それはノイズで始まる記憶の一部。
血まみれで運び込まれた病院のベッドの上で、幾度も繰り返し見た希望の欠片。
この手を染めた愛する人の紅い血を拭ってくれた、遠い未来からの贈り物。
『初めまして、だな。十五年前の俺』
『なぜ、お前にあえて失敗させたか――分かるか?』
『その執念があったからこそ、俺はこのムービーメールをお前へと届けることができたのだ』
『とにかく因果は成立した。計画の最終段階について話そう――世界線変動率を変え、未知の世界線【シュタインズゲート】へ達する計画だ』
『ちなみに命名したのは俺だ。何故なのかはお前なら分かるはず』
『特に意味は無い……そうだろう?』
『お前は、紅莉栖を助けることができる』
『今、そこにいるお前は。今、ここにいる俺は。七月二十八日に紅莉栖が死んだ、このβ世界線だけで生きてきた岡部倫太郎ではない』
『お前が経験したわずか三週間の世界線漂流を、否定してはいけない。なかったことにしてはいけない――いくつもの世界線を旅してきたからこそ、紅莉栖を助けたいと強く願うお前が、そこにいる』
『お前が立っているその場所は、お前が、俺が、紅莉栖を助けたいと願ったからこそ到達できた瞬間なんだ……!』
『すべて、意味があったことなんだよ』
『最初のお前を騙せ』
『世界を、騙せ』
『それが、【シュタインズゲート】に到達するための選択だ』
◆◆◆
「ふむ、あれだけの怪我だったというのに案外平気なものだな」
一ヶ月以上の入院期間を経て、秋葉の街中を歩きながら俺はひとりごちる。
ドクター中鉢によって抉られた傷は思いのほか深く、手術が必要なほどだった。医者によれば、あと一時間、手術が遅れていたら命が危なかったそうだ。
まあナイフで刺された傷口に、自分の手を突っ込んでさらに広げたりすればそれも当然かもしれん。
あの時の俺はそれが必要だと思い、事実、必要なことではあったのだが、帰りのタイムマシンでは鈴羽に怒られると同時に呆れられ、戻ってきたら戻ってきたで、まゆりやダル、ルカ子らのラボメン、それに両親にえらい心配をかけてしまったことは、素直に申しわけないと思う。
そんなことを考えながら、久しぶりの秋葉の街を眺めやる。
一ヶ月程度では、何がどう変わるわけでもないが、それでも何かが変わったと感じるのはただの気のせいではないだろう。
「未知の世界線シュタインズゲート、か」
手の中でラボメンバッジをもてあそびながら、小さく息を吐く。
十五年後の俺が計画立案した『未来を司る女神』作戦――オペレーション・スクルド――は何とか成功した。俺自身が刺されるというアクシデントはあったにせよ、もたらされた成果を思えば、それも些細なことだ。
成果――まゆりも、そして紅莉栖も生きているこの世界。未来の俺が定義したシュタインズゲート。
タイムマシンと共に笑顔で消えた鈴羽の姿がよみがえる。
α世界線ではない、β世界線でもないこの世界は、しかし本当にアトラクタフィールドの影響を受けない世界なのだろうか。もしかしたら収束は時をこえ、形をかえるだけで、再び俺たちの身に……
「考えても仕方ない、か」
俺はかぶりを振って、浮かび上がってきた思考を遮断する。
そう。鈴羽も言っていた。ここは、シュタインズゲートは、何もかもが幸せになる、そんな夢の世界ではない、と。
七月二十八日に紅莉栖が死なない。九月になってもまゆりは生きている。しかし、明日には二人が死んでしまうかもしれない。
未来が定まっていないということは、何が起きても不思議ではないということ。α世界線よりも、β世界線よりも不幸な未来が待っていないと誰に言えよう。
だが、それが当たり前なのだ。
万物はいずれ死ぬ。別れはいつか必ず訪れる。それが早いか遅いかの違いだけ。
だが、だからこそ、共に在れる今この時がなによりも尊いのだ。
俺の無知と無様がもたらした世界線漂流で、足掻きに足掻いた末に得られたものが、こんな当たり前の結論だというのも間抜けな話だ。自嘲まじりにそう思う。
「っと。いかんいかん。また欝モードに入りかけているぞ」
