情報とは政治、経済、軍事などの全ての分野において重要である。
国家興亡の鍵を握る情報の扱いについて、各国に専門の特務機関が存在するのはハルケギニアでは公然の秘密である。
ハルケギニアにおける諜報機関としては、大国ガリアの存在しない筈の北花壇の名を冠する騎士団“北花壇騎士団”や、ブリミル教の寺院を隠れ蓑にして各国に浸透している“ロマリアの密偵”などが主なものとして挙げられる。
私立ミスカトニック学院を中心とした学術都市シャンリットにも、“蜘蛛の糸”と呼ばれる特務機関が存在すると言われている。
ミスカトニック学院が開設されてから既に数百年。
学術都市の帰属国家が変遷していっても、諜報機関“蜘蛛の糸”は、学院設立当初からずっと変わらずにハルケギニア各地の情報を収集し、シャンリットの地の先進的な技術が無闇に外に出ないように目を光らせているのだという。
◆
“「将軍。君の縄張りでは何か怪しい動きがあったかね?」「みゃお、みゃあお」「にゃああん」”
“「いえ、ありません、長老。ガリアの手の者も処分できましたし、今のところは大過なく治められているように思います」「にゃうにゃう」「まーお」”
“「それは重畳。引き続き頼むぞ、将軍。“蜘蛛の糸”の名の下に全ての情報を集めなくてはならん。面倒だが、ここの教師長には若干借りがあるからな」「なーご」「うにゃあ」”
“「心得ております、長老。こちらの土地の新人たちの教育も順調ですし、近いうちに借りは返せるでしょう」「にゃあああ」「みゃおお」”
これは日々の彼らの活動の一端を、ある雑誌記者の男が運良く記録したという極秘の会話情報である。
記者は音を記録する魔道具をある路地裏に仕掛けて、“蜘蛛の糸”の構成員と思われる者たちの会話を収めるのに成功していた。
“将軍”や“長老”と呼び合っているのはコードネームのようなものだろうと推測される。
“借り”という言葉から推察するに、彼らは特務機関“蜘蛛の糸”の中でも、外様の雇われ者たちなのかも知れない。
教師長への借りということから、あの千年教師長ウード・ド・シャンリット――確かウードⅧ世だかウードⅨ世、あるいは不確かな噂によると教師長は学院設立者である僭称教皇ウードⅠ世・ド・シャンリット以来同一人物が務めているのだとか――が関係しているのだろうことが予想される。
猫の鳴き声がやたらに五月蝿いのは、この“蜘蛛の糸”構成員が密会をしていた場所が定食屋が軒を連ねる路地裏の一角であったためである。
猫たちは残飯やそれを目当てに集まってくる鼠をその鋭い牙と爪で捕らえて自らの糧にしているのだ。
あるいは鼠よりもずっと大きな獲物も捕まえているかも知れない。
特務機関“蜘蛛の糸”の構成員が何故このような猫の多い場所を選んで密会に使っているのかは不明である。
というより、これを録音した記者というのも、特務機関に関するスクープを狙ったわけではなくて、猫専門誌『週刊にゃんにゃん倶楽部』の特集記事『これが噂の猫集会! 頑張って猫語を解読しよう!』という企画のために録音魔道具を路地裏に仕掛けていたのだ。
思いがけずスクープを得た彼だが、これは彼にとって幸運ではなく、寧ろ不運の類であった。
このままでは元々の企画である特集記事『これが噂の猫集会! 頑張って猫語を解読しよう!』には使えない。
かと言ってハルケギニアのどの諜報機関よりも優秀だと噂される彼ら“蜘蛛の糸”の情報をほんの少しでも流出させて無事で居られるとは思えない。
“蜘蛛の糸”関連の情報なんて、危険すぎて上司に相談することも出来ないだろう。
記事の締切りまであと三日。
猫専門誌『週刊にゃんにゃん倶楽部』の出版社のデスクの一角で、猫大好きの記者――名前をロンドルフ・カルティールと言う――はすっかり困ってしまっていた。
