めのまえのいろは、あか。
見つめたさきはとても赤くて。
振りおろした先も、赤かった
わからない、わからない。
何もわからず振り下ろし、
――――ただ、此処に居てはいけないと、そう思った。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
薄汚れた路地に、雨が降り注いでいた。
その勢いは強く、差した傘に跳ねる音が、正直五月蝿い。
甘いものが食べたくなり、食欲と面倒臭さの葛藤の末だったが…。こんな豪雨の中、わざわざ外出したのは、やはり失敗だったかもしれない。
心中で愚痴り、寝床へと足を進める。
そこで、ふと、視界の隅に映った“何か”に目を止めた。
「―――――」
進行方向、俺の膝の辺りまでの高さしかない、黒い何か。
家に近づく内に、当然、俺はそれに近付いていく。
…黒い。
そう思ったのだが、よく見れば、それは、酷く汚れているせいでそう見えたようだ。
更に近付き、その輪郭を理解する。
「…人か?」
低く、小さい声が漏れた。
豪雨に紛れたその音を、蹲るようにして壁に凭れ掛かったソイツは、しっかりと耳にしたようだ。
「……だれ、」
聞こえる声もまた、五月蝿い雨音に紛れて。
それでも聞こえたのは、自然の起こした、ほんの気紛れだろう。
「―――――」
こちらへ問いかけるような声に、答える義務は無い。
理由も、無い。
…無いのだが。
「迷子か?」
「………」
問いかけに、更に質問で返す。
蹲る小さなソイツは、答えることもなく、俯いたようだった。
「来い」
「…ぇ、」
俺は立ち止まらずに。
ただ、横を通り過ぎる際、雑音に消されぬくらい大きな声で告げる。
そうして、そのままソイツの目の前を横切って、寝床へと向かう。
「ぁ、……ま、って、」
途切れ途切れに後を追いかけて来るその声は、幼い子供のものだった。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
鍋をかき混ぜながら、その眼に映るのは…始まりの日、その情景だ。
視界が開ければ、そこは、外国の風景。
周りには、道を行きかう人の群れ。
その真ん中で、俺は、ただ立ち尽くしていた。
最初の数分は、まともな思考すら働かず、呆けたままにその世界を見つめていた。
次の数秒は、目を見開いて、ただただココは何処なのかと、それだけを探し求めて首を巡らせる。
最後には、頭を抱えながら、「これは夢なんだ」と。
五感を刺激する“現実”に、無様に抵抗していた。
―――――今でも、これが夢だったらと。
そう思わなくもない。
けれど、“此処”は既に“俺の世界”も同然で。
“あの世界”は、もう遠い日の夢のように朧げな―――――
―――キィ…
木材の軋む音に、顔を上げた。
背後を振り向くと、開かれた扉の奥から、サイズの合わない大きなシャツを着た子供が。
「…あれ?」
その姿を見て、思わず声を上げた。
大き目の白いシャツ。それはいい。俺が貸した服だ。
そこから覗く白い足。それも別にいい。シャツが大きすぎて、短パンを隠してしまっているのだろう。
…明るい茶髪。そこも、いいだろう。髪の色なんて、“此処”じゃピンクな奴だって居た。
けど、―――湯上りで上気した桜色の頬。赤い唇。長い睫毛と、大きくて綺麗な青の瞳。
…可愛らしい、顔立ち。
「女…の子、か?」
思わず零れた呟きに、目の前にいる性別不詳のガキんちょが、小さく頷く。
それを認識して、理解して、そうして軽い眩暈を覚えた。
「ありえねぇ…、」
額に手を当て、首を振る。
雨曝しの小さな女の子を家に連れ込み、風呂に入れて、自分の服を着せる。
…変態か、俺は。
嘆息。
女の子に目を戻す。
その顔立ちは、すごく可愛い。