ダルやまゆりたちが結構頻繁に(というか、まゆりにいたってはほぼ毎日)見舞いに来てくれたとはいえ、一ヶ月の入院生活は圧倒的なまでに暇だった。必然的に考え事をする時間が増え、考えれば考えるほどに自分の気分が下降線を辿っていくのである。
過去の自分がとった行動に対する自責はもちろん、これからの生活に関する不安――というよりは奇妙な空疎感とでも称すべきか――が気分を侵食していくのだ。
その理由に見当はついていた。
入院中、ダルに言ってつくってもらったラボメンバッジ。ルカ子らには道すがら渡してきたので、残っているのは三つだけだ。自らの№001、七年後に渡す予定の№008。そして……渡すことのかなわない№004。
バッジに記された『M』の頭文字に視線を向けた俺は、無理やりそれをひきはがし、見事に晴れ渡った空を見上げて、小さく呟いた。
「べ、別に涙をこらえてるわけじゃないんだからなッ」
――言ってから思った。男のツンデレ台詞はうざいだけだ、と。
◆◆◆
懐かしの(というほど時間は経っていないが)我が未来ガジェット研究所に帰ってきた俺は、好物のジューシーからあげナンバーワンを満面の笑みで頬張るまゆりと、なにやら熱心にパソコンの画面に見入っているダルの姿をぼうっと眺めていた。
そんな俺の様子に気づいたのか、まゆりが首を傾げて問いかけてくる。
「オカリン、オカリン。ぼーっとしてるけど、どうしたの? もしかして気分悪いのかな?」
「そして入院へ。さすがオカリン、ナース服のためならおしめも辞さないその覚悟、そこにしびれ――」
「ダルうるさい。それとおしめのことは言うな」
画面から目をはなさず、声だけ届けてくる我が右腕を強い口調で制する。
……いや、手術のあとはろくに動くことが出来ず、当然あれやこれやも自分で処理できない。そのあたりの世話を母やまゆりにしてもらったわけだが。
(仕方ないとはいえ、この年で、な……)
おしめの世話になろうとは。そしてそれを母と幼馴染にやってもらうとは。無論、感謝はしているが、だからといって羞恥が消えるわけではない。正直、しばらくはまゆりの顔が直視できなかったほどだった。
「……っと、それとまゆり、別に気分が悪いわけではない。久方ぶりの帰還の喜びに浸っているだけだ」
「そうなんだ、よかったー。それでは、まゆしぃは再びジューシーからあげナンバーワンの攻略にとりかかろうとおもいまーす」
「うむ、健闘を祈る」
援軍は不要と見て取り、俺は再び室内に目を向ける。
電話レンジ(仮)はすでに廃棄し(まゆりのからあげを暖めたのは、ダルが拾ってきたやつだ)IBN5100も無論ない。
ラボは、俺がラジオ館に赴いた時となんらかわらぬ佇まいを見せている――そのはずなのに。
胸に迫るのは、喪失感。
あるべきはずのものがない。その感覚が痛いほどに心を苛んでいく。病院のベッドの上である程度耐性ができたと思っていたが、実際にラボに帰ってみると、喪失感はよりはっきりと形をともなって襲ってきた。
ここで過ごした三週間は『なかったこと』になった。
だが、俺の胸から消え去ることはない。山のような悔いと憂いを残したが、それでも忘れることは許されないし、忘れたいとも思わない。たとえそれが、今、胸を苛むこの痛みと一生付き合うことを意味するのだとしても……
「むー」
「うぉッ?!」
気づけば、眉をひそめたまゆりの顔が間近にあった。近い、近いぞまゆり。
だが、慌てる俺をよそに、まゆりはじーっと俺を見つめてくる。だから近いというにッ。
「オカリン、やっぱりちょっと変だよー? まゆしぃはとっても心配なのです。どのくらい心配かというと、ジューシーからあげナンバーワンが喉を通らないくらい」
たぶん、まゆり的には最大限の心配をあらわす表現なのだろう。その心はありがたい。その表現はどうかと思うが。
◆◆
その後、いくつかのやりとりを経て、俺は今日は自宅に帰ることにした。
確かに疲れもあった。退院したばかりだというのに、ラボメンバッジを渡すために歩き回ったせいだろう。元々、体力に自信などない身だ。
まゆりはついてきたそうにしていたが、それには及ばないと断る。さすがに退院してまで付き添ってもらうわけにはいかないし、正直なところ独りになりたかった、ということもある。
