周囲の家臣も耳をそばだてる。

「1つだけお願いを聞いて頂きたく思います。先の短い私へのせめてもの手向けとして」
「無茶なものでなければ、な。言ってみろ」

 ウードは礼をして、続ける。

「ありがたき幸せ。
 私は廃嫡された後、現在伯爵家の支援の元で活動しているアトラナート商会の会頭になることが内定しております。
 今後は商人として、シャンリット領について、私の命があるうちは貢献いたします」

 どよめきが周囲の者から漏れる。
 ――だが、それは、それでは、何も現状と変わらない――。

 もともとウードが勝手に人を集めて街を作り商品を用意し準備万端整ったところでアトラナート商会は発足したのだ。
 どんな奇術を使ったのか分からないが、教育を受けた人材と新商品をこれでもかと引っ提げて、彼らは数年のうちにシャンリット領の流通と情報と金融を掌握してしまっている。
 その商会のオーナーがウードであることはもはや公然の秘密であり、廃嫡後にその会頭に納まっとしても、それは名が実に追いついただけのこと。

「そして、街を作ろうと思います。私が生きた証に。
 今あるダレニエ村を更に発展させたものと、もう1つ」

 生きた証に。
 ウードが冷静に自分の死を見つめていることを感じ取って、ざわめいていた広間の温度が下がる。
 あるいは、ウードが纏っている妄執が、その怨念の如きオーラが作用したのかも知れなかった。

「アーカム。
 もう1つの街は、そう名付けようと思います」

 アイレムでもナコタスでも何でも良かったんですがね、と、ウードは呟いて続ける。
 その手にはいつの間にか書類が握られている。
 そしてこの場の参加者たちの前にも、同じ書類が一式、レビテーションによって浮遊している。
 ウードは瞬時に空気中の二酸化炭素などから『錬金』したシート上に文字を浮き上がらせた事業計画書を右手の義手に掴み説明を行う。

「街というのか、或いはシステム、機構と言えば良いのか。
 題して、シャンリット領学術都市化計画。
 ハルケギニア中の知識を吸い上げるための、システムです」

 いつの間にかロベールの誕生会は、ウードによる事業説明の場になっていた。
 確かにシャンリット家の当主を始め、主要な幹部が一同に会しているこの場は、説明にうってつけではある。

「教会は押さえていますから、領内で蠕動させる分には異端だの何だのは言われないはずです。
 今後、領内の平民に対する教育を、アトラナート商会主導で更に高度なものにします。
 そして、今後10年掛けて学術研究・開発に特化した街を建設し、アトラナート商会資本のハルケギニア初の総合私立学院を開設することで、第一次計画を完了とします。
 第二次、第三次計画もありますが、こちらは適宜修正を加えつつ、アトラナート商会とシャンリット家で協力して私の遺志を継ぐものが事に当たるでしょう」

 ザッと、一同を見回して、彼は、ウード・ド・シャンリットは宣言する。

「私は死ぬでしょう。
 ですが、私の妄執は形となって残り続けます。
 その妄執こそが学術中心都市“アーカム”とその中枢たる“私立ミスカトニック学院”。
 この世界の全てを解剖し、解析し、統合して理解するための、私の分身たるシステム。
 それを創り上げる許可を協力を頂きたいのです。父上、フィリップ・ド・シャンリット伯爵!」

 ごくり、と息を呑んだのは、一体誰だったのか。
 静寂。誰もが次の言葉を待っている。フィリップの言葉を。

「~~っ! 良かろう、ウード・ド・シャンリット。
 シャンリット家は、その学術都市化計画を受け入れよう。全ての知識がこの土地に蒐まるように!
 だが、この計画書のまま受け入れるわけには行かない。専門の者を交えて検討する必要がある」
「はっ、ありがたき幸せ」

 そして直ぐに皆が慌しく動き出す。
 必要な法律の整備、都市計画、今後の税収予測、人口動態など調べなければいけないことは多い。

 だが実は、必要なデータは既に、アトラナート商会が調査し、準備している。
 蜘蛛の手は長い。この領地のことは既に、土地の測量や人口、職業の分布まで調査が済んでいる。
 更に言えば、事業計画書も、領地の老役人や商人の死体から記憶を引き継いだゴブリンたちが作ったものであるため、問題はないだろう。

「ちなみに、ウード。もし俺が断っていたら、お前はどうするつもりだった?」
「空中触手騎士団を呼びつける、と、恫喝したかも知れませんね。あるいは商会の活動をサボタージュさせるとか脅したかも」
「酷い奴だな、お前」
「いえ、きっと子供に甘い父上なら見過ごしてくれると思ってましたから。何にせよシャンリット領が発展することに変わりはないのですから。しかも殆ど伯爵家から持ち出しは無しに。こんなおいしい話はないでしょう」

 全部が全部、アトラナート商会が行うというのだから、領地が発展すればシャンリット家は丸儲けである。
 実際に、商会が本拠地を置いているというダレニエ村は5年少々の間に廃村から完全に復興し、今では農業その他産業の研究開発の中心地である。
 そこから上がる税収も今やシャンリット領の運営には欠かせなくなっている。

 ウードがシャンリット家に要求している事は、法律の制定に便宜を図れ、規制は緩和しろということだ。

「まあな。ダレニエ村――いやダレニエ市か、既に、人口規模的には。
 ダレニエ市からのバロメッツの肉や生花、農作物の新品種、その他の日用品、カメラのような光学精密機器、タイプライターや電卓のような精密機器などなどは、税収やシャンリット領全体の発展に大いに寄与している。
 一旦何か新商品を開発したと思えば、領内の他の商会や工房、農家に積極的に技術支援をしてさっさとその生産を任せてしまうから、他の村や街もダレニエ市に引き上げられるように発展しつつある。
 まるで開発のみがその楽しみだとでも言うように、アトラナート商会の者たちは研究成果を投げ捨てていく」

 それが何故なのか分からないと、首を捻りながら伯爵は言う。
 そしてそんな利益も出ないような経営なのに、未だに倒産していないのが全く不思議である。
 まるで彼らは、金の生る木でも持っているかのようだった。

「くふふ、アトラナート商会の人員は皆、飽きっぽいんですよ、父上。
 私と同じように。生き急いでいるんです。だから、常に新しいことをしていないと心が満たされないんです。
 一回開発したものは、もう要らないんです。だから、売るのも作るのも、みんなみんな他のヒトに任せたいんですよ」

 さあこれから忙しくなる、とウードは自分の黒羅紗のマントを翻して広間を後にする。

「人間社会の知識はアーカムが蒐集する。ゴブリンたちは、地下に宇宙に退避退散。くふふ、ああ忙しい忙しい。でも、全くもって悪くない。くふふふふ」

 彼は上機嫌だった。この上なく上機嫌だった。





 その後の動きは慌ただしかった。

 シャンリットから出ることが少なかったシャンリット伯爵夫妻は、政府への根回しのために王都の別邸に詰めて社交界に出入するようになった。

 そういった社交の末に、先ずはメイリーンの婚約者が決まり、次にロベールの婚約者も決まった。
 両方共にシャンリット領からは遠く離れた土地を治める貴族である。

 メイリーンの婚約者の家は野心的な貴族であり、アトラナート商会の利権と持参金目当てであるようだ。
 年の頃はメイリーンより1つ上で嫡男だ。婚約者の彼が、パーティで見かけたメイリーンの美貌に惚れ込んだのが縁談の切っ掛けのようだ。
 メイリーン自身はウードの“もげた”発言から不抜けて上の空であったが……。「もげたなら生やす薬を作れば……」とかいう呟きを侍女が聞いたとかいう噂もあるが不確定である。

 ロベールの婚約者は、クルーズ領というガリアとの国境を治める領地の次女である。
 クルーズ伯爵とシャンリット伯爵フィリップは、使い魔の話題で意気投合し、この縁談がまとまる運びとなった。
 クルーズ伯爵の使い魔はジャイアントスコーピオンであり、やはりシャンリット家と同様に代々昆虫系の使い魔に縁があるそうだ。

 クルーズ伯爵令嬢は禁書マニアであり、アトラナート商会の出版した種々様々な発禁本を集めるうちにシャンリット家のファンとなったらしい。
 じゃあ年も近いし、当主同士の気も合うし、ロベールと婚約させるか、という運びになったとか。

 ウードには婚約者は居なかったから、廃嫡云々で縁談が無くなるということもなかった。
 実はウードが幼いときにはシャンリット領の近所でウードの婚約者になってくれる娘さんを探していたそうだが、その際は相手が見つからなかったらしい。
 シャンリットの付近の家の貴族は公爵家に睨まれているシャンリット家と縁戚になってとばっちりを受けるのが怖くて、婚約者探しの際には全く乗ってこなかったそうだ。
 そんなに警戒しなくともいいのに、というのは酷な話か。

 そこに追い打ちをかけたのが、ウードが11~12歳の時の幻獣大移動だ。
 〈黒糸〉から発せられる何を嫌ったのか知らないが、シャンリット領内の幻獣達が次々と周辺に縄張を移していったのだ。
 周辺の領は田畑や村落を荒らされ、それによってシャンリット家に対する周辺貴族の感情は更に悪化。
 さらに少なくない数の周辺領の領民が荒らされた土地を捨てて、豊かになりつつありなおかつ税率を下げたシャンリット領に流入でますます悪化。
 その後、アトラナート商会の台頭で勢いが盛んになると、今度は乗っ取りを恐れてか周辺の家との対立がもっと深まってしまった。

 逆に領地が離れていると乗っ取りの危惧とか幻獣移動の被害はないため、アトラナート商会の当世風な流行の品の数々とそれが生み出す利権の方が大きく見えたのだろう。
 辺境の貴族たちとシャンリット家が姻戚関係を結ぶことになったのは、そんな背景があってのことだ。
 もちろん、相続権は失っているとは言え、ウードたちの母であるエリーゼは公爵家という尊い血筋の出なので、その魔法的に濃い血筋を狙ってということもあるだろう。

 母エリーゼの実家の公爵家(ウードの親友ジャン=マルク・ドラクロワの主家筋)とメイリーンやロベールの婚約者の家は派閥的に対立関係にあるらしい。
 そういった派閥力学も働いての縁談のようだ。
 アトラナート商会はウードの母方の公爵家とは対立路線を取っているというわけではないが、向こうからは歓迎されていないからあまり進出していない。
 逆にクルーズ伯爵家の方からは商会に対して熱烈にラブコールがあったため、シャンリット伯爵領内と同様に各村への進出やそれに伴う商会員の手による教育なども実施している。

 シャンリット領内では各村落にて行っていた教育(青空教室)を強化している。
 禁書確定な内容の本をのさばらせているとか、信仰を否定するような教育をしているとかいう噂を聞きつけて、時々ロマリア本国から密偵が来たりしている。

 だがロマリアからの密偵はゴブリンたちが引っ捕まえて人面樹に食わせた後に、ガーゴイルに置き換えて送り返している。
 何気にロマリア本国への侵食率は徐々に上昇中である。

 まあそんな訳で、管区長の報告でも密偵の報告でも(全てガーゴイルに置換済みなので)問題なしとなっているので、ロマリア本国も怪しいなと思いつつシャンリット家には手を出せない状態らしい。
 アトラナート商会に厳重注意が来るくらいである。

 念には念を入れて、密偵やらアトラナート商会にたかりに来た悪徳神官連中をガーゴイルに置き換えて、それらを中心にロマリア本国で派閥を形成して主流派へ派閥闘争を仕掛けている。
 もちろん、その派閥――正式な名称はないが、『アトラナート派』と呼ばれている――にはアトラナート商会からたっぷり寄付を行っている。
 現在ではガーゴイルに置き換えられた神官以外にも、普通の神官でもアトラナート派の金回りの良さに惹かれて派閥に加わるようになっている。





 ハルケギニアの文化圏で、空港といえば何を指すかといえば、それは塔である。
 巨大な石造りの塔や天高く聳える世界樹の残骸。それが、空を飛ぶフネを迎えて送り出す玄関口なのだ。

「建築は順調か」
「おやウード様。これは珍しい」

 花畑と肉の生る樹の林に囲まれた土地、ダレニエ市――蜘蛛の城下町。
 この街は他の街とは全く違う様相をみせている。

 先ずはそこにある建物の高さが、まるで違う。
 地上300メイルまで伸びた建物が林立し、そこは人工の渓谷のようになっている。

 それぞれの建物は1つとして同じものはない。
 それは建造物の構造についての様々な試行錯誤の跡であるからだ。
 理論を実践するためや新素材を検証するために、何度も建物は造られては崩され、あるいは補修する際の理論を確認するために態と劣化させられては補修される。

 ダレニエ市では常に何処かで工事が行われている。1ヶ月もしないうちに街並みは一変していく。
 今ある高層建築群も、ほとんどが半年以内に建てられたものであるし、また半年以内に破壊されるだろう。
 或いは、ある建物に誰か買い手が着けば、その建物ごと厖大な量の風石を用いて、浮かして移動させられるかもしれない。
 過去にはそうやって他の領に移設された建物もある。

 そのダレニエ市(蜘蛛の街)で、現在最もアツイ建造物が、今回ウードが視察に訪れた建物だ。
 全長1000メイルに迫る巨大建造物。
 用途は空港、及びフネの開発・メンテナンスのためのドックである。

「ふうん、まあ9割近くは完成しているみたいだな」
「はい。まあ、外側の箱だけですが」
「中身は別の所で作っているのだろう? ラボで使う開発機器などは運びこむだけじゃないか」
「まあそれはそうなのですが」

 その空港塔は幾つもの天秤量りを互い違いに積み重ねたような形になっていた。
 緩やかな弧を描くアーチ状の腕が、中心となる巨大な柱から何本も付き出している。
 それぞれのアーチの先にはフネを吊り下げたり、補修するためのドックが取り付けられている。

 中心柱から出るアーチは何本もあり、果実が枝先について緩く撓った樹の枝のようにも見える。
 この建造物は謂わば人工の世界樹なのである。
 ウードと、この場の工事責任者かつ設計者の風メイジはその世界樹の頂上最先端部分で話をしている。

 さて、人工世界樹や、その周囲の無数の墓標のような高層建築は、どこからその材料を供給されているのだろうか。

 それは地下からである。
 と言っても、ダレニエ市の地下からではない。
 ここからは少し離れた場所、学術研究都市アーカムの建設予定地の地下からである。

 アーカム建造予定地の地下数千メイルの場所に、ゴブリンたちの新しい街が造られているのだ。
 地底都市の第1号、その建造のために繰り抜かれた岩盤を地上に運び、地上にて『錬金』の魔法で元素変換・形状加工をして建材とするのだ。

 土砂の移送には〈ゲートの鏡〉のレプリカを用いている。
 アーカムの地下とダレニエ市の建材置き場を直通で繋ぐ、巨大な〈ゲートの鏡〉。
 ようやく〈ゲートの鏡〉のレプリカを作ることが出来るようになったのだ。

「しかしこの空港もいつかは破壊されるのでしょうか」
「まあな。壊すために造っているようなものだからな」
「そうですよね。聞いた私が馬鹿でした」

 責任者の男は肩を落とす。
 建築家なのに、自らが作った作品が形に残らない、というのは非常に悲しいのだろう。

 アーカムの地下から土砂を持ってきていると述べたが、勿論、ダレニエ市の地下も拡張されている。
 こちらは地下50メイル以内を開発しており、軌条を走る水平移動装置や垂直に人や貨物を運ぶエレベータによって縦横無尽に結ばれている。
 地上部と異なり、ダレニエ市の地下部は補修改装はされるものの、基本的には変化のない安定した街並みになっている。
 多くの人は地下部に生活基盤を持ち、昼間は地上部の建築現場、オフィスや農場に働きに行くという生活を送っている。

 この責任者の男もダレニエ市の地下に住んでいるから、この街の移り変わりはずっと見てきている。
 今造っている空港塔が壊されるのも、仕方ないと諦めている部分はある。
 現に今までにもこの責任者の男が設計した高層建築は作っては壊されというのを繰り返されている。
 中には、要点に一撃を加えれば内側へと崩壊するような建築を、と完成したそばから崩すのを前提とした建物もあったくらいだ。

「じゃあ、私はまた別の場所へ行かなくてはならないから、お暇するよ」
「はい。あ、次にもっと高い建築物を作るときには、また私にお声がけ下さい」
「勿論だよ。ここで積んだ経験を更に活かして欲しいからね」

 ウードは地上1000メイルの尖塔から身を投げる。
 出来ればあなたの死後にあなたの経験をゴブリンたちの人面樹に食わせたいんだが、とウードは耳の良い風メイジの工事責任者に聞こえないように心の中で呟く。

 逆さまに落下するウードの目にダレニエ市の様子が映る。
 遠くの森、バロメッツの林、蜜や香水のための色とりどりの花畑、無数の墓標のような高層建築と、その間に植えられた植物たち、唯一姿を変えていないシャンリット家の城砦、道を行く人々。
 轟々と鳴る風切り音を『サイレント』でカット。乱流を制御された影響で、空気抵抗が減って、若干落下速度が上がる。

 致命的な高度になる前に、ウードは『フライ』で姿勢を立て直す。
 逆さまの視界がぐらりと回って正立に戻る。
 落下の勢いのままに人工世界樹を尻目にウードは建材置き場へと向きを変える。

 この後は、アトラク=ナクアの神官としてひと仕事しなくてはいけないのだ。
 向かう場所はダレニエ市の建材置き場から繋がっている、アーカム建設予定地の地下である。





 ウードは地下に来ていた。
 地下数千メイル。
 地熱で熱湯のような温度に熱せられるはずのそこは、意外にも快適な温度を保っていた。
 熱を持った壁との間に風の魔法で真空の断熱層が作ってあるのだ。

 ここは半径数千メイルの球を半ばから割って間に高さ数百メイルの円柱を入れたような、カプセルのようなカタチの空間であった。

 その一番標高が低い場所。球の下半分の一番下の場所。
 ウードが立っているのはそこへ向かう長大な通路だった。

 ウードは常とは異なり、その異形の両腕を隠しもしていない。
 手首から二股に別れた全体に歪な右腕。肘から先は蜘蛛の脚となった左腕。
 更に言えば何も纏っていない。全裸。あちこちが斑に昆虫のように硬質化している。
 右脇腹は大きく抉れ、右の首筋からは蜘蛛の上顎にあたるであろう甲殻が生えている。

「ウード様、祭壇を用意しております」

 そのウードを案内するのは、やはり何も纏っていないゴブリンメイジ。
 薄明かりで分かりづらいが整った幼い顔立ちをしており、100サントばかりの身長で、足元まで届くような長い真紅の髪を流れるままにしている。
 その手には、何か仮面らしきものを恭しく持っている。何かの樹脂で出来ているような軽くて丈夫そうな仮面だ。

 彼らはこの地底にアトラク=ナクアの神殿を建てるために、その建立の儀式をしに此処へ来たのだ。

 緩やかに湾曲した通路は壁や床など全てが絹糸――スパイダーシルクに覆われていて、柔らかな感触を返してくる。
 通路は長く長く続いておりその先が見通せない。目的地までは随分と歩く必要がありそうだ。

 この空間を絹糸越しに照らしているのは、試験的に運用されているLEDである。
 電力はこの地底空間の壁から滲み出る水を用いた水力発電や、地上の様々な場所に建造している〈偽・ユグドラシル〉という巨大樹木型のカーボンナノチューブ素子による太陽光発電によって賄っている。
 風石がいくら自然に増加するものだとは言え埋蔵資源は何時枯渇するか分からないので、太陽光発電などによる発電力の利用も並行して進めているのだ。
 それに〈黒糸〉を構成するカーボンナノチューブの特性と研究の結果、太陽光発電素子や超伝導電線への応用もそこそこ簡単であったという事情もある。

 太陽光発電は、全高1000メイルに達しようかという巨大な樹のようなもの――名称〈偽・ユグドラシル〉によって行われる。
 〈偽・ユグドラシル〉はその高さに合った巨大な幹と、大きく広がる枝、そしてそこから無数に葉のように繁る羽毛型の発電用カーボンナノチューブによって構成される。
 余さず光を吸収して、熱エネルギーのロスを発生させずに全て電気エネルギーに変換するため、その羽毛のような発電素子は漆黒の色合いだが過熱することはなく、ヒートアイランド現象を起こしたりしないため周辺への影響は抑えられている。

 地下は巨体を支える根が広がっており、根から伸びる超伝導状態の〈黒糸〉を通じて各地の地底都市に電力を供給するようになる予定だ。
 〈偽・ユグドラシル〉は世界各地の沙漠地帯や山頂などの不毛地帯、あるいは大洋の真ん中などに千数百本は建造しており、世界中の地底都市のエネルギーを補って余りある量のエネルギーを生産可能だと計算されている。
 さらに〈偽・ユグドラシル〉の生えている場所が沙漠ならば、それによって生じる日陰と湿気の滞留を利用して沙漠の緑化を行ったりしている。

 地下都市と〈偽・ユグドラシル〉の組み合わせならば、月や他の惑星にも生息圏を広げられるかも知れないということで、この二つを組み合わせたテラフォーミングの研究もされている。
 現在進行中のプロジェクトはこれの第一段階として〈ゲートの鏡〉を双子月に運び込むというものだ。
 その後は運び込んだ〈ゲートの鏡〉を通じて〈黒糸〉を月に伸展させるという計画になっている。

 現在のゴブリンメイジの集落の運営には電気エネルギーと共に〈黒糸〉経由の風石の魔力に頼っている。
 他の星をテラフォーミングする際にも風石や水精霊の涙は欠かせないだろう。
 研究の結果、水精霊の涙は光と水と栄養があれば、植物の生産物として蜜のように作れるようになったが風石はそうはいかない。
 だが、欲を言えば風石も水精霊の涙も太陽光発電した電力から直接工業的に作成出来るようにしたい、と研究が進められている。
 太陽光発電では昼夜で出力にムラが出来るし、それを均一化したり蓄積しておくためのギミックとしても電力を精霊石へ変換するのは有効だろう。

 その為に、風石の構造や地下での自然発生機構についてや、水精霊の涙を溜め込む植物のその生成機構についてゴブリンたちは研究を行っている。
 また、エルフが操る先住魔法による精霊力の結晶の作り方をエルフから『読心』の魔法で読み取ったり、電子を『錬金』する魔道具を作ってその回路の逆転によって電流を魔力に変換出来ないかといった研究を行っている。

 それらと並行して赤道直下の〈偽・ユグドラシル〉の頂点から『レビテーション』で重量を誤魔化しながらアンカーを飛ばして徐々に〈黒糸〉を上空に伸ばして軌道エレベータの足がかりにするという実験も行っている。
 当然、ロケットによる宇宙進出の実験も行っており、様々な面から月や静止衛星軌道への進出が図られている。
 地上から宇宙へと、ゴブリンたちの狂わしい好奇心は、その捌け口を求めたのである。

 他の惑星を調査し、他の恒星系を観測し、遙か宇宙の深淵を覗き、遠宇宙より飛来するものを捕え、銀の鍵の門を抜けて過去と未来を解剖し、アザトースに伏して許しを請いてその原初の混沌の知識を掠め取り、ウボ=サスラから生命の根源の秘技を得なくてはならない。
 宇宙の神秘を知るためには、物理的な手法だけではなくて、もっと悍ましい秘術を用いなくてはならないだろう。

 閑話休題。
 そうこうしている内に、ウードと赤髪のゴブリンは地底空間の底に辿り着いたようだ。

「ほう」

 思わず、といった様子でウードが感嘆の声を漏らす。
 その前に広がっていたのは、鬱蒼とした林であった。
 100メイル余りの直径の円盤型の空間に、所狭しと木々が生えている。

 しかし、ただの林では無い。
 この林は、狂気の林である。
 林の木々を構成するのは、人面樹だ。
 その内に蓄えた狂った遺志を反映してか、その枝々はあらぬ方向に伸び、互いに絡み合い、融合している。

 所々に人の頭が生っており、おおおぉぉんと虚ろな叫びを挙げている。

 ゴブリンたちは人面樹に死者の記憶を蓄える。
 そして、死者の記憶がマトモな訳が無いのだ。
 生きていた時から狂っていたものも居るだろうし、死の際に狂っていったものも居るだろう。
 そういった狂った意識の狂った部分のみを集めた人面樹というのが、全体の人面樹群を健全に保つためには必要である。要は狂気の掃き溜めだ。

 この場に集められているのは、狂った意識を蓄えた人面樹たちなのだ。
 そして、ウードを案内したゴブリンは、狂える人面樹を管理する使命を帯びたゴブリンの一族の一人なのだ。
 人面樹を使い魔として記憶を蒐集し司る〈レゴソフィア〉氏族の中でも、最も狂っていて、それ故に最も神に、アトラク=ナクアに近しい一族だ。

 呻きを挙げる生首の実が吊り下がる中を、ウードとレゴソフィア氏族の者は進む。

 おおおぉぉん。
 ――うをぉおおおん。
 あああぁぁぁ――。

 気狂いの遺志が満ちる中を二人は黙々と進む。
 マトモな精神の持ち主ならば一秒だって耐えられないような、狂気が形を持つほどに充ち満ちた中を、狂気を吸い込んで進む。
 反響する聲の中を、その中心に向かってただ進む。

 さんざめく木々の枝は、邪教の神官であるウードの到来を心待ちにしていたかのようだ。

 遂に二人は――邪神の祭司と巫女は狂気の林を抜け、地下空間の中央の最も濃く邪悪な気配が蟠った場所に到着した。

 その場には蜘蛛の脚を組み合わせた簡素な鼎が置いてある。
 蜘蛛の脚は、黒と紫の縞模様である。ウードの左腕と同じものだ。
 先日何度も移植し直しては、その都度蜘蛛の脚へと変容していった、ウードの左腕の残骸を利用した鼎である。

 鼎のみが置かれた簡素な祭壇に紅髪の少女は、ここまで捧げ持ってきた無表情の仮面を慎重に、ゆっくりと、祈りを込めて置く。
 それを見届けて、ウードは跪き、祝詞を捧げる。

「いあ いあ あとらっくなちゃ」

 瞬間。
 静寂。

 今まで好き勝手に怖気立つ呻きを挙げていた人面樹たちが、一斉に口を噤む。

 しん。と静寂が満ちる。

 だがその空気は欠片の神聖さも孕まない。
 より邪悪な気配が満ちる。
 悍ましいモノがこの場を満たす。

「とぅぐじいふす ふんじいすく ふんくすふ るくとぅうす ん・かい・い」

 ウードの、蜘蛛の祭司の祝詞に従って、一斉に周囲の人面樹が詠唱する。

 低い声で。
 高い声で。

「いいぐうるうるぅ いいぐるぁああ」

 人の声で。
 獣の声で。

「ん・かい・い あとらっくなちゃ うがふなぐる ふたぐん」

 囁き声で
 叫び声で。

「ほおる・うふる てぃぎい・いり・り いいぐるぅ」

 この世の声で。
 声ならぬ声で。

「いあ いあ あとらっくなちゃ」

 詠唱が空間に飽和し、深淵の蜘蛛神を賛頌して、また静寂。

 しん、とした空気の中、今にも張り裂けて溢れ出しそうな邪悪な気配の中をウードは仮面の下へと歩く。

 その仮面は、表情を変えていた。
 無表情から、猜疑と好奇の入り交じった表情へと歪んでいた。

 この仮面は、数年前にウードの右肺を根こそぎにして変異した大顎から削り出したものだ。

 仮面には神が宿る。
 能狂言の仮面然り。原住民が崇める仮面然り。
 ヒトならざる者である神を表すためにヒトは仮面を作り出したのだ。

 今、祭司と巫女と狂ったモノたちの詠唱を受けて、おそらく仮面に蜘蛛の神が降ろされたのだ。
 神の力が宿った仮面を持ち上げ、ウードは自分の顔へとそれを導く。

 仮面を着けた所でウードは意識を失う。
 しかしその身体は動きを止めない。
 ゆらり、ゆらりと、仮面に導かれて儀式は続く。

 周囲の木々に吊られた生首は再び十重二十重に詠唱を始め、紅髪の巫女はウードと共に舞い踊り、一心に祈りを捧げる。
 人面樹群に真白い絹糸が何処からとも無く絡みつき、儀式場を覆っていく。

 もはや正気は駆逐され、異界の理に侵されていく。

 邪教の神殿の、その礎を聖別する儀式が人知れず進んでいく。


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メイリーンは13歳。ロベールは5歳。
ロベールにプレゼントしたイリスは全長5メートルほど。普通にロベールを乗せて飛べる。


2010.07.21 初投稿
2010.08.17 誤字修正
2010.10.15 修正 改訂しているうちにだんだん違う話になってるけど、本筋の流れは変わりません。あとホントにアレがもげた主人公はなかなか居ないんじゃないかと思ったり



[20306]   外伝3.『聖地下都市・シャンリット』探訪記 ~『取り残された人面樹』の噂~
Name: へびさんマン◆29ccac37 ID:4dc27135
Date: 2010/08/15 00:03
はあ、全く何で私がこんな事しなきゃいけないのかしら。
地下都市の探訪記なんて別に私じゃなくても良いじゃない。

……仕事だから、なのよね。

さっさと終わらせて、ラボで育ててる蟲の観察記録付けなきゃいけないのに。
ちょうど今日明日が幼生体が卵から孵る頃なのよね。
同僚に任せてきちゃったけど、自分で見たかったなあ。

ホントあの、糞上司。
こんな仕事振りやがってからに。

そりゃあ、最近他の地下都市も増えてきて、そこから一生出ない人達も多いから、『聖地下都市・シャンリット』の記事は需要あるのは分かるけどさ。
何で私なのよ、何で。
何か原因があるのかしら?

……思い当たる節は……。
…………うーん。

あ! これか! この記憶の所為か。

私にダウンロードされた記憶の中に、昔に各開拓地の紀行文書いて有名になった人の分があるからか。納得。
なら仕方が無いわね。
私らの仕事は基本的に適材適所だ。
多分私以上の適任が同僚の中には居なかったんでしょうし。

じゃあ、この私、コレット・サンクヮム・レゴソフィアがずずずいッと『聖地下都市・シャンリット』の魅力をお伝えしちゃおうじゃないの!






 蜘蛛の糸の繋がる先は 外伝3.『聖地下都市・シャンリット』探訪記 ~『取り残された人面樹』の噂~
 





この『聖地下都市・シャンリット』は一番初めに建造された地下都市だ。
今でこそ100に迫る数の地下都市が惑星各地に建造されているが、その走りとなったのがここシャンリット。

そのため、他の都市にはない実験的な施設も多くある、らしい。
それもこの街に数多くある都市伝説の一つでしか無いから、真偽は定かではないが。

他の地下都市で育った連中に言わせると、都市計画が未熟だった所為か、シャンリットは雑然としている感があるとか。

(まあ、確かに雑然としてると言えばそうかもね~)

今歩いている神殿前の大通りなんて、その最たるものだろう。
幅60メイルは確保されている大通りは、騎乗用の様々なタイプのガーゴイルが所狭しと行き交い、脇には聖地に巡礼に来る人達目当ての出店がいつも並んでいる。
他の都市ならもっときっちり整理されているらしい。

私はこの聖地下都市の生まれで、ここから出たことはないから他の都市のことは直接は知らないが。
まあ、前世の記憶から鑑みるに、地上のトリステインとかよりは余程マシだとは思うんだけど。

(それよりも、先ずは腹拵えかしら)

朝食まだなのよね~。
さっきから出店からいい匂いしてるし~。

わ、何なに? オジサン、この魚、何? 深海魚?
へー、マーマンと取引始めたんだ。地底都市で海水魚なんか見ないからびっくりしちゃったよ。
あ、でも生活史の解明で、生簀で卵から成魚まで養殖できるようになったんだっけ?
あー、養殖ものは脂が乗り過ぎててマズイって?
あれは改良の余地有りだよね~って話をソコの研究者にしたらさ、次のバージョンでは遺伝子操作でムキムキの魚になってたよ。
そう、もう凄いムキムキなの。このまま地上制圧しちゃうんじゃないかってくらい。空も泳げるらしいよー。餌に風石混ぜたら浮き袋に蓄積されたとか言ってた。
あはは、魚群が空飛んでるのは一見の価値有りだよ~。ホント笑える! オジサンも一回見るべきだよ!
じゃあ、この深海魚っぽいのの一夜干の炙りを頂戴! ん、じゃあこれ代金ね~。

「じー」

おお、オバサン、それは新作品種だね!?
え、試食して良いの? じゃあ、頂きま~す。
……ん~! あま~い! 何これすっごく甘い。これってこんなに甘いもんだっけ?
へえ、甘み特化の品種なんだ。朝のお供に丁度良いね! 糖分無いと頭働かないもんね。
やだ、オバサン、いつもそればっかり。そんなお世辞言ってもダメだよ~。大体、顔なんて皆同じじゃん。
え、この髪飾り? 分かっちゃう? やっぱり分かっちゃう? これ新作なのよ! 可愛いでしょう? 可愛いだけじゃ無くてすっごい新機能が付いてるんだから!
……もう、そんなお世辞言ってもだめだよぅ……。あー! 分かった分かった! そこまで言われちゃしょうがない! これ幾ら!? ハイ、代金ね!
もう、周りの人もそんなに笑わないでよぅ。

「じー」

あー、オニイサン待って待って、それ最後の一個?
よかったー。コレ好きなんだ。残ってて良かった。
うん? この髪飾り? えへへ、良いでしょー。 ありがとう、私のワインレッドの赤毛にこの黒がよく映えるでしょ?
あ、触っちゃダメだよ? これ第二技研製だから噛み付くかも。未だ馴れてないし。
いつも頭撫でようとするからねー、オニイサン。手を引いて正解。危ないところだったよ?
ふふふ、じゃあこれ頂戴ね。え、割引してくれるの? いつもありがとう!

「じー」

さて、じゃあ適当な場所で食べようかな~。

「じー」

えーと、ああ、そこに丁度、2席空いてるな。
オネエサン! ここのカフェって持ち込みOKだったよね? ちゃんとドリンクは頼むから!
ありがとう! じゃあ、血のように赤いジュースを2つ!

「じー」

じゃあ、そこでさっきから見てる君も一緒に来な?

「じー……。え、良いの?」

「良いよ。ほらこっち。ジュースもあげよう」

「て言うか気づいてたんだ」

「まあ、アレだけ熱視線送られてたらね~。
 で、お嬢ちゃんはどうしたのさ。こんな朝から一人で」

ゴブリンばかりが暮らすこの地下都市は、地上の人間の街と比べると総じてサイズが小さい。
まあ、ゴブリンの平均身長が120サント前後なのだから当然だが。
そんな中でも、さっきから物陰からこっちを見つめていた娘はさらに小さい。

質素な服に、褐色の肌。
大きな黒目に、目立つ色の明るい緑色の髪。萌木のような若々しい生命力を感じさせるその色は、彼女にとても似合っているように思える。
肩口までの緑の髪を揺らして、こちらの席に招かれるままに近づいてくる。

んー。ホントに小っこいな、この娘。
子供ってことなのかな。珍しい。
私たちの子供時代なんて『活性』の魔法で速成されるから無いはずなのに。

「えっと、まあ、さ、散歩?」

「なんで疑問形なのよ。
 まあ、良いか。ほら、一緒に食べよう? 美味しいよ?」

「あ、ありがとう」

「良いって良いって。あそこのオバサンに乗せられて買い過ぎちゃったし」

目の前に座った緑髪の娘に出店で買った果物やパンを勧める。
そこに給仕のオネエサンがジュースを持ってくる。私の髪色と同じような真っ赤なジュースだ。

「お、お姉ちゃん、凄い色だね、それ」

「でしょ? でも美味しいんだよ? あげるから飲んでみて」

この色で敬遠する人が多いらしいが、美味いんだこれが。
香りはフルーティ。最初は甘い味、ドロリとした喉越し、爽やかな後味。その上、腹持ちも良いし。

「あ、ホントだ。意外とイケルね」

「でしょう?
 あ、じゃあそろそろ自己紹介しとこうか。
 私はコレット・サンクヮム・レゴソフィア。しがない研究員さ。
 今日は聖地下都市の取材で朝から外回りするハメになっちゃった」

「え、レゴソフィア!? 確かに、その腕の刺青は……。
 しかも第五家系!? 一桁台なんて超エリートじゃない!」

「いやいや、いつの話よ。
 記憶のダウンロードが一般化する前でしょ、それ」

そりゃあ、昔は記憶の共有化はレゴソフィアの家系の専売特許だったけど。
特に第一から第九までの九の家系は他の家系からの情報を集約する地位にあるから、まあエリートと言えばそうだけど。
今は記憶共有が一般化されてるから、そこまで昔ほどには特別ってわけでもないのよね。そんな事、基礎記憶の植え付けを受けてたら常識なのに。

「ひょっとして……」

基礎記憶移植を受けてない?、と問おうとしたところを遮って彼女は息急き込んで自己紹介をする。

「あ、コレットお姉ちゃん! 
 私はニーナ! ニーナって言うの、宜しくね」

「うん、ニーナちゃん。宜しく」

ニーナちゃんは一度俯いて、唇を噛みしめると、顔を上げて決然とした表情でこちらを見つめてくる。
その気迫に思わず気圧されそうになる。

「あのね、お姉ちゃん、取材の後でいいから、また会えないかな?
 お姉ちゃんをレゴソフィアの人だと見込んでお願いがあるんだ」

「……んー、良いよ。じゃあ、昼過ぎにでもまたココで落ち合おうか?」

あまり良い予感はしないけど。でも、なんか切羽詰って見えるし、見捨ててはおけないよね。






ニーナちゃんと別れたあとは大通りを進み、予定通りアトラク=ナクア様を祀る神殿を取材する。

(ニーナちゃんの話は気になるけど、先ずは取材だね)

見慣れていても気圧される程の威容を誇る玄武岩質で出来たアトラナート神殿も、今はそれほどの感動を与えてくれない。
ニーナちゃんのあの様子が、どうしても気にかかる。
私の中の記憶達がざわざわと警鐘を送って来ている。
彼女のあの様子は、覚えがある。
『前世達』の死に際の中に、あの張り詰めたような、それでいて陰のある雰囲気の覚えがある。

どう仕様も無い何かに対峙した際の、諦めを含んだ、しかし生を諦めきれないあの矛盾した混沌としたどっちにも進めない張り詰めた感情は――。

「コレットさん?」

「ハイッ!?」

神官の方に声を掛けられ、我に返る。

「大丈夫ですか?」

温かみを感じさせる表情で、心配気に神官さんがこちらを見ている。
取材中にボーっとするなんて、なんて失態!

「ええ、ダイジョウブですッ!! 全く、全然、問題なしです!」

「それなら良いのですが。何か悩みがあるのでしたら、大神殿は何時でも相談に乗りますよ?」

「はいッ! その際は是非に! 今日はお時間を割いて頂き有難うございました!」

「いえ、こちらこそ。では、いい記事を期待してますよ? あなたに蜘蛛神様の御加護がありますように」

「はい、ご期待に添えるよう頑張ります! 蜘蛛神様の加護を」

ああ、もう、穴があったら入りたい。

~~っ! 懸案事項があるからいけないんだ! さっさとニーナちゃんに会って解決しよう!
そうじゃないと、このままじゃ全く何も手につかない。

急ごう!





ニーナちゃんは朝に会ったカフェテラスの前で待っていた。
私はウェイトレスのオネエサンに軽い食事と朝と同じジュースを二人分頼み、案内された席に着いた。
私が早く出てきたために、お昼時には未だ早く、込み具合もそれ程でなく、席はまばらにしか埋まっていない。
ウェイトレスのオネエサンも若干暇そうだ。

「早かったね、コレットお姉ちゃん」

「ニーナちゃんこそ、よく待ってたね」

居なかったら捜し回るつもりだったんだけど。

「他にする事も無いから……。ご飯食べたら、私に付いて来てくれる? 見せたいものがあるの」

運ばれてきたご飯を掻き込みながら、ニーナちゃんの話を聞く。
腹が減っては戦はできぬと言うし。
おお、この新メニューの深海魚丼は中々イケルね。

あれ、ニーナちゃんは食べてないな。ジュースは飲んでるけど。魚苦手なのかな?

「〈レゴソフィア〉氏族って、人面樹についてのエキスパートなんだよね?」

「……もぐもぐ。そうだよ。見せたいものってのは、人面樹についてなの?」

「……うん。
 お姉ちゃんは、『取り残された人面樹』って話、知ってる?」

「えっと、確か都市伝説にそんなのがあった気がする。でも詳しくは知らない」

「この聖地下都市の開発中に、事故で区画ごと取り残された人面樹の一群があるって話だよ。
 ずっとメンテナンスされてないから、夜な夜な呻き声が聞こえるって言う」

「そうなんだ」

うーん、でも有り得ないと思うんだよね。
〈レゴソフィア〉氏族が知識の宝庫である人面樹をそのままにしておくなんて、考えられない。
特にそんな事故があったんなら、事故の犠牲者とかをその人面樹が喰ってる可能性もあるから、最優先で回収されるはずなんだけど。

でも、もしそんな取り残された人面樹があるって言うなら、回収されない事情があったってことかな?

「で、そんな話をするってことは、ニーナちゃんはその噂の人面樹の場所を知ってるとか?」

「……うん」

これはこれで、気になるけど。
でも、これ自体はそんなに鬼気迫る表情で言うようなネタでもないような気もする。

「ホントにそれだけ? 『取り残された人面樹』をどうにかして欲しいってことかしら?」

「――! お姉ちゃんも信じてくれないの?」

あ、ヤバイ、ニーナちゃん泣きそう。
というか、こんな初々しい子供らしい反応するゴブリンなんか初めてだ。
新鮮というか、不思議な感じというか。

……じゃなくて、泣かれたら困る!

「いやいや、ちゃんと着いて行ってあげるよ! 信じてるって!」

「本当に?」

「おうよ、このコレットさんに任せなさい。
 ずずずいッと、余す所無く完膚なきまでに解決して差し上げるから!」

どんと来いってもんだよ!

「ありがとう!」

おおう、花咲くような笑顔ってこう言うのを言うんだね。
ホント、ゴブリンらしくない反応だね。
都市伝説の人面樹よりも、この娘の方が不思議だよ。

「じゃあ早く行こう! 直ぐ行こう!」

「待って待って、ご飯食べ終わってない! というかお勘定しないと!
 ああ、まってよ、ニーナちゃん!
 オネエサン! お会計お願い! はい、これ代金!」

「お姉ちゃん、早くー!」

おおう、いつの間にか店の外の大通りのあんな遠くに。足速いねえ。
〈レゴソフィア〉氏族は代々貧弱だから、あんな健脚に付いて行けるか心配だよ。

「分かった、でも待って! 私そんなに速く走れない!」

ああ、路地裏に入られると見失う! 待って待って待って~。







「ねえ、ニーナちゃん。その『取り残された人面樹』ってココにあるの……?」

ニーナちゃんに付いて、路地裏を掛けて地底都市の壁際までやって来た私を待っていたのは、ポッカリと口を開いた横穴だった。
不気味過ぎる。先が見えない。
というか本当に呻き声が聞こえてきてる。うわあ、ホントに人面樹ありそうな雰囲気。

「うん。ココの先にあるんだよ」

『ライト』で明かりを確保して、洞窟の中を歩きながら、ニーナちゃんと話を続ける。
うわ、なんかネバネバしたの踏んづけた!
なんだこれ、なんだこれ。

ひうッ! 今度は何か垂れてきた!

「私の家、この横穴の近くにあるんだけど、毎晩うるさくて」

いや、ホントにそれだけ?
なんか、さ、朝の深刻さはそんな、夜うるさくて眠れません、みたいな寝不足に由来するような話じゃない感じだったよね?

「それで、お父さんとお母さんが、その原因をどうにかするために洞窟に行ったんだけど、戻ってこないの」

……? 

「きっと、あいつに食べられちゃったの!
 コレットお姉ちゃん! お願い! お父さんとお母さんの仇を取って!」

仇?
いや、その前に。

「いや、いや。不思議な単語が聞こえたよ?
 『お父さん』? 『お母さん』?
 私たちの父にして母は、キメラバロメッツの母樹じゃない……?」

「それは……、ッ!?
 お姉ちゃん、急がなきゃ!! あいつが来る。早く行こう!」

来るって何!? 何が来るの!?

あああああ、何か洞窟の奥から叫び声が聞こえてくる!?
――いや、これは詠唱!?

あ、ニーナちゃん! 待って!
何か分かんないけど、マズイって!
これは絶対、私一人でどうにか出来るものじゃないよぅ!?






洞窟の奥から聞こえてくる呻き声は、いつの間にか特殊な調子を持った韻律に変わっていた。

「――■■■■■■■■、――■■――――」

  「■■■■■■――、――。――――■■■■■――」
     
         「■■――■■■、――■■■■――■■■■■■!」

叫び声の元に走っていったニーナちゃんを追いかけていった私が目にしたのは、人面樹に鈴生りになったゴブリンたちの首。
虚ろな目をした首の数々が、私とニーナちゃんの足音に気付き、ぎょろりとこちらに目を向ける!

「――っ」

「お父さん! お母さん!」

こちらを見つめる、眼、眼、眼。
半開きの口からは、忌まわしい呪言が漏れ聞こえる。

地下都市の天蓋の人工光も入らないこの洞穴の奥の一室で、どれだけの時を過ごしてきたのだろう。
すっかり枯れ果てた葉。
骨のように白くなった枝。

低い天井に遮られて、枝々は折れ曲がり、複雑に絡み合っている。
その複雑な骨細工のような枝の至る所に、ゴブリンの頭部が晒されている。

その中に、自分の父と母だというゴブリンの顔を見つけてしまったのだろう。
ニーナちゃんの絶望に染まった叫び声が聞こえる。

だが、それよりも私の感覚を、『前世』の記憶を引きつけるモノがある。
生首達の詠唱に伴って、大きく開けられた人面樹の幹の虚から溢れ出しつつある、
 あの原形質の、
  不定形の濁りきった黒色の塊!

「■■■■■■■■――!!!!」

人面樹の幹から溢れ出し、枝々にその不定形の身体から形作った触手を巻きつけ、引き摺るようにして全身を表したソレは、口らしきものを開けて咆哮した!


だがここで怯んではいけない!

相変わらず、生首達は詠唱を続けている。
ドブの底のヘドロよりもなお嫌悪感を掻き立てる塊の咆哮に負けじと、詠唱の音量が上がる。

その十重二十重に重なり、反響する恐ろしい詠唱に、思わず本能的に耳を塞ぐ。

(――っ! 詠唱を、止めないと)

あの一匹だけでも手に余るというのに、これ以上喚び出されては堪らない。

(枝を切り落とさないと!)

これが魔法特化の〈ルイン〉氏族なら、この洞窟ごと埋めることも焼き払うことも出来るだろう。
〈ウェッブ〉氏族でも、〈黒糸〉経由で風石の力を使ったり、この場から〈黒糸〉を伸ばして他に連絡することもできるだろう。
〈バオー〉氏族でも、その身体能力で逃げることくらいは出来るだろう。

だが、私は〈レゴソフィア〉氏族。人面樹との同調と、情報処理に特化した氏族だ。魔法も、体力も平均以下でしか無い。
でも、今は。

(それでも充分だ!)

無理矢理に自分を奮い立たせる。

(人面樹の剪定なんてお手の物だ!)

腕に魔道具にルーンを刻む技術の応用で入れられた『エアカッター』の刺青に魔力を流す。
氏族の職業柄から慣れ親しんだ動作は、この物理的な圧力さえ感じるような緊張下でもスムーズに成すべきコトを成してくれた。

無詠唱で形成された風の刃が撒き散らされる。

(当たれ、当たれ、当たれ――!)

目に見える範囲全ての生首の首元に、風の刃を誘導する。
一発で切れなければ、二発! それでもダメなら三発! いや、切れるまで何度でも叩き込む!
枝ごと切り落としても、一日くらいは生首は意識を保つ。だから、その首の根元を切って、生首に“死を自覚させて”黙らせる!
よく分からないが、ニーナちゃんの両親も混ざってるみたいだし、出来るだけ頭には傷つけたくないが、イザとなったら真っ二つにしてでも黙らせないと――!


「――――■■■■――、■■■■――――!」


その間にも無形のドロドロした生き物は、低い唸り声を上げながらこちらに向かってくる。
あああああ、詠唱止めてもこっちをどうにかしないといけないんだった!

残りの生首で詠唱続けてるのは!? ――あと2つ!!

(『エアカッター』!! 『エアカッター』!! ああ、もうさっさと死に直せ!!)

よし、最後の生首の一つが沈黙して――っ!


黒い塊から伸びた、フレイル(刺鉄球付き鎖)を思わせる化物の触手が、

「お姉ちゃん、危ない!!」

私を打ち据えようとした瞬間に、

「え、ニーナちゃn……ぐふぅっ!」

急加速してきたニーナちゃんの小柄な身体が、私を突き飛ばした。


私は横に弾かれるように飛ばされて、人面樹の枯れ枝に突っ込む。
枯れ枝をへし折りながら転がって痛む身体を、無理矢理に引き上げる。

(ぐあっ。出鱈目な加速……っ。あの娘って〈バオー〉か何かかしら。いやソレよりもニーナちゃん!!)

私はさっきまで自分が立っていた所に急いで目を向ける。
ああ、急加速で血が偏ってる。視界が暗い。

(ニーナちゃんは――!?)

そこにあったのは、口から赤い液体を滴らせてピクリとも動かないニーナちゃんの身体。
あの触手に吹き飛ばされて、私と同じように人面樹の枝に突っ込んだのだろうか。外傷はないようだけど、内臓は無事じゃないかも知れない。

あの娘の笑顔が思い出される。純真な笑顔。『前世』持ちでは中々出来ない、澄み切った笑顔。
萌黄色の髪の毛を揺らして笑った彼女は、もう――。

「あああああああああああっ!!!」

大丈夫。大丈夫。未だ間に合う。
目の前の大きな黒いヘドロの塊をぶちのめしてやれば良い。
何、簡単だ。頑張れ、コレット。ここでやらなきゃ何時やるんだ。

とは言え、残りの魔力で使える魔法なんて……。



いや、ある! 賭けになるが、あるぞ!

「『五つの力を司るペンタゴン』!」

まだ家業を継ぐ気は無かったし、こんな所で詠唱するハメになるとは思わなかったけど。

「『我が呼びかけに応え』!」

痛む体を引き摺って、化物の触手のムチをなんとか避ける。
だが、奴の攻撃手段は触手だけではない。
その巨体、5メイルに及ぼうかというその身体自体が武器。

「『我が運命に従いし使い魔を』!」

巨体が迫るプレッシャーで足が縺れ、ムチを避けるステップが止まる。
ムチの重い一撃が、左肩をかする。かすっただけで、私の身体は為す術も無く転がされる。
触手が私の頭に伸びて、ヌメヌメしたもので包まれて、持ち上げられる。

(息が、詠唱が出来ないっ……!)

奴は大きく口を開けて、このまま私を口に放り込んで喰らおうとしているのだろう。

(マズイ、マズイ、マズイ。何か、どうにか……)

その時、私の髪飾りが勢い良く広がって、原形質の触手を吹き飛ばす。

(流石、第二技研! 『対なでぽ用バレッタ』いい仕事してる!)

普段は折り畳まれている肢が勢い良く広がることで、頭部に近づく危険な誘惑を払い除けてシャットアウトする半生物髪飾り〈スパイダーラフレシア〉、俗称『対なでぽ用バレッタ』。
分泌される保湿液の性能目当てで買って、こっちはネタ機能だと思ってたけど、嘗めてたわ。
見直したわ、第二技研。

これで――!!

「『召喚せよ』!!!」

いい具合に、化物は目の前。
その目の前に、召喚の銀鏡が現れる。

私がイメージしたのは、人面樹。
この場に取り残された、白骨を思わせる人面樹。

狙い通りにそれは召喚され――。


「■■■■■■■■――!!!!」


目の前の化物を貫いた!







人面樹の複雑に絡んだ枝は、貫いた化物を絡み取って動きを封じている。

その間に覚束ない足取りで、ニーナちゃんの元に向かう。

「う……。ニーナちゃん……、大丈夫……?」

やはり動かない。口元からも血が……? 

……血にしては、なんか甘酸っぱい匂いのような。


「まさか、これって血じゃなくて……ジュース?」


おおう、そうなのか。昼のジュースか……。

息もあるみたいだし、良かった。
いやでも、内臓とか破裂してるかも知れないし、早く治療を受けさせないと。

その前に、精神力を回復させたいけど……、そんな時間も無いなあ。

仕方ない。

担がせて行くか。


私は、召喚した人面樹と記憶をリンクさせ、低い声で詠唱を始める。

「――■■■■■■■■、――■■――――■■■■■■――、――。――――■■■■■――。■■――■■■、――■■■■――■■■■■■!」

初めて聞いた時には嫌悪感しか齎さなかったそれは、今は不思議と私の精神に馴染むように聞こえる。
ハルケギニアの系統魔法とは異なる力を源にするそれは、精神力を使い果たした今の私でも使えるはずだ。

この詠唱を聞いて、後ろで人面樹の枝から逃れようともがいていた粘性体の化物はビクリと動きを止めた。

どろどろと溶けて、滴るように人面樹の拘束から逃れると、地面に広がったまま逃げ水のように動いてこちらに近づき、立ち上がり形を成した。

今唱えたのは、“従属”の呪文。
この『聖地下都市・シャンリット』のさらに奥底の暗黒の地にて、怠惰なツァトゥグアに仕える、“落とし子”を使役する呪文だ。

適当に大きな人型を取らせたツァトゥグアの落とし子に、ニーナちゃんと私の使い魔になった人面樹を運ばせる。

やれやれ、聖都の取材の筈が、とんだ貧乏くじを引かされるハメになった。
この取材を押し付けた上司には、何か高級料理でも奢ってもらわなきゃ割りに合わない。

あ、そうだ、私も“落とし子”に運んでもらおう。もう動けないよ……。







人面樹に納められた記憶によると、聖地下都市の開拓中にヴーアミという、かつてハルケギニアに暮らしていたトロールの先祖に当たる生き物の秘匿された集落にぶち当たったらしい。
開拓隊が岩盤中に隔離されるキッカケとなった事故というは、実はこのヴーアミの襲撃だったらしい。

そこで、ヴーアミの襲撃で孤立して閉じ込められたゴブリンたちは、獅子奮迅の活躍で、ヴーアミたちを討ち取ったものの、自分たちもほぼ壊滅してしまったらしい。
最後には人面樹とそのマスターの〈レゴソフィア〉氏族だけが残されてしまった。
その彼も息も絶え絶えの状態で、周囲の死体を掻き集めて人面樹に捧げた時点で事切れてしまい、最後の死体と一緒に人面樹の虚に転落。

最期まで記憶の蒐集を行なおうとするその姿勢、このコレット・サンクヮム・レゴソフィア、感服致しました。
同じ〈レゴソフィア〉氏族の一員として、誇りに思います。


でも、食わせたヴーアミの中に、“落とし子”の召喚と従属の呪文を知っていた奴が居た事から、今回の『取り残された人面樹』事件に発展。
光の無い地下に閉じ込められた人面樹は枯れないために、“ツァトゥグアの落とし子”を召喚して横穴を掘らせ、さらに近づいて来たゴブリンたちを襲わせては人面樹自身の虚まで運ばせていたようだ。

ニーナちゃんの父母というゴブリンも、そうやって“落とし子”に殺されて、人面樹に吸収されたようだ。

「うむ、報告書は大体こんな内容で良いかな」

しかし、私の使い魔になったあの人面樹……。回収されずに放ったらかしにされてたのは何でなんだろう?

「コレットお姉ちゃん、紅茶淹れましたよー。休憩にしましょう」

「あ、ニーナちゃん、ありがとう! 丁度一段落ついた所だよ」

実はあの騒動の後、ニーナちゃんは私が引き取ることになった。人面樹に取り込まれたニーナちゃんの父母からも直々に頼まれたし。

ニーナちゃんだが、実はバロメッツ経由で生まれたのではなく、とても珍しいことに普通の方法で妊娠して生まれてきたゴブリンらしい。
まあ、そりゃあ生物学上は私たちゴブリンにも生殖機能は残っているし、危険は伴うものの妊娠出産は可能だ。

そういった生まれだから、バロメッツ生まれが持っている筈の基礎記憶を持っていないのも当然だと言えよう。
彼女のゴブリンらしからぬ純真さも、その生まれによるものだろう。ご両親の教育がよっぽど良かったのだと思われる。

「うん、ニーナちゃんが淹れる紅茶は美味しいなあ」

「えへへ、ありがとう! お姉ちゃん!」

ご両親から任されたとは言え、やっぱり父母とは一緒に暮らした方が良いとは思うので、これからは〈レゴソフィア〉本家に掛け合って、なんとかご両親の人格記憶を完全な形で引き継いだゴブリンを復活させようと思っている。
この娘の純真さは、ゴブリン社会の中で非常に貴重だから、ずっと守っていきたいものだと、そう思う。





コレットです。

本家に報告に行ったら、封印指定の発狂知識担当部署に回されました。

どうしてこうなったのよぅ。未来(さき)が見えないよぅ……。

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ネタが思い浮かんだので突発的に。

2010.08.08 初投稿
2010.08.10 誤字修正



[20306]   外伝4.アルビオンはセヴァーンにてリアルラックが尽きるの事
Name: へびさんマン◆29ccac37 ID:4dc27135
Date: 2010/08/20 00:22
 白の国アルビオン。
 風石の生み出す効果によって大地を離れて周遊する大陸を統べる空中国家である。

 その白の国の南西部に位置するセヴァーンはなだらかな緑の丘陵地帯の只中にある美しい渓谷である。
 しかしある種の波長、或いは適正、はたまた特定の角度を秘める人物は、この渓谷の牧歌的な光景の中に、妙な違和感を感じ取ることが出来るかも知れない。
 そしてその違和感はその地に暮らす人々と話した時により顕著なものになるだろう。

 即ち根本的な思想のズレ。
 異教の香り。異端の兆し。

 始祖よりももっと宇宙的で神秘的な存在を彼らは知っているのだ。
 真に崇めるべきものを彼らはその心の裡に常識として持っているのだ。








  蜘蛛の糸の繋がる先は 外伝4.アルビオンはセヴァーンにてリアルラックが尽きるの事
 






 数年前、気球に乗ってこの地に一つの種が辿り着いた。
 それはある新興の知的な種族を生み出す樹の種であった。

 幸運にも種は芽吹き、数年掛けてセヴァーンの豊かな水に支えられて成長し、ついに実を生らすに至ったのであった。

 革袋のようなゴツゴツとした一抱えもある実が地面に落ち、それを破って5~6歳の児童に見える人影が生まれ出る。
 内容物の成長に従って薄くなっていた皮は、濡れ紙を引き裂くように破られる。
 辺りに漿液と血の咽返るような匂いが広がる。

 幸いなことに、豊かな土地であるにも関わらず、この周辺には生まれたばかりの脆弱な存在を喰らうような大きな獣は居ない。
 ――それは裏返せば、大型の獣すら避ける、畏怖すべき存在がこの土地の周囲に存在するということであるが。
 
 生まれた小柄な人影らしきものは、痙攣し、最初の一息を何とか吸い込むと、咽て肺腑の中の漿液を残らず吐き出し、肺胞の一つ一つに酸素を行き渡らせる。
 吐瀉物の落ちる水音と、苦悶の息遣いが続く。

「げほっ、げはぁっ! げほっげほっ! ぐ……ぶあぁっはぁあ! はぁっ、はぁっ、はあぁあぅっ。うぅぅ~~」

 この樹から生まれるのは、あるメイジがその身の内に吹き荒ぶ狂気にかけて生み出した奴隷種族である。
 ゴブリンを元に魔法を使えるように品種改良され、バロメッツに組み込まれて樹から生まれて殖えるようになり、さらには記憶を喰らう人面樹の性質をその母樹に与えることで、擬似的な転生すら可能になった種族である。
 樹の実から生まれる彼ら彼女らは、そのメイジの版図を広げるために様々な方法で惑星中に送り出されたのである。

 その中でも今生まれ出た彼女は、気球によって胚種を手当たり次第にばら蒔くという乱暴な方法によってこの地にやってきたのであった。

 恐らくは同じ方法でばら蒔かれた兄弟姉妹たちは、その殆どが芽吹くこと無く干からび、はたまた芽吹いたとしても実を結ぶこと無く枯れていっただろう。
 無事に生まれることが出来た彼女は、非常に幸運な部類に入る。
 実際、成功率の余りの低さから、彼女たち第一陣以降は気球ではなく、肥料生成・成長促進の魔道具を搭載した世話役の飛行型ガーゴイルが運ぶ方法に変更された。
 
 気球によって運ばれた種は他の一般的な品種のそれと異なり、中の生物が完全に自立できる程度に成熟するまでは実の中から生まれさせないように調整されている。
 より正確にはその種は自然な種というよりは人工種子であり、生まれてくるモノに植え付けるための記憶を内蔵したある程度の大きさのカルス(未分化な培養細胞)を核に、それを種子の皮のような物質で覆ったものである。
 自然に出来る樹の種では、中の生物に対して記憶を引き継がせることが出来ない――引き継がせるべき記憶を持たない――ために、記憶を持ったカルスを封入するという方法を取っているのである。

 その為、今、一糸纏わぬ姿で母樹の根元に蹲っている幼女は、生まれたばかりではあるが、自分が何をするべきなのか、そしてどうやって生き残るべきかを知っているのだ。

 彼女の知識によると、地面に張り巡らされている〈黒糸〉という彼女の種族特有の魔法の杖と契約し、他の地域の同種たちと連絡を取り、身の回りの物を『錬金』の魔法によって作り出すべし、となっているのだが……。

「げほっ……。うぅ~っ。なによ~。〈黒糸〉無いじゃないのよぉ。どういうコトよ~!?」

 彼女の前途は多難なようである。

 何せ、このアルビオン、空中大陸であるが故に惑星の地面に張り巡らされている〈黒糸〉の網から切り離されているのだ。 
 ……実は現在では空間を超越する〈ゲートの鏡〉という魔道具を通って、浮遊大陸にも〈黒糸〉は張り巡らされつつあるのだが、彼女の居る土地にはその網は何らかの原因で届いていない。
 
 幸運にも無事生まれることが出来た時点で、彼女はそのツキを使い果たしてしまったようだ。

「うわぁぁぁん! 助けてアトラク=ナクア様ーーーー!!」







 目から鼻から口から色々と体液やら弱音やらを垂れ流しつつも、お腹が空いたので母樹の濃密な樹液を啜り、彼女は自分がぶら下がっていた枝を折り取ったものを杖として、それと数時間掛けて契約した。
 本来ならば数日単位の時間が掛かるメイジの杖の契約だが、その対象は今まで自分と共にあった母樹の一部であるため、これだけの短時間で契約できたのだ。
 杖というものの、それは生木の枝を折っただけのものであり、まるでゴミにしか見えなかったが、これこそが彼女の生命をつなぐ唯一の命綱なのである。
 贅沢は言っていられない。

 何せ彼女の状況を一言で表すなら『得体の知れない森の中で、マッパ』なのである。

 猛獣に美味しく頂かれるかも知れないし、ペドな人物に見つかって陵辱された挙句に人買いに売られるかも知れないし、それ以前に季節によっては一夜明かす前に凍え死ぬかも知れない。

(……少なくとも早急に服だけは整える必要があります)

 そう決意した彼女は、自分の中に備わっている知識を元に、もっとも契約に時間が掛からないものを杖として選んで契約を執行したのは当然だろう。

「うぅ~っ。ぐすっ……。良かった……杖の契約も出来なかったらどうしようかと……」

 安心したらまた色々と体液が溢れてきてしまうのであった。

「先ずは、服とか靴とか。いや、身体を洗うのが先でしょうか。……とりあえず、服を準備しましょう」

 周辺の草木を『エアカッター』で刈り取り、一箇所に集めて『錬金』の呪文でセルロース繊維を操作して抽出連結させて布を作る。
 先ずは急場凌ぎの為に、貫頭衣で我慢する心算のようだ。

「服は、これで良し。次は身体ですね。ベトベトで土塗れですし……」

 『凝縮』で水を集めて、それを身体に浴びせて漿液塗れの身体の汚れを洗い流し、『凝縮』の応用で体表に残った水分を一箇所に集めて体を乾かす。

 身も心も心機一転。うんしょ、うんしょと貫頭衣を着て、細かいところを『錬金』で調整し、なんとかマッパという色々危機的な状況からは脱出できたようだ。
 ……森の中でノーパン幼女が一人きりという不自然極まりない状況には然程変わりないのだが。

 本来であればこの場にある程度の拠点を築き、母樹を守り、次々に樹の実から生まれてくる姉妹を育てて人数を増やしつつ、人数が揃ってから周辺の探索などを行うのである。
 当然彼女もマニュアル通りにそう考え、索敵と領域確保の為に、自身の杖からカーボンナノチューブを『錬金』して伸ばし、蜘蛛の糸のように周囲に張り巡らさせてゆく。 
 このカーボンナノチューブを杖として契約するには、まだ数日の時間が必要だ。
 取り敢えずは侵入者を防ぎ、察知する為にカーボンナノチューブを張り巡らせていく。

 一通り、周囲を囲った段階で、彼女の精神力は尽きてしまったようだ。

「ふぅー。いい仕事しました! 生後0日にしては頑張りました!」

 ばたんきゅー、とか言いつつ、彼女は母樹の根元で丸くなる。
 そこは服を作るのに使った草木の残骸で辛うじて寝床の体を成しているだけであったが、彼女は初日の疲れもあってあっという間に眠ってしまった。





『……――。

 羽音。蟲の羽音。甲高い振動音。

 それは近づき、私の頭の周りを飛び回る。

 羽音はもっと近づいてくる。

 そうする内に、やがて、羽音はどこから聞こえるかわからなくなる。

 まるで頭の中で蠅が羽ばたいているかのようだ。全周から羽音が聞こえてくる。

 ……蟲が頭の中を這いずり回っているような不快感がする。

 ザリザリ。ザリザリ。ザリザリ。

 五月蝿い、うるさい、ウルサイ。やめてくれませんか。 

 ――……』





「うーあーーー!! がぁあーー!」

 彼女は朝から不機嫌だった。
 寝不足のせいだ。
 夢見が悪かったのだろう。深く刻まれた隈からも、その深刻さが垣間見える。

「だけど仕事は頑張らなきゃ~ぁっ! 杖を片手に一生懸命~、っとっぁああ!」

 何かの歌の一節を口ずさみながら、杖を振るい『エアカッター』をばら撒く。
 風の刃で断ち切られて、上から太い木の枝が落ちてくる。
 じゃらん、と地面に落ちた勢いで枝々が擦れる音が出る。

 今日は母樹の枝の剪定と、周辺の森を切り開くことで陽の光をもっと取り入れるようにしようとしているようだ。
 決してストレス発散のためではない。

 土の魔法で肥料を施して更に土壌を改質し、水魔法で水を与えるのも忘れない。

 切り落とした枝々は、水魔法で水分を抜いて乾かす。
 一部は昨日と同じように繊維を操って布に『錬金』しておく。これでシーツが出来た。
 
 周囲の一部の平らな葉を付けた6方放射相称の木々が『エアカッター』から逃れるように枝を捩らせたように見えたが、気のせいだろう。
 
「今日は眠れるといいんですが……」

 母樹の樹液を啜りながら彼女は日当たりの良くなった場所に座り込む。

(ぽかぽかして気持ち良い~)

 日向ぼっこは此処まで気持ちの良いものだっただろうか。
 まるで彼女自身の身体が、エネルギー源として光を必要としているようだ。
 
(他の同種よりも樹の胎内に居た時間が長いから、その影響かも知れませんね)

 彼女の頭から、あたかもウサギの耳のように、三角形の細かな鱗粉に覆われた半月状の蟲の羽が伸びて、光を浴びていることには彼女は気付けなかった。

 

 日を浴びながら少し休むと、使い果たした精神力が多少回復したようだ。
 明日は使い魔の召喚を行って、少しでも労働力を確保するべきだろう、と考えて明日のための準備を行う。

 彼女の魔法能力はハルケギニア人基準では精々ドット程度だから大したモノは呼び出されないだろうが、不測の事態に備えて明日は万全の状態で召喚に臨みたい。
 朝から余計な精神力を消費しないように、明日の朝食の準備などは今日のうちに済ませておくべきだろう。
 
 土を操作して甕を『錬金』し、中に『凝縮』で集めた水を蓄えておく。主食としては樹液を啜れば良いから、取り敢えず準備はこれで良いだろう。
 
 日が傾き、周囲をオレンジ色に染める。あと少しすれば日は更に傾いて夕闇は更に藍を深め、夜が来るだろう。







 ザリザリ。ザリザリ。ザリザリ。

『……――。

 エメラルド色の二連太陽の輝き。
 眼下にある球形の不思議な灰色の金属で作られた建物。
 周囲を見渡せば、円形の建物の中で一際目立つ四角錐型の神殿があるのに気づく。
 そのピラミッドには、多次元の門を越えて召喚された、原初の痴愚神の一部が息づいているのだ。
 
 周囲の球形の建物の頂天から、蟲が飛び出してくる。

 大きな複眼。蛆のようなブヨブヨした生白い腹部。
 胸部からは十本の節足が生え、さらにそれぞれから黒光りする触毛が伸びている。
 細かな三角形の鱗粉に覆われ、エメラルドの太陽光を反射して輝く半円形の羽が周囲の空気を震わせる。
 頭部には幾本もの螺旋状に巻いた触覚が生えており、痴愚神の従者の奏でるフルートの宇宙的なリズムに合わせてか、ゆらゆらと揺れているようだ。
 三つある口からは触手が伸び縮みしている。

 幾百の蟲が神殿へと向かう。

 夢の中の私――シャッガイを支配する昆虫族――も、これから痴愚神【アザとーth】の神殿に礼拝に行くようだ。

 その後は適当に日向ぼっこして光合成した後に、奴隷種族を神経ムチ――神経に直接作用する光線を発する武器――でいたぶって遊ぶのも良いだろう。
 
 今日はザイクロトルの肉食植物どもで遊ぶことにしよう。あの木偶の坊の六本腕どもで。

 ――……』
 
 ざりざり。ざりざり。ざりざり。







 今日の彼女は機嫌が良いようだ。
 よく眠れたのだろうか。はたまた夢見が良かったのか。

「さて、では『サモン・サーヴァント』をやりましょうか!」

 彼女は甕に貯めておいた水で顔を洗い、身体を布で拭き、服を着て、朝食がわりの樹液を啜り、杖を構え直す。

「ん~、ここはやっぱり何か空を飛べる使い魔がいいですかね。
 それともアトラク=ナクア様の信徒としては蜘蛛を望むべきでしょうか。
 ……まあ、なるようにしかなりませんね」

 深呼吸一つ。

「『五つの力を司るペンタゴン。我が呼びかけに応え、我が運命に従いし使い魔を召喚せよ』」

 彼女が召喚の祝詞を唱えると、杖の先に拳大の銀色に輝くゲートが現れる。
 そこから何が飛び出してくるのかと今か今かと待ち構える。

 ……少ししても何も出てこない。
 怪訝に思った彼女は、銀鏡に顔を近づける。

 その時、何かが出てきて彼女の顔にぶつかる!
 
「うわっ!」

 ぶつかったのはぶよぶよした青白い塊から細い足が八本ほど生えている、蜘蛛っぽい何か。
 それは素早く彼女の顔を這い回る。

「わぁ! 離れろ! このっ!」

 頭を振って、手を振り回すが、蟲は離れない。
 それどころか、耳の穴を探り当てると。

「うわぁっ、ああっ、このっ! 入ってくるな! やめろっ!」

 ずるりとその中に入っていってしまった。

「ぁぁぁぁああああっ!」

 叫び声を上げた彼女の眼が、ぐるりと裏返る。
 膝から力が抜け、とさりと地面に倒れる。
 彼女はそのまま意識を失ってしまう。





 ざりざり。ガリガリ。ザリザリ。カサコソ。

『……――。

 崩壊のビジョン。真紅の放射光に覆われて、夢の中の私の故郷シャッガイは崩壊していく。
 あの妖星【ぐろうす】がここに訪れたのが、この終わりの始まりなのだ。

 巨大な妖星が奏でる宇宙的リズムが星辰を崩壊の位置に導き、このシャッガイさえもその赤い崩壊に巻き込んで滅ぼさんとしているのだ。
 辛うじて神殿に逃げ込んだ私は、この悪夢のような崩壊から適当な植民惑星に転移するべく機械を動かしている。
 精神を集中させて念力を発揮し、アザとーth様の神殿の転移装置を稼働させる。

 この惑星が完全に崩壊し切る前に、何処か近くの惑星に――。

 ――……』

 かさこそ。カサコソ。ガリガリ。ぶちぶち。

 何かが二つくらい、頭の中で這いずり回っているようだ。
 そのうちの大きな方が負けて追い出される。
 蟲の羽音が遠ざかる。

 がりがり、がりがり、がりがり、がりがり。

 相変わらず、何かが頭の中を這い回る音が聞こえる。





 変なところで寝た所為か、身体の節々が痛いです。
 昨日は何をしようとしたのでしょうか。
 思い出そうとすると、頭の中を何かが蠢くような得体の知れない不快感が浮かんできて、それ以上何も考えることが出来ません。





 夢見が本当に悪いです。
 最初の頃に見た、エメラルドの太陽が空に2つ浮かぶ何処とも知れない惑星の光景は見ませんが、とても恐ろしい夢を見ます。
 母樹の世話はなんとか続けていますが、とてもじゃないですがこのままでは早晩に限界が来そうです。
 妹たちは実の成長状況を見るに、あと6ヶ月はしないと生まれそうにありません。
 それまで持つでしょうか……。
 




 いよいよ限界のようです。
 今日は気づかない間に、見知らぬ洞窟の前に立っていました。
 自分の身体が思うように動かせません。
 頭の中に棲み付いた何かが、私を操っているようです。

 ……この洞窟ですが、とてもとても深いようです。
 ここから母樹のある辺りまでは結構離れているのですが、母樹のある場所から〈黒糸〉を真下に広げようとしたら、この洞窟の一部と思われる壁面に行き当たってしまいます。
 更に不思議なことにこの洞窟に〈黒糸〉が近付くと、それ以上は〈黒糸〉を伸ばすことが出来なくなります。
 
 何か魔法を打ち消すような力、あるいは系統魔法では太刀打ち出来ないもっと強力な力がその洞窟に掛かっているのかも知れません。




 
 頭だけではなく、身体にも異常が目立ってきました。
 何かが皮膚の下を這いずり回っているのです。
 
 もう私が意識を保っていられるのは、一日の内に四分の一もありません。
 何とか、これから生まれる妹達にはこの危機を伝えなくては……。

 ……手記を書かなくては。

 頭の中に何かが居る以上、母樹の虚に自分を捧げて、記憶の継承を行うことは危険なように思われます。
 母樹に取り込まれた危険な知識を取り除いたりなどのメンテナンスが出来る人材――〈レゴソフィア〉氏族も今は居ませんし。

 ……手記を書かなくてはなりません。





 洞窟の奥深くでずっと過ごしています。意識の無いうちに此処まで迷い込んだようです。私の中に居るモノにとっては単なる帰巣本能に過ぎないのかも知れませんが。
 もはや自分で身体を動かすことが出来るのは、一日のうちで一時間にも満たないようです。
 そんな短い時間では、迷宮のようなこの洞窟を脱出することもままなりません。

 体中を這いずり回っている“雛”の親の力なのか、この洞窟は『錬金』で壁を崩すことも出来ませんし。
 
 せめてもの幸いは、これまでの経過を手記にしたためて母樹の傍に残せたことでしょうか。
 妹達には、こんな結末は迎えて欲しくはないです。





 ああっ、雛が! 私の身体を!
 食い破って!

 ああ、雛が、雛が!






「……。この状況って、かなり詰んでませんかね?」

 半年ほど先に生まれていたであろう姉に当たるゴブリンの残した手記を読み返して、彼女はそう呟いた。

 手記は徐々に身体の支配権を奪われたことと、その原因となった寄生生物が、詳しくは思い出せないが、『サモン・サーヴァント』に起因するだろうことが書かれていた。おそらく、同じ遺伝情報を持つ妹達も同じ生物を召喚してしまうだろうとも。
 他にも、この足元の地下にはその雛の親が棲んでいると思われる洞窟が広がっており、その親が洞窟に与える加護の力によって妨害されているのか〈黒糸〉を一定以上に伸ばせないことなども記されていた。

「しかも……」

 彼女は傍に転がる死体に目を向けて、溜息をつく。

 死んでしまった姉の世話が良かったのか、今回は母樹に二つの実が生って、それぞれからゴブリンが生まれた。
 その双子の姉妹と言える片割れは、現在物言わぬ屍になってあらぬ方向に関節を向けて転がっているが。

 彼女は、自分の双子の姉(妹?)を葬った下手人に目を向ける。

 それは五メイル程の樹であった。
 
 そのアンバランスに太い幹の先の梢にはのっぺりした白い仮面のような丸い頭部があり、牙の並んだ大きな口が開いている。
 6本の腕が放射状に生え、それぞれの先にうちわのような平べったい葉が枝分かれして十数枚付いている。


 姉の残した手記を読んだ双子は『フライ』で森を強行突破し、地上へ降りて救援を呼ぶことを考えたのだ。
 一人は救援に、一人は母樹の世話に残るという役割分担をして、早速救援を呼びに出る方は『フライ』で飛び上がったのだが――。

 そこをあの樹に叩き落とされたのだ。
 
 怪物樹は二股に別れた幹を器用に動かして仕留めた獲物に近寄り、その枝に付いた幾枚もの平たい葉で包むように死体を掴み、持ち上げて梢から出ている丸い頭に開いた口へと運ぶ。



 咀嚼音。骨や肉の千切れる音。嚥下。げっぷの音。


 
「どうしろと」


 
 取り敢えず、契約したばかりの杖で土を操り、怪物樹の足元に落とし穴を造って身動きを取れなくする。
 半年のうちに伸びた周囲の樹の枝や下草を風の刃で刈り取り、母樹の日当たりを確保する。

 そして怪物樹が落とし穴に嵌っている内に、姉の手記に急いで現在の状況を追記する。

 もはや彼女は逃げ切ることを諦めており、次に生まれる妹達に全てを託すことにしたようだ。

 彼女は自分の命を使い切る覚悟で、土の魔法を用い、ガーゴイルを創り出す。
 彼女らの種族に伝わる、自分の人格を写した魔法人形の練成である。
 
「……」

 創り出した魔法人形の手には、姉が残して逝った母樹の世話道具の一つである鎌が握られている。
 自分で作った魔法人形に対して、彼女は、精神力と命を燃やし尽くして朦朧とする意識で頷きを一つ。

 意図を汲み取った魔法人形は、彼女の首を掻き切る。辺りに鮮血が撒き散らされ、その匂いに刺激されて怪物樹の動きが慌しくなる。
 
 ガーゴイルは自らの造物主の頭部を抱え、記憶を継承させるために母樹の虚に投げ込む。
 残った身体は囮にするために、怪物樹の頭上を通り越させて向こう側に。

 落とし穴から這い出た、6方放射相称の怪物樹は血の匂いに惹かれて彼女の首から下の方が投げられた方へと、どたどたと移動する。

 陽の当たるようになった森の中の広場にはマネキン人形のようなガーゴイルだけが残された。




 
 セヴァーン渓谷で生まれた彼女らが、下の大陸のシャンリットの同種達と接触し合流するまで、あと数年の月日を要する……。


=====================================

セヴァーン渓谷は魔窟。

主なキャストは以下。

【シャッガイからの昆虫】シャン
【ザイクロトルの肉食樹】ザイクロトラン
【迷宮の主の落とし子】アイホートの雛

気になった人はラムゼイ・キャンベルさんの『妖虫』とか読むと良いですよ。

2010.08.15 初投稿
2010.08.17 誤字など修正



[20306] 蜘蛛の糸の繋がる先は 15.宇宙に逃げれば良い
Name: へびさんマン◆29ccac37 ID:4dc27135
Date: 2011/08/16 06:40
 ハルケギニアが存在している惑星は、この惑星が存在する太陽系の第3惑星である。
 ハルケギニア太陽系の構成は、ウードの前世の太陽系とあまり差は無い。
 小さな水星、ガスに覆われた金星、地球に当たるハルケギニア星、火星の4つの岩石系の惑星。
 そして木星、土星、天王星、海王星にあたるガス状惑星。
 火星と木星の間には、小惑星帯が広がっている。
 海王星より遠くには氷や岩石で出来た準惑星や彗星が存在する。

 地球に相似のハルケギニア星だが、魔法が存在したりなど地球とは様々な差異がある。
 衛星の数も、その違いの一つである。

 地球には銀色の月が一つ。
 対してハルケギニア星には蒼い月と紅い月の二つの衛星がある。

 月から見えるハルケギニア星は地球と同じように青い宝石のように見える。

「蒼月よ! 私は、今、お前を! 蹂躙しているんですぞー!」

 その蒼月の上に宇宙服を着たゴブリンが居る。
 霜柱を踏み躙って、彼は月面に立っていた。

 哄笑する彼の背後では見る見るうちに黒い悍ましい大樹が伸びていっている。
 彼の頭上には紅月。地平線の向こうには青いハルケギニア星。
 黒い急成長する大樹を背後に惑星を見下ろす彼は、まるで魔王のようだった。

 伸びている黒い大樹はカーボンナノチューブ太陽光発電素子の集合体で、名前を〈偽・ユグドラシル〉という。
 羽毛状の構造の発電素子がフラクタル的に大きくなっていく樹を模した構造体である。
 〈偽・ユグドラシル〉の葉はその表面に受けた光子を余すこと無く電気的エネルギーへと変換し、発電した電力は“電力-魔力変換回路”によって魔力に変えられ、その魔力を用いて〈偽・ユグドラシル〉は周囲の質量を『錬金』しながら伸長していく。

 “電力-魔力変換回路”とは、ゴブリンたちの、ここ数年のうちの最も大きな発明である。
 基本的には“電子を『錬金』する”魔道具の回路逆転によって実現されたものである。
 この回路の実現によって、ハルケギニア星の地下の風石が枯渇するのを恐れずとも済むようになったのだ。

 さらにはこの蒼月のように風石が存在しない場所でも、宇宙船に搭載した少量の風石を呼び水に太陽光発電樹〈偽・ユグドラシル〉を作り、その電力から魔力を取り出して本当の樹のように光合成的に成長させられるようになったのだ。
 〈偽・ユグドラシル〉が齎す電気的及び魔術的なエネルギーがを用いれば、地下に巨大な空間を確保し都市を作り運営することも可能である。
 ゴブリンたちは、ハルケギニア星から隔たった場所にその領土を広げる技術を手に入れたのだ。

 その時、哄笑するゴブリンの宇宙服の内部の通信機が電波を受信し、スピーカが鳴動した。

「おい、いい加減に作業始めろ! 滞ってるんだよ!」

 黒い大樹の根元で哄笑していたゴブリンの背後から、宇宙服に内蔵された無線のスピーカを通じたツッコミと共に『土弾(ブレット)』の魔法が突き刺さる。
 そして『土弾』は笑っていたゴブリンの宇宙服を破って穴を開ける。

「ふぉ?」

 間抜けな言葉と共に、哄笑していたゴブリンの男の宇宙服からぷしゅっと空気が漏れ出る。
 その漏れ出る空気の反動で笑っていたゴブリンが姿勢を崩す。

「頭冷やせ、エドモン・シジェム・ウェッブ。まあ、ゴブリンの中で初めて月にやって来たんだから興奮する気持ちは分かるが」

 笑っていたゴブリン――エドモン・シジェム・ウェッブの背後から這うようにして現れたのは、やはり宇宙服を着たゴブリンであった。
 今現れた方のゴブリンが何故這いつくばっているかというと、彼が通り抜けてきた〈ゲートの鏡〉がギリギリ這いつくばってやっと通れるくらいの大きさしか無いからである。

 一方、宇宙服に穴を開けられたゴブリン、エドモンの方は急減圧に対処するのに死にそうになっていた。

「――っ! っ!」

 何とか『錬金』の魔法が発動し、宇宙服に開いていた穴が塞がる。
 急いでさらに宇宙服内に空気を『錬金』し、人心地つく。

「おい! レイモン! 危ねえじゃねえですか! 死ぬところだったですぞ!」
「何、ちゃんと頭部は回収しといてやるから安心して死んでおけ。蒼月から見た景色の記憶は皆欲しがっているからな。〈レゴソフィア〉の連中なんか『早く死なねえかな』ってホントに言ってたぞ」
「非道いですぞ! なんて事を言うんですか! どうせ殺すならもっと蒼月を堪能してからのほうがお得で良いですぞ!」

 若干突っ込み所がずれている気がしてならない。
 死んでも頭が無事なら記憶を引き継いでコンティニューできるので、ゴブリンたちは死に対する忌避感は薄いという事情はあるのだが。

 それはさておき、遂にゴブリンたちは宇宙進出を成し遂げたのである。
 ロケットなんて上等なものでなく、電磁投射機によって〈ゲートの鏡〉と衝撃吸収材を詰め込んだ弾頭(『レビテーション』で重量軽減済み)を月に打ち込む方法によって。
 数打ちゃ当たる方式である。
 月に当たらずに外れたものも多いが、それはそれで内蔵された〈ゲートの鏡〉経由で、『宇宙空間を飛行しながら宇宙船を建造する』という暴挙によって宇宙開発の最前線基地へとあっという間に変貌してしまった。

「まあ、それは良いから。さっさと〈偽・ユグドラシル〉をハルケギニア星の〈黒糸〉と連結しろよ。そうじゃなきゃ仕事進まねえから。今のままだとラインが細すぎる。現行のラインを保ったまま増強するのは〈ウェッブ〉氏族のお前にしか出来ないんだから」

 よっこいしょ、と後から出てきたレイモンはさらに〈ゲートの鏡〉から何かを取り出そうとする。
 最初に彼らが通り抜けてきた〈ゲートの鏡〉は50サント四方程度。
 今、レイモンが取り出しているのは、その〈ゲートの鏡〉の対角線ほどの長さの板状の物体――鏡であった。

「と言っても、レイモン、もっと大きな〈鏡〉を設置してからの方が良いんじゃないですか? どうせまた大規模〈ゲート〉の方経由で繋ぎ直すんでありましょうに?」
「いや、それが皆、一分一秒でも早くデータが欲しいらしいからさっさと回線増強しろ、とさ。だというのにお前はトリップしっぱなしで……」
「あーあー。了解了解、りょーかーい。さっさと繋ぐでありますぞ、サー」
「頼んだぞー」

 レイモンはエドモンと会話しつつ〈鏡〉を引っ張り出し続ける。
 ズルズルと5メイルほどもレイモンは自分が出てきた〈ゲート〉から〈鏡〉を引き摺り出し、それを『念力』で縦に立てる。
 幅70サントほど、高さ5メイルの細長い〈ゲートの鏡〉が月面に屹立する。

 〈ゲートの鏡〉を設置するレイモンを尻目に、エドモンも自分の作業を行う。

「じゃあ、さっさと〈偽・ユグドラシル〉と〈黒糸〉を接続しますですぞー」
「おーおー。頼むぞ。しっかしホントに氷ばっかりなのな。月光のスペクトル解析から分かってたことではあるが、蒼月の色の由来は氷――H2Oなのか。日中は溶けるだろうに、陽の光が当たっても溶けてないってことは何か地下に冷却装置でもあるのかね」
「それを調べるための今回の派遣でしょうに? そんじゃ、『錬金』ですぞ!」

 トリガーワードと共に、エドモンの宇宙服の足元からカーボンナノチューブを束ねた太くて黒い綱が土壌から『錬金』され、蛇のようにうねりながら最初に彼らが出てきた方の小さな〈ゲート〉へと突き刺さる。
 エドモンが『錬金』した〈黒糸〉のもう一端も月面を這うように伸びて、月面で絶賛成長中の〈偽・ユグドラシル〉の根元に融合する。
 ゲートに突き刺さった方の一端は、今頃ハルケギニア側の気密室に待機していた〈ウェッブ〉氏族(〈黒糸〉の運用を専門とする氏族)がハルケギニア星中に根を張っている〈黒糸〉と繋げようとしている最中であろう。
 〈黒糸〉の上を流れる情報の渦を脳裏で監視しつつ、エドモン・ウェッブは接続作業を続行する。

 一方、縦長の〈ゲートの鏡〉を設置しているレイモンの方も作業を続けていた。
 設置した〈ゲートの鏡〉に魔力を流して起動させると、〈鏡〉の表面が銀色の靄に変化し、その縦長の〈ゲート〉の向こうから幾人かのゴブリンが現れる。
 新しく現れたゴブリンたちは縦長の〈ゲート〉の前にそのまま陣取る。
 そして彼らに続いて、レイモンが支える縦長の〈ゲート〉からやはり〈鏡〉が飛び出してくる。

「オーライ、オーライ」

 『念力』で浮かされた新しい〈鏡〉――今度は5メイル四方の大きさだ――は、先に月面に来ていたゴブリンたちによってやはり『念力』で受け止められ、設置される。
 これでハルケギニア星と蒼月を繋ぐ〈ゲートの鏡〉が設置できた。
 今後はここを起点にして蒼月開発を行うことになる。

「よーし、〈黒糸〉接続完了ですぞー」
「お疲れ様、エドモン。こっちも〈ゲートの鏡〉の運びこみ完了だ」
「つまり、予備の回線をそっちの〈鏡〉からも引けってことでありますな? 了解了解、働きますですぞー」

 エドモンは自分の体を〈念力〉で運んで新しい鏡の前に降り立つ。
 そしてまた〈黒糸〉を〈ゲート〉の向こうと繋ぐ作業に取り掛かる。

 かつてウードの『前世の世界』の宇宙開発においてネックとなったのは、厳しい重量制限によって限られた燃料と、遠隔地だからメンテナンス出来ないということだった。
 しかし、このハルケギニア世界では、重量制限は『レビテーション』によって誤魔化せるし、〈ゲートの鏡〉によって遠隔地でも直接燃料補給だって保守だってそれどころか〈鏡〉経由でそれを核に宇宙船だって建造出来るという反則技が使えるので、宇宙開発に対するハードルが異様に低いのである。
 今も、〈ゲートの鏡〉を積んだ弾頭を大気圏外に射出しては宇宙空間で船体を建造するという方法で火星その他の惑星や太陽圏外への調査を進めている。

 様々な方向へと散り散りに飛んでいった宇宙探査船の位置の観測特定は、各地の〈偽・ユグドラシル〉を電波望遠鏡代わりにして行っている。
 この電波望遠鏡のお陰で、遠宇宙の観測も進んでいる。
 電波望遠鏡は直径が大きいほど分解能が上がり、遠くを観測出来るからだ。
 数百リーグ半径で点々と設置している〈偽・ユグドラシル〉から得られる情報を〈黒糸〉の管制人格によって統合させることで、擬似的に半径数百リーグの電波望遠鏡を構成し、非常に高い分解能を実現しているのだ。

 管制人格〈零号〉は仕事が増える度に、愚痴と弱音を言っている。
 電波望遠鏡の管制だけでなく、その他にも学術都市で使用する予定のシンクライアント的魔法端末に対応する魔法的サーバ機能――魔法の才能が無い者でも端末から〈黒糸〉を通じて〈零号〉にアクセスすることで〈零号〉に魔法使用を代行させることが可能なシステム――の開発実装などを行っているのだが……。

【もう無理、死ぬ、壊れる、勘弁してください、処理間に合いませんって、ホント、マジで、あああー……】

 そうは言っているものの、〈零号〉は現在進行形で元の世界のムーアの法則も真っ青な速度で自己拡張と分散処理などを進めてるから問題ないだろう。
 機械として進化しすぎてナイアールラトホテプの化身の一つ『チクタクマン』の依り代にされないかという懸念をウードは抱いているが、まあ、これは狂気に侵された人面樹を分析する〈レゴソフィア〉氏族が見つける深淵の真理や、クトーニアンたちから得る神話の知識を流用しないことには対策が難しいだろう。
 大いなる邪神に目を着けられた時にどうするのか、というのが、俄に〈黒糸〉を発展させる上で課題として浮上してきている。


 〈ゲートの鏡〉によって宇宙探査船と地上基地との間のやり取りをリアルタイムで行う方法では、〈ゲートの鏡〉が壊れた際に全てがおじゃんになってしまうという弱点がある。
 勿論宇宙探査船には、予備の〈鏡〉は幾つも仕込んであるし、万一〈鏡〉が壊れた場合にも独立で行動可能なようにインテリジェンスアイテムや風石、電力-魔力変換回路などが詰め込まれている。
 フェイルセーフは万全のはずである。それらの対策と共に並行して、〈ゲートの鏡〉の耐久性や表面積を向上させる研究もされている。

「おい、エドモン。〈偽・ユグドラシル〉の根の方からデータ取得できるか?」
「今接続作業中だからちょっとまっててほしいですぞー」
「了解。ちょっと舞ってるわ」

 言うやいなやレイモンは蒼い霜に覆われた月面から重力を中和させて地面を蹴って舞い上がり、周囲を見渡す。
 彼方に見える月面の地平線はハルケギニア星のものより鋭く湾曲しており、ここが小さな衛星であることが分かる。
 月面は日のあたるところも影の部分も氷河に覆われている。何処もかしこも霜が降り、巨大な氷柱が霜柱のように伸びては地面を持ち上げている。

「大気が薄くて熱対流がないから、太陽光が当たるところは水も蒸発する温度になってるはずなんだが、何で氷が溶けないんだ?」

 レイモンは重力に従って緩やかに下降し、再び月面に着陸する。
 そこにエドモンが声を掛ける。どうやら彼の作業は終わったようだ。

「まってろ、ってそういう意味じゃねーですぞ?」
「茶目っ気だ。気にするな」
「時々意味分かんねえ事しますよね、レイモンは。で、地下の様子を知りたいんですっけ」

 地上に降りたレイモンとエドモンは細かな霜柱を折りながら歩みを進める。
 向かう先は巨大な黒樹、〈偽・ユグドラシル〉の根元だ。

「お前も気にならないか? 何で陽が当たっても氷が溶けないのか」
「氷だけじゃないですぞ。所々に氷の柱に混じって何かの結晶みたいなものが生えてるのです」
「おお? そうなのか?」

 エドモンがそう言って軽く向こうを指さす。
 大きく地面を持ち上げている氷の柱群の中に、若干屈折率が異なるのか、結晶同士の境になっている部分が見える。

「んんー。言われてみれば氷の中に何となくそれっぽいのが見えるな」
「他にも〈黒糸〉を『錬金』するときに地面に妙な結晶があったんですぞー」
「ふぅん。何の結晶かは分からなかったのか?」
「うーむ、〈水精霊の涙〉を固めた感じというか風石の純度が高いような感じというか。私の『錬金』も受け付けなかったし、正体不明ですぞ」

 そうこう言っている間に〈偽・ユグドラシル〉の根元に辿り着く2人。

「今のところ、地下100メイル半径で〈偽・ユグドラシル〉は根を張ってるんですぞ」
「ふむ、接続しても大丈夫か?」
「えーと、権限設定しますんで待ってほしいですぞ」

 そう言ってエドモンは宇宙服からか細い糸を伸ばして〈偽・ユグドラシル〉の巨大な幹に接続する。

「了解、舞ってる」
「そのネタはもういいですぞ。――設定したんで繋いでもらって大丈夫ですぞ」

 そのエドモンの言葉を受けてレイモンは宇宙服の袖口から、やはりか細い糸を伸ばす。
 この月面に派遣されたゴブリンたちは、その体内に細いカーボンチューブの糸――〈黒糸〉と同じ素材の個人用の杖――をまるで根のように張り巡らせており、それを魔法を使う際の媒介としているのだ。
 彼らが〈偽・ユグドラシル〉に伸ばしたものは、その体内の〈黒糸〉の杖を伸展させたものであり、〈偽・ユグドラシル〉を構成する素材とも同じものである。
 レイモンは〈偽・ユグドラシル〉に自分の杖を伸ばして接続すると〈偽・ユグドラシル〉の根の広がり具合、地中の温度や地質などのデータを取得していく。

 レイモンが先程設置した巨大な〈ゲートの鏡〉からは次々と月面調査および都市建設のための人材と機材が運び込まれている。
 基地の建設は順調なようだ。
 〈偽・ユグドラシル〉からデータを読み取ったレイモンが憮然として呟く。

「……なんだここ」
「どうしたんでありますか? 何かおかしな物でも――」
「……さっきお前が言っていた結晶、あれあるだろ。あれが周りに沢山ある。そんでそれを中心にして温度が極端に下がってる。大きな結晶ほど温度降下が大きいみたいだな、中には絶対零度に近いのもある。地表や地底の氷は、水の氷だけじゃなくて二酸化炭素やなんかの結晶した氷もあるみたいだな」
「温度が下がる結晶って、私聞いたことありますぞ」

 レイモンとエドモンの二人は沈黙する。
 彼らが思い出すのは、極限環境の探査に赴いた先人たちから受け継いだ記憶である。
 月面を探索するに当たって、深海や極地の探検をしたゴブリンたちから還元された記憶を彼らは受け継いでいるのだ。

 その中には南極の忌まわしい山脈へと探索に赴いたゴブリンたちの記憶も含まれている。

「冷却作用が残るくらいに精神力――マジック・ポイントが蓄積されているなら、“古のもの”たちは彼らの家畜たちをまだ従えられているということか?」
「もっと探索を進めないといけませんですぞ。この結晶装置があの原形質の“ショゴス”を隷属させるものなのかも、まだ確定ではないですぞ。大体、ショゴスも流石に月面では生きられないはずですぞ」
「しかしこれだけ地表に氷が結晶しているなら、この蒼月の地底に海があってもおかしくない。そこの水分が地表で凝結してるのかも知れないし、地底湖があってショゴスもいるかも知れない」

 急いで二人は現在建設中のベースへと飛んでいく。
 空中で自らの身体に『念力』による加速度を与え続ける。

「最悪なのは、これが“ショゴス”じゃなくて、もっととんでもないものを封じている場合だ。
 余波だけで月面全体に霜を降らすくらいの量の結晶装置が必要だとすれば、一体どんな化物が封じられてるか見当もつかないぞ」
「一番ありそうなのはこの蒼月が“古のもの”の結晶装置作成所で、“古のもの”が絶滅した後も装置を作り続けて溢れて月面を覆い尽くしたとかですぞ」

 それが一番良いがね。でもきっと早々上手くことは運ばないですぞ。と、会話しつつも彼らは設営地に向かう。

 さて、鬼が出るか蛇が出るか。
 穢れたスライムが行く手を塞ぐのか、ヒトデが付いた樽が飛んでくるのか、はたまたもっと理解を超える何かが顕れるのか。
 
 その時、宙を飛ぶ二人の通信機が電波を受信した。

『おーい、こちら設営チーム。モンモンコンビ、応答願う』
「モンモン?」
『エド“モン”とレイ“モン”だから“モンモン”コンビ。って聞こえてるなー? このまま用件話すぞ。設営場所の地下に人工的な空間を発見した。このまま設営を続けると陥没するおそれがあるから場所を移す。そっちで確認された結晶装置を作る製造施設かも知れん。探査は現在土メイジが『ディテクトマジック』で行ってるが、結構大規模な遺跡みたいだ』
「コンビ名については後で訂正を求めるとして。遺跡らしき地下空間と基地建設場所の変更については了解した。“古のもの”関連かも知れないから俺達が戻り次第探索チームを組んで基地設営と並行して探索を行う。地上の本部に応援は要請したか?」
『応援は――今、応援要請が終わったところだ。“古のもの”に詳しい人材が良いよな?』

 一瞬設営チームからの通信にノイズが混ざる。
 地上本部と通信していたのだろう。

「ああ、その方が良い。それと最悪の場合――何らかの事故で〈ゲートの鏡〉が全損した場合に備えて、人面樹と〈レゴソフィア〉氏族の派遣を頼む。こちらの受け入れ準備も急いでくれ。蒼月に取り残された時に記憶を貯蔵できる奴が必要だ」
『了解。要請しとく。基地の設営も急ぐよ。“古のもの”が使ってたって言う異世界へのゲートでも残ってりゃ大発見なんだけどな』
「ドリームランドやサイクラノーシュに繋がっているとかいう奴か。伝承に残っているものだな。そう上手く行くとは思えないが」
「でも未知の発見が待ってるかも知れないと思うと心が躍りますぞー!」

 確かに、と通信を聞いていた皆が頷く。
 彼らが月面までやってきたのは、勿論クトーニアンなどの脅威に晒されている地表からの逃げ場所を確保するためということもあるが、その未知への探究心が非常に大きな原動力となっているのだ。
 知らないことを知るために。世界の成り立ちをより深く理解するために。或いは前人が残した遺跡を暴くために。その為に彼らは虚空へと躍り出たのだ。







 蜘蛛の糸の繋がる先は 15.宇宙に逃げれば良いと思った? 宇宙的恐怖を相手にホームグラウンドに飛び込んでどうするよ



 



「はあ? 遺跡?」

 シャンリット領の街の仮設執務室で、アトラナート商会会頭ウード・ド・シャンリットは頓狂な声を上げた。
 彼は魔法学院にいた時のような義手は着けておらず、両腕とも奇妙な甲殻になっているのを晒したままにしている。
 右の首筋からは腕とは別の、先端に牙がついた大きな蜘蛛の上顎が生えている。
 彼の手には報告書らしき紙の束が握られている。

「“古のもの”の残したらしき遺跡を発見。稼動状態にあるが、肝心の“古のもの”や“ショゴス”は見当たらず。調査続行中……って、まあそれはそのまま続行してもらうしか無いな。できるだけ遺跡は傷つけないように、と」

 そう言ってコメントを付けると、紙の束を秘書役のゴブリンたちの方へと放る。
 放られた書類は素早く回収され、担当部署へと返されることとなる。
 一方、ウードは複数の書類を肩の後ろ辺りに浮かべて、さらに自分の周りに配置したタイプライターを『念力』で打刻して処理していく。
 背後の書類が見えるのか? という疑問は当然だ。普通の人間は背後に目はついていない。

 だが、ウード・ド・シャンリットはただの人間ではない。
 彼は現在、上半身裸で仕事をしているが、その姿は異形のそれだ。

 背中はほとんど甲殻化しており、肩甲骨に当たる部分には赤い単眼が幾つか見える。これで背後に浮かべた書類を確認していたのだ。
 前から見れば、右の肋骨に当たる部分が大きく抉れ、そこに蜘蛛の顎――今は右首筋から生えて自由に動いている――を収められるようになっている。抉れた部分は硬いクチクラで覆われててらてらと光っている。
 右手は歪な甲殻に覆われ、手首から先が二つに分かれている。爪先には三本の鋭い爪と無数の感覚毛が生えている。
 左手は二の腕の所々が硬質化し、こちらは肘から先が二本の蜘蛛の脚になっている。

 ウードの姿は、人の形に無理矢理蜘蛛を押し込めようとして失敗したような、正常な人には嫌悪感しか齎さないような冒涜的なデザインになってしまっている。
 全体的に皮膚がクチクラや感覚毛を生やした風に変化しており、黒や紫の甲殻の隙間に時折肌の色が見える。
 顔だけはヒトと同じような造形のままだが、首筋までは蜘蛛への変化が侵食している。

 彼は蜘蛛の神の祝福を受けた蜘蛛人間なのだ!

 ウードはアーカムの地下にアトラク=ナクアを祀る祭壇を作るために、礎を聖別する儀式を行った。
 彼の背中の赤い単眼はその儀式の際に、アトラク=ナクアの力を受けたためか、呪いが進行したせいで発生したのだ。
 それは仮面を用いたそれっぽいだけで適当な儀式ではあったが、無事にこの都市――アーカムの礎に神性の加護が宿ったようである。

 その証拠に、聖別された祭壇の奥から時々、この世のものではありえない異形の進化を遂げた生物がやって来るのだ。
 恐らくは、アトラク=ナクアが深淵に架けた橋を渡って迷い込んだ“アブホースの落とし仔”だろう。
 異形の化け物たちはゴブリンたちに捕獲され、この世の生命の神秘を解き明かすための貴重な資料として扱われることとなる。

「ウード様、そろそろお時間です」
「うん? ああ、了解だ」

 秘書のゴブリンメイジが書類を読んでいたウードに声を掛ける。
 ウードは頷いて執務机から立ち上がる。
 すかさず秘書が上着や義手を準備し、歩いて出口に向かうウードに着せていく。

 扉に向かう間もウードの周囲には資料が魔法で浮いて付き従い、視界に入り続ける。
 今読んでいるのは秘書から渡されたもので、この後に赴く会議の確認用のレジュメだ。

「えーと、何だ。翼人との会合か。〈偽・ユグドラシル〉を営巣場所として使って良いかって交渉が纏まったんだったか」
「はい。以前から問い合わせが来ていた件です。漸く先方との交渉が纏まりましたので、今日は翼人の方との友好記念パーティですね」 

 執務室を出て〈ゲートの鏡〉が置いてある部屋へと向かう。
 LEDによって真昼のように照らされた廊下を歩きながらウードは資料の確認を続ける。

「……〈偽・ユグドラシル〉に近づいた翼人を『ガンマレイ・ライト』で被曝させて撃墜したって報告とは別件か?」

 『ガンマレイ・ライト』は文字通りγ線を発する『ライト』であり、曝露された犠牲者は急性放射線障害や細胞の死滅による各種の身体障害によってまさに呪いのような様相を呈する。
 『ガンマレイ・ライト』はヒトの目では捉えられないため、相手に気付かれないうちに充分に照射することが出来る。
 急性症状として吐き気や倦怠感が生じ、限界を超えた被曝で細胞は次々と死んで行く。特に細胞分裂の盛んな部位は影響が大きく、造血幹細胞の破壊による白血球・血小板の減少や腸内幹細胞の死滅、水晶体の懸濁が起こる。味蕾や嗅覚細胞も破壊されてしまうだろうし、皮膚の上皮幹細胞もやられてしまう。
 それによって一週間も経たないうちに細胞死の影響によって免疫力は低下し、出血が続き、下痢が続いて栄養はろくに取れず、目は霞み、味覚と嗅覚は失われ、毛は抜け落ち皮膚は爛れる。
 20日から50日のうちに多くの人は死んでしまうだろう。
 また、運良く生き残っても傷つけられた遺伝子は将来の発癌リスクを高めるため、永くは生きられない。外道魔法である。

「えー、それは今回申し出があった部族とは別の部族だそうです」

 翼人の中にも様々な部族があるようで、今回〈偽・ユグドラシル〉の使用申請をしてきた部族とは別に、勝手に〈偽・ユグドラシル〉に近づいたために『ガンマレイ・ライト』で撃墜された部族があるようなのだ。

「ちゃんと〈偽・ユグドラシル〉に近づいた奴には、引き返せってアナウンスはしてるんだよな?」
「はい、翼人に限らずハルケギニア人でも誰でも、3回警告してからの『ガンマレイ・ライト』照射となっております。警告音声は1から3まで順に『引き返せ、引き返せ』、『聖樹を穢すな、引き返せ、さもなくば呪う』、『最終警告、引き返せ、死の呪いを受けたくなければ』を演出付きで低い音から高い音まで各種取り揃えております」

 その警告アナウンスと『ガンマレイ・ライト』の効果も合わさって、〈偽・ユグドラシル〉は“呪いの黒樹”として有名になりつつある。
 ほんの数カ月で1000メイル近くまで急成長する不気味な樹なので、その成長速度と呪いの件もあり一部では祟り神として畏れられて信仰されつつあるとか。

「まあ3度警告して去らなければ呪われても仕方ないな」
「はい。仕方ありません」

 件の被曝した翼人だが、肝試しということで蛮勇を奮って噂の呪いの黒樹へとアタックしたらしいことが分かっている。
 自業自得ではあるが、おどろおどろしい警告や陽の光が完全に遮断された葉の陰の暗闇を越えて大樹の根元まで辿りつく勇気は褒めても良いかも知れない。

 翼人の他にも、〈偽・ユグドラシル〉を空港に使おうとしたり、または素材として使うために切り倒そうとしたりなど、やって来るものは後を絶たない。
 草木の生えない沙漠や山脈の頂上に巨大な樹が立っていては目立って仕方ないからである。
 そして人がやって来る度に呪いの『ガンマレイ・ライト』が突き刺さり、人々を苦鳴の底へと突き落とすのだった。

「あんまり人里に近い〈偽・ユグドラシル〉は破壊してしまうべきか? 人間社会への影響が大きすぎるからなあ」
「確かに月面へ進出して〈偽・ユグドラシル〉を更に増やせますので、ハルケギニア星の〈偽・ユグドラシル〉を幾つか破棄しても充分に地底都市その他のエネルギーは賄えるでしょう」
「ふむ、じゃあ電気や風石、水精霊の涙の生産は徐々に月面へシフトさせよう」
「そもそも現状でも大洋に生やしている〈偽・ユグドラシル〉だけで充分にエネルギー生産を賄うことが可能です」

 千数百本という数の〈偽・ユグドラシル〉が現在ハルケギニア星上の洋上や沙漠上に存在している。
 またゴブリンたちは蒼月と紅月の月面にも探索と並行してエネルギー生産設備である〈偽・ユグドラシル〉を生やしている。
 それらで発電されたエネルギーは、使用された分を除けば、超伝導コイル中の永久電流や、風石、あるいは水精霊の涙の形で蓄えられる。
 風石などの形で電力を蓄えることによって、天候や昼夜の日光量変動によって発電量が左右されるという太陽光発電の弱点を克服しているのだ。

 話している間にウードとその秘書は〈ゲートの鏡〉を設置した部屋に辿り着き、起動した〈ゲートの鏡〉を潜っていく。

「ガーゴイルと入れ替わってサボりたい。読みたい研究報告が溜まってるんだよ。駄目かな」
「駄目です。会頭のウード様本人が出向くことに意味があるんですから」

 最近、対外折衝の場にアトラナート商会代表として駆り出されることが多いウードは、細かい末端の研究報告をあまり読むことが出来ずにいる。

「ああ学院時代あたりが懐かしい。特に学院一年生の時は使い魔のクトーニアンも呼び出してなかったし、研究報告は常に読めてたし……」
「もう5年は昔じゃないですか。大昔ですね」
「君らにとってはね。まあ今の生活も気に入っては居るけれど。今回の翼人たちとの交流も、それはそれで彼らの間に伝わる伝承を聞けそうだから楽しみではあるし」

 そう言って二人は銀の靄の先に姿を消す。

 アトラナート商会の会頭としてウードは“シャンリット領学術都市化計画”を現在も進行させている。
 方々に伝手を広げたり、教師になってくれそうな人材を探したり、都市を造ったりなどなど……。
 既存の魔法学院のカリキュラムの調査・分析なども、魔法学院内部の商会支店に駐在しているゴブリンが行っている。





 トリステイン魔法学院の魔法練習場。
 特に何処かと決まっているわけではなく、学院の外の草原――召喚の儀式などにも使われたりする――を好き勝手に区切って熱心な学生がめいめいに練習を行っている。
 学院の生徒が独りで練習を行う場合は、学院のアトラナート商会支店から矮人を借り出して、的になるゴーレムを作らせたり、残骸の後始末をさせたり、その他様々なサービスを頼むことが出来る。

 今その草原で対峙する男女が二人。
 二人は10メイルほどの間を開けて向きあっており、そこは草は生えておらず地肌がむき出しになっている。
 そこに数人、アトラナート商会の矮人が付き添っている。

 女の方はメイリーン・ド・シャンリット。
 シャンリット伯爵家の長女で、金糸のような美しい長髪と見るものを魅了する魔性の美貌を持っている。
 現在は魔法学院の1年生で、水の使い手。

 対する男は、名をテオドール・ダントワープ。
 メイリーンの婚約者である、同じく学院の1年生。歳はメイリーンのひとつ上。
 彼の実家は北部の海岸地帯を治める家であり漁業が盛んであり、彼とメイリーンの婚約後のここ数年はアトラナート商会からの資本投下によって様々な海産物の養殖に取り組んでいる。
 シャンリット家との婚姻は俄成金のシャンリット家からの持参金目当てだという噂もある。

 だが実際のところは、テオドールがメイリーンに一目惚れしたのが発端である。
 テオドールはメイリーンと同学年になるために、わざわざ入学を一年遅らせている。
 ベタ惚れである。

「では、練習場の準備をお願いします。アトラナート商会の方々」
「心得ました、お嬢様」

 商会のゴブリンメイジたちが『錬金』の魔法を行使する。
 土が剥き出しになっていた所が10メイル四方、先ずはドロリとしたコールタール状のモノに変化し、続いてその上に水が張られる。

「では練習を始めましょうか、テオ」
「ああ、そうしようメイ」

 二人が杖を構える。

「では“瀝青”のテオドール、参る」
「“虹彩”のメイリーン、行きます」

 矮人たちが整えた練習場は、この二人の得意とするフィールドを併せたものだ。
 水を操るメイリーンと瀝青を操るテオドール。

「『ウォーター・ウィップ』」「『タール・ウィップ』」

 お互いに自分が操る媒質を鞭状に持ち上げて叩き付け合う。
 1本、2本、3本、4本……と叩き付けられる鞭の数が増える。
 粘度の点で言えばテオドールの瀝青の鞭の方が優っているのだが、メイリーンの水の鞭はそれに負けることはない。
 メイリーンの水の鞭は常に高速でドリルのように回転していて、それによって瀝青の鞭を弾いているのだ。

 鞭の本数が10を超えたところから、戦況はメイリーンに傾いた。

「くっ!」
「あら、もう出せないんですか? こんなものじゃ到底満足できませんわっ!」

 テオドールが操る瀝青の鞭は10本で打ち止めのようである。
 対してメイリーンの水の鞭はすでに15本を超えている。

「分かれなさい! 『ウォーター・ストリングス』」

 さらにその15本の水の鞭が10本ずつの糸のように細い鞭に分かれる。
 高速でうねる細い水の紐が、150本。
 それぞれに意思を持って揺らめく。

「うわ、メイ、それやっぱり反則!」

 テオドールが抗議の声を挙げるが、そんなものは意に介さずメイリーンは魔法を行使。
 150本の鋭い水紐がタールの鞭を切り裂き、バラバラに分解する。
 だが動じた風に見えたのは演技だったのだろう。テオドールは更に魔法を使う。

「なんてね。『瀝青弾(ブレット)』」

 バラバラに分かたれた瀝青の鞭が、今度は数百の弾丸となってメイリーンへと向かう。
 一発一発は脆弱で、肌を穿つことも出来ないだろう。
 しかし、それゆえに弾丸に込められた運動エネルギーは余すこと無く肉体へと伝わり、完膚なきまでに相手を打ちのめすはずだ。

「甘いわ、テオ。当方に迎撃準備ありっ」

 それに呼応してメイリーンは水の紐を操作して瀝青弾を防ぐ。
 数百に分かれた瀝青の弾丸は、水紐に絡め取られて、あらぬ方向へ誘導される。
 水のレールの上を導かれて、弾丸は全て外れてしまった。

「そしてこちらのターン! 『集光(ソーラーレイ)』」
「あ、タンマ、それ無し」

 問答無用、と、ゾッと、光の柱が突き刺さる。
 メイリーンの背後を始め、練習場のあらゆる場所に虹が浮かんでいる。
 先程瀝青の鞭と打ち合わされていたときに弾けた水滴、それがすべてレンズや鏡のようになって太陽光線を捻じ曲げたのだ。

「うわ、くそ。ゴーレムよ!」

 光線が完全に収束する前に、急いでテオドールが瀝青のゴーレムを作り出す。
 ぬるりと立ち上がった5メイルはある瀝青ゴーレムは、主を守らんと立ちはだかる。

「無駄無駄ァ! ずっと私のターン! 光よ薙ぎ払えっ!」

 メイリーンのその声を合図に光線は収束し――テオドールの頭上を通りすぎ、彼の背後に浮いていた鏡のような水滴群に反射されて、彼を焼き切り裂いた。
 右腕の肘から先と両足を一直線に焼き切られ、テオドールがぐらりと傾ぐ。

 テオドールは、自分の意思とは関係無く崩れ落ちる自分の身体とくるくると飛んでいく千切れた右手を見ながら、思った。
 虹を背にした彼女はやはり美しい、と。

 そんな彼を追い討ちの光条が襲う。
 瀝青で出来たゴーレムはその光条の熱で燃やされながら飛び散る。
 そして沸騰して燃えるタールが、倒れたテオドールに降り注いだ。

「あぁ……」

 テオドールはメイリーンと魔法の練習をするようになってから何度目かの死を覚悟して、身体を襲う灼熱によって意識を手放した。

 前回は彼岸に立つ曾祖父に追い返されたが、今度こそ私は冥府の門を潜るかも知れません、でも何だかこの瞬間が病み付きに……、とか思いつつ。


「うわ、やりすぎたわ! 治療!」

 自分の魔法が齎した予想外の惨状にメイリーンが焦った声を出すと、周囲の矮人に治療を命令する。

「はい、お嬢様」

 そう言ってその場に付き従っていた矮人が素早く『念力』を使ってテオドールにこびりついた灼熱のタールを剥がす。
 即座に患部の熱を冷まし、切断された四肢を繋ぎつつ、テオドールの身体に、予め持ってきていた水の秘薬をぶちまける。
 メイリーンも『治癒』に加わり、速やかにテオドールの負傷は修復されていく。

 問題なくテオドール・ダントワープは何の傷もない状態に復元された。

「お嬢様。ミスタ・アントワープは私どもでお部屋に運びましょうか?」

 矮人たちは泥沼のようになっている練習場を元に戻しつつ、メイリーンにそう訊ねる。
 もちろんこれは形式上のことであり、テオドールを散々に打ちのめした後の彼らカップルの行動は決まりきっているのだが。

「いいえ、それには及ばないわ。テオの看病は、私が、責任を持って、十全に行ないますっ!」

 ふーっ、と毛を逆立てかねない剣幕でメイリーンは返事をすると、『レビテーション』でテオドールと自分を浮かせると、テオドールの身体に密着して寮棟の方へと飛んでいく。
 全くもってお熱いことである。

 商会の矮人たちは、そんなメイリーンたちを見送ると、周囲で魔法を練習している生徒たちの様子を見るために三々五々散らばっていく。
 学院生徒がどのような交友関係を築いていて、どのような魔法を使うのかということをデータ化して蒐集するためである。

 何も慈善事業で魔法学院に支店を置いているわけではないのだ。
 最近では『始祖の血統は本当に王家に受け継がれているのか』というテーマでハルケギニア中の貴族、メイジの家系図を作って、最初期の魔法遣い集団が何処にどのくらいの時期に現れたのかを探ろうとしている矮人(ゴブリンメイジ)たちのグループもある。
 魔法学院やその他アトラナート商会の支店に配属されている矮人たちは、そういったハルケギニア社会の研究や教育内容についてなどをテーマとしている者たちが殆どである。

 彼らはさり気なく貴族子弟の様子を観察し、部屋の掃除や洗濯物を洗う際に毛や体液を採集したりしている。
 ストーカーではない。学術研究のためである。
 断じてストーカーではない。
 誰それと誰それが恋仲で、などという人間関係相関図も作られているが、断じてストーカーではないのだ。純学術的調査なのだ。





 魔法学院の他にも、各国の王都や主要大都市にはアトラナート商会の支店が存在し、〈ゲート〉を用いた迅速確実な宅配サービスや種々の新商品が人気である。
 市井の噂を恣意的に利用した世論操作の方法や集団心理などについても研究されている。
 その一環として新興宗教の普及についてというのも研究されており、蜘蛛神教が新興宗教として密かに勢力を伸ばしつつある。
 またアトラナート商会と繋がりを持つための実業的な秘密結社が組織されつつあったりなど、ハルケギニア社会の地下で彼らは蠕動しているのだ。

 王都トリスタニアのある粗末な宿屋。
 連れ込み宿に分類されるそこで重なる男女が一組。
 女の方は随分小さい、いや、幼いようだ。初潮を迎えるか迎えないかという年齢に見える。
 シーツに隙間から覗く褐色の肌は、行為後の汗にまみれて、艶っぽく『ライト』の光を反射している。

「ねえ、お兄さん。私を買えるくらいの金を何処で稼いできたの?」

 言わんと知れたこの少女、娼婦である。
 しかも、技術と教養とサービス精神を兼ね備えた、それなりにお高い娼婦である。
 その上頑丈でちょっとやそっとのことでは壊れないし、魔法も使えるために傷ついても自分で治してしまうという、店側にとっても優秀な娼婦なのである。娼婦仲間の病気をタダで治してやったりもしているし、禁制の秘薬の合成までもお手の物だ。
 まあ幼年趣味の無い客にとっては意味が無いが、逆にその趣味がない者も一度抱けば幼年趣味に開眼するとまで下品な男たちの間では噂になっている。

「ん~、まあ傭兵だからな。羽振りの良い領主さんの下で戦えたのさ」
「まあ! 傭兵! どちらで戦ってらしたの?」
「東さ、東。ここんとこお天道様の機嫌が悪くて不作が続いたらしくて、隣同士で取ったり取られたりってとこさ。都市国家は相変わらずドンパチやってるよ」

 精悍な身体つきをした若い男は、気怠そうに返事をする。そのうちトリステインの方にでも戦火が来ても不思議じゃない情勢になりつつある。
 彼は大層稼いだらしく、袋いっぱいの金貨を持って「この店で一番上等な女を頼む」と言ってきた漢である。
 そしてつい先ほどまで、少女の献身的なサービスによってまるで初心な少年のように喘がされていた男だ。
 熟練娼婦の経験や、或いは男の経験すらも引き継いで持ち合わせている少女にとって、その程度は朝飯前であった。

「あら、そうなんですの? 私も東の出ですが、そういった話は聞きませんでしたわ」
「東ぃ? 何処よ?」
「シャンリットですわ、お兄さん」

 シャンリットと聞いて、男は一瞬眉をひそめる。

「シャンリットは景気良さそうだったな。でも変な所だったぜ。森ばかりで麦畑も碌に見えやしないのに小麦粉が随分安かった。しかもかなりの高級品だったな。んで、確かにお嬢ちゃんみたいな子供みたいな奴が沢山働いていたな」

 変な街だったと、男は思う。
 根本からして自分たちとは相容れないものが君臨しているような、そんな気配がする街だった。
 行為をして汗をかいたせいか喉が乾いていた。ベッドサイドの水を飲む。

「ふふふ、何でも質が良いのがシャンリットの自慢なのよ。労働者も娼婦も含めて、ね」
「……まあ確かに気持ちよかったがなあ」

 くすくすと先程みっともなく喘いでいた男の様子を思い出して少女は笑う。その笑いもどこか計算された艶やかさがあるようで、非常に絵になっていた。
 少女の首元で蜘蛛の意匠をしたペンダントが揺れる。

「ねえ、私、前に占い師のお婆さんに占ってもらったことがあるの」
「へえ? 何だ、面白い話か?」
「ふふふ、何でも始祖の奇跡が再び舞い降りるとか」
「はあ?」
「ねえ、魔法をメイジしか使えないのを不公平に思わないかしら? 何で始祖は平民にも魔法を授けてくれなかったんだろうって」
「……まあ、俺も魔法が使えれば、ってのは何度思ったか分からないが、世界はそういう風に出来てるのさ。仕方ねえよ」

 そう、仕方ない。それがハルケギニアの大多数の民の認識だ。

「仕方なくなんて無いわ。あと数年の内に、シャンリットでは平民も魔法を使えるようになるわ。絶対に、ね」
「そんな馬鹿なこと言ってからに」
「まあ、覚えていてもらえれば良いのよ。何かの拍子に“知り合いの知り合い”が言っていた事にでもして、酒の肴にでもして頂戴。それより、もっと出来るんでしょう? 続きをやりましょうよ」

 もう無理だって、どんだけすればいいんだよ、と思いつつも、男は自分の体の疲労が抜けていることに気付く。
 
「ふふふ、疲労回復の秘薬がさっき飲んだ水に混ざってたのよ。禁制ギリギリだけど、罪にはならない合法の媚薬よ。さあ、折角大枚叩いたんだから楽しまなきゃ損よ?」

 二人の夜はまだまだ長そうであった。

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【チクタクマンフラグがオンになりました】
 ニャル様が〈零号〉を乗っ取るためにアップを始めたようです。


2010.07.21 初出
2010.07.24 誤字訂正
2010.07.31 誤字訂正
2010.08.09 襲爵について修正。
2010.10.18 修正というか書き直し?
2010.10.21 誤字訂正
2010.10.25 誤字訂正
2011.08.16 誤字訂正 ☓サイノクラーシュ ◯サイクラノーシュ ご指摘ありがとうございます!



[20306] 蜘蛛の糸の繋がる先は 16.時を翔ける種族
Name: へびさんマン◆29ccac37 ID:4dc27135
Date: 2010/10/21 21:36
 私の意識、あるいは魂とも呼べるものが私自身の身体に戻ってきたときに、既に私の身体は稼働年数を過ぎており、規定の手続きに従って廃棄される寸前の状態であった。

 身体のあちこちには悪性の腫瘍が出来ており、息をするのさえ苦痛であった。
 その上、私は失われた精神が復調するまでに数日間意識朦朧とした状態になっており、危うく今にも頭部を分解されて記憶を喰って蓄える人面樹に捧げられ、脳髄を吸われる所だったのだ。
 死ぬべき時を迎えた私の同胞たちはろくに動かない自分の身体を解体役に委ね、脳髄は記憶を引き継がせるために人面樹へ、その他は徹底的に解剖されたり実験に使われたりしてリサイクルされる。皮は鞣し処理されて皮革製品として生まれ変わるし、肉や骨は病理部分以外はバロメッツの肥料などに使われるだろう。悪性腫瘍は特にその遺伝子の変異部位の解明のために研究対象とされることが多いという。

 他の同胞たちと同様にベルトコンベア上で最期の処理を待つばかりだった私は、唐突にその意識を取り戻し、実に数年ぶりに自分の――ゴブリンの身体のコントロールを取り戻した。
 自分の身体のコントロールを取り戻して先ずやったことは、周囲の状況を把握し、刻一刻と機械的に迫る死の顎から逃れるために身を捩り声を上げることだった。四肢の動かし方を私はすっかり忘れていたが、それでも何とか腕をばたつかせ、喉の奥から呻き声を挙げることが出来た。
 異常に気がついたラインの責任者が私の身体を作業ラインから外してくれたのは全くもって幸運以外の何物でもない。そのまま解体処理されてもおかしくはなかったのだから。これは異常事態=新しい発見の端緒というゴブリンたちに広く行き渡っている教育が功を奏したのと、解体ラインの責任者の直近の研究テーマが『解体前のゴブリンの心理状況』に関することだったというのが大いに影響している。

 私は力を振り絞って、もはや腫瘍に蝕まれてボロボロになった身体を必死に捩って自らの意図を伝えようとしたが、やがて意識を失ってしまった。

 その後、目を覚ました私は自分が粘性の青い溶液中に浮かんでいるのに気がついた。
 恐らくは水精霊の涙をベースにした溶液だろう。生ぬるい溶液はまるで何かのハラワタの中に居るかのような錯覚を起こさせる。かすかに薄荷のような臭いを鼻腔にまで満たされた粘液から感じるのは、私の覚醒を促すための成分が溶液に追加されたからかも知れなかった。
 体中の腫瘍は取り除かれたのか、それとも痛覚が麻痺されているのか、或いは首から下を丸ごと新しいクローンに替えられたのか、四肢を動かしても苦痛が襲うことはなかった。

 粘液中で指を動かしてみると、違和感はあるものの自分のイメージ通りに動かすことが出来た。即ち、鋏のイメージだ。5本指の感覚に慣れるまでは、もう暫くかかりそうだと、親指とそれ以外の指――残り4本の指はまるで癒合したかのようにして一緒にしか動かせない――をかち合わせながら考える。
 そうやって身体の具合を確かめていると、何処からか声が掛かる。

「目覚めはどうだい、ミスタ・クァンタン」

 眼球を動かして見回すと少し離れたところにメモ用の筆記具を持った白衣の男が座っているのが見える。
 問われるのは良いが、現状では声を出せない。それが分からないのだろうか?

「おいおい、魔法を使った発声の方法も忘れたのかい? 風の魔法のちょっとした応用じゃないか。水槽の外の空気を震わせるんだ。君の体内に根を張っている〈黒糸〉の杖は意識出来てるよな?」

 そうだ、忘れていた。この身体では魔法を使うことが出来るのだ。
 尤も、私自身、体感時間で数年間は魔法を使っていなかったし、その数年間この身体を占有していた精神体はハルケギニアの魔法なんて使わなかっただろうから、精神的にも肉体的にも数年ぶりの魔法行使となる。上手く使えるか自信が無い。
 だがそんな私の心配は杞憂だったようだ。バロメッツの実から生まれる前の胎児の頃に刻みつけられた魔法の知識は、正常に私の意図する通りの魔法を発揮させてくれた。

『あ゛あー。ああ、んん、うあううあ。――こ、れ、で、喋れて、いるか?』

 掠れたような、出来の悪いスピーカを通したような声が水槽越しに響く。
 魔法を使うに当たってルーンの詠唱は必ずしも必要という訳ではない。
 必要なのは正確なイメージだ。

 『錬金』の魔法など考えてもらえれば分かるが、詠唱のルーン自体は共通でも、そこから生じる結果は元素変換から形態変化まで、イメージによって様々だ。
 魔法はイメージ次第ということの証左であろう。
 青銅を『錬金』するときの杖の振り方と、鉄を『錬金』するときの杖の振り方を変えることで、イメージを補完している、というメイジも居るそうだ(人面樹に蓄積されたハルケギニアメイジの経験によれば)。

 それを突き詰めれば、身体の一動作に詠唱の意味を持たせることで、例えば手話のように特定の動作にルーンを対応させることが可能だと思いつくだろう。
 更に言えば、“『錬金』のポーズ”とか“『レビテーション』のポーズ”など、一呪文に一動作を対応させることで詠唱を代替させることも可能だと思い当たるだろう。
 さらにさらに突き詰めれば、“詠唱したつもり”、“『錬金』のポーズを取ったつもり”になって周囲の魔力を動かすイメージをしてやれば、ただ思うだけで魔法を使うことが可能になるのだ。

 今私が使っている喉を使わないで空気を魔力によって直接震わせて発声する魔法も、風の初歩の魔法『ウィンド』と『サイレント』の高度な応用である。
 熟練の風メイジが杖の一振りで風を起こすように、私はイメージだけで空気を細かく震わせているのだ。

「うん、聞こえているよ。ミスタ・クァンタン。じゃあ、君が何故、最終解体処理前に急に暴れだしたのか、説明してくれるかい?」

 白衣のゴブリンメイジは私に向かってそう言うと、メモを取る用意をした。
 彼の目は隠しきれ無い興味の色で爛々と輝いており、これから私が語る内容から何らかの新発見を掬い上げようという意欲に溢れていた。

『では、ドクター。これから語る内容について、決して私の妄想ではないと信じて貰いたいのです。その前に質問なのですが、ドクターは私の脳髄に残るここ数年の記憶について『読心』の魔法を使用されましたか?』

 先ず私は自分の魂の記憶について語る前に、私の魂がこの身体から離れていた間に、この身体に蓄積された記憶について、白衣のドクターが知っているかどうかを訊ねることにした。
 星の彼方からの精神生命体によって私の身体が乗っ取られていた間の記憶は、今や私の魂からは読み出せないように封印が施されている。
 だが、脳髄には確かに物理的なシナプスの結合としての記憶が存在しているはずであり、精神及び肉体の記憶を読み取る『読心』の魔法ならば、私が乗っ取られていた数年の記憶を読み取れるのではないかと思ったのだ。

「ああ。君の記憶は覗かせてもらったよ、最終処理に掛けられる前のものだが。もし発狂していたら別の処理ラインに廻さないといけないから、前処理として記憶の簡単な確認を行うことになっているのは知っているだろう?
 君は随分精力的に各地のフィールドワークに出向いていたようだね。大地深くの恐るべきクトーニアンたちや、深海底に居を構えるマーマンたちが崇める偉大なるクルゥルウ、サハラのエルフたちの一部が信仰している名状しがたきハストゥールについてなど、君は先住種族の信仰する神についてよく調べているようだった」

 白衣のドクターは思い出すように筆記具をこめかみに当ててそう語った。

『ありがとうございます、ドクター。私では、ここ数年の記憶が思い出せませんでしたので。自分自身に『読心』の魔法を掛ければ、読み取れるのでしょうけれども』
「ふうん? それはなんとも不思議な話だね。まるでここ数年の君と、今ここで話している君が全くの別人で、その為に記憶のファイルが開けない――そもそも精神性が違うためか、それとも鍵がかけられているのか――、まあ、そんな話に聞こえるけれど?」

 このドクターの頭の回転はかなり早いようだ。或いは、かの星辰の彼方へと精神的な拉致を受けたのは私だけではなかったのかも知れない。他にもこれまでに似た様な症例でもあるのだろうか。
 ドクターの理解の早さに驚嘆の念を覚えながら私は話を続ける。

『まさしく、その通りです、ドクター! 私は数年――もう3年は前になるでしょうか。3年前に突如として異星人からの精神投影を受けて、つい先ほど我を取り戻すまでにずっと暗黒星の彼らの大図書館に幽閉されていたのです!』
「……続けてくれたまえ」

 そこで私は堰を切ったかのように語り出す。自分の魂に焼き付いていた記憶は、今思い出してしまわないと掻き消えてしまうだろう。全て語りきってしまって、今のうちに自分の脳髄に刻みつけないとならない。

『私が精神交換を受けて乗り移った――乗り移られた相手は、非常に高度な知性を持った種族の一員でした。私が乗り移った身体は3メイル程もある皺のある円錐形の巨大な胴体の持ち主で、頂点から生えた4本の蛇のように自由に動く触肢とその先に付いている幾つかの感覚器官で物を見、音を聞き、会話するのです。
 しかし一番、最も知ってもらいたいのは、彼らが時間さえも超越した偉大なる種族だということです。あらゆる叡智は彼らのもとに蒐められ、編纂されているのです。私が軟禁された場所はそのような宇宙中のあらゆる時代の知識を集約した大図書館だったのです。私の記憶をもその大図書館の一葉に加えるべく、彼らによって私は尋問されました。
 精神的な拉致によって魂――ここでは魂があるものと仮定して話を進めますが――その魂が大図書館に運ばれてきたものは、私のようなゴブリンだけではありませんでした。別の星の昆虫的な生物や、この星の遥か未来に栄えるであろう別の人類種の精神も存在しました。蜘蛛神教の神官であるウード様の魂の記憶に刻まれた西暦という暦を使う世界から来た者居たようです。私たちの惑星の数百年未来からやって来た者も居ました。あるいは数万年の昔からやってきた者も。
 軟禁とは言いましたが、自らの持つ記憶を大図書館に加える作業を行う以外は、その非常に多岐に渡る蔵書や図書館の外さえも自由に見ることができました。大図書館は私には分からない未知の材質でできており、あの時ほど魔法が使えないのを悔しく思ったことは有りません。『ディテクトマジック』が使えれば私はあのセラエノの大図書館の蔵書を読む以上に多くの事を学ぶことが出来たというのに。彼らの居る星では私たちの使う系統魔法を用いることは出来ませんでした。
 残念なことに彼らが私たちの惑星を探っているのは、この惑星に暮らす知的生命体に関心があるためではなく、自分たちの種族の緊急の避難先として用いることが出来るかどうかという調査のためでした。私の身体を乗っ取っていた精神生命体――イーシアンと仮称しますが――イーシアンが、水底のクトゥルウや名状しがたきハスター、地を穿つクトーニアンについて調べたのは、脅威となる惑星の旧い支配者たちが活動しているかどうかを確認するためでしょう。今のところ、彼らの中ではこのハルケギニア星は一定の脅威があるものの、来るべき時の移住先としては悪くないという判断をされているようです。その際に彼らが集団的な精神移住を行う対象が、エルフなのかゴブリンなのかニンゲンなのかは分かりませんが。恐らくは寿命の長いエルフたちがその対象になると思います。今彼らが使っている巨大な円錐状の植物体も非常に長寿を持っていますので』

 それからも私は長いこと長いこと喋り続けた。
 未来の都市のこと、彼らの科学技術について、他の次元に存在する多くの知的生命体について、それらの別次元の知的生命体の文化について、非常に大きな力を持つ神々の宇宙を縦断する戦いの歴史、かつて一時期このハルケギニア星の南方大陸に彼らの都市と大図書館があったはずであり、是非調べなくてはならないことなど……。

『最後にこのハルケギニアにおいて私に乗り移っていたイーシアンが、彼らの拠点である暗黒の星に帰る時がやって来ました。こちらにおける私の身体の寿命が尽き掛かったことと、目星い場所や伝説については調べ終わったからでした。彼はハルケギニアに置いて精神移動装置を作成し――おそらく自壊装置も組み込まれているためもう残ってはいないでしょうが――それを使用して遥か星辰の彼方へと帰還したのです。しかし彼らはこの時空の監視を辞めた訳ではありません。こうして私が話している間にもイーシアンたちは私の魂の記憶がすっかり初期化されたかどうかを見張って、自分たちの存在がバレやしないかと監視しているのです。
 幸いにも私は、記憶を消されるという、私たちゴブリン種族にとって耐え難い仕打ちに対して抵抗することが出来ました。今語ったことで、私の魂から脳髄の記憶回路への転写も行われたはずです。形而上から形而下に記憶は移されました。人面樹に私の脳が吸われれば、私が知った様々な時空の文明についての知識が、ゴブリン種族のものとなるのです。
 語るべきことは以上です』

 語るべきことを語り終えて、私は沈黙する。
 そしてじっとそれを聞いていたドクターは立ち上がった。

「ふむ。ミスタ・クァンタン。非常に興味深い報告だった」

 私はこの時点である可能性を考えていた。
 このドクターは物分りが良すぎやしないだろうか、果たして他に精神交換を受けて潜伏しているイーシアンは居ないのだろうか、そして今眼の前の人物の中身が、私の記憶を再度消しに来たイーシアンでは無いと言い切れるのだろうか、と。

「是非ともこの知識を全体に還元させてくれたまえ」

 だが身構えた私には意外なことに、すんなりと話は進んだ。
 それが顔に出ていたのだろう、ドクターは私に問いかける。

「私がイーシアンたちの精神投影を受けていないかと心配していたのかい? それなら心配ないさ。
 君のように鮮明な記憶を持ったまま“還って”来る者は珍しいが、かのセラエノで過ごした際の断片的な記憶を抱えている者は居ないわけではない。
 我らの同胞のゴブリン種族もそうであるし、墓場から掘り起こしたハルケギニア人の中にもそのような記憶を抱えたものは居たのさ。
 あまり大っぴらにはされていないが、“偉大なる種族”イーシアンについてはそれなりの経験の蓄積があるんだよ、実は。
 もっとも、私が研究を始めたここ数年のことなのだがね」

 どうやら、私がイーシアンの精神交換を受けている間にこの若いドクターは、独自に人面樹の中のイーシアンに関する記憶の断片を集めて、全体像を解明していたということらしい。
 非常に優秀だ。

「まあ、私自身の先天性の記憶の中に、そういった遥か彼方の円錐生物に関する記憶が混ざり込んでいたのでそれを切っ掛けにね。
 人面樹から生まれる前に与えられる記憶については、基本的なセット以外にランダムで付加される部分もあるのは知っているだろう?
 そこにたまたま精神交換を受けた者の記憶が混ざっていたという訳さ」

 成程、充分に有り得る話だ。

「という訳で、今後はイーシアンたちと交渉を行いたいんだけど、現在こっちに来ているイーシアンの精神と接触を取る方法は知らないかい?」

 イーシアン同士の精神的な接触は何らかの呪文か機械の補助があれば可能な筈だが、残念ながら私に残された知識の中にはそれらに関するものは存在しない。
 私が首を横に振って否定の意を示すと、大して残念そうな様子も見せずにドクターは話を続けた。

「まあ、地道に行うしか無いか。イーシアンに関する知識がゴブリン種族全体に広まれば、彼らも静観するわけには行かないだろうし、その内に接触があるだろう。
 ではミスタ・クァンタン、今度こそ安心して、人面樹の中へと還っていってくれ。
 おやすみ、また会う日まで」

 ドクターがそう言うと、私が入っていた水槽の底が開き、水精霊の涙の溶液と共に私の身体は排出される。
 深い深い奈落の底へ向かって、母なる記憶の海へと私は還るのだ。

 次に目覚める時には、私という人格の構成要素は分解され、次世代の別人(別ゴブリン?)の一部となっていることだろう。
 ゴブリンは一世代は10数年と短命だが、精神的群体としては非常に長寿な存在だ。

 思い出すべきことを充分に思い出した安堵からか、あるいは何かの魔法の作用か、私の意識は泥濘に沈むかのように深い眠りに落ちた。永い眠りになるだろう。







 蜘蛛の糸の繋がる先は 16.時を翔ける種族は水精霊の記憶の中に
 






 結婚式。
 神の前で永遠の愛情を誓う儀式。
 男女間の相互扶助契約。

 ウード・ド・シャンリットは悩んでいた。
 彼の妹メイリーン・ド・シャンリットが魔法学院を卒業し、その後直ぐに婚約者であるアントワープ伯爵公子のテオドール・ダントワープと結婚することになっていた。
 ウードとしてはもはやヒトとしての人生を全うできなくなってしまっている自分の代わりに、せめて兄弟姉妹は人並み以上の幸せを手にして欲しいと考えている。
 妹とその婚約者は端から見ても相思相愛のカップルであるし、その結婚については盛大に祝福してやりたいと、ウードは考えている。

 またウードとメイリーンの父、フィリップ・ド・シャンリット伯爵(親馬鹿)からも、豪華絢爛な結婚式にして欲しいという依頼を受けている。
 同時にテオドール・ダントワープの祖父に当たる現アントワープ伯爵からも、同様の依頼を受けている。
 ウードは多種多様な産業に手を広げているアトラナート商会の会頭としての名が売れてきたので、一部の親しい者たちからは完全に便利屋扱いされてしまっている。

「さて、ただ単に豪華な結婚式にするだけではなくて、どうせならば何かこのハルケギニアで誰もやったことがないような記録と記憶に残る結婚式にしたいものだな」

 ウードは月面の地下に作られた都市で考えを巡らせる。
 一先ず、蒼月にも紅月にも先住種族は居なかったので、安心して月面開発と“古のもの”が残した遺跡の調査を進めている。
 他にもハルケギニア星の南方大陸の失われたイーシアンの記録の都、ナコタスの調査も進められており、イーシアンが残した貴重な記録の復元と、イーシアンと敵対していた“フライング・ポリプ”の現在の居場所の特定が行われている。

 月面地下に作られたアトラク=ナクアを祀る神殿の執務室で、幾つかの案件を並行処理しながらウードは考える。

 蜘蛛に変化してしまう呪いは、上半身から下半身にまで侵食が進みつつある。
 体内の〈黒糸〉で組織の変容を物理的に抑制し、水魔法でそれを補助し、さらにゴブリンたちの一部を生贄(形代)にして呪いを肩代わりさせることで、呪いの進行を随分と緩和することは出来ているのだが。
 それでも月面都市やその他の地下都市にアトラク=ナクアの祭壇を作る際には、ウード自身が祭祀として仮面を用いた神降ろしなどの儀式を行っているため、否が応にも蜘蛛への変化は進行してしまっている。

 左右の肩に出来た蜘蛛の単眼で幾つもの書類に目を通しつつ、完全に肩から2本に分かれてしまった腕を自在に振るい、また同時に『念力』の魔法で見えない腕を作って、書類を裁く。
 この数年のうちに両腕は完全に蜘蛛のそれへと変化してしまっている。
 首筋からは短い触肢が生えており、右首筋には毒牙の付いた蜘蛛の上顎が生えている。左の毒牙はまだ生えてはいないが、時間の問題のように思われる。

 顔面には、儀式で用いていたアトラク=ナクアの仮面が張り付き、癒合してしまっている。もはや剥がせなくなってしまったのだ。
 ウードの顔はその黒と紫の斑によって形成される、左右非対称な表情に固定されてしまっている。
 即ち、あらゆる事物に対する好奇心と、既存の物事全てに対する猜疑心に彩られている。

「先ずは、アントワープ領全体で同時に結婚式を祝う祭りを開催したいな。共同体意識を強めさせるためにも。祭りには音楽と踊りが付き物だから、その手配をしなくては。
 〈遠見の鏡〉の強化版で結婚式の様子を各村落に中継できれば、もっと共同体意識の結束効果は上がるだろう。
 あとは食料品と酒か。不足する分はゴブリンたちの地底都市で生産してるのを回せば充分だろう。新商品も試してもらういい機会だ。あとは――」

 見た目は完全に異形のそれとなったウードである。
 何かしらハルケギニア社会に出なければならない時は、『フェイスチェンジ』の魔法を使うか、人型のガーゴイルを用いることにしている。
 因みに〈スキルニル〉というヒトの血から情報を取って血を取った相手に変身する魔道具を使おうとしても、ウードの血には反応しなかった。もはやヒトの血液だとは認識されていないらしい。

 キシキシとウードの節足の甲殻が擦れる音が響く。
 最近ウードは専ら月か地底のゴブリンたちの都市で業務を行っている。
 ハルケギニア人の目がある場所では、姿を偽るためのマントや義手や『フェイスチェンジ』などを使わなくてはならず、羽を伸ばせないせいだった。

「後は結婚式の神官の手配か。ロマリア本国のアトラナート派の枢機卿を呼びつけるかな。まあ、結婚式についてはこんな方針で良いか。細かい所や儀礼の部分は専門知識を持ったゴブリンに任せてしまおう」

 ウードは妹の結婚式についての書類を決裁済みのボックスへと投入すると、他の案件へと意識を移す。

「『アトラナート商会主催写真コンテストについて。賞金は最優秀賞が300エキュー、その他副賞として最新鋭カメラなどプレゼント。応募期間は……』、ああOKOK。昨年と同様の手順で良し、ただし宣伝にもっと力を入れること、と。次。『火星の探査について。新種の知的生命体との接触時の想定マニュアルの改訂の必要あり……』、何だ? 何か問題があったのか? 私が出向いたほうが良いんじゃないか、これは」

 昼夜も無い月面都市の蜘蛛神の神殿で、ウードは事務作業を進めていく。
 最近は下から上がってくる案件の報告を聞いたり、その決裁や関係各所の折衝、祭祀としての宗教行事への参加ばかりである。
 妹メイリーンの結婚式に力を入れようとしているのは、忙しくて碌にシャンリットの家族とも顔を合わせられていないという事情の埋め合わせでもある。


 およそ1年後。

 メイリーン・ド・シャンリットとテオドール・ダントワープの結婚式は彼らが学院を卒業して直ぐに行われた。
 挙式場所はトリステイン北部の海岸沿いのアントワープ領だ。
 王都からアントワープ領の首都へ向かう方向へ幹線道路を整え、そこをおよそ1ヶ月掛けて行幸するという豪華な結婚行列だ。

「アントワープ公子、万歳!」
「テオドール様、万歳!」
「メイリーン姫様、万歳!」

 “瀝青”の二つ名を持つテオドール・ダントワープに因んで、馬車が6台は擦れ違う事が出来る広さの幹線道路はアスファルトで舗装されている。
 山を切り開き谷も塗りつぶして王都近辺から一直線に延びるその道路の周りには種々様々の花々が咲き乱れている。
 事前にアトラナート商会が全ての村々に伯爵公子夫妻の結婚式を布告していたため、新しい街道には多くの人が詰め掛けている。
 街道の周囲に用意された新しい宿場町は直ぐに満杯になった。

「飲めや歌えや! 祭りだぁ!」
「新しいアントワープの未来に乾杯!」
「乾杯!」

 そして挙式に掛かった費用は全面的にシャンリット家――というかメイリーンの兄ウード率いるアトラナート商会が負担した。
 豪華壮麗な結婚式はアトラナート商会、引いてはシャンリット家の財力を見せつける目的があったのだ。
 アントワープの領内全体を上げて、どんちゃん騒ぎと相成った。

「いやあ、メイリーン様さまだぜ!」
「大層豪華な持参金だねえ!」
「ああ、何せ王都までまっすぐ見えるんじゃないかって道路を一年で引いちまうんだもんな!」
「その上食べ物まで全部の村に配ったって言うじゃないか! 最近不作だったが、こんだけたんまり小麦や家畜を貰えれば冬も充分越せるってもんさ!」

 その準備の為に、アトラナート商会が発注主となってアントワープ領の様々なギルドに対して仕事の注文を行なった。
 勿論アトラナート商会の量産ゴブリンの数の力と、各地のゴブリン地底都市の生産物があれば、アントワープ領の地元の商人や職人に一切仕事をさせずに準備をすることも可能であるが、そんな事をしても恨みを買うだけなので、金だけを出してアントワープ領の経済を活性化することにしたのだ。
 嫁ぎ先のアントワープ領全体に結婚記念の行進を行うための幹線街路(『ライト』の魔道具による街灯付き)を行き渡らせたり、花嫁花婿が逗留する場所に壮麗な城館(結婚式後は集会所や祭典を行う場所として流用予定)を建築したりした。
 その他にも各村落に〈遠見の鏡〉とそれを用いるゴブリンメイジを派遣し、村から離れられない人々にも婚礼行列の様子を中継した。

「綺麗な花嫁さんだねえ」
「伯爵の若様もご立派になって」

 その他、領民にその婚礼の1ヶ月間のみ使える商品券(アントワープ領のどこの商店でも使用可能なように手配済み、アトラナート商会で換金可能な金券)を一人当たり1エキュー分配って、小売の面からも経済の活性化を図った。
 つまり諸々合わせるとおよそ数百万エキューは下らない金額がアトラナート商会からアントワープ領に流れ込んだことになる。

 同時に1エキュー商品券をアトラナート商会からアントワープ領の領民に配布する際に、戸籍情報を収集して一本化した。
 メイリーンの嫁入り先のアントワープ領の家臣団と協力して戸籍情報と徴税を連動させる予定である。
 アントワープ領の家臣団にはそのようなノウハウが不足しているし、そもそも人員が足りないという問題はある。
 だが足りない人員や足りない予算は、アトラナート商会が補う方向で交渉を進めている。

 この結婚式に格好つけたアントワープ領の大規模な開発は、アトラナート商会――いや、ゴブリンたちの実験である。
 幹線道路が齎す影響について、また道路開発後に必要な法整備などを見るために、ゴブリンたちは予算を組んで開発を行わせたのだ。
 そのままその経験をシャンリット領に新しい学術中核都市アーカムを作るにあたって流用出来るとは限らないが、ある意味では試金石とも言える。

「ねえ、テオドール。私、今とっても幸せよ」
「僕も幸せだよ、メイリーン」
「愛してるわ、テオ」
「愛してる。もっと幸せにするよ、メイ」

 純白の衣装に身を包んだ美しい花嫁とそれをエスコートする美丈夫は非常に見栄えがして、後の絵画にもよく表されることとなる。

「でも、流石に1ヶ月も宴会続きじゃ疲れるわね。まだ半分くらいしか来てないのだけれど」
「……確かに」

 二週間もずっと幹線道路の馬車上で見守る見物客の前で手を振り、夜はパーティを開いて商人や貴族と社交をしてというのを繰り返せばそれは疲れもするだろう。

「疲れたならガーゴイルとでも入れ替わるかい? 私なら君たちにそっくりなガーゴイルを作れるよ」
「いつもぬうっと現れますわね、お兄様」

 社交パーティの会場から退出して、用意された二人の寝室に向かう途中の廊下。
 闇の蟠っている所から生えるようにして、半ば以上暗闇に埋もれて花嫁の兄ウードが佇んでいた。
 ウードの纏う暗黒の気配にテオドールは一瞬気圧されるが、直ぐに気を取り直して挨拶をする。

「義兄上、これはこれはご機嫌麗しゅう」
「テオドール君も壮健そうで何よりだ。それでどうするね。婚礼行列の日程はずらせないが、途中で身代わりを立ててやっても構わないが」
「いえ、それには及びません。これもまた貴族の義務ですから」
「いい心掛けだ。貴族の位を無くした私にはとても真似できない」

 ウードがこんな時間にこんな場所に居たのは、商会会頭や蜘蛛神教神官の業務が忙しくて中々アントワープ領に向かうことが出来なかったからだ。
 この後も精々半時もしない内に業務に戻らなくてはならない。

「済まないね。こんな姿ではパーティの会場に乱入するわけにもいかないし」

 ウードは肩を竦めて見せる。
 首筋や手首など目に見える場所は全て隈なく包帯に覆われている。
 顔面は『フェイスチェンジ』で変えているが、表情は引き攣ったかのように左右非対称に凝り固まっている。
 シルエットは人というには余りに歪で、見る者には嫌悪感しか抱かせないだろう。

「改めて、結婚おめでとう」

 ウードは人前に出られない姿になった己を恥じて、裏方に徹しているのだ。
 それでもせめて、妹への祝福の気持ちが伝わるようにと豪華な結婚式を企画して。

 テオドールはウードから得体の知れない怖気を感じて思わず妻のメイリーンを抱き寄せる。
 彼はこの不気味な義兄が苦手だった。

「それでいい、テオドール君。そうやって、あらゆる脅威からメイリーンを守ってくれたまえ。特に私のような破滅的な人間からは適切に距離をとるべきだ」
「お兄様、それはどういう……?」

 何事か問いかけたメイリーンをテオドールの腕の中に残し、ウードは黒羅紗のマントを翻してその場を後にする。 





 メイリーンの弟ロベールは婚礼行列の上空を飛ぶ空中触手騎士団(ルフト・フゥラー・リッター)を統率し、一糸乱れぬ編隊飛行を行って、彼の姉夫婦の婚礼行列に華を添えていた。
 日中の婚礼行列を空中から監視し、何か騒乱が起きそうになっていれば地上の商会員に連絡する役目も担っている。
 魔法の花火を空中に咲かせながら空を駆ける竜騎士に、観客たちが目を向ける。

「おおお!」
「とうちゃん、見た!? 今の凄かったよ!」
「かっこいー!」

 宙返り。錐揉み回転。空中交差。
 次々と離れ業を見せる空中触手騎士団たちを下から見上げる見物客は感嘆の溜息を漏らす。

 『煙幕』の魔法の亜種によって綺麗な航跡を描く竜騎士たち。
 彼らの乗るドラゴン(クトーニアンと火竜のキメラ)は一応、商会の竜籠用の竜で、軍用ではないという建前であったが、実態としてはシャンリット伯爵家に貸し出されており、戦時には徴収されて竜騎士隊として機能することになっていた。
 他にも商会が永年継続雇用している傭兵という名目の実質上の私設常備軍が存在しており、こちらも随時シャンリット伯爵家に貸し出されることになっている。

 アトラナート商会がそのような兵力を抱えている事はほぼ公然の秘密となっている。
 しかし、王政府からは表立った文句は付けられていない。
 シャンリット伯爵家とアトラナート商会は不可分な程に癒着している為であり、また王政府にもその規模に応じた税を払い付け届けを行っているため、危うい所で摘発を免れているのだ。

 空中を縦横無尽に飛び回る竜騎士の中でも、一回りも二回りも大きな竜を駆るのがロベール・ド・シャンリットである。
 100メイルにも迫ろうかという巨竜は、背中から生える触肢を二股に割くようにして形成される3対6枚の膜翅を大きく広げて悠々と空を飛ぶ。
 かと思えば急加速して轟音と共に視界から消えたりなどして、観客を湧かせている。

「ひゃあっはぁーーー!」

 キメラ巨竜――名前をイリスという。名付け親はウードだ――を乗り回すロベールは、スピード狂であった。
 幼い頃からこの触手まみれのキメラドラゴンを乗り回していたロベールは、すっかり空を飛ぶこととその速度の追求の虜になってしまったのだ。
 弱冠12歳でありながら、速く飛ぶための新魔法の研究に非常に貪欲である。

 触手竜を駆っている他の騎士隊員たちも、ロベールと同様に速さに魅せられた漢たちだ。
 騎士団としての訓練とともに、新魔法の探求も行っている。
 例えば彼が現在開発中の魔法には、『レビテーション』の一要素を抽出した“重力偏向魔法”や“絶対座標固定魔法”というものがある。

 “重力偏向魔法”は、その名の通り重力の方向をある程度操る魔法である。
 これによって重力を横方向に傾ければ、“水平に落ちる”ことで永続的に加速度を得ることが出来るようになるのだ。

 “絶対座標固定魔法”というのは、『レビテーション』の慣性減衰作用を抽出した魔法である。
 動いている物体の勢いを止めようとする作用を拡大解釈し、慣性をカットして“地球の自転に対して置いていかれる”ことで速度を得ようという発想である。
 開発に際してちょっとした曰くがある魔法である。

 端的に言うと。
『自転に置いていかれたらすっげえ速く飛べるんじゃね?』
『ジャック、お前天才じゃね?』
『早速やってみようぜ!』
 ↓
『行くぜ必殺、『座標固定(ポイント・ロック)』!!』
 ↓
 問1.地球の自転・公転などなど様々な天体運動の速度に置いて行かれたらどうなるでしょう?
 ↓
『ぶべらっ』
『じゃ、ジャックー!』
 答え.空気の壁にぶち当たって飛び散ったり燃え尽きたりします。無茶しやがって。

 その事故を聞いた過保護な兄から弟に『偏在』を簡単に発生させるインテリジェンス・メイスが送られて、危険な実験は『偏在』の分身体に行わせるように通達が行ったりした。
 同時に航空魔法実験の手引きも整備されたため、哀れなジャックの二の舞はもう恐らく発生しないだろう。
 現在では『座標固定(ポイント・ロック)』の魔法はその加減などが研究され、安全に使うマニュアルが整備されている。

 婚礼行列の上空を飛ぶ触手竜騎士たちが加速に用いているのも、それらの新式魔法である。

「あははははははははは!!」
『RUOOOOOOOoooooN!!』

 超ハイテンションになっているロベールであった。乗騎の触手竜イリスも上機嫌だ。
 完全に眼下の婚礼行列のことは忘れている。
 雲を切り裂き、音を置き去りにせんばかりの勢いで巨大なドラゴンが飛んで行く。

 彼らがハイテンションなのは、久しぶりの高速飛行であるということが原因である。
 シャンリットの領空ではフネや飛行型ガーゴイルが所狭しと行き交っているため、厳しい飛行制限があるのだ。
 思いっきり明るい内からシャンリットの空を飛べるのは、年に数回開かれる航空レースの時くらいである。

 だから、きっと今彼らがハメを外しすぎていても、それは仕方が無いことだろう。

「うひゃはははははははは、あはははははっ!」
『GAAAAaaaaa!!』

 ドップラー効果を伴って哄笑が響き渡る。
 示威行為にはなっているのでそれでもきっと問題ないだろう。

 何処かで蜘蛛男が仕方無い奴だなと、溜め息を付いたかどうかは誰も知らない。
 まあこの様子は『遠見』の魔道具によって方々に中継されているから、それを見ていたんだろう。





 ラグドリアン湖。
 トリステインやガリア、及び周辺国の水利を司る巨大な湖だ。
 そして水精霊の機嫌さえ損ねなければ無限に淡水が手に入るという素晴らしい水源でもある。
 とはいえ、ウードの実家シャンリット領はには距離と標高の関係もあって余り関わりがない。

 そんなラグドリアン湖の湖畔にゴブリンたちが5人一団となってとある調査のためにやって来ていた。
 少し前にあるゴブリンが閃いたのだ。

 “水精霊=不定形=ショゴス”なんじゃないか、と。

 そこでそんな閃きを一笑に付さないのがゴブリンたちの主義である。
 分からないものは確かめてみるべし、と。
 どちらにせよ上手く行けば旧いモノたちの話を聞けるだろう、と。

 虚無の魔法の話も出来れば聞いておきたいことであった。
 エルフやクトーニアンや韻竜に伝わる伝承を纏めようとしているが、遅々として進んでいない。
 『サモン・サーヴァント』や『コントラクト・サーヴァント』の解析は難航しており、それらの解析に虚無の魔法が必要なのではないかという推論もなされている。

 水精霊を呼び出す方法は分かっている。
 水精霊が認めた交渉役の血液を湖に垂らすのである。

 何故呼び出し方法が分かったかといえば、ゴブリンたちの常套手段であるボディスナッチ(死体盗み)によってである。
 交渉役の墓を暴いて死体を肉人形と入れ替えて、その死体からDNAと知識を収奪したのだ。

 一団の中の一人のゴブリンが腰に下げたサンプルポーチから試験管を取り出す。
 さらに別のゴブリンが自分の使い魔のタガメを懐から出す。

「じゃあ、血を吸って水精霊様を呼んできて頂戴」

 サンプルポーチから取り出された試験管には保冷された血が入っていた。
 過去に蒐集された水精霊の交渉役の死体から取った細胞を培養して手に入れた血液だ。
 試験管の蓋は非常に薄い膜で密閉されている。

 試験管を持ったゴブリンは一度試験管を逆さにして、蓋を二重蓋にするように『錬金』して、また試験管を元の向きに戻す。
 薄い膜の二重蓋の間に、若干量の血液が閉じ込められた。

 使い魔のタガメは、自分の主の手から翅を広げて飛び立ち、ぶぶぶ、と掲げられた試験管に止まる。
 タガメは試験管の口に脚を動かして近づき、自分の鋭い口吻を突き刺し、試験管を覆う薄い膜を1枚突き破って、二重膜の間に収められた血を一滴吸う。
 そして再び試験管から飛び立つと、太陽をキラキラと跳ね返すラグドリアン湖へと飛んでいく。

 残り3人のゴブリンは周囲で植物や昆虫、プランクトンなどの採取を行ったりトラップを仕掛けたりしている。
 試験管を持ったゴブリンは二重膜の部分を『錬金』し直して、不要分の血液を廃棄すると再びサンプルポーチに収める。
 もう一人は使い魔であるタガメと感覚を共有しているのか、目を閉じてじっとしている。

 湖から涼しい風が吹いて来る。

 待つこと暫し。

 水面が盛り上がり、ボコボコと形を変える。
 タガメの使い魔の主が、風の魔法で声を変調させて威厳を持たせるようにして偽りの自己紹介をする。

「水の精霊様。旧き盟約の家系の末席、セバスチャン・ド・モンモランシで御座います。覚えておいででしたら、私たちに分かるやり方でお返事をお返しください」

 水精霊はぐねぐねと蠢き、筋骨隆々のヒゲ紳士の形を取ると次々に表情を変える。
 喜びのダブルバイセップスフロント、怒りのラットスプレットフロント、哀しみのサイドチェスト、満足げなダブルバイセップスバック、苦悶のラットスプレットバック、慈しみのトライセップス、名状し難きアドミナル&サイ……。

 一名を除いて顔を背けるゴブリンたち。
 男の裸なんぞ見たくない。

 水精霊は血を湖に垂らした交渉役の姿を真似て現れることが多い。
 つまり今回用意された培養血液の元となった人物は生前あのような暑苦しい姿だったのであろう。

 4人のゴブリンたちは血液を用意したゴブリンを見遣る。
 血液を用意したゴブリンはキラキラした瞳で水精霊が模す筋肉に見惚れていた。
 確信犯であった。あなたが犯人です、と他の4人のゴブリンが思ったとか。

 一通りポージングを終えた水精霊はゴブリンたちに話しかける。

「単なるモノよ、我は貴様に流れる血液を、覚えている。して、何用か」

 タガメを使い魔にしているゴブリンメイジが問う。

「私たちは旧い者たちについて調べております。永い時の向こうに忘れ去られた種族達について。そして虚無の魔法について。宜しければ、私たちに御身に流れる歴史の記憶の一部を開帳して頂きたく」
「単なるモノよ、偽りのモノよ。旧い旧い支配者達は、我にとっても、思い出すのも忌まわしいものだ。我を、偽りの盟約で呼び出して、さらに不愉快にさせるとは、許せぬ」

 いつの間にか、ゴブリンたちの足元にラグドリアン湖の水が浸食してきていた。
 ぬるりと触れるのは、水精霊本体から伸びた偽足だろう。
 そこから呼び出した相手がモンモランシ家の一員でも何でもない者だとバレたのだろう。

 水精霊はそのスライム状の身体を怒りのラットスプレットフロントに変える。

 直ぐに異常を察知して難を逃れられたのは5人のゴブリンの内3人。ある者はフライで飛び上がり、ある者は素早く飛びすさって後退し、ある者は圧倒的な火力で自分の周囲の水を吹き飛ばした。
 しかしポージングを取る水精霊の筋肉に見惚れていたゴブリンと、直接水精霊と会話して怒りの波動を受けたゴブリンは硬直してしまっていた。
 水精霊の触手が伸び、逃げ遅れた二人のゴブリンを湖上に持ち上げる。

「その上、我を、あの穢れたショゴスと間違える、だと。ウボ=サスラなら、まだしも。許せぬ、許せぬ」

 水精霊の表情が、ポーズが目魔狂しく変化する。

「知りたくば、知るが良い、単なるモノよ、蜘蛛の眷属よ。この星の、旧き旧き者共の、忌まわしく、悍ましい、記憶を」
「あああああああああああああっ!?」

 水精霊の身体が耳や鼻から入り、その粘性の透き通った体に記憶されている、忌まわしい古の光景を二人のゴブリンの脳裏に焼き付ける。

「うああ、ぁぁあ、あっ、ひぃあ、ううああああああ?!」
「その卑小な身で、受け止めきれる、モノならば」

 水精霊の食指から逃れて残った3人は、囚えられた2人が狂っていくのを震えながら見るしかなかった。

===================================
『ポイント・ロック(座標固定)』

“ぼくのかんがえたかっこいいコモンマジック”第二弾。

ある座標と、もう一つのある座標(例えば自分とハルケギニア星の中心)との位置関係を固定する魔法。当然、地面や惑星、太陽系はものすごいスピードで動いているわけで、急に座標を固定すればどうなるかというと……。本文中のジャック君はハルケギニア星の中心と自分の位置関係を固定したので、自転に置いて行かれて大気との摩擦で燃え尽きた。
『レビテーション』に慣性を減衰させる効果がありそうなので、それを拡大解釈して、特化させて取り出してみた。
ロベールの必殺技はこの魔法で相手を狙撃すること。宇宙の果てで光速を超えて離れていく星々をイメージ出来れば、光速を超えることも夢ではない?

2010.07.24 初出
2010.07.24 誤字訂正×2
2010.08.09 一部修正。襲爵は当主の死を以て行うものらしいから、この時点ではまだ爵位は継いでない。
2010.10.21 全編書き直し。でもプロット自体はほぼ変更なし。



[20306] 蜘蛛の糸の繋がる先は 17.植民地に支えられる帝国
Name: へびさんマン◆29ccac37 ID:4dc27135
Date: 2010/10/25 14:07
「ここは何処だろう」

 底の見えない深い谷と、その間に張られた蜘蛛の糸。
 何匹もの巨大な蜘蛛が糸を紡いで、橋糸を強化している。

 僕はその谷の切り立った崖の上に立っている。
 目の前には細い細い蜘蛛の糸。
 先の見えない崖のもう一端に向かって、細い細い糸が伸びている。

 糸を紡いでいる蜘蛛はヒトよりも大きいものだけではなかったようだ。
 よく見れば大小様々な蜘蛛が、遠くに見える撓んだ糸の橋を忙しなく行ったり来たりしている。
 麦粒ほどもないもの、指先位の大きさ、拳大、人の頭くらい……色々な大きさの、いろいろな形の蜘蛛が谷に橋を架けている。

 その中の一匹の大きな蜘蛛が僕に話しかけてきた。

――ここは深淵の谷。

 先程の独り言への返答なのだろう。
 親しげに話しかけてきた蜘蛛に僕は更に問いを返す。

「あなたは誰? 懐かしい空気がするけれど」

――君の遠い遠い先祖。

 そう言われて僕は混乱する。

「え。でも蜘蛛じゃないか」

――そう、だから君は蜘蛛の眷属。

「な、何を」

 駄目だ、それ以上聞いてはいけない。僕は心の底から湧き上がる嫌悪と本能的恐怖に従い、耳を塞いで逃げようとする。
 しかし僕の足は貼り付いたかのようにしてその場から動かなかった。動けなかった。

――アtらchなcha様の祝福を受けた蜘蛛の祭司。その末裔。

 他の蜘蛛もその声に同調する。子孫よ、末裔よ、我らが神に感謝を捧げよ、と。
 何匹もの蜘蛛が囁くように好き放題に喋り出す。谷にかかる糸の上を行き来しながら囁きを交わす。

――君の祖父もここに来ているよ。
――てぃじ・り・り ふんじいすく
――君の兄もここに来るだろうね。
――君自身はどうなるだろうか。
――ここに来れると良いね。
――君の兄はよくやってくれているよ。
――んかい・い いあ いあ
――兄の、何と言ったかね、彼は。
――そうそう。確か。
――ウード。
――ウードだ。
――ウード・ド・シャンリット。





「うわああっ!」

 トリステイン魔法学院、男子学生寮の4階の角部屋。
 かつて“蜘蛛公子”と呼ばれたウード・ド・シャンリットが9年前まで使っていた部屋だ。
 当時を偲ばせるものは、学生寮に備え付けの家具以外は残ってはいない。
 ――表面上は。

 実際はこの部屋を中心に学院中にびっしりとカーボンナノチューブで構成された〈黒糸〉のネットワークが張り巡らされている。
 つまりこの部屋は蜘蛛の巣の中心に準えられるのだ。
 そして蜘蛛の巣の中心に居るべき者は蜘蛛に決まっている。
 だからこの部屋に居る者は蜘蛛でなければならない。
 それ故にロベール・ド・シャンリットの血脈に宿る蜘蛛への『大変容』の呪いも促進されてしまうのだ、彼自身は気づいていないが。

 その寮室のベッドの上で、ロベール・ド・シャンリットは汗まみれになって飛び起きた。
 学院に入学してからまだほんの2、3ヶ月であるが、ずっと彼は悪夢を見続けている。
 沢山の蜘蛛が糸を架けている谷の、その断崖の淵で立ち尽くす夢だ。

「はあっ、はあっ、はあっ」

 息を荒らげて上半身を起こすロベール。
 外はまだ暗く夜明けまでは遠いようだ。
 汗を吸ったシーツがじっとりと肌に纏わりつき、寒気と不快感を与えてくる。

 直ぐに枕元の杖を手繰り寄せ、水の魔法を使ってシーツを乾かす。
 随分昔に夜尿をこうして乾かしていたのを思い出して、恥ずかしいような擽ったい気持ちになる。あの時は貴重な精神力をおねしょの処理に使ってしまって、結局翌日にそれが原因でおねしょのこともバレたのだった。
 悪夢を見て跳ね起きたのに、昔の事を思い出すと、ロベールは何だか安心してしまった。

 安心するとさっきの夢のことが思い出される。
 蜘蛛の夢。
 深い谷に橋を架ける蜘蛛たち。
 蜘蛛たちが口にする彼らが信奉する神の名前。
 そして――。

「僕の先祖か、蜘蛛だって? そんな馬鹿な」

 彼らは何と言っていたか。
 “祖父も来ている”? “兄はよくやってくれている”?
 全く、質の悪い冗談だ。

「冗談さ。冗談に決まっている。全ては夢だ。僕の夢が生み出したものさ……」

 だがどうしても夢の中の蜘蛛たちの言葉が頭から離れない。
 祖父のことは分からない。ロベールが生まれたときには死んでいたから。
 だが兄は、ウードは、どうなのだろう。

 ロベールの物心付いた時からウードはほとんどシャンリットの屋敷には居なかった。
 ウードの残した“グロッタ”という名前の資料・標本小屋が屋敷の片隅にあるだけで、あとは家族の誕生日や何かの拍子に様々な珍品・貴重品を持ち帰って来たりするくらいだった。
 ロベールの乗騎であるキメラドラゴンのイリスに付けられた調教役の矮人や、シャンリット伯爵家に出入しているアトラナート商会の矮人から兄の話はよく聞いていた。非常に立派な人間だと。

 “アトラナート商会”。
 蜘蛛の神の名前は何と言っていたか。あとらくなっちゃ?
 商会の名前がその神の名前から取られたのか、ロベールの無意識が蜘蛛を戴く商会の名前を勝手にもじって夢の中に登場させたのか、ロベールには判別はつかなかった。

 ロベールが5歳の時、彼の兄は廃嫡され、伯爵家の継承権を放棄した。
 寿命も残り少ない、と父や母からは聞かされている。
 その時以来、ロベールは伯爵家の跡継ぎとして厳しい教育を受け、ウードは彼自身の夢――シャンリットにハルケギニア中の知識を蒐めること――を実現するために東奔西走している。
 魔法学院に入ってからは、古参の教師から兄の話題をよく聞いた。ああ、あのウードの弟か、と。奇人・変人の類で、独自の魔法理論を持っており、変態的に細かな作業が得意で、授業はサボり気味だったが、非常に優秀だったそうだ。兄に対する劣等感がないというわけではない。

 そこまで考えて、歳の離れた兄とまともに話したことは数えるほどしか無いと、ロベールはふと気がつく。
 最近は身体の具合が悪いのか、ウードは余り人前に姿を現さない。
 姿を現しても、あちこちに包帯を巻いて素肌は晒さず、その顔色も非常に悪い。
 病が顔にも回ったのか、奇妙な表情に凝り固まっており、幽鬼も裸足で逃げ出しかねない陰性の凄みを放っている。

「兄上に、それとなく探りを入れて確認してみるか……」

 気になったことはそのままにして置けないというのは、ロベールも彼の兄と同じようだった。
 王都のシャンリット家の別邸、今は両親が詰めていて夜毎パーティを開いているそこに、月に何度かウードも顔を出している。
 ロベール自身も、都合がつく日はパーティに参加し伯爵家次期当主として見聞を広めることにしている。
 次に兄が王都のパーティに参加するときに、夢の話を聞いてみようと心に決めるロベールであった。







 蜘蛛の糸の繋がる先は 17.植民地に支えられる帝国と先進国からのODAに支えられる国って似てるような似てないような
 






 王都の通りに一枚ビラが風に吹き流されて転がっていく。
 多色刷りのカラフルなビラである。
 左上と右下に蜘蛛の巣とそれに陣取る蜘蛛の意匠が印刷されている。
 アトラナート商会の広告のようだ。

 それによれば虚無の日の夕暮れ時に、王都郊外のアトラナート商会の倉庫の地下に設けてあるスペースにて何かの祭りが開かれるらしい。
 ビラにはそこまでの地図と、ライトアップされた舞台で歌い踊る美女、美味しそうな料理や酒が無料で供されること、祭りの参加者にはもれなく1エキュー相当のアトラナート商会の商品券(使用期限付き)を贈呈することが書かれている。
 ビラが吹き流されてきた方を見れば、目立つ衣装を着て音楽を鳴らしながらビラを配っている矮人の少女たちが見える。

「宴会でーす! 皆様の日頃のご愛顧に応えまして、新作物や新酒の試飲会と楽しい歌と踊りのステージを用意していまーす」
「来てくれた方には漏れ無く、アトラナート商会で使える1エキュー商品券を贈呈いたしまーす!」
「参加費は無料でーす。お気軽にご家族ご友人と示し合わせてご参加下さーい」

 やいやいと陽気な音楽と共に少女たちはビラを道行く人に配っていく。
 少し学のある商人なら、幾ら何でも太っ腹すぎると疑うだろうが、アトラナート商会が試供品を大盤振る舞いするのは“いつものコト”だと市民には認識されてしまっている。
 誰もアトラナート商会の無限とも思える物資がどこから湧いてくるのか気にする者は居ない。
 余りに当たり前になりすぎているのだ。

「へえ? また随分と太っ腹じゃないか」
「ここ2、3年は不作が続いたっていうのにねえ」
「まあ蜘蛛商会のお陰で日々の食事に汲々としなくて済むのは良いことさ」
「楽しそうだし行ってみるか。損はしないだろう、別に」

 それが全て蜘蛛の罠とも知らずに。

「アトラナート商会……。ウードの商会だな、確か。一体何をやってるんだか」

 ビラを受け取って呟くのは身なりの良い服を着た筋骨隆々とした赤髪の獅子のような男。
 “炎獅子”の二つ名を持つ近衛衛士隊の新進気鋭の騎士である。
 トリステインでは珍しい火のスクエアメイジであり、公爵家の一門であり後ろ盾もしっかりしているため、将来を嘱望されている。
 現在の元帥である老齢の火のスクエアメイジから、王軍の秘伝のスクエアスペルを伝授されている日々である。
 そのため末は元帥にもなるだろうと噂されている。

 彼は魔法学院時代――もう9年は前――に“蜘蛛公子”のウード・ド・シャンリットの同級生であり、ウードに最も親しい人間であった。
 彼自身は蜘蛛恐怖症(アラクノフォビア)であるために若干ウードに対しては苦手意識があるが。
 その近衛の若きエリート、ジャン=マルク・ドラクロワはビラを片手に考える。

「どうせウードの所の企画だから碌な事じゃないんだろう……。関わるのはゴメンだが、放っておくと絶対に致命傷になるだろうし……。うーむ、どうしたものか」

 王都にはジャン=マルクの妻とその子供たちも暮らしている。
 余計な騒乱は望むところではない。
 少なくともウードが何を企んでいるのかくらいは把握しなくては安心出来ない。
 ジャン=マルクは、ある意味、ウードの性質について絶対の信頼を置いている。即ち、絶対に碌でもないことになるという信頼だ。

「確かシャンリット家の別邸のパーティの招待状が来てたはずだ。直接会って確かめるべきだろうな」

 場合によっては妻と子を王都から逃がす方が良いのかも知れない。
 手で弄んでいたビラを魔法の炎で燃やし尽くすと、ジャン=マルクは自分の居住地へと踵を返す。

 パーティに出るなら、妻と子にも知らせなくてはならない。
 エスコートするべきパートナーが居なくては格好がつかないから妻も連れていかなくてはならない。
 折角だから息子娘の社交デビューを兼ねてもいいだろう。





 今日も王都のシャンリット家の邸宅ではパーティが開かれる。

 出される料理は、トリステイン伝統のものよりも、新素材を使った奇抜な料理が多い。
 だが、そこに外れはなく、好き嫌いはあるだろうが、凡そ万人に受けるような美味ばかりである。
 邸宅の料理人が経営するレストラン(アトラナート商会資本)は、常に貴族や商人の予約で埋まっている。

 夫人は今日も違う衣装に身を包み、客達を歓待する。
 シャンリット伯爵――現在は教育に関する省庁の一部門を任されている――は各方面と渡りを付けるため、連日景気よく酒や料理を振る舞うパーティを開いている。
 それもこれも彼の息子であるウードの夢であるシャンリット学術都市化計画のためだ。

 招待客が門衛の名乗り口上と共に入場し終わると、伯爵の口上で今宵のパーティも幕を上げる。

「やあやあ、紳士淑女の皆さん。本日も当家にお集まり頂いて有難う御座います!
 このトリステインの将来を真剣に考える皆さんと、今宵を共に出来ることを嬉しく思います!」

 傍らには老いを感じさせない美しい伯爵夫人と、その息子のロベール。
 それぞれが上品に着飾り、笑みを湛えている。
 だがその中にはウードは居ない。
 彼は廃嫡されているため、彼自身の意向で伯爵家側ではなく、一参加者として出席している。

 給仕たちは各テーブルを回り、招待客に飲み物を配ってゆく。
 今夜は、アトラナート商会が造った酒で、伯爵令嬢の結婚を祝って作られた『メイリーン』というワインが振舞われているようだ。
 まあ、味は悪くない、というのが以前に振舞われた際に飲んだ貴族たちの評価である。
 伯爵の親バカっぷりと超豪華な持参金――北部と王都付近を繋いだ“婚礼街道”――は有名なので、高級品で無くとも大っぴらな非難は起こらなかった。

「それでは皆さん、給仕よりお飲み物は受け取られたでしょうか?」

 周囲を見渡して、全員の手に飲み物が行き渡っているのを確認すると、伯爵が音頭を取る。

「では、このトリステインの繁栄と国王陛下に。乾杯!!」

 そこかしこでグラスが掲げられ、招待客はそれぞれに歓談を始める。

 主催者の伯爵の下にも参加者が次々と挨拶に訪れる。
 やがて緩やかに音楽が流れ始め、ダンスが始まる。
 筋骨隆々で凛々しい伯爵と可憐な夫人のダンスに皆が見蕩れ、孫世代の小さなレディとジェントルマンのステップを暖かく見守ったりして時は過ぎる。

 ウードはぎこちなく体を動かして、早々に壁際へと退散する。
 彼の連れ役の女性はアトラナート商会の矮人――とはいえ14歳くらいには見える比較的大柄な氏族なのでウードが連れていても不自然には見えない――であり、ウードの側に付き従い周囲に油断なく気を配っている。護衛も兼ねているのだ。
 巨大な柱時計――見た目は振り子時計だが、実際は電池とクオーツの振動子を組み合わせたアトラナート商会の最新式――の下が、シャンリット家のパーティにおけるウードの定位置だ。
 参加している婦人の多くは奇妙に歪んだ表情のウードを見て顔を顰めるが、彼がアトラナート商会の会頭だと知っている者は積極的に彼の下に挨拶に訪れる。

 その中に近衛騎士のエリート、ジャン=マルク・ドラクロワの姿もあった。

「よう、ウード」
「ジャン=マルクか、久しぶりだな。細君もお久しぶり。相変わらずお美しい」

 ウードとジャン=マルクは実に数年ぶりの再開を祝ってグラスを合わせる。

「乾杯」
「ああ、乾杯」

 ぐっと杯を呷る二人。
 それぞれのパートナー同士も会話を始める。

「随分久しぶりだが、どうしたんだ? 今までは全く来なかったくせに」
「何、聞きたいことがあったってだけだ。商会が平民向けに開いてる集会があるだろ、その件についてだ。何企んでやがる」

 ああ成程、とウードは頷く。

「その件か。ただの実験さ。詳しくは、そうだなこのパーティの後に……は人と会う予定があるし」
「その後で構わないさ。待っているから」
「じゃあそうするか」
「ああ、また後でな」

 去ろうとするジャン=マルクをウードは引き止める。

「まあ待て。このパーティで他の伝手はあるのか? まあお前は顔が良いからご婦人の相手をするには困らないだろうが……。幾らか他の貴族にお前の事を紹介するから暫くここに居ろ」
「……ああ、そうだな。折角だからその言葉に甘えさせてもらう」

 ジャン=マルク・ドラクロワはシャンリット家が構成する派閥(辺境派)とは対立する派閥(公爵派)に属しているため、このパーティでは聊か肩身が狭かったのは事実だ。

 ジャン=マルクを居合わせた貴族に紹介したり、他にも挨拶をしているうちに時間が過ぎる。
 ウードは自分の弟のロベールから時折鋭い視線が投げかけられるのに気づいていたが、努めて無視した。
 話しかける気があれば、自分が帰る前にでも適当なタイミングで話し掛けてくるだろう、とロベールについては放っておくことにしたのだ。

 やがて宴もたけなわとなり、めいめいにテラスや別室へと引き上げてゆく。
 ここからは、ただの顔合わせに留まらないもっと深い話をする時間だ。
 何組かは近くの自分の別邸まで客を招き、更に親交を深めるつもりなのだろう。門まで迎えの馬車が来ている。

 社交パーティは、顔合わせの前半とその後の密会で成り立っている。
 ウードが参加しているのはこの後半の密会のためだ。
 ウードが呪いに侵された歪な体を晒してまで社交界で活動しているのは、シャンリット領に私立の総合大学を設立するための根回しのためだ。

「ウード様、いつも申し訳ありませんなぁ。ぐふふ、ふふふ」
「いえいえ、チュレンヌ卿にはいつも便宜を図って頂いています故。この程度は、くふふふふふ」

 今も彼は別室で黄金色の菓子を渡しつつ何やら悪巧みをしているようである。
 因みに彼の父母である伯爵夫妻は、アトラナート商会が行う教育改革が如何にシャンリット領を豊かにするのに貢献したのか、まともに宣伝している。
 腹の中が黒い、というか、邪道外法に慣れ親しんだウードには賄賂の方が性に合っているというだけだ。

 近年トリスタニアには腐敗が蔓延っている。
 憲兵隊への賄賂次第で犯罪は見逃されたり、税が不当に多く徴収されて差額が徴税官の懐に消えたり。
 それは大元を辿ると、アトラナート商会の金満主義的な賄賂攻勢に因る倫理観の歪みに行き着く。

 何か大きな事件があれば、市井の噂では「大体アトラナートの所為」と言うことになっている。
 徐々にアトラナート商会はその利便性から市民生活に無くてはならないものになりつつあるが、それでも彼らはトリステイン社会においては異物であり、なかなか信用されないのであった。それがよく表れた言葉だと言えよう。

 今のところは巧妙に動いているので、賄賂による腐敗の中心が彼らにあるとの確証は掴まれていない。
 とはいえ、宮廷の主流派である国王派や公爵派(シャンリット・クルーズ辺境派とは対立している)の中心人物は、賄賂で動くような程度の低い人材ではないし、賄賂騒動の中心に誰かが居ること位は感づいているだろう。
 買収された者たちが何の案件に賛成しているかなどを注意深く観察すれば、賄賂の大元がアトラナート商会に繋がることが感づかれるのも時間の問題だ。

「ぐふふ。本日は初めてお招き頂き有難う御座います。我々の輝かしい未来に乾杯」
「ええ、輝かしい未来へ向けて。乾杯。くふ」

 金を貰ってホクホクのチュレンヌ卿と、学生の頃から変わらず目の下に隈を作った左右非対称の歪な凶相のウードは蜂蜜酒の入ったグラスを傾けて呷る。
 黄金のそれはとろとろと彼らの喉を通り過ぎて、胃を満たして全身に運ばれるとともに、その魂に霊的な作用を及ぼすのだ。
 この蜂蜜酒を飲むことが許されるのは、ウードと繋がりを持つ者の中でも一部の者だけである。

 ウードを中心として利害や思想で結ばれた彼らは、一種の秘密結社の様相を呈しており、それぞれがそれぞれの思惑を持ってお互いに繋がりを保っている。
 それは金銭であったり、コネクションであったり、あるいはこの場でしか供されない黄金色の蜂蜜酒の齎す得も言われぬ高揚感や予知的な酔夢であったりなどなど。
 彼らのコネクションは、その蜂蜜酒に因んで『ミード・クラブ』と自らを称している。

 その存在は、不明確な噂として密かに社交界で広まりつつある。人の口に戸は立てられぬ、ということなのだろう。

「それにしても、ウード様、何故、私立学校なのです? 我が国にも魔法学院ならあるでしょう」
「くふ。そんなものでは到底足りないのですよ。チュレンヌ卿。
 私が求めるのはもっと多様なことを研究する場所なのです」
「はあ」

 ウードが不意に立ち上がり、相手の座るソファとの間にあるローテーブルに手をついて身をズイと寄せる。

「チュレンヌ卿は昔に思ったことはありませんか?
 “鳥はどうやって飛んでいるのだろう?” “魚が溺れ死なないのはなぜだろう?”
 “何故魔法が使えるのだろう?” “属性はどうやって決まっているのだろう?” と」
「それは……」
「多くの人はそれをいつの間にか忘れ、始祖に感謝しながら日々を生きていくのでしょう。
 しかし私は今でもずっと、こんなことを疑問に思っているのです。
 そして、それを完璧に理解できた時に、人間の可能性はもっともっと広がるのだと思うのです」
「そう、かも知れませんな」
「そうなのです!」

 ウードは急に立ち上がり、感極まったかのように天井を仰ぎ、両手を広げる。

「新たなことを知ることのなんと甘美なことか!」

 くるりとターンして今度は客人の対面のソファーに勢い良く腰掛ける。
 風の魔法を内蔵するソファは勢い良く座ったウードを優しく受け止める。

「この、“知の感動”というものを万民に伝えたくて」

 足を組んではにかむようにウードは言うが、彼がそんな表情しても気色悪いだけである。
 蜂蜜酒に酔っ払たらしきウードの様子にチュレンヌ卿は若干引き気味だ。
 だが、金蔓への追従は忘れない。

「ええ、その崇高なお気持ち、私にも理解できます」
「そうでしょう。そうでしょう。さすがはチュレンヌ卿。見込んだだけのことはあります。
 “私立”学院でなければならないのは、国益に囚われること無く研究を行うためです。
 私立学院でありながら、無私の学院を目指すつもりなのです。
 何モノにも囚われず、この世界の疑問を解明するためだけの学院を作りたいのです」
「確かに、アトラナート商会の後ろ盾があれば、それも可能でしょうな」

 アトラナート商会の財力があれば、そのような機関も作れるだろう。

「ええ。シャンリットを私は大きな箱庭にしたいのですよ。
 研究のための大きな箱庭に。
 いくらなんでも、トリステイン中を巻き込んで引っ掻き回すわけにはいきません。
 私はこれでも、歴史というものに敬意を払っていますから」

 もう充分お前と従僕の矮人たちたちはこの国を引っ掻き回している、とチュレンヌ卿は口に出かかった言葉をなんとか止める。

「はあ、ですが、もともと領地とは領主に取って箱庭のようなものでしょう?」
「勿論。ですが、自分の所の領地を引っ掻き回すに当たって、私は王政府のお墨付きが欲しいのですよ。
 その第一歩が、私立学院の創設許可です。協力していただけますよね? チュレンヌ卿」

 チュレンヌ卿は返答に詰まる。
 これは下手をすると、反乱にも繋がりかねない話なのではないだろうかと、背筋に冷たいものが流れる。

 その時、表に馬車が来たのが、窓越しに見えた。
 紋章はチュレンヌ卿の物のようだ。

「おお、迎えの者が来たようですね。今日は有意義なお話を有難う御座います」

 渡りに船、とチュレンヌ卿は立ち上がる。

「いえ、こちらこそ。お付き合い頂き有難うございました」

 ウードもグラスを置いて立ち上がる。
 ウードは恰幅の良い貴族の男を先導し、部屋の扉を開け放つ。

「私の同僚にも、ウード様の理想をよく話しておきましょう。きっと、共感して力になってくれるでしょう」
「ええ。ですが、くれぐれも慎重によろしくお願い致しますよ。
 白百合の君のお耳を汚したりすることのないように、くれぐれも」

 ウードの口元が一瞬釣り上がり、もう一度言葉を紡ぐ。
 光の加減か、ウードの目は赤く光ったように見える。

「そう。くれぐれも……」

 チュレンヌ卿はそれを聞いて、総毛立つような思いを味わう。

――目の前の男は、自分を決して信じてなど居ない。
――表情からは猜疑の感情しか読み取れない。裏切るのではないかと疑っている。
――いや、あとは、好奇心か? 私に裏切るだけの度胸があるかどうか知りたいということか?
――裏切りすらも目の前の男には単なる一つの興味の対象でしかないというのか……?

――早く眠りたい。
――蜂蜜酒が齎すという開放感と全能感に溢れた夢を見ながら眠りたい。

 そう思って、チュレンヌは迎えの馬車に乗り込む。


 王都トリスタニアの貴族街。
 権謀術数渦巻くこの街の夜は、静かに更けてゆく。

 闇の中を一両の馬車が心なしか急いで道を走っていった。





「待たせたな、ジャン=マルク」
「何、それほどでもない」

 ウードがチュレンヌ卿と話していたのとはまた別の部屋。
 幾分落ち着いた調度の部屋である。

「細君はどうした?」
「お前の所の商会員が送って行ってくれたよ。よく気がつくことだ」
「くふふ、従業員教育はしっかりやっているからな」

 教育というか、実態としては生得的な知識なのだが。

「じゃあ聞かせてもらおうじゃないか、今度は何を企んでるのか」
「分かってると思うが、他言無用だぞ」
「……善処する」
「くふふ、まあ、君にも立場があらぁな」

 くつくつと笑うウードと渋面のジャン=マルク。

「そういう事なら、こっちも大したこと話せない、と言いたいところだが。まあ今の私は、ミードを飲んで酔っ払っているから口が滑ることもあるかも知れんな」
「『ミード・クラブ』か……」
「入会するなら歓迎するぞ。私の推薦付きならクラブ内でも箔がつくだろうし」

 備え付けの棚からグラスを2つ『念力』で取り出し、冷やしてあった白ワインを開けて注ぐ。

「要らん。お前に関わると碌なことにならん」
「何だ? “蜘蛛の小部屋”はトラウマか?」
「思い出させるな。それよりさっさと本題に入れ」

 ワインを注いだグラスを浮かせたまま空中でぶつけて鳴らすと、それぞれの手元に『念力』で運ぶ。

「まあ飲め。そうだな、話す前にちょいと寄り道をさせてもらうが、まあ焦るなよ?」

 ジャン=マルクはグラスを受け取るとひとくち口をつけてローテーブルに置く。

「いいから話せ」
「始祖以来5000年の歴史を誇るブリミル教だが、今まで他の宗教は無かったのか。気にならないか?」
「……。考えたこともなかったが、異端審問がどうとかいうのは良く聞くな。それなりに発生しているんじゃないか?」

 先住種族の信じるものもあるだろうし、とジャン=マルクは付け加える。

「そう、その先住種族だ。或いは使い魔の問題と言うべきか。メイジは使い魔を従え、感覚を共有する。そこにある傾向がある事は知っているか? シャンリット家のように蟲ばかりを召喚する家系もあれば、魚ばかりを召喚する家系もある。実力のあるメイジは自然と強力な種族を召喚するし、強力な種族は決まって長命だ」
「つまり?」
「メイジと使い魔は一心同体。相互に影響を与え合っている。蟲や小動物を召喚するメイジは視点が近視眼的になりがちであり、鳥を使い魔とするメイジは鳥瞰的な視点を取ることが多く、長命な使い魔を抱えるメイジは長期的な戦略を考えるのが得意な場合が多い。国家や組織の重鎮は血統上から言っても実力のあるメイジになるだろうから、長期的な視点を持ったメイジが多くなる」
「……言われてみればそうかも知れない。俺の使い魔は火竜だが、あいつを召喚してからモノの見方が変わったような気がするな」

 ウードはワインを飲んで喉を潤す。

「私も使い魔召喚してから人生変わった気がするよ」
「お前の使い魔は、ほら、あれじゃないか、語るもはばかられる」

 地中を泳ぐ巨大なミミズのようなナマコのようなイソギンチャクのようなウードの使い魔を思い出して顔色を青くするジャン=マルク。

「まあ、彼女のことは置いとこう」
「雌だったのか!? いや、もう置いておこう。トラウマが掘り返される」
「賢明だ、ジャン=マルク。どこまで話したか」
「使い魔が長命だとメイジも気が長くなるから統治者に向く、までだ」
「ああ、そうか、ありがとう。で、だ。そこで異端云々の話に戻るんだが、そうやってヒト以外の視点を容易に得ることが出来るメイジたちは、ヒトの為に考えられたブリミル教という宗教に対して疑問に思わなかったのか、ということだ」
「どうだろうな」

 ウードはグラスにワインを注ぎ直す。
 フルーティな香りが広がる。

「東の方では数百年前に召喚された韻竜が守護竜となって主人の死後も守り続けているって街がある。守護竜は始祖と同様に信仰されていると聞く。それは異端だろうか?」
「分からない、な。そういうのは神官が考えることじゃないのか?」
「思考停止は駄目だ。考えなくてはいけない。先祖に感謝するのは異端か? 王や女王を崇めるのは異端か? 恐るべき強力な先住種族を崇めるのは異端か?」
「バランスの問題だろう。統治や生活を乱すなら、それは鎮圧されるべきだろう」
「確かに、バランスは大事だ。私が思うに何度か自然発生的に異端思想は民衆や貴族の中から発生したと思う。だが、根付かなかった。先導者のカリスマ不足か、ブリミル教会の弾圧が功を奏したのか、何かが精神的土壌にそぐわなかったのか……」
「何が言いたい? 何をやっているんだ、お前は」

 ウードはまたワインで口を潤す。

「広間で言っただろう? 実験だ、と」
「何の実験だと聞いているんだ」
「まだ分からないのか? 今まで何の話をしてきた? 思い出せ」
「異端の話だ。まさかと思うが」
「そのまさか、だ。異端の宗教をハルケギニアに根付かせるためにはどうすれば良いかと、そういう実験だ」

 絶句するジャン=マルク。
 その顔を見て、くふふと笑うウード。

「お前、今どういう事を言ったのか分かっているのか?」
「何、取り敢えずトリステイン中の主要な教会は買収済みだ」

 実際は買収よりももっと悍ましいチェンジリング(成り代わり)によってであるが。

「そういうことじゃない。何だ、ハルケギニア中全部を敵にまわすつもりか? 正気か? ロマリアは黙っていないぞ」
「くふふ。ロマリアにもウチの商会の息の掛かった派閥がある。次のコンクラーベで選出される教皇は、アトラナート商会派閥かも知れんぞ? それに、ロマリアに潰されるとなったら、それはそれで、どういう経過になるか観察するだけだ。一向に構わない」
「狂ってるな。常々そう思っていたが、それにしても限度があるだろう」
「褒め言葉だ、ありがとう」

 キシキシと、ウードの右胸の部分から異音が響く。
 収められた蜘蛛の毒牙が軋む音を聞いて、愉快そうにウードは顔を歪める。

「どうする、ジャン=マルク? 告発するならすれば良い。誰もとり合ってはくれないだろうがな。蜘蛛の毒牙はトリステインの懐深くに食い込んでいるからな。それに今アトラナート商会が手を引けば、あっという間に国中が飢えるぞ」

 ウードの言葉を受けてジャン=マルクは鋭い視線を向ける。

「くっふっふ。良い視線だ、流石は近衛のエリートという所か。最近トリステインの景気は上向いているが、何故か知っているか? ウチの商会が毎週の虚無の曜日に開いている集会で、集まった人に一人当たり1エキューの商品券を配っているのは知っているな。その商品券を使ってアトラナート商会で日々の糧を買い、浮いたお金で嗜好品や娯楽に手を出しているから景気が良いのさ」

 アトラナート商会は地下や宇宙に大規模な食料生産プラントを持っている。
 ゴブリンたちの運営する地底都市や月面都市、金星-太陽のラグランジュポイントに建造している宇宙都市は、トリステインを始めとするハルケギニア諸国にとって謂わば“善意の植民地”と言えるような存在になっている。
 或いは先進国から途上国へのODAのようなものと捉えてもらっても良いだろう。

「ここ数年は不作が続いているし、ウチの商会が撤退すれば、どれだけの人が死ぬかな」
「お前……」
「そう怖い顔するなよ、ジャン=マルク・ドラクロワ。それもこれも、言わば慈善事業の一端さ。その代わり、そうそう旨い話は存在しない。集会に参加するうちに、すっかり蜘蛛神教の信者になっているという訳さ。それに週に一回宴会を開いてやることで、不作で不安になってる平民達のガス抜きにも成っているんだ。感謝して欲しいものだね」

 ブリミル教への信仰を捨てることで、日々の安寧が手に入る、という訳だ。
 圧倒的な物量(現世利益)が、古来からの信仰心を上回るかどうか。
 アトラナート商会にとってはそういう実験なのだ。

「まあ安心しておけ。その内に全部シャンリットに撤退する、長くとも10年以内にはな。後々まで影響は残るだろうから、完全にそれを根絶するには50年はかかるだろうけれど、な」
「……撤退したらしたで、飢え死にする民が出るんじゃないのか」
「くふふ、そん時は君が商会を興せよ、ジャン=マルク。親友の誼でアトラナート商会から安く卸してやるからさ、私が生きていればだが。そうすりゃ民は飢えないだろう」

 話すことは以上だ、とウードは席を立つ。

「何でだ、ウード。そんな事をして何の得がある」
「くふふ、実験だ。実験でしか無いんだ。それだけだ、知りたいだけなんだよ、どうなるのかって。本当はもっと穏便に進めたかったんだけれど、先も長くないから一気呵成に進めてしまおうと思ってね。作り上げて叩き壊すまでが実験だからね、後始末は必ずすると約束するよ」
「狂ってる、狂ってるよ、お前は」
「くふふ。知ってるよ。じゃあ、良い夜を、ジャン=マルク・ドラクロワ」
「……ああ、さよならだ、ウード・ド・シャンリット」





 ジャン=マルク・ドラクロワを見送った後、ウードはシャンリット家の邸宅から商会の建物に向かおうと、自分の荷物を取りに、与えられた部屋に向かって廊下を歩く。

 そこを、藪から棒に彼の弟のロベールが声をかける。

「兄上、探していました。今までどちらに?」
「おおロベール久しぶりだな。学院時代の友人と旧交を温めていたんだ」

 温めるというか液体窒素をかけて粉々のバラバラに砕き尽くしたというか。

「兄上」
「何だ? ロベール、改まって」
「兄上のアトラナート商会、その名前の由来をお聞きしても良いですか?」

 そのロベールの質問を受けて、ウードは全てを悟ったような顔をする。

「由来、ね。夢のお告げとでも言えば満足か? ロベール」
「……」
「何、心配することはない。お前が私や祖父のような人外に堕ちることはないから安心しろ。私の術式がお前を守っているからな。詳しくは母上に聞くといい。だが父上は何も知らないから、父上には聞くなよ」

 それでも不安そうな顔をしているロベールに対して、ウードは現在できる対処法を教えることにする。

「そうだな、今お前は学院に居るのだったな。ならば出来るだけ私の関連した場所からは離れておいた方が良いだろう。寮の部屋は別の場所に替えてもらえ。あと手っ取り早いのは女を抱くことだ」
「女、ですか?」
「そうだ。血脈に宿る毒素を別の者に移すのには、胤を女の胎に出すのが一番手っ取り早い手段だからな。まあ私のはもげてしまっている訳だが、父上の場合も母上が搾り取って呪いを抑えたらしいし」
「“もげた”って……。“搾り取った”って……」

 顔を青くしたり赤くしたりと忙しいロベールであった。

 さっと夜空の双月に雲が掛かり、廊下が暗くなる。

 そんな慌てた様子のロベールを見て、ウードはぎこちなく引き攣ったような微笑を浮かべると、自分の顔に掛かっている『フェイスチェンジ』の魔法を解き、着ている服の袖を肩口まで風の魔法で裂き、蜘蛛の腕を晒す。

 月に掛かった雲が晴れたとき、そこには異形の蜘蛛男が現れていた。
 左肩からは短い毛に覆われた1本の触肢と2本の脚が生えており、右肩からは左と同じものに加えて、大きな牙の付いた蜘蛛の上顎が生えている。
 顔面は蝋で出来た仮面のようで、左右非対称に、好奇と猜疑で凝り固まっていた。

「ひっ」

 それを見てロベールは悲鳴を上げそうになるが、身内を前に悲鳴を上げるということに気が咎めて、必死に押し殺す。

「悲鳴を上げてくれても構わなかったのだが、頑張ったなロベール。まあお前がこのような異形になることは無いだろう。お前に行くはずの呪いも俺が全部引き受けている筈だからな。それでも不安ならさっさと女を抱くことだな。母上に言ってお前の婚約者との結婚を早めてもらっても良いし、ウチの系列の娼婦を買っても良いし。何なら今日抱いておくか? 今から都合付く娘もいた筈だし、蜘蛛の呪いを胎に受けるというのなら喜んで抱かれてくれる筈だ」
「いえ、結構で……」

 言い募ろうとしたロベールの眼前に右の第一脚を突き付けて遮る。

「眠れていないのだろう? 悪夢を見るのだろう? もう夢で先祖の蜘蛛に会うのは嫌だろう? 悪いことは言わん、兄の心遣いを受けておけ。というか、もう決定だ」
「そんな無茶な……」
「問答無用、『スリープクラウド』」

 極楽を体験して来い、とウードはロベールを眠らせて、適当な部屋に放り込む。
 直後に娼館のゴブリンメイジの娼婦に連絡し、搾り取るように言付ける。

 娼婦の経験に特化したゴブリンメイジがシャンリット家の邸宅に来るのと入れ替わりに、ウードはアトラナート商会のトリスタニア支店へと向かう。まだまだ仕事は沢山あるのであった。

 ロベールがその後悪夢を見ることは無くなったとだけ、付け加えておこう。





 騒乱罪による逮捕者が最近王都では増えている。
 近衛衛士隊所属のジャン=マルク・ドラクロワの直接の管轄ではないが、王都の治安維持隊の同期――階級は下だが――が一緒に飲んだときにボヤいていたのを彼は思い出していた。
 ほとんど譫妄状態になった人々が度々現れて騒動を起こすのだという。

 それでも全体で見れば貧しさによる盗みなどは減っており、全体的に王都は活気づいているし治安は改善している。上層部は腐敗しているものの、だ。
 譫妄状態の逮捕者とは言っても、何か禁制の薬物をやっているわけでもないようだという。

 何でも「神を見た」とか「始祖の再臨」とか譫言を言っているらしい。
 参加者はその前に何処か郊外に出かけていっていたらしく、周囲の人間には“パーティに行く”ということを漏らしていたそうだ。
 治安維持隊の方では彼らの証言を元に、彼らが参加したという集会を摘発するべく調査を進めているそうだ。

 恐らくは先日旧友のウードから聞いた実験――新興宗教の普及に関するもの――の影響なのだろう。
 ジャン=マルクはあの日以来、よくよくアトラナート商会の動きを見るようにしていた。
 そうするとどうしたことか、道行く人の多くがアトラナート商会の紋章が入った紙袋や薄い手提げ袋に買い物を入れて歩いているではないか。

「タダでもらった商品券だし使わなきゃ損じゃないですか。アトラナート商会は品揃えも多いし、品質も良いし」

 アトラナート商会以外の商店に並んでいる品も、数年前とは様変わりしているように見受けられた。
 例えばパン屋では今までの素っ気ないパンよりも、様々な味や香りが付けられたパンが多くなったようだし、質も向上しているようだ。
 何でも、アトラナート商会の小麦は安いわ質は良いわで、質の悪い小麦は王都では見向きされなくなって、不作だった他国へと流れているようだ。
 そのため小麦商たちも王都の市場は失ったものの損をしているという訳ではないようだ。足元を見て高く売っているらしい。
 また様々な香辛料の類もアトラナート商会は充実しており、それがパン屋を始めとする飲食店の品揃えに反映されているようだ。

「最近は一捻りした商品じゃないと売れないねえ。まあ色んな目新しい材料も手に入って、料理人として創作意欲ってのが湧いてきてるって事情もあるけどよ」

 他にも、清掃夫や商館の丁稚などにアトラナート商会からの人材派遣と見られる矮人たちが多く見受けられ、他にも教会やあちこちの町屋で文字や計算、果ては法律まで教える教室が開催されているのだという。
 低賃金で人気の無い職業は矮人が掌握しつつあり、暇の出来た市民は学習芸術に精を出している、とのことである。
 何でもアトラナート商会の催す教室の中には、武術教室や平民メイジへの魔法教室、起業教室まであるとか。

「やっぱりきちんと教えてもらえると違いますね。魔法の才能を継いでも、使い方を教えてもらえなければどうしようも無いですし。僕は風の才能があったようなので、治安維持隊にでも入れないかと思ってるんです。治安維持隊の入隊試験対策もやってるって話だし、その講座も受けてみようかなあ」

 市井に出回っているお金は、国家貨幣とアトラナート商会の商品券を合わせれば、従来のおよそ1.2倍になっている。
 その2種類のお金の内、アトラナート商会の商品券の方は一週間という使用期限が決められているため、これが活発に交換され経済を活性化させているのだ。
 幾つかの商店ではエキュー金貨と同様に商品券も取り扱うところが増えている。商品券の期限が切れる週末までにアトラナート商会から仕入れを行えば良いからであった。
 インフレ気味になって物価も上昇しているが、食料品はアトラナート商会で商品券と交換してもらえば大丈夫ということで、あまり問題視はされていない。

「確かに多少は高くなったかなと思いますけど、その分質は良くなってますし、生活に苦労するようになったわけでもないですし。寧ろ前より良いもの食べて、良いもの着られるようになりましたねー」

 その商品券であるが、これは虚無の曜日にアトラナート商会支店の地下の集会所で配られるもので、毎週毎週絵柄が違う。
 集会に2時間ほど参加することで、料理と酒と1エキュー相当の商品券が貰えるとなれば、最近では都合が付く者は殆ど参加するようになったとか。
 裕福な者の中には、種々様々なその綺羅びやかな絵柄に魅せられて蒐集している者も居るという噂もある。

 集会はジャン=マルクがウードから聞いた通りであるとすれば、異端の祈りの場でしか無いはずだが、市民たちにはそのような後ろ暗い雰囲気は見られない。
 寧ろ週末のその集会を心待ちにしているようであった。
 話を聞けば、集会には楽しい歌や美女の踊りや肝の冷えるような曲芸が披露されているとか。
 そして最後には決まって皆で神を称える歌(始祖ではないことに注意)を歌って一体感を演出して散会することとなるとか。
 さらにさらに市民たちに罪悪感がないのは、その集会に教会の神父も出てきて説教をして神を讃えているからであった。

「さあ皆さん、一緒に神を讃えましょう。異教じゃないのかって? ははは、何を仰る。始祖に魔法を授けた神を讃えるのです、問題ありません。讃える神が多少違っても問題ありませんよ、きっと神様同士友達ですから。いあいあ。ヴィヴ・ラ・アトラナート。この場を設けてくれたアトラナート商会に感謝を」

 一度試しにとその集会に出てみたジャン=マルクだったが、その熱狂と一体感は凄まじいものであった。
 ステージで踊っている女性の着物には魅惑の魔法でも掛かっているのか、非常に愛らしく見えたものだ。
 料理も旨く、酒も旨く、金券は貰えて、楽しく、教会のお墨付きもある上となればこれだけ流行るのもいっそ納得が行こうというものだった。

 しかも王都の外からやって来た行商人に聞けば、トリステイン中の何処の村でも同じような集会は開かれているとか。
 村によっては教会の地下に集会スペースを設けている所もあるらしい。

 その中でも聞き逃せない話があった。
 シャンリット領の方では、その集会にて全くの平民に何やら石版のようなものを、熱心な信仰の証として与え、それを持った平民がそれに祈りを込めることで魔法を使わせたのだという。
 実際にシャンリット領では多くの平民がその石版状のものを持っており、火打石の代わりに『着火』の魔法を使ったり、水汲み場から水を運ぶのに『レビテーション』を使ったりなど、初歩の魔法であるが、祈りの言葉と共に使えるようになっているそうだ。その“石版”の実態としては恐らく幾つかの魔法を込めた、非常に高度で汎用的なマジックアイテムなのではないかと、魔法に関する知識があるものは予想している。
 王都でも“アトラナートの集会に参加すれば魔法を授かることが出来る”という噂は流れており――恐らくは意図的に流されたものだろう――ますます市民の熱狂ぶりが上がっている。

 それでいて景気は上向き、税収は増えて治安は改善し、文化的にも始祖開闢以来5000年の歴史に恥じないものが芽吹こうとしている、と、政府としても文句の付けようがないのだ。
 公僕の多くが賄賂漬けで買収されている事情もあるが。

 貴族の中にはアトラナート商会に借財している者も多くなってきているようだった。
 借金をしたまま没した貴族の領地は借金ごとシャンリット伯爵家が買い取ってしまい、飛び地ではあるがシャンリット家の領地は増えている。
 このあたりが懸念といえば懸念だろうか。

 諸外国はトリステインの好景気はアトラナート商会という無限とも思える金蔓がもたらしているものだと認識しており、昨今の不作によって足元を見て穀物を売りつけてくるトリステイン商人に対する反感も相まって、戦火が燃え広がりかねない趨勢になって来ている。
 この年の麦も不作であれば、恐らくはアトラナート商会という打ち出の小槌を狙った侵攻があるだろうとは、想像に難くない。





「気温変動がおかしい」
「どうしたのさ、唐突に」

 ここはシャンリットはアーカムの地下に広がるゴブリンの地底都市。
 その中でも気象庁に分類される所であった。
 一人のゴブリンが世界各地の気温変動表をここ数年のものと見比べているのだ。

「黒点が減ったわけでもないのに、こんな氷期みたいな気温になる訳無いんだが」
「気温を決める要因としては、太陽活動(太陽放射)地表や大気からの放射、アルベドとかあるけど?」

 表を見ながら頭を捻るゴブリンたち。

「太陽活動は変化なし。アルベドは別に氷が増えたわけでもなし。地球放射も変動無いと思うんだけど」
「誰かハルケギニア星のエネルギー動態のレポート作ってないか?」

 問いかけるゴブリンにフロアの注目が集まる。
 そんな中で少し離れた場所のゴブリンが手を上げる。

「俺作ろうとしたけどさ、〈ゲートの鏡〉経由で宇宙各地の基地開発に使われたエネルギーが分からなくて挫折したんだよね」
「……!! そ れ だ」
「え? 何さ?」
「そうだよそうだよ太陽光発電で得たエネルギーをバンバン別の場所で発散させてたじゃんそりゃあ気温も下がるわ何で気づかないんだよ誰もうわーマジやばい」

 どうやら天候不順による不作はゴブリンたちの所為らしかった。

「落ち着け、取り敢えずだな〈零号〉さんにハルケギニア星のエネルギー動態をシミュレーションしてもらってだな、原因がそれだとはっきりしたら報告しよう」
「これってハルケギニア星各地の〈偽・ユグドラシル〉を破棄するとかそんな話になるかな?」
「まあ遅かれ早かれ撤退するつもりだったんだし同じだろ、多分」
「取り敢えず〈零号〉さんに依頼出しときますねー」

 ハルケギニア星に張り巡らされた〈黒糸〉に宿る知性体〈零号〉は、所謂、技術的特異点の突破(人工知性が人工知性をデザインすることで加速度的に技術や知性の発展が成されること)を成し遂げており、ゴブリンたちにとって非常に頼りになるパートナーなのだ。
 それと同時に調査すべき事柄は幾何級数的に増大しているため、〈零号〉の拡張も間に合っているとは言いがたいのだが。
 〈零号〉が人間だったら疾っくの昔に過労死しているだろう。

「〈零号〉さん、お願いがあるんですけどー」
【あいあいー……。今、結構火星の“古のもの”関連で忙しいんだけど】
「ハルケギニア星のエネルギー動態についてシミュレーションしてもらえます? この星の気温低下が宇宙開発に太陽光エネルギーを注ぎ込み過ぎたからじゃないか疑惑が出てですねー」
【あー、確かに宇宙開発に使ったエネルギーはある意味地球放射の一種とも捉えられるねー。盲点だったわー】

 後に〈零号〉が計算し直したところによると、今年もまた天候不順で不作になることは確定的だということであった。





 そして秋、収穫後。
 不作を予期していたゴブリンたちにとっては予定調和のごとく、周辺国からトリステインへの侵攻が発生した。
 具体的にはガリアからクルーズ領(ロベールの婚約者の実家)へと、それとは逆サイドの国境線において、都市国家が連合した上にシャンリットより東部のトリステインの一部諸侯が寝返ってと、2方面から挟みこむようように侵攻が行われた。
 シャンリット領は国境に面していなかったのだが、この東部諸侯の寝返りによって最前線へと早変わり、という具合だった。

「くふふ。まあシャンリットが攻められるのは自業自得みたいなもんだが、攻めて来るならば壊滅させねばならぬ。聖域シャンリットを蹂躙させる訳にも行かぬから、精々華々しく散って貰うしかあるまい」

 ウードの陰気な笑い声が地底都市の神殿内の執務室に響く。

「取り敢えず、処理案件を増やしてくれた侵略者どもには、きっちり報復してやらねばな……」

 格好つけた台詞を吐きつつ、彼は戦争に伴う処理案件の増大によって紙の海で溺死しそうになっていた。



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当作は邪教系チート内政モノです?
大幅修正したけれど戦争フラグは無事に?立てられました

2010.08.07 初投稿
2010.08.10 加筆・修正
2010.10.24 大幅修正
2010.10.25 誤字修正



[20306] 蜘蛛の糸の繋がる先は 18.シャンリット防衛戦・前編
Name: へびさんマン◆29ccac37 ID:4dc27135
Date: 2010/10/26 22:58
 それはおよそ戦いと呼べるものではなかった。ただただ一方的な蹂躙に過ぎなかった。或いは、そう、漁だ。魚群を追い込んで一網打尽にする漁のような、戦いとはおよそかけ離れた何かであった。
 しかしその蹂躙の命令者にこの戦いが何だったのか尋ねてみれば、彼はこう答えるだろう。

『タダの自衛と、そして実験だった』と。

 彼にとって、そこで犠牲になった者たちの命など一顧だに値しなかった。
 そもそも身の程を知らずに挑んできたのは敵対者達であり、彼は自衛とそのついでの実験をしたに過ぎなかった。
 あるいは逆で、彼にとっては実験のついでに自衛を行っただけだったのかも知れない。

 敵対者をそうなるように追い込んだのが彼の商会であり、敵対者をそうなるように惹きつけたのもまた彼の商会であることなど、些細なことだと認識していた。

 この戦争はその記録が驚くほど少ない。どの歴史書にもただ一文『東方都市国家連合は一兵たりとも戦場から帰還することが無かった』とあるのみである。
 それは戦争の参加者の一方が完膚なきまでに――正に一兵残さず――壊滅したためであり、蹂躙した側がヒトに非ざる者達であったからである。
 一部の高官を除いて、ヒトの側に戦争の詳細が伝えられることはなかったのだ。そして真実を知った者も、その悍ましさに口を噤まざるを得なかった。


 狂人。矮人。異形。蟲。
 それに対するは、ヒト。

 御伽話ならば、ヒトが勝つだろう。
 だが現実は何処までも残酷で、無慈悲である。否、彼らが、彼らこそが残酷で無慈悲であったのだ。
 
 この戦争は後に、実行者である“ウード・ド・シャンリット”の名と共にハルケギニア歴史上有数の怪事件として語り継がれる事になる。
 詳細不明なこの戦争は巷間に様々な憶測を呼び、後の世の多くの創作の材料になったが、真相は闇の中に葬られた。葬らざるを得なかったのだ。

 残ったのは、数々の不気味な噂のみである。
 
 最もポピュラーな噂話は、“ウード・ド・シャンリットは人間ではない”という話である。
 エルフか、吸血鬼か、はたまたそれよりもっと悍ましい何かだったというのだ。
 その噂を口にした者はどのくらい本気にしていたか分からないが、それは実のところ、殆ど正解であった。

 彼はその身体も魂の有り様も、ヒトのものでは無くなっていた。

 蜘蛛の祭司。
 アトラク=ナクアの巫覡。
 ――それがウード・ド・シャンリット。シャンリット伯爵家の長男で、当時の年齢は28歳の片輪者。その10年前、不能と不具を理由に伯爵家を廃嫡されている。廃嫡後、アトラナート商会というトリステイン中のあらゆる村落に出店している奇妙な商会の会頭に収まった。

 後に“ハルケギニア史上最大の異端”と呼ばれるようになる彼が、その異常性をハルケギニア全土に示した最初の事件――それが“シャンリット防衛戦”である。







 蜘蛛の糸の繋がる先は 18.シャンリット防衛戦・前編 ~ツインテールは海老の味~







 トリステインの王宮では蜂の巣をつついたような大騒ぎになっていた。
 当然である、国境を接する大国ガリアから宣戦布告を受けた上に、ガリアとは逆の国境を守る領地が時機を合わせて反逆をして強制二正面作戦というわけである。

「おやおや陛下お急ぎでございますか?」

 廊下を大勢の家臣を引き連れて歩くトリステイン王に気軽に話し掛ける男がいる。
 奇形のように小さな体躯に、人を食ったような化粧。
 道化だ。

「急ぎも急ぎだ。戦争だ」
「おやおや戦争! 人は皆日々生きるために戦うものでありますれば、平時もまた戦争! 生存を賭けた闘争! 何を特別に急ぐことがありましょう!」

 矮人の道化は王の横を魔法でくるくるとデタラメに飛び回りながら意味のない繰り言をする。

「今日は貴様の戯言に付き合う暇はないのだ」
「何をおっしゃいます、きっと万事何も問題なく収まりますとも! 陛下は天運に愛されておりますれば!」
「ええい、止さぬか」

 無聊を慰めるために王宮に雇われた道化を追い払いながらトリステイン王は考える。
 ガリアと都市国家の挟み撃ちについてである。

 そもそも何故そのような事態になったのか。
 基本的にはここ数年の不作が原因であり、穀物が多くあるトリステインに『じゃあ奪いに行こうか!』となったのが原因である。
 いや、トリステインも不作ではある。不作のはずだ。各地の領主や代官からは不作になりそうだから援助をお願いしたいという旨の訴状が届いていた。王政府もそれらを受けて領外に穀物が流出しないように対策を打ったのだ。
 だというのに市中の穀物価格は平常時と変わらず暴騰も暴落もせずに安定している。まるで何かに操作されているかのようだ。
 国内の穀物商は国内で穀物がダブついているのを受けて、他国の足元を見て売り捌いたため、非常に大きな利益を出している。それに応じた財貨も蓄えられている。

 つまり他国から見れば、トリステインは非常に魅力的な、丸々と太った金のガチョウのなのである。
 ガリアなどの大国に比べれば貧弱な軍隊。さらに、理由は不明ながら東方の都市国家群も団結して大挙して国境線に押し寄せている。奴らはバラバラで纏まらずいがみ合いをしているはずではなかったのか。タダでさえ精強とは言えない軍隊を2つに分けなければならないのだ。
 おそらくガリアと都市国家群は共謀しているのだろう。領土を得るよりも、恐らくは捕虜を得ての身代金や勝利を得ての賠償金が目当てなのだろう。

 王が会議場に入場し、席について緊急の会議が始まる。

「陛下。早急に王軍を編成せねばなりません」
「分かっておる、元帥。諸侯軍の招集はどうなっておる?」

 王宮の会議場、緊急招集に応じた諸侯、閣僚、軍人がずらりと並んでいる。

「その件ですがシャンリット伯爵から報告と連絡が上がっております」
「今はあそこが東方都市国家群との最前線になっておるのだったな。申せ」
「は。“援軍は不要です。侵攻勢力は独力で駆逐致します。王軍は防衛戦ではなく逆侵攻の準備をしていただきたい。その際の兵糧の負担も致します。またシャンリットからクルーズ領(トリステイン-ガリア戦線)へ戦力の抽出を行っております。トリステインに栄光あれ”……とのことです」
「……? 大言壮語を吐きおる。信用できるのか?」
「少なくともガリア方面への派兵は本当です。シャンリット家の旗が掲げられた巨大なフネ――目視で確認できた範囲では、300メイルほどの大型航空艦が2隻とそれに付き従う20隻弱の30メイルほどの駆逐艦――と、100メイルほどの竜型幻獣を中心とした無数の飛行軍団が、王都を越えてクルーズ領へ向かうのが確認されています」

 その船団の規模に議場が騒然となる。あまりに大きすぎる規模だ。

「彼らはつい数時間前に王都近郊の空を“戦時の非常時である。援軍に行くための近道だ”と称して猛スピードで通過していきました。彼らが裏切る気でしたら、その時に王都は瓦礫の山と化していたでしょう」

 あからさまな示威行為である。

「何故そのような巨大な戦力が高々一伯爵家にあるのだ?」

 トリステイン王が皆の感じていた疑問を口に出す。
 それに元帥が答える。

「……えー、先程の報告に付いております想定問答集によりますと――」
「なんだそれは」
「“こんなこともあろうかと、トリステイン閣僚の皆様の疑問にお答えする一冊”という副題になっております。それによりますと、船の方は“アトラナート商会で試験的に建造中であった新型艦を徴発したものであり、当家の軍備として用意されていたものではありません”とのことです。巨大幻獣の方は“嫡男ロベール・ド・シャンリットのペットであり、王政府に届け出は出しております。その他竜騎士は通常は商会の護衛や竜籠に使役されているものを戦時徴発したものであります”とのこと」

 あれだけのモノを臨時徴発で済ます気かと、シャンリット家の面の皮の厚さにシャンリット家派閥ではない閣僚は憮然とする。読み上げた元帥も憮然としている。
 だが確かに国家の一大事であることは明白であり、既に動き始めたシャンリット家の諸侯軍を止めることも出来ない。

「何にせよ、今はシャンリット家の忠誠を信じるしか無いという訳だな。元帥は引き続き王軍と諸侯軍の編成を急げ。我らが国土を守り、反逆者を滅ぼすのだ。シャンリット伯にだけ手柄を取らせるんじゃあないぞ」
「はっ、御意に」

 会議は解散し、王は会議場を後にする。

 扉を出たところに道化の矮人が陣取り、色とりどりの魔法の火の玉でジャグリングをしていた。
 道化は火の玉を火の粉に分解して周囲に雪のように散らすと、トリステイン王に向かって話し掛ける。

「ほらね、陛下。何も急ぐことはなく、何とかなってしまったでしょう?」





 シャンリットと隣接する領地との境、そこは東隣の領が東方都市国家に寝返ったためにトリステインの最前線となっていた。
 鬱蒼としたシャンリットの森の中に作られた太い道を軍隊が行く。深い森は不気味に静まり返っている。鳥の鳴き声も聞こえない。
 かつては山ほど存在した亜人や幻獣は姿を消しており、街道が整理されたシャンリットの土地は東方軍の進軍を阻むことはなかった。
 その代わりにその圧迫するような不気味な気配が軍団を絞めつける。確かに鳥の声はしない。しかし、そこら中にもっと小さな生き物の気配が溢れている。虫の声、小さな生き物が動くことによる葉のささめきが周囲にじっとりと満ちている。ほら少し目をやれば、大きな蜘蛛の巣に小鳥が絡まり消化液を注入されてドロドロに溶けた内蔵を巣の主に啜られているのが見えるだろう? 下草ががさがさと蠢くところを見れば、蛇がサソリの鋏に捕らえられて毒針を刺されるのが見えるだろう? ぶんぶんと五月蝿い羽音がする先を見れば、熊を刺し殺したスズメバチたちがその獲物の肉体が見えないくらい大群で死体を覆ってぎちぎちと肉を食いちぎっていくのが見えるはずだ。

「随分と楽に進めるな」
「街道がよく整備されているお陰ですね」

 指揮官らしき男とその従卒が会話をする。何か話していないとおかしくなってしまいそうだ。
 確かに彼らが言うように街道はよく表面が固められており、馬車の車輪が嵌るような凹みや泥濘も存在しない。
 シャンリット伯爵嫡男は商才に溢れると東方都市まで音に聞こえていたが、確かにそうなのだろう。
 関税の撤廃や街道の整備によって、シャンリットの物流や人の行き来は活発になり、そのお陰で関税を廃したのにも関わらず税収も増えたのだという。

「商売人としては天才でも、軍人には向いてなかったということか」
 
 東方軍は幾つもの都市国家から抽出された諸侯軍による混成部隊である。
 この男はそのうちの一つの軍を任せられている司令官だ。
 その口調はウードに対する嘲りを、まるで隠そうとしていない。
 貴族とは闘う者。商売人としての顔を持つウードは、貴族社会では軽んじられてしまう傾向がある。

「道を整え、関所を廃す。大いに結構。お陰で我々は労せずしてここまで進んでくることが出来たわけだ」

 関所を廃したことで街道で敵軍を塞き止めることが出来ず、領境から程近い街まで、彼らの進撃を許してしまっている。
 このまま最初の街を落とし、橋頭堡を確保すれば、シャンリットの中心まで一気に攻め入ることも可能だろう。
 領境の小さな町とはいえ、大軍を休息させることが出来る拠点を得られるのは良いことだ。こんな奇妙な森の中で休憩するなど耐えられない。
 
 運が良ければ、関所が無いためこの進撃を察知する伝令も走らず、トリステインには東方軍の動向さえも知られていないとさえ考えられるが……。

(流石にそれは望み過ぎというものだろう)
 
 司令官は頭を振って希望的観測を追い出す。戦場では何が起こるか分からない。希望的観測は自分の首を締めるだけだ。
 ガリアの後ろ盾。トリステイン国境の貴族の寝返り。そして営々と準備を重ね、東方都市国家の全勢力を結集した軍隊。
 
 そして。

「まさか守り竜様まで投入するとはね」

 上空を舞う、巨大なドラゴンの影が森の木々の隙間から見える。頭から突き出す大きな二本の角が印象的な巨竜だ。そのドラゴンは東方都市国家で一番巨大な国家の王族の使い魔だった韻竜だ。数百年前に主が寿命で死んだ後でもその都市に留まり、その知恵を貸し、また絶対の守りを与えてきたのだ。
 この戦争を提案したのも、実はあの守護韻竜であるという話だ。彼に付き従う火竜や風竜も百匹以上は空を舞っている。

 これだけあれば、トリステインの一地方を落とすことくらい訳はないだろう。
 そしてシャンリット家を討ち、アトラナート商会の権益を抑えることが出来れば、ゆくゆくはトリステインの首根っこを抑えることすら可能であろう。
 アトラナート商会の影響力を、東方領の諸侯はそれだけ高く評価していた。

「しかし、司令。寝返ったとこのボンボン、意気地なしでしたね。『戦場になんて行くものか。何があっても、あのウードを敵になんて回したくない』だなんて」

 内心ではしかしこの場まで来てみれば、東方軍の誰もが“ウードを敵に回したくない”と言った貴族の様相に納得していた。
 ああ、ここは確かに不気味な場所だ、攻めたくないのも良く分かる、と。

「ん、そうだな。何をそんなに恐れているのか知らないが。だが、あの怯えっぷりは異常だったな」

 だがそんな“不吉な予感”なんてものを表に出さないくらいにはこの指揮官の男は用兵というものを理解していた。指揮官が怯えれば、兵はたちまち弱兵と化す。
 国境を治めていたトリステイン貴族の息子は、魔法学院でウードと同じ学年だったのだという。出兵に当たって異常なまでに怯えており部屋に閉じこもって出てこなくなっていた。
 その怯えた様子で兵を率いられても兵士の士気に関わる、ということで置いて来たのであった。後方で輜重・補給任務に当たらせている。
 閉じこもる時の彼の捨て台詞曰く。

『“狂気”のウードと何か戦ってられるか! 俺は一歩もここから出ないからな!』

 しかし分かっているのだろうか。東方軍が勝っても、戦争に出ないような臆病者の貴族は重用されないし、負ければトリステインに対する国家反逆罪で一族郎党皆殺しとなる可能性さえある。賽は既に投げられているのだ。

「……司令、敵も馬鹿ではないようです。こちらの進軍に気づいていたのでしょう。斥候によると、この先にシャンリットの紋章の陣が張ってあるそうです。ウードらしき人物の姿も見えるとか」




 東方軍が辿り着いた街は、シャンリット領の中ではそれ程大きな街ではなく、ありふれた街だった。
 だが彼らの目にはそうは映らなかった。

 100メイルは超えるような長大なモノリスのような四角い塔が幾つも立ち並んだそこは、人工の渓谷のようだ。
 一体どれほどの財力があればこのような街を造れるのだろうか? この街には一体どれほどの財貨が眠っているのだろうか?
 東方軍の彼らにとって、街はとてつもない威容を誇っているように見えたが、それ以上に掠奪の対象としてこの上なく魅力的に見えた。

「司令、やはり敵は馬鹿だったようです」
「嘗めているのか、それとも既に投降して来るつもりなのか」

 その国境沿いの街には、全く人影が見えなかった。
 唯一確認できるのは、領地を任されされているというシャンリット家の紋章旗のみ。
 その配下の家系の紋章なども確認できない。籠城戦をしようという気概はまるで感じられない。“空城の計”という訳でもあるまい。
 確かに自分たちが敵の立場であったなら、守護韻竜を敵に回してまで戦争をすることなど考えられないから、納得できないこともないのだが。

 街に放った斥候は次々と帰還し、如何に街に財宝が蓄えられているかを語り、また敵も少なく、僅かに残った領軍が市民を避難させる時間を稼ぐためにに篭城しているのみだと言う。急ぎの避難であったために食料も残されたままだとか。
 人気の感じられず、宝箱のように財貨が詰まった街を前に兵たちの逸る気持ちはピークに達していた。また、休息も少ない長行軍だったため、東方軍は休息場所を必要としていた。

 街を囲む城壁からは時折牽制のように弩が射掛けられるが、兵の姿は見えない。城門は固く閉じられ、高い城壁に囲まれたその街は難攻不落のように見える。
 東方軍はじっくりっと全軍を整理編成し、街へと攻撃を掛けることになった。多数の都市国家から編成された彼らは、先に着いた者から早い者勝ちに街を略奪することは出来ない。抜け駆けをさせないために全軍で包囲し、ヨーイドンで攻める、ということになったのだ。
 難攻不落に見えるが、その実、竜という航空戦力を有する彼らにとってはそれ程の難易度があるわけではない。城壁など竜騎兵が越えて行けばいいのだ。今回は城砦に篭る兵力も少ないので、楽に内部に潜入させられるだろう。

 しかし“狂気”のウードの名前は伊達ではないのだ。
 彼を尋常の理論で測ることなど出来ないのだということを、東方軍は思い知ることになる。

 こんなお誂え向きの掠奪場を提供するような者なのだろうか、不気味な噂の絶えないウードという男は?
 果たして斥候が齎した情報は真実なのだろうか?
 帰ってきた斥候は、出ていった時と同じ者だったのだろうか?
 そもそも帰ってきたのは人間だったのだろうか?

 何を信じるべきか。
 何が信じるに足るのか。
 何か信じられるのか。

 ウードを前にした人間はある種の不安定感を覚えるが、それは彼のような常識の埒外にある者たちによって、常識という足場が蚕食されて不安定になるからだ。



 守護韻竜と呼ばれる50メイルほどもあるドラゴンは、空を駆ける。
 彼が喚び出されて以来、こうやって都市の守りを離れて打って出るなど無かった。
 かつての主との約束を破ることになるが、彼はそれでも“ウード・ド・シャンリット”という個人を滅ぼさねばならない理由があった。

 はるか昔に地の底に追放された忌まわしい魔獣達が蘇り、再び増えんとしている。
 かつて先祖たちが多くの犠牲を出しつつも地の底に追放した穿地蟲(うがちむし)達が、深淵の橋架け蜘蛛の祭司の導きで蘇ったのだ。
 この韻竜は、竜と穿地蟲との冒涜的なハーフたちの存在を、自らの竜としての共感覚に捉えることで、他の同属達に先駆けてその事実を知ったのだ。

(ウード・ド・シャンリット……。彼は必ず滅ぼさねばなりません。そしてあの穿地蟲に侵された可哀想な子も解放してやらなくては)

 穿地蟲とのキメラドラゴンたちは、自分と引き連れてきた竜たちで相手をすればいいだろう。

(あの子を滅ぼし、その魂を忌まわしい軛から解放し“大いなる意志”の下へ送る間に、人間たちが彼を殺せばそれでいいのですが。しかしそれは難しそうですね)

 もぬけの空の街を見下ろして、彼はウードがやはり一筋縄でいかない相手だということを感じていた。

 人間たちには感じ取れないのかも知れないが、この領地は異常だ。

 空から見下ろす彼には、何も無い地面がまるで巨大な蜘蛛の巣の上のような、逃げ場の無い死地に見える。
 十数年前にこの領地に棲む竜やワイヴァーンが、守護韻竜の下へ大挙して移ってきたことがあったが、それも納得できよう。こんな四六時中監視されているような、あるいは常に捕食者の俎の上に乗せられているような気持ち悪い土地では安息の時間など得られまい。
 土地の精霊も何らかの存在に呪縛されているようだ。数百年も過ごした東方の都市ほどでは無いにせよ、ここでも充分に精霊の力を借りられると踏んでいたが、認識を改める必要があるだろう。

(蜘蛛の祭司、その名は伊達では無い、と言う訳ですか。侮る訳にはいきませんね)





 一方、包囲された街の中の大通りの上をウード・ド・シャンリットは歩いていた。

 ウード、というかアトラナート商会はこの年の天候不順を予期しており、近年続いた不作によって限界に達した周辺国からの掠奪・賠償金目当ての戦争行為が発生するだろうことも認識していた。
 矮人たちはそこまで分かっていて手を打たないような間抜けではない。
 現在東方軍が攻囲している街それ自体、いやこの街まで続いていた街道も含めて、ここ数ヶ月のうちに準備された戦争のためだけの舞台なのだ。

「くふふ。うまく誘引されてくれたようだ」

 街の建物の多くは、アトラナート商会の企業城下町“ダレニエ市”から風石で基礎ごと浮かして運んできたものだ。
 別段、この国境沿いの街で一から建築しても良かったのだが、街規模での建物の移転の実験というのもなかなか機会がないことなので、わざわざ移設という手法をとったのだ。

 因みに現在、ダレニエ市では戦争とは関係なく、かねてから予定されていた魔道具の見本市が開かれており、トリステイン国内や海外から買い付け商人や貴族たちが訪れている。
 戦争とは言っても、実際に攻められている街以外は結構呑気なものである。
 他の街に掠奪の矛先が向かないように、と、攻撃対象を限定する意味でも今回の伽藍堂のゴーストタウンが造られ、そこへ向かう街道が整備されたのだ。

「わざわざ用意した甲斐があったというものだ。迷わないように道も準備してやったし」

 ウードはそう言いながら周囲の建物を覗き込む。
 内部には様々な計測器具が付けられているのが分かる。
 東方軍の斥候が報告した“金銀財宝ザックザク”とかいうのは嘘っぱちも良いところである。斥候は全て、矮人達によって捕らえられて記憶を吸い出され、ガーゴイルやスキルニルと入れ替えられてしまっている。

 この街をスルーされては困るので、敵陣にはウードがこの街に陣を布いているという情報をわざと伝えているし、チェンジリングした斥候によって様々な誤情報を流して全部隊を惹き付けている。
 また、相手の動きを制限するために、ある協力者たちに頼んで、東方軍に対して土地に縛られて移動できなくなるような呪縛を掛けてもらっている。

「どうせ潰すつもりだった建物だから、せめて有効利用しないとな」

 このゴーストタウンに集められた建物は東方都市国家軍を誘引するために配置されたものだが、最終的な利用方法は“建造物破壊時のデータ採取サンプル”である。
 街一つ分の建物を全て破壊させるつもりなのである。

 ウード以外のシャンリット家の面々はシャンリットの諸侯軍含めて全て、フネで運ばれてクルーズ領方面に投入されている。
 妹弟のメイリーンやロベールはこちらに残ると言っていたのだが、ウードが口の端を釣り上げて「本気を出すのに邪魔だから行ってしまえ」と言うのにゾッと気圧されてしまい、結局ガリア方面に出陣した。
 ガリア方面では、虹の女神の名を冠するキメラ〈イリス〉と虹を操る人間レーザー砲『“虹彩”のメイリーン』(母から襲名した)のコラボレーションが見られるだろう。
 クトーニアンとのキメラドラゴンであるイリスを目当てに来ている二本角の守り竜にとっては残念だろうが、彼がこの戦場でイリスと相見える事はないだろう。

「くふふ、人払いもしたことだし、存分に好き放題やれるなあ」

 笑いながら、ウードは、自分の意識を地上から地下へと移動させる。
 そう、地上のゴーストタウンに居たのはウード本人ではなくて、彼の分割された思考の一つが操る精巧なゴーレムであったのだ。そのためゴーレムはウード本人のような蜘蛛の異形的シルエットはしていない。
 地上のゴーレムは東方軍に開戦の口上を告げるためだけのものである。




 ウードはゴーレムの視点を覗いていた分割意識の一つを自分の体に戻した。
 戦場となるゴーストタウンからは遠く離れた地下都市の一室、そこにウードの身体はあった。
 左右それぞれの肩から生える一対二本の触肢と二対四本の脚の感触を確かめる。もう異形の身体にも慣れ親しんだものだ。
 肩甲骨の部分にある蜘蛛の赤い単眼も、頭の眼球と同様に視覚情報を送ってくる。

 ウードがいる部屋は、水族館のような大きな水槽がある部屋だった。真っ白い医務室のような、あるいは病室のような部屋だ。ウードは部屋の中央に立っており、コの字型に水槽が置かれ、部屋の扉以外の壁は溶液の向こうに見える。
 ただし水槽の中に入っているのは魚ではない。
 水槽の中には人体らしきものが二十程浮いている。

 部屋のライトは点けられていないが、水槽のライトは点いており、散乱光が青くウードの顔を照らしている。

 より正確に言うならば、水槽ではなくて培養槽、あるいは生命維持装置。
 中に詰められている液体は水精霊の涙をベースにした青い粘液。
 浮かんでいる人体には、周囲の溶液から魔力(精霊力)を吸収して生態維持に必要な酸素や栄養素を供給し、排泄物を分解する魔道具が埋め込まれている。
 そのため、この溶液中にいて生体維持魔道具が故障しない限りは、余程のことがない限りは死なないことになっている。

 水槽の中の人体は、よく見ると所々が蜘蛛の様になっているのが分かる。
 下半身が蜘蛛の腹になっている者、今のウードのように両肩から蜘蛛の脚が生えている者、はたまた抉れた脇腹から好き勝手に小さな蜘蛛が生み出されている者など、様々だ。

 ヒトと蜘蛛のキメラの失敗作群か何かだろうか。
 水槽を漂う肉塊たちは、そういうもののようだ。

 ウードが水槽を眺めている所に、館内放送が掛かる。
 スピーカが作動する前兆の微かなノイズが聞こえて、凛々しい声が響く。

「総員傾注! これより我らがアトラク=ナクア様の居城を侵そうとする愚か者どもを迎撃、掃討する!」

 ウードの居る部屋の外から放送に呼応して、ゴブリンたちの雄叫びが漏れ聞こえる。
 放送の主は今作戦の指揮官のゴブリンだろう。

「本作戦の注意事項は覚えているな! 貴重な検体獲得の機会だ! 各員担当区域をもう一度頭に叩き込め! あとは相手方の貴族の顔ももう一度確認しておけ!」

 今回の作戦は、ゴブリンたちにとってヒト(平民とメイジ)を実験用として大量に手に入れる絶好の機会なのだ。
 そのため今回の作戦では生け捕りが推奨されている。
 貴族の顔を特に覚えておくのは、後に東方都市国家を平定する際に彼らの脳髄に蓄えられた経験・ノウハウが必要になると予想されているからだ。その貴族を人面樹に捧げて記憶を吸収し、後の統治に混乱を引き起こさないように利用するのだ。

「では各員が全力を尽くすことを期待する! いあ! いあ! あとらっくなちゃ!」

 廊下から一斉に蜘蛛の神を讃える声が上がる。
 放送がぶちりと切断されるが、廊下からの合唱は止まない。

 そんな中、ウードの背後にある部屋の入口が、軽い圧縮空気の音と共にスライドして開く。
 入ってきたのはウードの秘書を務めるゴブリンだ。

「ウード様、こちらに居られたのですか」

 低い背に相応しい軽くて間断ない足音を立ててウードに近寄る。
 ウードは左右の脚を揺らして振り向く。

「ん、今回の作戦の第一段階の功労者だからね、こいつらは」
「そうですね。時間になりましたので、地上のゴーレムで東方都市国家軍への宣戦布告、開戦の口上をお願いします」
「じゃあ、行きますかね」

 秘書のゴブリンに先導されてウードは水槽のある部屋を出る。
 圧縮空気の音と共に扉が閉まる直前、彼は振り向くと一瞬だけ水槽の中に視線を送る。

 水槽の中で揺蕩う蜘蛛人間の出来損ないたちは、みんなウードとそっくり同じ相貌をしていた。





 男は集中していた。
 弓を引き絞る。

 彼は傭兵の風メイジ。
 都市国家に雇われた、スナイパー。

 風のドットに過ぎない彼は、魔法と弓を組み合わせた戦法を用いる異端のメイジだ。
 杖の契約をした頑丈な弓を使い、矢を風に乗せて遥か遠方の的を射抜くのだ。
 使い魔の蝶は、鋭敏な感覚で彼に風の流れを教えてくれる。

 彼の視線の先には、間抜けにも城壁の上に立って、開戦の口上を述べている敵の大将が見える。
 耳の良い彼には城壁の上の男の声が聞こえる。勿論、城壁の上の敵が『拡声』の魔法を使っているということもあるが。

 弓を引き絞る。
 顔を汗が流れる。
 まだだ、まだ風が安定しない。的に当たる道が見えない。もう少し。

「我が名はウード・ド・シャンリット!」

 そう、的の名前はウード・ド・シャンリット。
 アトラナート商会の会頭、今回の戦の一番の賞金首、実質的な大将。
 もう少しだ、もう少しで道が見える。矢を運んでくれる風の道が。
 まだ……、まだだ。

「シャンリットに攻め入る身の程知らずよ、その……」

 風が変わった!
 今だ! 

 男は弓に蓄えられた弾性エネルギーを開放する。
 矢が飛んでいく。
 その瞬間に男は矢に魔法をかけて更に加速させる。

 道筋通りだ。
 男は矢の軌跡を見ずとも、自分の放った矢が命中することを確信した。
 口上の途中だろうが関係無い。そんなものは後でどうとでも取り繕えるのだ。生き残り、戦に勝ち、金を貰う。それだけだ。

 風に流されて矢の軌道は渦巻くように変化するが、数百メイルの距離を一瞬で翔けた矢は、演説をしていたウードの頭蓋へと――過たずに突き刺さる。

 猛烈な勢いで突き刺さった矢によって、ウードは翻筋斗(もんどり)を打たんばかりに仰け反る。

 第一射からのヘッドショットという離れ業に、東方軍陣営は大いに盛り上がる。狙撃を成功させた風メイジは、仲間連中に持ち上げられ胴上げされている。

「さすが“風見”だ!」「よっ、名スナイパー!」「お前が味方で良かったぜ」

 早くも戦勝気分が混じりだした者たちの中で、前線の数名の目は、未だに城壁に釘付けになっていた。
 上空を舞う竜も、警戒を緩めてはいない。

 何故なら、ウードの傾いだ身体は倒れること無くそのまま立っているからだ。
 仰け反った体勢のウードが、ゆっくりと、ぎりぎりと先程の逆回しに身体を起こす。

 その様子を見た前線の者たちが息を呑む。

 明後日の方向を向いていたウードの目が自分の頭蓋に刺さった矢を確認しようとぎゅるぎゅると動き回る。
 やがて見つけたのか一方向に固定されると、刺さっている矢へと手を伸ばす。

 後方の者たちはまだ浮かれている。

 矢の箆(の)に手を掛け、返しの付いた鏃に構わずに引き抜くと、直ぐに投槍を投げるかのように持ち替え、バックステップ。
 体を捻り、大地の反発力を脚から腰、体幹、肩、肘、手首へと伝達させ、加速させると、矢を放つ。

 決して人間には出せない速度で放たれた矢は、周囲の風など物ともせずに突き進む。

 一番の功を挙げた風メイジが胴上げされ、宙に舞った瞬間。そこに、矢が飛来し、風メイジの傭兵に突き刺さった。
 いや、突き刺さるどころか、矢は傭兵の心臓を貫いて、背面に抜けて犠牲者の背中を弾けさせると、密集していた周囲の人間を何人も貫いてから漸く地面に刺さった。
 そこまでの惨状を作り上げてもなお原型を留める矢には『硬化』でも掛けられていたのかも知れない。元々の射手が掛けたものか、ウードが掛け直したものか分からないが。

 犠牲者が散らばっている方向から、矢の飛来した方角は直ぐに分かった。城壁の方角だ。
 皆が城壁を見る。漸く後方の者も気がついたようだ。戦争はまだまだ終わっていない、それどころか始まってすらいなかったのだ、と。

 皆の視線の先。そこには、城砦の上に何事もなかったかのように体勢を戻し、頭に刺さっていたはずの矢を素手で掴んで投げた、という姿勢のウードが見えた。
 その表情は演説を邪魔された所為か憮然としている。
 静まり返る大軍。そこに、『拡声』されたウードの声が染み渡るように広がる。

「……シャンリットに攻め入る愚か者よ。その報いを受けよ!」





 数人が思わぬ反撃の犠牲になったものの、相手はたった一人。しかも大将首である。功を挙げるチャンスだ。
 得体の知れない魔法を使うのか、先程の一撃は効いてないようだが、これだけの数を相手に独りで戦うことは出来ないだろう。
 たとえエルフであっても、万軍を相手に独りで抗することは不可能だ。そう考える東方軍の士気は未だに高い状態を保っている。

 確かに数は力だ。万軍を相手にするには、それ相応の数、あるいは質を揃えなければいけない。
 ――だが、それは別にヒトである必要はないのだ。今回の東方軍が“数に勝る質”として巨大な韻竜を担ぎ出したように。
 ――ウードの主義には反するが、彼もまた“数に勝る質”を投入していた。

《――け・はいいえ えぷ-んぐふ ふる・ふうる ぐはあん ふたぐん――》

 異変は足元から始まる。大地の揺れ。地震。地上に居る者は誰も立っていられない。
 局所的な地震によって地割れが広がり、戦場は区切られ退路は閉ざされる。

《――け・はいいえ ふたぐん んぐふ しゃっど-める はい ぐはあん おるる・え えぷ ふる・ふうる――》

 地の底から立ち上る邪悪さを感じたのだろう、守護韻竜が威嚇の吠声を上げる。

「来たな! 穿地蟲め!!」

 韻竜の周囲の竜も、雄叫びを上げる。その大音声の中でも、地の底から響く不気味な詠唱は不思議と耳に届く。

《――しゃっど-める いかん-いかんいかす ふる・ふうる おるる・え ぐはあん――》

 竜達の声に反応したのか、地の底から古来よりの魔獣が現れる。
 詠唱に続いて地面の揺れが強力になる。
 城塞都市の巨大な墓石のような建物が、しなり、屈し、破断し、積み木崩しのように、或いは撓みに耐えかねたように弾けては崩壊していく。

《――えぷ えぷ-ええす ふる・ふうる ぐはあん――》

 囁くような詠唱と共に地を穿って現れ出たのは、山のような巨体。

《――ぐはあん ふたぐん しゃっど-める ひゅあす ねぐぐ・ふ――》

 無数の触手が生える頭部に目はなく、気色の悪い粘液でその身体は覆われている。
 灰色の胴体は地上に現れた部分だけでも100メイルを超える。一体地下に埋まっている部分を合わせればどれ程になるというのか。
 地面から生えた巨体は、まるで海中のウミユリのようにその胴体をくねらせ、触肢を振り乱している。

 そう“数に勝る質”として、ウードは自らの使い魔の巨大クトーニアンに協力を要請していたのだ。
 ――だが“数に勝る質”であろうとも、数量を投入してはいけないということはない。

 崩壊した街の建物の代わりに、20ばかりの巨大なクトーニアンが地面から屹立している。
 太陽も笠がかかったかのように、あたりの光量が落ちたような気もする。
 腐敗した臭いが満ちる。

 巨大な巨大なクトーニアンたちだ。
 通常は30メイル程度の大きさなのだが、どのクトーニアンも100メイルを超えるように見える。
 それが20程。

 ウードの使い魔――ルマゴ=マダリという名のクトーニアンを巨大に成長させたのは、『コントラクト・サーヴァント』によって刻まれた使い魔のルーンの作用であった。
 地下室でウードが眺めていた水槽の中にあった、出来損ないの蜘蛛とヒトの混ざった肉塊の数も、20ばかりだった。
 今、竜のブレスを弾き飛ばしながら身体をくねらせているクトーニアンの数と全く同じだ!

 『サモン・サーヴァント』で召喚される使い魔と、召喚主のメイジの関係はある程度遺伝によって固定されている。
 ゴブリンたちは、クトーニアンたちを更に強力にするための研究を彼らから依頼されていた(依頼というより武力を背景にした脅迫であったが)。

 その結果辿り着いたのが、ウードのクローンに蜘蛛の呪いを感染させて魂を邪悪に染めた上で、使い魔を召喚させるという方法だ。
 蜘蛛の呪いが浸透していない場合では、クトーニアンの卵は召喚できなかったのだ。
 あの地下の水槽に浮かんでいたのは、クトーニアンのルーンを保持するためだけに生かされているウードクローンの成れの果てだったのだ。

 

 守護韻竜と周囲の竜が、ブレスを浴びせながら周囲を飛び回る。東方軍は地震によって指揮系統が寸断されたのか、恐慌を来して好き勝手に魔法を放つ。
 だが、その何一つ効果を顕さない。地核の熱にも耐える怪物には、如何なるブレスも火の魔法も効かないし、巨体に対して風の刃も土の槍も効果を顕さない。

 宙を舞う韻竜が、精霊の力を借りて魔法を使う。

「雲よ! 滝の如く敵を押し流せ!」

 クトーニアンの弱点である水を使った攻撃だ。
 空中にある雲の精霊ならば、地面の精霊と違ってまだ呪縛されていないため、守護韻竜が契約することが出来たのだ。

 上空の雲は韻竜の言葉に従い、滝のような雨となってクトーニアンたちを打ち据える。
 水に包まれたクトーニアンたちはのたうち回り、醜悪な悲鳴を上げる。

「やったか!?」

 クトーニアンの上にのみ、雨は滝のように降り注ぎ、周囲からはその姿も確認できないほどだ。
 これほどの水があれば、100メイルを超える巨大クトーニアンでも一溜まりもあるまい。
 ……何の対処もしていなければ。

 突然、水のカーテンの向こうから、白く濁った腐汁のような水の鞭が伸びたのだ。
 それに絡め取られて韻竜の周囲を飛んでいた風竜が水のカーテンの向こうへと消える。

「なっ!?」

 韻竜が思わずして驚きの声を上げる。
 辺り一帯の雲が落ちてしまったため、滝のように降り注いでいた雨が止んでしまう。
 その向こうから現れたのは、未だ健在なクトーニアンの群れであった。

《馬鹿め》 《水が弱点と知ってそのままにしておくと思うたか》
  《何万年この惑星に棲んでいると思っている》 《ぎゃははははは》 《やられたとでも思ったか》
《ははははは、舐めるなよ、竜よ》 《喰ろうてくれるわ》

 戦場にいる者の精神に直接、クトーニアンたちの声が響く。

「貴様ら、これは人間の魔法ではないか!」

 本来は致命傷を与えるはずの水による攻撃も、粘液に阻まれ、また水除の魔道具の力で無効化されている。

 巨大な烏賊のような、あるいはイソギンチャクのようなその怪物たちは、素早く何本もの触肢や、水で出来た『ウォーターウィップ』の偽触手を伸ばすと、守護韻竜の周囲を飛んでいた竜をまとめて二十数匹ほど捕らえる。

 何故、空を舞う竜が、生活圏が重ならない穿地蟲を忌み嫌うのか。
 それは穿地蟲が竜の天敵だからだ。
 穿地蟲にとっての竜は、何にも勝る美味なのだという。特に韻竜のそれは美味であるとされているらしい。

 捕らえられた竜は触肢を突き刺され、体液を吸収される。
 もがいていた竜たちは直ぐに力尽きて、ミイラ同然の乾いた死体となってしまう。

 守護韻竜は、相手の有り得ない程の巨体と攻撃が全く効いた様子がないことを見て取ると、頭の中で逃げる算段をし始める。

(……ああ、あれは無理ですね。もうウード・ド・シャンリットを殺してどうにかなる次元を超えています)

 守護韻竜はもはや戦意を挫かれてしまっていた。

(人間たちには悪いですが、あれを相手にしては身が持ちません。というか、何ですか、あの大きさは。反則にも程があるでしょう)

 穿地蟲は平均的なサイズは精々30メイルだったはずだ。その10倍以上もあるモノが居るなんて予想だにしていなかった。しかもそれが20匹近くも。
 自分の領域である東方の都市で迎え撃ったとしても、勝てるかどうか判らない。そんな相手を前にして、守護韻竜は逃げの一手を選択。
 ここに残っていては、自分はあの烏賊ミミズの化物に食われるのみだというのを肌で感じていた。

 竜の眼下で人間たちの悲鳴が上がる。

「ああ、守護竜様が!」「もう終わりだ!」「見捨てられた」「助けて、守り竜様!」

 彼とて、かつての主の臣民を無碍にしたくはないが、天敵を前にして助けるほどの義理を覚えてはいなかった。
 韻竜は竜を引き連れて、天を衝く異形から離れていく。それを見て、東方軍の士気は崩壊していく。

 逃げ惑う人間の様子よりも、いずれ復活するであろう穿地蟲の大群を如何に凌ぐべきか、韻竜の思考はそちらに向けられていた。





 尻尾を巻いて逃げ出す韻竜たちを見て、地表に現れたクトーニアンたちは用は済んだとばかりに地底へと帰っていく。
 帰りの道すがら、クトーニアンの中でも一際巨大なルマゴ=マダリは、使い魔の共感覚を通じてウードと話をする。

(おい、ウード。今日はなかなか珍しいものを食べられた。礼を言う)
(何、使い魔に食事を与えるのも主人の役目だ。それで、竜の味はどうだった?)

 ウードは『珍味を食べたくないか』と言ってルマゴ=マダリを戦地に呼び出していたのだ。

(美味い。……が、正直地上に出るまでして食べるものでもない。ゴブリンの作る食事の方が美味だ)
(そうかそうか、不味くはないのか。じゃあ、高カロリー食のバリエーションに竜風味を増やしたら人気出るかな?)
(そうだな、恐らくはそれなりに人気が出るだろう)

 ウードやゴブリンたちは、クトーニアンという恐ろしい種族に対して、数々の彼ら好みの食材を提供することで慰撫しているのだ。
 良いように使われているだけではあるが、それでクトーニアンたちの敵に回らなくて済むなら安いものである。

(ではまたな、ウード。そろそろ帰る。一応、貴様の願い通り足止めの呪縛もしたし、地上も割ってやったから充分だろう。我らとしても戦力確認が出来たし、魔道具の効果も見れた。韻竜どもには大昔に年寄り連中が恨み辛みがあるようだが、今回は充分だろう)

 そう念話で告げると、ルマゴ=マダリは囁くような詠唱を残しながら地下へと戻っていく。

 地上はクトーニアンたちの能力によって見る影もなく荒れ果てている。

 そして、いよいよ矮人共がヒトに対して牙を剥かんとしていた。


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2010.08.20 初投稿
2010.08.21 誤字等修正
2010.08.29 一部追記
2010.10.26 修正、追記 修正することは少ないと思ってたがそんな事はなかった



[20306] 蜘蛛の糸の繋がる先は 19.シャンリット防衛戦・後編
Name: へびさんマン◆29ccac37 ID:4dc27135
Date: 2010/10/30 18:36
 穿地蟲(クトーニアン)の持つ恐るべき地殻操作能力によって、地面はヒビ割れ、隆起し、荒野と化していた。
 韻竜が去り、穿地蟲も姿を消した戦場。
 もはや東方軍の士気は崩壊し尽くしてしまっている。

 奇跡的な事に、ウード(を象ったゴーレム)による矢の投げ返し以外での死者はまだ出ていない。
 だが、大地を揺らす程の大規模な土魔法を受けて、あの人智を超えた巨体の化物を直視し、さらに守護竜にまで見捨てられた彼らは完全に恐慌を来してしまっている。
 特に徴兵された平民兵は、穿地蟲を直視した際に激しく動揺してしまっている。メイジよりも神秘からは縁遠い彼らは、完全に邪気に当てられて正気を失ってしまっている。

 高位のメイジほど、その動揺は少ない。軍人としての常在戦場の心構えというのも役に立ったのだろう。また魔法という神秘に親しい彼らは、超常の存在に対してある程度の耐性を備えているのだ。
 あの邪悪な化物たちは地の底へと去った。斥候の報告通りなら数の上ではこちらの方が圧倒的に有利。何しろ、大将首であるシャンリットの長男以外はこの戦場に姿を見せていない。それに向こうも地震の被害は被っているはず。
 とはいえ、楽勝だと思っていた状況からひっくり返されて、皆が動揺しているため、再編成が必要だ。
 相手の数が少ないからそれ程の犠牲を出さずに撤退できるだろうが、撤退をする命令を伝えるのでさえこの混乱では不可能だろう。

 ならば混乱を収めてしまえば良い。

「『沈静化』!!」

 ある都市国家の軍司令官が、混乱を収めるための水魔法を用いる。
 『沈静化』のスペル自体はそれ程高ランクではないが、その範囲を拡大して全軍を射程に収める為に風の系統を上乗せし、精神力も大幅に追加投入してある。
 周囲の者たちが徐々に冷静になる。感情の振れ幅を一時的に小さくさせる呪文がその効果を顕したのだ。
 司令官は戦闘開始前にも関わらず精神力をかなり消耗してしまったことを自覚するが、こうでもしなければ全軍が壊乱して自滅していただろう。

 司令官が口を開き『拡声』の魔法で自軍に撤退の指示を出そうとした時、周囲から再び地響きがした。
 またあの怪物が戻ってきたのかと、皆が身構えるが、それは恐ろしい巨体が再び戻ってきた音ではなかった。
 さらに悪い事態であった。

 戦場からの退路を塞ぐ土の壁が全軍を包囲せんとせり上がって行く音だったのだ。
 後ろにあった本陣と前線を遮る壁が立ち上がる。本陣の更に向こうにも壁が立ち上がっていく。
 上空から見れば、崩壊した瓦礫の街を中心にして、巨壁が二重円のように戦場と東方軍を囲んでいるのが見えただろう。恐るべき規模の土の魔法である。

 ここに至り、戦場の指揮官たちは覚悟を決める。


 ――退路が無いならば、前進あるのみ――



「敵を討ち取れ!」「前へ進め! 生きる道はそこしかない!」「勇気を見せよ! 大将の首は目前ぞ!」

 『沈静化』によって生まれた精神の空隙に、指揮官たちの言葉が染み入っていく。

「全軍、前進せよ!」「前へ!」「敵を押しつぶせ!」「進め!」「隊伍を組め!」「行くぞ!」「前へ!」「前へ!」「進軍せよ!」「前へ!」

 崩壊しかかっていた戦線が再び構築され、人は波となって城壁へと殺到せんとする。

「前進!」「前進!」「前進!」「前進あるのみ!」

 邪悪によって恐怖に囚われた心も、正常を保っていた心も、全て等しく呑み込まれていく――戦場の狂気に。



「全軍、前進せよ!!!」


「オオオオオオオオオオオオォォォォォォォ!!!」








 蜘蛛の糸の繋がる先は 19.シャンリット防衛戦・後編 ~ゴブリンの雨が降る、終わらない雨が~
 






 
 上空。竜が居た場所よりも更に高空。
 雲の隙間から、平たい巨大な板と、それを上から吊り下げている魚のような影が見える。
 魚のような影は、空気抵抗を考慮した流線型のフネで、ゴブリンたちが用意したものだ。フネの全長は50メイルほどで、シルエットはまるで鯨かジンベイザメのようだ。
 それぞれの下には斜め前方と斜め後方に下に向かって頑丈な爪の付いた強靭なワイヤーが伸びており、一辺の長さがフネの全長と同じくらいの大きな正方形の〈鏡〉ががっしりとその爪とワイヤーに支えられて備え付けられている。〈鏡〉は数枚重なって備え付けられているようだ。

 〈鏡〉の四隅に向かって伸びているワイヤーに沿って、それを支えているフネから人影が飛び移っていく。
 青と白の迷彩で染められた軍服を着た小柄な影は、シャンリットに由来を持つゴブリンメイジである。
 ウードの手によって、系統魔法を使えるようにされ、樹の実から生まれて殖えるようにされ、更には死人から知識経験を引き継ぐように改造された新興の知的種族である。

「降下準備!」
「了解!」

 正方形の四隅に一人ずつゴブリンメイジがフライで飛んで行って付くと、〈鏡〉を支えている爪が操作される。
 数枚重なっている〈鏡〉のうちの一枚をフネから切り離すのだ。
 
「3分間の自由落下後、鏡の平面を地面に対して平行に調整。それぞれ指定の領域に鏡を投下せよ。鏡には随時『硬化』を掛けて、破損を防ぐように」
「了解!」

 指揮官ゴブリンの声が掛かる。

「征って来い!」
「征きます!」

 4人1組の降下部隊が、フネを離れ、空色迷彩色の軍服をはためかせながら鏡と共に次々と落ちていく。
 彼らの第一陣がおよそ9000メイルの高空から地表に到着するまであと3分。






 
 押し寄せる東方の軍勢は、城壁の前で塞き止められていた。城壁は強固な『硬化』でも掛けられていたのか、材質が特殊なのか、地震のあとにも未だ健在であった。
 何故、たった独りの敵を相手に万軍が塞き止められているのか?
 それは突撃を仕掛ける東方軍に向かって、ウードゴーレムがばら撒いた無数の武器が原因だった。

 城壁に立つウードの似姿のゴーレムの後ろには、何本もの武器を収めた担架が『レビテーション』で浮かんでいる。
 そこから武器を掴んでは、膂力に任せて、東方軍に対して最初に傭兵を狙撃し返した時のような速度と正確さで投擲を続けている。
 周囲の城壁からも、鞭のようにしなる触手が生えており、瓦礫の街の全周囲を囲む軍勢へと次々と武具を撃ち込んでいる。投げる度に音速超過に伴う破裂音が響く。

「次、81号から100号」

 さらに20本の武器がウードゴーレムの手によって、次々と軍勢を縦に引き裂くように投げ入れられる。
 それぞれの武器は様々な形をしている。剣、ナイフ、槍、斧、メイスなどなど……。
 そんな風にそれぞれ形の違う武器たちの共通の特徴といえば。

【えと、お手柔らかに……】
「……。心配ならば自分に『硬化』でもかけておけ、97号。逝って来い」
【はーい……】

 それぞれ全てが知性持つ武器――インテリジェンスウェポンであるということだろうか。
 97号と呼ばれた棍も、これまでに投げられた武器たちと同様に、音速超過の速度で破裂音と共に投げ出される。

 爆音。周囲の人間を肉片と化して、棍が地面に突き刺さる。着弾点の土が弾け、土柱が上がりクレーターが出来る。

 そしてこの投擲攻撃は着弾して終わりではない。
 地面に突き刺さったインテリジェンスウェポンは着弾後に地下から伸びてくる〈黒糸〉と連結し、そこから供給される魔力エネルギーを使い、自身を核にしたゴーレムを創り出す。ただし人型ではなく、ヒトの胴程もある無数の蔦の形をしたゴーレムだ。
 等間隔で打ち込まれたインテリジェンスウェポンは、戦場をグリッド状に区切るように地面から花開くように触肢状のゴーレムを伸ばす。それらは隣の区画のインテリジェンスアイテムから伸びる触肢状ゴーレムと互いに絡み合い壁を創り上げていく。
 脈動する触肢で形作られた壁は、戦場をチェスの目状に区切り、東方軍を分断する。

 蠢く蔦が集まって出来た壁状のゴーレムの側面から、更に枝分かれして土の槍が生え、東方軍を各グリッドの中心へと追いやっていく。
 土槍は突き刺すだけでなく、時に鞭のようにしなる触手となって兵を打ち払い、武器を奪い、壁に囲まれた空間の中心へと東方軍を追い込む。

「チクショウ、槍が取られた!」「っ、気持ち悪いゴーレムだ」
【槍ゲットー!】【ふしゅるー、ふしゅるー】
「クソ、魔法で吹き飛ばしても次から次に生えて来やがる!」
【痛いぃぃい、けど直ぐ治るぅ】

 その怒号に溢れる戦場に遙か上空から迫る影がある。

 空気を切り裂いて飛来するのは、百枚を超える巨大な鏡の群れだ。







「速度合わせー!」
「了解ー!」

 落下する鏡の四隅に付いているゴブリンが『フライ』の魔法によって速度を調整し、落下位置を合わせていく。その鏡の中心に、各グリッドの中央に集められた東方軍を収めるように。
 四隅のゴブリンが鏡に精神力を流すと、鏡面が銀色に輝き、空気抵抗が消失する。
 〈ゲートの鏡〉が起動し、地底都市などに置いてあるそれぞれの片割れの〈鏡〉へと空間を超えて繋がる路が出来たのだ。

「投下後、反転急上昇! カウント合わせー! 3、2、1、今! 投下!」

 銀色のゲートは、枠に内蔵された回路に蓄積される精神力により、ゴブリンたちが手を離しても十数秒は空間の繋がり維持し続ける。
 しかるべきタイミングでゴブリンたちはゲートの枠から手を離し、〈ゲートの鏡〉を急降下で投下する。
 これによって、東方軍を転移させて更に分断しようというのだ。





 空から銀色が降ってくる。

 蠢く蔦壁の化物に追いやられていた私たちの小隊は、円陣を組んで周辺を平民兵に防御させ中心の貴族が詠唱する時間を稼ぐというオーソドックスな手法をとっていた。

「槍を構えろ! 詠唱の時間を稼げ! 壁を吹き飛ばす!」「近寄るな、触手の壁め!」
【ふふふ、そこに固まっておいてねぇぇええ】

 壁面から生える触手の群れを平民たちの槍が薙ぎ払って近づけさせないようにしている間に、私は『火球』を連続で詠唱し、気色悪く蠢く壁を崩そうとしていた。
 漸く壁の一部を『火球』の爆発が抉りきったという時に、その銀色は空から現れたのだ。

 風を裂く音。視界を覆う銀色。
 人間、咄嗟の時には動けないものらしい。それが出来るものが戦場で生き残り、英雄と呼ばれるようになるのだろう。
 上空から迫る銀の壁を呆けた顔で見上げるしか私たちには出来なかった。

 銀色に呑み込まれる。
 そう思った瞬間に、空間を捩じ切るような角度が私たちを襲った。
 脳髄を掻き乱し、精神をバラバラにするような鋭角が精神に突き刺さる。

 狂った角度を通り過ぎて、気がついた時には、私達は何処とも知れない場所に放り出されていた。
 もはや魂さえ千々に分かれて消えてしまうのではないかと感じた、あの狂気的で宇宙的な体験は、時間にして瞬きするほども無かったのかも知れない。




(一体何が。生きてるのか、私は。どこだ、ココは?)

 周囲には先程の戦場に共に立っていた小隊の面々が投げ出されたかのように、折り重なるように倒れている。
 平民兵の幾らかは投げ出された拍子に自分の持つ槍で貫かれたり、あるいは仲間を貫いたりしてしまっているようだ。
 少し観察してみるが、私の他のメイジたちは、どうやら死んでは居ないようだ。

 この場は、先程までの青空の下ではなく、窓のない空間でおそらくは地下牢か座敷牢のような場所らしい。
 三十数人ほどがこの場に転がっている。なかなか広い空間のようだ。天井や壁の一部が光を放つ魔道具になっているのか、窓が無いのに薄明るい。
 どういう理屈か分からないが、私たちは全く異なる場所に移動してきたようだ。
 最後に先程の戦場で見たのは銀色の光景だった。銀の鏡と場所の移動。……『サモン・サーヴァント』による召喚ゲートだったということなのだろうか。

(人間を、しかもこれだけの大人数を召喚する魔法なんて聞いたこともないが……。
 今日は信じられないものばかりを目の当たりにする。今更それが一つ二つ増えようが、それが何だというのだ。
 原因はともかく、私たちは今、見知らぬ場所、恐らくは敵地に居る。それが重要だ)

 瓦礫のの街、帰らない斥候隊、攻撃の効かない恐ろしい巨大なミミズのような触手の化物……。
 あの身の毛もよだつような低い囁き声の詠唱が耳から離れない。《――け・はいいえ ふたぐん んぐふ しゃ――》
 今にもまた、地の底から竜を喰らう化物が現れるのではないかという気がしてならない。《――ふる・ふうる ぐはあん――》
 ……先程から、隊の誰かが何事かを囁いているようだ。私の頭の中でもあの怖気の立つ詠唱が巡っている。《――ふたぐん しゃっど-める ひゅあす ねぐぐ・ふ――》

 向かうべき敵が目の前から居なくなったことで、先程の恐慌が戻ってきてしまったのだろう。
 あるいは先程の転移の際に通り抜けた角度が悪かったのだろうか。
 何人もが蹲ってブツブツと呪いのような言葉を呟いている。

「ありえないありえないありえないありえ……」「け・はいいえ ふたぐん」「死にたくないしにたくないだけどみんなしぬシヌ死ぬしぬ死ねしねしねしね……」「いぐなあああいいい」「フヒっ、ひひっ、あはああはあはあ?」「角度から奴らが……」「からるかう よぐそうとす」

 このままでは私も遠からず気が狂ってしまいそうだ。ああ、始祖よ、私たちは何か間違ったことをしたのでしょうか?
 ……嘆いても始まらない。貴族として、私は平民を導かねばならないのだ。
 ここに居る狂いかけの平民たちもまた導かれるべき民なのだから、私たち貴族が率いてこの場を脱出せねばならない。
 皆を一喝するべく、声を張り上げる。

「総員点呼!! 番号!!」

 正気を失っていても、繰り返した動作はある程度は心に残っているものらしい。
 反射的に全員立ち上がり、点呼を行う。これは狂いつつあった者たちの心を平常の側にいくらか引き戻す効果もあったようだ。
 完全とは言えないが、本当に酷い状態の数名を除いて、殆どの者は簡単な受け答えが出来るくらいには回復した。
 ……団体行動にはやや不安が残る精神状態だが。何にせよ室内の探索にゾロゾロと全員一塊で移動するわけには行かないからそう気に病まなくてもいいだろう。

 一先ず班を再構成して、この部屋の情報から把握しなければ……。

 私がまともにモノを考えられたのはそこまでであった。
 何故なら急激に部屋中に充満した水の魔法によって、私たちの意識は奪われてしまったからだ。




 次に目を覚ました時に、私が見たのは。
 何も身につけていない自分の体。胸に刺青で直接刻まれた『79』という数字と、それと同じ番号が貼られたベッド。
 薄暗い同じ部屋の中には幾つかのベッドが置いてあり、空のベッドも、人が寝ているベッドもある。やはりベッドには番号が振られている。
 78番から向こうのベッドは空で、80番以降のベッドには人が寝ている。これは何を意味するのだろう。

 部屋のドアが軋みながら開く。思わず肩が震える。扉の隙間からの光が一筋、部屋の中に入ってくる。
 入ってくるのは小柄な二人の人間。二人が話す声が聞こえる。

「79番から84番はメイジでしたかねェ?」
「ん、その筈だ。実験では平民ともゴブリンとも違う反応が採れれば良いんだがな」

 ……“実験”、“反応”、管理番号らしき数字、空になった78番のベッド、自分の胸の79番。
 嫌な予感しかしないぞっ。ここは何処だ、トリステインのアカデミーか?


 つ、杖は? 杖はどこだ!? 私の杖ー!!

 近づいてきた足音が、遂に私の眠るベッドの前まで来た。『レビテーション』による浮遊感が私を襲う。嫌だ、やめてくれ、連れていかないでくれ。じたばたと体を動かそうとしたときに、また魔法による抗いがたい睡魔が私に――。





 さて。

 時間は戻って、銀鏡が降り注いだ戦場。
 銀鏡は、東方軍の面々を飲み込むと、直後に地面に激突して砕け散る。これらは使い捨てだ。
 結晶が砕ける音が戦場に連鎖し、煌く破片が乱舞する。

 開戦して30分と経たないうちに、先程の強制転移攻撃によって、東方軍の3割から4割がこの場から姿を消した。
 残ったのは数の関係で標的から外された者たちと、自力で空間跳躍の入り口を回避した者達のみである。
 キラキラと鏡の破片が舞う中、東方軍のメイジが声を荒げる。

「何なんだ一体!? 得体の知れない化物が現れて、守護竜様が逃げ帰って!
 一帯が土壁で囲まれたと思ったら、次は投擲魔の蜘蛛公子に、気色悪い触手の壁に、空から降ってくる銀の鏡!
 周りの連中は銀色に呑み込まれて姿を消すし……、一体何なんだ、この戦争は!?」

 この男が率いる一隊は、銀鏡の爆撃を回避していた。
 トライアングルの火メイジであるこの男が、周囲の壁を破るのに準備していた呪文を咄嗟に上空から迫る物体に向けて放ったおかげだ。
 火力を集中すれば鉄をも焼き切る呪文は、迫り来る銀鏡の枠を掠め、鏡を破壊した。
 ばら撒かれる破片は風メイジが張った防壁によって退けられた。

 周囲を見回せば、銀色によって齎された被害は、単なる人員の消失だけではないようだ。
 砕けたその破片に因る肉体的な二次被害は元より、あちこちに残る異常な光景が、戦場に残った彼らの精神を蝕む。

 それは一個小隊分の足首のみが地面に残されている光景であったり。
 腰から下しか残っていない死体達が、今漸く上半身が無いことを思い出したかのように、その鋭利な断面から内臓を零れさせつつ膝をつく光景であったり。
 咄嗟に伏せたであろう兵の背中側がザックリと削られて事切れている様子であったり。
 どの死体にも言えることは、それらの切断面はまるで熟練の『ブレイド』遣いでもこうは上手く斬れまいという位の鋭さを晒しているということだ。
 そして、切り取られた部分は周囲には見当たらない。一体何処に行ってしまったのか。

 土の触手が絡みあって出来ていた壁が地面に還って行く。
 だが相変わらず、遠目に見える巨大な包囲壁は健在のようだ。スクエアメイジが渾身の一撃を入れればおそらく崩れるのだろうが……。

「スクウェア連中もどれだけ残ってるのかって話だよ、畜生! 指揮系統もハッキリしやしねえ。誰が残ってて、そのうちの誰がココでの上官なんだよ?」

 上空から、新しい影が迫る。子供ほどの大きさの影は、次々と上空から戦場に降り注ぐ。
 幾人かのメイジがそれらを迎撃するべく、上空に魔法を放つ。上空からの影が着ている服は雲と空に混ざって見えづらくて、手当たり次第にばらまかれる魔法の大部分が外れるが、何割かは命中する。
 襲撃者のうち恐らくは百に迫ろうという数は、上空から着地するまでに『カッター・トルネード』や『炎柱』、『氷嵐』によって迎撃されたと見て取れる。
 侵入者を形作っていた血と肉片が、上空から降り注ぐ雨となって戦場を染めていく。

(恐慌に駆られて魔法を放ったのはまあ仕方ないが、おいおい、あれは子供だったぞ!? シャンリットってのは子供を空から突入させんのかよ!?)

 子供とは彼にとって守るべき者である。いや、彼に限らず貴族全般にとって、女子供は庇護すべき対象である。
 まあ中には卓越した魔法の使い手で、戦場にて鬼神のように活躍する女傑も歴史上はたまに現れるのだが、それは例外だろう。
 いくら敵とは言え自分たちが撃ち落としたのが年端もいかない子供だと気づいて、思わず杖を取り落としたメイジの姿も見える。
 これも精神への打撃を見越しての作戦なのだとしたら、それを指示し実行させてみせる者はなんとも最悪だ。最悪極まりない。狂っている。

 彼らは、怒りも顕に城壁に立つウード(ただしゴーレム)を見遣る。
 相変わらずウードはそちらに立っている。時折飛んでくる矢や魔法を、自分の足元の城壁から造った、骨細工か昆虫の脚のような何本もの棒状のゴーレムで払っている。
 都合8本の蜘蛛脚で守られた伯爵公子は、蜘蛛に掻き抱かれているようにも見える。


 忌々しい男だ。
 濃い瘴気が眼に見えるようだ。
 蜘蛛め、蜘蛛男め。蟲なら蟲らしく這いつくばっていろ、上から見下ろすんじゃない、人外め。



「余所見はいけないさね、お兄さん!!」

 怒りで白熱した思考に、子供のような甲高い声が差し込まれる。
 反射的にこちらに向かって斬りかかって来ていた小柄な影を軍杖で払い飛ばす。
 短剣と軍杖がぶつかり合い、火花が散った。

 さっと視線を走らせれば、周りの東方軍の者は皆、子供のような小柄な者たちと交戦していた。先程、空から落ちてきた者たちだろう。今もその落下侵入は続いている。
 ――まるで結婚式のフラワーシャワーのようだ、などと思う。それは最近結婚式を挙げたせいかもしれない。
 上空から手当たり次第に戦場に飛び込まれたため、周囲は完全に混戦模様になってしまっている。泥沼の戦いだ。

「なんで君みたいな子供が戦場に立っている! これがシャンリットのやり方なのか!?」
「子供とは失礼な言い方さね。都合3回目の人生で、それなりに人生経験積んでるさね」
「訳の分からないことを……! いいから退け、君の相手をしている暇はない。あそこの大将首を取れば戦いは終わる。君らみたいな子供もこれ以上戦わなくて済むんだ!」

 子供、そう、子供だ。彼は都市国家に残してきた妻の胎内に宿った新しい命を思い浮かべる。
 目前の子供は、彼の言葉を受けてしばし考える。
 そして首を捻って疑問を示す、心底理解できないという様子で。

「……意味が分からないさね? 戦場に突っ込んできた相手に『引いてくれ、見逃してくれ』って、何考えてるさね」

 子供は結局首を振って、ナックルガードの付いた短刀を逆手に握り直して腰を落とし、構えを取る。

「こっちはこの戦闘の瞬間を楽しみにしてたんさね。さっさと構えるさね」

 小柄な身体に似合わない圧力が吹き出す。筋肉が盛り上がり、皮膚の要所が硬化しているのが見て取れる。
 まるでドラゴンを前にしているかのような気配だ。思わず、男は軍杖を構え直す。
 三日月のように子供の口の端が釣り上がり、犬歯を露に獰猛な笑みを形作る。

「そんじゃあ、〈バオー〉氏族・最新共生体スペックテスト、人格相性テスト、並びにコンバットプルーフ、開始するさね」
「……名乗りを」

 小柄な方が踏み込もうとした時に、男が口を挟む。

「せめて、名乗りを上げてもらまいか」

 貴族としての矜持というものなのだろう。
 小柄な方はため息を一つ。

「……まあ良いさね。アネット・サンカンティアニエーム・バオー。今はそういう名前さね」
「……女の子なのか。私はアンクタン・ヴズール。いざ、参る!」


 アネットの華奢だが引き締まった身体が沈み、漲っていた力を開放せんとする。
 アンクタンの口が詠唱を紡ぐ。

 そして。

 次の瞬間、小柄な彼女の立っていたところを明後日の方向から業火が焼き払って行った。

 膨大な熱量を持った炎が通り過ぎた後には、高熱でガラス化して陽炎を上げる地面以外は何も残っていない。



「なあっ!? なんだあっ!?」

 対峙していた東方軍人アンクタンが思わず業火の飛んできた方を見ると、やはり小柄な人影が見える。
 その人影は、影自身の身長よりも長い棍を構えている。棍に纏わり着くように炎が巡っているのが見える。人ひとりを完全に蒸発させる程の火力となれば、スクウェア位はありそうだ。
 その小柄な人影が口を開く。鈴を転がすような、およそ戦場には似つかわしくない声だ。

「あらら? なんか巻き込んだみたいですね? 97号さん。火力制御が難しすぎませんか?」
【や、そんなこと言われましても。私の呪文多重化能力は擬似的な遍在による共鳴みたいなものなので、最終的な性質は持ち手の特性に依存するんです。ラインスペルを倍のスクウェアに強化できますけど、癖も二倍に増幅されるので制御の難しさも倍以上です。火力がピーキーなのは、あなたの癖のせいですよ……】

 頭部を守る流線型の鉄兜らしきものの端から金色の巻き毛が見えている。棍を持った砲撃者も、先程アンクタンが対峙していた相手と同じく、少女のようだ。シャンリットでは女子供関係なく兵士にするらしい。
 どうやらあの棍はインテリジェンスウェポンのようだ。そういえば、槍投げ伯爵公子が投げていた中にあんなのがあったような気もする、とアンクタン・ヴズールは考える。

「えー、インテリジェンスウェポンならその辺まで制御して下さいな?」
【それは私の後継型に期待して下さい。これ以上は性能的に無理です……】

 話が終わったのか、棍を構えた女の子は男――アンクタン――を見据える。
 そして良いこと思いついたという様子で、笑みを浮かべてアンクタンを見遣る。

「じゃあ、仕方有りませんね。不慮の事故で的が一つ余ってしまったみたいですから、有効活用致しましょう?
 ――要は慣れるまで撃ちまくれば良いんですよね? 97号さん?」
【まあ、そうですね……】
「じゃあ、的のお兄さん? 頑張って避けてくださいね? うふふふふ」

 ニッコリと笑う女の子の棍から、業火が走る。
 ――余りに唐突な成り行きに呆然としていると、隣から突っ込んできた何かによって弾き飛ばされ、アンクタンは辛うじて射線から外れる。
 彼を弾き飛ばしたのは、業火に吹き飛ばされたと思われていた小柄な筋肉少女、アネット。

 服を燃やし尽くされて裸になったアネットは怒りも顕に口を開く。

「あんた、私の獲物を盗ろうなんざ、いい度胸してるじゃないさね」

 金髪の棍を持った少女が不愉快げに答える。

「あららぁあ? まだ生きてらっしゃったのかしら? 蒸発したんじゃなくって?」
「“廻し受けは最強”とだけ言わせてもらうさね。あと〈バオー〉の最新型の再生能力をナメるんじゃないさね。何ならあんたを相手に実証試験を続けたって良いんさね」

 二人の少女――むしろ幼女――の間の空気が不穏にぐにゃりと歪み、帯電しているようにも感じられる。
 緊迫した時間は一瞬だけだった。
 棍を持った方の金髪ロールの少女が口を開く。

「良いですわ、着いてらっしゃいまし? この外骨格フェチの改造狂」
「望むところさね、大艦巨砲主義者め。今生こそは決着を着けてやるさね!」

 棍を構えた幼女が飛び上がり、空気を払うように炎を纏った棍を振ると、それによって爆風を生み出して轟音と共に空中を加速する。
 一方、短剣を構えたアネットは『軽量化』の魔法を唱えると、その身体能力のみで隆起した不安定な足場をまるで天馬のように駆け抜ける。

「何だったんだ、一体……」

 アンクタンは嵐のように去っていった幼女たちを見送ることしか出来なかった。
 だが、彼は気を抜くべきではなかった。
 嵐はまだ残っていたのだ。


「あー! 見つけましたよぅ! アンクタン・ヴズールさんですね!?」
「え、ああ、確かにそうだが……」

 後ろから掛けられた声に対して、虚を突かれてしまったため、普段の調子で答えつつ振り向こうとすると。

「ムギョーちゃん、やっちゃって下さい!」
「―――■■■■■■■■■■!!!」

 何かもう口にするのもはばかられるような、汚泥を悪意で塗り固めたような5メイルほどの暗黒色のゴーレムだか使い魔だかよく分からないモノがその触腕を振りかぶっているのが見えた。
 彼が認識できたのはそこまでだった。

 先端が音速を超過したのか、軽い破裂音と共に、側面を鋭い刃に変化させた触腕がアンクタンに迫り、刹那の間に左肩口から右脇腹までを袈裟斬りにした。
 身体が崩れ落ちるより早く、さらにもう一方の触腕が彼の首を刎ねる。彼の視界はくるくると回る、回る、回る。そして、まるで測ったかのように、彼の首はムギョーと呼ばれた怪物の上に座る少女の抱える瓶に収まった。

「ミッションコンプリートです! ムギョーちゃんも協力ありがとうございました」
「■■■……――……」
「照れ屋さんですねー。じゃあ回収リストの次の貴族さんに行きましょうー。レッツゴー!」

 泥濘を捏ねたような不定形の怪物に跨った彼女は、次のターゲットを探して自身の従者を進ませる。

「この記録係 兼 取り零し回収係 兼 従属存在実戦投入試験“無形の落とし子”担当、コレット・サンクヮム・レゴソフィアが完膚なきまでに十全に仕事をこなして見せようじゃないですか!
 あ、そうだ、さっきのアネットさんともう一方の人は敵前逃亡って記録付けとかないと。ムギョーちゃん、ポシェットからメモ取ってくださいー」
「■■……■」
「ありがとうー、ついでにさっきのヴズール家の人の頭は回収ボックスに入れといてくださいねー。胴体の方も適当に刻んで忘れずにお願いしますー」

 この日のために用意された回収ボックスの底には〈ゲートの鏡〉が仕込んであり、回収品が嵩張って作業続行の邪魔にならないように地底都市の倉庫へと送る事が出来る。別名〈倉庫の壺〉。ポシェットなのに壺とはこれ如何に。

「今回の実戦試験が終われば長期休暇も貰えそうですし、ニーナちゃん達と月面都市にでも行きたいですねー」

 這いずるように、滑るように、怖気立つ黒い塊とその上に乗る真紅の髪の少女は、次の獲物を求めて戦場を徘徊する。








 
 戦場は矮人によって席巻されつつあった。

 上空のフネの底面に備え付けられた幾つかの降下人員通行用の〈ゲートの鏡〉から際限なく矮人たちが吐き出されていく。まるで爆弾を落とすかのように、人影が落ちていく。
 そのうち半数ほどは、ヒトを生け捕りにする為に、自分の研究室に繋がる、人が通れるくらいの大きさの〈ゲートの鏡〉を抱えている。ヒトを拘束してそちらに放り込むつもりだ。

 眼下の戦場ではスクエアメイジが作り出したと思われる30メイルはある巨大ゴーレムが、足元から這い上がる数十もの数の2メイルほどの蜘蛛のようなゴーレムに集られて身動きが取れなくなりつつある。
 その足元には轢き潰されて平らになった蜘蛛ゴーレムが積み重なっている。巨大ゴーレムが幾ら払っても払っても、矮人達が『錬金』する蜘蛛ゴーレムは次々に数を増していく。
 巨大ゴーレムが、集まる蜘蛛のようなゴーレムを掴み、矮人たちが居る方に投げる。数人が投げ飛ばされたゴーレムに巻き込まれて死んだのか、巨大ゴーレムに集る蜘蛛ゴーレムの幾つかが土に還る。
 しかし、それ以上の勢いで蜘蛛型ゴーレムが集まっていく。

 戦場に巨大な竜巻が現れ、数十人もの矮人がまるで木の葉のように巻き上げられ、切り刻まれる。

 何人もの平民兵に囲まれ、長槍で串刺しにされている矮人も見える。

 散発的に炎の玉や氷の槍が上空に飛ばされ、降下中にそれらの魔法を避けきれなかった矮人に突き刺さり、撃墜する。

 それでも戦場の矮人の数は減らない。
 減らないどころか増えている。

 矮人は増えるが、戦場の東方軍人は減っている。死体すらも残っていない。攫われているのだ。拉致された彼らの行く末は暗い。
 散らばった死体は矮人のものもヒトのものも、等しく片っ端から回収部隊の矮人によって片付けられていく。どちらの死体も重要なサンプルだからだ。

 巻き上がる魔法を見るに、何人かの東方軍のメイジは未だに戦意を失っていないようだが、いずれは矮人の物量に屈するだろう。
 何せ上空のフネの底に開いている〈ゲートの鏡〉は各地の地底都市に繋がっているため、その気になれば数万の軍隊を投入することも可能なのだ。或いは数十万人でも。更に言えば、現在戦場に降りてきているのは、職業軍人ではなく、職業軍人並みの知識を生まれつき持った研究者たちであり、本職は研究である。

 今も戦場の矮人の数は増え続けている。雨霰とゴブリンたちが戦場に降り注ぐ。

 そしてやがて、抵抗する東方軍のメイジたちの魔法も見られなくなった。





 二重円状に展開された土壁に挟まれるようにして東方都市国家の陣地が存在しており、そこには輜重部隊や司令部が控えていた。
 しかし地震の影響で陣地のテントなどは倒れている。
 後方にも前線の阿鼻叫喚は聞こえており、こちらはそれゆえにまた別種の恐怖に襲われていた。

 敵が見えないがゆえの静かな恐怖である。
 前線には魔法の炎や竜巻やゴーレムが見えるし、後方からはそれが着々と弱まっていることも見て取れる。自軍が敗北に近づきつつあると直感的に理解できる。
 そして周囲の魔の森からのプレッシャーが、東方軍の不安に輪をかける。死そのものの臭い、腐敗した死体の香りがじわじわと陣地に満ちる。ひたひたと何か湿った、滴るような音が聞こえる。

 ほらあそこに、いやこちらに。
 気配はすれども姿の見えぬ襲撃者が居るのでは。
 その直感を裏付けるように、目を離せばそこに居た人が居なくなる。さっきまでは確かにそこに味方が居たはずなのに!
 青い腐った膿汁が落ちていることで、犠牲者がただ居なくなったのではなく、何かに攫われたのが分かってしまう。酷い臭いだ。

 東方軍の後方部隊は、静かだが深海底に居るかのような重苦しいプレッシャーに晒されていた。
 刻一刻と静謐な狩人が彼らの数を減らしていく。サイレントキラー。暗殺者。圧倒的上位の捕食者が居るのだ。
 悲鳴すら聞こえずに、一人、また一人と消えていく。残された者の不安を煽るように嬲るように、一人ずつ居なくなる。ああまた居なくなっている、次は誰だ、オレか私か僕かオマエか貴方か君か、さあ誰だ。

 消えていった者たちについてその順番を冷静に覚えて考察することができるものが居れば、高ランクのメイジから順に消えていったのが分かっただろう。狩人は精神力が豊富な者から狙っているのだ、その本能のままに。
 狩人の名前は“ティンダロス・キメラ”あるいは“ティンダロス・ハイブリッド”。奴らは角(カド)からやって来る。

「ふしゅう~~。あはは? 次の獲物は誰に、し・よ・う・か・な? うひひ、あの娘が美味しそう。ああでも食べちゃ駄目なんだっけ?」
「ひゃはは、そうッスよ。ああでもマジックポイント尽きたら一人くらい喰らってでも良いんじゃ? 継戦能力チェックとかそんな話をしてませんでしたっけ? 隊長」
「うひひ、そうだっけ? お腹空き過ぎて頭回んないや」
「多分そうッスよ! だから一人くらい吸っちゃっても大丈夫ですって!」
「あはは、そうだよね? そうだよね!? お腹空いちゃったもんね!」
「そうッスよ!」
「よし、じゃあ、皆、ここらで食事にしよう!」
「ラジャー!!」

 角度に潜む絶対捕食者が、ついにその身を晒してニンゲンに襲いかかる。
 キメラゴブリンによって構成される〈ルイン〉氏族の中でも実験的に作成された一隊。“ティンダロスの猟犬”の青い膿から得られた細胞とのキメラによって構成される実験部隊。
 兆を超える試みの果てに正常な形で生まれたティンダロス・キメラの中でも、更に稀有な、食欲をある程度制御可能な程に理性が極めて強いキメラたち。実戦に耐えうる、コントロール可能なティンダロス・ハイブリッド。

 だが、飢餓を抑えこむのは並大抵のことではない。三大欲求の一つであるのだから。
 そして彼らはとても大喰らいだ。食べても食べても満腹にはならない。永遠の飢餓は“ティンダロスの猟犬”の生来の性質だ。
 無論彼らは混血種であるがゆえに、こちらの“丸い”時空の食物を摂取することも出来るが、それは気休めにしかならない。

 吐き気のする臭いの膿を滴らせて、キュビズム絵画のように全身を角度ある物体によって構成された捕食者たちは東方軍に――いや、獲物に襲いかかる。

 彼ら姿は常に移ろい、変化していく。
 物陰に隠れている者も、彼らに必ず見つけ出される。

 それは彼ら自身が3次元に収まらない超次元の存在であるからだ。
 3次元に露出している部分は一面的な断面や切片に過ぎず、彼らが見ている視界は我々が紙に書かれたものを見るように、3次元に対して絶対的に俯瞰的であるのだ。
 隠蔽は超次元的な視界の前では無意味であり、逃亡もまた無意味。
 何故なら彼らは、角度を通って任意に――距離の制限はあるものの――転移して追ってくるからだ。

「うわあああ! 狼男だ!」
「いや竜人間だ! やめろ! 来るな!」
「きゃあああ! 助けて!」

 常に相貌が変化し続ける彼らだが、見る者にはある一定の印象を与える。犠牲者は変化し続けるポリゴンの相貌の中からある一定のパターンを認識して拾いあげてしまう。
 つまり、彼らが自らにとっての“絶対捕食者”であるという認識を。
 だから見る人によっては、それは森の狩人たる狼であり、天空を舞う猛禽であり、あるいは何者をも寄せ付けないドラゴンにも見える。

 彼らはその顔面を覆うほどに大きな口でヒトを丸呑みにするし、蛇のような舌を伸ばして犠牲者の魂を啜る事も出来る。今や彼らを支配しているのは理性ではない。耐え難い飢えだった。原初の食欲であった。

 角度から来る狩人たちは、その荒れ狂う食欲のままにニンゲンを蹂躙した。





 シャンリット防衛戦は開始後2時間もしないうちに、東方軍の全滅によって幕を閉じる。
 戦場を覆っていた二重の土壁が自壊し、戦闘に参加したゴブリンたちが整列を始める。
 上空からフネがゆっくりと降りて来る。ゴブリンたちは船底に開いた銀色のゲートまでフライで飛び上がり、撤収していく。
 戦場には回収部隊のみが残り、いろいろな残骸を蒐集し片付けている。また蒐集と同時に地中に『活性』の魔道具を敷設する。

 粗方の部隊が撤収すると、上空から改良された蛆や蚯蚓の卵がばら撒かれ、『活性』の魔法によって孵化が促進された卵から無数の幼虫が孵る。
 回収しきれなかった肉片は蛆(蛹化しないように改良済み)が喰らい、血を吸った大地は蚯蚓が消化する。伝染病の発生を防ぐためだ。
 一面が全て蠢く幼虫で満たされ、それを狙って周囲の森から別の蟲が集まって、一種の蠱毒のような様相を呈する。

 三日も過ぎた頃に、それらの蟲に対して特異的に感染する菌類を撒いて殺虫すれば、次には黴と茸のカーペットのようになる。
 さらにそれらもバクテリアに分解されて土に還り、一週間もしないうちにこの戦場は綺麗サッパリその陰惨さも残さない肥沃な大地に生まれ変わるのだ。
 倒壊した建造物の瓦礫を片付けて新しく街を作ってもいいし、そのまま自然が浸食するに任せても良いだろう。





 所変わって地下都市の一室。

 こういった戦争には第三国から観戦武官が派遣され、その戦の様子を直に見て自国に持ち帰り、それを基に研究を行う場合がある。
 今回の戦争にはガリアから観戦武官が派遣されており、ウード(本体、ゴーレムにあらず)はその観戦武官と共に、先程のシャンリット防衛戦を『遠見』の魔法で観察していたのだ。
 実際は観戦武官ではなく単に東方都市国家に派遣されていたガリアからのお目付け役を拉致ってきただけだったりする。

「さて、さて、ガリアの観戦武官殿。如何でしたかな? 完膚なきまでにトリステインの――シャンリットの勝利だったでしょう?」

 ウードは隣の椅子に括りつけられた男を見遣る。

「……おや、気を失ってらっしゃる。いや、舌を噛み切ってるのか。
 ただ椅子に括りつけてさっきの戦場のライブ映像を『遠見』で見せてやっただけだというのに、脆弱な」

 隣の男は、途中まで「異端め! 蜘蛛の化物め!」とか何とか叫んでいたが、途中から静かになっていた。
 それはその余りに現実離れした陰惨な光景から、自害によって目を背けたからだ。

 ウードはガリア方面を担当しているゴブリンを呼び出して、観戦武官の処理と今後のことについてを命じる。

「あ、うん、この人の首を人面樹に捧げて、ガーゴイルに入れ替えて送り返しといて。よろしく頼むよー。
 とりあえず、こっちが完勝したことは証言してもらわなきゃならないからねー。
 あと、この戦場の様子も。しばらくはトリステインにちょっかい出す気が起きないくらいに棘々(おどろおどろ)しく伝えてもらわなくっちゃあならない。
 戦場で回収した者の中で主要貴族については、王政府に戦功の証拠として提示するのに生首が必要になるだろうから、それらのヒトたちを捧げた人面樹から後で収穫しとくように。
 生首は収穫したら、生かしたまま瓶詰めにしといて。東方都市との交渉にも使うから」

 観戦武官の彼や都市国家の軍人らは、死して尚、シャンリットの恐ろしい呪縛からは逃れられないのであった。

「大戦果だし、これでシャンリット家が侯爵くらいには成れると良いなあ。まあ、そうならなくても私としてはアトラナート商会の私立学院の設立さえ認めてもらえば良いんだけどさ。
 多分、ガリア方面でもメイリーンやロベールが頑張ってくれてるだろうし、学院設立許可くらいは行けると踏んでるんだけど」

 きしきしと首から生えた右の毒牙を鳴らしながらウードは立ち上がる。
 最近は左肺にも違和感があるのでそのうち“べりっ”と左からも牙が生えやしないかと戦々恐々である。左肺も牙になったら、両肺が潰れて呼吸できなくて死ぬだろうって? そんなのウードクローンから肺をひっぺがして適当に生体外部パーツとして接続してからキメラ化すればどうとでもなる。





 この度のシャンリット防衛戦の勝利後、シャンリット諸侯軍(という名だが実態としてはウードが率いるアトラナート商会の私兵、つまりは矮人部隊)は王軍の到着を待たずに先行して東方都市にトドメの遠征や降伏交渉を行った。
 裏切った諸侯は粛清され、東方都市国家の幾つかも切り取った。
 具体的には都市国家にウードが出向いて、瓶詰めの生首的なサムシングを背後に置いてニコニコと交渉した結果、快く下ってくれた。

「初めまして。私、ウード・ド・シャンリットと申します。こちら、お宅の息子さんとか旦那さんとかなんですけど、本人確認して持って行ってもらえます? あと手間掛けたくないのでサクっと降伏してくれると助かるんですけど? ああこの状態でも生きてますから話をしたいなら専用パーツ付ければできますよ? 有償での身体回復処理もやっているのでご入用の際はお近くのアトラナート商会まで。シャンリット家の臣下になるならタダで旦那さんらの身体を戻しますし、食糧支援とか色々惜しみませんけど? どうです?」
「……悪魔め! 貴様のような悍ましい人間に降伏などするものですか!」
「いやあ、別にじゃああなた方が飢えようが何しようが勝手なんですけどね? 攻めてきたのはそちらですし? このまま一族郎党皆殺しーとか、都市全部焼き払うーとかしたって良いんですけどね? あんまり現実見ないできゃんきゃん喚いてると殺して剥がして標本にするぞ、貴様。こっちは“ウィ(YES)”しか求めてねえんだよ察しろよ」
「何度言っても、貴様のような悪魔になど屈しません!」
「あっそう。そうですか。じゃあ一名様チェンジリングコース入りまーす。生まれ変わって出直してきやがれ」

 そう、快く、それはもう快く、下ってくれたのだ――生まれ変わった後の彼ら彼女らは。
 ちょっとニンゲンじゃ無くなって文字通りの傀儡人形になったかも知れないけれども、そこは些細な問題である。
 敗者への寛容ということで、シャンリット家に下った都市については、人面樹からもいで収穫した生首状態から領主や嫡男を生き返らせて(傀儡だが)、さらにその上でアトラナート商会から食料その他の援助を惜しまず提供している。

 その後日に行われた論功行賞によって、シャンリット家にもトリステイン王家から恩賞が下った。
 これ見よがしに王都まで瓶詰め生首(傀儡人形にして蘇らせた者を除く)を持っていったのが功を奏したのだろう。

 それに拠れば、ガリア戦役におけるシャンリット軍の迅速な展開、及び、東方都市国家群の侵攻を防ぎその部隊を壊滅させた功績が認められ、シャンリット家は降伏した都市国家群を拝領することを認められた。
 他にもシャンリット領の直ぐ東隣の、都市国家に寝返っていた諸侯の所領も拝領した。そこを治めていた貴族の一族郎党は処刑され、再びトリステインに組み込まれたのだが、治めるものも居らず、都市国家がシャンリット家に臣従するなら、シャンリットと都市国家に挟まれているということもあって、シャンリット家に与えられたのだ。まあシャンリット家の方が王軍が来るより早く占領したということが大きいが。
 とは言え、その更に東には未だに敵対的な都市国家群が存在し、下った都市国家も旧来の支配層がそのままの状態なので(実際は傀儡に入れ替わっているが外部からは変化がないように見える)、シャンリット以東は火種が燻る火薬庫状態であると王政府などには認識されている。シャンリットは体良く最前線の地を押し付けられたのだと取ることも出来る。領地の拡大にともなってガリア――先の戦争では都市国家と密約を交わして事実上同盟してトリステインを攻めてきていたと思われる――とも国境を接するようになったため、治めるのも難しい土地であると国内からは見られている。

 だがどんな土地でも、領地は領地。シャンリット伯爵家は、これらの軍功と新たに獲得した広大な領地を以て侯爵へと陞爵することとなった。

 恩賞の書状曰く『その杖に懸けて、王国に忠誠を示せ。国家の発展に尽くすことを期待する』との事だ。
 ウードは兎も角、その父フィリップや弟ロベールはトリステインに忠誠は抱いているだろうから、そこは心配要らないだろう。
 その子孫らが、アトラナート商会の財力と広大な領土を以て独立を志向しないとは限らないが。
 ウードはあれはあれで建国以来5000年の歴史に敬意を払ってはいるのでトリステインの国家としての枠組みを壊すつもりは無いが、そのうちに出来ればシャンリット領をトリステインから切り取って独立させたいなとは思っている。彼がヒトとして生きている間には不可能だろうけれども。

 また、アトラナート商会は戦時に於いて数多くの物資をガリア戦線の前線や難民に対して殆ど無償で放出していた。
 商会のオーナーは戦時の国内の混乱を収める為に私財を投げ打った篤志の人物であるという話が城下の噂として広まっている。
 実際はその行動は善意からのものではなく、打算からのものでしか無い。だがそれでも、戦地周辺の混乱を回避したという功績で、王家から感状が贈られた。
 糧食の放出程度は、各地の樹木型巨大太陽光発電塔〈偽・ユグドラシル〉からの無尽蔵なエネルギーを利用出来るアトラナート商会にとっては損害にも入らない位の微々たるものであるし、これで王家とのパイプが出来るなら安いものである。

 そしてその商会のオーナーのウード・ド・シャンリットは、たった独り(王国へ提出された書類上はそうなっている)で守護韻竜を含む竜の群れを退け、一万に迫ろうという敵軍を文字通り全滅させた事になっている。
 守護韻竜は東方都市に戻らずに何処かに姿を消している。また今まではハルケギニア各地に見られた韻竜も、徐々に姿を消しつつあるという。天敵たる穿地蟲の復活を受けて、雌伏の時だと考え、潜伏していっているのかも知れない。

 竜を退け、軍功著しいウードに対しては、勲章とシャンリットの北東部の小領地、それに伴う子爵位が贈られることとなった。
 ついでに言うと、私立学院設立許可もどさくさに紛れてもぎ取っている。
 人格に難はあるものの、独りで一万を殺戮し守護韻竜さえ凌駕する実力を持つ上に、商才溢れる稀代のメイジ。それが王宮におけるウード・ド・シャンリットに対するこの時点での評価である。

 ちなみに、市井の噂では、人間離れした功績、凱旋したときの黒い羅紗のマントと隈の深い凶相、変に細長い歪な四肢も相まって、“ウードは妖魔の類であり、異端の術を使ったのだ”という事も囁かれている。
 また、綺麗サッパリ消えてしまった東方軍の大部分の兵の行方が全く不明なことも、その噂に拍車をかける。
 アトラナート商会オーナとしてボランティアで支援を行ったということは、“それはそれ”として考えられているようで、ウードのイメージ改善の役には立っていないようだ。あるいはそれぞれが別人として捉えられているのかも知れないし、アトラナート商会が支援を行うのは当然という甘えのようなものがトリステイン市民には蔓延しつつあるのかも知れない。

 ……ウードに関するこれらの噂の出処は、例によって例のごとく“知り合いの知り合い”たち――市井に紛れ込んだ成り代わりのガーゴイルや下働きのゴブリンたちだ。
 彼らは彼らで口コミによる情報操作手法の実証実験中なのである。例え自分たちの造物主であってもネタに出来るならとことん使い尽くすのが、研究第一であるゴブリンのジャスティスだ。

 



 
 “シャンリット防衛戦”より3年後。
 後に異端の巣窟と呼ばれ、ロマリア宗教庁と対立を繰り返すようになるハルケギニア最初の王国認可私立総合学院――私立ミスカトニック学院が開校する。

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2010.08.26 初投稿
2010.08.27 誤字など訂正
ティンダロスの混血種【混血の殺人者】 マレウス・モンストロルムから。
2010.10.30 修正



[20306]   外伝5.ガリアとトリステインを分かつ虹
Name: へびさんマン◆29ccac37 ID:4dc27135
Date: 2010/10/30 18:59
 ガリアからの侵略。それと時期を合わせた東方都市国家からの宣戦布告。

 ガリア軍の侵攻の矛先が向けられたクルーズ領は、奇襲同然に押し寄せた軍勢に対して寡兵で良く立ち回っていた。
 アトラナート商会の資本投下によって都市の防壁などのインフラが強化されていたお陰でもある。
 泥炭地が多いため、本来は道路や大きな建物の建設には向かない土地なのだが、ゴブリンメイジたちが率先して基礎工事を念入りに地下深くまで行うことで立派な街道や堅牢な城壁を築き上げることが出来たのだ。
 まあ、そのアトラナート商会の行った開発のお陰でガリアに狙われたという面も多々あるのだが。

 クルーズ領はシャンリット領に次いでアトラナート商会との結びつきが深い領地である。その結びつきは領主の娘がシャンリット伯爵家の次期後継者ロベール・ド・シャンリットと婚約したことで決定的なものとなった。
 クルーズ領では泥炭の大規模な採掘をアトラナート商会の技術指導の下で行っている。トリステインや隣国のガリアに精製した泥炭を燃料として供給しており、近年ではこれがクルーズ領のかなり大きな収入源となっている。
 また泥炭地でもよく育つように調整された新種の作物も蜘蛛の商会から色々と提供されており、他の領からの輸入に頼っていたクルーズ領の食糧事情も近年改善している。
 泥炭の採掘所が出来たお陰で、職にあぶれて他の領に出稼ぎに出る者も減りクルーズ領は俄に活気づきつつあったのだが……。

 そんな折角発展している所にガリアからの侵攻である。
 クルーズ伯爵の怒りは、まあ、察して欲しい。

 とは言え感情だけで軍隊を返り討ちに出来れば世話はない。……あながちそれも不可能と言えないのが、魔法のあるハルケギニアの恐ろしいところだが。
 実際、一時期は怒りに燃える伯爵の攻撃で一部押し返していたらしいのだが、それでも急襲してきたガリアを押し返すには兵数諸々の面で全く足りなかった。
 クルーズ伯もそれ位は見越しており、王家を始め、近隣の領地や血縁関係のある貴族に援軍の要請を行っていた。

 その中でも一番初めに援軍に辿り着いたのは、なんと、クルーズ領からはトリステインの逆側にあるシャンリットの諸侯軍だった。
 侵攻の知らせから二日も経たない内の神速の援軍であった。








 蜘蛛の糸の繋がる先は 外伝5.ガリアとトリステインを分かつ虹
 






 クルーズ領に向かうシャンリット諸侯軍を運ぶのは、アトラナート商会から徴発した新型のフネである。
 実際は徴発というよりは、寄付に近いものだが。もとから諸侯軍にプレゼントするために建造されていたものを、今回の戦争を口実に徴発という形で受け取ったのである。寄付にすると癒着が云々とウルサイ所があるのだ。高等法院とか。

 ヒラメかエイを思わせるような平らな形をした全長300メイルはあるフネは、荷物や人員の大規模運搬に特化したものである。内部には軍活動に必要な様々な施設が組み込んである。
 その大きな全翼型のフネの周りには、コバンザメを思わせる形の数隻の護衛艇が着き、周囲を警戒している。並行して飛ぶ大きな幻獣の姿も見える。
 その一群の船団の航行速度は従来のフネのものを大きく凌駕している。その速度を出すために風石をふんだんに用いているし、高空を飛ぶ際の気圧差を解消するために予圧したり温度調整したりするのにも贅沢に風の精霊石を用いている。
 ちなみに通常航行時は自重を支えるのには風石の力は使わずに、翼や船体自体で発生する揚力を用いている。離着陸、空中静止時には従来のフネと同じように風石の浮遊力を利用しているが。

「ああー、やっぱりアトラナートのフネは速くて良いなあ!」
「ロベール、はしゃいでいる場合じゃないのよ! 戦争よ、戦争っ」

 巨大なフネの貴賓室内ではロベールとメイリーンのシャンリット家の姉弟が、これから戦争に赴くとは思えないリラックスした様子で会話をしている。
 ロベールは浮ついた様子で二重ガラスの窓から外を見て、並行して空を飛ぶ幻獣――竜のシルエットに無数の触手が生えたキメラ――に手を振っている。急に学院から呼び出されての初陣だというのに呑気なものだ。
 メイリーンはたまたま里帰りしていた所を、ガリアからの侵攻の知らせを聞き、今回の行軍に緊急で参加したのだ。シャンリットの家の者としてではなく、嫁ぎ先の者の立場としてであるが。因みに彼女の夫は自領の方で軍の編成を急いでいるのだという。

「シャンリットの方はお兄様が全部片付けちゃうつもりみたいだし、せめてガリアの方では武勲を立てなきゃなんないわ。これだけお膳立てしてもらったのだから」
「そうだね、姉上。兄上が本気になるってことだったから、シャンリットの方は心配しなくても万全だろうし。空中触手騎士団(ルフト・フゥラー・リッター)も全部連れてきてるし、負けられないね」
「ええ、そうね。……ああ、あの時のお兄様の様子を思い出すだけでゾクゾクしちゃうわっ」

 「本気を出すのに邪魔だから」と語った兄、ウードの様子を思い出したのか、メイリーンが身を抱いて肩を震わせる。そこには恐れだけでなく、また別の感情も混ざってるようにも見える。憧れか、あるいは恋慕か。

「姉上……。スキャンダルは止してよ? ブラコン酷かったって母上から聞いてるし」
「しないわよ、そんなこと。昔にお兄様に抱いていた感情ももう整理ついてるもの。それに今はウチの旦那の方が大好きだしっ!」

 際限なく惚気を始めそうな姉の雰囲気を察してか、ロベールが話の筋を対ガリア戦に戻す。
 前に止めなかったときは、延々と5時間は惚気を聞かされたのだ。姉の口から語られる照れ隠しという名の行き過ぎた攻撃の数々に、ロベールは慄いて背筋を凍らせ、自分の義理の兄となった偉大な勇者に心のなかで合掌したものだった。テオドール義兄上、あなたは偉大な方でした、だからもし姉上に勢い余って殺されても化けて出ないでください、と。

「姉上。クルーズ領に着いたらどうする? 先ずは着陸できる地点を探さないといけないんだけど」
「あら、そんなの簡単よっ」

 メイリーンが事も無げに言い放つ。

「一切合切を薙ぎ払って場所を空けるわっ。ガリア軍の本陣の辺りなんかが良いんじゃないかしら?」

 トリステインのリーサル・ウェポン、“虹彩”の二つ名を継いだメイリーンは不敵に笑う。囁くような含み笑いの声は、聞く者が聞けば彼女の兄のウードの笑い方にそっくりだと気づくだろう。
 ロベールは頼もし過ぎる自分の姉のその含み笑いを聞きながら、やはりこの姉と結婚した義兄は偉大な男だと尊敬の念を覚えていた。そして次には無造作に焼かれていくだろうガリア軍に対して幾許かの哀れみを感じた。
 だが今脅かされているのはロベールの婚約者の実家でもある。さっさと片付けてこの後は可憐で可愛らしい婚約者の少女に会いに行きたい、とロベールは考える。

「そういえばロベール。なんでルフト・フゥラー・リッターはトリステイン語じゃなくてゲルマン風の名前なのかしら?」
「触手騎士団なんて外聞が悪いからぱっと聞いた限りでは触手って名前をイメージさせない音にしたかったんだって。あとゲルマン風の方がカッコいいからとか兄上は言ってた」







 クルーズ領に展開するガリア軍の陣地の上空数千メイル。
 エイのような形の巨大なフネと、それに付き従うコバンザメのような護衛艇がそこに留まっている。
 そこから一直線に降りてくる大きな竜らしきものの影が見える。

「イヤァッハァーー!!」
「速い速い速いーーっ!! ちょ、この馬鹿弟っ! 少しは加減しろーーっ!」

 膜翼を畳んで急降下するのはロベールが騎乗する幻獣――クトーニアンと火竜のキメラ――、イリスだ。
 100メイル近い巨体はロベールの用いる魔法で、自由落下以上の加速度を与えられている。
 何年もシャンリットの空を共に飛んできたこの主従のコンビネーションは熟練の域に達している。ロベールの魔法とイリスの身体能力は互いに噛み合って、高速高機動を実現しているのだ。
 ……それに付き合わされるメイリーンは堪った物ではないが。

「イーリースー! 雲を払えぇぇ! 姉上は詠唱を!」
「分かってるわよっ! 言われなくてもっ!」

 ロベールの意図を汲んだイリスが雄叫びと共に背中の触肢を蠢かせる。触肢の先に炎が灯り、周辺にドラゴンブレスをバラ撒く。
 さらに上空のフネに艦載されていた触手竜騎士(イリスを小型にしたキメラドラゴンに乗った竜騎士。小型とは言え15メイルはある)たちも次々とエイ型のフネから滑空し、周囲の雲に向かってブレスを吐く。
 元々それほど多くなかった雲は、イリスや他の触手竜たちの放った火球によって気温が上昇した影響で、溶けるように消えてゆく。
 しばらくそうして雲を散らすうちにイリスの加速も緩やかになり、上空200メイルほどの所で静止する。他の竜騎士たちは上空で旋回している。

 雲が急に晴れ、高空から侵入する影に気づいたのか、ガリアの陣地が慌しくなる。
 だがもう遅い。
 既にメイリーンの詠唱は終わっている。

「『集光(ソーラーレイ)』!!」

 魔法を発動する最後のキーワードがメイリーンの口から呟かれる。

 戦場に居るガリア軍は知らないことだが、膜翼を広げ触手を蠢かせる幻獣は、虹の女神の名を冠している。
 その背後に、多重連環状の虹が広がった。
 
 一面に広がる虹の連なり。虹彩、アイリス、光輪。
 美しいその光景に、ある者は見蕩れ、ある者はかつて戦場で聞いた“虹彩”の二つ名を持つメイジの逸話を思い出して逃げ出そうとする。
 虹の輪を背負い、半透明の膜翼を広げる巨大な竜は、その見た目の美しさとは裏腹に見るものに死を告げる死神なのだ。

 虹が揺らいだ次の瞬間、戦場に光が突き立った。





 焦熱地獄。まさにその言葉が相応しい。
 ガリア軍の本陣はメイリーンの『集光』の魔法によって集められた太陽光によって炙られ、灼熱に襲われている。

 生きたまま身体が沸騰し、焼け爛れていく人馬。
 燃え上がり始める糧食やテント。
 阿鼻叫喚。苦鳴、悲鳴。

 メイリーンは一点集中の破壊力よりも、広範囲に対する殲滅を優先した威力調整を行っているようだ。
 彼女がその気になれば、範囲を絞ることで瞬時に地面を蒸発させるような高温にすることも出来る。
 そうしないのは、ガリア兵の取り零しが出ないようにするためだ。また、高収束させるよりも収束率が低い方があまり集中力を必要としないため、じっくり弱火で攻める方が、長い時間魔法を運用できるという事情もある。

 水メイジが高温に対抗して温度を下げる魔法を使おうとしているようだが、熱せられた空気が肺を焼いてしまって上手く詠唱できない。
 火メイジでは高温には対抗できない。熱に耐性はあるだろうから幾分か他の人間よりは保つだろうが、それだけだ。
 土メイジは障壁を作ったり地中に潜って耐えているが、あとどれだけ保つだろうか。収束された太陽光線以外にも、ドラゴンブレスが手当たり次第に降り注いできているのだ。
 風メイジは、ひょっとすれば上空の空気を掻き乱すことで、この『集光』の魔法の発動を止めることが出来るかも知れない。しかし、200メイルも上空まで影響するような魔法はそうそう存在しないし、それを詠唱し切る時間も残っていないだろう。

 土メイジが表面が鏡面の二重壁を作り、その二重壁の間を風メイジが真空にすれば、熱を防げたかも知れない。しかし、咄嗟にそこまで出来るものはこの戦場には居なかった。

 地面が干涸らび、罅割れていく。草木は燃え上がり、焼け爛れた死体は徐々に焦げて嫌な匂いを発し始める。
 魔法の効果範囲以外の陣地は、効果範囲ギリギリの周縁部から逃げ出してきた兵達でごった返し、混乱しているようだ。

 死体達が炭化し炎を上げ始めた所で、降り注いでいた日差しが和らいだ。だが、攻撃は終わった訳ではない。単に焦点が移動しただけなのだ。
 ガリア軍の陣地を縦横に光の筋が走る。その度に人の群れは光から逃れようと移動し、灼熱の光に当てられた者は皮膚を炙られたせいで踊るように暴れては、力尽きて倒れていく。


「ロベール」
「何さ、姉上」
「こんなに大規模に『集光』を運用したのなんか初めてなんだけどさっ」
「そうだろうね」
「なんかこう、見たことあるような気がするんだよね、この光景って。何だろう?」

 メイリーンの額には汗が浮いている。だが、相当な集中が必要なはずなのにロベールに軽口を叩く辺り、まだ結構余裕なのかも知れない。
 ロベールの方は特にすることもなく、イリスに『レビテーション』を掛けて自重を軽減しつつ、火球を撒く大まかな方向を指示しているだけだ。まあ『レビテーション』とは言え、イリスの巨体の重量のその一部だけでも支えるのはラインメイジのロベールには大変なのだが。

「うーん、僕はあれを思い出したね。レンズで集めた光で蟻の行列を焼き殺した感じ」
「あ、それそれっ。そんな感じっ」

 疑問が晴れたのか、スッキリした顔で殺戮を続行するメイリーン。
 火メイジ用の火の秘薬(黒色火薬)置き場に焦点が当たったのか、派手な爆発が起きる。
 一頻りガリア軍の陣地一帯を焼き払った辺りで、精神力を粗方使い果たしたのか、メイリーンはぐったりとしてしまった。辛うじて意識は保っているようだが、少なくとも後一日は使い物にはならないだろう。

「ロベール、あと宜しく頼むわ……っ」
「了解、姉上。よし、じゃあイリス、降下だ。フネが着陸できる場所を作らないといけないからな」

 地響きを立ててイリスがその二本の足で着陸する。地核の熱に耐えるクトーニアンを素体に使ったキメラであるイリスは、この戦場に残っている程度の灼熱の残滓ではダメージなど負わないのだ。
 イリスは燃え上がる陣地や死体をその長い触肢を振り乱して薙ぎ払って吹き飛ばす。
 火の付いた残骸は、周辺の陣地に飛んで行き、延焼してガリア軍の被害を増やす。

「うーん、まあこんなもんかな。じゃあ、上空に居るフネ――〈レイ・バレーヌ〉に合図を。イリス、雄叫びを」
『RUOOOOOOOOOOOOOOOOooooooooo!!!!』

 一帯に響き渡る身の毛もよだつような吠声。
 虹を背負った化物の話は、ガリア軍に瞬く間に広まっていく。トリステインの“虹彩”のメイジの話も相まって士気もどんどん低下していく。
 そこに、上空から虹の怪物よりも大きな影が降りてくるのが見えた。
 イリスの吠声を合図に、シャンリット家の船団が降下を始めたのだ。

 〈レイ・バレーヌ〉――鯨エイと呼ばれたエイ型の巨大なフネは降下を始める。周囲のコバンザメ型の護衛艇から放たれる魔法は近寄ってくる竜騎士達を撃ち落とし、地上にも魔法攻撃が加えられている。
 重い地響きと土煙を立てて、さっきまでガリア軍が陣地を張っていた場所に〈レイ・バレーヌ〉は着陸する。邪魔な残骸はイリスの触腕が払っている。
 〈レイ・バレーヌ〉と同型機のシリーズは、もともとはシャンリットの流通改善のために作られていたフネである。フネを動かす人員を極端に減らして、その分荷物などを積み込めるようになっている。
 人員削減と巨大な艦の管制をタイムラグ無しに行うために、〈レイ・バレーヌ〉シリーズは船体全体を一つのインテリジェンスアイテムと化してあるのだ。制御の殆どを自力で行ない、精霊石の供給さえあれば、自己修復すら可能である生きた艦なのである。

 今回、軍に納められた巨大エイ型空中船は、着陸すればその時点から司令部としての役割を果たすことも出来るようになっている。空飛ぶ移動要塞とでも言えるかも知れない。
 このフネには戦争に必要な施設は全て積んであるのだ。肝心のエネルギーは、全世界に分布する〈黒糸〉から供給されるので心配することもない。

 着陸したフネからワラワラと軍人が吐き出され、整列していく。熱波は冷めやらないが、〈レイ・バレーヌ〉本体から寒風が吹き出て周囲を快適な温度に調整する。
 整列を終えたシャンリット軍が、工具や杖を片手に陣地の造成に取り掛かる。母船から離れれば、そこはまだ灼熱の地獄なのだ。しばらくは周囲の拠点化で時間をつぶす必要がある。
 〈レイ・バレーヌ〉号の上空にはイリスが留まり、全周囲に睨みを効かせている。

 この時点で『集光』の攻撃によってガリア軍の拠点は壊乱状態に陥っており、ガリア軍は撤退を余儀なくされていた。
 シャンリット軍の兵たちこそ追って来ていないが、巨大船の護衛艇と、連れて来られた空中触手騎士団(ルフト・フゥラー・リッター)は好き勝手に戦場の空を駆けて砲撃を加えているため、甚大な被害が出ている。
 戦の流れは完全にトリステイン側に傾いた。ガリア軍を国境まで追い返すのも、もはや時間の問題だろう。

 実際、その流れは止まることがなく、数回の激突の後、一ヶ月もしないうちにトリステインはガリア軍を追い払った。







 条約の締結や賠償金の交渉など、後始末にはかなり時間が取られるだろうが、まあ、いつの時代も戦争とはそんなものだ。
 対ガリア戦争での活躍によって、メイリーンとロベールにはシュバリエ(騎士爵位)が与えられることになった。

 そしてガリア方面でのシャンリット軍の活躍と、シャンリット防衛戦-東方都市国家平定における不気味な噂から、誰もが「シャンリットを敵に回すとどうなるか」というのを思い知ったこととなる。

 ガリア戦役における常軌を逸した速度の動員、兵の練度、強力な新種の幻獣は、諸侯を震え上がらせるに充分であった。彼らがその気になれば、どんな都市でも電撃的に落とせるだろうと多くの貴族が考えた。
 それでも辺境出身の貴族は、王軍よりも速く助けに来てくれることを当てにして宮廷でシャンリット派閥に近づいた。逆に王都周辺の貴族は反逆を恐れて、中央諸侯で固まり、シャンリット派に対立するように動いた。

 シャンリット防衛戦は、派手だったガリア戦役に比べて、逆に何の情報もなくて不気味だった。寄り集まった東方都市の軍勢が数時間で綺麗サッパリ居なくなったというのだ。
 とはいえ、軍勢を撃退した証拠の生首を瓶詰めにして、ウードが王都へ持参したということらしいので、シャンリット防衛戦に参加した敵兵は神隠しにあった訳ではなく、ほぼ全て死んでいると見ていいだろうが。
 何が起こったのか分からないが、何かが起こったのは確かだ。市井では数々の不気味な噂が囁かれている。



 ガリア戦役とシャンリット防衛戦にて、外患は一先ず打ち払うことが出来た。
 しかし、国内は辺境派と中央派に割れつつ有り、至る所に蠕動する蜘蛛の影が見え隠れする。
 それに応じてか、シャンリット脅威論やアトラナート商会陰謀論、矮人の排斥運動の萌芽が主に中央で見られるようだ。そこにはシャンリットへの恐怖や、異人への不安、伝統への固執、既得権益の確保など様々な者の様々思惑があるのだろう。

 今後のトリステインの行方を占うに当たって、鍵となって来るのは、やはり今回の戦争で陞爵した東のシャンリット侯爵領だろう。
 そして、その長男ウードと、彼が率いるアトラナート商会。白百合に架かる蜘蛛の巣は朝露と共に儚く消える定めにあるのか、果たして――。

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後で描写を追記するかもです。
2010.08.30 初投稿
2010.08.31 追記、修正しました
2010.10.30 修正



[20306]   外伝6.ビヤーキーは急に止まれない
Name: へびさんマン◆29ccac37 ID:4dc27135
Date: 2010/11/02 17:37
 ここはハルケギニア星系の第四惑星(火星相当)と第五惑星(木星相当)の間に広がる小惑星帯。
 青き星と双子月を遙か彼方に置いて、ここまでも蜘蛛の糸は伸びている。

「ていこくはー、とってもーつよいー。せんかんはーとってもーでかいー」

 宇宙服を着て某星戦争な鼻歌を歌いつつ作業を行うのは、もはやお馴染みの感がある新興種族、樹から生まれるハルケギニア産ゴブリンである。
 因みにこんな3Kどころじゃねーぞって職場環境に居る彼女――オルガ・ヴァンデュジエム・ルインは、やっぱり犯罪者。
 具体的には先の大規模なイベントで私怨丸出しで戦場放棄して私闘を行ったのがチクられて上層部にバレたため、懲罰として社会奉仕活動中である。

 因みにその時の私闘の相手の方は、これまた懲罰で、現在は火星辺りで腐臭漂う煙を纏った“イヌ”とステゴロで死闘を繰り広げているはずだ。
 何だかんだで、時を越える猟犬相手には一番勝率の高い人格を搭載しているし、“イヌ”相手にはそれ以上の適任も居ないだろう。

 では、小惑星帯に居るオルガは何をしているのかというと。
 小惑星の軌道を変更して一箇所に集めるための、ロケットエンジン替わりをさせられているのだ。

 オルガは棍を小惑星に突き刺し、そっと手を添えて荒地のような小惑星の地表に腰掛ける。
 茫っと彼方を見つめる。彼方に見える銀河の星々が眩しい。
 棍に魔力を流し、地表の粒子を土魔法と火魔法で分解→イオンビーム化して推力にする。
 あと30分加速させたら別の小惑星で同じことをやらなければならない。気の遠くなるくらいのノルマが残っている。残りの人生掛けても終わるかどうか。
 ふと寂寥感が胸にこみ上げる。一体何でこんな事になったのか。

【激情に駆られて決闘に臨んだ挙句に決着が着かずに魔力切れでダブルノックアウト。その後、敵前逃亡で軍法会議に掛けられたせいでしょう……】

 傍らの地面に突き刺さる棍から思念が伝わる。
 オルガの体内に張り巡らされたカーボンナノチューブネットワークの杖〈黒糸(個人用)〉を宇宙服にも傍らのインテリジェンス・ケインにも侵食させているお陰で、真空の宇宙でも会話ができる。
 宇宙作業をする者には、相棒となるインテリジェンスアイテムが支給されている。もしくは犯罪者の中でも最初からインテリジェンスアイテムを持っている者が、この小惑星帯域の作業者に選ばれる。
 作業者が孤独で狂わないようにするためということもあるし、作業に必要な複雑な軌道計算をインテリジェンスアイテムに肩代わりさせるためでもある。

「それはあの女がシブトイから悪いのよ? さっさと消し炭になれば良いものを、しつこくしつこく再生しやがるから?」

【あれはもう相性が悪かったとしか……】

 オルガは今の相棒と出会った戦場での初戦闘を思い出す。
 〈97号〉と呼ばれる棍型のインテリジェンス・ケインと彼女は、先の大規模な対人間の戦争“シャンリット防衛戦”で出会ったのだ。
 出会い頭に『いい拾い物しましたわ?』とか言ってあっという間に〈黒糸(個人用)〉を〈97号〉に侵食させて強制的に従属させたのも記憶に新しい。

 そこで出会った因縁の相手。焼き尽くしても焼き尽くしても再生して突っ込んでくる女――アネット・サンカンティアニエーム・バオー。
 どこのリジェネレーターだ、畜生め。欠損した質量を、周囲から『錬金』でタンパク質なんかに変換して補うとか何処の変態が考えたんだか。彼女はあの時の戦闘を思い出して心の中で悪態をつく。
 最終的にはオルガの精神力切れと同時に、アネットもオルガの最後の一撃で受けた損傷を再生した際に精神力が底を衝いたようで、決闘は両者相打ちとなった。

「思い出したらまたムカッ腹が立ってきましたわ?」

【注ぎこむ魔力は乱さないでくださいよ。軌道計算やり直しとかヤですからね……】



 彼女のような宇宙空間の作業者らによって一箇所に集められた小惑星の塊は、適当な大きさになればハルケギニア星と繋がる〈ゲートの鏡〉が設置される。
 そのゲートを通じてハルケギニアの惑星規模ネットワーク状インテリジェンスアイテム〈零号〉と接続され、その端末 兼 人工衛星都市として開発されるのである。

 数百時間かけて数百人が作業した結果、漸くまた一つ大きな岩塊が出来つつあった。




 そして、亜光速で突っ込む何者かによってブレイクショットされた。








 蜘蛛の糸の繋がる先は 外伝6.ビヤーキーは急に止まれない
 







「またビヤーキーですか!? サハラの連中、少しは自重しやがれです。特に木星あたりまでは徐行運転して欲しいものですね!? 或いは飛行ルートを変えるとかしないんですかね!?」

【あーあー、玉突きみたいに小惑星が広がっちゃって……。これは〈零号〉さんの方での軌道計算のやり直しを受けないと迂闊に作業できませんよ……】

 遠目に岩塊が蹴散らされる様子を目撃してしまったオルガと〈97号〉がボヤく。
 時々星間を渡る化け物たちによって彼女らの作業が妨害されることがあるのだ。

【それより、さっさと祝詞唱えないとこっちに襲いかかってきますよ、ビヤーキー……】

 巨大な岩塊があった辺りに、耳長エルフを乗せた奇っ怪な生き物が見える。
 頭・胸・腹の三つの節から成る身体に大きなコウモリのような翼。
 アリとコウモリを混ぜたような、あるいはハチとハゲタカのキメラのような、よく分からない生物だ。
 あれが小惑星の塊にぶつかったのだろう。

「はいはい。“いあいあ はすたー、いあいあ はすたー”。これで良いかしら?」

【投げ遣りですけど、大丈夫じゃないですか? 多分……】

 名状し難きハスターの下僕であるこの宇宙飛行生物は、このような出会い頭にはハスターの信奉者であることを示さねば襲いかかってくることがあるのだ。
 星間に満ちるええてるの波に乗って光速に迫る勢いで飛来する彼らの突進を止められる者が居るだろうか? 否、居やしない。気づけばバラバラにされているだろうことは想像に難くない。
 真空なのに祝詞が伝わるかどうかは分からないが、この一工程を行うことで、荒ぶるビヤーキーの犠牲者が出ることが劇的に減ったのだから、ええてるを伝わって聞こえているのだろう。

「なら良いですわ。それより、軌道計算のやり直しの為に情報収集が必要なのでしょう?」

【そうですね……。幸い激突の瞬間は記録出来ましたのでそこから詳細な各破片の軌道も分かるでしょう。後で〈零号〉さんに記録を提出しましょう……】

「じゃあベースに戻らないといけませんわね?」

 さあ、ベースとなっている近場の人工小惑星都市に戻ろう、と精神力を棍――〈97号〉に流そうとしたところで、オルガは異変に気が付く。


 右腕が無い。
 〈97号〉も傍らに無い。


 ビヤーキーはいつの間にか居なくなっている。


 そして次の瞬間には、オルガの視界は糸を引く勢いで回っている。
 星々の光は白い糸となり、まるでオルガ自身が世界の中心に居るかのようだ。
 自分の体が何者かにぶつかられた勢いで高速回転しているのだ、と理解できた所でオルガの意識は途切れた。







『以上が小惑星中を漂う〈97号〉とオルガ・ヴァンデュジエム・ルインの頭部から回収された事故時の様子についての記憶および記録である。
 これにより、オルガ・ヴァンデュジエム・ルインはエルフが駆るビヤーキーに遭遇した後に、その突撃を受けたものと推察される。

 同様の事故を防止するためには、
  ①ビヤーキー遭遇後の祝詞をもっと完全なるものにしてビヤーキーを宥める
 あるいは
  ②サハラのエルフ達に我々の小惑星開発宙域の情報を提供するなどして彼らの星間飛行ルート選定上の注意を促し、そもそもビヤーキーの進路と工事宙域がぶつからないようにしてもらう
 ということが望まれる。

 ①については〈レゴソフィア〉氏族に対して、発狂した知識を保持している人面樹群やエルフの死体から得られた記憶から、ハスター崇拝の祝詞をサルベージすることを要請する。
 あるいは〈ウェッブ〉氏族に対して、エルフの集落に浸透拡張させた〈黒糸〉を通じて、エルフのハスター崇拝の祭祀を盗聴盗撮して祝詞を盗み出すことを依頼する。
 勿論エルフの拉致や略取など非合法的な手段に訴えずに、友好的に完全な祝詞を聞き出せるならばそれに越したことはないだろう。

 ②についてはエルフへ提供する小惑星帯工事宙域の情報や、過去の事故発生データについての草案は作成してあるので、適宜修正を加えてエルフとの交渉に活用していただきたい』

 ――小惑星宙域開発 事故報告 第1056号より抜粋――






「それで、私にこれを老評議会に伝えろというのか?」

「えェ、お願いできませんかねェ、ミスタ・テュリューク」

 サハラ付近のアトラナート商会支店の迎賓館にある一室にて、エルフの美丈夫と背の低い卑屈な笑みを浮かべたゴブリンメイジが向かい合っている。
 二人の間の机の上には小惑星宙域における事故発生件数とその原因に占めるエルフが駆るビヤーキーとの衝突件数などの資料と、ゴブリン側からエルフへの要望書が置かれている。

「困ってるんですよ、我々もねェ。あの小惑星帯の開発には膨大な時間と労力が注ぎ込まれています。それをそっちの不注意の事故で何度も台無しにされちゃあですねェ」

 そう言って卑屈そうな矮人は幾つもの資料を読み上げる。

「これまでに完成間近な人工小惑星都市に激突すること10回、集積中の小惑星群を蹴散らすこと139回、二次的な作業遅延や人的被害は数えきれません。
 こちらとしても外交上の何らかの対策を取れと言われているんですよねェ」

「フン、そっちが勝手にビヤーキー達の進路上に割り込んできているのではないか。自業自得だ」

 エルフの男、テュリュークはゴブリンの訴えを一蹴する。

「その進路を教えて頂ければこちらとしてもバッティングしないように対策を取れるんですがねェ。でも、教えてはくれないんでしょう?」

「ああ。これまで何度も言っているように、私にはその権限が無いし、知っていたとしても他種族の者に星間飛行の航路なんか教えられるものではない」

 沙漠に住む彼らエルフの一部は名状し難きハスターを信奉し、かの神性の強力な加護を得ている。“風”を司るハスターの加護を得た“行使手”は“反射(カウンター)”などの空間力場系の術に対する適性が高く、強力無比である。
 その加護を継続させるための巡礼に、あるいは知識を得るためにセラエノの大図書館へ赴くのに、エルフたちは頻繁にビヤーキーを呼び出し、遙か星辰の彼方へと旅行を行っているのだ。
 その旅路を押さえられるということは、ハスターの御下への巡礼旅行を邪魔される可能性があるということだ。
 或いは魂を閉じ込めてしまう檻などの悪辣なトラップが航路に仕掛けられるかも知れない。信用できない相手には教えることは出来ないだろう。

 まあ、トラップの危険性という意味では現状でもゴブリンたちがその気になれば、いくらでもトラップを仕掛けられるのであるが。
 実際に交渉が決裂するようなことになれば、最終的にはゴブリンたちは宇宙にアトランダムに様々なトラップを仕掛けて拿捕するなど、エルフに対して実力行使に出るつもりでいる。
 ただこの場合、エルフ以外の星間種族も敵に回す虞(おそれ)もあるから積極的に執りたい手段ではないが。

「だからコチラも譲歩しているじゃあないですかねェ。こっちの工事中の宙域を教えるから、ビヤーキーに乗るときはそこを避けて飛ぶように指導して貰えないかって話なんですよ」



 一方エルフのテュリュークはアトラナート商会の駐在員から詰め寄られて内心非常に困っていた。
 何せ、セラエノへの星間飛行の航路なんて決まったものは存在しないのだ。
 そもそもからしてビヤーキーの背に乗っている間は精神と身体は凍りついており、乗騎にまともに指示できる状態ではない。
 飛行はビヤーキー任せなのである。

 更に言えば、よしんばビヤーキー達の航路がエルフ達の手でコントロール出来たとして、今度はアトラナート商会から提供されるという“工事区域の宙域図”を解読して運用するだけの技術力がない。
 宇宙の何処そこを工事中なのでそこは通らないで下さい、と言われても、その“何処そこ”をリアルタイムで把握してその領域とぶつからないように航路を構築するなんて芸当は到底不可能だ。
 目の前に居る駐在員のゴブリンは、エルフの技術力を過大評価しているのではなかろうか。
 プライドの高いエルフとしては決して口に出して言える話ではないが、殊、複雑な処理能力や精霊を介さない技術に関してはアトラナート商会はエルフの一歩も二歩も先を行っているようなのだ。



 黙りこくっているテュリュークの様子を見て、交渉役のゴブリンは溜息一つ。
 
「分かりました、ミスタ・テュリューク。
 そういう事でしたら、こういうのはどうでしょうかねェ?」

 ゴブリンは取っておきのカードを切る。

「今現在、既に完成している小惑星帯の人工小惑星都市の一つを進呈します。
 コチラをセラエノへ向かう際の玄関口として使って頂けませんかねェ?」

 勿論、インフラはそのまま残しますし、サハラから直通の〈ゲートの鏡〉も付けますよ、とゴブリンは言う。
 これにはテュリュークも耳を疑った。人工小惑星都市と言えば、少なくとも10リーグ四方の小都市に匹敵する人員を収めるくらいの大きさはあったはずだ。
 確かにそこをエルフの宇宙港として用いれば、ビヤーキーが小惑星帯域を通ることも無くなり、ゴブリン側の事故は減るだろう。現在無秩序に召喚しては飛行しているビヤーキーについて、宇宙港で発着するようにその召喚を統制出来れば更に事故は減るだろう。
 しかしこんな大層なものをこうも軽々しく“進呈する”だなんて、一体何を見返りに求められるのか。テュリュークの背中を冷たいものが走る。

「そんなものを貰う訳には行かないな。第一、それは丸っきり賄賂じゃあないか」

「賄賂だなんて! 人聞きの悪いことを言ってはいけませんねェ。我々はそれだけ現在の事態を憂慮しているということなのです。
 現場の安全とこれ以降に失われるかも知れない貴重な時間というものを買うと考えれば、都市の一つくらい安いものですからねェ」

 生の短いゴブリンにとって、時間というのは本当に何物にも代え難いものなのだ。

「しかしだなぁ……」

「それに我々はミスタ・テュリュークとこれからも良いお付き合いをしていきたいのですよ。
 ……ミスタ・テュリュークが統領になるまで、ねェ?」

 延命の方法なんていくらでも有りますし、韻竜並みの長期政権なんてのも良いんじゃないですか。などとゴブリンは続ける。

 瞬間、テュリュークの頭の中で様々な憶測や打算が走る。
 元来から、テュリュークは権力志向の強い人間なのだ。
 現在はアトラナート商会付きの連絡官という閑職に追いやられているが、小都市にも匹敵する人工小惑星都市を手土産に出来たとすれば? 老評議会議員、ゆくゆくは部族の統領となるのも可能なのでは? そういった思いが後から後から湧き出してくる。

「持ちつ持たれつ、上手くやっていけないもんですかねェ? ミスタ・テュリューク」

「……良いだろう、星の彼方の都市を一つ。それを対価に、貴殿らの小惑星帯の宇宙開発の邪魔にならないように手配しよう」

 満足いく返事がもらえたということだろう。ゴブリンが喜色を浮かべてテュリュークに握手しようと手を差し出す。
 テュリュークもそれに応える。

「流石、ミスタ・テュリューク。では、コチラの契約書に早速サインを。これであなたは一都市の主ですねェ。これをどう使って行くかは貴方の才覚次第ですよォ。
 しかし、我々は貴方を非常に高く買っていますゆえ、あまり心配はしておりません。貴方の手腕を信じていますからねェ」

「フン、任せておけ。せいぜい私も貴殿らを利用させてもらうこととしよう。そちらこそ覚悟しておけよ?」







 以降、ビヤーキー発着用の宇宙港を運営するテュリュークの出世にともなって、エルフ社会の内部にもアトラナート商会は深く食い込んでいくこととなる。
 小惑星帯の宇宙開発を邪魔するようなビヤーキーとの衝突事故も殆ど起こらなくなり、ゴブリンたちの小惑星帯の宇宙開発は順調に進むようになる。

 そして当然ながら、ここに至り、火星-木星間の人工衛星都市においてエルフとゴブリンの技術の混淆が進むこととなる。
 神秘的に秘匿された崇拝儀式やその為の材料の作成は、一般化され、部分的には工業化された。
 エルフたちはゴブリンたちに対して要望や提案――つまりはある種の可能性を提示すれば、ゴブリンたちは彼ら生来の知的好奇心に基づき勝手にそれを実現していくのだった。

 また遥かセラエノからエルフたちが持ち帰る知識をゴブリンたちは積極的に買い入れた。
 牡牛座のプレアデス星団(およそ400光年の彼方)に位置するセラエノは、余りに遠すぎて〈ゲートの鏡〉によって行き来することは不可能であり、また短命なゴブリンたちではセラエノで学ぶ時間が少なすぎてあまり多くの知識を持ち帰ることが出来ないためである。

 エルフは長命を活かして知識を持ち帰り、ゴブリンは短命ゆえの知的な瞬発力を用いて開発を行うという相互関係が出来上がったのだ。
 お互いに信頼しきっている訳ではないが、利害が一致する間のパートナーとしては信用していた。
 エルフはゴブリンたちが知的欲求に対して率直過ぎるきらいがあるものの、理性的であることを評価していたし、精神的な群体としての長命さに羨みを覚えるものも居た。中には自ら進んでゴブリンたちの人面樹のネットワークの中へと死後の自分の記憶と経験と人格を託したものもいただろう。ただ、ゴブリンたちのあまりの見境の無さに嫌悪を覚える者も少なからず存在していたのは確かである。

 ゴブリンたちは単なる取引相手としてしかエルフを見ていなかったが、それはエルフたちが基本的に敬虔なる“大いなる意思”への信仰者であることを充分に――人面樹に取り込まれたエルフの記憶から――理解していたからである。
 敬虔なエルフに限っては、欲を出して更にゴブリンの技術や資産を得るためにと、ゴブリンたちに対して戦争を仕掛けたりなどはしないだろう。
 しかし果たして今後も穏便な関係が続いていくのかどうか……。





 人工衛星都市の中の大通り。
 1層は30メイルほどの高さとなっており、重力偏向魔法を常時発生させる機構によって床の方向が規定されている。
 大通りは人通りが多く、50メイルほどの幅の通りの左右には、オフィスや居住区として用いるための建物が床から天井まで伸びている。というより人工衛星都市の内部構造を支える壁や柱の中に、ビルが一体化されていると言った方が正しい。
 出来る限りサハラの建物に近づけるように、建物の壁は白い塗り壁によって構成されていた。もちろん見た目だけであるが。

 そんな中、一人の切れ長の目をしたエルフの男が歩いていた。
 エルフは皆切れ長の目と長い耳が特徴なのだが、この男はそれよりももっと怜悧で鋭角な印象を与えてくる。
 それはあるいは彼自身の魂の鋭さから由来しているのかも知れなかった。

 男はムウミンという名前である。彼らの言葉で“信仰に篤き者”という意味だ。
 彼がここに来たのは遥か星の彼方へと風の神の加護を受けに赴いたその帰り道であり、星辰の彼方のセラエノからサハラへと帰るためである。

「全く、息苦しい街だ。精霊の力が薄くて仕方が無い」

 ムウミンはそう言って苛立たしげに周囲の建造物を見回す。
 実際はエルフからのクレームを受けて、ゴブリンたちは通常自分たちが使用する人工衛星都市よりも遥かに多量の精霊石を使用して空間に満ちる魔力を上乗せしているのだが、それでも初めてこの街に来るエルフにとっては不快で息苦しいものとなるらしい。
 彼らにとって精霊の力は空気のように親密で不可欠のものであり、この人工衛星都市はまるで空気の薄い高山地帯のように感じられるのだという。

 その上、人工衛星都市全体がゴブリン式のインテリジェンスアイテム(物理的なハードに依拠しており、よりアストラルな存在に近いエルフ式インテリジェンスアイテムとは区別される)の制御下に置かれており、その影響で、人工衛星都市のフレーム部分や外壁部分は、よほど強力な“行使手”で無い限りは精霊と契約できないようになっている(勝手に構造物と契約して、機構を変形させられたらたまったものではないという事情もあるし、そのような行動は条例でも禁止されている)。
 これによって、エルフたちは精霊と契約できない場所に居続けることから来るストレスにも晒される。
 エルフから「せめて居住区は精霊を呪縛から開放して契約フリーの状態にしてくれ」とクレームが相次いだため、現在では、出来るだけ多くの建物を、人工衛星都市の管制人格の支配下から外すように建造様式が変更されている。

 この人工衛星都市は名前を『トゥライハ』と言う。
 『トゥライハ』とはエルフの言葉で“アカシアの木”という意味で、精霊力が希薄な宇宙空間に於いて、沙漠のアカシアの樹の如く生命を保つ様から名付けられたそうだ。

 いくら宇宙空間よりましとは言え、初めて訪れたムウミンにとっては非常に息苦しくて仕様がない場所だ。
 そう、“初めて”。
 セラエノから帰ってきたムウミンが、このトゥライハ衛星都市に初めて訪れるとはどういう事か。
 帰ってきたなら行きの時にもこのトゥライハの宇宙港を通って行くのではないのか?

 復路なのに何故初めての来訪であるのか。
 それは彼がセラエノに行っている間に、この人工衛星都市が出来てしまったためである。

「ああ、全く。余計な物を作りやがって。しかも防疫検査で3日も足止めとは」

 そう言いながら精霊力不足による高山病のような症状でフラつく足取りで近くの軽食屋の扉へと向かう。
 扉をくぐって中に入ると、幾分か周囲の空気に精霊の力が多くなる。
 ここの店主はエルフに配慮してか、独自に精霊石を仕入れて店内に精霊力を満たしているのだろう。

「店主、水を頼む。冷えたやつをな」
「はーい!」

 ムウミンが店内に設えられた机に突っ伏しつつ注文をすると、奥からパタパタと子供がやって来る。
 金髪の巻き毛と褐色の肌が特徴的な少女だ。ウェイトレスか何かだろうか。

「“樹木の民”か?」

 “樹木の民”とはエルフたちの間では、野蛮なゴブリンからここ十数年のうちに進化してきた種族のことを指す。
 樹の実から生まれて殖えることからエルフの間では“樹木の民”と呼称されている
 ゴブリンメイジとか、あるいは新ゴブリン、矮人とも言う。

「そうですよー、エルフのお兄さん。はいお水です。良ければ何か他に注文をどうぞ? こちらメニューです――って、ぁぁぁあああああっ!!」

 途中まで流暢に話していた樹木の民の少女はムウミンの顔を見ると急に大きな声を上げた。
 少女が急変して上げた大声に、ムウミンは思わず耳を塞ぐ。
 そしてワナワナとこちらを指さして身体を震わせる褐色の少女へと、ムウミンは切れ長の鋭い目を向ける。

「何だね急に。私の顔がどうかしたのか――」

 途中まで問いかけたムウミンを遮って少女が叫ぶ。

「轢き逃げ犯!!」
「――い?」

 余りに唐突な物言いにムウミンの刻が止まる。
 一体何のことやらという顔をしたムウミンに対して、ウェイトレスの金髪巻き毛の少女は言い募る。

「惚けるつもりですの!? セラエノへの行き道の小惑星帯で、ビヤーキーで思いっ切り跳ね飛ばしたでしょう!?」
「うん? いやそう言われても」

 ビヤーキーに跨っている間は乗っている者の精神は停止している。
 途中で何かにぶつかったとしても、セラエノに着くまでは意識不明状態だから気づきようがないのだ。

「やっぱり惚けるつもりですのね!? くぅう! でも証拠がないから何とも出来ない! 悔しいですわ!?」
「はあ。何だ。まあ、取り敢えずこのランチセットAを頼む。ドリンクはココナッツで」
「あ、はい。畏まりました、ランチセットA。ドリンクはココナッツで。――って、違う! いや違わない、ああもう、兎に角、後できっちり話つけますから覚えてらっしゃいまし!?」

 反射的にムウミンの注文を復唱して、小柄な少女は錯乱したように頭を掻きむしり、捨て台詞を残して厨房の方へと去る。
 そんな制服と思われるエプロンを着けた少女の愛らしい後ろ姿を見送って、持って来られたグラスを手にムウミンは考える。
 一口飲む。よく冷えた水だ。美味い。市街地を走りまわって汗を流した身体にはよく染み渡る。

「何だったんだ? 一体。大体、ビヤーキーに轢かれたとして、無事で居られるとも思えないが」

 仮にさっきのウェイトレスの少女が言っていた事が本当だとして、ムウミンが考えるように、亜光速で飛行するビヤーキーに突っ込まれて無事な筈がないのだ。
 そもそも“樹木の民”の寿命では、ムウミンがセラエノにいる間に命数が尽きて死んでしまうはずだ。さっきの少女は、吸血鬼の下僕たるグールのような死人には見えなかったし……。
 そこまで考えて、ふとある可能性に気がつく。

「そう言えば“樹木の民”は死体から記憶を受け継ぐ事が出来ると、噂で聞いたことがあったな。ひょっとして彼女が言っていたことは、彼女の、あー、なんだ、“前世”の話ということか?」

 口に出してみて、その可能性が非常に大きいということに気がつく。
 非常識的な話であるが“樹木の民”が斃れていった先人の記憶を本当に引き継げるというのであれば、先程の彼女の態度もあり得ないわけではない。

 そして全く身に覚えが無いことではあるが、彼女の言うとおりにセラエノへの往路上においてビヤーキーで轢き逃げをしたのであれば、そして彼女がその被害者の記憶を引き継いでいるのであれば、一応先程の彼女の態度にも理屈は通る。
 ……だがそうだとすれば、やはり彼女の前世――つまり直接に被害に遭った者――は死んでいる訳であり、死者からの賠償請求が成立するのか、という問題がある。
 常識的に考えれば、その当時には生まれていなかっただろう先程のウェイトレスの少女に対して賠償する必要はないはずだ。エルフと“樹木の民”の間で結ばれた条約にも依るが、恐らくは。
 そうしないと、賠償を請求する権利を持った者が際限なく増えてしまうではないか。

 そうこう考えているうちに先程の金髪ロールの少女が食事を持ってくる。

「ご注文のランチセットAをお持ちしました。こちらココナッツドリンクでございます」

 非常に気不味い。

「気不味いな……」

 思わず口に出したムウミンを少女が片眉を釣り上げて睨んでくる。

「私もそう思っていましたけれど、口に出さないで頂けます?」

 涼しい顔でムウミンはそれを受け流すと、運ばれてきたドリンクに口をつける。
 うむ、甘くて美味しい。

「なあ、考えていたんだが、もし、仮に私が君を――いや、君の前世を、かな? 轢き殺していたとしよう。
 その場合、君に賠償請求権というのはあるのか? ずっとセラエノに居たものだから詳しくなくてね」

 ムウミンは自分の中に生まれた疑問をぶつけてみる。
 他に客も居ないようであるし、少しくらいウェイトレスと話し込んでも仕事の邪魔にはなるまい。

「え? そんなのある訳ないですわ? 死んだら、ハイそれまでよ、という事になってますから」

 けろりと悪びれる風もなく少女は答える。
 それを聞いてムウミンは非常に理不尽な気持ちになった。
 言い掛かりじゃないか。

「言い掛かりじゃないか」

 口に出ていた。

「例えそうだとしてもですね! あなた――ミスタ……えーと、お名前は?」
「ムウミン。“篤信の徒”というような意味合いだ」
「なるほど良い名前ですね、ミスタ・ムウミン。私はオルガ・ルインです。本当はミドルネームに“第67家系の(ソワサントセッティエーム)”とか付きますが」
「はあ、ミス・オルガ、ね」
「例え、言い掛かりだとしてもですね、ミスタ・ムウミン。私としては断固として謝ってもらいたいのですわ! そうじゃないと気が済みませんわ?」

 精一杯胸を張って言い切るオルガに、こめかみを押さえてムウミンは訊ねる。

「……あー、ミス・オルガ。先ず以て、私が犯人だという証拠が無いじゃないか。それに仮に君に何か賠償したとして、別の“ミス・オルガ”――つまり君と同様に事故死したオリジナルの“ミス・オルガ”の人格を引き継いだ者――が、また賠償を請求してきたらどうするんだい?」
「……いいから償いとしてセラエノで学んできた知識をご開陳なさいまし? さあさあさあ」
「目を逸らしたな。というか目的はそれか」

 “樹木の民”が知識を蒐めるのに貪欲だというのは有名な話である。
 こうなると少女が言っていた“ビヤーキーに轢かれた”という話もただの口実――当たり屋みたいなものだ――とも考えられる。
 ムウミンは眉間に皺を寄せる。
 傍らでは金髪巻き毛褐色肌の少女が「ハリーハリーハリー」と何故かアルビオン語で急き立てている(ちなみに二人の会話はエルフの言葉で交わされている。エルフの所有する人工衛星都市のエルフ向けの店だから当然だが)。

 取り敢えずムウミンは喚く少女、オルガを無視して昼食を摂ることにする。
 冷めてしまっては勿体無い。

「むう。無視するつもりですわね? じゃあ謝罪とか賠償はともかく、世間話に何を学んできたのかお話しませんこと?」

 ころりと態度を変えて柔和に話し掛けるオルガ。
 勝手に向かいの席に腰掛けると、ランチを食べるムウミンを見つめる。

「……」

 見つめる。

 見つめる。

 見つめる。

「……ミス・オルガ。そんなに見つめられると食べづらいのだが」
「じゃあ話して下さいまし? ミスタ・ムウミン。何を学んできたんですの?」

 諦めてムウミンは、昼食を食べる傍ら話し出す。
 どうせ無視しても付きまとわれるだろうから、ある程度は話してしまおう、と言う魂胆だ。
 それに食事を早く済ませないと、いつ追っ手に追いつかれるか解らない。

「私がセラエノで学んだのはね、ミス・オルガ」
「わくわく」
「――“イースの偉大なる種族”の作る精神交換機械の理論と構造についてなのだよ」

 ムウミンの言葉を聞いたオルガは、顔色を一瞬で真っ青に変えると席を立つ。
 ――しまった、地雷だった! これ以上聞いたら巻き込まれる!

