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[24531] 【習作】代官日記【ゼロの使い魔】(更新停止)
Name: 逢坂十七年蝉◆e570cb4a ID:3814543e
Date: 2011/09/24 00:27
 はじめまして。Arcadiaに投稿されている数々の素晴らしい『ゼロの使い魔』の二次創作を読んで自分も書いてみたくなり、筆を取りました。

・本作はヤマグチノボル氏の『ゼロの使い魔』の二次創作SSです。
・投降開始時、原作は19巻、タバサの冒険は3巻、烈風の騎士姫は2巻まで発売しています。
・アニメ版は見ていません。
・漫画版は両方とも読んでいません。
・投降開始以降に発表された設定については、取り入れられない場合があります。
・主な舞台はハルケギニアのトリステイン王国です。
・オリジナルキャラクターが多数登場します。
・原作キャラクターも登場しますが、メインキャラクターの登場は少なめの予定です。
・オリジナル設定、捏造設定が多量に含まれます。
・プロットは在って無きが如しです。

 以上が本作の注意事項となります。
 感想、批評、指摘は大歓迎です。推敲はしていきますが誤字などもご報告頂ければ幸いです。
 厳しいご意見は創作の糧ですので有り難く頂戴いたしますが中世欧州の史料を元とした衒学的なツッコミや、過度の展開予想などにつきましては御寛恕いただければ幸いかと思います。


2010/11/24 投稿開始
2010/11/25 第2話投稿、第1話の指摘事項を一部修正
2010/12/12 第3話投稿
2010/12/22 第4話投稿、第3話の誤記を一部修正
2011/01/26 第5話投稿



[24531] 手紙
Name: 逢坂十七年蝉◆e570cb4a ID:3814543e
Date: 2010/11/25 11:43
 その手紙がテオドール・デュ・カタンの下に届いたのは降臨祭が明けたばかりの六二三一年のヤラの月半ばのことだった。
「テオドールさん、手紙だよ」と馴染みの肉屋の徒弟が手紙の束をテオドールに押し付ける。
 遅い朝食を取り終えたばかりだったテオドールは、手紙の束の中にその封筒を見出し、首をかしげた。封筒は上等のしっかりした羊皮に赤い封蝋が施されたもので、差出人はレスピナス子爵となっていた。聞いたことのない名前だ。手紙以外にも何か入っているのか、ずっしりと重い。
「御苦労さま」と礼を言いながら徒弟に銅貨を五枚握らせてやる。正規の料金は月極めで肉屋に支払っているので、この金は徒弟への駄賃になる。
「こっちの方こそいつもありがとう!」と徒弟が顔を綻ばせて駆けていく。我ながら甘いことだと思いながら徒弟の背を見送り、テオドールは封筒の検分を行うことにした。
 宛先はきちんと「デュ・カタン御中」となっている。デュ・カタンという姓を名乗る人間は大変珍しい。少なくともテオドールかその親類縁者の誰かに宛てられたものと見て間違いはないだろう。
 念の為に『探知(ディティクトマジック)』のルーンを唱え、害意のないことを確認してからペーパーナイフで封蝋を丁寧に割って中身を取り出す。入っていたのは手紙が一枚と、エキュー金貨が五枚。封筒を逆さにしてみるが、それだけしか入っていない。
 手紙の内容はとても簡潔で、流麗な字で次のようなことが書かれていた。

 『親愛なるデュ・カタン殿へ

   約束に従い、貴方を廷臣として迎えたし
   つきましては一度、当家を訪ねられたい
   来訪を心より待つ

         レスピナス子爵
               オリヴィエ・シャルル・ル・コント・ド・レスピナス

  追伸 同封した金貨は些少だが旅費の足しにされたし』

 テオドールは手紙を手に小躍りしそうになった。これは仕官の誘いではないか!


 トリステインの城下町、アパルトメンが立ち並ぶ閑静な住宅街の一角で代書屋の看板を掲げるテオドールは二十七歳になったばかりのどこにでもいる下級貴族だ。茶色い髪に灰色の瞳。背は人より少し低いが、気になるほどでもない。
 今でこそ代書屋の真似ごとをしているが、テオドールの本業は宮廷に仕える事務官だ。とはいっても本人がそう言い張っているだけで、今は代書屋の稼ぎと親類の遺産で食っている。方々の伝手を頼って仕官の口を探しているのだが、中々雇ってくれるところが見つからずに困り果てていたところだったのだ。

