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[24074] Steins; Gate after ~シュタインズゲート~
Name: 崩◆0eb04563 ID:9e91782e
Date: 2010/11/07 02:06


 作者より読者の方々へ
 このSSはシュタインズゲートの二次創作です。
 trueエンドと、その後の主人公たちを短く書く予定ですので、内容的には壮大なネタばれになっております。
 ゲーム未クリアの方、これからやろうとしている方々はご注意ください。

 なおゲーム中に出てくる設定や単語の説明は省いてありますので、ゲームをされていない方にはわかりにくい表現や箇所があるかと思います。
 そちらもあわせてご了承ください。




[24074] 可能実現のエンテレケイア
Name: 崩◆0eb04563 ID:9e91782e
Date: 2010/11/09 18:26

 それはノイズで始まる記憶の一部。
 血まみれで運び込まれた病院のベッドの上で、幾度も繰り返し見た希望の欠片。
 この手を染めた愛する人の紅い血を拭ってくれた、遠い未来からの贈り物。




『初めまして、だな。十五年前の俺』


『なぜ、お前にあえて失敗させたか――分かるか?』


『その執念があったからこそ、俺はこのムービーメールをお前へと届けることができたのだ』


『とにかく因果は成立した。計画の最終段階について話そう――世界線変動率を変え、未知の世界線【シュタインズゲート】へ達する計画だ』


『ちなみに命名したのは俺だ。何故なのかはお前なら分かるはず』


『特に意味は無い……そうだろう?』


『お前は、紅莉栖を助けることができる』


『今、そこにいるお前は。今、ここにいる俺は。七月二十八日に紅莉栖が死んだ、このβ世界線だけで生きてきた岡部倫太郎ではない』


『お前が経験したわずか三週間の世界線漂流を、否定してはいけない。なかったことにしてはいけない――いくつもの世界線を旅してきたからこそ、紅莉栖を助けたいと強く願うお前が、そこにいる』


『お前が立っているその場所は、お前が、俺が、紅莉栖を助けたいと願ったからこそ到達できた瞬間なんだ……!』


『すべて、意味があったことなんだよ』


『最初のお前を騙せ』


『世界を、騙せ』


『それが、【シュタインズゲート】に到達するための選択だ』




◆◆◆




「ふむ、あれだけの怪我だったというのに案外平気なものだな」
 一ヶ月以上の入院期間を経て、秋葉の街中を歩きながら俺はひとりごちる。
 ドクター中鉢によって抉られた傷は思いのほか深く、手術が必要なほどだった。医者によれば、あと一時間、手術が遅れていたら命が危なかったそうだ。
 まあナイフで刺された傷口に、自分の手を突っ込んでさらに広げたりすればそれも当然かもしれん。
 あの時の俺はそれが必要だと思い、事実、必要なことではあったのだが、帰りのタイムマシンでは鈴羽に怒られると同時に呆れられ、戻ってきたら戻ってきたで、まゆりやダル、ルカ子らのラボメン、それに両親にえらい心配をかけてしまったことは、素直に申しわけないと思う。


 そんなことを考えながら、久しぶりの秋葉の街を眺めやる。
 一ヶ月程度では、何がどう変わるわけでもないが、それでも何かが変わったと感じるのはただの気のせいではないだろう。
「未知の世界線シュタインズゲート、か」
 手の中でラボメンバッジをもてあそびながら、小さく息を吐く。


 十五年後の俺が計画立案した『未来を司る女神』作戦――オペレーション・スクルド――は何とか成功した。俺自身が刺されるというアクシデントはあったにせよ、もたらされた成果を思えば、それも些細なことだ。
 成果――まゆりも、そして紅莉栖も生きているこの世界。未来の俺が定義したシュタインズゲート。
 タイムマシンと共に笑顔で消えた鈴羽の姿がよみがえる。
 α世界線ではない、β世界線でもないこの世界は、しかし本当にアトラクタフィールドの影響を受けない世界なのだろうか。もしかしたら収束は時をこえ、形をかえるだけで、再び俺たちの身に……


「考えても仕方ない、か」
 俺はかぶりを振って、浮かび上がってきた思考を遮断する。
 そう。鈴羽も言っていた。ここは、シュタインズゲートは、何もかもが幸せになる、そんな夢の世界ではない、と。
 七月二十八日に紅莉栖が死なない。九月になってもまゆりは生きている。しかし、明日には二人が死んでしまうかもしれない。
 未来が定まっていないということは、何が起きても不思議ではないということ。α世界線よりも、β世界線よりも不幸な未来が待っていないと誰に言えよう。


 だが、それが当たり前なのだ。
 万物はいずれ死ぬ。別れはいつか必ず訪れる。それが早いか遅いかの違いだけ。
 だが、だからこそ、共に在れる今この時がなによりも尊いのだ。
 俺の無知と無様がもたらした世界線漂流で、足掻きに足掻いた末に得られたものが、こんな当たり前の結論だというのも間抜けな話だ。自嘲まじりにそう思う。





「っと。いかんいかん。また欝モードに入りかけているぞ」
 ダルやまゆりたちが結構頻繁に(というか、まゆりにいたってはほぼ毎日)見舞いに来てくれたとはいえ、一ヶ月の入院生活は圧倒的なまでに暇だった。必然的に考え事をする時間が増え、考えれば考えるほどに自分の気分が下降線を辿っていくのである。
 過去の自分がとった行動に対する自責はもちろん、これからの生活に関する不安――というよりは奇妙な空疎感とでも称すべきか――が気分を侵食していくのだ。
 その理由に見当はついていた。
 入院中、ダルに言ってつくってもらったラボメンバッジ。ルカ子らには道すがら渡してきたので、残っているのは三つだけだ。自らの№001、七年後に渡す予定の№008。そして……渡すことのかなわない№004。
 バッジに記された『M』の頭文字に視線を向けた俺は、無理やりそれをひきはがし、見事に晴れ渡った空を見上げて、小さく呟いた。



「べ、別に涙をこらえてるわけじゃないんだからなッ」






 ――言ってから思った。男のツンデレ台詞はうざいだけだ、と。


 
 

◆◆◆





 
 懐かしの(というほど時間は経っていないが)我が未来ガジェット研究所に帰ってきた俺は、好物のジューシーからあげナンバーワンを満面の笑みで頬張るまゆりと、なにやら熱心にパソコンの画面に見入っているダルの姿をぼうっと眺めていた。
 そんな俺の様子に気づいたのか、まゆりが首を傾げて問いかけてくる。
「オカリン、オカリン。ぼーっとしてるけど、どうしたの? もしかして気分悪いのかな?」
「そして入院へ。さすがオカリン、ナース服のためならおしめも辞さないその覚悟、そこにしびれ――」
「ダルうるさい。それとおしめのことは言うな」
 画面から目をはなさず、声だけ届けてくる我が右腕を強い口調で制する。


 ……いや、手術のあとはろくに動くことが出来ず、当然あれやこれやも自分で処理できない。そのあたりの世話を母やまゆりにしてもらったわけだが。
(仕方ないとはいえ、この年で、な……)
 おしめの世話になろうとは。そしてそれを母と幼馴染にやってもらうとは。無論、感謝はしているが、だからといって羞恥が消えるわけではない。正直、しばらくはまゆりの顔が直視できなかったほどだった。


「……っと、それとまゆり、別に気分が悪いわけではない。久方ぶりの帰還の喜びに浸っているだけだ」
「そうなんだ、よかったー。それでは、まゆしぃは再びジューシーからあげナンバーワンの攻略にとりかかろうとおもいまーす」
「うむ、健闘を祈る」
 援軍は不要と見て取り、俺は再び室内に目を向ける。


 電話レンジ(仮)はすでに廃棄し(まゆりのからあげを暖めたのは、ダルが拾ってきたやつだ)IBN5100も無論ない。
 ラボは、俺がラジオ館に赴いた時となんらかわらぬ佇まいを見せている――そのはずなのに。
 胸に迫るのは、喪失感。
 あるべきはずのものがない。その感覚が痛いほどに心を苛んでいく。病院のベッドの上である程度耐性ができたと思っていたが、実際にラボに帰ってみると、喪失感はよりはっきりと形をともなって襲ってきた。


 ここで過ごした三週間は『なかったこと』になった。
 だが、俺の胸から消え去ることはない。山のような悔いと憂いを残したが、それでも忘れることは許されないし、忘れたいとも思わない。たとえそれが、今、胸を苛むこの痛みと一生付き合うことを意味するのだとしても……
「むー」
「うぉッ?!」
 気づけば、眉をひそめたまゆりの顔が間近にあった。近い、近いぞまゆり。
 だが、慌てる俺をよそに、まゆりはじーっと俺を見つめてくる。だから近いというにッ。
「オカリン、やっぱりちょっと変だよー? まゆしぃはとっても心配なのです。どのくらい心配かというと、ジューシーからあげナンバーワンが喉を通らないくらい」
 たぶん、まゆり的には最大限の心配をあらわす表現なのだろう。その心はありがたい。その表現はどうかと思うが。



◆◆



 その後、いくつかのやりとりを経て、俺は今日は自宅に帰ることにした。
 確かに疲れもあった。退院したばかりだというのに、ラボメンバッジを渡すために歩き回ったせいだろう。元々、体力に自信などない身だ。
 まゆりはついてきたそうにしていたが、それには及ばないと断る。さすがに退院してまで付き添ってもらうわけにはいかないし、正直なところ独りになりたかった、ということもある。


 ――ラボに紅莉栖の存在を示すものが何も無い。その当たり前の事実が、思った以上に響いたせいだった。
 まゆりとダルは紅莉栖のことを知らず、紅莉栖が着ていた白衣は今もたたまれたまま。買い置きしていたカップ麺は一ヶ月以上前のもので、机や棚を見ても学術書など見当たらない。
 そんな今に慣れるまで、まだ多少時間がかかりそうだった。



 
 ドクター中鉢――牧瀬章一は、亡命先のロシアで身柄を取り押さえられた。第三次世界大戦の引き金となった『中鉢論文』は飛行機火災で塵となり、再び世に出ることはないだろう。
 ドクター中鉢はジョン・タイターの理論を剽窃する程度の頭脳しかない男だ。あの紅莉栖の論文がなければ、相手にする人間はいないだろう。くわえて俺が刺された件を紅莉栖が通報したらしく、警察からは重要参考人として扱われているというからなおさらだ。
 ロシアにしても、利用価値のない人間をかばうほど暇でも酔狂でもあるまい。あの男は、おそらくもう再起できまい。


 殺されかけた身としては、ざまを見ろと言いたいところだが、紅莉栖の胸中を思えばそんな言葉を吐けるはずもない。父親との和解を真摯に、懸命に求めていた少女は、今、どんな気持ちなのだろうか。
 かなうなら、今すぐにアメリカでもどこでも行って慰めてやりたい。紅莉栖が慰めを望まないとしても、せめて傍にいてやりたいと思う。
 だが、今の俺と紅莉栖は、ラジオ会館で二度、顔をあわせただけの他人だ。一応は命の恩人といえないこともないが、俺は紅莉栖を気絶させるためにスタンガンまで使ったのだから、立派な加害者でもある。


 そしてあの場のあの状況。紅莉栖ほど聡い人間でないとしても、疑念が尽きることはないだろう。ましてあの紅莉栖だ、俺に対して不審がないはずがない。
 とはいえ、あの事件は『被害者が行方不明』として捜査が滞っているようだから、俺と紅莉栖が顔をあわせるような事態にはならないだろう。傷の具合や出血の状況から俺へと捜査の手が伸びるかと思ったが、俺が病院に担ぎ込まれた日にちと事件発生の日にちのずれから、俺と事件を関連付けようとする者はいなかったらしい。幸いというべきだが、まあ当然といえば当然か。



 そんなことを考えている間に、ラジオ会館に着いていた。
 何か特別な目的があったわけではない。ただ、すべてが始まったこの場所をきちんと見たいと思ったのだ。こんな寄り道をまゆりに知られたら、頬を膨らませて怒るだろう。
 そのまゆりの顔を思い描き、小さく笑みをもらしてから、俺はあらためてラジオ会館を見上げた。
 そこには、何の変哲もないラジオ会館があった。壁にめりこんだタイムマシンも、その痕跡もない綺麗な壁面。俺以外のすべての人にとっては当たり前のその光景が、俺にとっては不思議なものに映る。


 ――不思議に映り、そして哀切をともなった痛みを訴えかけてくる。


「すべてが始まり、すべてが終わった場所……いや」
 終わってなどいない。むしろ、これから始まるのだ。俺と紅莉栖の道が二度と交わらない未来、だが紅莉栖が生きている未来だ。それ以上を望むことなどできるはずがない。
 そうと知り、そうと受け入れ、それでも胸から去らぬ痛みが、俺は誇らしかった。
 女々しいなどとは思わない。この痛みは、岡部倫太郎という人間にとって、とても大切だったもの。今なお大切なもの。これまでの長からぬ人生で、幸運にも得ることが出来た無二の宝なのだから。



「……さて、そろそろ帰らんとまゆりに悪いな」
 立ち止まったままラジオ会館を見上げる俺に向け、幾つもの奇異の視線が向けられてくる。
 それに気づいた俺は、自分に言い訳するように呟くと踵を返した。
 鳳凰院凶真でいる時は、周囲の目など気にならないのだが、さすがに今ここで「フゥーハハハッ!」などと叫ぶ気は起きなかった。


 雑踏を少し進めば、たちまち視線も失せる。今日も今日とて人であふれる秋葉の街は、大小無数の人間の悲喜こもごもを飲み込んで賑やかにさざめいている。
 俺はその中を群集の一人として歩きだす。それはこれまでと何らかわらない道のりであり、これから続く未来を思わせる雑然とした街並みが左右をゆっくりと流れていく。
 いくつもの他人の声、いくつもの他人の姿。その視界の片隅に、どこか見覚えのある姿が映ったように思えた。翻る長い髪が、どこか彼女を思わせ――


「……え?」 


 俺は知らず足を止めていた。
 落ち着け、と内心で自分に言い聞かせる。長い髪の女性などいくらでもいる。似たような服装の女性もいくらでもいる。たまたま、その二つが重なった女性だっているだろう。
 大体、何を期待しているのか。紅莉栖はとうの昔にアメリカに帰っているはずだし、たとえ父親の件で出国を止められているとしても、秋葉の街中を歩いているはずもない――


 そんなことを思いながら、それでも身体はまるでそれが当然だというように振り返っていた。 
 その視線の先で。
 女性もまた、俺の方を振り返っていた。
 幾人もの人々が互いの視界の中を横切っていく。にも関わらず、俺は女性の姿を正確に捉えていた。まっすぐにこちらを見つめる女性の視線を見れば、彼女もまた、俺を捉えているのだとわかった。


 互いの距離がゆっくりと縮まっていく。
 ゆっくりだったのは、近づこうとしたのが彼女だけだったからだ。
 俺は呆けたようにその場に立ち尽くしたままだった。
 それでも彼女は歩みを止めず。やがて、俺たちは至近の距離で向かい合う。



「やっと、会えた」



 震える声で、呟く。
 聞きたかった声。
 聞きなれた声。
 ――そして、二度と聞けないはずの声だった。




◆◆




「あなたを、ずっと捜していました」


 そういって、紅莉栖は俺に向かって笑いかけた。正確に言えば、笑いかけようとしたのだろう。だが瞳に涙の雫を浮かび上がらせたその顔は、まるで泣き出す寸前の子供のようだ。
 再会の喜び――そんなはずはない。紅莉栖にあの三週間の記憶はないのだから。


「あの時、助けてくれたあなたを、ずっと――」
 ああ、それならば納得だ。性格は多少難ありだったが、優しく情にあつかった彼女のこと。自分のために刺された男を案じてくれていたのだろう。
 ならば、俺はその礼に応じれば良い。妙なことを口走って、いつぞやのように彼女の興味をひかないように注意して――そして、綺麗に別れれば問題はないだろう。


 すがるような眼差しで俺を見つめる紅莉栖に、俺はこほんと咳払いする。
「また会えたな、クリスティーナ」
 言った瞬間に、壁に頭をぶつけたくなった。なんだクリスティーナって。迂闊なことを口走るなと自分に言い聞かせたばかりではないかッ。


 だが。
 応じて開かれた紅莉栖の唇からつむがれた言葉に、俺は凍りつく。
「いや、だから私はクリスティーナでも助手でもないって言っとろう――」



 驚いたのは俺だけではない。むしろ、言った紅莉栖の方が驚きは深かったかもしれない。
「……え?」
 思わず、という感じで紅莉栖は自分の口元を手で押さえる。今、自分は何を口走ったのだろう。そんな内心の疑問がありありと表情に浮かんでいた。


「あれ、私……今、ふっと頭の中に言葉が浮かんで……どうして……?」
 問いかけるような眼差しに、応える術を俺は持っている。
(リーディング・シュタイナーは誰もが持っている。ならば、いずれ紅莉栖もあの三週間を思い出すことが出来るかもしれない)
 いや、たとえ思い出せないとしても、それはまた一からはじめるというだけのこと。
 今の紅莉栖にとって、俺の語る言葉は荒唐無稽なものだろうが、それでも紅莉栖ならば。
 まゆりを救おうと足掻き続け、それでも救いえず、ひとり街中で座り込んだ俺を救い上げてくれた彼女ならば――


 俺の手が無意識にポケットをさぐる。そこに№004のラボメンバッジが残されている。
 渡したい。そう願う俺がいて。
 だが、それ以上に渡してはならないと叫ぶ俺がいる。


 α世界線でうまれた二つの技術。Dメールとタイムリープマシン。
 これらが完成したのは、俺と紅莉栖の存在ゆえだ。
 無論、俺が果たした役割など微々たるものだ。技術的な面でいえば、ダルの方がはるかに紅莉栖の力になっていただろう。だが、それでも紅莉栖たちだけでは完成しなかった。そもそも、タイムトラベルを否定する紅莉栖はそこに至ろうとさえ思わなかったに違いない。
 俺の意思と紅莉栖の能力こそが、タイムトラベル理論を現実にもたらしえたのである。


 俺はもうタイムトラベル理論と向き合うつもりはない。
 紅莉栖もまた父親があんなことになってしまった以上、その原因――しかも元々否定していたタイムマシンに携わろうとは考えまい。
 だが、それでも俺と紅莉栖が共にいることで、タイムマシンとそれに付随する技術がうまれてしまう可能性は残るのだ――たとえそれが極小の数字でしかないとしても。



 そこまで考え、俺は内心でかぶりを振る。
(……それは建前、だな)
 そう、何より怖いのは再び世にタイムマシンがあらわれるかもしれないことではない。
 問題なのは、俺が『なかったはずの』三週間を覚えていることだ。
 俺といることで、紅莉栖があの三週間を思い出すかどうかはわからない。
 思い出してくれるのなら、俺にとっては万々歳――そんなわけあるか。
 今の紅莉栖にとって、あの三週間の記憶が必要なものであるかと問われれば、答えは否だろう。
 まあそんなことをあの助手に言えば「わたしのことをあんたが勝手に決めるなッ」と怒鳴られるだろうが、やはり『なかったはずの』記憶など、思い出したところで有害無益だろう。
 最悪の場合、思い出したことで世界線に影響を与えてしまいかねない。


