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[24299] いそしめ!信雄くん!
Name: ペーパーマウンテン◆e244320e ID:151a2b73
Date: 2013/10/05 23:53
ペーパーマウンテンと申します。こちらの別の版で連載中なのですが、その作品がどうにも煮詰まってしまいました。そこで気分転換に以前ねたで書き始めたやつをふと書くと、妙に筆が進んでしましまして。現在投稿中のものを完結させるのが先だとは思うのですが、どうにも衝動が抑えられなくなってしまいました。あちらを優先するということで、こちらの更新は衝動的になるかと思います。

出来れば軽いのりで、テンポよく、20話程度で終わらせることが出来たらなと考えています。生暖かい、厳しい目で見ていただけると幸いです。よろしくご指導のほどお願いいたします。

ペーパーマウンテン



ご無沙汰いたしております。
長期間の放置もうしわけございません。
恥ずかしながら帰ってきました。

全体的に加筆修正を行いました。
誤字の訂正と、信雄くんのテンションの修正(あんまりかわってないかもしれませんが)
大まかな本筋には手を加えていないはずです。

いい加減な作者でもうしわけありませんが、気長にお付き合いいただけるとありがたいです。
勝手なことばかり書き散らかしまして申し訳ありません。
今後ともよろしくお願い申し上げます。

20話での完結あきらめました。
とにかく完結を目標にがんばります

ペーパーマウンテン(H25年9/22)



[24299] プロローグ
Name: ペーパーマウンテン◆e244320e ID:151a2b73
Date: 2013/09/22 08:54
天正10年(ユリウス暦1582年)6月2日。日本の首都で軍事クーデターが発生した。
毛利遠征加勢のため、丹波亀山城を発した老将明智(惟任)日向守光秀率いる1万3千の軍勢は突如として進路を変更。桂川を越え京へと向かった。
世に名高き『本能寺の変』である。
水色桔梗の旗指物に前の右大臣織田信長が「是非もなし」と呟いたかどうかはわからない。
紅蓮の業火に包まれた本能寺から、その遺骸は見つからなかったという。
妙覚寺に宿泊していた岐阜中将こと嫡子織田信忠も、京都所司代村井長門守貞勝一族や弟勝長らわずかな手勢とともに二条御所に篭ったが、すぐに父の後を追う。
水色桔梗から逃れることが出来たのは、織田源五長益(信長弟)や水野惣兵衛忠重(三河刈谷城主)、そして赤子を抱いた前田玄以らわずかな人々だけであった。

近畿管領職とでもいうべき地位にあった老人の真意は定かではないが、このクーデターにより織田政権は事実上崩壊した。
この時すでに織田家の家督は岐阜城主織田信忠が相続しており、実権は未だ父の手にあるとはいえ、この青年宰相こそが正統な後継者であった。
チェザーレ・ボルジアが「私が生死の境をさまよっているとき、まさか父(教皇アレクサンデル6世)も同じように死の床にあるのは予想外だった」と語ったように、政権のツートップが共に冥府へと旅立った。
いや、政権中枢の官僚集団や秘書官も同行しているのだから、ボルジア親子のそれよりも政権への衝撃はより大きかったといえるだろう。

ここで天下の謀反人となった老人の立場を考えてみる。
織田帝国の中枢部をつぶすことには成功した。
残されたのは4つの方面軍と帝国の同盟者、そして京を抑えた謀反人である自分。
織田家を簒奪する立場である光秀としては、否が応でもその5大勢力との戦いは避けられない。

4つの方面軍とはすなわち

・備中高松城において毛利一族とにらみ合う羽柴筑前守秀吉(中国地方、山陽・山陰地方担当)
・越中魚津城を囲み、信濃海津城主の森武蔵守長可と共に越後に攻め入らんとする柴田修理亮勝家(北陸地方担当)
・関東管領として上野厩橋城で北条家と緊張関係にあった滝川左近将監一益(関東)
・織田三七信孝を総大将とし、丹羽長秀(近江佐和山城主)が副将として「鳥なき里の蝙蝠」を討伐するために堺で集結中であった四国遠征軍

そして同盟国の主であり、堺でわずかの家臣と共に遊覧中であった三河・遠江・駿河3国の太守徳川家康である。
この太守に対して明智光秀がいかなる対応を取ったのかはよくわかっていない。
突発的なことでこの一行への対応まで頭が回らなかったのか、手勢が少数であるためいつでも討ち取れると考えたのか。
ともかく家康一行は伊賀にルーツを持つ家臣服部半蔵正成の道案内と、懇意にしていた豪商茶屋四郎次郎清延の尽力により
甲賀から伊賀の険しい山道を越え(神君伊賀越え)三河岡崎へと帰還することに成功した。

話を戻そう。普通に考えれば謀叛人である老人-明智光秀にはしばらくの時間的猶予が存在するはずであった。
四国討伐軍を除く3つの方面軍は、前面の敵との戦いに専念せざるを得ない状況である。

もっとも京に近い位置にある四国方面軍は尾張や伊勢の兵が中心であり、畿内に基盤を持たない遠征軍はおのずと離散する。
-信長という絶対的なカリスマあっての織田家であることを、その中枢部にいた光秀は知りぬいていた。
そして比較的まとまった軍勢と領地を持つ羽柴や柴田が上洛しようとしても、本土近くにまで攻め込まれた上杉や毛利が見過ごすはずがない。
光秀は四国の長宗我部は無論のこと、上杉や毛利、はては関東北条氏にまで使者を出して織田家方面軍を挟撃することを提案した。
このうち毛利家に出した使者が羽柴の手勢に捕らえられ、秀吉が「光秀謀反」を知ったのは巷間よく知られたところであるが、当然ながら神ならぬ老人がそれを知るはずもない。

しかし老人は心中穏やかではなかったはずである。
いくら強弁したところで謀反人は謀反人。
旧織田家家臣団のいずれかが「仇討ち」を掲げて京へと上ってくるだろう。
大義名分なき権力者は、いずれ没落するのは歴史が証明している。

ならばどうすればよいのか?

未だ異様な興奮冷めやらぬ京の地にあり、かつての敵国たる上杉家や毛利家
そして旧織田家-縁戚の細川家や筒井家への書状をしたため続ける老人にとって、それは当然ともいえる選択であった。

-安土-

琵琶湖を見下ろす安土山に築かれたかつての独裁者の居城。
織田帝国の行政の中心であったそこには、広大な帝国領内から集められた莫大な資産-今となっては遺産である-が蓄えられている。

-安土の金で当座はしのぐことができるだろう

禁裏や寺社、京の有力な町衆に金子を巻くことにより当座の、地理的に最も早く敵対することになるであろう
四国討伐軍を打ち破るまでの世論の支持を集めようという考えは、光秀ならずともごく自然な発想であったといえる。
そして安土にまともな留守居役がいないことも、老人の皮算用を容易にした。
その占領は道に落ちた金を拾うようなもの。ばら撒いたところで自分の懐が痛むわけではない。
出し惜しんで戦に負けては元も子もない。

「要は勝てばいいのだ」

老いたりとはいえ、金柑頭の-物事に対する怜悧な考え方は健在であった。

しかし6月5日の未明、明智左馬助率いる安土接収部隊は、その地で信じられないものを目にすることになる。
左馬助の急使から知らせを受けた光秀は、普段の怜悧な物腰からは想像できないほど取り乱し、何度も使者に尋ね返したという。

「……ば、馬鹿な、そんなわけがあろうはずが、左馬助ともあろうものが!な、何かの間違いにちがいない」

蒼白になった顔を両手で抑える光秀に、使者は同じ報告を繰り返した。


「安土には北畠宰相以下4000余りの軍勢が立て籠っております。日向守様、ご指示を」


- 6月2日 伊勢松ヶ島城 -

松ヶ島城は天正8年(1580)に築かれたばかりの比較的新しい城である。
それまでの伊勢における織田家の支配拠点であった田丸城が失火により消失。
伊勢湾に面した伊勢神宮の参道古道にも通じる交通の要所である松ヶ島に新たに城を築いたのが今より2年前のことである。

そんな新しい城内の本殿に通じる廊下を、初老の男性が二人の若者を引き連れて歩いていた。
柔和な表情ながら油断なく周囲に視線を配らせる老人に、城勤めの若侍らは自然と道を譲り、畏敬の念のこもった視線を向けた。

尾張星崎城主の岡田長戸守重善。

小豆坂の戦い(1554)における「小豆坂の7本槍」の最後の生き残りであり、先代信秀時代から仕える織田家の生き字引ともいえる存在である。
小豆坂の戦い当時、長門守はすでに38歳。
後に名を成すこととなる「賤ヶ岳の七本槍」が20代前半であることを考えると、その勇猛さはおのずと想像がつく。
『不詳の息子』の家老兼お目付け役としたことからも、主君信長からの評価がうかがい知れるというものである。

「いったい何事でしょうか、あの馬鹿殿は」
「兄上。仮にも御城内ですぞ。聊か言葉を慎まれたほうが」
「馬鹿を馬鹿といって何が悪い。実際あれはそうではないか」

不満げな表情をあらわにしながら長門守の後をゆくのは、その息子である重孝と善同(よしあつ)。
主君への不満と不平を公然と口にする兄重孝に対して、善同はそれを諫めるような言葉を口にしたが
同じくその表情からは主に対する忠誠を見出すことは難しい。
ともに筋骨隆々、如何にも戦場をかけるにふさわしい雰囲気を漂わせてる。
若さゆえか自らの能力と武勇を頼むところの多い彼らには、主家筋とはいえお世辞にも有能とは言いがたい主君に仕えるということ自体が気に入らないらしい。
その不遜な態度に眉をひそめた長門守が嗜めようとすると、ちょうど廊下の角を曲がってきた人物と視線が合った。

「これは長門守様」
「玄蕃允殿」

若いながら妙に落ち着いた雰囲気を漂わせる津川玄蕃允義冬は、長門守の姿を見ると軽いながらも丁寧な会釈を返した。
旧尾張守護家の斯波家出身である義冬は、その血筋ゆえ織田家に召抱えられたが、文武共に優れた器量の持ち主であり信長をいたく喜ばせた。
そして妻が北畠家出身ということもあり、頼りない義兄を支えるために岡田長門守と同じく家老として送り込まれた人物である。
岡田長門守と同じく主君信長からの高い評価がうかがえるが、それは同時にこの城の主の器量に対する不安の裏返しでもあった。

「火急の呼び出しについて、玄蕃允殿は何かご存知か」

残念ながらと、津川も困惑気味に答える。
岡田長門守家が織田家譜代の家臣とすれば、津川家は親族衆。
身内の悪口をその前で言うほど重孝と善同も馬鹿ではなく、その口を閉じた。

「四国遠征軍への追加派兵を命じられたのでしょうか。それとも伊賀で何か動きが?」
「まさか何の用事もなく、我らを呼び出されたわけではなかろうがの」
「おお、長門守様!玄蕃允様も!」

突如差し挟まれたそのやけに明るい声に、長門守は顔をしかめた。
重孝と善同は無論のこと、玄蕃允でさえ共通した感情をその顔に浮かべた。

嫌悪感である。

もっとも小走りで駆け寄ってくる小男は、それを知ってか知らずか仰々しいまでに明るい声色で応えたのだが。

「御本所様が広間でお待ちでございます。ささ、こちらへ」
「勘兵衛、貴様このわしに指示する気か」
「いえいえ、決してそのようなつもりは毛頭ございませぬ。御気を悪くなされたのなら謝りますゆえ」

立て板に水とばかりにすらすらと言葉を連ねるこの若者。名前を土方勘兵衛といい、主君の覚えめでたい近臣の一人である。
口八丁手八丁を絵にかいたような人物で、度胸と才知が言葉の端々にも感じられる若者は、最近城内において、その政治的な地位を高めつつある。
そのため彼を快く思わない人間は多く、長門守自身もこの若者の、言葉や態度とは裏腹のなんともいえない陰湿さが肌に合わなかった。
本人も自身のそれは自覚しているのか、このように仰々しいまでに明るく振舞うのだが、それがまた不評を被る原因にもつながっていた。

「ささ、とにかくこちらへ」
「勘兵衛。一体この急な呼び出しについて何か知っておるのか」
「いえ、それは……」

これもまた彼には珍しく困惑ともなんともつかぬ奇妙な色を浮かべながら、勘兵衛は語尾を濁した。

「御本所様におかれましては、今朝方しばらく…その……なんともうしますか……」

懐から布を取り出して額の汗をぬぐう勘兵衛。
件の広間のほうからは「津川!岡田!」と焦った声で自分たちの名前を呼ぶ主君の叫び声が聞こえてくる。
そういえば主君の癇癪に慣れているはずの勘兵衛の表情には、どことなく疲労の色が見える。
いったい何があったというのか?

「とにかくこちらへ、御本所様がお待ちしておりますゆえ」
「そのようだな」

そして主君に面会した4人は、おそらく初めて、このいけ好かない宮廷政治家に同情した。


- これよりおよそ半日前 -


「いつものように寝て起きたら、そこは戦国時代だった」

な、何を言っているのか わからねーと思うが 

おれも 何がなんだか さっぱりわからねえ

頭がどうにかなりそうだ!

催眠術だとか、手の込んだ寝起きドッキリだとか、そんなチャチなもんじゃあ 断じてねぇ

もっと恐ろしいものの片鱗を、人生の不条理を味わっているぜ……

朝起きたら時代劇の世界という状況、これで頭が混乱しないほうがおかしいだろう。
わめき散らしていると、騒ぎを聞きつけてやってきた妙に愛想のいい男を周囲を質問攻めにして状況を確認。
どうにかこうにか聞き出したところ、とりあえず「俺」はこの城の城主らしいということがわかった。
鏡を持ってこさせると、そこには瓜実顔の神経質そうな男の顔が。
うーん、どこかで見たことあるような………どこだ?いや、誰だ?

そんな疑問を棚上げして(問題の先送りは彼の十八番である)俺はさっそく殿様気分を満喫していた。
そんなことしている場合かお前はと言われそうだが、そんな常識的な心配を勢いよく放り投げる。
俺がひとたび出歩けばモーセのように人が割れ、小姓たちがカルガモの子供のように付いてくる。
神戸電子専門学校のCMみたいだ。
今時どんな高級クラブに言ってもこんな接待はしてもらえないぞ。

うーん、いいな殿様。

といっても、いつまでも殿様気分に浸りながら現実逃避していても仕方ない。
とりあえずは、今の「俺」がいったい何者なのかを確認しなくてはならない。
あの愛想のいいおっさんは妙に疲れた顔をしてそそくさと逃げて行ったから、とりあえずひょこひょこ付いてくる侍従の一人に尋ねてみた。
出来るだけ自然な感じで。さりげなく、それでいて城主の威厳を保ちながら。

「えー、ごふん。えー、今年は、せいれ……ではなく、元号は何だったかね?」

突然「今何年?」と聞かれて違和感を覚えないほうがむしろ変だろう。
小姓達は顔を見合わせて(何言ってんだこいつ)と目と口で会話している。
アイコンタクトの意味ねーじゃねえか。おい俺は殿様だぞ。せめて上司の陰口は陰でやれ影で。

「天正10年でございますが」

天正?えーと、確か、陰謀大好きな最後の室町将軍が追放されたのが、天正元年だから、1573だから

天正2年-1574
天正3年-1575
天正4年-1576
(中略)
天正9年-1581

だから、天正10年は1582年だよな。ふーん……

……あれ?

本能寺の変があった年?キンカン頭がぷっつんして本能寺で信長をいてこました日本史の大事件。

これはなかなかおもろい時代?
うまいこと立ち回れば大名も夢じゃない?
一国一城の主か、悪くないね。むしろいいね。
「殿、お止めください」「よいではないか、よいではないか」「あ~れ~」
うはは、夢が広がってきた!

知らず顔をだらしなく緩ませていた俺を、それはもう胡散臭そうに見つめる小姓達。
「馬鹿だと思っていたが、ここまでとは」「しッ聞こえるぞ!」というヒソヒソ話。
はい聞こえてますが、聞こえていないふり。部下の悪口でいちいち切れてたら、それこそ鼎の軽重が問われるからな。
別に怖いから言い返さないわけじゃないんだからね!

それにしても「俺」って評判よくないみたいだね(本人の前で堂々と馬鹿って言うくらいだし)
まぁ心底嫌われてるわけじゃないみたいだけど。
ほら、あれ。志村○んの馬鹿殿っぽい愛される馬鹿?

「で、今日は何月何日だ?」
「は、はぁ。6月2日で「なあああんだとおおおおおお!!!!!!」

小姓たちがひっくり返った。おお、見事な受身。褒めてつかわす…

……とか言ってる場合じゃねえ!

今日じゃん!今日じゃん!うおおお!!何たることだぁ!!
これで「信長にチクッて、褒めてもらおう作戦」は駄目になった!

ちくしょー!!

こうなりゃサル、ハゲネズミだっけ?まぁいいや。
ともかく「秀吉に味方して関が原で東軍に乗り換え大作戦」に変更だ!

ん?そうなると問題なのはここがどこかだな。

畿内だったらやべえよな。すぐに旗幟を鮮明にしたら水色桔梗の旗指物に囲まれてフルボッコだし。
もし畿内、それこそ河内・摂津・和泉…近江や若狭、それに大和もやばいな。
ここは大作家のご先祖に習って日和見するか。腹痛いとかいって。

そうして俺が高度にしてアグレッシブにしてフレキシブルな処世術ソロバンを弾いていると
先ほどの小姓達(だからさ、ひそひそ話はもっと小さい声でやれ)の会話の中に聞き捨てならない単語が聞こえてきた。

「御本所様はどうされたのだ?」
「まぁ三介殿だからのう」
「これでは名門北畠もお先真っ暗じゃ」

……ちょっとまて

「……あのさ、御本所さまって俺のこと?」
「…はい」

……………だからちょっと待て

「もしかしてここ伊勢の松ヶ島城?」
「……勿論です」

小姓達の表情が胡散臭いを通り越して不審人物を尋問するそれへと変化していたが、今はそれどころではない。
先ほどから俺の脳内では赤いサイレンがけたたましい音を響かせながら点滅を続けている。

「あのさ、まさか俺の親父って」
「先の右府さまですが………」

先の右府、つまり前の右大臣だよね。
この時代にそう呼ばれるのはただ一人なわけで。

第六天魔王-織田信長

その息子で、三介で、おまけに北畠姓。
そしてここは伊勢の松ヶ島城

よっし、おちつこう

しかし頭の中では、次々と嫌な単語が噴き出してきていた。

織田 北畠 伊賀侵攻 三家老惨殺 小牧長久手 単独講和 改易 能だけがとりえ

ゲームや小説なら無能の代名詞のように扱われる織田信長の息子 。

ばらばらのピースをかけ集めると一つの……これだけは、こいつだけは絶対嫌であるが、今の俺はこいつであるという結論にたどりついた。


「よりにもよって、信雄かあああああああああ!!!」

「ご、御本所様がご乱心じゃー!!!」


時に天正10年(1582)6月2日。
彼-「北畠信意」(きたばたけ・のぶおき)が、本能寺と二条御所襲撃は6月2日早朝であることに気がつくのには、もうしばらくの時間が必要であった。


いそしめ!信雄くん!


始まる…かもしれない。


「せめて信孝にしてくれえええええ!!!!!!!!」



[24299] 第1話「信意は走った」
Name: ペーパーマウンテン◆e244320e ID:151a2b73
Date: 2013/09/22 08:54
羽柴筑前守秀吉(後の豊臣秀吉)の中国大返しと並んで本能寺の変における最大の謎は、北畠宰相こと織田信雄(当時は北畠信意)の安土籠城である。
記録によると、信雄は6月2日早朝の異変を同日昼頃までには正確に把握していたという。
当時の信雄家老である津川義冬が織田信包(伊勢上野城主)に送った書状に寄れば
本能寺の変に関する情報とその後の明智勢の動向は、全て信雄が直々に召抱えていた忍びからの情報に拠っていたとある。

ここに疑問が残る。

織田信長が忍びを嫌っていたという俗説はここではおくとして、伊賀や甲賀を根拠とする土豪勢力は反織田勢力として信長と敵対していた。
そのため織田家は多大な犠牲を払いながらも第1次天正伊賀の乱(1579)、第2次天正伊賀の乱(1581)により彼らをすりつぶした。
この伊賀征伐において織田信雄は(信長の叱責を受けながらも)司令官として作戦の指揮をとったことはよく知られている。

以前から敵対していた甲賀と並んで伊賀を殲滅したことにより、織田家がその諜報活動において制限をかけられていたのは事実である。
その信雄が独自に諜報組織を築き上げていた-俗説をそのままここで語るつもりはない。
しかしこれに違和感を覚えるのは私だけであろうか?

ここで比較のために堺にいた徳川家康を例に挙げよう。
堺を漫遊していた家康一行が異変を知ったのは和泉国四条畷。
信長への返礼のために長尾街道を京へと向かっていると、以前より昵懇にしていた茶屋四郎次郎清延が一行に異変を知らせた。

これが6月2日のことである。

それと時を同じくして、まともな街道も整備されていない伊賀(反織田家感情の根強い)を越え
およそ家康一行よりも優に2倍以上はなれた場所にあって、信雄は正確な情報を得ていたのだ。
いったい誰から?どうやって?
真相は闇の中である-

『大逆転の日本史-織田信雄本能寺黒幕説を追う-』より

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いそしめ!信雄くん!(信雄は手紙を書いた)

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- 6月3日 近江国蒲生郡 安土城 摠見寺境内 -

字はその人となりやその時の精神状態を表すという。
どっかりと床机に陣取った安土城留守居役の蒲生賢秀は、目の前に広げた二つの書状を前に険しい表情を浮かべていた。

ひとつは『謀反人』明智日向守光秀からの書状。
あまりにも荒唐無稽なその内容に、当初こそ日向守の乱心を疑ったが
勢田城主の山岡兄弟を初めとした情報から「明智謀反」が事実であることは証明されている。
その書体は普段の日向守の格式ばったものとはまるで異なり、高揚感からか「近江半国を与える」などという大言を吐いている。
無論そのような甘言を易々と信用する賢秀ではない。
考えてみるまでもない。旧政権を否定することでしか新たな秩序を確立出来ない光秀が、信長の娘婿である自分の息子を重用するはずがない。
すぐさま手紙を破り捨てようとした賢秀であったが、続けて届いたもうひとつの書状とその内容に手が止まった。

手紙の送り主は北畠中将。言うまでもなく今は亡き右府様の子息である三介殿である。
そして息子はその書状に目を走らせるや否や、寸分の迷いもなく断言した。

「これは明智の負けですな」
「忠三郎よ」

亡き信長より「その目尋常ならず」と評された嫡子忠三郎賦秀は信意からの書状を見るや否や
父の苦々しげな叱責にも構わず、朗々と自分の考えを述べ始めた。

「明智の謀反が衝動的なものか、計画的なものかはこのさい関係ありません。
北畠中将様がこの手紙を書かれたのは恐らく2日の昼。
早朝の謀反がその日のうちに南伊勢にまで知れ渡っているなど、あまりにもお粗末といわざるをえません。
この程度の情報の秘匿も出来ない明智に勝利はありえません」

賦秀の語る内容に、賢秀は思わず舌打ちしながら渋い顔で腕を組んだ。
嘗て没落する六角家家老から織田家へ臣従するべしと御家の舵取りを担ったのは他ならぬ賢秀である。
その程度のことは息子に言われずとも理解していた。
問題はその次、北畠中将の書状にある「命令」の内容とその是非だ。

-安土にとどまり、後詰の兵を待て-

この時すでに賢秀は安土に残された信長の室や子女を連れ、自身の居城である近江日野城に引き上げるための準備を進めていた。
織田帝国の中心である安土城であるが、その留守居兵は日野城の兵を呼び寄せても1000にも満たない。
これには信長や信忠という移動する政府首脳に、近衛部隊である馬廻りや政府高官の多くが随行していたことが原因である。
いうまでも無く彼らの多くは京で戦死しており、安土にいるのは戦力にもならない兵ばかりと言う空城に等しいものであった。

そもそも安土の城からして安土山を利用して築城された山城ではあるが、籠城には極めて不向きなものであった。
大手門から天主まで続く幅6メートル、直線約180メートルという道に象徴されるように、その設計思想は行政庁としての役割が中心となっている。
おまけに城の一部は琵琶湖に面しており、明智派とされる琵琶湖の水軍衆が港より攻めよせれば、籠城することすらままならない。

この兵力で安土籠城-まともに考えれば正気の沙汰ではない。
本来なら一笑に付し、安土退去の準備を粛々と進めるだけである。

しかし北畠家の後詰が得られるとすればどうか。

「賦秀、貴様は正気で籠城など出来ると思うておるのか」
「父上。最低でも一月、もしくは数週間でよいのです」

今や賢秀も安土籠城について考えざるを得ない立場に追い込まれていた。
このような書状を受け取りながら日野城に引き揚げたとすれば近隣諸侯に、何より北畠中将に「蒲生は織田家の一族を人質にして明智に属した」受け取られかねない。
当初の予定通りに日野城へ引き揚げるにしても、籠城がどう考えても不可能であるということを証明しなければならない。
賢秀は目の前の書状を両方とも焼き捨ててしまいたい誘惑に駆られた。
否応がなしに御家の運命を決める選択を迫られる状況が愉快なわけがない。
そのような経験は六角から織田へ乗り換えた嘗ての一度だけで十分だ。

「京での異変よりまだ二日。この書状によると中将は既に軍を起こしておられる模様。
これが旗色を決めかねている近江の諸侯にいかなる意味を持つか、父上にもお分かりでしょう」

安土籠城となれば、明智に大きく傾きかけていた近江の状況が一変することも十分に考えられる。
しかしそれらは今現在はあくまて仮定でしかない。
息子とは違なり、賢秀は今の段階において明確な反明智を打ち出すには躊躇いがあった。

「……せめて北畠中将の兵が鈴鹿峠にでもあれば」

その時、喜色をあらわにしながら陣幕内に兵が駆け込んでくるのが見えた。

「これで決まりですな」
「……好きにしろ」

賢秀は忌々しげに吐き捨てると、明智からの書状を躊躇いもなく破り捨てた。



- 同時刻 近江志賀郡 猪飼昇貞(いのかい・のぶさだ)の邸宅 -

海と同じく、日ノ本最大の淡水湖である琵琶湖にも水軍と呼ばれる武力集団は存在した。
その中でも近江志賀郡に本拠地を持つ堅田水軍は琵琶湖の覇者としてその名を陸にも轟かせている。
堅田水軍は六角氏から浅井氏、そして尾張の新興勢力織田氏へと陸の覇者を見極めながら勢力を拡大。
織田家より志賀郡の支配権と琵琶湖の水運・漁業を統轄する幅広い権限を認められ、湖の覇者として君臨していた。

この湖の王者の屋敷にも、安土城と同じく北畠中将からの書状が届いていた。
日に焼けた浅黒い顔をしきりになでながら、棟梁の猪飼昇貞は書状に繰り返し目を通していた。
そのすぐ傍ではすでに鎧に身を固め出陣の支度を終えている息子の秀貞が、如何にもじれったいといわんばかりに膝を揺すり続けている。

「……何とも耳の早いことだ」

幾度か視線をせわしなく動かした後、昇貞はどこか呆れたようにつぶやいた。

内容としては目新しい情報はなにひとつない。
6月2日の早朝に明智日向守が謀反を起こし、信長と岐阜中将が戦死したこと。
二条御所と本能寺で戦死したであろう側近や馬廻衆の名前、そして脱出に成功した著名な武将の名前が記されている。
琵琶湖の水運を牛耳り、湖上交通を支配する昇貞にはすべて既知の情報だ。

しかし問題はこれを書いた人物が誰であるかだ。

今は4日の深夜。つまり岐阜の松ヶ島にいた北畠中将は、最低でも2日早朝には都の異変を知っていたというとこだ。
それも「琵琶湖を支配する自分が2日かけて知りえた情報のすべて」を記して。

「伊勢松ヶ島にいた人間が」
「京で起こった変事を」
「琵琶湖水運を使うことなく」
「知ることができたのか」

-答えは否だ。

そのような方法は、自分の知る限りはあるはずがない。
ではこの北畠中将の書状は?
あてずっぽうで書ける内容ではない。
ただ淡々と事実を記してあるだけ、昇貞にはそれがより一層不気味に思えた。

「父上、このような手紙を信じることはありません。三介殿ですよ?たまたま書いたことがあたっただけかもしれません」
「…………」
「父上、日向守様の恩義に答えるのは」

昇貞は最後まで息子の言葉を待たず、無言でその顔を殴りつけた。
名前の通り秀貞は明智光秀からその一字を与えられ、明智姓を許されるほど重用されている。
その息子が心情的に明智方への見方を主張するのは理解出来た。
しかしそれと、これから堅田水軍がいかなる態度をとるかはまったく別の話である。
少なくとも明智にとっては極秘であるはずの重要情報を、その日のうちに南伊勢で知ることが出来たのは確かなのだ。
このようなお粗末な情報管理では、堅田水軍の棟梁として明智方に無条件で馳せ参ずることは出来ない。
何より六角、浅井、織田と渡り歩いてきた昇貞の嗅覚が手元の書状から得体の知れぬ何かを感じていたのだ。

「我ら堅田水軍は陸の権力争いにはかかわらぬ」

猪飼の屋敷に集まっていた堅田衆-誇り高き湖の男たちは棟梁の決断に沈黙で答えた。



- 6月3日 伊勢と近江の国境 鈴鹿峠 -

伊勢から近江に繋がる鈴鹿峠。そこに笹竜胆-北畠家の紋が翻っていた。

「走れ、走れ、走れ、走れ!!止まると尻を蹴り飛ばすぞ!ほら走れ!!」

北畠中将こと北畠信意(信雄)は、日の丸のついた扇子を両手に持ち、上下に激しく振りながら兵士を煽り立てていた。
兵士達はそんな馬鹿殿-もとい御本所様直々の声援に士気を盛大に削がれながらも、安土に到着すれば金も米も取り放題という「空手形」を奮起に必死に走り続けている。
津川玄蕃允義冬は当然のごとく兵を休めるように進言したが、まるで「人が変わった」かのような北畠信意は義弟の忠告を断固として受け入れようとしなかった。

「しかしこれでは安土に間に合ったとしても兵は使い物になりません」
「何を言うか、ここまで来て安土に入らなきゃ、それこそ本末転倒だろうが!
ほらそこ、寝るな!寝るなら安土に入ってからにしろ!安土に入れば金も飯も思うがままだ!!ほら走れ、走れ!!」
「そのような空手形を、もし右府様が」

いつもなら有無を言わさず従うはずの信長の名前を出しても、信意は決して翻意しようとしなかった。

「とにかくここ俺のいうとおりにしてくれ。とにかく安土へ、安土へ行かねばならんのだ。
最近は御上も金欠病が深刻だ。安土の財宝を明智に渡しては、それこそ取り返しのつかないことになる」

いまだかつて経験したことのないような信意の決意の固さに、津川は無意識に腰の小刀に手をやっていた。

「恐れながら義兄に申し上げます。私はその忍の報せとやらをまだ信用してはおりません」

京での異変-明智謀反の情報は北畠家の中枢部を動揺させ、普段の冷静さを失わせた。
その場で信意が安土への出兵を命じたため、誰もまともに反論できないままそれに従ったのだが
安土を目の前にして津川は若干ながらも冷静に考えることが出来るようになっていた。
いや、取り返しのつかない段階になって初めて今の状況が理解できたというべきか。

信意が自分の情報に妄信的な確信を持っているのは会話の中で理解できたが、もしそれが虚報であるならどうか?
不安と共に主信長の顔を思い浮かべた津川は、腹の底から冷えるような恐怖を感じた。
織田信長と言う人物は、二度の失敗は決して許さない君主だ。今度は折檻状ではすまない。
今ならこの鈴鹿峠から引き返すことは可能である。

そうしたことを一気に述べた義弟に、じっと聞き入っていた信意はその両肩に手を置いた。

「忠言、嬉しく思うぞ」

穏やかな声色に顔を上げると、信意はここ数年見せたことのないような屈託の無い笑顔を浮かべていた。
何がそんなに嬉しいのかは津川にはわからなかったが。

「しかし今だけは俺を信じて欲しい。父や兄が死んだのも、明智が謀反を起こしたのも事実なのだ」

頼む-力強い目でこちらを見据えた主に、津川玄蕃允は首を横に振ることが出来なかった。

「と言うわけで……我が北畠の兵士たちよ!走れ走れ走れ走れ走れ!!ほらいけ、やれいけ、いけいけごーごー!!!」
「おやめください」

続けて行おうとした奇妙な踊りは断固として阻止したが。



- 6月4日 夕刻 安土城下 明智軍本陣 -

「ならん!それは決してならんぞ!」
「ならば貴殿はこのまま安土を放置しろと言うのか!」
「それは違う、だが力攻めは駄目だ!!」

明智左馬介秀満は京より着陣した主君明智日向守と共にあらわれた伊勢貞興の言動に怒りを隠せなかった。
旧織田政権の象徴にして伊勢北畠家当主の信意が籠城する安土を落とす絶好の好機にもかかわらず、それを直前になって止めろというのだ。
左馬介は貞興を無視して直接光秀に話し始めた。

「日向守様、既に城下を焼き払い城攻めの準備は整っております。
あのような城もどき、我が明智の精兵にかかれば半日とかからず落としてご覧にいれます」
「それが駄目だといっているのだ!大体、誰の許可を得て城下を焼き払った!」

左馬介は鼻白ろんだ。城攻めの前哨戦として城下を焼き払うのは戦の定石ではないか。
そして左馬介に相対する貞興は貞興で、逆に前線指揮官の視野があまりにも狭いことに苛立ちを隠せなかった。
室町幕府の政所執事を世襲していた伊勢氏の出身である貞興は、足利義昭追放後に明智家に仕え
今回の変事においては旧幕府人脈を通じて京で寺社や禁裏を相手に世論対策を担当している。
焼き討ちという左馬介の行動は、世論対策という観点からは暴挙以外の何者でもなかった。

そしてその考えは大筋で光秀の意向に沿うものであった。
前線指揮官として眼前の戦局のことを考える左馬介と違い、光秀はこの戦いを謀反人から天下人として朝廷からお墨付きを得るための戦ととらえていた。
旧政権の首都を無血開城させることは、新政権が世論の支持を得ていると言う格好のデモンストレーションとなりえた。

しかし実際はどうか。市民は自分達が虐殺されたことは忘れても、僅かでも財産を没収されたことは忘れないものである。
まして安土城下を焼き払ったと言う事実はこれ以上なく旧織田領の統治を難しくするだろう。
何より安土にある莫大な織田家の資産は、禁裏や寺社に対する工作を担当する貞興には喉から手が出るほど欲しい。

「ですが日向守様、このまま安土を放置すれば近江全体の統治に支障を来たします」

そして左馬介の言うことにも理があった。安土へと派遣された明智軍は総勢6000。
都の警備や機内の平定を考えればそれ以上の兵を裂くことは出来ず、これに山本山城主の阿閉貞征・貞大親子ら近江衆約1500が加わっている。
近江衆の参陣は当初想定していたよりも明らかに少なく、そして反応が鈍かった。
明智政権が京や近江の世論の支持を未だ得ていないことが影響していることも無関係ではない。

象徴的なのは安土籠城に加わった旧近江守護家の京極高次である。
没落の貴公子は当初明智軍への参陣を考えたが、北畠信意が安土へ入城したことを知ると、すぐさま安土へと入った。
天正伊賀の乱以降、極端なまでにその言動が慎重-言い方を変えれば愚図になった「あの三介殿」の機敏な行動に
これは明智に勝ち目は無いと判断したのである。
ほかにも山崎城主の山崎方家も、一族郎党を引き連れ安土に入城。
こうして取るものもとらず伊勢から駆けつけた北畠の軍勢2千とあわせて4千弱という、明智方が予想だにしない大軍が安土に篭城していた。

明智方には不運が続いた。

近江水軍の中核であり、光秀の与力であるはずの堅田水軍の棟梁猪飼昇貞が「武装中立」を宣言したのである。
湖から攻めれば安土城は一刻と持たないが、水軍が日和見を決め込んだとあらばその作戦は不可能。
琵琶湖の物流を握る堅田水軍相手とあっては、明智勢も強気に出ることはできず
明智方の近江坂本城への物資搬入協力を条件に、武装中立を認めるしかなかった。

明智方には知る由もないが、これには信意が(援軍欲しさに)堅田水軍を始めとして見境なく近江の城主にばら撒いていた書状が大きく影響している。
「一字一句誤りや事実誤認のない正確な情報」が列挙された手紙と、北畠中将の安土籠城との知らせに
書状の受け取り手の多くが「もう暫く様子を見よう」と日和見を決め込んだのだ。
結果的にではあるが、信意の行動は近江における明智軍苦境の原因となっていたのである。

論争を続ける貞興と左馬介とは対照的に、光秀を含む明智軍首脳部は沈痛な雰囲気に包まれていった。

現在の苦境と近江平定を遅らせている原因は明確だ。
目の前の丸裸の安土城に籠り、旧織田政権の象徴として抵抗の旗印となっている北畠信意、その人である。
それを討ち取らねば近江の平定はありえないという左馬介の意見も、その先の領民の鎮撫に主眼を置く貞興もそれぞれに理があった。
それゆえ両者は一歩も引かず、結果として貴重な時間が無為に費やされることとなる。
光秀は心情的には貞興寄りだったが、前線指揮官である左馬介の意見も無碍には出来なかった。
最終的に光秀が命じたのは「北畠中将と交渉し、伊勢へお引取り願う」という、両者の訴えを折衷した曖昧なものであった。

「あの三介殿のことだ。重臣にせっつかれての出陣で戦は翻意ではないだろう。追いかけぬとあらば伊勢に引き上げるのではあるまいか」

光秀の発した淡い期待交じりの言葉は、明智軍首脳陣の共通した思いであった。

で、当の三介殿は―

「よいか!あと6日、6日我慢すれば我らの勝利だ!
すでに羽柴筑前守の軍勢は高松を立ち、畿内にとって返しておる!
11日には摂津尼崎に到着するそうだ!後6日我慢しろ!
……何?光秀の軍使?会うぞ会うぞ!酒をじゃんじゃん飲ませて徹底的に歓待しろ!!
なんだ忠三郎、そんな目で見るな。何も降伏するわけではない。
和睦すると見せかけ、のらりくらりと出来るだけ交渉を長引かせるのだ。
そういうのは貴様の親爺が得意だろうが。
6日我慢すれば羽柴の軍勢が来るんだからな………え?いや、それは……そ、そうそう、忍び、忍びからの情報だ!とにかく俺を信じろ!」

まったくそんな期待にこたえるつもりが無かった。そこに痺れないし、憧れない。



安土に籠城した蒲生家以下の留守居役と北畠家の将兵は「あの」三介殿のいうことだからと話半分に聞き流していたのだが
それでも何故か自信たっぷりに羽柴の後詰を力説する信意の疑わしい情報を籠城戦における心の支えとしていた。

明智勢と北畠中将以下の安土城籠城軍は三日にわたり交渉を続けたが、六角と織田を天秤にかけた老人は信意が見込んだ通りのタヌキであった。
蒲生賢秀は一旦開城すると口にしたかと思えば突如強気になり、また次の会談には「場内の説得のために時間が必要」などと、ぬらりくらりと交渉を引き延ばすといった具合で明智方を翻弄。
あまりにも露骨な交渉引き延ばしに明智左馬介が交渉の中断を決断したことから、とうとう8日夜より攻城戦が開始された。
しかし十分に時間を稼いで休養を得た籠城側は、精鋭揃いの明智軍相手に奮戦。一時は本丸付近まで侵入を許したが、見事にこれを撃退する。
中でも信長の娘婿である蒲生忠三郎賦秀、北畠家老岡田長門守の二子である重孝と善同の活躍は目覚しく、「安土大手門の三勇士」としてその名を広く世に知らしめた。

そして6月11日。安土の金を得られないまま京で必死に禁裏への工作を続けていた光秀の下に凶報が届く。

「ハゲネズミ」こと羽柴筑前守秀吉の軍勢が摂津尼崎へと入城したのだ。



[24299] 第2話「信意は言い訳をした」
Name: ペーパーマウンテン◆e244320e ID:151a2b73
Date: 2013/09/22 08:55
池田勝入斎「何故に北畠中将殿は本能寺の変についてあれほど詳しい情報を」
柴田修理亮「いかなる手段で北畠中将は筑前の動きを知っていたのだ?」
羽柴筑前守「何故三介殿は私の家族が竹生島に隠れていることをご存知だったのだ?」
丹羽五郎左「何でも北畠中将は腕のいい忍びを召抱えておられるとか」
柴田修理亮「五郎左殿はそれを信じられるのか?」
丹羽五郎左「……」

世に言う「清洲会議」。その冒頭の一幕である。

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いそしめ!信雄くん!(信意は言い訳をした)

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摂津山崎の地を舞台に行われた合戦は、羽柴筑前守秀吉率いる反明智連合軍が勝利をおさめた。
当然である。秀吉率いる連合軍4万に対し、明智方はその半分にも満たない7000あまりの兵力しか動員できなかったのだから。

時間を遡る。6月4日の深夜、日向守謀反の知らせを受けた羽柴筑前守は、大詰めであった毛利家との和平交渉において大胆な妥協を重ねて(すでに指示を仰ぐ上司は存在しない)即座に講和を成立させると、備中高松より中国攻めの本隊約2万の兵を連れて姫路まで引き返した。

世に言う「中国大返し」である。

これに本来なら光秀の与力として中国遠征に従う予定であった、異変後は周囲の旗色を伺っていた摂津衆-茨城城主の中川清秀、高山右近、摂津兵庫城主の池田勝入斎ら総勢9千余りが参陣。
そして最も早く明智方と戦える位置にいながら、軍の再編成と明智光秀の婿津田信澄の討伐に手間取っていた織田三七信孝と丹羽長秀率いる四国遠征軍8000をも加え、反明智連合軍の総勢は4万に達した。

一方で明智日向守の動員は、これとは対照的なものであった。

安土の金蔵を使うと言う皮算用が御破算となったため禁裏工作の資金が早々に途絶えたことから、旧室町幕府人脈を持つ伊勢貞興や先の関白近衛前久の奔走により予定されていた2度目、3度目の勅使は待てど暮らせど光秀のもとを訪れることはなかった。
ならばと住宅税の免除などで京町衆を味方に付けようとしたものの、財源の裏づけがないことを見透かされてこれも失敗。
頼みの縁戚である丹後細川家や大和郡山の筒井家は中立どころか京や奈良を伺う有様。
結果、兵力を分散せざるを得ない状況に追い込まれた明智勢が山崎の地に動員できたのは約7千。
当初動員していた兵力の半分でしかなかった。

希代の謀反人は最後まで戦場に踏みとどまり、兵庫城主・池田勝入斎の嫡男池田元助(之助)に討ち取られた。

「安土の金さえあれば……」

明智日向守光秀の最後の言葉であるとされる。



清州城内の一室に設けられた控えの間。ここで信意はとてつもなく気まずい時間に耐え続けていた。
手慰みで時間をつぶそうにもそのようなものはなく、雑談をしようにも同室のもう一人はまるで信意がいないかのように振舞っていたからである。
さすがの信意も面白くはないが、そのもう一人の顔立ちがいかにも教科書で見かけた「あの人物」によく似ていたことのほうが重要であった。
さすがに父親の肖像画よりははマイルドな印象ではあるが、血縁関係にあることは一目瞭然である。

「三七殿」-織田三七信孝。

信意とは腹違いの兄弟にして犬猿の仲、そして世間一般からは織田家の後継者を競うはずのライバルであるとみなされている関係にある。
何せ部屋に入室してから、挨拶どころか一度も視線を合わせようとしないくらいだ。
よほど馬が合わないらしい。

信意と信孝が不愉快な沈黙と共に押し込められているこの間も、同じ清州の別室では重要な会議が続けられている。。

『清州会議』

誰が呼んだか、この会議はいつしかそう呼ばれることとなった。

信長と信忠、そして中央政府の高官のほとんどが死去した現在、織田家は重臣による連合体制という性格を強めている。
そもそもこの会議自体、中央集権化が推し進められていた織田家の変質を象徴していた。
何せ後継者や所領配分を重臣の合議で決定しようというのだから、一挙に室町にまで時間が巻き戻された感がある。
本来なら自分や信孝も会議に参加する資格がありそうなものだが、実際にはこうして『隔離』されていた。
たとえ親族衆であろうとも、いや親族衆であるからこそ棚上げされたというべきか。

織田家における有力な重臣といえば複数の大名と領国を差配する方面軍司令官である。
本能寺の変前でいえば北陸方面軍の柴田勝家、中国方面軍の羽柴秀吉、近畿管領の明智光秀、関東管領の滝川一益の四人。
清州会議に参加している丹羽長秀は四国遠征軍の副将で少し格は落ちる。
謀反人である明智が抜け、関東で北条に散々に打ち負かされ(神流川の戦い)、命からがら伊勢長島へと帰還していた滝川一益が脱落。
こうして残ったのは羽柴秀吉と柴田勝家ということになる。
つまりこの会議はこの後、羽柴秀吉と柴田勝家のどちらが信長亡き織田家の主導権を握るかという宮廷闘争の側面もあった。

羽柴秀吉は織田信長の能力至上主義を象徴するような人物とされる。
その小さな体のどこにそんな力があるのかと思わせる、あふれんばかりの創作意欲、農民から大名へとのし上がったバイタリティ。
自身の欲望にはとことん忠実でありながら、いざと言う時には命を省みずに泥にまみれる覚悟を持ち、自分の運命を自ら切り開く底抜けの楽天思考の持ち主。

対する柴田勝家。自他共に認める織田家筆頭家老であるのは間違いないのだが、この人物の出身は秀吉と同じくらいよくわからない。
柴田だから守護家斯波氏出身だという説もあるが、これはいくらなんでもないだろう。
甕割り柴田の異名を取る猛将ではあるが、一向一揆で荒廃した越前を見事に治め、検地や刀狩といった後の豊臣政権の兵農分離に繋がる政策を先駆けて実行に移した有能な行政官の一面も持つ。
文武に優れた領国統治者であったことが、信長に一度は弓を引いたとはいえ重用され続けた理由だったのだろう。

羽柴と柴田、そのどちらが会議の主導権を握るか?