年齢は、ギリギリで二桁といったところだろうか。…実際のところは、よくわからんが。
しかし、その事実に、益々犯罪度が上昇したことを、理解する。
――――年齢が二桁に届こうかという少女を誘拐、しかも今現在、その容姿に僅かなりとも“可愛い”などと思考した。
「…最悪だ。死にてぇ」
頭を抱える俺の呟きに少女が首を傾げたことなんて、正直どうでもいい。
ただ、それをまた“可愛い”と感じた自分の感性に、ひょっとして、俺はそういった方面の、嫌な資質を持っていたのかと。
ただただ、大きなため息をつくだけだ。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
「何してるんですか…?」
細く、耳に心地よい音が届き、集中を解いた。
振り向くと、そこには、相変わらず俺の服を着た少女。
名前は…聞いていない。深く関わると面倒だ。
…が、ともかく、聞かれたことには答える。
「修行だ」
簡素に返したその声は、自分でも少し無愛想かと思う。
低い響きの声は、子供には怖いものかもしれない。過去、これで子供が逃げたことも、一、二度くらいはあった。無駄にリアルな数字は思い出す度に鬱になる。
けれど、少女は、そんな俺のデビルヴォイスに頓着しないようで、
「…修行?」
変わらぬ茫洋とした表情で、短く返すだけだ。
そして、そのまま俺の顔を見つめ続ける。やめろ、照れる。更に言うなら、俺が危ない趣味に目覚めない内に、どこか遠くへ行って欲しい。無理か。俺が拾ってきたんだったよ、この子。
そんなことを考えていたが、少女が去る様子は無く。俺から視線を逸らす気も無さそうだ。
…教えろ、というのか。“修行”という言葉の意味を。
「「念」だ」
再び短く言って、これで終りだと、目を閉じて集中を再開する。
少女がどんな反応をしたかなど、気にしない。
俺は意識を鎮め、ただひたすらにオーラを“練”り上げる。
――――“此処”は、簡単に言えば「HUNTER×HUNTER」の世界だ。
ある日唐突にこの世界の街中で目覚めた俺は、同種の言語と、異種の世界に混乱した。
混乱したままの頭で周囲を巡り、走り回って。
夢だ夢だと言い聞かせた自己欺瞞が通じなくなった頃に、意識が無くなるまで泣き叫んで、――――目が覚めた時にはどうでも良くなった。
常にその場の感情で行動を起こす俺は、泣き疲れて鈍った頭で、そこら中の店の扉を叩き、働かせてくれと縋りついた。
…今になって思い返せば、どうしてそんな行動を取ったのか不思議だ。
それだけ、あの頃の俺は無様だった。少なくとも、思い返す限りは。
定まらない感情の渦。
その、見ることの出来ない流れのままに、とにかく身体だけは動かした。
人のいい店長に雇って貰い、今では俺は、街で噂の“花屋の怪しいお兄さん”だ。
過去を思い返して、自嘲の笑いを浮かべる。
――――そこで、自分の膝に凭れ掛かる重量に、ようやく気付けた。
「―――何やってんだ?」
「……ぅ、ぁ…」
「っ、馬鹿か!」
凭れ掛かっていたのは、少女。
物珍しさか、反応しない俺につまらなく感じたのか、こちらへと近付いてきたのだろう。
―――“「練」を行っている俺”に。
「くっそ、ありえねぇ…!」
悪態を吐きながら、部屋のベッドに少女を寝かせる。
オーラは垂れ流しのまま、体表面のオーラ密度の薄い一般人が――――錬度が低いとはいえ、念能力者である俺の「練」に巻き込まれたのだ。
…下手をすれば、死ぬ。
「―――っち、」
下を打ち、首を振り、呟いて。ベッドで苦しむ少女を見る。
全然苦手だが、目にオーラを集めて「凝」を行い、体内の微細なオーラの流れまでを観察する。
下手糞なため、利き目である左目だけに念を篭めて、“視る”。
そうして、…いや、そうする以前から状況は何となくわかっている。