――ラボに紅莉栖の存在を示すものが何も無い。その当たり前の事実が、思った以上に響いたせいだった。
まゆりとダルは紅莉栖のことを知らず、紅莉栖が着ていた白衣は今もたたまれたまま。買い置きしていたカップ麺は一ヶ月以上前のもので、机や棚を見ても学術書など見当たらない。
そんな今に慣れるまで、まだ多少時間がかかりそうだった。
ドクター中鉢――牧瀬章一は、亡命先のロシアで身柄を取り押さえられた。第三次世界大戦の引き金となった『中鉢論文』は飛行機火災で塵となり、再び世に出ることはないだろう。
ドクター中鉢はジョン・タイターの理論を剽窃する程度の頭脳しかない男だ。あの紅莉栖の論文がなければ、相手にする人間はいないだろう。くわえて俺が刺された件を紅莉栖が通報したらしく、警察からは重要参考人として扱われているというからなおさらだ。
ロシアにしても、利用価値のない人間をかばうほど暇でも酔狂でもあるまい。あの男は、おそらくもう再起できまい。
殺されかけた身としては、ざまを見ろと言いたいところだが、紅莉栖の胸中を思えばそんな言葉を吐けるはずもない。父親との和解を真摯に、懸命に求めていた少女は、今、どんな気持ちなのだろうか。
かなうなら、今すぐにアメリカでもどこでも行って慰めてやりたい。紅莉栖が慰めを望まないとしても、せめて傍にいてやりたいと思う。
だが、今の俺と紅莉栖は、ラジオ会館で二度、顔をあわせただけの他人だ。一応は命の恩人といえないこともないが、俺は紅莉栖を気絶させるためにスタンガンまで使ったのだから、立派な加害者でもある。
そしてあの場のあの状況。紅莉栖ほど聡い人間でないとしても、疑念が尽きることはないだろう。ましてあの紅莉栖だ、俺に対して不審がないはずがない。
とはいえ、あの事件は『被害者が行方不明』として捜査が滞っているようだから、俺と紅莉栖が顔をあわせるような事態にはならないだろう。傷の具合や出血の状況から俺へと捜査の手が伸びるかと思ったが、俺が病院に担ぎ込まれた日にちと事件発生の日にちのずれから、俺と事件を関連付けようとする者はいなかったらしい。幸いというべきだが、まあ当然といえば当然か。
そんなことを考えている間に、ラジオ会館に着いていた。
何か特別な目的があったわけではない。ただ、すべてが始まったこの場所をきちんと見たいと思ったのだ。こんな寄り道をまゆりに知られたら、頬を膨らませて怒るだろう。
そのまゆりの顔を思い描き、小さく笑みをもらしてから、俺はあらためてラジオ会館を見上げた。
そこには、何の変哲もないラジオ会館があった。壁にめりこんだタイムマシンも、その痕跡もない綺麗な壁面。俺以外のすべての人にとっては当たり前のその光景が、俺にとっては不思議なものに映る。
――不思議に映り、そして哀切をともなった痛みを訴えかけてくる。
「すべてが始まり、すべてが終わった場所……いや」
終わってなどいない。むしろ、これから始まるのだ。俺と紅莉栖の道が二度と交わらない未来、だが紅莉栖が生きている未来だ。それ以上を望むことなどできるはずがない。
そうと知り、そうと受け入れ、それでも胸から去らぬ痛みが、俺は誇らしかった。
女々しいなどとは思わない。この痛みは、岡部倫太郎という人間にとって、とても大切だったもの。今なお大切なもの。これまでの長からぬ人生で、幸運にも得ることが出来た無二の宝なのだから。
「……さて、そろそろ帰らんとまゆりに悪いな」
立ち止まったままラジオ会館を見上げる俺に向け、幾つもの奇異の視線が向けられてくる。
それに気づいた俺は、自分に言い訳するように呟くと踵を返した。
鳳凰院凶真でいる時は、周囲の目など気にならないのだが、さすがに今ここで「フゥーハハハッ!」などと叫ぶ気は起きなかった。
雑踏を少し進めば、たちまち視線も失せる。今日も今日とて人であふれる秋葉の街は、大小無数の人間の悲喜こもごもを飲み込んで賑やかにさざめいている。
俺はその中を群集の一人として歩きだす。それはこれまでと何らかわらない道のりであり、これから続く未来を思わせる雑然とした街並みが左右をゆっくりと流れていく。