世間の風や家中の支持は明らかに羽柴へと傾いていた。

次期織田政権の枠組みを決める会議において「旧主の仇を討った」という事実は、この小柄な男に対して何人にも変えがたい発言力を与えている。

とはいえ勝家もおめおめと秀吉の風下に立つことを潔しとする人物ではない。
越後上杉家への備えとして佐々政成を越中に留め、畠山旧臣の反乱に対応するため能登に留まった前田利家を除く配下の将を率い、光秀討伐の道中にあった勝家は、山崎合戦の顛末を聞くと進路を尾張清洲に向けた。
いずれ「清洲会議」のような重臣会議が開かれることを見越して、場所と日時を設定することで主導権を握ろうとした。

一方の秀吉はというと、この会議に若狭国主の丹羽長秀、摂津尼崎城主の池田勝入斎を参加させることを勝家に受け入れさせた。
丹羽長秀は元々織田家の譜代ではなく、守護職斯波の家臣の家柄。いわば尾張の旧支配層を代表している。
安土城築城や琵琶湖水運の整備など内政に手腕を発揮した人物だが、個性派ぞろいの織田家では方面軍の副将という立場に甘んじていた。
一方、池田勝入斎は荒木村重旧領を治める摂津諸侯のまとめ役ではあったが、その他の人物に比べると明らかに格が落ちる。
ただこの人物は織田信長の乳母兄弟であり、織田家の後継を定めるという点で言えば他の国主(丹後の細川家、大和の筒井家等々)と比較すると、必ずしも資格がないわけではない。

両者は山崎の戦いで秀吉と共に戦っており、どちらかといえば親羽柴派とされる。

この時点で会議の場は3:1。勝家は正統主義で押し切れると考えていたとされるが、このあたりはよくわからない。
この会議に同席して、おそらく書記役を務めたと考えられる堀秀政(参加には諸説あり)も親羽柴派とされる人物である。
信長の秘書官でありながら本能寺の変を逃れた数少ない高官である秀政は、山崎合戦で功を挙げている。
出遅れた勝家の外堀は、おそらく彼の考えている以上に埋められていた。




「…………」
「………」

そうして蚊帳の外なのが僕ら二人というわけだ。
信長の子供で成人しているのは俺と信孝の二人だけ、普通に考えればこのどちらかが後継者になるのだろう。
政治的失点の多い三介殿(つまり俺)は当初から排除され、勝家は山崎合戦に従軍した三七信孝を推薦。
これに秀吉が「そっちが正統主義ならこっちは超正統主義だ」とでもいわんばかりに、まさかまさかの三法師(信忠の子)を擁立。
丹羽・池田が賛成して織田家の後継者は三法師に決定。
秀吉VS勝家の宮廷闘争は、前者が完全勝利を収める……

はずなんだけどね。

……だよね?



「いやね、まぐれだよまぐれ、本当にね」
「いやいや!謙遜なされますな!こたびの明智征伐の勝利は北畠中将殿のご活躍あってのもの!」

今や織田家随一の実力者へと上り詰めた「ハゲネズミ」こと羽柴筑前守秀吉にほめちぎられています。
機関銃のようにはなたれる言葉や、自信あふれるオーラに思わずのまれてしまいそうになる。
ところでその後ろで値踏みするような視線を向けている頭巾男、もしかして黒田官兵衛か。
性格悪そうだな。絶対友達すくねえよこいつ。

「山崎はまるで無人の野を歩くようなものでした。北畠中将殿の貢献に感謝致しますぞ」

それにしても歴史上の人物が目の前にいるのは妙な気分である。
北畠の家臣団といっても一般的にはほとんど無名の人ばかりだし。
今まで会ったところで強いて挙げるとするならば、安土で一緒に籠城した蒲生の嫡子と前田利長ぐらいか。
利長君、トッシーって呼んだら妙な顔してたけどね。
永ちゃん(利長正室。信長の娘)にはえらくうけてたけど。

「それに我が妻のねねや母上を竹生島まで直々に出迎えに来てくださったとか」

いかにも人好きのする笑顔で俺の両手をぎゅっと握りしめる秀吉。
なるほど、この笑顔でお願いされたら断ることは難しいだろう。
ところであまり俺の手をにぎにぎするのは止めろ。俺に男色の趣味はないから。

ところでこれからの予定、というかチート知識(未来知識)に基づいた俺の処世術はというと

チート知識をフル活用して秀吉に犬のように媚を売るまくる
秀吉が死んだチート知識を活用して家康に猫のように媚を売りまくる

何?手抜き?もっと考えろ?
ふふふ、甘いな。真理とは何時でも単純なものなのだよ。
大体、元の体と頭が三介なのに中身(精神)が小市民の俺で何かでっかいことをしようとしても上手くいくはずが無いのさ。はっはっは。

何とか安土城籠城戦をしのぎきった信意は、早速に未来知識を活用して秀吉に媚を売ることにした。
明智光秀のクーデター発生を受けて、近江で親明智の姿勢を明確にした中に阿閉(あつじ)貞征という人物がいる。
旧浅井家臣の山本山城主は長浜城主の羽柴秀吉と領土紛争を抱えており、そのため長浜城にいた秀吉の家族は琵琶湖の竹生島に難を逃れていた。
そこでこのナイスガイな信意は琵琶湖水軍の協力を得て、自ら秀吉の家族を出迎えに赴いたのであった。
わっはっは、何と完璧な作戦。

(何故にして北畠中将は我らの尼崎入りの日時を知ることが出来たのか。
 あてずっぽうにしては日時が合い過ぎている。
 それにどこから、いや誰からねねやかか様が竹生島に避難している情報を得たのか…)

「それにいたしましても北畠中将殿は優秀な耳をお持ちで羨ましい限りです。
それも情報を正しく生かすことのできた北畠中将殿のご器量あってのことでございますが」
「わっはっはっは!褒めるな褒めるな!」

完璧な作戦とやらは秀吉に無用な警戒感を植え付ける結果となっていたのだが、この時の信意はそれを知らない。



数時間後。気まずい沈黙に支配されていた俺と三七は重臣会議の終了を知らされた。さてその結果はというと-



[24299] 第3話「信意は織田姓を遠慮した」
Name: ペーパーマウンテン◆e244320e ID:151a2b73
Date: 2013/09/26 21:03
清洲会議はおよそ史実どおりの結論を得た。

織田家の後継者には亡き岐阜中将の嫡男三法師が羽柴筑前守の推薦により決定され、この赤子が織田宗家の家督を相続することが内定した。
しかし3歳の赤子に織田帝国が統治できるはずもなく、この時点で「織田帝国の後継者」と「織田家宗家の家督」が事実上分離されることとなった。
三法師が成人するまでの間、織田家の家政運営は後継者を決定した先の4人-羽柴秀吉・柴田勝家・丹羽長秀・池田勝入斎の重臣による合議によって行われるとした。

もっとも清洲会議以降、この4人が再挙して同じ場所に集まることはなかったのだが。

後継者と政権の枠組みが決まり、あとには誰しもが心待ちにしていた、そして紛糾必至な遺産相続の話となる。
なにせ突然として所有者不在の領地が大量に出来たのだ。ここでは重臣達も建前論を無視して、本音むき出しで領地を奪いあった。
その結果をおおまかではあるが記す。

・明智の領地であった丹波や山城は秀吉が、近江坂本は丹羽長秀が獲得。畿内で新たに発生した空白領地の多くが羽柴陣営で山分けされた。
・勝家は近江の秀吉旧領である長浜を得て畿内への足がかりを得、兄信忠の跡をついで岐阜城主となった織田三七信孝との経路を確保。
 もとより秀吉との折り合いの悪い伊勢長島城主の滝川一益(領地は得られず)との連絡を取ろうという意図が丸分かりである。
・信濃海津城から帰還してものの、地元国人領主と対立して東美濃を火事場泥棒のように荒らしまわった森武蔵守長可はその領地を安堵された。
 美濃国人領主は泣きを見たが、これには明らかに岐阜の牽制という秀吉の意向が働いていた(長可は羽柴陣営である摂津国主池田勝入斎の娘婿)。

ざっとこんな具合に、羽柴陣営と柴田陣営がそれぞれの足場を固めた。

ところで不思議なことに、会議にも出席せず正々堂々と信長の遺産を横領した人物については誰も口にしなかったことは注目に値する。

命がけで伊賀を越え、岡崎に帰還したかつての同盟国の当主-徳川家康である。

家康は柴田勝家同様、光秀討伐の軍を起こしたが、勝家同様に山崎合戦の始末をその途上で知らされる。
するとこの人物は律儀な同盟者の皮を殴り捨て、本能寺の変をきっかけに旧武田領で発生した一揆に付け込んで、甲斐一国と信濃の大半を我が物にせんとしていた。
明らかな違法行為にもかかわらず、誰も織田家の「元」同盟者を批判しようとしなかったのは、来るべき戦いにおいてその支持を期待したからであろう。

今回の一連の政変における行動で急速に株を上げた北畠信意は、尾張の信忠旧領を相続(ほとんど史実通りなのだが)。
これにより信意は、従来の南伊勢と伊賀をあわせて三国を納める太守となった。
領国伊勢で発生した北畠具親の反乱を「なぜかその発生場所から人数まで特定したかのような具体的鎮圧作戦」に基づいて織田信包に鎮圧させる一方
自身は兵を率いて安土城に籠城。これにより明知軍の近江侵攻を遅らせ、山崎の合戦の勝利に貢献した。
尾張一国といえども「貰いすぎ」という批判はあたらないだろう。

「我ながら自分の才能が怖いなあ」

ニタニタ笑いながら新領の地図を眺める主君に、津川義冬と岡田長門守は顔を見合わせて深いため息をついた。

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いそしめ!信雄くん!(信意は遠慮した)

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清洲会議で最後まで揉めたのは三法師を「誰が」「どこで」育てるかという問題である。
織田宗家と織田帝国が切り離されたとはいえ、この赤子は織田の正当なる継承者であり、養育係として彼を掌中に収める人物は計り知れない政治的カードを持つことを意味していた。
ここまで押されっぱなしだった柴田勝家は、当然秀吉の勢力圏には三法師を置きたくはない。秀吉もまたしかり。

そこで両陣営が引っぱってきたのが、秀吉陣営は北畠信意、柴田陣営は織田信孝であった。

共に三法師の叔父であり、織田信長の子供の中で成人して独立した行動を取れる年齢の二人は確かに養育係には適任だった(羽柴秀勝は秀吉の義子であることから除外され、その他の子供はいまだ養育される側であった)。
普通ならそこそこ優秀だった三七と「三介殿」では比べるまでもない……はずだったのだが
先に述べたように本能寺の変における安土籠城と一連の手紙攻勢によって北畠信意は旧織田家の中でその株を急速に上げている。
「わずかな手勢を引き連れて敵地の眼前に乗り込み、亡き右府様の城を守り通した北畠中将こそ三法師の養育係にふさわしい」という秀吉の主張に重臣会議は紛糾。
結果として丹羽が間に入り「安土城が修復されるまで信孝を養育係とする」という調停案に羽柴と柴田が同意。三法師の居城は岐阜に決定した。
もっとも羽柴側からは岐阜城にお目付け役が派遣されることになり、柴田陣営は史実以上に譲歩を強いられることになった。

ところで清洲会議には様々なこぼれ話がある。

たとえば北畠信意の復姓問題。
三七殿(信孝)も織田姓に戻った(北伊勢の神戸家を相続していたが、三好長康野養子になるため一時織田姓に復帰。本能寺の変により破談となり、そのまま織田姓を使用していた)ことですし、織田家の本拠地である清洲城主に居城を移されたこの機会に、織田に復姓されてはどうかという話は当然のように持ち上がった。
しかし信意はそれらの意見を一蹴。
「私は北畠の人間であって織田の人間ではない」と、これまた木で鼻をくくったような答えを返すばかりであった。

この信意の対応は様々な憶測を呼んだ。伊勢津城主となり伊勢南部を新たに支配することになった織田信包(信長の弟。伊勢の名門長野工藤氏を相続していたが織田姓に戻した)などは「三介殿は北畠家に遠慮しているのか?」と見当違いの感想をもらした。
ともかくこの話は「織田政権の後継者は三法師であることを天下に知らしめるため、あえて北畠の姓を維持されたのだ」という美談としてもてはやされたが、それは半分だけしか真意を言い当てていない。
信意はこれで「自分は織田政権の跡取りになるつもりなど毛頭なく、三法師政権=羽柴政権に従いますよ」というアピールをしたのだ。
実に涙ぐましいまでの媚びへつらいである。

「ふふふ、まさに完璧だな」

天罰覿面というべきか、報いはすぐさまやってきた。

-安土城修復費用は北畠家が負担するものとする-

重臣会議の決定に、信意は目をむいて昏倒した。



①信意が兵を煽り立てるために「安土につけば金子と米は取り放題」と命じたこと。
②明智勢に焼け出された町民に安土留守居役の蒲生賢秀が(勝手に)北畠中将名義でいくらかの見舞金を配ったこと。
③1と2により安土の金子は空っぽ。おまけに篭城戦のため、改修工事をしないと行政庁としての機能に致命的欠陥が残ることが想定される(たとえば石垣の崩落)
④このままでは三法師様を迎えることは出来ないが、安土の金蔵は「誰か」のお蔭で空っぽ。
⑤来るべき戦に備えて、羽柴・柴田は無論、どの勢力も金を使いたくない。
⑥安土籠城の総責任者は北畠中将。

新たな居城である清洲城の一室で北畠信意は書類の山に埋もれて真っ白に燃え尽きていた。
最近ようやく主君の扱いを覚えてきた土方勘兵衛は、新たに召抱えられた佐久間不干斎に口頭でその方法を述べていた。

「早く次の書類に目を通してください」
「土方、お前は鬼か!俺を過労死させるつもりか!」
「御本所様。次はこちらです」

平然と主をあしらう土方に、そりあげた頭がいまだ青々とした佐久間は困惑気味に頷いた。

佐久間不干斎-その人はかつての織田家重臣佐久間盛信の嫡子甚九郎信栄その人である。
織田家の畿内攻略の先兵として活躍したが、天正7年(1579年)に本願寺攻めでの失態や、自身の茶道狂いを信長より責められて高野山に追放。
各地を流浪していたが本能寺の変の数ヶ月前に帰参を許されたという人物である。
信忠の死後は同じ芸道狂い(信意の能好きは有名)の信意に仕えたわけなのだが……眼前の書類の山を見るにつけ失敗であったかという後悔の念がないわけではない。
北畠家は急な所領増加により事務官僚が圧倒的に不足しており、一時は父とともに畿内を差配した経験を持ち、その上家柄はお墨付き(佐久間家は織田家譜代)という不干斎は、まさに北畠が求める人材であった。

-三介殿はもう少し、人情の機敏に疎い方であったはずだが

そりあげた頭をなでながら、不干斎は「信栄」時代に感じていた三介殿と目の間の書類に埋もれて呻く人物との差に違和感を感じていた。
絶対的権力者であった信長の死が、不肖の息子の精神的な自立を促したということなのだろうか?
そこまで考えてから不干斎は思わず苦笑いを浮かべた。
茶道具に狂って佐久間の家を没落させた自分が、同じく不肖の息子として嘲られていたはずの彼に-それも自分を追放した男の息子に仕えるというのだから。

-悪い冗談だな

不干斎はもう一度静かに笑った。



不肖の息子同士が傷をなめあっていた頃-その間にもハゲネズミVS甕割り柴田の暗闘は続いていた。

6月末-織田信孝の仲介により柴田勝家と浅井未亡人お市の方の婚儀。勝家は織田家親族衆となる。
    両者の婚姻にはお市の方に懸想していたとされる秀吉自身も深くかかわっていた。
    ライバル柴田勝家に「織田家一族」という枷をはめることにより、その言動を封じ込めようとしたのではないか。
7月3日-織田信孝、本能寺の焼け跡で収集した遺骨や信長所蔵の太刀を廟に納め、本能寺を信長の墓所と定める(後継者アピールか)
  8日-羽柴秀吉、山城国で検地を実施。新政権の主導権を自らが握ることを天下に誇示。

8月-織田家中での主導権争いが激化。美濃(信孝)・尾張(北畠)の国境線が問題と……

「あ、いいよいいよ」

ならなかった。

津川玄蕃允・岡田長門守は「それではなめられます」と何度も諫言したのであるが、信意は全く取り合わなかった。
家中は「大人の風格」「やはり地金が出てきた」に分かれたが、実際には尾張の経営でてんてこ舞いであったことが大きい。
なにせ突如降って沸いた領国である。引き継ぎなく始まった領国経営は事実上0からのスタート。
信意の頭の容量ではそんな些細な領国紛争にかまっていられなかったのだ。
もっとも寝ぼけ眼でサインした書類が「信孝案の受け入れ」であり、いまさら引っ込めると岡田長門や津川に余計厳しく怒られるのが怖かったというのが真相であるのだが。



「それで親父の葬式はいつするの?」
「……北畠中将殿?」
「俺の親父に決まってるじゃん。織田の信長」

筑前守もうボケたの?かなり失礼なことを平然と言う信意に、さすがの秀吉も苦笑するしかなかった。

「いえ、その、なんと申しますか。親父という言葉と右府様があまりにも結びつかなかったものでして、はい」

将来の天下人の困った顔を見るというのもなかなか乙なものだ。
秀吉の背後から黒田勘兵衛が何かシャレにならない表情でこちらを睨み付けている気がするのでこの辺にしておくか。

「あの気位の高い三七がわざわざ焼け跡をあさるようなまねをしたということは、甥っ子に家督を持っていかれたのが気に入らないと見えます。
他ならぬ筑前殿が親父の葬儀をするとあれば、清洲北畠家の織田一族はみな参列するように取り計らいましょう。
すでに日も経過していることを考えると、まずは100日法要が先ですかね?」

思いつくままつらつらと語り続けていると、それまで笑っていた秀吉の目から感情の色が突如として消えた。

(こっわ!)

背筋に氷を突っ込まれたかのような感覚。すぐに柔和な表情に戻ったが、一瞬だけ見せた、あの昆虫のような無機質な眼が人誑しの天才秀吉の地なんだろう。
本当はこいつ、官兵衛以上に友達いないんじゃないの?怖いから言わないけど。
本当に失礼なことを考えながら「秀吉主導の信長葬儀」(信長政権の後継者のお披露儀式)への協力を約束する信意。
織田一族を一人でも多く取り込みたい中で、この申し出は秀吉には渡りに船だろう。
ついでにさりげなく「中将殿」と同格で呼ぼうとしていた秀吉に、同じく「筑前殿」で返す気配りを忘れない。
官位は俺のほうだけどすぐに追い抜かれるだろうし。来る羽柴政権下での序列をはっきりさせておきたいのは俺も同じだ。
この点に関しては秀吉と俺は利害が共通していた。

「三法師様は難しいでしょうなあ。三七が手放さないでしょうし。柴田殿は叔母上を使ってくるかもしれません」

秀吉なら当然その程度のことは予測済みだろうが、俺の話を興味深そうに聞いていた。
話し上手は聞き上手という奴かな。
相槌を挟む秀吉に、今のとことは当たり障りがないと思われる未来知識に沿った情報を披露しながら「思ったより使える男」という印象を与えておく。
ふふふ、イメージ戦略もバッチグー。

そんな信意の目には、黒田勘兵衛が秀吉と同じ無機質な眼で自分を見ていたことにも気がついてはいなかった。



9月11日-京・妙心寺において柴田勝家やお市の方が主催となり百日忌を行う。
 翌12日-京・大徳寺において羽柴秀勝(信長四男。秀吉の養子)が中心となり百日忌を行う

11日は柴田派、12日は羽柴派の法要である。
ちなみに約束どおり俺は嫌がる叔父二人(織田長益・織田信包)の首根っこを捕まえて参列させた。
有楽斎こと源五郎長益は本能寺の変で二条御所から脱出できた数少ない一人である。
命を永らえた代わりに「織田の源五は人ではないよ お腹召せ召せ 召させておいて われは安土へ逃げるは源五 むつき二日に大水出て おた(織田)の原なる名を流す」などとコケにされたのがよほど悔しかったのか「検地の用意で忙しい」「腹の調子が」「持病の癪が」などといちいち理由をつけて大徳寺行きを嫌がったが「愚だ愚だ言うと簀巻きにして岐阜に送りつけるぞ」と脅しあげて連行してきた。
信包叔父さんに慰められていたのがなんとも哀れだった。

法要が終わると、秀吉が側に近寄って(例の無機質な眼のまま)耳打ちする。

「10月に右府様の葬儀を執り行う予定です。参列をお願いできますかな」
「無論、叔父上もつれてきます」

胸を叩く信意の後ろで長益がさめざめと泣いていた。



10月3日-秀吉、従五位下左近衛少将に任ぜられる(宮中の警備を担当する官職)
   8日-朝廷より信長に従一位太政大臣が追贈。

   9日-今日の警備が羽柴陣営により強化。柴田派は京都の守護からはずされた(事実上のクーデター)

「はげねずみが!」

当然、柴田勝家は怒り狂った。しかし間もなく北国街道が雪に閉ざされる中で軍事行動は封じられていた。

13日-播磨から羽柴秀吉が上洛。
14日-丹波亀山から羽柴秀勝が上洛。

15日-世紀の一大イベント「織田信長の葬儀」開催。



「なんだかどっちらけだよね」
「…御本所様、ここまでお膳立てを手伝われておきながらいまさら何をおっしゃるのですか」
「だってあそこに入っているの、遺骨でも遺骸でもなくて、ただの親父の木像だろ?
それをわざわざ死体に見立てて、1万の兵で警護して」

「これじゃ見世物だな」と市民に混ざりながら葬列を見送っていた北畠信意は、岡田長門守にこぼしていた。
確かに葬儀に協力するとはいった。しかしこれはいくらなんでも想定の範囲外だ。
親父といっても信長とは直接の面識はないため、ほとんど赤の他人に近しい感覚である。
しかしその赤の他人の死が、こうもあからさまに見世物にされることには勝手ながらも不快ではあった。
この葬列には故人をしのぶのではなく、お祭り騒ぎの喧騒しか感じられなかったからだ。

「少なくとも葬列とは故人を悼むものであるべきだ。長門守(岡田重善)もそう思わないか」
「まぁ確かに見世物ですな。しかしこれだけ人が集まったのは」

岡田長門守が視線を周囲にやるまでもなく、葬儀の行列にはこの一世一代の見世物を見逃すまいと、貴賎を問わず多くの町民や野次馬が詰め掛けていた。
あちらこちらで見える烏帽子は公家衆か。着の身着のままの長屋住まいの町衆、わけのわからない露店をひらげているものもあり
読経しているのか祝杯をあげているのかわからない坊主もいる。
そうした様々な熱気が路上にあふれんばかりとなり、警備の兵との諍いもあちらこちらで絶えない。 

「右府様が慕われていたという何よりもの証明なのではありませんか」
「それはそうかもしれんが、これでは」

……ッ、はっはっはっは!

唐突に笑い出した長門守に、信意は驚いてその顔を見返した。

「いや、申し訳ありません。ですが、何とも御先代の位牌に香を投げつけられた右府様らしい葬儀だと思いましてな」
「それはしかし、いやそうか。ものは言いようだな、長門守」
「世間とはそんなものです。見方によって彼岸にも地獄にもなる。それが妙というものですぞ?」

小豆坂七本槍の最後の生き残りである老人はそう言うと今度はいたずらっぽく笑った。


『賤ヶ岳の戦い』は、すでに目前に迫っていた。




[24299] 第4話「信意はピンチになった」
Name: ペーパーマウンテン◆e244320e ID:55991eb3
Date: 2013/09/22 08:56
突然だが北畠左近衛中将信意、命の危機である。

「貴方は本当に信意様ですか」
「誰って、僕は君だけの愛の僕……ごめんなさいすいません許してください。
土下座して謝罪しますから、首筋に当てたそれを外してくださるとありがたいわけです、はい」

今や天下御免のお調子者の首筋に薙刀を突きつけているこの女性。
家中では千代御前と敬称されている北畠中将が正室の雪姫である。
大雑把に説明すると、このどこか冷たい感じもする女性は6年前に織田信長の意向を受けた具豊(信意の前名)に父具教を初めとした一族のほとんどを謀殺されている。
つまり自分の亭主は一族の敵でもあるわけだ。

北畠左近衛中将信意、わりと洒落にならない状況である。

*************************************

いそしめ!信雄くん!(信意はピンチになった)

*************************************

そもそも「北畠氏」とは何処の誰なのか。

北畠氏は、さかのぼれば村上源氏の公卿であるが、なおかつ武士であり、また南朝の伊勢国司であり、室町幕府の守護大名であり、戦国大名でもある。
何が何だかわからないほど様々な肩書きがある。
歴代当主の中でも有名なのは、南北朝時代における北畠親房(1293-1354)とその子顕家(1318-1338)である。
伊勢北畠氏は親房三男の顕能(あきよし)が南朝より伊勢国司に任ぜられたのだが南朝没落に伴い北朝=室町幕府に乗り換えて南伊勢の守護職を得た。
大河内・木造・星合らの庶流を出しながら南伊勢に影響を拡大し、応仁の乱を経て周辺の守護大名が没落する中でいつのまにか戦国大名への転身を遂げていた。

そんなしたたかな名門を中心に穏やかな平穏が保たれていた伊勢に「織田信長」という恐怖の大魔王が来襲したのが永禄11年(1568)。
一度は撤退にまで追い込んだものの、国力の差は如何ともしがたく
最終的に北畠具教・具房親子は信長の子である茶筅丸(信意)を養子に迎え入れることを条件に和睦する。
和睦とはいうものの、事実上の降服であったことは言うまでもない。

ところでこの信長の伊勢攻めには大義が存在しない。
美濃攻略には「道三の娘婿(領有権)&義父の敵討ち」、近江六角氏攻めには「義昭上洛の妨げ」という名分があったが、伊勢に関してはそれがない。
あくまで純粋な「侵略行為」であったため、信長は織田家と伝統権威を結びつけることでその統治を円滑に進めようとした。
北伊勢の神戸氏には信孝(織田信孝)を、長野工藤氏には弟の信包を、そして北畠氏には茶筅丸(三介)である。

永禄12年(1569)11歳の茶筅丸と具房の娘・雪姫との婚儀が行われる。
そして天正3年(1575)に織田家の圧力により北畠具教・具房親子は引退。
茶筅丸は「北畠具豊」として北畠氏当主となった。
こうして北畠氏は織田家の組下大名への転身を遂げる・・・

そうはならなかったのである。

「公卿や旧守護大名家としての色合いを色濃く残す北畠家は、流血を伴う大手術なくしての組織再編や意識改革は不可能である」

果たして本当に不可能だったのかどうかは疑問が残るが、少なくとも侵略者であった具豊の実父-織田信長はそう考えた。



「御本所様の様子がおかしいのです」

木造具政の唐突な物言いに雪姫は思わず目を丸くした。
伊勢戸木城主にして北畠一門の重鎮であるこの老人は、雪姫からいえば大叔父(具教の弟)にあたる。
しかし織田信長の伊勢侵攻にいち早く内応したことから、雪姫ら旧北畠一族との関係は自然と疎遠なものであった。
その大叔父がわざわざ松ヶ島城まで赴いてきたのだから、誰しも疑問に思うのは当然であろう。
そしてその要件もあまりに突飛なものであった。

「あの、叔父上のおっしゃることが分かりかねるのですが」
「とにかく変なのです。頭の先から足の先まで、身振り手振りに喋り方-」
「それではまるで別人ではありませんか」
「ですから不敬を承知で変だと申し上げておるのです」

具政のみるところ、信意という人物はいくつかの政治的、そして軍事的な失敗により、消極性と猜疑心の塊と化していた。
織田家の組下大名である北畠家当主としてならばそれでも問題はなかったのだ。
しかし本能寺の変-というよりもむしろその後の清洲会議によって北畠家を取り巻く環境は一変した。
三法師という名誉当主のもと、羽柴秀吉と柴田勝家による宮廷闘争はいつ実際の合戦となってもおかしくない状況にある。
そのような政治状況の中、ほとんど一人で北畠家中の融和に腐心していた具政にとって、さらなる頭痛の種となったのは他ならぬ当主の信意であった。

「とにかく変なのです。御前様の言うようにまるで別人になられたような。明朗闊達で何事にも積極的という」
「よい傾向ではありませんか」
「それが危険なのです」

具政は眉間にしわを寄せた。

信長が存命当時の織田家一門衆の序列は

①信長
②信忠(信長嫡男。織田家当主)
③信意(北畠氏当主。現在は尾張国主)
④信包(信長弟。伊勢津城主)
⑤信孝(岐阜城主)
⑥津田信澄(明智光秀の娘婿。本能寺の変直後に信孝によって誅殺される)
⑥長益(信長弟)

このように続く。羽柴にしろ柴田にしろ、織田家と直接的な血縁関係はない。
信意は序列4番の信包、6番の長益を与力大名とし、なおかつ自身も有力な後継者候補(信忠と信意は同腹の兄弟)。
形の上ではともかく実質的には織田家を傀儡(名誉会長)に祭り上げたい勢力には、今の北畠家は簡単に言うと「大きすぎる」のだ。
信意の急な変化と合わせて考えると、具政は気が気でなかった。
柴田・羽柴のどちらかの勝利が確定した段階において、北畠そのものが「排除」される事態が容易に想像されたからだ。

実の兄である具教と敵対し、北畠一門でありながら織田家に内応した木造具政の評判は悪い。
しかし具政にとってはすべて北畠氏の将来を考えてのものであり、そのことに何の後ろめたさもない。

彼はほとんど一人で京に近い位置にありながら、伊勢の田舎大名で満足している家中の有様を批判し続けてきた。
中央情勢をにらみ、安易な反織田家の行動は危険であると何度も兄具教に諫言もした。
しかし織田家への降伏後も家中の大勢の認識は変わらず、信長により反織田派の北畠一族と北畠家臣が粛清された(三瀬の変)。
これは親織田派の具政にとっても伊勢の大名という認識を変えることができなかったという意味において、政治的な敗北を意味していた。
そのため具政は三瀬の編の後も、ひたすら旧北畠家と織田系家臣との融和に努めてきたのである。

中央の権力者の気分一つで、文字通り首が飛ぶ経験をしてきた具政には、今の信意にかつての北畠と同じ危険性を感じるのだ。
今のままで信意を放置すれば、あの忌まわしい三瀬の悲劇がもう一度引き起しかねない。
その時、北畠は果たして生き残ることができるのであろうか。
なんとしても信意の真意を確かめなければならない。その一念で具政は雪姫に熱心に説いた。

「それで私にどうしろと?」

雪姫は冷やか視線を叔父に向ける。
しかし具政には自分こそが北畠の家名を存続させるために尽力してきたと言う自負がある。
悪びれる様子もなく、自らの考えを真正面から雪姫にぶつけた。

「間もなくこの松ヶ島城から清洲への政庁の移転が始まります。当然ながら信意様はこちらに立ち寄られるはず。
そこで御前に、信意様の真意を確かめていただきたいのです」
「……北畠の当主として生きるのか。それともそれ以上を望むのかを私に尋ねろと?」
「御意」

畳に両の拳をついて深く頭を下げた叔父から、雪姫は静かに視線をそらした。



「いやいやいやいや、だから何度も言うけど僕は北畠左近衛中将信意だって、いや本当に。
正味の話で。自慢じゃないけど、頭の先から足のつめ先のささくれまで、何処を切っても北畠信意だといえるから、うん」
「……それじゃあ確かめてみようかしら」
「まってまってまって、いまの冗談、うん冗談。布団の中の羽ぐらい軽い冗談なの、うん冗談。
だからびっくりするぐらい忘れて欲しいな」

雪姫はおそらく大叔父が感じていたであろうものと同じ疲労を感じていた。
変だとか変ではないとかいう問題ではない。これではまるで『別人』ではないか。

「ほ、ほら見てここ。安土籠城で頭を怪我したんだ(*砲弾の音に驚いて足を滑らせて石垣に頭をぶつけた)
だから記憶が混濁してるんだよきっと!
だからその物騒なものを私の首筋から除けていただけますと、信意は感謝すると思う次第でありまして
『黙りなさい』
はい!地蔵のように黙りますとも!」

雪姫は疲労のあまり眩暈を感じ、長刀を杖のようにしてもたれ掛った。

一方で信意はというと「雪姫って言うくらいだからやっぱり肌白いなぁ」と
まぁ命の危機にもかかわらず、頭のネジが12本から13本ほど緩んだことを考えていた。
いや、生命の危機だからこそ、現実逃避をしていたというべきか。
それに北畠氏の歴史を知る信意は、まさか雪姫が生きているとは考えてもいなかったのだ。
てっきり彼女は三瀬の変で自害したものだと思い込んでいた。

だからついつい口が滑った。

「えーと、なんで生きているの?」
「………よほど右府様(信長)の後を追われたいようですね」
「あ、ごっめん!冗談、冗談だから!その、口が滑ったから…あ!ちょっと切れてない?皮一枚ぐらい切ったでしょ、ねえ?!」

雪姫は薙刀の柄でその頭を殴って黙らせた。



天正4年(1576)11月25日。元伊勢国司北畠具教が隠遁先の三瀬御所で元家臣により暗殺。

世に言う「三瀬の変」の始まりであった。

長野具藤(具教次男)、北畠親成(具教三男)が田丸城で暗殺されたのを初め
堀内御所や霧山御所において北畠家中の主要一族や家臣がことごとく誅殺。
三瀬御所では徳松丸・亀松丸(共に具教の子)を初めとした婦女子にいたるまで惨殺された。
また暗殺の実行部隊に北畠家臣を使ったやり方は世間の批判を受けた。

しかしこの事件は「織田家が北畠家を乗っ取るために北畠一族や譜代の家臣を誅殺した」というような単純な話ではない。
北畠一族の中でも木造具政を初めとして庶流の田丸氏・星合氏などは粛清を逃れている。
むしろ「北畠家中の反織田勢力」が排除されたと考えたほうが自然だろう。

事実として上洛を目指す武田徳栄軒信玄と、北畠家中の反織田勢力は連絡を取りあっていた。
北畠家も200年以上続くとそれなりのしがらみと、名門としての意地が生まれていた。
何処の馬の骨ともわからない、それも平氏を自称する織田家に、村上源氏の名門北畠氏が膝を屈するのか。
そんな鬱屈した感情が充満していたところに、もしも「甲斐の虎」から次のような手紙が送られたとすれば-

-我ら源氏が手を組み、横暴を極める平入道(平清盛=信長)を討とうではないか-

この誘いが織田家に押さえつけられた北畠譜代の家臣や三瀬の隠居にはどう写るか。
結果的にはその意地が彼らの-雪姫の父具教の命取りになった。


「父や弟の事に関しては遺恨がないと申せば嘘になります。ですが私とて北畠の女。
道理のわからない女子のような恨み言を申し上げるつもりはありません」
「そ、そうか、いや、そうかそうか」

軽く皮が切れた首筋を押さえながら、信意は露骨に安堵のため息を漏らした。
雪姫は一瞬だけその硬い表情を緩めたが、直に引き締める。
冷たさすら感じさせるその顔立ちと、その静かなたたずまいからは、凛として媚びない気高さを感じさせる。
信念と言い切ってしまうと多少狭隘となってしまうが、自分というものをもっている女性だという印象を信意は受けた。
大和撫子とは本来、このような女性を表現した言葉ではなかったのか。

「先ほども申し上げましたが、随分と御様子が変わられたように感じるのですが」
「実はな、俺は俺であって俺ではない。そう、それは宇宙46億年の神秘と曼荼羅。とある不思議な力によって、未来から-」
「誰かある、頭の医師を呼びなさい」

殺される心配が無いとわかると、信意は早速調子に乗った。
即座に対応するとは。やるな雪姫。

「うん?どうやら血が止まったようだ」
「もう少し深く切りつけておけばよろしゅうございました」
「洒落になってないからやめような」

今までのあからさまに人を閉ざす信意とは違う雰囲気に影響されたのか、雪姫はふと信意に尋ねてみる気になった。

「……ひとつ、後本所様にお尋ねしたきことがございます」
「なんだ?スリーサイズは秘密だぞ?」
「信意様は-」

それは今の信意にしか答えられない-それゆえに質問どころか口にすることすら憚るようなものであったが。

「信意様は何を、感じられました」
「また唐突だな。感じるも何も、何に対してだね?」
「先の明智の乱によって、織田家では右府様を初め、君の岐阜中将様(信忠)、叔父上の津田殿(又三郎長利)
そして源三郎様(織田勝長。信長五男)が亡くなられました。家臣の中でも村井様、森様を初めとして多くの方々が」
「……そうだな」
「もう一度お尋ねします。何を、感じられました」

そのとんでもなく地雷臭のする質問に、信意は腋の下に盛大に汗をかき始めた。
下手なことを言えば問答無用で、さきほどとは違い無言で切られることは容易に想像出来た。
そうであるからこそ信意も率直に正直に答えた。答えざるを得なかった。

「よくわからないなぁ」
「……わからない、とは?」
「別に言葉遊びをするつもりではないよ?急なことで感情の整理がついていないんだろうな。
なにかこう、事態が大きすぎて、現実のことじゃ、自分の事ではないような気がね。
あえて言うなら、まるで絵巻物の出来事を眺めているような-それが一番近いかもしれない。
家族といっても、ある意味他人以上に遠い存在でもあったから」

嘘は言っていない。信長や信忠は実際他人である。
第一、今の信意は彼らと話したどころか、顔を直接見たことも無いのだ。

雪姫は破れかぶれの弁明をじっと聞き入っていた。
その沈黙が恐ろしく信意が目の前の畳の縁に視線を落としていると、すくっと正面で立ち上がる音が聞こえた。

「……私も三瀬では同じように感じました」

その背中に掛ける言葉が見つからず、信意は彼女が退出するのを黙って見送った。



「叔父上。中将様とお会い致しました」
「……は、ははッ」

具政は驚きのあまり、一瞬呆然としてしたが、すぐに我に返って頭を下げた。
一体どうしたことだろう。自分を「戸木殿」と呼ぶことはあっても、決して身内として接することのなかった御前様が。

「叔父上のおっしゃる意味がよくわかりました。南蛮人と話しているような気持ちになりました」

まさか「そうでしょうとも」と頷くわけにもいかず、政具は短く答えた。

「右府様御生害で、北畠当主として、北畠信意としての自覚に目覚められたのでしょう。
そして叔父上のご懸念はもっとも。
今のままでは北畠のお家は、織田の腐肉を漁る羽柴と柴田の間で都合よく利用され、使い捨てられるのかもしれません」
「それは、いや、しかしそれは……」
「叔父上。顔をお上げください」

御前-雪姫の言葉に一瞬ためらいを見せた具政だが、再度促されて恐る恐るその面を上げた。

「……ッ」

具政は今度こそ言葉を失った。

雪姫様が、三瀬の変以来、ほどんど感情を表さなくなったとされる雪姫が、静かに微笑んでいたのだ。

「……私は三瀬の様な事はもう見たくありません。ですが私は女の身。出来ることは限られています。
ですからこそ叔父上に、私と同じ想いをお持ちであると信じる叔父上にお願いしたいのです。
北畠当主である御本所様を支え、その理非曲直を正してほしいのです」

思いもがけない言葉に具政は動揺を隠せなかった。
まさかそのようなことを語りかけられるとは、予想だにしていなかった。
もう一度、この自分を「叔父」と呼んでくれたことも含め。

「家中には岡田長門守を初め、津川玄蕃允殿、生駒蔵人(家長)殿、織田源五郎殿-
そうそう叔父上のお子の大膳(長政)も。非常に優れた方々がそろっておられます。
ですが信意様の危うさを正すことが出来るのは一門衆であり、なおかつ『三瀬』を知る叔父上にしか出来ないことなのです」


お願いできますか、叔父上


木造具政は言葉ではなく、態度でその意を表した。

畳にこぶしをつき、深く、深く頭を下げた老人の肩は、微かに震え続けていた。




[24299] 第5話「信意は締め上げられた」
Name: ペーパーマウンテン◆e244320e ID:151a2b73
Date: 2013/09/22 08:56
癇の鋭そうなお顔-それが少年に対する少女の第一印象であった。
この世に生をうけたときから人に傅かれて育った少年は、そうであることが当然のように上座に腰掛けている。
色白で華奢な身体つきや、その立ち振る舞いからは武術の心得があるようには見えない。
そして案の定、少年の声は妙に甲高く彼女を苛立たせるものであった。

『織田弾正(信長)が次子の茶筅である』
『北畠不智斎(具教)の次女雪と申します』
『雪か、よい名だな』

何気ない一言だったのだろうが、その無神経さと鈍感さが癇に障った。
形の上では同盟関係とはいえ北畠氏は織田家に臣従した。
その意味がまだ完全には理解出来ていなかった少女は、侍女達の不安気な態度を横目にこの鈍感な婚約者につれない答えを返した。

『さして珍しい名ではありません』

ところが少年の鈍感さは少女の想像をはるかに超えていた。

『なるほど。確かに私の茶筅という名に比べれば珍しくともないな』

雪姫はその答えに呆れた。
あの愚鈍な兄具房でもここまで的外れなことは返さないだろう。
嫌味と理解できなかったのか、それともあえて気がつかない振りをしたのか。
後者であるはずがなく、前者の究極系である少年の的外れな反応に少女の落胆は深まった。

『だがよい名前だ。少なくとも私はそう思った』

瓜実顔の少年はそう言って顔をぎこちなく綻ばせる。

それが、目の前の鈍感な少年が精一杯考えた上での気遣いである事を少女が理解できるようになるまでには、今しばらくの時間が必要であった。

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いそしめ!信雄くん!(信意は締め上げられた)

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織田信長の死によって最も貧乏くじを引かされたのは、甲斐府中城主の河尻肥前守であろう。
わずか4ヶ月前に武田氏を滅ぼして新たに甲斐の国主となった彼は、支配を確立するまもなく本能寺の変を迎える。
事実上「織田」が滅んだことを知った武田旧臣は一挙に反乱を起こし、この織田の総督を敗死させる。
これを見て同じく信濃の織田方城主が美濃や尾張の本領へと逃げ帰り、上野の滝川一益も北条氏に敗北した。

こうして空白地帯となった三カ国をめぐり、徳川と北条、そして上杉による三つ巴の争奪戦が開始される(天正壬午の乱)。
結果だけを先に言うなら旧武田領の大半はかつての織田家の同盟者が領有することになるのだが、その道のりは決して平坦なものではなかった。

数ヶ月前まで滅亡寸前だった上杉に北条・徳川と相対する実力はなく、旧領の北信濃四郡を回復すると撤退。
これを見た北条は5万にも及ぶ大軍にて武田旧領に侵攻。一時は信濃全域を治める勢いであった。
しかし手勢1万足らずの徳川軍は巧みに正面衝突を避けながら、真田・依田ら地元領主の協力を得たゲリラ戦で北条軍の補給路を断つ。
その一方で佐竹・宇都宮といった北関東諸将と手を結んで北条を背後から脅かした。
これをうけて小田原では和平論が対等。信濃のために本領関東を脅かすつもりのない北条家は徳川家との和睦を、そしてそれより一歩踏み込んだ軍事同盟の締結を打診した。西の憂いをなくし、北関東の反北条家勢力との戦いに専念するべきであるという北条美濃守(家康の学友)・板部岡江雪斎らの主張が受け入れられた結果である。
10月の後半-ちょうど京都において盛大な信長の葬儀が行われている頃には、両家の間では具体的な領土の取り決めの段階に入っていた。


「漆塗と金箔張りの右府様の木像に、一万の兵か。筑前殿の派手好みは相変わらずだな」

遠江浜松城で北条方との交渉に神経を尖らせていた徳川家康は、上方における政局の速さに思わず苦笑を漏らした。
徳川右近衛権少将家康はこの年(1582)39歳。
多少奇異な感じがしないでもないが、これは桶狭間の戦い(1560)以降22年の織田信長の人生がいかに濃密なものであったのかということだろう。
ちなみに現在、織田家の宰相の地位を争っている二人の年齢を上げてみると-羽柴秀吉45歳。柴田勝家60歳。
15歳年下の、しかも中途採用の秀吉に頭を下げろといわれても、生え抜き叩き上げの勝家には無理な話だということがわかる。
本来なら旧同盟国における宮廷闘争は徳川家には関係ないのだが、徳川家にはそれに無関心でいられない『理由』が存在した。

「都では羽柴筑前こそ右府様の後継者との呼び声が高いご様子。
清洲会議で三法師様支持に回られた丹羽様、池田様は無論のことですが、元々の傘下であった備前の宇喜多に加えて
旧明智派であった丹後細川家、大和の筒井家も羽柴派とみられております」

石川伯耆守数正の報告に、家康は静かに頷いて続きを促した。
西三河衆筆頭である岡崎城主の数正は、戦場での武功数知れずという武人としての顔と同時に、清洲同盟(織田家と徳川家の軍事同盟)の締結に奔走したことからもわかるように、畳の上における戦にも長けている。
そのため家康は本能寺の変の後も旧織田家中への人脈を有する石川伯耆守を上方の窓口兼情報収集役としていた。

「これに対して柴田派は能登の前田、加賀の佐久間、越中の佐々ら元々の与力大名。
佐々との結びつきが強い飛騨の姉小路氏、美濃の織田信孝様、そして北伊勢の滝川」

そうした分析を踏まえた上で数正は「羽柴有利」とする自らの見解を述べ始めた。

「右府様の馬廻衆(親衛隊)や近習・小姓(秘書官)らの多くは明智に討たれましたが
この度近江佐和山城主となられた堀秀政や長谷川一秀殿、前田玄以殿らは15日の羽柴派主導の葬儀への参列が確認されています。
中間派諸将もその大部分が羽柴方とみてよろしいかと」
「-三介殿、いや北畠中将殿の名前をなぜ挙げない」

それまで石川伯耆守の報告を黙して聞いていた家康が初めて口を挟んだ。
尾張と南伊勢、伊賀を治める北畠信意は旧織田一族の有力大名。
そして織田家当主であった信忠の同腹(母親が同じ生駒氏)の嫡出子であり、織田一族の中での地位は高い。
また本能寺の変以降の一連の騒乱における安土城籠城戦で一躍株を上げてもいた。
しかし石川のそれはあえて信意の名前は外しているように聞えたからである。

「よもや北畠中将が柴田につくとでもいうのか」

三七信孝と三介は同じ永禄元年(1558年)生まれだが、三介が次男、信孝が三男とされた。
嫡男奇妙(信忠)と同腹であり事実上の正室生駒氏の産んだ三介が優遇されたのだろうが
これが「実は数日早く生まれていた」とされる信孝の闘争本能に火をつけた。
秀吉と勝家が並び立たないように、三介と信孝も並び立たないというのが家康のみならず旧織田家中の見解であった。
石川伯耆守は主君家康の疑問にそれを否定する噂を伝えた。

「具体的なものは何もございませぬが、清洲会議における北畠中将と信孝様の会談がおこなわれたのではないかという話しがございます。
また岐阜と尾張国境における領土紛争において北畠中将家が妥協したのは、信孝様に和解を打診するためだとも」

噂とは恐ろしいものである。清洲会議の間に信意と信孝が何も言い争いをしなかったことが(すくなくとも信意にそのつもりはなく、信孝は信孝で犬猿の仲である信意が妙な視線を自分に送ることに困惑していた)密談や密約があったのではにかとあらぬ噂を呼び、そして単に書類を間違って決裁しただけのことが「和解の打診と織田家の団結を呼びかけた」という話にまで膨らむのであるから。

知らぬは信意ばかりなりである。

「京-羽柴派の一部では、信意様は柴田・羽柴ではなく『織田』の団結をもくろんでいるのではないかと疑われているようでございます。
そのため羽柴様は特に右府様の葬儀に北畠中将様が参列されるように懇願されたとか」

顔を曇らせた家康は思案をする時の癖である親指の爪を噛んだ。
もともと家康に「織田家の宰相争い」に参加するつもりはないし、その資格もない。
彼が興味があったのは、北条との和睦によって徳川が得ることになる信濃・甲斐の地位が保全されるかどうかという一点に尽きた。
信長より領主の地位を与えられた代官や城代は逃げ出したとはいえ、権力や統治の正当性はいまだ旧領主が有している。
柴田と羽柴による権力闘争が終わると、その矛先が自分に向きかねないという危惧は根拠のないものではない。

「織田の団結か。言葉だけなら何とでも言えるが、そのようなことが実際にありえると思うか?」
「今の北畠中将様なら、あるいは-」

石川伯耆守はそこから先は口を濁した。羽柴と柴田の戦いに北畠中将がどのように望むかは、この老練な外交官をもってしても想像ができなかった。


10月29日。北条家と徳川家の和睦が成立した。
北条は上野を、上杉は旧領の北信濃四郡を、そして徳川はそれ以外の信濃と甲斐を獲得。
また当初難航の予想された家康の娘督姫と、北条氏直との婚儀については、徳川方が急に軟化したことにより成立。
こうして4ヶ月に及んだ旧武田領の戦いは幕を閉じた。

(余談ではあるが、領土交渉において上野領の扱いを頭越しに領地を決められたことに激怒した真田家が徳川から離反。真田と徳川の因縁の始まりとなる)

新たに得た領地の経営に力を尽くしながら、若き東海道の覇者の目は西へと向けられていた-



-10月30日 近江国安土城 摠見寺(石垣修復工事の普請監督所) - 

葬儀に出席した帰路に安土城を視察しようとしたら、会いたくもないし呼んでもない人間が京から俺の後を追ってきた。
女ならうれしいけど、残念ながら彼らは男である。しかもかなり年をくった。
くそッ、なんでだ?
なんで俺の周りにはむさい男ばっかり近寄ってくるんだ!!