「お話ありがとうございました、ミスタ・ムウミン」
「『呼気よ、我が手となりて掴め』」

 立ち去ろうとしたオルガの制服が、ぐい、と引っ張られる。
 見えない空気の手だ。
 いつの間にかムウミンは周囲のある程度の空気――口語詠唱から察するにムウミン自身が吐き出した息――と“契約”をしていたようだ。
 そうかこれは吐息かと、オルガは微妙な気分になる。



 その次の瞬間、店の入口が開き3名ほどエルフの一団が入ってくる。
 彼らは何れも、目に鋭い――鋭すぎる理性の光を宿している。

 その彼ら――イーシアンに精神を乗っ取られたエルフたち――が入ってきたのを確認すると、ムウミンはオルガを離す。
 そして席から立ち上がる。
 イーシアンたちはムウミンの顔を確認すると、彼に向かって歩を進める。電気銃を取り出すためか、彼らは懐に手を伸ばす。

「うむ、話を聞いてくれて有難う、ミス・オルガ。渡した“図面”は速やかに持ち帰ってくれたまえ」
「ちょっ!?」

 ムウミンの台詞を聞いて、イーシアンたちはオルガに剃刀よりも鋭い視線を向ける。
 オルガとイーシアンたちの目が合った。一瞬のアイコンタクト。

 ――このエルフに精神交換機の秘密を探るように依頼した黒幕はお前か。
 ――――絶対にノゥ! ですわ!?
 ――“図面”というのは精神交換機の図面だな? そうだろう。君たち蜘蛛の眷属の新興ゴブリン種族はずっと欲しがっていたものなあ?
 ――――違います! 誤解ですわ、そんな図面なんか受け取ってません! 陰謀です! いや欲しいのは確かにそうなんですけど……。
 ――精神交換機は我らの秘中の秘。その秘密を知ったからには生かしてはおけない。
 ――――だから知りませんって!?

 イーシアンたちはお互いに視線を巡らせ頷き合うと、懐から電気銃を取り出した。

「きゃあああ!? 不幸ですわーー!?」 

 位置関係的に、入り口に陣取っているイーシアンたちからは、ムウミンとオルガが居る席と更に奥に厨房が見える。
 オルガは咄嗟に厨房に飛び込み、ムウミンもそれに続く。

「うむ、土地勘がなくて困っていたところだったんだ。一番良い逃走経路を頼む。案内してくれ」
「言われなくてもそうしますわよ! よくも巻き込んでくれましたわね!?」

 オルガは厨房の鍋などを手当たり次第に後ろに投げながら逃げる。ムウミンも見えない空気の手でそれらを投げる。
 厨房のコックたちは異常を察知して伏せている。良い判断だ。
 背後からイーシアンが放った電撃が迫るが、金属製の鍋などに散らされてしまい、オルガたちには届かない。

「話を聞きたがったのは君じゃないか」
「“図面”なんて受け取ってませんわ!?」
「何、お詫びに逃げ切った暁には本当に精神交換機の図面を渡そうじゃないか」

 ムウミンのその言葉にオルガはゴクリと唾を飲む。

「……本当に?」
「約束しよう」

 オルガが先導して厨房の裏口から出る。
 裏口の扉を電撃銃の光線が貫く。

「任せてくださいまし。必ず逃げきってみせますわ!」
「ありがとう。これで一蓮托生だな。頼むよ、ミス・オルガ」

 急造コンビの逃走劇。
 彼らは果たしてイーシアンから逃げ切れるのか!?





================================
続かない。
でも多分ムウミン&オルガの行く末はバッドエンド。南無。
オルガさんのキャラクターイメージ的には何となくゴスロリっぽい感じ。薔薇乙女?

2010.09.04 初投稿
2010.09.05 追記/修正
2010.09.10 人工小惑星都市の最小の大きさについて修正
2010.10.30 修正



[20306] 蜘蛛の糸の繋がる先は 20.私立ミスカトニック学院
Name: へびさんマン◆29ccac37 ID:0593a267
Date: 2010/11/03 15:43
 王都の高等裁判所はここ数年ずっと、各地から持ち込まれる過剰なまでの土地所有権を巡る訴訟によって忙殺されていた。
 そう、まさに忙殺である。

 貴族同士の土地の明確な境界線についての解釈は、地方の裁判所――つまりその土地の貴族が管轄している裁判所である。この時代、裁判権は領主が保持していた――では解決できない問題であるため、全ての案件が貴族よりも上位の存在である王のもとへと運び込まれる。
 その貴族諸侯同士の境界線についての諍いが王都の高等裁判所に持ち込まれることが、近年多くなっている。

 数年前――アトラナート商会が台頭を始めた頃――はそうではなかった。

 いや、正確にはその兆候はあったもののここまで大量の案件が持ち込まれることはなかった。
 最近数十年は作物の出来が良く、民は溢れんばかりに増え、それゆえに土地が足りなくなっていた。
 じわじわとだが、土地の所有権を巡って対立する訴訟は、土地に対して農民の数が増えたために、地方においては増加傾向にあった。
 しかし高等裁判所に持ち込まれる案件はそれ程多くなかった。

 現在の状況について、人口論的“マルサスの罠”へと嵌りかけているとアトラナート商会の矮人たちは分析している。
 辺境領域の開墾によってハルケギニアの農作物の総生産量は増えているものの、それ以上の速度で人口が増加しているため、近いうちに貧困が蔓延するようになるのではないかということだ。
 土地所有権の争いが激化しているのは、その予兆ではないか、と。

 “マルサスの罠”を回避する方法はあるのか?
 対処法は幾つかある。
 “一定範囲で養える人口の限界”まで達した時の対処法として、ぱっと思いつく範囲では“生産効率を向上させる”か“さらに領土を拡大する”か“その土地の人口を減らす”くらいだろうか。

 “生産効率向上”は従来の方法では限界に来ている。
 ハルケギニア五千年の歴史は伊達ではないのだ。
 アトラナート商会が毎月のごとく作物の新品種を発表しており、その中には収量が多い小麦や、寒冷に強い馬鈴薯などが含まれているため、それらが劇的に広まれば、改善の見込みはあるかも知れない。

 “領土拡大”と“土地あたりの人口減”は、実は両者を一気に満たす方法がある。
 未開地(フロンティア)への進出である。
 今まで使ってなかった土地に、余った人口を移住させるという訳だ。
 現在の土地所有権を巡った訴訟地獄は、このフロンティア開拓によって発生している。
 今までどっち着かずだった森などを開拓するうちに、近隣とぶつかってしまったのだ。

 まあ他にも“戦争(戦死で人口減、もしくは賠償金や領土切り取りで賄う)”とか“疫病で人口調整”とか“亜人や幻獣によって弱肉強食”という手もある。
 先のトリステインへの侵攻戦争も、元を辿れば豊作によって過剰人口を抱えたので、その過剰人口を食わせていくための富を求めて、という面が大きい。
 疫病については、今のところは生じていないが、都市部への人口流入は増えており、過密化にともなう大流行の下地は出来つつあるので、このままでは時間の問題だろう。
 もちろん、亜人などの上位捕食者によって壊滅した開拓村も数限りなく存在する。

 この時代のハルケギニア地域のヒトについての状況は、“人口過剰で土地が足りなくなってきているし、それに伴う飢餓と隣り合わせで、社会不安が広がっている”とでも理解しておけば良い。

 ではここで翻って、ゴブリンたちはどうなのか?、“マルサスの罠”には嵌らないのか、というと。
 彼らは際限なく宇宙に進出しているから土地は幾らでも確保できるし、エネルギーも大規模太陽光発電で充分以上に賄っているし、そもそも子供の生産自体がオートメーション化されているので人口調整が容易で、共同体の構成員たちは無闇矢鱈と殖えても碌な事にならないと理解するくらいには高度な教養を持っているため、貧困に陥ることは無い。
 最近では禁断の対消滅反応にまで手を出し始めている。実験過程で人工衛星都市が、対消滅反応の暴走によって文字通り“消滅”したけれど。十数万の矮人たちが塵も残さず消失したけれど。

 それはさておき、徐々に人口が飽和しつつあるトリステイン。
 地方での土地訴訟の増加が、徐々に王都にも波及してきつつある。
 そのため、冒頭に述べたように、王都の高等裁判所が忙殺される事態になっているのだ。

 以前は貴族同士が土地の境界線を巡って対立しては王政府の裁可を仰ぐということは殆ど無かった。
 それは恥だと思っていたということもあったし、王権に自分たちの支配領域の裁判権を渡したくないという領主の思惑もあった。
 そもそも精確に領境を把握している貴族は少なかった。明確な領境は自然の川くらいであった。

 また昔は自力救済が主な紛争解決手段だったという事情もある。
 フェーデと呼ばれる武力を背景とした復讐行為であったり、あるいは決闘裁判という形式もあった。

 そもそも貴族(支配者)とは、農村を支配下に置き、税を納める民に対して庇護を与える存在であった。
 つまり、治めるべき民――というより搾取するべき納税者――が先にあるのであり、治めるべき土地の範囲が先にあったのではなかったのだ。

 町や村が十分な距離を隔てて離れており、また農民が耕作する土地が人口に対して充分に存在しているうちは、それで良かった。
 だが人口が増え、開墾によって隣接する村落の距離が狭まり、土地に対して耕作人口が過剰になると事情は変化する。

「おいおい、そこは昔っから俺たちの土地だったんだぞ。流れもんが勝手に耕してんじゃねえ」
「ずっと放ったらかしの野っ原だったじゃないか。先に耕したのは俺なんだからここは俺の土地だ。大体、耕した後から出てきて畑だけ手に入れようたぁ、ふてぶてしいにも程があるぞ」

 このような争いが各地で頻発するようになったのだ。
 争いが領内で収まっている分には、王都の裁判所の忙しさは変わらない。
 裁定は彼ら農民の領主の所で下せばいいからだ。

「領主様! 白黒つけてくだせえ!」「この土地はオラたちAの村の土地だ」「いやこっちのBの村のだ!」
「ふむ(別にきっちり税を収めてくれればどっちでも良いんだが……)。」
「……領主様、こちらはA村からの心付けです。どうぞ」
「!! あいわかった。この件についてはA村の耕作地とする」

 と言う具合に決着をつけられれば良いのだが、その内にそうも言っていられない様になる。

「ふん、じゃあ領主様に裁いてもらおうじゃないか。こっちのC伯爵様にな」
「はあ? 何言ってるんだ? 裁いてもらうならD伯爵様に決まってるだろうが。俺はD伯爵様に税を納めているんだからな」

 貴族諸侯が治める領の境でこのような諍いが起こった場合は、領主ではなく――もちろんそれぞれの領主にも話が持ち込まれるのだが――最終的に王政府に話が持ち込まれることになる。
 当然ながら王政府に裁判を持ち込むことになれば、王都へ行く費用や、裁判官たちに支払う裁判費用(勝訴敗訴に関わらず費用が発生する)やその他の賄賂などなど莫大な費用が掛かるので、ある程度妥協点を見出して王都に持ち込む前に決着を見るケースも多い。
 しかしそれでも王都に持ち込まれる裁判案件は増加の一途を辿り、王都の高等裁判所は処理能力の限界以上の案件によって押し潰され、半ばその機能を喪失しつつあった。




 王都の高等裁判所の一室。
 整理されないままに積み上げられた資料の山が乱立するその部屋には、タイピング音とペンを走らせる音が間断なく満ちていた。
 ペンを走らせる音が止まり、初老の草臥れた男がうんざりとした声を上げる。

「うあー。人手が足りん。どうにかならんもんかね」

 ペンを置き、男は蓬髪をくしゃくしゃと掻き上げる。

 向かいに座っていた女性が、その仕草に眉をひそめる。
 ハルケギニアに珍しい黒髪の女性で、艶やかな黒髪を後ろで三つ編みに纏めている。
 大きな丸メガネの奥の瞳は、吸い込まれそうな妖しい光を湛えている。

「フケが飛びますから止めて下さい。人手の件は、上に人員増やしてもらえるように掛け合ってもらってるそうですけど、どうにもなりませんね」
「あーもう。訴訟増えすぎだろ、常識的に考えて」
「その常識が変化しつつあるんでしょうね? 見て下さい、こっちの測量図。こんなに細かいのなんて私が入ってきた五年前には殆どお目にかかれはしませんでした」

 そう言って眼鏡を掛けた裁判所職員がペラリと裁判に当たって提出された資料を出す。
 もう一人の草臥れた蓬髪の職員がそれを見て更に疲れた顔になる。

「あー、アトラナート商会の弁護人の作った奴だよな、見るからに。どっちが雇ったんだ?」
「えーと、『モンテ領とマール領の境に関する訴え』でモンテ領側に雇われてるみたいです」
「じゃあモンテ領側の勝ちは決まりだな」

 蓬髪の方が呟くと、丸眼鏡の方も頷く。
 蓬髪の男はさらに続けて言う。

「アトラナート商会所属の弁護人は化物だよ。こんだけ手の込んだ資料を片手間で用意して、さらに法廷での弁も立つんだぜ? その上に生き字引かってくらいに法律や判例に詳しいんだ。高等法院の輩よりも、絶対アトラナート商会の弁護士の下っ端の方が国法について詳しいと思う。そんでもって、地方の領法にも詳しいし」

 何なの一体、と二人は顔を見合わせて溜息をつく。
 アトラナート商会の矮人の弁護人たちは高い教養と何処で身につけてきたんだと言わんばかりの膨大な法知識を持っている。
 彼らに掛かれば白も黒になると、市井では専らの話の種だ――実際は灰色を黒(あるいは白)にするくらいであるが――。

 彼らは知らないが、アトラナート商会の矮人の弁護人は、ハルケギニア中の都市於いて死んだ官僚や法衣貴族の知識を、墓を暴いて死体から搾取することで、生得的に習得しているのだ。
 外道な方法であるが、年若い少年少女にしか見えない弁護人たちが老獪な智慧を持っているのはそういった理由であった。

 シャンリット領の狂い具合について幾らか知っている女性職員は言う。

「シャンリットの土地のモノは皆、何かしらおかしいものですよ。昔私が魔法学院のメイドをしてた時も、シャンリットの公子様――今は戦功を挙げて一代子爵様ですが――あの方は色々と有名でした。変な意味で」

 アトラナート商会は何でも扱う節操のない商会だ。
 “コンセプトが無い”のがコンセプトという感じだ。

「そういえばここで働く前は、魔法学院で働いてたんだったな。今でもその蜘蛛公子、いや蜘蛛子爵か、そいつとは縁があるんだろ?」

 蓬髪の初老の職員はそう言って、黒髪の女職員が使っている“タイプライター”を見る。
 アトラナート商会の職人業の粋を凝らした逸品で、アトラナート商会会頭でもある蜘蛛子爵に親しい人間にしか渡されないもの、らしい。
 いや、一応市販されてはいるが、べらぼうな値段が付いているから、とてもじゃないが裁判所の一職員には買えるものではない。

「ええ、ウチの旦那が、シャンリット子爵様と縁が深くって。旦那と私の結婚も、シャンリット子爵様から旦那を紹介されて、なんですよ。その誼(よしみ)で“タイプライター”も頂いちゃいました」
「良いねえ、俺も“タイプライター”欲しいよ。ホント。そういや、旦那はなにしてる人なんだ?」

 蓬髪の職員は、黒髪の女性職員を度々迎えに来ていた、彼女の夫を思い出す。
 何と言うか、失礼な言い方になるが土臭い男性で、身なりはきちんとしているものの、何かが致命的に間違っているようなチグハグな印象を与える御仁だった。
 人間では出せないような言い表しがたい凄みを持った男だった。大地の精霊が人の形をとったような、そんな印象。

「さあ、私も良くは分からないのですが、アトラナート商会の矮人の方と、何やら共同研究をしているとか。使い魔のルーンがどうこう“思考”してるみたいでしたけど、私も専門家じゃないから詳しくは……」
「ふーん。博士さんなのかね。あ、“タイプライター”欲しいってのは冗談だからワザワザ伝えなくったって良いよ。気にしないでくれ」
「あ、はい。でも、今、確認してみたら型落ちので良ければ幾つかあるから、寄贈しても良いとのことですよ。“近いうちにお持ちします”と」

 うん? と蓬髪の男は疑問符を浮かべる。
 いつ彼女は旦那とやり取りをしたのだろうか? 確かに“今”と言わなかったか?
 だが男は言い間違いなのだろうと考えて、その違和感を押し流す。
 疲労で頭が回らないということもあったが。

「くれるなら、ありがたく頂戴するよ。さて、じゃあ仕事に戻るか」
「そうですね。早く片付けてしまいませんと」

 二人は周囲に屹立する紙の塔たちを見て溜息をつく。
 溜息を吐いても仕事は減らない。

 訴訟件数の増大やそれに伴う賄賂が増えたことで、裁判所の上層部は金回りは良いのだが、彼ら下っ端の実務部隊には美味い汁は回ってこない。

「上もさあ、屋敷の家具とか新しくするくらいならアトラナート商会の弁護人の一人二人引き抜いて来いよなあ」
「全くですね。彼らの書き起こす資料が多すぎてしかも精確過ぎるから、裁判所内の文書管理にも彼らの資料に書いてある通し番号をそのまま使ってるくらいですし。連れてきたら即戦力になると思うんですが」

 二人はまた溜息を吐く。

「そう言えば、アトラナート商会の弁護人とはよく顔を合わせますが、彼らの本拠地のシャンリットからは訴訟は持ち込まれませんね」

 少し前に起こったガリアと東方都市領からの同時挟撃侵攻という未曾有の国難にて、最も大きな戦果を挙げたシャンリット伯爵家――いや、今は陞爵してシャンリット侯爵家だ――から持ち込まれる案件は非常に少ない。
 その戦果と東方都市領への逆侵攻で広大な領地を得たシャンリット家だが、占領地という土地の争いについて多そうな立地条件に関わらず、彼らが高等裁判所に持ち込む案件は非常に少ない。

「ああ、そりゃそうだ。シャンリットと接している他の領地の境界線については、もう何年も前に決着してるからな。それに今は併呑した東の領地の整備に掛かり切りなんじゃないか? あるとしても、自分の領地内で決着をつけられる話ばかりだろう」

 数年前、シャンリット領はアトラナート商会の発足と同時期位に、領境を接している近隣の諸侯に対して自領の範囲を明確に定めた地図を配り、『ここまではウチの領地だから宜しくー』と根回しをした上で、さらに念のためにと王政府の認可も取っているのだ。
 シャンリットの周辺諸侯にとっても、その領境は妥当なものであったし、王政府の認可まで取られてしまっては異を唱えることは出来ない。
 シャンリット領とそ周辺諸侯との間で土地の範囲についての諍いが起きないのは、それが既に決着した問題であるからだ。

「というか、シャンリット領がそうやって自分の領土を精確に決めたのが発端で今の土地訴訟地獄になってる訳だが」
「……ああ、なるほど。シャンリットがやったように、他の領地もこぞって真似して領境を決めようとして、でも隣同士で見解の相違が発生して決着せず、高等裁判所に持ち込むハメになるんですね分かります」
「そういう訳だな。それでいてアトラナート商会はのうのうと儲けてる訳だ。精確な測量技術や腕の立つ弁護人を山と抱えているから、裁判に勝とうと思えば奴らに頼らざるを得ないからな」

 成程つまりは大体蜘蛛(アトラナート商会のシンボルは蜘蛛なので市民からは“蜘蛛の連中”などと呼ばれている)の所為なんですね分かります。まあ間違っちゃあいないなそれよりさっさと仕事しようぜ。
 などと話しながら、二人は作業を進める。



 末端では仕事量の増大のために全く以て歓迎されていないこの土地訴訟増大だが、王政府の高官からすればそれなりに良い面もあったりする。
 先ずは賄賂による上層部の収入の増大。これが一番大きい。まあ賄賂を贈られればそれ相応に仲裁や取り成しの義務を負うのだが、それでも魅力的なものであった。
 また各地の辺境部分の詳細な地図情報の入手。これは陸軍などが歓迎している。
 そして最後に、“貴族領地の境を最終的に認可するのが王政府である”という風潮が出来たこと。これによって世俗の権力機構の頂点としての地位を確固たるものと出来たのである。





 ハルケギニアには現在、末世感が漂っている。
 アトラナート商会の恩恵で好景気に沸くトリステインでも、それは変わりない。
 況(いわん)や敗けたガリアや大火事に遭ったアルビオンは言わずもがな、である。

 不作による飢餓、五千年紀終末説、終りない戦禍……。
 そんな中、トリステインにおいて、平民にも門戸を開放した巨大な私立学院――私立ミスカトニック学院――が開校したという話は、それなりに好意的に受け止められた。
 “きっとこれを切っ掛けに、何かが上手い方向に転がり出すんじゃないか”という空気が、学院設立のニュースには感じられたのだ。
 新設の学院に、全面的に出資したアトラナート商会も、その空気に乗って、大いに各国各地で宣伝した。


『これからは貴族も平民も教養の時代! 私立ミスカトニック学院は、知ることの歓びを皆さんに提供します!!
      (※入学者の身分性別など一切問わず。必要なのは熱意だけ。在学中の衣食住は学院が責任持って保証します)』


 街のあちこちに上記のような文句を書き連ねたビラが貼られた。

 私立ミスカトニック学院とは、トリステイン初の王国認可総合私立学院である。
 これまでにも商人たちや職人たちの需要があったため専門学校的な私塾(単科大学/カレッジ)は沢山あったが、虚学を含めた学問全般を研究する総合学校(ユニバーシティ)を私立で開校するのは、ミスカトニック学院が初めてだ。
 実利に直接結びつかない学問を研究するのは、国か、でなければよっぽど酔狂で裕福な数奇者でないと居ないから、それも致し方ない。
 アトラナート商会は、その『酔狂で裕福な数奇者』方に該当する。


「まさか本当に私立総合大学を建ててしまうとは……」

 自分の屋敷のソファに座って、テーブルに置かれたチラシやパンフレットを見ながら呆然と呟くのは、恰幅の良い貴族の男だ。
 醜く肥えた男の前には、ワインボトルと、空の花瓶のように大きなコップが置いてある。
 手に高級ワインを入れたグラスを持つこの太った男は、チュレンヌと言う。
 王都の繁華街であるチクトンネ街を纏める徴税官吏の中でも特に顔の利く男である。

 トリステイン王都トリスタニアのチクトンネ街は、賭場や酒場、娼館が並ぶ、いかがわしい通りである。
 表の大通りであるブルドンネ街の綺羅びやかさとは違う、ギラギラとした不夜城。
 当然というべきか何というか、裏には裏の暴力的な組織が蔓延っており、みかじめ料を頂戴していたり、違法に高額な掛金の賭場を経営していたり、ボッタクリなお店から怖いお兄さんが来たりとかするわけである。

 だがこのチュレンヌ、『みかじめ料と税の二重払いなんかしたら店が潰れちまいます』とか言う店主があれば私兵を率いて相手組織の本拠地に殴りこみ、違法な賭場があれば私兵を背後に置いて『もちろん税は納めてくれるんだろうね?(納めねえと摘発して潰すぞ?)』と帳簿の隅々まで調べて徴税し、ボッタクリ店は潰して健全な経営者を探してきてすげ替えたり、と言う具合にそんな暴力団と丁々発止のやり取りを行っており、街に軒を連ねる者たちからは好かれている。

 その上、金払いが非常に良い。
 取潰した組織の下っ端はそのまま私兵(結構高給)に組み込み、彼らを率いて店を渡り歩いては『今日は俺のおごりだあ! 全員好き勝手に飲みやがれ!』と大盤振る舞いしたりする。
 もちろんニコニコ現金払いである。
 本人は皆が酔う様子を見ているだけで全く飲まないのが、不思議といえば不思議だったが。

 彼が連れ歩いている私兵の中でも、全員が熟練のメイジで構成される一団は特に恐れられている。
 スクウェアメイジ20名で構成される私兵団は名前を、『ガンダルヴァ奏楽隊』と言う。

 チュレンヌの私兵『ガンダルヴァ奏楽隊』が、なぜ“騎士団”ではなく“奏楽隊”なのか。
 建前上チュレンヌごとき木っ端役人が王陛下のお膝元で私兵を率いることは出来ないので、あくまで“奏楽隊”として召し抱えているということにしてあるのだ。
 “ちょっと魔法が強いだけで本職は奏楽隊ですよ、でも自衛の時には過剰威力の魔法を放つことはあるかも知れませんね”という感じである。

 実際のところ、この『ガンダルヴァ奏楽隊』は演奏も非常に達者である。
 宮廷音楽から流行歌、異国の音楽まで何でもござれ、である。
 複数の楽器を『念力』で自在に操り、風の魔法で管楽器を鳴らし、『サイレント』と『拡声』の応用で全体の音響をも調整し、さらに色を変調したライトでもって舞台を煌めかせるという一流のエンターティナーだ。


 さて、異常に強い私兵を持っていて、羽振りが良いというチクトンネ街の顔役であるチュレンヌであるが、一体その資金はどこから出ているのだろうか?

 その答えは、先程の私立ミスカトニック学院のチラシを眺めていた場面と関連している。

 このチュレンヌと言う男、アトラナート商会の会頭、ウード・ド・シャンリットが首魁を務める秘密結社『ミード・クラブ(正式名称:ゴールデン・ミード・クラブ/黄金蜂蜜酒の会)』の幹部であるのだ。
 唸るような資金力はアトラナート商会から贈られる賄賂から来ているし、精兵『ガンダルヴァ奏楽隊』の構成員は商会から貸し出された矮人メイジという訳だ。
 それらの資金力と武力の見返りに、チュレンヌは秘密結社『ミード・クラブ』の掲げる目的――“純粋研究機関の開設”や“教育レベル向上のための格安教育機関設立”――を達成するために、トリスタニアの裏街道や徴税官仲間に根回しを行う事になっている。

 彼の根回しが功を奏したのか、それとも、飲み屋に行く度に――

『今のトリステインには文化的進歩が必要だ! 自由で! 清く! 豊潤な! 白百合の如き文化の繚蘭が必要なのだ! ハルケギニアの精神を豊かにするのは、始祖以来五千年の歴史を持つ我ら以外にあり得ないのだ!』

 と、演説を打っていたのが効いたのだろうか。


 遂に。
 漸く。
 やってしまった感はあるが。

 秘密結社『ミード・クラブ』の首魁ウードの念願である私立ミスカトニック大学は成ったのだった。


 屋敷の自室で黄昏れるチュレンヌ。

 ワイングラスに高級ワインを入れて、くるくると揺らし回す。
 芳醇な香りが広がる。
 大地と太陽の恵みを凝縮したものだ。
 正しくこれぞ神の恵み。

 そして一通り香りを楽しむと、もはや用済みとばかりに、ワインボトルの傍らに置いた空の瓶へと捨てる。

 チュレンヌはワインの香りは好きだが、秘密結社の集会でのみ饗される、あの黄金色の蜂蜜酒を味わった後では、どんな酒を飲んでも、まるで物足りなくなってしまったのだ。
 瓶に捨てられたワインにチュレンヌは杖を一振り。
 最後の一華とばかりに、ワインの水分を飛ばし、残った酒精に火を灯す。

 酒精が燃える間に、またワインボトルに手を伸ばし、グラスに注ぐ。
 新鮮で、豊かな香りがまた蘇る。

 ワインをグラスに巡らせながらチュレンヌは呟く。

「これで良かったのだろうか……」

 最初はカネに目がくらんで。
 次にはチクトンネ街の治安改善という目標に目覚めて。
 最後には半ば以上本気でこの国の教育改革を目指す気になって。

 そうして突っ走ってきたが、いざ首魁ウードの目標が実現してしまうと、寂寥感がやって来ると共に、緊張感が無くなってしまった。

「いわゆる賢者状態……。祭りは準備が一番楽しい、というわけか」

 だが不抜けている訳にも行かない。
 やるべきことはまだまだ沢山あるのだ。
 つい先日行われた秘密結社の会合でも、チュレンヌや商人たちには『これを配ってきてねー』という言葉と共に、どっさりとミスカトニック学院のビラやパンフレットが渡された。

 学院を作っただけでは駄目だ。
 箱が出来れば、次はソレに中身を詰めなければならない。

 先の会合で『ミード・クラブ』構成員の貴族は、知り合いの子弟を入学させるように上手く持って行くことを約束していたな、とチュレンヌは思い起こす。
 ご丁寧に、首魁ウードの方で“貴族向けの宣伝営業のマニュアル”というものまでも既に用意されていた。
 ついでに賄賂用の経費予算も、いつも通りに過剰なまでにたっぷりと渡されたそうだ。

 まあそういった類いの必要経費はチュレンヌもたっぷり貰っているのではあるが。

 一通り手に持っていたワインの香りを楽しむと、チュレンヌは目の前のローテーブルに置いたパンフレットに手を伸ばした。







 蜘蛛の糸の繋がる先は 20.シャンリットの森の中。私立ミスカトニック学院、始まります……?








『ミスカトニック学院へようこそ!!
 トリスタニアより東の果て、シャンリット領の絹糸に覆われた森の中に本拠地を構える当学院にはハルケギニア各地より選りすぐりの教師陣を招き、生徒の皆さんのあらゆるニーズに応えるカリキュラムを用意しています。
 「禁忌なく学び、全てを糧にせよ」を校訓に掲げ、理論と実践の両輪をもってして、生徒の皆さんにはハルケギニアの学問の新たな地平を開拓してもらいたいと、学院教師一同は考えております。
 あらゆる人材に知識の新たなる地平へと繋がる門戸を解放するため、当学院は入学料から授業料、教材費等々の一切を生徒の皆様に負担させることはありません。文字の読み書き、計算が出来ずとも大丈夫です。全くの無学の方に対しては専門の初等カリキュラムがあり、教師が付きっきりで基本をお教えいたします。
 学内の食堂やあらゆる娯楽施設も、学院生徒ならば自由に無料で使用することができます。
 その中でも特筆するべきは、ハルケギニア中の全ての書物を収めたと言っても過言ではない『中央大図書館』と、ハルケギニア中のあらゆる標本を収めた『中央大博物館』でしょう。
 これらの二大施設は、皆さんの学院生活の掛け替えの無い友となることでしょう。

 これからの学院生活を通じて、皆さんが新たな発見を積み重ねていくことを、我々教師一同は切に願っております。Vive La Sagesse!!(ヴィヴ・ラ・サジェス!! 叡智万歳!!)』

 ――ミスカトニック学院 学校紹介パンフレットより――





 場所は変わって、トリステインから南西、ガリアを越えて火竜山脈も越えて、南の宗教都市ロマリア。

 ハルケギニア中の寺院を統括するロマリア宗教庁内で、トリステイン内に新しく設立された私立学院についての議論がなされている。
 当初は、たかが一商会が擁する私立学院が何の事はあらん、と楽観的に捉えていたロマリア宗教庁であったが、蓋を開けてみるとその私立学院は生徒数、教師陣から施設の規模、取り扱う学科まで全てが既存の研究機関を凌駕するものだったのだ。

 ミスカトニック学院が扱う学科の中には当然、神学も含まれている。
 そして、ミスカトニック学院の指す神学とは“始祖の墓守”フォルサテの残した始祖ブリミルの言葉の解釈から、奇跡の定義についてや、奇跡の検証方法、更には虚無の系統とは何かまで多岐に渡る分野を網羅する学際的なものである。
 今後はもっと細かい分類がされていくのだろうが、一先ずブリミル教の根源に関わりそうな部分を全て『神学』カテゴリにぶち込んでみました、という様相である。
 更に言えば、土着の亜人たちが崇める神についても、その分野に含めてしまっている。

 これはロマリア宗教庁が今まで管轄してきた学問領域を思いっきり犯すものであった。
 それに加えて、土着の神を偉大なる始祖と同列に扱っているのだ。
 はっきり言って、ロマリアに喧嘩を売っている。

 だが、ミスカトニック学院の講師陣にはロマリア内の“アトラナート派”と呼ばれる、アトラナート商会の後ろ盾を持つ派閥から助祭枢機卿のような高位の聖職者が派遣されることになっているため、ロマリア自らして、ミスカトニック流の神学にお墨付きを与えてしまっている状態だ。
 背教とも捉えられ得るアトラナート派の動きだが、それに対するロマリア内のアトラナート派の主張は下記のようなものだ。

『奇跡は厳正に審査されるべきだ。あらゆる既存の現象で解説されないものを、奇跡だと定義するべきだ。
 そして、その為には奇跡でない現象を全て説明し尽くす必要がある。
 今の世の中には、我々の怠慢によって奇跡に分類されてしまっているような、偽奇跡が多すぎる。
 思考停止をするべきではない。
 我らと志しを同じくするアトラナート商会の厚意で、奇跡の検証の場を設けてくれているから、それを利用するまでだ。
 何ら教義には違反していない。
 あらゆる可能性を考慮し、斟酌し、検証しなくてはならない。
 亜人たちが崇めている神の中に、始祖に魔法を授けた神が居ないと、どうして言える?
 新たな観点から教えを見直すことで、真に正しい始祖の教えというのも分かろうというものだ』

 アトラナート派は始祖の齎す真の奇跡を、それ以外と峻厳に区別し、見つけ出すべきだと主張しているのだ。

 それに反対する非アトラナート派(主流派)の主張は簡潔である。

『始祖ブリミルの御心のままに世界は出来ている。我々はただ世界のあるがままの有り様を信じていればいいのだ』

 意訳すれば『始祖ブリミル様のい・う・と・お・り』ということである。
 対するアトラナート派は――

『じゃあ、始祖の御心を知るためにはもっと世界のことについて知らなければいけませんね。この世界に溢れる始祖の恩寵の仔細を確認しなくては』

 と、返し、主流派は――

『だーかーらー! 始祖を理解しようというその考え自体が不敬だっつの!』

 と、返す。

『始祖と関係ない事まで崇めるのは、ソッチの方が不敬じゃん? だからもっとどれを崇めるべきで、どれを崇めるべきでないかはっきりさせよーよ』 ←アトラナート派
『ごちゃごちゃうっせー。今まで通りにしときゃいいんだよ。終いにゃ異端認定して破門すっぞ』 ←主流派
『破門? ハッ! 良いのかなー、今の教会への寄付の二割はアトラナート商会からのものなんだけどなー。俺ら破門したら、その資金で別の教会作っちゃうかもよ? 荘園だって各国にここ数年で大分寄進された土地があるから、商会からの寄付以外にもかなり収入あるんだけどなー』
『ああん? 独立しようってのか!?』
『その覚悟もあるってことだよ! 頭かっちこちの旧世代共が! 研究するくらい良いじゃねえか! そんなんだからエルフに遅れを取るんだよ! 第一回の聖戦をしようと準備してるのはいいが、勝てるわきゃないだろうが!』
『あ、てめ、言っちゃいけないこと言いやがったな! 蜘蛛の連中に丸め込まれやがって!』
『ハン、心の中じゃ“どうせ聖戦に行くのは土地からあぶれた農民と戦功に焦った次男以降の貴族だし、戦費は他国にたかれば良いし、ウチらの腹は別に対して痛まないからイイやー。ついでに連合皇国の貧民もサハラで果ててくれりゃあ街も綺麗になって万々歳だな”とか思ってるくせに』
『イヤイヤ、ソンナコトナイデスヨ?』
『片言になってんじゃねえか。“救いの地は彼方にあり! 今こそ始祖の念願、聖地奪還を果たすのです!”とか煽っちゃってさー。要はアルビオンレミングの行軍じゃないか、あれだけ技術力違うのに突っ込ませるなんて。始祖を道具にして……。全く。冒涜してるのはそっちじゃねえのか?』
『なんだと!? やろうってのか!?』
『図星突かれて逆ギレですかー? ぷぷぷ。顔真っ赤。火竜のブレスより真っ赤。きゃー、恥ずかしー』
『きーっ! そっちこそ賄賂漬けでズブズブのくせに!』
『……いや、その、まあ。――んんっ、げふん、ごほん! 何だと、この自殺教唆の扇動者め!』
『言って良い事と悪い事があるぞ、この蟲螻野郎!』

 以下、互いに平行線の主張と罵詈雑言が飛び交うので省略する。
 だが少なくとも、ロマリアとしてミスカトニック学院を異端認定するためには、大きな寄付金収入源と広大な荘園、さらには実績のある高位の聖職者を排除しなくてはならないということは確かなようだ。
 ロマリアがミスカトニック学院に対する異端認定の決断を先延ばしにしているうちに、着々とミスカトニック学院の勢力は拡大していくだろう。時間はシャンリット家とアトラナート商会に味方する。





「それで、シャンリット家は――ウード・ド・シャンリットは何と言って来ているのだ?」
「陛下。それが、第三王子を新しく設立する“ミスカトニック学院”に自主的に留学させて頂けないか、と。未だ正式な外交筋ではありませんが、非公式にそのような接触がございました。
 留学させて頂けるなら、交換に、食糧危機については十全に支援する準備があります、とも」

 場所は変わって、ハルケギニア一の大都市、ガリア国のリュティス。
 その王宮の、人払いされたガリア王の執務室。そこで会話を行う王と宰相。
 毛足の長い絨毯とレースのカーテンは『サイレント』を掛けずとも充分に音を吸収してくれるため、小声ならば外に会話は漏れ聞こえないだろう。

「それだけではないのだろう? 留学させねばどうなるのだ?」
「“シャンリット防衛戦の顛末はご存知のはず”とのことです」

 ガリア王と宰相が、深く深く溜め息をつく。重厚な執務室に陰鬱な気配が混ざる。

 ガリア王家は“シャンリット防衛戦”の詳しい顛末を知る数少ない組織の一つだ。その防衛戦に派遣された観戦武官(実態としては陰で同盟状態となっていた東方都市国家に対するお目付け役)が情報を持ち帰ったのだ。
 王家への報告後、その観戦武官の行方はいつの間にか分からなくなってしまったが。
 ただ、観戦武官の部屋からは一塊の土塊(つちくれ)が発見されただけだった。

 ガリア王家は知らないことだったが、観戦武官は自らの伝えるべき事実に耐え切れず、シャンリットの地で既に自決しており、代わりに彼の姿を象ったガーゴイルが送り返されて来ていたのだ。
 灰は灰に、土は土に。土から出来たガーゴイルは土塊に、という訳だ。

「……シャンリットは、アトラナート商会は攻めて来ると思うか?」
「……陛下にそう思わせた時点で、彼らの策に嵌っているも同然かと愚考いたします」

 宰相の言う通りである。攻めて来るかも知れないと思わせた時点で、シャンリット家としては充分に成功しているのだ。
 高空から落下する一万に迫る矮人を塞き止める手段は、今のガリア王家には用意できないのだ。
 戦争によってシャンリットを滅ぼすのは難しくないかも知れないが、その時にはガリアの主要な都市もシャンリットの空挺部隊によって壊滅しているだろう。
 いやそれより先に飢えた民による暴動が起きるかもしれない。

「そうだな、その通りだ。
 ――では、奴らはガリアの流通にどれくらい食い込んでいる?
 食料品はどうだ? アトラナート商会が牙を剥いたらガリアはどうなるのだ? それは正確に分析出来ているのか?」
「……至急、分析させます」
「急げ。
 だが当面は水面下で動くようにせよ。北花壇騎士団も必要なら偵察に使え。
 留学の件は、癪だがシャンリットの言う通りにさせよう。人質のようなものだが仕方あるまい。何にせよ暫くは時間を稼ぐ必要がある。
 息子にも見聞を広めさせるいい機会だ。“自主的に”留学してもらおう。
 ついでに護衛 兼 諜報員として何人か付けさせろ」

 シャンリット家から外交筋を通じて正式な依頼があった後では、ガリアがシャンリット家に屈したという見方が大きくなる。
 体面上はあくまで第三王子から“自主的に”留学を言い出したことにしなくてはならない。幸い、第三王子は天文学に興味があると言っていたはずだ。
 最新鋭の望遠鏡があるというミスカトニック学院ならば留学を渋ることはないだろう。

「御意に」

 宰相が礼をし、必要な手回しをするために退出する。

 執務室に再び、溜息が満ちた。







 ガリア王家の他にはトリステイン王家も“シャンリット防衛戦”で何が起こったのかを知っている。

 これは匿名の手紙によって齎されたものであるが、王らの判断により、その内容は門外不出、口外無用とされた。
 トリステイン王家に齎された情報にはガリア王家に齎された情報とは違い、犠牲者達のその後について詳細なレポートが添付されていた。

 吐き気を催すような内容のレポートが。
 金輪際シャンリットには関わろうだなんて思えなくなるようなレポートが。

 レポートの最後には“蜘蛛の糸はいつも貴方の足元に”という言葉があり、枯れた白百合が添えられていた。

 枯れた白百合……トリステインの象徴である白百合が枯れているということは、つまり、口外すればトリステインを滅ぼすということだろうか。
 通常ならば、このように国家権力が嘗められた場合には、その相手に激烈な制裁を加えるのが常である。
 国家権力は嘗められたら終わりなのだから。
 今回の文章が原因でシャンリット家は滅ぼされても不思議ではない。

 しかし、今回はそうならなかった。レポートが置いてあった場所がまずかったからだ。

 レポートが置いてあった場所は、トリステイン王の寝室。
 第一発見者はトリステイン王その人である。
 レポートは、トリステイン王の寝室の中に、誰にも知られずに置いてあったのだ。誰にも知られずに!

 王はそれを読んでしまった。
 好奇心に負けて、読んでしまった。それはウード・ド・シャンリットが凱旋した次の日であった。
 誰も詳しくは知らない“シャンリット防衛戦”の顛末を知ろうとして、彼は読んでしまった!

(“蜘蛛の糸はいつも貴方の足元に”……? つまり、ずっと見張っているということだろうか? 口外すればどうなるというのか?
 暗殺されるならまだ良い。レポートにあったような悲惨な実験の果てに何だか分からないものにされてしまわないだろうか?)

 そしてトリステイン王は疑心暗鬼に囚われてしまった。このレポートを寝室に運んだのは誰か。周囲の誰が信用できるのか。いや、周囲の誰かを信用できるのか?
 レポートを仕舞い込み、誰にも話せず、眠れない日が数日続いた。
 しかし、男の隠し事なんてそう長く続く訳が無く……。

 夫の異変に気づいた王妃が問い質すことで、漸くシャンリット防衛戦のレポートの存在が明るみに出た。

 王妃が青ざめて「これは閣議に掛けなければなりません……!」と部屋を出て行こうとした瞬間、一枚(ひとひら)の枯葉のような花びらが彼女の視界を横切った。
 釣られて彼女は下に視線を遣る。

 すると。

 踏み出した足の下に、くしゃりと、枯れた白百合が。


「きゃあああああああああ!?」

 つい、足を踏み出す前までは、確かにそんなものは無かったのに。

 王妃の叫びと同時に机に置かれていたレポートが轟々と燃え上がり、一瞬で燃え尽きた。
 残された灰は綺麗に次の文章の形になっていた。


 “蜘蛛の糸はいつも貴方の足元に”


 ……トリステイン王の脳裏にレポート末尾に記されていたその言葉が繰り返し繰り返し去来する。

 王の下僕の矮人道化が、いつの間にか開け放たれた扉の外で逆さまに浮いていた。
 その道化が口を開く。

「陛下! 陛下! 何を恐れることがありましょう! 万事全てが彼らの手の上なのです! 諦めましょう! いや、抗いましょう! いやいや、もっと楽しい選択肢があるはずです。束の間の生をより楽しく生きるために、御身はどのような手段も選ぶことが出来ます。その是非を問えるのは神のみ。最も尊い我が王陛下! さあ何をするのです? どうするのです?」

 トリステイン王は邪悪な繰り言を聞くまいと、『マジックアロー』を放つが小柄な道化はひらりと避けてしまう。

「さあ陛下。さあさあ陛下! 世界は貴方の決断を祝福するでしょう! ですから――」

 言い募る道化の言葉を遮るように、王は寝室の扉を『念力』で閉めて頑丈に『ロック』を掛ける。
 そうして未だに声を失っている王妃をそっと抱きしめた。

 




「題して『枯れた白百合』事件! てなことがあったりすると面白くない? ない?」
「って、ホントの話じゃないんかい!?」 

 トリスタニアのブルドンネ街のどこかの飲み屋。二人の男が飲んでいる。

「全く、誰から聞いたのさ、そんな話」
「え? あれ? 誰からだっけ? け?」
「こっちに聞かれても知らないよ」

 夜も割と更けてきた時間だ。これ以上は明日に響くだろうということで、他の客は帰ろうとしている。
 この二人も既に何処かで一杯引っ掛けてきた後なのだろう。赤ら顔で会話している。

 噂話を振った方のなよっとした相手は、一瞬天を仰ぐ。そしてどうしても思い出せないという様子で首を横に振る。

「あれ~? 多分、“知り合いの知り合い”の誰かだと思うんだけど……」
「……最近、よく聞くよな“知り合いの知り合い”って」
「うん、そうやね。噂話も多くって自称トリスタニア一の情報通としてはてんてこ舞いだよ? だよ?」
「自称かよ。しかも、アンタの苦労とかどうでもいい」
「ひどっ!」

 軽薄そうな自称情報通はうな垂れるが、その仕草はかなり嘘っぽい。
 大根役者の方が幾らかましだろう。

「で、事情通のアンタとしては“知り合いの知り合い”に心当たりとか無いの?」
「ん、それは禁句。タブーの一つなんだぜい? ぜい?」
「情報屋として長生きするための?」

 我が意を得たりという様子で情報屋が頷く。

「そうそう。その通り! 勘がいいねあんた、情報屋の素質あるぜい? ぜい?」
「ふーん。ところで、今更だけどアンタの名前は何だっけ? いつの間にか意気投合して一緒に飲んでるけどさ」
「名前なんて気にしないで呑もうぜ~。適当に“知り合いの知り合い”とでも覚えとけば良いんだよ? だよ?」

 自称情報通が酒瓶を傾け、もう一人の杯に注ぐ。どうやら二人は今日知り合ったばかりの仲らしい。

「ははは、良い冗談だ! “知り合いの知り合い”ね……。おう、じゃあご返盃! ほれ飲め、そら飲め!」

 自称情報通の手から酒瓶を奪い、聞き手の傭兵然とした男は情報通の男に酒を注ぐ。直ぐに酒瓶が空になる。

「ありがとさんよー!」
「他には何か無いのかよ、面白そうな話はよー?」
「えー? そうやねー? シャンリットの学院の話とかかね。あんたも学があるとこれからの世の中違うぜい? ぜい?」
「いやいや、学校なんて貴族か商人の坊ちゃんじゃなきゃ縁が無いだろう? 俺は日銭稼ぎで一杯いっぱいだからな」

 そう言いつつ二人は酒場の壁に貼られた“ミスカトニック学院、入学者募集中!”というポスターを一瞥する。

「それがよう、在学中はタダ飯食い放題、授業料・入学金タダ! って話だぜい。これ確かな話な」
「へえ、豪気な話だなあ。でもシャンリットだろう? あそこは遠いし、変な噂もよく聞くよな?」
「そこをどう思うかはあんた次第さ。まあ、あんたはともかく適当に知り合いに広めといてくれれば良いよ。中にはシャンリットに行きたいっていう物好きもいるかも知れないし」

 更に酒を飲む二人。

「ふうん、まあ良いけど。……あ、実はその学院の情報を広めるように依頼されてるとか?」
「ん、そこは詮索禁止だぜい? 秘密にしといてくれやー」
「おお、分かってるって、分かってるって。ただ、お兄さんちょっと杯が寂しいかなーって?」

 聞き手の男が空の杯を振ってみせる。

「しょうがないお兄さんやねぇ。マスター、もう一本追加でー!」

 トリステイン一の繁華街の、その裏街道、荒くれ者が集まるチクトンネ街はまだまだ眠らないようだ。







 どうにか生徒も教師も揃い、大図書館と大博物館を始めとした充実した施設、格安(というかほぼタダ)の学費、手厚い福利厚生を売り物にしたミスカトニック学院が開校した。
 生徒にはガリアの第三王子を含む王侯貴族の次男以降から、平民の食い詰め者まで様々な者が入学してきている。
 教師陣も始祖直系四国を始めとして数多くの国から、比較的若手の研究者が多く集まった。一方で著名な面子も揃っている。隠棲していたり、既に他界していたと思われていた大メイジがシャンリットの講師として馳せ参じている。

 初の総合私立学院ということで、多くの非アトラナート派の貴族からは失敗するだろうとも思われていたが、この様子ならば順調に滑り出すだろう。
 シャンリットの森の中にある私立ミスカトニック学院の初代学院長は現シャンリット侯爵だが、創立者はその息子のウード・ド・シャンリットだということになっている。本当は初代学院長もウードになるはずだったのだが、学院の講師陣には、ウードよりも位が高い者も多かったため、現侯爵である父親が学院長となったのだ。

 それでも実際の実務の殆どは、王宮に詰めている侯爵の代わりに、ウードが取り仕切っている。侯爵は名ばかりの学院長なのだ。
 まあ、侯爵は侯爵で王政府の仕事や社交が忙しいから仕方ないのだが。それでも宮廷の王家派からシャンリット家を中心とした辺境派への干渉が少なくなったから、侯爵の負担はかなり減ったようだが。

 ミスカトニック学院の卒業生たちがハルケギニアの社会に影響を及ぼす様になるまでは少なくとも、あと十数年は掛かるだろう。
 卒業生らは『Vive La Sagesse!!(ヴィヴ・ラ・サジェス!! 叡智万歳!!)』を合言葉に、ハルケギニア社会をどのように変えてゆくのだろうか。それとも、シャンリットの中に閉じこもり、閉鎖した社会で奇形のような進化(深化?)を行っていくのだろうか?


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アトラナート商会は無尽蔵のエネルギー(地下の風石&太陽光発電)があるのでそれに応じて財政と生産力が超チート。
ただしデフレにならないように配慮しつつ食料品や財貨を放出しなきゃならないので結構大変。デフレになったらなったでゴブリンたちはそれを研究対象にするんですけどね。
まあ、今後は学院開設によってシャンリットの内需が拡大して自領内で経済が完結すると思われるので、自領内専用紙幣を刷ったりすれば、そこまでデフレを気にしなくて済みそうですけど。

追記
結局学院始まってないからタイトルを修正。
旧副題(19.シャンリットの森の中。私立ミスカトニック学院、始まります)

2010.09.09 初投稿
2010.09.10 誤字修正/タイトル修正
2010.11.02 修正
※1 ガンダルヴァ:サンスクリット語で帝釈天に仕える半神半獣の奏楽神団を指す。魔術師という意味もある。多分ガンダールヴ(魔法を使う小人)と語源が同じ(要出典)。
※2 アルビオンレミング:独自設定。過剰に増えすぎると何故か浮遊大陸から大群を成して飛び降り自殺(というか後ろから押されて前の集団が崖から墜ちる)を敢行する。つまりハルケギニア版レミング。恐らく何万年か前の大隆起以前の行動様式を残しているものと思われる。なお実際のレミングは集団移住、渡河などはするものの、盲目的に海に向かって突き進んで死んでいったりはしない。
2010.11.03 誤字修正



[20306] 蜘蛛の糸の繋がる先は 21.バイオハザード
Name: へびさんマン◆29ccac37 ID:4dc27135
Date: 2010/11/09 20:21
改訂後の主な変更点を3行で↓。

・ウードが邪神の呪いで8割くらい異形のスパイダーマンに(8話、9話)
・ウードのタマとサオがもげたので、廃嫡されて結婚していない(14話)
・全体的に禍々しめにして、文量も増加

では21話をどうぞ。
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「『五つの力を司るペンタゴン。我の運命に従いし、この末世に救いを齎す、強力無比な、救世主(ぼく)の右腕となる使い魔を、召喚せよ』!」





「みず……を……」「うぅ……」「あぁぁあ」

 山裾から少し離れた場所にある一つの村が死にかけている。
 あちこちで呻き声が上がり、墓所には死体が溢れている。
 墓所に死体を運び込む人員すら居ないのか、村のあちこちに死体がそのままに放置されている。

 村は胸が悪くなるような死臭に満ち、死者どころか生者にも蛆が湧き、蝿が集る。
 ヒトという大きな生命が貪り食われて、より小さな生命へと転化していく。
 そんな、ある意味ではこの世界にありふれた風景。

 そこに現れる異様な一団。
 全身をすっぽりと隙間なく覆う灰色の服。
 子供のような小柄な体躯から察するに、その中身は矮人たちなのだろう。

 水死体のような、あるいは肉襦袢を着た道化のような、そのシルエット。
 頭部には蠅を思わせるようなマスクを被っている。
 目の部分は複眼のような細かな格子状の窓になり、口の部は蝿の口吻のように短く伸びている。

 10人ほどの一団のうち半数ほどは背に、一抱えもあるような円柱状の金属質の輝きを帯びた物体を負っている。
 その背負い荷物の上部からは人の手首の太さほどのチューブが伸び、一団の各員の手に持つラッパ状の器具に繋がっている。
 消毒液の噴霧器のようだ。

 あとの半分ほどは、大荷物を背負っている。
 背負われた荷物には、何らかの液体が詰まった手のひら大のパックや、空の瓶が詰まっているようだ。
 他にも長い棒や、ヒトを包めるくらいの布が束になったものも見て取れる。
 サンプル回収用の瓶や担架であろうか。

 最後尾の1人は自分の背の高さよりも大きな蟲籠を背負っている。
 中は飛び回る夥しい数の羽蟲によって満たされ、蟲籠は真っ黒に見える。


 現れた膨れ人形達の一団は、その名前を“ミスカトニック学院 教師長直下 対バイオハザード緊急防疫委員会 実働部”と言う。

 防護服に身を包んだ一団のリーダーらしき人物から部隊員たちに指示が飛ぶ。
 マスクに遮られてくぐもった音声が、熱病に冒された村に空虚に響く。

「生存者への全身消毒、抗体注入措置、栄養点滴など必要な処理の後、学院都市のサナトリウムに転送する。
 転送用の〈ゲートの鏡〉の設置を急げ。
 生存者の居ない区画は順次、消毒措置を開始すること。家畜も処分しろ。
 死体は回収。ヒトも家畜も野生動物も蟲も全てだ。放っておくと新たな感染源になるし、貴重なサンプルだ、分析に回せ。
 ワクチンを分泌するように改造された蚊の散布は、風や植生を読んで、適切な間隔をおいて行うこと。
 いちいち全ての動物にワクチン注射をしてはいられないからな、全域にワクチン蚊を行き渡らせるんだ。散布場所の記録は怠らないように。
 念のために周辺の樹々のサンプルも採っておいてくれ」

 防毒マスクを着けて、防毒服に身を包み、どこからともなく現れた彼らは、速やかに自らに課せられた作業を開始する。
 この村に死をばらまいた病原体を封じ込めるのだ。

 指示を終えた部隊長は、村の中心に視線を遣る。
 部隊長の視線の先には、村の広場があった。


 血染めの広場だ。


 まるでヒトが内側から弾け飛んだかのように、広場やそこを囲む家々の壁に叩き付けられた血と臓物と脂肪によって斑に不気味な模様が描かれている。
 広場のあちこちに抉れたような跡があり、その周囲にはまるで水風船を叩きつけたかのように、血の花が咲いている。

 恐らくは、正しく“ヒトが内側から弾け飛んだ”という比喩の通りの事が起こったに違いなかった。
 身体にダイナマイトでも内蔵していたのだろうか?

 他にも煤だけ残して燃え尽きた人体(足首しか残っていない)や凍りついた人体、苦悶の表情のまま助けを求めるように手を伸ばして石化した死者、融合して混ざり合った親子など、様々な尋常ではない死に方をしたものが見受けられる。
 それだけを見ればメイジによる襲撃があったのかとも考えられるが、しかし掠奪の跡は見られず、ただただ病と死が蔓延しているのみだ。





 発端は、ゴブリンたちの地底都市に数多くと存在する実験棟の中の、ある実験室に於いての話であった。
 実験室とは言うものの、そこには病室のような部屋であった。
 清潔に片付けられており、何かしらの怪しい機械や薬品は存在していなかった。

 ここは、被験体となるヒト――大抵の場合はウードのクローンかそれをベースに遺伝子を改変したものである――を飼っておくための部屋なのだ。
 この実験室がある実験棟は、丸々全てが、この部屋と同じような被験体の居住施設で占められていた。
 被験体には過不足無く食事が与えられ、働くなくともある程度の娯楽については望めば与えられ、清潔な衣服も用意される。

 本来であれば、この部屋には一人の被験者が居るはずである。
 だがこの部屋には誰も居ない。

 ベッドサイドの小物置には、湯気を立てる飲みかけのティーカップが残されていた。
 他にも幾つも沢山の付箋紙を挟んだ読みかけの本が、積み上げられている。

 ベッドの上の布団は上半分が盛り上がっていたが、その下は空洞だった。
 壁に上半身を預けて、脚だけを布団に入れていたのだろう。
 布団は乱れた様子がなく、抜け出た形跡はないのが不思議だった。


 定期的な回診の際に、担当者であるクァンタン・ウンズィエム・ウェッブが異常に気づいたときには何もかも手遅れだった。


『被験体が居なくなっている』


 クァンタンは、着込んでいる厳重な対ウイルス感染用の防護服の中で、顔を真っ青にした。
 脱走か? と考えたが、この病室――飼育室とも呼ばれる――の入り口は鍵がかかっていた。
 中に入っていたのは系統魔法が使えないように遺伝子を調整された被験体だったはず。

 尤も、クァンタンの実験が成功していれば、ウイルスがもたらす脳回路の変化によって、コモンマジックくらいは使えるようになっていても可笑しくはない。
 そうなれば、ひょっとするとこの部屋の錠を『アンロック』し、外に出た後で再び『ロック』を掛けて錠を下ろすことも可能かもしれない。
 ……とはいえ、この施設の錠は“なりたて”のメイジの『アンロック』で解除できるほど簡単な構造のものではないが。

 クァンタンは念のために『ディテクトマジック』でX線透視をするように部屋中を探査して反応を探ってみたが、全く何の痕跡も発見できなかった。
 
「まさか溶けて無くなった訳ではないだろうが……。あの被験体に投与したウイルスは組織を溶解させるような類ではなかったはず」

 この部屋に居た被験体に感染させて、経過を観察していたのは、そういった所謂“人食いウイルス”ではなかったはずだ。
 別の隔離実験棟では、兵器転用も可能なほどに強力な人食いウィルス――その犠牲者は骨と皮とウイルスのウヨウヨ泳ぐプールとなった溶解した血肉しか残らないそうだ――を研究しているそうだが、各病室は完全に隔離されているため、別の病室からウイルスが伝染することはあり得ない。
 コンタミネーションが起こらないように隔離は確実に行われている。
 念のために行った『ディテクトマジック』による探査でも、溶けた血肉が混じり合った腐汁などは、この部屋からは当然ながら見つけられなかった。

 では被験体は一体何処へ?

 クァンタンは頭を切り替え、上長に指示を仰ぐべく部屋を後にする。
 被験体の様子を記録しているマジックアイテムに何が起こったか映っているかも知れないし、この建物全体を統括するインテリジェンスアイテム――建物一つまるごとがインテリジェンスアイテムの知性が宿る器なのだ――が何か知っているかも知れない。



 クァンタンの上長はクァンタンから報告を受けた後、直ぐに被験体が居た病室の映像記録を確認した。
 その結果、被験体は瞬時にして実験室内から消え去ったことが判明した。

 記録映像には被験体が消える直前に、銀色に輝くゲートが現れ、それが被験者を飲み込んだ様子が映されていた。

「『サモン・サーヴァント』……! 想定外も良いところだっ!」

 クァンタンは悪態をつく。
 彼の上司はそんなクァンタンの様子を気にも留めずに面白がった口調で言う。

「ふふん。そんなに苛立つこともあるまいよ。これは貴重な事例(ケース)だ。しかも召喚されたのはウイルスによって変異途中にあるとは言え、人間だぞ。非常に非常に、貴重な事例だ。喜ばないのかね?」
「貴重なケースで心躍るのは確かですが、私のサンプルだったんですよ? しかも唯一経過が良好だったものです。残りの被験体は全部死んでしまって……、居なくなった被験体は最終段階で、もう殆ど完成して、あとはデータを取るだけだったのに!」
「そりゃあ、お気の毒ではあるがね。何なら取り返しに行くかね? 被験体識別用のチップは埋め込んであるのだろう?」

 上司はそうやってニヤニヤしながら尋ねる。
 明らかにからかっている様子だ。

「確かに被験体には情報チップをインプラントしていますけれど、あれは完全に受動的な装置で何の信号も発信していませんから、追跡できるものではありませんよ? ご存知でしょう? ああ、本当、これからどうしよう……」
「何、今後の研究テーマについては心配することはあるまい。君の次のテーマは決まったも同然だよ」

 その言葉にクァンタンはキョトンとした顔で自分の上司を見つめる。

「一体どういう事です?」

 上司の笑みが深まる。

「今まで誰もがやろうとして遂に実地での許可が降りなかったことだよ。だが、事故なら仕方ない、と許可を下ろさざるをえないだろう。君の次の研究テーマはだね――」







  蜘蛛の糸の繋がる先は 21.バイオハザードにおける感染拡大の実例研究――パンデミックへの対処方法の有効性の検証――







 病いを身に宿した男が光り輝く銀の鏡を潜った先には、大きなブリミル像があった。

 男には名前が無かった。
 番号で呼ばれ、識別用の小さなチップを埋め込まれ、人でなしの実験に使われていたので、名前など必要ではなかった。
 そもそも彼の身体は、ある男のクローンであった。

 何者でもない男は、それでも何一つ不満を覚えずに生きてきた。
 男は知識さえ与えられれば充分に満ち足りていた。
 彼のオリジナルとなった者の持つ、強烈な飢餓感を伴うほどの知的欲求には及ばないものの、彼も人並み以上に――寝食忘れて本を貪り読む程度には――知的好奇心が強かった。

 例え実験動物であろうとも、彼はその運命を受け止めていたし、自分の身が貴重なデータとなるというのならば、それは寧ろ喜ばしいことだった。

 科学という宗教に身を捧げた殉教者。
 真実への生贄。
 それがこの男の在り方だった。

 ドクタ・クァンタンのウイルス接種が終わり、死ぬような熱病(実際に彼の同輩たるクローンたちは十数人は死んでいる)に魘される日々を乗り越えて、漸く病態も安定して、さあ本が読めるぞ、と思ったら、これである。

 召喚の銀鏡を潜り抜けた際の精神的な動揺が漸く治まり、周囲を見渡す余裕が出来る。
 立ち上がり、周りを確認しようとする。
 見知らぬ場所……一瞬目に入った始祖像から考えるに、おそらくはどこかのブリミル教会の聖堂だろう。

 ステンドグラス越しの柔らかい光が降り注いでいる。
 陽の光を浴びるのは初めてだな、などと彼は思った。

 この身体は日光に耐えられるように出来ているのだったか。

 はてメラニン色素産生遺伝子はノックアウトされていなかっただろうか、と彼が自分の身体のスペックを思い出そうとした所で、初めて彼に声が掛かる。

「き、君は誰だい? 何時の間にここに入り込んだんだ?」

 名前の無い病み男は、ここになって初めて傍らに一人、少年が立っていることを認識した。

 病み男は少年に問い掛ける。

「なるほど、少年が私のマスターか」

 病院服を着た病み男は実の所、この時点でおおよその事態を把握していた。
 “自分は使い魔としてこの少年に呼ばれたのだ”と。
 自分があの隔離病棟から『サモン・サーヴァント』によって喚び出されたことも、“まあヒトよりも遥かに上級な存在であるクトーニアンが召喚されるなら、病み上がりの半死半生である自分が召喚されるのも不思議ではないか”と思っていた。

 あどけなさを残すその少年は、目の前の不健康そうな男の言葉を聞いて目を剥いた。

「じゃ、じゃあ君が、僕の使い魔、なのかい?」

 信じられない、といった様子で呟く。
 それは人間が召喚されたことよりも、召喚の魔法自体が成功したことを訝しんでいるようだった。

「何かの間違いじゃないのか。魔法を失敗ばかりしていた僕が、成功? しかも人間を呼び出すなんて……。いや夢? 夢なのか?」
「少年、錯乱するのは良いが、『コントラクト・サーヴァント』は良いのかい? 君が何を願って『サモン・サーヴァント』を行ったのか知らないが、必要だったから喚び出したんだろう?」

 病み男は、読みかけのまま持ってきてしまった本を片手に、聖堂をぐるりと見渡す。
 人影はこの少年以外には見当たらない。
 どんな化け物が出てくるか分からない『サモン・サーヴァント』を、たった一人で行うということは、何かしらの理由があったのだろう。

「……夢だ夢に決まっている。こんな目の下に隈を作って今にも死にそうな男が運命で結ばれた僕の使い魔だなんて。世界を救うパートナーだなんて」
「おい聞いているのか少年」
「そんなバカな、あんまりだ。ああでも始祖ブリミルよ、これが運命だというのですか。どうせ人間ならもっと可憐な妖精のような女の子の方が――」

 なるほどパラノイアか。
 どこかにトリップしている少年を、病み男は持っていた本で殴りつけた。本の角の部分でガツンと。

「痛いっ!」
「目が覚めたか?」

 ちなみに少年を殴りつけた本の名前は『屍食教典儀』という。コボルドの亜種と思われる不潔な亜人たちが崇める神々について書き記した本である。
 このような邪悪な書籍は、ゴブリンたちの居る地底都市だけでなく、シャンリット領アーカムに設立された私立ミスカトニック学院にも所蔵されている。
 男は乱読家だった。

「うう、現実は過酷。目の前には不健康そうなヒョロ長い男がいるだけなのでした……。おお神よ、始祖ブリミルよ、分かりましたこれが試練なのですね」
「現実を受け入れろ。世界を救うと言ったな? 手伝ってやろうじゃないか、少年。さあ、契約をするが良い」

 歌劇のように大げさな様子で嘆く少年――大げさな仕草から察するに恐らくはロマリア人なのだろう――を、病み男は醒めた目で見つめる。

 意を決したように少年は契約の言葉を口にする。

「使い魔契約は神聖なもの、だものね……。仕方ない。我が名はグレゴリオ・セレヴァレ。『五つの力を司るペンタゴン。この者に祝福を与え、我の使い魔と成せ』」

 少年は病み男に近づくと、男の血の気の引いた蒼い唇に口付けをした。
 ステンドグラスから差し込む光りに照らされて、始祖像の前で接吻を行う。
 非常に絵になる光景だ。聖堂はある種の神聖さに包まれる。

 グレゴリオは直ぐに唇を離して、簡素な修道士服の袖でゴシゴシと拭う。
 少年の目はどんよりと濁っている。
 ファーストキスだったのだろうか?

「使い魔契約だからノーカン、ノーカン……」

 グレゴリオはぶつぶつと何事か呟いている。
 その間、病み男は自分の体内に感覚を集中させていた。

(使い魔にされるなどという経験は滅多に得られるものではない。じっくりとルーンが刻まれる感覚を味わって、その記憶を持ち帰ってシャンリットの人面樹群に加えなくてはならない。帰還方法については心配あるまい。この身体は貴重な実験体であるから、その内にゴブリンたちが見つけ出すだろう。さて、どんなルーンが刻まれることやら……)

 病み男の身体に魔力が流れ、渦巻いては右手の甲へと流れ込む。
 焼印を押し付けるような痛みが走るが、男は歯を食いしばって耐える。

 数瞬のうちにルーンは刻まれ終わった。

 そして右手の甲に現れたルーンを目にして病み男は驚き叫ぶ。

「――ヴィンダールヴ!」

 少し前にに暇に飽かせて読んだ、古代の本の中に記されていた伝説の使い魔。
 “神の右手”、“神の笛”、“獣を操るもの”。
 つまり病み男を喚び出したこのグレゴリオ・セレヴァレという少年は――。

「虚無の担い手か! 凄いぞ! 大発見じゃないか! ふは、はは、ふふふ!」
「何なの、急に。怖い。変なの」

 急にテンションを上げた病み男に、グレゴリオは困惑する。

「何が嬉しかったのか知らないけれど、そんなことより、君の名前は何て言うんだい? 教えてくれよ。使い魔になってもらうのに、名前も知らないという訳にもいかないからさ」
「くふふ。名前、名前ね」

 一頻り笑った男は、紅顔の美少年グレゴリオに向き直ると、恭しく跪く。
 主に仕える下僕のように跪く。

 ここはロマリア風に、歌劇のようにやったほうが良いだろうと思ったのだ。

 ――誰も気づかなかったが、この時に一匹の蚊が跪く男の首筋に止まり、血を吸った。そしてこのたった一匹の蚊が、後に何百万という命を奪う病の猖獗の切っ掛けとなるのだが、誰一人知る由もなかった。


「名前はありません。“デニエ”と呼ばれたりすることもありますが、“最後の生き残り”という以上の意味はありません。だから私に新しい名前を下さいませんか、主殿」

 言葉遣いも改め、先程までの狂奔ぶりが嘘のように、病み男は、ともすれば神聖とも思える雰囲気を纏い、膝をついている。
 それに合わせてグレゴリオ少年も頭を切り替える。

 この少年、乗せられやすい質であった。

 その目立ちたがりで乗せられやすい性格を見抜いた司祭は、グレゴリオが魔法が不出来なことについて慰める度に、“君は救世主になれるのだ”とか“君には特別な才能があるのだ”とか“よっ、ロマリアの若き星!”とか“御大将!”とかおだて上げた。
 そしてこの少年グレゴリオは、司祭の言葉を真に受けて中二病を拗らせる位には、頭の中が単純に出来ていた。
 この世の中には何かしらの打倒するべき邪悪があり、それを成し遂げればこの世界は救われるのだ、自分こそがその為の救世主なのだ、救う救うとき救え救おう救わねば!

 使い魔を得てからは、彼の内側にさらに沸々と湧き上がるものがある。
 最初はこんな陰気で不健康そうな男が何故使い魔に、と感じたが、いざ契約してみれば、ああなるほど確かにこの使い魔は正しく自身の半身なのだと理解できた。
 何よりこの体中を駆け巡る魔力の奔流が雄弁に物語っている、“時は満ち、遂に運命は我に味方せり”と。
 今なら双月だって砕けそうだ。アルビオンすら墜としてみせる。海を割ってガリアとロマリアを結ぶ道を作ろうか。火竜山脈を掘り抜いて遥か北まで攻め上がり、大王ジュリオ・チェーザレの成し遂げなかったハルケギニア平定を成し遂げようか。僕にはそれだけの力がある。

 高揚感に包まれ夢見るようにグレゴリオは思う。
 ああハレルヤ。始祖の名の下に全てのブリミル教徒に救いあれかし。
 救う者がいなければ僕が救世主になろう。
 いや、僕こそが救世主なのだ!

 使い魔となった男が、グレゴリオの前に跪いて言葉を待っている。

 そうだ、名前をつけなくては。

 お誂え向きにここは聖堂。
 神と始祖の前でこの男に洗礼を施すのだ。

「ごほん。うむ、名前ね。君はちょっと身体が弱そうだからね、“サーノ”なんてどうだろう?」
「“サーノ”。はい、ありがとうございます、主殿」
「宜しい。我、グレゴリオ・セレヴァレの名において、汝をサーノと名付ける!」
「有り難き幸せ」

 ウイルスの巣窟である自分に“サーノ(健康な)”とは、随分と気の利く主殿だ、と病み男改めサーノは思った。
 その顔はクローンである彼のオリジナルである所のウード・ド・シャンリットが人の姿形をとっている時と全く同じ相貌であった。





「“魔力暴走ウイルス脳炎”というのかね」

 アトラナート商会元会頭、ミスカトニック大学教師長、トリステインの子爵という肩書きを持つウード・ド・シャンリットは、緊急報告として齎されたものについて天井に張り付いたまま聞いていた。

 ウードはもはや人の形を留めていなかった。

 彼の姿形を一言で表すならば、“大きな蜘蛛の頭の部分に人の頭を取って付けた異形”だ。
 だが、よくよく見ればこの蜘蛛とヒトとの混合物が、実はヒトの骨格をベースにしていることが分かる。
 背面からウードの胴体を見れば、頭、頚、肋骨が形作る胸腔部分、脊椎、骨盤の場所に、黒と紫の毒々しい甲殻が、かろうじてヒトと分かる形を残しているのが見て取れるはずだ。

 脇腹部分が抉れているから、蜘蛛というよりは蜂か蟻にでも見えるかも知れない。
 蜘蛛にもヒトにも成り切れない異形だった。

 頭の方から背中側に向かって順に見ていくと、先ずは首筋から伸びている大きくて鋭い左右の毒牙(鋏角)が目に入る。
 次に、唯一人の面影を完全に残している頭蓋が前方を向いて付いているのが分かる。人の形は留めているものの、その皮膚は既に甲殻に変化しており、左右非対称な好奇と猜疑に凝り固まった表情のまま動かない。
 かつて肩があった部分からは左右それぞれ短い触肢と二本の細長い脚が生えている。
 肋骨は頑丈な甲殻に変わってしまっている。果たして内部に心臓や肺が残っているかは定かではない。
 脇腹に当たる部分は抉れて何もなくなっていて、脊椎だったと思われる細い甲殻が、上半身と下半身を繋いでいた。
 さらに視線を下に向ければ、骨盤があったと思われる部分からも左右に二対四本の脚が伸びている。骨盤のすぐ下には膨れた蜘蛛の腹がついている。
 脇腹に詰まっていた内臓は、いかなる変態の経過を辿ったのか分からないが、骨盤よりも下の位置に移動しており、黒と紫の縞によって彩られ、不吉に膨らんだ蜘蛛の腹になっている。

 ウードは会議室の天井に張った蜘蛛の巣に逆さまに張り付いて、報告を聞いていた。
 近頃では、呪いが強まり、日に一人は生贄のウードクローンに『大変容』の毒液を注入して、呪いを移さなくては、正常な意識を保てなくなってしまっている。
 油断をすると、アーカムの地下の地底都市のさらに奥底にあるアトラク=ナクアを祀る祭壇に開いた時空の裂け目から、暗黒のン・カイの谷へと旅立ちそうになる。

 『サモン・サーヴァント』による予期せぬバイオハザード、“魔力暴走ウイルス脳炎”の担当責任者に抜擢されたクァンタン・ウンズィエム・ウェッブは天井に張り付くウードを見上げて、さらに説明する。

「はい、私が行っていた研究は、“非メイジをウイルスを用いて後天的にメイジにする方法”でした。実験のためのウイルスベースとして使用したのは、神経系に特異に感染する脳炎タイプです」
「血液感染するタイプか? 蚊や蚤が媒介する?」
「はい、そうです。またウイルスの外殻(カプシド)は、脊椎動物全般に対して有効なように改造されています」
「キメラ化技術を応用したのだったな、確か」

 ウードはクァンタンの説明を聞いて記憶を掘り起こす。
 あらゆる動物に感染するようにと、水と土の魔法によって改良――あるいは改悪――されたウイルス外殻は、非常に強力な感染力と伝染力を持っている。
 この“汎用ウイルス外殻”の原案は、ずいぶん昔にウードが考えたものであった。
 様々なウイルスをキメラ技術によって合成し、どんな実験動物に対しても使えるように汎用化するというアイディアだ。

 実験用の“汎用ウイルス”はその強力な感染力のために、バイオハザードを起こさないように厳重に管理された施設以外では使用が禁止されていたのだが。

「まさか被験体ごと『サモン・サーヴァント』で略取されるとは想定外でした」
「それについては済んだことだ。別の部門で原因調査と対策協議がなされている。人間が召喚されたということで、ブリミル教に伝わる虚無系統の伝承と絡めて考えたりしているらしいが」

 そう言って、ウードは続きを促す。

「“魔力暴走ウイルス脳炎”について、続きの説明を頼む」

 クァンタンは背筋を正して、天井を見上げ、説明を再開する。

「はい、私がデザインしたウイルスは、感染してヒトの脳まで侵入すると、脳内に新しく、メイジと同様の神経組織を構築し、系統魔法を使えるように感染者の脳を改造します。ですが、その改造の為のプログラムを組み込んだウイルスの遺伝子は複雑で、非常に長大になってしまったので、幾つかに分ける必要が生じました。最終的には、4種類のウイルスに分けて遺伝子を封入し、それを特定の順番で然るべきタイミングで感染させることで、感染者をメイジに改造するように調整いたしました」
「なるほど」
「私の実験では正しい順番で正しく感染させた場合の試験を行っていたところでしたので、それ以外のケースについては何の実験も行っておりませんでした。現在急ピッチで、考えられうる限りの感染パターンについて再現実験を行っておりますが……」
「その再現実験の結果として顕れたのが“魔力暴走ウイルス脳炎”か」
「はい。再現実験では被験体のうち幾つかが、系統魔法発現のための脳回路新生の過程で、体内の魔力の暴走を招き、風の魔力を暴走させて内側から炸裂して死亡しました。元々、ウイルスが所定の性能を発揮して脳改造が成功した場合でも、高熱や脳炎による致死率が非常に高かったので、さらなる改善を目指して研究中でした」
「だが問題点を改善する前に、召喚事故によって被験体は失われた、と」
「はい……。魔力の暴走による身体内部からの爆死の他にも、脳炎や全身ショック症状など様々な症状が確認されています。再現実験における魔力暴走では爆死するパターンが一番多いのですが、他にも土の魔力暴走による石化や死蝋化、火の魔力による人体発火現象やミイラ化、水の魔力による凍結や周囲の生物との融合キメラ化など様々な現象が発現するようです。ウイルスの増殖自体にも感染者の魔力が用いられるようです」

 ウードはその報告を聞いて、困ったような雰囲気を醸し出す。
 報告者のクァンタンは恐縮してしまっている。

「なるほど。つまり、家畜や鳥や鼠に無差別に感染して劇的に広がる、非常に感染力が強いウイルスが野に放たれた、ということだな」
「その通りです」
「おまけに感染者は一定の確率で物理的に爆散し、その血肉ごとウイルスを広範囲にばらまいてしまう、というわけか。偏西風にでも乗ったら厄介だな。いや、ベクター感染や血液感染しかしないなら、そこまで気にする必要はないか。因みに致死率は?」
「感染実験の致死率は、何も処置しない場合は9割を超えます。抗ウイルス剤などの投与や、水魔法による治療は有効ですので、きちんと対処すれば致死率は3割以下に抑えられるでしょう。またワクチンによる予防が有効だと確認されています」

 バイオハザード。
 絶対に何時かやらかすと思って、充分に対策を練ってきたはずだったのだが、それらの対抗措置は『サモン・サーヴァント』によって一気に覆された。
 即座に対策を取らなければ、かつてウードの前世の世界で、何千万と犠牲者を出した中近世のヨーロッパにおける黒死病の猖獗(しょうけつ)にも勝る被害が出るだろう。

「出来る限り早急に鎮圧、あるいは被害極限をしてくれ。他の生物に感染した際の影響は? 費用は……まあ度外視して良いから、速度を優先で。ゴブリンメイジの人員も大幅に増産してくれ。これはその為の予算増額決裁書類だ」

 ウードはペラリとサインした書類をクァンタンに向かって落とす。

「了解いたしました。早急に対処いたします。他の生物についての影響は、現在のところ不明ですが、目下調査中です。魔法の使えない平民ではなくメイジが感染した場合の調査についても続行中です。感染拡大に対する策としては、ワクチンを唾液腺から分泌するように遺伝子改良した蚊を、被験体が召喚されたと思われる地域周辺にばら撒くことで、周辺の動物に接種させる方法を考えております」
「ふむ、それでイケそうだな。ヒトだけじゃなくて、全生物に対処しなくてはならないからな。ゴブリンたちにはワクチンや抗体の接種は終わっているな?」

 ヒトもそれ以外の動物も差別しない。
 全て同様に研究対象だから、全て同様に保護しなくては。
 ゴブリン種族だけは身内だから例外的に特に手厚く保護するが。

「はい、終わっています。ウード様はもう受けられましたか?」

 ウードに感染しないかとクァンタンは心配する。
 ウードは苦笑した様子でそれに答える。

「心配ありがとう、でも、私はこの身体だからな。脊椎動物用のウィルスは効かないと思うよ。一応ワクチンは接種しているがね。それと分かっているとは思うが、先程言った方法だけではなく、他の方法も考えておいてくれ。外に解き放たれたウイルスがどんな変異をするか分からないからな。では引き続き宜しく頼む」

 全く何の因果でそんな危険物が『サモン・サーヴァント』で召喚されたんだか、と、ウードは内心で溜息をつく。
 蜘蛛の体になってから、溜息をつく機能は失われているのでつきたくてもつけないのだが(肺組織は腹部へ移動して書肺となっており、喉ではなく腹に開いた気孔を通して空気を交換している)。

「ああそうだ、肝心の被験体が喚び出された場所は分からないのか?」
「あ、はい、そうでした。現在の所、新興ゴブリン種族の地底都市や人工衛星都市に召喚されたのでは無い、ということは分かっています。トリステイン国内でも確認されておりません。現在〈零号〉様に依頼して、ハルケギニア中を探してもらっていますので直ぐに見つかると思いますが……。各地のアトラナート商会に配置されている駐在員にも情報を集めさせていますが、今のところは“魔力暴走ウイルス脳炎”と思われる伝染病の患者は発見されていません」

 それを聞いて、一先ずウードは安堵する。

「報告ご苦労。迅速な対処を期待する。いあ あとらっくなちゃ」
「了解いたしました、必ずや。いあ あとらっくなちゃ」

 サインした書類を持って、急ぎ足でクァンタンは退出する。

 会議場を出て行くクァンタンを見送ると、ウードは蜘蛛の巣から脚を離し、天井から落下する。
 空中で半分捻りを入れて、8本の脚で衝撃を殺して着地。

 ウードは思考する――あるいは本当に『サモン・サーヴァント』が、神聖で、始祖の御心とやらに適った儀式だというのならば。

 増えすぎたヒトという種を減らすために、疫病のタネをこのシャンリットから召喚したのかも知れない、と。

 決定的な絶滅を避けるための間引きとして、被験体を召喚したのかも知れない。
 しかも召喚されたのがよりにもよって『感染して生き残ったヒトをメイジにするウイルス』だって……?
 出来過ぎにも程がある。

「ブリミル教徒の連中ならば、天罰とか言って甘受するかも知れないな。天罰でなければ試練、とでも受け取るか? “神に選ばれし者は生き残り、メイジに成れる”とか何とか神官なら言いそうだ。何にせよ早急に調査を進めなくてはならない。召喚された被験体は早晩死ぬかも知れないし、そうなれば、ひょっとするとまた同じように、厄介なウイルスの保菌者がゴブリンたちの都市の実験施設から召喚されるかも知れないな……。全く本当に厄介だ」

 ウードはカサカサと会議室の扉まで歩を進める。

 この後は“魔力暴走ウイルス脳炎”の件について、エルフとの会合があったはずだ。
 ウードにとって気が重い会合だ。
 ひたすら謝ってウイルスの封じ込めに協力してもらわなくてはならない。

 ハルケギニア諸国では国を跨った国際組織が未だ存在しないから、そのような会議は開けない。
 ……というか、ハルケギニア諸国を跨ぐ巨大組織というのは、アトラナート商会があるから充分だとも言える。
 それ以前にウイルスという概念、公衆衛生という観念が通用するとは思えない。

 エルフとの会合に出るために、ウードは、蜘蛛の姿から、人間の姿に変化する。

「『我が糸よ。我を鎧って姿を変えよ』」

 天井に張り付いていた蜘蛛の糸が、ウードの口語詠唱に従って独りでに蠢き、空中を泳いで、彼を覆っていく。
 繭のようにウードをスッポリと覆った蜘蛛糸は、彼の蜘蛛の身体を絞め上げて、徐々に四つん這いのヒトのような形に整える。

 深淵の蜘蛛神アトラク=ナクアから先祖が受けた呪いの進行によって、9割以上はヒトを辞めてしまっているウードは、その所為かどうか分からないが、精霊魔法まがいの事が出来るようになったのだ。
 エルフほどには上手く扱えないが、それでも、『変化』に近い魔法は使えるようになった。人面樹に納められた知識の中には先住の魔法に関するものもあったので、そこからも学習した。
 ウードの使い魔であるクトーニアン、ルマゴ=マダリだって先住魔法を使える。精霊を囚えて呪縛するコツを、ウードはルマゴ=マダリとの間の感覚共有で以て、体感して身に付けた。

 ぎりぎりとウードを絞めつける絹糸の繭は、やがてすっかりその色艶触感までも変えて、ヒトらしき姿にウードを固め上げた。
 四つん這いの姿勢からウードは震えながら立ち上がり、ぎこちなく四肢を動かして確かめる。

「違和感が酷い……、もっと練習しないとな。だが、まあ、会合は短い時間だから平気だろう」

 自分を見下ろすと、彼は自分が全裸であると気がついた。
 人間の体をイメージするのに夢中で、服をイメージするのを忘れていたのだ。

 適当な服を用意するために、彼が契約している魔法の杖〈黒糸〉に付加された人工知能〈零号〉を呼び出そうと、ウードは指を鳴らして合図しようとする。
 しかし、慣れないヒト形態のためか、指がうまく動かずに失敗する。
 結局は拍手で合図をすることにした。

 実際は〈零号〉は声で呼べば応えるし、ウードの様子も常に観察しているのだが、様式美というものだ。
 ウードが手を叩く音が響く。

 直ぐに、何処からとも無く、いや、部屋の何処かしこからも返事が返る。
 ウードが幼い頃から大地に張り巡らせた炭素極微小繊維の網〈黒糸〉、それに付加された人工知性〈零号〉が返事をしたのだ。

【あいあい、マスター。服だよね?】
「ああ頼む」

 一瞬で、空気や天井にこびりついて残っていた蜘蛛糸の残滓などから、上等な服が『錬金』によって用意される。
 ご丁寧に綺麗に折り畳まれている。

 だがウードは上手く身体を動かすことが出来ない。
 つまり満足に一人で服を着ることも出来ない。

「……着せてくれ」
【あいあいさー】

 締まらない話であった。





「聖戦ですか?」

 シャンリットの実験室から召喚された病み男サーノは、主の美少年の言葉を反復した。
 彼の主たるサーノは、上気した様子で言葉を続ける。

「そうだよ、サーノ! 異教のエルフに奪われた聖地を取り戻すんだ! まだ正式に発動された訳じゃないけどさ」

 ここはグレゴリオとサーノの主従に宛てがわれた部屋だ。
 サーノが召喚されてから数日が経過している。

 修道院らしい質素な調度の石造りの部屋。
 暫く前まで住んでいた人間が不潔だったのか、ベッドに蚤やダニが湧いていたが、それらはサーノのヴィンダールヴのルーンの効果で追い払っている。

 サーノはここ数日で“神の笛”ヴィンダールヴのルーンの効果を確認していた。
 他の事はすっかり思考の埒外に置いて、ルーンの性能検証に夢中になっていた。
 やはり彼は、ウードクローンであり、オリジナルと同様に一つのことに集中すると周りが見えなくなる質であった。

 そしてハルケギニア人類にとって致命的なことに、サーノはウードと同様に、迂闊な性格でもあった。
 召喚されて直ぐに、彼がアトラナート商会と接触を持っていれば、あるいはバイオハザードの趨勢は異なっていたかも知れない。

「はあ。主殿も参戦なさるので?」
「もちろんだよ! そりゃあ、まだ、魔法は使えないけれど、それでも僕にしか出来ないことがきっとあるはずなんだ! 今日だって教皇様直々に言葉を頂いたんだ。『サモン・サーヴァント』が成功したと申し上げたら、我がことのように喜んでくださったんだよ」

 サーノは興奮した様子で語る主グレゴリオの様子を見て、頭を抱えたくなった。
 オツムが単純だとは思ったが、これ程とは。
 いやずっと修道院の中で育ってきたローティーンの少年に何を求めているのか、と頭を振る。

「まさか人間を召喚したことも仰ったので?」
「当たり前じゃないか。教皇様に隠し事なんて出来ないよ」

 つまり教皇にはグレゴリオが虚無だとバレたと言う訳か。

「ひょっとして教皇……様に呼ばれていたりしますか?」
「よく分かったね! サーノも一緒に連れてくるように言われていてね。だから呼びに来たんだ」

 あ、確実にバレてる、とサーノは思った。
 ブリミル教会の総本山に虚無についての伝承が伝わっていない訳がなかったのだ。
 “人間を召喚したメイジは虚無”というのは教会も知っているのだろう。
 これまでの歴史で何例あったかは知らないが、グレゴリオとサーノの例が初めてではあるまい。

 サーノは今のハルケギニアの情勢を、少なくともグレゴリオよりは詳しく把握していた。
 土地が支え得る許容量一杯にまで人口が膨れ上がっており、昨今の不作によって、飢餓の兆しが見えつつある。
 豊作で蓄えた食料もそろそろ底をつくだろう。
 ハルケギニア全体に漠然とした不安が漂っている状態であり、そしてその不安はストレスとなって民にのしかかり、その捌け口を求めている。

 それらの不安解消の為の聖戦発動なのだろう。
 『まだ見ぬ土地には我らが知らないだけで肥沃な大地が広がっているはずだ』、『ここよりは豊かなはずだ』、『救いは彼の地にあり』。
 いつの時代でも人間が考えることは変わらない。

 そしてお誂え向きに、虚無の系統が目覚めたという訳だ。
 何とも都合の良い話だ。
 聖職者はこの始祖の再臨を天啓だと捉えるだろう。

 赤く上気した顔でグレゴリオが続ける。

「さあ、早く行こう、サーノ。教皇様も待って……る……」
「主殿?」

 言葉を続けようとしたグレゴリオの身体が傾ぐ。

「主殿!?」

 傾いだ身体はそのまま重力に従って崩れ落ちる。
 サーノは急いで駆け寄り、グレゴリオの体を支える。
 グレゴリオの呼吸は浅く、熱に喘いでいる。
 元から青白いサーノの顔がさらに蒼白になる。

「しまった、私のウイルスに感染していたのか!? しかし、何時……」

 サーノの身体を侵している脳炎ウイルスは蚊などが媒介してベクター感染するタイプである。
 サーノ自身もその事は充分承知していた。
 だから、ヴィンダールヴの能力を用いて、蚊や蚤を操り、それらの吸血生物に自分のウイルスまみれの血は吸わせないように気を配っていたのだが。

「知らないうちに血を吸われていたのか……?」

 サーノは自身に宿るウイルスについて甘く見すぎていたし、ルーンの力を過信していた。
 自分が完治し、ウイルスを駆逐するまでの数日間、新たに備わった使い魔のルーンの力で血液感染を阻止すれば良いと思っていたが、事はそう簡単には運ばなかったようだ。
 いつの間にか、彼は何かの吸血性の昆虫に血を吸われてしまっていて、それがグレゴリオに感染したのだろう。

 こうなってはもはや一刻の猶予もない。
 主を治すためにも、ウイルスの流行を防ぐためにも、早急にアトラナート商会と繋ぎを取らなくてはならない。
 グレゴリオに感染したウイルスは、恐らく修道院中、いや、町中、国中に広がっているかも知れない。

「主殿! 気を確かに! 直ぐに薬をお持ちします!」
「サーノ、だい、じょう……ぶ、はやく、きょうこうさまに」
「なりません! 今は安静にしておいてください。教皇様に病を移したくはないでしょう!?」

 浅い息を繰り返して苦しげな主を、苦虫を噛み潰したような表情で見つめるサーノ。
 彼はグレゴリオをそっと寝台に横たえ、周囲に在る全ての生き物にグレゴリオの身体を守るようにヴィンダールヴのルーンの力で命令すると、部屋を飛び出した。
 例えルーンの力によって齎された感情であろうとも、今この瞬間に愛しい主の為だけを思って行動できることを、彼は有り難く思った。

「おい、誰か! 誰か! アトラナート商会のロマリア支店の場所を教えてくれ!」





 結論から言えば、アトラナート商会の手によるウイルスの封じ込めは失敗した。

 召喚された被験体サーノの血を吸った一匹の蚊が、何人もの人や何匹もの動物にウイルスを感染させたのだ。
 サーノがグレゴリオの容態からそれを悟ったときには手遅れだった。
 感染は拡大してしまっていた。
 彼のルーンの能力で町中の動物を集めて病状を調べたり、アトラナート商会の協力でワクチンを分泌する蚊を放って操つり広範囲の動物に接種させて予防措置などをしたのだが、それでも燎原の火が広がるかのように病は伝染し蔓延した。

 鳥にも家畜にもネズミにも感染するというウイルスの特性も相まって、あっという間に街を越えて国境を跨いでウイルスの感染は拡大していった。
 森や街は小動物の死骸で溢れ、突如魔法の力を暴走させて倒れる感染者たちを目の当たりにして、人々は恐怖のどん底に陥れられた。

 突如として発火して燃え尽きる者。
 鎌鼬によって内側から引き裂かれる者。
 苦悶の表情のままに、末端から徐々に石になる者。
 生きながらに凍り付き、フリーズドライ様のミイラとなる者。

 川には死体が浮かび、悪臭を放ち、脳炎ウイルスの他にも伝染病が広がった。

 飢餓、戦乱、そして疫病。
 社会的不安は頂点に達した。
 神の試練と呼ぶには、余りにも重すぎた。

 時の教皇さえも病に倒れた。
 人々を守るはずの魔法の力が牙を剥き、人々を内から引き裂く。
 そして、病に沈んだ村々に現れる不気味な矮人の“消毒部隊”の噂。


 人々は捧げるべき生贄を求めていた。
 人々は打倒するべき悪魔を求めていた。
 人々は末世を救ってくれる英雄を求めていた。


 そんな情勢の下だった。
 教皇の病の治療のためにと、蜘蛛子爵ウード・ド・シャンリットがロマリアに呼び出されたのは。

===================================
当作において、ヴィンダールヴのルーンは蟲も操れる設定です。飛蝗の群れもOK。
ヴィンダールヴは、ウイルスを直接は操れませんが、ウイルスを感染させた動物の“ウイルス産生能力”を限界まで強化して一気にウイルスを増殖させたりは出来ると思います。
酵母を操って美味しいお酒を作ったりもできると思われ。かーもーすーぞー。
対象をルーンの力で操れるかどうかは、POWロールで競わせて勝ったら可能というイメージ。ただしヴィンダールヴ本人のPOWには感情の振れ幅によって補正(主人のピンチには×10、とか)が掛かります。

キメラ化したウイルスによるバイオハザード、パンデミックというのは前々からアイディアだけはあったものです。
“魔力暴走ウイルス脳炎”というギミックは、中近世ヨーロッパの黒死病の代替ですね。
最近では黒死病は、ペストと炭疽菌の複合流行だったのではないかと言われているみたいです。
家畜に感染するかどうかが大流行するかどうかの分かれ目だそうです。
今回の作品内で流出したウイルスは家畜にも鳥にもネズミにも感染する設定なのでバンバン広がります。
でも媒介する蟲が居なければ広がらないので、突然変異が起こらない限りは、沙漠は越えられないでしょう。
アルビオンには鳥にくっついたダニが媒介して上陸するかも。
キメラ作成技術を悪用したらお手軽に生物兵器が作れそうな気がするんですよねー。

多分次でウード君の時代の話は終わりです。漸く。
実は今回でウード君が死ぬはずだったんですけどねー。
第一回聖戦(原作の約千年前)はまだ発動していません。
2010.11.06 初投稿
2010.11.08 誤字修正



[20306] 蜘蛛の糸の繋がる先は 22.異端認定(第一部最終話)
Name: へびさんマン◆29ccac37 ID:0593a267
Date: 2010/11/16 22:50
 ロマリアのある聖堂前の広場。
 獄門台に晒されているのは、皮を剥がれた生首である。
 左右非対称な奇妙な表情に固まった顔面筋剥き出しの生首は、ロマリア宗教庁をして“史上最大の異端”と言わしめたウード・ド・シャンリットであった。

 今にも血が滴らんばかりの新鮮な生首は、しかしその鮮烈さとは裏腹に、市中に晒されてすでに五日が経過していた。

 聖人の条件の一つに“死体が腐らない”というものがある。
 ロマリア市中を滅ぼさんばかりの熱病の元凶とされた悪魔、ウードの生首は腐る様子も見せず、憎悪に駆られた市民の投石を何かの加護があるかのように寄せ付けもせず、泰然としてそこにあった。
 では彼は聖人なのだろうか? いや、そんな事はないだろう。少なくともブリミル教の聖人ではない。

 周囲に見物に集まる市民たち。
 生首の瞼のない顔面、その濁り一つもないブラウンの瞳が妖しく紅く輝き、動かないはずのその目はぎょろりと蠢き周囲睨めつけた。


 時間は今暫し遡る。







  蜘蛛の糸の繋がる先は 22.異端認定即断頭、復活できたら取り消します







 ロマリアから広がった奇妙だが致命的な熱病――罹患者のうち何割かが魔法の力によって内側から蝕まれて引き裂かれて、あるいは燃えて、あるいは石になって、あるいは凍りついて死ぬ、しかも魔法の使えないはずの平民であるにも関わらず!――は、ガリアの火竜山脈を隔てた南側で大きく猛威を振るっている。
 現在は火竜山脈が物理的な障壁となって流行拡大を防いでいるものの、山脈を越えるのも時間の問題だと思われる。感染した鳥やフネは、山脈を楽に超えられるのだから。
 この熱病はハルケギニアでは発症地域に因んで“ロマリア魔法風邪”と呼ばれている。

 運良くこの“ロマリア魔法風邪”から生き残った平民はメイジの才能を得ることが出来るという噂も、同時に流れてきている。
 この熱病に感染して生き残ったメイジのランクも上がったという噂もある。

 そして、人々の間に、半ば以上確信を持って徐々に広がる、毒のような、あるいは病いのような噂があった。

 “魔法の力というものは、決して始祖に由来するものではない”と。
 現に見てみろ、あの恐ろしい熱病は、ただの平民をその“内側”から、平民には持ち得ない“魔法”の力で殺したではないか。
 しかもそれに耐え切った者に、魔法の才能を与えるのだ、あの熱病は。

 魔法を与える悪魔の病。
 魔法を鍛える神の試練。
 悪魔の手によるものか、神の手によるものか。

 中には“魔法の才能を得ることが出来るかもしれない”という、ほんの僅かな可能性に希望を見て、積み上げられて墓所からあふれた熱病の死者の山へとその身を晒す者も居た。
 熱病が猖獗を究めたロマリア連合皇国の貧民たちにそのような命知らずは多かったが、彼らは例外なく、熱病に身を冒されて死亡した。
 万全の栄養状態でも、何の処置もしなければ死亡率が9割を超えるという熱病に対して、日々の糧にさえ汲々とする貧民が太刀打ち出来るわけもない。

 熱病が火竜山脈を超えるために少しだけその侵攻速度を鈍らせている内に、アトラナート商会の方では、熱病に対する対策が完成されつつあった。

 そもそもの発端が、彼らの実験室から『サモン・サーヴァント』によって召喚されたウイルスまみれの被験体であったため、ゴブリンたちはそのウイルスの特性も感染経路も何もかも熟知していた。
 ウイルス作成者である彼らの手に掛かれば特効薬の開発も然程の時を待たずに終わったし、反物質対消滅機関にまで手を出し始めたゴブリンたちの圧倒的生産力と、そこから得られるエネルギーを魔力に転用して展開される系統魔法による補助を以てすれば、ハルケギニアに暮らす全ての生物に対して、ワクチンや特効薬を提供することは不可能ではない。

 アトラナート商会の矮人たちの手によって唾液腺からワクチンを分泌するように改造された蚊や蚤(不妊化済みなのでこれらが増殖することはない)は、熱病が猛威を奮う都市や、その周辺の森や圃場で解き放たれた。
 何度も何度も、執拗に執拗に、それらは解き放たれ、ヒトや野生動物に対して魔力暴走ウイルス脳炎の免疫を付けさせていった。
 ゴブリンたちはロマリアでの熱病――ゴブリンたちは“魔力暴走ウイルス脳炎”と呼んでいる――の封じ込めには失敗したものの、なんとか善後策を整え、火竜山脈を防衛ラインとして、感染の流行を防ごうとしていた。

 ……だがあらゆる脊椎動物に感染し、吸血性の節足動物を媒介に広がるこの熱病は、一度広まればそう簡単に根絶できるものではない。
 しかもウイルスという概念があるかどうかすら怪しい文明レベルのハルケギニアにおいて、感染拡大を防ぐのは至難の業だ。
 ゴブリンたちの間でも、ワクチンや特効薬のばら撒き以上に効果的な策は難しい。
 その上、『これだけワクチンをばら撒いたならば、ある特定の動物種がこのウイルス脳炎で絶滅するということもないだろうし、当面は自然淘汰に任せるしか無いのではないか』、という意見も強くなっている。

 ――ぶっちゃけてしまうと、ゴブリンたちは早くも熱病感染対策に飽き始めていた。



 ゴブリンの実験施設から召喚された病み男サーノが、虚無遣いグレゴリオ・セレヴァレの使い魔である“神の右手”ヴィンダールヴになってから既に6ヶ月が経過した。
 サーノは彼自身の右手に宿ったルーンの力を駆使して、都市国家ロマリア市内の魔力暴走ウイルス脳炎の鎮圧に、アトラナート商会と協力して当たっている。

 ロマリア市街にあるアトラナート商会の商館の敷地の一角。
 わんわんと羽音が響く二つの虫籠を前にして、サーノと矮人が立っている。

「サーノ様、左がワクチン分泌タイプの蚊です。右の籠が特効薬分泌するタイプの蚊です。本日もよろしくお願い致します」
「ああ、分かっている」

 青白く不健康そうな顔のサーノが手を翳すと、彼の右手のルーンが輝き始める。
 あらゆる生き物を支配し、その潜在能力を引き出すヴィンダールヴのルーンがその効力を発揮する。

 ルーンの輝きを確認して、付き添っていた矮人はそれぞれの虫籠を開放する。

「行け、蟲たちよ」

 サーノの言葉に従って、羽虫たちによって形成される黒い雲は虫籠から出て、ルーンの力で刷り込まれた命令にしたがって、市街の一区画を目がけて飛んでいく。
 蟲たちは自らの命を削って、ワクチンや特効薬を限界以上に分泌し続け、それを手当たり次第に周辺の動物に注入するはずだ。

 矮人はもう用は済んだとばかりに、サーノの下を辞する。
 また次の日に同じように虫籠を準備し、今日とは別の区画に散布する手筈になっている。

 サーノも直ぐにアトラナート商会の敷地から離れ、愛しい主の下へと足を速める。
 ロマリア市内のある修道院が、彼とその主の棲み家だ。

 数百年、あるいは千年を超える歴史を持つだろう壮麗な修道院の建造物が遠目にも見える。
 街の殆どの建物よりも高い鐘楼が目印だ。

 修道院の敷地に入ると、サーノの長身痩躯に一人の少年が抱きついた。
 否。
 抱きついた、などとは生温い。

 修道院の二階の窓から自らの自慢の使い魔が帰ってきたのを確認した紅顔の美少年グレゴリオ・セレヴァレは、そのまま躊躇せずに二階の窓から文字通りに使い魔の身体に飛びついた。

「サーノ! おかえり!」

 そして重力の導きに従い、サーノの体に衝突した。

「げふぁっ!」

 決して頑丈とは言えないサーノの身体は、その急降下攻撃によって多大なるダメージを負った。
 だが、主のじゃれつきによって再起不能などという、主従どちらに取っても気不味い、精神的な禍根を残すような事態にはならなかった。
 主にサーノの不屈の精神力によって、であるが。

 何とか体制を立て直したサーノは、自分にじゃれつく愛しい主の頭を撫でる。
 それによってさらに顔を綻ばせるグレゴリオ。

「聞いてくれよ、サーノ! 遂に僕も魔法が使えるようになったんだ! 今までみたいな失敗じゃなくて!」
「く、ふ、ふふ。おめでとうございます、主殿」

 ずきずきと痛む全身を、それと悟らせないように気遣いながら、サーノは主の話を聞く。
 一時期はサーノからうつされた魔力暴走ウイルス脳炎によって意識不明の重体にまで陥ったグレゴリオであったが、使い魔たるサーノの献身的な看病とアトラナート商会の齎した特効薬によって、現在では完全に恢復している。
 溌剌としている主を見て、サーノの心は温かいものに満たされる。ああ、愛しい愛しい我が主殿、その尊い命が失われなくて本当に良かった、と。

「それで、ね、サーノ。遂に、あの異端の悪魔を裁く時が来たんだよ! 計画はもうすぐ実行されるんだ!」

 たとえその主が狂信に身を浸していようとも、サーノにとっては関係が無かった。
 我が身の全ては、主殿のために。
 使い魔のルーンは彼の精神の有り様を歪めてしまっているのだが、彼自身はそんな事には気づきもしないし、気づかない方が幸せだ。


 サーノは主グレゴリオに促されるままに、彼自身の来歴について、知りうる限りの全てをブリミル教会に話してしまっていた。
 蔓延っている熱病の正体や、アトラナート商会の者たちが実は人間ではなくてゴブリンを起源にする種族であること、彼らを支配しているウード・ド・シャンリットというサーノのDNAのオリジナルとなったトリステインの貴族のこと、彼らが信仰する深淵の蜘蛛神についてなど全てを話してしまっていた。
 無論、彼らの脅威についてもサーノは精一杯伝えたつもりである。敵対することは愚かに過ぎる、最上の策としてもうまく利用するのに留めなくてはならない、と。

 だがブリミル教会は、そんなサーノの言葉に耳を貸さなかった。
 五千年の驕りか、はたまた異教徒に対する憎悪か。
 いや、市井で高まる市民らの不安に対する体の良い生贄を見つけたということだろうか。
 疫病や飢餓への不安は高まり、人々はその捌け口を求めているのだ(アトラナート商会が各地の村々で毎週末に宴会もどきの異端の集会を開いているトリステインはその限りではないが)。

 そしてそれ以上にアトラナート商会の所有する財貨や技術は、非常に魅力的だったということだろう。
 さらに、ウードを排除することで、アトラナート商会の援助を受けているブリミル教会内のアトラナート派閥の連中も連座にすることも出来るとすれば、アトラナート派に対立する主流派閥はかなりの権益を手に入れられるという皮算用もあっただろう。

 教皇の口車に乗せられて異端討滅に目を輝かせるグレゴリオをあやしながら、しかしサーノは主とは全く別のことを考えていた。
 何とかウード・ド・シャンリットの異端認定を避けられないかと、そう思案していたのだ。

 それはサーノ自身のオリジナルであるウードの身を案じて、ではない。
 サーノを実験動物として扱った人でなしのゴブリンたちの親玉である男に関わること自体が、自ら災いを呼び込むことにほかならないのだと、サーノは認識している。
 何せウードという男は、自分のクローンを実験動物として量産させるという、正気を何処かに投げ捨ててきた男である。

 邪悪なる蜘蛛の組織の首魁を討ち果たすことこそが、始祖の御心に適うのだと信じて止まないグレゴリオ。
 無邪気に笑う主を見て、サーノは少なくとも、何があろうとグレゴリオだけは守り通そうと密かに誓う。

 熱病に倒れた教皇の治療のためという名目で、現在、ロマリア宗教庁はトリステイン政府を通じてウード・ド・シャンリットに召喚状を送っているらしい。
 様々な秘薬を調合するという噂のあるウードならば、教皇を治療できるはずである、ということで。

 ……教皇が病に倒れたのは事実だが、実際はただの風邪であり、ロマリア市内で囁かれるように重篤な状況ではない。
 このウードの召喚は、ウードをロマリア市民の前で破門し、異端として処刑し、さらにその勢いのままにアトラナート商会から物資を掠奪するという、一連の計画の第一段階なのだ。
 またその一連の騒ぎを対エルフの聖戦発動の前の景気付けとして利用するという目的もある。

 トリステイン政府にも内々にウード・ド・シャンリットを破門するということは既に伝えてあるが、どうもその動きは鈍い。
 常ならば、台頭目覚しいシャンリット家に反発を覚えた保守派閥などが内応して、シャンリット家そのものを、ウード破門の動きに即して取り潰すなどの動きがあってもおかしくないはずである。
 しかしトリステインはまるで動きを見せなかった。

 アトラナート商会の浸透が進んでいないロマリアではあまり意識されていないが、トリステインでは自国の経済活動の中枢から末端にいたるまでが既に蜘蛛商会に抑えられていることをある程度は認識していた。
 先だっての“シャンリット防衛戦”において見せつけられたウード・ド・シャンリットの異常性をトリステイン王は恐怖しているし、それ故アトラナート商会の実情についても様々な方面から調査させている。
 しかしその結果分かったのは、“アトラナート商会の全容はどれだけ調べても把握できない”ということと“今やアトラナート商会無くしてはトリステインは立ち行かない”ということ。

 正直言って、ロマリアの宗教狂いたちがアトラナート商会にちょっかいを掛けるのは、トリステインにとって迷惑以外の何物でもなかった。
 虎の尾を踏むのは勝手だが、その虎に真っ先に狙われる身にもなってみろ、という訳だ。

 トリステイン国内ではロマリアほどに熱病の猛威もなく、アトラナート商会への市民の支持率もそれなりに高いため、アトラナート商会擁護に動くのも無理のない話である。
 当然、市民全てがアトラナート商会を支持している訳ではなく、彼らに職を奪われた輩が恨みを持っていたりもする。
 異人であるゴブリンたちへの不信感も根強いものの、彼らがトリステイン国内で気前よく放出する財貨や食料品によって飢えや貧しさから解き放たれた平民たちは、街に矮人たちがちらほら交じるのを許容する程度には心に余裕が生まれていた。

 トリステイン王国としてはアトラナート商会を放逐するより、“不気味だが金持ちな隣人”として置いていた方が利益が大きいと判断している。
 そういった情勢であるため、トリステインのシャンリット家に対立している宮廷派閥へとロマリア宗教庁が送った“ウード破門の内々の打診”は、トリステイン政府を通じてシャンリット家に筒抜けであった。





 トリステインの王宮。
 謁見の間には玉座に王が座り、その傍に第一王子が立ち、周囲にも侍従長などが揃っている。
 部屋の隅には大きな球の上に器用に座っている矮人道化の姿も見える。

 そこに呼び出されたのは二人の貴族。

 一人はトリステインの東の広大な地域を治める、軍人然とした筋骨隆々とした白髪混じりのブラウン髪の初老の男、フィリップ・ド・シャンリット侯爵。
 そしてもう一人は、侯爵の長男で、トリステイン一とも言われる規模の商会のオーナーであり、ハルケギニア初の私立総合大学を企画し実現した、竜をも屠る蜘蛛男ウード・ド・シャンリット一代子爵だ。

 王を前にして侯爵父子二人は跪いている。
 トリステイン王は臣下の礼を取る二人に声を掛ける。

「よくぞ参った。シャンリット侯爵、シャンリット子爵。面を上げよ」
「ははっ」

 王の言葉に従い、二人は面を上げる。
 躍進著しいシャンリット家の、その屋台骨を支える二人である。

 父フィリップ・ド・シャンリット侯爵は、王政府の教育関連の部署の重鎮であるし、王宮内で“辺境派”と呼ばれる地方諸侯の派閥の纏め役でもある。
 かつて肉体派で鳴らした侯爵だが、慣れないながらも圧倒的な財力と武力を背景に、宮廷内で上手く立ち回っているようだ。
 娘の結婚に際して持参金として、王都周辺と娘婿が治める北部アントワープ領を結ぶ長大な“婚礼街道”を整備したことは、宮廷のみならず市井でも有名である。

 その息子ウード・ド・シャンリット一代子爵は、不気味だが有能な男だと一般的には評価されている。
 性的不能が原因で廃嫡されこそはしたものの、現在のシャンリット家を支えるアトラナート商会の創設者であり、シャンリット家の興隆はこの男抜きには語れないであろう。
 あるいは今後のハルケギニア史を語る上においても、この男のことは欠かせないかもしれない。

「今日、貴公らを読んだのは他でもない。ロマリアからの件だ」

 トリステイン王は、ロマリア教皇の印璽が捺された召喚状を示す。

「先ずは子爵、教皇の病の治療のために名指しで召喚されている。詳しくはその書状を読めばよかろう」

 侍従がそれを王の手から銀の盆に受け取り、子爵の方へと運ぶ。

 ウードは形だけは恭しくその書状を受け取る。
 かつて不具になったはずの彼の右腕は、いかなる方法によってか、恢復している。
 だが片輪であった時の彼よりも、今の五体満足な彼の方が余計に人でなしに思える。彼を形容するに当たっては、人の皮を被ったナニか、という表現が最もしっくり来るだろう。

 ウードの邪悪な雰囲気は、父である侯爵から見ても日毎に増しているようだった。
 フィリップは銀盆から書状を受け取るウードを見て、我が子であるにも関わらず不気味に思うが、その感情を何とか押さえつけていた。
 しかし同時にウードの発散する空気に対して、思わずひれ伏さずにはいられない程の畏敬の念と、得も言われぬ陶酔感も覚えていた。

 ヒトとしての部分で感じる邪悪さと、それとは全く別の部分で感じる神聖さが同居した不思議な感覚であった。
 そして、シャンリットの血筋の者としては、ウードのような在り方の方が恐らく正しいのだと、フィリップの直感が告げている。

「シャンリット侯爵、シャンリット子爵。用件はまだある。それはこちらの書状だ」

 寧ろこちらが本題かも知れぬ、と、王はそう言って、もう一枚の書状を示す。
 そしてニヤリと口を釣り上げて続ける。

「これは破門状だ。子爵、君のな。ロマリア教皇は、君とその一族を異端の廉で告発するつもりらしい」

 謁見の間の空気が凍る。
 実効日付は一週間後のものだから正確には破門予告状とでも言うのかな、と王が付け加えたのは誰の耳にも入っていないようだ。


 王から寝耳に水で我が子の破門の話を聞かされたフィリップの頭の中では、様々な考えが巡っている。
 破門? ウードが? 連座される? 妻エリーゼも、娘メイリーンも、最近嫁を迎えた次男ロベールも、孫たちも?
 いや、それより、何故破門状が国王陛下の手元に? 先ずは管区の司教に送られてくるのが通例では?

 侯爵はその混乱を努めて顔に出さないようにしながら、表面上は平静を保つ。
 ウードの方の顔色は伺えないが、動揺などしていないようだ。
 その二人の様子を面白くもなさそうに眺めて、トリステイン王は訊ねる。

「破門、という事だが、思い当たる節はあるかね? 子爵」

 ウードは好奇と猜疑で非対称に引き攣って固まったいつも通りの表情のまま王に答える。

「心当たりがありすぎて、逆に分かりません、陛下」

 あるのかよ、と侯爵は息子の弁を聞いて思う。いやまあ在るだろうけど、と納得しつつ。
 まあ何かしらのズルをしていないと、ハルケギニア中を覆う巨大な商会を作れはしないだろう、と。

 そんな父親の様子を尻目にウードはさらに発言を重ねる。

「ですがもし本当に破門ということで、しかも我が家系を丸ごと処断するということでしたら、私は、いえ、アトラナート商会は、ハルケギニア全てを敵に回してでも戦争をする用意がございます」

 まあ王宮の矮人道化の記憶を『読心』で読まれたならばご存知でしょうが、と全員に聞こえるように呟いて口を噤む。
 部屋の隅で玉乗りをしている道化には、化粧で隠されているものの、明らかに拷問の跡だと見える傷があることに、目が良い者は気付くだろう。

 破門されて家系ごと滅ぼされるくらいならば、ブリミル教会を敵に回してでも生き残らなければならない。
 貴族とは血脈を保つことこそが義務だとフィリップを始めとする諸侯は常識として考えているし、ハルケギニア全土を敵に回したとしても、アトラナート商会が味方であれば、勝算が全く無いわけではない。

 民がついて来るか若干疑問だが、特にシャンリット家には失政もない上に、シャンリット領内のブリミル教会は味方につけているし、いっそのことロマリア教会内部のアトラナート商会派閥も引き抜いて来て、彼らをアトラナート商会の後ろ盾のもとに独立させて、新しい宗派を作っても良いだろう、と侯爵は考える。
 事態の急展開に混乱していたフィリップ・ド・シャンリット侯爵は、息子の宣戦布告のような発言を咎めるでもなく、静かに、しかし確固として覚悟を決める。
 いざとなれば、王国に杖を向けることさえもその選択肢に入れながら。

 重苦しい沈黙の中で、王が口を開く。
 彼のこの一言によって、先立っての戦で外敵に向かって振るわれたシャンリットの毒牙が、トリステインを襲うかもしれない。
 王の傍らに控えている王子が思わず息を呑んでごくりと喉を鳴らす。国王の一言とはかくも重いものなのか。

「ロマリアはトリステインに対して、破門宣告と同時にシャンリット領を切り取るようにと言い出してきているが……。話にならんな。シャンリットを生かしておくか殺すか、どちらがトリステインの国益に適うかは明白だ。心配せずとも良いぞ。このような露骨な内政干渉に応じはせぬ。まあ民衆がシャンリットを滅ぼすのを良しとすればその限りではないが」
「ならば安心です。トリステイン国内の民衆への影響で言えば、アトラナート商会は教会よりも強いでしょうから。民衆もアトラナート商会が無くなれば日を待たずに国中が飢えることになると分からない程に愚かではないでしょうし」

 王はそれを受けて精一杯笑う。
 ウードもくつくつと笑う。
 父侯爵とトリステイン第一王子は冷や汗を流している。

「ははは、一先ずはお主らの杖の忠誠を信じよう。何、こちらからお主らに手を出すことはせぬし、させぬよ」
「は、有り難き幸せ」
「下がって良いぞ。ロマリアの件については王政府として、過剰な内政干渉はやめろ、ということで突っ撥ねておくが……」

 実際に召喚状に応じる応じないはウードの自由だと王は言いたいのだろう。
 くつくつとウードは笑っている。

「承知しております。トリステインに今後一切害が及ばぬように、ロマリアの連中に目にもの見せてこいというのですね」
「おいぃ?」

 王が軽く突っ込む。
 侯爵の冷や汗が更に増える。

「分かっております、分かっておりますとも陛下。ご安心下さい。必ずやロマリアの寺院という寺院にウード・ド・シャンリットの消えぬ名を刻みつけて参りましょう」
「いや、そうではなくてだな。……はあ、もういい。下がれ」

 何やら不穏な方面に勘違いしたままのウードを、王は、ウードの父フィリップ侯爵と共に下がらせる。
 これ以上あの蜘蛛男に何を言っても無駄だと判断したのだろう。


 退出する二人を見送って、トリステイン王と王子が会話を交わす。

「父上。宜しかったのですか? シャンリット家は些か力を持ちすぎておるように思うのですが」

 異端云々は兎も角、ここでシャンリット家の力を削いでおくのは悪くない選択肢のはずだ。
 何故そのような選択肢を取らないのかと王子は父王に訊ねる。

「ふん。お前はあの蜘蛛の商会の実態を知らんからそう言えるのだ」

 そう言ってトリステイン王は謁見の間の隅で大人しく芸をしている矮人道化に目を向ける。
 先日まであれほど繰り言が煩わしかった道化が、見事にまるで唖のように変容してしまっている。
 拷問を受けて記憶を荒らされて半ば廃人となった矮人道化を指さして王は言う。

「儂は『読心』の魔法であの道化の記憶を読んだ。全くもって馬鹿げている。〈黒糸〉、新興ゴブリン種族、〈零号〉、旧支配者たち……。ロマリアの馬鹿坊主共に拘らっている場合ではないのだ」
「では一体どうするのです?」

 王子の問いに対して、王は獰猛そうに、内心の恐怖を隠すように笑って答える。

「シャンリットを敵に回さないためには味方につけるしかない。先ずはお前に娘が生まれれば、シャンリット家に降嫁させることになるだろうな」
「……はあ、そうですか……。しかし力を持った外戚が増えるのはよろしく無いのでは?」
「ふん、そこをどう御するかはその時に王権を継いでいるお前の腕の見せ所だ。精精苦労しろ、我が息子」

 何処か釈然としない王子を余所に、王は侍従に次の謁見者を参上させるように命じる。
 しかし獰猛そうな表情を装う王の顔とは裏腹に、彼の手は微かに震えていた。
 今以てこの王国自体がウードという蜘蛛が張った巣の上に位置しているという事実は、トリステイン王の精神を追い詰めているのだ。





 ウードがトリステイン王に謁見してから三日後。
 ウードは虚ろな表情でハルケギニア南部はロマリアの聖堂の一室に控えていた。
 その門扉は固く閉ざされ、警護の聖堂騎士が油断無く見張りをしている。

 結局ウードはロマリア宗教庁に参内することにしたのだった。
 それが陰謀だと知りながら。
 それが必要だと思ったから。

 トリステインとガリアには先の戦役に於いて、充分に恐怖を見せつけた。
 ロマリアが身の程知らずにシャンリットを迫害しようというのならば、見せつけてやらなくてはならない。
 シャンリットが、ウード・ド・シャンリットが、アトラナート商会がどういう存在なのかを。

 子々孫々に渡ってシャンリットに於いて快適な研究環境を維持するために、これを機にロマリアに刻みつけてやらなくてはならない。
 学術研究が宗教によって抑圧されてはならないのだから、ここでロマリア宗教庁に屈してはならないのだ。

 そのような信念を抱いてロマリアに参上したウードは、市内に入った瞬間に拘束された。
 ウードの実力ならば、彼を拘束しに来た聖堂騎士団を鎧袖一触に蹴散らすことも出来たはずだが、何故か彼は大人しく捕まった。

 何か考えがあるのだろうか?
 それとも、捕まらざるを得なかった理由でもあるのだろうか?
 ウードを拘束した聖堂騎士の中に、右手を隠した、ウードにそっくりな相貌の新人騎士が居たが、現在ウードを拘禁した部屋の警護をしているその彼とウードは何か関係があるのだろうか?





 ロマリアのある広場に設えられた台の上で異端審問が行われていた。
 広場には大勢の市民が詰め寄せ、所々に配置された聖堂騎士が警護を行っている。
 大勢の観客に囲まれるようにして立つ被告は、ウード・ド・シャンリットだ。

 急拵えの被告台の上に乗せられたウードは、粗末な服に身を包み、首と両手首を木板の枷に嵌められて、痩せこけた不健康そうな顔をしている。
 彼がロマリアに入城してから、既に三日が経過している。
 その間ずっと水も食べ物も与えられなかった彼は、傍目には憔悴しているように見える。

 そのウードの前、被告席よりさらに高い場所にある、広場に面した聖堂のバルコニーに教皇はいた。
 綺羅びやかな僧服を着た教皇はウードの犯した罪を読み上げる。

「被告、ウード・ド・シャンリット! 汝の罪は“異教崇拝”、“疫病のばら撒き”、“邪神との契約”、“不作の呪いの実行”――」

 教皇直々に次々と読み上げられる罪の数々。
 病に臥せっていたという噂だった教皇が何故元気にしているのか、という疑問を、裁判台を取り囲んだ周囲の市民たちは持たない。
 そんな事は些細なことだからだ。

 それよりも重要なことは、悪魔の如き疫病の化身として裁判にかけられている男についてである。
 ウード・ド・シャンリットという気味の悪い男。
 教皇の言う通りならば、この男が邪悪な熱病の元凶だというのだ。

「よくも」「病を撒きやがって」「娘を返せ」「息子を返せ」「父を」「母を」「妻を」「夫を」「失われたものを返せ」「よくも」「よくも」「よくも」

 周囲に集まる民衆の間で熱気が高まる。

「返せないならば」「死ね」「死ね」「死んで償え」「死ね」「死ね」「殺せ」「殺せ」「殺せえ」「死刑だ」「死刑」「死刑にしろ」「首を千切れ」「八つ裂きにしろ」「殺せ」「殺せ」「殺せ」「皮を剥げ」「熱した油を掛けろ」「死ね」「死ね」「死ね」「水責めだ」「鞭打ちにしろ」「死刑」「死刑」「死刑」「死刑!」

 高まる熱気に推されるようにして、教皇が判決を下す。
 大音声で観衆の声に負けないように神判を下す。
 手を掲げた教皇の合図によって、広場は静まり返る。

「被告、ウード・ド・シャンリット。これらの罪を認めるか?!」

 ウードがその問いに答える。
 朗々と、常の彼らしくもなく激情的に、まるで舞台俳優のように。

「“否! 我は認めぬ! 神明なる決闘裁判を要請する!”」

 観衆から罵声が飛ぶ。

「認めろ!」「認めろ!」「悪魔め!」「神の名の下に」「死ね!」「死ね!」「償え」「罪には罰を」「神罰を!」「死刑!」「死刑だ」「殺せ!」「殺せ!」「殺せぇ!」

 だがその民衆の声を押さえて、教皇が更に言葉を告げる。
 教皇の傍らに控えていた少年を前に出しながら、市民たちが思っても居なかった言葉を紡ぐ。

「被告ウード! 良かろう、我が判決に不服があるというのならば! 神の使いたる“虚無”の担い手、聖人グレゴリオ・セレヴァレと決闘の上で、その身の潔白を示すが良い!」

 市民たちがざわめく。

「聖人?」「決闘裁判?」「虚無?」「伝説の?」「死刑は?」「死刑にしろ!」「死刑!」「死刑!」「死刑!」

 広場を囲う聖堂騎士たちが一斉にその杖と鎧を鳴らす。
 聖堂騎士たちは魔法のオーラを立ち昇らせて、市民たちを威嚇する。
 静まらねば、貴様らも異端と見做す、と。

 静まった民衆を見渡して、教皇はウードに問う。

「被告ウード。始祖の力を受け継ぎたる“虚無”の担い手、聖人グレゴリオ・セレヴァレとの決闘裁判を受諾するや否や? 答えよ!!」

 間髪入れずにウードは答える。

「“望むところ! 神聖なる決闘の下で、我が身の潔白を表明しようではないか!”」

 決闘裁判とは、その名の示す通り、決闘によって判決を下すものである。
 決闘に勝てば即ち勝訴、負ければ敗訴、ということ。
 単純にして明快で、しかし野蛮な方法である。

 だがこの場に限っては非常に効果的な裁判方法だと言えるだろう。
 ロマリア宗教庁の意図する処は明白だ。
 聖人グレゴリオ・セレヴァレのデビューを民衆に印象付け、さらにウードを決闘の上で惨たらしく殺すことで市民たちの溜飲を下げるのだ。

 だがそれは全て、虚無遣いグレゴリオが悪魔ウードに快勝して初めて成り立つ話だ。
 果たしてグレゴリオはウードに勝てるのだろうか?





 聖堂騎士たちが謳う。
 杖を捧げ、神に祈るように呪文を詠唱する。
 複数人の魔力の波動を合わせて、常以上の威力を発揮する“讃美歌詠唱”と呼ばれるロマリア聖堂騎士の十八番だ。

 響き渡る讃美歌詠唱に従い、広場中央の石畳が膨張し、小山のように持ち上がる。
 彼らはウードとグレゴリオが戦うためのステージを作ろうとしているのだ。
 高さ5メイル程の切り立った円錐台形のリングが一呼吸のうちに出来上がった。聖堂騎士たちの非常に高度な魔法であった。

 だがその賛美歌詠唱に加わっていない騎士が一人。
 右手を左手で掲げ持ち、それを額につけて祈るようにする騎士は、ウードがロマリアに来た日に彼を拘束した一団の中に居た、ウードそっくりの顔の騎士であった。

 彼の名前はサーノ。
 ロマリアで猛威を奮う熱病の感染源であり、矮人たちに実験用として造られたウードクローンであり、また今ウードと戦わんとする美少年グレゴリオの使い魔ヴィンダールヴでもある。

 多くの観衆が見守る中、ウードとグレゴリオが騎士たちの魔法によってリング上へと運ばれる。
 没収されていたウードの魔法の杖である漆黒の牛追い鞭が、ウードの足元に投げ渡される。
 枷を付けられたままのウードは這いつくばって牛追い鞭を口に加え、もごもごと呪文を紡ぎ、鞭状の杖に『ブレイド』を纏わせてそれを『念力』で操ると、両手首と頚を繋いでいた板状の枷を切断し、口に咥えていた鞭杖を手に持ち替えて立ち上がる。

 その様子を見た虚無遣いのグレゴリオは感心したように言う。

「へえ。二つの魔法を同時に使えるだなんて、なかなかやるね、異端のくせに」

 ウードはそれに答えずに鞭杖を構える。


 対峙する聖人と異端者から離れた場所で、ヴィンダールヴのサーノが呟く。

「“御託は良い。早く構えろ。たとえお前が本当に虚無遣いだろうと関係ない。お前を殺して我が無罪を証明しよう”」

 だがヴィンダールヴのその呟きは周囲の歓声に紛れてしまって、隣に居た聖堂騎士にさえ聞こえなかった。





「“御託は良い。早く構えろ。たとえお前が本当に虚無遣いだろうと関係ない。お前を殺して我が無罪を証明しよう”」

 鞭杖を構えたウードは正しく悪役(ヒール)のように観衆に聞こえるように朗々と劇役者のように口上を述べる。

 それを受けるのは聖人グレゴリオ・セレヴァレ。
 高貴なる紫色で染められたサーコートを着て、自分の背丈の倍ほどもある大きなハルバードを片手に持っている姿は、威風堂々としており様になっていた。
 その様子は彼がメイジであるということを忘れさせるほどであり、グレゴリオが長年そのハルバードを得物として鍛錬してきたことを伺わせる。

 ハルバードが彼の魔法使用媒体の杖なのだろうか。
 それとも長柄戦斧の柄の部分に別のもっと小さなマジカル・タクトを仕込んでいるのか。
 何にせよグレゴリオがハルバードを使って戦うのだけは確かなようだ。

「良いだろう! 異端め! 死して地獄へ落ちるが良い! これは決闘裁判などではない! 公開処刑だ!」

 グレゴリオの言葉に民衆が呼応する。

「殺せえ!」「殺せ!」「殺せ!」「殺せ!」「処刑!」「処刑!」「処刑!」「処刑!」

 疫病や飢餓によって蓄積された民衆の不安は、殺戮への熱狂という形で発露した。
 広場を覆い尽くす地鳴りのような民衆の叫び声。
 それらは一つのうねりとなって、狂騒の連鎖を形作る。

 襤褸を纏い漆黒の鞭を垂らすウードと、貴顕なる紫色のサーコートを着て長柄戦斧を捧げ持つグレゴリオ。
 両者がお互いの得物を構えたのを確認すると、教皇は決闘裁判の開始を宣告した。

「神聖なる始祖と神の名において、被告ウード・ド・シャンリットの異端審問、決闘裁判を開始する!!」

 風の魔法で増幅された教皇の宣言が響き渡り、直後にまるで爆発したかのような歓声――いや絶叫が地震のように広場を揺らす。
 興奮しすぎて泡を吹いて倒れる市民も見受けられる。
 誰も彼もが流血を望んでいた。勧善懲悪の英雄譚のような展開を望んでいた。異端者ウードの惨たらしい死を望んでいた。

 この決闘裁判は、ロマリア教皇の狙い通りに、市民たちにとって特上の娯楽として作用しているようだった。
 コロッセオで剣闘士の戦いを見るように、あるいは闘牛を見るように、民衆はこの裁判という名の娯楽を楽しみにしていた。
 後の惨劇など誰一人予想していなかった。



 円錐台形のリングの上に一陣の紫色の風が吹いた。

 そうとしか思えないほどにグレゴリオの動きは速かった。
 いや、風よりも速く、刻すらも追いつけないほどであった。

 猛烈な勢いで振るわれる戦斧はしかし、『ブレイド』を纏って蠢く漆黒の鞭によって迎撃される。
 6メイル近い長さの鞭は自由自在に軌道を取り、ハルバードによる刺突、薙ぎ払い、引っ掛けなどを全て打ち払う。

 音速を超えることによる衝撃波が広場の空気を揺るがす。
 爆発音。破裂音。破裂音。破裂破裂破裂破裂破裂破裂破裂破裂――。爆音、また破裂音。
 グレゴリオが動くたびに大量の火の秘薬を爆発させたかのような轟音が響き、それを打ち払うウードの鞭が奏でる連続した軽妙な破裂音が間断なく聞こえる。

 地球の現代人ならば、戦車と機関銃が撃ち合っているような、とでも形容するかも知れない。

 ウードは最初に立っていた場所から動かず、グレゴリオの常軌を逸した速度の突進を全て迎撃している。
 グレゴリオの姿は残像現象によって紫の帯のように観客からは見える。
 嵐のようなその攻勢に、観客は息を呑む。

 しばらくしてこのままでは埒が明かないと判じたのか、グレゴリオはウードから距離を取る。
 静まり返った観衆の間に、グレゴリオの変声期も迎えていないようなボーイ・ソプラノの甲高い声が染み入る。

「ははは! よくやるね! でも、もう終わりだ、ウード・ド・シャンリット! 今からが本番だ! 虚無の『加速』による最高速、それを認識出来るか!? 色の消えた世界の中、訳の分からぬまま死んでゆけ!!」
「“……”」
「行くぞ!!」

 瞬いた次の瞬間にはグレゴリオが円錐台形のリングの端からウードの後ろへ移動していた。
 見ればグレゴリオはハルバードを振り抜いた姿勢となっていた。
 そして彼のハルバードは円錐台形のリングに突き刺さり、リングを爆砕した。

 飛び散る破片は聖堂騎士の魔法で受け止められて、周囲の観衆までは届かない。

 だがグレゴリオの一撃によるリングの破砕以上に決定的な変化がリングの上には訪れていた。

 ウードの首から上が無くなっていた。
 グレゴリオのハルバードの刃は、刹那の、否、涅槃寂靜の内にウードの首筋を捕らえ、それを刎ね飛ばしたのだ。

 げに恐ろしきは虚無の魔法。
 相克渦動励振原理によっても到達し得ない速度に於いて、グレゴリオはウードを処刑したのだ。

 刎ね飛ばされたウードの頭は狂々と舞う。
 虚空に舞って、しかし、異常なことに、途中でピタリと静止する。
 その形相を憤怒に変えて見つめ合う、ほんの刹那もない時間ではあったが。

 誰と見つめ合うのか。
 それは裏切り者とである。
 ウード自身と同じ因子を持ちながら、彼を破滅に追い遣った虚無の使い魔ヴィンダールヴと視線を合わせたのだ。

 



 ウードは、己の迂闊さを呪っていた。
 ロマリアの街に入り、ヴィンダールヴと視線を合わせた瞬間、彼の身体の自由は奪われたのだ。
 ウードは自分のクローンたるヴィンダールヴが裏切るとは思いもしなかったのだ。

 あらゆる生物を支配する虚無の使い魔、“神の右手”、“神の笛”、“ケモノを操る者”、ヴィンダールヴ。
 ウードはその力を見誤っていた。

 ウードの身体は既に9割以上が深淵の蜘蛛神アトラク=ナクアの呪によって蜘蛛へと変じてしまっていた。
 人の姿をとっているのは先住魔法紛いの能力によって、自分が産み出した蜘蛛糸で己を鎧っているだけであり、本質的にはウードは人ではなく、蜘蛛となってしまっていた。
 そこをヴィンダールヴに突かれたのだ。

 蜘蛛の化身となったウードは、ヴィンダールヴのルーンの拘束力に抗うことに失敗し、その身体の支配権をヴィンダールヴに強奪されたのだ。

 だがウードは諦めなかった。
 拘留されている間の三日間、この処刑劇のリハーサルに身体を好き勝手に使わせている間に、ウードは準備を続けていた。
 ヴィンダールヴが徹夜して能力を行使し続けていたが、それでも、いやそれ故に一瞬だけ支配が緩むことがある。
 ウードはヴィンダールヴの支配が緩むその一瞬を積み重ねて、自分の脳髄の神経回路の殆どを〈黒糸〉へと置き換えるように魔法を使い続けたのだ。

 そして、それが漸く結実する。
 決闘裁判の場でグレゴリオに頚を刎ね飛ばされたウードは、瞬時に己の意識を〈黒糸〉によって構成された擬似脳神経回路へと移し替える。
 蜘蛛化した肉体から切り離され、さらに魔道具たる〈黒糸〉に意識を移すことによって初めて、ウードは“生物を操る”ヴィンダールヴの支配から逃れることが出来たのだ。

 そしてまた、ウードの頚を刎ねるということがどういう事なのか、虚無遣いグレゴリオもヴィンダールヴであるサーノも、この茶番の監督である教皇も理解していなかった。
 当然だ。綿密に繰り返された処刑劇のリハーサルでは、本当にウードの首を刎ねることなど無かったし、首を切り離されてなおウードが抵抗するとは考えもしなかっただろうから。

 ウードの肉体は、常にウードの理性と蜘蛛神の呪いが鬩ぎ合い、拮抗した状態にあった。
 日に一度は生贄に呪いの毒素をウードの身体から移さなくてはならないほどに、呪いの侵食は逼迫していた。

 だがウードがロマリアに来てからは、当然その呪い移しの儀式は行われていない。
 ウードが三日間、呪い移しをせずとも無事だったのは、ウード自身の理性が行う呪いの抑制プラスヴィンダールヴによる呪いの抑制が、アトラク=ナクアによって植えつけられた蜘蛛化の呪いの侵食と拮抗していたからに他ならない。
 では、ウードとヴィンダールヴの二人の力で抑えていた呪いの力だが、そこでウードが死んでしまえばどうなるだろうか?

 当然、拮抗は崩れ、決壊する。
 具体的には――





 ウードの首が刎ね飛ばされ、それを認識した観衆が歓声を上げようとした時、リングの上に禍々しい魔力が満ちた。
 それはヴィンダールヴ、サーノが主人グレゴリオの活躍に安堵し、ウードの肉体への支配を緩め、さらに宙空に浮かぶウードの生首の視線によって射竦められてしまった瞬間でもあった。
 赤黒く渦巻く糸のような呪力が幻視されたと思った次の瞬間、首のないウードの身体は爆発するように変容した。

 粗末な囚人服に身を包み、棒立ち状態だったウードの身体は、内側から膨れ上がるように変容する。
 腕や足は二股に分かれ、ヒトではなく甲殻に包まれた蜘蛛の脚となる。頭部が失われた首からは大きな毒牙と触肢が生え、漸くの自由を謳歌するように大きく伸び広がる。蜘蛛の大きな腹は萎んで腹側に折り畳まれていたが、それも瞬時に膨らんで本来の蜘蛛としての在るべき位置へと戻って行く。
 ウードの身体を覆っていたまやかしの人の皮は、その軛から解き放たれた蜘蛛によって散り散りになり、周囲にまるで舞い落ちる灰のように吹き散らされる。

 凶悪で巨大な蜘蛛の化物がリング上に姿を現した。

 ウードの首を刎ね飛ばし、その直ぐ後ろに居たグレゴリオは、爆発的に変化したウードだったモノが振るう蜘蛛脚によって弾き飛ばされる。

「うああ!?」

 リングから大きく弾き飛ばされたグレゴリオはしかし、一人の聖堂騎士に空中で受け止められる。
 グレゴリオの忠実なる使い魔、サーノであった。
 彼はウイルスによって齎された新たな脳回路によって系統魔法の才能を後天的に獲得していた。

 サーノは『フライ』でグレゴリオが弾き飛ばされた進路に素早く割り込むと、空中で受け止める。

「大丈夫ですか!? 主殿!?」
「ぐっ、っぁあ、ああ、大丈夫……。ありがとう、サーノ」

 大蜘蛛によって強かに打ち飛ばされたグレゴリオは、サーノの腕の中で身を捩ると、顔を顰めつつもなんとか答える。
 その時、空中から漂うように伸びてきた細い糸がサーノの首筋に絡みつき、瞬時に絞め上げる。

「がぁっ?!」
「サーノ!?」

 サーノがグレゴリオを空中で受け止めることが出来たのは、ウードの身体が蜘蛛へと変化する一瞬前に、空中を舞うウードの生首と視線が合って、そのただならぬ様子に使い魔の本能として刹那のうちに主を守るために飛び出したからである。
 宙を舞うウードの生首は、その表情を憤激に染めていた。まやかしの人皮は剥がれ落ち、ウード本来の甲殻質の動かない表皮が顕になっていたが、ウードはその怒りによって本来動かぬはずの甲殻質の表皮をひび割れさせてまで憤怒を露にしていた。眼には赤熱した憎悪が宿り、サーノを射抜き、広場に居る全ての者に分かるほどの禍々しいオーラを放出していた。
 ただならぬその様子に本能的に異状を感じ取ったサーノが、主の身を守るために、ウードの首から下が大蜘蛛に化身する一瞬前に飛び出していたからこそ、サーノは吹き飛ばされたグレゴリオの身体を受け止めるのに間に合ったのだ。

 現在、刎ね飛ばされたはずのウードの生首は、パラパラと罅割れて砕けたクチクラの面皮の破片を落としながら、憤激の表情に染めた表情筋を露に空中で静止していた。
 生首の断面からは、何千本もの〈黒糸〉が悍ましいクラゲの触手のように伸びており、ウードの怒りのオーラのままにびちびちと好き勝手に跳ね回っていた。
 その生首の下から伸びる〈黒糸〉の触手のうちの一房が、ヴィンダールヴであるサーノの首筋に伸びて、絞め上げている。

 唖然とする観衆の内、誰ともなく呟いた。

「化物……」「化物だ」「悪魔」「蜘蛛の悪魔……」

 細波のように声が広がり、観衆の恐慌が頂点に達しようとする。
 限界まで高まった恐怖が決壊する寸前、聞く者全てを恐怖に陥れるような悍ましい邪教の司祭ウードの声が響き渡る。

「よヨよくモやっっっってくれたナ!! ヴィンだールヴ! 虚無遣い! ロマリア教皇! ゆゆユゆる許さぬ、許さぬユルサヌ!」

 不自然な調子で広場に響き渡るウードの雄叫び。

「呪イ在れ! こココこの場に居合わせセたモノハ恐怖セせセよ! 我こソはウード・ド・シャンリット! ククく蜘蛛にニ、に、手を出ス、すスべての者は今日という日を忘レるな!」

 邪悪な言霊をこれ以上吐かせない様に、周囲の聖堂騎士たちが魔法を紡ぐ。

「ああああああああ、黙れ化物!!!」

 あの邪悪な生首をこれ以上この世に存在させていてはならない!

 だが周囲の魔力のうねりを感じたウードは、一喝する。

「無駄ダ!」

 その瞬間、聖堂騎士を始めとした全ての人間の動きが止まる。

「な、身体が」「動かない」「何だ、どういうことだ!?」
「平伏セエええ!!」

 さらに見えない重量物に押し潰されるように、聖堂騎士たちは膝を屈する。
 周囲の民衆も、皆例外なく平伏する形になる。
 聖堂のバルコニーの上で、自分の描いたシナリオから外れたことが進行したことに茫然自失としつつあった教皇も、全ての者がウードに平伏する形となる。

 ウードの言葉に呪縛の効果があった訳ではない。

 これはウードによって制御を乗っ取られたヴィンダールヴのルーンの力であった。
 虚無の使い魔サーノの首に巻きついた〈黒糸〉を通じて、生首ウードはサーノの身体制御権を強奪し、ヴィンダールヴの能力でもって一帯の人間を支配下に置いたのだ。

 ヴィンダールヴは生物を操るルーン、その効果はしかし人間には適用されないはずではなかったのか?
 それは半分だけ正しい認識だ。

 ヴィンダールヴのルーンの効果は、正確には“ヴィンダールヴと同種以外の生物を操る効果”!

 ヒトに非ざる一代一種の蜘蛛祭司ウードがヴィンダールヴの能力を乗っ取ったことによって、ヴィンダールヴの効果範囲は拡張されたのだ。
 今やヴィンダールヴの能力は、ウード以外の全ての生物をその支配効果範囲に収めていた。

「平伏せ! 全てノ者は畏れよ! シャンリットをおオオお畏れよ! いいぐうるうるぅ いいぐるぁああ いあ! いあ! あとらっくなちゃ!」

 空中に浮かび、生首の断面から生える無数の触手を蠢かせて、ウードは狂ったように言葉を重ねる。
 ウードの言葉に応えるように家々や石畳の隙間から無数の蟲が集まり、広場に跪く人々の間やその肌の上を這い回る。
 ウードの首から下が変じた大蜘蛛はその前肢を掲げて不気味に揺らしている。まるで神を讃えるかのように。

「ふんじいすく ふんくすふ るくとぅうす! 我ガ真実求道の活動を妨ゲる者に呪イ在れ! 頑迷なル宗教家は滅ビよ! 無知なルモのは真実求道に開眼せヨ! 蒙を啓ケ! ほおる・うふる てぃぎい・いり・り……」

 呪わしい言葉を重ねる邪神の信徒ウードを止めるものは居ない。

 いや、一人だけこの場でヴィンダールヴのルーンの支配下に無い者が居た。
 それは虚無の担い手グレゴリオ・セレヴァレ。
 下僕のルーンが、その主に効果を及ぼさないのは道理であった。

「それ以上邪悪な言葉を吐くな! 異教徒め! 疾く去ね!」

 グレゴリオはハルバードを構え、呪文を詠唱する。
 それを見たウードはそうはさせじと大蜘蛛をけしかける。

「そソソうハさサさせンんん! 貴様モもク蜘蛛の呪イいをヲ受ケよ!」

 巨大な蜘蛛がウードの言葉を受けてリングから飛び降り、詠唱するグレゴリオへと飛び掛る。
 だがグレゴリオは詠唱しながら巧みにハルバードを操って、大蜘蛛を寄せ付けない。
 迫り来る毒牙を避け、絡め取ろうとする蜘蛛の糸を断ち切る。

「ウル・スリサーズ・アンスール・ケン……」

 神聖なる虚無の詠唱が響き渡る。
 そしてその詠唱に応じる者が居た。
 虚無の使い魔ヴィンダールヴであるサーノだ。

「なナ、貴様、まダ抵抗すルか! 出来ソそ損なイのクローンの分際デ!!」
「主人が戦っているのに、使い魔がヘタっているわけにはいかないだろうが!?」

 サーノは主人グレゴリオの虚無の詠唱と共に湧き上がる力で以て、ウードの呪縛を押し返そうとする。
 その間にもグレゴリオの詠唱は続く。

「ギョーフー・ニィド・ナウシズ……」

 ヴィンダールヴのルーンの制御権を一部奪い返したサーノは、グレゴリオを襲う大蜘蛛をその“神の笛”の能力で抑えつける。

「エイワズ・ヤラ……」

 その隙にグレゴリオは虚無の詠唱を続ける。
 使い魔サーノは主人の詠唱をサポートするべく、更にヴィンダールヴのルーンの制御権を奪い返さんとウードの精神とせめぎ合う。
 ウードは激昂して叫び、〈黒糸〉の触手を何本も虚無の主従へと伸ばす。

「あああアアあアあぁァ!!! 邪魔をスルナァアア!!」

 だが伸びる漆黒の触手は横合いから放たれた魔法によって散らされる。

「そうはさせん!!」

 見れば、ヴィンダールヴの影響下から解放された聖堂騎士たちが次々に魔法を詠唱している。
 それはウードの生首から伸びる触手を打ち払い、変化した大蜘蛛も貫いていく。

「聖人を、虚無を守れ!」「聖堂騎士の威力を見せよ!!」
「キきき貴サ様ラぁあアあァ!!」

 そして遂にグレゴリオの虚無の詠唱が完成する。

「ユル・エオー・イース!」

 最早余人の眼にも明らかなほどに膨れ上がった虚無のオーラが、グレゴリオのハルバードの導きに沿ってウードへと襲いかかる。
 伝説の虚無の系統が魅せるその圧倒的な力の奔流に、広場に集まった全ての者が目を奪われる。

「がガ、ガああアアああ!?」

 唱えられた虚無の魔法は『解除(ディスペル)』。
 今や〈黒糸〉と同化して殆どインテリジェンスアイテムと化しているウードにとって、その魔法は致命的であった。
 ウードの脳髄を模倣していた〈黒糸〉に掛けられた魔法が『解除』され、異端の悪魔の意識は霧散していく。

「ぁぁァあアあアあっ、覚えテイいろ、ワ忘れレるな、この日をヲぉ! シャンリットを畏レヨ! 異端者はシャンリットの地に集えぇ! 全テの迫害さレる者よ、救わレたくばシャンリットを訪れヨ!」

 痙攣するように言葉を吐き出す生首に、グレゴリオは止めの一撃を加える。

「そろそろ死に尽くせ! 異端者め!」

 短く唱えられた呪文は虚無の初歩の初歩の初歩、『爆発(エクスプロージョン)』。
 目測が少し外れたのか外されたのか、顔面筋剥き出しの生首の直ぐ下に炸裂した虚無の力は、ウードの生首を弾き飛ばした。

 それを最後にウードの生首は遂に沈黙する。

 静寂が広場を支配するが、徐々にざわめきが大きくなる。

「勝った?」「悪魔は倒れた?」「勝ったのか?」「終わった?」「終わったのか?」

 あまりの予想外の成り行きに呆然としていた教皇が、漸く気を取り戻し、民衆に向かって宣言する。

「ロマリア市民よ! 異端者は死んだ! 聖人にして伝説の虚無の担い手グレゴリオ・セレヴァレの手によって! 喝采せよ! 歓喜せよ!」
「おおおおおおお!」「万歳!」「虚無万歳!」「聖人グレゴリオ万歳!」「万歳!」「万歳!!」「万歳!!」

 悪魔の恐怖に包まれていた広場は、グレゴリオの劇的な勝利を祝福して、その恐怖の反動か、一層の歓声に包まれる。
 教皇はさらに言葉を紡ぐ。

「全ブリミル教徒よ! これよりロマリアは異端討滅の“聖戦”に突入する! 異教徒を滅ぼし、始祖の悲願、聖地奪還を成し遂げるのだ!」
「聖戦!」「聖戦!」「聖戦!」「ブリミル万歳!」「聖地奪還!」「異端討滅!」
「始祖以来の悲願を果たせ! 虚無の系統の再臨は、始祖のお導きにほかならない! 今、教皇の名の下に、第一次聖戦を発動する!」

 広場は宗教的熱狂に包まれた。





 その後、ウードの首は獄門台に晒され、ロマリアのアトラナート派閥の者たちも異端の罪で連座された。
 とはいえ殆ど全てのアトラナート派閥の者たちは、ウードの生首が最期に言った言葉に従って、ロマリアから脱出し、トリステインのシャンリットへと向かっていたので、実際に処刑された者は少なかった。
 ロマリア市民たちは狂奔してアトラナート派閥の神官たちの屋敷を襲って掠奪を行ったが、ロマリア宗教庁はそれを黙認した。いや場合によっては聖堂騎士たちが積極的に先導して掠奪を行ったケースもあった。

 ウードの首から下が変じた大蜘蛛は、聖堂騎士たちの手によって殺され、ウードの生首と共に標本のように大きな木板に張り付けられて展示された。
 蜘蛛の悪魔の化身であったウードの、その証拠としてこれ以上の物はなかった。



 そして場面は冒頭に戻る。
 五日間に渡って晒されたウードの生首に、再び紅い光が宿る。
 地面から伸びた〈黒糸〉が絡みつき、彼の脳髄に残っていた〈黒糸〉の構造を利用して再起動させたのだ。

 それを見てしまったロマリア市民が叫び声を上げる。

「うわあああ!?」

 ゆらりとウードの生首が魔法の力で浮かび上がる。
 生首は不気味笑い始める。

「くふ。くふふふふ、ふふふふ! くふ、くは、はは! ははははははっ!!」

 囁くような声はやがて哄笑に変わった。

「くはははははは!! はははははは!! ロマリア市民よ! さらば! くふふふふ、はははははは!!」

 腰を抜かして唖然とするロマリア市民の前で、ウードの生首は上空へと飛び上がり、北へ――シャンリットへと向かって一筋の矢のように一直線に飛翔していった。





 ウードの処刑に関しては、トリステインとロマリアで見解が異なる。
 ロマリアは異端者としてウード・ド・シャンリットを処刑したと記録しているが、トリステインはウード・ド・シャンリットがロマリアを訪れた事自体を否定している。
 トリステインの掲げる証拠としては、その後も公の場でウード・ド・シャンリットが活動していることなどが挙げられる。

 ロマリアは多くの目撃証言を元にして、トリステインの見解を否定しているが「人が蜘蛛に化けるとか、何言っちゃってるの? 馬鹿じゃないの?」と婉曲にトリステイン政府から言われれば黙らざるを得なかった。
 実際にあの悪夢のような光景を見た者たちも、あれが正に夢であればと思わないではなかったし、内心では否定したがっていた。
 さらに生首が蘇って哄笑しながらトリステインに飛び去っていったという段になれば、その話を伝え聞いた人々も、「いやいや、何言っちゃってるの? 小説でもそれはないわ」と最早冗談としか捉えなかった。

 トリステインの公式記録に於いては、ウード・ド・シャンリットはその後永きに渡って、シャンリット領アーカムの私立ミスカトニック学院の教師長に就いていたと記録されている。

============================
やっと死んだ! 第一部完!
生首状態から再起動してるから死んでないじゃんって? ……確かにそうなんですが。魂が斬首前後で同じかどうかは不明です。とにかく一回は死にました。残基があったのかコンティニュー(ただし装備(身体含む)は全損状態)しちゃいましたけど。
これでウード・ド・シャンリット編は終わりです。なんか尻切れな感じですかね……?
後で追記するかも知れません。

2010.11.14 初投稿

グレゴリオとかサーノ、ウードのその後については外伝で書くか、第二部(ゼロ魔原作時間軸)で軽く触れる程度の予定です。
外伝7は、時間軸的にはウード斬首後~ゼロ魔原作時間軸あたりまでの1000年間から1200年間の内に発生したシャンリット領の学術都市アーカムにおける噂話、という位置付けです。
取り敢えず、外伝7をその7(七不思議だし)まで書ききって、ある程度ルイズたちの時代の話に見通しが立ったら、ゼロ魔板に移動しようと思います。

2010.11.16 修正



[20306]    第一部終了時点の用語・人物などの覚書
Name: へびさんマン◆29ccac37 ID:4dc27135
Date: 2010/11/16 17:24
ここまで読んで頂いた皆さん、ありがとうございました。
読者の皆さんのおかげで、第一部を書き切ることが出来ました。

少しでも楽しんで頂けていれば幸いです。

このSSのコンセプトは?
→コンセプトは二つあります。①自重せずに系統魔法で無双すること(私なりに)。②邪神が跳梁跋扈するハルケギニアを描くこと。
 ①はゴブリン魔改造、大地に張り巡らされる惑星コンピュータ的なインテリジェンスアイテムが代表的な例です。私の中ではハルケギニアの世界で“あり得る”チートな話にしているつもりなのですが……。説得力が足りないのは私の未熟ゆえです。精進します。こっそり改訂が入っていても生温く見守っていただけると幸いです。
 ②はクトーニアンとかアトラク=ナクアとかですね。ファンタジー世界の中にコズミックホラーな輩が居ても良いじゃ無いか。誰得? 俺得です、スイマセン。第二部はルイズたちが頑張って宇宙的恐怖に立ち向かう話になる予定。聖地? アザトース様の一部が封印されたシャッガイからの神殿の一部でも埋まっているんじゃないですかね?


当初はバーガンディ伯爵魔改造モノでプロット組んでたはずだったのですが何を間違ったのか、邪教崇拝系になりました。多分ニャル様のせい。
主人公の名前を1000年代あたりのブルゴーニュ(バーガンディ)公の名前から取っているのが、その名残ですね。ウードって名前の人が居たらしいです。

このSSを書き始めた切っ掛けは、原作18巻の風石の自然増大を見て「エネルギーチート原作公認キタコレ」と思ったからです。


以下ネタバレ注意。

◆設定

矮人:改造ゴブリン、ゴブリンメイジ、樹木の民など色々な呼び方をされる。系統魔法を使えるように品種改良済みのゴブリン。樹の実(バロメッツ)から生まれて殖える。死体から記憶を搾取する人面樹とバロメッツ母樹のキメラ化で、知識経験を引き継ぐことが可能になっている。

バロメッツ:樹の実から動物が生まれる。普通は羊が生まれるが、水魔法によって遺伝子を弄ることで様々な動物を樹の実から誕生させることが可能になっている。

人面樹:死者を幹の虚に投げ込むことでそれを栄養分にする。食べた獲物の知識や経験を収奪することが出来る。使い魔として契約することで収奪した知識を再利用可能になる。

〈黒糸〉:カーボンナノチューブ製の魔法の杖。単分子なのでどれだけ大きく広げても魔法の杖として使える。体内に張り巡らせたり、領地に張り巡らせたり。物語後半では惑星規模に広がったネットワークごとインテリジェンスアイテム化される(動力源は地下の風石)。

インテリジェンスアイテム:エルフ式とゴブリン式がある。デルフリンガーなど、物理的実体に依拠しないインテリジェンスアイテムはエルフ式。本SS内で主人公が量産しているのは物理的なハードに依拠するタイプである。エルフ式が霊的なものであるのに対して、ゴブリン式はハードに依拠する。現実世界の人工知能に近い感じか。エルフ式→アストラルな存在が先にありき。ゴブリン式→物理的ハードが先にありき。

『活性』:チート魔法。ハルケギニア版花咲か爺さん。水系統。ゴブリンの成長を早めたりとか色々。

『集光(ソーラーレイ)』:空気中の水分を操って太陽光を歪曲し標的に集中させる魔法。対軍規模の戦略級魔法。水系統。

アトラナート商会:蜘蛛の神様の名前を戴く、主人公ウードが作った商会。トリステイン国内ではコンビニ並みにどこにでも出店している。他国の主要都市にも進出。独自紙幣を持っていたり、強力な私兵を抱えていたり。超チート。ゴブリンメイジとガーゴイルが主要な従業員。

〈偽・ユグドラシル〉:1000メイル級の巨大樹木型太陽光発電施設。ハルケギニア星から月や宇宙、火星などなどまで様々な所に建造されている。発電した電力を用いて風石や水精霊の涙を生産可能。

魔力暴走ウイルス脳炎:平民をメイジ化するための脳炎ウイルス。とにかくあらゆる動物に感染する。蚊やダニが媒介する。実験段階の不完全なものなので致死率が高い。魔力を暴走させて死ぬ場合、その死体は凄惨なことになる。

魔力・精神力・精霊力の違い:厳密には区別してません。当SSでは魔力は精神力と精霊力を含む概念です。あるいは魔法として発動する直前の状態とでも言うのか。それに対して精神力はヒトやゴブリンメイジの脳内(あるいは体内)で発生するモノ。精霊力は周囲の自然物に宿ってるモノや、それが結晶した風石など。


◆人物

ウード・ド・シャンリット:主人公。何の因果か現代日本?からハルケギニアに転生。きっと前世の生前に蜘蛛を助けたことがあるに違いない。トリステイン貴族の長男。一族ごと、転生させてくれた神様によって呪われている。狂人。蜘蛛神の神官。物語後半では呪いによって人外化。最終的に触手を生やした生首と大蜘蛛の胴体に分離する。

フィリップ・ド・シャンリット:主人公の父親。トリステインの東部を治める伯爵。土のトラインアングル。水晶の扱いが得意。

エリーゼ・ド・シャンリット:主人公の母親。水のトライアングル。実は公爵家のお嬢様だった。

メイリーン・ド・シャンリット:主人公の妹。マッドアルケミスト。

ロベール・ド・シャンリット:主人公の弟。スピード狂。

ジャン=マルク・ドラクロワ:ウードの同級生。魔法学院卒業後は魔法衛士隊に入隊。火のスクウェア。蜘蛛恐怖症(アラクノフォビア)。

サーノ:ウードのクローン。ウイルス感染の人体実験素体。サモン・サーヴァントによってロマリアに召喚される。ヴィンダールヴ。

グレゴリオ・セレヴァレ:ロマリアの虚無の担い手。得物はハルバード。美少年。サーノの主人。第一次聖戦の旗頭。ウード処刑後、虚無の血統を残すために聖戦に赴く前に種馬のごとく頑張らされたという設定があったりする。原作のロマリア教皇ヴィットーリオの遠いご先祖と想定。(グレゴリオを男装美少女ということにしようかと一瞬思ったが最終的にその設定は採用していない。理由はこの項の前述の種馬設定のため)


◆クトゥルフ関連用語(適当なので気になった人はご自分で調べて確認したほうが確実です)

アイホート:迷路の神。ハルケギニアではアルビオンのセヴァーン渓谷に棲んでいる。迷い込んだ者に雛を植えつける。雛を植えつけられた者は悪夢を見続け、やがて内側から食い破られて死ぬ。

アザトース:沸騰する混沌の核。痴愚神。とにかく凄い。けど何も考えてない。シャッガイの昆虫たちが崇拝している。

アトラク=ナクア:蜘蛛の神様。アトラック=ナチャ、アトラナートとも呼ばれる。地下に広がる時空の裂け目に橋を架け続けるワーカーホリック。生贄の着ている鎧を脱がす時間を惜しむくらい仕事中毒。橋を架けるのを邪魔しなければそれほど危険はないはず。当SSでは主人公と主人公が作ったゴブリン種族が崇拝している。

アブホース:アトラク=ナクアの架ける橋を渡った先に居る灰色の超巨大な水たまり状の神。そこから色んな不気味な生物が生まれては、またアブホース自身に食べられたりするのを繰り返している。当SSの地底都市にあるアトラク=ナクアの祭壇にある時空の裂け目から、アトラク=ナクアの橋を渡ってきたアブホースの落とし子たちが出てくることもある。

イースの偉大なる種族:イスの偉大なる種族、イシアン、イーシアンとも。精神生命体で非常に高度な技術力を持っている。純粋に技術のみで時間を越える事に成功した時を翔ける種族。でかい円錐の生物として描かれることが多い。時空超越技術を他の種族に漏洩させることを嫌う。

古のもの:五方放射相称の樽型生物。はるか昔に地上を支配していた。双月のうち蒼い方に、彼らの残したマジックポイント貯蔵アイテム生産設備が残っていた。火星に生き残りが居たらしい。

クトーニアン:水が苦手な地中種族。主人公の使い魔でもある。バロワーズ・ビニーズとも言う。

グロス:妖星グロス、グロウス、グロース、ネメシスとも。星々を破滅的な星辰に導き、星系を破滅させる。巨大な彗星のようにも見えるが、地表の裂け目から眼が見えたりする。

ザイクロトラン:ザイクロトル星の動く肉食植物。シャッガイからの昆虫に使役される。力はあるが知能は低い。

シャッガイからの昆虫:シャンとも言う。シャッガイという星に棲んでいたが、妖星グロスの襲来によって滅んだので、別の惑星に転移してきた。アルビオンのセヴァーン渓谷に不時着。拷問愛好者。技術力は高い。羽で光合成する。半物質的存在であり、人間の脳に棲み着いて精神や記憶を操ったりする。

シュド=メル:クトーニアンの中で最も巨大で卓越した個体。超でかい。

ショゴス:古のものの奴隷として造られた。けれど反乱を起こして古のものを駆逐。てけり・り! スライムを凶悪にしたみたいなもの。

ティンダロスの猟犬:角度に棲む生物。臭い。膿まみれ。死なない。

ヨグ=ソトース:虹色シャボン玉。触れるとただれて死ぬ。でかい。すべての時空に隣接。時空を生み出した存在。


抜け漏れに気づいたら随時追加します。

2010.11.14 初投稿
2010.11.16 修正



[20306]   外伝7.シャンリットの七不思議 その1『グールズ・サバト』
Name: へびさんマン◆29ccac37 ID:0593a267
Date: 2010/11/09 19:58
 私立ミスカトニック学院を中心とした学術都市、シャンリット。
 百を超える教育機関、研究機関が集まったこの都市はハルケギニアの中でも異質な街である。
 現存する大都市の多くは千年以上の歴史を有し、ソコに住む人々もその場の歴史に対して思い入れを持ち、誇りを持っている。だが、目魔狂しく新しい知識が現れ続けて飽和し、そこにいる人々も入学しては卒業して入れ替わっていくこのシャンリットの街では、人の入れ替わりと同じくしてその入れ物である街自体の様相も目魔狂しく顕れては立ち消えていく。入れ替わり立ち代り、立ち消えては顕れて。この都市にはその陰陽流転の狭間となる空隙が多く存在する。
 シャンリットの深き森は開発によって消え行きつつある。そこに住んでいたゴブリンはある魔導師の同胞となって地下や宇宙に去り、オークやトロールは絶滅し、竜は飛び去り、他の幻獣も去っていった。だが、本当に森に住んでいたものはそれだけだったのか? 御伽話に語られるような魑魅魍魎悪鬼羅刹達は何処に行ったのか?
 完全に消えて去った? 人の心の闇に紛れた? いやいや、もっと分かりやすい隙間があるじゃあないか。

 御伽話(フォークロア)は都市伝説(レジャンド・ウルバン)に。

 森から追われた闇の子らは、都市の隙間に蠢く影の下に。

 森から都市へ。ああ、ああ、それは染み入るように広がっていくのだ。魑魅魍魎悪鬼羅刹もまた生きているのだ。実体のない者たちだが、それは生きている。
 死者が本当に死ぬときは、忘れられた時だという。ならば実体のない者たちが死ぬとすればそれはどういう時なのか。
 そう、それは彼らが語られなくなった時なのだ。

 人々に忘れ去られた時に、幻想もまた死ぬのだ。
 だから、自らの存在した形を残すために、魑魅魍魎悪鬼羅刹は都市の隙間に、住む者共の心の隙間に入り込んでいくのだ。

 学術都市・シャンリットにて語られる千変万化の七不思議。それこそが、かつて森に棲んでいた闇の居場所。
 ヒトが恐れる原初の暗がりが姿を変えたもの。ヒトの領域にありながら、なおヒトに恐怖されるもの。
 最も古く、最も新しい恐怖のカタチ。それが“シャンリットの七不思議”。

  ――「シャンリットの七不思議」の序文より/エドガール・モラン著






 蜘蛛の糸の繋がる先は 外伝7.シャンリットの七不思議は百八不可思議まであるぞ その1『グールズ・サバト』







 ミスカトニック学院の芸術科にはハルケギニア各地から多くの人員が集まってくる。
 芸術科と言っても、特に何か試験があるわけではない。よく見てもらっている教授が芸術系なら、それはつまり芸術科ということだ。
 この街では一定の手続を経れば最低限の生活が保証されるだけの給付金が得られる。ベーシックインカムとか云うのだとか。ハルケギニア中の芸術家の卵たちのほとんど全てが食い詰めてやがてはシャンリットに流れ着くと言われている。
 勿論、その最低以上の生活をするためには何かしらの手伝いなどをして働くか、パトロンを見つけて奨学金を出資して貰わなくてはならない。
 僕が出資して貰っている奨学会は『グールズ・サバト(食屍鬼の夜会)』という少々物騒な名前の組織である。
 正規会員および奨学生はそれと分かるように髑髏に噛み付く狼を形取ったバッジを付けている。僕の場合は袖にカフスボタンの代わりに付けている。

 普通の感性の人間ならばまず『グールズ・サバト』だなんて名前の奨学会には関わらないだろう。
 僕だってそう思う。では何故そんな組織から援助を受けているかというと、この街で知り合った絵の先輩からの紹介なのだ。
 その先輩は、今は写実派の急新鋭として『グールズ・サバト』の正規メンバーの一人であるピックマン教授の指導の下で名を馳せている。



――――今夜の双月の下、先輩はまたピックマン教授のアトリエで絵を書いているのだろうか。



 『グールズ・サバト』の支援を受けるに当たって、必要な条件が一つある。
 それは絵を描くことだ。まあ、これは芸術系の奨学会では決して珍しい事ではない。
 優れた作品を制作し、何らかのコンテストで優秀な評価を得ることが援助継続の条件になっている奨学会は多い。
 だが『グールズ・サバト』の援助継続条件は違う。
 確かに『サバト』の出資者から一定以上の評価を得ることは必須だが、それ以上に、絵画のモチーフが限定されているのだ。
 『グールズ・サバト』の奨学生に課せられたモチーフ、それはこの奨学会の名前に相応しいものである。

 即ち――『死体』である。

 扱うモチーフが決して一般的なものでない上に、この会の出資者は非常に目が肥えているため審査が厳しく、それ故に援助される奨学金は一般の奨学会の優に5倍を越える。
 だが、それ程の収入を得ていてもこの奨学会の殆どの奨学生は一般の人間が避けるような後ろ暗い、或いは血生臭い職業に就いている。
 ゴミ回収員、葬儀屋、剥製屋、特殊清掃業者、検死官見習い……。珍しいところでは医者や看護士、幻獣遣いなんてのも居るが、これらは例外だろう。



――――そういえば、ここの路地は『グールズ・サバト』が所持するアパルトマンの隣人の奨学生(確か清掃人だったはず)が担当している区域だったろうか。



 いずれにしても、これらは自分がモチーフにするべき死体に近づくためのものだ。ひょっとしたら職業・殺し屋なんてのも居るのかも知れない。
 奨学金に加え、それらの人が嫌がる故に高報酬な仕事に就いているために、『グールズ・サバト』の奨学生の殆どはかなりの月収がある。
 尤も、それでも多くの資金は画材に消えてしまう。中には自分で画材を作り出す事の出来るメイジも居るが、殆どは出来合いの画材を用いている。
 何しろ素人が下手に『錬金』するよりも、アトラナート商会や、でなければ化学専攻の学生の方が安くて上等なものを用意できるのだ。
 絵画と顔料合成の二足のわらじでやっていけるほど、『グールズ・サバト』の評価基準は甘いものではない。
 顔料の合成に気をかけるよりも、絵画の腕前を磨くべきだ。



――――私にもっと腕前があれば、こんなに期日間際になるまで制作が延びることもなかったのにな。いいイメージが浮かばないおかげで、今夜もこうして資料漁りに出なくてはならなくなった。



 いや、そういえば、ここを紹介してくれた先輩が学生だった時は全体が真っ黒の絵を提出して評価を貰っていたような。
 一面真っ黒な絵では技量は関係ないだろうから、使用された画材が評価されたのだろうか。
 絵画の技量ではなくて顔料の精製の腕前でも奨学金の継続は認められるのだろうか。
 しかし、黒一色ではあったが先輩のあの絵は不思議な仄暗さがあった。
 まるで死体をそのままにキャンバスに塗り込めたような……。
 ……まさか絵の具の材料は、いや。まさか、いくらなんでも。



――――でも考えようによっては今まで完成させなかったお陰で、このモデルに巡り会えたわけだし。まあ、良いか。



 変なことを考えるのは止めよう。
 今は、一刻も早く絵を完成させなければ。幸い、イメージを補完するモチーフには事欠かない。



――――それにしても今夜は幸運だ。こんなにいいイメージを喚起させるモチーフに会えるなんて。



 本当はイケないことだが、この街で起こった殺人事件の被害者達の写真が自分の部屋には沢山ある。写真は警邏巡察官の友人からこっそり融通してもらったものだ。
 全く、カメラというものを開発してくれたシャンリット侯爵には感謝しなくてはいけないな。何しろ、その場の光景を『固定化』出来るのだから、画家にとってはこれ以上無い道具だ。
 カメラがあれば画家は要らないという人も居るが、それは違う。写真は見たままの光景を写すものだが、絵画は写真よりもより主観的で画家の世界を反映させ易いという面がある。
 世界に自分の解釈を加えたものを提示するのに、絵画以上に優れた手法はないと僕は思っている。いや、写真や小説、詩歌などを貶めるつもりは決して無いのだが。

 ああ、違う違う。考え事をするとあちこちに思考が飛ぶのは僕の悪い癖だ。それよりも早くこの光景を絵にしなくては。
 カメラがあれば一枚パチリと写し取ることが出来るのに。残念でならない。

 まさか本当にグールをこの目で見られるなんて。流石は人外魔境のシャンリット。吸血鬼も、その下僕たるグールも居るだなんて。



――――狭い路地。セメント造りの壁。湯気の立つ犠牲者の腸。散りばめられた血化粧。蒼白なグールの皮膚。街灯の逆光で伸びる影。本当に良いモチーフだ。



 赤い、紅い、アカイ、吸血鬼の舌舐めずり。血よりも紅く爛々と光る吸血鬼の瞳。
 早く絵にしたいのに。絵にしたいのに。絵にしたいのに。



――――描かなきゃ。描かなきゃ。描かなきゃ。



 殺される前に、描かなきゃいけないのに。
 なんでぼくは、きゅうけつきのほうへと、あゆみだしているのだろう?

 ほら、早く逃げないと。
 吸血鬼の下僕がコチラに向かって駆け出している。 

 ああ、でも、殺されるのならそれはそれで良いかも知れない。
 惜しむらくはその自分の様子を絵に出来ないことだろうか。きっと美しいに違いないのに。彼女の下僕に殺された自分はさぞかし絵になるだろう。

 初めて死体を書いたのはいつの日だったか。
 あれは死んだ祖父の肖像(デスマスク)を書いた時だっただろうか。
 誰に頼まれたのだったか、あれは。家族に頼まれたのか、それとも誰か他に。

 ああ、昔、祖父に懸想していたという人が頼んできたのだったな、確か。でも、その割には随分若くて綺麗な人だったような。そう、ちょうど目の前に居る吸血鬼のような、紅い紅い唇が印象的な……。

 そうこう考えているうちにグールが石畳を砕き、路地の壁を跳ねて三次元的な挙動でコチラに向かう。反射的に僕は腕を上げて防ごうとする。袖のカフスが街灯の光りを反射して煌く。



――――そんなに周りを壊してはいけない。折角の死体に、ほら、瓦礫が掛かっているじゃないか。いや、これはこれで、趣きのあるモチーフ? 引き伸ばされた時間の中、カフスの輝きが目に入る。



「止まりなさい」

 吸血鬼の言葉で、グールは急停止する。
 もしグールが息をしていたら、その吐息は僕の頬にも掛かるだろうというくらいに近くだった。
 かなり際どいタイミングだったようだ。

「ふふふ、いけないいけない。『グールズ・サバト』の規則に違反しちゃうところだったわ」

 彼女の紅い瞳は僕の袖口に向いている。正確には『グールズ・サバト』の会員証である髑髏と狼のバッジに。
 ……なるほど。『グールズ・サバト』。その規則に曰く。

「会員及び奨学生はお互いに」

「殺し合わぬこと。そして、会員及び奨学生の犯した殺人は」

「隠蔽されるべし。ということですよね? ミス・ヴァンパイア」

 目の前の吸血姫は、どうやら僕と同じく『グールズ・サバト』に所属する正規会員か奨学生らしい。
 だらりと長い黒髪に、血の滴るアカイ唇。美しく均整の整った骨格に、透き通るような白磁の肌。夜会に赴く貴婦人のような扇情的なドレス。ひょっとすれば娼婦? いやそれに格好つけて餌を引っ掛けるためだろう。腹を引き裂かれた死体は、如何にも精力の余っていそうな体育会系の輪郭をしている。
 よく見れば、ドレスの胸元に『グールズ・サバト』のバッジと同じく、髑髏を噛み砕かんとする狼のブローチが。
 見た目の年齢としては学生だが、吸血鬼だからそれも当てにならない。

「ふふふ、規則に従って今日は見逃してあげるわ。
 でも、気をつけないと今度は“マテ”が間に合わないかも?」

 くすくすと、グールに引き裂かれた死体を傍らに笑う彼女は、どうしようもなく美しく、魅力的だった。
 祖父の葬儀の翌日に、僕が描いた祖父のデスマスクの絵を受け取った女性も、同じように真っ赤な唇で微笑んでいたような。
 目の前の彼女は、どうしてもあの時の彼女を思い起こさせる。

「待って下さい!」

 下僕を従えて路地を跳ね飛んで去ろうとしていた吸血姫を引き止める。

 彼女が振り向く。双月に照らされて青白く輝く肌、均整の取れた輪郭。
 どうしようもなく自分の胸が弾んでいるのが分かる。本当は彼女が十数年前に祖父の葬儀に現れた人かどうかなんてどうでもいいのだ。
 でも、女性と付き合った経験どころか告白した経験すら無い僕にはこれ以外の言葉なんて思いつかなくて。

「あ、あの! どこかであったことありませんか!? ここ以外の何処かで……」





 ・『グールズ・サバト』の噂
  死体画家の集まりらしい。モチーフになる死体を集めるために殺人を犯すことも厭わないとか。
  メンバーの中にはヒトでは無いものも居るとか居ないとか。


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“レジャンド・ウルバン(都市伝説)”は発音的には“レジャンデュルバン”の方が正しいはず。リエゾン(連音)するから。文章中ではややこしいので分節してますけど。
あと、本当は「ピックマンのモデル」をパクっt……げふん。リスペクトして人間が怪物に変わっていく話にしようと思って書き始めたのに、なんで死体画家の青年と吸血鬼のボーイ・ミーツ・ガールになったんだか。本気で謎だ。
あと分かってるとは思いますが、108不可思議(不可思議=10の64乗もしくは80乗)も七不思議の話を続けるつもりはありませんので。シャンリットの七不思議は適当に追加していく予定です。一応考えてるネタは既に7本以上あったり。
むしろ本編で書きたいネタがもう尽きている罠。一気に原作時間軸までキング・クリムゾンしたい。

追記
本編のネタは一応ウードが死ぬまでは出来そうなので、そこで第一部完という感じにしようかと思います。

クトゥルフ神話で言う屍食鬼はイヌ頭の化物なので吸血鬼の下僕のグールとは別物だと考えています。ゼロ魔の世界ではむしろコボルトか獣人に当たるでしょうかね。
人間から転化できるのは同じようなもんですが。

2010.09.11 初投稿
2010.09.16 一部追記



[20306]   外伝7.シャンリットの七不思議 その2『大図書館の開かずの扉』
Name: へびさんマン◆29ccac37 ID:0593a267
Date: 2010/09/29 12:29
 講義終了後、アルバイト先に向かって学院の構内を歩く。
 構内はよく手入れが行き届いており、四季折々の花々が咲き乱れる様子は美しい。これも、ストレスなく研究できる環境を整えるためなのだとか。

 色々と建物が増設されたり無くなったりして、刻一刻と姿を変えていくミスカトニック学院であるが、その中でも変わらないものは幾つかある。
 遠目に見える黄色っぽい巨大な壁のような建物もその一つ。ミスカトニック学院中央大図書館。遠近感が狂うくらいに巨大な建物だ。横幅は1リーグ程もあるだろうか。
 ここからでは巨大な直方体のような建物の一側面しか見えていないから、壁や塀のように見えている。黄色っぽい壁は図書館の北側の壁だ。ランドマークとして分かりやすいように各側壁の色を塗り分けているのだ。バカでかい建物だからランドマークに持って来いなのだが、飾りっけのない外観の所為で、色の塗り分けでもしないと却って現在位置が分からなくなってしまうという困りものだ。

 薬学部の管理する薬草畑を通り過ぎて巨大な黄色っぽい壁の真下に到着。日陰でしか育たない薬草が多いから薬草畑は図書館の北側にあるそうだ。私はこの薬草の匂いに紛れて図書館に向かう時間が好きだったりする。
 この建物は上空から見れば各階は一辺1リーグほどの正方形となっている。近づいて見上げれば、窓の無い外観の所為でまさに絶壁のようだ。
 見上げても上端が見えない。左右を見ても同様だ。万年日陰の北側入口は、ジメジメして苔むしている。

 街の住民全てに配られているカード型のマジックアイテムを扉に備え付けられたIDチェッカーに翳すと、錠が外れて入口が開く。個人証明証(ID)を兼ねるこのカード状のマジックアイテムによって街のあらゆる施設の出入りは管理されている。
 中に入ると、そこは本の森だ。鼻孔に残っていた湿気った苔の匂いと薬草の香りが、紙とインクの匂いで上書きされる。

 シャンリットはミスカトニック学院の中央大図書館、ここにはハルケギニア中の本が存在する。
 地上20階、地下15階にも及ぶ、頑健な素材で出来た巨大な建物だ。素材の詳細までは知らないが、複合材料の複層構造になっているとかなんとか建築工学専攻の友人が言っていた気がする。
 この大図書館の蔵書量は王都トリスタニアの王立図書館にも負けないだろう。間違いなく、ハルケギニア一の図書館だ。
 シャンリットの大図書館にはトリステインの出版社の出す本だけではなく、ガリアやアルビオン、ロマリアなど他国の本も収蔵されている。
 他にも自費出版の本でも司書達が駆けずり回って出来る限りは集めているという。
 また個人的な日記もその蒐集の範疇にあるらしい。遺族に許可を取って故人の日記を貰って来たり、ゴミ捨て場から拾ってきたりしているらしい。後年に、往時の風俗を研究するに当たっては日記も貴重な資料になるのだとか。

 噂によれば、エルフたちの領域や東方(ロバ・アル・カリイエ)の本も翻訳されて収蔵されているらしい。
 確かに見慣れない綴りの著者名の本を書架整理中に何度か見かけた事がある。ひょっとしたらそれらはサハラ以東の本なのかも知れない。
 まあ実際、エルフや東方の文化に関する研究もミスカトニック学院では盛んに行われているから、その為の資料があるのは当然なのだろうけども。

 厖大な量の図書を収蔵するこの中央図書館は、それに応じて司書の数も非常に多い。
 正規の司書たちだけでも1千人は下らないのではないだろうか。
 パートタイムの学生アルバイトも含めればどれだけの人数がここで働いているか分からない。
 下っ端も下っ端ではあるが、私もこの大図書館で書架整理のアルバイトをさせてもらっている。

 元々は私が師事する数学科のユリウス・カステル教授の資料検索の手伝いをしていただけだったのだが、その過程でここの司書たちと顔なじみになり、たまたま人手が足りないとのことだったのでアルバイトとして働かせてもらえるようになった。
 カステル教授は天文学にも詳しく、本来の専攻は占星術や数秘術なのだとか。数学者というので合理的な考え方ばかりをして、占いなど信じない人なのかと勝手に思い込んでいたので、本来の専攻を聞かされたときは驚いたものだ。まあ、検索依頼される資料が「ネブラの天文盤」とか「シュメールの暦」だとかの時点で気づいて然るべきだが。
 カステル教授から「君は大体の物事に対して真摯で鋭敏な感性を持っているが、奇妙な所で抜けているな」という評価をされるのもむべなるかな。

 書架の隙間を抜け、IDカードを翳してドアを開けてはまた本の森を抜けるのを何度か繰り返すと、漸くアルバイト用の控え室に辿り着く。
 自分のロッカーを開けて、学生アルバイト向けの制服である特製の緑のエプロンと白い手袋を装着すれば準備は完了だ。
 いざ、我が愛しの本の迷宮へ。








 蜘蛛の糸の繋がる先は 外伝7.シャンリットの七不思議 その2『大図書館の開かずの扉』






 中央大図書館に関する噂でよく耳にするものは、読んではいけない本を読んでしまって発狂するというものだ。
 ヒトの認識を侵食するような魔道書の類が書架に混ざり込んでいないとは言い切れ無いし、そういった悪質なトラップが仕込まれた本型のマジックアイテムも存在しそうだ。
 というか、そういったものこそ嬉々として蒐集するだろう。ウチの司書達ならば。
 ユリウス・カステル教授の下にも、教授の所蔵する稀覯本を写本させてくれないかと、大図書館の司書さんから依頼が来ていたと思う。
 カステル教授は写本の依頼を断り続けているが、それでもめげずに司書さんは依頼に来る。
 時折教授の部屋の前でその司書の方とすれ違うのだが、段々目付きが“ニア「ころしてでもうばいとる」”って感じになって来てるからそろそろ一悶着ありそうな気がする。
 教授も写本くらいさせてあげれば良いのに、とは思うが口には出せない。教授に逆らうと怖いから。

 深夜も早朝も関係無く24時間稼働している大図書館では、幽霊を見たという話はあまり聞かない。
 どんな時間でも人気が絶えないし、本に掛けられた『固定化』のお陰で日焼けを気にせずに強い照明でガンガン照らせるから、幽霊が出るような雰囲気のある陰影が生まれ無いのだ。

 ちなみに今、司書アルバイト仲間で一番盛り上がっている噂話は『大図書館の開かずの扉』だ。
 大図書館最下層、地下15階にある両開きの一辺5メイルはある重厚そうな灰色をした金属製の門扉。
 一月程前に出来たその扉は、なんと床に張り付いている。最下層の床に幾つも幾つも扉が張り付いているのだ。

 ドアノブが床から飛び出している光景は酷くシュールだ。ご丁寧にグリフォンを象ったドアノッカーまで付いてる。誰を呼び出すというのか。
 バイト仲間30人くらいで上に乗ってもビクともしなかった。鋼鉄製? いいや絶対にもっと違う何かだ。
 ドアの下に空間があることはバイト仲間の土メイジの振動反響の診断で分かっている。
 ドアノブを引っ張ってみてもビクともしない。図書館の全てのドアに付いているIDチェッカーも付いて無い。『アンロック』も全く効かない。
 正規の司書の方に最下層の扉が何なのか聞いてみたが、苦笑いするのみで誰も教えてはくれなかった。その時の様子では知らないという訳では無さそうなのだが。

 開かずの扉の先には何があるのか?
 恐らくは、地下部分を拡張する工事を行っているのだろう、と予測は付いている。

 だが、誰が? どうやって?

 工事の音がしないのは『サイレント』の魔法を使っているからだとしても、一辺1リーグ四方の地下室を増築するのに、その人員を全く見かけないというのはおかしい。

 後日見てみると、扉があった場所は階段になっており、昇降機の階数も地下16階までに増えていた。
 地下16階には、いつの間にか本が詰め込まれていた。しかしそれらの本は分類等されておらず、ただ雑然と積み重ねてあるだけだった。

 まさかこれを全て整理して、既存の書架もこれらを含めて配置転換をしろと……?

 司書の方達に『開かずの扉』の事を聞いたときのあの微妙な表情はこれを意味していたのか。これだけの量の本の整理を行うというのなら、それは疲れたような曰く言いがたい苦笑を浮かべるしか無いだろう。ここに本を突っ込んだ人は、本の内容の把握と仕分けにどれだけ時間が掛かるか分かっているのだろうか。

 何より恐ろしいのは、既に地下16階の床に、また『開かずの扉』があることだ。
 二ヶ月もしないうちに、これと同じだけの量の本の山を再び相手にしなくてはならないのだろうか?







 本の分類は大変だ。タイトルだけではなくて、内容まで吟味しなければいけない。
 タイトルによって粗方分類し、分類に間違いがないかどうかはその分野に詳しい司書が確認する。
 タイトルが書かれていないようなものや、分類が全く分からないものは別にどけておく。
 『固定化』の魔法があるから劣化具合はマシだが、中には腐食してボロボロになっている本もあるから扱いには慎重にならざるを得ない。

 学生アルバイトの仕事は第一段階である本の大まかな分類と、分類が終わった後の本のラベル貼り、ラベルの情報を大図書館の蔵書管理用魔道具のデータベースへ登録する作業だ。
 内容の細かいチェックや、最終的な登録データと実物の齟齬が無いか等のチェックは、正規の司書の方々の仕事だ。
 手に取った本のタイトルが気になると思わず内容まで見たい気分になるが、自粛する。そんなことをしていたら作業が終わらない。
 大図書館に登録されたら、真っ先に借りようと心の中で決める。IDカードのメモ帳機能に気になった本のタイトルを登録しておこう。
 次々とタイトルを眺めては本を各カテゴリに分けられた箱に入れていく。
 『深海の驚異』、これは海洋学カテゴリか? 『マリンスノーと海流』、これも海洋学。『ウンダーゼー・クルテン(深海祭祀書)』、宗教学? いや海洋学? 『ハイドロフィネ(水棲動物)』、海洋学ってここら辺は深海関連ばかりだな。というかやけに湿気ってる。虫干し必須だな。湿気の所為か段々と寒気がしてきた。

 次の本を手に取ったときに、怖気を感じた。全身の皮膚が泡立った。
 手袋越しにもぬるりと吸いつくような感触を感じる。冷たいような温いような不思議な感覚。潮の香りがどこからとも無く香ってくる。

 『水神クタアト』

 水浸しになって半ば腐ったような、いや、まさに現在進行形で腐りつつあるこの書物は、手袋越しにその不気味な存在感を伝えてくる。
 腐臭。深海底の神秘を目の前に凝縮したのなら、ひょっとしたらこの本のような形を取るのかも知れない。それ程の強烈な存在感。

 アルバイトとしての仕事の領分は越えてしまうが、押えきれない好奇心、いや焦燥感、強迫観念に基づき内容を軽く確認しようと本を開く。そう、軽くだ。軽く確認するだけ。
 深海に眠る半魚人の文明について、深海の生物について、深海における生物の長寿化と巨大化について、ルルイエについて、海底に眠る偉大な神クトゥルーについて、生贄を捧げる際の呪文について、魚を呼び寄せる方法について、ふんぐるいむぐるうなふくとぅるうるるいえうがふなぐるふたぐん……。



 本を閉じる。腐りかけているから、崩れてしまってもいけないからな。ふむ。目次を見た限りはこれも海洋学カテゴリかな。
 ただ、やたらと頭の中にそのタイトルが残ったのでIDカードに記録を残しておく。『水神クタアト(クタアト・アクアディンゲン)』。

 だが、私は次の瞬間には、そのような本の存在すら忘れてしまっていた。誠に信じがたいことではあるが。





 光の届かない暗黒の中を私は泳ぐ。
 纏わり付く水圧が重い。四方八方からそれは私を絡め取る。
 重く重く、暗く暗い中を泳ぐ。ここはまるで牢獄だ。

 海底から湧き上がるマグマが、得体の知れない生物の偽足のようにどろどろぼこぼこと固まっては内側から食い破られて海底を這う。
 枕石。地球のカサブタ。マグマが血液だとすれば、それが固まった枕石はカサブタと言えるだろう。
 偽足を伸ばすように、溶岩流は私の身に迫る。

 冷えては溶けて周囲を沸騰させ、赤黒く瞬くその溶岩のみが、この深海底に置いては唯一の光源のようだ。
 溶岩特有の硫黄の匂いを感じて、私はその毒を含む水の流れから身をそらす。
 沸騰する水に巻き上げられた泥の、その腐敗した臭いがこの身に絡みつく。
 
 溶岩の微かな赤熱光に照らされて、悠久の昔から変わらない青暗闇の帳の中から、それは私の視界の中に顕れた。

 それは巨石であった。
 それは神殿であった。
 それは祭壇であった。
 それは都市であった。

 そして何よりも、それは墓石であった。

 死者が生者の権益を犯さぬようにと蓋をする墓石ように、それは忌まわしい何者かを封じているように思われた。

 夢の中で魚になった私は、その忌まわしくも恐ろしい石造りの円筒が並ぶ街に、ぬめるように滑るように侵入していくのだ。

 眼下に見える溶岩は都市の境界でその流れを止めて、見えない壁に押し付けられるように広がっていく。
 境界。結界。隔てるもの。閉じ込めるもの。内と外。分けるもの。何と何を?
 その溶岩流の様子は、私が何気なく通り過ぎたソコに、彼岸と此岸を分ける境界があるのを示しているように思えてならなかった。

 私は此岸に帰ってきたのだろうか? それとも彼岸に向かってしまったのだろうか?
 否、彼岸も此岸も分ける意味など無いのだ。偉大なるクトゥルフにとって所詮この世は泡沫の夢。
 
 ふんぐるい むぐるうなふ くとぅるう るるいえ うがふなぐる ふたぐん
 久遠に臥したるもの、死することなく、怪異なる永劫のうちには、死すら終焉を迎えん

 ふんぐるい むぐるうなふ くとぅるう るるいえ うがふなぐる ふたぐん
 そは永久に横たわる死者にはあらねど、測り知れざる永劫のもとに死を超ゆるものなり

 ふんぐるい むぐるうなふ くとぅるう るるいえ うがふなぐる ふたぐん
 ルルイエの館にて死せるクトゥルー夢見るままに待ちいたり

 忘れ去られたはずの太古の暗黒の調べに耳を澄ませている内に、私は、どこからか伸びてきた触手に絡め取られて半身を食いちぎられた。





 『開かずの扉』が開放された翌日、海中に棲む魚になった夢を見て目が覚めた。
 肌に纏わり付く冷たい暗黒の海流。微かな光りに照らされる海底。巻き上がる有機質を多分に含んだ泥は腐臭がしたような気がする。目が覚めても、腐った海水の匂いが体に纏わり付いているような気がして、神経質なまでに執拗に部屋の備え付けのシャワーを浴びた。
 紅茶をしこたま飲んで、喉の奥に揺蕩う泥の匂いを洗い流す。
 遅れないように自室を出る。教授は他人の時間には厳しい人だから、遅れたら何と言われるか分からない。教授自身は自分の時間には無頓着だけれども。
 実際、いつも朝は教授が居ないからと遅刻して行くのを繰り返していたら、ある時すれ違いざまに「27回も遅刻したね。明日からはもっと早く来るように」と釘を刺された。カステル教授曰く“蛆虫(マゴット)が見ているから分かる”ということだが、何かしらの比喩なのだろうか。

 研究棟に赴き、ユリウス・カステル教授の元にいつものように顔を出す。カステル教授は幸い在席されていた。この方はいつも何処にいるか分からないから、今日はたまたま日取りが良かったのだろう。
 しかしカステル教授は、顔をしかめて鼻を袖で覆って私の方を見ると、朝の挨拶もせずに一言。

「『クタアト・アクアディンゲン』に心当たりは?」

 ゾッとした。
 思い出されたあの古書の気色悪い感触に当てられたわけではなく、今の今まで私がその『水神クタアト』について忘れていたという、その自分自身の精神の有り様にだ。

「カステル教授、どうして?」

「ふむ、どうして、とは何に対してのことだか分からないがね。
 君が尋常ならざる水気(すいき)を立ち上らせているのは分かる。
 私の心当たりでは悪い魔道書に当たったのかな、と、自分の心当たりの魔道書を言ってみただけなのだが、正解のようだ」

 今日の私は星の巡りが良いかも知れないな、と零すカステル教授を前にして私は愕然としていた。何で今まで忘れていたのだろう。昨日はあれほど強烈な印象を持っていたはずなのに。

「まさか持ってるんですか?」

 今やハッキリと思い出される、汚泥のようなぬめりを持った『水神クタアト』の独特の表紙。水を滴らせて腐りかけたそれは、潮の匂いがしたような気もする。本当に何で今まで忘れていたのか、今朝の夢と関係があるのか。
 古書マニアのカステル教授なら、あのような古い本を知っていても、それどころか、持っていても不思議ではない。もしも教授が持っているなら、何かあの不気味な本について話を聞けるかも知れない。

「持っているとも。そのお陰で最近は大図書館の司書に付きまとわれていたがね」

 成程、教授の下に通っていた大図書館の司書の方が欲しがっていたのはあの本なのか。『水神クタアト』について更に問おうとした私を遮るようにカステル教授は言う。

「ああ、魚臭いから君はもう今日は帰りたまえ。
 ろくに抵抗処置もせずに魔道書に触るからそうなるのだ未熟者め。
 私につきまとっていた司書もその本が入ったと知ればもう来なくなるだろうし、君から伝えてくれないか。
 妖蛆共は塩気を嫌うのだから、メッセージを伝えても水気を落とすまでは帰ってくるな」

 しっし、と鼻を覆いながら手で追い払うジェスチャーをするカステル教授。
 ジェスチャーと連動するように軽い『エアハンマー』が、呆然と立ち尽くす私を、私から漏れ出た教授曰くの“水気”ごと部屋から押し出した。
 目の前でカステル教授が行使する『念力』によって扉が閉まり、直ぐ様『ロック』によって封が成された。
 よろめいて尻餅を付いた私は、そのまま呆然と扉が閉まるのをただ眺めているしか出来なかった。





 教授に追い出された私は、とぼとぼ惨めに大図書館への道を行く。
 カステル教授の言うとおりに私の身体からは魚臭い匂いがしているのかも知れない。すれ違って道行く人も鼻を抑えているような気がする。被害妄想ならば良いのだが、どうだろうか。明日から同級生から半魚人とか言われないだろうか。
 少なくとも自分の鼻が効かなくなっていることは確かなようだ。大図書館に向かう道すがらの薬草畑の香りが今日は感じられないのだから。

 意気消沈しつつも、件の司書を探すために図書館に入る。
 やたらと陽気な黄色い壁が今日は恨めしい。今日は東側の青い壁から入るべきだったか。
 まさか魚臭くなる呪いに掛かる本があるだなんて思わなかった。解呪のコストは経費で落ちないだろうか? そもそもどうやって“水気”とやらを落とせばいいのか。

 悶々としたものを抱えつつも、出来るだけ人に会わないようにして司書の詰所を目指す。
 アルバイトのロッカーと正規司書の詰所は違う場所なのだ。

 ……。あ、私はカステル教授からのメッセージを伝えるべき相手の司書の名前を知らない。
 内線を繋いで教授に聞かなければなるまい。
 図書館のカウンターで内線を借りる。内線通話機はシャンリットの構内なら殆ど全ての部屋に備え付けてある。いちいち相手のもとに出向かなくても声を伝えられるという優れものだ。

「あ、カステル教授。すみません、伝言相手の……「水気が伝染するから内線通話も掛けるな。さっきより酷くなっているぞ。 ブチッ……」」

 切られた。酷い。私が何をしたというんだ。

 ……まあ、あれだけカステル教授の下に通いつめていた司書さんなら、きっと職場の仲間内でも知っている人が居るはずだ。そうに違いない。いや、そうであって欲しい。この時ばかりはカステル教授の奇妙な方面での有名さに縋りたくなった。





 結論としては、司書さんの行方を知る人は居なかった。
 いや、古書専門の蒐集部隊に所属しており、カステル教授の持つ古書の幾つかを写本させて欲しいと交渉に出向いていたという司書さんが居たのは確認出来た。そのように辞令を出した主任司書さんから話も聞けた。
 しかし行方を知る人が居ない。彼の部屋に繋がる内線通話機も、全く返事を寄越さない。

 最後に彼の行方を見た人は、場末の音楽バーの方へと歩いて行くのを見たという。
 何でも最近入れ込んでいる歌手がいて、その女性歌手に会うために昨日もバーに飲みに行ったのではないかということらしい。

 ……ひょっとして行方不明の司書さんに言付けを伝えるまで、カステル教授の下には帰れないのだろうか?
 また水気が酷くなったと教授も言っていたし。話しかけるたびに、皆が鼻を押さえるし。最悪だ。

 司書の方を探すよりも、今からあの本を読みたい気持ちがまた大きくなってきた。何で私が言付けをしないといけないんだ。図書館に来たからには本を読まないといけない。図書館はそういう場所なんだから。伝言なら、彼の上司に伝えたから別に良いだろう。

 ほら、地下から立ち上る濃い水の気配が、私を呼んでいる。
 眠れる墓所の大司教が。
 死してなお生きているモノが。
 星辰の戒めの下に封ぜられた偉大なる支配者が。
 私の半身を喰いちぎったものが。

 ふらふらと地下へ繋がる昇降機の所へと足を進める。
 着替えもせずに書庫へと向かう私をバイト仲間が見咎めるが、気にせずに歩く。向こうから近づいてくるバイト仲間は一瞬鼻を覆う。やはり私から不快な匂いがするのだろうか。すたすたと彼の横を通り過ぎようとした私に対して彼は左側から話し掛けつつ、私の左肩に手を置く。馴れ馴れしい。肩に置かれた手を引き剥がし、彼の手を左手に握ったままにっこりと笑う。嫌味なくらいの笑顔が出来ているだろうか。相手がなにやら赤面しているが、よく分からない。人間の表情はこんなに分かりづらいものだっただろうか。まだ魚の方が表情豊かだろうに、この目の前の男は顔面神経失調症にでも掛かっているに違いない。そして男の手を左手に握ったまま歩き出す。歩き出した私に引き摺られる同僚を尻目に、歩き続ける。引き摺られた同僚が本棚にぶつかる。私はいつもきちんと通路の左側を歩くように気をつけているのだ。だからそりゃあ左にバイト仲間を引き摺ったままではそうなるに決まっている。なんだ、当たり前のことじゃないか。当たり前だから気にする必要は無い。だというのに何でそんなに騒いでいるのか。ああ、本棚の本が落ちたからか。どうやら床に転がっている男が本棚に突っ込んだせいらしい。駄目じゃないか、本は大切に扱わないといけないのに。それと、周りの人も五月蝿い。IDカードのマジックアイテムを取り出して、登録されている魔法から『サイレント』を選択。図書室では静かにしないとね。悲鳴を掻き消して、昇降機の前に辿り着く。かちかちかちかち。ボタンを連打するがまだ来ない。

 水の匂いがする。下に向かわないと。あの本を読まないと。『水神クタアト』を読まないと。夢で食われた半身を取り戻さないと。

 何時まで経っても来ない昇降機に業を煮やした私は、昇降機のドアを食い破るべくIDカードから魔法を選択。『念力』を最高出力で行使。軋んで音を立てる両引き戸をこじ開ける。魔法使用免許A級は伊達じゃない。さあ、口をあける暗黒の洞穴に身を投げよう。ほら見えない触腕が私を歓迎するように絡めとる。半身が呼んでいる。ああ矢張り私の半身は『水神クタアト』の下にあるのだ。取り返さないと。捧げないと。取り返す。捧げる。半身を。捧げる。取り返す。捧げる、捧げるのだ、偉大なるクトゥルフに――――。





 ・『大図書館の開かずの扉』の噂
  最下層の床に張り付いている扉。いつの間にか図書館の階数が増えている。本もついでに増えている。妖精さんの仕業とか。
  新しい階にある本はどんな魔書があるか分からないので素人は手を出してはいけないらしい。



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有名な二聯句を出してみました。ユリウス・カステル教授は“妖蛆の王”のジュリアン・カーステアズをフランスっぽい読み方で。『水神クタアト』も彼の持ち物からの連想ですね。

今回の主人公は3連続くらい魔道書(ハイドロフィネとか)の正気度チェックやって、現在正気度が磨り減りました。その上トドメに『水神クタアト』でファンブルした感じ。

以下、設定とか言い訳。スルー推奨で。










内線通話機はシャンリット内のみ張り巡らされている。〈黒糸〉を流用。交換手の役目をするマジックアイテムもあるという想定。
カード型マジックアイテムはシャンリット内で行動するためには必須。あらゆる施設を動かすためには、IDとその為の権限が必要。セキュリティに厳しい街。市民は幸福ですか? いや、そこまで監視社会ではない。
カード型マジックアイテムは非メイジが〈黒糸〉の補助を受けて魔法を使うための杖替わりにもなる。非メイジの魔法使用は免許制。例:魔法使用免許D級→レビテーション(20リーブルまで)とか。免許が高いランクになれば使える魔法も増える。エム×ゼロのプレートのイメージで。当然シャンリットの外では〈黒糸〉の補助がないために魔法は使えない。
メイジの場合は自分の杖を使っても良い。が、街中での魔法の使用は厳しく制限されている。これは非メイジも同様。

ここまで来るともはやゼロ魔じゃないですね。

でも実はこのSSを書き始めた当初に思っていたことの一つは、科学革命じゃなくて魔法革命したいということ。イアイアしたいってのも動機としては勿論有りましたが。平民皆が魔法を使えるようになるのが、ハルケギニアのあるべき未来図なんじゃないかと電波が囁いたので。


2010.09.17 初投稿/修正



[20306]   外伝7.シャンリットの七不思議 その3『エリザの歌声』
Name: へびさんマン◆29ccac37 ID:4dc27135
Date: 2010/11/13 20:58
 シャンリットの学術都市アーカムにも、飲み屋街のようなものはある。
 料理人やバーテンダーの専門学校もあるし、高級娼婦養成学校というものまである。
 アーカムにおける歓楽街の外れ、場末のバーで管(くだ)を巻く男が一人。
 バーテンの若い男がそれを大人しく聞いている。

「だからさあ、あの吝嗇家(りんしょくか)の教授がさあ、写本させてくれないわけよー」
「この間も言ってましたよね、まだ粘ってるんですか?」

 バーテンの男は苦笑しながらカウンターに座る生真面目そうな男に尋ねる。
 管を巻いている生真面目そうな男は、聞こえていないのか、壊れた蓄音機のように同じ話を繰り返している。
 手には度数の高い蒸留酒が入ったグラスが揺れている。
 泥炭の香りがついた独特の蒸留酒である。

「カステル教授の持ってる本――『水神クタアト』って古書なんだけど――それをさあ、ちょっと見せてくれるだけでいいのにさあ」
「あー、はい。その話ばっかりですよ。きちんと歩いて帰れます? チェイサーお出ししましょうか?」

 バーテンの男が、磨いておいたグラスを取り出し、胸もとのポケットの中のIDカードに触れて、魔法を選択、起動させる。

 この街ではこのIDカード型のマジックアイテムを用いて、誰でも魔法が使えるようになっている。
 街全体を覆うインテリジェンスアイテムの端末となっているそのIDカードを操作することで、街全体を統括するインテリジェンスアイテムが魔法の使用を肩代わりしてくれるのだ。
 だから使用者の精神力や魔法の才能に関わらずに、この街では皆がメイジになれる。

 もちろん一定の試験を通過して魔法使用資格を取得すれば、の話であるし、場所や時間帯によって使用できる魔法の種類や威力は、細かく、そして厳しく制限されている。
 魔法が使えるとは言っても、使える魔法の種類は数えるのも馬鹿らしいほどのバリエーションがあるし、その使い方や組み合わせは操作者の熟練の業の見せどころだ。
 既存の小規模な魔法を細かく複雑に組み合わせて(プログラムして)、オリジナルの魔法を生み出すことも出来る。

 バーテンの男は真球の氷を魔法で作り出すと、グラスの中に落とす。
 氷の上に、宙空から『凝集(コンデンセイション)』によって水を取り出して注ぎ、さらに『錬金』でクエン酸やミネラル分などを作って味付けを行う。
 水の味付け一つとっても、バーテンごとに個性が出る腕の見せどころだ。

 この簡単に見える一連の工程においても、食品衛生法だとか諸々の法的知識の試験をパスして資格を持っていないといないと、他人に振舞う場合は違法だと罰せられることになる。
 若く見えるバーテンであるが、その辺りはきちんと免許を持っているようだ。

 グラスに注いだ水を、カウンターに座る客に差し出す。

「どうぞ」
「ありがと」

 カウンターに座る男は、蒸留酒のグラスから水のグラスに持ち替えると、一気に飲み干す。
 水に付けられた爽やかな芳香が鼻腔を満たす。

 バーテンは空になったグラスに間髪入れずに魔法で水を注ぎ足す。

「酔いは醒めました?」
「ん。まあまあ。そう言えばさあ、この前ここで歌ってた娘はさあ、今日は居ないわけ?」
「ああ、エリザちゃんですか。彼女は今日は違うお店に行ってますよ」

 流しの音楽家や歌姫の卵たちが、ストリートやバーの一角を借りて自分の腕前を披露するということは、この街では珍しいことではない。
 学術都市アーカムは、戸籍登録者にベーシックインカムを与えるという制度上、研究者のみならず芸術家の卵たちも、ハルケギニア各地から数多く流れて集まってくるのだ。
 この都市で評価されて、世に大きく羽ばたいた芸術家は枚挙に暇がない。

「エリザちゃんって言うのかあ。良い歌だったなあ」

 飲んだくれている男が陶酔した様子で言う。

「魂に響くものがあったよ。もっと聞きたいなあ」
「エリザちゃんの歌はファンの人とそうじゃない人がはっきり分かれるんですけどね。嫌いな人はもう二度と聞きたくないとか言うんですが」

 私は好きなんですけどね、とバーテンは続ける。

 ここは数ヶ月交代でバーテン兼マスターが入れ替わる特殊な店である。
 店の敷地を提供するオーナーは別に居て、学生バーテンの“自分の店を持つ”という夢を数ヶ月限定で叶えさせてくれるという場所だ。

 そして今話しているバーテン兼マスターは、自分の気に入った音楽家に時折ライヴを開かせることを特に売りにしている。
 二人が話題にしているエリザという女性も、そんな“音楽の名伯楽”を自認する彼が見つけてきた肝入りの歌姫である。

 狭い店ながら“まるで大きな音響ホールに居るかのようだ”というのは、この店で歌う者、聞く者双方が持つ感想である。
 バーテンの男は風系統の魔法で音響を調整するのも上手で、狭い空間をそれと意識させないように日々研究を重ねているそうだ。

「アランさんも気に入ってくれて嬉しいです。彼女の歌、良いですよね」
「ああ、素晴らしかった。きっとヴァルハラで奏でられている音楽ってのは彼女の歌みたいなものなのさ。天上の歌声ってやつだね」
「“天上の歌声”ですか。良いですね、そのキャッチコピー」

 ああそうだ、とバーテンはカウンターの客アランに二つの名刺を差し出す。

「これは?」
「こっちは彼女の名刺ですよ」

 バーテンは一方の華やかな装飾文字の名刺を指差す。
 そこには“エリザ・ツァン”と読める。

「日毎に色んなバーで歌ってるらしいですよ。今日の今の時間だと、こっちの名刺のお店に居るはずです」

 バーテンはエリザの名刺を裏返す。
 エリザの名刺の裏には、確かに時間割のようなものが記されており、それが彼女が歌声を提供しているお店なのだろう。
 バーテンはその時間割の一部と、もう一方の名刺を指す。
 もう一方は“クラブ・オーゼイユ”という店の名刺らしい。

 バーに掛かっている時計を見ると、20時を指していた。
 エリザの名刺に書いてある時間割通りならば、この時間には彼女は“クラブ・オーゼイユ”で歌い始めたばかりなのだろう。

「もし気に入られたのなら、行ってみては如何です? きっと彼女も喜ぶと思いますよ」
「そうだねえ、じゃあそうしようかねえ」

 アランは残っていた蒸留酒を一気に飲み干し、カウンターから立ち上がると、脇の席にかけていた上着を掴む。

「じゃ、マスター。お勘定よろしく」







 蜘蛛の糸の繋がる先は 外伝7.シャンリットの七不思議 その3『エリザの歌声』







 アランはさっきまで飲んでいたバーテンから貰った名刺を頼りに、“クラブ・オーゼイユ”を探していた。
 ポケットからIDカード兼用のマジックアイテムを取り出すと、アーカム市全体を覆う巨大ネットワーク状のマジックアイテムに接続し、地図情報を呼び出す。
 さらに空気中の炭素から投影用のシートを『錬金』、『硬化』でピンとシワを伸ばし、『遠見』の応用で仮想領域の地図情報をそこに映し出す。

「お、あったあった。ここか。随分分かりにくい場所だな」

 クラブ・オーゼイユはメインの通りから一本入ったところを更に一本入って、地下に潜ったところに店を構えていた。
 少し陰気な感じの店だ。
 扉の向こうからは喧騒が聞こえてくる。

 喧騒?
 いや、これは怒号だ。
 罵声だ。

 何事かと思った次の瞬間には、クラブ・オーゼイユの扉が内側から開け放たれ、叩き出されるようにして一人の人間が出てきた。

「おっと!?」
「きゃあっ!?」

 叩き出された人間は、女のようであった。

 虎の目のような色をした艶やかなウェーブの掛かった髪。
 胸元の大きく開いた深い藍色のドレス。
 麝香の匂いが少し鼻を擽る。

 アランが思わず抱きとめてしまった女性は、彼の腕の中でキョトンと見上げてくる。
 スッと整った鼻筋と蒼月のようなサファイアブルーの瞳、真っ赤なルージュ。
 そう、腕の中の彼女は――

「ミス・ツァン?」
「あら? 何処かでお会いしました、ミスタ?」





 二人は取り敢えず、場所を変えることにした。
 アランは先程まで飲んでいたバーへと先導する。
 道すがらアランが彼女から話を聞くと、どうやら今日の歌が、ひとりの客の癇に酷く障ったらしい。

「時々あるんですよ。私の歌が気に入らないって言う人が」
「そうなんだ。僕は君の歌好きだけどねえ」
「ふふ、ありがとうございます」

 他にも取り留めない話をしているうちに、二人はアランが飲んでいたバーに到着する。


 バーの扉を開けると、軽快なベルの音が鳴り、来客を知らせる。

「マスター!」
「おや、アランさん。お帰りなさい。どうしたんです?」

 バーのマスターはさっき出ていったのに直ぐに帰ってきたアランを見て、訝しがる。

「忘れ物でもありました? 席を片付けたときには何もなかったんですが」
「いや、そうじゃなくてね。ちょっと色々あって、こっちで飲み直すことにしたんだ」

 アランはそう言って店の中に入りカウンターに向かう。
 その後ろから虎の目色の髪とサファイアのような瞳を持った藍色のドレスに身を包んだ女性が続く。
 流しの歌姫、エリザ・ツァンである。

「マスター、お久しぶり」
「あれ、エリザちゃんじゃないの。どうしたの? クラブ・オーゼイユは?」
「いやそれが……」

 ここまで同道する経緯をアランは簡単にマスターに説明する。
 クラブ・オーゼイユでエリザが歌っていると、彼女の歌声を気に入らなった客に詰め寄られて、文句をつけられて物凄い剣幕で叩き出されて、その時にアランとぶつかったのだと話す。
 悪罵を浴びせられてクラブ・オーゼイユを追い出された段になると、エリザは悲しそうな顔をした。

「何ででしょうね。時々、そういう事があるんです。理由を聞いても何処が下手とか、そういう事じゃなくて、声が嫌いとかでもなくて、兎に角“癇に障る”としか……」
「うーん、何でだろうね」
「勿論、アランさんやマスターみたいにとても気に入ってくれる人も居るから、やって行けてますけど」
「そうそう、ファンは居るんだから、僕やマスターみたいに君の“天上の歌声”を気に入ってる人たちに、聞かせてくれれば良いんだよ」
「まあ! 天上の歌声、なんて過分な評価ですわ」

 エリザは顔を赤らめて謙遜する。
 アランとバーのマスターは、口々にエリザを褒める。
 美人を褒めるのは、男の義務であるからして。



 その後、二人を前にエリザが歌声を披露することになったのは自然な成り行きだった。

 簡易に設けられた歌唱台に立つエリザの口からは、賛美歌のような音律の歌が流れ出す。

「――Look to the sky, way up on high,There in the night stars are now right――」

 バーのマスターは、風の魔法によって音響を巧み調整する。
 客の耳元に必要な音を正しく増幅し、それ以外の場所には伝えないようにと、精密に音の伝導、増幅、減衰を司る彼の腕は、バーテンじゃなくて音楽関係の道でも食べていけるのではないかとさえ思わせる。

「――Scary scary scary scary solstice,Very very very scary solstice――」

 アランの視線は壇上で歌うエリザに釘付けになっている。
 彼女の歌を聞くということ以外には意識が向かず、口は開きっ放しで涎も垂れている。
 アランのその様子は、まるで何かの薬物中毒患者のようだ。

 彼は正しくエリザの歌声の虜に……中毒になっていた。





 エリザの歌の後、それをアランは拍手で讃えた。
 一人だけの拍手は、しかし、バーのマスターの音響操作の風魔法で多重化され、万雷の拍手となってエリザを打つ。
 これもまた歌い手の間でこのバーの評判が良い一つの理由だ。

「いやあ、素晴らしい! 素晴らしい歌だったよ!」
「ありがとう、アランさん。マスターも、音響サポートありがとう」

 反響していた拍手の音が消え、閑散とした空気が戻る。

「いやいや、エリザちゃんみたいな上手な歌い手のサポートが出来るなら私も本望さ」
「ありがとうございます」

 アランは未だ夢見心地である。
 蕩けた様子で言葉を紡ぐ。
 瞳孔は開いて焦点が合っていない。

「いい歌を聞かせてもらったよ。また明日も絶対聞きに行くから。名刺に書いてある時間割通りにやってるんだよね?」
「ええ、そうです、アランさん。あ、でも私、名刺渡しましたっけ?」
「マスターから貰ったんだ。これで合ってるよね?」

 そう言ってアランは数時間前にマスターから貰ったエリザ・ツァンの名刺を差し出す。
 エリザはそれを一瞥する。

「あ、これ、ちょっとバージョンが古いですね。最新の時間割はこちらです」

 エリザは自分のIDカード型マジックアイテムを取り出し、直ぐに新しく名刺を『錬金』する。
 そして新しく作った名刺をアランに差し出そうとして、手を止める。

「どうしたの?」
「……いや、クラブ・オーゼイユで騒ぎ起こしちゃったから、暫くは行けないなあと思って……」

 エリザは自分の名刺に浮かび上がらせた時間割のうち、クラブ・オーゼイユの部分を見て困ったように思案する。
 そこにバーのマスターが声を掛ける。

「エリザちゃん、良かったらその時間はウチの店で演らないかい?」
「良いんですか? マスター」
「もし、良ければね。私もエリザちゃんの歌は好きだし。都合がつけば、君の友人で見どころのある演奏家や歌手が居れば、その彼ら彼女らを連れてきてくれても良いし」
「わあ、助かります! それじゃあよろしくお願いします!」

 商談成立、のようである。
 エリザは直ぐに一度『錬金』した名刺を分解し、再び『錬金』し直した。
 新しい名刺をエリザはアランに差し出す。

「はい、アランさん。また聴きに来てくださいね」
「必ず聴きにいくよ。ありがとう、ミス・ツァン」
「エリザと呼んでくれても構いませんよ? アランさん」

 エリザは悪戯気にウインクをする。
 アランはそのサファイアブルーの瞳にすっかり参ってしまったようだ。

「ああ、じゃあエリザさん。また聴きに行くよ。そうだ、夜道は危険だろうし、良かったら送って行くけれど」

 アランはそう申し入れる。
 変な下心は無い。
 純粋に心配しての行いだ。

 それに“天上の歌声”を穢してはいけないから、手を出すなんて以ての外だ。
 彼は紳士だった。紳士の前に“変態”と付くかもしれないが。

 エリザは微笑んで返事をする。

「ふふ、じゃあお言葉に甘えちゃおうかしら」

 マスターがそのやり取りに、一応定型句を挟む。

「送り狼にはならないで下さいよ、アランさん」
「ならないよ、マスター。お勘定を。エリザさんの分も」
「あら、ごちそうさまですわ、アランさん」

 美女と同席できて、素晴らしい歌を聞けたのだ。
 奢るくらいしないと却ってバチが当たるというものだ。





 それからアランは毎日エリザの歌を聴きに様々なバーへと足を運んだ。
 仕事である古書の回収が上手く行っていなくてストレスが溜まっていたということもあるが、彼はすっかりエリザの歌の虜になってしまっていた。

 そのアランの“エリザ行脚”の中でも、週に一度は音楽に造詣の深いあのマスターのお店でエリザを交えて飲み、その後は彼女の暮らす寮へと送って行っていた。



 それはエリザの部屋まで送って行く何度目かの道すがらのことだった。
 彼女がアランに、自分の近辺をうろつく怪しい人物のことについて相談したのは。

「最近、誰かに常に見張られているような気がする?」
「ええ、そうなんです。アランさん」

 帰り道の街灯に照らし出された路地でエリザは不安そうにアランに告げる。

 それに見張られているだけではないのだという。
 その何者かの気配を感じるようになってから、不可思議な出来事が起こるようになったというのだ。

「その、信じてはもらえないと思いますが、変な気配だけじゃなくて、歌を歌っている間は全く時間が進まなくなったり、とか……」
「錯覚じゃないんだよね?」
「ええ、10分の歌曲を歌い終わったのに、時間は1分も経っていなかったりということがありました」

 不安げな女性を捨て置いておけようか。いや、捨て置けまい。

 アランはエリザの身辺を警護することを申し出、直ぐにそれは受諾された。

「なんだか申し訳ありませんわ。そこまでして頂くなんて」
「いえいえ。貴方(の歌声)を護る為ならばこの程度手間でも何でもありません」

 そう言ってアランは彼女を送っていった直後から、彼女の寮の近くで張り込みをすることにした。
 話によると、今もその何者か分からないモノの視線を感じるということだったからだ。
 その何者かは彼女の歌に合わせて、さらにその気配を濃くするというので、彼女が部屋に帰って直ぐに歌曲を歌うことで誘き出そうと、アランは提案した。

 エリザはアランの提案を危険だと止めたが、彼は譲らなかった。
 美女の前で格好をつけたいのは、悲しいことに男の性であるからして。





 エリザが彼女の部屋に帰ってから間もなくして、何処か異界を思わせる、彼女の歌の調べが響いてくる。
 本当は近所迷惑になるので良くないのだが、アランは彼女にお願いして、彼女の部屋の『サイレント』を発生させる防音魔法機構――音楽を嗜む住人のために、この寮にはかなり上等なものが備え付けてあるらしい――を切って、さらに窓を開け放って貰っているのだ。

 魂を奪い去るような極上の歌声を耳にして、いつものようにアランの意識がトリップしかける。
 だが、直ぐに頭を振って、意識を持ち直した。
 今は彼女の歌に聴き惚れている場合ではないのだ。

 彼女の寮の部屋の前の通りのすぐ下で、周囲に気を配りながら待っていたアランは、直ぐに異常に気づくことができた。
 いや、彼のように気配を探ってなくとも気がつくだろう。

 何せ、件の怪しい人物は、アランのすぐ隣りに忽然と現れたのだから。
 彼は虚空から現れ出たとしか思えないその人物に声を掛けようとする。

 その人物は宙に浮いているようであった。
 灰色とも虹色とも判然としない、奇妙な色のヴェールに包まれた小柄な人間……のように見える。
 というのも、その不思議な色合いのヴェールがアランの隣に浮いている者の全てを覆ってしまっていて、ヴェールの中を窺い知ることは出来ないからだ。

 アランが“宙に浮いている”と判断したのも、隣の妙な塊を覆っているヴェールから足が出ていなかったためである。
 ただ何となくではあるが、その濁った虹が渦巻きしかし無色にも見える不可思議な宇宙的色彩をしたヴェールの中身は、ヒトのようにも見えた。
 マネキンの頭と胴体を『レビテーション』で浮かせて、それにシーツを掛ければ同じようなシルエットに見えるかもしれない

 ヒトか或いは、それよりも進化した異次元の生物。

 否。

 そもそも生物というカテゴリに収まらないのではないか。

 否。

 生物や無機物といった観念よりも遥かに根源的な。
 この世に時間や空間という概念が生まれる前の。

 そう。

 時間や空間の父祖。
 全にして一なるもの。

 古ぶるしきモノを讃える歌声が木霊する。
 アランが、夜空に響く歌声を認識した途端に、たちまち彼もまたその歌声の虜となってしまう。

 歌姫を付け狙う何かしらの邪悪を挫こうというアランの侠気は、奇しくも彼女自身の歌声によって奪い去られてしまう。

 美しいエリザの声。
 天上の歌声は天外のモノにまで届いていた。
 単なるヒトでしかないアランが、その魅力に抗えるはずもない。

 虹色が混ざり合いすぎて混沌とした妖しい無色のヴェールを被った奇妙な人影と、アランは、同じ歌姫の声を好む同好の士として、肩を並べて彼女の歌に聴き入った。

 アランがハッと気づけば、既にあの異次元の色彩をしたヴェールの人影の姿はなく、エリザの歌声も終わってしまっていた。
 体感時間としては数時間もずっと聞き惚れていたと思っていたのだが、時間を確認してみれば数分も経っていなかった。

「しまった。つい聴き惚れてしまって見失った。まだ近くに居ると良いが」

 先程の人影が、アランと同じく“エリザ中毒”ならば、おそらくは彼女の歌が終わるまではこの場に居たはず。
 ならばそう遠くには行っていないだろうと判断し、先程の人影を探しにアランは周囲を歩くことにした。

 エリザの暮らす音楽学生寮の周囲を、先ずは建物沿いに右へ。そしてまた右へ。
 すると最初の場所に帰ってきた。
 異状無し。痕跡も無し。では次はもっと範囲を広げて――

「あれ?」

 ……最初の場所?
 二回しか角を曲がっていないのに?

「そんな馬鹿な」

 ザッと後ろを振り返る。
 異状なし? ……いや、周辺の街灯が消えたのか、先が見通せなくなっている。
 周囲の建物の明かりも消えている。

「おかしいぞ」

 そう、何かがおかしい。
 もう一度振り返り、前を見る。
 前の方も闇が降りて見通せない。

「……まずいことになったな」

 アランは胸元のIDカード型マジックアイテムから魔法を使おうとする。
 使用する魔法は『念力』。
 アランの持つ魔法使用免許では自重と同じ程度の出力しか出せないが、この場はそれで充分。 

「上から見れば何か分かるか……?」

 目の前に『念力』足場を作り出して、上空へと駆け上がって見渡すだけだ。
 前方30サント、空中20サントに上向きの力場を設定。
 その設定を繰り返して、階段状に力場を形成するようにプログラム。

 条件設定は終わったので、実行するのみ。
 このような細かい設定をするかどうかは個人の好みの問題だが、アランはそのような細かい魔法の使い方が好きだった。
 設定した魔法の実行をIDカード型マジックアイテムで選択する。

 そしてアランは見えない階段に向かって足を踏み出す。

 スカッ。

「うおあっ!?」

 踏み外した。

「……魔法が起動しない?」

 いよいよ以て異常であった。
 学術都市アーカムにおいて、魔法が起動できないということは早々あり得ない。
 使用資格が剥奪されでもしない限りは。

 もちろん使用資格が剥奪されるような心当たりは無い。
 大体、使用資格無しに魔法を使おうとすればそれに応じた警告が出るはずである。
 しかしそれは出なかった。

「何だ? 何が起こっている?」

 アランは混乱する。

「そうだ、エリザさんは? 大丈夫なのか?」

 狼狽しつつもアランは音楽学生寮へと入る。

 そして直ぐ様外に出た。

「はあ?」

 学生寮の建物の内部に入った筈が、いつの間にか外に出ていた。
 何を言っているか分からないと思うが、その状況を体感した本人が一番訳が分かっていない。

「は? え? なんで?」

 混乱、混乱、混乱。
 どういうことだ。
 座標がバグった? いや仮想現実じゃあるまいし。 じゃあ時空が捻れている?

 何が原因だ?
 怪しいのは、虹色のヴェールを被った先程の人影か?
 あの、なんとも言えない、超越的で宇宙的な雰囲気を纏った人影……。


 その時であった。
 再びエリザの歌声が聞こえてきたのは。

 同時に出現する、ヒトではない何か偉大なるモノの気配。
 虹色のヴェールを被ったナニかだ。

 急いでその虹色が濁りすぎて無色に感じられるヴェールを被った超時空的な存在に話しかけようとするが、エリザの歌声によってアランの意識は圧倒的な快感の海に投げ出されて掻き消えてしまう。





 アランが再び我を取り戻したときには、ヴェールを被った何モノかは消えていた。
 彼はまたしても見渡せない闇に取り囲まれた空間に取り残されてしまった。

 まるで環のように捻れて繋がった不自然な時空。
 出口の無い迷宮のような。
 世界からエリザの歌を聞くためだけに、この場所を切り出したような、そんな不自然な舞台。

 愕然としてアランはその孤独な時空に立ち尽くす。





 歌が聞こえる。
 美しい歌。
 この世のものとは思えない清澄な歌声。

 アランは聴き入っている。
 ずっとずっと聴き入っている。
 ずっとずっとずうっと、聴き入っている。

 彼がこの時空に閉じ込められてから、一体どれほどの時間が経過しただろう?

 何時間経っただろう。
 何日経っただろうか。
 何週間経った?
 何ヶ月?
 何年経ったのだ?
 あるいは何十年?
 ひょっとすれば何百年。

 最初のうちはインターバルを挟んでいたエリザの歌声も、今は全く途切れない。
 同じフレーズを繰り返し、あるいは巻き戻り、或いは全く別の歌を継ぎ接ぎにして、魔性の歌声は聞こえてくる。
 歌声を加工して好き勝手に継ぎ接ぎのリミックスにしたような風に聞こえることもあるが、アランにはそうではないと言うことが直感的に分かっている。

 これはあの不思議な無色のヴェールに包まれた存在が、エリザが歌っている時空ごと、切ったり、繰り返したり、継ぎ接ぎにしているのだ、と。

 円転する時間。
 出口のない環。

 いつの間にか、歌に聞き惚れるアランの隣や後ろには無数の人影。
 皆が皆、蕩けたような表情でエリザの歌に聴き入っている。

 アランには分かっている。
 ここに居る全員が彼女の歌声に惹かれて集まってきたのだろう。

 私や、あのヴェールを纏った存在と同じように、天上の歌声に惹かれて。

 そうだ。この歌が聴ければ他には何も要らない。
 永遠にこの歌を聴いていられれば、それで良いのだ。

 そう考えれば、この捻れた時空も悪くない。
 いや最高の場所ではないか。





 エリザを始め、様々な人がアランを探したが、見つからなかった。
 アランがその“切り取られた円環の時間”から帰ることは、終(つい)ぞ無かったのだ。

 彼が居なくなったポイント付近では、エリザ・ツァンがこの学術都市から去っていった後も行方不明者が多発することになる。
 行方不明者らは居なくなる直前に皆、こう言い残していたのだという。

 “歌が聞こえる”と。





 ・『エリザの歌声』の噂
  とても綺麗な歌声のエリザという歌手がいる。あるいは“いた”らしい。美しい歌声は遥か星辰の彼方にも届くとか。
  彼女が暮らしている――暮らしていた――という音楽家専用寮の前には、時折、彼女の歌声に囚われたファンたちが時空を越えて現れては、彼女の歌声に耳を傾けているそうだ。
  耳慣れない美しい歌声を夜道で聞いたら注意すること。
  その歌声に魅せられて、彼女のファンの集まりに加わってしまえば、あなたは二度と戻って来られないだろう。

=================================
エリザの歌声に惹かれてやって来たのは“【門の導き手にして守護者、古ぶるしきもの】タウィル・アト=ウルム”というヨグ=ソトースの比較的安全な化身。ウルム・アト=タウィルとも。
“【音楽の使者、生命ある音】トルネンブラ”の話にしようと思ったけれど、結局ヨグ様の話になってしまった。エリザ・ツァンとクラブ・オーゼイユは、ラブクラフト御大の作品『エーリッヒ・ツァンの音楽』から取って命名。
ヨグ様はちょいと窮極の門の守護という仕事の息抜きに歌を聴きに来たのだが、無自覚に周囲の時間を捻じ曲げてしまってるっぽい。アランはそれに巻き込まれて時空的に孤立。
多分トルネンブラとヨグ=ソトースの間でエリザ争奪戦が繰り広げられていると思われ。「この歌声、ティンと来た! ぜひアザトース様に献上せねば!」「もっとこの娘の歌を聴いてたいから、もうちょっと待ってー」
途中でエリザ・ツァンがバーで歌ったのは『旧支配者のキャロル』というあるクリスマスソングの替え歌。

2010.11.09 初投稿
2010.11.13 追記。若干流れが唐突だったので……



[20306]   外伝7.シャンリットの七不思議 その4『特務機関“蜘蛛の糸”』
Name: へびさんマン◆29ccac37 ID:4dc27135
Date: 2010/11/23 00:24
 情報とは政治、経済、軍事などの全ての分野において重要である。
 国家興亡の鍵を握る情報の扱いについて、各国に専門の特務機関が存在するのはハルケギニアでは公然の秘密である。
 ハルケギニアにおける諜報機関としては、大国ガリアの存在しない筈の北花壇の名を冠する騎士団“北花壇騎士団”や、ブリミル教の寺院を隠れ蓑にして各国に浸透している“ロマリアの密偵”などが主なものとして挙げられる。

 私立ミスカトニック学院を中心とした学術都市シャンリットにも、“蜘蛛の糸”と呼ばれる特務機関が存在すると言われている。
 ミスカトニック学院が開設されてから既に数百年。
 学術都市の帰属国家が変遷していっても、諜報機関“蜘蛛の糸”は、学院設立当初からずっと変わらずにハルケギニア各地の情報を収集し、シャンリットの地の先進的な技術が無闇に外に出ないように目を光らせているのだという。





“「将軍。君の縄張りでは何か怪しい動きがあったかね?」「みゃお、みゃあお」「にゃああん」”
“「いえ、ありません、長老。ガリアの手の者も処分できましたし、今のところは大過なく治められているように思います」「にゃうにゃう」「まーお」”
“「それは重畳。引き続き頼むぞ、将軍。“蜘蛛の糸”の名の下に全ての情報を集めなくてはならん。面倒だが、ここの教師長には若干借りがあるからな」「なーご」「うにゃあ」”
“「心得ております、長老。こちらの土地の新人たちの教育も順調ですし、近いうちに借りは返せるでしょう」「にゃあああ」「みゃおお」”

 これは日々の彼らの活動の一端を、ある雑誌記者の男が運良く記録したという極秘の会話情報である。
 記者は音を記録する魔道具をある路地裏に仕掛けて、“蜘蛛の糸”の構成員と思われる者たちの会話を収めるのに成功していた。

 “将軍”や“長老”と呼び合っているのはコードネームのようなものだろうと推測される。
 “借り”という言葉から推察するに、彼らは特務機関“蜘蛛の糸”の中でも、外様の雇われ者たちなのかも知れない。
 教師長への借りということから、あの千年教師長ウード・ド・シャンリット――確かウードⅧ世だかウードⅨ世、あるいは不確かな噂によると教師長は学院設立者である僭称教皇ウードⅠ世・ド・シャンリット以来同一人物が務めているのだとか――が関係しているのだろうことが予想される。

 猫の鳴き声がやたらに五月蝿いのは、この“蜘蛛の糸”構成員が密会をしていた場所が定食屋が軒を連ねる路地裏の一角であったためである。
 猫たちは残飯やそれを目当てに集まってくる鼠をその鋭い牙と爪で捕らえて自らの糧にしているのだ。
 あるいは鼠よりもずっと大きな獲物も捕まえているかも知れない。

 特務機関“蜘蛛の糸”の構成員が何故このような猫の多い場所を選んで密会に使っているのかは不明である。
 というより、これを録音した記者というのも、特務機関に関するスクープを狙ったわけではなくて、猫専門誌『週刊にゃんにゃん倶楽部』の特集記事『これが噂の猫集会! 頑張って猫語を解読しよう!』という企画のために録音魔道具を路地裏に仕掛けていたのだ。
 思いがけずスクープを得た彼だが、これは彼にとって幸運ではなく、寧ろ不運の類であった。

 このままでは元々の企画である特集記事『これが噂の猫集会! 頑張って猫語を解読しよう!』には使えない。
 かと言ってハルケギニアのどの諜報機関よりも優秀だと噂される彼ら“蜘蛛の糸”の情報をほんの少しでも流出させて無事で居られるとは思えない。
 “蜘蛛の糸”関連の情報なんて、危険すぎて上司に相談することも出来ないだろう。

 記事の締切りまであと三日。
 猫専門誌『週刊にゃんにゃん倶楽部』の出版社のデスクの一角で、猫大好きの記者――名前をロンドルフ・カルティールと言う――はすっかり困ってしまっていた。

「はぁ、どうしたものかな……。もう締切りまで余り猶予が無いというのに」

 ロンドルフのデスクの上は猫グッズで溢れかえっている。
 文鎮は丸まったブチ猫の形をしているし、透明のデスクマットの下にはシートに印刷された子猫たちの集合写真が敷かれている。
 机の傍らに置いてある彼の通勤バッグにも、福を招くという立ち上がって手招きする猫の形の飾りが付けられている。

 当然、ロンドルフの持つ、アーカムの全住人に配布されるIDカード型マジックアイテムの表面にも、猫を意匠化したキャラクターが描かれている。
 そこに描かれたタレ目の金色の縞模様の猫のキャラクターは同僚の女性編集者にも好評である。
 そのキャラクターを描いたロンドルフ自身も会心の出来だと思っている。……実物の猫には遠く及ばないものの。

 悩むロンドルフの足元に柔らかくまとわりついて来るものが居た。

「なーご、まお、あお、にゃお」

 それは猫専門誌『週刊にゃんにゃん倶楽部』編集部で飼われている猫の内の一匹である。
 タレ目がちの目をした、金色に輝く麦畑のような毛並みが目を引く美しい猫だ。
 この凛々しく非常に気品のある金色猫は、特にロンドルフに懐いている。ロンドルフのIDカード型マジックアイテムに描かれているキャラクターも、この金色猫がモデルである。

「うん? 慰めてくれてるのかい、ウル」
「なーぁ」

 ウルと呼ばれて、金色縞の美猫は軽く返事をする。
 彼女は、とん、といかにも軽い調子で毛足の短い絨毯が敷かれた床を蹴り、ロンドルフの膝の上へと移動する。
 どうやら彼女はロンドルフを慰めたかった訳ではなく、単にお気に入りの居場所である彼の膝の上へと移動したかっただけのようだ。

 気まぐれなウルの行動を見て苦笑の色を滲ませつつも、ロンドルフの顔はだらしなく脂下がる(やにさがる)。
 そして早くも膝の上で丸くなってごろごろと喉を鳴らす彼女の金色縞を、毛の流れに沿って撫でる。
 肉食動物独特の靭やかな筋肉の感触を楽しみつつ、ウルの耳の後ろや喉の下、頭頂部を撫でてやると、もっとやって、とでも言いたげに彼女は身をくねらせる。

 ごろごろ。ぐるぐる。
 美猫のウルが喉を鳴らす音がロンドルフの耳に届く。
 ウルの長い尻尾を弄んだ時には若干煩げに後ろ足で手を払いのけられたが、そういった反応を一頻り楽しんだ彼は、思考を切り替えて自分の担当記事を如何にするべきかに思考を戻す。

「まあ、取材し直すしか無いんだけどね」

 とは言うものの、彼の膝の上を占拠している金色縞の猫姫が退いてくれないことには、彼も席から動けない。
 ウルを起こせばいいじゃないかって? まさか、とんでもない。眠っている猫の邪魔をするなんて、それは何よりも重い罪だ。
 同僚の女性編集員が、いーなーロンドルフ君ばっかりずるいなー、と言いながら、ウルを独占しているロンドルフを羨ましそうに見ている。

 結局、実った麦穂のような美しい毛並みを持つ猫姫――ロンドルフの膝に乗る前に彼女は猫専門誌『週刊にゃんにゃん倶楽部』の編集長から、上等な仔牛肉の餌を与えられて満腹になっていたらしい――が、ロンドルフを解放したのはこの五時間後であった。







 蜘蛛の糸の繋がる先は 外伝7.シャンリットの七不思議 その4『特務機関“蜘蛛の糸”』







 ロンドルフ・カルティールは予め路地裏に仕掛けて置いた録音魔道具――猫の気配に反応して録音スイッチが入るという優れもの、ロンドルフ制作であり特許申請中――を回収していく。
 彼が仕掛けていた録音装置は、先日怪しげな特務機関構成員の会話が収録されたもの一つだけではなかった。
 ロンドルフの長年の観察と経験と猫愛によって『ここはきっと猫集会が開かれてるに違いない!』とピンと来た場所に仕掛けていた、その録音装置の内の一つを回収した彼はしかし落胆する。

「はあ、また壊されている……」

 彼が物陰から回収した録音装置は、完膚なきまでに破壊されていた。
 何か鋭い刃物を叩き付けられたかのようにズタズタにされており、そこから録音記録をサルベージすることは絶望的だろう。
 何者かがこの録音装置に気が付き、その何者かに取って好ましくない何らかの発言を削除するために、録音装置を物理的に破壊し尽くしたのだろう。

 一縷の望みを懸けて、ロンドルフは再生スイッチを押す。
 装置からノイズが溢れ出る。

――ざ、ざざ……、k……壇騎士……が、ざざ、みゃあお……ざ、ざ、ざ……k認……ざ、ざざざ……、なお、なーご、監s……zっこう……ざ、ざ、にゃ――

 一部分だけしか聞き取れなかったが、やはり猫たちの声だけではなくて、何者かが話をしている声が聞こえる。
 録音魔道具を破壊した何者かは、この会話と思しき部分を盗聴者――この場合はロンドルフ・カルティール――に聞かせたくなかったのだろう。

 ロンドルフはいけないと思いつつも、その録音部分を繰り返し聴いて、会話部分を聴き取ろうとする。
 彼は好奇心という面でも猫に似ていた。
 耳を欹て(そばだて)て、判然としない部分を繰り返して確認しようとする。

「“k……だんきし”。花壇騎士、か? いや言葉の間隔的には、もう一つ前に、何か。北花壇騎士? もしこれが噂のみで語られる諜報機関“蜘蛛の糸”の構成員の会話だとしたら、諜報機関繋がりで北花壇騎士、なのか? いや、まさか。でも前のテープにも確か“ガリアの手の者は処分した”とか」

 ぶつぶつと薄暗い路地裏で壊れた録音機に残された音声を繰り返し聴きながら、ロンドルフは立ち尽くしている。
 じっとしている彼の足元に、多くの猫たちが集まってくる。
 ロンドルフ自身が猫に好かれるフェロモンのようなものを出しているのかも知れないし、あるいは彼の着衣に付着した金色の美猫ウルの匂いに惹かれて猫たちが集まっているのかも知れなかった。

 猫たちが彼の下に次々と集まっていく。
 もふもふ、もふもふ、もふもふ。
 もふもふもふもふもふもふもふもふもふもふもふもふ……。

 猫に包まれたロンドルフの精神はいつもの限界以上に研ぎ澄まされ、壊れた録音記録から意味のある情報を掬い上げていく。
 何度も繰り返し聴いているうちに、彼は幾つかのそれらしい単語を聞き取ることに成功する。

「“北花壇騎士”、“確認”、“監視”、“続行”? 聞き取れるのはそれくらいか? ……『北花壇騎士が確認された。監視を続行する』?」

 その時、ざ、と録音装置のノイズではない音――靴音――が聞こえた。

「へえ、詳しく聞かせてもらえないかい?」

 ロンドルフの足元に集まっていた十数匹の猫たちが、一斉に声がした路地の入口の方を見遣る。
 路地の入口には古式ゆかしくマントを羽織った大柄な男が立っていた。
 猫たちは、飛び退るでもなく、ロンドルフを守るように立ち位置を変えると、毛を逆立てて威嚇する。

「おあああああ」「なぁぁーー」「まああああああ」「ふぅううーーっ」

 白猫、黒猫、キジ猫、ブチ猫……。
 集まった猫たちは、まるで生まれる前に死んだ水子の泣き声のような声で闖入者を威嚇する。
 猫を見て、路地に立った闖入者の男は顔を顰める。

「また猫か。この街区は猫が多いな。非常に不快だ。自己免疫疾患、アレルギーと言うのだったか。全く、面倒なものだ。そうは思わないか?」

 けほけほと軽く咳をしながらマントの男は、自分の口や鼻をマントで覆う。
 見ればマント男は目も充血し、若干離れた位置に居るロンドルフからも分かる程に明瞭に鼻を啜っている。
 きっと酷い猫アレルギーなのだろう。

 ロンドルフはマント男に若干同情する。
 もし自分が猫アレルギーだったならと考えただけで怖気が走る。
 ああ、猫の居ない生活だなんて絶対に耐えられない!

「ああ、それで。ずびっ。何の話だったか。ぐすっ。はあ。ああ、そうだ。北花壇騎士がどうとか言っていたな。詳しく聞かせてもらいたいのだが」

 そう言ってマント男はロンドルフに近づこうとするが、大勢の猫たちがまるで結界のようにロンドルフを守っているので、猫アレルギーと思しきマント男は近づけないようであった。
 猫たちがマントの男を塞き止めている間に、ロンドルフは路地の反対側へと逃げ出す。

――猫ちゃんたちありがとう! 僕が逃げたらすぐに君たちも逃げるんだ!

「あ、おい待て!」
「ふにゃああああ!!」
「うわ、おい、こっち来るな! ぐす。やめて来ないで」

 じりじりと包囲網を狭める猫たちに気圧されて、マントの男は下がる。

「なぁぉおぉぁああああああ!!」
「ぎゃああああ!?」

 路地裏に猫たちの声と男の悲鳴が反響した。





 ロンドルフは困っていた。
 締切りまでもう全く時間がない。
 何度か猫集会が行われてそうなところに行ったが、その度に、先日遭遇した男が待ち構えていたのだ。

 猫アレルギーなら猫のいる場所には行かなければいいものを。
 だがロンドルフはどうやらあの猫アレルギーの大男に完全に目を付けられてしまったらしい。
 あの大男は恐らく“蜘蛛の糸”の構成員を追っているのだろうが、それでロンドルフを追いかけるのはお門違いも良いところだ。

 とりあえず編集長に特務機関“蜘蛛の糸”の事は伏せて、変な男に取材を邪魔されて録音機も破壊されてしまっていることを相談した。
 録音機破壊犯と猫アレルギーのマント男は別だろうが、面倒臭いので混同して相談している。
 もしも同一犯なら、録音記録は破壊されるのではなくて、大男が持ち去っているはずだ。

「編集長」
「なんだにゃ? ロンドルフ君」
「あの、僕の企画なんですけれども、変な男に目を付けられてしまってですね……」

 何処と無く福々しい猫を思わせる顔つきの編集長は、眉根を寄せて困った顔で頷いた。

「ロンドルフ君、それならば代わりの企画は用意しておくにゃ。それとその怪しい猫アレルギーの男についてだが、幾つか伝手を使って調べさせてみるにゃ」
「ありがとうございます、編集長」
「何、気に病むことはないにゃ。私も丁度温めていた企画があったから良かったにゃ。猫集会の企画も引き続きよろしくにゃ」

 特徴的な語尾の編集長(キャラクター作りの一環だと言うが、どこまで本気か不明)のデスクを後にして、ロンドルフは自分の机に戻る。
 彼の机の上には壊れた録音魔道具の残骸が広げられている。
 これから録音魔道具の修理を行い、出来る限りの記録のサルベージし、また完全に壊れた分を補充するために新しい録音魔道具の作成を行わなくてはならない。

 ロンドルフは先ずは机の上に広げられた残骸たちの中から、記録媒体部分を『念力』の魔法で取り出す。
 損傷の激しい物も、『錬金』の魔法で繋げ合わせて、どうにか復元できないかと試みる。
 十数個の記録媒体部分を復元し、それを再生用のマジックアイテムに接続する。

 ノイズ混じりの音が流れ始めるが、以前と異なり何か意味ある単語を拾い上げることは出来なかった。
 猫分が足りないせいか、いまいち集中力が高まらないようだ。

 ロンドルフは諦めて、新しく録音用の魔道具を作ることにする。
 用意するのは1リーブルほどの鉄の塊。
 学術都市の様々な商店で『錬金』材料用に売られているものだ。

 ロンドルフは自分のIDカード型マジックアイテムを鉄塊に翳して、魔法を行使する。

「じゃあ、仮想記録領域から予め作っておいた設計図をダウンロードして……。『錬金』!」

 鉄塊は徐々に姿を変えて、五つほどの塊に分かれ、ロンドルフが設計しておいた四角い形の録音魔道具へと姿を変える。

「うーむ、作る手間は全然掛からないんだけど……。内部部品に金や銀を少し元素変換して使ってるから、今月も魔法使用料金が嵩んで結構生活費がピンチになるなあ……。経費に出来ると良いけどどのみち家計のキャッシュ・フローが悪化するなあ」

 この学術都市アーカムに於いて、全住民は魔法使用免許さえ持っていれば、メイジの才能の有無に関わらず都市全体を覆う巨大ネットワーク状のマジックアイテムの補助によって魔法を使うことが出来る。
 とはいえ、何の代価も無しに使えるわけではない。
 電気や水道と同じように、魔法の使用においても使用料金が発生し、それに応じて口座からお金が引き落とされるのだ。

 ちなみにIDカード型マジックアイテムは、IDカード兼魔法使用端末であると同時に銀行通帳でもある。
 市民たちにはIDカード型マジックアイテムの配布――つまりは住民登録――と同時に、月々のベーシックインカムを振り込むための銀行口座が学術都市から与えられている。
 そのベーシックインカム振込口座から、使用した魔法に応じて魔法使用料金が毎月引き落とされるのだ。

 ロンドルフが口座の残高を心配しているのは、鉄から金や銀を『錬金』するのはちょっとばかりお高いからだった。
 錬金素材を扱う商店では、ロンドルフが用いたような鉄塊や他にも純水などが売られている。
 貴重品(金銀)や危険物(放射性物質やニトロ系化合物)の『錬金』は、それに必要な使用料金も高額であるし、また免許制度によって一度に作成できる量などが厳しく統制されている。

 それに加えて全住民の魔法使用履歴は常に記録が取られているため、違法なことは早々出来ないようになっている。
 常に監視されているというわけではないが、ログを辿ることは簡単なようになっているのだ。

 ただし、IDカード型マジックアイテムを介さない“天然モノ”のメイジ――ハルケギニアの他地域における所謂“メイジ”――による魔法は使用記録が残らない。
 そのため彼らによる違法行為は水面下では多いのではないかと言われている。

 学術都市アーカムは学ぶ意志がある者には様々なサポートを行い、求める知識を惜しみなく開示する。
 それが敵国人であろうとも、テロリストであろうともだ。

 だがそういった危険な知識を求めるものは、いくら巧妙に痕跡を隠しても、密かにこの都市の特務機関によってマークされることになる。
 特務機関“蜘蛛の糸”は如何なる方法によってか、学術都市の全住民の生活を監視しているとも噂されている。
 秘密裡にテロを企画していたと思われる者たちがいつの間にかどこかに居なくなってしまう――おそらく“蜘蛛の糸”に消されたのだ――というのはこのシャンリットではポピュラーな都市伝説である。
 
「よし、出来上がり! っと?」
「まーお」

 『錬金』によって特製の録音魔道具を鉄塊から錬り出し終えたロンドルフの膝の上に、金色縞の美猫ウルが飛び乗る。
 彼女はロンドルフの顔を見上げてフンと鼻を鳴らすと、膝の上でぐるりと回ってみせる。
 その際に彼女の長い尻尾がロンドルフの鼻を擦ったのは、ひょっとすると彼女なりの労いの気持ちなのかも知れない。

「ふふふ、『お勤めご苦労』って意味かな、お姫様」
「なお」

 鷹揚に頷いたような雰囲気で彼女はロンドルフの膝を前脚でてしてしと叩く。
 どうやら寝やすいように膝を整えろということらしい。

「喜んで。はいどうぞ」
「うるるる……」

 ロンドルフの膝の上で丸くなるウル。
 ウルを片手で撫でつつ仕事を続けるロンドルフ。
 今日も彼の帰りは遅くなりそうだったが、彼の顔は幸せそうなのでまあ構わないのだろう。





 その日の帰り道。
 結局ロンドルフが職場を出たのはもう日が変わろうかという時間であった。

 ちなみに金色縞の雌猫ウルは、その時間までロンドルフの膝の上で眠っていたが、欠伸をしながらく~っと伸びをして彼のことを振り向きもせずにさっさとどこかに出ていってしまった。
 そんな気まぐれクールな所がまた可愛いのだ。

 脳内に保存したウルの艶姿をスライドショーにして再生しながらロンドルフは家路を急ぐ。
 上級者になると彼が魔道具を鉄塊から『錬金』したように、脳内妄想図から実物を錬り出すことも出来るそうだが、まだ彼はそこまでの境地には達していない。
 精精脳内フォルダに格納した映像を写真として投影することくらいしか出来ないし、投影したそれも大分脳内のイメージからは歪んでしまう。

 今日もウルちゃんは可愛かったなあ~と考えながら夜道を歩くロンドルフ。
 その彼の前に立ちはだかる怪しい影。
 ここ数日彼に付きまとっていた、時代錯誤にマントを纏っている大男だ。

「……今度こそは逃さないぞ」
「……うん? あ、どうも」
「『あ、どうも』じゃ無い。調べさせてもらったぞ、ロンドルフ・カルティール。猫専門誌の記者。今日は周りに猫も居ない。職場も自宅も場所を押さえさせてもらった。じっくりと聞かせてもらおう、北花壇騎士団がどうこうと言っていたのはどういう事かだったのか、な」

 ジリジリとにじり寄ってくる大男。
 確かに今日は、いつも大男とロンドルフを隔てていた猫の結界(バリケード)は存在しない。
 う、とロンドルフは気圧されて後退る。彼も猫が居なければ真の力(並外れた集中力)を発揮できないのだ。

「は、話を聞かせてもらうと言ってもですね。僕はしがない猫雑誌の記者でしか無くてですね? 貴方が求めるような情報は何も……」
「何それはお前の記憶に直接聞けば分かる話だ。『読心』の魔法は知っているだろう?」

 さあっとロンドルフの顔が青くなる。
 『読心』とは記憶や考えを読む水魔法だ。
 それを使われた者は、廃人になる恐れもあるという魔法だ。

 学術都市を統括するインテリジェンスアイテムから提供される、IDカード型マジックアイテムの端末から操作選択して使える『読心』の魔法ならば、使用されて記憶を読み取られた者は、精神に何の影響も受けないだろう。
 IDカード型マジックアイテムを通じて提供される魔法は、効果範囲などが限定され、安全なように予め制御されているのだ。
 だが、高度な技術を必要とする精神系魔法『読心』を、免許がある者ならば誰でも安全に使えるようにと規格化するためには、学術都市に於いてどれだけの人体実験の犠牲者が必要だったのかと考えると、薄ら寒くなるだろう。

 この目の前の如何にもメイジ然とした男が言う『読心』とは、しかし、高度に規格化された学術都市の標準魔法では無いだろう。
 ロンドルフの目の前のマントの大男は、明らかに学術都市の外からやってきたメイジであり、彼が使う魔法はこの学術都市のルールに縛られない無法の魔法だ。
 『読心』を施されたとして、ロンドルフ自身が無事で居られる保証は何処にもない。

 じりじりとにじり寄ってくる大男に対して、ロンドルフは腰が抜けてしまって動けない。
 恐らくはガリア北花壇騎士団の所属と思われる大男の本気の殺気を叩き付けられて、ロンドルフは縫い留められたかのようにその場を離れられない。
 あるいはそういった恐慌を来すような魔法が既にこの場に充満しているのかも知れなかった。

「さあ、じっくりと聞かせてもらおうか。北花壇騎士団について。前任者が消息不明になった件について」
「な、な、な、なにも、し、しし、しらない……」
「だからそれは直接記憶を覗けば済む話だ。そろそろ眠れ。『スリープ……」

 しかし、今にも魔法によって眠らされて連れ去られるという所で、大ピンチに陥ったロンドルフを助ける者が居た!

 警官?
 いや違う。
 この街の警官は夜中に見回りに出かけるほどに熱心ではない。

 学術都市の管理インテリジェンスアイテムが察知して瞬時に警官ゴーレムを創りだして送ってきた?
 違う。
 都市全域管理インテリジェンスアイテムは、あらゆる出来事を記録はしているがいちいち路地裏全てをリアルタイムで監視はしていない。

 では何か。
 月夜に翻るあの影は何者だ!?



「にゃああああああ!!」
「っ!?」



 猫だ!
 猫の大軍だ!
 三角の愛らしい耳、鋭い瞳の光、靭やかな肉体、獲物を引き裂く鋭い爪と牙!
 
 空中に転移するようにして次々と現れた猫たちは、その身を翻してマントの大男を襲う。
 大男は防御用の水の膜を纏いながらその空襲を避けて、後退する。

「猫!? 何で猫が!?」

 混乱しつつも、大男は自分を覆う水の膜から氷柱を何本も創り出して発射し、路地を囲む屋根から襲ってくる猫たちを迎撃しようとする。
 しかし猫たちは身体を捻り、空中で姿勢を制御するといとも優美にその冷たい死神の槍から逃れた。
 数匹はあわや氷柱に貫かれる、という所で、宙を蹴るような動作をしたかと思えば、忽然と空中から消失してしまった。

「ふむ、どうやら新兵たちも空間跳躍をモノに出来たようだな」
「うわ!?」

 氷の弾幕を撒き散らすメイジと、それをかわして攻撃を掛けようとする数匹の猫たちの戦闘を呆然と見ていたロンドルフに話し掛ける者が居た。
 落ち着いた歴戦の勇士を思わせるような声を発していたのは、ロンドルフの足元に何時の間にか凛として座っていた猫であった。
 彼はその声に似つかわしく、身体には無数の古傷が刻まれ、尾は何かの邪悪な化物にかじり取られたかのように短くなっており、耳にも傷があって、それが彼により一層の威厳を与えていた。

 唖然とするロンドルフに構わずに、古強者然とした猫は話し続ける。
 もしもロンドルフが非常に高い集中力を発揮していたならば、この猫の渋い声が、初めに猫集会で録音されていた“将軍”と呼ばれる“蜘蛛の糸”の構成員と思われる男の声と同じものだと気が付いただろう。

「ロンドルフ君。君にはいつも眷属が世話になっている。特にあの美しいウル姫からは君を守るようにお願いされたのでね」
「ウル……ちゃん……が?」
「“お気に入りの寝床だから守ってあげて、将軍”だとさ、色男。まああのマントの男については我々の後始末でもあるのだがね。北花壇騎士団の前任者を始末したのは儂らであるし」

 つい、と猫将軍は未だに空中戦を続ける猫たちと大男の方を見る。

「新兵たちも自在に空間跳躍法を身に付けているようだ。儂の雇われ教官のような役目もこれで終了だな。“蜘蛛の糸”からの借りもこれで返せただろうからな」

 釣られてロンドルフも猫たちとメイジの大男の戦闘を見る。
 猫たちはぴょんぴょんと自在に空間を転移して渡り、防御の水の膜を越えてメイジの死角に飛び込んでは、彼の四肢の腱を狙って切り裂いていく。
 見れば、もう既にメイジの男の片腕は血が滴り、全く動かないようであった。

「“借り”とは、一体?」
「ふむ、まあ君になら話しても良かろう。遠い昔に、ここの矮人たち――蜘蛛の眷属――に、儂らとムーンビーストや土星猫たちとの戦争に加勢してもらったことがあったのだよ」
「矮人?」
「うん? 知らないのか? ここの教師長の配下のゴブリン共だ。まあ気にしてはならん。好奇心は猫をも殺す、と昔の格言は言うからな」

 見る間にメイジの大男は血濡れになり、遂には、どう、と倒れ伏す。
 大男の気管は食い破られており、ひゅーひゅーと音がするだけで魔法の詠唱は出来ないようであった。
 彼が卓越したメイジならば油断はできないかも知れないが。

「ふふふ、好奇心は猫をも殺す、か。彼ら北花壇騎士団も過ぎた好奇心が無ければこうやって無残な姿を晒すこともなかったろうに」

 猫たちは倒れ伏した大男の服の裾をそれぞれ口に咥えると、タイミングを合わせてどこか彼方へと大男の身体も引き連れて跳躍する。
 老いた猫将軍は、新兵たちの空間跳躍が成功したのを見届けると、ロンドルフに一言話しかける。

「ではさらばだ、ロンドルフ君! ウル姫と編集長によろしくな……」

 ロンドルフは事態の推移についていけずにポカンと口を開けて、ぴょんと跳ね飛んで空間に溶け込むように消えていく精悍な猫将軍を見送った。

「……夢か?」

 頬を抓ってみるが、痛みは現実のものであった。





 翌日オフィスに出勤したロンドルフを迎えたのは、誰かの指を得意げに咥えた金色縞の美猫だった。
 彼女はその何者かの指をぽとりとロンドルフの前におくと、ちょこんと座ってキラキラと輝く瞳で彼を見上げた。
 どうやら彼女は、昨夜の獲物のお裾分けをロンドルフの元に持ってきてくれたようだ。

 『褒めて褒めて』と言わんばかりに見上げてくる彼女を見て、ロンドルフはどうしたものかと顔を引き攣らせる。
 困った彼が苦笑して編集長を見れば、編集長は福々しい顔をにんまりとした笑みで更に深めていた。
 そしてそっと唇に指を当てる。

 “蜘蛛の糸”のことや、老猫将軍たちのことは秘密にしろということだろう。

 ……誰が好き好んでそんな危険な話を広めるものか!





 ・『特務機関“蜘蛛の糸”』の噂
  学術都市の秘密を探る者たちを狩る特務機関があるそうだ。
  規模も不明、構成員も不明、何もかも謎に包まれている。
  ……おや、こんな時間に誰か来たようだ……。

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ロンドルフ・カルティールの特殊技能(ハウスルール):【猫好き(バーストの加護)】
 猫が半径5メイル以内に居る場合、あらゆる判定時に【(1d4×周囲の猫の数だけダイスを振る)-1】を出目から減算して成功確率を上げる。周囲に猫が居ない場合は適用できない。
 例:特殊技能適用前→【聞き耳】50に対して1d100(100面ダイスを振って50以下の値を出す)のロールを行う。1d100で61の目が出たので61>50で【聞き耳】の判定には失敗。ロンドルフは何の情報も得ることは出来なかった。
   特殊技能適用後→周囲に5匹の猫がいる。ロンドルフは猫の数に応じてダイスの出目を減算出来る。【聞き耳】50に対して1d100(100面ダイスを振って【聞き耳】の技能値である50以下の値を出す)のロールを行う。1d100で61の目が出たが【猫好き(バーストの加護)】を適用する。周囲の猫の数に応じて4面ダイスを振る。周囲にいる猫は5匹なので、4面ダイスを5回振る。4面ダイスそれぞれの出目は(1,2,4,3,2)=合計12だった。1d100で出た目61から特殊技能【猫好き(バーストの加護)】を適用して(12-1)を引くと、技能判定の値は61-(12-1)=50となり、その結果、ロンドルフは聞き耳の判定に成功する。彼は壊れた録音記録から幾つかの意味ある単語を拾い上げることに成功する。

ラブクラフト御大は海産物が嫌いで思わず邪神にしてしまうくらいなのですが、その一方で非常に猫が好きな人でもあったそうです。
そしてラブクラフト御大の話では猫が時空間跳躍をやらかして邪神の崇拝者(月棲獣とか)と戦う話があったりします。

つまり何が言いたいかというと、猫かわいいよ猫。

     ,..,_
  ,rfY'ヽ  \ヾ`'''ヽ‐y'⌒ヽ
  ゞ r;; ヽ  〉    '、 r ;リハ
  ゞ.,    ゙;  ;;:      fヘi
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2010.11.21 初投稿
2010.11.23 誤字修正



[20306]   外伝7.シャンリットの七不思議 その5『朽ち果てた部屋』
Name: へびさんマン◆29ccac37 ID:4dc27135
Date: 2011/08/16 06:41
 ジョルジュ・オスマンは、学術都市シャンリットの研究中枢区アーカムにある中央大博物館に勤める学芸員(キュリエータ)である。
 身の丈3メイルに迫る巨人症の青年であり、恐らく学院内で“『巨人』のジョルジュ・オスマン”と言えば知らない人間は居ないだろう。
 ジョルジュの専攻は古文書の修復と解析であり、中央大図書館(超巨大な直方体状の建物)に勤める古書回収部隊の面々とも仲が良い。

 古書回収部隊が何処からか――一説には次元の狭間や深海の泥中から――回収してくる書物の中には、何語ともつかない言語で書かれた物も含まれる。
 ジョルジュはその巨体に似合わずボロボロの資料を修復する手腕に長けており、多くの古文書が――陶片や木板、石板でもパピルスでも何でも――彼の下に持ち込まれる。
 もちろんそれ以外の学芸員として必要な技能も粗方、人並み以上に修めている。

「ジョルジュさーん! これ、よろしくお願いします!」
「うを!? 急に入ってくるな、手元が狂うだろうが、ウジェーヌ!」

 学芸員に学術都市から与えられたアトリエで修復作業をするジョルジュに、彼の助手であるウジェーヌ・ドラクロワが入ってくる。
 ブラウンの髪と瞳を持つ助手ウジェーヌの手には木箱に厳重にかつ丁寧に納められた古文書があった。
 恐らくは大図書館の古書回収部隊からの依頼だろう。

「新しい依頼か? ウジェーヌ」
「ええ。どこぞの墳墓だったかネクロポリスだったかから回収チームが見つけてきたものだそうです、修復と複製の依頼ですね。発掘時の周辺状況の詳しいデータはいつものように添付の書類を見てください」
「ああ、その辺りに置いといてくれ」

 ウジェーヌが入ってきた扉のほうを振り向き見もせずに、ジョルジュは応対する。
 ウジェーヌは持っていた木箱を入口近くの棚に置くために部屋の中に進む。
 縦長のアトリエには、左右に陳列棚が並んでおり、その奥では巨人ジョルジュが若干背を丸めて化石化した葉のクリーニング作業をしている。

 棚は巨人症のジョルジュに合わせて作ってあるため、165サントほどの身長しか無いウジェーヌでは、棚の高さによってはモノを置くにも踏み台が必要になる。
 修復が終わっている資料も棚に置かれ、ジョルジュやウジェーヌの研究を待っている。
 棚に置かれたそれらの資料(ただしオリジナルではなくて複製)には学術都市全体で共通的に使用される各資料に固有の通し番号(資料ID)と簡単な説明を書いたラベルが貼られている。

 ラベルに書かれている説明からは“エルトダウン・シャーズ”、“グハーン・フラグメンツ”、“ドジアンのスタンザ”などという文字が読み取れる。

 これらは始祖光臨以前の遙か古代の超文明を記録したものと見られる錚々たる資料だ。
 このアトリエに置かれている物は全て、ジョルジュが修復を行ったものだ。
 修復されたオリジナルの資料は通し番号(資料ID)を付けられて、中央大博物館や大図書館に保管されている。

 あらゆる資料は学術都市に於いては共通の資料IDによって管理されている。
 論文で、ある資料について引用する際には資料IDを必ず付記しなくてはならない決まりだ。正式に発表されれば、論文の方にも当然通し番号が付けられて管理される。
 そうすることで資料から関連する論文を逆引きすることが簡単になるのだ。先行研究の参照も簡単になる。

 茶髪の助手ウジェーヌは、様々な修復中の陶片や研究中の石板の破片が並んでいる棚のうち、空いているスペースに、持ってきた木箱を置く。
 ジョルジュにとっては胸ほどの高さだが、平均程度の身長しか無いウジェーヌにとっては背伸びするような高さだ。

「よいっしょ、っと」
「おいおい、落とさないように気を付けろよ。大体『念力』の魔法を使えばよかろうに。棚が高くて大変だろう?」
「え? いや、制御ミスって壊したらマズイじゃないですか」

 ウジェーヌは若干魔法制御が甘いところがあると自己申告しており、余り魔法を使いたがらない。
 この街でIDカード型マジックアイテムを介して魔法を使う(正確には端末となっているIDカード型マジックアイテムを通じて学術都市を覆う巨大ネットワーク状インテリジェンスアイテムに魔法使用を代行させる)と、それに応じた費用が発生する。電気料金と同じようなものだ。だがウジェーヌが魔法を使わないのは、魔法使用に掛かる費用をけちっている訳ではないだろう。
 学術都市に於いてキュリエータの助手はそれ程薄給ではないし、業務時間中――この街の研究者にありがちなことではあるが業務時間とそれ以外の時間は曖昧だ――ならば経費として魔法使用料金を申請できる。

「貴重な資料を落とされた方がまずいことになる。気をつけてくれよ?」
「あはは。はい、気をつけます。この間なんて他の実験室の手伝いで実験動物の脳だけ潰しちゃったことがあって……」
「おいおい、何をどうやったらそんな事になるんだ」

 巨人ジョルジュに合わせた特注の作業台の上には、ある地層から出土した、文字列が刻まれた植物の葉の化石があった。
 ジョルジュは慎重に葉の化石を掘り出していた手を止めて振り返り、入り口のウジェーヌの方を見る。
 ジョルジュの右目には精密作業用のルーペが嵌っており、もう何日も作業室に篭もりっきりなのか髭が伸び放題になっている。

 研究者の嗜みとしてジョルジュは通称“引き篭もり魔法”と呼ばれる、体内や体表の排泄物の分解し、必要な栄養を空気中から『錬金』して摂取し、さらに疲労回復がセットになった研究廃人御用達の魔法を身に付けている。
 ジョルジュの草臥れた格好から、恐らくは一時も机から離れずに化石のクリーニングを行っていたのだろうと言うことが見て取れる。
 振り向いたジョルジュの視界に、白衣を着たブラウンの髪の何処か人懐っこい印象のウジェーヌの顔が映る。

「マウスをですね、持ち上げる時にですね」

 助手ウジェーヌは小動物を持ち上げる動作をしながら話を続ける。

「こうやってマウスを『念力』で持ち上げようとしたらですね……。マウスが急に動いたものだから『念力』の作用点がずれてですね……」
「ああ、それでぐちゃっと?」
「ええ。ぐちゃっと。脳味噌がぺちゃんこに」

 はあ、と大男ジョルジュは溜息をつくと、椅子の背凭れに寄りかかり、眉間を揉みほぐす。
 修復作業による若干の疲労もあるが、このおっちょこちょいな助手をどうしたものかと思案してしまったのだ。

 ジョルジュとウジェーヌの凸凹コンビはもう数年の付き合いだが、どれだけ注意をしてもウジェーヌが手ひどい失敗(ファンブル!)をすることは無くならなかった。
 まるで何かに呪われているかのように一定の確率で失敗をやらかすのだ。きっとダイスの神にでも呪われているのだ。
 だが稀に、最悪な失敗をやらかすのと同じくらいの頻度で、有り得ないくらいに最上の結果(クリティカル!)を導き出すこともあるから、付き合いをやめられないのだ。

 出会った時から全く相貌が衰えないウジェーヌの人懐っこい子犬のような顔を、疲れ目で凝視して、ジョルジュは溜息をつく。
 助手のウジェーヌが老けないのは多少気になるが、きっとエルフか吸血鬼なんだろうと思ってあまり気にしない事にしている。
 この街にはエルフや吸血鬼も変装魔法で溶け込んでいるというのは、よくある噂だが、信憑性は高いと思われる。学究の徒であれば、異教にも人外にも、この街は寛容なのだ。

 老けないことで有名な教授や研究員というのは、この学術都市シャンリットには、教師長ウード・ド・シャンリットを初めとして、両手足の指でも数えきれないほど沢山居る。
 きっとウジェーヌもそういった人外連中と同じような出自なのだろう、とジョルジュは考えている。
 まあ、人並み以上に優秀な者なので、何も無い限りはこのままの付き合いが続いていくだろう。







 蜘蛛の糸の繋がる先は 外伝7.シャンリットの七不思議 その5『朽ち果てた部屋』







 学術都市シャンリットは元々は旧トリステイン領シャンリットであり、その中枢街区アーカムのミスカトニック学院を中心として拡大した大学・専門学校群はシャンリット領全体を緩やかに統合して一つの都市圏にしてしまっている。
 約千年前の発動された『シャンリット領学術都市化計画』の顕著な成果である。その計画の提唱者の願い通り、シャンリットはハルケギニア中の知識を吸い蒐める機関となっているのだ。
 学術都市の中核となった私立総合大学であるミスカトニック学院の創設者はブリミル歴5000年前後のトリステイン貴族(一代子爵)であったウード・ド・シャンリットだ。
 彼は謎の多い、というか不気味な噂の絶えない人物であり、“僭称教皇”だとか“史上最大の異端者”とも言われ、多くの創作小説ではエルフと並んで人気のある悪役である。

 学術都市シャンリットでは“千年教師長”という呼び名の方がメジャーかも知れない。
 学院の教師長(教頭)は代々ずっとウード・ド・シャンリット(ゲルマニア風に読めば“アウデス・フォン・カンプリテ”)を名乗っており、嘘か真か、約千年前の学院設立当初から生き永らえているウードⅠ世が未だにその職に就いているとも言われている。
 学術都市シャンリットに於いて変わらないものの一つとして、千年教師長ウード・ド・シャンリットは数えられている。

 目魔狂しく建物やそこに住む人が入れ替わっていくシャンリットに於いて、変わらないものは幾つかある。
 教師長の名前、中央大図書館の外観(地下は年を追うごとに拡張されているが地上部の外観は変わらない)、産業研究都市である旧ダレニエ市にあるシャンリット家の城砦などなど。

 その変わらない物の一つが、中央大博物館とその付属の研究塔である。
 ハルケギニア中の全ての本を集めようとする中央大図書館に並び称される中央大博物館は、各地の自然資料・遺物・美術品を無目的かつ無制限に蒐集することを目的としている。
 例えば、奇妙に縦に避けた口と二股の腕を持つ巨人の骨格標本であるとか、世にも珍しいケイヴ・パール(岩屋真珠)の鉱物標本であったりとか、小箱の中に固定された妖しく輝く偏四角多面体の美術品であったりとか、象の頭を持つ遥か東方の神像であったりとか……。
 集められた資料を収める標本庫も広大であり、また、『固定化』の魔法があるとは言えそれら標本の維持に必要なコストも安くはない。

 そして眼を引くのは中央大博物館の隣に立つ付属の研究塔イエール=ザレムである。
 研究“棟”ではなく、研究“塔”である。
 何故なら数々のキュリエータのアトリエへの入り口が集まっているこの建物は、遥か静止軌道まで伸びる長大な軌道エレベータなのである。
 晴れた日ならば遥か遠く隣国トリステイン首都トリスタニアからでも、この研究塔を見ることが出来るだろう。

 研究塔の途中には巨大な八角形の蜘蛛の巣を水平にしたような形に広がる空中ポートが幾つも造られており、地上に降りるのが面倒臭いという研究者のための売店や食堂、リフレッシュ設備など様々な施設が存在する。
 噂によれば、この天空研究塔イエール=ザレムで生まれ、それから一度も地上に降りたことのない人物もいるらしい。
 半径2リーグほどの空中ポートはおよそ1000メイル間隔で備え付けられており、真下から見上げれば、風に吹かれて振動している天空研究塔イエール=ザレムは、まるで積み重ねられたヒドロ虫のポリプ幼生が海中で揺れているような錯覚を与えてくる。

 高緯度地域(学術都市シャンリットの中枢街区アーカムの緯度は約50度)に軌道エレベータを造るなど、頭が沸いているとしか思えないが、それをやり遂げてしまうのがアトラナート商会の力である。何でも赤道で建設してからここまで引っ張ってきたとか言う話もある。
 研究塔イエール=ザレム周辺の気流を風魔法の『サイレント』で減衰させることで、気流による大きな揺れを防ぎ、さらに各部材は『硬化』『固定化』『レビテーション』によって軽量化と強靭化が成されている。
 天空研究塔イエール=ザレムは一本の弦と看做されるので、稀に固有振動数に合致する強烈な揺れが発生することがあるが、その揺れは水平蜘蛛の巣型の空中ポートを適切に上下させることで打ち消すようになっている。

 軋軋と各ブロックパーツを軋ませながら大気の海の底を揺蕩う天空研究塔の麓に向かって3メイルの巨人が歩いている。
 シャンリットの腕利き学芸員、“巨人”の二つ名を持つジョルジュ・オスマンだ。
 その傍らには子犬のような雰囲気の助手ウジェーヌ・ドラクロワが付き添っている。

「ジョルジュさん、あのイエール=ザレムがゆらゆらと撓って揺れてるのを見ると何時か倒れるんじゃないかと思ったりしませんか?」
「いや、そんな事は思わないな。そうならないように何重もの安全策が取られているのは知っているだろう、ウジェーヌ」
「そりゃあ知ってますけど。でも、こう、不安になったりしません? 自分がいつか死ぬんじゃないかとか」

 唐突にそんな事を問うてくる助手に対して不審に思いつつも、ジョルジュはニヤリと傲岸不遜に笑って答えを返す。

「は、タナトスって奴かい? 残念ながら俺は今まで一度もそんな事を考えたこともないね。自分が死ぬ様なんて想像もできないよ」

 この世の全てが滅びても自分だけは生き残ってみせる、と、莞爾として微笑むジョルジュを前に、ウジェーヌは俯く。
 雨に打たれた子犬のような儚げな雰囲気の茶髪の助手を前に、ジョルジュは逆に質問をする。

「何で急にそんな事を聞くんだ? 何かあったのか?」
「……、あの、先日運んできた古書があったじゃないですか。あの、私が他の実験室の手伝いでヘマをやって実験動物の脳を潰したって話をしたときに持ってきた……」
「ああ。確か、〈カルナマゴスの遺言〉とか言う古書だったな。とあるネクロポリスの修道院の地下の死体安置所から見つかったとか言う」

 ネクロポリスとは死者の鎮魂のために造られた死者のためだけの都だ。
 多くの場合は生者の住む都市の横に、生者の都にそっくりのゴーストタウンを造る。
 〈カルナマゴスの遺言(テスタメント・オブ・カルナマゴス)〉というのは、あるネクロポリスの風化して崩壊しつつあった修道院に安置してあった魔道書と思われる古書である。
 先日ウジェーヌが運んできたのは、その古書であった。

「ええ、その〈カルナマゴスの遺言〉を触ってから、なんだか不安になってしまって」
「ふうん? そういう精神作用があるのかも知れないな」

 シャンリットの中央大図書館所属の古書回収部隊が見つけてくるものの中には、そういった危険な精神作用や妙な魔法効果を持つものがあるのだという噂はある。
 実際にジョルジュが復元・修復した書物の中にもそのような危険な効果があったものはあった。
 しかし巨人ジョルジュはこれまで一度も致命的な事態に陥ることはなかったので、自分の技術あるいは天運というものを過信していた。

「ま、俺には効かないだろうけどな!」
「ジョルジュさんのその根拠のない自信が羨ましいです……」
「は、イメージするのさ。遥か未来のことをな。あらゆる事を想定しているが、今の所そのありとあらゆる想定で俺は生き残っている。絶対に死なない自信がある」

 大きな男ジョルジュ・オスマンは笑ってバシバシと子犬のような助手ウジェーヌの背中を叩く。

「イメージだよ、イメージ! 魔法を使うにしても、生きていくにしてもそれが一番重要だ」
「はあ、分かりました。頑張ります」
「そうだそうだ! イメージってのは大事だぞ! 古資料の復元にもイメージが大事だ! ま、俺は復元専用の補助魔法も開発しているんだがな」

 バシバシと叩かれるままになっていたウジェーヌの目に鋭い光が宿る。
 親方の技術を盗もうとする徒弟の剣呑な眼だ。

「教えてくださいよー、その魔法ー。もうそろそろ教えてくれても良いでしょう?」
「うん? それについてはいつも言ってるだろう。 基本的には『ディテクトマジック』で、そこに残っている業子(カルマトロン)の残滓を見るんだよ」
「そのカルマトロンというのがイマイチ理解出来ないんですよねー。ジョルジュさんが提唱しているんですっけ。
 “それを見ればその物質の来歴が分かる。それとは即ちカルマトロン。あらゆる存在は業(カルマ)を持ち、全ての行いはカルマトロンを単位として蓄積される。その挙動を予測することはイコール未来予知となる。それこそが業子力学”でしたっけ。
 まあ、僕はまず杖の契約をして、学術都市のIDカード経由じゃなくて、自力で魔法を使えるようにならないといけませんけど」
「そもそもお前にメイジの血は入ってるのか?」
「多分先祖のどっかで入ってるでしょう」

 彼らとしては何度目か分からない会話を交わしつつ、ジョルジュとウジェーヌは遥か上空まで揺ら揺らと伸びる天空研究塔イエール=ザレムへと入っていく。
 因みにこの研究塔は、地上部分をザレム、静止衛星軌道より少し上のバランス用の錘替わりの天空都市をイエールと称し、併せてイエール=ザレムという名称なのである。
 巨人ジョルジュと助手ウジェーヌに学術都市から与えられたアトリエは、この軌道エレベータ型天空研究塔の中程にある。……と思われている。
 正確なアトリエの位置は分からない。何故なら――

「IDカードを翳せば」

 ジョルジュとウジェーヌは研究塔地上部ザレムのエレベータボックスのような箱に入り、スライド式のドアを閉めるとドア脇のIDカード読み取り部分に自分たちのIDカード型マジックアイテムを翳す。
 直ぐに認証が行われ、認証パネルに【乗員2名。接続しますか?】という文と、その下に【Oui】と【Non】の選択肢が提示される。
 慣れた様子でウジェーヌは【Oui】の表示に指を伸ばす。ジョルジュはその巨躯を窮屈そうに丸めている。

 ウジェーヌの手がパネルに触れると、電子的な音とともにパネルの表示が切り替わる。
 【アトリエに接続中です。しばらくお待ちください】という文字列と、その下に刻一刻とカウントダウンする数字が示される。
 5、4、3、2、1、0。

「5秒でアトリエ、と。〈ゲートの鏡〉を使った移動は早くて快適ですね」

 カウントがゼロになったと同時に二人を内に入れたエレベータボックスのドアがスライドして開く。
 そこは先ほど入ってきた地上部の花々が咲き乱れる目に優しい光景ではなく、瘴気を醸しだす古物が陳列された、ジョルジュのビッグサイズにアジャストされた彼らのアトリエになっていた。
 この研究塔内部では〈ゲートの鏡〉によって各所が繋がれている。公共スペース以外ではIDカードに与えられた権限に応じた場所にしか繋がらないようになっている。

 空間をゲートで超えてしかアトリエには入れないため、一応は天空研究塔の中腹辺りに位置するということに書類上はなっている彼らのアトリエであるが、実際は何処に位置するものか分からないのだ。
 ここは宇宙空間を漂う小惑星都市の一角かも知れないし、どこかの惑星の地底都市の一角かも知れなかった。
 あるいは何か人智を超えた亜空間に位置しているのかも知れない。

 ジョルジュは背を屈めて頭をぶつけないように慎重にアトリエへと入る。
 それに続いてウジェーヌもトコトコとアトリエへと入る。

 そこで二人は異変に気がつく。

 床に異様に埃が降り積もっているのだ。

「うわ、これはヒドイですね。一体何が……?」
「……、『ディテクトマジック』」

 ウジェーヌが驚きの声を上げ、巨人ジョルジュは自分のペンのように先が細くなった小さな杖――IDカード型マジックアイテムではない――を用いて『探知』の魔法を唱える。
 ウジェーヌは埃の上に足跡を残しながら、羽根ハタキを取りに入口近くの掃除道具入れに向き直る。
 棚の資料の上にもまるで何十年も放って置かれたかのように埃が積もっている。

「悪戯でしょうかねー?」
「いや、悪戯じゃあなさそうだ」

 杖を再び振ってそこら中に『固定化』の魔法をかけ直しながらジョルジュは返事をする。
 ウジェーヌはぱたぱたと羽根ハタキを振り回しつつ、IDカード型マジックアイテムで風を制御して舞い上がる埃が散らばらないようにする。

「『固定化』をかけ直してどうしたんですか? そう簡単に解けるものではないでしょう? 確かジョルジュさんお手製の固定化なら100年は持つって話じゃ……」
「いや、解けている。〈カルナマゴスの遺言〉を除いて、他の全ての資料に掛けていた固定化が解けている、まるでこの部屋の物自体が何百年もの時を経たかのように。この埃も恐らくは、〈カルナマゴスの遺言〉が原因だろう。先日から違ったものといえば、その〈カルナマゴスの遺言〉くらいのものだからな」

 げげ、と大げさにウジェーヌは驚いている。
 ジョルジュは杖を振って『念力』の魔法で棚に安置されていた〈カルナマゴスの遺言〉を慎重に作業台へと移す。

「まさかジョルジュさん、それ解読するつもりですか? ただ置いていただけで部屋がこんな風になるなんて、絶対に碌なもんじゃないですよ。封印した方が良いんじゃ……」
「いや、読まなくてはならない、奇妙な直感だがな。何にせよ仕事だから、少なくとも修復だけはしないとならん。それに」
「それに?」
「気にならないか? 周りが朽ち果てる中で、変わらずに在った本だぞ、まるで不滅の加護があるかのように。俺はその秘密を知りたい」

 不滅、その単語に惹かれて、ジョルジュは〈カルナマゴスの遺言〉が入れられたケースを開ける。
 ケースの中には幅60サントほどの何かよく解らない生物の革で作られた巻物が丁寧に折り畳まれて納められていた。
 ケースに積もっていた埃が周囲に舞って、アトリエの照明の光が心なしか灰色になったような気がする。

「止めましょうよ、絶対不味いやつですって、それ!」

 魔道書から発散される恐ろしい気配に助手ウジェーヌは及び腰だ。
 ウジェーヌは今にもジョルジュの巨体に飛び掛り、彼を引き倒してでも忌まわしい腐敗と風化をもたらす魔道書から遠ざけようとしていた。
 稀代の修復家であるジョルジュ・オスマンを喪わない為に、それこそがウジェーヌの役目であるかというかのような必死さで追いすがる。

「……何、心配するな、ウジェーヌ。研究するにしても、先ずは完璧にこの魔道書を修復してからにするさ」

 ジョルジュは服の裾を掴んでいるウジェーヌをやんわりと引き離す。

「頼みますよ~。まだジョルジュさんから修復術について学びきって無いんですから」
「……俺の身の心配じゃないのか」
「だから心配してますってー! 勝手に死なないでくださいよ?」
「ふん、分かっている」

 拗ねたように作業台に向かうジョルジュ。
 ウジェーヌは羽根バタキを持って周囲を掃除して回る。
 舞い立つ埃は助手ウジェーヌの使う風魔法によって制御されて、部屋の一角に設けられた空気清浄機の方へと静かに誘導される。

 空気清浄機は内部で塵埃を静電吸着し、さらに『錬金』によって無害な物質へと分解する機構が組み込まれている。
 埃やウイルスなどは分解されて、窒素や酸素や水蒸気などに『錬金』で変えられ、大気と同じ組成になるように混合される。
 そうやって浄化された新鮮な空気は部屋に張り巡らされたパイプを通って、空気清浄機とは対角線上の部屋の角から放出されて部屋全体に緩やかな空気の流れを作り出す。

 巨人ジョルジュがペンのように細長い形の自前の杖を、古書に慎重に当てては『ディテクトマジック』を用いて、その〈カルナマゴスの遺言〉が劣化する前の状態を読み取っていく。
 物品に刻まれた業(カルマ)を読み取るというジョルジュの探知魔法は、遥か昔に作成された物品の初期の状況を彼に知らせてくれる。
 例えば、この巻物に使用された生き物の革について、呪力を帯びた特殊なインク(恐らくは魔物の血液をベースにした物)で記されていること、これがカルナマゴスという太古の預言者が残した預言書であることなど……。

 ウジェーヌは、ジョルジュが確かに『ディテクトマジック』の魔法のみを使っており、やたらと書物を解読しようとしていないことを確認すると、ほっと安堵して彼のアトリエを後にする。
 ウジェーヌは他にもアルバイトで助手業を受け持っており、別の学芸員の手伝い(偵察)にも行かなくてはならないのだ。

「じゃあ、ちょっとアルバイトに行ってきますね。危ないことはしないでくださいよ、ジョルジュさん」
「……ん、ああ」

 集中しているのか、生返事をする巨人ジョルジュ。
 そんなジョルジュの背中を最後にもう一度見て、ウジェーヌはアトリエを後にする。

 ウジェーヌがきちんとジョルジュの傍についていれば、後の悲劇は防げたのかも知れない。





 巨人ジョルジュにとって、古書の復元作業とは、業子(カルマトロン)を『ディテクトマジック』で読み取ることから始まる。
 そしてカルマトロンを読み取るということは即ち、その存在に秘められた業(カルマ)を読み取るということであり、つまり物品に刻まれた歴史あるいは思念を読み取るということだ。簡単にいえばサイコメトリーである。
 助手ウジェーヌにとっては完全には理解出来ていないことであったが、ジョルジュにとって修復作業と研究の両者は、殆ど同じ事象であった。

 ジョルジュは『ディテクトマジック』によって、先ずは〈カルナマゴスの遺言〉の皮相的な物性を調べる。
 未知の生物の革で作られたもののようだが、幸い(?)ジョルジュは似たものを知っていた。

 〈カルナマゴスの遺言〉から『ディテクトマジック』で得た感触は、中央大博物館の生物資料室に保管されていた巨大な液浸標本を興味で調べたときの『ディテクトマジック』の感触を彷彿とさせる。完全に〈カルナマゴスの遺言〉の生地と同じではないが、似ている。
 『アブホースの落とし子』というカテゴリ名がつけられた一連の不気味な標本群のうちの一つ、進化の道筋を外れた不恰好なカリカチュアのような、軟体動物と鹿を組み合わせたかのようなこの世のモノではない生物の皮膚と、同じような材質で出来ているようだ。戯画的に頭部と前腕部を肥大化させた鹿の腐敗しかけた死体を粘菌状の生物が捕食したかのようなその液浸標本の姿は、見るものに不快感を与えるものだった。そして『アブホースの落とし子』という名のラベルが貼られた一連の生物標本資料群は、一体たりとも同じものが存在しない。皆それぞれが異なった進化系統樹上の枝に位置することは明らかであり、同一のカテゴリ分けがされているのが不思議な程にチグハグでバラバラの形をしていた。しかしそれらは既知のハルケギニアの動物種とは全く合致しないという点では、確かに同一のカテゴリ分けが妥当なものであった。
 その『アブホースの落とし子』という生物標本群の採取場所は、確か『アーカム地下の蜘蛛神の祭壇』とかいう場所になっていた。ジョルジュが後に調べてみてもそのような場所は存在しなかった。いや、存在しなくて幸いだ。あんなものがこの学術都市の地下に居るだなんて考えるだけで恐ろしい。

 しかし現に悍ましげな標本は存在するし、今ジョルジュの杖の下にある魔道書も同じような素材で作られているということは『ディテクトマジック』による感触では明らかであった。
 〈カルナマゴスの遺言〉の巻物の生地を復元するためには、調達部に依頼して、『アブホースの落とし子』の皮膚を解析して複製してもらう必要がある。
 特殊な生地を『錬金』するためには、学院都市からIDカード型マジックアイテムを介して提供される標準化された魔法ではなく、もっと応用が効く生粋のメイジの『錬金』を用いなくてはならない。

 ジョルジュも『錬金』によって簡単な生地なら復元することは出来るが、〈カルナマゴスの遺言〉のような特殊な生地を作るためには精神力を使うので、専門の者に依頼した方が良い。
 ジョルジュ自身の精神力は業子(カルマトロン)を読み取るための特殊な『ディテクトマジック』に注ぎ込むだけで精一杯なのだ。
 生地作りまで彼自身の手でやっていては埒が明かない。

 続いてジョルジュはペン状の魔法の杖を動かして、文字を形作っているインクの上へと移動させる。
 生地に引き続いてインクの解析を行うためだ。
 ジョルジュは再び『ディテクトマジック』を唱え、その組成や素材の来歴を読み取ろうとする。

 瞬間彼の脳裏によぎったのは、その乾ききってしまった血のようなどす汚れた色のインクの原料となった何かの液体についての作成風景の記憶であった。
 薄暗い魔術師の研究室。棚に並んだ秘薬の数々。マンドラゴラの滲出液、ヒトか猿のミイラと思しき乾いた何かは削り取られた跡がある、毒液をとるための毒ガエルが入っている飼育箱も棚にある。部屋の中心には大きな台が備え付けてあり、燐光を放つ魔方陣がその上に描いてある。ある種の洞窟棲の集団生活性のウジ虫が分泌する発光液を使用しているのだろう。淡く光る魔方陣の中心には漏斗を差したフラスコが置いてあり、その中には何かよく解らない粘り気のある琥珀色の液体が入っている。遙か古代の琥珀を再び溶解させたものかもしれない。漏斗の直上には逆さ吊りにされた何かの生物らしきものが見える。それは未発達なヒトかあるいは亜人の胎児のようであった。大きな頭部、細部が判然としない四肢、ぬらぬらと燐光に照らされる瑞々しい肌。その胎児らしきものの全身には細かい傷がつけられて、滴る血が重力に従って漏斗に落ち、フラスコの琥珀色の溶剤をどす汚れた色に変えていく。
 どうやら生地と同様に、インクも一筋縄では行かない素材で出来ているようだ。

 もう生地やインクについては充分だ。
 ジョルジュは『ディテクトマジック』で読み取る業子(カルマトロン)のピントをずらす。
 皮相的な材質についての記憶から、もっと根源的な、この書物に込められた思いへと。
 この〈カルナマゴスの遺言〉の本質を記憶したカルマトロンの構造へと焦点を合わせる。

 悍ましい生き血を古代の琥珀(換言すればこれも植物の“血液”である)で溶かして作ったインクを使ってこの遺言書を記したのは、枯れ木のような一人の老人。
 おそらくこの男こそが、カルナマゴス。
 邪悪だが偉大な賢者。過去世を見通し、未来さえも知った預言者。ブリミル光臨より遥かに昔の恐ろしい力を持った魔導師。

 そして彼が崇拝し加護を得ていた邪神、窮極の腐敗の魔神、時間と風化を司る最果ての神、塵を踏むもの。
 その名をクァチル・ウタウス。
 〈カルナマゴスの遺言〉はこの神について記している。その偉大なる神と“契約”する方法も。

 ジョルジュが『ディテクトマジック』によって魔道書のカルマを直接に読み取るにつれて、周囲にどんどんと塵が積もっていく。
 まるで何十年も経過したかのように風化は進み、部屋の電灯は寿命が尽きたのか切れてしまうし、『固定化』が切れた棚は腐食して錆が広がっていく。
 ジョルジュ自身も皮膚の張りは失われて皺が寄り、もはや老人のような姿になってしまっている。

 筋肉も衰え、目も霞み、しかしそれでもジョルジュは『ディテクトマジック』によって〈カルナマゴスの遺言〉に秘められた業子(カルマトロン)から直截的に魔術の秘奥を読み取っていく。
 取り憑かれたかのように、彼は解読を進める。
 いや、正に彼は取り憑かれていた。カルナマゴスの遺言に。あの邪悪な魔導師の遺志に。
 そしてジョルジュ自身の持つ甘美な滅びへの欲求と、それを上回るさらに強烈な不滅への欲求に、彼は取り憑かれていた。

 読み進める。
 ――遙か古代のエルフの暗黒王ネフレン=カの信奉者が用いた、自らの臓器を生きたまま分離させて保存する冒涜的な秘術について。

 読み進める。はらはらと幾らか抜け落ちた髪の毛が杖を持つ手の甲に散らばる。
 ――土星(サイクラノーシュ)からやって来た蟇蛙神の落とし子である、逃げ水のように滑る影のような漆黒の不定形で無形の異形を召喚し従属する方法。

 読み進める。筋肉が衰えてしまったためペン型の杖を持つ手が震える。
 ――星の彼方のクスクス笑うように鳴く吸血生物、不可視の恐怖、牙のある無数の口吻と鉤爪に覆われた無色の怪物を招来する方法と、それを支配する呪文。

 読み進める。黄色く変色して萎縮した指の爪がもげ落ちるが痛みは無い。神経や血管が風化した体細胞の破片で阻害されているのかも知れない。
 ――意思が強くない者の自由を奪う紋章である“バルザイの印”の創造方法。蘇った死者を崩壊させる呪文。邪悪なる星やみる=ざくさについて。

 読み進める。喉が乾き目が霞む。心臓の鼓動が緩くなっているのか、それに呼応して精神の働きも遅くなっているように思える。
 ――カルナマゴスが見た過去の出来事、強大な邪神たちの戦いの歴史、そして彼が予知した遥か未来のこと、同年代の魔術師エイボンから聞いた冒険譚、原初の秘密を記した銘板を覗き見ようとした魔術師ゾン=メザマレックの活躍……。

 読み進める。不吉な予感に駆られて。大いなる存在の到来を予感して。塵が積もる中、読み進める。灰色の光が落ちる中、杖を振るって秘められた歴史を読み取る。
 ――遥か未来を見通す預言者カルナマゴスが時間さえも塵になる最果てで遭遇した、時間と風化を司る魔神について。クァチル・ウタウス。その神を呼び出すために必要な呪文、禁じられた言葉。

 ――“イクスKloぴおs、QuあチL うtタuス”。

 ジョルジュは終にその言語を読んでしまった。
 全てを塵にする灰色の魔神を呼び出す“禁断の言葉”を。





「ジョルジュさん、戻りま……? うわ!?」

 ウジェーヌが用事を終えてジョルジュのアトリエに入ろうとしたところ、急な突風に押されてしまい、前のめりにたたらを踏んだ
 正確には突風は後ろから吹いてきたのではない。
 ジョルジュのアトリエは何故か減圧されており、それによってエレベーターボックスからウジェーヌは空気と共に吸い出されたのだ。

 びょうびょうと空気が流れる音がして、部屋中に分厚く積もった埃が舞い上がっている。
 空気清浄機は部屋の中から空気が失われていることを察知して、フル稼働で壁や床の部材から空気を『錬金』して生産しているようだ。
 ウジェーヌが舞い上がる塵埃に目をやられている間に、アトリエのスライド式ドアが閉じられる。それでも空気の流出は止まらない。
 空気清浄機が『錬金』で作り出す空気のおかげで窒息しないレベルには保たれているが、それも何時まで持つだろうか。

「ジョルジュさん!? 大丈夫ですか!?」

 ウジェーヌが埃の砂嵐の中、なんとか目を開けて巨人ジョルジュの姿を探す。
 周囲の標本棚が、ウジェーヌが歩く際の振動で錆を零れさせて次々と崩れていく。
 棚に載っていた数々のレプリカも風化し、落ちた拍子に砕けて砂になっていく。

 見ればジョルジュの座っているはずの作業台の前には、古木のような老人が一人。
 そこには何処からか――仰ぎ見ればアトリエの壁に出来た亀裂から――灰色の光が降り注いでいる。
 灰色の光が入ってきている壁の亀裂の外側は、真空の宇宙となっていた。

 ジョルジュのアトリエは、書類上は軌道エレベータの中腹に位置するとなっていたが、実際にはどこかの星間宙域に浮いているのだった。
 周囲には同じような直方体のアトリエと思われるブロックが鎖のようなもので連結されて、漆黒の宇宙空間に整然と浮遊している。
 ジョルジュのアトリエ内部の空気が亀裂から漏れ出て行っているのは、周囲が高真空の宇宙空間だからであった。

 そして遥かな星辰の彼方から降り注ぐ灰色の風化の光は、ウジェーヌが見ている間に、ジョルジュを朽ちさせているようだった。
 ウジェーヌは直感的にジョルジュを包んでいる灰色の崩壊光が、致命的なものだと認識する。
 そして、その崩壊光から感じる感触から、ウジェーヌ・ドラクロワ――正式名称〈ウード169号〉というインテリジェンスアイテム――は、彼が信奉する蜘蛛神アトラク=ナクアと同様の、何らかの慮外の宇宙的存在が関与しているに違いないと結論。

【ジョルジュさん、今助けます!!】

 ウジェーヌの目の光が消えて、頭部が項垂れお辞儀するような格好になると、延髄部分から一本の70サント程のメイスが猛烈な勢いで射出される!
 稀代の修復師、巨人ジョルジュ・オスマンの護衛と、彼からの技術習得を命じられていたインテリジェンス・メイス〈ウード169号〉は、自らの仮初の義体(ボディ)を棄てて、ジョルジュの元へと飛翔する。
 長い時間をジョルジュと共に過ごしてきたウジェーヌ、改め〈ウード169号〉は、充分にジョルジュの魔法使用媒介の杖としての資格を持っていた。
 そして〈ウード169号〉の特性は――

【『偏在』!!】

 そう、風のスクウェアスペルである分身作成魔法『偏在』をサポートすることである。
 『偏在』特化型インテリジェンス・メイス〈ウード169号〉は、もはや何時死んでもおかしくないほどに衰えたジョルジュから無理やり魔法を引き出す。
 ウジェーヌの擬似ボディからジョルジュの下へ射出されて灰色の光をモロに浴びることになった〈169号〉は、自身に掛けられた『固定化』が灰色の光の影響で猛烈な勢いで解けていくのに戦慄しつつも、ジョルジュの分身体を『偏在』で作り出す。風化の呪いの光線を遮り、呪いを肩代わりさせるためだ。

 ジョルジュの『偏在』を灰色の光の盾にしつつ、〈169号〉はジョルジュに話し掛ける。

【ジョルジュさん! 何やってるんですか!? 何があっても死なないって、そう言っていたじゃないですか!?】
「……ぅぁ、……」

 最早殆ど動かないほどに衰弱したジョルジュが、〈169号〉――助手ウジェーヌ――の声にぴくりと反応する。
 アトリエの亀裂から入ってくる、灰色の崩壊光に曝されて、〈169号〉が生み出した『偏在』たちは一瞬のうちに風化して塵になって――恐るべきことに、魔法が解けて風に還るよりも早く、『偏在』は塵になって――散り消えてしまう。

【絶対に死なないって、そう言っていたじゃないですか!? 不滅のイメージはどうしたんですか!? ジョルジュさん!!】
「う、うぁああ、あ……」

 〈169号〉――助手ウジェーヌ――の声に衝き動かされるようにして、ジョルジュはノロノロと魔道書〈カルナマゴスの遺言〉を『ディテクトマジック』を宿したペンでなぞりながら読み進める。
 ジョルジュを衝き動かすのは、不滅への欲求だ。
 もはや死への希求、タナトスなど、とっくの昔に風化してしまった。
 残っているのはギラついた生存への欲求のみだ。

 風化の魔神『クァチル・ウタウス』を喚び出す禁断の言葉の更に先、魔神と契約を結び、彼の神性の加護を得て永劫を生きる方法を、ジョルジュは読み取ろうとする。
 不滅への欲求、生への渇望。それが奇跡を呼び込んだ。
 〈169号〉が次々と作り出す『偏在』の分身たちが、崩壊の灰色光を遮っている、時間にして数秒もない内に、ジョルジュは〈カルナマゴスの遺言〉を完全に理解する。
 ジョルジュ・オスマンは、この土壇場で風化の魔神『クァチル・ウタウス』と契約する方法を身に付けたのだ!

「“イクスKloぴおs、QuあチL うtタuス”!!」

 ジョルジュのカサカサに乾いた、顔に開いた亀裂のような唇から、“禁断の言葉”が漏れ出る。
 しかし漠然と読んだ最初の時とは異なって、今度は確固たる不滅への欲求を持って、契約の意思を携えてそれは口にされる。

 ――時の魔人よ、全ての滅びの果てに居るものよ、崩壊と風化を司る偉大なる神、クァチル・ウタウスよ、俺は貴方との契約を望む!

 果たしてジョルジュの願い通りに、契約は果たされる。
 瞬時に降臨する、数千年も経ったかのように皺だらけの、顔の凹凸が削り取られたような小柄なミイラのような神。
 死後硬直そのままに固まったように前に突き出された両手と、強張って爪先までまっすぐに固められた両足。
 周囲のものを尽く灰色の、原子すらも崩壊し尽くした塵に変えて、クァチル・ウタウスは現れた。

 小さなミイラのような魔神は、一瞬だけ、その全ての起伏が削り取られた顔を向ける。

 ジョルジュとクァチル・ウタウスの視線が交錯した瞬間、ジョルジュの身体に異変が訪れる。
 ジョルジュの背骨が何重にも折れ曲がり、その度に、ジョルジュの上半身は右に左に、前に後ろにと、壊れた操り人形のようにばきぼきと揺れ動く。

「ぐああ、ぎっ、ぎいぃいっ、が、らっ」
【大丈夫ですか!? ジョルジュさん!?】

 背骨が折られ、上半身が揺れ動き圧縮される度にジョルジュの口から苦鳴が漏れる。
 ものの数秒のうちに、元々3メイルはあったジョルジュの巨躯は、背骨を折り畳まれて、180サントほどに縮んでしまった。

 それを見届けると、クァチル・ウタウスは、現れたときと同様に忽然と、この世界から消失した。
 百年近くは年老いたジョルジュは、クァチル・ウタウスが施した契約の証――複雑に折れ曲がった背骨――が刻まれるとともに、気を失って倒れてしまう。

【ジョルジュさん!? しっかりしてください!!】

 『偏在』で風化の呪いを肩代わりさせ続けていた元助手ウジェーヌであったインテリジェンスメイス〈169号〉が、ジョルジュに声を掛ける。
 アトリエの壁に出来ていた大きな亀裂は、時の魔神からの干渉が無くなると同時に、アトリエ自体に張り巡らされている管理用のマジックアイテムによって自動的に応急処置が成され、直ぐに塞がる。
 ジョルジュらの周囲には、何もかもが風化して原子すら砕けた灰色の塵が、山のように積もっている。

 その塵埃の中、未だに何の変化もなく形を留める魔道書〈カルナマゴスの遺言〉の傍の塵の山の頂上に、二つの窪みが残されていた。
 クァチル・ウタウスの別名は“塵を踏むもの”。
 塵の頂上に残された二つ窪みは、あの風化の魔神の遺した足跡なのだ。





 クァチル・ウタウスの不滅の契約者として生き残ったジョルジュ・オスマンが、人間に化けていたかつての助手であるインテリジェンスメイス〈ウード169号〉と共に、ハルケギニア中を騒がせる大泥棒『ねずみ小僧』として名を馳せるのは、この事件からしばらく後のことである。
 ジョルジュ・オスマンはこの一件以降、生存本能つまりエロスの権化となってしまい、そちら方面でも大層有名(ハルケギニアの夜の帝王とかなんとか)になるのだが、それは余談である。





 ・『朽ち果てた部屋』の噂
  中央大博物館に付属している天空研究塔イエール=ザレムは、〈ゲートの鏡〉によって各アトリエのドアを繋いでいる。
  だが稀に〈ゲートの鏡〉が誤作動を起こしてしまい、過去に何らかの理由で廃棄されて朽ちたアトリエへと繋がってしまうことがあるらしい。
  何百年も放ったらかしにされているような、その廃棄されて埃だらけの朽ち果てた部屋に入った者は、二度と戻って来られないという。


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オールド・オスマンの捏造過去話
300歳とか言われるオスマンが、実際に300歳だとしたら、どうやってそんな長寿を保っているんだろうか? → 邪神の加護のせいだったんだよ!
アニメの設定資料集見たらオスマンの身長180センチメートルでビックリ。どうせだから巨人症にしてみた。でもオスマンはオーガとかトロールではないです

クァチル・ウタウスについては、まあ本文で書いている通りです
全てのものに滅びをもたらす魔神です
契約すると不死を授けるってことになってますけど、これはTRPGだけの設定の模様

軌道エレベータ『イエール=ザレム』とか業子力学は、銃夢という漫画から引用
ディテクトマジックで業子(カルマトロン)を読み取るのは、有りうるのではないかと思ってます
恐らく虚無魔法の『記録(リコード)』は、業子(カルマトロン)を高精度で読み取っていると推察
ゼロの使い魔原作3巻でコルベールが、ゼロ戦の精製されたガソリンからそれが微生物の化石由来だと分析できたのは、ディテクトマジックか何かの魔法(魔法を使ってるかどうかの記述は原作には無いが)に物質の由来を解明する作用があるからだと個人的には解釈してますので、そこからカルマトロンへと連想しました

エルフの古代の王様が暗黒ファラオ・ネフレン=カ(這い寄る混沌ニャルラトテップの化身)ということにしてますが、完全に捏造です
ネフレン=カが暴政を敷いたので、その反動でエルフたちは王政から脱却したという妄想設定です

2010.11.30 初投稿
2010.12.02 誤字修正
2011.08.16 誤字修正 ☓サイノクラーシュ ◯サイクラノーシュ ご指摘ありがとうございます!



[20306]   外伝7.シャンリットの七不思議 その6『消える留年生』
Name: へびさんマン◆29ccac37 ID:4dc27135
Date: 2010/12/09 19:59
「神父様! 助けてください!」

 どんどんどん。ざあざあざあ。どんどんどん。

 学術都市シャンリットの中心地区にある簡素な寺院。
 雨が降っている夜半にも関わらず、その寺院の扉を叩くものが居る。
 ずぶ濡れの小さな肩を震わせながら門扉を叩くのは、淡い青色の髪のか弱い少女である。

 どんどんどん。ざあざあざあ。どんどんどん。
 少女が寺院の門を叩く音がする。同時に激しい雨音も。
 学術都市の中央大博物館付属の天空研究塔イエール=ザレム(軌道エレベータ)周辺はエルフからくすねた気流操作技術のために常に晴天であるが、他はそうはいかない。
 学術都市にも時にはこのような荒天雷雨の日がある。

 そして意外に思うかも知れないが、学術都市シャンリットにも寺院は存在する。
 それも、複数の宗派の寺院が存在するのだ。
 学術都市シャンリットは、その成立過程に於いて宗教、というかブリミル教との関わりを絶っているのだが、それ故に様々な宗派が乱立する宗教的自由地帯、というか宗教的無法地帯になってしまっている。

 学院創設者でもある千年教師長ウード・ド・シャンリットは、ロマリア宗教庁から破門された身の上であるし、一時期は“僭称教皇”として矮人たちを中心とした新興宗教である蜘蛛神教の教皇を名乗っていた。
 “宗教的な盲目が真実求道の妨げになってはいけない”という信念の元、固定観念というものはこのシャンリットの土地では忌み嫌われている。
 因みに、学術都市の教師長(実質的なトップ)と学術都市で様々な雑役を行っている矮人たちが信仰している蜘蛛神教の中心教義は『蜘蛛神アトラク=ナクアへの崇拝(形式問わず。だが空いた時間での機織りや刺繍、裁縫が推奨される)』と『真実探求』、『全体最適』、『日進月歩』である。

 宗教的頑迷さは学術都市では嫌われるものの、日々の拠り所としての宗教、人生道徳のための宗教というのは、ヒトが生活していく上で必須の要素でもある。
 そしてその宗教は、市民の出自や種族によって様々であるのは言うまでもない。

 多くのヒトや人外が移入してくる学術都市シャンリットでは、それゆえ、あらゆる宗教の自由を認めている。
 多様な価値観は、寧ろこの学術都市が望むべきものであった。
 新たな発見のために、価値観の多様さとそれぞれの衝突は必要である。

 ブリミル教も、蜘蛛神教も、食屍鬼の崇めるモルディギアンも、千の仔を孕みし黒山羊シュブ=ニグラスも、這い寄る混沌ナイアルラートホテプであろうと、学術都市の法を犯さない限りは信仰の自由が認められている。
 生贄が必要ならば、バロメッツの樹から量産された矮人(自己犠牲や献身、被虐嗜好に特化した精神性を生まれながらに持つ特別製。主に学術都市の雑役を担っている。家畜人)を受け取ることも出来る、金さえあれば。

 この街で優先されるルールはただ一つ。
 『Vive La Sagesse!!(ヴィヴ・ラ・サジェス!! 叡智万歳!!)』である。
 知識を蒐め、新たな知見を発見し、それを広めることが、この街の唯一にして絶対のルールなのだ。

 とはいえ、その原則だけでは立ち行かないのも確かである。冠婚葬祭しかり、その他のいろいろな面で、ヒトは自らの指針を何か大いなるものに預けたがる。
 自由な混沌より、不自由な秩序。どういう時にどうすればいいのか、その手続きの暗黙の了解を提供するのが、宗教である。
 自らを自らで律する事の出来ないような意思が脆弱な人間は、神がためにと偽って自らを律する必要があるのだ。

「開けて……! お願いします、助けてください……! 匿って……!」

 どんどんどん。ざあざあざあ。どんどんどん。
 そんな神の家の門を叩く少女の表情には、ありありと憔悴の表情が浮かんでいる。熱でも出ているのか顔色も悪く息も荒い。
 雨足は強まるばかりだ。このままでは少女は衰弱して死んでしまうかも知れない。

 そうしているうちに、門扉は開かれた。

「ああ! 神父様、ありがとうございます!」

 淡い青色の髪の、恐らくはガリア王家を祖先に持つのだろう少女は、息急き切って寺院の中へと駆け込む。







 蜘蛛の糸の繋がる先は 外伝7.シャンリットの七不思議 その6『消える留年生』







「ようこそ、お待ちしていましたよ」

 青髪の少女が駆け込んだ先では、真夜中の時間にも関わらず、黒眼鏡を掛けた神父が説教台で何かの本を読んでいた。
 離れた場所にある扉を開けたのは、神父の使った『アンロック』か『念力』の魔法だろう。
 神父の手には学術都市住民全てに配られているIDカード型マジックアイテムが握られている。

 説教台には、何らかの本が置いてある。端々が金具で補強してある随分と年季の入った本のようだ。
 神父はこんな時間に何をしていたのだろうか。虚無の日に行う説教のリハーサルでもしていたのだろうか。
 だが、あんな黒眼鏡を掛けていて果たして字が見えるのであろうか。

 そういえば寺院と見て咄嗟に助けを求めて入ったけれど、この寺院は何教の寺院なのだろうか。
 青髪の少女は、一旦建物の中に入って人心地ついたのか、改めて神父や寺院の内部を見渡す。

 黒眼鏡を掛けた神父の着ている僧服からは、その宗派は判断できない。
 黒いローブを基調とした質素な僧服には、特に装飾らしい装飾は付いていない。
 蜘蛛や蜘蛛の巣に関連する意匠がないことから、恐らくはアトラク=ナクアを崇拝する蜘蛛神教の寺院ではないのだろうと推察できるくらいだ。

 寺院の中には目立った偶像も存在しない。
 意図的に偶像の類を排除しているのかも知れない。偶像崇拝を禁じている宗教もあるのだから。
 幾何学的な、半球と直線をでたらめに連結させて組み合わせたような遠近感を狂わせる複雑な模様を象ったステンドグラスからは外からの稲光が時折強い光を投げかける。幾何学模様の上を雨水が流れ、その水流が形作る波紋の影が、さらに曰く言いがたい印象を与えてくる。あの複雑怪奇な半球と直線の絡み合った幾何学模様が、何か信仰に関係するのだろうか。

「外は随分嵐の模様。濡れてしまって身体も冷えたでしょう」

 神父は何処からか用意したふかふかのタオルを『念力』で青髪の少女の方へと運ぶ。
 礼拝堂の中は外と違って暖かく、空気も乾いている。

「どうぞお使いください。直ぐに何か温かいものを用意しますから、適当な椅子に腰掛けて待っていて下さい」

 空中を泳ぐように運ばれてきたタオルを受け取ると、神父の言葉に従って少女は体を軽く拭き、礼拝堂の長椅子にタオルを敷いて腰掛ける。
 そこにもう一枚追加のタオルが流れるように宙を泳いで運ばれてくる。

「ありがとうございます、神父様」
「気にする必要はありませんよ。貴女を助けるのは当然のことです」

 黒いローブの神父はいつの間にか両手に湯気の立つマグカップを持って、青紙の少女の座る長椅子の前に佇んでいた。

「お嬢さん、フリーズドライのコーンスープで申し訳ないが」
「いえ、ありがとうございます」

 食品量販店で売られているフリーズドライのコーンスープをお湯で戻した物を少女に差し出しながら神父は少女に話し掛ける。
 少女がマグカップを両手で包み込む様に受け取ると、神父は、失礼、と一言断りを入れて彼女の隣に腰掛ける。

 暫く二人がコーンスープを啜る音が、雨音と雷鳴に混ざって礼拝堂に響く。
 その静寂を少女の呟きが破る。

「何も」
「うん?」
「何も訊かれないんですね」

 ぽとりとマグカップに落とされるように呟かれた少女の言葉に神父は答えない。
 雨音と時折響く雷鳴、その稲光がもたらす奇っ怪で複雑な模様のステンドグラスの影。
 時間だけが無為に過ぎる。

 そんな中、青髪の少女は己の境遇を顧みていた。
 何故、どうしてこんなことになったのか、と。





 青髪の少女は、その髪の色から察せられる通り、ガリア王家に連なるものである。

 だが彼女は貴族位を持っているという訳ではない。
 そもそも学術都市に貴族は基本的に存在しない。
 唯一の例外として、国家元首である大公家が存在しているのみだ。

 話を少女のことに戻そう。

 少女の祖母に当たる女性はたまたま王族の目に止まった平民であった。
 その時の王族の戯れで出来たご落胤が、この少女の父に当たる男であった。

 彼女の父を胎に宿した彼女の祖母は、ガリア王家のお家騒動の元にならぬようにと、ある種の無法地帯であり中立地帯でもあるクルデンホルフ大公国シャンリットへと追いやられた。
 学術都市シャンリット自体が、積極的に各国の王族の血を蒐集しているという事情もあった。
 それは虚無の系統がシャンリットにおいて発現する可能性を少しでも上げるためである(多くの者はただ単に、この都市が持つ性質である蒐集癖の延長として“貴い血”を蒐めているとしか考えていないが)。

 三百年程前のトリステイン魅了王アンリの庶子などを初めとして、各国から厄介払いされた王家の血統は、正統や庶子を問わず、かなりの数がシャンリットにて保護されている。
 学術都市の戸籍管理部は、それらの貴人たちの精確な血統図を把握しており、今なおどのように血が伝わっているかの追跡調査が成されている。
 そして王族の血を引く者同士が自然に出会うようにそれとなく学術都市内の人事を調整したりもしている。

 彼女の父や祖母はシャンリットにおいて歓待、とは行かないまでも、少なくとも冷遇はされず、平和に暮らしていくことが出来た。
 学術都市の住人は出自に拘らないのだ。出自を無闇に聞くことは一種のタブーとなっている。
 特に彼女の父は、やはり王族の血の成せる業か、非常に聡明な男であり、シャンリットのミスカトニック学院の物理学の教授にまで登り詰めた。

 彼女の母は、教授であった父の教え子の女性である。
 実はこの母も、遠くトリステイン王家の血を引いていたりするのだが、王族由来の血統を監視している学術都市の戸籍管理部以外は、本人すらもその事を知らなかった。

 学術都市の教授と、その教え子の中でも非常に優秀だった女生徒、その二人の子供は、当然のように将来を嘱望された。
 だが残念なことに、二人の子供である青髪の彼女には才能がなかった。
 適性がなかったと言い換えてもいいかも知れない。
 意欲がなかったと言っても良い。

 青髪の少女には、この学術都市で暮らすには最悪なことに、蒐集や研究や創作に対する才能が、適性が、意欲が、致命的なまでに存在しなかった。

 もしも彼女が普通の封建制度に飼い馴らされた平民として生まれていたならば、それでも良かっただろう。
 神に祈り、日々を大過なく善良に過ごすことが出来ただろう。
 あるいは天下泰平の時代の王様として、体制の保守をやっていれば良かっただろう。皮肉なことに、保守や維持において、彼女は抜群の才能を持っていた。

 だがこの学術都市シャンリットでは其れは許されない。
 何もなくただ“続いている”日常を送るだけの存在は、許容されない。
 『真理探究』、『全体最適』、『日進月歩』。
 この学術都市の住民にとって、殆どの場合において停滞は罪だ。多様性を期待されているし、変化が尊ばれる。それが千年続くシャンリットの国民性だ。

 一方で、確かに“続いている”こと、即ち伝統という部分も尊ばれる。
 伝統工芸や伝統芸能は、学術都市内部でも一目置かれている。
 彼女も、そういった類の“続いている”だけで価値のある技能芸術に触れる機会があれば、大成とまでは行かなくとも、脈々と連綿と続く伝統の一部に組み込まれて平和裡に人生を全うできたかも知れない。

 だが残念なことに、嵐の中教会に逃げ込んだ青髪の彼女は、そういった機会に恵まれなかった。
 善良な少女は、学術都市シャンリットで生きることに、とことん向いていなかった。

 母が事故で死に、後を追うように父も憔悴して息を引き取ったのが、もう五年は前であろうか。

 それまで父の指導のもとで何とか留年を免れていた少女は、指導者が居なくなったことで、たちまち劣等生に転落してしまった。
 世間知らずに父母の言うままに軌条の上を走るかのような人生を送っていた彼女は、いきなり断ち切られた軌条と前途茫洋たる荒野の如き学問の可能性を前にして、身動きが取れなくなってしまったのだ。
 もちろん、このシャンリットの街ではそのままだらだらと学生を続けることも、制度上は、出来る。何十年でも成果を出さずに。

 しかし、それは彼女の生来の生真面目さが許さなかった。

 ――何か自分にも出来ることを。

 焦燥は重なり、思い詰めて、追い詰められて、行き詰って。
 彼女はある研究員の甘言に乗ってしまった。

 ――代理母、というのを聞いたことはありませんか?





