眼下に広がる灯の一つ一つをなぞっていく。
緑、赤、黄、そして白。
どれもこれも街明かりのそれと言うには目にきつ過ぎる。
空を見上げた。
黒が一面に広がるその空には、所々に煌めく星の光。月の光。
そしてその黒の中に蠢く雲。蠢く白。
目を細める。見えたのは巨大な飛行船だった。
心がざわついた。
再び眼下に眼をやれば、その光景がやたらと輪郭を帯びてくる。
航空灯、誘導路、滑走路、少し遠くに聳え立つのは管制塔か。
ふと空に響く轟音に釣られて空を見上げる。
先ほど見えた白い飛行艇がエンジンとプロペラを回しながら高度を下げつつあった。
唸る風。身に纏う外套と衣服と包帯を靡かせる。
心がざわついた。
耳が遠くなるほどの音が次第に小さくなり、飛行艇の中からは大勢の乗客が。
いや、どちらかというと兵隊か?
全身を黒で塗りつぶした兵隊服。肩に背負われた銃。どれもこれも見慣れた物だった。
見慣れ過ぎた者共。
≪あれか?≫
≪運命の時≫
≪キヒヒ……始まるみてぇだな≫
幾つもの心がざわめいた。
内に溢れる様々な声共に一喝する。
それぞれ無言と謝罪と愚痴を飛ばして黙りこくった。
どれもこれも曲者ばかり。
しかしこれがなくては何も出来ない。
この身をすっぽりと覆う灰色の外套が一度大きく揺らいだ。
その下の胸元に取り付けられた5本のナイフを手でなぞる。
幾人もの血を啜ってきたナイフ。
おそらくは最も忌避されなければならない手段そのもの。
だが何の因果か、俺はそれに慣れてしまった。
≪お? 乗っ取っていいか?≫
≪止めておけ、軟弱者≫
≪あァ? 犬っころは黙ってろよ≫
心情が筒抜けと言うのは決して心地良いものではない。
外套。衣服。包帯。皮膚。その下にいる輩が小うるさく吠える。
一匹はそれなりに協力的だ。
一匹は攻撃的だが阿呆だ。
一匹はあまり喋らない。むしろ先ほど聞こえた声が久々の声だったかもしれない。
心がざわつく。
だが揺れることは許されなかった。揺れればこいつらが喰いにかかる。
人を名乗るのならば、迷いも、躊躇も、葛藤も必要なものだろう。
だが、それ許されるほどの境遇に立つことは出来なかった。
自己を明確に認識した時点で、既に逃げ場はなかった。
故に、襲いかかる全てをねじ伏せようと決めた。
≪けっ、分かってるっつの≫
≪ふっ≫
≪…………≫
恨もうとは思わなかった。
こういう理不尽がまかり通るのが、この世界だったから。
いや、むしろ俺が生きていた世界でもこのような闇はあったのかもしれない。
平和を嗜むことに溺れていただけで。
だとしても、この世界は俺にとってあまりにも――――。
絶望しかけた。
しかけた、だけだ。
すればよかったのかもと稀に考えることがあるが、そのような邪念など一秒も続かない。
それほどに俺は救われた。
だが、彼女らは、彼らは救われない。
≪へへへっ、血溜まりクドー、今此処に反逆せんってかァ?≫
≪それを見届けるために我らはいる≫
≪運命の、時≫
故にそれだけは……友だけは救うと決めた。
例え彼らが救いを求めないとしても、例えそれが崩壊の兆しを含んでいても。
ただ、俺のために。
ただ一つ執着出来た心のために。
爆音。
それに続いて瓦礫が崩れ落ちるような金属音も聞こえた。
さらには誰かの悲鳴も。
合間に銃声。
先ほど飛行場に着陸したばかりの飛行艇を見やれば、人影が二つ。
逃げる誰かと、追う誰か。
片方は知識と記憶にしかない。
つまりは逃げる方。
片方は、記憶と知識と、そして縁があった。
俺を繋ぎとめる縁の一つ。
飛行艇の中に入る二つの影の内、追う方ばかりを見つめていた。
彼の後ろに靡いていく赤のターバン。浅い黄緑の外套。
管制塔のてっぺんより眺める彼の顔は、まだ見えない。
やがて二つの影に一つの影がいつのまにか加わり、飛行艇の甲板にてそれぞれは相対した。
そういえば背丈の小さい獣の姿もある。
始まる。
始まるぞ、血溜まりクドー。
既に歯車は狂っている。
何を恐れるものか。
この日を俺は待ちわびていたのだ。
空にこの身を躍らせる。
足を付けるのは遥か眼下の飛行艇甲板。
ただの人間には耐えられない衝撃がこの身を襲うのだろう。
あそこにいる三人は凄腕ハンターと魔女と正当な血筋を持っていただろう混ざり物。
ただの人間には介入することも許されない闘争が始まるのだろう。
この腐った身体を叩きつける風が俺を襲う。
果たして風に靡く外套の音に気付いたのはハンターか、魔女か、獣か、混ざり物か。
ハンターはこちらに気付くと同時に、背後から襲いかかる魔物を槍で捌いた。
ジャイアントバット、だったか?