「はぁ、どうしたものかな……。もう締切りまで余り猶予が無いというのに」
ロンドルフのデスクの上は猫グッズで溢れかえっている。
文鎮は丸まったブチ猫の形をしているし、透明のデスクマットの下にはシートに印刷された子猫たちの集合写真が敷かれている。
机の傍らに置いてある彼の通勤バッグにも、福を招くという立ち上がって手招きする猫の形の飾りが付けられている。
当然、ロンドルフの持つ、アーカムの全住人に配布されるIDカード型マジックアイテムの表面にも、猫を意匠化したキャラクターが描かれている。
そこに描かれたタレ目の金色の縞模様の猫のキャラクターは同僚の女性編集者にも好評である。
そのキャラクターを描いたロンドルフ自身も会心の出来だと思っている。……実物の猫には遠く及ばないものの。
悩むロンドルフの足元に柔らかくまとわりついて来るものが居た。
「なーご、まお、あお、にゃお」
それは猫専門誌『週刊にゃんにゃん倶楽部』編集部で飼われている猫の内の一匹である。
タレ目がちの目をした、金色に輝く麦畑のような毛並みが目を引く美しい猫だ。
この凛々しく非常に気品のある金色猫は、特にロンドルフに懐いている。ロンドルフのIDカード型マジックアイテムに描かれているキャラクターも、この金色猫がモデルである。
「うん? 慰めてくれてるのかい、ウル」
「なーぁ」
ウルと呼ばれて、金色縞の美猫は軽く返事をする。
彼女は、とん、といかにも軽い調子で毛足の短い絨毯が敷かれた床を蹴り、ロンドルフの膝の上へと移動する。
どうやら彼女はロンドルフを慰めたかった訳ではなく、単にお気に入りの居場所である彼の膝の上へと移動したかっただけのようだ。
気まぐれなウルの行動を見て苦笑の色を滲ませつつも、ロンドルフの顔はだらしなく脂下がる(やにさがる)。
そして早くも膝の上で丸くなってごろごろと喉を鳴らす彼女の金色縞を、毛の流れに沿って撫でる。
肉食動物独特の靭やかな筋肉の感触を楽しみつつ、ウルの耳の後ろや喉の下、頭頂部を撫でてやると、もっとやって、とでも言いたげに彼女は身をくねらせる。
ごろごろ。ぐるぐる。
美猫のウルが喉を鳴らす音がロンドルフの耳に届く。
ウルの長い尻尾を弄んだ時には若干煩げに後ろ足で手を払いのけられたが、そういった反応を一頻り楽しんだ彼は、思考を切り替えて自分の担当記事を如何にするべきかに思考を戻す。
「まあ、取材し直すしか無いんだけどね」
とは言うものの、彼の膝の上を占拠している金色縞の猫姫が退いてくれないことには、彼も席から動けない。
ウルを起こせばいいじゃないかって? まさか、とんでもない。眠っている猫の邪魔をするなんて、それは何よりも重い罪だ。
同僚の女性編集員が、いーなーロンドルフ君ばっかりずるいなー、と言いながら、ウルを独占しているロンドルフを羨ましそうに見ている。
結局、実った麦穂のような美しい毛並みを持つ猫姫――ロンドルフの膝に乗る前に彼女は猫専門誌『週刊にゃんにゃん倶楽部』の編集長から、上等な仔牛肉の餌を与えられて満腹になっていたらしい――が、ロンドルフを解放したのはこの五時間後であった。
◆
蜘蛛の糸の繋がる先は 外伝7.シャンリットの七不思議 その4『特務機関“蜘蛛の糸”』
◆
ロンドルフ・カルティールは予め路地裏に仕掛けて置いた録音魔道具――猫の気配に反応して録音スイッチが入るという優れもの、ロンドルフ制作であり特許申請中――を回収していく。
彼が仕掛けていた録音装置は、先日怪しげな特務機関構成員の会話が収録されたもの一つだけではなかった。
ロンドルフの長年の観察と経験と猫愛によって『ここはきっと猫集会が開かれてるに違いない!』とピンと来た場所に仕掛けていた、その録音装置の内の一つを回収した彼はしかし落胆する。