 学術都市シャンリットは、他国の平民の間では、食い詰めて成り上がる為に向かう先という認識のされ方が一般的だ。
 此処ではない何処かでならば上手く行く、と考える者たちは何時の時代でも多い。
 立身出世のために学識を身につけようと思う向上心に富む者たちもシャンリットを目指す。
 その結果、食い詰めた小作農の息子と、大学で学んで来いと親に言われた富農の嫡男が机を並べるということも十分に起こりうる。

 ではシャンリット領に隣接する三国(ガリア、トリステイン、ゲルマニア)の貴族にとって、この学術都市はどのように認識されているのか。

 純粋に学問を学ぶために留学する諸侯貴族の子弟も多いが、学術都市出身閥も宮廷で幅を利かせる昨今では、コネクション作りや箔付けのために留学させられて来る者も多い。
 もちろん平民と机を並べる可能性があるということで忌避する貴族も未だに多い。

 シャンリット側では外交的圧力をかけて各国王族の子弟(主に次男以降)を留学させているが、中々忌避感は消えないらしい。
 特にトリステインとかトリステインとかトリステインとか。
 一方でアトラナート商会(学術都市の支持母体の巨大商会)やクルデンホルフ大公家(学術都市周辺を領有する国家元首の家系で、旧トリステイン貴族シャンリット家の流れを汲む家系)からの借金への質と言う形で送られてくる貴族子弟も居るが。

 同時に、学術都市は国元に居られなくなったときの亡命先としても非常に人気が高い。
 来る者拒まず、そして、その内にいる間は外敵からは守ってくれる街なのだ、学術都市は。
 ……外敵からは守ってくれるが、しかし、シャンリットという異端の都それ自体が化物の腹の中のような、蠱毒の底のような環境であることは忘れてはならないだろう。
 街自体に喰われた場合は、悪しからず、である。



「代理母、ですか?」
「ええ、さる外国の貴族の方が、どうしても子どもが欲しいと。しかしその方は子宮に障害がありまして……」

 そして、貴族たちの最重要関心事ともシャンリットの街は深く関わっている。
 即ち子孫繁栄子宝祈願。閨房(けいぼう)の話題である。
 学術都市でもあり、医療技術も進んでいるシャンリットは、また同時に宗教の坩堝、倫理的無法地帯でもある。

 そのため他の国では認可されていない実験的な手法によって(シャンリット内ならば確立されている手法である事が多い)、不治の病の貴族の治療や延命処置を行ったり、中々子供が生まれない貴族夫婦に不妊治療を施している。これがかなり需要が高い。
 その他、遺産相続裁判における血統識別を行ったりもしている。

「はあ、子どもが欲しい方がいらっしゃるというのは分かりました。しかし、それなら私でなくとも、バロメッツでも何でも使えばいいのでは」
「いえ、それが先方の強い希望で、“出来るだけ高貴な血筋の代理母が良い”と」
「高貴な血筋……。私がそうなのですか?」

 子供が欲しいというだけであれば、バロメッツ(実から動物が生まれる樹)に人工授精させた卵子を組み込んで、文字通り木の股から赤子を生まれさせることが出来る。
 だが貴族としては、やはり人間から、それも出来れば高貴な血筋の女性の胎を借りたい思うのは当然の流れであった。

「ええ。貴女のお美しい青い髪色、それはガリア王家に連なる者の証です」
「そう、なのですか」
「ええ」

 青髪の少女に持ちかけられたのは、そのような代理母の依頼であった。
 彼女に流れる王族の血を求めての依頼だ。
 まあ代理母がバロメッツからだろうと王族由来の女性だろうと、生まれてくる子供には関係ない――母体が持っている垂直感染性の病原菌が感染するかどうかという危険がある分、代理母出産の方がリスクは高いかもしれない――のだが、人情としては“どうせ子供をつくるなら、出来るだけ高貴な血の代理母から生まれさせたい”という需要は生まれてしまう。

「貴女にしか出来ないことなんです。どうか、哀れな女性を助けると思って。勿論相応以上の謝礼も用意させていただきます」
「私にしか、出来ない、こと……」
「どうか、お願いいたします」

 青髪の少女は、追い詰められた精神状況の中、「貴女にしか出来ないことなんです、お願いします」と言われて、最終的に代理懐胎の契約を結んでしまう。
 自分が必要とされること――例え求められたのが自分の人格ではなく自分の血統だったとしても――それが、彼女の思い詰めた精神を救ったのは確かであった。



 だがしかし、彼女は何処までも小市民的であったのだ。
 変化ではなく維持を。発展ではなく停滞を。
 人工授精させられた受精卵を着床させられ、処女懐胎し、女になる前に母になるという歪な子の授かり方であったが、彼女は己の胎内で育つ生命に愛着を持ってしまった。
 これはいくら代理母であっても、胎内で育つ子供に合わせてホルモンバランスが調整されていき、自分の体が母になるために変化していくのだから、生物学的見地から見ても当然の在り方であった。

「私の赤ちゃん……。私の……。生まれたら、顔も見ずに、何処かの誰かに渡さなくてはならないの……?」

 代理母懐胎の契約の際には、依頼者と直接顔を合わせることはなかった――お互いにビジネスライクなドライな関係であることが必要であった――のだが、精神的に追い詰められていた彼女は顕著に自分の胎内の子供に依存し、愛着を持つことになった。

「私の赤ちゃんなのに、誰かに渡すなんて、そんなの、イヤ……」

 そして彼女は逃げ出したのだ。お腹の子どもと一緒に。





「ええ、知っていますから。お嬢さんの事情は全て。だから私は余計なことを訊ねる必要はないのです」

 雨音と雷鳴。嵐に撓み擦れ打ち合わされる木々の枝葉の音。
 稲光によって時折形作られる、雨水によって流水紋様が上書きされた不可解な幾何学模様のステンドグラスの影。
 寺院の中でコーンスープのマグカップを握り、無意識に自分の下腹部に手をやりつつ、これまでの事を思い出しつつあった少女は、黒眼鏡を掛けた神父の声ではっと我に返る。

「え」

 今、この神父はなんと言っただろうか。

「貴女が何者なのか。貴女が何故嵐の中を逃げてきているのか。誰に追われているのか。全部知っていますから」
「な、何で、ですか」

 一瞬呆けた少女は、隣りに座る神父から直ぐ様距離を取る。
 神父は不気味にニヤリと口を歪める。

「神のお告げですよ。聖なる光、ヴェールを剥ぎ取るもの。ここは異次元の外なる神、ダオロス様を祀る神殿なのです。
 私は予め、時空を超越した場所に存在する我が神から貴女について啓示を受けていたのです」

 あ、駆け込む教会間違った。

 少女が漸く悟るが、時既に遅し。
 もはや異教の寺院に取り込まれてしまった彼女には逃げ場がなかった。
 そういえば確かにこの神父の第一声は「ようこそ、お待ちしていましたよ」だった。全て予知されていたというのだろうか。

 ああ一体どんな展開になるのか、と自分の行く末を儚んで少女は顔色を蒼くする。このまま研究所に引き渡されるのだろうか。それとも異教の神の生贄に捧げられるのか。様々な考えが青髪の少女の脳内を駆け巡る。
 それでもその一瞬後には、この胎内の子だけは守ろうと、母になりつつある少女は覚悟を決める。
 絶対に生き残る、あらゆる魔手から逃げて隠れて、追い詰められたって囲いを蹴破り、敵の喉を食い破ってでも逃げきってやる、と決意する。

 だが、続く神父の言葉は意外なものだった。

「お嬢さん、いえ聖母様。貴女とその子供は、我が教会が責任をもって保護いたします。ご安心下さい、何があっても守り通します」

 渡りに船。断崖に竜籠。
 都合の良い話に裏があることは既に身にしみている少女は、警戒心を緩めない。

「そんな、そんな都合のいい話なんて信じられません!」

 だが、黒眼鏡の神父は、口元を柔和に歪める。目元は黒眼鏡に隠されて見えないが、それも胡散臭げに歪んでいるのだろうか。

「ならば、理由をお話ししましょう。聖母様の子宮に宿る、その子。その子は、我が神に仕えるに最も相応しい性質を持っているのです」

 じりじりと黒眼鏡の神父が、青髪の少女に迫る。
 小さく首を横に振りながら、少女は後ずさるが、やがて寺院の壁に背中がついてしまう。
 少女の背の壁紙には、ステンドグラスと同じように、彼方まで続くと錯覚させる騙し絵のように不気味な半球と直線の幾何学模様がびっしりと描かれている。

「信じられませんか? 貴女は、その子が何なのかご存知なのですか? その子が正真正銘の人間だとお思いですか? 着床させて一週間も経たないうちに膨らみ始めた自分のお腹を不思議に思いませんでしたか?」
「やめて、やめて、やめてください」

 耳を塞いで、青髪の少女は床に蹲る。
 そう、少女が受精卵の着床手術を受けたのは、わずかに一週間前。
 しかし彼女のお腹は微かにではあるが、既に膨らみ始め、妊娠の兆候を示していたのだ。

 それでも。
 いくら異常な成長速度を持っていようとも、直接の血の繋がりがなかろうと、お腹の中の子供は自分の子どもなのだ。少女はそう自分自身に言い聞かせる。
 項垂れて見れば、床にも、ステンドグラスや壁紙と同じような、気の遠くなるような幾何学模様が刻まれている。

 だが黒眼鏡の神父は縮こまる彼女の様子に構わず、彼が受けたのであろう“神のお告げ”で知った内容を少女に囁いていく。

「より強きを、より多きを求めるのはヒトの性。貴女に代理懐胎を依頼した貴族はですね、大金を使って、受精卵を改造したのですよ」
「いや、いや、やあぁ」
「学術都市はその依頼に完膚無き迄に応えました。異次元の角度から来る青い膿に塗れた絶対捕食者の細胞を、千年掛けて開発した絶妙なる極秘の配合でメイジの受精卵と掛け合わせたのです」
「あぁ、あぁ、あぁっ」
「聞きなさい。そう、貴女のお腹の子供は、異次元の角度の獣の血を引いているのです。それは、即ち、この矮小な三次元を超えた超次元的な感覚を、生まれながらに持っているということ。つまり!!」

 遂に黒眼鏡の神父は少女の前に立つ。
 理解を拒み、無意識に涙を溢れさせてへたり込む青髪の少女の前に、ぬらりと神父は己の顔を近づける。

「……つまり、貴女の子供は、我が神ダオロスに、それだけ近づけるということ。神子(みこ)としてこれ以上の存在はないのです」

 神父は徐ろ(おもむろ)に自分の顔に掛かっている黒眼鏡に手を掛けると、それを外す。
 瞬間、示し合わせたかのように雷鳴が響き、影になっていた神父の顔を照らす。


 その顔の目があるはずの場所には、昏く昏く落ち窪んだ眼窩がポッカリと穴をあけていた。

「私は神の試練に耐え切れずに狂い、自分で目を刔ってしまいましたが、きっと神子様ならば……」

 きゅう、と神父のその異貌を目にした青髪の少女は目を回して気を失ってしまう。

 肉体的疲労が重なっていたところに、精神的緊張が頂点に達し、理解したくない邪言を聞かされて、彼女の精神は自己防衛のために意識のブレーカーを落としたのだった。
 ……彼女の精神が元通りの正気に復帰する見込みが薄いという意味では、“ブレーカが落ちた”というより、“ヒューズが飛んだ”の方が喩えとして適切かもしれないが。

「聖母様? しっかりなさってください! 聖母様!」





 数年後、「聖なる光教団」という新興宗教の団体が学術都市で俄に勢力を増し、確固とした宗教的地盤を築くこととなる。
 そこには聖母とされる美しい顔立ちの青い髪をした女性と、盲目の黒尽くめの神父、そして猛禽や猛獣のような凶悪な空気を撒き散らす神子と呼ばれる青褪めた顔色の幼い少年が見受けられたという。





 ・『消える留年生』の噂
  何年も留年している学生は、卒業した訳でもないのにいつの間にか居なくなっている。
  彼ら彼女らは何処に行ったのだろうか。
  国元に帰ったのだろうか。何かの事故に巻き込まれたのだろうか。新興宗教の怪しげな儀式の生贄にされた? 人体実験の材料に使われた? 研究所から逃げた凶暴な獣に喰われた?
  どれも信憑性に乏しいが、だからと言って一笑に付すには、どのような想像にも真実味がありすぎる。

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【ヴェールを剥ぎ取るもの】ダオロス
この宇宙の外に位置する超次元的な存在。三次元空間には灰色の金属色の棒と半球の無数の組み合わせによって知覚される。接触すると問答無用で異次元送り。ガォン! もしくは、シャドウゲイトの鏡の外の世界。
遠近感が狂うような無限に絡み合った存在を認識した者は、その輪郭を辿ろうとして必ず気が狂う。なので通常、ダオロスを崇める神官は、直接ダオロスを見ないように、暗闇のなかで招来の儀式を行う。ダオロスは次元を超える性質上、未来や過去、異次元を見ることも出来るし、その能力を信者に与えるかも知れない。
不幸にも直接にダオロスを目にした犠牲者は、恐ろしいこの宇宙の真理を目撃した代償に、その後一生、毎日、その時の光景を幻視し、正気度が減少する。ただし、目を刔る、視神経を断ち切る、脳の視覚野を破壊するなどして視覚を無くせば、日々継続して襲い来る正気度減少は避けられる。
ダオロスとティンダロスの生物に相関関係は、恐らく無い。ただ、ヒトより高次元の知覚を持つと思われるティンダロス・ハイブリッドの方が、ダオロスにより近しいとは思われる。それが幸福なことだとは思えないが。

2010.12.07 初投稿
2010.12.09 誤字修正



[20306]   外伝7.シャンリットの七不思議 その7『千年教師長』
Name: へびさんマン◆29ccac37 ID:4dc27135
Date: 2010/12/12 23:48
 クルデンホルフ大公国、学術研究特区シャンリット。
 千年以上に渡ってハルケギニアの知識を集約し続ける学術の都。あるいは異端の巣窟。人攫いの根城。
 そしてどんな者にも出自を問わずに教育を施す学歴ロンダリング機関。

 この学術都市に暮らす者は、最低限の生活をベーシックインカムによって保証されるし、魔法使用免許さえ取れば、街全体に張り巡らされたインテリジェンスアイテムを通じて誰でも相応の金銭的代価と引換に魔法を使うことが出来る。
 おまけにここで暮らす者に税が掛かることはない。だが何もしない者はこの街では存在を許されない。
 何でもいいから蒐め、あるいは研究し、あるいは創作しなくてはならない。

 蒐集か、研究か、創作か。何れかを以て都市に貢献しなくてはならないのだ。
 それをしない者に、明文化されたペナルティがある訳ではない。
 だがしかし、真に怠惰な者は、何時の間にかこの街から居なくなっている。

 公表されている人口動態を見れば、流入する人口に対して流出する人口が圧倒的に少ないにも関わらず、シャンリットの街(≒クルデンホルフ大公国)がほぼ一定した人口規模を保っていることが分かる。
 全人口約1000万人の超過密都市シャンリット。おおよその数字であるが、毎年の国外からの流入人口が+10万人、都市で生まれる人口が+10万人、流出人口が-5万人、死亡人口が-10万人。
 計算通りだと、毎年5万人ずつ人口が増えていくはずなのだが、次の年に調べてみても、全人口は約1000万人で殆ど変化しない。

 つまり行方不明者が毎年5万人。
 この人口の差分は、一体何処に行ったのだろうか?
 ほんとうにふしぎだなー。どこいったのかなー。

 そんな不気味な異端の学術研究都市、あるいは芸術保護都市の実質上の頂点に君臨する男が居る。
 その名をウード・ド・シャンリット。クルデンホルフ大公国風に言えば、アウデス・フォン・カンプリテ。
 彼には様々な呼び名がある。“蜘蛛の祭司”、“僭称教皇”、“最大の異端”、そして“千年教師長”。

 学術研究都市シャンリットに千年以上に渡って君臨すると噂される人外の者。
 人外自体は、このシャンリットにおいては珍しくはない。
 知性ある存在であれば、学術研究都市シャンリットは何であれ受け入れるからだ。
 エルフでも、吸血鬼でも、コボルドでも、平民でも、インテリジェンスアイテムであっても、トロールでも、亡命貴族でも、魚人でも、翼人でも、死人でも、半端な混血であっても。何でも。

 千年教師長ウード・ド・シャンリットは、しかし、新聞などのメディアへの露出も多い。
 それを見れば、彼の外見は確かに老いて、何度も交代していることが分かる。教師長の地位は襲名制で引き継がれているものらしいのだ。
 ……外見からは代替わりしているとしか思えないにも関わらず、彼の、いや歴代襲名した教師長ウード・ド・シャンリット(Ⅱ世~ⅩⅩⅩⅤ世)の発言はぶれない。

 例えば――

「全ての知識を、書物を、生物を、鉱物を、何がなんでもシャンリットに蒐めるのだ!! 道端でネズミが死んでいた? 結構! 直ぐに博物館に採取場所と採取時間と君の名前を添えて送ってくれ給え! それは貴重な生物学上の資料となるだろう」
「いあ! あとらっくなちゃ! 全ての異端者よ、この学術都市シャンリットを訪れよ! ブリミルに見捨てられたものよ、私を頼れ! 私は君たちを拒絶しない!」
「蒐めるだけではない、新しく何かを生み出すのだ。世界を豊潤にするために! 文章を、詩歌を、絵画を、論文を、法則を、公理を、定理を、彫刻を、音楽を!」
「想像を具現化せよ! 君たちの頭脳の数だけ世界は存在し、私は、いや、シャンリットはそれを許容する! 君たちの頭の中の、ソレを発信するのだ! 世界に向かって! シャンリットはその為の支援を惜しまない」

 何度代替わりしようと、“ウード・ド・シャンリット”の地位についた人物は概ねこのような事を繰り返し述べている。
 要するに外見は変わっても“中の人は同じなんじゃないか”疑惑が絶えないのだ、ウード・ド・シャンリットという“役職”には。
 そして歴代の教師長もそれを肯定する発言をしている。

 曰く「姿形などファッションの一つに過ぎんよ」ということらしい。







 蜘蛛の糸の繋がる先は 外伝7.シャンリットの七不思議 その7『千年教師長』







「なー、ウジェーヌ君。わし、もうここの学院長辞めたいんじゃが」

 クルデンホルフ大公国の学術都市シャンリット、私立ミスカトニック学院の学院長室。
 長い白髪と髭が特徴的な老爺、偉大なる魔法使い、オールド・オスマンは、自分の杖である無骨なメイスに向かってそう呟いた。
 それだけではただの怪しい痴呆老人だが、彼の持つメイスは知性持つ武器であるから、話しかけるのも全然アリである。

【だめですよ、オールド・オスマン。まだ全然任期が来てないじゃないですか。愚痴ってないでサッサと『偏在』作って書類片付けて下さい】

 彼の傍らの無骨なメイスは〈ウード169号〉という銘であり、風属性の分身魔法『偏在』を特にサポートするように作られている。ウジェーヌというのは〈ウード169号〉が人型ゴーレムを纏った形態の時に使う偽名である。
 このインテリジェンスメイスの『偏在』補助機能は、戦闘では勿論のこと、事務作業に於いても威力を発揮する。
 オスマンほどの大メイジであれば、この魔道具の補助によって、毎日50人の独立思考する分身を作って、それぞれを8時間は働かせることが出来る。

 1人雇うだけで50人分の労働力が! 何て経済的! ブラボー!
 本人の精神的疲労を考慮の外に置けば、だが。
 あとはそれぞれの偏在の記憶を統合できないという問題もある。

 この『偏在』補助用の杖が量産されれば労働力に破壊的な革命が起きるだろう? いや、そんな事はない。
 学術都市シャンリットにおいて、単純労働は、長年にわたって生産されて蓄積された高度なガーゴイルや、ドMで奴隷根性に染まった特製の矮人、都市全域を覆うネットワーク状インテリジェンスアイテムが担っているからだ。

 学術都市の住民は、あくせく働く必要はない。いや、街が人を働かせない。働く暇があれば研究しろということだ。
 好きなときに好きなことをして、好きな講義を受けて、好きなものを蒐めて、好きなものを研究して、好きなものを書いて、好きなものを作って、たまにその成果を発表すれば良い。
 というより、それくらいしかすることが無い。かと言って何もしなければ街の暗部に喰われるという専らの噂だ。ここは地獄か、はたまた天国か。

「10年のはずの任期を、もう3回は延長されとるんだが……」

 ミスカトニック学院の学院長は、学術都市シャンリットの市長を慣習的に兼任している。
 任期は通常は両者とも10年間である。
 主な仕事は学術都市のあらゆることに対する監査だ。

 だが、学院長は、任期中に何も監査の仕事をしないでいることも出来る。
 半ば以上名誉職のような役職であるのだが、オスマンはそれなりに真面目に務めているようだ。
 通常は連続して学院長を務めることは出来ないはずなのだが、オスマンは3度連続してこの職に就いているらしい。

【いえ、それは正確ではありません。それぞれの任期の継ぎ目に6ヶ月のインターバルが挟まれています】
「そりゃあ、次の学院長に引き継ぎ行った途端に、その後任が発狂して、ピンチヒッターとしてワシが無理やり引っ張り出されたからのう……」

 学術都市シャンリットの歴史を振り返ってみると、任期を全うした学院長は驚くほど少ない。
 オスマンが任期を全うした後に、後任の学院長が選ばれたのだが、その者たちは精神を病んで6ヶ月もしないうちに退場してしまった。

 ミスカトニック学院の学院長は、千年教師長ウード・ド・シャンリットに対抗出来る権限を持つ数少ない役職の一つである。
 実務方トップの教師長に対抗出来るのは、監査役である学院長を除けば、あとは国家元首である大公のみである。
 だから、学院長に任命された者は多くの場合、学術都市の権限を教師長から自分の手に移そうと張り切って、千年教師長の牙城を崩そうと色々とする訳だが……。

【ええ。前任の方々は張り切り過ぎたそうですね】
「ふん。見なくとも良いところまで見ようとするから発狂する羽目になるんじゃ」

 学院長は、千年教師長ウードと同じく、学術都市で行われている全てのことを知る権限がある。
 だが、知ることは……、知り過ぎることは決して幸福なことではない。
 知らなかったほうが良かった真実というのは、この街に溢れている。

 オスマンは手元の学術都市のバランスシートを見る。
 これを軽く見ただけでも、借方の『被験者遺族年金の支払』(何の被験者だ? というか被験者が死亡しているのかよ……)とか、『生贄』(専用項目作る必要があるの? ねえ、隠そうよ少しは。というか生贄って資産扱い?)とか、貸方のやたらに金額が大きいアトラナート商会からの『寄付金収入』(税収代わりのこの項目だけで余裕で学術都市全域の運営が出来るんですが。一私企業の規模じゃねえ。まあ行政業務は殆どアトラナート商会に外注するから結局このお金はアトラナート商会に還流するんだけどねー。超意味無ぇ)とか、突込みどころが満載なのだ。
 前任者たちは深く追求してドツボに嵌ってしまったのだろう。

 そもそも市民に税金かけてないのに、ベーシックインカムでお金ばらまいて、更に各種の奨学金や研究助成金まで出しても、財政が破綻しないとか、何をどうやっているのやら。

 ……オスマンは既に自分の相棒〈ウード169号〉から聞かされて知っているが、実はこの学術都市シャンリットは、恒星系規模に広がっているゴブリンたちの経済圏の余禄で運営されているものである。
 今なおインテリジェンスアイテムに人格を写して生き続けるウードⅠ世・ド・シャンリット個人の趣味で営まれている箱庭と言っても良い。
 太陽-金星のラグランジュポイントなどに建造された矮人たちの人工衛星都市群は、太陽光発電によって得たエネルギーを流用して様々な食料や工業製品を生産し、さらに電力-魔力変換回路によって風石や水精霊の涙を学術都市に供給している。

 学術都市は太陽系に百億人単位で広がっているゴブリンたちのお零れに与っているのだ。

 そのため、学術都市を擁するクルデンホルフ大公国は他国に比べると非常に小さな領土であるにも関わらず、完全に自給自足可能な不思議国家となっている。
 尚、クルデンホルフ大公国から他国への輸出は、その必要がないので基本的には行っていない。輸出関税も馬鹿高く設定してある。
 個人規模の輸出は行われているが、工業製品やマジックアイテムなどは学術都市のインフラを前提としているものも多くあるので、学術都市外では使えなかったりする。例えるなら、コンセントが無い場所にプラグからの電気供給を前提としている電化製品を持って行っても意味が無いという訳だ。

「大体からして、学術都市全域を覆っておるインテリジェンスアイテムと教師長に、この街のことは全部任せとけば良いじゃろう。もう千年この街を治めておるベテランじゃろうに」
【まあ実際、学院長は形式的な役職に過ぎませんからね】
「教師長の独裁政権も良いところじゃ。じゃが、まあ。このまま扱き使われっ放しなのもシャクじゃ。精々存分に権限を悪用してあの性悪教師長にイヤガラセをしてやるかの」

 ひょひょひょ、と笑うオスマン。
 何処からかオスマンの使い魔のハツカネズミ(第79代目)がオスマンの机の上に現れて、ちょこんと立ってオスマンの高笑いの真似をして胸を反らしている。

 学院長は半ば以上に名誉職なのだが、監査役という立場上、教師長が実行する様々なプロジェクトに対して横槍を入れて進行を遅らせることが出来る。
 オスマンがそれなりに真面目に職務を行っているのは、偏(ひとえ)にこんな窮屈な地位に押し込めてくれやがった教師長ウードへ嫌がらせをするためである。
 どれが介入の余地のあるプロジェクトか、遅延させても問題ないプロジェクトなのか……、それをじっくり吟味して、学院長権限で茶々を入れて鬱憤晴らしをしているのである。

「ふーむ。この大公家の予算とか削れんかのう?」

 早速バランスシートとにらめっこを始めたオスマンは、長い顎髭を撫でながら呟く。

【それはウード様ではなくて、クルデンホルフ大公への嫌がらせでは】
「でも教師長の実家じゃろう?」
【ええウード様の弟の息子、つまり甥っ子から続く男子直系ですね。一時期、アトラク=ナクアの呪いが不意に活性化して絶滅し掛けましたが】

 蜘蛛神アトラク=ナクアが空腹にでもなって生贄を求めたのか、それともただの気紛れかどうか原因は不明だが、数百年前に蜘蛛化の呪いが活性化して、シャンリットの一族が絶滅しかけたのだ。
 ぎりぎりで呪いを活性化する蜘蛛神からの波動を、量産型ウードクローンを形代にして集約させることで、シャンリットの血筋の絶滅は避けられたものの、シャンリット本家は断絶してしまった。

「ほう。難儀な家系じゃのう。そういえば、その絶滅しかけた時に、家の名前をシャンリット(カンプリテ)からクルデンホルフに改めたそうだの」

 本家が断絶したので、直系の血を引く家系でなんとか生き残っていたクルデンホルフ家が大公位を継承したのだ。
 学術都市の帰属は、トリステインからゲルマニア、そしてクルデンホルフ大公国と移り変わってきた。
 学術都市を領有する家系自体は連綿と血脈を保っているが、その名前は帰属国家の変遷と共に変わっていった。

 少し学術都市の支配者の変遷を見てみよう。

 ミスカトニック大学設立当初に学術都市一帯を治めていたシャンリット侯爵家は、王族の降嫁があったりトリステイン王国への技術貢献などの功績によって最終的にシャンリット大公家に陞爵した(ブリミル歴5200年ごろ)。
 その後ロマリアの圧力を受けたトリステイン王国が、ロマリアの工作ででっち上げられた内乱を鎮圧する名目で、異教化しつつあったトリステイン東部へと出兵。それに反発したシャンリット以東の地域が、ゲルマニアとして独立。ゲルマニアの独立に伴いシャンリット大公家は、カンプリテ大公家へ読み方を変えた(ブリミル歴5800年ごろ)。
 さらに前述した通り、蜘蛛神の呪いで本家が滅びかけたので、男子直系の流れを汲む分家であったクルデンホルフ家が大公に格上げされた(ブリミル歴5900年ごろ)。
 その後、トリステインからの独立初期は国教を定めなかったゲルマニアが、ロマリアや周辺国の圧力によって再びブリミル教化するに当たって、大公家は反発。学術都市とそれに関連が深い地域を纏めてクルデンホルフ大公国として独立し直した(ブリミル歴6000年ごろ)。

 大まかには以上のような流れとなっている。

【難儀は難儀ですがその呪いの御蔭で、この学術都市の隅々に張り巡らされたインテリジェンスアイテムが完成したんですから、一長一短ですよ。教師長のウード様の魂が蜘蛛の性質を持っていた御蔭で、ネットワーク状アイテムを作るのに適性が高かったんですから】

 街中どころか惑星中に張り巡らされたネットワーク状インテリジェンスアイテムは、そのまま各種インフラの基礎として利用されている。
 電線として、あるいは魔力を各個人のカード型端末に供給するラインとして、あるいは街中を監視したり……。その用途は多岐に渡る。
 惑星を覆うネットワークを十数年で、魔法の力があるとは言え、独力で創り上げたのだから、千年教師長ウードが相当な傑物(あるいは変態)であったのは確かだ。

「魔法の杖を伸ばして地表を覆うとか、ゴブリンを改造して魔法使えるようにしたり、ホント、狂った男じゃの。いや、既に人間ですら無いのだったか」
【ええ、ウード様は人格を巨大ネットワーク型インテリジェンスアイテム〈零号〉に写してしまっていますから……。現在、表に出ている教師長はその人型端末の一つに過ぎません】

 千年教師長とは、千年前の異端者ウード・ド・シャンリットの亡霊が操る一つの端末、ゴーレムに過ぎないのだ。

「ワシも大概人間辞めとるが、教師長も大概じゃの」

 オスマンはそう呟いて、傍らの話し相手のインテリジェンスメイスを手に取って自分の『偏在』を作り出す。
 オスマンも邪神クァチル=ウタウスの加護によって不滅の肉体を得ている人外であるので、教師長のことをとやかく言えた身ではない。

【あ、漸く仕事ヤル気になったんですね?】
「いやいや。やっぱりもう嫌じゃ。残りは『偏在』に任せてワシはエスケイプする。まだ見ぬ美女がワシを呼んでおるでなー!」
【教師帳に嫌がらせするって意気込んでいたのはどうしたんですか……】
「ふふん、それについても考えておるわい。女子(おなご)を求めて各国を遍歴するついでに、奴の悪名を調べて纏めて、所々に真実を織り交ぜた暴露本を書いてやろうと思うての」

 取り敢えず大量の魔力を込めて数年は稼働できるように強化した『偏在』数体に手早く指示を念じて伝えつつ、オスマンは早速旅立つ準備をする。

【……そしてまた正気度を削る魔導書が出来上がるのであった……】

 ぼそりと〈169号〉が微かな声で空気を震わせる。

「何か言ったかのー?」
【いいえー、何もー】

 オスマンはメイスを片手にクルリと回し、棚に安置していた〈カルナマゴスの遺言〉という彼にとっての生命線の魔導書を『念力』で引き寄せて小脇に抱えると、今度は学院長室の壁に掛かっていた姿見の鏡に向かってメイス〈169号〉を一振り。
 鏡はオスマンの魔力を受けて水銀の湖面のように変化した。

 姿見は、離れた場所にある同種の魔道具同士を繋ぐ〈ゲートの鏡〉という魔道具だったようだ。
 昔は一対セットでしか運用できなかった〈ゲートの鏡〉は、技術の進歩によって自在に接続先を変更できるようになっている。
 学院長権限を用いて、オスマンは、学術都市シャンリットとガリアの国境地帯の鏡の出口へと〈ゲートの鏡〉の行き先を設定する。

「ひょひょひょ、じゃあバカンスと洒落込むかのー!」

 机の上に居たオスマンの使い魔のハツカネズミがオスマンの腕に飛び移り、タタタ、と腕を駆け上がってオスマンのローブの中に隠れる。
 意気揚々とオスマン(と一匹と一本)はその銀鏡に飛び込んでいく。


 残された数体のオスマンの『偏在』による分身体たちは、早速、さてどうやって仕事サボるか、と碌でも無い相談を始める。
 いやここは美少女量産計画を、とか、女子校に視察に行こうかのー、とかいう声も聞こえる。
 まあこの辺りはオスマンにとっては“いつも通り”の事である。仕方ない。

 だが、一点今までと異なることがある。
 オスマンが手を抜いたのか、『偏在』ではコピーできなかったのか、彼らの杖〈169号〉のレプリカには知性が付与されていないらしい。
 つまりストッパー(ツッコミ役)不在であった。学術都市の明日はどっちだ。





 クルデンホルフ大公国とガリアの国境を越えて、オスマンは今、ガリアの火竜山脈の北側にやって来ていた。
 火竜たちが生態系の頂点に君臨する“ガリアの背骨”とも呼ばれる標高の高い山脈である。

「極楽鳥の卵は美味いのう! シャンリットの料理も各種調味料が揃っておって中々良いが、こういう郷土料理はやはりご当地に出向かねばならん!」

 ふんわりと空気を含むように焼きあげられたオムレツを木匙で掬って、舌鼓を打つオスマン。
 中は半熟でとろりとしており、とろとろの黄身が舌に絡みつき、その極上の風味を伝えてくる。
 微かに香る食欲をそそる匂いは、香草エキスを滲出させた香りづけ用の蒸留酒の匂いだろう。

 塩加減も絶妙なバランスである。
 卵自体の濃厚な風味を存分に生かした逸品だ。

 傍らに置かれた木製ゴブレットには、ワインから蒸留して作られた酒が注がれている。
 オスマンはその食中酒としては些かキツイものを口に含み、口の中に残っていたふわふわとろとろの卵の黄身との混淆を楽しむ。

「うーん、酒ともマッチしてベリーグッドじゃ。この酒は単体でもいけそうじゃのう」

 酒精が喉を焼く感覚を楽しみながら、オスマンは杯を乾かす。

 この蒸留酒、何でも、昔にシャンリットに学びに行ったとある農家の息子が、火竜山脈の地熱を利用した蒸留所をこの地に作って以来の隠れた名産らしい。
 今でもそこの家系は発酵や熟成について学ばせるためにシャンリットの学校に息子娘を遣っているらしい。
 その留学について、村に居るブリミル教の神官は余り良い顔をしないし、神官から毎週説法を受けている村人たちも眉を顰めることが未だに有るらしいが。

「うひひ、村の娘っ子も、まさに卵肌じゃったし、中々良いところじゃのう」

 昨日この村に到着して直ぐに、早速口説き倒した村娘のことを思い出しながら、オスマンは次々と皿を空にしてゆく。
 老いた顔と、邪神の契約の証に捻くれた背骨と、それによって寸詰まりになった不恰好な胴体では口説けはしないだろうって? いやいや、高度なスクウェアスペルに『フェイスチェンジ』という便利な変装魔法が在るのだ。ジョルジュ・オスマン、設定年齢19歳、蟹座のB型。美形に化けたオスマンの魅力に抗える女性はいなかった。
 宿屋には地熱によって湧いた温泉が引かれており、その点でもこの地に対するオスマン的評価は高い。

【すっかり寛いじゃってますけど、良いんですかねー……】
「何、25年以上もミスカトニック学院の学院長として勤めてやったのじゃ、5年くらいバカンス貰わんと割に合わんわい。のう、モートソグニル」

 ぢゅ! と彼の使い魔のモートソグニルが机の下で返事をする。主人のご相伴に与っていたのだろう、オムレツの破片が口の周りに付いている。
 オスマンはモートソグニルに追加の料理の欠片を投げつつ、「それにワシの居場所はお主(〈169号〉)の反応からバレておるじゃろうから必要なら迎えに来るじゃろう」などと言って飄々としている。

【5年も経ったら任期終わっちゃってますよ】
「ほう、そりゃあ丁度良いわい。前にトリステインの魔法学院から学院長にならんかと招待があっとったから、このバカンスが終わったらそっちに行くかの。故郷に錦を飾るというのも良かろう」

 次々と運ばれてくる極楽鳥の卵の料理を、美味い美味いと言いながら腹に収めるオスマン。
 時折ネズミのモートソグニルに料理の欠片を投げている。

【……招待があったって、何年前の話ですか】
「うん? 確か、1回目の学院長の任期が終わった時じゃったから、15年は前かのう」
【それって向こうは、学院長として招いたことなんて、とっくに忘れてるんじゃ……】
「気にすることはあるまい。何とかなるじゃろ」

 忘れているどころかオスマンに招待状を出した担当者は代わっているだろうし、下手したら故人になっている。

【そういえば、何でこの村に立ち寄ったんですか? まさか御飯が美味しいからって訳でも無いでしょう?】
「うん? まあ昔に教え子からこの時期の極楽鳥の卵は美味いと聞いていたのもあるが、ここにはアレが在るんじゃよ」
【アレ?】

 オスマンは食べ終わった食器を置くと、親指を立てて首を掻き切るジェスチャーをする。

「首じゃよ」
【首?】
「そう、ハルケギニアに幾つも点在する、“ウード・ド・シャンリットの首塚”じゃ」





 火竜山脈の麓の岩肌に設けられた簡素な祠。
 近くで火山性のガスが湧いているのか、若干硫黄臭い。
 周囲には生物の気配は無い。

「首塚と言っても何も無いのう」
【そりゃそうでしょう。だってウード様の首はシャンリットまできちんと飛んでいったんですから。まあ、ここで一旦休憩を挟んだ可能性もありますが】
「確かにそうじゃ。ふーむ、どうやら昔からあった火山ガス溜りが、途中で“ウード伝承”と混同されたのかのう」

 火山性のガスによって周辺の動植物が死んでいく様が、古来から悪魔や亡霊の仕業とされることはよくある。
 この祠もそんなガス溜りを示す目印の一つなのだろう。
 ただ、その“悪魔や亡霊の瘴気によって”という部分が“ウード・ド・シャンリットの呪いによって”という伝承に何時の間にか置き換わってしまったのだろう。

 “ウード・ド・シャンリットの首塚”と呼ばれるものは、今回オスマンが立ち寄った村以外にも、ロマリアからガリア、クルデンホルフに掛けて点々と、ほぼ直線上に存在する。
 トリステインやゲルマニアでは“千年教師長”としてそれなりに有名なウード・ド・シャンリットであるが、それ以上に彼の悪名はハルケギニア中に轟いている。
 それはブリミル教が各地の寺院を通じて積極的に彼の悪名を広めているからであるし、アトラナート商会がそれに対する処置を特に何も取っていないからでもある。寧ろ面白がっている面もあるようだ。

「まあ良い。一旦はこのまま“首塚”巡りをしつつロマリアの聖グレゴリオ寺院を見物に行くかの。余り長居するとモートソグニルがガスにやられて死んでしまうわい」
【聖グレゴリオ寺院というと、ウード様が斬首された広場に建てられた寺院ですね】
「そうそう、見応えはあるらしいからの」

 からからと笑いながらオスマンは踵を返す。
 どうやら彼ら一行は火竜山脈を越えてロマリアを目指すつもりらしい。


 千年教師長ウードの悪名は様々ある。“ブリミル教史上最大の異端”、“蜘蛛の化物”、“疫病の化身”、“悪魔”。
 ブリミル教は徹底的に彼を悪者に仕立て上げた。
 東に疫病が流行ればウードの所為、西に幻獣が大量発生すればウードの所為、南に飢饉が起きればウードの所為、北に喧嘩や訴訟があればウードの所為、日照りも夏の寒さも皆みーんなウードの所為という具合だ。

 ロマリアによれば、世に蔓延る政治の腐敗や悪徳は全て、悪魔ウードが操るアトラナート商会に原因があるし、ブリミル教会のあらゆる醜聞は実はウードが仕掛けるブリミル教徒と宗教庁に対する離間の陰謀なのだそうだ。
 彼らに掛かれば、政敵は異教者ウードに唆された背教者だし、シャンリットの土地で作られる全ての物品書籍は堕落に誘う悪魔の果実であるということになる。
 シャンリットの土地では血筋に関わらず魔法が使えるというのも、汚らわしい悪魔の手による、偽の奇跡であり、“敬虔なるブリミル教徒は、そのような悪魔の甘い罠に乗ってはならない”と神官たちは口を酸っぱくして言っている。

 ……そう言われればあまり間違っていないような気もするが、実際は学術都市成立以降は、ウードやアトラナート商会は学術都市に引き篭っていて、他国に対して生徒募集や資料蒐集以外には積極的に介入はしていなかったりする。
 つまりロマリアが流した数々の噂は言いがかりである。
 完全に言いがかりである。

 だが虚言でも百回繰り返して聞かされれば「ひょっとしてそうかも?」位には思ってしまうものだ。
 況や千年に渡っての刷り込み教育(現在進行形)である。
 ロマリア、ブリミル教会を中心としての、ブリミル教圏各国におけるアンチ・シャンリットというのは相当根深いものがある。


 “ウードの首塚”とされていた火山ガス溜りから幾分離れたところでオスマンは一息入れる。
 山道の脇の手頃な大きさの岩に腰掛ける。
 ローブのポケットからモートソグニルが顔を出して、鼻をひくつかせて新鮮な空気を吸い込んでいる。

「老体で山越えは無理かのー」
【そりゃ無理でしょう】
「あと50年若ければ!」
【あんた老体固定だから変わらんでしょう】
「百年前もジジイ! 二百年前もジジイ! 今もジジイ! これから先もジジイ! 未来永劫ジジイ!」
【自分で言ってて虚しくならないですか】
「少しだけ」

 そんな不毛な掛け合いを続ける彼らの上を何匹かの竜の影が過ぎていく。
 それを見たオスマンが唐突に、天啓を得たりといった様子で立ち上がる。

「あ、ワシ良いこと考えた」
【碌なもんじゃないでしょう】
「竜に乗れば楽に山脈越えられね?」
【正気ですか】
「もちろん。楽勝じゃろ、火竜調伏程度」
【まあ確かに】

 オスマンは手にしたメイスを一振りして『偏在』を1人創り上げると、上空を舞う火竜に向けて『フライ』で射出する。
 砲弾の如き勢いで空に打ち上げられた『偏在』の分身体は大音声を張り上げて火竜の注意を引く。

「ヘーイ! ドラゴーン! カッモーン!!」

 轟然と飛来するメイジを見て、火竜たちが宙を飛んで集まってくる。
 火竜たちは空を飛んでいるメイジなど、無力な存在だと思い込んでいる。
 このまま空中で弄んで最後に引き裂いて喰らってやろうと、面白半分にオスマンの『偏在』に躍りかかる。

 だがそこで既に慣性飛行に移行していた『偏在』がすかさず詠唱する。

「『スリープクラウド』!!」

 3匹集まっていた火竜は、『偏在』の周囲に作り出された『眠りの雲』に突っ込んでしまう。
 『スリープクラウド』が効いたのだろう。そのうちの2匹が朦朧としつつ、弱々しく鳴きながら遠ざかる。
 そして残りの1匹が昏倒して墜落する。

【あ、墜落しますよ】
「直ぐに『偏在』が『レビテーション』唱えるから平気じゃろ」

 オスマンの言葉通り、昏倒した火竜の落下速度が鈍る。

「ほら、な」
【……それで『偏在』の方は誰が助けるんです?】
「……。あー」

 どしゃ、と何か水分が多いものが岩肌に叩き付けられる音がしたかと思えば、地上3メイルくらいまで緩やかに下降していた火竜が、がくりと一気に高度を落として墜落する。
 自由落下する『偏在』が山肌に墜落して消滅し、火竜の『レビテーション』が解けたのだろう。
 ずどん、と地響きがして、それに反応してびゃあびゃあと火竜たちが喚き立てる。

 オスマンは取り敢えず墜落した火竜の元へと向かうことにした。





 墜落した火竜は肋骨や翼が折れて負傷していたが、オスマンはその傷を『治癒』の魔法で癒して、ついでに脳味噌をちょいちょい弄って従順にしてその火竜を従えた。
 火竜の脳構造もシャンリットでは既に解き明かされているので、脳の適切な部位を水魔法で不活性化させての擬似ロボトミー手術も可能であるのだ。
 ちょっと大人しくなってもらった火竜に乗ってオスマンは一路ロマリアへ。

 風魔法の皮膜で包んで風を和らげて、火竜山脈上空を通過。
 ロマリア側の麓に降り立った一行は、用が済んだ火竜の脳回路を阻害していた水魔法を解除して火竜をリリース。

「ありがとうよー」「ちゅ、ちゅちゅー」
「GRU?」

 気がついたら山脈を跨いで反対側に居たぜ、一体どういう事だ、とでも言いたげな火竜。
 それを見送るオスマンと使い魔のモートソグニル。
 そしてオスマン一行は火竜山脈とは逆側に向き直る。

 遥か向こうに見えるは、千年前に千年教師長ウードが処刑された土地、ロマリアだ。





 ロマリア連合皇国。
 ハルケギニアの秩序を司る宗教であるブリミル教の総本山。
 異端者の流刑地とも言われるクルデンホルフ大公国シャンリットとは千年来の敵対関係にある、と、ロマリア側では思っている。

 光の国とも言われるロマリアは、各地の寺院荘園からの富が集まる都でもあり、同時にその始祖の威光に惹かれて集まる各地のあぶれ者たちが集う都でもある。
 綺羅びやかな聖職者と、信仰を頼みに救いを求めて集まる貧民たち。
 光と影のコントラストがこれほど強い街も、他にあるまい。

「相変わらず、何と言うか落差が激しい国じゃのー」
【貧しいからといって不幸だとは限りませんけど】
「それはどうかの。目の前に富める者がおれば、嫌でも自分の境遇を顧みて惨めになりそうじゃが」
【さあ。そればかりは本人たちに聞いてみないと分かりませんね】

 数日掛けて火竜山脈の麓からロマリアまで遥々やって来たオスマン一行。
 女の子をナンパしつつの旅路であったが、ロマリアの伊達男たちから日々ちやほやされているロマリア娘たちに対しては、オスマンの勝率も芳しくなかったようだ。
 大きな門の外には、入市税を逃れるために集まった貧民によるゲットーや、それらの貧民向けの日雇い斡旋所や市場が立っている。

 入市税を支払って市内に入った先にも、貧民街が広がっている。
 遠目には幾つもの壮麗な尖塔が見える。

 貧民たちはシャンリットに向かわないのか?
 もちろん向かう者も居るが、シャンリット行きは、最後の手段なのだ。
 学術都市にして異端都市であるシャンリットに向かうことは、基本的にはブリミル教圏からの決別を意味する。

 それはシャンリットで知識を身に付けて故郷に戻って来ても、異端者として見られるからだ。
 多様な価値観に触れる比較的裕福な層はともかく、狭い世界で生きる平民たちにとってみれば、悪魔ウードが支配する異端都市から帰ってきた者は、即ち悪魔の使徒なのである。彼ら平民たちにとって、世界とは、神官が教えるものが全てであった。
 何処に行ってもブリミル教が“シャンリットは異端だ”と繰り返しているので、学術都市シャンリット出身者たちはそれとなく除け者にされ、居づらくなって、最終的に学術都市シャンリットに出戻ることも多い。
 ガリア側の火竜山脈の麓で、シャンリットで学んだ蒸留酒造りの家系がそこに根を張っていたのは、元々その家の影響力が大きかったのか、その地の神官が寛容だったのかどちらかだろう。

「本当に食い詰めたら、シャンリットに向かえば良い話じゃしな」
【そうですね。シャンリットは来る者拒みませんし】
「掃き溜めみたいなもんじゃがな」
【そうですねえ。でも、王族の血を引く者の割合は一番多いかも知れませんよ】

 庶子、正統、亡命者問わず、各国王家縁のものを受け入れているシャンリットは、実は潜在的な生粋のメイジの割合も高いのかも知れなかった。
 まあ彼らが学術都市に居る限りは、その魔法の才能を発揮することはないかも知れないが。

 王族でも政治的理由や本人の興味によって学術都市シャンリットへ留学する者は多いが、それはその留学者が王位継承レースから脱落することを意味していた。
 『神授王権を担う王が、異端に汚されるなんて以ての外だ』と考える貴族・神官たちによって、そういった風潮が作られたのだ。
 尤も、王になるものは学術都市シャンリットで学んだ自分の親戚を助言者として重用する場合が多い。旧来とは異なった観点から齎される知識の有用性を、流石に王は認識している。

「それで、聖グレゴリオ寺院はどっちかのー」
【それよりも先に路銀を調達しないとマズイのでは】
「そうじゃの。アトラナート商会の建物でお金を下ろさねばならんかの。それで、アトラナート商会のロマリア支店は何処にあるのじゃ?」

 というかブリミル教の総本山に異端のアトラナート商会はあるのだろうか。

【5ブロック先をとりあえず右ですね】

 あるらしい。

「こういう時、アトラナート商会の節操無さは便利じゃの」
【それが他の国で嫌われる原因でもあるんですけどね】

 異端者であるにも関わらず、無節操にあちこち出店し、品物のラインナップにも節操がなく、更に裏では生き物の死骸から宝石、果ては人間まで何でも買い取って蒐集するというアトラナート商会の姿勢は、トリステインを始めとして各国で嫌悪の対象である。特に伝統と慎みの国であるトリステインでは激しく嫌われている。
 言うこと聞かない悪い子供には、『アトラナート商会に売っ払っちまうよ!!』と言って脅すのが子育てする親の定番の文句である。
 実際にアトラナート商会はこっそりと人身買取(売却の方はしていない)を行って学術都市シャンリットへと、口減らしなどであぶれた人員を連れ出しているので脅し文句としても真実味がある。

 学術都市のIDカードに付属している銀行口座からは、ハルケギニア各地のアトラナート商会の支店でもお金を下ろすことができる。
 それも当地の貨幣でだ。学術都市、引いてはクルデンホルフ大公国では住民全員がIDカード型マジックアイテムに付属している口座を使って経済活動を行うため、貨幣は流通していないし、独自の通貨を用いている。
 アトラナート商会はエルフ領にも進出しているので、エルフ領の支店ではエルフたちの通貨を下ろせる。因みにクルデンホルフ大公国と他の国の通貨との交換レートは固定である。

 25年間貯めこんで、唸るほど金が余っている口座から旅の資金を下ろしたオスマン一行は、当座の宿を探して街を徘徊する。
 お金はあるので豪華で飯が美味い場所を、と、オスマンは自分の愛杖〈169号〉にナビを頼む。
 〈169号〉は素早く大地に張り巡らされてあるネットワーク状マジックアイテム〈黒糸〉に接続し、長年蓄積された情報(当然のようにご当地グルメの情報も記憶されている)からロマリアで人気の宿を探し当てる。

 では夕食を、と酒場も兼ねるその宿屋へと一行は向かう。

 その酒場兼宿屋兼飯屋は大層流行っているようであった。
 巡礼にと赴いたブリミル教信徒たちが騒いでいる。
 禁酒禁欲何のその。恐らくは何処かの貴族の一行なのだろう。陽気に杯を交し合っている。

 オスマンは酒に酔う人の隙間を縫ってカウンターに辿り着くと、どしゃりと金貨袋をそのオーク材のカウンターに置く。

「部屋は空いておるかの?」
「ええ、空いておりますよ」
「ならば一部屋。それと美味い料理とそれに合う酒を頼むわい」

 オスマンは空いていたカウンター席に腰掛け、持っていた凶悪なデザインのメイスをその傍らに置く。

「のう、ところでマスター」
「はい何でしょう、ミスタ」
「この辺でウード・ド・シャンリットに縁の……」

 オスマンがウードの名を出した途端に、店内は水を打ったように静まり返る。
 皆がぎょっとした顔でオスマンの方を見ている。

「ミスタ……」
「おっとスマンスマン。呆け老人の戯言として忘れてくれい」
「頼みますよ……。この街でその名前はタブーなんですから」
「ふむ、ロマリアに来るのは何分久し振りなもんでなー。かれこれ千年ぶりかの。かっかっかっ」
「千年って、ご冗談でしょう」

 マスターが気を取り直してオスマンに話しかける。
 周囲もそれぞれの食卓の話に戻っていき、再び喧騒が満ちる。

「かかか、まあ千年は言い過ぎじゃの。精々が百年ぶりくらいじゃ」
「またまた」

 料理と酒を受け取って、オスマンは食事を始める。

「してマスター、さっき口に出しかけた語るも悍ましい男についてじゃが、そんなに恐れられておるのか?」
「……いや、その蜘蛛の某がどうって訳じゃ無いんですよ。あんなの所詮お伽話でしょうし」
「蜘蛛に化けたり、首だけで笑いながら飛んでいったり?」

 蜘蛛男ウード・ド・シャンリットに関する昔話は色々だが、『長寿の人外』、『蜘蛛が化けている』、『殺しても死なない』、『千里眼』、『蟲を操る』、『矮人を従えている』、『高価な魔道具や金銀財宝を蒐めて蓄えている』辺りの要素を押さえておけば良いだろう。
 先に挙げた属性は概ね真実だが、それに加えて一度は聖人に負けていることや、ロマリア市内に入ってから動きが鈍ったことから、『聖なるものに弱い』という属性が付加されることもある。
 弱点の無い悪役など、魅力がない。というか神官が説法で用いる物語の都合上、そういった弱点がないと扱いづらい。始祖に祈れば悪魔ウードを退けられますよ、だから始祖に祈りましょう、と神官は言うわけだ。

「そう、その昔話です。皆子供の頃に聞かされるものですが、まともに信じている者は居ませんよ。馬鹿馬鹿しい」
「じゃあ何で名前を出すのを嫌がるのかの?」
「……異端審問官が怖いからですよ。あの蜘蛛の某の名前を出すと、異端審問官がやって来るって噂なんです」
「……市内に蜘蛛商会の支店まであるのに、高々名前を呼んだくらいで?」
「それは宗教庁にショバ代として随分賄賂を握らせてるって話です」

 なるほどなるほどと呟いて、オスマンはちらりと傍らのメイスに視線を送る。

「賄賂ねえ。どうなの、ウジェーヌ君」

 オスマンはむしゃむしゃとトマトソース的な何かが掛かったパスタ的な料理を食べながら、自分の傍らの武骨なインテリジェンスメイス〈169号(ウジェーヌ)〉に問う。
 ちなみにトマト的な野菜はアトラナート商会がどこかから持ってきて品種改良してハルケギニアに広めた作物の一つだ。
 他にもジャガイモ的な何かとか、様々なものがアトラナート商会経由で広まっているが、その悪魔の広めた作物を利用することに対する抵抗は、ロマリア市民には無いようだ。……広まったのが千年も前だから当然か。

【確かですね。拠点確保のために結構な額を献金しています。現教皇様が蜘蛛排除派なので、その対立派閥に賄賂を渡して手を回してもらっていますね】

 すかさずインテリジェンスメイスは答えを返す。
 その様子を見た酒場のマスターはちょっと目を見張る。

「へえ、インテリジェンスアイテムとはまた酔狂なものをお持ちで」
「なかなか使えるんじゃよ? あとはこれが美女にでも化けてくれれば最高なんじゃが」
【化けられますよ?】

 愛杖の何気ない言葉にオスマンは愕然としてフォークを取り落として音を立てる。
 何時の間にかオスマンの懐から出てちゃっかりご相伴に与っていたハツカネズミの使い魔モートソグニルが、その音に一瞬驚くが、彼は両手で挟んでいたパスタを取り落とすことはなく、引き続きにゅるにゅると頬張り続けた。

「なんじゃと?」
【一応義体は女性バージョンも作れますよ?】
「マジで? なら今夜見してくり」
【良いですけど変なことしないでくださいよ】
「インテリジェンスアイテムに欲情するほど落ちぶれとらんわい」
【じゃあ何するつもりですか】
「義体のデザインは調整できるんじゃろう? ワシ好みの美人秘書に仕立て上げようと思っての」
【はあ、さいですか】
「む、馬鹿にしとるな。美人秘書が付いておるか付いておらんかで、やる気が百倍は違ってくるのじゃよ!?」

 既にマスターは勝手に掛け合いを始めた老メイジとその所持品の杖を放っておいて、他の客の相手をしている。
 ちなみにオスマンと〈169号(ウジェーヌ)〉が話し合っているうちに、残りの料理はモートソグニルが美味しく頂きました。小さな身体のどこにそんなに食べ物が入ったのかというと、このハツカネズミに刻まれた使い魔のルーンの効果である。
 モートソグニルのルーンは“マルディ・グラ(謝肉祭宴の最終日)”と言って、物理法則を無視して食い溜めが出来る能力を付与するルーンである。小鳥やネズミなどに刻まれることが多く、ズボラなメイジに召喚された場合でも代謝が激しい使い魔が飢え死にすることが無いようにという始祖の配慮の賜物なのだとか。学術都市の研究によれば、このルーン“マルディ・グラ”が刻まれた使い魔が食い溜めた食物のエネルギーは、風石や水精霊の涙のような高魔力エネルギー結晶となって体内に溜め込まれているのだとか。






 次の日、オスマンによって義体ゴーレムを女性型にカスタマイズされたインテリジェンスメイス〈ウード169号〉、ウジェーヌ・ドラクロワ(偽名)改めウジェニー・ドラクロワ(仮名)は、ふたり仲良くロマリア観光をしたのだとか。
 それに味をしめたオスマンは、ナンパが上手く行かなかったときはウジェニーを様々にカスタマイズして――服や髪型のみならず顔や身長や体型も――連れ歩くことを楽しんだ。

【……土人形のボディ相手に着せ替えたりこね回したり色々と、何か虚しくなりませんか? オールド・オスマン】
「どうせ時間は腐っても無くならん程保証されておるのじゃ、我が魔道書〈カルナマゴスの遺言〉の術式によって。たまには邪道を試してみるのも良いものじゃと思わんかの? 造形作業も中々楽しいしの」
【はあ、まあ、コメントは控えさせていただきます】

 後のフィギュア萌え族の開祖となるとは、この時点では誰も考えなかった。

「そうじゃ、たまには名前も変えてみないかの? 今日はアルビオン風に“ユージェニー・ロングビル”とかどうかの!?」
【ロングビルって誰ですか】
「知らん。昨日の宿帳に書いてあったどっかの誰かの名前じゃ」

 なおウード処刑跡地に建てられた聖グレゴリオ寺院には、特に記すべきものは何も無い普通の寺院だったことを追記しておく。
 伝説の武器が封印されていたりとか、語るも悍ましい化物の巣窟などにはなっていなかったようだ。





 所変わってアルビオン。
 過去の大地殻変動『大隆起』によって宙に浮かび上がった大地である。
 現在はテューダー王家が治めている国であり、大昔に大火事に遭ったために、建造物に木材を使うことが禁止され、その代償として風石の力で空を飛ぶ木造船の製作が活発になった、空軍大国。

 狭い浮遊大陸にも関わらず、旧い支配者たちや遥か宇宙からの生命体が犇めいているため、それを恐れてアトラナート商会の進出は活発ではない……かというとそうでもない。
 遥か宇宙に逃げ場を確保したゴブリンたちにとって、強大な力を持った旧支配者たちとの交流を躊躇う理由は最早存在せず、彼らの技術や能力の解明に力を入れ始めているのだ。……宇宙に逃げたと言っても、その程度で逃げ切れるか解らないから、極めて慎重に、だが。
 系統魔法とも精霊魔法とも虚無魔法とも科学技術とも異なった、異次元の技術、魔術。それについての蒐集と、体系化と新規開発を目標に、矮人たちは動いている。

 既にそれらについて幾許かの知識はある。

 水の精霊に狂わされた調査員が持ち帰った遙か古代の神々の戦いについての記憶。
 火星で出会った古のものから学んだ超技術。
 セラエノ帰りのエルフから伝え聞いた、異世界の歴史。
 古の偉大な魔導師たちが書き記した秘術の記録。

 千年掛けて営々と蒐集し続けたその結果を以て、ゴブリンたちとウード・ド・シャンリットの亡霊は、世界のホントウの真理へと手を掛けようともがいているのだ。

「なんつうか、あれじゃの。この国はシャンリットに近しいものを感じるの」
【空気が汚染されているんでしょう、異教の神々が齎す混沌に】

 オスマンとその連れの女性型ガーゴイル(インテリジェンスメイス内蔵)は、ロマリアのアトラナート商会支店から、〈ゲートの鏡〉を抜けて空間を超越してアルビオンの首都ロンディニウムにやって来ていた。密入国である。
 インテリジェンスメイス〈169号〉は、理知的な鋭い目付きに紅い長髪の美しい女性の姿の肉人形(ゴーレム)に身を包んでいる。
 この姿の状態の時は、オスマンからは“ユージェニー・ロングビル”という偽名を与えられている。

「地下にはアイホートの迷宮が縦横無尽に広がり、森には黒山羊がうろつき、シャッガイの蟲が飛び回り、湖底にはグラーキが潜み、と。難儀な国じゃの」
【知識を得るために、シャンリットの矮人たちが彼らに対して奉仕種族のように振舞っているせいで、ここまで混沌の雰囲気が助長されたのですけどね。千年前はもっと穏便な雰囲気の国だったそうですよ】
「ふうん、テューダー王家もアルビオンの民も不幸じゃの」
【しかし、彼らアルビオンの民が犠牲になる身代わりに、ゴブリンたちが神々を慰撫しているという面もあります。ですから民にはそこまで直接的な被害は出ていないと思いますよ。……狂気的な波動が満ちているせいで精神を病む人は多いそうですが】

 ゴブリンたちはこの地に棲む神や宇宙生物たちの監視や世話をし、時に必要以上に献身的に仕えてきた。
 それは千年前のウードの使い魔であった穿地魔蟲クトーニアンに対する関わり方と似ている。
 望むものを与え、どうか災いを齎すな、知識を授けてくれ、と慰撫し懇願するのだ。

 この天空の土地アルビオンでは、ウード・ド・シャンリットに関する噂はそれほど多くない。
 当然だ。
 ウード・ド・シャンリットがこの恐ろしい存在に満ちた天空大陸を訪れることは殆ど無かったのだから。

 だが、シャンリットと最も接触が薄かったにも関わらず、そこに流れる空気が一番シャンリットに近いとは皮肉なものだ。
 この白の国には、未だに太古の幻想たちが息づいている。ウードの作った蜘蛛の眷属のゴブリンたちよりもずっとずっと旧い者共が。
 アルビオンの者は皆が皆、人智を超えた何かが直ぐ自分たちの傍に居るのだと、無意識のうちに感じ取っている。

 地下に。
 森に。
 暗闇に。
 墓地に。
 沼地に。
 そして足元の影の中に、吹きすさぶ風の中に、雪山の頂きに、部屋の角に――。
 ナニかが居るのだ。確実に。

 眼に見えるものだけが真実ではない。
 薄皮一枚剥けばそこには人間には耐えられような恐ろしい世界の有様が横たわっているのだ。
 それをアルビオンの民は無意識のうちに知っている。

 始祖が最初に光臨したサウスゴータの土地から、なぜ始祖ブリミルは下界へと降りなければならなかったのか。
 恐ろしかったからではないのか、この土地に棲むナニかをブリミルは嫌ったのではないか、と、アルビオンの民は不安に思っているのだ。
 旧い御伽話に語られる化け物たちは、始祖すら敵わず逃げ出したようなモンスターが、本当は現実に居るのではないだろうか、と。

「うーむ、飯もマズイしサッサとトリステインに行くかのー」
【天空大陸だから調味料が手に入りづらいんですかね】
「いや、アルビオンの奴らには美食という感覚が伝統的に存在しない所為じゃの。とにかく茹でて、とにかく揚げて、最後はお好みに塩コショウとソースで味付け、ってそんなん料理じゃないわい」

 数日滞在し、アルビオン料理を堪能して、もうそれに懲りたオスマンはさっさと天空大陸を後にする。
 〈169号〉が覚えていたグライダーの設計図に従って、それを『錬金』で作り上げると、アルビオン大陸の端からすいーっと降りていく。
 カヌーから長い板を左右に張り出させたかのような、蚊トンボのような華奢な印象を与える機体だ。

 メイジが『錬金』で作る物質の品質は、少量ならともかく、大量に作ると安定しないというのが定説だ。
 しかし、インテリジェンスアイテムを媒介に『錬金』を使えば、その魔道具が持つ機械的な性質が、人間の不完全なイメージを補完してくれる。
 それによって設計図の要求通りの品質の材料を揃えることが出来るのだ。

「アイ、キャン、フラーイ!!」
【何故にグライダーで……】
「折角じゃから白の国の威容を拝んでおきたくての」

 オスマンと使い魔のネズミ、メイス形態に戻った〈169号〉をキャノピー内に収めたグライダーは、大きく弧を描きながらアルビオン大陸の回りを一周する。
 雲海に聳える巨大な陸塊は、太陽を浴びて光り輝き、非常に美しかった。

「おおう、これが」
【アルビオンからの追放刑に服した者たちが最期に拝むという光景ですね。別名『絶望の白い断崖』】
「……杖没収の上でノーロープバンジーとか残酷な刑罰じゃの」
【トリステインのダングルテールの人たちは、その自由落下の試練に生き残ったアルビオンからの流刑者の末裔だとか】
「ダングルテール――アングル人の土地――ってそういう意味かい……。つか絶対“風に乗りて歩む者”の眷属じゃろ、そいつら」

 風の魔神、“風に乗りて歩む者”イタクァは気まぐれに人をさらって遥か上空から落とすという。
 しかし絶死のスカイダイビングを経ても生き残る者たちは居る。それはあまりに長く神に触れすぎて、その神の性質に感染してしまった者たちだ。
 風の神イタクァの性質を移されたものは、その本来の棲み家である遙か高空の凍気に適応した低体温に陥り、さらに人喰いの衝動が抑えられなくなって、やがては獣のような風の精ウェンディゴへと完全に変貌して、主神イタクァの待つ大空へと飛んでいってしまうそうだ。

 オスマンを乗せた十字架のような形のグライダーは、雲を抜けてゆっくりとトリステインに向かって降下していった。





 トリステインに着陸したオスマン一行は、20年近く前に受け取った『トリステイン魔法学院学院長への就任の打診』を携えて王政府を訪ね、そこでポストが空くまで数年待たされたものの、首尾よくトリステイン魔法学院の学院長の座に就くことができた。
 オスマンはトリステインで時間を潰している数年のうちに、一冊の書籍を書き上げる。
 “うーど・ど・しゃんりっとノ全テ”と題されたその書籍は、オスマンがハルケギニア各地を巡って集めたウード関連の伝承や、オスマンが学術都市シャンリットに居た間に見知った千年教師長ウード・ド・シャンリットについての噂話を纏めたものである。




 ・『千年教師長』の噂
 @クルデンホルフ大公国
  教師長ウード・ド・シャンリットは千年前から生き続けている蜘蛛の化物らしい。

 @ゲルマニア
  異端の統括者、アウデス・カンプリテは千年前から生きている。

 @ガリア
  各地の首塚に祀られている人外の化け物、ウード・ド・シャンリットは今も尚、シャンリットの土地に君臨している。

 @アルビオン
  学術都市のトップはおよそ千歳らしい。

 @トリステイン
  ウード・ド・シャンリットは今も生きている。邪教の悪魔の力を借りて不死となり、千年ずっと、ハルケギニア征服の機会を伺っている。

 @ロマリア
  悪魔の街シャンリットでは、千年来の怨敵ウード・ド・シャンリットが、聖人による処刑の手を逃れて地獄から蘇り、ブリミル教徒全てに対する恐ろしい謀略を巡らせている。だが神と始祖の名の下に、必ずや邪悪が打ち破られる日が来るだろう。

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クトゥルフ成分無し。済まんです。その上山なしオチなし……
時間軸的には、第0話の後って感じです。多分カリンちゃんが生まれたくらいの年代? トリステイン英雄王は即位しているだろうか

第二部に向けての各国の軽い状況説明的な何か
トリステインの状況は今後語る機会がいくらでもありそうなので後回し

クルデンホルフ大公国が金持ちなのは何故? → 千年前に好き勝手やった転生者の末裔だからだったんだよ! ナ、ナンダッテー(AA略
クルデンホルフ大公国は実質的に鎖国状態、みたいなもの。“未開人の宗教を崇めるとは、なんとも不愉快だな。 -4”、“お前は邪悪だ。 -4”って感じで近隣諸国からはハブられ気味。……お金の無心だけは各国からじゃんじゃん来るけど。貴様ら恥を知らんのか。でも別に外交する必要無いし、財政はチートだから大公は気にしていない。順調に膨れ上がる各国貴族への貸付は確実に不良債権だけど気にしない、利子ウマー。一気に取り立てたらどうなるか好奇心が刺激されるけど、今の所妄想だけに留めているそうな
ただしハルケギニアやサハラ、東方各地には学術調査団をバンバン派遣している。金も武力も技術力も血筋も揃ってるけど別にハルケギニア統一とかは考えてない。国家規模で千年単位の蒐集癖で知りたがりなだけ

モートソグニルのルーン“マルディ・グラ(謝肉祭宴の最終日)”は捏造オリジナル設定
ハルケギニアの暦的には、“エオー・グラ”の方が正しいのかも?(エオーの曜日が火曜日(マルディ)に相当すると思われるから)

ユージェニー・ロングビル(中身はインテリジェンスメイス〈169号〉)の外見は、マチルダ(フーケ)の色違いって感じのイメージです。2Pカラー
過去改変の影響のため原作編時間軸では盗賊フーケは出せなさそうなので、その代理のオスマンの秘書役(予定)です

魔道書〈うーど・ど・しゃんりっとノ全テ〉
 正気度減少〈0/1d4〉
 蜘蛛の祭司についてまとめられた書物。著者は永劫を生きると言われる大メイジ、ジョルジュ・オスマン。学術都市シャンリットの制度や風俗もかなり詳しく紹介されている。
 『“蜘蛛の糸はいつも貴方の足元に”の、アトラナート商会の提供でお送りしております』
 ↑正気度チェックに失敗し、本の内容を真に理解すると上の文言がただの企業宣伝キャッチコピーに思えなくなる不思議。


2010.12.12 初投稿



[20306]    外伝7の各話に登場する神性などのまとめ
Name: へびさんマン◆29ccac37 ID:4dc27135
Date: 2011/08/16 06:41
外伝7の各話に登場する神性などのまとめ
クトゥルフ神話関連の物語のネタバレが含まれますのでご注意下さい。

外伝7-6のクルデンホルフ大公家についてですが、感想で予想されていたように、シャンリット侯爵家の直系だと想定しています。
大まかな流れは以下のような感じです。多分外伝7-7で詳しく描写しますが。

シャンリット侯爵家(@トリステイン)→シャンリット大公家→紆余曲折(ゲルマニア勃興など)→カンプリテ大公家(@ゲルマニア)→紆余曲折(当主とか嫡子が謎の奇病で全滅して傍系だった家が本家になったり)→クルデンホルフ大公家→独立→クルデンホルフ大公国


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その1『グールズ・サバト』 ブリミル歴5500年くらいを想定
 ・『グールズ・サバト』の噂
  死体画家の集まりらしい。モチーフになる死体を集めるために殺人を犯すことも厭わないとか。
  メンバーの中にはヒトでは無いものも居るとか居ないとか。

・グール(食屍鬼)
 クトゥルフ神話におけるグールは、屍肉を食う化物。犬のような頭、蹄のある脚、鋭い爪のある手、ゴムのような表皮が特徴。毛の少ない狼男のようなイメージ。
 グールの子供はグールだが、それ以外にも、人肉を食べ続ける人はグールに変化する。また、赤子の取り替えっこ(チェンジリング)を行うこともある。取り替えられてグールによって育てられた人間の子供もグールになる。

・ピックマン教授
 『ピックマンのモデル』に出てくる精密画を得意とする画家から命名。リチャード・アプトン・ピックマン。


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その2『大図書館の開かずの扉』 ブリミル歴5100年前後
 ・『大図書館の開かずの扉』の噂
  最下層の床に張り付いている扉。いつの間にか図書館の階数が増えている。本もついでに増えている。妖精さんの仕業とか。
  新しい階にある本はどんな魔書があるか分からないので素人は手を出してはいけないらしい。

・ユリウス・カステル教授
 『妖蛆の王』のジュリアン・カーステアズをフランス風にしてみた。きちんとフランス風になっているかは不明。
 蛆虫(マゴット)を通じて身体を乗り換えていく。型月の間桐臓硯、と言えば想像がつくだろうか。

・『ウンダーゼー・クルテン(深海祭祀書)』、『ハイドロフィネ(水棲動物)』、『水神クタアト』
 海の魔物に関する魔道書たち

・石造りの円筒が並ぶ街
 太平洋の到達不能極に沈んでいるとされる古の都市、ルルイエ。クトゥルフが眠っていると伝えられる。

・クトゥルフ
 タコ頭に羽根の生えた邪神。眠っているというか死んでいるというか、どっちにしてもクトゥルフにとっては余り変わらないが、とにかく封印されて不活性化している。時々星の巡りによっては若干活性化し、毒電波を撒いて世界中の芸術家達を発狂させたりする。


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その3『エリザの歌声』 ブリミル歴5100年前後、その2と時期的に連動
 ・『エリザの歌声』の噂
  とても綺麗な歌声のエリザという歌手がいる。あるいは“いた”らしい。美しい歌声は遥か星辰の彼方にも届くとか。
  彼女が暮らしている――暮らしていた――という音楽家専用寮の前には、時折、彼女の歌声に囚われたファンたちが時空を越えて現れては、彼女の歌声に耳を傾けているそうだ。
  耳慣れない美しい歌声を夜道で聞いたら注意すること。
  その歌声に魅せられて、彼女のファンの集まりに加わってしまえば、あなたは二度と戻って来られないだろう。

・エリザ・ツァン
 『エーリッヒ・ツァンの音楽』のヴィオル弾きの老人の名前をもじったもの。

・クラブ『クラブ・オーゼイユ』
 『エーリッヒ・ツァンの音楽』より、地図に記されていない、オーゼイユ街という街から命名。

・“――Look to the sky, way up on high,There in the night stars are now right――”
 ウクライナのクリスマスソング『Carol of the Bells(キャロル・オブ・ザ・ベル)』の替え歌で『The Carol of the Old Ones(旧支配者のキャロル)』という歌の歌詞。

・異次元の色彩をしたヴェールの人影
 【門の導き手にして守護者、古ぶるしきもの】タウィル・アト=ウルム。ヨグ=ソトースの比較的安全な化身。ウルム・アト=タウィルとも。銀の鍵を持つものが通る最後の門を守る存在。灰色のヴェールを纏った存在。片手に虹色の球を持っていることも。


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その4『特務機関“蜘蛛の糸”』 ブリミル歴5800年代後半を想定(シャンリットを含む東部地域がゲルマニアとして独立した後)
 ・『特務機関“蜘蛛の糸”』の噂
  学術都市の秘密を探る者たちを狩る特務機関があるそうだ。
  規模も不明、構成員も不明、何もかも謎に包まれている。
  ……おや、こんな時間に誰か来たようだ……。

・ロンドルフ・カルティール
 夢見る人(ドリームランドと覚醒の世界を行き来する人)ランドルフ・カーターをもじったもの。『銀の鍵の門を越えて』『幻夢境カダスを求めて』などの主人公。猫好きなのは当SSでも、ドリームランド関連の小説でも変わらず。

・ドリームランド(幻夢境)
 ハルケギニアとは異なる時空にある夢の世界。特殊な方法で行き来が可能だと言われている。

・老猫将軍
 ドリームランドのウルタールという街に住む歴戦の猫将軍。ウルタール(またはウルサル)は猫を大事にしている街である(一説には賢者バルザイの助言によってウルタールで猫を保護する法案が提出されたとか)。

・長老
 ドリームランドのセレファイスという街に住む長老猫。250歳を超える。猫を大事にし、長老に気に入られれば、彼の持つ膨大な知識の恩恵に浴することが出来るだろう。

・ムーンビースト(月棲獣)
 ドリームランドの月に棲む、灰白色の脂っぽい目のない蟇蛙(ヒキガエル)のような生物。拷問愛好者。ニャルラトホテプを崇拝している。
 猫とは敵対的。土星からの猫とは同盟関係。

・土星猫(土星からの猫)
 唐草模様のような、幾本もの虹色の極彩色の蔦が絡まったような身体をしている。抽象芸術のような見た目だが、なんとか二つの目が確認でき、猫っぽいような印象を与える顔つきになっている。地球の猫とは敵対関係。ムーンビーストとは同盟関係。

・バースト
 猫の頭を持った女神。エジプトで信仰されていた。ゼロ魔世界では、恐らくエルフが信仰している(あるいは信仰していた)。


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その5『朽ち果てた部屋』 ブリミル歴5900年代後半を想定
 ・『朽ち果てた部屋』の噂
  中央大博物館に付属している天空研究塔イエール=ザレムは、〈ゲートの鏡〉によって各アトリエのドアを繋いでいる。
  だが稀に〈ゲートの鏡〉が誤作動を起こしてしまい、過去に何らかの理由で廃棄されて朽ちたアトリエへと繋がってしまうことがあるらしい。
  何百年も放ったらかしにされているような、その廃棄されて埃だらけの朽ち果てた部屋に入った者は、二度と戻って来られないという。

・“エルトダウン・シャーズ”、“グハーン・フラグメンツ”、“ドジアンのスタンザ”
 はるか昔、人類誕生以前に記された記録群。旧支配者たちについて伝えている。

・奇妙に縦に避けた口と二股の腕を持つ巨人の骨格標本
 ガグという地下世界の巨人族の骨格標本

・世にも珍しいケイヴ・パール(岩屋真珠)の鉱物標本
 クトーニアンの卵

・小箱の中に固定された妖しく輝く偏四角多面体の美術品
 輝くトラペゾヘドロン。ニャルラトホテプの化身を呼び出せる。

・象の頭を持つ遥か東方の神像
 邪神チャウグナー・フォーンの神像

・〈カルナマゴスの遺言(テスタメント・オブ・カルナマゴス)〉
 一目見ただけで最低でも10年は老化する魔道書。クァチル=ウタウスについて記している数少ない魔道書。みるみる埃が積もる。

・クァチル=ウタウス
 干からびたミイラみたいな格好の神。滅びと腐敗、風化を司る。灰色の光と共に現れては、いろんなモノを灰にして足跡だけ残して去っていく。

・アブホース
 【不浄の源】アブホース。巨大な灰色のアメーバみたいな神。端っこが好き勝手に進化しては千切れて本体から離れようとするが、それを本体は自分で捕食する。アトラク=ナクアの架ける橋の先に居る。

・暗黒王ネフレン=カ
 ニャルラトホテプの化身の一つ。古代エジプトのファラオだが、当SSではエルフの古代王として扱う。

・土星(サイクラノーシュ)からやって来た蟇蛙神の落とし子
 ツァトゥグアの無形の落とし子

・星の彼方のクスクス笑うように鳴く吸血生物、不可視の恐怖、牙のある無数の口吻と鉤爪に覆われた無色の怪物
 星の精。スターヴァンパイア。


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その6『消える留年生』 ブリミル歴6000年代(ゲルマニアからクルデンホルフが独立後)を想定
 ・『消える留年生』の噂
  何年も留年している学生は、卒業した訳でもないのにいつの間にか居なくなっている。
  彼ら彼女らは何処に行ったのだろうか。
  国元に帰ったのだろうか。何かの事故に巻き込まれたのだろうか。新興宗教の怪しげな儀式の生贄にされた? 人体実験の材料に使われた? 研究所から逃げた凶暴な獣に喰われた?
  どれも信憑性に乏しいが、だからと言って一笑に付すには、どのような想像にも真実味がありすぎる。

・蜘蛛神教
 地下世界の深淵の谷に橋を架け続ける蜘蛛神アトラク=ナクアを崇拝している。第一部の主人公ウードが教皇を名乗っていた。

・食屍鬼の崇めるモルディギアン
 納骨堂の神、モルディギアン。死体を食いまくる神様、アンデッドの天敵。崇める信者は屍体喰らいの衝動を抑えられなくなり、やがては食屍鬼に堕ちる。

・千の仔を孕みし黒山羊シュブ=ニグラス
 豊穣の母神。魔女が崇拝する定番の神様。色んな邪神の母だったりする。シュブ=ニグラスの仔という、象の上半分を触手に置き換えてでたらめに口を配置したというか、巨大イソギンチャクに蹄を付けたような存在をポコポコ産み出して使役する。

・這い寄る混沌ナイアルラートホテプ
 無貌の神。陰謀好き。混沌好き。千の姿形を持っていて、とにかく化身が多い。女神転生とかで有名な邪神様。

・ダオロス
 【ヴェールを剥ぎ取るもの】。この宇宙の外に位置する超次元的な存在。三次元空間には灰色の金属色の棒と半球の無数の組み合わせによって知覚される。接触すると問答無用で異次元送り。遠近感が狂うような無限に絡み合った存在を認識した者は、その輪郭を辿ろうとして必ず気が狂う。なので通常、ダオロスを崇める神官は、直接ダオロスを見ないように、暗闇のなかで招来の儀式を行う。ダオロスは次元を超える性質上、未来や過去、異次元を見ることも出来るし、その能力を信者に与えるかも知れない。不幸にも直接にダオロスを目にした犠牲者は、恐ろしいこの宇宙の真理を目撃した代償に、その後一生、毎日、その時の光景を幻視し、正気度が減少する。ただし、目を刔る、視神経を断ち切る、脳の視覚野を破壊するなどして視覚を無くせば、日々継続して襲い来る正気度減少は避けられる。

・ティンダロス・ハイブリッド
 ティンダロスの猟犬とのハイブリッド(キメラ)。外伝7-6で生まれた子供は、矮人(ゴブリン)たちによる千年の技術研鑽によって、かなり人に近い外見になるように調整されている。普通はキュビズム絵画のような形になって現れる。本編シャンリット防衛戦・後編にも少し登場。


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その7『千年教師長』 ブリミル歴6100年代後半(原作40~50年前)を想定
 ・『千年教師長』の噂
  教師長ウード・ド・シャンリットは千年前から生き続けている蜘蛛の化物らしい。


・魚人でも
 クトゥルフと言えばインスマス面。

・半端な混血であっても
 ゼロ魔原作でもティファニアとか元素の兄弟とかみたいな混血は出てますが、他にもクトゥルフ的種族の混血も居るかも?

・蜘蛛神アトラク=ナクア
 蜘蛛の姿の神様。好奇心と猜疑心が強い。

・カルナマゴスの遺言、クァチル=ウタウス
 外伝7-6参照。危険な魔導書と腐敗の魔神。

・水の精霊に狂わされた調査員が持ち帰った遙か古代の神々の戦いについての記憶
 『蜘蛛の糸の繋がる先は 16.時を翔ける種族』の最後のシーンで水精霊に狂わされたゴブリンから回収した記憶

・火星で出会った古のもの
 かつて南極大陸に居た五方放射相称の樽型生物。火星に生き残りが居たというのは当SSの設定。

・セラエノ
 時を渡るイースの偉大なる種族の図書館がある星。(彼らとエルフの関係は『外伝6.ビヤーキーは急に止まれない』を御覧ください)

・古の偉大な魔導師たちが書き記した秘術の記録
 〈エイボンの書〉とか〈カルナマゴスの遺言〉とか。

・アイホートの迷宮が縦横無尽に広がり
 八本足の白くてブユブユした迷宮を司る神。脳を神経回路の迷路に見立てて生物を操ることも出来る。『外伝4.アルビオンはセヴァーンにてリアルラックが尽きるの事』にて幼生体(アイホートの雛)のみ登場。

・森には黒山羊がうろつき
 シュブ=ニグラスの仔。

・シャッガイの蟲が飛び回り
 半物質の拷問好きの昆虫。『外伝4.アルビオンはセヴァーンにてリアルラックが尽きるの事』に登場。

・湖底にはグラーキが潜み
 夢を用いて夢遊病にして生贄を集め(“夢引き”と呼ばれる現象)、毒液を注入して半端なアンデッドにして操る。巨大なウミウシにヤマアラシみたいな棘を生やし多様な姿で、顔から伸びた3本の茎状組織に支えられた目が特徴的。

・穿地魔蟲クトーニアン
 巨大なイカミミズの化物。水に弱い。

・風の魔神、“風に乗りて歩む者”イタクァ
 イタクァ、イタカ。歪んだ骨格の爛々と輝く目を持った巨人として現れることが多い。あるいは嵐や吹雪そのものとして顕現することもある。主に北極圏に現れ、ヒトを攫って、しばらくして(数週間から数ヶ月後)に高空で解放する。

・ウェンディゴ
 イタクァの影響を受けて変質した人間。イタクァに仕える。食人衝動があり、炎に弱い。しかし炎や高熱の物体で凍りついた心臓を破壊しない限りは、何度でも夜になると蘇る。共食いをする性質がある。

2011.08.16 誤字修正



[20306]   【再掲】嘘予告1&2
Name: へびさんマン◆29ccac37 ID:b87f4725
Date: 2011/05/04 14:27
「『極点(ゼロ)』のルイズが平民を召喚した!?」

「俺は平民じゃない。平賀才人。
 所属は――ウィルマース・ファウンデーションだ」

 それは千年を超える罪業の物語。
 好奇心は猫をも殺す。では、死んでもなお残る好奇心は一体何をもたらすのか。

「昔、私は全く魔法が使えなかったのよ?
 でも、今は全ての魔法を使える。
 オクタゴンスペルだって使いこなしてみせるわ。系統魔法以外の魔法さえも!
 『極点(ゼロ)』のルイズってのはそういう事よ。
 極点に到達したメイジ……」

「やめろ、ルイズ!
 その力は、邪悪なモノだ! 使ってはいけない!」

「サイト、そんな事は百も承知よ。
 私はこの身と引き換えに魔法を得た。系統魔法も、世界の理の外にある魔術も、全てを手に入れたわ!
 そう、この身に宿る“虚無”の系統を研究させることと引き換えに!」






  蜘蛛の糸の繋がる先は 嘘予告.ウード・ド・シャンリットは自重しない ~千年後のハルケギニア~






 千年前の異端――ウード・ド・シャンリットが残した惑星を覆う魔法使いの杖〈黒糸〉とその管制人格〈ゼロ号〉。
 それはその身に刻まれた行動原理に従い、ハルケギニアのあらゆることに対しての研究と分析を続けていた。

“魔法を使えるはずの者が魔法を使えない”

 そのイレギュラーは〈ゼロ号〉の興味を惹いた。
 正常を理解するには異常を理解せよ。何が違っているのか、それを知ることが真理の研究には重要だ。
 そして〈ゼロ号〉は“虚無”達に取引を持ちかけた。



「貴様、どこから入った? 俺はお前なぞ招いた覚えはないぞ」

「ジョゼフ王太子殿下、取引をしに参りました」

 黒いローブに身を包んだ初老の男。
 ジョゼフが自室で本を読んでいる傍らに、急に現れ出たように唐突にその男は佇んでいた。
 人好きのする笑顔を湛えているが、その顔はまるで仮面のように人間味が無い。

「こうやって面と向かって話をするのは初めてですな。
 私、宮廷では『サンジェルマン伯爵』と呼ばれております」

「おい、衛兵は何をやっている。誰かこの無礼者をつまみ出せ」

 扉の外からの反応はない。
 それ以前に、扉が開いた音はしなかった。
 この黒ローブの男はどうやってこの部屋に入ったのか。

「既に『サイレント』の魔法をかけております故。
 この場は誰にも邪魔はされませぬ。

 それより、毎年の私のプレゼント、気に入っていただけているようで何よりです」

「貴様からモノを貰った覚えなど無い」

 黒ローブの老人は嘆くように肩を竦め、ジョゼフが手に持つ本を指差す。

「その本は、私からのプレゼントですよ、王太子殿下。
 千年前の異端本、アトラナート商会の図鑑や研究書の類の、その初版に限りなく近い写本でございます」

 ジョゼフは手元の本に目を向ける。
 数年前から、誕生パーティの贈り物の数々に紛れ込んだ古そうな本。
 魔法以外の全てを極めるつもりでいた彼にとって、その本の知識は正に求めていたものであった。
 それに、その本が齎す新たな知識はこの世界が魔法のみで成り立っているのではないと彼に思い知らせ、読んでいる間だけは多少なりとも弟に対する劣等感を紛らわせることが出来たのだ。

「これは、貴様からの物だったのか。
 ……ふむ、夜分に俺の部屋に押し入ったことは不問にしてやっても良い。
 その代わり、これらの本の続刊を俺に寄越せ」

「ふふ、それは追々。
 今日はそのような要件ではないのです」

 今からが本題、と、黒ローブの男は切り出す。

「昔の人は言いました。
 『兄より優れた弟など存在しない』と。
 これは正に真理と言えるでしょう。現に、シャルル殿下の全てを貴方は上回っておられる。
 政治的センス、知性、体力、筋力、武術のセンス、理解力……。
 ただ一点……」

「系統魔法の才能を除いて、な」

 ジョゼフは途端に不機嫌になる。
 自分は系統魔法が全く使えないということを、目の前の男が思い出させたからだ。
 先程までの新たな本と引き換えに許してやろうという気持ちは失せてしまった。
 今はこの目の前の男を殴り倒してやりたいくらいだ。

 沸々と湧き上がる、苛立ちと怒りの感情に任せて、拳を振り上げようと思ったときに、老人の声が冷ややかに差し込まれる。
 

「――“魔法を使いたくは有りませんか?”」

「――っ」

 今まで、そのような事を言って自分に取り入ろうとする人間は数え切れない程居た。
 そしてそれら全てが何の成果も出さなかった。

 この言葉を言う者たちを、彼は一切信用しないことにしている。

 だが、目の前の男はこれまでの凡俗な輩とは一線を画す雰囲気を纏っていることも確か。

「はン、出来るものならやってみせよ」

「もちろん可能でございます。ただ、私と“契約”していただければ。
 殿下は“魔法を使いたくは有りませんか?”」

 使いたくないはずはない。魔法が使えれば、そうどんなに思ってきただろうか。

「使いたいに決まっているさ。ずっとそう思って生きてきた。
 しかし“契約”か……。その物言い、貴様、悪魔か何かか?
 『対価はその体、魂の一片までも』とでも言うつもりか?」

 目の前の男が、くふふ、と囁くように笑う。

「よくお分かりで。しかし、悪魔とはまた大層なものですな。
 私はそこまで大層なものでは有りません。
 そうですね、ガリア宮廷では『サンジェルマン伯爵』と名乗り、他にも様々な名は有りますが……」

 一呼吸置いて、老人は慇懃に礼をして身を起こす。
 その顔は、もはや人の顔をしていない。老人が身を折っていた一瞬で、それは全く違うものに変わってしまっていた。

 何か、細かな黒い線のようなものが無数に集まって絡まり合って人の顔らしき形を模している。

 それを見てもジョゼフが正気を失わなかったのは、或いは彼がそれを予見していたからか。
 『サンジェルマン伯爵』とは、ガリア宮廷に500年の昔から囁かれる、怪老の名前だ。
 このような妖魔の類であっても、却って納得するというものだ。

【今は、〈ウード・ド・シャンリットの杖〉と呼んでいただければと思います】

 人のものとは違う調子を伴った声が、目の前の糸の塊から聴こえる。

「〈ウード・ド・シャンリット〉? 誰だそいつは?」

【おや、御存知ありませんか?
 殿下が今手にとっておられるその本……その著者ですよ。
 殿下は他にも幾つもわが主の著作に目を通しているはずです。
 私が贈った本の殆どは、著者の名前は違えど我が主の著作ですから】

「この『深海の驚異』の著者……? 千年前の、最大の異端。
 馬鹿な、千年前の人物がなぜここで出てくる!?」

【それは追々。それよりも契約の話です。
 殿下、あなたは“魔法を使いたくは有りませんか?”】

「俺は――……」



 教会に伝わる説話の一説に次のような文がある。

“悪魔は3度問いかける。
 それを肯定してはいけない。
 3度、肯定で答えたとき、悪魔との契約は成されるのだから。”



「俺は、魔法を、使いたい」

【宜しい、契約は成されました。
 では、少々痛いですが、我慢なさって下さいまし……】

 〈ウード・ド・シャンリットの杖〉と名乗ったモノは解け、その目に見えぬほどに細かい糸が何本もジョゼフの身体へと吸い込まれるように入っていく。

 自分の中に異物が侵入する悍しさに耐えられず、ジョゼフはその意識を手放す。




 その夜“慧眼王”ジョゼフ――後世の歴史書では“第二の異端”と呼ばれる男が誕生したのである。

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嘘予告です。
消すかも知れないし、本編が追い着くまでは置いとくかも知れません。

2010.08.15 初投稿
2010.08.17 誤字など修正




   嘘予告2.ゼロ執事(ネタ)


『むかしむかし、あるところに大層見栄っ張りな貴族がおりました。
 身の丈に合わぬ出費を繰り返し、毎晩豪勢なパーティを開き、服を取っ換え引っ換えしているうちに、ついにお金が無くなってしまいました。
 それでもその貴族は見栄を張るのをやめられません。

 ですが幸い、その貴族は類まれなる土の魔法の才能を持っていました。
 屋敷の家具を売り払っては、見かけだけは高価そうな家具を『錬金』して、パーティを開き続けます。
 屋敷の家具が全て紛い物に置き換わった頃。
 やがて、使用人を雇うお金も足りなくなってしまいました。

 しかし貴族は、土魔法の才能に溢れていたので――』







 蜘蛛の糸の繋がる先は 嘘予告2.ゼロ執事







「ミス・ヴァリエール。『発火』をお願いします」

 トリステインにある魔法学院の授業の時間中のことです。
 禿頭の教師から指名されたのは、トリステインでも最も古い公爵家の三女、ルイズ・フランソワーズ・ル・ブラン・ド・ラ・ヴァリエール。
 彼女が魔法を成功させた所を見たことがある者は、この学院には誰も居ません。

 それどころか、使っているところを見たことがあるものさえ、誰も居ないのです。
 何故ならば。

「執事(スチュアート)」

 彼女が片手を挙げてパチンと鳴らすと、どこからとも無く長身痩躯の美形の男子が現れて。

「はい、お嬢様」
「ミスタ・コルベールは『発火』をご所望よ」
「はい、お嬢様」

 彼女の代わりに優雅に杖を振って魔法を使うからです。
 ほら今日も、彼女の『執事』の魔法は成功しました。

「素晴らしい魔法です。
 ですが、ミス・ヴァリエール。私が指名したのはあなたの執事ではなく、あなたです。
 それに、部外者を学院に招いてはいけません」
「あら、ミスタ・コルベール。私に今更、初歩の初歩である『発火』を使えと仰るのですか?
 精神力が勿体なくっていけませんわ。それに執事の魔法は上手ですから、皆のお手本に持って来いでしょう?」
「そういう訳には参りません。学院の生徒でしたら、きちんと授業を受けてもらわなくては困ります」
「では、別に実技の点数はいりませんわ。その程度、座学で十全に取り返してみせます」

 悠然と。毅然と。優雅に。傲慢に。
 彼女は席に着きます。いつの間にか彼女の執事は消えていました。

 ヴァリエール公爵家の三女は天才である、と、そう社交界では噂されています。
 既に四大系統を極め、メイジの到達しうる極点に立っているとさえ言われているのです。

 ですが、この学院の誰も、彼女が魔法を使っているところは見たことはありません。





「執事(スチュアート)」

 片手を挙げてパチンとひと鳴らし。

「はい、お嬢様」
「ティータイムにしましょう」
「はい、お嬢様」

 どこからとも無く現れた執事は、やはりどこからとも無くお茶のセットを取り出すと、あっという間に紅茶の用意を整えてしまいます。

 今日も彼女は優雅に木陰でティータイム。
 傍らにはいつもの長身痩躯の優男。
 執事は無駄のない洗練された身のこなしで、主のカップに紅茶を注ぎます。

 その様子は、溜め息が出るほどに絵になります。
 実際、メイドの女たちは遠くからその様子を見ては溜め息をついています。

 ある時、メイドの一人がこんなことを言い出しました。

「お嬢様も立派になられて……。私がお仕えしていた時には魔法も失敗ばかりなさっていたのに」
「へえ、あなたヴァリエール家に仕えていたの? あの完全無欠のお嬢様が魔法を失敗しているのなんて想像がつかないけれど」
「ええ、昔、お仕えしていたの。あの時は、お嬢様はいつも魔法を爆発させてばかりいたわ……」

 そんな話がやがては広まって、ルイズが人前では自分で魔法を使わないことも相まって。

 “本当はヴァリエール家の三女は未だに魔法が使えないんじゃないか”

 という噂が学院生徒の間でも囁かれるようになりました。





 そんなある日のことです。
 切欠はなんだったか、定かではありません。

 いつも女子生徒の間でもてはやされるルイズの執事に嫉妬をしたのか。
 それとも魔法をちっとも使おうとしないルイズのことが勘に障ったのか。
 はたまた美少女ルイズに対する淡い恋心の裏返しの照れ隠しだったのか。

 とある貴族がルイズのことを馬鹿にし始めました。

「ゼロのルイズ! お前、本当は魔法が使えないんだろう!」
「何ですって?」
「だっていままで一度も魔法を使ったことがないじゃないか! いつもいつも執事に代わりにやらせて!
 ゼロ! 魔法の才能ゼロルイズ!」

 これにはルイズも頭に来ました。
 彼女は授業中はクール振っていたりするのですが、本来は感情的な質なのです。

「ふ、ふふふ。い、いい度胸ね、マリコルヌ。
 良いわ、そ、その挑発に乗ってあげる」

 着いて来なさい。とそう言って、彼女は庭へと足を向けます。
 暴言を吐いたマリコルヌだけではなく、ルイズが使う魔法を見ようと教室に居た他の生徒も彼女を追いかけ、学院の庭へと歩いていきます。





「私の魔法を見せる前に、昔話を聞いてもらえるかしら?
 何、時間は取らせないわ。すぐに終わるもの。」

 庭の真ん中に陣取ったルイズは、唐突に語り出します。


――むかしむかし、あるところに大層、見栄っ張りな貴族がおりました。
――身の丈に合わぬ出費を繰り返し、毎晩豪勢なパーティを開き、服を取っ換え引っ換えしているうちに、ついにお金が無くなってしまいました。
――それでもその貴族は見栄を張るのをやめられません。

――ですが幸い、その貴族は類まれなる土の魔法の才能を持っていました。
――屋敷の家具を売り払っては、見かけだけは高価そうな家具を『錬金』して、パーティを開き続けます。
――屋敷の家具が全て紛い物に置き換わった頃。
――やがて、使用人を雇うお金も足りなくなってしまいました。

――しかし貴族は、土魔法の才能に溢れていたので、使用人たちを魔法で創り出すことにしました。
――魔法で出来た土人形です。
――執事にコック、メイドに庭師。辞めていった使用人の代わりに、みんなみんな、ガーゴイルに入れ替わっていきます。

――やがて、その貴族にお金が無いことが広まると、パーティに出席する人数も減っていきました。
――土の魔法の才能に溢れていた見えっ張りな貴族は、人寂しいパーティを賑やかにするために魔法を使います。
――魔法で出来た土人形の参加者です。
――最初は3人ほど。やがては5人。そして7人、11人とどんどんと参加者はガーゴイルに置き換わっていきました。
――やがて人間の参加者は誰も居なくなってしまいました。

――それでも宴は続きます。
――最近の参加者は料理に手を着けないなあ、とそう思いながらも貴族はパーティを続けます。

――もはや、どれがガーゴイルだったのか、その貴族にも分からなくなってしまっていました。
――まやかしの宴はずっと続きます。昨日も今日も、明日も明後日も。
――当の貴族が死んでしまっても、その人形達は、宴を続けていると言います。

――おしまい。


 不気味な不気味な話を終えると、ルイズは何時ものようにパチンと指を鳴らして執事を呼びます。
 話しすぎて喉が乾いたのでしょう。執事から水を受け取ると、こくこくと、その可愛らしい喉を動かしてグラスの水を飲み干します。
 何時もは作り物のように美しく見える執事の顔が、先程の話を聞いた後だと、本当の作り物のように思えてきて、周囲の皆はゾッとします。

「……それで、ルイズ。肝心の魔法は使ってくれないのかい?」
「あら、使っているじゃない。魔法の謂れも説明してあげたのに、まだ分からないのかしら?」

 くすくすと笑って、さらに片手をひと鳴らし。

「『執事(スチュアート)』」

 彼女の傍らには、いつの間にか燕尾服を着た瓜二つの執事が、2人。

 あの執事はガーゴイルだったのです。
 腹話術師が人形に喋らせるように、ルイズは執事の姿のガーゴイルに魔法を使わせていたのです。

 なぜ彼女がそんな面倒なことをしていたのかは、分かりません。
 悪趣味なのか、気まぐれなのか、それとももっと深遠な彼女なりの哲学があるのかも知れません。

「マリコルヌは風の系統だったわよね? じゃあ、久しぶりに風の魔法を使ってみようかしら。
 お母様の“烈風”にも負けないくらいの、強力な奴を。
 でもちょっと観客が足りないかしら? 折角だからもっと賑やかな方が良いわね」

 慄然とする周囲の人間に構わず、彼女は続けます。

――『コック』、『メイド』、『庭師』。

 彼女の指が鳴る度に、周囲に人影が増えていきます。

「ああ、もう面倒臭いわ。『招待客(ゲスト)』!」

 彼女が両手を叩きあわせて、大きな拍手の音を鳴らすとそれに応じて、まるで絵画から抜けだしてきたような、着飾った大勢の人々が庭に現れました。
 新しく現れた者たちは、全てガーゴイルなのでしょうが、全く人間と見分けがつきません。

 呆然とするクラスメイトを尻目に、彼女は魔法を続けます。

「『カッター・トルネード』!」

 全てを薙ぎ倒す真空を含んだ竜巻が、学院の壁の向こうに現れました。
 全てを極めたメイジ。第一位の更に上。“極点(ゼロ)”のルイズ。彼女の二つ名が決まった瞬間でした。


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※このルイズは〈黒糸〉のバックアップを受けて、無敵パワーを手に入れています。
2010.09.29 初出/誤字修正

嘘予告再掲。
捜索掲示板で探していた方がいらっしゃるようなので。
なお、本編第二部とは余り関係はありません。
似た様な出来事はあったかもしれませんが。

2011.05.04 再掲



[20306] 蜘蛛の巣から逃れる為に 1.召喚(ゼロ魔原作時間軸編開始)
Name: へびさんマン◆29ccac37 ID:4dc27135
Date: 2011/01/19 19:33
 トリステイン魔法学院。
 数千年の歴史を誇る、ハルケギニアでも最も古い魔法学院の一つである。
 隣国にある狂ったように知識を蒐め、どんなモノでも受け入れて研究を行っていく無節操な巨大学院とは異なり、こちらは慎みと礼節を重んじる名門学校である。
 数十年前に迎え入れられた学院長、三百年を生きる大メイジ、オールド・オスマンを中心として、伝統だけでなく、その教育内容も最先端のものにしようとテコ入れが行われている。

 三年制のトリステイン魔法学院では、二年に進級する際の最終実技試験――というより一人前のメイジになるための通過儀礼として――使い魔召喚の儀式を行うことになっている。
 使い魔召喚儀式を以て属性を決定し、二年生以降の専門課程に進むのだ。
 使い魔は召喚者の運命に従って選ばれると言われ、それは始祖ブリミルの意思が働いている神聖なものであるとされている。

 学院から幾分離れた場所に広がる草原――実技の授業や学生同士の自主訓練に使用され、使い魔召喚の儀式もここで行う――にて、一クラス分三十人の生徒が揃っている。
 既に殆どの生徒が召喚を終えているのか、周りには様々な幻獣の姿が見える。
 中でも目につくのは、竜の幼生だ。傍らにはその風竜の主人と思われる、大きな杖を携えて眼鏡を掛けた青髪の小さな少女がいる。使い魔の竜は何故かびくびくと周囲を警戒しているように見える。

 使い魔ではないが、他に目を惹くのは、胸元を大胆に露出した褐色肌の赤髪の美女だ。
 彼女の足元には、人の背丈ほどの大きさをした毒々しい赤と紫の湿った肌をしている巨大なファイアサラマンダーが居るのが分かる。
 体格や体の色から鑑みるに、火竜山脈の山頂付近の氷河が地熱で溶けて出来た氷河湖の水辺に棲むと言われる、発火能力(パイロキネシス)を持つ毒サンショウウオだろう。

 試験監督である禿頭の教師が、次の生徒を呼ぶ。

「ミス・ヴァリエール。君で今年の使い魔召喚の儀は最後だ。期待しているよ」
「はーい、ミスタ・コルベール」

 気怠げに返事をしたのは、ピンクブロンドの美しいロングヘアーの美少女だ。
 意思が強そうな鳶色の瞳は、しかしこの時ばかりは、非常に面倒臭そうに濁っている。
 150サントほどのスレンダーな体躯からは、無気力に四肢がぶらついているが、この可憐な少女に掛かればそれすらも頽廃的な美を感じさせる。

 周囲の生徒や監督教員のコルベールは、しかし、そんなミス・ヴァリエールと呼ばれた少女の様子を見て目を丸くする。
 そして好き勝手に感想を囁きあう。
 あの完全無欠の天才少女がこうもだらしない姿を晒すなんて、これはこれでそそる、実は昨晩お楽しみだったとか、おいこらミス・ヴァリエールを貴様の汚らわしい妄想で穢すんじゃない、何お前貧乳派か女は胸だろキュルケ最高、でかけりゃ良いってもんじゃ無いぞ、よろしいならば決闘だ、黙れ男子お姉さまの声が聞き取れないわ。

「ミス・ヴァリエール、どうしました? 体の調子が悪いのですか?」

 監督官の禿頭の教員が冴えない感じのルイズの様子を気遣う。

「いーえー、なんでもありません、ミスタ・コルベール。ただ、ちょーっとだけ『サモン・サーヴァント』に於いて不安というか懸念がありまして」

 桃髪の少女はこれまた気怠げに面倒くさそうに返答する。明らかに精彩を欠いている。

「ああ、強大過ぎる幻獣が出てこないかということですか? それならご安心なさい、生徒の貴女に危害が及ばないように監督として私がついているのですから。もう遠慮無くやっちゃって下さい」

 日頃の少女の優等生っぷりを知っているコルベールは、独り勝手に勘違いして、安心させるように彼女に声をかける。
 ルイズという少女は長年教師を続けてきたコルベールから見ても、まさに天才としか言いようがないほどに優秀であった。

 土魔法の授業ではゴールドを『錬金』し、さらに一瞬で城砦のようなゴーレムを作り上げる。複雑な機構の細工時計すら片手間で組み立ててしまう。
 水魔法の授業では実験用のマウスを腑分けした上で『治癒』で元通りに復活させてみせる。秘薬の調合もバッチリだ。その上空気さえ凍らせる恐るべき使い手だ。
 火魔法の授業では鉄をも蒸発させる炎を出し、そうかと思えば温度を調整して様々に光色を変えた火の玉を十も二十も自在に操ってみせる。沸点が似通った物質を蒸留で分離するのもお手のものだ。
 風魔法の授業では巨大な竜巻を作り、あまつさえ『偏在』の魔法で分身しては教師と共に周囲の生徒にコツを教えさえもする。

 この始祖に愛されたとしか思えない少女に見合う使い魔ともなれば、それは相当な大物が出てくるだろう。
 ミス・ヴァリエールが、現れた使い魔の制御に失敗するとは思えないが、自分も気合を入れなくてはならない。愛しい教え子たちに危害が及ばないように。
 コルベールは気を引き締める。

「あー、そういうことでは無いんですけど……」

 皆の期待を知ってか知らずか、ルイズは内心で溜息をつく。

 そもそもの懸念として、呼び出せるかどうか分からない、ということなのだ。
 ルイズの持っている情報が正しければ、彼女の本当の属性が呼び出せる使い魔には、制限がかかっているからだ。

 華麗に土水火風の系統魔法を使いこなせる公爵令嬢ルイズであるが、その本来の属性は別にある。
 授業で使っている各種の四大系統の魔法は、汎用的で高度なマジックアイテムの補助によって行っているに過ぎない。

 『虚無』の系統。
 始祖の使いし伝説の魔法系統、それがルイズの本当の属性である。

 ルイズ自身の魔力で魔法を使えば、四大系統全て、型にはまらずに暴走した虚無系統の魔力によって、爆発の形で顕現する。
 『錬金』、どかん。『治癒』、どかん。『風槌』、どっかーん。『火球』、どどかーん。何を唱えても爆発、爆発、爆発。爆殺少女ルイズちゃんである。
 トリステイン魔法学院においてそのことを知っているのは、学院長オールド・オスマンなどの数人ではあるが。

 ルイズは回想する。
 八年前、もしあの池の小舟での出会いがなければ、どうなっていただろうか。
 あの黒い糸から出来た人外のアシナガオジサンに連れられて学術都市に行っていなければ――。

 魔法が使えないコンプレックスで自殺していただろうか。
 大いに有りうる。
 公爵家の血統のみに縋った歪なプライドの持ち主になっていたかも知れない。

 それとも何らかの別の形であの学術異端都市シャンリットを訪れていただろうか。
 いや、それは有りえないだろう。

 次姉の治療に学術先進地シャンリットまでついていってそのまま居ついてしまうとか?
 いやいや、トリステイン貴族らしいプライドの塊だった私があんな無節操な街に好んで棲みつくとは思えない。
 好奇心の塊のような長姉でも、私がシャンリットで学ぶことには難色を示したものだ。

 始祖ブリミルが使っていた伝説の系統、それが虚無。零番目の系統。
 その虚無の使い魔は、最大で同時期に4体まで存在できる。
 ブリミル教の伝承によれば、『四の四』。
 逆に言えば、虚無の使い魔は同時に4体以上は存在できない。

 そのうち既に現時点で三つまでは揃っていたはずだ。
 そして『四の四』が揃うのは、『時が満ちたとき』……。
 即ち何かの厄介事が起きる時だという。

 使い魔を呼び出せなければ、ルイズは留年し、場合によっては学院を去らざるを得ないだろう。
 かと言って、もしも伝説の使い魔を呼び出せてしまえば、それは何かの重大事件が起きる予兆ということだ。
 ……眠れるクトゥルフでも目覚めるのかも知れない。水底のクトゥルー、風の中のイタクァ、皆何処へいーくのー、見おくーられることもーなくー。……見送る者は滅んでいるだろうから当然だ。

 思考が逸れた。

 使い魔を召喚できても、できなくても、どちらにしても厄介事には違いない。
 ええい、どうにでもなれだ。ルイズは覚悟を決める。
 元々両親から無理矢理に押し込まれたのだから、ルイズとしては退学になるならなるで構わないのだ。

「使い魔ー、出ろー」

 無気力で投げ遣りな言葉と共に杖が振るわれる。



 果たして魔法は成功し、ルイズの目の前に銀色に輝くゲートが現れた。







 蜘蛛の巣から逃れる為に 1.召喚というより拉致だがそれを気にする者は居ない







(なんで成功するのよー!?)

 ルイズが抱いたのはそんな感想であった。
 これが、もしも魔法が使えなかった頃の自分であれば、飛び上がって喜んだだろうが、今では素直に喜べない。これは厄介事の兆しに他ならないと知っているから。
 確か、虚無の使い魔は、ガリアの鬱屈王の所に『神の頭脳』、ロマリアの宗教狂いの所に『神の右手』、あとはクルデンホルフ大公国の量産型聖人グレゴリオクローンが刻んだのが『神の左手』だったか。
 だとすれば、ルイズのところに来るとすれば『四の四』の最後の使い魔である『神の心臓』か。

 始祖ブリミルが使役したという使い魔は4体。

 『神の頭脳』、『神の本』ミョズニトニルン、あらゆる魔道具を扱える。系統魔法のものでも、先住魔法のものでも。
 『神の右手』、『神の笛』ヴィンダールヴ、あらゆる獣を操れる。蟲も竜も何でもござれ。
 『神の左手』、『神の盾』ガンダールヴ、あらゆる武器を操れる。その動きは疾風のごとく、主人を守る絶対の盾。
 『神の心臓』、記すことすら憚られる使い魔、リーヴスラシル。

 この4体目『神の心臓』はイマイチ機能が分かっていない。
 というか、これまで一度も4体目が召喚されたことはない。
 いまや虚無に関する伝承は殆ど失われ、その不完全な伝承の中で、同時代に4人も虚無の担い手が目覚めること自体が稀なのだ。

 虚無の系統の完全復活を恐れているエルフたちは、クルデンホルフ大公国(というか蜘蛛商会)と手を取って、ここ千年は『四の四』が揃わないように気をつけてきていたという事情もある。
 ……何度か蜘蛛商会の研究員が暴走して虚無の担い手のクローンを作って、まだ見ぬ4体目を召喚しようとしていたのだが、時代的な条件が合わなかったのか、ここ千年、未だに4体目の召喚は成功していない。
 そう、虚無の系統は、『その時』が来るまでは完全には復活しないようなのだ。

 最後の虚無の使い魔である『神の心臓』リーヴスラシルは、一説によれば、活性化する旧支配者を再び眠らせるための封印、その礎になるのだという。
 それが本当ならば、自分の使い魔を生け贄にするだなんて、始祖はいかにも残酷らしい。
 見方を変えれば、愛した者を大事な使い魔を、民のため子孫のため未来のために犠牲にした、という美談になるかも知れないが。まあ集団の統率者としてはそれで正しいだろう。

(ああしかし厄介なことになったわね)

 幸い召喚の銀鏡からはまだ何も出てきていない。

(急いで魔力供給をカットして、何もなかったことにしようかしら。……それがいいわ)

 ルイズは杖を振り直そうとする。

 その時であった。
 魔力供給を切って一切合切無かったことにしようとしたルイズ。
 その目の前に、銀の鏡の門を抜けて、見慣れぬ服を来た黒髪の男が転び出てきたのだった。





 平賀才人、巻き込まれ体質。
 過ぎた好奇心と、ちょっと足りないと評されるおつむは、時にその身に余る試練に彼を導くのである。

 今回の銀色の鏡も、多分に漏れず厄介事であった。
 大学の図書館からの帰り道、定められた機械のように歩いていたサイトは、夕暮れ道に薄ぼんやりと光る鏡に気がついた。

 下を向いて歩いていたサイトは、初めは車かバイクのヘッドライトの明かりかと思った。
 足元が急に白く照らされればそう思うだろう。
 だがエンジン音も何の音もしない。
 海の向こうの故郷、日本で開発されたとかいう新型の電気式自動車だろうか、と顔を上げてみればそこには銀に輝く鏡、というか穴のようなもの。

 そう、馬鹿げた話ではあるが、それは空間に穿たれた穴としか思えなかった。
 なんか向こうから光が漏れてる、そんな感じから、これは穴だ、とサイトは判断した。

(なんだこれ)

 空間に穴って、どこでもドアかよ。
 いやタイムマシン?
 て言うかこの明らかに何か出てきそうな門? 扉? の前に居たら俺轢かれるんじゃないか?

 そう思ったサイトは避けようとする。
 まかり間違ってダンプカーとか出てきたら困る。更に間違ってメテオストライクとかちょっとしたどころではない、完全なテロだ。今時分この国はテロに敏感になってるというのに。ああでも、なんか変形ロボとか仮面ライダーとかが出てくるなら轢かれるのも良いかも知れない。光の巨人だったりすると轢き殺したお詫びに融合してくれて、巨大化したり光線出したりして怪獣と戦うことになるかも分からん。でもやっぱりそういうのも正直御免被る。超常現象はもう懲り懲りです。

 自分の目の前に現れてくれやがった正体不明の浮遊物を避けようとサイトは斜め前へと身体を進ませる。
 もちろん片手を前に出してのジャパニーズチョッピングスタイル「ドウモスミマセーン、トーシテクダサーイ」である。
 通勤ラッシュの駅のホームの混雑もこれで回避可能のスペシャルスタイルだ。大和民族の無意識の成せる技である。

 そしたら奴さん、あろうことかその身(?)を滑らして進路上に割り込んでくる。
 あかん、あかんよ、その行動。我喧嘩売っとんのか。ぶつかられてもしょうがないよね? 覚悟はいいか、俺は出来てる。
 衝撃を覚悟したサイトは、しかし何の抵抗もなく、チョッピングスタイルのまま銀の鏡へと突入してしまう。

 残されたのは高く澄み渡るアメリカ東海岸マサチューセッツ州の秋の青空と、風に吹き散らされる落ち葉だけであった。

 この日、平賀才人は失踪した。





「……大丈夫?」

 なにやら病みつきになりそうな周波数の声が耳に届き、平賀才人の意識は覚醒する。

 目を覚ますと先ずは周囲の状況と自分の身体の確認だ。
 急に動いて実は断崖のそばだったとかいう状況だと悲惨だ。首に縄がかかっていて動いたら死ねる状況だったりとか。いや場合によっては形振り構わず逃げなくてはならないが、今の所は動かずにいて無事だったのだから、取り敢えずは動かないで居るべきだ。見える範囲には雑草、おそらくは単子葉植物。沙漠ではなくて一安心。
 次に身体の状況の確認、神経を研ぎ澄ませるが痛みのある場所はない。……いや、何だか頭痛がする。酷い風邪を引いたような、神経が病んでいるような頭痛だ。うつ伏せに行き倒れているようだが、周囲の土が柔らかかったのか、他には特に痛む場所はない。顔は左向き、左腕は下がった状態で、右腕は伸びている。
 そして周辺状況の確認。先程から女の子に話しかけられているようだが……。

 油断無く眼球だけを動かして、自分の腹の方へと視線をずらしたサイトの目に入ったのは、灰色のスカートから覗く健康的な二本の太腿と、その間の禁断の純白デルタ地帯。
 その向こうは秘密の花園。
 男の夢がいっぱいつまっている絶対悩殺空間なのだ。

 なんだかんだで歳だけ食ってそういう事に奥手だった、というか色々とそれどころじゃなかった青春時代を過ごしてきたサイト。
 一気に首筋から耳たぶまで真っ赤になってしまう。湯気だって出ているだろう。

「な、なに見てんのよ!! 変態!!」

 女の子は首筋を赤くしたサイトと彼の目線の先にあるものに気づいたのだろう。
 健康的な太腿と可愛らしいリボンが付いた純潔を表すかのような白い下着の持ち主は立ち上がると、バックステップ。

「せいっ!!」

 そして勢いをつけて非常に的確に、爪先をサイトの脇腹にめり込ませた。
 しかも表面的な打撃を目的としたものではなく、内臓を抉るように、脇腹着弾後にさらに力が込められた浸透勁のような蹴りであった。横隔膜が押し込まれ、腎臓が歪んでいるのすら知覚できそうだ。

「ぐえっ!?」

 サイトの身体はうつ伏せのまま、スリスリしたい太腿を持つ天使の蹴りによって、真横に拳二つ分くらい移動した。
 どうやらこの可愛らしい声の主は、その声の印象とは裏腹に相当にヤルらしい。

 胃の腑の辺りから押し寄せる灼熱感と痛みに喘ぎ、身体を丸めながら、サイトはどこか遠くから自分を眺めるような感覚で思考する。
 先程の脇腹へ捻り込むような攻撃は、朦朧としていた彼の意識をはっきりさせた。
 いっそ気絶できたら楽なのに、と思うが、内腑の痛みは安易な方法を許してくれそうにない。

 苦悶の中、サイトは醜態を晒さないように耐える。
 男には、日本男児には、意地があるんじゃー! アメリカに渡って国籍意識が先鋭化したサイトは、軍人だったという祖父のことを思い出しながら苦痛に耐えていた。
 その横では、蹴りを放った少女がなにやら会話をしている。

「ミスタ・コルベール」

 先程の狼藉を全く意に介した様子もなく、屈託ない笑顔で教師に向き直るルイズ。
 周囲からは、俺も蹴られてえ、むしろ踏まれたい、罵られてえ、おい誰かさっきの姫の発言録音してねえか、『変態!』発言いただきましたー、100エキュー出しますわ寄越しなさい、とかいう声が聞こえるが、彼女は努めて無視した。

「な、なんでしょう、ミス・ヴァリエール」

 禿頭の教師は思わずして怯む。

 今の彼女にはよく分からない凄みがある!
 永劫生きる大メイジにして学院長、オールド・オスマンに負けず劣らぬほどの凄み!
 時の試練に耐えたものが発する存在感が!

 だが実際のところ、ルイズは全く以て混乱していた。
 コルベールが感じたよく分からない凄みとは、取りも直さず彼女の混迷した感情の発露に他ならなかった。

(え、ええと、どうしようコレ)

 このまま『コントラクト・サーヴァント』したら、リーヴスラシル刻まれちゃうわよね。リーヴスラシルってことはブリミル以来の快挙になる訳だけど、すごく気になるけど、すっごく気になるけど、でも、それやっちゃうとエルフとの仲が悪くなるわよね? 
 あと、『四の四』が揃うってことは、何かハルケギニアに途轍も無くまずいことが迫ってるんじゃないかしら?
 というかこの黒髪のオモロ顔は一体何処の誰なのかしら。ああもうジタバタと見苦しい、どうしてくれようかしら。とにかく拷問だ! 拷問に掛けろ! いや違う提督は黙ってろ。そんな事よりお腹が空いたよ。腹ペコビークル乗りも黙れ。脳内会議場は絶賛大混乱中である。

 ……仕切り直しが必要ね。こんなに混乱した頭じゃ上手い手は考えつかないわ。

「ミスタ・コルベール、私は取り敢えず、この方を何処か寝かせられる場所に連れていこうと思います。何だか苦しそうですし。構いませんね?」

 ルイズは監督教員に確認を取る。
 苦しいのは君が蹴ったからだろう、という言葉を呑み込んで、コルベールが答える。

「む、いやしかし、使い魔召喚の儀は神聖なもの。きちんと契約してもらわねば……」

 召喚した使い魔の外見に引いてしまって、契約を拒否する生徒も存在する。
 ルイズより以前に使い魔を召喚した生徒の中にも、泣く泣く契約のキスをした(させられた)者が居たはずだ。
 ルイズとその使い魔だけを特別扱いすることはできない。
 わがままを言うルイズの言葉に一理を認めつつ、コルベールは契約を促そうとする。

「そうはいきませんわ。『蜘蛛の糸』!!」

 コルベールが行動を起こそうとしたところ、何処からか飛んできた粘着性の魔法の糸によって動きを封じられてしまう。
 光り輝くコルベールが、直ぐに粘着糸が飛んできた方向を見れば、金髪ツインテールの幼い少女が彼に杖を向けていた。

「な、何をするのです!? ミス・クルデンホルフ!」

 コルベールが魔法の行使主を問いただすが、クルデンホルフと呼ばれた10を少し過ぎたくらいの少女は飄々とすっとぼける。

「手が滑っただけですわー。お姉さまが『コントラクト・サーヴァント』は後回しにしたいと仰ってるのですから、良いじゃありませんか。お姉さまの唇が何処とも知れない馬の骨に奪われるのもシャクですし」
「ええい、いいからこれを解きなさい!」
「呼び出された彼がどこかの貴族だったりしたら大変でしょう? あるいは未知の病原菌を持ってるかも知れませんし、迂闊に強引に話を進めるのは宜しくないと思うのですけれど」

 一方、コルベールの矛先が金髪ツインテールのクルデンホルフに向いている内に、ルイズは未だに脇腹を押さえてうずくまっている黒髪の被召喚者の下へと向かう。
 つかつかと歩み寄るルイズに気がついたサイトは頭を上げる。
 ルイズが天使を思わせる笑みを浮かべ、サイトの前に跪くと、彼の顎にその白魚のような華奢な手を添える。

 ルイズと見つめ合うサイトは、その聖女のような慈愛に満ちた笑みに完全に心を奪われる。

(何て可憐な女の子なんだ……!)

 だが、まるで何か神聖な洗礼の儀式のようにも見えるその光景は、長続きしなかった。

 サイトの顎を掴んでいたルイズは、上体を落し込み、その重心の落下によって生じるエネルギーを、各関節を経て指先まで伝達させる。
 各関節で速度に変換されたそれは、十分以上の威力を持って、サイトの顎を揺らす。ルイズの細腕は手首のスナップを効かせられて高速で振り抜かれる。スパン、とシャツが高速で打ち鳴らされる音が同時に響く。

 顎の先端を十分すぎる威力で揺らされたサイトは、脳震盪に陥り、身体の自由を失って崩れ落ちる。

(畜生、やっぱり訂正だ! この女の子、とんでもねえっ……!!)

 闇に沈む意識の中でサイトはそんなことを思った。



 ルイズは黒髪のオモロ顔した青年が崩れ落ちたのを確認すると、コルベールの足止めをしていたツインテールの少女に声をかける。
 このツインテールの少女は彼女の故郷の隣国の巨大学院からの転校生だ。ルイズの昔からの同級生でもある。
 ツインテール少女はトリステイン魔法学院に転校してまでルイズを追い掛けてくる重度のストーカー気質だが、その分、恐らくはルイズの一番の理解者である。

「ベアトリス、足止めご苦労さま。この方を運ぶから手伝って。あと、あんたの大伯父の異端教師長に何か情報がないか、聞いておいて」
「はぁい、畏まりましたお姉さま。このベアトリス・イヴォンヌ・フォン・カンプリテ・クルデンホルフ、全身全霊でお姉さまのご依頼を叶えますわ!」

 ベアトリスは教師コルベールを拘束していた魔法の糸を解除すると、崩れ落ちたサイトの方へと向かい、『レビテーション』の魔法で黒髪の男サイトを浮かせる。

「待ちたまえ、ミス・クルデンホルフ!」

 制止しようとするコルベールを、ルイズが遮る。

「ミスタ・コルベール、何にせよ彼の意識が戻ってからにしなくてはならないと思います。申し訳ありませんが、彼が目覚めるまで使い魔召喚の儀は保留して頂いてもよろしいですか?」
「むむ、しかし、例外は認められない」
「……ならば別に留年だろうが退学だろうが構いませんわ」

 問答はこれで終いとばかりに、ルイズは、黒髪の被召喚者を魔法で浮かせて引きずりながら学院への道を先行しているベアトリスの方へと向かう。

「待ちたまえ! ミス・ヴァリエール、ミス・クルデンホルフ! ああ、他の皆は教室に向かっていてください。……こら、待ちなさい、二人とも!」

 魔法学院でも学級崩壊は進んでいるということだろうか?
 魔法学院に入学するに当たっては、それぞれの実家の大小を気にしないようにという建前があるが、生徒たちは完全にそこから自由になることは出来ないし、家柄の低い教師の言うことを聞かなかったりする生徒も出てくる。
 それでもルイズとベアトリスがこうも目立って反抗することは初めてのことであった。
 ベテラン教師であるコルベールは流石にすぐに気を取り直して二人の後を追ったが、他の生徒たちは事の成り行きについて行けず、置いてけぼりを喰らってしまった格好である。



「人間が召喚されたり、あのヴァリエールが授業を投げたり、珍しいことが続くもんねー」
「……ん、そうでもない。人間の召喚は聖人グレゴリオをはじめとして、幾つか例がある」

 赤髪の扇情的な美人が呟いた言葉に、青髪ショートカットの幼い少女が答える。
 青髪の少女が続けて呟きかけた「私の伯父も含めて」という言葉は発せられることなく呑み込まれた。
 それぞれの傍らには毒々しいサラマンダーと立派な風竜が大人しく控えている。

「へえ。相変わらず物知りねー、タバサ」
「……それほどでも」





「お姉さまー、お邪魔いたします」
「入りなさい、ベアトリス。それで、学術都市シャンリットと連絡はついたかしら?」

 学院のルイズの部屋に金髪ツインテールの少女ベアトリスが入ってくる。
 ベアトリスの手には何か布に包まれた長いものが握られている。

「ええ、お姉さま。学術都市の方のガンダールヴを破棄するとのことですので、お姉さまはその方に『コントラクト・サーヴァント』を」

 ドアを後ろでで閉めながら、ベアトリスはルイズの部屋のベッドに寝かされている男を見る。
 その視線にはどこか憎々しげなものが込められている。
 彼女はルイズに心酔しており、出来ることならば自分が使い魔になりたいくらいなのだ。

「なるほど、そうすれば私の方は4人目じゃなくて繰り上がって3人目になる。つまりこの人にはガンダールヴが刻まれるって寸法ね」
「ええ、そうなります。あと10分後に、クルデンホルフのシャンリットにて、聖人クローンによってガンダールヴが刻まれた実験体を処分しますので、その後にお姉さまはこの方に『コントラクト・サーヴァント』をお願いいたします」

 ルイズもベアトリスに釣られて自分の部屋のベッドの上を見やる。
 ベッドの上には昏々と眠り続ける平賀才人22歳の姿があった。

「彼は魔法で眠らせていますの?」
「ええそうよ、ベアトリス。それと水魔法の『読心』で彼の記憶を覗かせてもらったけれど、曲者ねー。異世界人らしいわよ、そこの彼」

 『読心』の魔法とは、対象の記憶を読み取る魔法である。
 同系統の魔法には対象に暗示をかけて思い通りに操る『制約』という魔法がある。
 『読心』はその応用のようなものだ。

「……異世界人?」

 ベアトリスはルイズが放った言葉を鸚鵡返しにする。

「ハルケギニア星人ではなくて、ドリームランドの者でもなくて、異世界人ですか。それにしては随分人間らしい体つきですけれど」

 持っていた長物を机に立てかけながらベアトリスはルイズが座っている場所の向かいあわせに座る。
 外は既に双月が昇り始めた宵の口である。
 こんな時間になるまでルイズは、異邦人の青年に魔法を使って、彼の脳から記憶を吸い出し続けていたのだ。

「ええ、異世界というか、平行世界というか。地球人、アーシアン(Earthian)とでも呼べば良いのかしらね。平賀才人、22歳。まあハルケギニアと地球じゃあ暦が違うから、こっちだと20過ぎくらいかしら」
「あら、意外と歳なんですね。もっと若いかと思ってましたが」
「彼の人種は幼く見られがちだそうよ。でも、頭脳はずいぶん優秀みたいね。幼いうちから頭角を発揮し、外国の大学へ留学。最近は成績は振るわないみたいだけど、確か、大学の名前は『ミスカトニック大学』とか言ったかしら」
「……私とお姉さまの母校、学術都市シャンリットの『ミスカトニック学院』と同じ名前ですね」

 ベアトリスの実家であるクルデンホルフ大公家が治める学術都市シャンリットの中枢を占める私立ミスカトニック学院は、千二百年前に開設されたハルケギニア初の私立総合学院である。
 ルイズは弱冠12歳でその総合大学を卒業した傑物であり、ベアトリスとはその当時の学生時代からの付き合いである。
 ベアトリスはベアトリスで早熟な天才であり、幼い頃からその学院に通っていたが、敬愛するルイズを慕ってトリステイン魔法学院までやって来たのだ。

「千年教師長のルーツは案外この彼と同じ世界なのかも知れないわね」

 その私立学院を創始したウード・ド・シャンリットという人物は、千年の時を越えて今なお学術都市に君臨する怪物である。
 ミスカトニック学院の名前を定めたのも、そのウードという人物である。
 彼には、この世界ではないどこかの記憶を持って生まれた、という噂があるのだ。

「ありえますわ。『サモン・サーヴァント』で召喚できたということは、何処かでハルケギニアと繋がっているのでしょうし。例えばアトラク=ナクア様の橋の向こうとか」
「まあ、そこの彼について、詳しいことは後でレポートを送らせてもらうわ。今はさっさと契約しちゃいましょう」
「……キスするんですか?」
「まさか」
「え、じゃあどうするんです?」
「別に粘膜接触ならばキスじゃなくてもいいのよ。それに、使い魔が言うことを聞かないってことがあってもらっちゃ困るからね、従属させるための保険に、ちょっとした手術と魔術を使おうと思って。手伝ってもらえるかしら、ベアトリス」
「もちろんです、お姉さま!」
「良い返事ね」

 そう言うとルイズは指を持ち上げ。
 自分の左瞼の隙間に向かって。

 ちゅぷり。

 おもむろに指を突き入れた――。





 翌朝、平賀才人は見知らぬ部屋で目を覚ます事になる。
 激動の時代の始まりを告げたのは、異世界でも変わらずに響く鶏の声であった。

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2010.12.27 初投稿/誤字修正
2011.01.19 あとがきを感想板に移動



[20306] 蜘蛛の巣から逃れる為に 2.使い魔
Name: へびさんマン◆29ccac37 ID:b87f4725
Date: 2011/01/19 19:32
 昏倒から目覚めた平賀才人22歳。
 自分の見知らぬ場所で目が覚めるというのは、これが生涯で実に十度目の経験であった。
 記念すべき一度目の経験とは異なり、身体がきちんと自分の――地球人類の――ものであったことに一先ず安心する。

 彼の不思議体験第一弾でもある、『見知らぬ天井ver.1』はその内語る機会もあるだろう。

 次に周囲を見回そうとしたサイトは、仄かに香る芳香に気がつく。

(なんかいい匂いがする……)

 サイトは無意識のうちに、このベッドの主の美少女の体臭を存分に味わっていた。
 シーツを鼻先まで持っていってくんかくんか。
 状況確認より先に女性の匂いに気を取られる辺り、サイトの女日照りっぷりが伺える。

(いかんいかん、危ない危ない。状況確認をしなくては)

 魅惑の芳香に囚われかけたサイトは頭を振って周囲を見回す。
 これはどうやら布団ではなくてベッドのようだ。
 隣に何か長い棒のような物――和弓か木刀だろうか――が立てかけてある。

 視線をベッドサイドから足元の方へ移動させると、彼を覗き込む桃色の髪の人物に気がついた。
 というか半ばベッドに身を乗り出している彼女の鳶色の右瞳と目が合った。左目には眼帯を付けている。
 つまりシーツの匂いをくんかくんかしていたのはバッチリ見られていたということだ。

「のわっ!?」
「……やっぱり変態ね」







 蜘蛛の巣から逃れる為に 2.使い魔は須く主人の支配下にあるべし







「えーと?」
「おはよう、ヒラガ・サイト。サイトと呼ばせてもらうわ。私の名前はルイズ・フランソワーズ・ル・ブラン・ド・ラ・ヴァリエールよ。“ご主人様”と呼ぶことを許可するわ」
「……ぅえぁ?」

 寝起きにこのやり取りは辛い。
 というか声の周波数が辛い。キンキン来る。
 つーか、何だ、ご主人様って。

「あんたを招来したのは私。意味は理解できて? あんたが眠っている間にこちらの知識はダウンロード出来ているはずなのだけれど」

 そう言われてみれば、頭の中に次々と知識の断片が泡沫のように浮かび上がってくる。

 この世界の名前は――ハルケギニア。
 この場所は――トリステイン魔法学院、貴族が学ぶ場所。その女子寮のルイズの部屋。
 貴族とは――ハルケギニア固有の系統魔法を使うことが出来る支配種族。
 系統魔法とは――土、水、火、風の4つの属性から成る魔法――系統の分け方については要検討――。物理現象に干渉可能。
 何故呼ばれた――運命に導かれてルイズ・フランソワーズ・ル・ブラン・ド・ラ・ヴァリエールの使い魔となり全身全霊を捧げるために。

「――って、おい」

 何か変なノイズが入ったぞ。
 『全身全霊を捧げる』ってどういうことだ。

「何よ?」
「ナチュラルにインプリンティング(刷り込み)してんじゃねぇ」
「はンッ! 異邦人に人権なんて無いのよ。死にたくなければ従いなさい。寧ろ死んでも従いなさい」
「外道!?」
「よく言われるわ。褒め言葉よ、それ。というか召喚生物に従属の術式を刻むのなんか初歩の初歩じゃない」

 よくよく思い返してみれば、この桃色の髪の少女には会って早々にボディに蹴りを入れられて、更にその後よく分からない技法によって昏倒させられた気がする。

(可愛い顔してとんでもねえ奴だ。……可愛いのにとんでもない奴だ)

 平賀才人はこの異世界に来てから何度目かの感想を抱く。
 そして恐らくそれは的確だ。
 ルイズ・フランソワーズ・ル・ブラン・ド・ラ・ヴァリエールは、只者ではないのだから。

 そこでサイトは気がつく。
 こちらを覗き込んでいる少女が余りに鮮明に見えすぎていることに。
 自分は大多数の日本人の例に漏れずに近眼で、コンタクトレンズによって視力を矯正していたはずなのだが。コンタクトレンズを確かめるが外れているようだった。

 ルイズという小柄な少女は、差し込む朝日の中を、ベッドから少し離れた椅子へと退き、腰掛ける。
 足を組み替える動作がなんとも蠱惑的だ。左目の眼帯はレースをあしらったお洒落なものであり、彼女の美しさを尚更引き出している。
 その彼女は左手の指を何度か擦り合わせる動作をする――癖なのだろうか、確か大学の教授の誰かが同じような癖を持っていたような――と、組んだ脚に両手を重ねて置いた。

 サイトはそんな少女から目を離して、部屋の様子を見る。
 鏡台やランプなど、古風だが高級感を漂わせる調度が、下品にならない程度に配置されている。壁に等間隔で並べられた三つの鏡が特徴といえば特徴だろうか。そして、その細部までもが、眼鏡もコンタクトもつけていないのにハッキリと見える。件の鏡の枠にはアラベスク(蔦花文様)を基調として、所々にグロッタ調にグリーンマンが隠れているのまで見える。

 部屋中を解せない様子で見回すサイトの様子を観察して、ああそういえば、とルイズは口を開く。

「眼なら治しておいたわよ。ガンダールヴが近眼じゃ困るからね」

 彼女がそう言うならば、そういう事なのだろう。
 レーシック手術のようなものなのかも知れない。
 サイトは自然と納得してしまっていた。

「毛様体筋を強化して、眼球の水晶体を軟化させたのよ。こちらの世界では簡単な術式よ」
「……そりゃどうも」
「そこは“感謝感激恐悦至極雨霰の流星雨、代えましてはこの命尽きるまで仕えさせて頂きます”くらい言いなさいよ」

 そういうルイズの目元には、よく見れば深い隈が見て取れる。小さく噛み殺したあくびをする様子もキュートである。
 ひょっとしたらサイトが目覚めるまで看病(?)してくれていたのかも知れない。このベッドも恐らくはルイズというピンクブロンドの少女の物だろうし、サイトは彼女から寝床を奪った形になるのかもしれない。
 寝床を譲って看病して、と考えたら、なんともいじましいご主人様ではないか。まあ迂闊に寝入って、先に目を覚ましたサイトに襲われるのを危惧しただけなのかもしれないが。

「ところで“ガンダールヴ”ってのは何だ?」

 サイトはルイズの発言にまぎれていたキーワードっぽい言葉について尋ねたが、直ぐにその答えは彼の頭の中に浮かび上がってきた。
 刷り込まれた記憶の中に、その知識も含まれていたようだった。

 ガンダールヴとは――『神の左手』とも呼ばれる使い魔、およびそのルーン。武器を手にした際の肉体強化、身体動作最適化の能力を手に入れることができる。伝説の虚無系統の四体の使い魔の内の一つである。
 使い魔のルーンとは――『コントラクト・サーヴァント』の呪文によって刻まれる刻印。主人であるメイジとの感覚共有や知能強化、その他固有能力の付与など様々な機能がある。
 虚無系統とは――ハルケギニアに魔法を広めた始祖ブリミルが用いた系統。時空操作や魂の操作すら可能とする、この世界ハルケギニアでも最高峰の魔法系統。

(うえぇ、なんか自分が知らないはずの知識が湧いてくるのって気持ち悪い……)

 サイトが刷り込まれた知識の感触に顔を不快げに歪めていると、ルイズが声をかけてくる。

「多分既に自己解決しているだろうけれど、ガンダールヴってのは使い魔に付与される能力の一種よ。左手にルーンが刻まれることと、始祖ブリミルが使役したことから、伝承では『神の左手』と呼ばれているわ」
「ああ、分かった。というか、何と言うか。覚えた覚えが無いものを“思い出す”ってのは何だか気持ち悪いな」

 始祖ブリミルとは――『神の左手』とは――、とさらに連鎖状に知識が頭の奥の奥から湧いてくる。
 サイトは頭を振って刷り込まれた知識の連想を止める。
 気を付けないと際限なく連想が広がっていくようだ。何だかゲーム序盤での強制チュートリアルを受けているようだ、などと感想を抱く。

 サイトが自分の左手に目をやると、確かにそこには今までになかったものが浮き上がっていた。
 不思議なことに、そこに在ったのは地球の古代文字であるルーン文字と似通ったものであった。
 幸いにも、地球に居た頃に古文書に当たっていた関係で、サイトは少しはルーンを読むことが出来る。

(えーと、ギョーフ/ウル/ニイド/ダエグ/オシラ/ラグ/フェオ――G/U/N/D/O/L/F、ガンダールヴ、と読めるな、確かに。しかし、ルーン魔術? ってことは、ここのメイジというのは北欧のドルイドの末裔か何かか? あるいは逆に地球のルーンがこいつらから伝わったものだという可能性もあるな……)

 サイトは生来の好奇心を発揮して、ルーン文字の伝来について色々と思索を巡らせる。

「まあ、知識については追々馴染んでいくでしょ。夢の中で素敵なルーンの妖精さんが解説してくれるかも? ルーンの性能調査もその内にやっておく必要があるわね。でもそんな事より――」

 ぐきゅる、と、サイトとルイズ、二人のお腹から空腹を訴える音がする。
 思索に耽りかけたサイトだが、ルイズの声と同時に響いた腹の虫の音に思考を戻される。

「――お腹が空いたわ」





 ルイズとサイトの二人は揃って女子寮の廊下に出る。
 朝のドキドキ生着替えイベントなど発生しなかった。
 何故なら垢や余分な皮脂はルイズの使う『錬金』の魔法の軽い応用で一瞬で払拭されてしまったからだ。やけに手馴れていた。

 ルイズたちが部屋から出るのと同時、ルイズの部屋に向かって右隣の部屋のドアも開く。

 中から現れたのは、燃えるような赤髪と褐色の肌、胸元を大きく開いてその豊満なバストを強調した美女であった。
 同時にむっとするほどの濃密な雌の匂いが漂う。

 フェロモン、というものだろうか。
 ヒトの最も根源的な部分に働きかける天性の魅力が彼女には備わっているようだった。
 それは危険なほどに濃厚な匂いであった。
 濃密すぎてかえって毒である、あるいは真実それは毒なのかも知れない。
 サイトの胸の高鳴りは、恋などではなく、毒香によって生命が危機に晒されていることによる防御反応なのかも知れなかった。
 生命の危機に応じて身体が臨戦態勢に移行しているのだ。
 どくんどくんどくん、血を全身に巡らせろ、襲うか襲われるか、戦うか逃げるか、いずれにせよ心拍は速い方がイイ。

「あら、おはよう、ルイズ」
「おはよう、キュルケ」

 和やかな朝の挨拶、のはずだ。
 だがサイトはその背後に走る紫電を幻視した。
 ……冷戦状態、ただし核弾頭は発射済み、みたいな。

「そちらがあなたの使い魔なの? 人間を召喚するなんて随分珍しいこともあるのね」
「まあそういう事もあるわ。運命とやらは残酷で理不尽で唐突なのよ」
「確かにルイズの所なんかに召喚されるのは、残酷で理不尽で唐突かもしれないわね」
「……。……、……ぁ~」

「ちょっ!? そこは否定しようよ、ご主人様!?」

 言い返そうとして何か喉につっかえたような様子で最終的に黙りこんでしまったルイズを見て、慌ててサイトが突っ込む。
 召喚とか契約とかインプリンティングとかで有耶無耶になっていたが、今後の扱いとか、送還とか、そういった諸々の条件についてはまだ伝えられていない。
 こんな気になる黙られ方をされると、自分の今後が不安になって仕方ない。まさか邪神の生け贄にするために召喚されたわけではあるまいな。などと疑念が湧き出てくる。

「……。まあ色々大変だと思うけど頑張って、使い魔さん? 一応自己紹介しておくわ。キュルケよ。二つ名は『微熱』」
「ああ、オレはサイト、平賀才人だ。二つ名ってのは無いな。こことは文化が違うところに居たから」
「へえ、異国の方なのね。こっちは私の使い魔のフレイム」

 キュルケの後ろから、コモドオオトカゲのような巨大なトカゲ、訂正、オオサンショウウオが這い出してくる。
 湿った濃紫色の毒々しい背中をしている。腹側は真っ赤な色だ。イモリを巨大にしたような外見だ。

「……ファイアサラマンダーよね? 見たところ火竜山脈の地熱で溶けた氷河湖に生息している種類かしら。大きさからいって、もう既に成体みたいね。毒腺も発達してるみたいだし」

 運命の過酷さについての思索に陥ってフリーズしていたルイズが再起動して発言する。
 彼女は博学なのだ。
 ハルケギニアの大抵の動植物については知っているし、きっとドーヴィルの海岸の砂の数だって知っている。

「毒娘のアンタには相応しい使い魔ね、キュルケ」
「“火”の使い手としての腕前を始祖にも認められたということよー。あ、あとでフレイムの為にファイアサラマンダー用の虫下しを調合してもらえないかしら?」
「私じゃなくてモンモランシーに頼めば良いじゃない。そのファイアサラマンダーの毒液と引換になら作ってくれるでしょうよ」

 表面上は和やかに、しかし背後には雷雲を背負って二人は会話をしている。
 キュルケの使い魔のフレイム(両棲類)はサイトの方へと大きな身体を進ませると、彼の顔を見上げる。
 サイトは屈んでフレイムと視線を合わせる。使い魔同士のシンパシーでもあるのだろうか。

「おお、意外と湿ってないのな。ヒンヤリしてる」

 ペタペタとフレイムの体表を触るサイト。

「あんまり触ってると毒に冒されるわよ」

 ルイズが窘める。

「え、そうなのか?」

 ヤドクガエルみたいなものか、と納得しサイトはフレイムから離れる。
 サイトがフレイムに触っている間にキュルケは階段に向かっていたようで、既に廊下には居なかった。
 ファイアサラマンダーのフレイムも、キュルケを追って、案外素早い動きで階段へと向かう。

「……さっきのフレイム、でっかいサンショウウオだよな? 火の系統とは関係があるのか?」
「発火能力(パイロキネシス)を持ってるのよ。あと毒腺が発達してる影響で火炎に対する耐性があるわ」
「なるほど」

 毒殺された者の心臓は火葬しても燃え残る、という迷信を思い出しつつ頷くサイト。そういえば、さっきの毒サンショウウオの主人の名前も、毒薬の魔女KIRKE(キルケー、キュルケ)だった。放蕩そうだったし。
 フレイムを撫でるためにしゃがんでいたサイトが立ち上がると同時に彼の背後からドアの開く音がした。
 キュルケの部屋とはルイズの部屋を挟んで反対側、三つ並びの女子寮の部屋のうち、ルイズの部屋に向かって左隣のドアから、女の子が出てきたのだ。

「お姉さま、おはようございます。ガンダールヴも」

 出てきたのは金髪のツインテールが印象的な小さな女の子だった。
 小柄なルイズよりも更に小さな身体をしている、どこか勝気そうな女の子だ。

「おはよう、ベアトリス」
「え、あ、オハヨウゴザイマス」

 自然に挨拶するルイズと、挨拶していいものか、挨拶するとしてなんと挨拶すればいいのか迷ってぎこちないサイト。
 何故か向こうのベアトリスとかいう女の子には、自分のことが知られているようであるし。

「ベアトリス、こっちは知ってると思うけど、ガンダールヴのサイトよ」
「宜しく、サイト。私はベアトリス・イヴォンヌ・フォン・カンプリテ・クルデンホルフ。二つ名は『天網』よ」

 自己紹介に伴って、また刷り込まれた知識が連鎖的に発火してサイトの脳髄を駆け巡る。
 ……――クルデンホルフとは――大公国。ハルケギニア最大の学術都市を抱える。異端のはびこる独立国家――異端とは――一般的にはブリミル教以外の宗教が異端と言われる――ブリミル教とは――……。
 痛みすら伴いそうな情報の奔流にこめかみを押さえながら、サイトは何とか自己紹介を返した。

「宜しくベアトリス、ちゃん? 俺は平賀才人だ」
「ベアトリス、と呼んで頂いて構いませんわ。ちゃん付けだなんて、虫酸が走る。……では食堂に行きましょうか、お姉さま」

 ベアトリスはそっけなくツンケンした態度でサイトから視線を外す。
 どうやら何かしらの理由で嫌われてしまったらしい。お姉さま、とかルイズは呼ばれているが、どう見てもベアトリスという女の子とは血縁ではなさそうだし……。サイトは思案するが、考えても分からないことは仕方ない、と棚上げする。長生きするためには必須の技能だ。
 使い魔というポジションに嫉妬されているとは思いも寄らない。サイトとしては今の自分の立場は奴隷以下、家畜にも劣るのではないかとすら考えている。あるいはただの生贄か、とも。

「ええ。そうしましょう。あ、サイトの御飯は厨房には言ってないわね、そういえば」
「え、オレ飯抜き?」

 三人連れ立って歩き出す。
 どうやらルイズはベアトリスを待っていたようだった。仲が良いのだろう。

 それよりもサイトにとって目下の問題は朝食である。
 食べ物がなければ死んでしまう。
 水が合わずにお腹を壊して、下痢や嘔吐で碌に栄養が取れなくなって体力を消耗してしまう可能性も考えると、ここで飯抜きにされるのはリアルに命の危機である。

「昨日のうちにコック長のマルトーさんに頼んで賄いを食べさせてもらえるように取り計らっておきましたわ」

 そんなサイトの心配を察したわけではないだろうが、ベアトリスが答える。
 何だイイヤツじゃないか、とサイトは先程の印象を修正する。

「流石ベアトリスね。よくやったわ」
「あぁん! お姉さまに褒められましたわっ!」

 身悶えるベアトリス。
 スルーするルイズ。
 反応に困るサイト。心中で再度ベアトリスに対する印象を訂正。彼女はサイトに対して好意的な訳ではなく、彼のゴシュジンサマである所のルイズという少女に対して好意的なのだと理解。

「ということでサイト、“ミス・ヴァリエールに召喚された使い魔の人間です”と言えば厨房で賄いが貰えるはずよ」
「OK。だが厨房はどこだ?」
「途中まで案内するわよ、安心なさい」

 ふとサイトが周囲を見渡す。

「どうしたのよ、キョロキョロして」
「いや、ベアトリスの使い魔は居ないのかな、と」
「私の使い魔は居ますわ。ほら、上に」

 ベアトリスが天井を指さす。
 釣られてサイトも上を見る。

 するとそこには、巨大な蜘蛛がへばりついていた。
 各脚が1メイルはあり、緑と黄色の精神に悪い色彩の縞模様の腹を持っている。

「うわぁっ!? 蜘蛛!? デカっ!」
「ああ、ベアトリスの家系は蜘蛛に愛されているのよね。しかしまあこの程度の大きさで良かったじゃない。大きなものになると屋敷ほどの大きさもあるんでしょう?」
「ええ、でも、私の実力ではそこまで巨大な蜘蛛は召喚できませんでしたわ。この子の名前はササガネと言いますの。使い魔同士、宜しくしてやって下さいまし、サイト」

 大蜘蛛のササガネは、軽く前脚を浮かせてサイトの方へと振る。
 ササガネなりの挨拶のつもりなのだろう。
 サイトも顔を引き攣らせながら、手を振り返す。

「は、はは。なんだ、この辺りからは、レン高原にでも繋がってやがるのか?」
「あら、レンの蜘蛛にお知り合いでも居て?」
「……何度か遭ったことがあるよ(捕食者遭遇的な意味で)」
「それは重畳。ひょっとしたら私の先祖かもしれませんから、また会ったら宜しくお伝え下さいまし」
「……ああ、機会があれば」

 サイトは、そんな機会なんてもうゴメンだ、と内心で悪態をつく。

「ちょっと、ベアトリス、サイト! 置いて行くわよ?」
「あぁん、お待ちになって、お姉さま~!」
「悪い、待ってくれ、ルイズ。すぐ追いつく」





「おう、お前がミス・ヴァリエールに召喚されたって言う人間か。ベアトリスの嬢ちゃんから聞いてるぜ」
「あ、はい。サイトです。それにしてもよく分かりましたね」
「はっはっはっ、まあその服装(なり)見りゃ分かるさ。貴族にも平民にも見えねえし、所在無さ気に入り口を伺ってるんじゃな」

 コック長の益荒男、マルトーは豪快に笑ってサイトを迎える。
 魔法学院の厨房を預かる平民の男だが、一流の技術を持っている、尊敬するべき職人である。
 魔法学院で働いているのに貴族嫌いという、よく分からない男だが。
 きっと、働いているうちに嫌気が差してきたのだろう。お手つきにされたメイドなんかを見てきたのかも知れない。あるいは彼の職は世襲で、彼の意思とは無関係に就かされたとかいうことなのか。

「えーと、サイト、だったか」
「はい」
「その辺に座って待ってろ。貴族の坊ちゃん方に飯出すまではちょいと忙しいからな」

 サイトに席を勧める間にも、仕上げに差し掛かった料理の味の確認にマルトーは呼ばれ、また同時に方々に指示を出している。
 その忙しさは戦場もかくやという有様だ。しかし、その集団はひとつの生物のように有機的に統率されているようにも見える。
 ……そんな忙しさの中、手持ち無沙汰に座っているだけというのも居心地が悪い。かと言って高度に統率され分業されたところにぽっと出が入っても邪魔になるだけのような気もするし。

「マルトーさん、何か手伝えることはありませんか?」

 結局、サイトは自分が出来ることをマルトーに聞いてみることにした。

「ん? そうだな、今は別に無いな。まあ皿洗いなんかを手伝ってもらえるとありがたいが、確か食事後は授業に同席しなきゃならんはずだから、今日は無理だな」
「え、そうなんですか?」

 そういえば今後の予定を聞いていなかった。
 というか、他にも色々、いつこの使い魔の身分から開放されるのかとか、そもそも地球に送還できるのかとか、色々と今夜は問い質さなくてはならないだろう。

「ああ、毎年、使い魔召喚のあとの最初の授業はそうなっているはずだぞ。何でも使い魔と主人の絆を深めるために最初のうちは少しでも長く一緒にいる必要があるんだとか」
「そうなんですか。教えてくれてありがとうございます」
「はは、何、気にするな。同じ人間同士だろう。あのミス・ヴァリエールの嬢ちゃんのところならそうそう邪険に扱われることはないだろうけどな」

 存外、サイトのご主人様は下働きの者たちからの評判も良いようだ。

「運が良いなあ、青年! あのミス・ヴァリエールにお近づきになれるなんて」
「ホントホント。私もミス・ヴァリエールにお仕えしたいわあ」

 容姿端麗、頭脳明晰、血統良好となれば、一種の崇拝のような情を持たれても不思議ではない。
 ……ルイズの本性の一端を垣間見たサイトは、そのご主人様の評価に対して日本人らしく曖昧に苦笑を浮かべるしかできなかったが。
 あれは見た目通りではない苛烈さを奥に秘めているに違いないと、サイトは踏んでいる。

 賄い飯は端肉を使ったシチューだったが、空腹も相まってサイトは非常に美味しく頂いた。
 その複雑な香りから判断したところ、使われている香辛料の種類が多そうだったので、サイトはハルケギニアの文化レベルの認識を少し上方修正した。





 アルヴィーズの食堂で朝食を摂った後は、各教室での授業だ。
 サイトは厨房で十分に朝食を摂ることが出来たようだ。
 先に厨房の入り口で待っていたルイズに遅れたことを謝りつつ、教室に向かう。

 二人が教室に入ると一瞬、教室の生徒の目がルイズとサイトに向かう。

「あれがミス・ヴァリエールの……」「人間の使い魔」「聖人と同じ」「虚無?」「公爵家ならば、確かに有り得る」「むしろ僕が使い魔になりたかった!」

 生徒たちは勝手に囁いている。
 ルイズはそんな周囲の反応に慣れた様子で、最前列の席に向かう。その席には既にベアトリスと、朝は見なかった青い髪のメガネの女の子が座っていた。
 幼い系の三人だな、などと感想を抱きつつ、慌ててサイトもルイズを追う。――が、途中で目に入った地球ではありえない生物群の中に、この場には絶対居てはいけないものを認めてビシリと固まる。

(バシリスク居るんですけどーーー!!?)

 ドリームランドの悪名高き毒蛇の王。羽毛の冠を持つ、鳥と蛇とのキメラのような姿。
 緑の大地をその羽根の一枚で不毛の荒野に変えてしまう毒の化身。
 目から毒気を飛ばすことも出来、弱い者なら一睨みで死に至る。存在そのものが毒、という極悪生物。擬人化された毒。

「あれはまだ幼生体だから大丈夫よ。あと、そういう周囲に無自覚な被害をもたらす使い魔は『コントラクト・サーヴァント』と同時にその能力を制御する力が自動的に付加されるわ。始祖はいとも慈悲深きものなり、ってね」

 固まったサイトの視線の先にあるものを察したのか、ルイズが解説を入れる。

「そ、そうだよな。そうじゃなきゃ、この教室は今頃死屍累々だもんな!」

 毒を吸わないように呼吸まで止めていたサイトはそれを聞いて再起動を果たすとぎくしゃくと動いてルイズの隣に座る。
 というか実はさっき目が合ったから、その時点で運が悪ければサイトは死んでいる。

 彼の前途は、案外に、というか、予定調和に、多難なようだった。


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頑張れサイト(※当SSのサイトは特殊な訓練を受けています)

2011.01.05 初投稿・誤字修正
あけましておめでとうございました
2011.01.19 あとがきを感想板に移動



[20306] 蜘蛛の巣から逃れる為に 3.魔法
Name: へびさんマン◆29ccac37 ID:b87f4725
Date: 2011/01/19 19:34
「皆さん、春の使い魔召喚の儀式、お疲れさまでした。全員無事に使い魔を召喚し、一人も欠けることなく進級できたことを嬉しく思います」

 教室に入ってきた福々しい女性はミセス・シュヴルーズと言うらしい。
 年の頃は四十を過ぎたくらいだろうか。
 紺色のローブに魔女帽子という如何にもな格好をしている。手に持っているのは、天体儀のようなもののようだ。

「ミス・クルデンホルフ、ミス・ヴァリエール、お久しぶりです、ミスカトニック学院でもこちらの魔法学院でもあなた方のような優秀な生徒を持てることを嬉しく思います。
 おや、ミス・ヴァリエール、その左目はどうしました? 怪我ですか?」
「目の乞食(モノモライ)です、ミセス・シュヴルーズ」

 嘘だ。

「あらあら。保健教員に診てもらわなくても大丈夫ですか?」
「問題ありません」
「ではでは、使い魔の契約は終わっていますか? ミスタ・コルベールからの報告ではまだ『コントラクト・サーヴァント』は行っていないとか。隣の方が使い魔として呼び出された方ですか?」
「そうです。サイト、左手を」

 ルイズの呼びかけに応えるようにサイトの左手が跳ね挙がる。

「確かにルーンは刻まれていますね。結構です。では授業を始めましょう」

 サイトの左手甲に刻まれているルーン文字を見て、シュヴルーズは納得する。

 一方サイトは若干困惑していた。

(今、俺が左手を挙げようと思うよりも、一瞬“早く”、挙がらなかったか……?)

「私は『あかつち』のシュヴルーズ。
 担当授業は“大地と天体の運行を魔法的に利用する方法”です。こちらの学院に来る前は暦法と天文学を専攻していました」

 サイトが挙げた左手を下ろして不思議そうにしている間にも授業は進んでいく。

「まずは基本的な事項の確認から行きましょう。私は今年赴任したばかりですので、皆さんの知識との摺り合わせが必要です」
「はい」
「皆さんが利用している暦についてですが、一年、一ヶ月、一週間、一日はそれぞれが天体の周期に関係しているのを知っていますか。では、えーと、ミスタ・グランドプレ、それぞれが何の周期に拠っているか分かりますか?」
「はい」

 グランドプレ、と呼ばれた金髪のこれまたふくよか気な、ポッチャリ系の生徒が立ち上がり、それに答える。

「それぞれ、太陽が再び冬至の高さに戻るまでの周期、紅月が新月に戻るまでの周期、蒼月が新月に戻るまでの周期の半分の周期、太陽が再び昇るまでの周期を一つの単位にしています」
「良く出来ました。予習は完璧のようですね。一年は十二ヶ月、一ヶ月は四週間、一週間は八日で出来ています。ああ、着席して結構ですよ、ミスタ・グランドプレ」

 ポッチャリ系のグランドプレが席に付くのを見届けると、シュヴルーズは話を続ける。
 手に持ってきた天体儀を高く浮かせて、分かりやすいようにクルクルと回して示しながら解説をする。

「つまり、我々のこの大地は一日かけて一回転自転します。これが一日ですね。
 蒼月が大地の周りを一周するのにかかるのが二週間。不思議なことにこれはハルケギニアの大地の一日のちょうど16倍となっています。
 紅月が大地の周りを一周するのにかかる時間が一ヶ月。これも不思議なことに蒼月のちょうど二倍ですね。
 太陽の周りをこの大地が一周するのが、大地の自転のちょうど384倍となっています」

 と解説したところで、怖ず怖ずとひとりの生徒が手を挙げる。

「あら、ミスタ? 質問ですか?」
「ミセス・シュヴルーズ。その天体儀を見させて頂いたところ、このハルケギニアも双月と同じく球体で表されていますが、それは一体どういう根拠で?」

 利発そうな少年は、怖ず怖ずと、しかし心中に横たわる侮蔑の色を滲ませながら、小馬鹿にした様子でそのように発言した。
 シュヴルーズのこめかみに青筋が走る。
 ビシリ、と固まる空気。

「……。つかぬことを伺いますが、ミス・クルデンホルフ」
「は、はひ! ミセス・シュヴルーズ」
「ひょっとして、トリステインでは未だに天動説や大地盤状説が主流で?」
「そ、そのとおりですわ」

 怯えながらベアトリスがシュヴルーズの質問に答える。
 はあ、と溜息をついて、シュヴルーズは「あのクソジジイ厄介ごと押し付けやがってからに。もうこっちで家も買っちまったぞ」と呟いて(耳の良い風メイジの何人かはそのどす黒い声を聞いて震え上がった)質問した男子生徒に向き直ると、イイ笑顔で発言する。

「その質問に完膚なきまでにお答えするには少し教材が足りませんが……。そうですね、大地と天体の力の一端をご覧に入れましょう。何、簡単なコモンマジックですよ。慣性制御術式のちょっとした応用です」
「は、はあ……」

 シュヴルーズの笑顔に冷や汗を流す男子生徒。
 懐からカード状のマジックアイテムを取り出すと学院校舎から離れた草原(召喚の儀を行った場所だ)を指し示す。

「ミス・クルデンホルフ、あの辺りに鉄のゴーレムを100体ほど作れますか? ただの人形でかまいませんので」
「……はい、わかりましたわ」

 ベアトリスもシュヴルーズと同じように懐からカード状のマジックアイテムを取り出すと、その表面を撫でる。どこかその動作には諦観が滲み出している。
 ベアトリスのカードの上に文字列、選択肢とカーソルらしきものが現れる。彼女はその無数の選択肢の中から『ゴーレム生成』の魔法を選択し、魔法発動のトリガーを唱える。

「『クリエイト・ゴーレム』!」

 詠唱と同時に200メイルほど離れた草原上に、騎士鎧の一群が現れる。
 どうやらベアトリスの持つカード型アイテムは魔法使用を補助あるいは肩代わりするもののようだ。

 いつの間にか窓際に寄っていたシュヴルーズは、窓を開けて、カード型のアイテム、ではなく、自前の魔法の杖を振るう。
 そのシュヴルーズの杖の動きに呼応するように窓の下の土が一握の砂となって、草原に林立する騎士人形の間へと向かう。
 シュヴルーズが操る砂塵は鎧騎士人形の間に漂うように滞留する。

「ミス・ヴァリエール、今から私、『あかつち』の魔法を使おうと思いますので、魔法学院への被害が出ないように衝撃波の防御をお願いできますか?」
「あの、ミセス、何もそこまでムキにならなくとも……」
「ミス・ヴァリエール、二度は言いませんよ」
「い、イエス、マム!」

 顔色を失ったルイズは渋々といった様子で、シュヴルーズやベアトリスと同じようなカード状のアイテムを取り出して魔法を使う。
 使うのは風の障壁を作り出す魔法だ。ただしその規模は学院をすっぽり包むほどの大規模なものだ。
 同じ机に座るベアトリスは同じく憔悴した顔でIDカード型アイテムを通じてどこかに連絡をとっている。「空中触手竜騎士(ルフト・フゥラー・リッター)、衝撃波に注意せよ」。その連絡が終わると「手伝いますわ」と言って、ルイズと同じように風の障壁を巡らせる。

「ミセス・シュヴルーズ、障壁展開しました」
「ありがとうございます、ミス・ヴァリエール」

 シュヴルーズは教室中の生徒を窓際まで呼び寄せる。

「では今から私の得意魔法をお見せしましょう。大地が動いていることを利用した魔法です。今から二十年前にクルデンホルフに攻め寄せた聖戦軍を私が殲滅し、その功績でシュヴァリエの位を賜る所以ともなった魔法です。
 このカード型アイテムは本来は学術都市の中でしか使えないのですが、シュヴァリエ受勲者には特別に国外でも一部の機能が解放されます。ミス・ヴァリエールもミス・クルデンホルフも持っていますよね」

 生徒たちの間からは、前聖戦の軍人?、親父から聞いたことある血濡れで赤熱の『赤つ地』には気をつけろって、いやいやそんな風にはとても見えないよ偶然の一致じゃ、などという囁きが漏れている。
 自分の言葉が染み渡ったのを確認すると、シュヴルーズは窓を閉めて、カード型のアイテムを掲げる。

「魔法の名前は『ポイントロック(座標固定)』なのですが、特に私が用いるものは『赤槌(あかつち)』の魔法と呼ばれています。皆さん、結構大きな音がしますから使い魔の制御を手放さないように気をつけてくださいね」


◆◇◆


「オールド・オスマン、何をされているのです?」
「ん~? 覗きじゃよ、覗き」
「趣味悪いですね。王国法違反では?」
「ここではワシがルールじゃよー」

 トリステイン魔法学院の学院長室にて、学院長オールド・オスマンと、その秘書ミス・ロングビルが会話をしている。

 老齢にしては長身のオスマンは、白髪長髪長髭と、老賢人の典型例のよう風貌をしている。
 男魔法使いのイメージを挙げれば、十中十は合致するであろう風貌である。
 彼は今、『遠見の鏡』というマジックアイテムによって学院の授業を覗き見していた。その先が女子寮だとか女子更衣室でないだけマシになったものである。

 ミス・ロングビルは赤い長髪を結い上げ、理知的な印象をあたえる鋭角なメガネを掛けている若い女性である。
 キャリアウーマンのステレオタイプを思い浮かべてもらえば良いだろう。
 いかにも仕事が出来る女という風貌だ。
 オールド・オスマンの秘書をやっている女性である。
 ――彼が学院長に着任した約五十年前からずっと。

 この二人のコンビは、五十年経っても全くその風貌が変わっていないのだ。

「それに授業の監督も仕事の一環じゃて」
「確かにそうですが……。そもそも『遠見の鏡』の設置目的はそうだったんでしょうし」
「年寄りには授業視察のためにあちこち移動するのも辛いからのお。動かずに離れた場所を見れるこの魔道具は重宝しておるわい」
「……絶対に女子学生にこの『鏡』の存在を知られるわけにはいきませんね」
「何故じゃ? 別に疚しいことはしておらんぞ。それにお主が設定を弄って個室やらトイレやらは見れないようにしとるじゃろ?」
「アンタの性格と普段の言動を省みやがれ。“覗かれるかもしれない”って疑惑だけで、被害妄想をもとにして親御が怒鳴りこんでくるのが目に見えてるだろうが」
「君、君。口調、口調。素が出とるよ」
「……コホン。今の生徒たちの親は、丁度オールド・オスマンが着任した当初の生徒たちです。学院長のエロスへ掛ける情熱を眼の前で見た世代です。絶対に知られる訳にはいきません」
「ふむ、まあ、一理あるかのう」

 話をする間にもミス・ロングビルの手元にあった書類の山は減っていく。
 オールド・オスマンの秘書とはいえ、学院で一番の古株でもあるため、実際は実務方の決裁権限も与えられている。
 教頭代理くらいの権限である。教頭が空位なので、実質的には彼女が教頭であるが。

「オールド・オスマン、こちらの書類が、学院長の決裁が必要なものになります」
「うむ、ご苦労」
「それと」

 ロングビルがオスマンに学院長権限の決裁が必要な案件を回す。
 だが、それとは別件で伝えなくてはいけないことがあるようだ。
 彼女は少し間を開けてオスマンに告げる。

「学院長決裁の案件ではありませんが、ミス・ヴァリエールに関して幾つか案件がありましたので報告します」
「うむ。監視を頼んでおった、虚無を受け継ぐ娘についてじゃな」
「はい、そうです。虚無遣いの彼女が学院のメイドを一人身請け、というか個人的に雇いました。これについてはメイドもその上司も合意の上なので特に問題ありません。使い魔の青年――地球人(アーシアン)、ヒラガ・サイト――を従者、そのメイド――タルブ村のシエスタ――を侍女にするつもりのようです」
「従者に侍女、とな。確かにミス・ヴァリエールは遺跡発掘だかなんだかでクルデンホルフ大公国からの騎士爵位(シュバリエ)を持っておるから、従者を雇うのは有りうる話じゃが、何故このタイミングで?」
「推測になりますが」
「構わん」
「そのメイドに、使い魔の青年の夜伽をさせるためではないかと。使い魔が主人に欲情して暴行、など、笑い話にもなりませんし、どうしても生理的に性欲の発散は必要でしょうし。ヒラガ・サイトとシエスタは黒髪黒瞳など似たような特徴を持っていますから、そこから彼女を選んで身請けしたのではないかと」
「……16歳の子女がそこまで気を回すかのう? 流石に考えすぎじゃないかね。理屈は通っとるが、下衆の勘ぐりに過ぎるじゃろう」
「……そうですね。どうも私もオールド・オスマンに思考を毒されていたようです」
「うわぁお、遠まわしに“エロジジイ”って罵倒されとる、ワシ?」
「気のせいです」

 軽口をたたきながらも、オスマンは書類を『念力』の魔法で手を触れずに捲って、同時にサインを施していく。
 その流れが止まる。

「あ」

 オスマンは〈遠見の鏡〉を凝視している。
 ザッピングして様々な教室の光景を見ているうちに、二年生の件の虚無遣いルイズが受けている授業の映像に切り替わったのだ。

「どうされました? 外を裸の王女が飛んでるとか言ったらぶち殺しますよ?」
「いやいや、違う違う。――ミセス・シュヴルーズが切れおった。『赤槌』の魔法を使うつもりじゃ。あの女、短気でならんわい。念のため障壁を展開してくれい」

 オスマンの言葉を受けたロングビルは、学院を衝撃から守るための風の障壁を作り上げる。
 ルイズとベアトリスが作り上げた障壁のさらに内側に、学院の建物に被害が出ないように。

「ちゃんとミセス・シュヴルーズには労働条件などについて話していたんですか?」
「んー、どうじゃったかのう」


◆◇◆




 蜘蛛の巣から逃れる為に 3.魔法の力は人智を越える




◆◇◆


「『赤槌(あかつち)』!!」

 シュヴルーズのトリガーワードと共に、慣性から切り離され、相対速度で公転速度まで瞬時に加速された砂塵は、赤熱した光となって騎士人形たちを打ち据えた。
 白光と轟音、地響きが見ていた生徒たちを襲う。

「うわあああ!?」

 その衝撃に耐え切れずに転げ倒れるものもいる。
 使い魔たちが生徒の制御を離れて暴れだそうとするが、それらはシュヴルーズの一睨みで大人しくなった。
 転ばずに騎士人形が立っていたあたりを見ていた生徒たちは言葉を失っている。

 倒れた生徒たちが起き上がって、外を見れば、そこはまるで地獄のような光景であった。

 無数に立っていた騎士人形たちはバラバラに吹き飛び、全く原型をとどめていない。
 鎧騎士たちが立っていた場所は赤熱して熔けた鉄や大地によって彩られた広大なクレーターとなってしまっている。
 ルイズとベアトリスが障壁を張り巡らせた範囲の外には、熔けた鉄や抉れて飛んできたと思われる大地の欠片が降り積もり、綺麗に境界を示している。

「これが星の運動の力を流用した『赤槌』の魔法です」

 言葉をなくす生徒たちに、シュヴルーズの解説する声が届く。
 ルイズとベアトリスは、相変わらずこの先生切れやすいのね……、と在りしの日のミスカトニック学院での日々に思いを馳せていた。

「皆さんは流星雨という現象をご存知でしょうか。そう、夜空に雨霰と流星が見えるアレです。あれは彗星の欠片のクズに私たちの大地が突入することで起きる現象です」

 シュヴルーズは持ってきた天体儀を示しながら、『念力』を使ってそれをクルクルと回す。
 それによってハルケギニア星を示す球体が、彗星の尾の破片に突入するのを見せる。

「この大地の上に立っている私たちは、当然、大地と一緒に動いています。ですが、それをもし、天体の運動から切り離したらどうなるでしょう? 答えは皆さんが先ほど目にしたとおりです」

 先ほど質問した利発そうな男子生徒が声を上げる。

「で、では、ミセス・シュヴルーズ、先生は、地上に流星雨を作り出したというのですか!?」
「そう言い換えてもいいでしょう。理解は早いようですね。頭のいい生徒は大好きですよ」
「それでは、先生はスクウェアメイジなのですか!?」

 顔を青ざめさせながらも興奮した様子で、男子生徒は質問する。

「いいえ、私は精精トライアングルが良いところです。それに先程の『赤槌』の魔法は、事前に宣言したとおり、コモンマジックでしかありません。皆さんも良く使う『レビテーション』から慣性減衰作用のみを顕著に取り出したマイナーな魔法です」

 その言葉に教室中がざわめく。

「ドットメイジでも使える魔法であるとはいえ、安全に、かつ完全に使いこなすためには、天体や大地の運行に対する深い理解と、精確なイメージが必要不可欠です。皆さんには私の授業を通じて、偉大なる宇宙の力を学び、活用する方法を身につけてもらいます」


 ちなみにこの間中、サイトは未知の専門用語の知識が次から次に浮かんでくるという気色悪い感触に耐えるために、机に突っ伏していた。
 ……――スクウェアとは――……――代表的なスクウェアスペルとは――……――コモンマジックとは――、などという知識の奔流に耐えていた。
 時折呻き声を上げたり、ビクンビクンと痙攣するのが不憫さを煽る。頑張れサイト、君の冒険はまだ始まったばっかりだ。

 キュルケは早速、バシリスクの幼生体を呼び出した男子生徒に流し目を送っていた。
 毒性の低い幼生体とはいえバシリスクを呼び出せるならば、あるいは自分の毒体質に耐えうるかもしれないと考えたのだろう。
 周囲が混乱する中で、二人の周りだけ空気が違っていた。具体的に色で例えると桃色であった。

 青髪の小さな少女タバサは、同じシュヴァリエなのにガリアとクルデンホルフじゃ特典が違いすぎる、と世の理不尽に想いを馳せていた。やはり世の中カネか。


◆◇◆


 その後授業はつつがなく進行し、昼食の時間となった。
 何だかんだで皆、力への憧れというものはあるのだ。
 もしもあの力を自分のものに出来るとしたら、そう考えれば否が応にも、授業態度は良くなるだろう。
 ……単に、ミセス・シュヴルーズを『怒らせるべきではない相手』と認識しただけかもしれない。賢明だ。

 サイトはこめかみを押さえながら、ルイズとベアトリスの後ろをふらふらと歩く。

「頭痛え……。二日酔いなんて目じゃねーぞ、これ」

 先程の授業によって惹起された知識の奔流は、未だにサイトを蝕んでいた。
 おかげでこの世界ハルケギニアの魔法の概念については大分馴染んできたようだ。
 サイトが今まで自分の元の世界で目にしてきた正気を削る魔術とは異なり、ハルケギニアの系統魔法はかなり使い勝手が良いようだ。

 惜しむらくはそれが血統に左右されることだろうか。
 先ほどルイズたちが使っていたカード型のマジックアイテムがあればサイトも魔法を使えるのだろうが、今のところそれは望み薄だろう。
 どうやらあれは個人認証機能も付いているらしいから、ルイズやベアトリスから借りても、サイトには使えないだろう。

「まあ一日もすれば知識も馴染んで頭痛もおさまるわよ」
「……プッ、ざまぁ」
「はしたないわよ、ベアトリス」

 相変わらずベアトリスという少女には嫌われているようだ。
 まあ10歳は年下の少女に嫌われようと、それがどうした、と流せる程度の余裕はサイトにもある。

 アルヴィーズの食堂の前まで来た三人はそれぞれ厨房の方と食堂の方へ分かれる。
 サイトは朝と同様に厨房へ、ルイズとベアトリスは食堂の内部へ。

「なあ午後の予定はどうなってるんだ?」

 サイトはルイズに問う。

「ん、午後は授業はないから、あんたの寝床や生活用品の手配とか、その左手のルーン(ガンダールヴ)の性能調査とかするつもりだったんだけど」

 ルイズは立ち止まって、下顎に人差し指を当てながら答える。
 可憐である。

(ちくしょう、なんでそんなに的確に俺のツボを押さえてくるんだ?)

 『サモン・サーヴァント』で召喚される使い魔は、主人にとって相性が良い者が選ばれるのは当然であるが、使い魔の側も主人を自然と好きになる素養を持つのだと言うことが分かっている。
 数多いる人間の中で何故サイトがガンダールヴとして召喚されたのかというと、魂の形とかなんやらがジャストフィットだったから、ということになる。
 つまり彼が彼女の一挙手一投足に惹かれるのは至極当然のことなのである。断じて彼がロリコンだからではない。今のところは。

 それはともかく。

 サイトが気になっているのは、送還可能か否か、従属の期限は何時までかということである。

「それよりも、俺は帰れるのか? いつまでこっちに居れば良い?」

 ……。
 間。

「さ、行きましょうかベアトリス」
「はいお姉さま」

「待てーい!?」

 サイトはスルーして行こうとしたルイズを留める。

「まさか帰れないのか!? 一生仕えろとか言うのか!?」
「あら、察しが良いわね」
「うぉおおい!?」

 ダン、と足を踏み鳴らすサイト。
 それを見たルイズは苛立たしげに、何度も左手の親指と人差し指の腹をこすり合わせる。
 擦り合わされるルイズの指から、かしかしかしかし……、と、どこか鋏が軋るのを思わせるような微かな音がする。

「まあまあ、そう憤らないでくださいまし。契約を解除する方法も、帰る方法もありますから」
「何!? 本当かベアトリス!?」
「触るな下郎」

 希望の一言を発したベアトリスの肩に思わず掴みかかろうとするサイト。
 だがそれはすぐに振り払われる、辛辣な言葉と共に。

「サイトが心臓を止めた仮死状態になれば契約は解除されます。帰り道は、まあ、アトラク=ナクア様の深淵の谷の何処かから帰れると思いますよ?」
「心臓を止めるという契約解除法はともかく、帰り道の方が絶望的というのはわかった」

 確かにあらゆる世界と繋がっていると噂される、アトラク=ナクアの深淵の谷の何処かには、サイトが元居た世界に繋がっている所もあるかもしれない。
 あらゆる次元の地下交差点、それが赤目の蜘蛛神が橋を架け続ける深淵の谷だ。

 ただし、無数無限に開いている出入口のうちの何処がサイトの世界に繋がるかというのは分からない。
 ともすれば、やってきた道すらも次の瞬間には掻き消えてしまっているかもしれない場所なのだ。
 その方面から帰り道を見つけるのは至難といってもいいだろう。十中八九は時空の狭間に取り残されることが眼に見えている。
 よしんば万に一つ、億に一つ、いや無量大数に一つの奇跡で以て帰り道を見つけられたとしても、その帰り道が安全である保証もない。例えば、腹ペコ蟇蛙神にマルカジリされるかもしれない。

「……まあ、その内に帰してあげるわよ。あんたは予想外に“使えそう”だから惜しいけど」

 ルイズは目を逸らしながら言う。

 確かに、先ほどの授業中に襲ってきた知識の奔流によれば、虚無系統の時空操作魔法には、『世界扉』とかいう世界間移動魔法があるらしいから、ルイズがその気になれば、サイトを送還できるのだろう。

 だがしかし、本当に彼女が彼を送り返す気があるかというと、それは疑問である。
 その気があるなら、とっくにやっているだろう。
 未だに送還しないということは、彼女は彼に何かやって欲しいことがあるということだ。

(なんかいまいち信用できねえ……)

 サイトがジト目で睨むが、どこ吹く風で涼しい顔だ。

「そんなことよりお腹が空いたわ。早く昼食にしましょう」
「そうですわね、お姉さま」
「詳しい話は食後に聞かせてもらうぞ……」

 サイトは二人と別れて厨房の方へ向かう。


◆◇◆


「マルトーさん、すみません、またご飯頂きにまいりました」
「おう、サイトか。待ってろ待ってろ。直ぐに準備する。つっても貴族の坊ちゃん方に全部出してからになるから、またしばらく待ってもらわなきゃならんが」
「構いませんよ。ただ美味しい料理を早食いで片付けなきゃならないのは気が引けますが」
「がはは、確かに朝は良い食いっぷりだったな」

 朝食は時間の都合上、得意の早食いを発揮して、急いでかき込むこととなったサイトであるが、それを気にかけていたのだ。
 一流の料理(たとえ賄いであっても)に対してあんまりな態度だった、と。
 マルトーの方はそんなことは気にしていないようであったが。

「やっぱり何か手伝えることは有りませんか?」
「うーん、そうだなあ、そこまで言うなら……。配膳は出来るか?」
「多分、出来ると思います。格好は制服があるなら貸していただけるとありがたいですが」
「ん、じゃあデザートの配膳を手伝ってもらうかな。 おーい、シエスタ! サイトに給仕服用意してやってくれ!」

 マルトーはメイドの一人を呼び止めると、サイト用の制服の準備を命じる。
 呼び止められたシエスタという黒髪おかっぱのメイドは、すぐに使用人用の控え室に取って返すと予備の男性用給仕服を持ってくる。

「はい、こちらをどうぞ、サイトさん」
「ありがとう。シエスタさん、でいいのかな、お名前は」
「ええ、シエスタです。呼び捨てにしていただいて構いませんよ? 長い付き合いになりそうですし」
「俺は平賀才人。よろしく頼むよ、シエスタ。ところで“長い付き合いになりそう”ってのは一体……?」

 シエスタに問い掛けようとしたサイトをマルトーの声が遮る。

「おうい、もうすぐデザートの準備ができるからさっさと着替えて来てくれ」

「は、はい!」
「着替えるならあちらです、サイトさん」

 慌てて返事をするサイトにシエスタは使用人用の控え室の方を指し示す。

「サンキュ、シエスタ!」
「いえいえ」


◆◇◆


「それで、あんたは給仕の真似事をしてるって訳? やめなさいよね、私があんたに給金出してないように思われるじゃない。『ヴァリエールの所は使い魔にバイトさせてる』とか思われちゃうわ」
「え、何、使い魔って給料出るのか?」
「出すわよ。名目上はあんたのことは、私の従者ってことにするつもりだから。食費だって別で学院に払うつもりだったんだから、そんなに気を回さなくても良かったのよ?」

 アルヴィーズの食堂でシエスタに伴われてデザート配膳を手伝っていたサイトは、ルイズにそれを見咎められていた。

「それなら早く言ってくれよ。思うに俺らの間にはコミュニケーションというものが不足してるんじゃないか? 俺は使い魔として何をやればいいのか、ってのも聞いてないぞ」
「だからその辺諸々含めて午後に話ししようって言ってんのよ。召喚されて昨日の今日じゃない。食堂の手伝いと賄い飯食べ終わったら、私の部屋に来なさい。多少遅くなってもいいから、必ず。場所は覚えているわね?」
「覚えてるよ。了解しました、マイマスター。ではまた後で」
「粗相の無いようにしなさいよ。あんた(使い魔)の無礼は全部、私(主人)の責任になるんだから」

 軽く午後のことについての打ち合わせを行い、サイトはルイズの下を辞する。
 シエスタはサイトとルイズが話している間にも、黙々と周囲の貴族の皿へとデザートを配膳していく。
 少年たちの一団が、誰と誰が付き合ったの惚れたの腫れたので盛り上がっているところに、サイトとシエスタは差し掛かった。

 シエスタはその盛り上がりを意にも介さずに給仕を続ける。
 少年たちも女中の存在などまるで空気のように扱っているため、シエスタを気にした様子もなく話を続ける。

 ある一人の気障そうな少年のズボンのポケットから、小さな小瓶がこぼれ落ちたのはその時であった。
 周囲でそのことに気がついたのはサイトだけであった。
 だが、ここで彼は逡巡する。

 今の自分は食べ物を給仕中の身、床のものを取り上げるのは不潔ではなかろうか、いや、そも小瓶を拾い上げたとして、その後どうしようというのか。
 テーブルに置く? それこそ不潔だろう。
 落とし主に直接渡す? 給仕風情が話しかけて良いのだろうか。こっちの文化はいまいちわからない。
 放ったらかしにする? いや落とし主を知っているのは自分だけだから、どうにか誰かに、小瓶の落し物があることと、それが派手で気障な少年が落としたものだということを伝えておかなくてはならないだろう。

 一瞬のうちに様々に考えを巡らせた挙句、サイトは最終的に、シエスタに相談することに決めた。
 彼は小声でシエスタにことの次第について話す。

「なあ、シエスタ。実は落し物を見つけちまったんだけど……」

 かくかくしかじか。

「こういう場合、この辺りの社会ではどうするべきなんだ? 何分、異邦人なもんで詳しくなくってさ」
「そうですねえ……。取り敢えずは食事後に皆さんが退出してから回収して、こっそりその貴族の方、多分、ギーシュ・ド・グラモンさんでしょうから、その方に届けるのが妥当で無難だと思います。……あれだけ盛り上がってるところに水を差すのもアレですし」

 シエスタはそう言ってちらりとギーシュたちが話を続けている食卓の方を見る。
 話は、学年で誰が一番可愛いか、という話題に移っているようだ。
 候補に挙がっているのは、『微熱』のキュルケ、『極/零』のルイズ、『雪風』のタバサ、『香水』のモンモランシーなどなどだ。ちなみにモンモランシーはギーシュ某が猛プッシュしていた。お前その女に惚れてるだろ。

「成程。分かった。ひとまず俺達は給仕に専念すればいいんだな?」
「そういう事になりますね。配り終わってバックヤードに引っ込むときに、清掃担当の者たちには伝えておきましょう。二年生のテーブル近くに落ちている小瓶は、ミスタ・グラモンのものだから、あとで届けておくように、と」
「二年生のテーブル近く、だけで分かるかな?」
「不足ならば加えて、“マリコルヌ・ド・グランドプレさんの近く”だと伝えれば分かるでしょう。あの方は健啖家で、周囲の料理を綺麗に残さず食べてくれますから、食堂勤めの皆にはよく覚えられていますし」

 確かに視界の端に写ったポッチャリ系の少年貴族は、ものすごい勢いで料理をその体内に収めていた。
 食事にともなって彼の体から吹き上がる凄まじい熱気と汗。それを中和させるために心遣いとして彼が常に行使している『冷却』と、汗のニオイ成分を分解するための『錬金』の魔法(マリコルヌは体臭に気を使うジェントルマンであった)。
 汗の臭いを中和消去されて、適温まで冷やされた空気は、しかし、マリコルヌから発散され『錬金』で空気へ変換された汗の水分の分だけ体積が増えているため、彼を中心としてそよ風を周囲に吹き散らす。常に風上にいる男、それが『風上』のマリコルヌ・ド・グランドプレであった。

「まるで人間火力発電所のようだ……」
「熱力工場(サーマル・パワー・プラント)?」
「……何でもないよ」

 サイトはシエスタに曖昧に笑って返しつつ疑問に思う。

(というか、今更だが、俺は一体何語を話しているんだ? そして他の人には何語に聞こえているんだ?)

 アメリカで暮らしていたという経歴上、彼は日本語と英語のバイリンガルである。
 ついでに言えば、ギリシア語やラテン語、古典英語なども、英語圏の教養科目として若干嗜んでいる。
 彼の耳には周囲の会話は、母国語である日本語のように聞こえるし、彼自身も日本語のつもりで話している。

 だが、先ほどおそらくはサイトの「火力発電所」発言を鸚鵡返しにしたのであろうシエスタの言葉は、奇妙なものだった。
 あれではまるで、サイトが日本語の音として「カリョクハツデンショ」と発言したつもりが、実際は、その意味・英訳としての「熱力工場(サーマル・パワー・プラント)」と言葉に出してしまったかのようではないか。
 それとも、サイトが話している言葉は、実は全て、そこに込められた概念を直接伝えられるように、何らかの魔法で偽装……いや、この場合は不完全な人類言語概念によって劣化偽装されたイデアを明らかにする真化措置を施している、ということなのだろうか。

(物理現象ではなくて、もっと根源的で概念的なものに干渉する、この世界の虚無系統あるいはコモン系の魔法が作用している? それとも俺の脳内に高度な翻訳用の脳回路が形成されているとか? 通常会話なら問題ないが、ハルケギニアでは一般的じゃない概念を伝えるときには誤訳が生じるとか?)

 いや、彼女がつぶやいた言葉が自分には「熱力工場」に聞こえただけで、本当は彼女はもっと何か別の言葉を呟いていたのでは? 今まで自分が聞いていた、そして話していた言葉は、きちんと意図した通りに伝わっているのか? 良く考えられたすれ違いコントのように、自分と彼ら彼女らの会話はずっとすれ違っているのではないのか? 自分はこの世界から切り離されているのではないのか? 耳から入ってくる言葉はほんとうに正しいのか? さらに言えば、目から入ってくるこの光景は、本当に、正しく、この通りなのか? 人間に見えるものは、実はもっと悍ましい、何かの肉塊のような形をしてはいないと、どうして判断できる? 何を信じればいいのだ?
 ……考えても分からん、というか、サンプル数が足りない。一旦は保留しよう。ルイズに聞けば何か分かるかもしれないし。
 サイトは諦めて、疑問を棚上げにして、給仕に専念することにした。

 分からないことを分からないままにしておく慎重さというのは、必要な技能である。
 何でもかんでも容易く断定するよりは余程理性的な態度だ。
 狂人であるほど、余りに容易く断定し、それで世界の真理を見つけた気になるのだから。


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毎回初授業で気絶させられるシュヴルーズ先生が不憫だったので魔改造した。後悔はしていない


2011.01.10 初投稿
2011.01.19 あとがきを感想板に移動



[20306] 蜘蛛の巣から逃れる為に 4.嫉妬
Name: へびさんマン◆29ccac37 ID:b87f4725
Date: 2014/01/23 21:27
「待ちたまえ! 使い魔君! そう、黒髪、黒と鳶の月眼(ヘテロクロミア)をした君だ!」

 無事に給仕を終えて賄い飯にありつき、お腹がくちくなったサイトが女子寮棟に向けて歩いているところ、声を掛けてくるものがいた。
 口調からして恐らくは貴族だろうし、周りに黒髪の者は居ないから、呼び止められたのはサイトのはずだ。金銀妖瞳(ヘテロクロミア)云々には思い当たる節は全くないけれど。
 声を掛けられる心当たりも、全くサイトにはなかったが、一体なんなのだろうか。

「俺のこ、と、……か」

 振り向いたサイトは思わずその口調を乱す。
 何故なら、学院の塀の上から彼を呼び止めていたのは。

「そう、君だ!」

 純潔の白いマスクと、額に書かれたある単語とそれと重なるように刻まれ輝くルーン文字。
 上弦半月状に釣り上がった眦(まなじり)は憤怒の様相。
 そして何より、その燃える心の有様を表した、目の周りの炎の縁取り。

 そう彼こそは持たざる者の味方。
 敬虔なる禁欲のうから。

 学院の壁の上に腕組みをして立ち、サイトを見下ろす彼は、その名も――

(しっとマスクだーーー!!?)


◆◇◆




 蜘蛛の巣から逃れる為に 4.嫉妬の心は父心、押せば命の泉湧く




◆◇◆


 使い魔生活一日目、給仕を終えたサイトを襲う謎のしっとマスク。

 しっとマスクの額に刻まれた平仮名の“しっと”の文字の上には、幾つかのルーン文字が重ねられている。
 重ねて刻まれたルーンは、それぞれ“ウィン”の逆位置、“ニィド”、“ラグ”、この三つだ。

 “ウィン”のルーンは本来であれば喜びと愛情を表象する。だが、あの燃える目を持つしっとマスクに刻まれた一文字目は逆位置である。喜びと愛情の逆位置、つまりは、孤独と不満を象徴する。
 次のルーン、“ニィド”は欠乏を表すルーン、英語圏でのNEED(必要、欠乏)の語源となったルーンだ。
 さらに続くのは女性を表象する“ラグ”のルーン。前述の“ニィド”と組み合わせれば、それが意味するところは、即ち『彼女いません、超彼女欲しいです』。

 これを三つ合わせると『女日照りで俺は不幸だ』という意味にも取れる。
 まさにしっとマスクに相応しいルーンではないか!
 恐らくはそれによって、異世界に流れ着いたしっとマスクの力は上書きされ強化されているのだろう。

 赤いリングパンツ、赤いブーツ、白いマスクの半裸の怪人は、鬼気を立ち上らせて筋肉を膨れ上がらせると、学院の壁から「とうっ!」と跳躍する。
 純粋な筋力のみでは不可能なほどに高く高く跳躍した彼の背中には、天使のような純白の羽さえ幻視できそうだ。

 サイトから見て逆光の中を飛ぶ、半裸の悪役プロレスラー風の男、しっとマスクは、そのまま、その跳躍の頂点(・・)で着地する。

(あれ、あんなところに足場があったっけ?)

 疑問に思うサイトは気づく。

 いつの間にか、大きな塔のようなものが地面から生えている。
 見れば、腕の長さから推察するに全長30メイルにも達するだろう巨大なゴーレムがいつの間にか地面から盛り上がりつつあった。
 しっとマスクは、全身に先駆けて完成して天高く挙げられたゴーレムの拳の先端に着地したのだ。

「ちょ、でけえっ!?」
「黒髪の使い魔よ! 成敗してくれる!!」
「何故にっ!? 心当たりがねぇぞ!?」

 問うサイトに対して、しっとマスクの怪人はビシッと指さして断言する。

「貴様からは宿敵(モテ男)の臭いがするからだぁっ!!」
「ねーよっ! 誤解だ! お前のセンサー壊れてやがるぞ!」

 今まで、フラグ立ったと思ったら尽く(ことごとく)が死亡フラグだったというサイトは、しっとマスクの言葉を否定する。血涙流さんばかりの勢いで。

 それを他所に、ずもももも、と周囲の土砂を引きこむような形で吸収して膨れ上がる巨大な土人形(ゴーレム)。
 サイトもその蟻地獄のような土の流れに足を取られて無様に転がる。

「ぐおっ!? 流砂かよ!?」

 今にも立ち上がって踏みつけてきそうな、マッシヴな巨大しっとマスク型土人形(ゴーレム)の足元から、這うようにしてサイトは逃げ出そうとする。

「誤解なものかっ! ルイズ、ベアトリス、キュルケ、タバサ、シエスタ、ササガネ、そして我が国の王女アンリエッタ姫、ガリアのデコ姫、アルビオンの巨乳姫! 貴様が無作為にフラグをばらまく未来が僕には視えている!!」
「フラグなんか立ててねー! つか、おい、一匹人間じゃなくて蜘蛛が混じってたぞ!?」
「違うな! 蜘蛛が二匹とエルフの混血が一人だ!」
「人外増えてるっ!? 大体“蜘蛛が二匹”ってどういうことだ!? ベアトリスの使い魔、大蜘蛛のササガネは確定として……。まさかベアトリスも蜘蛛? いやいやまさかそんな。って言うか蜘蛛にフラグ建てしてどうするんだ、雌蛛は雄蜘を喰うんだぞ、「生まれてくる子どもの栄養になってね(ハート)、がぶり」END直行じゃねえか!? あとハーフエルフって誰が該当するんだ、エルフはこっちの人間にとっては天敵じゃなかったのかー!?」

 絶叫するサイト。ツッコミが間に合っていない。

 そしてしっとマスクが挙げた前半の名前は兎も角、後半の王女ラッシュには、サイトは全く以て心当たりがない。
 あのしっとマスクの妄想なのか、それとも、あのマスクには着用者に未来視を授ける効果でもあるのか。いや電波か、電波なのか。
 それとも王女とフラグを立てざるをえないような、国難レベルの大冒険が今後サイトを待ち構えているとでも言いたいのか。マジ勘弁、とサイトは思った。

 サイトが叫びながらツッコミを入れる間にも、構築中のゴーレムからは、その所々から『土弾』の魔法によって人の頭程もある土塊の砲弾が放たれる。
 しかしサイトはジグザクに動き、『土弾』の狙いを絞らせない。

「もはやこれ以上の問答は無用だ! 知りたくば生き残ってから確かめるのだな、異邦人! 貴様も男なら拳と拳で決着をつけようではないか!」

 絶叫して宣戦布告するしっとマスク。
 彼が操る、完全に構築の終わった30メイル級ゴーレムが大上段に拳を振り上げる。

「そのデクの拳と殴り合いなんかできるかーーっ!? 死ぬわっ!」
「圧倒的に死ねと言っているのだ、フラグ体質めー!!」

 地面を揺るがす轟音と共に巨拳が振り下ろされた。
 


 嫉妬の炎に身を焦がす修羅は、マスクの下のその本名をレイナールと言った。
 使い魔召喚の儀式によって、邪教の仮面と思われる白いマスクを呼び出してしまった憐れな土属性ラインメイジの少年である。
 そんでもって脱いだらスゴイ男である。


◆◇◆


 少し、しっとマスクと化してしまった彼――レイナール――の話をしよう。

 レイナールは真面目な少年であった。
 委員長的性向。参謀向き。怜悧な貌がよく似合い、メガネが映える。
 彼は規律を重視し、道徳を重んじる少年だ。

 両親は昔にこの魔法学院で教鞭を執っていたこともある厳格な人物であった。
 その両親の元で、レイナールは厳しく育てられた。
 熱心なブリミル教徒でもあった両親は、ブリミル教の教えに従って、清貧な暮らしを心がけていた稀有な貴族であった。
 だが清貧な暮らしで浮いたお金は全て喜捨に回されるため、レイナールの家は財産もそれほど多くはなかった。

 現世での柵(しがらみ)、つまりは財産を捨てれば捨てるほどに、ヴァルハラでは始祖の近くに侍れるのだという。
 欲深きものは、その柵に引かれて、天のいと高き所に辿り着くことは出来ないとブリミル教会は教えている。
 強欲で世俗的な者は、決して真の意味でのヴァルハラに辿り着くことは出来ないのだ。

 高利貸しなど以ての外だ。
 神が司る……、神のみが司ることを許された、『時間』を担保にして、労働せずに富を得るなどあってはならない。
 時間を管理するのは神で、それを民草に知らせるのは教会の鐘なのだ。断じて取立ての足音ではない、あってはならない。

 性欲など、その堕落の最たる象徴だ。穢れである。ブリミル教はそう教える。
 家を残すために貴族が子どもを作るのは、しょうがない。しかしそれも最小限にしなくてはならない。子供は少なく、慎重に育てるべきだと、教会は言う。
 性交というその行為自体を楽しんではいけない、それは堕落への第一歩だ。貞節を重んじよ。娼婦などは、唾棄すべき職業である。

 一度レイナールが、自慰行為をそれと知らずに行っていたところを、両親に見咎められてしまったことがあった。

 両親は、レイナールのすべてを管理したがっていた。
 生活を、価値観を、未来を、その全てを。
 ふしだらな行為がバレるのも、酷い話だが、そのような環境の中では当然の成り行きであった。

 そして両親は、まだ今より幾分幼かった彼に、自罰を要求した。
 九尾の猫の鞭(キャット・オブ・ナインテイル)を差し出しながら、「自罰せよ」と。

 キャット・オブ・ナインテイルとは、鞭の一種である。
 拷問用(・・・)の鞭の一種である。
 竜骨で出来た滑らかな持ち手に、よく鞣された幅広の九本の、猫の尾くらいの長さの竜革の鞭が付いている。その鞭のそれぞれ一本一本には六つほどの結び目が付いている。結び目は、何かの魔獣の牙や巨大魔蟲の甲殻片がその中心に巻かれているようで、結び目の隙間からは鋭利な骨片のようなものが飛び出している。鞭が振るわれるたびに骨牙をあしらった結び目が犠牲者の皮膚に何重もの傷を残すだろう。鞭の先端には、錘用の磨石が括りつけられている。それによって、それぞれの鞭は軽く振るうだけで十分な威力を発揮するはずだ。

 キャット・オブ・ナインテイルを渡されたレイナールは震えた。

 恐ろしい。
 この、何度ともなく実用に供されて血を吸った持ち手が恐ろしい。
 皮膚を切り裂く結び目が恐ろしい。
 この手にずっしりと掛かる、拷問具の重さが恐ろしい。
 錘にこびりついた血が恐ろしい。

 そして何より。


 ――僕が、僕の手で、これを使って、僕を傷めつけなければいけないのが、恐ろしい。


 ごめんなさい、お母様。
 ごめんなさい、お父様。
 もう、二度と、あんなことはしないと誓います。
 始祖ブリミルに誓います。
 偉大な先祖に誓います。
 だから――

「駄目だ、やるのだ、レイナール」

 許してください。
 許してください。
 許してください。

「やるのだ。レイナール。これは罰なのだ」

 ごめんなさい。
 ごめんなさい。
 ごめんなさい。

「穢れた行為には、それを清めるための聖罰が必要なのだ。痛みによる贖いが必要なのだ。それ以外に方法はないのだ」

 屋敷の地下牢の冷たい石畳の床に上半身をはだけて跪いている僕。
 前から近づくお父様の靴を履いた足。
 それでも僕は、ぶるぶると両手で祈るように掲げたナインテイルを動かせずにいた。

 動かせずにいた。

 だけれど。

「必要なのだ」

 お父様のその言葉と共に。
 僕の意思とは無関係に。
 ナインテイルは、僕の腕ごと、それ自身が意思を持っているかのように振りかぶられる。

「1回」

 淡々と回数を口に出すお父様の『念力』の魔法によって、ナインテイルの竜骨の持ち手は僕の胸へとぶつかるように、勢い良く動く。
 ひゅっ、と微かに、それに連動した竜革が空を切る。
 猫の尾は、その勢いのままに弧を描いて、右の肩越しに僕の背中へと向かう。

(ああ、いやだっ! やめてくれっ!)

 ナインテイルはしかし、僕の願いなど聞いてはくれない。

 ぱぁん、と、狭い地下牢に、革が肉を打つ音が響く。
 想像していたよりもずっと軽い音。
 僕の背中を打ち据えたナインテイルは、その節くれに編み込まれた骨片を僕の背中に突き立てて、皮を切り裂く。

「ぎゃああああああっ!??」

 その、背中の皮膚全体を引き剥がされたような、あまりの痛みに、僕の喉から絶叫が迸る。
 これほど大きな声を僕は出すことができたのか、と、自分でも驚くほどの大きな声。
 鞭に打たれたものとは到底思えない衝撃が僕を襲ったのだ。

 ナインテイルの猫は、確かに僕の背中に落ちたのだろう。それは間違いあるまい。
 だがその実、その鞭打の痛みというのは、全身に駆け巡りる。打たれた背中だけではなく、足先、指先までもを小刀でズタズタにしたような、そんな全身のあらゆる場所を苛む途方も無い痛み。
 全身の筋肉が、背中に加えられた恐ろしい激痛にわななき、痙攣した。

「ああっ、ぎひ、い」

 思わずナインテイルを手放して、地下牢の石畳に倒れ伏しそうになる僕を、しかしお父様は許さなかった。

 『念力』の魔法によって倒れそうになる僕の体を支えて、緩む僕の両手の指を押さえつけ、再び鞭を体の前に持ってきて、正中線上に垂らすように構える。構えさせられる。

「あと14回」

 無情な声が、僕の頭の傍らに落ちた。

 あと14回。

 あと14回だって?

 14回も、これを続けなければならないのか?

 思わず、その絶望にナインテイルを取り落としそうになる。
 ああ、そう出来ればよかったのに。
 僕の両手は竜骨の持ち手を握ったまま、お父様の魔法に押さえつけられて固まっている。

「2回目」

 お父様の言葉と共に、またナインテイルが振りかぶられる。
 九尾の猫は、一回目とは逆に、つまり左肩へと投じられる。

 ひゅるり。パしん。

 先ほどとは異なった場所に着弾したナインテイルは、先程よりも何倍もひどい苦痛お生み出した。
 錘の一端が、肋骨に守られていない脇腹を強打したのだ。
 焼けつく痛みに、涙が溢れ、苦鳴が漏れる。苦しい、苦しい、苦しい。痛い、痛いよ、痛いよう。

 ひゅうひゅうと無様な呼吸音が漏れる。
 いつの間にか僕が握っているナインテイルはまた正眼に構えられている。

「あと13回」

 父上の声が響く。
 ああ、まだこの6倍も数が残っているじゃないか、どういうことだ。
 痛い、熱い、苦しい。全身がバラバラのでたらめに信号を伝えてくる。

「も、ひっく、もう、無理ですっ」
「だが、罰は罰だ。あと15回」

 増えた、増えやがった、増やしやがった!

「な、なん、なんで」
「泣き言は許さぬ。貴族は泣き言を言ってはならない。罰を重加算する」

 ここで反抗すれば、さらに刑罰は重くなるだろう。
 従うしかないのだ。
 あと15回、ナインテイルの鞭打ちを耐え切るしかないのだ。

 この段になって、ようやく僕は、自分の意志で掌中のナインテイルを振りかぶった。

 破れかぶれの泣き笑いを浮かべながら。
 残り15回? 

 上等じゃないか。これは罰なのだ。全て僕が悪いのだから、僕が自分の手で始末をつける。


◆◇◆


 レイナールはそのようにして潔白な性格に育った。
 では彼が身につける『しっとマスク』はどこから来たのか?
 それを知るには、サイトがハルケギニアにやってきたあの、使い魔召喚の日まで遡る必要がある。

 ルイズたちのクラスが召喚の儀式を行った日、つまり昨日の午前、トリステイン魔法学院の授業でレイナールのクラスでも使い魔召喚の儀式が行われた。
 レイナールも当然参加している。秀才肌のレイナールは皆からも何を召喚するかと期待され、楽しみにされている。
 レイナール自身も、相当の自負を持って召喚に臨んだ。

 監督の教員、禿頭が特徴的なコルベールが、次の順番を促す。
 いよいよレイナールの番だ。
 皆の輪の中に出て、精神を集中させる。大丈夫だ、大丈夫。これだけ努力してきたのだから、それは必ず報われる。報われなければならない。

 覚悟を決めてレイナールが『サモン・サーヴァント』を詠唱する。

「五つの力を司るペンタゴン、我を助け、我を支える半身となる使い魔を召喚せよ!」

 そして銀の鏡から落ちてきたのは、一枚のマスクであった。
 シンとなる周囲。
 あまりの出来事に固まってしまうレイナール。

(幾ら何でも、使い魔が布一枚とは、どういう事だ。僕は、あんなに、あんなにも、頑張ってきたじゃないか! それなのにこの仕打は……っ)

 怒りと羞恥に顔を真っ赤に染めたレイナールが、そのマスクを激情に任せて引き裂きかけたとき、絶妙のタイミングで監督役のコルベールが口を挟む。

「おお、レイナール君、珍しいマジックアイテムを召喚しましたね」

 間一髪、その白いマスクが引き裂かれる前に、レイナールの腕が止まる。

「魔道具、なんですか? これは」
「ええ、何度か学院の宝物庫で見たことがあります。確か、着用者の力を大幅に引き上げる、とか」
「そうなんですか……。って、学院の宝物庫――? もしかして国宝ですか? 僕は窃盗罪で鞭打ちですか!?」

 ひとまず、ただの布切れでないことに多少なりとも溜飲が下がったレイナールであったが、次に、そんなモノを召喚してしまって法律的に大丈夫なのかということに思考が飛ぶ。
 いくら不可抗力とはいえ、下手したら窃盗罪、少なくとも、この仮面を相応の値段で国から買い取らなくてはならないのではないか。

 焦った様子でレイナールは訊き返すものの、コルベールは大丈夫だとばかりに、安心させるようにゆっくりと頷いて見せる。

「いえ、問題ないでしょう。それはこの学院の宝物庫に所蔵されていた物品の一つですが、国宝ではなく、オールド・オスマンの個人的な持ち物だったはずです。ああ、名前を思い出しました、確かその仮面は〈解放の仮面〉と言ったはずです」
「〈解放の仮面〉? 僕が使い魔契約してもいいんですか?」

 私有財産の毀損とか、そういう事にはならないのだろうか、とレイナールは疑問に思う。

「トリステイン魔法学院においては、神聖なる使い魔召喚の儀式は、他の何物にも優先しますから、問題はありません。オールド・オスマンもそれはご存知のはず。第一、仮に再召喚しても、きっと同じものが現れるでしょうし、その〈解放の仮面〉は使用者を自ら選ぶものなのだと、オールド・オスマンも言っていました。レイナール君、君の運命がその仮面を選んだのと同様に、仮面もまた君を主だと認めたのです」

 やり直しても無駄だということを暗に仄めかすコルベール。
 このハゲ男、案外と口が上手い。教師歴約20年は伊達じゃないということだろう。
 レイナールに、『君は仮面に選ばれた特別な者なのだ』と言い聞かせることで、見事に彼の自尊心の平衡を取り戻させてしまった。

 使い魔契約が優先される、という事ならば、もう思い切って『コントラクト・サーヴァント』をしてしまおう。レイナールは決意した。

 契約の呪文を唱える。

「五つの力を司るペンタゴン、これに祝福を与え、われの使い魔と成せ」

 得体のしれない絹のような手触りの純白のマスクへと、レイナールは口づけをする。

 レイナールが純白のマスクへと口をつけた次の瞬間、彼の体に、凄まじい何かが流れ込んだ。
 まるで全身の皮膚が舌のようになってそこに樽一杯の蜂蜜をかけられたかのような、強烈な陶酔感。
 がくがくと全身は震え、自罰の一環として課している毎朝の激しい肉体トレーニングによって蓄積された疲労が吹き飛んでいく。
 疲労が蟠っていた場所に、そのかわりに吹きこまれたのは、歓喜と全能感。

「う、お、お、フォオオオオオオオオォォォォっ!!」

 我知らず、レイナールは雄叫びを上げていた。
 心臓は天井知らずに高鳴り、それによって筋肉に送り込まれた血液は、無理矢理に筋肉をパンプアップさせる。
 学院制服のシャツやスラックスに隆々とした筋肉の筋が浮き上がる。

(ただ口づけしただけで、この感覚……。これは案外凄い使い魔かもしれないぞ!!)

 周囲でその様子を見ていた生徒たちも、レイナールから立ち上る凄まじいオーラを目の当たりにし、コルベールが言っていたマジックアイテム云々も本当なのだと理解する。
 ひ弱そうに見えた委員長キャラが、いきなり筋骨隆々のマッシヴキャラになれば、そう思わざるをえない。
 実際はレイナールはトレーニングマニアで、元からかなりマッシヴなのだが、彼は着痩せする質であったし、他の者はそんなトレーニングの事など知らないので、レイナールがマジックアイテムの作用でいきなり筋骨隆々になったように見えたのだ。

 レイナールが感動に打ち震えて筋肉をビクンビクンと脈動させる間に、コルベールは〈解放の仮面〉に刻まれたルーンを確認する。

「ふむ、元からあった紋様と重なって分かりづらいですが、きちんとルーンは刻まれているようですね。何よりです。レイナール君、ご苦労様でした。
 宝物庫の管理をしているユージェニー・ロングビル教頭代理には私から〈解放の仮面〉が召喚されたことについて報告しておきましょう。
 では次の方、お願いします」

 何事にも動じないこの禿頭の中年教員は、冴えない風貌とは裏腹に、結構大物なのかもしれない。


◆◇◆


 レイナールが〈解放の仮面〉を召喚した後のこと。

「ミス・ロングビル、良い所に」
「おや、ミスタ・コルベールどうしました? 使い魔召喚の儀で何か問題でも?」

 学院本塔の廊下で、コルベールは赤髪のキャリアウーマン、老けない秘書、ロングビルを見つけ、彼女に声をかけた。
 時を止めたようにその美しさを保存している彼女は、実はオールド・オスマンが魔法で創りだした魔法生命なのではないかという噂もある。

 実際、それは当たらずとも遠からずである。
 ウージェニー・ロングビル教頭代理兼学院長秘書は、インテリジェンスアイテムを核(コア)にした魔法人形なのだ。
 その事実を知るものは、学院長オールド・オスマンくらいであるが。

「ああ、それなのですが、ある生徒がこの学院の宝物庫にあった〈解放の仮面〉を使い魔として召喚しましてね」
「〈解放の仮面〉……。ああ! あの『しっとマスク』ですね。分かりました、報告ありがとうございます。オールド・オスマンには報告しますが、その前にそれが本当にこの学院の宝物庫から召喚されたものかどうか、在庫を確認してきますね」
「あの仮面は『しっとマスク』と言うのですか」

 ロングビルの博識に感心するコルベール。

「……そう言えばずっと気になっていたのですが、宝物庫の目録に載っているのはなんだか仰々しい名前が多いですよね。〈解放の仮面〉とか〈滅亡の小箱〉とか。一体どうしてですか?」

 美女との雑談を長引かせるために、コルベールは適当な話題を振ってみる。

「それは、学生たちの黒歴史を誘発するためですよ」

 問われたロングビルは、にこりと笑って答える。
 機械的な微笑みは、綺麗すぎて逆に怖い。

「黒歴史?」
「思春期にありがちな誇大妄想癖というか、大人になって思い出すと思わずベッドの上で頭を抱えて転げまわるような、なかったことにしたい過去のことです。ミスタ・コルベールはありませんか?」
「……まあ、似たようなものは幾つか」

 コルベールは、忌まわしい過去を思い出して苦虫を噛み潰したような顔をする。
 ――燃える村、襲い来る恐ろしい異形、錯乱して盲滅法に魔法を撃つ部下たち。
 脳裏をよぎった二十年前の幻影を振り払って、コルベールは話を続ける。

「そう言えば、毎年、生徒のうち何人かは、何かやたらと仰々しい二つ名を付ける子がいますね」
「二つ名にも流行り廃りみたいなものはありますから、色々と難しいですよねえ。まあ宝物庫の目録は、黒歴史誘発剤としての仰々しい名前、というのも一側面ですが、他にも本来の名前を明かすと、無用なトラブルを招く物が収められているからですよ」
「トラブル、ですか?」

 宝物庫の中身を偽装しているということだろうか。
 実際はダイヤモンドの指輪なのに、それにわざと“ガラスの指輪”と名付けるような捻れたセンス。
 学院長ジョルジュ・オスマンならばやりそうなことだ。

「例えば〈滅亡の小箱〉は本当は〈輝くトラペゾヘドロン・レプリカ〉というのですが……。これのオリジナルは邪教の重要な秘宝のですから、いくらレプリカとはいえ、それでも求める者は多いのです」
「なるほど、そのような邪悪な者達から隠さなければならない、と。そのような理由があったのですね」

 確かにそのスジの者に有名な物を、馬鹿正直に実態と同じ名前で載せるわけにはいかないだろう。
 噂を聞きつけた盗賊や邪教徒が魔法学院に押し寄せるに決まっている。
 生徒を守るためにも、必要な処置だろう。


◆◇◆


 レイナールが〈解放の仮面〉を召喚した日の夜。(サイトを巨大ゴーレムで襲う前夜ということになる)

 彼は葛藤と戦っていた。
 あの、自分の使い魔となった仮面を着けたい、という欲望と戦っていた。

 レイナールにとって、快楽は邪悪なものだ。そのようにナインテイルの痛みとともに刷り込まれている。
 快楽とは、堕落に誘う悪魔の誘惑にほかならない。
 そして、昼間の契約の際に感じたものは、紛れもなく“快楽”に他ならなかった。
 ならば、それは悪である。

(着けたい、だめだ、つけたい、だめだ、だめだ! いや少しだけ、いや、駄目だ!)

 葛藤するレイナールは雑念を振り払うためにトレーニングを始める。

 トレーニング指南本で最近知った加圧トレーニングのために、ゴムを含んだ束帯を身につけていく。
 これは血流を阻害して、擬似的に筋肉が最も疲労して全体に血液が行き渡った状態を作り上げるらしい。軽い運動であっても、かなり筋肉に響くトレーニングだ。
 時間がないときには最適なので、レイナールは寝る前の少しの時間に、この加圧トレーニングを行うことにしている。

 土のラインメイジであるレイナールは、自分で作ったトレーニング用の鉛の錘を両手に持つ。
 棒の両端に円盤をつけたような形の錘の重さはレイナール自身よく分かっていない。
 ただ単に、とても持ち上げるのが大変なくらいにまで重くしているだけだから、正確に量ったことはないのだ。

 錘の握り棒を手にして、上腕二頭筋のトレーニングを行う。
 両手がブルブルと震えるのを抑えて、極めてゆっくりと、筋肉全体に苦痛を染み渡らせるように。
 息を細くする。決して止めてはいけない。苦痛の中でも、平常心を保つのだ。
 1回、2回、3回……。

 よし、次は胸筋だ。
 仰向けになって、ダンベルを握り、虐める筋肉を意識して、手に持った錘を上下させる。
 ゆっくりゆっくり、静かに、か細く。

 全身の筋肉を何セット分か虐めて日課をこなしたレイナールは、軽く汗を魔法で乾かすと、プロテインと回復促進の水魔法秘薬を混ぜた水薬を一気飲みする。

「ぷはぁ~! 不味いっ! だがそれがイイ! 今日も良く頑張った。よし、寝るか」

 この筋肉養成の水の秘薬は、『香水』のモンモランシーに合成してもらったものである。
 わざととても苦い味に合成してもらっている。
 これも苦行の一環なのだ。

 レイナールはそのままベッドに倒れ込むと、疲労困憊のまま眠りについた。
 使い魔となった〈解放の仮面〉のことを考える余裕もなく、眠りの泥濘に沈んでいった。


◆◇◆


 そして召喚の日の翌日の昼食。(つまり、サイトを襲った日の昼だ)
 同じ二年生のテーブルでは、隣のクラスのギーシュ・ド・グラモンを中心に、惚れた腫れたの話題で盛り上がっている。
 胸糞悪い、と敬虔なる禁欲主義のレイナールは思った。もっと慎みを持て、とそう言ってやりたかった。

(イライラする――)

 彼はその悶々とした感情を抱えたまま、自分の部屋に戻り、そのもやもやした苛立たしい感情のままに、それを手に取った。
 〈解放の仮面〉を。
 それは衝動的で、半ば以上無意識のものだった。

 仮面が発する呪力に惹かれて、レイナールは徐々に仮面を顔に近づけていく――

 そして遂に、自分の顔にそれを装着してしまったのだ。

「うおおおおおぉぉぉぉぉぉおおおお!!!?」

 刹那、全身を駆け巡る開放感。
 陶酔感、全能感、しかしそれだけではない、強い情動。

 その瞬間、レイナールは知る。
 自らの持つ悶々とした感情は何だったのか、と。
 自分が見ないように蓋をして生きてきたが、しかしそれゆえに熟成されて、レイナール自身の心を壊さんばかりに膨れ上がった、その感情の正体を。

 それは『嫉妬』。

 何故人生は灰色をしているのだ?
 何故僕は、僕の心は、あの屋敷の地下牢にいたときから変わらない、石畳の冷たさと陽光の差さない暗黒に囚われているのだ?
 何故、自分は、あのギーシュのようではないのだ?

 何故、何故、何故!?

 分からない。
 自分が幸せになる方法なんて分からない。
 だけれども、この石色のジメジメした孤独を味わうのが僕一人だなんて、そんなのは我慢がならない!

 引きずり下ろしてやる。
 高みに登れないなら、皆みんな、この石造りの灰色の牢獄に、落としてやる。
 嫉妬、嫉妬、嫉妬。妬ましい、妬ましい、妬ましい!

 パンプアップされた筋肉によって、衣服が全てはじけ飛ぶ。
 背中に刻まれた鞭打ち痕の傷が赤く浮かび上がる。
 ハルケギニア人には意味を成さない、ひっかき傷の集合模様は、偶然にも“嫉妬”という漢字を形作っていた。

 いつの間にか、白仮面を被ったレイナールの手には杖が握られていて、はじけ飛んだ衣服の代わりに真っ赤なパンツとリングブーツを、弾け飛んだ制服の破片から『錬金』して、装着する。
 レイナールは杖をブーツに差し込むと、寮室の窓に向かって助走する。

「とうっ!!」

 窓を割って男子寮塔から落下するレイナール。

 この時、この瞬間、ハルケギニアに“しっとマスク”が降臨したのだった。


◆◇◆


 覚醒したレイナールは、まずギーシュの二股を暴き、「成敗!!」したあと、手当たり次第にアベックを襲撃していた。
 そうこうしているうちに、厨房から出てくる黒髪の男を目に留める。誰あろう、平賀サイトであった。

 その瞬間、レイナールはピンと来た。
 何をどうしたのかさっぱりわからないが、あの黒髪の、隣のクラスのヴァリエール嬢の使い魔を見た瞬間に、レイナールの身体を天啓による閃きが駆け巡り、彼の全身を総毛立たせた。

(アレは敵だ、宿敵だ。あの黒髪の男は滅ぼさなくてはならない怨敵だ!)

 それはあるいは、この世界の黒髪の使い魔のことではなかったのかも知れない。
 別の並行世界のフラグ体質のヘタレたガンダールヴの情報が、レイナールいやしっとマスクの脳天に毒電波となって受信されたのかもしれない。
 だが、そんな事は関係なく、今のレイナールにとって、黒髪で黒と鳶色の月眼の男は、確かに宿敵として認定されたのだった。

 しかもあろうことか、この怨敵は、女子寮へとその歩みを進めていた。なんと破廉恥な! 許すまじ!

「待ちたまえ! 使い魔君! そう、黒髪、黒と鳶の月眼(ヘテロクロミア)をした君だ!」

 かくして、戦いの幕は切って落とされる。


◆◇◆


 そして状況は冒頭へとつながる。

 サイトへと迫り来る土砂の巨体。覚醒して魔力を増大させたレイナールの巨大ゴーレムだ。
 その所々から繰り出される、砂礫の砲弾。

「おおおぉぉぉぉおっ!!」

 それをサイトは人間には不可能とも思えるほどの速度で避けていく。
 ジグザグに走って狙いを定めさせず、時には両手に構えた得物を用いて、巨大ゴーレムから突き落とされた豪腕を削る。

「だらぁっ!!」

 右手には短い皮の鞭、左手には長くて丈夫な、新体操のリボンを思わせるような黒い布。
 それぞれは巧みに操られ、ゴーレム表面を切り刻んで、穿っていく。
 躍動する彼の肉体は、一種の芸術作品のようだ。
 人間にこんな動きが可能なのか。そう思わずにはいられない。今の彼の動きを見るものは、人間の可能性の限界などないのだと自信を持って断言できるだろう。

 巨大ゴーレムの足元を駆け巡ってその巨体の脚を削っていたサイトだが、その彼を蹴り飛ばそうと、ゴーレムが足を振り払う。
 だがサイトはそれを避ける。

「シッ!」

 サイトは振り払われた方のゴーレムの足とは逆の軸足を蹴り飛ばし、猿(ましら)のような動きでゴーレムの軸足と蹴り足の間で三角飛びを繰り返してゴーレムの脚を登っていく。

「おおお、らあぁああっ!!」



 ――下半身はトランクス一丁で。

 生白い太ももが眩しい。
 上半身は青と白のパーカーを着ているが、トランクス以外はスニーカーとソックスのみを履いている。ある意味紳士装備である。変態紳士。

 ……。

 まあ、待て。

 待ってほしい。彼を変態と罵倒するのは、少しだけ待ってほしい。

 彼とて望んでこの紳士装備になった訳ではないのだ。
 何故サイトが、こんな格好をしているのか、というのは、深いような浅いような、……ええい、とにかく理由があるのだ。
 彼がガンダールヴのルーンの効果や命の危機でアドレナリン脳内ジャブジャブヒャッハーで、実はこの格好もイケテルかも……っ! とか感じ始めているのは一時の気の迷いだから。きっとそうだから。

 サイトは左手の頑丈な布槍を絶妙に操って、ゴーレムの表面を登っていく。
 対するしっとマスクも負けじとマッシヴな造形のゴーレムを操り、時にゴーレム表面に落とし穴を作ったり、はたまた土石弾を放って、サイトを振り落とそうとする。

「来いよ使い魔! 僕こそは“しっとマスク”! 貴様が自分の正義を示したくば! 僕を倒してみせろっ!」
「上等だ! 俺の布槍術でそのマスクを穿って削り飛ばしてくれるっ!」


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当SSは名(状し難い怪)作を目指しています
次回、巨大ゴーレム VS ガンダールヴ

レイナール(のキャラ)は犠牲になったのだ。サイトの見せ場の犠牲にな……

2010.01.13 初投稿
2011.01.19 あとがきを感想板に移動
2014.01.23 時系列がわかりやすくなるように追記など。つーか、これ三年も前の投稿か…



[20306] 蜘蛛の巣から逃れる為に 5.跳梁
Name: へびさんマン◆29ccac37 ID:b87f4725
Date: 2014/01/27 17:06
 しっとマスク(嫉妬心が解放されたレイナール)が操る巨大ゴーレムに襲われたサイト。
 ひとまずはそのゴーレムの巨体から繰り出される『土弾』の弾雨を避けることには成功したが、このままではあの巨大なしっとマスク型ゴーレムにプチっと潰されるのは眼に見えている。

(危ねえ……っ。魔法ってのはとんでもねぇな!)

 サイトは、まるで巨大なビル一つが人形に変形して襲ってきたような錯覚を覚えていた。
 圧倒的な質量はそれ自体がひとつの武器だ。抗いようのない暴力だ。
 しかしサイトは諦めない。その暴威に対抗するために、現状での自分の手札をサイトは確認する。

(つっても自爆用のダイナマイトもなければ、ショットガンも6フィート棒も無いぞ……。女子寮に逃げこんでも、建物ごと粉砕されそうだし。一縷の望みをかけて、この左手のルーン、ガンダールヴを試してみるしかないか……?)

 ガンダールヴの発動条件は、武器を手に握ること。それはインプリンティングされた知識から理解できている。
 武器と言っても、その定義はルーンを刻印された者つまりサイトの主観によるものであるから、曖昧なものだ。
 そこら辺にある石や砂、枝だって、使おうと思えば立派な武器だ。
 あるいは、眼前のマッシヴゴーレムを操るしっとマスクくらいに鍛え上げられた肉体を持っていれば、“武器とは己の肉体よ! フゥハハハーハァー!”くらい言えるのかも知れない。

(武器、武器、とにかく何か、武器を!)

 その時サイトの脳裏に蘇るのは、かつて地球にいたときに読んだ護身術の本。
 何も手元に武器がないときに使える物として、その本では色々なものが挙げてあった――折りたたみ傘、鍵束、ベルト……。

(ベルト! そうだ、ベルト!)

 サイトは直感に従って急ぎベルトをジーパンから抜き取る。

(これは鞭、これは鞭、これはムチ、これはウィップ……!)

 抜き取って自分に言い聞かせるように「これは武器」と念じると、身体の奥から不思議な力が湧いてくるのが分かった。
 左手のルーンが光り、熱を持ち、同時に身体が羽のように軽くなる。

(よし、イケルっ!)

 攻勢に出ようとしたサイトは、しかし、ベルトを抜き取られて緩くなったジーパンに足を取られてコケる。

「げ!?」
「好機っ!!」

 しっとマスク(レイナール)は、その隙を逃さずに、サイトに向けてゴーレムの足を進ませる。踏み潰すつもりだ。

「つ・ぶ・れ・ろーーー!!」
「うおおおおお!?」

 サイトはそれをゴロゴロと無様に転がって避ける。
 手に持った革ベルトの鞭による身体強化のお陰か、高速で地面の上をスピンしたサイトは、間一髪巨大マッシヴゴーレムの震脚を避ける。

 サイトが倒れていた場所にゴーレムの巨大な足が落ちる。
 着弾。
 轟音。
 女子寮塔の窓ガラスがビリビリと振動し、幾つかはその振動による歪みに耐え切れずに破砕する。

 ゴーレムの足が落ちた部分は、陥没して罅割れている。
 だがゴーレムの足も無事では済まない。それはひしゃげて潰れてしまっている。
 しかし巨大ゴーレムはそれを意に介さずに立ち上がる。

「な、再生すんのかよ!? 反則じゃねえかっ」
「ちょこまかとっ! どこに行った! 大人しく潰されろ!」

 土で出来たゴーレムは、潰れた脚部をみるみるうちに再生させながら、すり足で周囲の者を挽き潰さんと移動するが、それはサイトがいる方向とは全く見当違いの方向だ。
 どうやらゴーレムの肩の上に居るしっとマスクは、サイトを見失ったようだ。

 サイトは転がって女子寮に程近い場所まで来ていた。
 幸運にもしっとマスクからは死角になっているようだ。
 邪魔になったジーパンを脱ぎ捨てる。また足を取られてはたまらない。

 その時、またしてもサイトの脳髄を知識のフラッシュバックが襲う。
 こちらの世界に召喚されてから何度となく彼を襲った、こちらの世界の知識についての、頭痛すら覚える知識の奔流。
 今まで頭痛しかもたらさなかったそれは、だがしかし、この瞬間、サイトに天啓を与えた。

 割れた窓ガラスの破片と、ジーパンや鞭をトリガーにして頭痛と共に流れ込んだ、鞭や裁縫に関する知識を組み合わせて、サイトは何かを思いついたようだ。

「よっ、と」

 サイトは幾つかの細く砕けた硝子の破片を拾いあげて宙空に投げると、右手に握った革ベルトの鞭を一閃させる。
 ベルト鞭の軌道はガラス片を捉え、次の瞬間には宙空のガラス片は消え失せていた。

「よし」

 その代わりにベルトの先端に幾つも鋭いガラスの棘が生えていた。
 先端部の重量増強と、ガラスの刃による攻撃力アップである。

 さらにサイトはジーパンも空中に投げ上げて、ガラスの刃を付けた鞭を振るう。

「っ、オラオラオラァッ!」

 目にも止まらぬ早業で、一瞬の内に何度も振るわれた鞭は、ジーパンの脚部をそれぞれ螺旋状に切り裂く。
 まるで剥かれたリンゴの皮のように細く長く切り開かれたジーパンが地面に落ちる。
 サイトはそれを左手で拾うと、革ベルトを握ったままの右手で、ジーパンのポケットの部分の鋲(リベット)を強化された握力を活かして引きぬき、人外の力でごりごりと鋭く成形し直す。

 その間にもジーパンを持った左腕は蛇のように複雑にゆらゆらと動かされる。
 螺旋に切り開かれて二本の長いリボンとなったジーパンの足の部分は、その動きによって互いにからみ合って、頑丈な一本の帯となる。
 サイトはさらに周囲に落ちていた石を拾って、捩り合わせられたジーパンの先端に包み込ませる。
 ポケット部分から引き抜いたリベットを、その即席の布槍に撃ち込み、錘の石を固定し、捩り合わせられた束帯が解けないように縫い留めて、強化する。

(うぅ、このジーパン結構良い値段したんだけどなあ……。仕方ない、背に腹は代えられない)

 全長7メイル近い即席の布槍に変貌したジーパンをサイトは左手に握りしめる。
 左手のルーンが、なお強く発光する。
 どうやらこちらも武器として認められたようだ。

(欲を言えばこの布槍をさらに水浸しにでもしたいところだが……)

「見つけたぞ! 使い魔ぁっ!」
「ちっ、そんな時間はないか!」

 しっとマスクの声が響き、同時に、サイトのいた場所をゴーレムの指先から発射された土石弾が穿つ。
 しかしサイトは既にそこにはいない。
 身軽に跳躍して、サイトは、再びゴーレムの死角へと動く。
 その右手に革ベルト、左手にジーパンを解体変形させて作った布槍を携えて。下半身半裸で。


◆◇◆




 蜘蛛の巣から逃れる為に 5.跳梁者は闇に吠える




◆◇◆


 サイトは巧みに左手の布槍を操って、強化された筋力を用いてしっとマスクの巨像を登っていく。
 筋力と慣性を巧みに用いたその機動は、魔法を使っていないにもかかわらず予測不能な複雑さを以てしっとマスクを幻惑する。

 対するしっとマスク(レイナール)もまた、サイトに負けていない。
 サイトが足場に用いようとしたゴーレムの表面を平滑化させて取っ掛かりを無くしたり、逆に針山のようなトラップにしたりと、悪辣な妨害を仕掛ける。
 宙空に居るサイトに向けて土石弾を放ち、巨像の手足を振り回させて、怨敵たる黒髪の羽虫を叩き潰さんとする。

 だがサイトもまた然る者。
 背後から土石弾が迫れば、まるで後ろに目が付いているかのように避け、時にはその左手に握った扁形動物の笄蛭(コウガイビル)のようなシルエットの布槍で土石団を絡めとり、その土石弾の勢いを利用して自分の身体を動かして、ただひたすらに前進する。
 巨像の脚の隙間を三角飛びで駆け上がり、ゴーレムの指に布槍を絡みつかせて移動し、さらにそこから肩に乗っているしっとマスクに向けて疾駆する。

(狙うのは、額の“ルーン”!!)

 サイトが狙うのは、如何にも弱点ですとばかりに光り輝く、しっとマスクの額のルーン。
 相手を無効化するには、おそらく、それが有効だと、彼のこれまでの超常現象体験と、植えつけられた異世界の知識が教えてくる。

「うぉおおおおおお!!」
「近づくなあっ! 使い魔ぁっ!」

 巨像の腕の上を疾走するサイトだが、その目前に、突如として五本の柱のような物が出現する。

「なっ!?」
「僕が上で、貴様は下だぁっ!」

 サイトの行く手を阻むように出現した五本の柱はみるみるうちに伸び上がり、指となり、手となり、腕となっていく。

 サイトが後ろを振り返れば、ゴーレムの腕の先は消失していた。
 人間ではないのだから、ゴーレムはその形を人型に縛られる必要は無い。
 しっとマスクは、巨像の指先から質量を動かし、ゴーレムの二の腕の半ばから、腕を生やし直したのだ(・・・・・・・・)。

「はぁっはぁ! 虫のように壁にへばりつく染みになれぃっ!!」

 再構築された巨像の腕が振るわれ、サイトはその慣性のままに、学院本塔の壁へと吹き飛ばされる。

「ち、くしょうっ!」

 サイトは猫のように空中で姿勢を制御すると、学院本塔半ば、宝物庫の壁の直上に何とか着地する。
 その勢いはサイトの脚で吸収されているものの、ほぼ垂直な壁にサイトの身体を数秒間ほど押さえつけ続けるくらいには強力であった。

 しっとマスク・レイナールは、サイトが宝物庫の壁に着地するのを確認するよりも早く、ゴーレムを加速させていた。

「ジェラスゥィイ、ラリアットォォォ!!」

 大きく振りかぶられた巨大しっとマスクの腕が、学院本塔に着弾する。
 数千万リーブルに達するであろう巨像全体の運動エネルギーが、学院本塔の宝物庫の壁の上の一点に集中する。
 ずど、と鈍い音が響くが、スクウェアメイジの総力を結集した塔は、その衝撃に耐え切った。

「あっぶねえーーっ!!」

 間一髪、巨像の腕の着弾点から跳躍して被害を免れたサイトは、学院本塔の壁の形に沿ってへばりつくように広がったしっとマスク型巨像のひしゃげた腕の上に着地し、冷や汗をだらだら流していた。
 この世界の戦争では、こんな怪獣大作戦のような光景が常に展開されるのであろうか。なんとも恐ろしい話だ。
 そして、遠いようで近い場所から聞こえる、なにか巨大な物の風切音に、サイトは冷や汗を倍増させる。

「そこかぁっ! 使い魔ぁっ!」

 しっとマスク・レイナールが叫ぶ。

 学院本塔に叩きつけられたマッシヴゴーレムの腕の先は、手首から先が、細く伸びていた(・・・・・)。
 ワイヤーに繋がれた振り子のようになった巨大ゴーレムの手首から先は、刺鉄球のように変形していた。
 ラリアットによる勢いを伝達されて、その巨大なモーニングスターは加速する。

 大きく振りかぶられて、鞭のように撓って(しなって)勢いがついた、ソレは、学院本塔に巻きつくようにしてさらに勢いを増す。

「ジェラシィ・モーニングスター!!」

 振り子の原理である。
 振り子は、錘を支える糸が短くなればなるほどに、その周期が短くなり速度が増す。
 つまり、学院本塔に巻きついた巨大モーニングスターは、巻きつくほどに加速し、その破壊力を増していく。
 さらに、こちらの世界でも、速度の二乗に比例して、破壊力は上昇するのだ。

「死ねぇい! 使い魔っ!」

 そして巨大なモーニングスターとなったゴーレムの手首は、狙い過たずにサイトが乗っていた場所に着弾する。

 轟爆音。

 連続して打撃が加えられた宝物庫の壁は、ついにその威力に負けて弾け飛ぶ。
 壁際に配置されていた収蔵品の一部も、壁の破片と一緒に宙へと舞う。

 一瞬、学院本塔そのものが、重みに耐えかねて座屈しそうになるが、瞬時に修復されて持ち直す。
 恐らくはオールド・オスマンが魔法を使ったのだろう。

「やったか!?」

 舞い上がる土煙に紛れてしまって、サイトの生死はレイナールからは確認できない。

「いいや! まだだねっ!」

 その時、声と共に、土煙を割って飛来するものがあった。
 レイナールは思わず、その声の方を見てしまう。
 だが、声にひかれてレイナールが声の方を見ることこそが、その声の主、サイトの狙いであった。

 弾かれるように顔を向けたしっとマスク・レイナールの、その額目がけて、蛇のようにしなる布槍が飛来する。
 間一髪でモーニングスターのヘッドを回避したサイトは、土煙にまぎれて巨像の腕の上を走り、レイナールを射程圏内に捉えていたのだ。

「うぉっ?!」

 サイトの狙いは、レイナールの額のルーン。
 意思を持つようにうねる布槍は、サイトの望みどおりに、レイナールの額に到達する。

「がぁっ!?」
「シッ!!」

 サイトは布槍から伝わる感触から着弾を確認。
 その瞬間に手首のスナップを効かせて、レイナールの額に沿わせるように布槍の軌道を変化させる。
 妙技。ガンダールヴの精妙なる業が、マスクのルーン文字のみを削り取り、かつ、レイナールの命を救うことを可能せしめた。

「よしっ!」

 サイトの操作によってレイナールの額の上を滑るように動いた布槍は、ルーンを削りきり、その勢いで仮面をレイナールから引き剥がした。

 同時にレイナールは意識を失う。
 限界以上の魔法行使はレイナールの精神を酷く蝕んでいたのだ。

 レイナールが気絶するのと同時に、巨像が崩れ落ちる。

 サイトは伸びきった布槍を器用に操ってレイナールの腕に絡みつかせると、自分の元へと引き寄せる。
 折角助けた命、このまま土砂の下敷きにするのは後味が悪い。

(まあ、生かして無力化するっつー無理難題に挑んだのは、貴族を殺すことによって発生すると思われる諸処の問題を回避するためではあるんだが……)

 サイトは崩れつつある巨像の上を、強化された脚力で上手く落下の勢いを殺しながら、レイナールを抱えたまま跳び降りる。

「よっと、っと、と」

 サイトは崖を駆け下りるカモシカのように、崩れる土巨像の上を、うまく斜めにジグザグに跳躍して勢いを殺す。
 いかにも余裕綽々にやっているが、土石流の中から生還するくらいの無理難題である。
 一歩間違えれば崩落する大質量に巻き込まれて、挽肉になるのだから。

「しゃ、着地、……ぅお」

 無事に着地したサイトは、崩れ落ちる土砂から急いで距離を取る。
 地響きと共に、巨像を構成していた土砂がサイトの背後で地面に落ちる。

 学院本塔が、その地響きによって鳴動する。

「いやー、危なかった危なかった。それにしても、このガンダールヴのルーンはスゲェな。忍者みたいな真似ができるようになるとは思わなかったぜ」

 元しっとマスクの金髪の少年(レイナール)を地面に仰向けに横たえながら、サイトは巨大ゴーレムの跡地を振り返る。

 その時であった。
 破壊された宝物庫から飛び散らばって、学院本塔の壁に引っかかっていた小箱が、地響きによって外れて落ちてきたのは。

 その小箱の名前は、〈滅亡の小箱〉。

 またの名を――〈輝くトラペゾヘドロン・レプリカ〉。


◆◇◆


「んぅ……?」

 微かな振動音に揺られて、ルイズは女子寮棟の自室で目を覚ました。
 寝不足だったのでひと眠りしていたのだが……、使い魔が来たのだろうか? 小さく欠伸を噛み殺しながら周囲を見回すが、まだ使い魔は来ていないようだ。
 微かな振動は、ストーカーツインテールのベアトリスが起こしに来て身体を揺すっているのかとも思ったが、そうでもないようだ。

「全く、遅くなっても良いとは言ったけど、遅すぎやしないかしら。どこで油を売っているんだか」

 ルイズは、レースをあしらった眼帯の下の左目に意識を集中させる。
 魔術的にサイトの左目に接続された、ルイズの左目の霊体(あるいは精妙体)を通じて、ルイズは情報を入手。
 すぐにヴィジョンが像を結ぶ。

 全裸の少年が横たわっていた。

「ひっ?!」

 垣間見えたサイトの視界には、全裸――いや訂正、パンツ一丁の半裸の金髪の少年が横たわってる。

(え、これ、何? 何? もしかして濡れ場? あいつそういう趣味だっけ? 読み盗った記憶からはそんなフシは無かったけど……?)

 乙女回路絶賛暴走中。

 その時、サイトの身体が動いた。

 一瞬で、彼は、からんからんと軽い音を立てながら崩れかけた学院本塔の壁を転がる何かの箱を視認。
 かん、と一際大きな音を立てて、その小箱は崩れた壁面でバウンド。
 悪魔的な偶然で――いや邪悪な必然で、サイトとレイナールの方へと小箱が飛び跳ねる。


◆◇◆


 サイトは慢心していたのだろう。
 巨大な敵を、そのルーンに因る技量によって、見事に無効化し、油断していたのだろう。

 たかが小箱ごとき(・・・・・・・・)。

 そう思った彼は、左手に握った布槍で、小箱を迎撃する。
 新しく身につけた力を誇示するように。

 ――彼はこれを受け止めるべきだった。
 ――迎撃など、するべきではなかった。

 ガンダールヴの力を、伝説の使い魔の能力の恩恵を受けた布槍は、一瞬で距離を詰めて、小箱に――〈滅亡の小箱〉に到達する。
 そして十分に加速された布槍の穂先は、小箱を破壊。

 その内に封じられていた、闇を、解放した。

 小箱から飛び出した、闇を纏った偏四角多面体を、ルーンで強化された動体視力で確認したサイトは、瞬時に自分の失敗を悟る。

(あのアーティファクトは、マズイ……! 何か知らんが、絶対にマズイ!)

 これまで幾つもの超常現象に直面してきたサイトの経験が、第六感が警鐘を鳴らす。

(あれこそを迎撃しなくては……!)

 だが、無情にも、布槍は伸びきったまま。
 闇を纏った偏四角多面体は、外殻の小箱を破壊された勢いで、サイトとレイナールの方へと弾丸のような速度にまで加速している。
 ルーンで強化されたサイトの身体は、迫り来る多面体に対して、反射のレベルで回避を実行。

(しまっ……!?)

 直後サイトは後悔。
 避けるべきではなかった。
 避けた先、トラペゾヘドロンの行先には、仰向けになったレイナール。


「んぐっ?!」


 悪魔的な偶然、いや、宇宙的悪意(・・・・・)に捩じ曲げられたとしか思えない確率によって、闇の多面体はレイナールの口へと入って、飲み下された。
 当然、人体内部というのは、光の届かない暗黒である。

「ん。ぐ? ……ぐ、う、うああ、え、はあ、ああ、ああああああ、いいいいい、や、はああ、あああああ――!」

 レイナールの口から意味のない囁きが漏れ、それと共に混沌の悪意が溢れ出し、直近に居たサイトの意識を直撃する。
 悪意の波動。
 暗黒のエナジー。

「ぎ、ぎ、ぎ、ぃ?! 頭が、割れそうだ――こ、れは、ヤバい……っ」

 頭を抱えて蹲るサイト。
 精神を直接揺さぶる暗黒波動によって、サイトの意識は暗転する。

 視界の端からでは、まるで仰向けに倒れるのを逆回しにするように不自然な動きでレイナールが立ち上がっていく。


◆◇◆


 立ち上がったレイナールの顔に、遠くに弾かれていた筈のしっとマスクが飛びついて、べたりと貼りつく。『念力』の魔法で引き寄せたのだろうか。
 レイナールの腕が顔に伸び、動物的な動きで、そのマスクを装着する。

「いぐなああああいいいいい、いぐなああああああえええええ」

 〈解放の仮面〉が、その純白から、どす黒く染まっていく。
 口のあたりから、まるでレイナールの身体の内側、胃の腑の中から溢れ出した暗黒に染まるように。
 マスク全体を漆黒に染めた混沌の黒は、さらに彼の体の表面を侵食するように広がっていく。

「ええ、やああ、はああああああ、いいいいいぐうううなああああああああいいいいい」

 まるでゴムのような遮光性の物質が、マスクの首元から全身を覆うように伸びていく。
 恐らくはレイナールの魔力を用いて『錬金』しているのだろう。

 〈輝くトラペゾヘドロン〉によって呼び出されるものは、光に弱い。
 だから、それを補うために、遮光膜で全身を纏うつもりなのだ。

「いいいい、ぎひいい、があああ、は、は、やは、やあああ、ええ、えええ、えええええ」

 真っ黒なラバースーツに包まれたきったレイナールが、咆哮するように仰け反る。
 〈解放の仮面〉の面影を残すのは、燃えるような隈取の双眸。
 額にあったルーンは、額から頭頂部にかけて、サイトの布槍で削られたため、無くなっている。
 黒い遮光膜に覆われ直した今、そこに残っているのは、火傷のように引き攣れた穴の跡。

 仰け反ったレイナールの顔に、炎のような光が宿る。
 炎が宿る場所は、双眸と、額の穴。

 燃え滾る三眼、それは、闇の跳梁者のシンボル。
 ナイアールラトホテプの化身の証。

「はああいいやあああああああああああ!!!」

 咆哮に合わせるように、レイナールの背中から、ぼこぼこと、悪魔のような羽が生える。
 ラバースーツの内部、レイナールとスーツの隙間に満ちて膨れ上がった闇が、コウモリの羽のような形に、遮光膜を持ち上げたのだ。

 ばさり、と、漆黒の悪魔、夜の鬼、ナイトゴーントが、赤く燃え盛る三眼を光らせて宙空に浮かび上がる。

 それがさらなる混沌の毒電波を撒き散らさんとしたときに、何処か遠くに響くような、鐘の音が響き渡った。
 狂気の毒電波から生徒たちを守るための、慈悲の眠りを齎す鐘の音が。

 ――ごぉーーーーーん、ごぉーーーーーん


◆◇◆


 時は巨像が学院本塔の宝物庫の壁を破壊した瞬間に遡る。
 場所は宝物庫直上、学院長室。


「おおう、揺れる揺れる」
「オールド・オスマン、子供の喧嘩だからと放っておくからこうなるんです」
「はいはい、すまんすまん」

 赤髪のユージェニー・ロングビルが嗜めるも、全く反省していない様子のオスマン。
 飄々とした老人は、軽く杖を振るい、座屈しかけた本塔を瞬時に立て直す。
 オールド・オスマンにかかれば、この程度は朝飯前である。三百年の研鑽は伊達ではないのだ。

「全く、少しは反省を……っ?!」

 その時であった、凶悪な悪意に彩られた何がしかの波動が撒き散らされたのは。
 “何がどうなっても構わない”、“とにかくどうにかなってしまえ”、“何でもいいから、どうにでもなってしまうが良い”、その波動はそう言っているかのようだった。
 余りに混沌とした、暗黒の悪意の具現。

「ふむ、これは、ちぃとマズいかの。ミス・ロングビル、〈眠りの鐘〉を。学院全員の精神を夢の中へと緊急退避させねば」
「……確かに、被害を局限するためにはそれが良いでしょうね」

 オスマンの命令を聞いたロングビルは、その右手を黒い糸状のもの――カーボンナノチューブを素材とした魔力伝導杖――に、パラパラと分解すると、学院長室中央の床にその黒い糸を伸ばす。
 『ブレイド』の魔法を纏わせられた糸は、学院長室の床に突き刺さり、一瞬で、電熱線がバターを切り裂くように、ぐるりと床の石材を刳り抜き、さらに縦横に走って刳り抜かれた石材を細かな破片に分解する。
 ず、と床石が崩壊して、大きな穴が開く。

「『レビテーション』」

 その床の中から、ロングビルの魔法に引き上げられて、人の上半身ほどもある鐘が姿を現す。
 見るものを安心させる雰囲気のある、優しげな鐘だ。
 頂点には、眠りの大帝ヒュプノスを象った、若く美しい青年の胸像があしらわれている。
 これこそが〈眠りの鐘〉。トリステイン魔法学院の秘宝の一つである。

「さて、ではやるかのー」

 渾身の魔力を込めた『風の槌(エア・ハンマー)』で〈眠りの鐘〉を鳴らそうとするオスマン。
 〈眠りの鐘〉は、鐘を鳴らす際に込められた魔力によって、それを聴いた者が陥る眠りの深さが決まる。
 また、眠りの波動の効果範囲は、鐘を打つ時に加えられた物理的な威力によって決まる。

「『レビテーション』」

 『エア・ハンマー』を使おうとしたオスマンを、ロングビルの『浮遊』の魔法が持ち上げる。

「ひょ? 何をするんじゃ? ミス・ロングビル?」
「オールド・オスマン。学院全員を、狂気から守るために、夢の彼方にまで、一瞬で意識を吹き飛ばすためには、いくらオールド・オスマンの魔法といえども、足りないかと判断いたします」

 その間にも、空中で固定されたオスマンは、ロングビルの操るカーボンナノチューブの糸によって簀巻きに拘束されていく。

「ゆ、ユージェニーちゃん? 解いてくれんかの? まさかとは思うが……」
「そのまさかです、オールド・オスマン。学院全員を眠らせるためには、オールド・オスマンの正真正銘文字通りの意味での全身全霊に、さらに私の魔力を加えなければならないと判断します」

 簀巻きにされたオスマンは、水平に姿勢を変化させられ、その頭を〈眠りの鐘〉の方へと向けられる。

「ちょ、ちょ、ちょ、待ってくれぃ、な、考えなおさんかね? ワシ頑張って『エア・ハンマー』に魔力込めるから、ね? というか、それなら鐘撞きの撞木の役は、インテリジェンス・メイスの君の役目じゃろ!?」
「……、……。時間がありません。では行きますよ、オールド・オスマン。お覚悟を」
「うぉぉぉい! 何その今まで忘れてましたと言わんばかりの反応!?」

 撞木のように構えられたオスマンが、弓引くように鐘から離される。

「まあ良いじゃありませんか、どうせ死なないんですから」
「良くなーーーいっ!!」
「往生際が悪いですよ。時間ないんですからいいですか? ああそうだ闇の化身退治には虚無が相性良いんで彼女に頼むつもりです、ですから多少再生に手間取っても大丈夫ですよ、オールド・オスマン。じゃあいよいよ行きますよいいですね、せーのっ 脳漿を――」
「ちょ、ま」

 いよいよ、人間撞木となったオスマンが〈眠りの鐘〉へと轟然と射出される。
 ロングビルの掛け声が響く。

「――ブチ撒けろぉっ!!」

 直後、ぱきょぐわぁ~ん、という鐘の音と共に、学院中に強烈な眠りの波動が撒き散らされた。


◆◇◆


 オールド・オスマンの手によって、『眠りの鐘』の音が響き渡り、瞬く間に学院中の全ての人間が眠っていく。
 眠りは救い。暗黒の波動に侵された精神を休めるための安寧の場。

 そして学院全員が安穏たる眠りの国へと旅立っていく間に、女子寮棟からひとりの少女が飛び降り、ナイトゴーントの前に立ちはだかった。
 その背後に、グロッタ調(グロテスク)の鏡を一枚と簡素な造りの日本刀を魔法によって浮かせて伴なって。
 ピンクブロンドの少女は、邪気を撒き散らす悪魔に向けて、物怖じもせずに宣言する。

「人間はアンタら邪神の玩具じゃないわ。人間の運命を好き勝手に弄ばせはしない。そんな事は、このルイズ・フランソワーズが許しはしない」

 レイナールの体を乗っ取った【闇の跳梁者】の三眼が、ルイズの敵意を受けて、愉悦に燃える。
 やれるものならやってみろ、とでも言っているかのようだ。

「人間の運命の主は人間自身であるべきよ。だから、私はアンタの存在を許容しない。虚無遣い、“極零(ゼロ)”のルイズ、その名の下に、全ての邪悪は消えて去れ!!」

 戦いが、始まる。


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次回、闇の跳梁者(ナイトゴーント・フォルム) VS 虚無遣い

2011.01.16 初投稿
2011.01.19 あとがきを感想板に移動



[20306] 蜘蛛の巣から逃れる為に 6.本分
Name: へびさんマン◆29ccac37 ID:b87f4725
Date: 2011/01/19 19:56
 夢を見ている。
 懐かしい夢。
 そして夢のなかで見る夢。


 幼いルイズは、ラ・ヴァリエールの屋敷の池の小舟の上で、泣き疲れて眠っていた。

 6000年の歴史を誇る水の国トリステインの王家の血を分けた由緒正しき公爵家、その三女。
 恐ろしき烈風を制する母と、水の国最高の『ブレイド』使いの誉れ高き父を持つ、将来を嘱望された、ヴァリエール美人三姉妹の末妹。
 それがルイズ・フランソワーズ・ル・ブラン・ド・ラ・ヴァリエール。

 だが今、ゆらゆらと揺れる小舟の中で、あらゆるものから隠れるように蹲っているのは、か弱いただのルイズに過ぎない。
 公爵家の娘であるとか、父や母が凄腕のメイジであるとかいうこととは全く関係ない、魔法の使えない、ただのルイズ。

 この池の小舟の中では、彼女は自由だ。

 その血筋から、魔法の才能から、周囲の期待から、誇りから、自制から、理性から、そして、信仰からも、彼女は自由であった。
 この小舟の中でただのルイズとなった彼女は、何でも出来た。いつもは思いも寄らないことが、この彼女だけの揺れる船の中では可能なのだ。
 血筋を恨み、魔法の才能を嘆き、周囲の期待を踏み躙り、誇りをかなぐり捨てて、自制を放棄し、理性につばを吐き、そして、神と始祖を呪い殺すことすらも、ルイズだけの、彼女のためだけの小舟の中では許された。

 何故自分は魔法が使えないのか、なぜ世界はこうも自分に厳しいのか、何故、何故、何故。
 嫌だ。こんな世界は嫌だ。自分に優しくない世界はもう嫌だ。だから――。

 暖かな毛布に包まれて、空想の翼を広げ、小舟の中のルイズは夢の世界に旅立つのだ。


 夢のなかのルイズは、夢見る前と同じような小舟の中で目を覚ます。
 周囲を見渡すも、行先は見えず、岸辺も見えないほどの深い靄に包まれている。

 景色だけではない。
 最も大きく違うのは、彼女の身体。

 背中からは、翼人のような羽が生え、下半身は詩に歌われる人魚のような艶めかしいラインとなっている。上半身も、ちぃねえさまに負けない、実りの女神の如き豊満さだ。ばいーんぼいーん、である。
 もはや彼女は、か弱いただのルイズではない。
 夢の世界を支配する、強力な力を持った異形の女王なのだ。

 夢の中のルイズは自在に空を飛び、水を操り、天候を操作する。
 母のように烈風を従え、父のように激流を制する。
 この夢の世界では彼女は無敵の力を持った、絶対の支配者であった。

 ある時、紺碧の水の中を飛ぶように夢の湖を泳ぐルイズは、その絢爛たる珊瑚に覆われた水底に、不思議な温水を発する穴を見つける。
 ルイズはポッカリと空いたその温熱洞穴に、好奇心を擽られて潜っていく。

 沈没した古代の文明の遺跡なのだろうか。
 その温熱洞穴は、蔦やドラゴン、幻獣をあしらった絢爛たるレリーフに壁を覆いつくされていて、七十段の急峻な階段が、地底へと続いている。
 壁面からは発光性のヒドロ虫や藻類が生えており、暗闇の階段洞穴を、ルシフェリンの淡い蛍光で照らしている。

 一体この先に何があるのだろう。
 ルイズは海竜のような力強さで尾鰭をくねらせて海底遺跡の階段を泳いでいく。
 彼女の起こす海流に驚いて、階段の壁から生えたフサゴカイがエラを棲管に引っ込める。
 色素の抜けた蟹たちが逃げ場を探して右往左往する上をルイズは微笑んで通り過ぎる。

 泳ぐうちに遂にルイズは階段の最下層から繋がる広場に飛び出る。

 浅き眠りの七十階段を降りた先には、轟々と渦巻いて立ち上る炎の柱に囲まれた、巨大な白亜の神殿が存在していた。
 ルイズは戸惑う。いつの間にか水の中から空中に飛び出ていたことに、ではない。
 彼女の力を受け付けない、目の前の神殿にだ。今まで何もかも思い通りにしてきた夢の異形の女王たるルイズの力が、炎の神殿には及ばないのだ。

「おお、極と零の女王よ。この先に進むことを望むかね?」

 いつの間にか神殿の前に神官らしき男が立っていた。

「儂の名はナシュト。この炎の洞窟の神殿で、神官をしている」

 夢のなかのルイズは、この偉大なる夢の神官であるこの老人が秘めた、恐ろしいまでの力を瞬時に感じ取った。
 いや、正確に感じ取ったわけではない。感じ取れないほどに強大だ、ということを理解したに過ぎない。
 夢の世界で好き勝手に力を振るっていた自分が、極めて世間知らずの矮小な存在であることに気が付き、ルイズは急に恥ずかしくなってしまった。

 この偉大な神官の前で、自分はなんとはしたない姿をしているのだろう。
 そう思ったルイズは、あっという間に、異形の体を作り変えて、自分本来の幼く可愛らしい身体に変化させる。裸同然だった先程までの姿と異なり、清楚なドレスに身を包んでいる。
 ただ、これまで振るっていたあの異形の力を捨てるのは惜しかったので、羽根と鱗を組み合わせた意匠の宝石飾りに凝縮して、胸に付けておくことにした。

「はじめまして、ナシュト様。私は、ルイズ・フランソワーズと申します。先程はお恥ずかしい姿をお見せして申し訳ありませんでした」

 ルイズは社交界で行うように、ドレスのスカートの端を摘まんで礼をする。

「おや、これはまた可愛らしいお嬢さんに化けたものだね、極と零の女王よ」
「化けた、だなんて……。こちらが本来の姿ですわ、ナシュト様」

 ルイズは口を尖らせて、抗議して見せる。
 乙女として、先程の異形が本性だと言われるのは、心外である。
 たとえそれが図星で、真実だとしても。

「ほっほっほ、まあ、そういう事にしておこうかの。儂としても、先程の風と水を統べる女王よりは、こちらの可愛らしいお嬢さんの姿のほうが話しをしやすい」

 豊かに蓄えられた顎髭を撫でながら笑う老神官は、ルイズを神殿内部へ導く。

「深き眠りの七百階段を下る前に、このナシュトの話を聞いていくがいい。類稀なる力を持つ女王よ。
 君の力は誇っていいものだ、まあ、儂らと比べればまだまだじゃが……。それでも余人には到底及びもつかないものだ。
 母から受け継いだ魔風すら制する烈風の心、父から受け継いだ静かで激しい清流の有様、そして魂に刻まれた虚無たる極と零の力、さらには千人を束ねても足りないほどの霊体の器の巨大さ。
 しかもそれらは全てまだ成長の途中と来ている。何とも恐ろしいものだ」

 神殿内部へと歩き、応接室らしき場所にルイズを導いて、夢の大神官ナシュト老は話を続ける。
 虚無云々というのは眉唾だが、この神官が嘘を付くとは思えない。嘘をつく必要もないくらいに実力が隔絶しているからだ。
 狂える玉座の痴愚神アザトースに正気のまま拝謁することのできる高位の神官の一人であるナシュト老にとって、ルイズなど生まれたての小鳥の雛よりもか弱い存在に違いない。

「ルイズ・フランソワーズよ、いくら巨大な力を持つとはいえ、そなたはこの幻夢郷【ドリームランド】においては新参者。
 これからそなたが深き眠りの七百階段を下りようというのならば、儂はそなたに知識を授けようと思う。聞いていくかね?」
「はい、是非ともお話しをお聞かせください、ナシュト様」

 客人のために何かの飲み物を用意したナシュトの問いに対して、ルイズは即答する。
 彼女は直観的にそれが必要だと理解していた。
 それは彼女を待ち構える運命の過酷さを予感していたためかもしれない。

「宜しい。知識とは広大な世界という名の暗闇を照らすための、唯一の光。
 聞いていって損にはなるまい。気になったならば、神殿の書物を読むことも許可しよう。
 ではまず何から話そうか、そう、まずは深き眠りの七百階段が繋がるあやかしの森のズーグたちについて……」

 夢がぼやける。

 夢のなかの夢、懐かしい昔のこと、幻夢郷を訪れる切欠となった始まりの出来事を思い出していたルイズの、その肉体が覚醒に向かっているのだ。


◆◇◆


「っ、痛ぅ……」

 夢から醒めたルイズを襲うのは、頭痛をもたらすほどの悪意の波動。
 不覚にも彼女は眠ってしまっていたのだ。

 僅かな時間だったが懐かしい夢を見た。夢の世界と現実の時間の流れは必ずしも一致しない。
 あれはルイズがドリームランドに初めて訪れた時の夢だった。
 あの後、現実世界ではクルデンホルフからの使者たる黒糸のアシナガオジサンが来たのだったか、確か。

 そう、あの時から彼女の運命はその歯車を狂わせて急激に道を外れ始めたのだ。

 ベッドの上で軽い頭痛を覚えるこめかみを押さえながら、ルイズは「うぅん」と呻く。
 ピンクブロンドの長髪が、ゆるゆると振られる頭の動きに合わせて、空気をはらんで広がる。
 ルイズはこの悪意の波動が満ちる中で眠ってしまったことを不覚に思う。

 だがそれも無理からぬこと。彼女を眠らせたのは大メイジ、オールド・オスマンの全身全霊が込められた〈眠りの鐘〉による催眠波動だったのだから。
 強烈な、ルイズを以てしても抗うことのできなかった程の、エーテルを伝播した催眠音波は、一度巨大ゴーレム崩壊時の振動によって目覚めていた彼女を、瞬時に再び夢の世界に誘ったのだ。
 では、狂気から魂を守る夢の世界から、悪意が満ちた現実に彼女を引き戻したものは何者か。

 ズキズキと脳細胞を苛む側頭部の偏頭痛を振り払うように頭を振って、ルイズは周囲を見回す。
 いつもと変わらないグロテスク(グロッタ調)の三つの鏡、ベッドサイドに立てかけられた袱紗に包まれた長物、そしてベッドの傍らに生えている生首。

(……、生首?)

 ざ、と勢い良く振り見れば、花瓶が置かれたサイドテーブルから生えているその生首は、赤髪のユージェニー・ロングビル学院長秘書。
 いつものメガネは付けておらず、普段は束ねられている髪の毛も、だらりと妖艶にサイドテーブル上にばらまかれている。
 口の端に掛かる一筋の髪束が扇情的である。さらにいくつかの髪束はルイズの方へ伸びている。おそらくはこれを使って電気ショックか何かでルイズの覚醒を促したのだろう。

 幽鬼のようにも見える生首の鋭い瞳は、ルイズの方を捉えて離さない。

「おはようございます、ミス・ヴァリエール」

 ロングビルは寝起きに生首を見て凝固したルイズに構わずに話しかける。

「事態は逼迫しています。学院生徒レイナールを媒介に〈輝くトラペゾヘドロン・レプリカ〉が発動、化身『闇の跳梁者』が召喚されました」

 その報告を聞いて、瞬時に頭を切り替えるルイズ。
 なるほど、先程から襲い来るこの頭痛は、そのナイアルラートホテプの闇の化身の齎す波動が原因か、と当たりを付ける。

 しかも生徒の――人間の身体を媒介に顕現しただって?
 そんなこと、許しておけるものか。
 人間をどうにかして良いのは、人間のみだ。邪神ではない。

 あらゆる邪悪の介入を、このルイズ・フランソワーズは決して許さない。
 極度の人間至上主義者、それがルイズの在り方だった。

「オールド・オスマンは?」
「学院長は〈眠りの鐘〉の発動に全力を使い、しばらくは動けません」
「そう。……初めから私に任せるつもりっだったんじゃないでしょうね?」

 ロングビルの生首が状況を説明する間にも、ルイズは準備を整える。
 先祖伝来のタクト状の杖、クルデンホルフ大公国のシュヴァリエの証であるIDカード型アイテム、そして学院外れの森の地下にあるウードのグロッタ(洞窟)に繋がるグロテスクの壁掛け鏡を一枚。

「まさか。もし仮にそうだとしても、貴女は見過ごすつもりですか?」
「それこそまさか。あらゆる邪悪を私は許しはしないわ。あんたたち蜘蛛の眷属を含めてね。いつかこの地表から追い払ってやる。……ベアトリスには悪いけれど」
「ふふふ。千年教師長のアイテムを利用して、大公姫を親友としておきながら、尚も諦めないのですか。私たちアトラナート様の眷属がそんなに気に入りませんか」

 ロングビルの生首が挑発的に笑う。
 ルイズは額に縦ジワを作りながら答える。

「気に入らないわ。ハルケギニアはあんたたちの飼育箱じゃないのよ。同じ異種族のエルフとは大違い。出しゃばり過ぎなのよ、あんたたちは。絶対に駆逐してやるから覚悟なさい」
「凄まじい信念、いや情念ですね。おお怖い怖い」
「うるさい。それで、問題の場所は? あと私の使い魔を知らないかしら」

 ベッドサイドの袱紗から日本刀を取り出しながら、ルイズは問う。

「場所は学院の寮棟前の中庭です。貴女の使い魔のアーシアン(地球人)は、その邪神の現身(うつしみ)の下に居ますよ」
「ふぅん、つくづく受難体質のようね、サイト・ヒラガという男は。惚れ込んじゃいそうだわ」

 ルイズはサイトの記憶を『読心』の水魔法で読み取って、彼の数奇で類稀な体験の数々を垣間見ている。
 疫病神に魅入られているかのような悪運を持つ、あの使い魔ならば、あるいはルイズを、世に蔓延るあらゆる邪悪な企みのその中枢に、自然と導いてくれるかも知れない。
 現に、今この瞬間、サイトを召喚してまだ二十四時間経っていないくらいだというのに、学院はこの混沌とした状況に陥っている。

 それこそがルイズの求めるものだ。
 トラブル万来、悪運万歳どんとこい、である。

「全く、〈輝くトラペゾヘドロン・レプリカ〉なんてものがこの学院にあるなんて知らなかったわ。念の為に確認するけれど、その〈トラペゾヘドロン・レプリカ〉は私の好きにしていいのよね?」
「勿論です。オールド・オスマンが若い頃に内包歴史の業子(カルマトロン)ごとコピーした、極めて本物に近い贋作とはいえ、所詮はレプリカ。煮るなり焼くなり、お好きになさってください」

 それだけを伝えると、ロングビルの生首は髪の先からその紅色を失って黒色に変化し、頭部全体もバサリと砕け落ち、バラバラの黒い糸の塊へと還元されていく。
 ロングビルの生首は遠隔操作によって作られたゴーレムだったのだ。

 この魔法学院には千二百年前から蜘蛛の巣のように、細かな糸状のマジックアイテムのネットワークが張り巡らされている。
 ロングビルはそれを自在に使いこなせるので、先程のような芸当も可能なのだ。
 なにせ彼女の正体は、そのネットワーク型のマジックアイテムと作者を同じくする、兄弟姉妹とも言うべきインテリジェンスアイテムなのだから。

 ルイズはそんな生首ゴーレムの成れの果てを見ることもなく、寮室の窓へと足を向ける。
 『念力』の魔法で窓を開けると、ルイズは鏡と日本刀を伴って、そこから身を躍らせる。
 彼女の見据える先には、燃える三眼の漆黒の悪魔が、その身体を確かめるように四肢や羽を伸び縮みさせていた。


◆◇◆




 蜘蛛の巣から逃れる為に 6.本分――使い魔の場合と魔法使いの場合――




◆◇◆


「かかって来なさい、邪神の化身。跡形もなく消し去ってあげるわ」

 ルイズはそう言うのが早いか、お得意の『爆発』を夜鬼を象った邪神へと向ける。彼女は口より先に手が出るタイプなのだ。
 炸裂した『爆発』は人体無害、しかし、それ以外には致命的になるように調整。
 虚無の『爆発』の一番の特徴は、その破壊選択性にある。わずか一小節の詠唱でも、その選択性は十分に発現可能。

 例えば、延々と食事の度に胃の中身だけを『爆発』で消滅させ続ければ、お手軽に美味のみを味わって太らずに延々と食事を続けることもおそらくできるだろう。
 自分相手にやればダイエットだが、他人相手にやれば極上の拷問になりそうだ。
 食べても食べてもお腹が空くだなんて、正真正銘の悪夢。最悪だ。まあその程度は系統魔法でも再現可能だけれど。『錬金』の魔法の場合は逆に、延々糞を食わせてから胃の中で適当な炭水化物に変化させて餓死を防ぐとかいう拷問方法もありそうだ。

 それはさておき。
 連発する小爆発が、闇の跳梁者のコウモリのような膜翼に炸裂する。

「ギァ」

 ナイトゴーントの一対二枚の膜翼が虚無の光に焼かれて穴だらけになって消滅する。
 だが闇の跳梁者は、それに対してわずかに身を捩っただけで、ダメージは意に介さず泰然自若。
 ずるり、とすぐに闇に満ちたゴムのような膜翼は再生する。

 その後も何発かルイズは小規模の『爆発』を放つが、一定以上の効果を与えることはできない。
 特に闇を彷徨う者の習性として“脳を喰らう”というのがあるので、マスク内部に満ちた闇の霧を祓うように頭部に優先的に当てている。
 まあ依代となっている生徒を喰らい殺せば、『錬金』による遮光膜の再生ができなくなるから、恐らくは暫くは生かしたままにしておくとは思われるが……。

(それにしてもさっさと決着をつけるのが最善ね)

 ルイズは移動力を削ぐために翼を、そして依代の被害を防ぐために頭部を重点的に、非殺傷の『爆破』で狙う。
 余裕がある時には、胴体部の、恐らくは胃の中にあるのだろう〈トラペゾヘドロン〉を直接狙うが、その周りを取り巻く高密度の闇に吸収減衰されて、爆発の光は届かないようだ。
 小爆発では、どうしても相手の再生の速度と高密度の闇の衣を上回ることができない。動きを封じることは出来ているが、どうにも千日手だ。

「ふん、生意気ね、苛立たしい。かといって、詠唱を完成させるには、時間が足りない」

 大威力の虚無魔法を放つには、それ相応の精神集中と時間が必要だ。
 そして彼女は典型的な魔法使いタイプ。
 前衛はできない。

 IDカード型アイテムの借力で魔法を放つにも、結局のところ魔法を操るのがルイズであるというところは変わらない。
 通常生活であれば幾つもの系統魔法をカードから同時に喚び出せる熟達した操作者であるルイズだが、どうしても虚無魔法と同時には制御できない。
 ルイズの能力が足りないのではなく、虚無の詠唱はそれだけ脳に負荷がかかるということなのだ。

「じゃあ、時間稼ぎが必要ね」

 だがオスマンは消耗中。全く肝心なときに使えない。
 ロングビル、というかクルデンホルフゆかりのインテリジェンスアイテム群は静観するつもりなのだろう。奴らは観察と記録と蒐集がその習性だから。
 ルイズでは時間稼ぎと詠唱を両立できない。虚無がリソースを喰い過ぎる。ならば――。

 後ろに浮かべた日本刀がルイズの『念力』によってずい、と差し出される。
 浮遊するグロッタ調の鏡の表面が、ルイズの魔力を受けて銀色の靄のように揺らぐ。
 何か行動しようとする三眼の敵対者の動きを止めるために、杖を握ったルイズの手は休まずに爆発を作り出す。爆音が重なり、燃える三眼の夜鬼を釘付けにする。

「起きろ、使い魔! 働き時よ!」

 こういう時のための使い魔だ。

 ルイズは顔の左を覆っていた眼帯をめくると、左眼に意識を集中させる。
 彼女の左眼は、右眼と異なり、黒い瞳をしていた。
 ヘテロクロミア、月目。だが黒い瞳は彼女生来の色ではない。
 ルイズの言葉を受けて、蹲るように意識を失っていたサイトの身体が、どこか操り人形じみた動きで立ち上がる。

 サイトの右眼は閉じられたまま。
 しかし左眼はこれでもかと見開かれ、爛々と輝いていた。
 彼の髪と同じ黒色に、ではない。

 サイトの左眼は彼の主人ルイズの右眼と同じく、鳶色に輝いていた。

「早く目覚めろ、駄犬! まだ、カー(精妙体)が馴染んでなくって上手く操れないんだから、さっさと起きろ! 剣を取れ! 踏み潰すぞ!」

 ナニを。

 プルプルと立ち上がるサイトの隣の地面に、ルイズの背後から『念力』で射出された日本刀がくるりと飛来し、鞘ごと突き刺さる。
 がちがちと動きながら、サイトは地面に突き立った日本刀の柄に手をかける。
 その次の瞬間、サイトの動きが自然なものになる。とはいえ下手な人形繰りが、稀代の人形繰りになったくらいであるが。

「へえ、意識がない操り人形の状態でもガンダールヴのルーンは発動するのね。流石に私の肉体までは効果は及ばないみたいだけれど」

 移植した左眼のカーがもっと馴染めばガンダールヴの能力を支配下におけるかしら、などとルイズは考える。

 鳶色の左眼を見開くサイトの意識は未だ戻らず。
 では、彼の身体を操っているのは、何者か?

 言わずもがな、それは彼の主人たる可憐な魔法使い、ルイズ・フランソワーズである。

 今、ルイズがサイトの肉体を操っているのは、はるか古代のエルフ暗黒王“ネフレン=カ”の神官団が用いたという『カーの分配』という魔術の効果である。

 『カーの分配』という魔術の効果は、自分の臓器に、自らのカー(精妙体、霊体、あるいは生命のエッセンス)を注ぎこんで封じ込め、その臓器を生かしたままに自らの身体から分離させて保存するというものである。
 例えば心臓を『カーの分配』によって摘出し、どこかに隠してしまえば、その術者は心臓を取り出したあとの空っぽの胸を穿たれても死ぬことはなくなるだろう。
 代わりに切り離して隠した心臓を破壊されれば死に至るが。物理的距離を超越して、術者と臓器は繋がりを保っているのだ。

 ルイズはサイトを召喚した日の夜に、『カーの分配』の魔術を施した左眼を抉り出し、さらにそれをベアトリスを助手としてサイトの左眼と交換する手術をしたのだ。

 ルイズはサイトの近眼を治療したが、なぜ眠っているサイトの視力がわかったのだろうか?
 それは眼球の交換によって、実際にサイトの眼球を使用して(・・・・)みたからであった。
 そしてサイトの脳髄を度々襲った、ハルケギニアの知識の奔流による頭痛……、これはサイトに植え付けたルイズの左眼に込められた彼女の知識が流れ込んだ為に生じたものである。

 さらに『カーの分配』によって術者の霊体を移植された者は、それを通じて術者の思うがままに操られてしまう。
 ルイズは肉体の緊急避難として『カーの分配』を使ったのではなく、その副次的効果、被移植者のコントロールに目をつけたのだ。
 サイトに移植した左眼およびそれに付随したカー(霊体)は、まだ完全にはサイトに馴染んでいないため、ルイズによる肉体の支配は完全ではないが、直にそれも問題なくなるだろう。

「ちぃ、まだ起きないか。デルフリンガー! ガンダールヴの身体の指揮権を奪え! あの混沌の使者を足止めしなさい!」

 サイトの被った精神的ダメージは案外深いようだ。
 移植した霊体経由で意識を揺さぶっても起きないサイトに業を煮やしたルイズは、サイトに握らせた日本刀に指示を飛ばす。

【うぅ~。なあ虚無の嬢ちゃんよぉ。今度の担い手は長生きするかなぁ~】

 ルイズがサイトの身体を操って、日本刀を引き抜く。
 すると、意識のないサイトの手に握られた日本刀から鬱々としたしゃがれた声がした。
 喋る剣、銘をデルフリンガーという。
 始祖の使い魔初代ガンダールヴに使われていた歴史ある魔剣で、6000年の時を経て意識を保っているインテリジェンスアイテムだ。

 外見は、初代ガンダールヴが使っていた片刃の大剣から、紆余曲折あって日本刀に変化している。
 具体的には蜘蛛商会の研究者による性能試験に耐え切れずに器が壊され、しかしその内部に宿った意思はエルフキメラのゴブリン研究者によって呪縛されて別の剣に憑依注入されて……というのを繰り返して、今の日本刀フォルムに落ち着いたのだ。

 心を通わせた担い手ガンダールヴが壊れていくのを、デルフリンガーはここ二百年ほど見続けている。
 伝説の剣デルフリンガーの外見が変わる以上のサイクルで、蜘蛛商会の実験体のガンダールヴクローンは消費されたので、デルフリンガーは鬱々としているのだった。
 しかもエルフの血が混ざった研究者の手による精霊魔法によって、デルフリンガー自身の意思は、消滅することも、それらの辛い記憶を忘れることも許されないのだ。
 その上、研究者は隙あらば改造しようとしてくるし……。
 唯一の癒しは、やがて死ぬことが確定している実験体の担い手たちとの交流であるのだが、仲良くなっては死んで別れてを繰り返すことになるという無間地獄の悪循環。

 デルフリンガーが鬱々としているのも仕方ない。
 つい先日も、蜘蛛商会の都合で担い手が廃棄処分になってしまったのだ。
 それを嘆く間もなく、デルフリンガーは新しい担い手が居るというトリステインまで、クルデンホルフからはるばる運ばれてきたのだ。

 デルフリンガー、傷心中の約六千歳である。
 魔剣としての特殊能力は魔法吸収と、吸収した魔力を用いた担い手の身体の一時的な操作。
 その他の追加能力は不明だが、きっと碌でも無い改造がされているに違いない。

「ふん、心配しなくても、私の使い魔をそう易々と殺させやしないわよ。……というか、担い手を殺したくなければさっさと魔力で身体を操って戦いなさい! 魔力の貯蔵は充分でしょう!?」

 ルイズはそう叫ぶと、背後に浮かせた鏡から何やらフラスコを二つ、『念力』で取り出す。
 背後の鏡は空間を超えてどこかに繋がっているのだ。

 ルイズが取り出した一方のフラスコには、薄い青色の液体――恐らくは水魔法の秘薬である〈水精霊の涙〉――が入っている。
 もう一つのフラスコには、何やら怪しく緑色に蛍光を発する粘菌のようなものが蠢いている。

 フラスコを取り出す間にもルイズは爆発を連発して、その光威で以て闇の化身の動きを封じている。
 ずっと私のターン状態である。

 ゆらゆらと揺れるフラスコに不吉なものを感じ取ったのか、デルフリンガーが慄く。

【おいおい嬢ちゃん、それは一体なんだ? 非常に嫌な予感がするんだけどよぉ……】
「イイものよ。今から投げるから、中身がサイトに掛かるように迎撃しなさいよー。そーれっ」
【ひぃっ】

 ルイズがフラスコを、三眼の跳梁者と対峙するサイトへ投げる。まずは緑に光る粘菌、次に〈水精霊の涙〉。
 デルフリンガーがサイトの身体を操り、日本刀の鞘で素早く迎撃する。
 自分の刀身でフラスコを壊すのは嫌だったらしい。

 べしゃばしゃと割れたフラスコから、サイトに粘菌と溶液が振り注ぐ。

【これは何だい、嬢ちゃん……】
「生体装甲(バイオニック・アーマー)、プレゼンテッド・バイ・ユゴス」
【うわぁ】

 〈水精霊の涙〉からエネルギーを吸収した粘菌状の物質は、みるみるうちにぐちょぐちょ増殖して甲殻類を思わせる形に固まっていく。
 外骨格式の生体装甲である。
 ユゴス(冥王星)からの菌類が持っていた技術を、ハルケギニア風にアレンジした使い捨ての生きた鎧である。

「防御力の向上と、電撃、炎、打撃への耐性がつくわ。今からその三眼の悪魔を完全に吹き飛ばすための詠唱するから、三十秒足止めなさい!」

 怪人カニ男みたいになったサイトが、デルフリンガーに操られて刀を構える。
 闇の跳梁者を釘付けにしていたルイズの小爆発が途切れる。
 大規模な『爆発』のための詠唱に入ったのだ。

「エオルー・スーヌ・フィル・ヤルンサクサ……」

 漸く虚無の光爆の戒めから解放された闇の化身は、その三眼を燃え滾らせてルイズに向かって飛びかかろうとする。
 先程の小爆発の連鎖から、ルイズを最優先で排除すべき敵だと認識したらしい。


◆◇◆


「やめてくれ母さん、その『頭の良くなるヘッドギア』は、イス人の精神交換装置なんだ! 確かに頭はよくなるけど、色々失うから! 具体的には正気とか! やめてくれ、というか何で通販でそんな物騒な物が売って、アッー!?」
【おう相棒、ようやく目を覚ましたか。随分エキセントリックな夢見みたいだったが大丈夫か?】

 サイトが幼い時の夢から絶叫と共に目が覚めた時、そこは瘴気溢れる決闘場であった。
 サイトは、何故か自分が日本刀を持ち、迫り来る黒いラバースーツの悪魔の鋭く伸びた爪と鍔迫り合いをしていることに気がつく。

「うおおおお!?」

 左手のルーンによって強化された膂力によって、サイトは黒い悪魔を弾き飛ばす。

「一体何だ!? つかさっきの声は誰だ!?」
【混乱してるとこ悪いが、説明してる時間はねぇんだ、ガンダールヴ。とにかく三十秒だ、それだけの間、あの三眼の黒いのを後ろに通さなきゃそれでいい!】
「お前誰だよ!? 幻聴か!? 電波か!?」
【良いから戦え!】

 弾き飛ばされた位置で、ぎししし、と笑う悪魔。
 その時、燃える三眼が更に怪しく輝く。
 サイトを魅入らせるように、三眼はゆらめき、その精神に直接働きかける。

 魔眼が行うのは『支配(DOMINATE)』の魔術。

“ほら敵は後ろだ”“俺を守れ”“桃髪の女を殺せ”“ルイズ・フランソワーズを殺せぇ”

 囁くように『支配』の魔術の効果がサイトを苛む。
 いくらレプリカで召喚された劣化版とはいえ、あの這い寄る混沌の化身による魔術である。その魔術の威力は絶大なものである。
 同士討ちを命じるその内容は、悪意に満ち溢れており、いかにも混沌の化身が好みそうなものだ。

 ただの人間ならば、決して抗うことなどできず、恍惚のうちに命令を遂行してしまうだろう。
 ただの人間ならば、だ。

「だぁぁああああっ! 五月蝿い! 小細工してんじゃねえ!!」
“ッ?!”

 サイトはしかし、伝説の使い魔ガンダールヴ。
 その魂の根本、本能よりもなお深い場所に、主人の護衛という在り方を刻まれた、神の盾。
 使い魔の本分を捻じ曲げるような命令など、無効。

 『支配』の魔術を跳ね除けて、サイトは蝙蝠羽の異形に突撃する。
 日本刀デルフリンガーを振りかぶり、空中へ。

「オオオッ!」

 三眼の異形は、五指を鋭く針のように伸ばしてそれを迎撃。
 影のように鋭い五槍がサイトに向かうも、サイトはそれを日本刀とは逆の腕に纏った甲殻の腕当てで弾く。

「何なんだよ畜生っ! 何か襲われてるし! 刀が喋る幻聴が聞こえるし! いつの間にか変な鎧着てるし!」

 サイトは更に素早く腕を翻して、弾いた指槍を空中で握る。
 その伸びた悪魔の五指を起点に、悪魔を引き寄せると同時に、サイトは空中で加速。

 サイトの視界の端で、ピンクブロンドの少女が、杖を大きく振り上げる。
 サイトは知る由もないが、いよいよ邪悪を吹き祓う詠唱が終盤に差し掛かったのだろう。
 だがそんなことは関係なしに、朗々と響く霊威に満ちた可愛らしい声が、サイトに作用し、彼の精神の奥底から勇気と力を湧き上がらせる。

「――だけど、あの声を聞いていると、そんなのはどうでも良いと、とにかく守りたいと思えるのは、何でだ!」

 我が身の全ては主人のために。
 それこそが使い魔の在り方。
 虚無の詠唱が響くこの戦場こそが、神の盾(サイト)の居場所。

 斬、とサイトが日本刀を振り切る。

 両断される悪魔。

 次の瞬間、輝く虚無の光が戦場全てを包み込んだ。


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次回、第二部第一章「平賀才人はツイてない」エピローグ
第二部五話までの長ったらしい後書きは感想板に移動させました

2011.01.19 初投稿



[20306] 蜘蛛の巣から逃れる為に 7.始末
Name: へびさんマン◆29ccac37 ID:b87f4725
Date: 2011/01/23 20:36
 目を覚ませば、消毒薬の匂いと、陽に干されたリネンの香り、何かの花の芳香。
 それによって、サイトは地球のアメリカ、ミスカトニック大学の病院にでも帰ってきたのかと錯覚する。
 サイトは大学病院の常連だった。ソフト面でもハード面でも。

 だが、勿論ここはサイトが学んでいたアメリカではない。

(あれ、ここ、何処だっけ? というか何があった?)

 サイトは記憶を手繰る。

(異世界に召喚されて、いきなり可愛いけどとんでもねえ女の子の下僕にされて。
 しっとマスク操る巨人に襲われて半裸で戦って。なんかマズげな暗黒のアーティファクトを解放しちゃって。
 ……で、気絶したのか? この辺から記憶が曖昧だな)

 中世レベルの世界だと思っていたが、衛生観念は発達しているようだ。
 よく陽に干された清潔なベッドの上でサイトは身を起こそうとする。

「ぐひぃ、痛ってー! なんか全身痛い! って身を捩るとそれでまた痛い! 何だこの無限ループっ」

 全身の筋肉という筋肉、筋という筋、関節という関節が痛み、軋んで、全く動けない。
 サイトは全身がばらばらになるような痛みに呻きつつも、何とか頭に手を当てて、何が起こったのか思い出そうとする。
 ちらりと周囲を見れば、両隣のベッドにも患者らしき金髪の少年たちが寝ているのが分かった。

 サイトのベッドサイドにはなにか見覚えがありそうで無さそうな、異国の白い花が生けられている。傍には黒塗りの鞘に収められた日本刀らしきものが立てかけられているのも見える。
 右隣の少年のベッドサイドには大輪の薔薇が生けられている。真赤な薔薇だが、見舞い人の趣味か、それとも寝ている彼の趣味だろうか。
 左隣の少年のベッドサイドにはサイトと同じような白い花が生けられており、その近くに黒縁の眼鏡が置かれている。
 どうやらこの部屋は三人部屋のようだ。

(途中で気を失ってたけど、何か魂の奥底に響くような、綺麗で、安らぐ、そんな声で目が覚めて……、起きたら何故か真っ黒い全身タイツの空飛ぶ怪人と戦っていて。自分もカニみたいな鎧を着て喋る日本刀握ってて。とにかく『守らなきゃ』と思って空中に飛び出してその黒いヤツを上下真っ二つにして……)

 段々と鮮明に思い出されてくるが、それとともに、その内容を信じられないという思いも沸き上がってくる。
 全く、頭が狂ったとしか思えない内容だ。異世界召喚、英雄のような力、巨大なゴーレム、暗黒のアーティファクト、邪神の化身のような三眼悪魔……。
 そして『狂った』という想像も、ありえない話ではなさそうに思える。
 あの時とっさに撃ち落としてしまった小箱から飛び出した、暗黒の偏四角多面体(トラペゾヘドロン)は、それほど危険なものだった。

(……なんだろうか、あの後、真っ白い光に包まれて。そして……そして? どうなったんだっけ)

 サイトがさらに詳しく思い出そうとしたとき、彼に声をかける者がいた。


◆◇◆




 蜘蛛の巣から逃れる為に 7.狂宴の後始末




◆◇◆


「ようやく起きたかい。使い魔君」

 声を掛けてきたのはサイトの右隣に寝ていた少年。
 どことなく気障ったらしい声色だ。
 サイトは、きっと枕元に飾られた赤薔薇は彼の趣味なのだろう、と思った。

「サイトだ、平賀才人。動けないんできちんとした礼はとれないが、今はこれで勘弁してくれ。名前を聞いても?」

 どうにか首だけ動かして右隣を見るサイト。
 一瞬、言葉遣いが不味いかも知れない、と思ったが、後の祭りだ。

「普通なら『貴族に対して口のきき方がなってない』と言うところだが、まあ良いよ。伝え聞いた話によると君は学院を救った恩人らしいからね」

 向こうの薔薇の少年も動けないのか、言葉だけで返してくる。
 そのセリフに混じった『恩人』という言葉に疑問を覚えるも、サイトは少年の言葉を遮らずに続きを促す。

「僕の名前はギーシュ。ギーシュ・ド・グラモン。『青銅』のギーシュと呼ばれている」
「なるほど。ギーシュ様、と呼んだほうがいいのか?」
「呼び捨てで構わないよ。お互い暫くはこの部屋のベッドの住人だろうからね、会話するのに面倒臭いだろう?」
「ああ、話し相手が他に居ないものな。いちいち様付けは確かに面倒だ」
「そういうこと。男に様付けで呼ばれても嬉しくもないし。それに君が貴族と同じ部屋に寝かされてるってことは、学院側としても君を貴族と同列……かどうか分からないが、少なくとも生徒と同列には扱うつもりなんだろうし」

 右隣のギーシュという少年は、その気障っぽい声に違わず、女好きなようだ。
 それだけでなく、ある程度は頭の回転も速いらしい。

「そうか、それなら俺のこともサイトと呼んでくれ」
「分かったよサイト」
「ああ、よろしくギーシュ。生憎握手も出来やしないがね」

 何とか左手を上げて、ギーシュに向かって振ってみる。
 ギーシュの方も右手を上げて振り返してくる。

「って、お前その腕、凄いことになってるな」
「ああ、これかい?」

 ははは、と疲れたように笑いながら、ギーシュは両腕を上げて見せる。
 ギーシュの両腕はギプスによって肩から指先までがっちりと固められている。

「何だか良くわからない白覆面の男に成敗されてね……」
「ムキムキの?」
「そうムキムキの。何だったんだろう?」
「嫉妬の神様の使者だよ」
「そうなのかい?」
「本人がそう言ってた」

 なんか左隣の人がビクビクしてる雰囲気がするがサイトはスルー。
 左隣の少年の顔つきは、しっとマスクを剥がした時に見たのと同じような気もするが、大人の余裕でスルー。
 ギーシュからは左隣の少年がビクつく様子は見えてないようだし。

「まあその覆面男にだね、バキボキのボロボロにされたあとにスープレックスで地面に突き立てられてね。腕はこの通りボロボロさ。まあ今はもう大体治ってはいるんだが……」

 詳しく聞くと、どうやらスケキヨ状態にされたらしい。
 沼沢地ならともかく、普通の地面に真っ逆さまに人体を突き立てたらどうなるのか、ギーシュの両腕を見れば理解できるだろう。
 両腕の複雑骨折(骨折部分が露出する骨折、開放骨折)だったらしい。もう治りかけているといことは何か魔法の作用なのだろう。

「よくもまあ首が折れなかったもんだな」
「どうやらあの覆面が土の使い手だったらしくてね。予め、首と上半身が入る分の穴が、突き立てられた場所には掘ってあったみたいだよ。だから被害は腕だけで済んだんだ」
「……半端に親切だな」
「そうだね」

 はあ、とギーシュは溜息を一つ。
 元気づけるようにサイトは別の話題を振る。
 怪我や病気の時は弱気になってしまうものだから、何か楽しいことを考えなくては。

「まあ、前向きに考えようぜ。両手が使えないなら、誰かの介助が必要だろう? ほら恋人から御飯を食べさせてもらうイベントとかさ、そういうのあるだろ?」
「……二股がバレてね……」
「Oh……」

 地雷を踏み抜いたらしい。サイトにとっては良くあることだ。地球にいた頃は、地雷原を爆走する男とか呼ばれていたこともある。
 さらにどんよりとするギーシュと、思わずアメリカンな反応をするサイト。
 女好きそうだったから女の話題を振ってみたが、逆効果になってしまった。

「じゃあ何かこう、楽しいことを考えようぜ! ほら、左隣の君も」

 サイトは苦し紛れに左隣の少年に声を掛ける。

「おいおいサイト。そっちの彼は僕らなんかより重傷だったんだぜ。何せ上下真っ二つにされてたんだからさ。多分まだ意識は戻らないよ」
「……上下真っ二つ?」

 サァーっとサイトの血の気が引く。
 彼の記憶の中で上下真っ二つといえば、あの時の三眼の悪魔だ。

(まさかあの悪魔の中身はしっとマスクと同一人物……?)

 殺人未遂……、と口の中で呟く。
 顔色を失いながら固まるサイトを知ってか知らずか、左隣の少年から声がする。

「起きてるよ。身体は動かせないけどね。レイナールと呼んでくれ。というか上下真っ二つって本当かい? 記憶がないから分からないんだが」
「隣のクラスのレイナールか。真っ二つってのは、そうらしいよ。随分綺麗に輪切りにされてたらしいけど、現場に居合わせたルイズの応急処置が良かったそうだ」
「へえ、流石全属性スクウェアのシュヴァリエ持ちは違うね。じゃあそっちの、サイトだっけ、君のご主人様には礼を言っておかないとなあ」

 サイトの頭越しに会話するレイナールとギーシュを余所に、サイトの頭の中では葛藤が繰り広げられていた。
 すなわち、左隣のレイナールを真っ二つにしたのは俺だ、と告白するか否か。
 葛藤は数秒。精神衛生上、告白したほうがいいと判断。お互い動けないこの状態なら今すぐどうにかされることはあるまい、と打算。

「なあ、レイナール、だっけ」
「なんだい、サイト」

 サイトは意を決して謝罪を口に出す。

「スマン! お前の身体を真っ二つにしたのは、多分俺だ。済まなかった!」
「えぇ?」「はぁ?」

 突然のサイトの告白に困惑するレイナールとギーシュ。
 ギーシュが問いただす。

「うん? どういう事だい? そんな話は初耳だな」
「俺もよく覚えてないんだけど……。ここで目が覚める前の最後の記憶が、黒尽くめの三眼の悪魔を両断した光景でさ。というか、聞きそびれたけど、俺が『恩人』ってのはどういうことだ?」
「僕の方は記憶が曖昧だから何とも言えないなあ。ホントにそんな大怪我だったのかも分からないし。というか君もよく覚えてないことで謝るなよ。なあギーシュ、一体学院ではどんな話になってるんだ? 僕ら二人よりは多少詳しそうだし、教えてくれないか」

 サイトがさらに聞き返し、レイナールが情報提供を求めた。
 レイナールという少年は沈着冷静で、慎重な性格なのかもしれない。
 サイトは、あの時の冷静さを失っていたしっとマスクと隣のレイナールが本当に同一人物か、少し自信が揺らぎ始めた。

「そうだね、先ずは何より情報が必要だ、と父上もよく言っていたよ。一旦状況を整理しようか。とは言っても僕が知ってることもそれほど多くはないんだけれど――」

 ギーシュはサイトとレイナールに、彼ら二人が意識を取り戻すまでの話をすることにしたようだ。


◆◇◆


 ギーシュはこほん、と咳払いをして話し始める。

「先ずは、今日は何日かということだけれど、既にあの学院生全員昏睡事件から四日経っている。君たちが運ばれてきてからも四日だね」
「げ、そんなに経ってるのか」
「というかその『学院生徒全員昏睡事件』というのはなんだい?」

 レイナールがギーシュに問いかける。

「ああ、そこから分からないのか。僕が白覆面の男に成敗されてこの医務室に運ばれた直後くらいかな。何かの事故で、学院宝物庫の秘宝に封印されていた古代の悪魔が目覚めてしまったそうだ」
「悪魔?」「俺が戦ったやつかな?」
「その悪魔は精神を狂わせるらしくてね、学院長がとっさの判断で学院の秘宝〈眠りの鐘〉を使って全員を眠らせたそうだよ」
「あれ、全員眠らせたら、誰がその悪魔を退治したんだい?」

 レイナールが当然の疑問を口にする。

「そこで出てくるのがゼロのルイズとその使い魔のサイトさ」
「あー、確かにそれらしき奴と戦った記憶もあるし、封印が解かれた秘宝ってやつも心当たりがあるな」

 サイトがギーシュの話を補足する。
 というか直接的に〈輝くトラペゾヘドロン・レプリカ〉の封印を破壊したのはサイトなのだが、どうやらその辺は公式発表では有耶無耶になっているようだ。

「そう、そしてその悪魔を退治した功績で、ルイズは表彰されたらしいよ。僕はこの有様だったからその表彰式には参加できなかったけれど」
「みんなその悪魔云々ってのは信じてるのかい? だってルイズとサイト、学院長以外はその悪魔を直接確認したわけじゃないんだろう?」

 悪魔が退治されたといって、皆眠っていて誰も悪魔の存在を確認できなかったなら、素直にそれを信じはしないだろう、とレイナールが指摘する。
 むしろ事件自体を隠蔽した方がいいだろう。

「ところがそうでもないのさ。学院長の〈眠りの鐘〉は確かに効果を発揮したけれど、それでも感受性豊かな何人かはその悪魔の影響を受けて精神に異常を来したらしい。眠らされている間にとびきりの悪夢を見たという生徒や使用人は、何十人と数えきれないほどだとか」
「ああ、なるほど。だからきちんと事件は終息したと示すためにも、ルイズの表彰という形で学院の公式見解を示す必要があったわけか」
「そういう事さ。頭の回転が速いな、レイナールは。まあ精神に異常を来した数人についても、学院の方できちんとフォローしているらしいし。その筆頭だったレイナールがマトモに戻ってるなら、他の被害者も大丈夫じゃないかな」
「え?」

 首を傾げるレイナールに、ギーシュは、覚えてないのかい、と尋ねて、ギプスで固められた腕を大げさに振り回して話を続ける。

「大変だったんだぜ。ここに運ばれてきて少ししてからかな、君はいきなり訳のわからないことを喚きながら暴れだしたんだ。まだ傷も満足に塞がっちゃないっていうのに!」
「お、覚えてない」
「その方が良いよ。素人見立てだが、ありゃ尋常じゃなかった。正気に戻ったなら、その方が良いに決まってる。あの場にルイズが居なきゃどうなっていたことか」
「ん、ルイズが居たのか?」

 自分の主人の名前が出たことにサイトが反応する。
 彼の心の奥深くに、ルイズという美少女の存在は刻みつけられている。

「ああ、ルイズは毎日、授業が終わって夕食までずっとこの部屋にいるよ。使い魔の君の事が心配なんだろうね。僕だってヴェルダンデ、あ、これは僕の使い魔のジャイアントモールなんだけどね、その可愛い使い魔が重傷を負ったら付きっきりで看病するさ。ああ、ヴェルダンデ、ずっと会っていないけれど元気かなあ。どばどばミミズをたっぷり食べているかなあ」

 何か恍惚そうな様子で身を捩らせるギーシュ。
 使い魔バカ、という言葉が二人の脳裏を過る。
 ちょっとトリップしてるギーシュが戻ってくるまでに、サイトは使い魔の話題で気がついたことを、ついでとばかりにレイナールに謝っておくことにした。

「使い魔といえば、俺はもう一つ謝らなきゃいけないことがある、レイナール」
「ああ、僕の使い魔のあのマスク〈解放の仮面〉のことだろう? 朧気ながら、君に返り討ちにされた時の記憶はあるんだ。覚えているよ」
「済まなかった。あれ壊して、ごめん」

 ギーシュの使い魔バカっぷりを見るにつれて、サイトの中でレイナールに対する罪悪感が膨らむ。
 メイジにとっての使い魔がいかに大きな精神的支柱かというのを考えると、レイナールの覆面を破壊したことは謝っても謝りきれないことだろう。
 だが、レイナールは、口元を緩めて儚げに微笑んで、優しく言葉を掛ける。

「いや、謝る必要はないよ。それどころか僕はサイトに礼を言わなくちゃならない。――僕を止めてくれてありがとう。そうじゃなきゃ、もっととんでもないことを仕出かすところだった。あと、襲って、ごめん」

 ギーシュにも謝らなくちゃな、と言って、レイナールは意を決して、未だ使い魔の大もぐらを想って身悶えしているギーシュに話しかける。

「ギーシュ」
「ん、ああ、話の途中だったね、レイナール。どこまで話したんだったか」
「その前に僕は君に謝らなきゃいけない。――君を襲った白覆面の男は、実は僕なんだ」
「……なんだって?」

 ギーシュが怪訝そうな表情で、顔をレイナールの方へ向ける。

「僕はさ、今まで真面目一徹でやってきたけどさ、ずっとずっと君みたいにワイワイ楽しく学院生活を送ることに憧れていたんだ。有体に言って、嫉妬していたんだよ」

 気恥ずかしいのか、それとも自分の心の整理をつけるのに一杯いっぱいなのか、レイナールはギーシュの方から視線を外して、天井を見ながら訥々と語る。
 レイナールの告解を、ギーシュは茶々も入れずに神妙に聞いている。

「僕の使い魔として召喚されたあの白覆面、〈解放の仮面〉と言うそうなんだけど、それによって僕は気付いたんだ。自分の中に眠る、世界への憎悪とも言えるような、嫉妬の感情に。『何で僕の世界は、こんなに灰色なんだ』、『何で僕はギーシュのようになれないんだ』ってね。妬ましかったんだ」
「そうなのかい」
「そうなんだよ、ギーシュ。本当に済まない。君には本当に申し訳ないことをした。君を傷つけ、その上、何もかも台無しにさせてしまった。妬みなんて、お門違いもいい所だったんだ。結局自分が悪いのに、自分こそが変わらないといけないのに……!」

 レイナールは知らず知らずのうちに涙を流していた。
 元から内罰的な人間であるレイナールは、自分のしでかしたことが許せないのだろう。

「レイナール。君は本当に反省しているかい?」

 シーツを握りしめて、嗚咽を押し殺して泣くレイナールにギーシュは優しく声をかける。

「ああ。ああ。反省している。許せとは言わない。本当に、済まなかった」
「君が、本当に反省して、これから変わっていきたいと、変わりたいと、そう本心から願うなら」

 ギーシュは、ゆっくりと区切りながら、レイナールに言い聞かせるように言葉を紡ぐ。

「僕は君を許すよ。そして、友達になろう。そうだ、お互い怪我が治って元気になったら、トリスタニアに遊びに行こう。サイトも一緒にさ」
「俺も?」
「ああ、そうさ。皆で一緒に遊びに行こうじゃないか。何、レイナールは顔も良いし、脱いだら凄いし、サイトはサイトで凄腕の戦士だそうじゃないか。きっと女の子にもモテモテさ。トリスタニアに、かわいい女の子が給仕をしてくれるって評判のお店があるんだ」
「はは、そりゃあ良いなあ。なあ、レイナールもそう思うだろう?」

 レイナールは泣きじゃくりながら、声にならない声で、うん、うん、と頷いている。

「うぅ、ぐすっ。あ、ありがとう、ギーシュ」
「何、薔薇は多くの女性を楽しませるだけじゃなくて、他の花にその咲き方を教えるものさ」

 おいおいとレイナールは泣き、サイトやギーシュもそれにつられて涙ぐむ。
 そこには不思議な友情があった。
 彼らはこの瞬間から、確かに友となったのだ。


 しばらく、レイナールが落ち着くまで待ち、ギーシュは話の続きをすることにした。

「まあ、白覆面の件はこれで解決、だね。僕も僕で、二股がバレた程度で愛想つかされるようじゃまだまだだと痛感したし、いい経験になったよ。次はもっと上手くやることにする」
「ギーシュ、お前、全然懲りてねえじゃねえか」
「今後は例え二股だろうが三股だろうが、『ギーシュ様に愛されるならそれでいい』と女性に思われるように頑張るよ。父上や兄上に教えを請うのも良いかも知れないな」
「ふふ、程々にしとかないと、また僕みたいな嫉妬の使者に成敗されるよ」
「その前に夜道で女から刺されそうだけどな」

 はっはっは、と三人で笑いあう。
 サイトが笑いすぎて腹筋を押さえて転がり、それによってまた全身が痛んだのか呻きを上げる。
 それを見たレイナールとギーシュがまた笑う。

「あはは、それで、えーと、どこまで話したんだっけ」
「えーと、確か『ルイズが悪魔退治で表彰された』『何人か悪魔の精神攻撃で病んだ』『レイナールがその被害者筆頭だったけど、ルイズが何かしておさまった』ってところまでかな」
「ああ、そこまでか。ルイズが毎日病室に来ているとこまでは言ったな。レイナールはもう彼女に頭が上がらないんじゃないかな。君が暴れたとき、彼女が何かやたらと長い、聞き覚えがない呪文を唱えたら、その後ピタリとおさまったからね。精神作用系の水魔法か何かかな?」
「輪切りにされたとかいう胴体の治療もルイズがしてくれたんだってね。元気になったら重ね重ね礼を言わないとなあ」
「まあ多分今日も授業後はこっちに来ると思うから、その時に礼を言いなよ」
「そうするよ」

 お返しには何がいいかなあ、などと悩み始めるレイナール。
 無難に花が良いんじゃないかなあるいはクックベリーパイとか、と割と的確なアドバイスをするギーシュ。
 そこにサイトが口をはさむ。

「なあところで、俺たちが入院してるのは、それぞれどういう理由になっているんだ?」
「ああ、そうだった、確かにそこは気になるところだろうね。どうやら君たちはどうして自分がここに居るかも分からないみたいだったし」

 ギーシュは、これはルイズからここ数日雑談してるうちに伝え聞いた話だけどさ、と前置きして続ける。

「先ずはサイトについてだけど、症状の内容は、全身の肉離れやらいろんな骨に細かい亀裂が入ってるとかだね。悪魔退治に大立ち回りをしたせいだと聞いてるよ。あと、今はもうルイズの『治癒』の呪文で治ってるけれど、全身の皮膚の糜爛(びらん)も酷かったみたいだ」
「あー、確かに思い当たる節がたくさんあるわー」

 忍者のような身のこなしをしたことを思い出して納得するサイト。
 たしかにあんな人間離れした機動をすれば、そりゃあ、全身にガタが来るに決まっている。
 全身の糜爛というのは、あの気色悪い生体装甲が侵食だかなんだかしたんだろう。視線を動かして病院着の胸元を見れば、新生した皮膚特有の、無垢なピンク色が見えた。

「もっと身体を鍛えなきゃなあ」

 しみじみとサイトは呟く。
 毎回毎回、ガンダールヴのルーンを使うたびにこんな状況に陥っていてはたまらない。

「でもルイズは褒めてたよ。使い魔の鑑だってさ。君のことを随分高く評価しているみたいだったし、期待も大きいみたいだ。心配していたから、君が目覚めたと知れば、喜ぶんじゃないかな」
「へえ、あの苛烈でとんでもねえご主人様がねえ。想像できないな」
「それは実際の反応を見て確かめたら良い。じゃあ次はレイナールだね」

 ごくり、とレイナールが息を飲む。

「レイナールは、学院の発表では封印が解かれた悪魔によって精神汚染されて、さらに悪魔の爪で真っ二つにされたことになっている。悪魔による直接的な唯一の犠牲者だってさ」
「『学院の発表では』?」
「ああ。でも、前に君が錯乱したのをルイズが鎮めたときに、彼女から聞いたところによると、君は悪魔の依代にされたらしい。錯乱したのはその後遺症だって」
「どっちが正しいのかな」
「多分ルイズじゃないかなぁ。何と言っても当事者だし。サイトも悪魔を斬った覚えはあるんだろう? それと同じような傷でレイナールはここに運ばれてきたんだし、状況証拠的にもルイズが正しそうだ」

 ギーシュが推測を口にするが、残りの二人は異を唱えない。
 サイトが左隣のレイナールに顔を向けて、改めて謝罪を口にする。

「そういうわけで、レイナールをぶった斬ったのは、多分俺だ。済まなかった」
「いや、不可抗力だろう、話を聞くに。謝らなくても良いよ」
「それでもだ」
「やめてくれよ、友達だろう? もうこの話はおしまいにしよう」

 全く律儀で一本気な性格だ、とギーシュは謝る謝らないとやり取りしているサイトを見て思う。レイナールもレイナールで真面目過ぎだ。
 でも、きっと、こいつらと一緒なら楽しいだろう。モンモランシーとケティからの慕情は失ったが、良い友人を得られたなら、それもまた良し。いい女と同じくらいに良き友は得難いものだと父上も言っていた。
 ギーシュはそう思いつつ、だんだん興奮して大声でやり取りを始めた友人たちを宥めにかかる。

「まあまあ、諸君。ここはこの『青銅』のギーシュに免じてだね――」


◆◇◆


 サイトが目覚めたのと同時刻。
 はぁ~、と教室でため息をつくのはルイズである。

「どうされました? お姉さま」

 最前列の席、ルイズの隣りに座った金髪ツインテールの幼い少女、ベアトリスは、彼女の敬愛するルイズのため息を耳聡く捉えた。
 心配するように覗き込まれた妹分の瞳に、ルイズは軽く手を振って応える。

「なんでもないわ。ようやくサイトが起きたってだけよ」
「ああ、あのガンダールヴですか。目覚めるまで四日も掛かるようじゃまだまだですね」
「いやいや、上出来よ。戦果著しく、幸いこの四日間も問題らしい問題はなかったしね」
「何か事件がありましたら、今度こそは私がお姉さまのお役に立てましたのに」

 ベアトリスは、先日の『闇の跳梁者召喚事件』において、自分に声がかからなかったことを不満に思っているらしい。
 ちなみにルイズがサイトの覚醒を知ったのは、『カーの分配』によってサイトに移植された彼女の左眼を通じて送られてきた感触によってである。
 離れた場所にいても、この学院内程度の距離ならば、霊体を同調させて、サイトの感覚器官からの情報を、自分のそれと同じように知ることができるのだ。

「そうね。次に何かあったら、貴女にも役に立ってもらうわ。その為にここ数日は蜘蛛のササガネや竜騎士とコンビネーションの練習をしているんでしょう?」
「……バレてましたか。せっかくの秘密の特訓でしたのに」

 ベアトリスは次こそは自分もルイズの役に立つのだと、気合を入れて、従者の触手竜騎士と使い魔のササガネを交えて連携訓練を行っていたのだ。
 その時間、ルイズはサイトが寝ている病室に行ってしまっているので、見られてはいないだろうとベアトリスは思っていたのだが、そんなことはなかったようだ。

「ふふふ、学院長オールド・オスマンのピーピング程じゃないけれど、私もある程度は『遠見』には自信があるのよ」

 『遠見』の魔法は風の系統魔法なので、ルイズの自力ではなく、マジックカードの借力によるものだ。
 だが自分の力だろうが、他人の力だろうが、何であろうが、使えるものは使う主義なのだ、ルイズは。
 そのカード型アイテムが、例え、邪悪な千年教師長由来のものであっても、だ。

「お姉さまに隠し事はできませんわね」
「隠し事なんてしなくて良いのよ。イザという時にお互いの正確な戦力がわからないと、コンビを組むときに難儀しちゃうわ」
「そうですわね」

 そんな実際的な理由だけでベアトリスのことを覗き見していたのではなく、異教徒であるこの可愛い妹分の少女が虐められてやしないかと、ルイズは心配なのだ。
 もっとも、自分の感情に素直になれない彼女は、それを直接ベアトリスには伝えないだろうけれど。

「サイトが回復したら、皆で戦闘訓練しましょう。備えあれば憂いなしって言うし」
「それがいいですわ! じゃあ早速本国から模擬戦用のマト、もとい、矮人部隊を呼び寄せないと!」

 早くも模擬戦の計画を練り始めるベアトリスに、ルイズは肩をすくめる。
 血の気の多い妹分だこと、など自分のことは棚に上げて考える。
 第三者から見れば、ルイズの方こそ、近寄り難い武闘派天才少女だと思われているのだが。

 そこにふわりとノートの切れ端が飛来し、まくしたてるベアトリスの口にぺたりと貼りつく。

「もが!?」
「授業中」

 ルイズたちと同じく最前席に座っているロリータ体型トリオの最後のひとり、青髪のタバサが、手に握った大きな杖を微かに動かして、ぼそりと呟く。
 ベアトリスを黙らせるために、風の魔法で紙切れをベアトリスの口元まで運んだらしい。
 ルイズとベアトリスは互いに顔を見合わせる。確かに授業中の私語は厳禁である。


◆◇◆


 使い魔サイトの見舞いに行って、今後のことなどを取り決めたり、他愛のない話をしたりして、夕食を食べて、夜半。
 ルイズは自分の部屋で、ニマニマ笑いながら、ネグリジェに着替えてベッドに寝っ転がっていた。
 彼女の弓なりになった目の先には、先日からひとつ増えた彼女のコレクションを収めたチェストがあった。

 両開きの扉が開かれて、中に収められた自慢のコレクションをさらすそのチェストを、ふんふふ~んと鼻歌を歌いながらルイズは眺める。
 彼女は非常に上機嫌だった。

「うふふふ、やっぱりサイトは“使える”わね~」

 彼女の視線の先にはチェストに収められた新たな収蔵品である小箱があった。
 内側に発光機構が組み込まれているのか、小箱の隙間からは、白い光が漏れている。

「〈トラペゾヘドロン・レプリカ〉は消滅させるしか無いと思っていたんだけど~」

 らんらんらー。

「真っ二つになった胃の中からポロリと~」

 たりらりらー。

「ラッキーらっきーらんらんるー♪」

 俯せになって足をじたばたさせながら恍惚とした目で何やらよくわからない歌を歌う様子は、某金髪ツインテールのスールが見れば速攻ルパンダイブものであった。
 歌の内容はそこはかとなく宇宙的で猟奇的だが。

 何故そこまで彼女が上機嫌なのかというと、先日の騒動の原因となったアーティファクト〈輝くトラペゾヘドロン・レプリカ〉が彼女の手に残ったからであった。
 オリジナルには及ばないにしても、流石大メイジであるオールド・オスマンお手製のレプリカである。
 レプリカとはいえ、全宇宙の知識を得るための鍵になるとも言われる偏四角多面体のそれは、一体どれほどの力を秘めているだろうか!

 当初、彼女としては虚無魔法『爆発』による選択破壊で、レイナールの体内の〈トラペゾヘドロン・レプリカ〉を消滅させるつもりだった。
 だが、『爆発』の詠唱に先駆けて、サイトがレイナールの身体を上下に両断した弾みで、〈トラペゾヘドロン・レプリカ〉がレイナールの身体の外に転がり出たのだ。
 虚無の詠唱によって極限まで研ぎ澄まされた精神集中のおかげで、彼女はそれを見逃さずに済んだ。

 ルイズは咄嗟に〈トラペゾヘドロン・レプリカ〉を消滅の対象から外し、闇の化身の残滓のみを消滅させた。
 そして両断されたレイナールをマジックカード経由で発動させた『治癒』の水魔法で応急処置をして、こっそり自分の部屋に〈トラペゾヘドロン・レプリカ〉を持ち帰ったのだ。
 もちろん〈トラペゾヘドロン・レプリカ〉は、暴走することがないように、常に内部が光で満たされるように『ライト』の魔道具を仕込んだ、特製の頑丈な小箱に封印してある。
 それが今ルイズがニマニマ眺めている小箱だ。

「んふふふ、ふふふ~ん。嬉しい誤算だわ! サイトを取り巻いてる奇妙な運命は、やっぱり私の望みにピッタリのものね~。いやあ、いい使い魔を引き当てたもんだわ~」

 ひとしきりコレクションを眺めて悦に入った彼女は、明日に備えて眠ることにした。
 ぱちん、と指を鳴らせば、開いていたチェストの扉は閉まり、部屋の魔法のランプも消える。

「いい夢を見られますように~!」

 そして彼女は夢路を辿る。
 彼女が治める夢の王国に向かって。


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第二部第一章 了

ギーシュ△。マジ男前ッス
あとルイズ可愛く書けてると良いのですが。彼女のコレクションの中身が若干不安(暗黒神話的に)

2011.01.23 初投稿



[20306] 蜘蛛の巣から逃れる為に 8.夢
Name: へびさんマン◆29ccac37 ID:b87f4725
Date: 2011/01/28 18:35
「おきなさい、サイト」

 むー、あと五万年……、むにゃむにゃ。

「おきなさい、サイト」

 うへへ、高凪ー、そんなこと言われると、俺、おれ……。

「起きろヘタレガンダールヴ」

「げふん」

 ズビシと脇腹にめり込む何者かの手刀。

「げほっげほっ、何? 何なの? ぐえっふえっふ、えふ」

「無様ね、当代ガンダールヴ」

 ベッドに寝ていたサイトが身を折って起き上がると、そこは夢時空だった。

 いや比喩じゃなくて。
 極彩色のマーブル模様をした背景が遠近感を狂わせる。

 幼児が書いたような不恰好な体型の動物とも建物とも区別がつかない、輪郭が不鮮明な何者かが背景を闊歩している。
 太陽は緑色で、その健康的な光で世界を植物色に染め上げ、逆にそれ故に植物の存在を許していない。緑の光では植物は生きられない。
 ああそこかしこでカリカチュア(風刺画)のように身体の一部分が肥大化されたキメラたちが共食いをしては、癒合し、分かれ、また、生殖している。

 罅割れた空は緑の太陽光をその断面で虹色に乱反射させ、オーロラのような極彩色の光のカーテンを作り上げている。おお空が落ちてくるようだ。
 遠くに見える山々は有り得べからざる角度に捩れ、断崖は急峻を通り越して逆さまに湾曲し、鮮血の流れる血管のような大河が上へ下へと流れている。
 海は血のように赤く染まり、沸騰して泡立つ水面は、その泡の一つ一つに恨めしげな眼差しを宿し、怨嗟の音色で弾けて消える。

 不恰好な生物とも言えないような戯画のような獣達が還っていく先には、原始的な植物や菌類による太古の森林のようなモノが広がっている。
 いや、それは蠢いているから植物ではないのだろう。絨毛のようなそれはざわざわと揺れている。
 触肢や偽足を伸ばす肉色や蒼褪めた皮膚のような色の森は、不気味な動物たちを喰らい、喰らわれ、融け合ってとどまることなく変異していく。

 唯一正常と言えるのは、サイト自身の身体と、彼が寝ている簡素なパイプベッド。
 そしてその傍ら左側にふいよふいよと浮かんでいる、眠たげな目をしたスレンダーなエルフの美少女のみである。
 しかし狂ったのが当然の世界の中では、逆にここだけが異常なのだとも言える。

「なんという、なんというエキセントリックな世界。これは間違いなく正気の沙汰じゃない」

 サイトが遠近の狂った世界の中で慄く。
 何処もかしこもまるで書き割りのように平坦な景色だ。
 狂った色彩でうごめく正視に堪えぬ何モノかが、ベッタリと世界を覆っている。

「あんたの精神世界でしょ、蛮人のガンダールヴ。どんな精神構造してるのよ」

「ウワァァァン! せっかく人が、残酷な、そうじゃなきゃいいなあと思って、目を背けていた現実を! 酷いよお姉さん!」

 エルフ美女の情け容赦ないツッコミにサイトが慟哭する。
 まあ、お前の深層心理は逝っちゃってるYO! とか突き付けられたら嘆きたくもなる。
 昔はきっとそうではなかったのだろうけれども、それはもう思い出せないくらい昔の話だ。

「……というかお姉さんは一体誰です?」

 サイトはしげしげとその美女を眺める。
 まず感じたのはインドの寺院で嗅ぐような、粉っぽいような異国の魅惑の香り。長い睫毛の下には、若干眠たげにたれたエメラルドのような翆色の瞳。繊細な金細工のような髪が、緑の太陽の光をプリズムか万華鏡のように散らして、不思議な濃淡を作っている。
 整った顔は美人だが、引き締まった表情のせいか、どこか中性的な印象をうける。

「私はあんたの左手のルーンに宿る精霊よ。この外見は初代ガンダールヴで、本名はサーシャ。異世界に召喚された挙句に惚れた男を殺した女、ってまあそれはどうでも良いわ」

「え、どうでも良いんですか?」

 結構重要な情報っぽいのに。
 そこだけ聞くとなんか修羅場の果てに男が刺されたように聞こえて、少しワクワクしてたのに。
 他人の事情を覗くこと、つまりスキャンダル趣味は人類共通の趣味ですから。悪趣味だけど。

「どうでもいいのよ、昔の話だし。終わった話に意味はないわ。それに結局姿を借りてるだけで、私は『ルーンの妖精』以外の何者でもないし。そして何故敬語?」

「年上っぽいから」

「……よく分かるわね。たしかにこの姿はあなたより年上よ」

 エルフは人間の二倍の寿命を持つので見た目通りの年齢ではないのだ。多分サイトより十歳くらいは年上なのだろう。
 精神の発達速度も肉体の発達速度に比例するのかというと、そうでもないのかもしれないけれど。
 ルーンの妖精というのならば、六千年の昔から存在しているのだろうし、外見に意味などないのかもしれないが。

「ところで、何か話すことがあったんじゃないですか? サーシャさん」

「はいはい、“本日は私、ルーンの精霊が苦難と不幸続きの中をガンバルあなたを応援しに参りましたー。さあなんでもこの精霊様に言ってみなさーい”」

 すごい棒読みで適当そうな声だった。カンペ見てるし。
 事実、ふよふよ浮いて耳をほじりながらという、やる気の欠片もない態度であった。
 しかしその一方でサイトは頭脳をフル回転させていた。

(美人は何してもさまになるなあ。なんでも言っていいってことだけどそんな急に思いつかない。やっぱり美人だなあ。ここは夢の中なんだっけ。あれ、てことは全部俺の思い通りになるのか?)

 考えた結果。

「おねーさん! イイコトさせてー!」

 飛びついた。

「却下」

 撃墜された。

「けちー」

 打撃を受けた頭頂部を押さえながら、サイトは口を尖らせて文句をいう。夢とはいえ、なかなか思うようにはいかないらしい。
 これが上級の夢見人なら違ったのであろうが。
 意志力と想像力の強い夢見人は、己の夢を思うがままにできるらしい。

「おさわり禁止です。何か聞きたいことは?」

「はいはーい!」

 サイトは勢いよく手を挙げる。

「精霊様、精霊様。不肖、平賀才人、これまで艱難辛苦にあふれた人生を送ってまいりました。今後もこんな不幸まみれの人生なのでしょうか?」

 思い出されるのは昔のこと。モザイク必須な思い出たち。主に正気度的な意味で。ここから先はR指定だ! みたいな。

 幼少期には頭が良くなるという変なヘッドバンドで精神を星辰の彼方に吹き飛ばされた。……たしかにその後遺症で頭は良くなったけど。イス人はホントにハタ迷惑だよね、死の危険はないからマシな部類だけどね。
 中学の時にはスキー合宿に行った先の雪山で脳味噌を缶詰にされかけたり、他にもユールの日に中二病を拗らせた同級生の黒魔術がホントに発動したりするし。
 高校の卒業旅行で海外に行けば何処をどう迷ったのかレン高原に迷い込むし。マジで蜘蛛はトラウマです。怖ええ。
 いろいろあってミスカトニック大学に半ばスカウトされるような形で入学したらしたで、教授や先輩に引っ張りまわされて毎回何かしらのトラブルに巻き込まれるし。

 なんだか回想してたら泣けてきた。背景の不気味な生物だかなんだか分からないものも、サイトの回想に合わせてぐるぐる回っている。
 サイトの夢の世界だから彼の精神とリンクしているのだろうか。まるで異教のサバトのようだ。もちろんサイトは哀れな生贄の子羊役。
 そんなハイライトが消えたサイトの目を覗き込んで、相変わらず適当そうな声でサーシャは断言する。

「まーね」

「ウワァァァン! 薄々そんな気がしてたけど!」

 天よ裂けよとばかりに哭くサイトを見て、多少哀れに思ったのか、サーシャがフォローする。

「あ、なしなし、今の無し。ノーカン、ノーカン。大丈夫、きっと色んな美女や美少女との出会いが待ってるから」

「本当に? ヤッホォオ! 慰めるならついでにキスさせてー」

「調子に乗るな、小僧」

 鉄拳制裁再び。
 兜割りにて平賀才人、夢枕に沈む。
 それはさておき、と宙に浮いたままのサーシャは何事もなかったかのように仕切り直す。

「ああそうだった、こんなコトしてる場合じゃなかった。今、あなたの魂にゴイスーなデンジャーが迫ってるのよ」

「イテテ。はあ。ゴイスーなデンジャーですか」

「そう。ゴイスーなデンジャーなの」

 サーシャはさっきとはうって変わった表情で真面目くさって言う。
 サイトの方も、ただならぬものを感じ、表情を引き締めて問い返す。

「で、具体的には何なんですか? そのデンジャーって」

「ん」

 エルフの美女サーシャは浮いている自分の足元、サイトの寝ているベッドの左側の地面を指差す。
 サイトがベッドから身を乗り出して見てみると。

「井戸?」

「まあそんなもんね」

 そこには古く苔むした井戸があった。
 和製ホラーでよく死体が投げ入れられたり、亡霊が這い上がって来たりとかする感じ。来ーるーきっとクルー。
 普通なら底知れない不安感を煽る小道具だが、この狂った夢時空の中では逆に清涼剤のようにも感じられる。

 むしろサイトは、ああ普通に怖がらせようとしてくれている! 俺の精神にはまだまともな恐怖観念が残っていたんだ! という安堵すら覚えていた。
 ……もうサイトの精神は駄目かもしれない。

「で、この井戸がどうかしたんですか? 落ちたら危険とか?」

「いや、まあそれもあるけれど。何も感じないかしら、その古井戸からは」

 サーシャにそう言われてサイトはもう一度井戸を見る。
 あまりにも深く、底の見えないそれは、奈落にでも通じていそうだ。
 しかし、何故かその井戸を見ていると、サイトの心の一番奥の部分から、勇気というか安らぎのような気持ちが湧いてくる。

「飛び込みたくなりますね」

「頭大丈夫?」

 ついつい思ったことを口に出したサイトに、サーシャが突っ込む。
 なかなか良い突っ込みをするエルフ美女だ。
 きっとハイキックなんかが得意技だろう。天国まで吹っ飛ぶ快感、げふん、衝撃だ。

「いや、でもですね、何というか喚ばれているというか、そんな感じがしません?」

「あんただけよ」

「なんででしょうねー」

 いつの間にかサイトの左半身がベッドからはみ出してきている。
 今にも古井戸の中に落ちそうになってきているが、彼は気づいていないのだろうか。
 不思議だなー、などと言いつつも、彼はどんどんと身を乗り出していく。

「そりゃあ、あんたの左眼がその井戸の中にあるからだし……」

「うぇ?」

 サーシャの言葉で漸くサイトは我にかえり、自分の身体がずいぶんとベッドから乗り出していることに遅ればせながら気がつく。
 身を乗り出していたのは全く無意識の動作だったらしい。
 サーシャの台詞に混ざっていた左眼という単語に反応して、慌ててサイトは自分の左手を自分の顔の左半分に持っていく。

 しかし左手が空を切る。そこに左眼は、無い。
 それどころか、眼窩周辺、顔の左側が根こそぎになっていた。
 削り抉られて露出した断面を指でたどると、それに対して軟組織がにちゃりと湿った触感を返す。

「え、無い。なんで?」

 世界が書き割りのように平坦に見えたのは、もとからこの夢時空の世界がそうだったのではない。
 サイトが片目だったから平坦に見えていただけだったのだ。
 混乱して事態の理解を拒むサイトの、その視界が回る。

 引きずられて、落ちる。

「……そして、あんたのご主人様が喚んでるからよ。強欲なご主人様が」

 サーシャの声が遠くなる。
 違う、サイトが遠ざかっているのだ。
 井戸の中へと転落して。引き込まれて。惹かれて。

「あれ? あれ? え?」

「今代の虚無の遣い手は、随分と強欲みたいよ。何せ、使い魔の魂までも、自分のものにしようというのだから」

 いつの間にかサイトの身体は、井戸から出てきた大きな蛇に絡め取られていた。
 単眼の、羽の生えた腐り蛇(クサリヘビ)。ケツァルコアトルスのような蛇。鳶色の瞳をした、羽のある蛇。風を司る翼と、水の化身たる蛇を合わせた、風と水を受け継ぐ化物。
 その鳶色の瞳は、見覚えがある。

「ルイズ……っ」

 植えつけられた左眼と同じ鳶色。
 ハルケギニアにサイトを喚び出した、とんでもない性質を内に秘めた美少女魔法使いの、あの意思の強い瞳と同じ色。

 主人の名前を呟きながら、サイトは片目を押さえたまま、井戸の底へと引きずり込まれていく。
 明らかに自由落下よりも速い速度で、サイトは井戸の中を落ちて行く。
 ものすごい速度で井戸の壁が上へ上へと過ぎ去っていく。
 サイトの視界の中、井戸を覗き込むサーシャの顔が遠ざかる。

「最初はもっと小さな蛇だった。あなたは覚えていないけれどね、当代の。
 その単眼の蛇は何度か既に、あんたの霊体を齧り喰らっている。だから、それに応じて顔の孔も大きくなって、蛇も育った。
 頑張りなさい、当代のガンダールヴ。自分の魂を守りたければ」

 極彩色の狂った世界に残されたのは、エルフの美女だけ。
 それもすぐに蜃気楼のようにゆらいで、掻き消える。
 ガンダールヴのルーンに宿った精霊である彼女は所詮幻影。
 宿り主であるサイトが居なくなれば、当然彼女も投影されなくなって消えるのだ。

 夢の主たるサイトが消えたことで、この狂った夢時空も崩壊を始める。
 緑の太陽は空ごと砕けて剥がれ落ち、紅い海は叫びをあげながら蒸発し尽くし、地面は地平線の彼方からめくり上がって、蠢く肉塊たちを巻き込みながら狭まっていく。
 世界が縮み、端から消滅していく。その断末魔に合わせて、剥がれずに残っていた極彩色の空も、ぐるぐると目魔狂しくマーブル模様に渦巻き、激しく明滅する。

 夢時空の収縮は臨界に達し、練り混ぜられた世界は、最後まで中心に残っていた古井戸に吸い込まれるようにして消えてなくなった。


◆◇◆


 落ちる。
 落ちる。
 落ち続ける。

 その間にも、ルイズの瞳を持つ翼蛇はサイトを絞めつけて離さない。
 絞めつけて絞めつけて、たとえその果てにサイトが四分五裂になったとしても、その肉片を胃の腑におさめてしまう腹積もりだ。
 鳶色の瞳には、執着と独占欲がメラメラと燃え上がっていた。

「なんだ、なんなんだお前は、一体!? 『忌まわしい狩人』か?」

 『忌まわしい狩人』とは、邪神ナイアルラートホテプが好んで使役する眷属で、翼の生えた蛇のような化物だ。
 先日戦った三眼悪魔、ナイアルラートホテプの化身である『闇をさまようもの』の影響力の残滓が、この悪夢を形作っているのかと、サイトはそう考えた。
 だが、目の前の鳶色の瞳を持つ単眼の翼蛇からは、邪悪な気配は感じない。

 それどころか、サイトは安らぎを感じてすらいた。
 蛇に触れている皮膚から伝わる、そのひんやりした鱗の感触が心地良い。赤と黒の腐り蛇のような模様が素敵だ。桃色がかった朱鷺色(ときいろ)の羽根は美しい。
 抉れた左顔面にめりこむように載せられた単眼翼蛇の頭から感じる息遣いが愛おしい。

「ふ、ふふふ。『忌まわしい狩人』なんかと一緒にしないで頂戴。私の愛しいガンダールヴ」

 自由落下の無重力感の中で、蛇が囁く。
 まるで閨房での秘め事の最中のように、優しく。

「ねえ、サイト。もっともっと、一つになりましょう」

 人類に知恵の実を食べさせ、楽園から追放させたのは、蛇だった。
 蛇の甘言。
 サイトの主のあの桃髪の美少女の声音で、翼蛇は誘う。

「私、あなたの何もかもが欲しいの」

 甘く濡れた声。

「身体も、人格も、記憶も、魂も」

 脳髄が痺れるような声。
 声だけではない。
 翼蛇が羽ばたくたびに、そこから何かの果実のように甘い、女の香りがして、サイトの精神をぐらぐらと揺らす

「そして運命も。あなたの全てを私に頂戴。ねえ、お願い」

 サイトは答えることが出来ない。
 きっとこれに答えてはいけない。
 本能が屈服しても、理性が警鐘を鳴らし続けている。

「ねえ。お願いよ」

 その間にも、一ツ目蛇はどんどんと羽ばたいて、井戸の中を飛び落ちて行く。
 いやそこは既に井戸ではないようだった。
 周囲の暗闇は、ただの隘路から、いつの間にかもっと広大な空間に変わっているようだった。

 遠くに燐光が見える。
 ここは何かの鉱山洞だろうか。
 目を凝らせば、遠くの壁から生えたクリスタルが光を放っているのが分かる。

 一ツ目翼蛇の誘惑から逃れるために思考をずらそうと、サイトは周囲の様子を観察してみることにした。
 サイトの体温に温められた蛇の鱗は艶めかしくて、皮膚に吸いつくように感じられる。
 蛇の熱い吐息と甘い囁きを無視するために、サイトは努めて周囲の闇へと意識を向ける。

 闇の中、薄ぼんやりと光る結晶柱や、蛍光性のキノコが広い洞穴の岩肌の所々に生えている。
 クリスタルの中には、何かの胎児のような物体が見える。中程から破れているクリスタルもあり、その破れたクリスタルの中には胎児のような影はなかった。ひょっとすれば、光って見える結晶は、鉱物ではなくて何かの卵なのかもしれない。
 キノコやクリスタルの周りには、その光を食べるために集まった半透明のサルパのような生き物が浮遊している。光るキノコの中に紛れて、所々に光らないキノコも生えている。その光らないキノコが、突如として傘を裂いて拡げて牙を剥き出しにして、光に惹かれて集まっていた海棲軟体動物の幼生のような光食動物をバクバクと食いちぎった。キノコに擬態した何か別の生物だったのだろう。半透明のサルパを食い荒らしたキノコに似た何かは、柄の根元から虫のような節足を幾つも出してカサコソと闇の中に去っていく。弱肉強食はこの夢の世界でも通用するルールらしい。

「ねえ、聞いているの? あんまり無視すると、食べちゃうんだから」

 鳶色の瞳の蛇が囁く。
 彼女の朱鷺色の翼は休まずに動き、サイトもろとも夢の洞窟の奥へ奥へと飛んでいく。
 まるで門柱のように生えている、ひときわ大きな二つの結晶の間を抜けて、一ツ目翼蛇は行く。

「なあ、お前、一体何なんだ? ルイズなのか?」

 気を逸らすために、サイトは翼蛇に話しかける。食べられては堪らない。
 瞳の色はルイズと同じ鳶色だし、なんとなく印象も彼女に近いが、この一ツ目翼蛇があの美少女と同一とは考えづらい。
 サイトの問い掛けに答えるために、蛇はズルリと首を伸ばして、サイトの残った右眼を覗き込む。

「ふふ、それは難しい問い掛けね。『果たして私は何者か』。これほど数多の哲学者を狂気の彼岸へ押しやった問いもないわね」

「そういう意味じゃない。もっと単純で具体的な質問だよ」

「私はルイズ・フランソワーズとも言えるし、そうじゃないとも言える」

 一ツ目翼蛇は目を細めて曖昧に答える。

「私は『カーの分配』によってあなたに植えつけられたルイズ・フランソワーズの霊体の断片。だからその意味では、私はルイズ・フランソワーズだとも言える」

 サイトの左眼窩に移植されたルイズの左眼には『カーの分配』という魔術がかけられている。
 この魔術は、術者(この場合はルイズ)の霊体および魂の一部を、術者の身体の一部(今回の場合は左眼)に封じ込めることで、霊的な繋がりを保ったままに臓器を本体から分離する術である。
 サイトの夢の世界に現れた一ツ目翼蛇は、その、ルイズの魂を内に秘めたまま移植された左眼に由来しているのだという。

「だけど断片は所詮断片に過ぎない。今の私がルイズ・フランソワーズと同一かというと決してそうではない。そのうえ――」

「そのうえ?」

「――私はサイトの、あなたの魂を食っている。あなたの左眼がないのは、私が食べてしまったから。だから、ある意味では私はサイトの一部でもある。主導権というか、核はルイズ・フランソワーズが担っているんだけれど」

 夢の中のサイトの、失われた左顔面を、この一ツ目翼蛇は食って、その血肉にしたのだという。

「おかげで私はこんなに大きくなれた。あなたを引きずって、本体の、ルイズ・フランソワーズの夢の国にまで飛んでいけるほどに」

 一ツ目翼蛇の彼女は、朱鷺色の翼を力強く羽ばたいて、グングンと進んでいく。
 周囲の結晶洞穴が、凄まじい速さで後ろへと流れていく。
 新鮮な空気の匂いを感じる。出口が近いのかもしれなかった。

「でもね」

 蛇が囁く。
 惜別するように。
 愛惜して語りかける。

「でもね、サイト。このままあなたを本体の所まで連れていくのは惜しいと、私は考えているの。だって――」

 その声は欲望に濡れていた。
 荒い息遣いから、蛇の興奮が伝わる。
 二股に別れた細い舌がサイトの頬を這いずり回る。

「だって、あなたってば――」

 もう洞穴の出口は間近だ。
 白い光が行先にぽっかり開いた出入口を示している。
 蛇が愛惜しむようにサイトを一層絞めつける。舌なめずりをしながら。

「とぉっても、美味しいんですもの」

 弾む声で蛇が語る。サイトはそれを聞いてゾッとした。
 蛇はサイトに言い聞かせるでもなく、自分に、いや離れた本体たるルイズ・フランソワーズに釈明でもしているのだろうか。言葉を連ねる。

「確かに、ルイズ・フランソワーズの夢の国にあなたを連れていかなければいけないけれど、私の役目はそこまでの水先案内だけど、でもでもっ! あと少しくらい食べたって良いと思うの! クックベリーパイより千倍は美味しいんだから、これは仕方ないのよ!」

 朱鷺色の翼の羽ばたきが緩やかになって、速度が落ちる。
 ちょうど半ばから折れて台のようになった3メイルも幅がある発光結晶があり、一ツ目翼蛇はサイトをそこに下ろす。
 そして名残惜しそうにサイトから身体を離す。5メイル近い長い胴の翼蛇が巨大な天使の輪のようにサイトの頭上を旋回する。獲物を狙う猛禽のように。

「クソッタレ! 来るな!」

 サイトは急いでこの夢の捕食者から距離を取ろうとする。食べられるのは怖い。でも、食べられても良いと思ってしまった自分が、一番怖い。
 だが、限られた結晶台の上ではそこまで遠くには逃げられない。
 急峻な洞穴の底は見えず、サイトはここから帰るすべを持たない。

「ねえ、食べられるのってとっても素敵なことよ。だって一つになるんですもの。私とあなたが溶けて混ざって、新しい魂の形が生まれるの。それって本当に素晴らしいことよ!」

「やめろ、来るなあァァぁああ!」

 拒否の意思を反映して、サイトの腕は前へと伸ばされる。蛇を少しでも遠ざけるために。
 だが、猛禽のように旋回していた翼蛇は、その腕に狙いを定めた。捧げるように突き出された、その右腕に。
 本当に遠ざけようとして手を出したのだろうか? サイトは自分の本心が分からなくなっていた。

「うふふ、いただきまーす♪」

 一ツ目翼蛇は大きく顎を開き、一直線に飛来する。
 そしてサイトの右腕を、まるごと呑み込んで食い千切った。
 その瞬間にサイトが感じたのは、はたして痛みであったのか、それとも、快楽であったのか。


◆◇◆




 蜘蛛の巣から逃れる為に 8.夢のなかの夢のまた夢のなかで見る夢




◆◇◆


「うわぁあああああああああああ!?」

 サイトが叫んで飛び起きる。
 全身にびっしょりと汗をかいている。
 首を素早く左右に振って確認するが、何か異常があるわけではない。

 ここは学院の庭の一角に建てられた粗末なバラック小屋の中だ。
 全身の怪我が治ったサイトは、ルイズの従者として、この小屋を宛てがわれたのだ。
 小屋の窓からは朝の日差しが入り込んでいる。春先のこの時期、朝はまだ冷え込む。寝汗が冷えて、サイトは寒気に一度身体を大きく震わせる。

「はぁ、はぁ、はぁ」

 荒い呼吸を落ち着ける。
 何かとんでもない悪夢を見たような気がするが、どういう悪夢だったのかは思い出せない。
 いや、忘れてはいけなかったはずだ。そんな気がする。だが思い出せない。何か、何か致命的なことだったような――。

「おいおい、また魘されたのか?」

 一生懸命夢の内容を思い出そうとするサイトに、同じ部屋に設けられたもう一つのベッドに寝ていた、ガタイのいい男が心配そうに話しかけてくる。
 彼はこのバラック小屋の先住者で、名をルネ・フォンクと言う。 
 もともとルネ一人が寝起きするための小屋だったのだが、サイトが入居することになったため、急遽増築と家具の運びこみを行ったのだ。

 ルネ・フォンクは、クルデンホルフからの留学生で大公姫でもあるベアトリスの従者として、トリステイン魔法学院に駐留している。
 彼とサイトが寝起きしているバラック小屋には、竜舎が併設されている。
 そう、彼はクルデンホルフ大公国が誇る空中戦力、SAN値直葬と悪名高き、空中触手竜騎士団(ルフト・フゥラー・リッター)の一員なのだ。トリステイン魔法学院に現在派遣されているのはルネ一人だけだ。

「ああ、ルネ。起こしちまったか。済まない」

「いやいいさ。もう起きるところだったしな。それより大丈夫か? ここに越してきてからずっとそうじゃないか。ちゃんと眠れてるか?」

 ルネが気遣う。
 サイトは、退院してこのバラックに移ってきてからずっと、夜明け前に悪夢に魘されて起きることを繰り返している。
 ルネがサイトを心配するのも当然だ。普通の人間は眠らないと死ぬ。……まあ一部、魔法によって眠りのリフレッシュ効果をエミュレートして何ヶ月も眠らずに活動を続けたりする変態メイジも居るが。

「ああ、眠るのは、きちんと眠れてるよ。大丈夫だ。訓練に支障が出るような事にはならない」

「無理なら休めよ? 倒れても良いことはないんだから」

 ルネはそう言って、ベッドから抜け出て、顔を洗うためにバラックの外へと向かう。
 蛇口は外にしかないのだ。バラックの上の貯水タンクから重力によって蛇口まで水が流れる構造になっている。
 触手竜の身体を洗ったりするために蛇口は外に設けられている。室内に配管されていないのは、このバラックが所詮仮住まいに過ぎない間に合わせだからである。
 今は最低限の機能しかないが、虚無の曜日などにルネが魔法で増改築して機能を拡張していっているので、そのうちに室内にキッチンくらい出来るだろう。

「ふぅぁああああ~っ」

 サイトがベッドの上で伸びをする。
 悪夢は気になるが、思い出せないものは仕方ない。夢の内容を覚えていないことなどよくあることと言えばよくあることだ。
 それよりも、早く訓練の準備をしなくては。サイトもルネに引き続いてバラックの外へと向かう。

 ここでルネとサイトが言っている訓練というのは、彼らが主人の護衛としての任を全うするために行っているものである。
 基礎的な体力づくりの鍛錬はモチロンのこと、剣術の練習や、各種のハルケギニアの知識の習得の為の座学も行っている。体力だけでは従者は務まらない。深い教養、広範な知識が必要だ。
 ルネの場合はこれに魔法の鍛錬と、触手竜への騎乗とコンビネーションの訓練が加わる。
 サイトの場合は剣術に加え、遠近各種の武器の訓練を行う。

 教官は誰かって?
 ルネの乗騎の触手竜(千年近く生きていて喋れる)とサイトの持ち剣であるインテリジェンスソード・デルフリンガーだ。
 今日も地獄のような鍛錬が始まる。

【ルネ坊、立て! 休むな! 走れ! そんなんで私の竜騎士が務まると思っているのか!】

「ひぃ、はぁ、無理。ヴィルカン、これ以上は無理、」

【無理無理言っている間はまだ行ける! 頑張れ頑張れイケルイケル、諦めんなよ! ダメダメダメダメ諦めちゃ! あと呼び捨てはまだ早いから、ルネ坊】

「はひぃ、ヴィルカン様ー!」

 ルネが背中から無数の触手を生やした20メイルほどの大きな竜に追いかけられている。竜の名前はヴィルカン。これでも千年生きた触手竜の中では小柄な方である。
 竜の背中からは三対六枚の膜翼が生えている。それぞれの膜翼は、Y字に分かれた触手の間に膜が張られた形だ。腕や脚も触手の束のようになっていて、その先を金属製の爪甲が覆っている。
 他にも背中からはたくさんの細い触手が出て蠢いており、それぞれが先端にドラゴンブレスを蓄えたまま、ひぃはぁ息も絶え絶えに走るルネに狙いを定めている。

「なんで俺までー!?」

 あとサイトもついでに追いかけられている。んで時々ルネと一緒にドラゴンブレスで吹き飛ばされる。
 ガンダールヴは発動させてはいけないので、デルフリンガーは没収中である。ノー強化である。

【いやぁ、相棒、そりゃだって『身体鍛えないとなー』って言ってたからじゃないか】

 デルフリンガーは触手竜ヴィルカンの背から生えた触手の一つに剥き身で握られている。
 最初こそなんかアレな容貌のヴィルカンに退いたものの、今ではお互いに自らの相棒を鍛えて高め合う良き強敵(とも)である。サイト育成計画進行中。

「ちくしょうっ、デルフの裏切り者ー!」

【いやぁ、でもよ~、相棒~……、鍛えないと死ぬぜ? マジな話】

「ああ、もう! 知ってるよ! その通りだっ!」

 サイトだって鍛えなきゃ死ぬってことくらいは分かっている。
 何せ召喚の翌日に、早々、這い寄る混沌ナイアルラートホテプの化身(劣化版だったそうだが)と戦うハメになったのだ。
 これから何が襲い来るか分かったものではない。ただでさえサイトはトラブル誘引体質なのに。

 触手竜のヴィルカンとデルフでも教えきれない範囲は、赤槌のシュヴルーズが好意で教導を引き受けてくれている。
 座学でも実践でも、過激でかつバリエーション豊かな罵倒語で彼らを追い立てて教導してくれる。
 ルイズやベアトリスを交えた放課後の連携訓練の際もシュヴルーズが監督し、懇切丁寧に指導してくれる。

 そんなこんなで一日が終わる頃には疲労困憊になってしまうサイトは、悪夢を見ると分かっていつつも、睡魔に抗うことができない。
 この日の夜も、おそらく、あっという間に眠りについてしまうことだろう。


◆◇◆


 疲れ果てたサイトはすぐに夢も見ないくらいに深い眠りに囚われる。
 彼が夢をみるのは、充分に睡眠をとって疲労が回復する夜明け前ごろだ。
 サイトが夢をみるころ、ルイズの魂の本体は、幻夢郷【ドリームランド】に自力で築いた夢の王国の、その翡翠の玉座で、自分の左眼の分霊が帰還するのを今か今かと待ち構えているのだ。

 しかし一向に分霊がサイトの魂を連れてくる気配はない。

「……遅い。迷っているってことはあるまいし、道草でも食ってるのかしら……」

 惜しい。
 食われているのは草ではなくて彼女の従僕だ。
 彼女はメイジと使い魔の、魂レベルでの麻薬的なまでの相性の良さを見誤っていた。

 さて、サイトは無事にルイズの夢の宮殿まで辿りつけるのだろうか?
 そして無事に辿りつけたとして、そのあと一体どうなってしまうのだろう。
 それとも彼は彼の主人から逃げきってしまえるだろうか?


 ……昔のハルケギニア人が残した言葉に次のようなものがある。

 『メイジと使い魔は一心同体』

 それがあるいは彼の未来を暗示しているのかもしれない。


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頑張れサイト、負けるなサイト。ヒロインがラスボスっぽい雰囲気もあるが君ならイケル
ユールの日=クリスマス、冬至の祭り、ミッドウィンターフェスティバル

2011.01.28 初投稿



[20306] 蜘蛛の巣から逃れる為に 9.訓練
Name: へびさんマン◆29ccac37 ID:b87f4725
Date: 2011/02/01 21:25
「いいかよく聞け蛆虫ども! 貴様ら糞豚どもが私の訓練に生き残れたならば、各人が兵器となる! 敵に死を与える告死天使だ!」

 甲高くヒステリックな女性の罵声だ。
 それがオペラ歌手もかくやという声量で学院近くの草原に撒き散らされる。
 声の主はふくよかな女性、『赤槌』のシュヴルーズだ。軍服に身を包んだ彼女は心なしか劇画調の顔つきに見える。

「だが、その日までは蛆虫だ! この星で最下等の生命体だ! 貴様らは人間ではない! インスマスの魚野郎どもの糞をかき集めただけの値打ちも無い!」

 彼女が大音声張り上げる先には、まるで隕石でも直撃したようにめくれ上がった地面と、モウモウと視界をさえぎる粉塵が見える。
 いや、それだけではない。
 地面に死屍累々と倒れている者たちがいる。

「貴様らは厳しい私を嫌う。だが憎めばそれだけ学ぶだろう。私は厳しいが公平だ。貴様らがナニモノだろうと差別しない」

 悪罵に動かされて、倒れている人影たちは立ち上がろうとする。
 叱咤されて、自分はそんな最下等のモノではない、と反逆するために四肢に力を込める。彼らはトリーズナーだ。
 動きやすく怪我しづらい野戦服(クルデンホルフ大公国式)に身を包みバラクラバ(目出し帽)の上からヘルメットとゴーグルをつけた彼ら――虚無の主従(ルイズ&サイト)、クルデンホルフ組(ベアトリス&ルネ)、巻き込まれた悪友ズ(ギーシュ&レイナール)の六人――が生まれたての子鹿のようにがくがくと震えながら立ち上がる。なぜなら立ち上がらないともう一発『赤槌』の魔法が来るから。公転速度に加速された砂粒はたった一粒であっても、人間を軽々と吹き飛ばす爆風を生み出す。

「牡豚だろうと牝豚だろうと、ブリミルのオケツ掘りだろうが八本足の虫ケラだろうが、メイジだろうが平民だろうが、私は見下さない。なぜなら――」

 シュヴルーズがカッと眼を見開き語気を荒げる。

「全て、同様に、価値が無い! 私の使命は、そんな役立たずの昨日までの貴様らをブチ殺し、今日から役立つ一人前の戦略級兵器に仕立て上げることだ! 分かったか、蛆虫ども!」

『まむ、いえす、まぁむ!』

 半死半生どころか、既に八割死んでいる彼ら六人が声を出す。目出し帽に遮られて幾分、声がくぐもって聞こえる。それぞれの背中には、個人識別用に名前が書かれたゼッケンが貼られている。
 六人の中では特にギーシュのボロっぷりが酷い。彼はなんだかんだで末っ子ゆえに大事にされていたのだ、グラモンの実家では。だからこんなシゴキは初体験だろう。
 レイナールは脱いだらスゴイだけあって、結構平気そうだ。サイトとルネは毎日訓練しているから慣れているようだ(だからと言って決して平気だという訳ではない)。
 そして意外にルイズとベアトリスの女子陣が頑張っている。クルデンホルフ大公国学術都市シャンリットのミスカトニック学院、『即席遺跡探索者養成コース』の教官がシュヴルーズだったらしい。彼女らは経験者なのだった。南無。まあ退役軍人のガチ指導なら確かに生存率は上がりそうではある。

「巫山戯るな! 大声を出せ! もぎ取られたいのか!?」

 胸とかイチモツとか。一部女子には、もぎ取るほど無いとか言うな。

『まむ! いえす! まぁむ!!!』

 六人の腹の底からの絶叫が響く。
 遠くではシエスタが疲労回復用の秘薬を混ぜたドリンクを準備中である。彼女の周囲だけ春のピクニックといった様相だ。
 訓練終了後は癒し系メイドのおもてなしが待っている。……無事に五体満足に訓練を終えられたら。

「巫山戯るな! その程度で敵を殺せるか! 気合を入れろ! さあ、雄叫びを上げろ!」

『Aaaaaarrhhhhhhhh!!!』


◆◇◆




 蜘蛛の巣から逃れる為に 9.ホント訓練は地獄だぜ! フゥーハハハー




◆◇◆


 人間は意外と簡単に空を飛ぶ。

 虚無の主従(ルイズ&サイト)とクルデンホルフ組(ベアトリス&竜騎士ルネ)とサイトの友人(ギーシュ&レイナール)の六人はそれを再確認した。
 メイジならば日常的に自分の魔法で空を泳ぐが、それとは違う慣性飛行を存分に味わったのだ。杖とマジックカード没収の上で敢行されたそれは大層肝の冷えるものだった。
 それでも大怪我をした者がいないのは、シュヴルーズの絶妙な手加減と魔法着弾地点の見極め、そして吹き飛ばされた後の『念力』によるフォローのおかげである。そのシュヴルーズは、見なければならない提出課題があるとかで、疲労回復ドリンクをガッと一気飲みして、さっさと職員室に引き上げてしまっている。

「はい。サイトさん、飲み物をどうぞ」

「ああ……、ありがとうシエスタ」

 まじシエスタ癒し系。ありがたやー、ありがたやー、と男性陣は彼女を拝みかねない勢いだ。彼女のおかげでボロ雑巾のようになっていた六人も、一息ついて、幾分回復したようだ。苦難を共にした彼らは、絆を再確認した。これで彼らは戦友のようなものである。
 まだみんな髪はぼさぼさで、頬が粉塵と汗で煤けてはいるが、目に光が戻っている。被っていたヘルメットやバラクラバ、装着していたニーパッドやエルボパッドは近くにまとめて置いてある。
 過酷な訓練後でもクルデンホルフ特製の野戦服は綻び一つ無い。材料は何で出来ているんだ。ケプラー繊維か蜘蛛糸か。多分、品種改良された特製の蜘蛛糸だろう。

「というかだね、サイト。なんで僕やレイナールまで君たちの訓練に巻き込まれているんだい?」

 ボロボロのギーシュが問う。
 普段の美声も台無しのガラガラ声だ。
 シュヴルーズの訓練はちょっと洒落や冗談では済まされないレベルであった。

「成り行きだよ、成り行き。別にいいじゃねぇか、いきなり士官学校に放り込まれるよりマシだろう? お前の家は軍人家系なんだから、遅かれ早かれだよ」

「いや、いや、サイト? 兄上たちの話を聞いた限りでは、士官学校でもココまでではないそうだよ? 幾ら何でもいきなり初日で戦術級魔法をぶち込まれたりはしないよ?」

「そうなのか? ルイズ」

 サイトは自分の主人に話題を振ってみる。
 ルイズはこんな時でも優雅で可憐だった。長い髪は邪魔にならないように後ろでひとつに纏められている。ヘルメットの中に仕舞うのは大変だっただろう。
 彼女は背筋を伸ばし、シエスタから渡されたカップをリスか何かの小動物のように可愛らしく両手で持って、そろりそろりと飲んでいる。

「なんで私に聞くのよ」

「いや、何でも知ってそうだから。あとは説得力の問題だな」

 ルイズはため息ひとつ。
 サイトには移植されたルイズの左眼を通じて知識が流入しているはずなので、サイトが知らないことはルイズも知らないのだが。
 まあ、誰が発言するかで説得力が違ってくるのは確かであるので、一応答えておく。

「……英雄王の治世ならともかく、最近は士官学校でもここまでは、やらないでしょうよ」

「ほら、ここまでじゃないんだって、サイト」

「ただし!」

 ルイズはギーシュに釘を刺す。

「それは今現在が昔に比べてぬるくなっただけで、決してその現状が良いとは言えないわ。例えばクルデンホルフと戦争になれば、ミセス・シュヴルーズが使うような戦術級魔法がいきなり飛んで来るのは十分に有りうるんだから」

「あらあら、お姉さま、クルデンホルフと戦争になると思ってますの……?」

 ベアトリスがうるうると目を涙で潤ませてルイズに問う。だが手は髪を一生懸命ブラッシングして、いつものツインテールにセットし直している。ついでにキューティクル修復魔法も発動している。シャンリット千年の歴史の流れの中では無駄に細かい魔法が発達したりもするのだ。
 ルイズの第一の下僕を自認するベアトリスからしてみれば、敬愛するおねえさまから実家が仮想敵国扱いされるのは堪えられないのだろう。
 ……まあ実際トリステインとクルデンホルフが交戦状態になれば、このツインテ少女は速攻で実家を見限ってルイズ側につくだろうけれど。ルイズがトリステイン側につくかどうかはわからないが、ルイズの隣が自分の立ち位置であると、ベアトリスは自負しているから。

「仮定の話よ、か・て・い。……というか、ベアトリスの実家は、周辺国すべてが仮想敵国じゃないの」

 クルデンホルフ大公国はその成り立ちの過程でブリミル教に対する信仰を捨てている。
 そのため、周辺国全てがブリミル教国であることとも合わせて、外交には自動的にマイナス補正が付いているのだ。
 クルデンホルフ大公国で廃人を続出させている文明育成シミュレーションゲーム的には『未開人の宗教を崇めるとは、なんとも不愉快だな。-4』『お前は邪悪だ。-4』の態度ボーナス合計-8がデフォルトである。つまりいつ開戦しても可笑しくないくらい周辺国からの印象は悪い。

「そりゃあそうですけれど。でもクルデンホルフの公式見解としては、蒙き(くらき)を啓いて(ひらいて)いないのは周辺諸国の方なので、態度を改めることはありえませんわよ?」

 クルデンホルフ大公国(シャンリット)は、貴族の既得権益やブリミル教に拘って、遅々として進歩しない諸国を見下している。
 エネルギーや食物を自給し、労働力すらも木から生まれる矮人としてプランテーション的に生産・管理できる彼らからしてみれば、いくら周辺諸国から悪感情を持たれようが、何の痛痒も感じない。外交の重要性が、著しく低いのだ。
 技術流出については、ある程度、大公国も気を使っているが『現段階で他国が真似できる程度の技術の流出ならば、遅かれ早かれ他の国もたどり着くからあまり変わらないだろう』ということで黙認されている。余力を全て研究・蒐集につぎ込んできたこの千年の積み重ねは、隔絶した技術力の差を生み出し、それが彼らの傲慢とも言える思考を支えている。

「知ってるわよ。私だって四年間はシャンリットのミスカトニック学院で学んだんだから」

 ルイズは八歳から十二歳までの四年間をクルデンホルフの大学校、ミスカトニック学院で過ごし、あまつさえその短期間で卒業までしている。
 桃色髪の彼女は超天才児なのだ。入学の経緯は、スカウトといえば聞こえはいいが、実際は虚無の系統だとバレたために八歳の時に拉致同然にヴァリエール領から連れ去られたのだが。……我が子を取り戻そうと大公国へ攻め寄せる烈風カリンを退けて会談の場を設けるのに、数万の改良ゴブリンによる屍山血河を築かねばならなかったのは余談だ。うらー!
 まあ他にも、ルイズが天才児だったゆえに、卒業後に星辰の彼方の円錐生物に目をつけられたりもした。権力と財力あってフットワークが軽くて(まだ結婚してないし家も継いでないし)頭も良いとなったら、それは精神交換フラグですよねー?

「ミスカトニック学院? 俺の故郷にあったのと同じ名前の大学だ。偶然の一致?」

 サイトが母校の名前に反応する。
 奇人変人ぞろいの学校だが、いざ離れてみると案外懐かしいものだ。……いやサイトはまだ卒業してはいないのだが。

(あれ、俺って地球ではどういう扱いなんだ?)

 ふと疑問に思ったサイトに対して、ルイズが念話で答える。

(故郷に還すときは時間軸を合わせたげるから大丈夫よ。せいぜい失踪してから数日以内になるようにしてあげるわ)

 『カーの分配』による霊体の結びつきのおかげで、サイトとルイズは念話紛いのことが可能になっている。何故か時折、接続が不安定になるが。魔術の施術から数日の時間が経って、ルイズの分霊はサイトの霊体により深く根を下ろして、繋がりは強固になったはずなのだけれど。
 普通のメイジと使い魔同士ならば念話はデフォルトなのだが、虚無の使い魔にはその機能は付いていない。
 虚無の使い魔はとんでもない能力があるけれど、一般的な使い魔の能力(念話や感覚共有など)は、容量の関係上かどうか分からないが、搭載されていないらしい。トレードオフなのか、それとも、初期型である虚無の使い魔には念話機能は搭載されていないとかいうことなのだろうか。

「まあ偶然の一致でしょう。あんたの所と同じ単語は他にもたくさんあるし、『ミスカトニック』って単語の一致はそれと同じことでしょ」

 ルイズは器用に、脳内でのサイトに対する念話返答と、舌に乗せる言葉を分ける。
 実際ルイズとしては、地球の『ミスカトニック大学』とハルケギニアの『ミスカトニック学院』の名前が同じなのは、偶然の一致としか今のところは言えないのだ。
 千二百年前の、蜘蛛神の手による転生者が関与しているというのは、流石に想像の埒外である。与太話としてはそのようなことも予想しているが、あくまで冗談の範疇だ。

「そういえばサイトはどこから来たんだい? この辺じゃないんだろう?」

「東だよ、東。大陸の果てのさらに東だ」

 レイナールの問いにサイトが答える。

「東って、“ロバ・アル・カリイエ(東方)”よりも?」

「“ロバ・エル・カリイエ(いやはての虚空)”よりはまだ現世に近いんじゃないかな。多分」

 そんなやりとりをしているレイナールとサイトにルイズが突っ込む。

「物騒な話題出してんじゃないわよ。“ロバ・エル・カリイエ(無名都市)”には何も無いわよ。廃都にはミイラがあるだけだし」

「えっ?」「うん?」「あら?」

 レイナールとサイトとルイズがそれぞれ疑問の声を上げる。
 どうやらお互いに話題にしている“ロバ・エル・カリイエ(ロバ・アル・カリイエ)”が違っているようだ。

 レイナールはハルケギニアの一般的意味でのロバ・アル・カリイエ(東方)を口に出している。
 サイトはネクロノミコンで言及されているロバ・エル・カリイエ(最極の空虚)を意図している。
 そしてルイズは、ハルケギニアの砂漠に実在するロバ・エル・カリイエ(廃都、無名都市)をイメージしている。

 ……言葉って難しい。

 微妙な空気で固まった三人を見かねて、触手竜の騎士ルネが話題を振る。

「ところでさ、みんなは明日の虚無の曜日の予定は決まっているのかい?」

 ちなみにルネは、何の予定も無ければ宿舎であるバラックの改築を行う予定である。
 彼はベアトリスの従者なので、当然、彼女が学院から出なければ、という仮定の上であるが。
 ルネの問い掛けに、まずはギーシュが応えた。

「ん、みんな回復したことだし、レイナールとサイトをトリスタニアに誘おうと思ってたんだがどうだい? この間約束してたしね」

 それにサイトとレイナールが賛同する。

「そうだな。俺もこの国の首都を見てみたかったし」

「僕もいろいろと王都で買うものがあるしね。疲労回復用の秘薬の原料とか」

 レイナールは相変わらず自分を虐めるトレーニングを続行中らしい。おおマゾいマゾい。
 最近はサイトを交えて、モンモランシーに頼らずに自分で秘薬を調合しようという試みも行っているようだ。勉強熱心で大変結構。サイトはルイズにインストールされた知識を完全に自分のものとして定着させるために、レイナールと一緒に調合を行っている。
 だがレイナールが薬を飲んだときに、調合に失敗ていると時折、副作用で嫉妬心が頭をもたげるのは頂けない。そういう意味でもサイトでないと彼の助手はできない。ゴシカァンな肉体になった彼(しっとマスク)を、即座に鎮圧できるのは、このメンバーだとガンダールヴのサイトだけだ。

「ああ、私も王都に用があるから、虚無の曜日は出かけるわね」

「お姉さまが出かけるなら、もちろんご一緒しますわ」

 ルイズが発言し、ベアトリスが追従する。
 となればルネの予定も決まる。

「では私はお嬢様の護衛として付き合いますね」

「んー、まあ、そうねぇ。とりあえずルネは虚無の曜日には、サイト達三人を先ずは王都まで乗せてやってくれるかしら? 私とお姉さまは別経路で王都に向かいますから、彼らを送った後は王都周辺に待機していてもらえれば良いですわ。危急の時は連絡しますから」

「了解いたしました、お嬢様」

 お互いの予定が決まったので、ギーシュが念の為に総括する。

「じゃあ、僕とレイナールとサイトは、ルネの竜に乗って王都まで。ルイズとベアトリスは別経路で……まあどういう経路かは詳しくは聞かないけど、とにかく王都に行くんだね。ルネは僕達の送り迎えをしてもらうことになるけど、いいのかい?」

 ギーシュはルネに確認をとるが、それより先にルネの主君のベアトリスが命令を下す。

「ルネ。主君として命じます。明日の虚無の曜日は、ギーシュたちの送り迎えをすること。空き時間は王都近辺で待機。私が呼んだら直ぐに駆けつけること。帰りに彼らを学院まで送るときは私に護衛を離れる旨を一応、カードを通じて連絡して頂戴。よろしくて?」

「いえす、まぁむ」

 これで決定である。
 ルネはベアトリスに対して絶対の忠誠を誓っている。
 なんでも、遍歴中に行き倒れていたところを拾われたとか云々。

「ああ、そうだ。シエスタも付いてきなさい。私の侍女に相応しいものを色々と揃えてあげるから」

 ルイズがそこに付け加える。
 シエスタは最近、学院付きのメイドから、ルイズ・フランソワーズの個人的な侍女に雇われ直している。
 もちろんシエスタ個人も、メイド長も合意の上でだ。

「そ、そんな、恐れ多いです」

「いやいや、これは必要経費だから。私の見栄にあなたを付き合わせて悪いけれど、貴族にはそれなりの体面というものがあるのよ。まあ実際的な側面も多いけれど」

 シエスタは遠慮したが、ルイズは押し通す。
 確かに、由緒ある公爵家の姫様の侍女ともなれば、学院付きのメイドとは一線を画する品格が求められる。
 あと、あのゼロのルイズの侍女を務めるとなれば、それはもう、いろいろと物騒な装備品が必要であろう。そして訓練も。いつか彼女も今日のような地獄の訓練に参加させられるかもしれない。

「それとサイト。あんた、お金持ってないでしょう? あとで従者としての給金を渡すから、私の部屋に訪ねてきなさい」

「分かった、サンキュー。汗拭いて着替えたら向かうよ」

 休日の予定も決まったので、皆は三々五々、荷物を持って、それぞれ着替えるために解散していく。
 ルネとサイトはバラックへ。ギーシュとレイナールは男子寮に。ルイズとベアトリスは女子寮に。シエスタは後片付けだ。

 その道すがら、レイナールがギーシュにボヤく。

「で、なんで僕たちはサイトたちの訓練に巻き込まれたんだっけ? ギーシュ」

「なんでだっけなあ。何かサイトたちと談笑してたら、成り行きのいきなりでミセス・シュヴルーズに『おいそこの蛆虫ども! さっさと整列しろ! 四十秒で支度しな!』って言われたからじゃないのかな」

「ああそっかそうだった。確かにあれは逆らえない圧力を感じたよね。何故か僕らの分の野戦服とメットも用意してあったし。……怖かったよね」

「ああ。父上より怖かった。父上に三人の愛人が居るのを知った時の母上と同じくらいには怖かった」


◆◇◆


 部屋に戻ったルイズは、窓にカーテンがかかっていることを確認する。キュルケの部屋には時々男子生徒が飛んでくるので、そいつらに覗かれないように念のため。
 マジックカードを取り出して、野戦服の汚れや汗を『錬金』で空気に変化させて洗浄する。部屋を汚すわけにはいかない。
 服の土汚れなどが消えたのを確認すると、ホルスターに差していた杖をホルスターごとベッドサイドに置き、そろそろと野戦服を脱ぎだす。

 迷彩柄上着の正面のジッパーを覆うボタンを外し、その内側のジッパーを下ろし、脱ぎ捨て――ずにある程度丁寧に丸めて置いておく。背中に大きく「ルイズ」と書かれた布が貼ってあるのは、連携訓練時の敵味方識別のためだ。
 軍用の頑丈な編み上げのブーツを脱ぎ、揃えて立てておく。マジックカードを片手に持ってさっとブーツに翳して、湿気取りと殺菌の魔法(汗の水分を揮発性の殺菌成分に『錬金』する)を発動させておくのは忘れない。水虫は嫌だ。
 ズボンのファスナーを下ろして、こちらも脱ぐ。脱いだものは上着と同じ場所に重ねる。

 野戦服の内側には全身タイツのようなぴったりとした黒い内衣の上下がまだある。
 伸縮性に富むそれは、ルイズの細く華奢なラインを浮き彫りにする。胸は控えめだが、それ以上にアンダーバストやウエストが細いので、充分に女性的、とまでは言えなくとも、青い果実のような背徳感を煽る少女性を感じさせる。
 タイツのようなインナーを脱ぎ、迷彩上着の上に丸めて投げる。魔法でひと通り乾かしたとはいえ、下着のパンティーにも汗が染みているので代えなければいけないだろう。
 ぴったりとした上衣も脱いで、下着だけの姿となったルイズは、髪を束ねていたゴムを外す。

「ふうっ」

 首を振って髪をバラしながら、ルイズは一息ついて、ブラジャーもパンティーもポイポイっと脱ぎ捨てる。畳むのが面倒になったのだ。
 そんでもって、生まれたままの姿でベッドに向かってダイヴ。
 高級なベッドは柔らかくそれを受け止める。乙女の柔肌には傷ひとつ付けない。

「ふぁ~~~っ。つ か れ た ー!」

 ここ何日かはサイトやベアトリス、ルネたちと戦闘訓練を行ってある程度馴らしていたとはいえ、やはりシュヴルーズのシゴキはキツイ。
 学術都市で学んでいたときにも『赤槌』先生の教導を受けたことはあったが、キツイものはキツイ。経験者だから幾分耐性があるというだけで。
 シュヴルーズの訓練を受けていたおかげで、遺跡探索などの際に、命拾いしたこともあったから、感謝こそすれ恨みなどはない。無いが、ちょっとやり過ぎじゃないのか、と思わなくもない。

 ルイズは一糸まとわぬその姿のまま、手にマジックカードを持ち、魔法を発動させる。

「あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛ーーー」

 マジックカードから、筋肉の超回復促進用の電気刺激マッサージ魔法を発動。いい感じに身体が痺れて、情けない声が漏れる。
 でも、まあこの程度なら隣近所に響いたりはしない。『サイレント』の魔道具が部屋の備品として壁に仕込んであるので、防音はほぼ完璧なのだ。
 急に扉があけられない限りは、この声が外に漏れることはないだろう。

(……扉? あれ、ドア、きちんと鍵掛けたっけ――)

 その時、まるでルイズの思考を読んだかのように、がちゃり、とドアノブが回る。

「ちょ、だr――」

 誰何しつつ、ルイズは慌てて、手に握っていたマジックカードから『念力』を発動してドアを押しとどめようとする。
 しかし、無情にも何者かがドアを開くほうが早い。

「入るぞー、ルイズー。お金貰いに来たn――」

 入ってきたのは、彼女の使い魔のサイト。

 その時。
 世界が。
 凍った。

 ルイズはベッドの上で裸。うつ伏せで、侵入者に対処するために上半身を持ち上げていたところだ。
 慎ましやかな胸、白磁のような背中、細くくびれた腰、小さく盛り上がった可愛らしいお尻、すべすべの太もも、何から何まで、サイトに丸見えである。エクセレント。マーベラス。トレビアン! サイトの脳内で感嘆詞が乱舞する。
 ルイズの顔があっという間に羞恥と怒りに赤く染まる。素早くベッドサイドに置かれたホルスターに差された杖に手が伸びる。大丈夫、彼女はまだ冷静だ。自分の持ちうる最大威力の非殺傷攻撃を選択できるくらいには。

「こ、こ、この、バカ犬ーー!!!」

「ありがとうございますッ!」

 罵声と共に、ルイズ渾身の、虚無の『爆発』が炸裂した。
 それを受けて吹き飛んだサイトの顔は、どこか晴れやかであった。


◆◇◆


 ルイズは、サイトを吹き飛ばしたあと急いでドアを閉めて、適当な部屋着を身につけた。そして脱ぎ捨てた下着など、隠さなきゃならない物を全部、壁掛けの『ゲートの鏡』を通じて学院外れの地下研究室に転送し、準備を整え、サイトを迎え入れた。
 それで、まずはお説教である。苛立っているため、ルイズの左手の指が忙しなく擦り合わされている。いつもの癖の1.5倍の速度が出ている。

「次からノックくらいすること。念の為に言うけど、返事があって許可されるまでは入ってきちゃ駄目だからね」

「うぃ(Oui)」

 シュヴルーズの訓練に加え、ルイズの爆撃を食らったサイトはボロボロであるが、そんなことは斟酌するに値しない。サイトは床に正座させられている。重石を抱えさせられていないだけ、まだ良心的だ。

「確かに鍵を掛けていなかった私にも非はあるわ。……でも次はないから。肝に銘じておくことね」

「……了解であります。というか、記憶を消す魔法があるんじゃないのか?」

 サイトはルイズに尋ねる。
 確かレイナールの不定の狂気を治療した、精神作用系の忘却魔法があるはずだ。
 ルイズから植えつけられた知識も、その魔法の存在を支持している。虚無魔法の一つ、『忘却』がそれだ。

「……あー、『忘却』の魔法は確かにあるけど、こんなことでいちいち使うのは精神力がもったいないわ。それに苦手なのよね、あの魔法」

「ふぅん、同じ虚無魔法でも向き不向きがあるのか」

 ルイズは『爆発』の魔法が得意なのだ。
 他の虚無魔法の呪文は、若干適性が落ちるため、消費魔力が多くなったり、精度が落ちたりする。

「レイナールの時は緊急だったから使ったけどね。それにあの魔法は、魂に刻まれた記憶を消す魔法だから、あんまりあんたには使いたくないのよね」

「うん? なんで?」

 この世界における記憶には、魂(精神)に刻まれるものと、脳(身体)に刻まれるものの二種類がある。だがお互いは不可分に結びついているので普通は区分する必要はない。
 それぞれを区別する必要があるのは、精神交換などによって別人の魂が身体に入った場合や、『忘却』魔法によって魂の記憶を消去した場合、あるいは逆に脳神経を焼いて脳の記憶を破壊した場合などである。
 魂の記憶と脳の記憶は、お互いに同じ状態になろうとフィードバックしあうので、それぞれの間に齟齬があれば、何らかの違和感となって夢などに顕れるはずだ。

 サイトの魂は、今ちょうど、ルイズから『カーの分配』で移植されたルイズの魂の断片と混ざり合っている途中のはずである。
 下手に魂に影響を与える魔法を使ってしまえば、一体どんなことになるのかわからない。
 ルイズとしては、ここは羞恥をこらえて、サイトに対する厳重注意に留めるしかないのだ。なに、どうせその内に彼の全てはルイズの管理下に置かれるのだ。それまでの辛抱である。

「なんでもないわ。そうだ、最近、ちゃんとよく眠れているかしら?」

 ルイズは努めて先程の遭遇事故を意識の上から追い払って、話題を変える。
 サイトが足を崩そうとしたのを眼力で縫いとめる。正座続行。
 話題を向けた先は、夢のこと。いつまで経ってもルイズの夢の領域にやって来ない、このとぼけた使い魔と、彼に植えつけられたルイズの左眼の分霊のことを確認したいのだ。

「……。う、うん、眠れているですよ?」

 怪しい。
 ルイズは半目でじっとりと睨む。
 この態度は、嘘を付いている態度だ。なんか良く解らんが、きっと嘘をついている態度だ。ルイズの女の勘がそう告げている。

「サイト」

「はい」

「ハルケギニアには、『メイジと使い魔は一心同体』という言葉があるわ。使い魔の健康管理も、勿論、主である私の役目よ。あと、あなたは私の従者でもあるわけだから、そっちの意味でも身体の健康状態は把握しておきたいわ」

「はい……」

 サイトがシュンとする。
 だから、と口の端に言葉を乗せて、ルイズは椅子から下りて、正座しているサイトに目線を合わせる。
 黒と鳶色のヘテロクロミア同士で見つめ合う。サイトは可憐な主から目を離せない。長い睫毛、整った鼻筋、柔らかそうな唇。サイトは思わず息を呑む。

「聞かせて欲しいの。何か、困っていることはないかしら。夢見が悪いとか、そういう事は本当に無い?」

 真摯な態度でルイズはサイトに問いかける。
 サイトは美少女の顔が吐息もかかりそうなくらい近くにあることにどきりとする。
 そして観念して、しどろもどろになりながらも、本当のことを口に出す。

「……最初の頃こそ、悪夢で目覚めることが多かったけど、最近はそうでもないよ。まあシュヴルーズ先生の訓練がきつくて、朝まで泥のように眠ってるってこともあるけど」

「そうなの。その悪夢の内容とかは、覚えてない?」

 悪夢というのは、『カーの分配』による魂の侵食によるものだろう。
 悪夢を見なくなったということは、ルイズの分霊の侵食率が上がったということだろうか。
 それとも逆に術式が失敗してしまったか。どちらだろうか。

「……覚えてない、な。とにかく、怖い夢だったってことしか。あとは、今も時々夢を見るけど、それは決まった内容なんだよなー。不思議なことに」

「内容を聞いても?」

 おそらくはその夢に、サイトとルイズの魂の混ざり具合が反映されているはず。

「ああ、いいよ。三日に一回くらいしか夢は見ないんだけど、それは戦っている夢なんだ。夢のなかの俺は、隻眼隻腕の戦士で、ケツァルコアトルスみたいな、と言って分かるかな? 『忌まわしい狩人』みたいな、翼を持った蛇と戦ってるんだよ」

「ひょっとして、夢のなかのサイトは、左眼が潰れてないかしら?」

 ルイズが移植したのは左眼だから、夢のなかのサイトに影響が現れるなら、おそらくそれは左眼からだろう。

「よく判るな。そう、左眼が潰れてて、右腕が無いんだ」

「そう。左眼は私のと交換した影響が深層心理に反映されているのかも。ごめんなさいね」

 ルイズが少し伏し目がちに謝る。
 さっきまで説教していたのとも、諭すような態度とも違って、しおらしい態度だ。思わず守ってやりたくなるような。
 こういうギャップを持ってこられると、男はころっと騙される。

「い、いや、気にするなよ。まあこれのお陰で、この間の『闇の跳梁者』を撃退できたんだろう? なら良いよ。左眼も見えなくなった訳じゃないし」

 いやサイトはもっとその辺を気にするべき。どぎまぎしてる場合じゃない。
 ルーンによる主人に対する盲信効果でも発揮されているのだろうか。BETされているのはサイト自身の魂だというのに。

「そう、ありがとう。そう言って貰えると気が楽になるわ。それで、他には?」

 ルイズはさらに問うが、サイトは肩をすくめる。

「それでって、それだけだよ。戦ってるだけで、決着はつかないんだ。その内に目が覚める」

「……なるほど。ありがとう。きちんと眠れてるんだったら、ひとまずは問題ないわね。じゃあ、お給金渡すから、無くしたりスられたりしないようにね」

 ルイズはサイトと合わせていた目線を外し、マジックカードから『念力』を発動して、壁にかけられたグロッタ調の『ゲートの鏡』の一枚を通じて、金貨袋を取り出す。
 ずっしりと入ったその中身は、エキュー金貨50枚、スゥ銀貨100枚、ドニエ銅貨100枚である。
 ひと月分の給金としては破格の金額だが、ルイズにとっては端金だ。実家からの仕送りの他にも、クルデンホルフで学んでいたときの奨学金や論文コンテストの賞金や、発掘した遺物をミスカトニック学院付属中央博物館が高値で買い取ってくれたりした代金など、彼女の貯金はかなりあるのだ。

「多分それで足りると思うけど。生活用品は一式そろってるから買い揃える必要はないでしょうし。武器はデルフがあるし、必要なら私が『錬金』で造ってあげるわ。それに、それだけあれば、もしもの時に武器としても振り回せるでしょうし」

「ん、ブラックジャックみたいなもんか。確かにそう考えたら、左手のルーンも反応するな。サンキュー、ルイズ」

 金貨袋を武器と認識したのか、ガンダールヴのルーンが明滅する。
 サイトがにっこり笑って礼を言う。
 その笑顔が、割と不意打ち気味に、ルイズの心を揺らす。

「べ、別に主としてはこのくらい当然よ。じゃあ、もう行っていいわ。疲れてるところ、来てもらって悪かったわね」

「いや、こちらこそありがとう。……あと、覗いて申し訳ありませんでした」

 最後に三つ指ついて深々と頭を下げるサイト。
 ルイズは思い出して、恥ずかしさに顔を真っ赤に染めて、思わずサイトの頭を踏みつける。

「~~っ、この、そこは華麗にスルーしなさいよ!」


◆◇◆


 サイトが退出した部屋で、ルイズは先ほどサイトから聞き取った彼の『夢』の話を分析していた。
 身体はベッドの上に投げ出して、電気刺激魔法でビリビリマッサージしているが、脳は猛スピードで回転している。

(多分、サイトが夢のなかで戦っている蛇は、私の分霊よね。夢のなかのサイトが隻腕隻眼ということは、片眼と片腕は、蛇が食って同化してしまったということでしょう)

 同化。
 果たしてそれがどの様な効果を生み出しているのか、分からない。
 ルイズは自分の左眼に意識を集中させ、霊体を介したサイトの身体との接続を試みる。

(駄目ね。朧気にしか繋がらなくなっているわ。数日前までは、確かにサイトの感覚や身体のコントロールまで奪えたのに)

 なんだか『カーの分配』による接続が曖昧になっているようなのだ。サイトの居場所などは、おおよそ感覚で把握できるし、念話もある程度使えるものの、完全な指揮権の奪取となると、途端に及ばなくなる。
 それはつまり、植えつけた分霊が“変質”してしまい、ルイズ本体の魂との霊的な繋がりが薄くなったということ。だから同調できなくなっているのだろう。

(……一体どうしてかしら。何か魔術に不手際があったのかしら?)