 なら、この世界線の紅莉栖と一から関係を構築するか――無理だ。俺にはリーディング・シュタイナーによる記憶がある。牧瀬紅莉栖という少女と過ごした記憶が、はじめて本気で好きになった彼女の思い出が、ある。
 それを持ったまま一から関係など築けるはずがない。
 たとえこの世界線の紅莉栖が俺に好意を寄せてくれたとしても、俺の思いはこの世界線の紅莉栖とは関わりない記憶によって形作られている。紅莉栖にとって、自分のあずかりしらない好意に価値などあるまい。


 たとえばの話。
 紅莉栖が俺の知らない記憶を持っていて、そちらでも俺と紅莉栖は恋仲だったとする。
 そんな紅莉栖が俺に好きだと言ったとき、俺は素直にその言葉を聞けるか? 紅莉栖の胸に住んでいるのは、自分の知らない自分――そんなもの他人と何が違うというのか。


 つまりはそういうこと。思い出すか否かに関わらず、俺と紅莉栖は一緒にいるべきではない。それが、病院のベッドの上で幾度も考え抜いた末に俺が出した結論だった。

 



 だから。
「すまない。思わぬところで思わぬ人に会ったせいか、冷静さを保とうとして妙なことを言ってしまったようだ。改めまして、久しぶり……というほどの付き合いもないかな、牧瀬紅莉栖さん」
「え、あ、いえ、そんなことは……ないです。お久しぶりです」
 俺が真面目な顔で応じると、紅莉栖は慌てたように何度も首を横に振っている。
 そして、困惑したように「えっと……」と呟きつつ、俺の顔をうかがっている。
「岡部倫太郎だ。聞かれる前に言っておくと、君の名前を知っているのはサイエンスの論文を見たからだよ」
「あ、そ、そうですか……岡部、倫太郎、さん」
 舌の上で転がすように俺の名を呟く紅莉栖は、控えめに見ても可愛らしかった。ただ、その丁寧に過ぎるほどの言葉遣いには激しい違和感を覚えるが、紅莉栖としてはようやく出会えた恩人を前にしているわけだから、こう話すのが当然だろう。


 そういう俺の口調もはっきり言って変だ。まゆりやダルが聞けば、吹き出すか頭の心配をするかのどちらかだろう。
 しかし、ほとんど初対面の相手に砕けた口調で話すのも妙だし、ここで厨二全開で話すのはためらいがある。
 ……どうやら、俺は今回の件で大人になってしまったようだ。鳳凰院凶真であれば、決してここでためらったりしなかっただろう。
「大人になるって悲しいことなの、か……」
「欝ゲー乙」
「……なに?」
「……え?」
 俺の呟きにすばやく反応した紅莉栖。
 打てば響くようなその反応の速さは、さすがは生粋の@チャンネラーといったところか。
「な、ななな、なんでもないです、ごめんなさい、私こそ妙なことを……ッ!」
 さきほどまでとは違った意味で顔を赤くする紅莉栖を見て、俺は突っ込みたいところを必死に堪えた。




 ただそれだけの短いやり取りだったが、ほんのわずかではあっても、あの頃と同じ空気を味わえたことで、かえって俺は吹っ切れた。
「それはともかく、礼は確かに受け取った。だが、おそらく君も気づいているとは思うが、俺は俺の目的があってあの場にいた。そして、それは人に言えない類のことだ。君が少しでも恩を感じてくれているなら、俺のことは黙っていてほしい」
 礼だけ言って帰ろうかとも考えたが、紅莉栖のことだ、数々の疑問を等閑にしたりはしないだろう。ラジオ会館で声をかけ、その後、人が近寄らない通路での出来事に介入した。命を脅かすほどの重傷を負ったにも関わらず、姿を消し、病院にもいかず、警察にも捕まらない。
 ――通りすがりの人間で通すには、あまりに不自然なことが多すぎる。下手に隠せば疑問は容易に不審へと結びつくだろう。


 であれば、あえて正面からそれを口にすれば良い。その上で、今回の件を盾にとって口を封じる。無論、普段の紅莉栖ならこんなことで頷くはずもないが、命の恩人の願いとあっては承服せざるを得まい。
 事実、口を開きかけていた紅莉栖は、実に複雑な表情で口をつぐんでしまった。
 感謝の念は念として、俺に問いただしたいことが、それこそ山のようにあったに違いない。まあ予想どおりといえば予想どおりだ。


「……人に言えない、というのは国が絡むことだから、ですか?」
 それは父親のロシア亡命をうけての疑問だろう。紅莉栖の表情が曇る。
 だから、俺はかぶりを振って否定する。
「答えられない――と言いたいところだが、そのくらいならいいか。国は関係ない。きわめて個人的な理由だ」
「なら……ッ!」
「それでも話すことはできない」
 そう言って、俺は紅莉栖に頭を下げる。軽く、ではない。それこそ上体を九十度に折り曲げる勢いで頭を下げた。


「……え?」
 そんな俺を見て、ぽかんと口を開ける紅莉栖。
「君が抱いている疑問は理解しているつもりだ。何が何やらわからず、さぞ苛立っているとも思う。だが、それでも俺は何も言えない。誰かに強いられたからではなく、俺自身がそう決めたからだ」
「え、ちょ、ま……わ、わかった、わかりましたからッ! あ、頭を上げてください、そんな、私、そんなつもりじゃ……それにまわりの目がッ」
 紅莉栖の慌てふためいた声に、ようやく俺は周囲に意識が向いた。
 雑踏の中、はた迷惑にも立ち止まって話す男女。深々と頭を下げる男。慌てる女(美少女)。


「……うむ、冷静に考えるまでもなく、実に珍妙な光景だ。それは周囲に人垣の一つ二つできてもおかしくはないな。というか、すでに形成されつつあるようだ」
「な、なにを冷静に分析しとるかッ! これじゃまるで私が『どうか別れてください』ってきり出された恋人みたいじゃ……」
「いや、さすがにそこまで穿った見方をしてるやつはいないと思うぞ。普通はむしろ逆にとるのではないか?」
「そ、そうです、か?」
「ああ。しかし、今の発言で比率は完全に逆転したが」
「え、ええッ?!」
 おそるおそる周囲を見渡す紅莉栖。そんな紅莉栖と俺をとりまく好奇の視線。ひそひそ声。
 女の視線は同情、男どものそれは半ば怨念に近い。この場にダルがいれば「リア充は死ね、氏ねじゃなくて死ね」などと盛大にののしってくれたことだろう。




「ともあれ、長居は無用だろう。俺はここで失礼させてもらおう」
 そういってから、俺はいまだ周囲を気にしている様子の紅莉栖に視線を注ぐ。
 それに気づいた紅莉栖が、戸惑ったように口を開く。
「あ、あの、なに――」
「紅莉栖」
 普通に呼びかけたつもりだったが、紅莉栖は何故か緊張したように背筋を正し、裏返る寸前の高い声で応じた。
「は、はいッ」
「――幸せにな」
 ただ一言。
 俺はそう言ってから踵を返し、見物人たちの間を通り抜ける。





 目は閉ざしたままだが、あえて今の俺を遮る者はいないだろう。その確信を肯定するように、俺の歩みを止める者は誰一人としていなかった。
(……決まった)
 会心の別れだ。いや、別れに会心という表現が適切かどうかはしらないが、その表現以外に思いつかない。
 いささかならず臭い演出だったが、正直、このくらいしないといつまでも引きずってしまうだろう。紅莉栖が、ではない、俺がだ。
    


 予期せぬ再会だったが、これで紅莉栖との縁はきっぱりと断ち切り、これ以降は二人は別々の道を歩いていく。うん、それでいい。俺は一人しずかに頷き――



「――なに一人でカッコつけてるんですかッ!」
 そんな声とともに襟首ひっつかまれてのけぞる羽目になった。








[24074] 可能実現のエンテレケイア (二)
Name: 崩◆0eb04563 ID:9e91782e
Date: 2010/11/11 22:39
『俺はお前を……』
 あの時。白衣を着たその人は、奇妙なほどの確信を込めて言い放った。
『俺は、お前を助ける』
 紅莉栖は、その確信に気圧された。
 その人に声をかけたのは、ラジオ会館の屋上から駆け下りる姿を見たからだった。知り合いだったからではない。アメリカから戻ってからこちら、白衣を着て外を出歩くような人と知り合いになった覚えはなかった。


 それなのに、相手は自分のことを知っていた――紅莉栖にはそう思えた。
 すぐにその場を立ち去ってしまったから、直接、聞いたわけではない。呼び止めても相手は振り返りもしなかった。
 だがあの言葉は。
 『お前を助ける』と言った確信に満ちたあの言葉は、見も知らぬ人間に向けたものでは断じてなかった。



 サイエンスに論文が載ったことで、自分の顔が知られていることは知っていた。
 天才少女、牧瀬紅莉栖。そんな安っぽい謳い文句には苦笑を禁じえなかったが、雑誌でしか見たことがない自分に対し、さも知り合いであるかのように気安く話しかけてくる人がいなかったわけではない。
 だが、そういった人たちと、あの白衣の人物ははっきりと一線を画しているように思えたのだ。


 だから、父の発表会でその姿を見かけたとき、咄嗟に行動した。父と言い争う青年の手をひき、問いを向けた。あの確信の理由を知りたかったからだ。あったことのない自分に、どうしてあんな言葉を向けたのか、と。


 だが、青年はさきほどとはうってかわって戸惑いをあらわにしていた。
 確信などどこにもない。むしろ、何故こんなことを言われるのかと動揺し、挙句、誰にも繋がっていない携帯電話に話しかけたりしていた。


 気のせいだったのか。父との対話を前に冷静さを失っていたのか。
 そんな風に自分を納得させた。実際、かつてないほどに気持ちが揺れ動いていたから、その推論は十分な説得力を持っていた。


 だが、その推論はすぐに否定される。
 あの場所で三度、あの人と会ったことで。







 腹部に深々と突き刺さったナイフ。溢れる鮮血。白衣はたちまち血に染まり、床を粘着質の液体が覆っていく。
 実の父に首をしめられた事実さえ、その光景の前では吹き飛んだ。
 父とあの人はは何か言い争っていたが、その言葉は耳に入りはしても、脳が意味を解そうとはしなかった。そんなことに意識を割いている暇はない。このままでは、あの人は死んでしまう。咄嗟に駆け出し、その身体を支えようとした。
 そんな自分に向け、またしてもあの人は言ったのだ。


『お前は……俺が、助ける』


 あの、確信に満ちた声で。
 




 その声は震えていた。その顔は蒼白だった。
 きっと想像を絶する苦痛に苛まれていただろう。あの後、警察の人に教えてもらった床に残った血液の量は、人体の致死量に迫るほどだったのだ。
 にも関わらず。
 そんなことはどうでも良いのだと言わんばかりに。




 ――あの人は笑っていた。

 

 





 
 そして四度目。
 ようやく会えたあの人――岡部倫太郎に、紅莉栖はやっと礼を述べることが出来た。
 だが、今日に至るまでのおよそ二ヶ月。はぐくまれたのは感謝の念だけではなかった。
 もちろん感謝が薄れたわけではない。ただ、同じくらい多くの疑問がうまれていた。些細なことから重要なことまで、数え上げればきりがないほどに。
 それくらい、あの時の状況はおかしかったのである。なまじ時間があっただけに、紅莉栖の明晰な頭脳は、あの場の状況がどれだけありえざる事態であったのかを声高に主張してやまなかった。


 だが、その問いは岡部倫太郎によって封じられた。
 まるで紅莉栖がその疑問を抱いていることを予期していたかのように、問うことも、答えることも拒否された。
 追求することは出来なかった。
 命を救われた恩があったから。それは確かである。
 だが、それ以上に、答えられないことを詫びる岡部の姿が、紅莉栖の口を封じてしまった。本当にすまないと頭を下げる姿が、あまりにも真剣だったから。その思いを切って捨てることなどできなかった。


 そして。
「紅莉栖」
 牧瀬ではなく。紅莉栖さんでもなく。もちろんクリスティーナでもなく。
 ほとんど面識のないはずの自分を呼び捨てて。
「――幸せにな」 
 言葉こそ違え、そう言って微笑む姿に、あの時の確信が確かに感じられた。



 だから、紅莉栖もまた確信した。
 さりゆくその背を見送ってはならない、と。
 ここで別れてしまえば、五度目はない、と。
 紅莉栖が抱える山のような感謝と疑問をそのままに、岡部倫太郎がさっさと自分ひとりだけで結末を決めてしまう。
 そんなことが――


(そんなことが認められるはずなかろうがッ)


 気がつけば駆け出していた。
 気がつけば叫んでいた。
 気がつけば襟首を引っつかんでいた。



 ……その結果、岡部倫太郎が首を痛めてしまったことは、本当に申し訳ないと思う紅莉栖だった。





◆◆◆



 
 
「……それで?」
「それでって……」


 周囲からの好奇の視線に耐え切れなかったのだろう。俺は顔を真っ赤に染めた紅莉栖に引きずられるように、手近の喫茶店に引っ張り込まれた。無論、まゆりとフェイリスが働いている店ではない。
 それこそどこにでもあるような喫茶店の片隅で、俺は紅莉栖と向かい合って座っていた。


「いや、何か用があったから呼び止めたのだろう?」
「それは……はい、そうなんですけど」


 そう言いつつ、紅莉栖の視線は気遣わしげに俺の首に向けられている。
 先刻、紅莉栖にいきなり襟首を引っつかまれたせいで、微妙に首が痛い。ムチウチ症というやつかもしれん。
 首筋をさする俺の姿を、紅莉栖は申し訳なさそうに身を縮めて見つめている。まさか、こんな小動物のような紅莉栖の姿を見られる日が来ようとは。


 そんなことを考えながら、しみじみと世の不思議に思いを馳せていると、その表情をどういう意味にとらえたのか、紅莉栖が心配そうに口を開いた。
「あの、首、大丈夫ですか? わたし、おもいっきり引っ張っちゃったから……」
「確かに痛むが……まあ、気にすることはない」
「そんなわけにはいきませんッ」
 気色ばむ紅莉栖に、俺は小さく肩をすくめて囁くように言った。
「――いきなりスタンガンで気絶させたことを思えば、この程度で謝罪を要求できるはずがない。そうだろう?」


 その言葉に、紅莉栖は息を呑む。そして、視線を鋭いものに――つまりは、いつもの紅莉栖の視線に戻した。
 いかなる疑問も看過しない科学者としての眼差しだ。その視線に身を晒されていることに奇妙な心地よさを覚えつつ、しかし俺はゆっくりと首を振った。
「申し訳ないが。さきほども言ったとおり、俺は何も話さない。君にとっては我慢ならないことだと思うが――」
「それはわかってます」


 俺の言い分(もしくは言い訳か)を、紅莉栖は半ばで断ち切った。
 視線を俺に向けたまま、紅莉栖はどこかぎこちない調子で言葉をつむいでいく。おそらく自然と舌鋒が鋭くなってしまうのを意識しておさえているからだろう。
「あなたが――岡部さんが、あの時のことを話せない、個人的な理由で話したくないということはさきほど聞きました。それについて言いたいことはありますけど、でも私は岡部さんに何かを強制できる立場にはありません。だから、岡部さんが話したくないっていうなら、それを受け入れるだけです」
「――そう言ってもらえると、こちらとしてもたすか――」
「誤解しないでほしいんですけど」
 礼を言いかけた俺を、またも紅莉栖は遮った。その視線はいまだ鋭いままで、まるで俺が紅莉栖を悩ます諸悪の根源である、とでも言うかのようだ。


(……いや、実際そのとおりではあるか)
 俺がそんなことを考えていると、紅莉栖はなおも言葉を続けた。
「私、納得してるわけじゃありません。あの時、あの場にあなたがいたこと、あなたがしたことは偶然の一言で済まされるものじゃなかった。その後に起こったこと、今ここにあなたがいることをあわせて考えれば、疑問は解決されるどころか増えるばかりです」


 岡部さん、と紅莉栖は俺に呼びかける。
「岡部さんは私に何も話せないって言いました。でも、私の話を岡部さんに聞いてもらう分には何の問題もありませんよね?」
「む、それは構わないが。いくら聞いたところで、解を与えることはできないぞ」
「それで構いません」
 紅莉栖はそういうと、俺から眼差しをそらし、小さく息を吸い込んた。



 そして。
「結論から言います。あなたは、ラジ館で最初に私と会った時点ですべてがわかっていた」
 いきなり直球が来た。
 だがそれは、他人を論破することを好む紅莉栖には似つかわしくないやり方だ。それはつまり、紅莉栖にとって俺を論破するだけの材料がないということを意味する。


 俺は慎重に口を開いた。
「……生憎と、机の引き出しにタイムマシンは隠してないんだが」
「根拠はあります。あなたは私を助ける、とそう言った。その後、パパに刺されそうになることを知らなければ、そんな言葉が出てくるはずがありません」
「それは根拠としては弱いのではないかな。仮に知っていたとすれば、凶行を止める手段はいくらでもあったはずだ」
「それは、そのとおりです。あの時の私に、この後自分がパパに刺される、なんて言っても信じなかったと思いますけど、それならパパの方を止めれば良い。パパはナイフを持ってましたけど、あなたはスタンガンを用意してたから、それは簡単だったはずです。あの場で、私の代わりにパパに刺される必要なんてなかった」


「……そう考えるなら、最初の結論は破綻しているのではないか?」
「いいえ、今ので破綻するのは、あなたの目的がパパから私を助けるためだった場合だけです。それなら、あなたの言うとおり他にいくらでも方法はあった、その一つの例を挙げただけ。けれど、そうじゃない。あなたの目的がパパから私を助けるためなら、私をスタンガンで気絶させる必要なんてなかった」




 そこまで言うと、紅莉栖はやや肩を落として、呟くように言う。
 はじめは、父の亡命に絡む出来事なのではないかと疑った、と。
 俺はそういった国防に携わる人間で、父親を見張っており、だからこそ紅莉栖に自分と父親との会話を聞かれたくなくて、紅莉栖を気絶させたのでは、と。
「スパイというやつか――CIA、KGB、日本なら公安警察か。まるで漫画だな」
 俺が言うと、紅莉栖はちょっと怯んだようだった。声が一オクターブ高くなる。
「も、もちろん現実は漫画じゃないんですから、万に一つ、くらいの可能性だと思ってましたよッ?! た、ただ、そう考えれば、幾つかの疑問は解決するって、そう思ったんです……」





◆◆◆





(落ち着けッ私! クールになりなさいッ、牧瀬紅莉栖!)
 からかうような岡部の言葉と眼差しに、動揺を自覚した紅莉栖は内心で自分に言い聞かせる。
 おそらく、これが最初で最後のチャンスだと紅莉栖は考えていた。
 目の前の、一見穏やかそうに笑いながら、しかし頑なにこちらを拒んでいる岡部倫太郎に迫ることが出来るのは、今この時をおいて他に無いのだ、と。
 





 紅莉栖は二ヶ月前のことを思い起こす。
 むせ返るような血の匂いと、そこに倒れ伏す自分。周囲の人たちは興奮したようにわめき散らすばかりで一向に要領を得ず、結局、警察が駆けつけるまで、紅莉栖は血まみれの姿で座り込んだままだったのだ。


 もちろん、紅莉栖は警察に状況を説明した。
 被害者が姿を消したことに関して、警察官は怪訝そうな顔をしていたが、床に残った血が人間のものだと判明した時点で、紅莉栖の証言は信憑性を高め、その証言をもとに警察の捜査が始まったのである。
 現場を見れば、被害者が命に関わる怪我を負ったことは誰の目にも明らかだった。この傷で遠くにいけるはずもなく、すぐにでも見つかるものと思われたが――
(あなたは見つからなかった。警察がどれだけ調べても、私がどれだけ歩き回っても見つけられなかった……)


