世の中には金など目じゃない悪党もいる。
脅しも理屈も通じず交渉も成り立たない。
世界が燃えるのを見て、喜ぶ連中です。
――「ダークナイト」
ロンドンは燃えていた。
狂気の業火によって。
底知れない優雅さをたたえていたセント・ポール大聖堂のドームは瓦礫と化し、市民に親しまれていたビッグ・ベンは崩れ去り
ロンドン橋はマザーグースの唄のように落ちた。
たった一夜の悪夢によって表参道、裏通りを問わず屍の山が積み重なり、テムズ川は血河と化していた。
「いつの日かこれに追いつく!」
ペンより重いものを持った事がない、と言わんばかりの細腕を振り回し、地獄の片隅で男が叫んだ。
神経質そうに切りそろえられた髪に、ゴチャゴチャと度の違うレンズをくっつけた眼鏡。そして長年着古したくたびれた白衣。
到底声を張り上げるような風采ではなかったが彼は激高していた。
半世紀をかけた己の研究を否定された為に。
「いつかアーカードを越えてみせる!」
彼の名前、というか愛称はそのままズバリ博士(ドク)といった。
ナチスが擁する多くの天才科学者たちの中でもズバ抜けていた彼に敬意と親しみを込めて、部下も上司も同輩も皆、彼の事をドクと呼んだ。
本名がなんというかはもはや関係なかった。物知りドク、天才のドク。そう言えば彼の事を指していた。
彼自身もそれでよかった。
さて、その天才の研究は人間を吸血鬼と変化する研究である。
確認される中で最強の吸血鬼であるアーカードに血を吸われた哀れなミナ・ハーカーの死体と、不思議なオーパーツである石仮面を教材に研究は進められ
半世紀をかけて最後の大隊が完成した。
どんな化け物にも負けない、吸血鬼を超えた吸血鬼の軍隊のはずだった。
その力をもって彼らはイギリスを蹂躙した。だが結局のところアーカードに追いついてはいなかった。
彼は敗北したのだ。
「馬鹿言っちゃいけない。お前も僕も皆死ぬ。欠陥品は全部死ぬ」
体中から血を流し、まさに満身創痍といったていの少年が、淡々とそれを否定した。
少年の名はウォルター・C・ドルネーズ。通称死神ウォルター。英国国教騎士団ヘルシングの元ゴミ処理係。
老いを理由に一線を退いてからはヘルシング家の執事として、より一層の忠義を示した。
名実共にヘルシング家当主の懐刀のはずであった。
だが混乱の最中に彼はナチスの側に着いた。
一人の男として最強の存在に挑みたい。その一念が彼に忠誠を誓った主を裏切らせたのだ。
彼は吸血鬼として生まれ変わり、地位も名誉も魂さえも捨てて一世一代の大勝負をしかけた。
しかし結果は惨敗。
想像以上にアーカードは強大だった。
つまり彼もまた敗者だった。
だが、彼はドクと違いこれから死ぬというのに奇妙な満足感を得ていた。
負けた以上、もはや舞台から降りるだけだ。ならば精々胸を張って降りようと思っていた。
ドクは激情に駆られてさらに声を張り上げた。
「黙ァれぇえ!!」
少年はそれをみてニヤリと口元を綻ばせると、高名なピアニストさらがらの精密さで傷だらけの腕を動かす。
その腕の先、指の間からは極細の鋼線が伸びており、少年が僅かに腕を振るっただけで鋼線は獰猛な蛇のようにドクに襲い掛かった。
ドクはこの鋼線が鉄板や人体を軽々と切り裂く事を知っていた。
確実に迫りくる死を前に思わずキツく目を瞑る。
「……ッ」
ヒュパッ。
閉ざされた視界の中で鋼線が風を切り裂いて唸る音が聞こえた。
一秒が経過した。
二秒が経過した。
三秒が経過した。しかし、やって来るはずの体を両断される痛みが来ない。
「……?」
ドクは不思議に思い、恐る恐る目を開けた。
いつの間にか自分とウォルターの間に立ちふさがるように数人の男達がおり、その内の一人が身を盾にして必殺の鋼線を防いでいた。
盾となった男の腕は鋼線が食いつき、両断しかかっていたが、不思議な事に男からは一滴の血も出ない。
「な、なんだァ手前ェら!?」
あまりにも唐突な出来事に、死神は焦燥の色を浮かべて吼えた。
乱入者の中で少年から見て最も後方にいた一人が口を開いた。どうやらリーダーらしい。
「僕達かい? ドクの古い友人さ。こんなところで彼を殺されはしない。死ぬのは君だけだよ」
「あァ?」