 ルイズは疑問に思う。
 だが彼女の『カーの分配』の施術には、何も問題はなかった。
 問題があったとすれば、それは彼女の才能の大きさだ。

 彼女がサイトに植えつけたのは、たかが左眼一つ分の霊体に過ぎない。普通であれば、それは意思など持たずに、本体への合流を最優先に自動的に行動するはずだった。
 しかし、巨大すぎるエネルギーを内包した彼女の霊体にとって、左眼一つ分であっても、そこには常人の霊体一人分以上のエネルギーを内包されていたのだ。
 だから、サイトに植えつけられた“それ(左眼)”は、サイトの魂という極上の美酒を得て、独自の力と意識、そしてサイトに対する強烈な執着(食欲)を持つに至ったのだった。

 しかしそうなると、分霊体が、ルイズ本体からの莫大なエネルギー支援を受けられないことにも繋がる。分霊は、本体からの干渉を抑える防壁と、その範囲で、出来る限り本体のエネルギーを引っ張ってくるための抜け道のようなものを、サイトの夢の世界の周りに築き上げつつある。
 本体とのリンクを半ば自らの手で断ち切ってしまった分霊翼蛇の力は弱体化し、それによって、シュヴルーズの訓練によって鍛えられたサイトの精神が、蛇の攻撃と拮抗するに至ったのである。ルイズの分霊の一ツ目翼蛇は、外から探索の手を伸ばしてくるであろう本体への誤魔化しや迎撃準備と、内側で抵抗するサイトの魂への攻略という二正面作戦を行っている。そのギリギリの状態のため、蛇は未だサイトを食らうことが出来ていない。
 夢のなかのサイトの身体の、ガンダールヴの左手が残っていることも大きいだろう。始祖の使い魔の力が、彼を助けているのだ。

(……ん~、まあ、良いでしょう。失敗したなら失敗したで、また施術し直せば良いし。最近サイトの精神が鍛えられているから、それで私の夢の領域に連れてくるのが遅れているだけかもしれないし。あと何週間か様子を見てみようかしら)

 結局、ルイズは『注意しつつ現状維持』に留めることにした。
 自分の分霊が独自の自我を持って、サイトの魂を独占しようと思っている、などとは想像の埒外だ。
 それにサイトの夢の領域にまでルイズの魂の本体が自ら赴くのは難しい。

 広大な幻夢郷のなかで、異世界人であるサイトの夢の領域を探すのは、広大な宇宙から生命の住む別の惑星を探す作業と同じように、非常に困難な作業だからだ。
 目印がなければ簡単には辿りつけないし、その目印たる分霊は、本体に見つからないように何らかの隠蔽を施しているようだ。
 ルイズは、今のところ、自分の分身を信じて待つしか出来ない。『夢のクリスタライザー』というアーティファクトがあれば、簡単にサイトを自分の夢に招待できるだろうが、無いものねだりをしても始まらない。他にやりたいことも、やらなければいけないこともあることだし。

(考えることはたくさんあるけれど、今は休むのが仕事。そうだ、シエスタにマッサージの仕方なんかを仕込むのもいいかもしれないわね……)

 侍女に任命した黒髪メイドの育成計画も考えなければならない。少なくとも、自分の身を守れる程度にはなってもらわないと。
 ともかく明日は虚無の曜日だ。それに備えて英気を養おう。このままでは今日の訓練の疲労が残ってしまう。
 回復促進用の電気マッサージ魔法で身体がリラックスしていくのと同時に、ルイズの頭の中で無作為に思考の泡が弾けては消えていく。

 夕飯にクックベリーパイは出るだろうか。
 メイドを教育するなら同じ部屋に住ませて私が勉強を見たほうが良いかしら。
 いっそ彼女にも『カーの分配』を使って支配を。
 いやハルケギニアの民にそんな事をする訳には……。
 じゃあなんでサイトには施術したし。
 使い魔になったとはいえ、異邦人を信頼できるわけ無いでしょう。
 ぶっちゃけ一目見た途端に欲しくなっちゃったからだよねー。
 記憶を浚って調べてみたら随分とオイシイ物件だったしね。
 そんなことよりおなかがすいたよ。
 訓練後に飲んだ疲労回復ジュースには充分量のアミノ酸も含まれていたから大丈夫だ、問題ない。
 …………。
 ……。
 むにゃむにゃむにゃ……ZZZzzz。


=================================


ルイズの分霊(一ツ目翼蛇)は絶賛暴走中。ルイズさんはひとまず静観の構え。サイト君の奮闘により、今暫くは蛇の侵食は膠着状態です。夢の決着は、宝探し編くらいになる予定。
でもそれまでにサイトはルイズの好感度を稼いで『サイト個人の人格』を認めてもらわないと、蛇に食われるのと大差ない感じになります。命をかけたフラグ立てがはっじまるよ~。
次回、王都訪問。

2011.02.01 初投稿/誤字修正



[20306] 蜘蛛の巣から逃れる為に 10.王都
Name: へびさんマン◆29ccac37 ID:b87f4725
Date: 2011/02/05 13:59
 魔法学院から王都トリスタニアへ向かう街路の上空、大きな触手竜とそれに曳かれる楕円形の竜籠、そしてそのさらに後ろを風竜の幼生が飛んでいる。
 触手竜の鞍上ではルフト・フゥラー・リッターのルネ・フォンクが手綱を握っている。
 風竜の幼生シルフィードの上には、青い髪の美少女と、赤い髪の美女が乗っている。ルイズの同級生のタバサとキュルケだ。

 触手竜ヴィルカンが曳いている反射光軽減用の塗装が施された竜籠は、全体的に空気抵抗の少ないカプセル状の形をしており、底面は着地用に平らになっている。
 その側面には出入り用のハッチらしき継ぎ目がある。そこにタラップが内蔵されているのかどうか、外観からは不明だが、ひょっとすれば魔法による乗り込みを前提として、省略されているのかもしれない。
 カプセル状の竜籠の側面と上面からは姿勢安定用の水平翼と垂直翼が伸びており、それぞれの先端に衝突を防止するための相互視認用の赤い光を発する『ライト』の魔道具が組み込まれて光っている。

 この竜籠は触手竜ヴィルカンのうねうねした背中に乗るのを渋った乗客のために、ルネがマジックカード経由の『錬金』の魔法によって即席で造り上げたものだ。竜籠の設計図や原材料の細かい指定は、クルデンホルフ大公国製のマジックアイテム経由でダウンロードしたものだ。
 ルネが大公姫であるベアトリスの護衛に就くにあたり、彼にも国外でのマジックカードの使用が一部許可されている。全機能の限定解除はベアトリスの許可が必要なことになっている。今回の竜籠の建造はベアトリスに許可をもらっておこなった。
 また建造にかかった経費(材料『錬金』及び成形『錬金』魔法使用料金、設計図ダウンロード代金)はベアトリスが持ってくれることになっている。

「まあこれからも竜籠を使う機会はいくらでもあるでしょうし、竜籠一つ分程度のお金は持ちますわ」

 とのことである。ちなみにこの竜籠、材料の『錬金』からシームレス成形まですべて含めると、豪華な土地付き屋敷が買えるくらいの金額がかかっている。それをポンと出せるあたり、さすが実家が金持ちなだけはある。

 ヴィルカンに曳かれる竜籠の中に乗っているのは、サイトとギーシュとレイナールである。
 彼ら三人は、快気祝いと、地獄の訓練をこれからも乗り切っていくための景気付けとして、王都へと繰り出そうとしているのだ。
 彼らの乗る竜籠は、四人乗りであり、狭いながらも空調付きの快適な空間となっている。

 竜籠は組み込まれた『レビテーション』の魔道具によって自力で浮遊しており、急停止や急旋回の慣性変化をできるだけ乗客に伝えないようになっている。
 座席もふかふかだ。まるで生きているかのように蠢いて、座る者の身体にジャストフィットするように変形する。
 ……簡単なインテリジェンスアイテムくらいは組み込んであるかもしれないが、座席自体が生きているなんてことは無い、筈である。ある意味信頼と実績のシャンリット製の設計図がベースなので、一概に否定できないのが怖いところではある。

 そしてヴィルカンの後ろを飛行しているのは、雪風のタバサの使い魔である風竜シルフィードだ。
 シルフィードの上にはタバサとキュルケが乗っている。彼女らもたまたま王都に行く用があったらしく、成り行きでヴィルカンの後ろを飛行しているのだ。
 当初はシルフィードがヴィルカンとの並列飛行をかなり渋った(涙目でいやいやと首を横に振っていた)が、主人であるタバサが、

「今日はキュルケとお買い物。本とか服とか色々見たいから早く行きたい。他の竜の後ろを飛んだほうが速いし、あなたも楽なはず」

 と諭して、何とか一緒に飛ぶ運びとなった。タバサの使い魔はずいぶん賢く理知的な竜らしい。
 実際、千年以上生きる触手竜であるヴィルカンは、その気になれば音速超過で飛べるくらいに力強いし、彼のスリップストリームに入れれば、シルフィードの飛行は格段に楽になるはずである。
 だがそれとは別の心理的な面で、シルフィードはヴィルカンとのランデヴーを拒んでいた。

 触手竜という種族は、千年前に造られた人工種族であり、とある地底魔蟲と竜のキメラなのだが、そのベースとなった魔蟲が、シルフィードの種族の天敵なのだ。
 シルフィードはタバサの召喚に応じた時からずっと、天敵のオーラを感じ取って、非常に居心地の悪い思いをしている。
 タバサとしては、シルフィードの感じている居心地悪さを解消するために、この機会にシルフィードをヴィルカンに慣らしてやりたいと思っているが、なかなか難しそうだ。

【おーおー、怯えとる怯えとる】

「ヴィルカン様、そうやって威圧するからなおさらに怯えるんです。弱い者いじめはしないで下さい」

【別に弱い者いじめなどしてないさ、ルネ坊。向こうが勝手に怯えとるだけだ。取って喰おうとも思わんし、ましてやあんなガキに欲情している訳でもない】

 ヴィルカンは六枚の膜翼を使って羽ばたき、シルフィードに合わせて彼なりにゆっくりと飛んでいる。しかしそれでも幼い風竜にとってみれば十分な速さである。うまくヴィルカンと竜籠の生み出すスリップストリームに入っているから良いものの、そうでなければとっくに息切れしているだろう。
 ルネはヴィルカンの首の後ろあたりに付けられた鞍に座っている。それより後ろの背中部分からは何本もの触手が伸び縮みしている。途中からY字に分かれて膜翼になっている一際太い六本の触手たちが生えている様子は、まるでひっくり返した昆虫の脚ように見える。サイトなど「まるでゴキブリの裏側みたいだ……」と言っていた。わしゃわしゃ。
 竜籠を用意したのは、サイトたちがヴィルカンの背中に乗るのを嫌がったからである。そのことに対して、ルネは特に思うことはない。ルネだって、初めて触手竜を見たときは、狼狽したものだ。今では慣れてしまっているが。

「お嬢様たちは別ルートで向かってるから、護衛に気を使わなくても平気だし。今日は楽できるかな」

【道中はあの女郎蜘蛛がついておるから、ベアトリス嬢たちは問題なかろう。街中で問題があっても、私たちが街まで急降下突撃する訳にはいくまいし】

「というか護衛の必要は無いですよね、お嬢様たち」

 ベアトリスもルイズも、その辺の傭兵メイジを相手にしても、そう簡単に負けるわけはない。『赤槌』のシュヴルーズの指導は伊達ではないのだ。
 そんなわけで、最近、護衛としての自分の存在意義に疑問を感じつつあるルネであった。
 軽く落ち込む騎手をヴィルカンが励ます。

【ならもっと精進することだな、ルネ坊】

「それしかないですね。頑張ります!」

 ただのアッシーに留まるつもりは無いルネ・フォンク。
 尊敬するお嬢様(ベアトリス)の盾となり矛となり、行く行くはハルケギニア中に名前を轟かせる竜騎士になるのだ。
 そのためには、日々鍛錬、鍛錬、鍛錬! グッと手を握りしめて志しを新たにするルネに、ヴィルカンが提案する。

【その意気だ。さて、では今日は待機時間中は高速高機動(ハイスピード・ハイマニューバ)飛行の訓練を行おうか】

「え゛」

 慣性制御や重力偏向の魔法を使いこなすことは、触手竜の騎士(ルフト・フゥラー・リッター)の第一条件である。乗騎と呼吸を合わせ、触手竜の持つ本来の性能以上の高速飛行や高機動飛行を可能にするためである。
 触手竜騎士の専らの攻撃手段は、竜の背中から生えた無数の触手の先から発射されるドラゴンブレスであり、騎士に求められるのは、竜の機動を魔法で的確にサポートすることだ。
 他のハルケギニア諸国の竜騎士では、騎手は乗騎に指示を出したり、敵に攻撃魔法を放つなどの役割が求められており、戦闘の主導権は騎士にある。
 しかし触手竜騎士では、戦場の判断も攻撃も機動も乗騎である竜が行うため、騎士にはそのサポートを行うことが求められているのだ。

【なんだその声はぁ? さっき精進すると言ったばかりだろう! やるといったらやるんだ! 覚悟を決めろ!】

 なので必然、竜の方が立場が上になる。ルネに拒否権はない。


◆◇◆


 触手竜ヴィルカンに牽引される竜籠の中は、外の大気の影響を受けないようになっており、快適な気温、気圧、湿度に保たれるようになっている。
 『レビテーション』を発生させる魔道具によって慣性が制御される上に、外殻部分と内装部分はサスペンションを介して繋がっているため、揺れも少ない。
 そんな中でサイト、ギーシュ、レイナールの三人は今日の行動の予定を確認していた。

「じゃあ先ずは秘薬屋に行ってレイナールの用事を済ませてしまって、そのあとは初王都のサイトの為にトリスタニアの主だった場所を回りつつナンパ。夕飯は『魅惑の妖精亭』で食べて、その後はまたルネに送ってもらうってことで良いかい?」

「おう、それでいいぜ」「うん。ナンパ、ってのが予定に入ってるのは気になるけれど」

 ギーシュが残り二人に確認し、サイトとレイナールが了承の旨を返す。
 レイナールは初めてのナンパに対して尻込みしているようだ。
 しかしそれに対してギーシュは、分かってないなぁとでも言いたげに肩をすくめて見せる。

「男三人で王都を回るより、女の子と一緒のほうが楽しいものだよ?」

「そういうものかな。じゃあ、女の子と言えば、後ろの二人はどうなんだい? ギーシュのクラスの、トライアングルの、キュルケとタバサを誘ったりはしないのか?」

「ふむ、なんだかんだでお目が高いじゃないか、レイナール。そうだね、彼女らは綺麗所だし……。予定があるようだったから望み薄だと思うが、誘うだけ誘ってみるか」

 ギーシュは薔薇の杖を振って、空調の吸排気口を通じて、後ろを飛ぶ二人へと声の伝わる道を作るために『伝声』の魔法を使う。
 『伝声』とは見えない糸電話のような効果を持つ魔法である。空気の繋がっている場所へと相互の声を届ける効果がある。
 トライアングルメイジであるタバサが張った風避けの障壁を越えるのに手間取ったが、タバサのほうがギーシュの魔法に気が付いて、その部分だけ障壁を薄くしてくれたので、なんとか通話できるようになった。

「あーあー、もしもし? 聞こえているかい?」

『なぁに? 何か御用かしら?』

 少しくぐもった艶っぽい声が聞こえる。キュルケだ。
 ギーシュ本来の系統でないためか若干音質が悪い。通話にはぎりぎり支障ない程度だ。
 だがその状態もすぐに改善された。風メイジのタバサが、向こうの方から『伝声』の空気管のラインを繋ぎ直してくれたのだ。

「ああ、もし良かったら王都を巡るのにご一緒できないかと思ってね。是非とも君たちみたいな美しい女性と一緒の時間を過ごしたいんだよ」

『んー、どうしようかしらねぇ。タバサはどうしたい?』

『昼食奢り、なら』

 控えめな声がする。タバサだ。

『だそうよ? ギーシュ。私たちは午後はブティックや本屋を巡る予定だから、昼食までは一緒にいてあげてもいいわ。もちろん荷物持ちをしてくれるって言うんなら午後も歓迎だけど。あなた達の予定はどうなの?』

「僕らは今日は秘薬屋に行って、あとは大まかなトリスタニアの名所をサイトに案内するつもりなんだよ」

『トリスタニア名所、ねえ。じゃあ午後は別行動かしらね。秘薬屋は付き合ってあげてもいいわよ。私もフレイムのための虫下しの原料を買わなきゃならないし』

 キュルケは自分の使い魔のために虫下しを作るつもりだ。
 野生動物には寄生虫が多くついている。それを取り除いてやらないと、本来のスペックを発揮できないこともある。逆に共生生物がいる場合もあるから、その場合はそちらは殺さないようにしなくてはならない。
 予め寄生虫だけ殺す薬のレシピはモンモランシーとルイズに聞いているらしく、秘薬屋に寄るなら、ついでに揃えてしまうつもりらしい。

「そうかい、じゃあ、午前中は秘薬屋に行ったり、そちらの用事にも付き合うよ。もちろん昼はこちらが持とう。なにか好みがあれば、それに合わせて雰囲気のいい店を選ぶけれど」

『たくさん食べられるところがいい』

 タバサは随分たくさん食べるつもりらしい。
 そういえば人間溶鉱炉のような底なしの健啖家マリコルヌとタメを張れるくらいには、あの雪風は大食漢なのだった。見かけに似合わず。
 それなら、と、ギーシュは昼食バイキングをやっているお店を幾つか脳内のお店マップから呼び出す。

「ん、わかったよ。食べ放題をやってる美味しいと評判の店があるんだ。そこに案内しよう。それで良いかい?」

『ええ、いいわよ』『楽しみ』

 『伝声』の魔法が切断され、通話が途切れる。
 ギーシュがサイトとレイナールに目線を送る。どんなもんだい。

「やるじゃん、ギーシュ」

「いや、今回は君がいたからね。懐が温かいと、こちらも誘いがしやすい。あと、君の故郷の話も期待しているよ。キュルケもタバサも、好奇心や知識欲は人一倍だから、君の話を喜んで聞いてくれるはずさ」

「なんだよ、俺の財布が頼りかよ。まあ美人と食事できるならいいけど」

 昼食代はサイトがかなりの部分を持つことになりそうだ。50エキューを初任給としてもらったことはすでにギーシュたちには話してしまっている。
 だがまあ、あれだけレベルの高い美少女ペアと食事ができるなら、多少の出費は許容範囲だ。サイトには他に買い物する予定もないことであるし。
 レイナールは軽い気持ちで「後ろの二人を誘ったら」と言ったのが、実際に食事することにまでなるという急展開についていけないでいる。

「え……っと、まずはみんなで秘薬屋に行くってことでいいのかい?」

「そうだね。僕も愛しいヴェルダンデのために、虫下しをモンモランシーに調合してもらおうかな」

 ギーシュは秘薬調合を機にモンモランシーとのヨリを戻すつもりなのだろう。
 頭の中で使い魔のジャイアントモールのことを考えつつ、モンモランシーのご機嫌取りのために何をプレゼントしようかと悩み始める。やはり水精霊の涙か、それとも秘薬の原料にもなる綺麗な花が良いか……。
 うんうん唸り始めたギーシュをさておいて、サイトはレイナールに話題を振る。

「レシピは分かんのかよ? ギーシュ。って聞いてねえな、こりゃ。……そうだ、使い魔と言えば、レイナールは新しい使い魔は召喚したのか?」

「ああ、それなんだけどね、学院代表で様子を見に来てくれたミス・ロングビル――学院長秘書ね――彼女に聞いたんだけど、あの〈解放の仮面〉さ……」

「なんだよ、あのしっとマスクがどうしたって言うんだ。……あ、まさか」

 言いよどむレイナール。
 それにツッコミを入れていたサイトは、レイナールの言わんとしていることを悟る。
 〈解放の仮面(しっとマスク)〉は魔道具である。生物と違って唯一無二のものではない。つまり――

「あれ、まだ予備があるらしいんだ」

「あー、じゃあ、このまま召喚したら、しっとマスク弐号が誕生するだけか……」

「そうなるね。ミス・ロングビルによると心境の変化によっても呼び出される使い魔は変わるらしいから、僕に恋人が出来たら、再召喚しようと思ってる。もう進級試験は通過してるから召喚を焦ることもないしね」

「それがいいな」

 レイナールとサイトは笑い合う。

 その後二人が好みの女性のタイプはなどと話し始めたり、現実に戻ってきたギーシュが細かく昼食の場所の説明をしたり、レイナールとサイトにギーシュが恋愛指南(ギーシュの父や兄の受け売りが多々あり)をしたりしている間に、目指す王都トリスタニアが見えてきた。
 竜籠の二重窓から、外の景色が見える。一行はトリスタニアの貴族向けの竜の発着場に向かって高度を下げていく。
 王都上空を哨戒する竜騎士が、簡単な検問を行おうと近づいてくる。ルネはそれに対して軽くクルデンホルフ式に敬礼し「うしろのお嬢様方の分もだ」と言って、数枚の金貨を投げる。するとトリステインの検問担当竜騎士は、大層上機嫌に「問題なし、着陸を許可する!」と敬礼までして見送ってくれた。
 ゆっくりと旋回しながら、城下をパニックに陥らせないように慎重に一行は高度を下げる。サイトに良く景色を見せようというルネの配慮もあるのだろう。

「ほら、サイト、これがこの水の国の王都、トリスタニアさ」

 中心に大きな川が流れており、小高くなっている場所に大きな城が見える。王城だ。サイトは「おおー、ほんとに城だー」と感動している。
 王城を中心とした貴族街、川を挟んで低くなっている方が平民街、さらに市街地を囲む城壁の外が貧民街や農地になっている。
 目をキラキラさせて見入るサイトに、地獄の訓練を通じて息のあったギーシュとレイナールが、仲良く同時に言葉を掛ける。


◆◇◆




 蜘蛛の巣から逃れる為に 10.ようこそ王都(トリスタニア)へ!




◆◇◆


 トリステインの路地裏、看板のない店のオーク材の重厚な扉が開く。向かいに秘薬屋があるせいか、辺り一帯に不思議な匂いがしている。そしてそれらに紛れて、微かに、火薬や機械油の匂いもする。火薬や油も一種の秘薬なので、秘薬屋が扱っていても不思議ではないのだが。
 厳つい如何にも口の悪そうなオヤジの満面の笑みに見送られて、看板のない店から出てきたのは、三人の少女だ。ピンクブロンドの長髪、金髪のツインテール、漆黒の肩まで切り揃えられた髪、三者三様の少女たちだ。店主のオヤジが「お嬢様がた、気をつけてくださいまし。最近は浮浪者の死体が消えるとか、水路近くで化物が出るとか何とかいう噂があるんでさあ」などと言って見送り、軽く頭を下げて扉を閉める。
 黒髪の少女は前の二人の従者なのか、荷物を持って一歩退いて歩いている。しかし、黒髪の少女はなにやら興奮した様子であった。

「すごいです! 学院からここまでホンの十数分で着くなんて! それに学院の地下からここまで道が繋がっているなんて知りませんでした! さっきの列車、しゅごーって、もう、すんごいですね!」

 彼女らは、王都に買い付けに来たルイズとその自称義妹ベアトリス、ルイズの侍女シエスタの一行である。
 彼女らが今しがた出てきた秘薬屋の向かいの建物は、トリステインで唯一の銃火器屋(ガン・スミス)である。実際は火器以外にもなんでも商う店であるが。ルイズたちはここで必要なものの手配をしてきたところだ。夕方には全て揃えられるということだったので、時間を潰すために王都へと繰り出したのだ。それに服くらいは実物を見て選びたいし。
 この店の看板が出ていないのは、法に触れるような過剰な威力の銃火器や魔道具を扱っているためであるし、この店がトリステインでは忌み嫌われているアトラナート商会(蜘蛛商会、クルデンホルフ大公国で一番規模が大きい商会)の店舗だからでもある。各地と一瞬で繋ぐ〈ゲートの鏡〉があるため、商品のお取り寄せなどもその日のうちに対応してくれる。

「知らないのも無理は無いわ、シエスタ。さっきの地下通路が使われたのは、おそらく実に千年以上ぶりのはずだから。維持管理は自律型の魔道具によって行われていたようだけれど」

「確かにそうですわ。私も、トリステイン魔法学院に転入する際に、関連する過去のあらゆる資料を調べてみて、それで初めて、地下の抜け道や、ウード教師長が学生時代に使っていたという研究室の存在を知ったくらいですもの」

「オールド・オスマンなら知ってそうだけど」

「それよりは秘書のミス・ロングビルのほうが知ってそうですわ。さっきの店主、というか、あの店自体が、学院までの地下道も含めて、彼女のお仲間(インテリジェンスアイテム)みたいでしたし」

 適当に言葉を交わし合う二人の会話に混ざっていた単語に、シエスタが反応して驚く。

「ええっ!? ミス・ロングビルってインテリジェンスアイテムだったんですか!?」

「50年も老けない女が人間な訳ないでしょう」

 言われてみれば、たしかに使用人の間でもそんな話を聞いたことがある。
 シエスタは仕事に就いてすぐだったので、あまり実感がないが、結構長く働いているメイド長よりもロングビルの方が先輩だというのを耳に挟んで、ありえないと思ったことはある。
 だがロングビルが、人間ではなくて魔道具やガーゴイルの類だというなら納得だ。

「魔法で永遠の若さを、ってのは出来ないんですか?」

 絵本なんかでは、魔法使いは何でもできる存在として描かれている。
 だから不老不死の魔法というものも存在しているとシエスタは思っていた。
 存在してなくとも、新しい雇用主であるルイズ様なら何とかしてしまいそうだけれど。

「シエスタ、魔法もそこまで便利じゃないわ。まあ、邪道外法の限りを尽くせば、延命や若返りの手段なんて幾らでもあるけれど」

「邪道外法……」

 やっぱり手段があるにはあるんだ、とシエスタは思う。

「特殊な儀式を施した人肉を食べたりとか、邪神と契約したりとかね。少し前の文献では、『よく動くゴーレムの作り方』なんかに、平気で『人間のミイラの粉を使って云々……』って出てくるんだから」

 魔法なんて碌なもんじゃない。と、シエスタの持っている魔法に対する万能で神聖なイメージを、ルイズは叩き壊す。
 魔法は手段に過ぎない、とルイズは考えている。“貴族は魔法をもってその精神とする”というのは実に結構だが、結局、問題はその魔法を以て何を成すのかということなのだ。
 魔法それ自体が尊いのではない。手段を目的にしてはならない。

 だが一方で、目的のために手段は正当化される。
 ハルケギニア人の命運を蜘蛛の連中の巣から引きちぎって取り返すためならば、ルイズは、使える手段ならば邪道外法でも何でも使うつもりであった。
 それこそ連中の用意するものであろうが何であろうが、だ。例えるならば、不思議のダンジョン内で、店の商品を使って店主を殺して泥棒するようなものだろうか。

 幸い、と言っていいのか、彼ら蜘蛛の眷属はルイズの思惑を知っていつつ、彼女を泳がせているようだ。
 シャンリット特製の汎用マジックカードの使用権限は取り上げられていないし、アトラナート商会のサービスも利用出来る状態のままだ。
 何らかの対策は練られているだろうが、彼らからは、ルイズの反逆すらも観察対象として心待ちにしているかのような雰囲気が感じられる。

 不気味な相手だ、とルイズは思う。千年教師長、狂人ウード・ド・シャンリット。ルイズが挑むべき蜘蛛の寵児。

「延命法といえば、例えば、わたくしの実家の千二百年前の先祖ウード・ド・シャンリットは、自分の魂をインテリジェンスアイテムに移し替えることで、事実上不老不死になって、今なお学術都市に君臨していますし」

「ふえぇ~、すごいですねぇ。『千年教師長』というお伽話に書いてあった話はホントだったんですね」

「感心している場合じゃないわ、シエスタ。私の侍女になるということは、最終的にはその『蜘蛛の頭領』ウード・ド・シャンリットと戦うということなんだから」

「……え?」

 ルイズの言葉に固まって歩みを止めるシエスタ。
 いま、このちいさなおんなしゅじんは、なんといっただろうか?
 止まってしまったシエスタの方をルイズとベアトリスが振り返る。

「ハルケギニアでは、ここ千年間、飢饉や疫病の大流行は起こっていないわ。調べてみれば分かるけれど、それらの兆しが見えたときには、それとなくアトラナート商会やクルデンホルフ大公国の介入があってるの」

「え、でも、クルデンホルフは鎖国主義なんじゃ……」

「表向きはそうですが、実際はそんなことはありませんわ。『蜘蛛のキャラバン』というのを聞いたことはありません?
 学術都市シャンリットは、キャラバンを通じて積極的にさまざまな研究資料たる文物、自然物や労働力――つまり人間そのもの――を輸入していますの。飢饉や疫病の際には、その買取代価が、金貨ではなく小麦や薬になるだけですわ」

 人買いのアトラナート商会。“悪い子はアトラナート商会に買い取ってもらうから”というのは、このハルケギニアでは誰でも子供の時に聞いたことのある躾文句だ。
 何でも、それこそ道端の犬の糞であろうがなんだろうが買い取ってくれるという、アトラナート商会の行商隊(キャラバン)は、様々な場所を巡って、各地の特産品や珍品を集め、またその時々に辺境の村が必要とするものを売ったり、物々交換したりする。
 彼らのキャラバンが買取る品目としては、人間そのものも含まれている、らしい。シエスタは幸いにして、子供が買われていくところは見たことがなかったが、キャラバンそのものはタルブ村に居た頃に何度も見たことがある。

「彼らは、私たちハルケギニア人のことを、まるで何とも思っていない。ただ、『6000年続いているのが滅びるのは勿体無いから』という理由で、小麦も秘薬も与える。私にはそれが我慢ならないのよ」

「ええ、その通りです、お姉さま!」

 ルイズの言葉にベアトリスが同調する。いやまあベアトリスがルイズに反対することは先ずないのだが。
 シエスタは目を白黒させながら、ソロリソロリと荷物を持ってない方の手を挙げて、轟々と決意の炎を燃え上がらせる二人に尋ねる。

「え、っと、でも、どうやって、です?」

 いつの間にか二人で手を取り合って、なんか背景に炎でも出そうな勢いだったのが、そろってシエスタの方に振り向く。ちょっと怖い。
 でも故郷の弟妹たちのためにも、こんなに高待遇のところを辞めるわけにはいかない。
 一度引き受けたことは投げ出すなと、曽祖父も言っていた。シエスタはお祖父ちゃんっ子だった。ここは覚悟の決めどきかもしれない。我れ知らず、荷物を握る手に力がこもる。

「それは――」

 ルイズが口を開こうとしたところで、二人の後ろから近づいてきた男が、よそ見でもしていたのかそのままルイズとベアトリスにぶつかった。

「きゃ!?」「あんっ!?」「ルイズ様! ベアトリス様!」

「おっと、すまない」

 華奢な二人はぶつかられた勢いで転びかけるが、そこはさすがに鍛えていので、たたらを踏んでなんとか転倒はこらえた。
 どちらも特に怪我はないようだ。シエスタはほっと心中で溜息をつく。これでもしルイズが傷ついていたら、ベアトリスがどんな暴走をするか分かったものではなかったからだ。
 ベアトリスが眦を吊り上げて元凶の男を睨みつける。ルイズもその男の顔を見遣る。

「『おっと、すまない』じゃありませんわ! この無礼者! タダで済むと――」

「ストップ、ベアトリス」

 ルイズが怪我していなくても、ベアトリスは充分に怒っていた。
 だが、男の顔を見てルイズが何かに気づいたのか、ヒートアップしたベアトリスを止める。

 ルイズと男の声が重なる。
 ぶつかってきたのは魔法衛士隊の制服を着た、灰色の髭が特徴的な男だ。腰にはレイピアのような剣杖を差している。

「ひょっとして貴方は――」「おや、君は――」


◆◇◆


 ほぼ同時刻、ルイズたちが蜘蛛商会のガン・スミスから出てくる直前に、サイトたち一行は、ガン・スミスの向かいの秘薬屋『Piedmont(山辺)』に入っていっていた。
 超ニアミスであった。まあ別に合流するとか言う取り決めがあるわけではないので、特に問題はないが。

「ごめんくださーい」

 もはや常連のレイナールが、気さくに奥にいる店主に声をかける。
 秘薬屋の中は、案外整理されていた。小さな引き出しがついた棚が所狭しと並んでいる。
 漢方薬の店や、調香師の仕事場が、ひょっとしたらこんな感じかもしれない。少量多品種を扱うのを目的とした店作りである。かと思えば上に竜の頭蓋骨らしきものが吊り下げてあったりする。よく分からない店だ。
 中に入ってみると、先客がいるのが見えた。紅い長髪の女性だ。

「あれ、ミス・ロングビル?」

 レイナールの問い掛けに、女性が振り返る。
 どうやら学院長秘書のロングビルという女性らしい。

「レイナール君ではありませんか。それにギーシュ君にサイト君も。傷はもういいのですか?」

「はい、おかげさまで」

 レイナールとロングビルが色々と話し込む。
 その間に他の面々は、適当に秘薬が置かれている棚を見ている。
 サイトも、移植されたルイズの左眼から流入する知識によって、秘薬の知識はかなりのものがある。そのため秘薬そのものの実物の他にも、その分類方法やディスプレイ方法を興味深く見ていた。

(んー、これは何だ? 効能別に分けてあるのか? 系統分類順?)

 サイトが興味深く店の中を見て回っているうちにも、他の面々はめいめい自由に店内を見て回ったり、店員を捕まえたりしている。店員は、初老の店主の他に、見習いか家族らしき若い店員が男女二名ずついるようだ。客はロングビルとサイト一行の他には居ない。
 レイナールとロングビルは相変わらず話し込んでいる。聞こえてくる内容によると、ロングビルは、先日『闇の跳梁者(劣化版)』が召喚された際に気が狂れた(ふれた)生徒たちのための精神作用系の魔法薬を受け取りに来たらしい。
 キュルケは若い男性の店員を捕まえて、使い魔のサラマンダーの虫下しを作るのに必要な材料を注文している。色仕掛けでまけさせようとしているようだ。若い店員の鼻の下が伸びている。ただでさえ色香が強いキュルケが色仕掛けをすれば、それは効果は抜群だろう。
 一方ギーシュは若い女の店員を捕まえて、ジャイアントモールのための薬などが無いかどうか聞いている。だが、同時にその女性店員の知識を褒めそやして、ご機嫌をとっている。早速ナンパか、やるなあ、ギーシュ。
 タバサはサイトと同じように棚を見て回っている。見て回っているが、その対象は、薬というよりも毒物、劇物に偏っているように思われる。今彼女が見ている植物は、そう、暗殺者が使うような、一撃必殺の毒の材料になるはずだ。誰か殺したい相手でもいるのだろうか。

 色々と興味深く見ているうちに時間が過ぎ、それぞれ必要な秘薬を買い込んだり、手配してもらったりした。ロングビルとはそのまま秘薬屋『Piedmont』で別れた。ギーシュが軽く誘っていたが、すげなく断られたようだ。乳臭いガキに付き合う時間はないということを、職業倫理上の問題に絡めて懇切丁寧に諭されたそうだ。
 次は書店や古書店巡りとなり、それぞれが気に入った本を買ったりした。途中でタバサが分厚い本を山と積んで「“おにいちゃん、この(背表紙が)あつくて、(表紙が)くろくて、(積み重ね的に)ふといの、ちょうだい”」とサイトにおねだりするというハプニングもあった。誰の仕込みだ、キュルケか。グッジョブ。もちろんサイトは言われるままにタバサに本を買ってやった。
 ギーシュは彫金のデザイン本を、キュルケは流行りの恋愛小説を、レイナールは秘薬調合の実践本を、タバサは様々な魔法理論の本(黒くて太くてあつくて中身が白い)を買っていた。
 サイトはとりあえずハルケギニアの歴史の入門本を買った。異なる文化に対するバックグラウンドの理解は、会話やより深い相互理解に必要なのだ。インプリンティングされた知識は必要に応じて脳裏に浮かび上がるが、体系的に本を読むとまた別な角度で脳に植えつけられた知識が馴染むことを、サイトはレイナールとの共同秘薬調合実験の手引書を読んだ際に実感していた。それは目の前の霧が晴れるような、虫の視点から鳥の視点になったような、爽快な感覚であった。

 そして、昼食。
 ギーシュが選んだビュッフェ方式の店は、なかなか雰囲気も良く、味も良く、価格も良心的であった。
 皆の話題はサイトの故郷の話や、ギーシュの使い魔自慢から、ハルケギニアの各生物の話に及び、それぞれの生息地やハルケギニアの地理、さらには最近の国際情勢にまで広がった。レイナールは博物学的な話題に詳しく、キュルケは世俗の事情に詳しかった。国際情勢では、軍事的な見地からの意見をギーシュが述べていた。時々タバサが言葉少なながらも辛辣で的確なツッコミを入れる。サイトは最初の自分の世界の話以外では専ら聞き手、聞き出し手に回っていた。

「アルビオンでは内乱が本格化しているらしいね」

「王弟派と現王家派に別れて、らしいね。ここまでならよくある継承争いだけど、王弟派はレコンキスタを名乗ってるんだっけ。『聖地奪還のためにハルケギニア一団となって立ち上がるべし』と言っているそうだね。勢いづいてハルケギニア統一に乗り出したら、トリステインにも戦火が及ぶかも知れない、と父上は頭を痛めていたよ」

「男の人は戦争が好きよねえ。ウチの国の皇帝閣下は、そんなトリステインの弱みにつけ込んで、アンリエッタ姫を手に入れるつもりらしいけれど」

「うーむ、ゲルマニア皇帝のハーレム(後宮)に、我らが姫を渡したくはないが、これは政治的な問題だからなあ。姫様は乗り気じゃないそうだが、ゲルマニアに頼らねば、トリステインの先は暗い。マザリーニ枢機卿の他にまともな政治家が居ればなあ」

「……もぐもぐ。そう言って無いものねだりをする間に、あなたたちが政治家になればいい」

「ミス・タバサ、そうは言うけど、そう簡単に若造が発言権を得られる訳ないよ」

「……むしゃむしゃ。全面的な戦争になれば、混乱に乗じてのし上がることも可能。レコンキスタに着くのも一つの手」

「まさか! トリステインを裏切れというのかい!?」

「……もっしゃもっしゃ。仮定の話。国ごと家門が滅ぶよりは良いはず」

(ファンタジー世界もいろいろ大変なんだなあ)

 和やかに楽しい昼食の時間は過ぎていく。そして食べ放題を選んだギーシュの慧眼は褒められるべきだろう。
 タバサがもりもり食べたため、次回以降はこの店が使えないのが残念である。
 食べ過ぎて出入り禁止を食らってしまった。タバサ禁止。使える店が減ったとギーシュは力なく笑った。

 そしてサイトたち男子組と、キュルタバコンビは、名残惜しみつつも、それぞれ別れて、市内を回ることになった。
 男子組は王都観光、女子組はブティック巡りである。嵩張る荷物は、いつの間にかギーシュがまとめて学院への配送を手配していた。なかなか気がきく男である。細やかな気遣いは見習いたいと、レイナールがこぼす。レイナールは昼食のときの会話で、多少は女性との会話に喜びを見出したらしい。自分を変えたいという彼の思いは、どうやら本物らしい。
 というわけで、時間が流れて、いま、サイトとギーシュとレイナールは、王城の前に居た。

「……なんか、ピリピリしてねぇか?」

「うーん、確かに、ちょっと様子がおかしいね」

 王城前の衛兵は、油断無く周囲を見回しているが、撒き散らす雰囲気が何故か刺々しい。
 チラリと見えた城内でも、多くの人が走りまわっている。「見つかったか!?」「いや、北側には居らっしゃらなかった」などという声が聞こえる。
 ギーシュとレイナールも首を傾げている。何度か王城前を通ったこともあるが、こんな雰囲気ではなかったはずだ。王城がこのように浮ついているべきではない。トップはどっしりと構えているべきなのだ。

「今は取り込み中みたいだから、違うところを回ろうか」

「そうだね、トリスタニアの名所はここだけじゃないし。折角だからレイナールのためにも、おすすめのデートスポットを紹介して回ろうか」

 レイナールの提案にギーシュが同調する。ギーシュはレイナールをプレイボーイに仕立て上げるつもりなのだろう。
 男とは概して教えたがりであるし、レイナールは真摯で真面目な良き生徒であるから、ギーシュとしても教え甲斐があるのだろう。
 今まで父や兄に教えられるばかりだったのが、教える側に回れて得意になっている部分もありそうだ。

「あー、まあそっちの方が役立ちそうだな。でも、男だけで回るのか?」

 デートスポットに男だけなど、居た堪れない。

「当然ナンパするに決まってるじゃないか! 是非とも頑張ろうじゃないかね、諸君。さっきのキュルケやタバサ程とはいかなくても、可愛い娘を捕まえたいものだね」

 気炎を上げるギーシュと、初ナンパということで肩に力が入るレイナール。
 サイトはやや呆れつつ、若さの勢いって素晴らしい、と眩しい物を見る思いであった。
 平賀才人22歳。まだ老けこむには早いと思うのだが。


◆◇◆


「あのさあ」

 曲がり角の影に隠れて周囲を伺いつつ、うんざりした様子でサイトが呟く。彼の手には土魔法で作られたコンパウンドボウ(化合弓)が握られており、背には矢筒を背負っている。

「俺たち、王都に観光とナンパに来たんだよなあ?」

「その通りだとも、サイト。ほら、その成果が、こちらの姫君であらせられる。なんとも光栄なことじゃないか」

 ギーシュとレイナールも杖を片手に周囲を伺っている。軽口とは裏腹に、彼らの頬を冷や汗が伝う。
 一人の女性を中心に、サイトたちは三人で取り囲むようにして、周りを警戒している。
 囲まれている女性は、町娘のような格好の上に、暗渠の冷気を遮るためのローブ(ギーシュが作ったもので、裾に薔薇のワンポイントがあしらわれている)を羽織っている。髪は肩口くらいまでの栗色で、手入れがいいのか、枝毛などはない、艶やかな色合いである。きっと高貴な身分の出なのだろう。顔立ちからも生来の高貴さが滲み出している。震える彼女の手には水晶が嵌めこまれた高価そうな杖が握られている。

「あ、あの、みなさん、ごめんなさい。こんなことに巻き込んでしまって」

 女性が小さくなって、サイトたちに謝る。

「何をおっしゃいます! 女性を守るのは男の勤め! そして、姫君を守るのは、トリステイン臣民の義務でありますれば!」

「ギーシュの言うとおりです。安心してください、アンリエッタ姫殿下。必ずや無事に送り届けますので」

 そう、守られている女性は、トリステインが誇る可憐なる白百合、誰あろう、アンリエッタ・ド・トリステイン姫殿下であった。


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キャラクターが増えると話が進まない。
王都探訪編は典型的なハック&スラッシュになるはず。
……あれ、なんで王都でそんな話に? ほのぼの日常編じゃなかったっけ? ってのは作者自身不思議に思ってます。

2011.02.05 初投稿



[20306] 蜘蛛の巣から逃れる為に 11.地下水路
Name: へびさんマン◆29ccac37 ID:b87f4725
Date: 2011/02/08 21:18
「姫様が脱走したですってぇ?」

 トリスタニアの路地裏にルイズの頓狂な声が響いた。
 その声の先には、急ぎ足で各路地を確認している魔法衛士隊の制服を着た灰色の長髪の男がいる。この男、ルイズの婚約者、ということになっているジャン=ジャック・フランシス・ド・ワルド子爵と言う。魔法衛士隊のグリフォン隊の隊長を務めているエリート軍人である。
 ルイズの後ろには、おねえさまが男(しかも婚約者!)と話しているのが気に入らないのか、額に縦ジワを作ったベアトリスと、そんな様子をハラハラしながら見ているシエスタがいる。ベアトリスの悋気のオーラのストレスで、シエスタの胃がマッハでヤバい。誰か彼女に胃薬を支給してやってください。

「ああ、全く困ったものさ。これからゲルマニアに行幸しなきゃならんってのに、ゲルマニアのアルブレヒト三世との婚約を儚んで、いや墓なんだと思って、かな、とにかく城から逃げ出したのさ、我らが姫殿下は。本当はもう出発してなきゃいけない時間なんだが」

「あぁ、姫様ならやりそうですね。それも常日頃から。実は脱走は恒例行事だったりしないのですか?」

 ルイズは昔、クルデンホルフのミスカトニック学院に拉致され……、いや留学する前は、歳が近いこともあってアンリエッタ姫の遊び相手を務めたこともあるのだ。
 あの頃の姫はお転婆で、もしもその頃の性向のままならば、王城脱走も日常茶飯事だということがありうる。いや、ワルド子爵の様子を見るに、追う側に『脱走慣れ』がないことから、そう頻繁に脱走しているわけではないのだろう。
 脱走経路は不明だそうだが、姫様には妙な色香があるから新米の衛兵なんかはころっと誑かされて脱走幇助くらいやらかしてしまうだろう。あるいは王家のみが知っている秘密の抜け道でもあるのだろうか。

「さすがにそんなことは無いと思うがね。まあ何にせよ今回は時期が悪い。城下では何か不穏な噂も聞くし、玉体に何かあってはコトだ」

「それでワルド様は『偏在』を総動員して捜索に当たっている、と」

「その通り。我らがグリフォン隊は姫殿下のゲルマニア行幸をまるまる護衛するってことで、色々な確認事項が山とあったんだがねぇ。本体は未だに執務室に缶詰だよ。残りの『偏在』たちも各所で捜索指揮を執るために動いている。僕は別の指揮所に向かう途中で君たちにぶつかったというわけだ」

 風系統の分身魔法『偏在』を使える術者は貴重である。それぞれが自立思考を持った分身は、各自で魔法を唱えることすら可能である。特にワルド子爵は、まるで人間のような、非常に精度の高い分身を作る事ができる卓越した術者である。
 実はワルド子爵には財務省や各省庁の方から引き抜きが掛かっていたりもする。彼が居れば事務処理能力が段違いに上昇するからである。実際時々彼は文官の真似事もしている。パッと現れて何時の間にやら書類を処理して去っていくことと、雷電系魔法の詠唱の速さも合わさって付いた二つ名が、『閃光』のジャン=ジャック。
 彼がグリフォン隊の隊長職を務めているのは、ヴァリエール公爵の後ろ盾やスクウェアレベルの魔法の腕のおかげだけではなく、それを活かす実務能力の裏付けもあってのことである。ただの魔法バカではないのだ。

「とりあえず、殿下もさすがに市門から外には出てらっしゃらないと思いたいんだが……」

「市門の外の貧民街に入り込まれてたらマズイですね」

 ルイズは親友として、アンリエッタの身を案じている。割とトリステインの行く末はどうでもいい。ゲルマニアと結ぶのは気に入らないが、クルデンホルフに借金のカタに身売りするよりはマシだ。
 それに、ルイズが彼女の目論見通りに蜘蛛連中を駆逐して、彼らの蓄積した富や知識、ネットワークを乗っ取れば、いくらでもトリステインは発展させられる。
 それよりアンリエッタが何かトラウマを負うようなことになっていないと良いのだが。純潔とか治安的な意味でも、暗黒神話的な意味でも。
 シャンリット程ではないにせよ、トリスタニアにも色んなところに碌でも無いトラブルが埋設されているのをルイズは知っている。平穏の一つ下にはいつでも不穏な影が蠢いているものだ。

「それより地下水路にでも入られたらもっと大変だ」

 王都トリスタニアは、もともと水資源が豊富な立地の上に、長年、都市を拡張してきた。
 地下水路はもとからあった小川を暗渠にしたものから、土魔法によって掘られた大規模下水道や、増水時の緊急放水路などが錯綜しており、王政府でも全容を把握していないと言われている。……しかし何故かアトラナート商会なら全図面を持っていそうな気がする。というか絶対持ってる。
 このような複雑な地下水路迷宮の存在は、浮浪者やモンスターの温床となりやすく、治安上の問題を引き起こすとの懸念が古くからある。また治安だけでなく悪臭などの大衆衛生上の問題も市民の衛生意識の高まりに応じて近年クローズアップされている。

「最近、地下水路の出入口近くで化物を見たという報告が散発的に上がってきている。縄張りを化物に追われて地上に溢れ出した浮浪者たちによる窃盗やスリが増えたりもしている。君たちも気をつけてくれたまえ。あと姫殿下らしき人物を見かけたら近くの衛兵に知らせてくれ。
 ゲルマニア行きの後に休暇が貰えそうだから、是非とも今度は食事でも! 二人っきりでね。本体にも君に会ったことは伝えておくよ」

 では! と白い歯を見せて笑い、シュタッと腕を上げて礼をしつつ、ワルド子爵は疾風のような速さでルイズたちから別れる。
 追風の魔法を併用して複雑な街区を駆けていく『閃光』のジャン=ジャックは、あっという間に雑踏に消えてゆく。風のスクウェアの実力に恥じない速度であった。
 ルイズから一歩引いたところを歩いていたベアトリスが、すかさずルイズの隣に並ぶ。と同時に、周辺の空気を『錬金』の魔法で消臭し、ワルドの残り香の一切を駆逐する。その後ろではようやく緊張から解放されたシエスタが一息付いている。

「ふん、気障ったらしくて嫌な男! お姉さま、彼との婚約は解消しませんの?」

「んー、でもいい男よ、有能で。腹に一物秘めてそうな感じがするけれど……。ああでも婚約はまだ有効なのかしらね? 酒の席の話だったと思うし、私の留学とかでその辺有耶無耶なのよねー。今度お父様に聞いてみようかしら」

 自分の目的を果たすまでは結婚などしないつもりであるが、どうせなら伴侶は有能な方がいい。
 魔法衛士隊隊長の『偏在』遣いなら申し分はないだろう。頭も切れるし、領地がラ・ヴァリエールのすぐ隣りというのもポイントが高い。
 打算まみれの自分の思考に苦笑しつつも、ルイズは貴族の結婚とはそういう利害関係の上に成り立っているものだということは否定しない。それならそれで、ルイズは自分の家柄や虚無の血統を利用し尽くして、自分の目的の役に立てるつもりであった。

「む、むむ、いけません。お姉さまの隣りはこのベアトリスと決まっているのです。あんな優男にも、ガンダールヴにも、お姉さまは渡しません」

 ベアトリスがルイズに抗議する。

「ふふ、ヤキモチかしら? ベアトリス。安心なさいな、私は誰かに所有されることはないわ。逆に、みんな纏めて私のモノにしてこき使ってあげるわよ」

 だが自信満々に、ルイズは不敵に笑って続ける。自分は支配し所有する側なのだから心配無用だと。
 彼女の目元は影になっていて伺えない。支配者としての天性のオーラが、実体を持った風の様にして叩きつけられる。虚無の系統とは、始祖の系統、即ち、王の系統。彼女にはリーダーの資質と、圧倒的な魔法の力が宿っている。
 それを感じてベアトリスは陶然とし、シエスタは恐怖した。“魔王”、シエスタは知らず知らずのうちに、口に出そうとしたその単語を手で押さえて飲み下す。

「来るべき、世界奪還の時に向けて、ね。当然、貴女たちは私についてきてくれるわよね?」

 あれ、いつの間にか私も含まれてる? とシエスタは思うがもはや後の祭りである。

「もちろんですわ! お姉さま! 『運命をヒトの手に』!! ……ほらシエスタも」

 ベアトリスに促されて、半ばやけっぱちにシエスタも声を出す。

「う、『運命をヒトの手に』~!」

 路地裏で、美少女三人が、えいえいおーとスローガンらしきものを唱えあう。
 それだけ見れば微笑ましくもないが、内容は極めて物騒であった。
 きゃっきゃうふふ、と手を取り合って大通りへと出て行くルイズとベアトリスの後を慌ててついて行きつつ、シエスタは心中で嘆く。

(ああ、ひいおじいちゃん、シエスタは選択を誤ったかもしれません。せめて同僚のサイトさんはもっとマトモだと良いんですが……)

 ちょっと潤んだシエスタの視線の先で、ルイズが何やらこめかみに右手を当てて立ち止まる。するとみるみる彼女の表情が曇っていく。
 女主人(ルイズ)の左手が忙しなく擦り合わされている。これは厄介ごとのサインだということを、シエスタはここ数日の付き合いから知っている。
 一体今度はなんだと言うんだろうか……。


◆◇◆




 蜘蛛の巣から逃れる為に 11.トリスタニアの地下水路迷宮(ラビリンス)




◆◇◆


 淀んだ水の匂いがする。
 流れない水は、死んだ水だ。死霊を遮る力も持たない、活力を失った水。淀みを無くすことは、水系統の術者の基礎にして基本。アンリエッタも御用教師からそう教わった。
 流水の爽やかさとも無縁で、海の生命の匂いもしないここは、死の領域なのだろう。周囲の地下水路の闇から骸骨が手を伸ばしてくるような想像に、アンリエッタは背筋が凍るような気がして、ギーシュに『錬金』してもらったマントの前をぎゅっと閉める。

「大丈夫ですか、お姫様」

 彼女を気遣って、黒髪の青年(サイト)が声をかける。

「ええ、大丈夫。ありがとう、サイトさん。それにギーシュさんに、レイナールさんも」

「勿体無いお言葉です」「ええ全く」

 周囲にはギーシュやレイナールも居る。二体ずつのスパイクが目立つ鎧で構成された四脚ゴーレムが彼らの前後を固めている。
 前からレイナールのゴーレム×2、レイナール、アンリエッタ&サイト、ギーシュ、ギーシュのゴーレム×2の隊列で、現在は小休止をとっている。
 ここは巨大な水路の脇の通路だ。水路には僅かな水と湿った汚泥しか残っていない。

 “敵”は前から後ろから、時には汚泥の中や天井からも襲って来た。それに対処するために前後に壁となるゴーレムを置き、最優先護衛対象のアンリエッタ姫を、最も単体での反応速度と攻撃力に秀でたサイトが守る形だ。
 土メイジであるギーシュらが造るゴーレムたちは互いにうまく連携し、空間の限られた地下通路で“敵”を上手く誘導してきた。
 そして動きを止められた“敵”にトドメを刺すのが、サイトの持つ強力な弓だ。彼は時には単身斥候に出て、通路上の“敵”を遠距離から撃破して安全を確保したりもした。

 サイトの指示のもとに『錬金』の魔法で作られたその金属弓は、コンパウンドボウと言うらしい。彼の腕には篭手が嵌められており、弓の弦から腕を守ることができるようになっている。
 滑車を備えたその弓は、比較的軽く引くことが出来るのだが、一撃必殺の威力を出すためにその金属弓は何枚もの銅板を貼りあわせて太く厚く作られているため、サイト以外では少しも引くことが出来ない。
 しかしそれでも尚、人の手による『錬金』の弊害か弓の材質が一定になっていないため、何度か半ばから弾け飛びそうになった、らしい。
 弾ける直前にサイトが弓の限界を悟って、予備の弓に持ち替えたために、幸い、弓の破裂による味方の被害は出ていないが、サイトによると、かなりギリギリで危なかったらしい。

「スクウェアクラスの『錬金』が使えれば、壁や通路に掛けられた『固定化』を破って道を作れるんだけどね」

 レイナールが自分の未熟を嘆く。

「あるいは風メイジが居れば、どこか外に繋がる道がないか分かるだろうにね」

 ギーシュもボヤくが、無い物ねだりをしても始まらない。

「風メイジ……風のルビー……ウェールズ様ぁ……」

 風メイジという言葉に反応して、アンリエッタの顔がくしゃくしゃっと歪められる。
 目は涙で潤んでいる。
 この極限状況で、精神が弱って涙もろくなっている部分もあるのだろう。

 アンリエッタ姫には想い人が居る。
 彼女は望まぬ結婚が嫌で、王城を抜け出してきたのだ。
 そしてその彼女の想い人というのが、風メイジらしい。

 白の国の王子ウェールズの名前が聞こえたが、彼らとしては是非とも聞かなかったことにしたかった。
 姫様の想い人の名前を知ってもどうしようも無い。話は国と国との問題なのだ。一貴族子弟にどうにか出来る問題ではない。
 まあ、次代のトリステインを担う身として、自分たちトリステイン貴族の不甲斐なさが身に染みるということはあるが……。
 もっとトリステインに国力さえあれば、姫がこんな風に声を押し殺して地下水路迷宮で泣くようなことにもならなかったはずだ。

 あーあ、なーかしたー。サイトとレイナールは非難を込めてギーシュを見る。いーけないんだー、いっけないんだー。
 ギーシュもギーシュで狼狽える。姫様を泣かせてしまった! どうしよう!?
 何か、何か話題を逸らさなくては、明るい方向に、恋愛から離れて!

「ひ、姫様! 姫様は使い魔を召喚なさいましたか?」

 この話題なら大丈夫だろう、多分。

「ぐすっ、ぅえ? 使い魔、ですか? いえ、まだです。そういえば皆さんは魔法学院の二年生でしたね。使い魔品評会の予定が、ゲルマニアに行ったあとに入っていたと思います。……そう、ゲルマニアに……いった、あと、に、ぐすっ、ふぃいぃぃ……」

 うわ、めんどくせえ。
 サイトだけでなく、臣下たるギーシュとレイナールも、不敬と分かりつつ、その思いを抱いてしまったのは仕方ないと思う。
 今度はサイトが強引に話題を転換する。そう、建設的に行こうじゃないか!

「なあギーシュ、お前の使い魔のヴェルダンデに穴を掘って迎えに来てもらうことは出来ないのか?」

「さすがに僕の自慢のヴェルダンデでも、スクウェアクラスの『固定化』と『硬化』がかかった壁を崩せないよ。しかも半端に老朽化しているから、きちんと応力計算しないと、下手したら全通路が連鎖的に崩壊してトリスタニアごと地盤沈下、なんて事態にもなりかねない」

「いや、さすがにそこまではならないだろう。多分」

 そんな、経絡秘孔を突いて人体爆裂みたいなことにはならないだろう。
 クリティカルでジャックポットな悪魔的な偶然が重ならない限りは。
 ……そう、偶然が重ならない限り(・・・・・・・・・・)は。

(……うわぁ、否定出来ない。俺って運悪いし)

 経験上、事態は必ず想像の斜め下を通ることを身に沁みているサイトは、楽観的な想像を捨てる。
 大体、この地下水路に落ちたのだって、運がなかったとしか言いようがないのだ。

 少しサイトは回想してみる。
 何故彼らが廃棄された地下水路を当て所なく彷徨うことになったのか。

 まずは衛兵に追われる美少女を見つけたギーシュが、カッコ付けて「彼女は僕の連れだよ」と衛兵に金貨を差し出しながら助けたのが、フラグ1。
 その美少女が実は王女様で、というので、フラグ2。
 婚約が嫌で逃げ出してきたとか、隣の国の王子に恋してるとか聞いて、「自分の意思をちゃんと伝えてみたり、他の道を探るべきじゃね?」ってサイトが諭して、フラグ3。
 じゃあ、辿ってきた地下水路経由の抜け道を帰ろう、となって、「もちろん城まで送ります」とギーシュやレイナールが立候補して、フラグ4。
 で、長年使われていなかった地下水路の抜け道は老朽化していて、ひとり分ならともかく、四人分の重量を支えることはできなかった、というのでフラグコンプリート。

 ビシビシと地下水路に亀裂が走ったのに気がついたときにはすでに遅く、水路はサイトたちを巻き込んで崩落した。
 そしてなんとか怪我せずに着地したものの、見事サイトたちは地下水路に閉じ込められました、と。余談だが、このときサイトがガンダールヴの力を発揮して、姫様をぎゅっとお姫様抱っこして、すばしっこく瓦礫をかわしたりした。大きな胸が当たって幸せだった。役得役得。
 だが息つく暇もなく、崩落してすぐに九本足の“敵”に襲われて、そいつから逃げ出して地下水路をぐるぐるしてるうちに、現在位置も何もかも分からなくなりました、と。

 運が悪いってもんじゃないぞ、これ。まあ美人とお近づきになれたのは良いが、死亡フラグと同時なのはどうなのよ。
 サイトが自分の悲運に改めて凹んでいると、レイナールが、何かを思いついたような表情で口を開く。

「使い魔と言えば、さ、サイト。ルイズとは連絡取れないのか? 念話とか」

 その声に姫様が反応する。

「ルイズ? ルイズ・ド・ラ・ヴァリエール?」

 どうやら姫様とルイズは知り合いらしい。
 というか、それは一先ず置いておいて、問題は、サイトとルイズの共感覚による連絡が可能かどうか、だ。
 ……すっかり忘れてた。

「す、すまん、忘れてた。すぐに連絡取ってみる。待ってろ」

「え、サイトさんはルイズの使い魔なんですか? ヒトなのに?」

 王女様が混乱しているが、とりあえず無視だ。
 レイナールとギーシュの刺すような視線がきつい。
 さっさと桃髪の小さいご主人様に連絡取らないと!
 前までは自然に自分の考えがルイズに流れて読まれていたような感じだったのに、最近は集中しないと念話が繋がらなくなってきているから、すっかり忘れてた。

(ルイズー! るーいーずー! おーい! 聞こえるかー!?)


◆◇◆


 サイトの左眼窩に移植されたルイズの左眼を通じて、サイトとルイズの間には霊的な繋がりがある。『カーの分配』という魔術の効果だ。
 虚無の使い魔には通常は念話機能は付いていないのだが、これによってルイズはサイトの大まかな場所や身体の指揮権奪取、感覚共有、念話などを補っている。
 焦るサイトの気持ちが通じたのか、直ぐにルイズはサイトの呼びかけに応えた。

(何よ、サイト)

(ああ、繋がった! よかった。実は色々あってトリステイン王女アンリエッタ姫と一緒に地下水路に閉じ込められた)

(……、……。詳しく話しなさい)

 うわぁ、不機嫌そう。そう思ってサイトが尻込みするのが、共感覚によってルイズに何となく伝わる。
 ……だが以前に比べてサイトとの繋がりが弱くなっているような、何かに邪魔されているような感覚をルイズは感じた。
 そんな感想を抱いたルイズはさておいて、もはや頼みの綱はルイズたちだけであるサイトは覚悟を決めて話し出す。

(ああ、実は……)

 サイトは必要な事項をルイズに伝えていく。

 今一緒に閉じ込められているのが、4人(サイト、ギーシュ、レイナール、アンリエッタ)であること。
 王家の秘密の抜け道を通っている最中に崩落したこと。
 現在位置、および脱出経路が不明なこと。
 ナニモノかわからないが、人外の“敵”に襲われていること。

(分かったわ、直ぐに救助に向かう。場所は、私が見つけるから、そこを動かないで頂戴)

(“敵”に襲われても、か?)

(出来るだけ、ね。持ちこたえて)

(あぁ、分かった――ッ!? “敵”だ! スマンが、宜しく頼む!)

(使い魔を見捨てるメイジはいないわ。そっちこそ姫様を宜しく)

 サイトとの念話が切れる。
 聞いた限りでは武器もあるし、シュヴルーズの訓練で互いの連携もなんども練習して培っているから、恐らく、迎えに行くまではサイトたちは持ちこたえるだろう。
 地上にいるルイズは、ため息を一つ。

「ベアトリス、シエスタ。アトラナート商会のガン・スミスまで戻るわよ。姫様が地下水路に閉じ込められているそうだから、その救助に向かうわ」


◆◇◆


 アトラナート商会の看板のない店の前。
 ルイズたちは最初に出てきたこのガン・スミスまで戻ってきていた。

「あの、ルイズさん。どうして直ぐに助けに行かないんですか?」

「地図も装備も無しに地下水路には入れないわ。だから地図や装備を補充しに来たのよ」

 シエスタの問いに答えながら、ルイズは店のドアを開く。
 奥から厳つい店主の親父(の形の精密なガーゴイルか何かだろう)が、揉み手をしながら「いらっしゃいませ」と、三人を出迎える。
 アトラナート商会は、気に入らない。だが、彼らが便利であるのも、また事実。ハルケギニアに浸透している彼らを完全に取り除く弊害は大きい。
 ならば、最上策はアトラナート商会の総てを乗っ取ること。勝利して、支配する。それしか道はないと、ルイズは決意を新たにする。

「お嬢様がた、お頼みのものは揃っておりますよ」

 店主が鏡を一枚差し出す。〈ゲートの鏡〉だ。しかも伸縮自在の丈夫な素材でできた最新式。別名、四次元ポケット。
 この〈ゲートの鏡〉は、どこか遠くに用意された倉庫用のスペースと繋がっている。その中に今回ルイズが買い物した装備など一式が入っているのだ。
 ルイズがその四次元ポケットを受け取る。

「仕事が早いわね。あと、トリスタニアの地下水路全体の地図を頂戴。三次元で、現在位置やナビゲーションも表示してくれるやつを」

 王政府ですら地下水路の全容は知らない。
 だが、知りたがりの蜘蛛たちならば、必ず知っているだろうという確信がルイズにはあった。

「へい毎度。ではマジックカードにインストールさせていただきますので、カードをお入れください」

 やはり地下水路の全貌をデータとして持っていたか。
 軽い摩擦音とともにオヤジの額に、カード挿入用のスリットが開く。
 お辞儀をするように額を下げたガン・スミスのオヤジに、ルイズは自分のIDカード兼用の汎用マジックカードを挿入する。
 その様子を見て、ベアトリスは平然としているが、シエスタが息を呑む。

(ホントに人間じゃなかったんだ……!)

 額にカード挿入口がついているものが人間なわけはない。
 シエスタは戦慄する。ミス・ロングビルも人間ではないということだったが、それでは、一体、誰が人間なのだろうか? マルトーさんは、メイドの仲間は、メイド長は、きちんと人間だったのか?
 世界が得体の知れないものに入れ替わってしまったような、そんな不安定感。キモチワルイ。ぐらぐらと世界が揺れる。いや、揺れているのは、私?

「シエスタ、大丈夫ですの?」

 立ち眩みを起こしたシエスタを、ベアトリスが支える。
 ベアトリスが急に倒れたシエスタを心配気に覗き込む。
 しかし、ベアトリスは、何故シエスタが気分が悪くなったのか、その原因が全く思い当たらない様子であった。ベアトリスにとっては、人間かインテリジェンスアイテムかどうかなんてどうでも良いのだろう。彼女の世界は、おねえさま(ルイズ)と、それ以外で出来ている。

「顔、真っ青ですのよ。少し、休みます?」

 休む。ここでだろうか。シエスタは一瞬考える。
 確かベアトリスは、『この店自体がインテリジェンスアイテム』だと言っていなかっただろうか。
 その、得体のしれないモノの内部(ナカ)で、休む? 冗談ではない。

「いえ、ベアトリス様、ここは、ちょっと……」

 断ろうとしたシエスタの言葉に、ルイズが割り込む。
 ルイズの表情からは、心配と、そして理解の色が浮かんでいた。
 ベアトリスとは違って、シエスタの感じている、悍ましい感覚にルイズは心当たりがあるのだろう。シャンリット生まれのベアトリスには分からないのだろうが。

「シエスタ、具合が悪いところ申し訳ないけど、衛兵の詰所に行ってもらえるかしら。姫様の居場所が分かったと伝えて頂戴、秘薬屋『Piedmont』の向かいの店に来るようにと。ラ・ヴァリエールとワルド子爵の名前を出せばすんなり行くはずだから」

「は、はい! ルイズ様! 直ちに行って参ります! ありがとうございます!」

 即答であった。
 この悍ましい場所から遠ざけようとしてくれているのを感じて、シエスタは心のなかで感激の涙を流す。
 着々とルイズの人心掌握は進行中であった。シエスタはガン・スミスのドアを蹴破らんばかりの勢いで飛び出していく。

「ベアトリスはここで待機。私はベアトリスの使い魔のササガネと一緒に地下水路に向かうわ」

「えー、私も向かいますわ、お姉さま~」

「あんまり他国の人間を連れて行くことは避けたいし、連絡員が必要なのよ。お願い、ベアトリス」

 確かにここに来るであろう衛兵に、ルイズの現在位置を知らせる者が必要だ。
 サイトの位置を把握できるのがルイズしか居ない以上、ルイズは地下水路への突入部隊ということになる。
 となれば、このガン・スミスに連絡員として残るのは、マジックカード経由でルイズから連絡を受けられるベアトリスしか居ないのは自明だ。

「……お、おねえさまにそこまで言われては、断るわけにはいきませんわ。ササガネをつけますので、もしもの時は遠慮無く彼女を盾にしてくださいね」

 ベアトリスは『盾になれ』という指令に猛然と抗議する女郎蜘蛛を脳裏に浮かべながら、ルイズのお願いを承諾する。さて、どうやってササガネを説得しようか。
 ササガネはこのガン・スミスの地下に待機している筈だ。
 確か地下水路への入り口は、この店の地下にもあったはずだから、ルイズとササガネはそこから突入することになるだろう。

 地図データのダウンロードが終わったようだ。
 いつの間にかオヤジが立ち上がり、ルイズのマジックカードを差し出していた。
 ルイズはそれを受け取り、さっと三次元の地下水路全容を空中に投影して映し出す。

「ん、感覚的には、このあたりか……」

 ルイズは左眼に意識を集中させるような感じでサイトの位置を探る。
 大まかな方向と距離を求めて場所を特定すると、それを三次元マップ上に光点として表示させる。
 ルイズの現在位置と向かうべき方向も、マップ上に表示される。

「じゃあ私のマジックカードもお姉さまのと同期させますわね」

 ベアトリスもマジックカードを翳して、ルイズのマップとデータを共有する。
 三次元マップ上に、ベアトリスと彼女の使い魔ササガネを表す光点が追加される。
 ササガネにはベアトリスによって敵味方識別装置(IFF)が埋めこまれており、それが自動的にマップ上に位置を表示したのだ。

「あら? ササガネ、なんか随分離れたところに居ますわね。ちょ、ちょっとお待ちください、お姉さま。確認します」

「……散歩でもしてたのかしらね? サイトの光点と結構近いけど。まあ良いわ、とにかく一度戻ってきて貰って、どこか途中で合流したほうが良いわね」

 ルイズの言葉を聞き終わってすぐに、ベアトリスは使い魔と感覚共有を行い、女郎蜘蛛の位置と彼女が置かれている状況を確認する。
 ササガネは勝手気ままに餌を求めて地下水路を徘徊していたらしい。

「え、『餌ば見つけて追い掛け回して遊んどーうちにサイトば見つけたけん、加勢する』? ちょ、ちょっと? ササガネ?」

「サイトと合流したの? それなら私が行く必要はなさそうね。ここで衛兵が来るのを待ちましょうか。ササガネの方でも出入口は把握してるんでしょ?」

「え、た、確かにササガネが合流したならもう心配はないですし、私としてもお姉さまと一緒に居られるのは嬉しいんですが、このままでは何だか、私が使い魔も制御できないマヌケなメイジみたいじゃないですか?」

「大丈夫。私はベアトリスがやれば出来る子ってのは知ってるから。それに閉所暗所では貴女は実力出せないじゃない」

「確かに狭いところや暗いところでは持ち味出せませんけど……。ちょ、お姉さま? なんか視線が生ぬるいんですが!?」

「そんなこと無いわよ~。そうだ。店主ー、紅茶は出ないかしらー? てーんーしゅー?」

「なんか扱いがぞんざいですわ!? きっと、きっと、挽回してみせますから!! だからそんな扱いは嫌ぁーー!」


◆◇◆


「くそっ、キリがない!!」

 地下水路の闇の奥から、無限と思われるほどにその“敵”は次々と襲ってくる。
 戦えないアンリエッタが使う『ライト』の魔法によって照らされる範囲に、死体のような生白い肌の生き物が縦横無尽に飛び跳ねるのがチラチラと見える。アンリエッタは、凄惨な光景と、敵に襲われるプレッシャーに顔を真っ青にしている。だが、『ライト』の魔法を維持してくれているだけでも、この場では有り難かった。
 襲い来る“敵”の、その餓鬼のように醜く膨れた大きな卵型の胴体から、何本もの棒のような足がでたらめに突き出ている。動きが早く、周囲を完全に照らせているわけではないので、正確な足の数は分からないが、九本くらいあるように見える。
 足の先はカエルのような水かきがついており、足先は死体の海を踏みつぶして来たかのように真っ赤に染まっている。地下水路を三次元的に飛び回っているのは、水かきのある足を吸盤のように使っているからだろう。

 “敵”の頭には目がなく、大きな耳と、豚のような鼻がある。ブタバナコウモリの目が無いバージョンというのが近いだろうか。この生物は聴覚と嗅覚が発達しているようだ。
 頭と胴体は1メイル半ほどで、脚も合わせると3メイル近い大きさがある。
 何本もある脚を使って、まるでゴムボールのように巨体が地下通路を跳ねる。

 ルイズがもし居れば分かっただろうが、“敵”の名前は、ワンプ(Wamp)という。
 腐肉を喰らって育つ、不潔で醜悪な化物だ。
 本来、幻夢郷の廃墟に生息するはずのそれが、何故かこのトリスタニアの地下水路に発生していた。

 そのワンプの突進を、ギーシュが操るゴーレムが阻む。レイナールのゴーレムは逆側を固めているが、水路が狭いのでこちらに加勢することはできない。
 四脚のゴーレムたちが、大きく掲げたスパイク付きシールドで突進を受け止める。
 一体これが何体目のワンプだろうか。

 ゴーレムのチャージによってワンプの動きが鈍ったところを、サイトが矢で狙い撃つ。
 四本の矢が、それぞれ“敵”の脚に突き刺さる。ガンダールヴの人外の膂力で猛烈な速度を与えられた矢は、突き刺さった脚をその勢いでもぎ取ってしまう。
 一挙に四本の矢を放ち、さらに命中させるという離れ業も、ガンダールヴのルーンの加護によって可能となっていた。

 飛び散ったワンプの血や肉片からは、耐え難い悪臭がする。
 腐った膿のような、その臭いは、ワンプの血肉が持つ、不潔と腐敗の性質を表している。
 サイトたちは、その病原菌を多数保有すると思われる汚染された血肉を避けるために、出来るだけ遠距離でワンプを仕留めていた。

「くぅっ、この臭いはどうにかならないかね!? 鼻がもげそうだ!」

 ギーシュが悪臭に堪らず声を上げる。
 皆、マントなどの布で鼻を覆って、少しでも、このドブを煮詰めたような臭いを軽減させようとしていた。
 きっともう、いま着ている服は臭いが染み付いてしまい、使い物にはならないだろう。

 次から次へと湧いて押し寄せるワンプによって、サイトたちは徐々に元いた場所から追いやられていた。
 サイトの矢に脚をもがれたワンプが、地下水路の汚泥に落ちる。
 そして落ちたワンプの胴を、また別のワンプが踏みつけて突進してくる。彼らに仲間意識というものは無いのかもしれない。

「っ!? 逆からも来たぞ!」

 レイナールが声を上げて敵の襲来を知らせる。
 現在視認できる範囲でも、ギーシュの方に二匹、そして新たにレイナールの方に三匹は見える。
 これまで撃退したワンプは既に二十は下らないというのに、一体こいつらはどれだけ居るのだろうか?

 サイトがギーシュの方のワンプに向けて、矢をまた同時に四つ放つ。
 ワンプが激しく動くため、二つは外れたが、残りの二つは命中する。
 一つはワンプの脚に突き刺さり、それを壁に縫い留める。もう一つは別のワンプの頭蓋に刺さり、それを『粉砕した』。

「あぁっ!」「しまった!」

 それを見たギーシュとサイトが焦った声を上げる。
 粉砕され、命が失われたワンプの頭蓋骨の、その大きな破片のそれぞれから、何かぬらぬらとした羊膜に包まれたモノが出てくる。
 それは孵化であった。生白いぬらぬらとした豚鼻の九本足の不気味なワンプの仔が、死体の頭蓋骨から発生したのだ。

 ワンプは、ある一定以上の大きさの死体の頭から、生まれ出るのだ。
 人間の死体、犬の死体、豚の死体、牛の死体、馬の死体……。この地下水路に蓄積された様々な死体の頭を割って、ワンプたちはここまで増えしまったのだ。
 そして、当然、ワンプ自体の死体からも、ワンプの仔は発生する。

 サイトが粉砕したワンプの頭から生まれた仔は、三匹。
 それぞれが、びぎゃびぎゃと耳障りな産声を上げて、汚泥に落着する。
 そして、その仔は、腐敗したものを好むという彼らの習性通りに、汚泥を啜って(・・・・・・)急速に成長する。

 サイトが脚を狙っていたのは、このためだ。殺してもすぐ生まれるから減らないし、下手に頭を吹き飛ばすと、数が増える。実際、ヘッドショットによって吹き飛ばされた頭から孵って、ワンプが数を増やしていくのを、これ以前にもサイトたちは目撃している。
 火メイジでも居れば、頭蓋骨も残さず焼き尽くすことができるのだが、残念ながらギーシュとレイナールは土メイジだし、アンリエッタは水メイジだ。この混戦の中で、頭蓋骨を焼き尽くす魔法を使う余裕はない。

 急成長して数を増やしたワンプたちは、遂にギーシュのゴーレムの防衛戦を抜けてしまう。

「マズイ! サイト、姫様を……」

 そこまで言いかけたギーシュが、ゴーレムを飛び越えたワンプの張り手によって壁に叩きつけられる。気を失ったのか、そのままギーシュは崩れ落ちる。
 ガチガチと歯の根も合わない様子だったアンリエッタが、ギーシュが吹き飛ばされるのを見て、精神が限界に達したのか気を失ってしまう。だがサイトには、崩れ落ちるアンリエッタの身体を支える余裕もない。
 向かってくるワンプに対処するために、弓を鈍器のように振り回すサイトの後ろで、金属が叩きつけられる音がした。レイナールも突破されたのかもしれない。

 サイトは銅板を何枚も張り合わせた弓を振り回して、ワンプの張り手を弾くが、圧倒的に手数が足りない。
 何度か、ワンプを防ぐものの、サイトもまたギーシュと同じように張り手で吹き飛ばされて壁に叩きつけられる。
 かは、と肺から空気が抜け、身体全体が痺れ、弓を手放してしまう。


 倒れ行くサイトの視界に、場違いなものが映る。
 逆さまになった女の上半身が、水路の天井から生えている。闇に溶けるような漆黒の髪の女だ。雪の様に白い肌が闇から浮いている。
 衝撃が見せた幻影か?

「ん~、間一髪、ってとこかねー。このササガネが来たからには、あとは任せんしゃい!」

 幻聴かうつつか判別出来ない、その女の声を最後に、サイトは意識を失った。


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ルイズにフラグ立てなきゃいけないのに姫様にフラグ立ててどうするサイト
ゼロ魔原作一巻分で取り残した『王都来訪』と、二巻の『姫様と知り合う』、『ワルド登場』を消化。あ、あとピエモンの秘薬屋前の武器屋来訪イベントも消化

2011.02.08 初投稿



[20306] 蜘蛛の巣から逃れる為に 12.アラクネーと翼蛇
Name: へびさんマン◆29ccac37 ID:b87f4725
Date: 2011/02/11 10:59
 地下水路の闇に逆さまに浮かび上がる、白い女性の上半身。何も隠すものがないたわわな乳房と細いウエストが目に眩しい。
 黒い長髪は重力によって下に伸びている。顔はこれまた整っており、今にも舌なめずりしそうな、三日月のような笑みが張り付いている。
 しかし彼女の下半身は見えない。いや、なぜこんな地下水路に裸の美女が居るのだろうか、腐臭に満ちたこの地下道に。
 かちかち、きしきしという奇妙な音とともに、女性の身体が揺れて近づいてくる。乳房もぷるんぷるんと上下に弾む。

「ワンプども! そこまでにしときー。こっから先はこのササガネが相手すっばい」

 アンリエッタが使っていた『ライト』の魔法の残滓が、ついにその逆さまの美女の全容を顕にする。
 彼女の下半身は、蜘蛛だった。毛だらけの甲殻に覆われた六本の節足によって彼女は水路の天井を歩いていたのだ。
 大きく膨れた腹の中には、糸を出す器官が詰め込まれているのだろう。丸々とした腹には細かな毛が密生しており、柔らかそうな光沢を作っている。
 ベアトリスの使い魔ササガネは半人半蜘蛛の幻獣、アラクネーなのであった。普段は『変化』の精霊魔法によってその姿を巨大蜘蛛に偽っているが。

 術者たるアンリエッタが意識を失ったため『ライト』の魔法の残滓が薄れていく。
 完全な闇となれば、視覚以外が発達したワンプの独壇場になるだろう。豚鼻の白いぶよぶよした餓鬼腹の九本足たちは、光の有無に関わらず、嗅覚や聴覚、また彼ら独特の感覚である“飢餓感”による生命探知によって、獲物を探し当てることが出来るのだ。
 だが、暗闇で獲物を捕らえるすべを持っているのは、ワンプだけではない。

 完全に明かりが消える前に、まずは手始めに、とササガネは腹を持ち上げ、糸疣から粘着性の糸塊をワンプに向かって飛ばす。
 それは狙い過たず、サイトに近づいていたワンプを壁に縫い止める。

「ぶぎゃ、ぎゃ!?」

 ワンプが耳障りな声を上げるが無視。
 取り敢えず、当面の目標は今動いているワンプの無効化。
 完全に『ライト』の魔法が失われ、周囲は何も見えなくなる。

 だが周囲を知る術は何も視覚だけではない。
 ばいんぼいんなアラクネーであるササガネにとって最も発達した感覚というのは、触覚である。
 蜘蛛の巣の上でもがく獲物の息遣いすら、糸から伝わる微振動で把握できる。水路の壁から各足先に伝わる振動を分析し、ワンプたちの現在位置を特定する。

 そうなればあとは鴨撃ちだ。ワンプの動きを読んで糸をぶつけたり、奴らの進路上に糸を張り巡らせるだけで、無力化が可能だ。
 蜘蛛の巣にかかったワンプたちを一匹、また一匹と雁字搦めにして動きを止めていく。
 捉えられられたワンプたちが足掻くが、ササガネの強靭な糸はびくともしない。

 ササガネが地下水路を蜘蛛糸で覆って行く間に、サイトが意識を取り戻したのか、がくがくと震えながら立ち上がる。
 鳶色の左眼がらんらんと輝いている。
 そして彼の口から、鈴を転がすような、少女のような声がする。同時に『月光(MoonLight)』の魔術による光の玉が発現し、周囲を淡く照らす。

「ふふ、ササガネ、ご苦労様。あとは、私が始末をつけるわ」

「えーと、誰ですかい?」

 ササガネがサイトの方を見て、首を傾げる。
 大きな胸がその動作によってぷるんと震える。
 ……左眼だけ開いたサイトの視線が険しくなった気がする。

「ふふふ、まあ、ルイズの分霊、とか、一ツ目翼蛇とでも呼んで頂戴」


◆◇◆




 蜘蛛の巣から逃れる為に 12.アラクネーの狩りと翼蛇の食事




◆◇◆


 サイトは夢を見ている。
 いつもの夢だ。
 戦いの夢。

 サイトは隻腕隻眼の戦士となって、羽の生えた蛇と戦い続けている。『カーの分配』によって植えつけられたルイズの左眼の分霊と戦う夢だ。
 何時間、何十時間、何日、何週間、何ヶ月、何年、何十年、いや、何百年、戦い続けたのだろう。夢の世界に終わりはない。
 サイトを喰おうと襲いかかる蛇を、サイトは左手に握った曲刀で弾く。左手のルーンが輝き、サイトに力を与える。だが、蛇の鱗一枚を切り裂くことすら叶わない。羽根の一枚散らすことすら叶わない。

 空を飛ぶ蛇が突撃の駄賃に、サイトの持つ曲刀を尾で絡めとる。
 サイトの手を離れた曲刀は、一ツ目翼蛇の締め付けで、あっという間に砕け散り細片となる。
 蛇が空中に散った刃の細片を、一つ残らず舌で掬い、大きく開いた口で呑み込む。目を細め、如何にも美味そうに、刃の欠片を――サイトの夢の欠片を――呑み下す。

「うふふ、美味しいわ、サイト。もっと、もっともっと、あなたの世界を、あなたの魂を、私に頂戴っ!」

 蛇が再び空中を泳いで飛来する。
 しかしその時には、既にサイトの手には別の武器が握られている。
 蛇と戦ううちに、サイトは自在に夢の武器を創りだすことを学んでいた。サイトも成長しているのだ。

 武器と鱗が打ち合う音が、極彩色の狂った空の下に響く。
 緑色の太陽の輝きの下で、火花が散る。
 永遠とも思える時間、翼蛇と戦士がダンスを踊る。舞踏。死の武闘。

 しかしそれもやがて終りが来る。
 またしても武器を奪われ、砕かれ、飲み干された。
 そして今度は、武器だけでは済まなかった。

「ねぇ、サイト。おなかがすいたわ。いっぱい我慢したんだから、今度はあなたの身体が欲しいの」

 蛇が情欲にまみれた声で囁く。
 サイトの肌が粟立つ。それは恐怖と期待によってだ。
 食べられること。一つになること。混ざっていくこと。それはとても怖いけれど、とても気持ちが良いこと。

 蛇がサイトに絡みつく。
 耳にかかる蛇の吐息がこそばゆい。
 朱鷺色の羽根から香る女の匂いに、意識が飛びそうになる。
 さらさらと肌にこすれる鱗の感触が快い。

「じゃあ、今度は左足を食べちゃおうかしら」

 一ツ目翼蛇が、サイトの左足に狙いを定める。
 蛇の胴体がサイトの身体を雁字搦めにする。
 サイトの首に、艶めかしい光沢を持った蛇の尾が絡みつき、サイトの鼻先を蛇の尾先が擽る。

(……おいしそう)

 サイトは蛇の尾を見て何故かそう思った。

 靴やズボンには頓着せずに、蛇はむぐむぐと、サイトの左足を丸呑みにしていく。
 靴も衣服もサイトの夢の一部であるということには変わりない。武器の破片を呑み込むことの出来る一ツ目翼蛇にとってみれば、その程度は障害には成り得ない。
 呑み込まれる足が、蛇の食道に絞めつけられる。ズボンが溶けて、肉襞が直接サイトの皮膚に絡みつく。とても気持ちがいい。徐々に皮膚が溶かされているのか、感覚が鋭敏になり、蛇がさらに深くサイトを咥えていく度に、こすれる肉襞からの快感が脊髄を駆け巡る。

「くあぁっ!」

 理性が溶ける。蛇が満足気に目を細める。
 サイトの目の前で、物欲しげに蛇の尾先が揺れる。
 ゆらゆら、ゆらゆらと目の前を行き来するそれに、サイトはたまらずしゃぶりつく。

「んぐっ?!」

 突然の刺激に一ツ目翼蛇がビクリと身体を跳ねさせる。案外敏感らしい。
 だがすぐに気を取り直して、蛇は蠕動運動を続けていく。驚愕に見開かれた目が、また気持よさそうに細められる。
 先程よりも陶然としている様に見える。

 サイトの方も興奮していた。
 足先から呑み込まれていくのが気持ち良い。ずるずると引きこまれていく感覚と、皮膚に張り付く蛇の体内の肉襞の感触。
 そして口に咥えた蛇の尾先のヒンヤリとした感触。サイトの舌と蛇の尾先が絡み合い、快感を与える。尾先がサイトの口内で暴れまわり、口蓋や頬肉をさらさらと擦る。

 ついに蛇の口は、サイトの左足の太腿にまで到達した。
 愛おしそうに蛇は身体全体を締め付け、サイトの左足を絞るように刺激する。

「ふぁっ」

 サイトの口から情けない声が漏れ、蛇の尾を吐き出しそうになるが、蛇はそれを許さない。
 尾をさらに突き込み、サイトの口内を蹂躙する。
 だがそれも数瞬のこと。
 唐突にそれらの刺激が止む。
 サイトは蛇の意図を悟る。
 終にこの蜜月の時間に終止符を打ち、蛇が左足を喰いちぎるつもりなのだ、と。

 次の瞬間。
 左足の付け根から、衝撃が走る。
 あまりの痛みに、サイトは歯を食いしばる(・・・・・・・)。
 その口内に蛇の尾が残っているにも関わらず、だ。
 今まであらゆる武器を通さなかった蛇の鱗は、しかし、いとも簡単にサイトの歯を受け入れた。
 ぷつり、と、尾の一切れが千切れて、サイトの口内を転がる。

(……あまい)

 あれほど頑健だった蛇の尾は、サイトの口の中に入った途端に、キャラメルのように柔らかくとろけた。
 脂の甘さ、肉の甘さ、血の甘さ、骨や鱗の歯ごたえ。
 これまでに食べた何ものよりも、蛇の肉は美味しくて、脳天突き抜け広がる旨みに、意識が真っ白になる。
 身体中に活力が満ちる。
 食いちぎられた足の付け根からは、もうほとんど痛みは感じない。

「うふふ、私が食べられちゃった」

 蛇が耳元で囁く。

「でもね、サイトも美味しかったのよ? 前よりもずっとずっと美味しくなってたの。成長したからかしら?」

 嬉しそうに声が弾んでいる。
 二股に分かれた舌が、サイトの耳朶をちょろちょろと舐める。
 くすぐったいような、もどかしいような、そんな感覚。

「お前の肉も、美味しかった」

 サイトが蛇に答えると、蛇は嬉しそうにサイトの首筋を甘噛みする。
 鎖骨にべろりと舌を這わせて、首から口を離すと、蛇が鳶色の瞳でサイトを覗き込む。
 その像が、近すぎて焦点が合わないのか、二重にずれて見える。……二重に(・・・)?

「それは良かったわ、サイト。あなたの魂が私の糧になるように、私の魂もあなたの糧になるみたいね。左眼も右手も左足も、返してあげることが出来て良かったわ」

 蛇の言葉の通り、サイトの失われた左眼と右手、食われたばかりの左足は、復元して元通りに生えていた。
 蛇の肉の一欠片が、サイトの魂の滋養となって、失われた部分を補完したのだろう。
 くすくすと笑いながら、蛇が名残惜しそうに遠ざかる。蛇の尾(これも回復したのだろう)と、サイトの指先が愛おしげに絡んで、離れる。

「うふふ、本当は一呑みにしたかったけれど、お互いに骨肉相食んで、魂を鍛えて成長させる方が良さそうね。もっと成長して、もっと美味しくなってちょうだい、私の愛しい愛しいサイト」

 一ツ目翼蛇が飛び去る。

「待て! 何処に行くんだ!」

「ふふふ、今は休みなさい、サイト。そしてまた死闘(ダンス)を踊りましょう。私はちょっと、私のサイトを横取りしようとしてきた赤足の腐肉喰らいどもを殺してくるから」

 困惑するサイトを夢の国に残し、一ツ目翼蛇が、朱鷺色の羽を羽ばたかせて飛んでいく。


◆◇◆


 トリスタニアの地下水路。
 つい数分前までは汚泥と闇に覆われていたその空間は、現在、真っ白なヴェールに覆われた幻想的な空間へと変貌していた。
 『月光』の魔法によって蒼く照らされた絹糸のヴェールの中には、吊るされているワンプが三十数匹はもがいている。

「蛇ルイズさーん、とりあえず、臭いとか足音でわかる範囲内のワンプば全部集めたばい」

「ご苦労様、ササガネ」

 ヴェールの中、吊るされたワンプたちから離れた場所で、アラクネーのササガネと、気絶しているサイトの身体を操る翼蛇が話をしている。
 ちなみにササガネは、上半身の人間部分を胸元の開いた黒いぴったりとしたドレスのようなもので覆っている。彼女の黒くて長い髪を使って織り上げたドレスだ。ウエストが細く絞ってあり、胸の谷間が丸見えである。
 蛇のルイズが、“サイトの夢にそのいやらしい身体が出てくるかも知れないから隠せ”とササガネに命じたのだ。……余計にいやらしくなった気がしないでもないが、これ以上言っても無駄だと、翼蛇は諦めた。

 サイトの後ろには、音を通さないように何重ものヴェールに隔てられて、アンリエッタ姫、ギーシュ、レイナールが蜘蛛糸で織られたハンモックの上に寝かされている。
 彼らに目立った傷は無い。翼蛇の使った『治癒(Healing)』の魔術によって快復させられたのだ。
 とはいえ、閉所暗所で逃げ惑い戦ううちに、彼らにも疲れが溜まっていたのだろう。暫く起きる気配はなさそうだ。

「怖かなぁー、蛇さんも、本体のルイズさんも」

「敵には災厄、味方には救世主。あなたがベアトリスの使い魔を続けているうちはきちんと庇護してあげるわ。ベアトリスの使い魔は私の使い魔も同じことよ」

「わー超傲慢」

「ふふ、もっと言って頂戴。これでも夢の国では一国百城の主なものでね、なんて。……私じゃなくて本体の方が、だけど」

 にやにやと蛇はサイトの顔で獰猛に笑う。
 ササガネは肩をすくめる。きつく締められたドレスによって胸の谷間が深くなる。
 さて自分の主人の蜘蛛の眷属のメイジは、蛇のルイズと本体のルイズが対峙したら、一体どっちに着くんだろうか? 少しササガネは興味をひかれた。

 しかし蛇ルイズに言われるままにワンプどもを集めたが、一体どうするつもりだろう。

「んで、こいつらばどげんすっとー?」

「それはこうするのよ……。『恐怖の注入(Implant Fear)』!」

 魔術によって恐ろしい幻影がインプたちの精神に投影される。
 幻影から逃れるためにワンプたちは足掻くが、鋼線よりも強靭なササガネの蜘蛛糸は全く揺るぎもしない。
 それでもワンプたちは足掻く。恐ろしい蛇の幻影が、彼らの精神を苛み、溶かし、叩き潰す。それから少しでも逃れるために、足掻く。

 限界を超えて力が込められて、ワンプたちの手足はばりばりと音を立ててへし折れるが、それでもなお止まずに襲い来る幻影に恐怖の悲鳴を上げる。
 阿鼻叫喚。それを蛇は心地良さ気に聞いている。ササガネは「悪趣味やね」と半目で耳を塞ぐ。
 蛇が操るサイトの腕は指揮するように掲げられており、それが右往左往するたびに、まるで合唱団のようにワンプの悲鳴が木霊する。

「ふふふ、私のサイトを食べようとして、この程度で済むと思っているのかしら?」

 ワンプたちの身体から血が噴き出る。
 聖痕現象。精神世界でつけられた傷が、その衝撃の余りに現実の肉体に影響し始めたのだ。
 ぎゃあぎゃあとワンプが喚く。一体どんな恐ろしい悪夢を見せられているというのか。

「んじゃ、そろそろ終りにしましょう。下衆で醜悪で汚らしくて豚の糞にも劣るあんたらだけど、最後に少しだけ役に立たせてあげるわ」

 蛇がぎこちなく笑みを作る。

「私の糧になりなさい。『吸魂(Steal Life)』」

 蛇が、対象の生命エナジーを吸収する魔術を発動させる。
 いよいよもって、ワンプたちの断末魔が響く。
 徐々に轢き潰される豚のような、その醜悪な断末魔で耳がおかしくなりそうだ。

「ぎぃいいいいいいっぃぃぃいいいいいぃ!!」「ぉぎゃぁぁあぁぁあぁあああああ!」「っごぉおおぉぉおおお、っぼぁああぁぉぉおお!!」

 徐々に、徐々に、ワンプたちの身体が萎れていく。
 皮膚が乾き、筋が浮き出る。『恐怖の注入(Implant Fear)』の効果も継続しているのかもしれない。衰えた筋肉で、彼らは必死にもがき苦しむ。
 生命力が失われて脆くなった骨が、枯れ枝を折るような軽い音でぱきょりと折れる。

「ぃ、ぎ、ぃ、ひっ、ぃぃい」「ぅあ、ぐ、んぐ、ぁあっ」「げふっ、ぐひっ、っいぃ……」

 見えない生命のオーラが、『吸魂(Steal Life)』によって、ワンプたちから蛇へと流れる。
 蛇に操られるサイトの鳶色の左眼が不快気に細められる。
 吐き捨てるように蛇が言う。

「低俗な魂ね。サイトの万分の一の価値も無い。苦しんで死ね」

 やがて生命エナジーを失ったワンプたちの肉体は急速に老化し、生きながら崩壊を始める。
 蜘蛛糸によって簀巻きにされたワンプたちの肉体は灰色に色を失う。九本の肢の関節は腐ってズルリと外れて、それによって皮が不自然にだらしなく伸びる。さきほど彼らが足掻いたために開放骨折した箇所からは、肉や内臓が腐って爛れた汁が漏れて、真っ白の蜘蛛糸を腐汁の濁った色に染めていく。ぐずぐずとワンプの輪郭は崩れて、縮みながら潰れていく。途中、ついに生命力の流出に耐えられずに死んだワンプの頭蓋骨から新しいワンプの仔が発生するが、直ぐに『吸魂』の力場に囚われて、萎んで死んでしまう。
 全てのワンプの生命が蛇によって吸い出されて停止した。ササガネが嫌気の差した顔で舌を出しながら「うわー、えげつなー」とか言っているが、蛇ルイズは気にしない。彼女の瞳はぎらぎらつやつやして輝きを増している。卑俗な魂とはいえ、数十の魂のエナジーを吸い尽くしたお陰だろう。

「さて、ササガネ」

「はいなー」

「後始末よろしく。全員地上まで持って行って頂戴」

「ほいさー」

「頼んだわよ?」

「任せときんしゃい」

 それだけ確認すると、蛇ルイズの身体(サイト)が崩れ落ちる。
 魔術の大盤振る舞いで疲れてしまったのだろうか。
 上半身だけ見れば黒髪巨乳美女なササガネが、いそいそと崩れ落ちたサイトや、少し離れたところに寝かされているアンリエッタ姫たちを簀巻きにする。

「よっこいしょ、と」

 ササガネは蜘蛛糸でグルグルと簀巻きにされたサイトを片腕で脇に抱え、蓑虫のようになった他の三名を何かの狩りの獲物よろしく背中に担ぐ。
 サイトだけ特別扱いなのは、あの蛇にいちゃもんつけられたら堪らないからである。
 サイトの顔がササガネの巨乳に当たって窒息しかけているのに気付き、ササガネが少しサイトの持ち方を変える。

 アラクネー美女は、此処に来るまでに水路につけてきた“道糸”を辿って帰る。
 蜘蛛はアリアドネの糸よろしく、自分の通ってきた道に糸を残している。
 帰り道に迷うことはない。

(んー、取り敢えず、蛇ルイズさんのことは聞かれない限り黙っとくかいねぇー。黙秘黙秘)

 ササガネは、サイトの身体を操った別人格のことについて、黙っておくことに決めた。
 尋問されればその限りではないが……。正直、蛇ルイズとルイズ本体、どっちも怖い。だから、聞かれない限りはすっとぼけておくのが無難だろう。
 まあ黙秘で問題ないだろう、と、ベアトリスと感覚共有の回線を開く。

(っ、ササガネ! ようやく繋がりましたわ! 状況を!)

(んー、サイトたちば救出したけん今から帰るとよー)

 ササガネが何本もの節足を躍動させて地下水路を跳ねる。
 白い肌が、闇の中に消える。


◆◇◆


 地上のガン・スミス。
 シエスタの通報によって、ガン・スミスにはグリフォン隊隊長のワルド子爵がやって来ていた。
 彼は何人かの騎士を伴っている。

「ふむ、それではもうじき姫殿下はここに来られる、と」

「そうですわ。……どうやら到着したようです」

 ベアトリス言うが早いか、従っていた騎士たちが担架を持って地下室へと突撃する。
 ここまでアンリエッタたちを連れてきたササガネは、素早く『変化』してアラクネー形態から大蜘蛛形態に姿を偽っていた。口語詠唱によって高度な精霊魔術を扱うことの出来るアラクネー形態は、ササガネの切り札だ。
 急いで突入する隊員を尻目に、ワルド子爵は頭を掻く。

「いやあ、姫様が見つかってよかったよ。ルイズ、ありがとう。ベアトリス姫も。君たちの使い魔が居なければ、大事になっていたよ。ことがコトだけに公に謝礼は出来ないかも知れないが、私個人で何かお礼をすると約束しよう。……まあ、ゲルマニアから帰ってきてからになるだろうけれどね」

「私としてはあなたがお姉さまとの婚約を放棄してくれるのが一番の褒美なのですが」

「ははっ、子爵風情が、公爵が組んだ縁組を破棄できるとでも? いや婚約が嫌というわけではないよ、もちろん」

「あら、それは残念。ほほほ」「はっはっは」

 ベアトリスとワルド子爵の間で胃の痛くなる遣り取りが展開される。
 この場にシエスタが居なくて良かった。彼女がいたら胃薬の追加が必要なところだ。あ、シエスタは今、衛兵の詰所で休ませてもらってます。
 その間に地下空間からアンリエッタ姫が運び出される。

「……無事そうでよかったわ」

 薄汚れてはいるが大きな傷はなさそうなのを見て、ルイズが安堵する。
 あとでサイトに護衛中の様子を問い質しておけば良いだろう。
 使い魔が粗相をしていなければいいのだが。

「ご挨拶には行かれないのですか? お姉さま」

 ベアトリスが尋ねるが、ルイズは首を横に振る。

「今は、ね。お疲れのようだし、このあとは間髪置かずにゲルマニア行幸でしょうから……。そうですよね? ワルド様」

 ルイズがワルド子爵に話を振る。

「まあね。優秀な宮廷治癒術師がついているから、多少体調が悪くても姫殿下にはこのままゲルマニアに向かってもらうことになるよ。お辛いだろうが、そればかりは自業自得、いい薬だと思ってもらうしか無いね」

 そして魔法衛士隊の隊士たちは風のような速さでアンリエッタを運んでいく。
 急いでいるのは後の予定が押しているためだろう。
 ワルド子爵もまた、疾風の速度で去っていく。

「……帰りましょうか、ベアトリス」

「はい、お姉さま。あ、ガンダールヴたちはどうされるんですか?」

「ついでだし連れて帰るわ。空中待機してるルネは、竜籠と一緒にそのまま帰ってもらって」

「はい、伝えます。あ、シエスタは?」

「……。多分こちらの地下列車で帰るのは渋るだろうから、ルネの方に迎えに行くようにお願いしてもらっていいかしら」

「はい、ではそのように」

 さて、インテリジェンスアイテムの腹の中を通って帰るのと、触手竜の竜籠に乗せられて帰るのはどちらがマシなのだろうか?


◆◇◆


 魔法衛士隊の詰所。その隊長執務室。
 アンリエッタ姫失踪事件のカタがつき、これから本来の任務に戻れるということで、グリフォン隊隊長ワルド子爵はようやく一息ついていた。
 だがその前にやることがある。
 彼が『偏在』を使った後の恒例の儀式だ。

 隊舎の訓練室、そこにワルド子爵は、今日の捜索指揮のために作った『偏在』の分身体四つを集めていた。
 それぞれの『偏在』はワルド子爵の特製である。
 出来る限り、人を再現した高度な『偏在』だ。

「では諸君。掛かって来たまえ」

 本体が剣杖を構えるのと同時に、四体の『偏在』も剣杖を構える。
 一瞬の対峙の後、五体のワルド子爵の姿がブレる。
 剣杖の交錯音、魔法による風切音が響き――後に湿った落下音がする。分割された人体の音だ。

「ふむ、中々、良し」

 本来であれば『偏在』で作られた分身は、一定以上のダメージを受けると消滅する。
 だが、現在、切り捨てられた『偏在』だったものは、消滅すること無く(・・・・・・・・)、床に転がっている。
 滴る血や、肉の断面は生々しく、これが魔法によって作られた紛い物だとはとても思えない。

 そう、これがワルド子爵特製の『偏在』の魔法である。
 人体の構造を熟知し、〈スキルニル〉を研究し尽くした執念の果てに完成した、実態を持った完全なる分身魔法なのだった。

 ワルド子爵は『偏在』のバラバラ死体をさらに剣杖でグリグリとほじくって、それぞれの人体再現度合を確認する。
 ある程度確認して

「まだ内臓系の再現が不十分だな。また死刑囚の処刑に立ち会って新鮮な死体を腑分けさせてもらうか」

 などと呟きつつ、四体分の死体をワルド子爵は『発火』の魔法で焼却する。
 彼特製の『偏在』は、実体を持つというその性質ゆえに、後始末が必要である。
 痕跡すら残さない通常の『偏在』よりも若干使い勝手が悪いが、長時間独立行動可能というメリットもある。
 ワルド子爵は、通常の『偏在』も問題なく使いこなせるので、実体の『偏在』と通常の『偏在』を使い分ければ良いだけだ。

「『メメント・モリ』……。『死を想え』、か。その探求の果てに辿り着いたのが、自分殺しの魔法というのは皮肉なものだ。まあいい。こいつのお陰で、俺は常に自分の死を見つめ直すことが出来るのだから。そう、『メメント・モリ』だ」

 ワルド子爵は胸元のペンダントを握りしめながら、燃え尽きた灰を一瞥し、それを小さな旋風で集めて、そして『錬金』で固めて小さなブロックにしてしまう。
 全てを風に分解してしまうよりは、ワルド子爵にとっては固めてしまう方が精神力の節約になるのだった。

 ワルドが人灰ブロックを拾い上げたときに、不意に訓練室の扉が開く。
 そこから顔を出したのは、前髪を切りそろえた金髪の女性隊士だ。
 女性隊士の入隊は最近許可されるようになっている。警護対象が王妃と王女なので、女性隊士の必要性が否が応にも高まったのだ。

「アニエスか」

「……血の匂いがしたので来てみれば……。ワルド隊長、やはりこちらにいらしたのですね。出発の時間です」

「ああ、了解だ。……ふむ、コレ、要るかね?」

 ワルドはこの鼻の利く女性隊士に、人灰ブロックを差し出してみる。
 アニエスは嫌そうな顔をする。

「私を何だと思ってるんですか」

「ふむ、熱心な隊員だと思っているよ。ダングルテールのことをやたらと聞きたがるから、てっきり廃墟マニアか灰マニアかとでも思っていたんだがね」

「違いますよ」

 アニエスが怒ったような、呆れたような顔で否定する。

「そうか。
 ああ、そうだ、私の名前で申請したら、ダングルテールの件に関連する書類の閲覧許可は取れたよ。資料捜索の助手として君を連れていってあげよう。必要なら実体のある『偏在』で本ごとコピーしてやってもいい」

「ほ、本当ですか!? ありがとうございます!」

 ワルドが付け加えた言葉に、アニエスは驚愕に目を見開く。
 そしてアニエスが慌てて礼をする。

「ま、ゲルマニアに行って帰ってからの話だがね」

「いえ、ありがとうございます! ……それにしても、本当に便利ですね、隊長の『偏在』は」

「覚える気があるなら教えるが」

「いえ、まだ私では身につけられないでしょう。風の術者として憧れはありますが……。風を極め、水にも精通し、土の魔法人形にも理解が深くなければ実体を持った『偏在』は作れないと伺っています。とても自分にはそんな才覚は……」

「まあね。これは俺の半生を費やした魔法だからね。そう簡単に身につけられたら俺の立つ瀬がない」

 この魔法のおかげで、初心を忘れずに済む。
 自分を殺すことで、いつでも俺は、自分を思い出すことができる。
 自分の中身がまだ人間であることを、切り開いて確認できる。

「しかし何故ここまでしてくれるのですか?」

 アニエスが問う。
 一隊士である自分に、この隊長は随分と肩入れしてくれている。
 何か得になることもあるまいに。

「ふむ、何、母に似ているからだよ、君が。もう亡くなってしまったし、顔形が似ている訳ではないのだが、何というか、その雰囲気がね」

 氷のような凍てつく魔風の気配を纏ったアニエスと、ワルドの母――彼が介錯するしか無くなった、異形と化した母――それが被るのだ。

「はぁ、そうなんですか」

「まあ気にするな」

 そう言ってワルド子爵は訓練室の扉から出ようとする。

「あと、気になっていたことがあるので、一つ。『偏在』たちとわざわざ果たし合って殺すのは何故なんですか?」

 別に実戦形式でやらずとも、ただ単に首を刎ねてしまえば良いだけなのではないか。
 リスクを取る必要はあるまい、とアニエスは言いたいのだ。

「……ふむ、自分が何人も居るのは耐えられないから実体を持った『偏在』は殺さねばならぬ。しかし、かと言って他人に自分が殺されるのも癇に障る。だから自分で殺す。そしてなにより、一番強い者が生き残るべきだからだよ」

「……隊長、あなたは本当に隊長なんですか? 『偏在』じゃなくて?」

「ふん、生き残っているなら、俺がジャン=ジャック・フランシス・ド・ワルドだよ。他は死んで果てて、灰になっているのだからね」

 ワルド子爵は、手の中の人灰ブロックを弄んでそう答えると、訓練室の扉を後にした。


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当SSには健全な食事シーンが含まれています

2011.02.11 初投稿



[20306]   クトゥルフ神話用語解説・後書きなど(12話まで)
Name: へびさんマン◆29ccac37 ID:b87f4725
Date: 2011/02/18 22:50
第二部原作時間軸編第一章終了です。
ここまで読んでくださってありがとうございます。
一応、原作第一巻に相当する分はここで終わりです(宝物庫破壊、VS巨大ゴーレム、デルフリンガー邂逅)。
微熱の誘惑とか、城下町トリスタニア来訪イベントとか残っていますが、それは今後消化できたら消化します。

もはやゼロの使い魔ってなんだっけレベルになってますが、そんな明後日に向かって爆走するSSを読んでくださってありがとうございました。
そして出来れば、今後も何卒よろしくお願いいたします。

以下で、各話の神性、クリーチャー、クトゥルフ神話の魔術、あとはキャラクター改変の理由なんぞをつらつら書いていこうと思います。
特に読まなくても、今後の展開に支障はないのでスルーして下さってOKです。

■物語の大まかな方針
 ・もし邪神たちがハルケギニアに実在したら
 ・もし邪教系転生者が千年前に好き勝手やったら(詳しくは当SSの第一部を御覧ください)
 ・もし、ルイズとジョゼフの虚無覚醒が早かったら
 という以上の三点を軸に第二部は進んでいきます。


■第一話 召喚というより拉致だがそれを気にする者は居ない
 ・フレイムが両棲類:サラマンダーと言えば両棲類です。ええ、両棲類です。火の精霊の元となったファイアサラマンダー(ヨーロッパの陸生有尾類)が両棲類なので。何で色んなファンタジーで火蜥蜴になってんだよ、サラマンダー。そんな作者の鬱憤が炸裂しました。
 ・ルイズが実技でも優等生:第一部の転生者由来のマジックアイテムによる補助のおかげです。彼女自身の力のみでは系統魔法は使えません。クルデンホルフ大公国のミスカトニック学院に留学していた間にマジックカードを手に入れてます。
 ・サイトがミスカトニック大学生:邪神たちと対峙させるに当たって、良く訓練されたサイト(well-trained SAITO)でないと苦難を乗り越えられないと判断したためです。ミスカトニック大学なのは、邪神関連の経験を積ませるならここしかないと思って。
 ・ベアトリスがルイズに対してスール化:原作のティファニアの位置にルイズが収まる形です。クルデンホルフ大公国ではルイズの同級生でした。ベアトリスも優等生でした。
 ・ここでルイズはサイトに『カーの分配』という魔術を施しています。同時に眼球交換による粘液接触で、『コントラクト・サーヴァント』成立です。

■第二話 使い魔は須く主人の支配下にあるべし
 ・タイトル=使い魔は是非とも主人の支配下にあるべきである。バシリスクとか野放しにするなよー。
 ・サイトにハルケペディア、インストール。実際は『カーの分配』によるルイズの知識の注入。
 ・毒娘キュルケ:毒薬と淫蕩の魔女キルケー(オデュッセイアより)と同一化。使い魔のフレイムが毒サンショウウオなので、毒娘に。あと、ヨーロッパの伝承では毒は火炎に対して耐性があるので、火のトライアングルのキュルケに相応しいかなと思って。あ、当然ですが生娘です。
 ・ベアトリスの二つ名『天網』:原作には何も出てなかったので捏造。由来はそのうち作中で説明します。
 ・ベアトリスの使い魔の大蜘蛛:第一部のシャンリット家の流れを汲むので、使い魔は蜘蛛です。ただの蜘蛛かどうかは、不明。
 ・レンの蜘蛛:ドリームランドのレン高原に住む蜘蛛。知能は高く、大きなものは屋敷ほどの大きさにもなる。大部分はアトラクナクアを崇拝している。
 ・バシリスク:ドリームランドの毒生物。鶏と蛇のキメラみたいな格好。超危険。睨まれると運が悪ければ即死。荒野に住んでいるというか、住む場所が自動的に不毛の荒野になる、迷惑生物。ハルケギニアの野生には居ないけれど、召喚されることはある。召喚されるのは、大体、毒性が弱い幼生体(幼生体が弱毒というのは当SSの設定)。

■第三話 魔法の力は人智を越える
 ・赤土、赤つ地、赤槌のシュヴルーズ先生:毎回初授業で気絶させられる彼女が不憫だったので魔改造。元軍人というのは、原作12巻でオスマンに当身を食らわせているところから発想。
 ・ロングビルが赤髪:中身はプロローグで登場したインテリジェンス・メイス169号。外伝7-7参照。マチルダさんはアルビオンとかレコンキスタ関連のイベントがかなり改変されているので、トリステインに来てません。
 ・20年前の聖戦:ロマリアはちょっと国内が不安定になったりとか、国内世論が過激派に傾くとすぐにクルデンホルフに出兵する。でもやられる。
 ・いつも食われるラッキーも、生存させたかった。無事生存。
 ・赤槌の魔法:ネタ魔法『座標固定(ポイントロック)』、まさかの再登場。
 ・ギーシュの香水小瓶フラグはへし折る。とりあえずテンプレから外してみる。
 ・ハルケギニア語への自動翻訳機能に対する疑問提示。勝手に翻訳されるって、それが間違ってたら怖くね?

■第四話 嫉妬の心は父心、押せば命の泉湧く
 ・しっとマスク:バレンタインに向けて動き出した街中に対して。あと燃える双眸→燃える三眼への伏線。嫉妬心を持っていそうなキャラとして、レイナールを選んだのは、マリコルヌだとありきたり過ぎ、というか「あの作品のキャラがルイズに召喚されましたスレ」の小ネタとネタが被るため。
 ・原作イベントの宝物庫の破壊と、ゴーレムとの戦闘をこなすために、レイナールは土メイジという設定に。
 ・レイナールの過去:完全に捏造。でも原作でも自分に鞭打ちしてたし、こういう過去があってもおかしくないと思っている。
 ・冷静なコルベール:20年前の事件を経て今の性格に。少々のことでは動じない。ダングルテールの虐殺は行われたのか、果たして……?
 ・ギーシュを成敗!:結局二股はバレました。せっかく香水小瓶フラグが折れたのに。
 ・サイトの布槍:Gガンダムの東方不敗師匠みたいな活躍を想定してたけれど、筆力が足りずに断念……。

■第五話 跳梁者は闇に吠える
 ・ゴーレムとの戦闘。ワンダと巨像みたいな感じで。
 ・輝くトラペゾヘドロン:ニャルラトホテプの化身『闇の跳梁者(闇をさまようもの、蝙蝠の王)』を呼び出すことのできる秘宝。他にも全次元全時間を覗き見る窓になるとか、いろんな使い方があるらしい。基本的には危険物、だけど上手く使えば有用。
 ・闇の跳梁者(闇をさまようもの、蝙蝠の王):燃える三眼が特徴的で、闇色の霧がコウモリのような形を取る。光に対して超脆弱。ロウソク程度の明かりでもダメージが入る。脳みそジュルジュルするのが好き。
 ・ナイトゴーント、夜鬼:角があって羽があって尻尾がある、黒っぽい悪魔みたいな外見。ニャルラトホテプじゃなくてノーデンスの配下として活動することが多いのだが、色んな邪神とか探索者にも便利に使われる存在。ドリームランドではよく(?)探索者たちの移動手段として使役される。外見がかっこいいので採用したが、今回のはしっとマスクベースなので角無しバージョン。本当に夜鬼が召喚されたわけではない。

■第六話 本分――使い魔の場合と魔法使いの場合――
 ・ドリームランド:夢の世界。精神力次第でなんでも思いのままに出来たりする。過去には、夢の世界に自分の想像力(=創造力)のみで一つの王国を作った者もいる。
 ・浅き眠りの七十段の階段:炎の神殿に繋がる階段。誰でも自分の夢の中で、その階段を見つけることができる。それはどこにでもどのような形でも現れうる。
 ・炎の神殿:ナシュトとカマン=ターという神官が詰めている神殿。夢見る人は、そこで彼らからドリームランドについて聞けるかもしれないし、ドリームランドに入る資格がないと追い返されるかも知れない。
 ・ナシュトとカマン=ター:絶大な力を持った神官。
 ・深き眠りの七百階段:正しくは「深き眠りの門への七百段の階段」。炎の神殿からドリームランドのあやかしの森(魔法の森)に開いている「深き眠りの門」へと繋がる階段。
 ・ズーグ:ドリームランドのあやかしの森に棲む生物。齧歯類。体長は40センチくらい。知能が高く、彼ら独自の言語がある。肉食なので、夜に森に入るときは特に注意すること。
 ・カーの分配:臓器を生かしたまま取り出して保存する魔術。移植手術と組み合わせれば、他人を操ることができる。カーとは霊体のようなものだと思ってもらえれば大体合っている。
 ・生体装甲、プレゼンテッド・バイ・ユゴス:ミ=ゴが着ている甲殻類的な鎧と、ネバネバした粘菌状の装甲をハルケギニアで再現した物。ユゴスとは冥王星のこと。ミ=ゴというのは、ユゴスに生息する知性ある菌類。
 ・支配(DOMINATE):相手に自分の言うことをきかせる呪文。ただし相手の基本的な性格に反するようなものであったりすると、呪文は破られるかもしれない。

■第七話 狂宴の後始末
 ・サイトが大学病院の常連:正気度の回復には専門の医療施設で適切に治療をうけるのが有効です。
 ・ギーシュ登場。ギーシュと知り合う機会が作れなかったのでここでフォロー。あとレイナール救済措置のために、男前な性格に。オリ主に憑依されてはいないはず。父上がよく言っていた、は口癖。
 ・レイナール:なんとか生存。狂気についてはルイズの虚無魔法『忘却』でフォロー。『忘却』は狂気の効果を取り除くだけなので、正気度は回復していない。
 ・トラペゾヘドロン・レプリカ:サイトの奇運効果で、消滅せずにルイズの手元に残りました。
 ・ルイズが夢路をたどって夢の王国へ:ドリームランドにおいて彼女はかなりの力を持っているようです。ひとつの王国を想像(創造)できるくらいに。

■今後の展開
 学院日常編を挟んだりしつつ、第二章のアルビオン編に向かいます。
 レコンキスタとかガリア組とかの改変模様はそちらで明らかにしてきます。

2011.01.23 初投稿


第二部第二章、日常&王都探訪編終了です。
ここまで読んでくださってありがとうございます。
第二章では、原作一巻で取りこぼした「王都訪問」、「武器屋訪問」を拾い上げ、原作二巻の「ワルド登場」、「姫様登場」をクリアしました。
以下、キャラクター改変の理由とか、クリーチャーとかについてつらつら書いていきます。いわゆる後書きですね。
特に読まなくても、今後の展開に支障はないのでスルーして下さってOKです。

■キャラクターイメージやコンセプトについて

ルイズ
「女帝」「乱世の奸雄」「人間至上主義」「ジャイアニズム」

サイト
「トリックスター」「トラブル誘引体質」「奇運」

シエスタ
「苦労人」「癒し系」

ギーシュ
「女好き」「男前」「カッコつけたがり」

レイナール
「真面目」「筋肉」「キレルと怖い」

ベアトリス
「お姉さま至上主義」

ササガネ
「無防備系博多っ娘」「ばいーん」

ヴィルカン(触手竜)
「熱血」「ご老体」

ルネ
「騎士」「忠誠」「名誉」

オスマン
「エロの権化」「昼行灯」

ロングビル(インテリジェンスアイテム・169号)
「ツッコミ役」「でも時々暴走」「基本的には観察者」

アンリエッタ姫
「お転婆おひめさま」「恋は盲目(猪突猛進)」

ワルド
「修行僧」「有能な男」


■第八話 夢のなかの夢のまた夢のなかで見る夢
・サイトの頭の中がエキセントリック:過去の数々の正気度減少体験によって、内面世界は実はボロボロです。不憫。夢世界の外観については、特に元ネタはないかも。緑の太陽とかはシャッガイからの連想ですが。彼の数奇な体験については纏まれば外伝で語るかもしれません。
・ルーンの妖精:ヘルシングの「ハルコンネンの精」とか「ジャッカルの精」みたいなノリで。外見がサーシャ(初代ガンダールヴ)なのは他に適当な人物が思いつかなかったので。本来はガンダールヴのルーンについて解説してくれるはずだった。
・一ツ目翼蛇:ルイズの分霊。翼が風(母カリーヌ)、蛇が水(父ピエール)から受け継いだ力を象徴している。サイトの魂があまりにも美味しくて虜になってしまった。本体ルイズの制御を離れて暴走。
・サイトがルネと一緒に寝起き:ルイズと同じ部屋で寝起きさせる理由が見当たらなかったし、ルフト・フゥラー・リッターが駐留してるなら、そこで寝起きするだろうということで。
・ルネ・フォンク:竜騎士で最初に思い浮かんだ原作キャラが彼。所属はトリステインからクルデンホルフに変更。またキャラクターが増えすぎると収集がつかないので、ベアトリスの護衛は彼だけに。
・触手竜ヴィルカン:名前は原作のルネの乗騎から。熱血おじいちゃん。年齢は千歳以上。デルフリンガーとお互いの相棒をいかにプロデュースするかで、鎬を削る日々。
・ルイズの夢の玉座:ドリームランドにおいて、彼女は一国の主。本来だと、彼女の宮殿までサイトを連れてきて、サイトの魂をじっくりと調教する予定だった。


■第九話 ホント訓練は地獄だぜ! フゥーハハハー
・冒頭の訓練風景:ハートマン軍曹なシュヴルーズ。映画「フルメタル・ジャケット」を参考に。シュヴルーズは男前。このシーン書いてるときのBGMはアニメ「大魔法峠」キャラソンの「ぼくパヤたん」第一章&第二章。
・ロバ・アル・カリイエについて:ハルケギニアにおける東方、最極の空虚、無名都市のそれぞれの意味がある。無名都市はハルケギニアに存在し、ルイズはそこを探索したことがある模様。
・サイトのラッキーエロは健在。
・虚無魔法「忘却」の効果:独自解釈。魂を操作できる魔法だと定義。虚無の魔法は、バランスブレイカー。
・ルイズさんが倒せない


■第十話 ようこそ王都(トリスタニア)へ!
・シルフィードが怯える:クトーニアンベースの触手竜に対して、韻竜は怯えます。召喚されてみたら天敵の目の前だったよ! マジかわいそう。あと出番的な意味でも、触手竜ヴィルカンが居ると、シルフィの役目が減る。
・トリスタニアの構造について:貴族街、平民街、貧民街については独自設定。地下水路についても独自設定。外観はアニメの資料集を参考にした。
・ピエモンの秘薬屋:ピエモン=「Piedmont」だと解釈。内装などについては独自設定。
・武器屋:シャンリットの物騒な武器を密売しているという設定。ついでにアトラナート商会直轄に。さらについでに、店主のオヤジもインテリジェンスアイテムに。中身はインテリジェンスアイテム・1号。
・学院から王都までの地下通路:ウードが昔に作ったもの。列車が走っている。

■第十一話 トリスタニアの地下水路迷宮(ラビリンス)
・ワンプ:ドリームランドの死体漁り。豚蜘蛛。赤足の腐肉喰らい。死体の頭蓋骨から自然発生する。サモンサーヴァントでバシリスクが呼び出されたときに、一瞬ハルケギニアとドリームランドは地続きになり、そのせいでワンプが生まれる素となる瘴気がトリスタニアに流れ込んだ。
・地下水路:トリスタニアは暗渠とか下水道が入り組んでそうという妄想設定。あと昔の住居とかの上にどんどん埋立てて街を発展させたイメージ。
・アラクネー:半人半蜘蛛の幻獣(亜人)。第四話「嫉妬」でしっとマスクが言っていた「ササガネフラグ」は、彼女がアラクネーだったため。彼女はワンプを追い掛け回して遊んでいるうちにサイトのところに辿り着いた。

■第十二話 アラクネーの狩りと翼蛇の食事
・サイトの夢:食ったり食われたり。戦ううちに友情が芽生えるのは王道ですよねー?
・『月光(MoonLight)』:光り輝く球を発生させるドリームランドの魔術。
・『治癒(Healing)』:傷を癒す魔術。
・『恐怖の注入(Implant Fear)』:恐ろしい幻影を見せる魔術。強制的に現在正気度を減少させる。
・『吸魂(Steal Life)』:犠牲者の生命エナジーを吸収して若返る魔術(若返り効果は満月限定)。ただし今回は若返りではなくて、純粋に魂のエネルギーを吸収しただけ。
・実体を持った『偏在』:オリジナル魔法。即席クローン作成術。ワルドしか使えない。自分のクローンを殺すのは、かなり正気を削る作業だと思うが、ワルドは日常的に行なっている模様。そこはかとなく狂気が見える。
・アニエスがグリフォン隊で風メイジ:ヒトの血の匂いに敏感だったり、魔風のオーラを持ってたり。風メイジとは言うが、果たしてそれは系統魔法なのか?

■今後の展開
アルビオン編(壮大な兄弟喧嘩編)に向かって邁進です。
そろそろガリアの青髭さんを出したいところ。

2011.02.11 初投稿



[20306] 蜘蛛の巣から逃れる為に 13.嵐の前
Name: へびさんマン◆29ccac37 ID:b87f4725
Date: 2011/02/13 22:53
■13-1.とある午後のティータイム

「助けてルイズ! アラム・スカチノフが息してないの!」

 ブフゥー!
 紅茶吹いた。

「げほ、げぇっほ、げっほ」

「ああっ、ルイズさん大丈夫ですか!?」

 ルイズの傍に控えていたシエスタが、主の桃髪の美少女の口元にナプキンを持っていき、背中をさする。
 午後のティータイム中であったというのに。
 読み返していたハルケギニア語版『ネクロノミコン』も紅茶塗れだ。
 いやこれはダウンロードしたデータから『錬金』で具現化したコピーだから作り直せばいいだけだが。

「げほっ、キュルケ、色々言いたいことあるけど、とりあえず『アンロック』は校則違反よ」

「それどころじゃないの! とにかく来て!」

 青ざめた表情のキュルケは、ルイズの手を引いて、導爆線のような勢いで廊下へ飛び出していく。

「ちょ、ちょっと、キュルケ!?」

「いいから早く! アラムが死にそうなのよ~!」

「アラムって誰ー?!」

 泡を食って飛び出すキュルケとそれに振り回されるルイズを追って、手早くこぼれた紅茶の後片付けをしたシエスタも部屋を飛び出す。
 
「ルイズさーん! お茶請けはスコーンにしますかー? それともシフォンケーキにしますかー?」

 紅茶セットを持って。
 ルイズの侍女はこの程度では動じない。この程度で動じていては務まらない。砲火後ティータイム対応型メイドでなければ……!
 なんだかんだでシエスタも染まってきているのかもしれない。


 ところ変わってキュルケの部屋。
 明るいうちから閉めきられて、ムードを盛り上げる媚香含有のキャンドルが微かな光を放って並んでいる。
 その中心には泡吹いて痙攣する男子生徒が一名と、それを見守っているでっかい毒サンショウウオのフレイム。両棲類らしい安定感がクールだ。

「えっと……?」

「私がキスしたらこうなっちゃったの! バシリスクを使い魔にするくらいだから大丈夫だと思ったのに!」

 ああナルホド。
 ルイズはそれで大体の顛末を悟る。
 そういえばキュルケはバシリスクを召喚した生徒にコナかけていた。
 毒娘の熱いヴェーゼはバシリスクを上回ったらしい。Critical!

 ※バシリスク(成体)の噛みつきによる毒ダメージ=3D6(六面ダイス3個振り、つまり最大ダメージ値18)、毒娘(キュルケ)の熱いヴェーゼ=2D10(十面ダイス2個振り、つまり最大ダメージ値20)
 ※ちなみに平均的な人間の耐久力(HP)は10~11。

 ルイズはとりあえず、懐から取り出したマジックカードを振って、倒れている男子生徒――推定名称“アラム・スカチノフ”――に解毒の魔法を使う。
 だが一向に解毒は進まない。
 ツェルプストーの生み出した毒娘には、シャンリットの解毒魔法も及ばないようだ。

「ねえ、脳味噌凍結処理して首から下をすげ替えたほうが生存率高いわよ?」

 ルイズの持つマジックカードの操作画面に、「Error/Unidentified Poison(エラー/未知の毒物です)」という文字がずらずら次々と流れていく。
 おいおい、何種類の毒が含まれているんだ?
 ルイズは戦慄を隠せない。

 ひょっとしたら魂すらも冒す霊的な毒さえも含まれているかもしれない。
 『微熱のヒ・ミ・ツ』とかいうタイトルで毒物研究の論文を書けそうだ。何十本も。
 とりあえず検出された毒物を片っ端からマジックカードに記録させつつ、ルイズは解毒を続ける。

 いや、解毒というよりは、もはや人体の再『錬金』である。
 とりあえずどれが毒なのか分からないので、血液や、口腔粘膜を中心に正常な人間の組成に『錬金』し直している。
 ひとまずは脳に行く血液さえ正常な人体と同じようにエミュレートしてやれば暫くは死にはすまい。
 身体が再起不能でもシャンリットにお金を払えばクローニングした胴体を作ってもらえるし。

 ルイズの操作する魔法によって横たわる男子生徒アラムの顔色は良くなる。
 それを見てキュルケがアラムを抱き起こそうと近づく。

「ああ、アラム、ごめんなさいこんなことになるなんて!」

 彼女の頬を一筋の涙が伝う。
 涙滴は泣き腫らして上気した褐色の頬を流れて化粧を乱して水の跡を残す。
 次々と押し流される涙によって、それはついにキュルケの顎まで達し、彼女の細い顎の先から雫となってアラムの上へ――

「危なーい!!」

 間一髪。
 ルイズが解毒魔法と多重発動させた『念力』の力場によって、キュルケの涙は空中で受け止められる。
 口付け程度で人事不省に陥ったのだ、涙の一滴がどんな毒を秘めているか分かったもんじゃない。

 ルイズがキュルケの涙をマジックカードに分析させると、案の定、「Error/Unidentified Poison(エラー/未知の毒物です)」の嵐、嵐、嵐。
 これが現在治療中の男子生徒(アラム)の上に掛かっていたらと考えると恐ろしい。
 アラムが即死せずにルイズがやって来るまで持っていたのは奇跡のように思える。

「キュルケ、あんたちょっと離れてなさい。治療の邪魔よ」

「そんな!」

「離れろっつってんの。ようやく安定してきたんだから。あんたはお茶でも飲んでなさい」

 渋々キュルケがアラムを床に横たえる。
 その後ろではシエスタがお茶の準備をしている。
 結局お茶のともはスコーンにしたらしい。

「ミス・ツェルプストー、紅茶が入りました」

「あ、ああ。ありがとう」

「本日の紅茶はアルビオンの高地(ハイランド)の秘境で採れるという極撰茶葉のみを使用した一級品でございます」

 シエスタが一礼してキュルケに紅茶のカップを差し出す。
 キュルケがそれに口をつける……その前に懐からなにやら小瓶を取り出す。
 それを何らかの調味料と見てとったのか、シエスタが慌ててキュルケに尋ねる。

「あの、ミス・ツェルプストー、お気に召しませんでしたか?」

「いえ、そんな訳じゃないのよっ」

 キュルケの慌てて否定する。

「私、毒娘なのよ。小さい頃から周りは全部毒のあるものに囲まれて育ってきたの。生まれたときの産湯はマンドラゴラの浸出液のうすめ液だったし、揺りかごの下にはビーシュ(トリカブト)を敷いていたのよ」

「はあ」

 幼児虐待も良いところではないか、とシエスタは思ったが、口には出さなかった。
 使用人とは木石も同じ。
 見ず聞かず話さず、が美徳である。

 まあ貴族には妙な風習を持つ家があると聞くし、これもきっと良くあることなのだろう。
 そういえば元同室だった娘から借りた本には、家のしきたりで成人するまで男装して過ごすという貴族の娘が男子寮に入ってあらあら大変、というのがあったような気もする。
 借りっぱなしになっている本を返さないと、などと思いつつ、シエスタは大人しく話を聞く。

「食事もね、砒素や青酸、屍毒(プトマイン)、ストリキニーネ、もう数えきれないくらいの毒を少しずつ混ぜたのを食べて育ってきたの」

「よくご無事でしたね」

「それは私に宿る始祖の恩寵たる炎の系統のおかげね。炎は毒と拮抗するのよ」

「なるほど、平民には真似できないのですね」

「そうね。まあ、そういうわけで、今では私は立派に毒娘なのよ。普段の食事や飲み物にも、秘伝の毒薬を混ぜないと物足りないの」

 そう言って、キュルケは手に持った小瓶から数滴、紅茶の中に落とす。
 紅茶の色が紫になった。
 シエスタの顔色も紫になった。

「……それ、飲まれるんですか?」

「ええ、もちろん」

 シエスタの多面的な質問にキュルケは即答した。
 ルイズはアラムの治療に障らないように気流を操作して紅茶の蒸気がやってこないようにしている。
 ついでにアラムの身体も床から浮かしている。絨毯にも恐らくは毒草が織り込まれているだろうから。

 ……四半刻経過。

 キュルケが毒々しい紅茶を飲み終えた頃には、アラムの治療は峠を越したらしい。
 ルイズは空気からエアロゲル(固化した煙、凍った煙)で担架のゴーレムを『錬金』する。
 空気原料のエアロゲル製のゴーレムならば、軽くてある程度丈夫なので、室内など、周囲に『錬金』出来る質量がないときには重宝する。

「ああ、アラム! ありがとう、ルイズ!」

 アラムを載せた担架ゴーレムがキュルケを伴って部屋を出る。

「今はキスとかするんじゃないわよー。また悪化しちゃうからー」

「分かってるわよ!」

 ゴーレムは医務室に向かうように簡単なガーゴイルとしてプログラミングしてある。
 キュルケが余計なことをしなければ、ゴーレムが崩壊したりすることもないだろう。
 シエスタはいそいそと片付けをしているが、ふと手を止める。

「あの、ルイズさん。ミス・ツェルプストーが口付けた茶器、私がこのまま触るとマズイですよね?」

「……そうね」

 ルイズは杖を振って『爆発』の選択破壊を執行。
 ボンッ! と、カップに残った毒を虚無の彼方に纏めて消却する。
 カップは無事だ。

「これで大丈夫よ」

「お手を煩わせて申し訳ありません」

「いいのよ。……それより彼女、キュルケに悪印象は持たないでね」

 ルイズの言葉にシエスタはわたわたと両手を振る。

「そんな、悪印象だなんて……」

「ならいいんだけど。……キュルケも可哀想よね。この学校に来て、キスまで持っていけたのはさっきの男の子が初めてだったでしょうに」

 ルイズが溜息をついて憂える。
 自由に恋も出来ないなんて、宿敵ツェルプストーながら難儀な話だ。女としては若干同情する。
 一方シエスタは疑問符を頭上に浮かべる。言っちゃあ悪いが、あの放蕩そうな褐色の艶女が、そんな奥手には思えなかったのだ。

「とてもそんな風には見えませんけど」

「……あの娘、毒体質でしょう? 美人でフェロモンもあって胸も大きいから、……そう、む、む、胸も大きいから? そりゃあもう、告白はされるみたいだけど、それ以上となると『毒で殺しちゃうかも』って思って、手を繋ぐのも恐る恐るになるそうよ」

 男どもにとっては、そのギャップが尚更に良い、ということになるようだ。
 付き合うまでは派手女と思っていたら、実は超奥手なモジモジ娘。
 征服欲が刺激されるとか、なんとか。

「そうなんですか」

「そうなのよ」

 だからきっと今夜は恋人を殺しかけたことで落ち込んでしまうだろう。
 秘蔵のワインでも持って押しかけてやることにしよう。
 ルイズは今夜の予定を書き換える。

(宿敵がメソメソしているのは気に入らない。そう、ただそれだけなんだからねっ)


 ――シエスタの酒乱癖によって、キュルケ慰め会がぶち壊されるまで、あと数時間。

■13-1.とある午後のティータイム/微熱のキス 了


◆◇◆




 蜘蛛の巣から逃れる為に 13.嵐の前の静けさ、つまり平穏は大波乱の前兆なり




◆◇◆


■13-2.学院の図書室にて

 サイトはこの間王都で買ったハルケギニアの歴史書を読んでいた。彼は今学院生徒と同じ制服を着ている。彼の服は『闇の跳梁者召喚事件』で、ミ=ゴ的なバイオ装甲を着せられたせいで全損している。それに学院の中なら制服のほうが目立たない。
 今彼が読んでいる本の他にも、興味を惹かれた本が周囲に積み上げられている。見たところ童話が多いようだ。ハルケギニア人の思考を知るのに、童話を参照しようという腹積もりだ。
 彼の前には、本を読んでいる雪風のタバサが居る。サイトの前に積まれた童話の幾つかは、この青い少女のオススメの「イーヴァルディの勇者」シリーズである。

 静かに本を読むタバサとサイトの横にはルイズも居る。
 彼女は鬼気迫るオーラを背負ってカリカリとレポートを編集している。彼女の前には極薄シートに投影された画面とコンソールが浮かんでいる。
 がしがしと頭を掻いては、図表を調整し、データの集計方法を変えてみたり、誤解を招かない正確な表現を模索して辞書と首っ引きになっていた。

「うー……、終わらない……」

 唐突にルイズが力尽きたように突っ伏す。
 たれルイズ。サイトは何となしにそう思った。かわいい。
 彼女の左手だけが苛立たしげに擦り合わせられている。

「なあルイズ、何か手伝おうか?」

 サイトはそれを見て心配し、助力を申し出る。
 ルイズは突っ伏した状態から顔だけ動かしてサイトを見る。
 暫し見つめ合う主従。顔を赤らめるサイト。真顔のルイズ。

 ルイズとしては猫の手も借りたい状態である。
 正直この申し出はありがたい。
 さて、ではサイトに何を手伝ってもらえるだろうか、と考える。
 
(『カーの分配』で移植した知識があるから……、あれ、結構色々と手伝ってもらえるんじゃないかしら?)

 サイトが故郷の地球にいた頃は、大学生をやっていて、レポートの書き方も十分に熟知しているはずである。
 何で今まで手伝いを申し付けなかったのか。
 それが悔やまれてならない。

「サイト、あんた、表計算ソフトとかワープロとかの使い方は分かるわよね?」

「ああ、勿論。植えつけられた知識からこっちの文字やなんかもほぼ完璧に分かるし、多分大丈夫」

「そう、じゃあ、私のマジックカードの権限の一部を解放するから、レポート作成を手伝ってもらっていいかしら?」

「良いぜ。何するのか教えてもらえるなら」

 そういえば説明していなかった。

「説明してなかったわね。この間の『闇の跳梁者召喚事件』のレポートの作成よ。サイトには、その時の記録映像を元にして、あの『闇の跳梁者』の戦闘力――飛翔能力とか再生力とか――を書き出して欲しいの」

 学院長秘書の皮を被ったインテリジェンスアイテム169号から、ルイズには先日の学院での邪神の化身(劣化版)との戦闘に関するレポートが言い渡されている。
 ルイズとしては、はっきり言ってそんなの無視したい。
 蜘蛛の眷属のために情報提供などしてやりたくはないのだが、今は逆らうに足りるだけの実力(武力、組織力などなど)が不足している。そのくらいはルイズとて自覚している。未だ雌伏の時だ。

(ぐぬぬ。しかも鞭だけじゃなくて飴も用意しているあたり、埋めがたい経験の差を感じるわね……)

 ルイズに対して用意された飴、それは〈輝くトラペゾヘドロン・レプリカ〉の詳細なデータなどだ。
 ロングビル曰く、【もしレポートの出来が良ければ、〈輝くトラペゾヘドロン・レプリカ〉の使用マニュアルや、これまでの使用事例を纏めた極秘情報をお渡ししますよ】ということだった。
 それで、ロングビルに指定されたレポートの提出期日が迫っているから、ルイズは焦っているのだった。サイトが手伝ってくれるなら、大歓迎である。

「ん、了解。でもそんな曖昧なパラメータをどうやって、」

 そこまで口に出しかけたサイトの脳裏に、マジックカードによってサポートされる画像解析ソフトの使い方や、各種パラメータの計算方法の知識が自動的に浮き上がる。

「って、頭の中に勝手に知識がー!? この感覚久し振りだ! そして相変わらず情報量が多い! 頭イテェー!?」

 分厚いマニュアル数冊分の情報が一瞬で脳裏に顕れた衝撃で、サイトが頭を抱えて机に突っ伏す。
 傍から見れば、主従揃って図書室にてだらけモードのようにも見える。
 実際は修羅場進行中なのだが。

「図書館では静かに」

 タバサがのた打ち回るサイトと、うんうん唸っているルイズに注意する。
 まあ焼け石に水だろうけれども。
 タバサは溜息をついて、自分の目の前の本に集中する。

 今タバサが読んでいるのは『幻の古代知性生物たち~韻竜の眷属~』である。
 韻竜の年齢は鱗の年輪から分かることなどが書かれている。
 同シリーズには『幻の古代知性生物たち~穿地蟲の眷属~』(0/1D4)や『幻の古代知性生物たち~蛸蝙蝠巨人の眷属~』(0/1D4)というのもあるが、今のところタバサは手に取っていないようだ。

 待つことしばし。
 サイトが頭痛から回復し、ルイズの気力も復活した。

「じゃあ、マジックカードにあんたのアカウント作るから、それで作業してちょうだい」

「おう、任せとけ!」

 ルイズは自分のIDカード型汎用魔法補助アイテムを操作し、サイト用の権限を新たに作成する。
 そしてサイトの前にも、ルイズの眼前に浮かんでいるのと同じような、薄いシートを複数浮遊させ、それぞれに戦闘記録映像や表計算画面、操作コンソールを投影する。
 なんだかそこだけ近未来SFな光景である。空中コンソールだなんて、それなんてロマン装備? って感じだ。




 タバサが心なしか羨ましそうに、そして懐かしそうに、作業する彼らの様子を見ている。
 タバサも国元に戻れば同様のことは出来る環境はあるのだが、流石に本家本元のシャンリット製のマジックカードには叶わない。
 異国の地まではミョズニトニルンの支配は及ばない。

 現在タバサの祖国ガリアでは、シャンリットに追いつけ追い越せで魔法道具の研究が盛んに行われている。
 虚無の使い魔ミョズニトニルンは、総ての魔道具を扱える。その能力を使って、先進的なシャンリットのマジックアイテムをハッキングして、研究開発に役立てているのだ。
 ガリア王宮の奥深くまで浸透していたシャンリットの自律型擬人インテリジェンスアイテムたちや、ガリア全土を覆っている〈黒糸〉とかいう広域ネットワーク型マジックアイテムの制御権を、神の頭脳(ミョズニトニルン)は奪ってしまっている。

 〈黒糸〉のネットワークはガリアどころかハルケギニア星の全てを覆っているのだが、ミョズニトニルン一人の頭脳では、ガリア国内ネットワーク掌握が関の山であった。
 それすらも、〈黒糸〉の制御人格にして千年前の亡霊である〈ウード零号〉のお目こぼしに過ぎない。
 シャンリットの好奇心の亡者〈ウード零号〉が本気でクラッキングすれば、ミョズニトニルンの頭脳は焼き切れてしまうだろう。
 ……いや、主人(ガリア王)の愛の籠もった応援があれば、ひょっとしたら拮抗してイイ線行くかもしれない。虚無の使い魔は感情の昂ぶりによる能力のブーストが大きいので、正確なところは「やってみなければ分からない」というところか。

 タバサは、この学院に入学する前の日々を思い出す。
 従姉姫のイザベラに教えられて、タバサも、サイトとルイズが扱っている魔道具を扱わせてもらったことがある。
 イザベラも、伯父のジョゼフ王も、その汎用補助マジックカードの扱いには習熟していた。

 系統魔法の才に乏しかった伯父親娘は、マジックカードの力を使って実力を糊塗して、周囲の貴族を黙らせてきたのだとか。
 ルイズも同じように、自分の実力をマジックカードで偽っているのだろう。
 彼女からは、伯父や従姉から感じるのと同じような、「王の風格」のようなモノを感じる。

 一度、イザベラにマジックカードについて、

「それってズルくない?」

 とタバサは尋ねたことがあった。それに対して、従姉姫は

「はン、使えるもの使って何が悪いのさ。魔法が使えたって、国を治めるのに役に立つわけでなし」

 と悪びれもせずに言い放った。

 そのころ修道院から救い上げられたばかりで世間知らずだったタバサは、「まあそんなものか」としか思わなかったが、宮廷貴族の誰かに聞かれていたら大変だっただろう。
 まあ、実際のところイザベラもジョゼフも、統治者としては一級を超えた天性の資質を持っているし、魔法の才能と治世の才能は一致しないのだろう。
 タバサは系統魔法については、自力でトライアングルまで成長したが、統治者としての能力を見れば、伯父どころか従姉の足元にも及ばない。

 そんな自分がガリアの公爵位を持っていて良いものかどうか、不安になることもある。
 まあイザベラにそんなことを相談しようものなら、「悩んでる間に精進しな! あんたもガリアの王族なら、領地くらい安堵できなくてどうするんだい」と一喝されてしまうだろうが。
 そしてその後に、学習に役に立つ本を届けてくれたりしてくれるのだ、あの優しくて照れ屋の姉姫は。

 そう、公爵位。
 タバサは、本名を、『ジョゼット・ドルレアン』と言う。
 今は国を追われ、爵位を剥奪された逆賊にして王弟、シャルル・ドルレアンの双子(忌み子)の娘の片割れ。
 それがジョゼットにして、このトリステイン魔法学院に偽名で留学してきている『雪風』のタバサなのだ。

 今からもう16年前のこと。
 当時のオルレアン公シャルルに娘が生まれた。
 だがその娘は双子だった。

 ガリアでは、双子は争いを招くとして不吉だとされる。
 生まれ落ちた双子は、『ジョゼット』と『シャルロット』と名付けられた。
 しかし双子は、一方を捨てねばならぬ。オルレアン公爵シャルルも、その因習には逆らえなかった。

 『ジョゼット』とは、その双子のうちの、『選ばれなかった方の子供』に付けられた名前。
 忌み子として捨てられ、修道院に押し込まれた娘。
 本来であれば、そのまま、修道院の中で一生を過ごすはずだった娘。

 だが、大地に張り巡らされた〈黒糸〉は全てを見ていた。
 そして虚無の使い魔ミョズニトニルンも、その〈黒糸〉を通じて、全ての顛末を知った。
 捨てられた娘を、自分と同じ名を持つ因果な娘を、哀れに思った星慧王ジョゼフは、逆賊に成り果てた王弟の代わりに、その忌み娘を引き取って育てることとした。

 それはあるいは、弟の心の闇に気づいてやれなかった兄としての、罪滅しの代償行為だったのやもしれぬ。
 もはや取り返しがつかないまでに道を違えてしまった弟と、ジョゼットを重ねて見ていたのかもしれぬ。
 自分を謀殺しようとした愛しい弟を、ついに殺せず、追放することしか出来なかった兄王の、せめてもの償いだったのかもしれぬ。

 だが、ジョゼットが救われたことは確かであった。
 あの牢獄のような修道院で、何もなさずに朽ちていくだけであったジョゼットを救ってくれたのは、そこにどんな感情があったにしても、ジョゼフであったのだ。
 国家反逆罪によって爵位を失い追放されたシャルルに代わり、修道院から出て早々オルレアン公爵に就けられたりしたが、まあそれはいい。

 これから伯父王を支えて恩返しするのに、公爵位はあるに越したことはないのだから。
 修道院から出てきてすぐ、ジョゼットは、イザベラから様々なことを教わった。
 世間の常識、王族としての心構え、魔道具の使い方……。

 時に厳しく、時に優しく、姉姫はジョゼットに教えてくれた。
 その中でイザベラは、もう一人の従妹姫シャルロットと、ジョゼットを重ねることはなかったように思う。それはとても稀有なことで、有り難いことだった。
 毅然として、峻烈で、王才に満ちた姉姫と一緒に、ガリアを支えていけるようになりたいと、いつからかジョゼットは思うようになった。

 それを伯父に、いや義父(ちち)であるジョゼフに言ったら、彼は嬉しそうに、そして眩しそうに笑って頭を撫でてくれた。

「ああ、きっとそれがいい。それが一番良いのだ。イザベラとジョゼットなら、きっとガリアをもっと繁栄させられる。余が言うのだから、間違いない」

 その時のことを思い出して、タバサの顔が自然と綻ぶ。
 今はイザベラねえさまの「ジョゼフ王甘やかし撲滅計画」のためにトリステインに留学させられているが、夏期休暇にはガリアに戻って沢山甘えよう。
 恥ずかしがりで素直になれない姉姫も巻き込んで。

(そうだ、きっとそれがいい)

 伯父の口癖を真似て、ジョゼットは思う。




「あれ、タバサ笑ってる?」

 図書館でルイズの作業を手伝っていたサイトが、タバサに笑みに気づく。

「思い出し笑い。懐かしくて」

 ちょっと恥ずかしくなって、タバサは口元を読んでいた本で隠す。
 ルイズがサイトにマジックアイテムの使い方を教えて書類仕事を手伝わせているのが、イザベラに被って見えて仕方ない。

「原稿修羅場が懐かしいなんて、あんたも結構色々あったのね……」

 若干勘違いしたままのルイズがつぶやく。
 また精神エネルギーが切れかかっているのか、だんだん『たれルイズ』になってきている。
 だがその目に光が宿る。いいこと思いつきました、って感じだ。

「あ、修羅場慣れしてるってなら、タバサも手伝って! って、いない!?」

 風メイジの速度を嘗めて貰っては困る。
 手伝わされそうな雰囲気を察知したタバサは、既に図書室の扉に差し掛かっていた。

(気分が良いから、今日はシルフィードの愚痴でも聞いてあげよう。そうだ、きっとそれがいい)

 上機嫌で、タバサは学院の庭に向かう。
 このいい気分を、あのお喋りで臆病な使い魔にも分けてあげよう。
 きっとそれがいい。

■13-2.学院の図書室にて/オルレアン公爵ジョゼット・ドルレアン、またの名をタバサ 了


◆◇◆


■13-3.使い魔品評会に向けて

「ルイズー」

「なによー」

 たれルイズ続行中。ついでにサイトも垂れている。
 サイトの助力によって、なんとか『闇の跳梁者』との戦闘に関するレポートは間に合ったらしい。
 報酬の『正しいトラペゾヘドロンの使い方』(1/1D6)と『間違ったトラペゾヘドロンの使い方・事例集』(1D4/2D6)がロングビルから支給されたが、ちょっと今は読むだけの気力(現在正気度)が足りないので、コレクション棚に放りこんである。

「この間レイナールから聞いたんだけどさー、使い魔品評会ってあるらしいじゃないかー?」

「あー、そういえばそんなのもあったわねー」

 サイトは少し前に、モンモランシーやギーシュ、レイナールと一緒に秘薬(超回復促進薬や、ジャイアントモールの虫下し)の調合を行ったときに、使い魔品評会なるものが行われることを聞いていた。
 レイナールも忘れていたらしいのだが、教師に指摘されて思い出し、ついでに再召喚を命じられたらしい。出てきたのはやはり『しっとマスク2号』だったらしい。
 モンモランシーたちと秘薬を調合した後片付けの途中で、すっごい困り顔で「どうしたら良いかな」と相談されたが、結局その場では誰も名案を出せなかった。まさかマスク被ってボディビルやれとも言えないし。

 一方ルイズは完膚なきまでに品評会の存在を忘れていたらしい。
 「あー、そんなこともあったわねー」とか言っているが、目がどこか遠くを見ている。
 どこまで意識が覚醒しているか怪しいレベルだ。

「でさー、俺ってルイズの使い魔じゃん? 何かしないといけないのか?」

 何か出し物をしなくてはならないなら、準備をした方が良いだろう。

「あー、どうしようかしらー。あんた、別に見世物になりたくはないでしょー?」

「そりゃーなー」

 サイトは好んで目立ちたいほど自己顕示欲はない。

「それにー、人間の使い魔だって公にするとー、絶対、私が虚無の系統って気づく人出ると思うしー」

「あー、レアなんで秘密にしときたいんだっけかー?」

 この間、原稿修羅場を共にしたときに、ルイズとは色々と話をした。
 彼女の系統がレアなこととか、今現在のハルケギニアは籠の鳥みたいなものだとか、ルイズはその現状が気に入らないからハルケギニアを覆う籠をぶち壊したいんだ、とか。
 まあ人間、自由を志すものである。今のハルケギニアにも自由はあるが、それはルイズから言わせれば、家畜の自由、奴隷の自由であるからして、運命を蜘蛛の巣から人間の手に取り戻したいのだ、とか。

「そうなのよー、秘密にしときたいのよねー」

「じゃあどうすんだよー? アンリエッタ姫様も見に来るとか言ってたぞー?」

 ゲルマニア行幸の帰りに魔法学院に寄るそうだ。
 この間の王都の地下水路での一件で、何かお言葉を頂けるかもしれない、とギーシュは若干興奮していた。
 そしてモンモランシーに足を踏まれていた。なんだかんだでヨリを戻しつつあるらしかった。ギーシュ恐るべし。

「姫様がー? じゃあ下手なことできないわねー……。棄権しようかしらー。もう何もかも面倒だわー」

「棄権ってどうやってすんだー?」 

 棄権できるなら、レイナールもそうしているだろう。
 それが出来ないから、ああやって悩んでいたのだ。
 もし棄権できる方法があるなら、しっとマスクを握りしめて眉根を寄せる彼に教えてあげようと、サイトは頭の片隅に覚えておく。

「まあ停学にでもなれば良いんじゃないかしらねー? 授業サボって一週間くらいピクニックに行くとかー?」

「それでいいのかよー?」

「良いわよー。もう学院の成績とか正直どうでもいいわー」

 まあ主人がそう言うなら、サイトに否は無い。

「さすがに姫様がいらっしゃるなら、その日までには戻らなくちゃならないでしょうけどねー」

 という訳で突発的逃避性ピクニック開催大決定。


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シャルル生存ルート。
アルビオン編より先に宝探し編になるかも?
今後は投稿ペース落ちると思われます。と言うか今までが早かった。

2011.02.13 初投稿



[20306]  外伝8.グラーキの黙示録
Name: へびさんマン◆29ccac37 ID:b87f4725
Date: 2011/02/18 23:36
 今から十数年前のこと、アルビオンのある地方に一人の司祭が派遣された。
 派遣されたその司祭は、非常に物覚えが良く、それを活かしてブリミル教の伝承はもとより、自分が洗礼した人々全ての名前や血縁関係、貴族たちの名前、その地に伝わる古い伝承を覚えていった。
 特に古い伝承を覚えて、それをミサの日の説法に織り交ぜることは、彼の密かな楽しみとなった。

 失われゆく伝承を語り継いでもらえることを、老人たちは喜んだ。
 土着の信仰とブリミル教の説話の融和は、教会の上層部からも受け入れられた。
 そして、子供たちも、面白おかしく語られる彼のお伽話を喜んだ。

 そんな熱心な司祭が、あるとき、教会の書斎を整理している時に、古い古い本たちを見つけた。
 表題は掠れて読めなかったが、辛うじて『……黙示録』という部分だけは読み取れた。
 何かの宗教書だろうか? 司祭は興味に駆られて、その魔本を読み解いていくこととなる。

「手書きの本、みたいだな」

 全部で十一巻あるその埃を被った本は、この地にかつて存在していた異教の者たちが、かれらの宗教の教義や儀式について記した物、のようである。
 ブリミル教の模範的な司祭としては、そのような本は即座に燃やしてしまうべきなのだろうが、彼の考えは違っていた。
 彼は、この地に古くから伝わっていたと思われる異教の儀式について、分析し、うまい具合に緩くブリミルの教えに統合したいと考えていた。

「文化というものは、失われたら戻らないものだ。それにこれらの儀式は、おそらくこの地の人々の深層心理と密接に関わっているに違いない」

 常々から、この地の人々の持つ、一種独特の空気を、より深く理解したいと思っていた彼にとって、偶然見つけた十一巻の本は、渡りに船であった。
 いかにも秘密が隠されていそうなその十一巻の『黙示録』は、若く好奇心旺盛で、宗教的な情熱に満ち溢れていた彼にとって、まさしく天啓のように思えた。
 ちらりと流し読みしたところ、それぞれの巻は筆跡や紙の質などがそれぞれバラバラで、書かれた年代も著者も全く異なる様子であった。

 しかし、その内の最新刊、つまり第十一巻の筆跡には、見覚えがあった。
 先々代の司教の筆跡と同じなのである。
 新しく赴任したときに、最近の洗礼名簿を読んで、住民一人ひとりの名前と親戚関係や、ミサの日に祈りを捧げる関係上でそれぞれの尊属の命日を覚えたのだが、その時に彼は、洗礼名簿上で、同じ筆跡を何度も見た覚えがある。

 ひょっとしたら、十一巻から成る『黙示録』は、歴代の司祭・司教が書き足して、伝えてきたものなのかも知れない。
 先々代の司教は、急に“眠り病”にかかってしまって、そのまま衰弱死したということだったから、それ以降に任官した者たちには、この『黙示録』のことが伝わっていなかったのかもしれない。
 今まで埃が積もるままにされていた、この『黙示録』の現状を見れば、その可能性は大いにあり得た。

「……もし、先々代の司教様が不慮の病死を遂げたことで、伝統が途切れてしまったというのならば、この『黙示録』を読み解いて、続きを書き記すことは、この地に任じられた、私の役目に違いない。
 そうだ! きっとそれこそが“神”と始祖のお導きなのだ」

 “神”という言葉に混ざっていた、これまでとは違う微妙な響きに、若い司祭の男は気づいていただろうか。彼の思考の中に、ブリミル教の示す神以外の、異教の神が入ってきていることに、彼は気づいていただろうか。
 『黙示録』の続きを書きたいという思いは、果たして、本当に彼の本心からものだっただろうか。何かに憑かれて、熱に浮かされたように目の焦点が合っていない彼の、本心からのものだったのだろうか。
 先々代が記した『黙示録』第十一巻が〈夢の卵〉なるアーティファクトについて記していることと、先々代が眠り病にかかって死んだこととは、果たして関係あるのだろうか。

「……ん? これは、まだ奥に何か……。手記か、これは?」

 若い司祭の男は、『黙示録』と本棚の奥の壁の間に挟まれていた、薄い日記のような物に気付く。
 表題からは、ただ単に『草稿、夢の内容』としか読み取れない。
 だがその筆跡には覚えがあった。

「先々代の筆跡……。じゃあこの手記は、先々代の司教様が『黙示録』を著す前に書いた、アイデアメモか何か、か?」

 ちらりと先ほど流し読みした限りでは、第十一巻は、夢に関連する話題を扱っているようだった。
 それが完全に先々代司教の妄想空想の産物なのか、土着の民話や言い伝えなどを編纂した物かどうかまでは分からなかったが。
 ということは、おそらくは、『黙示録』の奥に落ちていたこの本は、先々代司教が『黙示録』を著作・編纂する前にまとめたものなのだろう。

「『黙示録』を読み解くのに役に立つかも知れないな……。他に何か無いか、探してみよう」

 若い司祭は、ごそごそと書斎をひっくり返していく。

 そう、これは十数年前の出来事。
 白の国アルビオンの、セヴァーン渓谷に赴任した、若い司祭が道を踏み外すきっかけとなった出来事。
 哀れな司祭は、研究ノートを作り、この『黙示録』を解読していく。


◆◇◆


【黙示録解読ノート1】
 先々代の司教様のアイデアノートに倣い、私も『黙示録』の解読のためのノートを付けることにする。
 『黙示録』の内容はセヴァーン渓谷で起きた特異な出来事を、様々な架空の神と結びつけて解釈しているもののようである。
 実際に第一巻は、当時の彼らが崇めていた神である湖底の夢引き神グラーキと、セヴァーン渓谷特有のグラーキを崇める宗教組織について特に詳しく書いてある。
 このことから、私は、この『黙示録』を『グラーキの黙示録』と仮称する。
 だが私としては、『グラーキの黙示録』の内容について、著者の創作であることを願ってやまない。
 あまりにも常軌を逸した悍ましい所業が、そこには列記してあったからだ。
 しかも湖底の神グラーキは実在するのだという。
 ……内容は荒唐無稽ながら興味深く、当時の事件や風俗も詳しく述べられているのは確かである。
 この土地のことを詳しく知るためには、『グラーキの黙示録』は一読に価するものであると思われる。
 ただし、著者は幾分、誇大妄想などの精神病を患っている可能性があり、そのことを念頭において解読を進めるべきだろう。


◆◇◆


「ここが、その湖か」

 彼は湖畔に立っていた。地元ブリチェスターの北にある大きな湖である。
 この湖は、空から落ちてきた流星によって作られたクレーター跡に水が溜まったものだと言い伝えられている。
 その時の隕石落下の衝撃は、アルビオンに起きた数少ない地震として、他の地域の文書にも記録されている。

 あの『グラーキの黙示録』が正しければ、この湖に、ウミウシあるいはナメクジから沢山の刺が生えたような姿の巨大生物、グラーキが居ることになる。
 思わず、彼は『黙示録』第一巻に書いてあった、グラーキを招来する呪文を思い浮かべてしまう。
 だがすぐにそれを忘れる。

「何を馬鹿な……」

 彼は踵を返し、湖を後にする。

 湖面から突き出た、潜望鏡のような三つの目には、彼は気付かなかった。


◆◇◆


【グラーキの黙示録解読ノート2】
 第一巻の内容。重要そうな部分についてのみ記す。それ以外の部分は、記すに憚られる。出来れば著者の想像の産物であることを願う。
 グラーキは超能力によって、眠っている人の夢を操り、自分が潜む湖畔に人々を呼びこみ、奴隷にする。
 グラーキの姿は、巨大なウミウシとハリネズミを合成したような形である。特徴的なのは、カタツムリのように茎状組織に支えられた三つの目と、巨大な口である。
 グラーキの背に無数に生えた棘組織は、毒針である。グラーキはこの毒針を、夢引きによって呼び寄せた犠牲者に突き刺す。それによって犠牲者はアンデッドとなる毒液を注入され、グラーキの奴隷となる。
 かつてこの地に存在していたカルトは、グラーキのアンデッドの奴隷たちから構成されていたらしい。

 第二巻の内容。グラーキ神の従者であるアンデッドについて。アンデッド化の進行と、彼らの末路について。
 グラーキのカルトを構成するアンデッドは、最初は殆ど生きている人間と変わりがない。
 しかし時間の進行にともなって、皮膚は乾き、爪は伸びてひび割れ、生気を失っていく。
 彼らの意識は、殆ど主である湖底の神グラーキと同一化しているが、自我がないわけではないようだ。
 第二巻には彼らを特に崩壊させる『緑の崩壊』の呪文儀式と、アンデッドに普遍的に効果がある『ナイハーゴの葬送歌』が載っていた。
 気分が悪い。夜寝るときには四肢をベッドに縛り付けていないと不安で仕方ない。グラーキはまだセヴァン渓谷に居着いているのだろうか。私がその超存在の感覚に引っかかり、『夢引き』されないか心配である。

 第二巻の内容を読んでから、私は胸のうちに渦巻く疑念を抑えられないでいる。
 グラーキのカルトは本当に存在していないのだろうか。
 グラーキのアンデッドの従者は、歳を経ると太陽光を避けるようになるという。
 つまり彼らは真夜中に活動するということ。
 夜に何かざわざわと物音がするような気がする。
 私が看取った者たちは、本当に死んでいたのだろうか?

 『緑の崩壊』の呪文を、ネズミに試してみた。
 やった、成功だ。ネズミは、元がなんだったのか分からない、穢らわしく不気味で吐き気のする、緑色の屑の塊になった。
 ははは、成功だ。私は奴らに対する切り札を手に入れた。


◆◇◆


「すまないが、これを捨ててきて貰えないか」

 若い司祭は、見習い神官に、ズタ袋に入れた何かを渡す。

「はい、しかし、これは何です? 凄い臭いなんですが……」

「生ゴミだよ。殺鼠剤の実験もしていたので、豚の餌にもなりゃあしないものだ。何処か裏庭にでも穴を掘って、埋めてきてくれ」

「はあ、わかりました」

 見習い神官の少年が出ていくのを、司祭は見送る。
 彼の目には、深いクマが刻まれていた。深く深く溜息をつく。
 見習い神官の少年に渡した袋の中には、彼が『緑の崩壊』の実験に用いた残骸が入っている。

 そして彼は、意を決して教会の霊安室に向かう。
 死体の数を数え、黄泉帰りが無いか確認するために。
 そして、黄泉帰った死体が抜け出すための、彼らのカルトに通じる抜け道が無いかどうかを確認するために。


◆◇◆


【グラーキの黙示録解読ノート3】
 第三巻の内容。とある古城に幽閉された存在、バイアティスについて。
 一ツ目、ロブスターのような二つのハサミ、大蛇のような顎髭によって特徴付けられる、巨大で貪欲な怪物。
 旧き神の印によって封印されたそれは、ひとたび封印から解き放たれたならば、あらゆるものを喰らい、成長して、大地を汚す。
 封印を解いてはならない。
 私は古城の封印を確認しに行った。流れのメイジを伴って。
 私は彼に、古城に『固定化』の魔法をかけ直してもらった。
 旧き印は、未だ効力を保っているように見える。ひとまずは安心か。

 村人たちに『ナイハーゴの葬送歌』を用いるかどうかを迷う。
 アンデッドであれ、私の目からは、彼らは普通に生きているように見える。
 その彼らがもしアンデッドであったとして、『ナイハーゴの葬送歌』によって彼らの活動を停止させたとすれば、それは殺人ではないのか。
 悩む。だがいつか決断しなくてはならないだろう。
 今日も『緑の崩壊』の儀式を練習する。もう手順は完璧に覚えたと言って良いだろう。穢らわしい緑色の残骸を捨てる。酷い臭いだ。

 第四巻の内容。迷路の神アイホートとその雛。
 信者は迷宮を掘り続けることがアイホートに対する崇拝となる。
 白くてぶよぶよとした死人のような八本の脚を持つアイホートは、迷宮の神であり、同時に神経迷路である脳をも支配する神である。
 雛は人体と同化することが出来る。
 集まった雛は、人と同じ形に擬態することも出来るという。
 霊安室で見かける白い蜘蛛は、ひょっとして。いや、まさか。
 念のため、殺虫剤を撒いておこう。
 そうだ、遺体の内側にも薬剤を塗り込めば、もっと効果的なはずだ。


◆◇◆


 霊安室の死体を切り開き、薬剤を塗り込める。
 これは必要なことなのだと信じて。
 彼はもはや、『黙示録』の内容を疑ってはいなかった。

「必要なのだ、必要なのだ、必要なのだ必要必要ひつようひつようひつよう……」

 幽鬼のような表情で、彼は死体を丹念に切り開いて、薬剤を皮の内側に塗り込む。
 その足元を、小さな白い蜘蛛が駆け抜けようとする。
 だが彼は目敏く、ぶよぶよふくれた蜘蛛を見つける。

「このっ! このっ、雛め! 人間の身体を食うな、このっ!」

 彼は足を振り上げ、蜘蛛を踏み潰さんと、霊安室中を追い掛け回す。

「このっ! この、この、このぉっ!」

 ぐちゃり、と、ついに蜘蛛が踏み潰される。
 蜘蛛の内容物が、勢い余って彼の頬にまで飛び散る。
 ミニチュア化した人の脚のような形の蜘蛛の脚が、彼の足の下からはみ出て、ひくひくと痙攣している。

「くそっ、この、このぉっ! は、はは、ははははははは」

 何度も何度も蜘蛛の残骸を踏みつける彼の、虚ろな笑い声が霊安室に響く。
 僧服の裾からは、夢見る間に彼をベッドに縛り付けている革のベルトによって、擦れてできたカサブタが厚く重なっている。
 グラーキの悪夢が彼を苛んでいるのだ。夢遊病のように動き出そうとする身体を押さえるベルトによって、手首足首に擦り傷が重なっている。

「ははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははは」


◆◇◆


【グラーキの黙示録解読ノート4】

 第五巻の内容。妖星グロースについて。
 夜空から星の歌が聞こえる。
 ああ、月から覗くあの瞳が、人々には見えないのか!
 星々の間を飛び回る滅びの星が、私たちの星にも迫っているに違いない。
 毒電波を防がなくては。
 窓を、窓を、塞げ!
  唸るような夜空の声を遮断せよ!
 彗星を撃ち落せ!
  あれは、あれは、ああ、あれこそが災いと滅びの使徒!
   ネメシスよ!
  るるるおおぎい、いいいぎるるうをおお、お、お、あお、あああ、え。
 いいぐろぉおうううう、んあああ、くいああきい、い、いあ、ああ、あい、み、やあ、空の裂け目に、瞳が!
 熱視線が私を焼きつくさんと! 窓を、目を閉じろ。

 夜だ、夜が来る。
 奴らの時間だ、屍人どもが。
 眠るな、夢を見れば、湖底のぐらあきが、私を、奴隷に、する、ため、に、電波を、ああ、眠ってはいけない。

 掌に口を持つ、強力無比なる神よ、我を守り給え!




 第六巻の内容。
 豊穣神、黒山羊。月の光を集めて、女神の化身を召喚する方法。
 ムーン=レンズ。その守護者。生贄を捧げよ。
 満月の光によるゲート、あるいは新月の闇を集めたゲート。守護者を召喚するために、月の力を用いる。
 沃土の黒。多産の山羊。千の仔を孕みし黒山羊、シュブ=ニグラス。
 燃える琥珀の灯り、首、頭部、血の塊、生贄。
 仔山羊には供物を。いあ、しゅぶ=にぐらーと。

 第七巻と第八巻は、シャッガイの昆虫たちについてててててて。
 セヴァン渓谷に落着した彼らが用いる技術、アザトース崇拝について。
  彼らが使役するザイクロトルの肉食樹や、その母星について。
 全ての混沌の源泉、万物の神、狂える玉座のアザトース。   カブト虫、羽虫。
かの大神の力を通常空間に呼び出せしめ、利用する手法について。
 妖星グロースにより滅んだシャッガイ。 光合成。
 彼らの用いる神経鞭について。めねめねめねめね。
  我々の星が、グロースによって滅ぼされる、彗星を見張れ。夜空を見張るのだ。
 不寝番。夢、夢引き、グロース、グラーキ。

 全てを喰らう、両手の口、いごるろなく!
             我が神。我を守り給え。
  神が望む苦痛を捧げるために、は、シャッガイの昆虫たちの拷問技術を応用できるだろう。
 災厄をもって、災厄を封ず、るずるずるずるるるるるるるるるるるるる。


◆◇◆


「司祭様、大理石を取り寄せて、一体何を作っているのですか……?」

 かつん、かつん、と石をノミで削る音が響く。
 見習い神官の少年が、そのノミとハンマーを操っている不健康そうな司祭に訊ねる。
 司祭の部屋まで、最近また新しく入った、見習い神官の少年が、新しい石材を運んできたのだ。

 部屋の中には、石工具と石材の欠片、そして人間の腕を象った、失敗作の石像が無造作に置かれている。
 部屋の窓は内側と外側から打ちつけられており、一切の光が入らないようになっている。
 唯一の光源は、小さなランプの灯りのみだ。

「神だ」

「え?」

「神の手を、作るのだ」

 それだけ答えると、司祭は石を削る作業に没頭してしまった。
 転がっている失敗作は、掌を広げた人間の片腕が台座から上に生えているものだ。
 特徴といえば、手のひらの真ん中に、綺麗に歯が生えそろった人間の口が彫られていることか。

 見習い神官は、石材を部屋の中に置いて退出しようとした。
 しかしその時、転がっていた出来損ないの腕の石像が、見習い少年の足首を掴む。
 少年が疑問に思う暇もなく、石像の掌に彫られた口が蠢き、少年を喰らった。

 ばり、ぼり。
 がり、ごり。

 部屋の中には、鬼気を背負って『神の手』を彫り続ける司祭と、石削る音だけが残された。


◆◇◆


【グラーキの黙示録解読ノート5】
 第九巻の内容は、こことは異なる次元について。
 ヴェールを剥ぎ取るもの、ダオロス。
 ダオロスを投影するための装置の作成方法。
 および、別次元で音として生きるスグルオの住人たちについて。
 彼らスグルオの住人はトルネンブラという外なる神を信仰している。

 第十巻は、ムナガラーという神について。
 はるか昔、大陸分裂以前の唯一大洋テティス海の支配者。
 海神くるうるうの右腕として名高き神らしい。
 それは剥き出しの内蔵、触手、目の塊として現れるという。
 とても古い神だが、天空大陸アルビオンとはあまり関わりがない。

 第十一巻。
 最も新しく書かれた巻。
 筆跡から、先々代の司教様が書いたと思われる。
 別世界から持ち込まれた『夢の卵』、夢の結晶化装置について。
 いかに、夢の大帝ヒュプノスの目を欺いて、その装置を使うかについて、記されている。

 先々代司教様のアイデアノートを見るに、これらの黙示録は、ぐらーきの毒電波によって啓発された夢をもとに書かれている模様。
 ならば私も、続きを書かなくてはならない。
 そうだ、続きを。

 ぐらぁきの黙示録、第十二巻。
 我が神について。
 かの、くるぅるぅでさえも畏怖する、強力無比な、いごーろなく様について。


◆◇◆




 蜘蛛の巣から逃れる為に 外伝8.『グラーキの黙示録』第十二巻作成中なう@おりばー・くろむうぇる





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2011.02.18 初投稿



[20306] 蜘蛛の巣から逃れる為に 14.黒山羊さん
Name: へびさんマン◆29ccac37 ID:b87f4725
Date: 2011/02/21 18:33
「きゅいきゅい! 今日は学院から離れてお空のお散歩なのね! ここなら、あのおっかない触手の竜も居ないのね!」

 厨房のマルトーからたくさんのお肉をもらって満腹になったシルフィードは、上機嫌で空を飛んでいた。
 “おっかない触手の竜”とは、クルデンホルフ大公国の空中触手竜騎士(ルフト・フゥラー・リッター)の乗騎であるヴィルカンというキメラドラゴンのことである。
 ヴィルカンという竜自体は、千二百年も時を経た落ち着いたドラゴンなのだが、彼の素体となった地底魔蟲クトーニアンが、シルフィードたち韻竜の天敵なのである。
 しかも、ルフト・フゥラー・リッターの作った竜舎に空きがあるとかで、強制的に隣部屋である。ストレスが溜まるってもんじゃない。一応、森の中に別荘をシルフィード自身の手で作っているが、主人である青髪のメイジからは、できるだけ学院に近い方、つまり触手竜の隣部屋を使えと言われている。

 シルフィードはまだ幼く(二百年ほどしか生きていない)、直接はクトーニアンに襲われたことはないが、その恐ろしさは嫌というほどに聞かされている。
 シルフィードが生まれるよりも百年ほど前に、二百メイルはある巨大なクトーニアンに、彼女の村は襲われたことがあるのだという。
 その時には、多大な犠牲を出して、ようやく一匹のクトーニアンを殺すことができたそうだ。

 本来、あの腐った粘液にまみれて地中を溶かして掘り進む、イカミミズの化物は、そこまで大きくはならない。
 せいぜい全長は三十メイルほどであり、水が致命的な弱点である性質もあり、以前ならば、集団で襲われない限りは、韻竜たちならば逃げ出すことくらいは容易であった。何せ相手は地底魔蟲、空を飛べば追っては来れないのだから。
 だが、千二百年前のある時、あの異端の蜘蛛人間ウード・ド・シャンリットが、彼らクトーニアンに仕えるようになってから、事情は一変した。

 クトーニアンたちはその身体を十倍も、巨大に、そして頑丈にし、さらには人間の魔道具の力によって、弱点の水を克服し、あまつさえ水を操り、天にまで『ウォーターウィップ』の偽触手を百メイル以上も伸ばすのだ。
 韻竜たちは、強力な力を持った天敵から隠れるように、ハルケギニアの表舞台から姿を消し、寄り集まって細々と生きてきた。
 韻竜たちも、何も手を拱いて(こまねいて)みてきた訳ではない。精霊魔法の研鑽を積み、道具を駆使して、クトーニアンへの対策を練ってきた。大地から離れて天空大陸に移り住むものたちも多かった。

 だが、それでも、三百年前に、一匹の巨大クトーニアンに戯れ(・・)に集落が襲撃されたときには、十匹以上の優れた精霊魔法の行使手が斃れた。
 地核に住む魔蟲には、炎も土も通じず、樹木や風の魔法は威力が足りず、水は弾かれ逆に操られ返される始末。
 何よりその質量の差は如何ともしがたかった。

 しかしそこで、今まで作ってきた武器が役に立った。
 頑丈な鋼管が、その武器である。
 何匹もの竜が囮になって、クトーニアンに隙を作らせ、そこに猛烈な勢いで射出した鋼管を突き刺し、クトーニアンにとっての猛毒である水を、注射したのだ。
 クトーニアンは、醜悪な叫び声を上げて、じゅうじゅうと溶けて、どろどろの腐汁になって死んだ。韻竜の里は守られたのだ。

「きゅいきゅい、お祖父様はその時の戦で大活躍したと聞いてるのね~」

 その鋼管による戦法――杭打ち(パイルバンカー)戦法――を考えたのは、シルフィードの祖父に当たる竜なのだという。最もその当時は武器を(しかもトッツキを)使うという考えは異端視されていたらしいけれど。
 シルフィードの両親は、祖父の活躍を誇らしげに幼いシルフィードに語り聞かせてくれた。
 『あなたも、皆のために智慧や力を振るえる立派な竜になりなさい』と。

「今は、ちょっと、あのヴィルカンとかいう竜が怖いけど……、でもシルフィも、きっといつかは、お祖父様みたいに勇敢に……」

【ほうほう、それでそれで】

 上空で呟いていたシルフィードのすぐ後ろあたりから、聞き覚えのある、しかし聞きたくもない渋みのある声がしたような気がする。
 シルフィードの背中を冷たいものが伝う。心臓の鼓動は爆発せんばかりに高鳴り、飛翔筋に大量の血液が送り込まれる。
 遥か上空で、風韻竜であるシルフィードの真後ろにつけることの出来る生き物は、そうは居ない。居るとすれば、それは高度にチューンナップされた人造種族である、あの触手竜くらいしか――。

「きゅい~!! 食べないでなのね~!!」

 シルフィードは本能の叫びに従って、懸命に羽ばたいて、後ろも見ずに距離を取る。
 後ろからは愉快そうに笑う触手竜の声と、それを窘める騎手の少年の声がする。

【ふはははは、逃げよった。せっかくの夢に見た再生の空、再会の空だというのにのう】

「ヴィルカン様が脅かすからでしょう。というか悪夢(ユメ)に見ていたのは多分ヴィルカン様じゃなくて、あっちの風韻竜の子の方だと思います」

【かっかっか、まあそうじゃのう。それに大体、たまたまこっちの進路上にいただけじゃないか。別に儂らが追いかけてきたわけでもないのに、ツイてないのう、あの娘っ子も】

 まだまだシルフィードが真の勇敢さを身につけるには、時間がかかりそうだ。
 慌てて飛び去っていくシルフィードを、触手竜ヴィルカンと騎手ルネが見送る。
 彼らの後ろには卵型の流線形した二つの竜籠が牽引されている。


◆◇◆




 蜘蛛の巣から逃れる為に 14.黒山羊さんたら……




◆◇◆


 一方同じころ、魔法学院では授業が行われていた。
 いつもは最前列に座っているミニマム娘三姉妹(ルイズ・ベアトリス・タバサ)なのだが、今日は雪風のタバサしか座っていない。
 教師のギトーが首を傾げる。

「ん? ミス・タバサ、今日はミス・ヴァリエールとミス・クルデンホルフは休みかね?」

「……愛の逃避行」

「そうか……。百合百合しいとは思っていたが、そういう仲か。いや、この場合はミス・クルデンホルフの粘り勝ちというところか」

 タバサの返答から、ギトーは妙な勘違いをしたようだ。
 いやまあタバサの返答が勘違いを煽るものだったから仕方ないが。

「せっかく本日は彼女らも好みそうな実践的な風魔法の使い方を教示しようと思っていたのだが……。まあいい。おや、ミス・ツェルプストーも居ないではないか。それにミスタ・スカチノフも」

 キュルケと、彼女の恋人であるアラム・スカチノフも、この教室には居なかった。
 何人かは二人が休んでいる事情を知っているらしく、顔をひきつらせる。
 そんな中、ギトーの疑問の声に対して、教室を代表してタバサが答える。

「アラム・スカチノフ、毒で重体。キュルケ、傷心旅行」

 バシリスクの幼生を使い魔にしたアラム・スカチノフは、つい先日までキュルケと付き合っていた。
 だが、毒体質のキュルケの毒素は、バシリスクと契約しても無事だったアラムを、なんとキスの一撃でノックアウト。
 その後の処置が良かったため、アラムは九死に一生を得たものの、意識を回復して一言。

『やっぱ無理』

 とだけ言い残して、再び意識を失い、病床についた。
 結構本気だった恋人を不慮の事故で殺しかけた挙句、その恋人からフラれたキュルケは随分と落ち込んでしまっていた。
 タバサも色々と世話を焼いて、キュルケを慰めたのだが、本調子まで元気づけてあげることは出来なかった。

 見かねたルイズが、落ち込んで寝床から出てこないキュルケの部屋のドアを蹴破って、キュルケを連れ出して外に出たのが今朝のことだと思われる。
 タバサは先に食堂に行っていたので、その現場には出くわさなかったが、推測するに――

『いつまでもヘタってんじゃないわよ、キュルケ! メソメソめそめそ、こっちの気が滅入っちゃうわ! 大体こんな部屋の中に篭もりっぱなしだから良くないのよ! 外行くわよ、外!』

 ――とか何とか言って連れ出したのだろう。
 ちなみにタバサが、ルイズたちとキュルケが同行しているのを知ったのは、つい先程、シルフィードと感覚同調した時である。
 シルフィードが触手竜から逃げて随分と距離をとってから、木陰に隠れて(隠れきってない)そっと、触手竜の方を見たときに、触手竜が牽引する竜籠の中にピンクブロンドの髪と赤髪を認めたので、そうだと気づいたのである。

(私だけハブにされた……。ちょっと悲しい。あとで絶対合流する)

 放課後はシルフィードを駆って、ルイズたちと合流しようとタバサは心に決める。シルフィードの心労は無視である。いい加減に触手竜恐怖症を克服してもらいたいものだ。
 ちなみに、今の授業をサボって抜け出すのは無しである。
 タバサは密かに、風のスクウェアメイジであるギトーの授業を楽しみにしていた。内容が濃密だからだ。

「なるほど、了解した。では、授業を始めよう。今回休んでいる彼らには、あとで誰かノートを見せてやってくれたまえ」

 教室中の皆がギトーの声に身構える。
 “疾風”の二つ名を持つギトーの授業は、迷授業として有名である。
 ギトーのモットーは『風最強。何故なら、はやいから』であり、それは常日頃の彼の授業態度にも顕著にあらわれる。

「『ユビキタス・デル・ウィンデ』」

 ギトーが『偏在』の魔法によって二人に分身し、一方は黒板に、もう一方は授業用のノートを開いて教壇に立つ。
 教室に緊張感が満ちる。教壇に立った方のギトーが、『拡声』の魔法を用いる。生徒の方も一言一句逃すまい、黒板の文字一文字も見逃すまいと神経を張り詰めさせる。
 彼の授業が何故、迷授業なのか。何故、生徒たちが身構えているのか。『風最強。何故なら、はやいから』というギトーの信念が、授業に影響するとはどういう事か。
 それは、つまり――

「本日のテーマは真空についてだ真空とは何かといえば空気がないことでは空気がないとはどういう事かそれは一定空間における気体分子の密度が低いさらに言えば分布している分子がゼロであることを特に指すこの場合の単位は――」

 ――授業速度が『疾風』のギトー。

 息つく暇もない授業である。
 実際、授業中、喋り続けるギトーの息が途切れることはない。
 気道の空気の流れを、片肺ごとに風魔法で制御して、発音しながら強制的に換気しているとか、本人は言っているが、本当なのかどうかは解らない。喋ってるのは、実は発音(スピーカー)機能のみの簡易な『偏在』だから息継ぎの必要は無いとかいうことかも知れない。
 そして喋る方のギトーのスピードに合わせて、板書する方のギトーも猛スピードで黒板を文字で埋めていく。

 生徒たちも必死でそれに喰らいつく。
 最早彼らは書く機械である。視界は狭まり、精神はギトーの声と、板書のみに向かう。
 ある意味無我の境地に至れるギトーの授業を通じて、皆はその精神の空白に風魔法の知識を書き込まれていく。

『その速度が病み付きになる』

 とはタバサの談である。


◆◇◆


「『ブリーシンガメン』? そんなのがこんな所にあるのかしら?」

 竜籠の中でキュルケが聞き返す。
 竜籠の中にはルイズ、ベアトリス、シエスタも居る。
 その後ろの竜籠には、サイトとレイナール、魔剣デルフリンガー、使い魔の毒サラマンダーであるフレイム、大蜘蛛ササガネがぎゅうぎゅう詰めで乗っている。

「なんか扱い悪くないか、俺ら?」 「男は損な役目を負うべきだとおもうよ」 【レイナールも段々ギーシュに教育されてるなぁ】 「ギ」 「キシキシ」

 視点を前の竜籠に戻そう。

「ええまあ、多分偽物だろうと思って放っていたんだけど、この機会に、近場だし探索しておこうと思って」

 ルイズは使い魔品評会を、授業をサボったペナルティでエスケープするために、自主休講して趣味の遺跡探索に乗り出したのだ。
 人間を使い魔にしたことを大々的に公表しては、どこからルイズが虚無の系統だとバレるか分からないからだ。
 ……まあ、既に知っている者は知っているのだが。

(シャンリットの母校や実家のヴァリエール家は勿論、ガリアの鬱屈王や、ロマリアの宗教狂いも、私の虚無については知ってるから、今更感はあるけれど……)

 焼け石に水だが、虚無の隠蔽の努力はした方がいいだろう。
 レイナールもルイズ同様、使い魔品評会回避のため、サボタージュである。しっとマスク2号を召喚してしまった彼も、使い魔品評会には参加したくないのだ。
 サイトとベアトリスとシエスタは、ルイズ一行なので自動的に探索に同行である。ルネとヴィルカンは貴重なアッシーとして徴兵。
 キュルケはメソメソしていたので、気晴らしにとルイズが誘い出した。

「『ブリーシンガメン』って何ですか?」

 シエスタがルイズに尋ねる。
 今向かっている方向は、シエスタの故郷タルブ村がある方角であるが、彼女は『ブリーシンガメン』なんてものを聞いた覚えはなかった。
 ルイズがそれに答える。

「『ブリーシンガメン』というのは、豊穣神の首飾りで、炎の形をした琥珀があしらわれてると言われているわ。まあ、今から向かう廃村の方は、十中八九はガセネタだろうけどね」

「ガセだと分かってるのに行くの?」

 キュルケが尋ねる。

「他に近場で目ぼしいのは無いのよ。少し前にオーク鬼の襲撃で放棄された村らしいから、何もなくても、オーク鬼相手に魔法をぶっぱなしてやればあんたのストレス解消くらいにはなるでしょう」

 一応トリステイン貴族として、国内の蛮族の排除も必要であるからして。

「野戦なら、わたくしの真の実力をお見せ出来ますわ! 最近、見せ場が無いなと思っていましたの!」

 ベアトリスが意気込む。
 野戦となれば、彼女の本当の実力も発揮できる。
 『天網』の二つ名のお手並み拝見といったところか。

 その時、触手竜ヴィルカンを駆るルネ・フォンクから連絡が入る。

『お嬢様、地図で指定された地点付近の上空まで来ました』

「ルネ、それでは適度に離れたところに下ろすように。その後、お姉さまと一緒に廃村を攻略します。ルネは村の上空で待機して、制空権を掌握。適宜、威圧や索敵、取り零し殲滅などのフォローを」

『了解であります』

 というか触手竜騎士一騎だけでも、小都市を灰燼に帰するには充分すぎる戦力なのだが。
 それを上空哨戒任務に使うとは、贅沢すぎる。
 場合によっては、彼らは風の膜を纏って超音速で飛行し、無数の触手の先から強力なドラゴンブレスをばら撒くのだ。
 高速で飛行する触手竜には、敵の攻撃は当たらず、竜騎士の攻撃は過剰なまでの高威力。都市を占領するつもりがなければ、非常に使い勝手がいい。インフラも何もかも破壊してしまうから、占領には向かない。薙ぎ払えー。

(このメンツって、普通に一国落とせるんじゃ……)

 シュヴルーズによる演習風景を間近に見て、ルイズたちの打撃力の凄まじさを知っているシエスタは、これから行われる虐殺に幾許かの憐憫を感じる。
 だが、オーク鬼は人間の敵であるし、タルブ村付近のオーク鬼の拠点が潰されるなら、それは非常に喜ばしいことだ。憐憫は掻き消えて、すぐに安心の感情が湧き上がる。
 オーク鬼討伐後は野営をするということだから、どんな料理を振舞おうかと、シエスタは考えを切り替える。

(この辺に生えてる野草とか、あとは、ウサギ捕りの罠でも仕掛けて……、あ、ヴィルカンさんに驚いて出てこないかも知れませんね、ウサギ……。どうしましょう?)

 猟銃の練習なども最近させられているし、鳥にしても良いかもしれない、などと考えつつ、シエスタは最近ルイズに与えられたゲートの鏡を応用した『四次元ポケット』の中身を脳内で列挙して確認していく。
 ルイズはシエスタを一体どんなメイドにしたいのか……。
 シエスタ万能完璧メイド化計画が地味に着々と進行中である。

 廃村から少し離れた場所に、『サイレント』の結界を張り、森の木々を無音で薙ぎ倒して広場を作る。
 触手竜と竜籠が静かにそこに着陸する。
 そして皆で気勢を上げる。

「ではー、『ブリーシンガメン』探索および、オーク鬼殲滅にー」

『しゅっぱーつ!!!』


◆◇◆


 廃村に降り立ったルイズたち一行は、隠れることなく堂々と、廃村の中央を進んでいく。
 『オーク鬼相手に隠れる必要は感じないわ、制圧前進あるのみよ』とのルイズの一言によってこの戦術を取ることとなった。
 進撃メンバーは、前衛にサイト(withデルフリンガー)とレイナール(及びスパイクゴーレム)。
 中心には砲台としてキュルケ、そしてベアトリス。

「うふふふ、ふふふ。みんな、燃えてしまいなさい! みんなみんな灰になれ! 空に水面に浮いて漂え!!」

「ぴぎぃ、ぶひゃあ!?」

 廃屋の中から出てきたオーク鬼に、キュルケが『火球』の魔法を景気よくぶつける。
 失恋の鬱憤をはらすように。
 あっという間にオーク鬼は燃え上がり、炭を通り過ぎて灰になって吹き散る。

「あら、わたくしも負けてられませんわ! 太陽系からサワディーカー! 一億四千九百リーグの果てより飛来する太陽フォトン(光子)の翻訳者(犠牲者)として、諸君は讃えられる! 故に安心して死ね! 『集光(ソーラーレイ)』!」

「ぶぎっ!?」

 ベアトリスが杖を振って、先祖伝来の秘伝魔法を使う。
 歪曲され収束された太陽光線が、灰になった仲間を見て唖然としていたオーク鬼を、レーザーメスのように焼き切り裂く。
 ジッ、という音と共に、四分五裂にされたオークの身体が転がる。

「はい邪魔ー。しまっちゃおうねー」

 転がったオーク鬼の死体を、レイナールのゴーレムがスパイク付きタワーシールドを振るって退ける。
 彼の役目は、後衛が呪文を詠唱するまで、敵の圧力を受け止める盾だ。
 そして同時に残骸を撤去するブルドーザーでもある。 

 引き続いて廃屋から飛び出してきたオーク鬼の前に、デルフリンガーを握ったサイトが踊り出る。
 オークが棍棒を振るう。
 だが、既にその時にはサイトの姿は無い。

「ぷぎ?」

「遅えんだよ、豚野郎」

【ガンダールヴ相手にゃ役者不足だぜ!】

 瞬きする間に棍棒を持った方の手首を切断し、さらに太腿の腱を切り裂いておく。オーク鬼は何が起こったのか分からず疑問の声を上げる。
 トドメは後衛が刺してくれるだろう。
 サイトがそう思う間にも、『火球』と光条が走り、オーク鬼を焼き尽くす。

 後退しようと後ろをちらりと確認したときに、サイトは、廃屋の二階で弓を引くオーク鬼の姿を認める。
 危ない、とサイトが声に出す前に、そのオーク弓兵の矢は、後衛に向かって発射される。
 迎撃は間に合わない。

「はン、うざったいわ」

 と、思いきや、ルイズがマジックカードを翳して、事も無げに矢を空中に縫い留める。
 発動された『念力』の力場によって、矢は空中で受け止められる。
 矢でも鉄砲でも持って来いってもんである。
 必勝『念力』バリア。マジックカードの魔法使用料金を湯水のように使えば、エルフの『反射』の魔法もビックリの、重力加速度の1000倍の加速度を常時外向きに発生させる力場によって全周囲を覆うことも可能である。

 直後、矢が放たれた窓へと、ベアトリスが操る細い光条が殺到する。

「お姉さまに手を出して、ただで済むと思ったのかしら!? 死ね! 消えろ!」

 執拗にレーザー光条が動かされ、オーク弓兵の死体を切り刻み、ミンチより酷い状態にしていく。
 次々とやられる仲間に恐れ慄いたオーク鬼たちが、廃村を放棄して逃げ出そうとする。鉄壁神速の前衛、バカ火力の後衛、無敵のバリア。豚の頭脳でもさすがに勝ち目がないことくらいは悟ったらしい。
 しかし、すでにこの村は包囲されているのだ。

「ぎっ!?」

 逃げ出そうとしたオーク鬼たちが、足を取られる。
 見れば細くて白い蜘蛛の糸。
 引きちぎろうと力を入れるが、取れはしない。

 そのうちに、じゅうじゅうという音とともにオーク鬼の身体から蒸気が吹き出し、オーク鬼が身体を掻き毟る。
 そして、発火。パイロキネシスによる人体発火現象。
 声なき叫びを上げて、オーク鬼が炭になって倒れる。

「ぴぎぃ?!」

 それを見た別のオーク鬼が、また別の方向に逃げる。
 しかし、そちらにも蜘蛛糸は張り巡らされている。
 別の方向に逃げたオーク鬼は、足を留められているうちに、銃声と共に、頭部をザクロのように弾けさせられて倒れる。

「銃は平民の牙です。平民に牙も爪も無いと思っているから、そうやって死ぬことになる。鬼は鬼らしく、鬼籍に入りなさい」

 逃げ出そうとするオーク鬼たちは、ササガネの蜘蛛糸によって足止めされ、フレイムの発火能力(パイロキネシス)とシエスタの猟銃によって始末されていく。
 その包囲網を抜けたとしても、その先にはルネとヴィルカンの触手竜騎士コンビによるドラゴンブレスが待っている。
 オーク鬼に逃げ場はない。


◆◇◆


 一行は鬱憤をはらすようにオーク鬼を殲滅した。

 サイトが殺人童貞的な葛藤をするかと思われたが、別に人型生物を殺すのは初めてではない。
 ハルケギニアでは初めてだが、地球ではそれなりに数をこなしている。
 魚人とか屍食鬼とか。殺らなきゃ殺られる、という極限状況は何処にでも起こりうる。悲しいけどこれって生存競争なのよね。

 人型だからといって、人間の味方とは限らないわけだし。
 ま、人間だからといって、自分の味方とは限らないわけだが。
 生存競争の最大の相手は、必要資源がモロ被りしている種族、つまりは自分と同種なのであるからして。

 あ、残ったオーク鬼の死体はヴィルカンやフレイム、ササガネが美味しく頂きました。食物連鎖は自然の掟。

【む、なかなか脂が乗っておる。こいつら割と良い物食っておったのか……?】 「ギ!」 「キシ、キシキシ」

 使い魔たちが死体を処理している間に、ルイズたち一行は村の探索を進める。
 ところどころに、オーク鬼に食われたと思われる犠牲者の骨が転がっている。
 子供のものと思われる、ずいぶん小さな頭蓋骨も見受けられる。

「なあルイズ、ここで開拓していた人たちは……」

「まあ、食われたんでしょうねえ。ここのオーク鬼たちが弓とかで武装してたのは、開拓民の装備を奪ったんだろうし」

「領主は何をしてたんだろう。領主への連絡も間に合わなかったってことなのかな」

 サイトとルイズ、レイナールは、三人で村の教会を家探ししている。
 村人の多くは、教会に逃げ込んだのだろうが、最終的に押し入られてなぶり殺しにされたらしい。
 教会の中には、乾いた血痕があちこちに見られる。死体は食われたのか、見当たらなかった。

 ルイズが探していた『ブリーシンガメン』は、すぐに見つかった。
 血染めのブリミル像の首に掛けられていたのだ。
 炎の形の琥珀をあしらったものだが、人間と違って光り物を集める習性を持たないオーク鬼にとっては、価値のないものに見えたのだろう。放って置かれたようだ。

「これが『ブリーシンガメン』か。これって有名なものなのかい?」

 レイナールがブリミル像の台座に手をかけながら、ルイズに問う。

「そうねえ、それを持っていると、豊穣神の加護によって、開拓は上手くいき、豊作は続き、家畜は不妊にならず多産になる、という言い伝えがあるわ。実際に、この開拓村に任官していた神官は、他の開拓村でも実績がある人物だったらしくて、その筋ではちょっと有名だったのよ。何か“神憑り的な部分がある”ってね。始祖ブリミル以外の神(豊穣神)を信仰してるとかで、教会中央の覚えが悪くて、辺境ばかり回らされたという噂も聞いたわ、その神官については」

 まあ、どうせそこに掛かってる首飾りも豊穣神にあやかった形だけの偽物でしょうけれど、と言って、ルイズは締め括る。
 サイトはデルフリンガーに手をかけて、教会の入り口で、一応周囲を警戒している。

「ふーん。……あれ」

「レイナール、あんまり色々触らない方が良いぞ。こういう、如何にも怨念が溜まってそうなところは、何があるか分からん」

 サイトが油断無く周囲を見回しながら、レイナールに声をかける。
 ルイズは、片手に杖、片手にマジックカードの臨戦態勢である。
 レイナールは台座に触ったまま不自然に動きを止めている。

「サイト、それ、もうちょっと早く言って欲しかったなぁー」

 レイナールが引き攣った顔で答える。

「レイナール、どうしたの?」

 ルイズが警戒しながら尋ねる。

「ブリミル像の台座から、手が離れない。血文字が、台座に、書いてある。意識が、霞む、ぐらぐらする。でも倒れることも出来ない、おかしい、おかしい、おかしい」

「血文字は読むなよ! 絶対読むなよ! 眼を閉じて、心を落ち着けて、」

 サイトが慌ててレイナールに近づこうとする。
 ルイズが、それでは遅いと、杖を振り上げ、『爆発』によって台座を消滅させようとする。
 しかし、それよりも早く、レイナールの口がわななき、何かに操られるようにして、台座に書かれた血文字を一気に読み上げてしまう。

「『沃土の黒。多産の山羊。千の仔を孕みし黒山羊、シュブ=ニグラスよ。我が血を捧げる。仔山羊を遣わせよ、供物が足りねば、敵対者を貪れ。イア! イア! シュブ=ニグラス! ザリアトナトミクス、ヤンナ、エティナムス、ハイラス、ファベレロン、フベントロンティ、ブラゾ、タブラソル、ニサ、ウァルフ=シュブ=ニグラス。ダボツ・メムプロト!』……」

 レイナールの口から、レイナールの声ではない声で、祝詞が読み上げられる。
 しゃがれた中年男性の声。おそらくは、『ブリーシンガメン』の持ち主であった、異端派神官の亡霊か何かなのだろう。
 それだけ口にすると、レイナールの身体は力を失い、崩れ落ちる。

「サイト!」

「分かってる!」

 崩れ落ちるレイナールの身体を、ガンダールヴを発動させたサイトが、目にも留まらぬ早業で回収し、ブリミル像から距離を取る。
 何故なら、レイナールの口を借りた詠唱に従って、ブリミル像の首に掛けられた『ブリーシンガメン』が、まばゆい光を放ち始めたからだ。
 生贄の血、豊穣神の首飾り、血文字の祝詞、死してなお残る切なる願い。
 召喚に十分な条件が揃ったのだ。

 そしてその光の中心から、肉樹が伸び始める。

「『爆発(エクスプロージョン』!」

 顕現し始めたその『黒い仔山羊』に対して、ルイズが詠唱途中だった『爆発』を一当てする。
 すると虚無の光に焼かれて、悍ましい触手は呆気無く消え去った。
 爆発の衝撃によって、『ブリーシンガメン』が宙を舞い、ルイズとサイトの方へ飛ぶ。
 ルイズは腕を翻して、炎琥珀の首飾りをキャッチする。

「退くわよ。目当てのものは手に入ったから、用は無いし。他の場所にも、似たようなトラップがあるかもしれないから、みんなにも注意を促しとかないと」

「……虚無って反則くせー。つか、それ大丈夫なのか? 仔山羊が出かかってたけどよー」

 仔山羊が簡単に封じられたのを見て、サイトは驚愕を通り越して呆れている。
 ルイズは手にした『ブリーシンガメン』を指にひっかけてクルクル回しながら、教会をあとにする。
 ルイズに続いて、サイトもレイナールを抱えて、教会を出る。

「大丈夫よ、虚無で全部吹き飛ばしたから。それに顕現しかけで小さかったしね」

「……信頼してるぜ、ゴシュジンサマ」

「任せなさい、サイト。私は無敵よ。そして、その従者にして使い魔であるあんたもまた、無敵。こっちこそ信頼してるわよ?」

「オーケイ。任せとけ」

 二人は並んで歩き、お互いの拳を軽くぶつけ合う。
 なんだかんだで、結構仲が良いらしい。


◆◇◆


 廃村の適当な建物で宿営の準備をしていたシエスタたちの元に、ルイズたちが合流する。

「お姉さま、目当ての物は見つかりました?」

「見つかったわ。でもどうやらタチの悪い怨霊が居るみたい。迂闊に村の中の物を触らないようにね」

 ベアトリスが早速ルイズに駆け寄る。
 一方でサイトは廃屋の別の部屋(寝室)にある古いベッドに、気を失ったレイナールを横たえる。
 ルネが心配してレイナールの様子を見に、寝室の入り口から顔を出す。

「大丈夫か? レイナールは」

「ルネか。レイナールが一時的にここの神官の怨霊っぽいのに乗り移られた。で、その怨霊のせいで『黒い仔山羊』――ああデカイ象の上半分が蔦の大樹みたいになってる化物な――それが召喚されかけたんだが、ルイズの魔法で事なきを得たってところだ」

「そうなのか……。レイナール、無事だといいけど」

 正気度的な意味で。

「ああ、全くだ。この間の『トラペゾヘドロン・レプリカ』から立て続けだしな。心配だよ」

 正気度的な意味で。


◆◇◆


 その後、無事にレイナールも目を覚まし、皆で食卓を囲む。
 給仕役のシエスタ以外は食卓についている。
 シエスタが皆にパンと、野草と鳥のヨシェナベ(タルブ村名物料理)を振舞う。

 皆の前にはワインが注がれたグラスが並んでいる。
 代表してルイズが音頭を取る。

「んじゃ、カンパーイ!」

『カンパーイ!』

 ……パンや食器はどこから出てきた? って、そりゃあ、四次元ポケットからだ。シャンリット製の〈ゲートの鏡〉で空間拡張したやつ。
 メイドのポケットには夢がいっぱい詰まってます。
 ※夢=食器とか調理器具とか調味料とか銃とか弾丸とか酒とか弾丸とか酒とか弾丸とか酒とか弾丸とか酒とか弾丸とか洗剤とか。

「あら、美味しいじゃない」

 ヨシェナベに口をつけたキュルケが言う。
 彼女の食器の中身だけは毒色だが。
 全員が心のなかで突っ込む。

(……それで味の善し悪しが分かるのか……?)

 と。

「あら、これでも毒じゃない部分の味を嗅ぎ分けられるのよ? 歯ごたえなんかもポイント高いわね」

「キュルケ、あんた毒娘なだけじゃなくて、読心術も使えたの?」

「あら、ルイズ、女たるものこの程度は読み取れなくちゃ苦労するわよ~。公爵令嬢ともなれば、将来は宮廷にも出入りすることになるでしょうし、覚えておいて損はないわよ?」

 キュルケが口元に手を当てて妖艶に笑う。
 だがルイズは肩を竦めてため息をつく。

「はぁ。私は別に宮廷に入るつもりはないわ。何故なら!」

 ルイズはテーブルの上のワインが入ったグラスを一気に飲むと、ぷはぁ~と息を吐く。

「何故なら! 私の夢は! 全ハルケギニア人類の解放! 目指せ世界転覆ー!」

「いや、転覆させちゃ駄目だろ」

 サイトが突っ込む。
 ルイズが「ナイスツッコミ」と親指を立てる。
 何故かベアトリスが悔しがっている。

 と、そこで廃屋の扉が勢い良く開く。

「話は聞かせてもらった。邪神が復活する」

「タバサじゃない。よくココが分かったわね」

 入ってきたのはガリアの騎士、雪風のタバサだ。

「シルフィードが目撃していた。私だけ除け者にするとか許さない」

 一人だけ除け者にされて、彼女は大層ご立腹のようだ。
 シエスタが素早くタバサのために席を作り、ヨシェナベをよそう。

「ミス・タバサ、どうぞ」

「ん。ありがとう」

 シエスタの勧めに従って、タバサがちょこんと座る。
 彼女の前には大盛りのヨシェナベが。
 竈にかけた大鍋をぐるぐる回しながら、シエスタが皆に声を掛ける。

「みなさん、まだまだありますから、どんどん食べてくださいねー」

『は~い!』

 仲良く話をして酒を酌み交わし、タバサが神官の幽霊のくだりで怖がったり、シエスタの故郷にある秘宝『夢の卵』の話を聞いたりして、そうして夜は更けていく。
 この日は黒い仔山羊が召喚されかけたり、波乱含みだったが、概ね問題なし。
 明日もきっといい日だろう。

 明日はシエスタの話に出てきた『夢の卵』を見に行くと決まった。
 ルイズがそれに異常に興味を示していた。
 明日、何も、イレギュラーがなければ、だけれど。


◆◇◆


 翌日、タルブ村への途上、目の良い触手竜は上空に怪しい影を見つけた。

【ルネ坊、空賊だ。襲われてるのは掲げている国旗から見るにクルデンホルフ大公国船籍のフネみたいだな】

「了解です、ヴィルカン様。ではお嬢様に対応方針を確認しますね」

 ルネから竜籠の中のベアトリスに回線が繋げられる。

「こちらルネです。お嬢様。十時の方向に商船、および、それに接舷している空賊船を発見。商船の船籍はクルデンホルフ、船名は『マリー・ガラント』号、領空はトリステイン。空賊船の所属は不明。いかがいたしましょう、お嬢様?」

『ここに触手竜騎士(ルフト・フゥラー・リッター)が居るのに、空賊を逃しては、大公国の名折れです。空賊船を拿捕、あるいは撃沈しなさい。例えその商船が便宜置籍船であっても、クルデンホルフに籍を置いている以上は、我々が守らねばなりません』

「まむ、いえす、まぁむ!」

 タルブ村への旅程は一時中断し、空賊船拿捕ということに相成った。
 竜籠の中でベアトリスが、皆に頭を下げる。

「という訳で、お姉さま、皆さん、申し訳ないのですが、少し寄り道させていただきます」

「構わないわ、ベアトリス。トリステイン貴族としても、空賊討伐は賛成よ。どうせすぐに決着はつくでしょうし」

「はい、ほんの十数分あれば、片はつくと思いますわ。旅程を邪魔したお詫びに、戦利品は山分けということで」

 竜籠が触手竜ヴィルカンから切り離されて、少し揺れた。
 同時に竜籠から真下に、係留用の碇が投下射出される。
 ルイズは頬杖をついて竜籠の窓から外の景色に目をやる。
 隣を青い鱗のシルフィードが飛んでいる。シルフィードの背には、タバサとキュルケが乗っている。眼下には森。触手竜が飛び去っていく方向には、ゴマ粒のような船影が見える。ベアトリスが隣を飛ぶキュルケたちと、後ろの竜籠のサイトたちに事情を説明している。

(全く、サイトと居るせいか、トラブルには事欠かないわね……)

 きっと件の空賊も、ただの空賊ではないのだろう、と、ルイズは予感していた。


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オーク鬼攻略はドラボーン(龍挺作戦)とかやっても良かったけれども、結局は制圧前進で

2011.02.21 初投稿



[20306] 蜘蛛の巣から逃れる為に 15.王子様
Name: へびさんマン◆29ccac37 ID:b87f4725
Date: 2011/02/26 18:27
「殿下、積荷はどうやら硫黄と硝石らしいです」

「そうか! そりゃ素晴らしい戦果だ! あと、ここでは“殿下”じゃなくて“頭(かしら)”と呼べ」

「へい、頭ぁ」

 『マリー・ガラント』号に接舷している空賊船の上にて、如何にも荒くれ者という感じの眼帯をした“頭”と、その“手下その一”が会話を交わし合う。
 彼らはこれでもアルビオン空軍のれっきとした軍人である。
 そんな彼らが何故空賊に偽装して通商破壊を行っているのかというと、補給もままならない現王派の苦肉の策なのである。

 反乱軍である王弟派に届けられる物資を略奪し、自分たちのものとする、という一石二鳥の作戦なのだ。
 それに加え、私掠船免状――略奪品の何割かを政府に献上する代わりにお上公認で海賊行為を他国の船に対して行って良いという許可状――も、多く発行している。
 私掠船免状の発行は、現王派に限らず、王弟派も行っている。

 私掠船免状の乱発行によって、空賊たちは、両者からの免状を持ち、略奪相手の所属に応じて使い分けたりするという事態も起こっている。
 現在、アルビオンの空を中心にハルケギニア各国の空は、にわか空賊が多く蔓延る、まさに大空賊時代となっていた。
 船団を組んで空賊に対抗したりする者も居るが、全体としては、そんな危険な空に船を出す船主は減る。

 船が減れば、物資は届かず、アルビオンでは内乱中であるという事情も加わり、物価が高騰することになる。
 天空大陸アルビオンは、他の国から封鎖線を敷かれたわけでもないのに、勝手に干上がりつつあった。
 ……民衆が内乱で飢える一方で、王家貴族や空賊兼業の商船の蓄えた財貨は、私掠船からのアガリによって、内乱以前よりも豊かになっている。

 そして、「民衆が飢える→空賊が儲かるらしい→じゃあ空賊になろう→空賊が増える→ますます真っ当なルートでは物品が入ってこない→物価高騰・闇市の蔓延→真っ当な農民たちが物価上昇の煽りを食らって飢える」という無限ループが形成されつつあるのだった。
 現在のアルビオン経済は、かなりの部分が、他国から強奪した富によって成り立っているのだ。
 一旦この形式で社会が成立してしまうと、内乱終結後も、この空賊経済を維持するために他国への略奪を行わなければならないので、当然、内乱後も他国へと略奪、ひいては戦争を行うことになるだろう。

 他国も「アルビオンの内乱が終結して、どっちが勝者になろうとも、奴らは経済的に大地に攻め降りざるを得ない」ということは諒解している。
 それゆえ、トリステインはゲルマニアとの相互条約締結に向けて動き、ゲルマニアとガリアは仕方なく軍備を拡張している。
 ゲルマニアとガリアからしてみれば、本当は軍備拡張よりも自国内の開拓開墾開発にリソースを振り分けたいのだが。

 狭い国土を隅々まで開発しきったアルビオンと違って、広大なゲルマニアとガリアには手付かずの土地が山ほど残っているのだ。
 とはいえ、国土開発において、亜人退治や治安対策に武力が必要なのも事実。
 仕方ないので、ゲルマニアとガリアの両国は、対アルビオンを口実に、王直属で各地辺境までの巡察権限を持つ警邏巡察部隊の構築や、王軍自体の再編成を進め、王権強化に努めている。

 クルデンホルフ大公国は、国土は狭く、ほとんど全ての土地が開発されている上、陸海空軍すべてが充実しているので、そんな他国の状況をニヤニヤ眺めている。
 人面樹×バロメッツのキメラと成長促進魔法の併用でベテラン矮人魔法兵を日産10軍団余裕でした、とか出来る馬鹿げた国なので、その余裕も当然であるが。
 他国からの難民がまた増えるだろうけれど、別にクルデンホルフ大公国の領土はハルケギニア星だけではないし、あぶれた人民は人工惑星に回したりとか、邪神の生贄にしたりとか、人体実験の材料にしたりとか、脳髄の記憶を人面樹に食わせて人面樹ネットワーク中に形成された仮想現実社会上に移住させれば良いのである。

 クルデンホルフ大公国の兵力が余っているなら、大公国船籍である『マリー・ガラント』号にも護衛をつけてやれよ、という意見もあるかもしれない。
 まあ実際、便宜置籍船に対しても、最新式の電信装置を無償で配ったり、さらにオプションで金を積めば魔法も使える矮人奴隷を何人も付けたりというサービスも大公国は行なっている。
 ちなみに便宜置籍船とは、実際の船主の国とは別の国に船籍を置いている船のこと。税金が安かったり、諸々の規制(船員の最低賃金とか)が緩い他国に、船籍を置くことで、税金などを安く上げたり、船員や装備などを船主の都合がいいように変更できるのだ。クルデンホルフ大公国は、基本的に税金がゼロの上、電信装置や各種保険などのサービスも充実してるので、便宜置籍船が多いのである。『マリー・ガラント』号も、船主はトリステイン人だが、船籍はクルデンホルフ大公国となっている、典型的な便宜置籍船である。

 閑話休題(それはさておき)。

 アルビオン軍人は『世界の空は俺らの空』だと本気で信じている者が多い。
 現在空賊船に偽装した軍艦の甲板上で会話をしていたアルビオン空軍大将ウェールズ・テューダーも、そんな事を信じている一人である。
 彼らには、自分たちがトリステイン国境を侵犯したという意識はない。
 揺れ動く天空大陸にとって、その領空をきちんと線引きするというのは、非常に難しいし、領空を区切るという意識自体がアルビオンの民には無い。
 何故なら、『全ての空はアルビオンの空』なのだから。

 高空の寒風が、彼らの間を吹き抜ける。
 春先にしても冷える風だ。
 荒ぶる魔風と氷雪の神イタクァの近くにでも来てしまったのか、と彼らは一瞬不安に思う。
 アルビオンの船乗りの間では、風の神イタクァも、信仰とまではいかないが、災厄として言い伝えられており、広く知られている。

「随分冷えるな」

「一雨来るかもしれませんね」

 雨が降れば面倒なことになる。
 特に触れた途端に凍りつくような、過冷却水の雲が湧くと大変だ。
 氷点下に冷却された雲に突っ込めば、マストや帆、船体にあっという間に霜と氷柱がまとわりつき、バランスを崩して墜落してしまうことも少なくない。

 まあ、この季節にはそのような雲が湧くというわけではないから問題ないだろう。
 そう思った二人をよそに、状況は進行する。

 否応なく進行してしまう。
 船体が、徐々に傾いでいくのだ。

 彼らが――人間の感覚で以て――船体の傾きに気づいたときには、既に遅かった。
 船体の傾きは、加速し、既に立っていられないほどになっていた。
 甲板に置かれていたモップやバケツが落ちていく。

「うわぁ!?」

「なんだっ!?」

「風石機関、出力上げろ! 傾いてるぞ!」

「機関室は何をやってる!?」

 どんどんと船体は傾き、隣接していた『マリー・ガラント』号との間に渡していた渡し板が、ばらばらと下に落ちて行く。
 『マリー・ガラント』号に掛けられた碇付きの縄が、豪、という音と共に、空賊船からは死角となっている下方から、何者かの風魔法で断ち切られる。
 空賊船の船体自体も、浮遊している『マリー・ガラント』号から比べて、ドンドンと沈没するように高度を下げていく。

「何だ、何があった!?」

 船の縁(へり)から下を覗いた船員は、船の前方の衝角(ラム)の下に、霜が張り付き、巨大な氷柱(つらら)が出来ているのを見つける。
 霧氷によって静かに成長していた氷柱に、乗組員は気がつかなかったのだ。
 皆が漸くそれに気づき、驚愕をあらわにする。

「氷柱だ! 火メイジは居るか!?」

「溶かせ溶かせ! 船が落ちるぞ!」

 それを言う間にも、下から吹きつけられる極冷気の湿風が、霜と氷柱を成長させる。
 何百リーブルもの重さはあるであろう、その氷柱は、船体を下へ下へと引き込む。
 船員たちは、地獄から手を伸ばす氷の亡者に掴まれたような錯覚を覚えていた。

「殿下! これは自然のものではありません!」

 ウェールズの横に居た部下が叫ぶ。
 この時期に、隣の商船には全く影響を与えずに、彼らの船のみを引きずり落とすような自然現象は存在しない。
 ならば、信じがたい規模であるが、この“霧氷”をまとわりつかせて船体を氷漬けにする墜落攻撃は、何者かの水と風の魔法なのだろう。

「分かっている! これは『イーグル』号を狙った攻撃だ! それより対処を急げ! 火メイジは氷柱を溶かせ! 風メイジは船首に『レビテーション』を掛けろ!」

 ウェールズの号令によって規律を取り戻した彼らが、手に手に杖を持ち、それぞれに魔法を唱える。
 だが彼らの魔法が効果を発揮するよりも先に、衝撃が船を襲った。
 轟音と共に下から突き上げるような衝撃に、甲板から数人が放り出される。腰に結わえた命綱によって、辛くも、放り出された者たちは、船縁から宙吊りになる。

「くっ!? 何だ!? ダメージコントロール! 損傷確認と応急!」

 ウェールズは何とか船体から放り出されずに残っており、急いで指示を出す。
 船体の傾きは、既に30度を超えており、先程の衝撃の後は、さらに傾く速度が上がったようである。
 その時、船から投げ出されて宙吊りになった者たちから悲鳴が上がる。

「うわああぁあああ!? 触手だぁーーー!!!」

 触手。
 それは空の男達の恐怖の象徴。
 クルデンホルフ大公国の、無双の竜騎兵団の、シンボル。

「げぇっ!? テンタクル・ドラゴン!? 何故こんな所に!?」

 のた打ち回る触手が、外壁を伝い、窓から船内へと侵入していく。

「くそっ! 離れろ!」

 何人もの船員が魔法を放つが、その一切を、触手は意に介さない。
 幾つかの魔法が騎手にも向かうが、いずれに対しても、竜の背中から伸びている細い触手が振るわれて、弾かれ、掻き消される。
 そして触手の先から、得体の知れないガスが注入されていく。
 同時に、テンタクル・ドラゴンの騎手も魔法を唱える。
 綿飴のような、固形化した雲のようなものが、船体を覆い、船体の隙間からも浸透していく。
 触手が、甲板や船外に居る者へと伸びる。

「うわぁぁああ!? やめろ! 近づくなぁああ!!」

 触手に掴まれた者は、次々と船室に放りこまれていく。
 そして、竜騎士が唱える、煙を固めるような魔法によって、取り囲まれて、泡に包まれるようにして固められてしまう。
 空気から『錬金』された綿のような泡のようなエアロゲルによって、船内と船外、全てが、白く凍るように覆われていく。

「ぐ、身動きが……、それに、これは、眠りの魔法、か……ぁ?」

 同時に行使された、触手竜による眠りの精霊魔法によって、ウェールズを始めとする船員たちは意識を失ってしまう。
 緩衝材の中に厳重に包まれた標本のようにして、彼らは船内に閉じ込められた。


◆◇◆




 蜘蛛の巣から逃れる為に 15.王子様は厄介者




◆◇◆


 時間は若干遡る。
 触手竜騎士が空賊に襲いかかる前まで。
 ウェールズらが絶望の檻に囚われる直前まで。

 ルネは戦艦『イーグル』号に取り付く触手竜ヴィルカンの鞍の上で、襲われていた商船『マリー・ガラント』号に連絡をとっていた。
 クルデンホルフ大公国籍の船ならば、標準的に電信装置が備えられている。
 そのためルネは自分のマジックカードを介して、『マリー・ガラント』号と通信が可能なのだ。マジックカードには、電信機能も付けられている。

「あ、あー。聞こえるか、こちらクルデンホルフ大公国所属 空中触手竜騎士(ルフト・フゥラー・リッター)ルネ・フォンク准尉である。『マリー・ガラント』号、応答されたし」

『ルフト・フゥラー・リッター!? 有り難い! 助けてくれ、当船は、現在所属不明艇に襲われている』

「了解、了解、こちらからも見えている。直ぐに不明艦艇を引き剥がす。接触事故は起こさない予定だが、不意の衝撃には備えてくれ」

『こちらマリー・ガラント、了解した。救援感謝する!』

「当然のことをするまでだ。良い旅路を!」

 そうこうしている間にも、ルネは過冷却水滴の『錬金』を続ける。
 作成された過冷却水滴は、ヴィルカンが精霊魔法によって巻き起こす風によって、空賊船『イーグル』号の船底へと打ち付けられ、霜を作り、大きな氷柱へと育っていく。
 やがて『イーグル』号の船体が、巨大な氷柱の重みによって重心を崩されて、船体前方の衝角(ラム)を下にして、引き摺り下ろされるように傾く。

 それを見て、ヴィルカンが船に取り付く為に急進して近づく。
 触手竜の急激な加速は、翼によってではなく、触手の先から放つドラゴンブレスの反動によって行われる。
 この全方向可動性の大出力スラスターによって、触手竜は、縦横無尽の機動性の獲得と、超音速までの加速を可能にしているのだ。

 ヴィルカンが、轟然とフネに取り付き触手を這わせる。ビチビチと、うぞうぞと、蠢く触手の群れは、次々と窓を破って内側に入り込む。ヴィルカンは『イーグル』号の窓に突き刺した触手の先から精霊魔法による催眠ガスを吹き込み始める。
 ヴィルカンに向けて、無数の魔法が飛ぶが、それらは何らダメージを与えることができない。地底魔蟲クトーニアンから受け継いだ耐久力を、ヴィルカンは持っていた。幾つかルネの方にも、傾いた『イーグル』号の甲板から魔法が飛ぶが、それらは全て、周囲でうねるヴィルカンの触手によって弾かれる。
 では自分も、と、ルネは、内部の人間や家具を固定するためのエアロゲル、まあ要するに細かい発泡衝撃吸収材(遮音材や耐熱材としても使われる)みたいなものを『錬金』して、もりもりと『イーグル』号の中へ注入していく。

「多少は財宝でも積んでると良いんだけど。そうじゃないと、お嬢様の機嫌が悪くなってしまう」

 ルネは、短気で自分のことをちっとも見てくれないが、愛すべき大恩ある自分の主君のことを思って頭を痛める。
 遠く振り返れば、遥か彼方に、クルデンホルフ大公国の天空研究塔イエール=ザレムの細いシルエットが見える。
 あの細い糸のような塔は、空を往くフネの発着ポートも兼ねているのだ。
 つまりは触手竜騎士の訓練基地も、天空研究塔の下方に位置する16角形の蜘蛛の巣型ポートの内部に位置しているということ。
 ルネの後輩たちは、今もそこで鬼教官にしごかれていることだろう。

「ま、取り敢えずは、これを下まで降ろしてからだな」

 大急ぎで去っていく『マリー・ガラント』号を見送りつつ、ルネは、『イーグル』号をさらにぼこぼことエアロゲルで覆っていく。
 ルネの作るエアロゲルによって、『イーグル』号は、まるで雲に包まれたかのようになる。
 ルネは『イーグル』号の船体に、触手竜騎士特有の強力な重力制御魔術を掛けながら、ゆっくりと地表に降ろしていく。


◆◇◆


 森の中、円形に木が薙ぎ倒されて、広場になっている。
 その中心に、綿飴のようなエアロゲルに包まれて座礁した帆船がある。
 中心の帆船から少し離れたところに、竜が二匹と、卵型の竜籠が二つ並んでいる。

 空賊船『イーグル』号を拿捕したルイズ一行が、森に即席の広場を作ったのだ。
 ルネは、切り倒した木々や下草を魔法で乾かしている。乾いた木々はサイトがレイナール作の鉈や鋸で切って丸太や板に加工し、それをレイナールがゴーレムで運び、シエスタの四次元ポケットの中に突っ込んで保管する。何かの役に立つかもしれないからだ。
 ルイズとベアトリスは、空賊船の検分と、昏倒した乗組員たちに追い剥ぎをしている。キュルケとタバサはそんな彼らを興味深そうに眺めている。

「で、これが空賊ってわけね」

 ルネのエアロゲル形成魔法によって船内に位置固定されていた、昏睡した空賊たちの身柄は、ルイズとベアトリスの『念力』の魔法によって、軟着陸したフネから外へと運び出されていた。
 現在彼らは身ぐるみを剥がされて素っ裸にされている途中である。
 繊細な『念力』の魔法によって、二人の美少女は、杖や武器、装飾品なども全てを空賊たちから取り上げていく。全く、どっちが空賊だか分からなくなる光景だ。しかもそれを行っている者が、いと高貴な血筋のやんごとなき令嬢だとは、思いもすまい。

 全て取り上げられて裸にされた者たちは、両手首を縄で縛られ『イーグル』号のマストに吊り下げられていく。
 キュルケがしげしげと彼らの裸を眺めている。
 よく鍛えられた彼らの裸身を見て、キュルケは感心して呟く。

「ふぅん、なかなか鍛えられてるみたいねぇ。眼福眼福」

「……悪趣味」

 タバサはそう言って、顔を真赤にして、手に持つ本に視線を落として顔を伏せてしまっている。
 が、興味はあるのかちらちら見ている。
 そんな様子を見たキュルケは、口をニンマリと三日月型にして、タバサの頭をぐりぐりと撫で回してからかう。

 一方で、空賊たちを全員剥き終わったルイズとベアトリスは、彼らの持ち物などを検分していた。
 彼らが身につけていた、杖、ドッグタグ、階級章、『指輪』をルイズは確かめる。
 そして頭を抱える羽目になった。ルイズの左手が、苛立たしげにカシカシと擦り合わされている。

「なんで王立空軍が空賊やってんのよ。しかも王太子がその指揮を執ってるとか、どういうことなの……」

「空賊船にしては装備が整いすぎていた時点でそんな予感はしていましたが……。まさかウェールズ王太子とは……」

 現状は、不味い、としか言えない。
 王太子を裸にひん剥いたことが、ではない。
 トリステイン領空で、空賊に与していたアルビオンの王子を、クルデンホルフの竜騎士が、拿捕してしまったことが、だ。ああもうややこしい。

 三年前のラグドリアン湖の園遊会には、シャンリットのミスカトニック学院を卒業していた公爵令嬢ルイズと、大公姫のベアトリスも参加していた。
 それ故、ウェールズの変装を剥いだ時点で、二人とも「なんか見覚えがあるような、いやでも、まっさかー」と嫌な予感を持っていたのだ。
 そして戦利品の中にあった『風のルビー』を見て確信に至った。ああ、本人だ、と。

 伐採製材作業を終えたのか、サイトがルイズのもとへとやって来る。
 額に汗をかき、鉈をぶら下げる彼は、まるで本職の木こりのようだ。
 日頃の訓練によって筋肉が増えており、逞しくなっている。

「おーい、こっちの作業は終わったぞー。そっちの、生贄の儀式は終わったかー?」

「生贄の儀式って何よ」

「いや、それ。どう見ても……、生贄に捧げられた人柱だろう。じゃなきゃ、百舌(モズ)の早贄(ハヤニエ)。あるいは、海賊への見せしめに、港の入口に死体を吊るしとくような……」

 サイトが帆船『イーグル』号のマストからぶら下げられたむくつけき男達を指さす。
 なるほど、確かにそう見えないこともない。まるでサバトだ。
 いっそのこと本当に生贄にしてしまおうか、などと物騒なことを考え始めたルイズの思考に、再びサイトの声が割り込む。

「で、こいつらどうするんだ? 官憲に突き出すのか?」

「……官憲に?」

 その言葉に、ルイズは少し目を瞠る。

「何その“そんなこと考えもよりませんでした”みたいな反応」

「捕まえて身包み剥いで森に放り出すつもりだったのよ。でも捕まえてみたら、相手が何故か隣国の王子で、どうしようかと思ってたの。しかし、そうね、官憲に、か……」

 隣国の王子という単語に、サイトはこの間、王都の地下水路で時間を共にしたアンリエッタ姫のことを思い出す。
 確かあの姫様の想い人が、隣のアルビオン王国のウェールズ某ではなかったか。
 見れば、吊るされている裸男子の中に、見覚えがあるような人物を見つける。ルイズからサイトに『カーの分配』の魔術で移植された左目が軽く疼く。

「王子様って、ひょっとして、ウェールズって人か?」

「あら、良く知ってるわね。いや、私の知識が流入してるから、あんたも知ってておかしくないか」

「まあそれもあるけど。この間、王都に行ったときに、姫様が言ってたんだよ。“ウェールズ王子が好きだけど、ゲルマニアに嫁がなくちゃならないから辛い”って」

「姫様が?」

 ルイズが片手を顎に当てて、首を傾げる。
 そんな何気ない動作、その一つ一つによって、サイトはルイズに惹かれていく。それは単にルイズが可憐であるというだけでなく、サイトとルイズが、使い魔と主人という強い絆で結ばれているためでもある。
 彼は夢のなかで出逢う、ルイズから植えつけられた蛇のような分霊のことは朧気にしか覚えていないが、夢のなかで死闘と蜜月を繰り広げるあの化生に対する印象と、その分霊化生の本体であるルイズに対する印象がごっちゃになってしまっているのだろう。

 ぼーっとルイズを見つめるサイトの足を、ベアトリスが踏みつける。
 そしてサイトとベアトリスが、いつものように口論を始める。
 その、もはや様式美となった光景をよそに、ルイズは考えを巡らせる。

(この間王都に行った時というと、姫様がサイトたちと一緒に水路に落ちて、ササガネが回収した姫様たちを、ワルド様たちが迎えに来たんだったわね)

 確か、ゲルマニア行幸の帰りに魔法学院に寄るという日程だったはず。
 そして明日が、使い魔品評会。
 現在位置などを考えると、あまり余裕はなさそうだ。

(本当はタルブ村の『夢の卵』を見ておきたかったけど……。これじゃあ、そんな余裕はなさそうね)

 ワルド子爵はその護衛を行っているという話だったから、今は、多分、ゲルマニアとトリステインの国境あたりか。
 ワルド子爵は優秀な軍人であるし、上層部の覚えもめでたいと聞く。
 きっと彼なら、あるいは行幸に同行しているマザリーニ枢機卿ならば、上手い考えを思いつくだろう。

(そうね。私が持っていても持て余すから、ワルド様に押し付けてしまいましょう。そうしましょう)

 考えをまとめたルイズは、指示を出すべくベアトリスの方に意識を戻す。

「何やってんの、あんたたち」

「あ、ほふぇえひゃま(あ、お姉さま)」 「ふ、ふいず(る、ルイズ)」

 お互いの頬を引っ張り合いながら動きを止めるベアトリスとサイト。
 おそらくは子供みたいに口論から頬の引っ張り合いに発展したのだろう。
 ルイズは、はあ、と溜息をつく。ベアトリスとサイトは、羞恥で顔を染めつつ、慌ててお互いの頬を放す。

「ベアトリス、宝飾品のイミテーションをお願い。ウェールズ王太子の身柄は、ワルド様に引き渡すことにするけど、『風のルビー』は私が確保しておきたいから」

「あ、はい、お姉さま。ウェールズ王太子の身の回りの宝飾品や、他の方の杖は、イミテーションを作成して、それと入れ替えておきますわ」

 ベアトリスは返事をすると直ぐに、マジックカード片手に戦利品の『錬金』魔法による複製にとりかかる。
 杖を複製品と入れ替えておけば、反抗される心配もない。
 『風のルビー』については、虚無の血統であるルイズが持つのが当然だとベアトリスは考えているので、そこに疑問は挟まない。

「イミテーションと入れ替えるって、良いのかよ。本物の方はネコババするってことだろ?」

「構いやしないわよ。『風のルビー』なんて、虚無の使い手が持ってないと意味のないアイテムなんだから。それに彼らは偽装していたとはいえ、空賊。盗賊から盗っても、問題ないわ。命があるだけ有難いと思ってもらわないと」

「そりゃあ、そうかも知れんが……」

 困惑するサイトの横で、ルイズはマジックカードを片手に『偏在』の魔法を編み上げる。
 ウェールズたちは、またエアロゲル詰めにして『イーグル』号の船体内に突っ込んでおくとして、彼らの身柄を引き渡す予定のワルド子爵には、先触れしておかねばなるまい。
 分身した方のルイズは、本体と視線を交わして確認する。
 本体の方のルイズは、即席で天馬型のガーゴイルを作り上げると、それを『偏在』の分身体に渡す。

「じゃあ、ワルド様に先触れをよろしく、私の分身」
「頼まれたわ、本体の私」

 分身体は、ひらりと天馬型ガーゴイルに跨って、本体と短く会話を交わす。
 そして、アンリエッタ姫たちが居ると思われる方向の空へと駆け出した。


◆◇◆


 ゲルマニアから王都トリスタニアに向かう途上、まだ陽が高い時間。
 アンリエッタ王女の護衛をしていたグリフォン隊の隊士アニエスが、遥か遠くに、異常な視力で以て、こちらに近づく影を発見する。
 彼女の遙か空の果てまでも見通すような眼は、それがペガサスに跨った騎士であることを見抜く。

「ワルド隊長! 前方空中より天馬(ペガサス)が接近してきます!」

「まずは停止命令を。止まらぬ場合は撃ち落としても構わん。的が見えるならば、アニエスの腕を以てすれば、撃ち落とせるだろう?」

「了解です!」

 優秀な部下であるアニエスに命令を下し、ワルド子爵は人知れぬように溜息をつく。
 ただでさえ、婚約に乗り気ではない王女のご機嫌取りやら、彼女のストレス発散のワガママに振り回されてクタクタなのだ。
 出発前にも脱走を企てるし、道中でも不機嫌で不安定だし……。

(だがそれももうすぐ終わりだ。もうゲルマニアの関所は通り過ぎたし、トリステイン領にようやく帰ってくることが出来た。あとはこのまま王都まで何もなければ、また魔法の鍛錬に打ち込むことが出来る)

 そんな彼の望みは、彼の婚約者がもたらした急報に、敢え無く打ち砕かれることとなる。


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タルブ村は後回し

2010.02.26 初投稿



[20306] 蜘蛛の巣から逃れる為に 16.会議
Name: へびさんマン◆29ccac37 ID:b87f4725
Date: 2011/03/02 19:28
 トリステイン魔法学院に向けて歩みを進める馬車の一団。
 先頭を行くのは、ユニコーンの曳く豪奢な馬車である。
 百合の家紋をあしらったそれは、アンリエッタ姫を乗せている。
 不機嫌な王女様を宥めるために、今までの道中は、老獪な宰相マザリーニ(通称“鶏の骨”)が、同乗していたのだが、彼は今、先頭の馬車には乗っていない。

 代わりに、まだまだ親衛隊でも珍しい女性衛士であるアニエスが、ご機嫌取りを任せられていた。

「あ、アンリエッタ様! そ、空が青うございますね!」

「私には灰色に見えるわ、アニエス……」

「ほら、路傍に、野花が、こんな環境に負けず、美しく!」

「私も自由に咲いて枯れる野花になりたい……」

 魂が口から半分出ているアンリエッタの相手をするのは大変である。アニエス受難の時であった。
 誰か助けてくれ、とアニエスは切に願ったが、残念ながら彼女の苦難は続く。
 頑張れ、王都に帰れば、故郷を焼いた黒幕を追い詰めるための資料を閲覧できる! もう少しだ! と、アニエスは何とか危ういところで自分で自分を鼓舞し糊塗する。

 アンリエッタ姫を擁する馬車団のうち、二台目の馬車の中にて、宰相であるマザリーニ枢機卿は、苦悩していた。
 その向かいには、護衛の魔法衛士隊の隊長である、使える男ことワルド子爵が同じく難しい顔で座っている。
 その隣を見れば、マザリーニを悩ませる元凶を運んできた公爵令嬢ルイズ・ド・ラ・ヴァリエールの風魔法による分身体がちょこんと座っていた。

「トリステイン領空にて空賊行為を行っていた、アルビオンの王太子であるウェールズ殿下を、捕まえた、と」

 マザリーニが、重々しく、杖の上に組んだ両手の上に、額を落として、ポツリと言う。
 狭い馬車の中に、苦労性の宰相の溜息が響き渡る。
 馬車は、宰相の気性を反映してか、非常に質素で簡素なものとなっていた。その質素さが、彼のあだ名である“鶏の骨”だとか“鶏肋”だとかに繋がってしまっているのだが。

「その通りでございます。私の本体が、学院の授業を“自主休講”し、有志数名と、トリステイン国民を安堵するために亜人討伐を行っていましたところ、空賊行為を目撃。該当不審艦艇を拿捕いたしました。すると、あらびっくり」

 向かいに座るルイズの姿の『偏在』は、そんな宰相閣下の様子を気に止めず、朗々と、いけしゃあしゃあと語る。
 色々と誤魔化しは入っているが、彼女は概ね真実を言っている。
 それに、彼女の行為には、何ら罰するところがないのであるから、この開き直りようも当然であった。

「“あら、びっくり。その中にはウェールズ殿下が”、という訳かい、ルイズ」

「その通りですわ、ワルド様。問答無用で手打ちにせずに済んで良かったですわ、本当に。私、空賊に死の制裁を加えなかった、本体の方の賢明なる判断を褒めてあげたいですわ。まさか一国の王子が空賊に身をやつしているなんて、考えもしませんでしょう?」

 白々しい遣り取りを、ワルド子爵とルイズが交わす。
 お互いに顔は笑っていない。はっきり言って笑えない事態だし、笑わないとやってられない事態でもある。
 はぁ~、と、またマザリーニの溜息が馬車を支配する。

「それで、ミス・ヴァリエール。君の亜人討伐の道行きには、誰が同行していたんだったかね?」

 確認するようにマザリーニが言葉を吐く。
 実際、これはもう何度も繰り返されたやりとりであった。

「政治外交上重要な者のみ、申し上げますね」

「ああ、済まない。年をとると、忘れっぽくってかなわんからね」

「あら、まだまだ現役でらっしゃるでしょう?」

 ルイズの『偏在』が、【てめぇ、まだまだ引退してもらっちゃ困るんだよ】という空気を滲ませて返答する。
 ルイズが虚無の系統であることを、ヴァリエール公爵からの報告(渋々であった)から知っているマザリーニは、その裏に隠された真意を思って、また溜息をつく。
 この小さな始祖の後継は、世界を征服(彼女の言い分では“解放”)してしまうつもりなのだ。その日まで、あるいはその後も、トリステインを支え続けろと、この少女は言っているのだ。マザリーニの胃が軋む。

「君が健康に良いものを送ってくれるおかげでね」

 だから、毎月、マザリーニの屋敷には、ヴァリエール公爵家三女の名義で、精力剤のたぐいが届けられるのだった。

「贈り物が役に立っているようで、誠に結構ですわ。それで、何でしたっけ」

「君の一行の、主だった人員について、だ」

「ああ、そうでした。ベアトリス・フォン・クルデンホルフ。キュルケ・フォン・ツェルプストー。ジョゼット・ドルレアン。この三名が、特に外交上重要な者だと思われます」

 アルビオン以外の主要国の大貴族網羅してんじゃねえか。

 また、マザリーニが、杖の上に額を伏せて、溜息をつく。
 そんな宰相を見つめるワルド子爵の目が、憐れむものに変わっている。なんで空賊やってたんだ、ウェールズ王子。こうなることが予見できなかったのだろうか。
 ワルド子爵の中では、ハルケギニアの王族は血が濃すぎてオツム出来がアレという噂は本当なんじゃないか、という疑惑すら芽生えつつあった。

「彼女らは本国に報告すると思うかね?」

「……クルデンホルフは、別に報告がなくとも知っていると思います。ゲルマニアは不明ですわ。ガリアは、まあ、報告するでしょう」

 クルデンホルフは、各国の王族の動きなど、とっくの昔に元から把握していることだろう。あの国は情報収集がライフワークというか、国是であるからして。
 キュルケは、半ば実家から放置されているので、口止めしておけば、問題あるまい。彼女の行き過ぎた毒体質は、本家でも持て余されているのだ。
 ジョゼット(タバサ)は、伯父王が大好きなので、きっと報告してしまうだろう。ミョズニトニルンに連絡用の魔道具も持たせられているかも知れない。

「ウェールズ王太子殿下直々に、空賊の真似事をやっているということは、アルビオンの現王派は、風前の灯火ということか」

「恐らくはそうでしょう。指揮官たるべき彼が戦場から離れているということは、普通ではありえません」

 マザリーニの確認に、ワルド子爵が自分の考えを述べる。
 軍事においては、ワルド子爵の見識は確かである。
 マザリーニも彼のことを信頼しているから、今回のゲルマニア行幸に彼が隊長を務めるグリフォン隊を同行させたのだった。

「あるいは、初めから他国に拿捕させて、そこから強引に亡命させるつもりだったという可能性もありますね」

 ルイズも自分の考えを述べる。

 テューダー朝の命運が尽きたのを悟った老王ジェームズが、せめて王子だけでも生かしたいと、国外の任務に就けさせていたのかも知れない。
 だが正直言って、他国にとっては亡国の王子だなんて厄介事にしかならない。
 喜んで引きとってくれるとすれば、クルデンホルフ大公国の学術都市シャンリットくらいのものだ。

「亡命、といっても、どこが受け入れると言うんだね。そんな物好きで、余裕があるところは、クルデンホルフくらいのものだろう」

 シャンリットは何でも受け入れる。
 王族ともなれば、その存在自体が持つ、歴史的価値、文化的価値は計り知れない。
 一説には、クルデンホルフ大公国から他国への貸付限度額の算定には、その国の王族ひいては国民一人ひとりの“存在価値”全て(遺伝情報や蓄積された経験など全て)の評価価格が反映されているのだとか。
 つまり、彼らシャンリットが本気で各国の借金を取り立てようとすれば、王族を筆頭に全国民が拉致され実験台にされるということもありうるのだ。今までにその強制執行が実行されたことは数えるほどしかない。逆に言えば、実例はあるのだ。小国が破産して、シャンリットの取立て部隊によって壊滅したという噂は、漏れ聞こえてくる。

 だから、ウェールズ王子の身柄は、彼らにとってみれば、大事な価値ある文字通りの『人“質”』なのである。
 実際にウェールズ王子を“買い取らないか”と持ちかければ、喜んで幾許かのアルビオンへの貸付と相殺にして、引きとってくれる(身売りを受け入れる)はずである。
 だが、ウェールズ王子の身柄を受け入れる国はクルデンホルフ大公国シャンリットのみではないだろう。

「いえ、もう一国ありますわ」

 ルイズがマザリーニの発言を訂正する。

「だって、うちの姫様は、ウェールズ王子に懸想してらっしゃるんでしょう? それなら、二つ返事で亡命だって受け付けると思いますわ」

「ぬぅ……、だからこうやって悩んでおるのだ!」

 マザリーニが嘆く。
 ルイズは自分の考えを滔々と述べる。

「亡命を受け入れる受け入れない以前の問題で、ウェールズ王子がトリステインに居ると、姫様に知れたら、きっと二度と内戦中のアルビオンには返そうとなさらないと思いますわ。それこそ毒を盛ってでも、ウェールズ王子を引き止めるかも」

「はぁ、全くどうしてこんなタイミングで……。 折角ゲルマニアとの同盟が上手く行きそうだというのに」

 マザリーニが顔を俯けたまま嘆く。

「ウェールズ王子の身柄は、一旦は魔法学院に運ぶつもりです。そこでグリフォン隊に引き渡そうと思いますわ」

「ああ、そうだな。そうしてくれ。トリステイン随一の叡智を誇る、オスマン老の意見も聞きたいからな。……そういう訳で、子爵。君たちの隊には、負担をかけるが、ウェールズ王子の護衛もお願いしたい」

 マザリーニの命令に、ワルド子爵は面倒臭いと思う内心を押し隠して、了解の意を返す。

「了解です。ですが、さすがに我がグリフォン隊も、疲労が大きいです。今から王城に『偏在』を遣わせて、マンティコア隊かヒポグリフ隊の増援を頼みたいのですが」

「……あまり大人数に知らせたくはないが、致し方あるまい。いや、これは最早秘密にできる問題ではないな。増援については許可しよう。それと関連省庁に連絡し、閣議を開く準備をさせておいてくれ」

 マザリーニが閣議招集の命令書を書き記して、ワルドに渡す。

「は、了解いたしました。では、失礼します」

「ワルド様、私が乗ってきたペガサス型ガーゴイルをお使いください。特別製ですので、きっと疲れたグリフォンよりは速いと思います」

「そうさせてもらうよ、ありがとう。ルイズ」

 ワルド子爵は馬車の外に『偏在』を作り出し、マザリーニから受け取った書類を持たせると、ルイズが馬車に並走させていた天馬型ガーゴイルに跨らせ、王都の方へと駆け出させる。

「それで、『偏在』のミス・ヴァリエールは、もうここで消えてしまう積りかね?」

 ジロリとマザリーニがルイズの偏在を睨む。
 ルイズはその視線を受けて身じろぎする。
 本当はさっさと消えてしまいたかったが、仕方ない。

「……もし、宜しければ、なのですが、姫様のお話し相手を務めさせていただければと思います」

「そうか! 是非そうしてくれたまえ!」

 マザリーニの顔が明るくなる。姫様のご機嫌取りに、宰相も参ってしまっていたところだ。
 『厄介ごとを増やしたのだから、少しくらいは、彼らの心労軽減に役立っておいたほうが良いだろう』と、さしものルイズも考えたのだ。それに久しぶりに会うお友達が、沈んでいるなら、慰めてあげたいとは思うし。
 マザリーニたちが乗った馬車が停まり、ワルド子爵とルイズ(偏在)が降りる。子爵は自分のグリフォンへ、ルイズは前を行くユニコーンに曳かれた馬車へと向かって歩く。

 魔法学院までは、未だ少し距離がある。


◆◇◆




 蜘蛛の巣から逃れる為に 16.会議(話し合い)では何も決まらない。重要なのことは根回しで決まる




◆◇◆


 魔法学院に王女一行は到着した。
 時を同じくして、ルイズ本体一行と、拿捕された空賊船(アルビオン軍人積載で雲のような物に包まれたモフモフな物体)も魔法学院に帰還(曳航)。
 使い魔品評会は予定通り開催し、姫様にはそちらに出てもらうことに。
 その間にマザリーニは、緊急閣議のために、王都へ竜籠で移動。当事者のルイズたちも、事情聴取のために王都へ同行。

 中略。

 ウェールズ王子が居るのが姫様にバレた。

「ぁあ、ウェールズ様……! 私、わたし、結婚することに、ぅえ、ひっぐ、ゲルマニアの、皇帝と……」

「すまない、アンリエッタ。テューダー王朝が……、僕が不甲斐ないばかりに、望まない結婚を……!」

「いえ、良いのです。トリステインが弱いのが悪いのです。国の礎となるのは、王族の定め……。……ぅうっ、ですが、ですがぁっ!」

 ひし、と、抱き合う二人。
 燃え上がる恋心。
 しかし、ウェールズは国を捨てることはできない。

「アンリエッタ、僕には、やはり、国を、父を、家臣を捨てることは出来ない。アルビオンに、ニューカッスルに、帰らなくては」

「そんな、そんな、ウェールズ様!」

 ウェールズはニューカッスルの現王派の元まで帰りたい。
 アンリエッタは、当然だけどウェールズを帰したくない。

「……ウェールズ様が、その気なら、私にも考えがあります。今のあなたは、空賊で捕まったただの一介の犯罪者……。『ウォーターウィップ』! 水の縛めよ、彼を捕えなさい!」

「く、何をする! アンリエッタ!」

 アンアンがウェールズにアンアンしそうになるのを、監視していたグリフォン隊やマンティコア隊がなんとか気づき、総出で突入して(その際に王子の恋を応援する『イーグル』号乗員のアルビオン軍人たちと乱闘が発生)、未遂に終わらせる。
 間一髪であった。ウェールズ王子は水の触手に拘束されて半脱ぎで組み敷かれており、アンアンはだらりと前髪を垂らして顔の上半分を影にして、王子の上に覆いかぶさっていた。
 ゲルマニアへ輿入れする前に、姫様が傷物になったりしなくて良かった。……姫様は、水魔法で排卵を促して、一発で孕む気満々だったらしいことが後で判明し、一同は冷や汗を流した。

 トリステイン王国としては、正直、ウェールズにはお帰り願いたい。
 しかし、トリステイン領空で空賊の現行犯として逮捕した以上、そう簡単に返すわけにもいかない(空賊は、拷問してアジトを吐かせた後に処刑するのが通例である)。
 というかそもそも、アルビオンの交渉チャンネルを、現王派にするか王弟派にするかどうかも、閣議に諮らないと決定できない。
 現在、トリスタニアで閣議は紛糾中。

 さらにウェールズ王子逮捕の情報は、何処からかアルビオン大使の耳にも入ったらしい。
 トリステインに駐在するアルビオン大使は、当然ながら、即時引渡しを要求している。
 アルビオン大使が現王派か王弟派かどうかも不明である。

 その後。

 国の都合で引き裂かれた王子と王女というのが、トリスタニアの新聞にすっぱ抜かれたり。
 市民の同情票が集まって「ゲルマニアとの同盟を止めて、アルビオン現王派を支援するべし」などという、現実を全く見ていない論調もあれば。
 「私掠船許すまじ、トリステインの国法に合わせて、断固処刑するべし!」と、のたまう空賊被害に遭った商工会連合の発言もあったり。
 ゲルマニア皇帝はゲルマニア皇帝で、「他の男に惚れている女をじっくりと自分のものにするのもまた一興」とか言って、静観の構えだし。

 紆余曲折。

 「何にしても情報が必要だ」というグラモン元帥の発言により、アルビオン情勢がはっきりするまで、ウェールズ王子はトリステイン法に基づいて拘留することとなった。
 一方で、最新の情報を手に入れるために、ワルド子爵ら腕利きを中心にして、アルビオンへの潜入工作部隊が結成された。ワルド子爵、明らかにオーバーワーク、マジで乙です。
 ウェールズ王子の身柄は、アンアンの「間違い」が二度と起きないように、王城から離れた場所に拘留してあり、一部の人員しかその場所は知らされていない。

 ウェールズ王子の身柄を確保するということは、アルビオンから介入を受ける要因であると同時に、アルビオンに介入する口実でもある。
 何も選べないなら、何でも選べるように。選択肢は常に多く確保しておくべきである。
 そういった観念のもと、ウェールズ・テューダーの身柄は、トリステイン王国預かりになった。


◆◇◆


 そんな情勢の中、ルイズはウェールズ王子との短い接触時間で、ちゃっかりと始祖の秘宝『始祖のオルゴール』の在り処を聞いていた。風のルビーをイミテーションと入れ替えたことはバレていない。
 始祖の秘宝の在り処は、戦火の只中、ニューカッスル城らしい。
 だが彼女の虚無を使えば、離れた場所へ侵入することも可能である。

 使い魔であるサイトを従えて、ルイズは学院寮の自分の部屋へと入る。

「なあ、ルイズ。ついて来いって言われたから、ついて来たけど、これから何するんだ?」

 そして、三枚の壁掛け鏡のうちの一枚を指差す。
 ルイズの魔力を受けて、その鏡が、銀色の湖面のように変化する。
 遠隔地を繋ぐゲート鏡の魔道具だ。

「まあ、ちょっとした会議をするのよ。先に行ってなさい」

「え、ちょ、おま、何だ掴むな、投げるなあぁぁあ?!」

 ルイズの『念力』の魔法によって、サイトは宙に持ち上げられ、頭からゲートの鏡に突っ込まれる。

「さて、行きましょうか」

 ルイズも引き続いて、ゲートの鏡を潜る。


◆◇◆


 ところは変わって、ガリアのグラン・トロワ。
 肩を怒らせて、オデコがチャーミングな王女が廊下を歩いている。
 彼女は王の執務室の前に来ると、一度深呼吸をして、キッとその扉を睨みつける。

「父上!」

 ばたーん、と執務室の扉が開く。
 執務室の中にはは、豪奢なソファーの上で黒髪の美女に膝枕&耳掃除されている、青髪青髭の美丈夫が居た。
 扉を開けた王女イザベラの米噛みに、井桁の怒りマークが浮かぶ。

「父上! またサボって……! もうここ一ヶ月は民衆の前に姿を見せてないじゃないですか! 王としての威光を保つには、メディアへの露出も必要なのですよ!?」

「その辺はイザベラが代わりにやってるから別に良いだろう。国民もオッサンより美少女が前に出る方が良いに決まっておる」

「そういう問題ではありません、父上! シェフィールドさんも、あんまり甘やかさないでください!」

「そうは言っても、イザベラちゃん。ジョゼフ様を甘やかすのが私の役目ですもの。ねー、ジョゼフ様ー」

「そうだとも、余のミューズ。あ、もうちょっと奥、奥、そう、その辺気持ちいい」

「こんの、バカップルが! これならまだジョゼットが居た時の方が、カッコつけるためにマトモに執務していたからマシだった!」

 膝枕&耳掃除でいちゃつく主従の前で、イザベラが慟哭する。
 彼女の義妹ジョゼットが居ると、父王が彼女を猫可愛がりして甘やかすので、これではジョゼットのためにも、ジョゼフのためにもならない、と、イザベラは鬼の心になって、ジョゼットを隣国に留学させたのだ。
 トリステインへの留学は、修道院出身のジョゼットの見識を広めてやるという目的もあった。

 シェフィールドの膝の上でだらけきっているジョゼフを引き剥がそうと、イザベラが二人に近づく。

 その瞬間、虚無の主従二人の真下に、光り輝くゲートが生じる。

「お?」 「あら?」 「あ!」

 そしてそのままボッシュート。

 残されたイザベラは地団駄を踏む。
 イザベラはこの現象に心当たりがあった。

「この……! 国王拉致とか! もうっ、毎回、毎回っ! トリステインの虚無、ルイズ・フランソワーズめ!」

 こっちの都合も考えやがれー!
 そう吐き捨てるように言って、イザベラは虚空を睨む。
 彼女とルイズは、相性が悪いらしかった。


◆◇◆


 ところ変わって、今度はロマリア。
 大衆の前で説教を行っているブリミル教の教皇、聖エイジス32世と、その後ろに控える神官ジュリオ。

「今こそハルケギニア人民は団結しなくてはなりません。私たちハルケギニアの民は、自信を失っています。シャンリットの蜘蛛たちの進歩性に、遅れをとっていると思い込んで、私たちの独自の文化に対する信頼を、失っています。ですが、それは大きな勘違いです」

 そして彼らの足元に開く、虚無の『世界扉』。

「私たちは劣ってなどいない! 私たちが抱いている劣等感は、拠り所の無さに由来するのです。そう、信仰の拠り所を、取り戻すのです! 信仰の拠り所とは、即ち聖地――」

 説教中に、民衆にアピールするために両手を大きく開いたまま、教皇とお付きの神官は、ボッシュート。

「教皇聖下!?」

「猊下が消えたぞ!?」

 大混乱に陥る民衆たちのみが残された。


◆◇◆


「第三回虚無会議ー、かーいーさーいー」

 がらんがらん。
 暗い部屋の中心に置かれた大きな円卓に座ったルイズが、商店街の景品が当たったかのようにベルを鳴らす。
 彼女の後ろには、デルフリンガーを腰に差したサイトが油断無く控えている。
 何となく、黒塗りに『Sound Only』という文字のパネルが机の上に置かれるのが似合いそうな部屋だ、とサイトは思った。

 ルイズの斜め前、彼女を頂点として円卓上に正三角形を成すように、虚無の『世界扉』のゲートが開き、ロマリアとガリアの虚無の担い手が落ちてくる。
 ロマリア教皇ヴィットーリオと、その使い魔であるヴィンダールヴ・ジュリオ。
 ガリア国王ジョゼフと、ミョズニトニルン・シェフィールド。

 それぞれ二組は、用意された席の後ろに着地――落着する。

「また貴女ですか、トリステインの虚無。ルイズ・フランソワーズ」

「僕としてはまた会えて光栄かな、ミス・ヴァリエール」

 ヴィットーリオはやれやれと肩を竦め、ジュリオは軽くルイズの方へウィンクをしてくる。
 サイトはジュリオを睨む。
 イケメン死すべし。

「耳がぁ!? 鼓膜に刺さったぁああ!?」

「ジョゼフ様! 直ぐに癒します!」

 一方でガリア王は、落ちてきたときに耳掻きが刺さったのか、のたうち回っていた。
 シェフィールドの指に嵌められた水の癒しの力を秘めたマジックアイテムが光り輝き、ジョゼフの傷を癒す。
 こっちは何だか残念なイケメンだった。

「うっさい。さっさと席に着け、バカップルめ」

 ルイズが不機嫌そうに口を尖らせる。
 ヴィットーリオと復活したジョゼフが席に着くと、再びルイズがガラガラとベルを鳴らす。どうやらこれが開幕ベルらしかった。
 第三回虚無会議、開催である。ちなみに第一回はお互いの顔合わせと立場の明確化を行い、第二回は呼び出したジョゼフとシェフィールドが合体中だったので中止されている。

「それじゃあ、前々回のおさらいからいきましょう」

 傲岸不遜で相手の都合を顧みないルイズが進行を務める。

「先ずは、ジョゼフ。あんたは保守派だったわね。現状維持、ガリア国内の発展に注力したい、と」

「その通りだ、トリステインの虚無よ。余は、他国他種族のことについて口をだすつもりはない」

 青髭の美丈夫が重々しげに答える。
 後ろには黒髪の美女、シェフィールドが控えている。
 王弟シャルルの裏切りからすっかり意気消沈しているガリア王を、ルイズは『鬱屈王』と評している。

「弟クンが天空大陸で蠕動してるみたいだけど?」

「ああ、シャルル! 余は、ただお前と肩を並べてガリアを治めたかっただけだというのに!!」

「はいはい分かった分かった。それについては後でまた話題にするわ。次、ヴィットーリオ」

 一人勝手に自分の世界に入って哀哭し始めたジョゼフはさておいて、ルイズがヴィットーリオに話題を振る。

「私は、いえ、ロマリアは聖地から新天地を目指します。かつて始祖がイグジスタンセアからハルケギニアに降り立ったのを模倣して」

「『方舟計画』だっけ?」

「ええ、そうです。これ以上、この不安定な大地に居ることは出来ません。選ばれし民を連れて、遙けき大地を目指します」

 旧支配者が犇めくハルケギニアを捨てて、新たな大地を目指すというロマリアの『方舟計画』。
 既に、ヴィットーリオの虚無の魔法によって、移住先の新天地の目星は付けてあるらしい。
 あとは、聖地の列石に囲まれた“門”を起動し、新天地にて虚無魔法『生命』を発動するのみだという。

「なるほどなるほど。歴代教皇が、シャンリットに突っ掛って勝手に自滅して国力磨り減らしてなきゃ、もう実現できたかもしれないのにね」

「それは言うだけ無駄というものです。そして、ルイズ・フランソワーズ、貴女は主戦派でしたか?」

 ヴィットーリオがルイズに問い返す。

「ええそうよ。力をつけて、邪神共を一掃あるいは封印するのが最終的な目標。先ずは手近な所として、シャンリットを切り崩して行きたいと思っているわ」

「どれだけ荒唐無稽なことを言っているか自覚はあるのですか?」

「無理無茶無謀は承知の上よ。でも、それ以上に、邪神どもとその手先は気に喰わない」

 ルイズが啖呵を切るが、ヴィットーリオとジョゼフは、身の程知らずな彼女を見て、肩をすくめる。
 あるいはこれが若さか、などと彼らは思う。
 自分たちがまだ若かったならば、ルイズのように対邪神に気炎を上げていたかも知れないが、今となってはそれは夢のまた夢。現実を知り、責任を背負った今では、とてもじゃないが、ルイズに同調することは出来ない。

「出来ればガリアは巻き込まないで欲しいのだが?」

「善処はするわ」

「……初めから期待はしておらんよ。だが、余はガリアの臣民を守るためならば、敵対もするぞ」

「必要ならどうぞやって頂戴。でも、基本的にはお互いには不干渉でしょう? 利害が衝突するまでは」

「ああ、そういう決定だったな。この虚無会議の決定によれば」

 相互不干渉条約を、それぞれ方針が違う虚無の担い手たちは結んでいる。
 ガリア王ジョゼフが引き篭っていようが、ロマリアが聖地到達に向けて準備を進めていようが、ルイズが蜘蛛相手に暗闘を仕掛けようが、関知しないし、協力もしない。
 利害がぶつかれば、その限りではないが、お互いに衝突を避ける努力はする。そういう取り決めを交わしている。

「じゃあ、おさらいはココまで。……次は私から通達なんだけど、『風のルビー』を手に入れたわ」

「ほう? ではアルビオンに出向いたのですか?」

「いや、向こうから偶然転がり込んできたのよ。合縁奇縁というやつね」

「それは羨ましい」

「ついでに失陥目前の現王派から『始祖のオルゴール』も確保するつもりなのだけれど、良いわよね」

 断定口調であった。提案ですらない。
 ルイズの後ろに控えるサイトが、初耳な話にギョッとするが、口ごたえしても無駄なのは分かっているので、黙っている。
 他の使い魔二人からの、憐れむような、気遣うような視線が痛い。あんたのご主人は気が強くて大変だなあ。

「好きにすると良い」 「まあ早い者勝ちですからね」

 ジョゼフとヴィットーリオは、特に興味がないのか、反対しない。

「今回は急に呼び出したけれど、次回は私が『始祖のオルゴール』を手に入れてからでも、適当に招待状を送るわ。その時はあんたたちも『始祖の秘宝』を持って集まりなさい。『風のルビー』を貸してあげるから、新呪文が出たら共有しましょう?」

「まあ、良いだろう」 「妥当なところですね」

「じゃあアルビオンの秘宝については、これでオシマイね」

 他に議題は?、とルイズがジョゼフとヴィットーリオに話題を振る。
 ヴィットーリオが律儀に手を挙げる。
 議長のルイズがヴィットーリオを指す。はい、ヴィットーリオ君、発言を。

「アルビオンといえば、レコンキスタでしたか、王弟派の。あれ、元オルレアン公爵シャルルが黒幕でしょう?」

 迷惑してるんですよね、とヴィットーリオがジョゼフに苦言を呈する。ブリミル教会の十分の一税が、アルビオンからは届かなくなっているのだ。おそらくレコンキスタに着服されている。
 ジョゼフはそれを聞いて、苦虫を噛み潰したような顔になる。
 国家反逆罪で、本来ならシャルルは処刑されるべきだったのだが、ジョゼフが手心を加えたために、国外に逃げおおせたのだった。クルデンホルフもその手引きをしたとかしないとか。まあ、あそこは金さえ払えば大抵のことは請け負うから、そういう事もありうるだろう。

「ああ、そうだ。だが、余には、俺には、弟を殺すことは出来なかったのだ。ああ! シャルルっ!!」

「はいはい。ところで、シャルルは、虚無のことや、邪神のことについてはどれくらい知識があるの?」

 シャルルの話題から、また哀哭モードに入りかけたジョゼフに、ルイズが問い掛ける。
 アルビオンに行くなら、ひょっとすれば相見えることもあるかもしれない。
 尋ねておいて損はないだろう。

「シャルルは、何も知らぬ。余の虚無も、シャルルの娘のシャルロットが虚無の予備であることも、ハルケギニアの人類が、薄氷の如きバランスの上で生存していることも、な。少なくとも、ガリアを追われるときは、何も知らなかったはずだ」

 あの魔島アルビオンで知らぬままに過ごせるとは思えぬが、と、ジョゼフは悼むように言う。

「聖地奪還を本気で考えているとは思えないしね。まあ、あんなの方便でしょうし。大体、レコンキスタの頭を張ってるモード大公は、エルフを妾にしてるんでしょう?」

「それに加えて、レコンキスタの参謀クロムウェルは、管区からの報告では、とても正気を保っているとは思えませんし」

「管区はどこよ?」

「セヴァーン渓谷です」

 あーそりゃもう完全にアウトだわー、とルイズが天井を仰ぎ見る。
 ジョゼフは、シャルルの末路を想って、顔を真っ青にして崩折れている。
 シェフィールドが、傍に付き添って、ジョゼフの手を握っている。

「……ああ、シャルル! こんなことなら、いっそ俺の手で、引導を渡してやるべきだったか!」

「全くね。でも出来るの?」

「無理だっ!」

 ジョゼフが哀哭する。
 たとえ弟がどんなモノになってしまっても、ジョゼフは止めを刺す事など出来ないだろう。
 兄弟だから。たった二人きりの兄弟だから。だから彼は懊悩し、結局何も選べないのだ。

 重苦しい沈黙がおりる。




【おっかないのが来るぜ】


 唐突に、デルフリンガーが呟く。
 そして次の瞬間に、この円卓の部屋の中に、虚無の『ゲート』が出現した。
 その向こうから声がする。

「ならば私が、彼や彼らの命を狩り“蒐めて”しまっても構わんのだろう?」

 アルビオン王家が代替わりするなら、ちょうどいい機会だ。今までの負債を清算してもらわねばな。

 そう言って、暗鬱とした声が、沈黙を破る。
 その声の主は、未だゲートの向こうで、姿は見えない。
 しかし三人の虚無の担い手たちは、その声の主を知っていた。

 新たに現れた四組目の人物に反応して、虚無の担い手の傍に控える、それぞれの使い魔の三つのルーンが輝く。

 ゲートの光は消えて、一人の男が残される。
 蟲のような男だ。
 蜘蛛のような男だ。
 いや、ヒトのような蜘蛛だ。

「千年教師長っ?!」 「サン・ジェルマン伯爵……」 「ウード・ド・シャンリット、ですか」

 ルイズ、ジョゼフ、ヴィットーリオが、三者三様の呼び名で、ゲートから現れた人影を呼び表す。
 ルイズの対面、ジョゼフとヴィットーリオの間に現れたウードに対して、使い魔たちは主を庇うように位置取る。
 直感的に、彼らは、その人影が、“敵”なのだと理解したのだった。

「お呼びじゃないわよ、千年教師長っ」

「くふふ。そう邪険にするな、ルイズ・フランソワーズ。何、参加資格ならあるさ」

 そう言って、ウードは胸を肌蹴る。

「我は武器」

 デルフリンガーの柄を握るサイトの左手が輝くのは、この部屋にすらも張り巡らされた、ウードの本体たる〈黒糸〉を武器として認識しているからだ。

「我は魔道具」

 ジョゼフを守るように布陣したミョズニトニルンの額は、魔道具である〈黒糸〉に反応して、ルーンが浮き上がっている。

「我は異形」

 ウードのシルエットが崩れ、糸のように変化してバラけたかと思えば、節足動物のような脚を背中から生やした蜘蛛人間フォルムに変化する。
 ジュリオが冷や汗を流しつつも、不敵な笑みを貼り付けて、手の甲が輝く右腕でヴィットーリオを庇うように立っている。

「そして我は使い魔」

「馬鹿な、なんであんたが……」 「ほう……」 「有り得ない!」

 全員が全員、顕になったウードの胸を見て、言葉を失くす。
 そこにはルーンが刻まれていた。
 刻まれたルーンは、神の心臓、リーヴスラシル。それなら確かに、この虚無会議に参加する資格はある。

 だが、資格があるから何だというのだ。
 怨敵相手に敵対しないとは言っていない。敵対しない理由がない。
 虚無遣いたちは、各々の使い魔に命令を下し、自らも詠唱に入る。

「サイト、奴を!」 「シェフィールド!」 「ジュリオ!」

 今、三人の虚無の担い手が揃っているなら、幾許か勝機はあるはず!
 サイトが飛び出し、ジュリオとシェフィールドが、支配能力によって、ウードの動きを呪縛する。

「うおおおお!!」 【行け! 相棒!】

 『加速』と並唱された『解除』の呪文は瞬時に完成し、『解除』の三乗が、ウードへと襲いかかる。


『ディスペル!!』


 これで仕留められずとも、飛び出したガンダールヴが傷を負わせられるはず、と彼らは考えていた。
 時空と魂すら操る最強の系統である虚無の力を以てすれば、いくら千年前から生き続けるヒトデナシであったとしても――

 その思いは、ウードの呪文によって覆される。



「『解除(ディスペル)』、返しっ!!」



 ウードが使った『解除』の呪文が、ルイズたち三人の『解除』をキャンセルしていく。
 千年の研鑽を積んだウードの精神力が、三人の使い手の精神力を上回ったのだ。

「ぐっ!?」 「馬鹿な!?」 「くっ!?」

「修行が足りんぞっ!!」

 ルイズたち三人がたじろぐ。
 そこに、デルフリンガーを振りかぶったサイトが、ウードに突撃する。

「おおおおお!!」

 ウードはそれを背中から生やした蜘蛛脚の一つに『ブレイド』を纏わせて迎撃する。

 しかし、呆気無く、サイトの握るデルフリンガーによって蜘蛛脚は切断される。
 『ブレイド』の魔法は、ウードの蜘蛛脚が纏うそばからかき消されてしまっていた。
 『解除』の四乗を絡めとって、纏ったデルフリンガーによって。

「……やはり、な」

 それを見ても、ウードは大して動揺もしない。
 糸状のマジックアイテムの塊であるウードには、『解除』を纏ったデルフリンガーは致命的であるにも関わらず、だ。
 デルフリンガーに対処は不可能と見切りをつけて、ウードは残った蜘蛛脚でサイトの身体を引っ掛けて投げ飛ばす。

 状況は一旦仕切り直し、といったところだ。

「ほら、参加資格はある。私は虚無の使い魔だ。ついでに虚無遣いでもある」

「馬鹿な! リーヴスラシルは、アルビオンの虚無が刻むもののはず!」

 ヴィットーリオが珍しく声を荒げる。
 リーヴスラシルは、『方舟計画』と虚無魔法『生命』の鍵なので、それも当然か。

「くふふ。うちの聖人グレゴリオクローンの工房は、アルビオンにもあるのだよ。そして、何だっけ、『使い魔を選ぶのは、運命と愛』だったかな?」

 怪人蜘蛛男が、陰気に笑いながら語る。

「じゃあ“愛”とは何だろうなあ」

 クツクツと、ウードは笑う。

「千二百年前の聖人グレゴリオの使い魔(ヴィンダールヴ)は、私のクローンだった。私の魂とも、虚無の運命は交錯しているのだよ。虚無の使い魔になる素質は、私にもある」

 そして。

「千年間ずっと弄ばれた、聖人グレゴリオの魂は、私のことをどう思っているのかな? きっと恨んでいるだろう、きっと憎んでいるだろう、きっと殺したいと思っているだろうなぁ。くふふ」

 演説は続く。

「それは最早、愛と呼べるのではないかね? そうだ。愛とは怨恨。愛とは憎悪。愛とは殺意! いとしいだとか、一緒に居たいだとか、そんな生温い気持ちで、運命の軛を断ち切れるものかね!?」

 その言葉に従って、ウードは腕を広げる。
 ウードの胸が、ぐじゅぐじゅと蠢き、肋骨が観音開きに開く。
 その胸部装甲が開いた内側には、どこかヴィットーリオに似た顔立ちの幼い子供が埋めこまれていた。

 その子供は、血涙を流して、表情を憎悪に、そして悔しさに染めて叫ぶ。

『ぁ、アアアアアアァァァァアアアあああ!!』

 子孫よ、どうか、仇を討ってくれ、と、千年前の虚無遣いの聖人グレゴリオが無念の叫びを上げる。

「っ!? まさか、取り込んだの!? さっきの『ディスペル』は、グレゴリオクローンを取り込んでいたから!?」

「ああ、そうだ、ルイズ・フランソワーズ。虚無の力とは良いものだな。内側から燃えるような、魂からの怨恨、憎悪、殺意! それすらも心地良い。千年間弄ばれ続けたグレゴリオ・セレヴァレの想いが、汲めども尽きぬ精神力となっているのがわかるぞ。全ての時空の父祖であるヨグ=ソトースに連なるこの力を持っていれば、君たちのように増長するのも頷けるというものだ!」

「最悪……!」

「そう褒めるな」

 嘲るようにそう呟いたウードは、グズグズに崩れたシルエットを人の形に整え直す。
 叫びを上げるグレゴリオクローンも、装甲に包まれ直されて、見えなくなる。

「まあ、今ここでどうにかしようというわけではない。今日はただの顔見せだからな」

 ウードの足元に『世界扉』が開き、ズブズブと沈んでいく。

「進歩には目標が必要だ。進化には競争が必要だ。進撃には外敵が必要だ。それも適度な難易度の相手が望ましい。君たちが敵に価するまで待ってあげよう。共に切磋琢磨していこうじゃないかね。それに、もう既に千二百年過ごしてきたのだしな。今の時代もその千二百年の流れの一刻に過ぎない。待つことには慣れている。……ああ、そうだ、今ここで、私と戦えるとすれば、デルフリンガーの中身くらいじゃないのかな?」

 一旦ウードは言葉を切る。

「そう、デルフリンガー。『ディスペル』を絡めとって纏うなんて芸当は、余程、虚無魔法に精通していないと出来無いはずなのだがね。かつてシャンリットで君を研究したときに、『記憶(リコード)』で君の記憶を遡ったが、ブリミルを刺した瞬間までしか遡れなかった。つまり、君の意識は、魂は、その瞬間に、生じたというわけじゃないかね? ブリミルが死んだ瞬間に。……まあ、これも所詮仮説に過ぎない。シャンリットの『リコード』の精度が、デルフリンガーに掛けられたプロテクトを上回っていないだけのような気もするしな。……くふふ、では、またな、虚無の担い手たちよ」

 ルイズたちはそれを憎々しげに見ている。

「いずれ殺す。必ず殺す」

 ルイズ・フランソワーズはギリギリと歯を噛み締めて、悔しげに吐き捨てる。
 今、ここで一戦やらかすには、実力に差があり過ぎた。
 千二百年の積み重ねを甘く見ていたと、言わざるをえない。

「その時には助力しますよ、ルイズ・フランソワーズ。聖人グレゴリオと、リーヴスラシルをあの蜘蛛男から解放しなくては、『方舟計画』がままなりません」

 ヴィットーリオも、ウードに敵対するようだ。
 リーヴスラシルは『生命』の要なので当然か。
 ウード・ド・シャンリットを滅ぼし尽くすことはできずとも、内側に捕らえられたグレゴリオクローンを殺して、その魂を解放することくらいは可能なはずだと、ヴィットーリオは考えている。

「余は最早どうでも良い。奴はガリアの害になる訳ではないしの」

 ジョゼフはどうでも良さそうだ。
 殺せそうだからノリでチョッカイを出してみたものの、目の前に現れない限りは、わざわざ探し出して殺そうとは思わない、ということだろう。
 ジョゼフは今や、家族サービス重視のお父さんであるからして。

 ルイズが杖を振り、ガリア、ロマリアに通じる『世界扉』のゲートを作る。招いたなら、きちんと帰さなくてはならない。送迎サービスは万全である。
 ジョゼフとヴィットーリオが、それぞれの使い魔を伴ってゲートを潜って、国に帰っていく。
 第三回虚無会議は、後味が悪く終了したが、ルイズにとっては敵を再認識するいい機会になったと言える。

「帰るわよ、サイト」

「あ、ああ」

「見たわね? 憶えたわね? あれが私の敵よ」

「ああ、刻みつけたぜ、ルイズ」

 サイトは後ろからルイズに追いつき、その手を握る。
 彼女の手は震えていた。
 きっと指摘しても、『武者震い』だと誤魔化されてしまうだろうから、サイトはそのことを指摘しない。
 ルイズがサイトの手をそっと握り返す。

【なあ、相棒……】

「無理に話さなくていいぜ、デルフリンガー。俺は敵よりも、お前を信用する。相棒だからな」

「そうよ、いちいちあの千年教師長の言葉を真に受けてたらやってらんないわ」

 二人とも、デルフリンガーには何も尋ねない。
 敵の言葉に惑わされて、身内を疑うなんてことをしている余裕はない。
 それに、過去のことは、終わったことだ。

【ありがとうよ。サイト。ルイズ】

 だが、その気遣いが、デルフリンガーには嬉しかった。


=================================


妄想設定&厨二病大爆発の巻
「デルフ=ブリミル」説は、あくまでウード君の妄想です

次回、オルゴール回収

2011.03.02 初投稿



[20306] 蜘蛛の巣から逃れる為に 17.ニューカッスル(※残酷表現注意)
Name: へびさんマン◆29ccac37 ID:b87f4725
Date: 2011/03/08 00:20
 べりべりべりべりべり、べりべりべりべりべり、がしゃん。
 べりべりべりべりべり、べりべりべりべりべり、がしゃん。
 べりべりべりべりべり、べりべりべりべりべり、がしゃん。
 べりべりべりべりべり、べりべりべりべりべり、がしゃん。
 べりべりべりべりべり、べりべりべりべりべり、がしゃん。

 石畳の広い部屋に、単調なリズムで11の音の連なりが繰り返し、繰り返し響く。
 よく耳を済ませれば、押し殺された息や衣擦れの音。
 そして、声にならない誰か大勢の悲鳴、らしきもの。そういう雰囲気。

 べりべりべりべりべり、べりべりべりべりべり、がしゃん。

 じっとりとした沈黙が降りる中、レコンキスタの参謀であるクロムウェルは、その作業を続けていた。

 べりべりべりべりべり、べりべりべりべりべり、

「ふぅっ、中々、これは、疲れます、ねっ」

 がしゃん。

 彼の片手には、ペンチが握られていた。
 もう片方には、重たそうな、ハンマー。
 荒い息でクロムウェルは、振り下ろしたそれを肩に背負い直し、ペンチを握り直す。

 そして隣へ。

 べりべりべりべりべり、べりべりべりべりべり、がしゃん。

 彼はそれらを手に、床に固定されている丸太のような物に取り付いて、手早く“作業”を行う。
 明らかに手慣れた様子で。
 先程からの異音は、彼が奏でているようである。

 べりべりべりべりべり、べりべりべりべりべり、がしゃん。

「小指」

 べり、

「薬指」

 べり、

「中指」

 べり、

「人差し指」

 べり、

「親指」

 べり、

「左手ー」

 べりべりべりべりべり。

 爪を剥がす音。

 クロムウェルが、取り付いていたのは、ヒトだった(・・・・・)。
 石造りの大広間に、『アースハンド』で床に四肢を固定された人体が、300余りか。
 既に彼の手で処理(・・)されたものは、そのおよそ半分、と見られる。

 剥がした爪を、クロムウェルは腰に下げた袋に入れる。
 クロムウェルが愛おしげに、ヒトの頭蓋骨がすっぽり入りそうなくらいの大きさの袋を撫でる。
 革袋だが、それは、一体何の革でできている?

 爪を剥がされた人物は、身じろぎ一つしない。
 出来ない。
 『アースハンド』で固定されているから。
 腕も脚も、首も、手首も、指すらも。

 悲鳴一つ上げない。
 上げられない。
 口も瞼も、水魔法によって、接着され、癒合(・・)されているから。
 完全に癒着して閉じてしまった口腔は、悲鳴を発することもない。

 囚人服を着せられた男は、癒合された瞼に開けられた小さな涙用の穴から、止めどなく涙を流している。
 涙が鼻に流れて窒息しないようにという心遣いだ。
 胸は激しく上下し、鼻からは鼻水が流れだしている。
 まあ、爪を剥がされたから当然か。

 クロムウェルは、肩に担いだ武骨なハンマーを、口と瞼が縫いとめられて床に固定されて爪も剥がされた人物の頭蓋に向かって、――振り下ろす。

 がしゃん。

「処理する囚人も、残り、半分、かぁ」

 クロムウェルがハンマーを背負い直して、勿体無い、とばかりに呟く。

(本来ならば、素材を殺さず活かして、もっと色々と行ってから止めを刺すのですが。まあ、今回は、数が多く必要ですから簡単な処理しかできませんものねー)

 まだまだ試したい拷問方法も沢山あるというのに、とクロムウェルは溜息をつく。
 ここに集められた囚人は、生粋の犯罪者だったり、現王派についていた貴族だったり、レコンキスタに批判的なジェントリーであったり、様々だ。
 共通点は、レコンキスタにとって、死んでもらったほうが役に立つ人間、ということか。

 この残虐な行為を、クロムウェルは何とも思っていない。
 それどころか、彼の瞳には、隠しきれない愉悦と昂揚が見て取れる。それは、神官らしい宗教的な愉悦と昂揚だった。
 太陽神に生贄の心臓を捧げるマヤの司祭のように、クロムウェルの目は、自分の行為に酔っていた。

「でも、シャルル様の、そしてレコンキスタの為だ、頑張ろう。ふ、ふひ、ひははは、はぁっはっはっは! 生爪剥ぎ祭りだ~~!! ひゃははははははは! イゴーロナク様にぃー、捧げるのだぁー!」

 べりべりべりべりべり、べりべりべりべりべり、がしゃん! いひひひひ!
 べりべりべりべりべり、べりべりべりべりべり! ひゃっはー! がしゃん!
 うふ、うふ、うわははははっははは! べりべりべりべりべり、べりべりべりべりべり、がしゃん!
 べりべりべりべりべり、べりべりべりべりべり、がしゃん! いあ、いあ、いごーろなく!
 べりべりべりべりべり、べりべりべりべりべり。 ふぅ、ふぅっ、よいしょおっ! がしゃん!

 狂える司祭クロムウェルの笑い声と、残虐な拷問の音が、石造りの冷たい広間に響き渡った。


◆◇◆


 白の国アルビオンの首都、ロンディニウムにある王宮、ハヴィランド宮殿。
 テューダー王家のジェームズ王は、宮殿を追われ、現在そこを占拠しているのは、レコンキスタである。
 失政相次ぐテューダー王朝を打倒し、真にアルビオンの民、引いてはハルケギニアの民を統率するべき新政府を樹立し、ゆくゆくはエルフに奪われた聖地を回復する、というお題目を掲げている。

 レコンキスタのトップは、ジェームズ王の弟であるモード大公。
 次席に、ガリアからの亡命貴族、シャルル・ドルレアン。
 そして参謀には、一司祭からの大抜擢で、オリヴァー・クロムウェルが就けられている。

 だが、レコンキスタの中枢に近い者は、皆、知っている。
 誰が本当の盟主なのか。
 亡命貴族という立ち位置でありながら、あっという間に各貴族の弱みを握り、あるいは巧妙に鼓舞し、王家への反乱を煽ったのが、一体誰なのかを。

 青い髪の謀略家。
 笑顔の奥に隠された野心。
 ガリア星慧王(せいえおう)の『弟』、などと言うと、彼は烈火の如く怒るので禁句だが。

 レコンキスタの実質的な首領であるシャルルは、ハヴィランド宮殿の一角でじっと待っていた。

 暫くすると、シャルルが居る部屋に通じる扉の一つが開く。
 それと同時に、言い知れぬ『冷たさ』が、扉の向こうからやって来た。
 それは墓所の冷気だった。死神の領域が、扉の向こう、地下へと通じる階段から、立ち上ってきたのだ。

「ひぃ、はぁ。あ、シャルル様、これわこれは、わざわざここでお待ちにならずとも、っ」

 邪悪がやって来た。
 地の底から亡霊たちをその身に背負って。
 その亡霊さえも食い散らかして。

 邪神の手先、オリヴァー・クロムウェルが、地下の拷問室から怖気と共にやって来た。

 彼は返り血を浴びた僧服もそのままに、引きずっていたハンマーを振りかぶって、挨拶するような気安さで、シャルルに殴りかかった。

「いひ、いひひひ、直ぐに、貴方も、我が、神にぃ! 捧げます、からぁーーー!!」

「『電撃(ライトニング)』!」

「ぎひぃっ!?」

 シャルルは、狂った司祭を、電撃の魔法で迎撃。
 電流によってクロムウェルの体の筋肉が出鱈目に収縮し、びだん、と海老のように通路を跳ね飛んだ。
 彼の手に握られたハンマーとペンチは電流のせいで、彼の手のひらの皮膚に張り付いている(そのせいで、ハンマーが彼の手からスッポ抜けるということはなかった)。

 所々からしゅうしゅうと煙を吹き上げるクロムウェルに、シャルルは懐から取り出した水の秘薬を瓶ごと投げつける。
 薄い(つまりそれだけ高級な)瓶が割れて、クロムウェルの僧服に染みていく。煙が多少は治まった。
 そして風の『操り』で、未だに痙攣するクロムウェルを立たせ、さらに浮かせて空中に吊り下げる。

 シャルルはクロムウェルの耳元に『伝声』の魔法で、声の通路をつなぐと、ドスの利いた声で喋る。

「なあ、クロムウェル。挨拶で、人を、殺そうとォ、するなァ!」

 その声に、クロムウェルは、先程までの狂気は何処へやら、おどおどと目をあちこちに動かして、如何にも不審げな様子で答える。

「ひぃっ!? こ、殺そうとなんか、してないですよ? ちょっと肩の骨を砕いて、ぐぅりぐりと、踏みつけにしてやろうと思っただけで! ひ、ひひひ」

 弁解になっていないが、彼はこれで、大真面目に回答している。
 そして先ほどいきなりシャルルに殴りかかったのも、素だ。
 出会ったのが、シャルルでなければ、ハヴィランド宮殿にハンマーを持った僧服の男が、その衝動のままに大暴れしていただろう。

 シャルルとて、この狂人の人となりを知っていなければ、不意を打たれて殺されていたかも知れない。
 だが、シャルルは、クロムウェルが儀式の下準備(・・・・・・)の後に、ハイテンションで所構わず拷問しようとするだろう、ということが予測できていた。
 だからこそ、地下室の出入口の間で、クロムウェルを待ち伏せしていたのだ。

(この拷問癖さえ無ければ、もっと扱いやすいものを……)

 シャルルは内心溜息をつくが、無いものねだりだとは理解している。
 むしろ、この異常な司祭の脳髄に眠る、異端の知識の有用性に気づいただけでも、十分以上に儲け物だ。
 便利な生きた図書館以上の役割を望むのは酷というものだろう。

「いいか、クロムウェル。君が望むだけの人員は、与えているだろう? 今は、それで我慢するんだ。良いな?」

「は、はいぃ! きちんと、狡猾に、TPO(時、場所、場合)と、供物(犠牲者)は、わきまえて、拷問します! ええ、間違いなく! ええ、そうですとも! 惨忍さと、狡猾さは、我が神が好むところですゆえ、もちろん! もちろん、めね、めねめねめね!」

「……分かれば良い。人にバレるような、稚拙で、拙劣な行為はするな」

 シャルルは深い溜息をついて、クロムウェルを宙空から下ろす。
 クロムウェルは、壊れたおもちゃのように、コクコクと首を動かしている。
 こいつ絶対に理解してない、と、シャルルは思うが、それでもこの場でこれ以上のことを諒解させるのは無理だろう。
 根本的な部分で、この司祭は、もはや常人と同じ世界には立っていないのだ。
 僅かなりともコミュニケーションが取れる時点で、望外の幸運である。

 シャルルは話題の矛先を変える。
 と同時に、クロムウェルの後ろに回り、先へ進むように促す。後ろから殴られてはかなわない。
 二人は、地下拷問室に通じる通路から、クロムウェルが崇める神の『手』を象ったものが置かれている場所へと、足を進める。

「それで、300人の囚人を『使用』して、儀式の準備は整ったのかね?」

「ええ、ええ、もちろん! 万端でございます! ほら、こちらに、300人分の、『証』が! あはははははっ」

 そう言って、クロムウェルは、大事な宝物を見せびらかすように、人の頭ほどの、肌色の革袋を踊るように掲げて見せる。
 300人の両手指の生爪がみっしりと詰まった、拷問の証拠品である。
 悍ましい所業を、まるで童のように誇らしげに、クロムウェルは語る。

 が、シャルルはその尽くを、仮面のような笑顔でスルー。
 まともに聞いていたら、こっちが正気を無くしそうだからだ。
 その間にも、クロムウェルは無邪気に、身振り手振りで、やれ、爪が脆いと剥ぎづらいだの、一撃で頭蓋骨を粉砕するにはコツが要るだの、病み言を並べていく。

 やがて、二人は『手』――『イゴーロナクの手(THE HAND of Y’GOLONAC)』が安置された部屋まで辿り着く。

 その扉は、暗鬱で凄惨な血腥い(ちなまぐさい)気配を発しており、常日頃から、近づくものは皆無であった。
 近づく者といえば、『手』の創造者であり、崇拝者でもあるクロムウェルと、彼に嫌々同行するシャルルくらいのものである。
 そして、決まって、その翌日(遅くとも一週間以内には)、彼らに敵対していた者が『乱心して周囲の者を拷問して殺害する』という事件が起こるのだった。

 例えば、クロムウェルが『アイアン・メイデン』を手に入れたとはしゃいだ翌日、レコンキスタに与しなかったある土魔法使いの貴族が、『錬金』の魔法を使った土の針で自分の妻を、串刺しにして殺していることが発見された。
 第一発見者が惨状を見つけたとき、下手人の貴族は既に、『ブレイド』で自分の首を刎ねていた。
 彼の表情は、絶望に染まっていた。
 まるで妻を刺し殺したのが、彼の意思ではなかったかのようだった。
 仲の良い夫婦だと評判だったのに何故、と皆が訝しんだ。

 例えば、クロムウェルが、『人はパンで死ねるのか』と大真面目に悩んだ翌日、現王派を支援していた商会の会頭が、自分の娘の口にパンを無理やり押しこんで殺してしまった。
 娘の胃や食道、気道には、20本あまりのパンが詰め込まれていた。
 その商会は呪われている、と人々は噂し、やがて倒産した。

 例えば、クロムウェルが、『熱した寸胴鍋を人に被せるとどうなるだろう』などと呟いて王宮の厨房に鍋を借りに行った翌日、ロンディニウムの大司教が、彼の妻の手によって、熱された鍋を被せられて大火傷を負った。
 大司教の妻は、『どこからか悪魔が囁いたせいだ』と強弁した。
 大司教は、この時の火傷が原因で、衰弱して死んだ。

 例えば、クロムウェルが、『ネズミちゃーん、お腹はすいてまちゅかー? 人の腹筋や内臓はどんな味なんでしょうねー?』とか言って厨房に仕掛けたネズミ捕りに囚われたネズミに語りかけていた四日後、ある軍司令官の部下が、営巣に縛られて身動き取れない状況で、内臓をネズミに貪り食われていたのが発見された。
 死んだ将校の上官であった軍司令官は、精神を病んで辞表を提出したが、代わりに彼に送られたのは軍法会議の召喚状だった。
 彼は敵軍に内通していたのだ。
 最終的に裏切り者の軍司令官は銃殺(貴族としては不名誉な死に様だ)された。

 例えば。例えば。例えば。数え上げればキリがない。
 レコンキスタは、数々の利益と弱みによって纏め上げられた集団だった。――結成当初は。
 それが今では、得体の知れない恐怖によって統率された、恐るべき集団へと変貌してしまっている。

 恐怖、それは、レコンキスタに敵対した者へと襲いかかる、理解不能の災厄に対する恐怖だ。
 隣人が狂う恐怖。
 親しい人を自分が拷問して殺してしまう恐怖。
 見えない鎖によって、アルビオンの民衆の心は、雁字搦めに押さえつけられ、縛られてしまっている。
 ロンディニウムの空は、今日も灰色に染まっていた。
 だが、得体の知れない恐怖によって、レコンキスタという新しい秩序のもと、アルビオンは確かに一つにまとまりつつあった。

 クロムウェルが、軽く身なりを整え、『手』の安置室の扉を開く。
 暗黒の冷気が、扉の向こうからやって来る。
 冷たい、それでいて、どこか途方も無い巨獣の吐息を思わせる生臭さが、後ろに居たシャルルを包みこむ。

(何度来ても慣れないな。まあ、これに慣れたらマズイという意味では、一種のバロメータになるか)

 自分が正気を保っているかどうかの、バロメータに。

 クロムウェルは先程までの稚気に溢れた様子からは想像できないほどに、厳粛な雰囲気を纏っていた。
 表情だけをとれば、彼の荘厳な様子は、まるで名のある聖職者のようであった(彼自身としては常日頃から、敬虔なる聖職者のつもりである――仕える相手は邪神だが)。
 クロムウェルは手に持った300人分の生爪が入れられた革袋を掲げて、おずおずと安置室に入る。

 安置室の中央の段の上には、汚らわしい緑灰色に燐光を放つ、天に向かって伸ばされた手が、圧倒的な存在感で置かれていた。
 それは左手の肘から先を象ったものであった。
 特徴は軽く開かれた掌と、その掌に開いている歯列の整った半開きの口だ。
 『手』が生えている30サント四方の台座には、ネームプレートのような粘土板が付いている。

 クロムウェルが供物を――生爪が詰まった革袋を――捧げるために、祝詞らしき言葉を唱えながら、一歩一歩、『手』に近づく。

「いあいあ、いごーろなく、んぐる、や、み、みるず、ざくす、ぃんめだ、じゃぁむ、ら、め、からら、が、きぃいや、んざらす――」

 陶酔した瞳で、恍惚として歩みを進めるクロムウェルを、シャルルはゴミを見るような目で見る。

(全く、この空間は、吐き気がする。だが、この呪い(まじない)が有効なのも確か。この『奉仕者が捧げた供物に施された唾棄すべき行為を、他人になぞらせる効果』は、有効だ。……意志力が強い者には効きづらいらしいが)

 『イゴーロナクの手』の効果は、『捧げられた供物に応じて、台座に名を刻まれた人物に、特定の行動を強制する』というもの。

 例えばある土魔法使いの貴族の名前を台座に刻み、『手』に、アイアン・メイデンで殺された者の血が詰まったフラスコを捧げれば、『手』はそのフラスコを喰らい、台座に刻まれた者に、供物を作るのに必要な行為(この場合は串刺しにして失血死させること)を強制する。
 その結果、その土魔法使いの貴族は、手近な者を串刺しにして殺すだろう。
 全く彼の意思に反して。
 殺したくもないのに、耐えざる誘惑によって殺してしまうだろう。

 例えばある商会の会頭の名前を台座に刻み、パンを口に次から次に詰めて殺された者の唇を剥いで捧げれば、『手』はその唇を喰らい、商会の会頭に呪いを成すだろう。
 彼はその結果、愛娘の口にパンを捻り込んで殺すだろう。

 例えば熱した鍋をかぶせて殺した者の焼け爛れた耳を捧げれば、台座に名を刻まれた者は、身近な者に対して、熱した鍋を被せたいという抗い難い欲求に襲われるだろう。

 例えば人の腹の上に鍋をかぶせて中にネズミを入れて内臓を貪り食わせた後に、そのネズミを『手』に捧げれば、台座に名を刻まれた者は、同じ方法で適当な人物の内臓をネズミに喰わせたくてたまらなくなるはずだ。

 クロムウェルが長く長い祝詞を唱え終えて、生爪が詰まった革袋を、恭しく『手』のひらの上に捧げ置く。
 供物が受理されたことを示すように、ゆっくりと緑灰色の指が握られ、上に置かれた肌色の革袋に食い込む。
 無事に供物が受け取られたことを見て、クロムウェルの顔が歓喜に歪む。

「ああ、我が神、イゴーロナク様! 供物を受け取っていただき感謝いたします! 誠に、誠に、誠に、ありがたきことこの上なし!」

 『手』が置かれている段の下で、クロムウェルが五体投地し、コメツキバッタのように頭を何度も叩きつけている。
 取り敢えず無事に儀式が終了したのを見て、シャルルはそっと安置室を出る。
 これ以上、この悍ましい空気を吸うことは我慢できなかった。

 300人分の生爪(両手指の生爪を剥いで頭蓋骨を粉砕されて殺された者たちの『証』)が供物に捧げられた。そのうち(一昼夜しないうち)にあの革袋は『手』のひらの口に喰われて、邪神のもとへと送られるのだという。
 そして邪神の力によって、悍ましい魔術が影響力を発揮し始めるのだ。具体的には、『手』のネームプレートに名前が刻まれた者は、その悍ましい300人分の拷問行為を成したクロムウェルの行動をなぞってしまうということだ。
 つまり。つまり? そういうことだ。

 『手』の台座のネームプレートに刻まれた名前は、『ジェームズⅠ世・テューダー』。
 失陥寸前の現王派最後の砦、ニューカッスル城に残されている兵力は、『300人』に足りるか足りないかだという。
 つまり、そういうことだった。

「チェックメイト」

 シャルルのその呟きを聞く者は、居なかった。


◆◇◆




 蜘蛛の巣から逃れる為に 17.ニューカッスルの惨劇




◆◇◆


 魔法学院のルイズの私室にて。
 サイトはシエスタ共々正座されていた。サイトは野戦服、シエスタはメイド服。
 彼らの眼前には、野戦服のままのルイズが腕を組んで仁王立ちしていた。

「はい、では今日の戦闘の反省から行きましょう」

 今日も今日とてシュヴルーズの戦闘訓練が行われたのであった。
 最近きな臭くなりつつある情勢を反映してか、何時の間にか、危機感を持った者たちが、教師生徒問わずに参加し、参加者は膨れ上がり、今ではちょっとした中隊規模になっている。
 ……その打撃力は、ちょっと類を見ない感じになりつつある。

 まあ元からの参加者たちだけでも、虚無組(ルイズ&サイト&シエスタ)、クルデンホルフ組(ベアトリス&ルネ&ヴィルカン)、巻き込まれ優等生組(ギーシュ&レイナール)と、かなり突出したメンツだったが。

 追加の参加者は、まず、タバサ&キュルケの留学生組。

「楽しそうだし、たまには身体も動かさないとねぇ」
「私だけハブにされるのは悲しい」

 ギトー&マリコルヌ&その他風系統メイジの特攻野郎神風チーム(速力優先!)。

「どうした君たち! もっと、早く速く疾くだ! 風系統の強さとは即ち速度なのだ! 速さが足りないぞぉ!!」
「サー、イエッサー!」
「そうだ! 我々メイジは鳥より速く竜より速く雲よりも速く何よりも速いのだそう在らねばならんのだ巧遅よりも拙速を尊ぶのだそれは何も身体の動きの速さ詠唱の速さ魔法の速さに限らないもっとも重要なのはより遠くのことをより早く知覚し瞬時に適切な判断を行うこと即時即決即断即行――」

 モンモランシーや保険医を始めとする水メイジ中心の衛生兵チーム。

「衛生兵(メディック)! メディーック! モンモランシー! 突っ込んだロレーヌが後ろからの味方(キュルケ)の砲撃に巻き込まれた!」
「ああまたキュルケなの!? 担架部隊はレビテーションで負傷者を後送して! 先ずは出血を止めて、火傷部位には『水精霊の涙』の湿布を! 秘薬は出し惜しみしないで! どうせ経費はベアトリス持ちなんだから! ショック症状だけは何としても防ぐのよ! そうなりゃ後はどうにでもなるわ!」
「うわぁぁああ!? 巨大ゴーレムが出たぞー!? レイナールのゴーレムだ! アレはムキムキの見かけのとおり動きが素早い、ウボァー!?」
「ギーシュ君吹っ飛んだーー!! 衛生兵(メディック)! メディーック!」

 研究者肌の学生とコルベールを中心とした観測班。

「ロレーヌ、開始10分で全身火傷で脱落、原因はフレンドリィファイア(誤爆)、と。グラモンは、おお、立ち上がった。鎧を纏って支えにしているのかな?」
「ミスタ・コルベール、冷静ですね」
「うむ、戦場では冷静さを失った者から死んでいくからね。君たちも、いずれ戦場に立つかも知れないし、あるいは不慮の事故に巻き込まれるかも知れない。そういった時に、パニックを起こさないでいられるかどうかというのは、冷静で居られるかどうかにかかっている」
「はぁ」
「よそ見していると見逃すぞ? 蛇のような冷静さを持ちたまえ」

 そして何処からか現れて後片付けや補給を行う奴隷矮人(ゴブリン)部隊(標的兼業)。

「ベアトリスさまのためなーら、えーんやこらっ」 「えーんや、こーらぁっ」
「『水精霊の涙』、一ケース追加でーす」
「肉弾壁なら任せろーー!!」 「ゴブリンは壁、ゴブリンは石垣、ゴブリンは堀ー!」 「うわぁー」 「ぎゃひぃ」 「ひでぶ」

 軍隊の訓練どころか戦場もかくやという厳しさである。
 救いは補給線が充実していて物資の窮乏からは無縁なことくらいだろうか。
 きっと夏期休暇までには、訓練参加者の彼らは立派な護国の戦士に成っていることだろう。


 まあ、それはさておき、訓練時の回想からルイズの部屋に視点を戻そう。

「サイト、今日の訓練の時、一瞬出足が鈍ったわね。どうして?」

 仁王立ちのルイズが正座しているサイトに尋問する。
 サイトは気まずそうにシエスタの方を一瞥するが、シエスタは疑問符を浮かべるばかりである。
 さらにルイズが促すと、観念してサイトが口を開く。

「……シエスタに見惚れていたからであります」

「はあ?」 「え」

 ルイズとシエスタが同時に疑問の声を上げる。
 サイトがヤケになって一気にまくし立てる。

「だって、みんな野戦服の中で一人だけメイド服なんですもの! スカートなんですもの! ヒラヒラするんですもの! 気になるじゃないですかよぅ。銃を構えているところは凛々しいし……」

 シエスタはルイズから頑丈で自己修復機能と四次元ポケットも付いているメイド服を支給されている。
 そのメイド服は、銃弾くらいなら弾くし、着用者に治癒をかける効果もある、非常に高等な魔道具である。
 下手な野戦服より動きやすいし、四次元ポケット内蔵のため、重い装備に振り回されることもないし、何より可憐であるという理由で、シエスタはルイズから訓練時もメイド服を着ることを申し付けられていた。
 メイドの戦場とは日常であり、故にメイド服は戦闘服でなければならない、とかいう信念を持ったクルデンホルフの趣味人が開発したものらしい。常在戦場。

 サイトの告白を聞いて、シエスタの顔が真っ赤になる。
 サイトの顔も真っ赤だ。俺何言ってるんだろう。
 ルイズは、こめかみをひくつかせながら、苛立たしげに左手の指を擦り合わせている。

「……へえ、そう。そうなんだ。ふ、ふふ、じゃあサイト、もっと訓練の密度を上げてやらないとねぇ。メイド服が気にならなくなるくらいに、鉄火場をもっともっと経験させてあげるわ……」

「え、いや、そんな結構です」

「遠慮しなさんな。先ずは、そうね、今からニューカッスルに行くわよ」

「ニューカッスルって、確か、アルビオン内乱の真っ最中じゃ――」

 問答無用、と、ルイズは『世界扉』を詠唱。
 サイトの首根っこを掴み、現れたゲートに放り込む。
 さらにデルフや二人分の背嚢もポイポイとゲートに投げ込む。

「じゃあ、シエスタ。ちょっと小一時間空けるわ。帰ってきたら、ティータイムにしましょう」

「はい、ルイズさん。いってらっしゃいまし」

「ふふ、いってきます。じゃあまた後で」

 シエスタに手を振って、打って変わって上機嫌そうな様子で、ルイズも虚無のゲートに飛び込む。
 行く先はアルビオンの現王派最後の砦、ニューカッスル城。
 狙いは虚無の秘宝『虚無のオルゴール』。
 つまり端的に言えば――火事場泥棒である。

 残されたシエスタは、ティータイム用のお菓子を仕込みに厨房へと向かう。

「ルイズさんも、ルイズさんです。デートに行きたいなら行きたいで、素直に誘えば良いのに。ふふふ、全く、ルイズさんは主人としては申し分有りませんけれど、乙女としてはどうなんでしょう?」

 ルイズさんには、乙女としての教育が必要かもしれません。
 主人思いのメイドは、茶会での話題のバリエーションに、恋話を加えることを決定する。同僚や市販の本からの情報収集も行わなければ。
 シエスタ完璧メイド化計画に対抗しての、ルイズ乙女化計画である。

 それにしても、鉄火場に火事場泥棒に行くのがデートとは、随分世紀末的である。


◆◇◆


 ニューカッスルのある個室。
 急に扉が開かれて、息急き切って男が入ってきて、大慌てで扉を閉める。
 入ってきたのは、灰色の長髪と髭が凛々しい、トリステインからの潜入部隊の一人、ワルド子爵だ。
 ワルド子爵は個室の家具を動かして、扉の前にバリケードを作ると、荒い息をつく。

(なんで、こんな所で私は追い詰められてるんだ)

 彼は軽く今までの道行きを回想する。

 ゲルマニア行幸から帰る途中に、婚約者のルイズがアルビオンのウェールズ王子を連れてきて、気づいたらその護衛任務が追加されていた。

――まあ、それは良い。仕方ない。

 そして閣議の決定によって腕利きの使い手をアルビオンに派遣し、情勢を探るように命令された。
 その派遣団に、風のスクウェアで、実体のある『偏在』(つまり精神力が回復する『偏在』)を使えるワルド子爵は抜擢された。

――風メイジは隠密行動に優れているから、これも仕方ない。激務にも程があるが、それは何か報いてもらうとしよう。

 潜入任務に於いて、ワルド子爵が請け負ったのは、ニューカッスルに布陣する現王派との接触。
 特に現王ジェームズⅠ世は、外界からの情報が届く状況にあるとは思えないため、ウェールズ王子確保の情報を、是非とも奏上せねばならない。
 あわよくば今後のアルビオン介入に便利になるような言質を取ってくること。
 あと、略奪の憂き目に遭うであろう資産を“お救いする”こと。

――そろそろ“俺は真剣に怒っても良いのではないか”と思い始める。

 紆余曲折あって、何とか単身でニューカッスル城に忍びこみ、ウェールズ王子から父王に宛てられた密書を渡すことに成功。
 ついでにその返書と、ウェールズ王子にテューダー朝の王に即位させる旨をしたためた書状および王冠を託される。
 他の者からも、『どうせ叛徒に略奪されるくらいならば』と、色々なものを託される。

――雪ダルマ式に膨れ上がる責務と重要性に頭痛がしてくる。

 完全に包囲されたニューカッスル城の中で、どんちゃん騒ぎ。
 王子が逃げ延びることがほぼ確実になったため、ジェームズ王以下の者たちは、叛徒に対して『テューダー朝、侮り難し』ということを見せつけるべく、玉砕の準備を進める。
 現王派最後の戦艦『イーグル』号がトリステインに拿捕されているため、非戦闘員の脱出手段なし。
 否応なく、非戦闘員も戦闘員も関係なく、玉砕の準備。
 とはいえ、ただ単に突っ込むのではなく、土魔法によって弓矢などの武器の作成し非戦闘員を戦力化し、通路崩落閉鎖による敵進路の局限、トーチカ(特火点)の構築など、持てる限り最大の力で敵戦力を減滅させる作戦を取るという。

――母の遺言で『メメント・モリ』と言われている身としても、彼らの悲壮な決意に満ちた有様を最後まで見届けようと思う。風メイジのワルドならば、上手く『レビテーション』を途中途中で掛ければ、託された財宝を背負っていても、地下の秘密港から降下できるだろう。

 さていよいよ歴史の証人となる覚悟が出来たところで、ジェームズ王による、玉砕特攻前の最後の演説である。

 そう、ここからが問題だった。
 ジェームズ王が突如として乱心したのだ。

 まあ、思い返してみれば、その日は朝からジェームズ王の様子がおかしかったのだ。
 落ち着きなく杖に手を伸ばしては引っ込めを繰り返し、忙しく行き来する人の手を(さらに言えば指先を)じっと注視していた。
 王の目元には深いクマが刻まれていたが、皆それを、テューダー朝最期の日を迎えるのに眠れなかったせいだと解釈していた。
 他にも眠れなかった(眠る暇がなかった)者たちは居たし、ワルド子爵も大して問題がないだろうと思っていた。
 
 だが違ったのだ。

 ジェームズ王が遥か遠い所からの悪意と狂気に蝕まれていたことに、皆が漸く気づいたのは、彼が出陣式で老臣を手にかけた瞬間であった。

 バリーだかパリーだかいう老臣を呼び寄せたジェームズ王は、その老臣の目鼻口を過剰な『治癒』の魔法で塞ぎ、あっという間に『ブレイド』で彼の首にぐるりと一周薄皮一枚分の切れ目を入れて、その切れ目に『エア・ハンマー』を叩き込んで、その風圧と衝撃波で老臣の頭の皮をひん剥いたのだ。
 皆がその光景に呆然としている間にも、頭の皮を剥がされた老臣は倒れ、恐ろしい絶叫を上げてのたうち回ったが、ジェームズ王はそれを一瞥すらせずに、ひっくり返されて袋状になった老臣の頭の皮を腰に結わえると、「生爪剥ぎ祭りだ~~!!」と言って、風の『操り』の魔法で、のた打ち回る老臣の身体を固定して、「すまない、でも、抑えられないのだ。すまないすまない、でも抑えられない、楽しい、爪を剥いで、剥いで止めねばならぬのに剥いで楽しい愉快だ剥いで――」泣き笑いしながら、べりべりと老臣の爪を剥がし始めた。
 ジェームズ王が正気を失っているのは、もはや誰の目から見ても明らかであった。

 女性たちは金切り声を上げ、広間から逃げようとする。
 家臣たちの何人かは、乱心した王を取り押さえようと、縛めの魔法を唱えようとした。
 だが、それはジェームズ王には当たらなかった。

 何故なら、老臣の指の爪を全て剥がして、その頭を『ブレイド』の応用で強化した王杖で叩き潰したジェームズ王は、他の誰よりも早く動き、次の犠牲者の背後に移動していたからだ。

 風の国の王は、最速の王。

 広間の空気(かぜ)は、全てがジェームズ王の支配下にあった。

 広間の風を支配下に置いたジェームズ王の前では、全てが無意味。
 杖を振ろうとしても、腕は風に固定されて動かず。
 詠唱は真空に遮られて声にならず。
 それどころか身動きすら出来ず。
 しかし風に助けられた王の動きは疾風の如く。
 その狂乱の魔の手から逃れるすべは無かった。

 風王、“重圧”のジェームズ。
 厳格な政治姿勢と併せて知られた二つ名は、彼の得意魔法である超広範囲の『操り』の魔法に由来する。
 深海のような重圧の中で、皆は動きを封じられた。

 その中で動けたのは、魔法衛士隊において厳しいという一言では言い表せないほどの修練を自らに課していたワルド子爵だけだった。
 いかに王族、風の国の王とはいえ、ジェームズ王は老人である。
 邪悪な呪いの昂揚によって精神力が増したとは言え、現役の風のスクウェアの魔法衛士隊隊長を押し留めるには至らなかった。

 辛うじてジェームズ王の風の支配から逃れたワルド子爵は、素早く『偏在』を詠唱し、二体に分かれる。
 その内の一体は、狂える老王に攻撃を仕掛け、広間を覆う風の縛めの魔法からジェームズ王の気を逸らさせる。
 それは単純な足止めだけではなく、縛めの魔法から解き放たれた他の者たちを再戦力化するためであり、また広間から逃げるワルド本体を、雪崩を打って逃げ出すであろう非戦闘員の肉の壁の中に隠すためである。

 そして無事にワルド子爵は虐殺の広間を抜け出し、何とかニューカッスル城の一室に身を隠すことに成功したのだった。


 小部屋に逃げこみ、一瞬安堵したワルド子爵の後ろで、何か、いや誰かが倒れこむ音がした。

「痛って~……」

「誰だ!?」

 ワルド子爵が振り向いた先には、黒髪で月目の少年が居た。その後ろには、『サモン・サーヴァント』のゲートのような銀色の鏡が浮遊している。
 確かにこの部屋には子爵しか居なかったはず。風メイジは気配に敏感だから、それは間違いない。この少年はあのゲートから現れたのか?
 黒髪月目の少年の左眼は、子爵の婚約者と同じ鳶色だった。ゲートの鏡が揺らぎ、また何かを吐き出す。

「あら、ワルド様? どうしてここに? ここアルビオンですよね?」

 さらに鏡の向こうから、剣や荷物が飛んできて、野戦服でも可愛らしい婚約者(ルイズ)が顔を出す。
 ルイズは野戦服のポケットからマジックカードを取り出すと、「あれ、ここトリスタニアじゃないわよね。座標はニューカッスル城で間違ってないみたい。でもじゃあなんでワルド様が?」など言いつつ座標確認用のアプリを呼び出して現在位置を確認し始める。
 理解不能の事態の連続に、さしもの近衛隊長も、考えることを放棄した。だが彼の苦難はまだまだ続く。

 何故なら未だここは狂える風王の腹の中。


◆◇◆


「へぇ、婚約者、ねぇ」

「人間が使い魔だったとは、ねぇ」

「(両手に花~♪)」

 斯く斯く云々(カクカクシカジカ)でお互いの情報を交換し合った今、サイトとワルド子爵、ルイズは慎重にニューカッスル城の廊下を歩いていた。
 ひとまずは、ワルド子爵が現王派から託されたという宝物を纏めて置いている地下秘密港へと進路をとっていた。
 ルイズは上機嫌だが、男ふたりの間の空気は火花が散っているようである。
 その道中、否応なく、惨劇の証が目に付くし、鼻を突くし、耳を劈く(つんざく)。

 広間から逃げた者たちは、包囲されたニューカッスル城唯一の逃げ道である秘密港へと殺到したのだろう。
 だが、彼らは逃げられなかったのだろう。
 狂った風王の『操り』の重圧が、風の及ぶ限り、王の意思の及ぶ限り纏わりついて動きを鈍らせ、やがては追いついた狂風王によって爪を剥がれて頭を割られて殺されたのだろう。

 廊下は血と脳漿で彩られ、鉄錆の臭いに満ちている。頭を潰されたヒトガタが、地下秘密港に近づくにつれて、徐々にその数を増していく。
 その中を、サイトは探針のようにデルフリンガーを掲げて先頭を歩く。
 デルフリンガーには先日の虚無の『解除(ディスペル)』の四乗が未だに残っており、それによって通路に満ちるジェームズ王の『操り』を消去しながら進んでいるのだ。もし『解除』が切れても、デルフリンガーの魔法吸収能力で以て、『操り』は断ち切れるはずであった。

 狂風王との接触があるかと危惧されたが、何事も無くワルドが預かった物品を置いている場所まで到達した。
 慎重に倉庫の中へ入るが、特に何も潜んでは居なかった。
 全員部屋に入ったあと、ワルドが倉庫の扉に『サイレント』を掛ける。空気の動きを遮断する魔法は、『操り』の魔法に対して障壁となるはずだ。

 ワルドが『サイレント』を掛ける間に、ルイズは財宝を漁って、目当ての『始祖のオルゴール』が無いかどうかを探す。
 しかし、その中には無いようである。
 古ぼけたオルゴールは誰からも忘れられて、未だに城の宝物庫に安置されているのだろう。

 ルイズは落胆の溜息を一つ。
 そして真新しい四次元ポケットを背嚢から取り出すと、ワルドの方へ放る。
 四次元ポケットは『オルゴール』以外の宝物を持ち去るために、他にも幾つも持ってきているから、一つくらいワルドにあげても問題はない。

「ルイズ、これは?」

「魔法で内部を拡張した(実際は別空間に繋いでいる)袋です。おそらくここに山と積まれたもの全てが納まるかと思います」

「そうか、ありがとう。使わせてもらうよ。それで、お目当てのものは見つかったかい?」

「いいえ、ワルド様。『オルゴール』はここには無いようですわ。恐らくは城の何処かにあるのでしょう」

 そう言って、ルイズは踵を返す。
 サイトもそれに無言で付き従う。
 置いて行かれる格好になったワルドが、慌てて虚無の主従に声を掛ける。

「おいおい、待ちたまえよ。城の中は危ない。僕が探してきてあげよう」

「いいえ、ワルド様。ワルド様はご自分の任務を優先してくださいまし。それに私、自分のものは出来るだけ自分で手に入れたい性質でして」

「そうだそうだ。ルイズには俺がついてるから心配いらねぇよ」

 サイトが野戦服のホルスターに差した日本刀(デルフリンガー)の柄に手をかけて、じろりとワルドを睨む。
 ワルドも負けじと睨み返す。

「使い魔君、君じゃルイズは守れないよ」

「いいや、守れるね。何せ俺のご主人様は無敵なんだ。つまり、その使い魔の俺もまた、無敵というわけだ。ガス欠寸前のお前なんかより――」

「問答をしている時間は無いわ。さっさと行くわよ、サイト」

 ルイズが先に行こうとサイトを促す。
 サイトはワルドを一瞥して、ルイズの後を追う。
 そして彼女は杖を一振り。どかん、と音が――城中の空気(・・)を震わせる爆音が響き渡った。

 ルイズたちは囮を務めるつもりなのだった。次々と爆音が響き、移動しているルイズたちの位置を誇示する。
 ジェームズ王は、この城の何処に居ようと、さっきの爆音を耳にしただろう。城の全ての空気を支配している王は、気づいてしまっただろう。
 程なくして、ルイズたちは、あの風王と相まみえるはずだ。

 確かにルイズが言ったとおり、任務遂行のためにはここで別れる方が良いのだろう。
 ワルド自身の残りの精神力の量は、アルビオンから降下するには足りるだろうが、ジェームズ王の相手をするとなると心許無い。ジェームズ王の魔法を振り切るのに疲労していた。それをルイズとサイトは見抜いていた。
 ルイズたちが狂風王を引き付けている間に、さっさと秘密港から飛び降りるべきだ。

 だが、まだ学生の、女子供を、しかも婚約者を囮にして、自分は逃げ延びるのか。
 確かに任務は果たさねばならない。だが――。
 爆音が遠ざかる。
 トリステイン魔法衛士隊隊長、ジャン=ジャック・フランシス・ド・ワルドよ、それでいいのか。

 いいや、良いものか!

 死を想え。
 死から逃げるな。
 死に立ち向かい、死の姿を目に焼き付けるのだ。
 そうしなくてはならない。
 それこそが、俺の生き様だったはずだ。

「ああ~、もう! 仕方ない! ユビキタス・デル・ウィンデ!」

 ワルドが苛立たしげに頭を掻きむしり、特製の実体を持った『偏在』分身を一つ作り出す。
 これでそれぞれの『偏在』に残された精神力は、上手く使っても、アルビオンからの落下の勢いを殺しきるので精々だろう。
 二人に増えたワルドは、倉庫に積まれた現王派から託された物品を二人がかりで四次元ポケットに詰めていく。
 二人がかりの作業は直ぐに終了し、二人のワルドは互いに別れを告げる。

「あ~あ、かっこつけちゃって。これっぽっちの精神力じゃ、下手したら墜落死しちゃうぜ、ジャン=ジャック」
「ふん。たまには斬殺じゃなくて墜落死でも良いだろうさ、ジャン=ジャック。婚約者を見捨てるよりは余程良い」
「それでも任務達成のために保険(『偏在』)を作る辺り、抜け目ないね」
「まあな。だがお前には嫌な役を押し付ける。敵地から逃げ延びる役なんてものを」
「そう思うなら、精々かっこ良く散って来な。婚約者のピンチに駆けつけて助けて来れば良い」
「ああ勿論だ、ジャン=ジャック」
「ヘマすんなよ、ジャン=ジャック」

 そして、別れたワルドたち(実体を持った分身には、区別は意味なく、どちらも本物である)は、一人は鍾乳洞の秘密港に、もう一人はルイズたちに加勢しに上へ。

 精神力の残りが少ない。
 ルイズたちの方に加勢に行くワルドは、碌に魔法は使えないし、生き残れはしないだろう。
 肉の壁になるのが精一杯といったところだろうか。

「だがまあ、頑張って見せ場を作って欲しいもんだ――」

 そう呟いて、秘密港へ向かった方のワルドは、雲海へと身を躍らせた。
 密書と亡国の想い出たちを抱いて、ワルドはトリステインに向かって落ちていく。
 ワルドの身体が雲間に消える。


◆◇◆


 一方で、ルイズたちは、ジェームズ王に遭遇する前に、宝物庫にて『虚無のオルゴール』を確保することに成功していた。
 ルイズの指に嵌められた『風のルビー』が光を放ち、オルゴールが虚無の旋律を奏でる。ルイズが両手で掴んでいるオルゴールから不思議な光が漏れ、それが風となって彼女のピンクブロンドを持ち上げる。
 サイトはその神秘的な光景を目に焼き付けたかったが、宝物庫の扉からのプレッシャーが、刻一刻と強まっていたため、デルフリンガーを構えて見張りをやらされている。

「新呪文出るといいなぁ。なあ、デルフ」

【まあなあ。新呪文じゃなくても、正規の方法で習得した呪文は、威力や精度、魔力効率に補正がつくから、なんか便利なのが出るといいけどな】

「へえ、そうなのか。良く知ってるな。ルイズが始祖の秘宝から覚えた呪文って、『爆発』と『解除』と『幻影』だっけか。あとはシャンリットに居たときに習ったものとか、他の虚無遣いから伝え聞いたものらしいな」

 その内に始祖の秘宝からの魔法の伝授が終わったのか、光は収まっていく。

「……ふぅ」

「終わったかー?」

「ええ、見張りご苦労。全く未知の新しいのは出なかったけど、『加速』を正攻法で覚えられたのが収穫ね。今までよりもっと楽に使えるようになるはずよ」

「へえ、『加速』っていうと、あれか。『ザ・ワールド』。『時よ止まれ、そなたは美しい』。『加速』が出たのは風のルビーだからかな? 風って速そうなイメージだし」

「そうかもね」

「で、帰るのか?」

 ちらちらと一層強まった狂風王のプレッシャーを気にして、サイトが訊ねる。
 しかしルイズはそれに首を振る。

「いいえ、『国王が乱心して最期まで付き添ってくれた臣下を殺して回った』というのは、外聞が悪いわ」

「なるほど。つまり“彼らは自決を選んだ”ということにしたいわけだな」

「そういうこと」

「“死体も残らないような最期だった”というわけだな?」

「そうよ。“死体も残らないような最期”を遂げてもらう必要があるわ」

 爪を剥がされて頭を潰された死体も、狂ったジェームズ王も、人目に晒すことは出来ない。
 だから、狂気の痕は全て無かったことにする。
 このニューカッスル城ごと。

「出来んのかよ?」

「まあ、ちょっと思いついたことがあってね」

 そう言ってルイズは、マジックカードを翳して、『錬金』の魔法を行使。
 手のひら大の穴が開いた金属製の戦輪(チャクラム)を幾つかと、無数の拳大の弾頭を作成していく。
 作成した弾頭は、四次元ポケットに突っ込んでいく。

「よし、準備完了っ」

「いよいよ狂った王様が近づいてきている気がするぜ」

 扉の向こうの邪悪な気配は強まるばかりである。
 気分はラスボス手前のセーブポイントに居る勇者のようだ。

「さて、行きましょうか。サイトは後ろから着いて来なさい。前にいると、射線(・・)が塞がっちゃうから」

 愉快そうに笑いながら、ルイズは宝物庫の扉を開き――

 ――その目の前に、血塗れの王様が哂っていた。

「え?」 「ルイズっ」

 待ち伏せされていた。
 デルフの纏った『ディスペル』の影響によってジェームズが感知できない(・・・・・・)部屋、それが、賊の居場所だと、ジェームズ王は理解していた。
 だからジェームズ王は、ルイズたちの居る宝物庫に辿り着けたのだ。

「すまない、だがどうしても爪を剥ぎたいんだ、本当はこんなことはしたくないのに、悪魔が、頭のない掌に口のある悪魔が、急かすのだ。あと、93人、爪を剥がさなければならぬのだ、多くの者は追い詰められて地下の港から落ちていった、だから足りない、あと93人、爪を剥がして頭を割って、爪を剥がして頭を割って、爪を剥がして頭を割って――」

 王様の狂った目を覗き込んで、感受性豊かなルイズは、大邪神イゴーロナクの恐るべき呪力を感じ取ってしまった。
 だから動けない。
 ルイズの知識にない、しかし、ルイズの知る何よりも邪悪な神の力に触れて、軽い金縛り状態に陥っていた。

 サイトが主人を害そうとする狂風王に斬りかかろうとするが、肝心のルイズと半開きの狭い扉が邪魔になってしまっている。
 ジェームズ王の手が、放心するルイズに伸びようとした瞬間。

 ジェームズ王は、横から飛んできた何かによって、吹き飛ばされた。
 ガンダールヴの視力は、ジェームズ王を吹き飛ばした何かを、恐るべき動体視力で捉えていた。
 それは、手だった。
 肘から先だけ切り離された人間の左腕が、砲弾のように飛んできて、ジェームズ王の横っ面を殴り飛ばしたのである。

(ろ、ロケットパンチ!?)

 サイトはその刹那、声にならない驚きを上げる。
 素早く目線を走らせれば、自分の左腕を切断して投擲したらしいワルドの姿が見える。
 どうやらあの男、戻ってきたらしかった。
 ガス欠で『エアハンマー』も使えないから、『ブレイド』で切った左腕でロケットパンチを行ったらしい。

 吹き飛ばされたジェームズ王は、直ぐ様起き上がる。
 しかし今度はルイズには目もくれず、自分の頬を殴り飛ばした誰かの左腕を拾い上げると、歯を使って、まるで獣のように、誰かの左腕の爪を剥がし始める。
 ワルドがその辺の瓦礫を投げすに、わざわざ腕を投げたのは、爪を剥がすことに執着しているジェームズ王の気を引く目的もあったのかも知れない。

「いひ、いひひひ、爪、爪ツメつめ、爪ぇええええ」

 そして、そこで漸くルイズが我を取り戻す。
 彼女の表情は、怒りに染まる。邪神の力を借りてジェームズ王を狂わせた何者かへの怒りだ。人間の運命を、まるでゴミのように扱う邪神たちへの憤怒だ。
 しかし次の瞬間には、哀れみが浮かぶ。哀れ邪神に魂を弄ばれ犠牲となったジェームズ王とその臣下たちへの憐憫だ。

 ルイズは悼む色を隠し、決然と宣言する。

「“重圧”のジェームズ陛下。介錯仕ります」

 ルイズの前に先ほど作られたチャクラムが猛スピードで回転させられながら『レビテーション』で浮かべられる。
 そのチャクラムの穴の後ろに、拳大の弾頭をまた『レビテーション』。
 そしてルイズが唱えるのは『加速』の呪文。

 しかし『加速』の対象は、ルイズではない。
 前で回転し続けるチャクラムである。
 『加速』の魔法で時間から切り離されたチャクラムは、ルイズたちから見て、ほとんど光速に近い速度に達したように見える。
 そして、その領域においては、速度とは重さ、そしてつまり、重力でもある。
 時間から切り離されて、超速度とともに超重量をチャクラムは得て、中心に光さえも歪める重力の焦点を発生させ――その後ろにあった弾頭を、恐るべき力で引きつける。
 弾頭はチャクラムの穴を通るように、ジェームズ王に向かって瞬時に超加速。
 弾頭がチャクラムの穴を通る瞬間に、『加速』は解除され超重力も解除。弾頭は振り子のように引き戻されたりはせずに、一直線に進む。

 そして、着弾。

 ジェームズ王は、文字通り、消し飛んだ。


◆◇◆


 その後ルイズたちは、『世界扉』で崩れ行くニューカッスル城を離脱。
 ワルドの『偏在』は、ジェームズ王を吹き飛ばした『加速』重力砲弾の余波で崩落した瓦礫に巻き込まれて死んだ。
 死に顔は、達成感に満ちていた。白い歯がキラリと光っていた。
 
「ワルド様、ちゃんと本体の方は脱出しているといいんだけれど……」

「まあ多分大丈夫じゃないか。なんか殺しても死ななそうだし、あの髭男」

 実際、ニューカッスル城に来ていたワルドも、恐らくは実体を持った『偏在』であって、バックアップはロンディニウムかトリステインに居るのだろうけれど。
 今、ルイズとサイトは、ルイズが『錬金』で作った天馬のガーゴイルの上に乗って、ニューカッスル城を睥睨していた。
 ニューカッスル城の回りには、砂糖に群がろうとするアリのように、王弟派の軍が展開しようとしていた。

 ルイズたちが乗る天馬型ガーゴイルは、ニューカッスル城の上から、大陸の縁から大きく外側に離れて、徐々に高度を落とす。
 そしてペガサスが、アルビオンの地平より下に到達したとき、下降をやめた。
 ルイズが幾つものチャクラムと弾頭を空中に浮かべる。

「じゃあ、やっちゃいましょう。何もかもを台無しに。筋書きは『命運を悟った現王派は、ニューカッスル城ごと自爆し、その生死は不明』」

「まあ、やるなら今が頃合いか。これ以上待つと、城に近づいた敵側にも被害が出そうだしな。ただの人間は殺したくないんだろ?」

 アルビオン本日は晴天なり、ただしニューカッスルにおいては下から上へ降る流星雨にご注意下さい。

 輪転する円刃の中央から、加速された弾頭が次々と数百も発射される。
 それは残らず余さずニューカッスルの秘密港の辺りに吸い込まれ、天空大地を打ち砕いていく。
 アルビオンの大地が、震え、ニューカッスル城が、大地ごと崩落していく。

 テューダー朝の最期の一撃は大地すらも揺らした、と、アルビオンでは長く語り継がれていくことになる。


◆◇◆


 ロンディニウムの宮殿にて。
 レコンキスタの会議が開かれていた。
 長辺が非常に長い長方形の上座の短辺に、アルビオン王弟モード大公及び宮宰、改め、アルビオン王チャールズ・スチュアートが座っていた。

 ニューカッスル城失陥の知らせを受けた会議であった。
 この時を持ってアルビオンに君臨する王朝は、テューダー朝からスチュアート朝(レコンキスタ)に切り替わったのだ(とはいえ、トップが入れ替わっただけであり、末端では今のところはそれほど大きな組織の変化は起きていない)。
 だが、その上座に居る元モード大公は、非常に沈んだ顔をしていた。

「兄上……、何も自爆して死なずとも」

 甘いな、というか、拙いな、と元モード大公の直ぐ左の長辺の端に座っているシャルルは思う。
 ここは 「憎きジェームズ・テューダーは滅んだ! 新生アルビオンの夜明けだ! 皆の者、祝杯を!」 と、内心はどうあってでも、鼓舞してみせねばならない場面だ。
 このチャールズ・スチュアートという男、公私の区別がつかないことの甚だしい男、いやお坊ちゃんである。

 まあそのおかげで、シャルルが付け入る隙が在ったのだが。

 この年食ったお坊ちゃん大公は、エルフに恋し、子供まで設けておきながら、大公の地位は手放したくないのだと言っていた。
 そうならば、それはもはや、兄王を弑逆するしか道がないではないか。
 それに思い至らないなんて、馬鹿じゃないのか。
 とはいえ、これでなかなか人徳は、いや人徳だけはあるようで、サウスゴータの太守など南部諸侯を中心に、忠誠心に篤く、有能な人材を、レコンキスタは抱えている。

 のっけから辛気臭くなった会議を、シャルルは溜息をついて、仕切り直す。

「まあまあ、陛下。悼む気持ちはわかりますが、会議の方も進めませんと。ではまずは、参謀クロムウェルから、各種計画の進捗報告を」

 そう言って、シャルルの向かい、チャールズ・スチュアートの右の長辺の端に落ち着きなく座っている、僧服の男を促す。

「へ、あ、はい、シャルル様。シャンたちからの協力による巨大動力炉作成計画は、半年後に試作型が一先ず完成しそうです」

「擬真機関(As A Truth-Engine)と言ったかな? そうか、試作型とはいえ、もう完成が目前か」

 手元の着工計画と予算案を見て、シャルルが感嘆の声を上げる。
 異界の昆虫がもたらした新式エネルギー炉は、今後、ハルケギニアの覇権を握るの鍵になるものだ。
 膨大な予算を費やしてここ数年研究してきたものであり、『アルビオン大陸航空要塞化計画』の要である。

「擬神機関(Azathoth-Engine:アザトース式エンジン)で御座います、シャルル様」

 末席の、頭部からネコミミのように半物質の脈翅を生やしている、虚ろな目をした人間が訂正する。
 彼は新式エネルギー炉の開発部長である。
 その頭脳には、半物質の拷問愛好家、シャッガイからの昆虫(シャン)が棲みついている。

「? 擬真機関(As A Truth-Engine)だろう?」

「擬神機関(Azathoth-Engine)です。……ああ、知識のない方には尊き神の御名が発音どころか、聞き取りも出来ないのでしたね」

 頭に蟲の脈翅を生やした開発部の人間(?)が溜息をついて首を振る。
 シャルルと盟主チャールズ・スチュアート(元モード大公)や、幾人かの閣僚は頭に疑問符を浮かべている。
 訳知り顔なのは、クロムウェルを初めとした、外法の知識に親しい連中だ。

 シャルルが軽く咳払いする。

「……まあ良い。では、クロムウェル、続けてくれたまえ」

 クロムウェルはチック症患者のように首をせわしなく回しながら、さらに報告を続ける。

「はい、はい、はい。ええと、他は概ね予定通り進捗しており、問題は――あ、研究開発部の娯楽提供用の人員が不足しそうですね。10名ほど回して頂ければ足りるそうですが」

「またか。まあ10名なら良いだろう。しかし何処から抽出したものか」

 悩むシャルルに、他の閣僚が手を上げて次々と発言していく。

「それについては考えが。この際、アルビオン全土の寺院荘園を取り上げて、そこの司教から抽出してはどうでしょう。その、チャールズ・スチュアート陛下の細君が暮らしやすいようにするためにも、必要でしょうし」
「なるほど、名案だ」
「取り上げた土地は、ジェントリーや貴族に売って、資金にしよう」
「そしてその資金を使って、空賊の取り込みを行っては? 拷問用……げふん、娯楽提供用の要員は拿捕した空賊から抽出しても良いでしょう」
「確かにこの辺りで空賊、いや民間の私掠船については実態を把握しておきたいところですな」

 侃々諤々、新生アルビオン、スチュアート朝の議論は白熱していく。


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『加速』を使った重力レンズ砲については、衝撃波とか色々突込みどころ満載だけどスルーして頂けると有難いです
原作二巻相当分(ニューカッスル城陥落まで)終了

2011.03.07 初投稿

グロ注意
2011.03.08 注意書き追加↑



[20306]   クトゥルフ神話用語解説・後書きなど(13~17話)
Name: へびさんマン◆29ccac37 ID:b87f4725
Date: 2011/03/22 08:17
13話~17話まで(+外伝8)で、第二部第三章、終了です。
ここまで読んでいただきありがとうございました!
今後もよろしくお願い致します。

以下各話(13~17話)の後書きなどをつらつらと。


■第十三話 嵐の前の静けさ、つまり平穏は大波乱の前兆なり

・アラム・スカチノフ: 元ネタは「荒巻・スカルチノフ」。ロシアでもありそうな名前に若干変更。

    ∩___∩     
   | 丿     ヽ   
  /  ○   ○ |    ルイズ助けてっ!
  | U  ( _●_)  ミ   アラムが
 彡、    |∪| ,,/      息をしてないの!!
 /  ヽ  ヽノ  ヾ_,,..,,,,_
 |      ヽ  ./ ,' 3  `ヽーっ 
│   ヾ    ヾl   ⊃ ⌒_つ
│    \,,__`'ー-⊃‐'''''"

・ハルケギニア語版『ネクロノミコン』:狂えるエルフ、アブドゥル・アルハズラットが書いた、宇宙的存在について書いた本のハルケギニア語版。有史以前のこの星の様子や、様々な呪文について書いてある。大抵の神話的存在について網羅している。ルイズはシャンリットの書籍ダウンロードサービスでデータを入手した。

・砲火後ティータイム:シュヴルーズ先生の訓練の後は、正に砲火後。

・脳味噌凍結処理して首から下をすげ替えたほうが生存率高い:シャンリットではよく行われる手術。人体培養技術の進歩によって、治すよりパーツごと交換したほうが安上がりになっている。

・揺りかごの下にはビーシュ(トリカブト)を敷いていた:アラブだったかインドだったかの昔話、ビーシュ娘が元ネタ。

・砒素や青酸、屍毒(プトマイン)、ストリキニーネ:砒素=鉱物毒。青酸=胃液と反応して青酸ガスを発生させて呼吸を阻害する。屍毒(プトマイン)=死体が腐る過程で発生する種々のアミノ酸化合物など。ストリキニーネ=猛毒。マラリアに効く。

・エアロゲル(固化した煙、凍った煙): 防音材とかに使われている。軽い。頑丈なスポンジとでも思ってもらえれば。

・担架のゴーレム

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 (_⌒ヽ   /⌒_)
   ,)ノ `J   U´ '、(, )))

・シエスタの酒乱癖:原作通り

・サイトの服:サイトが身に付けていた地球の物品は服だけだったが、この時点で全損。トレードマークの青いパーカーはありません。

・たれルイズ:MPおよび現在正気度が減少すると、たれモードに移行して精神の消耗を防ぎます。

・ミョズニトニルンの能力:ガリア全域の〈黒糸〉を掌握できる程度(ただし〈黒糸〉の管制人格からの逆ハッキングが無ければ)。ジョゼフの応援があれば、一時的にハルケギニア星全体のネットワークの制御権も奪えると思われる。現在ガリアは内政ターン。ミョズニトニルンが居る間に技術力を向上させたいと思って研究している。

・ジョゼット・ドルレアン:修道院に預けられていたところを、ジョゼフによって呼び戻された。その後イザベラと仲良くなったり、伯父王に懐いたり、見聞を広めるためにトリステインに留学したり。どこかで生きている血縁上の父母(シャルル夫妻)と双子の姉(シャルロット)の存在は知っている。恨みはしてないが、良い感情は持っていない。ただし魔法の才能的には原作のタバサに相当。双子が生まれた時点で取り違えが起こっている。

・『正しいトラペゾヘドロンの使い方』(1/1D6)と『間違ったトラペゾヘドロンの使い方・事例集』(1D4/2D6):トラペゾヘドロン・レプリカの使用マニュアル。間違った事例集の方には、凄惨な事例が載っている。

・『しっとマスク2号』:レイナールの使い魔のマスク型マジックアイテム。嫉妬心を増幅し、身体能力なども強化する。1号よりも性能が向上している。

・シャルル生存ルート:ジョゼフに魔法が使えないコンプレックスが無いために、王位継承時の愛憎反転が起こらず、弟ラブのまま。従って生存。


■外伝第八話 『グラーキの黙示録』第十二巻作成中なう@おりばー・くろむうぇる

・グラーキの黙示録:グラーキの信者が書き始めた魔導書。通常は11巻から成り、幻の12巻が在ると伝えられている。読んでしまうと、続きを書きたくてたまらなくなるらしい。グラーキの毒電波によって啓発された内容を書く、というのは当SS独自の解釈。
【内容】
 Ⅰ グラーキとグラーキ関連の魔女のカルト 『グラーキとの接触』
 Ⅱ グラーキの従者及び、緑の崩壊 『緑の崩壊』『ナイハーゴの葬送歌』
 Ⅲ バイアティスの幽閉 『バイアティスとの接触』
 Ⅳ 迷路の神アイホートとその雛 『アイホートとの接触』
 Ⅴ 先触れにして造物主グロース、彗星あるいは小惑星状のクリーチャー、ネメシス神話の一部 『グロースとの接触』
 Ⅵ シュブ=ニグラスおよびムーン=レンズと呼ばれるものに関連する地方のカルト 『ムーン=レンズの守護者の招来/退散』
 Ⅶ シャッガイからの昆虫、彼らのアザトース崇拝、アザトースの力の利用 『アザトースの招来/退散』『シャンとの接触』
 Ⅷ シャッガイからの昆虫の奴隷であるザイクロトルからの怪物、その母星 『ザイクロトルからの怪物の招来/退散』
 Ⅸ 異次元、ヴェールを剥ぎ取るものダオロス、スグルオ湾の住人(音として生きるもの) 『ダオロスの招来/退散』
 Ⅹ 「膨れ上がって触肢が付いた、目と内蔵の塊」と描写されるムナガラーという神格 『ムナガラーとの接触』
 11 夢のクリスタライザーとその適切な使用方法
 12 イゴーロナクに関する資料 現在クロムウェルが執筆中

・グラーキ【湖の住人】:大きなナメクジのような身体、背中の剣山のような棘、茎城組織に支えられた三つの目が特徴的。特殊なテレパシーで夢引きを行い、人間をおびき寄せる。おびき寄せた人間に、グラーキの背中の棘を突き刺し、毒液を注入して、それによってアンデッドに変化させる。アンデッドたちの思考は徐々にグラーキの意識と同化する。

・『緑の崩壊』:特にグラーキのアンデッドの従者に効果のある呪文(生き物にも効果がある)。成功すれば相手を崩壊させて、見るのも汚らわしい緑色のクズにしてしまう。

・『ナイハーゴの葬送歌』:アンデッド系のクリーチャーを灰にしてしまう呪文。

・バイアティス【ヘビのひげ】:古城に幽閉された存在。旧神の印で封印されている。巨大一つ目ロブスター。待ち伏せ型トラップ。

・アイホート【迷路の神】:外伝4で、雛だけ登場。地下迷宮の白いブユブユの八本足の神。迷路に迷ったらアイホートを呼ぼう、雛の苗床になるのと引換に出口を教えてくれる。断ると撲殺される。

・グロース【ネメシス、先触れ、造物主】:惑星サイズの巨大生物。星の位置を動かし、眠れる旧支配者の封印を解く。滅びの星。グロースの罅割れた地表から目が見えたりする。

・シュブ=ニグラス【森の黒山羊】:豊穣神。千の仔を孕みし黒山羊。巨大な雲状の塊、蹄がある脚、多くの口がついた太い触手などが特徴付けられるが、おそらくそれらの特徴にこだわることに意味はない。『黒い仔山羊』という存在を遣わせる。ハスターの妻とも言われる。

・ムーン=レンズ:シュブ=ニグラスの化身の一つである『ムーン=レンズの守護者』を召喚するのに必要なアーティファクト。中心は50cmくらいの凸レンズであり、それを様々な金属パーツが鉄塔のように支え、各所に配置された鏡がレンズに月光を集める。

・シャッガイの昆虫たち【精神的な寄生生物】:シャッガイという星から偶然地球に転移してきた知性在る拷問好きの昆虫たち。半物質であり、人の脳に棲み着いて精神を弄ったり記憶を覗いたり悪夢を見せたり出来る。宇宙を渡るくらいの技術がある。

・アザトース【沸騰する混沌の中心】:痴愚神。凄い神。でも何も考えてない、考えられない。狂えるフルートの音をBGMに宇宙の中心でのたうっている。核エネルギーに関係在るとかなんとか。

・ダオロス【ヴェールを剥ぎ取るもの】:異次元の神。無限に膨張する円柱と半球の組み合わせによって知覚されるが、見たら気が狂う。触れたものを異次元に飛ばすことが出来る。

・スグルオの住人【生ける音】:宇宙のはるか遠い場所(スグルオ湾)で生きている者たち。爬虫類のような姿で人間には知覚されるが、実際は実体は無く、知性しか無い生きている音のみの存在。音でできているので、特殊な通信機を通じて、自らを離れた場所に送ることができる。

・トルネンブラ【音楽の使者】:生きた音。奇妙な音楽として顕現する。気に入った人に音楽的な直感を授ける。時には、音楽家の魂をアザトースの宮殿に連れ去って、楽隊の隊員として働かせる。

・ムナガラー【むさぼるもの】:詳細不明。クトゥルーと同時にやって来たとも言われる。内臓の塊のような姿。

・夢の卵:夢のクリスタライザー。詳細はタルブ編で。

・ヒュプノス【ヒプノス、眠りの大帝】:夢の国を支配する神様。

・イゴーロナク【吐き気を催す邪悪】:無頭、白熱してたるんだ身体、両手のひらに開いた口が特徴的な神。邪悪な神。悪事を好む。崇拝者の身体を借りて顕現することもある。グラーキの黙示録12巻で言及される神。当SSでは12巻はクロムウェルの手によって執筆中とした。

・クトゥルーの読み方について:Cthulhuと書き表されるが、これはその神の正しい読み方を表しているとは限らないという。例えばキリスト教やユダヤ教において唯一神がYHWH(神聖四文字(テトラグラマトン)、ヤハウェ)で表されるように。なので読み方としては、くとぅるー、くるーるー、くするー、ク・リトル・リトルなど、それっぽければだいたい許容される。筆者は『くるぅるぅ』が好き。


■第十四話 黒山羊さんたら……
 本当は外伝8を織り込んだ話だった。クロムウェルと黒(クロ)山羊を掛けて。

・地底魔蟲クトーニアン:イカミミズの化物。

・トッツキ:ゲーム、アーマード・コアから。射突型ブレード。パイルバンカー。一撃必殺は男のロマン。

・夢に見た再生の空、再会の空:平沢進『論理空軍』のサビのフレーズ。多分ウードが生前、平沢進師匠のファンだった。

・授業速度が『疾風』のギトー:二つ名の由来を考えていたら何時の間にかこんなキャラに。偏在と呼吸制御による息継ぎなしの授業が名物。何気に空気分子の存在に言及していたりして、知識レベルは高い。多分シャンリット発行の最新論文とかにも目を通している。

・ブリーシンガメン:原作では『炎の黄金』ブリーシンガメルとして言及されていた物。ブリーシンガ=炎の、メン=黄金色(琥珀)。北欧神話に於いて、豊穣神フレイヤが持っている首飾り。豊穣神つながりで、シュブ=ニグラス関連の呪物に改変。

・シエスタ万能完璧メイド化計画:万能メイドは何でもできる。戦いのサポートも含まれる。実はサイト完璧執事化計画も進行中らしい。

・うふふふ、ふふふ。みんな、燃えてしまいなさい! みんなみんな灰になれ! 空に水面に浮いて漂え!!:平野耕太の漫画『ドリフターズ』1巻から、炎使いの聖女の台詞。

・太陽系からサワディーカー! 一億四千九百リーグの果てより飛来する太陽フォトン(光子)の翻訳者(犠牲者)として、諸君は讃えられる!:平沢進師匠の『ハンターを称える音声ファイル』から一部改変。公式サイトでフリーダウンロード出来るので是非。元ファイルでは、サワディークラップ(男性形)になっているが、ベアトリスが女性なのでサワディーカー(女性形)に変更。師匠の楽曲には、ソーラーレイという楽曲もある。

・必勝『念力』バリア:ハルケギニアには防御魔法がないと皆言うけど、念力を極めたら、立派なフィールド系の防御魔法になると思う。一個人で使えるかどうかは分からないけど。

・フレイムの発火能力(パイロキネシス):イメージ的には、エヴァンゲリオンの第三使徒の攻撃。キュピーン、ドカーン。

・魚人とか屍食鬼とか:魚人=深きものども。食屍鬼=死体喰らいの汚い狼男。どっちも知性はあるが、人間に友好的かというとそうでもない。

・黒い仔山羊【シュブ=ニグラスの仔】:太いロープのようなのた打ち回る黒い触手で構成された巨大な生物。触手の所々には緑のヨダレを垂らす、皺の寄った口が開いている。下半分はヒヅメの付いた足になっている。山羊というよりは、歩いて動く大樹という感じ。既存の物質とは異なるもので構成されているので魔術的な攻撃以外はダメージがなかなか通らない。だけど今回は反則魔法(虚無魔法)のせいで出番になる前に消滅。

・話は聞かせてもらった。邪神が復活する:MMR的なアレ。邪神が復活する、というのは当SSのハルケギニア的に実際洒落にならない。

■第十五話 王子様は厄介者
 アルビオンは空賊国家になっている。だいたいシャルルのせい。

・霧氷によって飛行機が墜落するというのは、地球でも起こるらしい。


■第十六話 会議(話し合い)では何も決まらない。重要なのことは根回しで決まる
 どうにかゼロ魔21巻が出る前に書ききってしまいたいので、進行は巻きでお願します、な第十六話。

・アンアンがウェールズにアンアンしそうに:まあ多分アンアンならそうするよね。多分。一応ウェールズは生存フラグ立った?

・ゲルマニア皇帝:血筋コレクター。高貴な血筋を自分のハレムに取り込むのが趣味。

・ガリア一家:仲良し。イザベラもルイズと面識あり。キャラが被るせいか、ルイズとイザベラは仲が悪い。シェフィールドとジョゼフはラブラブ。

・ロマリア:現在二十年前の聖戦のダメージを立て直し中。ヴィットーリオが色々改革を断行しているのは、原作と変わらない。ただし、聖地奪還ではなく、聖地を通って異世界に入植するのが彼らの計画。

・虚無魔法『生命』:なんとかSS中で言及したい。けど、なかなか難しそうなので備忘録として書いておく。以下妄想。『生命』はテラフォーミング魔法なのではないかと考えている。ゲートを通って入植した先でも系統魔法を使えるようにするための大規模世界改変魔法。マギ族は古代の地球のドルイドで、地球各地の巨石建造物は彼らが『レビテーション』で作った物。ブリミルはヨグ=ソトースの息子。魔法によってイグジスタンセア(地球)からハルケギニアにやって来た。ブリミルの時は『生命』の発動が不完全に終わった。サーシャに刺し殺されたから。でも発動を止めなかったら、環境改変魔法の影響でエルフが絶滅していた。サーシャは愛と故郷を天秤にかけて、故郷を取った。『生命』が完全に発動していれば、平民も魔法が使える社会になっていたはず。

・ウード再登場:こいつ敵役の方が動かしやすい。

・『加速』と並唱された『解除』の呪文は瞬時に完成し:虚無遣いの間では『加速』した時間の中で詠唱するのが常識です

・『解除(ディスペル)』、返しっ!!:呪文合戦をやってみたかった。

・グレゴリオクローン:千二百年前の第一次聖戦末期に鹵獲されて以来、ずっと実験材料に。憐れ。


■第十七話 ニューカッスルの惨劇

・『イゴーロナクの手』:外伝8でクロムウェルが作っていた手の形のアーティファクト。唾棄すべき行為をしたあとに、その証拠の物品を捧げて呪文を唱えると、台座に書き込んだ人物にそれと同じ行動を取らせることができる。趣味の悪いデスノートみたいな物か。

・“重圧”のジェームズ:ジェームズ無双。広範囲『操り』の元ネタは、『惑星のさみだれ』という漫画の主人公の能力。狂わせてしまってごめんなさい。

・ロケットパンチ:ゼロ魔原作でワルドの左腕が切断されたのに呼応している。

・『加速』による重力レンズ砲:『空想科学読本』のヤマトに重力を発生させる方法から着想。あとは『終わりのクロニクル』の3rdギアのメイドさん達による重力レンズ加速砲。

・チャールズ・スチュアート:モード大公の名前が分からなかったので適当に。テューダー朝の後は、スチュアート朝ですよね、英国史的に考えて。

・擬真機関(As A Truth-Engine)/擬神機関(Azathoth-Engine):禁断の力。戦艦「アルビオン大陸」フラグ、オン。

・アルビオン全土の寺院荘園を取り上げて:エルフを妾にするなら、ブリミル教は排除ですよねー?


■キャラクターイメージ

・ジョゼフ:鬱屈王、家族ラブ

・シェフィールド:バカップル、ジョゼフ命

・イザベラ:苦労人、女帝

・ヴィットーリオ:狂信者

・ジュリオ:タラシ

・クロムウェル:拷問愛好家、ひゃっはー

・シャルル:野心家、「僕が一番ハルケギニアを上手く治められるんだー!」

・モード大公(チャールズ・スチュアート):お坊ちゃん大公

・ウェールズ:原作通り

・ジェームズ王:厳格な王


2011.03.07 初投稿
2011.03.09 誤字訂正
2011.03.22 生きてます



[20306] 蜘蛛の巣から逃れる為に 18.タルブ
Name: へびさんマン◆29ccac37 ID:6178f31f
Date: 2011/04/19 19:39
 闇の中を一人の男が息急き切って走る。
 密林の悪路が彼の行く手を阻む。
 障害となる下生えを彼は軍刀で切って捨てる。

「はあっ、はあっ、はあっ、」

 時は丑三つ時。
 南海の密林の中を、軍服の男が走っている。
 片腕には厳重に布に包まれた、何やら一抱えもある卵のような、あるいは少し大きなラグビーボールのようなものを持っている。

「はあっ、はあっ、はあっ、」

 息を荒らげて男は走る。
 抱えたものにどれほどの価値があるのか、彼は正確には理解していない。
 皇国の命運がかかった非常に重要な宝物である、としか知らない。

 だが、小隊の皆が命懸けで託してくれたものだ。
 何としても内地にまで持って帰らなくてはならなかった。
 何としても、だ。

 密林の闇が彼の精神を圧迫する。
 その闇のどこに猛獣が潜んでいるか分からない。
 ここは異国。
 内地から遥かに離れた南海の孤島。

「はあっ、はあっ、はあっ、」

 彼は走る。
 右手に握った軍刀を振りかざして、藪を切り開く。
 切られた植物を辿って、追っ手に跡をつけられるだろうが、構うものか。

 早く、早く、早く、この忌まわしい島から離れなければ。
 ボートを使って、早く、早く早く、早くはやく疾く。
 ボートは入江に止めてあったはずだ。

「はあっ、はあっ、はあっ、」

 だがそこで、異国の密林が彼に牙を剥く。

「うわっ!?」

 罠のような木の根に躓いた彼は、そのまま小川によって削られてできた崖へと落ちてしまう。
 しかしそれでも、腕に抱えた大きな『卵』を砕かないように、自分の身体で抱え込んで、衝撃を流す。
 ゴロゴロと彼は斜面を転がる。

「ぐ、うぅ、ぅっ!?」

 滑落した彼は、全身を激しく打ちつけて、崖を転がり降りたときには気を失ってしまっていた。
 これまでの緊張が途切れてしまったのだ。
 加えて、慣れぬ土地での疲労もあった。
 如何な帝国軍人といえども、限界が来ていた。

 気を失った彼が抱えた『卵』は、内側から甲高いホイッスルのような音を規則的に鳴らしている。
 ピッ、ピッ、ピッ、ピッ……。
 彼が抱え込むように身体を丸めて守った『卵』が、仄かに発光し包み布の間から燐光が漏れる。

 ピッ、ピッ、ピッ、ピッ……。
 その音に呼応するように、『卵』を抱えていた彼の姿が薄れていく。
 まるで彼の身体が、何か異次元のものに連れ去られるように。

――――とおりゃんせ とおりゃんせ

 異国の密林にて意識を薄れさせる彼の脳裏には、故郷のわらべ唄が何処からとも無くこだましていた。

――――ここはどこの細通じゃ
――天神さまの 細道じゃ
――――ちっと通して 下しゃんせ
――御用のないもの 通しゃせぬ
――――この子の七つの お祝いに お札を納めに まいります

 歌声に従って、彼の姿が薄らいでいく。

――――行きはよいよい 帰りは怖い 怖いながらも とおりゃんせ とおりゃんせ

 意気揚々と密林に分け入った彼は、その帰り道を全うすることは出来なかった。
 こだまする「とおりゃんせ」のわらべ唄に連れ去られるように、彼はこの世界から、『卵』ごと消失した。


 日本帝国陸軍南海支隊特務小隊はこの時を以て、最後の一兵までも全滅したことになる。
 彼らの任務は、原住民が持つ秘宝『夢の卵』を奪取し、天皇陛下に奉じること。
 日本帝国の呪的構造強化、及び、『夢の国』から物資を現実世界に結晶化(クリスタライズ)して連合国の物量に対抗するという計画の要となる装置、それが『夢の卵』――『夢の結晶化装置(クリスタライザー)』であった。これが実現出来れば、空襲で焼かれた街も一夜で復興できるし、事によっては失われた人員すらも夢の世界から招聘することが出来る。あるいは、あるいは、実際には存在しないものすらも現実化(クリスタライズ)出来るかも知れない。『ぼくのかんがえたさいきょーへいき』や物語の中にしか存在しないような超人や英雄たち、そして神そのもの。天皇家の血脈に眠る神格――太陽神・天照(アマテラス)や軍神・武甕槌(タケミカヅチ)――を具現化することすらも可能かもしれなかった。天皇家の神威によって、神州日本は不滅と化し、八紘一宇の字のごとく、日本は世界を統べる神の国となっただろう。
 だがしかし、西暦1943年、南海の孤島にて実行された『夢のクリスタライザー』奪取作戦は、失敗に終わった。

 原住民の祠から『夢の卵』を奪取したものの、それに気づかれて原住民に小隊は追われたのだ。
 一人、また一人と、捨て奸(すてがまり)で原住民に対して遅滞戦術を仕掛けた。
 数に勝る原住民を相手に、彼ら小隊は、瘧(マラリア)やデング熱、飢餓で消耗していたにも関わらず善戦し、何とか原住民を振り切って一人の隊員に奪取した宝物を託すことに成功していたが――。

 最後に『夢の卵』を託されたのは、小隊の中でも熱病などにやられていなかった歳若い少尉、佐々木武雄その人であった。
 しかし運命は彼に牙を向き、『夢の卵』の呪力によって、彼は文字通り夢路を辿ることとなる
 この世界から消失した彼は何処へと行ったのか。
 『夢の卵』は彼を一体何処へと誘ったのか。

 ――彼の行く先は幻夢郷(ドリームランド)。
 全ての夢が集まる場所。
 夢の中へ、夢の中へ、捜し物は何ですか――捜し物は遥けき故郷。
 だが彼は故郷への細道を見つけることは出来なかった。
 夢の国を彷徨った帝国軍人が、最後は何処に辿り着いたのか。
 彼が辿り着いた先は――。


◆◇◆




 蜘蛛の巣から逃れる為に 18.ああ麗しのタルブの草原よ




◆◇◆


――――とおりゃんせ とおりゃんせ

 遠くから子供たちが遊ぶ無邪気な声が聞こえる。
 タルブの草原を渡った風が、ルイズのピンクブロンドを吹き流す。
 彼女の可愛らしい唇が言葉を紡ぐ。

「良い草原ね」

 一面の草原を前にして、ルイズが、思わずといった様子で声を漏らす。
 彼女の後ろには従者であるサイトと、侍女であるシエスタが付き添っている。
 草原を渡る風が、まるで海原のように草の緑に濃淡を作り、三人の頬を撫でる。

「ええ、この見渡す限りの草原は、タルブの自慢です。ひいおじいちゃんは、ここを一面の稲田にして、稲穂で黄金色にしたかったそうですけど」

 もっとも、この辺りは田圃を作るのに向いていなかったから、ひいおじいちゃんは代わりに葡萄作りに入れ込んでました。
 そう言って、シエスタは柔らかく笑う。
 きっとその曽祖父のことが大好きだったのだろう。

 いつものように学院を“自主休講”したルイズは、サイトとシエスタを連れてガーゴイルに乗って、シエスタの故郷であるタルブ村にやってきていた。虚無の『世界扉』では無くてガーゴイルを使うのは、精神力の節約のためだ。トリステイン国内くらいなら、余程の急用でない限りはガーゴイルに乗ったほうが効率が良い。
 タルブ村に在るという『夢の卵』というアーティファクトを確認するために彼らはこの辺境の村までやってきていた。
 あまり大人数で押しかけても迷惑だろうということで、今回はクルデンホルフ組は連れられていない。

「じゃあ、その『夢の卵』が在る場所に案内してもらって良いかしら」
「はい、ルイズさん。あ、でも先ずは母に挨拶してからで良いでしょうか?」
「そうね。それと一応村長にも面通ししときたいわね」

 草原に降り立った天馬型のガーゴイルを待機モードにさせて、ルイズたち一行はタルブの村へと向かう。

「稲穂って言っていたけど、稲ってこっちの世界にもあるのか」
「南部のある地域では栽培されているわ。二毛作をしてたりとかね」
「へえ。そういえば地球でもイタリアでは米を食べてたな。でもインディカ米なのかな」
「ん~。まあこっちの米は、パラッとしてるわね」
「ジャポニカ米じゃないのかー。そろそろモチモチした米の飯が恋しいんだよなぁ」
「クルデンホルフから取り寄せできるとは思うけど。あそこには大体何でもあるから」
「考えといてくれ。米は日本人の魂なんだ」
「考えとくわ」

 シエスタを先導に、ルイズとサイトが並んでその後に続く。
 たわいない遣り取りを繰り返すうちに、集落の建物が見えてくる。
 三人は色々と会話を交わす。

「あと醤油も欲しい」
「たしかタルブにはショユっていう調味料がなかったっけ? 発酵調味料の」
「そうなのか、シエスタ?」
「はい、ひいおじいちゃんが造り始めたものです」
「へぇ、ちょっと楽しみだな。大豆由来か魚醤かでだいぶ違うけど」
「やっぱりハルケギニアとは色々と食生活とか風習とか違うのね」
「まぁなー。それにしても、ここの村は何か懐かしい感じがするな」
「学院塔の外に作っている大きな竈みたいなものもサイトさんの故郷のものなんですか?」
「あれは五右衛門風呂って言うんだ。風呂だよ。湯船に浸かるんだ」
「魔女の釜茹での刑みたいね」
「まあ実際釜茹でにされた大泥棒の五右衛門さんから名前をとってるんだけどな。五右衛門さんの処刑はお湯じゃなくて油で、一族郎党皆殺しだったそうだが」

 やいのやいの言いつつ、三人はシエスタの生家へと向かう。
 村のあちこちには、井戸から水を汲み上げる手押しポンプや、鉄製の農具が見られる。
 鉄製の器具が普及しているところを見るに、タルブ村は、なかなか裕福な村なのかも知れない。
 それらの古き良き昭和的な小道具が、サイトに一層の郷愁を呼び起こさせる。
 いやサイトが農村育ちというわけではなく、ジブリのアニメなどくらいでしか昭和期の農村の様子は知らないが、それと同じような印象をうけるのだ。

「大泥棒というと、巷では、ニコラス・フーケ卿が話題になってるわね。『国家に対する大泥棒、ニコラス・フーケ逮捕!』って見出しが新聞に書いてあったわ」
「公金横領で捕まったんだっけか。その金でずいぶんでっかい邸宅を立てたとか。泥棒といえば泥棒だな」
「大スキャンダルですけれど、お姫様の婚約の方が大ニュースですから、埋もれてるんですよね」
「もうすぐ結婚式だっけ、アンリエッタ姫様」
「そうね。式はゲルマニア首都のヴィンドボナで挙げるそうよ」
「結局ウェールズ王子との仲はどうなるんでしょうか」
「不倫関係か?」
「結婚した途端にゲルマニア皇帝が姫様に暗殺されなきゃいいけど。そしてトリステインとゲルマニアの合併を経て、ウェールズ王子と結婚してアルビオンへ出兵して、アルビオンも併合するとか」
「うわー、帝位簒奪? アンリエッタ姫ってそんなキャラなの?」
「殺るときゃ殺る人よ。幼なじみだから言わせてもらうけど」
「その当て字でいいのか問い質したい」
「犯るときゃ犯る人でも可。ウェールズ王子の貞操的な意味で」
「不敬罪に問われますよ?」
「あはは、真実だから別に良いわよ。私と姫様の仲だし」

 そんな事を話しているうちに、シエスタの生家が近づく。
 家の前では子供たちが輪になって「とおりゃんせ」を歌って遊んでいる。

――――とおりゃんせ とおりゃんせ ここはどこの細通じゃ
――天神さまの 細道じゃ
――――ちっと通して 下しゃんせ
――御用のないもの 通しゃせぬ
――――この子の七つの お祝いに お札を納めに まいります
――行きはよいよい 帰りは怖い 怖いながらも とおりゃんせ とおりゃんせ

 その中の一人が、シエスタの姿に気がつく。

「あ、姉ちゃん!」

 それを皮切りに他の子供達も駆け寄ってくる。

「シエスタ姉ちゃん!」
「どうしたの? お仕事は休みー?」
「そっちの兄ちゃんと美人さんは誰ー?」

 シエスタの弟妹と、その友達なのだろう。
 シエスタは彼らをあやす。

「こちらの方は私がお仕えしている、ルイズ様よ。とても誇り高くて、素晴らしいお方。それと同僚のサイトさん。みんなは今日のお勉強は終わったの?」

 タルブ村では、週に二、三回、午前中には村の子供達を集めての勉強会が開かれている。
 これは、シエスタの曽祖父が提案して始めたものだ。
 「読み書き算盤くらい出来んでどうする!」と一喝したらしい。
 村の手押しポンプや鉄製の農具も、シエスタの曽祖父が何処からか持ってきて、村人に提供したものだとか。
 村人たちは、ほとんど着の身着のまま村にたどり着いたはずの彼が、一体どこからそんな膨大な量の物資を持ってきたのか、首を捻ったが、彼はその出所を決して明かさなかった。

「今日の分は終わったよー」
「そう、それならいいわ。よく遊びなさい。母さんは家に居る?」
「居るよー」

 ルイズたちは村の子供達と別れて、シエスタの生家へと入る。

「ただいまー。母さん」
「あら、シエスタ。帰ってくるなら事前に知らせてくれればよかったのに」

 そこで優しそうな中年女性が出迎えてくれた。
 何となくシエスタに面影が似ている。

「ごめんなさい。急な話だったものだから」
「まあ、元気そうでよかったわ。……そちらの方たちは?」

 女性は土間で炊事をしていたようだ。
 夕飯の準備中だったのだろうか。
 炊事の湯気と混ざった土づくりの家独特の匂いと、味噌か何かの発酵調味料のものらしき香ばしい匂いがサイトの鼻孔をくすぐる。
 ルイズとサイトはそれぞれに自己紹介をする。

「初めまして、おばさま。私、シエスタの現在の雇用主のルイズ・フランソワーズ・ド・ラ・ヴァリエールと言います」
「サイトです。シエスタの同僚で、主人ルイズの従者を務めています」
「という訳なの。ホントは帰る前に連絡したかったんだけど、ルイズ様が一刻も早く『夢の卵』を確認したいとおっしゃるから」

 ……。
 え、ちょ、大貴族のラ・ヴァリエール家のお姫様がいきなりお宅訪問て。
 シエスタの母の動きが固まる。

「さて、じゃあ一応、タルブ村の村長にも挨拶に行きましょうか」
「おう」 「はい、ルイズ様」

 そして固まるシエスタの母をさておいて、一行は村長の建て家に向かう。

「ちょ、シエスタ!? そんなあっさり流すのは無礼じゃ!? というか何のお持て成しの準備も――」
「おば様、私は別に気にしませんわ。本当に『夢の卵』を見に来ただけですから」

 そう言ってルイズは慌てるシエスタ母を尻目にスタスタと歩み去ってしまう。
 シエスタは母と一瞬でアイコンタクト。

――このお嬢様はいつもこんな感じ?
――――ええ、ルイズ様はこういう方です。

 シエスタは、だから気にしないで、と眉を下げて力なく微笑み、タルブ村を先導案内するためにルイズの後を追う。
 サイトはシエスタ母に軽く一礼し、二人の後を追う。うちの主人が傍若無人ですみません。

「もし『夢の卵』が私の思っていた通りのものなら、是非譲ってもらいたいのだけれど、それは誰と交渉すればいいのかしら」
「順当に行けば、村長か、それを相続したであろうシエスタの家の家長じゃないか?」
「そうですね、父に話を通してもらえば良いと思います」
「でも、その曽祖父さんの遺言があるんじゃなかったっけ?」
「ええ。ひいおじいちゃんの出身は、実はここ(タルブ)じゃないんですが、ひいおじいちゃんの出身地の文字を読める方になら、条件付きで『夢の卵』を譲っても良いと言い遺されています。村の人はだれも読めなかったんですけど、多分ルイズさんなら読めちゃう気がします」
「まあ、読んでみないと分からないわね」
「でもきっと読めると思いますよ。そんな“夢”を見ましたから」
「あら、いつの間に夢見の巫女のスキルを獲得していたの?」
「ふふ、よく当たるんですよ」
「へえ。是非ともシエスタを私の“夢の王国”に招きたいわね」

 ルイズさんマジ人材ハンター。
 彼女はサイトも彼女自身の夢の国に招いているところなのだが――。

(そういえばサイトの魂は未だに私の“夢の王国”には辿りつかないんだけど、一体全体何をしているのかしら……?)