混ざり物が召喚した魔物故にか、その力は羽虫の如く。
破砕音を立てながら甲板に着地。
同時に魔女の傍にいた獣が俺に向かって吠えた。
魔女は俺に気付いて身体を震わせた。
俺は見る。
他の誰でもない、そのハンターの姿を。
「おい、こいつも追手の一人って奴か?」
「ち、違う、と思う。あんな人は見たこともないし」
ハンターと魔女が互いに此方を警戒した。
彼らを挟んだ向こう側。
混ざり物は、俺の姿を捉えるなり悲鳴を上げた。
絶望にも似た悲鳴だった。
「ヒッ……お、お前っ! く、来るなっ! 来るなよ!!」
恐慌に陥る混ざり物と俺だけが状況を理解出来る。
ハンターと魔女には分からないだろう。
混ざり物が地べたを這いずるようにして飛行艇よりその身を投げ出そうとした。
しかし――――。
すまんな。
確か、アルフレッドとやら。
知識と記憶だけでは、お前を助ける選択肢は取れないんだ。
瞬間、風を切る音。
ハンターと魔女の間を縫うようにして線を残す銀色は、混ざり物の額に赤をぶちまけた。
「あがっ……あ、あァ……ねえ、さ……」
悲しげな断末魔と共に、アルフレッドは大の字のままに倒れて事切れた。
外すわけもない。
幾度もこのナイフは肉を突き、切り裂いてきたのだから。
「なっ……」
声にならぬ戸惑いを上げる魔女を尻目に、ハンターはその鋭利な槍の先を俺に向けた。
やがて薄暗がりにはっきりと見えてくるハンターの貌。
童顔なそれは俺の待ち望んだヒーローの顔。
その身が構える牙は、全てを燃やしつくす紅蓮の炎。
その瞳は、俺の思い出の中にある紅のままだった。
やがて俺の背後よりぞろぞろと現れる、黒のスーツに身を纏った男達。
槍を向けられながら感傷に浸っていた俺の隣に並び、空気の読めないことを言う。
魔女の獣なぞは、そんな俺と黒服に唸り声を上げている。
魔の住人がそのような気高い心を持つ。
俺も魔女の下僕になれればそのような心を持てるのかと考えた。
黒服が言ったのは諦めろだの、娘を渡せだの、ハンター風情が、だの。
よく聞いていなかったから記憶にも残らなかった。
ただ銃を突きつけ、甲板の端まで追いつめて行く黒服。
「私……そっちに行きます」
ふと、魔女が――――儚げに笑いながら肩を落とした。
彼女とハンターの『今現在』の関係は記憶している。
飛行船ジャックの犯人を追ってきたハンターが、たまたまその道中で拾った火中の栗。
それを巻き込むなどと……おそらくは心優しいだろう魔女にはできなかった。
にやりと汚らしく笑う黒服に眼を顰めるが、俺は動かない。
記憶でもなく、知識でもなく、俺は彼がどうするのかを分かっているから
多勢に無勢の状況の中。
おぼつかない足取りで黒服へとその身を預けようとする魔女に呆けていたハンター。
こちらに近づいてくる魔女の表情はよく見える。
諦めの表情。
チラリと俺の方を見ると、彼女はもう一度身体を震わせた。
「俺を……」
風が吹く中、ハンターが、彼が、炎が声を漏らした。
俺の待ち望んでいた声だった。
そして炎は、ただがむしゃらに吼えた。
「俺を見損なうんじゃねえ!!」
エルクよ。
あの白い家で友になった炎のエルクよ。
俺のことは覚えているだろうか。
俺の事を思い出してくれるだろうか。
まるでヒーローのようにその魔女を掻っ攫ったエルクは、鉄線を伝って一気に遥か遠くまで逃げて行ってしまった。
そしてそれを無様に止めようと銃を乱射する黒服。
「クドー! 何故止めなかったっ!」
やがて飛行場の奥へと姿を消していった彼らの後を眺めていれば、黒服が俺に叫んだ。
怒号。戸惑い。そして少しの恐怖を。
どうせすぐにばれることだろう。
俺は物語を加速させるためにさっさと真実に近い事を話してやる。
「炎使いのエルク。白い家。ガルアーノ様に言えば分かるだろう」
「白い家……? 何のことだ」
「さて……俺も少々度肝を抜かれただけだ」
もはや俺に向ける黒服達の声など届かなかった。
先ほど見たエルクの顔を、声を、もう一度思い出す。
≪あれが、エルク、ねぇ。ただの餓鬼じゃァねえのかい?≫
小うるさい心の一つが思い出を邪魔する。
だがその言葉は頑として否定してやろう。
彼は、ただの餓鬼じゃあない。
物語の主人公とでも言えばお前達には分かりやすいのだろう。
彼をただの絵本上の人物と見るには、少々深くかかわり過ぎた。
所詮幼少の頃の数か月ではあるが。
≪さて、物語通りに動くのだろうか≫
もう一つの心が言う。
動くはずがない。
断言出来るほどに、俺は既に色々と狂わせてしまっている。
だからこそ、俺が動かねばならない。
≪決意≫
そうだ、その通りだとも。
俺の望みはただ一つ。
友を救う。
それだけだ。