ただ、そうやって目を逸らそうとしていたのかもしれない。
「有り得ねぇ…っ」
吐き出すように言い捨てる。
眼前の小さな身体。その全身から噴き出す、大量のオーラ。
少女は、俺の「練」に触れた事によって、“精孔”を開かれていた。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
「起きたか、この…クソガキめ」
「……ぁれ、」
外は、もう明るくなっていた。
少女が気になって一睡も出来なかった俺は、小物臭い悪態を吐くのが精一杯だ。
――――少女のオーラは安定している。
怒鳴って、囁いて、最後には懇願してまで言い聞かせたオーラの制御を、この少女はなんとかモノにした。
その出来具合は、…まぁまぁ、だろう。恐らく。
俺の時は、「纏」を成功させて、その後丸二日くらい寝込んでいた気がする。何故かうろ覚えだが。
比較して、翌日にはもう満足に動けている目の前の少女に、少しだけ嫉妬する。
…それは、随分と格好の悪い感情ではあったが。
「飯はキッチンだ。俺は仕事に行く」
「………」
おざなりに告げる俺に、少女は顔だけを向けて、呆としている。
それを気遣う余裕は、俺にはない。
「じゃあな。もし出て行くなら、好きにしろ」
それだけを言って、玄関を出る。
戸締りだけはしっかりと。
もっとも、盗られて困るものなど、あの少女以外に思いつかないのだが。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
店の前に水を撒く。
空から降り注ぐ光は温かく、黒尽くめの格好の俺には、正直辛い。
「あ、黒の兄ちゃんだー!」
「おはよー」
時折掛けられる子供の声に、力無く、手だけを振り返す。
「相変わらず、子供には好かれるなぁ、カミヒトは」
横から掛けられる野太い声。
そちらを見ると、俺の働く花屋の店長が立っていた。筋肉質の体躯は、とても花を売る人間には見えない。
…見た目に関しては、俺も花屋らしくはないが。
「…物珍しいからじゃ、ないですか?」
「かっはっは。それだけで、子供達があんな笑顔を見せるものか」
「………」
俺は黙るしかない。
そもそも手を振り返すところを見られたというだけで、気恥ずかしさに顔が歪む。
「しかし…気にしてんなら、やめればいいんじゃないか? その、黒尽くめ」
言われて、思わず、着ていた服に触れる。
その色は、黒。
「これ、“お守り”なので…」
「ん、そうか。まぁ、ワシの言うことなんざ気にするな」
「いえ、ありがとう…ございます」
俺の礼に、店長は、かっはっは、と笑いながら店に戻る。
口下手な俺にも優しい、店長の大らかな気質は、少し憧れる。
…そんなこと、口には出せないが。
一頻り水を撒き終わって、手を服に触れさせる。
熱い日差しの下、全身を覆う真っ黒な外套に身を包み、その上から花屋の名前の入ったエプロンを着る怪しい男。ちなみにエプロンは花柄だ。
…ありえねぇ。
ため息をつくが、脱ぐわけにはいかない。
外套…コートというよりも、どこかのゲームに出てくる“ローブ”のような、だら長い衣服。
首から下を、ブーツに至るまでしっかりと覆う、重鎧染みた総面積。節々には、身体を保護するプロテクターのようなものが張り付いている。
その形状は何とも頼もしいのだが、
「…本当に、ありえねぇ」
独り恥じ入り、ファンタジー好きな自分の脳に、悪態をつく。
全身を守るように包み込む、黒のローブ。そのデザインは俺の好みだが、決して俺の望みでは無かった。
俺はもう一度だけため息を吐いて、クーラーの効いた店の中へと戻ることにした。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
「…ただいま」