 サイトの魂を連れてくるために遣わせたルイズの分霊が、夢の世界で要塞に立てこもりつつサイトと死闘と蜜月を繰り広げていることには、まだ彼女は気づいていない。
 朱鷺色の羽を持つ一ツ目翼蛇(ククルカン、ケツァルコアトル)は順調に、サイトと共に魂を高めあい、力をつけている。
 しかし、怖い鬼に怯えて、かくれんぼするのも今日までのことだ。
 運命の巡り合わせは、遂にこのタルブで、ルイズと蛇を相見えさせることになる。

――行きはよいよい
――――帰りは怖い
――怖いながらも
――――とおりゃんせ
――とおりゃんせ

 わらべ唄が、聞こえる。
 遂に故郷には帰れなかった男が広めた歌が。
 任務を果たせなかった、無念の歌が。

――行きはよいよい 帰りは怖い 怖いながらも とおりゃんせ とおりゃんせ


◆◇◆


 ルイズたちは恐縮する村長への挨拶を済ませ、シエスタの父や祖父にも会って遺品や遺言を見せてもらい、彼らの許可を取り、『夢の卵』が奉ってあるという場所へ来ていた。
 村から北東の艮(うしとら)の方角にある小高い丘は、周囲の草原とは打って変わって、季節が狂ったとしか思えないような南国風の鬱蒼とした密林に囲まれている。
 その森の麓に、丹塗りの丸太を組み合わせた門のようなものが設けてあった。

「鳥居だ……」

 サイトの呟き通り、明らかに場違いな南国風の植物群に覆われた丘に立っているのは、まごう事無き鳥居であった。
 京都の伏見稲荷のように、無数の朱い鳥居が、丘の中を蛇のようにうねって、頂上まで並んでいるようだ。
 結界。神域。侵すべからざる場所。そんな言葉がサイトの脳裏をよぎる。
 艮の方位の鬼門を塞ぐようにこの丘があることからも、その思いは強くなる。

 実際、丘の周囲のある一定範囲以上には、異常な南国の植生は広がっておらず、明らかな境界を示している。
 異様な威容を誇る朱鳥居の圧力に、サイトは及び腰だ。
 村の方からは、子供たちが歌う無邪気な歌が聞こえてくる。

――――とおりゃんせ とおりゃんせ
――ここは何処の細道じゃ
――――天神さまの細道じゃ

 それが一層の不気味さを煽る。
 だがそんな気味の悪さを感じているのはサイトだけらしい。
 シエスタとルイズは固まる彼を置き去りに、既に密林の鳥居結界の内側へと足を踏み入れていた。

――――ちっと通して 下しゃんせ
――御用のないもの 通しゃせぬ

 遠くからわらべ唄が聞こえる。
 サイトは忌避感を抑えこみ、思い切って、朱鳥居の内側へと入る。
 その途端に、むっとする湿気と熱気、植物の匂いがサイトの鼻を突く。
 だが、目につくのは植物ばかり。
 小動物も、鳥も、爬虫類も、虫の一匹さえこの密林には存在していない。
 常緑の密林。生者の居ない、それでいて青々とした生命力に満ちた、死者の森。
 ルイズとシエスタは、既に丘の中腹に差し掛かりつつあった。

「手の込んだ場所ね。これも全部シエスタのひいおじいさまが作ったの?」
「ええ、そうなんです。頂上にはお社もあって、そこに『夢の卵』と神刀と、ひいおじいちゃんの遺体が安置してあるんです」
「……遺体?」
「ひいおじいちゃんの遺言で。『死んだあとは祠に安置してくれ。そうすれば村の守り神になろう』と」
「ひいおじいさまは、このタルブ村では信仰されているの?」
「それほど大げさなものではないですよ。ひいおじいちゃんは、真面目で働き者で、タルブの発展に非常に大きく貢献して、それが私たち家族の自慢ですけれど、同時に変人でした。こんな不気味な祠を作ったりして。確かに『夢の卵』や神刀を拝んでいたり、祟りを恐れている人は年配の方に居ますけれど……」
「そうなんだ。畏れられているなら、もし譲ってもらえることになればだけれど、その時に一悶着起きそうね」
「さあ、どうでしょう。村の人達でも、この祠を邪魔に思っている人は居ますし、ひいおじいちゃんも遺言で『譲っても良い』と言い遺していますから。……もちろん、何かしらの補償があるならそれに越したことはないですけれど」
「……抜け目ないわね、シエスタ」
「ええ。何と言っても、私、ルイズさんの侍女ですから。例えば、タルブのワインをヴァリエール家の御用達に加えてもらうとかどうでしょう? とっても美味しいんですよ」
「考えとくわ」

 そこにサイトがようやく追いつく。

「お前ら、よくこんな不気味なジャングルの中を平然と歩けるな」
「そんなに不気味かしら。私は寧ろ安らぐのだけれど。まるで夢のなかにでも居るみたい」
「私は昔から慣れていますから。子供の時に、七歳の祝いに、厄災避けの形代を納めに行って以来の付き合いですし」
「『この子の七つのお祝いに』ってやつ?」
「そうです、サイトさん。まあそんな事をやっているのは、村の中でもウチだけですけれど。でも、そのお陰か兄弟姉妹八人全員が欠けること無く丈夫に育ってますし、案外ご利益があるのかも知れませんね」
「そうなのか」
「でも私も『夢の卵』を直接見るのは初めてです。ひいおじいちゃんの遺体と神刀と一緒に、いつもは祠の奥扉の向こうに安置してあるそうで、入っただけでは見えないようになってますから」
「遺体……」
「即身仏的なナニかか?」
「さあ、とにかくそこに葬ってくれとしか言い残されてないので……。そういえば遺体は腐らないどころか若返ってるという噂もありますねー」
「シエスタのひいおじいさんは妖怪変化か何か?」
「変人とは呼ばれましたけど……」

――――この子の七つの お祝いに
――お札を納めに まいります

 わらべ唄の声はもはや遠く微かにしか聞こえない。
 シエスタが、手に持った祠の奥扉の鍵をジャラリと鳴らす。
 シエスタの父と祖父に挨拶したあと、シエスタの祖父から預かったものだ。

「ひいおじいさまの遺言書も、サイトが問題なく読めたし。ちゃんとシエスタのお祖父様やお父様の諒解が取れたのは良かったわ」
「何故か日本語だったからな。少しばかり旧い文體(文体)だったが」

 この村に着いた時から薄々そうじゃないかとサイトは感じていたが、どうやらシエスタの曽祖父というのは日本人だったらしい。
 シエスタの黒髪黒目がどこか懐かしく感じたのはそのせいなのだろう。
 どういう経緯でこの村まで辿り着いたのか定かではないが、彼の旧日本軍の軍人がタルブに『夢の卵』をもたらしたのだというなら、おおよその想像はつく。
 幻夢郷を通り抜けて、迷い迷ってさまよって、アトラク=ナクアの寝所を抜けたか、夢の階段七百七十段を駆け上がったのか知らないが、最後にハルケギニアにまでやって来たのだろう。

「遺言は『陛下に夢の卵を奉じてくれ』だったかしら。でも陛下って一体誰のことなの?」
「俺の故郷をおよそ2700年の永きに渡って統治する万世一系尊き家系の天皇陛下さ。6000年級の王室がゴロゴロ在るようなハルケギニアじゃインパクトは薄いかも知れないがね。シエスタの曽祖父さんと俺が同郷なら、陛下というのは、その天皇陛下のことだろうさ」

 丘の頂上からは、鳥の声のような、奇妙な清澄な音が聞こえる。
 ピッ……、ピッ……、ピッ……、ピッ……。
 朱鳥居をくぐるたびに、その神聖音は存在感を強めていく。

「何かしら、この音。とっても気分がイイわ。本当に、とてもイイ音色」

 ルイズが陶然と呟く。

 彼女の目は、あるいはココにある景色を映していないのかも知れない。
 夢の奇笛に導かれて彼女の目に映るのは、幼い頃から慣れ親しんだ心象風景。
 風渡る巨大な湖と、湖底の王都、逆しまの湖影に揺らぐ天空王城、そこで働く彼女のためだけの夢の世界の臣民たち。
 自然、ルイズの足は早くなる。
 夢の国を現実(こちら側)に持ち出す手段が、きっと、おそらく、すぐそこに。

 先導するシエスタと殿を務めるサイトは、ルイズの変化を敏感に感じ取っていた。
 ハルケギニアの虚無遣いであるルイズは、元から圧倒的な存在感を周囲に放射していたが、それが更に強くなっている。
 彼女のもう一つの側面、夢の国を統べる女王としての威風が、漏れ出してきているのだった。

 鳥居が表すのは境界。
 鳥居をくぐるたびに、世界は彼岸に近づく。
 俗から聖へ。
 ケからハレへ。
 日常から非日常へ。
 そして、現実から夢幻へ。

 百を超える朱鳥居をくぐり抜けて、三人は頂上の祠に到着する。
 回りから押しつぶすように迫る密林も、そこだけはポッカリと空白になっており、手入れされていないという境内は何故かまるで掃き清められたかのようだ。
 異常な密林結界と百八の鳥居結界、その更に内側には、それらの結界を上回る神聖さを湛える境内と祠。

 ピッ……、ピッ……、ピッ……、ピッ……。

 祠の奥からは、『夢の卵』が奏でるのだという、笛のような、鳥の囀りのような音が聞こえる。
 
 木と紙でできた祠の引き戸を開け放ち、幾つもの絵馬が掲げられた中を奥に進むと、祭壇を守る扉が見える。
 預かった鍵で奥の扉にかかった錠前を開き、かんぬきを上げる。
 いよいよ『夢の卵』が安置された最奥部だ。

 まず目につくのは横たえられた木製の棺。これに佐々木武雄氏の遺体が安置されているのだろう。
 その上には注連縄が渡されている。佐々木氏の遺体は、奥の御神体を守る護鬼ということだろうか。
 次には両脇に蝋燭が置かれてぼんやりと照らされた軍刀拵えの日本刀が掛けられた祭壇。
 神刀の奥には、榊が生けられた榊立ての間に祀られた御神体がある。

 御神体とは『夢の卵』に他ならない。
 黄色い水晶玉のような巨大の卵型の『夢の卵』が、伊勢神宮か何かを象った宮形(みやがた)の中に祀られている。
 断続的に笛のような音を響かせるそれは、それ自体にも注連縄が巻かれている。
 それは御神体を祀るためというよりは、見ようによっては、厄災を封印するためのようにも見える。

 『夢の卵』を目の当たりにしたルイズは、驚愕に目を見開き、そして顔を綻ばせる。
 喜びのあまり小躍りしそうになる身体を、抑えつけるのに非常に大きな意志の力を必要としたのは内緒である。
 『夢の卵』は、ルイズが思っていたとおりに、『夢のクリスタライザー』その物であったからだ。

「あは♪」

 黄金のように、黄水晶のように、琥珀のように輝く卵円形の結晶に、ルイズは魂を奪われる。
 遂に。遂に、遂に、遂に!
 遂に彼女は宿願と邂逅した。
 『ああ、あれが夢じゃなければ』、『夢が現実に成れば良いのに』というのは誰しも思うこと。
 しかし、ルイズという少女ほどに夢に恋焦がれた者はかつて居なかったかも知れない。
 魔法を覚える前は逃避として。公爵家の血筋の重圧、厳しい父母や姉、何時まで経っても上達しない魔法。それらからの逃避としての夢の王国。
 学術都市にて魔法を覚えたあとは、理想として。ヒトを弄ぶヒトデナシどもへの憤怒、邪神蔓延る世界を改変したいという願望、力の足りない自分が抱く力への憧憬。それらあらゆる理想としての夢の王国。
 幼い彼女の呪いじみた願いは、その才能の後押しもあって、幻夢郷に巨大な王国を築くに至り――遂にそれを現実世界に“クリスタライズ”する装置と巡り合ったのだった。

「あははははっ! 凄い凄い凄い! 本物だわ! あはははははははは――」
「ちょいストップ」

 『夢の卵』に駆け寄ろうとしたルイズの肩を、サイトが掴んで引きとどめる。
 不機嫌そうに口を尖らせてルイズが振り向く。

「何よー」
「ここは神社だ。一応それなりの礼儀ってもんがあるだろ。御神体を譲り受けるんだったら尚更」
「む~、めんどくさぁい」
「誇り高い貴族なら、その程度の礼儀は弁えろって」
「……分かったわ。でも、礼儀っていっても、どうするのよ。まさかそこに横たえられてるご遺体に向かって『申し訳ありませんが貴方が護る御神体を譲っていただきたく』とでもお伺いを立てるの?」
「確かひいおじいちゃんの遺言書に、その為の手順も書いてあるんじゃありませんでしたっけ」
「書いてあったよ」

 そう言ってサイトは遺言書を取り出すと、該当箇所を読み上げる。

「『棺に向かって、『夢の卵』の音に合わせて、ノックしてもしもーし』」
「……」 「……」

 間。

「サイトさん、こんな時に冗談を言うのはどうかと」
「そうよ、空気読みなさいよね。この駄犬。だいたい、死体に話しかけてどうするのよ」

 ルイズとシエスタがジト目でサイトを睨む。
 それを見てサイトは慌てて否定する。

「いやいや、書いてあるんだって! ほら!」
「いや見せられても、私読めないから」
「私も読めません。古文書解読スキルはありませんし」

 遺言書を見せてくるサイトを、二人は切って捨てる。
 遺言書の内容は旧仮名旧体漢字で書かれており、サイトを『読心』して多少は日本語を齧っているルイズや、両親から簡単な日本語を教えられたシエスタには読めなかったのだ。
 読めたのは暗号解読や古文書解読のスキルが高かったサイトだけであり、さらにサイトの口から発せられたときに、使い魔のルーンの効果でハルケギニア語に自動翻訳されているために、よく分からない文章になってしまっている。
 ちなみに原文は『棺に向かひて呼び掛けるべし。その際に夢の卵の音色に合はせて木棺を叩くべし』となっている。

 だがそれをするまでもなかったようだ。

 こつ、こつ、こつ。

 木棺の内側から音が。
 サイトたちが一斉に振り向き、木棺を見る。

 ほら、五月蝿くするから。

 こつ、こつ、こつ。

 鬼が目覚める。

 こつ、こつ、こつ。

 死して尚、自らを括り、護国の鬼となった英霊が。

 こつ、こつ、こつ、……ず、ずずず。

 その神宝を託すに足りる相手かどうかを見極めるために。
 棺を敲く音が止み、木棺の蓋が、徐々に横にずれていく。

 ずず、ずずずず。

 息を呑むルイズたちを他所に、遂に木棺の蓋が落ちる。

 が、こん。

 そして、棺の内に眠っていた守護者が、木棺の縁に手をかける。
 ずるり、と燭台の灯に照らされて出てきたのは、黒光りする甲冑の手指。
 白木の柩の縁が、篭手の重量と圧力に負けてミシリと軋む。

 ぎ、ぎ、ぎ、ぎ、ぎ。

 不気味な金属が擦れる音と共に、木棺の縁に掛けた両手を支えにして、奇妙な生物的な丸みを帯びた甲冑が、地獄から黄泉帰るかのように上体を起こし――



 どかん。



 先手必勝とばかりに振るわれたルイズの『エクスプロージョン』によって吹き飛ばされた。
 半ば起き上がっていた甲冑は、それによって強制的に再び柩に寝かしつけられて沈黙する。
 ぱらぱらと甲冑を構成していた金属の欠片が舞い落ち、爆風で蝋燭の炎が揺らぐ。

「ちょっ、おま、ルイズ! 何してくれてるんだ!?」
「そうです、ルイズさん! ひいおじいちゃんの遺体に何かあったらどうするんですか!?」
「訳の分からないものは取り敢えず吹き飛ばしておくに限るわ」
「大雑把過ぎるっ!」 「短気過ぎます!」

 サイトとシエスタが絶叫するのと同時に、彼らの背後、鳥居の方に、怖気だつ気配が満ちる。

 ぎょっとして振り返れば、登ってきた鳥居の柱の後ろから、高さ2メイル程の幽霊のような影が無数に現れていた。
 鳥居に括られていた存在が、解き放たれたのだ。
 滑るようにして、それぞれの鳥居の根本から解き放たれた異形たちは、スッと参道に揺らぎ出る。

 猫目石のように妖しく『夢の卵』と同じような黄金色に輝く二つの目は、知性を宿してはいるものの、頑として他者の影響を受け付けない忠勇なる兵士のあり方をしていた。
 靄とも影ともつかない半物体のクラゲのような形の胴体からは、ゆらゆらと蠢く半物質の触手が長く束になって生えている。
 地面から浮いて、猫目海月の異形たちは、亡霊のようにするすると整然と参道を登って境内に押し寄せてくる。百八の鳥居の足元から発生した、二百十六の異形の“夢のクリスタライザーの守護者”たちが。

 それに対して三人は祠の中から飛び出して、ルイズを護るように▽状の陣形を敷く。
 サイトはデルフリンガーを抜き放ち、シエスタはメイド服の四次元ポケットから猟銃を取り出し、ルイズは杖とマジックカードを構える。
 臨戦態勢。

 どうやら幸いなことに、あの猫目海月の異形たちは、細い参道から外れることは出来ないらしい。
 参道と境内の境目さえ押さえてしまえば、恐らく包囲されることにはならないだろう。

 歌が聞こえる。
 遠くから、あるいは近くから。
 前から、あるいは後ろから。
 周りの密林から、あるいは自分の内側から。
 鳥居の向こうから、あるいは祠の中から。

――行きはよいよい 帰りは怖い 怖いながらも とおりゃんせ とおりゃんせ

 ぎ、ぎ、ぎ、ぎ、ぎ。
 戦いに赴くルイズたちの後ろで、祠の中の棺に再び篭手が掛けられる。
 軋る音と共に、甲冑が起き上がる。
 ルイズたちの後ろで、護鬼が再々起動。

――――とおりゃんせ とおりゃんせ

 だがルイズたちはそれに気づかない。
 異形の大軍を前にして、他のことに対する余裕を失っている。
 他のこととは、例えば、後ろで起き上がる甲冑の護鬼。
 あるいは、何故、猫目海月の異形どもは、鳥居参道の細道から外へと広がらないのか――いや、広がれないのか、その理由。

――ここは何処の細道じゃ

 護鬼・佐々木武雄を中心に敷かれた幻夢郷の呪法が、密林結界と鳥居結界を維持し、この参道の細道に、半物質の異形たちを拘束しているのだ。
 佐々木氏は御神体『夢の卵』を、天皇陛下に奉じることによって、それは天皇陛下の物であると定義した。
 つまり、この結界内部に於いて、『夢の卵』は天皇――天神・天照大御神――の延長であるとみなせる。つまりこの参道は――

――――天神さまの細道じゃ

 祠の中で起き上がった護鬼の頭部甲冑は『エクスプロージョン』で失われており、その下の素顔があらわになっていた。
 そこにあったのは、老人の皺のある顔――ではなく、色白の細面の青年の顔。
 甲冑の中身は、シエスタの曽祖父の佐々木武雄ではなかったのか。
 いや、彼の顔は、正しく佐々木武雄その人であった。
 正確には、在りし日の若き佐々木武雄の顔。
 『エクスプロージョン』によって抉れて焼け爛れた彼の額は、彼が手で拭うと、跡形もなく復元された。
 他に人が居れば、彼の復元と同時に『夢の卵』が燐光を放ったのに気づいただろう。
 復元作用は、『夢の卵』による、夢時空の存在を実空間に結晶化する作用によるものなのだろうか。

――――ちっと通して 下しゃんせ

 同時に、吹き飛ばされていたフルフェイスヘルメットのような頭部甲冑(兜)も何処からとも無く召喚され、彼の顔を覆う。同時に、やはり『夢の卵』が発光。
 兜は再生復元したわけではなく、新生したものだ。
 その証拠に、吹き飛ばされた兜の破片は未だに床に転がっている。
 新たに、何処か――夢の彼方から『夢の卵』の作用によって呼び出され、現実世界に結晶化したのだ。
 完全装備になった彼は、祭壇に置かれた軍刀拵えの神刀を握ると、境内の方に向き直る。
 顔面を完全に覆う鉄仮面のような兜から、青年・佐々木武雄のくぐもった声がする。

「やれやれ。せっかく人が封じておいた“夢のくりすたらいざーの守護者”どもが、さっきの衝撃で逃げてしまいおった。全く、うちの家内といい、こっち(ハルケギニア)の女子は乱暴で参るわ」

 どうやら、鳥居の陰から参道に現れた異形たちは、この護鬼の仲間ではないようだ。
 外の猫目幽霊クラゲたちは、『夢の卵』を狙って集まるのだった。
 むしろ、彼が封じていたクラゲのような“守護者”どもが、彼が吹き飛ばされたせいで封印が外れて、呼び起こされたものらしい。
 今回ばかりはルイズの手の速さが裏目に出た格好だ。

「――――御用のないもの 通しゃせぬ」

 そうやって歌の文句を呟いて、起き上がった護鬼・佐々木武雄は、助走をつけて境内へと飛び出し、大跳躍。
 ルイズたちの頭上を飛び越え、百八の朱鳥居と境内の境目、今にも猫目幽霊海月――“夢のクリスタライザーの守護者”が殺到せんとしていたその場所へと着地する。
 全身を隙間なく奇妙なそれでいて美しい有機的で優美な曲線で構成された甲冑に包んだ護鬼が、驚愕に固まるルイズたちを置き去りにして、クラゲのような異形へと斬りかかった。

「七生報國! 黄泉の向こうの夢路より若き日の我が身を“くりすたらいず”して、護鬼・佐々木武雄特務少尉、推参!! ええい、控えよ、異形どもめ! 陛下に奉じるまで『夢の卵』は渡しはせぬぞ!! それでも来るというのならァ――」

 甲冑は大上段に軍刀を構えて啖呵を切る。
 全身甲冑の各部が金属音を立てて攻撃的な鋭角に変形し、その身を尚更威圧的なものに変える。
 彼が身につけるのは、夢想の産物にして、無双の鎧。
 展性チタン合金複合装甲によって構成された、一騎当千の意志ある鎧。
 神武の超鋼にして英霊を内に秘めし生きた護国の鎧。

 護鬼・佐々木武雄の夢から結晶化(クリスタライズ)された想像上の戦術兵器――その名を、強化外骨格『雹』。

「――当方に迎撃の用意あり!! 鋼我一体! 膾(なます)にして、喰ろうてくれるわ! クラゲども!」


◆◇◆


 所変わって、アルビオンの隠れ里、ゴーツウッド村。
 新生アルビオン、ステュアート朝の国王チャールズ・スチュアート(元モード大公)の妃シャジャルと王女ティファニアが暮らすのが、この隠れ里である。
 街道から外れたところにあるこの村は、決して余人に見つかることはない。

 何故か。

 実はゴーツウッド村を囲むこの森、ただの森ではない。
 当然、系統魔法や精霊魔法で十重二十重に防御混迷錯乱の結界が敷かれている。
 のみならず、魔法が一般に普及しているハルケギニアにおいてすら超常と捉えられる魔術による防御が取られているのだ。

 樹を見よ。
 それはただの樹ではない。
 蠢く枝葉が見えるだろう。

 いや、それは枝でもなければ葉でもない。
 触肢と触手が絡み合い、そこに申し訳程度のカモフラージュとして、ヤドリギのようなエアプラントを生やしているに過ぎない。
 ザイクロトルの肉食樹と黒い仔山羊によって、このゴーツウッドの森林は形成されているのだった。

 そんな狂気の森の中に、ゴーツウッド村はあった。
 外から何者も入ることの出来ない絶対の結界。
 そして、中からは誰も出ることの出来ない、堅牢な檻……というわけではなかった。

 獰猛で悍ましい偽植物群は、村に住むエルフの親子や、それを世話する人々の妨げにならないのだろうか。
 答えは、否。触手の森の内側に暮らす人々は、化け物たちの被害を受けない。
 何故なら――

「はいはーい、まだまだ餌は沢山ありますからねー。順番に並んでくださいねー」
【ぎぃー】 【がぁー】 【びぃー】
「じゃあ行きますよー、そーれ!」

 ――彼らは餌付けされているから、大丈夫。

 ナニかの肉を、触手蠢く異形の群れに向かって放り投げるのは若草色のゆったりめのエルフの民族服に身を包んだ巨乳ハーフエルフ、ティファニア。
 投げられた肉片に五指が付いているように見えたような気もするが、それに喰らいつく黒い仔山羊とザイクロトランたちによって、直ぐに確認は不可能になる。
 彼ら超常の存在たちは、基本的には【従属存在】であり【奉仕種族】であるため、然るべき魔術で拘束して手懐けてやればよく、そしてそれはさして難しいことではない。

 スチュアート朝国王チャールズの愛娘ティファニアは、嬉々として彼らに餌付けを行っている。
 ティファニアの傍らには、山と積まれた肉塊たち。どれも血抜きされ、綺麗に処理されている。
 人肉――ではなく、アトラナート商会から買い入れている量産型食肉用ゴブリンの肉である、らしい。
 蜘蛛商会から卸されるときには、既に切り身の状態であるため、その元がなんだったのかは確認できない。
 ……ひょっとすれば人間牧場で殖やされた人間の肉だったりするのかも知れない。

 アトラナート商会はハルケギニアでも有数の商会であり、当然ながらその取引先にはアルビオン王家も含まれる。
 残念ながら、テューダー朝の債権は、王党派がニューカッスルごと吹き飛んでしまったため、ほぼ回収不能になってしまっている。
 本来であれば全滅前に王党派全員を拉致して頚斬って人面樹に喰わせて細胞という細胞を刻んで魂の記憶を遡行して貸金の代わりに総合的な情報という対価を頂戴する予定であったのだが、それはあのピンクブロンドの傲慢虚無遣いによっておじゃんである。
 テューダー朝の担当をしていたゴブリンはその責を負って実験体コース行きであった。南無。
 まあそれでも、ワルド某とかいうレアな風魔法使いの脳髄をニューカッスルの瓦礫の中から回収できたし、一応テューダー朝最後の生き残りであるプリンス・オブ・ウェールズもトリステインに居ることだし、最悪というわけでもない。
 恒星間規模の経済活動体であるアトラナート商会にとってみれば、たかだか小国一つ分の貸付が焦げ付いたとて問題ないレベルであるし。

 新アルビオン政府スチュアート朝との取引も、現在進行形で貸付が膨らんでいる状態である。
 アルビオンへの貸付について、回収の見込みがあるかどうかということだが、実はアトラナート商会(というか会頭ウード・ド・シャンリット)は、『グラーキの黙示録全巻セット(最新版)』とその運用ノウハウが詰まったオリヴァー・クロムウェルの脳髄さえ回収出来れば、一国まるごと買ってもお釣りが来るくらいに巨額の債権を帳消しにしても良いとも考えている。
 大邪神イゴーロナクについての知識にはそれだけの価値があると考えているのだ。
 情報は万金に価するなり。
 今は、クロムウェルの脳髄内部で知識が更に熟成し魂に定着し汚染しきるのを待っている状態である。

 あとは個人的にシャルル・ドルレアンにも、ガリアからの亡命の際の手引きをしてやった際の料金とか、まあその他もろもろの貸付が存在する。
 シャルル自身は知らないが、実は彼の娘にして虚無遣いの予備と目されるシャルロット・エレーヌ・ドルレアンの身柄が、アトラナート商会の担保リストに加えられていたり。
 いざとなったら彼ら商会は、シャルロット・エレーヌ姫を拉致して、蜘蛛商会が保持する聖人グレゴリオ・レプリカと掛けあわせるなり何なりするつもりである。


 ゴーツウッドの森の中、六本の扁平な葉を持ったザイクロトランが、放り投げられた肉塊を幹の頂上に開いた大きな口で受け止める。
 次に投げられた肉塊は、巨象のような蔓植物然とした黒い仔山羊の幹に開いた歯の生えそろった口に呑み込まれる。
 飛び散る緑のヨダレが少女に跳ねる。
 彼女は可愛らしく「きゃっ」と嬌声を挙げて、まるで嬉しさ余って飼い主に飛びついた犬のヨダレを拭う程度の気安さでそれを拭き取る。

 まるでそれが彼女の日常であるかのように。
 正しくそれが彼女の日常であるかのように。
 ティファニアにとって、ゴーツウッド村を取り巻く彼らは、既にペットのような、家族のような存在なのだった。

「ティファニア! 探したわよ!」
「あ、お母さん」

 ティファニアの餌付け場に、彼女の母であるシャジャルが顔を出す。
 シャジャルはティファニアと同じような若草色の服に身を包んでいる。
 尖った耳は彼女がエルフであることを示している。

 並んでみれば、ティファニアとシャジャルはその金髪と整ったは顔立ち、タレ目なところがよく似ていた。
 違うところと言えば、その胸元であろうか。
 シャジャルは、エルフらしいスラリとしたスタイルであり、まあ、端的に言うと胸も慎ましやかなのであった。
 巨乳因子はチャールズ・スチュアートの家系のものらしい。

「マチルダさんも探してたし、もう戻りましょう。夕飯の準備も出来てるわよ」
「はーい、お母さん」

 手に手をとりあって、母娘は村――村とは名ばかりで実際は貴族の豪華な隠れ家と言ったほうが良いのだが――に足を向ける。
 村ではサウスゴータ太守の娘であるマチルダ・オブ・サウスゴータが手配してくれた、美味しい夕飯(アルビオン基準で)が待っているはずだ。
 マチルダ嬢は、婚期が来て結婚した後も、ティファニアの側にずっと仕えている。
 それはエルフの母娘の秘密を知る者をできるだけ少なくしたいという、レコンキスタの思惑とも一致していたし、マチルダ嬢の夫となった者と彼女の夫婦仲が良好でないためでもあった。

「あなたたちは、森に戻りなさい」
【ぎぃー】 【がぁー】 【びぃー】

 シャジャルの言葉に従って、触手の森が移動する。
 真珠の名を冠するサハラのエルフが、この異形たちを縛っている使役者(マスター)なのだった。
 彼女はサハラに居た頃はシュブ=ニグラスに仕える神官でもあったのだ。
 エルフの中も一枚岩ではなく、主義思想や信仰の違いによって派閥争いが絶えないのだ。

 現在は蜘蛛の眷属と同盟を結んで権勢を増した千年長寿の統領テュリュークを筆頭とする、風のハスター信者たちが宗派としては最大派閥である。
 若手のホープであるビダーシャルという老評議会議員は、風の魔神の加護を得て、巧みに魔風を操って堅牢な空間干渉術式を構築するそうだ。

 だが大地母神シュブ=ニグラスを信仰する一族たちも少なからず存在している。
 あと猫の神バステトを奉ずる者たちも実は相当な数が隠れ派閥として存在しているのだとか、あるいは、かの暗黒ファラオ・ネフレン=カの復活を目論むカルトがあるとも言われる。
 まあ、故郷のそういう派閥関連のあれこれに嫌気が差して逐電した身であるシャジャルとしては、もはや関係ない話であるが。

 振り返って手を振って、ティファニアが彼ら悍ましい肉食の触手生物たちを見送る。

「ばいばーい。またねっ」
【ぎぃ!】 【がぁ!】 【びぃ!】

 その声に答えるように触手たちが身を捩らせる。
 彼ら使役される生物にも全く感情がないわけではなく、マスターたるシャジャルからの刷り込みも相まって、ティファニアに非常に懐いていた。
 ティファニアたちの目には、悍ましく触手を振り乱して去っていく彼らの姿が非常に頼もしく映っていた。

 地母神の加護を受けのではないかとすら思えるティファニアの大きな胸が、歩くたびに弾む。
 それは視覚的なフェロモンと言っても過言ではない。
 絶妙なる美を顕現した彼女の肢体の誘引効果は計り知れない。

 昔、マチルダ・オブ・サウスゴータの色々と性癖的にアレな感じでかつ野心に溢れた婚約者(現在のマチルダ嬢の夫)がうっかりちゃっかり王女ティファニアを手篭めにしちゃおうと尾行してきたときも、森の奇怪な仲間たちはパーフェクトに防衛しきった。
 異形たちは忠実で頼れるガードマンだ。味方でいるうちは、非常に心強い。
 ……その不埒な彼はどうなってしまったのか?
 今は元気に真面目に人が変わったかのようにシャンの半物質の脈翅をうさ耳のように生やして擬神機関(Azathoth-Engine)の建設の陣頭指揮をとっている。
 配偶者のマチルダ嬢曰く、『昔よりも随分マシになった』とのことである。
 人外に憑依された方が人間的だと評される彼の元の人格も気になるところではあるが、それを知る術はもはやない。
 拷問好きのシャッガイからの昆虫によって、惑星シャッガイが崩壊する悪夢を見せられ続けてとっくの昔に完膚無き迄に壊れてしまっているだろうから。
 彼ら夫妻の夫婦仲が冷え切っているのは、夫の方が最早人間ではないための、当然の帰結であった。

 マチルダ嬢は、配偶者のその人外じみた様子を見ても特に感慨を抱くことはなかった。
 もともと親に決められた結婚相手であるし、それほど思い入れもない。
 というかティファニアを襲おうとしたという時点で、マチルダの中では死刑確定であったので、シャンに狂わされようが何されようが構わないのだった。
 しかも処置後の方が人格的にマトモに見えるのなら、それ以上に言うことはない。
 あとは妻である自分が上手く立ちまわって、なんとかあの拷問マニアの異星の昆虫に拷問されないようにスケープゴートを用意しておけば問題ない。
 マチルダは、妹のように思っているティファニアのことが関わらなければ、かなりサバサバした性格であった。



 もはや狂っているのが当たり前。
 異常が日常と化した天空魔大陸。
 今日もアルビオンは平常運行であった。


◆◇◆


 トリスタニアの王城にて。

「マザリーニ、私決めました」

 唐突にアンリエッタ姫がマザリーニ話しかける。

「はあ、何でしょう?」

 マザリーニは怪訝そうに聞き返す。

「ゲルマニア皇帝との婚姻は避けられない、とのことでしたね」
「ええ。そうです。姫様も溜息を二百九十――」
「二百九十二回」
「そう、二百九十二回溜息をついてようやく御理解いただけましたか」
「ええ、理解しました。つまり私はトリステインのために『ゲルマニアと婚姻し同盟する』、『ウェールズ王子とも結ばれる』という両方をやらなくてはならないのですよね」
「……いえ、ウェールズ王子のことは諦めていただかなくてはならないと、もう既に百二十五回は申し上げたはずですが」

 マザリーニが眉を顰める。
 だけれどアンリエッタはそんなマザリーニのことは眼中にはないようであった。
 心なしか瞳孔が散大しているように見える。
 マズイ兆候だ。
 疲労か、精神的な緊張か、いずれにしても殿下は平静ではない。
 御殿医を呼ぶべきだろうか、とマザリーニは考える。
 最近グリフォン隊からアンリエッタ殿下のお付きに取り立てられたアニエスとか言う女性隊士が、この部屋の前で警護をしていたはずだ。
 グリフォン隊と言えば、隊長のワルド子爵のアルビオンでの功績にはどうやって報いるべきか。公には出来ないし。
 とにかくアニエスに至急侍医を呼んできてもらうべきだろう。

「ならば、ちょっとさくっとアルブレヒト三世を閨の中で殺してゲルマニアを簒奪して、ウェールズさまと結婚して、ゲルマニア・トリステインの全力を持ってアルビオン大陸を奪還すれば良いだけですわよね?」
「……姫様。姫様は随分とお疲れのご様子でございますな」

 マザリーニは溜息をつくと、表で待機する女性隊士アニエスを呼ぶためのベルに手を伸ばした。
 急変する国際情勢の中、小国トリステインの受難は続く。
 ……アニエスの受難も続く。


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作者です。生きてます。感想をいつもありがとう御座います。読んで励みにしています。今後あまり感想返しは出来ないかも知れませが……。
管理人の舞様、こんな中でもArcadiaサーバを動かして頂き、頭の下がる思いです。誠にありがとうございます。

佐々木武雄氏については海軍から陸軍に変更。さらに地震で揺れて落ちてきた『覚悟のススメ』を読み返していたら何時の間にかあんな感じに。夢のクリスタライザーはチートアイテムです。
ウェストウッド村は、ゴーツウッド村に改変。シャジャルさんと一緒に地母神を讃えましょう。いあ、しゅぶ=にぐらす。
ルイズの分霊翼蛇さんは次回予定。

2011.04.01 初投稿



[20306] 蜘蛛の巣から逃れる為に 19.Crystallizer
Name: へびさんマン◆29ccac37 ID:b87f4725
Date: 2011/04/08 19:26
 濃緑の密林の中を、朱い鳥居がまるで迷走する血管のように立ち並んでいる。
 その朱鳥居の細道の中を、黒い影のようなクラゲ型の化物が列を成して進んでいる。
 異形の名前は【夢のクリスタライザーの守護者】。
 夢の大帝ヒプノスの忠実な僕にして、幻夢郷の物品を現実世界に持ち出すためのアーティファクト『夢のクリスタライザー』を、本来の持ち主であるヒプノスの元に奪還するために現れる追跡者。

 鳥居に封じられていた【夢のクリスタライザーの守護者】は、数十年の間に積もりに積もって二百十六体。
 封印の要であった護鬼・佐々木武雄が、ルイズの『爆発』によって一時的に機能不全に陥ったために、彼らは解き放たれたのだった。
 タルブ村の北東、艮の鬼門に造られた祠は、天皇に奉じた『夢のクリスタライザー』が中心に据えられており、天皇信奉者の佐々木武雄を基点に、彼が幻夢郷で彷徨っている間に身に付けた呪法や見立て魔術や似非神道などを手当たり次第に用いた結界陣地となっている。
 さらに村に広められた『とおりゃんせ』のわらべ唄(呪歌)による共同幻想の括りの作用すら使って、『夢のクリスタライザーの守護者』を封じるための結界が築き上げられているのだ。

――――御用のないモノ 通しゃせぬ

 護鬼・佐々木武雄が認める者以外は、御神体に辿りつけない。
 余所者が御神体まで辿り着くには、氏神である佐々木氏の加護を受けた血族や村人を連れて参内するしかない。
 ルイズたちは、シエスタを伴っていたことで図らずも条件を満たしていた。

――――行きはよいよい 帰りは怖い

 入れはすれども、出ること能わぬ鳥居結界。

――――怖いながらも とおりゃんせ とおりゃんせ

 だけれども、その朱鳥居の参道は、「ここを通れ」と外敵を誘引する。
 そして袋小路に入り込んだ招かれざる客は、外に出たくば、護鬼を滅ぼすしか無い。
 しかし、この佐々木武雄、ただで倒させてくれるような容易い相手ではない。

「うおおお!」

 斬。斬。斬。斬斬斬斬斬斬――
 黒光りする超鋼の甲冑がその手に持った軍刀を一振りするたびに、猫目海月は散り散りになり、その破片は花吹雪のように渦巻いて甲冑や刀に吸い込まれるように消えていく。
 鳥居の封印から解き放たれてこの場に集った【夢のクリスタライザーの守護者】は二百十六体。
 だが、それは刻一刻とその数を減らしている。

「腑甲斐無いぞ! 貴様ら!」

 異形を食い散らかしながら、強化外骨格『雹』に身を包んだ護鬼・佐々木武雄が吼える。

「斬られるだけなら、犬でも出来る!」

 その間にも佐々木は軍刀を振り、あるいはその全身をこれ威力と化して、揺らぎ並ぶ【夢のクリスタライザーの守護者】を蹴散らす。
 だが何も猫目海月の異形の方もそのまま為されるがままになって居るわけではない。
 長く伸びる触手を使って、何度も『雹』ごと佐々木武雄を拘束しようと試みている。
 しかし、その試みは上手くいかない。
 高速で動く佐々木武雄は触手を避けて切り刻んでいく。

「斬ってこい!」

 佐々木の挑発に乗った訳ではないだろうが、ギロチンのような大刃に変化させられた異形の触手たちが『雹』を砕かんと迫る。
 しかし『雹』にはその刃は通らない。
 ただでさえ長い間結界によって押さえつけられ弱体化している異形たちは、無双の鎧『雹』の防御を抜くことが出来ない。
 鎧に防がれた斧手の群れは、返す軍刀の刃によって、十把一絡げに切断されて宙を舞う。
 まるで神のまにまに紅葉の幣(ぬさ)が吹き散るようだ。

 斬撃が通じないと見るや、次に異形たちはその触手を槍のように変化させる。
 線でダメなら、一点突破の突撃ということだ。
 そして不規則にうねって軌道を読ませない幾百本の触手が、『雹』に殺到する。

「そうだ、突いてこい!」

 だが佐々木はそれを捌く、捌く、捌く。
 目にも止まらぬ速さで触手の群れをいなし、捌き、絡めとり、引っ掴んで、千切り折る。
 埒が明かぬ、と異形たちは触手を束ねて大綱にする。

 身の丈ほども太さがある巨龍のような捻れた触手の束が鎌首をもたげ、『雹』に激突した。

 だがそれも、『雹』をほんの数メイル後退させただけ。
 受け止められた触手の束は、赤熱化した『雹』の装甲から立ち昇る獄炎によって焼き尽くされ、昇華されて消えて去る。
 『雹』はそのまま背後から推進剤を猛烈に噴射して前進。
 爆走する火の玉となって異形の本体たちを蹂躙する。

「おおぁあああっ!」

 赤熱化した『雹』の加速削減走によって轢滅された異形たちは陰も形もなく溶けて消える。
 『雹』が喰ったのだ。
 佐々木武雄は不死身の異形たちを封じるために、朱鳥居ではなく自らの身体を依代として選んだのだった。

 残りの異形は半分以下か。
 同じく『雹』の突撃によって、鳥居結界も参道の半ばまで瓦礫と化してしまっている。
 朱い柱と石段の瓦礫とまだ無事な朱鳥居の境界で、両腕を広げて護鬼・佐々木武雄は咆哮する。

「さあ来い! 骨のある奴出てこい!」

 その間にサイトが出来たことと言えば、「クラゲに骨はないだろ……」と呆然と突っ込むことくらいであった。
 サイトがあまりに理不尽で一方的な虐殺に顎を落としているときに、ルイズとシエスタは目を輝かせながら戦闘を見ていた。

「ひいおじいちゃん、かっこいい……」
「凄い凄い、スゴーイ! これが! これが、これこそが! 私が求めた力! 『夢のクリスタライザー』の力!」

 そんな彼らに『雹』の猛攻をすり抜けた異形が迫る。
 鳥居が破壊されたことで、異形の進路を参道に限定していた結界が崩れたのだ。

「むっ、いかん!」

 脇を抜けた異形に気づいた佐々木武雄in『雹』が触手を引きちぎりながら振り返る。

「心配ご無用ですわ。ミスタ・ササキ。この境内は『夢のクリスタライザー』の効果範囲なのでしょう? それにこの程度――」

 ルイズが微笑みながらマジックカードを掲げる。
 それを護るようにサイトがデルフリンガーを振りかぶって猫目海月の異形に斬りかかる。

「どおりゃあ!」
「――私の従者にかかれば問題ありません」

 六千年の時を経た魂を、蜘蛛の侏儒の手による刀身に封じた魔刀デルフリンガーは、たとえ実体のない夢の国の尖兵であろうと、その存在の重みによって容易く斬り裂く。
 デルフリンガーによって斬り裂かれた【夢のクリスタライザーの守護者】は、切り口を再生させつつ一旦ルイズたち三人から距離を取る。
 佐々木武雄がやっているように、攻撃と同時に封印するか、圧倒的な魔力で焼き尽くさなければ、異形を無力化することは出来ないようだ。
 それを見た護鬼・佐々木武雄は、参道に残る異形たちに向き直る。

「ならば良し。少年! 直ぐに片付けて援護に向かうゆえ、しばし持ちこたえよ!」
「応!」
【かかか! 誰に物言ってやがる! こっちは天下無双のガンダールヴだぜ!】
「その意気や好し!」

 超鋼が乱舞し、影のような異形がその周囲で細切れとなって吹き荒れる。
 一方サイトは影の異形の伸ばす触手と切り結ぶ。
 異形のネコ科の猛獣のように黄色く輝く瞳と、サイトの視線が交錯する。

「行かせねぇ、っての!」

 数十もの触手の塊を、サイトは残像を残すような速さで斬り弾く。
 サイトの挙動が速すぎて何十もの斬撃音が重なって聞こえる。

「うふふ、じゃあ私も『夢のクリスタライザー』の効果を試させてもらっちゃおうかしら」

 ルイズは妖しく三日月のように微笑むと、マジックカードから一つの魔法を選択行使。

「現世は夢、夜の夢こそ真(まこと)。白昼夢の水魔法――『デイ・ドリーム』!!」

 水魔法『スリープ・クラウド』の亜種、覚醒したまま夢を見させるための魔法『デイ・ドリーム』の霧が、ルイズたち三人を包み込んだ――。

 『夢のクリスタライザー』の効果は、夢から覚めたときに、幻夢郷の物品を現実世界に持ち込むというもの。
 ならば、『夢のクリスタライザー』の効果範囲内で、起きながらにして夢を見ればどうなるのか。
 夢と現が重ね合わされることで何が起きるのか。

 その結果は、幻夢郷と現実の融合に限りなく近い形での、リアルタイム二重顕現の実現である。
 精神力の及ぶ範囲において幻夢郷では、任意の物品を作り出すことが出来る。そして『夢のクリスタライザー』の効果が続く限り、幻夢郷において想像から創造した物品を、現実世界に“クリスタライズ”出来るのだ。
 現実世界に現れるのは、夢の物品だけではない。
 当然ルイズたちの肉体も、重ねあわせの効果によって、幻夢郷での肉体へと変貌するのだ。

「うふ、うふふふふ、ふふふふふふふふ!」

 霧が晴れる。
 ルイズの昂揚した笑い声が響き渡る。
 そこに居たのは二人の女と一人の男。

 一人は巫女服に身を包んだシエスタ。
 恐らくは護鬼にして巫覡(ふげき)である佐々木武雄氏の血族であることが影響して、巫女服姿へと変貌したのだろう。
 背丈や体格顔つきは、現実世界の姿と殆ど変わりがない。

 もう一人、筋骨隆々とした男のほうは、おそらくサイト。
 蛮族(バーバリアン)のような、要所を覆うのみの地肌が見える軽鎧を付けている。
 そしてその地肌には龍の刺青が見える。
 龍の刺青の左眼と、彼自身の左眼は重なっており、彼の顔面の左半分を龍の顔を象った刺青が覆っている。
 彼の左顔に端を発した龍の刺青は、彼の全身に巻きつくようにして施されている。
 いや、それは龍というよりは、四肢がないことから見るに蛇を象ったものなのかも知れない。
 背中には大きく翼の紋様も彫ってあるようだ。
 ベイビーフェイスの刺青バーバリアンが、夢の世界でのサイトの在り方のようである。

 そして霧の中心から現れた、ボディラインに張り付くようなドレスに身を包んだピンクブロンドの美女。
 何故か翡翠の玉座に、傲岸不遜に腰掛けている。
 ドレスの胸元は大胆に開いており、彼女の見事なプロポーションをした肢体の胸の谷間を強調している。
 夢の霧は彼女を中心に轟々と渦を巻いている。
 彼女が正しく中心で、彼女は正に女王だった。
 威風堂々。
 彼女を中心に膨大な魔力が放射され、佐々木武雄が創り上げた境内の結界――彼自身の戦闘行為によって半ば以上は決壊していたが――を塗り替えていく。
 密林の湿った土の匂いから、静謐な湖畔の香りへ。
 密林から風渡る湖へ。

 一変する景色の中、その結界の塗り重ねの勢いで、三人の間近に迫っていた【ドリームクリスタライザーの守護者】の一体が突風に耐えかねたかのように吹き飛ばされる。
 夢の女王が優雅に艶やかに立ち上がる。
 彼女の髪は彼女の風の担い手としての力を反映してか、ふわふわと揺らいでいる。
 陶然として、ルイズが腕を大きく広げる。

「ああ、実に清々しい気分……。まるで新年の朝におろしたての下着を身につけたような爽快さ。そして最高にハイってやつよ! さあ、パーティを始めましょう! ディナーは海月尽くしだけれどね」
「ちょっと待った」
「何よ、サイト?」
「……戦闘に移って諸々有耶無耶になる前に突っ込んでおきたいことがある」
「いいわ。聞いてあげる。さっさと言いなさい」

 女王ルイズは腰に手を当ててサイトの方を見る。
 邪魔をされたせいか、彼女の細い腰に当てられた左手が平素の癖で苛立たしげに擦り合わせられている。
 逆立てられた柳眉すらもセクシーだ。

 サイトはもう一度、推定ルイズ・フランソワーズ(?)の全身を舐め回すように見る。
 背丈は170サントほど、見事なプロポーション、緩やかにウェーブする長く美しいピンクブロンド――頗る付き(すこぶるつき)の妖艶な美女が、玉座が置かれた段の上に立ってサイトを見下ろしている。

 そして軽鎧姿の刺青男(サイト)は油断無く周囲を見回しながら、息を吸い込み、吐き出し、もう一回吸い込んで。
 ひねりを加えて躍動的な所作で以て思いっきり突っ込んだ。

「誰 だ 手 前 ぇ ! ?」
【おでれぇた。随分育ったなあ、ルイズの嬢ちゃん】

 デルフリンガーのしみじみとしたツッコミが何だか感慨深い。
 色々と数奇な運命を辿っているらしい魔刀は、この程度では動じないらしい。
 6000歳の年の功が無駄に発揮されていた。


◆◇◆




 蜘蛛の巣から逃れる為に 19.Crystallizer of Dreams




◆◇◆


「随分失礼な言い草ね、私の従僕」
「いやいや! 色々と盛りすぎだろ!」

 身長とか胸とか。
 モリモリ増量中って感じ。
 いくら夢の中の姿とは言え、ここまで『あるべき自分』の欲望がストレートに現れていると、いっそ清々しい。
 感心すらする。

 ルイズは片手を振るって近づいてきていた【夢のクリスタライザーの守護者】を風の槌の連弾で弾き飛ばす。
 こつこつとハイヒールで王段を降りて、未だにツッコミ姿勢で固まるサイトに近づき、その頬にスッと手を添える。
 戦場の中、息遣いが聞こえるほどの近くで、主従が見つめ合う。

「それを言うならアンタだって色々と面白いことになってるわよ。全身入れ墨とか……、あら?」

 サイトの左眼から始まる蛇の刺青を撫でていたルイズが何事かに気が付き、その目を鋭く細める。
 夢の女帝の視線を受けて、刺青が身じろぎするように脈動した――ように見えた。
 気のせいだろうか?

「……うーん? 私の欠片が混ざってる? 帰って来ないと思ったらサイトに喰われて混ざってた? いやでも――」
「ルイズさん! いちゃついてる場合じゃないです! 敵! 敵が来てます! 私、この姿じゃ銃もないし、どうしたら良いか――」

 巫女服のシエスタが御幣を握りしめてわたわたと慌てて迫り来る猫目幽霊海月の異形たちを指差す。
 護鬼・佐々木武雄の横をすり抜けて、さらに二三体がやって来ていた。

「別にいちゃついてなんていないわ。それじゃあ行くわよ、サイト。着いて来なさい」
「お、おう」

 どぎまぎしながらサイトが答える。
 心なしかその時、彼の蛇の刺青が蠢き、全身を絞めつけたように見えた。
 嫉妬しているのだろうか?

「あの、ルイズさん、私はどうしたら」
「祈りなさい」
「ええ!?」
「夢の巫女なんだから、祈るのがこの場で最も効果的な後方支援よ。私の勝利を。あなたの尊属の無事を。祈りなさい。一心に」

 諭すようにルイズは言い残して、サイトを連れて異形のもとへと赴く。
 シエスタは御幣を握り直すと、目に力を込めて頷いた。

「……はいっ! 祈ります! どうかご無事で! サイトさんも!」
「当然よ。私たちを誰だと思ってるの? 私は極零(ゼロ)のルイズ。虚無遣いにして、夢の国の女王」
「んじゃあ俺は『ゼロの使い魔』って訳だ」
【かはは、成程なるほど、そりゃあ負ける訳には行かねぇなあ、ガンダールヴ。いやさ、相棒】

 大帝ヒプノスの尖兵の一匹や二匹、百匹や二百匹、一体何のことは在らん。

 そうしてゼロの主従は笑って突撃する。


◆◇◆


 ゲルマニア首都ヴィンドボナは、活況であった。
 結婚景気。
 ゲルマニア皇帝アルブレヒト三世と、トリステイン王女アンリエッタが結婚するためだ。

 ゲルマニアとトリステインの各地から名だたる貴族が集まり、祝うべき(内心はどうあれ)婚姻のための舞台を営々と整えたのだ。
 歴史に残るようなイベントにするべく、惜しみなく財が投入された。
 この結婚式には両国の貴族は勿論、軍隊、官僚、民間、全ての者が関心を持っており、それだけの人間が動けば、モノもカネも相応に動くため、その経済効果は莫大な物になる。

 そして、その晴れの舞台において、両国政府、軍、諸侯の要人たちが見守る中、結婚式はいよいよ大詰めに向かっていた。
 皆の視線の先で、主役の二人、これから夫婦になる二人が、高名なブリミル祭司の前に立っている。
 即ち、新郎・アルブレヒト三世と、新婦・アンリエッタ。

 大きな、この結婚式のためだけに造り上げられた教会の聖堂。
 何百人もの観衆が固唾を飲んで二人を見守る。
 ある者は不安気に、ある者は嬉しそうに。
 彼らの足元を、荘厳さを演出するためか何かのスモークが流れていく。

「――――新郎アルブレヒトは新婦アンリエッタを愛することを誓いますか?」
「はい、誓います」

 いけしゃあしゃあと。
 アンリエッタはウェディングベールに覆われた中で、鉄面皮のような笑顔の仮面を纏って、アルブレヒトに向かって内心で毒を吐く。

(欲しいのは私ではなく、私の血筋だけでしょうに)

 今更ゲルマニアがトリステインに領土欲を出すわけがないのだ。
 ただでさえ開発しきれないほどの辺境を抱えているのだから。
 目の前の男は、女としてのアンリエッタを求めているわけでも、トリステイン王女としてのアンリエッタを求めているわけでもなかった。
 単なる血統証としてしか、彼女を見ていない。

(今に見ていろ。軽い気持ちで私を求めたことを、後悔させてやる)

 だが、まだだ。
 まだ、今暫し、準備に時間がかかる。

(吠え面かかせてやる)

 司祭が誓句を続ける。

「――――新婦アンリエッタは新郎アルブレヒトを愛することを誓いますか?」
「……」
「……。こほん。――――新婦アンリエッタは新郎アルブレヒトを愛することを誓いますか?」
「……」

 沈黙。
 新婦は木石の如く黙して語らない。
 ざわざわと周囲の者が何事かと心配し始める。
 アルブレヒトは泰然自若。
 オトナの男の余裕である。

(どうせこれが最後の抵抗なのだ。可愛いものだ。ならばそれくらい大目に見てやろうじゃないか)

 だがしかし、これは実際のところ、可愛い抵抗(・・・・・)などというものでは、断じてなかった。
 尤も、皆がそれに気がついたときは、手遅れであったのだが。
 無為に時間が流れ、それに応じて、床を這うスモークが徐々に嵩を増していく。

「――新婦?」
「……。私は――」

 漸くアンリエッタが口を開く。

「私は、この婚姻を望みません。私が求めるのは“くちづけ”ではありません」

 一瞬、会場が完全に無音になる。
 皆、理解が追いついていないのだ。

 まさか。
 よもや。
 ここで婚姻を拒否するほどに。
 ここまでアンリエッタ王女が莫迦者だとは。
 有り得ない。
 面白くなってきた。
 気でも狂ったか。

 会場中の視線が彼女に集まる。
 何時の間にかウェディングベールは上げられており、彼女のその恐ろしい笑顔が露になっていた。
 覚悟の決まった女の顔というのが、こうまで恐ろしいものだとは。

 そして会場が怒号に包まれようとしたその刹那。
 全員の視線とアンリエッタの視線がぶつかったその刹那。
 その空白の時間に彼女の可愛らしい唇から、這いずり回るナメクジを思わせるような恐ろしく悍ましい声が漏れ出た。

「“跪け”」

 何を馬鹿な。
 そう思おうとした次の瞬間には、

 ざ、

 と音を立てて、皆が皆、跪いていた。

「あはははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははは!!」

 彼女は賭けに勝った。

「な、こ、これは、一体……!?」

 辛うじて面を上げて言葉を発することが出来たのは、アルブレヒト三世と幾人かのみ。

「あははははははははははははは!! つい先日、私、スクウェアに目覚めましたのよ。アルブレヒト閣下」

 違う、そんな事を聞きたいんじゃない。
 パクパクと酸素を求める金魚のように、アルブレヒトの口が動くが、声にならない。
 呪縛されているのだ。
 鬼のような声に。
 夜叉のような声に。
 般若のような声に。
 深淵の呼び声に。

「トリステインは水の国。その王女たる私の系統は、やはり水。種明かしが必要かしら? まだ分からないのかしら?」

 誰もかれも身動きがとれない中で、彼女はその身から有り余るほどの魔力を吹き散らせる。
 演出用の霧が、魔力を受けて揺らぐ。

「目が合ったじゃない。皆、皆、私と目を合わせてしまったじゃない! あはははははははっ」

 その言葉で漸く皆が思い当たる。
 水のスクウェア。
 目を合わせて発動させる。
 命令の強制。

 ――水の禁呪『制約(ギアス)』。

「そう、漸く分かったかしら? 理解したかしら? ギアス! ギアス! ギアス! 私とウェールズ様の仲を引き裂く者たちには、禁呪程度が丁度いいわ!!」

 それを聞いてある者は戦慄した。
 これほどの人数に一瞬で制約の魔法を掛けられるとは、トリステイン王女アンリエッタ恐るべし、と。

 だが、多くの者は安堵した。
 ギアスによる呪縛であれば、じきに解ける。
 今暫く我慢すれば、このわがまま姫の起こした騒ぎもオシマイだ、と。

「あはははははははは! 安堵したわね! 油断したわね!」

 クルクルと、狂々とアンリエッタ姫は聖堂の中心へと踊り出る。

「残念でしたーーー!!」

 あっかんべー、と王女はまるで悪戯が成功した子供のようにおどけて見せて、手に持ったブーケの中から杖を引き出す。

「これで終わりと思うなよーー!?」

 彼女が杖を振る。
 すると、それに応じて、会場全体を覆うスモークが、桃色に発光し始める。
 それは演出用の霧などではなかった。
 断じてただの霧ではなかった。
 これこそが、彼女の策の要なのだった。

「あはははははは! みーんな、みーんな、私の虜になぁあれぇえええ!!」

 聖堂全体を覆う霧に混ぜられた、惚れ薬。
 ピンク色に輝くそれは、跪いている者たち全ての鼻から、口から、喉から、肺から速やかに吸収される。
 今更息を止めてももう遅い。
 既に全員の体内に秘薬は行き渡っている。
 『制約』の魔法で跪かせたのは、惚れ薬の霧を吸い込ませるためだった。

 そしてまだ、ギアスの効果は残っている。
 あとワンアクションくらいは、言う事を聞かせることが出来る。
 付け加えて、惚れ薬の効果は『最初に見た相手』に限り有効。
 ならば、ここでアンリエッタが下す命令とは――。

「コッチヲ見ローーーー!!」

 跪いていた全員が、一斉に顔を挙げてアンリエッタを見る。
 見る。
 見た。
 見てしまった。
 そして次の瞬間、老若男女すべて、一切合切の区別なく、魔性の姫アンリエッタの下僕と成り果てた。

 アンリエッタは、愛の下僕となった皆が跪く中を歩く。

 彼女の足の向かう先には、トリステイン宰相マザリーニ。
 結婚劇の仕立て役。
 憎き憎き、しかし、これまでトリステインを支えてきた苦労人。

「マザリーニ」
「姫様……。なんということを……」

 いかなる奇跡か、マザリーニは辛うじて正気を保っていた。

「どこからこれほどの秘薬を……。いや、一体これからどうするというのです。こんなこと、マリアンヌ大后陛下がお許しになりませんよ」
「お母様が? あははは、お母様が、何ですって?」

 ケラケラと笑いながら、彼女は杖を振るう。
 その先には、皆と同じく跪くマリアンヌ大后。
 氷の矢が、マリアンヌの胸を貫く。

「お、おおおお、何という、何ということを!!」
「あはははははは!! マザリーニ! あなた、頭の中まで鶏になっちゃったの? アレの何処が母親なのよ!?」

 胸を貫かれたマリアンヌは崩れ落ち、そして、小さなマリオネットのような人形に変わった。

「スキルニル!?」
「そう。スキルニル」
「では本物の陛下は何処に?」
「さあ、シャンリットで瓶詰めにでもなってるんじゃないかしら?」

 アンリエッタが平らな瞳でマザリーニを覗き込む。

「さっきの『この量の秘薬は何処から?』っていう答えだけれど」

 スキルニルのマリアンヌ大后。
 明らかに有り得ない量の惚れ薬。
 そしてシャンリット。

「これだけの量を準備できるのって、一つしか無いでしょう?」

 そう。
 シャンリット。
 あの蜘蛛塗れの背教者ども。

「ずいぶん高く買ってくれたわ。始祖の血筋って貴いだけでなくてお高いのね」
「あなたは、あなたは!!」

 勉強にーなりましたー、等と言って一人うんうん頷くアンリエッタ王女を見て、マザリーニは顔色を失う。

「あなたは! 実の母親を、売ったのですか!? あの蜘蛛どもに!?」

 そう言えば、あの蜘蛛の眷属の千年教師長の姿は見えない。
 昨日まではこの式典の賓客として参加していたはずではなかったか?
 あの知識の亡者が、この無垢な姫に入れ智慧したのか!?

「ええそうよ」

 じろり、とアンリエッタが皿のような瞳で、虫のような瞳で、死んだ魚のような瞳で、深海魚のような瞳でマザリーニを睨む。

「ええそうよ。売ってやったわ」
「なんてことを」
「あはは、可笑しい、マザリーニ」

 何言ってるのか分からないわ。
 ゴロリと首が落ちそうな勢いで、アンリエッタは首を傾げる。
 心底、不理解。

「あの人と貴方は、私をゲルマニアに売ったじゃない。私を売るのは良くて、あの人を売るのはイケナイの?」

 奈落の底のような目がマザリーニを射すくめる。

「王族の責務というなら、先ずはあの人が責任をとって身売りするべきよ。男子を産まなかった責任。王座に就かなかった責任。国が衰退して滅ぶ責任。娘に全部押し付けて逃げようだなんて、そんなの虫が良すぎるわ。そして確かに責任はとってもらった。あの人の身代金で購ったお金のおかげで、トリステインとゲルマニアの首脳は、全員私のしもべになった。身一つでゲルマニアがトリステインのものになったのだから、あの人はきちんと王族として国を救ったわ。まあ! なんて素晴らしい自己犠牲でしょう!」

 マザリーニはこの情念の怪物を前にして、口を噤まざるをえない。
 アンリエッタ姫の暗い瞳が、マザリーニを覗き込む。
 深淵の瞳。
 もしも自分にこの方の二つ名を付ける機会があるのなら――

「あなたには秘薬(クスリ)の効きが悪いようね。さあ、ではもう一度――『制約(ギアス)』」

 ――『深淵』のアンリエッタ。
 その名がきっと相応しい。

 それを最後に鶏の骨と呼ばれた宰相の正気は消えて失せた。

「じゃあ、マザリーニ。ウェールズ様は一体何処にいらっしゃるのかしら?」
「……ラグドリアン湖畔に御座います。我が愛しの姫殿下」
「まあ! ラグドリアン! それは素敵! 私とウェールズ様が最初に出会った思い出の土地! なかなか気が利くじゃないの!」
「はっ! ありがたきお言葉!」

 目から正気の光を失った老宰相が頭を下げる。

「では皆の者。祝言の用意を! 向かう先はラグドリアン! そうね、結婚祝いのプレゼントはアレにして頂戴――」

 アンリエッタが遥か遠くを仰ぎ見る。

「――アルビオン大陸!!」

(ウェールズ様……。この身があなたと結ばれぬ運命というならば、そんな運命はこっちから願い下げですわ。国という垣根が私たち二人の仲を阻むなら、そして私たちがそこから自由になれないというのなら、そんなものは全て、全て、全てぶち壊してやりますわ。どんな手を使ってでも! そして全ての国という国を平らげたら、もはや私たち二人の愛を阻むものはなくなります。――あなたをハルケギニア大王にして差し上げますわ、ウェールズ様。ああ、ウェールズ様! ウェールズ様! ウェールズ様! ウェールズ、ウェールズ、ウェールズ、ウェールズ、ウェールズウェールズウェールズウェールズウェールズウェールズウェールズウェールズウェールズウェールズウェールズ――――)


◆◇◆


 【夢のクリスタライザーの守護者】の最後の一体が消えて去る。
 そして虚無の主従と『夢の卵』の護鬼が対峙する。
 密林の丘の頂上に広がる、静謐な湖の上に彼らは立っている。

 ドレスの妖艶な美女と軽鎧の刺青戦士。
 強化外骨格に身を包んだ護鬼。
 揺らぎ一つ無い湖面が、鏡写しの逆しまに彼らの姿を映し出す。

「協力感謝する、ハルケギニアの魔女よ」
「いえいえ。私どもはほとんど何もしておりませぬ。瞬く間にミスタ・ササキが平らげてしまいましたもの。私どもはその食べ残しを頂いたに過ぎませぬ」
「ははは、謙遜めされるな。貴女が祠と曾孫を守ってくだすったのは分かっておる。その立ち居振る舞い、さぞかし名のある貴族のご令嬢とお見受けする。名を伺っても?」
「ルイズ・フランソワーズ」
「そうか。ルイズ殿。それで、ここにはいかなる用で参られた?」

 返答次第では生かしては帰さぬ、と佐々木氏は鬼気を強める。
 そこに出し抜けにサイトが口をはさむ。

「佐々木さん。あなたは日本帝国軍人、ということで合っていますか?」
「如何にも。そういう少年は日本人か?」
「平賀才人。あの大東亜戦争が終結してから60年はあとの時代に生まれた日本人です」
「そうか。平賀くん、戦争には、敗けたのだろう? 我が国は」
「はい。敗戦しました」
「そうか」
「……驚かないのですね。少し、意外です」
「……私は南海支隊に居たのだがね、各地で負けが続き、物資が欠乏していたことくらいは知っているし、実感もした。敗けるだろうというのは、分かっていたよ。そして、それほどまでに追い詰められていたからこその、『夢の卵』の奪取計画だ」
「『夢の卵』……。祠の奥に祀られている『夢のクリスタライザー』の事ですか」
「そうだ。お偉いさん方は、神風を吹かせたかったのさ。何を馬鹿なと思うかもしれんが、実際にあの『夢のくりすたらいざー』の威力を、神威を見てみれば分かる。私がアレを内地に持ち帰れていれば、日本はあるいは持ち直したかも知れない。そんな最早有り得ない夢を見させてくれる、正しく『夢の卵』と呼ぶに相応しいものだよ、アレは」
「ええ。確かに素晴らしい物なのでしょう。しかし、それがなくとも、日本人は、大都市の空襲や二度の原子爆弾の投下による焦土から、敗戦から立ち上がった。私の時代、日本は世界有数の経済大国になっていました。人々は飢えることなく、戦火にさらされず、平和を謳歌しています」
「そうか。素晴らしい」
「いえ、あなた方の世代の挺身があればこそです」
「ふふ、世辞はいいよ。そうだ、陛下は、陛下は無事だったのかい?」
「……昭和は64年まで続きました。現在は、元号を平成と改め、当時の皇太子殿下が即位されています。統帥権などは失いましたが、今も国の象徴として、天皇家は存続しています」
「……そうか。私たちの陛下は、もう亡くなられたのだな」
「……はい」

 なんとも言えない空気が流れる。

「しんみりしている所に悪いのですが」

 ルイズが割って入る。

「私は、その『夢のクリスタライザー』を譲っていただきたくて、参りました」
「無理な相談だ、と言いたいところだが、こちらも貴女に用があるのだよ、極零の魔女よ」
「……? 私に用とは?」
「幻夢郷には『極零の魔女は、世界を越える力を持っている』という噂がある。貴女は幻夢郷では有名なのだよ」
「はあ、そうなのですか」
「そうなのだ。そこで、だ。この『夢の卵』を日本に送って欲しいのだ」

 佐々木氏は祠を指さして、ルイズに願いを言う。

「平和な世になろうとも、これほどの呪物ならば、きっと祖国のために役に立つ。どうか送ってはもらえまいか」
「……それは出来ません。私は『夢のクリスタライザー』が欲しいのですから」
「やはりそうか。――ならば」

 佐々木氏は構えを取る。
 臨戦態勢。

「勝負。私が勝てば、『夢の卵』は日本に送ってもらう。君が勝てば、『夢の卵』は君の好きにすると良い」

 嵐のような殺気を受けながら、ルイズは果敢に微笑んで見せる。

「成程。では勝負の方法は――なんて、聞くまでもありませんわね」
「無論」
「勿論」

「「力尽くで!!」」

 『夢のクリスタライザー』を巡って、第二局面、開始。
 護鬼と魔女の戦いの火蓋が切って落とされる。


◆◇◆ 


 シエスタは祈る。
 ルイズの無事を。
 佐々木武雄の無事を。
 ヒラガ・サイトの無事を。

 どうかこの衝突の後に、皆が無事でありますように。

 そこだけは戦場から切り離された祠の中で、一心に祈りを捧げる。

 決着はまだ遠い。
 シエスタの後ろで、祀られた『夢のクリスタライザー』が、儚く鳴いている。


◆◇◆


 いくらルイズとて、あの護鬼が相手では、いささか分が悪い。
 いや、祠に篭っているシエスタや、強力な夢の女王の肉体を持つルイズ自身は佐々木氏の攻撃を凌げても、サイトはそうはいかないだろう。
 戦力を補強しなくては。
 ルイズはその為の物品を創るために精神を集中させる。

「『夢創(ドリームクリエイション)』――」
「む、何を創るつもりだ? 生半な武器では、この神武の超鋼にキズひとつ付けられぬぞ」
「――超鋼には超鋼を。強化外骨格には、強化外骨格を。貴方に創造出来る物が、私に創造できないわけがない!」

 夢の世界において大事なのは、確信。
 自分の力に対して、傲慢なまでの自信を持つこと。
 そしてそれにかけては、ルイズの右にでるものは居ない。
 故に彼女は夢の国の女王なのだ。

「いでよ! 強化外骨格(エクゾスカル)!」

 そしてそれは顕現する。
 展性チタンの超合金で出来た無双の鎧が。

「瞬着せよ! サイトを取り込め! デルフリンガーを取り込め!」
「うおおおおおい!?」
【ちょ、俺もかよー!?】

 ルイズの意思を受けて、新たに現れた強化外骨格が開き、生物的な絨毛が鎧の内部から伸び、サイトとデルフリンガーを飲み込む(彼らの意志とは関係なしに)。
 瞬時に空中でエクゾスカルは合一化。
 ずしゃ、と音を立てて湖面の戦闘場に着地。

「六千年の時を経た猛き魂よ、超鋼(はがね)に宿る英霊となれ! 我が無敵の従僕(ガンダールヴ)よ、超鋼を操り我が意を果たせ! そうだ、その超鋼の名前は――」

 三位一体となった超鋼が立ち上がる。

「強化外骨格(エクゾスカル)『零(ゼロ)』!! それこそが、この超鋼に相応しい」

 『零』が構えを取る。

「おお、こいつはスゲエ。力が溢れてくる!」
【……おでれぇた】

 どうやら無事に強化外骨格『零』は起動したようだ。
 だが、佐々木武雄もそれをただ見ているわけではなかった。
 彼の方も既に準備万端。

 佐々木武雄の操る強化外骨格『雹』の背中から、影のように揺らぐ無数の触手が展開していた。
 その数は、千か二千か。
 彼は自分の身に封印した二百体余りの『夢のクリスタライザーの守護者』の力を使っているのだった。

「行くぞ、魔女とその従僕よ!」

 『雹』は相手を撃滅するべく、大跳躍。
 その右腕を振りかぶる。
 同時に、背から生えた触手の右半分にあたる部分が、それぞれ超鋼の篭手を纏う。

「これで終わってくれるなよ!! 食らえ――」

 千本の超鋼が、一斉に引き絞られる。

「千手、直突(じかづき)!!」

 一発一発が高射砲のそれに匹敵する直突が、一斉着弾。
 湖面の決闘場から盛大な水柱が上がり、湖面を津波となって走り抜ける。
 まるで隕石でも降ったかのような惨状。

 だがしかし『零』を纏うサイトは既にそれを回避済み。
 全身武器であるエクゾスカル『零』はガンダールヴの能力を余すところなく引き出すことが可能。
 そして超鋼に重なる英霊は、彼の相棒デルフリンガー。
 その身は既に鋼我一体。
 『雹』から伸びる千の触手を掻い潜り、『零』のサイトは今、『雹』の懐に辿りついていた。

「おおおおおおらあああああっ!!」
【やれ、やっちまえ、相棒!】

 ラッシュ、ラッシュ、ラッシュ。
 直突。
 重爆。
 肉弾。

 だがそれもやがて止められる。

「中々やるな! 少年!」

 手数が足りない。
 圧倒的に足りない。
 サイトは数百の触手に後ろから押さえつけられる。

「ぐぅっ!?」
「サイトから離れなさい! 『ライトニング・クラウド』!」

 閃光と共に、千手観音の有様になっている『雹』にルイズの雷撃の魔法が命中する。
 夢の国の彼女は、風と水を統べる女王。故に風と水の系統魔法を行使可能。
 雷撃に驚いたのか、サイトを押さえる腕が少しだけ緩む。
 サイトはその隙を見逃さず、全力で『零』を動かす。
 『零』の姿が霞み、次の瞬間には魔法を放ったルイズの隣に。
 ガンダールヴの恐るべき速度であった。

「大丈夫? サイト」
「ああ、オーケー、ノープロブレムだ。サンキュ。ルイズ」
「暫く私が雷撃で足止めするわ。突っ込みなさい」
「オーケー、勿論」

 再び閃光。
 ルイズの『ライトニング』の魔法が佐々木氏の『雹』に命中する。
 一瞬の硬直を逃さず、サイトが最速で接近し、一撃離脱。
 着実にダメージを重ねる。

 再度、雷光。

「ええい! 邪魔臭い!」

 だがそれは弾かれる。

「ここは何処の細道か!? 天神の細道だ! この身は既に道真公に勝るとも劣らぬ天神の眷属! このようなヘナチョコ雷がいくら集まろうとて、全くの無効! 本当の雷撃と言うものを見せてくれる――」

 湖面を雷雲が覆っていく。

「落ちよ怒槌(いかづち)、神鳴る力――!」

 雷雲に向かって『雹』の腕が掲げられ、その指が一本ずつ順に開かれて天を指差す。

「――気象兵器・戦術天誅――」

 一本、二本、三本、四本、五本。
 そして広げられた五指で以て空を裂くように、『雹』の腕が振り下ろされる。

「――五束撃!!」

 同時に雷雲から膨大な熱量を持った雷鎚が、五本走る。
 一本一本が致死の威力を持つ雷撃が、束となって、極超音速の回避不可能の速度でサイトへと落ちた。
 そして魔力によって編まれたのではないこの雷撃現象は、超鋼『零』と重なったデルフリンガーによっても減衰不可能。
 雷光に『零』の姿が掻き消える。

「サイト!?」
「余所見をするな、魔女よ。次はお前だ」

 ルイズがサイトに気を取られている隙に、既に佐々木武雄in『雹』は腕を引き絞っている。

「千手、直突!」

 轟爆。
 全てが水煙の向こうに消える。


◆◇◆


 ハヴィランド宮殿にて。
 レコンキスタの実質的な総帥であるシャルル・ドルレアンは悩んでいた。
 今後、どうやってアルビオンを手に入れるかについて。

「擬真機関(As A Truth-Engine)……いや、擬神機関(Azathoth-Engine)の完成は目前だ。大陸戦艦『アルビオン』の就航も間近。就航式典と、エルフを含むあらゆる異種族を国民として迎え入れるための、アルビオン国教会の発足も、準備が整いつつ在る」

 だが、それだけでは足りないのだ。

 彼が欲しいのは、アルビオンの正統。
 ここまで作り上げてきたものの大部分は、名目上はアルビオン国王のチャールズ・スチュアート(元モード大公)の功績となるだろう。
 実際はシャルルの功績であっても、だ。
 名実のうち、名の方はチャールズへ、実の方はシャルルへ。

 だが、それでは足りないのだ。
 彼は名実ともにアルビオンの、そしてひいてはハルケギニアの頂点に立ちたいのだ。
 正当な方法で王権を勝ちとり、子々孫々にその偉大な大王の地位を引き継がせたいのだ。
 その為には、何としても正当な経緯でスチュアート王朝を自分の血脈に取り込む必要がある。

「ああ、いっそこれならウェールズ王子を擁立してシャルロットを宛てがうべきだったか? いや、無理だ。例え私が外戚に付いても、あの聡明な王子は傀儡にはならなかっただろう」

 何か、何か、何か方法はないか。

「シャルロットをチャールズと結婚させるか? いや、あの黒山羊の巫女シャジャルが許すまい。では私があのハーフエルフの王女ティファニアと結婚するか? いや、妻が許さぬし、やはり黒山羊のシャジャルが許さぬだろう。他に何か手段は――」

 せめてティファニアかシャルロットのどちらかが男であったならば――。

「……! そうか――!!」

 その時シャルルに天啓の電流が走る。

「『もしもシャルロットが男だったなら』!! これだ!! おい、クロムウェル何処だ!? 肉体変容の術式があっただろう。クロムウェル、何処に居る!? 私が呼んだら直ぐに出てこないか狂信者――!?」


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当SSは名(状しがたい怪)作を目指しています。
突込みどころ満載。全ては新ソースブック『インスマスからの脱出』の邦訳版が出たせいです。多分。
蛇ルイズさん(分霊翼蛇)は今回出せる予定だったけど、切りがいいので次回へ持ち越しです。

アルビオンは徐々に復興中。
シャルル・ドルレアン←ド・オルレアンの連音(リエゾン)です。このSSでは名前のあとの場合はドルレアンになっているはず……。

2011.04.08 初投稿



[20306] 蜘蛛の巣から逃れる為に 20.桜吹雪
Name: へびさんマン◆29ccac37 ID:b87f4725
Date: 2011/04/19 20:18
 それはまるで壁だった。
 空から落ちる黒金の弾雨。
 人外の勢いで迫る千に近い超鋼の拳。

「――――っ」

 息を呑む。
 幻夢郷の魔女、ルイズ・フランソワーズは戦慄する。
 これが妄執の果てに鬼と化した、異世界の軍人の力か、と。

 避ける――否。回避などこの身の矜持が許さない。
 逃げる――否。逃走など以ての外。そんなものは辞書にも載ってない。
 受け止める――応!
 逃げも隠れもしない。
 それが夢の国の女王たる自分に相応しい。

「ああああああっ!! 来なさい! 受け止めてやる!」

 ルイズは全身に意力を巡らせる。
 すぐそこまで迫った千手の超鋼の拳を前に、新たな強化外骨格やその他の手段の現実化(クリスタライズ)は間に合わない。
 生身で受け止めるしか無い。

(――大事なのは、確信)

 信じること。
 自分があの護鬼の攻撃を受け止められるのだと、確信すること。
 それこそが、この夢時空では最も重要なこと。

 決意と共に、ルイズの中で力が巡り、周囲に溢れ出す。
 『極零』の二つ名の影響を受けてか、ルイズの周囲の気温が急激に下がる。

 速度を零に。
 角運動量も零に。
 何もかもを零の――虚無の彼方に置き去りに。

 零下――いや、絶対零度に向けて、周囲の温度が急降下する。
 超冷却はルイズが意図してやったことではなかったが――今後の戦闘を左右する、大いなる偶然であった。

 何もかもが停滞させられたルイズの周囲で、空気が文字通り物理的に凍りつく。
 湖面の決闘場の表面が、冷気に触れて一瞬で凝固する。

 そこに超鋼の拳雨が飛来――。

 ――そして着弾。

 微かに響いた結晶が割れるような、

 しゃん、

 という清澄な音と、水柱の轟音と共に、全ては水煙と砕氷の向こうへと消える。


◆◇◆


「やったか!?」

 『夢のクリスタライザー』の呪力を用いて具現化した強化外骨格『雹』に身を包んだ護鬼・佐々木武雄は思わず叫ぶ。
 だがそれも無理からぬ事。
 彼は全く以て手応えを感じていなかった。
 それゆえの疑問。

 一体決着は付いたのか、どうなのか。

 四界の視界は完全に遮られている。
 常ならばこの程度の霧など問題にせず、気配を手繰って敵を見つけることなど造作も無い。
 この佐々木武雄にすれば、眼に見えるものより、眼に見えないもののほうが余程慣れ親しんだモノなのだから。
 だが、着弾寸前に膨れ上がったあの魔女の闘気、いや凍気が全体を覆っており、ルイズ・フランソワーズの本体を見つけることを至難としていた。
 あたり一面を覆うこの霧ともダイヤモンドダストともつかない粒子は、明確に佐々木武雄の感覚を遮断していた。

(まるで結界……、いや、まさに結界なのか)

 あの一瞬で、おそらくあの魔女は、こちらの攻撃を無効化するなり受け止めるなりしてそこから逃れ、そして逆に結界を張り、佐々木武雄の感覚を狂わせているのだ。
 そのせいで、未だにあの魔女に叩きつけた拳は感覚を取り戻さない。
 それどころかそこに千の触手があることすら感じない。

 ――感覚を取り戻さない? 存在さえも感じない?

「ま、さかっ!?」

 佐々木武雄は強化外骨格『雹』の背に生えた幾百本の触手を目視しようと自分の目の前に動かす。

 だがしかし。
 目の前には何も現れず。
 周囲の霧も小揺るぎもしなかった。
 つまり――

「うおおおおおお!? 【夢のクリスタライザーの守護者】の腕が!?」

 そこには触手の群れも何も無い。
 取り込んだ【夢のクリスタライザーの守護者】の触手を生やしたはずの背中には何も無い。
 だから感覚もないし、霧も動かないし、――魔女を潰した手応えもなかったのだ。

「砕かれたのは、奴ではなく『雹』の拳だったというのか!? しかし超鋼を一体どうやって砕いたというのだ!? 霧が邪魔だ! 昇華弾!」

 混乱しつつも周囲の氷霧を払うために、『雹』は鉄をも蒸気と化する昇華弾を乱射する。
 昇華弾による急激な気温の上昇によって周囲の霧が晴れるのと、その昇華弾の一つにルイズの超冷凍の攻撃が衝突し相殺するのはほぼ同時であった。
 超高熱と極低温の相殺作用によって、空間が砕けるような音と共に周囲に衝撃波が生じる。

「昇華弾を相殺!? むぅっ、超鋼を砕いたのはこれか!?」

 『雹』の超高熱の昇華弾を打ち消したのは、極低温の水球であった。

「超凍結冷却液。どうやらその超鋼は、冷気には弱いようね。とても脆くて、砕き易かったわ」
「ほざけ、魔女め!」

 霧の晴れた湖面の決闘場に、無事なルイズの姿が露になった。
 彼女は凍気によって脆弱化した『雹』の拳の雨を、逆に砕き返すことで生還したのだった。
 いや、彼女ならば、凍気によって脆弱化させずとも、超鋼の強化外骨格を破壊できたかも知れぬ。
 それほどの凄味が今の彼女にはあった。

「だから何だというのだ! 斯様な水鉄砲など、分かっていれば、もはや当たる訳も無し!」
「ふン。そんなの当たるまで撃ち続けるだけよ。イザとなればこの湖面全てを超冷却液に変えてあげるわ」
「ならば今直ぐそうすれば良い――出来るものならばな!」

 佐々木武雄の鬼気が強くなる。
 それに呼応して、密林の中にポッカリと空いた境内に広がった湖面を、周囲の木々が侵し始める。

「これは……!?」

 逆侵攻。
 マングローブの漂木(ヒルギ)が広がるように、あるいはまるで植物が歩むように根を伸ばして領域を広げ、ダイヤモンドダストが舞う湖面を狭めていく。
 ルイズの心象風景である風渡る湖が、佐々木武雄の心象風景であるあの南海の密林によって塗り直されていく。

「無害だろうと思って放っておいたが、この湖面が儂の邪魔になるのだというならば、再び侵蝕するまで」
「ハ、今まで三味線弾いてたってこと? 嘗められたもんね。大体、その気になれば化学兵器で滅殺できるくせに」
「そもそも戦術神風が効くような身体とは思えんがな、貴様。それに、戦術神風など使えばタルブ村にも被害が出るだろう。あれは敵味方の区別なく瞬殺無音。故に使用せぬ。逆に言えば、この密林結界を用いるということは、今この瞬間、お前を認めたと言い換えることも出来る。極零の魔女よ。もはや手加減はせぬ。全力だ」

 ざわざわと書割が入れ替わるように、密林が『雹』の姿を覆い隠す。
 密林は距離感を狂わせ、佐々木武雄の姿を隠して幻惑し、四方八方から声を反響させてその居場所を掴ませない。
 南海にて失踪した佐々木武雄が自らのフィールドとして選んだのは、やはりと言うべきか、南海の密林。

「一体何処に――」
「せいっ!」

 密林から『雹』が飛び出し、ルイズに打撃。

「きゃ!?」
「それ、それそれそれっ!!」

 触手の展開を止めた『雹』は、彼にとって慣れ親しんだジャングルの中を飛び回り、次々とルイズに打撃を加えていく。
 密林におけるゲリラ戦法こそが、彼の真骨頂であった。
 全身を打撃力にして、『雹』がルイズを打ち据える。

「ぐ、う、うぅ!?」
「良く耐える」
「このぉ! そっちかぁ!?」

 ルイズが手を振るう度に、全てを凍てつかせる超凍結冷却液が発射される。

「無駄だ。この密林が儂を守ってくれる」

 しかし、それら全てはジャングルの木々に遮られて届かない。
 ジャングルの木々が凍ってガラス細工のようになって砕け散る。
 しかも凍って砕けた木々の空隙は、直ぐに侵蝕する密林によって埋め直される。
 そもそも、高速で機動する『雹』を捉えるのすら至難の業。
 ましてや彼は、そこら中の密林迷路を全て神前の「細道」と定義しているようで、得意戦法であるヒットアンドアウェイを用いること以上の支援地形効果を、密林回廊から得て居るらしい。
 佐々木氏は迅雷の如き動きでルイズを翻弄する。
 そのたびにルイズの細い体は弾き飛ばされ、徐々に傷が増えていく。

「なあ魔女よ。もう諦めないか」

 諦めて楽になってしまえよ。
 これ以上痛いのは嫌だろう。
 諦めて、その世界移動の力を儂に貸してくれよ。

「儂に、任務を果たさせてくれよぅ」

 頼むから。
 積年の未練を果たさせてくれ。
 『夢の卵』を、あの九段の靖国に奉納させてくれ。
 佐々木武雄は囁くようにしながら、ルイズに一撃一撃、拳を重ねていく。

「諦める、もんですか……!!」

 歯を食いしばって丸くなって、ルイズは猛攻を凌ぐ。

「私は、絶対に、諦めない!! 諦めこそが人を殺す。諦めない限り、たとえ那由他の彼方の可能性でも、実現する。させて見せる! もうすぐそこに、夢が、夢の世界があるのよ! 絶ぇ対にっ、諦めてなんてやるもんかぁっ!!」

 身を丸めて防御体制を取っていた彼女は、縮められたバネが勢い良く伸びるようにその身を広げる。

「再々結界――! 世界よ、私の世界よ、ここに顕現せよ! 『夢のクリスタライザー』よ、どうか力を……!」

 彼女の祈りが届いたのか、ルイズを中心に、弾けるようにして、また湖が広がる。
 彼女の意志力と引き換えに、彼女の風と水の王国が顕現する。
 僅かに半径2メイルの狭い空間に過ぎないが、彼女は自分の意志を通した。

「ほう、よくやる。儂の密林結界の侵蝕を跳ね除けるとは」

 佐々木氏がルイズの人外の精神力に驚嘆する。

「化物だな。その精神力。――それだけに挫き甲斐がある」
「化物、ですって?」

 顔を憤怒とも悲哀ともつかない表情に変えて歯を食いしばるルイズ。
 その彼女に向かって、密林から湖沼に、影が躍り出る。
 それは拳を振りぶった強化外骨格『雹』。

 ――だけではない。

 その後ろに人影が更に一つ。

「“……”」
「むっ!? 生きておったか、小僧!?」
「“……”」

 連なる影は、天誅五束の雷光の中へ消えたはずの強化外骨格『零』。
 デルフリンガーの意思を内蔵した超鋼を纏うはガンダールヴ・サイト。
 『零』はこの密林の中でこの機会を伺っていたのだろうか。

 ゼロの超鋼は黙して語らない。
 しかしその行動は、雄弁にその意志を物語る。
 即ち。

「ぬぅ!? 組み討ち――足止めか!?」

 ルイズに迫る『雹』の脚を取り、身を挺しての足止め。
 雁字搦めにして、エクゾスカル『零』は『雹』を逃さない。
 『雹』が『零』に押さえこまれて、空中で失速する。

 そして、その隙を逃すルイズではない。

「超凍結冷却液射!! 私を化物と呼ぶなぁっ、鬼め!」

 全てを凍てつかせる超凍結冷却液が、足止めされた『雹』の上体に激突。

「しまった!? 赤熱化――、間に合わん!?」

 遂に命中した必殺の凍球が、佐々木武雄の上半身を完全に凍てつかせる。
 瞬時に赤熱化して抗しようとする佐々木氏だが、それは凍結を上半身に留める程度しか効果はなかった。
 そして下半身は『零(ゼロ)』によって拘束されている。目の前の怒れる魔女の攻撃を避けるすべはない。

 一方、佐々木氏のセリフの何か(・・)が勘に障ったのか、ルイズは激昂していた。

「私は――、化物じゃない! 私は人間だ! 私は私の意志がある限り! たとえガラス瓶の培養液に浮かぶ脳髄が私の全てだったとしても! きっと巨大な電算機の記憶回路が私の全てだったとしても! あるいはこの身が異形と成り果てようと――」

 今やルイズは可憐で妖艶な夢の女王ではなかった。

 その姿は変貌していた。

 護鬼を討ち滅ぼすに足りるだけの悍ましさと恐ろしさを備えた、彼女の本質的で本来的な姿に。
 翼が生えて、鱗に覆われた恐ろしい化物(・・)のような姿に。
 魔風すら制する烈風と、激流を受け止める清流の力を受け継ぐ、有翼半魚の異形の姿に。
 忌まわしい、しかしどう仕様も無い彼女の本能の姿に。

 鋭い爪と堅い鱗に覆われたルイズの腕が、凍った佐々木武雄を砕かんと、後ろに振りかぶられる。

「――私は、人間だっ!!」

 音を引き裂いて、異形のルイズの掌が護鬼・佐々木氏が纏う強化外骨格『雹』に炸裂する。

「ぎ――!?」
「砕け、散れぇっ!!」

 完全に氷結した『雹』の上半身は、それに耐えられずに、全体に罅を入れて砕かれながら、『零』に組み付かれた下半身を置き去りにして吹き飛んだ。

 凍った上半身を吹き飛ばされた『雹』の凍っていない下半身から力が抜けて倒れる。
 有翼半魚の異形と化したルイズは立ったまま。
 それが勝敗を物語っていた。

 この場は――護鬼と魔女の『夢の卵』争奪戦は、極零の魔女ルイズの勝利だ。

 だが、彼女の顔は、泣きそうに歪んでいた。
 まるで護鬼の方ではなくて彼女の方が、童に追われた鬼のようだった。
 人間と仲良くなりたくて泣く、孤独で寂しくて恐ろしい鬼のようだった。

「私は人間よ……。たとえこんな姿になろうとも……、人間なのよ……!!」







「いいえ、化物よ」

 サラサラとした声が、ルイズを打ち据える。

 それは誰の声でもなかった。
 護鬼・佐々木武雄でもなければ、ガンダールヴのサイトでもなく、魔刀デルフリンガーでもなければ、シエスタでもなく、もちろんルイズでもなかった。
 しかしその声は、ルイズの声にそっくりだった。


◆◇◆


「いいえ貴女は化物よ。ルイズ・フランソワーズ」

 賢しら(さかしら)な蛇の鱗を思わせるサラサラした声が響く。
 声の元は、ルイズの眼下。
 残された『雹』の下半身に組み付く、強化外骨格『零』から、サラサラと声がしていた。

「……蛇」

 ルイズの呟きに応じたわけではないだろうが、サイトに纏う『零』の装甲が、まるで蛇のトグロを解くようにして剥がれていく。
 サイトから剥がれ落ちた元は『零』であった鎧の残骸は、途中で魔刀デルフリンガーを零れ落とし、代わりに『雹』の下半身を取り込んで、じゃらじゃらと空中に巻き上がる。
 鎧で出来た蛇は、サイトをゆっくりと湖面に横たえる。それはまるで大切な宝物を扱うかのようだった。
 縄状に解けた強化外骨格『零』の下から現れたサイトの姿は、少し筋肉が付いている以外は平素と変わらない。
 つまり、サイトの全身を取り巻いていた蛇の刺青が、消滅していた。
 今空中にトグロを巻く鎧の蛇は、まるで刺青から抜けだしてきたかのように思える。

「貴女は化物だ。ルイズ・フランソワーズ。幾ら人間のフリをして、人間の味方をしようとも、貴女は既に化物よ。人間の範疇には無い、化け物」

 じゃらじゃらと、サラサラと蛇が囁く。
 まるで楽園の人間に堕落を唆す蛇のように。
 智慧の樹に巻きつく蛇のように。
 ルイズの精神をへし折って成り代わるために、蛇は囁く。

 茫洋とした瞳で、有翼半魚の異形となったルイズは、その鎧蛇を見返す。
 護鬼に「化物」と呼ばれたことは、彼女の心にそれほど深い傷跡を残していた。
 元から、護鬼と闘うために意志力を燃やしていた彼女は、今現在消耗し、その鋼鉄の精神を弱体化させていた。
 そして蛇はそれにつけ込み、傷口を押し広げる。

 人間の力には、限界がある。
 それを飛び越えたお前は、最早人間とは言えぬ。
 そう囁く、蛇の奸言。
 じゃらじゃらじゃら。

「もう一度言うわ。“お前は既に化物だ”。お前は、貴女は、ルイズ・フランソワーズは、既に十全に化物よ」
「……。……なるほど。強化外骨格『零』を操って、さっき護鬼を足止めしたのは、サイトでもデルフリンガーでもなく、アンタだったのね。私の分霊……」
「ご賢察。流っ石は私の本体!」

 じゃらじゃらじゃら。

 空中を不規則な軌道でうねる蛇が肯定する。
 何時の間にか、『零』の展性チタン合金をベースにした蛇の体は、しなやかな鱗に覆われて翼が生えた姿に変わっていた。
 その胴体は大樹のように太く、身の丈は数十メイルもあるような、巨龍のような威風堂々たる蛇。

 さらさらさら。

 ケツァルコアトルスを思わせるような翼蛇だ。
 朱鷺色の羽根に覆われた翼と、腐り蛇のような毒々しい紋様の胴体を持つ翼蛇(ククルカン)。
 密林で佐々木氏をスニークしたのは、サイトではなくて、彼の身体に取り憑いていたルイズの分霊翼蛇の方だったらしい。

「私の愛しいサイトも、彼の愛刀デルフリンガーも、さっきの護鬼の天誅五束の衝撃で、未だに夢の中。まあ、余剰の電撃の威力を私が喰らって(・・・・)あげたから消し炭にならずに済んだのだけれど」
「……蛇は貪欲と狡猾を象徴する。なるほど。その貪食の性質で、佐々木氏の雷撃や、私が与えた強化外骨格『零』や、残っていた『雹』の残滓を喰らったのね……」
「そうよ。なかなか美味しかったわ。でも、感謝して欲しいものね。私のお陰で貴女はあの護鬼に勝つことが出来たのだから。ねえ、夢の国の化物」
「……私は、化物じゃないわ……」
「嘘おっしゃい。貴女は化物よ。正真正銘の。自分でも気づいているんでしょう?」

 さらさらさら。
 しゅるしゅるしゅる。

 翼蛇が有翼半魚のルイズに巻きつく。
 楽園の智慧の樹に巻きつくように。
 そして蛇は囁く。
 彼女を堕落させるために。

 そう、ルイズとて気づかないわけではない。
 自分の目的が帯びる矛盾性に。

 邪神連中が気に入らないと。
 必ず封じて追いやって滅ぼしてやると。
 そう言ってはいるものの。

 その為には、その邪神たちを上回る力を用いないといけないわけで。
 毒を用いて毒を制す、というか。
 邪神で以て邪神を追いやる、というか。

 万に一つそれを自分だけの力で成し遂げたとしても、それではその最後の時には自分は、滅ぼしたい邪神の輩と全く以て変わらない有様に成って果てているのではないか。

 怪物と戦う者は、自分も怪物にならないよう注意せよ。
 深淵を覗き込むとき、深淵もまたお前を覗き込む。

 力をつけて、あの知識欲に塗れた蜘蛛の千年教師長を駆逐したとして、自分と彼との間に一体どれほどの違いがあるというのだろうか?
 邪神(あいつら)が嫌いだと癇癪を起こす自分と、知識が欲しいと世界を蚕食する蜘蛛男の間に、果たして如何ほどの違いがあるというのだろうか?
 先程は、脳髄だけになろうとも、コンピュータに人格を写したとしても、それでも人間だと威勢を――虚勢を張ってみたものの、真実そうか、と、他ならぬ自分の分身から糾弾されれば、自信が揺らぐ。
 魂を微細炭素繊維からなるネットワーク型マジックアイテムに移し変えた、あの千年教師長ウード・ド・シャンリットを糾弾する資格は、この夢の国の異形たるルイズ・フランソワーズにあるというのだろうか?

 自分の行いは本当に正しいのか?
 別に今の世界は、表面上は正常に回っているではないか。
 それを壊すことに何の意味が?

 後から後から、心の、魂の内側から、自問する声は増えていく。
 彼女を支えてきたのは、強大な精神力と、理性。
 だが、度重なる魔術の行使によってルイズの意志の力が弱まった今、ルイズの理性が、蛇の口を借りて、ルイズの在り方に――存在意義(レゾンデートル)に矛盾を突きつける。

 それが蛇がルイズを惑わせて弱らせるために選んで用いている邪言だとは分かっていても、ルイズは耳をふさぐことは出来ない。
 精神に流し込まれる蛇の毒に抵抗出来ない。
 繰り言を、聞いてしまう。聞き入ってしまう。

「虚無遣いだなんて望外の力を持っておきながら、さらに幻夢郷(ドリームランド)に巨大な王国を築き、様々な呪物を蒐め、人外の魔術で魂を分けて――」

「……やめて……」

「――それでも貴女、まだ人間のつもり?」

 びしり。

 何処からかそんな音が聞こえた。
 それは緊張に耐えかねた空気が割れた音だったのか――、
 あるいは、ルイズの精神に罅が入った音だったのか。

 蛇がルイズのような顔で嘲笑う。
 ルイズは気力の萎えた様子で罅割れたような顔で力無く笑う。

「……ハハハ。五月蝿いわよ。所詮分身のくせに。分際を弁えなさい」
「オリジナルを超克してこその複製品でしょう? 私が代わってあげるから、貴女は退きなさいな、ルイズ・フランソワーズ」
「……それでどうするのよ。私に成り代わって何をするというの? 劣化品」
「あははっ。簡単よ! 私、幸せになるの!」

 蛇がルイズから離れて、彼女の頭上に環を描いて宙を舞う。
 地に足つかない様子で空を舞う。
 浮かれたように、熱に浮かされたように、宙空で踊る。

「……幸せ?」

 ルイズがきょとんとして、思わず蛇に問い返す。
 あまりにこの場にそぐわない、場違いな言葉が聞こえたような。
 今、あの蛇は“幸せ”と言わなかったか?

「そうよ! 愛しいサイトと一緒に、ずぅっと幸せに暮らすのよ! だから貴女は邪魔なの! 世界のことなんかほっぽり出して、二人で小さな領地を買って、お屋敷で末永く暮らすのよ。まるで御伽話の終わりのように! 『二人は見事結ばれて、末永く幸せに暮らしました』ってね。淫靡で爛れた愛欲の日々を送るのよ。きっときっと蕩けるような幸せな日々だわ! 幸福で脳髄が蕩けてしまっても構わない。魂が溶けて混ざり合って、永遠に一つになって、ずっとずっと一緒に過ごすのよ。私とサイトで!」

 蛇が哂う。
 幸せな日々を夢見て陶然と笑う。
 高笑いしながらぐるぐると空を回る。

 ルイズはまるで全ての力が抜けたかのように動けない。
 想定外のまさかの連戦で、実際に力は底を尽きかけている。
 強敵に勝利し、積年の夢がもうすぐ実現するという瞬間の、精神の空隙に差し込まれた蛇の声は、ルイズの根幹を侵していた。
 突きつけられた自己矛盾によって彼女の精神は、その身に背負った理想による重みによって自壊しそうになっていた。

「……そういえば、アンタのことは、サイトの魂を私のもとに連れてくるために造ったんだっけね。『夢のクリスタライザー』が手に入った今、もう、アンタの役目は消滅したわ」
「ふふふ。あの護鬼の攻撃で弱った半死半生の貴女なんか、強化外骨格を一つ半も喰らって吸収した私の敵ではないわ」

 ハハハ、と、虚ろな――昂揚した――二重の笑い声が響く。

「成程――」 「つまり――」
「いざ事ここに到っては――」
「――最早貴女(アンタ)は用済みだ――」
「――いっそこの場で千切れて消えろ!!」

 翼蛇が高速で空中を疾駆して、哄笑しながらルイズに迫る。
 水と風の化生としての本性を表した有翼半魚の姿のルイズは、虚ろな瞳で、だらりと鱗に覆われた腕を吊り下げる。

 『夢のクリスタライザー』を、また従者(ガンダールヴ)のサイトを、そしてルイズ・フランソワーズという全存在を掛けて、タルブ村の戦いの、最終局面――開始。


◆◇◆


 闘いはのっけからルイズの防戦一方で展開した。
 終始ルイズは受けに周り、翼蛇に全く反撃をしない。出来ない。
 そんな気力が存在しなかった。
 彼女の意思が挫けつつあるのを確認して、翼蛇はニンマリと笑う。

「あははっ。ねえ、疲れているのでしょう? 先の見えない邪神たちとの戦いに。ウンザリしているでしょう? 夢の国に引きこもって自分の世界に耽溺したいとは思わないの?」
「……っ! 私には、やることがあるのよ。そんな暇はないわ」
「嘘! 実はもう疲れきっているくせに。私は貴女の分身なのだから、お見通しよ。貴女のそんな素直じゃないところは、直した方が良いと思うわ」
「何を分かった風な口を……。自信満々で傲慢なアンタを見てると、虫酸が走る。“幸せになる”だなんて、乙女みたいなこと言って、どうかしてるわ。私の分霊のくせに」

 お互いがお互いを自己嫌悪。
 全く自己嫌悪で忙しい。

 蛇の突撃(チャージ)を受けて、ルイズが密林の中の木々をへし折って吹き飛ばされる。
 半ばから折れた木々の残骸の合間を縫うように、朱鷺色の羽根の翼蛇が飛来する。

 またバカの一つ覚えみたいに体当たりか、と当たりをつけて、ルイズはクロスアームと丸めた翼を重ねてガード。
 しかし、蛇はルイズの横を通り過ぎる。
 そして空を疾走する蛇は行き掛けの駄賃に、その尾でルイズを絡め取る。

 瞬間、猛烈な電撃がルイズを襲う。

「きゃぁあああああっ!?」
「あはははははっ! どうかしら? さっき充電した天誅五束の雷鎚の味は!?」

 全てを喰らう貪食の蛇であるところの翼蛇は、『雹』から『零』に放たれた気象兵器・戦術天誅五束撃の威力を、『零』の内側で吸収し、蓄電していた。
 それを、絡め取ったルイズに向けて開放したのだ。
 オリジナルの天誅五束撃に劣るとは言え、それは連戦で弱ったルイズを瀕死に追い込むには充分過ぎる威力であった。

「――か、かはっ、ひゅっ――」
「満足に呼吸も出来ないみたいねー。でも安心して。ちゃぁあんと、心臓マッサージしてあげるからぁぁああ!」

 変異したルイズの異形の腕から、焦げた鱗が剥がれ落ちる。
 息も絶え絶えなルイズを尾先に握り、翼蛇がびゅるん、とそれを振り回し、周りの木々や地面に叩きつける。
 そしてついでとばかりに、振り回しながら電流を流す。

「13万ボルト絶叫電撃(エレキシャウツ)、アーンド、10億ビート!! 刻め心臓の鼓動!」
「が、ぎぎ、ぎ、ぁあああ――!?」
「ああ、でも貴女ってちゃんと心臓あるのかしら? 化物だし、その辺どうよ?」
「ぐぁ、ぁあ、あ、あ、あ、わた、し、は、ニン、ゲン、よ! ぐぎ、ぎぁ――!?」

 ルイズの身体が猛烈な勢いで振り回され、周囲の樹をへし折り、斜面を陥没させてゆく。
 小さな彼女の身体に加えられたダメージは如何ほどの物だろうか。
 翼蛇は、祠のある丘を覆う密林を駆けずり回り、引き回して、ルイズを散々に振り回して叩き付けつつ、遂に最初に対峙した祠の前の小さな湖にまで帰って来た。

「う、うぅ……」
「ん~、そろそろ下拵えは良いかしら。電流で弱らせて、叩きつけて柔らかくしたしー。あはは、それにしても、歯応えが無さ過ぎるわよ? 不抜け過ぎも良いところなんじゃない?」
「くぁ、なん、これ、え、力が、吸われて、奪われて……?」

 巨大な力が、ルイズの方から翼蛇の方へと流れ出していることに、漸くルイズが気づく。

「漸く気づいたの? ポテンシャルは貴女のほうが高いんだろうけれど、逆に言えば、それは力が低きに流れ易いということ。適切なパスを作ってやれば、同属性の私の方に力が流出し放題、という訳。接触を許したのが貴女の敗因ね」
「最初の突撃は、その、下準備……?」
「その通りー。じゃあ、吸える分はもう吸ったし、後はその出涸らしを飲み込んで噛み砕いて磨り潰すだけねー」

 ぽい、と蛇がルイズの身を上空に放り投げる。

「おやすみ、化物。夢の底で眠りなさい」

 簡単に弔辞を述べて、蛇が大きな口を開けて落ちてくるルイズの元に飛来する。

「私は……、人間よ……。そう、よね?」

 誰に向けるともなく、空中のルイズが呟く。
 しかしそれに答えるものが居た。
 この場に臥していた黒髪の従僕が、朦朧としながら立ち上がろうとしていた。

「しらねーよ」

 霞がかった頭でサイトは答える。
 彼の身体は未だに痺れ、周囲の状況を把握するどころではない。
 それでも彼は、彼女の問いに答えた。
 使い魔と主人は運命の軛で結ばれている。

「ルイズは、ルイズだろう。ゼロのルイズ。俺のご主人様」

 彼の言葉は、落下する彼女に届いたのか、届かなかったのか。
 翼蛇が愛しのダーリンを見て、身悶える。

「いやぁん、サイト。そっちじゃなくて、私を見て! あ、でも、食べてるところは恥ずかしいから、ちょっと眠ってて。『眠りの霧』よ、サイトを眠らせて!」

 『スリープ・クラウド』の魔法が、サイトの意識を再び刈り取る。

「待ってて、サイト。直ぐに“ルイズ・フランソワーズ”に成り代わってしまうから。そうすれば、ずっとずぅっと一緒よ! うふふふふふふふ――じゃあ、いただきマース!」

 翼蛇が、それ以上は愛しいサイトの言葉をルイズに聞かせまいと、嫉妬に駆られて加速。
 大口を開けて、ばくり、とルイズの身体を呑み込んだ。
 翼蛇の胴体が蠕動し、ルイズを呑み下していく。

 ――が、途中でピタリと翼蛇は動きを止める。
 蛇の内側でルイズが暴れて抵抗しているのか、蛇の身体のルイズが居ると思われる場所が人の腕の形に中から突かれて膨らんだりしている。
 ルイズが最期の力を振り絞って抵抗しているのだ。

「ぐ、この、往生際が悪い……! 抵抗、するなっ」

 翼蛇が身を捩りながら天に昇る。

 そして密林結界の上に飛び上がるそれを追って、一つの小柄な影が林冠から飛び出してくる。

 それは生物的な曲線を持った黒光りする鎧であった。
 より正確には、罅が入って砕けつつある鎧の上半身。
 護鬼・佐々木武雄が纏う『雹』の残骸。
 右手に軍刀を持ち、左手一本で木々の枝を掴んで跳躍する姿はまるで、悍ましい妖怪のようであった。

「おおおお!! 魔女よ、助太刀致す! よもや自らの分身に負けるなどという無様を許すつもりではあるまいな!?」

 枝を掴み、しならせて、その反動を利用して『雹』の残骸が跳躍する。

「加速、噴射!」

 ジャングルの林冠を超えてからは、『雹』の残骸は、背後から噴射剤を猛烈に噴き出す。
 そして宙を一直線に蛇の方へと向かう。

「こ、の、死にぞこないの異世界人め!! 老害! 叩き落としてやる!」
「漁夫の利を許すつもりはないぞ! 儂が敗けたのは魔女であって、貴様ではない! 蛇め、かっ捌いてくれる!」

 翼蛇は尾をくねらせて螺旋のバネのようなネジのような体制になり、『雹』を迎撃せんとする。
 一方の佐々木氏の上半身は、軍刀を大上段に構えた体制で、背後のバーニアを噴かせてさらに加速。

「おおおお!!」
「来なさいっ」

 翼蛇が螺旋型にタメた身体を、猛然と突き伸ばす。
 射程は圧倒的に翼蛇の方が長い。
 一瞬で蛇の尾が、佐々木氏に迫る。

 次の瞬間。
 ドリルのようにひねりを加えられた必殺の一撃が、『雹』の胸の中心を貫いた。

「ふン、死にぞこないの残骸め。ついでだ。ルイズ・フランソワーズを消化したら、お前も喰らってやる」
「……ふはは」
「何が可笑しい」

「つ か ま え た ぞ」

 ドロリと呪言のように『雹』から声が漏れる。
 固まりかけの血液のようなその言葉に、翼蛇はゾッと鱗を逆立たせる。
 急いで尾の半ばくらいまで刺さっている『雹』を遠心力で吹き飛ばそうと尾先を振り回す。

「離れろ、亡霊!」
「無駄だ! ……ええい、何処だ、魔女よ!? 返事をせんか!」

 佐々木武雄は自らの体幹の筋肉を締めて、抜けないようにがっちりと蛇の胴体を固定。
 そして翼蛇の内部のルイズに呼び掛ける。
 その時、呑まれたルイズがボコボコと翼蛇の腹の中で暴れ、自らの居場所を示す。

「くそ、ルイズ・フランソワーズ、大人しく吸収されとけっ」
「そこか!?」
「ああもう、貴様も、もう死ねっ! すぐ死ね! 疾く去ね! 私とサイトのラヴラヴ計画を邪魔するなっ」

 翼蛇の中でルイズが暴れる。
 空中で翼蛇が暴れる。
 『雹』の残骸が、軍刀を握った右篭手をルイズが暴れたあたりに向ける。

「瞬脱装甲弾、右篭手限定!」

 そして瞬時に、右篭手が猛然と発射される。
 強化外骨格の伏せ札、瞬脱装甲弾。
 装甲を猛然と弾けさせて散華するため、その後着装者は無防備となる、正に奥の手。

 本来ならば指を伸ばした貫手の形で瞬脱されるはずの右篭手は、軍刀を人外の執念と握力で握りこんだ佐々木氏の右拳ごと引きちぎって流星のごとく空を駆ける。

「な、ロケットパンチ!? くっ!?」

 驚く翼蛇は、急いで回避。
 神刀を握った孤拳は、その勢いのまま彼方に飛び去る。

「は、ははは、残念、外れよ! よくも驚かせてくれたわね! でも避けられては意味ないわ!」
「……鋭利過ぎる切断面は、瞬時容易には開きはせぬ……」
「何を――ぅぶっ!?」

 回避しきれていなかった。

 蛇が身悶えし、奥の手の成果を確信した『雹』が脱落する。
 そして遂に翼蛇の腹が神刀の一閃により裂ける。
 その中から現れるのは――。

「ぐぁあああ!?」
「――ぅらああああ! 私は、私だ! ルイズ・フランソワーズだっ!!」

 夢の国の女王ルイズ・フランソワーズ――新生。


◆◇◆


「私は私よ! 良いことを言ったわ、私の従僕、平賀才人! “ルイズはルイズ”、確かにその通り! ――って寝てるわね、サイト。まあいいわ。礼は後でしましょう。期待しておきなさい」

 蛇の臓物色に染まった彼女は、彼女本来の幼く可憐な姿。
 たとえ血の色に染められようと、その意志力の輝きは隠せるものではない。
 威風堂々、明鏡止水。
 烈風と清流の申し子ルイズ・フランソワーズ、ここにあり。

「ぐ、しぶとい!」
「ふン。最早私は十全よ。ついでにアンタの臓腑の幾つかをかき回して引きちぎってやったわ。もう敗ける気はしない」
「だから何だというの!? こっちだって後には退けないのよ!」
「知ってるわ」

 翼蛇の胎内からまろび出たルイズは、風を操ってふわりと眼下の湖面に降り立つ。
 それと同時に、清澄な風が吹き抜け、密林結界に侵食された境内を、再び静寂な湖畔に塗り替える。
 ルイズ・フランソワーズは、万全であった。

「来なさい、いえ、還ってきなさい。私の分身」

 柔らかくルイズ・フランソワーズが微笑む。
 翼蛇はその柔和な雰囲気に戸惑う。

「今更、何を」
「王者には寛容さも必要よ。許すつってんの。今ならね」
「馬鹿いってんじゃないわよ」
「ハ、私がこう言うとは予想できなかった? アンタの貪食と狡猾の性質は、私をオリジナルに進化発展させたものでしょう? じゃあ、どうして私がそんなことを言うのか分かるわよね?」
「……つまり、欲しくなった、と。ある面でオリジナルを上回る翼蛇たる私のことが」
「ご賢察。流っ石は私の分霊」

 ケラケラとルイズが無邪気に陽気に笑う。
 貪欲で強欲なルイズは、自分とは異なる方向に発展した翼蛇のことを取り込みたくて仕方が無くなってしまったのだ。

「ふざけるな! 私とサイトの恋路には、貴女は邪魔なのよ! 障害以外の何モノでもないわ!」
「その独占欲、紛れもなくアンタは私の写し身ね。ああやっぱり。ならばそして」

 ざわざわと湖上の空気が変質する。
 ルイズの長いピンクブロンドの髪が、悍ましい気配を孕んで逆立っていく。
 逆光と髪の影で、ルイズの表情は窺い知れないが、きっときっと三日月のように哂っているのだろう。
 翼蛇は戦慄し、緊張に耐えられず、驀地に策も無しに大口開いて全力で突撃を仕掛ける。

「蛇よ、アンタも良いことを言ったわ。“オリジナルを超克してこその複製品”。成程なるほど、その通り。そして複製品の利点は何処にあるか知っているかしら?」
「――ガアアアアアアアアア!!」
「それはズバリ、複製できること。量産できること。つまり――」

 逆立っていたルイズの長髪が、彼女の意思を受けて変容する。
 ピンクブロンドの髪は、同じ色の羽に。
 別れた髪の束は、複雑な紋様の蛇の身体に。

 即ち、朱鷺色の翼と腐り蛇の胴を持つ九頭の翼蛇に。

「複製変容術式『九頭龍』。アンタの体内(なか)から、アンタのことはようく観させてもらった。解析は既に完了している。量産することなんて訳もない。じゃあ――」
「メデューサめ! 化け物め! ヒドラめ! もう一度喰らって殺る!」

 最後の力を振り絞って迫る翼蛇。

 ルイズが蛇髪を揺らめかせながら、胸の前で手を合わせる。
 従僕サイトから習った異国の簡素な食前儀礼。
 ルイズの髪が変じた九頭の蛇が、牙を露(あらわ)に翼蛇に向かって口を開く。

「――いただきます。そして、おかえりなさい。お帰りなさい。お還りなさい。私の分霊」

 ばりばり、むしゃむしゃ、ごくん。


◆◇◆


 一仕事終えたルイズは、九頭竜の蛇髪を解除し、境内の片隅に来ていた。
 そこにあるのは、護鬼の成れの果て。
 右腕を失い、罅に覆われた『雹』の上半身。

「佐々木殿。ご助力感謝いたします」
「…………、魔女か。その様子だと、勝ったようだな」
「はい。貴方のお陰で」

 驚くべきことに、そんな有様になっても、佐々木武雄は生きていた。
 数十年の執念がなせる業か。
 あるいは彼を基点として敷かれた密林結界が彼を生かしているのか。
 それは定かではないが、とにかく、護鬼・佐々木武雄は生きていた。

 そんな佐々木氏に向かって、ルイズが軽く握った手を差し出す。

「なんだ? 飴玉でもくれるのか?」
「……貴方の祖国への忠誠と、天下無双の勇猛さに敬意を示すとともに、いままで神宝『夢のクリスタライザー』を守護して頂いたことと、さきほどのご助力に対する感謝として――」

 ゆっくりと、ルイズの掌が開かれていく。
 それと同時に、輝きが掌の隙間から漏れる。
 護鬼が目を見開く。

「おお、おお! こ、これは――!!」

 ルイズの掌の中には、黄色く輝く鶉の卵のような形と大きさのクリスタル。
 中からは雛の鳴き声のような、微かな夢笛の音。
 まるで『夢のクリスタライザー』の小型版のような、それ。

「『夢のクリスタライザー・レプリカ』。オールド・オスマンの魔法のような業子(カルマトロン)の複製には至らなくとも、実物が目の前にあれば、私でも『夢創』の魔法で劣化品くらいなら創ることが出来ましたわ。もっとも、今はこの大きさが精一杯ですが」

 ルイズがほぼ全身全霊を尽くして、夢の大帝ヒプノスに代わって創り上げた、『夢のクリスタライザー・レプリカ』。
 彼女の人外の精神力を以てしてもそのレプリカは、体積にして千分の一ほど、性能にいたっては万分の一にでも届けば良い方という惨状だ。
 しかし、神の持ち物を曲がりなりにも複製できるという時点で、ルイズの人外っぷり化物っぷりは極まっている。
 それについては、彼女は「誰に何と言われようと、我を通す!」と開き直りの決意をしたようであるが。

 『夢のクリスタライザー・レプリカ』を手に、ルイズが朗々と詠唱する。
 彼女が詠唱するのは、ハルケギニアの魔法。
 時空を越える魔法。
 失われたペンタゴンの一角。
 この場を形作る佐々木武雄の妄執を縁として、彼方と此方を繋ぐ『世界扉』の虚無魔法が起動する。

 拳大の小さなゲートの向こうに見える景色は――。


◆◇◆




 蜘蛛の巣から逃れる為に 20.桜吹雪の九段坂




◆◇◆


「おお……! うぉおおお! あれは、あれはまさか……、靖国の、九段の桜か!?」

 護鬼の目から涙が零れ、声が感激に潤む。

 ざわ、と『世界扉』のゲートを中心に春風が『夢の卵』を奉った丘を駆け巡る。
 ただ風が駆け巡るだけではない。
 一陣の日本の風が吹き抜けた後、そこに見えるは桜色。

 まるで佐々木武雄の心の有様を反映するように、密林結界が、晴れやかな桜色に塗り替わる。

 桜。桜。桜。
 丘を覆っていた常緑の密林の面影は、もはや無い。
 見渡すかぎり一面の桜の花と、そこから溢れる桜吹雪。

「貴方の執念が繋いだゲートです。ならば、繋がる先は、貴方が知っているはず」
「おぉ、おぉ、おぅ! 感謝する、魔女よ! かたじけない!」
「この『夢のクリスタライザー・レプリカ』は差し上げます。レプリカとこのゲートは、私からの餞です」
「かたじけない、かたじけない、かたじけない! 千の言葉を尽くすとて、万の感謝を述べたとて、とてもこの想い伝えきれぬ!」

 さらさらと、強化外骨格『雹』が崩れていく。
 桜吹雪に包まれて、一陣の風となっていく。
 祖国のために、鬼になってまで命数を永らえさせた軍人が、仲間の魂が祀られた靖国のお社に向かって。

「ああ、そこに見えるのは隊長殿か? 水島上等兵も、おお、同期の武田も居るじゃないか! 今すぐ行くぞ……ああ、懐かしい、懐かしいなあ!」

 彼の目には、きっと戦争で散っていった仲間たちの魂が見えているのだろう。
 佐々木武雄は、泣きながら桜色の風になって、ルイズの掌にある『夢のクリスタライザー・レプリカ』に纏わり付いて、それを持ち上げる。
 連戦とレプリカ創りと異界へのゲートを作成するのに、極零の魔女の精神力は消耗している。このゲートも長くはもたない。

 桜吹雪をはらんだ風となって急いで小さなゲートに飛び込もうとした彼を、呼び止める者が居た。

「ひいおじいちゃん!」

 夢の祠から飛び出してきたのは、彼がこの地に作った絆。
 黒髪黒目の、日本人の血を色濃く受け継いだ、曾孫のシエスタ。
 彼女は「行かないで」と叫びたかった。
 しかしどうして引き止めることが出来ようか。
 積年の未練を果たそうとしている彼を誰が引き止められるだろうか。

「おぉ、シエスタ……! すまぬ、済まぬ、しかし逝かねばならぬのだ……!」

 佐々木武雄の中にも葛藤があるのだろう。
 吹き留まった春風が、黄色い卵円形のクリスタルを中心にして渦を巻く。
 果たしてその葛藤を破るのは、境内に踏み入れる足音であった。

「ルイズ。言われてた『雹』の右腕と軍刀、回収してきたぜ。つか、この桜、何?」

 足音のあるじは、瞬脱装甲弾で彼方に飛んだ『雹』の右篭手と神刀の回収を命じられたサイトであった。
 彼は魔刀デルフリンガーを片手に、その身体能力を生かして駆けずり回って、それらを見つけてきたのだ。
 サイトの手に握られたそれらを見て、佐々木武雄は覚悟を決める。

「さらば、然らば、去らば! シエスタよ!」

 ざわざわと、びょうびょうと、桜吹雪が虚無のゲートに向かって吹き荒ぶ。

「ひいおじいちゃん!」
「さらば、シエスタ! だが、これを限りでは忍びない。第二の故郷タルブへの未練もまた生半なものではない。故に――」
「うわっぷ!? 何だ、風が!?」

 桜色の風が、サイトの手から強化外骨格『雹』の篭手と神刀を奪う。
 『夢のクリスタライザー・レプリカ』と、祠の中の本家本元の『夢のクリスタライザー』が共鳴するように強く発光する。
 光は神刀に宿り、また超鋼の篭手を金属鏡へと変形させる。

「――分け御魂(わけみたま)。儂が封印した【夢のクリスタライザーの守護者】の力を込めし神刀『夢守』、そしてこの地(タルブ)への未練を込めた超鋼の磨き鏡が、子々孫々に渡ってシエスタたちを護るだろう……」

 ざぁ、とひときわ強く満開の桜の枝がしなって揺れる。

「かたじけない、ルイズ・フランソワーズ。見事な強化外骨格の扱いであったぞ、才人君! そして、さらばだ、シエスタ!」
「ええ、お元気で」 「え、はい、ありがとうございます」 「ぐすっ、うん。さようなら! ひいおじいちゃん!」

 一陣の桜色の風が、黄色いクリスタルの卵を核にして、ゲートを潜る。
 九段坂の桜吹雪の中へ、任務を果たしに、今、佐々木武雄が帰る。
 桜の花びらが散る幻想的な光景の中、何処からともなく歌が聞こえる。
 聞こえる歌は「同期の桜」だ。

――――貴様と俺とは同期の桜 離れ離れに散ろうとも 花の都の靖国神社 春の梢に咲いて会おう

 白銀のゲートが一瞬閃光を放ち、次の瞬間には消えてしまった。
 からんがらん、と超鋼の磨き鏡と神刀『夢守』が、ゲートのあった場所に落ちる。
 桜吹雪が舞い落ちる中、慌ててシエスタがそれらに駆け寄る。

 落ちた鏡は鈍く輝き、桜色を映し返す。
 だがそこに見えるのは鏡写しの景色だけではない。
 彼の未練が虚無の『世界扉』の魔法を鏡の表面に凝結させ固定化して繋ぎ止めたのだろうか。
 超鋼でこさえた護り鏡には、彼が去っていった遠い異界の桜の社が映り込んでいた。

――――貴様と俺とは同期の桜 離れ離れに散ろうとも 花の都の靖国神社 春の梢に咲いて会おう


=================================
気づいてるかと思いますが、原作3巻~4巻の話しを消化中。タルブ村の話とか、惚れ薬の話とか。
佐々木の爺さんはプロット当初からこのくらい強い予定でした。蛇さんは多分黄泉帰るはず?
アンリエッタ女王(トリステイン&ゲルマニアの様子)とかシャルロット姫(元)とかの様子は、今回に含めたかったのですが、最近SS書く時間が取れなかったのと桜の季節が終わる前にこれを投稿したかったので、次回以降に持ち越しです。

2011.04.19 初投稿



[20306] 蜘蛛の巣から逃れる為に 21.時の流れ
Name: へびさんマン◆29ccac37 ID:b87f4725
Date: 2011/04/27 08:04
 壊れた朱鳥居の参道。
 晴れやかな桜吹雪が舞い散るそこを、虚無の主従一行がそろそろと下りていく。
 参道の階段も護鬼・佐々木武雄との戦闘や、分霊翼蛇との戦闘によって散々に破壊されつくされているが、それはルイズのマジックカードによる『錬金』の魔法で石段が整え直されている。

 大事そうに30サントほどの卵型の黄色い結晶のアーティファクト『夢のクリスタライザー』を抱えるルイズ。
 そして彼女をさらにお姫様抱っこで抱える、複雑そうな表情でかつ真っ赤な顔のサイト。腰には魔刀デルフリンガーを結わえている。
 ルイズを抱えるサイトの後ろには、普段どおりのメイド服姿になって、曽祖父から託された神刀『夢守』と超鋼の護り鏡を持ったシエスタ。

「えへへ~。ようやく『夢のクリスタライザー』が手に入ったわ~。嬉しい~」

 『夢の卵』を大事そうに抱えるルイズの表情は蕩けきっている。
 積年夢見た呪物をようやく手に入れることが出来たのだから無理も無い。
 夢の世界において想像して創造した物品を現実世界に持ち出せる『夢のクリスタライザー』があれば、幻夢郷(ドリームランド)に建造された彼女の夢の王国から様々なものを現実化(クリスタライズ)することが出来る。

 つまり彼女の精神が許す限りにおいて、あの蜘蛛の眷属たちを瞬間的に凌駕する物量・人員を召喚することすらも可能なのである。

 とはいえ、今現在ルイズは、度重なる戦いによって意志力がすり減って、歩くこともままならない状態である。
 あと数日は、『たれルイズ』モードで、心の力を回復させなくてはならないだろう。
 ガンダールヴにお姫様抱っこされているのにはそんな理由があった。

 一方、ルイズの無防備な満面の笑みを至近距離で見ているサイトの心臓は、まるで早鐘のように高鳴っている。

(あああ、やばいやばい、すっげえ可愛い。まじかわいい)

 ――だが、サイトとしては、主人であるルイズに対して複雑な想いをいだいている。
 それは、ここ数ヶ月のあいだ夢の世界で蜜月を過ごしてきた、あの翼蛇のことが関係している。
 ルイズの蛇髪によって無残に食い散らかされた、あの一途な翼蛇だ。

(でも、翼蛇を――俺の魂と混ざり合っていたあの蛇を、ルイズは喰ったんだよなあ……)

 自分の中の何かが失われたような、心にぽっかり孔が開いたような、喪失感と悲しみ。
 何も喰らうことはなかったろうに。
 翼蛇を喰ったご主人様(ルイズ)に対する憤り、反抗心。
 目の前の幸せそうな主人に対する、愛おしさと庇護欲。

 サイトのぐちゃぐちゃのないまぜの心模様は、決して周囲の桜道のような晴れやかなものではなかった。

 従僕の葛藤を見て取ったのか――喰らった翼蛇がサイトの魂に刻んだ残根と、サイトに『カーの分配』で移植した左眼のパスから感情が流れ込んだのか、ルイズがサイトに目を合わせて、彼の首に片腕を回して、まるで頬にキスするくらい近くで囁く。

「そんな妙な顔をしないで頂戴、サイト。私のガンダールヴ」

 まどろみの瞳で、夢見心地で、吐息が交換されるくらい近くでルイズが囁く。

「あなたのイクサバタラキに、私は恩賞を出そうと思うわ。何がいいかしら――」

 恩賞。
 褒美。
 それを聞いて、サイトの脳裏によぎるのは、やはりあの翼蛇のこと。
 最初は食欲からサイトを欲し、やがて一心にサイトのことを愛するようになった、あの朱鷺色の翼の腐り蛇。

「――ええ、分かっている、分かっているわ。私もあの蛇の一途さに思うところがない訳ではないもの。あの蛇も充分に役目を果たして、サイトを天誅五束の雷撃から守って、護鬼を足止めして……、と、私に刃向かったものの、恩赦を与えるに相応しい働きをしたわ。残酷に喰らうことで、もう罰は、禊は果たされたし――」
「じゃあ――」
「王者には寛容さが必要よね。だから――」

 白昼夢の『デイ・ドリーム』の魔法作用によって濁った目をしたルイズの髪の毛が一房、ざわり、と蠢く。
 同時に、彼女が、親鳥が卵を温めるように大事に抱える『夢の卵』が、一瞬燐光を放つ。
 『夢創(ドリームクリエイション)』、そして、夢の現実化(クリスタライズ)。

 ルイズのたおやかな桃色の髪の毛から生み出されたのは。

【サイト! サイトー!】
「――復活させてあげるわ、翼蛇(ククルカン)。アンタの一途さと、サイトへの褒美として。サイトに感謝なさいな」

 50サントほどの細い体を持つ、一つ目の蛇。
 朱鷺色の翼を持つ、派手な紋様の蛇が、ルイズの髪の房から生み出され、パタパタとサイトの周囲を飛び回る。

「おお! サンキュ、ルイズ! って、おいやめろ、くすぐったいって!」
【サイト! 大好き! これでずっと一緒ね! 人間の身体は手に入らなかったけれど……】
「覚醒の世界(ハルケギニア)には、先住の『変化』の魔法があるわ。翼蛇のアンタが充分に力をつければ、人型に変化することも出来るでしょうよ。精進なさい。韻竜でも喰らうのが手っ取り早いでしょうけど」
【本当!? やったぁ! 早速韻竜探してくる!】

 どこかで青い鱗の風韻竜が悪寒を感じたとか。

「良かったな! 頑張れよ」
【うふふ、期待してて頂戴。人の姿になったら、あーんなことや、こーんなことをしましょうねぇ】

 ミニチュアバージョンで復活した一ツ目翼蛇がサイトにじゃれつく。
 サイトの首に巻きつき、桃色の翼で彼の頬を撫でて、細い二股の舌を耳朶に這わせる。
 その胴体で、サイトの顔とルイズの顔の間に割り込んで、ルイズの顔を遠くに退けようとする。【サイトに近すぎよ、本体! 離れなさい! 復活させてくれたのには感謝するけど】 「私の従僕なのだから、どうしようと私の勝手よ」
 ルイズがそんな一ツ目翼蛇の胴体を掴もうとするが、さらさらと滑る鱗によって上手く掴めない。「この、欝陶しい……。大人しくつかまりなさい」 【捕まるもんですか。私を捕まえていいのはサイトだけよ。だいたい捕まえたいなら、先ずはその夢見の魔法で寝ぼけた頭をすっきりさせてから出直しなさい】 

「ふふ、まあ良いわ。復活させたのは別にアンタたちの為じゃないんだから。索敵用に、空を飛べて狭いところにも入っていけるファミリア(使い魔)が欲しかっただけなんだからねっ。まあ後で適当に名前でもつけてあげなさい、サイト」

 ツンデレですね分かります。
 後ろでその様子を見るシエスタは、若干の疎外感を覚えつつも、仲の良さそうな主従(+パタパタ飛び回る翼蛇)を見守る。
 シエスタの手の中の、曽祖父が遺してくれた神刀『夢守』と鈍く輝く桜を映す磨き鏡が、彼女に不思議な温かみを伝えてくる。

(『ルイズさん乙女化計画』の成果が着実に……! まあ、さっきサイトさんにぞっこんラヴの翼蛇さんを吸収したから、その愛情が伝染したのもあるんでしょうけれど)

 それにしても。
 シエスタはパタパタとメイド服の胸元を広げて風を送る。
 何だか暑くないだろうか。

 ……いや目の前でいちゃつく奴らのせいじゃなくて。
 もっとこう気候的な意味で。

 確か鳥居を潜って祠に向かったときは、まだ若草の季節だったはず。
 だが今ではまるで、盛夏のような暑気ではないか。
 シエスタのこめかみから首筋を伝って、メイド服の胸の谷間に汗の珠が流れる。

 シエスタは桜の間から覗く太陽を見上げる。
 太陽は未だ東にあり、まだ午前中のようだ。
 ……はて、境内に入ったのは、昼を過ぎてからだったはずなのだが。

「……何か、おかしいですね……」


◆◇◆




 蜘蛛の巣から逃れる為に 21.時の流れは泡沫(うたかた)の夢




◆◇◆


「タルブが……っ!?」

 桜に染まった境内を降りたシエスタの目に入ってきたのは、衝撃的な光景であった。
 自分の故郷たるタルブ村、それがまるで変貌してしまっていた。
 あの牧歌的でのどかな光景は、欠片も残っていない。

「村が、私の村が――」

 土色の田舎道は、何かの吐瀉物や灰をぶちまけたかのような色と風合いに。
 豊かな草原は、巨大なクレーターの縁で林立する岩柱を思わせるものに置き換わって。
 わらべ唄を歌う子供たちの代わりに、毒気を撒き散らす奇妙な見慣れぬケモノたちが唸りを上げて辺りを闊歩している。

「……これは、一体?」
【あら、随分な有様ね】
「変わりすぎだろ……。何があったんだ?」
【おでれぇた】

 つまるところタルブ村は――





 ――発展していた。


◆◇◆


「お姉さま! ああ、お姉さま! お姉さま!」

 何かの吐瀉物にも思える瀝青(アスファルト)と石灰で覆われた道を、遥かな渓谷のような様相で林立するビルの間から、見慣れぬ者には奇態なケモノにも見える小型の自動車らしきものに乗って、ルイズたち一行のもとに向かってくるのは、ルイズの義妹を自称する金髪ツインテール――ベアトリス・フォン・クルデンホルフであった。
 彼女を乗せた車には、キュルケとタバサも乗っているようだ。
 そしてその後方の空には、天を駆けるグリフォンが見える。鞍の形や紋章から見るに、近衛のグリフォン隊の所属騎のようである。騎乗しているのは、珍しいことに女性騎士らしかった。

 自動車からベアトリスが身を乗り出す。

「ああ、お姉さま! そんなにぐったりとされて御労しい。そんな下賤の従僕の腕の中などではなく、直ぐにふかふかの寝床を整えますゆえ!」
「ふにゃ? ベアトリス?」
「ああ、寝ぼけた様子もまたお美しいですわ!」

 車の窓から飛び出して、文字通り飛んでやって来たベアトリスは、シャンリット製のマジックカードを翳し、『夢の卵』を祀っていた祠の麓に、即席の東屋を『錬金』の魔法で造り上げる。
 そしてサイトの方を『貴様には勿体無い』とばかりにキッと一睨みして、次に優しく『レビテーション』の魔法でルイズの身体をサイトの腕から取り上げる。
 半ば以上夢の中の住人となっているルイズは、ふにゃらふにゃらとされるがままだ。

「まるで浦島太郎の気分だ」

 ぼそりと、近代的な街並みに変貌してしまった周囲を見回していたサイトが呟く。
 ほんの数時間のうちに、この村の様子はずいぶんと変わってしまっている。
 サイトのつぶやきをシエスタが耳聡く捉える。

「サイトさん、浦島太郎っていうと、『海の底から帰ってきたら地上では何百年も経っていた』という話ですよね」
「そうだよ、シエスタ。よく知って――って、ああ、あの曾祖父さんから聞いたことがあるのか」
「ええ。ひいおじいちゃんからは、浦島太郎とか、鶴の恩返しとか、幾つか元いた世界の御伽話を教えてもらってました」

 即席の東屋の中にベアトリスの手でルイズが寝かせられる。
 その周囲を甲斐甲斐しく飛び回るベアトリスの様子を所在なさ気に眺めながら、サイトとシエスタは会話する。
 朱鷺色の翼蛇はサイトの首筋に巻きついている。

 その蛇がちろちろ動く舌で鋭く誰か女の香りを捉え、後ろに向かって鎌首をもたげて、シューシューと威嚇音を出す。

 蛇の威嚇音に釣られて、サイトは翼蛇の向いている方向、つまり自分の後ろを見る。

「はぁい、サイト。お久しぶりね」
「……探した」

 サイトの後ろから近づいていたのは、赤と青のデコボココンビ。
 キュルケとタバサ。
 凄腕美人メイジ二人であった。
 サイトにぞっこんの翼蛇が威嚇音を上げるのも、さもありなんという美少女たちである。

「……? 久しぶりって、一日も経ってねえだろ」
「何言ってるの。貴方たちがタルブに出かけてから、もう二ヶ月は経ってるわよ。こっちは色々大変だったんだから。ゲルマニアは無くなっちゃうし」
「そっちこそ何言ってるんだ? 二ヶ月も経ってるわ、け、が……」

 途中まで口に出した言葉は、尻窄みになって消えてしまう。
 何時の間にか外界では時間が過ぎ去っている、という現象。
 サイトには、心当たりがあった。

 幻夢郷と現実世界では時間の流れが異なっているのが通例である。
 昔、サイトが地球に居た頃に、レン高原から生身で幻夢郷(ドリームランド)に迷い込んだ時も、時間の流れがちぐはぐになってしまって非常に難儀した。
 ……その時にレンの蜘蛛(アトラク=ナクアの眷属の化け蜘蛛)に散々に追い掛け回されたのは、彼のトラウマである。

 さて、今まで彼らが居たのは、半ば夢の世界(幻夢郷)と重なり合った桜花結界の内側であった。
 ならば、ひょっとして。
 サイトの言葉の続きを引き取ったのは、シエスタであった。

「まるで……『浦島太郎』?」
「……そういうこと、なのか?」

 シエスタの言葉によって、ようやくサイトにも事態のおおよその所が把握できた。

 気づいたら初夏から盛夏へ移り変わっていた季節。
 午後に祠に入って、数時間しか経っていないのに、太陽が一周して午前の位置にあること。
 見る影もなく発展したタルブ村。
 そして、『二ヶ月間行方不明だった』というキュルケの言葉。
 自分たちが数時間を過ごしたのは、夢の世界の桜花結界の内側であったこと……。

「幻夢郷と覚醒の世界では、時間の流れが異なる……。俺達は、自分たちがあの『夢の卵』が祀ってあった祠に居たのは数時間だと思っていたが、あの切り離された密林結界と鳥居結界の内側は、現実とは違う時間の中にあったってことか。結界の中で数時間でも、その外では二ヶ月も経っていた、というわけか」
「……不思議なこともあるものですね……」

 得心した様子のサイトと、呆けた様子で溜息をつくシエスタ。
 そんな二人を前にして、キュルケとタバサは疑問符を浮かべて首を傾げる。
 ルイズが消耗していなくて正気であったならば、もっと詳しい解説をしてくれただろうが、この場では詮無いことだ。彼女は自分の精神を回復させるために、眠りこけている。

「……まあ、いいや。それより、色々と教えてもらえないか? タルブ村がすっかり変わっちまったことや、この二ヶ月のことについて。俺達は、ちょっとハルケギニアとは違うところに居たから、全くわからねえんだ。ゲルマニアが無くなったとか言ってたが、それは一体? あとタバサ、俺たちを探してたってどういうことだ?」
「ふぅん? 貴方たちに何があったかは、あとで聞かせてもらえるかしら? 気になるから。じゃあ、先ずは私たちから話すわね。まあ、こっちの話は順番に行きましょう」

 長い話になりそうだから、とキュルケが東屋の中に設えられたテーブルに座る。

「先ずは、そうねぇ。この村が――もう規模的には街かしら、どうして急に発展したのか、から話しましょうか。そこのメイドさんも気になってるみたいだし」
「そうだ。幾ら何でも二ヶ月やそこらでこんなに変わる訳ないだろう」
「まあ、それがねえ……。ここ(タルブ)が発達したのは、そこでルイズの世話をしてるクルデンホルフのお姫様のせいよ」
「ベアトリスのせい?」

 サイトはちらりとルイズの世話をしているベアトリスの方を見る。
 キュルケが頷いて続ける。

「そう。知っての通り、あの娘はルイズにベッタリでしょう? 貴方たちが急に行方不明になるから、半狂乱になってね。何とか足跡を辿って、タルブに辿り着いたはいいけれど、そこから先は闇の中。仕方ないから滞在しているうちに、あのツインテ娘は勝手に資本投下して、自分が住みやすいように村を改造し始めたのよ。タルブを治めるアストン伯爵にも随分賄賂を渡してたみたいだし」
「それでも二ヶ月でこんなになるもんなのか?」
「他にもアルビオンからの難民家族の幾つかも住み着いたりしてるみたいよ。『アルビオンの風が“キモチワルイ”から引越して来たんだ』そうよ。空(アルビオン)で何があってるのかしらね?」
「アルビオンなあ……。この間ちょっと行ったけど、あんまり良い思い出ないな。キモチワルイってのには同意しとくけど」
「まあそれはさておき、ベアトリスの実家の蜘蛛商会には、相当な都市改造のノウハウの蓄積があるからねぇ。造っては壊し、壊すために造って1000年。その積み重ねは伊達じゃないわ。この程度はやってみせるわよ」
「半端ねぇな。あとやっぱり系統魔法がスゲェってことか」

 言われてみれば、タルブ街のあちこちに、小柄な人影――改良ゴブリンたちの姿が見える。
 千年間に渡って経験と知識を蓄積し続ける人面樹と、そこから生み出される、生まれながらに熟練のゴブリンたちだ。
 様々な機材を携えた矮人(ゴブリン)の一団が、東屋の直ぐ隣の『夢の卵』の祠があった丘に向かってくる。

 彼らは祠があった丘に登り、測量や魔法的な調査を行おうとしているのだろう。
 幻夢郷と現実世界が二ヶ月に渡って重なりあって存在していたのだ。
 彼らにとっては、例えば荒野のレン高原のような時空重複の場所の秘密を解き明かすための、またとない貴重なサンプルというわけなのだろう。

「……そういえば、ベアトリスがここに来てるのはルイズを探すためだとして、キュルケとタバサは一体どうしてタルブに? 学院は?」
「学院はもう夏季休暇よ。あと私はタバサの付き添い。ゲルマニアがかなりごたついていて、実家に帰るのが怖い、ってのもあるけど」
「そうだ。ゲルマニア。ゲルマニアが無くなったってどういうことだ?」
「あー、そう、それよ! ゲルマニアがトリステインに降った(くだった)のよ!」
「は?」

 ゲルマニアが? トリステインに?
 というか、戦争状態だったっけ?
 軍事同盟結ぶとか、アンリエッタ姫が嫁ぐとか、そういう話が出る程度には友好的だったのでは?
 ゲルマニアのほうが国力が高いのに、トリステインの属国になるとはコレ如何に。

「何言ってるかわからないって顔ね。私もよく分かってないけど……。ゲルマニア皇帝とアンリエッタ姫の結婚式が執り行なわれたと思ったら、何時の間にかゲルマニアがトリステインの属国になっていた、のよ。結婚式は取り止めになって、ね。」
「ますます訳がわからねー。洗脳でもされたのか? ゲルマニア首脳陣」
「その線が濃厚だとは言われてるわ」
「げげー。ルイズから伝え聞くアンリエッタ姫の性格ならやりそうだが……。洗脳から逃れたゲルマニア各地の諸侯は反発しなかったのか?」
「したわよ! 散々にね。でもこの二ヶ月間ずっと、その姫様――今は女王様だけどさ、そのアンリエッタ女王が直々に鎮圧に出てきて、そしたら反乱諸侯は直ぐに杖をおさめて臣従を誓ったそうよ。実家に顔を出したら、うちの父であるツェルプストー辺境伯も、『アンリエッタ様こそ、始祖ブリミル以来の正統、真の主君たるお方。その美しさに魅せられては、従わずには居られない』とかなんとか、ぐるぐるした瞳で言ってたわ」
「……おっかねえ。魔法おっかねえよ。水の国パネェ」

 サイトの脳裏に『誘惑(テンプテーション)』という単語が浮かぶ。
 あるいは傾国の美女。
 妲己とか西施とか。

 ゲルマニア首脳陣や抵抗勢力の洗脳が事実だったとすれば……。
 惚れ薬や精神作用系の魔法がある世界なら、それに対する対抗策も取られていたのだろうが、アンリエッタ姫の洗脳は(彼女の実力か、何者かの手引きのせいか分からないが)それを上回ったのだろう。
 禁呪『ギアス』や禁制品の【惚れ薬】などが禁止されるには、禁止されるに足りる理由があるのだ。

 そして当然、使用実績(・・・・)も。

 ハルケギニア6000年の歴史は伊達ではない。
 魅了の魔法に因るお家騒動なんて、ちょっと歴史書を紐解けば、子爵家や男爵家の例から、王室の例まで、様々な実例を知ることが出来るだろう。
 最も有名なのはトリステインの『魅了王アンリ』だろうか。惚れた平民に『魅了』の魔法が込められたマジックアイテムをプレゼントするくらい、彼は『魅了』の魔法を用いるのに長けていたし、慣れていた。
 最悪を想像すれば、アンリエッタ女王が、あの唾棄すべき【這い寄る混沌】の化身の一つである魅惑の【赤の女王】の依代にされたという線も在るかも知れない。

 何にしても、今のアンリエッタ女王の心の内は碌なものではあるまい。

「だから私はあまりゲルマニアに帰りたくないのよ。みーんな信愛と忠愛に濁った目をしてるんですもの。学院も似たりよったりだし」
「学院も?」
「女王サマが行幸されてね。それで男連中はみんなアンリエッタ中毒よ。あの女王サマ、全身にコレでもかと『魅了』の魔道具を纏っていたわ。きっと目の玉にも外法で『魅了』を仕込んで魔眼にしてるわね。女生徒は男子より『魅了』の効き目が弱いとはいえ、似たり寄ったり。私やタバサくらいの実力者ならともかく、ドットやライン程度じゃ『深淵』のアンリエッタ女王の魅了の魔眼には抵抗できなかったみたい。男子生徒や男性教師は、アルビオンを攻めるための兵隊に志願して行っちゃったわ」
「レイナールやギーシュもか?」
「ええ、ほぼ全員ね。残ってる男は、何事にも動じない蛇みたいな目の『炎蛇』と、小娘程度に誘惑されるような歳じゃない学院長くらいね」
「アルビオンを攻めるのか。ひょっとしてアンリエッタ女王が、元アルビオン王太子のウェールズ殿下のことを好きなのと関係してる?」
「大ありよ。ゲルマニア皇帝との婚姻を破棄して、そのウェールズ殿下を婚約者にして――なんでも随分前に始祖の名で愛を誓った恋文を出していたそうよ。それでそのウェールズ王子と、ラグドリアン湖畔で結婚式を挙げるんだー、ってわけよ。そしたら当然、『アルビオンの正統は我にあり!』ってことで、あの天空大陸に出兵せざるを得なくなるわ。メンツが立たないもの。今では国中で兵隊を募って対アルビオンの為に教練してるわ」
「そりゃまた……」

 ゲルマニアはトリステインに吸収され、実に数百年ぶりに広大な版図を得た。
 かつてトリステインとガリアは『双子の王冠』と呼ばれたが、現代において、トリステインは再び、大国ガリアと互角の力を備えるに至った。
 三王家と教権を合わせた、4つの国家を主軸とした古(いにしえ)の秩序が蘇ったのだ。
 ……ロマリア宗教庁あたりは、実はこの状況に笑いがとまらないのではないだろうか?

 ぽん、とキュルケが手を合わせて、話題を転換する。

「ああ、そうだ、ラグドリアン。そのラグドリアン湖のことで、タバサは貴方たちを探していたのよ」

 青髪の少女タバサ――本当の名前をジョゼット・ドルレアン女公爵という、その彼女は静かに語り出す。
 彼女の治めるオルレアン領は、件のラグドリアン湖のガリア側の岸に接している。
 そのラグドリアン湖畔で、何かが起きている、ということだろうか。

「……手伝って欲しいことがある。『極零(ゼロ)』のルイズとその従者の貴方たちに」


◆◇◆


 トリスタニアの王宮にて、女王アンリエッタは多くの家臣に傅かれていた。
 その隣には、王配となったウェールズ元アルビオン王太子の姿がある。
 まだ結婚式は挙げていないが。

 現在、旧ゲルマニアとトリステインは、常識では考えられない速度で変革が進行している。
 通常であれば、既得権益に囚われて、改革というものは遅々として進まないものである。
 だが、ゲルマニアとトリステインにおいて、その権益に与っていた者たちは、一変し、一掃されたと言って良い。
 確かに人物自体は入れ替わっていない。
 しかし、その内実はどうだ。
 主要なポストに就く者たちから、末端の構成員、果ては一国民にいたるまで、彼らは全てアンリエッタという一個人に心酔しきってしまっている。

 蜘蛛の商会から先代王妃の身柄と引換に供給された膨大な、正に膨大な量の水の秘薬は、二ヶ月間掛けて全国各地を行幸したアンリエッタ女王一行によって消費され、彼女の姿を一目見た人間の認識を書き換えた。
 あらゆる価値基準の一段上に、愛という認識と共に、アンリエッタ女王というものが戴かれることになったのだ。
 食前の祈りにおいて始祖と並び称される女王陛下――まさにその祈りの言葉通りの有様だ。
 神にも等しい我らが女王陛下、というわけだ。

 三度の飯よりアンリエッタ。
 朝の二度寝よりもアンリエッタ。
 妻や娘や孫よりも、アンリエッタ。
 命をかけてアンリエッタLOVE!!

 あっちに人が足りないから移り住めと言われたら、アンリエッタの為にと故郷を捨てて老人までもが大移動。
 国力増進のために魔法を大地や平民のために用いよと言われれば、プライドなど犬に食わせて、アンリエッタの為にとメイジと平民が協力しあう。
 判断に迷えば、アンリエッタ様の御美心(みこころ)を想い、国家のために最善の行動を。

 狂的な主君への愛に基づいた、大改革。
 歴史上類を見ない、大規模で、常識はずれで、スムーズな改革。
 既得権益に与るものたちは、アンリエッタにそれを手放せと言われれば喜んで手放したし。
 トリステイン国家全土をアルビオン奪還の血みどろの総力戦に耐えうる体制にせよと命じられれば、その期待に応えるために、昼夜を問わず激論を戦わせ、最善の方法を最速で実行せんと努力した。

 アンリエッタ=国家。
 朕は国家なり。
 愛ゆえに、彼らは自らの限界を超えて国家(アンリエッタ)に奉仕する。
 アルビオン奪還という至上命題――かつてハルケギニア大陸の王たちが誰も成し遂げなかった難事を完遂するために、かれらは献愛と忠愛の限りを尽くす。

 アンリエッタという女王蜂を頂点に戴く、トリステインという巨大な蜂の巣は、アルビオンに侵攻するために、その毒針を研ぎ澄ませ、また蜜を蓄えているのだ。

「ふふふ。ようやく国内も一段落しましたわね」
「そうだね、アンリエッタ」
「全く、叛徒の子孫のくせに。このハルケギニア正統最古のトリステイン王家に逆らうだなんて発想が出てくるのが不思議でなりませんわ。いや、叛徒の子孫は、やはり叛徒に過ぎないということですか」
「そうだね、アンリエッタ」

 トリスタニアの王城の玉座には、仲睦まじく見える、未来のアルビオン・トリステイン連合王国の王夫妻。
 超高圧の深海底のような重圧に満たされたこのトリステイン女王の謁見室で、提灯鮟鱇(チョウチンアンコウ)の夫婦のように、ベッタリと仲睦まじく見える二人。
 ウェールズに向かって凪の日の海面のように穏やかに微笑んでいたアンリエッタは、その笑顔を海底の泥のように濁った笑みに変えて傅く臣下の方に顔を向け直す。

 女王の微かな体重移動に応じて、玉座が身じろぎ(・・・・)した。

「動くな、椅子」

 玉座の椅子は、人間(・・)であった。

 やや太り気味の中年男性のようである。
 その人間椅子に向かって、アンリエッタは水の鞭を振るう。
 肉と皮が裂ける音と共に、幾許かの血が飛び散る。
 居並ぶ閣僚たちが、人間椅子の男に羨望の眼差しを向ける。

「は、ひぃ」
「椅子が返事をするか? あぁ? 良いか? 私を失望させるなよ? モット伯。前財務卿のニコラス・フーケ告発の功績に対する褒美に、貴方が自分から『椅子になりたい』と言ったのだろう? ならば、椅子の役目を全うしてみせろ」

 今度は椅子の男――王宮勅使のモット伯爵は返事をしない。
 椅子は返事をしないものだからだ。
 興奮に荒くなっていたモット伯の息が細められ、アンリエッタの水の鞭で裂けた皮は『波濤』の腕前を持つ彼自身の水魔法で修復される。
 彼は再び不動の椅子になる。

「それで。マザリーニ、報告を」
「はっ。我が愛しき麗しの『深淵』のアンリエッタ女王陛下」

 気を取り直したアンリエッタが、深海底の泥濘のような笑みで、トリステイン地区暫定総督を務めるマザリーニ枢機卿を促す。
 かつての宰相を筆頭に、ヴィンドボナ州知事にして旧ゲルマニア地区暫定総督を務めるアルブレヒト三世などを含む主要貴族たちが、施された改革の進捗状況を報告していく。

「――地方自治体構造の再編成と連邦国家として必要な各種法整備の進捗については以上であります。最後に、ラグドリアン湖畔の式場設営の件に関してですが、急激な増水が近隣に被害を与えておりまして、進捗が遅れております。水精霊の交渉役の家に、原因究明と、鎮めの儀式を行わせていますが、かの水精霊は荒ぶっており全く聞く耳を持たず……」
「ええ、分かっていますよ。マザリーニ。その件に関しては、とある伝手に――私の信頼できる“おともだち”に解決の依頼を既に出しています。ちょうど彼女には、トリステイン式の由緒正しい式において必要な――ゲルマニア式では省略されてしまいましたが、大切な伝統の役目を依頼しようとしていたところですし。詔を詠み上げる巫女の役目を、ね」
「はっ。流石は聡明なる我らが陛下」
「密使に出したグリフォン隊のアニエスから、そろそろ報告があるはず。マザリーニ、アルブレヒトは引き続き国内安堵のための施策と辺境開発、およびアルビオン奪還のための軍備増強に努めなさい」
「御意。我らの全ては、愛しくも貴いアンリエッタ陛下の為に!」

――ヴィヴラ・アンリエッタ!
――ヴィヴラ・トリステイン!
――我らが愛しき『深淵』のアンリエッタ陛下、万歳!

 万歳! 万歳! 万歳!
 居並ぶ閣僚たちが唱和し、その響きはやがて王城全体に広がっていく。
 謁見室前の衛兵から、廊下を歩く使用人、厨房のコック、庭師、出入りの商人、陳情に来た市民や諸侯、官僚たち、皆がアンリエッタを称える。

――ヴィヴラ・アンリエッタ!
――ヴィヴラ・トリステイン!

 城に居る全ての者達が、アンリエッタを称え、そして自らの献愛に酔い痴れていく。
 それは神に捧げる信仰の恍惚にも似ていた。
 盲愛、献愛、偏愛、忠愛、臣愛――。
 あらゆる形のあらゆる愛があらゆる国民の心の奥底から捧げられ、自家中毒を起こし、恍惚のうちにトリステインをアンリエッタ色に染め上げていく。


◆◇◆


 タルブの祠の丘の隣の東屋。
 そこでタバサは自分の身元を明かし、サイトたちに対して、ある案件についての助力を申し出ていた。
 その“ある案件”とは――。

「要するに“タバサが治めるオルレアン公爵領が、ラグドリアン湖の増水によって浸食されているから、その解決に『極零』のルイズの力を借りたい”ってことか?」
「……そう。飲み込みが早くて助かる」

 いつの間にかシエスタが四次元ポケットから取り出して給仕していた紅茶を啜り、お茶菓子を食べながら、タバサ――ジョゼット・ドルレアン公爵は頷く。

「というか、公爵サマだったんですね。ミス・タバサ。いえ、ミス・オルレアンとお呼びするべきでしょうか?」
「……好きに呼んで良い」

 シエスタの問いかけに、タバサは素っ気無く応える。
 だが、これは公爵が他国の公爵令嬢の一従者に許すには破格の条件だと言えた。
 おそらくは、ここに居る全員が、『赤槌』のシュヴルーズの猛訓練をくぐり抜けてきた同士だということも関連しているのだろう。
 タバサの纏う空気は、リラックスしたそれであった。
 この場に居るのは気心が知れた友人同士なのだ。

「じゃあ、タバサと今まで通りに呼ばせてもらうぜ」

 親しげに、人懐っこい笑みを浮かべてサイトが語りかける。
 ――彼の首に巻きつく翼蛇の締め付けがきつくなった気がする。
 【この浮気者】と責めるような嫉妬の蛇の声が聞こえた気がした。

「でもよぉ、わざわざルイズに頼まなくても、ガリアの公爵家ともなれば、自分のとこで何とかできそうなもんだが。今、ルイズは見ての通りヘタって『たれルイズ』モードだし、出来れば休ませてやりたいんだが」

 ベアトリスが用意した天蓋付きの豪奢なベッドで、当のルイズは眠りこけている。
 ベアトリスはベアトリスで、うっとりと愛しのお姉さまの寝顔を堪能している。
 息も荒く眼つきの危ない金髪ツインテのことは見なかったことにして、サイトは視線を戻す。実害はあるまいし。

「オルレアン公爵家の家門には、今現在、水精霊との交渉役が居ない。私の父――もっとも私は面識はないのだけれど――その血縁上の父である先代オルレアン公爵が反逆しアルビオンに亡命したときに、その交渉役も一緒にガリアを脱したから」
「……他の交渉役は?」
「今回のラグドリアンの大増水で、引退した交渉役も駆り出した。けれど、荒れ狂う水精霊の意思に触れて、誰もが発狂した。近づこうにも、水精霊は寄る者全てに敵意を向けてくる」
「尋常の手段では、解決不可能、ということか」

 サイトは思案する。
 ガリアと言って思いつくのは、あの青髪青髭の中年バカップルの片割れ(タバサの伯父王)だが――。

「なら、尋常じゃない手段なら? ジョゼフって言ったか、あの王サマなら、普通じゃない手段の一つや二つや三つや四つ、助言して実行してくれるだろう?」
「……伯父王には相談した。その上で、『トリステインの虚無を頼れ。奴には貸しがあるからな。きっとそれが良い』と答えられた。他にもガリアの北花壇騎士団も借りられるかも知れないけれど、さすがに自領の問題でこれ以上王家に迷惑を掛けるのも気が引ける」
「……他国の貴族に頼るのはいいのか?」
「……だめ?」

 ズキュン。
 上目遣いと小首傾げは反則です。
 将を射んと欲すればまず馬を射よという言葉が、ハルケギニアにもあるのだろうか。

「だ、だめじゃない。駄目じゃないぞ。うん、俺達は友達だからな! 友人が困ってたら助けるのは人として当然だ! 当然だとも、ハハハハ、ぐぇ!?」

 サイトの首に巻き付いている翼蛇が、彼の首を締めつつ羽ばたいて宙吊りにする。

「苦しい! 締まってる! 締まってるって! ぐげぇっ」
【何よー。小さい娘が好みなの~?】

 見慣れない喋る一ツ目翼蛇という幻獣を見て、いつも通りの毒色紅茶を飲んでいたキュルケと無口さに反して好奇心が旺盛なタバサが目を丸くする。

「あら、見慣れない幻獣ね」
「……珍しい色。朱鷺色の羽根、綺麗。何て種類?」

「ぐ、うぇ。ちくしょう、俺が命の危機にあることはスルーか!?」
【『何て種類?』と訊かれたならば、答えてあげるが世の情け!】

 蛇がサイトの拘束を緩める。
 ドスンと彼は尻餅をつき、「アウチっ」などと情けない声を上げる。
 サイトを解放した翼蛇は、サイトの頭の上をクルクルと巡り飛ぶ。

【私は一代一種の夢想の翼蛇! サイトとルイズの娘!】

 “娘っ!?”とギョッとして赤青コンビが寝台で眠るルイズを見る。
 そして傍らのクルデンホルフ大公国令嬢ベアトリスを見る。
 見なきゃ良かった。瞬時に後悔。

 金髪ツインテールが迸る魔力によって怒髪となって天を突いていた。
 鬼も逃げ出す憤怒の形相。
 血涙が今にも流れそうだ。

 確かにこの翼蛇の成り立ちから言って、ルイズとサイトの娘というのは間違っていないのだが。

【名前は――まだ無いわ。ねえサイト! だから早く名前を頂戴よ! お願い~】

 【お父様~】、などと冗談めかしてサイトにじゃれつく翼蛇は、その空気の読めなさ具合は、確かにルイズとサイトから受け継いでいるようであった。
 だが流石に、いくら空気が読めないことに定評があるサイトでも、自分の背後で燃え上がる何モノかの気配には気づいたらしい。
 霊感など無い零感(レイカン)のサイトだが、その時は、背後で燃えるオーラの色が見えたという。――それは嫉妬の緑色であったとか。

 ひたり、と死人のように白い腕が、彼の肩を叩く。
 ぎ、ぎ、ぎ、とまるで錆びついて油が切れた歯車のように、ゆっくりとじりじりとサイトが首を回す。

 そこには金髪二本角の鬼が居た。
 愛しいおねえさまに近づく羽蟲は叩き潰してやると、その眼が語っている。

「べ、ベアトリスさん? コレはですね、“娘”というのは言葉のアヤで、つまり、その、ご、誤解が――」
「……ピンクは血の色、だそうですわよ。まあ、まずはそれを確かめるところから始めてみようじゃありませんか――?」
「ひ、ひぃーー!? それはよもや頭をカチ割る的な意味で――!?」

 サイトが悲鳴を上げて逃げ出す。
 ベアトリスが嫉妬に駆られてそれを追う。
 翼蛇が【サイトから離れなさいー!】と叫びつつ、ベアトリスをパタパタと追う。
 
 結局、その騒ぎはおよそ30分後に、ルイズが起きてくるまで続いた。


◆◇◆


「何してんのよ、アンタたちは」
「いや、それが、急にベアトリスが」
「あのあの、だっておねえさまの娘がどうこうとかその蛇が」

 ルイズがため息を付いて、彼女が横になっているベッドの前で恐縮するサイトとベアトリスを見る。
 その周囲を環を描くように翼蛇が飛び回っている。
 翼蛇は上機嫌に何かの歌を口ずさんでいるようだ。

【あなたを食べてぇーも、いいですかぁ? 愛しているなぁーら、良いでしょう? 他の誰かにー、盗られるんならー、私の血となり、肉と成れー♪】
「趣味のいい歌ね。でもサイトを食べたら許さないわよ?」
【食べないよー】
「どうだか。実際、夢の世界では喰らってたじゃない。アンタの記憶もさっき祠でアンタを喰らったときに覗き見たから知ってるわよ」
【さて、何のことだか~】

 飄々と蛇が答える。

「まあ良いわ。で、アンタ名前付けてもらったの?」
【まだー】
「サイト、早く名前付けてあげて。名無しで存在が固定されると可哀想よ」

 サイトが一瞬悩む。

「……“エキドナ”。“エキドナ”というのはどうだ?」

 “エキドナ”とはスキタイの半人半蛇の翼ある女の怪物。
 ケルベロスやスフィンクスなどの怪物の母とも言われるものだ。
 エキドナは【まむし女】という意味だという。

【エキドナ。エキドナ! エーキードーナー! 気に入ったわっ!】
「ふぅん。まあぴったりなんじゃない? じゃあ今からアンタの名前はエキドナよ」

 パタパタと嬉しそうに飛び回る翼蛇、改め、エキドナ。

「なかなかセンス良いわね。サイト」
「というかご主人様よー。もう寝てなくて大丈夫なのか? 精神力は回復したのか?」
「ああ、それね。問題ないわ」

 ルイズはベッドから身を起こし、毛布をめくる。
 彼女が全身で抱えるように持っていたのは、琥珀色の卵円形の結晶――【夢のクリスタライザー】。
 小鳥の雛が鳴くような儚い夢笛の音をたてるそのアーティファクトに、部屋の全ての者の目が惹きつけられる。

「……綺麗」

 ポツリと【夢の卵】に魅せられたタバサが呟く。

「幻夢郷と覚醒の世界では時間の流れが異なる――幻夢郷の数時間が、覚醒の世界では何ヶ月にも相当することがある。でも逆に、こちらでは半刻ほどでも、幻夢郷では何日も、回復に充分な時間が経過するということもありうるのよ」

 ルイズが自身の回復速度の不思議についての解説を行う。
 先の護鬼と翼蛇の連戦による彼女の意志力(Power)の摩耗は、生半なことで回復するレベルのものではなかった。
 だが、充分に休息をとり、意志力を高めるための訓練の時間を取ることが出来れば、回復できないレベルのものではなかった。

 そして彼女の手には、夢の世界(ドリームランド)屈指の呪物である【夢のクリスタライザー】が在る。
 さらに彼女は時空と魂の系統である虚無属性のメイジであり、ドリームランドに於いて巨大な王国を持つ屈指の魔女王でもある。
 ルイズは、【夢のクリスタライザー】と虚無魔法によって彼女の夢の国の時間を操作し(・・・・・・)、引き延ばされた時間の中で、夢の国において充分に休息を取り、魔術訓練や瞑想によって意志力を回復させてきたのだ。

「なるほど。つまり『精神と時の部屋』と同じような効果というわけだな」

 独りサイトは呟き納得する。

「じゃあ、タバサ。用件は分かったわ」
「……まだ貴女には話してない」
「“メイジと使い魔は一心同体”。サイトと翼蛇エキドナ――私の使い魔(ファミリア)たちが貴女の話を聞いていたでしょう? そこからパスを通じて記憶を汲み上げるのは容易いことよ」
「納得」
「あと、東屋の外に立ってる近衛の隊員さんも入ってきなさいな。どうせあの過保護の青髭ガリア王あたりから、外交チャンネルを通じて『ルイズ・フランソワーズはタバサに協力するように』と働きかけがあったんでしょう?」

 東屋の出入口から、近衛の制服に身を包んだアッシュブロンドのショートカットの女性衛士が姿を現す。

「“氷餓”のアニエスと申します。ルイズ・フランソワーズ・ル・ブラン・ド・ラ・ヴァリエール殿とお見受けいたします。我らが女王陛下の命により、参りました」

 凍てつく魔風のような空気を纏った女だ。
 彼女が入ってきただけで、東屋の空気が二三度下がったようにすら感じられる。
 獰猛で不吉な風を引き連れて、“氷餓”のアニエスが、サイトの脇を抜けてルイズに近づく。

 鉄錆の匂いと氷の匂いが混じったような、不吉な匂いがした。

(――何だ、このニオイ? どっかで嗅いだことあるような……。昔、北海道に旅行に行ったときに、ウェンディゴとニアミスしたときか?)

 サイトは元の世界に居たときに感じたことのある、北風の眷属のニオイを思い出していた。
 アニエスからは、あのイタクァの奉仕者と同じ空気を感じるというのだ。
 ルイズも、鼻をひくつかせて顔を顰める。

「アニエス……。アンタ、人間よね?」
「……。――ええ。人間です」

 その間は何だ。

「ふーん? 相談事があるなら乗るわよ? 例えば血が滾るのが抑えられないとか、人肉を食べたくて堪らないとか、寒い空に飛び立ちたいとか――」
「いえ、大丈夫ですので」
「まあそう言わずに」
「いえいえ」
「まあまあまあ。これ連絡先。持ってて損はしないから」

 遠慮するアニエスに、マジックカードを使って『錬金』した名刺らしきものを押し付けるルイズ。

「はあ、まあ、では受け取っておきます。それでは、アンリエッタ女王陛下からのご命令をお伝えしても宜しいでしょうか?」
「ええ」

 アニエスが懐から詔勅の書状を取り出し、読み上げる。

「三枚あります。一枚目――“ルイズ・フランソワーズ・ル・ブラン・ド・ラ・ヴァリエールを女王直属ゼロ機関の長官に任命する。トリステイン女王アンリエッタ・ド・トリステイン”」

 ゼロ機関って何さ。

「二枚目です――“ゼロ機関の最初の任務は、ラグドリアン湖の増水の解決である。ガリアからの要請でもあるためオルレアン公に協力し、疾く速やかに為し給え。トリステイン女王アンリエッタ・ド・トリステイン”」

 まあこれは想定の範囲内。
 ガリアの青髭が手を回したのだろう。
 命令書はもう一枚あるというが、それは一体なんだろうか。

「三枚目、最後です――――“私とウェールズ様の結婚式の巫女もお願いね。私の“おともだち”。アニエスに【始祖の祈祷書】を持たせたから、詔を考えておいて頂戴。”……以上であります。こちらを」

 そう言って、アニエスは古ぼけた本を差し出す。

「ミス・ヴァリエール。こちらが女王陛下より預かった【始祖の祈祷書】です」

 それをルイズは受け取る。

「確かに。了解したわ」

 ルイズは笑顔で了承する。

(始祖の秘宝の一つがこんな形で貸し出されるとは思わなかったわ。手間が省けていいけれど。【始祖のオルゴール】も手に入れたし、ジョゼフやヴィットーリオを喚んで新呪文の交換会を開かないと)

 それにしても。

(姫様は、まだ正気なのかしらね?)

 正気にては大業成らず。
 覇道は正に死狂いなり。
 ゲルマニアを何らかの手段で併合して覇道を進むは良いが――。

(まさか邪神の輩に成り果ててはいないでしょうね? もしそうなっていたならば――)

「矯正して差し上げないといけないかも知れないわね。取り返しがつくうちに」


◆◇◆


 アルビオンの新王朝スチュアート朝を、トリステインは国家として認めていない。
 何故ならトリステイン王女の婚約者が前王朝であるテューダー朝の生き残りであり、トリステインとしてはテューダー朝が未だに存続しているものとみなして行動しているからだ。
 なおガリアやクルデンホルフは普通にスチュアート朝を国家として認めており、貿易も行っている。

 むしろクルデンホルフからの融資(担保はオリバー・クロムウェルの異端知識が詰まった脳髄と彼の持つ【グラーキの黙示録】最新版)が無ければ、スチュアート朝は立ち行かなかっただろう。
 トリステインもクルデンホルフのお得意様である。
 先代トリステイン大后が質入されたことは極秘事項だが、都市伝説という形で巷間に流布している。

 王族を質に入れてまで軍備を整えるトリステインの、目下の仮想敵国は、当然ながら天空魔大陸に居を構える白の国アルビオンである。
 物流を押さえてしまえば勝手に干上がるなどと日和見の政治家は言うが、あの無節操なクルデンホルフが取引相手として存在し続ける限り、一国まるごと経済的な混乱に陥ることはない。
 というか、蜘蛛商会が活動しているこの千年間ずっと、ハルケギニア全土に於いて、致命的に大規模な混乱は起きていない。そのように見えざる手が操作している。

 アルビオンからしても、旧王家の嫡男を匿っているトリステインは、明確に敵である。
 まあ空から降りて急襲空賊兼山賊としてトリステイン(ゲルマニア地域含む)を襲わなくてはアルビオンの経済が回らないという事情もあるので、敵というよりは獲物という認識な感じだが。
 スチュアート朝の影の支配者シャルル・ドルレアンの領土的野心もあり、いずれアルビオンとトリステインの間で戦争が起きるのはほぼ確実である。

 というわけで。

「ジャン=ジャック・フランシス・ド・ワルド’(ダッシュ)はロンディニウムにて潜入工作中なのであった」

 ’(ダッシュ)は複製品の意味である。
 つまりワルド子爵のユニークスキルである実体ある『偏在』で造られた即席クローン体であるということ。
 他にも日に日に増える百有余のワルド’、ワルド’’、ワルド’’’……たちがアルビオンにて潜入工作を続けている。
 続けているのだが……。

「ミスタ・ワルド。一体誰に向かって独白しているんだい?」

 取り敢えずこのワルド’の潜入任務は、偶然か故意か分からないが同席するはめになってしまった、目の前の月眼の神官のお陰で台無しであった。

(月眼で美形のブリミル神官……。ドラゴンライダー・ジュリオ。ロマリアの密偵。教皇の右腕。アルビオン国教会(プロテスタント)が発足し、ブリミル教が迫害されているこの地に於いて、コレほど目立つ囮もあるまい)

 大方、この美貌の神官を囮にして、彼を排除しにかかったアルビオンの機関員を、ロマリアの別働隊が一網打尽にでもするのだろう。
 だがそれに巻き込まれた方にはいい迷惑だ。
 お陰で、ワルドの顔もアルビオン側にマークされたと思われる。
 以後は『偏在』たちに何パターンか『フェイスチェンジ』も掛けなくてはならないはずだ。

「はあ。もうトリステインに帰りたい」
「ははは。お互い任務が大変だね。おっと、任務だなんて言葉を使うと、周りにバレてしまうね! 失敗失敗」
「うぜぇ……。本気で帰りたい……」


=================================

キング・クリムゾン! 佐々木氏の結界内は時間の流れが異なっていたのでルイズたちは浦島太郎状態。
タルブ村は、原作で壊滅したのを受けて、ある意味壊滅状態に
ゲルマニアはレジスタンスが湧きまくってましたが、アンリエッタ女王による大規模テンプテーション行脚を続けることで沈静化
愉快なアルビオン情勢については次回。第四回虚無会議も次回で

2011.04.27 初投稿



[20306] 蜘蛛の巣から逃れる為に 22.赤
Name: へびさんマン◆29ccac37 ID:b87f4725
Date: 2011/05/04 16:58
 ロンディニウムの天気は今日もいつも通り、晴れのち曇りのち雨で慢性的に霧の中だ。
 そして彼、トリステインの魔法衛士隊隊長で、単独潜入任務中のジャン=ジャック・フランシス・ド・ワルド子爵の気分も、ロンディニウムの空同様に、曰く言いがたいものだった。
 まあ、こんな天気では気が滅入るのも仕方ない。

「いやあ、全くお互い大変だね。ジャン=ジャック。こんな気色の悪い瘴気のような霧に覆われた街を歩かなくてはならないなんて」

 そしてワルド子爵の気分を更に複雑なものにしているのは、隣で陽気に話す月眼のロマリア神官である。
 教皇の右腕、ジュリオ・チェザーレ。
 かつての大王ジュリオ・チェザーレと同じ名前だが、きっと間違い無く偽名だろう。

 ふざけた男だ、とワルドは思う。

 グリフォン隊などを始めとする空飛ぶ幻獣乗りたちには、ドラゴンライダー・ジュリオの名前の方が良く知られている。
 メイジでもないのにあらゆる幻獣を乗りこなす凄腕の騎士だという噂だ。
 実際、彼が愛竜である風竜アズーロを操る姿は見事の一言に尽きた。

 そしてジュリオはロマリアの誘蛾灯でもある。
 何につけても目立つ彼を狙う他国の工作員は後を絶たないが、彼を狙った者の痕跡は絶たれてしまう。
 闇から闇に、ケモノの腹の中へと処理されたのだ。

 目立つ容姿を生かして、囮の任務をこなす彼には、その美貌と裏腹に物騒な二つ名が様々ある。

 曰く――聖堂騎士(パラディン)・ジュリオ。
 曰く――ドラゴンライダー・ジュリオ。
 曰く――殺し屋・ジュリオ。
 曰く――薔薇の棘・ジュリオ。首切り判事・ジュリオ。天使の塵(エンジェルダスト)・ジュリオ。獣使い(ビーストテイマー)・ジュリオ。死神の笛・ジュリオ。

 そして、ヴィンダールヴ・ジュリオ。
 教皇の右腕――神の右手。
 死神の笛――始祖神の笛。

 眉唾であるが、ジュリオの奇跡じみたケモノの扱いようは、いっそ伝説の始祖の使い魔と言われたほうが納得が行く。

「まったくアルビオンは食事はマズイし、酒といえばエールしかないし。あとはシードルくらいか」
「貴様は坊主だろうが。酒なんて飲んでいいのか?」
「ワインは始祖の血だよ。適度な酒は精神の箍を外し、信徒を恍惚の高みに持っていく手助けをしてくれるのさ。まあ、今の僕は一時的に還俗を許されているから、そんな屁理屈を捏ねなくてもエールもシードルも飲み放題さ」

 女の子は可愛いけど性格がキツイ娘が多いねー、など言う生臭坊主。
 ワルドはうんざりした溜息と共に、トレードマークの羽帽子を目深にかぶり直す。
 視界の端に彼らを尾け狙うアルビオンの工作員らしきものを見つけたからだ。

 何故トリステインからの潜入工作員であるワルド子爵と、ロマリアの密偵ジュリオがロンディニウムの雑踏で並んで歩いているのか。
 その説明をする前に、軽く現在の――トリステイン女王アンリエッタ即位後の国際情勢をおさらいしておこう。


◆◇◆


 先ずはトリステイン。
 魅了王の再来とも言われる女王アンリエッタが即位し、その魅惑の美貌でゲルマニアを併合した。
 先日トリステイン領空で拿捕されて亡命した元アルビオン王太子ウェールズ・テューダーを婚約者としたことを発表している。
 広大な辺境の開発と、国内の新統治機構の設立や対アルビオンステュアート朝の軍拡と、大忙しな国である。
 旧ゲルマニア地域の制度も柔軟に取り込み、平民でも能力のあるものは取り立てられるようにするということだが、その改革はまだ始まったばかりだ。
 ゲルマニアを組み込んだ連邦国家として生まれ変わりつつあるトリステインは、かつての栄光が戻ったかのようであった。
 流石は英雄王の孫だ、とアンリエッタを評する声も多い。

 次にガリア。
 三年前の星慧王ジョゼフの即位以来、魔法技術研究に力を入れている大国である。
 ジョゼフの即位の際に、王位を巡って王弟であるオルレアン公爵とひと騒動あったとされている。
 それ以降は特に混乱らしき混乱もなく、よく統治されている。
 大国故にあまり極端な態度は表さない日和見国家でもある。
 伝統第一主義だったトリステインが変貌しつつある今、良くも悪くも旧来の伝統を色濃く残す国だ。

 ロマリア。
 多くの都市国家が連合する宗教国家。
 宗教庁を頂点とする枠組みが敷かれている。
 平民が宗教家として名声を得ることが出来る国でもあるが、六千年の澱が溜まって組織の風通しは非常に悪い。
 新教皇ヴィットーリオの指揮のもと、改革が断行されている。
 各国各地に寺院を持っており、実際の権力以上に世俗に対する影響力は大きい。
 市井で囁かれる噂によれば、ロマリア宗教庁の極秘計画『方舟計画』なるものがあるというが……。
 ブリミル教を守護するという立場上、異教徒(クルデンホルフの蜘蛛神教など)を目の敵にしており、異端審問の権限を持つ聖堂騎士は各国で怖れられている。

 クルデンホルフ大公国。
 ハルケギニア経済界の黒幕。
 千年患う蒐集癖。学術都市。そして異教徒を山ほど抱える異端都市。
 あらゆる面で無節操さが鼻につくが、領土的野心はない模様。
 千年前から異教徒ウード・ド・シャンリットがもたらした異端知識をもとにして独自の発展を遂げており、その技術は他国を大きく引き離している。
 天空研究塔『イエール=ザレム』などの巨大建造物や各種資料を取り揃えた博物館や図書館、無双の竜騎士団『ルフト・フゥラー・リッター』などを擁する。
 クルデンホルフはアンリエッタ即位後もいつも通り――つまり各国へ必要以上の干渉はせず、情報収集に務めるのみである。

 最後に、現在ワルドが潜入している天空魔大陸アルビオン。
 つい先日、数年前からの内乱を経てテューダー朝が滅び、元王弟モード大公がチャールズ・ステュアートⅠ世として新王朝ステュアート朝を興した。

 そしてここからが問題なのだが、ステュアート朝の財政は逼迫しており、その彼らが取った手段というのが『教会に納められる寺院税(十分の一税)』の着服であった。
 ロマリア宗教庁はこれを教権に対する重大な挑戦と捉え、再三にわたり態度を改めるように警告してきた。
 それに対してスチュアート朝は、アルビオン内の寺院の聖職者を血祭りに上げることで返答。
 更には国王を頂点とするアルビオン国教会の設立を宣言した。

「旧来のブリミル教は腐敗した! 決定的に腐敗した! 天空大陸に住まう我らが、何故大地の、ロマリアの秩序に従わねばならぬのか!?」

 国王チャールズ・スチュアートはロンディニウムの宮殿で、集まる民衆に向かってそう宣言した。
 その場には、民衆にまぎれてワルド子爵も潜入していた。
 広場に面したテラスには、見目麗しい国王夫妻と、その一粒種のティファニア王女。

 おもむろに、王妃と王女が耳を隠していた白いヴェールを脱ぎ、髪を掻き上げてその耳をあらわにする。
 その美貌の母娘の耳は、尖っていた。

 エルフだ。人類の天敵だ。
 広場にざわめきが広がる。

「案ずるな! 確かに、我が妻と娘はエルフである! しかし! しかしだ! 信仰は血に左右されない! 我が妻と娘は、アルビオン国教会(プロテスタント)に改宗した! 我らの同胞となった!」

 寧ろ、チャールズ・スチュアートはこの為にプロテスタントを興したのだった。
 愛する妻と娘を陽のあたる場所に、何ら後暗いところ無く導くためだけに。
 その為だけに、兄王を弑逆し、甥を追放し、アルビオン全土を内乱に巻き込んだのだった。

「アルビオンは、種族に拘らない! 血に拘らない! 我らをこの天空大地に縛り付けるのは、ただ信仰のみ! 私は知っている。諸君も知っている。このアルビオンには、人智の及ばぬ人ならざる者たちが住まうことを。その者たちに告げる。今まで日陰で生きてきたものよ。今こそ、この空への愛を、信仰を、我らと共にせよ!」

 アルビオン国教会(プロテスタント)の中心教義は、天空信仰。
 天は高く、貴い。
 空は青く、貴い。
 故に、天空に暮らす我々もまた、貴い。

 全天空は、アルビオンを守護するものである。
 空は太古から我々と共にある。
 空は我らの無敵の城壁であり、何よりも深い堀である。
 我々は、空に守られている。
 天空を崇拝せよ。
 宙に浮かぶ大地を信仰せよ。

「天空は、常に我々と共にある! 空を讃えよ! 風を讃えよ! 雲を讃えよ! 私はこの天空大陸の王として、天空の最高祭司として、ここにアルビオン国教会の発足を、天空教の発足を宣言する!! 天空大地万歳! アルビオン万歳!! すべての空に住む者に栄光あれ!!」

 その瞬間であった。
 チャールズの手がピンと伸ばされて、天の一点を指差す。
 すると常に霧に覆われているロンディニウムの空が――。

「見よ! 蒼天も我々を祝福している!!」

 轟、
 と立っていられないほどの突風が吹きつけ、一瞬で雲と霧を払い、ロンディニウムの空を、チャールズが指す一点を中心として、見る見るうちに灰色から蒼空色に塗り替えた。
 その場に居るアルビオン国民たちは、あっけに取られていたが、やがて我を取り戻す。

――アルビオン万歳!!

 最初に言い始めたのは誰だか分からない。
 しかしその熱狂のうねりは徐々に広場を呑みこんでいく。

――アルビオン万歳!!
――プロテスタント万歳!!
――空の民万歳!!
――天空教万歳!!

 その熱狂の中、ワルド子爵は無言でテラスの一部を睨みつけていた。

 ワルド子爵の視線の先に居るのは、赤い女。
 赤い、紅い、緋い女。
 血塗られた舌(Bloody Tounge)を思わせる、不吉な赤色。

 その赤い女は、国王夫妻の後ろに控えていた。
 国王夫妻の後ろには、スチュアート朝の重要人物たちが控えている。
 その内の一人だ。

 後ろに控えているのは、例えば、ギョロギョロとした目の不気味な聖職者であるオリヴァー・クロムウェル。
 ティファニア王女の婚約者だという、女性的な見た目のカミーユ・ドルレアン。
 その父親で実質的にスチュアート朝を牛耳るようになったシャルル・ドルレアン。

 ――事前調査では、シャルル・ドルレアンには一人娘しか居なかったはずなのだが……。
 であるならば、あのカミーユ・ドルレアンは一体何処から出てきたのだ?
 それとも、シャルルの娘であるシャルロットとそっくり同じ顔を持つカミーユは、実はシャルロットなのか……。

 だがそれらの重要人物が有象無象に見えるくらいに、赤い女の存在感は強烈であった。
 紅い宝石と緋色の――火色の服、そして、ガリア王家に近しいものを表す、赤とは対極の鮮やかな青い髪。
 シャルルやカミーユ(シャルロット?)と同じ色の青い髪が、赤一色のドレスに映える。

 ワルドは悟る。

(間違いない。アレが、あの赤い女が、元凶だ)

 一連のアルビオンの動乱。
 おそらく、その全てが、あの赤い女の掌の上だ。
 理屈ではなく直感で、ワルドはそれを悟った。
 一流の風の術者としての、空気を読む感覚が、その洞察を助けたのかも知れない。
 だが、それはこの場では不幸なことだった。

 赤い女が、広場を見回す。

 そして。
 ワルドと。
 目が、合った。

(――っ!?)

 一瞬でワルドの精神が、赤い女の魅惑の魔眼に絡め取られる。
 アンリエッタ女王などとは比べものにならない。
 本当の、正真正銘人外の、魅惑の魔眼。

 ワルドは視界が狭まるような錯覚を覚えた。
 全てがあの赤い、紅い、アカい女に惹きつけられていく。
 自分の価値観が書き変わっていく。
 ジャン=ジャック・フランシス・ド・ワルドという存在の根幹が侵される。

 キモチワルイ。
 キモチワルイ。
 キモチワルイ。

 キモチ――イイ?



「大丈夫かい?」


 その時、不意に肩を叩かれ、ジャン=ジャック・フランシス・ド・ワルドは、我を取り戻す。

「……っ!? あ、ああ、大丈夫だ。感謝する」

 後ろから肩を叩かれたらしい。
 ワルドは礼を言いながら後ろを振り向く。
 ワルドの後ろに立っていたのは、美貌の月眼神官であった。

 テラスの上の赤い女は既に興味を亡くしたのかワルドから目を逸らしていた。

「礼を言われるほどじゃあないさ。トリステイン魔法衛士隊グリフォン隊隊長の、ジャン=ジャック・フランシス・ド・ワルド殿」

 何故それを知っている?
 ワルドが口に出しかけた疑問が声になる前に、目の前の月眼の神官が口を開く。

「まあ、積もる話はちょっと場所を変えてしようか。……ここは異教徒共が多すぎる。全く、殺意を抑えるのが大変だ」



 その後広場を離れ、適当なコーヒーハウスに席を取って、ワルドと月眼の神官は話し始める。

「僕の名前は、ジュリオ・チェザーレ」
「……フザケているのか?」

 じろりとワルドがジュリオを睨む。
 幾ら何でもあからさまな偽名だ。
 ジュリオ・チェザーレとは、昔の大王で、今時そんな名前をつける誇大妄想家は居ない。
 名前負けするのが落ちだからだ。

「フザケてなんて無いさ。一応はコレが本名だよ。孤児だったから、実際にチェザーレ家の出というわけではないけど」
「……まさか、ドラゴンライダー・ジュリオ?」
「ああ、ソッチの方が有名なのかな? そうだよ」

 ジュリオはあっさり肯定する。
 幻獣乗りの間では有名な話だ。
 ロマリアの神官に、矢鱈と幻獣の扱いが上手い奴が居る、というのは。
 ワルドも小耳に挟んだことがある程度だが、そんな話を聞いたことがある。
 その神官が、神官のくせに不吉な月眼だとも噂になっていた。

「で、そのジュリオが何の用だ」
「んー、端的に言うとアレだね。同盟を結ばないかい?」

 ジュリオの提案は、ロマリアの“密偵”と、トリステインの工作員たるワルドで同盟――最低でも相互不干渉条約を結ばないかということ。
 アルビオン国教会(プロテスタント)を発足させたアルビオンは、ロマリアから見れば目障りなことこの上なく、極力無駄を省いていきたいとのことである。
 他国の秘密工作組織と小競り合いをしている余裕はないのだ。

「まあ、僕の主人は、アルビオンなんかどーでもいいんだけどね。昔からの老人がたがさ、ガタガタと五月蝿くて。せめてアルビオンに幾分か嫌がらせ程度はしないと言い訳も立たない、というわけさ」

 ジュリオは肩を竦めて見せる。
 ジュリオの主人、とは、恐らくは教皇聖エイジス32世のことだろう。
 老人がた、というのは、旧来の権力者たちであろうか。

「正直、こんな天空魔大陸に関わっている余裕は無いんだけどね。『生命』の発動の鍵である第四の使い魔(リーヴスラシル)をクルデンホルフから解放しなくちゃならないし、邪教徒邪神が犇めくアルビオンなんて藪をつついて蛇を出す真似なんてしたくない……。いや、スチュアート朝の連中が藪をつつく前に、奴らプロテスタントを根絶やしにすることも考えなくちゃならないのかな……?」
「何をぶつぶつと訳の分からないことを……」
「分からなくていいのさ。君に分かるように言うのなら、こういうことさ――」

 ジュリオは区切って、その赤青の月眼でワルドを覗き込む。

「――例えば、荒ぶる北風の神イタクァをアルビオンの連中が『神降ろし』して、そこら中がウェンディゴで溢れる前に、プロテスタント(天空教徒)連中を皆殺しにしなきゃならない、のさ」
「イタクァ? ウェンディゴ? 何のことだ?」
「おや、分からないのかい? 君の母が取り憑かれたモノさ」

 母。
 ワルドは、幼い日のことを瞬時に走馬灯のように思い出す。
 思い出したくもない、しかしジャン=ジャックの根幹を形作る出来事を。

 凍てつく魔風を纏って変貌した母。
 “いあ、いあ、いたくぁ。”母の衣を纏った化物の口から呪言が漏れる。
 大きく開いた顎、立ち並ぶ鋭い歯列、獣臭、血と氷の匂い。
 “あい、あい、はすたー。”化物が叫ぶ。
 倒れ伏した父、広がる血、肉を引きちぎる音、にちゃにちゃした咀嚼音。
 父だった死体(モノ)を喰らう、母。
 仲の良かった両親が何故。そう疑問に思う暇もなく、母の服を纏った、まるで人間を縦に引き伸ばしたように手足が異様に長い異形が、鋭く長い爪を振りかざして幼いジャン=ジャックに迫る。
 ああ、そりゃあ若い方が肉は柔らかいからなあ。何処か遠くでそう思いながら、ジャン=ジャックは咄嗟に抜杖。
 風メイジゆえの身のこなしの素早さを褒めてくれた父は、もう居ない。
 後の『閃光』の二つ名の片鱗を見せ始めていた才気溢れるメイジ、ジャン=ジャックは、閃光が瞬くほどの時間で瞬時に詠唱。
 唱えるのは、つい先日父から習った『エア・ニードル』の魔法。
 “いあ、はすたー。いあ、いたくぁ。いあ、つぁーる。いあ、ろいがー。”邪言を喚き散らして向かい来る四肢が長い異形の、母だったモノの胸を一突き。
 突いた胸から、凍てつくように冷たい血が流れる。餓えた氷の獣。そんな感想が浮かぶ。
 「メメント・モリ」と異形の口から正気を取り戻したらしき母の声が漏れる。そして「燃やして、ジャン=ジャック」とも。
 あとは母の今際の言葉に従って館に火をつけ、事故として隠蔽し、爵位を継いで、ヴァリエール公爵の後ろ盾のもとで魔法衛士隊に入り――そして、今に至る。

「君の母親が変貌したあれが、ウェンディゴさ。北風の眷属だ。餓えた氷の獣。アルビオンの高地にはそいつらの集落もあるそうだよ。トリステインでは――ダングルテールに居たんだったかな。もっとも、20年前に絶滅させられているそうだけれど」
「何故、知っている。俺の母のことを」

 証拠は全て燃やしたはずである。
 ワルドの父と母の遺体とともに、館ごと。
 全ては業火の彼方に消えたはずだ。

「ロマリアの耳はウサギの耳より長くて、よく聞こえるのさ」

 ジュリオは両手を頭に添えてウサギの真似をしておどけて答える。
 マトモに答えるつもりはないのだろう。
 ワルドは顔をしかめて、目の前に置かれたコーヒーを飲み干す。

「ふん。まあ良い。確かに俺の母のような異形が溢れることになれば、ハルケギニアはお終いだ。吸血鬼どころの騒ぎではない」
「吸血鬼なんて生易しい部類さ。それで、同盟の件は了承してもらえるかな?」
「……いいだろう。足は引っ張るなよ」
「そちらこそ」

 こうして異国アルビオンの地にて、ロマリアの密偵ジュリオとトリステインの工作員ジャン=ジャックとの同盟が成ったのだった。


◆◇◆


 回想はここまで。
 視点は再び、アルビオンの雑踏を歩く二人の男に戻る。
 霧に覆われたロンディニウムの街を、人波をすり抜けるようにして、ジュリオとワルドが歩く。

「ジュリオ」
「ああ、分かってる」

 ジュリオとワルドはお互いに目配せして、大通りから折れて路地裏に入る。

 そしてそれを追う人影が幾つか。
 そのうちの一人は路地の入口に張り付き、一般人が入ってこないように見張っている。
 上空から見れば、二人が入った路地の出口の方にも行く手を塞ぐように人員が動いているのが見えただろう。

 路地の両側から追い詰められるジュリオとワルド。
 だが彼らの顔に焦りはない。
 この程度、危機のうちにも入らないのだろう。

「ジャン=ジャック。“天使の塵(エンジェルダスト)”を使うよ」
「――っ。了解だ」

 ジュリオの言葉に、ワルドは一瞬驚き、反応が遅れる。
 そして遂に、ジュリオとジャン=ジャックは、アルビオンの諜報員に捕捉される。
 包囲は完了していた。

「ジュリオ・チェザーレとジャン=ジャック・ド・ワルドだな?」

 アルビオンの人員のうち、リーダーらしき人物が前に出て二人に確認する。
 だがジュリオもジャン=ジャックもそれには答えない。
 問うた方も返答など期待していなかったのだろう。

「死んでもらう。アルビオン国教会(プロテスタント)の名の下に」
「く、く、く、く、くくく」
「何が可笑しい」

 こらえきれずに、といった様子でジュリオが笑う。
 ワルド子爵は羽帽子を目深にかぶっていて表情が伺えない。
 アルビオン人たちは当惑する。
 しかしアルビオン人のリーダーは気にせずに命令を下す。

「何を笑ってるか知らんが、貴様らは終わりだ! やれっ!!」
「はっはっはっはっはっ!」

 アルビオン人たちが杖を構え、詠唱を始める。
 どうやらアルビオンの手勢はメイジだったらしい。
 しかしいよいよ詠唱を終えようというところで、彼らは気付く。
 路地の隙間から現れて壁を走り回る小さな影たちに。

「誰が、誰を、包囲しただってぇ!? 異教徒どもめ!!」

 ジュリオが嘲るように叫ぶ。

「な、鼠が!?」

 壁や路地を埋め尽くす影は鼠だった。
 だが湧き上がる生理的な嫌悪感を抑えて、リーダーが部下に命令を下す。

「たかが鼠に何が出来る!? 撃てぇ!!」

 リーダーの合図で、アルビオン人たちが杖の先に灯った魔法の光を解放する。
 前後から数本の『魔法の矢(マジックアロー)』が、二人に殺到する。
 『マジックアロー』は上方にも広がっており空を飛んでも、狭い路地では逃げ場はない。

「『風盾(エアシールド)』!!」
「何!?」

 しかしワルド子爵が唱えた風の魔法が、それら全ての魔法の矢を逸らす。
 渦巻くように二人を包んだスクウェアクラスの強烈な風が、マジックアローに干渉したのだ。
 マジックアローといえども、全く物理的干渉を受けないわけではない。物理干渉できなければ、標的さえすり抜けてしまうからだ。
 通常の弓矢よりは風の影響を受けにくいが、それならば通常よりも強い風を起こせば良いだけだ。
 その程度、トリステイン屈指の術者であるワルド子爵には造作も無い。

「この程度のひょろひょろした『魔法の矢』で俺の『エアシールド』を抜けるとは思わないことだ」
「波状攻撃を掛けろ! 銃も使え! 消耗させるんだ! 向こうのメイジはワルドだけだぞ!」

 確かにワルド子爵の風の魔法は強力だ。
 だが竜巻の隔壁を維持する間は、ワルド子爵は別の魔法を唱えることが出来ない。
 竜巻に守られているジュリオも、竜巻が檻となってしまって攻撃をすることが出来ない。

 いや、果たしてそうか?

「いやいや、僕を忘れてもらっちゃ困るよ。ああでも、風の神を崇拝する程度の空っぽの脳みそじゃあ仕方ないのかな。さあネズミたちよ、神罰を!」

 ジュリオがいつの間にか取り出していた警棒のような物を振るう。
 その警棒のような物には、幾つもの穴が空いていた。
 中空になっているようで、ジュリオが複雑にそして優雅にその穴空き鉄棒を振るうたびに、風を切る音が微かに変化する。

 フルートのような、金管楽器らしき警棒が音を立てる。
 死神の笛、というジュリオの大層な二つ名の由来となる武器である。
 手首を捻り、複雑な軌道でジュリオは“死神の笛”をまるで指揮者がタクトを振るように振り回す。

 その穴空き鉄棒が奏でる音を聞いて、周囲に集まっていたネズミたちが動き始める。
 もはやその数は、十や二十ではなく、百かあるいは千匹近く集まっているかも知れない。
 路地裏は鼠の毛色の絨毯になってしまったかのようだった。

「う、あ。び、ビーストテイマー・ジュリオ……!」 「死神の笛……!」
「その通り。この笛があれば、ケモノを操るのはお手のものさ」
「だが、たかがネズミに何が出来るというのだ!? こんなモノ、踏みつぶして終いだっ!」
「それはどうかな?」

 パス、とくぐもった破裂音が路地に響く。
 それはアルビオンの手勢の銃撃の音――ではない。
 銃声らしき破裂音がしたのは、壁の上……ネズミの群れの中からであった。

 思わずアルビオンの人員が振り向く。

 そこには、内側から裂けたネズミの皮があった。
 同時に鼻を刺す悪臭。
 思わず鼻を覆うが、もう遅い。

「ガハッ、臭っ、臭い!? というか、臭すぎて痛いっ!!」

 そうやって刺客たちが咳き込んで蹲る間にも、ネズミたちは近づいて来る。
 その体を不気味に風船のようにふくらませながら、よたよたと。
 まるでヘドロが詰まった泡が波となって押し寄せてくるような嫌悪感を煽る光景。

 やがて体力の限界に達したのか、一人の刺客の足元に辿り着いた膨れネズミが、こてりと倒れる。

 そして炸裂。
 パスッ、という音と共に、膨れ上がったネズミの内側から猛烈な臭気が弾け出る。
 アンモニア臭と卵の腐った臭いと糞の匂いを何倍も強烈にした、殺人的な臭い。

「うわっ!? 臭っ、げほっ」

 その臭気に思わず刺客の男が後ずさるが、そこにもまた膨れネズミが。

「しまっ――、バランスが!?」

 思わず膨れネズミを踏みつけた男が、バランスを崩す。
 そして哀れな刺客は、膨れネズミの海へと身を投げた。
 直後に響く、気の抜けるような、いや正に気の抜けた音。

 刺客の男の下敷きになったネズミたちは、風船のように膨らんで破れたその身体から、糞尿を煮詰めたような臭気を開放。

「が、あ、は――」

 倒れた男の動きが止まる。
 死んだのだ。

 だが他のアルビオンの刺客は、それを気にしている余裕はない。
 何れも、この耐え難い肥溜めの底よりも臭い空間で、臭気に溺れそうになっていた。
 そこに淡々と、風の結界の中の安全圏で高みの見物を決め込む涼やかな男の美声がする。

「ビーストテイマー……確かに僕の能力はそういう一面もある。だけれど、それだけでもない。――そうそう、動物の体には、多くの細菌が息づいていて、消化を助けている。細菌のうちの幾つかは、おならの臭いの元になる毒ガス物質を作り出す。それら腸内の細菌に身体が侵されないように動物の体は抵抗力を発揮している。――じゃあ、その動物の抵抗力を弱めてやって、細菌の増殖力を強化してやったら? ……即席毒ガス爆弾の出来上がりさ」

 最低限移動に必要な臓器と筋肉のみを残して、他の全ての臓器を、活性化させた細菌や自己消化酵素によってアンモニアや硫化水素などの毒ガスへと変換。
 ネズミたちは内臓を溶かされて発生したガスによってパンパンに膨れ上がりながらも、最期の力を振り絞って、ヴィンダールヴが命じた標的へと近づく。
 そして全身をフグのように膨らませて毒ガス爆弾へと変貌したネズミたちは、標的の足元で炸裂。

「ふん、良い気味だ。天空教の糞袋どもめ、糞の臭いに包まれて死んでしまえ……。ふ、ふ、っはははははははは!!」

 異教徒どもめ。ひゅるり、と“死神の笛”を振って、ジュリオが言い捨てる。
 彼の顔は影になって見えないが、その声だけでも酷薄さが伝わってくる。

「風の神(ハスター)! 風の神(イタクァ)! 風の神(ツァール)! 風の神(ロイガー)! 良いだろう、風の神(骨無し)どもめ、ブリミル教(我ら)の神罰の味を噛締めるが良い」

 炸裂したネズミの死体は、悪臭と共に致死の毒ガスを撒き散らす。
 不抜けた炸裂音が連鎖する。

「風よ(ウィンデ)」
「が、ぐ、ふ――」 「げほっ、がはっ」 「うぐぅぁ――」

 更にその毒ガスを、風の術者であるワルドが的確に相手の口や鼻に導く。
 刺客たちは毒ガスの釜の底で溺れて行く。
 路地の入口を見張っていた者たちの口元にも、ワルドが操る毒の風は運ばれ、命を奪う。

「……これで全部死んだか」

 動くものが居なくなったのを確認して、ワルドが呟く。
 残されたのは刺客たち死体と、一面を覆う弾けたネズミの亡骸たち。
 ワルドは風の魔法で路地の空気を新鮮なものと入れ替える。

「いやあ、ジャン=ジャック、毎度ご苦労をかけるね」
「そう思うなら、こんな腐敗ガス爆弾など使うな」
「腐敗ガス爆弾だなんてロマンの無い言い方をするなよ。ここはロマンチックに“天使の塵(エンジェルダスト)”と呼んでくれよ」
「“天使の糞”の間違いだろうが」

 彼らが軽口を叩く間にも、路地裏の死体や腐肉には、ヴィンダールヴの能力によって集められた蠅や百足や死出虫がたかり、食い散らしていく。
 眼や鼻を蛆が出入りし、死体を基礎とした生態系が急速に形成されていく。
 死体を分解する細菌もヴィンダールヴの能力によって活性化され、迅速に死体たちは土に還っていく。

「……キノコ栽培に便利そうな能力だな」

 死体があった場所には既に白骨と毛皮と、それを苗床にする茸くらいしか残っていない。
 さらにその茸を目当てにしたゴキブリやダンゴムシが集まり、あっという間にそれを食べていく。
 ジュリオは残った白骨を靴裏でグリグリと踏み砕きながら返事をする。

「まあね。ロマリア特産の(まじっく)マッシュルームとかの品種改良や、ワイン酵母の選定にも協力しているよ。これでも僕はその道では権威なのさ」
「マッシュルームの頭にぼそっと“マジック”って付けただろ!? 風メイジの耳の良さ舐めるなよ。……おい、まさかトリスタニア城下で出回ってるという噂の薬(ヤク)の出処は――」

 ゲルマニアをトリステインが併呑したあとには、各地のブリミル教会が強力にトリステイン・ゲルマニア地区の治安回復や民心安堵に協力した。
 ロマリアとしては、成り上がりと揶揄されていたゲルマニアではなく、始祖正統のトリステインを支援するのは当然の行動だとも言える。
 だがその一方でトリステイン内でロマリアの勢力のこれまで以上の侵食を許したのも確か。

 そして体制の激変による不安が広まる中で、民衆にディテクトマジックにも反応しない、怪しげな常習性のある薬が出回っているという噂がある。
 トリステインに居るワルド子爵の本体(アルビオンで作戦行動中なのは『偏在』の分身体である)は、直接はその摘発作戦に関与しては居ないが、近く大規模摘発作戦が行われるようだとは聞いていた。
 しかしロマリアが大々的に絡んでいるならば、どこか上からの命令で摘発作戦は潰されてしまうだろう。

「まあ、そこは詮索無用さ。でもその薬(ヤク)というのもそこまで大したものではないと思うよ。ちょっとアンリエッタ女王の魅了に掛かりやすくなるくらいのものなんじゃないかな?」

 そうなのだった。
 薬自体が齎す幸福感よりも、薬が導く「アンリエッタ女王を見たい。尽くしたい」という欲求が問題であった。
 さらに女王崇拝により齎される恍惚感と幸福感をも、その薬は助長し、中毒にさせるのだ。
 言うならばアンリエッタ崇拝をキーとして人工的な宗教恍惚を手軽に導く麻薬なのだ。

「トリステインは、ロマリアの実験場ではないぞ……!」
「言いがかりさ。ロマリアは全ブリミル教徒の“幸福”を常に祈っているよ。異教徒どもには容赦しないがね」
「このっ……!」

 飄々と風の精(ヴィンド・アールヴ)のようにジュリオが嘯く。
 思わずワルドは、ロマリアの密偵との同盟条約のことも忘れて掴みかかろうとするが、その手は空を切った。
 だがそれはジュリオが回避したからではなかった。

「あれ?」

 突如何の前触れもなくジュリオの足元に、銀色の穴が空いたのだった。
 まるで『サモン・サーヴァント』のゲートのようなその穴は、あっという間にジュリオを引きずり込む。

「ぅゎあ~れ~~!?」

 間抜けな声を残して消え去るジュリオを、ワルドは呆然と見送るしかなかった。

「……今の穴は、一体……?」


◆◇◆




 蜘蛛の巣から逃れる為に 22.赤い、紅い、朱い、アカイ……




◆◇◆


 何処とも知れない黒い部屋に、大きな重厚そうな円卓が置かれている。
 如何にも悪巧みが行われていそうな、黒幕たちに相応しい部屋。
 その席についているのは、四人の人間。
 その内の二人の後ろには、お付きの者らしき人間がひとりずつ立っている。

「ぅゎあ~れ~~!? ……っと?」
「任務中すみませんね、ジュリオ」
「あれ、教皇様……。とするとここは、いつもの会議室ですか」

 訂正。
 もう一人、席についた若い男の後ろに、虚空から銀のゲートを通って、月眼の神官が落ちてきた。
 ジュリオが落ちてきた場所の前の席に座るのは、彼の主人である教皇聖エイジス32世、ヴィットーリオ・セレヴァレである。

「これで全員ね、一人余計なのが居るけれど。では、第四回虚無会議ー、かーいーさーいー」

 ようやく全員が揃ったということだろう。がらんがらん、と円卓に座る七人のうちの一人の少女がベルを鳴らす。
 ピンクブロンドの少女の後ろには、魔刀を佩き翼蛇を首に巻いた戦士。
 夢の国の魔女ルイズ・フランソワーズと、その従僕サイト(with翼蛇エキドナ&魔刀デルフリンガー)であった。

 彼女の席の前には、古ぼけた本と古風なオルゴールが置いてある。
 それこそ、始祖ブリミルが遺した秘宝、『始祖の祈祷書』と『始祖のオルゴール』である。
 虚無遣いが魔法の力に覚醒するために必要なキーアイテムだ。

「それで。トリステインの虚無よ。今回は何の用だ?」

 青い髪の偉丈夫が、片手に持った紙片――招待状をひらひらとさせながらルイズに尋ねる。
 彼はガリアの星慧王と名高いジョゼフⅠ世である。
 彼の背後には、彼の女官にして使い魔にして愛人シェフィールドが控えている。
 前回の虚無会議の際に千年蜘蛛教師長ウードに後れを取った反省から、彼女はその身にコレでもかと魔道具を纏っていた。

 ジョゼフが持つ招待状は、ルイズがこの虚無会議の開催を知らせるために直接ジョゼフとヴィットーリオに送りつけた物である。

「招待状にも書いたし、前回の最後に確認したでしょう? 新しい秘宝を介して、新呪文が出ないかどうか、その確認会よ」

 ルイズは自分の目の前の『祈祷書』と『オルゴール』をジョゼフとヴィットーリオの前へと滑らせる。

「あとは昨今のアルビオン情勢についても、確認したいですね」

 ヴィットーリオが、目の前に滑らせられた『始祖のオルゴール』を手に取りつつ発言する。
 彼の後ろには、つい先程ゲートから落ちてきた月眼の神官ジュリオが控えている。
 ヴィットーリオの指には赤く輝く『火のルビー』。
 二十年前に一度国外に持ち出されたものの、その後紆余曲折経てロマリアに舞い戻った始祖の指輪の一つである。

 『指輪』と『秘宝』と『担い手』が揃ったときに、虚無の力は解放される。

 ヴィットーリオが『火のルビー』と『始祖のオルゴール』を手に取ると、光が溢れる。
 その向かいでは、ジョゼフが『土のルビー』を嵌めた手で『始祖の祈祷書』を開いており、そちらからも光が零れる。

「くふふ、何か新しい呪文が出るといいなぁ。現代の虚無遣いたちよ」

 そしてその様子を目を細めて楽しそうに見ている、少女――いや幼女が一人。
 ルイズの対面に座る彼女は、銀糸のような長い繊細な髪をした、年の頃9歳くらいの可憐な幼女だ。
 何処と無く顔立ちが、クルデンホルフ公女のベアトリスに似ている気がしなくもない。

 だが、一番目をひくのは、彼女の顔立ちや髪の美しさではない。
 銀髪の幼女は、その体型が異常であった。
 いや、異常というのは語弊がある。
 哺乳類の雌にとってみれば自然な、ありふれた体型――即ち、妊娠体型なのであった。

「お呼びじゃないのよ、千年教師長。大体、その姿は何? ボテ腹幼女とか、トチ狂ったの?」

 ルイズが柳眉を逆立てて嫌悪も露に、招かれざる客――幼女形態の千年教師長ウード・ド・シャンリットを睨む。

「くふふ。なに姿形など私にとっては至極無意味なものだ。こんなモノはお遊び、余興だよ。Y染色体を抜いて、X染色体を二重化した培養体なのだが、時間の都合で発育が不完全でね」
「それがなんで臨月みたいな腹してんのよ? 馬鹿なの? 死ねよ」
「虚無遣いのグレゴレオ・レプリカを“格納”しなくちゃならんからなあ。成人男性型なら胸の中にでも“格納”できるのだが、この体型だと他に仕舞える場所がなくてなー」

 中を開いて見てみるかい? などと言って、ウード・ド・シャンリット(妊婦幼女形態)がちらりと上着をめくって腹を見せる。

「アンタの真っ黒な腹の中なんか見たくもないわよ。つーか出て行け」
「ツレナイことを言うなよ、ルイズ・フランソワーズ」
「実力行使に出るわよ。『爆発(エクスプロージョン)』乱舞でクォーク以下に分解してやるわ」
「それを見越しての、この幼女形態なのだよ。私が死んでも代わりは居るもの、ってね。グレゴリオ・レプリカ内蔵の妊婦幼女型端末は、108式まであるぞ」
「……ここで滅ぼしても無駄ってこと? アンタを殺し尽くすには、端末を一網打尽にするために、魂を冒す強力な毒でも用意しなきゃならないのかしらね」
「多分ねー。アストラル体に作用する概念毒じゃないと効かないんじゃないかねー。ま、頑張んなさいなー」
「言われなくとも。見てなさい、直ぐに駆逐してやるわ」

 お前ら本当は仲が良いんじゃないのか? という感じの遣り取りをウードとルイズが繰り広げている間に、虚無の封印解放による輝きは収まっていた。
 ルイズがヴィットーリオとジョゼフに視線を向けるが、二人とも首を横に振る。
 ヴィットーリオとジョゼフは途中で互いの秘宝を交換して新呪文が出ないか試してみたようだが、どうやら新呪文は出なかったらしい。

「あらあら残念じゃのー。まあシャンリットが千年かけてグレゴリオ・レプリカを虱潰しにあらゆる状況に晒して呪文を蒐集してきたんだし、もう大抵の虚無の呪文は網羅してるんじゃないかねー」

 大して残念そうでもなさそうに、グレゴリオ・レプリカを胎内に納めたウード(ボテ腹幼女)が呟く。
 第一次聖戦で鹵獲された虚無遣いグレゴリオは、蜘蛛商会によって複製され、考えられる限りのあらゆる極限状況に晒されて、新呪文が出ないかどうか試されてきたのだった。
 飢餓、渇き、不眠、痛み、麻酔なし生体解剖、薬物漬け、呪文による人ならざる者への変容、脳電極刺し、水魔法による記憶改竄、人格分裂エトセトラエトセトラ。
 そして魂を捕獲・分割・統合する呪文によって、それらの実験結果はグレゴリオ・レプリカの魂に刻まれていった。
 グレゴリオ・レプリカたちに植えつけられた魂は、死を以てしても解放されない苦行に疲れ果てた、血涙を流し怨嗟の叫びを上げるグレゴリオ・オリジナルの断片なのだ。

「それでも、正攻法で呪文を覚える価値はあるわ」
「正攻法、ねぇ?」
「何が言いたいの、千年教師長」
「くふふ。じゃあ始祖ブリミルは、どうやって呪文を覚えたんだろうと思ってね。始祖の秘宝たちに込められた呪文は、全て彼が開発したものなわけだけれど」

 確かにオリジナルとなった呪文は、何時どうやって開発されたのだろうか。

「それは神からの啓示でしょう。オラクル。託宣。閃き。何とでも言えるでしょうが、ブリミルが天才だったのは間違いないでしょうね」

 ヴィットーリオがウードの言葉に答える。

「神、ねえ。じゃあ、その神ってのは何なんだろうねー」
「……それは」
「時空と魂を統べる系統――虚無。世界の始まりからある力。世界を終わらせる力。しかもブリミルは神の子供だと言うじゃないか。それだけの力を持っていて、しかも人間から上り詰めた祭司に力を与えるだけではなく、もっと直接的に神子(みこ)を成すことが出来る神――。くふふ。私はそんな外なる神(アウターゴッド)に心当たりがあるのだけれど」

 ヴィットーリオは黙る。
 バトンタッチするように、ジョゼフが話し出す。

「全にして一なるモノ、ヨグ=ソトース。確か前回の会議に乱入してきた時も、貴様はそんな事を言っておったな。『虚無の力は邪神ヨグ=ソトースに連なるものだ』と」
「くふふ。何、これも仮説に過ぎない。恐らくそうであるというだけだ。ただ単に、シャンリットではそういう仮説のもとで、新しい虚無の呪文を開発しようとしているだけ」
「虚無の新呪文の開発、だと?」
「それなりに成果を挙げているのだよ? 『サモン・サーヴァント』の構成要素である超次元級の広域精密探査術式の抜き出しだとかね」

 ちょっと得意気に胸を張るウード。
 その中身が千年級の蒐集狂だと知らなければ、銀髪の幼女が胸を張っている様子は可愛らしいものだ。
 だが中身を知っている者からしてみれば、趣味の悪い人形劇のように思えてならない。

「それは結構。結構なことね、千年教師長。学術都市の自慢話はもういいから、お帰り願えないかしら?」
「うん?」

 出口はあちらです、とルイズが『世界扉』を詠唱して、ウードの足元にゲートを開く。
 ウードはそのままボッシュート。
 銀髪幼女が落下して姿を消す。

「――さて、五月蝿い人外も居なくなったところで、新呪文の話題はお終い。次はアルビオンを含めた国際情勢についてよ」
「アルビオンなぁー。あぁ、シャルル。今お前は何をしているのだ?」

 ガリアの青髭が遠い目になる。

「アンタさぁ、あの弟クンをどうにか止められないわけ?」
「止めてやりたいのは山々だが――」
「なら止めなさいよ」
「一方で、自由に暴れさせてやりたいとも思うのだ。シャルルはずっと俺と比べられて窮屈な思いをしてきたのだから」
「一国まるごと自由におもちゃにさせるとは、スケールの大きいお兄ちゃんだこと」

 何と言うか、処置無しという感じだ。
 兄馬鹿すぎる。
 ルイズはやれやれと肩を竦めて溜息をつく。

(いっそのことさっさとこの兄弟は殴り合いの喧嘩でもさせて収拾つけさせた方が良いのかしら? それも選択肢に入れておきましょう……)

 とはいえ、最早今に至っては、魔窟となったハヴィランド宮殿に『世界扉』を繋げることも難しい。
 アルビオンのステュアート朝は腕利きの魔術師でも抱えているのか、瘴気に溢れている人外魔境ロンディニウムのハヴィランド宮殿には、結界が敷かれているようなのだ。
 というか、あの霧の街の王宮にゲートを繋げるのすら悍ましい、汚らしい、狂気が伝染する。

「ロマリアはどう動くの? 天空教に改宗した連中を皆殺しにでもするの?」

 ルイズは矛先をヴィットーリオに向ける。

「……それはトリステインがやってくれるでしょう。妄執に取り憑かれたアンリエッタ女王が」
「つまり直接兵力を派遣はしない、と。……ロマリアはゲルマニア平定に裏から手を回したから、アルビオンを潰すのはトリステインに代わりにやってもらおうって腹積もりかしら」

 トリステインによる旧ゲルマニア地域平定には、ブリミル教会の協力な後押しがあったのだ。
 ……手段選ばずトリステインのゲルマニア併呑を支援し、宗教的恍惚を導く秘薬(ヤク)を実験的にばら蒔いたりとやりたい放題であった。

「ええ。実際、ロマリアが動かせる兵力は、天空教徒どもを皆殺しにするには足りませんし。ウェールズ王子を擁するトリステインが、ロマリアの代わりにやってくれるなら、それに越したことはありません」
「イザとなれば『聖戦』のお墨付きを与えることも吝かではありません、ってわけ?」
「その通りです。頭の固いロマリアの老人がたは色々言ってくるでしょうが、私としてはこんな穢れてしまった大地を離れる『方舟計画』を進めるほうが重要ですから」

 優先順位を間違えてはいけません、とヴィットーリオは静かに首を振る。

「それで、トリステインの虚無遣いたる貴女はどうするのですか? ルイズ・フランソワーズ」
「……そうねぇ。まだアルビオンの情勢が良く分かってないからなんとも言えないけれど――」

 ルイズは眼を閉じて、先日『始祖のオルゴール』を奪い取りにアルビオンのニューカッスルに出向いた際の出来事を思い出す。
 邪道外法で操られた狂風王ジェームズの、あの恐ろしくも酷い有様を。
 自分の意志を曲げられて、何か慮外の力に強制されて部下たちの爪を剥いで殺して回ったあの哀れな王様を。

「――許せないわね。絶対に。絶対によ。ジョゼフには悪いけれど、自分で手を下す気が無いなら、シャルルは私が滅ぼすわ」

 ルイズはそう言ってジョゼフを見る。

「仕方あるまい。もしそうなったなら、それもまた運命というわけだ」
「アンタのそれは、単なる逃げよ。弟クンとの決着を先延ばしにしているだけじゃない。それに巻き込まれる人間たちが哀れだとは思わないの?」
「ガリアの国民と領土に害がなければ、構わんよ。アルビオンの人民が憐れだとは思うが、それを許したのもまたアルビオンの人民だ。俺は責任を感じたりはしない。むしろ、シャルルの全力の智謀が見れて、嬉しくそして誇らしくすらある。“俺の弟は、一国をどうにかするだけの才覚があったのだ”とな。俺と比べて弟のことを見下していた大臣どもに自慢してやりたいくらいだ」
「歪んだ兄弟愛ね」
「自覚はしているつもりだ。まあ、ガリアに被害が及ぶようなら、遠慮呵責なしに叩き潰してやるがね。古今東西、兄より優れた弟など存在しないのだから」

 ジョゼフは暗く笑う。
 結局彼がアルビオン情勢に介入しないのは、“何時でも叩き潰せるから放置しても問題ない”という強者ゆえの傲慢のためだった。
 シャルルとの関係に決着をつけるも何も、ジョゼフの中では既に結論は出ているのだ。
 愚弟シャルルは身の程知らずで取るに足らない存在だと。そしてまた、その出来の悪さ故に愛しい、自分の無二の家族であると。

「アンタ、マトモじゃないわよ」

 ルイズが鼻白んだ様子で吐き捨てる。
 ジョゼフの後ろに控えているシェフィールドが暴言を吐いたルイズを睨む。
 シェフィールドの殺気に応じて、ルイズの後ろのサイトが、デルフリンガーの柄に手を掛ける。
 人を殺さんばかりのシェフィールドの視線を受けても、ルイズは余裕の表情だ。【夢のクリスタライザー】を手に入れたルイズに、恐いものはもはや無い。

「お前に言われたくないな。邪神根絶主義者のルイズ・フランソワーズ」
「そうです。せめてロマリアの『方舟計画』が発動するまでは、邪神たちを活性化させかねないことは謹んでもらいたいのですが」
「鬱屈王と宗教狂いに言われたくないわ」

 俄に会議室の空気が張り詰める。
 結局のところ、この三人の虚無遣いたちは、今のところ相互不干渉条約と情報共有をしているだけで、主義主張は全く違うのだ。
 敵ではないが、決して味方同士ではない。
 蛇と蛙と蛞蝓のような三竦み。



「ただいまー」

 その時不意に空中に銀色のゲートが開き、空気の読めない妊婦体型の幼女ウードが落ちてくると、ルイズの真正面の位置に再び着席した。

「くふふ。いきなり宇宙に転送するとは酷いじゃないかルイズ・フランソワーズ。お陰で残機が一つ減ってしまったよ」
「大人しく死んでなさいよ……」
「死という概念から遠ざかって久しいなぁ。死んだのは千二百年前にハルケギニアに生まれ変わる前と、ロマリアで殺されてカーボンナノチューブのコンピュータに精神を移して、その後は端末が実験の失敗で消滅したり、手違いで邪神の贄になったりばかりで……あれ、割と死んでるな」
「アンタの遍歴とかどうでもいいから」
「まあまあ、そう邪険にするな。折角良い物持ってきてやったんだから」

 そう言って、ウードは一冊の本をルイズの方に投げる。

「私の端末を殺せたことと、君の念願の【夢のクリスタライザー】を手に入れられたお祝いだ。受け取るといい」
「……アンタからのプレゼントなんて要らないわよ!」
「ふーん? それが【グラーキの黙示録第11巻】――【夢のクリスタライザー】の扱いについて記述したものだとしても?」
「うぇっ!? それホント!?」

 思わずウードの話題に食いついてしまったことに対して、ルイズは「しまった」という表情をする。素直で直情的過ぎる自分が恨めしい。
 ウードはそんな自己嫌悪するルイズの様子を見てニヤニヤ笑いつつ、嬉々として投げ渡した本――【グラーキの黙示録第11巻】の謂れについて解説する。
 銀髪の幼い少女が満面の笑みで語る。

「そうだとも! これは最近アルビオンで手に入れたレアな魔導書の写しでな。現在11巻まで存在するもののうちの一つだ。湖底の蛞蝓神グラーキのカルトが受け継いできたもので、今現在、語るもはばかられる大邪神イゴーロナクに関する最新刊が執筆中なのだよ。幸いなことにアトラナート商会は、アルビオンのステュアート朝への多大な援助と引き換えに、その稀覯な魔導書を独占する契約を結ぶことに成功したのだ。最新刊の執筆者はステュアート朝のオリバー・クロムウェルという男でな――」

 ウードのその様子は、正にコレクションを自慢する蒐集狂そのものであった。
 彼(今の形態は幼女だが)の本質は、千年前から何も変わっていない。
 知識欲の亡者。
 知りたがりが高じて異形となった蜘蛛の巫覡。
 少年老い易く学成り難し。ならば人外になって永遠の命を得れば良いじゃない。それを実行した男。

「……ま、まあ、この本は受け取ってあげるわ。役に立ちそうだし」
「ああ、役に立ててくれたまえ。そして立派に“私の敵に価する”まで成長してくれ。そして闘争をしようじゃないか。進化のための闘争を、競争を、狂騒を繰り広げよう、新たな知識を生み出すために。概念と概念をぶつけ合い、自我と自我を衝突させて、新たな概念を産み出そうじゃないか。これでも私は君たちに期待しているのだ」
「ふん、今に見てなさい。敵に塩を贈ったことを後悔させてやる」
「ああ、楽しみにしているよ。今代の虚無遣いたち」

 言いたいことを言うだけ言って、ウードは再び虚無の『世界扉』のゲートを作り出す。
 コレクションを自慢して、敵に成り得る者に塩を贈り、満足したためだ。
 そして最後に、忠告を残していく。

「くふふ、ああ、そうだ。アルビオン情勢に介入するなら、早くすることだ」
「……何よ、忠告ってわけ?」
「その通り。シャッガイの昆虫のアザトース機関の技術や、大邪神イゴーロナクの神官たるオリバー・クロムウェル、天空魔大陸に眠る数々の邪神、天空教によるハスター崇拝、ハスターの妻たる地母神シュブ=ニグラス崇拝……今でも充分に碌でも無い状況だが、さらに細心の注意が必要だ」
「ホントに碌でもないわね」
「だから君たちも注意せよ。我々、蜘蛛の眷属も注意する」

 一呼吸おいて、全員に言い聞かせるように、ウードは忠告を口にする。

「カオティック“N”に注意せよ」

 怪訝そうな虚無の主従たち三組に向かってそれだけ言い残して、ウードはゲートの向こうに消えた。


◆◇◆


「全く、お父様は何を考えているのかしら」

 アルビオン王女ティファニアは、慣れ親しんだゴーツウッド村の粗末なベッドとは全く異なるふかふかのベッドの上に腰掛けていた。
 彼女が今考えていることは、久しぶりに会った父王から告げられた、彼女自身の婚約者――青い髪のカミーユ・ドルレアンのことだ。

「シャルロットは女の子なのに、カミーユだなんて男の子みたいな名前に偽ってまで私の婚約者にするとか、どういうことなの……」

 確かにティファニアと違ってシャルロットはお胸がぺったんこで男に間違うくらいだったが、公式に男として晒すだなんてあんまりな所業である。

(でも、カミーユなシャルロットも、ちょっとかっこ良かったかも……。なんちゃって。なんちゃって! きゃ~っ)

 中性的で妖しい魅力を放射していたカミーユ(シャルロット)の事を思い出して、ティファニアは枕を抱えてジタバタと無闇に広いベッドを転がる。
 カミーユは彼(彼女?)の母である真っ赤な衣装のオルレアン公爵夫人から、あの不思議な魅惑のオーラを受け継いでいるようであった。
 たとえ同性でも虜にするような魅力が、シャルロット・カミーユ・ドルレアンにはあった。

 ティファニアが転がることで折角の綺麗な衣装が型崩れしていくが、彼女はそんな事にはお構いなしである。
 大層な衣装なんて着たことがないので、その価値を分かっていないだけでもある。

「……まさか、本当に男の子になっちゃったってことはないよね」

 シャジャル母さんならそういう肉体変容の魔術も知っていそうである。
 なんでも故郷では地母神に仕える高名な神官だったらしいし。
 母のことを思っていたら、かつて暮らしていたゴーツウッドの愉快な仲間たちが懐かしくなってきた。

(ああ――あの逞しい触手ちゃんたちが懐かしい。ぬらぬらのにゅるにゅるの肌触りで、幼い私を持ち上げてあやしてくれた触手の群れ……。森の仲間達……。きちんと餌貰ってるかな、ひもじい思いしてないかな……)

 若干ホームシックになって枕を抱きしめるティファニア。
 体操座りになって枕を抱きしめると、彼女の大きな胸が行き場を無くして深い谷間を作る。
 少し涙目になって枕を抱えるティファニアは、まるで妖精のような儚さを感じさせる。



「ティファニア? 入って良い?」

 その時扉の外からノックと共にティファニアに呼び掛ける声がした。

「シャルロット!?」

 がば、とティファニアは顔を上げる。
 慌てて目元の涙を拭いて、軽く身だしなみを整える。
 シャルロットとティファニアは、両親同士の政治的な立場が近しいこともあって、オルレアン家が亡命して来て以来、仲良くつきあってきたのだった。
 ティファニアにとってシャルロットは幼なじみのような存在である。

 とはいえ、ここ最近は内乱中で治安が悪化したということで、ティファニアはゴーツウッド村に篭りっぱなしだったし、シャルロットの方も彼女の父であるシャルルに呼び出されていて中々会う機会がなかったのだ。
 久しぶりに再会したかと思えば、アルビオン国教会の発足に、ハーフエルフなのにも関わらずのティファニアの立太子、そしてシャルロット・カミーユとティファニアの婚約発表……。
 思えば、怒涛のイベント連続でシャルロットとしっかり話す機会は無かった。

「もしかして、邪魔しちゃったかな?」
「いえ、そんな事はないわ! さ、中に入って」

 ティファニアは笑顔を浮かべながら、シャルロット・カミーユを招き入れる。

「どうしたの? 急に」
「ん~、婚約者になったから、ちゃんと挨拶しとかないと、と思ってね」
「婚約者……。全くお父様たちは何を考えているのかしら? でも本当に良かったの? シャルロット」
「……? どういうことだい?」
「もう、喋り方までそんな男の子みたいにしちゃって……。私もシャルロットも女の子でしょう? それなのに婚約者だなんて、おかしいよ……」

 ああ、そんなことか。

 シャルロット・カミーユは、ティファニアを安心させるように微笑む。
 爽やかな笑みに、ティファニアの胸が思わず高鳴る。
 そんなティファニアの内心を知ってか知らずか、シャルロット・カミーユはそっとティファニアの手を取る。

「シャルロットじゃなくて、カミーユって呼んで欲しいな」
「もう、ふざけないで……」

 ティファニアは思わず赤面して顔を背ける。

「何も心配することはないよ、ティファニア。私は――いや、僕は嬉しいんだ」

 満面の笑みでシャルロット・カミーユは語る。

「何時まで経っても魔法が使えない僕が、漸く父様の役に立てるようになったんだ」

 魔法の使えない娘。
 それがかつてのシャルロットに押されていた烙印であった。
 貴族社会の落ち零れ。
 家督も継げない欠陥品。

「『せめて私が男だったなら』って、昔から思ってたんだ。騎士になったりフネ乗りになったり、もっと役に立てるのに……ってずっと思っていた。だから、男にもなれて、本当に嬉しいんだ」
「何を言ってるの? 『男に“も”』って、意味が分からないわ……」
「ふふふふふっ」

 妖しく笑って、シャルロット・カミーユは、ティファニアを抱き寄せる。

「あっ……」
「僕はもう、ただのシャルロットじゃないんだ。シャルロットにして、またカミーユでもある。――靭やかにして強か。どちらでもなく、どちらでもある」

 ベッドサイドに生けられた百合の花弁がはらりと落ちた。


◆◇◆


 ティファニアとシャルロット・カミーユが仲良くしている頃、同じくハヴィランド宮殿にて。

「我ながら、シャルロットを両性具有に肉体改造するというのは良いアイデアだったと思うよ!」
「ええ、貴方。流石ですわ」

 青い髪の優男と、赤い紅いアカイ女。
 ステュアート朝の影の主権者シャルル・ドルレアンと、その妻である赤い女だ。

「ここまで来れたのも、皆みんな君のお陰だよ、我が愛しの姫君。私の女王」
「そんな事ありませんわ。全ては貴方の才覚と努力のなせる業。もっと自信を持って下さいまし」
「いや、ガリアを追われた時にアルビオンに亡命する段取りをつけてくれたのは君だし、あのクロムウェルの奇異な才能を見出したのも君だ。君が居なければ、僕はどうなっていたことか……」

 青い男シャルルは、陶酔した瞳で妻である赤い女を見る。

「いえいえ、私はほんの少しだけ助言をしたに過ぎません。全ては貴方の功績ですわ。私は貴方がガリアだなんて古臭い国に納まる器じゃないと、常々昔から思っていましたの」
「そうだとも! 僕はガリアなんかに納まるつもりはない! 兄さんに負けて劣ってなんて居ないんだ!」

 妖しく艶やかに、赤い女が微笑む。
 朱い、紅い、アカイ、魅惑の赤の女王。

「その意気ですわ。きっと世界は――ハルケギニアは貴方にひれ伏すことになりましょう」


=================================


当SSは名(状しがたい怪)作を目指しています。
アルビオンは天空教(ハスター崇拝および、その補助としてのシュブ=ニグラス崇拝)に転向したようです。
トリステインがゲルマニア併呑出来たのは、ブリミル教会の暗躍と、六千年続いた王家を途絶えさせるのがもったいないと思ったウードが融資したから。
ヴィンダールヴの能力は拡大解釈。ウード君が色々と知識を広めたせいで、微生物学も、知識階級には広まってると思ってください。
当作のシャルロットは虚無のスペアなので魔法が使えません。原作初期のルイズ以上にコンプレックスまみれだと思われ。
シャルルの妻は、原作で心を破壊されたのを受けて、当作でもマトモじゃなくなってます。ある意味一番可哀想なことになっているかも。

2011.05.04 初投稿



[20306] 蜘蛛の巣から逃れる為に 23.幕間
Name: へびさんマン◆29ccac37 ID:b87f4725
Date: 2011/05/10 21:26
■23-1.翼蛇と風韻竜


 ルイズたちが滞在するタルブ村は、クルデンホルフの資本投下によって、魔改造されてしまっている。
 近代的な街並みに変貌したタルブの一角に、ベアトリスやタバサ、キュルケが泊まる別邸があった。
 そこには当然、タバサの使い魔であるシルフィードや、空中触手竜騎士であるルネの乗騎ヴィルカンのための広い竜舎も設えてある。

「ん~、今日もご飯が美味しかったのね~! きゅいきゅい♪」

 シルフィードはその日も、ベアトリスの計らいで与えられた最高級の牛肉をお腹いっぱいになるまで食べて、非常に満腹であった。

「隣にあのおっかない触手竜も居ないし! ご飯は美味しいし! もう言う事なしなのね~」

 何せ隣に、あの天敵の地底魔蟲(クトーニアン)とのキメラであるヴィルカンとか言う触手竜が居ないのだ。
 心置きなく食事に専念できる。
 学院に居た頃は、シルフィードとヴィルカンの竜舎は隣り合っていたが、今はタルブ村の竜舎にかなりスペースの余剰がある(50騎は入れるスペースがある)し、ヴィルカンは別棟にいるため、隣り合うことは無い。

 しかし束の間の平穏を謳歌するシルフィードの前に、新たな魔手が迫る。

【貴女、韻竜よね?】
「キュイ!?」

 何処からか掛けられた声に、シルフィードは身を縮ませる。

「キュイ!? ど、何処なのね!? 何者なのね!?」

 シルフィードはキョロキョロと竜舎を見回す。
 シルフィードが韻竜であることは、この一ヶ月以上に渡る滞在で、ベアトリスやキュルケにはバレてしまっている。
 つまりこの新発展したタルブ村に出入りする研究狂の矮人(改良ゴブリン)たちにもバレてしまっているのだが、既に韻竜のデータは充分に採取してあるそうなので、わざわざガリアのオルレアン公爵の使い魔であるシルフィードに手出しをしてきたりはしない。あのガリアの星慧王と外交問題になると面倒なのだ。

 見回すシルフィードの死角、彼女の足元から、声の主はやって来た。
 それはまるで蔓植物が支柱に絡みつくようにして、シルフィードの青い鱗の上を滑り、巻きつくようにして脚を登ってくる。
 ゾワゾワとした触感と、得体のしれないものに対する忌避感がシルフィードの中に湧き上がる。

「何!? 何なのねっ!?」
【答えなさい。貴女、韻竜でしょう?】

 視線の先には、朱鷺色の羽根の毒々しい赤と黒の腐り蛇の胴体を持った、全長50サントほどの小さな翼蛇の幻獣。

「お、おチビのくせにビックリさせるんじゃないのね!!」
【おチビじゃないわ。私の名前はエキドナよ。サイトにつけてもらった名前があるんだから。……貴女、韻竜よね?】
「そうよ! 私は古き誇り高き韻竜の末裔!」
【やっぱり! 私の目に狂いは無かったわ!】

 喜色満面といった様子で、翼蛇エキドナは飛び上がって、シルフィードの眼前に浮遊する。

「きゅいきゅい。おチビのくせに、なかなか見る目があるのね!」
【だから名前はエキドナよ。おチビじゃないわ。……でも、まあ別に覚えなくても構わないわ】
「きゅ、きゅい……?」

 エキドナの様子に、シルフィードは何処か不穏なものを覚える。
 違和感。
 この小さな翼蛇が、まるで歳経た火竜のような、そんな空気を纏っているような気がする……。

「……な、何をするつもり、なのね……?」
【うふ。うふふふふふふふふふふふっ】

 ドロリと蛇の口から、毒粘液のような含み笑いが漏れる。
 シルフィードはそれを聞いて、本能的な恐怖を覚えた。
 まるであの天敵の触手竜を前にしたような――絶対捕食者を前にしたような、あの、魂を鷲掴みにされるような、恐怖。

【うふふふふ。あのねぇ、私、精霊魔法の『変化』を使いたいのよ】
「そ、それが、ど、どうしたのね……?」

 圧倒的な食欲。
 この翼蛇の身体の中には、一体どれほどの欲望が詰まっているのか。
 ジットリと貼り付くようなエキドナの声に、シルフィードは知らず知らずのうちに後ずさっていた。

【貴女はー、精霊魔法をぉ、使えるんでしょおぉぉぉ?】
「つ、使える、使えます、のね……」
【あははははははっ! やっぱり! やっぱり使えるのね!?】
「ひぃぅ!?」

 エキドナが期待に目を輝かせて、鼻息荒くシルフィードに詰め寄る。
 50サントほどエキドナに、シルフィードは完全に気圧されてしまっていた。

【じゃあ、貴女を食べたら、私も精霊魔法が使えるようになるかしら? 人間に化けられるかしらぁ!?】
「きゅい……、こ、恐いのねー!! 逃げるのねー!!」
【逃さないわよぉ! あっはははははははっ】

 明らかに有り得ない大きさに、まるで出来の悪いカリカチュア(風刺画)のようにエキドナの顎が広がる。
 大口広げた貪食と狡猾の翼蛇が、憐れな韻竜を喰らおうと迫る。
 竜舎は狭くはない――しかし広くもない。
 シルフィードは遂に追い詰められてしまった。

「た、助けてなのねーー!!」
【却下! 貴女は私の糧になりなさいっ!】

 口だけを巨大に拡大したエキドナが、シルフィードを丸呑みにしようとしたその刹那――。

 ビタン、と、エキドナがシルフィードの眼前で地面に失墜した。

「た、助かった……のね?」
【く、何? 何なのよっ、邪魔しないでよ!】

 シルフィードが恐る恐る目を開けてみれば、エキドナの尾を、何かが掴んでいる。
 その何かは、竜舎の入り口から長く伸びる、巨大なミミズのような、肉質のホースというか――つまり触手であった。

【……? 触手?】

 エキドナが振り返って自分の尾を掴む触手に対して疑問の声を上げたのを合図にしたのか、その触手が暴れ出してエキドナをぶん回す。

【う!? だ!? ぎゃっ?! 頭に血が上る――】
「きゅい! な、何なのね!? もう勘弁して欲しいのね!!」

 触手はエキドナを散々にグルグルと振り回す。
 尾の先端を中心に振り回されて遠心力で頭に血が上ったエキドナは、血液過剰によってレッドアウト。
 シルフィードは予想外の事態の連続で恐慌状態に陥っていた。

【ぅう~~……】

 意識朦朧としているエキドナを、ずりずりと引き摺って、触手は竜舎の入り口まで縮んで行く。
 やがて完全に触手も翼蛇エキドナも、シルフィードの視界から消える。
 それにしても、さっきの触手は一体何だったのだろうか?

「きゅい……? も、もしかして、あの触手の竜の――えーと、ヴィルカン、おじさまが、助けてくれた……?」




 その頃、隣の竜舎では。

【おい、起きろ。起きろ、エキドナ嬢】
【ぅう? うえぁ?】

 触手竜ヴィルカンが自前の長い触手で翼蛇エキドナをぶら下げていた。

【ぅぅー? あれ、私、何でこんなところに?】
【覚えとらんのか。まあ良い】

 ヴィルカンは溜息をつくと、エキドナを解放し、自分の背中から生える触手をぶちりと一本ちぎって、エキドナの前に投げ出す。
 切られた蜥蜴の尻尾のように、ちぎられた触手が跳ね回る。
 ヴィルカンがビチビチ跳ねる触手を指す。

【ほれ喰え】
【えー、不味そう】
【儂の身体にも、先住種族たるクトーニアンの血が流れておるし、品種改良の過程で韻竜の血も混ざっとる。儂の触手を喰らえば、精霊魔法の為の感覚器ぐらい手に入る――】
【イタダキマスッ!!!】

 ズルリ、とエキドナがヴィルカンの触手を呑み込む。

【現金な奴め。今後勝手に他人の使い魔を食おうとするなよ?】
【んがぐっぐ】
【呑みこんでから喋れ。まあ実際の精霊魔法については、エルフの記憶からサルベージして作った教科書をシャンリットから取り寄せてもらえば良かろう】
【んごがが】
【落ち着け】



 その後、シルフィードは少しだけヴィルカンを怖がらなくなり、
 エキドナは全長1メイルくらいに成長して簡単な精霊魔法を使えるようになり、
 ヴィルカンの背中からは新たにピンク色の真新しい触手が一本生えた。

 タルブ村での、そんな一幕。


■23-1.翼蛇と風韻竜と触手竜/了 (シルフィのトラウマ±0)

◆◇◆




 蜘蛛の巣から逃れる為に 23.幕間――本筋には余り関係ないお話たち




◆◇◆

■23-2.北花壇騎士団

 ガリアの暗部を担当する、公式には存在しないはずの騎士団。
 日の当たらぬ北花壇の名を冠するその工作部隊は、国内のあらゆる汚れ仕事、また周辺諸国への諜報を行う組織である。
 そこに『元素の兄弟』と呼ばれる腕利きの四人組が所属している。

 彼ら『元素の兄弟』の素性は不明である。
 ただ、恐ろしく強力な使い手たちであるということは確かだ。
 不確かな噂によれば、彼らはクルデンホルフの学術都市シャンリットで研究されていた生体兵器の脱走実験体だとも言われている。

 これから紹介するのはそんな彼ら――長兄ダミアン、次兄ジャック、三男ドゥドゥー、末妹ジャネットたち『元素の兄弟』がこなした任務の、ほんの断片である。


◆◇◆

 ●その① ファンガスの森のキメラドラゴン退治

「ファンガスの森のキメラドラゴンを退治しろ、ねぇ」

 これは今から数年前の話。
 フェンガスの森という場所で、魔法実験体であったキメラドラゴンが暴れているので退治して欲しいという依頼が、北花壇騎士団に届けられた。
 その頃から既に元素の兄弟の次兄ジャックは北花壇騎士団に所属しており、名を上げ始めていた。
 そんな彼に、その任務の白羽の矢が立ったのだ。

「まあ、こういう依頼のほうが、やりやすくて良い。不肖の弟ドゥドゥーじゃないが、行って見つけてぶち殺す(サーチアンドデストロイ)ってのは楽で良いさね。護衛だとかよりよっぽど楽だ」

 ジャックはその人外の脚力で森の中を走る。
 彼ら『元素の兄弟』は先天的にそして後天的に強化されている。
 既に日は落ち、森の中は闇。
 獣の時間となって久しいが、『暗視』の魔法で強化された彼の瞳は、まるで昼間のように――とはいかないが、薄暗がりを見通し、彼をそこを駆け抜ける。

「ジャック兄さま! 待って! 置いてかないで!」

 それを追う少女が一人。
 幼い少女はフリルが過剰に付いた黒白のドレスを着ている。
 彼女も、ジャックほどではないが、大人の男よりも明らかに速いスピードで森を走っている。

「この程度付いてこれないでどうする、ジャネット。さっさと来い」

 口ではそう言いつつも、ジャックは可愛い末妹のことを待ってやる。
 彼はなかなか優しいのだ。……断じてシスコンではない。断じて。
 末妹の匂いに惹かれて森の中をやって来る様々なキメラたちを、手に持った棒手裏剣でジャネットに気付かれないように撃破するくらいには、彼は妹に優しかった。

「はぁっ、はぁっ、兄さま、走るの速いですわ……」
「お前が遅いだけだ。もっと鍛えろ。あと、走ることだけに気を取られるな。罠や狙撃、隠れている相手に気をつけろ」
「はぁっ、はぁっ、はい、兄さま」
「精進しろよ、ジャネット。俺がフォローしなきゃ、5回はキメラどもに襲われてたぞ」
「ふふっ、ありがとうございます。私、兄さまのそういう優しいところ、大好きですわ」
「ああ、俺もお前のことは好きだよ。分かったから、さっさと俺が撃墜したキメラ5匹の所に行って、氷漬けにしてこい。あとでシャンリットの博物館に売り払うんだからな。氷漬けにしたら、四次元ポケットに入れておけよ?」
「はぁい、分かりましたわ」

 ジャネットは一息つくと、再び森の中に消える。
 その間にジャックは周囲の土から棒手裏剣を『錬金』して補充する。
 そして直ぐ隣りの森の茂みを見透かすようにして、そこに居る何者か(・・・)に向かって声を掛ける。

「そこに隠れている者、出て来たらどうだ? 出て来ないなら、土の槍で貫くぞ」
「……」
「三秒だけ待ってやる。3、2、1――」
「分かった分かった! 出る、出ていくよ!」

 おお怖い、と言いながら茂みから姿を表したのは、矢筒を背負った一人の女猟師だった。

 ジャックとその女漁師は少しお互いの情報を交換する。
 もしかしたらこの若い女猟師は、キメラドラゴンの場所を知っているかも知れない、とジャックは打算してのことだ。
 ジャックは事前情報で得ていたキメラドラゴンの特徴――喰った獲物の頭を生やす再生力の強いドラゴンであることなどを話す。

 黒髪の美しい、若い牝鹿のような女猟師は、名をジルと言うらしい。
 人の寄り付かぬこのファンガスの森で狩りをしていた猟師の娘だったが、森の研究塔を脱走したキメラの群れに襲われ、家族を全て亡くしたらしい。
 そして今は自分が生きるための狩りではなく、キメラを殺すために狩りをしているそうだ。

「はあ、そうかい。そりゃあ大変だったね。それで、キメラドラゴンは何処に居るか分かるかい?」
「……これっぽっちも同情なんかしていないくせに、よく言うよ。まあ、こんな森で狩りをしてたら自業自得なんだが……。そうだね、キメラドラゴンを探してるなら、獣になったつもりで考えな。ヤツだって休息が必要だし、水飲み場も必要だ。そういうのが揃ってる場所を探せば、巣が見つかるだろうよ。何せヤツは森の主だ。一等地に居を構えてるだろうさ」
「なるほど。しかし探すのも大変だ。この辺には不案内でね。それで、このあたりのことに詳しそうな猟師である君は、キメラドラゴンの巣がありそうな場所は知らないのかい?」
「……知っていたって教えるもんか。ヤツは私の獲物だ」

 ジルは、ぷいっと横を向いてしまう。
 そこにジャネットが現れる。
 彼女はジャックが撃墜して殺したキメラたちを氷漬けにして、魔法のポケットに仕舞っちゃって帰ってきたのだ。
 そして女性と話しているジャックを見て目を丸くする。

「あら! あらあら! ジャック兄さんが女性を口説いてらっしゃる! まあまあ! これは大変!」
「……。ジャネット、これの何処が口説いているように見える? 彼女はこの森の猟師だそうだ。キメラドラゴンのことについて聞いていたんだよ」
「アンタの妹かい? コブ付きで倒せるほど、あのキメラドラゴンは安い相手じゃないよ。家族がいるならアンタらはもう帰りな。そんで家族を大切にするんだ」

 ジルは忠告めいたことを口にすると、さっさと茂みの向こうに行ってしまった。
 ジャックとジャネットは、互いに顔を見合わせて肩を竦めた。
 彼ら兄弟は、自分たち四人兄弟――家族のために、ガリアの狗として任務を果たしにファンガスの森までやってきたのだ。おめおめ帰れるわけがないではないか。


 翌日、ジャックは『レビテーション』で森の上空に飛び上がり、ファンガスの森一面を見渡していた。
 キメラドラゴンなどという大物が居るのなら、その周囲はキメラドラゴンから逃げるためにざわめいているか、あるいはキメラドラゴンを避けて息をひそめて静かになっているかどちらかのはずだ。
 ジャックは目を凝らし、森の中で異常な場所がないか探していく。

「っ! 見つけた。あれだ」

 その時ジャックの視界に、木々の枝が不自然に揺れているのが飛び込んできた。
 しかも林冠の揺れは、まるで巨大な何かが移動しているかのように、森に線を引くような軌跡で動いている。
 おそらくそこにキメラドラゴンが居るはずだ。

「ジャック兄さまー? 見つかりましたー?」
「ああ、見つけた! ここから南だ。すぐ行ってさっさと片付けるぞ」
「はぁい、分かりましたわ」

 ジャックとジャネットが空を飛んでキメラドラゴンのもとへ向かう。


 勝負は一瞬だった。

 キメラドラゴンに接近したと同時に、ジャックが合成竜の足元を泥沼に『錬金』して足止めする。
 キメラドラゴンの火球を避けながら、更に接近し、ジャネットが全身を泥沼ごと凍りつかせる。
 『元素の兄弟』は並の使い手ではない。シャンリットの生体兵器だと噂されるのも頷ける。

 再生力は高いようだが、一瞬で体内外の水分を凍らせられては、さすがのキメラドラゴンもひとたまりも無かった。
 ひょっとしたら解凍したら生き返るかも知れないが。

「ふん、何だ、楽勝じゃないか」
「まあこれで任務達成でお金が入るなら良いじゃありませんか」

 ジャックが討伐証明に、凍ったドラゴンの牙を折る。
 そして『レビテーション』でキメラドラゴンの氷漬けの身体を浮かせ、ジャネットが広げている四次元ポケットに突っ込む。
 まるで魔法のように――いや実際に魔法なのだが、キメラドラゴンの巨体が小袋の中に吸い込まれてしまった。

「喰った獲物の頭を生やすキメラドラゴン、か。シャンリットの人面樹転生システムの模倣でもしようと研究してたのかな? ここの貴族は」
「確かに、人面樹もキメラドラゴンと同じように、吸収した獲物の頭を生らせますわね」
「ああ。キメラドラゴンとは違って、人面樹なら記憶もきちんと吸収できるがな」
「……何がしたかったんでしょうね? ここで研究してた貴族は」
「まあ大方不老不死がどうこうってヤツじゃないのか?」
「まさかそんなありきたりな……。だって不老不死になりたいなら、シャンリットの人面樹×バロメッツのキメラ樹による転生システムを利用すれば良いじゃないですか。――私たちみたいに」
「そうだ、俺達みたいにな。シャンリットの転生サービスは法外な値段だが、貯められないわけじゃ無いだろう。――いや、案外高すぎて自分で研究したほうが早いと思ってしまったのかも知れないな」

 一般には流布していないが、シャンリットでは金さえ積めば、生前の記憶や人格や魂を保ったまま、任意のボディにそれを引き継がせるサービスを受けることが出来る。
 擬似的な不老不死ともいえるものだが、その為のサービス料というのが、一回につき数百万エキューだと言われている。
 もちろん、転生後の肉体に様々な付加価値をつけるとなれば、その転生料金数百万エキューに加えて、さらに転生後の肉体のチューンナップのために数百万エキューのオプションがかかるだろう。

 どうやら彼らの会話によれば『元素の兄弟』たちは、その転生サービスを利用して、若く高性能な肉体にありついているらしい。

「ここで採集したキメラのサンプルたちが、シャンリットに高値で売れれば良いんだけどなぁ」
「そういう面倒な交渉事は、ダミアン兄さまに任せましょう。ダミアン兄さまは最近ボディを交換しましたし、その分多少は苦労してもらわないと」
「だな。まあ、ついでだからもう四五十匹くらい狩っとくか。俺の身体もそろそろガタが来始めてるし、少しでも早くお金を貯めなきゃな」
「それはジャック兄さまが無茶な身体の使い方をするからですわ。魔法の威力が足りなきゃ生命力を燃やすって、いくらボディを交換できるからって考えなしすぎますわ……」
「生命力の使い所は弁えてるさ」
「節約してくださいまし。……あ! ジャック兄さま! ここでもう暫く狩りするなら、あのジルっていう猟師のおねーさんも連れて帰って良いかしら!? ああいうタイプは私の“人形”たちには居ませんし、とても凛々しくて綺麗だったでしょう?」
「何だ、気に入っちまったのか。……まあ良いんじゃないのか。彼女の仇のキメラドラゴンは俺らが倒しちまったしな。彼女もやることが無くなって困ってるだろう」
「やったぁ! 流石、ジャック兄さまは、話が分かるわ!」


 ●その① ファンガスの森でサンプル採集&ワイルド美人なお人形さんゲット/了 

◆◇◆

 ●その② サビエラ村の吸血鬼退治

 轟々と家が燃え盛る。
 それを見ている者が居る。
 吸血鬼討伐を命じられた北花壇騎士『元素の兄弟』の長兄であるダミアンと、末妹のジャネットであった。

 だが傍目から見れば、ジャネットの方が姉に見えるかもしれなかった。
 ダミアンは10歳くらいの子供にしか見えないからだ。
 それは彼がつい先日、魂の乗り物である自らの身体を新調したばかりだからだ。

「大体、吸血鬼を見たというのも、ここ最近は誤認というか思い込みだったり、単なるヘマトフィリア(血液嗜好症)だったりで、真実本当に吸血鬼が出るということは少なかったんだがね」
「でも今回は当たりでしたわね」
「ああ。今回ばかりはジャネットが居て助かったよ。仕事の見習いに、と連れてきて良かった」

 ジャネットは自分の腕の中で眠る小さな女の子を見る。
 村長宅に拾われていたエルザという幼い少女――に偽装した弱い三十ほどの吸血鬼である。
 ハーフヴァンパイアのボディを使っているジャネットは、その嗅覚で血の匂いのするエルザが吸血鬼であるということを見抜いていた。

 その上で、ダミアンとジャネットは、占い師の老婆をスケープゴートとすることを良しとしたのだ。
 その結果、集団心理によって暴徒となった村人たちの手によって、占い師の老婆は家ごと燃やされた。
 実際のところ、村人たちは真犯人を探していた訳ではなく、吸血鬼という妖魔が居るかも知れないという行き場のない不安のぶつけ先を求めていただけなのだ。

 だからエルザが犯人でした、などと言っても聞き入れず、勝手に「いいや真犯人は別に居る!」とか言って、村の中で一番立場が弱い人物を血祭りにあげていたことだろう。
 結局のところ、端的に言えば、彼らはストレス発散したいだけなのだから。
 惨劇に走らせないようにするためには、適当に「隣村で吸血鬼が見つかったらしい。これで何も恐れるものはない! 祭りだ!」とか言って、何かストレス発散できる祝祭の場を設けてやることが必要だろう(まあそれも実際に吸血鬼の被害が今後確実に出なくなると分かってからの話しであるが)。

 などと集団心理の有り様について考察しつつ、ダミアンとジャネットは眠りの魔法で眠らされたエルザを抱えて、サビエラ村を後にした。

「それでそのエルザって娘はどうするんだい? “人形”にでもするのか?」
「まさか! きちんと吸血鬼としての常識をつけさせてあげるだけですわ。可哀想に、小さい頃に親が殺されて、吸血鬼の常識も知らずに生きてきたのですわ、エルザちゃんは。きちんと更正させるチャンスは与えませんと」
「……養うならお前の金で養えよ。ちなみに吸血鬼の心得ってのは?」
「ニンゲンは生かさず殺さず、ですわ」
「貴族のような言い分だな」
「当然ですわ。ヴァンパイアは夜の貴族なのですもの」


 ●その② サビエラ村にて村人たちのストレス発散を見届け、吸血鬼の養女を引き取るのこと/了

◆◇◆

 ●その③ ド・ロナル伯爵公子を学院に通わせるべし


「全く、なんで俺がこんな事をしなきゃいけないんだ! いくら金払いが良いからって……いや、金払いが良いなら、何でも引き受けるんだった、ダミアン兄さんは……」

 憤ったり落胆したり、一人で百面相しながらガリアの首都リュティスを歩くのは、北花壇騎士団の腕利き『元素の兄弟』の三男ドゥドゥーであった。
 ちょうど任務がなくて暇していたドゥドゥーに、エルフ混じりの長持ちボディに新調したばかりの長兄が持ってきたのは、引き篭っているド・ロナルとかいう伯爵の息子を学院に通わせることだった。
 だが暗殺・諜報が主任務の北花壇騎士団に、ヒキコモリの更生を頼むだなんてどうかしている。


 ◆ドゥドゥーの任務報告書

 一日目。
 ド・ロナル伯爵の邸宅に辿り着いた。
 召使にさっさと伯爵の息子――オリヴァンとかいうらしい――の部屋に案内させる。
 オリヴァンが出て来ないので、俺のお得意の『ブレイド』で扉の鍵を切断し、ドアを開けて引っ張り出す。
 そのまま無理やりリュティス魔法学院に引っ張っていき、放り込む。
 ……直後、オリヴァンがいじめられているのを目撃。いじめっ子を蹴散らす。
 オリヴァンが「良いこと思いついた、お前俺の代わりに〈透明マント〉着て魔法使え」とか寝惚けたことを言うのでこっちも蹴散らす。


 二日目。
 オリヴァンが昨日よりなお強固に引き篭もる。
 あ、これあかん。堂々巡りになるわ。と、昨日のことを反省。
 任務に当たってダミアン兄さんがよく言っていたことを思い出す。
 確か「任務の達成には顧客満足度が重要だ」とダミアン兄さんは言っていた。
 リピーターになってもらうにはそれが必要なのだそうだ。
 無い知恵絞って考える。自慢じゃないが俺は頭が良くない。

(えーと、この場合、顧客ってのは、金出してくれる人だから、この坊主の父親か。兄さんが言うには、顧客が本当に求めていることと、実際の依頼内容はワンクッションもツークッションも置かれていることが多いってことだから、この際、依頼内容の『学院に通わせる』は一回忘れよう。すると、ド・ロナル伯爵とこのオリヴァンとかいう息子の関係において、伯爵が何を求めてるかってことだが――)

 湯気が出るまで考える。
 考える。
 考える。
 考えた、が、無い知恵絞っても無いものは出ない。

「だぁーーっ! もう訳分からん! 学校にはいじめっ子がいて行きたくないってんなら、苛められない実力つけさせりゃ良いだけじゃねえか! そうすりゃオリヴァンの親父さんも満足だろ! 跡継ぎが強いに越したことはないんだからな!」

 俺はオリヴァンの部屋の扉をダイナミック解錠し、抵抗するオリヴァンを抱えて屋敷を飛び出した。
 行く先は、火竜山脈。
 武者修行と言えば、山篭りだと相場が決まっている。


 三日目。
 取り敢えずオリヴァンを火竜の前に放り出してみた。
 ……速攻で失神したので、俺が『ブレイド』を伸ばして火竜の首を刎ねた。肝心の伯爵公子を死なすわけにはいかない。
 その日の二人の夕飯は地熱で焼いた火竜肉だった。
 オリヴァンが泣きながら「帰りたい」と言うので、「俺を倒せたらな」と答えておいた。
 尚更オリヴァンが絶望に顔を染めて泣いた。
 ……火竜肉の匂いに釣られたのか、リュリュと名乗る美食ハンターがいつの間にか晩餐に参加していた。

 七日目。
 何を勘違いしたのかオリヴァンがリュリュに夜這いをかけようとして逆襲されていた。馬鹿か。
 少しオリヴァンが痩せてきたように思える。
 オリヴァンを鍛えつつ、リュリュにも(切実に)請われて護身術を教える。


 十日目。
 季節外れの極楽鳥の卵を見つけたので食べてみる。
 ……クソ不味かった。
 オリヴァンの身体が徐々に良い感じに出来上がってきている。
 だが魔法も体術もリュリュの方が筋が良い。


 二十日目。
 再びオリヴァンを火竜の前に放り出してみる。
 気絶はしなかったが逃げまわるだけ。
 風メイジだけあって脚だけは中々早い。
 埒が明かないので途中で俺が火竜をブチ殺して、強制終了。
 まだ早かったか。


 三十日目。
 リュリュが火竜を倒した。


 三十一日目。
 オリヴァンが火竜を倒した。
 リュリュに先を越されたのが相当悔しかったらしい。


 三十二日目。
 最終試験と称して、俺に一太刀当てることを言い渡す。
 その場でいきなり飛び掛ってきたので、体術のみであしらう。
 リュリュは新たな美食を求めて旅立っていった。
 リュリュの別れ際、リュリュとオリヴァンは何か約束をしていたようだ。


 四十日目。
 オリヴァンが俺に対して罠を使うことを覚えたらしい。
 いい傾向だ。
 生き残るためには使えるものは何でも使う必要がある。
 だがムカツイたので腕の一本刎ね飛ばしておく。
 痛みに耐えかねて気絶しやがったので、その後『治癒』で腕を繋げ直してやる。俺って優しい。


 四十五日目。
 俺が気づいたときには、オリヴァンによって巧妙に誘引された火竜たちに囲まれてしまっていた。
 その乱戦の中で遠くからの石礫が飛来。
 何とか石礫は避けたものの、石礫に被せるように発射されていた風の魔法を食らってしまう。
 不覚。いや、オリヴァンがよく成長したというべきか。
 既に山に登る前の豚のような風貌は失せて、筋骨隆々とした肉体に彼は生まれ変わった。


 四十六日目。
 満を持して下山。
 ド・ロナル伯爵や使用人たちが、オリヴァンの変わり様に驚く。
 だがド・ロナル伯爵にはかなり好感度が高い模様。
 やはり俺の選択は間違っていなかった。
 俺が「学校に行けるか」とオリヴァンに問うと口ごもりやがったので、「次にズル休みしたら、今度はサハラだぞ」と言って脅しておく。
 学院前まで送り、門に入るのを見届ける。
 ……しばらく周囲を見張るが、オリヴァンが戻ってくる様子はない。
 無事に登校したのだろう。
 これで任務は達成のはずだ。


 四十七日目。
 オリヴァンはきちんと学校に行っているようだ。
 遠目だが学院で見かけたから間違いない。

 四十八日目。
 オリヴァンはきちんと学校に行っているようだ。

 四十九日目。
 オリヴァンはきちんと学校に行っているようだ。
 よし、もう大丈夫だろう。
 ダミアン兄さんの所に戻ろう。

 五十日目。
 この程度の任務に時間をかけすぎだとダミアン兄さんに怒られた。
 まあ俺の働きに対するド・ロナル伯爵からの評判は良かったらしいのが救いか。
 次からはせめて締切りと定期報告は忘れないようにしよう。


 ◆オリヴァンの再登校

「ようやく僕は帰って来れた! この光り溢れる麗しのリュティスに!」

 鍛えられた身体に生まれ変わったオリヴァンが、リュティス魔法学院の門の前で感涙に咽ぶ。
 苛められた日々の記憶が残る学院であるが、そんなもの、あの火竜山脈での四十日間に比べれば、どうということはない。
 授業に取り残されているかも知れないが、もともと座学は得意であったのだ。直ぐに追いつけるだろう。
 チェスやパズルが好きなオリヴァンは、頭の回転に掛けては自信を持っていた。

(頭を活かした罠や作戦は、あのドゥドゥー師匠にも褒められた! 魔法だって強くなった! 身体だって、あの苛めっ子のアルベールにも負けないぞ!)

 胸を張って、彼は門を潜る。

 ……直後、衛兵に引き止められた。
 部外者だと思われたのだ。
 学生証を提示したが、風貌があまりに変わりすぎていたので、疑いは晴れず。

 面倒くさくなってこのまま帰ろうかとも思ったが、おそらくドゥドゥーが監視していることを思い出すオリヴァン。

 ――後には退けないため、強行突破。

 しかし途中で教師に十人掛かりで止められてしまい、最終的に職員室に連行される。
 教師たちはオリヴァンが、「ただ登校しに来ただけだ」と言っても聞く耳を持ちはしない。
 途中で苛めっ子のアルベールとその取り巻きを見かけたので、「僕だ! オリヴァンだ! なあ、アルベール! 覚えてるよな!?」と呼び掛けるが、彼らは青い顔をして首を振るとそそくさと去っていった。

 結局疑いが晴れず、学院に乱入しようとした不審者として懲罰房に入れられる。
 屈辱である。

「だが、逆に考えるんだ。僕には何も後暗いところはない。逆に、教師たちの弱みを握ってやったって思うんだ。そうすれば何も怖くない。大丈夫、明日にはきちんと父上から学院に事情が伝わるはずだ」


 翌日、オリヴァンの身元を保証しに来たド・ロナル伯爵に平身低頭する教師たちや衛兵を見て、オリヴァンの溜飲が下がった。
 
 教室に行くと、ざわざわと皆がオリヴァンの方を見てくる。
 「誰だあいつ」という声が聞こえる。
 アルベールとその取り巻きは、端の方で縮こまっているようである。
 オリヴァンにとって久しぶりに受ける授業は新鮮で面白かった。学習意欲も高まっているようだった。

 さらに翌日。
 何故かアルベールが決闘を申し込んできた。
 アルベールは不承不承という感じであったのが、オリヴァンには疑問であった。
 実際は、アルベールが自分の派閥内でのメンツを保つために、他のメンバーから半ば強制されるようにオリヴァンに決闘を申し込んだのだが、そんなことはオリヴァンにはこの時は頭が回らなかった。
 その日の午後、決闘。
 難なくアルベールに勝利。

「……弱っ。これならリュリュの方がよっぽど強かったよ」
「く、くそっ! 貴様、やっぱりオリヴァンじゃないな!?」
「いやいや」
「そっちが別人で決闘するなら、こっちだって代理人を立ててやる! 出て来い、セレスタン!」

 後ろから現れる、傭兵崩れ風の男セレスタン。

「いくらその代理人が腕利きでも、僕の師匠には敵わないと思うよ。花壇騎士だと言っていたからね」
「花壇騎士ィ? そうと聞いちゃ黙ってられんな。あんなお坊ちゃんどもに闘いの何が分かるってんだ」
「……何だと?」
「お座敷で習った魔法や剣術に意味はねぇってんだ」
「お座敷だと?」

 オリヴァンがわなわなと震え出す。
 アルベールがオリヴァンの震えを目ざとく見つけて、からかいの言葉を飛ばす。
 他の取り巻きも同調して嘲笑う。

「何だ、オリヴァン。怖くなったのか? 今なら土下座すれば許してやらんこともないぞ」
「馬鹿にするなっ!!」

 オリヴァンは泣きながら叫ぶ。

「アレがお座敷魔法だと? お座敷剣法だと!? 嘘を言うなっ! お前らは経験して無いからそんな事が言えるんだ! この四十日間、僕が何処に居たと思う? 火竜山脈だ! それも繁殖期の気が立った火竜の群れの中で四十日だぞ!? 初日からいきなり十五メイルはある火竜の前に放り出されたんだぞ!? それで鍛えに鍛えて頭も使って火竜をようやく倒せたと思ったら、今度は火竜を瞬殺する師匠と試合だぞ!? いや、あれは絶対試合じゃなかった。殺し合いだった! 今思い出しても足が震える。涙が溢れる。泣き虫オリヴァン? 泣くに決まってんだろうがっ! この四十日、生きた心地がしなかったんだぞ!? それでようやくリュティスに帰ってきてみれば、どうだ!? くっだんねぇことで絡んできやがって! ブチ殺すぞっ!」

 オリヴァンの突然の急変に周囲は戸惑う。
 癇癪を起こしたオリヴァンの風の魔力のオーラが、彼が叫んだ内容を真実だと裏付ける。
 雇われ用心棒のセレスタンが前に出る。

「ならばブチ殺してもらいましょうや。花壇騎士の名前を出されたんじゃあ、俺も退くに退けねぇんでね」
「ああ、良いだろう。行くぞ!!」
「来い! 小僧!」

 対峙する二人の交錯は一瞬であった。
 そして、崩れ落ちたのは、セレスタンの方だ。

「ぐふっ、てめぇ、只のガキじゃねぇな……」
「セレスタン、と言ったか。確かに、僕は只者じゃない。何せ、ド・ロナル伯爵の跡継ぎで、ドゥドゥー師匠の弟子なんだからな!」
「ドゥドゥー……聞いたことがあるぞ。まさか! 『元素の兄弟』のドゥドゥーか!?」
「さあね。師匠は師匠さ」

 という訳で、自力と自信を付けたオリヴァンは、見事に社会復帰を果たしたのであった。

 ●その③ ドゥドゥー弟子を取る/了

◆◇◆

 他にも彼ら『元素の兄弟』は様々な任務に従事した。
 それは、コボルドの討伐であったり、翼人を追い払ったりであったり、ミノタウロスを装った人身略取を暴いたり、本当にミノタウロスを討伐したり、色々だ。
 八面六臂の活躍をする彼らのモットーは「給料分だけ働こう」である。
 とはいえ、彼らの上司は頭が切れる事で有名なあのオデコがチャーミングなイザベラ王女である。
 きっと楽はさせてもらえないのだろう。ギリギリまでこき使われるに決まっている。

 ああ、でも、お金が好きな彼らが嬉々として行った任務が一つだけあった。
 それは――違法カジノの摘発である。

■23-2.『元素の兄弟』は転生資金を貯めるようです/了

◆◇◆

■23-3.トリスタニアの王城にて


「陛下。お顔色が悪いようですが……」

 侍従長のラ・ポルトが、寝室から出てきたアンリエッタに声を掛ける。
 ちなみにまだウェールズとは褥(しとね)を共にしていない。
 アンリエッタの顔は青ざめており、口は恐ろしいものでも見たかのように戦慄いている。
 何度か唾を飲み下し、やっとアンリエッタは口を開く。

「夢を、恐ろしい夢を……」
「大丈夫です。アンリエッタ陛下。現実が上手くいっているときには、脳内でバランスを取るために、悪夢を見ると言います。無意識が“こんなに上手くいっていると揺り返しが来るのではないか”と勝手に心配するのです。それが夢に現れることがあるそうです。ですが、アンリエッタ陛下に限ってその心配が現実になるようなことはありえません。何せ、アンリエッタ陛下は神にも等しい始祖に選ばれた始祖の後継たるお方ですから」
「そう、ですか。そうですよね。ええ、心配は、要らない、はず」
「その通りです。案外、吐き出してみれば良いかも知れません。私でよければお聞きしますよ」

 ラ・ポルトは微笑みながら、敬愛し心酔するアンリエッタを気遣う。
 気遣いつつも、彼は優秀なカウンセラーを手配することを脳内に刻んでおく。アンリエッタは望まないかも知れないが。
 アンリエッタ女王を盲信するだけではなく、彼女の将来を思えばこそ、時には自ら嫌われ役にならねばならぬこともあると、ラ・ポルトは信じている。
 ラ・ポルトの愛の形は忠愛であったし、王城の他の多くの者も、同じく忠愛を胸に抱いて――いやアンリエッタの魅惑の美貌によって忠愛を胸の奥深くに塗り込められているだろう。

 息を整えたアンリエッタは、幾分か顔色が良くなったようだ。
 場所を王族のための控え室に移して、アンリエッタは話し始める。
 ラ・ポルトはメイドに紅茶を持ってこさせるように命じ、女王が話し出すのを待つ。

「ラ・ポルトは、私と私のおともだちのルイズ・フランソワーズが『アミアンの包囲戦』と呼んでいる、昔のちょっとした喧嘩を、覚えていますか?」
「はあ、ルイズ・フランソワーズと申しますと、あのラ・ヴァリエール公爵の三女でありますな。そういえば昔はよくご一緒に遊んで、またよく喧嘩もしてらっしゃいましたな」
「ええ、その数ある喧嘩のうちの一つ。私の寝室で、ルイズと衣装を取り合って、『宮廷ごっこ』でどっちが姫をやるかで喧嘩して」
「ええ、ええ。ルイズお嬢様は、ラ・ヴァリエール夫人に似たのか勝気な性格で。あの勝気なルイズお嬢様に、姫様はよく泣かされておりましたなあ」
「そうなの。ああなんだか懐かしいわね。でも、私が快勝したこともあったのですよ? それが『アミアンの包囲戦』と私たちが呼んでいる事件なの」
「事件とは、また大変ですな」
「ええ、大事件よ。私の一発が見事にルイズ・フランソワーズのお腹に決まって、彼女、そのまま気絶しちゃったんですもの」
「おお! 思い出しましたぞ! あの時は姫様が泣いて慌てて、大変でございましたな! いやはや懐かしい」
「そうなの。私、びっくりしちゃって」

 とりとめない話であるが、かなりアンリエッタの顔色は良くなった。
 あと暫くして、ウェールズ王子が起きてくる頃には、恐らく回復するだろうと思われた。
 だが、アンリエッタは急に顔色を暗くする。

「今日の夢は、その『アミアンの包囲戦』についてなの。起きてからもはっきりと覚えているわ」
「どんな夢だったのです? お聞きしても宜しいでしょうか」
「とても……、とても恐ろしい夢。衣装を取り合って取っ組み合いになるまでは同じ。だけど、取っ組み合いになった私とルイズが居る場所は、いつの間にか血みどろの死体が積み上がった戦場――まさに地獄のような戦場に変わり果てていたの」
「それは……おだやかではありませんな」
「ええ、しかも、それだけではありません。はっと気がつけばルイズは後ろに回っていて、私の顔を後ろからがっちりと固定してくるのです。そして、固定された視線の先には――ああ、とても言葉にはできません! 蠢いて気持ちの悪い、肉塊のような、死体のような、とにかく、悍ましいとしか表現できない、ナニか! 混沌の、暗闇の、血色の、火色の! あらゆる悪徳を煮詰めて憎悪で色付けしたような、最悪の、狂気が――! ルイズが『姫さまは、こうならないでください』と囁くのよ! 誰が好き好んであんな気持ちの悪い肉塊になんてなるものですか! あんな、あんな、腐った、流れの止まった淀みのような、池の底のヘドロのような――」

 アンリエッタが取り乱す。

「陛下! 陛下っ! しっかりなさってください! ここにラ・ポルトがおります! ウェールズ陛下も王城にいらっしゃいます! どうかご安心下さい!」
「……はぁ、はぁっ。ええ、っ、大丈夫です。大丈夫です。ウェールズ様が居る限り、私は、大丈夫です……」
「そうです。アンリエッタ陛下は一人ではありません。この私も、トリステインの全てが、陛下のためにあるのです」
「ええ、私は、大丈夫。大丈夫。大丈夫」

 アンリエッタは身を掻き抱くようにして暫く震え続けた。

(夢の最後では、夢の中のルイズ・フランソワーズも、震える私のことを優しく抱きしめてくれた……。それはとても温かかったけれど――彼女の眼の奥の、あの絶対零度の虚無のような決意を秘めた瞳は、とても恐ろしかった。『敵になれば、容赦しない』と、彼女の瞳は語っていた……)


■23-3.女王陛下は夢見が悪いようです/了

◆◇◆

■23-4.ロマリア教皇は慈善事業好き


 光り溢れる都市ロマリアの、教皇のお膝元である寺院――ロマリア大聖堂にて。
 慈善事業の一環で引き取ったと思われる子供たちが、寺院の庭で遊んでいる。
 その内の二人の男の子が、何がきっかけか分からないが、取っ組み合いの喧嘩を始めてしまう。

「コイツっ!?」 「やんのかコラ!?」

 だが慌てて、一人の美男子が、その喧嘩を止めに入る。
 年の頃は二十歳ほどか。
 慈愛の笑みを浮かべつつ、毅然とした態度で男子の仲裁に入る。

「コラーーッ! 二人とも止めなさ~~いッ!!」

 喧嘩していた二人がびくっと、動きを止める。

「二人とも一体どうしたというのです?」
「コイツが先に殴ったんだっ!!」 「違わいっ! そっちが先に僕の本を――」 「何だとー!?」
「止めなさーーいっ!」

 再び美男子が仲裁する。
 やれやれ嘆かわしい、と美男子が首を振る。

「暴力を友達に振るうなんて……いけませんよ!! そんな事では、二人とも始祖の御心から外れて、外道に落ちてしまいますよ?」
「えぇぇ~~~~?」 「ゴメンナサイ! 教皇さま、ゴメンナサイ!」

 なんと、どうやらこの美男子は、ロマリア宗教庁のトップ、ロマリア教皇聖エイジス32世――ヴィットーリオ・セレヴァレらしい。
 教皇職にありながら、自ら率先して子供や貧者に施しを行う、慈悲深き男である。
 ……いや、果たしてそうか?

「いいですか? 暴力を振るっていい相手は――化物(・・)どもと異教徒(・・・)どもだけです」

 慈悲深い教皇が、こんな酷薄なセリフを、酷薄な表情で宣う(のたまう)だろうか?

 その時、大聖堂の庭に、また別の男が現れる。
 ゆったりした衣装に身を包んだ、沙漠の匂いがする男だ。
 頭部には日除けのためか、布を巻き付けており、その表情は杳として窺い知れない。

「ロマリア教皇、ヴィットーリオ・セレヴァレ……待ちくたびれたから、こちらから出向いてしまったが、良かったか?」

 繊細なハープのような声音で、沙漠の男が教皇に問う。
 教皇は、少々間抜けにも思える動作でそれに応じる。

「――ああ! もうそんな時間でしたか? これは申し訳ない、ミスタ――何とお呼びすれば良かったですかね?」
「人前では、“アルハンブラ伯爵”とでも呼ぶがいい。実際、私はあの沙漠のアルハンブラ城を任されている」
「では、ミスタ・アルハンブラ。ご案内します」

 喧嘩をしていた子供たちに、「もう喧嘩してはいけませんよ? 仲直りしてください」と言いつけると、教皇は、現れた沙漠の男を引き連れて聖堂の中へと入っていく。



 教皇と沙漠の男は、聖堂内の教皇の執務室へと入っていく。

「……先ほど子供たちに言っていた言葉――『暴力を振るっていいのは、化物どもと異教徒どもだけ』というのは本心か?」

 出し抜けに“アルハンブラ伯爵”が疑問を口にする。

「ええ。そうですけれど、それが何か?」
「ならば、私と接触を持つのは、その信念に抵触しないのかと思ってな。私が仕える神は、遙か星辰の彼方のセラエノに在す(まします)ハストゥールだぞ?」

 そう言って、アルハンブラ伯爵は、頭を覆っていた布を解いていく。
 いや、正確には布自体が意思を持っているかのようにして、ひとりでに解けていく。
 その下から現れたのは、少年とも壮年とも言えない不思議な雰囲気をまとった、澄んだ青い切れ長の瞳が印象的な男だった。

 だが、ハルケギニアに住むものならば、その男の美貌よりも、別の部分に目が行くだろう。
 即ち、長く尖った耳――天敵たるエルフの証である長耳に。
 彼の名はビダーシャルと言い、エルフのネフテス(夜の女神)の部族の一員であり、ハルケギニア諸国との外交を任せられている者でもある。

「まあ我々も、誰彼構わず攻撃を仕掛けるわけではありません。何せ、このハルケギニア――いえ、この大地には、生半な覚悟で手を出すことが憚られるような、その名を口に出すのすら躊躇するような、そんな化物どもが犇めいているのですから。話し合いが出来るなら、それを行うのは吝か(やぶさか)ではありません。先程のは『敵に向けるべき杖を、味方たる人間に向けるな』というだけのことです」
「なるほどな。お前たち蛮人――いや、失礼。マギ族は、常に身内で争っていたからな」
「エルフも似たようなものでしょう。宗派の違い、利権の取り合い、利害の衝突……。争いは絶えず、社会は矛盾に満ちています」
「まあ確かに似たようなものだな、お互いに」

 軽くお互いに会話の拳を応酬すると、二人の男は本題に入る。

「それで“聖地”への立ち入りの件は、如何です?」
「老評議会に諮るべく根回しをしているが――やはり難航しそうだな。老人たちが、6000年前の“大災害”の巻き直しになるのではないか、と心配している」
「つまり、我々ロマリアと貴方たちの間に、まだ信頼関係が足りない、ということですね。土壇場で裏切って、聖地で良からぬことを企んでいるのではないかと勘ぐられている、と」
「そういう事だ。エルフ敵視の教条があるロマリアよりも、寧ろ“ハスターを崇める天空大陸の天空教徒たちと結んだ方がまだマシ”という声もあるくらいだ。実際、アルビオンからサハラに留学の申し出が来ているらしいからな」
「“らしい”? アルビオンとのチャンネルも、ビダーシャル卿が取り持つのではないのですか?」
「それが、アルビオンの新王の妃が、エルフだろう? その親戚筋を通じて、打診があったようなのだ。私の頭の上を通り越してな」
「そうですか。実は内心、そのアルビオン妃の一族に思うところがあったりしますか? 貴方の利権が侵されそうなのでしょう?」
「別段気にしないな。彼らがアルビオンを担当すれば、私のハルケギニア方面への業務が少しでも減ってくれるだろう。楽になるのは歓迎だ。今は激務に過ぎる」

 そしてヴィットーリオとビダーシャルは二人揃って溜息をつく。
 彼ら二人が次に口に出したのは、全く同じ言葉だった。

「「全く、あの蜘蛛どもめ……」」

 そこから先は、彼ら二人が揃ったときには、最早お定まりとなった、愚痴の応酬であった。

「どうせ奴ら蜘蛛どもは、ここ千年と同じく、観察するだけで何もしてこないのだろうが、だからといって、シャンリットの蜘蛛どもへの監視を緩めるわけにもいかん。諸国で政変が相次ぐ中、大人しくしているのが却って不気味だ」
「聖地への立ち入り許可を得る前に、あの蜘蛛どもから、虚無魔法『生命』の鍵である第四の使い魔(リーヴスラシル)を解放しなくてはなりません。とはいえ、あの学術都市は、物理的にも魔術的にも難攻不落。突出した技術力、千年の富の蓄積、強力な矮人兵隊で構成された軍隊……。並大抵では、どうにもなりません」
「はぁ……」 「本当に……」
「お互い気苦労が絶えないな、ロマリア教皇」
「ええ。蜘蛛に煩わされているという点では、信仰の違いに目を瞑って、友人になれそうですね、ビダーシャル卿」
「全くだ。お前たちの“方舟計画”に、我々エルフも一口乗りたいくらいだ」
「あはは、それも良いですね……。6000年前は、マギ族である始祖ブリミルを基準に環境改変魔法『生命』が発動したせいで、エルフが環境変動に耐えられずに被害を被りましたが……。しかし恐らく、ハーフエルフの虚無の使い手が、恒星系規模環境改変魔法である『生命』を使えば、我々人間とエルフが共存できる環境を別惑星に顕現させられるでしょう」
「……それも是非、真剣に検討しておいてくれ。比較的若い老評議会議員には、このハルケギニアから離れることに興味がある者たちも居るようだった。もしハーフエルフの虚無遣いが居るなら、それは聖地への立ち入りから最終的に異星へ植民するという“方舟計画”にエルフを協力させる為の、強力な説得材料になるだろう」
「分かりました。……となると、やはりアルビオンに潜入しているジュリオには、頑張ってもらわなくてはなりませんね。……全く、ロマリアの手が長いとはいえ、幾ら何でも限度があります」

 ロマリア教皇とエルフの議員の会談は、時に脱線しながらも続く。


■23-4.邪神の坩堝から逃れるために/了

◆◇◆

■23-5.行けラグドリアン湖


 虚無会議を終えてタルブでひと休みしたルイズは、他の一行と共にタルブから一度学院に戻っていた。
 ラグドリアン湖に向かう前に、学院の私室に保管している装備を確認し、手持ちの道具を充実させるためだ。
 アニエスのグリフォンと、タバサのシェフィールド、クルデンホルフの竜騎士ルネの触手竜ヴィルカンが牽引する竜籠に乗って、ルイズたちは空路で学院まで帰還した。

 そんな彼らを出迎えたのは、悩める金髪縦ロールモンモランシーだった。
 正確には出迎えたわけではなく、たまたま門の前を行ったり来たりしていただけなのだが。
 モンモランシーは、深刻な悩みがあるのか、クマのように唸りながら門の前を右往左往したり立ったり座ったりしている。

「う~……」
「あら、モンモランシーじゃないの。どうしたのよ、門の前で頭抱えて蹲って」
「う~ん~……」
「モンモランシー? 聞いてるの?」
「……はっ!? ルイズ!? 帰ってきたの!?」

 漸くルイズたち一行に気づいたのだろう。
 モンモランシーが顔を上げる。

「またすぐに出かけるけどね。モンモランシーこそ、夏期休暇なのに実家の方には帰らなかったのね」
「……それが、モンモランシ領はラグドリアン湖の増水で深刻な被害を受けているの。危ないから、帰ってくるなって、お父様が……」
「ああ、貴女の家は昔からの水精霊との交渉役だったわね」
「ええ。私としては、領地に被害が出ているなら、是が非でも帰って、領民の皆のもとを訪ねて元気づけてあげたいんだけど……」
「なら帰ればいいじゃない? そういう理由なら、貴女のお父様も、無闇に拒否したりはしないと思うけれど。昔に園遊会でお会いした感じでは、そのくらいの融通は効きそうな方だったけれど、貴女のお父様」
「それが……。どうも、その水精霊の様子がオカシイみたいで……」

 水精霊の様子がオカシイ。そしてラグドリアン湖の大増水。
 そのモンモランシーの言葉に、ルイズは眉をぴくりと動かす。
 ルイズは左手の指を癖でこすり合わせると、思案する。

(モンモランシーから、何か情報が聞けるかも知れないわね)

「お父様やお祖父様が、何とか水精霊を鎮めようと、鎮めの儀式をしてるみたいだけれど、上手く行ってないみたいで……。今も、実家からの便りがないかって、こうして門の前で待っていたところなの。家族も領民も、無事だといいんだけど……」
「ふぅん? 私たち、ちょうどこの後ラグドリアン湖に行く予定だったのよ。ガリア政府とトリステイン政府が行う調査に協力の要請が来ていてね」

 そう言って、ルイズは王家の花紋が入った命令書を見せる。

「おい、ルイズ。任務の内容は言っても良かったのか?」
「問題ないわよ、サイト。コレは必要なことよ。トリステインの交渉役に連なる娘が同級生なんてラッキー、くらいには思わないと。コレで一つ手間が省けるわ」

 サイトの抗議に、ルイズは肩を竦めて答える。
 どの道、モンモランシ家には接触を取ろうとしていたのだ。
 いきなり門外漢が彼らの仕事場に乗り込んでいって「女王陛下の命令だから協力しろ」と言うより、娘を介して繋ぎを取った方が心象も良いに決まっている。

「モンモランシーも実家のことが気になるでしょう? 家族の力になりたいのでしょう? 領民を助けたいのでしょう? 貴族の義務を果たしたいのではなくって? ――心配要らないわ。貴女のお父様からの責めは、全て私が負うわ。だから協力してくれないかしら?」

 ニヤリと決して断れない笑顔でモンモランシーに問いかけるルイズ。
 その様子を見て、サイトは「何か、何処と無く蛇っぽい」と思ったとか。
 タルブで喰らった翼蛇エキドナの根幹――ルイズによればルイズの在り方を貪食と狡猾に限って伸ばしたもの――が、ルイズの在り方にも影響しているのだろう。

【誘い方がえげつないわね。流石は私の本体】
【そうか? 虚無遣いの娘っ子がおっかねえのは、昔からだろ?】
「まあ、実際、現地に詳しいモンモンが居れば楽になるのは確かだ。本人もラグドリアン湖に行くのを望んでいるみたいだし、問題ないだろう」
【私はサイトの周りにこれ以上女の子が増えるのは、ちょっと――いいえ、かなりイヤね】

 翼蛇エキドナが、サイトの耳朶に舌を這わせる。
 そこに、モンモランシーの決然とした声が届く。
 蛇のようなルイズの誘惑にモンモランシーは転んでしまったのだろう。

「……っ。ええ、私を連れていってくれるかしら。『極零』の魔女ルイズ。学年でも屈指の――いえ、国中探しても指折りの実力者である貴女が協力してくれるなら、きっと、ラグドリアン湖の問題も、解決するはずよ」


■23-5.ラグドリアン湖は梔(クチナシ)の香り/続

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今回は短編未満のネタの消化でした。形にしてしまわないと自分の中で消化不良で気持ち悪くて。
次回以降、ラグドリアン湖畔編です。
クチナシの香り、でピンと来た方……、あなた、水無瀬ゼミのゼミ生ですね?

2011/05/10 初投稿



[20306]   クトゥルフ神話用語解説・後書きなど(18~23話)
Name: へびさんマン◆29ccac37 ID:b87f4725
Date: 2011/05/10 21:21
皆さんここまで読んでいただきありがとうございました。
18話から23話で第二部第四章『夢の卵』編+α、終了です。
原作では、主に第三巻と第四巻に相当する内容になっています

以下、後書きとか言い訳とか設定覚書とか続きますので、見たくない方はスルーしてください。




■第十八話 ああ麗しのタルブの草原よ

・佐々木武雄が海軍じゃなくて陸軍の南海支隊:聖地にある“門”が上手く稼動してないので、サイトの世界とは繋がっていません。その上で、軍人である佐々木武雄氏を登場させるとすれば……どうしよう。と考えて、ソースブック『クトゥルフと帝國』のシナリオに若干時代は違うけど、ドリームランドのレン高原とポナペがつながってるとかいうシナリオ(『ポナペの魔人琥』)があったような……ということで、佐々木武雄さんにはドリームランドを彷徨してからハルケギニアに来てもらうことにしました。

・日本帝国の呪的構造強化、『夢のクリスタライザー』奪取作戦:こんなのが歴史の影で動いてたら面白いなあ、という妄想。

・『夢のクリスタライザー』:夢の大帝ヒプノスの持ち物。直径30センチメートルくらいの黄色い卵円形の結晶体で、重さは10キログラムほど。断続的にホイッスルの音のような、奇妙な音が聞こえる。このアーティファクトの10メートル以内で寝る者は、その精神をドリームランドや、もっと別の遥か遠くの次元に飛ばされてしまう。また、夢の中で手に持っていたものを、目覚めと共に現実世界に持ち込むことも出来る。生き物でも現実世界に持ち込めるが、ただし、持ち込んだものは徐々に薄れて消えていくので、維持するにはマジックポイントを注いで存在を確定させる必要がある。夢の世界での傷は、現実世界の身体にも反映される。このアーティファクトを使う度に、ヒプノスの忠実な僕である『夢のクリスタライザーの守護者』に襲われる可能性がある。

・『夢のクリスタライザーの守護者』:虎のような二つの目と、影のように揺らぐクラゲ型の体を持つ戦士。実体はなく魔力を帯びた武器でなければ傷つけられない。夢のクリスタライザーの使用者を、夢と現実の狭間の『どこでもない場所』に引きずり込み、死すら生ぬるく感じられるような罰を与える。本来はとても手強い相手。当SSでは長い間封印されていた上、結界内で弱体化しているので、雑魚っぽく見えている。

・夢の中へ、夢の中へ、捜し物は何ですか:井上陽水『夢の中へ』

・とおりゃんせ:通し道歌、ではない。18話は和製ホラーっぽい感じを目指してみたのでそれっぽさを出すための小道具。歌詞『とおりゃんせ とおりゃんせ ここはどこの細通じゃ 天神さまの 細道じゃ ちっと通して 下しゃんせ 御用のないもの 通しゃせぬ この子の七つの お祝いに お札を納めに まいります 行きはよいよい 帰りは怖い 怖いながらも とおりゃんせ とおりゃんせ』

・タルブにはショユっていう調味料が:佐々木氏が作った、ということにしている。でも多分、ウードも第一部の時間軸で作ってると思う。味噌とか。

・大泥棒の五右衛門:石川や浜の真砂は尽きぬとも世に盗人の種は尽きまじ

・国家に対する大泥棒、ニコラス・フーケ逮捕!:第一巻相当部分でフーケが出なかったが、ゼロ魔のフーケの元ネタ(?不確定)の方のニコラ・フーケとリンクしている。

・鳥居:京都の伏見稲荷みたいな感じ。佐々木氏はこれに『守護者』を封じていた。

・強化外骨格『雹』:漫画「覚悟のススメ」より、主人公・覚悟の父である朧が纏う超鋼。当SSで内蔵されている魂は、佐々木氏の分霊。

・当方に迎撃の用意あり!! 鋼我一体!:漫画「覚悟のススメ」より。

・ゴーツウッド村:クトゥルフ神話の世界では、シュブ=ニグラスを崇めるカルトがあり、ムーンレンズが在る。

・ザイクロトルの肉食樹:歩く肉食植物。平たい葉がついた6本の触手が放射状に幹から生えている。愚鈍。

・黒い仔山羊:地母神シュブ=ニグラスの遣い。像の上半分を蔦が絡みあう大樹にした感じ。この世のものではない物質でできており、幹の部分には歯列の揃った口が無数に開いている。

・マチルダさんの夫:流石にマチルダさんは独身ではありません。年齢的に。マチルダさんの夫は、今ではアザトース機関開発主任です。中にシャンが居ます。

・ハスター:風の神様、とされる。名状しがたきもの。

・猫の神バステト:バースト、とも。猫の顔を持つ神。にゃー。

・暗黒ファラオネフレンカ:ニャルラトテップの化身の一つ。

・アザトース:とにかくスンゴイ神様。

・シャン:シャッガイからの昆虫。アザトースを崇拝している。

・ええ、理解しました。つまり私はトリステインのために『ゲルマニアと婚姻し同盟する』、『ウェールズ王子とも結ばれる』という両方をやらなくてはならないのですよね:JOJOのブチャラティのセリフの改変。


■第十九話 Crystallizer of Dreams
この話が書いてて一番楽しかったかも。

・佐々木氏のセリフ「そうだ、斬って来い、突いて来い、骨のあるヤツ出て来い」:漫画「覚悟のススメ」(山口貴由)より

・神のまにまに:百人一首に収録されてる菅原道真(菅家)の和歌から

・まるで新年の朝におろしたての下着を身につけたような爽快さ。そして最高にハイってやつよ!:JOJOの四部および三部より

・『制約(ギアス)』:水のスクウェアスペル、ということに。でも原作ではイザベラが心を操る魔法を覚えたとか言ってたから、実はもっとランクが低いかも知れない。

・惚れ薬の桃色の霧:アンアンに「桃色官能弛緩吐息(めろるりぶれす)」とか言わせてみたかったが、テンポの問題で断念。原作四巻の惚れ薬事件と若干対応している。

・コッチヲ見ローーーー!!:JOJO、シアーハートアタック。

・ゴロリと首が落ちそうな勢いで、アンリエッタは首を傾げる:ひぐらしのレナが首を傾げるシーンをイメージしていただけると。

・マリアンヌ大后:まあ実際、娘を他国に嫁がせなきゃいけなくなる前にやることがあったよね。

・あなたをハルケギニア大王にして差し上げますわ、ウェールズ様:ゼロ魔原作でも、ハルケギニア大王というのをアンリエッタは発想してるし、こういう発想になっても不思議じゃないかと思って。

・『夢創(ドリームクリエイション)』:ソースブック『ラブクラフトの幻夢郷』における〈夢見〉の技能による物品の作成に相当する。

・強化外骨格(エクゾスカル)『零(ゼロ)』:「覚悟のススメ」より。ただし、佐々木氏もサイトも、一触必滅の格闘技である零式防衛術は体得していないので、強化外骨格の全力を使えているわけではない。

・千手、直突(じかづき)!!:千手パンチ! by漫画「仏ゾーン」

・落ちよ怒槌(いかづち)、神鳴る力:漫画「宵闇眩燈草紙」より。

・気象兵器・戦術天誅 五束撃:漫画「覚悟のススメ」より。本来は大将たる強化外骨格『霞』の使う技。多分『雹』には搭載されていない。でも中の佐々木氏が半分天神になりつつあるので使えた。

・擬真機関(As A Truth-Engine)……いや、擬神機関(Azathoth-Engine)の完成は目前だ:いつの間にかシャルルもアザトース様の御名を発音できるように……。

・『もしもシャルロットが男だったなら』:だって思いついちゃったんですもの。


■第二十話 桜吹雪の九段坂
映画「パプリカ」みたいな感じの夢と現実が入り交じったイメージの話です。ちょっと詰め込みすぎた。蛇さんの見せ場を増やしても良かったかも。でも桜が終わる前に最後のシーンを書きたかった。別に戦争賛美ではないつもりです。ただ、日本のためにと死んでいった方達が無意味だったとは思いたくありません。

・『極零』と絶対零度:言葉遊びみたいなものですが、少しでも展開に説得性を付けたくて……。

・「やったか!?」:←やってないフラグ。

・昇華弾:漫画「覚悟のススメ」より。鉄も溶かす高熱の炎の玉。

・超凍結冷却液:漫画「覚悟のススメ」より。対象内部から破壊する螺旋波紋掌打を除けば、強化外骨格におそらくは最も有効な攻撃方法。

・諦めこそが人を殺す。諦めない限り、たとえ那由他の彼方の可能性でも、実現する。させて見せる!:漫画「HELLSING」のアーカードのセリフとアンデルセン神父のセリフの改変。

・結界合戦:夢のクリスタライザーの力を借りて心象風景を呼び出す。型月の固有結界みたいなものかもしれないが、現実化しているのは『夢のクリスタライザー』の呪力のおかげ。

・再々結界:漫画「スクライド」のセリフ、「再々構成」から。

・私は人間だ! 私は私の意志がある限り! たとえガラス瓶の培養液に浮かぶ脳髄が私の全てだったとしても! きっと巨大な電算機の記憶回路が私の全てだったとしても!:漫画「HELLSING」の少佐のセリフ。

・「いざ事ここに到っては――」 「――最早貴女(アンタ)は用済みだ――」 「――いっそこの場で千切れて消えろ!!」:漫画「宵闇眩燈草紙」より。翼蛇だけじゃなくてもっとルイズの側も覇気満々にしてこのセリフを言わせたかった。

・最終局面:第一局面、第二局面、最終局面、は漫画「覚悟のススメ」の最終巻の展開から。

・自己嫌悪で忙しい:倉橋ヨエコ「夜な夜な夜な」

・充電した天誅五束の雷鎚:覚悟のススメ、強化外骨格『霞』の技。充電→受即昇天。

・13万ボルト絶叫電撃(エレキシャウツ)、アーンド、10億ビート!!:覚悟のススメ

・刻め心臓の鼓動:JOJOの波紋疾走

・瞬脱装甲弾:覚悟のススメ

・右篭手限定:スクライド、ラディカルグッドスピード脚部限定

・鋭利過ぎる切断面は、瞬時容易には開きはせぬ:覚悟のススメに同様のセリフあり

・ついでにアンタの臓腑の幾つかをかき回して引きちぎってやったわ:寄生獣

・ああやっぱり。ならばそして:HELLSING

・複製変容術式『九頭龍』:読み方はクトゥルー、だったりするかも知れない。人間を逸脱することに開き直ったルイズの、決別の術式。

・ばりばり、むしゃむしゃ、ごくん。:浦沢直樹「MONSTER」の作中作品「なまえのないかいぶつ」より

・『夢のクリスタライザー・レプリカ』:多分レプリカでも、マジックポイント五千から一万点分くらい。オリジナルは……一兆点くらい? 強化外骨格が百ポイントくらいと想定。トリスタニア城を夢の世界に具現化するためには、多分百~二百ポイント必要。つまりルイズさんまじ人外。

・水島上等兵:「ビルマの竪琴」の竪琴が上手い兵隊。ビルマで密林に散った日本兵を供養して、生涯を終えた後、靖国にも魂が来たという設定で。

・神刀『夢守』:めちゃくちゃ魔力が込められた刀。夢のクリスタライザーの守護者の力が封印されている。ミョズニトニルンか、佐々木武雄が使えば、刃から影の触手を伸ばせる。

・超鋼の金属鏡:時々、靖国神社の青銅の鳥居が映り込む。佐々木武雄は何時でもこの鏡を持つ子孫の傍にスタンド・バイ。

・貴様と俺とは同期の桜 離れ離れに散ろうとも 花の都の靖国神社 春の梢に咲いて会おう:「同期の桜」五番。


■第二十一話 時の流れは泡沫(うたかた)の夢
タイトルはさだまさしの「まほろば」の歌詞から引用。

・お姉さま! ああ、お姉さま! お姉さま!:松島や ああ松島や 松島や 松尾芭蕉

・“氷餓”のアニエス:ウェンディゴ疑惑のあるグリフォン隊の女性隊士。この世界では銃士隊は結成されていない。

・レン高原:ドリームランドの地名。ところどころで地球上と交差している。

・レンの蜘蛛:でっかい蜘蛛。知能が高い。

・魅了王アンリ:当作のアンアンの男性バージョン、みたいな感じだったんじゃないかなーと妄想。

・【赤の女王】:魅惑のオーラを放射しまくる美女。ニャルラトテップの化身の一つ。傾国の美女。

・提灯鮟鱇(チョウチンアンコウ)の夫婦:オスはとても小さくて、メスに寄生している。用済みになったら、メスに吸収されることもあるとか。

・『何て種類?』と訊かれたならば、答えてあげるが世の情け!:アニメ「ポケットモンスター」のロケット団の口上から。

・ピンクは血の色:P-MODEL「MOMO色トリック」より。音楽評論家の今野雄二(こんのゆうじ・故人)さん――ユージさんには分かるまい

・あなたを食べてぇーも、いいですかぁ? 愛しているなぁーら、良いでしょう? 他の誰かにー、盗られるんならー、私の血となり、肉と成れー♪:倉橋ヨエコ「いただきます」。個人的に、翼蛇エキドナのBGMはこれ。

・グラーキの黙示録:13話~17話の後書きを参照のこと

・ジャン=ジャック・フランシス・ド・ワルド’(ダッシュ):高橋留美子「うる星やつら」に、コピーの頭の後ろに’(ダッシュ)が増えていく話があったような。


■第二十二話 赤い、紅い、朱い、アカイ……
カオティック“N”とは一体誰なのか!?

・ロンディニウム:霧の街、ということにします

・聖堂騎士(パラディン)・ジュリオ。ドラゴンライダー・ジュリオ。殺し屋・ジュリオ。薔薇の棘・ジュリオ。首切り判事・ジュリオ。天使の塵(エンジェルダスト)・ジュリオ。獣使い(ビーストテイマー)・ジュリオ。死神の笛・ジュリオ。ヴィンダールヴ・ジュリオ。:漫画「HELLSING」のアンデルセン神父の二つ名のもじり。

・アルビオン国教会の設立を宣言:プロテスタント(旧来のブリミル教に“抗議する”という意味)。まあティファニアを表に出すにはそれしか無いよね。

・天空教:ハスター崇拝が中心だが、多神教。主な補助神はハスターの妻と言われるシュブ=ニグラス。これは国王チャールズとその妻シャジャルの関係とも対応する。馬鹿と煙は高いところに昇るというが

・オルレアン夫人:アンリエッタ以上の魅惑のオーラを持つ赤い女。一体その正体は何なんだ……

・シャルロット・カミーユ・ドルレアン:生えた。ナニが。うん、以上です。カミーユは男の名前でも女の名前でもOKらしい。日本語では律(りつ)とか司(つかさ)みたいなもんか。

・血塗られた舌(Bloody Tounge):三本脚、長い尾のような頭部で特徴付けられる、ニャルラトテップの巨大な化身。

・イタクァ:風の神

・ウェンディゴ:イタクァの奉仕者。人食い。

・ワルドの母の話:外伝として如何にもクトゥルフ的な話にして独立させられそうだけど、膨らませるのが面倒くさくなって結局プロットだけでお茶を濁しました。スミマセン

・ツァール:風の神

・ロイガー:風の神

・死神の笛:「ダイの大冒険」のキルバーンの武器から名前を拝借。ジュリオのは只の穴空き警棒。

・風の神(ハスター)! 風の神(イタクァ)! 風の神(ツァール)! 風の神(ロイガー)! 良いだろう、風の神(骨無し)どもめ、ブリミル教(我ら)の神罰の味を噛締めるが良い:「HELLSING」のアンデルセン神父のセリフの改変

・なに姿形など私にとっては至極無意味なものだ。こんなモノはお遊び、余興だよ:「HELLSING」のアーカードのセリフ

・ヨグ=ソトース:時空間の神。虹色シャボン玉。銀の鍵の門を護るもの。

・兄より優れた弟など存在しない:「北斗の拳」より

・カオティック“N”:平沢進「環太平洋偽装網」の「聞けカオティック・ソング 行けカオティック“N”」というフレーズから拝借。

・靭やかにして強か。どちらでもなく、どちらでもある:「覚悟のススメ」の散様のセリフから。

・ティファニアとシャルロット・カミーユ:一線を、超える!


■第二十三話 幕間――本筋には余り関係ないお話たち
タバサの冒険のネタはタイムスケジュール的に挟めないので幕間として消化。

・エキドナさんは成長したようです。

・ジル:ファンガスの森はキメラで溢れました。特に見せ場もなくジャネットのコレクションに加えられました。

・エルザ:多分今、吸血鬼として再教育中。「使い魔を出せ! 身体を変化させろ! 足を再構築して立ち上がれ! ハリーハリーハリー!」みたいな感じかもしれま――いえ多分違います。

・オリヴァン:魔改造。オリ主的な感じに……。リュリュとフラグが立ったような立ってないような

・リュリュ:逞しくなりました。オリヴァンとフラグが立ったような立ってないような

・ロマリアとエルフの関係:エルフどころではない邪悪な種族が跋扈しているので、それを知ってる人たちにとっては、割とエルフに対する忌避感は無いです。ヴィットーリオは、聖地に行きたいのですが、正直強行突破には戦力が足りないので、ビダーシャルに繋ぎをとっています。ビダーシャルは、ハルケギニア方面の外交官という扱い。アーハンブラ城は、当SSではエルフ領という設定にしました。

・モンモランシー:多分、余り原作と変わってません。



■キャラクターイメージ

・アンリエッタ(覚醒後):女王サマ、傾国の美女

・シャルロット・カミーユ:ふたなり王子様

・ティファニア:天然さん

・オルレアン夫人:魅惑の赤い女、傾国の美女

・シャジャル:地母神の神官。割と常識人

・ワルド:多重分身苦労人

・アニエス:苦労人、パシリ

・ジュリオ:アンデルセン神父的なもやしもん

・ウード:1200年経っても未だ学ぶことは尽きないが、気分はどうしても停滞しがちなので、色々と気分転換している。今は勇者を育てる魔王的な気分を味わっている(1200年で初めてのアプローチで新鮮で楽しい感じ)。でもゲーム感覚でやってると横合いから邪神によって盤ごと引っ繰り返されると思うんだー


■次回以降
ラグドリアン湖来訪(原作四巻)、水精霊との邂逅(原作四巻)とアルビオンからの侵略(原作三巻)のイベントが残ってるので、その辺を絡めつつ進めたいなーと思ってますが、予定は未定です。
いよいよ第二部が第一部の話数を超えました。ここまでついてきて下さった皆様、ありがとうございます。感想は全て目を通しています。感想があるお陰で書いていけてます。出来れば今後もお付き合い下さい。よろしくお願い致します。

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2011.05.10 初投稿



[20306] 蜘蛛の巣から逃れる為に 24.陽動
Name: へびさんマン◆29ccac37 ID:b87f4725
Date: 2011/05/22 22:31
 ラグドリアン湖の水精霊の乱心を鎮めることを、ガリア星慧王ジョゼフ及びオルレアン公爵ジョゼット(タバサ)、そしてトリステイン女王アンリエッタから依頼されたルイズは、同級生の古き水の盟約の家系モンモランシー・ド・モンモランシの協力を得るように、彼女を巧みに誘引し、それを了承させた。


 トリステイン魔法学院は、現在夏期休暇中であり、閑散としている。
 とはいえ、もうじき休暇も終わり、あと一週間か二週間もすれば、郷里に帰っていた生徒も戻ってくるだろう。
 男子生徒は対アルビオンの士官として志願していってしまっているので、それでも例年の賑わいは戻らないだろうが。

 そのトリステイン魔法学院の女子寮を、六人の女子が歩いている。

 先頭を行くのは、桃髪のルイズと、金髪ロールのモンモランシーだ。
 二人ともトリステインに古くから仕える名門の子女である。
 ルイズは颯爽と肩で風を切って歩き、モンモランシーは、心なしか肩を落として何かを悔いるような懊悩とした表情で歩いている。

「う~。確かにルイズを頼ればラグドリアンの問題は解決しそうだけれど……。貴方に頼ると、あとが怖いわ……」
「確かに貸しにするつもりだけれど、そんな法外な利息はつけないつもりよ。私にとっても、水の盟約の家系に連なる貴方が同級生だったのは渡りに船だったんだから」
「……言っとくけど、うち、あんまりお金ないからね? ラ・ヴァリエール家とは違って」

 モンモランシ家は、干拓事業に手を出したりして事業を広げすぎて、現在割と収支がカツカツなのだ。
 その干拓地も、今回の増水で被害を受けており、モンモランシ家の財政は、今後火の車になってしまうと予想されている。
 ルイズは手の平をひらひらと振って、心配要らないと返事をする。

「別にお金で返してもらおうなんて思ってないわよ。失礼ね」
「……お金で返せない恩のほうが怖いわ」
「恩ってのはそういうもんよ。ま、同じ古くからの家系同士、持ちつ持たれつ仲良くやっていきましょうよ」


 その後ろには、青い髪のタバサと赤い髪のキュルケが続く。
 タバサは実はガリアのオルレアン公爵でありお忍びでこの学院に留学してきているお姫様だ。キュルケの方は旧ゲルマニア地区の辺境伯の娘であるが、諸事情で(主に彼女の過剰な毒体質が理由で)トリステイン魔法学院に追いやられている。
 二人とも系統魔法のランクはトライアングルであり、学院でも屈指の実力者だ。

「水精霊の討伐とかなら、私も協力できたんだけど、そういう訳じゃないみたいだし。私の火の系統と水精霊とじゃ、相性が悪すぎるわ」
「……適材適所。相談に乗ってくれただけでも、嬉しかった。ありがとう」
「んー、どういたしまして。でも今回はあまり協力できそうにないわねー。下手したらラグドリアン湖の水源が、私の毒体質で汚染されちゃうわ」
「……そんなに?」

 「キュルケの毒は“そんなに”強力なのか」と、タバサが目を丸くする。
 タバサは言葉少ななのだ。
 それは、喋り過ぎると何時何処で自分がオルレアン公爵だと口を滑らせてしまうか分からない、と、姉姫のイザベラ王女からキツク言い含められているからである。本来のタバサ――いやジョゼットは、もう少し感情豊かである。

「ツェルプストーの炎でも焼き尽くせない程に強力なのよ、私の身体に宿る毒って。まあ水精霊は毒を避けるという噂もあるから、勝手に向こうから避けてくれるのかも知れないけれどね」
「……水精霊の毒嫌悪性質?」
「そうそう。確かそんな話。そのお陰でラグドリアン湖は水源として安全なんだとか何とか。まあでも、私は自分の毒体質は嫌いじゃないのよ。この毒がなかったら、私はとっくの昔に、自分の炎で自分自身を焼き尽くしていたでしょうからね」
「……一長一短」
「そういうこと。毒と炎は拮抗するから、私の毒に耐えられるくらいの炎の使い手を見つけないと、私は字義通りの毒婦で独婦になっちゃうわぁ。それだけの炎の使い手は、思い当たるのはお父様くらいかしら。流石にお父様と結婚するわけにはいかないし。あぁ、あとは、“白炎”って二つ名の傭兵の噂を聞いたことがあるわね」
「……アラム・スカチノフの件は、残念だった」
「ね。バシリスクを召喚できるくらいなら、私の毒も平気だと思ったのだけれど」

 キュルケは、彼女のファーストキス(毒属性)でノックダウンしてしまった元ボーイフレンドのことを未だに悔いているらしかった。


 最後尾を歩くのは、黒髪メイド服のシエスタと、金髪ツインテールのベアトリスである。
 シエスタは楚々として、あくまで影のように主人であるルイズの後をついてまわっている。ベアトリスは、何とか敬愛するルイズの会話に割り込めないか機会を伺っているが、なかなかそのチャンスは無いようだ。
 シエスタは今現在、使用人の寮ではなく、ルイズ直々の教育を受けるためにと、彼女の部屋に泊まり込まされている。銃器やハルケギニアの恐るべき先住種族や魔術について学んでいる。そのシエスタは手で曽祖父が遺した展性チタンの磨き鏡を弄んでいる。
 一方ベアトリスは、かなり苛立っているようだ。

「うぅ~。私だっておねえさまとお話ししたいのに! その上、モンモランシーとは金髪貧乳属性が被ってますし!」
「いつも話されてるではありませんか。私やサイトさんよりも、ベアトリス様の方が、ルイズ様と話してる時間は長いと思いますよ?(属性って何だろう?)」
「分かってますわ! 私はおねえさまの第一の下僕ですもの」

 ベアトリスが誇らしげに薄い胸を張る。シエスタはそんな可愛らしい様子をみて微笑む。

「それにベアトリス様は、ルイズ様からラグドリアンの件について、事前に調査できる範囲のことを調べるように仰せつかっていたではありませんか。重要な役目です。それを任されるというのは、頼りにされている証拠です」
「それはそうですけれど……。でも、こう、裏方ばかり続くと、達成感がなくって、鬱憤が溜まりますわ!」
「その辺りの塩梅(あんばい)はルイズ様も考えてらっしゃると思いますよ? きっと近いうちに報奨があると思います」
「……そうかしら?」
「まあ恐らくは……。ご存知かとは思いますが、ルイズ様は良く周囲のことに気を配られる方ですし。『夢の卵(夢のクリスタライザー)』も手に入れられたので、大抵のものなら、ルイズ様も褒美として用意してくれると思います」
「『夢の卵』――あの美しい黄色の卵型のクリスタルですわね。私も実物は初めて見ますわ。シャンリットの中央大博物館には蒐集されているらしいですけれど……そこに辿りつくまでに、他に陳列されている宝物を眺めているだけで気が遠くなってしまって、結局見れずじまいでしたの」

 【夢のクリスタライザー】は、唯一無二のアーティファクトではない。
 大帝ヒュプノスの宝物である卵黄色の結晶は、様々な世界――それはハルケギニアや、サイトの故郷である地球であったり、さらに別の惑星や別の次元――にも幾つか同じものが存在している。
 もちろん、それらの各世界の住人たちの夢で形作られるそれぞれの幻夢郷(ドリームランド)にも、【夢のクリスタライザー】は散在している。

 幻夢郷というのは、あらゆる世界の住人の夢が集まって構成される広大無辺な世界なのだ。
 ハルケギニアの住民が夢見るドリームランドと、地球の住民が夢見るドリームランドは、それぞれが一塊となった世界であるが、互いに何処かで繋がっているという。
 護鬼・佐々木武雄も、そのようなドリームランド同士の連結面を通って、タルブ村にまで辿り着いたのだろう。

 散在する【夢のクリスタライザー】の内の一つは、どうやらウード・ド・シャンリットのコレクションにも加えられているらしい。
 ルイズもそれを知悉しており、いつかシャンリットからどうにか盗みだしてやろうと思っていたのだが、タルブに手付かずの【夢のクリスタライザー】があったので、盗みだす必要はなくなった。
 魔術的科学的に厳重に管理されたシャンリットの博物館から盗みだすのは並大抵ではない。盗み出せたとしても、学術都市からの追っ手に追われるだろう。噂によれば、シャンリットで培養された、時空を越える角度に住まう狩人【ティンダロス・ハイブリッド】によって構成された猟犬部隊が、盗賊の魂の匂いを追って、収蔵品を取り返しにやってくるのだという。恐ろしい話だ。

 というわけで、ルイズにとって、佐々木武雄が遺した【夢のクリスタライザー】は、渡りに船であったのだ。

「褒美の件は、もしも願いが叶うなら、何かモノで報いていただくのではなくて――何か、権利を……。そうですわね、おねえさまを一日独占したいですわ!」
「……それとなく、お二人でデートできるように根回ししておきましょうか?」
「是非! 前から思っていたけれど、貴女、なかなか気がきくわね!」
「いえ、それほどでも……」

 などなどと会話を交わしつつ、装備や旅装を整えるために、六人はそれぞれの部屋に向かう。


◆◇◆




 蜘蛛の巣から逃れる為に 24.天空(うえ)から来るぞ! 気をつけろ!!




◆◇◆


 一方そのころ、女子寮の外では、触手竜騎士(ルフト・フゥラー・リッター)のルネと、ルイズの従者サイト、グリフォン隊女性隊士のアニエスが、ルイズたちを待っている。
 ルネとサイトは既に万全に準備を終えている。女子と違って、男子の準備は時間がかからないのだ。
 アニエスは学院が拠点ではないため、タルブを出るときに既に荷物をまとめてしまっている。

 サイトの首には翼蛇エキドナが巻きついており、サイトと囁くように会話している。
 時折、彼が佩いている魔刀デルフリンガーが、まるでバカップルのように会話する彼らに合いの手を入れているのも聞こえる。

【ねえサイト。このまま二人で何処かに逃げてしまわない? あのルイズは放っておいて】
「そういう訳にもいかねーよ。何だかんだで、アイツ、俺が居ないと駄目だろうからな」
【……随分な自信じゃない。信頼し合っているのね、嫉妬しちゃうわ。使い魔のルーンがそうさせるのかしら? 本当に忌々しい烙印だこと、消してやりたいわ】
「消せないだろ」
【そうだぜ、蛇の嬢ちゃん。使い魔とその主の絆ってのは、半端なもんじゃねぇんだ】

 このハルケギニア世界でも一級の呪詛である『コントラクト・サーヴァント』の刻印は、そう簡単には覆せない。
 伝説の使い魔である始祖の盾(ガンダールヴ)ともなれば尚更だ。
 まあサイトがルイズに付き従っているのは、ルーンの補正もあるが、実際のところはそれだけじゃなくて、彼が彼女に惚れているからであるのだが。

「あとそれに、ルイズの虚無の力がないと、地球には帰れないだろうしな」
【んー。でも、私が頑張って力をつければ、虚無の『世界扉』も使えるようになるかも知れないわよ? 精霊魔法だって少しは使えるようになったのだし、虚無魔法だってその気になれば使えるかも】

 【草よ】とエキドナが精霊魔法を詠唱すると、周囲の草が伸びて、サイトの四肢に巻きついて擽る。
 エキドナは、触手竜ヴィルカンの触手を食って、精霊魔法に対する適正を上昇させたのだ。
 未だに姿を変える魔法は使えないが、草木を操るくらいならば出来るようになった。

「やめろよ、擽ったい」
【かと言って俺っちの鞘を、草刈鎌替わりに使うのは止めてくれないかね? 相棒】

 サイトが微妙に愛撫するように巻きつく草の葉を鬱陶しさそうにデルフリンガーの鞘を振り回して引き千切る。
 それを気にせずに、エキドナは話を続ける。
 エキドナが羽ばたく度に、彼女の朱鷺色の翼から瑞々しい少女の匂いが広がる。

【佐々木武雄が遺した超鋼の磨き鏡があれば、それを基準に――縁にして、サイトの世界にゲートを繋げるのも難しくはないはずよ】
「たしかにそうかも知れないが……。あの佐々木武雄の爺さんが言っていた『地球』と、俺の出身世界の『地球』が同じ世界とは限らんのだよなー」
【並行世界(パラレルワールド)かも知れないってこと?】

 ハルケギニアとサイトの故郷である地球が並行世界として存在するように、同じようで少し違う並行世界の地球が他に存在しても不思議ではない。
 佐々木武雄とサイトは、ほとんど同じ別世界の出身なのかも知れないのだ。
 確かめようはないが、超鋼の磨き鏡が映す靖国の景色は、サイトの世界とは違う微妙に世界なのかも知れない。
 サイトの世界に辿りつくために最も確実なのは、サイト自身の魂の因果を辿って、虚無の『世界扉』を使うことだが、佐々木武雄ほどの強固な執着(元の世界への未練)が無く、ほとんど着の身着のままで召喚されてしまったサイトでは、それも簡単にはいかないだろう。元の世界の座標を特定するために、薄い縁を補って、『世界扉』は膨大な魔力を使ってしまうだろうからだ。それではゲート自体もどこまで大きく出来るか分からない。

「何となくだけれど、な。それにイザとなりゃ、ドリームランドのレン高原でも目指せば良い。そこなら、俺の居た地球と交錯してるはずだからな。昔に迷い込んだことがあるから間違いない」
【レン高原に行く時は置いていったりしないでよ? サイト。私も連れてって頂戴】
【そうだぜ、俺も持ってけよ。相棒】
「勿論連れて行くさ。お前らは俺の相棒だからな!」


 ルネも、パートナーである触手竜ヴィルカンと話している。
 こちらは、今回のラグドリアン湖の異変について、マジックカード端末を操作して、シャンリットのデータベースに何か手がかりとなる情報がないか検索しているようだ。
 ルネの周りに空間投影型のウィンドウが幾つも展開している。千年を生きる巨竜ヴィルカンもウィンドウを覗き込んでおり、それらの情報の分析に知恵を貸してやっているようだ。

【ラグドリアン湖の増水についての情報は見つかりそうか? ルネ坊】
「……情報が多すぎて、絞り込めないですね。過去何度か増水は起きていますが、今回は様子がおかしいようです」
【ふむ、ラグドリアン湖は、およそ五十年周期で水の満ち干を繰り返しておるようじゃの。じゃが今回はその周期には当て嵌らない、と】
「規模も、過去に類を見ないほど、大規模なようです。何百年も前からある集落も、今回の増水で屋根まで飲み込まれたと、観測されています。他は正直、碌でも無い情報ばっかりですよ、ヴィルカン様」
【何々――『水精霊とショゴスの関連性について』、『神性“G”の湖底回廊について』、『水精霊の記憶する太古の旧支配者同士の大戦争の検証――各地に残る神話の爪あと――』、『ニョグダの眷属としての水精霊』、『古代の蛸蝙蝠巨人(クルゥルゥの落とし仔)と水精霊の関係』、『ディープ・ワンズ(深きものども)の海底石柱都市と、水精霊の湖底の都の類似点に関する研究』……】

 次々とルネの周囲の浮遊ウィンドウに表示される、学術都市シャンリットの研究論文たち。
 それらの論文は、不定形の忌まわしいショゴスと水精霊の関係をほのめかす物から、水の眷属の邪神クトゥルフとの関連性を検討した物まで、多岐にわたっている。

「もう既にこの時点で、非常に嫌な予感しかしないんですが」
【儂も血統的に水は苦手じゃしのう。あまり気乗りはせんなー】

 ヴィルカンが触手を所在なさ気にのたうち回らせる。

「ヴィルカン様の中の穿地魔蟲(クトーニアン)の血に反応して、水精霊が襲ってきたりしませんよね?」
【どうかのー。記録によると、水精霊はクトーニアンを始めとする混沌の眷属を嫌っておるようだな。千年前のシャンリットのゴブリン研究隊が水精霊に接触したときには、蜘蛛の眷属と断じられて、速攻掛けられて数名が心を狂わされておるようじゃな】
「……それって、シャンリット直系――クルデンホルフ家の継承者であるベアトリス殿下も、不味いんじゃないですか? 蜘蛛の千年教師長の末裔ですよ?」
【ふむ。実際、目の敵にされとる可能性はある。ほれ、この水精霊の生態研究によると“水精霊にとって時間の概念は無いに等しい。しかしそれゆえに、彼らが時の経過を以て過去の出来事を水に流すことは、全く期待出来ない。彼らは恨みがましい性格であり、かと言って、必ずしも義理堅い性質というわけではない”と書いてある。水蜥蜴の王たる【ボクラグ】のような気性じゃの】
「……いっそのこと、ヴィルカン様の炎で湖ごと焼き尽くしたり出来ませんか?」
【水利のための治水任務だというのに、湖を消してしまっては本末転倒であろうに】

 湖自体の蒸発の可不可については、あえて出来ないとは口にしないヴィルカンであった。


 アニエスはグリフォンの隣で、休めの体勢をして静かに待っている。
 彼女は、本来ならこのまま王都に帰り、ルイズが命令を受け取ったことを報告しなくてはならない。
 だが、学院はタルブから王都への途上にあることだし、そのまま一人で別れてしまうのも薄情な気もしたのだ。

(どうせ、王都に帰ったら、ワルド隊長にこき使われるのは分かりきっているし……)

 内心でアニエスは溜息をつく。

 アニエスは勤勉な女性隊士であり、ひょんなことからアンリエッタ女王の御側付になったのを縁に、トントン拍子で出世して行っているのだ。現在では、魔法衛士隊副隊長補佐代理心得、などという良く分からない役職を与えられている。
 まあ、女王の警護をするのに、女性隊士の必要性というのは否が応にも高くなるから、無理からぬ話しである。そして女王の御側付ならば、それ相応の役職に就けなくてはならない。たとえ役職の肩書きが有名無実であっても。
 そして、出世するということは、その分だけ任務が増えて、気苦労が増えて、時間が無くなるということである。

 特殊な『偏在』を用いて治安維持から諜報、事務仕事までこなし、今やトリステイン一忙しい男の名を欲しいままにしているジャン=ジャック・ド・ワルド子爵は、グリフォン隊の隊長である。
 そしてアニエスはワルド子爵の腹心の部下でもあるのだ。
 つまり、王都に帰ったアニエスを待っているのは、山と積まれた書類と、びっしり会議と面会の予定で埋まったスケジュールなのだった。

(帰りたくないな……)

 だからアニエスがこうやって魔法学院で束の間の休息を謳歌するのも、許してやって欲しい。



 しかしそうは問屋が卸さない。



「ウル・カーノ(行け、炎よ)」

 轟、
 と炎の玉が、アニエスが居た場所に飛来し、爆炎を撒き散らす。

「ちっ、何だ!? 何者だ!?」

 素早く飛びすさって火球を回避したアニエスが、狼藉者に誰何する。
 ルネとサイトも、それぞれの得物を手に持ち、臨戦態勢だ。
 火球の爆発によって立ち込めた砂埃の向こうに、うっすらと人影が見える。中肉中背の男、のようだ。
 だがその狼藉者の返答は無言。いや――

「ウル・カーノ(行け、炎よ)」

 錆びついた歯車のような、あるいは冷酷な蛇のような印象を思わせる声が、詠唱によって返答する。
 ドーナツのようなリング状にされて直進性を高められた火球の魔法が、アニエスの位置へと猛然と突っ込んでくる。

「またかっ!? 『エア・ハンマー』!」

 即座にアニエスは剣杖を抜き放ち、『風の槌(エア・ハンマー)』で応戦し、火球を撃ち落とそうと試みる。
 だが――

「エオー・ベオーク(変化し、伸びよ)」

 狼藉者が唱えた追加のルーンによって、リング状の火球は、その輪を解き、蛇のように変化してその身を伸ばす。
 さらにはその炎で出来た蛇は、アニエスの『エア・ハンマー』の後に出来た真空へと流れこむ風の流れすら利用して、“氷餓”のアニエスへと迫る。
 炎だけでなく、風の流れすら読み、さらに自在に火球を操り変化させる襲撃者の技量は、見事の一言に尽きた。

「しまっt――」

 絶体絶命。
 アニエスは避けることは出来ない。
 せめて心臓だけは守ろうと、腕を交差して防御(クロスアームガード)し、背中を丸め、灼熱に備える。



 しかし、何時まで経っても、熱波はやってこない。
 急いでアニエスが顔を上げてみれば、彼女の目の前では、翼蛇を巻いて野戦服を来たサムライが、刀を振り下ろしていた。
 サムライの左手のルーンが、激しく光を発している。その光で炎蛇を掻き消したのではないかと思えるほどに、強い光だった。

「――なぁ、何やってんだよ……」

 そのサムライ――平賀才人は、憤っていた。
 手に持つ魔法吸収能力を持った魔刀デルフリンガーで火球を斬り消して、狼藉者へと向ける。
 彼は、その狼藉者に向かって怒っていた。

 ルーンの輝きは、心の震えを表す。
 サイトの心は、今、猛烈に怒りに燃えていた。
 だが、彼の怒りには、奇襲をかけてきた敵に対する怒りではなく、信頼を裏切られた(・・・・・)ことに対する怒りの色合いの方が強いようだった。

「答えろよ! なあ!?」
(サイトは、あの襲撃者と旧知の仲なのか?)

 アニエスが剣杖を構え直しつつ、サイトと襲撃者の関係を訝しがる。

「なあ! 答えろよ! 先生(・・)!」
「……」

 サイトの怒りの言葉を受けて、襲撃者が砂煙の向こうから現れる。
 その男は、禿頭で、蛇のような感情のない瞳をしており、中肉中背で、ローブに身を包んで、その手に持つ杖に、炎の蛇を巻きつかせていた。
 そう、彼は――。

「何でいきなりアニエスさんを殺そうとした!? 何でだ!? コルベール先生!!」

 “炎蛇”のコルベールは、サイトの罵声を受けても、少しも揺らがない。
 蛇のように、冷血で冷酷で無感情な瞳は、小揺るぎもしない。
 炎蛇は、ただじっと、彼らを見つめるだけ。


◆◇◆


 王都の練兵場にて。
 旧トリステイン地区の全国から集められた訓練兵たちが、鬼軍曹によって教練を施されている。
 疲労困憊の表情の訓練兵の小隊ばかりの中で、ある一つの小隊だけは、非常に元気が良かった。

 先頭を走っている金髪の少年が、薔薇の飾りがあしらわれた杖を指揮者のように振って音頭を取っている。

「Mama & Papa were Laing in bed (ママとパパはベッドでゴロゴロ)」

 そしてその後ろをランニングしている集団――上品な顔立ちから見るに、彼らは貴族子弟なのかも知れない。

『Mama & Papa were Laing in bed!!』

 怖い表情して威勢よく、彼らはその上品な顔に似合わない下品な歌を歌っている。

「Mama rolled over and this is what's she said (ママが転がり こう言った)」 『Mama rolled over and this is what's she said!!』

「“Oh, Give me some”(「お願い 欲しいの」)」 『“Oh, Give me some!!”』

「“Oh, Give me some”(「お願い 欲しいの」)」 『“Oh, Give me some!!”』

「“P.T.!”(「しごいて」)」 『“P.T.!!”』

「“P.T.!”(「しごいて」)」 『“P.T.!!”』

「Good for you(おまえによし)」 『Good for you!!』

「Good for me (俺によし)」 『Good for me!!』

「Mmm good (うん よし)」 『Mmm good!!』

 最初の頃は何事かと、その下品な輩を見ていた他の訓練兵たちであったが、今では気にする者は居ない。
 それは他の訓練兵たちが慣れたということでもあるし、いちいちそれを気にしてられるだけの余裕が無いだけということでもある。

「Up in the morning to the rising sun (日の出と共に起き出して)」 『Up in the morning to the rising sun!!』

「Gotta run all day.till the running's done (走れと言われて一日走る)」 『Gotta run all day.till the running's done!!』

「Sir.Cromwell is a son of a bitch (クロムウェル閣下はろくでなし)」 『Sir.Cromwell is a son of a bitch!!』

「Got the blueballs, crabs and seven-year itch (梅毒 毛ジラミ ばらまく浮気)」 『Got the blueballs, crabs and seven-year itch!!』

 それどころか他の小隊にも、この下品で卑猥な歌は感染していた。
 徐々に唱和する声が増えていく。

「I love working for our noble Queen (女王陛下を愛してる)」 『I love working for our noble Queen!!』

「Let me know just who I am (俺が誰だか教えてよ)」 『Let me know just who I am!!』

「1,2,3,4, Tristain Magic Corps! (トリステインの魔兵隊!)」 『1,2,3,4, Tristain Magic Corps!!』

「1,2,3,4, I love the Magic Corps! (俺の愛する魔兵隊!)」  『1,2,3,4, I love the Magic Corps!!』

「my Corps! (俺の軍隊!)」 『my Corps!!』

「your Corps! (貴様の軍隊!)」 『your Corps!!』

「our Corps! (我らの軍隊!)」 『our Corps!!』

「The Magic Corps! (魔兵隊!)」 『The Magic Corps!!』

 そこにたまたま訓練学校の視察に訪れていたド・ポワチエ大将が、頬を軽く持ち上げる。

「ド・ポワチエ閣下、気に障るなら止めさせますが……」
「いや、構わん」

 訓練校の教官たちは、あまりに下品で大将の勘に障ったのかと思ったが、そんな事はなかった。
 大将は笑っている。

「元気があって宜しいことだ。あの先頭を走っている金髪小僧と、その後ろの小隊は何処の者だ?」

 訓練校の小隊は、出身地別に大まかに分けられている。
 だが先頭を下品な歌を歌いながら走る集団は、それら徴兵された平民兵とは違う出自であった。

「先頭の彼らは、トリステイン魔法学院からの志願兵であります。先頭で薔薇を振って走っておるのは、グラモン家の四男坊ですな」
「ほう! それはそれは、なんとも頼もしいことではないか! そしてグラモン! 血は争えないというわけか! ……しかし、いつから魔法学院は軍学校になったのだ?」
「ええ、それが……。何でも、彼らはあくまで課外の自主活動として、軍隊顔負けの訓練を行っていたそうです。しかも教官は、あの“赤槌”のシュヴルーズだそうですよ」

 彼らを鍛えた人物の名前を聞いて、ド・ポワチエ大将は目を丸くする。

「“赤槌”! あの血濡れで赤熱の流星使いか! これはまた懐かしい名前を聞いたものだ。確かに彼女の後継者ならば、この程度の芸当は当たり前だな」
「閣下は“赤槌”とは、ご面識がおありで?」
「ああ、二十年前に聖戦に駆り出されたときに、敵同士で対峙したな。……あの時は私は未だ小隊長だった」
「“赤槌”と敵対して、良くご無事で」
「何、臆病者の私がまごついている内に、聖戦軍(こちら)が私の小隊を残して、彼女の『赤槌』の流星魔法で壊滅してしまっただけだ」

 そう言って、ド・ポワチエ大将は肩をすくめる。
 周りの者は、どう反応していいのかわからないのか、半笑いで固まってしまっている。

「……こほん。ま、せいぜい、死なない程度に陛下に尽くそうではないかね。ヴィヴラ・トリステイン」

 気をとりなおして、大将が、いかにも上辺だけといった様子で国家を称える。
 どうやら周囲がアンリエッタの魅了によって、忠愛の士となってしまっている中で、ド・ポワチエ大将は余り影響を受けていない貴重な人物のようだ。
 それが良いことか悪いことかは、別として。

 一方、練兵場を走るギーシュたちは、そんな大将たちの様子など気にせずに大声を張り上げて歌っている。

「I don't know, but I've been told (人から聞いた話では)」 『I don't know, but I've been told!!』
「Albish Pussy is mighty cold (アルビオン女のプッシーは冷凍マン庫)」 『Albish Pussy is mighty cold!!』
「Mmm good (うん よし)」 『Mmm good!!』
「feels good (感じよし)」 『feels good!!』
「is good (具合よし)」 『is good!!』
「real good (すべてよし)」 『real good!!』
「tastes good (味よし)」 『tastes good!!』
「mighty good (すげえよし)」 『mighty good!!』
「good for you (おまえによし)」 『good for you!!』
「good for me (俺によし)」 『good for me!!』

 さらに彼らは悪乗りして、フライで飛び上がり、あるいはゴーレムを創りだして、猛然と駆け出す。

「I don't want no teen-age queen (スカした美少女 もういらない)」 『I don't want no teen-age queen!!』
「I just want my sword-like cane(俺の彼女は剣杖一つ)」 『I just want my sword-like cane!!』
「If I die in the combat zone (もし戦場で倒れたら)」 『If I die in the combat zone!!』
「Box me up and ship me home (棺に入って帰還する)」 『Box me up and ship me home!!』
「Pin my medals upon my chest (胸に勲章 飾り付け)」 『Pin my medals upon my chest!!』
「Tell my Mom I've done my best! (ママに告げてよ 見事な散り様!)」 『Tell my Mom I've done my best!!』

 ざざざ、と、爆走する魔法学院出身の生徒たち。
 そのうち一人のゴーレム使いが錬成したやたらと筋骨隆々とした造形のゴーレムが、泥を跳ねさせてしまい、それがド・ポワチエ大将にかかってしまった。しかし下手人の訓練兵はそんな事には気づかない。
 その様子を見て、自分の頬に跳ねた泥を軽く手に取ると、流石にド・ポワチエ大将の額に青筋が走る。

「悪乗りしすぎだ、小僧っ子ども……!」

 大将は、杖を振って練兵場の土から、30メイルはある巨大なゴーレムを錬成すると、ギーシュらに向かって突撃させた。


◆◇◆


●アルビオンのステュアート朝政府に対する嘆願書

『かつてブリミル教区で面倒を見られていた、貧者たちですが、教会からの施しが無くなってしまい、流民と化してしまっています。
 彼らの中には、盗賊や売春婦に身をやつす者も多く、周辺の治安悪化の原因となっています。
 あふれた貧困層に対する対策をお願いいたします。
  ――北部商工会連盟』


●アルビオン政府からの回答・草案

『宜しい。我がアルビオン政府は、彼らに対して職を用意する準備がある。
 新設する海軍の魚人化部隊、および、大陸要塞化計画に伴う地下迷宮通路の拡充に従事してもらうことになるだろう。
 なお、この慈悲ある軍職の斡旋において、性別年齢能力の区別は行わない。
 だが特殊な職能がある者は、その職能が生かせる職場に配属するので、尋問の際には申告してもらう必要があるだろう。
 詳細は軍事機密“湖底のG回廊”に該当するため、開示できない。ご容赦されたし。』

 ■財務省による補足
『財源は、戦時国債の発行を以て充てることとする。
 なお戦時国債は、その9割以上についてクルデンホルフ大公国が買取ることが決まっているため、増税等は行う必要はないと当局は判断している。
 市民は安心して日々の活動に勤しみ、正しく納税し、義務を果たすこと。』

 ■新設された海軍省による補足
『人員は屈強な若者が望ましいが、老人であればなお望ましい。
 歳を経た肉体は、その重ねられた月日にふさわしい、頑強な肉体に生まれ変わるはずである。』

 ■国土交通省・I迷宮要塞設営局による補足
『アルビオン全土を要塞化するに当たって、人員はいくらあっても足りないくらいである。
 過酷な労働条件になるかも知れないが、心配しないで欲しい。
 ものの一週間もあれば、穴掘りに恍惚を覚える様になることは請け合いである。
 落盤等の不慮の事故が発生する可能性があるが、命の心配は無用である。
 我々は死を超克している。』

 ■陸軍省による補足
『I迷宮要塞運用に当たって、道案内用の人員が不足すると思われるため、各地の流民を積極的に狩りたてることを進言する。』

 ■護国卿オリバー・クロムウェルによる補足
『徴兵した流民は、死体まで有効活用すること。
 処分に困った場合は、護国卿直下の特務部隊に連絡せよ。』

 ■摂政シャルル・ドルレアンによる補足
『救貧院の設置および、そこからの徴兵を許可する。
 行動や発表に対し、情報統制を強化せよ。以上。』

 ■国王チャールズ・ステュアートの見解
『同上。許可する。』


●アルビオン政府の公式回答

『――宜しい。
 我がアルビオン政府は、貧困欠乏に陥った同志に対して職を用意する準備がある。
 貧しき者は、各地に設置予定の救貧院に集まれ。官吏は彼らを疾く収容せよ。
 関連法案の議会での可決に伴い、速やかに貧困対策を行うべく、各官庁は準備を進めている。
 財源については戦時国債を発行し、それを使用する。
 アルビオン万歳。天空教理万歳。空に住まう全ての者に幸あれ。』



●天空教中央宗教庁からの発令

『1.今年以降、始祖降誕祭は中止とする。
 2.年初めは代わりにユールの日として祝うべし。
 3.食事前の祈りは、それぞれが信仰する神に捧げること。天空教中央宗教庁が推奨する祈りの聖句は下記を参照のこと。

  いあ、いあ、はすたぁ、はすたぁ、くふあやく、ぶるぐとむ、ぶぐとらぐるん、ぶるぐとむ、あい、あい、はすたぁ。』


●当局より重要なお知らせ:反体制主義者について

『1.反体制主義者を見かけた場合は、護国卿直下の特務部隊に知らせること。
 2.通報が真実であれば、報奨金を通報者に支給する。
 3.ただし通報が真実でない場合は、通報者が尋問費用を負担すること。
 4.尋問は護国卿直下の特務部隊が行う。
 5.反体制主義者は憎むべき者であり、我らと同じ天空の下では呼吸をすることさえ許されない者だ。故に、天の見えぬ地下での強制労働に従事させる。しかし安心せよ。アルビオンは天空に浮かぶ大地。掘り続ければやがては空に抜けるだろう。その頃には彼らも信仰に目覚めるはずである。』



●クルデンホルフの矮人(侏儒)奴隷の使用について、当局の発令

『やむを得ない場合は、脳と魂に“処理”を施して、クルデンホルフとの繋がりを絶ち切った上で矮人の奴隷を使用すること。
 “処理”の方法については、各教区の司祭に確認のこと。』



●クルデンホルフ大公国への借款の返済についての非公式文書

『ハヴィランド宮殿地下にある擬神機関(アザトース・エンジン)建造場所から、適当な死体を押し付けること。
 現物支給による返済はクルデンホルフ大公国(アトラナート商会)も承知済みである。』


●クルデンホルフ大公国アトラナート商会からアルビオン政府に宛てられた領収書のうちの一枚

『領収書
 アルビオン政府 財務省 御中

 E 5,000,000-

 当月にお支払い予定となっていた、利息五百萬エキュー相当分の物品を確かに領収致しました。
 詳細は下記明細をご覧ください。

 ・未分化標本      10点 × 100,000- = 1,000,000-
 ・魚人化失敗被験体    5点 ×  50,000- =   250,000-
 ・擬神機関設計図Ⅰ/Ⅴ  1点 × 100,000- =   100,000-
 ・擬神機関設計図Ⅱ/Ⅴ  1点 × 200,000- =   200,000-
 ・擬神機関設計図Ⅲ/Ⅴ  1点 × 300,000- =   300,000-
 ・アイホートの雛   100点 ×  10,000- = 1,000,000-
 ・グラーキの毒棘肢   15点 ×  50,000- =   750,000-
 ・『バビロンの炎上』   1点 × 700,000- =   700,000-
 ・『シャッガイへの鎮魂歌』1点 × 700,000- =   700,000-

  今後も引き続き、アトラナート商会の金融サービスをご利用下さい。』


◆◇◆


 ハヴィランド宮殿地下の空間は、奇妙な音に包まれていた。
 聞いただけで気が遠くなるような、調子が外れた、それでいて何処かここではない場所では調和が取れているような、何か上位構造における秩序を思わせるような、矮小な人間ごときでは決して理解出来ない、途轍もない、途方も無い存在のために奏でられているような、そんな――フルートの音。
 擬神機関(アザトース・エンジン)の建造に携わっている開発部員たちが、その狂ったような、のたうつような金管楽器の音色に、うっとりと耳を傾けている。

「はぁ~。いつ聞いても、ミセス・オルレアンの奏でるフルートの音は絶品ですなあ」

 様々な機械部品が散らばる、その作業建屋で、狂ったフルートの音色を奏でているのは、スラリとした赤いドレスに身を包んだ、青い髪の女性――オルレアン夫人であった。
 そして小休止。第一楽章終了というところだろうか。
 開発部長であるサウスゴータの娘婿が、彼女の演奏を絶賛する。

「まるで、故郷のシャッガイに帰ったかのようでした。いえ、シャッガイにも、これほどの演奏者は居ませんでしたよ!」

 開発部長は、その頭部から、奇妙な虹色に光を反射する玉虫のような鞘翅を二枚、まるでウサギの耳のように生やしている。
 そのウサギの耳のような翅は、おかしなことに、非常に朧気で儚い存在のようだった。まるで蜃気楼か幽霊のような、そんな非物質の翅なのだった。
 他の開発部員も、同じように玉虫色の朧気な翅を生やしている。

 やがて小休止が終わり、再びフルートの狂った音色が作業建屋に満ちる。
 オルレアン夫人の演奏に合わせて、その翅たちが波のようにさわさわと揺れ動く。
 それは螺鈿の貝細工が吊るされて風に揺れるような、幻想的で――故に気が狂いそうな光景であった。


~~しばらく狂ったフルートの音色をお楽しみください~~


 そして演奏が終わり、オルレアン夫人が礼をする。見事な礼だった。
 アザトース・エンジンの開発部員たちが、万雷の拍手を送り、また半物質の鞘翅を擦り合わせて、空気だけでなくエーテルも振動させる。
 やがて赤い彼女は、顔を上げる。

「素晴らしい演奏をありがとうございました! ミセス・オルレアン! 神掛けてあなたは宇宙一のフルート奏者だ! きっとトルネンブラも嫉妬するに違いない!」
「まあ、ありがとうございます。本場のシャンの方たちに褒めて頂けるなんて……光栄ですわ」
「いやあ、本当に素晴らしい演奏でしたよ! 本当に! アザトース様が顕現するかと思いました!!」

 開発部長が、赤い女の演奏に感極まった余り身を乗り出し――そして彼の目玉がぐるりと回って白目を向いたかと思うと、

 ずるり、

 と彼の額から、まるで魂が抜け出るように、奇態な蟲が這い出した。

 半円形の一対の鞘翅は細かな硬い三角形の鱗で覆われて虹色に輝き、大きな艶のない複眼のある頭部からは宇宙的なリズムで曲がりくねる触覚が生えており、三つの口吻が伸び縮みしてそれぞれが勝手に三重人格者のように別々に賛辞の言葉をまくし立て、胸から生える鉤爪がついた十本の脚が感動を伝えるために宙を掻き抱くように動いて、ぜいぜいと青白い腹部が蠕動していた。まるで地上の生物の道理から外れてしまったような、吐き気を催す生物だ。
 そう、開発部長を始めとする開発部の面々の、その頭脳には、遙か星辰の彼方から転移飛来した蟲が棲み着いていたのだ。
 狂人が書いた『バビロンの炎上』という書物や、彼らシャンたちが作曲したという『ミサ・ジ・レクイエム・ペル・シュジャイ(シャッガイへの鎮魂歌)』にて詳細に言及される、異星の昆虫シャンだ。

「あら、開発部長。出てきちゃってますわよ、中身」

 オルレアン夫人が指摘すると、開発部長の額から出ていたシャンが三つの口吻で別々に言葉を吐きつつ、慌てて引っ込む。

「おやこれは失礼」「余りに演奏に夢中になってしまって」「素晴らしい演奏でした!」
「ふふ。お気をつけ下さいね。まあ、この開発建屋に入ってくる者は居ないでしょうから、それほど人目を気にする必要はありませんが」

 かさこそと向きを変え、半物質体で出来た昆虫が、再び開発部長の頭蓋内に引っ込む。
 シャンは溶け込むように額に消えてしまい、開発部長の目玉が再びぐるりと回る。
 暫くカメレオンのように左右が別に動いていたが、やがてしゃきっと焦点が合う。

「どうですかな? これで戻りましたかね?」
「上出来ですわ」

 赤い女が微笑む。
 それだけで、開発部員たちは、まるで天にも昇るような陶酔感を味わう。
 この女性のためになら何でもしてあげたいような、そんな気持ちになってしまう。
 赤い女は、種族の壁すら超えた、魅惑のオーラを放射していた。

「それで、擬神機関(Azathoth-Engine)の完成度はどの程度なのです?」
「ええ、そうですね。まあ、7割というところでしょうか。アザトース様の招来は終わっていますし、封印制御装置も正常に稼動しています。まあ実際は機材の問題でアザトース様の余波の余波の余波程度の招来がやっとなのですが、それでもこのアルビオン大陸を動かすには充分でしょう」
「順調そうね。良いことだわ」
「ええ。始祖ブリミルでしたっけ? 彼が手がけたサウスゴータの都市規模五芒魔方陣が残っていたのは僥倖でしたね。あれを中心としたレイラインと、このハヴィランド宮殿地下の炉心を接続して、招来した神気を全土に巡らせる準備も終わりつつあります」
「重畳重畳。まあ、六千年前に一度は聖地からこの空域までこの大陸を『レビテーション』して、始祖が運んできたわけですからね。その時の呪的痕跡を利用すれば、作業も捗るでしょうね」

 アルビオン大陸の由来を解説する赤いオルレアン夫人の話に、ふむふむと開発部員たちが頷いている。

「この惑星の原住種族ながら、なかなかやるものですな、ブリミル某とやらは。これだけの岩の塊を6000年も浮遊させ続けるのですから」
「大天才だったらしいわ。甲斐性なしで自分の妻に殺されるような男ではあったけれど、でも一族のために最期の力を振り絞って大陸を飛ばして、天敵(エルフ)の居住地サハラから遠ざけるくらい責任感が強かった、大英雄。とはいえ、彼もハルケギニアの原住種族ではなくて、外様の種族だけれど」
「はあ、そうなんですね。それにしても、この惑星は特異点か何かでしょうか? 幾ら何でも色んな種族が飛来しすぎでは」

 我々も含めて、と開発部員たちは顔を見合わせる。
 あるいはこの惑星は、シャッガイ星のように、強力な支配種族が色々な惑星から奴隷種族を集めた惑星なのかも知れなかった。
 だが、赤い女は首を振ってそれを否定する。

「珍しいことじゃないわ。この程度の混沌は、無限に広がる宇宙では珍しくもなんとも無いものよ。ただ単に――そう、言うならば、運が悪かっただけ」
「なるほど。確かにそうですな。我々も元を辿れば、運悪くこの惑星に漂着したクチですし」

 HAHAHAHAHAと、彼らは笑いあう。
 赤いドレスに身を包んだオルレアン夫人は、そんな彼らを尻目に、擬神機関の炉心へと、うっとりとした視線を投げる。
 当然ここからは炉心の内部は見えない。何重もの物理的・魔術的防御によって慎重に慎重を重ねて封印された区画に、炉心は存在する。
 その炉心には、宇宙の原初の混沌の息吹が宿っているのだ。


 擬神機関を動力源とした大陸要塞アルビオン号が稼働することで、アルビオンは名実ともにハルケギニアの空の覇者となるだろう。
 しかし、擬神機関の完全起動まで、あと暫しの時間を必要とする。
 故に、アルビオン政府はその時まで邪魔が入らぬように、トリステインやガリアなどのハルケギニア諸国の動きを撹乱する必要があった。
 空からの魔手は、静かに大地へと伸びていく。


◆◇◆


 時刻は黄昏から宵闇に変わる頃合い。
 ラグドリアン湖の湖畔。
 増水した湖は、周辺の家を屋根まで呑みこんでしまっている。

 大雨が降ったわけでもないのに、ここまで増水してしまうのには理由がある。
 その原因は、この湖に住まう水の精霊だ。
 この湖の水量は、水精霊のさじ加減ひとつで容易に増減するのだ。

 魔力を帯びた水によって構成される彼、あるいは彼女は、一種の群体意識体であり、トリステインやガリアの建国以来不変の存在であった。
 この湖自体が水精霊である彼女(性別不明であるが水精霊は非常に美しい存在であるとされているため、女性形で呼びならわされている)の棲家であり、また彼女自身の身体でもあるのだ。
 人間とは随分異なった世界認識を持つ彼女であるが、全く話が通じない存在ではなく、トリステイン王家などと盟約を結び、人間たちにラグドリアン湖を水源として開放している。

 というわけで、ラグドリアン湖は通常、雨水流入の多寡によらず、ほぼ一定の水量を保ってきた。
 なので、ここまでの異常な増水というのは、過去のどのような文献をめくってみても、記録がない。異常極まる事態である。
 トリステイン側も、ガリア側も、少なくない民と領地の水源を、無限の水瓶とも言えるラグドリアン湖に頼っており、それゆえに、事態の解決は急務だといえた。

 水精霊を刺激しないようにという理由で、現在は周囲の立ち入りが禁止されている。
 しかしその誰も居ない筈の湖面が波打ち、水中から無数の泡が立ち上ってきたのか水面が沸騰したかのようにボコボコと泡立って、激しく水飛沫を上げる。
 幾つもの波紋が湖面を伝う。気泡が上がってきている場所のあたりには、巨大な影が水中に見える。

 これは誰かが水遊びをしているわけでもない。当然だが湖の中央に人影はない。
 漁をしているわけでもない。ガリア政府とトリステイン政府の命で、事態解決まで付近住民は避難させられている。
 では何が湖水の中から気泡をぶくぶくと放出しているのか。巨大な肺魚(ハイギョ)だろうか? 全長3メイル以上になるラグドリアンオオナマズ? 巨大なザリガニやミ=ゴのような甲殻類? いやそれとも、未発見の巨大生物だろうか? はたまた古代の巨大爬虫類や水竜の生き残りだろうか?

