木々がざわめいていた。
辺り一帯を強い風が吹き抜け、鉄錆の臭いが鼻を貫き、凍てつくような寒さが頬を打つ。
そんな一面の森の中、御度守 終<おどかみ おわり>は困ったように空を見上げていた。
「まいったなぁ……」
風を受けて無造作に荒れていくやや長めの黒髪をうっとおしそうに押さえる手は、一目見て質の良さが窺えるダークブラウンの手袋に覆われている。
状況に困惑しているのか整った容姿をフルに使って作られた『困ったぞ』という表情の下には、これまた仕立ての良いマフラーにコート。
そして少し離れた木の下には旅行用の大きなキャリーバッグがポツンと、所在無く立ち呆けている様だった。
「本当にまいった……」
そして終は最後に残った生存者にゆっくりと視線を合わせる。
辺り一帯に、無数の死体を撒き散らしたまま。
【第1話 訪れた先】
その日は高校生活において最後のイベントとも言えるものの幕開けだった。
曰く、修学旅行。それも高校最後のと言うだけはあって、海外── ヨーロッパを巡るというものだ。
間違いなく中学時代の修学旅行、『京都、奈良を巡る神社仏閣の旅』とは一線を画す大イベントである。
ちなみに通常の遠足や一般的な修学旅行とは異なり学校ではなく空港に集合という事で、終も普通に交通機関を利用し何事も無く空港まで足を進めていた。
そこまでは問題は無かった。
── そしてソレは起きた。
「!?」
空港のドアを抜けた先は鬱蒼と茂る一面の森が広がっていたのだ。
時計を見ると時刻は8時23分。それに比べて木々の間から見える空の色は薄暗く、間もなく夜が訪れるであろうことを雄弁に物語っていた。
「何が……起きた……?」
姿勢を低くし、傍の木の影に身を隠す終。
その表情に浮かぶのは困惑以外の何者でもない。
「時間もおかしいし、気温はさっきより少し肌寒い程度だけど空港自体が消えてるし……」
息を潜めあたりを窺う終だが、一向に何かが起こる気配は無かった。
それから5分ほど経っても何も起こらなかったため、木の影を離れ、改めて周囲を見渡す。
しかし、眼に映るのは木、木、木。正に森といえる程の圧倒的な大自然の姿だった。
「取り合えず森を出るか……」
そう言って地面に倒れ付していたキャリーバッグを右手で立ち上げる。それとどうやら先ほどから左手にはペットボトルが握られていたらしく、僅かに凹みが見られた。中は緑茶だ。
少なくとも幸運だったのは、1週間以上の旅行を耐え切れるだけの準備がされているキャリーバッグもここに飛ばされていたことと、寒いながらも雪の降る様子が一切無いことだろう。
無論土地勘は無い。
しかし終に出来るのは足を進めることだけだった。
一先ず左手に握っていたペットボトルの中身で咽を潤し、残りはショルダーバッグに入れてキャリーの持ち手を握りしめる。
何処とも知れぬ深い森の中、雑草を踏みしめる音とローラーの転がる音が、静かに木霊を返した。
── それから誰とも会う事無く1時間が経過した。
辺りに未だ闇が落ちる事は無く、せいぜい薄暗いと言った程度の状態が続いている。
終の顔に疲労の色は見えない。周囲に気を配っているようではあるが、落ち着いたのか、最初のような困惑の色はなりを潜めていた。
「ん?」
まるで引っ張られたように素早く、終の顔が2時の方向を向いた。
聞えるのは僅かにガサガサと草木を揺らす音と、人の声だ。
それに気づくや否や、終は転がしていたキャリーバッグの持ち手を縮め、10キロはありそうなそれを持ち上げて走り出した。
マフラーを靡かせて、キャリーバッグの重さを感じさせること無く、風のように森の中を走りぬける終。その速さは並大抵のものではなかった。
俊敏な獣のように、しかし息を乱れさせる様子を微塵も見せずに、終は音と声のする方向へと一目散に駆け抜ける。
音が大きく、そして声が聞き取れるほどに距離を縮めていく。そして一際深いブッシュを抜けた先で終を待っていたものは──
「たーすーけーてぇぇぇぇえぇええ! おーかーさーれーるぅぅぅぅうううう!」
「待てやゴラアァァァァぁぁぁあ!!!!」
「逃げても誰も来やしねぇよおチビちゃんよぉ!」
まるで映画か何かを見ているような光景だった。
先頭を行くのは人としては余りにも小さく、甲高い声を上げて逃げまわる、蝶にも似た羽根を背中につけた一人の少女。
30cm程だろうか。小さなその体に合った厚手のフード付きコートを着て、バッグを肩から提げ、手には抱えるほど大きい卵── 少女にとってはだが── を抱いている。
一方後ろを行くのは大柄で野卑な印象を放つ男たち。
手にはそれぞれ思い思いの武器を持ち、重厚な毛皮の異様を纏った彼等は、下卑た笑いを浮かべて少女に怒号を上げている。
しかし少女の方が速いのか散々走り続けていたらしく、叫び声の割には寒空の中汗を浮かべ、嫌な湯気を体から立ち昇らせてるようだった。
そしてこの一種異様と言える光景を見た終の行動は──
