夏の日の夜。お盆を前にしてだいぶ暑さも和らいできました。夜風も涼しいと感じる時が増えてきましたし、秋はもうすぐのようです。
「ありがとうございました~。」
古河パン店にいらっしゃるお客様を笑顔で送り出します。さて、もう八時ですか。そろそろ店じまいの時間のようですね。
「おい、早苗。店閉めるんならこれ貼っとけ。」
夫の秋生さんが貼り紙を作って持ってきてくれました。二人で店の後片付けをして、最後にシャッターを閉めて紙を貼ります。
『まことに勝手ながら明日から五日間お盆休みをいただきます。週明けから営業を再開します。』
このあたりは観光客がいるわけでもないので、お盆シーズンになると地方に帰省する人が増えて商売になりません。少量作って売れば利益を出せないことはないのですが、それだったらと毎年長期休暇にしています。
「これでよし。」
風で落ちたりしないようにしっかりとガムテープで固定し、家の中に戻ります。これで仕事はおしまい。水曜から日曜までお休みをいただけます。
「秋生さんはお盆お休みの間、何か予定があるんですか?」
お茶の間で麦茶をいただきながら、主人の秋生さんに聞いてみました。
「そうだな~。ちょっと実家の親父とお袋に顔を出しに行くくらいだな。渚は夏期講習があるから、どっか遊びに連れて行ってやることもできねえし。暇だな。」
「そうですか。古河塾も来週の火曜日までお休みですから、私も暇です。」
「なら、二人でどっか行くか?」
「いえ、実はそのことで少しお話があります。」
私は姿勢を正して秋生さんに向き直りました。
「なんだ、改まって。言ってみな。」
「実は、明日から五日間、お暇をいただきたいんです。」
「おう、お前も実家に帰りたいのか。悪いが、俺はお前の両親が苦手だ。だから、一人で行ってくれ。」
「いいえ、違います。それはもう済ませてしまいました。」
「そうなのか?なら、なんの理由だ。」
「パンを研究する一人旅に出たいんです。」
「はっ?」
「ですから、パンのアイディア探しに行きたいんです。最近秋生さんがパンのアイディアで困っているようですし、新しい分野を開拓したいんです。」
秋生さんは頭を抱えて険しい顔をしています。やっぱりこんな理由で一人旅というのはおかしいんでしょうか?
「(早苗のことだ。前同じことがあった時のように必ず創作パンのための余計な知恵も付けてくるはず。絶対阻止せねば。)」
「何か言いました?」
「早苗よ。俺はなあ、お前の手料理がないと生きていられない体になってるんだ。だから、行くな。」
「実家に帰るんだったら好きに行って来いって言ったばかりじゃないですか。それに、私がいなくても渚がご飯を作ってくれます。」
「進学校だから盆でも夏期講習がある。渚と小僧が学校に行っている間は俺が家で一人になっちまって寂しい。だから、行くな。」
「普段から家の仕事をしないで遊んで回っているじゃありませんか。一人でふらふら出かけたり、バットを持って遊びに行ったり。」
「他にはそうだなあ、あ~、う~、え~、とりあえず行くな。」
どうやら秋生さんは私がいないと寂しいから引き留めているだけのようです。
「お母さん、旅に出るんですか?」
お茶の間に入ってきて話に加わったのは、娘の渚とその彼氏の岡崎朋也さんです。
「はい。パンのアイディア探しに行くんです。」
「なんすか、これ?」
岡崎さんが私の持っていた一枚の雑誌を覗き込むように見ています。内容に興味を持ってくれているのは嬉しいことです。
「パン屋巡りの本ですか。早苗さん、これを食べに?」
「口コミで評判だったり、テレビや新聞で紹介されたことのあるパン屋さんに行って、秋生さんのパン作りの参考になればと思って。」
「お母さん、えらいです。ぜひ行ってきてください。お父さんのお世話は私がします。」
「俺もできることがあればやります。あと、オッサンが悪さをしたら厳しくしておきますから。」
「よろしくお願いしますね。私も毎日一回は家に連絡を入れるようにしますから。」
「渚~、小僧~。俺をいじめるようなことを言わないでくれ~。」
秋生さんは珍しく泣きながら弱音を吐いています。まったく、この歳になっても少し私と離れるだけで寂しいなんて、まだまだ子供ですね。
「では、私は自分の部屋で着替えや持っていくものの準備をしますね。」
そう言って、私は立ち上がりました。机に突っ伏して嗚咽しだす秋生さんを残して。
次の日の朝。日が昇る前に起き、身支度をして家を出ます。朝早くなので家族は起こさないつもりでしたが、みんなで見送ってくれました。
「朝一番の飛行機で行くんだろ?」
「はい。北海道まで行きます。そこで昔の友人に会ってきます。後は気分次第で電車やバスを乗り継いで東京に戻ってくるつもりです。」
急に思いついた旅行ですし、お盆のこの時期なので飛行機のチケットが取れるか心配でしたが、知り合いにコネで安く譲ってもらえました。そのかわり、始発の飛行機ですが。
「まあ、お前ならなんも心配はないだろうし、気をつけて行ってこいや。」
秋生さんは渋い顔をしながらも、あきらめがついたのか餞別の言葉をくれました。
「お土産たくさん買ってきますね。」
「いっぱいお勉強が出来るといいですね、お母さん。」
「頑張ります。」
「元気で戻ってきてください、早苗さん。」
「はい。任せてください。」
腕時計の時間を見ると、そろそろ時間のようです。
「それでは、行ってきます。」
この旅で私は何と出会い、何を学ぶことができるのでしょうか。とても楽しみです。私の足取りは自然と軽くなりました。
続く