いくつもの他人の声、いくつもの他人の姿。その視界の片隅に、どこか見覚えのある姿が映ったように思えた。翻る長い髪が、どこか彼女を思わせ――
「……え?」
俺は知らず足を止めていた。
落ち着け、と内心で自分に言い聞かせる。長い髪の女性などいくらでもいる。似たような服装の女性もいくらでもいる。たまたま、その二つが重なった女性だっているだろう。
大体、何を期待しているのか。紅莉栖はとうの昔にアメリカに帰っているはずだし、たとえ父親の件で出国を止められているとしても、秋葉の街中を歩いているはずもない――
そんなことを思いながら、それでも身体はまるでそれが当然だというように振り返っていた。
その視線の先で。
女性もまた、俺の方を振り返っていた。
幾人もの人々が互いの視界の中を横切っていく。にも関わらず、俺は女性の姿を正確に捉えていた。まっすぐにこちらを見つめる女性の視線を見れば、彼女もまた、俺を捉えているのだとわかった。
互いの距離がゆっくりと縮まっていく。
ゆっくりだったのは、近づこうとしたのが彼女だけだったからだ。
俺は呆けたようにその場に立ち尽くしたままだった。
それでも彼女は歩みを止めず。やがて、俺たちは至近の距離で向かい合う。
「やっと、会えた」
震える声で、呟く。
聞きたかった声。
聞きなれた声。
――そして、二度と聞けないはずの声だった。
◆◆
「あなたを、ずっと捜していました」
そういって、紅莉栖は俺に向かって笑いかけた。正確に言えば、笑いかけようとしたのだろう。だが瞳に涙の雫を浮かび上がらせたその顔は、まるで泣き出す寸前の子供のようだ。
再会の喜び――そんなはずはない。紅莉栖にあの三週間の記憶はないのだから。
「あの時、助けてくれたあなたを、ずっと――」
ああ、それならば納得だ。性格は多少難ありだったが、優しく情にあつかった彼女のこと。自分のために刺された男を案じてくれていたのだろう。
ならば、俺はその礼に応じれば良い。妙なことを口走って、いつぞやのように彼女の興味をひかないように注意して――そして、綺麗に別れれば問題はないだろう。
すがるような眼差しで俺を見つめる紅莉栖に、俺はこほんと咳払いする。
「また会えたな、クリスティーナ」
言った瞬間に、壁に頭をぶつけたくなった。なんだクリスティーナって。迂闊なことを口走るなと自分に言い聞かせたばかりではないかッ。
だが。
応じて開かれた紅莉栖の唇からつむがれた言葉に、俺は凍りつく。
「いや、だから私はクリスティーナでも助手でもないって言っとろう――」
驚いたのは俺だけではない。むしろ、言った紅莉栖の方が驚きは深かったかもしれない。
「……え?」
思わず、という感じで紅莉栖は自分の口元を手で押さえる。今、自分は何を口走ったのだろう。そんな内心の疑問がありありと表情に浮かんでいた。
「あれ、私……今、ふっと頭の中に言葉が浮かんで……どうして……?」
問いかけるような眼差しに、応える術を俺は持っている。
(リーディング・シュタイナーは誰もが持っている。ならば、いずれ紅莉栖もあの三週間を思い出すことが出来るかもしれない)
いや、たとえ思い出せないとしても、それはまた一からはじめるというだけのこと。
今の紅莉栖にとって、俺の語る言葉は荒唐無稽なものだろうが、それでも紅莉栖ならば。
まゆりを救おうと足掻き続け、それでも救いえず、ひとり街中で座り込んだ俺を救い上げてくれた彼女ならば――
俺の手が無意識にポケットをさぐる。そこに№004のラボメンバッジが残されている。
渡したい。そう願う俺がいて。
だが、それ以上に渡してはならないと叫ぶ俺がいる。
α世界線でうまれた二つの技術。Dメールとタイムリープマシン。
これらが完成したのは、俺と紅莉栖の存在ゆえだ。
無論、俺が果たした役割など微々たるものだ。技術的な面でいえば、ダルの方がはるかに紅莉栖の力になっていただろう。だが、それでも紅莉栖たちだけでは完成しなかった。そもそも、タイムトラベルを否定する紅莉栖はそこに至ろうとさえ思わなかったに違いない。
俺の意思と紅莉栖の能力こそが、タイムトラベル理論を現実にもたらしえたのである。
俺はもうタイムトラベル理論と向き合うつもりはない。