「はあ、また壊されている……」
彼が物陰から回収した録音装置は、完膚なきまでに破壊されていた。
何か鋭い刃物を叩き付けられたかのようにズタズタにされており、そこから録音記録をサルベージすることは絶望的だろう。
何者かがこの録音装置に気が付き、その何者かに取って好ましくない何らかの発言を削除するために、録音装置を物理的に破壊し尽くしたのだろう。
一縷の望みを懸けて、ロンドルフは再生スイッチを押す。
装置からノイズが溢れ出る。
――ざ、ざざ……、k……壇騎士……が、ざざ、みゃあお……ざ、ざ、ざ……k認……ざ、ざざざ……、なお、なーご、監s……zっこう……ざ、ざ、にゃ――
一部分だけしか聞き取れなかったが、やはり猫たちの声だけではなくて、何者かが話をしている声が聞こえる。
録音魔道具を破壊した何者かは、この会話と思しき部分を盗聴者――この場合はロンドルフ・カルティール――に聞かせたくなかったのだろう。
ロンドルフはいけないと思いつつも、その録音部分を繰り返し聴いて、会話部分を聴き取ろうとする。
彼は好奇心という面でも猫に似ていた。
耳を欹て(そばだて)て、判然としない部分を繰り返して確認しようとする。
「“k……だんきし”。花壇騎士、か? いや言葉の間隔的には、もう一つ前に、何か。北花壇騎士? もしこれが噂のみで語られる諜報機関“蜘蛛の糸”の構成員の会話だとしたら、諜報機関繋がりで北花壇騎士、なのか? いや、まさか。でも前のテープにも確か“ガリアの手の者は処分した”とか」
ぶつぶつと薄暗い路地裏で壊れた録音機に残された音声を繰り返し聴きながら、ロンドルフは立ち尽くしている。
じっとしている彼の足元に、多くの猫たちが集まってくる。
ロンドルフ自身が猫に好かれるフェロモンのようなものを出しているのかも知れないし、あるいは彼の着衣に付着した金色の美猫ウルの匂いに惹かれて猫たちが集まっているのかも知れなかった。
猫たちが彼の下に次々と集まっていく。
もふもふ、もふもふ、もふもふ。
もふもふもふもふもふもふもふもふもふもふもふもふ……。
猫に包まれたロンドルフの精神はいつもの限界以上に研ぎ澄まされ、壊れた録音記録から意味のある情報を掬い上げていく。
何度も繰り返し聴いているうちに、彼は幾つかのそれらしい単語を聞き取ることに成功する。
「“北花壇騎士”、“確認”、“監視”、“続行”? 聞き取れるのはそれくらいか? ……『北花壇騎士が確認された。監視を続行する』?」
その時、ざ、と録音装置のノイズではない音――靴音――が聞こえた。
「へえ、詳しく聞かせてもらえないかい?」
ロンドルフの足元に集まっていた十数匹の猫たちが、一斉に声がした路地の入口の方を見遣る。
路地の入口には古式ゆかしくマントを羽織った大柄な男が立っていた。
猫たちは、飛び退るでもなく、ロンドルフを守るように立ち位置を変えると、毛を逆立てて威嚇する。
「おあああああ」「なぁぁーー」「まああああああ」「ふぅううーーっ」
白猫、黒猫、キジ猫、ブチ猫……。
集まった猫たちは、まるで生まれる前に死んだ水子の泣き声のような声で闖入者を威嚇する。
猫を見て、路地に立った闖入者の男は顔を顰める。
「また猫か。この街区は猫が多いな。非常に不快だ。自己免疫疾患、アレルギーと言うのだったか。全く、面倒なものだ。そうは思わないか?」
けほけほと軽く咳をしながらマントの男は、自分の口や鼻をマントで覆う。
見ればマント男は目も充血し、若干離れた位置に居るロンドルフからも分かる程に明瞭に鼻を啜っている。
きっと酷い猫アレルギーなのだろう。
ロンドルフはマント男に若干同情する。
もし自分が猫アレルギーだったならと考えただけで怖気が走る。
ああ、猫の居ない生活だなんて絶対に耐えられない!