いつもは心の中だけで呟く帰宅の合図も、今日だけは、口に出してみた。
「おかえりなさい」
それに返ってくる声があったことは、正直驚きだったが。
「…ぁあ、」
答えた声は、少し掠れていた気がする。
これくらいで動揺するとは、なんというか…恥ずかしい。
「飯は?」
「あっ、…ごめんなさい、作っていません。勝手に触っていいのか、わからなくて」
「そうじゃない。ちゃんと食ったのか」
「ぁ、――――はいっ」
その言葉に頷いて、キッチンへと向かう。
「肉、食えるか」
「はい」
短い質問に、短い返答。
いつも独りきりの室内に他人の声が響くというのは、少し、気分が高揚する。
食事は、手早く簡単なものだけを作った。
子供がどれくらい食べるのかよくわからないが、少女の腹が空いているかもしれないので、食事までの待ち時間は短い方が良い。
「おいしいです」
「ぇ、…ああ」
夕食の最中。突然言われた一言に、間抜けな声を上げてしまった。
返事を返し、言われた言葉を反芻する内に、じわりじわりと嬉しさがこみ上げてくる。
「美味しい」などと言われたのは初めてだ。
そもそも、自分で料理を作るようになったのは“此処”に来てからのこと。
頬が緩んだのは、しょうがないだろう。…しょうがない、よな。
「そういえば、お前、名前は?」
そう聞いたのは、どういう心境の変化か。
所詮は、その場限りで生きている衝動型の俺だ。褒められたのが嬉しくて、そんな気になったのかもしれない。安い人間だと諦観する。
少女は暫し口籠もり、その様子に俺が不味いことを聞いたのかと、心身共に不安になった頃、ようやくその口を開いた。
「常葉、葉子です」
「…日本人みたいな名前だな」
聞こえた名前は、苗字、名前の順序に思えた。
この世界では、名前→苗字の順に氏名を名乗る。だから、少女の名前に対して俺がそんな事を呟いていたのは、それほど責められることでもなく。
「私、日本人です。ハーフですけど」
少女にそう言い返されて、「ああ…だから目が青いのか」、などと考えた俺は、頭の回転が鈍いにも程があった。
「――――」
一拍の間を置いて、その刹那に頭の中を思考が巡る。
そうして、口からは率直な意見が飛び出した。
「あ、りえねぇ…っ」
吐き出す言葉は、望まずとも苦しげなものになる。
―――“この世界”に、「Jappon」はあっても、「日本」は無い。
それだけは、確かなことだった。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
「“これ”は何ですか」
と聞かれたので、
「それは、「念」だ」
そう答えると、
「漫画の話をしているんじゃ、ないんですけど…」
などと返された。
…お前、読んでたのかよ、ジャ○プ。
だから俺は、もう一度だけ、ため息をついた。
―――「此処は、異世界だ」と。
率直に、解り易く告げたのだが、それが翻って良くなかったのだろうか。
俺は少女の中で、“自分を馬鹿にする嫌な大人”か、“怪しい誘拐犯”かの岐路に立っていた。多分。
ため息をついて、ヤケクソ気味に言葉を吐き出す。
「…分かった。もう俺は嘘吐きで良い。だから出て行、――――…くそっ、」
出て行け、などと。
そんな言葉を、こんな子供に言えるわけが無い。
ここは危険な世界なのだ。少なくとも、最近になってやっと数ヶ月を越えた俺が、身の危険を覚えて常時防御を固めるくらいには。
…そんな所に、こんな小さな女の子を放せるものか。
ため息が止まらない。幸せが超特急で逃げていく。光年は距離だ。
少女を見る。
茶色の柔らかな髪に青い瞳、可愛らしい容姿。…そうじゃないだろう、俺。どこを見ている。
気丈な表情には、どこか不安感が――――俺は、そんな事がわかるほど、勘の鋭い人間じゃない筈だ。そうだろう?