 一方で父の姿は目撃されており、すぐに指名手配された。
 当然のように紅莉栖は幾度も事情を聞かれ、アメリカの母親も帰国を余儀なくされた。
 しかし、どれだけ母娘から事情聴取をしようと、父親との繋がりは浮かんでこなかった。当たり前だ、繋がりなんてないんだから。
 当然のように捜査は混迷を極めた。加害者は父親、被害者は行方不明、現場には何故か姿を消した被害者の血にまみれた加害者の娘。
 あまりに不透明な状況ゆえに、一時は事件そのものが紅莉栖と父親の狂言ではないかと疑われていた節さえあったのである。


 ことに父がロシアに亡命してからは、紅莉栖自身も半ば容疑者扱いをされた。無論、紅莉栖は自分が無関係であることを知っていたが、それを証明するのは困難だった。正直、かなりきつい尋問も受けた。
 だが、その間でも紅莉栖が考えていたのは、自分のことではなく、岡部倫太郎のことだった。
 父親のロシア亡命と、あのラジオ会館の件が繋がっていたとすれば、あの人が政府関係の病院や治療所に入れられていてもおかしくない。それこそ漫画みたいな話だが、そう考えれば警察が見つけられない理由もわかる。紅莉栖がどれだけ歩き回っても探し出せない理由になる、あるいは警察はそれと知っていて、紅莉栖に情報を教えてくれないのかもしれない。
 そんな風にも考えた。


 だが、事態はあっさりと沈静化する。
 亡命、などと大仰な言葉を使ってはいたが、そもそも紅莉栖の父、牧瀬章一は学会から半ば追放された身であり、知識、技術、人脈、いかなる面においても重要人物とは呼べない。まして専門の研究はタイムトラベルである。まともに相手をしてくれる人の方がまれだろう。実際、父に対する警察の態度は学者や有識者に対するものとは程遠かった。
 ロシアへの亡命も計画的なものではなく、警察の追及から逃れるための場当たり的な行動であることはほぼ間違いない。警察はそう判断し、日本はロシアに身柄の引渡しを求め、ロシア政府はあっさりとそれを受け入れる。利用価値のない犯罪容疑者をかばう必要はない、ということだろうか。
 ならば、たとえ一時的とはいえ、どうしてロシアは牧瀬章一の亡命を受け入れたのか、そのことをいぶかしむ者もいたが、ロシア側からはそれについての解答はなかったそうだ。


 ともあれ、紅莉栖や紅莉栖の母親への疑いは去った。それでも事件の影響がすぐに消え去るわけではない。警察や政府からも、母娘の生活が完全に以前のそれに戻るには、ある程度の時間が必要になると申し渡され、紅莉栖と母はため息まじりに受け入れた。これはもう仕方ない、と。


 その一方で、紅莉栖は壁にぶつかった。スパイ説が否定され、岡部倫太郎の行動理由がまたわからなくなってしまったからである。
(あなたは『何』から私を助けようとしていたの?)
 父からではない。それでは自分を気絶させる理由がない。
 国からではない。あの時点では、紅莉栖も父も、日本ともロシアとも関係がなかった。


 紅莉栖がどれだけ考えても、ラジオ会館での出来事に対する合理的な解が出てこない。
 紅莉栖がそのことを話すと、目の前の岡部は実に表現しがたい表情で、かすかに視線をそらせた。
「――それならば、逆にすべてが偶然だったと結論することも可能なのではないか?」
「その場合、岡部さんは会う女の子すべてに『お前は俺が助ける』と話しかけて、その女の子に付きまとう人ってことになるんですけど。ああ、あといつもスタンガンを持ち歩いている危ない人でもありますね。しかも命に関わる怪我を負っても、それを治療できる知り合いがいて、警察も探し出せない隠れ家を持っている……それこそ漫画みたいな人。あの日、私はそんな人とたまたまラジオ会館で出会ったってことになるんですけど――」
 言い終えてから、紅莉栖は心の中だけでこっそり付け加える。そんなわけあるか、と。


(……まあ、もう一つの方こそ、そんなわけあるかって感じなんだけど)
 袋小路に陥った紅莉栖は考え方を変えてみることにした。
 岡部倫太郎の採った行動、そのすべては意味があったことなのだと仮定し『どうして』ではなく『どうやって』の部分に考えを絞ったのだ。


 すなわち、どうやればあの状況を予期できるのか、その方法である。
 これから先に起こることを知る方法。そんな不可能を可能にするものなどごく限られる。
 くしくも、岡部自身が口にしたではないか。机の中に隠してない、と。
 何を?


(タイムマシン)


 常ならば馬鹿らしいと切って捨てる単語である。
 その実在を論じることさえ、紅莉栖にとっては不快だった。父の研究と末路を知っているから。
 しかし――今の紅莉栖は、その可能性を捨てきれない。なぜなら紅莉栖自身が、今回の父の研究成果(岡部はジョン・タイターのパクリだ、と言っていた)をもとに論文を書き、理論上、決して不可能ではないという結論を得ていたからである。
 無論、それはあくまで理論上であり、現実にタイムマシンを製造するためには十年単位の時間が必要となるだろうが、逆に言えば完成さえしてしまえば、今この場にタイムマシンを使って未来の人が現れてもおかしくない。


 そして、紅莉栖は一つだけ、その仮定を補強する材料を持っていた。
 これまで四度あった岡部倫太郎との接触。
 その中でただ一度だけ、明らかな違和感を感じた時があった。
 二度目。あのラジオ会館で、父にくってかかる岡部を外に連れ出した時。あの時の岡部の言動は、明らかに他の時とは異なっていた。驚き、戸惑い、慌てて、なにやら良くわからないことを口走ってばかりだった。
 姿形は、今、目の前にいる岡部倫太郎とまったく同じでも、あの時の岡部は別人だった。大人と子供、そう断言しても差し支えないほどに。



 紅莉栖はあらためて岡部をじっと見つめる。
 その視線に気づき、岡部は困惑したように小さく肩をすくめてみせた。 
 こうして話しているだけでもわかる。
 岡部倫太郎という人は、きわめて普通の人だ。
 ……まあ白衣を着て外を出歩いているのはどうかと思うが、何か仕事上の都合だろうか?
 それはともかく、人を射殺しそうな視線だとか、ただならぬ雰囲気の持ち主だとか、そういったことは一切ない。それはもうきっぱりとない。
 ただ、自分にとって大切な『何か』を守ろうとしている――紅莉栖や、他のたくさんの人たちがそうであるように――普通の人だった。


 そんな人が、あんな行動を採ったのならば、そこには必ず理由がある。紅莉栖がその理由に至れないのは、ただ至るための知識が足りないだけ。
 それを教えてほしかった。それを聞くために、この二ヶ月、足を棒にして、その姿を捜し求めてきた。無論、感謝の念は尽きぬほどに溢れていたにせよ、それと同じくらいに好奇心が紅莉栖を突き動かしていたのである。
 その好奇心はタイムマシンに向けられたものではない、その実在など二の次だ。紅莉栖が欲してやまないのは『どうやって』ではなく『どうして』の方。


 どうして面識などなかったはずの自分を助けてくれたのか。
 どうして父の凶行を予期し、スタンガンを持っていながら、ナイフで刺されるにまかせたのか。
 どうして自分を気絶させたのか。
 どうして姿を消したのか。
 

 どうして、どうして、どうして。それらすべては、結局、一つの問いに集約される。
 そして、紅莉栖は改めて岡部に向けて、その問いを発する。



「あなたは『何から』私を助けようとしていたんですか?」





◆◆◆





 強い視線。いっそ勁烈と称したくなるほどの眼差しに、俺ははっきりと気圧された。
 紅莉栖の聡明さは承知してはいたが、まさかただ一人で、ここまで考え、事実に迫ってくるとは思わなかった。
 ある意味で俺は楽観していた。アトラクタフィールド理論を知らず、タイムトラベルを否定する紅莉栖には、事の真相を見抜けるはずがない、と。
 能力の問題ではない。どれだけ精緻な頭脳を持っていようと、必要なピースがなければパズルは完成しない。それと同じことだ。


 だが、紅莉栖はたどり着こうとしている。まずはじめに俺の行動を肯定することで、欠けたピースを補うという荒技で。
 無論、それは科学的と称するにはほど遠い態度だ。不備を指摘することは容易く、それは紅莉栖とて重々承知しているだろう。
 それを承知した上で、パズルを完成させた紅莉栖はこう問いかけてきたのだ。
 このパズルの名前は何なのか、と。




 挑むような、そしてどこかすがるような紅莉栖の眼差しから、俺はたまらず目を背けた。
 驚きは、なかった。
 やはり紅莉栖は紅莉栖だというだけのこと、岡部倫太郎はこの栗色の髪の少女にかなわない。それは、あの三週間で何度も思い知っている。
 負け続けた人間は、負けないように努めるもの。だからはじめから逃げ道は用意しておいた。
 俺は紅莉栖の問いに答えず、その場から立ち上がる。


「岡部さんッ」
「はじめに、言っただろう。君が何を言ってもかまわないが、俺から解を与えることはできない、と」
 こんな言葉で紅莉栖が納得するはずがない。それはわかっていた。
 頬を紅潮させた紅莉栖が何か口にしようとするが、それにかぶせるように俺は小さく肩をすくめる。
「すまないが、退院して間もない身でね。それに今日は少々出歩いたので、そろそろ家で休みたいんだ」
 こう言ってしまえば、紅莉栖は何も言い返せない。どれだけ疑問が湧いて出ても口を噤んでくれるだろう。


 我ながら卑怯な手段だ、と思う。根本的な解決には程遠いこともわかっている。
 紅莉栖の姿を見れば、ここでさよならと言ったところで、これからも俺を捜し続けるだろう。俺は内心でため息を吐く。
 やはり話に付き合ったりせず、振り切って帰るべきだったかと思う。だが、紅莉栖がそれで諦めるとは思えなかった。一度、姿を見られた以上、紅莉栖はやはり納得するまで俺を捜し続けるだろう。
 であれば、ある程度疑問を吐き出させた上で、あらためて拒絶した方が良いと考えたわけだが……


「わかりました、なら携帯の番号、教えてください」
 諦めるつもりなど微塵もない紅莉栖が眼前にいるわけで。
「故障中だ」
「なら、ご自宅を教えてください。あらためてママ……母と一緒にお礼にうかがいます」
「俺のことは黙っていてほしいと言ったと思うんだが」
「母にも駄目なんですか? なら私一人でうかがいます」
「それには及ばない」
「それでは私の気がすみませんッ」


 強気にそう言い返してから、不意に紅莉栖は表情を暗くする。
「……私のこと、迷惑ですか」
 その言葉に、ああそうだよと言って踵を返せば、あるいは紅莉栖も諦めるかもしれない。
 だが――口は自然に動いていた。
「そんなことはない」
「ならッ――なら、せめて連絡先を教えてください。岡部さんが望むなら、もうあの事件のことは二度と話しませんし、聞きませんから。だから、また私と会ってください!」


 疑問をここで捨てる、と紅莉栖はそう言った、俺とまた会うためならばそうする、と。その言葉は、紅莉栖らしからぬものだった。が、俺はこの時、その言葉を深く考えることはしなかった。
 紅莉栖の声は強く、高く、まるで悲鳴のようで。
 店中の人間がこちらに視線を向けるのがわかったからだ。


 だが、とうの紅莉栖はひたとこちらに視線を据え、気づいている様子はない。注意を促したところで、今の紅莉栖は「そんなことよりッ!」と気にも留めないだろう。
 俺はなんとか平静を装いながら、どうしたものかと内心で頭を抱えていた。
 この秋葉で紅莉栖と出会ってしまった時点で、こうなることはほとんどはじめから確定していたわけだが、穏便に済ます方法はどれだけ考えても浮かび上がってこなかった。
 そうして、俺が困じ果てていると――結末はあっさりと訪れた。




 携帯の着信音が鳴ったのだ。
 紅莉栖の叫びで静まりかえった店内に、その音はことのほか良く響き。
 俺はいやがおうでも、それが自分の携帯が発する音であることを悟らざるを得なかった。




 最初はきょとんとしていた紅莉栖だったが、すぐにその音が俺の白衣から流れていることに気づいたのだろう。
 その目がじとっとしたものにかわるまで、さして時間はかからなかった。
「……出ないんですか?」
「…………あ、うむ」
 自覚するほどの冷や汗が出た。
(誰だか知らないが、早く切れ!)
 だが、そんな俺の内心を知る由もなく、携帯は鳴り続ける。
 これはもう出るまで鳴らし続けるつもりだと判断した俺は、ぎこちない手つきで携帯を取り出し、そこに『ダル』の名前を見出してこめかみをひきつらせた。



 ピッ。
「………………ダル」
『お、やっと出た。オカリン、オカリン。今ぼく、@ちゃん見てんだけどさ』
「………………ほう」
『二次元の嫁関係のスレを一回りして、さてフェイリスたんに会いに行こうと思ったわけ』
「………………で」
『オカリン、なんか反応にぶくね? まさかほんとにこれ、オカリンなん?』
「………………なに?」
『フェイリスたんに会いに行くまえに、ちらっとVIP見てみたらさ。「秋葉の喫茶店であの牧瀬紅莉栖が白衣の男と密会中ッ」ってスレ立ってるじゃん。これはオカリンに知らせなきゃって思ったわけだお』
「な、なんだと?!」


 思わず俺が叫ぶと、紅莉栖がびくっと反応する。何事かとたずねるような視線を向けられたが、答える余裕などあるはずがない。
 周囲を見渡すと、客や店員が慌てて顔を背ける。そんな俺の様子を見て、紅莉栖もようやく周囲の状況に気づいたようで、ただでさえ赤かった顔がさらに赤くなる。
 が、俺はそれどころではなかった。


「ダ、ダルよ、念のために聞くが、内容はどんなものだ?」
『あー、えーと、それじゃあ適当にレス読むお……お、書き込み増えた』
「そういう実況はいらんから、内容を教えてくれッ」
『オカリン必死杉。えーっと、こんな感じだお』




「秋葉の喫茶店で、あの牧瀬紅莉栖が白衣の男と密会してるわけだが」
「kwsk」
「ていうか喫茶店に白衣ってなによ?」
「男はどうでもいい、女は本当に牧瀬紅莉栖なのか? アメリカにいるんだろ?」
「例の事件のせいで戻れないんじゃね?」
「例の事件についてkwsk」
「牧瀬氏なのは多分間違いない。言ってることはよくわからんが、どうも牧瀬氏が男に交際を迫っている模様。携帯教えろっていっとるが『故障中だ』って断られてる」
「本物かどうかは別にして、牧瀬クラスの女の告白断るとかありえなくね?」
「リア充は死ね」
「秋葉のどこ? 急行する」
「もう遅い、男の方は席を立ってるし……ちょwwwwwおまwwwwwwwwwwwテラワロスwwwwww」
「何だ、どうした?」
「故障中のはずの携帯に着信www」
「wktk」




「もういい、わかったッ!」
『自分から言えといっておいて逆ギレとか。さすがオカリン、そこに痺れる憧れる。で、これほんとにオカリンなん?』
「……どうもそのようだ」
『…………』
「? どうしたダル、何故いきなり黙る?」
『リア充は死ね』
 ピッ。
 ダルからの通話は切れてしまった。なんなんだあいつは。
 いや、今はダルのことなんぞどうでも良い。問題なのは――




「岡部さん」
 気がつけば、満面に笑みを湛えた紅莉栖がすぐ近くで俺を見つめていた。紅莉栖はすでに席を離れ、俺と喫茶店の出入り口の間に立ちふさがる感じで立っていた。仁王立ちで。
「な、なんだ……なんでしょうか?」
「改めてお願いしますけど――」
 そういう紅莉栖の顔は相変わらず笑顔で――ただ、目だけが笑っていなかった。




「携帯の番号、教えて下さいませんか?」
「…………はい」


  



[24074] 可能実現のエンテレケイア (三)
Name: 崩◆0eb04563 ID:9e91782e
Date: 2010/11/11 22:37


 携帯を見る。微笑む。
 携帯から視線をはがす。落ち着く。
 でももう一回携帯を見る。こぼれる笑み。
 落ち着け私、と言い聞かせて携帯から視線をはずす。笑いは止まる。
 我慢できずにまた携帯を見る。くすくす笑う。


 さっきから何度同じことを繰り返しているのだろう。
 自室(といっても滞在している御茶ノ水のホテルだが)のベッドに仰向けになって携帯を眺めながら、紅莉栖はぽつりと呟いた。
「今の私って、傍から見たら気持ち悪いんだろうなあ……」
 自覚はあった。あったが、どうしても携帯を見たいという気持ちがおさえられない。
 より正確に言えば、携帯の登録リストの一番上の名前を見たいという気持ちが。


『岡部倫太郎』


 それはこの二ヶ月の間、捜し求めていた人の名前だった。今日、やっとその人を見つけることが出来た。連絡先を教えてもらえもした。もう足を棒にして捜し歩く必要はなく、望めば今すぐにだって声を聞くことが出来るのだ。
 思わず笑みがこぼれてしまうのは仕方ない、と紅莉栖は思う。



 だが、昼間のことを思い出すとき、そこにあるのは喜びだけではなかった。
「うぅぅ……」
 紅莉栖は不意に赤面すると、携帯をベッドの脇に置くとうつぶせになって枕に顔を埋め、両足をばたばたと動かす。
 その脳裏によぎるのは、昼間の喫茶店での自分の言葉だ。


『なら、携帯の番号教えてください』
『……私のこと、迷惑ですか』
『また私と会ってください!』


 ふるふると全身を震わせつつ、紅莉栖は羽毛の枕に強く顔を押し付ける。
「岡部さんの前で何を口走ってんのよ、私はッ! ああ、もう! 恥ずかしくて死んじゃいそうッ」
 記憶力に優れた紅莉栖は、昼間の岡部とのやり取りを克明に覚えていた。
 その姿を見つけて泣きそうになりながら話しかけたこととか。失礼にも襟首ひっつかんで引きとめたこととかもしっかりと。
 だが、まあそれは良い。いや、首の方はあんまり良くはないけど、相手も気にするなと言ってくれたし、その言葉に甘えてしまおう。


 問題は喫茶店の中に入ってからだった。
 これまで温めてきた推論を話すうちに感情が昂ぶっていき、大声で相手を問い詰めるような真似をしてしまった。自分の姿を思い起こすと、さきほどとは別の意味で顔がかあっと赤くなる。
 岡部に対して失礼だったと悔いると同時に、周囲の人たちにどう見られていたのかを考える。広くもない店だったから、当然、他の客や従業員も、こちらの姿と声をしっかりと覚えていることだろう。
 ……激昂する自分の姿は、彼らの目にどう映っただろうか?


