王都ロンディニウムにあるハヴィランド宮殿の豪奢ではないながらも、所々に匠の意匠が施された勉強机の前に、小さな金髪の子供は座って熱心に本を読んでいた。
彼はこの読書をする時間が大好きで、所謂文武の武を重視する家柄にありながら、こうしてただの脳筋にならずに文すら愛せていた。 勉強机で『イーヴァルディの勇者』を読む子供の名はクライフ·デーンロウといい、大地を離れ空を翔るアルビオン王国に籍を持ったデーンロウ家という特殊な貴族の長男である。
アルビオン王国では新興ながらも、着実に軍における名門となりつつあるデーンロウ家は、奇跡的ともいえる珍しく殆どメイジの血を持たない家系であり、ゲルマニアならまだしも他所の国々ではあり得ない剣のみで成り上がった貴族だった。
デーンロウ家の成り立ちは運によって支えられたもので、8代前の祖先であるノルムは剣に生き酸いも甘いも知った傭兵であり、全国放浪中にアルビオン王国で夜中に大雨の山間で訓練していたところ、幹線道へ向けて土砂崩れが起きたのが見えた。 そこに偶々豪奢な馬車が巻き込まれているのが見え、珍しく仏心がわいたのか遺体の埋葬と、それ以上の金目の物への欲から土砂崩れの現場へと足早に向かって行く。
馬車の外は大惨事だった。 あちこちには土から腕や足だけを突き出した遺体や、岩か木に潰されて血を吐く遺体に埋め尽くされていて、遠巻きには見えなかったが地獄絵図の惨状をていしていた。 だがそんななか、ミンチになって血の泡を噴き出す白馬が繋がれた馬車は全損とはならず、半分程度が衝撃と重みで砕けたようでしかない。
余程馬車の持ち主は平民嫌いの私祖ブリミルに愛されていたのか、もしくは強欲貴族らしく金の力でたいそうなまでの固定化をかけたのか…… まあとにかく、馬車に刻まれた土砂で汚れながらも美しい紋様に見覚えを感じつつ、馬車の中の仏さんから金品――ではなく仏さんの埋葬の為に馬車の扉を開いた。
馬車の中も外に負けない程の華美さを誇っており、安い契約料で命を張ってきた傭兵には触った事が無いほど滑らかでふわふわした手触りのイスがあった。 だが少し残念なのは、土砂崩れを横っ腹に浴びた馬車は横転まであと一息の状態になっており、感動的な座り心地を試す事ができないということと、馬車内も意匠を彩るように血塗れになっているので長居はしたくないということだった。
馬車内には豪奢な装いをした若い男女2人が倒れていて、顔つきが似ているので兄妹かと考え、そこで思考が凍りついた。 汚れていてよく見えなかった竜の紋様、そして見目麗しいこの兄妹…… まさか、まさかとは思うがこれはアルビオン王家の皇太子と皇女?
これは危険だ。 他の貴族なら何か盗ってバレても高跳びすれば逃げおおせるが、王家は国外だろうがヤバい。 ことここに至ってノルムは事の重大さに気付いたが、頭が少しばかり回るので打算も考えていた。 その考えは至極全うなもので、いまここで物を盗んで一時的な金貨を得るよりも、王家の者を救って長い富を得られないだろうか? という考えだった。
そう考えれば後は早く、急いで2人を救いだそうとして――皇女の首が割れた窓ガラスで抉られている事に気付き、頭から血を流しながらもか細い息をする皇太子に手当てを施して救出し、大雨の山中を王城目指して皇太子を背負って駆け抜けた。
道中では野獣や盗賊を斬り殺し、目覚めた皇太子には事の成り行きと皇女の不幸を伝え、急いで王城へ戻るべく皇太子を背負ってまた駆け抜けた。
王城に着いてからというもの、宮仕えの貴族からは無礼討ち寸前まで持ち込まれたが、皇太子の話を国王が聞き皇女の不幸を嘆きながらも皇太子の救出に感謝し、シュバリエを与えて国にではなく王に仕えるように言われ、平民でしかない自分を高く評価してもらったと感動し軍人として宮仕えが始まった。
この時点では宮仕えをする爵位もちの平民でしかないが、ここから3代が懸命に働き王家の信を更に深いものにした結果、とうとうデーンロウ家へ王家より領地が下賜されたのだった。
最初はそもそもアルビオン王国生まれでもない外様の平民に領地などと、圧倒的に反対意見が多かったが、それに負けない程平民の軍人等の支持があり、しかも拝領した領地は貴族の領地を再編したものではなく、王家直属である王領を切り取って与えたので有力貴族ですら口を挟めず、3代目に至って爵位持ちの平民が王家武芸指南役という栄誉とともに、ついには貴族となり領地すら得たのである。
だが、他の貴族にあってデーンロウ家にないものがある。 それは目に見えないものだが、とても重要なファクターをもつ所謂《メイジの血》である。 あくまでデーンロウ家の血筋は平民であり、魔法が使えない下賤な民なのだった。
だからこそ、彼らは画策した。 身の程知らずに痛い目を見せてやろうと。