「北畠中将様には是非とも織田へ復姓していただきたいと、わが兄羽柴中将は考えております」
「…たしか弟君の秀長殿と申されましたな。羽柴殿にも申し上げたが、重ねて申し上げておきます。
不肖の息子の身で織田姓を名乗るのは、私にはあまりに荷が重過ぎる。なにとぞご遠慮させていただきたい」
「これはどうも言葉を間違えました。名乗っていただかないと困るのです」

にこやかに「お前に選択肢はない」と言ってのける羽柴小一郎秀長に、信意は目の前の人物が自分の一番苦手とするタイプであることを悟った。
すなわち有無を言わさずに要求を押し通すタフな交渉人だ。
そしてこういう人間は外堀と内堀を埋め、橋をかけ、なおかつ大軍で城を包囲してから出ないとやってこない。

「安土城を守り通した岐阜中将様とは思えない気弱な物の言いようですな」
「小心ゆえ城を守り通すことができたのです、官兵衛殿」

表の羽柴秀長と裏の黒田官兵衛。羽柴家中の二枚カードをそろえてきたあたりに秀吉の本気が伺える。
本気と書いて「マジ」と読むあれだ。
そんな具合に現実逃避をしていると、黒田は中国地方の大大名・毛利氏との交渉を抜けてやってきましたと、わざわざ前置きしてから話し始めた。
毛利との同盟より、俺の事案のほうが羽柴家にとって重要度が高いというわけか。

「聡明なる北畠中将にはすでにご理解しておられるでしょうが」

それにしても本当に近年まれに見る嫌な男である。有岡城で餓死してりゃよかったんだ。
その横で平然と微笑んでる秀長さんはたいした男だよ、本当に。
嫌味じゃなくて本心からそう思う。
石垣の上から蹴落としてやろうか。

「三法師様の後見役の一人である前田玄以殿が、岐阜への入城を断られました」

あちゃーと、信意は額を押さえた。

前田玄以は言うまでもなく二条御所から三法師を抱いて脱出した人物である。
清洲会議において羽柴秀吉は安土城御殿修復までの間、織田信孝(柴田派)が岐阜城で三法師を養育する条件に、何名かの後見役を受け入れさせた。
前田玄以もその一人であり、中間派であると見られていた。
それが15日の信長の葬儀に参列するため上洛したことから、羽柴派への鞍替えと信孝には写ったらしい。
そして柴田勝家の治める越前から近江に出る北国街道は雪に閉ざされている。

簡単に言えば「信孝は単独で秀吉に喧嘩を売った」のだ。

「あの馬鹿……玄以殿にはよろしくお伝えして、いや私からも詫びておこう。いや本当に申し訳ない」
「頭をお上げください。中将殿に頭を下げられては、私は兄に会わせる顔がなくなります」

その割にこれといってへりくだる様子のない秀長。
うーむ、人物としての器がまるで違うことを認めざるを得ない。
秀長の器がこの安土の山から見下ろせる琵琶湖なら、俺は肥担桶から声を移す柄杓ぐらいの差がある。
ここまで差をつけられるとかえって清々しい。

「それで信孝の不始末と、私の織田への復姓にどのような関係が」
「兄の言葉をそのままお伝えします」

ひとつ咳払いをしてから、秀長は重々しく口を開いた。

「我がほしいのは『織田』であり『北畠』ではない-兄はそう申しておりました」

信意の顔面が盛大に引きつった。
北畠姓を名乗り続けることで織田政権の跡目争いに参加するつもりがないことを必死にアピールしていたのに
その当の秀吉から「お前の考えなどお見通しだぞ」と宣言されたのだ。
依然一度だけ見た、あの鉛のような無機質な秀吉の眼を思い出し、信意は再度震え上がった。

「つ、つまり、その、なんだ。信孝に対抗できる織田一族は私しかいないというわけか」

信意が恐る恐るたずねた言葉に、秀長と官兵衛は無言でうなずく。
織田姓を名乗る岐阜国主の織田信孝に対して、秀吉方が信包、長益ではいかにも役者不足であった。
だが信意が織田姓を名乗るとあれば話は違ってくる。
ただ織田を名乗るだけなら信孝にもできるが「同腹」-織田家の前当主信忠の同腹である信意が織田姓を名乗る意味は天と地ほども差があるのだ。
当然その先の、世論対策や旧織田家臣への多数派工作にも違いが出てくるだろう。

北畠中将が織田カードとしての自分の価値を正確に理解していると判断した官兵衛に対して、秀長は止めとなる一言を発した。

「兄上は三法師様に対する中将様の忠誠に感じ入っておられます。
しかし、世間には中将様の努力を認めず、それどころかあろうことか根も葉もない噂を立てる輩もおりまして。
例えば-そう


中将様は柴田様とご懇意だとか


その瞬間、確かに信意は自分の心臓の止まる音を聞いたという。


「………い、いや、その、あれ。いやあれだよ。うん。あれがそれしてあれなんだ。つまりだね」


その後はもう何がなんだか。
信意はもうしどろもどろで「家中の者とも相談してよく考えておく」と答えるのが精いっぱいであった。


そして残念ながら-信意には幸いというべきか-この問題に決着を付けるのを待たずに事態は動いた。





[24299] 第6話「信意は準備を命じた」
Name: ペーパーマウンテン◆e244320e ID:55991eb3
Date: 2013/09/26 21:07
- 11月1日 越前北ノ庄(柴田勝家の居城) -

「三七の馬鹿が」

織田家筆頭家老を持って自任する柴田修理亮勝家は、杯を呷りながら忌々しげに吐き捨てた。
馬鹿と吐き捨てた三七とは他ならぬ岐阜城主の織田信孝であり、旧主信長の息子を勝家は平然と呼び捨てにしている。
かつて信長に叛いたこともある老将は、たとえ主家筋とはいえども36以上も年下の、しかもろくに実績のない若者に対して、一人酒を飲む時にまで敬称をつけるほど大人しい人物ではなかった。

-早すぎる

勝家はじりじりとした焦燥感に追い詰められていた。
今の彼にはいくつも不安の種があった。
政敵であるハゲネズミの策謀
柴田派であるはずの織田信孝や滝川といった諸将の不甲斐なさ
そしてかつての同盟国の道理も何もあったものではない侵略行為等々。
しかし今最も老将の心を不安に駆らせるのは-

その時、軒先がミシリとしなる音が聞こえ、勝家は露骨に舌打ちをした。

勝家を始め雪国の人々にとって見れば、まさにそれは天から降る白い悪魔以外の何者でもなかった。

雪である。

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いそしめ!信雄くん!(信意は準備を命じた)

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「時間が-時間がない」

北ノ庄で勝家が一人呟いていたのとちょうど同じ頃、山城の山崎城(天王山城)では羽柴秀吉が千宗易を相手に愚痴りながら茶を立てていた。
だが雪に神経をとがらせる勝家とは異なり、秀吉はそれを待つ立場にあるという違いはあったが。
越前から近江に繋がる北国街道は12月には雪に閉ざされる。
つまり柴田勝家は12月になると、柴田領の飛地である近江長浜、そして三法師を擁する織田信孝の美濃岐阜城との連携が取れなくなる。
秀吉はそれを待っていた。
待っていたが故に、勝家と同様に苛立ちを隠せずにいた。

「草の知らせでは雪はまだ一尺ほどしか積もっていない。
今、岐阜や長浜を囲むのは容易だが、それでは勝家に背後を衝かれる」
「若狭の丹羽様や越後の上杉様はいかがなされております」
「五郎左(丹羽長秀)殿は私を支持してくれてはいるが、あの御仁の性格ではな。牽制がいいところだ。
かつての上杉と今の上杉は違う。佐々相手にも苦戦する有様で、まして勝家相手ではな」

秀吉が乱暴に立てた茶を、宗易は顔色一つ変えずに飲み干した。
主人である秀吉の顔を立てるためといえば聞こえはいいが、今や織田家中最大の権力者となった秀吉に媚びているようにも受け取られかねない。
しかし彼の行動や仕草にはそうした卑屈なものを、秀吉は何一つ感じることはなかった。

「貴殿は悪人だな」
「私は所詮は商人。織田家を乗っ取ろうとする羽柴様ほどではありません」

その言葉に秀吉は声を上げて大笑した。

「まったく、宗易殿にはかなわんな。それで此度はどんな土産話を聞かせてくれるのだ?」
「近日中に能登の前田利家様、越前大野の金森様、そして不和彦山(勝光)様の3名を代表とする使節団が上洛します。目的は羽柴と柴田の和解」

宗易好みという黒茶碗を撫でるように両の手で抱えながら、茶人は何気なく重大な事実を口にした。
宗易がその茶碗を、まるで女子の肌を撫でるかのように慈しみながら触れるその手に秀吉はなにやらおぞましいものを感じたが
同時に彼の頭脳は、利休の言う情報について素早く考えをめぐらせていた。

日ノ本一の商都・堺には全国から様々な情報が集まる。
そして商人の値打ちはその情報の真偽を確かめる真偽眼と、商機をかぎわける嗅覚、そして決断力の三つである。
利休のもたらす情報はいつでも正確であり、秀吉はその点に関してはこの茶人に対して絶対の信認を置いていた。

「焦っておられるのは柴田様も同じこと。前田玄以様のことで秀吉様が岐阜城を攻めるのではないかと考えておられるようです。
しかし北国街道には既に雪が積もり始めている。
後方の退路や補給路も定まらずに出陣するのは避けたいのが本音のご様子」
「それで又左(前田利家)か。勝家も芸がない」

そう勝家を嗤った秀吉だが、その顔にも深い疲労が刻まれている。
無理もない。本能寺の変以降、肉体的にも精神的にも走り詰めなのだ。
ましてあと数ヶ月の内に、自分の手喉解くところに天下が近づいている今は。
それゆえ秀吉は待てない。
あと1ヶ月、これから北国街道に雪が積もるまでの1ヶ月は、この小男には誰よりも長く感じられることだろう。

-この小男に勝ってもらわねばならない

それは宗易のみならず堺を治める有力商人の共通した見解である。
堺はこのたびの羽柴と柴田の争いにおいては表面上の中立を保ちながら、羽柴の勝利を期待していた。
理由は簡単。旧織田家の中国方面軍司令官であった秀吉とは繋がりがあり、北陸方面軍の柴田勝家とは商いの伝が薄いからだ。
とはいえ戦は商いと同じく水もの。気の利いた商人は両方に掛け金を掛けていた。
そして宗易は掛け金を多少秀吉に多く掛けていただけの話だ。
そのため秀吉の不安となっているもう一つの懸念についても、宗易は調べがついていた。

「北畠中将殿ですが-」

その言葉に、茶道具を片付けていた秀吉は明らかにこれまでとは違う反応をした。
じろりと宗易を見据え、普段はあれほど姦しい口を開こうともしない。
宗易が意図したわけではないのだが、秀吉の手には先ほど乱暴に茶を立てた『茶筅』が握られていた。

「北畠中将は家中の不和を何よりも案じておられます」
「不和、だと?」
「今回尾張を獲得され、家臣団が急増したことによって北畠家としての一体性が薄れることを恐れておられるのです。
このところ木造具政や岡田長門守ら、旧北畠一族や織田家からの付家老と積極的に面談しておられることは、いわば不安の裏返し」
「……織田に復姓することで旧北畠家臣と織田家出向組の家臣との間で亀裂が生じるかもしれない-というわけか。
あれだけ一族や家臣を粛清した信意殿とは思えないな。
いざとなればもう一度、粛清なり追放なりをすればよいではないか」
「強行策の利点と欠点を経験しているからこそとも言えます。
衰えたとはいえ、いまだに北畠具親が反信意勢力として健在しているのも事実でございます」

宗易は黒茶碗を畳の上に置いた。やはりこれは茶室でも映える。
たとえ黄金の茶室といえども、この茶碗の存在感が揺らぐことはないだろう。
元瓦職人が創ったとは思えない茶碗の出来栄えに満足しながら、悪人は極悪人に語りかけた。

「茶道具は所詮茶道具でしかありません。その使い方を知り、価値を知るものが持たねば、たとえ高麗井戸といえども雑器と変わりありません」
「それくらいわかっておる」

秀吉はその小柄な体からは信じられない握力で、竹で出来た茶筅を握りつぶした。

「しかしあれは何なのだ?」



- 11月8日 近江国安土城 摠見寺(石垣修復工事の普請監督所) - 

「すっごく、おおきいです」

運び込まれた巨石を前に恍惚とした表情で呟いた信意に、石垣修復工事の監察役である土方勘兵衛は「仕事の邪魔です」と冷たく言い放った。
最近、部下の扱いがどんどん雑になっているような気がする。
土方、お前清洲に帰った覚えてろよ。
あれ?津川、お前何時からそこにいた。

「最初からです」
「それなら何か言ってくれないか?」

津川にも黙殺されました。
これ以上騒ぐと、気の荒い穴太衆の石工職人に蹴り出されそうなので自重するか。

「それにしても金かかるよなぁ」

いったいどれだけついたのかも忘れたが、信意はため息を漏らした。
石垣修復だけでもどれだけ金が必要なのかわからないのに、籠城戦で焼けた二の丸御殿(三法師の住居になる予定)修理まで考えると、頭が絞られるように痛くなる。

これで史実通りに廃城になったら俺は暴れるぞ。拗ねるぞ。そうなると面倒だぞ!

………自分で言っておいてなんだが、大変空しい。

町を焼かれた住人-中でも裕福層は伝を頼り、近隣の都市や商都に転出してしまっている。
安土がかつての繁栄を取り戻すのはかなり難しいだろう。
そして本格的な都市再建のための費用を出すほど北畠家は裕福ではない。

「羽柴殿がかつての石山本願寺跡に城を築くという話もあります。そうなればここは用済みですな」
「滝川ぁ!不吉だからそんなこと思っていても言うな!!」

付家老の滝川三郎兵衛雄利の、的外れでもない未来予想図に信意は情けない声を上げた。
彼は名前からわかるようにかつての織田家関東管領の滝川一益の養子(娘婿)であり、一益没落の原因となった神流川の戦いにも従軍している。
いわば織田家からの出向組だが、彼は北畠氏一門の木造氏出身でもあり、信意は北畠・織田融合の象徴として期待している人材である。

「それで、津川に滝川。雁首そろえて何の用だ?」
「はっ。実は柴田と羽柴の和睦交渉についてですが-」
「あ、それ。ないない。絶対ない」

まるで明日の天気を予想するかのような軽い調子で断言した主に、津川と滝川は共にあんぐりと口をあけた。

「柴田は北国街道が雪解けになり、軍勢が動員できるようになる来年の4月頃まで戦いを延期したい。
そのための時間稼ぎだ。
そして時間稼ぎであることは羽柴にもわかっている」

チート知識(未来知識)万歳。てか、これがなかったら俺は確実に野垂れ死にだろう。
知識も何もなく、実際の信雄みたいにやれる自身はないし。
途中で秀次の代わりに粛清されるかもしれない。
そんな未来は断じて嫌だ。

「では羽柴様は何故?」
「待っているのだ、雪が降るのを。
断言しよう。秀吉殿は街道が雪で閉ざされるのと同時に岐阜を囲んで三法師を取り戻すぞ。
飛地の近江長浜や-三郎兵衛を前にしていうのは気が引けるが、滝川殿などを個別撃破するつもりなのだろう」

顔が曇る三郎兵衛。信意は三郎兵衛に命じて一益への呼びかけを続けさせていたが、一益は娘婿の誘いを受け入れる気配がない。
同じ中途採用組みの秀吉の下に立つのが耐えられないのだろう。
関東管領としての権勢を誇った頃が忘れられないのだと嘲笑することは簡単だが、それは若者の傲慢だ。
何より「明日はわが身」である。

「とにかく12月になれば事態は動き出すだろう。
それまでに尾張の検地を終えておきたいから、叔父上(長益。尾張検地奉行)には急ぐように伝えてくれ。
それと津川」
「はっ」
「仮に秀吉殿が動けば信包殿(伊勢津城主)と協力して(津川は松ヶ島城主)北伊勢の神戸領と伊勢長島城の滝川を牽制しろ。
いざとなれば長島城を包囲してもかまわん。とにかくそのつもりで軍備を整えておいてくれ。
尾張の兵でも牽制ぐらいはできるが、動員となると難しいだろうからな」

てきぱきと指示を下す信意は、先ほどまでとはまるで違う人物のように三郎兵衛には思えた。



- 同時刻 山城 山崎城 -

不思議な男である。これほど欲望の多い男が、これほど無邪気な笑い方をする。

「如何でございました」
「上々。又左は相変わらずいい男だ」

羽柴秀吉はそういうと大きく笑った。
この笑いが自分に些か大胆な賭けをさせているのだと、千宗易は自分の中の美意識に釈明をした。
美こそは彼の神の名前であり、それを広めるためには命すら惜しくはないと彼は考えていた。
確信犯であるだけに、ある意味狂信者よりも性質が悪い。

秀吉は上機嫌で茶室へと入ってきた。
柴田家の使者-前田利家、金森長可、不和勝光との会談で望むものを得ることに成功したようだ。

「又左はいいやつだ。勝家からの和平の申し入れにわしが賛成すると言うと、喜んでわしの手を握りおった」

友情と親父殿への義理の間で揺れていた槍の又左殿はさぞや安堵したことだろう。
いうまでもないことではあるが、宗易は秀吉に念を押した。

「約束を守らない商人は信用されません」
「何、又左の顔を潰すようなことはしない。約束は守る。
だが、停戦期限について向こうは来年までと考えているが、こちらは半月先までだという考え方の相違はあるがな」

秀吉は口を押さえ、堪えきれないという様子でくっくっくと低く笑った。
北陸道-中でも越前は全国有数の豪雪地帯として知られているが、それは軍を動かすことが困難になることを意味している。
あと半月すれば、勝家は美濃や北伊勢で何か起ころうとも軍を動かすことが出来なくなる。

織田信孝が前田玄以を岐阜城より追放したという知らせは、秀吉を大いに喜ばせた。
信孝の行為は、羽柴・柴田の対立を苦々しく思っていた中間派諸侯に対する格好の大義名分になりうる。
「三法師様を政争の具にした信孝殿には、もはや後見役の資格はない」とでもいいながら岐阜を囲めば、三法師の身柄は抑えたも同然。
既に西美濃衆への切り崩し工作は順調に進んでいる。
あれほど待ち遠しかった時間が、天が自分に味方する感覚を秀吉は味わっていた。

「ところで秀吉様。北畠中将殿のことですが-」

宗易の立てた茶を口に運ぼうとしていた秀吉は、眉間にしわを寄せてその手を止めた。

持て成しとは茶を美味しく味わう環境を整えるということ。
宗易は未だその環境を秀吉に提供できているとは考えていなかった。

そして秀吉は

宗易の持て成しに、満面の笑みを浮かべながら茶を喫した。


これより半月後の12月2日。羽柴秀吉は総勢5万の大群を率いて近江へ出兵。柴田勝家の甥である柴田勝豊が城主を務める長浜城を包囲した。


ここに賎ヶ岳戦役が幕を開ける。




[24299] 第7話「信意は金欠になった」
Name: ペーパーマウンテン◆e244320e ID:55991eb3
Date: 2013/09/22 08:57
- 12月27日 美濃国 岐阜城 -

岐阜織田家(信孝家)家老の岡本平吉郎良勝と幸田彦衛門尉は、堅く閉じられた襖の前でまんじりともせずに鎮座していた。
共に言葉を交わそうともしない。
この襖一枚を隔てた奥の部屋には主君信孝がいる。
恐らくその人生で始めて味わうであろう敗北感と恥辱を噛み締めているはずだ。
両者は最悪の事態に備えるために部屋の前に控えていた。
主の身は心配ではあったが、仮にそれを許せば家老である自分達が責任を問われることになるからだ。

羽柴秀吉率いる軍勢は、柴田勝家の甥勝豊が拠る長浜城を無視して中山道を進軍。この岐阜城を囲んだ。
その時になり始めて柴田陣営は、柴田勝豊が秀吉に内応していた事を知った。
陽気な謀略家の手は勝豊だけに留まらなかった。
東美濃の森武蔵守はもとより羽柴陣営であることは覚悟していた信孝だったが、彼が頼りにしていた西美濃衆-稲葉一族や氏家行広らは、羽柴勢の動きと歩調を合わせて岐阜城を包囲。
もはや美濃国内に信孝の味方は存在していなかったのだ。

羽柴方との和平と言う名の降伏が成立したのは今日27日。
織田信孝は「三法師様を政争に巻き込んだ」という理由で後見役を解任され、三法師の身柄は信孝の母や娘と共に秀吉へと引き渡された。
その恥辱と屈辱は察して余りある。

唯一の救いがあるとすれば、北畠中将の軍勢が岐阜包囲に加わらなかったことだろう。
嫡子腹というだけで兄とされた信意を、信孝は蛇蝎の如く嫌っている。
岡本も幸田も、仮に北畠中将の旗印を岐阜城を包囲する軍勢の中に見つけていれば、この誇り高い主君はそれこそ自害しかねなかっただろうと考えていた。

良勝は眉間に刻まれたしわを指で揉みほぐした。
相変わらず奥の部屋からは物音一つせず、中にいる信孝の様子を伺うことは出来ない。
人質まで差し出したとはいえ、信孝が本心からあの小男に屈服したわけではないことは、幼い頃からこのプライドの高い主君に仕えてきた二人には容易に想像出来た。

-もはやこれまでか

それゆえ良勝は主君に見切りをつけていた。
信孝の性格から考えて、彼が秀吉を認めることはありえないだろう。
周囲を羽柴陣営に囲まれた岐阜城はいわば陸の孤島。
後詰のない籠城がいかなる結末を迎えるかは明らか-そして信孝の乳母兄弟である幸田とは違い、良勝には信孝と心中するつもりはさらさらなかった。

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いそしめ!信雄くん!(信意は金欠だった)

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- 天正11年(1583年) 1月1日 北伊勢 亀山城 -

東海道は近江甲賀郡から鈴鹿峠を越え、北伊勢の険しい山々に通された街道を通り、四日市を通り抜け、桑名から海路を使い尾張熱田宿へと入る。
鈴鹿峠と目と鼻の先に位置する伊勢亀山城が、東海道の要所であることは論を待たない。

綺麗に化粧をされた男の首を前に、伊勢亀山城主の関安芸守盛信は驚きを隠せずにいた。
首の名は若藤左衛門。
関氏の一族が城主を務める峯城の重臣であり、滝川左近将監に内応して峯城、そしてこの亀山城に滝川の軍勢を引き入れようとしていた男だ。
清洲の北畠中将からの情報に対して、盛信は当初「何の謀か」と疑い信じなかった。
しかし念のために籐左衛門の身辺を調査させると、藤左衛門と左近将監の使者が接触を重ねていることが明らかとなった。
そこで息子の四郎一政に直接問い詰めさせた結果が、目の前の首というわけだ。

「北畠中将が優秀な忍を召抱えておいでだという噂、あながち嘘でもないのか。しかし三介-いや、中将様は何故我らにこの情報を」
「父上、そのような事は今は問題ではありますまい」

峯城から首を抱えて帰還した四郎一政は、父親に詰め寄った。
藤左衛門を袈裟懸けに斬り捨てた興奮が冷め遣らぬのか、目が血走っている。
関氏は柴田派の勢力が強い北伊勢にあって羽柴方であることを公言している。
重臣を寝返らせた滝川左近将監の意図するところは明らかであった。

すなわち時を置かずして、この亀山が滝川の軍勢に包囲されるということである。

「すでに滝川左近将監の軍勢は伊勢長島を発したとのこと。滝川の軍勢にこの城を囲まれる前に後詰の要請を」
「貴様に言われずとも既に出しておるわ。しかし近江衆は岐阜城攻めに出払っている。蒲生殿の後詰もすぐには望めないか。
とにかくこうなっては正月どころではない。いまさら滝川の眼を気にすることもないわ。おい、陣触を-」

「申し上げます。織田信包、津川玄蕃允の軍勢が神戸城を包囲したとの知らせが」

暫くの沈黙の後、四郎一政はポツリと呟いた。

「北畠中将様は千里眼でもお持ちなのでしょうか」



- 天正11年(1583年) 1月3日 尾張 清洲城 -

あけましておめでとうございます。信意です。
いや~去年は色々あったね。
天目山での甲斐武田家滅亡(3月)、明智光秀謀反による織田家の崩壊(本能寺の変)に山崎合戦、そして清洲会議。
安土で死にそうになり、秀吉に締め上げられ、秀長に脅迫され………色々あったよ、本当。

ところで今は正月どころの騒ぎではありません。
金欠です。それも極度の。
ギブミーマネー。
ギブミーマネー。
大事なことなので2回言いました。
同情するなら金をくれ。

「信意殿。そんな身もふたもない事をおっしゃらないでください」
「ないものはないんだ!しょうがないじゃないか!」

何故か怒り出した甥に、織田長益は引き攣った笑み返した。
新たに北畠家の領地となった尾張は裕福な領地ではあったが、家臣団の雇用に治水工事に司法業務…やるべき事は山ほどあった。
そしてそのための経費も湯水の如く積み重なっていく。
本来なら昨年秋に収穫された年貢をそれに割り当てるはずだったのだが、安土の石垣修復工事(現在進行形)に全て持っていかれた。
おかげで検地の費用にも四苦八苦するありさま。
財政方として尾張の検地奉行を兼任する長益には頭の痛い話である。
しかし先ほどまで激高していたのが嘘のように、信意はあっけらかんと言い放った。

「なければないで色々とやりようがある」
「勘定方としては全く同意できませんが、例えば何が?」
「羽柴殿から岐阜攻めへの動員を免除してもらった。大垣に兵は出したがな」

信意は胸を張って答えた。

昨年12月、岐阜城包囲に加わるよう要請した羽柴家からの使者(前野長康)に対して信意はなんと堂々と「金がないから無理」宣言。
さすがにその回答は予想していなかったであろう前野はあんぐりと口をあけるしかなかった。
表向きは「尾張の検地が未了であり軍の動員が難しいこと」を理由にしてはいたが、事実上のサボタージュである。
普段の信意なら怖くて決してそんな決断は出来なかっただろうが、安土の工事費用を一人で背負わされているという現実に今頃-
というか今更ながら腹が立ってきたのだ。
まるでステゴザウルスなみの反応速度である(ステゴザウルスの反応速度は知らないが)。

とはいえそこは元祖小心者の信意。保険を掛けることも怠らない。
大垣城に2千の兵を後詰として送る一方、本領である南伊勢に動員を命じ、北伊勢に(秀吉の同意を得た上で)兵を進めた。
伊勢長島城の滝川左近将監一益がこの正月に決起することはチート知識で裏付けされている。
小さな節約をしながら、大きな恩を押し売りする-これが信意の真骨頂である。

「何も嘘をついているわけじゃないしな。どうだよこれ?」
「……少なくとも自慢できる話ではありませんな」
「つれないこと言わないでくださいな叔父上。お、どうした勘兵衛」

慌てて部屋に走りこんできた土方勘兵衛に、信意は暢気に尋ねた。

「は、羽柴の軍勢が南下して、この清洲に向かっております!」


信意は泡を吹いて卒倒した。




「やぁやぁ、北畠中将殿。ご無沙汰いたしておりますな」
「は、羽柴殿。さ、し、して、なに用でございますきゃな?」

緊張のあまり舌をかんだ信意に、秀吉は陽気な人好きのする笑い声を発した。

「いやなに。近くまで立ち寄ったから新年の挨拶に参ったまで」

2万の軍勢を引き連れてか。信意は先ほどの長益とよく似た引きつった笑みを浮かべた。
今清洲には城下に入りきらなかった軍勢を含めて-小荷駄まで含めると3万近い羽柴の大軍が逗留している。
秀吉の身に何かあれば、清洲は即火の海になるというわけだ。
わっはっは、もう笑うしかない。

「そちらの女人は-」
「北畠中将が正室の雪と申します」

って、雪ちゃん。何時の間に出てきたの。

「おお、こちらが御正室の千代御前様でしたか。
これは失礼を致した。それがし羽柴左近衛少将秀吉と申しまする。
北畠中将殿には何かと世話になっておりまして」
「羽柴殿、どうかその頭をお挙げください」
「いやいや信意殿、なにをおっしゃいます。
卑賤の身より成り上がったこの私が、恐れ多くも亡き岐阜中将様の遺子三法師様の後見役でいられますのは、中将殿の支持と御支援あってのこと。
この場を借りて感謝申し上げますぞ」

そう言ってまたもや大仰に頭を下げる秀吉。
やめてまじて。俺の心臓的な意味で。
とにかく雪姫をさがらせないと、この臭い芝居を止めそうにないと、雪姫を退出させた。

すると恐ろしいことに秀吉とマンツーマンな状況に。

なんですかこの罰ゲーム。

後生だから勘弁してください。岐阜に兵を出さなかったことは土下座して誤るから。

「さて、信意殿。改めて感謝いたします。北伊勢の一件、聞きましたぞ」

秀吉は今度は大仰な仕草をしなかった。
それが怖い。
そこに座っているだけなのに、周囲を圧倒する何かを醸し出している。
清洲会議の時には感じなかった何かだ。
これが天下人のオーラというものなのか。

「真に優秀な忍を召抱えておられるようで、羨ましい限りです。
かの滝川左近将監も中将様の実力を持ってすれば赤子の手をひねるようなものですな。
我が羽柴の軍勢も加わり昼夜となく攻めたてれば、長島は一週間と持ちますまい」

褒められて悪い気はしない。だが信意の心は一向に沸き立たない。

「そこで中将様に一つお願いがあるのですが」

来た、来たよこれ。

「滝川殿は、長島は手を付けず、そのまま放置していただきたいのです」
「………岐阜と同じ陸の孤島にしろというわけですな。そして岐阜では近すぎる」
「左様。見え透いた餌には、魚も食いつきませんからな。まして相手は池の主です」

くっくっくと口元を抑えて秀吉は悪い笑みを浮かべた。それが実に様になっている。

現状では羽柴陣営が圧倒的に優位にあるようだが、実際には秀吉はいくつかのアキレス腱を抱えている。
対外的には西の毛利家と東の徳川。
毛利家とは備前岡山の宇喜多家(羽柴傘下の大名)を初めとしていくつかの領土紛争を抱えており、必ずしも関係が良好とはいえない。
中立を宣言する徳川家康とて、秀吉と勝家の争いが長引けば、尾張や美濃を(かつての信濃や甲斐のように)簒奪に動かないとも限らない。
何より今の羽柴陣営は秀吉を中心とした連合勢力であり、一度でもケチがつけば、離反者が相次ぐことは容易に想像された。
ちょうど今の勝家の立場に秀吉がなるわけだ。

自らの長所を最大限に生かすため、羽柴陣営は短期決戦を望んでいた。
しかし老将柴田勝家に無傷のまま領国越前に籠られては、秀吉とも言えどもそう簡単に手出しはできない。
何よりそれは秀吉が一番嫌がる長期戦になることを意味している。
そのため秀吉は何としてでも勝家を北ノ庄の巣穴から引っ張り出さねばならなかった。

勝家を釣り出す餌が「織田信孝」であり、信孝を釣り出す餌が「滝川一益」というわけだ。

清洲会議において、柴田が信孝を推した理由は自身が三七信孝の烏帽子親であったことも一因である。(そのため柴田色を嫌った丹羽と池田は三法師支持に動いた)。
烏帽子親は成人した若者の後見役となるのが慣例であり、勝家は信孝の義父であるといっても過言ではない。
だがそうした政治的背景を差し置いても、この老将は若者の才気を、その些か鼻につく生意気さを含めて愛していた。
たとえ殆ど勝ち目がなくとも、信孝の軽率な行動が羽柴に付け入らせる隙を与えていたとしても
勝家にはかつて信行を切り捨てたように、信孝を切り捨てるという選択肢は存在しなかった。

-わしのようにためらいなく切り捨てるには、勝家はあまりにも年をとりすぎている

秀吉は勝家を分析し、信孝が窮地に陥ればその巣穴から必ず出てくると判断していた。
そして今の信孝であれば秀吉の投げた餌に必ず食い付くだろう。

ただ、一つだけ疑問が残る。

「………なんですか?」

勝家の釣り出し策は、官兵衛と小六、そして小一郎(秀長)しか知らぬこと。
では何故、この馬鹿丸出しにしか見えない北畠中将はその策にたどり着くことが出来たのか。

言葉は正確に使うべきだな-どうやって知ることが出来たか。
つまりそういうことだ。
秀吉は釣り糸をたらして魚の反応を伺うことにした。

「実はもう一つお願いがございましてな。
信孝殿との和睦の際、岐阜方より人質をお預かりしたのです。
信孝様の姫君などはまだ幼く、御生母の坂氏は高齢。
なにぶん急なことで大変心苦しいのではありますが、御一行を清洲でお預かりいただけないでしょうか」

「あぁ、かまわないよ」

魚は毛ばりに飛びついた。



- 2月4日 越前北ノ庄城 -

「兵糧が凍らないように注意しろ。戦の前に腹を壊しては本末転倒だ。米一俵につき、使用する薪は-」
「火縄・火薬は油紙で包めと申し渡したであろうが!同じことを何度も言わせるな!」
「違う違う、それは丸岡城行きの荷ではない。責任者はどこだ!」

いまだ雪の残る(残るどころか降り続けている)北ノ庄では、その雪を掻き分けるようにして戦の準備が進められていた。
昨年12月、和平を結ぶという舌の根も乾かないうちに羽柴秀吉は軍勢を動員。
柴田勝家が軍を動かせない事情と、北国街道の雪が溶けるまでの時間稼ぎとして打診した和平の真意を見透かしたかのように柴田陣営への武力制裁を開始した。
また正月に決起した滝川一益に対しては清洲の北畠信意は先んじて手を打ち、滝川は逆に伊勢長島へと追い詰められ降伏するのも時間の問題。
柴田陣営が個別撃破され中間派諸将も羽柴になびく現状に、柴田勝家は雪解けを待つことなく出陣を強いられることになったのだ。

「まったく、松の内があけたばかりだと申しますのに」

正室であるお市の方が城内の喧騒にうんざりした様に呟いたのを聞いた勝家は、思わず咎めるような表情となった。

「お方様。そのようなことを申されては困ります。
筑前(秀吉)はすでに信孝様を降し、三法師様を掌中に収めました。
このまま悠長に雪解けを待っていては、我らは筑前(秀吉)の織田家乗っ取りを指をくわえて見ているしかなくなります」
「わかっておりますよ、そのようなことは。
ですが冬の間ぐらい静かにすごしたいと思うのは人情というもの。
もっとも、猿に人の世を理解しろと申すほうが無理な話ではありましょうが」

綺麗な顔をして平然と毒を吐くあたりは兄君の右府様(信長)に似たのか-勝家は苦笑した。
お市の方が羽柴秀吉を嫌っていた理由は判然としない。
浅井家滅亡後、その旧領(小谷→長浜)を織田信長より与えられたのが浅井家攻略に貢献した羽柴秀吉であったこと、お市の方が腹を痛めた嫡男万福丸(実母に異説あり)を磔にしたこと等々。
様々な想像は可能だが、それらはあくまで推測の域を出ない。
もしかしたら単に気に入らなかっただけなのかもしれない。

「それにしても勝豊殿も頼りない。一戦もせぬうちに敵に城を明け渡すとは。
そもそもなにゆえ病弱な勝豊殿に長浜をお預けになられたのですか」
「…馬鹿な息子ほど可愛いものです」

勝家はそれだけ言うと杯を呷った。
柴田勝家と勝豊との関係は複雑であった。
勝豊は勝家の甥(姉の子)でありその養子として迎えられた。
しかし生来病弱で、もう一人の養子勝政との後継者レースで劣勢を強いられていた。
そしてどうやら勝豊は、叔父から近江長浜の領主に任ぜられたことを「見捨てられた」と受け取ったらしい。
近江は羽柴勢力がひしめいており、自分は敵地の真ん中に僅かの手勢と共に取り残されたのだと。

「伊介(勝豊)のたわけが。信じておらねば、長浜を預けるわけがなかろうが」

近江長浜は北国街道から中山道へ通じる玄関口であり、琵琶湖に面する交通の要所。
どうでもよい人物に長浜を預けるわけがなく、まして見捨てるはずがない。
冷静に考えればわかることだ。
しかし病に冒された勝豊はそこまで考えが至らず、そこを秀吉につかれた。

-わしも勘が鈍ったか

勝家は自問自答した。清洲会議以来-いや、そもそも日向守の謀反以来、自分は明らかに後手に回っている。
主導権は常にあの小男の手にあり、自分はそれに翻弄されるばかりだ。
畳の上での戦は奴のほうが上だと認めざるを得ない。

だからといって勝家は、この戦において自分が秀吉に負けるという事態を考えてはいなかった。
合戦とは常に思いもがけぬ不測の事態が発生するもの。
畳の上での理屈や論理が、1発の銃弾や一人の勇者により容易く崩れ去る場面を、老将は何度も経験してきた。

だが、不安がないわけではない。

「……どうかなされましたか?」

勝家の視線にお市の方は戸惑ったように微笑み返す。
彼女こそ勝家の不安を象徴していた。
合戦では無心でなくなったものが、眼前の敵に集中出来なくなったものが敗れる。
恐怖や自己保身が胸中を支配すれば槍先は鈍り、眼前の敵は見えなくなる。

戦の準備に奔走する家臣に混じり、連れ子の姫君達が無邪気に騒ぐ声が聞こえてきた。
還暦を向かえ、子には恵まれなかった自分に始めて出来た娘。


-老いたか


勝家は杯を強く握った。戦を前にしてそのような感傷に浸るなど、馬鹿馬鹿しい限りである。
しかしこの感情が厭ではない自分自身に、勝家は焦っていた。
こんな様では秀吉と戦うどころか上杉の小倅にも勝てないだろう。
そうした勝家の不安を察したのか、お市の方が口を開いた。

「養源院様(浅井長政)が兄上と仲違いしたのも結局は些細な行き違いからでした。
勝豊殿もそうですが、男という生き物はこの世が全て自分の思うとおりになると勘違いしておられる向きがあります」
「……何とも手厳しいお言葉ですな。女子の目には、男とはそんなに不自由な生き物に見えるのですか」
「男に限ったことではありません。私も結局は兄上のことを最後まで理解出来ませんでした。
不自由な女の身だから申し上げるわけではありませんが、人間とは案外不自由なものなのです。
言葉にしなければ伝わらないことはあるのですよ」

柴田勝家は白いものが多く混じった髭をしごきながら首を傾げた。

「そんなものかの?」
「ええ。そんなものです」

30近くも年齢が離れた妻に、この時代では既に老齢といっていい勝家が教え諭されている。
夫婦の形とはそれこそ夫婦それぞれなのだろうが、なんとも奇妙な光景ではあった。



[24299] 第8話「信意はそらとぼけた」
Name: ペーパーマウンテン◆e244320e ID:55991eb3
Date: 2013/09/22 08:57
- 天正11年(1583年) 3月25日 北近江 -

「よいか!絶対にこちらから手を出すなよ!」
「向こうから手を出させるのだ。こちらからは手を出すな」

琵琶湖北部の余呉湖をぐるりと取り囲むように陣を構えた羽柴秀吉と柴田勝家。
両者は口を酸っぱくしながら同じ命令を何度も何度も何度も、それこそ兵がうんざりするほどにしつこく繰り返していた。

時間をさかのぼる。
2月末に越前北ノ庄を発した柴田勝家率いる3万の軍勢は、北国街道の雪を掻き分けながら進軍。
3月12日に栃木峠を越えて北近江に現れた。
「勝家出陣」の報に秀吉も直ちに軍を召集。自ら5万の軍勢を自らが率いて湖北へと出陣。
一時は関が原方面まで進出した柴田勢であったが、秀吉の動きに余呉湖北側、北国街道の西側の山々に陣を下げた。
秀吉は木ノ本に本陣を置き、両軍は余呉湖を取り囲むようにして陣を構えた。

そして両軍は-まるで示し合わせたように、穴を掘り土塀を築き、周囲の木々を切り倒し、逆茂木や乱杭を作り、櫓を組上げ始めた。
両軍の兵士がそろって土木工事に取り組む様は、中々壮観なものである。

「これでいいのだ」
「これでよいのじゃ」

そして秀吉と勝家は、自分達が命じた土木工事を視察しながら、同じ感想をつぶやいていた。

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いそしめ!信雄くん!(信意はそらとぼけた)

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柴田勝家の大義名分「清洲会議での重臣合議制の申し合わせを無視し、織田家を壟断する羽柴秀吉を討つ」

(本音)「三法師様は秀吉に奪われ、中間派諸将も切り崩されている。
     自分が織田家の中で完全な非主流派になる前に、何としてでも存在感を示さねば。
     しかし近江まで出てきたのはいいものの、滝川は愚図だし、信孝様は頼りにならんし
これからどうするか」

羽柴秀吉の大義名分「織田家の統制を乱す柴田勝家を、三法師様に成り代わり討伐する」

(本音)「勝家め、案の定のこのこと出てきよった。
     しかし、このままでは長期戦ではないか。
     上杉は頼りにならんし、毛利は信用ならんし、徳川は不気味だし、長宗我部と紀伊の雑賀衆は鬱陶しい。
     ついでに北畠の馬鹿はよくわからん
これからどうするか」

さて、どちらが勝つでしょう?


秀吉と勝家の答え-先に手を出したほうが負ける-




というわけで信意です。北近江は今、ちょっとした公共事業バブルだそうです。
呼び方こそ砦だが、そんな生易しいものでなはく「ありゃ山を改造した城です」とは、秀吉へのご機嫌伺いに遣わせた生駒蔵人家長の言。
さすがワンマン天才独裁者・織田信長の下で、過労死寸前の扱いを受けてきたやつらだ。
何をするにしても仕事が速い速い。

「戦線の膠着に従い、羽柴様は本陣を長浜に下げられるとか」
「ということは、長島の爺さんを焚きつける算段が整ったわけか」

主の言葉に生駒は首をかしげた。
北伊勢の長島の滝川左近将監殿といえば先月末に降伏した、いわばすでに過去の人。
その老人の名前を挙げた信意の真意が理解しかねたのだ。
第一、焚きつけるとは穏やかではない。それはいったい何を意味しているのか。

「これは城攻めよ。羽柴も柴田も仮設の城に籠もりにらみ合いを続けている。
そして城を力攻めするという選択肢は下の下」
「それはそうですな」
「秀吉殿からすれば、これではせっかく越前から勝家を引っ張り出した意味がない。
もう一度、余呉の巣穴から引きずり出す何かが必要となるわけだ。要するに鮎の友釣りと考えればわかりやすい」

生駒家長は聞き覚えのない言葉に首を傾げた。

「ともづり、でございますか?」
「鮎の友釣りだよ。知らんのか?」
「恐れながら、そのともづりなるものは存じませぬ」
「あぁ、まだなかったのか?いや、気にするな。こちらの話だ。
鮎の釣り方のひとつでな。まず生きた鮎の尾びれに針をつけて、糸をくくりつけてから川に放す-これはおとりだ。
鮎という魚は縄張り意識と警戒心が強く、自分の陣地に入ってきた鮎に体をぶつけて追い払う癖がある。
その習性を利用しておとり鮎の針にひっかけて釣るという漁法だ」
「ほお、そのような漁法があるのですか」

生駒は信意の妙な知識に対して素直に感心して見せた。
ちなみにこの生駒蔵人家長。信意の実母・生駒の方の弟であり、信意の叔父にあたる人物である。
そして全くの余談であるが、後にこの会話がきっかけとなり家長は鮎釣りに目覚め「友釣りの父」と呼ばれることになる。

「三七(信孝)をつり出す餌が滝川。そして三七は柴田を釣り出すおとり鮎というわけだな……そうそう、例の人質はどうしてる?」

例の人質とは、先の岐阜城包囲により、羽柴秀吉が織田信孝から受け取った人質である。
顔ぶれは、信孝生母の坂氏を始め、側室(神戸の板御前)と娘(当時3歳。年齢は異説あり)、重臣の岡本・幸田の実母など数十人に及ぶ。
秀吉はその人質を、何を思ったのか清洲の北畠家に預けていた。
「たしかこれは史実とは違うはずだが」と信意は首をかしげたが、深くは考えなかった。

「一行は永安寺にてお過ごしいただいておりますが」
「そうか、なら手間が省けるな。よし生駒、耳を貸せ」

そして信意は生駒に一つの『命令』を下した。



- 4月17日  北近江 内中尾山(柴田勝家本陣) -

柴田勝家の小姓である毛受勝照は、主の機嫌の悪さを肌で感じていた。
直接的に口に出すことこそしなかったものの、主君勝家は美濃からの報せ-三七信孝と滝川一益の再決起を知らせる書状に、落胆と失望の色を隠そうともしなかった。

「左近将監(滝川一益)は三七を道連れにするつもりか?手柄を焦ったか。さかりおって猿どもめ」

軍配を手に勝家は呻いた。
思えば秀吉は岐阜の織田信孝と北伊勢の滝川を降伏させた後、両者を改易せずにそのまま留め置いた。
丹羽長秀や池田勝入斎ら旧織田家重臣や中間派諸将への配慮であろうと勝家は平静を装ったが、内心では手を打って喜んだ。
これで秀吉はその勢力圏に不穏分子を抱え込むことになったに等しい。
直接敵対するには両者(信孝・滝川)の勢力はあまりにも弱いが、形の上でも秀吉陣営に属するのであれば話は異なる。
多少不穏な行動をとったとしても、一度降伏したものを確たる証拠なしに処罰することは出来ない。
勝家は両者に水面下での破壊工作や諜報活動を依頼し、決して決起するなと伝えていた。

その目論見が全てお釈迦となったのだ。ため息の一つや二つ、漏らしたくもなろうというものだ。

(……まさか自分は嵌められたのか?)