「ああ、それで。ずびっ。何の話だったか。ぐすっ。はあ。ああ、そうだ。北花壇騎士がどうとか言っていたな。詳しく聞かせてもらいたいのだが」
そう言ってマント男はロンドルフに近づこうとするが、大勢の猫たちがまるで結界のようにロンドルフを守っているので、猫アレルギーと思しきマント男は近づけないようであった。
猫たちがマントの男を塞き止めている間に、ロンドルフは路地の反対側へと逃げ出す。
――猫ちゃんたちありがとう! 僕が逃げたらすぐに君たちも逃げるんだ!
「あ、おい待て!」
「ふにゃああああ!!」
「うわ、おい、こっち来るな! ぐす。やめて来ないで」
じりじりと包囲網を狭める猫たちに気圧されて、マントの男は下がる。
「なぁぉおぉぁああああああ!!」
「ぎゃああああ!?」
路地裏に猫たちの声と男の悲鳴が反響した。
◆
ロンドルフは困っていた。
締切りまでもう全く時間がない。
何度か猫集会が行われてそうなところに行ったが、その度に、先日遭遇した男が待ち構えていたのだ。
猫アレルギーなら猫のいる場所には行かなければいいものを。
だがロンドルフはどうやらあの猫アレルギーの大男に完全に目を付けられてしまったらしい。
あの大男は恐らく“蜘蛛の糸”の構成員を追っているのだろうが、それでロンドルフを追いかけるのはお門違いも良いところだ。
とりあえず編集長に特務機関“蜘蛛の糸”の事は伏せて、変な男に取材を邪魔されて録音機も破壊されてしまっていることを相談した。
録音機破壊犯と猫アレルギーのマント男は別だろうが、面倒臭いので混同して相談している。
もしも同一犯なら、録音記録は破壊されるのではなくて、大男が持ち去っているはずだ。
「編集長」
「なんだにゃ? ロンドルフ君」
「あの、僕の企画なんですけれども、変な男に目を付けられてしまってですね……」
何処と無く福々しい猫を思わせる顔つきの編集長は、眉根を寄せて困った顔で頷いた。
「ロンドルフ君、それならば代わりの企画は用意しておくにゃ。それとその怪しい猫アレルギーの男についてだが、幾つか伝手を使って調べさせてみるにゃ」
「ありがとうございます、編集長」
「何、気に病むことはないにゃ。私も丁度温めていた企画があったから良かったにゃ。猫集会の企画も引き続きよろしくにゃ」
特徴的な語尾の編集長(キャラクター作りの一環だと言うが、どこまで本気か不明)のデスクを後にして、ロンドルフは自分の机に戻る。
彼の机の上には壊れた録音魔道具の残骸が広げられている。
これから録音魔道具の修理を行い、出来る限りの記録のサルベージし、また完全に壊れた分を補充するために新しい録音魔道具の作成を行わなくてはならない。
ロンドルフは先ずは机の上に広げられた残骸たちの中から、記録媒体部分を『念力』の魔法で取り出す。
損傷の激しい物も、『錬金』の魔法で繋げ合わせて、どうにか復元できないかと試みる。
十数個の記録媒体部分を復元し、それを再生用のマジックアイテムに接続する。
ノイズ混じりの音が流れ始めるが、以前と異なり何か意味ある単語を拾い上げることは出来なかった。
猫分が足りないせいか、いまいち集中力が高まらないようだ。
ロンドルフは諦めて、新しく録音用の魔道具を作ることにする。
用意するのは1リーブルほどの鉄の塊。
学術都市の様々な商店で『錬金』材料用に売られているものだ。
ロンドルフは自分のIDカード型マジックアイテムを鉄塊に翳して、魔法を行使する。
「じゃあ、仮想記録領域から予め作っておいた設計図をダウンロードして……。『錬金』!」
鉄塊は徐々に姿を変えて、五つほどの塊に分かれ、ロンドルフが設計しておいた四角い形の録音魔道具へと姿を変える。