短期的に見れば、彼らの陰謀は成功した。 陰謀と言っても嫌がらせ程度のもので、魔法を使えないのは純然たる事実にも関わらず、そんな子息を魔法学校に入れるようデーンロウ家へ圧力をかけた。
当然家柄が変わっただけで魔法は使えず、そもそも貴族とはいえ平民の家柄に娘を嫁に出す貴族はおらず、あくまで平民の子でしかない息子は魔法を使えないせいで5代目まで酷い屈辱を味わった。
だが、その陰謀も長期的に見れば大失敗に終わってしまった。 恋は突然であり、美男子で売っていた6代目はなんと魔法学校で女子生徒に恋の告白をされ、はれて両想いになって結ばれたのだ。 女子生徒の親である貴族は憤慨し、娘の翻意を促すも結婚を許さないなら絶縁も辞さないと突き付け、尚も止める両親を振り切り家を捨ててデーンロウ家へ嫁いできたのだった。
娘の両親からデーンロウ家へ抗議文が届いているが、それに対して5代目は家を捨てた平民が我が家に嫁ぐ事へ、今更他家より文句を受ける筋合いはないと一刀両断し、ついに7代目である父上から薄いながらも《メイジの血》が入ったのである。
普通に考えれば壮大な夢物語か、ただの与太話でしかないと思うだろう。 だが、この内容の前半は王室編纂の歴史書にも記されていて、土砂崩れの事故からデーンロウ家の成り上がりまで書かれている。 後半も当主代々の日記にも書かれていて、今となってはサクセスストーリーとして本にもなっていた。
そんな歴史故にデーンロウ家のメイジとしての自覚は乏しく、そもそも運と剣で貴族にまでなったこともあり、昆にもなるスタッフのような大きな杖は使わず、枝のような小さな杖も使わず、平民の武器と言われる剣を杖にしている。 慣れない杖を振り回して威力のない魔法を使うより、細胞レベルで手慣れた剣を振り回した方が効率がいいのだ。
だから、クライフの父である現当主のペイジは祖父と検討した結果、剣と契約する事で不甲斐ない魔法の威力を補っていた。 これならばお家芸である剣術を全面に押し出せ、更に気持程度の魔法の両立ができるようになった。
なので今はクライフも自由時間の間に読書に勤しんでいるが、他の時間は専ら体力を身につけ剣技を習うという、ある意味では大変メイジらしくない訓練をしている。 ペイジは父や祖父の教育もあり、魔法を使うよりも剣に慣れ親しみ息子であるクライフに剣を教えているのだ。
クライフの祖母はそんな剣に生きる祖父に惚れ、父であるペイジと結婚した母は領地が無い落ち目の貴族故に文句をつけられず、結果としてメイジになろうが何だろうが剣を重視しているのだ。 だから、クライフは『イーヴァルディの勇者』を読んで勇者がかっこいいと思い、そんな勇者に自分も成りたいと願っていた。
ここも教育の成果か家柄故か、一般的な貴族の子息ならメイジとしてイーヴァルディの勇者みたいな英雄に成りたいと願うが、クライフはやはり名剣を担って大成したいと願っていて、 まだまだ8歳と少しばかり若い故に悪くはないながらもそこそこの剣しか持っておらず、父や祖父が国王陛下から下賜された名剣を羨むお年頃なのである。
「ここにいたのかクライフ」
「あ、殿下!」
本に集中していたからか、声をかけられてやっとウェールズ殿下が部屋に来ている事に気づき、かなり驚いて立ち上がって姿勢を正してしまう。
王家武芸指南役の栄誉を賜ってからというもの、デーンロウ家の子供は歳が近ければ王家の次の代を担う皇太子と共に剣を習い、両家の信頼を揺るぎないものにすべく育ってきていて、こうしてクライフも王位継承権のあるウェールズ殿下のおぼえがよかった。
「僕としては、クライフが読書好きを知っているから気にせず読んでいて欲しいけど、ウィリアム殿が来るように呼んでいるよ」
「またお祖父様は殿下を小間使いにしたんですか……」
「ははは。 剣を教える先生にとって、王子である前に僕は未熟な生徒でしかないからね」
そう言って爽やかに笑うウェールズ殿下を見ても、クライフには愛想笑いにも満たない引きつった笑みしか返せない。 どこの世の中に、仕える王家の子息――皇太子を伝令として小間使いする人間が居るだろうか?
年老いてなお豪快な性格のお祖父様に嘆息し、それでもウェールズ殿下が態々自分を呼びに来てくれた事を嬉しく思い、クライフに対して年齢が上だからか、少しばかり兄の気がある殿下に深く感謝した。
「では、失礼させて頂きます」
「早く行ってくれよ? 呼び出しが遅いだなんて八つ当たりされた日には、僕の訓練が酷い事になりそうだからね」
うーむ…… お祖父様なら「遅い」と文句を言ってやりかねない。 いやいや、思い出してみれば実際に以前食後直ぐに練兵場へ来いと言われて、配膳の都合で少し遅くなった時は足腰立たなくなるほどにしごかれた記憶がある。
だとすれば、呼び出しに来て下さった殿下の為にも、何より理由はわからないながらも呼び出された自分の為にも、一刻一秒たりとも無駄にはできない!