そこまで考えが思い至ったところで、勝家はそれを強制的に中断せざるを得なかった。

「叔父上、ものは考えようです。これは好機ですぞ」
「黙れ玄蕃。貴様のさからしげな策など聞きとうない」
「ならば叔父上には何かこの事態を打開する妙案でもあると申されるのですか?」

身長6尺の大男だったと伝えられる加賀尾山城主の佐久間玄蕃允盛政は「鬼玄蕃」との異名に相応しく、低い地声が良く通る。
その彼が総大将の方針に対して公然と異議を唱えている光景は、一種異様なものがあった。
かつての勝家なら陣中における甥の無作法に一喝でもして、異議を唱えることですら許さなかったはずだ。
しかし今の勝家はそれをしなかった。
出来なかったというほうが正確かもしれない。
毛受のみならず、陣中に居並ぶ諸将もその変化を敏感に感じていた。

「筑前が岐阜の信孝様に討伐に向ったというのは確かです。
筑前がいない今、余呉湖周辺にいるのは烏合の衆。
それとも叔父上は山路がその一族と引き換えにもたらした情報を信じないと申されるのですか」
「貴様は筑前を知らんからそのような事が言えるのだ」
「では叔父上には、目の前の敵を攻撃すること意外に、岐阜を援ける手段でもお持ちなのですか」

人身掌握の天才である秀吉の勝家の分析はやはり的確であった。
三七信孝の危機が勝家に迷いと焦りを生じさせていた。
そして「岐阜の後詰」という甥の一言が、老将の重い腰を上げさせることになる。
やはり勝家には信孝を見捨てるという選択をとることが出来なかった。

長い沈黙の後、勝家は甥の献策を受け入れることを決めた。

「……わかった。大岩山の中川清兵衛(清秀)への攻撃、やってみるがよい。しかし玄蕃、深入りはならんぞ」
「ははッ!筑前など我一人で蹴散らしてご覧に入れます」

喜び勇む甥に、勝家は何度も念を押した。すなわち「一撃離脱。深入りせずに引上げよ」と

そしてその命令は実行されることはなかった。



― 4月19日 尾張 清洲城 -

「………申し訳ございません。おっしゃる意味がわかりかねるのですが」
「言葉の通りだ。岐阜方の人質は出家した」

羽柴方の使者である浅野長政を前に、信意はまるで棒を飲んだような硬い表情で弁明をしていた。
織田信孝の再決起の知らせに、秀吉は人質への『処置』のため、浅野長政を信意の下へと派遣した。
しかし長政はそこで予想外の事態に直面していた。

出家?

出家とは、あれか。頭をそるあれか。
まさか漢文のように逆さから呼んで家出とかいうオチか?
あまりのことに長政の思考は脱線を続けていた。

「寺に預けたのがいかんかった。監視の者が目を離した隙に、皆で示し合わせて頭を剃り尼になってしもうたのだ。
女ばかりだと甘く見ていた。まったくどこから情報を得たのやら……
いや。この信意、秀吉殿に合わせる顔がない」
「はぁ。それは……」

予想だにしない事態に長政は二の句が継げないでいた。
出家したとはいえ人質と信孝との関係が完全に切れるわけではない。
だが、いくらなんでも尼を磔にするのは外聞が悪すぎる。

そして聞けば聞くほど長政は頭を抱えたくなった。
人質を預かっていた永安寺は津島大社に連なる末寺(当時は神仏習合)というではないか。
無理に尼の引渡しを要求すれば、津島大社=津島を敵に回す危険性もある。

そこまで考えが到り、長政ははっとした。

まさか最初からそのつもりで?

「女共に得度を与えた僧は既に逃亡しておってな。八方手を尽くしておるのだが。いやぁ困ったのう」

信意は心底申し訳なさそうに頭をかいた。その顔は最初から最後まで、妙に強張ったままであった。



長政はその足ですぐさま主君羽柴秀吉のもとに赴いた。
戦線膠着のため木ノ本から北近江長浜に本陣を移していた秀吉は、信孝再決起の知らせに17日に美濃に入国。
しかし揖斐川の氾濫のため、一旦大垣に本陣をおいた。そして池尻城主の飯沼長継を討つなど、信孝の外堀を順調に埋めていた。

「そうか。皆、頭を剃ってしもうたか」

長政から信孝の人質の一軒を聞かされた秀吉は笑いながら応じただけであった。
長政は頭を下げていたため、主の秀吉は勿論のこと、側に控えていた軍師の表情もうかがうことは出来なかったのだが。
そして長政退出後、秀吉は三介の評判を知るものが聞けば噴飯ものの台詞を吐いた。

「三七殿よりも三介殿のほうが亡き右府様に似ておられるのかもしれんの」
「期待を裏切るという意味ではそうでしょう。津島社を表に立てるとは、私も予想外でした」
「官兵衛、そこは巻き込まれたと言うほうが正確だろう」

秀吉は笑い声を上げた。その言葉には、自分の予想をことごとく裏切り続ける信意という人物を楽しむ響きが混じっているように官兵衛は感じた。
才能を愛した信長とは違い、人間そのものが好きな秀吉らしい感じ方ではある。
そこに官兵衛は不安を覚えた。
ならばそれを補うのが軍師である自分の役割ではないのか。

「件の坊主が実在するのかも疑わしいところだが、問題はそこではない」
「誰が何の目的で北畠中将を振付けておられるかですな」
「武辺者の岡田長門や若い津川にこのような芸当が出来るとは思えぬ。勝家も…」

ありえないと秀吉は否定する。柴田勝家は信孝と比べると、北畠信意との関係は希薄である。
一方で秀吉は生駒の方の口利きで信長に仕えたため、その子息である信忠・信意との関係が深い。
本能寺の変以降の信意の政治行動も、一貫して羽柴陣営に好意的なものであった。
いまさら勝家と手を結ぶとは考えづらい。

「まるで訳がわからぬ」

秀吉は再び首をひねった。



4月19日-柴田軍の佐久間盛政は8千の兵を率い、余呉湖と琵琶湖の間に位置する賎ヶ岳の麓を抜けるルートで進軍。未明に大岩山砦を奇襲した。

中川清兵衛(摂津茨城城主)は奮戦するも衆寡適せず討ち死に。
佐久間は柴田勝家からの度重なる撤退命令を無視して、一挙に勝敗を決するために、戦場を見下ろす賎ヶ岳砦を抑え、木ノ本の羽柴秀長本陣を脅かそうとした。

「一体何をしているのだ!あれでは全滅するぞ」

湖上から戦場を見つめていた丹羽長秀は思わず叫んでいた。
この時ちょうど長秀は羽柴秀吉の要請を受けて、近江坂本から2000の兵を率い琵琶湖上を横断。
合戦場となっていた賎ヶ岳方面へと向かう途上にあった。
その彼の目に飛び込んできたのは、今まさに賎ヶ岳を占領しようとする佐久間と、後詰がないため砦から撤退しようとする桑山の軍勢であった。

丹羽長秀は45歳。秀吉よりは2歳、勝家からは15歳年少の彼は、個性派ぞろいの織田家の中では
その温和な性格もあり羽柴や柴田に比べて一つ下の扱いを受けていた。
その主君が激高する姿に、丹羽家の家臣はもとより、船団を指揮する堅田水軍の棟梁・猪飼昇貞と息子秀貞も目を見開いていた。

「海津に船をつけろ。上陸後は桑山重晴と合流、賎ヶ岳を抑える」
「お待ちください殿!勝手な行動は慎まれるべきです。
状況のわからないまま下手に動けば御味方に混乱を。まずは木ノ本の本陣に使者を立て-」
「このたわけ!目の前の戦場が見えんのか!!」

当初の行軍予定に従うように進言した長束正家を長秀は叱り飛ばした。
戦の勘所についてあれこれ心配されるほど耄碌したつもりはない。

「賎ヶ岳をとられれば、羽柴は山崎の明智となる。昇貞、海津に上陸する」
「承知つかまつった」

軍船は兵の揚陸作業のときが最も無防備となる。
上陸時の柴田方の攻撃を恐れていた猪飼昇貞だったが、ここは長秀の戦の勘に賭けることを決めた。
長秀はなおも不安がる正家を初めとした側近に対して「今この戦機を逃せば、丹羽家は勝てる戦を溝に捨てたと末代までの笑いものとなる」と説いて聞かせた。
この細やかな気配りこそ長秀の真骨頂である。

それに-長秀は続く言葉を呑み込んでいた。

味方の危機にもかかわらず、援軍を出さない秀吉の弟やらにまともな命令が下せるとは思えなかったからである。
自分はあくまで織田家に仕えているのであり、羽柴家の同盟者ではあっても臣下ではない。
ましてや筑前殿ならともかく、その弟の指揮に従ういわれなど-この羽柴家との同格意識が丹羽長秀に独断行動を決断させ、戦況を一変させることになる。



4月20日-未の刻(14時)、大垣で岐阜攻めの指揮をしていた羽柴秀吉が大岩山陥落を知る。
秀吉は即座に兵を木ノ本へと返す。大垣から木ノ本への13里(52キロ)を5時間で走破。
これを「美濃大返し」という。


「このッ、おおたわけが!」

木ノ本の本陣に到着した秀吉は、弟の小一郎秀長の顔を見るや否や、抑えていた感情が爆発した。

「何ゆえ大岩山に援軍をださなんだ!高山、桑山を後詰に向かわせ、木ノ本の兵を向かわせれば、清兵衛はあのようなことにはならなかったはずじゃ!」
「兄上、それがしは-」
「言い訳など聞きとうない!
一体何のために大垣から木ノ本への道を整備したと思うておる?
美濃の兵で、ここ木ノ本を後詰するためであろうが。
貴様はわしが後詰することを知りながら、知っていながら大岩山へ兵を出さなかった。
街道の整備を知らなかったというのであれば、わしも責めぬが
貴様は知りながら、知っていたのにもかかわらず、それをしなかった-これを怠慢といわずに何というのじゃ!」

秀吉は信長と同じく、部下の職務上の怠慢や手ぬるい仕事を嫌った。
それが原因の失敗だとするなら尚のこと。まして天下を賭けた大一番での実弟の大失態である。
兄の剣幕に、秀長はひとつの反論も出来なかった。

「あたら清兵衛のような勇士を死なせおって!清兵衛が死んだのは小一郎、うぬの-」
「殿、周囲の目もございますゆえ」

さすがに見咎めた黒田官兵衛のとりなしに秀吉は大きく舌打ちをして
「何のために貴様にここの指揮を任せたと思うておる」と吐き捨てると、秀長を一顧だにせずに本陣を出て行った。

残された秀長はというと、一礼した官兵衛にも気がつかなかったのか、床机に力なく腰を下ろした。
秀吉の代理として羽柴軍の指揮を任された秀長は「それぞれの陣地を守り、こちらから手を出すな」という命令を馬鹿正直に解釈
大岩山砦への援軍を出さなかった。
山崎の合戦と同じく天下を掛けた戦いであるという重圧が、元々慎重な秀長の行動をより束縛したものとしていたのだ。

もとより実直な性格である小一郎秀長には、兄の叱責がこたえた。
そして秀吉の到着によって重圧から解放された秀長は、彼本来の思慮深さを取り戻すとともに、それまでの指揮がいかに不味いものであったのかを痛感した。
もしも丹羽長秀の機転(独断専行)がなければ戦線が崩壊する危険性もあっただろう。
何よりも兄の期待に応えられなかったという点が秀長の気分を重くしていた。

そんな、この世のどこにも身の置き所がないよう感覚に陥っていた秀長の脳裏に、昨年の安土における会談が浮かんでいた。

「北畠中将は-」

あの若者は如何にして立ち直ることが出来たのだろうか?


『ここから北ノ庄に繋がる道は、我ら羽柴が天下へ駆け上がる階段ぞ!ものども、励めやぁ!!!』


兄の甲高い声に続き、地割れの様な兵士達の大歓声が聞こえてきたが、秀長は床机に腰掛けたまま動こうとしなかった。




[24299] 第9話「信意は信孝と対面した」
Name: ペーパーマウンテン◆e244320e ID:55991eb3
Date: 2013/10/05 23:52
4月21日-羽柴秀吉の着陣を知った佐久間盛政は賎ヶ岳砦より撤退を開始。
佐久間の奮戦により羽柴勢の追撃を退け、戦線の建て直しに成功するも、後方の前田利家・利長親子が突然撤退。
金森可長・不和彦三らもこれに続いたため、柴田陣営は総崩れとなる。
撤退する柴田軍を羽柴軍が追撃(世に言う賎ヶ岳の七本槍の活躍はこの時)。
柴田勝政(盛政弟)を始めとした多くの将兵が討ち取られる。

4月22日-羽柴軍は栃木峠を越えて越前に進撃。
秀吉は越前府中城の前田利家のもとを単騎で訪問。これを降伏させると、北ノ庄攻めの先方を命じる。
勝家は北ノ庄に帰還。2ヶ月前3万の兵は非戦闘員も含めて僅か3千ばかりとなっていた。

4月23日-前田利家の軍勢を先鋒にした羽柴軍が北ノ庄を包囲。北ノ庄では柴田一族による最後の宴が行われた。


「田部山の戦に破れた松雲院殿(朝倉義景)も、今のわしと同じ気持ちを味わったのだろうな」
「-義院雲様(浅井長政)は最後までそのような事はおっしゃりませんでした」

柴田勝家の独白に、お市の方は少し考えてから、恐らく男が最も嫌がるであろう前の男の名前を挙げた。
案の定、勝家は鼻の上に顔中のしわをかき集めたような渋い表情を浮かべたが、突如、その老いた眼を輝かせた。

「ならば姫達と一緒に落ち延びられい。筑前も右府様の妹君を粗略には扱うまい。
清洲まで行けば三介殿がよしなに取り計らってくれるだろう」

得意げに胸を張る勝家は、悪戯が成功したときの悪童のような表情を浮かべていた。
この老人はこれで気を遣ったつもりなのだ。
そして何故自分が微笑んでいる理由もわかってはいまい。
頭の奥が痛くなってくる。義院雲様といい、兄上といい-どうして男と言う生き物はこうも女の手に負えない「たわけ」ばかりなのだろう。

お市の方は勝家に酌をしながら、彼女の考えうる最上級の皮肉で応じた。

「もう一度そのような事を口に成されるなら、その時こそ貴方を見限りましょう」

そのたわけと一緒に黄泉の旅路を連れ添おうとする自分こそ、最も手に負えない大たわけなのだろうが。

「そうか」

柴田勝家は眼を細めると、無言で杯を飲み干した。



4月24日-北ノ庄落城。羽柴秀吉はそのまま軍を北上させ、27日に加賀尾山(佐久間盛政旧領)に入る。
越中の佐々成政が降伏を申し出たことにより、旧柴田勝家の方面軍参加の領域は全て秀吉の配下となる。

羽柴秀吉は早速論功行賞を開始した。

すなわち大功労者の丹羽長秀には、大野郡の金森長近(剃髪して降伏)領を除く越前全土と加賀2郡を与え、残る加賀は前田利家に与えた。
佐々成政には越中を安堵することにより、降伏した者への寛大な処分を見せた。
その一方で、丹羽氏からは近江の坂本と佐和山を越前と引き換えに割譲することを約束させ、病死した柴田勝豊の旧領長浜に加えて近江を羽柴家の勢力化におくように努める。

このように秀吉は着々とその支持基盤を固めつつあった。

加賀尾山から山城へと帰還する途上にあった秀吉の下に、岐阜で抵抗していた織田信孝降伏の知らせが届いたのは、修復工事の進む安土城においてであった。

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いそしめ!信雄くん!(信意は信孝と対面した)

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北畠信意の姿は尾張星崎城にあった。
今年の初めから病に臥せった岡田長門守重善の見舞いのためである。
北畠旧臣や織田宗家からの出向組、そして新参の尾張衆など様々な出身派閥が入り混じる清洲北畠家にあって
信秀時代から織田家に仕えてきた岡田長門守は誰もが一目置く人格者。
ようやく尾張も落ち着き始めたという時期に、長門守の不在は正直辛いものがある。

「これで岐阜が落ちるのは何度目だろうな?」
「そうですな。竹中半兵衛の一件は特殊なので除くとしても
永禄10年には斉藤氏が織田氏に追われ、本能寺の変では安藤氏の挙兵に呼応した斉藤一族に占領され
昨年12月に羽柴秀吉の軍勢に降伏に追い込まれ、そして此度で-四度目ですかな」
「落城ばかりしとるな。それで名城といえるのか?」
「亡き右府様が天下布武を宣言なされた城でございますゆえ、天下の城という精神的な意味合いが大きいのではありませぬか。
しかし言われてみれば右府様も親父も秋田城介様(信忠)も非業の最期を遂げられましたな。
金華山には斉藤か土岐の怨念でも住み着いておるのやもしれませぬな」

長門守はそう言うと肩を揺らして笑った。
床から起こした上半身は、見舞いに来る度に痩せてゆく。
子息の重孝から「本来なら起き上がることも難しい」と聞かされていたが、長門守は憔悴した体を起こして自分を出迎えた。
信意は馬鹿ではあるが、これで何かを感じないほど鈍感ではない。

「織田信孝様はその不名誉な記録に二度も名を刻まれたことになりますな」
「……まぁ、そういうことなるな。悪名は無名に勝るというが」
「それにしても妙な買い物をなさいましたなぁ」

岡田長門守の言葉を小言に感じたのか、信意は悪戯を見つかった子供のように照れ臭そうに頭をかいた。

津島大社の末寺で強制的に頭を刈り上げさせた信孝の人質達は、信意の当初の目論見どおりに秀吉の追及を逃れることが出来た。
やはり尾張と伊勢湾の経済圏を牛耳る津島の名前は大きい。
津島大社の看板を勝手に借用したのだが、そのあたりは織田と津島である。ツーといえばカー

というわけではない。

津島出身の生駒家長(信意の叔父)は、旧知の商家にお詫び行脚をする羽目になった。
もっとも新たな尾張の国主に恩を売れるのだから、存在しない坊主を一人や二人でっち上げることぐらい易いものだろう。

「利にも益にもそわないことは承知しているが、手の届くところぐらいはな……傲慢と思うか?」
「業にとらわれぬ人間など存在しませぬ。
柴田修理殿が筑前殿の下につくことを拒絶したように、滝川左近将監殿がもう一度名声を取り戻そうとされたように
そして筑前殿が天下に通じる階段に掛けた足を止められぬように。
あれほど優れた方々であってもそうなのです。
ましてや能の他にこれという取り柄のない殿では」
「今さらりと侮辱しなかったかお前」

長門守は白湯の入った茶碗を両手で抱えながら、にやりと笑った。

「私に言わせれば、今回の殿のなさり様は、酔狂のすぎた道楽ですな。
ですが土を練り固めた茶器や女遊びに熱中されるよりはよろしいでしょう。
津川や滝川(三郎兵衛)が何か申せば、そのように反論なさいませ。
ところで本日はそのようなよもや話をされに来たわけではございますまい」
「……お前に隠し事はできんなぁ」

信意はため息をつくと、自らを叱咤するように頭をピシャリと叩いた。

「秀吉が三七をわしに預けると申してきた」

信意は史実とは違い、岐阜城への包囲には加わらなかった。
一方で北伊勢方面の滝川一益に対しては南伊勢の兵をほぼ総動員して長島に封じ込めた。

「尾張の検地が未了で軍を動員できない」
「安土の工事費用が」
「そのかわりに北伊勢はまかせて」

これらが表向きの理由であったが、確かに滝川の本拠地である長島は津島の経済圏の内にあり、その優先順位は岐阜などと比べ物にならないほど高い。
またこれら合理的なものとは別に、信意は信孝とは直接戦火を交えたくないという「酔狂」な考えもあった。

4月16日の再決起以降、信孝は何度か岐阜城から出撃すると羽柴陣営の後方撹乱を図った。
しかし岐阜城の周囲は羽柴の勢力で満ちており、後方撹乱どころか城に逃げ帰るのが精一杯という有様。
4月末には城下を羽柴方の森武蔵守らに包囲され、26日に信孝は城を開いた。
安土でそれを聞いた秀吉は、何を思ったのか信孝の身柄を北畠家預かりとしたのだ。

「試されておりますな」
「やはりそう思うか」
「思うも何も。人質の一件で、御本所様が御自分の政権に協力される意向があるのかを疑問に思われたのでしょう。
御本所様が信孝様をどう扱われるかを、安土から注視しておられるはずです。
言っておきますが、二度は通用致しませぬぞ」
「それは、わかっているさ」
「信孝様も三度目の機会が御自分に与えられないことも理解しておられるでしょう」
「……見舞いに来たというのに、気を遣わせてすまんな」
「何をいまさら。殿にお仕えして以来、私は殿の尻拭きを続けてきたのです」

茶碗を置いた岡田長門守は、信意の顔を真っ直ぐに見据えた。
疲れと老いは隠せないが、猛禽類を思わせる眼光は鋭く、そしてどこまでも優しさがある。
その眼は出来の悪い息子を見守る親のようだと信意は思った。



- 4月30日 尾張清洲城下 永安寺(織田信孝の宿所) -

「や、やあ。久しぶりだな」
「……兄上もお変わりなく」

憔悴の色はあるが、疲労困憊しているというわけではなさそうである。
信意は信孝の様子に安堵のため息を漏らし、あわてて自分の口を手で塞いだ。
相手は手負いの獅子。控えの間に警護の兵を駐在させているとはいえ、暴れられては勝てる気がしない。
幸か不幸か、信孝はこれという反応を示すことはなかった。

酒の他には塩以外は何もないという粗末な用意のもと、暫く無言で互いに杯を交わす。
3杯目にして信意はわけもなく悲しくなってきた。
信孝に同情したわけではない。そもそも彼は赤の他人、さりながら間もなく死ぬ運命にあるのだ。
そんな人間と楽しく酒が飲めるわけがない。
鈍感ではあっても薄情にはなりたくない。

「……兄上の配慮にお礼を申し上げます」
「え?」
「質の一件です。津島社に匿っていただいたとか」
「あ、ああ、あれな」

仰ぐこと5杯目にして信孝がようやく言葉を発すると、信意は必要以上に力強く頷いた。
気まずい沈黙と緊張感から解放され、ようやく会話の取っ掛かりを見つけたことに安堵する。

そして信孝は、目の前でくるくると表情を変える三介-北畠信意の顔を暫く見つめた後、急に笑みを漏らした。

兄に対して持っていた、あの汚泥のような薄暗い感情も今となっては懐かしさすら感じる。
遺恨がまったく消え去ったわけではない。
だが、どうやら相手が自分に対して持っていた遺恨を先に捨てたようであるのに
死にゆく自分が後生大事にそれを抱えているということが急に馬鹿馬鹿しくなったのだ。

「…変わられましたな、兄上は」

はい、発覚フラグきた。

「ナニヲイウノデスカ信孝サン。ワタシハイツモ愉快ナ貴方ノ兄ノ三介デスヨ」
「いや、変わられましたよ」
「じゃあ聞くが、昔の私はお前の目からどう見えていたのだ」
「怠惰で臆病で卑怯、人の目を気にするくせに人を見下し、都合の悪いことは全て周囲の環境や人間の責任だといって被害者面するろくでなし」

よし、わかった。お前は俺に喧嘩売ってるな。

「兄上がどう考えておられたかは存じませぬが私は兄上がずっと羨ましかった。
兄上は私の持っていない全てを持っていた。
兄上は生駒の方の子息で嫡子腹、私は妾腹」
「母上のことをそのように言うものでは…」
「兄上にはわからないでしょう。
同じ織田信長の子供でありながら、妾腹であるために一段下に扱われ続けた私の気持ちが。
生駒と坂の、私の母と兄上の母の何が違うのです!」

信孝は杯を叩きつけた。その音に反応した衛兵が騒いで駆け込んで来るが、信意が手で追い払った。

「家柄も大して差はないのに、兄上には信忠様がいたから嫡子腹とされ、私は妾腹とされた」

信意はその言葉に対して感情的に反論したいことはあったが、それを堪えて信孝の話に耳を傾けた。
2度目の籠城戦では岐阜城から兵の逃亡が相次ぎ、最終的には27名しか残らなかったという。
信孝の乳母兄弟である幸田彦衛門尉が戦死した今となっては、自分が聴いてやらずに、一体誰が信孝の思いを受け止めることが出来るというのか。
少なくとも客観的には自分が彼の兄であることに違いはないのだから―そのような同情ともなんともつかぬ複雑な思いを信意は抱えていた。

「兄上の養子先は伊勢の名門北畠家、岡田長門に津川玄蕃を初めとした優秀な家臣が付き従いました。
私は北伊勢の神戸。ろくな守役もなく………だから私は努力しましたよ。
恵まれた環境にあるのにもかかわらず、まともに努力しない兄上を見返そうと。
父上に認められようとね。
それがこの有様です」

ですが、今この有様になったからこそわかることもありますと、信孝は言う。

「結局、被害者面をしていたのは私のほうだったのですよ。
生まれが悪いから、環境が悪いからと。幸田が死んで始めて思い知らされました。
周囲の人間に対して私がこれまでどれほど辛く当たってきたのかを。
不満を口にするばかりで、彼らを認めることがなかった。それでは人がついてくるわけがないのです。
私は……ッ」

信孝はそこで始めて言葉を詰まらせた。
恥ずかしさからか杯を呷ると、それを再び叩きつけるように床に置いた。

「私は父上になりたかった」
「……そうか」
「岐阜を与えられ、金華山の上から見下ろした時には、私こそ織田家を継ぐに相応しいと考えました。
それに相手が-失礼ながら兄上相手なら勝てると思った。
北畠姓に固執し、織田の名を背負う覚悟もない兄上になら。

だが実際には違った。織田姓を名乗ろうと、天下布武の城の主となろうとも、私は三七信孝でしかありえない

信孝の独白にいたたまれなくなった信意は視線を外した。

永安寺の境内の桜はとうに散り、葉桜となっている。
織田家と言う名の桜は散った。次に咲くのは羽柴の花。その次は-いや、まだわからない。
羽柴の花が今まさに咲こうとしている時に、その次の予想など出来るはずがないのだ。


「逃げるな三介」


突如として発せられたその言葉に信意はぽかんとした表情を浮かべて、間抜けな面を信孝に向けた。逃げる?一体何の話を-

「織田の名前から、織田信長の息子である事から逃げるなと申し上げておるのです」
「お前、何を-」
「今回のことでそれをつくづく思い知らされました。
いくら足掻こうとも、俺は織田信長の息子なのだと。
信長の息子と言う変えがたい事実が、腐った卵の匂いのように何処までも付きまとってくる」

まるで呪縛だと信孝は暗い笑みを浮かべた。

「兄上が何故、北畠姓に固執しているのかは知らないが、まさか織田の姓を背負うことが怖いとでもおっしゃるので?」
「怖いといったらどうする。軽蔑するか」

予想に反して、信孝は「俺は怖いよ」と答えた。
信意は完全に信孝の勢いに飲まれていた。

「筑前が俺を生かしたのも、今殺すのも、俺が信長の息子だからだ。
あのサルは俺が怖いわけじゃない。そもそも俺を相手にすらしていないだろう。
織田の名前が怖いのだ。俺が僭称した織田姓ですらそうなのだ。
嫡子腹の兄上なら尚の事」
「俺はな、ただの三介だよ。そう、ただの三介だ。それ以上でも以下でもない」
「今の兄上ならそういうと思ったよ。だが兄上、何れ筑前は-」
「もういい、もういい。それ以上いうな」

信意は話は終わりだといわんばかりに手を振った。

「酒がまずくなるからな」
「それもそうだな。酒は静かに飲むべし、酒は静かに味わうべしか」
「そういうことだ」


その日、兄弟は夜遅くまで杯を交わした。




5月2日-尾張知多郡野間の大御堂寺敷地内において織田三七信孝が自害。享年26。

5月13日-尾張星崎城主の岡田長門守重善が死去。享年56。




[24299] 第10話「信意は織田信雄に改名した」
Name: ペーパーマウンテン◆e244320e ID:151a2b73
Date: 2013/09/26 21:13
- 天正11年(1583年) 5月10日 京 九条兼孝(前左大臣)邸 -

関白とは、帝の代理人として禁裏内における政務を執る職である。
政治の実権が武家に移るのと時を同じくして、摂政・関白は藤原氏嫡流の五家-近衛・九条・一条・二条・鷹司の5家が独占する体制が成立した。
しかし国政に及ぼす影響力は衰えたとはいえ、そこは禁裏における公家の最高位者。
それなりの格式というものがあり、そしてそれを維持するのにはそれなりの金子が掛かる。

そして金は万物に対しても平等であった。

兼孝の義父である九条恵空もそれに翻弄された経験がある。
天文2年(1533)、当時26歳の種通(恵空)は後奈良帝より関白に任ぜられ、藤原氏の頂点である藤氏長者を極めた。
しかし種通は拝賀の費用を捻出することが出来ず、翌年初頭に辞任。
公家の貧乏自慢がめずらしくなかった時代とはいえ、摂関家もその例外ではないのかと京雀に散々に馬鹿にされた。
この苦い経験から、恵空は金と権力を振りかざす成り上がりが大嫌いになった。

もう一度言うが嫌いではない。

「大嫌い」なのだ。

その恵空は当年76歳。
年齢を重ねるごとにそのやっかい性格に磨きをかけた老人は、今や摂関家の重鎮として公家社会に睨みを利かせている。
その恵空はつい先日、聞き捨てならない噂を耳にした。
その内容は、老人が最も嫌う「金と権力にものを言わせて、禁裏の秩序に手を入れる」類のものであった。

「今回の一件は菊亭晴季卿(前内大臣)が旗振り役となられて、清華家の意見を取りまとめておられる御様子。
摂関家では近衛前久卿が賛意を示されております。
またこれらとは別に公家衆に関しては、その大変申し上げにくいのですが、相当の金子がばら撒かれている模様でして」

里村紹巴はそのそり上げた頭に冷や汗を流しながら答えた。
連歌師として当代随一の呼び声高い紹巴は明智光秀との関係が深く、山崎の合戦後は明智一派とみなされた。
政治的窮地に陥った紹巴からはほとんどのパトロンが逃げ出したが、この老公卿だけは変わらずに交際を続けてくれた。
その点に関しては紹巴も恩義は感じているのだが-

正直、この老人と話すのは色々と疲れるのだ。

「金子の出所は堺の今井宗久殿かと」
「今井?あぁ、上総介(信長)の腰巾着だった男か」
「父上、それはいくらなんでも言葉が過ぎます」
「何を言うか兼孝。あれは武具を商う商人といえば聞こえはよいが、戦場で金を稼ぐ亡者の類ではないか。
今出川(菊亭家)の小僧は、血にまみれた金を廟堂に持ち込んでおるのか。
持ち込むほうも持ち込むほうだが、受け取る輩も手に負えぬな」

まさか貴様は受け取ってはおるまいなと問う義父に、兼孝は慌てて首を振る。
金は惜しいが廃嫡されてはたまらない。
恵空は不快極まりないといった表情でため息をついた。
まったくもって禁裏には御宸襟を悩ませる馬鹿に間抜けにろくでなしが勢ぞろいしている。

「その小僧、千代松丸だったか。年は?」
「天正5年(1577)産まれなので、5歳になられるはずです」

恵空は嘆かわしいことだと首を振った。
その子供に罪がないとはいえ、廟堂の座席を金子で買うことに変わりはない。
高望みはしないが、せめて廟堂の悪しき先人の真似はして欲しくはないものである。

「泉下の親房殿が知れば、さぞやお嘆きになられるだろうな」

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いそしめ!信雄くん!(信意は信雄に改名した)

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柴田勝家を破った羽柴秀吉は、5月10日に禁裏より従四位下参議に任ぜられた。
従四位は遠く鎌倉の北条氏以来、武家政権の中枢に座る人物のスタートラインである。
そして参議とはその名の通り「政に参議する」官職。
賎ヶ岳よりわずか半月足らずでのこの人事は、朝廷が形式上は織田政権の宰相である羽柴秀吉を、織田信長の政治的後継者として公式に認めたことを意味していた。
当然ながら九州の大友、中国の毛利、越後の上杉、東海の徳川など各国に勢力を持つ大名は慶賀の使者を送り、新たな天下人の出方を伺おうとした。

そんなわけで北畠信意も戦勝祝いと参議への任官祝いを述べる(つまりはゴマスリ)ために、主だった重臣を引き連れて京に上洛していた。

「信意殿、北畠家を清華家として再興させたいのですが」

…………はい?



- 5月20日 和泉 堺 今井宗久邸 -

「まさか兄上と再び顔を合わせる日が来るとは」

屋敷の主である今井宗久は、茶室に木造具政が現れても北畠具親が淡々と応じたことに安堵のため息を漏らした。
両者の関係を考えれば、具親が具政にいきなり切りかかってもおかしくはなかったからである。

-貨幣の表と裏というわけです

無言で茶を喫する二人を見ながら、宗久は傲岸不遜が姿をとったような茶人の言葉を思い出していた。
同じ北畠一族ではあるが、木造具政と北畠具親の兄弟が歩んできた道はまるで異なる。
木造具政は織田家の伊勢侵攻に協力して兄具教と刀を交えた。
そしてかつての同僚や一門から裏切り者と罵られながらも、北畠を取り巻く激流のような政治環境の変化の中でその地位を守った。
そして現在、清洲北畠家において発言力を持つ唯一の旧北畠一門である。
織田と結びつくことで彼は結果的に北畠の家名を守った。

一方で具親は政治的にも思想的にも徹頭徹尾の反織田・反信意派。
僧籍にあった具親は、北畠家の反織田勢力が誅殺された三瀬の変を契機として反織田のゲリラ活動に身を投じた。
天正5年(1577)の決起、本能寺の変直後の五箇篠山城における蜂起は失敗に終わったが、依然として伊勢国内における反織田勢力の旗頭である。

そして現在、旧北畠一族を代表出来るとするなら、この二人をおいて他にはない。
腹の立つ限りだが、あのいけ好かない大男の喩えは含蓄に富んでいると認めざるをえない。
しかし比喩とはいえ貨幣の話なら、それは商人である自分の領域だ。
人と人を取り持つことこそ、商いの基本である。
何でも今回の一件は、羽柴様肝いりの話とか。
織田政権の政商とも言える立場にあった今井宗久は、新たな支配者に取り入る絶好の機会を逃すつもりはなかった。

「商人とは信用ならない人種であるな。
何故、いや誰から千代松丸様-昌教様のことを聞きだしたのだ。
昌教様のことは北畠旧臣でも吉田兵庫守ら一部の人間しか知らぬはず。
木造殿もその所在はご存知ではなかったはずだ」
「堺には全国から様々な情報が集まります」

それ以上は手の内を見せるつもりはないと言う意味を込めて宗久は具親に答えた。
実を言うと宗久も千宗易から聞かされるまで、北畠具房にご落胤が存在することすら知らなかった。
あの大男は昔から不思議と世の事情に通じている。
その悪魔的な美への感性と偏執的な茶への愛情がなければ、今頃はおそらく自分よりもはるかに格上の商人になっていただろう。

千代松丸-北畠昌教は、北畠具房の子供である。

信長の伊勢侵攻当時、北畠氏の家督は北畠具教(木造具政・北畠具親の兄)ではなく、その長子である北畠具房に譲られていた。
信意は具教の娘である雪姫と婚姻し、具房の跡を継いで北畠当主となる。
つまり具房は形の上では信意の義父になる(ああ、ややこしい)。
具房は幽閉されたまま一生を終えたが、その幽閉先で産まれたのが千代松丸。
三瀬の変で千代松丸の身が危ういと考えた北畠旧臣によって、この赤子は具房の幽閉先から脱出した。
この又甥の存在と生存に関しては、家中に残った木造具政も聞き及んではいた。

「千代松丸様は今どちらに」
「……断っておくが、私は織田の人間を信用してはいない」

一挙に場の空気が冷えるが、それに構わず「そして兄上もだ」と切って捨てる具親。

「今回の北畠氏再興の一件が、昌教様を誘き出すための陰謀ではないと言い切れるのか。
追っ手を差し向けない保障があるのか」
「今回のお話は羽柴侍従様の-」
「宗久殿」

具親は宗久の言葉を遮った。
自分が聞きたいのは天下人や商人の話ではない。
目の前に座る木造具政の言葉である。
織田に寝返り、一門を見殺しにした兄が何を考え、どのような思惑でこの話に乗ったのか。

具政は弟の疑問に答える前に、懐から一通の書状を取り出した。

「それは?」
「千代御前様からの書状だ」

瞬間、驚きの感情をあらわにした具親だが、直に得心したように頷いた。

「………そうか。雪は、あの男の妻になることを選んだのか」
「……貴様はもっと激昂するものと思っていたよ」
「信長が生きていれば違ったのだろうが、明智日向守に先んじられてしまったからな
それにな、実を言うと私もこれ以上は『北畠』の名の下で合戦や内乱を続けたくはないのだ」

具親は自分の右手で、そのそり上げた頭をつるりと撫でた。

「それこそ意外だな」
「これでも元坊主だ。殺生が好きなわけがない。
織田の侵攻からもう二十数年もたつ。
恨みがなくなったわけではないが、それでも」

「幕引きと尻ふきぐらいは北畠の人間がしなければ」祖先に申し訳が立たないと、具親は胸の前で手を合わせた。



- 5月24日 山城 山崎城 -

「いやあ、面白いほど餌に食いついてきよるわ」

羽柴秀吉は、山崎城内の一室で千宗易を相手に低い笑い声を上げていた。

「やつら、自分の事となると目の色を変えよる」
「何百年と権力に寄り添い、その蜜を吸うことによってお家を存続させてきた方々ですゆえ」
「おお、愉快だとも。宗易殿にも見せてやりたいものじゃ。
右府様(信長)御生害でも顔色一つ変えなかった公家衆が、たがが5歳の子供のために走り回る様を見るのはな。

「これも宗易殿が北畠の御落胤の存在を教えてくれたおかげじゃ」と秀吉は笑い声をあげる。

先の京における会談で、秀吉は北畠信意に次のような要求を行った

①北畠昌教を北畠信意の養子として北畠家の家督を相続させる
②北畠家は公家として朝廷に復帰する
③信意は織田に復姓する

これらは千宗易が賎ヶ岳合戦の直前に秀吉に提案した「北畠再興案」に大筋で沿うものであった。
織田信孝の対抗馬として北畠信意以外にありえなかったが、織田宗家の後見役が北畠姓ではどうにも外聞が悪いことを秀吉は悩んでいた。
宗易の案は北畠昌教を公家にすることで清洲織田家と北畠氏の家督の分離を提案すればよいではないかという論理である。
柴田敗北後、その必要性は薄れたかに思えたが、政治技術の天才である秀吉はこの北畠家再興に別の政治的価値を見出していた。

「頑固な北畠中将を説得できるついでに、今回の一件で公家衆がわしをどう思うておるのかを確かめることができそうじゃ」
「羽柴派のあぶり出しと言うわけですな」

宗易の言葉に秀吉は一瞬だけ言葉を詰まらせた後「理解が早くて助かる」と笑った。
羽柴秀吉は織田政権の初代京都奉行という経歴から、公家衆にも機知が多い。前内大臣の菊亭晴季などはその最たる例だ。
とはいえ、曲がりなりにも平氏を名乗れた織田信長とは違い、秀吉の場合は何もない。
成り上がりの秀吉を快く思わない潜在的な公家衆の数は、親羽柴派の公家衆と同等か、それ以上に存在している。
これから朝廷との折衝が否が応でも増える秀吉としては、敵と味方を早くに見分ける必要があった。

だが相手は海千山千の公家社会そのものであり、白黒と単純に区別できるものではない。

秀吉は千宗易の提案した「北畠再興」を公家衆の反羽柴と親羽柴を色分けするリトマス試験紙として利用することを考えた。
北畠氏は元々、村上源氏の流れを汲む清華家である。
清華家とは五摂家に次ぐ格式で太政大臣にまで昇ることが出来る。
仮に北畠昌教を清華家格で取り扱うのであれば、将来的には清華家でポストに弾かれるものが出てくるだろう。
それは当然上から下へと、公家社会全体の人事に影響を及ぼすことになる。

無論、秀吉も北畠氏が清華家に復帰できるとは考えていない。
一度滅んだ公家をごり押しで復帰させるのだ。一応は清華家で扱うように主張するが、実際にはその下の大臣家か、または羽林家か。
何せ北畠昌教はまだ5歳であり、おまけに元南朝という政治的ハンディキャップを背負っている。

だが問題はそこではない。

清華家という自分の主張に、公家衆がどう反応するかが問題なのだ。

そしてこの件をきっかけに、千宗易は羽柴家の家政に関して、秀吉から内々の相談を受けるようになっていく。

「それにしてもッ……いや、すまん宗易殿」

突如秀吉が口を押さえて吹き出したのを、宗易は怪訝そうに見つめ返した。

「北畠中将に、菊亭殿や近衛卿の朝廷工作についてお話したのだ。
無論北畠再興について保障する意味でな。
そうしたら『あんのお調子者の腰巾着ども。屋敷の前に残飯撒いてやる』と息巻かれての」

宗易の顔の筋肉が引きつった。
そういえば数日前、近衛卿の屋敷に魚のあらが放り込まれる事件があったが-いや、まさかな。
まさか右府様の子息ともあろうお方が、そのような……

………まさかな。

宗易の虚を付いたことがよほど嬉しかったのか、秀吉は手を叩いて笑った。



- 5月26日 尾張 清洲城 -

「雪ちゃん!昌教のことを黙ってるなんで酷いじゃな…
アノ雪姫サマ、薙刀ヲオシマイクダサルトアリガタイト思ウ次第デゴザイマスデス」
「人前ではその呼び方はおやめくださいと、何度も申し上げているはずですよ」

織田への復姓を求められた信意は、当然のごとく先延ばしを試み、とりあえずは何とか回答を引き延ばそうとした。

『い、いやあ。なにぶん急な話ですので、嫁さんに相談しないことには』
『御内儀殿の内諾は得ておるよ』

雪ちゃん、なにしてくれんのー?!

という具合に、雪ちゃんを詰問する気満々で清洲に帰ってきたんだけど、何時の間にか説教される側にまわっていた。
おかしいな、こんなはずではなかったのだが……ん?

「雪ちゃん、その女の子達は誰?新しい女中さんかい?」

「だ、誰が女中だ!」
「ちゃ、茶々姉さま、落ち着いてください」
「信意様、お久しぶりです」

はい、私の従姉妹でした。

激昂したのは(予想通り)長女の茶々(14歳)
それを必死になだめているのが三女の小督(10歳)
自分だけちゃっかり挨拶しているのは次女のお初(13歳)である。

うん、こいつらの将来見えた気がする。

いまさら説明するまでもないが、この三人が世に言う浅井三姉妹である。
父は湖北の雄・浅井長政、母は信長の妹であるお市の方というサラブレット。
うん、女だけどもう勝てる気がしない。

三姉妹はお市の方の再婚相手である柴田勝家の元にいたが、北ノ庄落城の際に羽柴軍に保護されていた。
信意は京都において秀吉から彼女たちの世話も任されていた。
そうか、清洲に来ると聞いていたけど今日だったのか。

「ああ、だから雪ちゃんはあんなに恥ずかしがったのか……ゴメンナサイ」
「わかればよろしい」
「というわけで、茶々、お初、小督よ」

「私がユー達のナイスガイな従兄の北畠信意だ。四露死九~ね!」という従兄のぶっ飛んだ挨拶に
二度の落城を経験するという修羅場を潜り抜けたはずの三姉妹も反応に困っていた。
茶々などは秀吉に味方して母を殺した従兄に嫌味の一つでも言ってやろうと手ぐすね引いて待っていたのだが、すっかり毒気を抜かれてしまった。
そしてそんなことを知る由もない信意は「美女に囲まれて、ぼかぁー、しあわせだなー」と浮かれていたのだが。

「ああ、一つだけ違ったな。もう北畠じゃなくなるから」
「……左様でございますか」
「雪、君が外堀を埋めたんじゃないか。聞いたぞ、秀吉殿と手紙のやり取りをしていたそうだな」
「差し出がましいことをしました。どうぞお許しください」

「いや、いいさ」と信意は手を振った。
信孝が身をもって示した『織田』の重みと、雪姫や木造具政らが守ろうとした『北畠』の重み。
自分の性格ではそのどちらも選ぶのは難しかったはずだ。
こうして退路を立たれて、初めてそれと向かい合うことが出来た。
その名を背負う覚悟や資格が自分にあるとは思わないが、それでも今、自分が出来ることをやるだけのこと。
そうでなければ信孝に会わせる顔がない。

「要請ではなく、三法師様の後見役としての命令だからな。断れないよ」
「叔父上は臆病なのですね」
「茶々!」

お督が茶々を窘めたが、信意は強気にこちらを見据える従妹に、肩を揺らして笑いながら答えた。

「そりゃそうだよ。だって俺は三介だからな」



-柴田勝家を破り、織田信長の後継者となった羽柴秀吉だが、織田信忠の同腹の兄弟である北畠信意の協力が政権の安定には必要であった。
北畠の名跡にこだわる信意に対して、秀吉が執拗に織田への復姓を求めたのもその一つである。
賎ヶ岳の合戦後、北畠信意はその文書で「織田信雄」を名乗り始めたことは良く知られている。
北畠昌教が正親町天皇より従五位に任ぜられたのが6月1日であり、清洲織田家と北畠氏の家督が分離したのはこの日であると考えてよいだろう。

その後の経緯を知る我らにとっては、なんとも皮肉な話ではあるが。

- 『新日本史』9巻 第3章「安土桃山時代」第3節「ポスト信長の時代」より抜粋 -



[24299] 第11話「信雄は検地を命じた」
Name: ペーパーマウンテン◆e244320e ID:151a2b73
Date: 2013/09/22 08:58
摂津国東成郡大坂。
ここはかつて小坂と呼ばれていた上町台地北端の、文字通り小高い丘でしかなかった。
しかしこの地は北に淀川・大和川水系(畿内)と瀬戸内海(山陽地方)を結ぶ港の渡辺津を望み
また熊野古道の起点として和泉の堺や紀伊にも通じる陸上交通の要所でもあった。
日本の政治・経済・宗教・文化のすべてに影響を与えることができる場所といっても過言ではない。
そのため小坂から大坂へと地名を変えたように、上町台地沿いに人が集まり、次第に町が形成されていった。

各地で急速に勢力を拡大しながらも京を追放され、各地を転々としていた浄土真宗本願寺派がこの地を本山に選んだのも自然なことであり
また当然ながら天下布武を目指す織田信長と本願寺との10年にも及ぶ石山戦争(1570-80)も避けられない戦いであったことは言うまでもない。

そしてその本願寺の大伽藍跡に、新たな『天下人』が乗り込んできた。

天正11年(1583)5月後半、秀吉は「大坂城」の築城を始める。
柴田勝家を滅ぼした直後に、さっそくの築城である。
これが天下人への意欲の表れでなくて何であろう。
何よりかつての天下の居城である安土城はいまだ健在(再建中)なのだ。
当然これには安土城の修復工事の責任者であり、今や織田一族の中で最大実力者となった織田信雄は面白いはずがない。
かつての支配者一族にその城を修理させながら、形式上は三法師の後見役でしかない羽柴秀吉が新たな天下の城を築くという傍若無人の振る舞いに、信雄は強烈な‐

-いやあ、まことに結構、結構!天下太平にして世は全てこともなし、今や日の下六十余州に貴殿の敵はおらぬ(中略)これも羽柴殿の威光のたまもの(以下略)-

……こいつにはプライドというものがないのだろうか。

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いそしめ!信雄くん!(信雄は検地を命じた)

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というわけで信雄です。
うん、やっぱりこの名前はいい。
織田家に代々伝わる信の字に、英雄の雄。これで信雄(のぶかつ)。
自分の名前ながら惚れ惚れするね。これぞ男の名前だな!
なんたって花押(サイン)をしてても筆ののりが違うんだから。ノリノリだね。のりだけに。
あ、俺上手いこと言った?