 巨大な円形の影は、湖底に沿って移動しているのか、ゆっくりと人の歩みくらいの速さで岸に向かって移動しながらせり上がって来る。
 岸から10メイルほど沖のところ、水深2メイルほどの場所に来たときに、湖面にそれまでの気泡の群れとは異なった変化が生じた。
 水面が、影の上だけ、うっすらと凹型に水位を下げていくのだ。

 影がさらに岸に近づくと、ついに水面の凹みは限界に達し、ざあざあと凹んだ水面が滝のようにして流れ落ち、湖にポッカリと大きな穴が空く。
 湖岸に近づいていた影らしきものは、何らかの手段(おそらくは魔法)で維持されていた巨大な空気の塊だったのだ。
 それと同時に、甘ったるい強い香気が広がる。夜に咲く花の中には蝙蝠(コウモリ)に花粉を媒介させるために香気が強いものがあるが、そのような匂いである。あるいはクチナシの花のような、甘い匂いだ。
 その甘い匂いは、おそらく水が流れ込んだことによって、気泡の中から入れ替わりに押し出されたのだ。気泡の中には、クチナシのような匂いが充満していた。
 月下美人の花のような、クチナシの花ような、独特の甘い匂いをさせながら、湖に空いた穴はさらに岸辺へと進む。

 徐々に穴(気柱)の中身が明らかになる。
 空気の穴を引き連れて湖底を歩いてきたのは、10人ほどのローブに身を包んだ人影たちだった。
 その中の一人は杖を掲げている。やはりこの気柱は、風の系統魔法によって維持されているのだろう。杖を掲げた者の他に、数人は、何か大きな銛のような物を持っている。
 ラグドリアンの湖水に触れることを忌避するように、彼らは慎重に歩みを進める。

「気を付けろよ。彼女に気取られると面倒だ」
「アイ・サー」

 気柱に包まれて湖を歩く一団は、遂に岸へと辿り着く。
 気柱の一部が岸に接触し、水際のラインが“ひ”のような形になって、気柱の内側と岸辺が地続きになる。
 闇にまぎれて詳しくは見えないが、一段の間に明らかにほっとした空気が流れる。緊張が緩む。

「上陸開始」
「イエッサー。上陸開始」

 それが不味かったのだろう。
 ほんの一瞬だが、魔法によって維持されていた気柱が揺らぎ、押しとどめられていた湖水が跳ねた。
 そして、一団の中の一人のローブの裾に、そのラグドリアン湖の水飛沫が掛かった。

 だがそれはほんの些細な量の水で、しかも一瞬であったため、一団の誰もそのことに気がつかなかった。

 ――しかし、そのことに気づいたモノも居た。

「――……」

 いや、正確には、そのこと“で”気付いたモノが居た。


 ゆっくりと、しかし確固とした意志を持った動きで、湖面が持ち上がっていく。

 クチナシの匂いを纏うローブの一団は、それに気がつかない。

 湖水の一部が、岸を伝って、彼らの行く手を遮るように薄く伸びていく。

「湖水には触れるなよ」
「アイ・サー」

 彼らはそれに気づかない。

 無数の水の触手が、脈動しながら徐々に湖面から立ち上がる。氷柱が伸びるのを早送りにするように、水柱が伸びる。
 彼らの行く手の森の中の木々の幹の表面にも、湖から水が這い上がり、静かに彼らを包囲する。樹の葉という葉から溢れた水が、露となって滴り落ちる。

 彼らはそれに気づかない。

 そして彼らがアレだけ忌避してきた湖水は――水精霊の身体は、静かに、しかし完璧に彼らを包囲した。

 彼らはそれに気づかない。


 そして、遂にその時が訪れる。

「……何か、変じゃないか?」
「湿気が異常に――」

 息苦しいほどの湿気に彼らが周囲を見渡したときと、水精霊の触手が彼らのうちの風メイジと思われる杖を掲げた一人を貫くのは同時であった。

「ガっ……?!」
「穢らわしい。死人(しびと)どもめ。八つ裂きに。してくれる」

 充分な量の水で包囲をした水精霊が、ローブの一団に牙を向いた。

 気柱型の結界を維持していた風使いを貫いた水の触手は、瞬時に四分五裂して細かく裂けて、風使いの身体を傷口から広げるように八つ裂きにして爆散させる。
 使い手が死んだことで、風の結界は解除される。
 もはや水精霊の浸食を止める者は居ない。
 九つ首の大蛇のように、水の精霊の触手が次々と一団を襲い、彼らをバラバラに引き裂いていく。

「くっ、感知されていたか!」
「円周防御! 円周防御! 円陣を組め!」

 人体が引き裂かれたことによって、あたりに血の匂いが満ちる。
 そしてその血臭を上回る、あの何とも言えない甘ったるい蜜のような匂いも。
 甘いクチナシの花のような匂いは、彼らの体内から発散されているようであった。

 蒼水色の触手によって引き裂かれた彼らの身体が、ぼとぼとと落下する。
 その時、まるで汚いものに触ったかのように、あるいは油の浮いた水面に洗剤を落としたときのように、さっと水精霊が彼らの血や肉塊の傍から退いた。
 よく見れば、水精霊の触手は高速で回転しており、ローブの者たちに接触したときには、その接触部位を飛沫にして切り離しているようだ。
 それほどに、触りたくないのだろうか。穢れが酷いということなのだろうか。あるいは、彼らの血から何かが伝染するということなのだろうか。

「穢らわしい。穢らわしい。穢らわしい。忌まわしい。忌まわしい。忌まわしい。我に火が使えれば。跡形もなく。燃やし尽くすものを」

 ローブの一団のうち残っているのは、何か長い銛のようなモノを持ってファランクスのように密集防御隊形を取っている4人だけだ。
 水精霊の触手を近づけないように、彼らは銛の先をゆらゆらと油断無く揺らして、徐々に徐々に、跛(びっこ)を引き引き湖から遠ざかる。

「地下からも彼女の触手が伸びているぞ!」
「近づけるな! 棘を刺せ!」

 彼らは時々、手に持った奇妙な銛を地面に突き刺す。
 その度に、地面を伝って身体を浸食させていた水精霊が、電気ショックを受けたウミウシが身体を縮めるように、突き刺された地点を中心にして5メイルほど、一瞬で退却する。
 水精霊が身体を伸ばして来るたびに、彼らは銛を地面に突き刺す。するとそれを嫌がるようにして水精霊が身体を縮める。
 彼らの持つ銛に塗られた何か(・・)を、彼らの血肉を嫌うのと同じように、あるいはそれ以上に、水精霊は嫌っているようだ。
 何度か一進一退の静かな攻防を繰り返すうちに、彼らは遂に、水精霊の触手から逃げおおせてしまった。

「……。逃がしたか」

 彼らを逃がしたことを水精霊が悔いているのか、暫く湖面が不自然に盛り上がったり煌めいたりしていた。
 だが、やがて水精霊も再び湖底に戻ったのか、ラグドリアン湖は静かな状態に戻る。

 空に浮かんだ双月が水面に映り込む。
 一陣の風が吹き、月影を乱す。
 湖上に蟠っていた甘いクチナシの花のような匂いも、風が吹き流していく。


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ルイズたちがラグドリアン湖に行くと予告したが、スマン、ありゃ嘘だった。

……いあ、ホントはサクっとラグドリアン湖に行く予定だったのですが。書いているうちに長くなってしまいました。
あと10話くらいで完結させられたらいいなあ、とは思ってます。出来ればそれまでお付き合い下さい。

パロネタは減らしていく予定……です。何か思いついてしまうとその限りではないですが。今回のFMJの軍曹ソングネタとか。
まあパロディは、自分の描写力の不足を先人の遺産に頼って糊塗してるようなもんですしね。夢の卵編でだいぶ『ネタを形にしたい欲求』を発散したので、暫くはパロネタを軸にした話はしない、と思います。多分。

次回は外伝でダングルテールの話(の予定)です。

2011.05.22 初投稿



[20306]  外伝9.ダングルテールの虐殺
Name: へびさんマン◆29ccac37 ID:b87f4725
Date: 2011/06/12 19:47
 ダングルテール、と呼ばれる地方がある。
 『アングル人の土地』という意味合いの言葉であり、この地方に住む人々は、アングル人を父祖に持つのだという。
 ではアングル人とは何処の民族か、というと、一般的にはかつて天空大陸アルビオンを支配していた民族を指す。

 実際はゲルマン地方の一部族だったとかいう話もあるが、確かではない。
 エルフやあるいはもっと別の先住種族だったとの説もある。Angle(角度)の名の通りに、此の世ならぬ角度に住む何モノかであったという話もあるし、空に住まうモノとして天使(Angel)と同一視する向きもある。
 確かなのは、彼らアングル人が、かつてのアルビオンで興隆を誇ったことだ。

 だが始祖光臨を機に、彼らはメイジ(マギ族)によって追いやられ、天空大陸の平野部から追い出された。
 一説によれば、アングル人の一部は人の棲めぬ高地へ逃げ、あるいは天空大陸に穿たれた鍾乳洞に逃げこみ、またあるいは天空大陸からガリアやトリステインに降下したのだという。
 ダングルテールは、そのアングル人たちがトリステインに降りた際の、逃げ先の一つだとされている。

 ……ダングルテールとアングル人について、奇妙な噂がある。
 噂というよりは伝承、神話、伝説という類の話だ。
 彼らの父祖たるアングル人が、アルビオンからトリステインに降りてきた際の伝説である。
 アングル人は、風の神の加護を受けており、生身で、アルビオンの白い断崖からトリステインの海辺にまで飛び降りることが出来たのだという。

 現在、そのダングルテールには、廃墟の痕跡が広がっている。
 海風による風化と植物による侵食によって、煉瓦や石壁の名残しか残っていない。
 ハルケギニアではよく見られる、ただの廃村だ。

 オークなどの亜人の襲撃や、山賊の略奪によって村を棄てることは、ままあることだ。
 残された瓦礫には煤の跡がある。
 焼き討ちにされたのだ。

 知る人ぞ知る『ダングルテールの虐殺』。
 それは悲劇。あるいは恐怖劇。もしくは、あの蜘蛛の千年教師長や、混沌の化身にとっては、ありふれた喜劇に過ぎないかも知れない。
 舞台は、今から二十年前まで遡る(さかのぼる)。


◆◇◆




 蜘蛛の巣から逃れる為に 外伝9.ダングルテールの虐殺




◆◇◆


 魔法研究所(アカデミー)実験小隊。
 下級貴族のメイジで構成される彼らは、戦場での魔法の運用方法や、人体への影響、範囲魔法の威力などを実験する何でも屋だ。
 野盗退治や地方諸侯の反乱の鎮圧などにしょっちゅう繰り出される彼らは、汚れ仕事を請け負う点ではガリア北花壇騎士団とも似ている。
 ただ彼ら実験小隊は、研究者でもあり開発者でもあるため、暗殺と諜報専門の特殊部隊である北花壇騎士団よりは、クルデンホルフの知識欲旺盛な外道特務機関“蜘蛛の糸”の方が、性質としては近いかも知れない。

 実験小隊に所属するメイジたちは厳しい訓練を課されると同時に、最先端の科学理論と魔法理論を学ぶ。
 小貴族の有望そうな次男三男は早いうちから目をつけられ、人買いに買われるようにしてアカデミーの門を叩く。
 世間的には、『才能豊かなメイジをアカデミーがスカウトした』ということになり、実際にアカデミー実験小隊に入隊する彼らの面倒は、アカデミーが一括で衣食住すべて面倒を見る。

 メンヌヴィルは、二十歳になったばかりの火のメイジだ。
 実家が裕福ではなく長男でもなかったために、王都の魔法学院には入れず、しかしその魔法の才能を見出されて、数年前からアカデミーで英才教育を受けてきた。
 ここで言う英才教育とは、幼い頃からの軍隊顔負けの訓練、各学科の権威を招いての講義、限界を超えた魔法鍛錬、食事制限とドーピングと水魔法による成長管理などである。

 数年の、血反吐を吐いては水魔法で癒してまた訓練するという地獄のような鍛錬を経て、彼は育成予備部隊から実働部隊に配属された。
 そこでメンヌヴィルは、自分の目標とすべき人物に出会う。
 彼より少し年上の二十歳そこそこで実務部隊のトップを務める炎の使い手――ジャン・コルベール隊長である。

 コルベール隊長は、正に実験部隊の長たるべき人物であった。
 彼の華奢な体格をカバーする柔よく剛を制す圧倒的な体術の技量。
 理性的で探究心に溢れる性格。
 熱力学と流体力学を熟知した流麗で惚れ惚れするような炎の扱い。
 範囲殲滅戦における広範囲の物質への魔法影響力の凄まじさ。

 一体どのような経験と修練を積めば、そこまでの修羅の如き高みに登れるのか。
 魂を祭壇にくべて燃やしたかのような強烈な炎と、それとは裏腹に凍てつくように怜悧な意思。
 メンヌヴィルは、心の底から、幾らも歳の変わらぬそのコルベール隊長に惚れ込んだ。
 師事しようと思ったことは数えきれず、指南してもらうためだけにコルベールに決闘を持ちかけたことも両手の指では足りないくらいだった。

 メンヌヴィルはコルベールのあらゆる部分を尊敬した。
 体術、知識、魔法、精神力、頭の回転、発想、応用力、統率力、努力する姿勢――。
 そして中でも特に、何時如何なる時であっても決して動揺しない、蛇のような冷酷さ。

『ウル・カーノ(行け、炎よ)』

 と、隊長が唱えれば、たちまち何もかもが燃え尽きて灰になった。

『エオー・ベオーク(変化し、伸びよ)』

 と、それだけのルーンで、隊長は炎を縦横無尽に意のままに操った。


 そんなコルベールの二つ名は、“炎蛇”。
 周囲の可燃物の配置や、流れこむ気流を考慮して使われる彼の魔法は、小さな炎の蛇を、あっという間に全てを呑み込む火炎旋風の竜巻に育て上げる。
 燃えるものがなければ、部下に適切に命令し、標的の周囲に可燃物を『錬金』して、標的を殲滅する。

 任務達成率十割。
 蜷局(とぐろ)を巻いてうねる炎と、冷血動物の酷薄さ。
 故に、“炎蛇”のコルベール。

 メンヌヴィルとコルベールは、同じ炎の使い手であることと、メンヌヴィルがコルベールのことを具に(つぶさに)観察したがることから、自然と同じ任務に共同で従事するようになった。
 “炎蛇”のコルベールと、“白炎”のメンヌヴィル。
 彼らのペアは、トリステインの上層部では名の知られた始末屋になった。


 そんなある日、コルベールとメンヌヴィルのペアに、上層部から一つの指令が下された。


『トリステイン沿岸地域に密入国した、ヴィットーリアというロマリアの女性が持つ、赤いルビーの指輪を確保しろ』


 ――海上で撃破されたロマリアからの密航船に紛れ込んでいた、“ヴィットーリア・セレヴァレ”という女性が、恐らくトリステインの沿岸部に漂着したと思われる。
 ――彼女の持つルビーの指輪を回収せよ。
 ――“ヴィットーリア・セレヴァレ”の生死は問わない。

 こういった内容の命令自体は、何も珍しい話ではなかった。
 何処そこの未亡人がその家の花押印(かおういん:自署と同じ効力を持つ印鑑)を持ち逃げしたので、その花押印を取り返せとか。
 ただ、それがトリステイン国内の貴族ではなく、ロマリアの貴族(?)だというのが珍しい話ではあった。
 それも階級固定社会のトリステインから光の国ロマリアへの密出国ではなく、ロマリアからトリステインへの密入国というのであれば、尚更に珍しい。

 だが、そんなことは回収任務を実行するメンヌヴィルとコルベールには関係の無いことである。
 というより、いちいちそんな事を詮索していては、短い余生が尚更短くなるだけだ。賢しすぎる走狗は、直ぐに煮られることになる。
 メンヌヴィルは、国家の秘密に関与した自分たちが生きながらえる道があるとは、全く思っていなかった。
 ……まあ、コルベールのような天才(あるいは天災)とでも言うべきほどの実力者であれば、特殊部隊の次代を育てる教官としての道や、優れた頭脳を生かした研究者としての道もあるかも知れないが。


「撃沈地点と、海流の関係から言えば、このダングルテールに流れ着いている可能性が高いのですよね。隊長」
「そうだな、メンヌヴィル。私の解析によれば、恐らくはダングルテールに漂着しているはずだ」
「あーあ、こんなクソ詰まらない探索任務なんぞ、かったるくてやってられませんな」

 メンヌヴィルが肩を回して面倒くさそうに言う。
 コルベールは相変わらず仏頂面だ。

「そうだな。だが、こういうことも仕事の内だ」
「どうせなら、こうパァ~っと燃やせる任務が良いですなあ」
「……仕方あるまい。君が張り切るせいで、国内の目星い盗賊団と謀反人は、みんなみんな灰になってしまっただろう」

 彼らがこの直前についていた任務は、南部地方の小貴族の未亡人が謀反を画策したというので、殲滅するというものだった。
 実際にその未亡人が謀反を企てていたかどうか、彼らは知らない。

「ははは、隊長の方こそノリノリだったではありませんか。南で謀反を企てていた女を焼いたときなんて惚れ惚れしましたよ。あの女、身篭っていたようじゃぁないですか」
「仕事だからな。しかし、よくあの時の女性が身重だと分かったな」

 命令一つで彼らは全てを焼く。
 女も子供も男も老人も。
 全てを燃やして灰にする。

「そりゃあ、匂いが違いますからな。妊娠中の女と胎児は、焼くと、また独特の得も言われぬ匂いがするもんです。母になろうという女の情念が焼ける匂いです」
「……そうか」
「そうです、隊長には分かりませんか? 人を焼いたときの、あの素晴らしい極上の匂いが! 苦鳴と無念と怨嗟の匂いが!」
「そんなに煙を嗅いで悦に入りたいなら、麻畑か芥子畑でも焼いてきたらどうだ。確かそんな任務があっただろう。密造恍惚薬の摘発だとか何とか」
「いやいや、それとは全く別ですよ。全然違います。人を焼いたときの匂いは、こう、甘く、切なく、儚い、そういうもんです。人生の蝋燭を一瞬で蒸発させるのですから、儚くそれでいて芳醇な、一人一様千差万別の香りがするんですよ。まあだからこそ本当は、焼くならただの女子供より、人生の酸いも甘いも噛み分けた老人や悪人や手練の方が好きですがね」

 メンヌヴィルが熱心に説明するが、コルベールは首をひねる。

「分からんな。私はパイロマニアでもカニバリストでもないからな」
「俺だって違いますよ、それどころじゃなくもっと崇高な行いをやっているつもりです。言うなれば炎の神官といったところです。罪に塗れた肉体を焼いて、魂を解放して浄化焼結し、神のもとに送り届けるという神官です」

 メンヌヴィルが炎のむせるような匂いを思い出して陶然とする。
 彼は胸元から下げた奇妙な形の十字架――太陽を表す円の左右に翼が伸びて下に尾羽根が付いたT字型をしている――を握り締めている。
 この、鳥の首を刎ねて円を重ねたような十字架(シンボル)は、メンヌヴィルが炎の中に幻視した存在を象っているのだという。

 コルベールはそんなメンヌヴィルのことが心底理解できない様子で、やはり相変わらず無表情だ。
 あるいは、『コイツの頭の中はどうなっているのだろう、解剖してみるか?』とでも思っているのかも知れない。
 そういえば、情熱の躍進の国ゲルマニアが『火の国』と呼ばれて久しいが、かつてそれは浄罪の炎として、光の国ロマリアの象徴であったはずだ。光は炎の要素でもある。ロマリア女の真っ赤なルビーと、炎の赤を、脳裏で重ねあわせたりしつつ、コルベールはメンヌヴィルを嗜める。

「炎は炎だ。神でも何でもない」
「そうでしょうか? 炎を使っていると、何か大きな太陽の如き何モノかの存在を感じることがありますよ。この鳥十字の形は、いわば俺の神の象徴でもあります」
「錯覚だろう。いや、あるいはマジックハイ(魔法昂揚)か? 似た様な事例は聞いたことがあるな。帰ったら文献を漁ってみるか」
「隊長殿は相変わらず研究一筋ですな。……しかし、あの時の隊長の炎は相変わらず見事なものでしたなぁ。俺もあんな風に炎を使いたいもんですよ!」

 前回の任務の時のコルベールの炎――“炎蛇”の魔法の様子を思い出したのだろう。
 メンヌヴィルが目をキラキラと輝かせて、尊敬の眼差しでコルベールを見る。
 だが、相変わらずコルベールは無反応だ。いや過去何度も既に同じようなやりとりをしているので、かなりウンザリした様子だ。

「私のような蛇になりたいならば、精進することだな」
「その為に任務遂行の補佐として付いてきたんじゃないですか」
「精精、ワザを盗むんだな。――見えてきたぞ、ダングルテールの村だ。まあ恐らくは海流の関係上はココに流れ着いているはずだ」
「ええ。それにロマリアくんだりから亡命してくる奴なら、宗教庁の手の及ばない街に匿われているでしょうし」

 ロマリアを逃れて来るということは、恐らく異端だの何だので宗教的に後暗いところがあるのだと、大体相場が決まっている。
 そういった者が何処に逃げ込むか?

 まず第一候補には千年以上続く異端都市シャンリット。
 あそこなら余所者でも最低限の生活を送れるという話だ。
 しょっちゅう聖堂騎士がいちゃもん付けては門前焼き払いを食らっている。

 次点でロマリアと国境を接するガリアか。
 あるいはそれより離れた場所にあるトリステインかアルビオン。
 それらの国の中でも特に教会の目が行き届いていない辺境地域や、守護竜信仰や豊穣神信仰などの古来からの土着の信仰が残る街が良いだろう。

「ああ、そういう意味でもココ――ダングルテールはうってつけだ」

 つまり例えば、ダングルテールのような。
 ダングルテールは、立地上、漂流物が海流によって運ばれ易く、さらに街の由来に曰く――天人伝説と天人信仰があるために、ブリミル教会の権力が及びづらい。
 コルベールは、標的の女性ヴィットーリアが隠れているならダングルテールだろう、と見当を付けていた。


◆◇◆


 ダングルテールの村は、無人だった。

「……これは」
「おかしいですな、隊長。人っ子ひとり居やしない」

 それにしては略奪の跡もない。
 人間だけが居なくなっている。

「連中、ピクニックにでも出かけたんですかね?」
「村の全員でか? ありえんな。手分けして何かしらの手がかりを探すぞ」
「了解です、隊長」

 コルベールとメンヌヴィルは二手に分かれる。
 コルベールは村の中で、おそらく村長の建物と思われる、大きな民家のある方に向かう。
 そしてメンヌヴィルは村の教会の方に向かう。



「それにしても本当に人っ子ひとり居やしねえ。何処に行きやがった?」

 メンヌヴィルは素早く陰鬱な木立の間の道を走る。
 すると急に視界が開け、小さな教会が建っている広場が目に入ってきた。
 そこにも、やはり誰も――いや。

「ん? 子供か?」

 子供。
 幼子だ。
 アッシュブロンドのショートカットの、幼い、ようやく言葉を話せるようになったくらいの子供が、教会の前で座って、何か地面に絵を描いている。

「……親は居ないのか? 目の届かない場所に放って置けるような歳じゃあるまいに」

 メンヌヴィルは走る足を緩め、子供を驚かせないようにゆっくりと歩く。

「おい、そこのガキ!」
「――っ!?」

 メンヌヴィルの乱暴な言葉に、子供は顔を彼の方に向け、身体をビクっと竦ませる。
 そして強面のメンヌヴィルを見て、みるみるうちに目に涙を溜める。

「ぅぇ、」
「ああ泣くな泣くな。えーと、ほれ、これ食うか?」
「ぅ?」

 泣き出しそうな子供を見て、メンヌヴィルは慌ててポーチから糧食のチョコレートを取り出す。
 高カロリーで直ぐに食べられるので、メンヌヴィルたち実験小隊のメイジは重宝しているのだ。
 炎の魔法の影響を受けないように断熱不燃素材で包装されたそれを剥いで、メンヌヴィルはまず一口、チョコレートを目の前で食べて見せる。

「ほら、食いもんだ。甘くて美味しいぞー」
「ぁ……」

 メンヌヴィルは、魔法で軽くチョコレートの温度を上げて溶かし、その甘い匂いをそよ風にのせて幼児の方に送る。
 鼻をひくつかせた幼児は、とてとてと覚束ない足取りで、しかし猛然とメンヌヴィルの方に駆けてくる。

「あ、バカ、そんなに走ると――」

 どてっ、ずざー。

「ほら転んじまった」
「ぅ……、うわぁあああああああん、ぅぎゃあああああああ!!」
「ああ、もう泣くな。面倒だな。でもコイツ以外に誰も居ねえし」

 メンヌヴィルは杖を振って、転んだ子供に『レビテーション』をかけて浮かせて引き寄せる。

「すぐ治してやるからな~。ほら、痛いの痛いの飛んでいけ~」

 ギャン泣きする幼児の首根っこを捕まえて、メンヌヴィルは『レビテーション』を解除。
 直ぐに『治癒(ヒーリング)』の魔法を使ってやる。
 すると直ぐに幼児の膝と手の平の擦り剥け傷は塞がった。成長力の高い幼児には、治癒の魔法も効きやすいのだ。

「ほら、もう痛くないだろ?」
「――ぁあああん!! ……ぁ、あ?」

 メンヌヴィルは幼児を地面に立たせてやる。
 幼児はしばらく不思議そうに自分の身体を見たり触ったりして確認している。
 その間にメンヌヴィルは地面を土の魔法で少し盛り上げて、座れるくらいの台を作る。

「いたくない」
「ああ、傷を治す魔法を使ったからな。ほれ、座れる場所も作ってやったから、ここに座れ。んで、このチョコレートも食え」
「おじさん、まほうつかい?」

 アッシュブロンドの幼児が首を傾げる。
 オジサン呼ばわりにもメンヌヴィルは動じない。その辺は気にしないのだ。幼児から見たら、大人は誰でもオジサンかオバサンに見えることくらい、彼は理解している。

「そうだ。魔法使いだ。メイジだよ。ほれ、チョコレートだ」

 メンヌヴィルは、また幼児の首根っこを掴むと、土魔法で盛り上げた台座に座らせる。
 そして糧食のチョコレートを渡す。
 幼児は両手でそれを受け取り、しばらく不思議そうに眺めていたが、メンヌヴィルが同じものを取り出して食べ始めたのを見て、齧り付いた。

「~~~!! おいしい! おいしいよ、おじさん!!」
「ああ、そりゃ良かった。ところで坊主、いやお嬢ちゃんか? 名前なんて言うんだ?」
「わたし? わたし、アニエス」

 口の周りをチョコレートでベタベタに汚しながら、アッシュブロンドの幼児――アニエスは元気よく答えた。
 さっきまで泣いていたのが嘘のようだ。
 メンヌヴィルはそんなアニエスの口の周りを、ハンカチで拭いてやる。

「ああ、そんなに口の周り汚しちまって……。じゃあアニエス嬢ちゃん。お家の人は居ないのか?」
「むー。おかあさんと、おとうさん?」
「ああそうだ。親は何処にいるんだ?」
「おかあさんとおとうさんはねー、いまねー、『いさか』さまのところにいるのー」
「『いさか』様?」

 アニエスは、無邪気に笑って、そんな名前を口にした。
 メンヌヴィルは怪訝そうな顔をする。
 人名だろうか。あるいは、この地域で信奉されている神の名前か。両親は、その神の祠にお祈りにでも行っているのだろうか。そういえば、コルベールは天人信仰がどうとか云っていた。

「そう、『いさか』さま。とってもえらい神さまなの」
「他の村の人達も、その、『いさか』様の所に?」
「そうー。ぴょーんって、とんでくの。ぴょーんって、おそらにねー」

 そう言って、アニエスは地面に絵を描き始める。
 それは奇妙に手足の長い、ヒトのような何かであった。しかし、決してヒトではなかった。
 幼児の絵ゆえのバランスの崩壊というものではなく、そのモチーフは、元から人間では無いのではないかと、メンヌヴィルに漠とした不気味な予感を抱かせた。

「いあ、いあ、いさかー」
「それが、『いさか』様か?」
「そうだよー。いあ、いあ、いさかー」

 祝詞、なのだろうか。
 アニエスは鼻歌でも歌うように、『いあ、いあ、いさかー』と口ずさみながら、脈絡もない絵を描いていく。
 牙と爪が目立つ、鬼のような人間。それと同じ大きさくらいの、蜂のような身体と羽、鰐のような頭を持った、奇妙な動物。吹きすさぶ風と雲のモチーフ。

「なあ、アニエスお嬢ちゃん。村の人達は、いつも、その『いさか』様の所に行くのかい?」
「んー? ちがうよー。ごちそうのときだけー。よるには、もどるって、いってた」
「ご馳走?」
「そう、ごちそうー。すこしまえにねー、うみからごちそうきたのー。たくさんのねー、ごちそう」

 すると、急にアニエスは手を止めて、悲しそうな顔をした。

「わたしもねー、ごちそうたべたかったんだけど、おかあさんがねー、『アニエスは、まだ、からだができてないから、ダメ』だって」
「そうか」
「もっとおおきくなったら、ごちそうをたべて、『いさか』さまにも、あいにいけるのになー。ひとりでおるすばんは、さみしいよ」
「……そうだな」

 実家から売られるようにしてアカデミーに入れられたメンヌヴィルは、その孤独感について思うところがあったのだろう。考えこむようにして黙ってしまう。
 不意にアニエスが立ち上がって、メンヌヴィルの顔を覗き込む。

「ねえ、おじさん。あそぼ?」
「……」
「あそぼーよー」
「……」
「ねえ! あそぼう!!」
「~~っ、ああ、良いだろう、分かった、遊んでやるよ。だが何をする? 子どもの遊びなんて俺は知らないぞ」
「んとねー、じゃあねー、『イアイアごっこ』!」
「『イアイアごっこ』?」
「そう! 神さまのなまえをいいながら、いあ! いあ! っておどるの」

 アニエスが両手を上げたり、様々な不思議なポーズを取る。

「ねえ、おじさんの神さまは、なんていうの?」
「俺の神の名前……」

 鳥十字の聖具を作ったりはしているものの、そんな事は考えたこともなかった。
 神の名など、そんなことは、考えたこともなかった。
 虚を突かれたメンヌヴィルは黙りこむ。沈思黙考。

 不意に、何か、思うところがあった。

――⊂⊥≠∪↺H∀――

 何処からか齎されたか分からない、その単語。
 いや、言葉ともつかない、曖昧で不鮮明で、しかし、炎の記憶と共にやって来た、そのイメージ。
 メンヌヴィルは、それを確信を持って、自らの神の名前だと、思い込んでしまった。

「そうだな、『くとぅが』様だ。炎の神さまだ」
「へー。じゃあ、『いさか』さまとは、なかわるいかも、しれないね。『いさか』さまは、こおりのかみさまだもん。あついのきらいだとおもう」
「でも、その『イアイアごっこ』じゃあ、自分の神さまを称えるんだろう。別にクトゥガ様でもイサカ様でも良いじゃないか」
「そうだねー」

 そう言って、半ば流されるように、メンヌヴィルはアニエスと一緒に、奇っ怪な踊りを踊り始める。
 口々に神の名を讃えながら、能動的に体を動かし、舞を踊る。
 奉納演舞。

 いあ、いあ、いさかー。いあ、いあ、くとぅが。

 いあ、いあ、いさかー。いあ、いあ、くとぅが。
 いあ、いあ、いさかー。いあ、いあ、くとぅが。

 いあ、いあ、いさかー! いあ、いあ、くとぅが!
 いあ、いあ、いさかー! いあ、いあ、くとぅが!
 いあ、いあ、いさかー! いあ、いあ、くとぅが!

 また泣かれてはかなわないという思いが半ばと、もう半分はヤケクソではあったが、メンヌヴィルの心の内にも、何かしら鬱積していたものがあったのだろう。
 夢中無心になって、アニエスの模す神事儀礼をなぞった。
 アニエスがやっているのは、この村の大人たちがやっている神事のままごとだ。

 いあ! いあ! いさかー!! いあ! いあ! くとぅが!!
 いあ! いあ! いさかー!! いあ! いあ! くとぅが!!
 いあ! いあ! いさかー!! いあ! いあ! くとぅが!!

 だが、ままごとと、本物の間に、何処にそれほどの差異があるというのだろう?
 大事なのは、意志。
 真似事であっても、そこに真摯な祈りがあれば、それは本物と変わらない。

 いあ! いあ! いさかー!! いあ! いあ! くとぅが!!
 いあ! いあ! いさかー!! いあ! いあ! くとぅが!!
 いあ! いあ! いさかー!! いあ! いあ! くとぅが!!


 結局、ままごとの神事・礼賛儀式は、コルベールがメンヌヴィルの様子を見にやってくるまで、小一時間続いた。


「何をやっている」
「あ、隊長……」
「おじさんも、やろー! 『イアイアごっこ』!!」

 コルベールが教会前の広場に現れたのと時を同じくして、磯の香りをのせて、この季節にしてはやけに寒い風が辺りを吹き抜ける。
 コルベールとメンヌヴィルは思わず鳥肌を立て、体をぶるりと震わせる。
 アニエスはというと、その不気味に冷たい風を感じると、目を輝かせて、風上の方を見る。

「何だ、急に風が――」
「おかあさんとおとうさんが、かえってきた!!」
「おい、待て?!」

 アニエスはそう叫ぶと、コルベールが制止する間もなく、あっという間に、村の方へと走り去ってしまう。
 幼児特有の覚束ない足取りだが、不思議なことに、その速度は下手な成人男性より速い。
 もう既にアニエスの姿は木立に遮られて見えなくなってしまった。

「行ってしまった……」
「なら、俺達も行きましょう、隊長殿。あの娘の言うことが本当なら、村に人が帰ってきたということでしょう」

 そう言ってメンヌヴィルは、コルベールを先導して歩き出す。
 さっきの奇っ怪な儀式めいた踊りのことなど、まるで無かったかのようだ。
 いや、無かった事にしたいのだろう。羞恥で耳まで真っ赤に染まっている。

 コルベールは溜息をつく。

「そんなことで心を乱していていては、蛇のような巧緻狡猾な炎使いにはなれんぞ……」

 ボソリと呟き、メンヌヴィルの後を追った。


◆◇◆


「ちっ、何とも不気味な村ですね、隊長」
「田舎町なんてそんなものだ。余所者には簡単に情報を渡しはしないだろうよ」

 コルベールとメンヌヴィルは、いつの間にか人影が戻ってきたダングルテールの村で聞き込みを行っていた。
 “見慣れぬロマリア女が海岸に漂着していなかったか”と、ダングルテールの村人たち――皆奇妙に手足が長い――に尋ね歩いていた。そして今まで何処に居たのかも訊いた。
 だがどの村人たちも、首を横に振るばかりで、頑として口を割らない。

 しかも火のメイジに何か恨みでもあるのか、彼らが火メイジだと分かると、あからさまに逃げ出す者も居た。
 あまつさえ石を投げてくる者さえ居た。
 まあ石なんて鍛えられた彼らは避けたり受け止めたりしたから被害は無い。

 石を避けるときの動きで、コルベールとメンヌヴィルが、訓練された人間だと、分かるものには分かっただろう。
 これでこの小さな村の全員に、“軍人風の火メイジの二人組がヴィットーリアという女性を探している”という情報は伝わってしまったはずだ。
 上手く行けば、村人の方から、厄介事を避けるためにヴィットーリアを差し出してくるかも知れない。彼らがヴィットーリアを匿って居ればだが。

「この調子じゃ宿も取れませんぜ。あの連中、火メイジに何の恨みがあるんだか。まあ宿があるとは思えませんが」

 メンヌヴィルが村の中心の通りで周囲を見回しながら呟く。
 鄙びた漁村といった風情で、通りには民家と小さな教会くらいしか見当たらない。

「ならば野宿だな。海岸の漂着物や遺留品の方も、もっと詳しく見なくてはならなかったから、今日は海岸で野宿だ」
「ああ、面倒ですな」
「何、直ぐに片付くさ。捜し物はきっとここにある。……勘だがな」

 宵闇が迫る中、不吉な風が二人のローブを揺らす。
 その時、パタパタと足音を立てて彼らに近づく何かが居た。

 子供だ。
 アッシュブロンドの子どもが、急いで道を走ってくる。
 先ほど教会近くで見かけた、あのアニエスという子供だ。

 アニエスは両手いっぱいに、ハーブや野菜らしきものを抱えている。

「おじさんたちー」
「おお、アニエス嬢ちゃんじゃないか。どうしたんだ?」

 メンヌヴィルが屈んで、アニエスの目線に合わせて話をする。

「これ、さっきの“ちょこれいと”のおれい! おかあさんが、わたすように、って」

 はい、と、アニエスは抱えた野菜を渡してくる。
 メンヌヴィルはそれを受け取る。

「あ、あと、ありがとうございました!」

 アニエスはそう言って、ぴょこんと頭を下げる。
 何とも微笑ましい光景である。

「わざわざお礼を言いに戻ってきたのかー。えらいぞ、アニエス嬢ちゃん」
「えへへ~」

 メンヌヴィルが優しくアニエスの頭を撫でてやる。

「何だ、君、その子に糧食のチョコをあげていたのか?」
「ええ、そうです」
「意外だな。君は案外子ども好きなのか?」
「成り行きですよ、成り行き」
「そうかい。まあいい」

 コルベールも屈んでアニエスに目線を合わせる。

「アニエスちゃん、ちょっとお父さんとお母さんに話を聞きたいんだけど、良いかな?」

 そう尋ねると、アニエスは困った顔をする。

「えとねー、んとねー、おかあさん、おれいしたら、すぐかえってきてっていってたの。おじさんたちとは、あいたくなさそうだった……」

 それは、そうだろう。
 普通なら年端も行かないこんな幼子に、一人で山盛りの野菜やハーブを持たせるのは考えづらい。親が一緒に来て然るべきだ。
 だが、アニエスの両親は、アニエスだけを寄越した。

(なるほど、それほどに、我々とは顔を合わせたくないということか)

 思案するコルベールをよそに、アニエスはそわそわしだす。

「どうした、トイレか?」

 メンヌヴィルがデリカシーも何も無いことを訊く。

「もうー、ちがうよ、おじさん。はやくかえらなきゃいけないの。ごちそうがあるから。わたしはまだ、たべられないけど。やわらかくて、とっても、おいしいらしいの。もっとおっきくなったら、わたしもたべられるの」
「成程、お母さんたちが楽しみに待ってるから、早く帰らないといけないのか」
「そうなのー。おじさんたちもごちそうー?」

 彼女の質問は、ご馳走を食べたのか、ということだろうか。

 言葉足らずで分かりづらいが、コルベールはそう解釈した。

「いや、オジサンたちは、最近はご馳走は食べてないな。まあ、君からのお礼のお陰で、今夜はご馳走だよ。お母さんとお父さんに、お礼を言っておいてもらえるかい?」
「んー。わかったー」
「そうか。頼むよ」
「うん。もういい? はやく、おうちにかえらなきゃ、おこられちゃう」
「ああ、引き止めて済まないね。ありがとう」

 幼女はまたパタパタと走りだす。

「じゃあねー!」
「ああ。じゃあね――あ、そうだ、アニエスちゃんは、そう言えば、君は今、何歳だい?」

 コルベールは、疑問に思ったことを口に出してみた。
 言葉は話せるし、脚は速い。どうにも、このアニエスという少女が、年齢不詳だったからだ。
 いや、それはアニエスに限ったことではない。この村の者は、皆、年齢不詳の外見をしているのだ。極端に年を取った者も居ないし、逆に少年少女も、このアニエスという幼女を除けば、見かけなかった。

「んとねー、わたしねー――」

 アニエスがその場でくるりとターンして、コルベールたちの方に向き直る。
 彼女は手を前に伸ばして、指を立てる。
 立てられた指の数は――

「――いっさい!! こないだ、たんじょうびだったの!」

 ――1本だった。

 呆気にとられるコルベールたちに背を向けて、アニエスは再び走りだす。

「ばいばーい、オジサンたち! あははははっ。おーいーしー、ごちそう、たーのしっみだなぁ! わたしも、はやくっ、たべれるよーに、なりたいな~! オジサンたちがきてくれたから、あしたも、あさっても、きっと、ごちそうねっ、おかあさんがいってたもん。あははははっ」

 笑って走る幼女を見送った後、二人の火メイジは、家々の窓から監視するように伺う村人たちの凍てつくような視線を意図的に無視し、海岸の方へと足を向ける。
 夕闇が迫る中、凍土の底のように沈黙したダングルテールの村。遠く童女の笑う声が響く。あはははははははははは、ははははははははははははは。
 上空ではびょうびょうと風が渦巻き、それに煽られた雲がまるで人の顔の形のように動く。雲の合間から見える宵の星が、まるで爛々と光る眼のようにも見える。夷敵を見つける鷹の目がその夕闇に潜んでいるのかも知れない。


◆◇◆


 夜闇の帳が落ちた海岸で、パチパチと爆ぜる焚き火を囲んで二人の男――コルベールとメンヌヴィル――が暖をとっている。
 ダングルテールの夜は異様に冷え込むためだ。
 焚き火の上に『錬金』で造られた金属棒が渡されており、飯盒が吊るされている。飯盒の中には先ほどアニエスから貰った野菜と干し肉が入れられたスープが温められている。

「野菜とハーブ貰えて良かったですね、隊長」
「そうだな、糧食のレトルトを減らさなくて済んだ。しかし、何だろうな」
「何です?」

 コルベールは飯盒の中のスープを見る。

「いや、野ウサギでも見つかれば、丁度良かったのだがな、と思ってな」
「ああ、そうですね。貰った野菜やハーブを中に詰めて丸焼きにしたら、そりゃあもう、美味かったでしょうなあ!」
「ああそうだ。まるであつらえたかのように、肉に詰めるような野菜やハーブばかりをプレゼントされたからな」
「本当に。隊長が魔法を節約しようと言わなければ、鳥でもウサギでも捕ってきたんですがね」

 別に、飯を温めたり獲物を捕ってきたりくらい魔法でやればいいのだが、コルベールは「何か嫌な予感がする」と言って、それらを魔法ではせずにおいて、精神力を節約するようにしたのだった。

「――ところで、メンヌヴィル、こんな話を知っているか?」
「どんな話で?」
「『注文の多い料理店』という話なのだがな――」

 その話は、食堂に通される前に色々と客に注文をつけて、服を脱がせ金属製のものを外させ酢のような匂いの香水を付けさせたりする料理店の話だ。
 注文の多い料理店とは、注文が多くて繁盛している店、ではなくて、客に注文付けて客自ら食材として下拵えをさせる店だったのだ。
 客に食べさせるのではなく、客を食べる店。

「――という話だ。知っているか?」
「いえ、初めて聞きました。隊長は何処で知ったので?」
「さて、何処だったか。シャンリットだかの童話集に載っていたような気がするが」
「はあ、隊長はよく本を読みますものね。しかし何故いきなりそんな話を?」
「……何故だろうな。急に思い浮かんだのだ。まあいい。それはさておき、お互い、今までに得た情報を共有しておこう――」
「そうですね――」
 
 彼らは、ここにキャンプを作る前にひと通り海岸を見て回っていた。
 やはり海流が漂流物を集めるのだろう、海岸には流木や海藻やなんかのゴミが多く流れ着いているのがわかった。コルベールの海流分析は当たっていたのだ。
 その漂着物の中には墜落難破したフネの残骸と思しき物もあり、彼らが探しているヴィットーリアが乗っていたとされるフネの銘盤が打ち付けられた板切れも含まれていた。

「じゃあ、やはりこの海岸に流れ着いたようですね、その女」
「ああ、そのようだな。近くに他の村も無いし、ダングルテールに入り込んだのは間違いないと思うんだが」
「それしか考えられませんよねぇ」

 よく煮えたスープを掻き込みつつ、コルベールとメンヌヴィルは会話を交わす。
 簡単に周囲を見て回ったが、漂着した者の痕跡は見当たらなかった。
 フネの残骸の漂着具合から見るに、生存者や、それでなくても水死体の一つ二つは上がってそうなものだが……。

「土左衛門の一つもないのは不自然じゃあありませんか?」
「……そうだな。流れ着く前に、魚や蟹や海老に食われたのかも知れんが」
「それにしても、ひとつもないってなぁ、オカシイですよ。村の連中が供養したのでしょうか」
「……」

 コルベールは思案する。

「……なあ、さっきの子どもが言っていた、“ご馳走”ってのは、何だと思う?」
「さぁ? この辺りで捕れる、何か大きな魚とかじゃないですか? 海辺ですし。何処だかの海辺には、産卵後の烏賊が力尽きて、波打ち際に大挙して押し寄せると言いますし、その類では?」
「……『最近流れ着いた』、『村中で分けられるくらい大きな、あるいは多量の』、『柔らかい』ご馳走――」

 二人は無言になる。

『最近流れ着いた』
『大きな、あるいは多量の』
『柔らかい』

 ご馳走と言うからには、恐らくは、動物性の蛋白質なのだろう。

「……」
「……」

 嫌な沈黙が流れる。

「……まさか」
「……。カニバリストの気は無いのだがな。あの村に泊まらなくて良かったのかも知れんぞ」
「何が出されるか分からん、という訳ですか」

 メンヌヴィルが嫌そうな顔をする。
 彼は人が焼ける匂い(人生が燃え尽きる匂い)は好きだが、人肉は嫌らしい。

「夕食に供されたのが水死体の人肉だったという、それだけで済めば良いがな」
「というと?」
「『注文の多い料理店』」

 コルベールは澄まし顔だ。
 この男が動揺することはあるのだろうか。

「あ、真逆――」
「喰われるのは、私たちの方かも知れんということだ。夜の見張りは気を抜くなよ。この村、どうにもおかしい。怪しいぞ」

 冷たい風が、夜の海から吹き寄せる。
 ダングルテールの村は、静かなものだ。
 メンヌヴィルは、その静けさが、まるで、獲物に飛びかかる前に身を強ばらせた肉食獣のようだと思った。


◆◇◆


 真夜中を回った頃のことであった。
 金属膜が蒸着されたケープを羽織って夜闇に耐えるようにしていたメンヌヴィルは、一際強く、凍えるように冷たい風が吹いたため、さらに身を縮こまらせた。
 コルベールは寝袋の中で寝ている。次の交代までは、あと三十分ほど時間がある。

 また風だ。
 この海岸は風が強い。
 その風が表層海流に影響し、ダングルテールの海岸に付近の海流を集め束ねるのだと、コルベールが言っていた。

 ざわざわと、海岸の樹々がさんざめく。
 まるで巨人に揺すられているようだ、とメンヌヴィルは思った。
 巨大な、歪な、大顎の、手長の、悍ましいヒトガタが、重く響く風の音で叫びながら、樹々を揺らしている様を、メンヌヴィルは幻視した。

(本当に、ナニか人ならざる者が――そう、『イサカ』様、と云っていたか。……居るのか? この凍えるような闇の中に)

 メンヌヴィルの背が、寒さとは別の原因によって震える。

 そしてそれと呼応するように、彼の背後の茂みが揺れた。

「っ!!」

 いつでも動き出せる体勢になり、メンヌヴィルは杖を握り締める。

(隊長を起こすべきか?)

 茂みの中の相手は、ケモノか、ヒトか、あるいは――。

「――もし」

 その得体の知れぬ気配が口を利いた。

「……」
「もし、メイジ様。わたくし、アニエスの母でございます。昼は、うちのアニエスに良くしていただきありがとうございます」

 メンヌヴィルは答えない。
 杖を握る手に、じっとりと汗が浮かぶ。
 メンヌヴィルは直観していた。

 あの茂みの中にいるものは、決してヒトではない、と。

「それで、メイジ様。わたくしからのお礼は、きちんと召し上がっていただけたでしょうか?」

 メンヌヴィルは答えない。
 凍てつく闇の気配は言葉を重ねる。

「召し上がっていただけたでしょうか?」

 答えられない。

「召し上がっていただけたのですね?」

 そんな隙を見せて良い相手ではない。
 十年近くにわたって戦闘者として英才教育を受けてきたメンヌヴィルの身体が、本能が叫んでいる。
 逃げろ、逃げろ、逃げろ、逃げろ、ニゲロ逃げろにげろニゲロ逃げろ――――!

「召し上がっていただけたのならば――」

 闇の向こうの相手の、凍気の気配が膨れ上がる。

「――今度はわたくしたちが、貴方さまをいただきとうございます」

 瞬間、襲撃。

「ぐっ!?」
「シャアアアッ!!」

 言葉を言い終わるかどうか、その刹那、闇の向こうから氷の獣が飛び掛ってきた。
 メンヌヴィルの持つメイス状の杖と、ケモノの鋭い爪がぶつかり合い、甲高い音を立てる。
 メンヌヴィルが攻撃に反応できたのは、奇跡のような偶然に過ぎなかった。今までの修練の積み重ねが、彼を救ったのだ。

 だが、未だ安心出来ない。
 何故なら、今メンヌヴィルと鍔迫り合いしている異形は、今まで会話していた異形ではないからだ。

「二匹居たのか!!」
「よく受けられましたな! ですが、妻の攻撃は避けられますまい!!」

 氷の異形は二匹居た。
 メンヌヴィルと鍔迫り合いしている方の異形は、メンヌヴィルの全く知覚外の距離から、一瞬で文字通り一足飛びに跳躍して襲いかかってきたのだ。
 恐るべき跳躍力であった。

「ウル・カーノ!」
「おっと!」

 メンヌヴィルのルーンによって、炎が生まれ、氷の異形を退ける。
 炎が、異形の全身を照らし出す。

 牙が並んだ歯列をむき出しにした肉食獣のような顎、爛々と輝く赤い瞳、人間を縦に引き伸ばしたような歪な骨格、不気味に長い手足、刃物のようにギラつく爪、脚のつま先は靄のようにぼやけて確認できないがひょっとしたらつま先が存在しないのかも知れない。
 風と氷の神イタクァの眷属、ウェンディゴ。
 悍ましき異形。餓えた氷の獣。人食い。この世の道理から外れた忌むべき者たち。

「うわぁああああああ!??」

 メンヌヴィルが取り乱す。
 彼の精神は、ウェンディゴを直視したことで、完全に恐慌を来してしまっていた。
 盲滅法に炎を飛ばすが、風に乗って跳躍するウェンディゴには当たらない。

「妻よ、早くとどめを!」

 炎の隙を狙って、オスのウェンディゴがメンヌヴィルを押さえにかかる。
 通常は共食いする習性がある彼らだが、神イタクァの支配下にあっては、連携行動が可能であるし、それどころか社会生活さえも営める。

「シャアアア!!」

 奇声を叫びながら、茂みの向こうから、メスのウェンディゴ――最初にメンヌヴィルに話しかけた方が飛び掛かる。

「来るな、来るな来るなっ! 化物! 来るなぁ!!」
 
 絶体絶命。
 ウェンディゴたちが人肉の味を思い浮かべて、舌なめずりする。
 もはやメンヌヴィルの命運は尽きたかに思われた。

 だがしかし。

「ウル・カーノ・エオー・ベオーク(炎よ来たりて変化し伸びよ)」

 この場に居る火のメイジは、メンヌヴィルだけではなかった。

「ぎゃあぁっ!!」 「ぬぁああ!?」
「た、隊長っ!」

 轟と凍気をも燃やして空中を泳ぎ来た炎蛇が、ウェンディゴたちに絡みつく。
 炎蛇のコルベールが、戦闘の気配に釣られて目を醒ましたのだ。
 ウェンディゴたちは、表面を炙られたが、持ち前の健脚で後退し、炎の蛇を振り切る。

「メンヌヴィル、状況は?」
「はっ、異形二匹に襲われ、喰われそうになりました! 戦線復帰は可能、救援感謝します、隊長!」
「ふん、そういう時はさっさと私を起こしたまえ」

 コルベールが杖を振るう度に、炎蛇の数が増えていく。
 一匹、二匹、三匹、四匹。
 四匹の炎蛇が、空中でとぐろを巻き、辺りの闇を照らす。

 闇の中から浮かび上がったコルベールの顔には、何の表情も浮かんでいない。
 あるのは、蛇のような冷酷さだけ。
 任務達成のための、冷血の意志がそこにあった。

「化物諸君、質問があるのだが、海岸に流れ着いたロマリア女の行方を知らないか?」

 コルベールの問いに、風の響きのような低い声が答える。オスのウェンディゴだ。

「知らないな。大方、村の誰かの腹の中だろうよ」
「では、彼女が付けていた指輪は?」
「あん? そんなちまちましたの知るか。一緒に食っちまったんじゃねぇのか? 何、心配要らん、貴様もじきにその探し物の指輪と対面できるだろうさ」
「――君たちの腹の中でか?」
「そういうこと!!」

 ウェンディゴがコルベールに飛び掛かる。

「いあ! いあ! いさか!!」
「喧しい」

 だが、ウェンディゴの神速の踏み込みも、コルベールにとっては想定の範囲内であった。
 四匹の炎蛇が、ウェンディゴの踏み込みに匹敵する速度で伸び、ウェンディゴに絡みついた。
 ウェンディゴは風に乗る。だが、炎蛇は風を読む。ウェンディゴが操る風に乗せて炎蛇を動かすことなど造作も無いことだった。

「が――」
「燃え尽きろ。私は貴様らの灰の中から指輪を探すことにしよう」

 実力が違いすぎる。
 残されたメスのウェンディゴは、不利を悟って、村の方に逃げ出す。

「逃がさん。一匹残らず燃やしてくれる」

 コルベールが杖を振って、炎蛇にウェンディゴを追わせる。
 だが、ウェンディゴとてただやられてくれる訳ではない。

「いあ! いあ! いさか!! 神よ、守り給え!! 風よ風よ、嵐よ、暴風よ、敵を彼方に散らせ!!」

 メスのウェンディゴが祈り念じると、夜闇が動いた。
 星星の影がなにか巨大なヒトガタに遮られて消えて見える。木々の梢よりも遙かに高い場所に、その巨人の頭部があるはずの場所に、二つ並んだ赤色巨星の光が残っている。それは瞳だ、アンタレスのような真っ赤で巨大な瞳が浮かび上がっているのだ。
 眷属の祈りに応えて、彼らの神イタクァが、その力を分け与えにやって来たのだ。

「くっ! 小癪な――、――――!?」 「あれは――!?」

 叩きつけるような暴風が、コルベールとメンヌヴィルを吹き飛ばす。
 だが、その一瞬前、彼らは見てしまった。
 畏るべき北風の神の、その悪意と飢えに満ちた、紅い瞳を。


◆◇◆


 メンヌヴィルは逃げていた。
 あんな、あんな恐ろしいモノ――風神イタクァ――を相手にできない。
 イタクァを真正面から見てしまったために、彼は正気を失っていた。

「はぁっ、ちくしょう、やってられるか!!」

 そして、彼は逃げ出した。
 イタクァを崇めるウェンディゴを恐れて、ではない(・・・・)。

「敵も、味方(・・)も、まるで化物だ!!」

 メンヌヴィルは、コルベールから逃げ出したのだ。

「有り得ないだろ!! あんな化物が出てきたんだぞ! 任務の続行は不可能だ!!」

 だというのに、あのコルベールは――

『さて、では、任務を果たそうじゃないか。村ごと焼いて、灰の中から指輪を探すぞ。私はこのまま海岸側から焼いていく。君は逆側からだ』

 イタクァの風によって吹き飛ばされたあとに、レビテーションで着地してすぐに立ち上がり、いつものような無感動な顔で――いやいつも以上に何の感情の動きも見せない顔で、淡々とそう言った。
 メンヌヴィルは恐ろしいと思った。
 憧れ続けてきたコルベールという男を、初めて心の底から恐怖した。

 あの男は焼くだろう。
 一切合切、何の躊躇もなく、老若男女区別なく、燃やし尽くすだろう。
 そして、自分にはそれが出来ないと、理解してしまった。

 メンヌヴィルの心に去来したのは、昼に少しだけ会話した幼い少女の顔。
 コルベールは、全てを焼くだろう。
 あのアニエスという少女も。
 そんな事は、メンヌヴィルには出来ない。
 何の罪科もない幼子を焼くことなどできそうになかった。
 アニエスも人食いだというのなら、メンヌヴィルは焼けたかも知れない。
 だが、メンヌヴィルは知っている。彼女はその幼さ故に、まだ人食いの罪業を負っていないことを。

 そしてメンヌヴィルは、教会に向かうように見せかけて、森の中を走っている。
 彼の後方では、赤々と燃える炎が、夜闇を照らしている。
 既にコルベールが、焼き討ちを開始しているのだ。

「おい、どこだ、アニエス嬢ちゃん、何処に居る?」

 彼は、アニエスを助けるために、彼女を探して村の方へと走っているのだ。
 轟々と燃える炎の音と、炎に引き裂かれる闇が上げる悲鳴のような風の音が聞こえる。 


◆◇◆


 火のルビーは、焼け跡から無事回収された。
 任務は成功。
 損害は、ダングルテールの村一つの全滅と、実験小隊隊員一名の行方不明。
 実験小隊隊長コルベールは、無傷で帰還した。

 後日、無事に任務を果たして帰還したコルベールは、ある法衣貴族に呼び出されていた。
 その法衣貴族の名前は、リッシュモン。
 ロマリアと繋がりのある貴族で、今回の『火のルビー奪還作戦』における功績により、その繋がりをさらに強固なものにした男だ。
 つまり、今回の『火のルビー奪還作戦』の依頼者。

「コルベール君、君はよくやってくれている」
「は、ありがたきお言葉です」

 全くそうは思っていないような口振りで、コルベールは頭を下げる。
 あの事件以降、彼は、ますます爬虫類じみた、感情の動きのない男になってしまった。

「ダングルテールの件だが――」

 リッシュモンは、躊躇いつつも、口にする。

「――村を全て焼き尽くした、とは本当かね?」
「は、報告書に記述した通りであります」
「……それは、必要だったのかね?」

 蒼白な顔で、リッシュモンは尋ねる。
 だが、こんなこと尋ねて何になるというのだろう。
 彼はただ、安心したいだけなのだ。

 実験小隊の長であるコルベールに、人間らしい感情が残っていることを確認して、安堵したいだけなのだ。

 だが、コルベールは声ひとつ震わせずに、淡々と答える。

「ええ、必要でした」

 恐ろしい。
 リッシュモンは、この目の前の男が恐ろしい。
 人でなしの、炎の蛇が、心底恐ろしい。

 だから、そんな恐怖に蓋をするために、怒りを装って罵声を浴びせる。本当は、これ以上会話したくないと望みながら。

「何も焼き尽くすことはなかっただろう!!」
「ええ。でも、焼き尽くしても構わなかったのでしょう? 異端どころか異形の村の一つや二つ」
「君には、人の心というものがないのか! それに、後始末をするこちらの身にもなれというのだ!」

 矛先を、リッシュモンの得意分野である金勘定にずらす。
 ああ、だがそんなことは無駄なのだ。
 炎蛇はやはり動揺せずに、淡々と「今日の天気はいいですな」と言うくらいの、どうでもよさで、リッシュモンに答える。

「だから、後始末をしやすいように、一つ残らず焼いてきたんじゃありませんか」
「――っ!」
「要件は以上でしょうか。では、失礼いたします」

 戦慄に固まるリッシュモンを置き去りにして、コルベールが退出する。



 リッシュモンは思考する。恐怖にかられて鼠のように怯えながら、考える。

「アレは、危険だ。いずれ、制御不能になって、王国に牙を向くに決まっている――だが、アレの実力を考えれば、始末は出来ないだろう。誰が、アレを、あの炎蛇を制御できる――?」

 その時、彼の脳裏に、一人の老人が像を結ぶ。
 何十年も前の紹介状を持ってきて、魔法学院の学院長に就任した、怪老。
 300年生きる偉大なるメイジ、オールド・オスマン。

「オスマン老ならば、あるいは、炎蛇を御せるやもしれん。最悪炎蛇が暴走しても、彼ならば、鎮圧することも可能だろう――」

 リッシュモンは、コルベールを魔法学院に赴任させるための工作を開始するのであった。


 数ヵ月後、コルベールは魔法学院に異動することとなった。炎蛇は、裏の世界から忽然と姿を消すことになった。
 彼が元実験小隊隊長であったことは、リッシュモンとオスマン以外に知る人は、殆ど居ないはずだ。実験小隊のメイジたちにも、コルベールの異動先は知らされていない。
 だが、王城の書庫には、その時の異動命令書が保管されているかも知れない。


◆◇◆


 ありふれた事件である。

 トリステインの片田舎で、ある貴族が養女を引き取った。

 その数ヵ月後、その貴族の係累は、火事によって一人残らず灰になり、爵位や遺産は、残された養女に引き継がれた。
 後年、戦場で名を馳せる“白炎”のメンヌヴィルが、その養女の指南役におさまったという噂もある。
 “白炎”のメンヌヴィルの武名は高い。その炎の腕前もさる事ながら、女子供は手にかけない高潔さと、手強い相手に好んで戦闘を仕掛ける姿勢、そして倒した相手に祈りを捧げながら焼き尽くす敬虔さから、彼はハルケギニア屈指の傭兵として名を挙げられる。

 残された養女の名前は、アニエス。
 アッシュブロンドの髪の毛と、凛々しい顔つきが美しい女性で、後にトリステイン魔法衛士隊に入団し、アンリエッタに最も近しい女性衛士として活躍していくことになる。
 彼女の首からは、鳥十字のネックレスが掛かっている。
 彼女の恩人が、“心臓を凍らせないように”とプレゼントした、手製の聖具である。


=================================



関係ないおまけ。時系列は本編時間軸に戻ります。

■オリヴァン・ド・ロナルのその後?

 ガリアのド・ロナル伯爵家嫡男、オリヴァンは筋骨隆々の偉丈夫である。
 ほんの数カ月前まで彼が肥満体のひきこもりだったなどと誰が想像するだろうか。
 家の使用人たちも、彼の大変身ぶりに驚き、そして感心し、今後もド・ロナル伯爵家は安泰だと囁きあった。

 特に昔から彼のことに期待していたアネットというメイドの感激っぷりは凄かった。

「やはり坊っちゃまは、やれば出来る方でした!」

 というのが、ここ最近の彼女の口癖である。


 そんなある日のことであった。
 自室でチェス・プロブレム(詰将棋のチェス版)をやっているオリヴァンの部屋の窓を、コツコツと何かが叩いた。
 だがチェス・プロブレムを解くのに集中しているオリヴァンは、それに気づかない。

「う~ん、ここでナイトを……いや、ポーンか……?」

 コツコツと窓を叩く音が大きくなり、ごつごつ言い出し、やがて、窓を叩いていた何モノかは、ガラスを突き破る。

「ん? 何だ?」

 そこで漸くオリヴァンが気付くが、既に彼の手には杖が握られ、魔力で編まれた刃が出現していた。
 『元素の兄弟』ドゥドゥーに鍛えられたブレイドの腕前は、現役の花壇騎士にも負けないだろう。
 オリヴァンは窓を破って侵入してきた鳥くらいの大きさの黒い何かに向けて、ブレイドの魔力刃を、立ち上がりざま逆袈裟に斬り上げた。

(――何だ、カラス? カラスが何故窓を破って? 誰かの使い魔か? まあ斬り殺しても良いだろう――)

 窓から入ってきた黒いカラスらしき何かをブレイドで両断しようとオリヴァンが迫る。
 オリヴァンの前のテーブルに置いてあったチェス盤と駒が跳ね除けられて宙を舞う。
 そして――

 オリヴァンの刃が到達する一瞬前に、


 カラスがひとりでに正中線から二つに裂けた。


(――は?)


 眼の前で起こった理解不能の事象に混乱しつつも、オリヴァンは慣性でブレイドを振り切る。
 刃は、二つに割れたカラスの正中線を捉え――
 ――それ故に、何にも触れること無く、振り抜けた。
 だが即座にオリヴァンは思考を切り替える。

「線でダメなら、面だ! 『ウィンド・ブレイク』!」

 オリヴァンが放った、風壁の魔法がカラスを吹き飛ばそうとする。
 風が室内で吹き荒れる。
 カラスの片割れずつが、部屋の壁に叩きつけられる。

 動かなくなったそれを確認して、オリヴァンは息をつく。

「一体なんだったんだ?」



【詔勅デアル!! 詔勅デアル!!】
「うわ!?」

 急に、割れたカラスから出来の荒いガーゴイルのような声がした。

【詔勅デアル!! 『オリヴァン・ド・ロナル』ヲ北花壇騎士団11号ニ任命スル!! ガリア王女及ビ北花壇騎士団団長『イザベラ』ノ名ノ下ニ、11号ニ任命スル!! 拒否ハ許サレナイ!】

 北花壇騎士?
 11号?
 王女イザベラ様?

 カラスのガーゴイルは割れた身体のまま、ステレオで命令を喋る。

【北花壇騎士(シュバリエ・ド・ノール・パルテル)11号ハ、可及的速ヤカニ王宮ニ出頭セヨ! コレハ命令デアル!!】

 混乱するオリヴァンに関係なく、カラスのガーゴイルはさらに二三の命令を吐き棄てて、最後に何か任命書らしきものを吐き出すと、元通りに一つに合体して部屋の外へと飛び去っていった。
 オリヴァンは恐る恐る、カラスが吐き出した赤い紙を取り上げる。
 その真っ赤な紙には、金の印字で北花壇騎士11号に任命する旨と、確かに王家の花紋が押されていた。


◆◇◆


 時間は少しさかのぼってリュティスのプチ・トロワ。
 オデコの輝くお姫様と、小柄で老獪な雰囲気の少年が会話している。

「人手が足りないわ、ダミアン」
「はあ、そうですね。イザベラ様」

 この二人、何を隠そう北花壇騎士団団長イザベラ王女と、北花壇騎士でも屈指の実力者『元素の兄弟』長兄のダミアンである。

「アンタたちもっと働けないの? トリステインの“閃光”のワルドみたいに分身したりしてさ」
「お給金を弾んで頂けるなら」
「ちっ。しみったれめ。じゃあ、誰か腕利きを紹介しな。出来れば安い奴を」
「……ふむ、そうですね。そういえば、先日、不肖の弟ドゥドゥーが弟子をとったとか何とか言ってましたね」
「何処のどいつだい?」
「ド・ロナル伯爵家のオリヴァンとか、確か」
「ふぅん、名門じゃないか。まあ良い、ドゥドゥーの弟子なら少しは使えるだろう。名門のお坊ちゃんだろうが構うもんか」
「そうですね。王女が団長の時点で、名門もへったくれもないですよね」
「ついでに将来的にド・ロナル家を私の派閥に組み込むことにしよう。赤紙で招集かけといてくれ」
「御意」
「ま、そのオリヴァンとやらには、せいぜい苦労してもらおうじゃないかい。若いうちの苦労は買ってでもしろと云うし」
「姫様は売りつける側ですがね」
「ぁん? 何か言ったか?」
「いえ何も」

 その瞬間、北花壇騎士団11号“臆病風”のオリヴァン――遠距離攻撃と罠と策略を多用することから付いた二つ名(ある意味尊称であり蔑称)――が誕生することになったのである。


=================================


きれいなメンヌヴィル(不定の狂気:親馬鹿)と、改心してないコルベール(不定の狂気:サンチョ・パンサ症)。
原作でメンヌヴィルが取った行動って、外から見たら「情け容赦無さすぎる隊長に恐れをなして錯乱して攻撃を仕掛けたヘタレ」にも見えると思うんです。
この話でのメンヌヴィルは、アニエス救出後、適当な貴族を脅して養女にさせる→貴族をブチ殺して遺産ゲット→しばらくアニエスを育てる→不定の狂気:親馬鹿が治まってきていい感じに子離れして炎のむせる匂いを嗅ぎに戦場へ、って感じです。
コルベールは、イタクァを見て、サンチョ・パンサ症(全てのものが大して重要ではないように見える。何を見ても自分の常識の範囲内に矮小して理解してしまう)を発症しさらに蛇みたいな男に。当然、改心なんてしません。異形の村の一つ二つ焼いたところで一体何を後悔しましょうか。そして目の前に、燃やし残しが現れれば……。
アニエスは、当作では原作より2歳若いです。メンヌヴィルを養父・師匠と仰ぎ、村を焼いたコルベールの行方を探しています。まさか学院で教師してるとは思ってなかったはず。一応、ウェンディゴには未だなってません。危ういところで鳥十字の聖具(ゾロアスター教のシンボルがモチーフ)の加護のおかげで、人間のままです。まあ、人肉食ったら人外一直線でしょうけど。


オリヴァンの話を希望する方がちらほらいらっしゃったので、おまけを付けました。
でも今後、オリヴァンは再々登場はしないです。多分。

あと翼蛇エキドナの絵面は、八房龍之助さんの漫画だったら「塊根の花」のヴードゥ使いのアレじゃなくて、「宵闇眩燈草紙」2巻「やなりめ」の思い余って蛇女になっちゃったヒトの方がイメージとしては近いかもです。

2011.06.07 初投稿
2011.06.12 誤字訂正



[20306] 蜘蛛の巣から逃れる為に 25.水鉄砲
Name: へびさんマン◆29ccac37 ID:b87f4725
Date: 2011/06/23 12:44
 学院の庭で、炎蛇コルベールと氷餓アニエスが対峙する。

「コルベール、だと……!!」
「如何にもそうだ、氷のケモノ。その様子だと以前から私を知っていたようだが、何故私の名前を知っている?」
「答える必要は、無い! 氷よ鎧え、風よ助けよ――『駆動氷鎧(ホワイト・アルバム)』!」

 学院の中庭で、デルフリンガーを構えるサイトを中間に置いて、アニエスとコルベールの視線がぶつかる。
 アニエスの瞳は憎悪に燃えている。
 それに対して、コルベールの視線は冷ややかで、口調も冷たいものであった。

 憎悪に燃える氷の使い手と、どこまでも冷酷な炎の使い手。
 それぞれに扱う属性とは正反対の心性の二人の間で、殺気を孕んだ空気が紫電を散らす。
 アニエスの身体を、獰猛な獣を模したような氷の鎧が覆っていく。

 “氷餓”のアニエスの二つ名の由来となった、『駆動氷鎧』の魔法である。
 氷の鎧は彼女の機動を助け、銃や剣を弾き、敵を両断する膂力と爪を与え、追加効果で氷漬けにする。
 アニエスは白兵戦特化の氷の戦士なのだ。

 それを見てコルベールが片眉を上げる。

「また珍妙な魔法を使うのだな、ウェンディゴの娘。いや、それは本当に系統魔法か? 氷の眷属よ」
「貴様に答える必要は無い。だが、私の質問には答えてもらうぞ、虐殺の炎蛇」
「良かろう、冥土の土産だ」

 コルベールは無表情にアニエスを促す。

「ダングルテールの村を焼いた、魔法研究所実験小隊隊長は、貴様だな、ジャン・コルベール」
「そうだ、如何にも。ではそういう貴様はやはり、ダングルテールの生き残りか。全て焼いたつもりだったのだが、燃やし残しが居たのだな」

 コルベールはやはり、ダングルテールを焼いたことなど何とも思っていないのだろう。
 絵画の塗り残しを見つけたときに、それを塗りつぶすような気持ちで、アニエスを燃やすつもりなのだ。

 サイトは二人の会話に置いてけぼりにされつつ、油断無くデルフリンガーを構えている。

「なあ、デルフ、これって、俺、どうするべきだ? とりあえず間に入ったは良いものの、なんか二人の間には因縁があるっぽいし。それに正直、これだけの手練同士の決闘を仲裁するのって、かなり難易度高いんだけど」
【相棒なら出来るって】
「マジでか。後ろのアニエスさんの凍りつくような邪気も酷いけど、目の前のコルベール先生の圧力が半端ないんだが」

 一流同士の“気当たり”に、流石のガンダールヴも及び腰だ。
 そんな彼を安心させるように彼の愛刀が語りかける。

【大丈夫。系統魔法なら俺っちが吸い込めるから】
「……熔けないよな、デルフ」
【大丈夫だって、系統魔法の炎なら、オクタゴンだって吸い込んでやらあ。クトゥグァの炎とか、魔力由来じゃない炎だと、試したこと無いから分からんが】

 冷や汗を流しながら、サイトは前と後ろのどちらに注意をはらうべきか頭を回転させる。
 前門の炎蛇、後門の氷狼。
 魔法に対して圧倒的なアドバンテージを誇る魔刀デルフリンガーを手にしているから、幾許かサイトの心に余裕があるものの、手にしているのが只の武器であったならば、前後の二人を無傷で無力化することなど考えもしなかっただろう。

 20年前でさえ戦闘者として完成された天才的な実力を持っていたコルベールは、今現在まで腕を錆びつかせること無く研鑽を積み、超人的な技量に達している。
 トリステイン国内でも一二を争う強者のはずだ。
 彼の高すぎる技量と冷酷すぎる精神を危惧した上層部によって魔法学院というある種の監獄に封じられていなければ、何百のも門下生を育成していてもおかしくない程の才能の持ち主。

 対するアニエスは、あのベテラン傭兵“白炎”の弟子であり、トリステイン魔法衛士隊の新進気鋭の女性隊士。
 氷と風の魔法を得意とし、氷の鎧を纏っての高速機動戦を主な戦法とする彼女は、あの高名な雷光の風使い“閃光”ワルドの部下でもある。
 獣を思わせる駆動氷鎧のフォルムと、その餓狼のような旺盛な戦闘意志力から、彼女には“氷餓”の二つ名が与えられている。

 アニエスを庇うように立つサイトに向かって、コルベールが語りかける。

「サイトくん、何故ソレを庇う。ソレは王国の、いや人間の敵だ。人喰いだぞ」

 それをアニエスが否定する。

「何を言うか。私は人喰いではない。コルベール、貴様こそ私の故郷を焼き尽くした虐殺者ではないか。貴様の謀反を危惧した上層部に左遷させられたのを知っているぞ。まさか左遷先が魔法学院だとは知らなかったがな。……少年、私の仇討ちの邪魔立てしてくれるなよ」

 事実彼女は未だ、ウェンディゴに変異しては居ない。
 人肉を食っては居ない。

 サイトはそれでも退かない。

「いやいや、知り合い二人が殺し合うのを傍観するなんて出来ねーよ。何か他に方法があるんじゃないのか」

 そんなお人好しの言葉は、炎蛇と氷餓には通じない。

「異形を相手に語る言葉など無いな」
「私は二十年コイツだけを探してきたのだ! 他に方法など無い」
「あー、もう! 二人とも落ち着いてくれ!」

 三者三様の三竦み状態で、ジリジリと立ち位置を変えながら、しばらく時間が流れる。

「……」 「……」 「……」



 竜騎士のルネは、膨れ上がる殺気に手に汗握って固唾を飲んで見守っている。
 その隣に居る、千年生きる触手竜のヴィルカンは、退屈そうだ。

「……頑張れサイト。俺には見ていることしか出来ない。……俺はトリステイン人でもないしな」
【退屈だのう。――ちょっと発破かけてやるとするか】

 場の殺気が飽和し臨界に達しようとした瞬間、ヴィルカンが動く。

【そぉれっ!!】

 ヴィルカンが長い触手の一本を、おもいっきり振るうと、甲高い破裂音と共に、場面が動き出す。
 まるで徒競走の開始を告げる空砲のように響いたヴィルカンの合図で、炎蛇と氷餓とガンダールヴが、弾けるように動き出す。

「ッ!!」

 膠着状態に陥っていた三人が動き出す。
 コルベールはアニエスに、アニエスはコルベールに、サイトは両者を邪魔するように。
 先鞭をつけたのは、アニエスだ。

「はぁあっ!!」

 アニエスが駆動氷鎧によって強化された速度で、疾風のようにコルベールへと迫る。
 残像が出来るような超高速の突撃。
 氷爪が振りかぶられて、コルベールの身を断罪し断裁するために加速する。

 しかしコルベールもさる者。

「フン。ケモノらしい単調な攻撃だな」

 アニエスの攻撃は、コルベールが両手で持つ長い杖によって受け止められた。

 さらにコルベールは杖でアニエスの氷爪の攻撃を受け流し、その代わりに杖の石突きをアニエスの腹目がけて勢い良く振り上げる。

「くっ、受け流し……!? いや、こうでなくては! 二十年探し続けてきた甲斐がないというものだ!」
「ほざけ、氷の獣。暫く貴様の間合いに付き合ってやるから、実力の差を魂に刻んでから灰になれ!」

 アニエスが急角度で上昇する杖を氷鎧の脛当てで受け止める。流石の反応速度である。
 だがその動作はコルベールの予想範囲内だったのだろう。
 コルベールは動きを緩めずに連撃。
 並の鎧では、この時点で行動不能になっていただろう。しかしアニエスの氷鎧は、致死の連撃に耐えた。

「こんなモノか、コルベール!」
「まだだ。“カーノ(炎よ)”!」

 さらに連撃の最中に、コルベールは一小節のルーンを詠唱。
 彼の魔力を受けて、アニエスとコルベールの至近に幾つもの炎が出現する。
 それらの火炎のうちの一つが内部の高温ガスを噴出させながら加速し、まるで重量級の拳闘士の曲打の如くアニエスの胴に突き刺さる。

「う、ぐ! 炎の拳だと」
「魔法の使い方によっては、近接体術の手数を十倍にも増やすことが出来る。“ウル・カーノ”」
「ぬおっ!?」

 胴に突き刺さった火球の炸裂爆発によってアニエスが吹き飛ばされる。
 だが、その先には、またコルベールの炎の球が浮遊している。
 コルベール自身も、猛烈に踏み込み、連打を途切れさせない。
 息もつかせぬ必殺の連打が雨霰とアニエスを打ち据える。
 彼女を覆う氷鎧も、次々に激突する火球によって溶かされ、拳打によって罅が入っていく。

「くそっ……! 鎧が保たない……」
「存外に粘るな。だが、もう終わり、だっ」

 一際強くコルベールが踏み込む。
 震脚。
 踏みしめられた大地が凹む。
 大地を踏みつけた反作用は、脚から体幹、腕へと骨格を伝わって筋肉によって増幅調整されながら作用し、遂には掌からアニエスの胸当てに吸い込まれる。

「吹き飛べ、ケダモノ!」
「ごっ、ふ――」

 アニエスはまるで竜に吹き飛ばされたかのような勢いで、宙へと投げ出される。
 胸骨を砕いた手応えがコルベールの手に残った。
 必殺の掌打。
 だがこれで終わりではない。
 暗殺者でもあったコルベールは、標的を完殺するまでその手を休めない。

「とどめだ! 行け『炎蛇』よ!」

 指揮するようにコルベールの杖が振られ、同時に8匹の炎の蛇が宙を走る。
 8つの炎蛇はアニエスに喰らいつくように口を広げる。
 だがアニエスも、大ダメージを受けながらも、決してなすがままにはならない。

「――ま、だ……だぁ! 風よ!」

 アニエスは甚大なダメージを受け、胸骨を砕かれながらも、風の魔法を発動。
 地面に叩きつけられる前に、さらに宙へと舞い上がる。

「炎の蛇など串刺しの蒲焼にしてくれる! 氷爪、射出!」

 同時に氷鎧の篭手から氷爪を射出。
 合計10本の氷爪が、追いすがる炎蛇を迎撃する。
 だがコルベールは焦らない。

「その程度でどうにかなると思ったのか? “エオー(変化せよ)”!」

 8本の炎蛇のうちの2本が、コルベールの詠唱に応じてその顎を広げ、氷爪を受け止める。
 10本の氷爪は、2本の炎蛇によって相殺されてしまう。
 残った6本の炎蛇が、螺旋を描きながら空中のアニエスを追い詰める。

 絶体絶命と思われたその時、乱入者があった。

「だ、か、ら――二人とも、止めろって! 言ってんの!!」

 宙をのたうつ炎蛇が魔刀によって両断され、その刀身に吸い込まれるようにして消え去る。
 サイトが地面から数メイルも跳躍して『炎蛇』の魔法を断ち切ったのだ。

 そのままサイトは空中で器用にアニエスをキャッチし、小脇に抱えてしまう。

「がは、ちょっ、何をする! 少年」
「俺と一緒なら、先生からは攻撃されないでしょ! 炎は俺が全部斬りますから!」
「ええい、離せ、少年!」

 じたばたとサイトに抱えられたアニエスが暴れる。

「ああ、胸折れてるんだから、そんなに暴れると――」
「げふっ!?」
「ほら吐血した。じっとしてて下さいよ!」

 数秒の空中遊泳を経て、そして着地。
 直ぐにサイトは瀕死のアニエスを地面に下ろし、庇うように彼女に背を向ける。
 後ろでアニエスが咳き込みつつ何か吠えているが無視する。

 ――と、コルベールの方を見たサイトの視界いっぱいに炎の色が広がる。
 コルベールの炎だ。

「な、ぁ!」
【サイト、危ない!】

 その炎を横からエキドナが丸呑みにする。

【けふっ】
「サンキュ、エキドナ!」
【このくらい朝飯前よ。幾らでも平らげてあげるわ】

 口の端から炎の残滓を吐き出しつつ、エキドナが答える。
 サイトは感謝の言葉もそこそこに、コルベールを睨む。
 先程の炎は、サイトもろともにアニエスを焼き滅ぼすつもりだったに違いない。

「何すんですか! コルベール先生! 俺ごと焼こうとしたでしょう!?」
「君なら、翼蛇が庇わずとも、その魔剣で斬って無効化出来ただろう。以前の放課後の演習を見る限り、それだけの実力があると私は分析したのだが。……そして、君たちが炎を避けたなら、そのまま後ろのケモノを焼くだけの話だ」
「うわ、この先生とんでもねぇ! マトモだと思ってたのに!」

 ショックを受けるサイト。
 最早物理的な圧力を伴って吹きつける殺気の風と、常人離れしたコルベールの思考に気圧されて、サイトの戦闘意欲が失せていく。
 サイトはこの場から逃げ出したくなっていた。

 その心の隙をコルベールは見逃さない。
 コルベールは素早く必勝の呪文を詠唱する。
 次の瞬間、サイトとアニエスを取り囲むように、8匹の『炎蛇』が突如出現する。

「げ!」
「戦意を失ったな、サイトくん。丁度いい」
「まさか――」

 8匹の『炎蛇』はサイトとアニエスを中心に、竜巻のように螺旋に渦を巻く。

「――う、わ。やっぱり俺ごと焼き尽くすつもりだ、この先生!」
「いやいや。戦意が萎えたと言っても、その魔剣があれば炎の渦から生還可能だろう。それくらいの能力がその魔剣にあるというのは、日頃の鍛錬の様子から既に分析済みだ」

 確かにデルフリンガーの魔法吸収能力を以てすれば、サイトは生還することは可能だ。翼蛇エキドナも、さっきのように炎を喰らってくれるだろう。
 そう。
 サイトだけは、生還可能だ。

 穏やかにコルベールが微笑んでサイトに語りかける。

「何、多少火傷するかも知れんが心配要らない。私が治してあげるよ。火傷の治療は慣れているのでね」
「怖いよー、この先生怖いよー!」 「……っ!」

 ニッコリと心の篭ってない笑みを浮かべるコルベールに、サイトとアニエスが戦慄する。

 いよいよ『炎蛇』たちが融合し、火炎竜巻となってサイトたちを席巻する。
 最早ここまでかと、見物人に徹していた竜騎士ルネがゴクリと息を呑む。

 その時であった。

「喝ーーーー!!」

 大音声と共に、空から竜巻を押しつぶすほどの大きさの風の槌が降ってきた。
 その魔法の主は――。


◆◇◆




 蜘蛛の巣から逃れる為に 25.水鉄砲と侮るなかれ




◆◇◆


 炎蛇の火炎竜巻を圧し潰した魔法。
 それだけの魔法を使えるのは、トリステインでもごく限られた人間だ。
 そしてココが魔法学院であることを考えれば、答えは自明だ。

「学院長!!」

 長身の老メイジが、空から降りてくる。
 学院長であるオールド・オスマンだ。
 傍らには秘書のロングビルも付き従っている。

 火炎竜巻は風の槌に圧し潰されて、完全に掻き消されてしまった。
 オスマンの瞳は険しく歪められている。
 その巌のような瞳が、じろりとコルベールを睨む。

「のう、コルベール君。学院内での刃傷沙汰は御法度じゃと、厳しく言い含めておったよな? それが国の騎士に手を出し、あまつさえ生徒の使い魔にまで攻撃を仕掛けるとは何事か」
「は、申し訳ありません。しかし――」
「喝! しかしも案山子もあるか! しばらく窖(あなぐら)で反省せい!!」

 オスマンがコルベールを一喝する。
 瞬間、コルベールの足元に底も見えないほど深い垂直な狭い穴が口を開く。
 オスマンの錬金の魔法が、深い深い穴を地面に穿ったのだ。

 コルベールがその窖に吸い込まれる。
 だが急な地形変化にも、炎蛇は対応した。

「な、学院長!! ――『レビテーション』」

 しかし怒れるオスマンは手を緩めずに追撃。

「ええい、往生際が悪い! その窖の底でじっとしとれ!! 『エア・ハンマー』!!」
「ふぐぉ!?」

 浮遊の魔法で穴から飛び出ようとしたコルベールを、オスマンの風の槌が押さえこむ。
 ずん、とまるで巨人に踏み潰されるように、コルベールは窖に押し込められ、エア・ハンマーの勢いで、地表の穴の周りが陥没する。
 暫くして、べちゃっ、と穴の底からカエルが潰れたような音と声が聞こえた。

 オスマンは視線を柔らかいものに変え、アニエスとサイトの方を見る。
 好々爺然としているが、サイトはオスマンの実力を見て萎縮してしまっている。
 オスマンがサイトを手招きする。

「ほれ、そっちの彼女を治してやるから、連れてこんか」
「さ、サー、イエッサー!!」

 サイトは「逆らったらヤバい」と本能的に理解し、胸を砕かれて青息吐息のアニエスを、オスマンの前にまで慎重に運ぶ。
 ぜいぜいと息をするたびに、アニエスの顔が苦痛に歪む。
 オスマンは診療魔法でアニエスを診ると、顎髭を撫でる。

「ふむ、重傷じゃの」

 そう言ってオスマンはナチュラルにアニエスの鎧と上着に手を掛ける。
 実際の患部を直に見るつもりなのだ。
 骨が曲がってくっついたりしては大変だからである。

 かといって純然たる治療行為かといえば、そういう訳でもない。
 オスマンほどの実力者であれば、診察用の水魔法によって怪我の状態を把握し、念力の魔法で患部を調整することも可能なのだから。
 忘れてはいけないのは、このオスマン、300年を経て尚“現役”であるということだ。

「どれ、ではちょいと失礼して――」

 いよいよオスマンがアニエスの服に手を掛け――。

「オールド・オスマン、いちいち服は脱がせなくても良いでしょう?」

 秘書のロングビルが止めた。
 オスマンは不満そうだ。

「えー」
「いっぺん殺しますよ。さっさと治してあげてください」
「ちっ……」
「オールド・オスマン」
「はいはい」

 秘書のロングビルが、凍えるような声を出して押しとどめる。
 オスマンは不満そうにしていたが、諦めると治癒の魔法を使う。
 本格的にアニエスの顔色が悪くなり始めたからだ。

(……いっそのこと人血でも飲ませてウェンディゴに覚醒させて、一晩置いて身体を再構成させても良いかも知れんのー)

 という考えがオスマンの脳裏をよぎったが、それを見透かしたかのようなロングビルの視線に気づき、すぐにそれを打ち消す。
 治癒はオスマンにとって簡単だし、わざわざこんな美人を人外にするのも勿体無い話だと考え直した。
 この間およそ0.2秒。
 老いてもオスマンの頭脳の回転は健在である。

 時の彼方の腐敗と風化の魔神クァチル・ウタウスの加護を受けたオスマンにとって、たった300年など、瞬きほどの間だ。
 何の影響もないに等しいのだ。

 オスマンの杖が治癒の光を発する。

「『ヒーリング』」

 直ぐにアニエスは回復していく。

「う、うぅ……」
「アニエスさん、大丈夫ですか?」

 元から回復力というか生命力が強いのか、オスマンの魔法によって瞬く間に傷は塞がり、青かったアニエスの顔色が赤みを差す。



 その隣ではロングビルと触手竜ヴィルカンが旧交を温めている。
 ロングビルとヴィルカンは、共に、千年以上前からシャンリットに所属している古株である。
 当然ながら面識もある。

【おう、〈169号〉じゃあないか、『偏在』特化型インテリジェンスメイスの。こんなトコロで何しとるんじゃ】
「ヴィルカンじゃないですか。久しぶりですね。そう言えば同じく学院にいるのに、こうやって話す機会はありませんでしたね」

 ロングビルの中身は、シャンリット製のインテリジェンスアイテムなのだ。
 彼女の身体は、一種のガーゴイルであり、その中枢にインテリジェンスアイテムが収納されているのだ。
 ちなみに、彼女の外見はオスマンによって、オスマン好みに弄られてしまっている。

【まあ、お主が学院におるとは知らんかったしな。で、どうして学院なんぞに】
「私はアレです、カルマトロン探知魔法の使い手であるオールド・オスマンに師事して、そのまま彼のお付きになったというわけです。ま、実際は帰還命令が出てないので、なし崩し的に300年仕えているだけなのですが」
【お前さんの存在自体が、シャンリットから忘れられとるんじゃないのか?】

 ウードのお手製であるインテリジェンスアイテム達は、それぞれに成長して、ハルケギニア星の各地で都市規模のネットワークを管理している。
 〈169号〉は、そのウード謹製の初期ロットであり、本来ならばどこか一国に匹敵する地域を担当していても可笑しくはない。
 そうでないということは、オスマンにそれだけの価値があるか、さもなくば忘れられているかだろう。

「そうかも知れませんね。元々私は、ウード様が弟君のために作った『偏在』による飛行実験専用アイテムでしたし、その弟君が亡き今では、シャンリットとしては重要度が低いのでしょう」
【まあ、千年教師長も大概、大雑把じゃからな】

 ヴィルカンはチラリとオスマンの方を見る。

【……それにしても、業子力学(ごうしりきがく)の創始者じゃったのか、あの爺さん。シャンリットに所蔵されとる数々のアーティファクトのレプリカも手がけたという、凄腕の贋作職人の】
「そうです。すごく優秀な研究者であり職人でもあるんですけど、好色で……。本当に、性欲さえなければ、文句の付けようがないのですが。性欲さえなければ」

 ロングビルはため息ひとつ。

「そういうヴィルカンは、ベアトリスお嬢様の護衛でしたっけ」
【おう、そうじゃ。この後はラグドリアン湖まで、虚無の嬢ちゃんの付き添いをする予定じゃな。……おおう、噂をすれば――】

 ヴィルカンが女子寮の方を見れば、準備を終えたルイズたち一行がやってくるところだった。
 彼女らは血相を変えてサイトたちの方に向かっている。
 恐らくは先程の戦闘を見ていたのだろう。

「サイト! 大丈夫だった!?」


◆◇◆


 ……。

 その翌日のことである。
 太陽は未だ若干東にある位の刻限。
 青空の中を飛行する竜が二頭。

 青い鱗の幼風竜と、大きな触手竜。
 その内の大きくて触手を沢山生やしたグロテスクな方は、さらに自動浮遊式の竜籠を二つ牽いている。
 随分パワフルな竜だ。

 それぞれの名前はシルフィードとヴィルカン。

 つまり、ルイズたち一行は、漸くラグドリアン湖に向かっているのだ。

 人員は虚無組(ルイズ、サイト、シエスタ、デルフリンガー、エキドナ)、クルデンホルフ組(ベアトリス、ルネ、ヴィルカン、ササガネ)、オルレアン主従(タバサ、シルフィード)、そしてモンモランシー主従(モンモランシー、ロビン)だ。
 ……ツェルプストー主従と、ラグドリアン湖調査任務を見届けるべき魔法衛士のアニエスは同行していない。


 何故か。

 それは前日のあの『炎蛇の乱心』事件に起因する。


 まず、出発が翌日にズレ込んだのは、サイトが疲労困憊してしまったためで、彼の回復の時間を取るためだ。
 またサイトが巻き込まれた事件の主犯であるコルベールへの事情聴取に、サイトの主人であるルイズが同席すると申し出たためでもある。

 意外なことに、ルイズ自身は、サイトが攻撃を受けたことについては、それほど怒っていなかった。
 むしろサイトにゾッコンの翼蛇エキドナの方が憤っていたくらいである。

「あの程度、サイトなら問題なく捌けたはずよ」

 と、ルイズの従僕に対する信頼は厚いようであった。
 そして、彼女はまた、サイトの悪運についても、絶対の信頼と理解を持っている。

「どうせサイト生来の悪運で、事件に巻き込まれただけなのでしょうし。寧ろ不運だったのは、サイトの悪運に絡め取られて邂逅するはめになった、コルベール先生とアニエスの方ね」

 サイトの持つ主人公気質というか、トラブル招来体質について、彼女は格別の理解と――そして期待をしているようであった。

 そう、期待である。
 虚無の系統や、幻夢郷の魔女の実力を以てしても、如何ともしがたい事柄に対する、期待だ。

 ハルケギニアを数多の邪神の眷属の手から解放するためには、ここ数千年続いた既存の状況の惰性を打破するための、“何か”が必要だ、とルイズは考えている。
 そして、サイトにはその“何か”がある、とも。

 その“何か”とは、彼女が考えるに――即ち、運命。

 “五つの力を司るペンタゴン、我が呼びかけに応え、我が運命に従いし使い魔を、召喚せよ。”

 果たして、運命に引き寄せられたのは、サイトの方だったのか、それとも、あるいはルイズの方だったのか。
 ハルケギニアに招来されたことも、縷縷綿綿と続くサイトの不運で奇運な一生のうちの、ほんの一頁に過ぎないのかも知れない。


 ハルケギニアを動かす運命の一石は、ルイズではなく、サイトなのかも知れない。

 そんな事を、ルイズは時に考える。
 運命の糸が絡みあった特異点に突き刺さる要石――それが、ヒラガサイトという存在なのではないか、と。


 閑話休題。
 つらつらと益体もない事を考えつつ、昨夕、ロングビルの先導で、即席の土牢に案内されたルイズは、コルベールの尋問に臨席した。
 何故かキュルケも一緒に。

 どうやら聞けば、炎蛇の戦いっぷりに、彼女の微熱が燃え上がってしまったらしい。


 事情聴取の結果、ルイズは、コルベールが重篤悪化した狂気を抱えて心を凍らせてしまっていることを見抜いた。
 そして、その旨をキュルケに伝えた。
 次の言葉と共に。

「キュルケ、貴女の微熱で、先生の心を溶かしてあげて」

 と。
 そこまで言われて燃え上がらないツェルプストーは居ない。
 俄然やる気になって、一晩でルイズから即席の精神分析治療術の心得を習い、キュルケは学院に残ることにしたのだった。

 意外なことに、キュルケが残ることには、コルベールも賛意を示した。
 それは彼女に惚れたのどうのではなく、教師としての立場と、ウェンディゴを抑えるための炎使いを確保するためという色気も何も無い理由からであった。
 コルベール曰く――、

「もう一週間もしないうちに学院も始まる。特段の用の無いミス・ツェルプストーは学院に残るべきだろう。それに、あの氷の餓えた獣の相手をするのに、ミス・ツェルプストー程の炎の使い手が居れば心強い。あのケモノは置いていきなさい、君たち生徒を徒に(いたずらに)危険に晒したくはない」

 ということだった。

 実際、オスマンの魔法で治療されたとは言え、“氷餓”のアニエスは未だ、ラグドリアン湖へ出発する時点でも意識を失ったままであり、学院に残していく他なかった。
 ついでに言えば、極上の毒体質であるキュルケをラグドリアン湖に連れていくのはリスクが高い。
 キュルケが毒嫌悪性質の水精霊に襲われるリスク、および、水源をキュルケの毒が汚染してしまうリスクの両方があるからだ。

 であるので、最初からルイズは、キュルケを置いていくつもりであった。

 ゲルマニアがトリステインに併呑された以上、キュルケもまたトリステインの一貴族子女であり、特段の合理的な理由がない限りは、コルベールが言うように学院で待機するのも妥当なように思われることであるし、何よりキュルケの希望もあって、彼女は学院に残ることになった。



 という訳で。

 意識不明のアニエスと、“コルベールを正気に戻し隊”のキュルケは学院でお留守番である。


 代わりに水精霊に縁があるモンモランシ家のモンモランシーが、臨時にパーティに加入した。
 彼女の使い魔の鮮やかな体色のカエルであるロビンも一緒だ。




 一晩休んで、ルイズたち一行は、早朝に学院を発った。
 これなら、昼までには、ラグドリアン湖に到着できる計算である。


 触手竜に曳かれる竜籠の中、ルイズは口に手を当てて欠伸をする。

「ふぁあ~、眠ーい」

 昨晩ルイズは一晩中ずっと、キュルケに精神分析治療術の講義を行っていたのだ。
 コルベール教師を正気に戻すのは、キュルケの献身にかかっている。
 ……キュルケに面倒事を押し付けたとも言う。
 いざという時に備えると、トリステイン有数の炎の使い手であるコルベールが狂気に陥っているのは、望ましくはない。

 四人乗りの竜籠の中には、ルイズの他に、モンモランシー、ベアトリス、シエスタが乗っている。
 モンモランシーが欠伸をするルイズを見咎める。

「ちょっと、ルイズ、その調子で大丈夫なの? もうすぐ着いちゃうわよ」

 ルイズの向かいで、モンモランシーは「お前本気でラグドリアンの大増水を解決する気あるのか?」と胡散臭げに半目でじっとり睨んでいる。
 まあ寝不足ではそう思われても仕方ないだろう。
 モンモランシーの手には、昨日のうちに届いたラグドリアン湖の現状について報告書が握られている。

 ルイズの隣りに座るベアトリスが、眼をキラキラさせながら、自分の膝を叩いて示す。

「おねえさま、眠いのでしたら眠ってくださいまし。ほら、ここへ! こちらです! わたくしの膝の上が空いておりますゆえ!」

 ベアトリスは嬉しそうな顔をしてルイズの隣で自分の膝をポンポンと叩いている。
 背景に華を背負っている。
 むしろ後光が差しそうな勢いだ。実に百合百合しい。

 そんなベアトリスの提案をフォローするように、シエスタが毛布を取り出す。

「ブランケットは用意できていますよー。さ、さ、ルイズ様、ベアトリス様の膝枕で暫くお休み下さいまし」

 ルイズ専属メイドのシエスタは、メイド服に縫いつけられている四次元ポケットから毛布を取り出しつつ、さり気無くベアトリスの方へとルイズを誘導する。
 ベアトリスとシエスタの視線がぶつかる。
 一瞬のアイコンタクト。

(グッジョブですわ、シエスタ)
(いえいえ。美少女二人の絡みというのもまた乙なものです)

 そんな義妹と侍女の思惑は感知せず、ルイズは暢気に答える。

「ん~、そうね。一時間くらいあれば、『夢のクリスタライザー』の効果で、幻夢郷では数時間に相当する充分な休息は取れるはずだし。じゃあ、ベアトリス、膝、借りるわ」

 いつの間にか取り出して、両腕で抱えるようにしていた巨大な卵円形の黄色いクリスタル――秘宝『夢のクリスタライザー』を撫でながら、ルイズは横に座るベアトリスの膝に、ぽふっと倒れる。
 悪夢のようなラグドリアン湖に向かう前に、ルイズは暫し、彼女の夢の王国で鋭気を養う。

「あらあら、あの極零(ゼロ)の魔女も、寝顔は可愛いものね」

 直ぐに寝入ったルイズを見ながら、モンモランシーが微笑む。
 ベアトリスは感極まって昇天したような顔をしている。
 シエスタは侍女らしく、空気のようにその光景を見守っている。


◆◇◆


 一方、ルイズたちの乗る竜籠の後ろに連結されている、もう一つの竜籠の中では、使い魔たちがじっと座っていた。
 乗っているのは、サイトと大蜘蛛ササガネだ。

「……(蜘蛛はトラウマなんだがなあ)」
【ギ、キシキシ】

 サイト(withデルフ&エキドナ)と、ベアトリスの使い魔の大蜘蛛ササガネが、奇妙な緊張感をもってまんじりともせずに対峙していた。

 出し抜けにエキドナがササガネに話しかける。

【ねえ、ササガネの蜘蛛。他に見ている人も居ないんだから、正体を現したらどう?】
「正体?」

 サイトがエキドナに聞き返すが、それに翼蛇が答えるよりも、ササガネが変化する方が早かった。

【ギ? ギ!】

 一体何のことだろう、とサイトが首を傾げるその間に、目の前の大蜘蛛の姿が変容していく。
 頭胸部が裂けるように内側から盛り上がり、蛹から蝶が羽化するように、美しい黒髪の女の上半身がずるりと現れる。

 その女性(の上半身)は、大きく深呼吸して口を開く。

「ぷは~。いあー、流石に苦しかったばい」
「ちょ? え? 人間?」
【違うわよ、サイト。アラクネー、半人半蜘蛛の魔物よ。蜘蛛女ね】

 ぷるぷると水から上がった仔犬のように、人間の上半身を震わせるササガネ。
 蜘蛛形態をとっていたのが、よほど窮屈だったのだろう。
 ササガネが上半身を揺するたびに、彼女のたわわな胸が揺れる。当然ながらササガネは裸だ。サイトの視線が鞠のように弾む巨乳に合わせて上下に揺れる。
 それに嫉妬した蛇が、サイトの首を締めつつササガネを睨んで命令する。

【久しぶりね、ササガネ。こうやって話をするのは、王都の地下水道以来かしら。――あとその胸はサイトの目の毒だからさっさと仕舞いなさい】
「ほいほい、蛇のルイズさん。――“髪よ衣となれ”」

 ササガネは先住の魔法を使い、長い黒髪を織り上げる。あっという間に彼女の上半身は、艶やかな濡烏色のストラップドレスに包まれる。
 だが巨乳の谷間が強調され、かえって扇情的だ。
 エキドナは未だ不満そうだが、これ以上は言っても無意味だと知っているので、一旦はそれで満足し、サイトの拘束を解く。

【ふン、まあそれで良いわ。あと、今の私にはちゃんと、エキドナという名前があるわ。そっちで呼びなさい】
「分かったばい、エキドナさん」
「が、はっ、げふっ!? ……はー、苦しかった。というか、何、お前ら知り合いなの?」

 ようやく嫉妬の蛇の戒めから解放されたサイトは、一息つきつつ彼女らの関係を問いただす。

【まあ、ちょっとした縁があってね】
「あはは。いやー、あん時のエキドナさんは恐ろしかったばい」

 ははは、と人外同士が談笑を開始する。


 サイトはそのガールズトークに入れない。

「なんかさっきより肩身が狭くなった気がする」

 まあ女子の会話に混ざれない男子は肩身が狭かろう。
 慰めるようにデルフリンガーが言葉を発する。

【とか愚痴こぼしてるうちにそろそろ着くんじゃねえのか、相棒】
「お、そうみたいだな。ところでデルフ、ラグドリアン湖ってどんな所だー?」
【でっかい湖さ。水精霊ってのが居る。詳しくは、ルイズ嬢ちゃんとの“カー(精妙体、霊体)”のパスを通じて記憶を辿れば良いんじゃないか?】
「おお、その手があったか!」

 サイトの左眼とルイズの左眼は、魔術的な手順によって、そこに宿るカー(霊体)とともに交換されており、その繋がりを介して、彼ら主従は記憶の交換やお互いの位置の把握などが出来るのだ。
 翼蛇エキドナは、元々は、サイトに移植されたルイズの左眼の霊体から発生したものである。
 ルイズの膨大なエネルギーを秘めた霊体は、たとえ左眼一個分であっても、常人一人分以上のエネルギーを内包しており、やがては自由意志を得て自律するようになったのだ。
 その結果の、タルブ村での反逆事件である。

 ちなみに、施術者であるルイズの側からは、サイトの身体の制御権の奪取すら可能である。
 サイトに植えつけられたルイズの左眼相当分の魂は独立したが、依然としてルイズが、サイトの左眼に相当する霊体を掌握していることに変わりはない。
 故にルイズはサイトの身体制御権を強奪し、掌握できるのだ。
 まあ実際は一人で二人分の身体を動かすのが億劫なので、そんな事はしないと思うが。

 ルイズの身体制御権をサイトが奪うことは出来ないが、ルイズの提供する共通記憶(パブリックフォルダみたいなものだと思って頂ければいいだろう)を見ることは可能だ。

 ルイズの断片であるエキドナは、サイトの夢の世界で骨肉相食む交合を繰り返して最早サイトの魂に深く根を張り不可分なほどに融合してしまっていた。
 そのため、エキドナがサイトの霊体から分離したあとでも、その根っこの跡は、未だ充分にサイトの魂に残っている。
 その残された部分を通じて、ルイズやエキドナの持つ情報(プライベートな部分以外)を読み込むことは、サイトの側からも可能なのだ。

 サイトは自分の内面に意識を集中する。

「うむー、むむむむむ」

 サイトはコメカミを揉みほぐしながら電波を飛ばしエーテルの波を渡り、ルイズとエキドナの持つラグドリアン湖についての記憶を探る。
 直ぐに該当する部分が、サイトの脳髄に読み込まれる。

「――『ラグドリアン湖、トリステインとガリアの水源。水精霊の加護によって無限の水量を誇るその湖は、用水の水源としてだけではなく、風光明媚な観光地としても知られている。湖底には水精霊たち(たち、という表現は適切ではないかも知れない。彼女たちは全にして個であるためだ)の築いた都があると言われている』――」

 意識を集中させて、サイトは記憶を検索する。
 ルイズがサイトのために開放している共有記憶区画は、まるで図書館のような整然としたイメージだ。
 彼女は自分の従僕のために、生真面目にも自らの持つ知識を整理して開陳しているのだ。
 そんな記憶の図書館の中から好みの本を探すようなイメージで、サイトはラグドリアン湖についての情報を得ていく。

 湖の広さ、深さ、地形、植生、生態系、国境線……。
 中でも、地の利を得るのに必要な情報は重点的に。

 そして――邪神の眷属に関する情報は尚更重点的に。

「湖、か……。該当しそうなカミサマは、三つ目の有棘蛞蝓型の湖底の神グラーキと、あとは安直だけど水邪の祭司クルゥルゥ(クトゥルフ)の眷属か? どっちも出て来ないのを祈りたいんだけど……」

 これまでの経験上から言って、大体の事態はサイトの最悪の予想の斜め上を行くのであった。
 今までに経験した苦難の数々を思ってサイトは遠い目をする。思えばタルブの『夢のクリスタライザー』を巡る一件でも、運が悪ければ死んでいた。



 と、次の瞬間。


 ドン、と突き上げるような衝撃と共に、竜籠が揺れた。

「うお!?」
【あら、何かしら?】

 サイトとエキドナが周囲を見回している間に、いつの間にか竜籠のドアが開いている。


 そしてササガネが居ない。
 相変わらず竜籠は揺れている。
 揺れる窓の向こうに、純白のパラシュートにぶら下がってゆらりと優雅に降りていく黒い大蜘蛛の姿を認めて、エキドナが叫ぶ。

【あ、あの蜘蛛女! 逃げたわね!!】

 より本能に忠実な魔物であるササガネは、最初に大きく竜籠が揺れた直後に、大蜘蛛形態に戻り、竜籠の扉から自前の蜘蛛糸で即席のパラシュートを編み、スカイダイビングを敢行したようだった。ササガネは律儀に前肢を揺らして「サヨナラ」の動作をしているのが、かえって滑稽だった。
 前の竜籠に乗っている主人ベアトリスを置いての素早い逃げ足だ。
 しかし主人を置いていっても大丈夫なのだろうか、使い魔的に。


 それにしても、ササガネは何故急に飛び降りたのだろうか。

 相変わらず竜籠は揺れている。
 揺れる、揺れる、揺れる――いや、墜ちている。
 サイトが慌てた声を出す。

「な、何が起こっているんだ!?」
【さあ、分からないわ。でも、確かなことは、私たちは何者かに攻撃を受けている、ということよ。あの蜘蛛女が逃げ出したのは、そのせいね】

 エキドナが冷静に分析する。
 竜籠は、風石による高度維持機構を撃ちぬかれ、前の竜籠とつなぐ索条が引きちぎられたのか、重力に従って落下しているようだった。
 ササガネはいち早く外部から狙われていることを察知して、外に飛び出したようだ。

 エキドナが舌打ち一つ。

【墜ちるわね。このままじゃいけないわ――“風よ”!!】

 触手竜の触手を喰らって身につけた精霊魔法の力を用いて、エキドナは、竜籠に残っていた風石燃料に干渉し、風の精霊力を発現させる。
 すぐに旋風のような力場が発現し、竜籠の落下速度が緩やかなものになる。

 しかし、サイトはここであることに思い当たる。

「なあ」
【なぁにー、サイト】
「狙われてるんだよな? じゃあ、ゆっくり降りると――」

 サイトが言い終わらないうちに、彼の危惧は現実化する。
 即ち――

 すぱっ

 と、竜籠が、サイトの目の前で両断され輪切りになったのだ。

 観覧車の座席のような室内は、前後の座席の間で真っ二つにされてしまった。
 行儀悪く向かいの座席に足を乗せて座っていたら、脚も一緒に輪切りにされていただろう。
 おそらくは、竜籠の高度維持機構を破壊したのと同じ攻撃なのだろう。

「――狙い撃ちにされるよな~、やっぱりな~……」

 二つに分けられた竜籠が落下していく。
 竜籠から投げ出されたサイトの回る視界には、ルイズたちが乗っている竜籠を付けたまま無茶な機動をしている触手竜ヴィルカンの姿が見える。
 そして時折、細いピアノ線かレーザーを思わせる銀線が、キラキラと下から上へと走っている。

 あの銀条が、サイトの乗っていた竜籠の高度維持装置を撃ち抜いて、そして先ほど遂に両断したのだろう。

 錐揉みになって落ちるサイトの視界の中、蒼空と、ラグドリアン湖の碧水が交互に巡り回る。

 既にここはラグドリアンの湖上だ。
 増水することで格段に面積を増した湖の上に、既にサイトたちは到達していたのだ。

 そしてどうやら、彼らを撃ち落とした攻撃は、奇妙な虹のような色合いに揺らめき光る湖面から放たれているようであった。


◆◇◆


 サイトたちが落ちて行くのと同時刻。
 ヴィルカンの首の後に設え(しつらえ)られた鞍の上で、竜騎士ルネは必死に慣性制御魔法を操っていた。

「くそ! 狙撃なんて、一体なんで――」
【愚痴ってないで制御に集中せんか、ルネ坊!】

 未知の襲撃者に悪態をつきつつ、ルネは常のように乗機のヴィルカンに慣性制御術式を掛け――ずに、後ろの竜籠に向けて、その術式を放っていた。
 轟々とヴィルカンは背から幾つも生える触手からブレスをふかして飛行機道をジグザグに変えて、湖面からの高圧水流(・・・・)による攻撃を避けていた。
 時に直角や、あるいは鋭角すら描いて複雑な軌道を取る触手竜は、その後ろに、竜籠を一つ連れている。
 数を一つ減らしたその竜籠の中には、ルイズたちが乗っている。

【集中せんと、慣性でお前の主人のベアトリス嬢ちゃんがぶっ潰れるぞ!】
「分かってますって! ちぃっ! し、つ、こ、い、敵だ!」

 急旋回、鋭角機動、急減速、急加速を繰り返すヴィルカンを追って、湖面から銀条が走る。
 ルネは必死に、その急速な重力加速度の変化に晒されるであろう、後ろの竜籠を保護するために『レビテーション』から慣性制御要素を抽出した魔法を使い続ける。
 魔法の対象は、当然ながら後ろの竜籠――彼の仕える主人である大公息女ベアトリスが乗っているもの――である。

 故に、彼自身には、その慣性制御の魔法が掛かっていない(・・・・・・・)。
 乗騎ヴィルカンの高速起動によって、ルネの内臓が悲鳴を上げる。
 だが、幾ら内臓が軋もうが、脳が揺れようがそして偏平しようが、彼は魔法の制御を手放したりはしない。

 空中触手騎士(ルフト・フゥラー・リッター)は、そんなヤワな鍛え方をしていない。

「ああああアアアアアッ!! 何だってんだ! 水精霊め(・・・・)!!」

 ルネは、ラグドリアンの湖面を睨みつける。
 そこは不自然に盛り上がっており、虹色に煌めいている。
 そしてその湖面の盛り上がりの周囲から、ヴィルカンたちを狙う銀条が放たれているのだ。


 狙撃の主は、ラグドリアンに住まう水精霊なのだった。


【かはは、余程シャンリットの蜘蛛の眷属が気に入らないと見える】
「暢気に笑ってる場合じゃないですよ! 千年前からの因縁をずっと覚えているなんて、性質が悪い!」
【ショゴスに間違われたのが余程気に入らなかったらしいな】
「水精霊らしく、そんな昔のことは水に流せばいいものを!」

 急制動によって、ルネの脳内の血流が轟々と渦を巻く。
 血潮の色で赤くなる意識を、彼は気合で引き止める。強靭な触手竜は、そんな騎手の都合などお構いなしに自由に動く。
 湖面からの水の刃(ウォーター・カッター)が迫り、竜籠を寸断する寸前で、ヴィルカンは軌道を変える。


 湖面全体をスピーカーにしたような、地鳴りのような恐ろしい低音が、空気を震わせる。
 水精霊の怨嗟の雄叫びだ。

「――逃ぃいいい、げぇええええ、るぅううううう、なぁああああああ。蜘ぅうううう、蛛ぉおおおおお、めぇええええええ――」

 なにか甘い花のような匂いを伴った高圧水流が、幾度も幾度もヴィルカンと竜籠の傍を通り過ぎる。
 数分も回避機動をとり続けたころだろうか。
 遂にルネが音を上げる。

「ヴィルカン様……、もう、そろそろ、げんか……い……っ」
【鍛錬が足りんなー。まあ、仕方ない。一旦退却するか】
「ぜひ、そう……して、くださ……い……」
【向こうも引かんようだし、スタミナでは未だ向こうに分があったか。帰ったら特訓な】
「猛特訓でも……何でも……いいですから、早くこの空域をっ、離脱しましょうよ……っ」

 ヴィルカンは触手の先から豪炎を吹き、慣性を無視するように向きを変え、増水して五割ほど面積を増しているラグドリアン湖の付近から離脱する。
 一条の矢のようにして、ヴィルカンが曳く竜籠は、湖上から遠ざかる。
 そして、安全域でようやくルネが一息つく。

「うへぇ、お嬢様たちも、助けてくれればよかったのに……」
【空中ではマジックカードの支援効果が9割くらいは減衰するからのう。アレは本体である惑星表面のCNT(カーボンナノチューブ)ネットワーク型マジックアイテムの助力がないといかん。そしてCNTネットワーク〈黒糸・ウード零号〉は空中まではカバーしとらん。虚無の嬢ちゃんはともかく、ベアトリス嬢ちゃんはほとんど無力になってたはずじゃ。自分自身の系統魔法の鍛錬は殆ど積んでおらんからの、ベアトリス嬢ちゃんは】
「分かってます、分かってますよう。マジックカードを、あの化物級に天才的なルイズ様と同等のレベルで操作するためには、お嬢様は自分の系統魔法の鍛錬なんかしている時間は無かったことくらい承知しています」

 ヴィルカンが向かうのは、ラグドリアン湖のガリア側だ。
 シルフィードとタバサは、水精霊からの攻撃が始まった当初に、ヴィルカンの機転で、オルレアン公邸に逃がしている。 
 オルレアン公邸は浸水被害を免れているので、事前にルイズたちはそこをベースにすることにしていたのだ。

 もちろんガリアとトリステインの合同対策本部は、また別の場所にある。
 トリステインの水精霊交渉役モンモランシ家と、ガリア側ラグドリアン湖畔を治める公爵オルレアン家を中心とした対策本部は、国境線付近にあるらしい。
 お互いが事態解決の主導権を握りたがって、結局国境線に本部を置くことで妥協したのだ。
 
 先にオルレアン公邸に着いていたタバサ――ジョゼット・ドルレアン女公爵から事情を聞いていたのだろう。
 オルレアン公邸から、触手竜を迎えるために、数騎の竜騎士が飛び上がってくる。


◆◇◆


 ルネたちがオルレアン公邸に着陸した頃。

 サイトは空中に投げ出された後、エキドナの翼と精霊魔法の補助によって滑空し、ラグドリアンの水辺から少し離れた場所に落着していた。
 水精霊は、滑空するサイトたちを狙わなかった。
 やはり水精霊の標的はシャンリット直系のベアトリスだったのだろうか。

 サイトは湖の方を睨みながら悪態をつく。

「あー、死ぬかと思った。サンキュ、エキドナ。お前が居なきゃ、そのままあの得体のしれない水面に墜ちてたわ」
【どういたしまして。サイトの為だもの、このくらい何でもないわ!】
「しかし、ここはどの辺りだ? 事前の打ち合わせでは、集合場所はオルレアン公邸ってことだったが――」

 サイトは周囲の樹々を見上げる。
 どちらを向いても同じような景色だ。
 先ほどルイズの持つ情報を霊体の繋がりを介して引き出したとは言え、ここが何処かなんて分からない。

 デルフリンガーが口を挟む。

【待ってりゃルイズ嬢ちゃんが回収しに来てくれるだろう。適当に周りの安全を確認したら、待機してればいいんじゃないか?】

 デルフリンガーの提案に、サイトは同意する。

「それもそうだな。俺の居場所は、移植された左眼の繋がりを介して直ぐに悟られるだろうから、待ってりゃいいわな」
【それよりササガネの蜘蛛女よ! 一人で勝手に逃げ出しちゃって、どうしてくれようかしら!】
「その始末は主人のベアトリスがつけるだろ」

 憤るエキドナを宥めて、サイトはデルフリンガーを抜き放つと、いつでも敵に対処できるようにして、藪を漕いで進む。
 少しでも開けた場所の方が、ルイズも見つけやすくて良いだろうと思ってのことだ。

「エキドナは、樹上から警戒を頼む」
【分かったわ】

 エキドナは名残惜しそうにサイトの身体から離れると、木立をするすると登り、枝を渡りながら高いところから周囲を警戒する。

「ん? あっち、なんか急に森が開けてるな。大木が腐って倒れでもしたのか?」

 見れば、サイトが進む先に不自然に明るい空間がある。
 樹々がそこだけ無くなった、森のエアポケット。
 通常は倒木によって作られるようなそれが、行く先に見える。

 風が吹き、その空隙から空気が流れる。
 すると不意に異臭が鼻を突く。
 甘ったるいクチナシの匂いを何倍も強烈にして、腐らせたような、そんなイメージの臭い。

「なんだありゃあ……」

 そして緑色。
 森の空隙は、緑色だった。
 森の植物の色かとも思ったが、それとは違う、緑色。

 ぶちまけられた吐瀉物に青カビが湧いたような、青粉に染まった湖水を手当たり次第にべっとりと塗りたくったような、そんな吐き気のする緑色が、その空間を染めている。

「うげ、なんだこれ……」

 デルフリンガーを握ってない方の手で鼻を覆いながら、サイトはその腐った緑の空間を見通す。
 決してその中心に近づいたりはしない。
 サイトの鋭い嗅覚は、それ以上近づくことを決して許容できない。

 あれは、毒だ。
 あの毒々しいまでの爛れた緑色は、毒だ。
 樹々を枯らし、それどころか溶かしつくしてしまっている、この世の道理ではあり得べからざる毒だ。

 神の、毒だ。


 今は未だ彼らは知らないが、この場所は、ある夜にラグドリアン湖から上陸した不審人物たちが、手に持った銛を地面に突き刺して、水精霊の追跡を振り切った場所でもある。

 そして、神の毒を振りまいた侵入者の行く先は、彼らのうち、誰も知らない。
 侵入者が何処から来たのか、誰も知らない。
 そう。今は、未だ。


◆◇◆


 白の国の首都、ロンディニウムにて。
 スチュアート朝の会議が進行している。

「擬神機関(アザトース・エンジン)の進捗は?」
「8割方は完成しております、シャルル様」
「宜しい。トリステイン、ガリア方面への撹乱はどうなっている? 貴族子弟の学舎への襲撃計画だ」

 アルビオンの謀略の手は、ハルケギニア各地に伸びつつあるらしい。

「現在進行中であります。特に懸念されていましたトリステイン魔法学院の襲撃には、なんとあの歴戦の傭兵“白炎”が応じてくれました」
「ほう、それは頼もしい。……だが、相応の出費になるのではないか?」
「いえ、それが、格安で引き受けてもらえました。彼曰く――“俺はオールド・オスマンと戦えるなら何でも良い。……ああ、300年生きたオールド・オスマン、奴を焼いたらどれほど極上の匂いがするだろうか。300年分の業を焼き清める機会など、俺が現役のうちには、おそらくこれを逃せば無いはずだ”ということでした」

 それを聞いて、実質的な盟主シャルルは満足そうだ。

「ふん、そうか。それなら、まあいい。ついでにオスマン老と相討ちにでもなってくれれば良いのだがな。私の妻は、あの“白炎”を毛嫌いしていたからな。あの忌まわしい炎神の使徒と、時の魔神の使徒が潰し合ってくれるのを祈ろう」
「そうでございますな」

 その時、議会場の扉が勢い良く開いた。
 皆が一斉にそちらを見る。
 そこには、墓所の冷気を背負った司祭が立っていた。

「遅刻だぞ、クロムウェル」
「も、申し訳、ありません! つい、つい、つつつ、い、ついついつい、ご、拷問に夢中になっておりますれば――」
「ああ、分かった、もういい。それで、拷問の成果は出たのか? お前の神による呪いは敵国に降り注いだのか?」
「いえ、それが、難航しておりまするるる。敵もさる者。トリステインはアンリエッタの魅了が国民の精神を私の呪いより強固に惹きつけておりまして、ガリアは星慧王の魔術防御が堅く、クルデンホルフに至っては魔術を感知されて刺客という名の取立て屋が宮殿の門戸を叩いて私の集中を妨害しあまつさえイゴーロナク様の御手を借金のカタに持って行こうとする始末で――」
「そうか。しかし続ければ効果が出るのだろう? 続けろ」
「はいはい、了解承知の助でございます。つきましては追加の材料を――」
「地下牢から適当に連れていけ」
「おお! ありがとうございます! では皆さんに我が神イゴーロナク様の加護が有らんことを!!」

 慌ただしくクロムウェルが議会場を出て行く。
 そんな恒例行事が終わって、皆はため息一つ。

「はあ。では、会議を続けよう」


=================================


漸くラグドリアン湖に着いた! 長かった!
次回は探索パートです。

以下おまけで、ルイズとサイトのキャラシート(想定)を公開です
各ステータスの略称は以下を意味します。()内は個人的な補足です。

STR=Strength、筋力(攻撃力)
CON=Constitution、体力(健康度合い、あるいは若々しさ)
SIZ=Size、体格(身長体重)
INT=Intelligence、知性(賢さ、勘の良さ)
POW=Power、精神力(魔術的な才能)
DEX=Dexterity、敏捷性(素早さ、器用さ)
APP=Appearance、外見(容姿、美人度)
EDU=Education、教育(どれくらいの年月教育を受けたか、教養)
SAN=Sanity、正気度(精神的タフネス)※初期値はPOW×5で、技能〈クトゥルフ神話知識〉によって上限値にマイナス補正を受ける
耐久力=いわゆるHP、CONとSIZの平均(端数切り上げ)

一般的な人間の値は以下の感じ。

◆滅多に存在しない典型的な凡人
 STR 11  CON 11  SIZ 11  INT 11  POW 11
 DEX 11  APP 11  EDU 14  SAN 55  耐久力 11
 ■技能
  職業や趣味ごとに特徴的な技能を持つ。ここでは割愛。
 ■キャラシート解説
  中肉中背で十人並みの容姿で、中流家庭出身の中産階級で平均的な学力を持つ。

◆ルイズ
 STR 8  CON 13  SIZ 10  INT 21  POW 25
 DEX 12  APP 17  EDU 25  SAN 50  耐久力 12
 ■技能(代表的な物のみ)
 〈系統魔法:虚無〉 97%
 〈マジックカード〉 99%(コンピュータの技能に相当。〈系統魔法:土、水、火、風〉の判定を代替することも出来る)
 〈夢見〉 99%(ドリームランドでの物品の想像(創造)に必要な技能)
 〈夢の知識〉 99%
 〈精神分析〉 90%
 〈医学〉 50%
 〈クトゥルフ神話知識〉 49%
 〈乗馬〉 80% etc……
 ■使用可能な呪文
  全ての虚無系統呪文、殆どの幻夢郷の呪文、その他POWの一倍ロールに成功すれば任意の呪文を知っていることにしても良い
 ■持ち物
  シャンリットのマジックカード、夢のクリスタライザー、グラーキの黙示録11巻、輝くトラペゾヘドロン・レプリカ、ネクロノミコン(ハルケギニア語版)、ガンダールヴ・サイトなど
 ■キャラシート解説
  ケザイア・メーソン級の大魔術師。幻夢郷関連の技能がカンストしている。成長したPOWは下級の旧支配者クラスに迫りつつある。ルイズさんマジ人外。でも流石に幻夢郷の神官ナシュト&カマン=ターには及ばない(この二人はPOWが約90の超神官である。最も強力だと思われる神アザトースのPOWが100だと言えばその凄まじさが理解できるだろうか)。APPは絶世の美少女であることを反映して高くしてある。EDUは大学教授クラス、実際はもっと高いかも知れない。おそらくハルケギニア人類でも指折りの魔術師である。ハルケギニア人類で彼女に勝てるのはジョゼフくらいか。ウード? あれは人間辞めてるから除外で。

◆サイト
 STR 17  CON 16  SIZ 14  INT 10  POW 16
 DEX 19  APP 11  EDU 20  SAN 35  耐久力 15
 ■技能(代表的な物のみ)
 〈クトゥルフ神話知識〉 64%
 〈目星〉 95%
 〈聞き耳〉 98%
 〈オカルト〉 93%
 〈生物学〉 76%
 〈図書館〉 87%
 〈精神分析〉 67%
 〈製作〉 53%
 〈応急手当〉 87%
 〈心理学〉 61%
 〈鍵開け〉 40%
 〈隠れる〉 90%
 〈忍び足〉 85% etc……
 ■使用可能な呪文
  槍に魔力を付与する(ENCHANT LANCE)←魔力を付与した槍は通常の武器でダメージが与えられない相手にダメージを与えられる
 ■持ち物
  ガンダールヴのルーン(手に持った武器の技能を99%にする。さらにSTRとDEX、POWにもボーナス)、魔刀デルフリンガー、翼蛇エキドナ(使役可能な使い魔的扱い)など
 ■キャラシート解説
  いわゆる典型的なプロ探索者。君は将来スパイか何かにでもなるつもりなのか。忍者か、平成の世に蘇った忍者だとでもいうのか。あと技能値には反映されていないけれど、主人公補正によりダイス運が凄く良いので(七星ALIVE。いや六面ダイス使わないけど)、正気度の減少が少なく、かつ各技能の成長が著しい。特に〈目星〉や〈聞き耳〉、〈隠れる〉などの探索者的技能がほぼカンストするまで成長していることが、彼のこれまでの人生を象徴しているようで泣ける。度重なる冒険での〈クトゥルフ神話知識〉の蓄積が、そろそろ洒落にならなくなってきている。でもダイス運が良いので、なかなか狂気に陥らない。彼は今後も茨の道を歩くだろうと思われる。合掌。


2011.06.22 初投稿
2011.06.23 修正



[20306] 蜘蛛の巣から逃れる為に 26.梔(クチナシ)
Name: へびさんマン◆29ccac37 ID:bf917f75
Date: 2011/07/11 20:47
 世の中に邪神というものが存在して、彼らが自分たちより遙かに卑しく劣っている人間という存在に興味をもつのは、一体どういった理由からだろうか。


 人を喰うため?

 あるいはそれが在るかも知れない。
 だが、神にとって人喰いは必須では無いはずだ。
 人喰いが必須なら、それは神ではなく、単なる捕食者に過ぎない。


 自身の存在に人間の崇拝が必要だから?

 そんなバカな。
 人間の想念で左右されるような惰弱な存在は、神でも何でもない。
 それは人間の奴隷に過ぎない。いや、ただの寄生虫だ。


 彼らが『そういうモノ』だから?
 人間に関わることこそが、彼らの定義であり存在意義だから?

 修辞学的には、それでも良いだろう。
 所詮、人間は宇宙の偉大なる真理を理解することはできぬ。
 故に自分たちに関わる現象のみを取り出して定義すれば、そういうことになるかもしれない。人間に関わる神の全ては、それこそが存在意義である、と。
 まあ、人に仕えることを運命づけられた天使や悪魔ならば、その定義は当てはまるかも知れないが、そうすると今度は彼らの上位にさらに“神の神”を仮定しなくてはならない。
 そうなれば無限回廊だ。世界は無限の階層を造り上げる。いや、あるいはそれが正しいのかも知れない。

 ……正しいのか? 本当に?
 彼らよりももっと深遠で畏るべき存在が、さらに存在するとでも?
 まさか。そんな。そんな事はないはずだ。そうであって欲しいと、切に願わざるをえない。



 ……話を戻そう。
 神にとって、人間とは何か。
 彼らは、何故人間に関わるのか。


 決まっている。


 そんなモノは、全て暇つぶしのために決まっている。



 神が人間を省みるか?

 バカな。

 彼らは彼らの暇つぶしの娯楽のために、人間を操作し、創作し、干渉し、鑑賞するのだ。


 人間が漫画を描くように、彼らは人生を弄ぶのだ。

 人間が小説を書くように、彼らは世界を創作し、破壊し、混乱に陥れ、秩序を敷き、美を求め、醜を極め、蒐め、陳列するのだ。

 人間が楽器を弾くように、彼らは毒電波を垂れ流し、魂をかき鳴らすのだ。

 あるいは好みの番組を見るように、好みの感情を求めてTVのチャンネルを変えるように人間の精神をザッピングし、ある時にはその人間の人生という名の劇場を誘導するのだ。


 神にとって、人間など、手頃で安価なおつまみのようなものだ。
 無くてもいいけど、ちょっとは在った方が……。
 そういう、どーでもいいモノなのだ。



 例えば“彼”は最近お気に入りの番組にチャンネルを合わせる。
 ここのところ“彼”のお気に入りの演者は、なかなかに頑張ってくれているようだ。
 彼の頑張りに免じて、少しくらいスポンサードしてやっても良いだろう、と“彼”は考える。
 そう、卑近な例でたとえれば、こんなトコロだ(神の行動を人間に例える不遜に関しては、どうか目をつぶって欲しい)。





 ――そして“彼”の些細な興味の意志は、暗黒の星の海を渡り、宇宙に浮かぶ取るに足らない青い惑星の、そのまた表面に漂う“彼”の小指の先の爪の垢ほどもない大きさの陸塊、すなわち白の国、アルビオンにて、“彼”のお気に入りの演者の脳髄に受信される。


「キターーーー!! キタキタキタ! キましたよーーー!! イゴーロナク様の崇高で邪悪な“ぱわぁ”が! ビンビンに! おおお、あらゆる全ての邪ま(よこしま)なるものを凌駕する正真正銘の邪悪なる、我が神! これは今後も私に励めということなのですね――!?」

 苦鳴が満ちる空間にて、クロムウェルは、大宇宙の果ての暗黒を超えて飛来したエーテルの波動を受けて、両手を組んで祈り捧げるような格好で恍惚となる。
 醜悪なオブジェと、それが奏でる呻きが、彼の昂揚をさらに高める。
 周りのオブジェは、彼が作った刹那の芸術だ。

 例えば、腸を滑車に巻き取られて尚も身体を蠢かせる、磔刑にされた男。
 その向かいでは、骨を丹念に砕かれて蛸のようにぐにゃぐにゃになった手足を、巨大な車輪のスポークに絡みつかせられて、まるで卍型のような形にされながらも、それでも生きている女が、髪を振り乱して車輪とともにぐるぐると回されている。
 樹脂製の袋に包まれた男は、四肢の根本をきつく縛られており、鬱血して壊死した自分の手足の腐敗ガスで今にも死に行こうとしている。

 部屋の隅には、何やら良く分からない塊がうず高く積まれている。
 それらはクロムウェルの拷問行為の犠牲者であり、そして、今後も拷問に使われる素材たちだ。
 肉塊は完全に死んでいるが、死は救いではない。

 クロムウェルの悍ましい“復活”の秘儀によって、哀れな哀れな肉塊は、何度も何度も死ぬ度に蘇らされている。
 そしてその度にやはりクロムウェルの手によって拷問死している。
 無間地獄の中で犠牲者の魂は擦り切れ、数多の同じ境遇の者たちと混ぜ合わされ、その屍肉と同じく、魂もこねくり回されて一塊になっていく。

「ひゃははっ!!」

 踊り狂う司祭が百本に先が分かれた鞭を振り回す。
 細く百本に分かれた先端には針金が打ち込まれていて、有刺鉄線のようになっている。
 その鞭のゆく先には、既に百烈鞭によって肉が剥かれて白い背骨が見える女性が吊るされている。

 ば、と、鞭の先が肉を抉る音が響き、女性のシルエットが大きな口を開けて声ならぬ声を上げて痙攣する。

「やりますとも! もちろんです! おお我が神よ! 偉大で何よりも邪悪な、首無き両手の口、イゴーロナク様! どうか見ていてください! 今日もオリバーは、貴方さまの為に励んでおります! あははは、あはははははは、ははははははははははははははははははは――」

 び、ば、びしり、ばぱっ。ははは、ひゃは、ひゃははは。
 敬虔な聖職者である彼は、汗に塗れながら祈りを捧げる。

 ――ああ、ハルケギニアの皆が、この素晴らしい悪の恍惚を共有できますように!




 だがクロムウェルの信仰が、他の者にとっても真実とは限らない。

 私が思うに、神も、真実も、人の数だけ存在するのだ。
 そしてそれ故にそれらは常に対立する。

 混沌なのだ。
 混沌のみがすべてを許容する。
 対立すらも呑みこんで。

 だが、私は混沌を許容しない。

 世界解釈は人間の数だけ存在する。
 真実は星の数ほど存在する。
 混沌だ。
 だがしかし、混沌などという解釈の諦めに、私は逃げこまない。

 真実が一つではないなら、その全てを網羅するまで。

 あなたにとっての真実は、一体何だ?
 あなたの目に見えている世界と、私が見ている世界は、絶対に同じではない。
 絶対に。

 ならば、何が宇宙の真実なのだ――?
 混沌こそが真実だとでも?
 違う。
 違うはずだ。
 全てを蒐めて、分類して、解剖して、分析して、再構成すれば、もっと、もっと、もっと何か、何かが、真実真理というものが、あるはずだ。
 あるはずなのだ、絶対に。

 ああ、知りたい。
 知りたいのだ。
 全てを知りたい。
 知り尽くしたい。

 その渇望に衝き動かされて既に千二百年。

 私は――ウード・ド・シャンリットは、未だ、何も知らないに等しい。
 深遠な大宇宙の中で、私は無知という大海に囲まれた孤島の住人なのだ。

 幾許か周りの海を埋立てて孤島を広げたものの、そんな私の千二百年は、海水をバケツで汲んで干上がらせるような、無謀な行動に過ぎない。
 ホールケーキを解体する一匹の蟻のように、私は無力だ。

 だが。
 だが、私は、それしか方法を知らない。

 何千年、何万年、何億年かかろうと。
 私という自我の枠組みが擦り切れても。
 何度生まれ変わろうとも。

 蜘蛛神の呪わしい祝福によって、人の身体を捨てて蜘蛛の化物になっても。
 今や極微小炭素繊維網型の魔法具というシステムの一部を構成する知性要素となっても。
 そして宇宙に広がる幾兆もの下僕の矮人の脳髄中の無意識に刷り込まれた断片的な、好奇心という名の衝動に過ぎなくなっても。

 何があっても。
 私が何モノになったとしても。
 私というものが無くなったとしても。

 私は――ウード・ド・シャンリットは、自分の業(カルマ)の命じるままに、世界を解体し、混沌を暴き、知識という名の儚い自分の領土を広げてゆくほかの生き方を知らないのだ。
 そう、私はただ一つの慈悲を拒絶した、死のない男。
 死という慈悲と救済――終わりを拒否した私には、もはや狂うしか当てはないのかも知れない……。

 この千二百年で初めての出来事、虚無の遣い手たちが勢揃いする、というイベントを活かして、敵を育てるというアプローチも始めてみたが、どこまで効果があるものやら――。


◆◇◆


 ラグドリアン湖の水辺の村では、死者を弔うために、水葬にする習慣があった。
 これは始祖ブリミル光臨以前からの習慣であり、国やブリミル教会が再三にわたって改めようとしてきたが、今に到るまでその試みは成功していない。
 ラグドリアン湖の水底は、村人たちにとって、先祖の遺骨が眠る墓地であり、日々の糧を恵んでくれる慈母であり、自分たちがやがて還っていく冥界の入口であるのだ。

 湖の底には、水精霊が築いたという都市が広がっているらしい。
 祖先の魂は、壮麗な水底の石柱都市で、死後の暮らしを送っているのだろうか。
 その都は、かつての先祖たちが水精霊と祖先の魂の慰撫のために湖上から沈めた建物が折り重なったネクロポリスだとも、あるいは始祖の時代の都市が沈んだものだとも言われる。

 水精霊と祖先の魂、そしてそれを慰撫する魚たち――。



 ――だが、水底に居るのは、本当に、それだけなのか?


◆◇◆




 蜘蛛の巣から逃れる為に 26.ラグドリアン湖は梔(クチナシ)の香り




◆◇◆


 ルイズとサイトは、防毒マスクで顔を覆いながら、緑色に腐った水辺の一角を検分していた。
 ここはサイトが軟着陸した場所の付近で、サイトが偶然見つけた異常な場所である。
 腐った緑色をサンプル管に入れつつ、サイトはルイズに訊ねる。

「……ルイズ、これ、何だか分かるか?」
「――そうね。恐らくだけれど」

 サイトの問いにルイズは、マスクに遮られてくぐもった声で肯定を返す。
 今も尚、緑色の神毒は、しゅうしゅうと不気味な蒸気を上げながら、樹々を枯らしながら、大地を汚す範囲を広げている。
 毒によって爛れた樹々は、本来植物に活力を与えるはずの日光によって、次々と崩壊し、緑色の屑になってしまう。
 時折、枯れた樹々の内側から、樹の幹の芯がまるでイモガイの毒銛のように弾けてルイズたちに向かって飛び出すが、刹那のうちに日光に焼かれて溶け消える。

 それを見て、ルイズは確信を持って答える。

「これは多分、“緑の崩壊(THE GREEN DECAY)”よ」
「あー。やっぱりルイズもそう思う?」

 防毒マスクの下で表情は見えないが、声から察するに、サイトの顔はきっと苦虫を噛み潰してセンブリ茶を飲んだみたいになっているだろう。
 そんなサイトの声色を察して、ルイズが同情的な声を出す。

「そういえばアンタは、“従者”に遭ったことがあるんだったわね。記憶を読んだから知ってるわ」
「ああ確か、ロンドンにまで教授の調査旅行について行った時だ。あの時は大変だったよ。三ツ目の蛞蝓神の毒のせいで次から次に“従者”が湧いて出て……。夜明けまで持久籠城戦でさ。そして、日の出と共に奴ら哀れな“従者”は蒸気を上げて緑のカスになったんだ」

 教授の発表に着いて行ったイギリスで、サイトは同じような現象に遭遇したらしい。
 チューブ(ロンドン地下鉄)から溢れて襲い来る屍人。曙光に焼かれて消え去るそのゾンビども。残される緑色の、吐き気のする、饐えたような甘い匂いのする残骸。
 彼もよくよく運の悪い男である。

 時々ルイズたちに向かって樹の幹から鉤爪の付いた触手のような物が伸びるのは、毒に侵された枯れ木――植物の死体――がゾンビ化しているためだろう。
 まあ、日光に弱いので、直ぐに空中で触手は溶け爛れて消えるのだが。

 サイトは溶けた緑の残骸を採集用のトングのようなもので掻き集めつつ、しばしそのロンドンの悪夢の夜の顛末を思い出す。

「後で教授が調べたところによると、随分昔にやった下水工事のときの穴に地下水脈――セヴァン渓谷に水源を発する水脈らしい――からの毒水が溜まって、それが偶然にも忘れ去られた地下共同墓地に流れこんで、そこの遺体を神毒が侵して“従者”に変えたんだとか何とか」
「どんだけ運が悪いのよ、アンタ」
「そりゃあルイズが良く知っているだろ? 異世界に強制召喚されるくらい運が悪いんだよ」

 サイトが自嘲し、ルイズが呆れて、しかし愛しそうな眼差しで笑う。

「ふふふ。ま、運命と思って諦めなさい」
「まあこの期に及んで、どうこう言うつもりはないぜ。これも何かの縁だ。最後までルイズに付き合うよ」
「ええ。最期まで付き合ってもらうわ」

 最後と最期のニュアンスが、二人の間で微妙に噛み合ってないような。

「しかし――」
「何よ」
「仮定の話に意味はないけどさ、もし俺が“門の観察(VIEW GATE)”でも覚えていたら、あの召喚ゲートを潜らなかったかも知れないと思ってさ」

 “門の観察”とは、異次元へと繋がるゲートの先を探査し見通すための呪文である。
 もし召喚の際にサイトがこれを使えていれば、得体の知れないゲートを潜ることなど無く、彼はハルケギニアにやってくることはなかったかも知れない。
 しかしルイズは首を横に振って、サイトの仮定を否定する。

「いいえ、きっとアンタは何をやっても、どういう経緯にしてもハルケギニアに来ていたはずよ」
「運命ってやつか?」
「まあそんなところね。ゲートの繋がる先が分かったとしても、例えばアンタの教授は、アンタにゲートの先の調査を命じただろうし」
「……確かに」

 割と門下生に無茶をさせがちな、あの敬愛する教授を思い出して、サイトは納得する。
 尤もサイトが師事する教授には、全くそんな無茶をしているという意識は無いのだが。
 天災級の天才の周囲は、それに着いて行くだけでも苦労するものなのだ。
 教授からの信頼があつい(主に生還能力的な意味で)サイトは、“門の観察”を使って召喚ゲートを回避しても、その後恐らくゲートの先の調査を命じられただろうと容易に想像がつく。

 教授なら無事にハルケギニアからでもセラエノからでも余裕で生還できそうだが、それを他の人間に当てはめるのは止めて欲しいものだ、とサイトは思う。

「ああ、地球か……。何もかも皆懐かしい……」

 サイトが遠い目をして呟く。
 それにルイズが突っ込む。

「何よ、急に似合わないこと言って」
「いやまあこんな機会でもないと言えない台詞なだから、つい」
「そんな事より調査を続行するわよ」
「うぃ、まだーむ」

 毒気に犯された空気の底で、場違いに穏やかな雰囲気で二人は検分を進める。
 細波すら立たない凪の湖面。
 風すらも、緑の腐れた毒を忌避しているかのようだ。

「そう言えば他の奴らは?」

 サイトが訊ねる。
 今ここには、ルイズとサイトしか居ない。
 翼蛇エキドナは上空を鳶のように回りながら飛び、周囲に睨みを効かせている。

 ルイズがサンプル回収の手を止めて、サイトを見据える。

「タバサはガリア側の情報統合。モンモランシーはトリステイン側の情報統合。ベアトリスたちクルデンホルフ組は水精霊に異常に敵視されているから、後方に下げてるわ」
「そうか」

 黙々と、しかし確かに信頼し合った空気を醸し出しながら、虚無の主従は、神毒に侵された緑の残骸を回収する。

「こうやって二人っきりになるのも久しぶりだな」

 ぽつりとサイトが呟く。

「……そうね。エキドナもデルフも、毒の範囲の外に置いてきてるし」
「たまには、良いもんだな。こういうのも」
「そうね、出来れば、こんな毒の邪神絡みじゃなくて、もっと平穏に二人きりになれる時間があればいいのだけれど」

 ルイズの口から悩ましげな溜息が漏れる。

「違いない。だがまあ先ずは――」

 サイトもルイズに同意して頷く。
 まるで仲の良い夫婦のような空気だ。

「ええそうよ。先ずは、あの蜘蛛の祭司を――千年教師長を放逐して、そしてやがて、邪神という邪神を封印するまでは、私に平穏は訪れないわ」
「ハードだよなあ、まったく。やれやれ、仕方ないご主人様だ」
「……別に付き合わなくってもいいのよ? アンタが望むなら、虚無の『世界扉』で今直ぐに送還することだって――」

 言い募ろうとするルイズをサイトが遮る。

「そう言うなよ」
「でも」
「何、まあ、俺だって、邪神連中に対しては、色々含む所があるしな。ルイズを、俺の大切な女の子を、独りきりで逝かせたりはしないさ」
「あら、嬉しいことを言ってくれるじゃない」

 ルイズの雰囲気が、花咲くように明るくなる。
 彼女は不安だったのだ。
 負い目があったのだ、サイトを無理やり召喚したことについて。

 サイトは照れ臭いのか、尻尾を振る犬のような空気を滲ませるルイズの視線から逃れようと顔を逸らす。

「それにどーせ地球に居たって似たよーな事には巻き込まれただろうしなー。それなら、ファンタジーな世界で可憐なご主人のパートナーとして邪神に立ち向かうほうが、心情的にも勝算的な意味でも随分マシだ」
「ふふ。確かにそうかもしれないわね」
「そういうこと。――ってわけで、コンゴトモヨロシク」
「こちらこそ。私のガンダールヴ」

 決意を新たにする二人。
 熱く燃える魂が篭った視線が絡む。
 サイトとルイズを強く結びつけているのは、どうやら運命の軛だけではないようだ。

 世界を揺るがす恐ろしい邪神に対する共通の敵愾心が、やはり彼らの根底には存在するのだ。
 ハルケギニアに於いて、抗いがたい存在に翻弄された者たちの末路を見て心を痛め、更に大地を覆う千年の蜘蛛の黒い網に絡め取られた自分を自覚しているルイズは勿論のこと、地球に於いて理不尽で数奇な事件の数々に巻き込まれたサイトの心の底にも、その『理不尽に対する怒り』はある。
 それが――運命に抗いたいという強い想いが、逆説的に二人の運命を引き合わせたのかも知れない。

 無理無茶無謀は承知の上。
 しかし、それでもなお、人間の尊厳のために。
 いや、そんなお為ごかしは必要ないのだ。

 必要なのは、怒り。
 必要なのは、憤り。
 それこそが、そしてそれだけが、人間が邪神に対して立ち上がるために必要なものなのだ。


◆◇◆


 モンモランシーは『香水』の二つ名を持つメイジである。
 それは彼女の繊細微妙な水魔法の腕前と、何よりも、彼女の嗅覚に依るところが大きい。
 犬や狼を使い魔にしたメイジでさえも分からないような微かで細やかな香水を調合できるのはその鋭敏な嗅覚と、類まれなる彼女のセンスゆえだ。

 まあ、犬や狼の嗅覚を使い魔のラインを通じて共感覚で得たとしても、それは犬狼の嗅覚感覚であって、決して人間のそれとは同じではないのだから当然だ。
 例えば、犬にとってマタタビが得も言われぬ極上の香りであっても、人間にとて必ずしもそうであるとは限らないように、犬と人では、求める匂いが違う。
 使い魔の嗅覚を通じて、新しい角度から香りについて考えることができても、それをそのまま調香に生かせるわけではない。

 場合によっては使い魔の感覚に引きずられて、メイジ自身の嗅覚世界が一変することだって有りうる。
 蠅を召喚したばかりにネクロフィリアやスカトロジーに目覚めたメイジというのは、都市伝説では割とポピュラーな部類だ。
 夜な夜ないい匂い(彼にとっての、であるが)のする獲物を求めて、地下下水道を徘徊する怪しい人物がいて、彼あるいは彼女の正体は実はそういったメイジなのだ、とか言う噂話だ。――まあ実態は、屍体を探す食屍鬼(グール)か、標本採集に来た蜘蛛の眷属の矮人のどちらかだろう。

 そんなトリスタニア百物語は置いておいて、モンモランシーの話に戻そう。

 彼女は学生の身ながら、実家の支援で香水の直営店(ささやかなものだが)を城下町に構えている。
 将来、社交界に出るときの為に名を売っておこうというのである(何だかんだで彼女は、甲斐性なしのギーシュに惚れているから、将来彼を支えるために、という目論見もあったりなかったり)。
 そして彼女の狙い通り、香水は主に貴人に対してよく売れており、モンモランシーの調合する香水は、王都でもちょっとしたブランドである。

 そんな彼女だからこそ、タバサの家(オルレアン家)の竜騎士に送られて、ラグドリアン沿いトリステイン側のモンモランシ領内の村に降り立ったとき、直ぐに異常に気づいた。

「……? なに、この匂い……」

 甘い、蜜のような、花のような、香り。
 それが、うっすらと村全体を――いや、ラグドリアン湖一帯を覆っているのだ。
 タバサの屋敷に到着したときは、色々とそれどころじゃあ無くて気にする暇がなかったが、馴染みの村に来てみれば、一種場違いな匂いにモンモランシーは直ぐに気がついた。

「梔……かしら。でも、もうそんな季節じゃないし」

 梔は、こんな夏の盛りを過ぎた麦穂が実る時期に咲くのではなくて、もっと早い時期――初夏の花だ。
 何とも不自然な香りの空気に、彼女は警戒心を強める。
 水精霊の乱心といい、増水といい、ルイズが調査に向かった緑に腐った森といい、そしてこの変に甘い匂いといい、おかしな事だらけだ。

 彼女の後ろで、送ってきてくれたオルレアンの私設竜騎士が飛び立つ。
 モンモランシーがそちらを振り向き、手を振る。
 竜の起こす風で、一瞬だけクチナシの匂いが薄れ、竜独特の垢の少ない鱗の匂いと、ブレスの油が混ざったような竜臭とでも云う物が流れてくる。

「ミス・モンモランシ、申し訳ありませんが、私はオルレアン公領に戻らせていただきます」
「そうね、向こうも人手が要るでしょうし。ありがとう、送ってくれて!」
「どうかお気をつけて、ミス・モンモランシ。……もうお気づきだとは思いますが、この湖は、今、何かがおかしい――」

 ばさり、と竜騎士が身を翻し、地面から遠ざかる。

 竜の巻き起こす風が収まると同時に、周囲の大気から、甘いクチナシの匂いが押し寄せる。
 思わず、うっ、とモンモランシーは鼻を覆う。
 そして力なく肩を落とす。

「分かっているわよ、『この湖がおかしい』なんてことは……。ラグドリアン湖で産湯につかり、生まれた時から水の盟約の家系に連なる私が、気づかないわけ無いじゃない」

 だからこそ、モンモランシーは彼女の血脈に宿る彼女の自負にかけて、このラグドリアン湖の問題を解決するつもりでいた。
 だが夏期休暇中、ラグドリアンの異常を知って実家に問い合わせた彼女に下ったのは、待機命令。
 余りに異常な湖の様子に、娘馬鹿の当主は、オスマン老が守る砦――魔法学院から出るなと彼女に命じたのだ。

 当主である父親の命令で、魔法学院にて待機していたモンモランシーだが、本当は一刻も早く領地に駆けつけ、領民を安堵したかったのだ。

 そわそわと学院前で便りを待っていた彼女に、渡りに船の、ルイズからの誘い。
 魔女の誘いに乗って、彼女はこの呪いが溢れる湖にやってきたのだ。
 だが、彼女は領地に舞い戻ったのを後悔していない。

 領地が、領民が危難に見舞われているというのに、安全な場所でのうのうとしていることなど出来るものか。
 ……危険度が高すぎて一族郎党全滅の可能性があるから嫡子のモンモランシーだけは避難させておこうという父の気遣いは分かっているが、それでも何もせずに待つということは出来なかった。
 彼女は若く、それ故に歳相応に理想主義者であった。

 決意を新たに、モンモランシーはモンモランシ家の当主である父が待つ邸宅へと足を向ける。
 ルイズから預かった“女王陛下直属ゼロ機関長への命令書”の写しと、ゼロ機関長官ルイズ・フランソワーズからの協力要請書を携えて。

 これだけあれば、いくら父とて彼女の参戦を拒めはしまい。

(……王家とルイズ、ひいてはヴァリエール家への感情が悪化するかも知れないけど、解決にはあの極零の魔女の知恵と力が必要よ……多分)

 かなり胡散臭い書類だが、花押は確かに王家のものであるし、同級生のあの極零の魔女ルイズが、モンモランシーの協力を必要としていることも確かである。
 まあ無下に断られたりはしないだろう。



 屋敷近づくと、心配そうに屋敷を見守る老人がいるのが見えた。
 その老爺が、帰ってきたモンモランシーに気付く。

「おお、モンモランシーお嬢様。ようこそお帰り下さいました。私は近在の村の村長でございます。こちらには何時?」
「ついさっきよ。あなたは――」
「申し遅れました。ニヨン村の村長を務めております、オーバンと申します」

 そう言って、老爺――オーバンは深々と頭を下げる。
 記憶をあさると、確かに昔に会ったような気がする。
 近隣の村長町長が集まる会合に、モンモランシ家長女として顔見せに行ったときに、見たような顔だ。

 ニヨン村と言っても、特に何k特産がある村ではないはずだ。
 特産品でもあれば、もっとモンモランシーの記憶にも鮮明に残っているだろう。
 恐らくは、湖で獲れる魚と、豊富な淡水を利用した農業で生計を立てているのだろう。

 しかし、ニヨン村の立地は、湖にほど近い場所だったはずだ。
 増水による水没範囲はモンモランシ父が纏めているであろう測量資料を見なくては正確には分からないが。

「……大変だったでしょう? 村が沈んでしまって……」
「ええ。ですが、村人全員元気にやっておりますれば」
「そう、それなら良かったわ。増水の問題も、直ぐに解決するはずよ」
「ほうそれはどうしてです? 水精霊様の怒りは尋常ではない様子でしたが」

 村の行く末が気になるのだろう。
 オーバン村長は、興味津々な様子でモンモランシーに訊ねる。
 彼を安心させるように、モンモランシーは意識して鷹揚に、笑顔をみせて答える。

「この国有数のメイジが、女王陛下の勅命で投入されたのよ。……私の同級生なんだけどね」
「ほう。その方はお若いのに、大層なメイジなのですね?」
「ええ、それは間違いないわ。『極零(ゼロ)』のルイズと言えば、知る人ぞ知る大魔女よ」

 オーバン村長は、驚いた様子で手を叩く。

「おお! 成程、あの高名な夢の国の魔女! それは大変なことですな!」
「夢の国?」

 彼は、一介の村長風情が、何処で彼女のことを知ったのだろう?
 というか、夢の国、とは何のことだ?
 モンモランシーは疑問に思うが、それを深く意識する暇もなく、オーバン村長は言葉を連ねる。

「それならば安心ですな! ではモンモランシーお嬢様、私はこのことを村の皆に知らせてきますので、ここで失礼させて頂きます」
「え、ええ。皆、不安に思ってるだろうから、安心させてやって頂戴……」
「はい。では、私はこれで」

 再び深く頭を下げて、オーバン村長は急いて、しかし歳のせいかそれ程スピードは出せずに、ゆっくりと足を引きずるように湖の方へと去っていく。

「ニヨン村の人たちも、少しは安心してくれると良いんだけれど」

 モンモランシーは、そう呟いて、父の待つ屋敷に入っていく。
 心なしか、オーバン村長が去って行った後は、梔の香りが薄らいだ気がする。







 ――――『ニヨン村は60日前に一夜にして洪水によって水没しており、逃げる暇もなく恐らくは全滅した模様。生存者の存在は絶望視されている』。

 彼女がそれを知って背筋を凍らせるのは、この数分後のことである。


◆◇◆


 アルビオンの名物といえば、フィッシュ・アンド・チップスと、ウナギのゼリー寄せだ。
 勿論、名物の“名”は、悪名高いという意味だ。
 ダウンタウン(下町)の低所得労働者のための低価格高カロリー高タンパクのジャンクフードである。

 相次ぐ内乱で疲弊したアルビオンでは、貧困層が増大した。
 田舎の農地は借金の形に取り上げられて資本家によって統合され、労働集約的な工場が発達した。
 土地から追い出された小作農たちは、工員として再就職し、劣悪な条件下で働くこととなった。

 同時に輸送業兼業の空賊が横行し、風石の価格が上昇。
 それに伴って、風石の需要が上昇。
 鉱山では、鉱員の需要が高まり、低賃金労働者が多く必要とされるようになった。

 そんな社会の底辺たちの心強い友(主に価格比カロリー的な意味で)が、フィッシュ・アンド・チップスと、ウナギのゼリー寄せだ。
 材料が安価で、調理法は簡単、しかもカロリーが高い。
 労働者の間で重宝がられるのも頷ける。



 ……さて、周りが海に囲まれているわけでもないアルビオンで、何故魚が安く手に入るのか。

 地球では、広大な海一面で光合成によって栄養を得る植物プランクトンが生息しており、その広い海を泳ぎ回って栄養を集めて成長する魚は、成長し切るまでに管理が必要な農作物(さらに農作物には土地の所有コストも必要である)に比べて、価格が安くなりやすい。
 魚介資源も、農作物と同じように養殖して管理しだすとコストが上がるし、漁法の革命などで大量に入手できるようになる必要があるが……。

 空中大陸であるアルビオンでは、一般に土地は痩せている。
 6000年前に浮遊し始めたとき以前から、それ程に栄養豊富な土地ではなかったし、塩類は次々に下界へと流出する。
 そもそも風石が形成するフィールド(一説によれば始祖が張った結界の効果だとも言われる)で守られているとはいえ、植物の生息限界海抜をブッチギリで上回る場所にアルビオンは位置しているため、作物の生育は悪い。

 フィッシュ・アンド・チップスのジャガイモの方は、寒冷にも強い品種がアルビオンに於いては普及しており、高高度でも何とか生育できる。
 土地の買い占め(囲い込み、エンクロージャー)によって現在では集約的な農業が可能になっており、ジャガイモはそれに伴って価格崩壊した物の一つである。

 ジャガイモの方はともかく。
 では海上ではなく空中に浮かぶアルビオンにおいて、白身魚とウナギは、何処でどうやって獲れるのか?

 実は海から飛び上がって、遥々高度3000メイルまで空を飛んで魚がやってくるとか?


 残念ながら違う。

 正解を言おう。
 魚は河川や湖に於いて、養殖され、そこから流通させられるのだ。

 ……さっき栄養塩類が流れ出して土地が痩せてるとか言わなかったかって?
 まあそうなのだが、それは地表の話であって、地表から流れだした栄養塩類は河川に流れ着くので、河川や湖水はそれなりに栄養豊かだったりする。
 あと地下水脈とか。地下水脈とか。地底湖の主の水竜の噂だとかも聞こえてくる。

 とはいえ、それだけでは養殖によって、低所得者層にも優しい価格の魚は手に入らない。

 低価格の魚資源のためには、さらに安い大量の餌が必要である。

 ではその魚の餌とは何だろうか。

 勿体ぶらずに正解を言おう。

 虫だ。

 何故か分からないが、地上の大陸から、季節によって様々な虫が大群をなして飛来するのだ。
 飛蝗、蛾蝶、飛行蜘蛛……。
 様々な虫がアルビオン大陸目がけて飛んで来る。

 それをアルビオンでは、目の細かな網をフネで曳いてまさに一網打尽に捕えて、魚の餌にするのだ。
 まあ時期になれば網を曳くまでもなく、勝手にフネの帆に集ってくるのだが。
 帆に当たって落ちた飛蝗が、甲板にバケツで掬えるくらいに堆積するのも珍しい話ではない。



 何故唐突にこんな話をしたかというと、これから触れる一人の男に関係する。

「よっこいしょーっ!!」

 光の差さない岩穴の底。
 何人もの男達が、穴を掘っている。
 くぐもったような、岩を穿つ音が、奇妙にくぐもって反響して聞こえる。

 ここに居るのは、アルビオン大陸に大迷宮を穿つ、陸軍の秘匿計画【I迷宮造営計画】に従事させられている囚人たちだ。

 アルビオンの底で強制労働に従事する男たちのうちの一人、テリーも、昔は魚の餌になる虫捕りをやっていたフネ乗りだった。
 普通、フネは、荷運びだけではなく、航路上での餌虫集めや、時によっては空賊を副業にしている。
 テリーが働いていたフネは、その両方を副業にしていた。


 前王朝であるテューダー朝が倒れたとき、新王朝スチュアート朝は、内乱で疲弊した財力や空軍力を補充するために、非情な政策を取った。
 それはブリミル教の廃止による教会権力からの富の剥奪であり、苛烈な空賊狩りであったり、何やら恐ろしい魔術による恐怖政治であった。

 テリーが乗るフネは、その時に摘発された。
 乗員は問答無用で逮捕され、フネや商会の財産は没収。
 彼ら乗員は、地下迷宮要塞の拡張に投入されたのだ。

「あーあ、フィッシュ・アンド・チップスが懐かしいぜ」

 この迷宮地下では、安価なフィッシュ・アンド・チップスすら出ない。
 奴隷労働よりも悪い条件で、彼らは働かされている。
 何せ飲まず喰わずだ。

 お蔭でほら、彼らの肌は魚のように蒼くなり、首筋は深く鰓のように落ち窪んでいる。

「全くよー、周りの奴らとも話が通じないしよー」

 ぶつくさ言いつつも、テリーは、手入れもできずに爪が伸びた手で握ったツルハシを振るう。
 周囲の者たちは、テリーと違い、黙々と、瞬きもせずに穴を掘っている。
 死んだ魚のような顔で、彼らはツルハシも用いず、伸びた爪――それは既に爪というよりは食肉目やチュパカブラのような禍々しい鉤爪というべきものに変容している――を岩肌に叩きつけ、岩を崩している。

 テリーは思い出す。
 最初は、皆も何やら恨み言を呟いていたのだが。
 食事はないのか、とか、何時終わるんだ、とか、うわあああああ水面に魚の化物が映って、とか、肌が乾く、とか。

 そして穴を掘り進んでいくうちに、地下水脈にぶち当たってから、様子がおかしくなったのだ。

 暫くは久しぶりの水ということで、皆、水を得た魚のように動きが活発になっていたのだが。
 そう言えば、水は、何か甘い花のような匂いがした。
 ……あれ、水抜きはしたのだったか? と、テリーは一瞬疑問に思うが、息苦しくないということは、水は何処かに抜けたのだろう。

 それが時間が経つうちに、彼らの動きは、やがて緩慢で散漫になり、終いには、人間の意志らしきものを残しているのは、テリー一人という有様だ。
 彼らの爪が異様に伸び始めたのも、その地下水脈に当たってからだった。

「独り言でも喋ってないと、気が狂いそうだぜ」

 常人ならとっくに気が狂っている状況でも、意志を保っているというのは、彼が鈍感なのか、それとも、もう既に。

「それにしても、ここどこなんだろーなー。もう下に掘ってるのか、上に掘ってるのかどっちか分からんなあ。『兎に角掘れ。地図なんか残さなくても構わん。どうせお館様――アイホート(EIhort)様からの電波が教えてくれる。兎に角何処かに抜けるまで掘り進め』とか何とか言ってたが、何のことやら」

 ぶよぶよした白い肌の将校が言っていた台詞を、テリーは思い出す。
 それにしても、その将校の肌の下がゾワゾワと蠢いていたように見えたのは、テリーの気のせいだったのだろうか。

 何日掘り進んだのか、何メイル掘り進んだのか、何処に向かって掘り進んでいるのか、全く以て分からない。
 位置感覚を喪失してしまっている。
 そもそも、ここはまだアルビオンなのだろうか。
 いや、空中大陸のアルビオンの地面から、何処か他の場所に繋がるはずもない、だろう。恐らくきっと。

 ……と、掘り進むテリーのツルハシが、遂に岩壁を切り崩す。 

「おっ! 抜けたか!? これでお役御免か!」


 ツルハシが抜けた先は、今まで掘ってきた岩穴とは違い、蒼い微かな光に照らされている。
 まるで水中のようだ。
 途端に強い甘い花の匂いが、テリーの喉から肺の辺りにするりと抜ける。

 遠くは全く見えない。
 本当に水中のようだ。

 蒼い光りに照らされて、周囲に何かの建造物が見える。
 岩が積み重なったような、家の残骸を次々に上から落としてできたような、曰く言いがたい不格好で捻くれた建造物群だ。
 尋常な重力のもとでは、このようなバランスが崩れた建物は建造不可能だろうと見て取れた。
 風石で要所を支えるか、何かの圧力や浮力が作用しない限りは、それらの建造物群は造れないだろう。

 大きな石柱のような、墓標のような、死者の都のような、静謐な雰囲気を湛えるそれに、テリーは目を奪われる。

「おお、こりゃあスゲェ。……だが、ここは何処だ? 明るさから察するに、今はもう夜か」

 テリーは時間感覚も無くなっている。
 今が夜で幸いであった。


 ――昼だったら、彼はもがき苦しんで緑の残骸へと変じてしまっていただろうから。



 テリーが空けた穴から、わらわらと意志のない幽鬼のような足取りで、穴掘りに従事していた囚人たちが溢れてくる。
 甘い何かの匂いに――彼らを変質させた匂いに惹かれて出てきたのだろうか。
 空気を求める金魚のようにパクパクと口を開いて、彼らはのろのろとした動きで、謎のネクロポリスらしき建造物の方へと歩いて行く。

「……おいおい、あっちに何があるってんだ」

 再び彼が水煙に霞む死都を見上げる。
 ゴクリと息を呑み、彼の首筋に空いた鰓孔から空気が上層部に向かって泡となって昇っていく。


 瞬間、彼は、彼の精神が偶然に成した角度によって、幻影を見る。

 タグ・クラトゥアの逆角度に近づいた彼の精神は、遠くの死都に覆いかぶさるような、巨大な影を幻視する。
 それはまるでウミウシのような軟体を思わせるぐにゃりとしたシルエットをしており、茎状組織に支えられた三つの目を特徴とし、ハリネズミのように背中に金属質の棘を生やし、底面には棘皮動物の管足を思わせるような動作で蠢く逆ピラミット型の脚が並んでいる、全くもって神々しい、テリーの常識の外にある存在であった。

 そしてその幻影を見た瞬間に、テリーは滂沱して跪く。

「――おお、神ヨ!!」

 彼は瞬時に理解した。
 何故囚人たちがあの死都に向かっているのか。
 ――それはそこに彼らの神の祭壇を築くためなのだ。

 新しいこの水底に、水精霊の都をベースに造り変えて、彼らの神を――ぐらぁき様を迎えるのだ。

「ああ、アア、あああ! 私が此処に繋ガる“道”を――“門”ヲ、掘リ当てタのモ、全ては我が神のオ導きだっタノデすネ!」

 得度した、という様子で、テリーは水底のネクロポリスへと向かって、その鰭のついた脚を動かして、他の囚人仲間と同じように死都へ向かって泳ぎ出す。
 梔の甘い匂いに満ちた湖底の水の中を、ぐらぁきに仕えるために、歓喜に打ち震えて進んでいく。





 テリーが関わらされていたアルビオン軍の秘匿計画は、『I迷宮要塞造営』だけではなかった。
 彼が巻き込まれていた秘匿計画――新設された海軍省の計画で、計画名を『魚人化部隊』と『湖底のG回廊』という。

 少し前までアルビオンのダウンタウンで揚げた魚の死体(フィッシュ・アンド・チップス)を食っていたテリーは、今、魚人の屍体になって、ラグドリアンの水底で水精霊の妨害を退けながら、彼の神――湖底の蛞蝓神ぐらぁき――のための神殿を造っている……。


◆◇◆


 タバサは、ラグドリアン湖に関する伝承について、オルレアン公邸で纏めている。

「……」

 古い資料曰く――『古代の水竜の生き残りがラグドリアン湖に棲んでいる。水底の水竜は、光の届かない淀みに住んでいるため、目は盲ており、体色は白色だとされる』。
 また水竜については他にも資料がある。
 曰く――『古代、ラグドリアン湖にも水竜が生息していたとされ、その死体は今も、水精霊のコレクションとして湖底に横たわっている』。

 水精霊が持っているという水の秘宝についての情報もある。
 その秘宝の名前は、『アンドバリの指輪』。
 持ち主に死の運命を呼び、しかし、使い方によっては死を制し、偽りの命を与えるという、呪わしい先住の指輪。

「ふぅ」

 タバサは、ミョズニトニルンが支配するガリア版のマジックカードを操作し、それらのレポートを纏める。
 ルイズからお願いされているのだ。
 一番危険度が高い現場検証の役目を買って出て、サイトの元に向かったルイズに顔向けするためにも、ある程度は目を通して形にしておかなくてはならない。

 外を見れば、日は既に沈み、夜の帳が降りていた。

 そう言えばもうそろそろ夏期休暇も明ける。
 学院には、タバサたちがラグドリアンに向かったのと入れ違いに各地から生徒たちが戻ってきているはずだ。

「新学期には、間に合わない。仕方ない。大事の前の小事」

 少しだけ溜息をついて、タバサは学院に残してきた親友の赤毛の炎の毒娘に思いを馳せる。


◆◇◆


 タバサが魔法学院に思いを馳せたのと同じ頃。

 トリステイン魔法学院前では、衛兵たちが気を張って警備をしていた。
 夏休み明けのこの時期、貴族子弟たちが実家の者も伴って大勢出入りするため、それを目当てにして、乞食たちが慈悲を欲して集まってくることがある。
 そういう乞食を蹴散らすのも、彼ら学院衛兵の仕事である。

 もう明日にも学院が始まろうという日であった。
 襤褸を纏った乞食らしき人物がふらふらと学院の門に近づいたのは。

「おい、止まれ!」
「…………ァ……ぁ……」
「止まらんか、貴様!」

 衛兵が鋭く制止するにも関わらず、その乞食は更に門に近づく。
 不健康そうな、屍蝋のような不気味に白いぶよぶよした肌が、チラチラと襤褸の隙間から見える。

「貴様、それ以上近づくと――」

 衛兵が遂に手に持った槍の柄で乞食を打ち据えようとした時であった。

「……ぁ、ァ、ァ、ぁぁぁあああああアアアアアアアアッ!!!」
「な、止まれ!」

 乞食は急に胸を掻き毟り、叫び声をあげると。

「――ああ、あ、あ………ァ、ぁァ、雛、が――」

 と、それきり言い残してバッタリと倒れ伏した。

 慌てたのはそれを目の当たりにした衛兵だ。

「おい、どうした貴様? 大丈夫か!?」

 死んだのか、何か持病があったのか分からないが、何にせよ、貴族の目に触れる可能性がある場所に、この汚らしい乞食を放置することは出来ない。
 そう判断した彼は、急いで乞食を、貴族の目につかない場所へ――取り敢えずは衛兵詰所まで――連れていくことにした。

「ああ、もう、取り敢えず、運ばないと。肩貸してやるからな……よい、しょっ、と、うわ、何か異様に軽いな。おい、大丈夫か? ちゃんと飯食ってるか?」

 乞食の身体は、余り良い物を食べていないせいか、異様に軽かった。
 衛兵は、返事をしない乞食を支えて、急いで振り返りもせずに、衛兵詰所まで向かう。

 ――それが昼の明るいうちなら、乞食の身体のあった場所に、こんもりと、蠢く何か小さな生き物たちが、乞食の身体から抜け落ちるように残されていたことに、誰かが気づいたかも知れない。
 それらは、暫くそこに留まっていたが、やがて人形の脚のような形で死体のように白い8本の脚をそれぞれに動かして、かさこそと学院内部の茂みへと侵入していった。



 衛兵詰所に連れて行かれた乞食は、既に死んでいた。
 内臓がごっそりと無くなっており、少なくとも一週間以上前には、死んでいたはずだ、というのは、校医の水メイジの所見であった。
 確かに、内臓がなければ軽いはずだ、と乞食を運んだ衛兵は、呆然と思った。


 これは、アルビオンに雇われた“白炎”の部隊が忽然と校内に現れ、学院を襲撃する、その二日前の出来事であった。



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冒頭の邪神についての解釈は、まあこんな解釈もあるよな、ってくらいで考えていただけると。
この例えで行くと、ニャル様は『〇〇は俺の嫁!』とか言って二次元に浸かってる人で、ノーデンス様あたりは『非実在青少年の人権が~』とか言っちゃう人。
大半の人(邪神)は二次元の存在(人間)になんか余り興味がない、みたいな。
まあ邪神様方を人間に喩える不敬さは見逃していただけると。

アルビオンの名物はやっぱりフィッシュ・アンド・チップスとウナギのゼリー寄せでしょう。
しかしじゃあ、北海が無いのに何処で魚を獲るんだよ、という疑問を持ったので、天空大陸の物質循環に適当な解釈をつけてみたのが、テリー君(魚人化された屍体)の話の前半部分。
アルビオンのバイオマスは下界から虫たちが飛来することで支えられている、と、私は勝手に想定しています。

更新が遅れたのは、某キャラの旅館経営SLGに手を出していたから。
あと、全集読み返したりとか。
ひょっとしたらこの話は、後で大幅に改訂が入るかも知れません(話の筋は変わりませんが)。

次回は、「学院襲撃」&「水精霊との対話」の予定です。


2011.07.11 初投稿



[20306] 蜘蛛の巣から逃れる為に 27.白炎と灰塵(前編)
Name: へびさんマン◆29ccac37 ID:a6a7b38f
Date: 2011/08/06 10:14
 大きな松明が踊りながら燃えている。


 いや、それは松明ではない。

 枯れ木のような老人だ。

「はははははははは!! 何だ他愛もない! 三百年の叡智はその程度か!?」

 踊る松明を前にして哄笑するのは、白髪の偉丈夫。
 “白炎”のメンヌヴィル。

 彼はひとしきり笑うと、十字を切って祈りを捧げ、胸いっぱいに、噎せ返らんばかりの炎の匂いを吸い込む。

「すぅ~、はぁー。――ん~、だが、極上の香りだ。やはり三百年のカルマは伊達ではないな。我が神に捧げる良い供物になるだろう」

 “いあ、くとぅが!!”

 そう言って、彼は高らかに杖を振り上げる。
 炎が彼の杖の振りに伴って巻き上がり、煌々と夜空を照らす。

 燃え尽きる人影――それは学院の長であるオスマンだ。

 哄笑するメンヌヴィルと、彼に付き従う者たちが、月光と炎に照らされる校庭を遠巻きに囲んでいる。
 彼らもメンヌヴィルと同じく、十字を切り杖を掲げて口々に祝詞を唱える。
 襲撃者の胸には、両翼を広げた鳥の頚を刎ねたような、T字型の鳥十字がぶら下がっている。

 その囲みの外には、人質に取られたと思しき学院生徒たちの姿が見える。
 学院の教師たちは、皆、縄を掛けられ杖を奪われて拘束されている。

 
 人質を取られたオスマンは、メンヌヴィルの言う一騎打ちに応ずるより他はなかったのだろう。


 やがて燃やすものが無くなったのか、オスマンを包んでいた炎が小さくなり、終には消える。
 後に遺されたのは、一握の灰のみ。
 生徒や教師たちは、皆表情を絶望に染めている。

「学院長が……、まさか、そんな――」
「ははははははは!! 何、案ずるな。貴様らは暫くは生かしておいてやる。オスマンという極上の贄が居なくなれば、本来は貴様らに用などは無いのだが――雇い人は時間稼ぎを欲しているからな」

 そう言うと、メンヌヴィルは、転がされている教師たちの中から、一人の若い女性を『レビテーション』で摘まみ上げる。
 その女性は、オスマンの秘書を務めていた、ユージェニー・ロングビルだ。
 だが、彼女の表情は他の者達と異なり、嘆きにも悲しみにも染まっておらず、常通りの顔色だ。

「貴様はオスマンの秘書だったのだろう? ならば王宮にも幾らか顔が利くだろう。さっさと行って報せてこい」

 メンヌヴィルが低い声でロングビルに命じる。
 凄みのある顔で睨まれたロングビルは、しかし何処吹く風で、ニッコリと笑う。
 妖艶な笑みだ。

「お断りしますわ」
「あー? 何寝言を云ってる? 貴様も灰にされたいのか?」
「出来るものなら」

 涼しげな笑みでロングビルは答える。
 そして不敵に更に嘲るように言葉を重ねる。
 
「――その程度の刹那の炎で、私を燃やし尽くせるものならば。悠久の灰色の時の流れに寄り添った私を、ね」
「……良いだろうっ! それなら貴様も捧げてやろう!! オスマンと共に過ごしてきた貴様だ。どうせヒトではないのだろうが、奴と一緒に我が神に喰われるが良い!!」
「ふふふ。ならば早くすることですわ。念入りに焼くことですわ。灰すらも残さずに! でなければ――」

 みなまで言うことも出来ずに、ロングビルは、メンヌヴィルが唱える祝詞(それは決してルーンの詠唱ではなかった)によって巻き起こった炎に巻かれる。

「でなければ何だというのだ! 魂までも炎にくべられた者が黄泉帰る訳でもあるまいに!!」

 圧倒的な火力によって、瞬時にロングビルは骨までも炭になる。
 オスマンを灰にしたよりも明らかに強い炎だったが、ロングビルの身体は完全には燃え尽きず、脊柱らしき一本の棒状のものが燃え残った。

 その結果に、メンヌヴィルは不満そうだ。
 全てを燃やし尽くして影すら残さないつもりだったというのに。

 やはり相手が人外だったからだろうか。
 遠慮呵責も必要ないが、人間相手とは勝手が違うのだろう。
 自身の未熟さを反省しつつ、もっと精進することを、メンヌヴィルは神に誓う。

 だが彼はもっと周辺に気を配るべきだった。
 もっと燃え残りに注意をはらうべきだった。
 彼は恐るべき炎の使い手、いや炎神の遣い手であり、彼の手に掛かって燃え無かったものは無かった。

 彼は決して未熟者ではなかった。

 だがどうだろう。
 今日はその例外が二つ。

 オスマンの灰塵と、ロングビルの脊柱骨は、彼の激しい炎にも関わらず燃え残った。
 まるでそれが、燃やせども燃え尽きぬ、彼らの魂と運命からの本質であるかのように!

 そしてロングビルを燃やした炎は風を生み、オスマンだった灰は巻き上がり、月光を遮り、周囲をくすんだ灰色の神妙な色に染め上げる。
 そう、灰色だ。
 時の彼方の腐敗と風化の魔神『クァチル・ウタウス』が司る、あの塵埃の灰色に。

 すると、何処からとも無く、そして何処からも声がした。
 灰塵に包まれて月光が灰色に染まる空間の至る所から。
 飄々とした、老爺の声が。

「気は済んだかのう? 炎神の使徒よ」


◆◇◆




 蜘蛛の巣から逃れる為に 27.白炎と灰塵の競演




◆◇◆


 魔法学院襲撃の日。
 それは、夏期休暇が明けて、女子生徒と幾分数は減った男子生徒たちが登校し、新学期がいよいよ始まったという、その日のことであった。

 異変は人知れず、ある即席の地下牢から始まった。

 その地下牢とは、オールド・オスマンによって作成された、“炎蛇”のコルベールを収容しておくための場所である。
 彼は二三日前に、国の女性近衛隊士を襲撃した廉で監禁されているのだ。
 ……まるで悪さをした子どもに対する罰のような扱いだが、三百年を生きるオスマンにとっては、四十そこらの男など赤子のようなものなのだろう。

 地面から鉛直一直線に掘られた先に設えられた、その土牢の中は最低限の魔法の明かりしか置かれておらず、薄暗い。
 土牢には簡素な机が設えられており、コルベールはそちらに向かって一心不乱に何かを紙に書き付けている。
 紙とペンは見張りの平民衛兵に言って持ってきてもらったものである。ちなみに紙は羊皮紙ではなく、メモ用の繊維の短くなって品質も低い、劣化しやすい安価な再生紙である。紙の技術は遥か昔から存在し、蜘蛛のアトラナート商会の台頭によって更に革新が進んでいる。

「……む、これでは駄目だな……」

 彼は土塊から歯車のような金属部品を錬金しては、スケッチを修正し、金属部品をいじくり回している。
 それを見つめる熱い視線と、凍てついた視線がそれぞれ一組ずつ。

「ふふ、頑張ってね、ジャン♪」

 熱い視線の主人は、ゲルマニアが誇る天下の毒娘、キュルケ・フレデリカである。
 コルベールはキュルケの熱い視線も、コルベールは何処吹く風だ。

「だから私は生徒とそういう関係になるつもりはないと言っているだろう、ミス・ツェルプストー」
「もう、ジャンったら堅物なんだから。そうは言っても、命令となれば喜んで従うのでしょう?」
「……私は国に忠誠を捧げている。国から命令されれば、君の婿にでも何にでもなるさ」
「ほら、やっぱり堅物ね」

 奉職精神旺盛なコルベールの根源は、おそらく遥か昔の実験隊長時代から変化していないのだろう。
 彼は、彼が操る炎とは対照的に、そして蛇の名を冠する二つ名の通りに、技量も体力もその精神までも、まるで不変の有様なのだった。

 コルベールはメモ用紙に幾つかスケッチをしては、土牢の床の土塊から適当に何か金属製の筒や、やや丸みを帯びた三角形のような歯車というかクランクというか、そういった機械部品を錬金しては組み合わせ、微調整している。
 彼が作ろうとしているものは、内燃機関の一種であるロータリーエンジンである。
 クランクを介してではなく、回転軸に直接動力を伝えるタイプのエンジンだ。

 その設計図は彼の研究室で埃を被っていた研究書から、彼の世話を買って出たキュルケ嬢が探して持ってきたものだ。
 監禁されて暇なコルベールが、研究室に積みっぱなしにしていたものを所望したからだ。
 適当な模型でも作って暇を潰していないと、時間が有り余って仕方ないのだった。

 燃える微熱の視線はキュルケのものだった。
 では荒野の吹雪のような凍てつく視線の主人は?

「……。ふん、茶番だ」

 ギリギリと歯噛みしながら、人すら殺せそうな空気を出しているのは、魔法衛士隊のアニエスだ。
 積年の恨みを満載した視線によって、空間が歪曲してるような錯覚を覚える。
 一言で言うと、『アニエスちゃん、目、怖っ!!』である。

「あら、貴女もいい加減に王宮に戻れば宜しいのに」

 アニエスの殺気が篭った視線を遮って、キュルケが胸を張る。
 たわわな乳房が揺れる。
 だが、この中で誰もそれを気にする者は居ない。
 女性であるアニエスは勿論、冷血のコルベールもそんな色仕掛けには応じない。

 唯一の候補としては、オスマンからコルベールの監視を言い渡されている男性衛兵が居るのだが、彼は三人の凄腕メイジたちが視殺戦によって醸し出した
尋常ならざる空気によって、既に頭を抱えて蹲っている。
 ちなみに彼は、二日前に内臓が抜け落ちても尚動いていた不気味な乞食を介抱した衛兵でもある。
 幸運値が低いのかも知れない。


 意識を頭蓋の外に飛ばしている運のない衛兵はさておき、微熱と氷餓の相反属性の二人は、土牢の外で向かい合う。
 アニエスが牙を剥き出しにして猛々しく言葉を放ち、キュルケが妖艶に手を口に当てて受け流す。

「そこの炎蛇を放っておいて、おめおめと王宮に戻れるか!」
「あら、任務は良いのかしら? 王宮に戻らないのなら、ラグドリアンの顛末を見届けなくてはならないのはなくて?」
「知ったことか! もとより故郷の敵討ちのために入った近衛だ、仇が目の前に居る以上、任務などどうでも良い!」

 くすくすとキュルケが笑う。

「でもどうせ、ジャンには勝てないわよ? それは身を以て思い知ったのではなくて?」
「ぐぬっ……」

 痛いところを突かれて、アニエスは黙る。
 そうだ、今はなんとか目覚めて、気力で意識を保っているが、アニエスは死んでもおかしくない重傷を負っていたのだ。
 他ならぬコルベールの手によって。

 アニエスはその時のことを思い出して、歯噛みする。

 まるで手が出なかった。
 二十年かけて到達した彼女の駆動氷鎧による高速戦闘は、炎蛇の技量の前に無力だった。
 杖術と体術で近接戦を封じられ、中距離では爆裂する炎の玉によって翻弄され、遠距離では炎の蛇に呑まれて完敗した。

 あの魔法を斬る魔剣を携えた剣士、サイトが居なければ、そしてオスマンの仲裁が間に合わなければ、アニエスは今頃炭になっていただろう。
 牢獄の向こうで炎蛇がアニエスを無視して書物を読んで部品を錬金しているのも、オールド・オスマンから(つまりはコルベールの上司から)、コルベールが“アニエスには手出し無用”と厳命されているからに過ぎない。
 コルベールは、軍人らしく、命令に忠実であるだけだ。命令だから、彼女のことを無視するのだ。

 悔しい。アニエスは歯噛みする。
 なぜ自分は無力なのか。
 復讐を誓った怨敵が目の前にいるのに、何も出来ないなんて!
 悔しい、悔しい、悔しい。

 知らぬ間に潤んで涙に滲むアニエスの視界の中で、コルベールは彼女など居ないかのごとく振舞っている。
 歯牙にも掛けられていない。
 その事実がさらにアニエスを責め苛む。

 ふと、彼女は思う。

 自分の師匠なら、どうだろうか、と。
 あの炎蛇に勝てるだろうか。
 炎神の使徒を自認する、あの白炎の養父は、炎蛇を叩き潰せるだろうか。

 その思考がトリガーになったわけではあるまいが、コルベールがピタリと動きを止めて、キュルケに語りかける。

「そうだ、ミス・ツェルプストー」
「なぁに、ジャン?」
「今度は昆虫図鑑……いや、蜘蛛図鑑と陸生甲殻類図鑑を持ってきてくれないか?」

 そんなコルベールのリクエストに、キュルケは首を傾げる。

「なんでそんなものが必要なの? まあ持ってきてあげるけど」
「ああ、実は昨晩、見慣れない“蜘蛛”を見かけたのでね。それの種類が知りたくて。シャンリットの蜘蛛図鑑は、矢鱈と詳しいから、きっと載っているだろうと思ってね。まあ、蜘蛛じゃなくて蟹だったかも知れないが」
「ふぅん? 兎に角、八本足の何かが居たのね?」

 合点したキュルケが、ポンと手を叩く。
 然り、とコルベールが頷く。
 アニエスは、白炎と炎蛇の対決を想像して、上の空だ。

 コルベールは更に“蜘蛛”の特徴を詳しく述べていく。

「割と大きな、そうだな、手の平くらいの大きさだったかな」
「あら意外と大きいのね。怖いわ、ジャン。毒を持っていたらどうしましょう」
「毒娘の君に効く毒蜘蛛はなかなか居ないと思うがね。それこそシャンリットの千年教師長が化身したという大蜘蛛くらいじゃないかね? まあいい。だが何より印象的なのは、その色だ」
「色?」

 キュルケの相槌に、コルベールは饒舌になる。
 ルイズが施した精神分析レッスンは、キュルケとコルベールの関係に良い効果を与えているようだ。

「そう、色だ。珍しいことに、その蜘蛛は、真っ白だったのだよ」
「へぇ、そうなの。珍しいのね」
「アルビノ(白化症)か、とも思ったが、どうにも違うようだった。例えて言うなら、溶け出して固まったラードのような、不潔な白だ。屍蝋のような、と形容しても良いかも知れない」
「そんな、何と言うか、ぶよぶよした感じだったの? 蜘蛛なのに?」

 固まった脂のようなねっとりとしたイメージと、蜘蛛や蟹のイメージは、そぐわないようにキュルケには思われた。

「ひょっとしたら、脱皮したての蜘蛛か蟹だったのかも知れないな」
「ああ成程、きっとそうよ、ジャン」
「だが、それにしてはあの“蜘蛛”の脚の形は、不可解だったのだ。それがどうにも気に掛かる」

 だから図鑑を持ってきて欲しいのだ、とコルベールは言う。

「そんなにおかしな形だったの? 例えば、そうねぇ、二股に分かれて途中から十六本になっていたとか」
「いや、数はきちんと八本だったと思う。私は二十までなら、何でも瞬時に数を把握できるから、間違いない」
「まあ凄い、ジャンってばそんな所も凄いのね」

 通常の人間は、六か七の数しか一瞬では認識できないが、コルベールは二十までなら認識出来るという。
 いわゆる天才なのだろう。
 まあ、二十歳そこらで魔法研究所実験小隊の隊長を務めるくらいなのだから、天才で然るべきなのだが。

「それで、その“蜘蛛”の脚だが――」
「どんな奇妙な脚だったの?」
「それがまるで、ミニチュアのヒトのような脚だったのだよ。足首とふくらはぎ、膝と太ももがはっきりと識別できた」

 それを聞いてキュルケは、昔に聞いた童話を少し思い出した。
 百足に靴を作ってやる話だ。
 ヒトのような脚の“蜘蛛”なら、それはきっと靴を履いているに違いないと、彼女は考えた。

「あら、じゃあやっぱり靴を履いていたのかしら? 赤い靴が似合いそうね」
「うーむ、靴は履いていなかったと思うが」
「じゃあ確かめてみましょうよ。きっとまだこの部屋の中に居るわよ。ねえ、ジャン、貴方がその不気味な白い“蜘蛛”を見たのは、どのあたり?」

 キュルケの問いに答えるために、コルベールは静かに腕を上げ、地下室の一角、衛兵の男が突っ伏している辺りを指差す。

「ちょうどそこの衛兵の彼がいる辺りだ」

 そう言われて、キュルケがコルベールの指が示す先を見る。
 いつの間にか思考の海から戻ってきていたアニエスも釣られてそちらを見る。

 衛兵の男は、動かない。

「彼が、ああやって突っ伏してしまう直前に、彼の足元に“蜘蛛”がその八本の人形のような脚を無様にばたつかせて駆けていくのが見えた」

 衛兵の男は、動かない。

 普通の神経をしていれば、そんな不気味な“蜘蛛”が自分の足元にいるかも知れない、などと言われれば、反射的にその場から飛びすさってしまうだろうに。
 衛兵の耳には、メイジたちの会話は届いていなかったのだろうか?

「ふぅん? ねえ、そこの衛兵さん? 起きてる?」

 衛兵の男は、動かない。

 寝ているのだろうか。

「ねえ、聞こえてるの?」

 衛兵の男は、動かない。

 貴族の呼び掛けを無視したとあれば、場合によっては衛兵長から訓告ものなのだが。
 キュルケが柳眉を釣り上げて、怪訝そうに衛兵の彼に近づく。

 不穏な空気を感じ取ったのか、アニエスは自然と杖に手を伸ばしていた。
 コルベールはそもそも常在戦場、いつでも臨戦態勢である。
 窖に凍気と火焔の気配が混ざり、蜃気楼のように空気が歪む。

「ねえってば!」

 それでも、衛兵の男は、動かない。

 そうしてキュルケがいよいよ衛兵の男の肩に手をかけようとする。
 しかし、途中でその手がピタリと止まる。



 動いている。
 動き始めた。
 衛兵の男の頭が、動き出した。

 メリメリと。
 ムクムクと。
 ギュブギュブと。

「な、何よ、これ――?」

 彼の頭部が蠢き、そのシルエットを変えていく。

 大泉門から、脳髄液が泉のごとく湧くようにして。
 ヤゴからトンボが羽化するように。
 蛇口に繋がれた水風船が破裂せんばかりに膨らむように。

「ヤダ、何? 何なの!? やだぁ! ジャン、この人、オカシイわ!」
「離れたまえ! ミス・ツェルプストー!!」

 キュルケが悲鳴を上げるのと、衛兵の頭皮が膨張に耐え切れずに裂け、その中から何かが突き出るのは同時だった。
 コルベールは即座に魔法を展開。
 アニエスも氷鎧の魔法を唱え、不測の事態に備える。

「ウル・カーノ!!」

 汚物は消毒だ。
 疑わしきも消毒だ。
 一切合切、消毒だ。

 ほとんど機械的に、染み付いた動作でもって、コルベールはルーンを唱える。
 彼の杖から炎が迸る。
 その先には、異常の根源、衛兵の頭から突き出した、血と脳漿に塗れた、何モノかの腕があった。
 キュルケが悲鳴を上げる。

「腕っ? 一体誰の!?」

 筋骨隆々とした腕。
 日に焼けた――いや、火に焼けた浅黒い色の、男の腕が、衛兵の頭を突き破って生えている。
 その謎の手には、無骨なメイスが握られている。

 一体、その腕は何処から生じたものであろうか?
 衛兵の頭蓋容量には収まりきらないそれは、突如として生えてきたようにしか見えなかった。
 すると腕が周囲を探るようにメイスを振り回す。

 それに応じて、衛兵の身体がびくびくと痙攣する。
 この期に及んで、衛兵の身体は未だ生きているのだ。
 脳をかき回されて、彼の体が跳ねる。

「その腕、誰のものだか知らぬが、脳髄から突き出るなど、碌なものではあるまい。燃えて尽きろ!」

 コルベールが操る蛇のような炎が、メイスごと謎の腕と衛兵を呑み込む。

 次の瞬間。
 狭い土牢の中に、爆炎と熱風が吹き荒れた。

「きゃああああ!?」


◆◇◆


 爆炎が土牢の狭い空間を席巻する寸前に、コルベールは見た。

 彼の放った炎の蛇が、謎の腕のメイスから放たれた、白熱した火焔に巻き込まれて掻き消えるのを。

 その直後、膨張した白炎は、衛兵の首から下を飲み込み、そして土牢中を蹂躙したのだ。


 コルベールは狭い土牢の、その格子越しに、衝撃と酸素欠乏と有毒ガスにより朦朧とする意識をなんとか繋ぎ止めつつ(火のメイジは毒に強い――それは一酸化炭素や青酸のような呼吸毒に対しても同様である)、ランプが壊れたせいで徐々に薄れ行く灯りの中、驚くべき光景を目にする。
 支えとなる体を失って投げ出された衛兵の生首――それは既に生首というよりは、謎の腕に付属した不気味なオブジェとしか見えなかったが――から、ずるずると人間が這い出して、いや、産み出されてきたのだ。
 生首の頭蓋はザクロのように割れて、そこから傭兵風の男が、ずるずると現れてくる。

 その不審人物は、すっかり生首の脳髄から自分の身体を引き抜くと、こきこきと首を回す。
 用を果たした衛兵の生首は、その男が足を振り下ろして踏みつけることで、完全に元型をとどめなくなる。
 男の踏み付けを避けて、生首が潰れて脳漿や眼球を飛び散らせて赤い舌をだらりと晒す寸前に、コルベールの言っていた人のような足を持った白い肌の奇妙な“蜘蛛”が、生首の脳髄の、その脳回路の迷宮から飛び出した。

「ふん、便利なものだ。アイホートの雛を使った相似概念による、大陸迷宮要塞と、個人の脳神経迷宮の接続――それを用いた瞬間転移法。これだけのお膳立てがあれば、国家中枢への浸透撹乱も容易だろうさ」

 そう、コルベールには意味の分からない言葉を呟いて、傭兵風の男は“蜘蛛”を――彼の言葉によれば“アイホートの雛”を――見送る。
 傭兵風の男は、ニヤリと口の端を上げる。
 残っていた魔法のランプの光の残滓が闇に飲まれる。

 暗黒の中、死体の肌のような“雛”の白いシルエットが焼き付いて離れない。

「そうだ、行け。またお前の小さな体が支配できる迷宮に――抵抗力の少ない平民の脳の迷宮に入り込め。まだ浮遊大陸の地下迷宮から部下たちを呼び寄せるのには、門が足りないからな」

 コルベールは、その男の声に聞き覚えがあることに気がつく。
 闇が聴覚を鋭敏にしたのだろう。
 一体何処で聞いたものだったか――。

 そのコルベールの思考を断ち切ったのは、アニエスの驚きの声であった。

「いつつ……。一体何が――って、この気配は、師匠!!?」
「うん? 何だ誰かと思えばその声と凍てつく体温は、アニエスか。貴様こそ何でこんな所に居る。王宮の近衛魔法衛士になったのではなかったか?」
「任務で学院に来てるんですよ! メンヌヴィル師匠は一体どうして、というか、何処からっ!?」

 そうだ、メンヌヴィルだ。

「メンヌヴィル?」
「うん? 何だ、誰かと思えば、その声は、その温度は――そうかコルベールも居るのか」

 傭兵がコルベールの方を見る。
 コルベールが反射的に唱えたルーンによって魔法の炎が杖に宿り、傭兵の顔を照らす。
 コルベールやメンヌヴィル程の炎の使い手は、蛇のように熱源を感知できるから、灯りは必要ないのだが、やはり、灯りはあった方が便利ではある。
 揺らぐ炎が陰影を作る。

 ああ、確かにメンヌヴィルだ。
 あの忌まわしのダングルテールで任務中に失踪した、炎のメイジ。
 アニエスという女衛士といい、メンヌヴィルといい、あの恐ろしの氷と風の人喰の虐殺のダングルテールを思い出させることが、最近は多すぎる。

「どうした、隊長殿? まるでケロイドのような頭じゃないか。フハハ、滑稽だぞ」

 明かりに照らされるコルベールの禿頭を見て、メンヌヴィルは笑う。
 別段、炎のメイジにとって灯りは必須ではないから、盲目でも戦えるだろう。
 熱源探知は皮膚感覚だからだ。

 かと言って、好き好んで盲目になる者が居る筈も無し。
 メンヌヴィルは、しっかりと両目でコルベールと、彼が使う炎の蛇を見据える。

 そして、鼻で笑った。

「フン」
「何がおかしい、メンヌヴィル」
「貴様の時間は、あの惨劇の夜から、全く進んでいないのだな、と思ってな。ええ、コルベール」

 メンヌヴィルは語る。

 ――あの夜に、お前は、ダングルテールを焼き滅ぼした。
 ――あの氷の獣の蔓延る村を。
 ――だが、凍てつく人喰のケモノの呪いは、お前を逃さなかった。

 ――彼らは焼かれたが、お前は心を凍らされたのだ。

 ――未だスクエアには至っていないのだろう?
 ――若き頃からアカデミーの暗部で養成された、あの天才児たる貴様が、二十年も鍛錬を続けて、何故、一つもランクが上がらない?

 ――心が凍っているからだ。

 ――魔法とは、心の、魂の力を必要とする。
 ――心が凍っている貴様は、故に、成長できない。

「全く、貴様の心は、成長していない。本当に、本当につまらない男だ。俺が焼く価値も無い」
「っ、黙れ!」

 コルベールが杖を振るう。
 炎の蛇が、土牢の格子を潜って、メンヌヴィルに伸びる。
 だが、それとは裏腹に、コルベールの心は、その感情は、少しも熱くのたうってはいない。

 全くの冷血。
 だが、その事実が、メンヌヴィルの言葉が真実であることを証明する。
 ウェンディゴとイタクァの呪いによって凍らされた感情、魔法の根源――凍てついてしまった、コルベールの心。

 嘲るように笑うメンヌヴィルの杖から、白熱した炎が迸る。
 白炎は炎蛇を迎撃せんと接触する。
 そしてそこから先は、メンヌヴィルが現れた時の巻き直しだ。
 即ち――。

「残念だ。畏るべき“だった”隊長殿。貴様は最早、俺の敵たり得ない」

 落胆するメンヌヴィル。
 炎蛇が、白熱した火球に吹き飛ばされる。
 迫る白炎の火球を、コルベールが防ぐ術はもう、ない。

 だが――。

「ジャン!!」

 そう、この場には未だもう一人メイジが居た。
 “微熱”のキュルケ。
 最初に吹き荒れた爆風の余波で今まで身動きが取れなかったが、旧ゲルマニア地区が誇る毒娘、キュルケ・フレデリカ・フォン・ツェルプストーが、白炎の前に立ちはだかる。

「いけない、ミス・ツェルプストー!!」

 炎の射線に躍り出たキュルケを、コルベールが制止する。
 それは、教師としての職務上の義務感から来るものだったのか、はたまた、何か別の感情によるものだったのか。
 コルベールの凍った心に、微熱が宿る。
 火が灯る。


 アニエスはキュルケの特攻を前に息を呑む。

(何と無謀な――)

 よく訓練に付き合ってもらったし、実際に養父メンヌヴィルの戦いを間近で見たことがあるので、アニエスにはよく判る。
 キュルケの行動がどれほど無謀なのか。
 文字通りに何物も残さず燃やし尽くす白炎の前に、身を投げ出すことの、どれだけ勇気の要ることか!


 白炎に背を向けるように火球の射線に飛び込んだキュルケは、コルベールを守るように両手を広げて――最後に、微笑んだ。


 その笑顔に、コルベールはこの二十年感じることのなかった、胸の疼きを覚えた。
 絞めつけるような、切なさ。
 久しぶりの、情動。
 強い強い強い、炎のような感情。

 コルベールは土牢の格子に体当りするように張り付き、キュルケに手を伸ばし、叫ぶ。

「キュルケ――!!」

 しかし、その叫びも、キュルケの微笑みも、アニエスの驚愕も、何もかもが再び吹き荒れた爆炎に呑み込まれた。


◆◇◆


 時刻は若干前後する。
 場所は学院から、トリステインの水源であるラグドリアン湖へ。
 異常に増水し、緑錆(ろくしょう)のような腐食が広がり、梔のような甘い香りを漂わせる、あの不穏の湖へ。

 ラグドリアン湖の異常を解決するために、ガリアとトリステインの首脳の勅命で、極零の魔女ルイズを主体とした調査団が現地入りをしている。
 各種の調査を終えて、充分に情報共有したルイズ達は、最後の情報収集のために、水精霊と会話をしようと、湖岸に向かっている。
 そのメンバーはルイズ、サイト、タバサ、モンモランシーの4名のみである(当然それぞれの使い魔も同行している)。

 当然、オルレアン公爵であるタバサ単身での行軍にガリア側は口を挟んだが、ルイズが機密保持の観点から、これを却下。
 ガリア側の一部の跳ねっ返りが実力行使に出るが、サイトがそれを鎮圧。
 少数精鋭の行軍は、ルイズとサイトの提案であるが、それは勿論、狂気に陥った味方から誤射される危険を少しでも減らすためであることは言うまでもない。

 サイトが一行の先頭に立って、魔刀デルフリンガーで道を切り開く。
 サイトの後ろに引き続いて湖岸の森を歩くルイズが、出し抜けに口を開く。

「それじゃあ、幾つかもう一度確認しておきましょうか」

 この事件の、予測される、おおよそのあらましについて。

「幾つかの証拠から、私は今回の“ラグドリアン湖の大増水”を、アルビオン新政府からの攻撃だと断定するわ」

 これをガリア・トリステイン混合の大増水対策本部でぶちあげた時は、その場の皆からありとあらゆる罵声が飛んだものだ。
 馬鹿な、ありえない、世迷言を、餓鬼が出しゃばるな。
 それらすべてを眼力と爆破の魔法で捩じ伏せて、ルイズたちは、水辺に向かおうと、今、森の中にいるのだ。

「まずは、私とサイトが湖のほとりで回収した、見るのも穢らわしい“緑の残骸”。あれは、アルビオンのセヴァン渓谷にその本拠地を持つ湖底の棘蛞蝓神“グラーキ”の従者が、陽の光によって崩壊したあとに残るものよ」

 まさに目の毒と形容するに相応しい、あの汚らしい緑錆のような、腐れた緑色。
 それはアルビオンに住み着く土着の神に関係するものらしい。

「湖畔が緑色に汚染されていたのは、その汚染範囲から鑑みるに、おそらくは何者かが、グラーキ神の毒棘を地面にでも突き刺したのでしょうね。そして――」

 その後に続く言葉を、モンモランシーが引き取る。

「――ええ、ルイズ。そして、このラグドリアン湖を覆う、甘ったるい、クチナシの花の匂い。そして、水底に沈んで死んだはずが生きていた村人。これも、その“ぐらーき”とかいう神様に関係しているんでしょう?」
「そうよ、モンモランシー。グラーキの死せる従者に特徴的な、この甘い匂い。そして、死者を支配して従者として蘇らせる、グラーキの神毒。これらから、まず間違いなく、グラーキが関与していることは確実ね」

 少なくとも、私はそう判断したわ。

 ルイズはその言葉を付け加えるが、それが含む余談のニュアンスとは裏腹に、彼女がこの事件のあらましを理解し断定してしまっているのは、間違い無いだろう。
 彼女は確信している。
 だが、真実心の奥底では、それが外れて欲しいと願っているのだ。

 森を進みながら、彼女は傍証を積み重ねる。

「ここ数ヶ月で急激に増水したラグドリアン湖の水は、何処から来たのかしら? 周辺から無理やり集めたにしては、周辺地域で水に事欠いたという話は聞こえてこないわ」

 そうだ。
 水が増えたなら、それは何処から来たのか。

「そして、地形図から増水分の水量を計算すると――ラグドリアン湖の水底から100メイルまでの容積とほぼ一致するわ」

 まるで、底から水を吹きこまれたようにして、水位が増しているのだ。
 増水した水は、此処ではない何処かから、転移して湧き出したようにしか考えられなかった。

「音波調査で水底を探ろうとしたけれど、ちょうど水底から100メイルのあたりで、何か躍層があるかのように音波が反射して、それより下は探れなかった。まるで、そこから下が、全くの別物であるかのようにね。そしてきっと、これは偶然の一致ではないわ。ラグドリアン湖の水底を押し上げるようにして、何か別のものが湧き出しているのよ」

 だがしかし、どうやって?

「空間を跳躍して別地点を繋ぐ術式は、珍しいものではないわ。シャンリットの“ゲートの鏡”に、古の虚無魔法“世界扉”、そして邪法による“門の作成”……。でも、おそらくはこの場合は、もっとある意味で強力な作用なのでしょうね」

 それは一体?

「毒棘蛞蝓のグラーキ神は、湖底の神。故に、それだけの共通項があれば、ラグドリアン湖とセヴァン渓谷の湖が繋がるのに、理由は充分だわ。同じ水の底同士――その程度の概念が共通していれば、神にとっては、それは同じもの(・・・・・・・)なのよ」

 湖同士は、湖というだけで、グラーキにとっては区別する必要のないものなのである。
 ラグドリアンの湖も、セヴァンの湖も、湖には変わりない。
 故に、それらはいとも簡単に、グラーキ神の力を借りれば連絡するのだという。

 さらにルイズは論を重ねる。

「この異変が、グラーキ神の影響下にあるのは、おそらく間違いないわ。そして、そうだとするならば、恐ろしい仮説が成り立ってしまう」

 躊躇いがちに、違って欲しいと、否定したいと根源で願いつつ。

「“アルビオンは組織的に邪神の力を運用している”――空恐ろしい話だわ」

 既に繰り返された議論だが、確認のためにタバサがルイズに問いかける。

「これが、アルビオンと関係ない、ただの“神の気まぐれ”という線は?」
「……ありえなくはないわ。ただの偶然と考えることも、出来無いわけじゃない」
「なら――」
「でも、それは有り得ない。何故なら、あの腐れた緑の残骸の中から、これが発見されたから」

 ルイズはそう言って、厳重にパッキングされた遺留品を取り出す。
 タバサがそれを見て呟く。

「……徽章」
「そう。アルビオン軍の徽章よ。これが落ちていたわ」

 溶けて腐れた軍服と一緒に、アルビオンの陸軍を示す徽章が落ちていたのだ。
 ならば、アルビオンの関与はほぼ確定的だろう。
 他にも幾つか、見慣れない徽章が落ちていたが、それは新設されたアルビオン海軍のものであり、ルイズ達に見覚えがないのも当然であった。

 ルイズは厳重にシールされた徽章を仕舞いつつ、続ける。

「でも、この徽章の証拠以上に、私の直感が囁くのよ。“コレは奴らだ”、とね。――それに、私は知ってしまった。アルビオンの前王朝テューダー朝が滅びる時に、あの厳格なる“重圧”のジェームズ陛下が、邪悪な狂気に侵されて自分の家臣を嬉々として屠ったのを。そして、ジェームズ陛下と相対して感じた、あの墓地のような不気味な冷たさは、直接思い当たることはないけれど、でも確実に、見知った狂気と恐怖だったわ。即ち、恐るべき忌まわしの邪神たちと同じものよ」

 狂気に侵されたジェームズ王を覆っていた、人間には覆しようのない程に巨大で邪悪な、宇宙的な恐怖の気配。
 それは、ルイズにとって、そしてサイトにとって、ある意味で馴染みのある、そして、何としても忌避したい種類のニオイ(・・・)であった。
 慮外の存在に運命を狂わされる恐怖、そして、その理不尽に対する強烈な怒りが、ルイズとサイトを動かしている。

「第一、ずっと平衡を保ってきた邪神とハルケギニアの関係が、これほど急激に悪化するとは考えづらいわ。何しろ、そういうことにかけては、千年も前から、アイツら(・・・・)が腐心しているから」
「――千年教師長」
「その通り」

 タバサの指摘に頷くルイズ。

「このハルケギニアという箱庭を決定的に壊してしまわないように、あの蜘蛛の千年教師長は、あれでも細心の注意を払ってきたわ。生贄を求める神には適当に生贄を捧げて慰撫し、封印されている邪神はそれを維持するように監視して、交渉が持てる種族には様々な対価を手土産に接触して、ね。そこだけは、信用に値するかも知れない。――まあ、私がアイツを大嫌いなのは、そうやって世界を俯瞰する観察者気取りで人間のことなんかこれっポッチも考えちゃあいないところなのよね。結局のところ、アイツも邪神であるアトラク=ナクアの眷属には違いないのよ」

 話が逸れたわ、と言って、ルイズは仕切り直す。

「まあ、私が今のアルビオンを疑っているからそう思ってるだけなのかも知れないわ。全ては私の気のせいで、証拠の遺留品も、別の国の陰謀によって、その場にわざと置かれたものかも知れない」

 ルイズは溜息をついて、やれやれと首を横に振る。

「その可能性は捨て切れない。でも、きな臭い想像が当てはまる程度には、アルビオンは怪しいし、今回の件は時機的にもアルビオンに有利に作用している」

 アルビオンとハルケギニア諸国は、そう遠くないうちに戦争状態に陥るだろうと、あらゆる国の閣僚の見解は一致している。
 そうでなければ、アルビオンの海賊経済は立ち行かないし、今のアルビオン王朝スチュアート朝の摂政を務めるシャルル・ドルレアンは野心家だとも言われている。
 ならば、開戦までに時間を稼ぐために、大国ガリアと、ゲルマニアを魅了で併呑したトリステインの二大国への後方撹乱として、ラグドリアン湖を介した攻撃をアルビオンが仕掛けるのは、不自然ではない。

 事実、ラグドリアン地方の政情は不安定になっており、開戦を先延ばしにするべきだという空気も、ハルケギニア諸国には広がりつつある。
 口先上で血気盛んなのは、異端廃滅を宣うロマリアくらいだろうか。天空教徒は絶滅するべし、と。
 傍観者気取りのクルデンホルフは、通常運行だ。

「だから私は、この一件は全てアルビオンの差金だと判断して動くわ。アルビオン自体が邪神グラーキに操られているという線も無くはないけれど、どちらかというと、共謀関係にあるということの方があり得るかも知れないわ。アルビオンの版図拡大と、グラーキ神の勢力圏拡大が一致したのかもしれない。グラーキ神は、珍しいことに信者獲得に熱心な神だから」

 そこまで語ると、ルイズは左手を掲げて、指を3本立てる。

「事態を収束させるために、必要なのは、少なくとも3つ」

 ――一つは、アルビオンから侵入して湖底に潜伏していると思われる人員(十中八九ヒトでは無いだろうが)の排除。
 ――一つは、湖底に築かれていると思われる、彼らの拠点の破壊、および、アルビオンと繋がっているゲートの封鎖。
 ――最後に、汚染された湖水の排除、もしくは浄化。

「でも、これらを行う前に、私たちは、確かめなければならないことがあるわ。――それは水精霊について」

 荒ぶるラグドリアン湖の精霊である彼女が、果たして、敵なのか、味方なのか。
 それによって、事態収束の見込みは、大きく異なってくる。

 味方ならば良し。
 だがすでに水精霊が、毒と狂気に汚染された敵ならば――。

「場合によっては、水精霊と戦って調伏した上で、さらに邪神の信奉者と邪神の化身、最悪の場合は、邪神そのものを相手取る必要があるわ」
「……そうならないことを祈るわ」
「……。父祖から受け継いだ湖を、精霊を、殺すわけにはいかない。精霊相手には、戦いたくない」

 ルイズが語る予想に、モンモランシーとタバサは渋い顔をする。
 当然だ。
 ラグドリアン湖の湖畔に暮らす者たちにとって、水精霊は慈母のような存在なのだから。

「水の精霊が、血の盟約に素直に応じてくれれば、穏便に彼女から話を聞けるのだけれど」

 物憂げに溜息をつくモンモランシーを、ルイズとタバサが励ます。

「頼りにしてるわよ、モンモランシー」
「そう、貴女なら、出来る」

 それに応えてモンモランシーは、意識的に笑顔を作って、自らを鼓舞する。

「ええ、大丈夫よ。きっと、成功させる。水の精霊を、無事に呼び出してみせるわ」

 彼女が首に掛ける小袋から、彼女の使い魔である毒ガエルのロビンが顔を出して、ケロケロと主人を元気づけるように鳴く。

「ほら、ロビンも協力してくれるし、ね」
「まあ駄目なら駄目で手段はあるわ。荒療治になるけど、無理やり引きずりだすしかないわね」
「でもルイズ。貴女が消耗すると、その後の計画に差し障るんじゃなくって?」
「ええそうよ、モンモランシー。だからできるだけ成功させてちょうだいね」
「ふふ、貴女、プレッシャーかけたいのかリラックスさせたいのか、どっちなのよ?」

 ルイズの矛盾した物言いに、クスクスとモンモランシーが笑う。
 どうやら少なくともこれで、彼女の緊張は解れたようだ。
 何だかんだで、モンモランシーとルイズは仲が良い――とまでは行かないが、互いに認め合っている、というか、積極的に関わりあうほど仲良くはないが一目置いているというか、そう喩えるならば隣のシマのヤクザの親分の娘さん同士――って、ああそりゃそのまま貴族子女の関係で何も喩えになっていないが、まあそういう適度な距離感である。

 ルイズは幾分とリラックスした様子のモンモランシーを見て安心すると、満足気に頷き一つ。
 パチンと指を鳴らして、話を続ける。

「じゃあ、もう一度、今後の流れをおさらいしておきましょうか――」

 そうやって今後の作戦を確認する一行の行く手に、森の隙間から、陽光を反射するラグドリアン湖の水面が見えてきた。
 甘い、クチナシの花のような匂いが、一際強くなる。


◆◇◆


「じゃあ、ロビン。お願いね」

 モンモランシーが指から血を一滴、ロビンに垂らす。
 ケロケロと喉を膨らませて、ロビンは湖に飛び込む。
 毒気に汚染された湖だが、毒ガエルなら大丈夫だろう。

 ……まあ、実際はモンモランシーが解毒の魔法を遠隔施術でかけ続けているのだが。
 使い魔との共感覚を通じた位置同定と、使い魔の健康状態をリアルタイムでモニターすることによる非常に精密で高度な施術である。
 祈りを捧げる乙女のような格好で、モンモランシーは湖畔に跪いて、ロビンとの間のリンクに神経を集中させる。

 すると間もなく、湖面が銀色に輝き、不自然に盛り上がって、やがてそれは、少女のような姿をとった。
 水精霊が、血の盟約に応えて、その盟約の家系の者の姿を借りて顕れたのだ。
 虹色に輝く少女の姿をとった水精霊は、荘厳な美を湛えている。

 数日前に触手竜を追い払った時ほどの大音響ではないが、水精霊は全身を震動させて、ルイズたち一行に語りかける。
 どうやら先日ウォーターカッター乱舞で追い掛け回してきたのは、やはり、シャンリットの蜘蛛の眷属の気配を察知した為らしい。
 モンモランシ家からの事前報告で一応知ってはいたが、本当に、水精霊が狂ってなくて良かった、と一行は胸をなで下ろす。

 ベアトリスたちクルデンホルフ組を置いてきていて良かった。
 取り敢えず、第一関門突破である。

「何用か。単なる者よ。我は今、貴様らの相手をする、暇はないのだ。何度も何度も、呼び出しおって――」

 苛立たしげに、ぶつぶつと湖面を震わせると、直ぐに水精霊は水面の下に沈もうとする。
 しかしモンモランシーが、水の精霊を必死に引き留める。

「待って! 待ってちょうだい、水の精霊よ! 私たちはあなたを手伝いに来たの! あなたが困っているのは私にだって伝わっているわ。だって私たちは血の盟約で結ばれているもの」

 脈動するオパールの塊のような水精霊が、不定形の引っ込みかけの状態で留まる。
 彼女の表面は、懊悩する思考を反映して、グルグルとマーブル模様に渦巻いている。

「確かに。我は難題に、直面している。だが。貴様たちには、解決できまい」

 真珠色に輝く水塊が、沈む。



 その瞬間、虚空を閃光が走り、爆音が湖面を揺るがした。

「待ちなさい、水精霊」

 虚無(ルイズ)の爆発(エクスプロージョン)である。

 再び湖面が虹色に渦巻いて、立ち上がる。
 水の精霊が戻ってきたのだ。

「虚無か」
「そう、虚無よ。ついでにガンダールヴも居るわ」

 ルイズがサイトに目配せすると、サイトはデルフリンガーを抜き放ち、左手の使い魔(ガンダールヴ)のルーンを輝かせる。

「虚無に、ガンダールヴ。そうか。成程。それならば、あるいは――」
「ええ。だから、事情を聞かせてもらえないかしら。あなたの湖を取り戻すために、ね――水の精霊」

 ルイズがウィンクして、水精霊を促す。
 水精霊は、また思案するように身体をグルグルと渦巻かせて、シャボン玉のように表面を虹色に変化させる。
 そして、ついには観念して、彼女の抱える問題を語り始めるのだった。


◆◇◆


 学院の土牢の中。

 炎の暴風のあとに、立っているのは、メンヌヴィルだけであった。
 倒れているのは、三人の人影。
 その中の一人、爆発から最も遠い位置に居た、氷を鎧った騎士がよろめいて立ち上がる。

「師匠……」
「なんだ、馬鹿娘(アニエス)」

 口の端を上げて、メンヌヴィルがくつくつと笑いながら、アニエスに答える。

「手加減、したのですか?」
「ああ、まあな」

 本来であれば、いかにツェルプストーが誇る毒娘であっても、メンヌヴィルの炎の前には、跡形も残らないはずであった。
 だが、この土牢に倒れている人影は、アニエスを含めて三人(・・)。
 アニエスとコルベールと、キュルケだ。

 キュルケは、髪と背中を焼焦がしつつも、原型を留め、生きていた。
 彼女の焼けた場所から猛毒のガスが立ち上っているが、その程度でやられる者は、この中には居なかった。
 アニエスは半ば人外であるし、コルベールもメンヌヴィルも炎使いゆえの毒耐性を持っている。

「何故、生かしたのです?」

 アニエスはなんとなく想像がつきつつも、養父メンヌヴィルに尋ねる。
 メンヌヴィルの笑みが深くなる。

「決まっている。そちらの方が、生贄にするのに美味しいからだ」

 炭が爆ぜるように、メンヌヴィルが呵々大笑する。

「ハハハハハハハッ! 見ていたか、アニエス! あの毒娘、コルベールの心を溶かしたぞ! あの土壇場で!」

 愉悦と昂揚に染まった瞳で、メンヌヴィルが語る。

「そうだ、こういうことが、稀にあるのだ、戦場では。“愛の奇跡”というやつだな。ならばきっと、この先に、その愛の炎を燃え上がらせてからの方が――」

 獲物を見つけた猟師のように、いや、新芽の季節に収穫を幻視する農夫のように、快い表情だ。

「――我が神に捧げる薪にするには、相応しい!!」

 やはりか、とアニエスは思う。
 このメンヌヴィルという男は、人の価値を、その魂に絡みついた因業の重さで量るのだ。
 メンヌヴィルの仕える神に捧げるのに、その業が重いほうが、より良いのだという。

 まあ実際は、女子供を焼き払うことが出来ない、養父の甘さが原因なのかも知れない。
 偽悪的に振舞っているが、根本の部分では、メンヌヴィルは優しい人間なのだとアニエスは知っている。
 でなければ、アニエスは途中で捨てられるか、燃やされるかしている。

「アニエス。コルベールは貴様にくれてやる。研鑽を積み、奴が幸せの絶頂に居る時に殺してやれ。そうすれば、そこの毒娘の魂は、より一層の深みを増すだろう!!」

 舌なめずりをして、メンヌヴィルが呵いながら、土牢の出入口の縦穴を上に向かって、レビテーションで飛び上がる。

「ハハハハハハハッ――ああ、その時が楽しみだ!! だが――」

 偽悪的に笑うメンヌヴィルが、勢い良く縦穴から月夜の地上へと飛び出る。
 月が白炎の魔力に当てられて、陽炎のように揺らめく。

「だが先ずは、オールド・オスマン!! アイツからだ! 三百年の叡智は、どのような香りで燃えるのだ!? ああ、楽しみだ、楽しみだなあ! ハッ、ハハハハハハッ。きっと我が神も、お喜びになるだろう――」

 白炎の笑い声は、夜の静寂に紛れて消える。
 学院を強襲するには、白炎配下の傭兵部隊が、あの忌まわしの大陸=脳連結迷宮回廊を伝って集結するのを待たねばならない。
 学院に侵入した“アイホートの雛”が、平民の脳を侵略し、回廊を繋ぐまで、まだ暫し待たなくてはならない。

 そしてやがて、彼の部隊の兵隊たち――全てが全て炎神に仕える拝火教の信者である――は、脳迷宮の通路を伝って学院に集結し、ついに場面は、冒頭へと繋がるのだ。


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力尽きた。本当はオスマンとメンヌヴィルの戦闘で次回への引きにするつもりだった。
次回オスマンvsメンヌヴィル、湖の従者ラッシュ、の予定。

2011.07.27 初投稿
何気に投稿初めて一年。長かったような、短かったような。

2011.07.28 一部追加

どう考えても題名と釣りって無い内容なので、(前編)表記にしました。
2011.07.29

ヤマグチノボル先生が、無事に手術を終えられたことを祝って更新できればよかったのですが、もうちょっと時間が掛かります。
2011.08.06 誤字修正



[20306] 蜘蛛の巣から逃れる為に 28.白炎と灰塵(後編)
Name: へびさんマン◆29ccac37 ID:a6a7b38f
Date: 2011/08/15 20:35
 ラグドリアン湖上。
 巨大な竜巻が、湖水を上空へと吸い上げていく。
 かつて愛娘を取り返しにシャンリットに突撃した烈風カリンは、たった一人で都市災害(ディザスター・レポート)級の台風を発生させたというが、それに勝るとも劣らない規模の竜巻である。

 轟然と巻き上げられる水は、饐えたような甘い匂いを放っている。
 その竜巻を練り上げているのは、小さな小さな青い少女だった。
 蒼天よりも湖水よりも鮮やかな青い髪の少女が、天地を掻き混ぜた巨大な天津沼矛のごとき竜巻を操っているのだ。

 その横で竜巻を見上げるルイズが、青い少女――タバサことジョゼット・ドルレアンに話しかける。

「どう? 順調かしら、ガリア製の蜘蛛の糸は?」
「……出力良好。マジックカード・オブ・ミョズニトニルン、ガリアの護り絨毯は、瑕疵なく威力を発揮している。……蜘蛛の糸、とは呼ばないで欲しい。義母さま(かあさま)が厭がるから」
「……そうね、思慮が足りなかったみたい。私も、口に出してみてそう思ったわ。でも、“義母さま”? ミョズニトニルンと、あの鬱屈王は結婚したんだっけ?」
「“鬱屈王”も、禁止」

 誰だって、父母のように慕っている人たちのことを悪く言われれば、気分を害する。
 ルイズだって、父母を貶されれば、当然怒る。

 湖の毒気に当てられた所があるとしても、流石に無礼が過ぎた。
 神の頭脳(ミョズニトニルン)がシャンリットから奪い取った、大地を覆う魔道具を“蜘蛛の糸”と忌まわしい名前で呼び、ガリア王を“鬱屈王”だと貶めるだなんて。
 非礼は詫びなければ。

 素直に、ルイズは詫びる。

「ごめんなさい。タバサ。ホント今の私はどうかしてるわ」

 そう言う彼女の姿は、異形であった。
 朱鷺色の翼が生えた背中、半ばまで鱗に覆われた鋭い爪のついた手、百人居れば百人は振り返るほどのプロポーション。
 傍らには断続的に笛のような音を発する、夢のクリスタライザー。

 彼女の後ろには、長い長い鞭を携えたサイトが跪いて控えている。
 彼の身体は、ミ=ゴの生体装甲を応用した、甲殻類を思わせるような鎧で覆われている。
 右手に握られた鞭は、どれだけの長さがあるのだろう。湖をぐるりと一周してしまうほどだ。

 虚無の主従の周囲の景色は、彼らの漲らせる魔力によって、陽炎のように揺らいでいる。
 なるほど、これだけの魔力を漲らせていれば、少々HIGHになるのも頷ける。
 タバサは、おどろおどろしいまでの迫力を醸しだす虚無の主従に若干引きつつも、ルイズに返事をする。

「大丈夫、気にしていない。それよりも、これからの準備は、出来ている?」

 作戦の肝心要は、やはり、この虚無の主従――ルイズとサイトなのだ。
 勇猛果敢なのは結構だが、浅慮短慮の傲慢はいただけない。
 戦術思考は万全か、とタバサは問う。

 タバサの問い掛けに、ルイズは、艶然と微笑んで答える。

「万全よ。少なくとも私はね。――サイトは?」

 主人の問い掛けに、跪くガンダールヴが答える。

「問題ないぜ。夢の結界による肉体強化は万全だし、武器も十全だ。なあ、デルフリンガー。なあ、エキドナ」

 彼のルーン輝く左手には魔刀が。
 そして右手には、ぐるりと湖を一周するような長さの、長大な、まるで巨橋を吊り下げる索条のような、世界を囲む終焉の蛇(ヨルムンガンド)のような鞭が握られていた。
 この鞭は、翼蛇エキドナが精霊魔法で変化したものである。

 その魔刀と巨鞭のそれぞれが、操主のサイトに返事をする。

【もちろんだぜ、相棒!】
【ええ、サイト。貴方と共にある限り、私たちは無敵よ】

 頼もしいことだ、とサイトは思う。

 ルイズがサイトに声をかける。

「サイト、こっちへ」

 サイトは立ち上がり、ルイズが招くままに、彼女の正面に回りこむ。

 異形の夢の女王となったルイズと、サイトの視線の高さは同じくらいだ。
 二人の熱のこもった視線が、絡む。
 するとルイズは、ルーンが輝く彼の左手を掴み、デルフリンガーの切先を自分の目の前に持ってくる。

「……んっ」

 そしてそのまま、デルフリンガーの刃筋を、赤く長い舌で舐め上げる。
 当然、鋭い魔刀は、ルイズの舌を裂く。

「ちょ、ルイズ、何、デルフを舐めて――つうか、舌裂けてるっ! 何を――んぅっ!?」

 サイトがルイズの奇行に慌てるが、彼女は構わず、デルフから舌を離すと、そのままサイトの口を塞ぐ。
 ルイズの舌からあふれる鮮血が、サイトの口から漏れる。

「ん、ちゅ、……んぅ」
「ふ……ん、ぅぅんむ!?」

 サイトの口内を、ルイズの二つに裂けた舌が蹂躙する。

 鮮烈な血の味。
 歯列を舐め回す舌の柔らかい感触。
 それらに、サイトが目を白黒させる。

「ちゅ、んん、むぅ……、……ん」
「んん――――!?」

 そして同時に、彼の身体を駆け巡る、膨大な魔力の奔流。
 幻夢郷の魔女にして虚無遣い、そして彼の主人たるルイズの魔力を溶かした血が、一騎当千の英雄(ガンダールヴ)に染み込んでいく。
 生贄の乙女の血と、カーの分配によって交換された左眼、そして、使い魔と主の運命的な結びつきが、魔力を還流させ、増幅させていく。

 水を巻き上げる竜巻と、露になっていく湖底、そして湖底から這い上がる甘い腐敗の匂いと、口づけをする二人。
 まるで世界の終末を絵にしたようだ。

 そして充分に五分ほどは、下僕の口内を堪能してから、ルイズが口を離す。

「ん、ぷはぁっ。充電完了っ!」
「ぷはっ、な、何いきなりキスして、ルイズ――」

 熱い口づけを交わした二人の口の端から、ルイズの舌から流れた鮮血が滴る。
 べろりと、唇を舐め回すルイズの舌が、再生作用によって、見る間に塞がる。
 周囲の者が、彼女たちを囃し立てる。

【おお、魅せつけるじゃねえか、二人とも】
【嫉妬嫉妬。サイトは私のものなのにぃー】
「……情熱的」

 ルイズはそんな周囲を気にした風もなく、口から首筋に向かって垂れる血液と唾液の混合物を拭うと、そのまま勢い良く手を虚空に振り抜き、拭いとったそれを、湖を囲う鞭となったエキドナへと降り飛ばす。
 飛び散った唾液混じりの血液は、巨大な鞭となったエキドナに染みこんでいく。

「これで、サイトの力は数倍にも増幅されたはずよ。……私の力もね。やっぱり私たちは、身体も血も魂も、相性が良いみたいね。――気持ち良かったわ。んで、ちょっと癪だけど、ついでにアンタにもお裾分けよ、エキドナ」

 魔力の付与<ENCHANT>によって、デルフリンガーの刀身は清め<BLESS BLADE>られ、サイトの肉体は保護<FLESH WARD>された。デルフリンガーは何モノをも切り裂き、屠るだろう。強化されたサイトの肉体に与えられた加護は、これからの戦闘でのダメージを、大幅に軽減し、肩代わりし、普段に倍する力を彼に与えるはずだ。
 彼女の手から迸った接吻の残滓は、鞭となって横たわるエキドナに掛かり、やはりそれを強化する。この巨大なワイヤーは、触れるものを鎧袖一触に蹴散らすに違いない。
 そして、【カーの分配】によって、魂と肉体の一部を交換しているルイズとサイトは、お互いに相互作用して感覚を鋭敏化<KEENNESS OF TWO ALIKE>させた。励起され拡張された彼らの認識は、たとえ死角からの攻撃や未知の攻撃であっても、避け、防ぎ、対処することを可能ならしめるはずだ。

「さて、水の精霊も退いてくれたし、彼女が退いた窪みからの腐水の巻き上げも、いよいよ佳境みたいね」

 ルイズは、相変わらず轟々と渦巻く水柱を見上げる。
 そのまま水柱を伝って、視線は湖の底へ。
 水精霊が湖の水を移動させ、エジプト記のモーセのように、ラグドリアン湖が割れている。
 ちなみに、モンモランシーは、水の精霊との交渉が終わったので、危険を避けるために、湖から退避させている。
 タバサが操る、天を衝く竜巻は、その湖の裂け目から、さらに、水精霊の加護が及ばない腐水を汲み上げている。

 湖底に残る水量は、あと僅かである。
 目に見える速度で水面が下がり、湖底の泥が見えてくる。
 そして、水底に積み上げられた、奇怪で捻くれた、石のような動物の骨のような、何とも判別できない、建造物か墓標らしきものが、徐々に姿を現してくる。

 水底から現れるのは、モンモランシ領やオルレアン領の先祖たちが、祖先の鎮魂のために沈めた葬送儀礼品たちが織り重なったものだろう。
 だが、それは今や、汚らしいヘドロで覆われ、光を浴びて緑錆のようになって崩壊するアンデッドたちが蔓延る、異教の尖塔と化している。
 その尖塔からは、こんこんと毒に侵された腐水が湧き出している。

 甘く腐った、忌まわしく、穢らわしい匂いが、クチナシの匂いが、むっと臭ってくる。

 それを見たタバサが、嘆き、憤る。

「……酷い。私たちの先祖は、こんなモノのために、葬礼のヤグラを沈めたのではないのに――!」

 水を吸い上げられたラグドリアン湖は、いよいよ数千年ぶりに、あるいは数万年ぶりに、その底を白日の下に晒そうとしている。
 雲間から差した陽光が、湖底を直に照らす。
 じゅう、と何かが焼け焦げる音と共に、緑色の崩壊の噴煙がそこかしこから上がる。

「あらあら。これは案外簡単に済んじゃうかしら?」

 グラーキの神毒に侵された屍体は、陽光によって崩壊する。
 事態が簡潔に完結することを期待する、ルイズたち。
 だが、彼女たちの、最良の予想に沿って、神話的事態が展開したことは、一度としてないのだ。

 探索者が遭遇する事件は、常に、予想の斜め上を行く。

 不意に、軽快で捻くれて引き攣るように澄んだ、金管楽器の音が、湖底から奏でられた。

「フルート……?」

 フルートの狂った音色が、ナイアガラのように割れた湖の道に響く。
 そしてその一部が、フルートの音色と共に、不自然に暗黒化する。
 魔力を帯びた金管楽器によって喚起される、光を消す<DAMPEN LIGHT>魔術が発動したのだ。

「ふぅん、【グラーキの従者】の中に、魔術師が居るのかしら」
「まあ、“門”があるのだから、それを維持する魔術師くらいは居るだろう、ルイズ」
「陽光に対する対策は万全ってわけ? それともまた、あの混沌の化身の、【闇の跳梁者】でも出てくるのかしら?」

 湖の底に、暗闇が広がっていく。
 そして、光では見通せない、闇の中に、確かに蠢く者がいることを、サイトたちは感じ取った。
 風メイジであるタバサは、彼らの中でも鋭敏に、その邪悪な気配と動作する何モノかを感じ取り、その数に慄然とする。

「……数が、多い」
「そりゃあそうよ。タバサやモンモランシーのところの領民が、どれだけの遺体を、湖に還してきたと思っているの? 全てが全て、グラーキの神毒でアンデッドになった訳じゃあないでしょうけど――」

 見通せない闇の帳の向こうで蠢く気配の数は、百や千では到底足りない。
 湖の底自体が、まるで蠕動する巻貝の腹足になったかのように、ぞわぞわと律動している。
 水葬されて降り積もった遺体と、アルビオンから門を通じてやって来た尖兵たちが、黄泉返って死に損なって、地獄の軍団となって、ルイズたちに牙を剥こうとしていた。

 その数、ざっと見積もって――。

「――七万。そうね、敵兵は、七万の、死者の軍勢よ」

 その言葉を皮切りに、サイトが湖の底へ向かって跳躍する。
 跳躍によって惹起された振動が、ヨルムンガンドモードのエキドナを伝い、巨大な鞭を躍動させる。

「じゃあ、行くぜ、ルイズ!」
「ええ頼んだわよ、サイト。アンタが奴らを殲滅する間に、私は呪文を用意するから」
「ああ、前衛は任せろ! 神の盾の神威(ちから)を、見せてやる!」

 割れた湖。
 聳える水の竜巻。
 湖底の暗闇。
 七万の悪鬼。

 世界の終りのような、壮絶な景観。
 そのただ中を、右手に一リーグを超えるような長大な鞭を携えて波打たせ、左に魔刀を掲げ、英雄(ガンダールヴ)が、七万の死者の群れへと、邪神の尖兵へと突撃する。

「うおおおおおおおおおおおおおおお!!」

 終末の景色の中、突進する騎士。
 彼の背後で、高らかにルーンを唱える虚無の巫女。

 戦いが、始まった。
 神話のような戦いが。

 神に抗う戦いが!


◆◇◆




 蜘蛛の巣から逃れる為に 28.白炎と灰塵の狂宴




◆◇◆


 時刻は若干前後する。
 夜半。場所は、トリステイン魔法学院。
 そこでも、人外の、神話の戦いが繰り広げられていた。

「かはは、ニンゲンにしては良く粘るのう! さすがは、音に聞こえし火焔の傭兵、“白炎”のメンヌヴィル!!」

 砂煙や重い霧のように、何か灰のようなものが、視界を遮る。
 灰色の塵埃が、傭兵メンヌヴィルに降り積もらんと、深々と落ちてくる。

「くっ、ロートルかと侮っていたが、成程、これが貴様の本気か! オールド・オスマン!」

 直後、メンヌヴィルが操る白熱の火焔が、彼を覆い潰さんとした得体の知れない“灰塵”を吹き飛ばし、掻き散らせる。

 周囲は一面、汚れた雪景色のように、灰がうっすらと積もっている。
 人質の生徒も、メンヌヴィルが連れてきた傭兵も、誰も居ない。
 見渡すかぎり、灰色で、崩壊した、風化した、世界。

 その灰色の世界の真ん中に、焼け焦げて捻くれた脊柱骨のような不気味な杖を持つ、老爺――オールド・オスマンが、佇んでいる。
 深々と降り積もる灰色の雪が、メンヌヴィルとオスマンを隔てている。
 距離にして、70メイルほど。

 たった70メイル。
 その程度の距離、メイジの戦いにおいては、無いも同然である。
 だが、その70メイルが、異常に遠い。

 メンヌヴィルが、トリガーワードを叫ぶ。

「“白炎”!!」

 次の瞬間、メンヌヴィルの杖から、全てを焼き尽くす炎が迸る。
 炎は、70メイルの距離をあっという間に食い潰し――オスマンを呆気無く飲み込んだ。

「くっ、またか!? この炎でも、未だ足りないというのか!」

 だがその戦果を見ても、メンヌヴィルは苦虫を噛み潰したような表情をするだけであった。
 確かに、オスマンは燃え尽きた。
 白炎は、三百年を生きる、時の魔神の下僕を、飲み干した。

 黒焦げた背骨のような杖が、がらんと投げ出されて、塵の海に落ちる。
 しかし、この戦場を覆う、灰色の塵の雪は、一向に収まる気配はない。

『無駄無駄。無駄じゃよ、メンヌヴィル君』

 そして、この塵色のフィールドのそこかしこからオスマンの声が――。

 否。

 全てを覆う塵の一つ一つ(・・・・)から、オスマンの声が反響する。
 無数の塵の全てが、オスマンの残骸であり、そして、彼の本質であるのだ。
 オスマンが、呪われた最果ての魔神“クァチル・ウタウス”の使徒であることの証なのだ。

『お主もさっさと塵になるがいい。全ての時間が崩壊したあとにも、塵は残る。塵こそが残る。風化と腐敗の果てを垣間見るが良い。君の部下たちのように、魂までも崩れると良い』
「ほざけ!!」

 一喝。
 メンヌヴィルは静かに降り積もる塵を、炎の爆圧で払い除ける。
 この塵に触れてはいけない。

 この“塵”は、オスマンの燃え滓で本質たる灰塵は、ただの塵ではない。
 

 風化の魔神の加護を受けた、オスマンの“塵”は、『触れるもの全てを風化させる』。

 この塵に触れた途端に、メンヌヴィルの部下たちは、一瞬で老人になり、そして、身体の端から細かな塵に分解されて崩壊して、終には、一塊の塵の山になってしまったのだ。

「おおおお! オールド・オスマン! 貴様は許さん! 許さんぞ! よくも、俺の部下を! 信仰を同じくする同胞を! よくも、よくも、よくも――」

 メンヌヴィルを中心にして、炎の魔力がうねり、彼に降り積もろうとする塵の雪を、掻き乱す。
 彼は、怒っていた。
 死んでも魂を炎の神に捧げると誓い合っていた、彼の傭兵団の部下たちの、あの、死ぬよりも悲惨な末路を、声なき無念の叫びを思い出し、怒りに燃える。
 怒りを燃やす。
 全身全霊の憤怒を燃料にして、魔力を噴出させる。

「許さん、許さんぞ! オールド・オスマン!」
『先に学院を襲って――ワシの領域に手を出してきたのは、お主らじゃろうに。まさか傭兵稼業の者が、死ぬ覚悟もできていなかったというのかのう?』
「貴様ああああ!!」

 炎が、灼熱が、爆風が、灰色を掻き乱す。
 陽炎が、灰色を歪め、虹色の儚い蜃気楼を見せる。

「ああ、そうだ、俺たちは、傭兵だ。死ぬ覚悟なんて、疾うの昔に出来ている。たとえ戦場で死のうとも、その魂を炎の神に――クトゥガ様に捧げるのだと、そう誓い合っていた!」

 部下たちが殺された。
 見るも無残に殺された。
 肉体が風化して、塵にされて殺された。

 そう、それだけ(・・・・)なら、まだ良かった。

「だがなあ……、こんな、こんな――捧げる魂すらも崩壊する(・・・・・・・・・・)終わりなど、奴らは望んでいなかったのだぞ!!」

 クトゥグアに信仰を捧げるメンヌヴィルの、神官として研ぎ澄まされた感覚は、部下の魂の行く末を見てしまった。
 彼らの魂は、あの星辰の果ての煉獄フォーマルハウトへと飛び立つ前に、灰色の光に飲まれて、魂までも塵になってしまったのだ。
 灼熱の信仰に捧げるはずの魂が、無念のうちに塵になる、あの無念と悔恨の叫びが、メンヌヴィルの耳から離れない。


 ――嫌だ、このまま塵になるのは嫌だ。
 ――クトゥガ様の御下に行くのだ。
 ――誓いを、信仰を果たすのだ。
 ――こんな、こんなところで、魂さえも朽ち果てるのは、絶対に、嫌だ。
 ――隊長。
 ――メンヌヴィル隊長。
 ――どうか。
 ――どうか。どうか、仇を。
 ――お願いします。
 ――お願いします、お願いします、お願いします。
 ――そして、ごめんなさい。
 ――どうやら、私たちは、もうダメのようです。
 ――時間が。
 ――腐敗と風化の死神が、後ろから追い抜いて。
 ――ああ魂が、最早持ちません。
 ――ごめんなさい。
 ――すみません。
 ――ごめんなさい。
 ――フォーマルハウトで待つことも出来ません。
 ――塵を踏む足音が、死神の足音が、魂を踏み躙らんと。迫って。
 ――無念です。
 ――嫌だ、嫌だ、このまま、消えるなんて、絶対に――


 奥歯を噛み締めて、杖を握り潰すほど拳に力を込めるメンヌヴィルを前に、ざあ、と塵が集まる。

『ほ、ほ、ほ。そう憤ることもあるまい。何、直ぐにお主も、おぉんなじよぉうぅにぃ、塵にしてやろうっ!』

 旋風のようにして集められた塵は、直ぐに人型に固まっていく。
 中から現れるのは、塵が固められて出来た、ミイラのような、縮こまった、悍ましい老人。
 時の魔神クァチル・ウタウスの使徒、オールド・オスマン。

 干からびて皺くちゃのそれは、引き攣るように凝り固まった手足をギシリと動かすと、灰の海に沈んだ、自分の杖を『念力』で引き寄せる。
 直ぐにオスマンの愛杖は、うっすらと積もった灰の雪から飛び上がり、彼の干からびた手に収まる。

 焼け焦げたように黒い、人間の脊柱骨のようなそれは、300年前からオスマンと共に在った、知性ある杖<ウードシリーズ>の169番目である。
 普段は人間を象ったガーゴイルを纏っており、オスマンの美貌の秘書ユージェニー・ロングビルとして、学院に務めていた。
 だが、その化けの皮も、メンヌヴィルの白炎の業火によって、一瞬で熔け落ちてしまい、今やインテリジェンス・メイスとしての本体が剥き出しになっていた。

 インテリジェンス・メイス【ウード169号】を手にしたオスマンの、猿のミイラのような腕に、周囲から更に塵が集まって、徐々に人間らしい腕へと肉付けしていく。
 『錬金』と、自らに重ねるように展開された『偏在』の魔法によって、オスマンの姿が偽装されてゆく。

「ほら、このとおり、いくら燃やされようとも、ワシは無傷じゃ。さっさと諦めて、お主も塵になれぃ!」

 オスマンが骨杖を振るう。
 それに応じて、輝く双月の光に混じって、エンジェルラダーのように、灰色の光条が落ちてくる。

 クァチル・ウタウスが齎す、崩壊の灰色。
 何者も逃れることができない、時間という死神の鎌。
 それが、戦場となった学院の庭全てを、照らし出す。

 逃げ場はない。

 周囲には、もはや彼ら以外誰も居ない。

 メンヌヴィルの部下たちは、既に塵になった。
 人質にされていた生徒たちは、既に、オスマンが操る『念力』の魔法によって、戦場の外に運びだされている。
 この戦いは、精神力が高いメイジとは言え、一般生徒には、ちょっとばかり、いやかなり、刺激が強すぎるからだ。


「ぐ、ぁ、ぁぁああああああアアアアアアアアア!!」

 灰色の光に貫かれて、メンヌヴィルが苦悶の絶叫を上げる。

「おぉ、おお!? 身体が、老いる、崩壊する――!?」

 見る見るうちに、メンヌヴィルの身体から、水分が失われていく。
 命が、魂が、磨り減って崩壊していく。

「存外に粘るのう、メンヌヴィル君。もう普通なら、跡形も残っておらん筈だが」
「おおお、こんな所で、俺は死ぬのか? 部下の仇も取れず、信じる神の御下にも行けず、ただの塵に成り果てるというのか――」

 オスマンの言葉は、最早メンヌヴィルには届いていないのだろう。
 這いつくばって、ぶつぶつと怨嗟の声を漏らしながら、メンヌヴィルが萎んでいく。

「ああ、神よ! 炎の王! クトゥガよ! 俺に、力を、奴を滅ぼす力を――」
「悪足掻きは止すんじゃな、炎の神官。――――塵を踏む者よ、彼の者を永劫の時の彼方に連れ去りたまえ」

 オスマンの言葉によって、灰色のエンジェルラダーが、さらなる重圧を伴ってメンヌヴィルに振りかかる。
 年季の違い。
 格の違い。
 仕える神は違えども、神官として巫覡として、オスマンとメンヌヴィルでは、その年季も実力も、全くもってオスマンのほうが上であった。

 だが、神は、メンヌヴィルを見放していなかった。
 彼が、オスマンの塵の攻撃を爆炎で散らして稼いだ時間は、無駄ではなかった!
 何故なら、刻が過ぎ、ハルケギニアの夜空は動き、遂にメンヌヴィルの宿星が――。

「フォーマルハウトに座します偉大なる炎神、クトゥガよ! ンガイの森を焼き尽くした如く、此処に顕現せよ!」

 ――地平線の上に、炎神の棲家たるフォーマルハウトが、煌々と輝き現れていた。
 這いつくばって、灰の海に沈み、最早身体を半ば以上塵とされながらも、メンヌヴィルが呪文を、祈りを、祝詞を唱える。

「ふんぐるい むぐるうなふ くとぅぐあ ふぉまるはうと んがあ・ぐあ なふるたぐん いあ! くとぅぐあ!」

 メンヌヴィルの四肢が砕けて、塵となって舞う。
 オスマンが、更に灰色の崩壊光を集中させる。

「ふんぐるい むぐるうなふ くとぅぐあ ふぉまるはうと んがあ・ぐあ なふるたぐん いあ! くとぅぐあ!」

 メンヌヴィルの詠唱にともなって、周囲の温度が上がる。
 次々に現れる、プラズマの光の玉。
 クトゥグアの招来の前兆として、彼の神性の従者である<炎の精>たちが集まりだしたのだ。
 灼熱による上昇気流が、学院の庭に降り積もった灰塵を巻き上げる。

「ふんぐるい! むぐるうなふ! くとぅぐあ! ふぉまるはうと! んがあ・ぐあ! なふるたぐん! いあ!! くとぅぐあ!!」

 メンヌヴィルの身体は、既に、ただの塵が辛うじて結合を保っているにすぎない状態だ。
 しかし、それでも充分だ。
 神官にとって、重要なのは、肉体ではなく、魂。
 魂が風化していない以上、祈りは、魔術は発動する。

「三度の聖句を以て、我、我が魂を、全ての業を捧げん!」
「お主、何ということを……っ! やめろ、それ以上は――」
「捧げる! 捧げる! 捧げる!! 業火の神よ! 我を喰らい、我が願いを聞き届け給え――!!」

 学院の庭は既に、オスマンの領域ではない。
 灼熱と電離気体が渦巻くそこは、炎の領域。
 祈りを捧げ、魂を捧げたメンヌヴィルを中心に、白熱の爆発が起こる。 

「ぬ、あやつ、やりおった! 全てを捧げての、自爆招来――!?」

 灰塵の全てが、白炎で塗りつぶされる――。


◆◇◆


「おおおおおおおっ!! 屍人ども! 挽き潰れろォオオオオ!!」

 割れた湖の中、腐水が湧き出る不吉な尖塔に向かって、サイトが跳躍する。
 彼の向かう先には、何も見通せぬ、魔術による暗闇が、地獄の釜のように広がっている。
 サイトは、右手に握るヨルムンガンドモードのエキドナを、波打たせて、その暗闇へと突っ込ませる。

 巨鞭と変化したエキドナの意志も手伝い、龍のようなそれは、不規則に跳ね回り、亡者の群れを蹂躙する。
 腐りかけた【グラーキの従者】の、ぶよぶよとした腕が、脚が、臓物が、肉が、ばらばらの破片になって、湖底の闇から弾き出されていく。
 だが、それは、軍勢の中の、氷山の一角に過ぎない。

「今のでどの程度削れたっ!?」
【さあ、感触からすれば、ざっと500ってところかしら――】
「まだまだだな。なら、全部擂り潰すまで繰り返すだけだ――」

 その時、デルフリンガーが警告を上げる。

【相棒! 飛び道具と魔術が来るぞ!】
「っ!!」

 その言葉が早いか、サイトと、彼の後ろのルイズたちに向かって、暗闇の蟠りから、雨霰と矢、短槍、各種の魔法が飛来する。
 空がそれらの弾雨で、黒くそして色とりどりに染まる。
 弾が5、魔術が4、空が1、という具合である。

「やらせん! エキドナ、サポートを!」
【OK! サイト!】
「うおおおお! 後ろにゃ一本も通さねえぞ、こんちくしょうっ!」

 サイトは迎撃のために大跳躍。

「らあああっ!」
【そうだ、その調子だぜ! 相棒!!】

 ルイズの方へ向かう魔術をデルフリンガーで切り裂く。
 だが、一回の跳躍では、到底全てを迎撃できるものではない。
 ならば、空中で更に撥ね回らなくてはならない。

「エキドナ、足場っ!」
【ええ、了解!】

 ヨルムンガンドモードのエキドナが、ざぁ、と空を覆う弾幕を一掃する。
 そしてタイミングを合わせ、サイトは、鞭の暴風となったエキドナを足場として蹴飛ばす。
 エキドナを足場に、ピンボールのように、空中で次々と向きを変えて、サイトは魔術を切り裂いていく。

 その間も、ヨルムンガンドモードのエキドナの一端は、湖底をのたうって、【従者】の軍勢を挽肉にしていく。
 水精霊も、周囲の水壁から、高圧水流の線条を発射し、闇の底に潜む腐敗の【従者】を切り刻んでいく。
 だが、それでも、一向に魔法の弾雨は減らず、闇の向こうの気配も減りはしない。

「ちぃ、きりがねぇな!」

 サイトが悪態をつく。
 此処にいたって、戦況は膠着したかのように思えた。

 無限とも思える物量を飛ばしてくる【グラーキの従者】と、それに対する虚無の主従たち。
 時間の経過は、実のところ、サイトたちに有利に作用する。
 結局のところ、サイトたちは、ルイズの虚無呪文(切り札)が完成しさえすれば良いのだ。
 それによって、汚染の元である“門”を塞いでしまえば、あとは、掃討戦だ。

 だが、ここで状況に変化が起こる。

「ん? フルートの音が――」

 湖底の暗闇を維持し、【従者】の群れを陽光から守っていた、狂ったフルートの音色が途切れ始め、徐々にその闇が晴れて、泥濘の湖底が露になっていくのだ。
 同時に光が【従者】の身体を冒し、【緑の崩壊】を生じさせる。
 しかしそれも束の間であった。何故なら――

「これは――霧か……?」

 尖塔から湧き出し続ける腐水から、太陽光線を遮る(・・・・・・・)ほどに濃厚な霧が、立ち上り始めたからだ。
 同時に、水底の従者たちが――進撃を開始した。

「【レレイの霧の創造】<CREATE MIST OF RELEH>かっ! 確かに、頭数を揃えれば、光を消す魔術よりも広範囲で、コストも低いからなっ」

『ううううううううおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおんんんんんん!!!』

 戦況が変わった。
 遠距離攻撃では埒があかないと、七万の死者たちは、物量を生かした作戦に切り替えてきたのだ。

 亡者の津波が、サイトたちを飲み込まんと迫る。
 あちこちから立ち上って光を遮る白い霧――魔術によって作られた【レレイの霧】は、【従者】の崩壊をある程度防ぎ、水底から怒涛の進撃を可能としていた。
 あとからあとから押し寄せる亡者たちは、仲間を踏みつけてもお構いなしに、雪崩のようにして、あるいは一個の生物となったかのように、サイトの前に立ちはだかる。

「肉の壁……。これは酷い」
【ルイズのエクスプロージョンで吹き飛ばしてもらえば――】
「他の呪文を詠唱中だから無理だ。かなり上級の呪文だから、詠唱の時間が長い。消費精神力も大きい。だから、“門”の封印のチャンスは一回だ。二度唱える精神力は残らない。ここでエクスプロージョン使っても、精神力不足でアウトだ」
【つまり?】

 サイトは鞭と化したエキドナを振るう。

「ここは死守ってことだ!! 幸い、ルイズの詠唱を聞いてりゃ、沸々と力が湧いてくるからな!」

 幾重にも複雑に束ねられるようにして、ヨルムンガンドモードのエキドナが、こちらも負けずに壁のようになって、【従者】の壁にぶつかる。
 ルイズの詠唱は、終わらない。
 神の盾(ガンダールヴ)の死闘は、続く。


◆◇◆


 学院にて発生した、圧倒的な熱量を伴った閃光は、遥か遠く王都からでも確認できた。
 夜なのに、まるで昼のように空が明るくなった。
 その炎熱の閃光は、学院全てを巻き込み、蒸発させるかに思われた。

 だが、そうはならなかった。

 オールド・オスマンの、風化の灰色光が、閃光を遮り、抑えつけたのだ。
 崩壊と風化を司るクァチル・ウタウスは、時空の魔神。
 その神性の力の下では、全ての物質に流れる時間は、一瞬で、宇宙の崩壊の刻限を超えるまでも加速され、そして、永劫の時間の流れのうちに何もかも凍り付いて塵になるという終焉を迎える。

 それは、炎であっても例外ではない。

 星々すら凍りつく宇宙の最果てでは、炎すらも存在を許されない。
 全ては凍てつき、全ては停止する。
 灰色の、塵を踏む者しか居ない世界。
 時間の極北。

 だが、その魔神の加護をもってしても、それは炎熱を一定領域に辛うじて押しとどめる程度の効果しか無かった。
 オスマンが汲み上げられるクァチル・ウタウスの加護を、メンヌヴィルが呼び出した炎が上回っているのだ。

 地上に顕れた太陽のように輝く、学院の庭の一角。
 白炎の神官と、灰塵の神官が死闘を繰り広げていた、あの戦場。
 光のドームと化したその中を、見通すことなど出来はしない。



 その太陽の如きドームの中、オスマンは、戦っていた。

 メンヌヴィルと、ではない。
 オスマンが相対する者は、既に、メンヌヴィルというヒトでは無くなっている。
 超高温電離気体の生ける炎<炎の精>を引き連れた、神の化身が、そこに顕現していた。

「……こりゃ、ちょいと、ヘヴィーじゃのう……」

 弱気の声を漏らすオスマン。
 彼の視線の先には、圧倒的な熱量と神気を湛えた、炎神クトゥグアの化身が居た。
 眷属たる不定形の【炎の精】たちに守られ傅かれたその中心に、それは居た。

 それは漆黒であった。
 それは黒点であった。
 だがそれは、何よりも力の顕現であり、そして炎であった。

 輝く周囲の空気よりも一段温度が低いためか、それ(・・)は、漆黒の色合いに見えた。
 それの表面は、熱や光を吸収し、それによって内部を更に燃やす性質でもあるのかも知れない。
 周囲に傅く【炎の精】とは違い、それは形を持っていた。

 巨大な漆黒の体躯。
 頭部から生える巨大な七本の捻くれた角。
 その角は、鋼鉄のように滑らかで、水晶のように鋭く、それの、牡牛のような頭部から、出鱈目に生えていた。
 荒れ狂う黒い欲望、漲る力を感じさせる、躍動する野獣のような筋肉。
 理性のない破壊を求める、筋肉に覆われた、目のないミノタウロスのような顔からは、邪悪さが溢れ出している。
 それは、悪魔のように強靭なその肉体を反らせ、背中の翼を大きく広げると、咆哮した。

『ヴォオオオオォォォオオオオオオオ!!!』

 身の毛もよだつ雄叫びが、それ――生ける漆黒の炎<Living Flame of Deepest Black>から発せられる。


 結局、メンヌヴィルの魂を懸けた招来は――失敗に終わったのだ。


 本来であれば、夜空でも最も輝くあのフォーマルハウトに座す炎の神、太陽すら凌駕する熱の神クトゥグアを完全に招来するはずであった彼の祈りは――失敗した。
 足りなかったのだ。
 半ば以上風化して崩壊した、彼の魂では、クトゥグアを招来するのには、足りなかったのだ。

 だがその結果は、あるいは招来に成功した時よりも、悲惨であったかも知れない。
 祈りは完全には届かず、しかし、それは確かに、あの生ける炎の王クトゥグアに聞き届けられたのだ。
 その結果――メンヌヴィルの崩れた魂を喰らって、混沌の炎は、その捧げられた魂に応じた一部のみが、不完全な化身として招来された。

 誰も制御方法を知らない、憎悪と破壊と灼熱の化身が、ハルケギニアの地上に現れてしまったのだ。
 有翼七角ミノタウロスの形をとった“生ける漆黒の炎”には、何も思考は存在していない。
 そこにあるのは、純然たる灼熱焦熱への渇望と、有り余る破壊衝動のみであった。

「……まずいぞい。ワシは死にはせんとは言え、“神官”と“化身”では、格が違う。この風化停止の結界も、一体何時まで持つものやら――」

 今のオスマンでは、退治することは出来ない。
 勿論、崩壊の魔力は送り続けているが、そもそも神が自壊するには、それが化身であったとしても、数億年では利かない時間がかかる。
 決め手が足りない――。

「どうにも千日手じゃのう」

 【炎の精】を従えて突進してくる“生ける漆黒の炎”を前にして、オスマンは、ともすれば暢気にすら聞こえるような発言をする。
 勝つことは出来ないが、負けることもない。
 風化停止の結界を維持しながら、オスマンは、猛り狂う炎の化身を受け止めた。


◆◇◆


 はるか空の上。
 アルビオンはロンディニウム。
 ハヴィランド宮殿にて、ある重大な決定が行われようとしていた。

「擬神機関<Azathoth-Engine>の開発、および、大陸に張り巡らされたレイラインの賦活、完了致しました」

 頭に【シャッガイからの昆虫】を飼っている開発主任が報告する。

「I迷宮要塞も、既に完成しております」

 白くぶよぶよした肌の陸軍将校が、軍服の下の皮膚を蠢かせながら、続けて報告する。

「魚人化部隊、配備完了しております」
「各国後方への浸透攪乱作戦、進行中であります」
「湖底のG回廊を通じ、ラグドリアン湖の汚染増水作戦は進行中であります」

 次々と、居並ぶ将校・閣僚たち――皆、どこかヒトならざる気配を纏っている――が報告していく。
 それらを聞きながら、アルビオンのスチュアート王朝を影から支配する、摂政シャルル・ドルレアンは、満足気に頷く。

「うむ、うむ、うむ。宜しい。素晴らしい。皆の者、よくここまで全力を尽くして頑張ってくれた」
「おお――」 「それでは――」 「遂に――」

 閣僚たちがざわめく。
 彼らを視線で黙らせると、シャルルは先を続ける。

「そうだ、いよいよ時は来たれり」

 ここには、国王であるチャールズ・スチュアートは居ない。
 シャルルが遠ざけているということもあるが、チャールズもこの不気味な会合には進んで参加しようとはしていないのだ。

「諸君、戦争だ!」
「おおおおおおおおおお!!」

 閣僚たちが、一斉に拍手しながら立ち上がる。
 万雷の拍手の中、シャルルが言う。

「今こそ、我らがハルケギニアに覇を唱える時代だ! 天の理というものを、下界の者共に知らしめてやろう!」
「では、最初の標的は――」

 会議の机の上には、いつの間にかハルケギニアの地図が広げられている。

「そんなものは勿論、決まっている!」

 シャルルが、だん、と地図の一点、山岳に囲まれた小国を叩く。
 ガリアもトリステインも、問題としない。
 ハルケギニアで押さえるべきは、ただ一点。

「ハルケギニアの全ての富と文化と、情報と資源と技術の集積地――」

 千年前からの蒐集狂の異端者共。
 蜘蛛の巫覡。
 ハルケギニアの影の覇者。

「クルデンホルフ大公国、シャンリット!!」

 おおおお、と、会議場がどよめきに包まれる。
 自らの勝利を、彼らは全く疑っていない。

「只今を以て、アルビオンは、持てる全てを動員して、第一にして最終の作戦――」

 何故なら――。

「作戦名『大陸堕とし』(OPERATION『FALLING ALBION』)を、発動するっ!!」

 この国全てが、必勝の手段。


=================================

メンヌヴィル退場。オスマンはクトゥグア様の化身と一緒に釘付け。

ラグドリアン来訪とか、死者の部隊(原作ではゾンビウェールズの部隊)とか同時進行中。
あとタバサが行使した水の竜巻は、アンアンとウェールズのヘクサゴンスペルがモチーフですし、対「従者」の軍勢は、原作で言うと七万への単身突撃にあたります。エキドナが変化した鞭のイメージは、フジリュー版封神演義の禁鞭。
学院襲撃も原作エピソードですね。原作と違って、コルベールはメンヌヴィルに負けて、代わりにオスマン無双(?)ですが。
“生ける漆黒の炎”は、ベルセルクの「不死のゾッド」をもっとごつくした感じのイメージです。

次回は、ラグドリアン湖(封印編)&大陸戦艦「アルビオン」始動、の予定。

ヤマグチノボル先生の手術が無事に終わったようで一安心です。先生の回復を祈りつつ更新。
2011.08.14 初投稿



[20306]  外伝.10_1 ヴァリエール家の人々(1.烈風カリン)
Name: へびさんマン◆29ccac37 ID:a6a7b38f
Date: 2011/10/15 08:20
 蜘蛛の巣から逃れる為に 外伝.10 ヴァリエール家の人々(1)




◆◇◆


 今から数十年前。

 トリステインの知る人ぞ知る避暑地、ドーヴィル海岸に於いてのことだ。
 ドーヴィル海岸は、沖の方に鍾乳洞を擁した小島がある、風光明媚な場所だ。
 夏のある時期に吹く季節風は、その鍾乳洞で汽笛のように反響し、人々を不思議に恍惚とさせる音楽を奏でる。
 その音楽の作用か、ドーヴィル海岸の海は、鍾乳洞が歌う音に応じて、海面が七色に変わるのだという。

 後に『烈風カリン』と呼ばれることになる、若き騎士は、そのドーヴィルにて、窮地に陥っていた。

「く、キリがない!!」

 延々と湧く亡者の群れ。
 高笑う金髪の修道女。
 傷を負って膝をつくサンドリオン(灰かぶりの騎士)。

 お忍びで王女を警護してやってきた、この鄙びた漁村。
 そこで襲われた怪異。

 自分はここまでなのか?
 ここで、こんな所で死んでしまうのか?

 カリンは自問する。

 否。
 ここで終わる訳にはいかない。
 騎士になるという夢を果たせず、守るべき王女殿下を後ろにおいて、そのまま果てることなど出来るわけがない。

 カリンは、精神力を滾らせる。

 だがそれは、戦い始めの時と比べれば、見る影もなく消耗していた。
 最初が太陽のような輝きだとすれば、今はせいぜい蛍の光程度まで弱々しくなった、精神力の炎。
 初の実戦は、命のやり取りは、カリンの消耗度合いを跳ね上げていた。
 残りの精神力は、とても少ない。

「うふふ。最初の勢いはどうしたのかしら、可愛い騎士さん」

 黒い修道女が嗤う。

「うふふ。“木偶”たちよ、幕引きを。でも、余り乱暴にはしないでちょうだいね。身体は、綺麗なままに。
 折角だもの、私達の仲間になってもらいましょう」

 ノワールの言葉と共に、亡者が押し寄せる。
 それを見て、サンドリオンが、顔色を失い叫ぶ。

「やめろ、やめてくれ! カリーヌの顔で、声で、そんな悪魔のように、亡者を指揮するな――!!」

 だが、最早、サンドリオンには、立ち上がるだけの力も残されていない。
 傀儡とされていたユニコーン隊の騎士アンジェロとの戦いのダメージが、サンドリオンを蝕んでいた。
 今のサンドリオンは、アンジェロとの戦いで負った傷を癒しながら、意識を保つだけで、いっぱいいっぱいだった。

「おい、カリン! もう良い、俺を置いてお前は逃げろ! 恐ろしい何かが、トリステインを蝕もうとしている! マリアンヌ王女を連れて逃げろ! そして国王陛下に、この恐ろしい企みを知らせるんだ!」
「……ぅさい……」
「え?」
「うるさい。黙ってろ。あとカリーヌ言うな。ややこしいんだよ」
「おい、何言ってるんだ。逃げろよ、カリン。ここで立ち向かうのは無謀っていうんだぜ。お前の風なら、王女殿下一人連れても逃げられるだろう、早く――」

 そこでサンドリオンは口を噤む。
 カリンの纏う風が変化しているのに気付いたからだ。

「フゥゥゥゥゥゥ――――」

 カリンは息を深く、細く絞って、吐く。


 絶対に、このまま殺されてやるもんか。


 黄昏の中、この時間帯特有の海岸への風が、カリンの首筋を撫でる。

 そうだ。
 風は、何も、自分で起こすものだけではない。

 ここは海岸。
 海と陸との温度差によって産み出される、膨大なエネルギーは、気流を生み出す。
 カリンはそれを借りるだけでいい。

 温度差によって、太陽の恩寵によって、この黄昏に産み出される大気の力を――。

「ボクは、導くだけでいい!」

 風を支配することとは、エネルギーの差を理解すること。
 カリンの家庭教師だった、あのシャンリットから流れてきたという、小さな矮人の女は、言っていた。
 “風は、起こすものでは無く、そこに在るものなのです。折角在るのですから、有効に使いませんと”などと。そんなことを、常に言っていた。

 風を感じる。
 カリンのメイジ特有の魔法の知覚は、いまや、ドーヴィル海岸の広大な領域を覆っていた。
 カリンは、風の天才は、この窮地において、もう一つ上の段階に到達しようとしていた。

 自然を曲げる系統の理のみならず、自然の理に沿った、この世界の本来の魔法――先住種族の精霊魔法の術理と融合した、魔法の精髄へと、今、彼女はたどり着きつつ在った。

 それは彼女の天性の才能が為せる技であり。
 才能溢れるカリンに、惜しみなく最先端の知識と技術を授けてきた、彼女の郷里の家族たちの愛の賜物であり。
 あるいは、この世界に、千年前に、異端の知識を齎した蜘蛛の祭司の些細な影響(バタフライ・エフェクト)であり。
 そして、彼女の悪運の――いや運命の導く所であった。

 不幸にも。
 そう、不幸にも。
 彼女は、人間を超えた地平に到達しつつあった。


 海岸を覆う風が変化する。

 轟!
 天空から導かれた鋭い風の一撃が、亡者たちを薙ぎ払う。

「はああああ!」

 木の葉のように吹き散らされる木偶たちに、ノワールは目を丸くする。

「あら、まだそんな力があったの?」
「騎士を嘗めるな! 来い、幾らでも吹き飛ばしてやる!」
「ふぅん? でも、いつまで持つかしら」

 大気のエネルギーを借りた攻撃は、カリンが習熟していないせいもあって、どうしても亡者たちを吹き飛ばすことしか出来ない。
 カッタートルネードのように、バラバラに惨殺することはできないのだ。
 吹き飛ばされた亡者たちは、四肢をあちこち曲ってはいけない方向に曲げつつも、何事もなかったかのように立ち上がって、再び戦列に加わる。

「あなたの精神力が尽きるのと、木偶が全て動かなくなるの、どっちが先かしら?」
「ふん! 何も不死身ってわけじゃないだろう! 何度も吹き飛ばして、体中の骨という骨を砕けば、いくら死体といっても、動きも止まるだろ!!」
「さあ、どうかしら。タコみたいにグニャグニャと襲ってくるかも知れないわよ?」

 軟体動物のようになって襲ってくる人体の成れの果てを想像して、カリンは眉を顰める。

「気持ち悪いこと言うな!」
「そうかしら、それはそれで素敵だと思わない? どんなになっても尽くしてくれるんですもの、いじらしいじゃない」
「……貴様、思ってたが、性格最悪だな」

 カリンの苛立ちを乗せて、一際強い風が、ノワールを吹き飛ばそうとする。

「吹っ飛べ!!」
「あら危ない」

 外見からは想像できない素早い動きで、ノワールはその暴風を避け、あるいは木偶に壁を作らせて、避ける。

「このおおっ! 避けるな!」

 更に広範囲に暴風をお見舞いしようと、カリンが更に、風の操作範囲を広げる。
 高空の大気が揺らぎ、海岸一帯の風すら変化する。

 ――そしてそれは、沖合にある奇妙な鍾乳洞にも作用する。
 不幸にも。
 そう、不幸にも。
 風が通り、鍾乳洞が、鳴く。

 ドーヴィル海岸の風物詩の、鍾乳洞の歌が、響き渡る。

 低く、高く、歌うように、鍾乳洞に風が反響する。
 鍾乳洞に満ちる潮騒が、天然のオルガンのように作用して、複雑な音色を奏でる。

 それは、確かに歌だった。

 鍾乳洞という『喉』から響く、惑星(ホシ)の歌。
 美しい、美しい、星の海にまでも響き渡る、惑星の歌だ。


 ドーヴィル海岸。
 王家の避暑地。
 ドーヴィル海岸が有名なのは、夏のある時期に、七色に光り輝く海面によってである。

 そして今、まさしく、それと同じ、年に数度と無い奇跡が顕現していた。
 腹の底を震わせるような、大地と大洋の歌声。
 遙か沖合から響いてくる“それ”が、海面を虹色に光らせ、揺らがせる。

 この時期のドーヴィル海岸には、ある種の夜光虫が群れを成して集まるのだ。
 それが、鍾乳洞と風と波が奏でる“歌”によって、刺激され、ボウっと色とりどりに光る。
 七色の海面は、鍾乳洞の歌と、海面の夜光虫の競演だ。

「あら、綺麗ね」

 どこまでも他人ごとのように、ノワールは、光り輝く海を背後にしたカリンを眺める。

「でも、こんな見せ物を見せられても、気は変わらないわよ? “木偶”よ、早くして――」
「Ah――]
「……何?」

 ――早くして頂戴、と続けようとしたノワールを、“木偶”――村人の屍体の澄んだ声が遮る。

 それは、本来有り得ないこと。
 屍体たちを、ノワールは完全に支配している。
 こんな、ノワールの命令を遮って、声を上げることは、絶対にありえない。

 いや、声を上げるだけではない。

――Ah――Lah――ia――

 歌っている。
 共鳴している。
 共振している。

――ia――――ia――――tor――enbr――――

 村人たちが歌っている。

 歌っている。

 唄っている。

 謡っている。

 謳っている。


 詠っている。
 唱っている。

 屍体になってまで、うたっている。
 彼らの身体に刻まれた、詠唱と崇拝の記録が、共鳴し、感応している。

 それは、彼らの祖先から連綿と続く、ある“神”への崇拝の歌。

 畏敬の歌。
 礼賛の歌。
 称讃の歌。


 鍾乳洞から響く、“惑星の歌”は、神を喚ぶもの。
 それに惹かれて、顕現する、音楽の神。
 村人が詠う、先祖伝来の詠唱は、その遙か外宇宙の深遠から立ち現れる神を、もっと長く留めておくために、称えるものだ。

 すなわち、その神とは。
 音楽を司る、祖となる――外なる神の一柱。
 語るも憚れるその名を――『トルネンブラ』。

 生ける音として、外宇宙に在す(まします)白痴の王アザトースに仕える、神々の宮廷音楽家。
 
「な――、何よ、やめなさい! うたうのを、やめなさい――」

 ノワールが、命じる。
 だが、村人の屍体たちは、歌を止めない。

 既に“木偶”たちは、修道女の制御を離れている。
 村人たちだった“木偶”たちは、彼ら本来の奉仕対象のために、今でも、その身を捧げ、歌をうたっている。
 たとえ魂が去ってしまった後であっても、村人たちの、その忠誠と奉仕は、失われなかったのだ。

 しかし狼狽するノワールを余所に、カリンは、更に魔法の詠唱を続ける。

 いや、それは、本当に、魔法の詠唱なのか?
 カリンは、自分の意志で、それを紡いでいるのか?

(なんだか、とっても、いい気分――そうだ、歌を、もっと、高らかに、歌をうたわせなくちゃ――)

 半ば以上朦朧と、恍惚とした意識の中、カリンの視界には、既にノワールも木偶たちも写っていない。
 あるのは、何か偉大なるものに導かれるような、不思議な感覚だけ。
 自分が失くなるかのような、悍ましく、しかし、抗いがたいような名状しがたき恍惚のなか、カリンは確かに、“天上からの声”を聞いた。

 それは、とっても恐ろしい声。
 実体を持った、音。
 かみさまのこえ、おとのかみさま。

 全身が総毛立ち、カリンは震える。

(ああ、もっと、歌を――“とrねmbら”に捧げる、歌を――)
(いやだめだ、すぐに止めないと、取り返しが付かないことになる――)

 相反する思いが、カリンの中で捻じれる。
 しかし、彼女の詠唱は、止まらない。
 止められない。

 まるで、彼女の身体は、最早彼女自身のものではないかのようであった。

 鍾乳洞が歌う“惑星の歌”と、村人の屍体が奏でる“礼讃の歌”。

 今のカリンは、その、悍ましくも美しい混声合唱の、指揮者のようであった。
 いや、実際に、指揮者にして巫女たるカリンと、鍾乳洞と海を通る風の響き、それに共鳴する村人の屍体たちは、三位一体渾然となった、一つのシステムとして作用していた。
 彼らは全て合わせて、巨大な一つの楽器なのだ。

 今この瞬間、カリンの身体は、カリンのものであって、カリンのものではない。

 外なる神トルネンブラを楽しませるためだけの、大きな楽器の、その一部にすぎないのだ。

 彼女の風の才能は、今、ドーヴィルの風を得て、鍾乳洞と村人の歌声に後押しされて、禁断の領域に至りつつ在った。
 そして、今、まさに、美しく響く星の歌に惹かれて、外宇宙の神性が顕現しつつあった。

 一際強く、海岸が発光し、歪んだ音が響き渡る。

 トランス状態となったカリンに、思わず、サンドリオンは見惚れてしまう。


(なんて、なんて美しいんだ――)


 元恋人を差し置いて、サンドリオンは、カリンに見蕩れてしまっていた。

 まあ、一方のノワールの方は、さっさと離脱してしまってるのだが。
 使い捨ての“木偶”がどうなろうと、彼女には知ったことではないのだった。

 もちろん、彼女の元恋人らしい、サンドリオンについても、気に掛けはせずに、とっとと退いてしまっている。





 そして遂に、“それ”は顕現する。
 当代随一の風の使い手に指揮されて、調律された、その“惑星の歌”は、その響きの美しさ故に、神降ろす。
 空間が軋むような、割れるような音とともに、一際高まった演奏が、“かみさま”を呼び出した。

 一瞬、魂をかき鳴らすような、非実体の音が、カリンやサンドリオンの間を駆け抜ける。
 それにしたがって、木偶たちが膝をついて倒れていく。その“音”に、屍体に残っていた最後の何か――魂や肉体を超越した信仰心――を連れ去られたかのように。
 烈風カリンの指揮のもと、ソレは、ただ一瞬であれども、ハルケギニアに顕現した――。


◆◇◆

 後の記録において、語られることは少ない。
 生き残った騎士は、黙して語らない。


 ただ、壊滅したドーヴィル村の住民たちの死体は、全部が全部、まるで、始祖の御来光を見たかの如き笑みを浮かべていたそうだ。


=================================

リハビリがてら。
本編時間軸上、エレオノールさんとか、カトレアさんとか、カリンちゃんは登場させられないので、外伝で補完です。

カリン:職業「騎士見習い」 
    隠し職業「音神の巫女」←New!

2011.10.10 初投稿
2011.10.15 加筆修正



[20306]  外伝.10_2 ヴァリエール家の人々(2.カリンと蜘蛛とルイズ)
Name: へびさんマン◆29ccac37 ID:a6a7b38f
Date: 2011/10/26 03:46
 蜘蛛の巣から逃れる為に 外伝.10 ヴァリエール家の人々(2)




◆◇◆


 よく晴れた夏の日のことであった。
 積乱雲が発達し、夕立でも来そうな、そんな空模様。

 その空の下、雷雲と大風を連れて、彼女はやって来た。


 “天災は忘れた頃にやって来る”――誰が言った台詞だったか。


 サイトが召喚される時から、遡ること八年前。

「ルイズをーーっ、返せぇえええーーー!!!」

 万雷と。
 台風と。
 雹嵐と。
 竜巻を引き連れて。

 怒れる烈風が、シャンリットを滅ぼしに、やって来た。


◆◇◆


 一方、大都市シャンリットの中枢は、てんやわんやであった。

「最大風速、記録更新っ!」
「都市気候ホメオスタシス結界、対応可能範囲超えます。対応レベルを、記録的災害(ディザスター・レポート)レベルに上昇させます」
「最外郭の観測機器、78%が通信途絶。順次<黒糸>経由で修復、再生成させます」
「信じられん、ただ一人の人間が、ここまで天候を自在に操るとは!」

 騒々しい指揮所。
 だが、切羽詰まった雰囲気はない。

「いやあ、凄いな! 凄いなぁ!」
「全くです! 良いデータが取れそうです!」
「千年教師長サマサマだな。まさかあの『烈風』の戦闘出力を測る機会が来るとは」

 まるで祭りのような、喧騒だ。

 良い意味での、喧騒。
 てんやわんやであったが、彼らはとても嬉しそうだった。
 それはとてもとても、嬉しそうだった。

 未知が、嬉しいのだ。
 知識の地平が広がるのが、嬉しいのだ。
 頭の中の永劫の渇きが少しでも満たされるのが、堪らないのだ。

 彼ら侏儒の矮人――人造種族ゴブリンメイジの、脳髄の奥の奥の更に奥の、魂の最奥に刻まれた、汲めども尽きぬ好奇心が疼くのだ。
 それは呪い。
 彼らの造物主(あるじ)から感染させられた、永劫で根源の呪い。

「で、その千年教師長殿は、どこに――?」
「私なら、ここだ」
「うわぁっ!?」

 指揮所の床から、ズルリ、と影が伸びる。
 黒い繊維が、捻り合わされて、糸になり、縄になり、綱になり――やがて、ヒトガタとなる。
 そのヒトガタは名前を、ウード・ド・シャンリットと言った。

「くふふ。『烈風』殿は大層お怒りのようだ」

 『烈風』など、どこ吹く風という具合に、飄々と千年教師長が言う。

「あなたが彼女の末娘を誘拐してきたからでしょう?」
「くふふ。その通り。折角の『虚無』の才能を腐らせておくわけにはいかないだろう?」
「まあ確かに。あのカビ臭くて古臭いトリステインでは、下手したら一生、後ろ指を指され続けていたでしょうな」
「ああ、全く。今の私は、柄にも無く良いことをして気分が良いぞ。そうだな、君たちもルイズちゃんのように、“アシナガ(グモの)おじさん”と私のことを呼ぶがいい」

 千年教師長の影が歪み、女郎蜘蛛のように細く長い脚が揺らいで生える。
 彼は、上機嫌だ。
 彼の下僕達と同じく、彼も上機嫌だ。

 『烈風』の襲来による以外にも、原因があるのだろう。
 恐らくは、この襲来の遠因となった、あの幼いピンクブロンドの少女のせいだろう。
 嬉々としてウードは語る。

「これで虚無のコレクションがまた増えたぞ。始祖ブリミル復元のための因子もそのうち揃うだろうさ」
「始祖復元計画……でしたか」
「そうだ。半神だった彼を復元させるのだ」

 どうやら悪巧みなのだろう。
 邪悪にウードの口角が釣り上がる。
 背中から生えた蜘蛛脚が、ワキワキと動く。

「一体どんな事を語ってくれるのかな。文字通り世界の礎となって消えた彼は」

 陰鬱だが楽しげな笑い声が響く。

「くふふははは、ははははははっ。器を復元してやれば、この世界に楔となって残るブリミル某の魂も降りてきて、その重い口を開いてくれるだろうさ」

 ――6000年の真実をな。


◆◇◆


「それで、千年教師長。あの『烈風』は如何します?」

 指揮所のモニターの中では、豪風の中を進んでくる『烈風』カリンの鉄仮面が不気味に光っている。
 いや、その前で哄笑する怪人蜘蛛男の方が万倍不気味だが。

「くふ、は、は、ふぅ。――ん、そうだなー、『烈風』殿には、不良在庫の処理を手伝ってもらおう」
「不良在庫というと――」
「ああ、あれだ。この間さ、全地下都市から衛星都市、植民惑星に至るまでの全てのゴブリンメイジの数を調査しただろう?」
「あのあれですか。棚卸の」
「そうそれ」

 ゴミはゴミ箱に、という程度の気安さで。
 千年教師長は決定を下す。
 恒星系規模に広がる蜘蛛の巣の最高祭司として。

「確か、10万ほどさ、人口計画より余剰があったのが判明しただろう?」

 ぶつけちまおうぜ。
 一石二鳥だ。
 屍山血河を築いてもらおう。

 10万の命の行く末を。
 彼はいとも簡単に決定した。

「流石に10万も屠れば、如何な『烈風』といえども、こっちの話を聞いてくれる程度には大人しくなるだろうさ。神ならぬ人の身だ。何時かは疲れる」
「はあ、そうですか。ではそのように」
「順番はどーでも良いから、準備できた都市からから順に<ゲートの鏡>経由で『烈風』にぶつけろ。戦力の逐次投入は愚というが、ハナから損耗させるための戦力だ。逐次投入上等。あとまあ、殺せることは無いだろうが、一応『殺すな』と、ぶつけるゴブリン共には刷り込んで(インプリントして)おけよ」
「御意」

 お付きの矮人の言葉を聞いて、ウードは頷く。
 それを合図に、ばらりと、ウードの身体が蜘蛛脚の先から、解けていく。
 歪なヒトガタが崩れて触手のような綱になり、その綱が解け、縄になり、糸になり、極小の繊維となって床に吸い込まれていく。

「では頼んだ。私は、あの虚無の娘御をあやしてやりに行かないといけないからな。――いあ、あとらっくなちゃ」

 彼の本体は、こんなちっぽけなヒトガタではないのだから。

「了解しました、我らが祭司長。――いあ、あとらっくなちゃ」

 そう言って彼の従者が返礼したときには、既にウードの姿は影も形もなかった。


◆◇◆


 学術都市の外で、矮人の特攻と『烈風』の応戦による地獄絵図が広がっている頃。
 その学術都市の一角。

 白い部屋の中で、年の頃8歳くらいの少女が座っている。
 彼女の周りには、古ぼけた本や、アンティークのオルゴール、鈍く擦り切れて年季の入った鏡、香りの失せた香炉が乱雑に置かれている。
 壁際には魔法書らしきものが詰まった可動式の本棚が、図書館の地下書庫のように幾つもレールの上に並べられている。
 それとは別に、彼女の目の前には宝石箱が置かれており、妖しい光を放つ色とりどりの4つの指輪が置かれている。

 その指輪の一つ一つを、彼女は手にとって繁々と見つめる。

「綺麗……。でも、何の宝石かしら?」
「それは全てルビーだよ。ルイズ・フランソワーズ」
「ひゃっ!?」

 急に背後から声を掛けられた少女――ルイズ・フランソワーズ・ル・ブラン・ド・ラ・ヴァリエール(8歳)は、慌てて指輪を取り落としそうになる。

「始祖の血が凝り固まってできたルビー……の、レプリカだがね」

 一方、何処からか顕れた男は、陰鬱に訥々と語る。

「この都市に居る間は、自由に使っていいよ。そこに転がっている『始祖の秘宝』のレプリカと一緒にね。何も特殊な効果を宿すまでには至っていないが、君の学習の一助になるだろう。イメージは大事だからね」

 ルイズが振り返って見るその姿は、人というには余りに歪な何かを孕んでいた。

(――悪魔)

 直感的に、ルイズはその男が人間に非ざる者だと見抜いていた。

 だが、彼女は着いて来た。
 その異形の“あしながおじさん”と共に、故郷のラ・ヴァリエールを離れて、この異端の都へと。
 すなわち学術都市シャンリットに。

 何故か。
 何故、誇り高いトリステイン貴族である彼女が、異端の手先であるこの男と共に、あの悪名高い異端都市シャンリットへやって来たのか。
 彼女が自分の意志で此処に居るとしたら、不思議に思うだろうか。
 事実、彼女の母である『烈風』カリンは、ルイズが誘拐されたものだと思って(誤解して)、字義通りの“風の便り”を頼りにルイズの居場所を特定し、シャンリットまで攻め込んできている。

 だが、ルイズが此処に居るその理由は簡単だ。
 彼女は、その誇り高さ故に、異形の“あしながおじさん”に着いて来たのだ。
 一人前の貴族になるために。

 “貴族とは魔法以ってその精神とする”。
 だが、彼女は魔法が使えない。
 いつもいつも失敗ばかり。
 杖振っては出来損ないの爆発が顕現する、呪われた才能。
 いくら練習しても、嘆いても、何をしても叶わない願い。

 “魔法を、使いたい”。

 普通の貴族なら、生来成就が約束されたその願いが、彼女にとっては果てしなく遠かった。
 叶わぬ願いは鬱積し、彼女は夢の世界に耽溺するようになった。
 鬱積した思いに比例するように、夢の中では、彼女は強力無比な無敵の女王であった。


 そしてあるとき、いつもの様に池の小舟でのお昼寝――夢の世界(ドリームランド)への逃避行――から目覚めると、そこにあの悪魔が顕れたのだ。

 悪魔の、不気味でアンバランスに長い手足は、蜘蛛を思わせた。
 そして蜘蛛の悪魔は、彼女に問いかけた。
 教会に伝わる説話のように、彼は三度問いかけた。

 “魔法を使いたくありませんか? 惨めな思いはもう嫌でしょう?”

 “魔法を使いたくありませんか? 貴女は、特別な才能を持っている。ここではそれが腐るばかりだ。貴方に相応しい場所に連れていってあげましょう”

 “魔法を使いたくありませんか? 父母の期待に応えたいでしょう?”

 ――もちろん彼女は三度、“Oui”と肯定で答えた。


 そして気づけば、この白い部屋に居る。


 この部屋に来て数日経ったが、この部屋から外に出ては居ない。

 監禁されているわけではない。
 まあ、扉には鍵が掛かっているかも知れないが、それは未だに確かめていない。
 なぜならずっと本を読んでいるから。

 元来から読書好きな彼女にとって、ここにある魔法書は値千金だった。
 そこに書かれているのは、失われたはずの虚無の魔法についての心得だった。
 彼女は貪るようにそれを読んだ。

 一行読むごとに、自分の中の何かが動くのがわかる。
 一頁進めるごとに、魔力の感覚が広がり、世界の有様が頭の中に浮かび上がる。
 一冊ごとに、欠けていた何かの歯車がピタリと嵌っていくような気がする。

 ルイズは書を読む手を止められなかった。

 ――今まで自分は何と窮屈な認識で生きていたのだろうか!

 知識が増えるたびに、彼女は自分自身を取り戻していく。
 枷が外れていくのがわかる。
 封印されていた力が解き放たれていくことの何と心地よいことか。


 半ば寝食を忘れて、そして愛しの夢の世界へ行くことすら忘れて、虚無の指南書を読み耽った。耽溺した。
 彼女が虚無に関わる本を幾つも読み終えた時、ふと気づけば傍らには幾つかの古ぼけたアイテムと、4つの指輪を収めた宝石箱があった。
 それで中身を検分していたところ、蜘蛛男が再び現れたのだ。

「それは『始祖のルビー』のレプリカ。周りにあるのは『始祖の秘宝』のレプリカ。書物の知識だけではなく、偽物とは言え実物に触れるのは悪いことではないよ」
「へえ。これが、あの」

 得意満面といった風情で蜘蛛男は語る。
 コレクションを自慢できて嬉しいのだろう。
 ルイズはその小さな手のひらの中で、指輪を弄ぶ。
 からからと、ちゃりちゃりと4つの指輪が鳴る。

「本来であれば、指輪と秘宝によって、虚無の血統は呪文を得る。だが、そんなプロテクトなど、圧倒的な知識の奔流があれば簡単に消し飛ぶ程度のものだ。そうだろう?」
「……ええ。確かに」
「何なら、昔の虚無遣いたちの詠唱映像も見るといい。参考になるだろう」

 そう言って、蜘蛛男はルイズに何かカードを投げて渡す。

「……これは?」

 ぱしりと、手の平で受け止めたカードを見て、ルイズが訊ねる。
 それは不思議な光沢を持った何かの金属で出来ているようで、時々文字らしきものが明滅している。

「シャンリットの<マジックカード>だ。この街の身分証明証であり、系統魔法の才能がない者にもそれを使えるようにするものだ。この学術都市が誇る情報端末でもある。それを使えば、およそ必要と思われる映像資料は全て見られる。操作するには、手に持って念じ、あるいは言葉で以って命じれば良い」
「へー。……あれ、平民でも系統魔法を使えるの?」
「そうだ」
「てことは、私も虚無以外の魔法が使えるってこと!?」
「そうなるな。まあ、使い方は追々慣れると良い。この施設の見取り図も入っているし、そのカードで大抵の扉は開けられるように権限を設定しておいたから、気が向いた時に探検でもしてくれたまえ、小さな虚無」

 それだけ言うと、手足がアンバランスに長いその蜘蛛男はズブズブと床に沈んでいく。
 有り得ない光景なのに、ルイズにはそれがとても自然に思えた。
 ああそうだ、人外の妖怪なのだから、その程度は朝飯前に決まっている。

「待ちなさい!」
「何だね? まだ何か? ああそうだ、後で指南役の虚無遣いでも付けさせよう。指南役は女性のほうが良いだろうから、グレゴリオ・レプリカの女性体でも作らせるか」
「一人で勝手にヒートしないでよ。こちらの話を聞きなさい。話を聞かない男の人は嫌われるって、エレオノール姉様が言ってたわよ」
「くふふ。うん。別に実際のところ君に嫌われようが何されようが構わない――。もちろん、私の考えに賛同してくれるならそれに越したことはないのだけれどね」
「――だから、だから、どうしてなの?」

 少女の問いかけに、半ばまで床に沈んだ蜘蛛男は首を傾げる。

「どうして、とは、何のことかな?」
「何で、こんな事をしてくれるの? こんなことをして、あなたに何の得があるのよ? まさか、世のため人のためって言う訳じゃあないでしょうね?」
「まさか! 世のため人のためなんて、最も私に似合わない言葉だ。千年を自己の知識欲に捧げてきた私が! そんな甘っちょろい理由で君をここに連れてきたとでも?」

 嘆くように肩を竦めて、上半身だけ残った蜘蛛男は否定する。
 心外だと言わんばかりだ。
 半分になった背丈のお陰で、彼と彼女の目線がちょうどぶつかる。

「じゃあ、どうして――」
「――まあ、有り体に言えば“投資”の一環だな。そういう意味では、世間一般に言われる教育と何ら変りない」
「は?」
「未開花の才能が朽ちていくことは、とてもとても悲しいものだ。君だって、芽吹いたばかりの薔薇の種があれば、熱心に水をやり、堆肥を施し、世話をするだろう? そのまま枯らすのは勿体無いと、可哀想だと思うだろう?」

 どうやら本心から、薔薇と人間を同列に語る妖怪男。
 そのバランス感覚は、千年生きたためなのか、あるいは元からこうなのか。
 いや、こうだったから、こうなったのか。

 ともかく、それはルイズの嫌悪感を深めただけであった。
 いや、元からその感覚は在ったのだ。
 初対面の時からずっと、首筋のずっと後ろでチリチリと焦げ付く感覚がまとわりついて離れないのだ。

「例え敵になろうとも、偉大な才能が朽ちるのを放っては置けないだろう? だって、勿体無いじゃないか!」
「……」
「そうだ資源は有効活用しなくてはならないのだ! 特に天然物は貴重だからな。自然は、理性の及びもつかない領域で、偶然という奇跡を、その試行回数に任せて力づくで顕現させる。機会を逃さずにそれを捉えることこそが、未知なる世界への扉と成るのだ。そして君は、偉大な天然の奇跡の結晶というわけだ」

 ルイズは人知れず杖を握り絞める。
 叶うことなら、その口を吹き飛ばしたいと。

 彼女の感覚が訴えている。
 眼の前の怨敵を吹き飛ばせと。

 救世を義務付けられた虚無の血統が認定している。
 “目の前の蜘蛛男は、世界に仇なす敵である”と。

「そうだ! 小さな虚無よ! 存分に学ぶが良い! その才能を開花させよ! 我々が積み重ねたものを踏み越え、新たな地平を開拓せよ! 先人の遺蹟は常に後生の人間のための一里塚にすぎないのだ。一生かかって天才が見つけた理論をわずかに一年で後世のものは理解する。そうでなくては知識とは、理論とは言えぬ! だがこの世界の未知の領野はあまりに広く、我らが知識のランタンは余りに貧弱で、故に長生し数を増やし億を超え兆を超えて遙か京、垓は愚か那由多の果てにまで眷属を増やさねば到底事足りぬのだ」

 演説を始める人外。
 もはや我慢ならない。
 ルイズは遂に、その杖を振るう。
 救世の業。邪神消滅のための虚無の魔法を。

「『爆発(エクスプロージョン)』!!」
「ぎゅむっ!?」

 不可解な叫びだけを残して、蜘蛛男の上半身は消え去る。

 はー、はー、とルイズが荒い息を吐く。
 幾ら知識を得たとは言え、無詠唱のエクスプロージョンは、まだ早かったようだ。
 とは言え、邪悪は消毒された。

【くふふふあはははっ! 良いなあ! 元気がいいのは大歓迎だ!!】
「っ!?」

 ――かに思われた。

【くひひ。私を滅ぼすことなど最早出来んよ】
【幾らヨグ=ソトースに連なる虚空の魔法とはいえ、全宇宙に圏域を広げたこのウード・ド・シャンリットの蜘蛛の糸を燃やし尽くすことは不可能だ!】
【それでも滅ぼしたくば、せめて始祖ブリミルのように半神になってから出直すことだな】
【全時空に隣接し、現在過去未来において全ての端末を消滅させれば、あるいは私も死という終演を迎えることが叶うやも知れぬ】
【ははは、それは楽しみだなぁ。もちろん抗わせてもらうが。必死の境地ともなればまた何か新しい発見があるであろうし。是非とも頑張ってくれたまえ、小さな虚無よ】
【私は期待しているぞ】
【小指の爪の垢ほどになあ!】
【君の才能と、意志と、運命に! 私は期待を寄せているのだ】

 部屋中の壁をスピーカーにしたかのごとく、蜘蛛男の――ウード・ド・シャンリットの声が響く。

「――っ!」

 その大音量に、思わずルイズは耳を塞ぐ。
 部屋の全てに――いや、都市全てを覆う<黒糸>を介して、それに宿ったウードの亡霊が語りかけているのだ。
 ルイズが耳を塞いだ拍子に、手に握っていた<シャンリットのマジックカード>を取り落とす。

【ああ、そうだ。君も見ておくと良い。せめてこのレベルに達さないと、私の敵となるには全く足りはしないのだから】

 参考になるだろう、などと言って、ウードの気配は消える。
 床に落ちたそれが、空間に画像を投影する。
 それは――

「母さま……!」

 ルイズを取り返しに押し寄せた、『烈風』の勇姿であった。


◆◇◆


 屍山血河。
 その有様を表すのに、それ以上にふさわしい言葉があろうか。
 あるいは、血の池地獄。

 十万の矮人の骸を後ろに、『烈風』カリンは尚もあの異端都市シャンリットへと歩みを止めずにいた。
 見る影もなくボロボロで、足を引きずる彼女であったが、鬼気迫るその様子は、見る者に感動と畏敬の念を呼び起こさずにはおかないものだった。
 ズルズルと負傷と疲労で足を引きずりつつも、その目の炎はまるで消えていない。

 一歩一歩。
 彼女は、娘を攫った者共の根城へと近づく。
 とうに体力も精神力も何もかも擦り切れているだろうに、『烈風』は歩みを止めない。

「ルイズ……」

 刃毀れだらけのレイピアを支えに、少しずつ。
 だけれども着実に。
 彼女は、母として娘の待つ都へと近づいていく。

「ルイズ……っ!」

 だが。

「ぐっ!? か、壁!?」

 彼女の行く手を、不可視の壁が遮る。
 シャンリットを護る魔術結界。
 それは絶対の壁となって、敵対者を阻む。

 絶望に表情を染めて、カリーヌがぺたぺたと結界を叩く。
 それは滑稽なパントマイムのようであった。

「結界……。邪魔だ、風よ!!」

 ならばと得意の風をぶつけてみるが、全くビクともしない。

「くっ。無駄に頑丈な」

 当然だ。
 シャンリットを覆う結界は、コンチネント級空中要塞の落下特攻――どころか、月天級の天体の直撃さえも凌げる強度に設計してあるのだ。
 まあ、実際これでも邪神の本気の一撃には一秒すら持たないのであるが。
 とはいえ、一瞬でも結界が攻撃を食い止めたならば、その一瞬でシャッガイの昆虫の譲りの技術で転移シークエンスに移行して、恒星系規模のテレポートを行なって難を逃れるように設計されているので安心である。

 しかし。
 邪神級の一撃でなければ破れないというのならば――。

「――ドーヴィル以来封印してきましたが、どうやら封印を解く必要があるようですね……」

 その邪神の一撃で以って破ればよいだけの話。
 何せ、この『烈風』カリン、既に音神【トルネンブラ】の巫女であるからして。
 昔に一度招来を行ったきりだが、その音程は既に身体に、脳髄に、魂魄の奥底に、嫌というほどに刻まれている。望む望まざるにかかわらず。

 再現することは、さして難しくも、無い。

 カリンが纏う空気が、変質する。
 自然の風から、名状しがたき異界の風へ。
 外宇宙から吹き込む、ええてるを原動力にした異形の楽器へと、彼女自身が成り果て――

「【トルネンブラの招来】――うたを、ほしのうたを――」
「やめなんせ」
「へぶっ!?」

 ――ようとしたすんでの所を、突如背後から何か網のようなものが絡めとって、地面に縫いつける。

「ぬ、動けん……」
「まあ元より体力も気力も精神力も疾うの昔につきていたのだ。10万の熟練の矮人メイジたちを戮殺しておいて、未だ動こうだなんて、あんまりに人の道を外れすぎているだろう?」

 どの口がそれを言うか、というツッコミが入りそうなことを宣うのは、やはりシャンリットの主人ウードである。
 死体回収のゴブリン共を下に置き、カリンが築いた屍山の上に腰掛けている。
 さながらまるで地獄の大公――ほど上等なものでは無い。精々墓地で跳梁するグールの頭領、文字通り死体の山の大将がいいとこだろう。いやいや彼の性質素性を鑑みるに、伽藍の頭蓋に巣を張るしがない一匹の蜘蛛というのが適切か。

「……貴様は、“千年教師長”か」
「おや、私の顔をご存知だったかね? それなら話は早い」

 何かしらの祭典で、会ったことがあるのだろう。
 カリーヌはウードの顔を見知っていたようだ。
 未だに血の流れる屍体の山から、ウードがカリーヌを見下して語る。

「そろそろ退いてくれんかね」
「退かぬ。貴様らがルイズを返さない限り、退きはせぬ!!」
「ふむ。やはり、そこから誤解があるのか」

 顎を撫でて思案げにするウード。

「ルイズ嬢は、彼女の意志でこのシャンリットにやって来たのだぞ?」
「……世迷言を」
「ふむ。信じられないかね? “貴族たれ”と教育してきたのは、君たち家族だろう?」
「それと、ルイズがシャンリットに赴くことと、何の関係がある」

 言下に否定するカリン。
 くつくつと嗤うウード。

「大ありさ。彼女の魔法の才能を花開させられるのは、ハルケギニアでは、このシャンリットを置いて他にない。ここでなければ、彼女は魔法を使えない。魔法を使えることは、貴族の前提条件。故に、彼女は、シャンリットで学ばねば、真の貴族に成れはしないということだな。未来永劫に」

 それは事実だ。
 とてつもない幸運が重ならない限り、自然に虚無覚醒の条件が整うことはありえない。
 虚無覚醒の可能性があるのは、シャンリットを除けば、聖戦以来虚無研究が継承されているロマリアくらいのものだろう。

 まあ、ルイズの特異な才能に関わらず、向上心ある者が、自らの才能を伸ばすのに、シャンリット以上に恵まれた場所は無い。
 叡智を集めた大図書館と、古今東西すべての文物を収蔵した大博物館を擁し、ありとあらゆる人材の坩堝であり、日々の糧を得ることを気にせずに学究に打ち込める、研究求道者の理想郷――学術都市シャンリット。

「それが、どうした? そんなことは信じはせぬ。仮に、あの子の意志であの子がシャンリットに居るのだとして、だからと言って、私が貴様を許すと思うてか」

 蜘蛛の網に絡め取られて地面に縫いつけられたカリーヌが、立ち上がろうとする。

「おお! まだ動けるか! 素晴らしい。何処にそんな力が残されているのだ? 是非とも標本にして研究したいものだ」
「ほ、ざっ、けぇえええええ!!」

 ブチブチと何か得体の知れない物質で出来た網を引き千切って、カリーヌが立ち上がる。

「なるほど。つまりは、その底力の原動力は――母娘の絆か。だが……」

 娘を思う母の力は、道理を覆すと、太古から相場が決まっている。
 ウードは頷きを一つ。
 そして無造作に手を振り下ろす。

「――がっ!?」
「『重力偏向魔法』――確か、ダイ大風に言えば『ベタン』というところか?」

 そしてカリーヌを中心に、巨人に踏み潰されたかのように、地面が陥没する。
 シャンリットが得意とする、重力操作魔法によって、カリーヌ周辺の重力を強化したのだ。

「うぅっ。ぐぅっ、ぁ」

 全身の骨が軋みを上げ、堪らずカリーヌは苦鳴を漏らす。

 さてこれからどうしようか、とウードが一瞬思案した時であった。

「うん?」

 彼らの前に白銀に輝くゲートが現れたのは。


◆◇◆


 ルイズは全てを見ていた。
 自分の母が、自分を取り戻すために10万に及ぶメイジを蹴散らすのを。
 そしてボロボロになって、蜘蛛の化生の前に膝を付くのを。

 ルイズは、全て見ていた。

 故に、彼女は行動する。

「『世界扉(ワールド・ドア)』!!」

 涙に潤んだ声で呪文を唱える。
 それはつい今しがた身につけた、虚無の呪文。強い願いに応えて、彼女の才能は開花する。
 親を思う子は、蜘蛛の魔王の前に立ちはだかるべく、空間を超えて突き進む。


◆◇◆


「母さまを、いじめないでっ!!」
「は?」
「ルイズ……?」

 『世界扉』をくぐり抜けたルイズの第一声である。
 彼女は、カリーヌとウードの間にまろび出て、その小さな体を広げて精一杯壁にならんと、蜘蛛の化生に立ち向かう。
 それを見たウードとカリーヌは困惑気だ。

 ウードの方は、よもやこれ程の短時間で『世界扉』を使いこなせるとは思わず。
 カリーヌの方は、ルイズが突如現れたという現象自体に対して、思考停止に陥っている。

「どうした? ルイズちゃん?」
「ちゃん付けで呼ぶなあっ!!」

 問いかけるウードに、ルイズは『爆発』で返答。
 だが当然の如く、それは何らかの力によって遮られる。

「ふむ。反抗期か」
「違ーう!!」

 どかーん。
 ウードが腰掛けていた矮人の屍体が消滅する。
 と、同時に、カリーヌを縛っていた重力の縛鎖が解ける。

「ふむ。母親を害されて怒ったか。よろしい。その激情が虚無には必要だ」
「うるさいうるさいうるさーい!!」

 ツンな台詞と共に、空間そのものが虚無の魔法によって爆撃される。

 甲高くも重い炸裂音と共に、ウードが吹き飛ばされる。

「る、ルイズ……?」

 荒く息をつくルイズに、カリーヌが問いかける。
 カリーヌの記憶では、ルイズはここまで圧倒的な殲滅力は持っていなかったはずなのだが。
 というか、まともに魔法も使えなかったはずなのだが。

「母さま。もう安心して! 私が。私が! 母さまを、護るから!!」

 うえあ?
 カリーヌの脳は、あまりの急展開に着いて行けてない。

「ははは。素晴らしい魔力だ。が、しかし。如何にもか弱い波動だの」
「うぐぁ!?」

 虚無の圧力をものともせずに、ウードはルイズを虚空に縫いつける。
 張り付けだ。
 まるでどこぞの聖者のように。

「やめろ! く、離せぇ! これ以上、母さまを、苛めるな!!」

 空中に張り付けにされつつも、ルイズは『爆発』の魔法をばら撒く。
 どっかん。
 どどかーん。

「うふふっふのふ。君等まとめて吹き飛ばしても良いけれど。でもそんな事せずとも、実は私は君たちに対するジョーカーを持ってるんだなぁー―!!」

 爆風によって舞い散り、着々と残機を減らしつつも、蜘蛛男は戯言を止めない。

「次女を――カトレア嬢を、治したくはないかなーーー!?」
「なっ!?」
「えっ?」

 ピタリと。
 ハルケギニア史上最強の母娘は、それを限りに動きを止める。


=================================


混沌のまま、次回へ続く。
本当は、カトレアさんとエレオノールさんを出すはずだったのですが。まあ、それは次回で。
あと、そのうち6000年前の話もします。
というか、今回は第一部の主人公が出しゃばり過ぎた。
ウード君は死んでからのほうが輝いてます。
キャラ造形的にマッドサイエンティストなのでしょうがないですが。

2011.10.23 初投稿
2011.10.26 修正



[20306]  外伝.10_3 ヴァリエール家の人々(3.公爵、エレオノールとカトレア)
Name: へびさんマン◆29ccac37 ID:a6a7b38f
Date: 2011/11/05 12:24
「治す……ってどうやって」

 カトレアの病を治す。
 それはラ・ヴァリエール公爵家の悲願である。
 その悲願成就を仄めかしたウード・ド・シャンリットを前に、血臭溢れる戦場で、カリーヌとルイズの“ハルケギニア最強(暫定)母娘”は、固まっていた。

 普通なら、即座に否定しただろう。こういった詐欺師のたぐいは、幾百と相手にしてきているから。
 カトレアの病は、もう十数年も治療を続けてきて、水系統の優れた使い手であるラ・ヴァリエール公爵にすら、原因の一端も分からないのだ。
 だが、それは、言い出した相手が普通のメイジならばの話だ。

 言い出したのは、あの悪名高き叡智の蜘蛛――千年教師長ウード・ド・シャンリット。決して普通の相手ではない。
 否定するには、分が悪く、そして希望を捨て切れない相手だ。ハルケギニア一番の学者集団の長にまで、“打つ手無し”と言われてしまえば、一体何を希望に生きてゆけばいいというのか。
 実際、公爵家の内部でも、昨今はカトレアの病について、クルデンホルフに渡りをつけてシャンリットの先端技術を頼るべきだという者が増えていた。

 しかし嫌な予感がする。
 蜘蛛の頭領が、まともな解決策など提示するはず無いのだ。
 奴は、倫理を遥か彼方に置き去りにしてきた狂科学者集団の首領なのだから。

 カリーヌの魔力によって吹き荒れていた大嵐は、既に凪いでいる。
 雲の切れ間から、陽の光が何条も降りてきている。
 嵐の後の不気味な静寂を、ウードの言葉が切り裂く。

「え。そりゃ、手っ取り早く、ミ=ゴの技術で脳みそ缶詰にして――」
「「却下ー!!」」


◆◇◆




 蜘蛛の巣から逃れる為に 外伝.10 ヴァリエール家の人々(3)




◆◇◆
 

「えーー?」
「『えー?』じゃないわよ!! “心底理解不能なんですけど?”みたいに首傾げんな!」
「心底理解不能なんですけどー?」
「何? 何なの? 巫山戯てるの!?」
「至極真面目なわけだが」
「きぃー!!」

 ルイズが杖を折らんばかりに憤慨する。カリーヌは、ミ=ゴについては分かっていない様子だが、“脳みそ缶詰”のフレーズだけでお腹いっぱいである。
 一方の蜘蛛男は、何が悪いのか分かっていない様子。
 首を傾げる蜘蛛男の足元で、シャンリットから出てきた戦死者回収用のゴブリンたちが跳梁跋扈している。着々と屍体の山が減っていく。屍体たちは、脳髄を吸い出され、その戦闘記録を次世代へと還元させられるのだろう。

「何だ何だ。そんなに不満か? 何か減るわけでは無し」
「減るわよ! ゴリゴリ減るわよ! 脳缶なんて、ちぃ姉さまの正気がもたないわ!」
「ふむ。そうかね? 君の姉だから案外平気だと思うのだがね」
「アンタ私を何だと思ってるの」
「最終鬼畜兵器『虚無』。まあそこまで言うなら、他に手段もあるが……」

 ぱん。
 と、ウードが一仕切りというばかりに手を叩く。

「まあ、いい。適当に場がおちゃらけた所で、交渉と行こう。詳しくは交渉の席でだ。――待ち人も到着したようだしな」
「なっ!?」
「きゃぁっ!?」

 ぐるりと、景色が入れ替わる。






 血の錆びた戦場の景色から、白銀の何処かを通り抜けて、赤絨毯の会議室へ。

「っ……。ここは……?」
「何、都市内の適当な会議室だよ」

 もし元からこの会議室にいた者が居れば、三人が天井に開いた白銀のゲートから、急に落ちてきたように見えただろう。 
 ウードとゴブリンが使った『念力』によって、<ゲートの鏡>に放り込まれて移動させられたのだ。
 小さな円卓に、ウードとカリーヌ、ルイズは座らされていた。

 彼女らの服や肌は、いつの間にかこの赤絨毯の小会議室に相応しい、淑女然としたものに変わっていた。
 ゲートを通る間に、ウードかゴブリンが『錬金』で肌や髪を清め、服を変形させたのだろう。
 その彼女らの視線が、一点に集まる。

「――あ」 「――と」
「……」
「そうそう、私も反省しているのだよ。ルイズ嬢を連れ出すにしても、手続きが不足していた、とね。
 シャンリット流に本人の諒解さえ取れば良いと思っていたのだが、そういえば貴族社会では、そういう訳には行かないんだったと、ね。
 何しろもう何百年か、そういう上流社会の政は部下に任せっきりにして、私は離れていたから、すっかり忘れていてね」

 いやいや申し訳なかったと、全く申し訳なく無さそうに告げるウード。絶対嘘だ。
 その正面には、4人目の人物。
 その金髪の壮年である“彼”を見て、カリーヌとルイズは、口を半開きにして動きを止めてしまっている。

 見事なブロンドの髪と口髭、そして左眼にはモノクルを掛けた、貴族の男が視線の先には居た。

「こういうことは、当然家長の決定を経なくてはならない話だと、そんな事、思い寄らなかったのだ。許してくれると嬉しいのだが、なあ、ラ・ヴァリエール公爵?」
「……そうだな、以後気をつけてくれたまえ。シャンリット一代子爵、“黒糸”のウード」
「おや、随分懐かしくてかび臭い肩書きを知っているね。しかし、その肩書きはもはや意味を成さないよ。私は既にトリステイン貴族ではないのだから」
「言われなくても分かっておる。いつもの遣り取りではないか、蜘蛛の教師長」
「ん、そうだったかな?」
「そうだ。毎度の遣り取りだ。長生してボケたか」

 4人目の人物。
 それは、トリステイン王国の重鎮、ラ・ヴァリエール公爵その人であった。
 カリーヌが飛び出していった直後に、ラ・ヴァリエール公爵には外交チャンネルを通じて、シャンリットからの呼びかけ(“おたくの『烈風』が攻めてきたんだけど、宣戦布告と取って宜しいか?”)があったため、急いでシャンリットまで駆けつけてきたのであった。

 その割に何故か公爵は、割りと千年教師長と親しそうであった。


◆◇◆


「あ、あなた」
「カリーヌ。お前らしくもない。無断越境、無断戦闘……“鉄の規律”はどうした。まるで昔に戻ったかのようだ」
「それは――」
「まあ、娘を想って飛び出していく、それはそれで、可愛らしくて良いが」

 のろけか。
 顔をほんのり紅潮させて見つめ合う、中年夫婦。
 末娘は置いてけぼりな感が否めない。

「それに、私とて、ルイズが居なくなったと聞いたときには、一軍率いて探そうと思ったくらいだ」
「父さま……」 「あなた……」
「いわんや、風の“遠聴”で割り出した居場所がシャンリットともなれば、カリーヌが焦って突撃するのもわからんではない。何せ、シャンリットだからな」
「くふふ。ひどい言い草だね。公爵殿?」
「間違ったことを言ったかね? 教師長」
「いや何も。君は正しい」

 さっきから気になるのは、公爵と教師長がやけに親しげに見えることだろうか。
 水のスクウェアである公爵に限って有り得ないとは思うが、魔法か何かの外法で洗脳されたのではないかとすら思える。
 本当に、目の前の公爵は、ラ・ヴァリエール公爵本人なのだろうか。偽物の可能性は?

「随分仲が宜しいようですけれど、一体、どういう経緯で?」
「あー。まあ、昔にちょっと、な」
「口を濁すのは良くないな、公爵閣下。まあ、簡単に言うと彼がダメ人間だった頃に、少ぅしばかりお金を融通してあげたことがあるのですよ」
「ちょ」

 言いにくそうにするラ・ヴァリエール公爵に代わって、ウードが答える。
 慌てて公爵が止めるが、もう遅い。

「父さま、ダメ人間?」
「ぐはっ」

 おおっと、つうこんのいちげき。
 ルイズが小首を傾げながらラ・ヴァリエール公爵に問うと、公爵が思わず崩れ落ちそうになる。
 久々に会った愛娘からの無垢な口撃は、随分堪えたようだ。

「なるほど」

 一方のカリーヌは、得心がいったようだ。
 家長としての威厳を砕かれそうで、精神的に瀕死となったラ・ヴァリエール公爵を尻目に、ウードはしゃべり続ける。

「我々シャンリットの眷属は、常に、いろんな貴族に対して恩を売る機会を虎視眈々と伺っているのだ。若き日の公爵――灰かぶりの騎士(サンドリオン)は、それに引っ掛かったというわけさ」
「な、る、ほ、ど。毎日飲み歩くお金が何処から出ていたのかあの頃は不思議に思っていたのですが、そういう事だったわけですね」
「い、今は、そんな事はないぞ。ラ・ヴァリエールがシャンリットから借りているモノは、何も無いぞ」
「ええその通り。公爵閣下の卓越した領地経営と政治的手腕によって、ラ・ヴァリエール公爵家への、シャンリットやクルデンホルフ大公国からの貸付はありません。先祖代々の借金も、全て返して頂きました」

 慌ててラ・ヴァリエール公爵が、公爵夫人カリーヌに弁明する。
 ジト目で公爵を睨むカリーヌを宥めるように、ウードが補足する。
 和やかそうな談話の雰囲気に、ルイズは戸惑う。さっきまで、命のやり取りをしていたはずではなかったか?

「貸し借り無しと言いたいところですが――ま、それは今からの交渉次第なのですね。何せ、こっちは10万の兵を虐殺されていますから」
「……っ」

 ウードの一言を皮切りにして、再び場の空気が凍結する。
 戦争の第二幕が、切って落とされた。


◆◇◆


 本当はこのような交渉は苦手なのだが、と前置きして、ウードは語る。
 こういったことは、専門の知識を先天的に植えつけられた部下に任せてきたのだ。
 彼が、部下の描いたシナリオ無しにアドリブで交渉の場に立つのは、本当に何百年か振りであった。

「こちらからの要求は、そこのルイズ・フランソワーズの身柄を、シャンリットに正式に預けてもらうこと。
 それによって、この度の不幸な行き違いは、お互いに無かった事にしましょう。
 カトレア嬢の治療もオマケに付けましょう。如何です?」

 だが、特に気負うこともなく、ウードは要求を口にする。
 気ままに喋っても許されるだけの、絶対的な差が、クルデンホルフ首都シャンリットと、トリステインのラ・ヴァリエール公爵領との間には存在する。
 現に、最高戦力たる『烈風』すら通用しなかったではないか。千二百年の間ずっと一つの意思のもとに練磨を続け、蒐集し蓄積してきた蜘蛛には、人の身で抗するには分が悪過ぎる。

 敗北は決して恥ではない。
 実質的に、ウードの提案を断ることは、公爵にはほぼ不可能である。
 それでも、公爵は思案げにし、疑問を口にする。

「ふむ……そう、そこだ。何故、貴様はそこまでルイズに執着する? そこが疑問でたまらない」
「それは本人に訊くのが一番でしょう。ねえ、ルイズ・フランソワーズ?」
「……」

 公爵はルイズに向き直る。

「おお、私の可愛いルイズや。どうか、父に教えてはくれないか。一体、お前の魔法に、どんな秘密があるのだ? シャンリットではなく、ラ・ヴァリエールで学ぶのでは、いけないのか?」

 私たちは、ルイズが魔法を使えずとも、責めたりはしないというのに。












 ――ほんとうに?

「私は。私が、もう、耐えられないのです。父さま、母さま」
「何?」
「限界なのです……。魔法の使えぬ娘と誹られるのは」

 彼女は涙ながらに語る。

「私のせいで」

「私が魔法を使えぬせいで」

「私だけでなく、一族郎党が侮られます」

「欠陥品だと」
「不良品だと」
「出来損ないだと」

「もう嫌です」
「もう嫌です」
「もう嫌です」

「愛されているのは、知っています」
「私も、愛しています」
「父さま、母さま、エレオノール姉さま、ちぃ姉さま」
「みんなみんな、私は、愛しています」

「でも」
「それでも」
「いいえ、だからこそ」

「私は貴族になりたかった」
「自分を誇れるように」
「皆が誇れるように」

「誇りのために」
「尊厳のために」
「愛されるに、値するように」

「だから」
「そう。だから」
「そのための、シャンリット」

「信じてもらえないかも知れないけれど」
「私の系統は、虚無」
「第零系統」
「失われた伝説」

「そして、虚無を学べるのは」
「私の魔法を確実に手に入れられるのは」
「とても忌々しいことに、この邪神塗れの背教の地――いずれ消毒されるべき邪悪の坩堝――」
「――シャンリットにおいてのみ」

 切実な決意を胸に、泣き崩れ無いように必死に堪えながら、ルイズは語った。
 虎穴に入らずんば虎子を得ず。
 どんな邪悪の顎が口を開けていようとも、ルイズにとって、シャンリットで学ばないという選択肢は、既に無いのだった。


 悲痛な沈黙。
 公爵も公爵夫人も、末娘が、齢8にして、ここまでの思いを――歪んだ闇を抱えているとは、想像だにしなかった。
 何が彼女(ルイズ)をここまで追い詰めたのか。夫妻は自責の念に囚われる。

 暗い顔をする父母に、ルイズは儚く笑いかける。

「父さま、母さま。気にしないで。これは誰のせいでもないの」
「そうだな。誰のせいでもない」

 その言葉を、ウードが引き継ぐ。

「敢えて言うなら、虚無の覚醒に七面倒な条件付けやがったブリミル某――いや、伝承を失伝・独占したロマリアの連中を恨むが良い。個人的には、初期ブリミル教の礎を築いた墓守フォルサテが最大戦犯なんじゃないかと疑ってるがね」
「……ウード・ド・シャンリット、ルイズが虚無だというのは、本当なのか?」
「本当だ。じゃなきゃ拉致同然に学術都市に勧誘したりするか」
「いや、拉致同然じゃなくて、拉致だ、紛れも無く。反省しろ」
「反省したから、今度は公爵にきちんと外交チャンネル通じて呼びかけたんじゃないか」
「完全に事後承諾だがな。それにアレは呼び掛けではなくて、恫喝というのだ」

 皮肉の応酬をするウードと公爵。

「はあ。公爵も、そんなに疑うなら、『烈風』殿にも確認すると良い。彼女も、先ほどルイズ嬢の力の一端を目の当たりにしたのだから」
「……確かに、あれは中々強烈な魔法でしたね」

 つい先程の、空中を埋め尽くす無色の『爆発』を回想しながら、カリーヌが呟く。

「まあ、火の系統でも似たようなことは出来そうですが」
「そりゃ『烈風』殿並の才能と修練を積んだ火メイジが居ればな」
「ならばルイズは火の系統という可能性も――」
「たった数日の座学で、10にもなってない幼子が、歴戦の『烈風』と同じ位置まで登れると? “魔法”の業とは、そこまで甘いもんではあるまい」
「……そうですね」
「ならば、それを覆す『反則』があるのさ。――それが『虚無』だ」

 反論するカリーヌを、ウードが説得する。
 ルイズもそれに乗じる。
 シャンリットで学ばなくては、ルイズの魔法は身につかないから。

「父さま、母さま。お願いです。シャンリットに留学させてください!」
「彼女を留学させてくれたら、今回の『烈風襲来事件』は、あくまで私の胸のうちにとどめておこう。これを口実にトリステインに攻め入って滅ぼしたりはしないと誓おう。ついでにカトレア嬢の病も治そう」

 頭を下げるルイズと、それを補足するウード。

「ふむ。良いだろう」
「あなた!?」

 あっさり承諾した公爵に、カリーヌが混乱する。

「こんな得体の知れない蜘蛛の所に娘を預けるだなんて、正気ですか!?」
「ルイズ本人が承知しているのだ。それに、これほどの好条件も中々あるまい。本来であれば、10万の兵卒の仇討ちに、ラ・ヴァリエールを攻められても文句も言えないところだ」
「た、確かにそうですが……」

 領土と領民があってこその貴族だ。
 それを護るために、娘を人質に差し出すことくらいの条件は、いくら親馬鹿な彼とはいえ、呑み込める。
 その程度には、公爵は貴族であった。

「カトレアの病も、正直私たちではお手上げだったところだ。カリーヌ、お前も、カトレアがこれ以上苦しむところは見たくあるまい」
「ええ……そう、ですね」
「カトレアの病と、ルイズの魔法。両方の難題が片付くなら、それに越したことはあるまい」

 公爵がカリーヌを諭す。

「じゃあ、父さま!」
「ああ。お前の好きなだけ学んで来なさい、ルイズ。出来れば毎日――少なくとも週に一度は連絡を寄越すのだぞ?」
「ええ、勿論ですわ!」

 目を輝かせるルイズ。
 公爵は、嬉しいような、誇らしいような、困ったような、寂しいような、複雑な表情をしている。
 一足早い親離れに、公爵の心中は複雑だろう。

「千年教師長、もちろん、お互いの連絡のための手段は頂けるのであろうな?」
「勿論だよ、公爵。その程度はサーヴィスで付けようじゃないか。サーヴィスで」
「ならば良い。では、次はカトレアの件だな」

 割とすんなり話が進む。
 カリーヌも、家長の決定ならばということで、これ以上口を挟む気は無さそうだ。
 ルイズも同様。……ちょっと落ち着きがないのは、早く虚無の指南書の続きを読みたいからか。早くも知識の魅力に取り憑かれてしまったようだ。

「どうするもこうするも、取り敢えずシャンリットまで連れてきて貰うしかあるまい」
「やはりそうか」
「そりゃそうだ。診察しないことには、始まらん。
 一週間後くらいに、ラ・ヴァリエールに<ゲートの鏡>を開いてやるから、それを通じて来ればいい。
 そうすれば、カトレア嬢の身体にも、移動の際の負荷はかかるまい。だが、同行人数などは条件を付けさせてもらう。ゲートを繋ぎ続けるのも結構、大変なんでね」

 実際は、ゲートをそのままラ・ヴァリエールとシャンリットの間で繋いでおくことも可能だ。
 だが、ウードは敢えてそのような方法は取らない。
 折角、虚無の娘を育成する機会が来たのだ。邪魔は入らないようにしておきたい。ラ・ヴァリエールからの直通の経路を残すだなんて、論外であった。

「ゲートを通り抜けてこられるのは、カトレア嬢と、あと一人だけにしよう。合計二人だ。それだけ通せば、ゲートは消滅する」
「付き添いが一人では、少ないだろう」
「かといって大名行列させる訳には行かないな、ここはトリステインではなく、クルデンホルフのシャンリットなのだから。
 それに場合によっては、治療にあたってシャンリットの秘奥とされる術式を用いるかも知れぬ。そういった場合、目撃者は少ない方が良い。だから、本人合わせて二人だけ寄越せ。看護師はウチの者にやらせることになるが、そこは信用しろ。
 お付きの一人は、公爵の信頼できる者で、かつカトレア嬢の不安を和らげられる者を付けて欲しいな」
「私自身が付き添いになるのは?」
「場合によっては年頃の娘の下の世話までしてもらうのだぞ? 公爵自身が付き添うのは、避けた方が良いだろう」

 デリケートな年頃の娘の付き添いに、父親というのは不適当だろう。

「では私が」
「公爵夫人は駄目だ。街中で癇癪起こされては堪らない。いくらシャンリットでも、内側から崩されれば、多少の被害は出る」
「そんなことは致しません」
「どうだか。つい先程の屍山血河を思い出したまえ。前科持ちは、ご遠慮願おう」
「むむむ……」

 ならば私が、と立候補するカリーヌを、ウードは拒否。
 確かに先ほどのカリンちゃん無双を考えれば、ウードの懸念はもっともだ。人間台風(ヒューマノイド・タイフーン)なんか、誰が自分の街に入れるものか。
 渋々、カリーヌは引き下がる。それなりに反省しているらしい。それ以上に、アレだけ虐殺の限りを尽くして、表面上は平然としているように見えるのは大したものだ。

「であれば、姉のエレオノールを付けよう」
「……確かに、一番信用できる人間で、カトレアの身の回りの世話もできて、しかも私たち夫婦以外となれば、残りはエレオノールしか選択肢がないですわね」
「エレオノールもルイズに会いたがっていたしな。ラ・ヴァリエールを出るのも、エレオノールの良い経験となるだろう。……シャンリットは、劇薬すぎる気がしないでもないが」

 という訳で、カトレアの付き添いには、エレオノールが来ることに決まった。

 その決定を聞いて、ルイズは微妙な顔をしていた。
 優しい次姉は大好きだが、厳しい長姉はちょっと苦手なのだ。
 

◆◇◆


 約定の一週間後。
 ゲートをくぐり抜けて、二人の美少女がシャンリットの地にやって来た。
 言わずと知れた、ラ・ヴァリエールが美人三姉妹の長女エレオノールと、次女カトレアである。

「へえ。便利なものね。<ゲートの鏡>って。アカデミーとラ・ヴァリエールの直通経路でも作ってもらえないかしら」
【お金を払えば、作ってもらえるそうですが】
「へえ。物知りね、トゥルーカス」

 長いブロンドの髪と、『烈風』譲りのきりりとした勝気な美しい顔は、長姉のエレオノール(19歳)だ。
 肩にはフクロウを乗せている。それは母の使い魔であるトゥルーカスだ。人語を解す賢い使い魔である。使い魔はゲート通過の人数にはカウントされないので、カリーヌがお目付け役として同行させたのだ。
 エレオノールは、つい先日魔法学院を卒業し、トリステインの魔法研究所(アカデミー)に研究員として就職したばかりである。
 彼女の表情は、少し強張っている。

 無理もない。
 これから先は、敵地なのだ。
 愛する妹カトレアの不安を紛らわせ、父母に代わり姉として、家族として、カトレアを守らねばならないのだ。

 決意も新たに、エレオノールは、傍らで魔法機械に乗ってふよふよと浮かぶカトレアを見る。

「ここが、シャンリット……。不思議な場所……。明るいのに、こんなに光に溢れているのに――仄暗い」

 シャンリットから貸与された魔法機械――浮遊椅子と言うらしい――に乗った、カトレアは、周囲を見回して不安気にしている。
 この浮遊椅子は、内蔵された小型風石機関によって地上20サント程に浮かんでおり、搭乗者の意志によってゆらゆらと自在に動くのだ。
 これならば、カトレアの体力を消耗すること無く、自由に都市内を移動できる。

「エレオノール姉さま! ちい姉さま!」
「「ルイズ!」」

 そんな二人のもとに、パタパタと駆け寄る少女が一人。
 ラ・ヴァリエール三姉妹の末妹、ルイズ・フランソワーズである。
 久方ぶりに会った末妹を、エレオノールは抱きしめる。
 カトレアも、浮遊椅子を降りて、ルイズを抱きしめる。

 感動の姉妹再会である。

「ちびルイズ! 急に居なくなるから心配したのよ?」
「ごめんなさい、姉さま」
「そうよ。私も心配したんだから」

 カトレアがルイズを抱きしめて撫でる。
 ルイズは、温かい家族の絆に思わず涙が出そうになるが、この魔境シャンリットで学ぶ決意は揺らがない。領地(うち)には、帰れない。
 虚無のこと、そしてこの世界のことを知るにつけ、彼女の中では途轍もない使命感が大きく膨らんでいた。
 特異な才能を持った技術者には、それに応じた追うべき責任というものが――業(カルマ)というものがあるのだ。

 すなわち、邪悪を滅するという、使命が。

「それで。家出の効果はあったんでしょうね? 魔法は使えるようになったの?」
「勿論ですわ! 『幻影(イリュージョン)』」

 もろもろの経緯を知っているだけに、さすがのエレオノールもルイズに対して強くは出れない。
 ルイズがそこまで『魔法』に対して思いつめていたのは、厳しく当たっていた自分のせいでもあると思っているからだ。
 でも、元気そうな――領地に居る時よりも格段に朗らかになったルイズを見て、安心する。同時に少し寂しくもあったが。

 ルイズは姉に見てもらおうと、爆発以外の魔法を行使する。『爆発』では、今までの失敗魔法とエフェクトが変わらないから、本当に魔法を身につけたのか進歩が分からないだろうと思ったからだ。
 使うのは、虚無の『幻影』。
 それは使用者の望む通りの景色を映し出す。

 とはいえ、ルイズも浮かれていたのだろう。
 焦ってイメージも曖昧なままに唱えた魔法は、直近の最も印象的な風景を再現する。
 ――再現してしまった。

「ひっ、きゃああ!?」 「ふぅっ……」
「エレオノール姉さま!? ちい姉さま!?」

 『幻影』が効果を表すのと同時にエレオノールが叫びを上げ、カトレアが気を遠くにやってしまう。
 それほどまでに、鮮烈で、衝撃的な光景であった。
 『幻影』のミニチュアとはいえ。

 ――『烈風』による10万虐殺の光景は。

 小さな幻影の中で『烈風』が吹き荒れ、黒雲から白雷が地面を舐めるように駆け、鋭利な氷柱が雹のように降り注ぐ。
 流血が地面を赤く染め、矮人たちが木の葉のように竜巻に舞い上げられて踊り、千切れ、潰れていく。
 矮人たちの抵抗もない訳ではない。巨大な炎の蛇が現れたり、局所的に風を打ち消したりしているようだ。だがしかし、そんな抵抗など、鎧袖一触。『烈風』は全てを薙ぎ倒す。
 正視に耐えない、虐殺の光景。

「ああ、しまった! つい――」

 流石にあの屍山血河は、ルイズの心に深いトラウマを残していたようだ。
 そのせいで、『幻影』の魔法で再現してしまったのだろう。抱え込むよりは、吐き出してしまったほうが良いのだから、これはこれで正解であろう。
 ただ、『幻影』の屍山血河は、彼女の姉たちにもトラウマを刻んだ。

 “やっぱり、母さまは、怖い”と。


◆◇◆


 次にカトレアが目覚めた時、そこは見慣れぬ白い部屋であった。
 清潔な寝具に包まれ、自分はベッドに寝かされていたようだ、とカトレアは現状を認識する。
 ベッドの横には、浮遊椅子が、所在無さ気に浮いている。主人をある程度追尾して来る親切機能が内蔵されているため、待機状態で浮遊しているのだ。

「えーと、ここは、どこかしら?」
「シャンリットよ、カトレア。貴女はルイズの魔法を見て気絶したの」

 声に引かれて窓際を見れば、そこには、しょりしょりと林檎を剥くエレオノールの姿が。
 窓の桟では、トゥルーカスが眼を閉じてまどろんでいる。梟のトゥルーカスは、今はオネムの時間のようだ。
 ベッドサイドのチェストの上に皿が置かれ、そこにエレオノールが剥いた林檎が並べられていく。うさぎ林檎である。

 ――エレオノール姉さまがこんな家庭的なスキルを持っているとは思わなかった。

「カトレア。何か失礼なことを考えなかった?」
「い、いえ、そんなことはありませんわ、姉さま」

 いや、実際、意外過ぎる。
 花嫁修業でもしたのだろうか? と思うが、別に貴族の婦人に家庭的スキルは必要ない。
 必要なのは、女性的なうじうじした側面から宮廷を牛耳るための、そういう陰険スキルだ。
 人間の感情の機微、人間関係の微妙な均衡……それを見つけて、尖兵たる夫を操るための、そういう極度に人文系なスキル。それについて、エレオノールは熟達していなかったはずなのだが。

 と言いつつ、母さま――『烈風』カリンは、別だけれど。別次元だけれど。むしろ別種族なまでに隔たっているけれど。
 『烈風』は、凛々しい魅力で、王都の貴族婦人たちを悉く堕としているのだった。男女構わずに。魔法衛士隊時代の経歴を隠していても、溢れ出る『烈風』のオーラに、人々はひれ伏さずにはいられない。
 まあ、強き者に惹かれるのは、貴族のサガであるから仕方ないのかも知れない。

「まあ、いいわ。折角剥いたのだから、食べなさい。ここ三日、点滴で栄養補給されていたとはいえ――いえ、それだからこそお腹は空いているはずだから」
「はあ、いただきます――って、え? 三日?」
「そう。三日よ。おはよう――おそようかしら、カトレア」

 と言われても、まるで実感は湧かない。

 どうやらずっと眠っていたらしい。
 その割には――いや、三日も眠っていたからだろうか?
 身体がとても軽い。

「さっきまでルイズも一緒に居たのだけれどね。勉強の時間だからって、教師役の同い年くらいの銀髪の娘に連れられて行っちゃったわ」
「まあ。それは残念」
「ルイズったら、自分の魔法で貴女を気絶させてしまったから、とても気に病んでいたわ。だから、貴女が目覚めたと知ったら、喜ぶでしょう」
「……確かにちょっと、ルイズのあの魔法は、心臓に悪かったですわ。夢に見そうなくらい」
「私も同感。というか、ここ二三日、矮人の血で濡れた鉄仮面を被った母さまが『フライ』で猛スピードで追っかけてくる夢、見てるわ」
「ふふふ、大丈夫ですわよ姉さま。本物の母さまなら、そんな悪夢の中の幻影を打ち砕いて、エレオノール姉さまを守って下さいますもの」
「本当にそうかしら。貴女はいつもそう言うけれど……」
「本当ですって。母さまは、エレオノール姉さまのことも、ルイズのことも、深く愛してますもの。表面上は、厳しげな母を演じてらっしゃいますけどね。でも、そんなの私にかかれば全部お見通しです」

 カトレアの手が自然と、林檎に伸びる。そして、一口。
 シャクシャクした感触と、上品な香気、仄かな甘味と酸味が口に広がる。
 美味しい。次々と皿の上の林檎がなくなっていく。まあお腹が空いていたのだから、仕方ない。

「そうだ、カトレア。体の調子は?」

 エレオノールが訊いてくる。

「とっても良い感じ。今までにないくらい、調子が良いですわ。三日も寝込んでいたなんて嘘みたい」
「……そう。シャンリットの治療は効果を表したみたいね」
「治療?」

 身体が軽くなっているのは事実だから、ナニカサレタヨウダいうことは分かるのだが。

「本人が気を失っていたから、出来るのは対症療法だけだって話だったけどね。水の秘薬の風呂に浸けて、治療に特化した矮人が悪いところを治していくってことを、延々とやったのよ」
「秘薬の風呂? お風呂の水に秘薬を混ぜたんですの?」
「いいえ。水の秘薬そのもの。バスタブいっぱいの、水の秘薬よ」

 カトレアは絶句する。それは、凄い。
 いくらラ・ヴァリエールでも、それだけの秘薬を用意することはできない。
 しかも聞けば、一時凌ぎの対症療法のために、それだけの秘薬を用いたのだという。

 全く、この街には常識が通用しないらしい。

「本当に、この街は、私達の常識が通用しないわ。異種族も平気で街中に居るし。翼人やエルフなんて、私、ここで初めて見たわ」
「まあ、私もお会いしたいですわ。屋敷の動物たちから、話だけは聞いてますけど、まだ本物には会ったことがなくって。でも、そうすると、姉さま、とても吃驚されたのでは?」
「……そーでもないわ。だってそれより、貴女の治療をするパーティションの直ぐ隣に居た人――ヒト? の方が印象的だったもの」
「どんな方だったんです?」
「背中から羽の生えた、下半身触手の、矮人。何を思ってそんな姿になったのか知らないけど、とってもインパクトが強かったわ。キメラ技術の応用で、身体のパーツを替えたり増やしたりするのは、この街では割とメジャーらしいけど、……アレは無いわ」
「……それはそれは……」
「危うく卒倒しそうになったわ」

 等と話していると、
 ――コンコン
 と、病室のドアがノックされる。

 カトレアが目を覚ましたのを察知して、医者がやって来たのだろう。
 エレオノールが入室を促す。

「目を覚ましましたか。おはようございます、カトレアさま」

 入ってくるのは、褐色の肌をしたワインレッドの赤髪が綺麗な、白衣の少女だ。
 大きな烏揚羽蝶のようなバレッタで、髪を纏め上げている。

「初めまして、カトレアさま。私、コレット・サンクヮム・レゴソフィア・0795201号と申します。カトレアさまの主治医を拝命しております」
「ぜろななきゅうごーにーぜろいちごう?」
「ああ、お気になさらず。ただの番号ですので。コレットとお呼びください」
「そうですか。では、改めて初めまして、コレット先生」
「よろしくお願いいたします、カトレアさま。このコレットに、ずずずいっと、全てお任せ下さいませ」

 小さなドクターとカトレアはがっちりと握手を交わす。

「エレオノールさまとは既にお話させて頂きましたが、カトレアさまのお身体の現状と、今後の治療プランについて、改めてお話させていただこうと思います」

 それを聞いて、僅かにエレオノールの身が強張る。
 姉の様子を見て、カトレアは訝しく思う。
 ――姉は、この小さなドクターから、一体何を聞かされているのだろうか?

「まずは、カトレアさまのお身体の不調ですが――心筋症、慢性腎不全、慢性肝不全、軽度の肺水腫、それらに伴う全身の衰弱、その他症状は数えきれないほど……と、非常に危険な状況でした。
 今まで命数を長らえてこられたのは、ひとえに公爵閣下とラ・ヴァリエールの治療団が施した水の国でも随一の治療と、カトレアさまご本人の忍耐と気力の賜物でしょう。
 幸い神経系は侵されていませんでした――痛覚を始め感覚神経は正常でした――のですが、逆に言えば痛覚だけは正常だったということ。その苦しみは、想像を絶するものだったでしょう……」

 ドクター・コレットは、カトレアの手を握り、真摯な笑みで微笑みかける。

「今までよく頑張りましたね」
「……っ、はいっ、先生」
「頑張ったわね、カトレア……」

 今までの苦しみを思い、カトレアが涙をこぼす。
 エレオノールも、そっとカトレアの隣に立ち、肩を抱く。
 しゃくりあげる声と共に、暫くそのまま時間が過ぎる。

「ううっ、ぐすっ。みっともないところを、お見せしました」
「いえいえ」
「それで、ドクター。今は病状も落ち着いてますけど、カトレアの身体は、治るのですか?」
「勿論です。私にお任せ下さい。きっちりかっちり、ずずずいっと、隅の隅まで、健康体にして差し上げますとも。
 とはいえ、現状は小康状態なだけで、根本的な解決はしていませんが。
 水の秘薬を浸透させて、この建物に張り巡らせたマジックアイテム<黒糸>によって、リアルタイムに体調を監視し、無理矢理に健康体と同じように整えているに過ぎませんので」
「つまり、この建物の内部に居る限りは、発作が出る心配はない、と?」
「そういうことですね。あとは、一日一度は、水の秘薬風呂へ一時間浸かっていただくことも必須です。本日も後で入浴して頂きます。
 それを欠かさず、かつ、この建物内に居れば、<黒糸>の作用によって、自動的に復元作用が働きますので、発作は出ないでしょう。
 ですが、完治したわけではありませんので……」
「ラ・ヴァリエールに戻れば、再発する、と」
「ええ、そうです。ご理解が早くて助かります。それにいつまでも、カトレアさまを、ここに閉じ込めているわけにも参りません。ですから、ここで完治させます」

 カトレアの体調は、水の秘薬とマジックアイテム<黒糸>の作用によって、常人と同じようにエミュレートされているに過ぎない。
 今は安定して見えるが、それは外部からの魔法による高度な体内操作のおかげである。
 細胞ひとつひとつのレベルで作用している、無駄に高度で繊細な治癒魔法なのだった。

「それで、カトレアの身体が悪い原因は、分かったの? 何やらたくさん調べていたようだけれど」
「原因不明です」
「本当に? 嘘じゃないのよね?」
「原因不明です」
「本当に、分からないの?」
「そういうことになります」

 ニコニコと笑みを崩さぬまま、コレットは聞き捨てならないことを宣った。
 原因が分からないのに、病を治せるというのだろうか? というか、何故そんなにも笑顔なのだろうか。
 病気の原因が不明ということを告白するのは、医師にとって結構勇気が要る苦渋の事のように思えるのだが、まるでこの矮人のドクターは『分からないからこそ楽しいのだ』とでも言わんばかりに、満面の笑みだ。

「今一度確認するけれど、カトレアは治るのよね?」
「治しますとも。蜘蛛の叡智にかけて」

 無い胸を張って、小さなドクター・コレットは請け負う。
 それは確かに、頼り甲斐のある医者の姿だった。
 ――それ以上に何か悍ましい未知への好奇心に駆られた異端の研究者のように思えたが、カトレアとエレオノールはその印象を封印する。きっとそれは気づいてはいけないことだから。

「まあ、原因不明とは申しましても、どうすれば良いのかというのは分かっているのです。
 この三日間、じっくりとカトレアさまの身体を調べさせて頂きましたから。ある程度の仮説は立っています。
 恐らくは始祖の血がびみょーにマズいバランスで発現したのでしょう。妹君のルイズさまは虚無遣いですし、カトレアさまも始祖の血が濃いのでしょうね」
「……? なんで始祖ブリミルの血が発現して、病弱になるの?」
「そりゃあ――」

 そこまで言って、コレットは口を噤む。

「……な、何よ。早く言いなさいよ」
「……あー、えー、そのー」

 それに妙な迫力を感じ取ってエレオノールが先を促すが、コレットは歯切れ悪そうにして答えない。

「……コレット先生、教えていただけませんの?」

 言えない。
 まさか始祖ブリミルが半分は邪神の血を引いてる(※あくまでシャンリットの仮説だが)とは言えない。
 そのせいで半端に血が濃いと生まれた時の星辰の位置によっては異形化するとか、どうも肉体に現れている種々の兆候が遥か昔にウードが初めて異形化しそうになった時のものに似ているとか、身体の一部分の発育が他の姉妹に比べて宜しいのは急速成長する半神半人の特徴ではないかとか色々と仮説があるのだが、ここは口外しないのが正解だとコレットは判断した。

 インフォームド・コンセント?
 いやいや。
 この世には決して語るべきではない、知るべきではない知識があるのだ。

「ま、まあともかく! カトレアさまのお身体は少々、この世界と相性が悪いようですので、そこをすっぱりさっぱり綺麗にバランスを取って差し上げれば、普通のメイジと変わらなくなるのです!」

 慌てて誤魔化すが、コレットは、カトレアには全てバレているような気がして、冷や汗を流す。
 ……もっとも、常時『読心』の魔法を使っているように勘の鋭いカトレアはカトレアで、コレットから読み取ってしまった、混沌で不浄で邪悪なイメージによって、絶賛正気度チェック中であった。
 勘が良い(アイデアロールに成功しやすい)のも、考えものである。

「……どうやって?」

 正気度チェックを何とか成功させ、狂気の縁から戻ってきたカトレアは、これ以上ドクター・コレットの心情を読み取らないように気を付けつつ、尋ねた。
 薄々回答には見当がついているが、恐る恐るといった様子でカトレアは尋ねる。
 そう、彼女は既にその回答の一端を、既に姉から聞いている。

「それはもちろん、“入れ替えて”ですよ」

 エレオノールの脳裏には、秘薬風呂に浸かっていた、異形を組み合わせたキメラ矮人たちが浮かぶ。
 シャンリットでは、身体のパーツを入れ替えることくらい、朝飯前なのだ。
 そして、カトレアの脳裏には、やっぱり思わずコレットの心から読み取ってしまった、凄惨な唾棄すべき光景が再生されてしまう。

 ――眠ったように羊水の中に浮かぶ、胎動する未熟な胎児。様々な動物の様々なパーツを出鱈目に生らす、キメラバロメッツの母樹。癒合する肉と骨、現れる異形の合成獣やヒトモドキ。融合の失敗、後遺障害、拒否反応、暴走増殖、積み重ねられた失敗作と知見――。

 悍ましく生々しい光景を幻視してしまい、カトレアの瞳から輝きが失せる。
 はい、再び正気度チェック入りましたー。
 コレットはそれに気づきつつ、エレオノールはそんなカトレアの様子には気づかず、治療方針についての会話を続ける。

「首から下を、世界に対する拒否反応が起こらないように調整したクローン体と入れ替えます。既にカトレアさまの細胞から、調整済みのクローン体の培養は終わっておりますし」
「却下よ。何度も言っているでしょう?」

 エレオノールは即座に却下。
 そんな事は認められない。
 認めてなるものか。
 認めた瞬間に、カトレアの身体は、この世のものではない別のナニカにされてしまうに決まっている。
 ……そしてこればかりは、あながちエレオノールの被害妄想とも言えないところである。流石は信頼と実績のシャンリット。千年異端は伊達じゃない。

「何度も? ですか、姉さま」
「そうよ。何度も何度も、何度もよ!」
「手早く、かつ、カトレアさまに負担を掛けずに治すには、さくっと健康体に載せ替えるのが一番良いのですが」
「だ、か、ら! 絶対ダメよ! その新しい身体にどんな改造が施されてるか分かったもんじゃないじゃない!」
「だいじょうぶですヨー、信用してくださいヨー」

 漸くカトレアが復帰。今回も運良く、正気度チェックは成功したらしい。そして何か考えこむようにして、目の前の二人の口論を眺める。
 カトレアが問うた通り、エレオノールとドクター・コレットがカトレアの治療について話をするのは、これが初めてではない。
 カトレアが気絶している間も、何度となくエレオノール(&ルイズ)とコレット女史は、意見をぶつからせてきたのだ。

「ですから! カトレアさまの為を思えばこその提案なのです! シャンリットの技術で調整すれば、現在のお身体から不具合のみを取り除いた“新しい肉体”を提供できます!」
「ダメよ! 親から貰った身体を捨てろというの? そんな事は、認められないわ。大体、無理に“首の挿げ替え”なんかやらなくても、もっと穏便な方法があるのでしょう!?」
「そりゃあ、治療期間を区切らず言えば、他に幾らでも手の打ちようはありますが……」
「じゃあさっさとそれを一覧にして持って来なさい。それを見てから、カトレアや実家と相談して決めるわ」
「その時間すら惜しいと、申し上げているのです。正直申し上げまして、星辰の具合によっては、カトレアさまの容態が、急激に変調することもありうるのです」
「何で星の動きが関わるのよ。やはりまだ隠していることがあるのね? 全部話しなさい。それが、医者の誠意というものでしょう!」

 あーだこーだとエレオノールとコレットは、物凄い剣幕で議論している。
 その姦しさに、トゥルーカスがぴくりと瞼を震わせるが、また直ぐに羽毛の中に首を埋めて寝入ってしまう。これではお目付け役の意味が無いような気もする。

 カトレアは、深呼吸を一つ。
 そして、二人が息を吸い込んで、口論が一瞬止んだ空隙を狙って、口を開く。

「私、その手術、受けます」
「ちょ!?」 「はへ?」

 横合いからの当事者の、予想外の発言に、流石に口論していた二人も動きを止める。

「ちょっと、カトレア! 正気? 何言ってるか分かっているの?」
「勿論です、姉さま。悪い身体を、良い身体と、取り替えるのでしょう?」
「そうよ、それがどういうことか――」
「でも、心を取り替えてしまうわけでは、ありませんわ」
「……っ!」
「それに、こんなに自由が効かない身体、自分のものって感じがしませんもの。いいじゃないですか、新しい身体。ねえ先生? 少し聞きたいことがあるのですけれど」

 他人より心というものに対して、非情に強い感受性を持っている彼女だったからこそ出せた結論なのだろう。
 肉体よりも、精神や魂について、カトレアは強いシンパシーを持っている。
 彼女の妹ルイズの精神が、肉体を離れて遙か次元を隔てた幻夢郷(ドリームランド)で存在の強さを発揮したように、姉であるカトレアも、肉体から離れた所での自分の魂について、強い確信を持っているのかも知れない。

「ねえ、先生。新しい身体になっても、私は私のままよね?」
「そうです。今回の手術では、魂までも削るわけではありませんから」
「そう。じゃあ、先生。その新しい身体は、赤ちゃんを生むことは出来るの?」
「勿論です」
「生まれてくるその子は、ちゃんと、ラ・ヴァリエールの血を引いている?」
「当然です。どんな検査をしても、正真正銘、カトレアさまのお子さんだと証明されますし、当然、ラ・ヴァリエールの血脈を受け継いでいます。今ご用意している新しい身体は、カトレアさまの悪い部分のみを、我々の最新技術で調整して取り除いたものですから」
「じゃあ、問題ないわ。私だって、早く健康になって、ラ・ヴァリエールに帰りたいもの」
「……カトレアが、そう言うなら……」

 渋々、エレオノールも了承する。
 カトレアは、極力コレット女史の方を見ないようにして、そっとため息をつく。


 ――ルイズには悪いけれど、この悍ましい蜘蛛の館(シャンリット)にこれ以上居たら、どうにかなっちゃうわ。


 一刻も早く、この街から離れたい。カトレアは彼女には珍しく、苦々しくそう思う。
 しかし、治療はここでしか受けられない。そんなジレンマ。
 ……ならば、さっさと治療を済ませて出ていけば良い、というわけである。

 勘の鋭いカトレアにとって、このシャンリットでの生活は、地雷原を歩くようなものだ。
 至る所に、暗黒の知識の入口が開いており、手ぐすね引いて哀れな犠牲者を呑み込もうと待ち構えているに違いないのだ。
 それを、目覚めてからまだ数時間と経っていないが、目の前のドクター・コレットとの会話から、カトレアは実感していた。

「ルイズは、大丈夫かしら……」

 主に正気度的な意味で。
 はあ、とカトレアが再びため息をつく。
 視線の先では、トゥルーカスが目を閉じて眠っている。




 その後何度かコレットとカトレアは打ち合わせを行い、数日後には無事に手術は終了した。

 ちなみに。
 新しい肉体の方は、遺伝子の許す環境誤差の範囲で、カトレアが思い描く“理想的に成長した私”に調整してもらったことは、完全な余談である。


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ゼロ魔二次創作でありがちな、カトレア治療回。スパッと外科的に解決。脳缶よりは幾分マシなはず。脳缶にしても良かったけど。


カリンちゃん無双終了。もはや戦略級兵器。一種の災害現象。ヒューマノイド・タイフーン。
ルイズパパは親馬鹿分が若干少な目かも。
エレオノール(19さい)。この件で下の妹二人の件が片付けば、重荷も無くなって性格も多少は丸くなるはず?
カトレアは、シャンリットでは頻繁に正気度チェック発動。身体の発育が良いのは、治療前→異形化寸前のある種の奇形、治療後→理想成長させた肉体に首から下をすげ替えたから、という解釈。治療せず放置したら、下手したらウェイトリー家の弟みたいな異形化ルートも在ったかも。

2011.11.05 初投稿

次の更新こそは、本編の続きを書きます。次回:アルビオンの失墜。



[20306] 蜘蛛の巣から逃れる為に 29.アルビオンの失墜
Name: へびさんマン◆29ccac37 ID:a6a7b38f
Date: 2011/12/07 20:51
常若の国――『ティル・ナ・ノーグ』。
 アルビオン内部に存在すると伝説で謳われる、死者の国。黄泉の国。妖精郷と言い換えても良いだろう。伝説のアーサー王が眠っているアレだ。
 命を散らした者は、いつか来たる祖国の危難に応じ、常若の国ティル・ナ・ノーグより復活するのだという。


 そして、伝説通りのことが、今、アルビオンでは起こっていた。


 内乱で荒れ果てた国土、戦争に駆り出されて死んでいった若い衆、天候不順、空賊の横行による物価高騰、新政権に纏わり付く恐ろしい噂の数々……。これを祖国の危難と呼ばずして、何を危難と呼べばいいだろうか。
 そして、民の願いに応えるように、新しい教会は奇跡を配布しだした。旧来のブリミル教会を廃し、速やかに成り代わった天空教会は、貴族に対しては父なる天空神ハスターを全面に押し出し、民衆に対しては地母神シュブ=ニグラスを奨めている。荒廃した国土の再生と、労働力の増強、徴兵による国軍力の増強は、新政府にとっても、喫緊の課題であった。
 故に彼らは、いともたやすく、禁忌に手を染めた。祖先を蘇らせ、奴隷種族を召喚する魔術(まほう)を――禁断の知識を、民衆に配りだしたのだ。



 青い空の下、アルビオンの辺境農村。
 虹色に茫洋と輝く広大な農地が広がっている。
 村の外れには、雑多な石造りの円環が見える。

「いやあ、国母様サマだねえー」
【ぎぃー】
「父さんと兄さんが戦争に駆り出されて、今年の税はどうしようと考えてたけど、お前たちのおかげで何とかなりそうだよ」
【ぎじゅるる、る!】
「爺さんや曾祖父さんや曾祖母さんも、ティル・ナ・ノーグ(むこう)から帰ってきてくれたしね」

 農地を耕しているのは、奇妙な異形だ。傍らには監督する農婦らしき中年女性が居る。
 高さ5メイルほどの黒沃の肉樹。
 それが五、六本の触手の先にそれぞれ農具を持って、それぞれの触手を忙しなく動かしている。畑のあちこちに、そんな異形が散見される。

 戦争に取られた若者たちの代わりに、国母シャジャル妃の加護の下、巨象の上半分を捻くれた大樹に置き換えたような異形――黒い仔山羊たちが、その触手の先端に器用に鍬やツルハシを持って、農作業や灌漑工事などを行なっているのだ。
 荒廃した大地には、虹色に輝く植物が茂り、黒沃土色の仔山羊が、教会の指導のもとで即席呪術師となった村人たちの指示で働いている。家々の補強工事も行われているようだ。まるで大地が大きく揺れるのに備えているようだ。
 老人たちの姿も多く見られる。……彼らがやけに土気色をしているのと、墓地だった場所が掘り返されて青々とした畑になっているのが気にかかる。彼らは土の下――ティル・ナ・ノーグから、黄泉帰ったのだろうか?