「どこから見ても、私が岡部さんに交際迫ってるようにしか見えないじゃないッ! しかも断られて切れる寸前ッ?! いや、まあある意味そのとおりではあるんだけど、でも秋葉の喫茶店で人目もはばからず男に迫る女って、どんだけイタイ子なのよ私はッ?!」
 枕に顔を埋めたまま、昼間の自分に届けとばかりに悲痛な声をあげる。
 もし紅莉栖がそんな女性を見かけたら、まず間違いなく笑う。その時の状況によってはVIPにスレだって立てるかも、とそこまで考えた時、紅莉栖はさあっと顔から血の気が引いた。
 ――不意に昼間の岡部の言葉を思い出したのだ。





 岡部がこちらの脅は――もとい懇願に屈して、互いの携帯の番号を交換した後、紅莉栖は今のが誰からの電話だったのか尋ねてみた。電話をかけてきた相手は紅莉栖にとってある意味で恩人だし、電話の最中、岡部が大声をあげるほどに動揺していたことが気になったからだった。
 すると岡部は何故か数秒ためらった末に「友人だ」と短く答え、内容については話してくれなかった。もっとも、それはここまでの岡部の態度から容易に推測できていたから、落胆はしなかった。あくまでこちらと距離を置こうとする岡部の態度が寂しく思えただけだ。


 すると、そんな感情が表に出たせいだろうか。岡部はやや慌てながらこんなことを言ってきたのだ。
『いや、別に何かを隠しているわけではなくてだな、なんというか、言う必要がないというか、聞く意味がないというか、とにかくそういったことだったのだ』
 当然、何のことかと紅莉栖は問いかける。すると、岡部はなにやら腕組みして迷った末、逆に問い返してきた。
『聞くが――@ちゃんねるというのを知っているか?』
 もちろん――と、答えそうになって危うく踏みとどまった。
『は?! あ、や、い、いいえ、み、見たりしませんよあんなもの、ええほんとに』
『だが知っている。そういうことでよさそうだな』
『そ、それは名前くらいなら……』
 本当は毎日かかさず見ているが、岡部にそれを言う蛮勇は持っていなかった。
 すると。
『ならばいい。これはあくまで念のために言い添えるのだが、帰ってベッドの上で身もだえしたくなければ、今日は@ちゃんねるは見ないことだ』
『だから見てないといっとろうが――って、ごめんなさい』
『だから念のためだと言っている。とはいえ――』
 岡部はそこでため息を吐き、呟くようにぶつぶつ言っていた。
『……禁じることこそ、もっとも強く相手をそそのかす手段だからな。こういう場合は「見ろよ、絶対見ろよ」というべきだったか……?』




 疲れていたのは嘘ではなかったらしく、結局あの後、岡部はすぐに帰ってしまった。
 一方の紅莉栖も、疲労という意味では岡部に優るとも劣らない。元々、研究者として屋内にこもりっぱなしだった紅莉栖だ、この二ヶ月で一生分くらい歩き回っているのである。
 そんなわけで頬が緩みそうになるのをこらえつつ、ホテルに戻ってきたわけだが――
「……まさか、ね」
 岡部の言葉と、自分の思考に頬をひきつらせつつ、携帯を見る。手馴れた動作で@ちゃんねるにたどりつき、そして。





 とある御茶ノ水のホテルの一室に、紅莉栖の悲痛な叫びが響き渡ったのは、それからしばし後のことだった……  








 もし、かなうならば――紅莉栖は思う。昼間の自分に言ってやりたい、と。
 迂闊なことをするなと。
 軽率なことをするなと。
 嬉しいのはわかるが、クールになれ私、と。
 ねらーの視線はいたるところにあって、いつでもお前を晒してやろうと、てぐすね引いて待ち構えているのだ、と……!
   





◆◆◆






「……だから見ない方が良いといったのだが」
「あ、あれは『見るなよ、絶対見るなよ』って言われたのと同じですッ」
 翌日。
 待ち合わせ場所にあらわれた紅莉栖の憔悴した顔を見て、事情を察した俺が思わず呟くと、紅莉栖が頬を紅潮させて言い返してきた。その後、慌てて口元をおさえているのを見て、今度は気づかれないように小さく笑う。
 @ちゃんねるを見ていることを隠しても窮屈なだけだと思うが、それを指摘しても紅莉栖は意固地に否定するだろう。どのみち、ダルのやつと会えばあっという間にねらーの本性をあらわすのは確定しているのだから、焦る必要はない。


 そう。俺は紅莉栖を呼び出してラボに案内している最中だった。
 俺からの電話を受け取った紅莉栖は、よほど予想外だったのか声をひっくり返して驚いており、こうして会った今なお訝しげにこちらを見ている。睨みつけている、と言った方がいいかもしれん。本人にはそんなつもりはないのだろうが。
「……その、どういう風の吹き回しですか?」
 昨日はあんなに関わるまいとしていたのに。そういうことだろう。
「俺が意地になって逃げるほど、君は意地になって追いかけるタイプと見ただけだ」
「う……そ、それは……」
「どのみち姿を見られ、名前を知られ、携帯番号まで登録されては逃げようがないしな」


 まあ携帯の番号など簡単にかえられるが、それをすれば今度は名前をもとに探されるだけだろう。白衣を着て歩いている、という特徴もあることだし、探し出すのにそれほどの苦労はあるまい。そう考えれば、昨日、本名を名乗ったのは失敗だったのかもしれないが――正直、紅莉栖との再会の直後にそこまで冷静に考えることはできなかった。


(まあ、考え付いたところで紅莉栖に偽名を言うなぞできたとも思えんが……)
 そんなことを考える俺の隣では、紅莉栖がなにやら慌てたようにぶつぶつ呟いている。
「そ、そんな、人をストーカーみたいに……あれ、でも確かに私がしてることって……? い、いやッ、不実な目的ではないのだから恥じる必要はないわけで、いわゆるストーカー的なものと一線を画しているのは事実であり、ゆえに問題はないと断定しても構わないわけで、つまりようするに私がこんなことをしているのは相手が岡部さんだからであって普段の私はもっとさっぱりしているという事実はいささかも揺らがず……」


「……すまない、俺の言い方が悪かったようだ」
 なにやら思考の袋小路にはまってしまった様子の紅莉栖に助け舟を出す。
「はッ?! あ、あの?」
「俺の言い方が悪かった。別に君をストーカーだと思ったわけではない。あまつさえこいつ何するかわからないからとりあえず言うこと聞いておこうと思ったわけではないのだ。安心してくれ」
「できるかッ?!」
「一つの分野で秀でた才能を示すのは、他の分野で欠落を示すことが多いというが……ふむ、生憎とセラピストの資格はないが、悩みごとの相談程度であればいつでも受けよう。あまり思いつめないようにな」
「心底、真剣に心配されても返答に困るんですけど?! わ、私は岡部さんのことが気になって仕方ないだけであって、ストーカーでも悩み事相談者でもありませんッ!」


 思わず、という感じで声を高める紅莉栖。
 もう一度説明するが、俺と紅莉栖は今ラボに向かっている最中であり、当然のように周囲には通行人が多数いる。
 彼らは面食らったような面持ちでこちらに視線を向けてくるが、俺と紅莉栖の姿を見て今の紅莉栖の大声を理解するや、一斉に(それはもうはかったように)冷たい眼差しに変じた。


 どこかで見たような光景に、俺は思わずため息を吐く。
「秋葉の中心で愛(歪)を叫ぶ少女、か……重症だな」
 ちなみに愛(歪)の読み方は「あいかっこゆがみ」である。
「だ、誰が愛(歪)を叫んどるかッ?!」
「律儀にかっこの中まで読んでくれるとは嬉しいぞ」
「あんたが言わせたんでしょうがッ!」
「ラボに戻ったら早速VIPにスレを立てようと思うんだが、スレタイは『秋葉の中心で愛(歪)を叫ぶ少女』でいいだろうか?」
「そのままか?!」
「ちなみに周囲の視線には気づいているか?」
「……ッ?!?!」








 こころなし早足で歩くこと数分。ぜえはあと苦しげに息継ぎをする紅莉栖に声をかける。
「大丈夫か?」
「……私が大丈夫じゃないとしたら、確実に岡部さんのせいです……」
「正直すまなかった。今は反省している」
 あまりにも反応が面白いもので、つい調子に乗ってしまった。
 そういって謝る俺を、紅莉栖はなんとも言いがたい表情で見つめてきた。
「昨日の時点で薄々は気づいてたんですけど……岡部さんって、こういう人なんですか?」
「こういう人というのがどういう人を指してるのかはわからんが、品行方正をうりにしたことはないな」
 なにしろ俺は狂気のマッドサイエンティストなのだから。
 その言葉は飲み込み、代わりに別の言葉を使う。
「なので、白馬の王子的なものを期待していたのだとしたら、こう言わざるをえん――妄想乙」
「だ、誰がそんな思春期の女の子みたいな妄想しとるかッ! そうじゃなくて……ああ、もう!」


 今にも頭を抱えて地面にうずくまってしまいそうな紅莉栖に、俺は肩をすくめて見せた。
「だからそんなに思いつめたような顔をすることはない」
 その言葉に、紅莉栖の視線が揺らぐのがわかった。
「俺はそう大した奴ではない。少なくとも、あの牧瀬紅莉栖がかしこまって話さねばならないような大物ではない。あの事件に関すること以外なら何でも聞くし、何でも話そう。約束する。逃げたりはしない、と」
「……岡部さん」
「だから、俺の一挙手一投足に、そう構える必要はない。まあその意味で、昨日の俺の態度は褒められたものではなかった。それは心から謝罪しよう」


 どうも今日の紅莉栖は、俺がまた逃げ出すのではないかと疑っているせいか挙動不審なのだ。
 昨日の今日だからそう疑われても仕方ないが、ただでさえ口調に違和感がぬぐえないというのに、この上、行動までおかしくなられてはこちらの身がもたない。
 だから、紅莉栖がいらない力を抜けるようにいろいろと工夫してみたのだが――やっているうちに俺自身が楽しくなってしまったのは否定できん。


 ともあれ、俺がそう言うと、紅莉栖は実に珍妙な顔をした。あえてたとえるなら、牛乳だと思って飲んだら飲むヨーグルトだった、とでもいうような。
 そして、何故か紅莉栖は深くため息を吐く。
「……聡いんだか、鈍いんだか。そこまで察したなら、普通気づきそうなものだけど」
「む、どうした?」
「いえ、現状を再確認していただけです」
「そうか、『この人は敬語で話すに値する人物度』の数値は変動したか?」
「……はじめて聞く数値ですけど、あえて乗ってみるなら、今のところ七十八くらいです。昨日の時点では九十三。五十を割ったら敬語が消えると思います」
「順調に下がっているようでなによりだ。ではスレを立てて、とりあえず六十台まで落とそう」
「本当にスレ立てするつもりだったんですかッ?!」


 紅莉栖の反応に拒絶の意を感じ取り、俺は意外さを装って問いかける。
「気に入らないか?」
「当たり前ですッ」
「ふむ……ならば次善の案として『秋葉の喫茶店で牧瀬紅莉栖が白衣の男と密会中ッ 続報』というのもあるにはあるが」
「センスのかけらもないスレタイですね……じゃなくてッ。気に入らないのはスレ立てそのものであって、スレタイが気に入らないとごねているわけではッ!」
「ほら、着いたぞ。あれが我が未来ガジェット研究所――略してラボだ」
「……ここからでもわかるくらい、ブラウン管テレビが溢れてるんですけど、岡部さんはブラウン管をこよなく愛する人なんですか?」
「それは大家のミスターブラウンだな。あれは彼が営むブラウン管工房だ。ラボはその上、二階にある」
「……もうなんかいろんなことがどうでも良くなってきたわ……」
「それは結構。すべてが俺の策略どおりだフゥーハハハ」
「今ので七十五になった」




◆◆◆




「あー。オカリン、おかえリン♪ あれれ、お客さんだ~? オカリンがお客さんを連れてくるなんてめずらしいね~」
「うおお、ほんとに牧瀬紅莉栖じゃん。オカリンオカリン、どうやって口説いたん?」


 不思議そうに目を丸くするまゆりにただいまと返すと、紅莉栖の顔を見て興奮するダルに状況を説明する。
「ダルよ、俺が口説いたのではない、口説かれたのだ」
「マジで?」
「マジだ。大体、俺が今までナンパなぞしたことがあったか?」
「童貞宣言乙」
「黙れスーパーハカー」
「ハカーじゃない、ハッカーと呼べッ」


 などと言い合っている俺とダルをよそに、まゆりは紅莉栖ににっこりと微笑みかける。
「まゆしぃです、よろしくねー」
「まゆし……? あ、ご、ごめんなさい、牧瀬紅莉栖です、よろしくお願いします」
「そんなにかしこまらなくてもいいよ~、女の子のラボメンははじめてだから、まゆしぃはとっても嬉しいのです」
「ラボメン? それってなんですか?」
「えっとね、ラボラトリーメンバーの略なんだって。まゆしぃは№002なのです」
「そ、そうなんですか。でも、私は、そのラボメンというものじゃないんですけど」
「え~、そうなの? うー、残念、オカリンオカリン、どうして紅莉栖ちゃんはラボメンじゃないの?」
「く、くりすちゃん?」


 まゆりの疑問に、ダルも怪訝そうな顔をする。
「オカリンのことだから、牧瀬氏に会ったのを幸い、勢いにまかせてラボメンに引っ張り込んで、ここまで強引に連れてきたとばかり思ってたお」
「ダルよ、お前は俺をなんだと思ってるのだ?」
「狂気のマッドサイエンティストじゃね? 最近はあんまり聞かないけど」
「そうだねー、オカリン、昨日も元気なかったし。でも、今日のオカリンは輝いていて、まゆしぃはとっても嬉しいのです~。きっと紅莉栖ちゃんと会えたからだね、ありがと、紅莉栖ちゃん」
「ど、どういたしまして……?」
「紅莉栖よ、別に無理に頷かないでもいいぞ」
「うお、会った翌日に名前呼び捨てとか。リア充は死ね。氏ねじゃなくて死ね」
「お前は昨日からそればかりだな」 
「なんなの、このカオスな空間は……?」






 
 その後、互いの自己紹介などしている間に、紅莉栖もようやく落ち着いてきたようだった。
 まゆりはコスプレの製作にとりかかり、ダルはPCの向こうに意識を奪われている。
 で、俺と紅莉栖が何をやっているのかというと――


「この、どこからどうみても子供のおもちゃにしか見えない銃はなんですか?」
「それは我が研究所で開発した記念すべき未来ガジェット一号機『ビット粒子砲』だ。おもちゃの光線銃にテレビのリモコンを合体させたものである」
「……開発の意図を聞いても良いですか?」
「テレビに向けて引き金を引けば、さながら銃を撃つかのようにテレビを操作する事ができる。その格好良さに、預かった親戚の子供たちも大喜び」
「わー、すごーい」


 実に冷めた表情で賛辞を口にする紅莉栖が、次に手にとったのは小さな竹とんぼだった。
「この、どこから以下略竹とんぼは?」
「それは未来ガジェット二号機『タケコプカメラー』だ。竹とんぼの軸の部分にCCDカメラを仕込み、動力無しでの滞空撮影を可能とした画期的発明といえる。難点は、映像も激しく回転するため、高確率で酔ってしまうところか」
「いみねー……」
「紅莉栖よ、説明はいくらでもするが、ときどき地が出てるぞ、気をつけろ」
「はッ?!」


 などと言いながら、求められるままに未来ガジェットの説明を重ねていく。
 ちなみにダルに言われるまでもなく、紅莉栖と呼び捨てることには俺も躊躇したのだが、いまさら牧瀬さんと呼ぶのも妙な話だし、なにより紅莉栖本人も特に文句はなさそうだったので、このまま押し通すことにしたのである。


 その紅莉栖は、これまでの俺とダルの苦労の結晶を散々に酷評しながらも、どこか楽しそうに笑っていた。昨日、あの喫茶店で思いつめたような顔をしていた紅莉栖とは別人のようで、やはりここに連れてきたことは間違いではなかった、と確信する。
 もしかしたら、何か思い出してしまうのではないかという恐れもあったのだが、これまでのところそんな兆しはない。紅莉栖もまた、例の事件のことを口にしようとはしない。また会ってくれるなら、疑問は捨てる。そう言った昨日の言葉を律儀に守ってくれているのだろう。


 そういったことを抜きにしても、今の紅莉栖は楽しそうだ。そして、そんな紅莉栖の表情を横から見ているだけで、俺の中にうまれてくる気持ち。それを、人は幸福と呼ぶのだろうか――などと似合わないことを考えていると、不意に後ろの方から視線を感じたので振り返ってみた。



 そこには何やら唖然としているダルと、何故かつくりかけのコスプレ衣装片手にダルの隣に立っているまゆりがいた。
「む、どうした二人とも?」
 俺が呼びかけると、紅莉栖も後ろの二人に気づいたのか、首をかしげている。
「……あのさ、オカリン」
「なんだ?」
「君ら、ほんとに昨日はじめて会ったん? 息の合い方が尋常じゃないんだけど」
「尋常じゃないといわれてもな。普通に話しているだけではないか」
「あのオカリンが昨日あったばかりの女の子に緊張もなく話しかけてる時点で、もうすでにおかしいじゃん。そこは冷静を装った挙句に自爆して、厨二病の妄想で乗り切ってこそオカリンでしょ」
「……うむ、お前の俺に対する評価については、あとでじっくり話し合うとして。俺と紅莉栖はそんなに息があっているように見えるのか?」
「まゆ氏まゆ氏、オカリン、あれマジで言ってると思う?」
「マジだと思うよー。あのね、オカリン」
「なんだ、まゆり」
「今のオカリンと紅莉栖ちゃんはね、つーといえばかーくらいに息がぴったりだよ~」
「昨日あったばかりで、もう夫婦とか。絶対に許さない、絶対にだ」
「ふッ?!」
「そして顔どころか首まで真っ赤に染めて冗談を本当にする牧瀬氏とか。まゆ氏、ここって気を利かして席をはずす場面じゃね?」
「そうだねー、ダル君。ここは若い者たちに任せて退散しようか~」
「了解まゆ氏、ぼくはフェイリスたんに癒されにいってくるお」
「じゃあまゆしぃはルカ君に会いに行こうと思います」
「じゃあそういうことで。ああ、そうそうオカリン」
「なんだ?」
「リア充は死ね」



◆◆



 紅莉栖の再起動まで、およそ十分が必要だった。



 十分後、ようやく紅莉栖が人心地ついたときには、とうの昔にダルもまゆりもいなくなっていた。
「あいにく、今はドクペしかないが」
「……今なら何を飲んでも味はかわらないと思います」
 言いながら、コップのドクペを一気飲みする紅莉栖。炭酸を一気飲みするあたり、まだ動揺はぬけきっていないらしい。
 案の定、げほごほと咳き込む紅莉栖に俺は苦笑を禁じえなかった。


「まあ、我がラボはいつもこんな調子だ」
「……よーくわかりました」
 よーく、のあたりに奇妙な力を込めて、紅莉栖は頷いた。何故か、俺を見る目がじとっとしているが、多分気のせいだろう。
「念のために聞いておきますけど、私が来るからって演技してたわけじゃないですよね?」
「そう見えたか?」
「……いえ、まったく」
「では、そういうことだ。君の観察力は誇っても良い」
「ここまで響かない賛辞って、私はじめてだ……」


 何やらうちしおれている紅莉栖に、俺はあらためて告げる。
「俺にとっての日常は、基本的にラボだ。君が俺に会うということは、必然的にさっきまでのような日常を送ることを意味する。はっきり言って科学者としての牧瀬紅莉栖には何の意味もないだろう」 俺の言葉に、紅莉栖は返事をしなかった。だが、否定することはできないし、するつもりもあるまい。さきほどの光景を見てしまえば、な。