紅莉栖もまた父親があんなことになってしまった以上、その原因――しかも元々否定していたタイムマシンに携わろうとは考えまい。
だが、それでも俺と紅莉栖が共にいることで、タイムマシンとそれに付随する技術がうまれてしまう可能性は残るのだ――たとえそれが極小の数字でしかないとしても。
そこまで考え、俺は内心でかぶりを振る。
(……それは建前、だな)
そう、何より怖いのは再び世にタイムマシンがあらわれるかもしれないことではない。
問題なのは、俺が『なかったはずの』三週間を覚えていることだ。
俺といることで、紅莉栖があの三週間を思い出すかどうかはわからない。
思い出してくれるのなら、俺にとっては万々歳――そんなわけあるか。
今の紅莉栖にとって、あの三週間の記憶が必要なものであるかと問われれば、答えは否だろう。
まあそんなことをあの助手に言えば「わたしのことをあんたが勝手に決めるなッ」と怒鳴られるだろうが、やはり『なかったはずの』記憶など、思い出したところで有害無益だろう。
最悪の場合、思い出したことで世界線に影響を与えてしまいかねない。
なら、この世界線の紅莉栖と一から関係を構築するか――無理だ。俺にはリーディング・シュタイナーによる記憶がある。牧瀬紅莉栖という少女と過ごした記憶が、はじめて本気で好きになった彼女の思い出が、ある。
それを持ったまま一から関係など築けるはずがない。
たとえこの世界線の紅莉栖が俺に好意を寄せてくれたとしても、俺の思いはこの世界線の紅莉栖とは関わりない記憶によって形作られている。紅莉栖にとって、自分のあずかりしらない好意に価値などあるまい。
たとえばの話。
紅莉栖が俺の知らない記憶を持っていて、そちらでも俺と紅莉栖は恋仲だったとする。
そんな紅莉栖が俺に好きだと言ったとき、俺は素直にその言葉を聞けるか? 紅莉栖の胸に住んでいるのは、自分の知らない自分――そんなもの他人と何が違うというのか。
つまりはそういうこと。思い出すか否かに関わらず、俺と紅莉栖は一緒にいるべきではない。それが、病院のベッドの上で幾度も考え抜いた末に俺が出した結論だった。
だから。
「すまない。思わぬところで思わぬ人に会ったせいか、冷静さを保とうとして妙なことを言ってしまったようだ。改めまして、久しぶり……というほどの付き合いもないかな、牧瀬紅莉栖さん」
「え、あ、いえ、そんなことは……ないです。お久しぶりです」
俺が真面目な顔で応じると、紅莉栖は慌てたように何度も首を横に振っている。
そして、困惑したように「えっと……」と呟きつつ、俺の顔をうかがっている。
「岡部倫太郎だ。聞かれる前に言っておくと、君の名前を知っているのはサイエンスの論文を見たからだよ」
「あ、そ、そうですか……岡部、倫太郎、さん」
舌の上で転がすように俺の名を呟く紅莉栖は、控えめに見ても可愛らしかった。ただ、その丁寧に過ぎるほどの言葉遣いには激しい違和感を覚えるが、紅莉栖としてはようやく出会えた恩人を前にしているわけだから、こう話すのが当然だろう。
そういう俺の口調もはっきり言って変だ。まゆりやダルが聞けば、吹き出すか頭の心配をするかのどちらかだろう。
しかし、ほとんど初対面の相手に砕けた口調で話すのも妙だし、ここで厨二全開で話すのはためらいがある。
……どうやら、俺は今回の件で大人になってしまったようだ。鳳凰院凶真であれば、決してここでためらったりしなかっただろう。
「大人になるって悲しいことなの、か……」
「欝ゲー乙」
「……なに?」
「……え?」
俺の呟きにすばやく反応した紅莉栖。
打てば響くようなその反応の速さは、さすがは生粋の@チャンネラーといったところか。
「な、ななな、なんでもないです、ごめんなさい、私こそ妙なことを……ッ!」
さきほどまでとは違った意味で顔を赤くする紅莉栖を見て、俺は突っ込みたいところを必死に堪えた。
ただそれだけの短いやり取りだったが、ほんのわずかではあっても、あの頃と同じ空気を味わえたことで、かえって俺は吹っ切れた。
「それはともかく、礼は確かに受け取った。だが、おそらく君も気づいているとは思うが、俺は俺の目的があってあの場にいた。そして、それは人に言えない類のことだ。君が少しでも恩を感じてくれているなら、俺のことは黙っていてほしい」