佐久間不干斎(信栄)は、割と真剣にこの馬鹿の後頭部を殴ってやろうかと考えながら次の書類を無言で押し付けた。
信孝様御生害の後、しばらく感情の起伏が激しかった信雄だが、ここ数日は目に見えて浮かれていた。
まあその理由は言わずともわかる。

数日前、御正室の千代御前様の御懐妊が判明したのだ。

この時の信雄の喜びようときたら、飛んで跳ねて叫んで(土方に峰打ちをされてようやく大人しくなった)。
この喜ばしい知らせは、北畠昌教様の廟堂への復帰と同時に発表され、岡田長門守の死去により清州北畠家中に漂っていた暗い空気を一挙に吹き飛ばした。
御機嫌な信雄は佐久間に押しつけられた書類にも嫌な顔一つせずに、鼻歌を歌いながら花押をしたためている。
仏頂面で仕事をされるよりはいいのだが、佐久間はこめかみに手をやりながらため息をついた。

「どうした甚九郎(不干斎)、ため息をつくと幸せが逃げるというぞ」
「尾張に続きまして伊賀や伊勢も総検地するとなりますと、莫大な負担がかかります。
旧滝川領だけでもよかったのではないのでしょうか」

話を戻すと、北伊勢長島で抵抗を続けていた滝川一益が6月に降伏したことを受けて、北伊勢の滝川領と織田信孝領は信雄に与えられた。
信雄は早速検地奉行の織田長益を呼び出し「伊勢と伊賀全土の総検地」を命じ、ようやく尾張の検地を終えたばかりの、この気の弱い叔父を卒倒させた。

検地は田畑の耕作面積と収穫量の調査、いわば税務調査兼戸籍調査。
検地台帳は平時では国家運営の基本となり、戦時では兵士の動員リストになる。
しかし織田信長が兵士(専業兵士)と農民の分離を始めたことにより、税務調査の色合いが濃くなった。
信雄が岐阜城攻めへの動員を「尾張の検地が未了」という理由でサボタージュできたのはそうした理由がある。
処でなぜわざわざ、南伊勢や伊賀まで検地をおこなわねばならないのか。
つっかえながら何とか反論した長益に、信雄は黒い笑みを浮かべて答えた。

『尾張一国、伊勢一国で、この私がやることにやることに意味があるのです。検地台帳を差し出せば、羽柴殿はさぞ喜ばれるだろうな』

甥の笑顔にドン引きしながら、長益は最後の言葉にまたも卒倒しそうになった。
長益ならずとも信雄の言葉は信じられないとしか言いようがない。
軍事機密そのものの検地台帳を差し出そうというのだから。
媚を売るなら徹底的に、それが信雄のモットー。
そして彼は生き延びるために最大限に織田の名前を利用しようとしていた。

いくら馬鹿でかい城を築いたところで、羽柴秀吉は天下人にはなれないのだ。
三法師の後見役として事実上の織田政権の後継者となったとはいえ、丹羽長秀や池田勝入斎らかつての同僚や先輩に対しては秀吉も強気に臣従を迫ることはできない。
これが一家臣でしかない秀吉の、旧織田家臣団の連合政権である羽柴秀吉の弱さである。

そこで俺の「織田」が役に立つわけだ。
秀吉が執拗に俺に織田への復姓を求めたのは、つまりは自身の権力の正統性を確保するため。
羽柴政権を織田のブランドで飾りたい秀吉と、何としても生き延びたい俺。
利害は一致する。

そこで軍事機密である検地台帳(兵の最大動員数や動員能力)を差し出すことをちらつかせればどうなるか。
織田一族である信雄ですら、秀吉の天下を認めたという、格好のデモンストレーションになる。
しかもかつての旧領土(織田信長から与えられた)まで調べなおす徹底ぶり。

「やるなら徹底的にやらないとな」
「……総検地の理由はわかりましたが、その費用は-」
「安土城再建を秀吉に丸投げするつもりだ」

佐久間は思わずそのそり上げた頭をぴしゃりと叩いた。
何と、この何も考えていなさそうな主君ははそこまで考えていたのか。

かつての織田政権の象徴である安土城再建を織田家の人間があきらめ、秀吉がそれを成し遂げたとあれば否が応でも名声は増す。
そしてわが清洲織田家は財政難の原因である安土を手放すことができる。
何より元から気にするような名声(もともとそんなものはなかった)信雄である。
これぞ一石三鳥というべきか。

「何とも徹底してますな」

信雄の徹底した秀吉への媚の売り方と、吝嗇なのか太っ腹なのか分からない金子の使い方に、佐久間は半ば呆れたような感嘆の声を上げた。



- 天正11年(1583) 6月中旬 若狭後瀬山城 -

若狭と越前(大野郡を除く)そして加賀二郡合わせて123万石の太守へと大出世を遂げた丹羽長秀は、居城後瀬山城で鬱々とした日々を送っていた。
本来なら真っ先に越前に乗り込んで北ノ庄の再建や柴田旧領の采配を振るってもよさそうなものだが
長秀はそれらを溝口秀勝や長束正家らに任せたまま、後瀬山から動こうとしなかった。

6月初頭に北伊勢長島城で抵抗を続けていた滝川一益の降伏により、織田信長の政治的後継者の地位を確立した羽柴秀吉は、本格的な論功行賞を開始した。
旧織田政権の重臣では清州会議で羽柴秀吉の主張を支持した丹羽長秀と池田勝入斎が大幅な加増を受けた。
しかし単に石高を増やしたわけではない。
池田家を美濃(織田信孝旧領)に移すことで摂津に対する羽柴家への影響力を強めたように
秀吉は京を中心とする近隣諸国を羽柴家陣営で抑えようとした。
丹羽家も越前・加賀(柴田勝家旧領)と引き換えに、近江の佐和山と坂本を明け渡した。
これは同時に、丹羽長秀から琵琶湖の水軍衆の指揮権がはく奪されたことを意味していた。

-結局あの男は、わしを信用しておらんのだ。

幾度となく考えを巡らせたが、結局は同じ結論にたどり着く。
秀吉は言葉では自分を立てているが、織田家と縁戚関係にある先輩の自分を疎ましがっているのは明らかである。
かつての柴田のように北の地に押し込めておきたいのが本音だろう。
忌々しげに舌打ちしようとした長秀の下腹部に、急な激痛が走った。

「殿!」
「-大事ない」

駆け寄った近従をさがらせたが、槍で臓腑をえぐるような痛みがする。気を抜くと再び倒れるやもしれぬ。
長秀は脇息に肘をつき、体の重心を預けた。

下腹部に感じる違和感の正体は、直接触らずとも風呂に入るたびに嫌でも目に入る。
ここ数カ月感じていた腹のしこりが段々とその硬さと大きさを増していた。
医者に見せることなどできるはずがない。
そんなことをすれば、自分が病であることを天下に知らしめるようなもの。
それに見せたところで、このしこりが癒えるとは思えない。

-信孝様の……

一瞬頭をよぎった益体もない妄想に長秀は首を振った。
馬鹿馬鹿しい。柴田殿にしろ信孝様にしろ、織田家を担う器ではなかった。
だからこそ自分は羽柴殿に賭け、その賭けに勝利をおさめた。
漫然と結果を待っていたわけではない。
中間派諸侯への多数派工作を行い、賤ヶ岳の戦では奇襲を仕掛けた佐久間盛政勢を退けて羽柴陣営の勝利に貢献した。
正当な槍働きの成果であり、この123万石は人に恥じるものではない。

その長秀の手には、堅田水軍棟梁の猪飼昇貞から贈られた書状が握られている。
一通だけではなく、背後の文箱には山のように書状が積み上げられている。
そのすべてが自分に助けを、秀吉へのとりなしを求めるものだ。

羽柴秀吉は近江を自分の勢力圏におくと、琵琶湖の各水軍衆に対して通行料徴収などの特権の剥奪と武装解除を命じた。
中でも最大勢力の堅田水軍に対しては明智配下であったことまで取り上げて、受け入れぬ場合は志賀郡の没収もあり得ると恫喝しているという。
亡き右府様以上に商いと金子に対する勘の鋭い男だ。
水軍衆が流通と商いの邪魔になっていると喝破したのだろう。
近江全体を強力におさめる支配者が現れた今、もはや水軍衆の活躍する出番はない。

その認識自体は正しい。亡き右府様でも同じ決断をなされたはずだ。

「だが、羽柴殿は右府様ではい」

長秀は自分自身に言い聞かせるかのようにゆっくりとつぶやいた。

この苛立ちや焦燥感の原因も、結局はそういうことなのだ。
自分は信長様の家臣ではあっても、羽柴秀吉の家臣ではない。
清洲時代からの秀吉を知る自分にとって、その認識は抜きがたく染みついている。

為政者としての秀吉の判断は正しい。
だからこそ面白くないのだ。
かつて自分が指揮した水軍衆が、価値がなくなったと判断された瞬間に解体され、切り捨てられていく様を見るのは。
それに何よりも、利用価値だけでいうなら、それは何れ……っ

「殿!?」
「………っ何でもない」
「し、しかし、その顔色はただ事では-」
「わしにかまうなと言っておるだろうが!」

丹羽長秀は目の前の薄暗い予感を振り払うかのように声を荒げた。



- 天正11年(1583) 7月初頭 摂津国東成郡 大坂(大阪城普請現場) -

旧暦とはいえ7月ともなると次第に暑い日が続くようになる。少なくとも頭巾をかぶるような陽気ではないことは確かである。
しかし黒田官兵衛孝高という人物に関してはその限りではない。
かつて使者に赴いた城の地下牢に一年以上幽閉された官兵衛の頭の毛はほとんど抜け落ち、後頭部には醜い瘡痕(かさぶた)が残った。
そのため彼は常に頭巾を付けている。
杖をつき、足を引きずるようにして歩くのは幽閉中に膝を患ったため。
しかしその外見で彼を侮る者はいない。
今や破竹の勢いで天下への階段を駆け上る羽柴秀吉、その異形の軍師である彼の知名度も同じように上昇中であった。

新城の築城が始まって依頼、官兵衛は精力的に普請現場を見聞して、時折自ら指示を出した。
足を引きずる彼に普請奉行は輿に乗るよう勧めたが、それは丁重に固辞した。
自らの足で歩かねばわからぬものがある。
何より自分で縄張りをした巨城が次第に出来上がっていくのをこの足で見て回るのは、自分の楽しみでもあるのだ。それを奪われたくはない。

-思えば遠くへ来たものだ

何百、何千という人足が山を切り出すのを見下ろしながら、官兵衛は感慨にふけった。
播州小寺の一家老でしかなかった自分が、今や天下人の居城を築く役目を任されているのだ。
安土を超える城を築こうとする官兵衛の意気込みは並々ならぬものがあった。
さりながらその彼にも気がかりがあった。

-北畠、いや織田信雄殿

三介殿という言葉は、ここ1年余りで言葉の意味合いが一変した。
本能寺の変以来、信雄にまつわる異常なまでの情報収集能力や奇異な決断は、文字通り「あの三介殿だから」と済まされてしまっている。
秀吉を立てたかと思えば、信孝の人質の取り扱いや岐阜攻めのサボタージュ。
その目的とするところがまるで読めない。
主である秀吉はそれを楽しんでおられる向きもあるが、官兵衛は笑っていられなかった。
織田家における主導権争いに勝利したとはいえ、政権基盤は盤石ではない。
秀吉はあくまで織田三法師の後見役であり、織田家の大名の盟主でしかない。

一方で織田信雄は違う。越前の丹羽長秀殿についで尾張・伊勢・伊賀の三国を支配する太守。
岐阜中将様(織田信忠、三法師の父)と同腹であるだけ、織田三法師政権での序列は丹羽家よりも上。
むしろ三法師を差し置いて、織田宗家の当主にもなれる資格がある。

信雄の親羽柴の姿勢が徹底していればしているほど、官兵衛はそれが偽りの姿勢ではないかという疑いを強めた。
たとえ本人にその気がないとしても「織田信雄」という存在はすでに羽柴政権にとっても手に余る存在となりつつある。
にもかかわらず、秀吉にはその警戒感が薄い。
むしろ中国の毛利家を先方にした四国・九州への進出を検討しているぐらいだ。
旧織田家の足元を固めるべきだと考える官兵衛には秀吉が先走りすぎているように感じた。
大方、あの胡散臭い茶坊主にでも何か吹き込まれたのだろう。だから茶の湯は嫌いなのだ。

「面白くないな」

官兵衛のつぶやきに普請奉行の顔が青ざめるが、官兵衛はそれを無視した。
説明するのも面倒であり、したところで理解出来るようなものでもない。

所詮織田は羽柴にとって代わられる運命なのだ。
いつまでも大きな顔をされていては邪魔である。
もし織田が立ちふさがろうとするなら、その時には軍師である自分はどうするか-

その官兵衛の視線に、不甲斐ない人足衆を怒鳴り上げていた人物の姿が目に飛び込んできた。

-織田には織田か

些か人物に不安がないわけではないが、まあよいだろう。
もとより期待はしていない。上手くいけば御の字、駄目ならば次の手を考えればよい。
何より羽柴に傷はつかない。

官兵衛は足を引きずりながら歩みよると、その男に親しげに声をかけた。

「御精が出ますな、外峯-いや津田四郎左衛門殿」

突如声を掛けてきた官兵衛に対して、外峰四郎左衛門こと津田四郎左衛門信重は訝しげに見返していた。



[24299] 第12話「信雄はお引越しをした」
Name: ペーパーマウンテン◆e244320e ID:55991eb3
Date: 2013/09/22 08:59
天正11年(1583)7月。

織田信雄は北伊勢の長島城に居を移した。
清州城は尾張・伊勢・伊賀の三カ国を治める本拠地としては尾張に偏りすぎていた。
とはいえ尾張のちょうど中央に位置する清州が重要な支配拠点であることに変わりはない。
そこに問題が生じたのである。

-誰に清洲を任せるか

多少時間が前後するが、信雄は岡田長門守重善の死去と織田への復姓を契機に、家中の再編に着手した。

筆頭家老には津川義冬(信雄の義弟)
同じく家老格に岡田長門守重孝(長門守重善の長男。織田家譜代)と滝川雄利(北畠一族)の両名。
一方で今や織田信雄家の最大勢力となった尾張衆に関しては浅井長時や生駒家長らを中下級の役職で多く用いることで人事のバランスをとった。

無論すんなりとこの結論に到ったわけではない。
当初信雄は北畠一門の重鎮である木造具政を筆頭家老に考えたのだが、当人が固辞したため諦めたという経緯がある。
それでも信雄は具政の引退は許可せずに相談役のような役割を与えた。
これらは北畠昌教の復権がなされたとはいえ、未だ感情的にしこりのある旧伊勢衆への配慮である。

そして同じく幻に終わったものとしては前伊勢長島城主・滝川左近将監一益の登用というサプライズ人事。
全体としての人事に関しては信雄は満足していたが、やはり岡田長門守の存在は大きく軍事面での経験不足は否めなかった。
滝川一益は今でこそ見る影もなく没落しているが、羽柴秀吉や明智光秀と同じ中途採用組でありながら
その才覚と手腕により織田家関東管領にまで上り詰めた人物である。
軍事部門での織田信雄家の穴を埋める人材としてはまさに適任ではないか?
しかしこれも伊勢衆や尾張衆を問わず「昨日の敵を迎え入れるとは」という家中の猛反発と、木造と同じく滝川個人の固辞により頓挫した。

そこで信雄は「織田軍総司令官」構想を諦め、その代わりに領内に軍管区のようなものを設けることにした。
三カ国の軍事全てを統括する力量のある人物がいないのなら、担当区画を分ければいいという理屈である。
北伊勢と伊賀の支配に関しては長島城を、南伊勢には松ヶ島城(津川義冬)、そして尾張は清州城。

ここで当初の問題に戻る。

候補者は三人-織田信包、織田信張、そして中川重政である。それぞれに長所があり、欠点があった。

そこで信雄は

「茶々は信包、お初は信張、小督は重政ね。
紙はちゃんと持った?じゃあそれを、こうやって前に出してね。
せーの、『だ・れ・に・し・よ・お・か・な?て・ん・の……あっががががが!!
雪ちゃん、ふぁ、鼻フックは駄目ふぁって!鼻もげふ、もげふぁうっふぇえ!!」

悶える信雄を尻目に、茶々は妹達に向かって懇々と説いていた。

「お初、小督、いいですか?信雄様はあくまで特殊な例です。
いかなる殿方に嫁いだとしても、決して真似をしてはいけませぬよ」
「「はい茶々姉さま」」

*************************************

いそしめ!信雄くん!(信雄はお引越しをした)

*************************************

清洲は尾張の政治・軍事の中心であり、織田家濫觴の地でもある。
ここをまかせるということはすなわち事実上、尾張一国の支配を任せる人物といってもよい。
信雄とて候補者を三人に絞るまではそれなりに真面目に考えた。
だが、そこから先となると一長一短、帯に短し襷に長し、次郎にも太郎にも足りぬのだ。
しかし自分の事は棚に上げて、よくもまぁ好き勝手に人のことをああだこうだと言えるものである。

候補その1-織田信包(伊勢津城主。40歳)

織田信長の弟で信雄の叔父。信雄と同じ時期に北畠一族の長野氏に婿入りしたため、政治的に信雄に近い。
また織田一族の序列では故信孝よりも上位に位置していた。弟の長益と同じく調整型の人間であり、羽柴秀吉との関係も悪くない。
経験と言う点では不足はないが、軍事手腕には可もなく不可もなくといったところか。

候補その2-織田信張(尾張小田井城主。56歳)

織田三家老の一つである藤左衛門家当主。
信長の義理の従兄であるが、簡単に言うと遠い遠い遠い遠い親戚。
和泉岸和田城主として和泉半国を領有し、本能寺の変の際には蜂屋頼隆と共に紀伊の畠山氏や雑賀衆に備えていた。
賎ヶ岳の戦いでは羽柴方であることを鮮明にした蜂屋とは対照的に厳正中立を貫き、それが原因で羽柴秀吉に睨まれて本拠地の尾張へと帰還。
紀伊方面軍司令官という経歴から軍事手腕では文句なしの◎だが、軍人気質で融通がきかない。
何より秀吉との関係が難点。

候補その3-中川重政(尾張犬山城代)

中川も織田一族であり、こちらは信長の遠い遠い親戚(信長の叔父信次の孫とも)。
信長の親衛隊である黒母衣衆出身。
一時は京奉行も経験するなど幹部候補生であったが、身内の不祥事で失脚&追放。
数年前に帰参を許された出戻り組。
こちらも経験や実績では問題ないが、ブランクが気がかり。
蟄居先であった徳川氏との関係が深い。
息子の光長は前田利家(能登・加賀の国主)の娘婿。

秀吉との関係でいえば信包>重政>信張
軍事経験は信張>重政>信包
そして信雄との関係は信包>信張≒重政

信張を選べば羽柴秀吉との関係悪化は避けられず、信包なら印象は悪くないだろうが軍事面が不安。
重政はそのどちらもが中途半端になりかねない。

「だからといって籤で決めることはないでしょう」

相変わらず何処までが本気で何処までが冗談かわからない信雄の言葉に、木造具政はこめかみを押えた。
ようやく肩の荷が下りたかと思えば、まったくこの主は次から次へと問題を持ち込んでくる。
これではおちおち茶も飲んでいられない。ああ、早く隠居したい。

「だってさー」
「だってもさっちもにっちもそっちもどっちもありませぬ!」

具政が穏やかな老後を迎えることが出来る日は来るのであろうか。



- 天正11年(1583)7月12日 和泉 堺 松井有閑邸 -

松井友閑という人物がいる。
代々室町幕府の文官を輩出した松井家出身であり、足利義昭が織田家に身を寄せる時期に前後して信長に仕えた。
旧幕臣で有職故実に通じていたこともあり、有閑は右筆(秘書官)として朝廷との折衝や上杉氏・三好氏との外交に携わった。
その彼が堺代官(奉行)に任命されたのは天正3年(1575)。
旧幕府人脈をもち、畿内の裏と表を知り尽くした松井友閑であれば、ある意味京よりもやっかいな堺を統治することが出来るであろうと信長は考えたのだろう。
そして友閑は実際にその期待によく答えた。

本能寺の変後もこの老人(恐らく60代後半であったと思われる)は引き続き堺奉行を務めている。
新たな権力者となった羽柴秀吉にとっても、(とくに村井貞勝亡き後は)松井友閑の政治的な価値は計り知れないものがあった。
それは無論今井宗室や津田宗及を初めとした堺商人の支持があってのことだが、この堺との共存共栄関係を作り上げたのは他ならぬ友閑自身。
幕臣というよりは、強かな公家を思わせる人物である。
むしろそういう喰えない人物であったからこそ、海千山千の商人が犇く堺を治める事が出来たのであろう。

「津田殿、わざわざの御足労痛み入ります」

腰をかがめながら茶室に入室した津田宗及に対して、友閑は白髪頭を揺らしながら貴人に接するように応じた。
堺有数の豪商である天王寺屋の主である津田宗及は、丸々と肥えた猪のような風貌をしている。
本願寺や三好三人衆、はては明智光秀と目まぐるしく政治的パトロンを乗り換えてきた商人が漂わせる空気は、下手な武士よりもよほどそれらしい。
畳についた白い手が、力仕事とは無縁であることをうかがわせた。
もっともそれは友閑も同じなのだが。

「西国は如何でした」
「よろしくありませぬな」

眉を寄せると間の抜けた大黒にも見える天王寺屋の主は、深いため息を漏らした。

畿内最大級の港湾施設を有する堺は、応仁の乱を経ても一大消費地であり続けた京への中継港として栄えた。
堺商人はその資本力を背景に全国各地の港湾都市へ積極的に投資を行い、海上交通網を形成することで西日本の人・モノ・金を支配。
これこそが「東洋のヴェニス」の力の根源である。
その堺と、代官である松井有閑はいわば運命共同体にある。
堺奉行である友閑にとって、堺の経済的浮沈は政権内における自分の政治地位に直結している。
それゆえ堺商人にとって目下最大の懸案である九州情勢についても友閑は関心を払っていた。

三国鼎立はなにも中華大陸の専売特許ではない。
西海道-九州は鎌倉の時代より三つの勢力がその覇権を競ってきた。
薩摩の島津氏、豊後の大友氏、そして肥前の小弐氏である。
小弐氏が竜造寺氏に取って代わられたことを除けば、この構図は戦国時代も維持されていた。

まず三国の中で抜きん出たのは大友氏である。
「女と文化は新しければ新しいほどいい」という傍迷惑極まりないキリシタン大名の大友宗麟は、長く九州の盟主として君臨。
室町幕府滅亡後は織田信長と結んで中国毛利氏を脅かすなど、織田政権における西の徳川家として振舞っていた。
しかし日向進出を目指したところ耳川の戦い(1576)で島津氏に惨敗。
宗麟の黄金時代を支えた多くの重臣が戦死した大友家は、これを機に衰退の階段を転げ落ちていく。

代わって台頭したのは肥前の竜造寺と薩摩の島津氏。
「肥前の熊」と評された竜造寺隆信は本拠地肥前を飛び出し、大友氏配下の筑前・筑後・豊前などに積極的に出兵。
筑後阿蘇氏や日向伊藤氏を追い北上する島津との衝突は避けられない情勢となっていた。

「肥前竜造寺の宿老である鍋島信生殿が羽柴様と接触しているそうですが」
「事実だ。黒田官兵衛に聞いたところによると、鍋島は秀吉殿が中国管領であったころから誼を通じていたという。
それゆえ秀吉殿は鍋島を大いに買っておられるとか。
不甲斐ない大友に代わり竜造寺が羽柴様の九州征伐の先陣を承るなどと申しておるそうだ」
「それだけ竜造寺は島津を恐れているということでしょう」

津田はさもあらんと深く頷いた。大友が織田に通じたように、今度は竜造寺が羽柴に通じることで中央との関係を築こうとしている。
それもこれも島津の軍事力を恐れているからに他ならず、これが堺が九州情勢に注目せざるをえない原因である。

大友や竜造寺とは対照的に、島津は中央とのパイプがない。
むしろ島津は中央の干渉を嫌い、関東の北条氏のように九州に独自の勢力圏を築こうとしているというのが大方の見方であった。
島津からすれば、中央政権との関係が深い堺に日明貿易や南蛮交易の拠点を提供することで得られる利益はない。
むしろ海外交易を独占するチャンスだとして堺を締め出そうとするだろう。
通商関係とは一度でも断絶すれば、関係を修復するまでに膨大な時間と資本を必要とする。
その間に新たな商売相手が育たないとも限らない。
それゆえ堺と松井友閑の危機感は並々ならぬものがあった。

「神屋宗湛殿は唐津に難を逃れておられましたので、島井宗室殿とお会いしました」

神屋と島井は共に筑前博多の豪商である。博多は北九州経済の中心であり、日明貿易の拠点として堺と争ったほどの実力を持つ。
そのため諸大名はこの果実を求めて争い、北九州を巡る争いに度々巻き込まれたことから博多はその経済的地位を低下させていた。
津田宗及の西国下向の目的は博多と接触して、敵の敵は味方の論理で反島津連合を呼びかけることにあった。

「反応はよろしくありませんでした。博多の商人衆は大友氏との関係が深いゆえ」
「博多とて自らの存亡が掛かっている。一筋縄ではいくまい」

実を言うと松井友閑も津田宗及も、現状では反島津連合構想が成立する可能性は低いと考えている。
反島津連合とはつまり竜造寺と大友が手を組んで、島津に対抗することを意味する。
竜造寺氏は耳川の合戦で支配体制の揺らいだ大友の勢力圏に、火事場泥棒のごとく兵を進めることで「五州二島の太守」と呼ばれるまでにその勢力を急拡大させた。
とてもではないが現状では両者が手を組める政治環境にはない。
そもそも博多商人は今まで多額の資本を大友氏につぎ込んでいる。
帳簿の上では損切りが最善の策とはわかっていても、実際に行動に移すとなると話は異なる。
何より今の段階でこの提案に乗れば、博多は堺に経済的に呑み込まれかねない。

当然ながら今井の反応は芳しいものではなかったが、将来的な反島津での博多と堺との連携には否定的ではなかった。
島津が本拠地鹿児島を優遇し、博多の経済的特権を剥奪することは容易に想像出来るからだろう。
そもそも島津は戦には強いが何を考えているのかよくわからない不気味さがある。
それならば、例え火事場泥棒であっても竜造寺のほうがましではないかと津田は説いた。

無論、竜造寺をして島津の九州統一に対抗させるためであり、博多をして水面下で竜造寺を支援させることが目的であった。
そして何より堺の懐は痛まない。

「竜造寺様には島津に勝たないまでも、負けないで頂きたいのですが」
「戦は生き物だからな。何が起るかは誰にもわからぬ」
「とにかく羽柴様には南進政策をとっていただかねばなりませぬ」

友閑から白湯の注がれた赤焼茶碗を受け取りながら、津田はさりげなく呟いた。
普通の商人であればただの世迷言でしかないが、天王寺屋主人の言葉となれば話は異なる。
事業計画は口にしても願望は語らないのが堺商人である。

羽柴秀吉の政権は、織田三法師を名目上の長に秀吉を盟主とする連合政権である。
この時点(1583)において秀吉が独裁的な権力を持っていたわけではない。
何より賎ヶ岳の戦勝後、最大勢力である羽柴家中の意見は外交政策を巡り意見が噴出していた。

畿内を中心とする旧織田家の勢力圏を固めるべきだとする浅野長政・黒田官兵衛
そのためにはまず紀伊出兵と訴える中村一氏(和泉岸和田城主)
早期の四国遠征を支持する蜂須賀正勝・前野長康・仙石秀久
中間派の小一郎秀長、羽柴秀勝(丹波亀山城主)という具合である。

それはすなわちかつての室町幕府のように、松井友閑のような人物が政権の意思決定に影響力を与えることが可能な環境でもあった。
何より友閑には堺からの豊富な政治資金がある。

「毛利と宇喜多の国境問題では蜂須賀正勝殿や宮部継潤殿(因幡鳥取城主。羽柴家の山陰方面軍司令官)の尽力により決着がついた。
賎ヶ岳の戦勝で毛利の中でも小早川様を初めとした親羽柴派が力を持つだろう」
「山陽と山陰は安泰ですな。四国は」
「その前に紀伊だろう。本願寺の残党に雑賀衆、旧守護家の畠山氏-」

商人も武士もその本質は共通している。
商いも戦も勝てばこそだ。勝てば全てが手に入り、負ければ全てを失う。
そして堺商人は利益が得られないと判断したことには指一本ですら動かさない。
堺奉行の松井友閑と天王寺屋主人の津田宗及にはそうした意味での相手への後ろめたさは全く持ち合わせていない。

室町幕府の伝統は形を変えながらも、ここ堺の地に確かに息づいていた。



- 天正11年(1583)7月23日 尾張 犬山城 -

中川重政は織田信長の尾張統一の時点ではすでにその名前が確認できるので、天正11年(1583)当時には50代前後であったと推測される。
織田信次(信長の叔父)の孫であるとされるが、それも確かではないなど、織田一族でありながら家系図にも不明な点が多い。
やはり政治的に失脚したためだろう。
とはいえこの人物は六角氏滅亡後に南近江の安土(安土城築城前)を任されるなど、一時期とはいえ織田家において重要な地位を占めていた。
少なくとも信長の目に留まったという点だけを取ってみても、並大抵の男ではなかったことはわかる。
ただこの人物は身内に恵まれなかったという一点を除いてはだが。

その本人からの手紙に、中川重政は舌を打ち鳴らした。

「四郎左衛門、今更どの面を下げて」

もとより気性の激しい男である。重政は羽柴家家臣、外峰四郎左衛門からの書状を読み終えるや否や、一挙に破り捨てた。

外峰四郎左衛門こと津田信重(盛月)は中川重政の実弟にあたる。
重政と同じく武勇に優れた男であったが、思慮に欠けるきらいがあった。
安土城主(信長の安土城以前)時代の中川重政は長光寺城主の柴田勝家と領地が隣接しており、権利関係が複雑で紛争が絶えなかった。
そこで仲介に乗り出したのが信重だったのだが、何を考えたのか交渉中に勝家側の代官を惨殺。
規律を重視する信長は重臣間の不始末に激昂。信重は織田家を追放され、兄である重政も改易された。

つまり中川重政は弟の不始末のとばっちりを受けたわけである。
もしこの一件さえなければ、中川重政は最低でも丹羽長秀クラスの重臣になっていたであろう。
少なくともお飾りの尾張犬山城代に甘んじてはいなかったはずだ。

-羽柴に匿われていると聞いていたが、まさか真実だったとはな。

久しく忘れていた弟への憤懣を口にしながら、重政は知らず自分の首筋を撫でていた。
本能寺の変直前、弟が偽名を使い羽柴筑前守に匿われているという噂が家中に流れたことがあった。
重政自身、信長から諮問を受けて冷たい汗を流したことを昨日のように思い出すことが出来る。
結果的に明智日向守の謀反に救われたわけだが、もし発覚していれば秀勝様(信長の四男)を養子に迎えていた秀吉殿はともかく、自分は追放ではすまなかっただろう。
まったく、あの愚弟はいつまでこのわしを苦しめれば気が済むのか。

しかし-重政は破り捨てた書状を拾い上げた。
今更このようなものを送りつけてきて、一体何のつもりなのか。
今や破竹の勢いである羽柴家の家臣である弟が、信雄殿の御情けによってお飾りの犬山城代をしているに過ぎない自分に近づく意図が分からない。

まあどうでもよいことか-

「御城代様、少しよろしいでしょうか」

障子戸の向こうから問い掛けられたその声の調子に、重政は表情を険しくした。

経験者としての予感と言ってもよい。
おそらくそれは自分にとって不都合な報せであるという雰囲気を感じたからだ。
そして報せを聞き終えると、重政は天を仰いでいた。
絶望的な報せに打ちひしがれたというよりも、突如降りかかった厄介事に思わず頭を抱えたくなったかのように。

何故だ。何故自分ばかりにこのような無理難題が降りかかってくるのだ?

「さっさと死んでくれればよかったものを-」

重政は書状をぐしゃぐしゃに丸めて投げ捨てた。



[24299] 第13話「信雄は耳掃除をしてもらった」
Name: ペーパーマウンテン◆e244320e ID:55991eb3
Date: 2013/09/22 08:59
織田信雄は懸案の尾張清洲城代に、犬山城代の中川重政を抜擢した。

中川重政は織田家の最盛期である天正年間に出世レースに敗れ、他国で5年以上の逼塞を強いられていた。
つまり織田家から羽柴秀吉個人への権力移行期という難しい時期だからこそ、政治的に無色な存在というのは貴重である。
これが織田信張では反秀吉色が強すぎ、織田信包では親秀吉色が強すぎた。
どちらを選んでも旧織田系大名や秀吉に、信雄が意図しない政治的メッセージを与えることになりかねない

-ならば最善でなくとも中川しかないだろう-

執拗に固辞しようとする重政に、信雄は自ら説得にあたる。
また清洲城に滝川雄利と浅井長時を、尾張犬山城に織田信張と補佐する体制も整えた。
度重なる要請に重政はしぶしぶこの人事案を受け入れた。

「無難といえば無難だが、まあいいか」

後に信雄はこの一連の人事を大変に後悔することになる。

*************************************

いそしめ!信雄くん!(信雄は耳掃除をしてもらった)

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- 天正11年(1583)8月1日 遠江 浜松城(徳川家康の居城) -

漢方医薬には一昔前に流行ったエクササイズ・ホイールという健康器具によく似た道具が存在する。
薬研(やくげん)と呼ぶそれは、車輪の幅に合わせてVの字型に溝が掘られた土台の上に薬材を乗せてすり潰すのに用いる。
こうして出来た粉末状の薬材を調合することによって、薬を完成させるのである。
またこの道具は火縄銃伝来以降、黒色火薬の調合にも使用されている。

徳川家康は木の薬研を愛用している。石製の薬研を使うと、薬材に石粉が混じる可能性があるというのがその理由である。
石の薬研が欠けることなどそうそうあるものではないが、万が一を考えるのが家康の薬作りの持論だ。

元々家康は若い頃には今ほど医学に関心があったわけではなく、馬に鉄砲に水泳に槍に刀となんでもござれの武術マニアであった。
それがここ最近は、日常の食生活や生活習慣まで含めた総合的な健康管理へと趣を変えている。
四十歳という体力に限界を感じる年齢に達し、信玄亡き後の武田家や織田家の今のありさまを見て、当主である自分の健康こそが徳川家における最大の政治的資産であるという考えに至ったのであろう-宿老であり西三河衆筆頭の石川伯耆守数正は主君の心境の変化をそのように分析していた。

それはいい。

家康様にはまだまだ元気でいてもらわなければ困るのだ。だからそれはいいのだ。

だが-

なぜ薬作りの過程で、腐った卵のような臭いがするのだ?

「-失礼ですが殿、お手元のそれは」
「うむ。わしが新たに考案した丸薬の材料をすり潰しておる。これを加えることにより腰痛と肩こりに効果抜群」

「……になるはずだ」と小さな声で付け加えた主君に「はずとはなんだ」と怒鳴り返したいのを数正は何とか堪えた。
薬作りに興味をもたれるのはいい。
だがせめて、本に記してある通りの調合をしてほしい。
すでに近習の何人かは主の健康を守るために尊い犠牲を捧げている。
彼らこそ三河武士の鑑であるというのが、数正のみならず徳川家中の共通した意見であった。

「伯耆守。そういえばそち最近、腰痛が-」
「上方の情勢をご報告いたします」

家康は一瞬不満げな表情を見せたが、すぐに数正の報告に聞き入り始めた。
その手元では木と木が擦れ合う音が規則正しく繰り返され、執拗に何かがすり潰ぶされている。
鼻が捥げそうだ。
設楽小四郎(貞通)や本多佐渡守(正信)はどこへ行ったのだ?
あやつら、こういう時に限って姿を見せぬ。
これだから東三河の人間は信用できんのだ。

「伯耆守、まずは御苦労であった。して首尾は」
「今や上方は羽柴の天下でございます」

賎ヶ岳の戦勝により羽柴秀吉が織田政権の継承者となると、越後上杉、中国の毛利、九州の大友・竜造寺など、全国各地の大名から慶賀の使者が訪れた。
徳川もその例外ではない。
だが徳川は先に述べた大名とは違い、秀吉との間に微妙な政治的問題を抱えていた。

三河・遠江・駿河・甲斐・信濃五カ国の太守である徳川家康は、全盛期の今川義元や武田信玄に匹敵する領土を領有している。
だがそのうち甲斐と信濃に関しては、明らかに徳川家による織田家の遺産横領であることは先に述べた。
旧武田領の甲斐と信濃は、本能寺の変直後に相次いだ一揆によって織田系領主が逃亡し、周辺諸国の草刈り場と化した。
織田家の同盟国として安全保障上やむなく出兵した-というのが徳川の言い分である。

当然ながらこれは如何にも苦しい。
それはあくまで徳川の論理であり、織田の論理とは何の関係もない。
先の羽柴と柴田の争いに関して徳川が厳正中立を保ったのも、どちらについても敵対陣営から甲斐・信濃の領有権について追求される危険性があったからである。

今や織田政権の事実上の後継者となった羽柴秀吉が信濃・甲斐の領有権を主張すれば、領有の正当性は明らかに秀吉陣営にある。
そこで家康は羽柴陣営の反応を打診するため、清洲同盟以来、徳川家の対織田外交を取り仕切る石川伯耆守数正を慶賀の使者として、大名物の初花を土産に上洛させていた。

「羽柴様は初花を手に取られ、大層お喜びになられました」
「あのような土くれの何が良いのか、わしにはさっぱりわからぬが、喜んでおったのならそれでよい」

「他には何か?」と尋ねる主君に、数正は鼻をぐずらせながら言い淀んだ。

「構わん。ありのままに申せ」
「-では申し上げます。『徳川殿の心遣いは受け取った。いずれ安土か京において再びお目にかかろう』と」

つまり何が何でも甲斐と信濃の返還を要求するわけではなく、自分に頭を下げさえすれば交渉することもありえるということか。
当然ながらその際はこちらが上洛しなければならないし、上洛したところで公収を言い渡される恐れもある。
そもそも前提として、羽柴政権への臣従が絶対条件というわけだが。
それまで家康の手元で規則正しく音を奏でていた薬研が動きを止めた。

「徳川殿、か」

-あの男すでに天下人になったつもりか

家康も数正も既に天下の形勢は羽柴秀吉へと傾きつつあることは察している。
だがそれが頭で理解出来たとしても、人間は感情の生き物。だからこそ柴田勝家や滝川一益は秀吉に従うことをよしとしなかったのだ。

それでも中央政権(織田政権)と言う強大な権力の恐ろしさを肌身で体感している徳川家の首脳部はまだよい。
家中の多くは、むしろかつての敵国であった今川、武田を領土で越えたことで「羽柴何するものぞ」と鼻息荒く吠えるものが多い。
徳川家の外交を統括し、尚且つ対羽柴開戦の場合には西三河衆を率いて最前線で戦うことになるであろう数正には頭の痛い話である。

数正は突如鼻の奥に酢を流し込まれたような痛みを感じた。
まったくよく家康様はこの臭いに平気な顔をしておられるものだ。

「中川殿と接触は出来たか?」
「-手筈通りに」

くぐもった声で数正は答えた。
中川殿とは言うまでもなく織田信雄家の清洲城代中川重政。
中川重政の蟄居先は同盟国の徳川家であり、家康最大の挫折である三方ヶ原の戦いにも重政は客将として参陣している。
織田信雄の見立て通り、中川は織田家中においては政治的に無色ではあった。
しかし親徳川派であると-少なくとも徳川家においてはそのように受け止められていた。

「あくまで時勢の挨拶程度でよい。
だが、それがいずれ役に立つときが来るやもしれぬ。この意味がわかるな与七朗(数正)?」
「承知致しております」

信濃と甲斐の死守は徳川家にとっていまや至上命題である。
領土が惜しいわけではない。だが家臣に分け与えてしまったものを今更奪われるとあっては、例え当主の命とあっても家中は納得しない。
嫡子信康を処分してまで確立した自らの権威は危機に瀕し、家中が分裂すれば羽柴に容易に付け込まれる-家康はそれを恐れていた。
徳川家は領土が拡大したことにより、逆に鉄の結束を誇る家中の統制が揺らぎかねない危機に直面している。
北には秀吉と手を結んだ上杉、背後には同盟を結んだとはいえ、信用ならぬ北条氏。内と外に難題を抱える家康の悩みは深い。

「くれぐれも頼むぞ」

徳川家を代表できる外交官が少ないというのも家康の頭痛の種である。
これまでは同盟国であり宗主国である織田家の意向を抑えておけば問題はなかった。
だがここ一年余りの間に徳川家を取り巻く環境は大きく変化している。
織田家が中央の実権を失いつつある中で、いつまでも数正頼みでよいものかどうか。

その数正が鼻を押えながら早足で退出すると、家康は首を捻りながらぽつりと呟いた。

「………臭い」



- 天正11年(1583)8月4日 美濃 曾根城 -

このクソ親父、さっさとくたばればいいのにと稲葉彦六貞通は思うことがある。
残念ながら考えれば考えるほど、この老人がすんなりと死ぬイメージが思い浮かばないのだが。

「何だ彦六、何か言いたいことでもあるのか」
「いえ、何もございません」
「ふんッ、どうせさっさとわしが死ねばいいとでも考えておったのだろう」

稲葉一鉄(良通)はさっそく息子に噛み付いた。
稲葉氏は美濃三人衆に数えられる西美濃の大領主。その礎を築いたのがこの一鉄入道こと稲葉良通だ。
13歳で初陣を飾り、土岐、斎藤、織田と領主を乗り換えながら巡った戦場は数知れず。
姉川合戦では織田勢が総崩れする中で一人気を吐き、槙島城攻めでは宇治川の先陣争いで、平家物語の梶原と佐々木もかくやと思わせる働きを示した。
勇猛なのは間違いない。だが貞通に言わせれば血の気が多く喧嘩っ早いだけだ。それも必要以上に。
この年68歳だが、飄々とした老人らしさはまるでない。
そのくせ若い頃からの頑固さだけは年相応に磨きをかけるのだから、周囲との軋轢やいざこざは増える一方である。
尻拭いに駆け回る貞通を初めとした稲葉一族の気苦労の種は尽きない。

「貴様を今日呼んだのは他でもないのだが」

まるで太い筆で塗りつぶしたかのように、一鉄の眉は太い。
その眉がしきりに動いているところを見ると、大方ろくでもないことを思いついたのだろう。
大体この親父は話が長い。延々と独演会を続けるのは常のこと。
何か意見をしようものなら「生意気な」と拳骨が飛び
黙っていれば「話を聞いているのか」と蹴りが飛び
お説ごもっともと頷けば「貴様には自分の意見というものがないのか」と説教が始まる。
どうすりゃいいんだ本当に……

「池田の爺が大垣城主になることは存じておるな」

自分だって爺ではないかという言葉が喉元まで出かかったが、貞通は何とか呑み込んだ。

池田の爺-池田勝入斎は、織田信長の乳母兄弟であり、清洲会議にも出席した丹羽長秀と並ぶ旧織田家臣団の実力者。
荒木村重後の摂津支配を任されていたが、賎ヶ岳戦役後の論功行賞で美濃へと転封してきた。
大垣には勝入斎が、岐阜城には池田元助(勝入斎の嫡子)が、池尻城には池田照政(勝入斎の次男)が入り
東美濃の森武蔵守長可(勝入斎の娘婿)と併せて、美濃はさながら「池田王国」の様相を呈している。

この状況に、美濃国人衆の危機感は強い。
自分達が何れは池田か森の被官に組み込まれるのではないかという危惧は的外れなものではなかった。
実際に森武蔵守は東美濃国衆と諍いを起こし、実力でこれをねじ伏せている。
一鉄などは「火事場泥棒の鬼武蔵の配下になるぐらいなら滅んだほうがましだ」と公言してはばからない。

「このままでは我ら稲葉は、あの戦しか頭にない脳味噌筋肉な野蛮人の風下に立つことになりかねん。
例え戦では森や池田の指揮下に入ることになったとしても、政治な独立は何としても保たねばならん。

「斎藤から織田へ乗り換えた時を思い出せ。当主の直参にならねば意味がない」と語る父に貞通が尋ねる。

「そう申しますと、いかなる手段が……ッ」
「この馬鹿息子が。少しはその空っぽな頭を振り絞って考えぬか」

貞通の側頭部に父の拳骨が飛んだ。
かといって何か意見をすれば、その時は蹴り飛ばされていたであろうが。
貞通は以前から抱いていた「この親父は単に人を殴りたいだけだ」という疑念を確信へと深めていた。

「しかし父上、信長様は美濃攻略直後に本拠地を岐阜城に移され、我ら美濃衆は信長様の直轄兵力、いわば親衛隊のような位置付けでした。
信長様が安土へ移られてからは、次期当主である岐阜中将様(信忠)が代わって岐阜に。
羽柴様が大阪に本拠地を移されようとしている中、どのようにして繋ぎを付けるというのです」
「だから貴様の頭は空っぽだというのだ」

息子の恨みがましい視線などまるで気にした様子もなく、一鉄老人は不敵な笑みを浮かべた。
単なる猪武者であれば、当の昔に戦場の露と消えている。
時勢を冷静に見極め、お家を発展。存続させてきたからこそ、誰しもがこの面倒な老人に辟易しながらも稲葉宗家の当主として仰いでいるのである。
そして貞通の予想した通り、老人には稲葉の家を羽柴に高く売りつける腹案が存在した。
そして息子は父親に対する苦手意識を一層深めることになる。

「こんな時のために飼っていた小僧がいるだろう?」



- 天正11年(1583)8月25日 北伊勢 長島城 -

柔らかな肉の感触と人肌の温かさを右側頭部から首筋にかけて感じながら、織田信雄は左外耳道の心地よいくすぐったさに身を任せていた。
要するに信雄は膝枕をしてもらいながら耳かきで耳掃除をしてもらっているのである。

「信雄様、あまり動かないでくださいませ」
「ごめんごめん……あ、そこそこ、うん、上手いよ」

突然だが信雄には側室が存在する。いきなりなんだと怒らないでほしい。
最初に断っておくが、側室といっても権力に物を言わせて「うへへへ」と押し倒したわけではない。
我らが信雄には人並みのスケベ心はあっても、自ら女性を押し倒す度胸も根性も甲斐性も持ち合わせてはいないので、その点はご安心頂きたい。

北畠一族でありながら織田家の伊勢侵攻に味方した木造具政-その具政の娘が信雄側室の木造殿-今信雄の耳掃除をしている女性であった。
有体にいえば人質であるといってよい。
娘を人身御供に差し出す徹底した姿勢を見せたからこそ、木造具政は三瀬の変(織田家による北畠一族の粛清)の凶刃から逃れ
そして北畠一族でありながら一定の政治的影響力を保てた。

側室として信雄に仕えた彼女の名前は不明である。
元々女性の名前の多くは、正室でもない限りは家系図にもただ「女」としか記されていない場合が多い。
彼女も木造具政の娘としか記されていない。

木造殿は、織田信雄の正室である千代御前(雪姫)が懐妊中のため、現在織田信雄家の奥向きのことを指図する立場にある。
最も木造殿は、細事はともかく重要なことは全て従姉妹でもある正室の雪姫に報告し、その指示を受けていた。
そのため「へっへっへ、これでやりたい放題だぜ」という自分の言葉が雪姫の耳に届いていることを信雄は知らない。
知らぬが故に信雄は木造殿に膝枕&耳掃除をしてもらいながら、溶けた氷のような表情をして寛いでいるのである。
廊下を踏み鳴らし近づいてくる足音の存在にも気付かずに。