小さな体躯。外に放り出せば、速攻で人攫いか、人買いが群がる…かも知れない。想像するだけで吐き気がした。
「ありえねぇ…」
少女は自分を日本人だと言った。…正確には、どこだかとのハーフだが。
そして、この世界には「日本」が存在しない。
つまり、この少女は、偶然だろうと奇跡だろうと、“俺と同じ”なのだ。
「あの、」
黙り込んでため息ばかりを吐き出す俺に不安になったのか、少女―――「トキワ ヨウコ」嬢―――が声を上げる。
その顔は、それが俺の妄想だろうと、現実に、不安そうな表情を浮かべている。そう見える。
「何だ」
「ここは、何処ですか?」
「ああ、……いや。街の名前、知らねぇし」
問われて、今更ながら、その事実に思い至る。
少なくとも、此処が“ヨークシン”とか、そういった個人的危険指定地域でないことは確かだが。
「俺の家だ」
「………」
数秒の思案の後、ようやく搾り出した言葉は、ヨウコ嬢の期待に応えられなかったことが丸分かりだった。不服そうに歪めた顔に、思わず眉が寄る。
「信じる、信じないはもうどうでもいい。それでも、しばらくはこの家に居ろ。せめて「念」を使えるようになるまでは」
精一杯真剣な顔で告げた、言葉。
ヨウコ嬢は、それに対して何を言うでもなく、ただ顔を俯かせて、頷いた。
「……はぃ」
弱々しいその声は、俺の気分を沈ませるには充分過ぎた。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
「名前は、ササキ カミヒトだ」
しばらくの後、名前を聞かれたのでそう答えた。
俺の名前を口の中で繰り返す少女は、先程よりは元気そうだ。
やはり、この子を拾った日に買ってきて、それ以来放置していた珠玉のデザートを与えたのは成功か。その成果に免じて、俺の分が無くなったのは我慢しよう。
――――甘いものは、人の心を豊かにする。
それは俺の持つ、唯一といっていい信念だった。
「…日本人ですか?」
「ああ」
顔を上げた少女からの問いに、俺は頷く。
佐々木 守人(ササキ カミヒト)。
生粋の日本人で、やや硬質な黒髪は、全身を包む黒の外套と相俟って“黒い兄ちゃん”の名をほしいままにしている。
…嬉しくは、無い。
少女は、俺の格好―――勿論、いつもの全身黒尽くめ―――に視線を向けて、問いかける。
「日本人、ですか?」
「…ああ」
ヨウコ嬢が聞き返したのは、「先ほどの答えが聞こえ辛かったからだ」と。
そう自分に言い聞かせる俺は、自分の格好に、些かも疑問を持っていないわけではない。
ため息を吐いて、説明を入れる。
「…この服は、脱ぐわけにはいかないんだよ」
「どうしてですか?」
「安全の為だ」
「…?」
不思議そうな顔で首を傾げた様子は可愛らしい。…だから、俺にそんな趣味は無い。
女性との交際遍歴の無い自分に嫌気が差しつつも、とりあえず“同胞”である少女には話すことにする。
どうせ、信じてないし。信じたら信じたで、多分“敵”にはならないだろう。
仮令、敵に為ったとしても……いや、どうでもいいことだ。
「“コレ”は俺の念能力だ」
「…はぁ、」
気の無い返事。
吐息のような頷きと共に向けられる視線は、少なくとも好意的ではない。
…あれか?“イタイ人”だとか思われているんだろうか。
そんな雰囲気を醸し出すヨウコ嬢は、既に無意識に「纏」を行っているという、目覚めさせてしまった俺自身がびっくりの素質持ちである。…なのに何で信じないかな、こいつは。
「ありえねー…」
空ろな顔と声でため息をつく。男の威厳なんぞあったものではない。
もっとも、相手は子供なのだが。
「見えるだろう、お前と、俺を包んでる“もやもや”が」
「…はい」
「それが、「念」。正確にはその内の「纏」だ」
などとのたまいつつも、物知り顔で語る俺の知識は随分前の記憶なため、うろ覚えなのだが。
休載し過ぎだ、あの漫画は。…それでも面白いのが、逆に、腹が立つのだけれど。
「……はぁ、」
先ほどよりも長い沈黙の後の、首肯。…少しずつ腹が立ってきた。
そもそも突然こんな話を聞かされれば、彼女の立場としては俺のことを脳内電波塔所持者と判断してもしょうがない。しょうがない、の、だが……