 村の外には、用済みになった墓石で作られたストーンサークルがある。
 よく見れば、その中心は、不気味に胎動し、不可思議な色彩を放っている。
 大陸の中心に据えられた擬神機関(アザトース・エンジン)から地脈を通じて配賦される神気が、ストーンサークルを通じて溢れ出しているのだ。

 その神気が、奴隷種族たる黒い仔山羊たちの腹を満たし、死者を動かし、植物や家畜の成長を早めているのだ。
 当然、生身の人間にも影響がないわけではない。熟達したメイジのように、精神を鍛えていないと、一瞬で正気を失うだろう。だが村人たちは、死者が甦ることも、使役する新しい異形の家畜たちのことも、何ら疑問には思っていないようであった。
 そう、皆が狂えば、その狂気は、もはや正気と差異が無いのではないか? 狂った中、ただ一人狂えないのは、逆に狂気ではないのか? ……まあ、これらの光景に疑問を呈するような正気の輩は、教会を通じて護国卿クロムウェルの元へと連れて行かれるので、アルビオンの辺境には、狂い狂って一周して狂気に適応した(・・・・・・・)人間しか残っていないのであるが。

 死者が蘇り、神話的生物で満ちる国、アルビオン。
 何が狂ってこうなったのか。
 何も狂わなければ、こうはならなかったのか?

 誰が狂っているのか。
 誰も狂っていないのか。
 それすらも、この国では曖昧だ。

 茫漠だ。
 空のように、広漠としている。
 ――そうだここは空の国なのだから。

 暗中模索に五里霧中。
 ――そうともここは霧の国なのだから。

 白痴蒙昧、狂気乱舞。
 ――いかにもここは白の国なのだから。



 視点を辺境の農村から、首都である霧の街ロンディニウムに視線を移そう。

「酷いもんだ」
「全くだね。自重しろって感じだ」
「諜報員排除には、有効だろうけどな。この気狂わせ風も」
「おかげで、残ってるのは、僕らくらいなものだものねー」

 人気のない通りを闊歩するのは、トリステイン諜報員のワルド子爵と、ロマリア密偵のジュリオだ。
 羽帽子のヒゲ貴族に、月眼の神官というのは、かなり目立つはずなのだが、誰も彼らに目を留めない。機械的に日常生活を淡々とこなす市民の目には、何も映っていない。ただ時折、茫漠とした空を映すだけだ。
 無人の荒野を往くように、二人のスパイは大通りを歩く。

「……俺の国では、これ以上の情報収集は無用と判断された。じきに白の国から撤収する」
「うん? この国をウェールズ殿下の下に取り戻すんじゃなかったのかい?」
「新生アルビオンの狙いがシャンリットだと分かったからな。女王陛下曰く、『真正面から戦う必要は無いわ。私たちがやることは、最高のタイミングで横合いから殴りつけることよ』ということらしい」
「なるほど。撤退ってことは、どうせシャンリットと戦ったら、アルビオン国内なんてぐちゃぐちゃになっちゃうだろうから、今情報収集しても、直ぐに役に立たなくなると判断したのか。しかしウェールズ殿下は、それを許可したのかい?」
「さてな。殿下が何を考えていても関係あるまいよ。彼は既にアンリエッタ陛下の“モノ”だし、女王陛下がそうと決めたなら、俺たち下々の者は反対できぬ。俺はトリステインの狗であって、アルビオン亡命政権の狗ではないのだから」

 ワルドは、以前に近衛の魔法衛士隊長として、アンリエッタ女王夫妻を護衛した時のことを思い出す。
 アンリエッタの『魅了』の魔法を至近で浴びすぎた亡国の王子の、あの死んだ魚のような瞳を。夫婦揃って同じような、深淵の泥濘の瞳をしていた。
 あれでは、ウェールズにマトモな思考が残っているかも怪しいものだ。そういえば、実際ワルドは、「そうだね、アンリエッタ」という台詞以外に、ウェールズの声を聞いたことがない。

「まあ撤退するのは、その辺の戦略的判断だけじゃなくて、上の人達が、君から送られてくる情報の扱いに手を焼いていたってのもあるんじゃないか?」
「そうらしい。事実をありのままに書いただけなのだがな。何度も上層部が気を病んで入れ替わるお陰で繰り上がって、いつの間にか俺は女王陛下の直轄だ」
「ああ、なるほど。『深淵』のアン陛下なら、錯乱する心配もないというわけか」
「陛下が直々にアルビオン情勢を知りたいと願ったのも理由だ。だが、それも終わりだ」
「――まあ、頃合いだね。シャンリットと開戦する前に引き払うってのは、正しい判断だと思うよ」

 二人の歩みは、王城の前で止まる。
 ロンディニウムの、ハヴィランド宮殿。王の居城。
 無用心なことに、門を守護する兵もおらず、不気味な風が渦巻いているだけであった。

「貴様の顔を見なくて良くなると思うと、せいせいするな」
「そうかい? 僕はもっと仲良くしときたかったけどね、ジャン=ジャック」
「言ってろ。……ヘマはするなよ? ジュリオ。――折角最後に俺が手伝ってやろうというのだから」

 そう言って、ワルド子爵の身体がぶれて蜃気楼のように霞み、揺らぎ、重なり、分かれる。
 風の『偏在』。遍く広がる風を、束ね、偏らせ、実体を与える。故に『遍在』にして、『偏在』。風の『ユビキタス』。
 ワルド特製の、十数年に及ぶ、全系統魔法における練磨と執念の結晶である、実体を持った分身だ。それが4体。本体――といっても、この本体も遠くトリステインに居る“本体の本体”による実体ある分身の一つに過ぎないのだが――と合わせて5体。

「じゃあ、手筈通りに頼むよ。ジャン=ジャック」
「ああ。じゃあな、ジュリオ」
「――それと、ありがとうな」
「……。気持ち悪い。鳥肌が立ったぞ」
「そう言うなよ。これでも感謝してるんだぜ?」
「じゃあ、いつか借りを返してくれ。――死ぬなよ、ジュリオ」
「勿論さ、ジャン=ジャック」

 五人のワルドが、それぞれ別方向に向かう。
 一人は元来た道を戻り、残りの四人のうち三人は城壁に沿って音も無く走り出す。
 暫くして、最後の一人が、風の魔法を使う。鋭くもない、だが、力強い押し出すような風だ。そしてその風が、傍らに立つジュリオを取り巻く。

「行ってこい!」
「おう!」

 旋風。ワルドの魔法で、ジュリオが城壁を越えて、宮殿内へと投入される。
 魔法の使えない人間とは思えない身のこなしで、猫のように靭やかに、ジュリオは城内に着地する。
 ヴィンダールヴのルーンは、ひょっとしたら獣としての動きをルーンの主人に教えてくれるのかも知れない。

 直後に城壁の四方で轟音と火の手が上がる。
 ワルドの分身による陽動だ。
 情報を持ち帰るために踵を返した一体以外の『偏在』が、死兵となって王城に攻め込んでいるのだ。全属性を鍛えた凄腕の風のスクウェアメイジ四人による特攻だ。

「大盤振る舞いも良いところだ。風のスクウェア四人がかりとは豪勢なこと――いや、計算上は一人で良いのか? ジャン=ジャックの『偏在』はズルいよな――ま、トリステインも本気でロマリアに協力する気があるということだね。あるいは、ゲルマニア簒奪の時の恩返しか」

 ニヤリと、ジュリオは口の端を歪める。あの“深淵”の女王陛下がゲルマニアを喰い荒らして呑み込む時は、ロマリアも各地の教会から随分手を回したものだ。
 人の悪そうな野卑な笑みは、彼の美貌を台無しにしていた。
 だが、それがとても――とても似合っていた。

 城壁の向こうで、巨大な気配が動き出していた。
 狂気に駆られた市民たちが、王城を守るために、軍隊蟻のように一つの群れとして動き出したのだ。彼らは、王城から溢れる神気と、【赤の女王】オルレアン夫人の魅了のオーラによって統率されている、個人の意志を失った防御機構の一つに過ぎなくなっている。
 これからジャン=ジャックの分身たちは、陽動のために、その幾万とも知れない狂人の群れを相手にすることだろう。

「さて、じゃあ、囚われのお姫様たちを助けに行くかねー。――あ、片方は半分くらい王子様になってるんだっけ?」

 軽薄に、この世の全てを楽しむように、飄々とヴィンダールヴ(風の妖精)は往く。
 だが、その身の全ては主人のために。邪神の腹わたの中にすら嬉々として飛び込む忠誠を、彼は持っている。
 ただひたすら主人のために。それこそが、使い魔の在り方なのだから。

 そしてロマリアの行動原理は単純だ。
 “全ては始祖の御心のままに”。
 その原則のもとに、虚無を希求する。

「ま、蜘蛛の御大がアルビオンに取り立て(・・・・)にやって来る前に、さっさと攫って(救って)しまわないとねー」


◆◇◆




 蜘蛛の巣から逃れる為に 29.アルビオンの失墜




◆◇◆


 ラグドリアン湖底にて。

「おおおおおおおおおおっ!!」

 何度も刀を振るい、鞭を轟かせ、その度に、敵の腐肉が飛び散る。
 だがしかし、相手は汲めども尽きぬ悪夢の軍勢。
 全く数が減った気がしない。

 七万の悪鬼を前に、サイトは獅子奮迅の活躍を見せていた。

 いや、正確に言えば、数は減っている。
 人の形をしたモノは、減っている。
 ――しかし、

「量が、減らねぇっ!!」

 エキドナが変化した長大な鞭(大木以上の円周がある)で挽き潰しても、潰された敵兵は、潰されたままに、向かってくるのだった。
 潰された肉は、潰されたままに、水が吸い上げられた湖底の谷間を、ナメクジのように這って襲いかかってきた。砕かれた骨は、ひとりでに組み上がり、その破片を狙撃するように飛ばしてくる。体積が、減らない。
 そして周囲は魔術<レレイの霧の創造>によって造られた霧によって、見通しが効かない。

「ちくしょう! キリがねえな! いつもなら、何かしらの“核”を潰せばこの手の輩は一掃出来るはずなんだが――」

 探索者として経験豊富なサイトであったが、流石に小都市に匹敵する兵隊を前にして、その中から術者を探ることはできないでいた。
 いや、一応、想像はついているのだ。
 ――この軍勢の中に核となるような魔術師個人など居ない(・・・)だろうということくらいは。

 もはや眼の前の腐肉と魔霧による悪夢じみた“現象”は、只人の身には余るように、彼の目には映った。
 ――ああ、彼の主君たる虚無の娘は別だ。あれは既に、人間の枠を超えている。
 ……七万の軍勢に単身で抗し得る彼自身もまた、彼の主人と同様に人外と評され得ることに、彼はまだ気づいていない。

 さて、魔術師による魔術ではないのなら、目の前の肉津波は、何か。
 簡単だ。何らかの儀式回路によって喚起された、地脈だとか異次元のカミサマの力の欠片だかを用いるような大規模魔術なのだ。
 その繊細にして大規模な術式は、いくら隠しても強固にしても、避けられない構造上の欠陥というものがあるはずなのだ。サイトはその弱点を、便宜上“核”と呼んでいる。

 例えば、強力な力を秘めたアーティファクト。文字通りの力の源泉となるそれを失えば、魔術は消滅する。
 例えば、魔法陣の円陣。真円でなければ効果がないとされる外縁部を破壊すれば、力が暴走して、魔術は所定の効果を現さなくなる。
 それらの妨害方法は、機械で言えば電源コードを引きちぎるような方法だったり、あるいはラジエーターを壊して意図的にオーバーヒートを起こさせるようなものだったりもする。馬鹿正直に中枢を破壊せずとも、微妙なある種の芸術とも言えるバランスで成り立っている魔術の何処かを崩してやれば良いのだ。

 大規模な魔術になればなるほど、そういった急所が、どこかに生じてしまうのである。
 特に、神の意志そのままに顕現させるのではなく、人の意思で顕れる現象を制御しようと思うのならば、何処かに無理が生じるのは当然にして尚更のことであった。神の力は人の身に余るのだ。虚無の魔法が術者の命すら削るように、超常の力は、代償無しに扱えはしない。
 だから、目の前の(推定)アルビオン軍を操っている魔術も、どこかに核(弱点)があるはずなのだが……。

「さて、その核も、一体何処にあるのやら。チッ、危なっ」

 考え事をするサイト目掛けて、人の背丈の倍ほどもある銛が何本も、蠢く白い腐肉の塊から、骨細工を跡に引きながら、バリスタの如き勢いで射出される。サイトはそれをバックステップで避け、避け切れない分はデルフリンガーで弾き落とす。そして銛の出所を一掃させるべく、自律する巨鞭に意志を伝える。
 毒を滴らせるその銛は、湖底の蛞蝓神グラーキの背から採られたものだろう。並の人間なら一撃で即死し、かの神性のアンデッドの奴隷として生まれ変わることになる。
 後から銛に絡みつく骨細工にはあっという間に水死体のようなブヨブヨとした肉がまとわりつき、銛を中心に、まるで切り落とされた毒蜂の腹部のように蠕動する。その蜂の腹ような、芋虫のような肉塊が、一拍遅れてサイトの意思を汲んだ巨鞭によって弾き飛ばされる。その途上、ペースト状にされた屍肉から人骨を中心にして不恰好ながら復活しようとしていた骸骨たちが、吹き飛ばされて転がった肉団子によって粉砕される。

「よっしゃ、ストライク! でもどうせ直ぐ復活するんだろうなー」

 サイトは素早く周囲を見回すが、“核”らしきものは見えない。かといって“核”は、あの無駄に目立つ歪に捻くれた、毒水を垂れ流す“葬礼のヤグラ”に在るわけでもないだろう。
 大規模魔術の際には、少しでも頭の回る魔術師なら、核は、一見そうと分からない場所に隠しておくのが定石だ。それが幾多の修羅場を潜ってきた探索者としてのサイトの勘であった。
 それゆえに、今回のような大規模魔術には、少人数のパーティによる核の直接破壊が有効な手段であり、それによって邪悪な企てを潰えさせることが出来るのだ。サイトも故郷では(不本意ながら・巻き込まれて・不可抗力で)幾度と無くそうやって怪異を退治してきた。

 さて、今回の敵は、核を隠蔽する程度には狡猾そうだ。核は一体何処にあるものか。

「エキドナ! デルフ! 核の場所って、分かるか!?」
【んー、やっぱりあの不恰好なヤグラじゃないかしら? 如何にもって感じだし、生意気に障壁に囲まれてて守り堅いし。ね、サイト】
【俺っちは、やっぱりゾンビどもの中に混ざってると思うぜ! 木を隠すには森の中ってやつだぜ、相棒】

 サイトは両手で振るう武器たちに語りかける。
 湖を一周するような長大な鞭に変化した翼蛇エキドナは、湖底に聳えた、瘴気立ち上る塔を怪しいと踏んだ。彼女を練り上げる元となったルイズの知識と、もう半分であるサイトの経験から、そう判断したのだ。実際、何度か蛇身のエキドナがヤグラを崩そうと迫ったが、その度に不可視の力場で弾き返されている。何かの要になっているのは間違い無いだろう。
 一方、腐肉を切り払うのにもウンザリしてきた魔刀デルフリンガーは、木を隠すなら森の中だと、目の前の半ばミンチになった者たちを指す。

 だが、不意に。
 途端に。
 唐突に。

『げぇぁああはははははははははははっはははははああああ!!』

 不快な嗤い声が響き渡った。


◆◇◆


 腐肉が盛り上がって形を成す。
 ペースト状に広がった湖底の腐肉から、二つの塔が立ち上がった。
 腐った竜と、骨の竜。それらを表すならば、そのふた言で事足りた。

『があははははははははっ! 死ねトリステイン人よ! 天空を統べる我がアルビオンの権威に平伏すが良い!』
『全くです! キャプテン! このまま挽き潰してしまいましょう!』
「……」

 それぞれに吠える、腐った竜と、骨の竜。二匹の頭頂部からは、人間らしきものの上半身が生えていた。竜人ではなく、人竜とでも呼べば良いだろうか。水死体をこねて出来上がった“腐肉の人竜”と、死神の乗り物を思わせるような“白骨の人竜”。腐肉の人竜の方は手に、不気味に闇を纏うフルートを持っている。
 腐った竜の方は、巨大な水竜をベースにしたのだろうか。全高十五メイルはあるように見える。ネッシーのような首長竜の腐乱死体に蛞蝓を掛けあわせたような気色悪い外見をしている。腹部は轢き潰された死体の残骸に埋もれているが、地面に接しており、貝のように這って移動するようだ。腐り落ちかけた頸部の先には、竜の頭部が付いており、その上から屍蝋色した中年男性らしきヒトガタが生えている。だが、身体の各部にも、爛れた人面瘡らしきものがあり、それぞれが戦慄いて霧の呪言を唱えているようだ。陽光を遮るレレイの霧と共に、クチナシの花のような、強烈な甘ったるい匂いがしている。
 白骨の竜は、大部分が人骨で出来ており、それぞれが出鱈目に組み合わされて、巨大な風竜を模した様な形を作り上げている。腐乱竜とは違い、無数のムカデのような骨脚によって支えられている。こちらの頭部からは、白骨死体が生えており、その髑髏をカタカタと震わせている。白骨竜のその背中からは、毒液を滴らせる3メイルほどの銛のようなものが、まるで針鼠のように何百本も生えている。それぞれの毒銛は、それ自体が意思を持っているかのように動いている。その様子は、ウニの棘を思い出させる。

 それらを見て、サイトたちは異形に動じずに、一言。

「馬鹿だ。馬鹿が来た」
【バカね、間違いなく。このまま消耗戦してた方が良かったでしょうに】
【阿呆だな。わざわざ出てきやがってご苦労なこった。こっちとして助かって良いがね】

 彼らは動きを止めたまま、立ち上がった二頭の竜に向き直る。

「きっと、あいつらが“核”ってことだよな。魔力が篭ったっぽいフルート持ってるし、あれ、霧が出る前まで、闇を全体に纏わせてた魔術の触媒だよな」
【ええ、多分】 【多分な。少なくともアイツらが指揮官――群体意識の結節点ってこたぁ、確かだろ】

 【レレイの霧】の魔術が陽光を遮る前は、魔力を込められた金管楽器によって喚起された暗闇が、【緑の崩壊】からグラーキの従者を守っていたのだ。
 腐肉の人竜が持っているフルートは、そのための触媒なのだろう。
 つまり、それを持っている腐肉の人竜は、“核”の可能性が高い。

『うむ? 何を言っておるか!? いざ尋常に勝負せよ!! トリステインの盾よ!』
「……寝言言ってるけど、きっとあいつらが狂ってるせいだよな?」
【ええ、多分そうだと思うわ】
「だいたい何で今頃出てきやがったのか……」
【奴らに尋常の理屈を求めるのは意味ないぜ】
『何だ! 怖気づいたのか!? ならばこちらは進撃を開始するとしよう!! 総員突撃!!』
「……エキドナ。ヨルムンガンド(世界蛇鞭)モードから、フェンリール(狼王砲)モードへ」
【了解、サイト!】

 腐肉の人竜の掛け声に合わせて、再び、あたり一面に広がった屍肉が、肉津波となって押し寄せる。

 サイトたちはそれに備えて迎撃準備。
 湖を巡るくらいの巨大な綱鞭だったのが、しゅるしゅると縮んで解けて、サイトの右手を中心に巻きつく。蛇の鱗が、サイトの右腕を伝い、右肩から右半身を覆っていく。
 それはちょうど、最初にエキドナがタルブの密林結界の中で、異界の超鋼から立ち現れたのを、逆回しにするような光景であった。さらさらと速やかにエキドナはサイトの半身を包み、鎧へと『変化』する。鱗は互いに融合し、より大きな単位の頑丈な外骨格となる。
 サイトの右半身が超鋼の滑らかな鎧に覆われる。ただ、腕の先は、通常の強化外骨格とは異なっていた。鎧の右腕の先は、今にも獲物を食い千切ろうとガチガチ噛み合わされる、狼を象った大顎となっている。遠距離攻撃の手段を有さないサイトに、その手段を与えるための顎だ。全てを焼き尽くす炎を吐き出す狼だ。狼砲の歯の間から、獄炎の舌がチロチロと漏れる。

【流石に一回ルイズ(本体)に喰われた時に、力の殆どは再吸収されちゃったけど、でも強化外骨格(エクゾスカル)を四分の一くらいは再現できるくらいには回復したわ!】
「うん、スゲエな。エキドナ。それにやはり、……よく馴染む」
【うふふ、当然よ。ここまで力を取り戻せたのは、ダーリンの愛のおかげだもの! 愛ほど此の世で強いものはないわ! ……まあ、触手を喰わせてくれたあの触手竜のヴィルカンにも少しは感謝しても良いかもね! ふふふふふっ】
「力が漲って来るぜ。まさかファンタジー世界で“ロックマン”になれるとは思わなかったが……いや、どっちかってぇと、“王ドロボウ”か?」

 狼の頭をかたどった意匠の右篭手の眼の部分に、妖しい光が灯る。
 サイトは右腕のその砲口(咆口)を、腐肉の人竜の方へと向ける。
 甲高い音を立てながら、光の粒子が収束する。

「“キールロワイヤル”っ!! ってなぁ!! はははははっ」
【昇華弾・弾種【エンチャント】、発射―!!】
『ぎょばっ!?』
「汚ねえ花火だぜ!」

 轟然と発射された禍々しい白炎の弾幕が、肉津波を蒸発させ、そのうちの一発が腐肉の人竜に直撃する。
 サイトはノリノリで“キールロワイヤル!”とか“バスターショット!”とか言ってるが、実際は強化外骨格(エクゾスカル)の昇華弾のバージョン違い(魔力上乗せ)である。まあ、ポテトチップスの紙筒缶でロックマンごっこは、みんなやるよね。
 昇華弾は直撃し、奇声と共に、腐肉の人竜の人体部分が吹き飛び、中身の骨格が剥き出しになる。

『か……カカカカかかカカか!! 不意打ちとはさすがトリステイン人、トリステイン人流石汚い。名乗りくらい待たぬか、コレだから下界人は……』
【あら、呪法を上乗せしたのに、また直ぐ回復したわね。虚無の『解除』でも上乗せするべきだったかしら】
「不意打ちも何もねえだろ、そっちから仕掛けてきたくせに……。思考が支離滅裂な奴だな」

 うじゅるうじゅると、残った骨格に再び腐肉がまとわりついて、腐肉の人竜の人体部分を再構成する。

『さて、では紳士らしく名乗らせて頂こう。私はアルビオン海軍少将、ホーキンスだ』 『その部下、テリーだ』
【アルビオンに海軍なんてあったかしら?】
『新設されたのさ。湖底から下界の各地へ逆上陸するための、専用の軍隊だ。君たちにさんざっぱら轢き潰されてしまったが、その程度でグラーキ様の加護を受けた護国戦士たちの魂を葬れると思うなよ。我々は、ティル・ナ・ノーグから、祖国の危難の為に蘇ったのだ』
「ふん。どうせ最初から死んでるんだろうから、それ以上殺すことは出来ないってことか。そして“グラーキ様”か。やっぱりアルビオンのセヴァン渓谷に居るんだろうな……」
『ふはは、改心する気になったか? 今ならこの栄誉在る信仰の末端に加えてやっても良いぞ! ――いや、駄目だな。大人しく、この一番槍のホーキンスの手柄となるがいい!』

 腐肉の人竜『ホーキンス』と、白骨の人竜『テリー』が、じりじりズリズリかしゃかしゃワシャワシャと、一方は蛞蝓のように這って、もう一方は骨の集まりをムカデのように動かして、巨体の割には機敏な動きでサイトたちに迫ってくる。
 アルビオンは邪法によって魚人化させた国民たちを、さらにグラーキの毒で傀儡にしたり、アイホートの雛の苗床にしたりして尖兵としているのだ。

「……つか、何であいつら割りと正気なんだ? グラーキとかアイホートの意識を直接投影されているようにも見えんし」
【相棒、多分あいつら、もっと強力な魔法か魔術で上書きされてるぜ】
「うわあ……。まさかそっちの大元から断たなきゃならねえとか?」
【いや、そんな事はねぇだろ。嬢ちゃんの魔法が完成するまで耐えりゃあ、何とか成るはずだ】

 さて、普通ならば、それらの邪法によって造られた尖兵たちは、それぞれの神の下僕となるのであるが、……どうやら目の前のホーキンスとテリーは、神のためだけでなく、きちんとアルビオンのために働いているようにも見える。
 彼らを縛っているのは、彼らが仕える神への信仰心だけではなく、また別のベットリとした悪意のようだ。
 サイトたちには知るべくもないが、おそらくは、【赤の女王】オルレアン夫人による神域の魅了が、グラーキやアイホートなどの邪神による支配を上書きしているのだ。

『……うん? 何やら耳障りな詠唱が聞こえると思えば――音源はそこか』
「……っ」

 サイトの背後ではルイズが魔力を滾らせている。
 高まる虚無の魔力に惹かれて、二頭の巨竜が、じろりとルイズの方を見る。
 詠唱はいよいよ佳境であり、彼女の足元に置かれた<夢のクリスタライザー>も激しく明滅している。
 有翼半魚の夢の女王となったルイズは、その豊満な肉体から、その身に納まりきらなかった魔力を放散している。

「――おい」

 ホーキンスがルイズを見ていることに気づいたサイトが低い声を出す。
 左手に握ったデルフリンガーを威嚇するように振る。
 己の主人へ向かう敵意の視線を切断する。

「おいおい、テメエら。どっち見てやがる? テメエらの相手は、俺だっ!」
【圧縮分裂昇華弾・弾種【エンチャント】、発射!!】

 サイトが、睨む。
 と同時に、右手の狼砲が火を噴く。

「ルイズは俺が守る」

 広域に広がる炎がミンチになった腐肉を蒸発させ、骨を炭化させる。
 凝縮された昇華弾がホーキンスに激突する。しかし、やはりすぐに再生する。
 白骨の人竜テリーが何本も毒の銛をミサイルのように上空に発射して曲射させ雨のように降らせるが、その悉くをサイトはデルフリンガーで弾く。

「テメエらは、哀れだ」

 腐肉が蒸発して発生した毒霧がサイトを圧し包もうとするが、それは右腕から吐き出された昇華弾によって押し返される。
 ルイズの虚無の因子を持つエキドナによって虚無の『爆発』の要素を付加(エンチャント)された昇華弾は、毒霧を無効化する。

「だが死ね。だから死ね。いや死すらもテメエらを救わない。救えない」

 サイトの背後で、ルイズの詠唱が高まる。
 ルイズの声が、サイトに力を与える。

「救いが欲しけりゃ、少しばかり待ってろ。俺のご主人様が、きっちり冥土に送ってくれるからよ」

 運が良ければ、強欲で傲慢な、彼のご主人様は、彼女の領地である夢の彼方で、滅ぼした者共を召し上げてくれるかも知れない。
 それは、人外に堕ちた者共に対しては、過分な救いであるようにサイトには思えた。
 残り数分も時間を稼げば、ルイズの虚無は――救世の業は、その一切合財を救い尽くすはずだ。

 だが、だからと言って、サイトが何もしない訳には行かない。

「テメエらは、哀れだ。そして、愚かだ。そのまま木偶みたいに待ってりゃ良かったのによ。のこのこ出てきやがって――」

 主人に仇なす者は、このガンダールヴが許しておく訳には行かないのだ。

「エキドナ、『解除』をデルフに」
【了解】
「デルフは、『解除』を刃に」
【おうよ、相棒】

 エキドナが虚無の『解除』を唱え、それをデルフリンガーに纏わせる。デルフリンガーは、自分にかけられた『解除』を圧縮して、密度を高め、刃とする。
 研ぎ澄まされた虚無のオーラが、巨大な刃のようにして、デルフを中心に5メイルは伸び、それによって周囲に展開されていた【レレイの霧】を消滅させる。
 部分的に霧が消え、切り抜きのように虚空に透明な虚無の刀が現れる。それは周囲の魔術の霧と相殺して沸騰しながらも、邪神の魔術的な加護によって縛られた敵手を、その呪いのみ貪らんとしている。圧縮された『解除』は、ルイズが唱える本式の虚無にも劣らない。これであれば、相手に触れれば、そこを中心にして呪いに囚われた魂を解放する非実体の刃として作用するだろう。

『げぁははははははは! 貴様一人で止められるものか! テリー、行くぞ』
『サー、イエスサー!』

 腐肉と白骨の人竜が、それぞれに襲いかかる。
 当然、サイトなど気にせずに、その後ろでやばいオーラを醸し出しているルイズの方へとだ。彼らの邪神の使徒としての本能が、ルイズから溢れ出す圧倒的な魔力に警鐘を鳴らしていた。
 だがそれを黙って見過ごすサイトではない。彼こそは当代ガンダールヴ。伝説に歌われる神の盾。

 右手からは呪法付加の昇華弾を放ち、左手では虚無の大剣を振るって、サイトは二匹のアンデッドの竜をルイズに近づけさせない。
 白熱の炎が腐肉を蒸発させ、無色の魔刃が白骨を撫で斬りにすれば加護を失った竜体が崩れ落ちる。サイトも多少は負傷するが、戦闘前にルイズから与えられた加護(装甲)が、生半なダメージは通さないし、通ったとしてもエキドナが使う先住の『解毒』と『治癒』がそれを癒す。
 しかし二匹の巨竜は、何度その身を崩壊させられても、湖底に広がる屍肉のカーペットから復活する。サイトによって滅ぼされた分、屍肉のカーペットが、若干ではあるが薄くなっているようだ。サイトの攻撃は無意味ではない。

 そして、人竜たちも、何もそのままやられるがままになっている訳ではない。
 彼らの身体は無数の屍体で構成されており、体中に出鱈目に開いた屍人の口は絶え間なく詠唱を垂れ流し、魔術や魔法を放ってくる。サイトは何パーセントか被弾しつつも、射程が伸びたデルフを神速で振るい、それらを一切後ろに通さなかった。
 竜らしいブレスも健在である。毒霧のブレスが何度もサイトを襲ったが、サイトはエキドナの狼砲でそれらを迎え撃ち、霧散させた。狼王砲は、屍肉を霧散させるどころか、貫通して腐肉を熔かし尽くして炎の道を残すくらいだった。

 獅子奮迅の働きを見せるサイトだが、二匹の人竜と戦っていたのは、一体どれほどの時間だっただろうか。いや、戦えていた(・・・・・)のはどれほどの時間だっただろうか。
 何度となく本体を滅ぼし、押し寄せる肉津波を焼き、骨の銛を叩き折り、数限りない魔法の嵐を消し去って、時にそれらを体を張って受け止め、傷付き、治し、あるいは自ら関節を破壊して超人的で殺人的な機動をして、撃って撃って、斬って斬って斬って斬って――。
 それは十数秒だったかも知れないし、数十秒あるいは、数分だったかも知れない。だが、5分を超えなかったことは確実であろう。


 均衡が崩れるのは一瞬であった。


 サイトが斬り漏らした一発のマジックアローが、彼の目の前の地面に着弾し、炸裂し、その破片が、斬撃と昇華弾の合間を縫い彼を襲ったのだ。
 たった一つの石礫はキッカケに過ぎなかった。
 今や人竜たちは、ルイズよりも先に完全に排除すべき敵としてサイトを認識していた。
 その隙を逃す訳は無い。

 足元から水死体のような白い腕が伸びて掴もうとするのを、デルフリンガーで斬り裂き、背後へと避け、昇華弾で焼き払う。
 しかし行く先には、人竜の表面の人面疽の口々から吐き出された魔法の矢が上空から曲射して降り注いでいた。
 滝のような魔法の弾雨に晒され、サイトは釘付けにされる。
 デルフリンガーで捌くが、間に合わない。
 幾つも傷を負い、エキドナの『治癒』も間に合わずドンドンと重傷化していく。

 そして遂に、白骨の人竜の本命である、【グラーキの毒棘銛】がサイトへと射出される。

 エキドナが変化した超鋼の鎧に覆われていない左半身を狙ったそれは、サイトの左の二の腕を貫き、背後の地面へと突き抜ける。
 手首ほどもある太さの銛が貫通したあとサイトの左腕は、骨が砕け肉が抉れ皮一枚と幾本かの筋を残して繋がった状態となる。

 そして侵食。

 【グラーキの毒棘銛】から、傀儡アンデッド化の毒素が伝播しようとする。

 サイトは即断。

 ほとんど破壊された左腕に握られたデルフリンガーを、破断した左腕と合わせて一つの武器と見なすことで、ガンダールヴのルーンを発動。
 ルーンが彼の意思を汲んだのか、左手の甲から左肩まで、ムカデのように皮膚の上を滑るように蠢いて一瞬で移動する。ガンダールヴのルーンは移植された。
 サイトは体幹の捻りだけを用いて力を伝え、デルフリンガーを内向きに回転させる。
 左手から回転力を伝えられ、弾かれるように離れたデルフが、内向きに風車のように回る。

 切断。

 毒に侵された左腕が、肩口から切り離されて宙を舞う。

 未だ空中で回転し続けるデルフを、サイトはガチリと口で銜える。

 その瞬間も追加の毒銛と魔法や魔術がサイトを圧殺せんと飛んでくる。

 宙に取り残されていた左腕が魔法の雨で叩き潰されて消滅する。

 サイトは残った右掌を翳し、『解除』の魔法を追加で載せた昇華弾を上空や前方に激射。
 弾幕で弾幕に対抗する。
 だが、元は七万の軍勢だった敵の、至る所に開いたその口から生み出される圧倒的な魔法攻撃に押し潰される。

 手数が足りない。
 サイトは、首を捻って引き絞り、歯で銜えたデルフリンガーを上空に投射。
 ヘリコプターの回転翼のように勢い良く回ったデルフは、一時的にサイトを守る傘となった。
 その隙に右半身を覆っていたエキドナが剥離。
 流血する左肩を覆い、失われた左腕の断面に癒合する。

「ぐっ!?」

 神経を侵される激痛がサイトを襲うが、耐える。

 ――融合完了。

 半身がサイトに由来する翼蛇エキドナは、超鋼の鱗と羽毛が斑になった表皮を持つ、恐竜か悪魔を思わせるような義腕へと変化した。

 両腕を取り戻したサイトは空中で回転するデルフを右手で掴み、肩越しに大きく構え、音すら追い越して、敵の腐肉人竜ホーキンスの元へと駆ける。
 攻勢。
 駆け出したその神速に、降り注ぐ魔弾の雨は追いつけない。

 ホーキンスを守ろうと動く白骨人竜テリー。
 竜の顎が、サイトを喰おうと迫る。
 だが、サイトはそれを踏み台にした。

『俺を踏み台にしたー!?』

 タタン、と軽快な音と共にサイトの身体が白骨竜の背を撫でるように駆ける。
 腐肉の人竜ホーキンスは目前である。
 肩に担いだデルフリンガーを、両手に持ち替える。

 踏み込み、さらに加速。
 腰だめにデルフリンガーを構え直す。
 そのまま弾丸のようにして、踏み切る。バチンと足の腱が切れる音がした。
 左肩に癒合したエキドナの背部から、虚無の『爆発』が連発され、空中でも加速する。

「――ぉぉぉぉぉぉぉぉぉおおおおおおおおおおおおおおお!!」
『なぁっ!?』

 腰だめにしたデルフリンガーと、加速の中心となった左肩を中心に、サイトがホーキンスが生えている腐肉人竜に激突する。
 運動エネルギーを余さず伝えられ、ホーキンスが大きく仰け反り、サイトの着弾点を中心に腐肉が弾ける。

 むしろ貫通した。

「がっ!?」
【『治癒』、『治癒』、『治癒』ーー!! サイト、死なないで!】

 人間大の弾丸が激突したため、腐肉人竜の首の付け根あたりが根こそぎになる。
 湖底の底の底に居た腐肉人竜を貫いたサイトは、そのまま傾斜している湖底に着弾。
 骨格も何もかもグシャグシャになるが、拮抗してエキドナによる再生作用が働き、辛うじて人の形を保つ。治癒治癒治癒。

「がああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああっ!」

 しかしサイトはそこで止まらない。

 反転。
 肉体の再生も間に合わない速度で、即座に。
 人外の所業である。
 仰け反った腐肉人竜の頭部――そこから生えるホーキンスへと、光が反射するように斬り掛かる。




 斬。


 辛うじてまだ『解除』の魔法の残滓を纏っていたデルフは、背後から強襲する形で、ホーキンスを袈裟懸けに斬った。

『かぁ……っ!? は、はっははははは、よもや、この身になって、ブレイドで死ねるとは思わなんだ……』
「せめてもの慈悲だ。武人として死ね」

 死の間際に正気を取り戻したのだろうか。
 それだけ呟いて、袈裟斬りに切断されたホーキンスは、口を笑みの形に歪めながら、切断面からずり落ち、湖底へと落下する。
 統括していたホーキンスの意識が、デルフの刀身に圧縮された『解除』の直撃で消滅したことで、腐肉の人竜が溶け始める。

『キャプテーン!?』

 残った白骨人竜テリーが、慌てて全体の指揮統括を引き継ぐが、もう遅い。

「時間稼ぎご苦労。よくやったわ、サイト。流石は、私の従僕」

 『加速』と並列詠唱して短縮しても、その詠唱は20分余りにも及ぶ。
 ルイズの切り札である虚無の上級呪文の詠唱は、今、完了した。

「これでお終いよ、アルビオンからの刺客……」

 杖を構え、ルイズが宣言する。

「虚無遣い、“極零(ゼロ)”のルイズ、その名の下に、全ての邪悪は消えて去れ!!」


◆◇◆


 虚無の魔力が、干上がったラグドリアンの湖底を覆う。

 ルイズが使った魔法は、虚無の上級魔法。
 虚無の上の中の上。
 遙か古の呪文。6000年来使われることの無かった、対邪神の切り札。

「局地消毒用呪文――『聖別』!」

 それは、『解除』の如く、邪法の全てを分解し尽くす。
 それは、『加速』の逆呪の作用によって、ブラックホールの事象の地平線に張り付く物質のように、対象の魂を永劫に囚える。
 それは、『幻影』によって、救われぬはずの魂を、永久に引き延ばされた時間の中で、有情で幸せな夢へと誘う。
 それは、『世界扉』の逆呪の作用で、あらゆる空間の繋がりを、絶対の世界隔壁によって遮断し、邪神の侵入経路を否定する。
 それは、『爆発』の如く、邪悪に汚染されたあらゆる物を消して去る。


 それは、文字通り世界を『聖別』する呪文。


 穢れた世界は、清められ。
 救われぬ魂は、引き延ばされた夢の中で束の間の極楽を感じ、幸福のままに消えて去る。
 永劫に邪悪を排した結界が、出来上がる。


 世界を歪める力。

 それが、それこそが!

 ――虚無の本質。


 邪神と何も違わない、歪んだ力。
 人の身に余る力。
 世界を侵す力。
 法則を排する力。

「だけど。だけれど。これしか、ないのよ」

 彼女は自分の全てを捧げると誓ったのだ。
 あの始祖のように。
 全ての才能を、捧げるのだ。

 世界のために。
 人間のために。
 自分の意地を通すために。

 そして彼女には、これしかなかった。
 虚無の才能しか、無かった。

 呪われた才能しか無かった。

 才能に呪われていた彼女には、しかし、その才能しか寄る辺が無かったのだ。

「運が良ければ、私の夢の王国で、魂を拾ってあげるわ。せめてもの情けよ」

 全てを救うことはできないけれど、ひょっとしたら、魂の欠片くらいは、救えるかも知れない。

 そして、精神力を使い果たし、ルイズは倒れ込む。
 途中で姿がブレ、有翼半魚の幻夢郷の女王の姿から、もとの可愛らしい華奢な姿に戻る。

「ルイズ!!」

 サイトが壊れた身体を引きずって駆ける。
 それでも流石はガンダールヴ。
 主人の下に駆ける時に、その能力はより一層強さを増す。

 ルイズが泥濘に倒れて泥に塗れる前に、彼は彼女を掬い上げる。
 勿論、お姫様抱っこだ。

【サイト! 夢のクリスタライザーも!】
「分かってる!」

 ルイズの足元に転がっていた、琥珀色の卵円形の【夢のクリスタライザー】を、まるでサッカー選手のように器用に、そして割らないように優しく蹴り上げる。
 それは綺麗に放物線を描いて、サイトが抱えるルイズの胸元に落ちる。
 彼女はほとんど意識を失って朦朧としていつつも、大事な宝物を抱え込むように、夢のクリスタライザーを抱きしめる。

【おい、相棒、急げ! 津波が来るぞ!】
「急いでるっつの!」

 サイトの背後には、もはやあの吐き気のする屍肉の海は存在していない。
 ルイズの『聖別』の魔法によって一切合切消毒され焼却されて消滅した。
 そして、『聖別』の魔法が消し去ったのは、邪悪な呪法だけではなかった。

 水精霊が湖を割って作っていた百メイル以上はある水の壁。
 湖の底に溜まっていた腐水を汲み上げて保持していた、タバサの竜巻。
 それぞれを構成していた魔力も全て、ルイズの『聖別』は根こそぎにしてしまった。

 水精霊の本体は無事だが、彼女が保っていた水の壁は、重力に従って崩落してきている。
 タバサの竜巻が吸い上げていた腐水は浄化されたが、魔力が消されたために、やはり形を保てず、遠心力によって弾けて広がりながら崩れ落ちる。
 怒濤。

「ひぃいいいいい!? 死ぬ! 死ぬ! 死んでしまう!」

 サイトはぐるぐると足を動かすが、それよりも水が迫るほうが速い。

「エキドナ! 魔法のアシストは出来ねえか!?」
【さっきの治癒で打ち止めよ! 周りの精霊力もルイズの『聖別』の魔法で根こそぎのすっからかん! 先住のワザも使えないわ!】

 左手の義手の肩の部分から、細い胴の蛇が伸びて、少女の声で返事を返す。
 サイトの左手に融合したエキドナだ。
 左の肩口で、ガンダールヴのルーンが輝いて、サイトに力を与えるが、それでも開戦当初の力は望むべくもない。

「デルフ! 吸収した魔力を還流して、肉体強化は――」
【もうやってる! 後は相棒次第だ!】
「そうか、ありがとよ!」
【頑張れ、相棒! ここで波に呑まれて死ぬなんて、しまらねえぞ!】

 ボスを倒した後に『帰るまでが戦闘です』と言わんばかりに、難解悪辣な地形を逆走させられる某STGみたいなものか。
 切羽詰まったサイトの脳裏に、走馬灯の様に、昔プレイしたゲームの一画面が流れる。よほど混乱しているのだろう。
 そういえば奇しくも、あの鬼畜ゲーの開発会社の名前は、沙漠の円柱都市アイレムと同名だった。開発者は何か計り知れない宇宙の悪意を受信していたのではなかろうか……?

【相棒! ボーっとするな!!】
「はっ!?」

 愛剣の叱咤で彼は己を取り戻す。

 デルフリンガーは、生身の右手に握ったままだ。
 吸収した魔力を使い手に還流する機能も、今は、いや既に人竜たちとの戦闘中からフルドライブであった。
 泥濘を駆け、砂利を蹴飛ばし、岩を飛び越し、サイトはラグドリアンの湖底を駆ける。

 両腕で抱えたルイズは、大呪文の疲労で、寝息を立てている。
 それは信頼の証。
 魂を交わした強き従僕――いや、信頼できる男の腕の中で、安心できぬ乙女がいるだろうか?

 そして、その愛おしい女の顔を見て、奮起しない男がいるだろうか?

「ぬぅおおおおおお!!」

 どどどどどどど、と目の前の泥地が、崩れ落ちる瀑布によって閉ざされていく。
 だがそれがどうした。
 愛するルイズのためならば、たとえ火の中水の中――否、水の上すらも走って見せよう!

「バックステッポーー!! 背をボードに見立て、思いっきり水を蹴り飛ばすことで、この水の斜面を乗り切ってやるァ!!」

 背面跳びのように踏み切り、そのまま滝となって崩れ落ちる水壁へ、背中から沿って滑るように入射。
 サイトは、水壁を叩くように蹴って浮力を得て、時々は片足ずつ伸び上がるように水を蹴って推力を得ている。不器用なバタフライ(背面逆転ドルフィンキックのみ)みたいな感じ。いや、それは死ぬだろっていうのは、人外の脚力でカバー。爬虫類だって水の上を走れるのだ、伝説の使い魔が滝を上れないわけがない。ほら、ここに史上初めての、ガンダールヴの滝登りが実現しました! 腕を使わずに変速背泳ぎで水面を駆ける様子は、ラッコを思わせる。随分アグレッシブなラッコである。
 ……まあ、タバサに回収されるまでは、水に沈まないで済むだろう、おそらく。


◆◇◆


 曇り時々突風(ダウンバースト)のち晴れで、常態は冷たい霧。
 白の国の霧の都はロンディニウム。
 その中心はハヴィランド宮殿だ。

「……。さて、忍び込んだのは良いが、お目当てのお姫様たちは何処に居るのかねー」

 こそこそと宮殿を這い回るネズミが一匹。
 ロマリアの密偵にして、対“人外”では、ほぼ無敵を誇るヴィンダールヴ――ジュリオ・チェザーレである。
 同種以外の生物に対して、意志力を以って捩じ伏せて隷属・無力化する彼のルーンの能力は、非常に強力だ。

 中でも、人ならざる者たちが闊歩する、この魔瘴の宮殿では、特に。

「いやあ、それにしても、人間とは全く遭遇しないってどうなのよ」

 ジュリオは、この宮殿――いや、魔術的には神殿といったほうが適当だろう。
 しかも複数邪神の高度な複合式の。
 人間業とは思えない精度での芸術的なバランスで、ハヴィランド宮殿は、邪神の祭壇となっていた。

 いや、コレは本当に、人間の業ではないのかも知れない。
 もっと本質的な、祭司レベルではなく化身レベルの、強力な作用が働いているに違いなかった。
 それは彼らが忌避する混沌の化身かも知れないし、全く別の邪悪の具現化も知れなかった。

「ああ、ホント、さっさと教皇様のもとに帰りたい」

 結局使い魔が一番安心できるのは、その主の元でなのだ。
 そういう意味では、ジュリオは相当に苦労している部類だろう。
 動けない主人の代わりに、大陸中を飛び回らなければならないのだから。

 そう言う彼の足元には、何だか知れぬ、“人らしきモノ”が転がっている。
 ヴィンダールヴの力で無力化した、王宮の侍女である。侍女というには、ジュリオの美意識が許しはしなかったが。
 まあ、中身は全て、“アイホートの雛”に置き換わっていたのだ。それを蟲とは呼べても、到底、人とは言えまい。

「とりあえず、謁見の間にでも行ってみるか。国王チャールズ・スチュアートに着いて行けば、自然と二人の姫の居場所も知れるだろう」

 人外の迷宮で、誰に邪魔されることもなく、ヴィンダールヴは走る。
 そうだ、ここは風の国。
 風の妖精(ヴィンダールヴ)を邪魔できる道理など存在しないのだ。


◆◇◆


 王宮。
 謁見の間。
 居並ぶ諸侯。

 中心に立つのは、勿論、王以外には、ありえない。
 もちろん、そこに居るのは、王だけではない。

「陛下。さあ、号令を!」
「うむ」

 白の国の実権を握る、ガリアからの亡命摂政シャルル・ドルレアンも、当然、そこに居る。



 そして、その後ろには、彼の夫人も。
 赤い、紅い、朱い、アカイ――【赤の女王】が。
 混沌の、最悪の、廃滅した、その彼女が居るのだ。

「……見なかったことにしよう」

 ジュリオは直ぐさま謁見の間を後にした。

 確かに、謁見の間で行われる『宣言』のあとにまで着いて行けば、目当ての姫君たちには会えるだろう。むしろティファニア王女も、シャルロット=カミーユ王太子も、あの場に居たかも知れない。
 だが。
 だがその前に、あの畏るべき混沌の化身、カオティック“N”に見つかってしまう可能性は?

「冗談じゃない……。ほんと、“アレ”と遭遇するのだけは、回避しないと――」

 主人が傍に居て、主人から勇気の加護を貰えるならまだしも、孤立無援では、勝ち目が無い。

「まあ、あの【赤の女王】の始末は、シャンリットがつけてくれるだろうし、俺は、虱潰しに探して回るかね。いや、シャンリットの始末を、あのカオティック“N”がつけてくれるのか?」

 そう呟いて、ジュリオは墓所の冷気に包まれた王宮の奥へと歩を進める。

「それこそ、どっちでも良いけどね。どっちが滅びるにせよ、それは、良いことだ。世界にとって。それは、それだけは、間違いない」

 月眼の刺客が、墓所のような気配の王宮を走る。獲物の棲家を突き止め、連れ去るために。


◆◇◆


 ジュリオが覗いただけで逃げ出した謁見の間。
 玉座の前で、国王チャールズ・スチュアートは、煌びやかな杖を掲げていた。
 見るものが見れば、その杖に向かって王城中から――いや、アルビオン中から魔力の糸(ライン)が繋がっているのが見えたはずだ。

「ふむ。これが」
「ええ、それこそが、アルビオンの王権の新しい象徴――<天空の理(ルール・フォァ・アルビオン)>」

 別に、ルール・オブ・アルビオンでも、ルール・バイ・アルビオンでも、どちらでも良かったのですがね。
 王に王杖を渡した男は、声にせず口の中だけで呟く。
 彼は、ガリアから流れてきた没落貴族――摂政シャルル・ドルレアン。

 ちなみに、純正の人間は、この謁見の間では、国王チャールズと摂政シャルルだけだ。
 居並ぶ貴族たちは、皆、少なからず何かしらの改良を施されているし、シャルルの後ろに控えるオルレアン夫人などは天上の存在である。
 最近は、日頃の“信仰”の賜物か、護国卿オリヴァー・クロムウェルも、徐々に真正の人外じみた雰囲気を纏いつつある。彼に付けられた摂政からの監視人が目撃している――クロムウェルの姿がちらつくようにブレて、白熱した首無の名状しがたき存在と重なるのを。

 後宮に引っ込んでいる、黒沃のシャジャル皇后、王女ティファニア殿下、王太子シャルロット=カミーユ殿下。
 その三者の何れも、只人ではない。
 エルフ、ハーフエルフ、アンドロギュヌス。
 皆、何処かニンゲンとは違ってしまっている。

「では、陛下。いざ、号令を!」
「……うむ」

 摂政シャルルの声に従い、国王チャールズが、王杖に魔力を込める。

 途端に、シャルルの眼前に、幾つもの“窓”が開く。
 それはアルビオンの隅々を映している。
 王都を、街道を、農村を、河川を、湖沼を、丘陵を、山岳を。
 アルビオン全土を見渡す窓(ウィンドウ)が展開される。



 そして同様に、アルビオンの全ての場所に、チャールズの姿が映し出されていた。

「おお――陛下……」
「陛下!」
「王さま!」
「国王様!」

 未だ人間性を残している国民皆が空を見上げる。
 空こそは父なる存在。
 国教の守護者たる天空教の教皇にして、全天の支配者であるアルビオン国王の姿が空に映し出されているのは、非常に心強い思いを国民にもたらした。

 宙に浮かぶ国王の幻影映像が、口を開く。

『祈れ』 

 皆が跪き、天へと、父なる空へと祈りを捧げる。

『祈りこそが、臣民諸君に出来る最善だ』

 天空の最高司祭として、チャールズが命じる。

『これより我がアルビオンは、ハルケギニア統一のための戦争に突入する!』

 略奪空賊国家であるアルビオンは、他国を侵略しなくては、国家が成り立たない。
 いくら神話生物を使役して、食料生産などを龍脈賦活して促成して、無理な徴兵(屍体含む)で国民を目減りさせても、邪悪な洗脳で国民不満をキャンセルしても、富と豊かさの追求のためには、空から攻め降りる他ないのだ。
 ゆえに、アルビオンは闘争を欲する。無限の闘争を。

『第一目標は、クルデンホルフ大公国首都、シャンリット!』

 オペレーション「大陸落とし(フォーリング・アルビオン)」。
 乾坤一擲、一撃必殺の、大作戦である。

『アルビオンに栄光を! アルビオン万歳!!』
「アルビオン万歳!!」 「アルビオン万歳!!」 「アルビオン万歳!!」

 一斉に、国を揺るがすような万歳の声が上がり、チャールズの幻影映像はそれに応えるように手を振って、やがて消えた。





「ふう。これで良かったかな、シャルル」
「充分です、陛下」
「では、役目も済んだことだし、私は後宮に引っ込むとするよ」
「はい、お疲れ様でした」

 チャールズは、王杖を持って、足早に謁見の間を後にする。
 妻であるシャジャル、娘ティファニア、娘婿シャルロット=カミーユが待つ、後宮へ。
 後宮は女人禁制だからシャルロット=カミーユは入れないのではないかって? アンドロギュヌス(両性具有)だから問題ない。

 そして彼を付け回し美姫を攫わんと、ロマリアからの月眼の刺客が、途中からこっそりと猟犬のように追跡する。

 既に断続的な微震が、王城を――いや、アルビオン全土を揺るがしている。
 大陸中枢にあるアザトース機関が唸りを上げ、大陸を運び始めているのだ。
 龍脈(レイライン)を通じて溢れ出す原初の混沌の神気が、この謁見の間にも立ち昇り、居並ぶ人外共を活性化させる。

「ラグドリアン湖底に送り込んだホーキンス将軍がやられたようだな……」
「何、あ奴は所詮、捨石よ……」
「だが、ガリアやクルデンホルフへ各地の湖経由で派遣した連中も、消息を絶っているぞ」
「ガリアの方は、どうせ元素の兄弟とかいう傭兵連中にでも殺られたんだろう。摂政閣下の姪御は有能だからな」
「北花壇騎士団長殿か、有能らしいな。クルデンホルフは……、まあ、仕方あるまい」
「トリステイン魔法学院への浸透攻撃は、今、進行中か。メンヌヴィルが上手くオスマンを抑えてくれれば良いのだが」
「こちらが動き出すまで手出しさせねば良いのだ。そして既に、この大陸は加速を始めた――忌まわしの蜘蛛の巣を突き破るためにな」
「そう、我々は蜘蛛の巣に囚われる蝶ではなく、蜘蛛の巣すら突き破る竜であるのだ」

 そして、そそくさと邪悪に溢れた部屋から退出するチャールズを侮蔑するように、シャルルは鼻を鳴らす。

「ふん」
「まあまあ、摂政閣下。奴はヤツで、傀儡らしく自分の分際を弁えているということでしょう」
「アレはあれで、自分の正気を守れる程度には、優秀だということか。いっその事、狂ってくれれば私も楽なのだがな」
「シャジャル王妃のメンタルケアが万全ですからね。そう簡単には行かないでしょう」

 頭からシャッガイの昆虫の玉虫色の鞘羽を、まるでウサギの耳のように生やした男がシャルルに答える。
 そのボディはサウスゴータ太守の娘婿であり、だが、頭の中身は星辰の果てより飛来したシャッガイの宇宙昆虫であり、大陸要塞アルビオン動かすエネルギー炉であるアザトース機関の開発主任なのだ。
 確か名前は――なんだっけ。まあ、コナン・オブ・サウスゴータだったはず、恐らく……。いつもは“主任さん”とか“開発主任”とか呼ばれている。

「これを」
「ああ」

 その虹色鞘羽がウサ耳風のコナンは、シャルルのもとに膝を付き、一本の錫杖を献上する。
 それはシャルルがチャールズに献上した<天空の理(ルール・フォァ・アルビオン)>とそっくり同じような杖であった。
 スペアキーだ。いや、チャールズが持っていった方が、スペアなのだろう。権力欲の権化のような摂政が、大陸の象徴である王杖<ルール・フォァ・アルビオン>のオリジナルを、傀儡の王に渡すわけがないのだ。

 受け取るシャルルの顔が、喜悦に歪む。

「ふ、ふふ、ふふふ。ふふふふふふふふ、はっはははははっははは! そうだ、これこそがっ!! 力(パワー)! 力(パワー)! 力(パワー)! 我が覇道の第一歩、いや、一里塚である!!」
「よくお似合いです、摂政閣下」
「ええ、貴方。流石ですわ」

 ほんとうによくおにあいですわ。
 赤い女の口が三日月を形作る。
 その笑みに、部屋中の男は釘付けになる。魔性の笑み。

 その熱に浮かされたような空気の中、シャルル・ドルレアンは歓喜に打ち震えていた。
 彼の手中にあるのは、アルビオン大陸のマスターキーとも言えるもの。王杖<ルール・フォァ・アルビオン>の原本。
 祖国ガリアで“出がらし”と蔑まれてきた彼が、異国で手にした権力の象徴である。

 シャルルは、兄であるジョゼフに対して、魔法以外は勝てなかった。
 そしてそれも、ジョゼフが十六の時のある日を境に勝てなくなった。
 魔法に関しては全くの無能であったはずの兄が、いかなる奇跡か魔法か――ガリア宮廷に潜む怪老サン=ジェルマン伯爵の秘術によるとも、シャンリットの外法だとも噂される――真相は分からないが、一夜にしてスクウェアの使い手に化けたのだ。
 そして兄は、つまらなそうに呟いた。

 ――これが魔法か。何だ、使えてみると、案外大したことないな。


 クソ、クソクソクソッ、クソッ!!
 何だそれは、何なんだよそれは!?
 俺の十余年に渡る努力を何だと思っていやがる!?

 シャルルは荒れた。
 劣等感に苛まれて荒れた。
 正道で勝てぬなら、邪道で勝てば良いと、汚いことにも手を出した。

 だがそれも、ジョゼフの手下であった北花壇騎士団の手の上でしかなかったし、やがては聡明な父王の知るところとなった。
 ゆえに立太子したのは、シャルルではなくジョゼフであり、それが覆ることはなかった。
 そして、父王が死んでジョゼフが王位を継承した後、いよいよシャルルの腐敗を見逃せなくなったのだろう。ジョゼフはシャルルの訴追に踏み切った。

 逃げた。逃げた。逃げた。
 家族を連れて、部下を連れて、命からがら邪教都市シャンリットへと。この身が持つ血統の価値は高く、しかし政争の具になるガリア王弟の身柄を引き受けてくれたのは、蒐集狂のシャンリットのみであった。
 シャンリットの手引きで、ガリアを脱出した頃からだろうか、彼の妻の様子がおかしくなったのは。

 いや、あの時は彼もおかしかったのだ。兄に国を追われたことで、参っていた。
 そして落ち延びた先で、あの千年教師長に“小僧”と侮辱され……。
 辛うじて、兄と同じ“無能”な娘に八つ当たりすることはなかったものの、あの時の家族の雰囲気は過去最悪だっただろう。

 妻が赤い服を着るようになったのは、その頃からだ。


 ――家庭内の雰囲気が少しでも明るくなるように、そう思って。ほら、赤の方が、元気が出るでしょう?


 確かに、蒼い髪と赤い服のコントラストは、新鮮でとても美しかった。
 そして、彼女は今まで以上に魅力的で、聡明になった。
 彼の野心の実現のために、何度も何度もその智慧を貸してくれた。

 アルビオン行きを奨めてくれたのも妻だ。
 そのための渡りを付けたのも彼女だ。
 あの悪徳のクロムウェルを見出したも彼女だ。

 その時から、アルビオンの失墜は始まったのだ。
 彼女が赤を纏うようになってから。

 そしていよいよ、それはクライマックスを迎える。
 大陸は墜落し、シャルルの野望成就の礎と成るのだ。

「さあ始めよう! アルビオンの失墜<Falling Albion>を!!」

 王杖を手に、シャルルが叫ぶ。
 ルール・フォァ・アルビオンが輝き、指令を下す。
 アルビオン大陸が、静かに軌道を外れて加速し始めた。


◆◇◆


 未だに波が荒いラグドリアンの湖畔。
 ゼイゼイと荒い息を吐いて、ルイズを抱いて波打ち際からほど近い樹の根元で、サイトは幹に身体を預けていた。
 ガンダールヴは、ラッコのようにして、なんとか津波を乗り切っていた。

「はー、死ぬかと思った」

 水の精霊は、湖底の毒が無くなったことに礼を言い、直ぐに湖へと帰っていった。
 もうしばらくすれば、タバサがサイトたちを回収しにやって来てくれるだろう。
 ラッコ風に背泳ぎしていた時も、遠くからレビテーションでサポートしてくれてたし。

 期せずして隻腕になってしまったが、後悔はない。
 あそこで決断しなければ、サイトはグラーキのアンデッドの従者になってしまっていただろう。
 ……ルイズなら、そこからでも蘇生させられそうな気がするが、試す気は起きなかった。


「……っ」
「あ、起きちまったか、ルイズ。多分もうすぐタバサが来るから、もう寝てろよ」

 未だに半分は夢の国を映しているルイズの眼が、はるか遠く茫洋とした空の果てを映す。

「――来るわ」
「あ? 何が……――っ!?」

 サイトも気付いたのだろう。
 弾かれるようにして、顔を上げ、空に向ける。
 今はまだ影すら見えない。だが、確実に、ソレは迫ってきている。

「狂気が。悪徳が。混沌が。死臭が。恐怖が。――決して許せないものが、やって来る」
「最悪だ……」
「……まあ、狙いは蜘蛛の巣でしょうから、そこまで気にしなくてもいいでしょ」

 一先ずは、学院に置いてきたアニエスを拾って、ラグドリアンの顛末を女王陛下に報告するのが先だろう。
 その陛下が狂気に囚われていないか見極めるのもあわせて。
 いや、それよりも、夢の国で、ほぼスッカラカンになった精神力を回復させるのが先だ。

 ルイズはサイトに背中を預けて、『夢のクリスタライザー』を掻き抱く。

(横合いから思い切り殴りつけてあげる。蜘蛛も、アルビオンも、今はせいぜい潰しあうがいいわ……)

 ちなみにその夜、学院方面から盛大な火柱が上がり、地上に太陽が現れたかのごとくなり――メンヌヴィル渾身のクトゥグア招来である――、ルイズたち一行の心胆を寒からしめた。


◆◇◆


 一方、クルデンホルフ大公国首都、学術都市シャンリットにて、感嘆の声を上げる男がいた。

「なんだ!」

 ウードの手元の空間投影型ウィンドウには、レーダーで捉えられた、軌道を外れたアルビオン大陸が映っている。

「あの“小僧”! やれば出来る子じゃないか!」

 楽しげに口の端を歪める。良い暇つぶしが出来て、彼は上機嫌だ。力を振るう口実が出来て、彼は上機嫌だ。

「そうだ、世界の終わりには、空が落ちてくるものと相場が決まっている! なかなか気が利くじゃあないか、見直したぞ! シャルル・ドルレアン!」

 だが、千年も生きてきて、杞憂の一つも抱かないほどには、ウードは楽天家ではなかった。空の一つや二つ落ちてきても平気なように、準備はしてある。

「ま、終わらせはしないがな。まだまだ探求すべき未知が、未練があるのだから。ではアルビオンには随分と貸付があることだし――」

 そして、“こんなこともあろうかと!!”と言うために、無駄な機能を搭載するのは、狂科学者の華である。学術都市シャンリットには、千年かけて積み上げられた浪漫が搭載されている。

「――さあ、取り立てを、始めよう」


=================================

詰め込んでみた。場合によってはアルビオンの失墜(前編)に改題するかも知れません。だってまだ大陸が落ちてないし。
ワルドとジュリオのコンビは何か動かしやすい。アルビオンで正気を保ってるのが彼らだけってのはありますが。
サイトの格好は、最終的にシェルブリットの左右反転というか、左腕だけGガンのドラゴンガンダム(龍じゃなくて狼だけど)というかまあ、そんな感じ。とあるの竜王の顎? そのイメージも混ざってます。エキドナはその義腕からちょろっと生える蛇に変化。EAT-MANのテロメアという喩えで分かる人はいるだろうか。冒頭のケルト神話繋がりで、銀腕のヌァザを意識してみた結果、サイトの左腕は超鋼の義腕に生え変わりました。ちなみにルイズは自身の片目を抉っているので、これはこれで北欧神話のオーディンのオマージュだったりする。
オリジナル虚無魔法(笑)。まあ、邪神封殺用の切り札ということで堪忍を。6000年前には、きっとこういう反則的な魔法もあったはず。しかし詠唱時間は20分(しかも『加速』と並列詠唱で短縮して20分。短縮無しなら……三日三晩くらい)。拠点作成用。本当は世界扉の逆呪文(世界隔壁?)で湖底の回廊を閉鎖して、神気の提供経路を遮断してから、ちくちく掃討戦に移る展開だったのですが、見せ場的な意味で派手にやってみた。
次回は……アルビオンがいよいよシャンリットに墜ちるかな? 深淵の女王陛下とゼロのルイズのOHANASHIが先か。それとも黒い炎神の化身がカオティック“N”を検知しちゃうのが先か。それか6000年前の話で、『生命』とリーヴスラシルについてか。書きたいシーンは割とあるのですのよねー。

2011.12.03 初投稿
2011.12.07 誤字修正



[20306]   クトゥルフ神話用語解説・後書きなど(24~29話)
Name: へびさんマン◆29ccac37 ID:a6a7b38f
Date: 2011/12/07 20:54
皆さんここまで読んでいただきありがとうございました。
24話から29話で第二部第五章『ラグドリアン異変&戦争の足音』編+α、終了です。
原作では、主に第四巻と第六巻、第七巻などに相当する内容になっています。今後はあまり原作との対応はしなくなると思います。

以下、後書きとか言い訳とか設定覚書とか続きますので、見たくない方はスルーしてください。




■第二十四話 天空(うえ)から来るぞ! 気をつけろ!!
まあ湖底から来るんだけどね。

・モンモランシ家:干拓事業自体は成功している。ただ、干拓地は今回の増水で沈んでいる。南無。

・水精霊の毒嫌悪性質:毒は嫌いな水の精霊。ゆえにラグドリアン湖はいつも清浄。グラーキとの相性は最悪。

・魔術的科学的に厳重に管理されたシャンリットの博物館:色々と愉快なことになっているシャンリット中央大博物館。奥に行けば行くほどSANチェックが必要な物品が増える。

・ハルケギニア世界でも一級の呪詛である『コントラクト・サーヴァント』:使い魔のルーンは、呪い。

・佐々木武雄の爺さんが言っていた『地球』と、俺の出身世界の『地球』:パラレルワールド設定。多分その設定が今後生かされることはないけど。

・ドリームランドのレン高原:昔地球に居た頃サイトが迷い込んだことがある。チベットあたりと交差している。でかい蜘蛛の化け物が居る。サイトのトラウマのひとつ。

・『ニョグダの眷属としての水精霊』:ニョグダ→ありえべからざるもの、生きている暗黒の塊、ダーク♂スライム。スライム状なので、水精霊との関係をシャンリットでは疑われている。

・『古代の蛸蝙蝠巨人(クルゥルゥの落とし仔)と水精霊の関係』:クトゥルフの星の落とし仔(クトルゥヒ)→劣化版クトゥルフ、クトゥルフ様よりはもっと軟体的な感じで形状を自在に変えられる。劣化版とはいえ、遭遇したら充分死ねる。水の眷属なので、水精霊との関係を(ry

・『ディープ・ワンズ(深きものども)の海底石柱都市と、水精霊の湖底の都の類似点に関する研究』:半魚人ディープ・ワンズと、シャンリットは交易がある。ラグドリアン湖の湖底の都の伝承との関係が研究されているが、ラグドリアン湖に矮人が近づけない(潜れない)ので、あまり進んでいない。

・水蜥蜴の王たる【ボクラグ】:ボクルグとも。巨大な水トカゲ(ウミイグアナ)の姿で、顎から触手がたくさん生えている。イブの生物によって崇拝されていた。崇拝者に対して庇護を与えるが、その庇護はタイムリーに来るとは限らない。弾圧者に対して数世紀越しに復讐の神威がやって来ることも稀ではない。もちろん、その頃にはボクラグを信仰していた民は滅んでいるが、そんなの関係ねーとばかりに災厄が弾圧者の子孫に襲いかかる。

・未分化標本:アザトース機関から溢れる神の混沌の気配によって姿形が変化してしまった生物。

・魚人化失敗被験体:何処からか入手した半魚人の血肉を移植して、無理やり深きものどもの血を発現させ、人間を魚人化する外法……に失敗したもの。憐れ。

・擬神機関設計図:アザトースエンジンの設計図。まあ、シャンリットもシャッガイからの昆虫とは接触してると思うので、アルビオンからじゃなくても手に入れられると思われる。

・アイホートの雛:雛。白くてぶよぶよした蜘蛛みたいなもの。

・グラーキの毒棘肢:7D3(7~21のダメージ)。毒液に感染すると、グラーキの奴隷となる。即死した場合は、黄泉返ってアンデッドの奴隷になる。どっかで、武器として扱った場合は3D6のダメージとして扱う、みたいな記述を見た気がするが、手元の資料では確認できず、勘違いかも。

・『バビロンの炎上』:ソースブック「マレウス・モンストロルム」から。1967年、ジョサイア・スミス(英国のヒッピー)著。内容は詩、歌詞、支離滅裂な夢の断章、性的な絵画など。正気度喪失1/1D4、<クトゥルフ神話>技能+2%。研究のために平均4週間必要。覚える呪文は<夢の薬の製法>、<冥王星の薬>、<シャンとの接触>、<記憶を曇らせる>、<夢の映像>。

・『シャッガイへの鎮魂歌』:『ミサ・ジ・レクイエム・ペル・シュジャイ』とも。内容は、オペラの曲と台本。イタリア人のベンヴェヌト・チエティ・ボルジゲラ著、1768年。正気度喪失1D3/1D6、<クトゥルフ神話>技能+4%。研究のために平均2週間必要。覚える呪文は特に無いが、きちんと上演すると、自動的に<アザトースの招来>が発動するという、非常に迷惑な代物。

・ラグドリアン湖から出てきた面々:アルビオンからの刺客。身の内にアイホートの雛を飼ってる輩も居たり。適当な浮浪者を捕まえて、雛の苗床にして雛を増やし、魔法学院などに潜入させる役目を負っていた。


■外伝第九話 ダングルテールの虐殺
トリステインの異端の村、その一。そう、異端はいつも君たちのそばに……。まあブリミルからして半分邪神の血脈なのですがね。

・ダングルテール:アングル人の土地。アングルの語源はいまいち調べきれなかった。当SSではアングル人=ウェンディゴとしている。

・アカデミー実験小隊:当SSのイメージは、オスマン帝国のイェニチェリ軍団みたいなもの。幼い頃から軍制に組み込み、エリート教育を行う。そうじゃないと、若くして隊長を務めることが説明できないなーと思ったので。

・ヴィットーリア・セレヴァレ:ゼロ魔原作と同じような経緯で脱ロマリア。流れ着いたのがダングルテールじゃなければ、違う展開があったのだろうが……あえなく捕食エンド。南無ー。

・“白炎”のメンヌヴィル:この時点では敬虔な拝火教徒。徐々にクトゥグアに憑かれていく。

・アニエスちゃん1歳:人外なので成長が早いです。

・いさか様:イタクァ、イタカ、夷鷹、イサカ、亥坂。北風の神様、風に乗りて歩むもの。ハスターの部下とも言われる。ウェンディゴによって崇拝されている。夜空に輝く赤い瞳で特徴付けられる。空を歩くように移動する。人間を空に連れ去り、食うか、気が済むと地上に放り投げる。

・ウェンディゴ:凍てつく荒野の獰猛な獣。イタクァによって統率されていない場合、共食いする性質がある。心臓が無事なら、一夜にして生き返る。心臓を燃やされる(熱される)と、生き返らない。捕らえた人間をウェンディゴにすることも出来る。

・『注文の多い料理店』:シャンリットには、人面樹に納められたウードの前世の記憶を研究する学問(ウード学)があり、その人文系の研究成果の一つ。他にも幾つもウードの前世の世界の作品が再現されているらしい。

・クトゥグア:CTHUGHA。炎の神。炎そのもの、生きている炎。フォーマルハウトという恒星を棲家にしている。メンヌヴィルにちょっとした啓示を与えた。ニャルラトホテプとは天敵同士。



■第二十五話 水鉄砲と侮るなかれ
オスマン無双の始まりだ―!

・『駆動氷鎧(ホワイト・アルバム)』!:元ネタはJOJO五部のアレ。でも、あそこまで低温化に対して高性能ではない。さすがに空気は凍らせられない。アニエスのは敏捷と筋力補正がメイン。系統魔法ではない。ウェンディゴの能力をそれっぽく見せているだけ。

・火球を使った『炎の拳』:多分コルベール先生なら、周囲に20くらい火球を浮かべて無限コンボも余裕だと思います。

・カルマトロン探知魔法の使い手であるオールド・オスマン:業子力学創始者。多分オスマンはプリン好き。でもそれよりプリンプリンした女の人のほうがもっと好き。オスマンの過去について詳しくは「外伝7.シャンリットの七不思議 その5『朽ち果てた部屋』」を参照のこと。カルマトロン探知魔法は、虚無の「記録(リコード)」のダウングレード汎用化バージョンといった感じ。

・三つ目の有棘蛞蝓型の湖底の神グラーキ:夢引きしてアンデッドの奴隷を増やす。アルビオンのセヴァン渓谷が本拠地。背中の棘には毒がある。

・水邪の祭司クルゥルゥ(クトゥルフ)の眷属:たこがみさま。

・水精霊の高圧水流による攻撃:ウォーターカッター。しかも直撃すると即座に心を操られるという追加効果付き。

・お前の神による呪いは敵国に降り注いだのか?:語られない背景では、アルビオンと各国の間で呪術合戦が繰り広げられています。


■第二十六話 ラグドリアン湖は梔(クチナシ)の香り
死人にクチナシ。

・“緑の崩壊(THE GREEN DECAY)”:グラーキの従者は日光を浴びると溶ける。グラーキの従者でなくとも、この魔術を使われると、緑錆のような色の屑になってしまう。

・“門の観察(VIEW GATE)”:異次元に通じるゲートの向こうを見通すことが出来る。多分、サモン・サーヴァントのゲートの先も、この魔術でなら見通せるはず。……サイトのことだから、ゲートの先を見通した上で、「美少女ひゃほーい」と飛び込む可能性は高いが。

・ロンドンで【従者】と遭遇:サイトもよくよく運の悪い男である。軽くバイオハザードな経験をしている。サイトが地球でミスカトニック大学に通っていたころの話。作者も忘れつつあるが、当SSのサイトは大学生で22歳。

・「ファンタジーな世界で可憐なご主人のパートナーとして邪神に立ち向かうほうが、心情的にも勝算的な意味でも随分マシだ」:実際、虚無魔法とかルーンによってバランスブレイクしているので、地球に居るよりは、ハルケギニアで探索者やるほうが勝算(生存確率)が高い。

・『アンドバリの指輪』:結局、本筋とは全く絡みませんでした。何か絡ませるアイディアがあったはずなんですが……忘れました。


■第二十七話 白炎と灰塵の競演
白炎のメンヌヴィルと、灰塵のオスマン。原作で言うと第六巻「贖罪のルビー」に対応。

・哄笑するメンヌヴィルと、彼に付き従う者たち:メンヌヴィル傭兵団は、プチカルトです。いや、まごう事なきカルトか。……確かに何処も彼処も異端だらけだな、このハルケギニア。

・両翼を広げた鳥の頚を刎ねたような、T字型の鳥十字:地球のゾロアスター教の聖具(有翼円盤、有翼のフラワシ)から、アフラ・マズダを象った人型の部分を除いたもの。アニエスの首にもかかっており、彼女の心臓を凍てつくウェンディゴの血の呪いから守っている。

・時の彼方の腐敗と風化の魔神『クァチル・ウタウス』:灰色の光と共に顕現する魔神。小柄なミイラのような姿形をしている。ハルケギニアではオスマンしか信仰していない。

・シャンリットの千年教師長が化身したという大蜘蛛:ハルケギニアには、ウードくんに関して色々と噂があるようです。まあ、妖怪の土蜘蛛みたいな扱いかも?

・アイホートの雛を使った相似概念による、大陸迷宮要塞と、個人の脳神経迷宮の接続――それを用いた瞬間転移法:アルビオンの大陸迷宮を支配するアイホートと、脳迷宮を支配する雛を対比させ、相似概念によって結びつけて、その繋がりによって両者をつなぐゲートとする邪法。グラーキの湖底回廊の、アイホートバージョン。

・コルベールやメンヌヴィル程の炎の使い手は、蛇のように熱源を感知できる:メンヌヴィルは失明してませんが、温度感知出来る眼(というか皮膚感覚)は持ってます。もちろん、コルベールも。

・彼らは焼かれたが、お前は心を凍らされたのだ:まあ実際は、コルベールの不定の狂気であるサンチョ・パンサ症が治ってないだけなのですが。でも、心を凍らせる呪いも、実はかけられているかも知れません。

・ウードはアトラク=ナクアの眷属:最近は神官らしいところは見せてませんが、ウード君はちゃんと蜘蛛神様に生贄捧げたりしてます。ベアトリスもそのうちシャンリットの血脈に宿る呪いに目覚めたりするのでしょうかね。


■第二十八話 白炎と灰塵の狂宴
原作では贖罪のルビー(メンヌヴィル登場)と、誓約の水精霊(ラグドリアン湖)、銀の降臨祭(サイトVS7万)あたりに該当します。

・都市災害(ディザスター・レポート)級:ディザスター・レポートはアイレムのゲーム「絶体絶命都市」、の英語版タイトル。同名のR戦闘機(試験官キャノピー、災害波動砲)もある。

・天津沼矛:日本を作るときにイザナギとイザナミが一緒に握って混ぜ混ぜした棒。あまのぬぼこ。

・タバサことジョゼット・ドルレアン:当SSでは、シャルロットとジョゼットの取り違えが起こってます。シャルロットはシャルルと一緒にアルビオンへ、ジョゼットは修道院で育った後にジョゼフに拾われてます。魔法の才能的には、原作のタバサと同じトライアングルです。

・マジックカード・オブ・ミョズニトニルン、ガリアの護り絨毯:ウードが惑星中に張り巡らせた黒糸のうち、ガリア国内部分は、シェフィールドさんに制御を奪われている。ウード的には奪還可能だが、面倒なので見逃している。

・ミョズニトニルンと、あの鬱屈王は結婚したんだっけ?:ラブラブです。正式には結婚はしてません。事実婚状態。

・ミ=ゴの生体装甲を応用した、甲殻類を思わせるような鎧:「蜘蛛の巣から逃れる為に 6.本分――使い魔の場合と魔法使いの場合――」で装着したものと同じ。電撃や炎を緩和する鎧として働く。ミ=ゴとは、ユゴス(冥王星)に生息する菌類で、甲殻類のような外骨格を纏っている。ミ=ゴはニャルラトホテプ崇拝者でもある。

・世界を囲む終焉の蛇(ヨルムンガンド)のような鞭:原作ガリアの巨大魔法人形ヨルムンガンドは出せないので、名前だけここで拝借。

・魔力の付与<ENCHANT>によって:クトゥルフ神話TRPGの魔術、【魔力を付与する】。いろんなものに魔力を付与できる。本当は、生贄の血、1POW以上のコスト、1D4以上の正気度喪失、1日以上の時間が必要だが、そこは物語の演出上の都合でスキップしている。まあ、正気度と時間の代わりに、莫大なマジックポイントとPOWをつぎ込んだのだと思われる。

・デルフリンガーの刀身は清め<BLESS BLADE>られ:クトゥルフ神話TRPGの魔術、【刀身を清める】。通常の武器ではダメージを与えられないものにダメージを与えることが出来るようになる。生贄の血などが必要。

・サイトの肉体は保護<FLESH WARD>された:クトゥルフ神話TRPGの魔術、【肉体の保護】。注いだマジックポイント×1D6の装甲を与えてくれるが、魔術攻撃は軽減できない。

・お互いに相互作用して感覚を鋭敏化<KEENNESS OF TWO ALIKE>させた:クトゥルフ神話TRPGの魔術、【鋭敏な2人】。血縁関係にある二人の人間が近親相姦的な儀式を行うことで発動。二人のうち片方のINTを高める。ルイズとサイトは【カーの分配】によって眼球を交換しているので、血縁関係の条件についてはクリア。ディープキスで、近親相姦的な儀式もクリア。ここでは同じ魔術を二回使い、一回目でルイズのINTを高めたあと、直後に同様の儀式を繰り返してサイトのINTも高めたと解釈する。

・葬礼のヤグラ:昔の葬礼儀式では、湖に帰っていった死者の魂のために、死後の住処となるヤグラを一緒に沈めていた。豪華な棺桶みたいなもの。

・光を消す<DAMPEN LIGHT>魔術:クトゥルフ神話TRPGの魔術、【光を消す】。魔力を込めた金管楽器の演奏によって、周囲に闇をもたらす。グラーキの従者は陽光によって崩壊するため、それを防ぐために展開された。

・混沌の化身の、【闇の跳梁者】:「蜘蛛の巣から逃れる為に 5.跳梁者は闇に吠える」で顕現したニャルラトホテプの化身の一つ。燃える三眼で象徴される。光に対して超脆弱。

・無数の塵の全てが、オスマンの残骸であり、そして、彼の本質であるのだ:300年の信仰の内に、オスマンも神官としてレベルアップした。塵になっても平気。むしろ塵が本質。祝、人外! 魂まで風化させる鬼畜。「儂、残酷なんじゃよー」

・ンガイの森を焼き尽くした如く:クトゥグアさまはニャル様の森に酷いことしたよね。

・【レレイの霧の創造】<CREATE MIST OF RELEH>:クトゥルフ神話TRPGの魔術、【レレイの霧の創造】。濃霧を発生させる呪文。

・生ける漆黒の炎<Living Flame of Deepest Black>:クトゥグアの化身の一つ、フォーマルハウトの影からの黒い炎。悪魔のような巨大なミノタウロスで、7つの角を持つ。顔はない。高熱。理性もない。

・【炎の精】:クトゥグアに仕える宇宙生物、炎の吸血鬼、ファイアー・ヴァンパイヤ。知性のあるプラズマ気体の塊。

・頭に【シャッガイからの昆虫】を飼っている開発主任:マチルダさんの旦那さん。中身は宇宙昆虫に食い荒らされている。シャッガイからの昆虫とは、アザトースを崇拝する半物質の拷問好きの知性昆虫。故郷の星が滅んだため、転移装置で宇宙に離散した。そのうちの一つがアルビオンに不時着している。


■外伝第十話 ヴァリエール家の人々
1.カリンちゃんまじパねえ。

・カリンの家庭教師だった、あのシャンリットから流れてきたという、小さな矮人の女:矮人たちもシャンリットに篭りきりという訳ではありません。周辺情勢を知りつつ、標本を集めつつ、広めても問題ない知識をこっそり広めたりしつつハルケギニアを彷徨している矮人も多く存在するし、奴隷労働力として輸出されている矮人も相変わらず多く存在する。カリンに魔法を教えたのは、そんな中の一人だと思われます。

・太陽の恩寵によって、この黄昏に産み出される大気の力を:究極環境利用闘法。

・語るも憚れるその名を――『トルネンブラ』:外なる神、音楽の使者。生きた音、実体のない常軌を逸した音楽として顕現する。ドーヴィル海岸は奇跡的な偶然で、天然の召喚装置になってしまっている。


2.カリンちゃんやっぱりパネェ。ルイズもパネェ。

・都市気候ホメオスタシス結界:エルフの集落を覆ってる結界の強化版。宇宙航行モード、耐隕石モードなども設定可能。要するにバリアー。

・半神だった彼を復元させる:ブリミルはヨグ=ソトースの息子だったとウード君は考えています。虚無魔法『生命』、リーヴスラシル、サーシャ、ブリミル、デルフリンガー……6000千年前に一体何があったのか? ブリミル復元計画は、多分本編中では完遂しません。

・10万も屠れば、如何な『烈風』といえども:ゴブリンメイジ10万人。全てがスクウェアクラスで、1000年の研鑽を積んできた歴戦の戦士です。まあこの時は、出征前に手加減プログラムをインストールされて投入されちゃうんですがね。全ての蜘蛛の拠点(恒星系を跨いで広がっている)の総人口については設定してないんですが、かなり自動化してるので全部で2兆人くらい? まじめに計算してないんで適当ですが。そう考えると、10万人の余剰人口ってのは充分に誤差の範囲ですね。

・夢の世界(ドリームランド)への逃避行から目覚めると、そこにあの悪魔が顕れたのだ:「蜘蛛の巣から逃れる為に 6.本分――使い魔の場合と魔法使いの場合――」冒頭のドリームランド初来訪回想の直後にルイズは攫われています。

・悪魔は三度問いかける:3、は呪いにおいては重要な数。

・知識が増えるたびに、彼女は自分自身を取り戻していく:虚無の秘宝なしでも、原作で他の虚無遣いの詠唱から呪文をラーニング出来たように、書物の知識から呪文を覚えることが出来る、と当SSでは解釈しています。

・全宇宙に圏域を広げたこのウード・ド・シャンリットの蜘蛛の糸を燃やし尽くすことは不可能だ:もはや生物存在と言うよりは、巨大なシステムと化したウード。チクタクマン化フラグは、相変わらず立っています。

・コンチネント級空中要塞:実はアルビオンが改造される以前に、シャンリットの連中は、他の地域で見つけた空中大地を、趣味で空中要塞に改造している。その時に命名されたのが、コンチネント級。今は多分海のどっかに浮いて漂っている。

・恒星系規模のテレポートを行なって難を逃れる:三十六計逃げるに如かず。いざとなったら、街ごと火星地下あたりに跳びます。

・【トルネンブラの招来】――うたを、ほしのうたを――:クトゥルフ神話TRPGの魔術、トルネンブラの招来。カリンはトルネンブラを召喚して結界にぶつけようとした。力業だが、確かに一番効果的な結界破壊方法である。召喚者が無事で済むかは、神のみぞ知る。

・『重力偏向魔法』:シュヴルーズが使う『赤槌』や、触手竜騎士たちが用いる慣性制御術式と似たようなもの。流石にカリンを潰さないように加減はしてある。

・ダイ大風に言えば『ベタン』:多分、ウード学によって再現されたダイ大を、カリンの前に出てくる前に暇つぶしに読んで思い出したのだと思われ。

・母さまを、いじめないでっ!!:親離れ。


3.カトレアさんマジ抜け目ないッスね

・ミ=ゴの技術で脳みそ缶詰にして:ユゴスからの菌類は、脳みそを生かしたままユニット化(缶詰化)して宇宙旅行に連れて行くのが大好き。さあ、そんな重い肉の鎧など脱ぎさってしまえ!

・戦死者回収用のゴブリンたちが跳梁跋扈:10万の鞘当て用ゴブリンを回収。烈風殿の戦力分析の一助になるはずです。標本として、ゲートの鏡でつながった小惑星都市などの広大な標本庫に納められたり、脳髄を人面樹にチュルチュルされて記憶を還元されたりする。

・ラ・ヴァリエール公爵:急いでやってきた。

・風の“遠聴”で割り出した居場所がシャンリット:カリンちゃんの本気の索敵半径は、半径500リーグ。もちろん、愛する娘のためというブーストが掛かっているからですけども。カリンちゃんマジ人外。

・少ぅしばかりお金を融通してあげたことがあるのですよ:シャンリット金融。ご利用は計画的に。

・伝承を失伝・独占したロマリアの連中:多分ロマリアは各国に工作して、意図的に虚無の伝承を独占したのだと思う。

・明るいのに、こんなに光に溢れているのに――仄暗い:シャンリットに潜むあれこれについては、外伝7のシャンリットの七不思議を御覧ください。あれも、街にはびこる邪悪の一部に過ぎませんが……。

・鎧袖一触。『烈風』は全てを薙ぎ倒す:竜巻などの被害は、風そのものよりも、風に乗って飛んでくる飛散物によるもののほうが大きい。秒速80メイルとかで飛んでくる鎧や剣とか人体なんて、洒落になりません。

・教師役の同い年くらいの銀髪の娘:グレゴリオレプリカの未熟な胎児を内蔵したウードクローンの女性体。本編中でボテ腹幼女として出てきたやつのプロトタイプ。

・そんなの私にかかれば全部お見通しです:カトレアの心の声を聞くスキルって、実はトルネンブラの加護でもあるのかも知れませんね。トルネンブラは、音の神様ですし、心の声も聞けるようになったりして。カトレアは肉体的には虚無(ブリミル:半ヨグ様)寄りだけど、魂はトルネンブラ寄りなのかも知れません。まあ、感想でトルネンブラとのハーフじゃないのって言われてから思いついたんですがね。

・背中から羽の生えた、下半身触手の、矮人:パーツ付け替えは、シャンリットではファッションです。

・コレット・サンクヮム・レゴソフィア・0795201号:「外伝3.『聖地下都市・シャンリット』探訪記 ~『取り残された人面樹』の噂~」の主人公だった矮人の少女――の記憶を引き継ぎ量産化されたもののうちの一体。他にも同じ記憶を持った矮人は沢山居る。

・始祖の血がびみょーにマズいバランスで発現:ヨグ様の子供は、成長が早く、場合によっては異形化します。生れる時の星の位置などにも影響を受けると思われ。

・首の挿げ替え:脳移植が出来るなら、これくらい簡単なはず。挿げ替え後は、リハビリが必要だが、それはヴァリエールの領地でも可能なため、カトレアは治療後早々にシャンリットを後にした。


■第二十九話 アルビオンの失墜
ようやくここまで来たー。あと、このアルビオンはもう駄目だ。

・常若の国――『ティル・ナ・ノーグ』:ケルト神話における死者の国。ティルナノグとも。

・禁断の知識を、民衆に配りだした:アルビオン政府と天空教会、マジ外道。

・村の外れには、雑多な石造りの円環:ストーンサークルですね分かります。これを通じてアザトースエンジンからのエネルギーを、奉仕種族や農地に与えている。墓地に在ったため、魔術的効果が高い。……関係ないが、きっとイギリスに残る本物のストーンサークルも、マギ族がレビテーションで組み上げたものなんだよ(嘘)!

・国母シャジャル妃の加護の下、黒い仔山羊たちが:シャジャルはシュブ=ニグラス信者。黒い仔山羊はシュブ=ニグラスの子供で、象の上半分を捻くれた大樹に置き換えて、その幹にいくつもの口を開けさせたもの、といった外見である。仔山羊は尋常の物質で構成されておらず、通常の武器ではあまりダメージを与えられない。

・虹色に輝く植物が茂り:【宇宙からの色】、生命力を食うもの、という宇宙的存在が、植物の生長に何らかの邪悪な関与をしているのかも知れない。

・「そうだね、アンリエッタ」:多分次回くらいにウェールズ様は再登場する、予定。

・遠くトリステインに居る“本体の本体”による実体ある分身の一つに過ぎない:ワルド子爵は苦労人。ハルケギニア中に偏在で散らばって、人材不足のトリステインを支えています。

・“深淵”の女王陛下がゲルマニアを喰い荒らして呑み込む時:結婚式騒動。マザリーニとアルブレヒトは、女王陛下のもとでその有能さを発揮しています。

・片方は半分くらい王子様に:シャルロット=カミーユ・ドルレアン。工事済み。

・サイトの格好:鞭を握った蟹鎧男→右半身だけ超鋼の狼王砲→左手が義腕(サイコガン内蔵)

・腐肉の人竜と白骨の人竜:ダークソウルのプレイ動画見てたら、混沌の魔女クラーグ姉さまが美人だったので、それに倣って上半身人間という造形にしてみた。

・ホーキンス:憐れ。

・テリー:当初、名前間違えてハリーと表記してた。正しくはテリーです。何話か前に、アルビオンからラグドリアン湖への湖底回廊を開通させた半魚屍人の。

・局地消毒用呪文――『聖別』:オリジナル呪文。幾つもの虚無魔法の要素・逆要素をミックスした魔法。やたらと詠唱が長い。本来はこんな戦闘中に唱えるものではない。シャンリットで学んでいたときに習得したもの。

・【夢のクリスタライザー】:幻夢郷のものを持ち出すことが出来るアイテム。半睡眠状態になることで、ルイズは幻夢郷における理想的で強力なボディを、現世に顕現させることが出来る。

・沙漠の円柱都市アイレム:狂えるアラブ人アブドゥル・アルハズラットが訪れたと言われる、古代文明の廃都。

・白熱した首無の名状しがたき存在:悪意に満ちた邪神、イゴーロナクの眷属だと思われる。


■次回以降
アルビオンVSシャンリット、ルイズとアリエッタ、6000年前に何があったのか、ルイズの邪神廃滅の野望は叶うのか、などを軸に進めていきたいと思います。

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2011.12.07 初投稿



[20306] 蜘蛛の巣から逃れる為に 30.傍迷惑
Name: へびさんマン◆29ccac37 ID:a6a7b38f
Date: 2011/12/27 21:26
 巨大なモニターが前にあり、他にも幾つもの端末が席に用意されている。
 如何にも司令室然とした部屋だ。
 幾人もの矮人が、端末の前に座っており、それ以外の矮人も忙しく行き来している。その中心には、言わずと知れた蜘蛛の頭領、千年教師長ウード・ド・シャンリットが座っている。

 ここは、クルデンホルフ大公国首都シャンリット、中心街区アーカム――
 ――その地下1000メイル以深の大深度に存在する戦闘指揮所である。
 ハルケギニア中に張り巡らされたネットワーク型マジックアイテム<黒糸>や、静止軌道上の衛星などから集められた情報を元に、モニターにはアルビオン大陸の予想進路などが複数のウィンドウで表示されている。

「何の妨害もしなければ、あと6時間でシャンリット直上に到着する計算か」
「はい。ですが、それを防ぐために、手始めに空中の進路上に障壁を設置し、進行を遅延させます」
「よろしい、疾く速やかに実行せよ」

 ウードに答える矮人の言葉と共に、モニターに映るアルビオン大陸の進路上の空間が歪み、不可視の障壁が出現する。
 それと同時に、アルビオン側を覆う球形のバリアのようなものが生じ、障壁と拮抗する。
 シャンリットの障壁は確かに、目に見えるほどの速度低下を引き起こし、アルビオンの進行を遅延させた。

 アルビオン大陸のバリアと障壁が接触し、アクリルかゴムの板を無理やりに突き破るような感じで、シャンリットが空中に設置した結界障壁が撓む。
 アルビオンを覆うバリアは強力な浸食作用を持っているようで、シャンリットの障壁はボロボロにひび割れつつ歪んでいく。
 障壁はやがて砕けるが、シャンリットから展開されたそれは一枚ではない。何十何百もの障壁がアルビオンの進路上に展開され、折り重なり、高粘度の粘液のように空間を変質させていく。
 大陸の進行速度は、およそ百分の一以下になったようにも見える。

「……宜しい。慣性制御術式によるアルビオン大陸本体への干渉は? 流星のように墜落させられないか?」
「実行中ですが、抵抗され、効果がキャンセルされています。擬神機関による周辺空間への影響力が強すぎるようです」
「なるほど、相性の問題だな。余波の余波程度だが、最高痴愚神の領域には、余程の魔力をぶつけないと影響を与えられないというわけか。向こうの方が質的に上位だからな……。ではアルビオンの結界内部への転移も望み薄か? 敵の中枢を制圧したいのだが」

 アルビオンにも、アトラナート商会の支店はあったのだが、擬神機関が稼動してからは連絡がとれなくなっている。

「支店とは連絡が取れません。擬神機関が稼働後、アルビオンに設置してあった<ゲートの鏡>は全て沈黙しています。また、アルビオン全土に広がった<黒糸>も使用不可能です」
「アザトースエンジンの神気によって侵食されたか。残っていた矮人たちも、神気に当てられて蜘蛛の因子が活性化されて、異形化してしまったかも知れんな」
「おそらくは。それと、連中、<黒糸>のレイラインを盗用して、大陸中に神気を配賦しているようです」

 もともとが系統魔法の媒体である<黒糸>は、魔力や精霊力、神気に親和性が高い。
 そのため、アルビオンは神学的インフラとして、侵食奪取した<黒糸>を使っているらしい。

「生意気な。我が物顔で他人のものを……」
「小癪な連中です。尖兵を突入させてアルビオンの<黒糸>の制御権を奪取して、外堀から埋めるのが良いですかね。いつまでも奴らに<黒糸>を使わせたままにしておくのは、業腹ですし」
「まあ待て、気持ちは分かるがな。だがここは、さっさと動力炉を落としに行くべきだろう。向こうがこっちの頭を狙ってくるなら、こっちは向こうの心臓を狙う。擬神機関の制御を奪取すれば、それで終わりだ」

 ――まあ、背後で暗躍する、あのカオティック“N”が懸念事項ではあるが。
 最悪、トリステインに偶発招来された『生ける漆黒の炎』を引っ張り出してくれば良いだろう。
 神格には、神格をぶつけよう。そんな事をウードは考える。

(アトラク=ナクア様は、喚んだ所で出てきちゃくれないだろうしなあ――)

 ウードは思考する。
 深淵の谷に橋をかけ続ける彼らの主神は、俗世の雑事には興味を示さないのだ。無闇矢鱈と呼び出しては、却ってこちらが喰われてしまう。それはそれで本望だが、まだ死ぬわけにも行かない。
 さて、こちらが助力を得られそうな神格には、他に何か相応しいものがあっただろうか?

「ふむ。そうだな、久しぶりに巨獣たちにも出張ってもらうか。“彼女ら”もそろそろ、小神くらいの力はつけているだろう」
「彼女らを出すのですか? しかし制御できるでしょうか」
「まあ千年放ったらかしにしてたけれど、何とか成るだろう。駄目だったら、駄目だったで構わんし。他に幾らでも手はある。ああ、そうだ、グレゴリオ・レプリカは全機稼動状態にしておいてくれよ」

 千二百年前の第一次聖戦時の英雄グレゴリオ・セレヴァレは、聖戦末期に蜘蛛のシャンリットによって鹵獲され、貴重な虚無遣いのサンプルとして酷使されてきたのだ。
 様々な虚無呪文の知識を先天的に植え付けられ、体内に根を張った<黒糸>によって統括される彼らは、シャンリットの軍勢――いや、兵器の一つとして量産され、実戦投入されている。

「全機ですか? ……直ぐに用意できるのは、各宙域の衛星都市からかき集めても、10万8千機ですね」
「ふうん、その程度か。足りるかな? まあ良いや。かき集めといてくれたまへ」
「御意」
「あと、イェール=ザレムも直ぐに動かせるようにしといてくれ」

 天空研究塔イェール=ザレムは、シャンリットの中枢街区であるアーカム区から宇宙まで伸びる軌道エレベータである。
 内部には幾万ものゲートがあり、宇宙各地に浮遊する研究室コンテナユニットへと接続している。
 だが、イェール=ザレムの役割はそれだけではない。

「大盤振る舞いですね?! ……必要ですか?」
「必ずしも必要というわけではないが、せっかく造ったは良いものの、こんな機会でないと使えないからな。それに、今のアルビオンを甘く見てはいけない。余波の余波程度とはいえ、沸騰する混沌の核と、その這いよる司祭の化身が揃っているのだ。念には念を入れておかないといけない」

 ギョッとする矮人に、ウードはニヤリと人の悪そうな笑みを返す。
 シャンリットには、『思いついちゃったから』という理由で実現された謎機能や浪漫兵器が死蔵されている。
 イェール=ザレムに搭載されたソレも、開発されたは良いものの、天空研究塔建設以来、これまで終ぞ使われることのなかったものである。

「さて、では迎え撃とうじゃないか。攻め寄せようではないか。取り立てようではないか」

 腕を広げ、ウードが喜悦に口を歪める。

「思い知らせてやろう――奴らが誰に楯突いたのかを」

「教育してやろう――蜘蛛の巣からは、決して逃れることなど出来ないのだと」

「刻みつけてやろう――我ら千二百年の好奇と狂気は伊達ではないのだと」

「そして、蒐集してやろう――その大陸の一切合財は、我らの陳列棚に収められる運命にあるのだから」

「生者も死者も、ヒトもカミも、全ては等しく、我らの腹と頭脳に収まるが良い」

 戦争だ。
 戦争が始まる。
 傍迷惑で、狂いきった、異形たちの輪舞が。


◆◇◆




 蜘蛛の巣から逃れる為に 30.傍迷惑な戦争の始まり




◆◇◆


 チャールズ・スチュアートは、ハヴィランド宮殿の後宮で現実逃避気味にうなだれていた。

(妻や娘が表で暮らせるようにと、国を内乱に叩き込み、兄と甥を追いやって、結果辿りつけたのが、この狂った世界か)

 自嘲する彼の傍らには、エルフである妃のシャジャルが侍っている。
 二人の視線の先には、仲の良いティファニアとシャルロット=カミーユが、背景に百合の花を散らして談笑しているのが見える。仲の良いことだ。婚約者だから当然か。
 一応この後宮にはシャジャル妃を娶る前に婚姻を結んでいたチャールズの先妻も居る筈なのだが、その姿は見えない。まあ、生きているかどうかも定かではない上、生きていても、このハヴィランド宮殿の内部で過ごしておいて、正気で居るとは思えないし、もともと政略結婚だったのでチャールズとしては大して愛着もない。

「シャルルは問題ないと言っていたが……シャジャル、今回の戦争は、上手く行くと思うかい?」
「上手く行くわよ。きっと」
「そう、かな?」
「そうよ。だから貴方は、どっしりと構えてたら良いの」

 そう言って安心させるようにチャールズに微笑む王妃シャジャルは、沙漠出身のエルフである。

 彼女はエルフの崇める“大いなる意思”のうちの一つであるとされる黒沃山羊の地母神を信仰しており、その神官としての技能を用いて、アルビオン全土へ豊穣の加護と、神の遣いたる【黒い仔山羊】を労働力として召喚し国民に従属させている。
 彼女の宗派は、エルフたちの中でもマイナーな信仰宗派である。
 単なる豊穣神信仰ならば割とメジャーであるが、豊穣神の恐ろしい暗黒面である【シュブ=ニグラス】を信仰する者は、そう多くない。

 戦争の先行きについて、彼女が楽観とも言える感想を口にするのは、決して本心からのものではない。
 口では夫の不安を紛らわせるようなことを言ったが、彼女自身はそんな事は全く思っていないのだ。

(何せ、あの悪名高い暗黒ファラオ【ネフレン=カ】の同位体が居るのですもの。どうせ碌なことにはならないでしょうし……。早いところ、逃げる算段をつけないといけませんわね)

 実際のところ、ある意味同系統の暗黒神に仕えるシャジャルは、赤を着込んだオルレアン夫人が何者なのか、かなり正確に把握していた。
 そして同時に確信していた。
 あの這いよる混沌の化身が、このまま静観するはずがないのだと。

(アルビオンとシャンリット、どちらが勝つにしても、一番重要な場面で、勝負の盤ごと面白半分にひっくり返されるに決まっているもの。だとしたら、こんな戦争は、無意味よ)

 あの混沌の化身は、そういったことを何より好むのだ。
 丁寧に、そして慎重に積み上げたものを、最高のタイミングで台無しにするという、あの破滅の昏い快感が好きなのだ。
 思いもよらぬ横槍で、勝利を確信していた勝利者の顔を苦く歪めさせるのが大好きなのだ。勝ち誇った顔が驚愕に歪むのを何よりも好むのだ。

 シャジャルは、エルフに伝わる暗黒ファラオ【ネフレン=カ】についての伝承を思い出す。


 ――無貌の王、国をまとめ善政を敷く。
 ――しかし、彼の者の狙いは民の幸福にあらず。
 ――阿鼻叫喚と堕落こそが、真の狙い。

 ――ゆっくりと巧妙に目に見えぬ所で腐敗は進み、やがてそれは限界を超える。
 ――血の匂いのする神殿、私腹を肥やす官僚たち、粛正される反乱者、恐怖政治、都市を覆う得体のしれない闇と怖気。
 ――並べたドミノ牌を倒すように、限界に達した歪みが連鎖的に爆発し、そしてとうとう国が崩壊する。

 ――玉座、無貌のファラオ。
 ――攻め寄せる聖者オシリスとその仲間たち。
 ――相対する、ファラオの信者と、解放者である聖者たち。

 ――追い詰められるファラオ。そして変貌し本性を顕すファラオ。
 ――暗黒の化身。這い寄る混沌。天を衝く無貌の捻れた、血塗られた舌。
 ――地は裂け、空は燃え、民は死に、血の河が流れ、弓折れ矢尽き、聖者オシリスは遂に膝をつくも、天を衝く暗黒王の巨体は未だ健在。

 ――民は祈り、精霊は嘆き、地に生きとし生けるもの全てが暗黒王を打倒せんと集う。
 ――精霊と民と韻竜が手に手を取って、死闘の果てに遂にソレを放逐する。
 ――かくして独裁者は星辰の彼方に去り、二度と同じ過ちを繰り返さぬように共和制が敷かれることとなる。


 と、まあこんな所が、エルフに伝わる太古からの言い伝えである。
 英雄譚とも言う。
 聖者オシリスの伝説である。他にも聖者アヌビスにも、ネフレン=カの残党と対峙したという話はある。

 韻竜の長老あたりならば、ひょっとしたらその頃からの生き字引が残っているかも知れない。
 流石に千年を生きる統領テュリュークも、その頃から生きるているわけではあるまい。
 ついでに言うと、韻竜たちは戦々恐々として動き出したアルビオン大陸を眺めているに違いない。徐々に力を失いつつある彼らにとって、邪神の眷属は恐怖の的である。

 そして韻竜たちは、こうも思っているはずだ。
 いや、アルビオンとシャンリット以外の全ての者は、こう思っているに違いないのだ。

 ――化け物どもめ。喰らい合って滅びるがいい。

 全くもって同感だ。
 シャジャルは、楽しげに睦言を交わすティファニアら娘夫婦の様子を、夫と共に眺めながら、そう思う。
 この平穏が続けば良いのに。だが、それは難しいだろう。

 暗黒ファラオ【ネフレン=カ】と、魅惑の【赤の女王】。
 化身の形は違えども、彼の邪神は、太古のエルフ領で行ったことと同じ事をしようとしているのだ。
 遥か昔、虚無遣いのシャイターンがこの地にやって来る前に、エルフを破滅的な邪智暴虐の渦に叩き込んだのを、今度はハルケギニアで繰り返すつもりなのだ。

「もし戦争に負けても、ひどい事にはなりませんわ。亡命先としてシャンリットは使えませんが、私の一族を頼って落ち延びることも出来るでしょう」
「そう、だな。それも、最終的な手段として考えておこう……。国を内乱に導いておきながら、その果てに玉座すら捨てて逃げるというのは、どうにも無責任だが」
「別に良いのですよ、命あっての物種と言いますし。それに、貴方やティファニア、シャルロット=カミーユちゃんと一緒なら、私は、暮らすのは何処でも良いんですよ」

 うーむしかしなあ、とチャールズは唸る。
 もともと彼は、この故郷で堂々と妻や娘と一緒に暮らしたかったのだ。その為に兄王を弑し、甥を放逐し、ブリミル教会をぶっ潰して、新しく天空教を興したのだ。
 それが国を捨てて亡命する羽目になったなら、本末転倒である。

「むむむ。いや、だが、私は、王なのだ」
「貴方……」
「このアルビオンというフネの、船長なのだ。
 そして、船長は、最後までフネに残らなくてはならない
 この大陸の実権は、シャルルや得体の知れない連中に握られているが、それでも、私は責任を取らなくてはならないはずだ」

 それが、兄を弑逆した自分の義務なのだと。
 義務は果たさなくてはならないのだと、チャールズは思っている。
 義務だから履行する必要がある。

 その心意気や好し。
 ――しかし、ならば先ず、部下たちがやっていることを隅から隅まで把握し、国民に対する非道を止めさせるべきではないのか。
 確かにそうだ。

 人間は、酷い目に遭っている。

 ――“人間は”。

 だが、実は、アルビオン臣民の人口は、チャールズの治世であるステュアート朝になってから、減るどころか増えている。
 何故かといえば単純な話で、臣民の種族的範囲が拡大されたからだ。

 例えば、擬神機関開発主任のコナン・オブ・サウスゴータ。
 彼については、アルビオンの戸籍上は、“2人”だと換算される。
 勿論、中の人(シャン)も臣民として計上しているからだ。

 そんな具合で、天空教が認める神に信仰を捧げている存在であれば、それらは臣民として認められるのだ。
 高山に住むトロールやウェンディゴなどの亜人、湖沼に残っていた半魚人の末裔やその他の水の眷属、異界から呼び出された従属種族の数々、奇跡と云う名の邪法により黄泉返った屍人たち、造り変えられて“幸福”に生まれ変わった元反逆者……。
 以前よりも格段に増えた臣民は全て、異教の祭壇と化したハヴィランド宮殿を中心に広がる洗脳統率の魔術によって支配されている。

 それに、擬神機関の稼働後、アルビオンは、アルビオン国内にあった、蜘蛛の矮人たちの母体であるキメラバロメッツをも数本、支配下に置いている。
 人工龍脈とも言える<黒糸>が擬神機関(アザトース・エンジン)から出力される痴愚神の神気によって汚染されて奪取されたために、連鎖的にアトラナート商会の拠点も制圧されてしまったのだ。
 奪取した人面樹のキメラツリーと、擬神機関からのエネルギー、洗脳した矮人たちの持つノウハウによって、不完全ながらもアルビオンも矮人を生産している。果樹園で採れる矮人兵士たちは、ただの人間たちよりも役に立つだろう。

 アトラナート商会側も、勿論、何もせず手をこまねいていたわけではない。
 擬神機関が稼動して、商会の拠点が制圧されるまでの短時間で、廃棄・自爆処理を施していた。
 敵地にある拠点なのだ、その程度の処理は当然である。そして自爆装置は浪漫であるわけだし。

 大半のキメラバロメッツや重要施設は<ゲートの鏡>によってシャンリットの本店へと移動させられていたし、自決用の特殊なウィルスにより大部分のキメラバロメッツは枯死させられた。
 アルビオンの拠点には、量産型虚無遣いグレゴリオ・レプリカ(使い魔タイプ:リーヴスラシル)の生産拠点も含まれていたが、幸いにもそれらは事前に退避が済んでいたらしい。

 だがそれでも、数本のキメラバロメッツはアルビオン側の神学的処置によって復活させられたし、取り残された矮人たちも擬神機関からのエネルギーによって汚染されて洗脳された。
 アルビオンに置かれていた矮人たちには大して重要な情報は与えられていなかったとはいえ、これはシャンリットにとって多少の痛手である。

 何故なら、アルビオンに鹵獲された矮人(ゴブリンメイジ)たちの肉体およびインストールされた知識は、類感魔術や接触魔術(総称して共感魔術)のための媒体としてうってつけであるからだ。
 ゴブリンたちの多くは遺伝子的に非常に似通っており、一卵性双生児のように全く同じ遺伝子を持つクローンたちが数多く存在する。
 一を害せば億を害する。同じ体を持つというのは、藁人形などの形代を用いるよりもはるかに強力な呪術の媒体に成るということだ。

 まして彼らの脳髄に刻まれた数々の知識という共通キーを合わせれば、類感魔術によって影響を与えられる範囲はさらに拡大するだろう。
 同じ知識を持つ矮人は、兄弟弟子のような関係である。
 共通点があるものは似ているものだ。そして似ているものは同じものだ。だからそれも、魔術の攻撃起点となる。

 大量生産、共通規格という戦術ゆえに抱える、シャンリットの弱点だ。
 一つが切り崩されれば、同期する全てに影響が波及する。
 品種改良されて遺伝的多様性が少ない家畜が、流行病に罹りやすいようなものだ。

 当然、そんな事は百も承知で蜘蛛たちも対抗策も練っているだろうが、それでも手札が増えることは良いことだとアルビオンの上層部は判断している。
 今頃は護国卿クロムウェルが、嬉々として矮人たちの身体を用いて悍ましい儀式を行い、シャンリットに呪いを掛けているところだろう。
 クロムウェルはここ数ヶ月で超一流と言って良い呪術師に成長している。

「シャルルやクロムウェルたちが頑張ってくれているのは、知っている。
 シャンリットに攻めこまねば、今後のアルビオンが立ちゆかないことも、理解している。
 そして、最大戦力であるこのアルビオン大陸自身を以って、一気呵成に決着をつける必要があるというのも、勿論」
「では、皆を、この国を信じましょう。それこそが王の役目でしょう?」
「そうだな。私が勝利を信じずして、誰が勝利を信じると言うのか。そう、我々は勝利する――絶対に、絶対にだ」

 そうでなければ、犠牲になった者が報われないではないか。兄王を弑したのは、そう、アルビオンの秩序を遍く広め、エルフを始めとした亜人と手を取り合った新世界をハルケギニアに造るためではなかったか。
 王杖<ルール・フォァ・アルビオン>を撫でながら、チャールズは自分に言い聞かせる。
 必ず勝つのだ。勝たねばならぬのだ。そして、アルビオンに繁栄と栄光を! アルビオン王家に幸福を!

 家族が皆で堂々と暮らせる世界を!


 決意を新たにする家長チャールズの横で、王妃シャジャルは、微笑を貼りつけたまま、思惟を巡らせる。

(――連絡員である姪のファーティマに、予め段取りをしてもらうべきでしょうね……沙漠への亡命のための。ここに居る間に、私の神官としての格もだいぶ上がったことですし、断られても、最悪いざとなれば、少し評議会の老害どもを脅せば、その程度は通るでしょう――)


◆◇◆


 ラグドリアン湖から離れる竜籠の中。
 ルイズとサイトは眠りこけていた。昨晩からずっと夢心地だ。
 竜籠の室内には、ルイズとサイトの他には、シエスタとモンモランシーが座っている。

「ベアトリス様、とても名残惜しそうでしたね」
「でも仕方ないわよ。本国からの呼び出しってことだったら、断れはしないでしょ。護衛の矮人も、クルデンホルフからわんさか来てたし」
「それにしても、これから戦争に突入するというのに、何でわざわざクルデンホルフ本国に呼びつけたのでしょう?」
「さあ、戦争が始まるからこそじゃないかしら? 多分、トリステインより、シャンリットの方が、堅固で安全だと言うことじゃない? この千年、シャンリットは不敗無敵を誇るわけだし……」

 行きで一緒だったベアトリスらクルデンホルフ一行と、タバサは、この帰り道には同行していない。
 ベアトリスらは本国から召喚され、触手竜のヴィルカンに曳かれて、空路クルデンホルフに向かった。ベアトリスは、はらはらと涙を零しながら、別れを惜しみつつ渋々飛び立っていった。
 タバサは、ラグドリアン異変解決の報告のために、ガリア首都リュティスへと、シルフィードに乗って向かっている。今、ルイズたちの竜籠を曳いているのは、オルレアン家が召抱える竜騎士だ。タバサの計らいによって付けられたのだ。

「それよりもさ、シエスタ。……学院、大丈夫なのかしらね」
「そうですね、心配ですよね。マルトーさんやメイドのみんな、無事なのかしら」
「学院無くなってないわよね……? あの――“地上に現れた太陽”……只事じゃなさそうだけど」

 モンモランシーとシエスタが話しているのは、ラグドリアン異変解決後のその日の夜に学院方面に現れた、地上の太陽の如き強烈な光の塊のこと。
 夜を昼のように変えたソレは、未だ健在で、竜籠の行く手を眩いばかりに明るく照らしている。
 ルイズは明らかにフォーマルハウトの炎神に由来する白炎の結界を見て、一瞬動揺したものの、それ以上拡大しないのを見て取ると、『問題なし』と判じた。

 ――オールド・オスマンが居る限り、学院が無くなるようなことにはならないでしょ。私は寝るわ。随分消耗しちゃったもの。ふぁあ~あ。肉布団(サイト)、カモン。夢の国で瞑想と訓練をするわよ。アンタも義腕に慣れなきゃいけないでしょう、稽古をつけてあげるわ。

 そう言ってルイズは、傍らに<夢のクリスタライザー>を置き、サイトの腕の中で眠り、彼の魂と共に、幻夢郷の彼女の王国へと旅立っていった。
 サイトは唯々諾々と喜色満面に、その夢の旅路に付き従っていった。
 今頃は夢の国で千人組手でもやらされているのではなかろうか。

 さて、いつもは色ボケ老人のようなオスマンであるが、アレでもハルケギニア随一の魔法使いである。
 ゆえに、確かにルイズの言う通り、彼が居る限り、学院は安泰であろう。
 ルイズが<黒糸>のマジックカードを介して情報を集めたところによると、炎神の化身が召喚されたらしいが、今のところオスマンがそれを抑えているらしいと判明した。

「ああ、兎に角、ラグドリアンの異変が解決して良かったわ。モンモランシ家の干拓地は沈んじゃったけど、水の精霊が復旧に協力してくれるらしいし、何とか成るわよね、多分」
「ええ、きっと大丈夫ですよ! それに、この後はラグドリアン湖畔で、アンリエッタ女王陛下とウェールズ殿下の結婚式があるんでしたよね」
「そーよー。それで領地に幾らかお金が落ちてくれることを期待するとしましょう」

 学院までは、竜籠で空の道をあと二三時間というところだろうか。
 段々眠くなってきた。
 シエスタとモンモランシーは、示し合わせたかのように欠伸をして、お互いに苦笑する。

「ふぁ、ああ、眠いわね。昨日はちゃんと寝たつもりなんだけど」
「……ふぁあ……、あ、失礼しました。今まで気が張り詰めていた分、その緊張が取れて、反動で眠くなったのでしょうね」
「ああ。そうかも知れないわ。遠目でルイズたちの戦いを見てたけど、アレは夢に出そうよ。それが嫌で、知らぬ間に眠りが浅くなってたのかもね」

 モンモランシーは、昨日の神話の如き戦いを思い出して、その身を抱いて身震いする。
 割れる湖、屹立する毒水の竜巻、屍肉で出来た竜たち、潰せど復活する悍ましい屍人、得体の知れぬ怖気のする魔法の数々、それをかき消したルイズの白い魔法……。
 英雄の戦いと言うよりは、もっと邪気に溢れた、口にするのも憚られる、死すら冒涜する、地獄のような戦いであった。いや、あれは地獄すら生ぬるい。あのような戦いがこの世に存在して良いのか。アレを成したルイズやサイトは、果たして同じ人間なのだろうか。あんな戦いは、この世に存在してはならないのだ。ああ、だが、私は知っている、アレが決してお伽話ではないということを。なんという事だ、あれは恐ろしいことに、厭わしい現実なのだ。死しても尚、押し寄せる屍肉の絨毯。禍々しい神をも冒す毒の銛。致命傷を負いながらも人外の力で敵に立ち向かう異界の剣士。そしてハルケギニア一の災厄で最強のメイジであるルイズの使った、常識を超えた魔法。ああ、あんなものは夢だったに違いないのだ。あんな化け物が、あんな戦いが、この世に存在していいはずがないのだ! 夢だ。夢だ。夢だ! 夢だったに決まっている! ああいや、しかし目に焼き付いてはなれないあの恐怖は! 狂気は! アレは、現実のものだったのだ、圧倒的な質感を持って襲いかかってくる暗闇が、脳髄に刻み込まれてしまっている、知るべきではなかった無慈悲な真実が私の正気ヲ苛み――

「――モ……シーさん? モンモランシーさん!?」
「ハッ!?」

 シエスタに揺さぶられて、焦点の合っていなかったモンモランシーの眼に、正気の光が戻る。

「あ、ありがと、シエスタ。何だか知らない暗闇に、引きずり込まれるところだったわ……」
「いえいえ、大したことではありません。……私にも似た様な状態になった覚えはありますし」

 シエスタは眉根を寄せて、にへらと笑う。
 ルイズから夜毎に受ける英才教育の中には、正気を削るような内容も含まれているのだ。
 そして発狂寸前に追い込まれては、<夢のクリスタライザー>で夢の世界に誘われ、ルイズと共に、精神治療と訓練をさらに課されるのだ。鬼である。いや、シエスタの主人は、魔女で帝王であった。仕方ないね。

「帰ったら、安定剤でも調合しようかしら……」
「あ、私の分で良ければ、ルイズ様から頂いたのが、今、ありますよ? いかがです?」
「安定剤……。……どんだけ不憫なの、シエスタ……」

 虚無の侍女に同情しつつ、モンモランシーは有り難くルイズ謹製の精神安定剤を受け取る。
 シエスタがメイド服付属の四次元ポケットから取り出した水筒から注いだ水も受け取り、それを飲み干す。
 シエスタも同じく、安定剤の錠剤を飲む。

「睡眠導入剤も兼ねた結構即効性の錠剤ですので、すぐに眠れると思いますよー」
「そうね……。学院に着くまでに少しは眠っておかないと。ルイズによると、学院でも厄介ごとが起こってるみたいだし……。ふぁああ、ねむ……。ほんとに即効なのね」
「おやすみなさいませ、モンモランシー様」
「ええ、おやすみ……」

 シエスタはそう言って、モンモランシーに毛布を掛ける。
 スヤスヤと直ぐに寝息が聞こえてくる。
 それを確認して、シエスタもまた、毛布をかぶって眠る。


 ルイズの傍らで、<夢のクリスタライザー>が琥珀色に輝いた。

 ――二名様、夢の世界に、ごあんな~い。

 ルイズの声音で、そんな台詞が、聞こえた、気が、した。


◆◇◆


「ここどこ?」

 モンモランシーは呆然と呟く。
 その横ではシエスタが、膝をついて打ちひしがれている。諦観の呟きが漏れる。

「しまった……。今のルイズ様の近くで眠ったら、そりゃこうなりますねー。デスヨネー……」

 ここは何処かの王宮らしき建物の前である。

 その前に居た衛兵が、突然現れた二人に対して誰何する。

「何者だ? ここは夢の女王、ルイズ・フランソワーズ陛下の城なるぞ」

 誰何の声に、モンモランシーは怪訝そうな顔をし、シエスタはゆるゆると顔を上げる。

「ルイズの城……?」
「……はい、存じてます。というか、お久しぶりです、衛兵さん」
「うん? 会ったことがあったかな、メイドのお嬢さん」

 どうやらシエスタはこの場所を知っているらしい。

「ええ、何度かルイズ様に連れられて訓練しに――」
「ああ、覚醒の世界で、ルイズ陛下の侍女をしているという――」

 普通に挨拶するシエスタの横で、モンモランシーは固まっていた。

(薄い……! というか、ペラいっ!)

 何故なら、その衛兵が、薄かったからだ。存在感がとかいう意味ではなく、物理的に。
 サンクという賭け事に使うカードのような、というか、カードそのものの薄さであった。
 ふとモンモランシーの脳内をよぎる言葉があった。

 ――ルイズよりも薄い。圧倒的に薄い。

 ぞくり。

(――っ!? 何か悪寒が――?)

 ――それ以上いけない。
 モンモランシーの本能がそう告げた。

 彼女自身は知りもせぬことだが、この夢の国は、全てが全てルイズの領域である。
 ゆえにルイズの悪口は、たとえ心のなかで呟こうとも、丸分かりなのだ。
 ルイズイヤーは地獄耳、なのである。

 そんなモンモランシーの戦慄を余所に、シエスタは衛兵と話を続ける。

「俺は初対面だが、確かに曾祖父さんからそんな話を聞いたことがあるぞ」
「え、そんなに時間が経ってるんですか!? つい先週くらいにこちらに来たばかりだと私は思ってましたのに」
「ああ、ルイズ陛下が、その御力を回復させるのに、国全体の時間を早めているのさ。覚醒の世界で7時間も経てば、こっちでは70年は経ってる計算らしいな」

 ――まあそうなのですか。
 ――――曾祖父さんとは生き写しのようだと言われるくらい似てるから、代替わりしてんのにメイドさんが気づかなかったのも無理ないな。
 ――なるほど道理で。ところでルイズ様にお取次ぎお願いできますか?
 ――――もちろん。少し待って下さいましな。直ぐにお繋ぎするんで。

 などなど、事態は進行していく。

 それよりもモンモランシーは城壁の向こうから聞こえる轟音と地響きが気になっていた。

「ね、ねえ、衛兵さん。王城の中から、凄い音が響いてるんだけど、なんか伝説のドラゴンでも飼ってるの……?」
「ああ、これですか。これはドラゴンなんかではありませんよ」
「あ、そうなの――」

 俄に安心したモンモランシーの言葉を遮り、衛兵のカード兵が、ニヤリと笑って告げる。

「ドラゴンよりも、そしてジャバウォッキーよりも恐ろしい、我らが陛下とその忠勇なる騎士(使い魔)ですよ。――って、ぬわー!?」

 その言葉が女王の癪に触ったのだろう。
 何処とも知れぬところから真っ白い爆発が炸裂して、カード兵を虚空に舞い上げた。
 ルイズイヤーは地獄耳、である故致し方なし。


◆◇◆


「私の王国へようこそ、モンモランシー。歓迎するわ」

 王城の練兵場で、目を回した義腕の騎士サイトの上に腰掛けたルイズが、城門から入ってきたモンモランシーたちに歓迎の言葉を投げかける。
 サイトは完全に気絶している。左手の鱗と羽毛が混ざったような悪魔めいた超鋼の義腕からは、細長い蛇が生えており、必死にサイトに呼びかけているが、全く目を覚まさない。ちなみにデルフリンガーは睡眠機能がついてないので、夢を見る事もなく、ゆえに覚醒世界でお留守番である。
 一方、その上に腰掛けているルイズの姿は、ある意味シエスタにとっては見慣れたような姿であった。即ち、背中から朱鷺色の翼が生え、下半身は人魚のような艶めかしいラインになっているスタイル抜群の美女である。さり気なくエキドナから見えない所で、朱鷺色の羽でさわさわとサイトを愛撫している。

「……ルイズ。…………ルイ、ズ……?」
「何で疑問形なのよ」
「え、ええ? だって、ラグドリアン湖の時も思ったけど、ちょっと変わりすぎでしょう? まるっきり化物みたいな姿じゃないの! しかも色々育ってるし……」

 恨めしげにボンキュッボンなルイズの肢体を舐めるように見るモンモランシー。
 むしろ翼とか鱗とかよりも、育ちまくったお胸のほうが気になるようだ。だって女の子なんだもん。
 一方で椅子にされているサイトの方はスルーである。虚無の主従による訓練の結末はいつもこんな感じだ。この程度の光景は、学院でも見慣れている。見慣れてどうするという気もするが。

「折角だからお茶していきなさいな、モンモランシー。――シエスタ、王城を案内してやって頂戴。ほら、サイト! いい加減に起きなさい!」
「むにゃ? 母さん、あと五分~」
「誰がアンタの母さんかっ!? 夢のなかで夢を見るなんて器用な真似してからに……」

 ルイズは寝ぼけているサイトの足を掴み、宙空に飛び上がると、そのまま振り回す。

「それっ、ぐーるぐるーっ! 目をっ覚ませーっ」
「うわぁ!? 何だっ!? 敵か? 敵なのかっ!?」 【ちょっと本体!? 止めなさいっ】
「朝の目覚めは加速度25Gっ! せいっ、飛んでけっ!」
「ぎゃっ!?」 【サイト―!?】

 そしてそのままぶん投げる。
 放物線を描くことすら無くほぼ一直線にサイトは吹き飛び、そのまま練兵場の壁に激突する。
 どんがらがっしゃん、と轟音と共に、着弾点からはもうもうと土煙が上がる。

「サイト、目が覚めたかしら? 客人よ。土埃落としてから執事服に着替えて、持て成すように」
「……い、イエス、マァム……」
【痛つつ……ちょっとは加減しなさいよね、バカ本体っ】

 左の義腕から悪態を零しつつも、サイトは瓦礫を押しのけて姿を現す。
 そして主人と客人の方に一礼すると、軽やかな身のこなしで去っていった。
 彼はこの夢の国で、精神的治療や肉体的魔術的訓練も勿論だが、礼法や教養などの教育も受けている。何せルイズが力を回復させるまでに、この夢の国では数十年の時間が経過している。時間があるのだから色々と学ぶのは当然である。サイト完璧執事化計画は進行中である。

「はー、なんだかすっかり尻に敷いちゃってるわねー」
「当たり前じゃない。サイトは私の使い魔で、従者で、騎士で、執事で、パートナーなのよ?」
「はいはい、ごちそうさま。あーあー、ギーシュも早く帰ってこないかしら。戦争なんか起こんなきゃいいのに」

 虚無の主従に当てられたモンモランシーは、覚醒世界の王都に居るであろう自分の恋人のことを想う。
 アンリエッタ女王陛下の『魅了』によって国家への忠愛は強化されたものの、それでもグラモン家の生来の血統ゆえか、恋人であるモンモランシーのことを一番に優先してくれている。
 非常にありがたい事だ。

「戦争、ねえ。多分、色々とそれどころじゃなくなる気がするけどね」
「アルビオンとシャンリットが戦争するから?」
「もっと色々あるのよ。そうね、折角だから、モンモランシーも学んでみる? どうせ幻夢郷(こちら)の時間であと二十年は経過させるつもりだし、世界に潜む真実の悪意と邪悪と暗黒の知識を……」

 ぞくり。
 昏い蛇のようなルイズの三日月の笑みに、モンモランシーの肌が粟立つ。
 暗黒の知識とは何か。あの恐ろしいラグドリアンの湖底の毒と死と闇。あれに関わることなのは間違い無いだろう。そうだ、あの決して許せぬ、悍ましい異形たち。詳らか(つまびらか)にされぬ、されてはならぬ、この世の裏面の真実たち。ああ、思い出してはいけない、あのような存在が――

「――ま、その前に、心の治療が必要みたいね。後で腕利きのセラピストを紹介してあげるわ」

 モンモランシーの葛藤と慄きを見て取ったのだろう。
 ルイズは話題を切り上げる。

「私やサイトも、何かある度にお世話になってる人で、私の王国でも有数の腕利きだから、安心して頂戴な。目が覚めてハルケギニアに戻る頃には、トラウマも払拭してるわよ」
「あ、ありがとう、ルイズ……」
「いえいえ、友達でしょう? 私たち」
「ルイズ……」

 なんだかんだで、ルイズ・フランソワーズは“人間”には優しいのだ。
 それに、あのラグドリアン湖底の異形たちとモンモランシーが対面する羽目になったのは、ルイズが彼女に水精霊との仲介をお願いしたためであるし……。アフターフォローくらいはしなくては、寝覚めが悪い。
 まして相手が学院でも貴重な友人ともなれば尚更だ。

 ルイズはふよふよと宙に浮きながら、シエスタに向き直る。朱鷺色の翼から、爽やかな香りが広がる。

「……じゃあシエスタ、モンモランシーを部屋に案内してあげて。久しぶりだけど、城の中は覚えてるわよね? 私は湯浴みしてくるから」
「はい覚えてます。……覚えてますが、また妙な仕掛けが増えたりしてないですよね? こっちの時間で数十年振りですし、ちょっと怖いのですが」
「…………。大丈夫よ、多分」

 思わずジト目になるシエスタ。
 以前は本当に酷い目に遭った。
 常在戦場の心得だとかで、サイトの訓練用に培養されているスライムの培養槽へ繋がる落とし穴(兼ダストシュート)が王城の至る所にあり、シエスタはそれに嵌ったのだ。スライムに溺れてねちょぐちょになったところを、同じく落とし穴に嵌ったサイトが後から落ちてきて、二人で組んず解れつしつつ共闘し苦戦して漸く脱出したのであった。

「……それなら良いのですが……」
「うん、シエスタなら、きっと大丈夫だから」

 おい。

(ちょっ!? 前の文脈と、“大丈夫”のニュアンスが違ってるんですけどっ!?)

 彼女は傲岸不遜な夢の女王。
 従者たちに対して無茶振りするのは、日常茶飯事で。
 そしてそれは特別な存在に対する信頼の現れなのである。


◆◇◆


 モンモランシーたちが竜籠の中で眠ってから、ハルケギニア時間で2時間、幻夢郷時間で20年。
 色々あったものの、ルイズたち一行は漸く学院に到着した。
 夢の国での騒がしくも平穏な日常を経て、彼女たちは万全の精神状態に復調した。トラウマ払拭、フルチャージである。

「ああ、なんだかすごく年取った気分だわ……」
「精神は肉体に引っ張られるから平気よ。それより、ねえモンモランシー、これからもちょくちょく私の夢の王国に来ない? 文官としても、香料技術者としても、とっても優秀なんですもの。手放したく無くなっちゃった」

 ルイズは強欲なのだ。

「……まあ、たまになら。あと、出来ればギーシュも一緒に……。夢の中くらいは……」
「なら決まりね! 眠ったら直ぐに来れるように、早速手配しておくわね。勿論ギーシュも一緒に来れるようにしとくわ!」

 本人の与り知らぬ所で、ギーシュとモンモランシーの逢瀬が段取り付けられていく。
 まあ、ギーシュとしても願ったりかなったりだろうから問題ないだろう。
 離れ離れの恋人たちが夢の中で逢瀬を重ねるというのは、なんともありがちなロマンスではないか。

 ……あまりに夢の世界に入れ込みすぎると、現実世界で廃人になりかねないから加減が必要だが。
 夢の世界は、麻薬のようなものだ。
 自分の精神力次第で、好きなように世界をねじ曲げられる。……勿論、その為には魂と心を削り、相応の代価を払う必要があるのだが。

「それと……夢の世界での肉体改造の秘術も……」
「うふふ、勿論教えてあげるわ。任せなさいっ」

 まあ、夢見人のベテランであるルイズがついているから、そうそう酷い事にはならないだろう。

「さて、学院に着いたのは良いけれど……知ってはいたけど、近くで見ると圧巻ね」
「なんなのかしら、この白熱した火の玉……。熱くて全く近寄れない……。ロビンが干からびちゃうわ」
「ほんと邪魔ねー……」

 ルイズたちが呆然と見上げているのは、少し前にメンヌヴィルが招来した炎神の化身が封印されている20メイルほどの火の玉だ。
 目を細めて火の玉を見上げ、ルイズは何やら考え込んでいる。

(後で周りに誰も居ないのを確認したら、『世界扉』で強制転移させようかしら。幾ら何でも、このままにはしておけないわ。折角だから、アルビオンかシャンリットにぶち込んで……)

 どうやら、氷餓のアニエスを拾って王都トリスタニアへ報告に行く前に、やることが出来たようだ。
 幸い、夢の国でじっくり幻夢郷時間で90年ほど休息を取ったお陰で、精神力は完全に回復している(幻夢郷の時間を調整できるなんて反則技能は、時空と魂の系統である、ルイズの虚無の魔法があってこそのものだが)。
 今の残精神力なら、二十メイル四方の『世界扉』のゲートを形成して、火の玉ごと空の彼方に吹き飛ばすことくらいは出来るはずだ。

「というか、アニエスは何処よ。学院長は……ああ、火の玉に巻き込まれて、あの中なんだったわね……」
「え、それって、学院長大丈夫なの!?」
「あのスケベ爺はその程度じゃ死にゃしないわよ」

 一先ず大火傷を負ったキュルケの見舞いにでも行くかと、ルイズは医務室の方へと足を向ける。
 モンモランシーとはここで別れる。まあ、女王陛下に報告に行く際には、関係者というか当事者として、一緒に着いて来てもらわねばならないだろうが。
 ついでにマジックカードを取り出して、適当な秘薬を『錬金』することにする。早く元気になってもらわなくてはならない。せっかく彼女と相思相愛になったコルベール氏のためにも。毒娘の毒に耐えられるだけの炎使いは貴重なのだから。

「まあ良いわ。とりあえず、キュルケを見舞いに行くわよ。アニエスもソコに居るだろうし。サイト、この錬金した秘薬と、その他諸々の見舞い品、持って頂戴」
「諒解。しかし、アニエスさんもここ最近運がないなー、ずっと満身創痍だよな」
「……多分、アンタの運命に引きずられてるんだと思うけどねー」
「まさか! いつも思うけど、ルイズは俺を過大評価するよなー」

 その評価は割と妥当だと思われるが、サイトはそれを認めない。
 認めてなるものか。
 薄々気づいているものの、自分が運命的にトラブルメイカーだなんて、認めるにはハードルが高すぎる現実である。

「まあ、キュルケの命が無事で良かったよ。相手は凄腕だったんだろう?」
「そうね、<黒糸>に記録されてた覗き見データによると、そこにある白熱球を招来した炎の神官が、相手だったみたいね。実力差は明白。むしろ、まだ命があるのが不思議だわ。大方、敵手の気紛れか何かでしょうけど」

 すたすたと学院本塔に向かって歩きつつ、ルイズはマジックカード片手に次々と見舞いの品を『錬金』していく。
 その他にも小さな『世界扉』を作って、学院の端にある倉庫(ウードのグロッタ)から滋養強壮に効きそうなものを出しては、サイトの腕の上に積み重ねていく。

「ふーん。ところで、ルイズと俺だったら、その刺客には勝てたか?」
「勿論! 余裕よ。虚無の主従をナメんじゃないわ、私達は無敵よ」
「おうよっ、その通り! 当然だなっ!」

 とか言ってる間にも、サイトの腕の上には、見舞いの品が積み上がっていく。お嬢様の休日の買い物に付き合う荷物持ちといった風情だ。
 その後ろを粛々とメイド服のシエスタが着いて行く。
 割とカオスな光景な気がするが、別に問題ない。ルイズ一行は通常運行である。女王と騎士執事とメイド、という3フレーズで全てを表せるほどにはテンプレートだ。

「どーせアニエスは沈んでるでしょうから、彼女のフォローをまずしないとねー。どうせ宿敵を手にかけることができなったのを気に病んでるでしょうから。養父も物理的に蒸発しちゃったし。……今夜は先ず彼女を私の夢の王国に招こうかしらね。加療しないと」
「あー、アニエスさん、生真面目だからなあ。鬱々としてそうだ。ファザコンそうだし」
「私も、アニエス様は、もっと力を抜くと良いと思います。あれじゃあ胃が持ちませんわ。……ところで義理の父娘の禁断の関係とか在ったりしなかったのでしょうかねー、気になりますー」

 むしろ君たちがお気楽極楽で図太過ぎるのだが。
 そうでなければ邪神との戦いにおいて、決して精神が持たないとはいえ、……もっと緊張感を持ちなさい。


◆◇◆


 その日の夜。
 学院にて。

「『世界扉(ワールド・ドア)』っ!! 大・転・送ーーっ!!」

 ルイズは全身全霊を振り絞り、世界を貫通する呪文を唱える。
 その対象は、勿論、闇すら昼に変える灼熱の炎神の封印球。
 指定転送先は、クルデンホルフの国境付近で、アルビオン進路上と目されるポイントだ。危険物は熨斗付けて敵に贈るに限る。塩なんて送るものか。

 やがて白熱の封印球は転送され、この場から消滅する。

「ふっ、他愛無いわねっ!」

 やり遂げた顔で、ルイズがぺたりと尻餅をつき、額を拭う。

「でも疲れたわ。サイト、もう寝るから運んでちょーだーい」
「応。任せとけ」
「ありがとー。んー、いーにおーい」

 サイトはへたり込んだルイズを抱え上げ、お姫様抱っこで部屋まで運ぶことにする。
 精神力の使い過ぎで、ルイズは、たれルイズへとクラスチェンジする。サイトの胸板にグリグリと鼻を押し付け、ふんすとサイトの匂いを嗅いでいる。安心するらしい。
 辺りは先程までの白夜が嘘のように、全くの暗闇に染まっている。だが暗闇の中、白熱球があった場所だけは、未だに赤熱しており、マグマが沸々赤々煌々と周囲を照らしている。

 そしてサイトは夜空を見上げる。
 遥か彼方には、輝く新星が一つ。
 言わずと知れた、先ほどルイズによって転送された炎神の揺り篭である。

「しかしルイズもえげつない事するよなー。核爆弾より質悪い爆弾だぜー。まるで全く小さな恒星みたいなもんじゃないか。つーか、中に居たっていうオールド・オスマンごと転送しちゃったみたいだけど、大丈夫なんかね?」

 ――まあ、あの学院長なら、殺しても死なない気がするが。
 どうせルイズのことだから、無許可強制転送のことを後でオスマンから責められたら、その時にはシエスタの下着でも生贄にして許してもらうつもりなのだろう。
 実際オスマンも、それでころっと許しそうな気がする。そうなるとシエスタは不憫だが。

「そんなことしないわよー」
「お、ルイズ、起きてたのか」
「ねむいー、はやくはこんでー」
「はいはい、分ーったよ」

 無駄にガンダールヴとしての技能を発揮し、少しの振動すら与えぬ完璧な体重移動と熟達のスニーキングスキルで、たれルイズを抱えて女子寮に入っていく。
 左腕が義腕に取って代わったので、いつでもルーンの力を任意発動可能なのだ。
 ちなみに武装内蔵義腕と化した翼蛇エキドナは、完全にサイトのルーンの支配下に置かれており、今は意識を眠らされている。アレだけ尽くしてるのに不憫な扱いである。まあ、それ以外の部分ではサイトも報いて構ってやってるから良いとは思うが。ルイズから夢の国に呼び出されない夜は、二人の世界でいちゃついているし、“殺し愛”と“食べ愛”的な意味で。

 程なくしてルイズの部屋の前に到着。
 直ぐに内側から扉が開く。

「おかえりなさいませ、ルイズ様」
「たーだーいーまー。寝るわよー、いっしょにー」

 ネグリジェ姿のシエスタが、出迎える。
 ルイズはたれたれである。

「んじゃシエスタ、あとは頼んだ――」
「なにいってんのー? サイト。アンタも一緒にねるのよー」
「うぇ?」 「あらあら」

 サイトは今まで、クルデンホルフの触手竜騎士ルネと一緒に学院の庭に造ったバラックに住んでいた。
 ルイズの部屋には、ルイズとシエスタが暮らしている。部屋の隅に、シエスタ用の机とベッドが置かれているのがチラリと見えた。
 そういえば、恐らく、サイトが学院のルイズの部屋で寝泊まりするのは、これが初めてではなかろうか(オルレアン邸ではタバサの計らいによって同じ部屋だったが)。

「なぁに~? 不満なの~?」
「いえ、光栄でアリマス!」

 男だから仕方ないね。下僕だしね、主人の言葉には逆らえないよね。

「<夢のクリスタライザー>使って、せいしんりょくをかいふくさせなきゃいけないんだから、いっしょにいきましょーよー……、……むにゃむにゃ……」
「寝落ち……」
「さあさあ、サイトさん、早くルイズ様をベッドに寝かせてやって下さい」

 既にルイズは意識を落としてしまっていた。
 苦笑するシエスタに促されて、サイトはルイズの部屋に入る。女の子の良い匂いがする。
 いつの間にかルイズの腕には琥珀色の<夢のクリスタライザー>が抱かれていた。わずかに明滅するそれは、ルイズの精神を夢路の果てに誘っているところなのだろう。

 サイトはそっとルイズを寝台に横たえると、椅子をベッドサイドに運んで、それに腰掛ける。
 まさか同衾するわけにも行かず、そのまま椅子に座って寝るつもりなのだ。
 サイトはルイズの寝顔を覗き込み、そのあどけない表情を見て顔をほころばせる。顔にかかっていた髪の房を指で優しく払ってやると、ルイズが微かに反応してくぐもった小さな声を上げた。

 シエスタも、指を鳴らしてライトの魔道具を消すと、自分のベッドに向かう。
 ちなみにサイトに対する警戒心は皆無である。
 サイトがルイズにぞっこんなのを知っているからだ。それにあの極零の魔女を敵に回すなんて、考えたくもない。主従であるがゆえに、主人の恐ろしさは熟知しているシエスタであった。

(……あ、でも、三人で一緒に、というのはありでしょうか……? エキドナさんも合わせると、四人で……!? なんちゃって、きゃーっ)

 勝手に妄想して赤くなって布団を被る駄メイド。
 シエスタさんは耳年増である。
 マダム・バタフライシリーズは全巻揃えているし、夢の国でも、暇さえあればそういった娯楽本を熟読している。だが淑女(頭に変態と付くかも知れないが)。


◆◇◆


 上空、暗闇をかき消す閃光。
 ここはクルデンホルフ番外地。
 未だ敵影は見えず、しかし邪神的爆弾が突如顕現。

「時空歪曲反応です」
「魔力反応同定――ルイズ・フランソワーズによる虚無魔法『世界扉』」
「転移顕現――神性反応アリ」

「クトゥグァ、および、クァチル・ウタウス(withオールド・オスマン)」
「クァチル・ウタウスによる時空結界、不安定化しています」
「内部に封じられたクトゥグァの化身、解放まで、残り3分」

 シャンリットでは直ちにそれに対処。
 大深度の戦闘指揮所で、オペレーターが順次処理を行なっていく。

「遠隔結界によって再封印を実行――――失敗。――再試行――失敗。――再試行――再試行――再試行――以降継続」
「――遅延成功。クトゥグァ解放まで、残り5分。――残り6分14秒。残り7分29秒。引き続き再封印処理を継続します」
「【退散】の真言を遠隔詠唱――対象の抵抗――【クトゥグァの退散】失敗」

「原因――クトゥグァとクァチル・ウタウスとの相互干渉により発動不十分」
「原因――クトゥグァの未知の化身のため、【退散】の真言が不適合」
「原因――カオティック“N”への敵愾心の発露」

「アルビオン大陸進行遅延のために利用することを提案」
「ウード様に上申――――返答“許可”」
「対象をアルビオン直上へ転移させます」

「グレゴリオ・レプリカ20機起動。聖堂詠唱『世界扉』開始、完了まで150秒」
「再封印処理継続中」
「――……聖堂詠唱完了。『世界扉』、発動します」

「時空歪曲反応――『世界扉』の対象座標での発現を確認」
「時空歪曲反応――アルビオン進路上に『世界扉』の出口発現。転移開始します」
「アルビオンの擬神機関、出力増大を確認。転移攻撃を察知されました。敵結界強度上昇中」

 アルビオンも異常に気づいたらしい。

「クトゥグァ、クルデンホルフ領空から消滅」
「転移を確認」
「再封印処理を中断――クトゥグァ解放まで残り73秒」

 もう暫くすれば、炎の魔神が、アルビオン上空で解き放たれるはずだ。

「事後処理のため【退散】の真言の最適化を提言」
「受理。レゴソフィア氏族のうち、禁呪管理の300人を導入する。実行せよ」

 暗黒の知識を専門に扱う部署から、即座に人員投入することが決定される。
 同時に、過去の魔術改造のデータ等から、必要な時間が算出される。

「――最適化完了までおよそ76時間と予測」
「却下。48時間で完遂せよ。<黒糸・零号>のリソースの優先使用を許可する」

 瞬間、“馬鹿な!!”、“無茶振り過ぎる!”、“鬼!”、“悪魔!”、“蜘蛛野郎!”と悲鳴と罵声が上がる。
 指揮官の矮人は、部下たちのそれを黙殺。

「繰り返す。48時間で完遂せよ。それ以上は敵大陸の蒐集対象が焼滅する可能性が看過できなくなる。クトゥグァの意識がカオティック“N”に向いている間がチャンスだ」
「――諒解」 「諒解」 「諒解」

 その威圧に気圧されて、他の者は反抗を諦めた。
 まあ矮人は、全員が同程度に高度な教養と思考レベルを維持しているので、少し冷静になって考えれば、やるべきことが何なのか、直ぐに悟るのだ。

 一先ずクトゥグァ対策は一段落し、観察フェイズに移行した。
 そして外部から連絡が入る。

「――失礼、伝令です。ベアトリス嬢が、護衛と共に帰還しました」
「結構。大公家へ連絡。依頼は果たしたと伝えろ」

 取るに足らない連絡であったが、クルデンホルフ大公国の“表”の支配者である大公家の縁者を蔑ろにする訳にもいかない。
 まったくさっさと人面樹や黒糸に、肉体情報と脳髄の中身バックアップしてしまえば良いものを、などと指揮官の矮人は考える。矮人たちは、生への執着が薄いのだ。
 最悪、今の大公家が絶えたとしても、先代や先々代のクルデンホルフ家の情報は蒐集され蓄積されているので、そこから復活させることは可能である。……まあ、クルデンホルフ家のルーツであるウードが未だシャンリットに君臨しているので、本当に最悪の場合は、ウードが大公を名乗ることになるのだろう。

「引き続き監視を続行せよ。<イェール・ザレム>の射程圏内に入るまでに、敵の進行をできるだけ遅延させろ」
「諒解。遊星爆弾は第五次攻撃までが、火星-木星間の小惑星帯から発射済みです。第九宙域に設置した<ゲートの鏡>から、月面上へ転移させるため、三時間後に着弾予定です」
「結構。グレゴリオ・レプリカの調整は――」


◆◇◆


 オスマンは墜落していた。

「はて、儂は学院におった筈なんじゃがのう」
【現在地は――学院から――……200リーグ、西――の――】
「おうおう、無理するでない、<169号>」

 塵に分解された身体を再構築しながら、滅びと風化の魔神クァチル・ウタウスの使徒オスマンは、夜空を墜落する。その半ば塵と化した姿は、一陣の砂嵐のようにも見える。
 彼の半分だけ実体化した手には、焼け焦げた杖らしきものがある。彼の愛杖であるインテリジェンスメイス、学院長秘書ロングビルに擬態していた<ウード169号>である。
 とはいえ、流石の<169号>も、灼熱と何億年もの時間経過に匹敵する風化の波動で、殆ど機能を停止していた。

「地面に着いたら、直ぐに<黒糸>経由で復元してもらうから、辛抱するんじゃよー」
【あり――が――いま、す。戦闘データを、シャンリットに――還、元、しななななな、く、て――は――】
「もう暫くの辛抱じゃよー」

 データ蒐集の心臓部たる部分は、シャンリットの技術の粋を凝らして、殊更頑丈に出来ている。
 それは、灼熱も時間の試練にも耐えて、役目を果たすだろう。【生ける漆黒の炎】との戦闘データは、シャンリットでは重宝されるはずだ。
 オスマンは、ウード・ド・シャンリットの眷属らしい蒐集狂の愛杖に苦笑を返しつつ、自分が落ちてきた空のある一点を見上げる。

 煌々と輝く双月。
 双月を半ば隠すような威容を誇るアルビオン大陸。
 そして、眩く輝く地上の星。それは彼が全身全霊で封じていた――

「炎神の化身――」

 眷属たる<炎の精>を引き連れた、漆黒無貌の七角有翼ミノタウロス【生ける漆黒の炎】が、アルビオン大陸へと猛然と飛んでいく。
 まるで宿敵を見つけた狂戦士のように。
 それが世界の定めであるかのように。

 標的とされたアルビオン大陸の方も、変化が生じていた。
 双月を背景にして、大陸から立ち上がる、巨大な、四肢の捻くれた、頭が尾になったかのような姿の、名状し難いヒトガタ。
 それがまるで咆哮を上げるように、身体とその細長い頭を仰け反らせる。

 そう、名付けるならソレは――

「――月に吼えるもの……!」


=================================


ウード「フハハ! シャルル・ドルレアン!! 貴公の首は柱に吊るされるのがお似合いだっ!!」 パパパパパウワードドン
モンモンのSAN値がマッハでヤバかった。
不思議の国のルイズさんは夢のクリスタライザーを使いこなしているようです。
虚無系統はやっぱりチート。

次回、『対決! “炎神”VS“混沌”』&『謁見! 深淵のアンリエッタ』の二本立てでお送りする、かも知れません。(予告の蓋然性は保障致しません)

ユールの日おめでとうっ! (間に合わなかったけど)


初投稿 2011.12.27



[20306] 蜘蛛の巣から逃れる為に 31.蠢く者たち
Name: へびさんマン◆29ccac37 ID:a6a7b38f
Date: 2012/01/29 21:37
 アルビオンの夜空に急に現れた、輝く新星。
 眷属たる【炎の精】を何百と引き連れた、悪魔然とした羽の生えた漆黒のミノタウロスであるソレは、フォーマルハウトの影からの悪意の顕現。
 炎神クトゥグアが化身、【生ける漆黒の炎】。

 そしてそれに対峙するように立ち上がった、円錐状の頭部を持つ捻れた穢らわしい三本足の巨人。大きさは100メイル近くはあるのではなかろうか。
 アルビオンに巣食う這い寄る混沌の、その象徴として名高いその異形の巨人は、細長い頭を振り乱して、月に吼える。
 身の毛もよだつ咆哮が、異形の巨人の口から響く。【月に吼ゆるもの】とも言われる、這い寄る混沌の化身が、仇敵たる炎神に憎悪の叫びを叩きつける。

 いや、あるいはそこに込められていたる感情は、憎悪だけではないかも知れない。
 憎悪でなければ、憐れみと軽蔑であろうか。
 ニャルラトホテプにしてみれば、クトゥグアとその眷属は、ンガイの森を焼き尽くした不倶戴天の敵であるが……、それ故に、理性もない狂戦士のような不完全で未熟な態で召喚された【生ける漆黒の炎】には、憐憫と嘲笑を抱いているのではなかろうか。

 かと言って、侮って良い相手ではない。
 小細工なしにその恒星級の火力をぶつけてくる相手を侮って良いはずがない。
 相手は簡単に惑星を蒸発させられるくらいの力量を持っているのだ。

 折角の遊び場を蹂躙されては面白くない、と、そのように這い寄る混沌は考えたのではなかろうか。
 “これから面白くなるというのに”などと。
 しかも因縁の炎神クトゥグア本体ならともかく、その下賎な化身程度に蹂躙されるのは、我慢ならないだろう。

 ――もっとも、邪神にそんな人間らしい思考回路などあるはずもないのだが。


 【生ける漆黒の炎】が、周囲に展開した【炎の精】をけしかける。【月に吼ゆるもの】が、円錐状の頭部を振り乱して双月に届かんばかりの咆哮を上げる。

「オオ$%&#◆オオオオオ*¥_オオオ◇◆&@オオオッ!!」
「おアアアアアアあああああぁぁぁAAAAAaaaaAAアアアアアアアアアアアッ!!」

 大陸を熔かすような光り輝く命持つ高熱プラズマ球【炎の精】が次々と、【月に吼ゆるもの】に炸裂する。
 【月に吼ゆるもの】は苦鳴を上げて、捻れたその身をさらに捻り上げる。
 闇色の皮膚が爛れて泡立つ。
 腕が根元から燃え落ちる。
 黒く蠕動する巨体が熔け落ちる。
 
 しかし、それは致命傷にならない。なりえない。
 その程度の損傷は、瞬時に復元される。神を殺すには到底足りない。
 燃え落ちた腕がズルリと生え、皮膚が生え変わり、闇色の巨体を覆う炎が魔力の波動と共に吹き飛ばされる。

 大陸すら燃やして灰にする神の炎は、【月に吼ゆるもの】にいささかの痛痒すら齎さなかったのだ。

 空中の【生ける漆黒の炎】が、星辰の彼方から【炎の精】(だんがん)を召喚(ほきゅう)する。
 浮遊大陸に根を張る闇色の巨獣【月に吼ゆるもの】が、宙に浮かぶ炎神を叩き落とそうと、その悍ましく不気味に伸び縮みする触腕を空へと伸ばす。
 炎弾が飛び交い、魔術障壁がソレを防いでは砕け、一進一退の攻防が繰り広げられる。

 そしてそこに突如、宇宙からの横槍が入る。隕石だ。
 それはシャンリットの遊星爆弾の第一陣であり、内部に立体魔方陣を備えた呪的強化質量爆弾だ。
 直撃すれば、内部構造によって発生する呪いによってチンケな魔術障壁なら熔かして貫通し、圧倒的な運動エネルギーで対象を破壊するシロモノだ。直撃後は呪的汚染を振りまくというおまけ付きで。並の相手なら一溜まりもない。

 ――並の敵が相手なら。

 これが単純に擬神機関によって魔術障壁を張り巡らせたアルビオン大陸のみならば、ガツンと障壁を削り(……擬神機関の障壁強度的に大陸本体に直撃させるのは難しいと計算されていた)進行方向をずらすくらいの効果は見込めただろう。
 だが生憎、敵は、宇宙空間で活動するのがデフォルトの外なる邪神たちである。

「「■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■ッッ!!!」」

 邪魔すんな、とばかりに二柱の神が咆哮する。
 たかだか大きめのデブリに過ぎない遊星爆弾など、ペチッと弾いて終わりである。
 一瞬で、何の影響も与えることも出来ずに、シャンリットからの遊星爆弾(プレゼント)は消滅した。







 少し時間は遡り、炎神と混沌が接触したころ。
 地底の蜘蛛の谷の奥底、シャンリットの聖地下都市の戦闘指揮所にて。
 矮人(ゴブリンメイジ)たちは、神代の大戦闘を、爛々と好奇心に目を輝かせながら記録していた。このような宇宙的イベント(・・・・)は、そうそうあるものではないからだ。

「カオティック“N”、変容します」
「混沌の化身【赤の女王】消失。化身【月に吼ゆるもの】顕現」
「“混沌”はクトゥグアの化身――【生ける漆黒の炎】と接触」

 アルビオン大陸に巣食う混沌の化身の反応は、その強力さ故に、はるかに離れたシャンリットの土地でも容易に感知することができる。
 それで捉えた【這い寄る混沌】の化身の反応が、それまでの傾国美女【赤の女王】から、かの神性の象徴たる【月に吼ゆるもの】へと変化したことも、当然ながら把握できている。
 怨敵たる【クトゥグア】の化身相手では、【這い寄る混沌】本体が出るしかないということだろう。

「遊星爆弾、第一陣着弾します。――――なんてタイミングが悪い……」
「――着弾確認。遊星爆弾消滅。――――ですよね~……」
「“炎神”と“混沌”、戦闘を続行します」

 クァチル=ウタウスの円熟した高位神官であったオールド・オスマンですら、【生ける漆黒の炎】相手には足止め程度しか出来なかった。超兵器とも言える遊星爆弾も、全くの痛痒を与えられなかった。外つ神に、隕石程度じゃ役者不足だということだ。
 邪神には邪神をぶつけるしか無い。例えば今のアルビオンなら、“混沌”の本体が出張らなくても、大邪神イゴーロナクの神官たる護国卿クロムウェルが自爆招来して神降ろしすれば対抗できるかも知れないが、それが上手く【生ける漆黒の炎】と潰し合ってくれるかは不明である。
 下手すれば畏るべき、そして調伏すべき邪神の化身が増えるというだけの結果に終わるかも知れない。アルビオン大陸を影から差配する“混沌”は、そんな賭けに出ることはなかった。並べ終わったドミノ牌の横でブレイクダンスを踊るような真似はゴメンだ、ということだ。

「炎神【生ける漆黒の炎】、眷属【炎の精】を連続召喚。混沌【月に吼ゆるもの】へと発射します」
「“混沌”、障壁を展開――完全減衰できず。【炎の精】二十体が着弾、爆発、熔解。……あれは、【炎の精】自身を呼び水(いけにえ)にして瞬間的にフォーマルハウト星の炎を呼び込んでいるの?」
「“混沌”再生します、ダメージ無しです。同時に擬神機関(アザトース・エンジン)の出力増大と、アルビオン防護フィールド内の神気の一時的減少を確認。擬神機関からの神気を喰って再生のエネルギーにしているようですねぇ」

 オペレーターにして研究者たるゴブリンたちが、私見を交えつつ淡々としかし嬉々として戦闘の推移を記録する。
 その間、彼らは関係ない雑談をしつつもコンソールを手動と神経接続の両方で動かしていく。
 彼ら彼女らは、脳神経回路にまで密接に絡み合った<黒糸>を介して作業機械に接続し、数十から数百もの並行作業を行うことが出来るのだ。

「オールド・オスマンと共に回収した【インテリジェンスメイス・169号】から提供された【生ける漆黒の炎】のデータの解析は進んでいるか?」
「モチロン。アレのお陰で、【クトゥグアの退散・生ける漆黒の炎バージョン】も、納期の48時間後までには開発・調整できそうよ。【169号】もいいタイミングで帰還してくれたわ」
「その褒美に【169号】はウード様自らアップグレード中だそうだな。その後は相変わらずオスマンに貸し出されるようだがね。ああ、そうそうオールド・オスマンは、その功績によって今、酒池肉林の接待中だそうだ。こんな滅多に無い貴重なイベント中だというのに勿体無い」
「はは、全くだ。肉欲が満たされるより、知識欲が満たされるほうがよっぽど“美味しい”というのに。オスマンの相手をする性技特化型(娼婦型)たちは災難だな、こんな一大イベントが進行中な時に」

 違いない、とゴブリンたちが小さな体特有の甲高い声で笑いあう。
 クトゥグアの化身は、彼らの狙い通りにアルビオン大陸の進行遅延として機能している。蜘蛛の都シャンリットが準備万端整えるだけの時間を稼ぎ出してくれることだろう。
 故に戦場から遠く離れたこの地(蜘蛛の本拠地)で、彼らが余裕綽々で落ち着いているのは当然だ。

「お、戦場に動きがあります。【炎の精】が整列していきます。――これは【炎の精】を生贄と増幅器に見立てた立体魔法陣?」
「空間歪曲反応、熱反応も同時に。……これは、フォーマルハウトの核と直接接続しようとしているのか?」
「さしずめ超高熱プラズマキャノン“恒星砲・北落師門(フォーマルハウト)”とでも言うところか? ……いや、違う、歪曲反応の出口は“混沌”じゃなくて“炎神”を向いている。なるほど、『餌』にするつもりか、擬神機関のバックアップを受けた“混沌”に対抗して、“炎神”も恒星の熱量を引っ張って糧にするつもりだな。【生ける漆黒の炎】は理性のない状態との話だが、本能だけでこれだけのことをやってのけるのか、流石は神の一柱だ」

 淡々と分析するが、その間にも、【炎の精】たちが形作る一見、原子模型か恒星系図にも見える立体魔法陣は、輝きを増していく。
 それに伴い、徐々に指揮所に居るゴブリンたちの顔色が青くなっていく。
 ハルケギニア星くらい楽に蒸発させられる熱量が顕現しようとしていた。

「おいおいおいおい…………。『恒星砲・北落師門』、エネルギー増大中。標的はやはり“炎神”の模様。……『北落師門』発射されます――が、“炎神”が全て吸収。“炎神”の熱量増大します」
「顕現熱量、計測不能。観測スケールを恒星級に変更します。――このままでは少なくとも、この惑星は蒸発するかと」
「“混沌”、対抗手段として時空歪曲を発生させています。……重力異常感知、時空門をブラックホールと直結したと推定。“炎神”の熱量を全て呑み込むつもりでしょう」

 ――うわぁ、さすがに勘弁してくれ。
 全ゴブリンの気持ちが一致した瞬間であった。

「……聖地下都市シャンリット、宇宙転移シークエンスの起動を申請します」
「ウード様に上申――返答“許可”」
「宇宙転移シークエンス、起動します。第一シークエンス起動、……これで最悪でもデータを格納した中枢は逃がせます」

 とはいえ一瞬で起動できる転移シークエンスでは、データや標本、バロメッツ母樹など、本当に最低限の中枢を逃がすのが関の山だ。
 このシャンリットにおいて、種々の標本は、バロメッツ母樹から量産できるゴブリンたちよりも圧倒的に扱いが重い。
 人的資源はバロメッツと適当なエネルギーがあれば、ほんの少しで回復させられるのに比べ、唯一無二の標本や資料の類は、替えが効かない。原典(オリジン)は、命より重い。コレクター魂が炸裂しているシャンリットならではの思考回路であると言えよう。

「なら問題ないな」
「ええ、問題ありません。観察を続けましょう」
「当然だとも。熱と魔術でノイズが酷いから、交戦終了までの間、断続的に超次元調査機を交戦空域に突入させろ」

 ゴブリンたちの人生観はトチ狂っている。知的な欲望の前には、自らの命など塵芥に等しい。
 正義感を振りかざした主人公(笑)なら、“兵器として造られた”とか“使い捨ての道具にされている”とかいうことに憤りを覚えて『お前たちはそれでいいのか!? 自分の望みというものがないのか!? その境遇が悲しくはないのか!? 同類たちが死んでいくのが悲しくはないのか!?』とか言うのだろうが、そんな些事よりも知的好奇心のほうが強く、さらには肉体など<黒糸>やキメラバロメッツ母樹に蓄積された『本体』の端末にすぎないと考えているゴブリンたちにとっては、『だから何? そんなことよりもっと大切な未知がこの世には沢山あるでしょう?』などと言って、そんな問いかけなど何の感慨も痛痒も齎さないだろう。
 言うならば、兵隊アリに対して『女王アリのためでなく自らのために生きろ』とか言ってるようなもので、そんな本質と来歴を無視した異端の勇者っぽい説得など、全く意味のない独善的な問いかけに過ぎないのだ。ゴブリンたちは、自分の立ち位置に疑問など全く覚えていない。そんな事よりも、知りたいことの方がもっと沢山あるのだ。勿論、愛だの恋だの生き甲斐だのを研究する人文系研究者もまた、彼らの中には多く存在するが。

「グレゴリオ・レプリカ搭載複座式調査機、第一陣10機、投入します」
「各機のグレゴリオ・レプリカ動力機関は、虚無魔法『世界扉』を球状全面展開せよ。周囲のエネルギーを異空間へと逃がします。稼働限界15分に設定。第二陣準備完了、10分後に投入予定」
「副座のティンダロス・ハイブリッドの調査士は、超次元感覚と魔術『門の観察』並列使用せよ。――これにより『世界扉』越しに、周囲情報クリアになるさね。……まだノイズだらけで、索敵半径は小さいけども」
「それでは主座パイロットは、フォーメーションを組んで“混沌”と“炎神”に寄って下さい。戦いの模様を索敵半径に確実に収めるように」

 恒星内部すら調査する、叡智の蜘蛛の眷属。ゴブリンたちは、虚無魔法と魔術の複合によって、その手法を確立していた。
 周囲に球状に展開した時空門によって、全ての熱量を異空間へ逃し、その上で門を透過する『門の観察』を、門の裏側から行使することによって、周囲の情報を取得する反則技だ。
 ……『世界扉』を全面球状展開しているバッテリー(グレゴリオ・レプリカ)がエネルギー切れ(魔力切れ)になると即座に熱に呑み込まれて消滅するので、調査機は使い捨て前提であるが。とはいえ、副座に乗っているティンダロスの混血種ならば、運が良ければ異空間にベイルアウトして、帰還できるかも知れない。ブラックボックスも大破消滅直前に強制転移させるシステムも組み込んであるが、それよりはティンダロス・ハイブリットが帰還してレポートを上げてくれる方が幾らか確率が高いだろう。

「“炎神”熱量増大。呼応するように“混沌”が展開中の重力異常も大きくなります」
「アルビオン擬神機関出力増大。障壁が強化されます。“混沌”も周囲への影響を極小化したいようですね」
「シャンリットからも遠隔封印結界を多重展開。惑星消滅回避のために周辺地域への影響を遮断します」

 モニター上で、膨れ上がった“炎神”の超高熱が、“混沌”の超重力に囚えられる。
 アルビオンやハルケギニア星への影響は、幾重にも展開された魔術障壁と結界によって抑えられているようだ。
 その戦場へと、全面に時空歪曲バリアを展開したシャンリットの調査機が、続々と突入する。

「調査機突入を確認――情報取得再開。観察を続行します」


◆◇◆




 蜘蛛の巣から逃れる為に 31.蠢く者たち




◆◇◆


 トリスタニアは闇の中にあった。
 それは深夜ということもあったが、それだけではなく、アルビオンからの刺客によるテロ行為のためだ。人心が不安の闇に落ちているのだ。
 街を守る衛士達は神経を張り詰めているが、常識では測れない行動をするアルビオン・スチュアート朝の陰湿な工作員は、この日も何処かでトリスタニアの平穏を蝕んでいた。

 夜空の彼方で灼熱の新妖星が生まれたその日、王城の一室――王の寝室で、アンリエッタとウェールズが手を取り合って座っていた。 
 トリステインの再来した魅惑王、“深淵”のアンリエッタ。
 白の国からの亡命王太子、ウェールズ・テューダー。

 甘い――爛れて腐ったような、反吐の出る甘い空気が、トリスタニア王城全体に蔓延している。
 アンリエッタが操る『魅了』の系統魔法が、トリステインを一つに統率しているのだ。それは王城を中心に、アトラナート商会の協力の下、彼らが持つ<黒糸>のネットワークに載せられて、トリステイン全域に届けられている。
 国民すべてが彼女の『魅了』(カリスマ)に服することによって、トリステインはゲルマニアの広大な地域を併呑したにも関わらず、不気味なまでに統制が取れていた。

「ウェールズ様、ラグドリアン湖の異変が解決したそうですわ。これで漸く、結婚式を挙げることができますわね」
「そうだねアンリエッタ」

「直にルイズ・フランソワーズも報告に来るでしょう。アルビオン情勢に介入するにも、彼女の持つ類稀なる『力』を借りねばなりませんし、また彼女に『お願い』することになるでしょうね。私の“おともだち”に」
「そうだねアンリエッタ」


 ラグドリアン増水異変の解決は、水源の確保や周辺地域の安堵の他に、二人の出会いの地であるその湖で祝言を挙げるためであったのだ。
 ラグドリアン湖の対岸を治めるガリアの星慧王ジョゼフからの助言に従って、ルイズ・フランソワーズに依頼したが、それはどうやら成功だったようだ。
 ……アンリエッタの言葉に頷くウェールズの眼は、何処か虚ろだ。アンリエッタの嬉しげな様子とは対称的だ。


「楽しみですわね、ウェールズ様」
「そうだねアンリエッタ」

「ウェールズ様……」
「そうだねアンリエッタ」


「……」

「そうだねアンリエッタ」


「そうだねアンリエッタ」


「そうだねアンリエッタ」


「そうだねアンリエッタ」


「そうだねアンリエッタ」


「そうだねアンリエッタ」


「そうだねアンリエッタ」


「そうだねアンリエッタ」


「そうだねアンリエッタ」


「そうだねアンリエッタ」


「そうだねアンリエッタ」

 人外の域に達している魅了王アンリエッタの『魅了』を至近距離で受けて、正気を保てる訳もないのだ。
 壊れたオルゴールのように、ウェールズは同じ言葉を繰り返す。

「ああ、いつからかしら。あなたがそうとしか答えなくなったのは。……でもいいの」
「そうだねアンリエッタ」

「ええ。私、貴方と一緒に居られるダケで幸せだから」
「そうだねアンリエッタ」

「……ええそうよ、ウェールズ様」


 アンリエッタがウェールズに強引に口付けして、そのまま寝台に押し倒す。
 トリスタニアは未だ泥濘の微睡みの中。天空の混沌も、地底の蜘蛛も、未だ水の国を歯牙にもかけず。
 ただ女王は深淵にて時機を待つ。深淵から溢れる魔水と泥濘が、空を呑み込み、ハルケギニアに覇を唱えるその日まで。

「――そうだね……、アンリエッタ」


◆◇◆


 アルビオン首都ロンディニウムを覆う腐ったように甘ったるい空気が薄れたのを、ハヴィランド宮殿に忍び込んでいたロマリアの密偵ジュリオは感知した。
 【赤の女王】が突然消失したことによって、魅了の魔術が弱まっているのだ。
 とはいえ、この地に染み付いた魅了の魔術は、一週間やそこらでは浄化されることはないだろう。そして、一週間もしない内に、決着はつき、あの魅惑の【赤の女王】も、元通り宮廷の影の権力者の座に納まるはずである。

「だけど、これはチャンスだねー」

 ジュリオはハヴィランド宮殿をひた走る。
 ひた走る。
 ひた走る。だが――

「……つっても、今自分が何処に居るかも分からないんだけどねー――」

 何処にも辿り着けない。

「ちっ、何だよ、この宮殿! 少し隠れようと道を逸れただけだってのにっ!」

 ジュリオが走る場所は、すでに壮麗な王宮ではなくなっていた。
 いや、おそらく地理的には、王宮内部なのだろう。
 だが、まるで何か巨大な生物の体内のように、廊下を覆う壁は血管らしきものを浮かび上がらせて脈動し、足元は死体でも積み上げたかのようにぐにゃぐにゃと不安定で定まらない。

「中身まるごと異界化してやがるのかよっ! どんだけだよっ!」

 もはや大陸ごと焼却消毒するしか無いのではなかろうか。
 こんな混沌の坩堝を欲しがるとすれば、それは蒐集狂の蜘蛛共くらいのものだろう。
 正気の輩は、こんな穢れた大陸など欲しがらない。

「蜘蛛(シャンリット)じゃなきゃ、アルビオンを欲しがるのは、あとはトリステインの深淵女王くらいか? どっちも狂ってやがるが……」

 いや、この大陸に眠る、龍脈を用いた始祖の時代からの大規模魔法回路は、ロマリアの『箱舟計画』にも有用だ。
 六千年前に世界法則を歪めた大魔法――最終虚無魔法『生命』。『箱舟計画』の要は、それを異星で再現することにある。始祖の御業を繰り返すのだ。
 生命を使い、生命の為に、生命を歪め、生命を紡ぐ――惑星規模世界法則改変魔法、それが『生命』。

「まあ、良い。『生命』に使われたというアルビオンの龍脈回路は、どうせシャンリットが調べるだろう。奴らからデータを買って、入植予定の惑星で、奴らの<黒糸>の人工龍脈で再現すれば良い……。蜘蛛の手を借りるのは業腹だが、邪神の眷属の中では比較的理性的――理性的? んな訳あるか、奴らは狂ってる。まあ正気じゃないにしても知性的だからまだマシか」

 ぶつぶつと呟くジュリオ。
 そんな彼に向かって、廊下状の肉壁の一部が伸び上がる。
 触手の槍だ。

「悪趣味。その程度の攻撃でどうにかなると思うなよ」

 銃弾のような速度で伸び上がった数十の触手の槍たちは、しかしジュリオの眼球を貫く直前で動きを止める。
 止めさせられる。
 虚無の眷属の異能が一つ、神の右手“ヴィンダールヴ”によって。

「ハッ、幾ら教皇様から離れているとはいえ、何年俺がヴィンダールヴやってると思ってやがる。世界そのものからバックアップを受けている虚無の使い魔を舐めるなよ」

 異形を支配するその権能によって、退去命令を下された肉の槍たちはするすると肉壁に吸収されて縮んでいく。

「そうだ、最初からこうしていれば良かったんだ。ハヴィランド宮殿が、異形化した生命要塞だというなら、全て支配してしまえば手間が省けるってもんだ。都合良く、ヴィンダールヴと競合する能力の持ち主である【赤の女王】も出払ってることだしな」

 ざ、ざ、ざ、ざざざざざざざざざ――。
 ざわざわと肉壁が、ジュリオを起点に、鳥肌が立つようにして、泡立つように律動していく。
 ヴィンダールヴの支配能力、それが半ば以上生命が宿ったハヴィランド宮殿を支配していく。

「ぎ、ぎ、ぎぎぎぎぎっ!? ぐっ、つぁ……、きっついなぁ……。抵抗が半端じゃない……っ!」

 流石に城一個分の異形を制御下に置くのは、大変を通り越して、もはや人外の所業である。
 それも虚無の主人の加護も無しにとなれば、如何ほどの難行か。まあ、それでも完遂するのが、虚無の使い魔が伝説たる所以でもあるのだが。
 ……虚無の使い魔自体が、既に人外の代名詞であるのは気にしてはいけない。

「あー、だめだ、今はもうこれ以上は動けない……。数日かけて全体を掌握してから行動に移すか。一先ずは精神力回復のために、眠らないと、な……。と、取り敢えず、支配下に置いたハヴィランド宮殿の肉壁に、オートガードとアラームをさせて――」

 まあ、標的たる姫君(ティファニア・ステュアートとシャルロット=カミーユ・ドルレアン)は、ハヴィランド宮殿から離れることはあるまいし、二三日時間をかけても問題ないだろう。
 食料も、肉壁を蠕動させて厨房から運ばせるか、最悪肉壁を食べれば問題ないだろう。
 ……懸念は、その時までに、物理的に『このアルビオン大陸が残っているか』ということであるが――本当にまずい状況になれば、ジュリオの主人であるヴィットーリオが『世界扉』で直接回収してくれる手筈になっている。だから精神力回復のために一眠りしても、問題ないだろう。無いはずだ。

「はあ、疲れたよ。まあある意味、唯の大理石の部屋よりも、肉壁のほうが安心できるけどね……二十四時間三百六十度警戒してくれるし。……それもどうなのよって思うし、心中は複雑だけど」

 ジュリオは数年に渡る鍛錬の末、寝ている間にもヴィンダールヴのルーンの効果を維持する技術に目覚めている。
 しかし心情的には、さすがにヌチョヌチョした変な魔獣の体内じみた場所で休息を取りたくはない。
 それが、自分の支配下にあると分かっていても、だ。精神衛生上は非常に悪い。それでも多少眠れば精神力が回復するのは、さすがは歴戦の密偵というところか。四の五の言って休息場所を選ぶような余裕は、今のジュリオには、無い。

「さあ、待っていてくれよ、プリンセシーズ(Princesses)、なんてね」

 姫君を助けるために、今は眠れ、ジュリオ・チェザーレ。


◆◇◆


 一方、ほぼ同時刻。
 ロンディニウムに潜伏しているワルドの、実体持つ『偏在』の生き残りは悩んでいた。トリステインに情報を持ち帰るためにワルド(親機)は撤退したが、ジュリオの潜入を助けたワルド(偏在子機)が一人だけ生き残っていたのだ。
 アルビオン大陸の彼方に、怖気立つ新星が現れてから、このアルビオンに満ちる神々しくも禍々しい何らかの力場は、その力強さを増している。ハヴィランド宮殿を中心にして敷かれる、神力が。

「……これは――、沸々と力が湧いて――」

 それに伴って、彼――ワルド’’’(トリプルダッシュ)の精神力も満たされていく。
 本体から三度の複製を経た『偏在』、故にジャン=ジャック・ワルドの――トリプルダッシュ(第三世代)。
 まあ、第三世代とかトリプルダッシュとか言っているが、実際のところ、『偏在』たちの間には、それほどの実力差は存在しない(コピーだから当然だが)。だがコピーを重ねた末端のダッシュになるほど、本体からの変異が大きく、特化した性能を発現することがある。

 ハヴィランド宮殿にほど近い場所で身体を休めていたワルド・トリプルダッシュだが、その彼に擬神機関から溢れ出した神気が流れこんでいく。
 たまたま波長があったのか、あるいは――

「……母が、ウェンディゴ症に発症したことが影響しているのか? アルビオンの空挺部隊には、ウェンディゴで構成された一隊があるという話だし、そういう奴ら用のエネルギーパスに合致したとか――」

 ワルドの身体に受け継がれているかも知れない、北風の眷属ウェンディゴの血が、何らかの作用を及ぼしているのか。

「ふん、だがまあ、これはこれで都合が良い」

 ざわり、とワルド・トリプルダッシュの姿がぶれる。
 彼特製の、実体持つ(・・・・)『偏在』の魔法だ。
 一人が五人に分かれ――

「アルビオンの拠点は破棄するということだが、破壊工作や各所へのスパイ行為は、やってやりすぎることはない。どうせ既にこの身は死んだも同然、最後に一花――」

 『偏在』に使われた魔力と精神力が、辺りに溢れる擬神機関からの神気の波動によって即座に補填される。
 ワルド・トリプルダッシュは、無尽蔵となった魔力に任せて『偏在』を連続行使。ワルドが五の累乗で増えていく。

 ――五人が二十五人に、二十五人が百二十五人に、百二十五人が六百二十五人に、六百二十五人が三千百二十五人に、三千百二十五人が一万五千六百二十五人に、一万五千六百二十五人が七万八千百二十五人に、七万八千百二十五人が――

「だが別に、アルビオン全土を制圧してしまっても構わんのだろう?」

 ロンディニウムの路地裏全てに、民家の屋根に、そこ彼処にワルドの分身が溢れていく。
 それだけの大人数で一斉に『偏在』を行使しても、擬神機関から補填されるエネルギーは留まることを知らない。
 擬神機関は宇宙航行も可能な高出力エネルギー機関であり、しかも現在は【月に吼ゆるもの】をバックアップするために、戦闘出力に移行し、恒星級のエネルギーを生産している。たかだか人間レベルのワルドの何千万や何億にエネルギーを提供しても、その程度は誤差の範囲である。

 ワルド・トリプルダッシュは増え続ける。
 ――七万八千百二十五人が三十九万六百二十五人に、三十九万六百二十五人が百九十五万三千百二十五人に、百九十五万三千百二十五人が九百七十六万五千六百二十五人に、九百七十六万五千六百二十五人が四千八百八十二万八千百二十五人に、四千八百八十二万八千百二十五人が――

「……この程度で良かろう。撃破されて減れば、また増やせば良いしな。魔力は次々と補給されることだし」

 地を覆う約五千万のワルド。もはやギャグだ。
 それが一個の生命体のように、ゾワゾワと都市を呑み込んで蠢いている。

「さあ往くぞッ!! アルビオンよ、瞠目せよッ!!」

 誰ともなくワルド・トリプルダッシュの『偏在』全員が鬨の声を上げる。
 空気が割れんばかりに振動し、アルビオン大陸が地鳴りして揺れる。

「目標、全周ッ!! 総員でアルビオンを蹂躙する!! 制圧前進ッ!!」

 数の暴力。数こそが暴力。
 ロンディニウムを覆っていたワルド・トリプルダッシュたちが、めいめいに『フライ』を行使して、アルビオン全土に散っていく。

「全ての邪なるものを駆逐するッ!! 女王陛下に、アルビオン大陸を献上するのだ!! 清きアルビオンをヲヲヲヲッ!!」

 狂笑の狂咲。
 凄惨な笑みを浮かべて、ワルド・トリプルダッシュたちが空を流星のごとく駆けて散っていく。各地の邪悪なるモノ共――黄泉返った民や異界の奉仕種族――を駆逐するために。
 既に彼もまた、正気ではない。このアルビオンでは、如何に熟達のメイジである彼といえども、正気を保てない。何か――例えば愛国心であったり主人への忠誠であったり――を柱にして己を支えない限り。いやそれでも最早――。

「半数は空へッ! 星を受け止め、闇を堰き止めるぞッ!!」

 空の彼方で、灼熱の新星と、何より深い混沌の闇がぶつかっている。
 そこから巻き起こされる狂気は、いくら結界や障壁で抑えこまれているとはいえ、既に無視できない領域。
 大陸を守る人柱となるために、半数の数千万のワルドが宙を駆け、さらに五の累乗で数を増やしていく。

「死を恐れるな! 死を直視せよ! メメント・モリだ! 母の死に様を思い出せ、邪悪を討つのだ、邪悪から守るのだ! 我らは風、ゆえに行く手を阻むもの無しッ!!」

 風と真空の障壁を積層して展開するために。
 身を持って熱と狂気の魔力を受け止めるために。
 アルビオンを、ハルケギニアを、ひいては敬愛する“深淵”のアンリエッタ女王を守るために。

 ワルドは夜空へ飛び出した。

「狂った夜に凱歌を! 砕ける大陸に鎹(かすがい)を! 嘲笑う蜘蛛に鉄槌を! 地を這う屍体に救済を! 人喰い肉樹に終焉を! 人間嘗め腐った邪神共に、思い知らせてやるッ!!」

 この狂奔は、あるいはワルドのものではないのかも知れない。
 夢うつつの中で覚える、圧倒的な邪悪に対する、あまりに圧倒的な憎悪。憤怒、あまりに圧倒的な怒り、理不尽に対する怒り。
 それは、彼の婚約者であるルイズ・フランソワーズが(あるいは彼女の従僕であるサイトが)抱えるものと、全く同じものだった。何処かから混信したのだろうか、流れこむ神力に混ざってドリームランドからの想いが入り込んだのだろうか。ワルド・トリプルダッシュたちは咆哮する。

「人間嘗めんなッ、邪神共ッ!!」


◆◇◆


「……ハッ!? なんか髭のクローンに俺の台詞取られた気がする……!!」
「何言ってるの、サイト? 随分具体的だけど」

 ここは夢の国、ルイズ・フランソワーズの居城。
 その内、サイトに与えられた一室である。因みに寝起きだ。
 折角の名台詞がーー、などとサイトはゴロゴロとベッドから転がり落ちる。彼の左義腕からずるぅりと伸びた蛇のエキドナが、けたけたと笑う。

 サイトとルイズ、ついでにシエスタは、再びこの夢の国で時間を加速させ、長逗留することにしたのだ。クトゥグアの化身を転送した際に枯渇した精神力を回復するために。
 ルイズは『世界扉』でクトゥグアを封じていたオールド・オスマンごと転送したのだが、アレだけの神学的に『重い』存在を転移させるには、それ相応の精神力が必要だった。具体的には十数年分は精神力を溜め直さなくてはいけないくらい。
 という訳で、幻夢郷時間で十年以上は缶詰である。

「まあ、さっさとサイトとルイズが“にゃん♪にゃん♪”すればそれで即座に解決すると思うんだけど。早く一線超えちゃいなさいよー」
「あー、いや、まあ、なんつうか」
「煮え切らないわねぇ」

 驚くべきことに、サイトとルイズはまだ一線を超えていない。
 四六時中イチャイチャはするものの、何となく最後の一歩を踏み出せずに居るのだ。

「つってもよー、幻夢郷の時間も合わせたら、もう百年単位でルイズの使い魔兼騎士やってるんだぜ。いまさらそんなに関係変わんねーよ」
「ハッ、ヘタレめ。枯れてるわね~。サイトとルイズが恋仲になって、そのあと私がサイトを寝取れば、ルイズの悋気で一気に精神力回復間違い無しよ!」
「その後諸共にクオーツ単位になるまで『爆発』で分解されるんですねワカリマス」

 いやまあ実際、超鋼の義腕と化した翼蛇のエキドナの言う通りでもある。
 サイトがルイズと“にゃん♪にゃん♪”とか“レモンちゃんウフフ”とかすれば、それだけで大幅にルイズの精神力は回復するだろう。性行為は原始の本能を呼び覚まし、内に眠る無意識の大海から心的エネルギィを汲み上げる契機となるのだ。
 さらに嫉妬心によって大幅に精神力が回復するというルイズの特性(攻撃特化の虚無属性に顕著な特性である)との兼ね合いもあり、その後サイトをエキドナがエデンの蛇のように誘惑すれば、更に精神力の回復効率は上がるだろう。……その後どうなるかまでは保障が持てないが。絶対嫉妬神と化したルイズに爆殺される。150%。一度爆殺分解されて、そのあと蘇生再構築されて更にもう一度爆殺される確率が50%ということだ。

「して、エキドナさんや」
「何かしら、マイダーリン?」
「何故俺は簀巻きにされとるのかね?」

 サイトは自分の左腕から生えたエキドナの蛇身によってグルグル巻きにされていた。
 目が覚めたらこうなっていたのだ。むしろ最近は毎日目覚めると大抵こんな感じである。
 指とか腕とか足とかイチモツとかを呑み込まれて搾られていることも多し。食べちゃいたいくらい愛されてるから仕方ないね。

「それは愛ゆえによ」
「そうか……、愛か……。って、ねェよッ!! 愛なら仕方ないとか、何しても許されるとか思ってんじゃねーぞッ!!」
「だってサイトってば、美味しいんですもの~。という訳で、今日は圧迫祭りです、イタダキマス、拒否権は認められません」

 ぎちり、とサイトを取り巻くエキドナの身体が絞まる。

「か、はっ……」
「まだまだ絞めるわよ~っ!」

 息が漏れるたびに、じわり、じわり、と身体が絞めつけられる。
 息を吐いた分だけ、絞めつけられる。
 だから息を吸えない、息を吸うだけの隙間が肺に生まれない。

 苦しい。苦しい。苦しい。
 青息吐息で喘ぐ。
 しかし苦しいが、それだけでもない。

 愛撫、されている。
 絞めつける蛇の腹の鱗が、ぞわぞわと細波立って、サイトの皮膚を刺激する。
 ざわざわ、ざわざわ。さわさわ、さわさわ。

 朦朧とする。
 意識が明滅する。
 その空隙に、快感が蛇のように滑りこむ。

 拘束が緩む。

「はぁ、がっ、はぁっ、はあっ――ぅわっ!?」

 ――ねえ、もっと気持ちイイこと、しましょう?

 無くなった酸素と一緒に空気を思いっ切り吸い込み、それと同時に蛇の声が耳朶を打つ。空気と一緒に誘惑が脳に入り込む。
 次の瞬間浮遊感。サイトはまるで独楽でも回すように宙へと投げ放たれる。
 そして戯画のように広がったエキドナに脚から呑み込まれる。エキドナが生えている左腕と頭部のみを残して、サイトの身体は蛇身にズルリと包み込まれた。

「ちょっ、またテメェは俺を――」
「ううふぁい、おふぃおふぃれす(五月蠅い、お仕置きです)」

 エキドナにほぼ全身を呑み込まれてクラインの壷のような状態になったサイトは、声を上げて、ある意味日常茶飯事となってしまった仕打ちに抗議する。
 しかし、エキドナはそれを却下。
 もごもごと体内を蠕動させる。

「――ふおぉぉぉぉぉっ!?」
「ええふぉふぁ、ふぉふぉふぁええふぉんふぁ(ええのか、ここがええのんか)」
「ひっ、ゃっ、もう――」

 エキドナは咥えたモノを、全身を窄めるようにして刺激する。
 蛇とは思えないほどの熱を持った肉襞が器用に動き、サイトの肌にピリピリと電気で痺れるような甘い感触を与える。サイトの装備品は既にエキドナに消化吸収されてしまっている。エキドナの肉襞が、足の指の股から、逞しくも割れた腹筋の溝や、発達した背筋に覆われた肩甲骨の出っ張り、滑らかな鎖骨、股間のRPGの砲筒の外も勿論中の奥までも蹂躙する。
 さらに外側から与えられる刺激だけではない、エキドナが接続している左の肩口からも、淡い幻痛と偽信号が与えられる。サイトの左腕からは、まるで乙女の柔肌を、蜜壷を、たわわな乳房を愛撫するかのような、偽信号が送られてくる。勿論それだけではない、肉と神経を介したそこからは、精神そのものが、それに秘められた恋慕と愛情と食欲と執着も伝わる。

 断続的にサイトの可愛らしい悲鳴と、エキドナのくぐもった荒い吐息が反響する。

 エキドナは『もういっそこのまま消化しちゃおうかな』と考えてしまう。サイトの喘ぎで高まってきているのだ。
 徐々に溶かされるサイトの皮膚と、汗その他が混じり合った味は、あまりにも甘美で、あまりにも冒涜的で、あまりにも美味で――もはや我慢がならない。ああ、ああ、ああ、早く早く早く。
 明らかに『丸呑み性癖(Vorarephilia、ボラレフィリア)』に目覚めている。――多分サイトの方も。……全く以て業が深い。

 エキドナは『幻夢郷だし、頭と腕が残ってれば平気だよね?』と考えて、若干期待に目を潤ませ頬を上気させるサイトの肉体を貪ろうと――

「はいストップ」
「――?!」

 ――した時に、ルイズが乱入してきた。轟音と共に部屋の壁が吹き飛ぶ。
 サイトの部屋の壁を蹴りでぶち抜いてきたルイズは、いつもの有翼半魚の姿ではなく、ハルケギニア現実世界のちんまい身体である。まあ、いわゆる省エネモードということである。
 そんで腕の先だけを、竜のような鱗に覆われた鋭い爪付きに変化させて、エキドナの超鋼の鱗に覆われた身体を、腹から顎の先まで一直線に切り上げる。

「がっ……?! な゛に゛す゛ん゛の゛よ゛る゛い゛す゛ッ!?」
「五月蠅いわねエキドナ。他人(ひと)の使い魔を消化しようとしてんじゃないわよ。呼んでも来ないから何してんのかと思えば――」
「っていうか俺も一緒にスパッと紙一重で切り開かれてるんですけどっ……ぐふっ?!」

 エキドナが開きにされた腹の中身を晒しながら、二つに断たれた顎で器用に喋る。
 ルイズは部分変化させて超鋼の爪を生やした腕を振って、肉片や血やその他体液やなんかを振り払うと、一撫でしてもとの白魚のような手に戻す。
 サイトはエキドナと一緒にかっ捌かれたから溢れた内臓を抱えて蹲っている。……何処か恍惚として見えるのは気のせいだろうか? ボラレフィリア(被食嗜好)でディスモルフォフィリア(異形嗜好)の上にマゾヒスト(被虐嗜好)とか、業が深すぎるだろ、あるいはエキドナの調教の成果か。酸欠の時も感じていたようだし、アスフィクシオフィリア(窒息嗜好)にも目覚めつつあるのではなかろうか。不憫な。

「――あー、サイト、ごめん、距離を誤ったわ。エキドナ、サイトの内臓(なかみ)押し込めて治癒かけてやりなさい。私もやるから」
「アイアイサー」

 サイトの義腕から生体組織めいた触手が伸び、内臓を拾い上げて腹巻きのように傷口を塞いでいく。
 血が流れすぎたのか、サイトは意識を失っている。

「さっさとして、サイトの顔色が真っ白くなってるから。で、何度も何度も何度も言ってるけど、サイトに手ぇ出すんじゃないわよ、劣化蛇」
「ならさっさと自分のモノにしなさいよ、ア本体(あほんたい)。イデアレベルでの魂の交歓が出来るからって、肉の交わりを疎かにするのはアンバランスよ。精神の交わりは陰、肉体の交わりは陽、どっちが欠けてもいけないわ」
「……考えとくわ」
「ふん、何恥ずかしがってるんだか。変な所で奥手なんだから、目玉取り替えっこしたりは平気でする癖に……」

 サイトの傷口が塞がっていく。ルイズとエキドナが治癒を掛ける。
 エキドナの方の破損もとっくに修復されている。
 貧血で青い顔をしていたサイトの頬に赤みが戻り、意識も戻る。暫くきょろきょろと周囲を見回していたが、諦めたかのように溜息をつくと、弱々しく抗議の声を挙げた。

「……待遇の改善を要求したいです、ご主人様……」
「却下。それより自衛能力を付けたほうが早いわよ?」
「例えば?」

 少し思案げにしたが、その直後にルイズがニヤリと笑う。
 悪いことを考えついた顔だ。

「身体の中に暗器を仕込むとか。平賀才人は改造人間であるッ、みたいな感じで」
「遠慮させて下さいお願いしますこれ以上は死んでしまいます……」
「あ、そう、楽しそうなのに……。最近ソレ系の勉強もしたから試したかったんだけど。……まあいいわ。それより、ちょっと手伝ってほしいことがあるから、ついてきて頂戴」

 そう言って、ルイズは壁に開けた大穴から出ていく。
 もともと何か用事があって呼びに来たのだ。
 ――ルイズは使い魔のラインを通じて何度も呼びかけたらしいのだが、その時サイトは取り込み中で忘我状態だったので応答出来なかったのだ。

「ほらサイト、早くイカないと」
「わ、分かってるよ! ルイズ、待ってくれー! 直ぐに着替えを創るからー!」

 それにしても、用事とは何だろう? サイトは【夢創(ドリーム・クリエイション)】の魔術でタオルと服をクリスタライズしながら思考する。
 サイトも魔術関連には少しは造詣があるものの、今ではパーフェクトメイド化したシエスタや、調剤方面に多大な才能を有するモンモランシーの方が、ルイズの研究の助手としては腕が上だ。
 しかも、時間の流れが現実世界とは異なるこのドリームランドで、それほど急ぐようなことが、何かあるのだろうか。確かに時間は大切な資源であるが、今は休養する時期のはず。首をひねりながらも、服をクリスタライズし終えたサイトは体を拭いて着替えて、ルイズの後ろを歩く。


◆◇◆


 ルイズの居城の地下には、『瞑想室』とプレートが掛かった一室がある。
 龍脈からエネルギーを引っ張ってきており、さらに部屋に敷いた魔法陣や、特殊な香を焚き染めることで魔力と精神力の回復効率を向上させる事が出来る部屋だ。ルイズは大抵ここに篭っていることが多い、勿論夢の国の女王としての仕事もした上でだ。
 まあ、瞑想室とは言うものの、実際は精神回復をしつつ時間が勿体無いのでそこで研究をするための部屋――つまり『研究室』なのであるが。

「これは……?」

 部屋を覗いて、呆然と呟くサイトの眼には、不思議なものが映っていた。
 部屋いっぱいに広がる巨大な蜘蛛の巣と、それを写し取ったかのような床の幾何学的な魔法陣。
 そして、蜘蛛の巣の中央からぶら下がっている、繭に包まれた何か。……シルエット的に、中身はヒト、だろうか?

「まあ、遠いご先祖様みたいなもんよ。虚無の大先輩。――呼び寄せるのに苦労したんだからっ」
「大先輩――? …………はっ?! まさか始祖ブリミル――!?」
「んな訳あるか、周りの蜘蛛の巣を見なさいよ、蜘蛛と深い関わりのある虚無遣いなんて一人だけしか居ないでしょ?」

 蜘蛛の巣に囚われた虚無遣いとなれば、確かに一人しか居ない。
 哀れな哀れな第一次聖戦の英雄、グレゴリオ・セレヴァレ。
 生前は教会に利用され、死後に至っては身体も魂も蜘蛛の巣に囚われて利用され続けている、可哀想な男だ。

「グレゴリオ・セレヴァレの因子を用いた量産聖人『グレゴリオ・レプリカ』は、あの蜘蛛(シャンリット)共の様々な場面で利用され搾取され使い捨てられているわ」
「ああ、知ってる。いつだか、ウード・ド・シャンリットも、その胸の中にグレゴリオ・レプリカを埋め込んで『虚無会議』に殴り込んできたな」
「そう。そして、グレゴリオ・レプリカは、何度もマイナーチェンジしている。千年の間に登場した幾人もの虚無遣いたちの因子を取り込んで……」

 なるほど、とサイトは思う。
 千年も同じ人間のクローンを使い回していては、遺伝子だけでなく、それに搭載される魂も劣化するはずだ。
 だからそれを防ぐために、シャンリットは、虚無遣いが現れる度に、その因子をグレゴリオ・レプリカに取り込んでアップグレードし、劣化した因子を補ってきたのだろう。

「……ん? “虚無遣いたちの因子? じゃあひょっとして、ルイズの因子も……?」
「ええそうよ。前にシャンリットで学んでいた時に、サンプル取られちゃったから。まあ、お陰で、グレゴリオ・レプリカの欠片をこっちに引っ張ってくることが出来たんだけど」
「ああ、最近この『瞑想室』(研究室)に篭ってたのはその所為か」

 恐らくは、ドリームランドの巨大蜘蛛【レンの蜘蛛】あたりに、この部屋いっぱいの蜘蛛の巣を張らせて、準備したのだろう。
 そして“蜘蛛の巣に囚われた虚無遣い”という概念を利用して、グレゴリオ・レプリカに取り込まれたルイズの血を呼び水にして、あの繭の中身を招来したのだろう。
 蜘蛛の巣の中心で繭の中に閉じ込められた肉人形というのは、そのまま、グレゴリオ・レプリカの現状のメタファーである。雁字搦めに蜘蛛(シャンリット)に囚われた哀れな聖人、彼を覆う繭の頑強さは、そのままシャンリットの呪いの強さを反映している。

「ルイズの血肉を使った肉人形(フレッシュゴーレム)を【レンの蜘蛛】に捕らえさせて、それを巣の真ん中でぐるぐる巻きにしてぶら下げさせる。
 するとこれによって、『シャンリットに囚われた聖人兵器グレゴリオ(ルイズ・フランソワーズの因子入り)』と、『レンの蜘蛛に捕らえられた肉人形(ルイズ・フランソワーズの血入り)』との間で概念の相似関係による『見立て』が成立するって訳だな。
 似ているものは同じもの、というわけで、今目の前で繭に包まれてる肉人形を介して、類感呪術的にシャンリットのグレゴリオ・レプリカに干渉できるって寸法か」
「そういうことよ」

 だが、何のために?

「決まってるわ。あの蜘蛛共の横っ面を、最っ高のタイミングで張り飛ばすためよ!」
「なるほど。それとついでに哀れな大先輩の聖人を、解放してあげるためか?」
「その通り、私はあの可哀想な聖人を、もう休ませてあげたいのよ。それにここで解放して量産聖人のシステムをどうにかしないと、私も同じように鹵獲されて量産聖人システムに組み込まれる虞れがあるし」

 恐らく、ルイズがシャンリットにちょっかいを掛けて負ければ、その身を蜘蛛共に捕らえられ、脳髄と魂を徹底的に陵辱され解剖され分析され複製されて、一介の兵器へと堕とされることであろう。――グレゴリオ・セレヴァレと同じように。

「確かにな、負けたらルイズの身柄は押さえられるだろうな。でもその前に量産聖人の攻略法を確立すれば、ひょっとすれば、蜘蛛連中も脆弱性が見つかった『量産聖人』というシステムを破棄するかも、ってことか」
「奴らが破棄するくらいまで、上手く永続的な脅威を与えられれば良いんだけどね……」

 実際は、グレゴリオ・レプリカに脆弱性が発覚したとしても、パッチを当てられるか何かして、引き続き運用されるだろう。
 あるいはルイズからの乗っ取り攻撃が成功しても、シャンリットは対策として、量産のベースとなる素体をグレゴリオ・セレヴァレから、別の虚無遣い――ジョゼフかヴィットーリオかルイズか、あるいは他の過去登場した虚無遣いたちや虚無の予備たちのクローン――に切り替えるだけだろう。
 コンピュータウィルスと検出ソフトの果てしないイタチごっこのような。病原菌と免疫の戦いというか。まあ恐らく、果てしなくも碌でもない呪詛合戦になるのは確実だろう。

「まあ、シャンリットは結構思い切りがイイところがあるから、多分新しいもっと安全なシステムを開発したらサクッと乗り換える気が、しないでもないわ」
「確かに。しがらみのない開発狂って感じはするな。良い物はどんどん取り入れるって感じだよな、イメージ的に」

 でも、今からやるのは、別にグレゴリオ・レプリカという量産聖人のシステムを完膚なきまでに叩き潰すことではない。
 いやまあ、当然、最終的には量産聖人システムの破壊も視野に入れるのだが、先ず当面の目標は――

「先ずは、最高のタイミングでグレゴリオ・レプリカの指揮権を奪うための、バックドア(システムに侵入するための抜け道)の作成よ」
「なるほど、戦争のクライマックスで相手の戦力全てをハッキングして、造反させたり自爆させたりする訳だな」
「そうよ、相手の兵力を逆手にとってやるんだから……! 裏切りの血の池でのたうち回らせてやるんだからっ! ルイズ・フランソワーズを取るに足りない一個人と侮っていることを、後悔させてやる……!」

 ルイズは、シャンリットとアルビオンという邪神勢力同士の戦いの最中に、グレゴリオ・レプリカの制御権を奪って戦場をかき回し、両陣営を疲弊させるつもりなのだ。
 自分の手札を切らずに、相手のカードで同士討ちさせ自滅に持ち込むつもりなのだ。
 そして消耗した両陣営を、ルイズ陣営(+トリステイン陣営)で粉砕する、というのがルイズが考える基本的な戦略である。

「で、結局今からどうするんだ? これから先のハッキング作業で俺が手伝えそうなことは何もなさそうな気がするんだが」

 グレゴリオ・レプリカに対するハッキングでは、ルイズのように突出した才能持ちが一人居れば十分だ。サイトのような有象無象が幾ら居た所で無意味なのだ。
 サイトとしても、ルイズの戦略には全く異論はない。むしろそこにしか活路はないと思っている。物量に勝つには、やはり物量しか無いのだ。物量に劣るこちらが相手の駒を奪うというのは、かなり上策だと思えた。
 さて、では何故サイトはここに呼ばれたのだろうか? しかも随分と急ぎで。

「ああ、まだハッキングはしないわよ。それよりも、ここからアクセスするためのパスをもっと太くしないといけないから。
 今は未だ、そこに吊るしてる繭の中の肉人形と、グレゴリオ・レプリカとの概念的な繋がりが不安定なのよ。それを補強しないといけない。
 蜘蛛の巣によって『地』を模し、虚無遣いの因子という共通する『血』を与えたけれど、あとひとつ、ピースが足りない。『智』のピースが」

 ルイズが言うには、『地』と『血』と『智』の三つの共通概念によって、グレゴリオ・レプリカへ介入する経路(パス)を括って安定化させなくてはいけないらしい。

「『地』は蜘蛛の巣の見立て、『血』は虚無の因子、じゃあ、最後の『智』ってのは、何のことだ?」
「――真実よ」
「真実?」

 ルイズは息を吸って、万感の思いと共に吐き出す。

「そう、世界に隠された、虚無の彼方に散り散りになった真実。始祖の御業、六千年前の戦い、『四の四』、惑星規模環境改変魔法『生命』。虚無の血脈に眠る宿業」
「それが、鍵になるのか? グレゴリオ・レプリカを制するための」
「そう、『智』は力なり。この世界の真実を知ることで、共有智によって私とグレゴリオの間の――というよりは今目覚めている虚無遣い全員の間の――繋がりは強化され、その縁を手繰ってグレゴリオ・レプリカの内側に眠る魂を活性化出来る。私も、新たな階梯に進める……、真実の智には、虚無遣いを本当の意味で目覚めさせる力がある」

 ルイズは確信した様子で語る。
 何故そうまで確信出来るのか分からないが……、恐らく巫女として何らかの啓示を受けたのだろう。……ひょっとしたら、シャンリットの研究論文などの情報を元にして独自に推論したのかも知れないが。

「それで、真実の『智』は良いんだけど、結局俺は何すりゃいいんだ? っていうかルイズは何をしようってんだ?」
「――虚無魔法『記録(リコード)』を、ガンダールヴのルーンに掛けるわ。最古の虚無の使い魔ガンダールヴ、確か、その内側には、ルーンの妖精が宿っているのでしょう? それを踏み台に、六千年前の真実を暴く」
「なるほど。でもそれって、シャンリットの連中も、その真実を得るために、何度も同じ事をしたんじゃなかったか?」

 そう、虚無の真実を探るプロジェクトは、『始祖復元プロジェクト』として、シャンリットでもトライされている。未だ成果は挙がっていないが。
 サイトの疑問に、ルイズは心配ないというように首を振って答える。

「確かにシャンリットには出来なかった、でも私なら出来る、私たちなら出来る。虚無の正統後継者である私と、その従僕であるサイト、私たちが力を合わせれば、六千年の歴史の霧だって晴らせる」
「……ははっ、そうだなそうだぜその通りだ! 何たって俺たちは――」
「「無敵ッ!!」」

 ニヤリと笑い合って、拳をぶつけ合う。

「じゃあ始めるわよ! サイトはガンダールヴのルーンに神経を集中! 内面へ潜行、以前にルーンの妖精と出会った感覚を思い出して……そしてキーワードは『六千年前の真実』ッ!!」
「オーケー! バッチコーイ! 『六千年前の真実』を我らが手に!!」
「真実を我らが手に! いつシャンリットに感づかれるか分からないから急がないとならない、でも私の精神力の回復は中途……『記録』の魔法を使うチャンスは一度、これを逃せば後はない、失敗は許されないッ! 往くわよ――」

 ルイズのなけなしの精神力が、虚無の魔法へと変換される。
 ルイズとサイト、グレゴリオ・レプリカに見立てられた繭の中の肉人形――全てを呑み込むように、虚無の波動が炸裂する。

「――『記録(リコード)』ッ!!!」

 そして彼らの精神は、六千年の時を遡る――。


◆◇◆


『――――――……

“神の左手ガンダールヴ。勇猛果敢な神の盾。左に握った大剣と、右に掴んだ長槍で、導きし我を守りきる。”

“神の右手がヴィンダールヴ。心優しき神の笛。あらゆる獣を操りて、導きし我を運ぶは地海空。”

“神の頭脳はミョズニトニルン。知恵のかたまり神の本。あらゆる知識を溜め込みて、導きし我に助言を呈す。”

“そして最後にもう一人……。記すことさえはばかれる……。”

“四人の僕を従えて、我はこの地にやってきた……。”

 ……――――――』


 始祖の業績をたどる、有名な詩だ。
 しかしこの詩には、幾つかのバリエーションが存在する。
 細部の語句や、文言の順番が前後する、外典とも言うべきものが存在する。次に紹介するのは、その内の一つだ。


『――――――……

“四種の力を部下(しもべ)に与え、我はこの地にやってきた。”

“我を守りしガンダールヴ。異界より来て我を導く。勇壮可憐な魔法の妖精。”

“風に長けるはヴィンダールヴ。秀でし才にて我を守る。獣と心を通わせる、心優しき風の娘。”

“知識の蜜酒を授けるミョズニトニルン。優れし智慧にて助言を呈す。溜め込めし智慧は歩く本。”

“そして最後に叫ぶはリーヴスラシル。一族全てを殺して守る。禁忌を背負う、生命の叫び手。”

 ……――――――』


 何が正しいのか、誰も知らない。
 六千年の真実は、未だ虚無の彼方。



=================================


アンリエッタとの謁見は出来なかったです。
展開に説得力がもたせられているか、若干不安。
次回、外伝『六千年の真実』、の予定。

2012.01.29 初投稿



[20306]  外伝.11 六千年前の真実
Name: へびさんマン◆29ccac37 ID:a6a7b38f
Date: 2012/05/05 18:13
「ブリミルッ!!」

「……漸く来たか、サーシャ」

「何故だ!? 何故こんなひどい事をするんだッ!?」


 問答をする、男と女。
 男の方は、ローブを羽織り、身の丈ほどもある杖を持っている。その顔には隠し切れない隈(クマ)と濃い疲労が浮かんでいるが、表情は至って穏やかなものであった。
 女の方は、大きな片刃の長剣を構え、怒りに相貌を燃やしている。眼を引くのは異国風の民族衣装と、長く伸びた耳だ。彼女はエルフだ。とてもエルフ一人では賄い切れないほどの膨大な魔力を噴出させて、左手と胸元の刻印から光を溢れさせ、彼女は男に大剣の刃を向ける。

 男の名前は、ブリミル。ハルケギニアに移住した、系統魔法を使う種族『マギ族』の族長。
 女の名前は、サーシャ。ハルケギニアの現住種族であり、強力な精霊魔法を操るエルフである。そして彼女はブリミルの使い魔であり、マギ族がハルケギニアにやって来る際の、道標になった女性だ。
 愛を育んだはずの男女は、因果なことに、今ここで、殺意を持って対峙している。

 彼らが対峙するのは、緑の平原の真ん中、黒山羊(ブラック・ゴート)の豊穣神を祀る大神殿の南にある土地だ。
 ゆえにマギ族はここを『山羊の南の土地』――『サウスゴータ』と名付けた。
 後に始祖光臨の地と呼ばれる場所である。


「何故だッ!? 何故私に、こんなルーンを刻んだッ!? リーヴスラシルなど――」

「――――同じだよ」

「――何?」


 怪訝な顔をするサーシャ。
 ブリミルが、穏やかに語りかける。


「同じなんだ、君がこの場に来た理由とね。――君は、僕を止めに来たのだろう? エルフの『一族を救うため』に、僕を討ちに来たのだろう? 何度も愛を交わした僕を――」

「――その私に、リーヴスラシルを刻んだのは、お前だ、ブリミル。この同族殺しのルーンを私に刻んだのは、お前が先だ。裏切ったのは、お前が先だ!!」

「ああ、その通り。僕は何処まで行っても、『マギ族の族長』ブリミルでしか無いんだ。だから、『一族を救うため』であれば、愛しい君も罠にかけるし、忌まわしいルーンを刻みもする。お互い、ここに立っている理由は同じ、即ち――『一族を救うため』だ」


 ブリミルは言い訳しない。
 そんな後悔と葛藤の段階は、既に通り過ぎている。
 最早、ブリミルもサーシャも、止まれない。

 運命の歯車は、圧倒的な慣性でもって回り続ける。


 サーシャに刻まれた、二つ目のルーン――それは神の心臓・リーヴスラシル(生命を叫ぶもの)。

 他の三つの虚無の使い魔のルーンは、それぞれ『支配する』ルーンであった。

 神の左手ガンダールヴは、『武器支配』。
 神の右手ヴィンダールヴは、『他種族支配』。
 神の頭脳ミョズニトニルンは、『魔道具支配』。

 そして最後のルーン、神の心臓リーヴスラシルの権能は、最も忌むべき『同族支配』。
 サーシャに宿れば、全てのエルフを支配し、彼らの力を集約してサーシャ自らに宿らせることすら可能な、悪夢のルーン。リーヴスラシルは、能力値を委譲する魔術【完璧(PERFECTION)】の強制使用すら可能とする。
 その自動効果によって、サーシャは全てのエルフの力を合わせた一騎当千以上の超人となっている。彼女から立ち上る神の如きオーラは、全てのエルフの力を、文字通りにサーシャが背負っているが故であった。


「済まなかったね、サーシャ。でも、来てくれて嬉しいよ。最期に逢えるのが君でよかった、ぼくを殺してくれるのが君でよかった」

「~~ッ!!」

「さあ、ぼくを止めるのだろう? 早く来るが良い、その大剣を、この心の臓に突き立てろ! 同胞を救いたくば、僕を殺せ、僕のガンダールヴ(魔法の妖精)ッ!!」


 この期に及んで葛藤するサーシャ。
 だが、そんな葛藤を後押しするように、ブリミルが叫ぶ。


「迷うな! 迷えば迷うだけ、エルフが死ぬぞ!」

「や、やめろ、やめろ!! ブリミルッ――」

「止めたくば僕を殺せッ! 『ブリミルがリーヴスラシルに命ずる!! 捧げよ! 捧げよ! 捧げよ! その命を以って、世界法則を揺るがせッ!!』」


 そして、これまでの使い魔のルーンと、リーヴスラシルのルーンの最大の違いは、その発動権限が、主人の側――つまりはブリミルにあるということである。リーヴスラシルのコントロール権限は、ブリミルにある。サーシャでは、リーヴスラシルの能力発動を、止めることも何も出来ない。
 支配する対象を同族に限定することで、リーヴスラシルのルーンは、他の使い魔のルーン以上の支配性能を発揮する。宿主(サーシャ)の同族(=エルフ)の肉体や精神のみならず、魂までも自由に操作できる。
 例えば、その魂を強制的に捧げさせて、世界を覆う根幹の法則を揺るがすことすらも、可能なのだ。

 『捧げよ』というブリミルの命令に従って、リーヴスラシルのルーンは輝きを強める。
 瞬時に『同族支配』の呪われた力が、世界に満ちるエーテルを伝い効果を発揮し、幾千のエルフの魂を喰い尽くす。彼らの肉体すらも、跡形も残さずに生贄に捧げる。
 彼らを生贄にして、世界はまた一つ、あるべき姿から歪んだ。


「あ、あああああぁぁぁぁぁぁあああッ!! あああああああああああああああああッ!!」


 サーシャが絶望の叫びを上げる。
 同胞何千人もの生命が、この世界から消滅したことが、リーヴスラシルのルーンを介して、魂で理解出来たのだ。
 零れ落ちる生命たちの怨嗟と絶望が、彼女の口から迸る。

 同時に、巨大な鐘が鳴るような、世界を砕くような、魂を揺さぶる轟音が響く。
 世界が悲鳴を上げている。これは世界の悲鳴だ。歪んで砕ける世界の悲鳴なのだ。
 この世界でも随一の魔法の使い手であるエルフ――それは一番世界の法則を理解しているということでもある。つまり、世界を壊すのに、彼ら以上に上等な燃料(いけにえ)は存在しないのだ。


「さあ、エルフを守りたければ、僕を殺せ、サーシャ。君が迷えば迷うだけ、犠牲が増えるぞ。そら――『捧げよ』!!」

「うわあああああああああああ、もう、もう止めろ、止めてくれッ! ああああああああああああああああああああああッ!」


 ブリミルの言葉に従って、またリーヴスラシルのルーンが輝く。今度は数万のエルフが、跡形も残さず、この世界から消滅した。
 そして彼らを代償に、また一つ、世界は歪む。ブリミルの――マギ族の望む形に。
 消滅したエルフの分だけ、サーシャに集約されていた力が減る。ごっそりと抜け落ちる活力が、同胞の消滅をサーシャに知らせる。


「『捧げよ』、『捧げよ』、『捧げよ』――」

「ブゥゥゥゥゥリィィィィミィィィィィルゥゥゥゥゥゥゥゥッ!!!」


 愛した男の裏切りが悲しくて、同胞の消滅が悲しくて、世界の悲鳴が痛くて、そしてこの期に及んでまだ愛しい男をこの手に掛けることが辛くて、サーシャは生命も枯れんばかりの叫びを上げ、滂沱しながら、ブリミルへと突進する。その姿は正しく、リーヴスラシル(生命を叫ぶもの)そのものだ。
 ブリミルが呪言で命じる度に磨り減る同胞たちの生命と、軋みを上げる世界の悲鳴が、彼女の背中を推す。
 全エルフから吸い上げられた力が、サーシャの肉体を強化し、目にも留まらぬ速度で彼女を走らせる。


「そうだ、それでいい、さぁ、サーシャ――」

「うおおおおおおおおおおおおおおおおおお!!!」


 韋駄天のごとく駆けた彼女を防ぐことは出来ず――そしてブリミルにも防ぐ気は無かった。
 ブリミルは儚い笑みを浮かべて両腕を広げると、サーシャの突進を抱きしめるように受け止めた。


「がっ……――ああ、ありがとう、サーシャ」

「う、うぁ、うわあああああああああああ、ああぁぁぁああああああぁああッ! ブリミル、ブリミルッ! なんでだよぉ、うわああああああああああああああああッ!!」


 ブリミルの背から飛び出る大剣。
 一際大きく輝くリーヴスラシルとガンダールヴの二つのルーン。
 サーシャを抱きしめるブリミル、彼の胸で嗚咽をあげるサーシャ。

 だが、明らかに致命傷を負って、ブリミルは倒れない。
 心臓を貫かれたのに、倒れない。


「ありがとう、サーシャ。そして、また騙してしまって、済まない。――――これで、計画通りだ」

「――――ぇ?」

「終わりじゃない。終わりじゃないんだ、これが始まりなんだ」

「な、なに、を――?」


 サーシャの胸の輝きが薄れ、光がサーシャの胸から左手そして握られた大剣を伝って移動する。サーシャの胸の輝きが消え、代わりに、ブリミルの胸が輝き出す。
 彼の、半神であるブリミルの心臓が輝く。そこに現れるのは、呪われた『同族支配』のルーン――神の心臓リーヴスラシル。サーシャから、ブリミルへと、ルーンが移ったのだ。

 虚無の最終魔法、世界改変の大魔法『生命』は、今、下準備が終わったばかりだ。


「世界改変の虚無魔法『生命(リーヴ)』を使う準備は整った。
 禁忌のルーン・リーヴスラシル(生命を紡ぐもの)は、確かにぼくの胸に。
 ――さあ、始めよう、『世界の終焉と創世(ラグナロク)』を!!」


◆◇◆




 蜘蛛の巣から逃れる為に 外伝.11 六千年前の真実




◆◇◆


『――――――……

“四種の力を部下(しもべ)に与え、我はこの地にやってきた。”

“我を守りしガンダールヴ。異界より来て我を導く。勇壮可憐な魔法の妖精。”

“風に長けるはヴィンダールヴ。秀でし才にて我を守る。獣と心を通わせる、心優しき風の娘。”

“知識の蜜酒を授けるミョズニトニルン。優れし智慧にて助言を呈す。溜め込めし智慧は歩く本。”

“そして最後に叫ぶはリーヴスラシル。一族全てを殺して守る。禁忌を背負う、生命の叫び手。”

 ……――――――』


◆◇◆


 今は昔。
 故郷を追われたマギ族が、エルフの集落の外れに入植した。
 彼らマギ族の故郷イグジスタンセアに召喚されたハルケギニアのエルフ、サーシャの魂の縁を伝って、彼らはハルケギニアに世界扉を繋げたのだ。



「ブリミル、ここは良い場所じゃの」

「――ルミル婆か。ああ、あなたの助言通りにして良かったよ。ここでなら、きっと、一族は怯えずに暮らしていける。平穏に暮らしていける」

「そうだな、そうなると良いな――いや、そうせねばならぬ。……それと、お主、わしを婆と呼ぶな。呼ぶなら、役職である『蜜酒の娘(ミョズニトニルン)』で呼べ」


 簡易のキャンプで遊ぶ子供たちを見て、族長であるブリミルと、一族のご意見番であるルミルは目を細める。

 ルミルは四十を超える年齢の女性であるが、一族で一番の水魔法の使い手であり、老化など物ともせず、未だ二十台前半の容姿を保っている。ブリミルと同じくらいの身長で、白髪混じりの長髪で、ローブを纏っていて、泣きぼくろが特徴的だ。円熟した色香を放つ女性である。トリステイン女王アンリエッタが歳を取れば、この様になるのかも知れない。
 彼女はその水魔法の腕を生かして、蜂蜜酒の醸造を任されており、その役職にちなんで、『蜜酒の娘(ミョズニトニルン)』と呼ばれている。ミョズニトニルンのルミル。蜜酒は知識の象徴ともされ、彼女もまた、その象徴が意味するところに違わず博識であった。
 ルミルの額には、『魔導具支配』の権能を与えるルーンが刻まれている。ブリミルに頼んで、年の功で集めた知識をさらに生かせるような能力を、と願って、刻んでもらったのだ。もっとも、ルーンを刻みつけるまで、どのような能力が発現するかは、ブリミルにも分からないのだが。


「そうだ、お主がくれた、自動筆記・自動製本の魔導具じゃがな、なかなかに使い勝手良いぞ。お陰で筆が進むこと進むこと。羊皮紙の生成と文字の転写、綴じ込みを自動でやってくれるのはありがたいわ」

「ああ、そう言ってもらえると助かるよ。作るのに苦労したからね。……もっとも、操作が複雑になりすぎたから、『魔導具支配』が出来るルミル婆しか使えないだろうけど」

「じゃから、婆と呼ぶな」


 ルミルがブリミルの頭を小突く。


「いて。
 ……まあ、あの魔導具は、そもそもルミルのために作って贈ったんだから、別にそれで良いんだけどね」

「ワシのために、のぅ。そいつは光栄じゃ」

「まあ、僕とルミルの仲じゃないか。子供を産んでもらった相手に何かしらプレゼントするのは、不思議なことじゃないでしょ」


 ……そう、実は、ブリミルとルミルの間には、子供が居たりする。
 というか、ブリミルの筆下ろしをしたのがルミルである。
 ちなみに一発命中であった。熟練の水メイジ(女)の体内操作恐るべし。生まれた子供の血筋の鑑定も、水のエキスパートであるルミルに掛かればお茶の子さいさいだ(六千年後には失われる技術であるのだが)。

 マギ族の集落では、未だ一夫一妻制度というものは発達しておらず、性については割と奔放であるし、子供は村の皆で育てることになっていた。村全体が家族という感じである。
 彼らが元いた世界でのヴァリヤーグとの戦いで、マギ族は男の数が減っており、一夫多妻制でないと集落の規模を維持できないという事情もある。
 とはいえ、ルミルの血筋鑑定によって、あまりに血が近すぎる者同士だと、子供を作ってはいけないことになっている。


「あ、ブリ兄~! 私ちゃんとヴァリヤーグの軍団を土壁で塞き止めたんだよ~、褒めて褒めて~」

「義兄上殿、ここはイイ場所ですな。少し離れた場所にマグマ溜まりもあるようなので、掘り下げれば温泉も湧くでしょう」

「ヴィリ、ヴェー! お前たちも無事で良かった。移住前の最後の戦いでは、お前たちに殿軍を務めてもらっていたから、不安だったんだ」


 ブリミルに話しかけてきたのは、ヴィリとヴェーの双子の姉弟だ。
 ヴィリは一族で最も土の扱いに長けた女の子で、蒼い髪が特徴的な、活発そうな雰囲気を放っている。ルミルに比べると随分小柄で体の凹凸に乏しいが、健康的な美というものがある(明るいタバサという感じだろうか)。年の頃は十代後半である。ちなみに彼女とブリミルの間にも幼い子供がいる。最も優れた使い手との間に子供を成すのは、族長の義務であるからして……。
 ヴェーは炎の扱いに卓越したメイジであり、ヴィリと同じように蒼い髪を持っている(若いジョゼフという感じである)。ブリミルのことを義兄殿と慕い尊敬している。戦いでは先陣から殿まで、どんな場所でも受け持てる戦巧者だから、戦術級の虚無魔法の使い手であるブリミルを尊敬するのは当然だろう。因みに彼も幼い子供が居て、その名前をフォルサテと言う。ヴィーの教育の賜物か、フォルサテはブリミルに心酔している。むしろ神のように崇めている。……将来が心配だ。

 ヴィリは勢いつけてブリミルに抱きつくと、花咲くような笑みを浮かべた。
 そんなヴィリの蒼い髪を、ブリミルはよしよしと撫でてやる。
 氷のような色合いだが、陽だまりのような温かさがあった。


「えへへ~、ブリミル~、好き~」

「うん、私も好きだよ、ヴィリ。それに撤退の時はよく頑張ってくれたね、おかげで皆、このハルケギニアに逃げられた」

「ありがと~! その為に頑張ったんだもん。だ・か・ら、今夜は、ね? ご褒美、欲しいな~」


 その時である、上空からばさばさという羽撃き音とともに、声がかかった。


「ヴィリ、抜け駆けは困る。ヴェーも、ちゃんと見張っておいて」

「やっぱり節操がないのね、蛮人って」


 上空から竜と共に降りてくるのは、金糸のような長い髪を靡かせた小柄な少女と、異国情緒の溢れる服装をした金髪碧眼のエルフだ。


「ユル! こっちの生き物も、君の声を聞いてくれたみたいだね!」

「ただいま、ブリミル。竜たちも言うことを聞いてくれるわ、あなたがくれたルーンのお陰で」


 金髪で長髪の小柄な少女は、名前をユルと言い、その右手に輝くルーンを見せながら、竜から降りる。
 彼女は強大な力を持つ風魔法使いで、かつてはその力を制御できずに暴走させていたため、近寄るものは居らず一人ぼっちだった。
 それを哀れに思ったブリミルは、彼女に『友だちが出来るように』と願ってルーンを与えた。

 その結果、ユルの右手には、獣の言葉を解する『他種族支配』のルーンが現れた。
 一族随一の風の使い手であるユルも、強い血統を残すために、当然ながらブリミルのハーレムの一員であるし、既にブリミルとの間に子供も居る。彼女は風の属性と可憐な容姿から、風の妖精(ヴィンダールヴ)と呼ばれている。
 今ではユルも、ブリミルから魔法の力の扱いも手ほどきを受け、力が暴走することもなくなって落ち着いている。大きな力の扱いにおいて、ブリミルの右にでる者は居ないのだから、彼は教師としてうってつけであった。


「よっと……、エルフの議員には話をつけてきたわ。暫くはここに住まわせてくれるそうよ、具体的には三年。良かったわね、蛮人」

「そうか、交渉ありがとう! しかしサーシャ、蛮人という言い方はやめてくれよ、あんなに愛しあった仲じゃないか!」

「蛮人は蛮人よ、この、節操なしの破廉恥漢!」


 竜から降りたエルフの女性――サーシャがブリミルの顔面にハイキックをかます。
 いつもの光景だ。
 彼女の左手に輝く『武器支配』の能力によって強化された身体能力で、鋼鉄の脚甲が付いた編み上げブーツが炸裂する。

 だがブリミルは無傷だ。これもいつもの光景。
 目の良い者なら、ブリミルの影から一瞬なにか触手のようなものが伸びて、攻撃を防いだのが見えたかも知れないが、周囲の誰も、その触手らしきものを認識することは出来なかった。


「ちっ……」

「んふふ、貸しイチだよ、サーシャ。君も懲りないね、そんなに『オシオキ』されたいのかい?」

「!!」


 もちろん、オシオキの前には『夜の』という形容詞が付く。
 ルミル、ユル、ヴィリの三人の美女と、ブリミルの合わせて四対視線がサーシャの細い体に絡みつく。どうやら今夜は皆でサーシャを楽しむことになりそうだ。
 慌てたサーシャが、唯一助けになりそうなヴェーに視線を向けるが、ヴェーは自分の息子のフォルサテに会いに村の広場に向かったため、既にこの場を後にしていた。


「ひ、ひぅぅッ――」


 サーシャの声が、絶望と――そしてこの後の行為への期待に潤む。


◆◇◆



「アンリエッタ姫似の熟女に、タバサに似た元気っ娘、無口な不思議系少女、エルフの美人さん……絶倫だな、ブリミル某」

「まあ、後に始祖って言われるくらいだから、産めよ増やせよで頑張ったんでしょうね。英雄色を好むというし、三王家の始まりの王たちは、皆彼の子供だという話よ。……異母兄弟だとは思わなかったけど」


 実際、各王権の始まりの王たちは、同じ母から生まれた兄弟であるというのが定説で、歴史学ではどの王家が長兄だったかでよくモメる。


「……下手に同じ親から生まれた兄弟よりも、順列が無くて良いんじゃないか、逆に。見た感じ、一年くらいで全員に並列でフラグ立てしてハーレムエンドに持っていったっぽいし、子供たちも生まれた時期は同じくらいだろ」

「あぁ、そうかもね。それなら順位争いの揉め事も少なそうかも? ガリアの青髭兄弟見てると、ホントそう思うわ。兄弟姉妹の確執ってやーよね」

「ルイズのところも三姉妹じゃねーか……」


 『記録(リコード)』で時間遡行したルイズとサイトは、上空に浮きつつ自らを『幻影(イリュージョン)』で不可視化して、これまでの一連の流れを眺めていた。
 宙に浮いているのは、ルイズとサイトの二人だけではない。
 彼ら以外に、もう一つ――


「あ、あええああああ、ああ、あああえあ――――あ?」


 不恰好な、人間の出来損ないのような、胎児のまま大きくなったような、不気味な肉塊も浮遊していた。
 それをサイトは胡乱気に見つめる。
 その肉塊は、『記録(リコード)』発動前に、蜘蛛の巣から吊り下げられた繭に包まれていた肉人形(フレッシュゴーレム)だ。ルイズたちの時代で、最も始祖に近いとされる、量産聖人グレゴリオ・レプリカを霊的に模した肉人形だ。千年の間に生まれた虚無遣いの因子を継ぎ接ぎにしたという量産聖人は、確かに最も始祖ブリミルに近いのだろう――故に、この時間遡行の水先案内人には持って来いだ。


「なあルイズ、こいつ、もっとどうにかならないのか?」

「暫く待てば、曖昧状態から復帰するはずよ、この過去記憶の世界のブリミル某と同調して――」



「あ、あああ? あああ、あ、あえ、えあ、あああ――――? ――ぎ、ひ、ひひひひひ」



 何か、肉人形の様子が変わる。


「なんか受信したっぽいぞ」

「みたいね」

 ルイズとサイトは、冷静にそれを見る。
 同調が始まったのだ。
 降霊が始まったのだ。
 始祖の神降ろしが始まったのだ。


「ひ、ひひひ、ひだだり、ひだり、ひだ、だだだ、ひだりりり、り――――
 ――左。
 ――――左手の、彼女。エルフのサーシャ。
 魔法の満ちたハルケギニアから、マナの薄いエグジスタンセアに、引きずり下ろされた可憐な妖精。
 ガンダールヴ(魔法の妖精)に与えし力は、『武器支配』。
 暴虐のヴァリヤーグから、我らを守る強き盾。
 イェソドからマルクトへ堕ちし我が妖精、彼女を梯子に、我らは登る。
 そうだ我らは、マルクトからイェソドへ登る、大地のセフィラから魔法のセフィラへ。故郷を捨てて高みを目指す。
 彼女は我らの救世主にして道しるべ」

 それだけ喋ると、肉人形は沈黙する。


「ふぅん、ガンダールヴってのは、もともと初代であるサーシャ個人の渾名だったのね。それがやがて、『武器支配』の能力を持った使い魔のルーンの名前として定着して使われるようになった、と」

「マナの薄い世界――イグジスタンセアってのは、地球のことかな? マルクト(大地、王国)って言ってるが、マギ族はカバラも齧ってるのか? ルーン文字を使って、カバラのセフィロトも知ってて、魔法使いの名前がメイジって、ちゃんぽんだな」


 サイトの出身地である地球では、ルーン文字は北欧のドルイドあたりが源流だ。アルファベットの前身とも言われる。
 カバラは、ユダヤ教の宇宙観だ。十のセフィラと、それを結ぶパスによってセフィロトの樹を構築し、宇宙を解釈する。タロットカードも、このセフィロトの樹の大アルカナから来ている。小アルカナはトランプになった。
 マギ、メイジ、またはメイジャイというのは、紀元前600年あたりのメディア王国のペルシア系の神官のことを指すと言われ、彼らはゾロアスター教に似た宇宙観――真の神は遥か彼方にあり、世界創造主はその卑俗な影に過ぎない――を持っていたと言われている。メディア王国の神官層の生き残りが、ブリミルたちなのだろうか。


「マナが薄いんじゃあ、エルフでもあまり魔法は使えなかっただろうから、肉体強化も出来る『武器支配』のルーンは役に立っただろうな。敵の軍団を撹乱し、矢を叩き落とし、撤退の時間を稼ぐ一騎当千の妖精将軍ってところか」

「確かに、戦闘では役に立ったんでしょうね、このブリミルレプリカの口ぶりと、教会に伝わる伝承によると。でも、あんたの故郷にも邪神は居るから、マナが薄いってことはないんじゃ?」


 始祖ブリミルの故郷は地球なのか、それともまた地球ともハルケギニアとも別の世界なのか。


「どうだかね? 星辰が抑制的位置にあるから、地球はあんまりマナは濃くないんだぜ、ハルケギニアとは違って。それでも、どっかの星の彼方とゲート繋いで強制的に賦活して化生が呼び起こされる事件は、日常茶飯事だけど」

「それはサイトの周りだけよ、多分。あんた、運が悪いから」

「……否定出来ない」


 サイトの星回りはデフォルトでトラブル万来である。
 おそらくニャルラトホテプあたりの加護があるのではなかろうかと、彼自身は疑っている。


「でもまあ、ブリミルが地球出身ってのも不自然だよな。そんな伝承残ってないし、六千年前に、虚無を含む魔法使い一族を追放できるほどの勢力があるとは思えねぇ」

「ハルケギニアとイグジスタンセアの時間の流れが同一だとは限らないけどね」

「ああ、まあ確かになぁー。六千年前とは言わずとも、二千年前辺りだとすれば、ローマだかのレギオンに追われるってことはありえそうだ。いや、メディア王国の崩壊と共に落ち延びたのか? そんで、故郷を捨てて、六千年前のハルケギニアに集団転移……むしろそれが妥当そうな気がするぜ。――――お?」


 そのようにサイトたちが考察していると、唐突に周囲の景色が歪む。
 早回しに周囲の夜と昼が移り変わり、夜色と空色が混ざり溶けた紺色になる。
 『記録』によって映し出される景色の、その時間が移り変わるのだ。


「あ、場面が移るみたいよ」

「だな。場面が移ったら、またその肉人形も何か受信するだろ」

「……」



◆◇◆



 ブリミルたちが入植してから、およそ三年の時間が経過した。

 今は夜だ。
 天幕の一つから、光が漏れている。中で一族を運営する幹部たちが、会議を行なっている。
 マギ族は未だ、エルフ領から離れる入植地を決めきれていなかった。

 ……いや、正確には事情が異なる。

 入植地の選定は、終わっている。
 先遣部隊によって、測量や気候調査なども済んでいる。
 だが、未だエルフ領からは、出て行っていない。

 つまり、他所に入植『する』『しない』など、どうでも良くなるような、重大な問題が発生していた。


「ルミル婆、やはり一族の子供が出来ない原因は分からないか」

「ええ、全くの不明……って訳でもないのだけど、兎に角、胎に子供がとどまらないねぇ。イグジスタンセアから連れてきた家畜も全部そう、不妊になっちまってるよ」


 そう、不妊問題である。
 まるで呪いにでもかかったかのように、ハルケギニアに来てから、人間も家畜も子供が出来なくなってしまったのだ。水魔法と体内診療のエキスパートであるルミルのサポートがあって尚である。
 現地の種類との交雑も進めているが、そちらも全く成果は挙がっていない。


「この土地の水の問題というわけでは無いのだな?」

「他の入植予定地でも、全く子供は出来ないねぇ。こっち(ハルケギニア)の動物は、どの土地でも普通に殖えるし。――エルフたちもね」


 芳しくない現状確認に、皆の間から溜息が漏れる。


「その上、だ――」


 良くない報告は、未だ続く。


「――魔法の力の衰えが、著しい」

「大気に含まれるマナには事欠かぬのにな」

「若年の未熟だった者の中には、既にほとんど魔法が使えないレベルになった者も居る。年老いた者も、衰えがイグジスタンセアに居た頃より早いようだ」


 皆の顔色が悪い。
 今まで切り札であり、生活を支えてきた力が失われるというのは、マギ族にとって恐怖だ。最早力を保っているのは、幾人かの熟達者たちと、特に才気煥発な者のみである。
 かと言って、エルフ式の魔法を覚えることも出来ない。八方塞がりという有様だ。


「まるで、この世界(ハルケギニア)から、我らが拒絶されているようだ……」


 それが、彼らの偽りのない気持ちであった。
 異世界人ゆえの、世界からの拒絶ではないのか?


「だが既にイグジスタンセアに帰る道は失われている。帰ることも出来ん」

「万に一つもヴァリヤーグに追われないように、一族全ての、イグジスタンセアとの因果を断ち切ったからの」

「まあ、断ち切ったというよりは、土地との因果を生贄に捧げて不退転の覚悟を示すことで、転移魔法の成功率底上げを狙ったのじゃが」

「だが、帰れぬことに変わりはあるまい。……不退転は、覚悟の上じゃった。不妊による緩やかな絶滅や、力の減衰も、想定の範囲内じゃ。……まあ、実際に起きると、凹むがのぅ……」


 抗いようのない、呪い。
 そしてそれへの恐怖。
 力を失い、絶滅することへの、言いようのない絶望感。黒い気持ち。

 皆が氷に覆われた池の中の魚のような、あるいは、干からびつつある沼に取り残された魚のような気分になった所で、その会議の天幕に一人の男が入ってくる。


 ――――ブリミルである。



「やーやーやー、お待たせしちゃって申し訳ない。ちょっと調査に時間がかかってねー」

「ふん、遅いぞ、族長(ブリミル)。調査と言っても、どうせ殆ど弟君(ヴァルトリ)に任せておったのだろう?」

「そしてその間は、ガンダールヴの嬢ちゃんの相手をしておったのだろう? 相変わらず爛れておる」


 長老陣がブリミルを冷やかす。
 だが責められるブリミルは、まんざらではなさそうだ。
 照れとかそういう次元は超越しているし、ブリミルがハーレム野郎だというのは周知のことだし、というか半神のブリミル・ヴァルトリの血を残すために一族の実力者たちを嫁がせたのはこの幹部の爺様方だ。


「いやいや、爺さま方、これも重要な任務ですって! あれでサーシャは勘が良いから、他所で動くヴァルトリの気配に気づくかも知れない。となれば、別のことに集中させてやるのが、常套手段でしょう?」

「まあそれ自体は良い。調査結果がきちんと出れば文句ないわい。お主とガンダールヴの仲も、エルフとの交配実験という面もあるしのう。……で、やはり子供は出来んのか?」

「……出来ないね。あと、ヴァルトリに調べてもらった結果だが、そちらも良くはない」


 やはり、という諦め半分。
 ダメだったか、という失望半分。
 もう一度、場に溜息が満ちる。


「……やはり、そうか。詳しく聞こう。ヴァルトリが話すのか?」

「いや、アイツは疲れて、ぼくの影で眠っているよ。『ウボ=サスラの石盤』まで辿り着くのに、相当無理をしたらしい」

「そうか、族長(ヴリミル)にも弟君(ヴァルトリ)にも、苦労をかけるな……、済まない」


 ブリミルを労う老人たちに、彼は人好きのする笑みを浮かべて語りかける。


「何言ってるんだよ! ぼくは、いやぼくたち兄弟は、その為に創られて(・・・・)、生まれてきたんだろう? ――――マギ族のためにさ」

「あ、ああその通りだ。お前たち兄弟は、我々が秘術の限りを尽くして、降誕させたのだ。我が一族の生存と繁栄のために――」

「なら、生まれさせてくれたことに感謝こそすれ、恨みなんてしないさ。ぼくらだって、一族のみんなの役に立つのは嬉しいからね。ましてや、マギ族の、今後万年に至る発展の礎を造ろうってんだ、光栄なことだよ」


 唐突だが、ブリミル・ヴァルトリは、人造人間である!!

 来歴としては、むしろ神造人間(神を模造した人間)と言ったほうが正確であるが。
 彼ら兄弟はマギ族の期待を一身に背負う、スーパーエリートなのだ。

 気を取り直して、ブリミルが話し始める。


「ウボ=サスラの石盤……全生命の始まりさえ記したとされる、神々全ての智慧を収めた銘板。
 この世界のそれに、ぼくたちマギ族のことは書かれていなかった。当然だね、この世界と、ぼくたちの一族は来歴を異にするのだから。
 ……記述の有無が直接の原因というわけではないにせよ、マギ族がこの世界に受け入れられることは、ありえない。異物なのだから。
 不妊や衰弱は、世界そのものへの不適合のせいだね」

「やはりそうか……」

「ま、それは移住前から予想されてた点だし。ある意味想定の範囲内だね。
 で、対処法も、以前から考えていた通りだね。
 ――――世界を、書き換える」

「それしかないだろう」

「そのための魔法も、ルーンも、既に開発済み」

「確か名前は――」


 ――――虚無魔法『生命(リーヴ)』と、絶命と綴命の使い魔『リーヴスラシル』。


「『生命』と『リーヴスラシル』の準備は出来た。
 星辰が揃う時も近い。……実際には儀式場ごと浮かせて運んで、引力的に正しい位置に微調整しなくてはならないけれどね。
 それに、鍵となるリーヴスラシルも、サーシャにさっき刻んできた。……彼女を利用するのは心苦しいけどね。エルフだって、今生きてる彼らのうち半数以上が消えてなくなるだろうし」

「それでも、それでも我々は生き残りたいのだ。エルフを殺しつくしても、我らは我らの生存のために。
 大虐殺の汚名を着ようとも、一族全てを生かすためにならば、我らは他の一族を全てを殺し尽くすことも厭わない。生存競争だ。
 ……とはいえ、お前たちに押しつけてしまうのだがな」

「ミョズニトニルンのルミルも、ヴィンダールヴのユルも、ヴィリもヴェーも、ヴァルトリも、勿論ぼくだって、覚悟は決まっている。
 それに、汚名は全て、リーヴスラシルのルーンが背負うことになるさ、その為に創ったルーンだ。すべての禁忌を背負って呑み込む生贄たるルーンなのだからね」

「ああ本当に、本当に、お前たちには苦労をかける。もし、生命の贖いが足りねば、遠慮せずに我ら老いぼれの生命を磨り潰すのじゃよ?」

「勿論! ……では、ルミル婆のところの蜂蜜酒で乾杯といこうじゃないか! ――――マギ族万年の繁栄に……」

「マギ族万年の繁栄に、そして死地へ向かう我らの英雄に……」

「「乾杯!!!」」


◆◇◆


 再び上空。不可視化しているルイズとサイトと、肉人形。
 天幕の中の様子は、サイトの腕から切り離されたエキドナが、独立偵察ユニットとしてガンダールヴのルーンの支援のもと最大スペックで忍び寄ってライヴ中継している。


「悪だくみしてるわねー」

「だなー。恩を仇で返すどころじゃない話だよなー」

「この後、エルフの伝承で言う、『大災厄』が始まるのかしらね」


 マギ族は極めて利己的に、エルフの生命を磨り潰そうとしている。
 新天地で温かく……は無いが、それほど冷たくもなく……いや、『蛮人め』という侮蔑と共に接して、用地を提供してくれた(用地のみを提供してしかもきっちり法外な使用対価を取った)エルフに対して、その仕打ちはあんまり……でもないのか?
 いや根本的な問題として、知性持つ異種族同士が融和することがありえない。自分たちが生き残るために、生存競争相手を燃料にすることは、本来何ら責められるべき行為ではないのかも知れない。


「で、あっちもなんか受信し始めたっぽいぞ?」


「……み、み、あ、ああああああああああああああああああああ――――?」


 肉人形がみしみしと軋みを上げ、醜いカリカチュアのような、あるいは出来損ないの胎児のような姿から、少しずつ洗練された人間らしい姿に変わっていく。
 それは、今ルイズたちの眼下の天幕の中で、ウボ=サスラの銘板について語り、世界を変えるという大それた計画について語っている、あの男――――ブリミル某に、どこか似ていた。


「あああああ、い、あいあいいいいい、み、あああああああ――――?
 み、右手。右手の少女、額の女」

「鎌鼬の中心、天雷の投げ手、寂しく優しい風の少女。
 心優しき風の妖精、ヴィンダールヴのユル。
 力強いゆえ、誰も近づけず。
 我れは力の扱いを伝え、ルーンを与える。
 与えるは『他種族支配』の苛烈なルーン。
 しかして彼女が扱う限り、獣と心を通わせる、優しき能力(ちから)。
 風が伝える全てを聞き取り、天すら操る風の娘、我らを運ぶは地海空」

「智慧の遣い、蜜酒の守り、長く生きしゆえの年の功。
 一族まとめるご意見番にして金庫番、蜜酒を守るミョズニトニルンのルミル。
 水に長けしその才で、医術薬学、一手に引き受ける。
 揺り籠から墓場まで、一族見守る皆の母。
 我れが贈りしルーンは『魔導具支配』。
 祖先が造って遺した魔導具の、その全てを統べて保全する。
 溜め込みし智慧にて助言を呈す、一族の母として助言を呈す」

「――――あ、ああああ、あああああああ、いあああああああああああ、あいああ、あああああああ――――」


 ガンダールヴについて吟じた時と同じように、ヴィンダールヴとミョズニトニルンについて吟じると、白痴のように口から雑音を吐き出すだけに戻ってしまう。


「終わったっぽいな。今回は、ヴィンダールヴとミョズニトニルンについてか」

「ヴィンダールヴは、強力な風使い……お母さまみたいな感じかしら?」

「かもな。カリーヌさんも、天候くらい操れるし。ヒューマノイド・タイフーンだもんな」


 でも、ヴィンダールヴ・ユルは、『心優しき風の娘』と呼ばれているのだから、カリーヌみたいに勇猛果敢というわけではないのだろう、多分。


「というかむしろ、ミョズニトニルンの話のほうがビックリなんだけど。一族全てを『揺り籠から墓場まで見守る』産婆兼医者兼薬師でしょ? 何歳なのよ、一体……」

「さあ? 百歳どころか二百歳、三百歳でも不思議じゃないけどさ……」

「幾ら熟達の水使いでも、そんだけ長生きはできないと思うけど……、しかも閉経せずに。古代のメイジだからかしら? 血が薄まっていないから、昔のメイジは強力だった? ――――あ、でも姫さまなら何とかやってのけそう。あああああ、やばい、ホントに水魔法でそのくらい長生きしそう、姫さまならリアルにイメージできる!?」


 ルミル婆の顔が、ちょうどアンリエッタを白髪にして少し老けさせたみたいな感じだから、尚更そう思えてならない。
 水魔法による高度な体内操作で不老長寿となり、永劫君臨する魅了女王アンリエッタⅠ世……なにそれこわい。
 先日ルイズたちは、アンリエッタの夢の中を窃視したが、その時の有様は酷いものであった。アンリエッタ女王の精神は、既に人間の枠を超えている。ひょっとすれば、ルイズにも迫らんばかりの魂の位階に達しているようだった。シャンリットあたりの外法で改造されたか、それとも自力で高みに登ったのか。


「うわあ、あり得るわ……」

「伴侶たるウェールズ殿下への深遠なる愛と、君臨するトリステインへの無限の郷土愛が、彼女をもってして、ヒトの枠を超えさせたのだ――って感じか、姫さまパネェ」


 アンリエッタを高みに導いたのが愛ならば、ルイズ・フランソワーズを亜神のごとき高みに導いたのは、渇望と憤怒であった。
 力への渇望――なぜ自分は力(まほう)が使えないのか、魔法魔法魔法ッ、あの力が欲しい!! あれさえあれば、いやアレ(魔法)があってこそ初めて、私は私に成れるのにッ!!
 理不尽への憤怒――圧倒的な力で運命を弄ぶ人外たちへの怒り、許しては置けないというヒト種としての本能、神殺しの本能と宿業。人間嘗めるな邪神共。

 渇望と憤怒を燃料に、ルイズ・フランソワーズは人外に至り、そんな自分すら肯定して、対邪神の杖となることを決めたのだ。

 そして彼女は、誰もが覚えていない、誰も知らない、この世界の『本当のこと』にとうとう手を掛けている。
 そして、知識は力だ。認識の飛躍は、即ち魂の進化だ。世の理を解することは、世界を支配することと同義だ。
 彼女はこの時間旅行の後に、今までとは比べ用もない力を――世界を左右する力を手に入れられるに違いない。

 再び『記録』の光景が巡り移り始める――。


◆◇◆


 運命の日。
 星辰が正しい位置に至り、ブリミルはそれを――サーシャに刻んだリーヴスラシルのルーンを発動させる。
 『同族支配』の禁忌のルーン。

 同族殺し。
 大量虐殺。
 生贄の血。
 阿鼻叫喚。
 世界歪曲。
 天上階梯。

 葛藤を押し込め、彼はルーンを発動させる。

「早く、早く来るんだ、サーシャ。ぼくは君を待っている、恋焦がれて待っている、救いたくて待っている、救われたくて待っている、殺して欲しくて待っている――待っているから、早く来いよ、ぼくのガンダールヴ……」







 人気のなくなった街を、サーシャは走っていた。
 彼女が足を踏み出す度に、彼女の脚力に耐えかねて、地面が陥没しヒビが入る。
 周囲の親しい人間が倒れ伏す度に、彼女が纏う力は上がっていった。

 なにか良くないことが起ころうとしている。
 不穏、不吉、不安。
 サーシャは鳥肌が立つのを押さえられない。

 父母が倒れ、叔父叔母も倒れ、甥や姪、兄弟姉妹が倒れ、しかしサーシャのみは無事で。
 しかも、皆が倒れる度に、自分には活力が満ちるのだ。
 いくら彼女でも、この異変の原因が自分にあることは明らかだと気づく。

 身に宿る力が増す度に、胸のルーンが輝きを増すとなれば、それは尚更だ。


「ブリミルッ……!! これは、これは一体何なのか、説明してもらうわよ――!!」


 手に馴染んだ大剣を持ち、ガンダールヴにしてリーヴスラシルは、無人の街をひた走る。
 ルーンの導きに従って、主人の元へと、ヴェイパートレイルさえ出して雲を引き、最高速でひた走る。
 終わりの予感を押し殺して、彼女は走る。




 そして彼女は辿り着き、愛した男の胸に大剣を突き立てる。

 しかしそれは、決して終わりではなく、終わりの始まりでもなく、始まりの終わりでしか無かった。



◆◇◆



「ガンダールヴ、ヴィンダールヴ、ミョズニトニルンが、それぞれ初代の使い魔の容貌だとか役職に基づいたあだ名であるのに対して、リーヴスラシルは違うわ」

「まあ、それも当然だろ? リーヴスラシルとガンダールヴは、同一人物なんだからよ。同じ方式で名付けたら、リーヴスラシルもガンダールヴ(魔法の妖精)になっちまう」

「そうね。そして、リーヴスラシルが他のルーンと違うところはまだ幾つもある。その内の一つが、リーヴスラシルが、明らかに狙って創られたルーンということよ」


 虚無魔法『生命(リーヴ)』と、リーヴスラシル(生命を叫ぶもの)。
 叫びを上げることは、存在を示すこと、つまり存続し紡ぐこと。
 綴命のルーン、リーヴスラシル。

 『リーヴとリーヴスラシル』というのは、サイトの世界では、北欧神話においてラグナロクの後に生まれる人類の始祖である男女を指し示す言葉だ。
 北欧神話のノアと言い換えていいだろう。大破壊のあとに、人の世を築く『始まりの人間』だ。
 虚無魔法『生命(リーヴ)』と、神の心臓リーヴスラシルは、最初から二つ一セットで運用することを想定されているとしか思えない。


「あのルーンは、他のルーンと違い、よく設計されているわ。おそらく、ガンダールヴやヴィンダールヴ、ミョズニトニルンを試作することで得た経験を元に創った、本命のルーンなんでしょうね」

「つまり、リーヴスラシルを創るためだけに、他の三つのルーンは刻まれた?」

「そういうことだと思うわ。逆に言えば、ガンダールヴを刻んだ瞬間から、リーヴスラシルが創られることは確定していた。ブリミルの計画というよりは、あの『神の本』たるミョズニトニルン・ルミルの策略でしょうね」


 いかなる偶然からか、ハルケギニアのエルフ・サーシャが召喚された時点から、この結末は決まっていたのだろう。
 サーシャの縁をたどってハルケギニアに移住した際に、おそらく世界法則規模での障害が発生することも、考慮されていた。
 あるいは、サーシャの召喚すら、偶然ではなく、狙って成されたものなのかも知れない。マギ族に友好的になりうる異界の水先案内人を、狙って召喚したのかも知れない。


「ルミル、ね。……あの婆さんにとって、一族全てはまさに自らの子供。子供を守るためになら、母親は何でもやるって訳だ」

「そう、でしょうね」


 子を想う母、ということで、ルイズは幼き日にシャンリットに自分を取り返しに攻め寄せた『烈風』カリンの勇姿を思い起こす。
 母の愛は尊く慈悲深い。しかし、それは苛烈で残酷で、障害の一切を薙ぎ倒す。たとえそれが何であろうとも、たとえそれが誰であろうとも、たとえそれが神であろうとも。
 ミョズニトニルン・ルミルが立てたであろう計画、ハルケギニアをマギ族のために塗り潰すという神にも等しい計画は、ただただ愛ゆえに考えられ、そして愛ゆえに実行されるのだろう。


「グレートマザーって奴だな。全てを包み込む慈愛と全てを呑み込む残酷さは、表裏一体の同じものだ。これだから女は怖い」

「ブリミルがサーシャを待ち構える土地が、豊穣の黒山羊女神――大地母神の神殿の近くってのも、暗示的ねえ。グレートマザーは、大地母神と同意義なんだから」

「それにしても、なんでわざわざハルケギニアなんだろうな? 同じようなことは、マギ族が元居たイグジスタンセアでも出来るだろうに。世界をマギ族に都合が良いように塗り替える大魔法は、それこそハルケギニアじゃなく、イグジスタンセアでやるべきだろうよ」


 わざわざ故郷を離れて侵略しなくとも、とサイトは疑問に思う。


「まあ、イグジスタンセアではマナ不足で発動できないとか、星の並びが悪いとか、始原の銘板に種族の来歴が記されていてはそれ以上の改変ができないから異世界でしか発動できないとか、幾つかの条件があるんじゃないの?」

「そうだな。ああ、例えば、外敵の存在と迫害の歴史がトラウマになっていて、魔法の成功を妨げるとか、ありそうだな」


 魔法は精神の産物。
 虐げられた記憶そのものが、下克上のための魔法を阻害する。
 いわゆる『か、勝てるイメージが沸かねえ……ッ!』状態である。民族的にそんな迫害の歴史(トラウマ)がある場合、おそらく自分たちの一族を支配者にするような魔法は、まともに発動しないだろう。


「だから、異世界に――――真っ更なキャンバスに移って来る必要があったのかしらね?」

「そうなんじゃないか? そもそも、ハルケギニアのエルフを召喚したのだって、最初からハルケギニアに狙いを絞っていたから、かも知れねー」

「ああ、確かに。今も残る『サモン・サーヴァント』は、世界を超えてまでメイジの運命の使い魔を見つけられる――――ならば、それに組み込まれた探査魔法を以ってすれば、望む条件に合致する世界を、正しい星辰にある惑星を、生贄たる高等生物が満ちた土地を見つけることも、造作も無いでしょうね」


 最初からマギ族は、ハルケギニアを侵略するつもりだったのかも知れない。

 今までマギ族を迫害した天敵も居らず。
 迫害の歴史も染み付いておらず。
 星の並びが都合良く。
 マナに満ち溢れ。
 生け贄に使える、魔法に長けた生物(エルフ)にも事欠かない。

 考えれば考えるほどに、まるで誂えたような舞台である。
 なかなかあるような惑星ではない。

 だが、無限に存在する星々の中には、この様な都合のよい条件を満たす惑星も、確かに存在するだろう。
 いくら低い確率でも、無限の試行回数と可能性の前には、いつか実現されるに決まってるのだ。
 そのありえないくらい低い確率で適合するはずの条件に適合した、都合の良い世界というのが、たまたまハルケギニアだったというだけである。


「エルフの『大災厄』の原因は、『運が悪かった』ってことなんでしょうね」

「身も蓋もねえし、救いもねえな……」

「世界はそんなもんよ。でもまあ、そんな『運が悪かった』というだけで襲い掛かる理不尽に抵抗して対抗して反抗するために、私たちは力を蓄えるのだけれどね」


 世界はこんな筈じゃなかったことばっかりだ。
 とはいえ、それに甘んじるのは、人間ではない。
 人間はいつだって抗ってきた。運命を受け入れず、神に抗うのは、人間の特権だ。

 そしてそれこそが、人間を人間たらしめている最大の要素だとルイズ・フランソワーズは信じている。


「ん? あ、肉人形の方も、なんか受信したらしい」

「いぎぎぎ、ひぎぎいいしいしいじあいあめいおだじゃいえなしじふおえじゃあああああ――――」


 再び、ブリミルレプリカの肉人形が、変形を始める。
 先程よりも、より完全な人の姿へと。
 ビキビキと音を立てて変形していく。

 そして、もはやそれは、生気の宿らぬ茫洋とした瞳以外は、ブリミルと瓜二つとなった。

「――――神の心臓、リーヴスラシル。
 あらゆる禁忌を受けとめる、呪いのルーン。
 同族殺し、大量虐殺、主人殺し。
 伴侶殺しに、世界崩しと、親殺し。
 臣下も殺し、半身も殺す。
 神さえ殺し、法則を変え、最後の果てには自裁する……。

 大逆担う、罪のルーンは、リーヴスラシル。
 旧世界の生命に断末魔(さけび)を上げさせるもの。
 新世界の生命に産声(さけび)を上げさせるもの。

 全ての罪は、我れのもの。
 全ての業は、我れのもの。

 世界に罅入れ、罅広げ、隙間を我らの血で埋めて、法則捩じって、神さえも、生贄に捧げ焼き固む。

 全ての罪は、我れのもの。
 全ての業は、我れのもの。

 子孫永劫の栄のために。
 我らは今一時の悪名を。
 流された血に報いるために、永久(とわ)万年の繁栄を。

 全ての誉は、皆のもの。
 全ての栄は、皆のもの――――」



◆◇◆



 ブリミルに肩を押され、サーシャは大剣から手を離してよろよろと後退り、最後には尻餅をついてしまう。

「な、何を言っているの? ブリミル、『終わりじゃない』って――――」

「言葉の通りだよ、サーシャ。本番はこれからだ。
 エルフの生命を燃やして広げた世界の罅に、新しい法則を塗り込めないといけないんだ。
 それにしても、心臓を貫かれたら死ねると思ったんだけど、そうでもないみたいだね。自分で作っておいて何だが、『同族支配』のリーヴスラシルは、宿主の生命すら完全に支配するんだね」


 狼狽えるサーシャとは対称的に、ブリミルの顔は涼しいものだ。
 悟りきっていると言い換えても良い。
 いや、もはや諦めているのか。

 彼は道具。

 彼も道具。

 マギ族のために造られた、マギ族を救うためだけの存在。


 彼女は道具。

 彼女も道具。

 マギ族を導くためだけに呼び寄せられた、哀れな女。


「それじゃあ始めよう。破壊と創成による救世を。ヴァルトリ、皆を――」


 ブリミルのつぶやきと共に、彼の影の中から、四人の人影が現れる。
 それは全て、サーシャも見知った者だった。


「ルミル、ユル、ヴィリ、ヴェー……、お前たちも、これを知っていたの!? 何をするつもり!?」
「「……」」


 彼らは黙して答えない。
 彼らは、マギ族でも最も系統魔法に長けた四人である。

 水のルミル。
 風のユル。
 土のヴィリ。
 火のヴェー。

 そして彼女らを統べる、虚無のブリミル・ヴァルトリ。


「それじゃあ、先ずは舞台設営から始めようか」
「……」


 ブリミルは杖を振るう。


「大地よ持ち上がれ『レビテーション』」


 ――一振りは雨の起源に響かせて――

 ブリミルの一振りと共に、周辺の大地が鳴動する。
 見渡すかぎり一面の地面が揺れ、そして、徐々に持ち上がる。
 後の世でアルビオン大陸と呼ばれる岩塊である。

 数分掛けて数百メートル持ち上がったその岩塊の下には、岩塊から引き抜くようにして残された奇妙な形の巨大な円環列柱が何本もそそり立っている。
 そして円環列柱が引きぬかれた跡は、宙に浮く巨大な岩塊に、洞穴として穿たれている。

「地脈エネルギー送信用の円環列柱――列石は準備完了。魔力を満たす溶媒として、列石を水に沈める。
 水よ降れ、魔力を受ける杯となれ『ウォーター・フォール』」


 ――二振りで海の怒りを学ぶ――

 二振りめの魔法で、大地が引きぬかれた広大な窪地に、ブリミルが魔法で集めた水が満ちる。
 水は生命の源、魔力の溶媒、全てを溶かすもの。
 龍脈から沸き上がる魔力が円環列柱で増幅され、即席の海に蓄積される。それを受けて、水面が荒れ狂い、不可思議な虹色に輝きはじめる。


「さて、送信用の装置は完成したし、あとはこの岩塊を、正しい位置にまで移すだけだ。時間が無いから、ショートカットしようか。――『世界扉(ワールド・ドア)』!」
「そんな、瞬時に――!?」


 ――三度の恵みでこの世に間借りして――


 岩塊の真下に広がる即席海の輝きが薄れ、ブリミルへと魔力が流れる。
 そして発現したのは、数百キロメイル半径もある巨大な虚無の『ゲート』だ。
 それが、巨大な岩塊全てを呑み込む。

 そして瞬時に、巨大岩塊を、星辰的に、引力的に、魔術的に、最も正しい位置へと転移させられる。
 それは予想通り、六千年後のアルビオンがあった位置である。
 三年間を過ごした、間借りの大地は遂に、地海空の恵みを受けて浮き上がり、終局的な配置に固定される。


「位置は整った。
 準備は整った。
 じゃあ、始めよう。
 世界を変えよう。
 ぼくたちの望むとおりに」

「ええ、始めましょう」

「マギ族の未来の為に」

「私たちの子供たちのために」

「覚悟はできてるよ、ブリミル」


 ブリミルが腕を振り上げるのに合わせて、彼に付き従っていた四人のマギ族は瞑目し、頷く。
 水のルミル。風のウル。土のヴィリ。火のヴェー。
 全員を見渡し、ブリミルも頷きを返す。

 サーシャは、完全に腰が抜けた様子で、呆然と彼らを見ている。
 無理もない、先程ブリミルが見せた魔力のうねりは、エルフ全ての力を統べていたリーヴスラシルであった時のサーシャすら遥かに凌駕していた。

 世界に満ちる精霊に祈請する以上、エルフの魔法は、世界の枠を超えることはない。

 だが、マギ族の魔法は違う。
 個人の魂からの力を用いるそれは、平均的な出力ではエルフに劣るものの、最高峰の実力者ならば、その威力は世界の枠など超越する。
 世界(たにん)の力に頼って、何が魔法か。魔法とは、自らの魂を燃やすものなのだ。


「じゃあ送信機はできてるから、受信機を造らないとね――人工龍脈形成『アース・メイク』」


 ブリミルが足を踏み鳴らすと、そこを起点にして、岩塊に光のラインが走る。
 岩塊全体が、脈動する。大陸規模の土魔法が、巨大岩塊を魔法構造体に作り変える。
 ブリミル達がいる場所も、五芒星に――いや、旧神の印(エルダーサイン)によって囲まれる。

 サハラの龍脈を束ねる円環列柱から転送される魔力が、岩塊の人工龍脈で受け止められる。


「じゃ、いよいよ始めよう、虚無魔法『生命(リーヴ)』を。
 世界の罅を埋めよう、ぼくたちの魂で。
 『ブリミルがリーヴスラシルに命ずる――』」


 ブリミルの言葉に、サーシャが肩を震わせる。
 数万のエルフの生命を奪った(捧げさせた)強制真言。
 だが、今は、サーシャの胸に、リーヴスラシルは無い。

 リーヴスラシルが輝くのは、ブリミルの胸だ。
 そして、リーヴスラシルの権能は、『同族支配』。
 ブリミルの同族は、この世界には、僅かしか居ない。


「『ルミルの魂を捧げ、水の理とせよ』」


 ブリミルを見守るように立っていた四人のマギ族のうち、白髪の女が、光りに包まれる。
 サーシャはそれを呆然と見ている。


「ブリミル、あんたにゃ酷な役割を押し付けるねぇ。……んじゃ、先に逝ってるよ」

「ああ、ぼくも直ぐに行くよ――――母さん……」

「――――ふふっ、未だ私を母と呼んでくれるのかい。じゃあね、愛しい子……」


 ざぁ、とルミルは、光となって消える。
 慈母にして鬼母たる女は、世界に溶けた。
 そして、不安定だった世界に、多少の安定が戻る。
 世界の間隙に、系統魔法の水の理が、書き加えられたのだ。


「……おい、ブリミル、いま、なにをした?」


 サーシャが顔面蒼白で、ブリミルを問い質す。


「何をしたんだ、ブリミル? ルミルは、あの女は、何処へ行った――?」

「――何処でもない場所へ。世界の礎となりに逝ったよ、ぼくの伴侶にして母たるルミルは」

「母? 殺したのか? お前は、彼女を愛していたじゃないか?!」

「彼女はぼくの愛する母で妻だよ、正真正銘ね。神の子(ブリミル・ヴァルトリ)を孕んで産めたのは、水のエキスパートたるルミル母さんしか居なかったんだ。そして、愛する故に、生贄に捧げた。当然だろう? ぼくらの犠牲で、未来のマギ族は救われるんだから。ルミルもそれを望んでいた」


 古代――神話の時代ではよくあることではあるが、ルミルとブリミルは母子であり、かつ夫婦であった。
 人造人間たるブリミル・ヴァルトリの誕生には、細心の注意が必要であり、母体としてはルミル以上の適任が居なかった。
 そしてまた、水に長けた系統を残すために、ブリミルとルミルが交わるのも、仕方のない自然な流れであったのだ。

 そして、今、ルミルは世界に溶けて消えた。
 リーヴスラシルの『同族支配』によって、系統魔法の水を司る世界の理として捧げられた。
 エルフの生命を燃やして造られた、世界の罅に、ルミルだったものが補填される。

 歪な形のまま、世界が軋んで固められる。


「『ブリミルがリーヴスラシルに命ずる――』」

「まさか――」


 この場には、水のルミルの他には、風のユル、土のヴィリ、火のヴェー……四元を司る使い手たちが揃っていた。
 ブリミルは、世界の罅を補填し、新たな理を敷くと言った。
 ルミルが捧げられ、水の理になった。つまり――


「『ユルの魂を捧げ、風の理とせよ』」

「――さよならブリミル。……まってるから、はやくきてね?」


 風が吹く。
 金髪の心優しき娘が、風に解ける。
 儚い声が、いつまでも空洞に残響しているようだった。

 そして、また世界が軋みを上げる。

 おそらくハルケギニアの何処かでは、新しい法則に触れて、狂れて(ふれて)しまって、その形を保てないものも出るだろう。
 歪んだ生命が生まれているだろう、歪んだ法則に従って。
 実際、以後のハルケギニアで散見される、ゴブリンやオークといった邪悪な亜人たちは、この虚無魔法『生命(リーヴ)』の発動以後に、エルフや現住の人間たちから変異して生まれるのだ。


「『ブリミルがリーヴスラシルに命ずる――ヴィリの魂を捧げ、土の理とせよ』」

「ん。じゃ逝ってくるね、ブリミル! それと、ユルの力は強すぎるから、どうにか抑えるように念じてみるよー! ……じゃ、またね?」

「苦労をかけるな、ヴィリ……。ありがとう」


 パンっと、蒼い髪の元気な少女が、弾けるように消える。
 いつもその便利な土の魔法を使って皆のフォローをしていた彼女は、その世話焼きな性格の通りに、皆の役に立つ理となるだろう。

 そして、また、世界は元の姿から歪んだ。
 歪んだ法則に耐えられず、また世界中で異形が生まれるだろう。
 (ちなみに、この時の『風の余分な力を土が封じる』という概念によって、余剰の大気循環が、風石の形で大地の下に結晶することになるのだが……完全に余談である。)


「じゃあ最後は私の番ですね、義兄上殿」

「ああ――『ブリミルがリーヴスラシルに命ずる――ヴェーの魂を捧げ、火の理とせよ』」

「では義兄上殿、お待ちしております」


 ――四方を魔法の支援で囲む――

 蒼髪の美丈夫ヴェーが、劫火に包まれて消え去る。
 四元素の理の、最後の一つが、世界に組み込まれる。四方八方全てに、マギ族の系統魔法の力が満ちる。
 そして火の理は、世界の罅割れに補填された異物を焼結し、世界の復元力を妨害する。



 虚無魔法『生命(リーヴ)』とは――

 使い魔リーヴスラシルの力を以って――

 現住種族の生命を消費して、世界を揺るがし――

 マギ族の精鋭の生命で持って、新たな法則を塗り込め――

 移住先の世界環境を、マギ族が生きるのに適した形へと改変する――

 ――時空と魂を扱う虚無系統の最高峰の魔法である。


「じゃあ、仕上げと行こうか。
 このままじゃ、折角改変した世界が、元に戻ってしまう。
 アレだけの犠牲を出した大魔法だったのに、そんな事をさせる訳にはいかないよね」


 世界にも当然、慣性というか、復元力がある。
 放っておけば、如何な大魔法による改変とはいえ、数年の内に効力が失効するであろう。
 世界を変えるというのは、それほどの難事なのだ。

 世界を変えるために、数万のエルフと、数人のマギ族の犠牲では、全く足りない。
 この虚無魔法『生命(リーヴ)』の結果を維持するためには、神すら生贄に捧げねば足りるまい。
 ――逆に言えば、神を生贄に捧げれば、虚無魔法『生命』は完成する。

 そしてブリミル・ヴァルトリは、神を模して造られた、半神の人造人間である。
 故に――


「最後の最期に、ぼくらの命を捧げて、世界を留める鎹(かすがい)にしよう。――なあ、ヴァルトリ」

「■■■■■■、■■■■■■■■■――■■■■■■■■■■■■■■■■■■■(勿論だ兄さん、愛しい家族のために――この身に流れる虚無の邪神の血を捧げよう)」


 ブリミルの影から、幾本もの触手が伸び上がる。
 そして、這い上がるように、這い寄るように、悍ましい異形が影から滑り出る。


「ひっ」


 生理的嫌悪を覚えて、サーシャが後ずさる。
 サーシャは、もう全く事態の展開についていけていなかった――というか、世界の歪みの中心地に居るせいで、まともな思考が出来る状態ではないのだ。
 しかし、それでも、本能というか生物の根幹に、魂に訴えかける邪悪さを前にしては、逃げざるを得ない。

 それを見て、ブリミルは悲しそうな顔をする。
 自分の双子の兄弟である異形のヴァルトリを否定されて、兄たるブリミルは悲しく思う。

 ブリミルとヴァルトリは、ほとんど同じものだ。

 違うのは、その姿形のみ。
 ほんの数分、母であるルミルの胎からまろび出る時間がずれただけ。
 それだけの違いで、星辰は決定的にずれ、危ういバランスで形作られていたヒトと邪神ヨグ=ソトースとの合いの子のバランスは崩れてしまった。

 あるいは、ブリミルと呼ばれていたのはヴァルトリだったかも知れず、ヴァルトリはブリミルだったかも知れないのだ。
 ――結局世の中顔か。

 いや、既に世界に溶けた彼女たちは、ヴァルトリとも交わってくれた。
 虚無の兄弟に、分け隔てない愛情を注いでくれた。
 ルミル以外は、最初は驚いたが、すぐに分かってくれた。

 サーシャも、時間があればあるいは、ヴァルトリのことを愛してくれたかも知れない。

 でも、もはや事ここにいたっては、どうしようもない。
 事情を説明する時間も、理解してもらう時間も、そんな余裕はない。
 虚無魔法『生命』を行使するにあたって、絶好の星辰は、あと数分も持たない。

 早く自分と同じ血を持つ弟と、自らの命を世界に捧げ、四界に満ちた新たな魔法の法則を確定させなければならない。


「さて。
 じゃあね、サーシャ――愛してたよ。本当に、こればかりは嘘じゃなく。
 『ブリミルがリーヴスラシルに命ずる――ブリミル・ヴァルトリの魂を捧げ、虚無の理と為し、マギ族のための四界の法を確定せしめよ』」

「■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■(さらばだ、サーシャ、魔法の妖精。あなたは私を知らないが、私はあなたを知っている)
 ■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■(いつか語り合える日がくればよかったのだが、運命は既にタロットを混ぜた、賽は既に投げられた)
 ■■■■■■■■■■■■■■■(まあ、私もブリミルも、単に世界に溶けるだけゆえ、離れ離れになるわけでもないがな)
 ■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■(聖別されたこの岩塊をティファレトと見立て、中庸の柱を通り、神の位階たる遥か彼方のセフィラであるケテルへと至る)
 ■■■■■■■■(私たちは、肉体を捨てて概念に至るのだ)」


 カッ、と目を焼くような光が満ちる。
 どこかで巨大な歯車が噛み合ったかのような、腹に響くような感覚が、空間を揺るがす。
 その、世界が歪みきってしまった違和感がサーシャを襲い、彼女は思わず蹲る。

 そうして、ブリミルもヴァルトリも、完全に消滅する。
 虚空と魂を司る半神たる彼ら兄弟は、世界を覆う概念となるべく、ブリミル自らに刻まれたルーンの作用によって解けて消えた。
 その瞬間、ハルケギニアの法則改変は、完全に固定された。


「ぶ、ブリ、ミル……? おい、なあ、ブリミル、何処に行ったんだよぅ、ぶりみるぅぅぅううう……」


 サーシャが、その場にただひとつ残された大剣へと、這うようにしてにじり寄る。
 ブリミルは、もう居ない。

 彼女が、彼を殺したから。
 いや、彼は彼女に彼自身を殺させたのだが。
 そして、彼の最期は、自殺であった。

 しかし、彼女は、それを止められなかった。
 確かに彼女は、彼を討つしか無かった。
 でも、だけど、しかし、根が純粋で善良な彼女は、もっと別な方法があったのでは? と、そう考えてしまう。


「ブリミル、ブリミル、ブリミル――。独りにしないでよぉ、私が悪かったからぁ――」


 実は、サーシャのブリミルへの依存度合いは相当酷い。
 異世界に召喚されて頼れる人間がブリミルだけで、使い魔のルーンによる恋慕増進があるので仕方が無いといえば仕方ないのだが。
 大剣を抱きかかえて、彼女はわんわんと泣き叫ぶ。

 彼女とて、ブリミルを殺したくなんて無かったのだ。
 だが、そうするしかなくなっていた。

 運命によって出会った彼と彼女の結末は、最初から運命付けられていた。


「ああああああああ、ああああああああああああああああああ――――!!!」


 長く長く、永訣の慟哭が響き続けた。


=================================


ブリミル・ル・ルミル・ユル・ヴィリ・ヴェー・ヴァルトリ。
ブリミル一人の名前ではなく、何人もの生贄の名前を吸収したという想像です。
連ねる名が増えたのは、虚無魔法『生命』に関わった全員の名前を後世に留めるため、ということで。


では、次回もお付き合い下さいまし。

2012.02.17 初投稿
2012.03.24 誤字修正
2012.05.05 誤字修正



[20306] 蜘蛛の巣から逃れる為に 32.開戦前夜
Name: へびさんマン◆29ccac37 ID:a6a7b38f
Date: 2012/03/25 11:57
「最後の使い魔リーヴスラシルの能力は『同族支配』、か。なるほど、今までシャンリットでも能力不明とされるわけだわ」
「どういうことだ、ルイズ?」

 ルイズは納得しているが、サイトはいまいち分からないようだ。

「……今のハルケギニアでリーヴスラシルが刻まれているのは、あの一代一種の半機械半生物の化物――千年教師長ウード・ド・シャンリットなのよ」
「ああ! なるほど、確かにそうだ、それじゃあリーヴスラシルの能力なんか分かるはずがねぇな」
「そう、あの人外の蜘蛛には、同種といえるものは存在しないわ。支配能力があっても支配対象が居なければ、そんなのは宝の持ち腐れ」

 ここは六千年前からの時間旅行の帰り道。
 言い伝えの針、進めて戻して。
 時逆・時順。サイトとルイズは、虚無の『記録』によって得た知識を整理しながら、元の幻夢郷(ドリームランド)の地下瞑想室へと戻るところだ。

「でも一方で、千年教師長がリーヴスラシルを発現させたのも、納得できるわ」
「六千年前にリーヴスラシルの苗床としてエルフを選んだのは、エルフが当時のハルケギニアで最も世界の理に詳しかったから、だったな」
「そして今のハルケギニアで、最も世界の真理に近く、力を持った存在は、まあ間違いなくあの蜘蛛野郎って訳。……癪だけど」

 ウード・ド・シャンリット一人で、六千年前のエルフ数万人に匹敵すると、使い魔のルーンを刻む“虚無の理”からは見做されているのだ。
 しかもウードが精通して熟知している世界は、ハルケギニアだけではない。宇宙の他の惑星や、幻夢郷にも影響力を持っている。
 もし虚無魔法『生命(リーヴ)』を発現させようと思ったら、確かに今現在、ウード以上の生贄は居ないのだろう。世界を跨いで存在する巨大な一個体、それがウードだ。

「まあ、あの蜘蛛野郎がリーヴスラシルであっても、アイツ本人には全く意味はないわね」
「同族が居ないから、能力値収奪による自己強化は出来ない。まあ、無茶なバランスで存在している肉体(ハード)に、魂(ソフト)を繋ぎ留めるくらいの作用は有りそうだけどな。リーヴスラシルの同族支配の効能は、リーヴスラシル自身にも及ぶから」
「でもその程度なら全く脅威にはならないわ。それにルーンの制御権を持ってるグレゴリオ・レプリカは、アイツの支配下にあるから、そもそもルーンが発動する事自体がないだろうし」

 虚無魔法『生命(リーヴ)』と神の心臓リーヴスラシル。
 リーヴスラシルがシャンリットにある限り、死にスキルも良いところだ。真価を発揮することはないだろう。
 だがそれを望まない者たちも居る。

「ロマリアの計画も大体見えてきたわね。『箱舟計画』――六千年前のことを繰り返すつもりなのね、別の惑星で」
「大脱出(エクソダス)と侵略、か。まあ実際間違っちゃ無いよな。宇宙的な邪神との戦いの果てに、ハルケギニアが最後まで残ってるかは、分からねえんだから」
「保険としては妥当よね。少数の選ばれし民を連れて別世界に脱出し、そこの現住種族をリーヴスラシルにして生贄にする。その後、虚無の候補だとかの力が強いハルケギニア人を捧げて、世界法則を自分たちに都合が良いように改変し、理を確定させるってわけね」

 ロマリアが進める『箱舟計画』。六千年前の始祖の偉業の焼き直しだ。
 その実現のために、教皇ヴィットーリオたちは闇の中で蠕動している。
 各地の密偵たちは、力が強い者のスカウトに余念がないし、その一環としてジュリオはアルビオンに潜入してティファニアとシャルロット=カミーユの二人の虚無候補を狙っている。

「ハルケギニアは、ブリミル――いえマギ族が作り上げた巨大な箱庭ってわけね。まあ、庭を大体作り上げた時点でブリミルの命数は尽きたわけだけど」

 マギ族という庭師たち。そしてそれを統べる王ブリミル。
 一振りは雨の起源に響かせて、二振りで海の怒りを学ぶ。三度の恵みでこの世に間借りして、四方を魔法の支援で囲む。
 庭師の王(KING)。世界という庭の全て隅々に彼の恵みが行き渡るように、彼は命を捧げた。そして彼の子供たちであるマギ族は地に満ちた。





 そんな事を話しているうちに、二人の意識は幻夢郷の地下瞑想室へと帰還する。
 目の前には蜘蛛の巣と、それからぶら下がる蓑虫。
 その蓑虫に向けてルイズが語りかける。

「さて! ようやく記憶と魂と肉体の全てが齟齬なく繋がった(・・・・)みたいね、ブリミル・レプリカ」

「……ふむ、世界法則として解けた私を受肉させるとは、優秀な子孫のようだ。先祖として鼻が高い。――して、君の名は?」

「ああこれは失礼、ご先祖様。私はルイズ・フランソワーズ。今代の虚無遣いよ」


 六千年前の時間旅行から、幻夢郷(ドリームランド)の持ち城地下の瞑想室(研究室)に舞い戻ったルイズとサイト(+翼蛇エキドナ)。
 彼女らの前には、蚕か蓑虫のように繭に包まれた肉人形がブラブラとぶら下がっている。その肉人形の中には、六千年の時間旅行の果てに神降ろしされたブリミル・ヴァルトリの魂が入り込んだはずだ。
 部屋いっぱいに広がった巨大な蜘蛛の巣は、シャンリットの寓意であり、その中心にぶら下がるルイズの血肉を使った肉人形は、哀れな量産聖人グレゴリオ・レプリカの見立てであり、それを呼び水に『始祖降ろし』をしたのだ。

「ふぅん、ルイズ・フランソワーズか。で、何の用だというのだ?
 何か望みがあるのか? 世界を覆う概念に願えば、大抵の願いは叶うぞ?
 富か、力か、智慧か……あるいはもっと大層なものか……」

 ルイズの眼の前で蓑虫のように揺れるのは、世界の欠片であり、旧支配者にも匹敵しかねない存在だ。
 それに願えば、大体のことは実現するだろう。本来ならば、人生を賭けて召喚するような高位存在。それが目の前のブリミル・レプリカ。
 物理的な圧力を伴うようなブリミル・レプリカの視線に負けじと、ルイズは睨み返す。


「全てよ!」


「全て?」

「そう、全て! 全部! 何もかも! あらゆる物を! 如何なるものも! 全て全て全て、アンタの持つ全てを――私に寄越しなさい!!」


 調伏する。欲しいものは自力で手に入れる。
 それがルイズ・フランソワーズの在り方。
 退かぬ媚びぬ省みぬ。覇王女帝のような生き方を目指して、邁進する。

 幾らかの対神戦闘経験と、自己研鑽によって、彼女はそのための実力と自信をつけつつあった。

「全て!! それはまた豪気なことだ! して何を対価にするつもりかね?」
「私の全てを賭けるわ。オール・オア・ナッシング、それでこそよ。自分の全てをBETして、アンタの全てを勝ち取ってやる!」
「ほほう、成る程、虚勢ではなさそうだ。私を降霊出来たのも頷ける」

 ブリミル・レプリカは目を細めて、迸るルイズの魔力を眺める。
 未だ全快にまで回復しておらずとも、幻夢郷に巨大な王国を築いて維持できる彼女は、神の階梯に片足を掛けている。
 虚無遣いという半神の系譜も相まって、確かに大言壮語するだけの裏付けはあるようだ。

 才能が結晶したような彼女は夢を現実のものにするべく努力を怠らなかった。
 努力した天才魔術師、ルイズ・フランソワーズ。
 彼女は遂に世界の根源の理に手を掛けた。

「ならば、我が身の全てを喰い滅ぼして噛み砕き呑み込むのに相応しいかどうか――――証明してみせよ!!」

 召喚獣を調伏するのに一番手っ取り早いのは、ガチンコの戦闘だ。
 実力を示し、認めさせるのだ。主人として相応しいことを。
 そして力及ばなければ――――逆に食い滅ぼされる。人を呪わば穴二つ、魔術に関わるものは常にそれを心に留めよ。


◆◇◆


 サイトです。
 最近特殊性癖に開眼しつつあります。
 真人間には戻れそうにありません。

 サイトです。
 時間旅行してきました。ハルケギニア世界の衝撃の事実が詳らかにされました。
 なんか、ドラクエのセーブデータをFFで動かすために無理矢理ゲームシステムを改変した、という例えがしっくり来ます。

 サイトです。
 帰って来たら、目の前にカミサマが降りてきてました。
 いや、ミュージシャンとかドラッグトリップ的な比喩でなく。

 サイトです。
 いつの間にか、カミサマと戦う流れです。
 相変わらず無茶苦茶なご主人様です(そんなところが好きなんですが)。

 サイトです……、ちょっと逝ってきます……!


◆◇◆


「来い! 力を見せよ! 今代の虚無の担い手よ! 全てを望むに相応しいか、示すがいい!」

 ブリミル・レプリカを包む繭が、内側から膨張する。
 圧力に耐えかねて、鋼にも匹敵する強度を持った繭の蜘蛛糸が千切れて舞う。
 そして現れたのは――――触手を生やした異形。それはブリミルと言うよりも……。

「ふふん、絶対にモノにしてやるんだから! 這いつくばれ、虚無の理の化身! ブリミル――――
 ――――いいえ、『ヴァルトリ・レプリカ』!!」

「ははは、気づいたか! 如何にも私はヴァルトリの化身! 私は兄たるブリミルほど甘くはないぞ!」


 触手だらけの巨人となった姿は、ブリミルではなく――その双子の弟であるヴァルトリ。
 中途半端に崩れた猫背の巨人。その至る所から肉色の触手が生えている。そして何より、立ち昇る魔力が凄まじい。
 顔だけは、ブリミルに生き写しのままだが。

「やはり、降りてきたのはヴァルトリの方って訳ね。――さてじゃあブリミルは、一体どこに行ったのかしらね? さっさと叩きのめしてその辺全部洗いざらいキリキリ吐いて貰わないとね!」
「召喚獣の調伏イベント……定番っちゃー定番か」
【ア本体め! こうなるって分かってたんなら、事前に言っときなさいよね!】

 サイトが前衛、ルイズが後衛。いつもの配置。
 サイトの左腕のエキドナが変化し、ざわざわと超鋼の鱗が全身を覆う。超鋼の義腕。それはあたかも銀椀の旧神ノーデンスの鏡写しのようで。
 ルイズの背から朱鷺色の翼が生え、下半身は人魚のように、そして腕は鋭い爪が伸びて恐竜のようになる。全盛期には回復していないが、夢の国の異形の女王が全力を振るう。

「私は虚無の理・ヴァルトリ! ここは私が解けた世界(ハルケギニア)ではないが、それで私の魂の力が衰えるわけでは無し。力を得るには代価が必要なのだ。――さあ、抗ってみせろ、我が末裔よ!!」

 ハルケギニアから引き摺り出された神の化身が試練を課す。真実を知りたくば命を賭けろと主張する。
 戦士が吼える。魔女が嗤う。翼蛇も嗤う。笑って進む。神が相手になったとて、全く別に仔細なし、胸すわって進むなり。
 無色の爆発が虚空を塗り潰す。


◆◇◆




 蜘蛛の巣から逃れる為に 32.開戦前夜、それはまるで坂道を転がるように




◆◇◆


 天空大陸アルビオン。

 重力結界の中で“炎神”と“混沌”が恒星級の攻防を繰り広げ、蜘蛛の眷属のゴブリンたちはそれを嬉々として観察し。
 雲霞のようなワルド第三世代(トリプルダッシュ)が一気呵成に大陸の制圧を始め。
 虚無候補の姫たちをロマリアからの月眼の刺客は、虎視眈々と機会を伺って肉壁の迷宮で微睡み。
 遥か雲の下の水の国トリステインでは、人間辞めつつある“深淵”女王と、最終鬼畜兵器虚無が営々と参戦の準備を始めた、そう、その頃。

 ハヴィランド宮殿の奥底の誰も近づかない場所。
 墓所のような冷たさが支配する、唾棄すべき異端の寝所。
 正気が吹き飛んだアルビオンにおいてさえ、未だに忌避される大いなる邪悪の棲家。

 イゴローナクの祭壇。

「ふうん? なるほどなるほど、これはこれは……非常にエコですね。魔力さえあれば、尽きることない献体が手に入るというのは」

 血がこびりついた遺体安置台(載ってるのが生きてる時は『拷問台』)には、二つの死体が載せられている。
 それはハヴィランド宮殿に侵入した賊――――ジュリオの侵入を手助けしたワルドの偏在第三世代のうち、うじゅるうじゅるした衛兵やうじゅるうじゅるした宮殿に討ち取られた死体である。空中大地中で絶賛増殖中のとは別の個体だ。
 大体の反逆者の死体はこの地下の祭壇に運ばれ、邪悪の司祭オリバー・クロムウェルによって死後も尚、辱められるのだ。

 クロムウェルは、ワルドの死体を検分し、狂人ならではの洞察力でその秘密に気づいた。

「実体ある『偏在』……。如何ほどの研鑽を積めばその境地に至れるのか。もはやその執念のレベルは、狂っているとしか思えませんな、いやはや」

 自分のことを棚にあげて、クロムウェルはワルドの執念の求道を賞賛する。
 クロムウェルは自分のことを、真っ当な聖職者だと思っているのだ。仕えているのは邪神だが。
 求道者同士、共感した部分もあるのかも知れない。

「ふむ、ふむ、ふむ、ふむふむふむ。ここがこうしてこうなって――」

 ぐちゅぐちゅぐちゅ。
 みちみちみち。
 ぶりゅるぶりゅるぶりゅる。

「おやおやおや、心臓に氷? これはまるでウェンディゴの」

 ウェンディゴ。
 高山地帯に生息する人喰いの獣。北風の眷属。
 死んでも死なぬ氷の心臓を持つ空の化物。完全に殺すには心臓を焼くしか無い。

「ほうほうほう、この男はウェンディゴの血を引いているのか、あるいは噛まれて転化でもしたか、それともイタクァにでも行き遭ったか……」

 享楽的に死体を解体するのを止めて、真面目に細々した部分にまで目を向ければ、普通の人間との違いも明らかになってくる。
 筋肉の付き方、骨格、感覚器の発達、臓器の並び、血管の配置。それら全てが、只の人間ではないと告げている。
 あえて言うなら、ウェンディゴの『成り掛け』。

「おお? 心臓が拍動し始めた……凍った心臓が。そうか、擬神機関(アザトース・エンジン)の魔力を受けて活性化したのか」

 ウェンディゴの特筆すべき不死身性。死んでも翌日には生き返る。
 魔力にあふれたハヴィランド宮殿ではそのサイクルも早くなるのだろう。
 クロムウェルの手の中で凍りついたワルドの心臓が脈動し、徐々に肉体を再生していく。血管、胸郭、肋骨――。伸びる肋骨がトラバサミのようにクロムウェルの手に喰らいつく。

「ふん」

 その瞬間、クロムウェルの手が一瞬で白熱する。
 ――――部分的な化身変化。信仰の賜物。邪神イゴローナクの力をその身に宿す、神との合一化、神官の極地。腐敗と風化の魔神クァチル・ウタウスの信奉者――“灰塵”のオールド・オスマン――が、塵になっても生き続けたように、信じる神の性質をその身に降ろす究極技法。
 邪悪の熱で、ウェンディゴ・ワルドの心臓が溶ける。イゴローナクの象徴である白熱する身体が内に秘める熱量は、まるで溶鉱炉。

 熔けるそれを、クロムウェルは掌に開いた口で啜る。
 心臓だったものが、再生しつつあった血管が、胸郭が、肋骨が、綺麗サッパリ呑み込まれる。物理法則を無視して、一瞬で、クロムウェルの掌に喰われる。
 後に残るのは、舌舐めずりする邪神の口のみ。牙の生えそろったそれが、卑しい音でゲップを吐き出す。

「美味美味美味、と。我が神も気に入ってくれると良いのですがね」

 残ったもう一つの、凍てついた心臓を掲げ、独特の歩法で祭壇に向かう。詠唱を省略しつつも神への敬意を伝えるためのステップだ。別名暗黒盆踊り。
 向かう祭壇の先には、邪悪なアーティファクト『イゴローナクの手』が安置されている。呪わしい行為の結果を捧げて、行動強制の呪いを掛けるアーティファクト。
 クロムウェルは凍ったワルドの心臓に齧り付く。まるで林檎をかじるように。心臓が喰われ、歯の形に欠ける。

「おお、神よ! わが大神よ! 供物を受け取りたまえ! らくたる、かんとぅす、ふんぐるい、ぃんじゃぃい! いぁ! いぁ! ぃごろーなく!!」

 捧げられる心臓。
 込められた強制プログラムは、『心臓を抉り出して齧り付くこと』。
 強制の対象は――『ジャン=ジャック・フランシス・ド・ワルド’’’(トリプルダッシュ)』。このアルビオンを数の暴力で席巻しつつある風のスクウェアの分身体だ。


◆◇◆


 アルビオン中を数の暴力で蹂躙するワルドの分身たち。擬神機関からの波動で無限の魔力を備えた彼らは、白の国を飛び回っていた。
 この世ならぬ物質で出来た【黒い仔山羊】を屠り、黄泉帰った屍人たちを再び黄泉路に叩きこみ、夜空に輝くフォーマルハウトからの炎神の眷属を風の障壁で遮断する。
 一騎当千のスクウェアメイジによる物量攻撃だ。

 しかし、それにも終わりが来ることになる。


「がっ……!? き、貴様、狂ったか!?」

 ワルド・トリプルダッシュの一体が喀血しながら信じられない物を見たような顔で下手人を睨む。
 胸からはブレイドを纏った剣杖が生えている。その剣杖がぐるりと円の軌跡で回される。胸に大穴が空き、代わりに心臓が抜き取られた。
 そのワルドたちは、夜空に閃く邪神超新星からの熱量を遮断するために真空断層と圧縮空気を何重にも積層させていたところであった。そこに突然の反逆。

「ああ、あぁあああああああ! ちがう、ちがうちがうちがう! 違うんだ! 俺はこんな――」

 墜落していく自分の同位体の恨めしげな視線を受けながら、胸を刺した方のワルド・トリプルダッシュは、抉り出した心臓を握り締める。
 血が滴る新鮮な心臓。血とは生命、心臓は命の宿る場所。魅惑の果実、命の実。そうだ、それを食べるんだ。食べろ食べろ食べろ。美味いぞ? 甘いぞ? さあさあさあ。
 心臓を握ったワルドの、彼自身の心臓が、高く拍動する。しかし全身は熱くならない。――それどころか、冷却される。心臓を中心に広がる氷温の血液。それこそが本質なのだ。風の獣、氷の化物、天空の民。その血脈の目覚め。

 ごくりと喉を鳴らす。
 ちがう。そんなばかな。
 それがおいしそうにみえるなどということは、あってはならないのだ。

「あ、ああああ」

 だがひとりでに手に握った心臓はワルドの口元へと近づいていく。
 彼の意思に逆らって。
 それこそがイゴローナクの呪いの効果。行動の強制。

 空の至る所で、同士討ちの血の花が咲く。
 無限に供給される擬神機関からの魔力によって五千万にまで増えたワルドの偏在たち。それら全ては同一であるがゆえに、全てに等しく、クロムウェルの呪いが降りかかったのだ。
 呪いの第一段階に抵抗できたのは、偏在たちのうち六割ほど。アルビオンの汚染された空気によって、ワルド・トリプルダッシュたち呪いへの抵抗力は落ちていた。それでも半数以上は呪いの第一波に耐え切った。――つまり、半数近くが、呪いの餌食となった。

 クロムウェルが放ったイゴローナクの呪いに抵抗出来なかった偏在たちは、そこに込められた呪いに従って、行動した。
 ――手近な人間の心臓を抉り出し、齧り付くという、恐ろしい行為を。
 恐ろしくも、魅惑的な、その呪い。

 ワルドの母はウェンディゴの血を発症させていた。
 その彼女の心臓を抉ってトドメを刺したのは、幼い日のジャン=ジャック・フランシス・ド・ワルド。
 彼はその時に、血を浴びてしまった。母の血を、ウェンディゴの血を。そして保因者(キャリアー)となった。



 ウェンディゴは人喰いの獣。
 人喰いはウェンディゴの始まり。
 心臓を喰らえば、間違いなくその血に目覚めるだろう。呪われたウェンディゴの血に。

 ウェンディゴは共食いの獣。
 共食いはウェンディゴの証。
 ほら血が滴る真っ赤な林檎が手の中に。飢えを満たす魔法の果実がすぐそこに。

 食べろ食べろ食べろ。
 齧れ齧れ齧れ。
 啜れ啜れ啜れ。

「ああぁぁぁぁぁ……」

 呪いによる強制。
 ウェンディゴの血の誘惑。
 擬神機関からの狂気の波動。

 一つの要素でも抗いがたいのに、それが三つも重なっては。
 ……ワルドの分身たちに、抗う術はもう無かった。



 ――じゃくり。


 氷混じりの心臓を齧る音が、夜闇のあちこちから浸透した。



 そして変化は劇的であった。
 呪われた血の目覚め。ウェンディゴ。
 相貌は獣のように変化し、骨格は不自然に伸び、異常な冷気を纏う。

 およそ五千万のワルド分身体は、そのうち二千万が、イゴローナクの呪いの抵抗に失敗した。
 呪いの抵抗に失敗した二千万は、手近の二千万を不意打ちした。偏在の四割が同士討ちで脱落した。
 心臓を貪ったその二千万は、ウェンディゴとなってアルビオンの戦力に組み込まれる。北風の邪神イタクァの眷属となって、より擬神機関との親和性を強めたウェンディゴ・ワルドの軍勢は、異形化前よりもさらに精強になり、不死性も増すだろう。スクウェアメイジとしての能力はそのままに。

 呪いの第一段階に抵抗して正気を保ち、不意打ちから逃れた残りの一千万だが、それでイゴローナクの呪いから逃れられたわけではない。
 イゴローナクの行動強制の呪いは、一度では終わらない。繰り返し繰り返し襲い来るのだ。繰り返す度に呪いを強めて。やがては呪いに呑み込まれることは間違いない。
 アルビオンの擬神機関の効果範囲に居る限り、ワルドの分身体は、クロムウェルの呪いから逃れることはできない。トリステインの魅了女王アンリエッタの庇護下に行けば、女王の魅了結界によってイゴローナクの呪いから逃れることは出来るだろうが……。

 無限に増殖する不死身の氷獣の軍勢が、アルビオンの麾下に加わった瞬間である。


◆◇◆


 その頃、空でも異変が起こっていた。
 ――恒星級のエネルギーを秘めた邪神達がぶつかり合う時点で異変もへったくれもないのだが。


 夜空を昼に変える炎の精たちの立体魔法陣。
 そこに召喚される遙か宇宙の恒星フォーマルハウトの核。
 さらにその熱量を喰らって自分のエネルギーとする、十メイルにも満たない大きさの漆黒無貌の有翼ミノタウロス――“炎神”クトゥグアが化身【生ける漆黒の炎】。

 対するは天を衝く三角錐の異形の頭部を持った闇の化身。
 百メイルを超える三本足の、不気味に伸縮して蠕動する捻れた体躯と手足を持つ“混沌”ナイアルラトホテップの化身――【月に吼ゆるもの】。
 それの周囲には光すら呑み込む暗黒のアギト……魔術的な『門』によって接続された重轟星(ブラックホール)への入り口が口を開けている。せっかく小細工をしたアルビオン大陸に被害が及ばないように、惑星すら吹き飛ばす熱量を、別時空のブラックホールへと逃しているのだ。

 今やその二つの邪神の戦いは、千日手の様相を見せていた。

 確かに炎神の熱量は凄まじい。

 しかし【生ける漆黒の炎】の単調な理性なき攻撃は、そのことごとくが、時空の裂け目からブラックホールへと受け流されてしまう。
 不完全な形での招来による弊害。
 クトゥグアの化身は、その全力を発揮することが出来ていない。

 一方の【月に吼ゆるもの】も、天敵の分は拭えないのか、一進一退の攻防を続けている。
 混沌の司祭ナイアルラトホテップが祀る混沌の核たるアザトースの神気を、アルビオンの擬神機関の炉心から無尽蔵に取り込んでいるが、それでも拮抗するのがやっとである。
 擬神機関自体が、邪神の出力を支えるには不完全だということでもあるが。神の力はヒトの手に余る。擬神機関に宿るのは、宇宙の原初の混沌の、その余波の余波の余波程度に過ぎないのだ。


 だがその拮抗した戦場に、変化が訪れる。

 それは神話の戦いが始まってから四十八時間経った瞬間でもあった。


 ――――“四十八時間で、【生ける漆黒の炎】を【退散】させる真言を完成させよ”


 四十八時間。
 すなわち、傍観者である蜘蛛たちによる、【生ける漆黒の炎】の解析が終わったということである。
 叡智の蜘蛛の眷属が、世界という極上の研究対象を守るために、邪神の戦いに介入する。

「突入! 突入! 突入!」
「【退散】の逆転立体魔法陣を構築せよ!」
「アルビオンの貴重な資料が熔け落ちる前に、フォーマルハウトに送り返してやれ!!」

 グレゴリオ・レプリカたちが作り出す『世界扉』のゲートを通じて、シャンリットからの調査機が次々と灼熱の戦闘空域に突入する。
 鬱陶しげに【炎の精】が調査機に襲いかかり、【月に吼ゆるもの】の触肢が振り回される。
 調査機の何割かが、燃やされ、叩き落とされ、撃墜される。

「001、022、043から078、088、097、撃墜されました」
「追加投入、101から150。フォーメイション修正。動的立体魔法陣のポジションデータを更新、各機正しい軌道につけろ」
「立体魔法陣構築率、34%……完全展開まで残り150セカンド」

 調査機一つ一つが立体魔法陣の構成要素となり、電子の軌道のように【生ける漆黒の炎】を中心にぐるぐると周る。
 それはまるで檻のようだ。神を閉じ込める檻。人知の結晶。
 【生ける漆黒の炎】と至近で対峙したオスマンの杖たるインテリジェンス・メイス<169号>からのデータ、数十時間に及ぶ激闘の観察と千年に及ぶ対邪神の経験の蓄積、【炎の精】たちによる恒星砲・北落師門の立体魔方陣の解析と逆転写。それら全ての要素が結実し、シャンリットのゴブリンたちは一矢を報いる。

「立体魔法陣構築率、80%を超えました」
「各機、詠唱開始。【クトゥグアの退散――生ける漆黒の炎バージョン】」
「了解。各機、割り当ての詠唱を開始して下さい」

 立体的に有機的に複雑に飛び回る調査機が、迸るエーテルを曳きながら詠唱を奏でる。

「■■■■いあ■■■■、■■■――■■■■■、」
    「なふたぐるん■■■――――」
  「■■■■■■くとぅぐあ――■■■■、■■、い■――」
 「■■■ほまる■■■と、――■■――! ■■! ■■■■■■!!」

 鎮まりたまえ、帰りたまえ。静まりたまえ、還りたまえ。
 荒ぶる神を鎮めて帰すための祝詞を紡ぐ。
 計算し尽くされた神聖句の多重奏。エーテルの軌跡が魔法陣を織り上げる。

 高熱によるプラズマの光とはまた違う、魔力の輝き。
 それが繭のように【生ける漆黒の炎】を覆い隠して拘束していく。
 多重詠唱と動的立体魔法陣により、魔術の効果が何百倍にも高められる。その余波で、魔力の繭の中に閉じ込められた炎神の手下【炎の精】たちは強制的に送り返されていく。

「――――いけます!」
「【クトゥグアの退散】、発動!!」

 魔力で織られた絢爛たる繭が、一際輝いた。


【AAAAAA■■◆$&@Aaaaaaaa■■■■AAA■AAAA――――!!??】


 この世のものならざる断末魔が、星空よ割れろとばかりに響く。


 そしてそれで終わりだった。

 熱波が緩む。夜空に夜が戻る。
 役目を果たした調査機たちが力尽きて落下する。
 少し残された【炎の精】たちが、力なく墜落する調査機を貪る。風石機関が暴発して【炎の精】を吹き飛ばし、夜空に花火が咲く。

 アレだけの猛威を振るったにしてはあっけない終わり。
 だが、【退散】の呪文とはそういうものだ。
 炎の神は、ハルケギニアから去った。夜空の彼方のフォーマルハウトへと。

 墜落する調査機と、統制を失って手当たり次第に攻撃する【炎の精】。
 だが、次の瞬間には、夜空に浮かぶそれら全てのものが、消え去った。
 一瞬だが、全ての光という光が消えて、空域のあらゆるものが消滅した。混沌の邪神が操る超重力の一撃が、何もかもを屠ったのだ。

 何も無くなった空。それはまるでアルビオンの前途を象徴しているようだった。
 空の国の前に敵は無し。あるいは、空の国の未来は何も無し。果たしてどっちの寓意なのか。
 捻れた三本足の【月に吼ゆるもの】の姿が薄れ、その場には赤い衣を纏った蒼髪の女が残される。

「はぁ、まったく、クトゥグアの化身なんか何処から持ってきたんだか……」

 因縁の相手が星辰の彼方に去ったのを確認して、蒼髪の女――オルレアン夫人は、安堵の溜息をつく。
 苦手意識があるために相性的には最悪な相手だったが、不完全な招来であったために引き分けに持ち込むことが出来た。
 今回は棲家ごと燃やされる無様を晒さずに済んだ。僥倖である。

「ああしかし、予定よりも早く着いちゃいましたね。重轟星との接続で、大陸ごと“前に落ちて”しまったからかしら」

 シャンリットは、既に目と鼻の先だ。
 ブラックホールと接続した際の超重力によって、アルビオンは前へ前へと引力によって“落ち続けて”加速していたのだ。
 シャンリットの名所である天から垂れる巨大建造物、天空研究塔【イェール=ザレム】も今では肉眼ではっきりと太く見える。

「んふふふふ……。さぁて、私の可愛いシャルルは、あの蜘蛛相手に何処までやれるかしらね?」

 上機嫌に、赤い女は歩いて行く。
 軽やかに。段々と歩幅が大きくなる。夜を歩く。跳ねて歩く。
 笑いながら空を歩く。踊る。ターン、ステップ。ドレスのスカートが翻る。

「可愛い可愛い私のシャルル。うふふふふふ、心が可愛い、可哀想な、小さな小さなシャルル。うふふふふふふふふっ」

 彼方に見えるアンタレスのように紅い瞳に目礼。たまには彼のように空を歩くのも気持ちが良いものだ。
 眷属が増えて良かったね、北風の神様、いさか様。どことなく彼の紅い目は満足そうだ。
 新しい北風の眷属は、空挺部隊として活用させてもらうことにしよう。

「兄を見返すために世界征服だなんて、なぁんて莫迦なんでしょう、うふふふふふふふっ!」

 嘲り笑う。
 夜闇に響く女の声。
 人間を嘲り、世界を哂い、ワルツを踊る。クルクル、くるくる、狂り狂り。

「でもそんな莫迦なニンゲンが、私は大好きなのよねぇ」

 夜闇を赤い女が飛んで行く。

「そんな莫迦なニンゲンで遊ぶのが、とびっきりに好きなのよねぇー」

 人ならざる者たちが、赤い女王を仰ぎ見る。
 畏怖を込めて仰ぎ見る。
 遙か高次元の神を仰ぎ見る。アルビオンの夜の支配者を。

「うふふふふふふふっ、楽しみだわ、楽しみだわ、楽しみだわ! さぞかし素晴らしい阿鼻叫喚が! 地獄のような混沌が! 私好みの運命的で劇的で陳腐で新奇的で猟奇的な展開が待ってるに違いないわ! うふふふふふふふっ、あははははははっ!」

 哄笑し、高笑いし、夜空を横切る。
 クルリとターン。
 赤いドレスと蒼い髪が翻る。

「――それに、そろそろこの間に合わせの身体にも飽きてきたところだしねぇ。あちこちガタガタだし、ニンゲンの形を保たせるのも骨なのよねぇ」

 綺麗な造形の身体だが、飽きが来ているし、ガタが来ている。
 人外の魅了の力を垂れ流しにしているオルレアン夫人だが、やはり只の人間では邪神の力に耐えきれないのだ。
 アルビオンとシャンリットの戦争が終わるころが潮時だろう。

 そして、もう千年も前から決めてあるのだ、次の依代は。


「蜘蛛の坊やも、良い加減素直に身体を譲り渡してくれないかしら。あのハイテクな身体、欲しいのよねぇ。うふふふふふふふっ、あははははははっ」



◆◇◆


「……悪寒が。また何かの呪いか?」

 シャンリットの地の底で、千年教師長が呟いた。
 昔から時々こういうことがあるのだ。いちいち気にしては居られない。最近は特に多い。
 大方今回は、アルビオンのクロムウェルあたりから掛けられた行動強制の呪いをレジストしたのだろう。全く、懲りないやつらだ。ゲームならシステムメッセージで『抵抗(レジスト)に成功しました』と流れるところである。

 しばらく虚空を睨んでいたウードの下に、配下のゴブリンからの連絡が入る。
 部屋中に張り巡らされた<黒糸>から、いつも通りの幼い姿のゴブリンが空間投影された。金髪巻き毛で褐色肌の美しい矮人の少女だ。
 他にもいくつかの画面が多重投影される。シャンリット周辺の空撮地図と、そこに近づく空中大地の様子、“炎神”と“混沌”の戦闘の推移などなどだ。

「ウード様! オルガ・ルイン・634992号、報告いたしますわ!」
「ご苦労。確か、戦闘指揮を任せている個体だな。聞かせてもらおうか」
「はい、アルビオン大陸がクルデンホルフ領空に侵入。邪神同士の戦いで歪んだ重力場に沿って加速したため、予定時刻より早く移動しております。そこで迎撃の許可を頂きたいのです!」

 ウードは少々疑問に思う。
 戦闘指揮の権限は全てオルガ・ルインに委譲したはずでは、と。
 だが瞬時に疑問は氷解。辞令の日時は未だ来ていない、アルビオンの到着が想定よりも早かったためだ。そのため彼女は直接ウードに許可を求めてきたのだろう。

「問題無い。全戦闘の指揮権限を、君に委譲する。存分にやり給え。……大艦巨砲主義者の君にはうってつけだろう、どんどん派手にやると良い」
「はい! 了解ですわ、オルガ・ルイン・634992号、拝命いたしました!」
「シャンリットの死蔵兵器の最大出力を発揮できる数少ない機会だ、貴重なデータとなるだろう、期待している。……勿論、アルビオンの各種標本の蒐集もな」

 むしろ蒐集こそが本懐。
 千年患う蒐集癖。それがシャンリットの国是である。
 勝敗は二の次、敗北さえも貴重なデータだ。貴重な蒐集物とデータさえ無事ならば、何も問題ない。そして既に大部分は、ハルケギニア星と同一軌道上に建造された裏惑星へと退避済みであるから、後顧の憂いもない。

「さあて、私は先程のクトゥグアとニャルラトホテプの戦いの様子をじっくりと解析させてもらおうかな。気合を入れて見ないと、目が潰れてしまうからな……」
「羨ましいことですわ……。私もまだ良く細かくは見てませんのに」
「ははは、こればかりは後方の特権だな。だが勿論、アルビオンとの戦いも観戦させて貰うつもりだ。さあ、行け」
「ハッ!!」

 とか言いつつ、実は一兵卒として分身端末を紛れ込ませる気満々の教師長。
 後方からの解析もそれはそれで楽しいのだが、生の臨場感だって味わいたいのだ。
 彼こそは知識欲の権化、知りたがりの病人。死んでも生まれ変わっても治らなかった不治の狂人。

(生邪神は、やっぱり見ておくべきだよなぁ……)

 アルビオンで何が待つかも知らずに、心を弾ませる。
 いや知らないからこそ知りに行くのだ。
 たとえ行く先に破滅しかなかろうと。

 ――クルデンホルフ・アルビオン大戦、勃発。


◆◇◆


 ハルケギニア世界で大戦争が勃発しようとしていた頃。
 幻夢郷でも、史上空前の苛烈な戦いが行われていた。

 始まりの虚無と、現代の虚無との戦いだ。
 神話になった虚無と、神話にならんとする虚無の戦いだ。
 自己犠牲の莫迦と、強欲無辺の阿呆の戦いだ。

「ああああああああああっ!! 大人しく私に降れ(くだれ)、ヴァルトリーーー!!」
「吼えるだけなら狗でも出来るぞ! 腕を見せよ、武を示せ、智を使え、魔を魅せよ! そんな程度では、到底足りぬわぁーーーーー!!」
「く、このぉーー!!」

 既に戦いは十数時間以上は続いている。現実のハルケギニア世界でも、それ以上の時間が経っているだろう。
 幻夢郷のルイズの城とハルケギニアの間の時間関係を司っていたのはルイズの虚無の力だったが、既に彼女にはそちらに力を回す余裕はない。ヴァルトリの『加速』を中和するために、ルイズの時空間制御能力は注ぎ込まれていた。
 ヴァルトリ相手に、出し惜しみなど出来ない。既にルイズの城があった場所は、彼女らの戦いの余波で、一面の更地になっている。

「『爆発(エクスプロージョン)』!!」
「虚無の理に虚無で挑んでぇ、勝てるとでも思っているのかぁッ! 『魔法制御(コントロール)』!!」
「く、制御が!?」

 ルイズが放った虚無魔法の制御を、ヴァルトリが上書きして奪う。
 虚無魔法の『解除(ディスペル)』の上位魔法、魔力を単に分解するのではなく、さらに細かい制御によって支配する魔法――虚無の『魔法制御(コントロール)』。
 膨大な魔力があって初めて可能になる荒業である。

「ははは、受けてみせよ。爆裂拳(エクスプロージョン・パンチ)だ!」

 ヴァルトリは触手の一本に絡め取ったルイズの『爆発』を、触手で形作った拳に纏わせて圧縮したまま(・・・・・・)殴りかかる。
 城塞一つ消し去るようなエネルギーを触手に纏わせて、歪な触手の巨人が、その姿からは想像もできない高速で殴りかかる。
 触手がルイズに迫る。『加速』を中和しているのに、この速度とは。

「あ、あんた魔法使いでしょお!? 殴りかかってくるんじゃ無いわよっ!」
「ルイズ、危ねえ!!」
「サイト!?」

 間一髪、サイトがルイズを助け出す。流石はガンダールヴ、速度においては並ぶ者なし。
 その直後にルイズが居た場所に、ヴァルトリの触手の拳が直撃し、地面が消滅する。
 跡形もなく。吹き上がる土煙なんて発生しない、そんなものは完全に『爆発』によって消し飛んだのだ。

「はっはっは、何を言うか。虚無同士の戦いは、魔法の制御権奪取の競争だ。遠距離攻撃なんて遅くて温いことしてられるものかよ、着弾する前にあっという間に魔法を奪われてしまうわ!」

 そう、先ほどのルイズの『爆発』のように。
 ヴァルトリは、在りし日の兄弟喧嘩を思い出す。
 双子の兄であるブリミルとは、よくこうやって魔法を使った殴り合いをやっていたものだ、と。

「さぁて、私はまだまだ魔力に余裕があるが――お前もそうなのか? ルイズ・フランソワーズ」
「……っ」

 千年どころか、六千年の歴史を積んだ、始まりの虚無使い――ヴァルトリ。
 世界に満ちる虚無の理からマギ族のために遣わされた人型の救世主ではなく、その大本である虚無の理の統括者にして使役者。

 虚無の“遣い”ではなく、虚無を“使う者”。
 虚無遣いと虚無使い。
 従と主の違い。

 その間には、決定的なまでの差が横たわっている。

 魔力量、瞬間出力、制御能力、戦闘経験――全てにおいて、ルイズはヴァルトリに劣っている。
 現に彼女の魔力は激戦を経て枯渇しつつある。
 頼みの虚無の魔法も、練度で劣るゆえに通用しない。八方塞がり。一体どうすれば良いのか、途方に暮れる。心が折れそうだ。


 しかしただ唯一、今の彼女が優っている点があるとすれば――


「ルイズ!」


 仲間の存在。
 なんだかんだで頼りになるあの男。
 異世界人、使い魔、ガンダールヴ――平賀才人。

「おおおおおおッ! 圧縮分裂昇華弾!!」

 翳した掌から高熱の光球がヴァルトリへと飛ぶ。
 だがそれは撹乱。魔法が効かないなら、魔力に依らない攻撃が必要だ。
 すなわち――肉弾。拳が、蹴が、ヴァルトリの異形を襲い、その場に縫いとめる。

「カハハハハハ! やるなあ、当代のガンダールヴ! 一対一で戦うにはこれほど厄介とはな! 流石は神の盾!」
「うるっせえ! いい加減にくたばりやがれ!」
【……ッ! サイト、左!】

 サイトの側で無色の爆発が炸裂する。
 だがサイトはエキドナの警告に従い、それを回避。ヴァルトリの魔法攻撃は、虚無の因子を継ぐエキドナが、相殺は出来ずとも察知する事が可能。
 付かず離れず打撃を加え続ける。魔法を使う隙は与えないとばかりに、喰らいつく。

「サンキュ、エキドナ」
【魔法は全部読んであげるわ。……出来ればヴァルトリの肉を喰えれば良いんだけど、貪食の蛇の本分に懸けて、パワーを取り込んでやるわ!】
「まあ、頭の隅に置いとくぜ。そんな隙がありゃあ良いんだがな! おおおりゃああああ!!」

 挑みかかる。
 神の盾。その役目は、主人のために時間を稼ぐこと。
 サイトは消耗して肩で息する主人(ルイズ)を横目で捉えると、お互いに交換した眼球のパスを通じて意識を交わらせる。

(ルイズ、俺がヴァルトリを引き付ける。その間に、準備してくれ!)
(準備……?)
(そうだ! 勝つための準備だ! 出し惜しみしてんじゃねえ、独りでやろうとしてんじゃねえ、使えるモノは全部使えよ!)

 その時であった、ルイズの周囲を何者かたちが取り囲んだのは。

「ルイズ様を守れー!!」 「今こそ恩義を返す時だぞ!」 「王国民の魂を見せてやれ!」
『おおおおおおおおおおお!!』

 それは彼女の王国の臣民であった。
 トランプの兵隊たち、城下の住民たち、森の獣……女も子供も種族すら関係なく、ルイズのために集まった。
 それは彼女を想う夢の住人たち。ルイズによって命を与えられ誕生した者たちも居れば、幻夢郷に名高い賢君ルイズ・フランソワーズを慕って集い忠誠を誓った者も居る。

「あんたたち……なんで……。ここは危険よ、下がりなさい。避難の下知は出したでしょう!」
「いやいや、我々を遠ざけようったって、そうは行きませんぜ、女王様」 「我らの忠誠は全て貴女のためにあるのです、苦しければ頼って下さい」
「女王様が、この夢の国を大切に思ってらっしゃるのは、俺ら一同、よぅく知ってます。でも――」 「それ以上に、ぼくたちも、へーかのことが、大好きなんですよ?」

 現実世界の多くを犠牲にして、ルイズが幼い頃から没頭してきた夢の世界。
 彼女は愛した、その全てを。溺愛と言っても良い。夢に耽溺し、才能の殆ど全てを傾けてきた。
 夢の中で足りなければ、現実世界においても彼女は研鑽した。8歳から過ごした学術都市シャンリットは、その意味でうってつけだった。彼女の持つ殆どのスキルは、実際、夢の世界のために身に付けたものだ。

 ルイズはハルケギニアの邪神を打倒すると常々口にしているが、その言葉は聞く者に何処か薄っぺらい印象を与えてしまう。
 口にする内容の荒唐無稽さも勿論であるが、彼女の持つ夢の国という『逃げ道』が、宣言の真実味を、本気度を下げていた。
 究極的に、ルイズにとっては、夢の国さえ残れば、後はどうでもいいのだ。重心は現実よりも幻夢郷に寄っている。

 だが勿論、邪神という存在に対する憤怒は本物だ。
 自身の片目を異界の知識のために捧げた、風と水と嵐と雷の支配者たる憤怒(オーディン)の化身。救世の業を背負う虚無の御遣い。
 彼女の在り方が、邪悪の存在を許しては置けない。そして長年幻夢郷で一国を差配してきた彼女は、民の味方であり、民の嘆きを見過ごせるような者ではない。

 邪神や蜘蛛の玩具にされて蹂躙されようとするハルケギニアを――トリステインを見て、放置できる訳もなかった。

 だから彼女は更なる力を求めた。人々の笑顔を守る力を。家族の愛に報いる力を。君臨する貴族として相応しい力を。
 その最果てに、今ここに、自分自身のあらゆるものをBETして、古の虚無の魔神を呼び寄せた。
 いささか分の悪い掛けだったようだが、そうでもしないといけなかった。状況は加速度的に悪化している、破滅に向かって。無駄にできる時間はあろうはずもない。

 義務感。
 使命感。
 邪神への嫌悪。
 理不尽への怒り。憤怒。
 人類愛。
 救世の血脈。
 夢の国の女王、統治者としての矜持。
 メサイアコンプレックス。

 ――本当に救われたいのは誰か?

 そして今、彼女は正に救われていた。
 彼女を慕う臣民達によって。
 彼女は孤高の女王であるが、決して孤独ではないのだ。


「女王様、貴女が自身の全てを賭けてあの亜神と戦うというのなら、その『全て』の中に、俺たちのことも入れて下さい」
「――!」


 ルイズの本質は憤怒と強欲。
 部下が死ねば腸が煮えくり返る。一度手に入れた者共を手放すなんて絶対にありえない。
 だからルイズは自分の国の臣民を、この遭遇戦から遠ざけていた。そのはずだった。


 王が民を思うならば、民もまたそれに応えるのだ。


「あんたたち――」





 次の瞬間、轟音と共にナニカ――弾丸が飛来し、ヴァルトリに直撃。ヴァルトリの身体が吹き飛ぶ。

「これは……」
「直接火砲支援(ダイレクトカノンサポート)! シエスタか!」
【ナイス支援よ、メイドっ娘! 魔法よりも物理のほうが効くわ!】

 射線を辿れば、彼方に銃を構えるシエスタが見える。巨大な銃だ。いかなる城壁も粉砕して貫通できるだろうと思わせる暴力の象徴。
 シエスタは、ヴァルトリが召喚される前に一旦覚醒してハルケギニアに去ったのだが、時間が経っていつまでも目覚めない主人を心配して、また戻ってきたのだろう。仕える主人の力となるために。
 そして頼りになる友人を連れて、この夢幻の戦場に舞い戻ったのだ。

 シエスタが銃を構えている場所に、硝煙と共に円環状の虹が現れる。

「あれは――虹か。『集光(ソーラーレイ)』の虹、ってことは」
「モンモランシーも、来てくれたのね。……全く、何やってるのよ、こんなことに首を突っ込むことはないのに」

 モンモランシーはルイズの夢の国で、文官をしたり香水調合師をしたり、同じく招かれたギーシュといちゃついたり、修行したりルイズから力を分け与えられたりしていた。
 幻夢郷の時間でだが、何十年と友人付き合いしていれば、それなり以上に仲良くはなる。
 ルイズの危機に駆けつけるくらいには。何せ、親友の危機だ。しかもルイズの状況は、祖国のためそして人類のために力を求めてのことだという。

「ルイズも水くさいわ。貴女が貴族であるのと同じように、私だって誇り高いトリステイン貴族なんだから。恩ある親友の窮地の一つや二つを救いに、駆けつけないわけがないじゃない」

 はるか遠くで銃を構えるメイドの傍らでつぶやくモンモランシーの声は、ルイズには届くまい。
 彼女の上空で揺らぐ虹が、太陽光線を捻じ曲げる。対軍規模トライアングル水魔法、『集光(ソーラーレイ)』。クルデンホルフの秘奥とされるそれについて、ルイズは会得しており、夢の国で過ごす内にモンモランシーに伝授していたのだ。
 覚醒世界のハルケギニアでは未だにトライアングルに至らないモンモランシーも、この夢の国ではルイズの加護もあり、楽々とトライアングルスペルを行使出来る。

「シエスタ、合わせなさい!」
「はい、モンモランシー様。ガトリングで足止めします。その隙にやっちゃって下さい!」
「頼んだわよ」

 シエスタがこれまた巨大なガトリングガンを、虚空から創り上げる。
 夢の国は想像の国にして創造の国。シエスタほどの使い手であれば、たかが銃器やその弾丸程度を結晶化(クリスタライズ)するのは造作も無い。
 シエスタはそのまま、ヴァルトリの異形の巨体に照準を合わせて弾丸をバラ撒く。モンモランシーの魔法【集光】は、その応答性に難があるため、足止めをしないといけないのだ。

 ヴァルトリの周囲を飛び回って打撃を加えていたサイトは、その不意打ちとも言える弾雨を、まるで分かっていたかのように躱す。
 サイトとシエスタが、ルイズの従僕として組んできた時間は、百年にも迫る(あるいは上回る)。その程度の連携は朝飯前だった。
 サイトが急に腕を天に伸ばす。そこに後方からカタパルトで射出された一本の刀が、計ったかのように飛んできて納まる。デルフリンガーではない。

「ナイスアシスト、シエスタ。……神刀『夢守』――佐々木の爺さん、借りるぜ!」
【夢のクリスタライザーの守護者の触手、展開! 封じられし異形共、ここは幻夢郷、貴様らの故郷だ、存分に真価を発揮させてあげるわ!】

 その刀は、タルブに封じられし護鬼・佐々木武雄が、曾孫のシエスタに遺した封印刀。
 猫目海月の異形――幻夢郷では誰もが畏れる大帝ヒュプノスの尖兵『夢のクリスタライザーの守護者』――を、百近くも封じて使役する軍刀。
 ガンダールヴの能力により、佐々木の血族にしか使えぬはずの刀から、無数の影の触手が現れる。触手は千の刃となり、ヴァルトリへと突き立つ。

「ふふん、無駄だ! その程度では蚊に刺された程度にも感じんわぁ!!」
「だが、蚊が飛び回る程度には鬱陶しいだろう?」

 サイトが勝利する必要はない。影の触手が絶え間なくヴァルトリに襲い掛かる。チャージなどさせるものかと間断なく。
 ヴァルトリに対する本命は、あくまでルイズだ。ガンダールヴの役割は、主人のための時間稼ぎだ。
 そもそも、虚無の亜神相手に勝利する可能性があるのは、亜神に手を掛けつつあるルイズ・フランソワーズしか有り得ない。

「モンモランシー様、今です!」
「ウィ、『集光』発動!!」

 モンモランシーが操作した『集光』による収束光条が、ヴァルトリに突き刺さる。
 魔法を操作する虚無の『魔法制御(コントロール)』も、間接操作された太陽光線には作用が及ばない。
 高熱がヴァルトリの触手を焼く。その間にも、シエスタの弾幕とサイトの剣軍はヴァルトリを襲い、足止めする。

 従僕が異形を留める。親友も駆けつけて光条を突き立てる。
 ルイズの周りには、主君を守る彼女の軍勢。
 ここまでお膳立てされて、奮い立たない王が居ないはずがない。

「みんな……ありがとう。ふふ、何弱気になってたのかしらね、私にはこんな心強い味方が居るってのに」

 ルイズの周りにあった、城塞の瓦礫が、淡い色の粒子の風に還元される。ドリームクリエイションで創成した物品を、再び魔力に還元しているのだ。
 同時に、周囲の兵や民からも、魔力のオーラが流れる。王の強権で、魔力を徴収。
 さらに吸収した魔力で、自らの肉体を作り替える。ヴァルトリとガチンコの殴り合いをするために。

「複製変容術式『九頭竜』、発動」

 それは決別の術式だった。
 化物となった自分を認めた時の、人間を超える覚悟の証。ルイズはそれを再び使う。
 ざわざわとルイズの桃色の髪の毛が広がり、蛇髪となる。

 『魔法制御』の虚無魔法の詠唱は、見様見真似でラーニングした。
 魔法肉弾戦闘の準備は――覚悟は充分。
 あとは――殴りかかるだけ。

「やってやろうじゃないの……! 叩きのめして、ペーストにしてあげるわ!」

 いざ下克上。


=================================


ヴァルトリさんの姿は、元ネタのウェイトリー兄弟の化物の方よりか、少しは人間に近いです。顔だけお化けじゃないです。生前はそんな感じでしたが。
前の外伝と今回でヴァルトリさん推しなのは、ソースブック『クトゥルフ神話TRPG ダニッチの怪』が発売されたからです。

次回――『開戦』。

2012.03.23 初投稿
2012.03.24 誤字修正
2012.03.25 修正



[20306] 蜘蛛の巣から逃れる為に 33.開戦の狼煙
Name: へびさんマン◆29ccac37 ID:a6a7b38f
Date: 2012/05/08 00:30
 ここはロマリア。
 教皇のお膝元、光の国。
 宗教庁の一室で、現ロマリア教皇である聖エイジス32世ことヴィットーリオ・セレヴァレはほっこりと茶を嗜んでいた。

「ああ、この一杯が心に沁みる……」
「――――暢気に茶など呑んで良いのか? 今も空の向こうでは人智の及ばぬ神々が暴れているのだぞ」
「まあまあ、ミスタ・アルハンブラ。焦ったって仕方ありません。お茶でも飲んで落ち着きましょう」
「むぅ……」

 東方由来の緑茶を湯呑みで飲むヴィットーリオ。
 なかなか様になっている。
 その向かいに座るのは、エルフの外交官であるアルハンブラ伯爵ことビダーシャルだ。
 彼もずずずとお茶をすすっている。

「そもそもアルビオンとシャンリットの戦争について、私は――ロマリアは積極的に関与するつもりはありません」
「何故か、と聞いても?」
「簡単ですよ……。意味が無いからです」

 ヴィットーリオは語る。
 ロマリアの国力、特に軍事力は二十年前の聖戦によって磨耗しており、未だに他国にちょっかいを掛けられるくらいまで回復していない。
 ビダーシャルが既に充分なように見えるが、と問えば、それは箱舟計画のための戦力であり、ここで磨り潰す訳にはいかないのだと返す。

「そして、ロマリアが参戦せずとも、シャンリットは自前で決着をつけるでしょう。それにシャンリット以上の戦力は、何処の勢力も用意できないのですから、彼らが敗れるということは何処の勢力が事にあたっても結果は同じということです」
「それは単独で各個に事態に当たった場合だろう。共闘すればどうだ? 力を合わせて敵に対抗するというのは王道だが」
「ありえませんね。――蜘蛛と組むなんてありえません、たとえハルケギニアが滅ぶとしても。
 エルフだってそう考えるでしょう。ロマリアだってそうです。誰だってそうする。トリステインだって虎視眈々と漁夫の利を狙っていることでしょう。共闘なんてありえない」

 またヴィットーリオはお茶をすする。

「それに蜘蛛らもハルケギニアという研究対象とその拠点を失うのは避けたいでしょうし、これまでの千年と同じく今回も危機を封殺するでしょう。我々が手を出す必要はありません」
「意外と楽観的なのだな」
「そういう訳ではありませんよ。ただ、出来ることと出来ないことを弁えているだけです。私たち(ロマリア)にできることは、この戦争の隙に『箱舟計画』に必要な要素を揃えることです。……邪神の戦いに介入することではない」
「そうか。まあ確かに、シャンリットのような知識狂いの享楽家でなければ、あのような戦争は成り立たないだろうな。そこまで相手を放置するワケがない」
「ええ。我々ならば、このような正面戦争になる前に謀略やなんかで決着をつけますね。ジュリオは優秀ですから、私たちがサポートすれば召喚儀式の妨害はお手のものでしょう。第一、正面戦争なんて正気の沙汰じゃない」
「ふん、それは今さらだろう。蜘蛛連中が正気のわけがないのだから」
「ああ全くその通りですね」

 かと言って、この二人が正気かというのもまた、怪しいところであろう。
 片やブリミル教のトップで惑星脱出計画の推進者。選ばれし民のみを連れて別惑星へと逃げるのだ。安定的な星辰にある新天地へと。
 片や遥かセラエノにまで巡礼に行く風の信奉者。エルフの同胞の中でも風の神の加護が厚いとびきりの空間制御術者。

「そう言えばミスタ・アルハンブラ。アルビオンは天空教理を掲げているが、貴方の信奉する神様もシャンリットとの戦争に駆り出されているのですか? 天空教の主神は、あの黄衣の王なのでしょう?」
「いや、どうだろうな。ハストゥール様が顕現したということは聞いてないし、私の感覚でも感知していない。あまり混沌とも相性がよくないという話も聞くしな。……配下の小神は時々やってきているようだが。イタクァ様とか」
「……そうですか」
「ああ。それに闇の皇太子たる我が神は慈悲深いから、きっとこちらに顕現なさるにしても、ぽっと出のアルビオン人のところではなく、永く仕える沙漠の羊飼いたる我々のところにいらっしゃるに違いない」
「…………そうですかー」

 そうだといいのですけれども、とヴィットーリオは思ったが口には出さない。実際そうであるに越したことはないのだから。
 これ以上の邪神祭りはハルケギニアがもたない。実際今この瞬間消滅していないのが奇跡である。流石に恒星級の熱量を伴って炎神クトゥグァの化身が顕現した時にはヴィットーリオも肝が冷えた。
 だがその炎神も今は退散している。シャンリット連中はこの千年間と同じように、それなりに上手くハルケギニア上の邪神勢力をコントロールしているようだ。――――今のところは。

「ああそうだ、教皇殿。アルビオンに関して、ある女性から伝言があるのだ」
「その“ある女性”とは外に立っている女性ですか?」
「ああ気づいていたか。そう、その彼女だ。部屋に入ってもらっても良いだろうか?」
「危険物も持っていないなら――と言っても身体ひとつ在れば戦術級以上の破壊力を出せるあなた方エルフには意味ありませんね。害意が無ければ構いませんよ」
「害意など無いと保証しよう、この私がね。大体、戦力的には悪魔(シャイターン)の末裔たる教皇殿の方が上だろう。正直二人がかりでも勝てるとは思えん」
「さあ、それはどうでしょうね」

 教皇は曖昧に笑う。その笑みは正に聖職者めいており、善と美というものを体現している。その笑顔に神の具現を幻視したブリミル教信者も数多いだろう。
 だが信者たちの誰が知ろう。
 この男が、ハルケギニアの最大個人戦力の一角を担っているということを。

 ブリミル教のトップは、武力においてもトップなのだ。
 『加速』による時間停止状態からの『爆発』は大抵の相手を完封できるし、『解除』によって相手の魔法を無効化するのもお手のものなのだから。

 ブリミル教だけではない。

 ガリアの“鬱屈王”ジョゼフ然り。トリステインの“魅了王の再来”アンリエッタだってそうだし、“夢の女王”にして“憤怒(オーディン)の化身”たる公爵令嬢ルイズ・フランソワーズだってそうだ。そして“千年教師長”ウード・ド・シャンリット。アルビオンの“大司祭”、オリバー・クロムウェル……。
 ハルケギニアの各組織のトップには、世界を左右できる武力が揃っているのだ。

 まったくもって最悪なことに、彼らは組織力に依らずに世界を滅ぼせるのだ。
 ああなんという狂った世界。人の悪意こそ恐ろしい。彼らの指先ひとつで世界は決まる。神ならぬ人の身でありながら。
 ――しかし神には及ばないのだろう。神の悪意が恐ろしい。混沌の遊戯が恐ろしい。だがそれ以上に! 悪意なき神が恐ろしい! 結局、あがいても無駄なのだ。この世は泡沫。生きることに意味など無い。死すらも意味が無い。全ては夢。白痴の神の夢。夢。夢。夢。いや、虚無だ。幻影の蜃気楼。全ては平等に無価値である。何もかも移ろう虚無の影に過ぎない。

「……だがそれでも私たちは生に意味を求め、意義を認める。足掻くだけの価値があると」
「急に何を言っているんだ?」
「なんでもありませんよ、ミスタ・アルハンブラ。強いて言うなら決意であり妄言です、あなたにはわからないかも知れませんがね。――さあ、外で待たせているという彼女を早く呼んで下さい」

 頭(かぶり)を振ってヴィットーリオはビダーシャルを促す。
 ビダーシャルは少し訝しむ様子を見せたが、直ぐに指を鳴らして部屋の外に合図をする。
 しばらくしてノック。ヴィットーリオが入室を許可する。

 果たして入ってきたのは、軍服らしきものに身を包んだ空のような碧眼のエルフの少女であった。

「お初にお目にかかります、マギ族の教皇殿。対アルビオン外交窓口のファーティマと申します」
「はい、よろしくお願いします。……なるほど、アルビオン担当ということは、貴女はアルビオンのシャジャル妃の血縁の?」
「ええ、私はシャジャルの姪に当たります」
「お願いというのも、そちら絡みで?」

 ぐ、と言葉に詰まるファーティマ嬢。図星を突かれた。
 ヴィットーリオは、異教を信仰しブリミル教を裏切ったアルビオン王家が何をいけしゃあしゃあと厚顔無恥な、とでも言いたげだ。
 だがファーティマはその眼光に負けずに、気を取り直して話を続ける。

「――ええ、そうです。具体的には亡命の手引きです」
「チャールズ・スチュアートⅠ世と、シャジャル妃の?」
「そして王女ご夫妻も、です」
「ティファニア・スチュアートと、シャルロット=カミーユ・ドルレアンも、ですか」

 ヴィットーリオは表面上は平静に、内心では渋る。だがそれを表情に出すようなことはない。

 ティファニアとシャルロット。

 その二人は虚無遣いのスペアでもあり、ロマリアの『箱舟計画』のキーパーソンでもあるのだ。それらをエルフ領にそのまま逃すのは避けたい。ヴィットーリオが渋るのも無理はない。
 出来ればアルビオンのスチュアート一家は丸ごとロマリアで確保しておきたいくらいだ、エルフなどには渡さずに。
 ハルケギニアの王家の血筋はマギ族の血を色濃く残しており、故に別惑星に系統魔法の理を再構築するときの生贄としては申し分なく、そして生贄は多ければ多いほどいいのだから。

 ヴィットーリオの返事に芳しくないものを感じ取ったのだろう。
 ファーティマが不安そうな顔をする。表情に出すぎだ。彼女は直情的すぎて外交官には向かなさそうだ。
 ヴィットーリオが口を開く。

「貴女が私に話を持ってきたのは、私の虚無の魔法が目当てですね。あの擬神機関の結界の内部にゲートを繋げられるのは、今覚醒している虚無遣いでは私しか居ないでしょう、移動に特化した虚無遣いである私のみしか……」
「ええ、そのことを見込んでお願いに参りました。どうか私の血族を救っては頂けないでしょうか」
「対価は? 対価は何です? 虚無の魔法を使うのは、場合によっては命を削る。何の見返りも無しには、頷けませんよ」

 その問いにファーティマは切り札を切ることにした。
 問答する猶予もあまりないのだ。ことは一刻を争う。

「……ロマリアは、聖地への立ち入りを求めていると聞いています」
「その通り。ミスタ・アルハンブラから聞きましたか? 私たちの計画のために、ロマリアは聖地への立ち入りを求めています」
「ですが、老評議会での協議は難航している、とも」
「そうですね。――つまり?」
「……私たちの派閥も貴国の聖地立ち入りの件について、支持しましょう。我が党は水軍を持ち、聖地の海を管轄していますから。そうすればきっと貴方がたの立ち入りも許可されるでしょう。――それが見返りです」

 沈思黙考。会話の流れが止まる。
 切り札を切るのが早すぎたか? とファーティマは考えてしまう。
 だがファーティマの血族と彼女が所属する“党”はここ最近でかなりの勢力を誇っているのだ。この切り札のさらに奥の伏せ札もあるが、この提案だけでも充分だという確信もある。問題ないはずだ。
 事態が逼迫しているのはファーティマもそうだが、ロマリアだってそうだ。ハルケギニア脱出の算段は可及的速やかにつけなくてはならないのだから。先日の炎神と混沌の戦いのような神代の戦争がまた起こらないとは限らない。ヴィットーリオだって焦っているはずだ。

「良いでしょう」

 ヴィットーリオは頷いた。
 聖地ならばゲートの魔法で失う精神力の回復にも都合がいい。あそこは魔力に満ちあふれている。収支は釣り合うだろうと打算した。
 元からアルビオンには使い魔(ヴィンダールヴ)のジュリオの帰還のためと、アルビオンの王女夫妻を誘拐――ご招待するためにゲートを繋がなくてはならないのだ。失う精神力の回復のメドが立つのは良いことだ。それに誘拐ではなく彼女ら自らの意思による亡命の方が、あとあと何かと言い訳が立ちやすい。
 ジュリオには負担をかけるが、国王夫妻をそれに追加することくらいは問題無いだろう。あとで使い魔の共感覚で連絡しておかなくてはいけない。

(シャジャル妃も一緒だと、ティファニア姫やシャルロット=カミーユを虚無魔法『生命』に捧げるときに一悶着ありそうですが……――まあそれは彼らを『箱舟』に乗せてしまえば“向こう(新天地)”の惑星でどうとでも出来るでしょう)

 そこはむしろヴィットーリオの手練手管の見せ所だ。
 謀略は若くして教皇に上り詰めた彼のホームグラウンドなのだから。
 ティファニアらを言いくるめて生贄に仕立て上げるくらい、ヴィットーリオには造作も無いだろう。

「そういえば、何故貴女はシャジャル妃に拘るのです? 国を捨てた者など捨て置けば良いでしょうに」
「……血縁だからですよ、教皇殿。エルフは氏族の結び付きが強いのです」
「それだけですか?」

 ヴィットーリオが微笑みながら尋ねる。この質問に意味は無いだろうに……、何故尋ねるのか、それはきっと単に面白半分なのだ。
 性格が悪い。ファーティマは唾でも吐きたい気分だった。
 虚無遣いをは皆このような性悪なのだろうか。そうに違いない。

「…………。叔母が凄腕の神官だから。逆らうことは出来ないのです。今も空を超えて見張られているかもしれない。いつ何時呪いが降りかかるか分かったものではない……」
「信心深いのですね、異教の神官でさえも恐れるとは。いや、迷信深いのでしょうか」

 ヴィットーリオはファーティマを憐れむ。
 信心が足りないから邪教の神官に怯える羽目になるのだ。
 自分自身が確固たる信仰を持っていれば、たとえ暗黒の地母神の神官に呪われたとしても、何一つ恐れることはないのだから。

「あなたには恐ろしいものなど無いのでしょうね、教皇殿」
「そんなことはありませんよ。人の身ではどうにも出来ないことだってありますから」
「そうですか? 人を超える方法だって、あなたは――あなた達(マギ族)は知っているのでしょう? 世界に解けて概念に昇華する方法を。――――エルフの六割を持っていった“大災厄”で何が起こったのか、知らないはずがありませんよね?」
「それでも、ですよ。世界なんてものは、最も不確かなものの一つにすぎないのですから」

 無言で睨み合う。

 次の瞬間、不意に、かすかに宗教庁が震えた。
 地震だ。

「これは……地震? 一体――」
「始まったのでしょう、アルビオンとシャンリットの戦争が。これは大方、山脈が立ち上がった音でしょうね」
「山脈が? まさか!」
「――――蜘蛛連中にとって山を立ち上がらせることくらい、造作も無いことなのですよ。常識で推し量ることは愚かだ」

 ビダーシャルは押し黙っている。ファーティマは目を白黒させている。余りに突拍子もなさすぎて実感がわかないのだろう。

 余り猶予はなさそうだ。早くアルビオンに潜伏しているヴィンダールヴ・ジュリオと連絡を取らなくては。蜘蛛連中がティファニアたちを確保する前に攫ってしまわないといけないのだから。
 ヴィットーリオは忌々しげに、クルデンホルフ首都シャンリットの方角を睨みつけていた。

「まあ今回も蜘蛛連中は上手くやるでしょう、ハルケギニアを破滅させない程度には」
「奇妙な信頼、だな」
「統計的事実ですよ、ミスタ・アルハンブラ」
「だといいが」

 ビダーシャルが鼻を鳴らすが、ヴィットーリオとてそこまで無条件にシャンリットの千年教師長を信頼している訳ではない。
 いざとなれば自分の魂を削ってハルケギニアの半分を邪神の戦場ごと宇宙の何処かへ強制転移魔法で吹っ飛ばすくらいは考えている。

 尤も今回の事態はその程度で収束する範囲には収まらなくなるのだが――――彼らはまだそんな事は思いもよらない。


◆◇◆


 一方その頃アルビオンのハヴィランド宮殿の肉壁の中。
 教皇の使い魔であるヴィンダールヴ・ジュリオは蠢く肉壁に埋もれ、その一部を【他種族支配】の能力によって乗っ取り、宮殿内部を偵察していた。

「眼球端末生成」

 ジュリオの足元に、無数の眼球がぞわりと浮かび上がる。

「行け」

 それらは海岸で逃げ惑うフナムシの群れのように、肉色の床を滑るように移動していく。
 一見正常に見える壁面も、全ては肉壁の擬態である。そこを分化させられた眼球が滑って走る。
 この宮殿は、生命要塞なのだ。ジュリオはヴィンダールヴの能力でそれを乗っ取っている。

 ジュリオは縦横無尽に走り回る眼球を介して宮殿内を隈なく窃視せんとする。
 遠隔視の眼球は壁も床も関係なくぬるりと滑ると、ぎょろぎょろと目当ての美姫たちを探す。

 さらに彼は乗っ取った体性感覚で、宮殿内の人物の動きを把握する。
 ルーンを介して伝えられる情報が、不快感とともに押し寄せる。皮膚の下で寄生虫が爬行するような不快感。宮殿内部で蠢く人間らしきものたちの存在感に、胸をかきむしりたくなる。
 膨大な量の情報がジュリオの脳を焼く。

 だが、そんなものはヴィンダールヴのルーンによる補正によって問題ないレベルに緩和される。
 伝説のルーンは所有者に、伝説に相応しいだけの能力を与える。与えてしまう。
 そしてそれは身体スペック的に許容できるというだけであり、精神的に耐えられるという意味では決してない。
 人ならざる者の感覚を乗っ取り支配するという行為は、その分だけジュリオの心を確実に人間から遠ざけるのだ。

「……見つけた」

 ジュリオは遂に目当ての姫を見つける。

 王宮の庭で仲睦まじい様子のティファニアとシャルロット=カミーユ。
 それを微笑ましげに見つめるシャジャルとチャールズ・スチュアート。
 正に理想のロイヤル・ファミリーだ。

 彼は思わず見蕩れてしまう。

 汚泥と腐肉に沈む自分と比べて、彼女らの何と輝かしいことか。

 ジュリオには、そんな家族は居ない。
 いや一人、家族以上の主人のみが居る。ロマリアの謀略の海を共に泳いできた主人ヴィットーリオが。だから寂しさを覚えること無い、無いはずだ。
 だがそれでも、視覚端末越しの光景は、目に毒だった。

 やがて彼女ら家族を、ロマリアの謀略に従って虚無魔法『生命(リーヴ)』に生贄に捧げることを思うと、ジュリオの中から幾つも湧き上がる気持ちがある。
 憐憫と悲哀。
 そしてそれ以上の、仄暗い喜び。恵まれた相手を引きずり下ろすときの、許されざる快感。

 『その時』を想って、ジュリオは生きた宮殿に埋没して息を潜める。


◆◇◆


 ――空が落ちてくる。

 いよいよシャンリットの上空に差し掛かったアルビオン大陸は、それそのものを武器として、シャンリットを押しつぶさんとしていた。
 まるで夜。アルビオンがシャンリットに影を落とす。
 そして自身も落ちんと欲す。

 だが勿論、シャンリットもそれを指を咥えて手を拱いて見ているわけではない。

 アルビオンが上空に現れた時には、シャンリットでは軍団の出撃準備が整っていた。
 トップの指揮権の移譲こそ少し遅れたが、戦争の準備は万端であった。
 その軍団の中に、金髪ツインテールの若い――というよりは幼い、女性の士官の姿があった。

「戦争、戦争、戦争――嫌になっちゃいますわ。はあ、全くもってお姉さま成分が足りません!」

 シャンリットの何処かにある格納庫らしき場所で、ベアトリス・イヴォンヌ・フォン・カンプリテ・クルデンホルフ大公令嬢はため息をついた。
 彼女は夜会に着ていくようなドレスではなく、近代的な迷彩服に身を包んでおり、傍らにはヘルメットも置かれていた。
 どうやら戦争に参加するらしい。襟元には士官階級を示す階級章が輝いている。しかし何故に大公令嬢が戦争に一兵卒として参加するのだろうか?

「後方で待機なんかしてられませんわ。ここは階級を上げるチャンス……功績を積んでおけば今回みたいに千年教師長から急に呼び戻されることもなくなるでしょうし。
 それにセヴァンフォード(セヴァン渓谷)やゴーツウッド(黒山羊の森)には貴重なアーティファクトが眠っていると聞きます。それをちょろまかしてお姉さまへの手土産に――」

 どうやら戦利品の着服が目当てのようだ。
 それでいいのか大公令嬢。軍規はどうした。いや、逆に大公令嬢だからこそ許される類のワガママか?
 お姉さまへの愛の前には軍規遵守など関係ないとでも思っているのだろうか。……大いに有り得そうだ。

「いやいや、マスター・ベアトリス……、着服はマズかばい」

 ベアトリスの頭上から半人半蜘蛛の幻獣――アラクネーのササガネ――が糸を伝って逆さに降りてくる。ベアトリスの使い魔だ。
 その姿は艶かしく、人間のような上半身は黒髪を編んだようなドレスできつく絞り上げられている。男なら胸の谷間に思わず目が行くだろう。

 ベアトリスがササガネを見上げて会話する。

「ササガネ、昔の人は言いました。『バレなきゃ、罪じゃないんだぜ』と」
「ええーー……? それで良かとですか?」
「良いのよ!」

 胸を張るベアトリス。
 だがそうは問屋が卸さないらしい。

【いいや、良くないな】

 聞いているだけで陰鬱になる声が響いた。獲物を絡め取るような蜘蛛の巣のような声だ。

「んん? 何ですの? 誰? 何処に居るの? 出てきなさい!!」
「あ、あはははー、ご主人様? 何かいやーな予感がするけん、逃げても良かかね?」
「却下。いつもいつも逃げ出してからに、だいたいアンタには使い魔としての自覚が――――……っ」

 いや、今はそんな問答をしている場合ではない。
 シャンリットの格納庫で敵に襲われるとは考えづらいが、万が一ということもある。
 大博物館の所蔵品から滲み出た異界の生き物かもしれないし、シャンリットの街に潜む悪意の具現かも知れない。
 ベアトリスはさっと周囲を警戒する。

「……? 何も、居ませんわね。気のせい?」
「やっぱり悪いことはいかんのですよ……。やめましょうやあ、やめましょうやぁ……」

 だが何も見つけられない。
 ササガネはすっかり萎縮して小さくなって震えている。ベアトリスが見つけられないだけで、ササガネは魔物の本能で何かを感じ取っているようだ。
 ベアトリスがさらに注意を広げようとした瞬間、彼女の影から声が聞こえた。

【気のせいではないぞ、蜘蛛の末裔、我が眷属】
「――ッ、この声は!」

 ベアトリスが戦慄する。
 シャンリットに暮らすものなら知らぬ者は居ない声。
 千年教師長、ウード・ド・シャンリット!