「アー、そこそっ『信雄様!』ごおおおぬがああおおおおおおおお!!!」
「の、信雄様!?」
「さ、さっさった!?刺さってない?!おおおおあああ!!!」
「お話が……」

左耳を両手で押え、悶絶しながら畳の上を転げまわる信雄に、茶々は早速その出鼻をくじかれた。



「三吉郎殿の一件、信雄様は黙認されるのか」

津川義冬から事情を聞いた津川義近は、失望とも諦観ともつかぬ口調で呟いた。

織田信雄家老津川義冬の実兄である義近は南伊勢松ヶ島城の留守居役を務めている。
長年の放浪生活と気苦労が祟ったのか43という実年齢よりも老けて見えた。
だが織田家の一武将として育てられた義冬とは違い、言動の端々にどこか茫洋とした育ちのよさが伴うのは、義近がまぎれもない貴種である証だ。
義近は弟とは違い武芸に秀でているわけでも、武将としての才能も持ち合わせてはいないが、温和な性格で家中からの人望が篤い。
そんな兄を見るにつけ、義冬は「世が世であれば名君として名を残せたであろう」という益体もない思いを消すことが出来ないでいる。

「織田三吉郎殿はいくつだ」
「たしか12歳かと」

義近は信じられぬといった表情で首を大きく横に振った。

三吉郎は織田信長の六男で、織田信雄の腹違いの弟である。本能寺の変後は母方の実家である稲葉氏の庇護下にいた。
そして池田氏からの政治的独立を図りたい稲葉一鉄は、羽柴秀吉に対して織田三吉郎少年の烏帽子親になることを依頼。
織田家のカードを一枚でも多く確保したい秀吉は喜んで三吉郎少年の烏帽子親を引き受けた。

織田三吉郎は稲葉一族の護衛を受けて上洛。

羽柴秀吉を烏帽子親に元服を果たし、その名を「織田信秀」と改めた。

「わしには到底信じられん。家のためとはいえ身内を売るとは」
「むしろ織田一族を抱え込む危険性のほうが高いと判断されたのではないでしょうか。
外様である稲葉氏が織田一族を抱えたままでは、痛くもない腹を探られかねません。
それならばいっその事、稲葉の政治的姿勢を示すためにも、秀吉殿にその身柄を預けたというのが本音だったのでは」
「それはそうかもしれぬ。だがいくらなんでも信秀とはあまりにも露骨ではないか」
「桃厳様(信雄の祖父。織田信秀)と同名であるという触れ込みではありますが……」

さすがに義冬は言葉を濁した。
織田信秀という名前は、明らかに羽柴秀吉が秀の一字を、偏諱を与えたと解釈せざるをえない。
偏諱とは本来、目上の人間が目下の人間に与えるもの。
妾腹とはいえ織田一族の子供に対して、形の上では家臣に過ぎない羽柴秀吉が「秀」の字を与えたのだ。
羽柴秀勝(織田信長4男)の時とは違い、将来的には羽柴家が織田家の家宰に留まらず、政治的に織田家の上に立つことを宣言することに他ならない。
大阪城築城と併せて考えれば、その政治的意図はより明らかである。

旧織田家系大名は、織田一族の最大実力者である織田信雄の反応を息を潜めて見守っている。
信雄が反発すればすなわちそれは新たな戦の可能性を示すことであり
何も宣言しなければ織田から羽柴への権力移譲を暗黙のうちに許容することになる。

そして信雄はそれを黙認するという。

自分の人生をあれだけ振り回した織田がこうもあっさりと-義近は自身が妙な感慨に囚われていることを認めざるをえなかった。

「織田信長とは、一体何だったのか」

津川義近-前名を斯波義銀。

その名が示すとおり、彼は足利将軍家の支流として室町幕府の管領を輩出した斯波武衛家の当主である。

かつて尾張国内において義銀以上に毛並みのよい人間はいなかったが、同時に彼ほど名と実の乖離した存在も他にはいなかった。
そして尾張南部にはあの織田信長がいた。
尾張統一の神輿に担がれた義銀は、信長の権力が確立すると御役御免とばかりに尾張を追放。
十数年近く畿内を放浪したのち、今度は信長に部下として仕えることとなる。
その際、義銀は尾張守護代の家老であった織田家の過去を憚り、斯波氏庶流の津川氏に改姓した。

義銀-義近にとっては思い出したくもない屈辱の日々。

しかしそれも織田信長が天下人となり、応仁の乱以来、百数十年以上も乱れた日ノ本を従えるというのであれば、まだ自分を慰めることが出来た。
一時期とはいえ自分は天下人を配下に従え、その前途に立ちはだかったのだと。
それがどうだ?今の天下人は4歳の童であり、織田家は羽柴秀吉という、どこの馬の骨ともわからぬ男に乗っ取られようとしている。

「まるで夢を見ているようだな」

そう、全ては夢なのだ。斯波家が滅んだのも、織田信長が死んだことも、自分の十数年に及ぶ放浪生活も、全ては泡沫の夢でしかない。
今でも自分は名ばかりの尾張守護として、その実はただの小領主として平穏な日々を-

「兄上?」
「-なんでもない」

急に黙り込んだ兄の様子を怪訝そうに伺う弟に対して、義近は放浪の中でいつしか習い癖となった形ばかりの笑みを返した。
この役立たずを兄と呼んでくれる義冬には感謝している。
だが、物心のついた時分から織田家の一武将として、駒として生きるのが当り前であった義冬には自分の気持ちはわからないだろう。

義近は首から提げられたキリスト教徒の証であるロザリオを左手で握り締めた。

旧来の権威や秩序が通用しない環境の中、義近は先祖伝来の信仰を捨て、外来の宗教に救いを求めたのだ。

義近の手の中で、ロザリオは鈍い輝きを放っている。

神は何も応えない。



織田信雄が尾張清洲から伊勢長島に政庁を移して早一月。
私生活=行政の大名が政庁を移すとは、そのまま生活拠点を移すことを意味している。
そのため長島には織田信雄一家だけではなく、信雄が後見役である浅井三姉妹を初めとした織田一族の女性達も移り住んでいた。

ここに信雄の誤算があった。

本来なら浅井三姉妹の担当は織田長益(信長の弟)なのだが、その長益は現在伊勢・伊賀両国の検地に奔走しており
三姉妹のお守りを体よく信雄に押し付けたのである。
あの抜け目のない長益叔父上が、素直に検地を引き受けた時点で気が付くべきであった。

『織田が羽柴に屈服しようとしているこの一大事に、従兄上は一体何をしておられるのです』
『耳掃除。これが人にしてもらうと気持ちいいんだよ。茶々もやってあげようか?』
『結構です!』

頭の中で小人がシンバルを打ち鳴らすが如く耳鳴りがする。
信雄は自分より10も年下であるはずの少女の剣幕に押されまくっていた。
このままでは三半規管がおかしくなるか、胃潰瘍になるのが先かという究極の選択を強いられかねない。

信雄は興奮する茶々を何とか宥め、正面に向かい合うように座らせる。
あえてそれが意味のない事と理解しながらも、信雄は理をもって従妹を説いた。

「茶々、我ら織田家は守護家の斯波氏から尾張を奪い、足利将軍を追放して中央の政治を支配した。
過去をさかのぼればいくらでも先例はある。鎌倉将軍家は北条氏、関東管領上杉氏は守護代の長尾氏、古河公方は小田原北条氏に。
それに茶々のお父上である浅井氏も守護家の京極氏から北近江の実権を奪ったではないか」
「それは彼らに力がなかったからです。力なき者の政治は、混乱と破壊しか生み出しませぬ」

なるほど迷いのない力強い言葉だ。それゆえ危うい。

「羽柴と戦い勝てると思うのは幻想だ。畿内、山陽、山陰に北陸まで含めると十数カ国を治める秀吉殿と、三カ国では勝負にならない」
「ですかその全てが羽柴の領地と言うわけではないでしょう。
羽柴も柴田も、元をたどれば織田の家臣ではないですか。丹羽殿や池田殿の助けを借りれば」

「彼らは領地移封を受け入れた」と信雄は言葉を重ねる。

「それはつまり、羽柴の天下を受け入れたということだ」

茶々は唇を強くかみ締めながら俯く。

聡明な彼女も本当は理解しているのだ。織田の夢は終わったことを。
天下布武の理想は英雄信長と後継者信忠の死とともに潰えた。
いまや織田家に天下の政治を担う実力はない。
そして曲がりなりにも、天下を治める実力を有するのは羽柴秀吉ただ一人である。

信忠と同腹である信雄には織田家を相続し、天下に号令する資格はあるだろう。だが実力が伴わない。

「……信雄様はそれでいいのですか。織田の名が消えようとしているのに」
「それはない」

茶々が顔を上げると、それまでの重苦しい空気とは打って変わり、信雄はなぜか妙に楽観的な表情で、右手を顔の前に「ないない」と振っていた。

「羽柴政権で織田の名が消えることは絶対にない。茶々の胸と同じぐらいないぐっぼえぁ!」
「信雄様。私は真剣にお話しているのです」
「だ、大丈夫だ茶々。安心しろ。世の中には小さなのがすっけきよ!」

顔色一つ変えず右フックから左アッパーの連続コンボを決めた茶々。
青白い顔で鳩尾を押さえ、生まれたての小鹿のように震えながら信雄は「冗談だ」と必死に繰り返すばかりである。

「真面目に話すから、その手を下ろせ……あのな茶々、考えても見ろ。
秀吉には力はあっても名はない。尾張の農民の子せがれだということは、童でも知っている」

確かに秀吉は農民の子供という自らの出自を隠してはいない。
それが庶民からの秀吉の人気に繋がっているが、それが弱点でもあると信雄は言う。

たとえ世がどれほど乱れようとも-いや、乱れれば乱れるほどに、伝統的な秩序や論理というのは政治的価値を増す。
下克上を飾り立てる論理を0から構築するのと、既存のものを利用するのでは圧倒的に後者のほうが労力を必要としないからだ。
織田信長は斯波義銀を利用して尾張を統一し、足利義昭を擁立して中央政権を確立した。
無論、既存の論理にはしがらみも伴う。

もしも既存の論理と実力者が対立した場合にどうするか。

簡単である。もっと古い論理を引っ張り出せばよいのだ。

足利義昭と対立した織田信長は、織田氏=平氏を称した。
平治の乱で平清盛が源氏を追放した先例に倣い、信長は自らを清盛にたとえることで、義昭追放を正当化したのである。
本当に織田氏が平氏であったかどうかは問題ではなく、信長が平氏を自称し、禁裏をはじめとした社会全体がそれを認めたことが重要なのだ。

ところが秀吉にはこれが出来ない。
武家として2百年近い歴史を持ち(かなり胡散臭いが)曲がりなりにも平氏を名乗れた織田家とは違い、秀吉が農民であったことは周知の事実。
源氏や平氏を名乗るのはいくらなんでも無理がある。

「今、秀吉殿の政権の正当性は二つだ。
織田三法師殿の後見役として織田家を采配することと、朝廷の官位。
武家の棟梁として秀吉殿が独自の論理を確立するのは容易ではない。
ただでさえご自身の正当性に苦慮しておられる羽柴殿にとって、織田家は貴重な政治的手札だ」

それをそう簡単に手放すわけがないだろうと言う従兄の顔を、茶々はじっと見据えた。
ただそれだけであるのに、信雄は手のひらにじんわりと汗をかいていた。

「斯波武衛(義銀)殿は名前だけではなく姓まで変えられた。
それに比べれば織田家の現状は遥かに恵まれているとは思わないか?」
「織田は羽柴の化粧道具として命を永らえると申されますか」
「………言葉は悪いが、そういうことだ」

茶々は再び俯き、沈黙が部屋を支配した。

遠くで蜩の鳴き声が聞こえる。木造殿が気を利かせて人払いをしたのか、部屋に近づくものはいない。
信雄が障子を開けると、温んだ空気が部屋の中に流れ込んできた。

「もう夏も終わりか」

やがて訪れる秋の後には、長く厳しい冬が待ち構えている。
後ろ盾のない浅井三姉妹にとって、羽柴の世は決して過ごしやすいものではないだろう。
武家の女に生まれた宿命は、三人とも既に覚悟しているはずだ。

信雄は茶々が秀吉の側室になる歴史を知っている。

だが、今ここにいるのはただの少女だ。
織田信長の姪でも、浅井長政の娘でも、ましてや秀吉の側室でもない。
妹達を必死に守ろうと必死に虚勢を張るただの少女だ。

「信雄様は-」

立ち上がり、庭を見つめていた信雄に茶々の表情をうかがうことは出来ない。

「なぜ私達を引き取ったのです。秀吉に差し出せば、さぞや喜ばれたでしょう」
「……何となくだよ」
「何となく、ですか」

そう、何となくだ。

信孝の家族を助けたことも、北畠を再考させたことも、織田に改姓したことも、すべて信雄には明確な理由があったわけではない。
政治的な思惑があったことも事実だが、それは決定的なものではなかった。
今は亡き岡田長門守は信雄の振る舞いを「度の過ぎた道楽」と例えたものだ。
確かに茶や連歌が好きな人間に「何故それを楽しめるのか」という問いをすること自体が愚問である。

好きなものは好きなのであり、そう振舞いたいからそう振舞った。ただそれだけである。

それにと、信雄はもう一つの理由を付けくわえた。

「それに茶々、君たち三人がいなければ、この長島はどうなる?」
「どうなると言われますと」
「股に蜘蛛の巣が張ったような意地の悪いオバハンしかいなくなるではないか。
大方殿様(信長の生母。土田御前)だろ、安土殿(信長正室。斎藤道三の娘)に、出戻りの五徳(信雄の姉。松平信康正室)…」

指折り名前を挙げながら、信雄は心底うんざりとした表情になった。

「平均年齢が楽に50を越えるんだぞ?
着物だの何だので金ばかり使うくせに、そのことが平然みたいにしてやがるし。
こっちは金欠で四苦八苦なのに好き勝手使いやがって……いや、茶々みたいに若くて美人なら喜んで出すさ。
でもな、後は墓に入るだけのオバハンの世話なんか、誰が好き好んで」

口にすればするほど、信雄は一族の女性への不満が次から次へと浮かんできた。
それゆえ信雄は、自分の背後で件の三人がにこやかな笑みを浮かべて座っていることや
茶々が尋常ではなく怯えていることに、まったく気がつくことはなかった。

「大体、オバハンのくせに紅だの着物だの色気づいてどうするつもりなんだ。身を飾る前に顔のしわを伸ばす体操でもしてろよな。茶々もそう思わな-」


伊勢長島の地に、信雄の悲鳴が響いた。



[24299] 第14話「信雄は子供が産まれた」
Name: ペーパーマウンテン◆e244320e ID:71b89978
Date: 2013/09/22 09:14
- 成せば成る 成さねば成らぬ何事も 成らぬと捨つる 人の儚さ -

「やればできる。やる気があれば不可能なことなど何もない。それを出来ないと諦める人間の多いことよ」大体このような意味であろうか。
陳腐な精神主義にも聞こえるが、歩き出した人間と、歩き出そうとしない人間では天と地ほどの差が存在する。
そこに可能性がある限り、人は歩いていかねばならないのだ。
そう、それが例えどんなに眉唾なものであったとしても-

- 揉めば成る。揉まねば成らぬ何事も、成らぬは人の、揉まぬなりけり -

「お姉さんのなだらかな大草原を見て絶望する気持ちはわかるけど、まだ小督は10歳じゃないか。
茶々はもう無理かもしれないけど、君はこれから頑張れば大丈夫だよ」
「あ、あの信雄様。ほ、本当に、その……も、も、揉めば、その、その………」
「大丈夫。大事なのは継続することと、信じること。毎日百回、じっくりとね。
本当なら人にやってもらうのが一番いいんだけど。
何だったら佐治殿に頼んでみたらいいんじゃない-」

「人の妹に何を吹き込んでくれてるんだこの馬鹿従兄ぉー!」
「と、飛び膝蹴りだとっふぉぺ!」

信雄の顔面に茶々の膝頭が綺麗にめり込んだ。

「私だってまだ成長するわよ!」と怒鳴る姉
その姉に首を絞められ顔を青くしながら「ギブ、ギブ」と呻く従兄
そして顔を真っ赤に染めながら「いやでもそんな、恥ずかしい・・・!」と呟きながらいやんいやんと身を捩り悶える妹

それらを生暖かい眼差しで見つめていた初は、口の中一杯に放り込んだ金平糖をばりばりと噛み砕いていた。

(やってらんないわ)

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いそしめ!信雄くん!(信雄は子供が産まれた)

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14歳の水軍司令官-現実は時にライトノベルのトンデモ設定を容易く凌駕するのである。
佐治興五郎一成はこの時14歳。尾張大野城主として知多半島を領有している。
何故織田家の本願地である尾張の喉下をこのような子供に任せていたかといえば、当然理由がある。

話は桶狭間合戦の前後(1560年代)にまで遡る。

当時、尾張を統一した織田信長は知多半島を領有し伊勢~尾張~三河の海上交通に絶大な影響力を持つ佐治氏の取り込みを図った。
当時の当主である佐治為興(後に名を改め信方)に妹のお犬の方を娶らせるなどして、佐治氏を織田一門として優遇する。
また名前に信の一字を与えるなど、何れはこの妹婿を「織田水軍」の棟梁として期待を寄せていた。
ところが天文2年(1574)、信方は伊勢長島一向一揆との戦いにおいて弱冠22歳の若さで戦死。
残された子息は僅か5歳であり、佐治氏は織田水軍司令官の地位を九鬼氏に明け渡すことになる。

この時家督相続を許されたのが興五郎-つまり佐治一成少年である。
この幼君の下で、半独立勢力であった佐治氏は織田氏への従属化が進んだのは確かだ。
しかし一成は自分が幼少であることを理由に佐治水軍を解体せず、家督相続の後ろ盾となった織田氏への忠誠心こそあれ、それ以外の感情を持ち合わせていなかった。
本能寺の変後は尾張を領有した織田信雄に仕え、先の北伊勢攻めでは自ら水軍衆を率いて伊勢湾より滝川一益を牽制。
こうして名実ともに14歳の水軍司令官が誕生した。

「一成殿は14歳、小督殿は10歳。似合いの年頃ではないかな?」

この前途有望な好青年と、浅井三姉妹の末妹である小督の婚約を持ち出したのは、今や織田家の最高権力者となった羽柴侍従秀吉である。
長女や次女を差し置き、何故に三女からなのか?
そこに何か秀吉自身の思惑は含まれてはいないのか?
何よりいくら三法師様の後見役であるとはいえ、織田家一族への根回しもなしに、秀吉主導の婚儀を進めてもよいものかどうか。
信雄の使者として京を訪れていた前田玄以は、事の重大性に鑑み、回答を伊勢長島へと持ち帰ることとした。

「いいんじゃない?あの佐治一成くんだろ?
同じ海の男でもアクの強い九鬼の爺さんとは全然違うよな。
真面目で誠実な好青年だし、少し内気な小督ちゃんのお婿さんにはぴったりだと思うよ。
それに一成君がこの間、挨拶に来たんだけどさ、その時小督ちゃん一成君に完全に見惚れてたんだよな。
羽柴と織田が手と手を取り合って天下のために働く。結構なことじゃないか。
うむ、まことにめでたい!結構結構!」

あまりにもあっけらかんとした信雄に、玄以は内心それでいいのかと疑問を持ちながらも再上洛の途についた。



『中川重政文書』津田盛月との往復文書 国会図書館蔵

- 中川重政宛 津田盛月書状 -

ようやくのお返事嬉しく思います。まずは清洲城代になられたとのこと、お祝い申し上げます
-(中略)-
先の書状でお知らせしたように、柴田修理亮(勝家)との一件以降、それがしは羽柴侍従(秀吉)様の庇護を受けておりました。
羽柴家に人は多けれど、恐るべきは黒田官兵衛殿と、羽柴小一郎(秀長)殿のお二人です。
黒田殿は古今東西の軍略や戦史に通じており、敵味方問わずその思考を丸裸にしてしまわれます。
そして小一郎殿は黒を白となし、笑顔で人を刺すことのできる恐ろしいお人です。
されど真に恐ろしいのは、この二人の手綱を引く羽柴侍従。
今や誰もあの男の「勢い」を止めることは出来ませぬ-

- 中川重政宛 津田盛月書状 -

佐治一成殿と小督様の御婚儀に出席されたとの事。
先の信雄様の御嫡子誕生とあわせて、織田と羽柴の将来にとって喜ばしい限りです。
兄上もご存知の通り、羽柴侍従には直系の一族が多くありませぬ。
小一郎殿には一女がいますが、秀吉殿には御子がいませぬ。
羽柴様の家臣では浅野氏、木下氏、小出氏などがいますが、これらは秀吉様の御内儀の縁戚にて、羽柴家の直接の後継者たりえません。
羽柴侍従は甥の三好秀次様に期待を掛けておられるようですが
右府様(織田信長)の御子にして、秀吉様の御養子であらせられる羽柴秀勝様(丹波亀山城主)こそ後継者の本命であり-

- 中川重政宛 津田盛月書状 -

三法師様が織田宗家である以上、信雄様は失礼ながら分家に過ぎませぬ。
信雄様は確かにお若いですが、三法師様や秀勝様はそれ以上にお若いのです
-(中略)-
しょせん羽柴は成り上がり。いずれ羽柴の中で「織田」が天下を握る日が来る可能性は十分にあります。
しかしながら信雄様は分家、そこを羽柴侍従の軍師である黒田殿は警戒しておられます。
信雄様がいずれは三法師様、そして羽柴様に取って代わる野心をお持ちなのではないかと-



- 天正11年(1583) 11月3日 山城 山崎城 待庵 -

薄茶の入った小ぶりの白茶碗を片手で持ち、口に運ぼうとしたところで羽柴秀吉は急に肩を揺らして笑い始めた。
ちょうど一年前の自分も、この茶室で千宗易の立てた茶を喫していた。
あの頃は牢獄のように感じられた四畳ばかりの狭い茶室で、今はこれ程ほどに寛ぐことができる。
自分の心持次第でこうも感じ方が変わるものかと、妙に可笑しくなったのだ。

-まったく、人の心ほどあてにならぬものはない

例えばそれは目の前の大男だ。この男が侘びだのさびだのと理屈をこねるだけで、汚い茶碗が千金に化ける。
市井の茶人であれば一笑に付されるか、または騙りであるとして奉行所に訴えられるだろう。

ところがそれが千宗易であれば、この馬鹿げた猿芝居が許されるのだ。
かく言う秀吉自身、この錬金術から生み出される金子を政治資金として活用している。
それが宗易個人の他者の追従を決して許さない美意識と、それに裏づけされた名声あってのことだとは秀吉も理解している。
しかし織田信長の近代合理主義的な精神を、ある意味では信長以上に受け継ぐ秀吉には、どうしても千宗易の行為に違和感を拭いきれないのだ。

一人の男にしかわからぬ価値観に、一体何の意味があるのかと。
歪んだ茶碗は歪んだ茶碗であり、欠けた皿は欠けた皿でしかないのではないか。

そんなつまらない自分の考えを終わらせるかのように、秀吉は薄茶を一気に飲み干した。

「その勢いで天下を飲み干されますか」
「天下は茶のように簡単ではないわ」

内心では苦笑しながらも秀吉は鷹揚に応じた。
これほどあからさまな追従の言葉なのにも関わらず、この男が言うと神前での詔のように聞こえるから不思議である。

「官兵衛の心配もわからんではないのだ」

空の茶碗の底を見つめながら、秀吉は独語する。

「鎌倉の比企しかり、畠山しかり。遠く先例を挙げるまでもないことだわ」

たとえ本人が望んでいなくとも、そういう立場に推挙される人間というのはいるものだ。
そしてそうした人物というものは、大方は敗者であることが多い。
無論ここで秀吉が念頭におく人物とは、信雄のことである。

確かに本能寺の変以降の信雄は不気味な存在である。
もっとも織田宗家に近い一族であり、そして徹底的な親羽柴派。
かといって必ずしも秀吉の意向にすべて従っているわけではない。
例えば秀吉が10の要望をすれば、そのうち2、3は自分の意思を通すという具合である。
面従腹背という官兵衛の疑問は故なきことではない。

-それで何が問題なのか?

実のところ今の秀吉はかつてほど信雄を警戒してはいない。
面従腹背だろうとなんだろうと、親羽柴派の姿勢は徹底している。
あえて長幼の順を外した小督の縁組にも、何も言わずに受け入れた。
最近ではこちらが望みもしないうちに検地台帳の献上を打診してくるほどだ。
復配だろうとなんだろうと、軍事機密を教えてくれるというのだ。それでいいではないか。

仮に信雄が謀反を起こしたら?

叩き潰すだけのことだ。

尾張・伊勢・志摩の3カ国の太守?

だからどうした?

今の羽柴は、賎ヵ岳合戦前の羽柴とは違うのだ。
京を押さえ、10カ国を領有する自分にいったい誰が勝てるというのか?
所領再編により池田は美濃、丹羽は越前に移転させた。
畿内は羽柴派の勢力圏であり、背後の毛利とは同盟関係。宇喜多との所領問題も解決済み。

確かに四国の長曽我部や、越中の佐々、紀伊の雑賀などの反羽柴勢力は存在する。

だからどうしたというのだ?

かつての織田包囲網が成功しなかったように、秀吉包囲網など成功するわけがないのだ。
何より今となっては上杉や武田はおろか、柴田ですらいない。
烏合の衆など、いくら集まったところでどうとにでもなる。
官兵衛は政権の不安定化を恐れているのだろうが、そんなことは些細なことだ。
多少のごたごたはあるかもしれない。
しかし足利将軍を追放して、織田信長の支配が少しでも揺らいだか?

こうした考えから秀吉は信雄を多少は不気味には思いながらも、最後は勝てるという自信から以前ほど恐れてはいなかった。

「茶においてもそうでございますが、見せるというのも重要なことです」

宗易は茶釜の湯を酌で掬いながら言葉を挟んだ。
あえて話の切り口を変えるのは、何か考えがある時の癖である。

「三法師様の年始の御挨拶は安土ですか」
「せっかく北畠中将が修理してくれたのだ。使わない手はない」

この頃、信雄を始めとした北畠家中の必死の努力により、安土城はようやく人が迎えられるまでの修復工事が完了していた。
来年は三法師が織田宗家の当主として初めて迎える年始となる。
実際には後見役である秀吉が初めて迎える天下人としての正月となるのだろうが。

「……なるほど、貴方は悪人だな」

そして茶頭の言わんとすることを察した秀吉は唇の端だけを釣り上げた笑みを見せる。

安土城本殿の大広間。

年始の挨拶ために集まった諸侯の前に、もし三法師を抱いた秀吉が現れたとしたら?

そして諸侯の中に織田信雄がいたとしたら?

「鉛玉を馳走するだけが合戦とは限りますまい」

そう言って宗易の差し出した二杯目の茶を、秀吉は何のためらいもなく飲み干した。



- 中川重政宛 津田盛月書状 -

書状拝見致しました。兄上の信雄様に対する忠義に、この信重(盛月)感服する次第でございます。
ところで先日お会いした官兵衛殿より妙な噂をお聞きしました。
私はそうした類の話は信用しないのですが……

清洲の城下に僧形の幽霊が出るそうですな。それも六尺ばかりの大男の-



[24299] 第15話「信雄は子守りをした」
Name: ペーパーマウンテン◆e244320e ID:151a2b73
Date: 2013/10/05 23:53
応仁の乱以来およそ百年にわたり続く乱世。
いつ果てるとも知れない戦禍に誰しもがうんざりとしていた。
なぜ自分たちはこんな時代に生まれてしまったのかと。

しかし彼-森長可は今の時代に生まれたことを感謝していた。
強いものが勝つ。
これほど単純にしてわかりやすいことがあるだろうか?
それに大儀だの、名誉だのと理屈をつけようとするから戦乱が長引いてきたのだ。

ほしい物を奪い取り、気に入らないやつを殺す。

当たり前のことではないか。

それが道義的に問題であるかはどうでもいいことである。
今のところ神罰や仏罰とやらは当たったことはない。
俺が気に入らないのなら、俺を討てばいい。
出来るものなら-だが。

本能寺の変の一報を聞いた長可は、天を仰いだ。
どこまでも青く晴れ渡る青空に、思わず笑いがこぼれる。
内心の歓喜が全て爆発したかのような、嬉しくて仕方がないといった笑みを。

「下天のうちをくらぶれば夢幻の如くなり
ひとたび生を得て滅せぬもののあるべきか」

亡き信長の好んだ敦盛を口ずさむ。

彼の背後では長可へのありったけの恨みと絶望を述べながら、信濃国衆の人質達が斬首されている。
愛馬百段に跨りながらその音色に耳を傾けていた長可は、再びその端正な顔をほころばせていた。
信長様が死んだのは確かに悲しい。弟達もおそらく生きてはいまい。
しかしそれ以上に大きな解放感を味わっていた。

あの信長様ですらあっけなく死んでしまった。
しかし幸いにして自分はまだ生きている。
ならば後悔することがないように、やりたいことをやり、したいことをしてしまおう。
生きたいように生きてやろう。
俺にはそれが出来るのだから。

百段に一鞭くれ、単騎駈け出す長可。

信長様亡き後、世は再び乱れるだろう。
もう一度あの単純な論理が支配する時代がやってくる。

さて、ほしい物を奪いにいこう。

気に入らないやつを殺しにいこう。

乱世が再び終わる前に、可能な限り上り詰めてやろう。

「ああ、なんとよき時代なのか!」

森勝蔵長可-乱世に恋した『鬼武蔵』と呼ばれた男である。

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いそしめ!信雄くん!(信雄は子守りをした)

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-天正12年(1584)1月2日 安土城本丸 大広間 -

こんなことが許されてよいのかと、丹羽長秀は屈辱に身を震わせていた。

現在の安土城本丸は篭城戦の損傷激しく、一度解体された後に北畠家の手によって再建築されたものである。
全国各地から三法師様への年賀の礼のための使者が押し寄せ、大広間は人があふれんばかりとなっている。
遠方や病気療養を除くと、そのほとんどが当主自らが出仕していた。
これはつまり三法師様、その後見役である羽柴秀吉の権勢を象徴しているといってよい。

(それで十分ではないか!)

大広間に詰め掛けた諸侯を代表するかのように、織田信雄がまず呼び出される。
秀吉の甲高い声に応じるように上座へにじり寄る。
長秀を初め、誰しもが息をのんで信雄の次の所作を待った。
両のこぶしを畳につけ、額や両の肩もそうせんとばかりに深く頭を下げて年頭の挨拶を述べる信雄。
それを広間の一段高いところから三法師様と、それを抱いた秀吉が見下ろしていた。

(あの男は……ッ!)

瞬間、長秀は自らも驚くほどの激情に奥歯が砕けんばかりに歯を噛みしめていた。

長秀は清洲会議から今まで、織田家と秀吉の橋渡し役として融和に尽力してきた。
政権権安定のためには織田家を秀吉主導の体制に再編するしかない。
そう考えたからこそ息子を羽柴秀長の養子としてやり、「丹羽は羽柴の家臣か」と揶揄されながらも羽柴派の多数派工作に尽力した。

そして秀吉は本能寺の変によりそのまま消え去るかと思われた織田家を存亡の危機から救ってみせた。
柴田勝家を打倒し、自らの主導のもと新たな政権運営に乗り出そうとしている。
自分はそれに協力もしてきたし、それは何も自分のためだけではない。天下万民のために間違いではなかったはずだ。

ならば今のこの自分の感情は何だというのだ?

腹のしこりとはまったく別の、このどうしようもない不愉快な感覚。
秀吉が信雄に笑いかけるたびに、それが自分の中で澱のように蓄積されてゆくのを感じる。

むしろ長秀は政権の結束をアピールするため信雄に出席を求めていた立場である。
だから年賀の儀に信雄が出席すると聞いて喜んだし、この程度のことは予想していた。
そして今、それが目の前でそれが行われている。

―織田家の支配者が誰かということを満天下に示す―

何も秀吉は間違ってはいない。
自分もそれに納得していたはずなのだ。

(……そういうことか)

唐突に長秀は自らの激情の理由に思い至った。
かつての部下であり同僚である男に臣従の礼をとる。
勝家や一益には耐えられなかったようだが、それは長秀にとってはどうでもよかった。
織田家のためならば誰にでも頭を下げてやろう。
それこそが織田家のためであり、丹羽氏のためでもあるのだから。

しかし『織田』が秀吉に頭を下げるのだけは我慢がならないのだ。

元々は旧尾張国人出身の尾張生え抜きである長秀は、織田弾正家が尾張の一勢力の時代から仕えてきた。
信秀に、そして信長に従い戦場を駆け抜け、織田家の拡大に貢献してきたという自負がある。
まさに織田家こそが長秀の全てであり、織田こそが長秀であった。

その織田が今、自分の目の前で秀吉に頭を下げている。

長秀は自分のこれまでの生涯がすべて否定されたかのような感覚に陥った。

自分は今まで織田家のために戦ってきたのだ。
断じてこの小男に天下をもたらす為ではない。
握り締めた両手を震わせながら、長秀は視線を落とす。

(だからといって、いまさら何が出来るというのだ?)

右手を腹の上に置き、痛みを感じた部分をさすった。
この病を抱えた体でいったい何が出来るというのか?

いまや押しも押されぬ存在となった秀吉。
その存在に押し上げたのは他ならぬ自分なのだ。
勝算がなくとも挙兵して一矢報いるか?-いまだ幼い息子や家臣をあたら死地に追いやることが明らかなのに?
長秀は再び腹をおさえた。

(そのようなこと、出来るわけがない)

ならば自分のこの気持ちはどうすればいい?
このやりどころのない澱を胸のうちに抱えたまま死んでゆけというのか?

長秀の視線の先で、再び信雄が大きく拝をした。

臓の腑に三度、耐え難い痛みが走った。



-天正12年(1584)1月5日 山城 京 下京百足屋町 茶屋屋敷 -

店者が行燈の油を変えに来たことに、ようやく夜も更けてきたことに気がついた茶屋四郎次郎清延は眼鏡を外して眉間をもんだ。
彼の前には各地の店舗を任せている番頭からの報告書や資料が乱雑に拡げられている。
為替、米価、建築資材、そして材木に火薬等々。
様々な指数は大体共通した傾向を示している。

-今年は大きな戦はない-

『四国や紀伊の雑賀を除けば、畿内において反羽柴勢力は存在しない。
安土において織田信雄が年賀の儀に出席したことから、旧織田家は羽柴秀吉により一本化された。
紀伊征伐や四国への遠征が考えられるが、常識的に考えれば今年の上半期の羽柴氏は大坂築城を始め国力増強策に専念する』

多かれ少なかれ、畿内の商人や各種の座はそのように考えているはずだ。
昨年の琵琶湖北岸のような長期対陣を強いられる戦はそう起きえない。

(どうにも気に入らないな)

茶屋はそうした見通しに懐疑的であった。
何か確証があるわけではない。しかし自分の商人としてのカンが何かを感じているのだ。

例えば建築資材はどうか。
一事期の冷え込みから一転して大坂築城とそれに併せた京と大坂城下の再開発をにらんで各地で上昇を続けている。
人足需要も引く手あまたであり、口入業者は笑いが止まらないという。
そして人足は足軽に、建築資材は野戦陣地にへと転用できるのだ。

少なくとも羽柴がなにか公式見解をしめしたわけでもないし、まして武装解除をしたと見るのは早計だ。
いつでも、それこそ明日にでも四国遠征が発表されてもおかしくないというのが茶屋の見立てである。

ではこの「戦がない」という噂は一体何なのか?

(あえてそうした噂を黙認しているのか?)

これとよく似た感覚を自分は最近経験している。
あの時も市場はよく似た動きを見せ、直前までまったく動きを見せなかった。

(本能寺)

一瞬、脳裏をよぎったその単語にすぐさま馬鹿馬鹿しいと首を振る。
どこの誰が今の秀吉を相手にそんなことを出来るというのか。

それとも羽柴に本当に戦をする気がないのか?

筆を置き、温くなった白湯を口に含む。

羽柴ほどの勢力となれば、戦をするにしても膨大な事務作業が必要となる。
軍事作戦に基づき数万に及ぶ軍兵の糧食と運送計画を立て、人足や馬の徴用を行わなければならない。
これらのすり合わせは今日明日の準備で出来るようなものではない。

しかし不可能ではないのも事実なのだ。

かつての織田家はそれが可能であった。
信長の作り上げた兵農分離の常備軍が一年中兵力を好きな所に動員できたのも
この膨大な事務作業を事前に準備し、いつでも軍事作戦に従い実行に移せた出来た優秀な事務官僚がいたからである。
しかしこうした事務官僚のほとんどは本能寺で戦死した。

(はたして羽柴にそれが出来るのか?)

空になった湯呑を文机の上に置くと、茶屋はごろりと寝転がり天井を睨む。
確かに秀吉は優秀な男だ。配下も粒ぞろいの人材がそろっていると聞く。
秀吉の率いた中国方面軍は足掛け10年弱にも及ぶ毛利との戦いにより鍛えられている。
しかし一方面軍とは何もかも違うのは、うっすらとした市場の流れでしか知らない茶屋ですら推測できる。
堀秀政や長谷川秀一ら、生き残ったわずかな事務官僚の協力を得たとしてもうまくいくのか?

(…うまくいかなければ)

出来たばかりの秀吉の政権は案外脆弱なものであると茶屋は考えている。
問題はこれをどう本業に生かすかだ。
とはいえ、さしあたっては報告書をつくることが先決であるが。

(さて、家康様になんと報告するべきか)

徳川家の御用商人である彼は、ひとつ大きな欠伸をしてから文面を考え始めた。



-天正12年(1584)2月10日 伊勢長島城 -

「べろべろべろ~ヴぁ~あ~」
「ふぇああああああ!!!!!」

けたたましい赤子の泣き声に、雪姫は無言で信雄の頭を殴った。

「な、何をするんだ!」
「どう控えめに見ても子供を食べようとする鬼にしか見えませんでしたので」

雪姫は信雄を見もせずに木造殿から赤ん坊-百介を受け取る。
するとわが子はそれまで泣いていたのが嘘のようにきゃっきゃと笑う。
このガキ、いい根性してるじゃねえか。
息子相手にしょうもない意地を張る信雄の頭をもう一度殴る雪姫。

「いやはや」

仲がいいですねと、佐治一成はさわやかな笑みを浮かべた。まったく今の世には珍しい素直な子である。
海賊少年とその妻は、婚儀の際に「いつでも遊びにこいよ」と言った信雄の言葉に従い長島まで遊びに来ていた。
それにしても婚儀の時も思ったんだが、なんだか二人が並ぶとままごとの夫婦みたいで可愛いな。

「お名前は百介様ですか」
「俺が名前付けたんだ。百歳まで生きるようにってな」
「三介の息子で百介。安易ね」
「茶々、そんなこというけどよ」

じゃあ俺とかその兄弟みたいな幼名のほうがよかったのか尋ねると、一人大きく頷く茶々以外の全員が視線をそらした。
やっぱりあれはねえよなと思ってたんだな。
兄貴(信忠)の奇妙丸はまだいい。自分の子供を奇妙と呼ぶセンスもどうかと思うが。
俺なんか茶道具だぞ?何を考えたら茶筅ってつけようと思うんだよ。
信秀の大洞(おおぼら)に、弟の小洞(こぼら)もよくわからないけど
その下の酌(しゃく)なんて完全に母親の御鍋の方(信長側室)とセットじゃん。

「……確かに『人』はないですよね」

そうだろ一成君!人(信長9男)なんか『人』だぞ『人』?
自分で喋っていてもわけがわからないよ!
犬に『犬』と、猫に『猫』と名付けるようなもんだぞ?

「可愛いじゃないですか」

茶々、お前はもう少し空気を読もうな。

ちなみに長島城には信長の成人していない子供が多数居住しているため、さながら保育園のような様相を呈している。
信雄は「何もすることないなら何かしろ」という腹いせ含みでその世話を織田ババ3衆(土田御前、濃姫、五徳)に押し付けた。
最初こそぶーぶー文句を言っていたが、最近ではまあ楽しそうにしているのでよしとするか。

ところでこの赤ん坊。おそらく将来の秀雄だと思われるのだが本来の幼名は『三法師』という。
さすがにそこまで地雷を踏むつもりはない信雄は、自分の三介から一字をとり
早死にしたこの子が少しでも長生きできるように「百介」と名付けた。

その百介は小督に抱かれてすやすや寝ている。
ぎこちないながらも抱っこしている小督がなんだかとても可愛い。
しかしこいつは女が抱っこすると絶対泣かないんだよな。
女なら誰でもいいのかこいつは?


……なんでみんな俺を見るんだ?


「ねーねー、一成君は小督とドコまでいったの?ていうかヤッたの?」

お初、お前後で説教な。

「今回の長島城がもっとも遠出したところですね。いつか一緒に京へ行ってみたいのですが」


一成君。あとでこっち来なさい。雪ちゃんがいろいろと教えてあげるそうだから。


ん?どうした土方?血相変えてさ。

清州から浅井田宮丸が来たって?何かあったのかな。
まあいいや、一成くん。聞いてたと思うけどちょっと用事が出来たから席を外すから。
ゆっくりしていっていいからね。小督ちゃんも。

「さ~て、パパはお仕事行ってくるからね~、いい子にしてるんだよ~」

親馬鹿丸出しの緩んだ表情で、髪の毛の生えそろわない息子の頭をなでると、信雄は書斎を出て浅井長時の待つ部屋へと向かった。



おう、またせたな田宮丸。
清州はどうだ。重政は元気にしてるか?
なんだ?どうしたんだよ?そんな難しい顔をして…

「佐久間玄蕃を清州にて捕えました」

「…………は?」

え?何で生きてるの?

いやいや、斬首されて………あれ?そういえばあいつ捕まってない?

え?どういうこと?

「…………………は?」



[24299] 第16話「信雄は呆気にとられた」
Name: ペーパーマウンテン◆e244320e ID:71b89978
Date: 2013/09/27 19:30
-天正12年(1584)2月1日 越中 富山城 -

「佐久間玄蕃が生きておるだと!」

握り飯をほおばっていた佐々成政は飯粒を吹き出しながら叫んだ。

元加賀御山城主の佐久間盛政は賤ヶ岳合戦における中入り策の強行と、その失敗から戦犯として批判されることが多い。
実際、彼が引き際を誤ったために柴田軍の陣形は崩れ、数に勝る羽柴軍に敗れ去った。
しかし盛政を単なる猪武者であるとするのは間違いだ。
前田・金森の撤兵により柴田軍が総崩れとなる中、盛政は「鬼玄蕃」の本領を発揮。
殿として羽柴勢を何度も激退するなど獅子奮迅の働きを見せた。
それは敵方の秀吉をして「ここで失うのはあまりにも惜しい」と言わしめたほどである。

そして盛政は姿を消した。

秀吉は柴田家掃討の総仕上げとして佐久間に多額の懸賞金をかけ、旧柴田領の前田氏や丹羽氏にも捜索を命じたが
度重なる残党狩りにもかかわらず、その行方の手掛かりすら見つけられなかった。
そのため「盛政は退却戦の傷がもとで亡くなった」というのが、大方の見方であった。

「確かに兄上は鉄砲傷がもとで一時は歩行すら出来ない状態であったようです」と、佐々勝之は言う。
盛政の実弟である勝之は、戦場において兄とひけをとらない勇猛果敢な男であり、そこを見込んで成政は彼を婿養子に迎えていた。
その勝之のもとに盛政からの書状が届いたというのだ。

「馬を乗り捨てて森の中をさまよっていたところ、近隣の猟師に保護されたようです。
街道から外れたところにあり、それゆえ羽柴の追手も見つけられなかったのでしょう」
「それで今は清州におるのか」
「左様、清州にござる」

剃髪したばかりの頭を僅かに傾けた成政は、娘婿の前にも関わらず舌打ちをしていた。

柴田派最後の大名として抵抗を続けていた成政の降伏が認められ、越中半国を安堵されたのはつい最近のことである。
しかし東西を上杉・前田という仮想敵国に挟まれた環境が変わったわけではない。
何より南の飛騨姉小路氏が反羽柴の姿勢を崩していないことが成政の頭痛の種であった。
元々姉小路は佐々と関係が近かったが、成政が秀吉への降服を決めたことで関係が悪化。
しかし飛騨討伐を命じられた越前大野の金森法印らは、これまでの経緯から「姉小路の後ろ盾は佐々」との見方を崩してはいない。

その誤解を必死に解こうとしている最中、飛び込んできたのが「盛政生存」の報せ。
実兄の生存は喜ばしいことであるが、同時にあまりにもタイミングが悪いことは勝之も理解しているようだ。
目の前で苦悩の表情を浮かべる娘婿が悪いわけではないが、成政は何故だと問い質したくなる。
好きでもない秀吉にようやく頭を下げようと腹をくくれば、この始末である。
どうした因縁のめぐりあわせなのか。

「どうやら、よほどあの男とわしは合わないらしいな」

成政は自らの薄暗い想像を吐き出すかのように、一つ深い溜息を吐いた。

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いそしめ!信雄くん!(信雄は呆気にとられた)

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- 天正12年(1584)2月14日 三河 刈谷城 -

三河刈谷城主である水野惣兵衛忠重は激怒していた。
その剣幕といったら、普段はまったく言うことを聞かない忠重の嫡男が「あれは不味い」と思わず逃げ出すぐらいのものであった。

「あの馬鹿たりゃ、何を考えているのだ!」

水野氏は尾張知多半島に本拠地をもち、いくつかに分かれながら、戦国時代初頭にはかなりの勢力を誇ったこともある。
織田と松平(徳川)の勃興後は、両国の国境に位置する位置にありながら両者の間を巧みに泳ぎ、その領土と地位を保つという離れ業を見せた。
そのうえ先代の水野信元は徳川家康と縁戚関係(家康母方の叔父)にあることから清洲同盟の仲介までしている。
徳川かといえば織田であり、織田といえば徳川という、いかにも中世的な大名といってよいだろう。

当代の忠重は、その信元の弟である。
彼自身も徳川に仕えた後、水野本家を相続すると織田家に属したという経歴の持ち主であり、織田と徳川の両方に顔が利く。
それゆえ織田信雄家の清洲城代である中川重政とも関係が深い。
重政が織田家を追放されてから一時期、徳川の客将であった時期にはくつわをならべて戦ったこともある。

その朋友が仕出かした事に、忠重のみならず織田に属する者は腰を抜かさんばかりに驚いていた。

「よりにもよって佐久間を匿うとは…」

中川重政はなんと行方不明であった佐久間盛政を密かに匿っていたというのだ。
それもよりにもよって、羽柴家からの指摘によって発覚したというのだから目も当てられない。
京に上洛していた浅井長時に、羽柴秀吉の家老浅野長政は佐久間隠匿を詰問。
慌てて清須に戻った浅井が中川重政に尋ねるとこれを認めたので事実が発覚した。

清洲城下の宿屋に堂々と偽名で滞在していた佐久間盛政の身柄を確保したのが2月8日。
公式発表こそないもの、すでに佐久間の一件は織田家中では知らぬものがないほど広まっていた。

忠重と共にこの知らせを聞いた丹羽氏勝(丹羽長秀とは別族)が呻くように漏らす。

「おそらく佐久間は徳川家を頼るつもりだったのだろう。
その仲介役を中川に依頼したということではないのか?」

老将の推測に「馬鹿な」と忠重は吐き捨てた。仮にそうだとしたら、佐久間も中川も何と甘い考えであることか。
佐久間盛政は柴田勝家とともに三法師様の後見役である羽柴秀吉に弓引いた謀反人。
あえて言うなら明智光秀と同じ存在といってもよい。
その反逆者をかくまうということは、秀吉の面子を潰すのは勿論、「謀反の意あり」と受け取られても仕方がない。
信長の勘気を被った重政が徳川家の客将となった時とは政治環境から何からすべて違うのだ。

「頭がぼけていたとしか思えん」
「まったく実に馬鹿馬鹿しいことだ」

忠重も氏勝も言葉はあくまで厳しい。
ましてそれに巻き込まれることが分かり切った状況ではなおさらだ。

-さて、どうするかな-

本能寺の変では京に滞在しながら単独逃げ延びることが出来たように、忠重は独特の政治嗅覚を持つ。
佐久間の一件がいかなる政治的波紋を引き起こすことになるのか。
羽柴は佐久間の引き渡しを要求してくるであろうが、それ以外にも何か要求を突きつけてこないか?
仮にその場合、信雄はどう対処するか。要求を受け入れるか、それとも拒否するか。
その際、織田信雄に仕える水野はいかなる行動を起こすべきか。
そしてなにより、隣国にして縁戚である徳川家はどう動くか。

考えることは山ほどあるが、時間は限られている。
氏勝と忠重は深夜遅くまで密談を続けた。



- 天正12年(1584)2月10日 摂津東成郡 大阪城建築現場 -

(尼子の一党以来だな)

黙り込んだまま歩き続ける秀吉の背中を見ながら、羽柴秀長は播州攻略戦の往時を思い出していた。
吉川駿河守率いる毛利の大軍に包囲された上月城の尼子勝久を切り捨てた時にも、秀吉はこうして一人黙り込んでいた。
一見すると兄は外交的に思えるが、実際には内に籠もる性格である。
何か考え事をしながら一人で酒を飲んでいる時などは、弟である秀長でさえ近寄りがたい雰囲気を漂わせている。
そんな時に秀吉の側に寄れることが出来るのは義姉の寧々くらいのものだ。

「官兵衛」
「はっ!」

踏み固められていない不安定な足元の中、それでも杖をつき、必死に自分の後を追う軍師に秀吉は問う。

「存念を申せ」

「しからば申し上げます」と官兵衛はどこか硬く緊張した声で自分の考えを述べ始めた。

「佐久間は三法師様へ弓引いた謀反人、つまりは天下への謀反と同じこと。
その謀反人をかくまうは、それに同調したも同じこと。
何より中川は清州城代であり、信雄様より尾張を任されています」

つまり信雄が関係あろうとなかろうと、謀反人を匿ったことを理由に厳罰に処するべきだと言いたいのだ。
信雄には正月の安土における年賀の儀よりもなお徹底した臣従をもとめるべきであると官兵衛は主張する。
そしてそれは三法師よりも、秀吉個人へのものが望ましい。

信雄側は「織田家における宗家(三法師)と分家(信雄)問題」としたいだろう。
しかしそれでは駄目なのだ。
あくまでこの問題は『羽柴』と『織田』の問題でなければならず、そうでなければ意味がない。
佐久間の引き渡しにしても、あくまで秀吉と信雄との交渉でなければならない。

(これでは羽柴はいつまでたっても織田の管領のままだ)

『織田』を秀吉に屈服させるためには何が必要か-官兵衛はそれを考え続けてきた。
官位で上回ることは容易だが、それだけでは欠けるものがある。
あくまで秀吉は三法師の後見役であり、朝廷の官位を除けば「織田家の中での最大派閥」でしかない。
三法師を掌中におさえた今、秀吉には向かうことは織田家宗家へと刃向かうことと同じ意味を持つ。

しかし一人だけいるのだ。三法師を差し置いて「織田」を名乗ることが可能な人物が。

いうまでもなく織田信雄のことである。

元々、官兵衛は秀吉の意向とは別に信雄の織田復姓にも反対であった。
本人が北畠でいいというならそのまま名乗らせ続ければよい。
その方が三法師を抱えた秀吉の権威向上に通じるではないかという考えからであった。
ところが件の茶頭と一部の公卿が要らぬ知恵を出したことから、北畠家は公卿として再興。
そして信雄は復姓した。

結果どうなったか?