「お前な、自分自身体験して、それでも疑うのは、既に病気だ。主に、頭の」
「………」
吐き捨てるように言い放つ。
疲れ切った俺の毒舌を受けて、ヨウコ嬢の可愛らしい顔が歪んだ。…怒ったのかもしれない。
怒ったのかもしれない。――――それは理解するが、俺だっていい加減グロッキーだ。
豪雨の中、捨て子を拾って、更にこれだけ面倒を見ている現状は、自分自身ありえないと思う。
だというのに、その対象が、聞かん坊。
…有り得ない。胸中でそう繰り返す。
俺の乏しい優しさなんて、とっくの昔に品切れだ。睡眠による回復を切に願う。
「俺は寝る。そこのベッドを好きに使え」
そう言い残して、部屋の隅へ向かう。
この部屋は、安く、狭く、ボロい。部屋数は、キッチンにくっ付いたこのリビングもどきと、あとは狭いユニットバスが転がっているバスルーム、つまりは実質一部屋のみ。風呂があるだけマシか。
ヨウコ嬢には悪いが、俺みたいな見た目変質者と同じ部屋という現実は最低限我慢してもらいたい。流石に風呂で寝るのは勘弁だ。黴臭い。
そもそも俺は、精孔の開いた彼女の看病で昨夜全く寝ていない。
「おやすみ…」
それだけを告げて、俺の意識は沈んでいく。
いつもは悪趣味なだけのローブも、布団代わりとしては中々だった。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
――――中学校の頃のことだ。
新学期の席替えで、名簿順に座り、隣り合った女子生徒が居た。
下の名前で呼ぶことも、そもそも女子の名前を呼ぶこと自体が無かった俺だから、その子の名前は記憶の中で擦れて、その顔も、もう殆んど憶えてはいない。
その女子生徒だが、その後の席替えの度に何度か隣り合ったり、前後の席に着くことになったり、妙に縁があったのが不思議だった。今考えると、「…仕組まれてたのか?」と思わなくも無い。仕組んで得する奴もいなかったが。
ともかく、そういった理由からなのか、いつの間にか女子の間では、俺とその子は付き合っていることになり。更に、高校に上がった頃には、俺の知らない内に、別れた“元カレ”扱いをされていた。
結局、何でそんな悪意の無い―――俺としては、僅かなりとも不可解で、少しばかり迷惑ではあったが―――嘘なのか噂なのか分からないものが流れたのか。
――――女性というのは、本当に不思議なものだ。
…閑話休題。
だらだらと、今更実りの無い思考を連ねて、つまりは何が言いたいのかと言うと、
「…何で、もう「練」までやってんだ」
昨夜は俺を電波男扱いしていたヨウコ嬢が、一転して、その有り余る才能を発揮している現状の、その経緯を知りたく思う。
…わけわかんねぇ。
ため息をつく。
視線の先のヨウコ嬢は、相変わらずサイズの合わない俺のシャツを着て、ひたすらオーラを練り続けていた。
「俺の言った事信じたとか、現実を受け入れたっていうなら、いいんだけどな…」
愚痴っぽく呟く。これが少女に聞こえていればいい。むしろ、聞かせるための愚痴だ。
彼女の行っている「練」。そのオーラ総量は、まだ俺に届いていない。
この様子だと、直に追い越されるのかも知れないが…文字通り折れそうな少女が、ひ弱な小鳥でなくなるというのは、良い事だと、そう思う。
…そういえば、服、買ってあげないとな。
俺に振り向きもせずに「練」を行う少女は、どこか、意地になっているようにも見えた。
多分、気のせいだろうけれど。
「飯だ」
「…いただきます」
「ご馳走様でした」
「ああ」
互いのやり取りは酷く簡素なもので、それにも不満を抱かない俺は、本格的に人恋しかったのだろうか。
バイト先の花屋の店長との会話と、通りかかるガキ共との触れるだけの挨拶。
思えば、かつて居た家族との触れ合いが無い分、今の俺は人として、かなりのコミュニケーション不足だ。
…父親とは、まともな会話をした記憶すら無かったけれど。
――――そんなことを考えながら、食器を洗う。
使ったら洗う。常識である。少なくとも、俺はそう思う。