 しかし――
「が、個人としての牧瀬紅莉栖にとって意味があるかどうかは、俺が知りえるところではない。意味があると君が考えるのなら、また遠慮なく来るがいい。客として歓迎しようし、未来ガジェット作成に協力してもらえるなら、ラボメンに迎えることも考慮しよう。いずれにせよ、よく考えて決め――」
「じゃ、ラボメンにしてください」
「うむ、よく考えて決めることだ……って、なに?」
 

 予期しない台詞に俺が目を瞬かせていると、紅莉栖は今まで伏せていた顔をあげた。そこには予測を木っ端微塵に砕かれ、憔悴した表情が――
「だから、ラボメンにしてください。未来ガジェット作成に携われば良いんですよね?」
 ――憔悴した表情はなかった。むしろ憔悴とは正反対に、妙に座った目つきで俺を睨みつけているような……?
「う、うむ、そのとおりだが、何も今ここで決める必要はないのでは……」
「帰ってから決める必要もありません」
「……そ、そうか。ところで紅莉栖……さん?」
「紅莉栖でいいですよ、いまさらですけど。それで何ですか、岡部さん?」
「……その、何か気に障ることでもあっただろうか?」


 おそるおそる問いかけた俺に対し、紅莉栖はにこりと微笑んだ。
「いえいえ、何も気に障ってなんていませんよ。二ヶ月間、探し続けてきた人が、がらくたを未来ガジェットと称して喜んでいることなんか全然気になりませんし、何故かその人と夫婦呼ばわりされたことで、心臓がさっきから勝手に暴れまわってもいませんッ。もちろん、そのどきどきが心地よいなんてこれっぽっちも考えていませんッ!」
 あまつさえ、と紅莉栖は立ち上がり、両手を腰にあてて胸を張った。
「こうなったら目の前にいる人に科学者のなんたるかを一から叩き込んで私の助手にしてしまえなんて妄想にとりつかれてなんていないんだからなッ!」


 ついには拳を振って力説する紅莉栖。
 その様はまさに立て板に水。あまりの勢いに俺はぽかんとするばかりで、ツンデレ乙、と突っ込むことさえ忘れていた。
 当然、この翌日、牧瀬紅莉栖女史が種々の学術書を持ち込むことも、それによる凄惨な科学者養成講座が開かれることも、この時の俺にわかるはずがなかったのである……








 後日、俺は深刻に後悔の臍をかむ。もし、過去に戻れるのなら、この日の俺に言ったことだろう。
 迂闊なことを(ry 





[24074] 可能実現のエンテレケイア (四)
Name: 崩◆0eb04563 ID:9e91782e
Date: 2010/11/15 20:28

 熱い。
 両手が熱い。燃えるように。
 赤い血だ。紅い血だ。
『うぅ……い、たい……』
 少女が呻く。その身体からは、今なお紅い血が零れ落ちている。
 他の誰でもない、俺が刺した傷から。
『ねえ……わ、たし……死ぬの……かな……』
 それは問いの形をとっていたが、少女はもう知っていたのだろう。自分が助からないことを。
 だから――


『……死にたく……ないよ……』
 その言葉は、あまりに重く。


『こんな……終わり……イヤ……』
 その言葉は、あまりに深く。


『……たす……けて……』
 俺の胸に刻まれる。


『……た……す……』
 死に至る、その時まで――




◆◆◆




「……かべ……ん、おかべさ……ッ!」
「う……?」
 誰かに強く肩を揺すられ、強引に眠りから引き剥がされた俺の口からしゃがれた声が出る。
 まるで昔話に出てくる老婆のようだ。はっきりと覚醒していない意識の片隅で、そんなことを考える。
 すると、耳元で繰り返し名前を呼んでいた誰かが、俺の前に水の入ったコップを差し出してきた。
 ほとんど機械的にそれを受け取った俺は、よく冷えたそれを一気に飲み干す。
 乾ききった喉が、清涼感に包まれていく。


「……む、紅莉栖、か?」
 そこでようやく、俺の意識は覚醒し、目の前にいる人物を認識する。
 紅莉栖は気遣わしげに俺の顔を覗き込んでいた。
「大丈夫ですか? すごく、うなされてましたけど……」
 そう言われ、俺は上着が汗で湿っていることにようやく気づいた。
 いや、これは湿っているというより、もはや汗びっしょりと形容すべきか。なるほど、声がしゃがれていたわけだ。


「……まあ、考え得る中で最悪の夢だったから、仕方あるまい」
 俺はそう呟くと、両手を見た。
 白い手だ。長らくの入院生活のせいもあって、一見すると女性の手のように見える。
 ――熱くはない。紅くはない。当たり前だ、あれは夢なのだから。だが、同時にあれは俺自身が為したこと、その事実は変わらない。



「……あの、岡部さん。そのままだと風邪を引いちゃいそうですし、シャワー浴びてきたほうが良いと思います。着替えとか、置いてあるんですよね?」
「うむ、研究の都合上、泊り込むこともよくあるからな。確かにこのままでは風邪を引きかねんし、忠告に従うとしよう」
「はい。じゃあわたしは昨日の続きがすぐに出来るように準備しておきます」
 はきはきと答える紅莉栖を見て、シャワーに向かいかけた俺の足がぴたりと止まる。
「……ううむ、どうも体調が優れないな、ごほんごほん」
「そこの生徒、何か言ったか」
「……いや、もしかしたら風邪をひいてしまったかもしれないなあ、と」
「そこの生徒、何か言ったか。そこの生徒、何か言ったか」
「大事なことなので二回言ったんですね、わかります」
 ――さて、今日も元気に学問に励むべくシャワー浴びてくるとしよう。
 俺は紅莉栖の発する無言の威圧におされるように、足早にシャワー室に入っていった。




◆◆




「オカリンオカリン」
「……なんだ、ダルよ」
「日に日に顔から生気が薄れてるけど大丈夫なん?」
「もしかしたら、駄目かもしれん」
 時刻は昼。紅莉栖教授のスパルタ授業は、ようやく休憩に入った。
 ちなみに教授本人はコンビニに行って留守である。


「オカリンは紅莉栖ちゃんに愛されてるよね~。まゆしぃはとってもうらやましいのです」
「まゆり、なんだったら代わってやるぞ」
 ホワイトボードには、これでもかとばかりに種々の公式やら図形やらがびっしりと書き記されている。ちなみに隙間がなくなるごとに速攻で消されるので、一日目はノートをとるだけで精一杯だった。
 二日目は多少慣れてきたものの、それを見計らったかのように鋭い質問が浴びせられ、明確に答えられないと最初からやり直しとなる。それはつまり、紅莉栖ももう一度同じことを説明せねばならないわけで、徒労感は尋常ではないと思うのだが、紅莉栖は文句一つ言わず、根気良く説明を繰り返してくれた。
 教師にそこまでやられては、生徒としても気合をいれざるを得ない。そんなわけで、昨日はほとんど徹夜で頑張ったわけだ。


「駄目だよ、オカリン、冗談でもそんなこと言ったら。紅莉栖ちゃんはオカリンのために頑張ってるんだからね」
「それはありがたいと思っている」
 嘘ではない。ただ、なんで急に紅莉栖がどこかの熱血教師ドラマみたいなノリになったのかが良くわからない――いや、正確に言えば理由は見当がついているが、そこからどうして今の状況に結びつくかがよくわからん。
 しかしまあ、そういったことはさておいても、紅莉栖の講義はスパルタだが非常にわかりやすいので、未来ガジェット作成のためにも努力する価値はあった。ただ紅莉栖のノリに付き合っている、というわけではないのである。


 あるいはこれも紅莉栖なりの礼なのかもしれない、などと考えていると、まゆりが再び口を開く。
「だから~、それは礼じゃなくて愛なんだってば~」
「愛した相手の頭に学術書の山を詰め込まねばならないとは、紅莉栖も業の深い女だな」
「教師と生徒の禁断の愛とか、それなんてエロゲ?」
 ダルがパソコンの画面を見つつ、声だけ投げかけてくる。
「ダル君、茶化しちゃ駄目~」
「うむ、そんなだから速攻で紅莉栖に呼び捨てにされるのだ」


 ちなみに講義初日の時点でダルは「橋田さん」から「橋田」にランクダウンしている。理由は――まあ、いわずもがなであろう。
「というか、よくあの紅莉栖の講義のすぐ近くでエロゲが出来るな。その集中力は、さすが我が右腕というべきだが」
「ぼくの二次元の嫁への思いは誰にも止められないんだお。それよりオカリン、ちょっと聞きたいことがあるんだけどさ」
「なんだ? ちなみにフェイリスの次の休みは明後日の日曜だぞ」
「うそマジで? 知らなかったお。というかなんでオカリンが知ってるん?」


 それに答えたのは俺ではなくまゆりだった。
「それはね~、昨日オカリンがまゆしぃとフェリスちゃんに美味しいチョコを持ってきてくれたからなのです」
「なにやら忙しいとまゆりから聞いていたのでな。ネットで適当な店をさがして買っていったのだ」
 ノートやら食料やらを買い足すついでの陣中見舞いというやつである。フェイリスが目を白黒させていたのが面白かった。で、その時の話に休みの件も含まれていたのだ。
「突然のことなのでまゆしぃも驚いたけど、フェリスちゃんもびっくりしてたよね~。『凶真が壊れたニャン』だって~」
「似合わんことをしたという自覚はあるが、壊れたとまで言われたのは心外だったな」
「えへへ~、でもフェリスちゃん、とっても嬉しそうだったよ~。もちろんまゆしぃも嬉しかったのです」
「ふむ、喜んでもらえたなら何よりだ――で、ダルよ、聞きたいというのはそのことで良かったのか?」
「オカリンオカリン」
「だからなんだ?」
「リア充は死ねリア充は死ねリア充は死ねリア充は死ね」
「とても大事なことなので連呼したんですね、わかります」



 
 しばし後。
「で、結局何が聞きたかったのだ、ダルよ」
「えーと、なんだっけ? ああそうそう、オカリンさ、退院してから妙に落ち着いてね? やっぱ牧瀬氏がいるから自重してるん?」
「それはひょっとしなくても鳳凰院凶真のことか?」
「そそ。牧瀬氏と話してるときも聞かないし、ちょっと気になったんだお」
「ダル、よくぞ聞いてくれた。そこまで言うからには隠してはおけない。心してきいてくれ」
「誰もそこまで聞いてない件について」
「お前の案じる鳳凰院凶真は世界と戦い、これに打ち勝った。だがその戦いで深い傷を負ってしまったのだ」
「そして美人の村娘に助けられるんですねわかります」
「だが案じることはない。鳳凰院凶真は、いつでもみなの心の中にいるのだから……」
「意味わかんね」
「つまり気にするなということだ」
「把握したお」


  


 などと話していると、玄関のドアが開く音がした。
 そこには予期したとおり、紅莉栖がビニール袋片手に立っていたのだが、なにやら半眼になってこちらを見ているのはどうしてだ?
「……まったくもう。外まで会話が漏れてましたよ、恥ずかしい」
「別に犯罪計画を練っているわけでもないのだ、かまわんだろう」
「@ちゃん丸出しの声で騒いでたら、ラボの価値が問われる、とラボメンとして忠告しているんです。大家さんとたまたま下で会ったんですけど、眉間に皺を寄せてましたよ。娘の情操教育に害があるなってぶつぶつ言ってました」
「ダルよ、以後つつしめ」
「ちょ、なんでぼく限定なん?」
「それは橋田が女の子二人がいる場所でエロゲをするHENTAIだからよ」
「エロゲは今の件と関係ないじゃん。それより牧瀬氏」
「なに?」
「牧瀬氏も、初日から結構普通に@ちゃん語話してね?」
「……なッ?! そ、そんなことないわよ、そ、そうですよね、岡部さん?」
「……」
「な、何でつらそうに目を背けて黙るんですかッ?!」



◆◆

 

 そんなやりとりをしつつ、午後の講義へ突入。
 三時過ぎにルカ子がクッキーを持ってきてくれたので、ちょっとした休憩時間が出来たが、それ以外は日が落ちるまでずっと講義だった。
 ちなみにまゆりから紅莉栖の話は伝わっており、ルカ子と紅莉栖の初顔合わせは一昨日に済んでいる。例によって紅莉栖はルカ子を女だと微塵も疑わず、説明に苦労したものだった。


 で、講義が終わった俺と紅莉栖は、二人でルカ子が持ってきてくれたクッキーの残りを摘んでいるのだが、隣で紅莉栖がしみじみとした呟きをもらしていた。
「あの顔、髪、肌の張りにくわえてこの料理の腕……なんか女としての自信が薄れるなあ……」
「料理の腕は知らんが、他の部分は別に見劣りはしないだろう」
 男に見劣りしない、という事実がフォローになるのかどうかはわからなかったが、とりあえずそう言っておく。
「え、や……あの、聞こえてました?」
「うむ」
「……見劣り、しませんか?」
「うむ。仮にルカ子が女だったとしても、十分に張り合えると思うが。少なくとも俺はそう思うぞ」
「……ッ」
「料理の腕にしたところで、これから身につけていけば問題ないだろう。なんならルカ子に習ってみてはどうだ? 丁寧に教えてくれるだろう――って、どうした、顔が真っ赤だが」
「な、なんでもありませんッ」
「そ、そうか、ならいいが……具合が悪いのならタクシーを呼ぶぞ?」
「お願いですから、それ以上何も言わないでくださいッ」
 何故怒るのだ?

 

 顔を赤くしてそっぽを向く紅莉栖。
 具合が悪いのか、機嫌が悪いのか、よくわからん。
 こうしていると、まるで喧嘩している恋人同士のようだ。ふとそんなことを思ってしまったのは、昼間のまゆりの言葉のせいだろうか。


(まあ、そんなわけはないが、な)
 俺は内心で苦笑する。
 明確な言葉こそついに聞けなかったが、確かに俺と紅莉栖はα世界線で同じ思いを分かち合っていた――はずだ。そうでなければ、さすがにあの紅莉栖が男にキスしたりはしないだろう。
 だが、あれはDメールやタイムリープマシンの存在、そして何より避けられないまゆりの死、という異常な状況下において育まれた感情である。
 あれらがなければ、俺自身、あの三週間でここまで紅莉栖に惹かれることはなかっただろうし、そもそも親しく言葉を交わすような関係にさえなれなかったはずだ。


 その意味で、今の俺たちの関係は『もしも、タイムマシンが関わらない世界で紅莉栖と出会っていたら』というシチュエーションであるといえるかもしれない。
 まあすでに最初の出会いからしてタイムマシンが関わっているのだから、厳密に言えば違うのだが。それに紅莉栖が俺に向ける感情も「命の恩人」というフィルターがかかったものだ。もしもの話として成り立たせるためには、いささか問題が多いかもしれない。


 だが、そういったことを踏まえた上で考えても、あの紅莉栖が出会って一週間も経ってない男にまゆりが言う「愛」を抱くとは思えない。
 紅莉栖が俺に向ける感情の根本はあの事件の疑問だろうし、俺に構うのはその疑問の答え探し+感謝、といったあたりが妥当だろう。
 どの道、紅莉栖はいずれアメリカに帰る。今おれたちがすごしている時間は、それまでのわずかな夢だ。
 俺に出来るのは、紅莉栖がアメリカに帰るまでに、あの事件が紅莉栖の中で決着が付くことを祈り、かなうならばその手伝いをするくらいでしかないのである。


 それを寂しいとは思わない。偶然が織り成した結果とはいえ、二度と逢えないはずの紅莉栖と再び出会い、わずかの間とはいえこうして共にいられる。
 これ以上のものは望めないし、望むつもりもない――紅莉栖を手にかけた俺には『今』がどれだけありえざる奇跡なのか、己がどれだけ幸運なのか、十分に理解できていた。




◆◆◆




(また……)
 紅莉栖は内心で呟く。
 まただ、と。
 嬉しげに、そしてどこか寂しげに、自分を見つめる岡部の視線を感じたのは、これがはじめてではなかった。
 はっきりと気づいたのはここ数日のことだが、遡れば、はじめて会ったその時から『それ』はたしかにあったように思う。


 紅莉栖が気づいた理由は単純だった。今の岡部と同じ目をして話す人を知っていたからである。
(ママが、昔のパパとのことを話すときの目)
 とても大切な、けれど二度とかえらない時間を振り返っている時の目であり、表情――母親が見せるそれと、今の岡部の表情はほぼ重なる。
 捜し人が見つかった事実を報告するために電話した時、母親との会話中に不意に紅莉栖はそのことに思い至ったのである。
 ちなみにあまりの娘の喜びっぷりに母は気圧されたように黙り込んでいた――というか普段の娘らしからぬ有様にドン引きしていた。あの後、電話の向こうで何やら黙り込んでいたのは、娘の正気を疑っていたわけではないと信じたい紅莉栖である。



 ともあれ、岡部の浮かべる表情の意味を紅莉栖は察した。だが、岡部がその表情を浮かべる理由まではわからなかった。
 推測はできる。タイムマシン、という単語からこうではないか、という仮定は思い浮かべることができた。しかし、それに関してはもう問いもしないし、話もしないと約束してしまった。だから紅莉栖はあえて気づかないふりをしているのである。


 それでも気にならないわけではない。
 むしろ気になって仕方ない。聞きたいけど聞けない、そのストレスがここ数日の講義における舌鋒の鋭さにあらわれたのではないかといわれても、紅莉栖は否定しなかっただろう。
「……どうしたのだ、ぼーっとして。本当に大丈夫か?」
 そんな紅莉栖を案じるように、岡部が顔をのぞきこんでくる。
「あ、だ、大丈夫、大丈夫です。ちょっと考え事をしてただけで」
「ならいいが……む、もうこんな時間か」
 その言葉につられるように時計を見ると、すでに時刻は六時を越え、七時に達しようとしていた。
 子供ではあるまいし、まだ帰宅時間を気にするような時間ではないと紅莉栖には思えたが、岡部はすでに立ち上がって外出の準備をはじめていた。
 紅莉栖を送るためだろう。


(このあたりは変にマメな人なのよね)
 そんな岡部の後姿をみやりつつ、紅莉栖は内心で呟く。
 紅莉栖に限らず、岡部はこと他人のことになると、人がかわったようにマメになる――言葉をかえて言えば過保護になる(橋田は除く)。
 今、ラボには岡部と紅莉栖の二人しかいない。ルカとまゆりの二人は連れ立って帰り、橋田はいつものとおり「フェイリスたんに癒されてくるお」と言って出かけていった。
 だが、かりにまゆりが残っていたとしたら、まゆりにも帰るように促していただろうし、一応は男であるルカにも同じように接しただろう――というか、実際に一昨日はそうしていた。それも紅莉栖がルカを女性だと思い込んだ理由の一つだったりする。幸い、ルカは男だったわけだが、あれは勘違いしても仕方ないと思うわけで……


「紅莉栖」
「べ、別に本当は男だとわかってほっとしたりはしてないんだからなッ」


「……なに?」
「……あッ」
 考え事の最中、不意に話しかけられたせいで、つい胸中の言葉をそのまま声に出してしまった。
 岡部がぽかんとした表情で、紅莉栖を見つめている。
「……紅莉栖」
「な、なんですかッ? 一応いっておきますけど、漆原さんに対して含むところなんてないですし、岡部さんと漆原さんを見ていて、まさかこれが噂に聞く『アッー!』な関係かとかも思っていませんからッ!」
「……どうやらルカ子と俺の関係については一度じっくり話し合う必要がありそうだが、それはさておき、今日は本当に帰った方が良いぞ。明らかに調子がおかしく見える。これまでの疲れが出てきているのではないか?」
 その言葉を否定することが出来なかったのは、多分、自業自得というものなのだろう。
 そんなことを考えつつ、紅莉栖は力なく頷くしかなかった。