信孝亡き後、織田一族の中で最も三師法に近いのは信雄となった。
尾張における信忠の旧臣を数多く召抱え、100万石近い領土を有する大大名。
これは旧織田領においては羽柴秀吉や丹羽長秀に次ぐものである。
そのうえ信雄という男は本能寺以来、一貫して羽柴派として振舞っている。
表面上はあくまでも慇懃でありながら、その実は何を考えているのかまるで理解出来ない。

この危険分子を早急に排除、もしくは無力化するべきであるとする官兵衛にとって、今回の事態はまさに千載一遇の好機であった。
これがもう少し早ければ羽柴と織田の間で速やかな政治決着が望めたであろうし、もう少し遅ければ四国征伐、つづく九州遠征が始まっていた。
もし羽柴家が西国政策に本格的に乗り出していた時期にこれが発覚したのなら、秀吉は織田信雄に対して譲歩を強いられていたはずである。

これはまさに神の与えたもうた奇跡-などではない。

官兵衞はあえてこの時期を狙い佐久間盛政の隠匿を暴露したのだ。

秀長も、そして秀吉も薄々ではあるがそれに感づいている。
しかし彼らは何も言わない。

西国進出を急ぎたい秀吉にとって、織田家中の序列再編は後でも良いと考えていた。
何より信雄は犬のごとく自分に尻尾を振っているではないか。
身の程をわきまえて自分に逆らわないのならそれでいいのだ。
土下座する相手の頭を屈辱を与えるためだけに足で踏みつけるのは、羽柴兄弟の好みではない。

「中川の処分は無論のこと、信雄様の秀吉様への直接の謝罪、領土割譲の要求などが考えられます」

そして秀長も官兵衛も自らの主君というものを正しく理解していた。
たとえ好みでなかろうとも必要とあれば、その頭を蹴り上げることすら躊躇なく出来るのが天下人としての素質である。
そして羽柴秀吉はそれが出来る人間であった。

「如何なさいますか」
「……この一件に関してだけは任せる」

秀吉は短く官兵衛に命じる。

ついぞ後ろを振り返ることはなかった。



-天正12年(1584)2月15日 伊勢長島城 -

佐久間が逃げてきました。

清州城代の中川が隠れて保護してました。

秀吉にばれました(いまここ)

「まだだ、まだあわてる時間ではない」
「皆様お集まりです」

側近である土方官兵衛が信雄に冷たい現実を突き付け、家臣団の集められた広間へと連れ出す。
主君が思考を停止していた間にも、最近では信雄家の官房長官のような役割を担っている土方はすでに善後策協議のため主だった家臣の招集を命じていた。
まったくもって持つべきは優秀な家臣であろう。
しかしながら筆頭家老の津川をはじめ、滝川三郎兵衛、岡田重孝(長門守嫡男)はそれぞれの居城にあり
有力諸侯である織田信張や織田信包らも当然ながら行政府である長島には常時滞在しているわけではない。
当然ながら前田玄以を始め、佐久間不干斎や土方など文官が中心である。

あえて武官の名前を挙げてみるなら―

たまたま挨拶に来ていた尾張黒田城主の沢井吉長
隠居の木造具政と付添いの長正親子
そして遊びに来ていた佐治水軍を率いる一成少年
織田長益のもとで勘定方を手伝わせている岡田将監善同(長門守次男)

突如降ってわいたようなこの天災に対処する妙案があるはずもなく、広間は暗い雰囲気に覆われていた。
そして誰しもが黙り込む中、おずおずと手が挙がる。

「とにかく釈明をしなければなりませんな」

まずは常識的な提案をしたのは生駒家長。

それはそうだが、何をどう釈明すればいいんだ?

「ありのままのことを申し上げるほかございますまい」
「清州城代が柴田の重臣を匿っておりましたとでも?」

この中では数少ない将校といってよい木造左衛門尉長正が厳しい視線を向ける。
具政の嫡男である長正は長島一向一揆との戦いで水軍を率い、すでに文武両道の勇将として名高く、いずれ織田家を担う人材として家中の期待を集める存在である。
普段は父と同じく温厚な男であるが、羽柴との合戦となれば最前線に立つだけに自然と言葉が荒くなる。
これには家長も多少気色ばんで言葉を返した。

「今更事実を隠してもしょうがあるまい。そもそもそれ以外にいかなる対処があるというのか」
「誰も釈明すること自体は否定してはいない。だがそれで通るのかと申して居るのだ。
大体、中川殿はどうされるのだ。
かの御仁を清州城代に据えたままで秀吉が釈明を受け入れると思われるのか?」

清州城に駐留する浅井長時が顔を曇らせる。仮に中川を罰するなら、この一件に無関係とはいえ長時も何らかの処分は免れない。

「後任はどうされるのだ?その理屈でいうなら浅井田宮丸殿や滝川三郎兵衛は外れることになるが」

同じ尾張衆である勘定方の岡田将監善同が軍事面からの早急な処分決定に懸念を示す。
尾張一国の軍事を統括する清洲城代が誰にでも務まるわけではない。
軍事空白をもたらさないためにも後任人事を決めてからという善同の意見にうなずく者もいたが、長政はそれをも否定した。

「後任人事よりもまずは中川殿の処分が先でござる。
よいですか!あれは三法師様への謀反人をかばったのですぞ!」

あくまでも三法師への筋を通すべきだとする長正の意見に、表立った反論はしにくい。
善同も長正の剣幕に「それはそうですな」と返すしかなかった。

「…木造殿は佐久間玄蕃の引き渡しを前提に話しておられるようですが」

黙り込んだままなの信雄にかわり会議の進行役を務める土方の発言に、長正は「当り前ではないか!」と床をこぶしで殴って怒りを顕わにした。

「羽柴は必ず引き渡しを要求してくるぞ。それを断ればどうなるかわかっておるのか!」

会議の場は再び重い空気に包まれた。
佐久間玄蕃を匿っていただけでも翻意ありと疑われるのには十分なのだ。
その上引き渡しを拒否すればどうなるか。想像するまでもない。

「しかしながらそう簡単に引き渡してよいものでしょうか」

「何を馬鹿なことを」と吐き捨てる長正に、佐久間不干斎はひるまず反論する。

「引き渡しを要求してきたからこそ、羽柴と交渉する余地があるのではないですか。
要求がありましたので引き渡したでは、羽柴殿は必ずその次を要求してきますぞ。
それでは当家の面目はいったいどこにあるというのです?」
「……さすがに身内にはお優しいですな」

顔色を変えた不干斎の腕を、土方が素早く右側に回り込んで抑える。
木造具政も「言葉が過ぎるぞ」と息子を咎めたことから、長正もようやく矛を収めた。

「……確かに佐久間殿のおっしゃることには一理あるやもしれませぬ」

羽柴への使者となることが内定している前田玄以の発言に、皆がざわめいた。

「失礼だが、貴殿は現状を理解しておられるのですか?」

厳しい言葉を投げかける家長に「無論理解しておりますとも」と応じる玄以。

「なに元亀天正の足利殿や一向衆との交渉に比べれば、秀吉殿の相手など屁でもござらん。
いかなる条件をつきつけてくるやもしれぬが、心配ござらん。
それがしの舌の先で転がして遊んでくれようぞ」

普段は言葉数の少ない玄以が「まあ、ここは拙僧にお任せあれ」と自信満々で胸を叩く様に、ある者は頼もしさを覚え、またある者は不安を覚える。
その根拠を問い詰めたそうな者もいたが、他に妙案もなく、ましてや玄以に代わり使者となるだけの自信もなかった。
そのため誰もがこの元僧侶の言葉を信じざるを得なかった。
「では今後の羽柴との交渉窓口は玄以殿に」と土方が引き取ると、沢井吉長が手を挙げて発言を求める。

「動員の準備は如何なさいますか」

「それはならん。羽柴に無用な警戒を与える」と玄以が間をおかず否定したが、吉長は気分を害した様子もなく応じた。

「しかしそれでは尾張国内で合戦となった場合に間に合わぬ恐れがございます」

仮に羽柴と合戦となった場合、 鈴鹿山脈や紀伊山地など険しい山々で隔てられている伊勢や伊賀はともかくとしても
平坦な濃尾平野が広がる尾張はすぐさま戦場となる可能性が高い。

「池田一族や森武蔵守とて、いざとなればどこまで信用できるか」

吉長の発言に、居並ぶ諸将から思わず失笑が漏れた。
池田勝入斎が美濃国人衆を半ば強引に配下に組み込もうとして、稲葉一族を初めとした与力大名と対立していることは旧織田家中で知らぬものがない。
ましてその娘婿である森長可の北信濃や東美濃における悪評は言うまでもない。
「やられるまえにやれ」ではなく「やれそうだからやってしまおう」という男だ。
何をしでかすかわかったものではないという意味においては、この場にいる全員が森武蔵守への共通の認識を持っていた。

「……それは滝川三郎兵衛や織田信張に任せておけばいいだろう」

それまで黙りこんでいた主君の言葉に皆が注目する。
「まずは事実の確認が先決だ」と信雄は自分に言い聞かせるように話した。

「いくら羽柴といえども、いきなり武力制裁は出来ないはずだ-今はな」

「今ならまだ織田信雄には利用価値があるのだ」と、信雄はほとんど誰にも聞こえない声で独り言ちた。
本能寺からいまだ2年も経過していない中、まだまだ秀吉には『織田』の権威が必要であった。
無論それは秀吉が『織田』か、もしくはそれ以上の権威を得た段階で用済みとなる危険性もはらんでいる。
まして織田とは何も『信雄』でなくともよいのだ。最低でも三法師さえいれば恰好はつく。

(つまりは時間との勝負だ)

たしかに佐久間の一件は不意打ちであったが、どうにか政治解決が図れない問題でもないと信雄は考えていた。

つまり信雄としては羽柴政権において、どんな立場であれ自らの地位を確保できればいいというのが優先順位の筆頭となる。
そのためならば自分はいくらでも頭を下げるし、最悪ならば領土割譲にも応じるつもりがある。
後者の場合は家中の反発が予想されるが、それでも旧織田家臣を秀吉に幾らかでも引き受けてもらえるならどうとでもなる。

秀吉はどうなのか。
本来であれば九州政策に―そのためにはまず四国遠征に着手したいはずである。
あくまで推測ではあるが、いくつかの要請が秀吉のもとにあるのも事実だ。
大陸貿易の復権を狙う堺商人、織田家以来の同盟関係にある大友氏からの悲鳴のような救援要請。
その大友を始めとした九州のキリシタン大名を支援する南蛮商人や宣教師達からの陳情。
そして何より「やんごとなき」筋からも九州情勢は危険視されていた。

(今の秀吉は旧織田領内をまとめるよりも西国進出を優先したいはず)

そのためには遅過ぎても早すぎてもだめなのだ。
今の『織田信雄』を最も高く売るためにはどうすればいいか。
元々ケチで、転んでもただでは起きるつもりのない信雄はそれを考えていた。

「一か月や二カ月も回答を待ってくれるわけではない。長引かせても数週間が限度というところだろう。
早急に善後策を決めなければならないが、まずは中川の聴取が終わってからだ。
津川や叔父上(信包)らの意見も聞く必要があるだろうしな」

反則的な知識が全く意味をなさない今、これまでのように簡単に結論が出せる問題でもない。
何より秀吉が西国進出よりも織田と羽柴の関係清算を優先するなら、前提自体がまったく異なってくる。

「それでは聴取が終り次第、再度重臣方の意見を踏まえて対応を決定。
前田殿を使者として派遣することでよろしゅうござますか」

土方の提案に反論は出ず、会議が終わろうとしていたその時。
廊下を慌ただしく掛ける音が響き、信雄付の小姓である水野小次郎がその怪しげなまでに美しい顔を悲痛な色に染めて飛び込んできた。
「何事か!」と誰何する木造具政に、小次郎が構わず続けた。


「も、森武蔵守が尾張犬山城を囲みました!」


………お前は何を言っているんだ?




[24299] 第17話「信雄は腹をくくった」
Name: ペーパーマウンテン◆e244320e ID:151a2b73
Date: 2013/10/10 19:40
合戦において前衛部隊、すなわち先鋒の果たす役割というのは非常に重要である。
先方が敗れればその余波は後陣にまで波及し、戦局は一気に悪化する。
逆に相手の先鋒を打ち破れば、相手方の本陣目掛けて駆けることが可能となるわけだ。
本来ならば最も戦上手なものを選ぶのが望ましいが、それでも陣中によほどの戦上手がいない限りは
危険ではあるが最も功を立てやすい先鋒を希望するものが絶えない。
こうした無用な争いを避けるため「合戦場に最も近いものが先鋒となる」という不文律が存在する。

たしかに合理的ではある―本来最も重視するべきであるはずの部隊の強弱を除けばだが。

そして森長可はおそらくこう考えたのではないか?

「先鋒は自分をおいてほかにはない」と

その領地である美濃兼山は予想された合戦相手からは、先鋒としてはおかしくはないほどには近く
領主である森長可といえば旧織田家中において戦上手で知られていた。
確かにこれだけならば何も不都合なことがなかったのである。

問題があるとすれば、森長可が誰の許可も取らずに合戦を始めたことであろうが。

中和田哲男『犬山合戦』より抜粋

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いそしめ!信雄くん!(信雄は腹をくくった)

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織田信張とは如何なる人間なのか。

尾張守護代織田氏、その家老である織田大和守家にはいわゆる織田三奉行と呼ばれる家があり、彼はその「藤左衛門家」当主である。
弾正忠家(信長の系統)と同格であったが、当主の早世が相次いだため早くから弾正忠信秀に、そして信長に仕えた。
信張はこの7歳年下の義理の従兄弟によく仕えた。
近江浅井攻めや比叡山焼き討ちなど、信長の赴くところにその姿が確認できる。

信張を一言で言うなら「戦争屋」である。

長島一向一揆との戦いでは一子信直を失いながらも、その粘り強い戦ぶりが評価され、天正5年(1577)からは紀州雑賀攻めを命じられた。
紀伊の国人衆である雑賀は海運業等でなした莫大な財力、そして莫大な鉄砲で武装した精強な傭兵を備えていた。
信長自身彼らによって何度も苦汁をなめさせられ、その畿内戦略の修正を迫られている。
この雑賀攻めを命じられた信張は、あくまで正攻法で攻略にかかった。
5年近くもの長きにわたり粘り強く合戦と交渉を繰り返した結果、雑賀衆の活動を抑え込むことに成功したのだ。
この功績により岸和田城主として和泉半国守護に任ぜられる。
その兵力は本能寺の変まで信長の直轄軍として位置づけられており、その配下も「信長の近衛師団」に相応しいものであった。

しかし信張には政治的才覚というものがまるで備わっていなかった。
本能寺の変により発生した一揆鎮圧に追われる中、山崎合戦に従軍した蜂屋頼隆に和泉方面軍の地位を奪われている。
そして続く賤ヶ岳の戦いにおいても厳正中立を保ったことから秀吉に疎まれ、岸和田城を羽柴家の中村一氏に明け渡して尾張へと帰国する。

この時すでに56歳。すでに引退してもおかしくはない。
この尾張小田井城で隠居していた老将を、わざわざ犬山城代に引っ張り出したのが尾張国主織田信雄である。
ブランクのあるベテラン(中川重政)に融通の利かない戦上手(織田信張)を組み合わせようとする意図であったのはすでに述べた。


つまり織田信張という老人は人生のほとんどを戦場で、それも厄介な相手ばかりと戦い続けたプロの戦争屋である。


「信濃や美濃の豪族相手に粋がっていた小僧がわしの相手をしようなど、10年早いわ」

散々に打ち負かされて我先にと退却する森武蔵守の軍勢を見ようともせず
信張は床几に座ったまま何事もなかったかのようにぷかりとタバコの煙をふかしていた。

深夜兼山城を出陣した森家の軍勢は木曽川沿いを下るように行軍。
攻撃部隊は夜明け前の奇襲を狙っていたが、下流に位置する要所犬山においてこの動きは察知するのは容易であった。
まして上流の城主があの何をするかわからない森武蔵である。警戒しないでいる方がおかしい。

この犬山城攻略を図る森長可の軍勢に対して、信張のとった対応はきわめて単純なものである。
軍勢を犬山城城下までおびき寄せる―そこで伏せていた部隊と城からの兵で挟撃。
言葉にするとただそれだけなのだが、突発的な事態に「それだけ」の事を何事もなく成し遂げるのがいかに難しいことか。
深夜の行軍で神経を疲弊させていた森の軍勢は、奇襲という絶対優位性が崩れたことで士気が瞬く間に崩壊。
これに徴用した船で川の上からもさんざん鉄砲を打ちかけたため、さすがの鬼武蔵も軍勢を立て直すことができず退却していった。

「本当によろしかったのでしょうか」と孫の信氏が不安げな顔で尋ねるが、老将の答えは明確であった。

「先に噛みついてきたのは森武蔵守ぞ。火の粉を払ったまでのことよ」

なるほど「そもそもあの狂犬相手に話し合いなんぞ出来るわけがなかろう」という言葉には同意する。
とはいうものの「躾のなっていない犬は叩いて躾けてやらねばな」と笑う祖父ほど信氏は楽観的ではいられなかった。
戦場においてはこれほど頼りになる存在はないが、この祖父は畳の上では全く頼りにならない。
一流の戦術家ではあっても戦略家としては二流であり、政治家としては三流以下。
織田信長という一流の戦略政治家の下での方面軍司令官であればそれでよかったのだが。

経験の浅い自分でさえ思い浮かぶ先行きへの懸念が、この祖父には考慮の端にすら上らないようだ。
羽柴派の森家の軍勢を織田信雄の家臣が撃退した―これが何を意味するのかを。
美味そうに煙草を吹かす祖父から視線を外すと、信氏は判断に迷う。
考えるまでもなく結論は分かり切っていたが、それでも一応は判断を仰がねばならない。

「これは大きな合戦になりますな」

そして信張は「それは楽しみじゃ」と大笑する。
ああ、この人は本当に目の前の戦のことしか頭にない人なのだ。
夜明けを知らせる鴉の鳴声のもと、信氏は乾いた笑い声を立てた。



「忠三郎が…」

ようやく発した言葉は、自らの咳き込みにより掻き消えた。
近江日野城主・蒲生賢秀は昨年末より病の床についていた。
息子が入れ替わり立ち替わり京より呼び寄せたという薬師はこれで何人目だったか。
どれもこれも口をそろえて「寒さにより体調を崩されたのでしょう」と、自分ではなく息子の顔色を伺いながら言うばかりだ。
医師など呼ばなくとも体調のことはほかならぬ自分自身が誰よりもわかっている。
おそらく自分は時を置かずして右府様(信長)のもとへと向かうことになるのだろう。

その息子はというと、最近は自分の元へ姿を見せようとしない。
あれが何をしようとしているかは大体想像がつく。

(また勝手なことをする)

森武蔵守の犬山城攻撃とその失敗は、凪いだ湖面に巨大な石を投げ入れたかのごとき波紋を広げた。
秀吉殿や信雄殿が望もうと望むまいと、これで佐久間の一件での政治的解決はなくなったといってよい。
もはや事態は『織田信雄』と『羽柴秀吉』の合戦がいつ始まるかに焦点が移りつつある。
ここで下手な妥協をすることはすなわち、戦国大名としての全てを失うことだ。

病床にありながらも、賢秀は事態の推移をほとんど正確に把握していた。
六角から織田へ、そして羽柴へ。
水が低きに流れるように権力も移ろいゆくものだ。
たとえ信雄殿にその資格があろうとも、川の流れを押しとどめることなどできるはずがない。
そして水の流れ行くさきにあるのは羽柴秀吉。

(しかしそれだけでは人はついてはいけない)

事実上秀吉殿が最高権力者であるとしても、織田三法師政権というファンタジーは誰にとっても都合がよい。
かつての同僚である秀吉殿を首班に仰ぐ旧織田家の連合体ではなおさらである。
そしてこのファンタジーは織田一族の人間が認めてこそ成り立つ。
これに最大のお墨付きを与えていたのが信雄殿だ。

信雄殿があくまで三法師政権を認めないとする立場なら話は簡単だったのだ。
三法師様に逆らう謀反人として叩き潰すことも可能であったろう。
しかし信雄殿はあくまで三法師政権を認めた上で、むしろ後押ししてきた立場の人間。
信雄殿と戦うことは、すなわち織田と羽柴のあいまいにしていた関係を強制的に清算する事に他ならない。
三法師様に首を垂れるのとはわけが違う。
あくまで羽柴家に、それも秀吉個人に臣従するか否か。

当然ながらこれでは旧織田家諸侯の意気が上がるはずもない。

確かに今の羽柴家ならば最終的に信雄様を押しつぶす事も可能であろう。
だがその場合は羽柴家の損害は大きくなるし、旧織田諸侯のサボタージュも予想される。
そうなれば現政権における羽柴家=秀吉の求心力は低下を免れない。
とはいえここまできて戦わずにいては、それこそ秀吉殿の威信を落とすことになる。

『いかにすれば旧織田諸侯の結束と世論の支持を得られるか』

秀吉殿も、おそらく息子もそれを考えている。

(丹羽、前田、筒井、それに中川清兵衛の嫡男か)

信雄殿が多くの織田家子女の後見役として保護している以上、彼女たちの支持を得ることは難しい。
しかし娘婿ならどうか?
自分を含めたこれらの家は嫡男に「信長の娘」を迎えている。そして織田信雄殿との距離はそれぞれ異なる。
ここで信長の娘婿たる忠三郎が明確な羽柴支持を打ち出せばどうなるか。
すくなくとも世間一般の「旧主を滅ぼそうとする家臣」という悪評は多少なりとも薄れるであろう。
そして北陸の前田や幼少の中川の嫡男よりも、最前線に立つことになる大和筒井、そして南近江の蒲生の影響はより大きくなる。

あれは自分を頼むところが強すぎる男だが、それでも自分の価値というものをよく知っている。
おそらく息子はそれを秀吉殿に売り込んでいるはずだ。
丹羽殿のように旧主への憐憫の情など持ち合わせてはおるまい。

(それにしても丹羽殿ともあろうお人が、なんとも馬鹿なことをしたものだ)

後瀬山の丹羽長秀殿は森武蔵守の犬山攻撃を聞き、すぐさま家臣団を集めて『出兵拒否』を宣言したという。
この状況で信雄様に味方するわけでもなく、まして秀吉殿から何か出陣の要請を受けたわけでもない。
おまけに仲裁も拒否して武装したまま居城に引き篭もるというのだ。

(要するにあの御仁は拗ねておられるのだ)

昨年お見かけした際にもしきりに腹を抑えておられたし、病が重いというのは嘘ではあるまい。
それに今の自分も棺おけに片足を踏み入れているので、なんとなくではあるが丹羽殿のお気持ちもわかるのだ。
自分の人生をかけた仕事がたった一日でもろくも崩れ去った。
その『織田家』はもうないのに、かつての同僚はみな派閥抗争や生き残りに必死。
丹羽殿にとっては秀吉殿も信雄様も同じに映るのだろう。
それが気に入らない-だから拗ねている。
いい年をした大人がだ。

今丹羽殿にそれが許されているのは、彼が『丹羽長秀』だからだ。
秀吉殿の先輩であり、旧織田家中の古参の重臣だからこその中立なのである。
自分亡き後の丹羽家が如何なることになるのか、それを理解していたらこのようなこと出来るはずがない。

(それとも全て理解しておられるのか?)

理解していて、なおかつ自分の憤懣を晴らすことを優先したのか。
だとすると丹羽家中やご嫡男には気の毒なことだ。

「お家よりも自分を選んだか」と賢秀は思わず独語する。
六角家の家老から織田家の一家臣へ「お家」のために膝を屈したかつての自分とはまるで正反対。
しかしそれも悪くはあるまい。
たった一度の人生なのだ。
死に際ぐらい好きに振舞っても罰はあたらないだろう。

「殿」襖の向こうから小姓が声を掛けてきた。
どうやら息子が帰ってきたようだ。腹は決まったらしい。
それならば会う必要などあるまい。

「こちらへ通さなくともよい。好きにすればよいと伝えよ」
「は?それはどういう…」
「勝手にしろと言うたのだ」

「好きにすればいい」もう一度そう呟いて賢秀は瞼を閉じた。

これからはもう親として尻は拭いてはやれんのだから。



なーんでこうなるのかねえ…

せっかく秀吉に媚び諂って「あんたが大将」と叫び続けてきたというのに。

それもこれもあの森の馬鹿野郎のせいだ!
あの野郎、態々攻めてきやがって!そのくせさっさと負けやがって!
誰かあの狂犬に鈴付けとけよ!

不機嫌な表情を隠そうともせずに、織田信雄は長島城を闊歩していた。
飛び込んでくるのは国境沿いにおける羽柴方の不穏な動きばかり。
すでに旧信孝派である北伊勢諸侯の一部からは離反の動きが出ているという。
蒲生と血縁関係にある関一族なんぞはおおっぴらに兵糧の搬入を始めているという。
お前らそんなに戦がしたいのかよ!

それならばと旧織田諸侯に取りなしの依頼をしてみれば、ほとんどが黙殺された。
まあそれはしょうがない。俺でもそうするだろうから。
でも池田の爺は許さん。
あのくそ爺、使者の髷を切って帰しやがった!
俺のかわいいかわいい水野くんになにしやがんだあの爺。
絶対に許さん。

それでも丹羽や前田、蒲生の親爺なんかは親切に「さっさと御免なさいして降伏しろ」と忠言してくれた。
なるほど確かにそのとおりだ。実現不可能という点に目を瞑れば。
森の先制攻撃で皆頭に血が上ってピリピリしているのに、当主の俺がそんなこと言い出してみろ。

俺が後ろから刺されるっつうの!

かといってこのまま本当に秀吉と戦うというのか?

清州において秀吉が一度だけ見せた無機質な目玉の色を思い出し、背筋が震える。

山崎の合戦以来、勝利の女神の一方的な偏愛を受けているとしか思えないあの男に勝てるわけがない。
だからこそこれまでずっと尻尾をふりまくってきたのだ。
それもあの森の馬鹿野郎のせいで…

……なんだ官兵衛?どうかしたか?

大方殿様が呼んでる?



「官兵衛を責めるのは酷だとは思わんか」

仏頂面の秀吉は、ぐるぐると手元の黒茶碗を撫で回した。
好き好んでこのような地味なものを使いたくはないが、それでも不思議と手にはしっくり来るのだから仕方がない。

「上様(信長)ですら御することが出来なかった汗馬ぞ。
官兵衛ごときの策など平気で破る男だ」

ぼつぼつと呟く様にかたる秀吉を、千宗易は湯を沸かす釜から立ち上る煙を挟んで眺めていた。
そうするとなにやら目の前の男がこの世のものとは思えない存在に思えてくる。
しかし茶室にあるからには貴人であろうと卑しかろうと一人の客でしかない。
宗易が益体もないことを考えているのを知ってか知らずか、秀吉は続ける。

「佐久間の問題で戦をせずに屈服させようという発想そのものは悪くはない」

「しかしそれは矢玉なき合戦なのだ」と秀吉は続けた。

「無論、あやつとてその意識はあっただろう。
しかしあれは信雄の態度を見て決して逆らわないだろうという侮りがどこかにあった」

知恵者と呼ばれる人がよく犯す間違いといってよいだろう。
世間に住まう人間のすべてが理性的であれば戦など起こるはずがない
あれは軍師でありながら、どこか『人間』という存在そのものを信じているところがある。
有岡城の地下牢に押し込められただけでは学習が足りなかったか。
それが足軽からのたたき上げである自分と、家老の息子という生まれながらの武士の子としての違いなのかもしれない。

「あれだけの頭脳と戦の才を持ちながら、あの瘡頭めはその使い方を知らん。
そこが官兵衛とわしとの決定的な差だ。
戦の何たるかを誰よりも知りながら国の何たるかを知らぬ。
視野が狭いとまでは言わぬが、些か物足りぬと思うのも事実でな」

「何時までも播州小寺の家老気分では困るのだ」と、あえて辛辣な批評をする秀吉。
それだけ件の人物を評価しているのであろう。
茶の湯嫌いとのことだが、一度招いてみるかと宗易は思いついた。


「以前、秀長様と御一緒であれば良き仕事をすると」
「いつまでも二人で一人前では話にならぬ。
それにあの二人を一緒に行動させるほど、我が羽柴家は人材が豊富というわけではない」

秀吉はやれやれと首を振ると、黒茶碗の縁を親指と人差し指で拭った。
些細な仕草にその人物の本質が出る。まして狭い茶室なら尚の事。
この小男はやろうと思えば貴人以上に貴人らしく振舞える。
宗易はこの男の能舞台を何度か拝見したことがあるが、役へのはまり方が尋常ではなかった。
あれは演技などという生易しいものではない。
そこには、あれだけアクの強い『秀吉』と言う個が存在していることを、一瞬であるが忘れさせられた。
度の過ぎた華美を好むなど、自分とは相容れぬ部分が多くあると宗易は感じていたが、それ以上に秀吉という希代の人物を認めてもいた。

「さてどうしたものか」

黒茶碗を手に再び考え込む秀吉に、宗易は床の間にかけられた掛け軸に目をやった。

作者不詳のそれには、朝焼けの中で鮮やかに咲く赤い木瓜(ぼけ)の花が5つ描かれている。

釜がひとつ高い蒸気の音を立てた。



大方殿様-むしろ土田御前といった方が通りがよいだろう。
この老女は織田信長の生母、つまり信雄の祖母にあたる。
家督を相続したばかりの織田信長と弟の勘十郎信勝とのお家騒動では、信勝派の後ろ盾として暗躍したことは知らないものがない。
すでに古希を過ぎているはずだが、背筋は竹を指したように伸びており矍鑠としたものだ。
脇息にすらもたれ掛からないというのだから徹底している。
そんなに張り詰めていてしんどくないのかといつも思うが、本人はこれが楽というのだからどうしようもない。

むしろ周りが-というかこっちが疲れるんだよなあ…

五徳にしても安土様(濃姫)にしても、よくこの婆さんと一緒で疲れないな。
その二人はそれぞれ大方様の両脇に控えて、これまた行儀よく座っている。
……狛犬みたいと言ったら怒られるだろうか?
織田家三世代のうるさ型が揃い踏み、さて何の話やら……

「お忙しい中よくぞいらっしゃいました」

ババ上様もお元気そうで何よりです。

……お婆様ごめんなさい。失言でした。

ところでなんか用ですか?知っているとは思いますけど、意外と忙しいんですよ。

「勝てますか」
「勝てません」

勘違いしてもらっては困るので、これだけははっきりとさせておく。
そして「しかし負けることもないでしょう」と続けると、妹の五徳だけが怪訝そうな表情を浮かべた。
安土殿と大方殿様はといえば、反応を返すどころか表情筋の一つも動かそうとしない。
……顔まで老化現象ですかと訊ねたらたぶん殴られるから黙っておこう。

「どこまで譲歩するつもりです?」

なるほど、全部お見通しというわけか。
亀の甲より年の功、さすがに織田家の勃興期を見続けてきた経験は伊達ではないということか。

「腹は切りたくありません」

ならばここは正直に語って協力を求めるとしよう。

「老後の蓄えもないので隠居もしたくありません」

……協力を得られるとは限らないが。

「あと出来れば領土の割譲もしたくありませんし、謝罪したくもありませんし、佐久間の引渡しもいやです」

大方殿様はため息をつき、安土様は頭を押さえ、五徳は口を抑えた。
おいこら五徳、肩震えてんぞ。

「……私はどこまで譲歩するのかと訊ねた筈ですが?」
「最初から結論ありきで交渉するほど阿呆ではないつもりです」

交渉の席に着く前に、どこぞの阿呆が机をひっくり返してくれたのだ。
席の設定から手札からすべて最初からやり直し。
それならば切れる手札は多ければ多いほどよい。
無論、少なくなる可能性もある。しかし増えない可能性もないわけではない。
………限りなく低くはあるが。

「……そのような虫のいいことが通るとお思いで?」

安土殿を見据えて「通させます」と断言する。
張ったり半分で、もう半分は本気だ。
せめて気持ちだけでも秀吉に負けたくはない。

しばらく視線を落としていた大方殿様はモゴモゴと口を動かしていたが、ようやくそれを口にした。
入れ歯でもずれたのか?

「いざとなれば貴方が腹を切ればよろしい」

………あの婆ちゃん。俺の話聞いてた?

だから俺はハラキリなんかしたくないの!
切りたくないから一生懸命なんですけれども!
むしろそれ約束してくれるなら土下座でもなんでもするつもりなんですけれども!

「死にたくない死にたくないと思っていると本当に死んでしまいますよ」

ねえ、この婆さん何言ってんの?

あのな婆ちゃん。そりゃ俺だって死にたくはないけどさ。
俺だけの問題じゃないんだよ。
何千という家臣と、何万という領民と、あと俺の嫁と息子と、側室も関係する話なの。
むろん浅井三姉妹に織田家の婦人たるあんたらもだけどね。


大方殿様はぽつりと呟いた。

「あの子もそうでした」

「あっ」と小さな、それこそ声にもならないような呟きが出ていた。

「あの子は、勘十郎は最後まで死にたくありませんでした」
ただひたすら死にたくない、死にたくないとそればかり。
結果、柴田や林にも見捨てられ、最後はあのような結果となりました」

もごもごと口ごもりながらも語り続ける大方殿様。
それが出来るようになるまでに、どれほどの時間が必要であったのか。
そして安土殿や五徳にはどれほどの時間が必要となるのか。
想像すらすることが出来ない。

「失礼いたします」そう言いながらいつのまにか来ていた雪ちゃんが横に座った。
その旨にはあいかわらず間抜けな顔をして眠るわが子百介。

あーあー、でっかい涎たらしてよー

まったくお前はお気楽でいいよなー
指でうりうりと頬を突くが、目を覚まそうともしない。
親がこれだけ苦労しているって言うのにさ。


「親が苦労するのは当たり前です」

そりゃそうだよな婆ちゃん。親が苦労するのは当たり前か。

……うん、確かにその通りだ。

じっとわが子の寝顔を見つめていると、雪ちゃんが小さな声で問うてきた。

「決心はつかれましたか?」

気付けば婆ちゃんも義母ちゃんも妹もこちらをじっと見つめていた。
………まったく、女という生き物は秀吉よりも怖いわ。
さっさと相談しておけばよかったよ。


「わかったよ畜生!」


やりゃいいんだろう、やりゃあ


やってやろうじゃねえか畜生!


戦だ!合戦だ!戦争だ!



「御本所様!九鬼水軍が離反を宣言しました!南伊勢沿岸部を襲撃しております!」
「関万鉄入道が亀山城にて決起!」


………やっぱりなしってのは駄目?



[24299] 第18話「信雄は家康に泣きついた」
Name: ペーパーマウンテン◆e244320e ID:151a2b73
Date: 2013/10/10 21:52
電子掲示板サイト3ちゃんねる 戦国時代版より

231:ななしの戦国武将  2010/2/3(水)11:11:51 ********

織田信雄「助けにきてくれるかな?」
徳川家康「いいとも!」

こんなのりじゃね?

232:ななしの官兵衛  2010/2/3(水)11:12:12 ********

黒田「どうしてこんなことになってしまったんだ」

233:森乱丸きゅん親衛隊 2010/2/3(水)11:13:01 ********
>231
三介様「たすけて!たぬえもーん」
家康様「もうしょうがないなーのぶかつくんは」(大山ボイス)

>232
どう考えても貴方のせいです

235:三河武士だけどもう限界かもしれない 2010/2/3(水)11:17:58 ********
>231、>233
徳川文庫の往復書簡とか見ても実際そんな感じだからなw
三介様、ありゃ間違いなく土下座してるぞ

>232
如水翁ってさ、有岡とか播州攻略とか「こんなはずじゃなかった」っていうの多いよな

240:ななしの落武者  2010/2/3(水)11:18:02 ********
>232
森長可「なんでだろうな」

245:ななしの薩摩隼人 2010/2/3(水)11:18:10 ********
>231
三介様なら言いかねないから困るwww
だってあの人「萌」の概念知ってたとしか思えないし。
まじめな話、三介様の次は自分という意識は家康も持ってたはずだから断る理由がない。

>235
やっぱり「軍師」のイメージが強すぎるから失敗が目立つんじゃないか?
挑戦しなければ失敗もない。
この失敗で秀吉の信任を決定的に失ったわけでもないし。

>240
お前というやつはwww

256:おれの息子がこんなにヤンデレなわけがない 2010/2/3(水)11:20:10 ********
>245
三歳様なら?

270:ななしの戦国武将 2010/2/3(水)11:21:19 ********
>256
とりあえず妻を監視させて部屋に爆薬を仕掛ける

271:ななしのザビエルヘアー 2010/2/3(水)11:22:09 ********
>256
とりあえず植木職人を斬る

275:おれこの合戦で手柄を立てたら結婚するんだぎゃー 2010/2/3(水)11:24:29 ********
>271
おい関係ねえだろwww

276:第32次内ケ島埋蔵金捜索隊 2010/2/3(水)11:25:29 ********
>271
植木職人かわいそすぎるw

277:茶々は俺の嫁 2010/2/3(水)11:25:32 ********
>270
それいつものことじゃね?


*************************************

いそしめ!信雄くん!(信雄は家康に泣きついた)

*************************************

- 尾張清洲にて -

やあやあ佐久間盛政君!久しぶりだね。元気にしていたかい?
うん?すこし痩せたんじゃないか?
しっかり食べてるか?

それはともかく、まあね。
わかるだろ?うん?
わかんないかーそうかー
じゃあ言ってあげようか?

君のおかげで、晴れて僕も天下の謀反人の仲間入りだよ!

あっはっはっは!

……とりあえず一発殴らせろやぁ



2月14日 ・森長可による犬山城攻撃失敗
  15日 ・池田勝入斎、美濃諸侯に動員を発令
       稲葉一族「羽柴様の命にのみ従う」とこれを拒否
       氏家、佐藤ら西美濃諸侯もこれに同調



同日 美濃曽根城にて ある親子の会話

「だ~れがお前の言うことなんか聞くかバーカ♪あーっひゃっひゃっひゃ!」
「父上……」
「池田の阿呆にな、味噌汁で顔を洗って出直してこいと伝えろ」
「そんなこと言えるわけないでしょうが!」
「あっひゃっひゃっひゃ!愉快じゃ!愉快じゃ!」



2月17日 ・徳川家康、三河・遠江・駿河3国に動員を発令。
2月18日 ・徳川家の使者である酒井忠重が尾張清洲を訪問。
       中川重政、滝川三郎兵衛と会談する。
      ・この頃、織田信雄の使者が旧織田諸侯を訪問し仲介交渉を求めるも拒否される。

2月20日 ・丹羽長秀『局外中立』を宣言。
      ・金森法印、飛騨遠征を中止。

2月21日 ・織田信雄、伊勢長島にて「秀吉打倒」を宣言。
      ・志摩の九鬼水軍、織田信雄から離反。
       南伊勢沿岸を襲撃(-3月上旬まで)
      ・伊勢亀山の関入道、反信雄を掲げ決起。
       旧信孝派らの合流を呼びかけ、東海道を閉鎖。

2月23日 ・織田信雄が酒井重忠と会談。徳川家への同盟を打診

2月24日 ・信雄、尾張清州へ入城。
       将兵を始め城下の有力商人や寺社関係者を大手門前に集め演説する。
       世に言う『清州演説』



- 清州大手門前 織田信雄の演説 -

諸君!よくぞこの苦しい時に集まってくれた!この三介信雄、感謝に堪えない!

思い出してほしい!24年前、すべてはここから始まった。
当時織田家は今川の侵攻により存亡の危機にあった。
その時、わが父である織田上総介信長はどうしたか。

戦ったのだ!

勘違いをしてもらっては困る!
戦ったから偉大なのではない。
わが父は、そして諸君の祖父であり父でありまたは君たち自身は戦い、そして勝利したのだ!

この勝利がすべての始まりであった。
織田信長の天下布武はまさに清州から始まったのだ。

そして私は帰ってきた!

諸君に問おう!

天下布武とは何だ?

応仁よりはや100年以上、戦のない日は絶えてなかった。
目の前の合戦にあけくれ、誰もが今日のこと、今を生きることしか考えられなかったはずだ。
そう、ちょうど今の我々のように。

私は思うのだ。

天下布武とは、明日のことを考えながら今日を生きることではないかと。

天下布武とは織田家の覇道を正当化する題目ではない。
まして力強きものが弱きものを押しのけ、全てを押し通すことが許されることでもない。
天下を武をもって布する。
それは確かに強者にしかできないことであろう。

しかしそれでも私は諸君に問いたい!
諸君は私よりもよく知っているはずだ!
織田信長の生きてきた49年の生涯を、そしてその死を!

諸君は織田信長から何を感じた?

希望に打ち震え、恐怖におののき、一瞬の安心の後には不安に陥り、どうしようもなく憎しみ、世の理不尽に怒り、ただひたすら笑い、そして絶望しながら

それでも明日を信じることができたはずだ!

私はあえて言おう!

天下布武とは、明日を考えることだ!そして明日に向かって今日を懸命に生きることだと!

下を向くな!上をみろ!
ここだ!今ここに、諸君の前にいるこの私を見るんだ!

どうだ、世間知らずの若造がふんぞり返って諸君を見下ろしている。

それでよいのか!

諸君は私以上に知っているはずだ!織田信長を!
織田信長の天下布武とはいったい何であったのかを!

その答えは諸君一人一人違うものかもしれない。
諸君ら一人一人が顔も性格も違うように、答えが違ってもよい。
その選択はすべて諸君自身がすべきものなのだ。

そして私の選択を、今ここに諸君らの前で宣言しよう!

再び父信長の理想を成就するために、そして三介信雄の天下布武成就のために

清州よ!私は帰ってきた!



同日    ・伊賀で国人一揆発生。津川義冬が鎮圧
      ・森長可、再度犬山攻めを行うも、織田信張がこれを撃退
      ・北畠具親、北伊勢攻略を目指す蒲生氏からの協力要請を拒否

2月26日 ・羽柴秀吉の使者である浅野長政、後瀬山城を訪問
       越前敦賀城主蜂屋頼隆らと丹羽長秀を説くも、長秀はこれを拒否
      ・木造長正(織田信雄派)による亀山城攻め(-28日)
       蒲生賦秀の後詰と合戦(市ケ丘の戦い)に及ぶも痛み分け

2月28日 ・羽柴秀長、後瀬山を訪問するも門前払いをうける

3月 1日 ・徳川家康、浜松城出陣
      ・羽柴秀吉、安土城にて旧織田諸侯を前に信雄追討を正式に宣言
      ・羽柴秀長が後瀬山を再度訪問するも(以下略)



- 3月4日 三河刈谷城 -

清州同盟とは対等な軍事同盟などではない。
永禄4年(1561)の時点ですら、尾張一国の大部分を支配していた織田家と、三河岡崎を中心とした西三河の領主である松平家(徳川)という厳然たる格差があった。
その後も徳川家は織田家の合戦に家臣の如く使役され、信康事件においては内政干渉も受け入れざるを得なかった。

これのどこが対等といえるのか?