「うーむ、作る手間は全然掛からないんだけど……。内部部品に金や銀を少し元素変換して使ってるから、今月も魔法使用料金が嵩んで結構生活費がピンチになるなあ……。経費に出来ると良いけどどのみち家計のキャッシュ・フローが悪化するなあ」
この学術都市アーカムに於いて、全住民は魔法使用免許さえ持っていれば、メイジの才能の有無に関わらず都市全体を覆う巨大ネットワーク状のマジックアイテムの補助によって魔法を使うことが出来る。
とはいえ、何の代価も無しに使えるわけではない。
電気や水道と同じように、魔法の使用においても使用料金が発生し、それに応じて口座からお金が引き落とされるのだ。
ちなみにIDカード型マジックアイテムは、IDカード兼魔法使用端末であると同時に銀行通帳でもある。
市民たちにはIDカード型マジックアイテムの配布――つまりは住民登録――と同時に、月々のベーシックインカムを振り込むための銀行口座が学術都市から与えられている。
そのベーシックインカム振込口座から、使用した魔法に応じて魔法使用料金が毎月引き落とされるのだ。
ロンドルフが口座の残高を心配しているのは、鉄から金や銀を『錬金』するのはちょっとばかりお高いからだった。
錬金素材を扱う商店では、ロンドルフが用いたような鉄塊や他にも純水などが売られている。
貴重品(金銀)や危険物(放射性物質やニトロ系化合物)の『錬金』は、それに必要な使用料金も高額であるし、また免許制度によって一度に作成できる量などが厳しく統制されている。
それに加えて全住民の魔法使用履歴は常に記録が取られているため、違法なことは早々出来ないようになっている。
常に監視されているというわけではないが、ログを辿ることは簡単なようになっているのだ。
ただし、IDカード型マジックアイテムを介さない“天然モノ”のメイジ――ハルケギニアの他地域における所謂“メイジ”――による魔法は使用記録が残らない。
そのため彼らによる違法行為は水面下では多いのではないかと言われている。
学術都市アーカムは学ぶ意志がある者には様々なサポートを行い、求める知識を惜しみなく開示する。
それが敵国人であろうとも、テロリストであろうともだ。
だがそういった危険な知識を求めるものは、いくら巧妙に痕跡を隠しても、密かにこの都市の特務機関によってマークされることになる。
特務機関“蜘蛛の糸”は如何なる方法によってか、学術都市の全住民の生活を監視しているとも噂されている。
秘密裡にテロを企画していたと思われる者たちがいつの間にかどこかに居なくなってしまう――おそらく“蜘蛛の糸”に消されたのだ――というのはこのシャンリットではポピュラーな都市伝説である。
「よし、出来上がり! っと?」
「まーお」
『錬金』によって特製の録音魔道具を鉄塊から錬り出し終えたロンドルフの膝の上に、金色縞の美猫ウルが飛び乗る。
彼女はロンドルフの顔を見上げてフンと鼻を鳴らすと、膝の上でぐるりと回ってみせる。
その際に彼女の長い尻尾がロンドルフの鼻を擦ったのは、ひょっとすると彼女なりの労いの気持ちなのかも知れない。
「ふふふ、『お勤めご苦労』って意味かな、お姫様」
「なお」
鷹揚に頷いたような雰囲気で彼女はロンドルフの膝を前脚でてしてしと叩く。
どうやら寝やすいように膝を整えろということらしい。
「喜んで。はいどうぞ」
「うるるる……」
ロンドルフの膝の上で丸くなるウル。
ウルを片手で撫でつつ仕事を続けるロンドルフ。
今日も彼の帰りは遅くなりそうだったが、彼の顔は幸せそうなのでまあ構わないのだろう。
◆
その日の帰り道。
結局ロンドルフが職場を出たのはもう日が変わろうかという時間であった。