 もっとも。
 今はどうあれ、ホテルに帰るころには調子が戻っているだろうことも紅莉栖にはわかっていた。
 何故といって、理由はどうあれ、岡部と一緒に夜の秋葉の街を歩くことが出来るのだから。




[24074] 可能実現のエンテレケイア (五)
Name: 崩◆6454495c ID:9e91782e
Date: 2010/12/13 21:57
 それは突然に訪れた偶然だった。
 きっかけは些細なこと。
 いつものようにラボを訪れた紅莉栖だったが、その日は他のラボメンは出払っていた。岡部と橋田は大学の講義、まゆりはバイトである。
 とはいえ、それはあらかじめわかっていたことでもあった。午後には岡部たちは戻ってくるとのことだったので、それにあわせて来ても良かったのだが、他にすることはなく、行くところも特に無かったので、昼前にはラボに着いていた紅莉栖だった。


 買い置きのカップ麺をすすりつつ、紅莉栖はふと呟く。
「ひょっとして、私って寂しい女ってやつなのかな……?」
 呟いてから、あらためてその言葉を認識して顔を引きつらせる。友達もおらず、バイトもせず、誰もいないとわかっているラボに来て、独りカップ麺をすする今の自分は客観的に見ていかがなものか。


「……い、いやいや、人間、誰しもぽっかり予定が空いちゃうことってあるわよね。うん、余暇が人の精神に良い影響を与えることは理論上も肯定されていることで、つまりこんなひと時もときには必要なことなのであって、ひとりで過ごすイコール寂しいやつなんていう認識は、むしろ時代遅れもはなはだしいというべき……って、誰に何を言い訳してるのよ、私は?」
 そんなことを呟きつつ、ラボのパソコンを起動させる。
 こんな時は@ちゃんねるでも見て時間を潰そう。暇を潰すのが@ちゃんねるというのも、女性としてどんなものかと思わないでもないが、部屋でぼんやりと過ごしているのもそれはそれで寂しいし、と内心の懊悩を無理やりねじふせる。


 そのこともあってか、スレを巡回するのも、論破をするのも、いつも以上に力が入っていたらしい。別の言い方をすれば現実逃避とも言うが。
 なので、玄関のドアがゆっくり開かれる音に気づけなかった――これは予定より早く大学から帰ってきた岡部が、誰もいないはずのラボのドアが開いていたので、警戒して音をたてないようにドアを開けたためでもあった。


 万一の可能性を考えて用心深くドアを開けた岡部は、そこに紅莉栖の靴を見つけてほっと安堵の息を吐き、パソコンの画面を見入っていた紅莉栖に声をかける。
 だが、岡部の入室に気づいていていなかった紅莉栖にとっては、誰も居ないはずのラボで、不意に背後から声をかけられたのである。心の底から驚いた。
「――きゃあッ?! て、ちょ、なんで岡部さんがここに?! ま、待ってください、あのいつからそこにッ?!」
「い、いや、つい今しがた帰って来たばかりだが……すまん、驚かせてしまったようだな」
「あ、い、いえ、こちらこそびっくりしちゃって……って、きゃあッ!」
 岡部の視線が何気なくパソコンの画面に向けられたのを見て、再び悲鳴をあげる紅莉栖。
 自分の身体をつかって岡部の視界を遮りつつ、神速の早業で履歴を消し、ブラウザを閉じるや、慌てて岡部に向き直る。


「……み、見ました? 見てませんよねッ?!」
「うむ、ダルもかくやという見事な早業だった」
「そ、その評価には物申したいですけど、とりあえずオーケーです」
 ほぅっと安堵の息を吐いた紅莉栖だったのだが――
 安心するのはまだ早かった。まだ動揺が完全に抜け切っていなかったらしく、紅莉栖の踏み出した足が椅子にぶつかってしまう。
「――きゃッ?!」
 なまじ安堵した直後だっただけに、紅莉栖は咄嗟に踏ん張ることも出来ず、つんのめるように前のめりに倒れこむ。
「紅莉栖ッ」
 そして、岡部は咄嗟にその紅莉栖を支えようとして前に出る。



 結果――二人は互いの身体を抱き合うように部屋の中で立ち尽くす格好となった。



 
 柔らかい衝撃、暖かい感触。
 紅莉栖が状況を理解するまでにかかった時間は十秒か、二十秒か。
 岡部に両の腕を掴まれて支えられていることに気づいた紅莉栖は、咄嗟に声も出せず、身体を硬直させる。
 それでも、紅莉栖はかろうじて口を開き、岡部に謝ろうとしたのだが――
「――痛ッ?!」
 腕を掴む岡部の力が強く、口から出たのは謝罪ではなく痛みを訴える言葉だった。
 力任せに腕を鷲掴みされる痛みに、たまらず紅莉栖は顔をあげて抗議の言葉を発しようとして。


 そこで、両の眼を張り裂けんばかりに見開いている岡部の顔を目の当たりにする。


 紅莉栖は半ば岡部の胸に顔を埋めるような形になっていたので、二人の距離は文字通りの意味で目と鼻の先だ。
 だから、紅莉栖は岡部の表情だけでなく、恐怖に震える瞳も、身体のわななきも、そしてその口からかすかにもれる嗚咽にも似た小さな悲鳴さえ、しっかりと知覚することが出来ていた。


「……お、かべ、さん?」
 何事が起きたのか、まるでわからない紅莉栖は、思わず相手の名前を呼んでいた。
 すると、その声が届いたのか、岡部の瞳が急速に焦点を結び、その視線が目の前にいる紅莉栖に注がれる。
 その途端。
「――きゃッ?!」
 半ば突き飛ばすように、岡部は紅莉栖の身体から手を離す。突然のことで、たまらず紅莉栖はよろけるが、かろうじて転倒だけは免れることが出来た。


 この突然の岡部の乱暴な行動に対し、紅莉栖は怒ってもよかったであろう。
 だが、実際には怒るよりも先に戸惑いを覚え、言葉もなく岡部を見つめることしか出来なかった。
 その紅莉栖の視線の先で。
 岡部は紅莉栖を見てはいなかった。その視線は、何も持っていない自らの両の掌に注がれ、微動だにしない。
 そこに、紅莉栖の見えない何かがある、とでも言うように……




◆◆◆




 俺はシャワー室の壁に両手をつき、限界まで温度を上げたシャワーを頭から浴びていた。
 こんな高温のシャワーは、普段なら間違っても浴びたりしない。だが、今は痛みさえ覚えるこのシャワーが、かえって意識をはっきりさせるためにちょうど良かったのである。こうでもしなければ、あの紅い記憶がいつまでたっても脳裏から消えないと思えた。


「……忘れたい、と思ったことはないんだが……」
 俺は知らず、そんな言葉を呟いていた。
 紅い記憶――紅莉栖に血にまみれた両手の熱さ。助けて、と力なく呟きながら、胸の中で死んでいった紅莉栖の姿。これが世界の選択なのだと、絶望すら通り越した虚ろな諦観に身を委ねたあの記憶。
 つい先日も夢に見たように、あの情景は俺の胸に今なおはっきりと残っている。そのことは承知していた。より正確に言えば、承知しているつもりだった。
 だが――


「紅莉栖に触れただけで、ああもはっきりと思い起こすとは思わなかった」
 切っ掛けは、間違いなく紅莉栖と抱き合ったことだろう。まったくの偶然とはいえ、あの体勢は俺が紅莉栖を手にかけた時とほとんど同じものだった。その感触が、幻影に血肉を与えてしまったのかもしれない。
 我に返ったときには、突き飛ばされた格好の紅莉栖が、呆然とこちらを見つめていた。
 俺は慌てて紅莉栖に詫びたが、その声は自分でも驚くほどに震え、掠れており、紅莉栖からの返答はなかった。



 その後、室内の沈黙に耐えられず、逃げるようにシャワー室に飛び込んで、今に至るわけだが……
「なんと言ったものか」
 ようやく。
 少しずつ平静を取り戻してきた俺は、紅莉栖への釈明に頭を悩ませる。
 急に抱き合う格好になってしまったので、動転して思わず突き飛ばしてしまった――これで問題はあるまい。表面的に見れば、そのとおりなのだから。紅莉栖が「童貞乙」とでも言ってくれればそれで済むだろう。


 しかし、だ。
 先刻の俺は明らかに、そういったものとは別種の動揺を示してしまった。あの観察眼に優れた紅莉栖が、そのことに気づかないはずがない。
 正直、突き飛ばした前後に、自分が何か妙なことを口走っていないとは断言できない。それくらい、自分を見失っていたのだ。



 とはいえ――ここで思い悩んでいても解決しないことだけは確かである。
 とりあえず落ち着いた状態で、あらためて紅莉栖に詫びよう。もし、紅莉栖が何か訊ねてくるようなら、その時に改めて考えれば良い。
 そう考えてシャワーを止める。気づけば、シャワー室は湯気で満ち満ちており、まるで霧の中に迷いこんだかのようだ。痛いほどに熱いシャワーを浴び続けていれば、こうなるのも当然か、と俺は短く苦笑する。




 あるいはもう帰ってしまったかもしれない。
 そう考えながら――あるいはそうであるように願いながらシャワーから戻ると、紅莉栖はまだラボにいた。
 ソファの端に腰かけ、うーぱのぬいぐるみを抱きしめている。戻ってきた俺に声はおろか視線すら向けてこないが、ぬいぐるみがうーぱの原型をとどめないほどに力強く抱かれているところを見るに、先刻のことを気にしていないというわけではなさそうだった。


 それも当然といえば当然。俺とて誰かに拒絶されて突き飛ばされればショックを受ける。それが良く知る者であれば尚更だ。
 なので、俺はなにはともあれ紅莉栖に謝罪するため、口を開きかけた。
「紅莉栖、さっきは本当にすまな――」
「岡部さん」
 俺の言葉が終わらないうちに、紅莉栖は短く俺の名を口にする。
 特に声を高めたわけでもなく、怒りに震えている様子もない。むしろ、その声音は静かでさえあった。


 にも関わらず――
「聞きたいことがあります」
 その声には、従わざるを得ない何かがあった。
「な、なんだ?」
「もしかして、岡部さんは、私を…………」
 と、何か口にしかけた紅莉栖だったが、不意にはっと息をのむと、慌てたように口を噤んだ。


 そして、その狼狽を隠すかのように、口早に問いを向けてくる。
「さ、さっき、どうして急に突き飛ばしたりしたんですか? 地味に痛かったんですけどッ」
「す、すまない、その急なことだったので、咄嗟に身体が……」
「な、なるほど、つまり急に私みたいな若い女の子を抱きしめてしまったんで脳が異常をきたしたということですね、はい、どうみても童貞です、本当にありがとうございましたッ」
「ぐ、確かに非はこちらにあるが、そこまで言うほどのことか? こちらが童貞なら、そちらはしょ…………む、いや、なんでもない」
「ちょ、そこで急に照れて顔をそらされるほうが、こっちは恥ずかしいんですけど?!」
「いかにアメリカが自由の国とはいえ、実験大好き、海馬ラヴなマッドサイエンティストに手を出そうという奴はいまい、よって指摘するまでもないと思っただけだ。言わせるな恥ずかしい」
「私もそこまで辛らつなことを言われるとは思っとらんかったわッ!」
「ふ、人を呪わば穴二つ。他人へ向けた雑言はみずからへ返ってくると知るがいいッ!」


 何気に互いに毒舌だったのは、俺はもちろんのこと、紅莉栖の方も、今のおかしな雰囲気を何とかしようとしたためだと思われる。
 しかし、である。一度も侵入を許していない砦は頼もしく、一度も侵入に成功しない兵士は頼りないだの、このメリケン処女だのといったやりとりを続けていれば、雰囲気は別の意味で沈んでいかざるを得ない。
 俺たちはすぐにそのことに気づき、互いになんともいえない顔で見詰め合った。
「……やめよう、不毛だ」
「……そうですね」





 互いに似たようなため息を吐きつつ、俺は冷蔵庫からドクペを取り出し、コップに注ぐ。
 そこで、そもそも最初にたずねるはずだった質問を思い出した俺は、今さらながらそれを紅莉栖に向けてみることにした。
「そういえば紅莉栖よ、今日のこの時間はラボが無人だとわかっていただろうに、どうしてここにいるのだ? 帰って来て、中に誰かいると知ったときは不審者かと思ってあせったぞ」
「あ、それはその……気がついたら、ここに足が向いていたというか、他に行くところがなかったというか」
「…………すまない、いらないことを訊いてしまった」
「……真剣に申し訳なさそうな顔をされると、それはそれでいやなんですけど。その『友達いない奴に、どうして友達と遊ばないのとうっかり訊いてしまった』みたいな顔、やめてください」
「そ、そんなことは思っていないぞ。無論、無人のラボでひとり@ちゃんねるに向かう紅莉栖の背に哀愁を感じたなどという事実も一切ないッ」
 言った瞬間、うーぱが俺の顔をめがけて飛んできた。




 その後、紅莉栖はなにやら考え事をしているようで、ソファーから動こうとしない。
 恒例となりつつある講義も、今日は行う様子がなかった。俺は首を傾げたが、考え事の邪魔をするのも悪いと思い、新たな未来ガジェットの作成に取り組むことにした。
 実はつい先ほど、閃光のごとく俺の脳裏にアイデアがひらめいたのである。その名も「お帰りうーぱ君(仮)」。
 ラボのドアが開くと、ソファーのうーぱが「お帰りなさい」と言って出迎えてくれるのだ。無論、将来的には改造をくわえ、どの家でも運用可能なものとする、一人暮らしの諸君垂涎の未来ガジェットである。核家族化が進む日本の未来に、これ以上ふさわしいガジェットはそうはあるまい。


 それに、だ。
 これが完成すれば、友達のいない紅莉栖が無人のラボに来て寂寥を感じることもなくなるだろう――まあ、それもラボに入る最初の瞬間だけなのだが。しかしまあ、その後のことは紅莉栖個人に委ねたいと思う次第である。
 さて、ドアの開閉をどのようにうーぱに認識させるべきか。まずはそこから考えよう――無論、なるべく安価に済むようなアイデアを、である。




◆◆◆




 紅莉栖は考え事をする振りをしつつ、研究室の方の岡部の様子をうかがっていた。
 なにやら、やたらと熱心に頭をひねっているのが不思議だったが……まあ、また何かしょーもない発明を考え付いたのだろう。
 それはいい。
 問題なのは……


 紅莉栖はそっと目を閉じる。
 すると、やはり身体の一部が熱い。臍よりも上、右の胸の下あたりだろうか。
 さきほど岡部に突き飛ばされた際に痛めた――そんなわけはない。あのとき、岡部は紅莉栖の両腕を掴んでおり、その格好のまま突き飛ばしたのだ。だから、痛めるとしてもそれは腕であって、身体ではない。突き飛ばされた拍子に、椅子や机にぶつかったわけでもない。
 岡部と抱き合って胸が高鳴っている? い、いや、それはまったくないと言ったら嘘になるが、この熱さとは関係ない。うん、関係ない。
 では、この、滾るような熱さは何なのだろう? 
 そして。


『……どうして』


 さきほど、岡部が震えながら口にした、あの言葉。おそらくは岡部自身、口にしたことさえ気づいていないであろう小さな悲鳴。
 あれを聞いた瞬間、ほんの一瞬、紅莉栖の脳裏を染めた紅い記憶。
 具体的な何かが見えたわけではない。しかし、確かにあの時、紅莉栖はその記憶に何かを感じたような気がしたのだ。
 まるで知らないはずなのに、確かに知っている。そんな矛盾した何かを。
 『それ』を感じたのは、今日がはじめてではない。そう、あれは確か、岡部と再会した時に――



『いや、だから、私はクリスティーナでも助手でもないと言っとろう――』  
    




[24074] 可能実現のエンテレケイア (六)
Name: 崩◆4ebc7067 ID:cd1edaa7
Date: 2011/09/04 19:05
 ラボからホテルに戻った紅莉栖は、シャワーを浴びてパジャマに着替えた後、仰向けにベッドに横たわって目を閉じる。
 眠たかったわけではない。例によって早い時間に岡部に送られてラボを出たので、食事をしてシャワーを浴びても、まだ時計の針は九時をわずかに越えたばかり。
 ゆえに紅莉栖が目を閉じたのは、ただ考え事に集中するためであった。


 しばし後、紅莉栖の口から小さな声が零れ落ちる。
「……再会した時と、今日の二回。どっちも岡部さんから私に何か働きかけた時」
 まるで知らないはずなのに、確かに知っている――そんな矛盾を自分自身の中に見出した回数であり、その状況を導き出した条件。


 最初は再会した岡部から「クリスティーナ」と呼ばれ、「助手でもクリスティーナでもない」という反論が自然と口を衝いて出た。紅莉栖は岡部の助手になった覚えはないし、当然そう呼ばれたこともない。だから、あんな反論が口を衝いて出るはずはないのだ。
 けれど、その言葉は紅莉栖が意識するよりも先に発された。まるで、これまで幾度となく繰り返されていたやりとりを脳が記憶していた、とでもいうように。


 二回目、つまり今日は岡部に抱きしめられ、「どうして」という震える声を聞いた瞬間、自身の中から紅く染まった記憶が浮かび上がってきた。
 それを自分は知っている。紅莉栖は強くそう感じた。
 ただ、先の助手云々と異なり、紅い記憶に関しては紅莉栖にも心あたりがあった。ラジオ会館で岡部の血にまみれて目を覚まし、警察が来るまで呆然と過ごしたあの時の混乱と衝撃は、今なおはっきりと脳裏に刻み込まれている。あの記憶が、岡部の言動をきっかけとして記憶からあふれ出たのかもしれない。


 だが。
 紅莉栖はそっと右の胸の下あたりに手をあてる。
 あの紅い記憶を思い起こした後、なぜかしばらくの間、そのあたりに滾るような熱さを感じたのだ。
 あれは何だったのか。先ほどシャワーを浴びた際に確認した時には、特に何の異常もなかったから、岡部に突き飛ばされた時に怪我をした、というわけではない。ラジオ会館でも、その部位に怪我をしたりはしなかった。
 紅い記憶がラジオ会館の記憶の残照だとした場合、あの滾りが何だったのか、という謎が残ってしまうのである。



 いずれにも共通するのは「知っている」と感じたモノが、外から与えられた情報ではなく、紅莉栖の内にあった、ということである。この点、紅莉栖が感じたものは、いわゆる既視感とは意を異にする。
 記憶にまつわる事象に関して、紅莉栖は専門家である。ゆえに、自分が体験したことを科学的に、筋道立てて分析することは難しいことではない。
 ここ一、二ヶ月あまりで、紅莉栖の身に起きた多くのイレギュラーな出来事を考慮した上で、それなりに説得力のある仮説を導き出すことは可能だろう。特に気負うでもなく、紅莉栖はそう考えていた。実際、いくつか考えは浮かんでいるのだ。
 けれど――


「あくまで『それなりに』なのよね……」
 いずれも完璧な解にはなり得ない。何故といって、紅莉栖自身が思っているからだ――これらの解は間違っている、と。
 ごまかす相手もいないので率直に言ってしまうが、あの不思議な感覚は、錯覚や記憶の齟齬などではなく、自分と岡部との大切なつながりを示しているのだ、と紅莉栖は考えていた。もっと正確に言えば、そう思っていたかったのだ。