しかしそれでも徳川が織田との同盟のもとで飛躍したのもまた事実なのだ。
織田家の圧倒的な軍事力を背景に、徳川家はそれまでの松平一族や国人領主の乱立する中世的な統治体系を一変させた。
三河一向一揆により反対勢力を粛清できたのも織田家の支持あってのこと。
対外遠征軍は確かに重い負担ではあったが、その編成過程において国人領主を組み入れることにつながった。
この点は同じ信長の同盟者であった浅井氏とは対照的である。
そして武田家との合戦や信康事件という危機を経て、当主である徳川家康は独裁的な権力体制を確立。
本能寺の変により分裂した織田政権を尻目に甲州と信濃を獲得し、関東北条氏と同盟を組むなど、その国力はかつてとは比べ物にならない。

このやっかいな元同盟相手を出迎えるため、織田信雄は三河刈谷城に赴いていた。

「やあやあ家康殿!ご無沙汰いたしておりました!ささ!どうぞ上座へ!
いやいやなにをおっしゃいますやら!父上の同盟者を前にどうして私がそこへ座れましょう!
ささ!どうぞどうぞ!どうぞどうぞ!」

(わしの息子もアレだが、信雄様も大概だのう)

接待役を命じられている水野忠重は、兄信元のつくりあげた清須同盟が変質した歴史的瞬間に立ち会っていながら
あまりにも卑屈な主君の態度にばかり注意をとられていた。



- 同日 岐阜大垣城 -

「親父殿は本当になあ」

大垣城に用意された一室で、池尻城主の池田照政(輝政)はひたすら頭を抱えていた。
自らの父親の無神経さは今に始まったことではないが、義兄の犬山攻めだけは庇い様がない。
それも一度ではなく、二度、その上負けているのだ。
これ以上の恥さらしはない。

さすがに見かねた池田勝入斎の再三の呼び出しにようやく応じて出頭したのはいいものの
3度目をやる気満々だというのだから手に負えない。
応対をした老臣の伊木忠次によると、どうやら本人は援軍要請のつもりで来たらしい。

「しかしいくらなんでも殿も」
「わからんぞ清兵衛(忠次)。親父殿も相当頭にきてるからな」

何をするかわからないから困るのだ。
稲葉の爺さんはあんな人だから予想は出来たが、氏家や佐藤までそっぽを向かれるとは想像すらしていなかった。
考えてみれば信長様の美濃攻め以来、美濃衆は織田宗家の直轄兵力として各地を転戦し、ほとんど転封もなく所領を安堵されている。
信長、信忠、そして信孝と織田一族を国主と仰ぎ、織田家としての誇りは金崋山よりも高い。

それなのに親父殿は美濃国人衆の扱いを、摂津のそれと同じようにしようとした。
それがそもそもの間違いなのに、親父殿は決してそれを認めようとしない。
自分の親の悪口を言うようだが、照政は我が親父殿の器量では美濃は大きすぎたとしか思えない。

それを認めることができず、ひたすら同じやり方で通そうとするから余計に反発を受け、それが意地になりという悪循環。
おまけに有力な与党といえば娘婿である兼山の森一族しかいないのだから悲劇的である。
喜劇といっていいかもしれない。

「親父殿も気の毒なことだなぁ」
「何を他人事のように!お父上のことですぞ」

忠次が諫めるが、照政はまるで気にした様子もなく言う。

「どうせ人は一人で生まれて一人で死んでいくものさ」
「また若はそのような屁理屈を…」



森長可は興奮していた。
もしも女であるなら間違いなく濡れていただろう。
自分の生涯でこれほどまでに精神が高揚したことがあったであろうか?
鼓動は早くなり、汗が止まらず、寝ても覚めてもそのことばかり。

「この気持ち!まさしく愛だ!」

「いや、だからお前が何を言っているのかさっぱり理解できないのだが」

珍しく常識的なことを言った池田勝入斎であったが、相手が悪すぎた。

「だから兵がほしい!もう一度、織田信張と戦わせてほしいのだ!」

「この阿呆が」という言葉を勝入斎は何とかのみこんだ。
このような阿呆でも自分にとっては美濃国内における大切な与力であると思い直したからである。
しかしこの阿呆のおかげで自分の株は下がりっぱなしなのだが。

稲葉の因業爺といい氏家の頑固爺といい、どいつもこいつも勝手なことばかり……
織田の頃はどうだの、昔はこうだったのと屁理屈ばかり述べおって。
今の美濃国主はこの池田勝入なのだ。
ほかならぬ秀吉自身がそう命じたのにもかかわらず、稲葉にしろ氏家にしろ自分を差し置いて秀吉の顔色ばかりを伺っている。
まったくどいつもこいつも、わしが美濃国主では不満だというのか。

よかろう、ならば実力でそれを認めさせよう。

そのためにはこの目の前の阿呆をなんとしても飼いならさなければならない。
勝入斎は自分自身に言い聞かせるように何度もそう思いながら、長可を辛抱強く説得しようとしていた。

「汚名を返上したいのはわかるがな、今は秀吉殿を待つべきだ。これ以上の勝手な行動は」
「そのようなことではない!」

鎧をガチャガチャさせながら、長可は勝入斎の前の床を叩いた。

「汚名などどうでもよいのだ!むしろこの敗戦こそ俺の誇り!」
「……お前とうとう頭がおかしくなったのか?」
「違う!」

長可はもどかしかった。
ああ、なぜ義父殿はこの気持ちをわかってくれないのか!
長可は十数年における戦場経験においてこれまで『死』というものを経験したことがなかった。
それらはすべて自分を過ぎ去るものであり、あくまで自分が相手に与えるものであった。
自分が父のように戦場で死ぬなど思いもしなかったのだ。

それがどうだ!

あの死にかけの老人はこの俺に二度も死の恐怖を味あわせてくれたのだ!
これほど嬉しいことがあるか!
これほど楽しいことがあるか!
なんと喜ばしいことなのか!

俺は生きている!

ああ、なんと素晴らしいのだ!

もう一度あの歓喜を!
もう一度あの生の感覚を!
そして今度こそあの老人の首を!
あの老人を畳の上で死なせてたまるものか!
あれを殺すのはこの俺だ!俺以外の誰にも許さん!

「だから兵を貸してくれ」
「だからお前は何を言っているんだ!」



尾張にしても伊勢にしても、織田家にとっては慣れ親しんだ領地である。
いわばホームグラウンド、そして相手はかつての同僚。
お互いに手の内は知り尽くしている。

つまり条件だけを考えるなら賎ヶ岳の合戦と似ているといってよい。

織田信雄家には(先の演説の効果もあってか)将兵の士気や、領土における防衛戦というアドバンテージは確かに存在する。
一部離反した諸侯を除けば「あれだけ信雄様が協力していた」のにも関わらず、今回の秀吉の仕打ちに誰もが激高していた。
もっともこれは信雄への忠誠というよりも、親羽柴派の言動を繰り返していた信雄への家中の欝憤や反動という面が強かったのだが。
そして一般的に守るよりも攻める方が主導権を持つものであるが、その主導権を攻め手が「予期せぬ奇襲」で手放している。

「しかし勝てません」

あれだけの演説をしておきながら平然とそう言い切る信雄に同席していた徳川家臣は不信感を通り越して不機嫌となるが
ただ一人だけ「ほう」と呟いた家康だけが興味深そうな視線を向けた。

筋肉質の相撲取りのような体型である家康は、何度も面会している秀吉とはまるで異なるものを漂わせている。
誠実そうな雰囲気というものは秀吉には逆立ちしても醸し出せないものだ。
同じ苦労人とはいえ地下人からのたたき上げである秀吉と、三河松平の嫡男である家康とではおのずと苦労の質が異なる。
なるほど、仰々しいまでに福々しい耳やぎょろりとした目でさえ、不思議と愛嬌があるとはいえなくもない。
とはいえ松平の歴代当主に見られた、キレると何をするかわからない怖さもある。

(役者としては二枚どころか十枚以上も上手だしなあ)

元々こちらとしても騙すつもりはない。正直に腹を打ち明けて協力を求めると考えれば気が楽だ。
断られたらどうするのかという不安がないわけではなかったが
それでも信雄は事前交渉や書簡のやり取りで家康が断らないだろうという予感があった。

「勝てぬ戦にお付き合いしてほしいと、そうおっしゃるわけですな」
「有体にいえばそう言うことです」

困った時の癖なのか、人差し指で何度もぽりぽりと頬を掻く家康。
主君に代わり石川数正が問うた。

「何故勝てぬとおっしゃられるので」
「数が足りません」

それ以外の条件がほとんど同じであるなら、最終的には数の多い方が勝つのが道理である。
たとえ地理的な制約や将兵の士気に差があろうともだ。

「しかしご安心ください」

信雄はそう言うやいなや、拳で胸を大きく叩く。
大きな身振り手振りに、はっきりと断定した物言い。
まるで詐欺師である。

「私に秘策があります」
「・・・それで勝てるのですか?」
「勝てません、ですがこれで負けません」

そして訝しげな視線を向ける徳川家中を前に「ま、お任せ下さい」と自信満々に胸を叩いた信雄は

げふぉがほはっほほ!

咽せた。



- 3月8日 尾張清州城(徳川軍本営) -

「数正よ」
「はい」
「……帰りたいな」
「駄目です」
「駄目か」
「駄目です」



- 3月9日 美濃岐阜城(羽柴軍本営) -

「官兵衛よ」
「はい」
「帰りたいな」
「私もです」

「駄目に決まっているでしょうが!」と浅野長政の怒声が響いた。

こうして「日本史に残る無気力試合」と揶揄されることになる犬山・小牧山合戦が幕を開ける。



[24299] 第19話「信雄は方向音痴だった」
Name: ペーパーマウンテン◆e244320e ID:151a2b73
Date: 2013/10/18 23:34
皆さんご機嫌いかがでしょうか。
天下御免の謀反人こと三介信雄です。

最近どうにも家中の者の俺を見る目が怪しい気がする。
何かこう熱っぽいというか、期待していますよという視線をビンビンとね。
やめてほしいなぁ、そういうの。

だって俺は三介なんだよ?

実力もないのに過度な期待をされても、その、なんだ。困るんだよ。

あの演説にしても秀吉の個人名を出さないよう極力言葉を選んだつもりなのに
何故か「秀吉討つべし」の決起宣言になってるし。
どいつもこいつもそんなに秀吉と戦争がしたいのか。
あのね、俺だって本当はやりたくないの!
誰が好き好んであの男とやりたがるものかよ。

ぶつぶつ呟きながら、信雄は書院の襖を開け

「お疲れ様にございます」

襖が破れんばかりの勢いでピシャリと閉める。
伊勢長島にいるはずの従妹がいたような気がしたが、おそらく気のせいだ。
どうやら極度の精神的疲労により幻覚を見たに違いない。
茶々がこんなところにいるわけがない。

やれやれと首を振り、目頭をよく揉んでからもう一度引き手に手を掛けようとして

「どうかしたの?」
「うん、どうかなされたのは君なんだけどね」

*************************************

いそしめ!信雄くん!(信雄は方向音痴だった)

*************************************

あのさ、何でいるの?

「きちゃった」
「きちゃった♪…じゃねえよ!」

あのね、ここは本営なんですけど!わかる?それも最前線にかなり近い!
おい治長!お前がついていながら、何をして…
……ああ、わかった。わかったからそんな今にも腹を切りそうな顔をするな。
例えお前でなかろうとも、これが止められるわけないしな。
とにかく長島からの護衛ご苦労であった。
2、3発なら引っ叩いてもいいからな。俺が許す。

それにしても茶々よ、よく大方殿様とか雪ちゃんの許可得られたな。

……おい、こっちを見ろ。



- 清洲に行ってきます あと治長を借りていきます 茶々 -

「あんの馬鹿娘ええええ!!!!」
「お、大方殿様!そのように興奮されるとお体に触ります!」
「うふ、うふふふふ♪」
「千代御前様、あの…」
「うふふふふふふふふふふふふ♪」

「大野夫人が倒れたぞ!医師を呼べ!」

「初姫様はどこだ!」
「生涯に三度しかない好機がきたと叫んで出て行かれました!」
「連れ戻してこい!」



「お前というやつは…」
「すごいでしょ」
「褒めとらんわ!!」

まったく呆れてものが言えん。
その無駄な行動力はどこから出てくるんだ?その胸か?だからそんなに小さ-慎ましやかなんだな。
言動もそれくらい慎ましやかならって、痛え!
殴るなこら!わざわざ言い換えてやっただろうが!
って、こら、髷をつかむな!やめろこら!止めろ治長!
てめえ、女だとおもって手加減してたら調子にのりやが…あいてててて!腕、腕が折れるって!
ちょ、タイム!タイム!!タイム!!!

「……お取り込み中でしたかな」

家康殿、これは違うんです。



- 3月3日 近江安土城 本丸御殿(羽柴仮本陣) -

「秀長、丹羽殿の説得はもうよい。秀勝(信長4男で秀吉の養子)と大坂に戻れ。
岸和田の中村、淡路の仙石、十河らの後詰をしろ。
貴様が必要であると判断するなら兵は好きに使って構わん。
しかし積極攻勢はならんぞ。あくまで防衛に専念しろ」

各地の勢力が書き込まれた地図をでんと広げ、それを睨みつける秀吉。
まるでそこに倒すべき相手がいるかのようだ。
触れるものすべてを焼き尽くさんばかりのその気迫は、さながら地獄の閻魔を思い起こさせる。
この世に不思議は数あれども、おおよそ人間ほど―なによりこの主君ほど理解しがたいものはなかろう。
我ながら益体もないことを考えるものだと、黒田官兵衛はその顎を撫でた。

「小六は毛利との交渉を継続。何としても宇喜多との国境問題にけりをつけろ。
多少の譲歩は構わん。宇喜多が文句を言うなら、わしが直々に話をつける」

その言葉を小姓が慌ただしく書き起こし、右筆が命令書へと書き換える。
兵站将校の算盤の音が鳴らされ、伝令が駆け抜ける。
すでに合戦は始まっていた。

「美濃・尾張方面への物資を断て。松井夕閑(堺奉行)に熱田の商人どもに後れをとるなと発破をかけさせい。
京や大津、主要街道の閉鎖も急がせろ」

秀吉が思考をつかさどっているのか、それとも思考が秀吉を躍らせているのか。
溢れ出すそれを思いつくまま、ただ口と手に乗せる秀吉。

「五郎左殿は動かん。あの御仁は一度口にしたことは必ず守るお人だ。
しかし蜂谷(越前敦賀城主)は動かすな。金森の爺さんもな」
「伊勢方面は如何なさいますか」

そこで秀吉は初めて官兵衛をじろりと見据えた。
相変わらずこのような時の秀吉は、人を人とも思わない嫌な目をする。

「蒲生の息子は使い物になるのか?」
「少なくとも私の愚息よりは役に立つでしょう」

その官兵衛の言葉に視線を素早く左右に走らせる秀吉。

「信包殿はうまくいけば日和るだろうて。無理にちょっかいを出すな。
九鬼の大将はどうせ誰の命令も聞くまい。このまま自由にさせてやるほうが効率がよい。
あとは尾張の戦況次第だな」

主力はあくまで尾張方面だと、秀吉は頭をがりがりと掻いた。

織田信雄の行政府である伊勢長島は、言うまでもなくかつての長島一向一揆の根拠地である。
いくら大部分の施設や城郭が廃棄されたとはいえ、その防衛力は侮れない。
一向一揆戦のような攻城戦は避けるべきであろう。
『戦後』のことを考えるなら、尚更だ。

羽柴軍にとって最も望ましいのは、賎ヶ岳のような両軍主力による合戦である。
これなら両軍の戦力差がそのまま勝敗に結び付くし、こちらの損耗も避けられるからだ。

一方、徳川家康という後ろ盾を得た織田信雄はどうでるか。
おそらくは柴田勝家が目論んでいた長期戦を考慮しているに違いない。
各地の城や砦を起点に領土そのものを城とした籠城戦-これなら数的劣勢もある程度緩和される。
そしてある程度有利な状況となってから和睦を申し出る、そんなところか。

残念ながら、信雄派の戦略的優位性は認めないわけにはいかない。
織田信雄派からの離反工作も一部を除けばそれほどうまくいっているとは言い難い。
そして対陣の長期化はこちらとしても望ましいことではない。

では現状を短期間で打破するためには何が必要か。
有体にいえば『数』しかない。
それも相手に選択の余地を与えないほどの圧倒的な兵力。

そのために必要な条件は二つ。

「わしでなければ寄せ集めの連合軍の司令官はつとまるまい。
信雄を叩き潰し、家康を屈服させて東の憂いを断つ。
この一戦により織田を羽柴秀吉に従属させるのだ」

連合軍を率いるだけの器量を持つ最高司令官と、明確な戦争目的だ。
まさに秀吉だけが満たせる条件であるといってもよい。

ただ懸念材料があるとすれば、旧織田諸侯からの協力をどこまで得られるかであろう。
『笛吹けど踊らず』という危機感は秀吉のみならず羽柴首脳陣が共有している。
無論、羽柴のみで織田信雄を打倒することは可能だ。
しかし旧織田諸侯が挙手傍観するなかでそれをやってしまうと、あまりにも世間に対する印象が悪い。

-ならば踊らせるまでのこと-

主に望まぬ戦を決断させた者として、黒田官兵衛は決意していた。

「こんの、ばきゃたりゃあ!」

この時までは



藤吉郎!おみゃーちょっとこっちにこい!
ここにすわれ。わしの前にすわれというとろうが!
おみゃーは何を考えちょるんじゃ!
わしはお前をそんな恩知らずに産んだおぼえはにゃーで!

あん?三介さまのことにきまっちょるじゃろが!

あの人はええ人だよ。ちょっと阿呆だけどな。

そうそう、明智の謀反の時だよ。
あんときおみゃーは中国にいてたし、長浜は女子供ばかりだし。
しょうがないから阿閉から身を隠すために竹生島に逃げたんだて。
着の身着のままだったから、ほとんど野宿同然でな。
大っぴらに火も焚けねえから寒いし、雨は降るし。
寧々こそしっかりしちょったが、他は震えるばかりだから心細うてよ。

あの嫁さんはお前にはもったいない嫁さんだで。大事にせんと承知せんぞ!

そうそう、三介様。
明智が負けたという噂は聞えたけれども、長浜に残党がいるかもしれねーから、そのまま隠れてたんだよ。
そしたら、陸の方から小船がよっこらしょとやってきてな。

それが三介様だったんだて!
上陸するとき、滑って船のへりで頭の後ろぶつけて転げまわっておったけどな。
寧々がそれみて笑うたから、わしもホッとしてよ。
あん時の嬉しさってたら、そりゃねーで!

しかもよ、三介様はこの婆の手をわざわざ取ってくれてな。
『御身体ご自愛ください』と、やさしい言葉まで掛けてくれたんだよ。
あの時のあったけえ味噌汁の味は忘れられんで。
わっしゃ、あん時の味噌汁ほどうまい味噌汁飲んだ事ねえべ!

あの人はそれからもよく手紙くれるんじゃ。
内容はどーでもええことばかりだども、それでもこの婆を喜ばせようという気持ちだけはわかるな。

これを見ろ!つい先日わしんところへ来た手紙じゃ!
三介様はおみゃーと戦いたくねえそうだとよ!
『また一緒に味噌汁飲みましょうね』とも書いてあったわ!
わしゃむずかしいことはよくわからんが、それでもしてええ事と悪いことの道理ぐらいはわかる。

やる気のない相手に、刀持って切りかかるやつがあるか!

こりゃ藤吉郎、まだ話の途中だで!
もどってこりゃあ!
もどらにゃ、お前がいくつまで寝小便してたか喋ってやるからな!

藤吉郎ー!!


老女の剣幕に慌てて逃げ出す主君秀吉の醜態に、羽柴首脳陣が呆気にとられる中
こっそりと抜け出そうとしていた秀長は、黒田官兵衛と蜂須賀小六に両腕を捕らえられていた。



- 3月6日 尾張清州城 織田・徳川本営 -

戦の常道とはすなわち、敵を減らし味方を増やすことにある。
敵の敵は味方という表現がある。
しかし敵の敵とは、所詮は「敵」あってのもの。
確かに共通の利害関係で結ばれてはいるが、ただそれだけでしかない。
例えば統制なき大軍と、統制のとれた少数精鋭の部隊ではどちらが強いのか?

「目の前の恩賞に駆られた忘恩の輩という結束はあるでしょう」

榊原康政が皮肉ると、それまでむっつりと黙り込んでいた徳川諸侯が初めて笑いを見せた。
要するに「お前に人望がないんだろう」という当て擦りである。
織田家の武将は露骨に嫌な顔をするが、それでも事前に信雄から何度も言い聞かせていたため自重してくれている。
わかってたつもりだけど、三河武士って想像以上に性格良くないわ。

(まあ気持ちはわからなくもない)

徳川家中にとって織田家は同盟者とはいえ、事実上のかつての宗主国である。
援軍要請という名の命令は無論のこと内政干渉もなんでもござれな関係で、織田家に好意的な感情を持てというほうが難しいだろう。
何より彼らには「この戦はあくまで『織田』と『羽柴』のものであり、徳川家には関係がない」という意識が強い。
確かにその通りである。
しかし織田信雄がつぶれれば、本拠地三河と羽柴領の国境が接することになるのだ。

すくなくとも徳川家康を初めとした中枢部はこのことを理解しているようだ。
しかし目の前の脅威でない将来の危機を説いたところで、素直に納得できるものは少ない。
そのため信雄はできるだけ反感を買わないように卑屈なまでに腰を低くして徳川家中の将校に接していた。

「しかし中核となる羽柴軍は旧織田家の中国遠征軍そのもの。
これだけで織田家と徳川家の連合を上回るのです。
そして羽柴は大軍であり、なおかつ組織だったものです」
「戦は数でするものではござらん!」

憤然として語る本多平八郎に「武田にボコボコにされて糞もらしたのはどこの誰だよ」と言いたいのを我慢する信雄。
我慢、我慢だ信雄。
例え戦バカ一代だろうと、頼れるのは今やこいつ等しかいないのだから。

気を落ちつけるため素数を数える信雄にかわり滝川三郎兵衛が発言する。

「何も敗者の先例にならうことはありません。古く大陸に例をとれば秦に対抗した六国同盟。
関東における小田原北条氏への包囲網しかり、そして右府様(信長)への包囲網しかり
彼らはすべからく敗者なのです」
「ならば紀伊や長曽我部を放っておけと?」

西三河衆を率いる親織田派の石川数正がもっともな懸念を示す。
ただでさえ数的に劣勢を強いられる織田・徳川連合にとって
四国の長曽我部や紀伊の雑賀衆に協力を求めることは極めて当たり前の選択として考えられていた。
しかし首脳である信雄自身がそれを否定する。

「放置するのではない。無視するのだ」

両軍将校が驚きと戸惑いの声を上げるが、家康が右手を挙げると静まった。
この光景こそが誰が連合軍の実質的な総大将であるかを如実に証明している。
岡田重孝ら一部の織田家の将校は不満げな表情を見せたが、主君がそれを了としているため、それだけで終わった。
それを知ってか知らずか、信雄が発言を続ける。

「彼らはどうあがいても反秀吉の旗印を降ろすことが出来ない輩。
四国において長曽我部が十河と肩を並べることなどあり得ない。まして紀州など考えるだけ馬鹿馬鹿しい。
おそらく相手もこちらからの申し出を待っているはず。
足元は見られたくはない」
「しかし相手からの申し入れを待つほどの余裕は我らにはありませんぞ!」
「しかしそれで何か問題がありますか?こちらから頭を下げれば、関係は対等から始まる」

「それではかつての信長包囲網と何ら変わらない」と主張する信雄に、今度は誰も反論をしなかった。
「……確かに、彼らは我らと手を結ぶほかにありますまい」と酒井忠次が応じる。

「そうだ。彼らにはそれしか手段がない」

自らの置かれた立場をわきまえるならそれでよし。
ヤマトタケルに退治されたという伝説の怪物ヤマタノオロチではあるまいし、頭は一つでよいのだ。

「一つですか」

何かを確かめるように、傍らに座る若い織田家の当主に尋ねる家康。
ぎょろりとした大きな目に見つめられながら、信雄は堂々と応じた。

「左様、一つでよいのです」



「やれやれ!秀吉なんかやっちゃえ!」袖が乱れるのもかまわず、茶々は両手を高く上げて高らかに宣言した。
上機嫌のところ悪いんだが、そんなにやりたきゃお前一人でやれよ。

「この腰抜け、玉無し、ハゲ」
「あんだとこら!」

「……よろしいですかな」

ひたすら騒ぐ二人がまるで目に入らないかのように家康が淡々と言葉を挟む。
ただ炒り豆を齧り続けていただけだというのに、まったくもって不思議な存在感のある人である。
しかし豆を一粒づつ喰わないで下さいよ。辛気臭い。

「何、これも癖でしてな。気にしないでくださ「貧乏くさい」

家康殿のこめかみがひくついたような気がしたが、おそらく気のせいだろう。
うん、気のせいだ。とにかく気のせいだったら気のせいだ。そういうことにしておこう。
それと茶々、お前は黙れ。

「いやいや、子供は元気な方がよいですから」

目の色だけは変えずにはっはっはと笑う家康。本当にすいません。
「ところで話というのはほかでもないのですが」と再び豆を齧り出す家康。

あれ、何だか目が怖いんだけど?

「本当は秘策などお持ちでないのでしょう?」

あ、ばれてた?



- 3月7日 美濃 岐阜城(羽柴軍本営) -

煮えたぎった湯の湧く鍋に氷の塊を突っ込めば、おそらくこうなるのだろう。
ともかくこのような緊張感に欠ける軍議を堀久太郎は経験したことがなかった。

まるでやる気の見られないのは旧織田諸侯である。
美濃衆は池田一党と美濃国人衆との対立が激しく、わざわざ机を挟んで席を離してあるほどの念の入り様。
池田勝入斎などは今にも稲葉一鉄に切りかからんばかりだが、一徹入道は平然と鼻毛を抜いている。
まったくどういう神経をしているのか。
氏家殿(行広)はさすがに表情が硬く、同じ美濃衆とばかり話しこんでいる。
件の森武蔵守は病を理由に欠席しているが、おそらく勝入斎が手をまわしたのだろう。

自らが率いる近江衆にしてもそうだ。
安土城の御膝元という位置関係から近江には長谷川や津田など旧織田一族や旗本衆が多い。
信雄殿への同情もあるが、それだけが士気低下の原因ではない。

織田から羽柴への禅譲であればよかったのだ。
そして織田一族の有力大名として、明言はしないまでもあきらかにそれを指向していたのが信雄殿である。
来る羽柴政権において旧織田諸侯の-つまりは自分の後ろ盾となることも含めて期待していたのだ。
その信雄殿との合戦にもろ手を挙げて賛成する人間などいない。
同情だけで今から信雄殿に味方するほど趨勢が見えないわけではないが、だからこそやり切れない思いを持つものは多い。

(もっとも蒲生殿や筒井殿のような考えの人間もいるが)

『織田の娘婿』である彼らは、今回の出兵には協力的だ。
羽柴への政権交代には『織田の息子』よりも自分たち『娘婿』の方が役に立つと主張したいのだろう。
この陣中にはいないが、それぞれ領国にあって北伊勢や伊賀を伺っていた。
蒲生の息子殿などは、すでに何度も北伊勢へ出兵して信雄派と戦っている。

(われらは所詮は鉢植え城主か)

口には出さないものの、堀久太郎は内心彼らが羨ましかった。
蒲生にしても筒井にしても、自らの所領を何代にもわたって治めた生え抜き。
鎌倉以来の一所懸命をその身で体現し、その運命を自らで切り開くだけの自力がある。
信長様に、そして秀吉に従うことで所領を得た自分たちとは違うのだ。

信長様亡き今、旧織田諸侯は美濃衆を除くと自分たちを含めてほとんど鉢植え大名ばかり。
播州攻略を命じられてより十数年、しっかりとした根を中国地方と畿内に生やした秀吉に敵うものか。
所詮我らは羽柴の装飾品、今から我らがどうしようとも秀吉殿の勝利は揺らがないのだ。

つまり中核となる羽柴さえしっかりしていれば、何も問題はないのだ。

堀久太郎は上座の秀吉に視線をやる。

「あああああ……」

(…大丈夫、だよな)

時折思い出したかのように頭を抱えて意味不明な言葉を呻る秀吉に、堀の不安は増すばかりであった。



「おそらく秘策とは『嘘』ではないのでしょう。
しかし『本当』に現状の戦局を一変させるだけの策があるわけでもない」
「おっしゃる通りです」

家康はただでさえ大きな目ん玉をさらに剥いて、こちらを見据えている。
さすが東海一の弓取。威圧感が半端ねえな。
まるで出目金だな。

「あの場はああ言わないと御家中が収まらないと思いましたもので」
「いやいや、何も咎めるつもりはないのですが」

お互いに家中の統制には苦労しますなと笑う家康。
じゃあその目は何だよ。怖いから引っ込めろよ。
そして空気を読まない少女が言う。

「おじさん怖い」
「お、おじ…」

絶句する家康というのはなかなか貴重な光景ではないかと、思わず現実逃避したくなる。
茶々、頼むから黙ってくれ。
というか出ていってほしいんだけどな。絶対言うこときかないだろうけど。
あ、別にいてもいいですか?すいませんね本当に。おい茶々、礼を言いなさい。
そうそう、策のことでしたね。

「策というのは他でもありません。交渉再開時におけるこちらの手札のことです」
「戦う前から謝る事を考えてるの?援軍に来てくれた徳川殿に失礼じゃない?」
「なかなかに聡明な子ですな」

豆を齧りながら小姓の持ってきた白湯を飲む家康。どちらかといえば狸というよりも、よく太った狐を思わせる。
温和な雰囲気でありながらも、どこか神経質そうに見えるのはそれが原因か。
もう少し太れば完璧に狸になるんだろうけど。

「まずはうちの前田玄以」
「玄以殿ですか。交渉の使者としては良いでしょうが…」
「そうではありません。玄以こそが交渉の手札なのです」

煎り豆を掌で転がす家康。食べ物で遊ぶのはあまり感心しない。

「あの御坊がなにか?」
「あれは村井春長軒殿の娘婿です」
「それは存じておりますが」

意図を理解しかねたのか首をさらにかしげる家康に、信雄は前田玄以の存在価値を力説した。

村井春長軒(貞勝)は織田信長のもとで長く京都所司代を務めた人物である。
確かな行政手腕と公正な裁判、なによりその温厚篤実な性質により朝廷のみならず京都町衆や寺社からも信頼が厚く
織田政権における京都総督として活躍。
本能寺の変では一族とともに二条御所にあり、信忠に殉じた。

そのため新政権は京の行政、中でも朝廷との関係は一時的に破綻をきたした。
旧幕府人脈をもつ明智光秀はそれでも何とか関係を構築しようとしていたが、それを打倒したのが秀吉である。
確かに秀吉は京都奉行の経験があるとはいえ、中国方面の司令官に抜擢されはや十年。
朝廷が世代交代を果たすには十分な歳月が経過していた。
それゆえ秀吉は松井夕閑(旧幕臣)のような、本来なら堺を掌握するためにも更迭したい人物を留任させてまで関係構築に腐心している。

翻って前田玄以はどうか。
『村井人脈』の継承者、また村井のもとで外交交渉や所司代の行政にも携わっていた即戦力である。
秀吉としては朝廷工作を進める上で是が非でもほしい人材であるはずだ。

「羽柴殿が織田信長の家臣であったという過去は変えられないのです」
「そこで官位ですか。なるほどその時にこそ玄以殿が役に立つと」

玄以は京にあってこそ生かされる人材であり、信雄には宝の持ち腐れである。
そのためかつての明智光秀のように秀吉のもとへ出仕させるつもりであったが、今回の一件で吹き飛んだ。
ならば交渉カードに使わない手はないだろう。

「あんたらそれでも男なの!」

合戦の前から和睦交渉の話を延々と続ける二人に、我慢しながらも聞き入っていた茶々が激高した。

「やる前から謝ること考える馬鹿がどこにいるの!」
「この合戦に関してはそうなのだ」

力強く断言する信雄。

考えてみればこの騒動、最初から阿呆らしいことばかりなのだ。
佐久間の亡命にしても、中川の隠匿にしてもそうだ。
黒官のくだらない策謀もそうだし、森については言葉にするのも阿呆らしい。
始めるのはいつだって阿呆なのだ。
ならば阿呆の尻ふきをするのが大人というものだろう。

「しかしですな」と家康が口を挟む。

「手札を切ろうにも、その力が残されていないと意味がありませんぞ」
「わかっております」

わかっておりますともと、信雄が繰り返す。
阿呆を止めるには、こちらも阿呆になるしかないのだ。
それもただの阿呆ではない。
死に物狂いの阿呆にならなければ。

相変わらず不満げな表情を見せる茶々に、信雄は落ち着かせるように笑いかけた。

「心配するな茶々。俺は阿呆なら誰にも負けん。
俺を誰だと思っている?阿呆には定評のある三介だぞ」

「全く安心出来ないんだけれども」
「同意ですな」

お前らそんな時だけ意気投合するなよ。

場の空気を変えるように咳払いをして、信雄は改めて言う。

「それに秘策というほどでもありませんが、秀吉を交渉の席に引っ張り出す切り札があります」
「佐久間殿の引き渡しですか。それとも中川殿の処分」
「まだ手札というほどのものではありませんがね」

家康の質問には直接答えず、ただにやりと笑った信雄は、部屋のある一点を指し示した。


「嵐は西方より来りて、王城を揺らす」


「………そちらは東ですが」
「馬鹿じゃないの?」

信雄は無言で反対側を指し直した。




[24299] 没ネタ
Name: ペーパーマウンテン◆e244320e ID:151a2b73
Date: 2010/12/04 14:15
(没ネタ)

文字通りの没ネタです。たぶん二度と日の目を浴びることはないと思うけど、それはそれで寂しいので。



・鉄道屋(鋼の錬金術師もの)

アメストリア鉄道院総裁の物語(転生なし)鉄道一筋で生きてきた老人の独白と回顧。

東部の田舎に生れた少年にとって、鉄道は憧れのセントラルと自分をつなぐ唯一の存在であった。長じて国営鉄道に入った彼は、鉄道でこの国を一つにしようと考える。鉄道ダイヤ改正や敷設事業で成果を残し、イシュヴァール騒乱の直前に鉄道院総裁に上り詰めた。自分の引いたダイヤに従い、兵士たちをピストン輸送で戦場に送りながら、彼はさまざまな物語を目にし、苦悩する。

約束の日の真相について彼は何も知らない。しかし彼は知友のグラマン中将からいくつかの頼みを受け、それを実行に移した。そして約束の日-すべてが終わるのを見届けると、彼は鉄道院総裁を退く。民営化された鉄道は平和と復興の象徴としてアメストリアを走り始めた。彼は出身地である東部の片田舎の駅長として、好きな鉄道を眺めながら余生を過ごすことを決意する。駅舎のホームで別れのあいさつを交わす男女を微笑ましげに一瞥すると、出発を知らせる笛を鳴らした。

「出発進行」

(短編で書こうとしたが、鉄道について詳しくないので挫折)

・俺の息子がこんな近衛文麿なわけがない

一貫性のない発言と時勢にこびる強硬姿勢、そしていざというときの無責任体質により日中戦争を拡大させた最大の責任者である近衛文麿。その父親である近衛篤麿に転生。新しい物好きな息子に頭を悩ませながら、大隈重信と立憲改進党の主導権を巡って陰険な争いを続ける。目指すは日英同盟の維持と長生き、ついでにバカ息子をまともに育て上げること。せっかくイギリスに留学させたのに、案の定社会主義に染まったバカ息子への愚痴を西園寺公望に愚痴る日々。

(最終的なプロットが想像できず、近代史を調べなおさなければいけないのでお蔵入り)

・日本国内閣総理大臣の憂鬱(EVAもの)

セカンドインパクト直後の長野県知事に転生。首都移転や災害復興など山積する難題に立ち向かっていると、いつのまにか保守党の総裁に祭り上げられて首相に。ゼーレの圧力にネルフのごり押し、戦略自衛隊の暴走に頭を悩ませながら、サードインパクト回避を目指す。

(ほとんどオリジナルキャラばかりになり、原作との接点が希薄。おまけにEVAのうっとうしい精神世界の問題を調べなおす必要があることを考えると、うんざりして挫折)



[24299] 没ネタ・その2
Name: ペーパーマウンテン◆e244320e ID:151a2b73
Date: 2011/03/27 16:09
懲りずに没ネタ集です。リハビリ代わりにアイデア(企画倒れ)を起こしてみました。
ペーパーマウンテンは基本的にこんなこと考えながら生きてます。

昭和維新におっさんの嵐!



・大島ヒロシちゃんの憂鬱

元陸軍大臣大島健一の息子で男爵の大島浩(ひろし)に転生。

「何でこんな地味キャラに・・・」と思いながらも、史実どおり駐在ドイツ武官になる。

『日独伊三国同盟負け犬フラグ』をへし折ろうとしていたら、何の因果か駐ドイツ大使に+ついでに前任のドイツ大使である東郷茂徳にめちゃんこ怨まれる。

ロシアの赤いヒグマに対抗するため、渋々ながらもヒットラー政権と接触していたら、親ナチス派のレッテルを貼られてヒロシちゃん涙目。

腰の定まらない白鳥駐伊大使を締上げ、鼻持ちならない吉田茂駐英大使と「お前の母ちゃんでーべそ!」レベルの口喧嘩を繰り広げる日々。

大島日記より

「近衛と広田は何を考えて生きてるんだ?」
「松岡のええかっこしいが…伯林は月夜の晩だけやないどこら」
「あんのちょび髭の菜食主義者が!いっぺん泣かしたるからな!覚えとけよ!」

・白鳥敏夫でございます!

日独伊三国負け犬トリオ、その外務省内での推進役であった白鳥敏夫駐イタリア大使に憑依。
対英米超強硬派とみせかけて、実はバリバリの親英米派。果てしなくめんどくさい性格だが、手間暇は惜しまないまめな男である。

ローマに退屈そうなムッソリーニあれば、ワイン片手にちょび髭男の悪口で盛り上がり
ベルリンにいら立つ大島大使がいれば、なんとかなるさと根拠のない楽観論とビールで慰め
ウィーンにアンシュルス目指すオーストリア人あれば、ナチス政権のあることないことを吹き込みまくり
ロンドンに不遇をかこつ英国の元蔵相がいれば、「いつかあなたの時代が来る」と慰める

楽しいことが三度の飯よりも好物、だからナチスとアカは大嫌い。イタリア人以上にイタリア人、自由と享楽を愛するツンデレ外交官・白鳥敏夫の明日はどっちだ?

・スズキ三兄弟♪

歴史オタクの鈴木三兄弟が、同性の鈴木に転生。ところがその「鈴木」は場所も時代も境遇も、てんでバラバラで・・・

鈴木喜三郎「鳩山一郎の義兄さんですか、そうですか…あ、平沼先輩、ちーっす!」
鈴木貞一「正直、こいつはない・・・あ、東条さん、肩揉みましょうか?」
鈴木善幸「ゼンコー、フー?って言わせねえよ?…あ、二階堂さん、角さんは何て言ってた?」

・・・三兄弟の運命やいかに?

・朝鮮軍司令官はつらいよ~銑十郎、わが道を行く~

私、生まれも育ちも石川は金沢。加賀百万石の城下町で産湯をつかい、姓は林、名は銑十郎。人呼んで『越境将軍』と…後世呼ばれるはずの男です。
皆様ともども、ネオン、ジャンズ高鳴る大東京…ではなく、今は朝鮮半島は漢城に仮の住居まかりあります。
不思議な縁持ちまして、たった一人、なぜかこの世界にやってきて、自分の平和な老後のために、粉骨砕身、軍の綱紀粛正に励もうと思っております。
そのためか関東州に行きましても、市ヶ谷に行きましても、むろん漢城でも、とかく若手将校や参謀連中にうっとうしがられる陸軍中将でございます。

いよ、金ちゃん。次郎ちゃん、ただいま。ガッキーは元気か?

金谷範三参謀総長「・・・林君。ガッキーとはだれのことかね」

相変わらず金ちゃんは馬鹿だね。宇垣前陸軍大臣閣下のことにきまってるじゃあ、ございませんか。
ああ、そうそう。関東軍が反乱たくらんでるから何とかしてほしーの☆

金谷範三参謀総長「ああ、そうですか・・・・・・・・・へ?」
南次郎陸軍大臣「う、うろたえるんじゃない!帝国軍人はうろたえない!」
武藤信義教育総監「………(ZZZ…)」

これから起こすは林銑十郎、一世一代の大芝居。歴史の改編という、神をも恐れぬ大一番。
引くも地獄進むも地獄、さりとて何もせぬのはなおさら悪し。何より銑十郎の男が立たぬのです。
以後、皆々様におかれましては、見苦しき面体お見知りおかれまして、恐惶万端引き立って宜しくお頼申します。

幣原外相「頭痛が、胃が、腸が、持病の癪が、神経痛が、水虫があああ!!!」
安達内相「どころがどっこい、これが現実・・・!!!」
若槻首相「幣原君、安達君。現実から逃げないで仕事してください」

同時上映「首相はつらいよ~花も嵐も禮次郎~」もよろしく

・東郷元帥漫遊記

- これはアドミラル・トーゴーの知られざる晩年と、一人の元海軍軍人の苦悩を描いた物語である -

世は昭和初頭、長引く経済の低迷や相次ぐ汚職事件により政治不信が渦巻く中、一人の老人が立ち上がった。

ある時は薩摩の大地主、またある時は旅の隠居、またある時は謎のおせっかい老人…

「なんだこのご老人はー(棒)」
「あなたは、一体誰なんですかー(棒)」
「ふぉっふぉっふぉ、ただのおせっかいな老人ですよ」

その正体は日本海海戦の英雄、東郷平八郎元帥!(正体バレバレだけど)
お供の介さん(岡田啓『介』海軍大将)、格(角)さん(大『角』岑生海軍中将)を引き連れて、元帥は世にはびこる悪を打ちのめす旅に出る(東京市内限定だけど)

「控えい控えい!このお方をどなたと心得る!」
「恐れ多くも先の日露戦役の英雄、元帥海軍大将、東郷平八郎伯爵にあらせられるぞ!」
「うむ。一同のもの、面を上げい」

岡田大将も大角中将もヤケクソだ!満足そうなのは東郷元帥だけだ!

「うっかり八兵衛は八代君(八代六郎元海相。海軍大将)、風車の弥七は…」
「元帥、もう勘弁して下さい!」

今日も帝都に、関係各方面への根回しとお詫び行脚に駆け回る小笠原子爵の悲鳴が響く。

頑張れ小笠原、負けるな長生。アドミラル・トーゴーの名誉と、帝国日本の未来は君にかかっているぞ!(ナレーター:徳川圀順公爵)



[24299] 没ネタ・その3
Name: ペーパーマウンテン◆e244320e ID:2ea89801
Date: 2013/04/14 12:48
ご無沙汰いたしております。ペーパーマウンテンです。
長らく放置してしまい申し訳ありません。そしてまた没ネタで申し訳ないです。
年内更新できたらいいなと考えていますが・・・
気長にお付き合いいただけるとありがたいです。



・ダモンだもん!(戦場のヴァルキュリア)

征暦1935年。ヨーロッパ大陸は東西二つの大国に分断されていた。
専制君主国家・東ヨーロッパ帝国連合(通称「帝国」)と共和制連邦国家・大西洋連邦機構(通称「連邦」)である。
第二次ヨーロッパ大戦は両国に挟まれた武装中立国であるガリア公国へも飛び火した。
帝国は燃料や兵器、治療目的で使われる鉱物資源ラグナイトを大量に手に入れるため、ラグナイトを豊富に産出するガリア公国への侵攻を開始したのである。
拡大する戦火の中国境の町ブルールで出会った少女アリシアと青年ウェルキンは…

特にこの話には関係ない

主人公はこの人。
ぽっちゃりした体にキュートなお目々、なまずひげがトレーマークのガリア公国中部方面軍司令官……
その名は-ゲオルグ・ダモン(転生)!
貴族で将軍、デブでいん●ん、上には弱く下には徹底的に強い嫌われ者だ!

ダモンは祖国(≒自分の地位)を守る為に今日も東奔西走する。

議会から予算を分捕り、行政府との権限争いに打ち勝て!
お姫様のお守りをしながら、自分の地位のためには国を裏切りかねない宰相を監視しろ!
なんでもありの連邦の謀略に振り回されながら、士気が壊滅的に低い中部方面軍を率いて人間チート集団の帝国相手に戦線を維持しろ!
ちなみに件の義勇軍がまきおこす独断行動の尻拭いも仕事だ!

「あー、きん●ま痒い………」

頑張れダモン。負けるなダモン。

(ちなみに原作では消し炭エンドだぞ♪)



帝国暦486年(宇宙暦768年)。ノイエ・サンスーシ宮殿-

「おそれながら皇帝陛下、こ、これは、その、いかなる趣向なのでしょうか…」
「おお!アンネローゼ。まさか余の命令が聞けぬとでも?」
「い、いえ、決してそのような意味では………で、ですがこれは…」

西暦1944年。ブリタニア連邦国内。カールスラント亡命政府-

「…………あー、たしかヴィルケ中佐であったか」
「はい皇帝陛下」
「その……、なんだね。うん。その、あれだな?」
「?」
「だからだ。その余に何かおもうところがあるわけではないのだな?」
「はぁ?」

敵は「世界」であった。

すべてが反転した世界の中、貴方は自分を貫く事ができるだろうか?
これはカールスラント皇帝と最後の銀河皇帝の知られざる戦いを描くヒューマンドラマ。
常識と非常識の合間で、二人の皇帝は世界を相手に自らの常識を問い続ける………

「何故この『ズボン』がはけないのだ!」
「…………………ズボンはどうした」

『パンツ』とは何かを-

「どこからどうみてもパンツなのですが…」
「ですからこのように履いております」(ピラ)

「パンツじゃないからはずかしくない!」
「いやいやいや、ないないないないないないないない」

-ズボンだから恥ずかしくない-フリードリッヒ4世の主張-
-パンツはズボンではない-フリードリッヒ4世の憂鬱-

貴方はパンツはいていますか?

「教えてくれキルヒアイス。パンツとは何なのだ!」
「ラインハルトさま。ここは褌という手もあるのでは?」

「やれやれ、なぜパンツにこだわるのかわからないですね。ズボンの下に何も履かない、この開放感にまさるものなどないというのに」
「 お 前 は 何 を い っ て い る ん だ 」

戦争とは全く関係ないままに延々と広がりつづけるパンツ論争。それはふたつの世界に何をもたらすのであろうか?

「皇帝陛下、新たな勲章のデザイン案でございます」
「・・・パンツだな」
「ズボンでございます」
「こんな勲章があってたまるかあああ!!!!!」

銀河の歴史にパンツが、また一枚…

・吾輩は日本国皇帝である(マブラブオルタネイティヴ)

吾輩は日本国皇帝である。名前は(たぶん)ない。
たぶん皇帝だと名字やら性別やらいろいろとめんどくさいから征夷大将軍が5家もあるんだろう。
いわゆる「おとなのじじょう」というやつか。だとすると実にうまく考えたものである。
クーデターでも無視されたのだが、一応最高権力者のはずである。
せめて設定集以外の出番がほしいと願う日々である。
オチなどない。

・ホトケ様がみている(このお話はフィクションです)

「ごきげんよう、お坊様」
舞台は石山本●寺城。●願寺には清き正しい僧侶生活を受け継いでいくため、僧兵部には「兄弟」という数珠を授与し
兄弟となることをちかい、兄である先輩が後輩を指導する、一風変わった戒律が存在する。
中でも本山である石●本願寺の僧兵は全門徒憧れの的。
ありそうでない世界を、主人公・顕如の視線で垣間見ることができる
むくつけき野郎どもが繰り広げる寺院ドラマ。


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