ちなみに金色縞の雌猫ウルは、その時間までロンドルフの膝の上で眠っていたが、欠伸をしながらく~っと伸びをして彼のことを振り向きもせずにさっさとどこかに出ていってしまった。
そんな気まぐれクールな所がまた可愛いのだ。
脳内に保存したウルの艶姿をスライドショーにして再生しながらロンドルフは家路を急ぐ。
上級者になると彼が魔道具を鉄塊から『錬金』したように、脳内妄想図から実物を錬り出すことも出来るそうだが、まだ彼はそこまでの境地には達していない。
精精脳内フォルダに格納した映像を写真として投影することくらいしか出来ないし、投影したそれも大分脳内のイメージからは歪んでしまう。
今日もウルちゃんは可愛かったなあ~と考えながら夜道を歩くロンドルフ。
その彼の前に立ちはだかる怪しい影。
ここ数日彼に付きまとっていた、時代錯誤にマントを纏っている大男だ。
「……今度こそは逃さないぞ」
「……うん? あ、どうも」
「『あ、どうも』じゃ無い。調べさせてもらったぞ、ロンドルフ・カルティール。猫専門誌の記者。今日は周りに猫も居ない。職場も自宅も場所を押さえさせてもらった。じっくりと聞かせてもらおう、北花壇騎士団がどうこうと言っていたのはどういう事かだったのか、な」
ジリジリとにじり寄ってくる大男。
確かに今日は、いつも大男とロンドルフを隔てていた猫の結界(バリケード)は存在しない。
う、とロンドルフは気圧されて後退る。彼も猫が居なければ真の力(並外れた集中力)を発揮できないのだ。
「は、話を聞かせてもらうと言ってもですね。僕はしがない猫雑誌の記者でしか無くてですね? 貴方が求めるような情報は何も……」
「何それはお前の記憶に直接聞けば分かる話だ。『読心』の魔法は知っているだろう?」
さあっとロンドルフの顔が青くなる。
『読心』とは記憶や考えを読む水魔法だ。
それを使われた者は、廃人になる恐れもあるという魔法だ。
学術都市を統括するインテリジェンスアイテムから提供される、IDカード型マジックアイテムの端末から操作選択して使える『読心』の魔法ならば、使用されて記憶を読み取られた者は、精神に何の影響も受けないだろう。
IDカード型マジックアイテムを通じて提供される魔法は、効果範囲などが限定され、安全なように予め制御されているのだ。
だが、高度な技術を必要とする精神系魔法『読心』を、免許がある者ならば誰でも安全に使えるようにと規格化するためには、学術都市に於いてどれだけの人体実験の犠牲者が必要だったのかと考えると、薄ら寒くなるだろう。
この目の前の如何にもメイジ然とした男が言う『読心』とは、しかし、高度に規格化された学術都市の標準魔法では無いだろう。
ロンドルフの目の前のマントの大男は、明らかに学術都市の外からやってきたメイジであり、彼が使う魔法はこの学術都市のルールに縛られない無法の魔法だ。
『読心』を施されたとして、ロンドルフ自身が無事で居られる保証は何処にもない。
じりじりとにじり寄ってくる大男に対して、ロンドルフは腰が抜けてしまって動けない。
恐らくはガリア北花壇騎士団の所属と思われる大男の本気の殺気を叩き付けられて、ロンドルフは縫い留められたかのようにその場を離れられない。
あるいはそういった恐慌を来すような魔法が既にこの場に充満しているのかも知れなかった。
「さあ、じっくりと聞かせてもらおうか。北花壇騎士団について。前任者が消息不明になった件について」
「な、な、な、なにも、し、しし、しらない……」
「だからそれは直接記憶を覗けば済む話だ。そろそろ眠れ。『スリープ……」
しかし、今にも魔法によって眠らされて連れ去られるという所で、大ピンチに陥ったロンドルフを助ける者が居た!