決して、常日頃洗い物を溜めては不満を零していた、今は遥か遠くに居るだろう母親への忠言ではない。
「…どうしてるかな、今頃」
呟いた声は、ひょっとすると、寂しさに染まっていただろうか。
振り向いた先、迷子の迷子のヨウコちゃんは、俺のことを気にかけることもなく。食事を終えると、再び「念」の修行に没頭していた。
その姿にすら微笑ましさを感じた俺は、きっと、危ない趣味の人では―――ない。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
「これ、貰って帰ってもいいですか?」
そう聞いたのは、ほんの気紛れだった。
店に並べて売れ残り、明日には枯れてしまうだろう花の束。
捨ててしまうと言われて、「今ならタダで貰えるかも」といった打算的な思考も、確かにあった。
「なんだ、カミヒト、お前花好きだったか?」
「いえ、そういうわけでも無いんですけど…」
嫌いではない。
昔、夏休みの観察日記に使った朝顔や綿花も、それなりにしっかりと世話をした。多分に母親がやった場合もあったが。
ともかく、繰り返すが、あくまでも「嫌いではない」のだ。貰うことを目的としていてさえ、明確に「好き」だと言うのは、…恥ずかしい。
「まぁ、いいか。捨てちまうよりはお前が持って帰った方が、この花も喜ぶ!」
そこまで大袈裟に言われると、流石に躊躇してしまう。
けれど、恐らくは本気でそう思っているのだろう店長の笑顔は、眩しくも気持ちのいいものだ。
「ありがとうございます」
だから俺は、せめて感謝の言葉で気持ちを表した。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
――――帰宅すると、ヨウコ嬢は古いソファに寝転んでいた。
「―――ぅあっ!?」
ドアを開けて入って来た俺を見て、驚きの声を上げて飛び上がる。
…はしたない。ついでに言えば、俺を見てのその反応は少し傷付くかもしれない。
「…まぁ、いいけど」
粗相の悪さを注意するよりも、そこまで驚くほど避けられているのかと、そちらの方が不安ではあった。
部屋の隅で埃を被っている花瓶(らしきもの)を引っ張り出して、水で洗う。
ヨウコ嬢は、先ほどの慌て振りから回復したようで、テーブルの上に抛った大き目の花束をじっと見ていた。
…ふむ。
一つ頷き、説明に乗じて口を開く。小さなコミュニケーションからコツコツと、だ。
「…バイト先で貰った。明日には枯れるだろうから、捨てるよりは、って」
「バイト?」
「花屋だ」
「……はぁ、」
ため息のような頷き。
それは、俺の話を理解しきれていないのか、それとも俺が花屋でバイトしているという事実に疑いを持っているのか、…どっちだ。
花瓶に水を注ぎ、包装を解いた花を生ける。
ちゃんとした生け方は知らないが、ともかく水があればいいだろう。
生けた花の花弁を軽く指で弾いて、その綺麗な色に口元が綻ぶ。…花は、嫌いじゃない。
「そういえば、「念」、どうなった?」
「―――え、」
俺の問い掛けに、ヨウコ嬢は呆けたような返事をした。
…上手くいっていないのか?
「もしかして、飽きたか?」
「い、いえっ! ヨンタイギョーは出来ましたっ」
「そうか」
四大行、の下りの発音が妙だったが、漫画を知っていたのなら、そんなものだろう。この少女は、俺なんかよりよっぽど素質もあるようだし。
「あとは、どんな能力にするかだな」
「はい」
気付けば、随分と簡単に会話が出来ていた。
…生け花効果だろうか。
ヨウコ嬢が現状とどんな折り合いを付けたのか、それとも夢だと開き直ったのか、何なのか…。
それらは俺にはわからないが、少なくとも、俺は“今”が嫌ではなかった。
勢い余って頭を撫でたら、「子供扱いしないで下さい!」と蹴られたが。
――――念を纏ったその蹴りは、今の俺には凄まじいダメージを与えた。
そうして、その日の晩御飯を作る事は、出来なかった。
つまりは余りの痛さに寝込んだってことだ。朝まで。
…ありえねぇ。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