「せいっ」
男たちに対する攻撃だった。
突如横から現れた終。その蹴りをモロに顔面で受けた男は「ごべぁ!」と声を残したまま、地面に倒れ付した。
「ナーイス! お兄さんッ!」
「あぁん!?」
「っだア! テメェ!」
突然の救世主登場に声を上げて喜びを示す少女と、武器を構え標的を終へと変える男たち。
手に持った鈍い光を放つ斧や剣、棒の先に棘のついた鉄球をあしらえた凶悪なメイス等は、その持ち主の風貌と相まって恐怖を敵に与えるには余りにも十分過ぎた。
「おじさん達はアレかな? 人身売買?」
しかしそんな事は気にしないと言わんばかりに、道を尋ねるような気軽さで終は質問を口にする。
「町に帰ろうとしてたらいきなり襲ってきたんですよこの山賊! 信じらんねぇ! バーカ! ブサイク! 美少女妖精フェチ!」
「妖精フェチじゃねぇよ! 妖精フェチじゃよぉ!」
先に答えを返したのは少女の方だった。男達は少女の言葉の一部に反応したのか、顔を真っ赤にして反論を行う。
「ようせい……?」
そんな山賊の様子すらスルーして少女の言葉に眉をしかめる終だったが、大体事情を把握したのか一度浅く頷いて、男達に向かい武術のような構えを取る。
「妖精とか山賊とか良く分からないけど、めんどうな事になったのは分かった」
「だったら安心しろや兄ちゃん。今から親切な俺達山賊様が面倒事から解放してやっからよぉ!」
ゲハハハハ! と笑い声を上げる山賊達だったが、次の瞬間にはもう笑い声を上げるものは誰もいなかった。
腕が飛んでいた。
山賊達の先頭、最も終に近い場所にいた男の右腕が斧を握ったまま宙を舞っていたのだ。
それを為した終の手に握られていた物は、深淵を宿した様な20cm程の刃を持つ深い闇色のナイフ。
「これ、荷物検査にも引っかからないんだよね。切れ味も良いし流石兎美姉さん」
初めて見せる終の嬉しそうな、そして誇らしげな表情に息を呑む山賊。
しかし彼が息を吐くことはもう無かった。
「まず一人」
続いてナイフが軌跡を描いたのは山賊の首。
今まで暴力と恐怖で弱き人々を思いのままにしてきたであろう山賊は、最後に驚愕と畏怖を刻み込まれ、この世を去った。
「テ、テメェェェぇぇぇえええ!!!」
山賊達の変わり様は凄まじかった。
巣穴から飛び出たウサギと思っていた生き物が、途端に得体の知れない化け物に変貌を遂げたのだ。
狩る筈の側が狩られる側に回る。
山賊達の今までの経験からは決してなかったことだ。
今までに無い恐怖が山賊達の目を曇らせ力任せに武器を振るわせた。
「残り5人か」
だがそれも無駄に終る。
6人いた山賊達も1人欠けて残り5人。その5人が一斉に掛かっても傷を負わせることすら出来なかった。
振り下ろされたメイスの一撃をサイドステップで避け、右脇腹を狙った刺突剣をナイフで弾く。
そのまま刺突剣の男の背後に回り込み、背を押しのけ、左から力任せに大振りの剣を振り回す男にぶつける。
そして男2人がぶつかって出来た隙に飛び込んで、もう一人の斧を持った山賊の首を──
といったように次々と、まるでパズルを一つ一つ崩していくように山賊達は『処理』されていく。
「わ、わかった! 負けだ!俺達の負けだ! 何でも言う事聞くからたっ!助けてくれ!」
最後に残った男の口から出てきたのは、定型文にも似た降伏を示す言葉だった。
最初にあった『世の中のものは全て自分たちのものだ』と言わんばかりの傲慢に満ちた威勢は既に消え失せ、瞳には涙を浮かべて命乞いをしている。
尻をつき、かかとで地面を擦るようにズリズリと後ろずさる様はいっそ哀れですらあった。
「それはダメでしょ。」
しかし終の言葉は簡潔に死を下す。
「だっておじさんだって武器持ってそこの子を捕まえようとしてたんだし、そもそも山賊なんでしょ? それはダメだよ。
人の命が欲しいなら自分も命を賭け金にしないと。そして今日は賭けに負けたんだから大人しく諦めないとダメだよ。
今まで散々好き勝手やってきていざ自分の番が来たら助かろうなんて── そんなムシのいい話は無いよね?」
「こっ!これからは心を入れ替えて人のために働くからよぉ! なぁ!? 今までの分マジメに生きていくからよぉ!」
とそこで、思い出したように終が背後を振り向いた。
事の発端となった羽根を生やした少女である。
「あのさ」
「はいっ!?」
「いや、特に何も聞かず山賊退治?始めちゃって今まさにフィナーレを迎えようとしてるんだけど── このままやっちゃっていい?
もし何かこの人に聞きたいこととかやって欲しいこととかあるなら好きにしちゃって良いと思うんだけど」
終がそう言うと、少女は相変わらず正体不明の卵を抱えたまま「うーん……」と唸り、
「殺っちゃっていいんじゃないですかねー」
「おっけー」
朗らかな笑顔と共にそう告げた。
いっそ、このまま春を迎えてしまいそうな程清清しい、暖かな笑顔だった。