警官?
いや違う。
この街の警官は夜中に見回りに出かけるほどに熱心ではない。
学術都市の管理インテリジェンスアイテムが察知して瞬時に警官ゴーレムを創りだして送ってきた?
違う。
都市全域管理インテリジェンスアイテムは、あらゆる出来事を記録はしているがいちいち路地裏全てをリアルタイムで監視はしていない。
では何か。
月夜に翻るあの影は何者だ!?
「にゃああああああ!!」
「っ!?」
猫だ!
猫の大軍だ!
三角の愛らしい耳、鋭い瞳の光、靭やかな肉体、獲物を引き裂く鋭い爪と牙!
空中に転移するようにして次々と現れた猫たちは、その身を翻してマントの大男を襲う。
大男は防御用の水の膜を纏いながらその空襲を避けて、後退する。
「猫!? 何で猫が!?」
混乱しつつも、大男は自分を覆う水の膜から氷柱を何本も創り出して発射し、路地を囲む屋根から襲ってくる猫たちを迎撃しようとする。
しかし猫たちは身体を捻り、空中で姿勢を制御するといとも優美にその冷たい死神の槍から逃れた。
数匹はあわや氷柱に貫かれる、という所で、宙を蹴るような動作をしたかと思えば、忽然と空中から消失してしまった。
「ふむ、どうやら新兵たちも空間跳躍をモノに出来たようだな」
「うわ!?」
氷の弾幕を撒き散らすメイジと、それをかわして攻撃を掛けようとする数匹の猫たちの戦闘を呆然と見ていたロンドルフに話し掛ける者が居た。
落ち着いた歴戦の勇士を思わせるような声を発していたのは、ロンドルフの足元に何時の間にか凛として座っていた猫であった。
彼はその声に似つかわしく、身体には無数の古傷が刻まれ、尾は何かの邪悪な化物にかじり取られたかのように短くなっており、耳にも傷があって、それが彼により一層の威厳を与えていた。
唖然とするロンドルフに構わずに、古強者然とした猫は話し続ける。
もしもロンドルフが非常に高い集中力を発揮していたならば、この猫の渋い声が、初めに猫集会で録音されていた“将軍”と呼ばれる“蜘蛛の糸”の構成員と思われる男の声と同じものだと気が付いただろう。
「ロンドルフ君。君にはいつも眷属が世話になっている。特にあの美しいウル姫からは君を守るようにお願いされたのでね」
「ウル……ちゃん……が?」
「“お気に入りの寝床だから守ってあげて、将軍”だとさ、色男。まああのマントの男については我々の後始末でもあるのだがね。北花壇騎士団の前任者を始末したのは儂らであるし」
つい、と猫将軍は未だに空中戦を続ける猫たちと大男の方を見る。
「新兵たちも自在に空間跳躍法を身に付けているようだ。儂の雇われ教官のような役目もこれで終了だな。“蜘蛛の糸”からの借りもこれで返せただろうからな」
釣られてロンドルフも猫たちとメイジの大男の戦闘を見る。
猫たちはぴょんぴょんと自在に空間を転移して渡り、防御の水の膜を越えてメイジの死角に飛び込んでは、彼の四肢の腱を狙って切り裂いていく。
見れば、もう既にメイジの男の片腕は血が滴り、全く動かないようであった。
「“借り”とは、一体?」
「ふむ、まあ君になら話しても良かろう。遠い昔に、ここの矮人たち――蜘蛛の眷属――に、儂らとムーンビーストや土星猫たちとの戦争に加勢してもらったことがあったのだよ」
「矮人?」
「うん? 知らないのか? ここの教師長の配下のゴブリン共だ。まあ気にしてはならん。好奇心は猫をも殺す、と昔の格言は言うからな」
見る間にメイジの大男は血濡れになり、遂には、どう、と倒れ伏す。
大男の気管は食い破られており、ひゅーひゅーと音がするだけで魔法の詠唱は出来ないようであった。
彼が卓越したメイジならば油断はできないかも知れないが。
「ふふふ、好奇心は猫をも殺す、か。彼ら北花壇騎士団も過ぎた好奇心が無ければこうやって無残な姿を晒すこともなかったろうに」