「紫外線照射装置、構え」
乱入者のリーダーがそういって腕を振りかぶると、彼が引き連れてきた男達の両肩からカメラに似た奇妙な機械がせりだした。
「ふざけんな、もう全部、終わったんだよォ!」
ウォルターはそう叫んでありったけの力を腕に込めた。
もう半世紀ぶりのバカ騒ぎは終わったのだ。
救い難いナチスも、妄執に取り付かれた狂信者も、自分の身勝手な野望の為に主を裏切った執事も、揃って舞台から降りるべきだ。
逃げるだ? 逃がすワケねーだろ。
「らァ!」
ピンと張り詰めた鋼線がギリギリと擦り合う。
さらにウォルターが一喝して気合をこめると、ついに均衡は破れた。
鋼線は乱入者の一人の腕を断ち、さらに多くの者を引き裂かんとして飛び出した。
「照射」
ほぼ同時に乱入者のリーダーが呟やいた。
鋼線が乱入者たちの胴に巻きつき、一瞬その肉体をぎゅっと締め付けた。
しかし、死神の糸が肉塊を作り出すよりも一瞬速く、乱入者たちの光の刃が鋼線を操る死神の腕を穿った。
紫外線は吸血鬼にとって致命的な弱点の一つだ。
強烈な光を受けて音もなくウォルターの腕は消し飛ぶ。
「クソ、ふざけなよ、ふざけんなよ、ふざけるんじゃねぇぞ! 手前等ァ!」
腕がない。ウォルターは顔を歪ませた。
どうせ遠からず死ぬ身だ。その事自体は問題じゃない。
問題なのはもう糸を操る事はできない事だ。目の前のクソ野郎共を殺せない事だ。
……何をやってるんだ僕は。
好き勝手暴れて、後始末も付けられないのか。
ダメだ。だめだめだめ。それだけはダメだ。ここでこいつらは殺す。
それが勝者への礼というものだ。そしてバカな執事から主への最後の、最低限の、せめてもの償いだ。
幕の閉じた舞台にゴミを残してはいけない。
絶対に逃がしてはいけない。絶対にだ。
「逃、が、す、か、よ!」
両腕の消し飛んだウォルターは、吸血鬼に残された最後の武器である牙をむき出しにして咆哮と共に飛び掛った。
光は雨のように降り注ぎ、次々とウォルターという存在を削り取っていく。
腹に風穴が開いた、右目が消えた、
問題ない。とっくに痛みはない。
前へ! 前へ!
両足がついに打ち抜かれた、首から下が消えていく。
問題ない。
「ぁぁぁぁぁァァアアアアアアア!」
首だけでウォルターは動いた。不粋な者たちに牙を付きたてようとした。
しかしそれでも……あと一歩が届かなかった。
「無駄だよ、死神」
ウォルターが最後の最後に、聞いたのはその抑揚のない声だった。
嗚呼、申し訳御座いません、お嬢さ――。
光が消えたときには肉も骨さえも残っておらず、ただ灰が僅かに風に舞った。
「ふう、彼が死に掛けで助かったよ、もし万全ならもっと面倒な事になっていただろうね」
ウォルターを葬った乱入者はそう言って肩をすくめた。
同時にドクは身構えた。確かにコイツは自分の命を救ったがそれだけで味方であるという保証はない。
「……お前は誰だ?」
「おいおい、僕の声を忘れたのかい? 悲しいね。まぁ久しぶりだからしょうがないかな」
「な、そんな。あなたは……ッ」
乱入者は振り向くと、ドクに衝撃が走った。
男は首から上をすっぽりと覆うようにガスマスクを被っていたのだ。これではどんな顔をしているか分からない。
だが、かつてナチスには常にガスマスクを被るという奇癖を持った男がいた。
その男もドクと同じく、天才と呼ばれていた。
「クロエネン大佐……」
「やっと思い出してくれたね。さ、時間がない、急いでここから離脱しよう。ヘリを待たせてある」
「一体どこへ?」
「我々の拠点さ。まだまだ我々の夢も君達の夢も終わらない、否、終わらせない。その為に君の力が必要なんだ」
ドクは呆けたようにオウム返しに繰り返した。
「我々の夢?」
「おいおーい、大丈夫か? さっきのショックが大きかったみたいだな。しっかりしてくれよ、いつも少佐が言っていたろう
『次の戦争の為に、次の次の戦争の為に』負けっぱなしでいいのかい?」
「い、いえ」
「その意気だ。次は勝つ。アーカードだって超えてみせる。その為に君の力が必要なんだ。協力してくれるかい? ドク」
「是非」
ドクはクロエネンが差し出した腕を両手で握り締めると、深く頭を下げた。