礼だけ言って帰ろうかとも考えたが、紅莉栖のことだ、数々の疑問を等閑にしたりはしないだろう。ラジオ会館で声をかけ、その後、人が近寄らない通路での出来事に介入した。命を脅かすほどの重傷を負ったにも関わらず、姿を消し、病院にもいかず、警察にも捕まらない。
――通りすがりの人間で通すには、あまりに不自然なことが多すぎる。下手に隠せば疑問は容易に不審へと結びつくだろう。
であれば、あえて正面からそれを口にすれば良い。その上で、今回の件を盾にとって口を封じる。無論、普段の紅莉栖ならこんなことで頷くはずもないが、命の恩人の願いとあっては承服せざるを得まい。
事実、口を開きかけていた紅莉栖は、実に複雑な表情で口をつぐんでしまった。
感謝の念は念として、俺に問いただしたいことが、それこそ山のようにあったに違いない。まあ予想どおりといえば予想どおりだ。
「……人に言えない、というのは国が絡むことだから、ですか?」
それは父親のロシア亡命をうけての疑問だろう。紅莉栖の表情が曇る。
だから、俺はかぶりを振って否定する。
「答えられない――と言いたいところだが、そのくらいならいいか。国は関係ない。きわめて個人的な理由だ」
「なら……ッ!」
「それでも話すことはできない」
そう言って、俺は紅莉栖に頭を下げる。軽く、ではない。それこそ上体を九十度に折り曲げる勢いで頭を下げた。
「……え?」
そんな俺を見て、ぽかんと口を開ける紅莉栖。
「君が抱いている疑問は理解しているつもりだ。何が何やらわからず、さぞ苛立っているとも思う。だが、それでも俺は何も言えない。誰かに強いられたからではなく、俺自身がそう決めたからだ」
「え、ちょ、ま……わ、わかった、わかりましたからッ! あ、頭を上げてください、そんな、私、そんなつもりじゃ……それにまわりの目がッ」
紅莉栖の慌てふためいた声に、ようやく俺は周囲に意識が向いた。
雑踏の中、はた迷惑にも立ち止まって話す男女。深々と頭を下げる男。慌てる女(美少女)。
「……うむ、冷静に考えるまでもなく、実に珍妙な光景だ。それは周囲に人垣の一つ二つできてもおかしくはないな。というか、すでに形成されつつあるようだ」
「な、なにを冷静に分析しとるかッ! これじゃまるで私が『どうか別れてください』ってきり出された恋人みたいじゃ……」
「いや、さすがにそこまで穿った見方をしてるやつはいないと思うぞ。普通はむしろ逆にとるのではないか?」
「そ、そうです、か?」
「ああ。しかし、今の発言で比率は完全に逆転したが」
「え、ええッ?!」
おそるおそる周囲を見渡す紅莉栖。そんな紅莉栖と俺をとりまく好奇の視線。ひそひそ声。
女の視線は同情、男どものそれは半ば怨念に近い。この場にダルがいれば「リア充は死ね、氏ねじゃなくて死ね」などと盛大にののしってくれたことだろう。
「ともあれ、長居は無用だろう。俺はここで失礼させてもらおう」
そういってから、俺はいまだ周囲を気にしている様子の紅莉栖に視線を注ぐ。
それに気づいた紅莉栖が、戸惑ったように口を開く。
「あ、あの、なに――」
「紅莉栖」
普通に呼びかけたつもりだったが、紅莉栖は何故か緊張したように背筋を正し、裏返る寸前の高い声で応じた。
「は、はいッ」
「――幸せにな」
ただ一言。
俺はそう言ってから踵を返し、見物人たちの間を通り抜ける。
目は閉ざしたままだが、あえて今の俺を遮る者はいないだろう。その確信を肯定するように、俺の歩みを止める者は誰一人としていなかった。
(……決まった)
会心の別れだ。いや、別れに会心という表現が適切かどうかはしらないが、その表現以外に思いつかない。
いささかならず臭い演出だったが、正直、このくらいしないといつまでも引きずってしまうだろう。紅莉栖が、ではない、俺がだ。
予期せぬ再会だったが、これで紅莉栖との縁はきっぱりと断ち切り、これ以降は二人は別々の道を歩いていく。うん、それでいい。俺は一人しずかに頷き――
「――なに一人でカッコつけてるんですかッ!」
そんな声とともに襟首ひっつかまれてのけぞる羽目になった。