猫たちは倒れ伏した大男の服の裾をそれぞれ口に咥えると、タイミングを合わせてどこか彼方へと大男の身体も引き連れて跳躍する。
老いた猫将軍は、新兵たちの空間跳躍が成功したのを見届けると、ロンドルフに一言話しかける。
「ではさらばだ、ロンドルフ君! ウル姫と編集長によろしくな……」
ロンドルフは事態の推移についていけずにポカンと口を開けて、ぴょんと跳ね飛んで空間に溶け込むように消えていく精悍な猫将軍を見送った。
「……夢か?」
頬を抓ってみるが、痛みは現実のものであった。
◆
翌日オフィスに出勤したロンドルフを迎えたのは、誰かの指を得意げに咥えた金色縞の美猫だった。
彼女はその何者かの指をぽとりとロンドルフの前におくと、ちょこんと座ってキラキラと輝く瞳で彼を見上げた。
どうやら彼女は、昨夜の獲物のお裾分けをロンドルフの元に持ってきてくれたようだ。
『褒めて褒めて』と言わんばかりに見上げてくる彼女を見て、ロンドルフはどうしたものかと顔を引き攣らせる。
困った彼が苦笑して編集長を見れば、編集長は福々しい顔をにんまりとした笑みで更に深めていた。
そしてそっと唇に指を当てる。
“蜘蛛の糸”のことや、老猫将軍たちのことは秘密にしろということだろう。
……誰が好き好んでそんな危険な話を広めるものか!
◆
・『特務機関“蜘蛛の糸”』の噂
学術都市の秘密を探る者たちを狩る特務機関があるそうだ。
規模も不明、構成員も不明、何もかも謎に包まれている。
……おや、こんな時間に誰か来たようだ……。
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ロンドルフ・カルティールの特殊技能(ハウスルール):【猫好き(バーストの加護)】
猫が半径5メイル以内に居る場合、あらゆる判定時に【(1d4×周囲の猫の数だけダイスを振る)-1】を出目から減算して成功確率を上げる。周囲に猫が居ない場合は適用できない。
例:特殊技能適用前→【聞き耳】50に対して1d100(100面ダイスを振って50以下の値を出す)のロールを行う。1d100で61の目が出たので61>50で【聞き耳】の判定には失敗。ロンドルフは何の情報も得ることは出来なかった。
特殊技能適用後→周囲に5匹の猫がいる。ロンドルフは猫の数に応じてダイスの出目を減算出来る。【聞き耳】50に対して1d100(100面ダイスを振って【聞き耳】の技能値である50以下の値を出す)のロールを行う。1d100で61の目が出たが【猫好き(バーストの加護)】を適用する。周囲の猫の数に応じて4面ダイスを振る。周囲にいる猫は5匹なので、4面ダイスを5回振る。4面ダイスそれぞれの出目は(1,2,4,3,2)=合計12だった。1d100で出た目61から特殊技能【猫好き(バーストの加護)】を適用して(12-1)を引くと、技能判定の値は61-(12-1)=50となり、その結果、ロンドルフは聞き耳の判定に成功する。彼は壊れた録音記録から幾つかの意味ある単語を拾い上げることに成功する。
ラブクラフト御大は海産物が嫌いで思わず邪神にしてしまうくらいなのですが、その一方で非常に猫が好きな人でもあったそうです。
そしてラブクラフト御大の話では猫が時空間跳躍をやらかして邪神の崇拝者(月棲獣とか)と戦う話があったりします。
つまり何が言いたいかというと、猫かわいいよ猫。
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,rfY'ヽ \ヾ`'''ヽ‐y'⌒ヽ
ゞ r;; ヽ 〉 '、 r ;リハ
ゞ., ゙; ;;: fヘi
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2010.11.21 初投稿
2010.11.23 誤字修正