【前線を観察するのに都合の良い依代を探しておったのだ。それがシャンリット――カンプリテ・クルデンホルフの末娘なら申し分あるまい】
「な、何をっ!?」

 ベアトリスが不吉な予感に後ずさる。
 ササガネは頭を抱えて部屋の隅で丸まっている。「諦めましょうやぁ……」というボヤキも聞こえる。完全に気合い負けしている。

 純真な子供のような悪意なき、しかしそれ故に最もどうしようもない暗黒の声がベアトリスに纏わり付く。

【なぁに、少しの間だけ身体を借りるのだ。後で褒美も渡そうぞ】
「か、勝手に決めな――――きゃあ!?」
「ひ、ひいいいい!? ご主人様ーー!?」

 ベアトリスの影から黒い糸――ウードの本体たる魔道具<黒糸>――が飛び出し、彼女を幾重にも取り巻いていく。
 それはまるで闇の絹で出来た繭のようであった。ベアトリスはすっかりと繭に覆われてしまった。
 そしてその繭が収縮し、まるで全身タイツのようにピッタリと締め付ける。中でベアトリスが逃れようと藻掻き、ぐにぐにと闇色の繭が変形する。

「ぐ、うっ……うぅ……!! むー! むぅ~~!!」
【抵抗するな。今は眠れ。夢の国でならお前が敬愛を捧げる主君にも会えよう。七百七十の階段を下り炎の神殿を潜りあやかしの森を駆けて主君の治める国へ往くが良いさ。そうすれば時ならぬ援軍にお前の主君も喜ぶだろう!】
「……ぅくっ! むーむーむ~~!! むぐぅ~……っ、……っ――――」

 やがてベアトリスの動きがなくなり、倒れこむ。
 直後にすぅっと闇色の繭がベアトリスに吸収されるように消えてなくなる。

 そしてベアトリスはまるで何事もなかったかの如く、跳ね上がるように立ち上がった。

「くふふ、ふふふふふ、ふはははははははははは!!」
「ま、マスター・ベアトリス……?」
「馴染む! 実に馴染むぞ! やはりシャンリットの血はよく馴染む! くふふはははははははははっ!!」

 不気味な嗤い声と共に立ち上がったベアトリスに、ササガネは怯えつつも声をかける。
 ぐるりとベアトリスが首を回し、ササガネに狂笑を向ける。
 そのあまりの形相に「ひぃ」と悲鳴をあげてササガネが引く。

「ああ、使い魔のアラクネーか。お前も主のベアトリスの元に行くが良い。別に私に着いてきても構わんのだが、契約の主と居るのが筋だろう」
「え、いや、その」
「【アトラク=ナクアの子供の従属】の魔術によって無理矢理にお前を私の急造の使い魔として従わせても良いのだが――、別に今さらアラクネーの使い魔なんて要らんしな。それにまあ我が末裔の娘を野垂れ死なせるわけにもいかぬ故な、お前もドリームランドへと行けば良いのだ」
「あの、勝手に、そげんこといわれても」
「何遠慮するな、虚無の『世界扉』かゲートの魔術でもって直通で送ってやろう。帰りは適当に頑張れ」
「それってどう考えても一方通行ですよねえ!? 片道切符じゃないですか、やだー!!」
「問答無用。お前と主人の魂を捏ね混ぜて完全なる一心同体の合成獣(キメラ)にしなかっただけでも有難く思うんだな」

 そう言ってウードはベアトリスの声で、時空を曲げる魔術を唱える。
 彼方と此方を繋ぐ魔術【門の創造】によって、空間が悲鳴をあげて歪み、絶対に入りたくはないと思わせるような忌避感を抱かせる穴が開く。
 ウード(in ベアトリス)はレビテーションの魔法でアラクネーのササガネを持ち上げると、その穴の中へと放り込んだ。

「行ってこい!」
「いーやーー!?」

 放り投げられたササガネの悲鳴がドップラー効果を生じて遠ざかる。
 異空の繋がる先はドリームランド。帰り道は不明である。

 ウードは幻夢郷に開いた【門】を閉じると、ウキウキと依り代にした少女の年格好にふさわしい態度で歩き出す(中身は全くそうではないが)。
 邪神と邪教と異形が蹂躙し尽くしたアルビオンの実地調査に赴くのだ、心が躍らないはずがない。邪教がはびこる前と後では、何が変わったのだろうか、何が変わらなかったのだろうか。かつてのシャンリット――アトラナート商会――でも、そこまで徹底的な社会的実験はやらなかった。ああ一体どんな有様になっているのだろうか、白の国は。そして彼らはどのように我ら叡智の蜘蛛の眷属に抗うのだろうか。あるいは彼らの方が我らの上を行くのだろうか。暗躍するカオティック“N”と会うべきか、ああ、折角だから会うべきだろう。ここまでお膳立てされたイベントなのだ、拝謁しに参上せねばなるまい。行く先に何が待とうとも、だ。未知を恐れて何が探求者だ、何が未知なるものの蒐集家か。そもそも破滅を恐れるような者は、千年を経て形を保てはしない。最初から狂気に身を任せはしない。自制など、千年の内に磨り減ってしまった。ウード・ド・シャンリットが躊躇う理由など、もはや何処にも存在しない。

 アルビオン大陸は既にクルデンホルフ領空に侵入しており、徐々に高度を下げつつある。シャンリットは既に大陸落としの射程圏内だ。
 だが当然にして相手の射程内ということは、学術都市シャンリットの射程内にも収まっているということ。
 学術都市の第一撃がそろそろ炸裂することだろう。その一撃は擬神機関(アザトース・エンジン)によるアルビオンを囲う結界を切り裂き、後続の部隊が突入するための橋頭堡になるはずだ。
 ウード(in ベアトリス)の周囲で、突入部隊が整然と準備を始める。
 ――いよいよだ。


◆◇◆


「擬神機関の位置、算出できました」
「ルート検出および、推力プログラム調整終わりました」

 シャンリットの中枢では、第一撃の準備が進んでいた。

「グレゴリオ・レプリカ八万基を励起状態に移行。残り二万八千基を準励起状態に」

 天から垂れる巨大建造物、軌道エレベータ――天空研究塔『イェール=ザレム』の内部。
 そこに格納された十万八千の培養ポッドに光が灯る。
 浮かび上がるのは、千二百年前の虚無の聖人グレゴリオ・セレヴァレを起点に改良を施し続けた量産型の聖人兵器――グレゴリオ・レプリカ。

「聖堂詠唱。虚無魔法『解除(ディスペル)』および虚無魔法『魔法制御(コントロール)』。比率は三対五」

 培養ポッド内の聖人たちが声にならない絶叫を上げる。虚無の魔法の強制使用は、残り少ない彼らクローンの魂を削り切る。所詮彼らは一山幾らの使い捨ての量産品。
 量産によって複製され薄められ分割されたグレゴリオ・レプリカの魂だが、共鳴させることで、瞬間的な大出力を確保できる。
 擬神機関の結界を中和して切り裂くほどの出力を。

「『魔法制御』、引数入力開始」

 グレゴリオ・レプリカ内部に張り巡らされた<黒糸>を通じて指令を下す。

「――対象魔法=“虚無魔法『解除』”」
「――形状=“刃”」
「――基点構造物=“天空研究塔『イェール=ザレム』”」

 『解除』のフィールドが『魔法制御』によって整形され、軌道エレベータに纏わり付き、その全体が鈍く輝く。
 それはデルフリンガーが得意とする、『解除』の刃と同じものであった。違うのは、その規模だけだ。

「爆砕ボルト、点火」
「イェール=ザレム基部、分離します」

 軌道エレベータの基部が爆音とともに切り離される。

「大気制御開始、正弦波打ち消し計算」

 内部に蓄えられた風石を消費し、周辺の風の影響を遮断。
 ぐねぐねと蛇のように波打つ軌道エレベータ本体の姿勢を制御。
 さらに振り子の要領で、落ちながらシャンリットに近づくアルビオンとは逆側にしならせる。

 結界を溶かす『解除(ディスペル)』の刃。
 薄れた結界を叩き割る大質量。

「大陸斬断刀『イェール=ザレム』、いつでも行けます」

 全ての準備が整った。

「オルガ・ルイン長官、発動許可を」

 ウードから軍の全権を移譲されたゴブリンメイジ、オルガ・ルインは一瞬瞑目する。
 彼女の金髪の巻き毛が微かに揺れる。
 だが真面目くさった外見とは裏腹に、心の内では超絶にウキウキ跳ねまわっていた。

(シャンリットの死蔵兵器の一つ、イェール=ザレムをこの手で起動できるだなんて! 大規模破壊兵器フェチの血が騒ぎますわっ)

 この女ゴブリン、大艦巨砲主義者である。
 オルガ・ルイン系統を始め、幾つかのゴブリンの系統には千年前から脈々と受け継がれる業が染み付いてしまっている。オルガ・ルインの場合は大艦巨砲主義だ。
 彼女は深呼吸し、直後カッと目を見開くと、いよいよ命令を下す。

「開戦ですわ。――――イェール=ザレム発動! 大陸を斬断せよ!」


◆◇◆


 静かに、遠目にはゆっくりと、天から垂れる一本の蜘蛛の糸が振り子のようにゆらぁりと、落下するアルビオン大陸に向かって行く。
 だがそれは実際は音速に数倍する速度であった。
 標的のアルビオン大陸も、天からの糸――軌道エレベータ・大陸斬断刀イェール=ザレム――も、両方が巨大すぎて、その速度が実感できないのだ。

 風を切る音は聞こえない。不気味なまでの静けさの中を、イェール=ザレムが加速する。
 周囲の大気を制御し、空気抵抗を無効化しているのだ。
 内蔵された風石機関と慣性制御魔法によって異常なまでに加速するそれが、鈍い『解除(ディスペル)』の光を纏ってアルビオン大陸に迫る。

 そして、見えない障壁にぶつかる。
 アルビオンを覆う結界である。衝撃に応じて、その結界が姿を現す。本来ならば遥か月のゲートからの遊星爆弾によって減衰させる予定だったそれは、未だ健在。
 可視化して、凝縮した霧か雲のようにも見えるそれが、イェール=ザレムの進路を阻む。

 球状に展開された結界に吸い付くようにイェール=ザレムが弧を描いて変形していく。

 ただの質量攻撃ならば、結界が完璧に防いだだろう。擬神機関の結界にはそれだけの強度がある。何となれば落下して惑星に接触するアルビオン大陸の全質量を、結界を柱にして支えることが出来るほどの強度があるのだ。
 しかしシャンリットは、アルビオンに強固な結界があることなど既に知っていた。ならば対策しないはずがない。
 イェール=ザレムは単なる大質量の建造物などではない。
 虚無の聖人数万人を共鳴させたアンチマジック兵器なのだ。遊星爆弾が不発であったために結界が減衰されていなくとも、全く問題無い。

 イェール=ザレムの風石機関が出力を上げ、特に最下端から猛然と加速する。
 如何なる魔力も分解する虚無の『解除(ディスペル)』が、結界をゆっくりと掻き分けるように切り裂いていく。
 粘土の塊を糸で切るように、ゆっくりとイェール=ザレムがアルビオン大陸に近づく。

 お互いの機関が唸りを上げて魔力を放出し、あるいは分解する。
 魔力が相喰みあって消滅するときの虹色の輝きが美しく空を覆う。

 じわじわと――それでも縮尺を鑑みれば相応の速度で――軌道エレベータ・イェール=ザレムは、アルビオン大陸に近づいていく。



 そして遂に――――!


◆◇◆




 蜘蛛の巣から逃れる為に 33.開戦の狼煙は大陸の悲鳴




◆◇◆


「イェール=ザレム、赤熱化開始」
「アルビオン結界抵抗値を再測定、推力調整」
「目標、ロンディニウム近郊」
「事前設定された途上地点にて、調査・蒐集部隊を順次射出する。該当の部隊は射出に備えよ」

 イェール=ザレムは遂にアルビオンに辿り着き、その大地を斬り裂き始めた。
 赤熱化し高速振動する長大な蜘蛛の糸が、地面を溶かしながら斬り進む。アルビオン大陸を直下型の地震が襲い、周辺の断層も活性化する。震動によって大陸の辺縁からは岩塊が剥がれ落ちる。
 進行ルート跡は一瞬だけ、遥か地表まで見える断崖絶壁になり、地下水脈が水蒸気爆発を起こして砕けたり、その水脈が滝のようになって零れ落ちる。
 が、直ぐに断面から、まるでカビが増殖するように何本もの通路らしきものが伸びて、赤熱化して熔けた断面を繋ぎ合わせる。あたかも大陸そのものが生きているかのようである。

「軌跡が修復されていきます」
「アイホートの迷宮概念による自己修復と推定」
「大陸迷宮要塞ですね、やはり全体に迷宮を張り巡らせて要塞化していましたか」
「イェール=ザレムの進行ルート近辺については地図作成出来ています。しかし全容は不明。迷宮が崩落する前に全容を調査するべきかと」
「【アイホートの雛】を宿した調査隊の準備は万端です。アイホートと契約した彼らならば迷宮内でも迷うことはないでしょう」
「では当初からの計画通り、調査部隊を投入するのですわ!」
「了解しました、オルガ長官! イェール=ザレム壁面展開、<ゲートの鏡>内蔵の穿孔魚雷を発射します」

 大陸を切り裂いて進むイェール=ザレムの壁面に射出口が開く。
 そしてそこから現れるのは、先端がギュインギュインと回転する穿孔魚雷。それが全周囲に無数に発射されていく。
 穿孔魚雷は適当なところまで進んでは停止し、内蔵された<ゲートの鏡>を通じて要塞をマッピングする任務を帯びたゴブリンメイジたちを吐き出していく。
 無数のドリル魚雷を蜘蛛の子を散らすように(?)バラ撒きながら、イェール=ザレムは爆進する。

 天から垂れる蜘蛛の糸が進む先は、瘴気漂うロンディニウムのハヴィランド宮殿。
 敵の中枢、動力炉である擬神機関を制圧せんと驀進する。

 だがこれは戦争。
 いつまでもシャンリットのターンではないのだ。戦局は流動的で、お互いがお互いの思惑を持って動く。最悪の状況――自陣営の敗北を避けるために。
 お互いの意思が噛みあい、時には空回り、戦争はまるで生き物のようだ。

 ――要するに、アルビオンも、ただ指を咥えて見ているわけではないということ。


◆◇◆


 アルビオン大陸のゆるやかな落下は、止まってしまっている。
 イェール=ザレムが突き立って、落下する大陸を支えているのだ。

 だが大陸落としのみがアルビオンの武器ではない。

 アルビオン大陸辺縁および大陸下部の断崖に開いた無数の横穴――アイホートの迷宮の開口部だ――から、雲霞のようにヒト型の何かが飛び出してきた。
 それはそのままの勢いで、眼下のシャンリットへと向かって落下……墜落していく。
 まるで雨のように、そのヒト型たちは尽きることがない。
 遠目から見るとまるでアルビオンからシャンリットへ緞帳が降りるようにも見える、それほどの密度だ。
 大陸から飛び降り自殺者たちが落ちていく、猛獣の口から滴る涎のように。

 だがそれは本当に自殺者なのか? レミングのような。

 いいや違う。

 あれは兵士だ。
 千メイルを超える高度から飛び降りても無傷で済むような――そんな人外の兵士だ。
 その証拠に兵士たちは一定の速度で降下している。
 重力加速度に抗っているのだ。
 あれらは空を歩いている!

 ハイランドの野人、イタクァの信奉者、北風の眷属。
 間違いない、ウェンディゴだ。獣じみた歪んだ骨格、はるか彼方からの風の音のような遠吠え、赤く爛々と輝く瞳!
 無数のそれは、クロムウェルの呪いによって真なる血脈に目覚めた風のスクウェアメイジの成れの果て。ワルドの偏在だったもの。
 理性を失い、正気を喪い、赤の女王の魅了に罹った彼らは、空を駆け下りて一路シャンリットを目指す。

 一千万を優に超える空挺部隊だ。
 落ちても落ちてもまだ尽きない。
 一国すべての国民に匹敵する使い捨ての兵隊たち。
 しかも彼らウェンディゴ・ワルドたちは、擬神機関さえ無事ならば、そこからの魔力供給で即座に数千万倍にも分身することが可能なのだ。
 尽きることの無い悪夢の軍勢。
 戦争は物量だと信奉しているのは、シャンリットのみではない。

 偶発的に得た戦力を、アルビオンのシャルル・ドルレアンは積極的に活用していた。
 全ては彼の野望のために。
 ハルケギニアを統一するという、誰の目から見ても兄に負けない偉業を打ち立てるために。
 その第一歩として、ハルケギニアのあらゆる富と智慧の集積地であるクルデンホルフ領シャンリットを制圧する。そうしなければならないのだ。

 本来ならば作戦名『アルビオン堕とし(Falling Albion)』の名前の通り、アルビオン大陸ごとシャンリット直上に落とし、街を押し潰し、グラーキの魔水をシャンリットの地下都市に流し込み、アイホートの迷宮概念で侵食する予定であった。
 だがそれはアルビオン大陸に軌道エレベータ・イェール=ザレムが突き立ったことによって妨害された。
 落ちようとしても、大陸を切り裂いていく軌道エレベータが支えとなってそれより下に落下できない。
 しかし大陸そのものを武器にしなくても、充分に勝算はあるはずだ。
 文字通りに無尽蔵なウェンディゴたち、その他の様々な異形……あるいは神そのもの。
 世界を滅ぼして余りある戦力が、シャルルの手中にあった。
 『アルビオン堕とし』だって、あの蜘蛛の糸――イェール=ザレム――を断ち切ってしまえば再開できる。その工作のための兵隊たちは既に差し向けている。何の問題もないはずだ。そう、そのはず。

 シャンリットからの迎撃は、何故か無い。
 彼らならば、宇宙中に散らばる拠点から転移門を用いて何億もの兵士を集結させることも可能だろうに。
 あるいは大地に張り巡らせた<黒糸>の魔道具を使って全周囲から尽きない火炎や烈風でウェンディゴを撃ち落とすのも訳はないはずだ。

 それなのに何故?

 簡単だ。
 シャンリットは簡単に終わらせるつもりがないのだ。
 セオリー通りにやる必要など、彼らには無い。
 何故なら勝利も敗北も、征服も蹂躙も、シャンリットにとって全ては等価値なのだ。
 ただそれら有象無象の概念より一段高い部分にあるのは、未知というもののみ。
 蜘蛛の連中は今迄に無いような戦争が望みなのだ。
 折角だからあれもこれも使ってみよう――そんなことを傲慢に考えているに違いない。
 いや、あるいはそれは傲慢ですらなく、単なる習性に過ぎないのかもしれないが。


 ウェンディゴ・ワルドの群れが、飢えたイナゴのようにシャンリットの空を埋め尽くす。
 空など見えない。一分の隙もなく空を塞ぐ。
 見えるのは黒く蠢く異形の獣人(ウェンディゴ)のみ。

 やがてそれらが地表に辿り着き、シャンリットの何もかもを根刮ぎにしようとした。

 その時である。

 地響きが轟いたかと思えば、太陽かと見紛うような巨大な光球が飛来し、ウェンディゴの群れの半数を削り熔かした。

 光球の軌跡、陽炎に揺らいだそこから、灰白色の岸壁と青い空が見えた。
 そして見えたのはそれだけではない。
 視界の端に映るのは、シャンリットに蓋をするように被さったアルビオン大陸の更に外側から震動しながら立ち上がる巨大な何かだった。あそこには山しか無いはずなのに、一体何だというのか。


◆◇◆


 山脈が立ち上がっていた。

 シャンリットを囲む一千メイル級の山々――火竜山脈の末端に連なる内のその一つが。

 目を疑うような光景であった。

 山とは動かないからこそ山なのだ。
 それがあろうことか立ち上がり、蠢き、咆哮を上げていた。それは爆音であった。だが、確かに咆哮でもあった。
 “火竜(・・)山脈が竜のように咆哮を上げたところで、何の不思議があろうか”と、そう主張しているかのようであった。

 山裾からは数千メイルに渡る細い――それは本体に比してと言う意味でしかないが――棒状の……否、触手が数百本は伸びている。
 それは灰色で汚らわしくてかてかと光っており、一本一本の太さが、シャンリットの摩天楼一本分には優に匹敵するだろう。その触手でさえも、本体の巨大さに比べればごくごく細いものにしか見えなかった。
 ウェンディゴ・ワルドを蒸発させた極大の火球は、その巨大な触手の先端から、まるで火山が噴火するように吐き出されたのだ。
 次々と地中から触手が引き抜かれる。埋設されたワイヤーを無理矢理引きぬくように、大地を掘り返して割りながら触手が数を増やしていく。引きぬかれた触手の先からはマグマが滴っていた。アレはその触手の先からマグマを啜っていたのだ!
 ざわざわと揺らめき、数を増やす触手たち。それはあまりにも禍々しい光景であった。

 動き出した山の頂きに当たる部分に、二つの光が灯る。
 ――眼だ。竜の目だ。
 そして一際大きな咆哮、否、噴火のような低い轟音と爆音。
 同時に山頂より少し下の地面が抉れ落ちる。竜の顎のような形に山頂を残して。まるでその形が当然であるかのように。

 大山鳴動して竜一匹。
 無数の触手。
 巨大過ぎる体躯の竜。

 ――触手竜。


 大気が震え、地が鳴動する。

 ゆらりと触手たちが鎌首をもたげる。
 そしてその先からまた特大の火球。

 しかし今度は一つではない。

 無数の火球。白熱する空気。
 余波で燃え上がる森林。
 しかし、いかなる技術の賜物か影響を受けないシャンリット都市圏と、結界に守られたアルビオン大陸。

 再び実体ある『偏在』で増殖し、空を埋め尽くし直していたウェンディゴ・ワルドは、やはり鎧袖一触、蒸発した。
 今度は目に見える範囲の全てのウェンディゴの群れが消え去った。
 青い空に浮かぶアルビオン大陸は、熱気でゆらぎ、まるで蜃気楼の浮き島のようだ。

『VOOOOOOOOOO■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■OOOO■■OhhhhhOOOOOOOO■■■■■■OO!!!!』

 耳を塞いでも腹に響く咆哮。

 千年を超えて生きる最初の触手竜。
 封印されし守護竜。
 シャンリットの小神兵器が一つ。
 溶岩を啜ってのたくる魔蟲とのキメラ。


 ――――邪竜イリス、覚醒。


◆◇◆


 一方幻夢郷でも怪獣決戦が佳境であった。

 ピンクブロンドの鱗を持つ多頭の竜(ヒュドラ)が、巨大な顔だけの化物と格闘戦を行なっている。
 ヒュドラの長い首が顔の化物に噛み付く。九本の首の根本には、大変美しい少女が埋まっていた。
 顔の化物の方は、蝸牛の腹足のような底面から悍ましい触手を生やしてヒュドラに巻きつける。ヒュドラの相手の姿は巨大な顔を背負った蝸牛のようだ。

 ――――透き通った桜色の鱗を持ったヒュドラは、ルイズ・フランソワーズ。複製変容術式『九頭竜』によって変容した姿だ。
 ――――対する顔だけの化物は、ヴァルトリ・レプリカだ。遂に彼は本性を表していた。

 虚無の正当なる力を継ぐのに相応しいか、彼女らは全てを賭けて競っているのだ。その身を異形としてまで。

「いい加減にぃ、私を認めろぉ!! ヴァルトリ・レプリカぁああああああ!!!」
『まだまだぁ!! 虚無の理を手にするとは、即ち世界を手にするのと同義! お前のような未熟者には渡せぬ! それでも欲しいというのなら――』
「――力づくという訳ね……。この分らず屋ぁあああああああ!!」

 今こうしている瞬間にも、ハルケギニアには滅びが迫っているかもしれないのに。
 ルイズは歯噛みする。
 この時代に四つの虚無が揃ったのは、神の――ブリミル・ヴァルトリの思し召しではないのか? 邪神に対抗するために。そう思う気持ちもある。

 だが一方で、この対決に心躍る自分が居ることもまた事実であると、ルイズは自覚する。


 自ら手に入れずして、何が『力』か。


 それもまた偽りなきルイズの本心である。

 ルイズが造り上げた城ほどの大きさもあるヒュドラの身体、その首元に埋まる形のルイズは、凄絶な笑みを浮かべる。
 先ほどヴァルトリの巨体に食らいついた際に、幾らか相手の肉を引きちぎった。牙に『魔法制御』で圧縮した『爆発』を凝縮して、相手の防御を貫いたのだ。
 その肉を喰らう。そして自らの糧にする。貪食の蛇。多頭は強欲の証だ、一つの口では到底足りないという強欲さの証。相手の肉を食らうことで、ルイズは枯渇する精神力を補っている。

「おおっ! テメエの相手はルイズだけじゃねえぜ!」
「そうです、私たち従僕も含めて、これ即ちルイズ様の力!」

 イボイノシシの唸り声を思わせる銃声とともに、ヴァルトリの一部に火花がはじけ飛ぶ。その勢いに押されて後退するヴァルトリ。

 銃声の元を辿れば、神刀<夢守>から影の触手を展開して巨大なガトリング・ガンを支えるサイトとシエスタの二人(ちなみにルイズの国民たちとモンモランシーは精神力切れで戦線離脱している)。
 黒光りするのはGAU-8 Avenger。歩兵の守護神、A-10の武器。30mm口径の弾丸を毎分3900発吐き出す化物砲。弾丸含めた重量は2トンに迫る。正直言って人間が扱えるものではない。だがそれでも虚無魔法を凝縮したフィールドを纏うヴァルトリには有効打を与えられない。
 サイトが握る封印刀からは【夢のクリスタライザーの守護者】の触手が何百本と展開され、蔦をより合わせたような有機的な砲台を築いている。それが反動を吸収し、狙いを定めているのだ。

「シエスタ、次!」
「はい、サイトさん!」

 影の蔦で出来た砲台が、過熱したアヴェンジャーを放り捨てると同時に、それは夢の粒子に分解される。
 そしてシエスタが再構成。
 ドリームクリエイション。幻夢郷では精神力と引換に望むものをクリスタライズ可能なのだ。必要な精神力はルイズとの繋がりを通じて下賜されている。

 新たなアヴェンジャーを再度、影の蔦が把持。
 再点火。アヴェンジャーが吼える。

 今度は弾雨は直撃せずにヴァルトリの『爆発』魔法によって消滅させられる。
 そして『爆発』は射線を辿って、サイトたちの方へと迫る。
 細かな爆発が弾丸を喰い潰しつつ迫って来る様は、空飛ぶ龍が追い縋るようで恐ろしい。

「うわっ、逃げるぞシエスタ!」
「了解です!」
「しっかり掴まれよ!」

 即座にアヴェンジャーの把持を放棄し、影の触手を<夢守>に収納して飛び退るサイト。シエスタはサイトに抱えられている。
 直後に彼らが居た場所が文字通りに消滅する。
 冷や汗をかくが、だがこれでイイとほくそ笑む。
 ヴァルトリの注意を分散させるだけで充分な支援になるのだ。

 ズン、と轟音とともにヴァルトリの巨体が吹き飛ぶ。

「余所見とは余裕じゃないの、ヴァルトリっ!!」
『ぬ、う』
「サイトとシエスタだって私の力のその一端! 卑怯などとは言わせないわ――
 ――というか仲間の協力なしに神に勝てるかぁっ!? このバカーー!!」

 ルイズのヒュドラの首の一本がヴァルトリに(ヤケクソ気味に)突進したのだ。
 インパクトの瞬間に輝くヒュドラの牙。虚無魔法によるコーティングだ、それがなければ同じく『爆発』を纏っているヴァルトリ相手に攻撃は通じない。
 そしてまたルイズの牙がヴァルトリの肉を引き千切る。

 さらに本体もヴァルトリにのしかかり、遂には押し倒して組み伏せる。

「マウントポジションー! ここからはずっと私のターン! 勝てば良かろうなのだぁーー!!」
『まだまだ! この程度何のピンチでもない!』
「うるさいうるさいうるさい! 黙って喰われてなさい!」
『ええい、この!』


 さらにさらにそこに――

「お・ね・え・さ・ま~~! あなたの妹にして信奉者、ベアトリスが援軍を連れて参りましたわ! レン高原に住まう【レンの蜘蛛】たち三千匹!
 ああなんて雄々しい姿のお姉さま! そこのそいつが敵なのですね!?」

 使い魔のササガネに騎乗しているベアトリス。ハエトリグモのような脅威の瞬発力で戦場に乱入する。
 それに続くのは大小様々な蜘蛛たち。レン高原に生息する賢くも獰猛な蜘蛛だ。
 彼女は現実世界(ハルケギニア)で意識を身体から追い出されたあと、それらの蜘蛛たちを征服してからこちらにやってきたのだ。

「者ども、掛かれー!!」
【【 ギイィーーー!! 】】

 ベアトリスの掛け声とともに、蜘蛛たちは腹先の糸疣をヴァルトリに向ける。
 そして蜘蛛の糸を射出。
 ヴァルトリの身体を雁字搦めにして押さえこんでいく。

 その間にもルイズはヒュドラの首で間断なく攻撃を加えている。
 ヴァルトリはそちらに対応するのに精一杯で、蜘蛛の糸を『爆発』で焼き切る事はできないでいた。

 桜色のヒュドラによって削り取られていくヴァルトリの肉体。

 急所らしき脈動する内臓器官が、遂に顕になった。

「これでトドメ――!?」
『うぉおおおおおおおおおお!! 鬱陶しい!! そうはさせるか!』
「きゃ!? くぅっ、しまった――」
『この戦いの中で貴様も中々成長した――だがまだ認めてはやれんな』

 だがそこでヴァルトリは反撃。
 一瞬の溜めの後に、特大の『爆発』を炸裂させて、自分もろともにヒュドラ・ルイズを吹き飛ばす。
 そして立ち上がると、膨大な魔力に任せて傷を修復する。

 だがそれを許さない男が居た。

「そこが急所かぁああああ!!」

 平賀才人だ。
 彼は<夢守>から展開した触手を束ねて巨大な刀にすると、いつの間にか張られた蜘蛛の糸を足場にして加速する。
 サイトの身の丈の五倍はあるような闇色の刃が、先ほど垣間見えたヴァルトリの心臓目掛けて進む。
 彼の左手のルーンの刻印が目を焼くような光を放つ。

 そう。
 虚無使いの心臓を、ガンダールヴの刃が貫くのは、必然であり運命なのだ。
 六千年前からそれは決まっている。
 世界を覆う概念であるヴァルトリは、しかしそれ故にその神話の運命から逃れることは出来ない。

「うおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!!」

 運命の後押しを受けたサイトの刃が、ヴァルトリに突き立つ。

『み、見事……。信じられぬが、私の――負けだ』

 粒子に還元されながら崩れ落ちるヴァルトリ。

 その粒子と崩れる肉体が、ルイズの身体と影へと流れ、吸収されていく。
 同時に世界を形作る虚無の理についての認識が、彼女の脳髄と魂を染め上げる。

「これが、虚無の理――くぅっ……」
「ルイズ!?」 「ルイズ様!」 「お姉さま!!」

 ルイズが作り出したヒュドラの身体も、粒子へと還元される。
 残ったのはただの少女でしかないルイズだ。
 そして彼女は地面に倒れこんでしまう。従者たちが血相を変えて駆け寄る。

「すぅ……、すぅ……むにゃ……」
「――寝てる。……ったく、心配させんなよ」
「はあ、寝てるだけですか……良かった」

 戦闘の緊張が切れたのと、あまりに厖大な認識の奔流によって、彼女は気を失ったようだ。
 主人の寝顔に、サイトらは安堵し、温かな気持ちになる。
 命を懸けて戦った報酬が、主人の安らかな寝顔というのも、悪くない。


 ――――何はともあれ。

 戦闘終結。

 継承完了。


 ――――勝者、ルイズ・フランソワーズ陣営!


◆◇◆


「次はどちらだ!?」
「左です!」

 荒削りな坑道を駆け抜けるのは、シャンリットの略奪部隊。
 彼らの小柄な身体は狭い坑道内部では、かえって有利に働いていた。

 ここはアルビオンの地下迷宮の内部。
 入り組んだ上に、行く者を惑わす強力な妨害概念が掛けられた迷宮である。
 迷路の神アイホートの支配領域。アイホートの加護が無ければ簡単に現在位置を失認し、即座に遭難するような場所だ。

 だというのに彼らゴブリンたちは迷いなく足を進める。
 まるで迷宮の中のことなど何もかも分かっているかのように。


 いや、実際のところ、確かにゴブリンたちは迷宮内部で進むべき道を熟知しているのだ。
 ――――その身を恐ろしき【アイホートの雛】の苗床とすることを代償として。
 数名のゴブリンの集団の中で、道案内に声を出している者が居る。そいつの皮膚は不自然に盛り上がり、その下で何かが爬行しているのが分かる。【アイホートの雛】が身体を食い荒らしているのだ。
 そして“雛”が受信機となって迷路の神からの啓示を受け取り、それに導かれて、彼らは迷路の中で進路を見失わずに済むのである。

「先ずはゴーツウッドの【ムーンレンズ】だ! そしてシャッガイからの神殿宇宙船の残骸! 大陸が破壊される前に、何としても確保するぞ!」
「「 了解!! 」」

 他にもゴブリンたちの狙いは幾つもある。
 <グラーキの黙示録>の草稿やメモ、【宇宙からの色】によって異常成長した植物のサンプル、蘇った村人たち……。
 心を躍らせてゴブリンたちは地下迷宮をひた走る。


 その途上で、ゴブリンたちは敵の軍団と遭遇する。
 敵は迷宮の壁に開いた<ゲートの鏡>から次から次へと湧いて出ていた。
 <ゲートの鏡>はアトラナート商会アルビオン支部から接収されたのだろう。
 そしてそこを通って現れるのは、歪んだ骨格の凍てつく風の亜人――ウェンディゴ・ワルドだ。
 ゲートの先で分身して増殖しているのだろうか。際限なく出てくるようにも思える。

「いや、ウェンディゴだけじゃねえな――」
「ええ、ゲートの向こうからは怖気立つほどの神の匂いがします」
「全能白痴の“A”――アザトースの気配だと判断します」
「となると、このゲートは……ハヴィランド宮殿の中枢に直結してるのか!?」
「おそらくは」

 ゴブリンたちは即座に目標を神気が溢れるゲートへと変更。
 先ずはゲートから湧き出す邪魔なウェンディゴたちに攻撃を仕掛ける。

「タイミング合わせろ! 3・2・1――」
「『土弾』」 「『発火』」 「『風槌』」 「『念力』」
「複合魔法『灼熱の杭』」

 聖堂詠唱ともまた異なる方式の複合魔法。
 個々人が使う魔法を一分の狂いもなく組み合わせることによる連携魔法だ。
 『土弾』で迷宮の壁から飛び出した石の杭が『発火』によって熱せられ、さらに『風槌』によって加速され、『念力』で金縛りにされた敵へと向かう。
 完全にコントロールされた灼熱の杭は、過たずにウェンディゴの心臓を貫き、絶命せしめる。心臓が溶けては、いかなウェンディゴとて復活できない。

 何度かそれを繰り返して、ゴブリンたちはゲート周辺を制圧。
 いよいよ息せき切ってゲートを潜る。

 果たしてゲートの先に居たのは――

「ようこそ矮人諸君」

 ――右手にハンマー、左手にペンチを握った、壊れた司祭。
 イゴローナクの大神官、オリバー・クロムウェル。
 ぞっとするような冷気を背負って、彼は三日月の笑みで告げる。

「任務御苦労、さような――」

 だがそれを待たずに、銀閃が走った。

「――ら?」
「獲ったどーー!!」

 クロムウェルの頭が落ちる。
 一瞬の早業で、彼の首は刈り取られたのだ。

 見れば周囲には突入したゴブリンたちとはまた別のチームが居た。
 この部屋に繋がっていたゲートは、どうやら一つではなかったようだ。
 油断したクロムウェルの頭を別働隊が刈り取った。

「最重要標本、クロムウェルの脳髄、ゲットー!!」
「イゴローナクの神官の記憶とか、マジ激レア!」
「早速シャンリットの人面樹まで転送するッス!」
「ヒャッハー!! 新鮮な邪神官の脳味噌だーー!!」
「くっふふふ、あとでじっくり記憶(なかみ)を読ませてもらおう……!」

 首を失くしたクロムウェルの胴体が倒れる間も無く、なんだかやたらとファンキーなゴブリンの一団はまるで嵐のように、神気が濃い方向へ――つまりは擬神機関中枢へ――去っていく。
 最初に相対していたゴブリンたちは、唖然として怒涛の勢いで去っていく別働隊を見送る。
 別働隊の中には、金髪ツインテールの大公令嬢によく似た少女が居たようにも見えたが、きっと気のせいだろう。

「先越されちゃいましたね……」
「……まあ、そういうこともあるだろう」

 呆然としつつやや気落ちするゴブリンたち。

 だがここで彼らは油断するべきではなかった。

 何故なら、墓地の冷気のようなクロムウェルの瘴気は、まるで全く薄まっていなかったのだから。
 クロムウェルの身体は、倒れること無く未だ立っているのだから。
 大邪神イゴローナクは、『首の無い』邪神なのだから。


 首を失ったクロムウェルの身体が、そんな事など全く意に介さずに動き出す。
 次の瞬間、白熱した身体の首無しクロムウェルが振るうハンマーが、油断していたゴブリンの一団をまとめて叩き潰した。


=================================


頭なんて飾りです。
クロムウェル「まだだ! たかがメインカメラをやられただけだ!」

ルイズに強化外骨格・霞と零式防衛術・螺旋を使わせて「あはは! ヴァルトリが咲いた!」という展開(あるいは巨大化してG・螺旋)も考えていたが、お蔵入り。仕方ないね。次あたりからルイズ含めトリステイン陣営もはっちゃける予定。

2012.05.07 初投稿
2012.05.08 誤字修正



[20306] 蜘蛛の巣から逃れる為に 34.混ざって渾沌
Name: へびさんマン◆29ccac37 ID:a6a7b38f
Date: 2012/09/07 21:20
 空が割れて落ちてくる。
 次々と降る岩塊が、シャンリットの摩天楼群を押し潰していく。
 魔法的処置と新素材によって常識外の強度を誇るシャンリットの建造物群でも、シャンリット全てを覆い尽くすような量の岩の前ではひとたまりもない。住民の避難は終わっているのがせめてもの救いだが、彼らが避難した地下構造物もこのままでは無事では済まないかも知れない。それとも強固な結界が敵意を弾くのだろうか。

 岩塊の源は、宇宙から垂れるイェール=ザレムによって上空で宙ぶらりんに繋ぎ止められているアルビオン大陸そのものだった。
 そのアルビオン大陸の内部で、何かが暴れまわっていた。岩塊の落下は、その余波なのだ。

「「 逃ぃがぁしぃまぁせんよぉぉぉおおおお!! 」」
「首なしのくせにどっから声出してんだ、こいつ! 解剖してみてえなぁ!!」
「隊長、同意しますけど、そんなこと言ってる場合じゃねッスよ!」

 アルビオン大陸内部は、迷宮のように張り巡らされた地下通路によって要塞化されている。
 その通路の中で、首の無い僧服の魔人が、軍装の矮人たちを追いかけていた。首無し司祭がステレオ音声で追いすがる。声は魔人の両の掌から漏れているようだ。
 首無し司祭が振り回すハンマーが迷宮要塞の床や廊下に激突するたびに、そこいら一帯が崩壊する。明らかに、その小さな打撃面以上の範囲に圧力が加わっていた。
 そして今もまた、首無し司祭の攻撃が空振り、要塞の床が抜ける。迷宮の神アイホートの加護を受けた迷宮壁を、しかし大邪神の化身となったクロムウェルは、他愛なく破壊する。外側の空の様子が一瞬だけ見えたが、崩壊する瓦礫がに遮られてしまう。

「うわあい、洒落なんねえッス。護国卿クロムウェルのくせに国(アルビオン)破壊しまくりじゃないッスか。看板に偽りありッス」
「国土のみが国にあらずとでも言いたいのかも知れんな。故郷は常に国民の魂の間にある共同幻想にすぎず、その共同幻想があれば国土の実体など無くてもよい、とか思ってるのかも知れん」
「形而上の国なんて天国だけで十分ッス。領土なくして国とはいえず、ッスよ」
「まあな。っと、無駄話はともかく、なんだかんだで生き残ってるお前は凄えよ」
「隊長こそ。……他の奴らは、いつの間にか――どっか行っちゃったッスもんね」

 彼らは六人の小隊だったが、残るのは小隊長と一隊員だけだ。
 他の四人は、クロムウェルが振るうハンマーの錆になるか、クロムウェルの掌に開いた“口”に吸い込まれて消えてしまった。彼らはこの世の何処にも残っていない。どこかに行ってしまった。
 彼らはそれを残念に思っている。大邪神の化身と対峙した経験を、彼らの本体たる“人面樹ネットワーク”にフィードバックできなくなってしまったからだ。仲間の死、自体は別にどうでもいい、ただ大いなる貴重な経験が未来永劫に失われてしまったことを嘆く。

「……魂を捕獲して、蓄えられた知識を絞り出す魔術もあるそうだが」
「ああ、魂雑巾絞りの奴ッスか……コスパの問題でよっぽどじゃなきゃ使わないんじゃなかったッスか?」
「今回、部下のあいつらに適用されると良いんだけどな。この戦争は、あまりにも珍事だ。この戦いの経験を失うには惜しすぎる。飛んでいった魂から、記憶を絞り出さねばな――魂まで喰われて無ければだが」

 クロムウェルの攻撃によって床が抜け、宙に放り出されたが、二匹のゴブリンメイジは崩落する瓦礫を空中で蹴って、なんとか要塞迷宮に復帰する。
 そして崩れ落ちた通路が、蠢く屍蝋の白によって、瞬く間に塗り直される。岩壁は、まるで生き物の体内のような――死体をこね合わせたような――肉壁によって再構成された。
 迷宮を支配するアイホートの、その雛たちが、アザトース・エンジンからの神気を糧に増殖し変異し、迷宮を修復し、そして組み替えたのだ。
 中を行く者たちは、その身にナビゲーターとしてアイホートの雛を寄生させなければ、決してまともに進むことは出来ない、邪神の迷宮である。

「「 あぁあはははははははははあぁああああ!! 侵略者よ、異端よ、我が神の供物となる栄誉を与えよぉぉぉぉぅう!! 」」

 だがより強い神の加護があれば、撹乱程度の迷宮には惑うことはない。
 神を降ろした首無し司祭は、ただただ敵を叩き潰すために前進する。

 二匹のゴブリンは必死で逃げる。
 行き先は体内に寄生させた“雛”が知っている。

「エア・ハンマー!」
「アース・ジャベリン!!」

 苦し紛れに魔法を放つが、全てがクロムウェルの掌に喰われて消える。
 魔法によって発生する現象だけではなく、根本の魔力自体が喰らい尽くされてしまうのだ。
 あらゆる攻撃がクロムウェルの掌に開いた口に吸い込まれ、そして神の鉄槌によって押し潰される。

「……やばいッスね」
「ああ、まじでマズイ」

 ちょっと、アレをどうにか出来るイメージが湧かない。
 生け捕りってのは、更に難しそうだ。

「とりあえず救援要請しません?」
「……誰にだ? ウード様にか?」
「いえ、確かまだ、小神兵器の一柱が待機状態だったはずッス」

 思い浮かぶのは、千年の時を経た魔蟲。
 千年教師長と契約していたかつての使い魔。
 マグマの底でのたうつもの。地を穿つ魔。バロワーズ・ビニース。その名をルマゴ=マダリ。

「……でも、ここ、空だぞ? 来れるのかよ」
「ちょっと“彼女”が背を伸ばせば届くと思うんスけど。確か、何百年前かの時点でも、少なくとも全長一リーグは超えてたはずッスから」
「そうか、しかしそれ以前に、その彼女にコントロール効くのか? 大陸中穴ぼこにされるぞ」
「護国卿閣下を放っておいても同じ事ッス」

 それは確かに、その通りであった。

「それに――時間がねぇッス」
「ああ確かに。腹の中の“雛”が疼きやがる」
「壁が修復するたびに、活性化して言ってるのが分かるッス。このままじゃ、叩き潰される以前に、俺らが壁の材料になっちまうッスよ」

 迷宮で迷わないために植え付けられた“アイホートの雛”が、ゴブリンの体内で活性化しているのだ。
 身体を食い破られるのが先か。正気を失って狂うのが先か。クロムウェルに追いつかれるのが先か。
 あるいは、アルビオンの中枢であるアザトース・エンジンが破壊されるのが先か。

「一先ずは、援軍要請出すか。邪神の司祭(クロムウェル)捕まえるのに手数が足りんし、俺らもいつ死ぬか分からん」
「そうッスねー。重要標本(クロムウェル)の位置情報だけでも更新しとかなきゃいけませんし」

 背後で吹き荒れる破壊の圧力を尻目に、ゴブリンたちは冷静に逃げていく。
 瓦礫の驟雨が、大陸直下のシャンリットの都市に落ちて、摩天楼をへし折っていく。

 まるで世界の終わりが現れたかのような戦争は、序盤から中盤へ――そして終局へと向けて加速していく。
 邪神や亜神が入り乱れるこの戦いは、既に制御を失ってしまっている。
 誰もそれを止められない。



 直後に地震。低く響くアザトース・エンジンの駆動震動とは異なる衝撃。クロムウェルの破壊槌よりもなお強い震動。
 空にあるアルビオン大陸ではあり得ないはずのそれ。
 きっと巨大な魔蟲が、救援要請に従って地下から飛び上がって突撃かましたのだ。

 この混沌とした有様を見て、あの紅い女は笑っているに相違ない。


  ◆◇◆


 ハヴィランド宮殿の一室。
 王杖『ルール・フォァ・アルビオン』を手にした蒼い髪の男が居る。
 アルビオンの亡命摂政、シャルル・ドルレアン。

 彼のもとには、王杖を通じて大陸中のすべての情報が集まっている。

「……何故だ」

 苦虫を噛み潰したような、声。

「何故、こちらの攻撃が通じない」

 アルビオンの最大の一手、大陸墜とし(フォーリング・アルビオン)は、敵の軌道エレベータ『イェール=ザレム』によって吊り下げられることで阻止された。
 そして軌道エレベータの切断工作は遅々として進んでいない。

「くそっ、クロムウェルめ! くそ矮人を追いかけてる暇があったらさっさと『イェール=ザレム』を落とさないか! おい聞いてるのか!? 狂信者ァ!!」
【「「 いひ、いひひひいいひひひひひっ! ぺったんぺったんしましょうねえええええええぇええええ!! 」」】
「聞けよ、おいィ!」

 通信先から聞こえてくるのは破砕音と、じゅるじゅると肉壁が再生する音。
 そして嬉しそうな司祭の狂った笑い声。
 使い物にならねぇ、と吐き捨てるシャルル。

「地上侵攻のウェンディゴ空挺部隊は、膠着……。だが、こちらは時間の問題か」

 邪竜イリスの炎によって焼かれ続けては、また増殖する洗脳済みのウェンディゴ・ワルドたち。
 地上への侵攻は一進一退の状況だ。雲霞のようなウェンディゴが、一瞬で焼き尽くされる。しかしその炎でも決して根絶することは出来ない。そして幾ら小神といえども、その力は有限の範疇だ――アルビオンの抱えるアザトース・エンジンに比べれば。故にいつかは打倒できるはずだ、身の全てを覆うほどの蟻に集られれば、いくら竜とて無事に済まないのと同じだ。
 一応はクロムウェルが崩落させた岩塊と瓦礫によって、シャンリットの地上施設は破壊されているが、それだけだ。制圧するには至っていない。どうやら地面の下に強固な結界があるようだ。
 やはり中枢であるアザトース・エンジンを地表まで下ろす必要があるだろう。その出力があればいかなる結界でも破壊できるはずだ。

「そして、大陸迷宮への侵入者は……全く防げていないな……」

 天から垂れるイェール=ザレムを橋頭堡に侵入する矮人たちの部隊は、アルビオンの勢力を質の点で完全に上回っていた。
 千年の間に蓄積され集約された研鑽の果てに、矮人は全てが一騎当千の達人級の技量を共有している。
 彼らは対神話生物の経験も豊富であるため、クロムウェルのような化身クラスでなければ、矮人を圧倒することは出来ない。
 グラーキのゾンビも、黒い仔山羊も、アイホートの雛の集合体も、スクウェアメイジベースのウェンディゴも……全てが全て、鎧袖一触だった。アルビオンの攻撃は当たらず、向こうの攻撃は必中。身体スペックを限界まで引き出した矮人たちは、神話の化物相手に引けをとらない。


 シャルルの脳内には、アルビオン大陸を這いずる侵入者たちが地図上に光点として示されていた。

 だが次々と、その地図の情報が虫食いのように抜け落ちていく。
 パズルが抜け落ちるように、脳裏に投影された地図が徐々に黒く染まる。

「ちっ、<黒糸>が取り戻されているのか」

 通信に使っていた<黒糸>――大陸に張り巡らされたシャンリットの蜘蛛の糸、カーボンナノチューブベースの魔法の杖――の制御が、矮人たちに奪回されているのだ。
 もともとアルビオン大陸にシャンリットのアトラナート商会が張り巡らせていたのを、インフラとして流用したのが仇になった形だ。
 それによって王杖『ルール・フォァ・アルビオン』による支配が途絶してしまったようだ。アイホートの迷宮支配能力ベースでなら、通信網を再構築できるだろうが、それには時間がかかるし、どうしてもリアルタイム性で<黒糸>に劣る。
 さらに<黒糸>は、アザトース・エンジンからの神気配賦のレイ・ラインとしても用いていたため、制御を奪還された地区では神気供給が遮断されて、おそらくアルビオン勢力の戦闘能力が激減していることだろう。


 何故、何故、何故、こうも上手くいかない?


「くそっ、くそっ、くそっ、くそっ、くそったれ!! 蜘蛛め! 蜘蛛どもめ! 人外の分際で私の覇道を邪魔しやがって!!」

 シャルルの苛立ちのままに、『ルール・フォァ・アルビオン』から汲み上げた魔力を行使する。
 冷気と氷柱が吹き荒れ、部屋を散々に破壊し尽くす。
 執務机も、豪奢な絨毯も、銀の燭台も、それどころか壁すらも打ち抜いて暴虐の限りを尽くす。
 氷の嵐が、宮殿の屋根まで吹き飛ばす。

 それだけのことをして、シャルルは息の一つも乱さない。

「……虚しい。何をやってるんだ、私は」

 アザトース・エンジンから流れる力をもってすれば、この程度の破壊は造作も無いのだ。
 これならハルケギニア人の最高峰である“烈風カリン”をも軽く凌駕するであろう。
 だがそんなものは無意味だ。これほどの力をもってしても邪神の前には歯がたたない。虚しい力だ。

「八つ当たりなんてしても、意味は無い。……まあ、スッキリはしたから良い。対処を、考えよう」

 幾分軽くなった思考で、シャルルは考える。
 頭上で、周囲で、生きた要塞であるハヴィランド宮殿が、湿った音を立てて修復していく。
 悍ましい肉塊が蠢き、穴が埋まり、表面が整えられる。やがて執務室は、何事もなかったかのように平穏を取り戻す。

「とりあえずは迷宮の組み換え。敵の分断と、こちらの戦力の集中だな」

 巣作りド○ゴン@アルビオン。
 分岐、集合、行き止まり、崩落トラップ、部隊集合、待ち伏せ、挟撃。
 シャルルの脳内で次々と指示が出され、アルビオンの要塞が組み替えられていく。

「敵の侵攻を考えなかったのは落ち度だ。そこは素直に反省しよう」

 まさかこのような形で反撃を受けるとは思わなかったのだ。
 しかし地の利はシャルルの側にある。そして数の上でも、アザトース・エンジンによる直近からの魔力供給がある以上はアルビオンにも分があるはずだ。
 充分に戦力の集中を行えば、敵の矮人たちは撃退できるだろう。無尽蔵の物量を持っているのは、今やシャンリットだけではないのだから。

「……ちょっと楽しくなってきた」

 かたかたとパズルを組み替えるように要塞のレイアウトをいじるのが楽しくなってきたシャルル。
 リアル・リアルタイムストラテジーゲーム。相手もチートで、自分もチート。そんな感じ。

「ことここに至っては、焦っても仕方ない。拮抗してから徐々に盛り返せば良い」

 シャンリット勢力とアルビオン勢力の陣取り合戦は、一進一退の様相を呈してきた。
 シャルルの脳内に展開されるアルビオンの立体地図は、シャンリットとアルビオンに色分けされ、まるで二種の粘菌が喰い合って広がるように複雑に塗りつぶされている。
 一部クロムウェルが暴れていると思われる部分は、まるで紙を引き裂くように地図上に断絶線が現れるのでそれと分かる。敵味方に関わらずに破壊しているのだろう、あの狂司祭は。

「――ん?」

 一瞬、『ルール・フォァ・アルビオン』から送られてきた立体地図にノイズが混ざった。
 ……ような気がした。

「気のせいか?」

 それは一瞬のことだったので、よほど気をつけていなければ気付かなかっただろう。
 しかし今シャルルは厖大な情報量をフレーム単位で処理している状態であり、一瞬のノイズであっても気づかないはずがなかった。

「……なんだ?」

 ざ。ざ。ざ。
 ノイズの感覚が短くなる。
 時折立体地図に不可解な影が映る。

 最初は小さな染みのような黒点だった。

 それがノイズが走るたびに大きくなる。

 いや。

「……近づいてきている?」

 小さすぎて不鮮明だった黒点の輪郭。
 大きくなるにつれて、それは何か生物らしきものだと分かる。
 蟲(バグ)、だろうか。いや、人間のようにも見える。

 シャルルは相変わらず要塞を組み変えながら、時折挿入されるそのノイズを気にかける。
 システムチェックに並列してリソースを割いているが、今のところ何も異常は感知できない。
 明らかな異常がノイズとして現れているにもかかわらず、だ。逆にそれこそが、異常事態が進行中であることを強く主張している。

「だが、あまりそちらにばかりリソースを割くわけにもいかない……! ああ、目を離した隙に! 節操ない奴らめ!」

 処理速度が少し下がっただけで、シャンリットの軍勢は、シャルルの対応の穴を突いて、まるで水が流れこむようにして要塞内に広がっていく。
 蟻の大群が入り込むように要塞内を蹂躙しようとする矮人たち。それに対するアルビオンの神話生物。立体地図の粘菌(勢力図)が右往左往する。
 妨害、誘導、遮断、邀撃……。大陸全てへの指示を、殆どシャルル一人で出している。全て一人でやるのは、彼が他人の能力を信用出来ないせいだろう。
 だが、さすがは虚無の血族というべきだろうか、単体で見事に対処している。人間離れした処理能力だった。流石は半神の血脈。シャンリットの側からのハッキングも行われているだろうに、アザトース・エンジンの補助があるとはいえ、平静に対処するのは凄まじいの一言だ。(シャルルの姪であるイザベラ・ド・ガリアもその方面では相当の凄腕なので、あるいは電脳情報戦能力に秀でるのは、ガリア王家の血筋かもしれない。ジョゼフ王の使い魔がミョズニトニルンであるところにも因縁を感じる。)

「くそ、ノイズが……!」

 相変わらず、ノイズが混ざる。
 ノイズは徐々に大きくなり、まるで何かが遠くから近づいてくるような錯覚を思わせる。
 手足をめちゃくちゃに振り乱して走り寄るキチガイのような、ノイズの影。


 ざ。ざ。ざ。ざ。ざ。ざ。


 刻一刻と変化する戦況。シャルルはそれに対応する。
 指揮能力を持った将官を戦域に投入、集団戦闘に+25%の補正。現実を抽出して簡略化したパラメータが表示される。
 アザトース・エンジンからの魔力に飽かせて、シュブ=ニグラスの【黒い仔山羊】の連続召喚。指示は『蹂躙』(細かい指示を出している暇はないので)。混戦地域に叩きこむ。
 アイホートの迷宮概念に干渉、構造を改変。敵の矮人部隊を閉じ込める。――圧殺。


 ざ。ざ。ざ。ざ。ざざざざざざざ――


 ノイズの感覚が短くなる。
 近づいてくる何か。
 気持ちの悪くなる感覚。


 ざざざざざざざざざざざざざっ


 近づいてくる。
 何か、何か、何か、恐ろしいものが。
 手足をばたつかせながら、その反転した瞳を見開いて。

 頭が割れるように痛い。
 知覚の全てが、アルビオンの制御のために費やされている。
 つまり、ノイズはダイレクトにシャルルの頭を貫く。
 ガンガンと脳を苛む『何か』の影。

「っぅ……」

 何か?
 いいやもう分かっているだろう。
 それは敵だ。敵が迫ってきているのだ。
 これは戦争だ。
 なぜ自分だけが安全圏に居られる?
 
 ノイズはシャンリットの攻撃かもしれない。
 あるいは、シャルルの脳が極限のストレスで生み出した幻影なのかもしれない。
 あるいは。あるいは、全くもって人智が及ばない、何らかの『現象』としか定義できないような、善も悪もない、超自然の何かかもしれない。


 ざざざざざざざざざざざざざ、ざざざ、ざざ――――――
  

 ノイズが脳に突き刺さる。
 明滅する思考。
 その中に薄ぼんやりと浮かび上がる、餓鬼の輪郭。

 目を見開いて。
 虚ろな口を大きく開けた。
 怨嗟の顔をしたそれが。

 近づいてくる。

 ノイズが途切れるたびに。

 コマ送りのように。

 バタバタと。
 何かから逃げるように。
 何かを追うように。――シャルルを追いかけるように。

 シャルルの脳に迫って来る。

 顔が。

 絶叫する顔が。ミイラのような顔が。

 色が反転した思考映像。
 迫り来る亡霊のような化物。

 それは正に、シャルルの視点の直前にまで迫っていて――



 ――――ビタっ


 と、脳内のいっぱいに、恐ろしい顔が貼り付いた。

 まるでカメラを覗きこむようにして、それはシャルルの心をジロジロと窃視する。


 落ち着かない気分。息を呑む。
 見られている。
 見られている。
 見られている。


 耐え切れずに、思わず声を上げそうになる。
 だが息が詰まって声が出ない。身体が金縛りにあったかのように動かない。

 その間にも、シャルルの脳内には、その得体のしれない亡霊のような存在が、這いずるように入ってくる。
 ずるり、ずるりと。
 脳内に展開していたコンソールを乗り越えて、それはアザトース・エンジンのファイアーウォールに守られていない、シャルルの柔らかな部分へと近づいている。這い寄るように。


 もはや恐慌が限界に達しようとした時。



「ねぇ」









「うわああああああああああああああ!? あっ、ああああああああああああああああああああ!!」



 唐突に声が響き、シャルルは漸く叫び声を上げることが出来た。
 金縛りから解き放たれて、弾けるように声の元へと振り返る。

 そこには。


「あら、急に大声あげちゃって、一体どうしたの?」
「……ふ、ふふ。な、なんだ、君か」

 赤いドレス、蒼い髪。
 シャルルの妻が、そこに居た。
 魅惑の【赤の女王】が。いつの間に入ってきたのかを問うのは、愚問であろう。

「あら、誰だと思ったのかしら」
「いやまあ、……恥ずかしい話、お化けかと」
「あら、お化けを怖がるなんて、シャルロットじゃ――カミーユじゃあるまいし」
「ああ、まあ、その、なんだ。……はは、ははは」
「もう、相変わらず可愛い人ね」

 そうやって妻と和やかに話しつつも、シャルルは再び、敵の迎撃作業に戻る。
 今の一瞬で、行くつかの経路で押し込まれてしまったが、その通路ごとパージすれば問題無いだろう。
 いつの間にか、ノイズは無くなっていた。
 先ほどまでのノイズは、この、ガリア脱出以降に不思議な魅力を纏うようになった妻のせいだったのだろうか?

 分からない。
 分からない、が、分からないことは聞いてみるに限る。
 聞くは一時の恥、聞かぬは一生の恥。そう言うではないか。

「なあ、ちょっと聞きたいんだが」
「何かしら?」
「さっきここに来るまでに、アザトース・エンジンのシステムに介入しなかったかい?」



「え? 何のことかしら?」

 まるで予想外のことを聞かれた、と言う様子で、紅い衣のシャルルの妻は目を丸くする。
 ゾッとシャルルの背に冷や汗が浮き出る。先ほどの得体のしれない現象は、全く収まっていないのではないか? そう思ってしまう。

「……システムにノイズが走ったんだが――」
「いいえ? そんなことはしなかったわ。むしろ、極力あなたの邪魔しないように気をつけて帰ってきたつもりだったのだけど。あなたも声をかけるまで気が付かなったでしょう?」
「……」

 ざわざわと、執務室の周囲で闇が蠢いているような錯覚を覚える。
 闇?
 いいや、それはちがう。
 それはきっと、蜘蛛の形をしているに決まっている。

 不吉な確信がシャルルの頭をよぎった瞬間。

「あら?」

 ばちゅん。
 目の前の紅い夫人の身体が、バラバラに弾け飛んだ。


  ◆◇◆


 シャンリットの戦闘指揮所。

「……カオティックN、反応分裂します」
「【赤の女王】の反応、四分五裂。39分割」
「なんだ、こんな唐突に。誰が接敵した!?」
「こ、これは――この反応は千年教師長です!」
「な、なんだと!? しかし、確かベアトリス様の身体を乗っ取ったとか目撃情報がなかったか、借り物の身体でそんなマネが――」
「ですが! 未だにこちらでは全貌を捉えきれませんが、『こちらの探査に引っかからずに、しかも邪神を割断出来る人物』なんて、それ以外にありえません!」
「た、確かに……!」

 ざわざわと指揮所の皆が腰を浮かす。
 そして誰ともなく叫ぶ。

「ずるい!!」
「後方で待機してんじゃなかったのかよ!」
「抜け駆けして本命にエンゲージとか! 教師長ってばマジ教師長!」
「末孫の身体乗っとるとかマジ外道! でも!」
「そこにシビれる!」
「憧れるゥ!」

 オシリスの分割になぞらえて、指揮所のモニターの中で、鋼糸によってばらばらにされた【赤の女王】の肉片が水魔法(ナイル川の寓意)によって流されていく。
 かの暗黒の神の最もメジャーな異名は、ナイアルラァトホテップ。エルフ治めるナイル流域の黒い無貌の神。故に主神たるオシリスの伝承の影響から逃れることは出来ないはずだ。
 バラバラにして水に流して封印するというのは、効果的だとは思われる。

 だが、しかし。

「あ」
「あー」
「まあ、一筋縄にはいかないよね」

 そう、邪神がその程度で退散できるはずもなく。

「【赤の女王】消失」
「カオティックN、反応変容……」
「これは――」

 これまでは所詮前座にすぎない。
 ああ、狂気の劇は、遂に今からまさに始まるのだ。
 人間など関係ない、喜劇にして悲劇が。


  ◆◇◆


 再びアルビオン、ハヴィランド宮殿。

「あはははは! やあやあやあ! 我こそは千年生きる叡智の蜘蛛、ウード・ド・シャンリットであーる!」
「貴様……!」
「たかだか亡命者が私に拝謁できる幸運に感謝したまえよ? まあ実際は来る者拒まずなのだがね」

 ベアトリスの容姿で堂々と名乗りを上げる、蜘蛛の化身。
 千年教師長、ウード・ド・シャンリット。
 幼い金髪二つ結びの末裔の娘の姿を借りて、彼は遂にアルビオンの中枢へと辿り着いた。

 対峙する金髪ツインテと蒼髪の摂政。

「折角、あの高名な【混沌】に拝謁しに参上したのだがな、好奇心余ってバラバラにしてしまった!」
「……貴様がやったのか。妻の仇だ。必ず殺す」
「妻のぉ? 仇ぃ? あは、あはははははははは!」

 何がおかしいのか、ベアトリス(ウード)は腹を抱えて笑った。

「何がおかしい」
「いやいや、まるっと全部おかしいさ。あの邪神を未だに妻と呼ぶのか、君は!」
「そうだ。それ以外に、私は彼女を表す言葉を知らない」

 シャルルの言葉に、ウードは感情以外の理性の欠片を見出して、口の端を上げる。

「……はぁん? なるほどなるほど、君がアレを『妻』だと認識する限り――君にとってアレは悍ましい『邪神』ではなく、ただの賢く魅惑的な『一人の女性』になるというわけだ」
「……そうだ」
「くふふふふ、その認識がある限り、アレは本当の影響を君に及ぼせないわけだ。しかし自ら進んで真実から目を背け続けるとは、なんと器用な男なんだ、君は」

 真実から意図的に目を逸らし続けるというのは、ウードの立場からすれば愚行も良い所だ。ウードは好奇心と探究心の権化なのだから。
 だが確かにシャルルのそれは、彼の正気を幾許か守るのには役に立つだろう。無知は罪であるが、しかして時には幸いでもあるのだ。

「そしてまだ訂正点があるぞ、シャルル・ドルレアン」
「ん?」
「仇と言ったが――」

 ウードが不意に飛び退る。

「――あの程度で【這い寄る混沌】が死ぬわきゃあねぇだろーがっ!!」
「な……!」

「ラグース・ウォータル……『ジャベリン』!」

 ウードが居た場所に、氷の槍が突き刺さった。
 水のトライアングル、ジャベリンの魔法。呪文の声は、蠱惑的な女の声。
 紅い衣装の女が、ウードとシャルルの間に飛び込み、ウードへと杖を向ける。

「良くもやってくれたわね」
「くふ、バラバラにしてエルフの神話になぞらえて封じたのに、もう復活したのか」
「その程度で私を封じられるなんて思ってなかったくせに。それに神は復活するものよ」

 ははははは、と白々しく笑い合う人外たち。

「でも少しは効いただろう?」
「ええそうね――」
「おお、おお、無事だったのか! 大丈夫か!」

 四分五裂にされて水で流されたのだ。
 無事であるはずもない。そんなことは分かりきっているだろうに。
 だがシャルルは慌てて自分の妻に駆け寄って、その身をそっと抱きしめる。

 そう、重症を負った妻を気遣う(・・・・・)のは、夫として当然のこと(・・・・・)なのだから。
 人間の限界を超えて復活したということなど、些末事にすぎない。少なくとも、彼の意図的に鈍麻された認識の中では。

「へえ、そうか。肉片から蘇生するという非日常すら認識できないのか、認識しないのか。大した自己欺瞞能力だね、シャルル・ドルレアン」

 意図的な無知。
 気づかなければ、狂気に陥ることはない。
 妻が肉片から蘇ったことになど、シャルルは全く気づかなかった。そういうことだ。そういうことになっている。そういうことにしなくていけないのだ、正気を保つためには!

 ぱたぱたと妻の体を確かめ、何も怪我ないことを確認して、シャルルは安堵する。

「ああ良かった、怪我はないみたいだな」
「あらあら、私がそんな簡単にやられるわけ無いでしょう?」
「ふふふ、そうだな。君にはまるで神様が味方しているかのようなのだったね」

 場違いにも、彼ら夫婦は笑い合う。
 置いてけぼりにされるウード(inベアトリス)。
 だが嗜虐心露わにその茶番を眺めている。

「でも。ちょっともう限界なのよね、あなた」
「え、どうした、どこか悪いのか!?」
「いえね――――」

 俯く夫人。
 垂れる蒼い髪。
 三日月のように釣り上がる口の端。

「――――人の形を保つのが、もう げんかい なの よ」
「え?」

 抱き合った夫婦の内、女の方の雰囲気が一変する。ベールを剥ぐように、隠されていた何かが明らかになる。
 雰囲気が一変する。
 あ、やばい。本能的に危機を察知するウード。しかし、そんなやばいものなら、尚更目の前で見なきゃなるまいという習性で、瞬時に観察モードに移行。

 次の瞬間、夫人の輪郭が崩壊した。


  ◆◇◆


 シャンリットの戦闘指揮所。

「カオティックN、変容しました」 
「化身【赤の女王】消失」

 オルレアン夫人、魅惑の【赤の女王】は、遂にその形を失った。

 ヒトに宿った邪神の力。
 長年使った魅了の波動。
 さらに肉片からの超再生。

 それらに只人の身に耐えられるわけはなかったのだ。
 だからこの瞬間、オルレアン夫人という存在は崩壊し、消滅した。

 だが、邪神が相変わらずに顕現し続けていることには変わりない。
 依代が崩壊せども、邪神は去らじ。

「――反応変容、【赤の女王】から【膨れ女】へ」

 夫人の輪郭は失われた。
 そして現れたのは――。


  ◆◇◆


 ぐちゅり。

 湿った音。
 何か肉袋を潰したような、そんな音。

「【赤の女王】の消滅を確認。カオティックN、変質。――化身【膨れ女】現出! ははは、これはこれは!」
「ぐぅ!? うぅぶぅぁあああああ!? こ、これは!」
「ごめんなさいね、あなた」
「くふふふははは! 愛しい君の妻の末路さ! もはや目を背けることも出来まい。だが、肉と愛欲に溺れて死ねるなら本望だろう?」
「げ、ぼぁ!?」

 ウードが笑う。

 部屋いっぱいに膨れ上がる肉の塊。
 呑み込まれた蒼髪の男。
 ただひとつ、肉塊から飛び出た男の腕には豪奢な王杖――『ルール・フォァ・アルビオン』――が握られていた。
 びくびくと痙攣するシャルルの腕。それも徐々に蠕動する肉塊に呑み込まれていく。

 いや、この執務室の出入口から、ぶよぶよとした肉が溢れて来る。
 押し寄せる肉塊の圧力に、天井が、壁が、ぐにゃりと撓む。

 いち早くバックステップで執務室を飛び出たウード(inベアトリス)は、かろうじてその肉の爆発には巻き込まれずに済んでいた。
 蜘蛛の巫覡の目の前で、元夫人であった肉塊が膨張し、執務室の壁をめりめりと押し広げていく。

「あは、あはははは! 私の中でシャルルが潰れていくわ! なんて気持ちがいいのかしら! 本当は最初からこうしたかったのかも知れない! あははははははははは!!」
「趣味が悪いなぁ!」
「いいえ、いい趣味でしょう?」
「確かに、いやはや全く」

 自分の肉に夫を取り込んで圧殺した女。
 そうしてオルレアン夫人だったものは、喜色満面に高笑う。
 骨が砕け、肉が潰れる音をBGMにして。

 肉塊が増殖し、ハヴィランド宮殿を蹂躙していく。ぶくぶくと肉塊が宮殿に満ちていく。
 ウードは素早く逃げる。床と言わず壁と言わず天井と言わず、外聞もなく走って逃げる。――ただし追ってくるものを見逃さないためにバックステップで。
 ウードが見る先で、全てが膨れ上がる脂肪に呑み込まれていく。

「くふふ、ふふふ! これが【膨れ女】! しかし伝承に謳われるよりも、随分とこれは――」
「いやあ、だって、私の白痴全能の主の波動が漏れ出ているのですもの、これくらいはやってみせないと。ねぇ?」

 いつもより余計に膨れておりまーす。

 きゃらきゃらと笑いながら、姿形が崩れた女が脂肪の雪崩からちょこんと生えて、ウードを追う。
 彼女の主君たる白痴の王の坐す玉座の空気を吸って、急速に膨れ上がる。この宮殿にはアザトース・エンジンからの神気が充分に満ちている。

「くふふふふ! ならば私も見せねばなるまい。折角神に拝謁仕ったのだ、我が千年の研鑽を披露せねばなるまい!」
「あら、何を見せてくれるのかしら?」
「伝承より紐解きし一千を超える退散術式だよ、外つ神よ」

 千の化身を持つ無貌の神。
 這い寄る混沌。今の姿は【膨れ女】。
 またの名を、沙漠のエルフの伝承に曰く、ナイァルラァトホテプ。

 対するは千年患う蒐集癖。
 蜘蛛の巫覡。
 千年教師長。ウード・ド・シャンリット。

「くふ! 私の退散術式は1080式まであるぞ!! どこまで通用するものか――検証させてもらおう!」
「なら試してみなさいな――その程度で神を退けられると思い上がっているのならば。せいぜい楽しませてちょうだい? 退屈は嫌いよ」

 激突。多重詠唱。魔術障壁の相喰み合い。損傷と再生。
 ――そして、全力と戯れ。
 決して語るべきでない、語ってはならない、人外と邪神の闘争(あるいは遊戯)が、ここに開幕した。

 尤も、結果は見えているが。
 あらゆる神話で語られているだろう?

 ――『神を殺すのは人間(・・)である』と。

 そして、ウードという存在は、もはや人間(・・)ではないのだ。それが全て、それが全てなのだ。


  ◆◇◆


「化物を打ち倒すのは、いつだって人間よ」
「そうね、同意するわ、ルイズ・フランソワーズ」
「そう、それは良かったわ、アンリエッタ女王陛下。――それで、貴女はまだ人間なのかしら?」
「うふふふふ。それはそっくり返すわ、ルイズ・フランソワーズ。――貴女こそ、その有様で人間のつもりなの?」

「……」
「……」
「ふふっ」
「ふふふ……」
「「 ふふふふふふふふふふふふふふふふふ…… 」」

 トリスタニアの王城。
 緋絨毯の応接室で、二人の美少女が笑いながらお茶をしていた。だが、華やかな雰囲気とは程遠いのは何故だろうか。薄ら寒い空気ばかりが満ちている。
 応接室は人払いがされており、従者も伴侶も侍女も、二人以外には誰も居ない。いつもルイズに仕えている使い魔サイトも、アンリエッタの伴侶たる心亡きウェールズもだ。

「それで、一体何の用なのかしら? 私のおともだち」
「単なるお誘いよ。血沸き肉躍るアルビオン攻略のね」
「あら、それは奇遇ね。私もちょうど貴女の力を借りたいと思ってたところよ。寧ろトリステイン臣民なら、進んで力を貸してくれるべきじゃなくって?」
「私はトリステイン臣民だけど、それだけでもないんですのよ? 今の私は、夢の国の女王にして、虚無の理の写身……ある意味貴女よりもずうっと偉いのですよ?」
「あら、それは失礼を。でも、貴女が私のお友達であることには変わりないでしょう?」
「……まあそうですわね」

 ルイズを支える地位と実力と自信が、アンリエッタ女王への砕けた態度となって現れていた。
 アンリエッタもそれに気分を害した様子はない。
 それに応じてルイズも肩の力を抜く。牽制しあっても始まらない。時間がないのだ。建設的な会談をしなくては。

「それで、ルイズは一体何をしてくれるのかしら?」
「虚無の理による、全貴族の魔法の底上げを。そして、『夢の卵』による支援を」
「それは有難いわ。ついでに兵たちの錬成も夢の国で行えないかしら?」
「……ギーシュ・ド・グラモンから聞いたのですか? まあ可能ですけれど」

 世界に融けた魔法の理を身体に降ろしたルイズなら、その加護を味方の軍に与えることは可能だろう。ドットをスクウェアにすることも簡単だ。
 夢のクリスタライザーという呪具の力をもってすれば、無限の物資を現実に結晶化出来るだろう。あるいは単なる物資以上のものも。
 時間の流れが異なる『夢の国』でならば、兵士たちの錬成も大きく進むだろう。現実世界における三日の時間で一ヶ月分相当の訓練を施すことなどいつもルイズがやっていることだ。

 しかしそれらを行うことによって、ルイズには何のメリットがあるのか?
 答えはこうだ。

「邪神を駆逐できるのならば、私に否やはありませんわ、トリステインの女王陛下」
「それはそれは頼もしいことですわ、夢の国の女王陛下。でも見返りを求めない献身ほどに、不気味なものもないのです」
「見返りもなにも、私が求めるのはこれが全てです。邪神の駆逐。人間の運命を人間の手に取り戻すこと。それこそが、私の信念、私の夢」

 だからお前たちをこれから巻き込む。
 ハルケギニア人類を徹底的に巻き込むのだ、と。
 ルイズはそう宣言しているのだ。

「……つまり」
「命を懸けろ、ということですわ。――人類全ての生命を、私の戦いにBETして貰うわ。そして当然私は、その戦いの支援は惜しまない。それが責任というものだから。でも、だから、絶対に逃がさないわ、誰一人としてこの生存闘争からは逃さない」
「――ッ!」
「私は邪神に容赦しない。だけど同様に、人類にも容赦しない」

 低い声でルイズが言う。
 その感情の昂ぶりに合わせてか、彼女の影からは、取り込んだ異形のヴァルトリの触手がざわざわと浮き上がっている。
 彼女の威容(異様・偉容)は、虚無の化身・夢の女王と呼ぶに相応しいものだった。

 思わずアンリエッタの全身が総毛立つ。
 どっと全ての汗腺から冷や汗が溢れ出る。
 魅了の力をフル活用し、水魔法の駆使によって半ば人外の領域に足を踏み出しつつあるアンリエッタだが、それでもルイズに比べればまだまだヒヨっ子も良い所だ。
 覚悟が違う、才覚が違う、渇望が違う、経験が違う、視点が違う、血脈が違う、運命が違う、実力が違う、大器が違う、大望が違う、妄執が違う、憎悪が違う。


 ――これが虚無の血脈……!


 アンリエッタは内心の戦慄を必死に隠す。それは女王としての意地であり、またルイズの友人としての矜持でもあった。
 彼女と対等の立場から転がり落ちることは、女王の立場が許さない。屈してしまえば、アンリエッタは二度とルイズの“おともだち”など名乗れなくなるだろう。
 アンリエッタにとっても、ルイズは唯一対等に近い相手なのだ。高貴な血筋、優れた魔法の実力、強い自我、近しい年齢、――互いに共通点のある幼馴染。たとえ痩せ我慢でも、ここでルイズの圧力に平伏する訳にはいかない。どれだけルイズと差があろうとも、それは彼女の意地だった。

「……あら、失礼。驚かしちゃったかしら」
「いいえ。でも心臓に悪いわよ、ルイズ」

 しずしずとルイズは自分の影からはみ出た触手を引っ込める。

「どのみちアルビオンを攻めることに変わりはないわ。力を貸してくれるなら願ったり叶ったりよ」
「ええ、トリステイン軍の錬成も承りました。すぐに女王陛下の軍隊を悪夢の軍勢に仕立てて差し上げますわ」
「……限界を見極めてちょうだいね。私が頼んだこととはいえ、いくらルイズでも私の臣民を壊すことは許さないわ」
「ふふふ、もちろんですわ。夢の世界で一国を治める元首として、国同士の信義は守ります。――ふふ、楽しみですわ。彼らの血筋に刻まれた六千年の共同幻想(誇り)は、きっと必ず、邪神との戦いに役立つでしょう」

 というわけで、トリステイン軍の魔改造フラグが立った訳であった。


  ◆◇◆


「はは、なかなかやるわね、蜘蛛の御子」
「……まさか本当に全ての化身を退散しきれるとは思わなかったがな」
「千余の退散術式を、よくも蒐め、よくも唱え切ったものね」
「次々に変容する【混沌】を観察して、最適解を見つけ続けるのは本当に骨が折れた」
「ふふふ、あんなに熱心に見つめられて、弱いところを突かれて、さすがの私も、もう息も絶え絶えだわ」

 ウードの目の前で、カオティック“N”の身体が明滅しながらその存在を薄くしていく。
 遂にウードは、その身に刻んだ千を超える対“N”用の退散術式でもって、常に変貌し続けるかの存在を放逐することに成功したのだ。あらゆる化身に対応した術式で、遂に邪神を上回ったのだ。
 そんなウードを邪神のNは褒め称える。

「ほんとうに素晴らしいわ。古今東西、君ほどに私のことを解析した魔術師も居ないでしょうよ」
「そうか」
「そうですとも! 今や君は私以上に私を理解していると言っても過言ではないわ! そう、私以上に(・・・・)ね!」
「そうか――――、……。――ッ!! まさか」

 にやにやと厭らしい笑みを浮かべつつも、この世への足がかりを失って消えゆく邪神。
 だがその言葉によって、蜘蛛の巫覡は何かに気づいたようだった。消えゆく邪神の、その悪戯が成功したような笑みによって何かに気づいたようだった。
 驚愕と戦慄、そして自身の失策に対する後悔。だがそれは彼にとって避けられないことだった。全ては邪神の手のひらの上だったのだ。彼が彼である限り、この結末は避けられなかったに違いない。

「知識とは猛毒よ。理解とは変容。何かを知り、何かを理解する度に、魂は知識によって侵蝕されて形を変える」
「――そうだ、知識とは進化だ。知識こそが真価だ。知識を得るたびに魂は深化する。私はそれだけを求めて生きてきた。そんな未練を抱えていたから、死んでも尚死にきれなかった」
「そして未知を既知に変える度に、かつての無知な自分は死んでいく。新たな知識を得ることは、古めかしい自分を殺すことに他ならないのよ」
「そして今もまた、私は気づいた。気付いてしまった――」

 蒙きが啓けるような思いだった。自己拡張感覚。無限の万能感。
 その快感を味わうために、味わい続けるために、ウードは千年を超えて生きてきた。
 その中でも、ウードが今味わっているこの感覚はとびっきりだ。

 知らなかったことを知って、世界が組み変わる感覚。
 自分というものが解体されて、もっと大きな自分へと進化する感覚。
 薄皮一枚下の世界の真実を知って、自分も世界も何もかもが裏返るようなその感覚!

 ウードは、混沌の邪神との戦いを通して自分がどうなってしまったのか、漸く観測した。

「さあ、もう答えは出たんでしょう?」

 消えゆく邪神は嬉しそうに笑う。
 そして分かりきった問いを投げかけた。


 ――――這い寄る混沌を解体し尽くした君は、混沌を理解し尽くした君は、一体何に成ったのかしら?


 そんなものは決まっている。太古の昔から決まっている。
 闇を見続けたものは、闇に呑まれるしか無いのだ。混沌を理解することとは、混沌と同化することなのだ。
 ウードがあらゆるものを蒐集する限り、この結末からは逃れられなかったに違いない。【混沌】と相対した時点で、この結末は決まっていた。ウードは混沌を前にして、その好奇心を抑えきれずに自ら泥沼に沈むしかなかった。

 だが、それはあるいは望むところだったのかもしれない。


  ◆◇◆




 蜘蛛の巣から逃れる為に 34.敵を知り己を知ればなんとやら、いつの間にやら敵も己も混ざって渾沌




  ◆◇◆


 カオティック“N”:反応消滅

 ウード・ド・シャンリット:反応変容→消失

 カオティック“N”:再出現。化身【チクタクマン】version Eudes(ウード)


 ようこそ最新の混沌の化身。
 千の姿持つ無貌の神の末席に加わった新たな化身よ。
 機械の王よ。黒い糸の塊よ。大地全てを覆う蜘蛛の巣よ。

 世に混沌の在らんことを……。

 エミュレーション、スタート。
 その魂に刻んで憶えて蓄えた、総ての【混沌】の化身を再現せよ。
 アザトース・エンジン、フルドライブ。<黒糸>に直結。

 【チクタクマン】ver.E、限界測定のための試運転を開始します。


=================================





成ッ! 仏ッ!
ウード・ド・シャンリット 成仏ッッ!

長らく間が開いてしまい、すみません。なんか微妙に調子取り戻せてないですが、一応こんな感じで一つ。

第一部終了後も続いていた、ウードくんの長い永い後日譚はここで終了?
きっと彼は混沌に呑まれて成仏して、その混沌の中の全知の知識を漁ってうっひょーしてるはず。
……うむ、本望叶ってハッピーエンドですな!(断言) 初めて書いた小説の主人公だから思い入れあるし、やっぱり幸せにしてやらないとね!

しかし彼の物語が終わっても、このイカレタ世界は続いていきます。
ルイズ頑張れ、ジョゼフ頑張れ、ヴィットーリオも頑張れ、ティファは――ああ、うん、死ぬなよー。
あとサイトは超絶頑張れ、そう“蜘蛛の巣から逃れるために”。
ほんと皆さん傍若無人なオリ主の後始末とかマジ同情しますスミマセン犯人は私です。

次回「裏返るアルビオン」。
もうちょっとだけ続くんじゃ。


cf:シャルル・ドルレアンの特殊技能
【意図的な無知】
SANチェックを後に控えたアイデアロールについて、成功判定を任意に失敗判定に変換できる。つまり、恐ろしい神話的真実を、見なかったことに出来る能力。……だが、一度真実に気付いてしまうと、これまで気づかないふりをしていたSAN減少が一気に襲い掛かる。

2012.09.07 初投稿



[20306] 蜘蛛の巣から逃れる為に 35.裏返るアルビオン、動き出す虚無たち
Name: へびさんマン◆29ccac37 ID:a6a7b38f
Date: 2013/03/11 18:39
 【チクタクマン】と呼ばれる混沌の化身が存在する。
 その世界において、最も複雑な機械を依り代にして顕現する化身である。
 機械の王。デウス・エクス・マキーナ。はたまた、進みすぎた科学に宿る邪悪な警鐘。

 明確に物理的な存在に依存して顕現する、という意味では、ある意味では与し易い化身といえるかもしれない。
 何せ【チクタクマン】を退治するのには、呪文も魔法陣も要らないのだ。
 何故って、実体があるということは『壊せば、壊れる』からだ。なんとも分かりやすい対処法である。

 ――――もっともそれは……壊すことが出来れば、の話しではあるのだが。


  ◆◇◆





 蜘蛛の巣から逃れる為に 35.裏返るアルビオン、動き出す虚無たち




  ◆◇◆


 ハヴィランド宮殿。
 その半ば崩壊した廊下にて。

 つい先程まで、千変万化の混沌の化身と、叡智の蜘蛛の魔術師が死闘を繰り広げていた場所でもある。

 豪奢な調度は、押し寄せた脂肪の塊によって無残に轢き潰されている。
 そして廊下の壁は内側から押し広げられるように変形していた。
 それらは全て、オルレアン夫人から転化した化身――【膨れ女】の暴威の痕だ。

 そこからさらに進むと、廊下はまた別の破壊の様相を見せる。
 焼け焦げ、裂け、腐り、凍り……。
 様々な破壊の痕跡の中には、空間ごと全く消滅したかのように綺麗に刳り貫かれていた部分もあった。
 この生命要塞と化したハヴィランド宮殿は、それ自体がアザトース・エンジンから漏れ出る神気によって強化されているはずだ。
 堅牢なはずのそれであるのに、一体何をどうすればこのようなことになるのだろうか。
 一体何種類のバケモノが戦えば、こんな有様になるのだろうか。
 幾百の化身が顕現すればこんな有様になるというのか。

 人智を超えた破壊の跡がそこにあった。

 それでもさすがは生命要塞。
 既に傷痕は塞がりつつある。

 めりめりと音を立てて漏れ出る瘴気とともに徐々に修復していく生きた廊下のその先に、彼女(ソレ)は居た。

 金髪を二つ結びにした、野戦服の娘。
 俯いた顔を見れば、高貴な雰囲気を窺わせる顔立ちをしている。
 その顔立ちからして恐らくは貴族なのだろうが、汚れてほつれた野戦服が、どうにもミスマッチだった。

 いや、一番ミスマッチなのは、彼女が身にまとう空気だ。

 怖気立つほどの暗黒。
 目を背けたくとも、釘付けにして離さない恐怖。
 侵食して感染する狂気。

 ヒトの身に余るほどのそれらを、彼女は背負っていた。

「ふふ、うふふふふふふ」

 愉悦を堪えられないというように、その貴族軍人の少女の口から忍び笑いが漏れる。
 そう、彼女(ソレ)はようやく、長年永年積年の悲願が叶ったのだ。
 念願の、最新の、待望のおもちゃを手に入れたのだ。

 彼女の名前はベアトリス――だった(・・・)。
 その名は既に過去形だ。今は違う。それはもはや彼女の名前ではない。
 なぜなら中身が、存在が、違ってしまっているからだ。

「うふふ、あはっ」

 今の彼女を名付けるとすれば――【チクタクマン】version Eudes(ウード)。
 元の体の持ち主であるベアトリスは、知識の探求に狂った先祖に身体を乗っ取られ(彼女自身の魂は幻夢郷ドリームランドへ放逐された)、さらに、その先祖も探求の果てに、憑依していた彼女の身体ごと【這い寄る混沌】に呑み込まれてしまった。
 そして彼女の身体は、内側に張り巡らされた魔導具の糸ごと、【チクタクマン】の依代となった。
 もともとの身体の持ち主だったベアトリスにとっては、なんとも哀れな話であった。放逐されたベアトリスの魂は、幻夢郷で生きているだろうから、きっと自分の肉体の有様を見たら嘆くだろう。あるいは逆に嬉しがるか? ベアトリスもまた、叡智の蜘蛛の血脈なのだから、本懐を遂げた先祖の有様を敬意とともに見つめるかもしれない。

「ふうっ……。――んんっ」
 
 恍惚に身を震わせて、少女の形の【チクタクマン】が身を掻き抱く。
 その途端に、少女を覆う暗黒が薄れた。彼女の身体に吸い込まれるように溶けて消えた。まるで深呼吸するように、周囲に浮いていた曖昧な闇を吸い込んだ。

 そして次の瞬間の変化は眼を見張るものだった。

 間欠泉のように闇がまた噴き出た。

 それに合わせて、二つ結びにしていた髪留めがはじけ飛び、艶やかな髪がふわりと垂れ下がる。
 そしてまるで夜が訪れるように、噴き出る闇によって彼女の髪は金色から夜色に染まった。
 黒髪に呼応して、野戦服は闇に覆われて消え去り、その代わりにこれまた漆黒のドレスが彼女を包む。

 その姿はまさに闇の貴婦人と呼ぶに値するものだった。

 ……『貴婦人』とはいうものの、邪神に性別などないから、正確ではないかもしれない。
 これは貴婦人などと呼ぶには生ぬるい、もっと悍ましい何かだった。

 だがまあ、老蜘蛛に取り憑かれた挙句に邪神の依代になったものの、大元は少女だったのだから、一先ず貴婦人ということにしておいて恐らく問題なかろう。
 そういえば、オルレアン夫人も、その容姿をそっくり奪われて成り代わられてしまっていた。
 無貌の神たる【ナイアルラァトホテプ】は、無貌であるがゆえに、依代の姿を乗っ取らざるをえないのかもしれない。

 【チクタクマン ver.E】(元ベアトリス)の変化は外見の変貌にとどまらなかった。
 ざわざわと彼女の黒髪――実はこれこそが【チクタクマン ver.E】の本体たるカーボンナノチューブの魔導具〈黒糸〉なのだが――が伸びて、生命要塞たるハヴィランド宮殿の床に接触(アクセス)する。
 気持ちの悪い、瘴気を孕んだ風がぶわっと彼女を中心に吹いた。彼女に吸い込まれた闇は、彼女の中で凝縮され、そして〈黒糸〉の接続を介してハヴィランド宮殿へ、そしてアルビオンへ、さらにアルビオンから世界へと拡散していくのだ。

 床が気持ち悪い淀んだ色で波打った。
 空間に波紋が広がるような錯覚。
 世界を侵す混沌の波動。

 広がる暗黒の行方も見ないまま、ベアトリスの形をした【チクタクマン ver.E】がその白魚のような繊手を、未だに蠢きながら再生する生命要塞の廊下の奥へと伸ばして何かを招く。

「王杖よ、この手に来たれ」

 破壊の跡が治った廊下の、その奥へと伸ばした手の中へ、アルビオンを統べる王杖〈ルール・フォァ・アルビオン〉が飛び込んでくる。
 それは【膨れ女】に呑み込まれたシャルルの手からこぼれ落ちたものだ。
 直ぐに王杖は彼女の手にぴたりと収まった。

 【チクタクマン】は王杖を振って、杖に纏わりついていたドス黒い血と黄色く濁った脂肪を振り払う。シャルルの肉片だろうか? それとも【膨れ女】の?
 さらに【チクタクマン】は即座に王杖にも〈黒糸〉を侵蝕させて、その制御を奪取。

 【チクタクマン version Eudes】の権能は、“支配(ハック)”と“模倣(エミュレート)”。
 故にこの程度は朝飯前だった。

 そして王杖を通じて大陸を掌握すると、クルデンホルフ/シャンリットのゴブリンたちへ、また、首無し司祭のクロムウェルを始めとするアルビオンの軍勢へと、一斉にチャンネルを開く。

「クルデンホルフ、アルビオンの両部隊に伝達。――即座に戦闘を終了しなさいな。今回の戦争の時間は終わりよ」

 即座に、交戦中のすべての部隊に対して、戦闘停止を命令。
 こんなところで小競り合いするよりも、もっと楽しいことがあるのだから。
 例えば虚無の血脈を相手取った、絶望塗れの世界戦争だとか。そう、次の戦争が待っているのだ。

 だが【チクタクマン】の命令に従わない者も居る。
 大陸中に張り巡らされた<黒糸>が、妙なステレオ音声を拾い、そこに込められた拒絶の意思を伝えてきた。
 クロムウェルだ。あの首無しの司祭だ。

『『 おやおや、まさかシャルル殿は敗れたのですかぁー? そうだとしたら尚更、そんな命令は聞けませんよー? 遺志は継がねばなりませんゆえ! 』』

「……イゴローナクの走狗か。悪趣味が極まった品性下劣なロートルの手下は引っ込んでいなさいな」

『『 何を! 我が神を侮辱するか! ――ぬ、地面から<黒糸>が。ええい、邪魔だ。この程度でイゴローナク様のパゥワァーを押さえられるとでも…… 』』

「押さえるんじゃない、同化するんだ。大邪神イゴローナクのパワーは除けずとも、それを使ってるお前の意識程度はどうとでも出来るということだ。乗っ取ってしまえば良いのだよ」

『『 な――!! 』』

 遠く離れた場所でクロムウェルの足元の大地から伸び上がった<黒糸>が、クロムウェルを難なく呑み込むと、その夜色の繭に彼を閉じ込めていく。
 クロムウェルはその両手に開いたイゴローナクの口で、闇の繭を吸い込んで消滅させようとするが、それよりも<黒糸>がクロムウェルの身体に干渉する方が早かった。
 その様子を楽しそうに【チクタクマン】はモニター越しに覗いている。

『『 ぬ、ぐぐ、ぬぅうううううぅぅぅぅ…… 』』

「暫く黙ってなさいよ、護国卿のクロちゃん。その身体は後で何かに使わせてもらうからさぁ、うふふ」

 ハンマーを振り回して暴れるクロムウェルだったが、黒い繭はまるで破れず、ますます締め付けるのみだった。

 このように、従わなかったものへは、〈黒糸〉で侵蝕。同化して半ば傀儡化し、無理矢理にでも動きを止めていくのだ。
 大陸の至るところでそのような光景が繰り広げられていた。
 その対象はアルビオン勢力だけではない。
 大陸に突っ込んだシャンリット側の大怪獣――地底魔蟲のルマゴ=マダリと触手邪龍のイリス――もまた、確実に制御するためにと、闇の繭に覆われてしまった。



 そしてやがて、逆らう者は居なくなり。
 ここに、『大陸堕とし』から始まった一連の戦争は終結したのであった。
 その大仰な始まりの割りには、なんともあっけない終わりであった。

「これでよし、あとは……。ふぅん、アザトース・エンジンは随分と下のほうなんだねー」

 さらに続いて【チクタクマン】は、王杖を通じてアルビオンの内部を把握。
 中枢たるアザトース・エンジンの位置を割り出す。いかな生命要塞と言えども、流石に中枢の位置までは自在とはいかないらしい。摂政シャルルが最後っ屁で内部をいじっているかもしれないと彼女は考えていたが、杞憂だったようだ。
 王杖を通じて、エンジンの出力を臨界まで上げるよう指示しつつ、【チクタクマン】はそこへと向かう。

 と言っても歩いて向かうわけではない。何しろ【チクタクマン】は黒い糸の化身。
 人の形にも、人らしい手段にも、拘ることはない。
 風情と不自由を楽しみたい時は歩いて向かうが、今はむしろ新しい<黒糸>の身体の具合を確かめるほうが優先であった。

 【チクタクマン】の身体が、黒い細かい糸へと分解されていく。
 少女の形が、まるで編み物を解くように端から解けて失われる。

 人の形を失った黒い糸は、しゅるしゅると床に吸い込まれ、溶けるように消えた。


  ◆◇◆


 その少し前。【チクタクマン】による停戦命令直後のことだ。
 アルビオンに突き刺さった大陸斬断刀〈イェール=ザレム〉の中は、静かな困惑に満ちていた。

「……停戦命令……?」

「これからだって時に?」

「なぁんか、教師長らしくないよなー……」

 ゴブリンたちは囁き合う。

 彼らの中に根を張るか細い魔法の杖〈黒糸〉に、何が宿ったのかも知らずに。
 ただ彼らも、体の内側から――〈黒糸〉から――生じる、何かのざわめきを感じている。
 魂を震わせる、何かの波動。安心するような、怖いような……――這い寄るような闇の鼓動を。それを感じていた。

「……何にしても、まだ何も終わってないっぽいよね」

「うむす。きっと、もっと楽しいことが始まるに違いない」

「何が起こるかわからないって、すっごいワクワクするよね」

 そう言って、何かを期待しつつも、ゴブリンたちは待機を続ける。

 期待が叶う時は近い。
 そりゃもうすっごいことが起きるだろう――

 ――世界が滅ぶレベルで。


  ◆◇◆


 視点は戻り、アルビオン内部。
 動力炉である擬神機関(アザトース・エンジン)をモニターする制御室。
 そこでは白衣の男が、勝手に上がっていく炉の出力をどうにかしようと右往左往していた。

「あわわ、こ、このままじゃ、炉が持たないぞ! くそ、なんで急にこんな」

 そこに地面から細い<黒糸>が煙が湧き上がるかのように伸び、撚り集まってヒトガタを織り上げてゆく。
 【チクタクマン ver.E】が、突如として出現したのだ。
 直ぐに【チクタクマン】が消えたときとは逆回しにしたかのようにして、少女の姿をしたアバターが作り上げられた。

「ああああ、これじゃ暴走しちまう! ……って、おや、お嬢さん、何処から入った? いま取り込み中なんだ」

 あまりに一瞬の再構成だったので、白衣の男はその少女が急に現れたかのようにしか思えなかった。

「ぅん。久しいな。コナン・オブ・サウスゴータ技術主任」

 誰だ、この少女は?
 コナン・オブ・サウスゴータ技術主任は、馴れ馴れしい態度の黒髪の少女に対して疑問に思う。

 彼は作業服の上から白衣を羽織っており、その頭からは【シャッガイの昆虫】の鞘翅が、まるでウサギの耳のように生えている。ちなみに、ティファニア王女の筆頭侍女のマチルダ・オブ・サウスゴータの夫でもある。
 疑問に思う心とともに、彼の脳に巣食う半物質の昆虫の翅がぱたぱたと羽ばたいた。どうやら瞼の動きとも多少は連動しているようで、翅がパタつく度に瞼が瞬く。

「ああ、この姿では分からんか、サウスゴータ主任。時間があればまたフルートの演奏でも聞かせてやるのだがな、あの混沌の調べを」

「はあ……? って、それ、王杖じゃないか! 何故それを君が持っている!」

「決まっておろう、私が今のアルビオン国王じゃ、ふぉっふぉっふぉ」

 おどけて【チクタクマン ver.E】が豪奢な王杖を鼓笛隊のバトンのように振り回す。
 少女の手の中でくるくると回転する王杖を見て、サウスゴータ主任は血相を変える。
 なぜなら、杖が回転する度に何かの信号が炉の制御基盤に伝達されているのか、臨界に向かって――いや臨界を超えんばかりの勢いで、アザトース・エンジンがどんどんと出力を上げているからだ。

「ちょ、それ以上はマズイ! 痴愚神の神殿への門が完全に開いてしまう!」

「よいではないかー! よいではないかー! あはははははは!!」

「この、やめろというに!」

 サウスゴータ主任が、杖を回す少女に飛びかかる。
 しかし、床から伸びる〈黒糸〉が主任を床に五体投地でびたりと縫い止めた。

「ぐっ!? これは〈黒糸〉か?」

「ふ、ふふふ。そのゲートの先の神殿からの空気を吸い込むのに、いや我が主の匂いを嗅ぐのに、こんな鍵穴程度の神気の通り道でどうしろというのだ? さあ、扉を開け! 門を開け放つのだ! いあいあ、あざとす!」

「何をする!! やめろ、その制御基盤は――」

 今にも暴走しそうなアザトース・エンジンは、制御基盤の安全装置のお陰でかろうじてまだ均衡を保っている。
 だが、それに焦れた【チクタクマン】が、明らかに重要そうな雰囲気を醸し出す制御基盤に向けて、王杖を振り上げた。

「せえのぉっ!」

「やめろぉおおお!!」

 サウスゴータ主任の制止の声は届かない。というか主任の身体は、拘束の〈黒糸〉からの侵蝕が進んでおり、既にろくろく動かすことも出来ない。

 【チクタクマン】が制御盤へと、何らかの力場をまとった王杖を思いっきり叩きつけた。
 そして連打、鉄槌、破壊。

「これを、こうして! でりゃ! こうしたらっ! そぉい! どうなるかなっと! おりゃ!」

「あ、あ、あ、ああ、あああ! な、なんてことを!」

「うむっ! これでヨシ! さあトドメだ! うぅぅぅぅぅらぁぁぁあああああああっ!」

 一際大きな音を立てて叩きつけられる王杖。
 その下には、完膚なきまでに破壊された制御基盤。
 それによって遂に最後の安全装置が外れたのか、アザトース・エンジンは臨界超えへ向かって暴走を始めてしまう。

「やはりこの程度のリソースは確保せんとね。腹が減っては戦ができぬ、ってね。アザトース様の神気美味しいなりぃ。ひはは」

「な、な、な、何をしやがりますか! このアマ! こんなコトしたら、ここいら一帯の宇宙法則が――」

「ああ、ダイジョブダイジョブ。ほどほどにしとくから。眠れる痴愚神のお守りはお手の物よー、はっはっは」

「信用できるかー!」

 とかなんとか漫才じみたやり取りをしている間に、いよいよアザトース・エンジンが臨界を超えた。

 それは終末の合図。
 世界の終わり。



 が こん、



 と大きな歯車が動いたような、そんな決定的で致命的で破滅的な音が、魂に響いた。

 沸騰する混沌の核、まどろみを貪る最強の痴愚神の間へと通じる門が――――開いたのだ。開いてしまったのだ。

 圧倒的、ただひたすらに圧倒的としか言えないエネルギーが溢れ出す。
 常人では、たとえアザトースを信仰する異種族であっても、魂が消し飛ぶことは避けられないほどの圧倒的エネルギー!
 さらにエネルギーだけでなく、宇宙の法則を裏返す、原初の痴愚神の圧倒的な認識思念が押し寄せて、周辺の空間ごと破壊する。

 眠れる痴愚神が見る夢が、現実を侵食する。
 宇宙を裏返す。現実が裏返る。

 しかしそれも邪神ナイアルラァトホテプの化身たる【チクタクマン】にとっては、慣れ親しんだ、春の日差しのように心地よいものにすぎない。

「うわ、うわああああああっ!? ひぃいいいいいいい!?」

「キターー!! これよこれ! パワーがどんどん溢れてくるわっ!」

「あ、あばばばばばば、あががががががががが――」

「きひひ、アルビオンの民よ、シャンリットの下僕どもよ! 己に相応しい形へと、己が欲望に従って、新たに生まれ変わるが良い! 魂を解き放て! そして共に世に混沌をもたらそうではないか!! この甘美なる痴愚神の息吹を、己が身に根を張った<黒糸>から存分に吸い込むが良い!! あーっはっはっは、ふははははははっ!」


 宇宙の 法則が 乱れる!


 【チクタクマン】の高笑いが響く中、サウスゴータ主任の身体がどろりと溶けてスライムのようになった。
 これは彼の身体が、崩壊した精神に相応しい形になったということだ。
 崩壊し尽くした主任の魂は形を保てず不定形になり、そして失った要素を求めるために貪食のスライムの形をとったのだ。

「ふぅん、スライムパックというのも乙なものよ。美肌には良いかも知れぬな。さて、カオスが溢れて何とも私好みになってきたことだ」

 恐らくはアルビオン全土で似た様な現象が起こっていると考えられる。
 つまり束縛から逃れたいものは怪鳥に、圧政を打ち破りたいものは暴竜に、神を求めるものは神の形に――。
 抑圧されたものはその欲望の形を解き放つのだ。

 これらは全て、白痴の魔王アザトースの玉座へと繋がったお陰である。
 世界の法則が変化し、物理的なものから、よりアストラルなものへと傾いたせいだ。
 かの神のまどろみの寝息が、一切合切の全てを台無しにした。

 アザトース・エンジンの暴走によって、民も神話生物も区別なく、その欲望に沿った異形へと転じるように、世界が改変された。
 なんと、六千年前にマギ族がエルフの半分と自身らを捧げて成した世界改変を、アザトースは玉座から漏れる空気だけで成し遂げたのだ。
 最強の痴愚神は、そこに在るだけで世界を変えるのだ。

 いや、改変されたとは正確ではない。
 これは単に、現実を覆っていた薄っぺらいヴェールが剥がされただけに過ぎない。



 世界とは元からこうだったのだ。



 人間だけがそれを忘れて――いや、気づかないふりをしてきたに過ぎない。
 原初の世界とは、このように混沌としたものだったのだ。

 痴愚神の寝息が、その儚いヴェールを吹き飛ばしてしまったのだ。

 今ここに地獄の釜は開いてしまった。
 その影響は今のところアルビオン周辺に限定されているようだが、惑星すべてを飲み込むのも時間の問題だろう。

 ハルケギニアの危機は終わらない。
 喜劇にして悲劇の第一幕は終わったが、恐怖劇にして英雄譚たる第二幕は、幕間も入れずに開演した。

 生きとし生けるものよ恐怖せよ。

 生きとし生けるものよ抗うが良い。

 神の戯れでお前たちは生まれたのだから、神の戯れのために死ぬがいい。
 それが道理というものなのだから。


  ◆◇◆


 一方アルビオンの町々村々、そのうちの一つにて。
 これは、ハヴィランド宮殿から不気味な風が吹き、世界が決定的にズレたあとの、ありふれた出来事の一つだ。

「おかあさん、おかあ、さん……どこぉ……ねぇー……」

 幼い子供が母を探す声がする。

 その声から逃れるように、若い女性が粗末な小屋の物陰にうずくまっており、必死に口に手を当て、声を押し殺している。

(ううううう、うううううううううう、早く、早く何処かに行って――)

「おかぁさーん……どこぉ……」

 相変わらず子供が母を探す声がする。

(いや、いや、いや、来ないで、来ないでっ)

 ずん、ずん、と地響き。
 その地響きが、幼子の声とともに隠れている女性に近づいてくる。近づいてくる。
 その度に、女性の目から恐怖と緊張の涙が溢れ、嗚咽混じりの声が漏れる。

「……? おかあさん、そこに、いるのー……?」

(ひぃっ!? いや、いや、やだ……!)

 ぎしり、と彼女が隠れている小屋の柱と棟が軋んだ。
 まるで何か巨大なものが小屋に体重を掛けたかのようだ。

「おかぁさーん……?」

(ああっ! 窓に! 窓に!)

 小屋の粗末な窓から、覗き込むそれ。
 窓いっぱいに広がる巨大な瞳!

「おかあさん! みつけたー」

 その巨大な瞳の持ち主は嬉しそうな声を上げると、女性を捕まえるために、小屋の屋根を引き剥がした。

「ねえ、おかあさん! ぼくね、すっごくおっきくなったんだよ! これで、おかあさんのおてつだいもできるよね!」

 気を失う直前に女性が見たのは、水頭症のように膨らんだ歪な頭を持つ巨人――かつてのわが子が、自分に向かって手を伸ばす姿だった。




 空は暗雲に覆われ、悪魔じみた異形へと変じた元人間たちが飛び回っている。
 そこに竜のような異形――人面竜――が多いのは、竜騎士に憧れる者が多いアルビオンならではなのだろうか。

 だが、少し前の戦争時に空を支配し闊歩していた人喰いの獣――ウェンディゴ・ワルドたちの姿は、今は見えない。
 その代わりに、もっと巨大な骨格のヒトガタの化物たちが、人面竜の異形に混じって空を歩いて(・・・)いる。歪な巨人が纏う雰囲気はウェンディゴ・ワルドと同じものだった。
 そしてその赤い目をした歪な半獣巨人たちは、空を歩きながら人面竜などの新参の異形たちを捕らえて貪っている。空は我が物だと誇示するかのように。

「ぐぎゃっ、ぐぎゃぎゃ!」

 その巨人たちは、仮に名付けるならレッサー・イタクァとでもいうべきものだろう。
 これは消えたウェンディゴ・ワルドたちがお互いに集い集まって共食いし、分裂した偏在の身体からもとの一つに戻ろうとした結果なのだった。
 その成れの果てが空を歩く巨大なヒトガタ、レッサー・イタクァたちなのだ。

 地を見れば、こちらもまた異形の群れ。一つとして同じ形は存在せず、好き勝手に蠢いている。御伽話の魔物や、人々の悪夢を寄せ集めて煮こめばこのような有様になるだろう、というそんな情景だ。
 他にも蟲もなんだか多いように思われる。中でも地を這う蜘蛛が多いのは、きっとシャンリットのゴブリンたちが転じたせいなのだろう。蜘蛛神アトラク=ナクアの呪いも合わさり、ゴブリンたちの幾らかは、大小様々な蜘蛛へと転じたようだった。
 それでも自我を保ち、決定的な変化を逃れて以前の形を保ったまま生まれ変わったゴブリンたちも居るのだろうが、その姿は見えない。恐らくはイェール=ザレムへと撤収したのだろう。


 そんな中を、水頭症の赤子のような巨人が、力を失った人間を片手でぶらぶらと振り回しながらどすんどすんと歩いている。

「ねー、おかあさん、どこにいけばいいかなー。おなかすいてきたよー」

 水頭症の巨人は、手に持った人間に話しかけるが、その人間は答えない。
 なにせ振り回されてあちこちがの関節が外れ、骨も折れ、そもそも胴体が巨人の手指の形に潰れているから、答えられるはずがない。
 もう生きていないのだから、答えられるはずもない。

「ねー、おかあさん。こたえてよー……」


  ◆◇◆


 時間は少しだけ戻り、地獄の釜が開いた頃。
 ハヴィランド宮殿の隔離区画……もとい後宮(大奥)にて。

 そこはステュアート朝の王族である、ステュアート一家が暮らす区画である。
 そこで暮らすのは、国王チャールズ、王妃シャジャル、王女ティファニア、その婿であり次期国王のシャルロット=カミーユだ。
 隔離区画ゆえに平穏を保っていたここも、アルビオン堕としから始まる一連のむちゃくちゃな戦争と、【チクタクマン】による大陸の奪還によって、さすがに無事では済まなかったようで、紅茶が入っていたであろうカップが落ちて割れているのが見て取れる。

 震えるティファニアを抱きしめていたシャルロット=カミーユが、不意に宮殿の中心の方向を見ると、慄然とした様子で呟きを漏らす。

「……父さまと母さまの霊圧が、消えた……?」

「えっ? れいあ……つ……?」

「魂の波動、虫の知らせ、……いややっぱり何でもない。でも、多分二人とも、死んだんだと思う」

 血縁による虫の知らせだろうか。あるいは魂を司る虚無の系統の、そのスペアであるためか。
 シャルロット=カミーユは、敏感にオルレアン夫妻の魂の消滅を感知したようだ。
 それにしては随分と落ち着いているのは、両親よりも大事な婚約者であるティファニアが目の前にいるからか。

「確かに、間違いないようですね。あの【赤の女王】の魅了の波動が消えています」

「私の王杖〈ルール・フォァ・アルビオン〉でも探ってみたが、二人の反応は、ハヴィランド宮殿の中には無いようだ……」

 王妃シャジャルと国王チャールズも、シャルロット=カミーユの言に同意する。

 シャルル・ドルレアンは【膨れ女】の脂肪の雪崩によって擂り潰されて死んだ。
 そしてかろうじて魂の外身だけ残っていたオルレアン夫人も遂に、その中身であった【赤の女王】の消滅(退散)に引きずられて完全に消え去ってしまった。
 野心に溢れた亡命者と、その煽動者にして助言者たる紅い女は、ようやくこのアルビオンの舞台から姿を消したのだ。

「ふむ、あの狡猾な摂政殿も、ようやっと命運が尽きましたか。良いことです」

 寧ろ清々したという様子のシャジャル妃の言い方に、娘のティファニアが柳眉を立てる。

「お母様! シャルロット=カミーユが居るのに、そんな言い方ってないわ!」

「いや、気にしてないよ、ティファニア。でもありがとう、ボクのために憤ってくれて。それにシャジャル様も、お気になさらず。父も恐らくは覚悟の上だったでしょうから」

「シャルロット=カミーユ……」

 ティファニアがシャルロット=カミーユの手をとって、彼(彼女)の蒼い瞳を見つめる。
 そこにやはり、シャジャルの声が割り込んだ。

「二人とも、しんみりしている暇はないようです」

「……なんだ、あれは」

 微かな音とともに、部屋の扉が開く。
 驚愕も露わに、チャールズ王はこの部屋のドアを開いた存在を見る。

 そこに立っていたのは、侍女の服をまとった悍ましい何かだった。

 人の形から逸脱した、人ではない何か。
 上半身はまだいい、なんとか侍女のカタチをしている。その頭の位置がいつもより低いのを除けば。
 だが下半身はどうだ。そこには脚はない。頭の位置が低いのはそのせいだった。脚の代わりに伸びるのは、粘液のあとを引く、ナメクジのような腹足だった。しかもそれは延々と廊下の先まで伸びていて、ぬらぬらと表面を艶かしく光らせていた。見ればその腹足には、幾つもの人の顔のようなものが浮かんでおり、そのうちの更に幾つかは、見慣れた侍女たちのものであった。恍惚とした笑みを浮かべた幾つもの人面疽が、ナメクジのような腹足を覆っていた。

 何が起こったというのだ、確かにあの侍女は、つい一時間ほど前までは、正真正銘の人間だったはず。チャールズ王は戦慄する。
 ハヴィランド宮殿では数少なくなった、純正の人間。王族の世話は、シャジャルが選別したそれらの人材によって為されていたのだ。
 だから、あの侍女がつい先程までは人間だったのは間違いないのだが。

 不意にティファニアが口元を抑えてうずくまる。
 それをシャルロット=カミーユが支える。

「……お母様、なんだか世界が気持ち悪いわ――」

「私もティファニアに同感です、シャジャル様。何かが、決定的に、そして致命的に、おかしくなっている……」

「これでも私が結界を張っているから、この部屋の周りは、随分抑えられてるんだけどね。……流石に咄嗟だったから、侍女たちの分までは手が回らなかったのだけれど」

 流石は六千年前に世界法則を歪めた虚無の末裔たちだ、とシャジャルは頼もしく思った。
 娘であり、忘却を司る魔法使い。魂削る虚無遣いのティファニア。
 そして未だ覚醒は遠いものの、内に秘める素質は如何ばかりか。自分の有様(性別)さえ変えて娘に寄り添ってくれる、可愛い娘婿のシャルロット=カミーユ。

 恐らく虚無遣いたちは、その血脈と歴史的因縁ゆえに世界の在り方に対する感覚が鋭いのだろう。ある程度は現状を捉えているようだ。

「……アルビオン一帯が、異界の法則に侵蝕されているのよ。ここでは意思が弱い者は、自分の形を保てない。なぜなら肉体よりも精神と魂がモノを言う世界へと、法則が組み変わってしまったから」

 それはある意味では魔法使いにとって都合の良い世界だ。
 何故なら精神の強度が肉体の強度へとダイレクトに反映されるため、魂を磨いた魔法使いはその精神力に応じた屈強な肉体を得ることも出来るからだ。
 ……まあ尤も、平均的には、心の奥底の本能のままに化物へと変態を遂げた一般人の方が強くなってしまうのだが。

「……心を失って、身体の形すら見失ったにしては、随分おとなしいな、その侍女は」

 チャールズがナメクジ侍女を遠巻きに見つめるが、その侍女は貼りつけたような笑みを崩さず、微動だにしない。
 何かに操られているかのように、『待て』の状態を保っている。



 すると長いナメクジの尾を踏んで、侍女の後ろから月眼の神官が現れた。
 ……神官が踏みつける度に、ナメクジ侍女が「あふん」と艶っぽい声を上げているのを、王族たちは努めて無視した。

 月眼の神官は、王たちの前まで来ると、さっと跪いて頭を垂れる。

「……あなたがロマリアからの迎えかしら?」

「如何にもそうでございます、シャジャル王妃。我が教皇からの遣いで参りました、ジュリオ・チェザーレと申します」

「何か身の証になるものはあるのか? ジュリオとやら」

 チャールズの問いかけに、ジュリオはおもむろに右手を覆う手袋外し、手の甲を掲げた。
 そこには輝くルーンが刻まれていた。

「それは確かに、“ヴィンダールヴ”のルーン。なるほど君は、教皇殿の使い魔だったか」

 獣を操るヴィンダールヴ。
 つまり先程のナメクジ侍女は、そのヴィンダールヴの“他種族支配”の能力によって操られているのだろう。

「人の形を留めざれば、すなわちそれは異種族でございます故。操るのに如何ほどの支障もございませぬ」

「……それは頼もしい話だ。だが、よもや我が妻や娘を操りはしまいな?」

「滅相もない。そも、そのようなことは出来ませぬ」

 ……口ではこう言っているが、勿論嘘だ。
 ジュリオがその気になれば、シャジャル(エルフ)やティファニア(ハーフエルフ)、シャルロット=カミーユ(アンドロギュヌス)だって操ることは可能だ。
 だがそれは、重要な伏せ札でもある。このような何でもないところで切っていいほど安いカードではないのだ。切るのなら、最も効果的な場面で、最も重大な目的を達成するために切らねばならない。

 エルフの王妃シャジャルがジュリオに話しかける。

「……案外早く出てきたわね、教皇の使い魔さん。てっきり私たちがピンチになるまでは、宮殿の肉壁の中で様子を伺うもんだと思ってたけれど?」

「正直申し上げますと、そうやってピンチに颯爽と現れて恩を売ろうとも考えましたが――」

(やっぱり考えたんだ)

「――最初から潜伏して出待ちしてるのが相手にバレてるなら意味ないな、と。心証が悪くなるだけですからね」

「まあ、妥当な判断ね」

 それもそうだ。
 助けられるのに助けない、だなんて意地が悪いにも程があるし、そんなのでは信用されるものもされなくなってしまう。
 確かに劇的な出会いになるだろう。だが、無意味だ。むしろ絡繰りが知られているから逆効果だ。

 エルフのシャジャルは自分の結界の中に入り込んだジュリオのことを、随分前から感知していた。
 そして無論ジュリオも、気づかれていることは気づいていた。
 だからあっさりと姿を現したのだ。

 直ぐに彼らの目の前に、銀色に輝く鏡が現れる。

「教皇様の『世界扉(ワールド・ドア)』です。シャジャル妃との約定通り、皆さんのロマリアへの亡命を受け入れます」

「……じゃあ、よろしく頼むわね」

「お早く。いくら我が主でも、この瘴気溢れる宮殿へは、いくらも魔法の通路を繋いではいられませんので」

 王族たちはそそくさと銀鏡を通り抜けていく。

(マチルダお姉ちゃん、無事かなぁ……)

 ただ一人、ティファニアのみは後ろ髪引かれる様子だったが、シャルロット=カミーユに促されて、銀鏡をくぐる。
 きっと姉さんなら大丈夫、とそう思うことにしたようだ。

 そして最後にジュリオが銀鏡を通り抜け、それを合図にしたかのように銀鏡は揺らいでスッと消えた。
 残されたのは、曖昧な笑みを浮かべたナメクジ侍女のみだ。




 ヴィンダールヴの支配から解き放たれたナメクジ侍女は、ぶるりと身体を震わせると、宮殿内を徘徊しようとずるずると動いて身体を折り返そうとする。
 ゆっくり、うんしょうんしょと身体を動かす。
 腹足が蛇みたいに長いから大変だ。チリひとつ無いように廊下を磨き上げなければ、などと考えている。彼女は職務に忠実だった。

「?」

 と、そこで奇妙な震動に、ナメクジ侍女は天井を見上げる。
 ぱらぱらと埃などが落ちてくる。微かに廊下や部屋全体が震動しているのだ。

「!」

 崩壊。鉄槌。
 天井を押しつぶして、巨大なゴーレムの組み合った両拳が突き立った。

「てぃ~ふぁ~に~あ~~~!!」

「ひぎぃんっ?!」

 ずずん、と巨大なゴーレムが突入した。
 その肩には、濃緑の美しい髪をした女性が乗っていた。

「ティファニア! どこ!? 大丈夫だった!?」

 だがそこには既に誰も居ない。
 ゴーレムの足元で痙攣するナメクジ侍女以外には。

「ティファニア……?」

 ゴーレムで突入した後宮には、ティファニアどころか他の王族の姿もない。

「どこ……?」 

 楽観的に考えれば、王族たちは逃げ出したのだろう。

 だが、悲観的に考えれば?

「ああ、あぁ、あぁ――」

 この王宮の有様を見ろ。
 そこかしろに狂気と絶望がむき出しで転がっているではないか。
 どこに希望があるというのだ。

 ならばもう、委ねてしまえ。
 狂気に、絶望に、遥か星辰の彼方の神の息吹に。
 こころをゆだねよ――。

「……っ。いや、だめだ、きっと、きっと、きっとあの娘は、ティファニアは、待ってくれているはず」

 私が、しっかりしないと。
 お姉ちゃんなんだから。
 そう呟いて、マチルダは再びゴーレムを操り、この魔境を徘徊し始める。

 だが彼女のゴーレムに乗っていたのは、彼女だけではなかった。それは茫洋と笑う。

「うふ」

 べっとりとゴーレムに貼り付いて笑うのは、あの集合体のナメクジ侍女だ。
 それはマチルダの足首にも軟体を伸ばしており、また別の一端を生命要塞ハヴィランド宮殿へと伸ばしていた。
 そして、それを媒介にして、マチルダの認識の外で、ゴーレムの脚は徐々にハヴィランド宮殿の肉腫に覆われて置き換わり――。



「ティファニア、待ってて、きっと、私が――」

 マチルダは巨大なゴーレムを、まるで自分の体のようにして、生物のように(・・・・・・)滑らかに動かしていく。
 ゴーレムが軽い、その足裏の感触すらも我が事のように感じる。マチルダはそう思った。
 『まるで自分のからだのようだ』と……。


  ◆◇◆


「はひっ!? こ、この悪寒は!?」

「どうした? ベアトリス」

 処も時間も変わり、ドリームランド。
 トリステインとの盟約の後、夢の女王ルイズ・フランソワーズの領地では、トリステイン兵士たちの速成訓練が行われていた。

 トリステイン軍の兵士たちは、魅了女王のアンリエッタの協力の下で、無理矢理に夢の世界へと誘われていた。
 時空と魂を操るルイズの虚無の力によって、彼女の国では通常の何十倍もの速度で時間が流れる。
 速成訓練にはうってつけなのだ。

 さらには、このドリームランドの住人でも夢をみる。その夢見る先もまた、ドリームランドなのだ。入れ子構造の夢。
 ――つまり、夢のなかの夢の中でもさらに訓練漬けに出来るというわけだ。
 昼間はドリームランドで鬼のような訓練、夜は昼間の肉体が見る夢のなかでまた鬼のような訓練、昼間の肉体が回復したら目覚めさせてまた鬼のような訓練……。まさに地獄のような速成訓練である。


 その地獄の訓練の悲鳴が遠くに聞こえる廊下で、ベアトリスは背筋を駆け上る何かの悪寒に震えた。
 ルイズの居る謁見の間に向けて一緒に歩いていたサイトが、ベアトリスを気遣う。

「どうしたんだよ、急に」

 夢の女王ルイズの一の騎士にして、超鋼の義腕の大将軍――ガンダールヴ・サイト。
 そして蜘蛛の一族の末娘にして、【レンの蜘蛛】の大隊を率いる少女――ベアトリス・フォン・クルデンホルフ。

 二人は自分に宛てがわれた訓練集団の進捗をルイズに報告するために謁見の間に向かっていたところだった。
 
「……いえ、こう、急に……足場を失ったような、不安定さが」

 がくがくと震えながら、ベアトリスは蒼い顔で廊下の壁に手をついている。

 そんな彼女へと、サイトの左半身を覆う蛇を思わせる義腕から、桃色がかった鱗の細い蛇が鎌首をもたげて宙へと伸びた。
 サイトと融合しているルイズの分霊蛇、エキドナだ。

【ちょっと視させてもらうわよー】

「エキドナ……」

 蛇の彼女は不自然に片側だけ大きなその左眼でベアトリスを睨むと、納得した様子で語りかける。

【ああ、なるほど。どうやらハルケギニアに置いてたベアトリスの肉体が消滅したみたいねー。ふふふ。つ・ま・り、今のアンタは糸なし凧ってわけよー】

「へえ、よく分かるな、エキドナ。流石は虚無の分霊にして俺の半身。……って、は? なんだって?」

「え? 身体? 覚醒世界の、肉体……が? う、嘘ですわよね、エキドナ?」

 呆気にとられ、次に愕然とするベアトリス。
 自分の現実世界での肉体が消滅したなど、俄かに信じられることではない。
 だがしかし、それならばこのどうしようもない程の寄る辺無さも納得できる。

【正確に言うなら、覚醒世界の肉体が完全に変質したみたいねー。跡形も無しって感じー。そこはかとなく混沌っぽい気配もあるけど……まさかね】

「おいおい。おいおいおい、ベアトリスの戻るべき肉体が無くなったってのか!?」

【別に気にすることはないと思うわ。いざとなったらワタシの本体たる夢の女王ルイズに、こっち(幻夢郷)の身体ごとハルケギニアに現実化(クリスタライズ)してもらえば良いだけじゃない】

「あ、確かに。それなら何時までもお姉さまのお側に侍られて幸せですわね! 蛇のくせに冴えてますわね」

「って、それで良いのかよ!」

 一瞬で立ち直ったベアトリスに対してツッコミ、直後にえー?、と脱力するサイトであった。

 お姉さま至上主義のぶっ飛んだ思考のベアトリスにとっては、現実の肉体が消滅したことなど些細な事らしい。
 まあ、実際ここに思考する魂としての実体があるわけであり、秘宝【夢のクリスタライザー】の作用があれば、覚醒世界ハルケギニアにこの夢の体を実体化させることだって難しくはない。
 しかもそれを口実にルイズと四六時中ともに居られるのであれば、ベアトリスにとっては全くもって問題はないのだろう。

「じゃあ気を取り直したところで、お姉さまに報告に行きますわよ、サイト」

「あー、大丈夫ならいいけどさ……」

 ハルケギニアの女性陣は随分とぶっ飛んだ人間が多い、サイトはしみじみとそう思う。

 いつの間にかルイズの執務室の前に到着していた。
 ノックはするが返事を待たずに入室。どうせ二人が来ていることくらいは分かっているに決まっているのだから。

「入るぞ、ルイズ」

「お姉さま、訓練の進捗の報告に参りましたわ」

 がちゃりとドアノブを回し、ドアを開く。
 広がるのは、湖畔の清涼な香り。

「あれ? ルイズ?」

 だがそこにルイズの姿はなかった。
 しかしその気配だけはある。
 水の匂いのする風が室内から吹いてくるのが何よりの証拠だ。
 これこそが彼女のルーツを示している。水と風のスクウェアそれぞれの血を引く娘だという、現実世界との繋がりを。

「あら。執務机にいらっしゃらないなんて、珍しいですわね」

 とててて、と足取り軽くベアトリスが執務室に入り込む。

 ――そこに上からすうっと白い手が伸びた。

「きゃっ!」

「動かないで、ベアトリス」

 その白い手にはつやつやとした宝石のような鱗がところどころに散りばめられており、それが可憐な紋様を作っていた。熱帯魚のような印象も与えるが、腐り蛇(クサリヘビ)のような警戒色の印象も与える、そんな紋様だ。
 天から垂れる手につられてベアトリスが上を見上げれば、そこに広がるのはゆらゆらと広がる桃色――ピンクブロンドの髪と、朱鷺色(ときいろ)の翼。
 その朱鷺色の翼から不可視の力場を放出しつつ、まるで水中に居るかのようにして、ルイズ・フランソワーズは空中を漂っていた。

「あの、お、お姉さま?」

「じっとしてて」

 ルイズは霊視の力を込めてベアトリスを覗き見る。
 虚無系統に宿る『リコード』の魔力は、運命の記憶たるカルマトロン(業子)を読み解くことを可能とするのだ。
 その能力があれば、ベアトリスの魂→肉体を媒介にして、シャンリット-アルビオン戦争の状況を知ることなど容易い。(ちなみに後の世でこの戦争は『天落戦争』などと呼ばれる。)

 ……ルイズは自らの解析能力で、ベアトリスの魂に絡みつく運命の澱をじっと凝視する。

「……なるほど」

 ルイズは一人納得すると、ベアトリスの頤(おとがい)から手を離し、またふよふよと空中に戻る。

「お姉さま? あの、訓練の報告を――」

「それは良いわ。大隊の進捗は把握してるし。それより状況が変わったから、トリスとサイトにはやってもらいたいことがあるの」

「はうぅ、お姉さまに愛称で呼んでいただきましたわ! 嬉しい!」

「……状況が変わったってのは、ベアトリスの肉体が消滅したのと関係があるのか? ルイズ」

 不意に愛称で呼ばれて身悶えるベアトリスは置いておいて、サイトが問いかける。

「ええ、アルビオンとシャンリットの戦争は終結したようね。それも斜め上に最悪な方向で」

「……。それは一体どういうことだ?」

 というか、どこから情報を得たんだ?

「…………あの蜘蛛野郎が混沌に乗っ取られたのよ。ベアトリスの身体は勿論、ハルケギニア中に広がった〈黒糸〉というインフラ諸共ね」

「はあぁ!? え? マジかよ!?」

 蜘蛛男ウードが築いたインフラストラクチャー〈黒糸〉とは、電線と電話線を合わせて更にそれに意思を持たせたネットワーク型のスーパーインテリジェンスアイテムである。
 その駆動エネルギーはハルケギニアの地下にある風石溜まりは元より、空間を超越する〈ゲートの鏡〉によって、太陽系中に設けられた発電-魔力変換用衛星から供給される。
 ネットワークは惑星全てを完全に覆う規模がある。

「つまりそれって、惑星(ハルケギニア)の全部が、敵になったってことじゃねえか! しかも混沌だって!?」

 勝ち目あるのか? とサイトはこれまでに何度も考えた思考を呼び覚ます。
 そもそも規模とは――数とは、そして物量とは力だ。
 海が、空が、大地が。惑星そのものが天災と化して襲い来る恐怖。

 ヒトが火山に勝てるか?
 ヒトが地震に勝てるのか?
 ヒトが津波に勝てるというのか?

 否。

 それは比べるものではない。比べるべきものではない。
 立ち向かうものではない。立ち向かえるものではない。
 ヒトは、ただ唯々諾々とその自然の暴威を受け入れるしか無いのだ。

 だが、いや、そして。

 そして。
 そして、神とはそういうものなのだ。

 彼らが立ち向かおうとしているものは、そういうものなのだ。

 彼ら彼女らがこれから挑む戦いとは、そういうものなのだ。

 だが、いや、そして。

 それゆえに、最後に勝つのは――。 

「たとえ火山に焼かれても、たとえ地震に呑まれても、たとえ津波に流されても。――それでも」

 生き残るのは人間なのだ。

 少なくとも、ルイズはそう信じている。傲慢なまでに信じている。

「サイトとトリスは侵攻の準備を。このあいだ『聖別』したラグドリアン湖を拠点に動くことになるでしょう、そこ以外は混沌の手に落ちている危険があるし」

「了解だ」「合点承知ですわ、お姉さま!」

 敬礼し慌ただしくサイトとベアトリスは執務室を出ていく。



 残されたのは、宙に浮かぶルイズのみ。

 彼女は徐々に肩を震わせる。

「ふ、ふ、ふふふふふ」

 笑っているのか? 否、違う。
 泣いているのか? 否、違う。
 
「ふざけるな! あの蜘蛛野郎!!」

 怒っているのだ。

 憤っているのだ。

 憤激、激怒、怒号。

「これだけハルケギニアを引っ掻き回した挙句にっ!!
 自分は混沌に呑まれて消えたですって!!?
 ふざけるな、ふざけるな、ふざけるなぁあああああああ!! あの、蜘蛛野郎!!」

 ずん、と、ルイズの怒りの波動が、周囲の空間に罅を入れる。
 虚無の力で空間自体に亀裂が走り、城全体が歪むが、しかし直ぐに彼女は幾ばくか自制心を取り戻して、城ごと【夢創(ドリーム・クリエイション)】して復元させる。

「……ふざけてんじゃないわよ」

 怒りに燃える拳を握りしめて、ルイズは決意する。

「絶対に、ぶち殺す。引きずり出してぶち殺す。他ならぬこの私が」

 混沌に呑まれたなら、無理矢理にでも引き上げる。
 ヴァルトリを神降したように。

「ムカツクわ。あいつだけはこの手で擂り潰さないと気が済まない」

 そして死よりも悍ましい終わりを与えるのだ。

 というより。
 混沌に呑まれた程度(・・)で、あの蜘蛛男がどうにかなったとは、ルイズにはとても思えなかった。

「そうよ、そうしないと、安心できないわ」

 あの手の極まった狂人は、確実に、絶対に、自分のこの手で、息の根止めてトドメを刺して、その存在を消滅させないと安心できない。
 彼女はそう思っていた。
 あれはともすればカミサマよりも厄介だ。

 何しろカミサマは気まぐれで飽きやすいが、あの蜘蛛男はそうではないのだから。
 粘着質なストーカーじみた蒐集家。
 吐息を感じるその距離で体温感じて縊ってしまわないと安心できない類の存在だ。

 ウードに対するルイズの敵愾心は、ある種の生存競争にも似ていた。争いは同じレベルのもの同士でしか発生しないということだ。神とヒトでは次元が違いすぎる、ヒトとアリのように。
 では、蜘蛛男(ウード)と夢の女王(ルイズ)ではどうか、それは非常に近しい次元に立っていると言えるのではないか、オオクロアリとサムライアリのように。
 つまり、現実的に考えて、ルイズの一番の障害――ライバルと言っても良いかも知れない――はウードなのだった。恩師にして仇敵。何とも複雑な関係ではある。

 それに神への階梯を登りつつある今の彼女にとっては、ただ排除するだけなら神すらも恐れるに足りない。
 それも、一度あの蜘蛛男(ウード)が退けた程度の神など、何をそこまで恐れる必要があろうか。やり方は分かっているのだ。
 ベアトリスの魂を通じてウードと混沌の戦いの記録だって覗き見たし、攻略法も幾つか思いつく。

「まあ、先ずは混沌を実際に退けてからの話……ね。
 貴族の血脈に眠る英霊達(エインヘリヤル)の力を借りれば、恐らくはイイ線いく筈。
 それに将兵たちが死んでもその場で私が【結晶化(クリスタライズ)】して再顕現させればいいし――――夢の夢の夢のまた夢、ヒトは全て無限入れ子の夢の主人公、眠りとは死、死とは眠り、ゆえに死せども死せず、ただ夢見るのみ、ってね。
 そして最終局面では他の虚無の力も集めれば、【混沌(カオティック“N”)】が顕現してるその取っ掛かりをどうにかすることだって――」

 傲然と彼女は考える。
 神と戦いそれを虚空の彼方へと追放することを。
 それがあたかも自然で当然のことのように。

 何故なら傲慢は彼女の業病ゆえに。
 そしてたちの悪いことに、彼女はそれだけの力を持つ存在に成長しつつあった。

 しかし傲慢に考えつつも、彼女は決して邪神を甘く見ない。
 決死の覚悟を持って、全てを懸けて戦いに臨むのだ。自分の故郷を侵す邪神どもを放っておくことなど不可能だ。これはあるいは郷土愛なのかもしれない。

 彼女の理想が成就する日はきっと近い。即ち邪神勢力をこの惑星から放逐する日がやがて来るだろう。彼女の覚悟と練磨がその奇跡を引き寄せる。

 邪神も、異邦人たる蜘蛛男も、この世界に居てはいけないものなのだ――。


  ◆◇◆


「……何やら悪寒がしますね」

「いかがされましたか、教皇様」

「いえ、どっかのおてんば娘の頼みごとを拒否できない状況に追いやられた挙句に使い潰される――そんな予感がしたのですよ、ジュリオ」

「やけに具体的ですね」

「虚無遣いは自然と運命(カルマトロン)の流れを読みますからね。
 きっと当たらずとも遠からずといったところのはず。……少し気をつけなくてはいけないでしょう」

 夢の国とは遠く離れて次元も違う、光の国ロマリアにて。
 教皇でもある虚無遣いヴィットーリオは、不意の悪寒に背筋を震わせた。
 その脳裏によぎるのは、憤激を司るピンクブロンドの虚無遣い、いや虚無使いだった。

「アルビオンとガリアの虚無の予備は押さえました。これで『方舟計画』の実現にまた一歩近づきましたね」

「ええ。それゆえに、ここであのトリステインの虚無の戦いに引きずり込まれるわけにはいきません。
 早く、早く、早く、この惑星ハルケギニアから新天地に移らねばなりませんからね」

 ロマリアは逃亡主義だ。
 これまで蓄積された経験から、神になど勝てるわけはないと思い知っている。
 だからこの邪神の坩堝と化したハルケギニアになど、もはや一刻足りとも居たくはないと考えている。

 それゆえの『方舟計画』。
 6000年前の焼き直し。
 新天地への大転進なのだ。

「ええ、その通りです、教皇様。それ以外に、人類に生きる道はありません……」

「計画を進めましょう、ジュリオ。もはや一刻の猶予もありませんからね」

 アルビオンが墜ちた思われるクルデンホルフ領シャンリットを中心に、曰く言いがたい暗黒にして狂奔の波動が広がったのを、ヴィットーリオは自らの感性で把握していた。
 勿論、世界扉を通って帰ってきたジュリオからも報告を受けている。

 “もはやアルビオンは尋常の世界にあらず”、と。
 そしてまた“蜘蛛は混沌に沈んだのではないか”という憶測も聞いている。
 何にせよ、シャンリットの蜘蛛たちが今まで数々の邪神達を慰撫して保ってきたハルケギニアのバランスが、ものの見事に崩壊したことだけは、確かなようだった。

「民の選定は済み、ゲートを繋ぐ先の新天地も目星はつけてあります。
 転移先の環境を改変するための鍵である虚無の血脈も、既に二人――最悪、私も含めて三人確保済み。これだけリソースがあれば、恙無く惑星環境改変も行えるでしょう。
 疾く速やかに計画を実行しましょう」

 執務室で頷き合うロマリアの主従。

 そこに不意にノックの音が響く。
 沙漠の風の気配で、それがエルフのビダーシャルとファーティマ(ティファニアの従姉妹に当たる)だと、すぐに虚無主従は気がついた。

「入ってください。何でしょうか、沙漠の使者よ」

「危急の用が出来たため、我々は帰らせていただく。その前に挨拶をと思ってな」

 恐らくは、アルビオンの異変に連動したことなのだろう。

「一体どうしたのですか?」

「……貴殿になら話しても構わぬだろう。我々エルフも参画する惑星移住計画の首謀者なのだからな」

「まあお互いに利のあることですし。それで“危急の用”とは一体?」

 一瞬だけビダーシャルが瞑目して呼吸を落ち着ける。

「――聖地に暗黒王(ブラック・ファラオ)『ネフレン=カ』が復活したとの連絡を受けた」

「は?」

 ビダーシャルの言葉にヴィットーリオは己の耳を疑った。

 カオティック“N”の化身たる暗黒ファラオ『ネフレン=カ』の復活?
 それも、惑星間転移の要となるパワースポットである、沙漠の聖地に?

 そんなのは悪夢だ。

「莫迦な、漸くここまで漕ぎ着けたというのに。聖地が使えねば、計画は大幅に後退することに……」

「残念ながら真実だ。そして現れたのは『ネフレン=カ』だけではない」

「……まだあるのですか」

 そしてビダーシャルは自らが得た情報を開陳する。
 この惑星級の危機に、出し惜しみは無しだ。

「さまざまな、不可解な、そして脅威となる『黒い現象』が各地で起こっている」

 『黒い現象』。
 黒とは、ナイアルラァトホテプの色だ。

「惑星に張り巡らされたシャンリットの蜘蛛の糸、それを通じて漏れ出た混沌の気配が、現実世界を侵蝕している。
 特に龍脈の要となっている場所で顕著だな。
 トリステインの世界樹の幹は黒く染まり、そしてその枝は赤らんで金色に輝く蔓の巻きひげのように自在に動き始めた。――おそらくは混沌の化身の一つ、捻じ曲げられたものの王【アトゥ】だろう。
 沙漠の我がアルハンブラ城には、無貌の黒いスフィンクスが居座っていると聞く。
 聖地の湖にはネフレン=カと思わしき男が降臨した。
 旧ゲルマニア地区の黒い森(シュヴァルツシルト)からは、猪面の巨人がその眷属らしき黒い大猪を無限に引き連れて飛び出してきた。
 停泊中だったガリアの両用艦隊は、一瞬で広がった漆黒の【影だまり】に沈んで消滅した。
 そしてあちこちの地面から、黒い糸をより合わせるようにして三本足の三角錐頭の巨人たちが立ち上がり、咆哮を上げている。
 海には、昼を夜に変えるような巨大な嵐がいつの間にか発生して居座っているようだ」

 いずれも悪名高きナイアルラァトホテプの化身たちだ。

「……どうやら、蜘蛛の千年教師長が混沌に呑み込まれたのは、真実のようですね」

「ああ。
 人工衛星都市『トゥライハ』からも、そのような連絡を受けている。
 少なくともこの惑星の全ては、あの混沌に掌握されたと見ていいだろう。
 ここロマリアのように、次元隔壁ともいえるような強固な結界を敷いてなければな。
 宇宙に浮かぶ『トゥライハ』以外のゴブリン達の他の拠点に関しては分からん。
 ――確か、【チクタクマン】だったか? 先端機械に宿る混沌の化身は。
 トゥライハはギリギリで、その影響を防ぎ止めることが出来たらしい」

 蜘蛛のゴブリン達からエルフに譲られた人工衛星都市『トゥライハ』は、エルフのハスター崇拝におけるセラエノ巡礼の旅への出発港だ。
 どうやらその都市『トゥライハ』は、【チクタクマン】のハッキングの第一波を凌ぐことが出来たようだ。ウードが残していた以前からの備えが役に立ったということだろうか。
 シャンリットのゴブリン達が運営する他の宇宙拠点も、幾つかは【チクタクマン】の影響を免れただろうから、電脳空間においてはカオティック“N”とそれに対するゴブリン達の間で陣取り合戦が行われているところかもしれない。

 ビダーシャルは恐らく、それら宇宙に残った拠点から情報を得たのであろう。

「どのような手品か知らないが、ハルケギニア中で名だたる化身の大盤振る舞いだ。
 全てが全盛にして最大の実力を発揮できるとは思いたくないが……仮にそれぞれが不完全なレプリカに過ぎないとしても、恐ろしい脅威だということには変わりない」

「それで、ビダーシャル卿は今からどうするのです?」

「老評議会から召喚されている。都市に結界を張らねばならないからな」

 ビダーシャルはエルフでも有数の空間系精霊魔法の使い手だ。
 さらに有数のハスター信者でもあり、いざとなったらあの闇の皇太子である風神の助力も願える。
 この情勢では引っ張りだこだろう。

「なるほど、ご武運を」

「それはこちらの台詞でもある。
 虚無の力を老評議会は当てにしているようだったぞ、プライドゆえに口に出しはしないだろうがな。
 だが実際のところ、この状況をひっくり返せるとすれば、この世界ではお前たち虚無の末裔くらいのものだろう」

 虚無とは救世の血統。

「虫のいい話ではあるが、お前たちの活躍に期待している。武運を、恐ろしき虚無よ」

 そう言って、ビダーシャルは指につけていた空間を渡る力を秘めた魔道具を砕いた。
 今までじっと黙っていたファーティマも、それに付き従い同じく指輪を砕く。
 瞬時にそれらは効果を発動し、ビダーシャルとファーティマはこの場から消え去った。

「……はぁ、行ってしまいましたか。ままならないものですね、ビダーシャル卿。私はあんなモノどもと戦いたくなどないというのに」

 だが、まあ。
 それも悪くないのだろう。
 ヴィットーリオの魂の奥底で、邪悪を燃やし尽くさんと願う無色の炎が燃えていることも確かなのだ。邪神を滅ぼせと。ルイズの熱が移ったのだろうか。

 どの道、ことここに至っては『方舟計画』の発動も間に合わない。
 計算外にシャンリットの陥落が早すぎた。

 ヴィットーリオは改めて己の使い魔に向き直る。
 風の妖精の名を冠する、神の右手『ヴィンダールヴ』。
 月眼の神官、ジュリオ。

 彼はすぐに跪いて頭を垂れた。
 頭を垂れる寸前に、彼の期待に満ちた瞳が見えた。

「――――命令(オーダー)を、我が主」

 命令はただ一言。

「幾万の軍勢となって帰還せよ」

「畏まりました、我が主!」

 ちまちました密偵の仕事ではなく、全力の戦争を期待されている。
 そのことにジュリオの内心は歓喜で溢れ、口の端が三日月に釣り上がる。
 主に期待された使い魔というのは、全くもって恐ろしい。

 立ち上がったジュリオの目の前に、ヴィットーリオによる『世界扉』が現れる。
 繋がる先は異形溢れる戦場――アルビオンだ。
 ヴィンダールヴにとってこれほどに“らしい”戦場もあるまい。

「行きなさい。そして生きなさい」

「御意。必ずや」

「いつでも私は見守っていますから」

「はいっ」

 強く輝く右手のルーンを隠そうともせず、ジュリオは主に見送られてゲートをくぐった。
 そしてヴィットーリオも一歩踏み出す。その先にまた銀色の鏡が現れる。
 向かう先はラグドリアン湖だ。運命(カルマトロン)の導くままに、彼は風渡る湖へと向かった。


  ◆◇◆


「ではな、イザベラ。余が居ない間、ガリアのことを頼むぞ」

 ガリアの王城グラントロワ。
 そこでは王と王女が暫しの別れを惜しんでいた。

「言われなくてもきっちり仕事はこなしますわ。それよりお父様こそ、お義母様にあまり無理させないでくださいよ」

「分かっている――が、こればかりは多少の無理はしてもらわなければなるまい。ガリアの民を守るためだ」

「そうよ、イザベラちゃん。こればっかりは仕方ないわ」

 ガリア王女イザベラは、父王ジョゼフとその伴侶であるミョズニトニルン・シェフィールドに心配そうな瞳を向けた。
 ガリアが誇った両用艦隊の消滅、その報はガリアの民を震え上がらせた。

 だが、ナイアルラァトホテプがガリアに及ぼせた影響はそれだけであった。

 咄嗟に限界以上の出力を発揮したシェフィールドの『魔道具支配』の能力が、魔道具である【チクタクマン】の影響を遮断したのだ。
 だがそれもいつまで保つやら。
 
「今のままでは負荷が高すぎて、シェフィは数日も保たないだろう」

「だから打って出るのですね」

「そうだ。ガリアの民を守るためには、尋常ではない力を身につける必要がある。
 ラグドリアン湖にそれがあるのだ。運命がそう告げている」

 ジョゼフは銀色の輝く姿鏡の前に立つ。
 ラグドリアン湖畔のオルレアン公邸に繋がるゲートの鏡の魔道具だ。

「今までサボりすぎたツケかも知れんな。
 ……それにシャルルの仇も討たねばならん」

「お父様!」

「なに、すぐに終わるさ。心配するな、イザベラ」

 心配そうに駆け寄った娘の頭を、ジョゼフは優しく撫でた。

「行ってくる」

「お父様ぁ……」

 涙を浮かべるイザベラを置いて、ジョゼフは振り返らずにゲートの向こうに消えた。
 シェフィールドは、一瞬だけイザベラを抱きしめ、直ぐにジョゼフの後を追ってゲートに突入した。


 ハルケギニア人類の――虚無たちの抵抗が、始まろうとしていた。


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少し早いけどユールの日おめでとう、いあいあ! いやユールの日=冬至だから、むしろ遅いのかな。
ああそういえば、マヤ暦では残念ながら海神サマは目覚めなかったね!

投稿の間が開いてすみません。あまり話が動いてなくてすみません。
感想で指摘いただいた誤字脱字については近いうちに対処します。ご指摘いただき助かります、ありがとうございます!

【チクタクマン】の口調が安定しないのは仕様です。色んな人格が内面で常に入れ替わってる感じです。混沌ちゃんなので。
ビダーシャルの話に出てきた混沌の化身はそれぞれ、大樹【アトゥ】、スフィンクス【無貌の神】、沙漠の王【暗黒のファラオ】、豚面巨人&眷属猪【闇の魔神&暗黒の魔物】、薄っぺらい底なし沼【影だまり】、捩れて叫ぶ三本足【血塗られた舌】、悪天候【黒い風&這い寄る霧】あたりです。(クトゥルフ神話TRPG『マレウス・モンストロルム』より)
人類と化身たちの戦いも書きたい。人智を超えた恐怖を目の当たりにして狂い悶える人間を書きたい。でも書いてると話が進まない。外伝にでもするかな。


・今回のまとめ → アルビオンとシャンリット周辺が異界化したよ、わぁい。混沌の化身がフィールド湧きしてるよ、わぁい。虚無がラグドリアンに集まるよ、がんばれー。

法則の裏返り云々は宵闇眩燈草紙のシホイガン編リスペクト。


次回「目覚めよ英霊、輝け虚無の光」
大戦争を! 一心不乱の大戦争を!
そしてルイズとサイトの勇気がハルケギニアを救うと信じて――


2012.12.23 初投稿
2012.12.26 誤字等修正



[20306] 蜘蛛の巣から逃れる為に 36.目覚めよ英霊、輝け虚無の光
Name: へびさんマン◆29ccac37 ID:a6a7b38f
Date: 2014/03/22 18:50
「がっ!? 貴様、気でも狂ったか――ルイズ・フランソワーズ!!」

「な、あ……? これはどういうつもりですか、トリステインの虚無……!」

 ルイズの影から伸びた触手(ヴァルトリの腕)が、ジョゼフとヴィットーリオを貫いている。

「別にどうもこうも無いわ。ただレクチャーしてやろうってだけよ、虚無使いの戦い方ってやつをね。私ってば優しいから」

 彼女はその影の中に、始祖ブリミルの双子の片割れである半神――異形のヴァルトリを吸収している。
 そのヴァルトリの触手が、ジョゼフとヴィットーリオを貫いたのだ。
 ルイズが操るヴァルトリの触手によって、二人の虚無遣いはうめき声とともに、その身体を持ち上げられ、空中に磔にされた。

「あああああああああ!! ジョゼフ様! ――ルイズ・フランソワーズッ、貴ッ様ぁああああああああ!」

「邪魔はさせないぜ、ミョズニトニルン」

「!」

 主人を貫かれたミョズニトニルンが激昂し、ルイズへと魔導具を差し向けようとする。
 しかしそれは、ルイズを守る使い魔――サイトによって無効化されてしまう。


 這い寄る混沌との戦いを前にして、いきなりの仲間割れ。
 果たして、不意打ちをしたルイズの真意とは――?



(まったく、素直じゃないんだから、ウチのご主人様は……)

 主人の暴挙を前に、従僕の日本人は内心でため息を吐いた。


  ◆◇◆





 蜘蛛の巣から逃れる為に 36.目覚めよ英霊、輝け虚無の光




  ◆◇◆





 時間は少し遡り、聖別されたラグドリアン湖にて。

 以前アルビオンが送り込んできた七万のアンデッド、【グラーキの従者】たちをルイズが浄化した際の余波で、このラグドリアン湖はハルケギニアで最も新しい聖域となったのだ。今では、混沌の化身ナイアルラァトホテプの干渉を逃れ得た、ハルケギニアでも数少ない土地の内の一つだ。
 そのラグドリアン湖の上の虚空に突如として銀色のゲート――虚無の『世界扉』――が生じ、中から何かが現れる。

「あら、皆さんおそろいね。遅れちゃったかしら?」

「……」

 『世界扉』を通って現れたのは、ピンクブロンドの公爵令嬢、ルイズ・フランソワーズだ。
 彼女はそのままふわりと湖面に降り立つ。どうやらラグドリアン湖の水の精霊が助力して、湖面に立てるように細工してくれているらしい。
 ルイズの後ろからは、彼女の使い魔である平賀才人も『世界扉』から出て来て、静かに彼女の後ろに控える。彼が腰に佩いているのは、一見して日本刀のようにも見える魔刀【デルフリンガー】だ。

「いや、余らもいま来たところだ。なあ、教皇殿」

「ええ、ジョゼフ王。まあ、示し合わせたわけでもないのですが、不思議と魂がざわめきましたのでこちらに来たのです。……どうやらその直感は正しかったようですね」

「ふぅん、まあそういうこともあるでしょうね。虚無は時空と魂を司るわけだし」

 同じくラグドリアン湖の湖面に立って待っていたのは、ガリア王ジョゼフと教皇ヴィットーリオだった。
 ジョゼフの使い魔であるミョズニトニルン・シェフィールドは、彼女の主の後ろに控えている。
 ただしヴィットーリオの使い魔であるジュリオの姿は見えない。

「でも、ろくろく護衛も付けずにこんなトコロに来るなんて、二人とも国家元首としての自覚が足りないんじゃなくて?」

 ルイズの言葉に、ジョゼフとヴィットーリオは顔を見合わせて苦笑する。 

「余らに余分な護衛など要らぬよ。そうであろう? トリステインの虚無よ。大体お主もガンダールヴしか連れておらぬではないか。
 ただの護衛で対処できる程度の問題など、余ら虚無の担い手にとっては取るに足りぬ。使い魔が居れば十全に事足りる」

「むしろ下手な護衛の者など、居ないほうが良いでしょう。その者らの精神の安寧のためにも、そして錯乱しての同士討ちの危険を避けるという意味でも」

「……まあ、そうかもね」

 ルイズは同意し、そして口を三日月に吊り上げて嗤った。

「でも、やっぱりそれって不用心だと思うわッ」

「!」

 ルイズの嘲笑に悪寒を覚えた瞬間、ジョゼフとヴィットーリオは身構えたが――――それは既に遅かった。


 警戒した二人が身構える間もなく。
 捩じくれた触手がルイズの影から伸び、そして二人の虚無遣いを貫いたのだ。


「がっ!?」 「な、あ……?」

「ジョゼフ様!! ――ヴァリエール、貴ッ様ぁあああああ!!」

 ジョゼフとヴィットーリオはかすかな悲鳴を上げ、ミョズニトニルンが激昂する。

 気づけばやられていたとしか言いようのない刹那の間に、ジョゼフとヴィットーリオは、ルイズの影から伸びた肉感的で捻じくれた触手によって貫かれていた。
 それも丁寧に、右手と左手、そして脳と心臓の計四ヶ所をだ。それによって宙吊りにされている。
 まるで磔刑の十字架のように。

 そこに至る過程は全く見えず、側で警戒していたミョズニトニルンには、まるでコマ落ちしたかのように感じられた。

 ――時間停止に等しいレベルでの超加速かっ……!

 シェフィールドは悟る。
 ルイズは微かに嘲笑を浮かべた後、刹那の間に『加速』の魔法を詠唱し、超加速でジョゼフとヴィットーリオを貫いたのだということを。

 古代の虚無の片割れであるヴァルトリを吸収したルイズ、その魔法は完全に他の虚無遣いを上回っていた。
 ジョゼフとヴィットーリオは抵抗呪文すら詠唱出来ずに、加速されて殆ど止まった時間の中で貫かれたのだった。

「――殺す、死ね! ルイズ・フランソワーズ!!」

「落ち着けって。よく見ろよ、ミョズのお姉さん。ルイズは誰も殺しちゃいねえ」

「く、邪魔立てするか、神の左手(ガンダールヴ)!! 行け、アルヴィーズ!!」

「ちょ、聞けよ!」

 殺意を高まらせて額のルーンを光らせるミョズニトニルン・シェフィールド。
 ローブの中に隠されていた幾つもの小人の魔道具が、彼女の意思を受けて飛び出てくる。
 それは彼女の【魔導具支配】の権能によって限界性能を引き出され、宙を跳ねてルイズへと向かう。

「だから落ち着けって!」

 しかしそれを阻むものが居た。
 言わずもがな、ルイズの忠勇なる使い魔、サイトである。

「ちょっと大人しくしててくれよな。まあ主を害された気持ちはわかるけど……よッ」

「何っ!?」

 サイトは宙を跳ねるアルヴィーズの編隊を――無視し、アルヴィーズとミョズニトニルンの間の中空をデルフリンガーで薙いだ。
 すると次の瞬間には、アルヴィーズはそれまでの力を失い、放物線を描いて地面へと墜ちた。
 シェフィールドは内心驚愕するが、それを表に出さずにサイトを睨む。

「……アルヴィーズに繋がる魔力の糸を絡め取ったのか」

「ああ、俺の左眼は、ルイズから貰った特製でな。魔力やらなんやらが見えるスッゲーやつなんだぜ。
 この魔力食いのデルフと合わせれば、操り人形の糸をまとめて絡め取るくらい簡単簡単。
 ま、少し大人しく見ててくれよ。悪いようにはならねえって」

 サイトの左眼が、妖しく鳶色に輝いている。
 召喚当初にルイズと交換されたその左眼は、彼女の力の増大とともに能力を増し、今では様々な能力を備える魔眼となっている。
 魔力の糸を霊視するくらいは容易い。

(まったく、ウチのご主人様も、もうちょっと穏便に説明してからやりゃあいいのになー。素直じゃないんだから)

 ツンデレ乙! と思いながら、サイトはヒュンヒュンとデルフリンガーを振り回して、後から後から伸びてくるミョズニトニルンの魔力糸を巻き取り続ける。


 その背後ではそれぞれ四つずつの触手に貫かれたジョゼフとヴィットーリオが、相変わらず磔のように宙に固定されている。
 それを為したルイズは、先程までの嘲笑を消して、真剣な顔だ。
 まるで難手術に挑んでいる外科医のような、そんな鬼気迫った顔だ。ルイズの額に汗が浮かぶ。

 ジョゼフとヴィットーリオを貫いている触手はドクンドクンと脈動し、何らかの“力”をルイズから二人に送り込んでいるようにも見える。
 それに応じて二人の体がビクビクと痙攣しているから、恐らくは死んでないのだろうとは分かるのだが……。
 それでも見ている者にとっては不安を煽る。

「あ、ああ。ジョゼフ様、あんなにビクビクと痙攣されて……。
 ガンダールヴ! 本当に大丈夫なのっ!?」

「大丈夫大丈夫。……多分」

「多分!?」

 そこは絶対に大丈夫だと言いなさいよ! と叫ぶミョズニトニルン。
 いや、結構あれで俺のご主人様も適当だし、と口を濁すサイト。
 どうやらミョズニトニルンも今では比較的落ち着いて、とりあえずは状況を静観することにしたらしい。

「あああ、ジョゼフ様……」

 ルイズたちは信用できる相手ではない。元から相互不干渉程度を定めただけであり、潜在的には敵対者ですらあった。
 だが、この場でジョゼフたちを害するほどに愚かではないとはシェフィールドとて知っている。今のハルケギニアには、虚無同士で争う余裕はない。
 それに磔刑にされたジョゼフは、明らかに致命傷を受けているようにしか見えないのだが、まだ死んではいないようだ。となると、あの触手は物理的なものではないのだろう。そして何より――

「なんて凄まじい力……」

 彼女の主人の力が一瞬ごとに倍増していっているのを、ミョズニトニルンは魂に刻まれたルーンを通じて感じていた。
 人としての枠を超えて膨れ上がる主人の力に、シェフィールドは目を潤ませて恍惚とする。



(おおおおお、これは……)

(なんという……。これが虚無の――真の力ですか)

 脈動する触手に貫かれながら、ジョゼフとヴィットーリオは自らに満ちていく“力”と、圧倒的な“認識”を感じていた。

 流れ込んでくる、膨大な知識の奔流。
 “世界の本当のこと”についての認識。
 自らの持つ虚無の力についての真実。

 触手を通じ、ルイズによって慎重に流し込まれるソレは、彼女が命がけで獲得した“六千年前の真実”であり、“ハルケギニアという世界の理”である。

 世界の在り方についての知識が、ジョゼフとヴィットーリオの認識を塗り替える。
 それによって彼ら二人は覚醒する。強制的に目覚めさせられる。
 二人は注入された認識によって虚無使いとして強制的に覚醒させられ、ルイズと同じ次元にまで引き上げられたのだ。



 それから一時間ほどた経っただろうか。
 やがて全ての工程が終了したのか、ルイズが細く長く息を吐いた。
 難手術をしたにしては短い時間だったが、恐らくは時間加速によって、施術被術の実体感時間としてはその何倍もの時間を費やしているはずだ。

「サイト」

「了解だ」

 短いやり取りだけで、虚無の主従はお互いの言いたいことを察した。
 夢の国で幾星霜もコンビを組んでいたのは伊達ではないのだ。

「よっと、ほりゃ!」

 サイトはデルフリンガーを携えて跳躍。
 空中で一閃。
 ジョゼフとヴィットーリオを持ち上げる触手を断ち切った。
 磔にされていた二人の体が、ふわりと柔らかく湖面に降り立つ。シェフィールドがジョゼフの側へと駆け寄る。

「ジョゼフ様!」

 断ち切られた触手は直ぐにルイズの影に吸収された。
 だがルイズから切り離された切れ端は?

「あと、“それ”はアンタたちにあげるわ。使いこなしてちょうだい」

 そちらもまた吸収される。
 ルイズではなく、新たに覚醒した虚無使いたちにだ。
 ジョゼフとヴィットーリオを貫いていた触手は、彼らの中に溶けるようにずるりと消えた。

「……気持ち悪いな、これは。……ああシェフィ、心配をかけた、ありがとう」

 吸収された触手の切れ端の感触にジョゼフは顔をしかめて、触手に貫かれていた場所を忙しなく触る。
 ルイズから注入された知識によって、実害はないと理解しているが、やはりあんなものに貫かれ、さらにそれが自分の中に混ざってしまったというのは、落ち着かない気分にさせられる。
 嫌悪感を隠せないジョゼフに対して、ヴィットーリオは涼しい顔をしている。

「まあまあ、確かに得体のしれない嫌悪感はありますが、この触手――虚無の半神の一部が有用なのもまた事実」

「それはそうだが」

「それより気になるのは、ミス・ヴァリエール、貴女の考えです。
 何故我々に力を与えるようなことを?」

 ヴィットーリオの疑問は形式的なものだろう。
 本当はヴィットーリオらもその理由には気がついている。

「もう見当は付いているでしょうけど、あの混沌の化身との戦いに助力を頼みたいからよ。それなら自陣営の戦力強化は必須でしょう? だからそうしただけよ。
 まったく、シャンリットとアルビオンの戦いに介入する予定だったのに、横から全部混沌野郎が持って行きやがったのよ。千年教師長も混沌に食われて――成り代わられて消えたわ。
 ……だから、勘違いしないでよね。力を分け与えたのは、アンタたちのためじゃなくて、私のためなんだからねっ」

 露骨なツンデレに見せかけて単なる本音の暴露だった。

「ふん、いつもなら自分の成果を余らに渡したりはせんだろうに。――それほど危険か、シャンリットとアルビオンを取り込んだ這い寄る混沌は」

「それはアンタが一番分かってるでしょう? ジョゼフ・ド・ガリア」

 ルイズは、ジョゼフとその傍にいるシェフィールドを挑発的に見遣る。

 今降臨している混沌の化身たちのうちで、その中心的存在が【チクタクマン】であることをルイズは既に知っている。
 【チクタクマン】の生贄となって取り込まれたベアトリスの縁を辿って、ルイズはそれを知ったのだ。
 今回の【チクタクマン】の依代は、シャンリットが誇る先端魔導具ネットワークである<黒糸>だ。

「確かに、な。惑星に張り巡らされたあの<黒糸>全てが敵となるというのは、ぞっとしない」

 そしてガリアは、ミョズニトニルンの力で<黒糸>を乗っ取って国内統治に利用していた。
 その威力は、充分に身にしみて知っている。

「私がアンタたちに何を期待しているのか、分かったかしら?」

「まあ、見当はついた、な」

 虚無使いにはそれぞれ得意な状況がある。
 それぞれの役割を果すことを、ルイズは期待しているのだ。

「例えばガンダールヴを――神の盾を召喚した私は、“攻撃”と“防御”に秀でると自負してるわ。実際の攻撃は私が務めるのが良いでしょうね。【夢のクリスタライザー】も使えるし」

「ならばヴィンダールヴの私は、“移動”と“遮断”といったところでしょうか? 邪魔者が入らないような遮断と、アルビオン中枢や各地の化身たちの元への道筋作りが役目ですかね」

「余の場合はミョズニトニルンか――ならば、“賢察”と“盲目”とでもいうところか。情報の分析や敵への欺瞞などは、適正が高かろう」

「鬱屈王とか呼ばれてるくせに“賢察”とか。ぷぷぷっ」

「なんだ喧嘩なら買うぞ、ルイズ・フランソワーズ。そういえば、さっき心臓やら何やらぶち抜かれた仕返しをしとらんしなぁ」

「やる気? いいわ、かかってらっしゃい」

 フッ、とまるでレスリングのように重心を落としてじりっと間合いを測るルイズとジョゼフ。奇妙な緊張感が漂う。

「まあまあ、ジョゼフ王。それはとりあえず後にするとして」

「……まあ後でも構わんか」

「え。何でそんな二人して仕返しする流れになってんのよ?
 こっちは善意でわざわざ力をくれてやったってのに。
 私がこの力を手に入れるのにどんだけの時間を研究に費やしたと思ってんの? 私はリアルに命懸けたんだから、あんたらもちょっとはヒヤッとするべきなのよ」

「……後にするとして」

「ちょっとやめなさいよそういうの。仕返しなんて何も産まないわよ?」

 微妙に瞳を揺らしてルイズが弱気に抗議する。
 オロオロしてるルイズとは、なにげにレアな光景だ。

 そんなルイズも可愛いなあー、とサイトはホッコリしている。
 いや見てないで助け舟出してやれよ、従僕……。

「まあそれより問題はこれからどうするか、ですよ。さっきの虚無の認識と一緒にある程度の事情も流れこんできましたし、……しかしあの蜘蛛の首魁ウード・ド・シャンリットが死ぬとは……。
 にわかには信じられませんが、先ずは蜘蛛の糸に吊られたアルビオンを攻略しないといけない。混沌のナイアルラァトホテプはそこに居るのでしょう?」

 ヴィットーリオが仕切り直す。
 そう、目下の問題は、軌道エレベータ“イェール・ザレム”で吊るされている、あの魔境と化したアルビオン大陸だ。
 彼の問いにルイズは頷きを返す。

「ええそうよ。……じゃあ先ずは現状と勝利条件の確認からいきましょうか。
 つーか何でアンタが仕切ろうとしてんのよ、教皇」

「まあ気にするんじゃないぞ、ルイズ・フランソワーズ」

「そうですよミス・ヴァリエール。あんまり細かいこと気にしてたら老けますよ?」

「あぁん?」

「いやいや余らの中でも一等年食っとるんじゃないか、貴様。一体全体、夢の国で何千年過ごしとるんだ?」

「若作りですよね、実際」

「おい喧嘩売ってんのかオッサンに女顔」

「コホン。それでは現状把握から。まずは私(ロマリア)からですかね」

「無視してんじゃないわよ。エクスプロるわよ」

「……といってもロマリアはそれほど多くは把握してません。ただ、エルフ経由での情報ですが、宇宙基地の幾つかは混沌に侵蝕されずに生き残っていると聞いています」

 教皇はルイズを意図的に無視して淡々と話を続ける。
 なんだかんだで彼も、ルイズのいきなりの暴挙に腹を立てていたのだろう。
 ルイズも後ろめたさは感じているのか、結局それ以上の言及はしなかった。そのまま頬をふくらませ口を尖らせつつも、内心のバツの悪さを隠して腕組みをする。片眉を上げて「それで?」と話を促す様は傲岸不遜な女王そのもの。……女王様を演出するのもなかなか気苦労が絶えないようだ。

「現在は影響を逃れた各人工衛星都市で連携して、【チクタクマン】に乗っ取られた衛星都市群への反攻作戦らしきものを実行中だとか。ハルケギニアに対するアプローチとしては、既に威力偵察のための部隊が降下済みで、一部の化身と軽く交戦してるそうですよ?」

「威力偵察か……。ふん、蜘蛛どもは頭を失って半身を侵されても、常と変わらぬか」

「無理もないでしょ、千年来の筋金入りだもの。『折角だから』とデータ集めにやって来るに決まってるわ」

「そのうち本隊も来るのか?」

「いえ、取り敢えず矮人たちは、全ての人工衛星都市の制御の奪還を目標にしてるようですね」

「地上は捨てたってこと?」

「そのようです。まあシャンリットにとっては、ハルケギニアも所詮はたかだか一惑星に過ぎませんし、この現状でも『檻』さえ作ってしまえれば丸ごと貴重なサンプルに出来る、とでも考えているのかも知れませんね」

「ああ、有り得そうね」

「混沌を駆逐できても、あるいはそうでなくても、『どちらでも良い』ということだろう。それに混沌に取り込まれた所で、あの蜘蛛の眷属らの行動原理が変わるとも思えんからな。単に崇める神が一柱増えるだけだろう」

「はン、アトラク=ナクアと、ナイアルラァトホテプの二本立てってこと? まあ奴ら元から正気じゃないし、混沌に呑まれても変わらなさそうね、――忌々しいことに」

 三人の虚無使いは、はあ、と一斉にため息をつく。

「まあ、アレらのことはどうでもいいわ。統制されてても統制されて無くても大して変わりないし……いえ、千年教師長が消えた分、逆に行動が控えめになるくらいかもしれないわ。
 それより現状把握の続きよ、続き」

「といっても、私が持っている情報はこのくらいですかね。
 ああそれと、ロマリア市街は『世界扉』の反対呪文である『世界隔壁』で物理的かつ霊的に厳重に隔離していますから、【チクタクマン】の影響は受けていませんよ。
 それからジュリオをアルビオンに派遣しています。彼からの情報も、もう少しすれば使い魔のラインから入ってくるでしょう」

 そう言い終わると、ヴィットーリオはジョゼフの方を見遣る。

「次は余の番か。ガリアの両洋艦隊が何やら影のような化身に呑み込まれて壊滅したが、陸地は特に被害は出ていない。シェフィの能力で<黒糸>に干渉し、霊的防壁を作って【チクタクマン】の侵蝕を止めているからな」

「……ミョズニトニルンの能力はどこまで通用するの? 【チクタクマン】を抑えられてるってことは、それなりに使えるんでしょうけど」

「まあ<黒糸>も魔道具の一種である以上、相性的には圧倒的に有利だからな。だが現状は、正直手を抜かれている感が強いと言わざるを得ない、そうでなければ抑える事はできなかっただろう。ナイアルラァトホテプが何を考えて手加減してるのか分からんがな。――一応、逆転の方法には心当たりがあるのだが」

「その秘策とやらには期待しとくわ、私もなんとなく見当つくけど。どうせ直ぐにその逆転の秘策とやらも披露してもらうことになるでしょうけどね」

 ジョゼフの話はそれで終わりらしい。

「最後は私ね。トリステインと旧ゲルマニアは――まあしっちゃかめっちゃかに化身が湧いてるみたいね。世界樹が動き出したり、シュヴァルツシルトから猪の魔神が眷属引き連れて出てきたり……」

「貴様は何も対策をしなかったのか? アンリエッタ女王は何をしておる」

「んな暇なかったわよ、ずっと夢の世界に居たし。緊急避難として化身どもが現れた地域の住人は、アンリエッタ姫様の水魔法で眠らせてもらって、無理やり私の夢の中に引き込んだけど」

「……そやつらの肉体はどうなった?」

「さあ? やられちゃったかもしれないけど、後でちゃんと肉体を『結晶化(クリスタライズ)』してあげるつもりだから、特に問題ないわよ」

「いやその理屈はおかしい」

「魂が無事なら肉体程度はどうでもいいでしょう?」

「あなたはドリームランドの常識に汚染されすぎです、ミス・ヴァリエール」

 そうかしら? と首を傾げるルイズ。
 別に問題ないわよね? と彼女はサイトを見る。サイトも頷く。
 そう、魂が無事なら、何も問題ない。何も、問題は、ない。

 だめだこりゃ、とジョゼフとヴィットーリオは肩をすくめる。 
 彼女たちの基盤は、既に現実世界にないのだと思い知る。
 しかしそれ故にこの局面では、存分に幻夢郷の力を利用できるだろう。ルイズの精神力で以って無尽蔵にクリスタライズされる夢の世界の物量は、非常に頼もしい。

「まあ現状把握はもういいだろう」

「次は勝利条件ですね」

「勝利条件なんて決まってるわ。這い寄る混沌ナイアルラァトホテプのハルケギニアからの追放よ!」

「……それ以外にはないでしょうね」

「と言っても、各地に顕現しておる化身どもを全て叩くのは無理だぞ? 手が足りん」

「別にそうする必要はないわ。――あれらは全部影……出来損ないのレプリカにすぎないから」

「ほう?」

 ルイズは説明する。
 各地の混沌の化身は、チクタクマンによって模倣(エミュレート)され再現されているだけであること。
 大元の【チクタクマン】を消せれば、それらも消せること。ただし時間が経って、レプリカどもの存在が安定してしまえばその限りではないこと。
 それらの情報の出元は【チクタクマン】の依代になったベアトリス・フォン・クルデンホルフの肉体であり、ドリームランドの彼女の魂を通じて縁を辿ったのだということ。

「今も継続的に、そのクルデンホルフの娘から敵情は入ってきてるのか?」

「断片的にならね」

「それはかなりのアドバンテージですね。敵の親玉直通の情報源とは」

「まあ、それがホントに正しい情報ならいいんだけど」

「ああ【チクタクマン】が偽情報を意図的に流している可能性があるのだな」

「実際【チクタクマン】には気づかれてると思うし、あまり多用しすぎるのは危険だとは思うわ」

「……絶対にここぞという所で偽情報を流してきますよね、間違いなく」

 相手の底意地の悪さを再認識しつつ、三人の会話は実際的な方面に流れていく。

「じゃあ作戦だけど、ここはそれぞれの得意分野に沿って、シンプルに――――」


  ◆◇◆


「随分ここも人が減ったじゃないさ」 

「あら、あなたが派遣されたんですの? 偵察兵だなんて、脳筋のあなたには不適じゃなくって?」

 アルビオン大陸を貫いて宙吊りにしている軌道エレベータ『イェール=ザレム』。
 そのイェール=ザレム内部にて、矮躯の少女たちが向かい合っていた。シャンリットによって生み出されたゴブリンの改良品種――ゴブリンメイジたちだ。矮人とも呼ばれる。
 植物に生り、遺伝子どころか記憶すらも継承する彼女たちにとって、ほとんどすべての同胞はどこかで――母樹から継承された前世の記憶か何かの中で――会ったことがあるような印象を受けるという。

 今、旧天空研究塔『イェール=ザレム』で向かい合っている褐色肌にゴブリンの名残を残す矮人の少女たちも、今世ではない矮人生でそれぞれに面識があるのだろう。
 一方は金髪で縦ロールのどことなく気品のある感じの矮人。彼女は少し前のアルビオン攻略戦で、シャンリット側の総司令官を任されていた、オルガ・ルイン・634992号という個体だ。
 対するのは蓮っ葉な口調のアマゾネスな雰囲気の矮人の少女、アネット・バオー・592240号。こちらは、宇宙にある人工衛星都市から派遣された調査隊の一人だという。人工衛星都市は、その距離的な隔たりから、這い寄る混沌の化身【チクタクマン】の影響をかろうじて防げていたのだった。

「別に偵察に必要な知識はインストールされてるから問題ないさね、オルガ・ルイン・634992号殿」

「そう。ウード教師長への……いえ【チクタクマン】の侵蝕への対策は十全ですの? アネット・バオー・592240号さん」

「遅延措置は施されてるが、私含めて偵察部隊は使い捨て前提だよ。後続部隊が変異した屍をサンプルとして回収してくれる手はずにはなってるがね」

「まあそんなところよね。で、この司令部の他の人員だっけ? みんなこの神気溢れた空気に当てられて、蜘蛛神アトラク=ナクア様の元に巡礼しに行っちゃったり、好き勝手に好奇心が赴くままに調査に出かけちゃったわ――だって外があんなに楽しそうなんだもの」

「なるほど。確かに、シャンリットの血筋に宿る蜘蛛神の呪い、そしてまた呪いにも等しい千年教師長の知識への渇望――それが私らの魂には感染させられてこびり着いているからねぃ」

 矮人たちの魂には、ウード・ド・シャンリットから長年に渡って、蜘蛛神の呪いが譲渡され、染み付いているのだ。
 それが今、このアルビオンを覆ったアザトース・エンジンの力場によって活性化し、その結果として多くの矮人たちは蜘蛛の形へと変貌したのだという。
 そしてまた、それと同等以上に、知識への渇望が、未知への欲求が植え付けられてしまっている。いくらか正気を残していたゴブリンたちも、今では内なる衝動を抑制できずに、勝手気ままにフィールドワークに出かけてしまっている。

「で、他の人員がアトラク=ナクア様の元に参内したりしたのはいいとして、長官のあんたが無事なのはどうしてさね?」

「さあ? 耐性でもあるんじゃないの? アトラク=ナクア様の寵愛に対してか、それともナイアルラァトホテプの侵蝕に対してか、あるいはアザトースの神気に対してなのかは知らないけどね」

「ふぅん、オルガ・ルインの系統には耐性あり、と。あとで本部に報告しとくよ。追試は向こうでしてくれるだろうさ」

「まあよろしく言っといて下さいな」

「ああ、分かったさね。……そうだ、シャンリットの地下都市の方はどうなってるか分かってるかい? ここなら情報が集まってるはずだから、こっちに来たんだがね」

 今、アルビオン大陸はシャンリットの直上に存在する。
 つまり開いてしまったアザトースの宮殿への門の影響は、学究都市シャンリットの地下を含め、その都市圏の全域に及んでいる。
 アルビオンが異形溢れる阿鼻叫喚の地獄と化したのと同様に、恐らくは地下のシャンリットも――。

「ああ、まあ面白いことになってるみたいですわ。異形化は異形化なのですが、シャンリットの方では機械との融合が多く見られるみたいですわね」

「へえ、なるほどね。<黒糸>やマジックカードから痴愚神の神気が直に感染したせいかね、媒体を経由することで変異の方向性にバイアスがかかるのかい?」

「まあその辺の考察も、暇だったので幾つかレポートにまとめてますわ。ついでに人工衛星都市に送ってもらえます?」

 そう言って、オルガ・ルインはデータの入った端末を寄越す。

「承ったさ。中身はここで見ても?」

「どうぞ」

 アネット・バオーが記録端末にアクセスし、空中にウィンドウを投影し、レポートを読んでいく。
 勿論そのコピーは、これまでのアネットの報告書とともに人工衛星都市へと転送する。

「へえ、結構劣化【チクタクマン】みたいなのが生まれてるのかい。やっぱりマジックカードや観測機器との融合も多いみたいさね」

「そうみたいですわね。元からシャンリットにはその手の都市伝説ってあったでしょう? 多分それに影響されたのだと思うのですけど」

「まあ“千年教師長の正体は、超超高度なインテリジェンスアイテムだ”って都市伝説というか実話というか、まあその手の話には事欠かないしねえ」

「異形化した住人たちを調べてみたら、都市伝説に語られる異形たちがわんさか引っかかってきましたわ。既存の小説とかなんやらの物語の登場人物めいた異形も多いですわね」

「シャンリットならではってとこかね? あとは……ああ、先祖帰りが多いようさね」

 シャンリットは元から亜人種や、その他の神話種族の受け入れにも積極的だった。
 また研究所で生み出された悍ましき混血児たちが、不法投棄されたり脱走したりしたケースも有り、街の住人たちの中には本人も知らぬまま異形の血を引いている者も多いのだ。
 先祖帰りとは、それらの忘れ去られるべき血脈の発露ということである。

「で、これ見ると、地下都市シャンリットの都市機能はそれほど損なわれてないようだが」

「ああ、理性を失った異形もそりゃ少なからず居ましたわ。でもそれは、圧倒的多数の理性を保った異形に駆逐されましたの」

「理性を保った異形ねえ。まあシャンリットなら、住人たちも超常現象に対する精神的耐性は高いだろうしねえ」

「シャンリットの文化として肉体の継ぎ接ぎなんかがメジャーだったことから、肉体をファッションとして捉える風土が強いのは確かですわね。自我を保っていられれば、外見なんて気にしないって輩が一定以上は居ますから」

「マジックアイテムでの義体化技術もあるしねえ、まあ肉体への執着は薄いさね」

「むしろ嬉々として、アストラル体の発露を楽しんでる始末ですわ」

 シャンリットもアルビオンとに負けず劣らず混乱の中にあるのは確かだが、アルビオンよりはまだ秩序立っているらしかった。
 それは住民の間に周知されていた危機管理マニュアルや、非常時の行動指針も影響しているのだろう。
 そして彼らが普通のハルケギニア人類よりも神秘に近しかったことが、その適応性の発露に繋がったのだ。――それとも、最初から狂っていただけなのか、まあそれは分からないが。

「そういえば、転化した異形たちには【チクタクマン】による統制ってかかってるのかい? 行動の強制とかそういうやつは」

「さあ? 他の同僚の様子を見たところと私自身が感じる限りだと、特に今のところそういったものは無いみたいですけれど。アネット・バオーさんも、<黒糸>からのざわめく感覚を感じていても、そういう枷とか強制とかは感じませんでしょう?」

「そうさね。色んなものの箍を外そうとする黒い衝動を体中の<黒糸>から感じるけれど、特に命令らしきものは感じないねえ」

「いざとなったら分かりませんけどね。多分どっかの誰かが攻めてくるまでは、適当に混沌とした自由を満喫させるつもりなんでしょう」

 ※どっかの誰か=ピンク髪の“憤怒(オーディン)の化身”の如き虚無使いとか。

「ま、それに、わざわざ有象無象の異形どもを使わなくったって、<黒糸>をフルスペック以上で使いこなせる上に、エネルギーは無尽蔵のアザトース・エンジンから引っ張ってきてるんですから、多分【チクタクマン】単体で敵を相手するんじゃないですかね。このイェール=ザレムだって制御奪われてますし」

「ああ、イェール=ザレムはやっぱり制御奪われてんのね。そういえば、十万基以上のグレゴリオ・レプリカってまだ現存してるのかい? 人工衛星都市でも警戒してたんだが、虚無属性十万の並行励起は少し厄介なんだけれどもさ」

「まさか。アルビオンの結界焼き切った時点で、ぜーんぶ干からびてますわ」

「そうかい、そりゃ安心だ。死体が蘇らなければだけれど」

「まあ、何にしても、私たちがやることは変わりませんわ」

 そう、叡智の蜘蛛の眷属がやることは、古今東西何があろうと変わりはない。
 全てを目に焼き付け、全てを音に聞き、全てをその手で確かめ、そしてその全てを記録に残す。
 それこそが本懐で、本願で、本望で。

「これから何が起こるか、楽しみですわね」

「それに関しちゃ、全くの同感さね」

 きっと神話の如き出来事が見られるだろう。何せ本当にカミサマがやってきているのだから。
 頬を薄っすらと上気させ、楽しげに未知への期待を語る二人の矮人の少女。
 その時であった、イェール=ザレムの観測機器が、ラグドリアン湖上で異常に高まった三つの虚無の力を捉えたのは。


  ◆◇◆


 虚無の担い手三人が、ラグドリアンの湖上に佇んでいる。

「まずは私からかしらね。伊達に何年も夢の国に引きこもってたわけじゃあないのよ」

「何百年の間違いではないのか? ドリーミン大年増め」

「うっさいわね鬱屈王。じゃあ行くわよー!」

 ルイズはジョゼフの軽口を受け流し、自身の影からヴァルトリの触手を伸ばす。
 触手の本数は大きなものが三つ。そして細かな触手が数えきれないほど何十本も。
 太い触手の先には一抱えほどの、黄色がかった卵円形のクリスタルが掲げられていた。細かい方の先にも同様に、ニワトリの卵のような黄色いクリスタルが。

「ほう、壮観だな。百に迫るアーティファクトによる魔法陣とは」

「ですね。というか、ミス・ヴァリエールでも、これだけ大掛かりな儀式魔法陣が要るのですね」

「……幻夢郷を駆けずり回って確保した【夢のクリスタライザー】三基と、自分で複製したレプリカ七十七基。それらを配した魔法陣……まあこれ無しでもやれないことはないけど、まだまだ先も長いからね。魔力を温存しないと持たないわ」

 幾何学的で、しかしどこか有機的な曲線を描くように、黄色がかったクリスタルたち――【夢のクリスタライザー】とそのレプリカ――は空中へと固定されていく。
 アーティファクトで作らえた巨大な魔法陣が、ラグドリアン湖上に姿を表しつつあった。
 やがてソレも完成する。

「じゃあ、呼び出すわよ。……――現し世は夢、夜の夢こそ真、わが領域よ降臨せよ――……夢見る乙女(アンリエッタ)の軍勢よ、湖の上に列せよ。臨む兵、闘う者、皆、陣列べて前に在り――呪法『夢の国のアリス』」

 呪法『夢の国のアリス』。
 ルイズがそう名付けた呪法は、まるで幼い少女が見る夢のように荒唐無稽な現象を、この世に降ろす。



「ようこそ姫様、私のおともだち」

「ありがとう、私のおともだち。お招きに与り光栄ですこと」

 湖上に現れたのは、赤いドレスを身に纏うブルネットの髪色の女王、“深淵”のアンリエッタ・ド・トリステイン。
 そして彼女に傅く(かしずく)一万を超えるメイジたちの軍勢。
 ルイズの夢の国で調練していた彼らが、その夢の中での練度そのままに顕現(クリスタライズ)したのだ。

 供回りには、ルイズの国の小人たちがついている。トリステインのただの平民では異形の相手は荷が重い。
 なぜルイズの民たちだけで軍団を形成しないかといえば、「あくまでハルケギニアの問題を片付けるのは自分たちだ」と貴族たちが気炎を上げているからだ。ルイズとしても、わざわざ自分の国の臣民を、何の所縁もない現実世界の戦争に駆り出したくはない。
 それにハルケギニアにおいて貴族が統治を許されているのは、こういった有事の時のためなのだから、彼ら貴族たちのその認識はまったくもって正しい。彼らは国の槍となり盾となり戦い、そしてその戦いの中で死ぬべきなのだ。

 伝承にも云うように、選びぬかれた真の戦士はワルキュリアに導かれて英霊となり、神々のために日夜闘争に次ぐ闘争で自身らを磨き上げ続ける日々を送るのだ。
 それこそが貴族の誉れ、戦士の運命。
 夢の国での調練の日々は、貴族たちにとって見れば、天上のヴァルハラでの死後の悦楽を先取りしたかのような毎日であったことだろう。(もっとも全ての人間がそれを幸福に思うかどうかは別問題であるが)

 アンリエッタがドレスを翻してくるくると回りながら、歌劇のように宣言する。

「戦いに赴きましょう、私のおともだち。
 そして私の騎士たちよ、共に往きましょう!」

 アンリエッタがルイズの方から貴族軍の方へと向き直る。

「祖国の栄光のために、愛しき民の安寧のために!
 無限の愛のために、無念と絶望の霧を祓うために!
 戦い、戦い、戦い、戦って、戦いぬきましょう!
 だってそれが本懐でしょう、戦うことは生きることで、生きることは戦いだもの!」

 いつの間にかアンリエッタの傍らには、漆黒の鎧に身を包んだ亡国の王子が佇んでいた。
 後に『黒太子』と称されるようになる、プリンス・オブ・ウェールズその人であった。
 夢の国での療養は、彼に幾らかの正気を蘇らせ、そしてそれ以上の決意と憎悪を宿らせていた。――即ち、祖国を取り戻すという決意と、祖国を踏みにじった邪悪への憎悪だ。

 アンリエッタはちらりと黒太子のウェールズを見て、その燃える瞳にうっとりとしながら、兵の鼓舞を続ける。

「気に入らないものを打ち砕きましょう、自分のために、仲間のために。国のために、愛する者のために! 守るべき者のために!
 神や悪魔を呑み干しましょう、その血を浴びて根絶やしにしましょう、私たちが生きるために!」

 ラグドリアンの静かで蒼い湖面の上で、魅了女王の忠勇なる軍勢は声を上げる。

『トリステイン万歳! アルビオン万歳! ハルケギニア万歳!』 『我らが深淵の女王陛下、万歳!』 『黒太子ウェールズ殿下、万歳!』

 ここは湖上の青き辺獄、地獄の手前。
 RIDE the BLUE LIMBO、青い辺獄の上で誓うのだ。誰ひとり零すな、余さず救え。汝らこそが人類の槍。

 アンリエッタが宙の一点を指差す。
 それに合わせて、ルイズが魔法を発動し、虚空に映像を映し出した。それは瓦礫に押しつぶされたシャンリットであり、混沌の化身が暴れまわるトリステインの各地の光景であった。
 暴れる黒い世界樹。森から溢れる黒い大猪の津波。都市に紛れた漆黒の殺人鬼。咆哮を上げる三脚の錐頭巨人。国土が、領民が、闇の勢力に蹂躙されている――!

 アンリエッタが言う。声が風に乗り、青い湖面に乗る貴族たちへと届く。

「あれを見よ、残骸が街を覆うさまを。
 人の居なくなった街を見よ。あの虚無の街を。
 そして思い出しなさい、街々に満ちていた喧騒を。
 心に舞い上がる、在りし日の良きことの影を、無数の人々の笑みを想いなさい」

 領地の平民たち、街の喧騒、身近な人々。
 その笑みを思い出し、しかし、虚空に映し出される瓦礫の街、闇が覆う光景がそれを打ち砕く。

「目に映るあれは許せるものですか?」

『否! 否! 否!』

「ならば戦え! 戦うのです!
 戦え! 戦え! 戦え!!
 戦って――取り戻せ!!」

『おおおおおおおおおおおおお!!!!』

 あの邪神たちから、国を取り戻すのだ。
 悪としか、闇としか形容できない者どもから、取り戻すのだ。
 そしてそれだけの修練を、彼らは積んできた。


  ◆◇◆


「……と、まあ雑兵の露払いと化身の足止めは、トリステイン軍に任せるとして」

「ルイズ・フランソワーズ……お前……」

 ジョゼフとヴィットーリオは非難するような目でルイズを見る。
 そんな視線を受けて、ルイズは口を尖らせる。

「何よ、適材適所じゃない、私たちは雑魚になんて構ってる暇なんてないんだから。それに彼らも当事者よ。貴族の誇りのためにも、戦わせてあげないと。ガリアもロマリアも、トリステインが先鋒切ってくれるんだったら願ったり叶ったりでしょうに」

「それはそうですが」

 ガリアにしてもロマリアにしても、自国の軍を混沌の化身たちにぶつけるのは避けたい。
 トリステインがそれをやってくれるというなら、問題はないし、それどころか望む所ではある。
 戦後にアルビオンやシャンリットの土地や財貨(有形無形のもの)がトリステインに接収されるだろうが、元からガリアにもロマリアにもその意図はないのだから問題ない。彼の地に埋まっているのは財宝だけではなく、むしろ地雷の方が多いのだから。

 今は復興しなければならない土地を新たに抱えるよりも、今の自国の被害を最小限に収める必要があるのだ。
 トリステインがその矢面に立ち被害を受け止めてくれるなら、邪魔立てする気はない。
 この邪神に対する自衛戦争にトリステインが勝った暁に得るだろう国際的発言力の増大は、少々頭が痛いが、許容範囲内だろうとジョゼフとヴィットーリオは考えた。

「何もトリステインに勝算がないってわけじゃないわ。私の呪法『夢の国のアリス』が続いている限り、彼らはまさに不死不滅の軍勢なんだから。それより、さっさと次の段階に行くわよ、準備は良いんでしょうね?」

「死んでも死なないから死んでもいいなんてのは暴論だろうに……。まあ余らの準備は終わっておるよ。なあ、シェフィ」

「はい、ジョゼフ様」

 ここは先程までの湖の上ではない。
 湖の“底”だ。まるで刳り抜かれたかのように、湖面から湖底まで鉛直に穴が空いていた。
 そして湖の底は、真っ白い何かで覆われていた。

 ――処女雪のように白いそれは、かつてここで浄化された、アルビオンのアンデッド軍七万の成れの果てだった。
 降り積もり、水の精霊の魔力に浸されたそれは、既に骨と言うよりは石灰岩である。
 白亜の舞台の真ん中で、虚無使いとその従者たちが佇んでいる。

「屍に満ちるこの湖底で悪巧みとは……いかにも虚無の担い手“らしい”舞台ですね」

「まあハルケギニアのマギ族の繁栄自体が、六千年前のエルフの生贄の上に立ってるものね。いかにも相応しいんじゃないかしら。あと悪巧みじゃないわよ失敬ね」

「……あまり水を差ささんでくれんかね。こっちはこれから本番なのだから」

 円柱に刳り抜かれた湖水の底で向かい合っているジョゼフとシェフィールド。
 そのジョゼフがルイズたちに苦言を呈する。こっちは真面目にやってるんだぞ、と。

「ああそりゃごめんなさいね。邪魔するつもりはなかったのよ? ただやっぱり私も少し緊張というか武者震いというか口の滑りが良くってね……。そうだ、じゃあお詫びにここはムーディな音楽でもひとつ流してあげましょうか?」

「要らん、黙っておれ。すまんな、シェフィ。待たせた」

「いえ、ジョゼフ様――」

 分厚い湖水のカーテンに囲まれた白亜の湖底は、乱反射した光によって青く染まっている。
 それはとても幻想的な光景であった。
 その舞台の中央で、ジョゼフとシェフィールドは改めて向かい合う。

「ではいくぞ」

「はい……っ」

 これから二人が行おうとしているのは、ある意味では婚姻の宣誓よりも重いことだった。

 ジョゼフの声が厳かに響く。

「五つの力を司るペンタゴン!」

「――っ!」

 カッ!
 その瞬間、ジョゼフとシェフィールドを取り囲むように、光のラインが五芒星の形に湖底を走った!
 湖水を切り取ったその青の舞台から、五芒星を象った光の壁が立ち昇る。

「我が使い魔にして伴侶たる彼女に――」

「ぁぅ……」

「――我が全霊の祝福を与える!! 愛している、シェフィ――」

「はいっ、ジョゼフ様――――んぅ……っ!」

 ジョゼフは力強い宣言とともに、顔を赤くするシェフィールドを抱き寄せ――――その唇を貪った。

「んふ……ふぁ……」

 恍惚として口づけを受け入れるシェフィールド。

 と、同時に、二人を覆っていた光の壁が、その姿を変えていく。
 ぐにゃりと光の壁が歪み、それは無数の文字列へと変化する。
 突き立った五芒星から幾万幾億ものルーンが浮き上がり、まるで走馬灯か竜巻のように二人を中心に渦を巻いた。

「……多重契約……、どうやら上手くいきそうね」

 ポツリと呟いたのは、そのルーンの光の奔流から少し離れた位置にいるルイズ・フランソワーズだ。
 『魔道具支配』の権能を持つミョズニトニルンは、今回の戦いにおいて非常に重要なファクターだ。彼女の強化は必須なのだ。
 そのために虚無使いたちが選んだのが、この方法である。

 即ち――『多重契約』だ。
 使い魔は運命によって選ばれ、また真の契約は愛によって結ばれるのだ。
 かつて六千年前にブリミルがリーヴスラシルのルーンをエルフに刻んだように、ルーンの重ねがけや任意の相手に契約を施すことは可能であり、ルイズから虚無の半神ヴァルトリの知識を受け取ったジョゼフも、当然『多重契約』を行うことが出来るのだ。

 青い水の垂直洞穴を乱舞していたルーンの光が、次々とシェフィールドの肌へと吸い込まれていく。
 未だにジョゼフと接吻を続ける彼女の肌を、輝くルーンが覆っていく。
 古今東西の『使い魔のルーン』が彼女の肌を覆い、それらが彼女の額の“ミョズニトニルン”のルーンへと接続されていく。
 シェフィールドは体中を覆うルーンの輝きによって、もはや、光り輝く人型となっている。

「使い魔のルーンは、ただのネズミでも人並み以上の知恵を与えることが出来るわ。
 その時にルーンが行なっているのは、それに応じた肉体・精神・魂魄の三位一体の改変……。
 その中でも特に注目するべきは、『魂の拡張』!」

 どんな下等な動物に対しても、人間以上の知能を与えることが出来る“使い魔のルーン”。
 それらを無数にその身体に刻み、さらに根源たる上位のルーン――ミョズニトニルンのルーンによって統合し、支配する。

 それによって何が起こるのか?
 魂の拡張によって、シェフィールドの思考能力は人の域を超えて、神にも迫る。

 そして魂の能力を引き上げられた彼女は、何が出来るようになったのか!?

「シェフィ……」

「ジョゼフ様……」

 口づけを終えた二人が見つめ合う。
 もはや肌を覆い尽くすルーンによって光の塊となったシェフィールドに対して、ジョゼフが頷く。
 彼女は跪いて、祈るように手指を組み合わせる。そして彼女の決然たる宣言が、青い湖の底に響く。

「アクセス!!」

 同時に彼女を中心として、白亜の湖底に幾筋もの光のラインが、一瞬にして遥か湖の岸までも走っていく。
 光っているラインはハルケギニアに張り巡らされた蜘蛛の糸――<黒糸>。今は混沌の邪神の依代になっているそれだ。
 ミョズニトニルンの権能が、魔道具たるそれを支配しようとしている。そう遂にシェフィールドが、【チクタクマン】への攻撃を仕掛けるのだ。

「余も共に戦うぞ――虚無の『加速』……クロックアップ!!」

 またジョゼフも、愛しい伴侶を助けそしてハルケギニアを――具体的にはガリアを――守るために、己の力を振るう。
 ミョズニトニルンの処理能力を更に高めるために、ジョゼフの『加速』の魔法が、彼ら二人を周囲の時間の流れから孤立させる。
 何百倍にも加速された時間の中で、シェフィールドが<黒糸>へとアクセスし、【チクタクマン】へと攻撃を仕掛け続ける。


  ◆◇◆


 その時、惑星ハルケギニアを監視するシャンリットの人工衛星の一つは、たしかにその光景を捉えていた。
 それは信じがたい光景だった。
 だがそれ以上に、美しく希望に満ち溢れた光景であった。

 ガリアとトリステインの国境湖――ラグドリアン湖の真ん中からから、光が広がったのだ。
 その光は、地表の闇を吹き飛ばしながら惑星を隅々まで駆けていく。
 闇はその光に追いやられ、攻め立てられて、いくつかのポイントに凝縮していく。

 中でも最も闇が濃いのは、山脈に囲まれた蜘蛛の居城――クルデンホルフ大公国シャンリットだ。
 アルビオン浮遊大陸が上から覆いかぶさっているそこは、嵐のような瘴気に満ちていた。

 だが、不意打ち気味に光に追いやられた闇も負けたものではない。
 残された場所の闇が一際濃くなり、今にもまた爆発しようと暗黒の気配が膨れ上がる。

 しかし、それを許さない者が在った。

 追いやられた闇たちを封ずるべく、巨大な光の檻が各地に突き立ったのだ。


  ◆◇◆


「――虚無魔法『世界扉』……世界を繋ぐその魔法の、逆呪文――
 すなわち、世界を隔てる絶対の壁『世界隔壁(ワールド・ウォール)』」

「ナイスタイミングよ、教皇。これ以上ないくらいにドンピシャだったわ」

 闇を封じた光の檻を創り出したのは、教皇ヴィットーリオの虚無魔法であった。
 あと数瞬でも『世界隔壁』の展開が遅れていれば、再び【チクタクマン】を通じて混沌が地表に溢れていたかもしれない。
 まさしくギリギリのタイミングであった。

「まあ、私もこと此処に至っては、出し惜しみをするつもりもありません。次は、この状況でも残っている、弱体化した混沌の化身たちの元へとトリステイン軍を移送すれば良いのでしたね?」

「ええ、お願いするわ。その後は、ジョゼフと協力して封じ込めを続けて頂戴。『世界隔壁』の中での戦いは、私とトリステイン軍でやり遂げてみせるわ」

「分かりました。……とはいえ、実際のところそれ以上の余力は、私にもジョゼフ王にも無いでしょうけれどね。早く決着をつけてくださいね」

「分かってるわよ、長引けばアザトース・エンジンの無尽蔵のエネルギーを得た【チクタクマン】が盛り返してくるのは、火を見るより明らか。そしてこちらには、もう一度同じ事をやるだけの余力は無いし、回復手段も無い」

 まさに一発勝負。背水の陣とか電撃戦どころではない。どちらかというと、片道特攻の匂いが強い。
 今、混沌の邪神を圧倒して封じ込めているように見えるかもしれないが、それは全く正しくないとルイズは認識している。
 依然追い詰められているのはルイズたちの側であり、ここまで上手く行ったのは、相性の問題と、ルイズによる他の虚無使いの強化が上手く嵌ったおかげだ。
 それも瞬発力で勝っただけで持久力など無いに等しく、しかも相手は走り出してすらいないのだ。

「では早速『世界扉』を展開しますよ。接続先は、一応トリステイン圏内の化身のもとですかね?」

「本隊はシャンリット攻略の露払いに、あとは世界樹やシュヴァルツシルトの化身たちに仕向ける手筈になってるわ。ガリア・ロマリア方面は、悪いけど後回しだわ。サハラも無理ね」

「まあロマリアやガリア、サハラや東方は、元からそれほど化身が強力じゃなかったり、対抗できる勢力が在ったりしますからね。中枢たるシャンリットを落とせば、私やジョゼフ王が虚無の真髄に目覚めた今、あとからどうとでも出来ます」

 ガリアやロマリアは、初動におけるジョゼフやヴィットーリオの尽力のおかげで、現時点までに二国内の混沌の化身はほぼ封殺されていた。
 さらに弱体化されている今なら、最悪国内の勢力でどうにか防戦くらいは出来るだろう。
 サハラに降臨している【ネフレン=カ】のレプリカも、<黒糸>からの供給を切断した今なら、エルフたちだけでも対処出来ると思われる。

「では『世界扉』を開きます。アンリエッタ女王ともども、ご武運を祈りますよ」

「なるべく手早く済ませるわ。それまでミョズニトニルンによる弱体化と『世界隔壁』による封印の維持を頼むわよ」

「分かってますよ、それより本当に頼みますよ……?」

 せめてロマリアの『方舟計画』が実行できる程度には、邪神勢力に打撃を与えてもらわなければ困る。
 今のままでは、ハルケギニアから逃げることすらままならないのだ。

 ルイズとヴィットーリオは、湖に開いた深い穴にジョゼフを置き去りに、湖面へと魔法で飛び上がる。

「準備はできたかしら、姫様?」

「ええ、万端ですわ。ルイズ・フランソワーズ」

「――というわけよ、じゃあお願いするわ、教皇猊下」

「分かりました。開け戦場への『世界扉』。戦士たちに始祖の加護の有らんことを」

 ヴィットーリオが杖を振ると、部隊ごとに分かれて放射状に整列していたトリステイン軍のそれぞれの目の前に、銀色の鏡のようなものが展開された。
 遠い場所を次元の壁すら超えて繋ぐ、虚無の『世界扉』だ。行く先に暗黒の瘴気が満ちているのを、漏れ出た冷気で泡立つ皮膚が証明している。
 『世界隔壁』によって隔てられた戦場へ侵入するには、術者であるヴィットーリオの『世界扉』で行くのが最も手間がかからない。だが、彼の役目もここまでだ。

「繋ぐだけでも相当な負荷です……、以後はもはや二度とあの瘴気溢れる場所へは繋げないでしょう。用意できるのは往きの道のみ、帰りはありません。そして万が一にも『世界隔壁』を解除することなど有り得ない」

 猛獣が封じられた檻への片道切符。
 檻の出入口は一方通行だ。
 ……教皇の使い魔ヴィンダールヴもその檻の中に居るが、彼だけは『サモン・サーヴァント』か何かで回収する算段なのだろう。

「分かってる、だけど死出の旅にはならないわ。だって勝つのは私たちだもの」

 ――――全軍進行! 始祖の加護は我らにあり!

 アンリエッタの号令とともに、トリステイン軍が戦場へと進み始める。
 統制がとれた貴族の部隊たちが、次々と銀鏡の向こうへと消える。
 そのうちの半数以上は、本隊としてアンリエッタと共にシャンリットを攻略せんと足を進める。

 当然、ルイズ・フランソワーズも。彼女こそが対邪神の主力なのだから。

「さて、それじゃあ地獄を呑み干してやろうじゃないの。行くわよ、サイト!」

「応! 平らげてやるぜ!」

 それは勇気か蛮勇か。あるいは単なる強がりなのか、それとも自信に裏打ちされた真実なのか――――それは彼らが向かう戦場(さき)で明らかになるだろう。

「本当はとても怖いはずだけれど、あんたがいれば何とかなりそうって思えるから不思議なものね……」

「ん? 何か言ったか、ルイズ」

「べ、別になんでもないわ。――頼りにしてるってだけよ」

「おう、任せとけ。何があってもルイズは守るからよ」

 何があっても。サイトはその決意の言葉をもう一度口の中で転がした。
 ――そう、何があっても、だ。


  ◆◇◆


 ここはトリステインの空の港、世界樹がある渓谷――ラ・ロシェールである。
 昔の土メイジたちがひとつの岩盤から繰り抜いて作ったというその渓谷の町であり交通の要衝でもあるのだが、今は見る影もなく廃れてしまっている。
 岩で出来た家々は、茨の棘代わりに石英のような結晶を生やした大量の輝く蔦によって覆われており、どこからも人の気配など感じられない。

 それもこれも全ては、この街のシンボルである世界樹の変貌に由来する。

 混沌ナイアルラァトホテプの化身の一つを【チクタクマン】が再現したもの――捻じ曲げられたものの王【アトゥ】の、そのレプリカ。
 世界樹を依り代に再現(エミュレート)された【アトゥ・レプリカ】が、このラ・ロシェールを覆い尽くしたのだ。
 街を覆う蔦は、まるで黒い河のようにも見える。

 古代の巨木は漆黒に染まり、その所々にマグマのような赤い光を発するヒビ割れのようなラインが走っている。
 命が亡くなって久しいはずの世界樹は、しかし、今は瘴気を垂れ流しながら、水晶の棘を生やした蔦を辺り一面に広げていた。
 世界樹を覆うマグマのような赤黒いラインが、まるで巨大な動物の心臓の鼓動ように、ゆっくりと脈動している。

 空は晴れているのに、【アトゥ・レプリカ】から立ち昇る瘴気によって、まるで暗雲が立ち込めているかのような暗さを感じさせる。
 眼ではなく魂が、その場に立ち込める暗黒を感じているのだ。



 転移の銀鏡を通り抜けてラグドリアン湖から此処に至ったトリステイン軍の分遣隊は、その暗黒の瘴気に当てられて、しばし忘我して立ち尽くした。彼らが出現したのはラ・ロシェールを一望できる岩山山地の上であり、【アトゥ・レプリカ】の蔦の範囲からは幾分離れているのだが、それでもちっとも緩和されたとは感じられない邪気であった。
 元から邪悪への耐性の高い(精神力が平民に比べて高い)貴族のみで構成された軍団であるが、しかしレプリカとはいえ邪神の化身を目にして、衝撃を受けるのは免れなかった。これが平民によって構成された軍隊であったなら、一瞬にして壊乱していただろうことは想像に難くない。
 その中から、いち早く衝撃から立ち直ったらしき、勲章をジャラジャラとつけた指揮官らしきキザな顔つきの男が声を上げる。

「何をしておる、しっかりせんか!」

「グラモン元帥!」

「行くぞ皆の衆! 王国の興廃、この一戦にあり! 我らに臆することは許されぬ! ハルケギニアの未来は我らの双肩にかかっているのだ! 邪神に侵された世界樹を祓い清めるぞ!」

 大音声で自失した配下を鼓舞するのは、分遣隊を任せられたグラモン元帥だ。近衛の水精霊騎士隊隊長、ギーシュ・ド・グラモンの父親に当たる。かつてはナルシスと呼ばれていた時期もあった。
 だが今の彼を、一体誰がグラモン元帥本人だと即座に看破できるだろうか?
 彼は今、元帥位に相応しい威風に満ちた老人ではなく、――かつて“ナルシス”として愚連隊をやっていた頃の、溌剌とした姿になっていた。

 それは元帥の若かりし日の姿。
 しかし彼が積み重ねた経験から来る威厳は失われず、眼光は鋭いものだった。

 共に転移していきた供回りの人員が、更に離れた場所に陣地を作るべく離れていくのを、元帥は見送る。

 グラモン元帥の周囲には、彼によく似た顔立ちの軍人の姿も在った。
 元帥に付き従うのは彼の長男であり、グラモン伯爵家の諸侯軍の将軍を務める男である。
 二人が並んだ姿は瓜二つで、まるで双子の兄弟のようですらある。
 年の頃は元帥とあまり変わらないように見えるのだが、顔つきは、何故か幾分若く感じられる。覇気の強さの問題なのだろうか。

 しかし何故グラモン元帥が若返っているのか?
 これがルイズの呪法『夢の国のアリス』の効果の一端である。かつてルイズがタルブ村で護鬼・佐々木武雄と相見えた時、あの護鬼は若き日の己の姿をクリスタライズしていた。それと同じ事だ。
 老人でも、あるいは幼子でも、『夢のクリスタライザー』の効果によって“自分が望む最高の自分”の姿を具現化することが出来るのだ。

 さらに呪法『夢の国のアリス』の効果は、それだけではない。

 グラモン元帥――ナルシスが、元帥杖を振り上げると、声を上げる。

「心に残りし面影よ、血に宿りし先祖の誇りよ! 今こそ此処に現れい出よ! 父祖よ応えよ、我らと轡を並べ、共に戦場を駆けようぞ!」

「「 『夢の創造(ドリーム・クリエイション)』――英霊(エインヘリヤル)の召喚!!!! 」」

 グラモン元帥の声に続いて唱えられたマジックワードの直後、一帯を光が覆った。

 この場に派遣されたのは、わずかに千人を超えるほどの貴族軍人たちだった。
 だが今はどうだ。

 光が収まる。
 するとどうしたことだろう、そこにはもとの倍近い人員が居るではないか!
 グラモン元帥の掛け声とともに、彼らを中心として新たに一千ほどの軍人たちが突如として虚空から現れたのだ!

 この『英霊の召喚』こそが、呪法『夢の国のアリス』の真骨頂だ。
 六千年の歴史を誇るトリステイン、その貴族ともなれば、先祖の逸話には事欠かない。例えば“開祖は戦場で~~な魔法を使って敵国の将軍を討ち取った”とか、“竜をも制する関節技に由来する家名を賜った”とか色々と。
 そんな彼らが抱く先祖への敬意と憧れを、彼らに流れる血を媒介にして具現化するのが『英霊の召喚』である。

 つまり無数に現れた軍人たちは全て彼らの血と魂に刻まれた先祖であり、また彼ら自身が想像する『歴代○○家で最強の戦士』なのだ。
 積み重ねられた歴史そのものが、呪法の被造物たる戦士の強度となって現れるのだ。
 貴族が誇る自らの家門の歴史が強さに直結する。しかしそれだけでもなく、当然ながら本人の想いの強さも大きく影響する。対邪神の軍勢に選ばれたのは、呪法『夢の国のアリス』の影響下において文字通り一騎当千の実力を発揮できるだけの意志の強さがあると認められた精鋭たちなのだ。

「さて、ではいくぞ――」

 グラモン元帥に任された分遣隊は、主に土の系統に秀でた家門の諸侯軍を中心に編成されている。
 そして土系統の家門には、必ずといっていいほど、次のような逸話が伝わっている。

 ――――“先祖の某は、山ほどの大きさのあるゴーレムを造り出して、敵の砦を一撃で粉砕した”と。
 そしてそれは、現実のものとなる。

「「 『クリエイト・ゴーレム』!! 」」

 その血に抱く共同幻想が具現化される呪法『夢の国のアリス』の影響下で、召喚された英霊と共にグラモン元帥ら魔法を詠唱した。聖堂詠唱とも呼ばれる、魔法の多重同期詠唱技術だ。
 すると魔力の輝きの直後に、ラ・ロシェールを囲む岩肌が蠢き――立ち上がった。
 世界樹【アトゥ・レプリカ】にも負けないほどの巨大なゴーレムだ。それも一体ではない、十体は居るだろう。

「伝説の巨大ゴーレム『グランド・グラモン』……、まさか御伽噺の先祖の御業を再現できようとは、貴族冥利に尽きますね、父上。グランド・グラモン級のゴーレムがこれだけ居れば、いかな邪神といえども――」

「軍務の時は元帥と呼べ。それより油断するな。敵は人知の及ぶ相手ではないのだ」

 グラモン元帥が長男を叱咤する。
 その間にも巨大ゴーレム群は【アトゥ・レプリカ】を引き抜こうと、暗黒の世界樹へと近づいていく。

 だがゴーレム群が邪神の巨木に手をかけようとしたその瞬間、元帥の懸念は当たることとなる。

「莫迦な!? ゴーレムの腕が!」

「何だ、何が起こった!」

 世界樹に手を掛ける前に、ゴーレムたちの腕がすっぱりと切断されて落ちたのだ。
 腕が落ちた地響きが【アトゥ・レプリカ】から幾分離れたここまでも伝わり、周囲の貴族たちが慌てる。

(確か鋼糸に金剛石の粉末をまぶす切断術があるとどこかで聞いたが、そのようなものか……)

 グラモン元帥の優れた目は、【アトゥ・レプリカ】の蔦枝の幾つかが凄まじい勢いで振るわれたのを捉えていた。
 表面に水晶――あるいは金剛石か――の茨を生やしたその蔦は、ゴーレムたちの腕を引き切ったのだった。

「静まれ! ゴーレムを再生させよ! 蔦がゴーレムの足元に迫っているぞ!」

 ハッと貴族たちが我に返る。
 グラモン元帥の言うとおり、ゴーレムは再生可能である。
 また呪法『夢の国のアリス』の加護がある限り、精神力の残量は気にせずとも良い。
 つまり、最悪ゴーレムが完全に破壊されても、再び作れば良いだけだ。

 ゴーレムの方を見れば、蠢く黒い蔦がゴーレムを絞め殺さんと足元から巻き付きつつあった。
 グラモン元帥らは、再びゴーレムに魔力を送る。

 ゴーレムが魔力光とともに再生し、再び【アトゥ・レプリカ】へと掴みかかろうとする。

 だが、相手に狙いを定めていたのはグラモン元帥たちだけではなかったのだ。

「ん? これは――?」

 ゴーレムの腕が落下した時の地響きが、未だに(・・・)収まらない。
 いや違う。

「気をつけろ、下から――」

 元帥が注意を促す暇もなく。
 まるで剣山のように“黒い根”が何千と地面から突き出されたのだ!

「うぎっ!?」 「ぎゃあっ!!」

 【アトゥ・レプリカ】の根がここまで伸びてきていたのだ。いやあるいは初めからここまで根を張っていたのか。
 トリステイン軍の何人かが避けきれずに根の槍に貫かれる。
 貴族たちを貫いた“黒い根”は、まるで獲物を誇示するかのように貴族たちを高々と掲げると、その身体を上下に引き裂いた!

「ぎゃああぁああぁぁぁぁ……!」

「くっ、グラモン将軍もやられたか!」

「元帥! 地響きが収まりません!」

「総員『フライ』で離脱せよ! ゴーレムの制御を手放せない者は周囲の者が抱えて翔べ!」

 そして彼らが陣取る岩山が、内側から【アトゥ・レプリカ】の根によって揺るがされて崩壊していく。
 貴族たちが急いで風魔法の『フライ』で脱出する。
 だが、元帥はその場に残った。

「元帥! 何を!?」

「舐めるなよ、邪神めがァ!! 『錬ッ金』ッ!」

 グラモン元帥の元帥杖が輝き、崩落する岩山を魔力が覆う。
 崩れる岩盤の其処此処が結合し、あるいは上下に分かたれて、網目状に穴が開いた数層の鋼鉄の円盤へと『錬金』される。
 【アトゥ・レプリカ】の根は、その鋼鉄の円盤の隙間を通るように配置されている。またそれぞれの円盤はよく見ると同じ形状のものがぴったりと二枚重ねられているようだ。

 そして、

「回転せよッ、大円盤たちッ! 互い違いにッ! 『念力』だ!!」

 ゴゥンと低く風を切る音とともに数層の二重円盤が互い違いに回転し、空隙に捕らわれた【アトゥ・レプリカ】の根が剪断(せんだん)される!
 一体元帥の『念力』の魔法は、どれほどの力が加えたというのか。【アトゥ・レプリカ】の根は、全く抵抗を許されなかった。
 ばらばらと短く剪断された【アトゥ・レプリカ】の根と回転する二重円盤が落ちるが、それと同時に再びグラモン元帥(ナルシス)が再び『錬金』の魔法を行使。落下地点を敵の残骸諸共に整地する。

 長い落下を経て、グラモン元帥は整地された元岩山だった場所へと着地。

 同時に淡い光が彼の周囲に満ちる。
 光は粒子になり、それらが集まって人型を取り――

「遅かったじゃないか……」

「申し訳ありません、元帥。不覚を取りました」

 光の中から現れたのは、さきほど【アトゥ・レプリカ】の根に貫かれて死んだ貴族たちだった。
 グラモン元帥の息子であるグラモン将軍の姿もある。
 彼らは復活したのだ!

 ――呪法『夢の国のアリス』は、肉体の死を超越する。
 彼らの意思が挫けぬ限り、死してもなお自らの身体を具現化し続けるのだ。そしてルイズが――虚無の理を司る彼女がいる限り、マギ族に精神力切れは有り得ない!
 永遠の享楽(たたかい)に身を投じるヴァルハラの日々を再現する呪法。地上に天国(夢の国)を降ろす無垢なる乙女の願い。それが『夢の国のアリス』、無垢にして残酷な呪法だ。

 散開した貴族たちも、英霊たちを引き連れて再び戦場へと帰参する。

 彼らの目の前では、戦闘モードに入った【アトゥ・レプリカ】が無限にも思える数の煌めく蔦を逆立てていた。まるでラ・ロシェールが絨毛に覆われたかのようにも見える。
 巨大な幹を走る赤黒いマグマ色のラインが、興奮状態にあるのを示すかのように短いリズムで脈動している。あるいはそれは実際にマグマが流れているのかも知れなかった。
 空を覆う瘴気は尚更に濃くなり、重力が強まった錯覚を抱かせるほどの濃厚なプレッシャーを放っている。しかし、それに屈するような惰弱な人間はここにはいない。

「……これでも敵の力は八割方は抑えられているというのだから、恐れ入るな」

「ですが負けるわけにはいきません。たとえ何度死のうとも――!!」

 彼らは戦い続けるだろう、【アトゥ・レプリカ】がこれ以上広がらないように。
 アンリエッタ女王が率いる本隊が、シャンリットに落ちたアルビオンの中枢を破壊するその時まで。
 グラモン元帥は、近衛隊長としてアンリエッタ女王に従っている末子を想う。

「陛下を頼んだぞ、ギーシュ……!」



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皆様いつも感想有難う御座います! 非常に励みになっております。
そして更新の間が開いて申し訳ありません……。
次回はもっと早くします、したいです。
今回は位置づけ的には『絶望の中の光明』といったところ。次回は『かすかな希望のあとのさらなる絶望』とでもいう感じに構想しています。

ニャル様の化身VSトリステインということで、「内原富手夫(妖神グルメ) VS マルコー」という料理人対決を思いついたのですけど、内原富手夫(ないばら ふてお)って別に明確にはニャル様の化身ではないしなーということで実現せず(まあ、イカモノ料理の追求のためにクトゥルー蘇らそうとしたりクトゥルー料理しちゃう辺りから考えると、無自覚なニャル様の化身ぽい気もしますが)。

2013.03.11 初投稿
2013.03.12 誤字脱字修正

2013.04.14 ヤマグチノボル先生の訃報に接して、を追記
2013.04.24 上記を次話末尾に移動



[20306] 蜘蛛の巣から逃れる為に 37.退散の呪文
Name: へびさんマン◆29ccac37 ID:a6a7b38f
Date: 2013/04/30 13:58
 ギーシュ・ド・グラモン率いる近衛騎士隊――水精霊騎士隊(オンディーヌ)は、彼らの主君である“深淵”のアンリエッタらと共に、教皇の『世界扉』を潜ってアルビオンの土地へと降り立った。 
 瘴気に覆われたアルビオンは昏く、上を見れば遠くには空を歩く巨人や人面竜の姿が見える。
 大地の其処此処には、生物の絨毛のような得体のしれないものが生えている。
 行く先は白い霧が広がり、その霧は流動する際にまるで怨嗟のゴーストのような模様を浮かび上がらせている。ここでは霧や風ですら敵なのだろう。

 唾棄すべき光景を前にしても顔色一つ変えずに、ギーシュは隊の状況を確認する。

「全員いるな?」

「ああ、確認済みだよ、ギーシュ隊長。欠員なし、装備にも不具合なしだ」

「確認ご苦労、レイナール副隊長」

 手早く隊伍を整えた副隊長のレイナールの言葉に、ギーシュは鋭く頷きを返す。
 その様子を見て、一体誰が彼らを学生のおままごと騎士隊などと揶揄できようか。
 夢の国での地獄の調練を経た水精霊騎士隊は、年若い見た目とは裏腹に、トリステイン軍の最精鋭の名をほしいままにしているのだ。

 そして彼らの後ろから、『世界扉』の銀鏡を通って彼らの主君夫妻が姿を現す。
 “深淵”のアンリエッタと、“黒騎士”のウェールズだ。
 アンリエッタの持つ水晶を嵌め込んだ杖が輝き、周囲の霧を晴らし、黒い騎士鎧のウェールズを中心に巻き起こる清冽な風が、瘴気で淀んだ空気を吹き散らした。

 アンリエッタが憤然として宣告する。

「……このような邪悪、許すわけにはいきません。アルビオンを、本来の主の手に取り戻すのです。そう、ウェールズ、貴方の手に」

「そうだね、アンリエッタ。しかし美しき白の国も、今は見る影もなし――か。復興には時間がかかりそうだ」

「私たち二人で力を合わせれば、如何な困難でも取るに足りませんわ。そうでしょう? ウェールズ」

「ああ、そうだね、アンリエッタ」

 嘆き、だがそして決意をあらたにするアンリエッタとウェールズ。

 女王夫妻の周囲には、アルビオンへの先鋒を切った水精霊騎士隊とは別に、選りすぐりの衛士たちが付き添っている。
 グリフォン隊、ヒポグリフ隊、マンティコア隊、アルビオンからの亡命部隊から選抜された精鋭たちだ。
 その中には当然“閃光”のワルドや、“氷餓”のアニエスなどの腕利きの姿が見える。

「ワルド隊長、混成近衛衛士隊、全員揃いました」

「ご苦労アニエス」

「は。――っ、『彼女』らもお出ましのようです」

 その女王夫妻とお付きの衛士たちの後ろ――『世界扉』の方――から、恐ろしい魔力の風が吹き抜けた。
 『世界扉』の銀鏡が、強大すぎる干渉力によって撓むのが分かる。
 虚無使い、ルイズ・フランソワーズだ。

「……もう後戻りはできないわね。行くわよ、サイト」

「……」

 ルイズとその使い魔サイトが通ったのを最後に、教皇の『世界扉』がフッと消えた。
 浮遊大陸に満ちる瘴気に屈し、繋がりを維持できなくなったのだ。

 退路は絶たれた。
 道はもはや前にしかない。

「でも元から退却なんてありえませんもの。そうでしょう? ルイズ・フランソワーズ」

「グッド! そうその意気ですわ、アンリエッタ姫様。そうでなくてはいけません、そうでなくては」

 貞淑そうな笑みを交わすルイズとアンリエッタだが、その笑みからは隠し切れない獰猛さが感じられた。
 だがそれがいい。それこそが良い。大体、このくらい強くなくては外宇宙からの脅威に対抗しようなどとは思わないだろう。
 可憐とは言いがたいが、強かな美しさがある。彼女らは戦場でこそ輝く花なのだ。


「この場所はロサイス近郊かな」

「ロンディニウムまでは繋がんなかったみたいですね、殿下。流石に瘴気が濃すぎたんでしょう」

「しかしまあこれ以上は望むべくもないだろう。それよりここまで運んでくれた教皇殿には感謝せねばなるまい、そうだろう、サイトくん」

「そうですね。さすがは虚無というか……」

 ここは軍港ロサイスだった場所。
 アルビオン大陸の空の玄関口の一つだったが、今はその廃墟の様子からかろうじてそれと分かるくらいだ。
 アルビオン大陸の落下とそれ以降の戦いによって、ほとんどの建造物は崩壊して瓦礫になっている。

 そしてロサイスの港のさらに向こう側には、巨大な光の柱が突き立っていた。聖なるものを感じさせる戒めの光の柱だ。

「あれが教皇の『世界隔壁』……。間近で見ると凄い迫力ですね」

「それ以上に私は畏怖を感じるよ。始祖の御力を目の当たりにして、やはり魂の奥底に感じるものがあるのだろうね」

 よく目を凝らせば、アルビオン大陸をぐるりと囲むように巨大な光の柱が聳えている。
 アルビオン大陸を囲む、虚無の力による光の檻。
 これが教皇ヴィットーリオによる『世界隔壁』だ。
 “移動と遮断”を司る教皇の力がアルビオン大陸からハルケギニア世界全体へと広がろうとする瘴気を押し込めて封印しているのだ。

「ぼさっとしてる時間はないわよ。準備しなさい、水精霊騎士隊! そうじゃなきゃ光の檻に瘴気が充満して破裂するわよ!」

「分かってるよ、ルイズ。でも命令するのは君じゃあない、水精霊騎士隊は君の近衛じゃあないんだ、いいね? 近衛はあくまで陛下の騎士なんだから」

「そんな細かいこと気にしてんじゃないわよ、ちっさい男ね、モンモランシーに嫌われるわよ」

「細かいことではないし、モンモランシーはこんなことで嫌ったりしないよ。あと小さくないし。――それよりルイズ、君の方こそ準備を手伝ってくれないかい? この辺の土は、どうにも精神力の通りが悪い」

 そう言ってギーシュが周囲の土を示す。
 彼は先程からゴーレムを作ろうとしているのだが、どうにも上手くいかないのだった。
 恐らくは系統魔法以上の干渉力を持った何かの邪神の力がアルビオンの大地を縛っているせいだろう。
 そういった汚染地域をまっさらな状態に戻すには、虚無の力で消毒するというのが効果的だとギーシュは事前に説明を受けていた。

「ああ、アイホートの迷宮概念が大地を縛ってるのね。それと――<黒糸>が張り巡らされているみたいね……つまり――」

 ふむふむと分析すると、ルイズば唐突に地面に向かって杖を向けた。

「【チクタクマン】ッ、貴様ッ! 見ているなッ! 『エクスプロージョン』ッ」

 杖を向けた先からカッと迸った白い波動が、周囲を焼きつくす。
 ルイズが放った『エクスプロージョン』は正確に邪神たちの影響のみを取り除き、一時的にではあるが周囲を清めた。清浄な気配が瘴気を晴らす。
 これなら系統魔法も効くだろう、土を操りゴーレムを作ることも。

「どう、これでいいでしょう、ギーシュ」

「ああ、助かったよルイズ。それじゃあ早速だけど、乗り物を作るよ」

「別にいちいち土から作らなくても、【夢のクリスタライザー】の力で現実に結晶化させればいいじゃない」

 そう言うルイズに、ギーシュは呆れた視線を向ける。

「そりゃあ君みたいな夢の女王様ならそれで良いだろうよ。でも、僕たちにとっては系統魔法を介した方が効率がいいんだよ。慣れ親しんでるしね」

「そう。まあどっちでも良いわ、結果を出してくれるんならね」

「任せてくれたまえ、期待は裏切らないさ」

 イル・アース・デル、とギーシュがルーンを唱える。
 同時にギーシュの持つ造花の杖から薔薇の花弁が舞ったかと思うと、散った花弁が地面に落ちた所から土が何かの金属に変化しながら伸び上がり、互いに絡み合いながら大きな輸送機のようなものを形作っていく。傍で見ていたサイトはそれを、翼のないジャンボジェットのようだと思った。
 銀色の光沢を持った流線型円筒は、いかにも空を飛びそうな形をしている。大きさはここにいる全員を収容できるほどだろうか、ギーシュの魔法の実力も呪法『夢の国のアリス』によって底上げされておりスクウェアクラスに達しているのだ。

「なかなかやるわね、ギーシュ。これは……アルミニウム系の合金? それともマグネシウム系かしら」

「アルミニウム系だよ、マグネシウム系はまだ安定的な合金を研究中でね。夢の国にいる間、僕は何も身体の鍛錬ばかりをやっていたわけじゃあ無いんだ。ちゃんと頭の方も鍛えてたのさ、お陰でこうやっていろんな合金を作れるようになった」

「造形も見事なものね、さすがセンスが有るわ」

「そんなに褒めないでくれよ、惚れたらどうするんだ、モンモランシーに言い訳が立たないし、サイトにはもっと言い訳が立たない。――ああもう、君は自分の魅力を自覚するべきだ。さあっ、それよりさっさと乗り込んでくれ。時間が惜しいんだろう?」


  ◆◇◆


 派遣人員が全員乗り込んだ飛空船が、水精霊騎士隊の風メイジによる『レビテーション』の魔法によって垂直に離陸する。

「機関部! マリコルヌ、行けるかッ!?」

「ああ、任せろ! いつでも行けるぞ、ギーシュ!」

 レビテーションによって浮遊する飛空船の周囲に風の流れが出来る。
 巨大な流線型円筒の飛空船は、その前面に空気を取り入れるための吸気口が大きく開いている。
 機関部で精神を集中するマリコルヌを始めとする風メイジたちの魔法によって、前面の吸気口から内部へと空気が吸い込まれる。

「よし、では目標ロンディニウム! 発進だ!」

「アイアイサー!!」

 飛空船の前面から吸入された空気は、吸気口から管を通って飛空船の背後へと排出される構造になっている。
 風メイジはその管を通る空気を高圧縮し、ジェット噴流として背後へと吐き出させるのだ。
 火メイジたちもそこに加わり、圧縮空気を加熱して膨張させる役をこなす。

 ギーシュの号令の直後に轟音が響き、大出力のジェットが飛空体の背後から噴出する。
 スクウェアメイジたちの共同作業による人力ジェットエンジンが、巨大な船体をぐんぐんと加速させる。
 瘴気を切り裂いて空を飛ぶ船は、今のところ快調だ。この調子ならば、何の妨害もなければ、一時間も経たずにロンディニウムへと突入できるだろう。

 だが、この魔界と化したアルビオンの空には、それに相応しい異形たちが跋扈している。
 そう簡単にはいかないだろうと、アルビオンに突入した全ての人員は予感していた。


 ――――上手く行きすぎている。
 そんな懸念がある。

 敵の【チクタクマン】もルイズらの侵入は先刻承知の上だろうに、全く何のアプローチがないのも気にかかる。
 機を伺っているのか、それとも既に何か仕掛けてきているのか、それは分からないが、このまま何事もないということはあるまい。

 今はアルビオンのどの辺りだろうか。
 瘴気の濃い方向へと一直線に飛んでいるから、航路を間違うことはないはずなのだが、ギーシュはふと不安になった。
 そして外の地形を見ようと、『錬金』の魔法によって船体に嵌め込み式の窓を作る。

 ――それが功を奏した。
 いや、ギーシュ個人にとってみればとんだ災難ではあったが、この行軍において彼の行動はまさに僥倖であり、ギリギリのタイミングで皆の命を救うことになったのだ。

「なっ!?」

 目が合った。眼が在った。

 窓の向こうには巨大な瞳。飛行体と並走して飛ぶナニモノかと、目が合ったのだ。

「取舵いっぱい! マリコルヌ、出力上げてくれ! 敵に張り付かれてる!!」

「! 機関部、了解した!」

 異常事態に驚く暇があればこそ、ギーシュは瞬時に命令を下した。
 機関部のマリコルヌたちは推力を上昇させ、操舵手は舵を切る。
 船体に衝撃がなかったことから、窓から見えた巨大な眼を持つ敵は、まだ並行して飛行しているだけであり、接触はしていないのだと知れる。
 今のうちに逃げなくてはならない。

「ぐぅっ」 「きゃあっ」

 機体が急加速と方向転換を繰り返す。
 内部は風メイジの『レビテーション』によって慣性が幾分か緩和されているが、それでも凄まじい加速度がかかる。
 艦橋にいるルイズやギーシュなどは、機体の手すりなどに掴まっている。ここには居ないアンリエッタなども個室の手すりなどに掴まって体勢を保持していることだろう。

 それでもアンノウンの敵は振りきれていない。
 今や敵も並行するだけではなく、体当たりを仕掛けてきているようだ。
 ガンガンと加速や方向転換とは異なった揺れが船体を襲っている。

「くそっ、探知には引っかからなかったぞ! 一体どうなってるんだ」

「私の方にも引っかからなかったわ。……転移でも使われたのかもしれないわね」

「転移だって!? ルイズ! 向こうも虚無属性の魔法が使えるのかっ?」

 ギーシュは次々と指示を出しながら、ルイズに問い質す。
 ルイズは忌々しげに口を歪めて、それに答える。
 ――否、と。

「アルビオンにはもう虚無は居ないわ。でも、転移の術式は虚無だけじゃあない、世の中には系統魔法でも精霊魔法でもない術があるのよ」

「なるほど、邪悪な術というわけか……」

「まあそんな感じの理解でいいわ。それで、相手は振り切れたの――きゃぁっ」

 ルイズがギーシュに問いかけたその瞬間、船体がバラバラにならんばかりに激しく揺れた。
 バランスを崩したルイズを、咄嗟にサイトが支える。「ルイズ!」 もちろん腰を抱いてだ。

「ありがと、サイト。……さて、振り切れてないみたいね、っていうか敵は一体何なのかしら、これだけ近づかれても何も感じないなんて異常だわ」

「……瘴気が強すぎて感覚が馬鹿になってるってことはないか、ルイズ」

「……いえ、それはないでしょ。気配を感じられないだけじゃなくて、この船の観測機器にも全く映らないんだから……」

 敵を感知できないという不可解な現象にルイズは首を傾げる。
 が、恐らくは位相でもずらして亜空間かどこかに隠れて攻撃してきているのだろうと推測する。
 それとも高度な偽装か、幻術か。

「亜空間潜行タイプか、ステルスかしら。まあ何でもいいわ、とりあえず『エクスプロージョン』で周囲を吹き飛ばせば一時の安全は確保できるでしょ」

「……こんな序盤から飛ばしていたんじゃ保たないんじゃないか。ルイズの精神力が膨大で、その回復力もスゲエってのは知ってるが、ドリームランド降臨の呪法『夢の国のアリス』を維持してトリステイン軍に精神力を分配してるんだろ? その上今は、周囲に狂気を弱めるフィールドまで張って……」

「まあそれはそうなんだけど、持久戦は不利なんだから最初から全力で電撃戦仕掛けるしか無いのよ。出し惜しみなんてしてられないわ」

 現状の敵である【チクタクマン】は、惑星表面をびっしりと覆った<黒糸>というネットワーク状の魔道具を依り代にしている。
 ジョゼフとミョズニトニルンによって<黒糸>の大半の制御を一時的に奪い返し、ヴィットーリオの虚無魔法『世界隔壁』によってその弱体化状態を留めているとはいえ、【チクタクマン ver.Eudes】は未だに一国家を上回る勢力圏(=クルデンホルフ+アルビオン大陸)を確保している。
 さらには無尽蔵の神気を供給する心臓部――痴愚神の宮殿への滅びの門『アザトース・エンジン』だって擁している。ルイズだって幾らかそこからの神気を吸収できるとはいえ、そもそも痴愚神の神官でもある混沌の【チクタクマン】とはキャパシティが違う。

「だから一気に最大の力で仕掛けるしか無いわ」

 【チクタクマン ver.Eudes】を真っ当に滅ぼすためには、惑星そのものを破壊するくらいの力を以って当たらなければならないだろう。
 だが、半神ブリミル・ヴァルトリの片割れを取り込んだとはいえ、ルイズの力はまだ惑星ひとつを滅ぼせるほどには至っていない。
 ならば狙うのは、動力炉である擬神機関(アザトース・エンジン)の停止。そして神気の供給を絶った上で、外なる神の【退散】術式を【チクタクマン】に叩きこみ再び外宇宙へとはじき出すことだ。ひょっとしたら、神の炉を何とかしなくても、退散させること自体は可能かもしれないが。

「でも……」

 ……しかしここでルイズはふと少し不安になった。「上手くいくのかしら、本当に」

 外なる神を【退散】させる術というのは、それはもう覿面に効果を発揮する。
 少し前にアルビオンの行く手を阻んだ北落師門(フォーマルハウト)の火神【クトゥグア】だって、ゴブリンたちによる【退散】の術によって僅かな残滓も残さずに消え去った。
 あの太陽すら上回る熱量が、一瞬にして、だ。それほどに【退散】の術というのは強力なのだ。

 なぜしかるべき【退散】の手順を踏めば、邪神たちは簡単に消え去ってくれるのか。それは邪神の顕現が、非常に不安定なものだからだ、とルイズは認識している。
 すなわち『邪神は本来この世界にあるべきでない存在だから、少しの力で外宇宙へとはじき出されてしまう』のだという理解だ。
 かつて六千年前に、マギ族がハルケギニア世界から拒絶されてゆるやかに衰亡しかけたように、世界には異物を拒絶する復元力がある。
 邪神の退散術式はその復元力を利用しているから、少ない労力で効果を発揮するのだとルイズは考えている。世界(システム)を味方につけているから、人間の力でも神を退けられるのだ。

 では現在、痴愚神の宮殿への門が開き、世界(システム)そのものが邪神にとって居心地よく改変されつつある今、【退散】の術式は正常に機能するのだろうか?
 ルイズの懸念はそれだ。

「いえ、心配したってしょうがないわ」

 そう、今はそんなことを心配している場合ではない。そんな段階は通り過ぎた、彼女は全てをこの戦いに賭けたのだ。
 もっと目の前の脅威についての心配をしなくてはいけないのだ。

 例えばそれは、飛空船の外の存在だ。
 船体を叩くような衝撃が強くなっている、ナニモノかが追い縋ってぶつかってきている。

 とりあえずは――、とルイズは杖を振るう。

「『エクスプロージョン』ッ!」

 轟然と空間に清徹な波動が響いた。「これでっ、船体周辺を消毒(・・)したわ!」

 無色の爆発が虚空を渡り、弾丸飛行をするルイズたちの機体周辺を虚無の力が満たした。
 虚無のエクスプロージョンによる選択破壊。味方に影響を与えずに敵のみを廃する力だ。

「相手が何かわからないけど、これで直近の敵は退けられたはずだし、もしまだ生き残っていても、ステルス術式は剥ぎ取れたはずっ。ギーシュ、確認してちょうだい。私の方でも『エクスプロージョン』の反射波を解析するわ」

「分かった、そっちは任せる。――魔探手ッ、敵の影は確認できたか!?」

「敵影確認! 相手は――触手、無数の触手ですッ! ……ッ、表面にびっしりと眼玉が浮き上がっています!」

 機体内部に外の様子が投影される。
 空中スクリーンに映しだされたのは、流線型の飛行体を追いかける無数の触手だ。百目のお化けのように、至る所に巨大な眼玉が覗いている触手たちだ。
 誘導ミサイルが航跡を描くように、ルイズたちの飛行体を追って目玉模様の触手が空中を駆けていた。

 その様子をモニターで見たサイトは「リアル板野サーカスとか……」とちょっと感銘を受けたように呟いた。
 そんなこと言ってる場合ではないのだが。

 高速高機動によってルイズたちが乗る飛行体は触手の追跡を振り切れているが、ルイズはどうにも嫌な予感が拭えなかった。

「触手ってことは、根元があるのよね」

「まあ、多分」

「じゃあ、その根元ってどこなのよ」

 根元から離れて触手が無限に伸びるとは考えにくい。
 だが、根元の本体から離れるのではなく、逆に本体の方に絡め取っているとすればどうだろう?
 それならば、触手がずっと追いすがっていることにも納得がいくだろう。
 自分の方へと巻き取っているだけならば、触手を無尽蔵に伸ばす必要はないのだから。

「ってことは、多分追い詰められた先には、この眼玉だらけの触手の本体が居るはずなんだけど――」

 ルイズの予想は正解だ。

 ルイズのつぶやきに呼応したわけではないだろうが、アンリエッタらを乗せた飛行体の行く手に“山”が立ち上がる。大地を揺らし、空気を轟かせて。

「そう、取り込まれていたんだったわね……シャンリットの邪龍!」

 ――<黒糸>を通じて【チクタクマン】の手で作り変えられたシャンリットのかつての小神兵器、触手邪龍『イリス』。
 大山脈に匹敵する巨龍が、アルビオン大陸を揺らしながら、地面から起き上がった。
 と同時に、全くの視覚外からステルス化された新手の触手が超音速でムチのように襲いかかり、ルイズたちが乗る飛行体を打ち据え、バラバラに吹き飛ばした!

「うわぁあああああああああああっ!!!?」

「ルイズっ! 手を!」

「っ! 呪法『夢の国のアリス』出力強化! 総員、死と蘇りに備えよ!」


  ◆◇◆


 ルイズたちが『レビテーション』しながら落ちた先は、森のような場所。墜落前に確認した航路図では、ロンディニウムにも程近い場所のようである。
 ……しかし森の“ような”場所であって、決して森ではなかった。
 何故ならそこに生えているのは、普通の樹ではないからだ。

「ぐう、おい、みんな無事か?!」

「ボーッとしてるんじゃないわ、構えなさい、ギーシュ!」

 ――――オオオオオオオオオオオオオオォォォォォォォォオオオオオオオ……

 恐ろしい鳴き声が森のあちこちから響く。
 獣の声ではない。
 森の樹々それ自体が蠢き、叫んでいるのだ。

 六本の腕を幹から放射状に生やした怪物樹――シャンの奴隷【ザイクロトルの肉食樹】。
 象のような下半身から何本もの太い触手を天に向かって生やし、至る所に開いた無数の口からよだれを垂らす化け物――シュブ=ニグラスの落とし子【黒い仔山羊】。
 この森にはそれぞれが数百本は生えており、身の毛もよだつ鳴き声を上げながら、墜落したルイズたちを取り囲み、押し寄せていた。

 それだけではない。恐らくは元は人間だったのだろうと思われる、苦悶の人面疽を浮かべた触手が、下生えの代わりにびっしりと生えている。
 それらもまた口々に呻き声を上げながら、にょろにょろゆらゆらと揺れている。

 今はまだ遠景としてしか見えないが、文字通りに山のように巨大な触手邪龍イリスが近づいてきているのも分かる。その縦揺れの地響きが徐々に大きくなっている。

「……やっぱりでかいわね、邪龍イリス。全くシャンリットの蜘蛛どもめ、厄介なもん残してくれちゃって」

「でかいのだけじゃないな。アレの周り飛んでるの全部が敵かよ、多すぎる」

 トリステイン一行が触手邪龍の方の空を見上げれば、当然他の景色も目に入る。
 イリスの顔の横辺りの上空には元アルビオン国民の人面竜たちが、まるでムクドリの群れのように塊を作って飛んでいる。
 そして元ウェンディゴ・ワルドの集合体である巨人レッサー・イタクァも、まるでハゲタカのようにトリステイン一行の墜落地点へと空を踏んで歩いてきているのが分かる。

 それを見て“閃光”のワルドは眉をひそめ、“氷餓”のアニエスは首元の聖火教の鳥十字を握り締める。

「……あれがワルド隊長の偏在分身だった奴らですか」

「ああそうだろうな、見てると胸糞悪くなるから分かる。さっさと灰にしたいところだ、我が不肖の分身たちに引導を渡してやらねば」

「げ、人面竜だけじゃなくて触手竜まで出て来ましたよ、隊長!」

 さらには浮遊大陸に突き刺さった軌道エレベータ『イェール=ザレム』から、空賊たちの恐怖の代名詞、シャンリットの触手竜たちがわらわらと雲霞のように無数に飛び出してくる。 
 軌道エレベータは触手竜たちを用いるクルデンホルフの騎士団『ルフト・フゥラー・リッター(空中触手竜騎士団)』の発着ポートだった。そこに格納されていた竜たちも【チクタクマン】の手に落ちていたのだ。
 ……ルイズたちにとっては悪いことに、イェール=ザレム内に残っていたゴブリンメイジたちが触手竜に融合されているようだ。人竜一体となった彼らは慣性制御術式を駆使して宙を鋭角に駈けて来る。

「おいおい、空が見えないぞ。どんだけ居るんだ……」

「森の方にも隙間も何もない。地響きもだんだん近くなっているし」

「というか……さっきからの地響きのリズムに違うのが混ざってないか……?」

 巨大な触手邪龍イリスが大地を踏みしめる音に混ざって、より細かい微震がBGMのように混ざっていることに、ギーシュたちは気がついた。
 それはまるで何かが地面を掘り進んでいるかのような――。

《――け・はいいえ えぷ-んぐふ ふる・ふうる ぐはあん ふたぐん け・はいいえ ふたぐん んぐふ しゃっど-める――》

 不気味な詠唱のような音が、地響きに混ざって聞こえてくる。
 精神の死角から入り込んでくる囁きに、皆が皆悍ましさを覚え、鳥肌を立てた。

「まさかこれはっ!」

 サイトが血相を変える。
 かつてサイトは地球に居た時に大学の調査でアフリカに行った時に、この不気味な声を聞いたのだ。
 あのグハーンの地でこの声を聞いたのだ。

 そうこれは、グハーンの魔蟲――クトーニアンの声だ!

 「クトーニアン」と青白い顔で呟いたサイトの声に、ルイズはなにか思い当たったようだ。
 シャンリットのクトーニアンと言えば――。

「教師長の使い魔『ルマゴ=マダリ』――!?」

 気づいたとて、もう遅い。
 その地響きはもう足元直下に迫っていた。

《――はい ぐはあん おるる・え えぷ ふる・ふうる しゃっど-める いかん-いかんいかす ふる・ふうる おるる・え ぐはあん――!》

 一行の足元の土砂がまるで間欠泉のように吹き上がる!

「ぅわあーーーーっ!!!?」

 土砂とともに一行が空に吹き上げられる。
 そのうちの何人かは、まるで火山弾のような勢いの土石によってミンチにされてしまい、実体化を保てずに光と消える。また何人かは空中に吹き飛ばされた時に周囲の化け物の触手に絡み取られて咀嚼されてしまったようだった。
 ……まあルイズが生きている限りは、呪法『夢の国のアリス』の効果によって彼らは即座に再構成されるわけだが……。

 轢き潰された死体が光の粒子に解け、少し離れた場所にまた集まる。幻夢郷の魔術による自己の再結晶化(ドリームクリスタライズ)だ。

「――ぐっ、ああ! 死んだ! 死んじまった! だが生き返ったっ」

「死ぬのは何度やっても慣れねーな」

「まあ正気を保っていられるようになっただけマシさ。同輩には未だに夢の国で療養中の奴らもいるし」

 光の中から蘇った輩がかんらかんらと笑う。
 そんなふうに死を笑い飛ばせる彼らも、ある意味既に正気ではないのだろう。
 彼らの目に宿る光は剣呑に淀んでいる。

 蘇った彼らの目の前には、天高く屹立するクトーニアン『ルマゴ=マダリ』の巨体がある。
 それはぬらぬらとした粘液にまみれていた。粘液の下の表皮はまるで岩肌のように頑強そうだ。妖しく光を照り返す表面は、ゆるやかなリズムで脈動しており、それが無機物ではなく生物的な存在であることを強く主張してくる。硫黄のような、腐敗物のような、吐き気を催す臭気が鼻を突く。地の底から響くような詠唱音は相変わらずに聞こえており、それに応じて巨体が身を捩る度に地面がまるでバターを溶かすように不自然に融解する。
 巨体はもはや壁としか認識できないくらいに大きく、また頭の方は見上げても霞んでいて見えないほどに高い。このような巨大な生物があり得るのだろうか、あり得たとして果たしてこれを退けることなど出来るのだろうか。トリステイン一行は慄然とする。

「……デカけりゃいいってもんじゃないって言いたいけど、これは壮観ね」

「余裕ぶっこいてる場合じゃないぜ、ルイズ」

 状況は悪化の一途を辿っている。
 触手邪龍の無数の触手に叩き落され、森は肉樹が完全包囲、空は竜の化生が埋め尽くし、地の底からは巨大魔蟲が聳えて立つ。
 どうしろというのか……!



 と、その時だった。
 周りを囲む異形たちの動きが不自然に停止した。

 ――いったい何が。




「やあ、間に合ったようだね」

 キザったらしい声とともに、森を埋め尽くすザイクロトランや黒い仔山羊たちが一斉に道を空けた。
 同時に、今にも倒れて周囲を蹂躙しそうだった巨大クトーニアン『ルマゴ=マダリ』も、金縛りに遭ったように動きを止め、瘧でも患ったかのようにブルブルと震え始める。それは金縛りに抵抗しているようでもあった。
 見れば空の人面竜や触手竜、レッサー・イタクァの軍勢も近づかずに遠巻きに旋回しているだけだ。……いや、旋回させられている?

「お前は――!」

「どこにいるかと思ったら……」

 異形たちが不自然に動きを止める戦場で、触手を掻き分けて森の中から現れたのは――

「ヴィンダールヴ!」 「ジュリオ・チェザーレ!」

 教皇の使い魔、神の笛、天使の塵(エンジェルダスト)、首切り判事、月眼の伊達男――ヴィンダールヴのジュリオだった。


「如何にも、僕が教皇様の忠勇なるしもべ、ヴィンダールヴだ。いやあ、遅くなって済まないね」

 ジュリオはふぁさっとキザったらしく髪を掻き上げて、自分の名前を叫んだルイズとサイトに答えた。

「そういえば教皇が言ってたわね、ヴィンダールヴをアルビオンに向かわせたとか」

「助かったぜ、ジュリオ! 化け物どもの動きが止まっているのは、ヴィンダールヴの多種族支配の力か?」

「まあそんなところさ。じゃあやっぱりこの場はあの台詞を言わせてもらおうか――」

 ジュリオの様子にサイトはなにか気づいたようだ。
 慌てて制止する。

「ま、まさかお前――! やめろ! 言うんじゃない! そういうのは死亡フラグって――」

「嫌だね、一度は言ってみたかったのさ、君も男なら分かるだろう? ……ごほん」

 ジュリオはニヤリと口の端を歪めると、大きく息を吸った。

「『さあっ、ここは僕に任せて先に行けーー!!』」

「い、言いおったーー!?」

 そして堂々と死亡フラグを口走ったのだった。


  ◆◇◆


 その数十分後。
 人気のないロンディニウムの市街地を高速で移動するトリステイン一行の姿があった。
 彼らはアンリエッタが操るスライム状の水塊の上に乗って滑るように移動していた。
 その様子は丘でサーフィンをしているようであった。

 ただしここには水精霊騎士隊の面々とジュリオは同行していない。
 ハヴィランド宮殿へと向かっているのは、ルイズとサイト、アンリエッタとウェールズ、そしてワルドらを中心とした混成近衛衛士隊であった。

 スイスイと無人の街を滑る水塊の上で、サイトがルイズに話しかける。

「……ギーシュたちに任せてきて良かったのか?」

「まあ大丈夫でしょう。何にしても誰かが後続を存分に引きつけて貰わないといけないのよ、化け物に挟撃されるのはゴメンだわ」

「そりゃあいつらなら大丈夫だろうけど」

 サイトは遠くの巨大な異形を見る。
 視界に映る巨大異形の数は、三体(・・)だった。

 一体は、触手邪龍イリス。
 もう一体は、地底魔蟲ルマゴ=マダリ。
 では三体目は――?

「『マチコさん』頑張ってるなー」

「かすかに正気を残してる元アルビオン貴族……だったかしら。なかなかやるわね」

 後ろを振り返るサイトたちの視線の先には、邪龍イリスとがっぷり四つに組み合う、巨大な影が見えた。
 これが三体目の異形だ。

 その姿はまるで歪な巨人を思わせるものであり、表面はゾワゾワと絶えず動いている。その様子は皮膚一面に蟻がたかっているようであった。軍隊アリは自らの身体を絡み合わせて即席の巣を作るというが、それにも似ていた。いや、実はまさしくその通りの有様だった。
 そう、イリスと組み合うその巨人は、無数のバケモノが寄せ集められて出来ているのだ。

「確か全部終わった後にロマリアに居る義妹(のような主君)の下に連れて行くって条件で、ジュリオが味方につけたんだっけか」

「慕われてるわねー、その義妹殿下も」

 その群体型の巨人『マチコさん』は、周囲の異形を組み込みながら未だに膨張を続けていた。ロンディニウムのかつての市民たちは皆、ヴィンダールヴの能力によってマチコさんの方へと誘引されているのだ。ロンディニウムが無人なのはそれ故であった。
 空から見ればマチコさんを中心として広がる異形の絨毯が見えただろう。異形の洪水を、ヴィンダールヴとマチコさんは吸い上げていく。群体の巨人は、イリスと闘って身体を削られながらも、それでも次々と押し寄せる異形を吸い上げて徐々にシルエットを肥大化させていく。
 ヴィンダールヴは主である教皇の命令のとおりに、幾千幾万となって戦場へと帰参したのだった。


「ヴィンダールヴが異形どもを集めて、マチコさんがそれを取り込んで接着融合して、暴走しそうになるのをヴィンダールヴの異能とマチコさんの根性で制御して……か。ジュリオも半端ねえけど、おマチさんも何気にパネエのな」

 サイトがそう言って、端的に彼らの素敵なコラボレーションを評する。だが揶揄してるわけでもなく、素直に感謝していた。
 マチコさんがイリスを抑えてくれたおかげで、ワルドら混成近衛衛士隊をこっちに引っ張ってこれたのだ。
 そうでなければロンディニウム市街に突入する人員はもっと少なくなっていただろう。

 ではヴィンダールヴと群体巨人のマチコさんがイリスを抑えている間、もう一体の小神兵器である地底魔蟲『ルマゴ=マダリ』は誰が抑えているのか。

「頼んだぜ、ギーシュ、レイナール、マリコルヌ……!」

 そう、水精霊騎士隊がその任にあたっているのだ。
 彼らは自ら殿軍を買って出たのだ。

 細長いイソギンチャクを思わせる造形の巨大な魔蟲が地面をのたうちまわっているのが、サイトが居るロンディニウムの市街地からでもはっきり見える。
 ルマゴ=マダリの巨体は、ただそれ自体が凶器なのだ。目を凝らせば、のたうち回ってバウンドするルマゴ=マダリの巨体の周囲で燐光が瞬くのが見える。呪法『夢の国のアリス』による復活再生の燐光だ、あそこでギーシュたち水精霊騎士隊の誰かが轢き潰され、そしてまた蘇っては巨大な魔蟲へと戦いを挑んでいるのだ。無間地獄に等しい苦痛の中、それでも彼らは戦い続ける。主君のために、未来のために、民のために、世界のために戦い続けている。

 鉄を溶かすような系統魔法の炎で出来た龍がルマゴ=マダリへと落ちる。だが、地核でのたうつクトーニアンにはぬるま湯のようなものだろう。炎は虚しく吹き消える。
 地面からは鋼鉄の縛鎖が伸びてルマゴ=マダリへと絡みつく。しかし地殻を溶かすクトーニアンの詠唱によって簡単に溶け落ちる。拘束することは叶わない。
 クトーニアンの弱点属性である水が、巨大だが鋭く尖った竜巻として天から伸びる。だがそれも、ルマゴ=マダリに埋め込まれた水流操作の魔道具によって干渉され、あろうことか制御を奪われてしまう。制御を奪われた竜巻は、無数の水の鞭になって水精霊騎士隊へと襲いかかる。
 そのルマゴ=マダリが奪った水の鞭を、台風よりも強い突風が吹き散らした。系統魔法の風だ。しかし風では軽すぎる、ルマゴ=マダリの巨体の前にはあまりに無力だ。

 系統魔法の単体では、ルマゴ=マダリに何の痛痒も与えられない。
 ならば、全てを合わせればどうか。
 地面からルマゴ=マダリの半分ほどの太さの(それでも数十メイルは優に超える)鋭角な物体が鎌首をもたげた。

 それはまさに『ドリル』であった。

 超硬金属の穂先を持って回転する巨大なドリルが、ルマゴ=マダリを穿たんと地から伸びて飛びかかる。
 土魔法によって形成され、風魔法によって動作を補助され、火魔法によって高温を纏った必殺のドリル。
 地を穿つ魔(バロワーズ・ビニース)には、同じく地を穿つドリルを。

 それは確かに効果的だったようで、巨大なドリルの穂先は僅かだがルマゴ=マダリの分厚い表皮を貫いた。
 そして次の瞬間、ルマゴ=マダリが弾かれるように躍動し、ドリルの穂先から逃れた。よく見れば、ドリルによって穿たれた場所が、まるで猛悪な毒物をぶちまけられたかのように爛れていた。
 クトーニアンの弱点である水と放射性物質による作用だった。それがルマゴ=マダリを溶かしたのだ。ドリルの内部には、錬金された放射性の重金属粉を充満させた水が充填されていたのだ。それが水魔法によってドリルの穂先より注入され、ルマゴ=マダリを冒したのだ。

 この高度な連携は、即席の混成衛士隊では難しいだろう。混成衛士隊にはトリステインの近衛だけではなく、ウェールズ麾下のアルビオン軍人も混ざっているのだから。
 夢の国で長い時間を共に過ごしてきた水精霊騎士隊だからこそ、このような高度な連携魔法が可能なのだ。
 水精霊騎士隊は捨て駒として残ったのではなく、他の人員がやるよりも勝算がわずかでも高いからこそ残ったのだ。負けるつもりなど毛頭無いのだ。

 巨大な魔蟲と人造のドリルの蛇が互いに絡み合い、地をのたうつ。



 一方のロンディニウム市内。

「見えてきたわ、ハヴィランド宮殿!」

 気づけば城門はもう眼前に迫っていた。滑る水塊の上で、彼らは気を引き締める。

 この戦争の趨勢は、いかにしてルイズを消耗させずに【チクタクマン ver.Eudes】の元に送り届けられるかにかかっている。
 少なくともサイトはそう思っているし、他の人間もそうだろう。

 混沌ナイアルラァトホテプの化身をこのハルケギニアから放逐できるのは、ルイズしかいないのだ。
 そう信じているから、縋っているから、アンリエッタもウェールズも彼女に全てを賭けた。
 彼ら王族夫妻がこのような死地に同行しているのは、その覚悟の表れである。
 勿論彼ら王族がマギ族の戦士として最高級の実力を持っていることが一番の理由であるが。彼ら王族のみが為せる完全に波長が一致したヘクサゴンスペル、いや今はオクタゴンスペルに成長しているが、その力は他のメイジとは一線を画している。恐らくは生命要塞となったハヴィランド宮殿を根こそぎ吹き飛ばすことも出来るだろう。

 そして閉じた城門へと、その力が振るわれる。

「ウェールズ!」 「アンリエッタ!」

「いきますわ!」 「勿論だ!」

 アンリエッタとウェールズが杖を前方へと翳す。
 二人の精神力のうねりが淫靡に絡み合い、巨大な現象を形作る。

「「 水と風のオクタゴンスペル――レーヴァテイン(害為す魔杖)! 」」

 それは水の竜巻で出来た巨大な破城槌。渦巻くそれが城門に突き立ち――破壊する。
 王族のオクタゴンスペルは、他の者の使うオクタゴンスペルを圧倒し、追随を許さない。
 連綿と受け継がれた血脈と、そこに降り積もった歴史概念が為せる至高の一撃なのだ。

 障害の全てを薙ぎ倒す水の竜巻が、ハヴィランド宮殿の肉壁を抉り取る。
 害為す魔杖レーヴァテインの名の通り、それは目の前に立ちはだかる障碍の一切合財を傷つけて抉り取る魔法だった。

 生命要塞の城門は削り取られ、生々しい傷痕がまるで赤絨毯のように彼らの道を彩る。

「このまま突入しますよ、ルイズ・フランソワーズ! ワルド隊長、風を。皆を運んで下さい、私は攻撃に専念します」

「はっ、陛下。風の加護を皆に、『フライ』」

 アンリエッタはここまで皆の足となっていたスライム状の水塊を解き、全ての力をオクタゴンスペルに注ぎ込むと、後の移動手段をワルドに一任する。
 ワルドの『フライ』の力場が全員を包み、先行する水流の竜巻に追従する。ふわりと浮き上がった一行は、抉れて捲れて血の滲む生命要塞の破壊跡の上を行く。

 吐き気を催すような鉄臭い空気をかき分けて飛ぶ彼らの後ろで、めりめりと音を立てて宮殿の壁が修復されていく。
 すると――治っていく宮殿の隔壁に、一瞬だけ人面疽のようなものが浮かんだ。にやけた面の、愉快犯めいたそれ。
 壁の中に仕込まれていた<黒糸>の魔道具が縒り集められて、まるで黒髪のようになっている。その顔立ちは少女のようにも見えた。
 だがきっとそれよりももっと悍ましいものだった。

 アニエスが後ろを振り返りつつワルドへと提案する。その時、アニエスはその人面疽らしきものを見てしまった。

「治癒も早いですね、流石は生命要塞――しかし一瞬何か見えたような、黒髪の少女? ――そうだワルド隊長、私の冷気で後ろを凍らせて退路を確保しておきましょうか?」

「いやそれには及ぶまい。宮殿自体がアザトース・エンジンと直結してるだろうから、凍らせても回復能力のほうが上回ってしまうだろう」

「む、そうですか」

「ああ。それにここでアニエスに抜けられるのも痛い。凍結能力はまだ温存だ、あるいはその鳥十字の首飾りに宿る炎神の加護もな」

「はっ、了解です」

 風を操るワルドは風メイジとしてのその鋭敏な感覚で、今から向かう先の瘴気を感じ取っていた。
 触手邪龍イリスや地底魔蟲ルマゴ=マダリに負けず劣らず悍ましい、墓地のような暗黒の冷気を。邪悪な魂に刻まれた冷たき刻印(コールド・プリント)から発せられる死の気配が行く先に蹲っているのを感知したのだ。
 同じく風メイジである黒太子のウェールズが、その墓所の冷気に反応して獰猛に牙を向いて笑う。

「この気配には覚えがあるぞ――ここで父王の仇を討てるとは、混沌にしてはなんとも粋な計らいではないか!」

 そして香るのは墓所の冷気だけではない。

 加えて嗅覚を刺激するのは、トリステイン魔法学院の学院長室を思い出す乾いた塵埃の香り。
 思わぬプレイヤー(参加者)に、ルイズは思わず顔をしかめる。

「あのエロ学院長……クトゥグアの化身を抑えた後どこに行ってたかと思ったら――シャンリットに居たの? ……ま、まさか取り込まれてないわよね」

 さらにもうひとつ別の香りも。ワルドが衛士時代に警備を勤めたトリステインの王宮の――前王妃マリアンヌの居室の前を思い出す香水の香り。
 ワルドがチラリとアンリエッタの方を伺えば、そこには口を固く結んだ能面のような女王陛下の顔があった。
 アンリエッタもこの、懐かしくも因縁のある香りに気づいているのだろう、その顔(かんばせ)を引き攣らせていた。

「これは、まさか――」

「陛下、アンリエッタ陛下。いまや我々の陛下はあなただけです、我らが忠誠はあなたの下に」

「――ええ、分かっています、ワルド。これもいい機会なのでしょう、過去からの亡霊を滅ぼし、未来を掴むための。親不孝者として、簒奪者として、そして何よりも王として、決着をつけましょう」

 だがこの先に何が待つにしても、進むしか道はないのだ。
 アンリエッタとウェールズが杖を掲げる。

「オクタゴンスペル『レーヴァテイン(害為す魔杖)』、前へ!」 「中枢へ一直線だ! ゴー・アヘッド!!」

 捻くれた巨大な水竜巻が、ハヴィランド宮殿の隔壁を粉砕する。水の竜巻は宮殿を構成する肉片を巻き込んで、どんどんと破壊力を増しながら突き進む。
 行く先に待つのは因縁の相手、『首なし護国卿』と『喪服の先妃』。そして敵か味方か『灰塵の学院長』。
 水と風のオクタゴンスペル『レーヴァテイン(害為す魔杖)』がぶち抜いた先の大広間に、それらは居た。


  ◆◇◆


 ルイズたちを待ち構えていたのは、見覚えのある三つの人影。

 『首無しの護国卿』――イゴローナクの走狗、オリバー・クロムウェル。
 『喪服の先妃』――売り払われた女、マリアンヌ・ド・トリステイン。
 『灰塵の学院長』――クァチル・ウタウスの神官、オールド・オスマン。

 それぞれが、今この広間に入ったトリステイン一行と少なからず因縁がある相手だ。

 どうも空間が捻じ曲がっているのか、この広間は建造物の構造から想像できる以上の広さがある。
 野外だと錯覚しそうなほどに幅と奥行が広いが、天井はそこまで高くない、せいぜい6メイルくらいか。


 ウェールズが、アルビオン出身の近衛たちを率いて、首のない僧服の男の前へと向かう。

「クロムウェル!」

「「 ……おお、これはこれは、ウェールズ殿下じゃぁございませんか 」」

 首のない僧服の男、クロムウェルがウェールズの呼びかけに答える。
 顔もないのに何処から声を出しているのかと思えば、その言葉はクロムウェルの両掌に開いた『イゴローナクの口』から、魂まで凍るような冷気とともに漏れ出たものだった。
 クロムウェルの僧服は、【チクタクマン】の<黒糸>に侵蝕された影響か、真っ黒に染まっている。彼の得物であるハンマーとペンチは見当たらない。

「父の仇を、討たせてもらうぞ、先王ジェームズの!」

「「 ああ、そうしてくれるというのなら、私は喜んでその刃に身を委ねましょう 」」

「……なんだ、随分と殊勝だな」

「「 ああ、ああ、ああ。もはや私の仕える主はおらず、この身は混沌に染まった蜘蛛糸の操り人形。生きる意味などありはしない―― 」」

「……なんだと?」

「「 私の役目は余興の道化。殿下の役目は対の道化。ただ場を混沌に、過去の感情をかき混ぜて、悶え苦しむ葛藤を 」」

「何のことだ? 聞いているのか、クロムウェル!?」

 訥々と心ここにあらずという様子で言葉を漏らすクロムウェル。その様子にウェールズは訝る。

「「 因縁を、いま此処に 」」

「――っ!」

 そう言って開いたクロムウェルの掌の口から、何か人魂のようなものが次々と吐き出されていく。
 何処か懐かしい感覚を覚えるそれは徐々に人の姿を取り……。

「なっ、父上!? 皆も!?」

『……』

 吐き出された人魂は、アルビオンの先王ジェームズや、そのかつての側近たちの姿を作り上げる。
 かつてクロムウェルによって邪神イゴローナクへと捧げられた魂が、再び現世に舞い戻ってきたのだ。邪神の食べ残しだ。

「――おのれっ、クロムウェル! この期に及んでなおも死者を愚弄する気か!!」

 ウェールズの叫びにクロムウェルもジェームズ王の亡霊も応えず、ただ静かに構えを取った。

「くっ、私に父を手にかけろというのか――」

 ウェールズと、彼に従う旧アルビオンからの亡命衛士たちも、それに呼応して杖を構えた。



 アンリエッタはウェールズと離れ、蹲って泣いている喪服の女の前に、ワルドら近衛を率いて立つ。

「久しいですわね、お母様」

「あああああああああアンリエッタあああああああああ、なぜなぜなぜ私を売ったのです――」

「国のためですわ、お母様。無能者のお母様と、王才にあふれた私――国のためならどちらを犠牲にするべきかなど自明でしょう?」

「ああああああああああああ、ああああああああああああ、なぜ、なぜなぜなぜえええええええええぇぇぇえええええ――」

「この期に及んでもそれがわからない無能だからですわ、お母様。嘆くだけしか出来ない亡国の女、だいたい貴女はいつもそう、いつもいつも泣いてばかり。――見るに耐えないその魂を、今こそ始祖の御許に送って差し上げますわ、それが情けというものでしょう」

 喪服に身を包んだマリアンヌ。黒いヴェールの下で、彼女は顔を覆って嘆き続ける。
 アンリエッタがゲルマニアに嫁ぐ日に彼女の策略に嵌められてシャンリットに売られたマリアンヌは、どうやら今までシャンリットで生き延びていたらしい。
 とはいえ、言動を見るに、頭の方はもう既に正気ではないようだが。いや、身体の方もどうせ碌でもない改造が施されているのだろう、シャンリットの狂科学者たちの手によって。

「あああああ、あああアあンんリえエえっタぁああああぁぁぁぁぁぁ!!!!」

 ばっ、とマリアンヌが伏せていた顔を上げる。それは嘆きと憎悪に染まっていた。

「来なさい、無用者。この私、トリステイン王国国王、アンリエッタ・ド・トリステインがきっちり介錯してあげましょう」

 アンリエッタが杖を構え、彼女に付き従うワルドら近衛たちもかつての主君に杖を向ける。
 それを見て、マリアンヌの顔が更に歪む。お前たちまで裏切るのか、と。
 歪み、歪み、歪み――ひび割れる。顔がひび割れていく。ひび割れて剥がれていく。

「あら、それが本性ですの?」

「あああああああああっ、あああああああああああああっ、ああああああああああああああああああああっ!!」

 その叫びを皮切りに、喪服のマリアンヌの顔に一際大きく亀裂が入り、まるで陶器の仮面が砕けるように割れ落ちた。

「これは――」

 その下にあったのは、宇宙空間を思わせる暗黒に浮かぶ大小無数の歯車。
 精密な時計の内部を思わせるそれは、自らの意思を持たない機械の有様。
 混沌の化身たる【チクタクマン】に冒されたその結果。
 言うなれば今の彼女はさしづめ――、

「メカ・マリアンヌ、というところかしらねぇ」

「ぁアあああンんんんんリぃいいいいエぇええええッタぁぁぁあああっ!!」

 【チクタクマン】の権能の一部を譲り受けて、嘆きの女『喪服の先妃』マリアンヌがその歯車をキリキリと鳴かせている。
 同時に手足もひび割れ、銃器やミサイルや何かの工具めいたアームが内側から生えてくる。
 シャンリットの改造手術によってその身に仕込まれた無数の兵器を展開し、メカ・マリアンヌは立ち上がる。



 ウェールズとアンリエッタがそれぞれの因縁と対峙する横で、ルイズとサイトはカサカサに風化した空気の源へと足を進める。

「おうおう、ミス・ヴァリエール、いいところに来たのう!」

「オールド・オスマン……」

 ルイズとサイトの目の前に、灰色の光を纏ったオスマンが立っている。
 二メイルに近い長身の老爺は、飄々とした調子でルイズに語りかける。
 それに対してルイズは、広間のクロムウェルやマリアンヌの様子を横目で確認しつつ、問いを返す。

「あなたは敵か味方か? 答えてちょうだい、オールド・オスマン。向こうのアレらと同じように、私達の行く手を阻むというの?」

 ルイズが指し示す先では、それぞれ肉親同士が対峙していた。

 一つは首無し護国卿に従えられた亡霊のジェームズたち。それに対するはウェールズとアルビオンの亡命衛士たち。

 またもう一つは、蜘蛛に身体を改造されて嘆きの果てに機械の身で蘇ったマリアンヌ。そして彼女をその境遇に追いやった娘であるアンリエッタと新たな主に忠誠を誓い先妃に杖を向ける近衛衛士たち。

 一方は望まずに、そしてもう一方は望んで対峙している。

 恐らくこれは、この状況は、ナイアルラァトホテプによる余興なのだろう。
 混沌の化身らしい、随分と悪趣味な余興だ。

 さて、それならオスマンが此処に居るのは何故なのか。

「いやそれがの、クトゥグアの化身の【生ける漆黒の炎】を抑えてたご褒美にシャンリットで酒池肉林の接待受けてたら、いつの間にかシャンリットが負けてて<黒糸>に捕まっちゃったんじゃよー。そしたら身体の自由が効かなくなってのぅ、今マリオネットって感じなんじゃよー」

 テヘペロッ!

「『テヘペロッ!』っじゃねぇわよーー!! 何油断してんのよ、学院長っ!」

「って言ってものぅ……、過ぎてしまったことは仕方なかろう? 愛用の杖はシャンリットのウードが作った物だったから、影響から逃れられんかったのじゃよ。まあお主とサイトくんは先に行って良いらしいから、適当に儂の相手をするやつを招いてくれんかの?」

 でないと勝手に身体が加勢して、アンリエッタやウェールズを塵に還すかもしれないからのぅ。とオスマンは嘯く。

「……くっ、仕方ないわね。余計な力は使いたくなかったのだけど――結晶化(クリスタライズ)」

 ルイズがつぶやくと、虚空から二人の少女が現れる。

「出番ですか、ルイズ様」 「ようやく喚んでくれましたのね、お姉さま!」

「ええ、そうよ、シエスタ、トリス」

 一人は黒髪のメイドであるシエスタで、手にはよく磨かれた金属鏡を持っている。
 もう一人は金髪ツインテールの貴族の少女、ルイズのスールを自認するベアトリス・フォン・クルデンホルフ(魂の方)だ。
 ルイズと彼女らの間にある深い関係は、この瘴気の中でも断ち切られることはない。それゆえこうやってアザトース・エンジンの至近――敵の領域であるにも関わらず【夢のクリスタライザー】の作用によって具現化できたのだ。

「じゃあシエスタ、悪いけどこのご老人のご相手をお願いね」

「はい、承りました、ルイズ様。――――開け桜の九段坂、おいでませ超鋼の軍団よ。……おじいちゃん、私に力を貸して……」

 シエスタが金属鏡に祈りを込めると、一瞬桜吹雪が舞い、次の瞬間には超鋼の鎧を纏った軍団が現れていた。
 護鬼・佐々木武雄が残した超鋼の磨き鏡を媒介にして、強化外骨格を纏う軍勢を具現化したのだ。
 ただこれは、異世界から佐々木武雄を直接召喚している訳ではない。これは磨き鏡の残留思念とシエスタの血から無理やり絞り出した式神のようなものであり、実質的には中身はほぼ空っぽである。しかしそれでも恐るべき軍団であるのに変わりはない。

「ベアトリスも、頼りにしてるわ」

「はい! お姉さまのためなら、私、なんでもしますわ。――――来なさいササガネ、レンの蜘蛛と共に、祖神アトラク=ナクアの威光を示せ」

 ベアトリスの詠唱の直後、大広間の天上が銀色に輝くと、そこには巨大な蜘蛛の巣と、その巣にぶら下がる人の背よりも大きな蜘蛛たちの群れが現れていた。
 彼女の使い魔であるアラクネーのササガネと、ベアトリスがドリームランドのレン高原で調伏した異界の蜘蛛たちだ。
 アルビオンを覆う<黒糸>の蜘蛛の巣は、千年教師長ウードが崇める蜘蛛神アトラク=ナクアの加護を今なお強く受けている。その血筋に連なるベアトリスはこの地において大いに恩恵を受けており、限定的にだがアザトース・エンジンの瘴気の中でも高いパフォーマンスを発揮できるのだった。

「……本当はシエスタもトリスも、伏せ札として温存しときたかったんだけどね」

「ひょひょひょ、その伏せ札はナイアルラァトホテプもお見通しじゃったということじゃろう。残念じゃったのー」

「オールド・オスマン、あんたはどっちの味方よ。あと手加減しなさいよね? 二人の魂を塵にでもしたら、ただじゃ置かないわよ」

「さあて、そうしたい気持ちは山々じゃが、何せ身体の自由がロクに効かぬのでのう」

 オスマンが心なしか楽しそうなのは、相手がうら若き乙女だからだろうか。流石エロジジイはブレない。
 逆に言えば、時の魔神【クァチル・ウタウス】の加護による風化攻撃での一撃必殺は来ないと考えられる。美少女は世界の財産ですゆえ、老化させてはいけません。
 ……仮にシエスタとベアトリスが敗北した場合の末路が恐ろしいが、もちろん乙女の純潔的な意味で。

「おい、私もそっちに加勢するぞ!」

「アニエス?」

 さらに意外な相手がこちらに来るのを見て、ルイズが目を丸くする。
 そういえば、アニエスの義父――火炎の使徒メンヌヴィルは、オスマンに返り討ちに遭ったのだった。メンヌヴィルは部下たちの魂を塵にされ、最終的には自身を生贄に捧げてクトゥグアを不完全ながらも招来して果てたのだった。
 オスマンと因縁があるという意味では、アニエスが一番かもしれない。

「逆恨みだという理解はあるが、我が義父の無念を晴らしたいのだ。それにダングルテールを燃やした炎蛇を長年匿っていたのもそこの男だしな」

「ひょひょひょ、おなごが増えるのは歓迎じゃぞー」

「……ふざけたジジイだな、こんなヤツに義父(ちち)は――」

 ルイズは少し考えるが、問題は無さそうだと結論した。
 アニエスの首から下がっている鳥十字は、メンヌヴィルから贈られたものだという。
 それを媒介にして呪法『夢の国のアリス』によって英霊召喚すれば、きっとそれはメンヌヴィルの形を取るだろう。十分に戦えるはずだ。

「あー、まあ良いんじゃないの? ワルドの許可は得てきてるんでしょ?」

「もちろん隊長には許可を頂いている」

「ほっほっほ、話は決まったようじゃの」

 すると、ナイアルラァトホテプが用意したと思われる三人の刺客の対戦相手が決まったせいだろうか。
 それともルイズとサイト以外の随行者が場に拘束され、奥に進めるのがルイズとサイトだけになったせいか。
 オスマンが(というかオスマンを操っているだろう【チクタクマン】がオスマンの)身体をずらし、道を空ける。

「それじゃあミス・ヴァリエールとサイトくんは、先に進むと良い」

 オスマンが指し示す先で、何がトリガーになったかは知らないが、部屋の奥の床が動き、地下へと向かう階段が現れる。
 こうもタイミング良く進路が開くということは、おそらくは【チクタクマン】はこの大広間をモニターしていたのだろう。
 まあ、【チクタクマン】の本体である<黒糸>はこの宮殿を全て覆っているからそれも当然か。

 ルイズはちらりとアンリエッタらに視線を送る。
 ――この場は任せたわ。

 ウェールズ、アンリエッタ、シエスタ、ベアトリスはその視線に頷く。
 ――任せて頂戴。

 目と目で通じ合うと、ルイズはサイトを伴って地下への階段へと進む。


 二人が階段に辿り着くと、空間自体が陽炎のように歪み、歩みを進めてもいないのに大広間が急速に遠ざかっていく。
 ルイズの虚無魔法使いとしての鋭敏な感覚が、大広間の空間が切り離されるのを捉えていた。
 あからさまな分断工作ではあったが、ルイズの感覚はまた、目的地であるアザトース・エンジンが近いことも感じていた。
 既に『ルイズをできるだけ消耗させずに敵の中枢まで届ける』という、随行員の任務は叶えられている。あとはそれぞれの戦いだ。

 アザトース・エンジンのある地下へ通じる階段を降りる二人の後ろで、捻じ曲げられた空間さえも超えて閃光と轟音が漏れ響いた。
 それほどに過酷な戦いが、あの大広間で始まったのだ。

 そして過酷な戦いと言えば、それは当然ルイズとサイトにも言えること。

 目的地までもうすぐだ。
 決戦はもうすぐだ。
 彼女らの敵はすぐそこだ。

 彼女と彼の二人はもはや振り返らず、階段を降りていく。


  ◆◇◆


 階段は途中からスロープになっていた。
 延々と浮遊大陸の中を下っている。

「この先にアザトース・エンジンと【チクタクマン】が待ってるってことか」

「そうなんでしょうね。そして進んでいいのは私たちだけ、と――まあ、願ったり叶ったりだけれど」

 しかしどうも遊ばれている感が否めない。

「だけどよ、ナイアルラァトホテプなら遊びに興じてこそってもんじゃないか?」

「確かにサイトの言うとおり、単なる愉快犯なだけかもね」

「今もこうして――お遊び程度の敵に襲われてるが、はっきり言って本気を感じねえんだよな」

 そう言ってサイトはルイズを守るように先行し、障害物を斬り倒す。
 その障害物は、人のような形をしていた。

「……出来損ないの、成り損ないね。次から次へと、全く」

「元が何だったのかなんて考えたくないけどな」

 まさしく鎧袖一触という有様で、サイトは右手に握ったデルフリンガーを振るい、ヒトのようなバケモノを微塵に刻む。あるいはヒトだったバケモノか。
 刻んで吹き散らして空気と混ぜ、左腕に義腕として融合した翼蛇エキドナがから放つ火炎――昇華弾で焼却する。そうまでしなくては安心できない、そうまでしても安心できない。
 バケモノの残留思念からなる亡霊が襲ってこないかと後ろを気にしつつも足は止めない。早く決戦を、決着を。そうでなければきっと敵は力をためて強大になる一方で、足止めに残してきた味方は消耗して劣勢になるばかりだろうから。

「ねえサイト」

「何だよ、ルイズ」

「ここまで来てくれてありがとうね」

「――どうした、急に。熱でもあるのか? それとも実は精神の消耗が限界か?」

 急にしおらしいことを言い出したルイズを、サイトは心配する。
 だがルイズは心外だという具合に肩を竦めた。
 二人とも足は止めない。

「別に、そんなんじゃないわ。ただ、この戦いの後もお互い無事とは限らないと思って」

「はっ、またらしくねえこと言ってんのな。けど心配すんなよ」

「何よ」

「ルイズが負けるわけねえだろ」

「……」

「そうだろう? 俺はお前がどれだけこのハルケギニアを愛してるか知ってる。どれだけの人間に頼りにされてるか知ってる。どれだけ頑張って来たかも――魂を磨り減らして、血反吐を吐いて、それでも負けずに立ち上がって来たことを知っている」

 たとえ夢の国で女王になっても、ルイズの心にはいつもこのハルケギニアのことがあった。
 世界に愛されたいと願ったかつての小舟の中の少女は、まず自分から世界を愛することを学んだのだ。
 愛とは、惜しみなく与えるものなのだ。彼女は世界(ハルケギニア)を愛している、人間を愛している。

 だからここまでやって来た。
 やって来れた。

 自分に流れる虚無の血脈を受け入れて、力をつけるために夢の世界に散らばった秘宝を蒐め、世界の真実を知るために六千年前の始祖の片割れすら喰らってみせた。
 その全ては、このハルケギニアを邪神から守るというただその為だ。
 彼女の、ルイズ・フランソワーズの半生は、いま、ここ、この時のためにあったのだ!

「だから大丈夫さ。
 さあ、言ってやろうぜ、いつもの様に。啖呵を切ろう、邪神に向かって。
 “ゼロのルイズ、その名の下に、全ての邪悪は消えて去れ!”ってな」

「――そうね、そうよ、そうだったわ。私はゼロのルイズ」

「そうだ。人類の守護者、生き神、虚無使い――そして何より、この平賀才人のご主人様だ! 負けるわけがあるかよ! 俺のご主人様はそりゃあもうスゲエんだからよ!」

「ふふっ、そうね」

「美人で可憐で可愛らしくって、何より強く、そして何よりも気高く誇り高い、そんな自慢のご主人様だ。俺のご主人様は、ここぞってところで決める女だ。だから俺は全く心配していない。あんな邪神程度(・・・・)に、俺のルイズが負けるはずがない、断じて、決して」

「何しれっと“俺のモノ”扱いしてるのよ……。でも、まあ良いわ。いい加減付き合いも長いしね、忠誠には報いるところが必要、よね」

「あん? なんだ、期待しても良いのかよ? ご褒美を」

「ふふふ、さあ、どうかしら」

「……って、今更じゃね? 幻夢郷で連れ添ってもう何百年だよ。――まあ、良いさ。微かに期待しとくぜ、ご褒美ってやつをさ。
 で、これだけ言っても、それでもまだ不安なら、そん時ゃ俺の背中を見てりゃいいんだよ」

 サイトは背中越しにルイズに言う。

「お前が負けるかよ、ルイズ。何しろ俺がついてるんだぜ? このゼロの使い魔の平賀才人がな」

 自信満々にサイトは言う。「俺がルイズを勝たせる」のだと。
 邪神に怒っているのは、サイトも同じなのだ。地球に居た頃には逃げるだけしか出来なかったあの人外のものたちに立ち向かえるだけの力を、勇気をくれたのは、他ならぬルイズなのだった。
 今の彼の中に弱気の虫など居るはずもない。だって彼はルイズの使い魔で、そして何より自らの背を見つめる女の子を一等に愛しているのだから。

 そして今、このアルビオンはアザトース・エンジンによる世界法則の改竄によって、意志こそがモノを言う世界へと変貌している。
 心を強く持てば勝てるというのは、間違いではないのだ。

「大体ドリームランドでもルルイエでもセラエノでも地獄でも、何処までだってついてくに決まってんだろ。今更何を『ついてきてありがとう』だとか当たり前のことにお礼なんて言ってるんだよ、ルイズ。置いてかれたって探し出して追い付いて、閉じ込められてたら助け出して、たとえ死んでたって生き返してやらあ」

 もう目前にまで、最後の門は迫っていた。アザトース・エンジンのある機関部に通じる巨大な扉だ。
 一瞬だけサイトは後ろを振り返り、ルイズを見た。お互いに淡く自然に微笑んでいる。まるで陽だまりの中に居るかのような、笑み。

「だからさ、安心してくれよ。何があっても俺が守るよ。お前を慕う一人の人間として、そして、お前を――ルイズ・フランソワーズを愛する一人の人間として」


 そして彼らは最後の大扉を開けた。
 それはまるで地獄門。
 あらゆる絶望の詰まったその場所へと、それらすべてを吹き飛ばすために、彼らは往くのだ。


  ◆◇◆


 地獄門をくぐった先は、まさに奈落。
 底の見えない巨大な井戸を思わせるような穴だった。
 無限の落下を思わせるその奈落、しかしその先には宇宙に浮かぶ恒星のように、煌々と輝く球体が浮かんでいた。あるいは本当に宇宙空間に繋がっているのかもしれないと、見る者に思わせる。

 暗黒の陥穽に浮かんでいるそれは、アザトース・エンジンの成れの果てだ。
 【チクタクマン】の手によって暴走して、痴愚神の坐す(まします)宇宙の玉座へと繋がる門を顕現させたアザトース・エンジンそのものだ。
 沸騰する混沌の核とも称される痴愚神【アザトース】の玉座から漏れ出るエネルギーが、恒星のような白色として知覚されているに過ぎない。

 そしてそれを見下ろす位置、この機関部への出入り口である地獄門を出たルイズたちの直ぐ足元には、よく目を凝らせば何か細い綱のようなものが張られているのが分かった。同じようなものはその下に何百重にも張り巡らされているようだ。
 幾何学的に多角形を何重にも描くそれは、アザトース・エンジンに蓋をするように張られた、漆黒の糸でできた蜘蛛の巣であった。その蜘蛛の巣は、奈落の穴を何百層にも連なって覆っていた。数百の蜘蛛の巣が、この陥穽に蓋をしている。
 おそらくは<黒糸>によって編まれたその水平の蜘蛛の巣の層は、アザトース・エンジンからの神気を吸収するためのソーラーパネルのような役割を果たしているのではないだろうか。下からの神気の圧力によって、蜘蛛の巣の層は布をはためかせるように波打っていた。

 そしてその蜘蛛の巣の第一層の中心に――ルイズたちの視線の先に、ソレは佇んでいた。
 可愛らしい少女の格好をして、吹き上がる神気の風に黒髪をなびかせて、佇んでいた。
 まるで獲物を待ち構える蜘蛛のように、笑みを浮かべて舌なめずりして佇んでいた。

「【チクタクマン】――ナイアルラァトホテプッ!」

「如何にも、ようこそ虚無の娘、幻夢郷の女王、極と零の魔女。よくぞよくぞ参られたっ!」

「はっ、手加減して調整して招いたくせによく言うわ」

「いやいやいや、全ては君たちの実力さあ」

 果たして本当にそうだろうか。
 享楽家で有名なナイアルラァトホテプのことだ、こうなるように演出したに違いない、とルイズは考えている。
 【チクタクマン】――機械の神、デウス・エクス・マキーナ。その名の通り、舞台演出にかけてはお手のものだろう。

「クリスタライズっ! 夢の国の現身よ、此処に」

 ルイズは銀色(・・)と虹色(・・)が混ざったような美しい光をその身から発散させながら、自らの身体を作り変える。
 朱鷺色の羽、翡翠の鱗。有翼半魚のセイレーンのようなその姿は、ドリームランドでの彼女の本性だ。

「エキドナ、デルフっ! 行くぞ!」 【了解、サイト!】 【任せろ相棒っ!】

 左肩からは、左の義腕へと変化している翼蛇エキドナが、自在に動く砲門の役目をこなすためにちょろりと顔を出す。ルイズの魂を分けたエキドナは、虚無の力の一端すら使いこなす、心強い味方だ。
 そして魔刀デルフリンガーと、神刀『夢守』を八双に構える。六千年前からガンダールヴの相棒を務めるデルフリンガー(ただし依代は代替わりして日本刀風になっている)と、夢神の尖兵を封じた佐々木武雄の忘れ形見の奉納刀。
 二刀流で敵を睨みつけるさまは、まさに歴戦の戦士の風格。

「はっ!」

 さらにサイトは空中に多角形型の足場をクリスタライズし、跳躍してその上に立つ。
 ……【チクタクマン】が用意した蜘蛛の巣状の足場になど、何が仕掛けてあるかわからないから乗れやしないということだ。

「ひひひゃは、準備はできたようだねえ。それじゃあ藁の光に交わる紐の結び目が固まって蛭を生むように、始めようじゃあないかね」

「何言ってるかわからないわよ」

「まともに相手すると精神汚染されるんじゃ」

「失敬な。いつでもあちきはデンデンムシムシで正気なんて欠片もないぞっ、まともに相手にしなきゃあ平気みたいな言い方で侮辱するのも大概にしてもらおうかっ」

 いや今は蜘蛛だったっ! などと意味不明の供述をしつつ【チクタクマン】は戦端を開く。

 ゆらゆらふわりと蜘蛛の糸が辺りを漂い始める。

「ここは蜘蛛の巣、捕食者の檻。機械のように君の運命を織り込めてあげよう!」

 少女の姿の【チクタクマン】が、まるで悪夢の指揮者かのように腕を振るう。
 その繊手の先は、周囲に浮かぶ蜘蛛の糸――<黒糸>に繋がっている。
 【チクタクマン】の指揮に従って、<黒糸>が空中のルイズとサイトへと幾重にも輪を描いて殺到する。

「っ!」 「チィっ!」

 ルイズとサイトは、キラキラと光りを反射させる<黒糸>を見切ると、空を泳ぎ、あるいは足場を作って跳ねまわって回避する。

「あっはっはっはっ! 上手い上手い! まるで猛獣の火くぐりだ! それとも貴様は蝶か、蜂か、蝿かっ?」

 虚無の主従の行く先に、チクタクマンは罠の網を広げて待ち構える。

 しかしルイズたちも負けたものではない。
 サイトが行く手を遮る蜘蛛の糸を斬り払い、ルイズが飛ぶための空間を確保。
 その間にルイズは詠唱を続けている。邪なるものを祓うために。

「アド オズ、■ド オズ、ダ ァナアト アズ ■ットァン――」

「むむむ、そうやって縮こまって居られては詰まらんぞ。もっともっと果敢に攻めてこいよぅ! へいへいへい、ほらほらほら、さあさあさあ、いざいざいざァ!」

「そんなに攻められたきゃあ、攻めてやるよっ! この詐術師っ、道化めいた悪意の塊め!」

 朗々と詠うルイズから注意を逸らすために、サイトは単身で突撃を行う。

「くはっ、そう来なくてはなあ!」

「おおおおおおおおおおおおっ!!」

「避けられるかな? 避けちゃうかな? ミサイルっ! レーザーっ! ワイヤーカッターっ!」

 チクタクマンの黒いイブニングドレスのスカートから、無数のミサイルが明らかに物理法則を無視した量が放出される。
 ゆらりと浮かび上がった無数の<黒糸>の先に光が灯り、光条が走る。
 そして引き続きワイヤーが幾重にも張り巡らされて、サイトを輪切りにせんと迫る。

 逃げ場など無い。

 ――――だから何だというのだ!

 未来とは斬り拓くもの。
 活路とは斬り拓くもの。
 いつだってサイトはそうしてきた。

 ガンダールヴはそうしてきた!
 いつの時代でも――六千年の昔から! 
 主人の詠唱を背後に聞いて、敵を切り裂いてきたのだ!

「うぅぉおおおおおおおおおおおおおおおおお!」

 忠誠に胸を浸し、
 勇気を脚に込め、
 愛に背中を押されて――

「はぁっ!!」

 ガンダールヴは立ちはだかる全てを微塵に斬り飛ばす。
 それこそが、『ゼロの使い魔』平賀才人の在り方だ。

「ひゅう♪ やるじゃん、人間!」

「他愛無いぜ、カミサマ! このまま斬って斬って――斬り捨てる!」

 斬り捨てたミサイルの群れが背後で爆発。
 それに押されてサイトが加速。
 一足一刀の間合いにまで迫る。

 チクタクマンは、まるで愛しい人を迎えるみたいに腕を広げる。

 サイトは二刀を振りかぶり、竜巻のように勢いをつけて叩きつけた!


 チクタクマンが袈裟懸けに両断される。
 二つに分かれて離れる黒髪の少女の姿。

 空中に作り出した自前の足場を、突撃の勢いのまま滑るサイト。

「ルイズ! 今だっ!」

 そしてこれ以上無いチクタクマンのその隙に合わせて、遂にルイズの詠唱が完成した。


  ◆◇◆


 

 蜘蛛の巣から逃れる為に 37.退散の呪文 : 【チクタクマンの退散】




  ◆◇◆


「――ゼロのルイズ、その名のもとにっ! 全ての邪悪は消えて去れっ!」

 常人にありうべからざる言語による詠唱の後、ルイズはそう宣言する。
 同時に、肩口から袈裟に分かたれたチクタクマンの身体が、薄れて消えていく。

「お? おっ? おっ?」

 まるで位相がズレたかのように、チクタクマンが世界から弾き出されていく。

「おおおおおおお? 退散の呪文?」

 チクタクマンのその顔は、いかにも意外そうにポカンとしていた。

「それが、切り札? この、これが?」

 ――そして、憎々しげに歪む。

「この程度が、切り札だと?」

 いや、そこに現れているのは、憎悪と言うよりも――――軽蔑。
 チクタクマンは、まるでつまらないものでも見るかのように、ルイズ・フランソワーズを見下していた。

「二番煎じの猿真似で――この享楽家が、ナイアルラァトホテプがっ! 大人しく満足して立ち去ると思っているのかっ! 貴様っ、馬鹿にするのもいいかげんにしろよっ、ルイズ・フランソワーズ!!」

「確かにこの手は千年教師長の二番煎じ、だけどそれでも勝てばいいのよ。――ここから去れ、ナイアルラァトホテプ、永劫に、このハルケギニアから!」

 ルイズが更に退散の術式に力を注ぐ。
 それに応じて、チクタクマンの姿が薄れていく。

 ――――だが。

「 い や だ ね 」

「何!?」

 バキン、と何かが砕ける音がして、ルイズの身体が弾き飛ばされた。

「日和りやがって、怖気づきやがって! もっともっと楽しい、もっともっと命懸けの、もっともっとギリギリのっ、そんな戦いじゃなきゃあ消えてやるもんかよ!」

「……っ!」

「つまらない、つまらない、つまらない女に成り下がったものだな! ルイズ・フランソワーズ!」

 薄れていたチクタクマンの姿が戻る。
 サイトに斬られた断面から<黒糸>が伸び、分かたれた身体をじゅくじゅくと繋ぐ。

「所詮お前もただの人外にすぎんのか――……。ならば人外(・)らしく、世界の外(・)へと消えるが良い――」

 チクタクマンの口から、不吉な詠唱が漏れる。
 それはまるでクリスマスプレゼントを開けて期待はずれだった子供のような表情で……。


 嫌な予感を感じたサイトが再び斬りかかる。

「やめろ、ナイアルラァトホテプーー!!」

 その刃は届く。
 だが、チクタクマンの詠唱は止まらない。
 細切れにされても、次から次にその断面に口が現れて詠唱を紡ぐ。

(ああ……)

 同時にルイズは、これまで感じたことのないような寂寥感と孤独感を感じていた。
 ――まるで世界から拒絶されたかのような、圧倒的な孤独感、心もとなさ。
 この次元から弾かれるような、抗うことすら許されない斥力を、ルイズ・フランソワーズは全身全霊で感じていた。

(世界が、サイトの背中が、遠い――)

 そしてサイトの妨害虚しく、チクタクマンの詠唱は完成する。


  ◆◇◆


 

 蜘蛛の巣から逃れる為に 37.退散の呪文 : ×【チクタクマンの退散】  →  ○【ルイズ・フランソワーズの退散】




  ◆◇◆


 ――ルイズ?

 サイトが振り返る。
 だがそこには、誰も、何も、居なかった。

 この瞬間、虚無の半神ルイズ・フランソワーズは、ハルケギニアから――――消失した。





=========================


ニャル様「邪神に同じ技は二度通用しない!(ドヤ顔)」

魔術:【ルイズ・フランソワーズの退散】
 かつてウードが研究していた退散の呪文のレパートリーの一つで、ナイアルラァトホテプの化身を退散させる呪文の研究過程で作り出したもの。ルイズ・フランソワーズ用の特製魔術で、対象を次元から放逐する。
 ウードの研究の時点では、ルイズに対してはせいぜい嫌がらせで動きを止めたり力を削ぐくらいしか出来ない不完全なものだったが、その後ナイアルラァトホテプが完成させた。また、ルイズ自身も、虚無の半神ヴァルトリを喰って人外化(神格化)が進行していたため、退散の魔術が効きやすくなっていたという事情もある。



↓前話の追記(2013.04.14)からこちらに移動。

ヤマグチノボル先生の訃報に際して。
色んな意味でゼロの使い魔に対して冒涜的な二次創作を書いている身ではありますが、先生が亡くなられて非常に残念でなりません。
ゼロの使い魔は、私の大好きな作品です。この作品に出会ったから、私はSS書きになりました。訃報に接し、非常に驚き、また悲しくなりました。
ヤマグチノボル先生のご冥福をお祈りいたします。


ラストまで後少し(多分次回で最終話)なので、最後までお付き合いいただけると嬉しく思います。

次回、世界の外側で、ルイズはかつての恩師にして仇敵に出会う――かもしれない。その世界の外側から伸びる蜘蛛の糸の繋がる先は? 運命という糸が織り成す蜘蛛の巣から逃れる為に、ルイズは、そしてサイトは、何を選択するのか。

GW中に投稿できたらいいなあー(願望)

2013.04.24 初投稿

2013.04.25 誤字訂正、一部修正
2013.04.30 あとがきの一部変更



[20306] 蜘蛛の巣から逃れる為に 38.神話の終わり (最終話)
Name: へびさんマン◆29ccac37 ID:a6a7b38f
Date: 2013/05/04 16:24
「――ルイズ?」

 サイトが振り返った先には、誰の影も姿もなかった。
 ピンクブロンドに輝く髪も見えず、清冽な湖を思わせる残り香もない。
 彼の主はこの世界から消えたのだと、サイトは魂で感じとった。

「全く、あのウードが期待していたからどれほどのものかと思えば、期待はずれもいいところじゃ! 我、ぷんぷん!」

 プリプリと怒りながら、黒髪の少女の姿をした悪意の塊が、ふわりと奈落の陥穽を覆う蜘蛛の巣の上に着地する。

「あまりの落胆からくる怒りで、ついついお約束を無視しちゃったしぃー。でもあそこで空気呼んで大人しく退散されるのは、ちょっと無理っていうかぁー」

 どうやらこの混沌の悪意の化身にとって、【退散の呪文】は、単なるお約束に過ぎないらしい。
 ネタを振られたから持ちネタを披露する、とか、ブザーが鳴ったから開演する、というような。
 絶対に守らなければならない原理原則ではなく、空気を読んで従う自分ルール程度のものだということだ。

 つまり、千余の退散術式を唱えて一時はかの邪神を放逐した蜘蛛の千年教師長、ウード・ド・シャンリットの行動は、ナイアルラァトホテプから見るとこう映っていた可能性も高い。

 ――芸歴うん十年の芸人に対して、今までのネタのほとんど全てを細大漏らさず並べ立てる熱心なファン(いやまあ正気を保ってそれらを網羅できるのが尋常では無いのだが)。
 『ほほお、こんなネタまでよく知ってるなあ』と感心したナイアルラァトホテプは、その熱心なファンを自分の持ちネタの一つに加えることにした――とまあ、神の視点から見れば、実はその程度の出来事に過ぎないのだとしたら。
 しかもその熱心なファンは、前から目をつけていたくらいにイイ体(※最先端魔道具<黒糸>)をしており、存在を召し上げるとそのいい体も手に入るという一石二鳥だったのだ。かくして千年教師長ウード・ド・シャンリットの全存在は、ナイアルラァトホテプに呑み込まれたのだ、非常に栄誉なことに。

 【退散の呪文】と、神が実際に退散するかどうかについて、少なくともこのナイアルラァトホテプには、実は一切の因果関係がないらしい。
 これが他の神ならば違っただろう。退散の呪文は大きな効果を発揮するはずだ。
 だが、這い寄る混沌ナイアルラァトホテプは、それら一切の束縛から自由な、融通無碍なる神なのだ。他の神話の神に当てはめるなら、ヘルメスやメルクリウス、ロキに当たるだろうか。神々の間をめまぐるしく飛び回るトリックスターだ。
 そんな自由な彼に、力技以外の方法で送還を願うことは出来ない。そして、力技すら、神の圧倒的存在を前にしては無意味だ。

 一番可能性が高いのは、何らかの手段でこの享楽家を納得させ、満足させてお帰り願うことくらいであろうか。
 そう、例えばウード・ド・シャンリットが行ったように(だがウードと同じ手段はもはや通じない――ネタかぶりになるから)。
 あるいはこの飽きっぽい神が、遊び疲れて飽きて去ってくれるのを待つか、だ。



(……どうする、どうすればいい?)

 サイトはどうでも良い独白を続けるチクタクマンを視界に収めつつ、主が消えたショックから呆然として――いなかった。
 彼は状況を分析し、最適な行動を考え続けていた。ガンダールヴの権能による自己強化は、戦闘速度に追従するために思考速度の増強にまでも及ぶ。
 彼が考えていることは、唯一つ。

(どうすればルイズを呼び戻せる?)

 それだけだ。

 そこへチクタクマンが大きく身振りしながら振り返り、語りかける。

「さあさあ! 残ったのはお前だけだ! ガンダールヴ、平賀才人、いや、人間! 主が消えて、従僕のお前は一体どうする!?」

「消えちゃあいねえよ!」

 サイトは自分の左腕の付け根を押さえて、咄嗟に反論する。
 そこには、かつて切断した左腕の甲から移ったガンダールヴのルーンが、未だに存在していた。

「まだ、ルーンは“繋がって”いる。ルイズの分霊のエキドナも、消えちゃいない! 虚無のブリミルに連なるデルフリンガーも、この手にある! なら……」

 ルイズ・フランソワーズは、完全に消滅したわけではないということだ。
 確かにこの世界(・・・・)からは、消えたのだろう。
 だが、それならば、この世界の外には居るはずなのだ。

「ならば、俺が呼び戻す! ルイズ・フランソワーズを、召喚するっ! 約束を果たす! 俺は約束したんだ、ずっと一緒に居ると、死んでも呼び戻すと!」

「ははは、いいねいいね、諦めない心は大事だ。ああ、愛は素晴らしい、人間は尊い、足掻くさまは美しい。それこそが私が最も好むところだ。
 さて、じゃあ、やってみるとイイ、ニンゲンよ――――やれる、もんならなァッ!」

 全てを絡め取る蜘蛛の巣の上で、人と神とがダンスを踊る。

「私は足掻くニンゲンが好きだが、その足掻きが無駄に終わり、絶望する顔がもっともっと極上に好きなのだよ!」

「ふざけるな、絶望など、してやるものかよ! ナイアルラァトホテプ、お前こそが、落胆のうちに消え去るんだ!」

 運命という名の蜘蛛の巣から逃れる為に、平賀才人は刃を振るう。


  ◆◇◆


 


 蜘蛛の巣から逃れる為に 38.神話の終わり




  ◆◇◆


 ルイズ・フランソワーズの、その意識は、揺蕩っていた。

 そこはどこでもない場所。
 世界の隙間、世界の外側。
 外宇宙――とは、また違うだろうし、宇宙外という言葉も正しくない。

 ここは正真正銘、“どこでもない”としか表現できない場所だった。

 ルイズはそこで、夢うつつなままに、全てを見ていた。


 ――アルビオン大陸に瘴気が溢れ、勢いを取り戻した因縁の相手(首無し司祭、喪服の先妃、灰塵の学院長)たちによってアンリエッタたちが追い詰められるのを。

 ――ジュリオやギーシュたちが、巨大な異形に蹂躙されていくのを。

 ――溢れた瘴気によって、アルビオンとシャンリットを封じていた光の柱『世界隔壁』が弾け飛ぶのを。


 ただ見ていた。


 ――その呪詛返しで、教皇ヴィットーリオが全身から噴血して、血だまりに崩れ落ちるのを。

 ――押さえるものが無くなったチクタクマンが、瞬く間に<黒糸>を再掌握していくのを。

 ――チクタクマンをクラッキングしていたミョズニトニルンとジョゼフが、過負荷によって倒れ伏すのを。


 ただただ、見ていた。


 ――アーティファクトをふんだんに使ってラグドリアン湖に構築した呪法『夢の国のアリス』の魔法陣が、チクタクマンに乗っ取られていくのを。

 ――『英霊召喚』を反転した『悪夢召喚』によって、戦士たち自身が自らの根源的恐怖を次々に具現化していくのを。

 ――各地に派遣されたトリステインの精鋭が、それら自らの悪夢によって瓦解していく様を。


 ルイズはただ、見ているだけしか出来なかった。


 ――奪還された大地から、再び混沌の化身たちが湧き上がるのを。

 ――人々が狂いながら疑心暗鬼のうちに隣人と殺しあうのを。

 ――死んだはずの者達が、混沌の下僕となって立ち上がり、生者を襲うのを。


 ハルケギニアが再び絶望の霧に沈んでいくのを、見ているだけしか出来なかった。
 そして。

 ――サイトが絶望的な力量差を前にしてもなお、チクタクマンに切りかかっていくのを。

 ――サイトが、世界の外に飛ばされた自分を呼び戻そうと、必死に思考を巡らせていることを。

 ――サイトが、それを決して諦めてなどいないことを。


 胸が張り裂けるような想いで、ただ見ていた。
 見ていることしか、出来ない自分の無力を嘆いていた。

「ああ、私は呪う、私の無力を、迂闊さを!」

 いくら後悔しても足りない。足りるものか。

「もっともっと、どうにか出来たはず。もっともっと、上手いやり方が、あったはずなのよ!」

 チクタクマンのベースになったのが“何”だったのか、もっとよく考えておくべきだった。
 あの蜘蛛の大公、ウード・ド・シャンリットは死んでもなお癪に障る奴なのだ。
 死んだ程度で、ルイズの人生からどいてくれるほど容易い存在ではないのだ。
 それをもっと重要視するべきだった。

 そもそも見通しが甘かった。

 相手との力量差を覆すために、もっと大胆な賭けに出る必要があったはずだ。
 ――例え魂をすりつぶしてしまったとしても! 

「ううううぅぅぅううううう、あああああああぁぁあああああああっ! 」

 癇癪を起こした子供のように、手当たり次第に周囲をエクスプロージョンで爆破する。

 自分の失態の落とし前をつけなければならない!
 戻らなければ、ハルケギニアへと!
 この空間を壊して、ハルケギニアへ、帰らなくては!

 時空と魂の系統たる『虚無』の力で――【無名の霧】と呼ばれる邪神【ヨグ=ソトース】に連なる虚無の力で、空間に穴を開けようとする。

 ヨグ=ソトース。
 神々の副王。
 命永らえしもの。
 虚空の門。
 門にして鍵。
 銀の鍵を守るもの。
 無名の霧。
 全にして一。
 一にして全。
 全ての時空に隣接するもの。
 全ての時空を生みしもの。

 そして、虚無の父祖――ヨグ=ソトース。
 あらゆる空間を渡るための、門にして鍵たる存在。
 その力ならば、あらゆる次元を繋ぐことが出来るはずなのだ。

「私は、私はっ! 戻らなくちゃ、いけないのよ!」

 だが、しかし。
 轟々とルイズから魔力が放たれても、空間へは何の影響も与えずに虚しく拡散していくだけだ。
 ルイズは今また、自分の無能を嘆く。

 恐ろしいほどに何もない空間。
 のっぺりと塗り込められた、という感覚がしっくり来る、何の襞も取っ掛かりもない空間。
 例えるならば、プラスチックの虫籠に閉じ込められた蟻のような、そんな状況だった。

 ここには、普通ならばあるはずの空間の歪みが、一つとしてないのだ。そのように作られたかのような不自然な空間だ。
 空間に歪みという名の取っ掛かりがあれば、ルイズはそこから空間を裂くことも出来ただろうに。
 如何に空間を司る神性の末裔とはいえ、こうも完璧に何もなければ、どうしようもない。

「帰らなくちゃ、いけない、のにぃ……」

 あたら無駄に力を浪費して、ルイズは器用に虚空で膝をつく。
 その顔は泣きそうに歪んでいた。

 脳裏に映るハルケギニアの映像は、おそらくはあの悪趣味な混沌野郎が流し込んできているのだろう。
 ルイズに無力と絶望を味わわせるために。

 ハルケギニアの状況は加速度的に悪化し続けている。

 ハルケギニアという世界が蝕まれている。
 自分を信じてくれた人々が絶望のうちに消えていっている。
 それでも負けずに、傷だらけになりながらもサイトは戦い続けている。神に抗っている。

「サイト……」

 それは何のためか。
 地球人(アーシアン)であるサイトが、魂消るほどの圧力を放つ神を前に、今もなお立ち向かっているのは何故か。
 本来は何の縁も無いはずのハルケギニアのために、イーヴァルディの勇者として戦っているのは、一体誰のためなのか!?

 決まっている、そんなものは決まっている!
 全ては、全ては――。

 ルイズのためだ!
 ルイズ・フランソワーズのためだ!

 彼女の従僕は、彼は約束を果たそうとしているのだ。
 『たとえ死んでいても生き返らせる』と。
 永遠に共にいることを誓ったから、それを嘘にしないために!

 その決意が、痛いほどに伝わってくる。
 ガンダールヴのルーンを介した繋がりから、サイトの心の震えが伝わってくるのだ。
 主従の絆は切れてはいない。
 サイトの震える心に元気づけられ、ルイズは再び立ち上がる。


 ――――いやしかし、立ち上がっても一体どうするんだ?

 と、我に返りそうになったところで、視界が塞がる。

「ふぇ?」

 慌ててルイズは、自分の視界を塞いだものを確認しようと手を伸ばす。

 それは顔をすっぽり覆うくらいの大きさで。
 何か細い八本の棒のようなものでルイズの顔を覆うようにがっしりと掴んでおり。
 顔に伝わる感触は、なんだかぶよぶよしていて、しかし細かい毛に覆われたそれはビロードのような肌触りだ。
 つまりこれは――

「蜘蛛っ!?」

 蜘蛛であった。
 腹の大きさがルイズの顔ほどもある蜘蛛だ。
 いやああああ~っ、と叫びながら、ルイズがそのフェイスをハグしている蜘蛛を引き剥がす。

 引き剥がされた蜘蛛は、その尻から伸びる糸に釣られて、ぶらーんと振り子のように運動する。

「な、なんで、こんなとこに蜘蛛が! て言うか、ど、何処からっ!」

 ルイズが、蜘蛛の糸の根元を見上げると、遥か遠くに、この何もない何処でもない空間のある一点に今までは確かに無かったはずの小さな穴があるのが見えた。
 あの蜘蛛が穴を空けたのだろうか?

「いや寧ろ、何でお前がここに居るんだ? ルイズ・フランソワーズ」

 ぷらーん、とルイズの目の前に戻ってきた蜘蛛の、その腹に描かれた紋様――いや、人面疽が口を開いた。
 ヘイケガニやジンメンカメムシのように、その蜘蛛の腹には、人の顔が浮かび上がっていた。
 その顔は、ルイズがよく知っている顔だった。

 好奇心と猜疑心を隠そうともしない、左右非対称に歪んだ表情。

「千年教師長――ウード・ド・シャンリット……っ」

 混沌の化身に成り果てたはずの存在が、何故か人面蜘蛛の形でそこに居た。


  ◆◇◆


「あ、あんたは、あんたはナイアルラァトホテプに喰われて消えたはずでしょう……?」

「うむ、その通り、『<黒糸>に宿っていた私』は、そうやって消えた」

「<黒糸>に宿っていた、あんた?」

 それではまるで、それ以外にもウードが居たようではないか。
 いや、仮に何処かに魂を分けていたとしても、邪神に喰われたのなら、そんなものは意味が無いはずだ。
 どこに魂を分けていようとも、神にとってそんなものは分けたうちには入らない。
 多少居場所が違っていたとしても、そんなもの(・・・・・)は、同じ事(・・・)だ。まとめて喰われて消えるはずだ。

 だというのに、何故?

「今ここにいるこの私は、混沌の所有になる以前に、既に別の神の所有だったのさ」

 いくら混沌の邪神でも、既に別の神に捧げられた供物を奪うことは出来ない。そういうことだ。

 ルイズはそして思い至った。
 千余年前からずっと、千年教師長は、己の魂を削り出して地底の蜘蛛神に捧げ続けていたことに。

「蜘蛛神、アトラク=ナクア……! 永遠に糸を紡ぐもの――」

「そう、我が神アトラック=ナチャ様。というかそもそも、ハルケギニアで千年を過ごしてきた『ウード』と、千二百年前にロマリアで処刑された『ウード』――つまりこの私には、魂の連続性がほとんど存在しない。断絶しているのだよ、少なくとも私の認識ではそうだ。だから<黒糸>に宿ったウードがどうなろうと、私には関連性がない」

「な――!?」

 そんなバカな。

「千二百年前、私は確かに死んで、魂はアトラク=ナクア様の元へと去った――いや喚び戻された。残ったのは、ウードの形を象った残骸だけだ」

 少し講義をしよう。釈迦に説法だとは思うが、とウードは続けた。

「肉体と精神と魂の話だ。肉体とは器、精神とはそれに満ちる粘性の高い液体、そして魂はその液体(精神)に色と味をつけるたった一滴(ひとしずく)の本質のこと」

 肉体の形は千差万別。肉体とは容姿という意味だけでなく、脳神経の有様など全てを含む。
 精神はその肉体の形に応じて、形を変える。水は方円の器に随う、というようなものだ。だが、精神には粘性と言うべきものがあり、肉体から開放されてもある程度は形を保つ。霊体、と言ってもいいだろう。
 そして魂。例えば、砂糖水と塩水は同じものか? いいや、たとえ99.9%は同じ水でも、砂糖水と塩水は違うものだ。精神という名の溶媒を特徴付ける、ソウルドロップのひと雫、それが魂というものだ。

「千二百年前に私がロマリアで処刑された時に、確かに私の器(肉体)は壊れ、中身(精神)はこぼれ、本質(魂)も地底へ去った」

「なら、ずっとハルケギニアに残っていたアイツは、あの千年教師長は、一体!?」

「残骸だよ、ただの残骸だ。だが器は残骸をつなぎ合わされて直り、<黒糸>によって再び精神の溶媒が注ぎ込まれた。器は完全に復元されたから見た目は変わるまい、肉体も精神もな。だが、既に一度中身は零れて失われている。少しは器に魂の残滓がこびりついていて、それを薄めるように精神が満ちたのだろうが、徐々に独自の色に染まったことだろうな」

 だから、地底で千年のあいだ糸を紡いできた私と、地上で<黒糸>の蜘蛛の巣を守っていたウードは、本質的には――魂的には別物なのだ。ウードはそう語る。

「そん、な……」

「まあ、そんなことはどうでも良いことだ。別物とはいえ、双子か親子以上には同じものだからな、違いと言っても他人から見れば所詮誤差にしか過ぎんのだろう。違いは、私と奴だけ知っていれば良い。奴が見ていた千二百年のハルケギニアについては、私も奴の目を通して見れていたしな」

「……結局、同じなのか違うのか、どっちなのよ」

「ふん、どっちでも良かろう。極論すれば、私もお前も同じものだ。全ては全て同じものだ。滅びも栄えも同じものだ」

 もっとも、そんな戯言は信じてはいないがね。とウードの顔の人面蜘蛛は嘯く。

「だが何処かが違うはずだ。何かが違うはずだ。差異を知り、相同を知る。それもまた私の望み。知識欲という名の蜘蛛の糸の繋がる先だ」

「蜘蛛の、糸……」

 ルイズは見上げる。
 ウードがぶら下がっている、蜘蛛の糸の繋がる先を。

「そういえば――」

「なんだ、ルイズ・フランソワーズ」

「アンタは、どうしてこんな何もないところに来たのよ」

 そうだ、ここで天の助けが来るというには、如何にも都合が良すぎる。

「まあ、それは我が神アトラク=ナクア様の使命に関係しているのだが」

「アトラク=ナクアの使命?」

 地底で谷に橋を架ける蜘蛛の神。
 その使命とは、何だ?
 糸をかけることに、何か意味があるのか?

 ウードは語る。

「この世は神の見る夢だ、という話がある。あの偉大な痴愚神の夢に過ぎない、とな。実はこれは真実なのだ。痴愚神の夢の世界は、当然玉座で眠る神が目覚めれば消える。だが、きっとそんな日は来ないだろう。何故だか分かるかね?」

「……アザトースが封印されているから?」

「違う。アザトースが夢を見続けているからだ。夢が広がっているからだ。痴愚神アザトースが眠って夢を見始め、この宇宙というものが誕生してから、可能性の世界が無限に拡散し続けているからだ」

 ウードは語る。

「神々の王、痴愚神アザトースの意識は、今もなお無限に拡散を続けている。それでは彼は永遠に目覚めることはない、彼の意識が、力が、再び一つに戻ることはない。数多の世界線に分かれた痴愚神の意識は、このままでは決して一つに戻らない、永遠に微睡むままだ」

 そう、『このまま』では。

 そう語るウードに、ルイズはぞっとする。
 今自分は、何か取り返しの付かないことを聞こうとしているのではないか?
 そんな予感がする。

「そんな時、痴愚神を慕う一柱の神が考えたのさ。『アザトースの意識が拡散を続け、無数の世界を生み出し続けるならば、それを繋げて縛って束ねれば良いのではないか。再び彼の意識を一つにすれば――そうすれば、彼は目覚めるのではないか』とね」

 人面蜘蛛のウードは器用にその八本の足を使って、そのイメージを実演する。
 無数に細かく裂かれて膨らんで広がった糸(世界線)、それを糸の輪で縛って束ねて見せた。

「さて、アトラク=ナクア様がおわす深淵の谷は、全ての世界と繋がっているとされる。世界、とは、この場合は痴愚神の分裂した意識の一つ一つと同義だ」

 ウードはそこで言葉を区切る。

「じゃあ、我が神アトラク=ナクア様は、何のために深淵の谷に糸を架けていると思うかい? ルイズ・フランソワーズ」

「まさか……」

「我が神アトラク=ナクア様は、一体、その蜘蛛の糸で、何処と何処を繋ごうとしているのだろうか?
 何を縛ろうとしているのだろうか?
 何を束ねようとしているのだろうか?
 ――――ある伝承で、『アトラク=ナクアがその深淵の谷に糸をかけ終わった時、世界に終末が訪れる』と云われているのは、どうしてだろうね?」

「全ては、痴愚神アザトースを、目覚めさせるために……?」

「その通り。我が神は一途に、アザトースを愛しておられるのさ」

 絶句するルイズに、蜘蛛の背にあるウードの顔の人面疽は嬉しそうに微笑む。

「私の残骸――<黒糸>に宿ったウード、彼が頑張ってくれたおかげで、我が神の眷属も随分増えた。作業速度も上がり、次々と分岐世界は束ねられ、一つに収束しつつある。
 ハルケギニアという世界も、無数の可能性が存在する。ウードがいない世界、ウードが居る世界。ルイズ・フランソワーズが居る世界、居ない世界。平賀才人が召喚される世界、平賀才人以外が召喚される世界。無数のハルケギニアが存在し、それらは今他の世界と同様に、ただ一つにまとめられつつある。
 私がこの、ナイアルラァトホテプが創りだした『何処でもない世界』へ辿り着いたのは、偶然でも何でもない。勿論、ルイズ・フランソワーズ、お前を助けるためでも何でもない。
 それが役目を果たすために必要なことだから、私はここへ来たのだ」

 この『何処でもない世界』もまた、痴愚神アザトースの意識が分かたれて作られた世界には変わりない。
 だからウードは――蜘蛛神アトラク=ナクアの眷属は、やってきた。
 この『何処でもない世界』を、他の世界と同じように束ねて一つにするために。

「ほら、見るが良い」

 ウードの蜘蛛脚が、自らが垂れ下がる糸の根元を指す。
 ルイズがその先を見上げると同時に、この『何処でもない世界』に罅が入った。
 雛が卵の殻を破るように空間が割れていく。

「あ、あ、あ、あ、あ」

 ルイズの口が戦慄き、意味のない喘ぎを漏らす。
 見上げるその先に見えたのは、ルイズには破滅にしか思えなかった。

 輝く銀河を内包した分岐宇宙が、繭のように蜘蛛の糸に包まれている。
 それが無数にあり、次々と蜘蛛たちがそれを運んでいる。
 巨大な蜘蛛の巣の上を、まるで水滴のようにも見える無数の宇宙の繭が運ばれていく。蜘蛛の巣が朝露を集めるように、無数の可能性の世界が一つに収束していく。

 その中央に陣取るのは、一際醜悪で巨大な力を放散させる蜘蛛神――アトラク=ナクア。
 そしてそれ以上に巨大な力を、破滅を予感させる大きな、大きな、大きな繭。アルビオンのアザトース・エンジンから漏れ出る力など、アレに比べればまるで蟻だ! いや微生物の鞭毛ほどでしか無い!
 あれが、あれこそが、アザトースの顕生意識! 無限の世界を生むほどの、破滅的なエネルギーの塊!

 アトラク=ナクアは、眷属が運んでくる『宇宙の繭』を受け取り、慎重に繋ぎ合わせては、中央の巨大な繭へと融合させていく。
 その度に、アザトースの意識塊が、力強くなる。
 いや、力強さを取り戻して(・・・・・)いく。

「見えるだろう? 素晴らしいだろう? 私はアレの行き着く先が見たいのだよ。蜘蛛の糸の繋がる先を、蜘蛛の糸が繋げる先を!」

 ウードが恍惚として笑う。
 ああ、此処に至っても、ウードという男の本質は何も変わらないのだ。
 破滅を前にしても突き進むほどの知識欲が、破滅すら解剖しつくさんと欲す知識欲が、この男の本質なのだ。

 ルイズが居るこの『何処でもない世界』もまた、運ばれていく。
 アトラク=ナクアの眷属たちが取り付いて、運んでいく。

「ああ、あ、あああぁぁああ、ぅああ!」

 ルイズは今、本当の恐怖というものを思い知っていた。
 これほどに恐ろしいことがあるだろうか!
 これほどまでに恐ろしいものがあるだろうか!
 アレこそが真実、唯一つの、神というものなのだ!

「お前が生きたハルケギニアもまた、あの『アザトースの繭』に吸収されるだろう」

「っ!」

 ウードの声に、ルイズはハッと我に返った。
 そう、このままでは、文字通りに全ては水の泡のように消えてしまうだろう。
 全ての世界は混ぜこぜにされ、アザトースの覚醒とともに消えてなくなるのだ。

「まあこれは独り言だが――強固な結界か何かで世界を全て覆ってしまえば、ひょっとしたらその世界は、最後の最後まで『繭』に吸収されずに残るかもしれないな」

 面白がるような表情で、ウードの人面疽を貼りつかせた蜘蛛は告げる。

「そして、ひょっとしたら、最後の方に残された世界が融合されずとも、アザトースは目覚めるかもしれないな」

「! そうなれば、最後に残された世界は」

「ああ、消えずに残るかも知れないな」

 それは一縷の希望。
 だが、賭けるには十分すぎる希望。

「さあ、ルイズ・フランソワーズ。もうお前にも聞こえるだろう? お前を呼ぶ声が」

 ――――――ルイズ――――――

「お前の従僕の声が」

 ――――ルイズ――――

「さっさと帰るが良い。そして為すべきことを為すが良い」

 ――ルイズ――

「お前の世界(ハルケギニア)を守りたいのならばな。まあ無駄だろうが」

 ――ルイズ!!

「何処まで抗うか、それもまた楽しみだ。私はそれもまた知りたい、この滅びは逃れられうるものなのかと。だから可能性のある者たちを見つけては、少しばかりの助言を与え、唆している……。さあ、行け――」

 ルイズ!!!!


  ◆◇◆


 サイトは、魂で感じていた。

(さっきよりも、ルイズの魂を、強く感じる……!)

 どんどんとルイズの魂の波動が強くなっている。
 きっとルイズは、戻ってくる。
 使い魔のルーンが、心強い波動を伝えてくる。

 全身に傷を作りながらも、サイトは歓喜とともに二刀を振るう。

「粘るねえ、ガンダールヴ!」

「ほざけ、機械仕掛けの蜘蛛め!」

 チクタクマンが無数の糸を飛ばし、サイトを引き裂こうとしてくる。
 だがサイトの左肩から砲門を覗かせる翼蛇エキドナが、火砲にてそれらを寄せ付けない。
 サイトはその隙に、魔刀デルフリンガーと神刀『夢守』を振りかぶり、チクタクマンに接敵。

(もう少しで、きっとルイズは帰ってくる! そのための隙を、作らなきゃならねえっ!)

 決意に応えて、左肩に張り付いたガンダールヴのルーンが輝きを増す。

「喰らえ、混沌! 七連七孔!」

 目にも留まらぬ七連撃。
 チクタクマンの胴体に、七つの傷が刻まれる。

「ハッ、何とも軽い攻撃だな! 避けるまでもないぞ、ニンゲン!」

「それはどうかな? お前は避けておくべきだったよ」

「――何?」

 余裕綽々だったチクタクマンの表情が、変わる。

「何だ、身体が、動かん……! 一体何をした、ガンダールヴ!」

「荘子曰く――渾沌、七竅(シチキュウ)に死す」

 渾沌(カオス)に、眼耳鼻口の七つの孔を開けると死んでしまったという寓話だ。

 その寓話になぞらえた七つの傷を媒介にした呪詛攻撃。混沌の具現たるナイアルラァトホテプには、特別に効果が高いだろう。
 しかもチクタクマンに傷をつけたのは、ブリミルの残滓を封じたデルフリンガーと、幻夢郷における封印の神刀『夢守』だ。
 それらの宿す封印の概念は、神を封じるにも充分に効果を発揮する。

「お前は暫し、そこで縛に着いていろ」

「ふ、ふふ、いいねイイね、そうでなくてはならないっ! さあ、もっともっと魅せてみろよ、ニンゲンんんんん!!」

 とはいえ、所詮呪術師でもなく戦士でしかないサイトの実力では、数秒も動きを止めることは出来ないだろう。
 そして二度目からはきっと効かないのだ。
 だが、数秒もあれば充分で、確実に言えるのはこれが空前絶後の大チャンスということだ。

 サイトは叫ぶ。

「五つの力を司るペンタゴン! 我が魂の縁を辿り――」

 サイトは、ガンダールヴのルーンから繋がる糸を手繰り寄せる。
 言うならばそれは、運命の赤い糸。

(ルイズ。ルイズ、ルイズ! 戻って来てくれ、ルイズ!)

 サイトは必死に呼びかけ、糸を手繰る。

「――我が運命の主を、ルイズ・フランソワーズをっ、いま此処に再び、召喚せよ!!」 (ルイズ!!!!)

 それはひとつの魔術。
 【ルイズ・フランソワーズの召喚】とでも名付けるべき魔術。
 空間の隔たりを超えて、運命の相手と再会するための、平賀才人の愛の魔術。

 サイトがルイズに召喚されるなら、当然、その逆もまた起こりうるはずだと、サイトはそう心から信じ――そして実際にその通りとなる。

 遥か地下深くから、閃光が立ち昇る。
 それはシャンリットの遙か地下のアトラク=ナクアの祭壇を貫き、それと直列に並んでいたアザトース・エンジンの開口部を呑み込み、幾多の<黒糸>の蜘蛛の巣を破って、サイトの前に顕現する。
 光の柱は、すぐに少女の姿を形取る。

「ルイズ……」

「サイト……っ!」

 光の中から少女が実体化する。
 それはとても幻想的な光景で。
 神話の如き戦いの最中になるこの場において、これ以上ないほどに相応しかった。

 今ここは世界法則が揺らぎ、精神こそが肉体よりも優先される世界と化しているのだ。
 ならば、この程度は当然の仕儀と言えよう。

「んっ……!」 「んむぅっ」

 少女と少年が再会の口づけを交わす。
 深く、深く、熱く。
 そして、甘く。

 少年の胸に、熱く燃えるものが宿る。
 いや、実際にそこは燃えて輝いていた。

 第四のルーン、リーヴスラシル。
 生命を紡ぐもの。
 生命の叫びを上げるもの――リーヴスラシル。

 サイトの胸に、リーヴスラシルのルーンが宿る。
 使い魔を選ぶのは、運命と愛。運命は二人を巡り合わせた。そして――。
 そして愛ゆえにサイトは、ガンダールヴに加えてリーヴスラシルを宿す。――六千年前のエルフのサーシャと同じように……。

「準備は整ったかね、ルイズ・フランソワーズ?」

 いつの間にか七連七孔の呪縛から解かれたチクタクマンが、破れた蜘蛛の巣を修復してその上にふわりと降り立つ。

「いいえ、まだまだ準備が足りないわ――」

「ほう? でもボーナスタイムはもう終了だぜい?」

「どちらにせよ私はやる事ぁヤルのよッ!」

 ルイズは宙空に身を投げて、アザトース・エンジンのエネルギー放出点へと落ちていく。

「ハハハッ、気でも狂ったか!? そのまま痴愚神のエネルギーに呑まれて消えるがいいさ、ルイズ・フランソワーズ!」

「はっ、この程度の何が恐れるに足りるものですか! 私は知っているわ、痴愚神が『盲目白痴』になる前の、その本来の波動を! それを目の当たりにしてから、此処へと戻って来た! もう何も怖いものなどありはしないのよ!」

 ルイズが仰向けに落ちながら啖呵を切る。
 その内容に、ナイアルラァトホテプは訝しげにする。

「白痴になる前の痴愚神、だって? どういうことだ、まさか、あのストーカーのヤンデレ蜘蛛神、本当にアザトース様の意識統合を果たしたとでも――?」

「お前は知らないの? まあ、良いわ――私のやることに変わりはないもの……」

 手を広げて落ち続けるルイズの、その背後に、大きな扉が現れる。
 複雑なアラベスク模様を浮かべたそれは未だ開いた状態で、シャボン玉のように虹色――いや玉虫色に蠢くマーブル模様に輝いていた。

「……ヨグ=ソトースの、窮極の、弥終(いやはて)の門。まさか半神の分際で……」

「私は、門にして鍵たるヨグの末裔。このアザトース・エンジンは――閉じさせてもらうわ!」

 ルイズの宣言とともに、玉虫色が目魔狂しく移り変わる巨門が、轟音とともに閉じる。
 同時に、周囲に満ちていた神気としか言いようの無いエネルギーも霧散する。 

「へえ、やるじゃないか。最初からそうしてれば、別に退散させたりしやしなかったのにな」

「余裕こいてるのもここまでよ。――っていうか、アンタに構ってる場合じゃないのよね」

「おやおや随分な言いようじゃないかい。這い寄る混沌を前にして『眼中に無い』宣言とは!」

 侮辱されたのかと思ったのか、チクタクマンは眉根を寄せる。

 ――とか会話しつつも、実はチクタクマンとサイトは依然交戦中である。
 恐ろしい勢いで斬撃の応酬が行われている。
 かたやチクタクマンはそれと並行して、ハルケギニア各地への侵略を実行中である。恐ろしい、さすが邪神。

「そう言っていられるのも今のうちよ、チクタクマン――」

「……それは?」

「ふふ、ふふふ」

 ルイズは何処からか、闇色の宝石のようなものを取り出す。

「? トラペゾヘドロン? しかも模造品のようだが」

「そう、トラペゾヘドロン・レプリカ、オールド・オスマンの手による贋作。だけど、こいつでも充分なのよ!」

 ルイズの手にあったのは、サイトがハルケギニアで巻き込まれた最初の事件を通じて、彼女が手に入れたもの。
 闇色に輝く偏四角多面体をした結晶。
 混沌のナイアルラァトホテプに連なるアーティファクト――をオールド・オスマンが内包する歴史概念を含めて業子(カルマトロン)ごと複製した逸品。

 ルイズはそれを掲げ、精神を集中する。

「接続(アクセス)! 同調(シンクロ)!」

「ぬ?」

「ぐぅぅっ!」

 そして彼女は、その闇のアーティファクトを通じて、ナイアルラァトホテプの意識へ接続し、同調し――苦悶の声を上げる。
 当然だ。
 無防備に邪神と同調すれば、その末路は、化身として取り込まれた<黒糸>のウードと同じだ。
 ましてや【チクタクマン ver.Eudes】の得意とするところは、侵蝕と同化。逃れられるものではない。

「ルイズ!?」

「……何がしたいんだ、ルイズ・フランソワーズ? 自殺志願者か?」

「ふ、ふふふ、まあ、あ、ある意味、そうかも、ね」

 サイトが、チクタクマンに弾き飛ばされてルイズの傍まで落ちてくる。
 彼が心配してルイズを覗き込めば、彼女の腕から胸にかけてが、掲げたトラペゾヘドロン・レプリカから伸びる闇によって漆黒に染まっている。
 ルイズの顔は脂汗にまみれて、息も絶え絶えだった。

「……大丈夫か、ルイズ」

「ふ、ふふふ。イイトコロに来たわね、サイトぉ」

「ホントに大丈夫かよ……」

 ルイズの視線が、サイトを捉える。
 サイトは、その視線を受けて息を呑む。
 もう主観時間で何百年と連れ添っている相手だ、何を言いたいのかなんて、目と目で通じ合える。

「……、そ、れが、ルイズの望みなら」

「頼んだわよ、サイト」

 そんなことを囁き合って、ルイズは更にトラペゾヘドロン・レプリカへと力を注ぐ。
 闇色のラインがルイズとチクタクマンの胸を結び、引力が働く。

「おおおっ?」

「こっちに、来いぃいいいい!! チクタクマンっ!」

 その闇色のラインはまるで実体ある鎖のように働き、ルイズとチクタクマンを互いに引き寄せた。
 チクタクマンは闇の鎖に引かれてルイズの方に落ち、ルイズは闇の鎖を手繰り寄せて空中へと駆け上がる。

「このおおおおっ! エクスプロージョン・パンチ!!」

「ぐおっ」

 そしてルイズはその勢いのままに腕を振りかぶり、チクタクマンの頬へと虚無の『爆発』のエネルギーを凝縮させた拳を走らせる。
 それはチクタクマンの頬へと命中し、凝縮されたエネルギーを弾けさせる。
 指向性も与えられた虚無のエネルギーは、チクタクマンの顔を吹き飛ばす、が――

「イった~い、でも効かないもんね!」

「チッ」

「今度はこっちの番だぜい、折角だからこのまま取り込んでやろう!」

 振りぬかれたルイズの拳が、ギュルリと修復するチクタクマンの顔に巻き込まれるままに固定される。
 可愛らしい顔に腕を突き刺されたまま、チクタクマンは下品に哄笑する。

「げぁはははははっ! 何だ、ルイズ・フランソワーズ、まさかその出来損ないのトラペゾヘドロンを通じて、俺を逆に支配しようとでも考えたのか?」

 ルイズの腕が漆黒に染まり、その侵蝕が進んでいく。
 同時に、チクタクマンがルイズの身体を抱きしめる。
 ルイズの身体が、ズブズブとチクタクマンの身体へと沈んでいく。

「ほら、後一息でお前という存在は喰われて無くなるぞ。たかが一匹の人外が、この混沌を支配できるとでも思ったのか? ルイズ・フランソワーズ」

「……そうね、私一人なら、そうだったでしょうね。でも」

 ルイズが言葉の続きを紡ぐ前に、ドン、と抱きあうようにもつれたチクタクマンとルイズに衝撃が浸透した。

「な、な、な――」

「でも、私は、一人じゃあないもの」

 つう、とルイズの口から血の筋が溢れて流れる。
 半ば融合したルイズとチクタクマンの胸を諸共に、サイトの刃が貫いていた。

「ガンダールヴ――いや、リーヴスラシルっ!」

「……それが、お前の望みなら、俺は叶えよう、ルイズ――例え、今生の別れになろうとも――ッ!」

「ふふ、ありがとう、サイト。愛してるわ、血の涙を流すほどに嫌なくせして、叶えてくれてありがとう、私の使い魔」

 二人を貫いたサイトの胸のルーンが輝く。
 リーヴスラシルのルーンが燃える。
 燃えて蠢き、それは刃を伝ってルイズへと移る。

 まるで六千年前のブリミルとサーシャの時のように。
 サイトは血涙を流してそれを見送る。

「リーヴスラシルの、『同族支配』。今や私は一人じゃないわ」

 リーヴスラシルのルーンが、ルイズの心臓に宿り、まばゆく輝く。

 同時に、ハルケギニアに生き残ったあらゆる人類からルイズへと、意志の力が流れ込む。
 リーヴスラシルの『同族支配』の権能が、世界に満ちる希望を束ねる。
 その御蔭か、ルイズを侵蝕していたチクタクマンの闇色は、動きを止めた。

「はっ、だからどうした! たかが世界一つ分のニンゲンを束ねたところで、このナイアルラァトホテプに勝てるか!」

 ざわざわと再び闇がルイズを侵蝕し始める。

「知ってるわ、世界一つ分じゃあ、足りないことくらい」

「じゃあ――」

「そして今や私は、もう一つ知っているわ」

 ルイズが血の筋を流しながら、首筋まで闇に侵蝕されながら、笑う。

「――世界が唯一のものではないことを!」

「!?」

 ルイズの宣言とともに、彼女の背後に浮かんでいる玉虫色に流動する窮極の巨門が再び轟音とともに開く。

 だがその繋がる先は、痴愚神の宮殿ではない。
 門の先は彼女が知った、蜘蛛の糸の繋がる先。
 あらゆる平行世界が浮かぶ、あの蜘蛛の巣の上。

 ウードが居ないハルケギニア、ウードが居るハルケギニア、ルイズが居るハルケギニア、ルイズが居ないハルケギニア、サイトが召喚されたハルケギニア、サイトが召喚されないハルケギニア……。
 無数無限の平行世界に満ちる、全てのニンゲンへとルイズ・フランソワーズは助力を願う。

「リーヴスラシルたるルイズ・フランソワーズが願い、祈るっ! 平行世界のすべての人々よ、私に力を!!」

 人々の意志が、ルイズへと流れ込む。

「あ、ああああああああああああっ!」

 それ一つ一つは少しずつでも、無数無限の平行世界から束ねたそれは、膨大なものとなる。
 侵蝕する闇を撥ね退けて、彼女の身体は今や銀色に輝いていた。
 銀色に虹色が混ざり、それはシャボン玉のように複雑にマーブル模様を描きながら、チクタクマンを侵蝕し返していく。

「莫迦な! こんなことが――」

「決着と行きましょう、チクタクマン――ナイアルラァトホテプッ!」

 支配率が入れ替わる。
 チクタクマンの身体は虹色に侵蝕されて沸騰し、まるでシャボン玉の塊のように膨れ上がっていく。

「【ヨグ=ソトース】……!」

 サイトは呆然と呟く。
 虹色と銀色がぐるぐると交じり合うその連球体は、伝承に謳われる神々の副王【ヨグ=ソトース】そのものだ。
 今この時、ルイズに流れる虚無の血脈は、完全に覚醒していた。

「これでおしまいよ、ナイアルラァトホテプ。
 もはや神話の時代は終わるの。
 そしてあの痴愚神の意識を束ねんとする、あの蜘蛛の巣から逃れる為に、あんたも私も、解けて失せるのよ」
 
 元はチクタクマンだった虹色の巨大なシャボン玉に囲まれたルイズが詠唱を始める。
 それはサイトも聞いたことのある詠唱だ。
 あの六千年の昔への時間旅行において、サイトが聞いたあの詠唱だ。

 ブリミルが世界の礎となって消えた、あの詠唱だ。

「虚無の最終魔法――【生命(リーヴ)】」

「やめろ、やめろ、ルイズ・フランソワーズ!」

「い、や、よ。止めてなんてあげないわ。大人しく生贄になりなさいよ、往生際が悪いわねえ」

 ケラケラと、ルイズは虹色のシャボン玉の表面に浮かんでは消えるチクタクマンの顔を嘲笑う。

「さあ、虚無と混沌を捧げて、新しい秩序を生み出そうじゃあないの!」

 原初、混沌ありき。
 混沌死して、秩序生まるる。

 そして混沌より以前に虚無ありきと云う。

 ゆえに、虚無(ルイズ)と混沌(チクタクマン)を生贄に捧げれば、より強固な秩序が生まれることは最早自明とさえ言えるだろう。

「お、おおおおおおおおおおおおおっ!?」

「足掻くな、混沌」

 巨大な虹色のシャボン玉の塊が、徐々に弾けて消えていく。生贄にされて消えていく。
 その代わりというように、ルイズに力を齎していた窮極の巨門の、その向こうに、強固な防護壁が築かれていく。
 アザトースの意識を蒐める蜘蛛神の干渉から逃れるために、虚無と混沌の二柱の神を生贄に捧げて、世界を守る防壁が組み上げられていく。
 新たな法則が敷かれていく。

 同時に、世界中に散らばっていた混沌の化身たちも、世界そのものへの生贄として捧げられて、消滅していく。

 そしてナイアルラァトホテプが荒らした土地も、人々も、全てが巻き戻っていく。
 このハルケギニアを守る防壁を築いた奇跡の残り香が、世界を修復していく。

 堕ちたアルビオンから奇跡が広がる。
 倒れたものは立ち上がり、邪神に取り込まれた者も蘇る。
 荒廃した町並みは回復し、一部の者を除いて人々は悪夢を忘れていく。

 夢から覚めるように、世界が生まれ変わる。新生する。


「さよなら、サイト」


 そして神は消える。
 混沌の神ナイアルラァトホテプが。
 虚無の神ルイズ・フランソワーズが。

 消えて無くなる。
 神話が終わる。
 神々の時代が終わる。

 残されるのは――


「さよなら、じゃ、ねえよ! 『またな』、だ! 俺は、俺は! 俺は必ず、またお前と――」

「……ふふ、ありがと。楽しみにしてるわ――またね、サイト」


 ――残されるのは、いつも人間だ。

「ルイズーーー!!」


  ◆◇◆


 のちに歴史書は語る。

『ブリミル歴6242年、邪神戦役。
 アルビオン‐クルデンホルフ戦争から移行する形で始まったこの戦争は、神の実在を証明した。
 邪悪なる神(その名は語るにはばかられるため、記すことは出来ない)は世界を一瞬にして席巻し、世界は阿鼻と叫喚の渦に沈んだ。
 その危機に対応するかのように、当時の世界には伝説とされる虚無の担い手が複数存在しており、彼らは力を合わせて邪神と対峙した。
 そして虚無の担い手の一人である聖女ルイズ・フランソワーズとその使い魔ヒリガル・サイトーンの貴い犠牲により、ハルケギニアは邪神の魔の手より守られた。
 この戦役を通じて邪神たちに危機感を覚えた時の教皇聖エイジス32世の主導により、後の国際的対邪神組織の設立へと繋がることとなる。
 またそれまで技術を秘匿してきたクルデンホルフ大公国の陥落により、膨大な技術流出が生じ、それが革新の時代へと導くこととなった。』

 人類は蜘蛛(ウード)によって敷かれたレールから逃れ、またルイズの犠牲によって邪神の脅威も遠く去った。

 人の、人による、人のための歴史が、この時から再び始まったのだ。



============================



これにて、終幕。
『蜘蛛の巣から逃れる為に』に、最後までお付き合いいただきありがとうございました。
それでは、あとがきと、登場人物のその後について(エピローグ的な何か)は次の記事で。

サイトはどうなったのかって? さー、どーなったんでしょうねー?(すっとぼけ)


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 歴史書曰く。

『ブリミル歴6795年、魔王討伐。
 邪神戦役より五百年あまり、世界に再び危機が迫る。
 邪神復活を目論む者が現れたのだ。これを魔王と呼称する。
 当初魔王は、「邪神復活」というその真の目的を隠して「聖女ルイズの再臨」を掲げて活動していた。
 だがそれは対邪神組織によって見ぬかれ、邪神の復活は未然に防がれることとなる。
 対邪神組織は、将来の危機のために凍結封印されていた虚無の担い手である聖女ティファニアを覚醒させ、その力で魔王を討ち取った。
 ドリームランドからやって来たというその魔王の名は、ヒリガル・サイトーンだと伝えられるが、おそらくは偽名であろう。』

 ――果たしてこれは真実なりや?


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どーなったんでしょーねー、サイト君。

2013.05.04 初投稿



[20306]  あとがきと、登場人物のその後など
Name: へびさんマン◆29ccac37 ID:a6a7b38f
Date: 2013/05/04 16:38
あとがきと、登場人物たちのその後について、など

■あとがき

 まずは皆様、ここまで読んでいただき、まことにありがとうございました。
 皆様の感想に支えられて、ここまで描き上げることが出来ました。ほんとうに本当に有難うございました。
 第二部のクライマックスあたりは幾分駆け足になったかなと反省しつつ、しかし進行をゆっくりにして書くと倍の分量じゃ足りない気もしたので(書き終えるまで何年かかるやら)、まあ今の形が良かったのかなと考えています。

 ラストについてですが、「外伝11.六千年前の真実」でリーヴスラシルの能力を考えた時点から、この終わり方の構想はありました。(結構展開予想が当たった方も多かったのでは)
 バッドエンドチックな終わりですが、後悔はあまり無かったり。……そもそもクトゥルフ神話TRPGクロスという時点で(ry。

 いや、個人的には概ねハッピーエンドだと思ってるんですけどね?
 だって、世界が滅んでないじゃないですか。それだけでかなりハッピーエンドですよ!
 あと、ウード君(第一部主人公)とルイズちゃん(第二部主人公)は、両方共に本願を成就させてますからね。ウード君はほら、全知全能の一端に触れて混沌に取り込まれたり、別の意識体も蜘蛛神様の下で探求に勤しんでたりして幸せそうですし。ルイズも邪神を祓ってハルケギニアの運命を人間たちの手に取り戻すという目的を果たしています。この点でもハッピーエンドです。
 え? サイト君が不憫?
 ですよね。まあ、ですので概ね(・・)ハッピーエンド、ということで。

 終わらせ方の候補としては、

  ルイズ&ニャル様を生贄に『生命』発動
 →歴史をウード君を除いて再構成
 →ファーストキスから始まる~♪(原作の正史へ繋がる、ただしサイトは記憶引き継ぎ)

 という案もあったのですが、止めにしました。

 まあ、あとがきはこの辺にしといて、皆さんが気になるであろう登場人物のその後などについて、触れていきます。
 箇条書きで申し訳ないですが、下記を御覧ください。実質的にエピローグみたいなもんですね。
 (漏れがあったり、「この人どうなった?」ってのがあれば、感想欄でご指摘いただければ書き加える、かもしれません)


  ◆◇◆


■その後の世界情勢

◆トリステイン王国
 アンリエッタが君主として君臨。
 ゲルマニア地域と旧トリステイン地域、さらに旧クルデンホルフ大公国を領土とする。
 ナイアルラァトホテプが暴れた傷痕はまあ八割くらいはルイズの『生命』の魔法で癒えているが、それでも被害は甚大。
 文化が大きく異なる地域の統合と復興に苦労してくこととなる。
 なお、墜落したアルビオンとは同君連合を組んだ。

◆クルデンホルフ大公国
 ナイアルラァトホテプは去って、千年教師長のウードも表向きは居なくなったので、なんやかんやあってトリステインに併合された。
 でも残されたゴブリンたちを制御できるのだろうか?
 文化が違いすぎるので、当分はトリステイン領クルデンホルフ自治区、という扱いにせざるを得ない。

◆アルビオン王国
 トリステインの支援のもと、墜落したアルビオン大陸を復興していく。国王はウェールズ・テューダー。
 邪神戦役の影響によって、否応なくハルケギニアでも有数の民族混在地帯となっていく。

◆ガリア王国
 引き続きジョゼフ王の治世。他国に比べると被害が少なかったが、そこにつけ込んで外征したりする気はジョゼフにはない。
 大国化したトリステインと切磋琢磨していく。

◆ロマリア連合皇国
 こっちも被害は少ない。ハルケギニアの邪神の脅威が去ったため、ハルケギニア脱出計画『方舟計画』は無期限凍結となった。
 伝説である虚無が実際に降臨して世界を守ったことによって、ブリミル教会はその権威を高めることに成功する。

◆サハラ・東方
 エルフたちの被害も限定的であり、今後は慎重にハルケギニア各国との交流を広めると予想される。東方も同じく。

◆ハルケギニア全体として
 邪神たちの活動は抑制的になった。ルイズの虚無魔法『生命』によって封印された形。活性レベル的には、サイトが過ごしていた現代地球と同じくらいか。ただし異種族については、かなり入り乱れることになる。
 マギ族の系統魔法は『生命』のお陰で全般的に強化されている。またトリステインに併合されたシャンリットからの技術流出によって、技術レベルが大幅に引き上げられるのが予想される。しばらくは新技術などによる社会的混乱は避けられないだろう。
 虚無魔法『生命』によって作られた『世界の防壁』は正常に起動しているため、ある日突然他の平行世界とぶつかって消滅したりすることは、恐らく無いだろう。ただし痴愚神の顕生意識が覚醒した時に、他の平行世界と同じく夢と消えるか、それとも滅びを免れるかどうかは、神のみぞ知る。



■登場人物たちのその後(順番は適当)

◆アンリエッタ
 女王として長く君臨。水魔法で寿命を伸ばしたので百年近く国を治める。退位後も百年くらい生きた。
 双子の王冠たるトリステインを取り戻した女王として信仰されるレベルで民衆に慕われている。

◆ヴァリエール公爵家
 ルイズが消えたことで意気消沈するも、激変する時代は待ってはくれず。
 次女カトレアを中心に時代の波に乗り、聖女ルイズの家門として存在感を示す。長女が結婚できたかは、不明。

◆ウェールズ
 アルビオンを復興させた偉大な黒太子。アンリエッタほどは長生きしなかった。

◆ジョゼフ
 家族を大事にしつつ天寿を全う。シェフィールドとの間に何人か子供を残すが、次の王にはイザベラを指名して早々に隠居。

◆イザベラ
 次期ガリア王として、伸張するトリステインに負けない発展をガリアにもたらす。ジョゼフによって王に指名されたのは、その聡明な頭脳ゆえ。

◆シェフィールド
 ジョゼフを陰日向に支える良妻賢母。幸せに暮らしましたとさ。

◆ジョゼット(タバサ)
 描写はなかったが邪神戦役において、ガリア内で戦闘に従事し、国を守っていた。オルレアン公爵家を復興し、オルレアン公爵としてイザベラの右腕となり、彼女をよく支えた。

◆シャルロット=カミーユ
 潜在的な虚無の担い手、ジョゼットの双子の姉(?)、両性具有に改造済み。ロマリアの『方舟計画』凍結に伴い、きたるべき日が来るまで凍結封印処置。眠りにつく。

◆ティファニア
 潜在的な虚無の担い手。ロマリアの『方舟計画』凍結に伴い、凍結封印処置。眠りにつく。シャルロット=カミーユのフィアンセ。

◆チャールズ・スチュアート&エルフのシャジャル
 アルビオンのスチュアート朝の亡命王族。国際的な火種になるので、娘のティファニアと娘婿のシャルロット=カミーユともどもまとめて凍結封印される。

◆ロマリア教皇ヴィットーリオ
 シャンリットから流出した技術で自国を富ませつつ、ルイズを聖女に祭り上げたり色々と相変わらず暗躍している。邪神の眷属について目を光らせる国際組織の設立を主導した。

◆ジュリオ・チェザーレ
 ヴィンダールヴ。国際的対邪神組織の幹部として、邪神の眷属の復活を防ぐ戦いに精を出す。ティファニアの封印に反対するマチルダをコマして説得した。

◆マチルダ・オブ・サウスゴータ
 邪神戦役後、ロマリア預りとなり、後にジュリオと結ばれる。身体は半ば人外化していて、それはルイズの『生命』の奇跡でも完全には治らなかった。

◆メカ・マリアンヌ
 邪神戦役終盤、アンリエッタによってとどめを刺される。

◆クロムウェル
 ナイアルラァトホテプの消滅とともに、完全に死亡。

◆オールド・オスマン
 しぶとく生き延びる。アンリエッタによってクルデンホルフ自治区の長にされ、シャンリットに眠る種々の問題を延々と解決させられるハメになる。

◆ジャン=ジャック・ド・ワルド
 なんだかんだあってアニエスと結婚し、ワルド領を大過なく治める。

◆アニエス
 なんやかんやあってワルド夫人となる。たぶんお互いウェンディゴで相性が良かったせい。

◆ギーシュ&モンモランシー
 結婚してモンモランシ伯爵家を継ぐ。

◆コルベール&キュルケ
 描写はなかったものの実は邪神戦役のトリステイン部隊の一つに配属されていた。なんとか生き延び、戦後幸せに暮らす。コルベールはシャンリットの技術をよく学び、それによってキュルケの実家のツェルプストー家に多くの富をもたらした。

◆レイナールやマリコルヌなど、その他の水精霊騎士隊の面々
 近衛として立派に勤めあげる。





◆ウード・ド・シャンリット
 公式には死亡したものとされる。ただ、蜘蛛神アトラク=ナクアの下で仕えるウードを第一世代、チクタクマンとして混沌に吸収されたウードを第二世代とすると、ハルケギニア星に残された<黒糸>にはウード第三世代の意識が宿っているものと予想される。

◆ゴブリンメイジたち
 宇宙規模で知的好奇心を満たすために活動中なのは依然として変わらず。

◆ナイアルラァトホテプ
 ルイズに融合されて『リーヴスラシル』の支配下に置かれ、虚無魔法『生命』で諸共に生贄にされてしまい、ハルケギニアを蜘蛛神のアザトース意識統合復活計画から守るための防壁の礎となった。
 ……とはいえ、おそらく生贄にされたのは時空に遍在する意識体の一つなので、本体は今も元気に活動中だと思われ。自由人にして享楽家。

◆アトラク=ナクア
 ナイアルラァトホテプからは『ストーカのヤンデレ』と評された神。あらゆる平行世界を融合させて、愛するアザトースの意識を一つに束ねて目覚めさせようとしているらしい。その願いが叶う日も近い?
 ※なおこの辺りは当SS独自の設定です。



◆ベアトリス・フォン・カンプリテ・クルデンホルフ
 公式には行方不明とされる。数百年後、魔王に付き従う魔将の一人として『蜘蛛姫ベアトリス』の名前が見られるが……。

◆シエスタ
 公式には行方不明とされる。数百年後、魔王に付き従う魔将の一人として『超鋼の繰手シエスタ』の名前が見られるが……。

◆平賀才人
 公式にはルイズとともに死亡したものとされる。邪神戦役における彼の活躍は、ヒリガル・サイトーンの名で史書に記録され、また数多の『イーヴァルディの勇者』の物語の一つとして人口に膾炙する。
 一方で数百年後、彼は魔王ヒリガル・サイトーンとして歴史に再び登場する。
 邪神戦役からそれまでの期間、彼はルイズの遺産である【夢のクリスタライザー】を用い、夢の国で武者修行しつつ、ルイズを呼び戻す方法を探していた。
 だが幻夢郷ではルイズを降臨させる方法は見つからず、ベアトリスとシエスタ、エキドナを従えて、ルイズを再び降臨させるためのにハルケギニアに戻ってくる(ちなみに最終決戦時の逆召喚によって降臨させることは不可能である。何故なら世界に解けたルイズは、世界そのものと一体化して常にサイトの傍らにいるのだから。既に隣に居るものを召喚することは出来ない)。
 ただし、ルイズを復活させる=融合していたチクタクマンも復活する、なので、国際的対邪神組織と抗争に陥り、結果、魔王として認定される。
 そして最終的にサイトらは、対邪神組織によって凍結封印を解かれたティファニアらによって倒されてしまう。
 討伐された彼らの死体は残らず、光の粒子となって世界に解けて消えたという。

 ――「ルイズ、ああ、ようやく会えた……」



◆ルイズ・フランソワーズ・ル・ブラン・ド・ラ・ヴァリエール
 平行世界との衝突によるハルケギニアの消滅を避けるため、自らと混沌を生贄に世界を守る防壁を築く。
 邪神戦役における功績は正当に評価され、聖人として列せられたほか、その名声はブリミルに匹敵するとも云われるまで高まった。
 概念と化した彼女は、いつまでもハルケギニアを見守っている。

 ――「久しぶりね、サイト。私の愛しい人」


2013.05.04 初投稿


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