「…………我ながら、なんてスイーツ(笑)」
 検証もせず、感情で否定する。それは科学的な態度の対極にあるもので、誰に指摘されるまでもなく、紅莉栖は自身の失調を認めざるを得なかった。
(まあ、そんなのは、あてもなしに岡部さんを捜し歩いていた時から分かっていたことだけど)
 一日中、足を棒にして歩き続けたあの頃。疲れ果ててこのベッドに横になるたびに、この行動に何の意味があるのか、と自問した。
 しかし、出てくる答えは結局いつも同じだった。そして、翌日には再び捜し人の姿を求めて歩き回っていたのだ。あれだって十分すぎるほど自分らしからぬ行動だ、と紅莉栖は思う。


 考えてみれば、その行動が実を結んで岡部と再会できたのだから、今回もとことんまで考えを煮詰めるべきなのだろうか。
 だが、煮詰めるといってもどうやって?
 岡部に問いただすことは出来ない。そう約束したから、というのももちろんあるのだが、今の紅莉栖にとっては、この話題に触れた時の岡部の顔を見たくない、という気持ちもそれと同じくらいに強くなっている。


 ――そう。あの、紅莉栖を通り越して別の誰かを見ているような岡部の顔は見たくない。
 以前、紅莉栖はそれを「母親が昔の父親のことを語る時の眼差し」に似ていると思った。それはつまり、過ぎ去った……もう戻らない時間を懐かしむ眼差しと言い換えることが出来る。
(私が、岡部さんの昔の知り合いに似ている、とかそういうことなのかな……)  
 だからこそ、初対面の紅莉栖を命がけで助けてくれたのだろうか。その方法には疑問が尽きないが、動機としてはありえない話ではない、と思う。
 だが、そうだとすると、岡部の目に映っているのは牧瀬紅莉栖ではなく、それ以外の誰か、ということになってしまう。それは――
(それはいや)




 ……しばしの沈黙の後、紅莉栖はがばっとベッドから上半身だけを起き上がらせる。そして、ぐしゃぐしゃと髪をかきむしりながら、がーっと吼えた。
「ああもう! つまり私は何がしたいの、岡部さんに何をしてほしいの、いい加減はっきりしなさい牧瀬紅莉栖でも岡部さんも岡部さんで鈍すぎるからすこしくらいぼやいても許されると思うわけだがッ?!」


 ――と、内心の鬱屈を発散していた紅莉栖の視線が、ふと鏡台に移る。
 そこには、ちょっと他人様にはお見せできない表情をした自分が、頭をかきむしり、頬を紅潮させながら吼えている姿が映し出されていた。
 鏡に映る自分の赤く充血した目と、そこはかとなくひきつった顔を見て、紅莉栖はぼそりと呟いた。
「……これはひどい」


 そう呟いた後、紅莉栖はそんな自分を視界から追い出すために、ばたりと音を立ててベッドに横になると、きつく目を瞑る。
 今度は考え事をするためではなく、眠ってしまうためである。これ以上は、考えれば考えるほど、泥沼にはまってしまうような気がして仕方ない紅莉栖であった。




 ……そして、紅莉栖はその『夢』を見た。




◆◆◆




 それが夢であることはすぐに気づいた。
 自分以外に誰一人存在しない世界。それが夢以外の何だというのだろう。
 ビルというビルからは明かりが消え、普段はうるさいくらいに騒音を響かせている秋葉原の街から一切の音が消失している。





(まるで廃墟みたい)
 耳が痛くなるほどの静寂の中で、紅莉栖はそんな思いを抱く。
 人の声はもちろん、車や電車の音も、風の音すらまったくない。響くのはただ自分の足音だけだ。





 それでも紅莉栖はさして気にすることもなく歩き続ける。往復するのは御茶ノ水のホテルとラボ。電車も動かず、タクシーも拾えないため、徒歩で移動しているのだが、疲れはまったくと言っていいほどなかった。
 これもまた、紅莉栖が夢だと判断する理由である。どれだけ歩いても疲れず、どれだけ時間が経とうと空腹になることもない。
 よって、電気やガスが使えないことも、何の問題にもならなかった。






 ラボのドアの前まで来ると、紅莉栖は合鍵を隠し場所から取り出して鍵をあける。
 ノブを掴んだ時、ほんの一瞬だけ動きが止まるが、紅莉栖自身がそれと気づくよりも早くに身体は勝手に動き、ドアを開けていた。






 紅莉栖の視界にはいってきたのは、奇妙に薄明るい無人の室内であった。
 電気がない以上、この薄明は外の光が室内に差し込んできた明かりであるはずだが、朝になろうと夜になろうと、明度に変化がないのは、やはりこれが夢だからだろう。そもそも、時間という概念が夢の中で正確に再現される方が珍しいのだ。






 紅莉栖はいつものようにソファの端に腰掛けると、膝の上にうーぱのぬいぐるみを乗せ、適当な学術書を手に取った。もう何度も読み返したものだが、他にすることもないので仕方ないのである。
 まあ、夢の中で読んだ本が克明に頭に入ってくるのは、現実で何度も読み返した本なればこそ、だろう。





 ふと気がついて携帯を見れば、時刻は夜の八時になっていた。
 我ながら大した集中力だこと、と呆れ混じりに思いつつ、腰をあげる。
 今日も今日とてラボには誰も来なかったが、これはいつものことだから、別に失望も寂しさも感じない……いや、寂しさを感じないわけではないが、所詮は夢の中、目が覚めれば跡形もなく消え去る感情でしかないわけで、やっぱり気にする必要はない。紅莉栖はそう結論づける。





 無人の秋葉原を、宿泊しているホテルに向かって歩き続ける。
 誰もいないホテルと誰もいないラボを往復すること自体に意味はない。しかし、ラボの主に無断でラボに泊まるわけにもいかない。それに、ラボのドアを開ける際に感じる、今日こそは誰かいるかも、という感覚は決して嫌いではなかった。
 目が覚めるまでは抜け出しようのない、味も素っ気もない夢の中だからこそ、わずかなりと感情を刺激する行動は貴重であった。





 ホテルに戻り、ベッドに横になる。
 食事やシャワーは必要ない。あるいは――と紅莉栖が携帯を見ると、日付はもう改まっていた。無意識のうちに必要なことは終わらせてしまったのかもしれない。なんだか色々な矛盾があるような気もするが、夢に突っ込みをいれても仕方ないだろう。
 そう思った紅莉栖は目を瞑り、夢の中で夢を見るために眠りにつく。
(いい加減、この夢、覚めてくれないかしら)
 そんな風にこっそりため息をつきながら。  

 



 そして翌日。
 いつもどおりに目覚めた紅莉栖は、静寂と薄明に包まれた室内から、いまだ夢が覚めていないことをため息まじりに受け容れる。
 携帯で時間を確認すれば、出かけるにはちょうど良い時間である。日付に関しては気にしても仕方ない、といつもどおり意識の外に追いやった。
 無人の廊下を歩き、無人の階段を下り、無人のロビーを通って外へ出る。
(さて、いきますか)
 声に出さずに内心で呟くと、昨日までと同じようにラボへ向かって歩き出した。





 代わり映えのない道のりに、代わり映えのない景色。
 人が消え、音が失われただけで、見慣れたはずの街並がまるで違うもののように映る。
 もう何度繰り返しこの情景を見てきたか、正直紅莉栖は覚えていなかった。
 携帯で日付を確認するなり、ラボのカレンダーに印をつけるなり、記録する手段はいくらでもあったが、そんなことをしても意味がない。
 繰り返すが、ただの夢だとわかりきっている事象に、そこまで真剣に向き合う必要はどこにもないのだ。





 気がつけばラボに着いていた紅莉栖は、いつもどおりに無人のブラウン管工房の前を横切り、二階へとあがっていく。
 無彩色の夢の中にあって、この瞬間だけは不思議と色合いを帯びる。ラボの中に入れば、すぐにその色褪せてしまうことはわかっているのだが、時が止まったようなこの世界では、その一瞬さえも貴重だった。
 いや、時が止まった、というよりは――
(用がなくなって棄てられたって感じよね)
 だから廃墟のようだ、という感想が真っ先に思い浮かぶのである。紅莉栖以外のすべての人間が別の世界へ移動してしまい、ただ紅莉栖一人が、時間さえ意味を失った用済みの世界でさまよっている、そんな感じだった。空腹もなく、疲労もなく、気がつけば携帯が望む時間を指しているのも、これならば……





(っと、いけないいけない)
 また夢の中の出来事に整合性を求めようとしている自分に気づき、紅莉栖は小さくかぶりを振る。
 そんなことをしても意味がないのだ。だって――【この世界線にひとり取り残されることは、最初からわかっていたのだから】





「……え?」
 不意に、自分の心をよぎった思考に、紅莉栖は思わず声を出してしまう。
 今のは紅莉栖の考えではない。紅莉栖が思ったのは、夢について深く考えても仕方ない、とただそれだけ。世界線だの、取り残されるだのとは考えていないし、そもそも「最初から」とは何のこと?


 そして、その疑問と共にわきあがったもう一つの疑問。
「……声を出したのって、どれくらいぶりだろう?」
 もうずいぶんと長く、考え事は胸の中だけで行うようになっていたような気がする。自分の声であるにも関わらず、耳が音をとらえるという感覚に戸惑いを覚えてしまう。
 そして、なまじ声を出してしまったばかりに、不自然なまでの周囲の静寂が、一際耳に痛く感じてしまう。夢の中だから、と気にしないように努めてきたけれど――そして実際に夢の中としか考えられないほどに奇妙な世界だけれど、それでも、この圧倒的なまでの現実感は一体何だというのか。


 まずい、と咄嗟に紅莉栖は考えてしまう。
 このままではこの世界に疑問を持ってしまう。この世界は何なのか、その解を得ようとしてしまう。
 それは難しいことではない。なにしろ空腹も疲労もないのだから、時間は無限に存在する。
 これまではこれが夢だと思って行動に移さなかったが、別に暇つぶしにでも、あるいは座興にでも、それをしても問題など何もなかった。
 なのに、なぜ頑なに夢ということを理由に、この意味もないラボとホテルの往復を続けてきたのか。それは――【これが夢ではないと気づいていたから。これが覚めない現実だとわかっていたから】 


「……だから、確かめるのが怖かったの?」
 なんだ、その科学者らしからぬ態度は。自分らしくないにもほどがある。
 そう考えた紅莉栖は、不意に首を傾げる。
「……あれ、つい最近、同じようなことを考えた気がしたけど、あれは……」
 何時のことだったのか。何のことだったのか。いや、そもそも――
「あたし、なんでこのラボに来てるんだっけ? 誰かがいるような気がしてたけど、でも、誰が……?」
 パパ――父や、母ではない。友達……逆留学した学校ではそういった相手は出来なかった。そもそもラボ――研究所というには、ここはあまりに狭苦しいし、機材も設備もない。紅莉栖がいたアメリカの大学とは、それこそ比べるべくもない。


 何故、自分はこんなところにいたのだろう? 誰に会いに来ていたのだろう?
 こめかみに手をあてて考えても、答えが出てこない。それでも、紅莉栖は眉間にしわを寄せ、己の記憶を一つ一つ確かめていく。何か……何か大切なことを、自分が忘れてしまっているような、そんな気がして。




【思い出してはいけない】
 思い出してしまえば逢いたくなる。




【考えてはいけない】
 考えてしまえば解を得てしまう。  




【気づいてはいけない】
 気づいてしまえば耐えられなくなる。




【この、すべてが止まった世界線こそが私自身が選んだ結末。大切な友達を助けるために私自身が決めた選択。たとえここが、狂うことすら許されない永遠の牢獄であったとしても、後悔なんて決してしない――】




【――だけど、二度と逢えない誰かを想いながら在り続けられるほどに、私は強くない。だから、記憶は大切に封をして心の奥にしまいこむ。忘れるわけじゃない。目が覚めるその時まで、大事にとっておくだけ。結構がんばったんだから、これくらいの緊急避難は許してほしい】




【……世界は収束する。目が覚める時が来る確証なんてどこにもないけれど。それでも、期待くらいはしても良いわよね、狂気のマッドサイエンティストさん? 世界の構造とやらを、作り変えるんだろ?】  
 




 …………………………






◆◆◆






 突如、ラボの中に閃光がはしり、それとほとんど同時に耳をつんざくような雷鳴が轟き渡った。
「ぬおッ?!」
 至近で生じた爆発するような轟音に、俺は思わず大声をあげて立ち上がっていた。
 紅莉栖と別れてラボに戻ってから、お帰りうーぱ君(仮)の設計に集中していたため、天候が悪化していることにまったく気づいていなかったのだ。


 ややあって、自分がいい年して雷に怯えたという事実に思い至り、俺は赤面しつつ咄嗟に周囲を見渡してしまう。
 時計の針は間もなく十二時を指そうとしている。現在、ラボにいるのは俺だけだとわかっていたが、誰もいないことを確認せずにはいられなかった。
 こんなみっともないところを誰かに見られたらたまったものではない。向こう一週間は羞恥に打ち震えて過ごさなくてはならないだろう。


 幸いというか、当然というか、室内には俺のほかには誰もいなかった。机の上に鎮座しているうーぱのぬいぐるみが俺を見て笑っているような気がしたのは、たぶん気のせいだ。
 俺はうーぱの額を指ではじいてから、窓に歩み寄った。
 どうやら雨自体はずいぶんと前から降っていたらしく、ブラウン管工房の前の道路には大きな水溜りが出来ている。と、再び視界が白一色に染まり、落雷の音が轟いた。光ってから、雷鳴が聞こえるまで五秒も経っていない。
 見れば、雨脚もずいぶんと強くなっている。これは今夜は荒れそうだ。


 俺は腕組みしてひとりごちる。
「ふむ、そろそろ帰ろうかと思っていたが、これはラボに泊まった方が良さそうだな」
 ラボに泊まること自体は別にめずらしいことではないので、俺はあっさりとそう決めた。着替えは置いてあるし、夜食も完備してあるので問題はない。
 それに、お帰りうーぱ君(仮)の設計が順調に進んでいる今、もう少し推し進めて、ある程度は形にしてしまいたいという思いもあった。紅莉栖の科学者養成講座の成果が如実にあらわれているような気がする今日この頃である。





 それからおよそ三十分あまり。
 設計および必要部品、さらには予算の概算まで出し終えた俺は、伸びをしながら冷蔵庫に向かおうとした。研究の後のドクペは至高、異論は認めない。
 と、不意にドアの方から慌しい音が聞こえてきた。
 一瞬、外の風雨の音かと思ったが、なにやら鍵を開けようとしている気配がするから、自然現象ではありえない。ラボメンの誰かが来たのだろうか。


 ごく自然にそう考えた俺は、次の瞬間、はっと目を見開いた。
「……こんな時間に誰が来るというのだッ?!」
 咄嗟に周囲を見渡し、武器になりそうなものを探す。
 否応なしにα世界線におけるSERNの襲撃が思い出されたからだ。時間も状況もまったく異なるが、このラボの襲撃をしてくる勢力なぞ奴ら以外に思い当たらない。


 ……だが、改めて考えるまでもなく、これはおかしな話だ。
 今の俺たちにSERNが注意を払う要素はかけらもない。まさか、お帰りうーぱ君(仮)の完成が世界を揺るがし、タイムマシン開発に結びつくとは思えん。
 なにより、いまだに何やらがちゃがちゃと鍵穴で苦戦しているっぽい訪問者は、あの時の襲撃者たちの手際とはいかにも対照的だ。よっぽど慌てているのだろう。


 しかし、SERNではないとしても、今の状況でラボに訪れる者が不審人物であることは間違いない。
 そもそも、今、俺がここにいるのは研究に没頭したことと、嵐の襲来が重なった末の単なる偶然であり、本来、このラボには誰もいなかったはずなのだ。メールも電話も来ていない以上、ラボメンが俺に会うためにやってきた可能性はない。
 嵐に便乗したこそ泥か、とも思ったが、この部屋の明かりは外にもこぼれている。わざわざ人がいるとわかりきった部屋に忍び込もうとはしないだろう。
 つまり、この訪問者はここにいるのが『岡部倫太郎』であるとは知らない。しかし、『誰か』がいることはわかっている。その上で合鍵を見つけ出して入ってこようとしているのだ。どう考えても不審人物であろう。


 俺はそういったことを考えつつ、我ながら感心するほどの手早さで未来ガジェット四号機モアッド・スネークの準備を追え、さらに六号機サイリウム・セーバーの柄を引っ掴む。
 その上で携帯を取り出し、発信ボタンを押せば警察に繋がるようにセットしておいた。
 ――さあ、これで準備は万端整った。何者か知らないが、このラボを襲撃してただで済むと思うなよ――と勇ましく思ってはみたものの……


「……ふ、先ほどから動悸がまったくおさまらん」
 俺は額の汗を拭いつつ、小さく呟く。そうでもしないと、叫び声をあげてしまいそうだった。これまでに普通の人間では一生味わえないような体験を数多くしてきたが、だからといって不測の事態に慣れるわけでもないのである。


 と、そこでついに訪問者が鍵を開けることに成功したようで、ドアがはじけるような勢いで開かれる。
 思わずびくりと震えてしまった俺は、相手の姿を確かめもせずに四号機を発動させようとしたのだが、当の相手がいきなり身体を九十度近く曲げて、ぜえはあと息をつきはじめるのを視界の隅で捉え、咄嗟にその動きを止める。
 というより、その姿と声は…………


「……紅莉栖?」
 俺の問いかけにも、紅莉栖は顔をあげようとしない。
 よほど疲れているのか、両手で胸を押さえたまま、荒い呼吸を繰り返している。
 だが、その姿は紛れもなく紅莉栖のものだ。紅莉栖ならば、合鍵の場所も知っている。 まったく人騒がせな――そう思ってしまったのは、これまでの緊張感がとぎれたことで、俺の注意力が散漫になっていた証拠だったろう。
 訪問者が紅莉栖であったことは、今の状況の不自然さを説明する答えにはなりえないのだから。


 むさぼるように空気を肺に取り込んでいる紅莉栖を見て、一体、どこから走ってきたのやら、と考え――そこで俺は気づく。
 紅莉栖の髪や服を伝って、水滴がぽたぽたとラボの床に零れ落ちている。
 考えるまでもない。外は雷鳴轟く嵐なのだ。傘を差したところで完全に雨滴をしのぐことは出来ないだろう。というより、全身が濡れ鼠の紅莉栖を見るに、傘さえ差していなかったのかもしれない。
 そもそも、紅莉栖は俺がこの時間にラボにいるとは知らないはずなのに、何故嵐の中をラボまで走ってやってきたのか。


 ――ここでようやく、俺は事態の異常性を再確認できた。
「おい、紅莉栖、大丈夫かッ?! 一体どうしたのだッ?!」
 俺が六号機を放り出して駆け寄ろうとしたとき、ようやく紅莉栖が顔を上げた。
 その眼差しが室内にいる俺にまっすぐに向けられた、そう思った途端、俺は声を失う。
 俺を視界におさめた紅莉栖の顔を彩る純粋な喜びの笑み。こんな状況だというのに、それは俺が言葉を失ってしまうくらいに輝いていて――そして何故だか深い安堵に包まれているように見えたのだ。まるでようやく親を探し当てた迷子のように。