「何で、ササキさんは出かける時に「纏」を解いていくんですか?」
そう問われたのは、必然だろう。
それに対する俺の回答は、恐らく普通だった。
「“原作”と関わりたくない。ヤバイ人間に近付かれたくない」
俺に向けられた呆れたような眼差しは、夢見る子供のものとしては、至極真っ当だったのだろう。
とりあえずため息を吐く。
「…お前が認めてるのかどうかは知らないが、とりあえず此処は「HUNTER×HUNTER」の世界だ。そういうことになっている。“ハンター協会”の会長も、見覚えのあるチョンマゲポニーの爺さんだった」
時期としては、原作に近い…だろう。ある意味最悪だ。
「あの漫画のことが好きで好きでしょうがない奴らなら別だろうが、俺は平和主義者で、ぶっちゃけヘタレだ。平凡に花屋のバイトを続けて、ゆくゆくは、跡取りのいないあの花屋の店長に成り上がるのが夢だ」
それは、誰にも語ったことのない―――今までは語る相手自体がいなかったのだが―――俺の腹黒い人生計画。
外出時、オーラは常に一般人同様、垂れ流し。「念」を使えない“一般人な俺”は、せっせと花屋に滅私奉公して、店長の引退と共に“花屋の店長”へとジョグレス進化する。
…正直、そんな考えで働いているなどと店長に知られれば、酷く申し訳ない上に、恐らく俺はこれから先の人生を生きていけなくなる。心身共に。
「……はぁ、」
俺の告白を前に、ため息のようなか細い返事を返すヨウコ嬢。
その瞳は、俺自身、生まれてきたことを謝りたくなるような色をしていた。
「…すまん」
なんとなく、謝る。俺は打たれ弱かった。
だが、この計画を崩したくはない。働かずに生きていけるというのなら、それが一番ではあるが。…駄目人間だろうと構わん。
「…いいです。ササキさんの人生には干渉しません」
そう言いつつも呆れた視線を緩めないヨウコ嬢は、干渉、などという難しい言葉を使う辺り、かなり賢いお子さんだ。
ひょっとして、良いとこのお嬢さんだろうか。初対面時は、雨曝しの捨て猫みたいだったが。
「ところで、ササキさんの念能力って、何ですか?」
考え込んだ俺に掛けられた声。
キラキラと光る、好奇心を感じさせる瞳で問われた俺は、思わず唸った。
「念能力は、他人に安々と教えるものじゃない…と、原作に書いてあった」
「そうですね」
俺の言い分に、ヨウコ嬢は頷く。
けれど、その表情は頷いていない。むしろ、「それはそれとして」と語っているようだ。
…ありえない。
俺の能力は、出来うる限り他人に語るべきではない。
能力としての効果自体を考えればそれなりに上質ではあると思いたいが、その能力の概要を話すか、発動の瞬間を見られただけでも、俺の身の危険が倍増する。
――――というか、そう自分に言い聞かせないとうっかり喋ってしまいそうな俺自身が、一番危険だった。
ヨウコ嬢は、未だ瞳の中にお星様の大群を宿したまま、俺を見つめ続けている。普通に可愛い。…が、それが曲者でもある。
「……どうしてもか」
「無理にとは言いません」
「“言って”は、いないな」
“目は口ほどに物を言う”。実体験を伴って、その格言は、俺の中で随分と信憑性を上げてしまった。
ため息をつく。
ありえない、ともう一度呟いて、好奇心旺盛な少女に向き直る。
「…誰にも言うなよ」
「はい」
「使い勝手悪いとか、俺的に酷いこと言うなよ」
「はい」
「お前、本当は男だろ」
「はい……、って、違いますよっ!」
「…だろうよ」
いっそ男なら、俺が性犯罪者予備軍に加入される可能性は下がる。
…いや、逆にヤバイか?ショ○か!?シ○タなのか!?時折“可愛い”とか思ってた俺は、そっち方面もいけたのかっ?!
「……いや、ありえないから」
「はい?」
頭を勢いよく振って、混乱した思考を振り払った。“衆道”なんてファンタジーに過ぎない。そういうことにしておこう。
そんな俺を見て首を傾げる姿を、必死に視界の外へ追い遣る。
「よし」
気合を入れて、顔を上げた。
思考の混乱のせいか、色々な事がどうでも良くなっている。
「…まぁ、俺の能力なんて、自己保身の塊みたいなものだけどな」
そう前置きして、俺は自分の念能力を語った。