 次の瞬間、俺は胸のあたりに衝撃を受け、そのままよろけるようにソファに倒れこんでしまう。知らず、立ち尽くしてしまった俺の胸に紅莉栖が飛び込んできたのだ。
 なにやら既視感を覚えるシチュエーションだったが、今はそんなことに拘泥している暇はなかった。抱きついてきた紅莉栖の身体は冷たく、今も小刻みに震えているからだ。
 それはそうだろう。まだコートが必要な季節ではないが、最近は日が昇っている時間でも肌寒さを覚えることが多くなってきた。そんな季節に冷たい雨に打たれつづけていれば凍えて当然だ。


 ソファに押し倒された格好の俺は、なんとか体勢を立て直そうと四苦八苦しながら、紅莉栖の肩に手を置く。昼間はここで過去の光景があふれ出てきたのだが、今はそんなことはなかった。それどころではない、という俺の内心の切迫感が優ったのかもしれない。
「紅莉栖、どうしたのだ、こんなにびしょぬれになって?」
 努めて穏やかに話しかける。俗にいう猫なで声になってしまったような気がしないでもないが、今はそんなことを気にしてはいられない。


 こんな紅莉栖を見たのは、再会してからはもちろん、あの三週間を振り返ってさえ記憶にない。
 よほどの事が起こったのだ、ということはわかったが、しかし具体的なことは何一つわからない。父親とのことを思い悩んでいた時でさえ、紅莉栖はここまで取り乱した様子は見せなかった。
 まさか何者かに追われていたのか、と気になってドアの方を窺ったが、誰かが紅莉栖の後を追ってくる気配はない。
 こうなると、もう俺にはお手上げで、紅莉栖本人から事情を訊くしか手段はなかった。




 やがて――
「………………良かった」
 紅莉栖の小さな呟きが耳に届いた。
 ただ、それは俺の問いに答えたというよりは、紅莉栖の独り言に近い。
 だから俺はあえて問い返さず、少しでも落ち着けるようにと紅莉栖の背中を軽く叩くだけにとどめた。


 すると、それに応えるように紅莉栖が囁く。
「いてくれた……ここに……」
「うむ、良かったな」
 俺がここに居たのは偶然だが、今の紅莉栖を無人のラボが迎える光景というのは想像したくない。だから、俺は素直に頷いた。
 すると。
「……うん、良かった……」
 俺の呟きに、今度ははっきりとそれと意識した返答が返って来た。
 ぎゅ、と俺の背にまわした紅莉栖の手に力がこめられる。


(相変わらず状況はさっぱりわからんが……)
 今、俺が何をするべきかはなんとなくわかった気がする。
 だから、俺は自らも紅莉栖を抱きしめるように両の手に力を込めた。
 ん、と紅莉栖の口から小さな声が零れ落ちたが、それは拒絶の意味をともなってはいなかった。


 そのまま、俺たちはしばらくの間、同じ体勢をとり続けた。不思議と、恥ずかしいという気持ちは湧いてこなかった。





[24074] 可能実現のエンテレケイア (七)
Name: 崩◆4ebc7067 ID:63a01683
Date: 2011/09/04 19:05

「轟く雷鳴は秩序の怒り! 吹きすさぶ豪雨は世界の嘆きッ! すべては混沌より贈られた再誕の祝福かッ! そうだ、世界よ。俺は……鳳凰院凶真は帰ってきたぞッ! フゥーハハハ!!」
 俺は両手を広げ、天に向かって哄笑を迸らせた――右手に傘、左手にコンビニのレジ袋を持った格好で。


「おっと、いかんいかん」
 俺は慌ててレジ袋の口を握りなおす。中に入っている品物が濡れてしまっては大変だ。まあ、その品物自体がビニールに覆われているから、多少、雨が内側に入ってしまっても問題ないとは思うが、避けられるリスクを避けるのはIQ170のマッドサイエンティストたる俺にとっては当然のことだった。


 そうこうしている間にも雷光が瞬き、わずかに遅れて耳をつんざく様な雷鳴が轟き渡る。風雨の勢いは先刻よりもさらに増していた。どうやら、嵐は今夜一晩続きそうだ。
 前述したとおり、一応、傘は持って来ているのだが、ここまで本格的な嵐に見舞われると、傘などあってもなくても大差はない。
 常人ならば、ここで舌打ちの一つでもしてしぶしぶ歩き出すのだろうが、今の俺にとってはこの程度の嵐など意に介するに足りない。
 ゆえに、俺が歩く速度をあげたのは、雷が怖かったからではない。ラボで俺を待っている紅莉栖のもとに一刻も早く戻るためであった。

 


 そんなわけで、誰もいない街路(時刻は深夜、おまけに嵐の真っ只中なのだから当たり前だが)を足早に歩きつつ、俺はつい先刻のことを思い起こす。
 突然ずぶぬれの姿でラボを訪れ、あまつさえ抱きついてきた紅莉栖。何事かが起きたのは間違いないが、紅莉栖の様子を見る限り、事の次第を問いただせる状態ではなかった。そもそもあんな状況で何を言えば良いのかなど、俺にわかるはずもない。


 結果、無言で互いを抱擁する形となってしまったわけだが、その抱擁は紅莉栖が小さなくしゃみをすることで終わりを告げる。
 おそらくは傘もささずにラボまで走ってきたのだろう紅莉栖は、文字通り全身びしょぬれであった。このまま放っておけば、風邪どころか下手したら肺炎になりかねん。遅まきながらそのことに気づいた俺は、どこかぼうっとした様子の紅莉栖を半ば無理やりシャワー室に押し込み、身体を暖めるように告げた。


 幸い、紅莉栖は素直に頷いてくれた。「このHENTAIッ」と罵られずに済んでほっとしたのもつかの間、すぐに俺は次なる問題に直面し、困惑する羽目になる。
 問題とは、つまりシャワーを浴び終えた紅莉栖の着替えをどうするのか、ということであった。
 ラボに泊まるのは俺でなければダルしかおらず、当然、着替えも男物しか置いていない。男物のTシャツを恥ずかしげに着ている紅莉栖を思い浮かべてしまい、俺は思わず呟いた。
「ちょ、それなんてエロゲ?」
 ……言ったすぐ後、自分で自分を殴りたくなったが、そんなことをしている時間がもったいないので、すぐに打開策の模索を開始する。



 第一案。まゆりに連絡する。
 考察。確実にもう寝ている。仮に起きていた、ないし起こして来てもらうにしても、まゆりの到着までの時間をしのがなければならないことに違いはないために却下。これは他のラボメンにも共通する。
 ……というか、そもそも、この嵐の中をラボまで呼び出すという考え自体がありえないのだが。


 第二案。とりあえず紅莉栖の服を乾かす。
 考察。脱衣所に忍び込むことになるので却下。紅莉栖に乾かす旨を伝えて拝借しようかとも考えたが、上着くらいならともかく(それとて怪しいものだが)それ以外の衣服を恋人でもない男の手に委ねる女性なんていないだろう常考。


 第三案。とりあえずラボに置いてある着替えを並べて紅莉栖に適当に選んでもらい、紅莉栖の服が乾くまでのつなぎとする。
 考察。妥当。ただし短時間とはいえ「ちょ、それなんてエロゲ」状態がうまれてしまうのが問題といえば問題か。Tシャツが駄目なら予備の白衣などもあるが、それはそれで色々と問題がある。こんなところで新たな境地を開拓している暇はない。保留。



 ……と、こんな調子で考えていくにつれ、俺はこの状況を乗り切るためには、どうしても不可欠なアイテムがあることに思い至る。そして、幸か不幸か、その入手方法にも心当たりがあった。
 今の紅莉栖を一人でラボに残しておくことに不安がないわけではなかったが、だからといって、ここで躊躇していると、抜き差しならない状況に陥ってしまうのは必至。
 動くべきか、動かざるべきか。俺は起こるであろう状況と、そのメリットとデメリットを考慮した末、机の上にメモを残してラボを飛び出した。
 そして、コンビニで目的のブツを手に入れてから、こうして急ぎ足でラボに戻っているのである。


 ただ、メモを残してきたとはいえ、いかにも心細げだった紅莉栖を一人残してきたことが正しかったのかどうか、俺には判断がつきかねていた。
 だから、なるべく早く――できれば、紅莉栖がシャワーからあがる前にラボに着きたかったのだ。
 それに、と俺は内心で続ける。
(あの紅莉栖の様子を見るに、何かあったのは間違いないからな。何を言い出されても慌てないように、心の準備をしておかなくては)
 出来れば取り越し苦労であってほしいものだ、とため息を吐いたその途端、もう何度目のことか、雷鳴が俺の鼓膜を激しく揺さぶる。



 ――まるで俺の楽観を嘲笑うかのように。






◆◆◆






 紅莉栖はシャワー室の壁に両手をつき、限界まで温度を上げたシャワーを頭から浴びていた。
 こんな高温のシャワーは、普段なら間違っても浴びたりしない。だが、今は痛みさえ覚えるこのシャワーが、かえって紅莉栖にはちょうど良かったのだ。
 あの夢から回帰する意味でも……先刻までの自分の行動、それを思い出して羞恥に震える心身を落ち着かせる意味でも。


 もう何度目のことか、紅莉栖の口から深いため息が零れ落ちる。
 奇妙に記憶の奥に染み付いているあの悪夢。今思い出しても、全身に震えがはしるそれに苛まれ、ラボまで来てしまった。
 風も、雨も、雷さえまったく気にならなかった。ただ、あの夢が現実でないことを確認したかったのだ。


 冷静に考えてみれば、メールを打つなり、携帯で電話するなりすれば良かったのだが、あいにくそこまで考えが及ばなかった。
 だが、結果として、そうしなくて良かったかも、とも思う。ラボの窓が明るかった時点で予想はしていたが、岡部の姿を見た時に胸奥を満たした安堵は、例えようもなく快いものだったから。あの気持ちは、きっとメールや携帯では味わえなかっただろう。


 とはいえ――紅莉栖は思わず顔を両手で覆う。
「わき目もふらずに抱きつくとか、どんだけ……ッ」
 鬱だ氏のうとかいうレベルではない己の蛮行を思い起こし、紅莉栖の頬がシャワーの熱によらずして赤くなる。というか、頬や顔にとどまらず、もはや全身が羞恥で熱い。雨滴に打たれた寒気など、とうの昔に消え去っていた。





 しばし後。
 ようやく全身から熱が引いた紅莉栖は、ノブを回してシャワーを止めると、そっとシャワー室の壁によりかかった。そして、深刻そのものといった表情で呟く。
「……問題は、岡部さんになんて説明するか、なんだけど」
 嵐の中、傘もささずに誰もいないはずのラボにやってきて、偶然いたであろう岡部に抱きついた。
 自分のとった行動が、少しばかり常識から外れたものであることは、紅莉栖としても自覚せざるを得ない。というか――
「……ドン引きするわよね、普通」
 思わず頭を抱えてしまう。それはそうだ。立場が逆だったら、紅莉栖も引く。それはもう確実に引く。というか通報する。


 当然、岡部も紅莉栖がとった行動を不審に思っていることだろう。一歩間違うと、岡部からHENTAI扱いされかねないとあって(もうすでにされている、という可能性には目を瞑る)、紅莉栖は本気で解決策を模索しはじめた。
 ――が。
 いかに紅莉栖の明晰な頭脳をもってしても、今夜の行動を正当化するアイデアはなかなか浮かんでこなかった。
 紅莉栖はシャワー室の天井を見上げながら呟く。
「まあ、当たり前といえば当たり前、か。それに岡部さんに嘘なんてつきたくないし……」
 かといって、本当のことを――怖い夢を見たせいで、心細くなってここまで来ました、と言うわけにもいかないのが悩ましいところだ。何故といって、そんなことをすれば、羞恥心とか、自尊心とか、乙女心とか、色々なものがダメになってしまう気がするからである。



 考えに詰まった紅莉栖は、一旦問題を棚上げし、別のことについて考えることにした。そう、あの夢について。
 夢というのは、目が覚めてから時間が経つにつれ、その内容は記憶から薄れていくものだが、今の紅莉栖は夢の内容を、完璧とは言えないにしても、八割がたは記憶に留めていた。あの夢から覚めたとき、ベッド脇の備え付けのメモ用紙に、記憶しているかぎりのことを書き留めておいたのである。


 全身を震わせながら書いたメモは、落書きより多少はましといった程度の見るに耐えないものだが、それはそれで構わないのだ。書きとめるという行為そのものが、紅莉栖の脳裏に夢の内容を刻み付けているからである。
 ただの夢を、ここまでして記憶にとどめておくことにどれだけの意味があるのか、紅莉栖自身もはっきりと自覚しているわけではない。
 ただ、あの夢を忘れてはいけない――その確信だけは、ホテルのベッドで飛び起きた瞬間から、今この瞬間に至るまで、かわることなく紅莉栖の心に在り続けている。


「……とはいえ、こんな夢を見ました、と岡部さんに言ったりしたら、ますますおかしな目で見られることになりかねないわけで…………くしゅッ!」
 どうやら、いつの間にか、ずいぶん考えにふけってしまっていたらしい。
 気がつけば、シャワー室にたちこめていたもやが綺麗にかき消えている。両肩を抱えるように身体に触れてみてわかったが、身体もすっかり冷えてしまっていた。
「いけない、いけない」
 あわててシャワーを(今度は適温で)浴びなおすと、再び身体が隅々まで熱を帯びていくのを感じる。
 その心地よさに、紅莉栖が思わず、ほぅっと息を吐こうとした――まさにその瞬間だった。




「……紅莉栖、少しは落ち着けたか?」
「うひゃうッ?!」
 遠慮がちな岡部の声がシャワー室に飛び込んできたため、吐き出しかけていた吐息がなんか妙な叫びに変化してしまった。
 それを聞き、岡部が何やら慌てだす。
「お、おい、紅莉栖、大丈夫か? まさか倒れたりしていないだろうな?!」
「だ、大丈夫です平気です、問題ないです!!」
 このまま黙り込んでいると、心配した岡部がシャワー室に飛び込んできかねない、と判断した紅莉栖は、岡部以上に慌てて平気であることをアピールする。


 すると、すぐにほっとしたような岡部の声が返ってきた。
「そ、そうか。確かに声に張りが戻ったようだな」
 よくよく聞けば、その声はどこか遠い。おそらくシャワー室のドア越しに声をかけているのだろう。元々、手狭なラボだ。特に声を張り上げなくても、ドア越しに声を届かせることくらいは簡単に出来る。
 そうと悟って紅莉栖は改めてほぅっと息を吐こうとして――はたと気づいた。


 時刻は夜。外は嵐。ラボには岡部と紅莉栖の二人きり。一方の紅莉栖はシャワー中。そしてシャワー室のすぐ外には岡部。このシチュエーションは……
「ちょ、それなんてエロゲッ?!」
「……その一言で、何を考えているかはおおよそ把握した。が、心配するな。ここで行動に移れるようなら、この歳で童貞なんぞしていない」
「……言ってて悲しくなりませんか、それ?」
「問題の改善は事実を事実として認めるところから始まるのだ。自分をごまかしていては、いつまでも今の場所から動けはしない」
 それは道理だ、と紅莉栖も思う。思うが――
「童貞が、自分を童貞だと認めると、何が変わるんだろう?」
「…………とりあえず、童貞から脱するべく無駄に行動的になるのではないか? たとえば、このドアを開けて中に入ろうとしたり」
「通報しますた」



 そんなやり取りを経て岡部が口にしたのは、紅莉栖の着替えのことだった。
 言われて、ようやく紅莉栖もそのことに気づく。嵐の中を駆けてきたので、それこそ下着までびしょ濡れだったのだ。当然、着替えなど持ってきているはずもない。
 すると、そんな紅莉栖の内心を察したかのような岡部の声が耳に飛び込んできた。
「とりあえず、このラボにあって、紅莉栖が着ても問題なさそうなものを集めておいた。脱衣所のところに置いておくので、適当に見繕ってくれ。というわけで、すこしばかりドアを開けさせてもらうが、これは着替えを中に入れるためであって、決して俺自身が中に入るためではないので誤解のないように」
 まさか本当に通報されると思ったわけではなかろうが、岡部はしつこいくらいに念を押す。


 一方の紅莉栖はといえば、つい先ほどまでの深刻な気分はいつの間にやら消え去っており、その口は紅莉栖自身が不思議に感じるほどに軽やかだった。
「あ、はい、どうぞ。お気遣いありがとうございます。ちなみに、つまずいてこっちまで転がりこんでくるようなお約束はやめてくださいね」
「心配するな。俺にドジっ子属性はないし、こんなところでドジっ子アピールをするつもりもない。ダルのようにHENTAI呼ばわりされるのは遠慮したいしな」
 その声に続いてドアが開く音がして、何やらがさごそと音がした――と思った途端、すぐにドアが閉じる音がする。


 そのあまりの素早さに、紅莉栖は知らず、小さく笑ってしまった。紅莉栖としては、一連の会話はあくまで冗談のつもりだったのだが、岡部としては無視できないものを感じたりしたのだろうか。
 そんなことを考えつつ、紅莉栖は胸をなでおろす。着替えの目処がついたから――ではなく、今の岡部の言動から、先の紅莉栖の行動に引いた様子が見受けられなかったからである。
 ああ良かった、と思った紅莉栖は、ふと気づく。つい先刻まで胸を苛んでいた諸々の感情も、今は遠くに感じられることに。ようやく、少しは落ち着いてきたのだろう。
 それ自体は喜ばしいことなのだが、紅莉栖は少しだけ肩を落とす。
「岡部さんに会えない夢を見て取り乱して。岡部さんと少し話しただけで落ち着いて。なんというか……わたしって、わかりやすいやつよね」


 脱衣所に戻ると、そこには岡部が用意したとおぼしき着替えが置かれていた。着替えといっても大半は男物だが、これはまあ当然か、と紅莉栖は呟く。逆に、ここでさっと女性用の着替えが出てきたら、そっちの方がよほどショックだ。
 ちなみに、何故「大半」と言ったのかというと、用意された着替えの脇にコンビニのものとおぼしきビニール袋が置かれていたからである。


 何かしら、これ、と紅莉栖は首を傾げたが、次の瞬間、あることに思いいたって、その表情が凍りつく。
「まさか、ね……?」
 何故だか声を低めながら、紅莉栖はそのビニール袋に手を伸ばす。
 そして中身をのぞいた紅莉栖は、思わず、という感じで「うわぁ……」とうめいた。


 そこに、これでもか、とばかりに詰め込まれていたのは……まあ要するに女性物の下着類であった。
 中にレシートが入っていたので、紅莉栖はそれをつかみ出す。おそらく、何を選べば良いのかわからないので、手当たり次第に商品を掴んだのだろう。見るだけでそうとわかるようなレシートだった。


「……嵐の中、コンビニまでやってきて、女性の下着を買いあさる白衣の男性って……」
 店員がドン引きしたことは疑いない、と紅莉栖は思う。
 その光景を想像した紅莉栖自身も微妙な気持ちにならざるを得なかった。
 もちろん、それは紅莉栖のためにやってくれたことなのだから、当の紅莉栖がそういった反応を示すのは理不尽だし、失礼なことだとわかってはいる。わかってはいるが――紅莉栖は言わずにはおれなかった。


「……さすが岡部さん、人に出来ないことを平然とやってのける。そこにシビれないし、あこがれないけどね」


 そう言った後、なんだか色々と真面目に考えていたことがばからしくなってきた紅莉栖は、むん、と表情を引き締めてから、コンビニ袋に手を伸ばすのだった。
 



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