 殺風景な部屋の隅、ベッドの下に置いてあるチェストから去年の貴族年鑑を取り出し、レスピナス子爵家を探す。トリステイン王立紋章院が毎年発刊している分厚いこの本はトリステインで爵位を持つ諸侯を網羅的に取り上げており、当主の名前と大まかな略譜、紋章、主な領地と荘園などが挙げられているとても重宝なもので、テオドールの愛読書でもあった。
 レスピナス子爵家の項はレスコー男爵家とレセップス伯爵家の間にあったが、肝心なことはほとんど何も書いていなかった。封蝋の紋章は間違いなくレスピナス子爵家の紋章(珍しい兎の紋章だった)だということがわかったくらいだ。
 尚武の名門ラ・スルス家に連なる家柄だということは分かるのだが、その他に目立った記述はない。手紙の差出人であるオリヴィエ氏が当主だということは確認出来るが、叙勲歴などもなければ所領の特産品も挙げられていない。どこにでもある小貴族かもしれないし、そうではないかもしれない。
 何しろトリステインという国では自由身分の人間の内、実に十分の一が貴族に連なる。一握りの大貴族を除けば後は中堅・小貴族が多数を占めており、それらを詳述できるほど貴族年鑑は厚くはないし、爵位も領地を持たない貴族は最初から掲載されてもいない。

 テオドールは記憶の糸を辿ってみるが、このオリヴィエ・ド・レスピナスという人物の宮廷に廷臣として迎えられるような約束をした記憶はなかった。念の為、仕官をお願いする手紙を出した貴族の名前を控えてある羊皮紙の綴りを繰ってもみたのだが、それらしき名前は見当たらない。
 そもそも二十七にもなったのに代官としての名声のないテオドールをわざわざ廷臣に迎えたいという酔狂な貴族などいるとは思えない。テオドールが仕官先を探していることをどこかから聞き付けたという可能性もないではないが、その可能性も薄そうだ。仕官を望む貧乏貴族など大抵は親類の中にさえ何人も抱えているものだ。
 となると、もう一つの可能性を考えてみる必要がある。つまり、もう一人のデュ・カタン氏についてだ。


 テオドールの大叔父であり上司であり師でもあったアルベール・デュ・カタンといえば国王代官として少しは名前の知れた人物だった。いくつかの直轄領の経営で目覚ましい成果を挙げたアルベールはいくつかの勲章と特別の年金を貰い、何度か国王陛下との謁見の栄も賜り、彼が開発した開拓村の名前から「デュ・カタン」の姓を名乗ることも許された。
 当然、彼を廷臣や顧問、何よりも代官として幕下に加えたいという諸侯は少なくなかったのだが、アルベールはついにそれらの要請に応えることはなかった。国王代官は退官してもその任地に三年は留まらなければならないという空文化した法を律義に守ったまま、四年前の秋に惜しまれながら天に召された。
 実に立派な大往生を遂げたこのアルベール大叔父がレスピナス子爵家と生前に何らかの約束をしていたことは考えられた。テオドールと同じく灰色の大きな瞳を持ったこの老人は誠実なことで知られていたが、酒量を過ごすととんでもない約束をしてしまうことでもまた有名だったので、助手のようなことをしていたテオドールはしばしばその尻拭いに駆り出された記憶がある。
 タネが分かれば何ということのない話だった。喜びもひとしおだっただけにテオドールの落胆は大きい。アルベール大叔父は有名人だったが、田舎に住んでいる貴族の中には彼がまだ存命と思い込んでいる人間がいてもおかしくはない。
 ひきだしから下書き用の紙を取り出すと、テオドールはお詫びの文面を考えはじめた。いくら誠実が服を着たようなアルベール大叔父でも亡くなっていては廷臣に加わることは出来ない。これも最後の尻拭いだ。


 二、三枚の紙を無駄にしたところでテオドールは良からぬことを思いついた。この手紙を持って実際にレスピナス子爵家に行ってみたらどうなるだろうか。ひょっとすると仕事を得ることが出来るのではないか。
 これは名案に思えた。子爵家の方では恐らく領地経営に通じた廷臣なり顧問なりを求めている。対してテオドールにはその能力と経験がある。欠けているのは名声だけだ。
 今のトリステイン王国に代官を名乗る者は掃いて捨てるほどにいるが、きちんとした師の下で経験を積んだ代官というのはほとんどいない。大叔父の遺産をいつまでも当てにするわけにもいかなかったし、テオドールにも人並みの野心がないわけではなかった。

 そうと決まれば話は早い。代書屋の仕事の具合の良いところは時間に融通が利くという点で、そこが気に入ってテオドールはこの仕事を選んだのだ。今扱っている案件を吟味し、手早く捌いていく。法律向きの言葉さえ扱うことが出来れば、代書屋の仕事に難しいことはあまりない。法院や領主に提出する訴状ともなれば気合いを入れて書かねばならなかったが、幸いにして今抱えているのは土地の境界線を画定する覚書などで、公文書館が受け容れてくれる体裁さえ押さえておけば問題がない。
 降臨祭の明けたばかりの今は丁度仕事の少ない時期で、抱えている仕事はさほど多くない。肉屋の徒弟から手渡された手紙も開封していくが、新年のあいさつや文通相手からのもので仕事の依頼は含まれていない。
 大叔父から譲り受けた年季の入ったインク壺と羽ペンで文章を書きあげる。書き終えた書類を封筒に入れ、蝋を垂らして封をする。蝋が固まる前に指輪を押し付けて印を付け、『固定化』の魔法をかければ出来上がりとなる。

 少しの間トリスタニアを離れる旨を書いた手紙を何通か書き、書類とまとめる。既に日は傾きかけていたが、まだ営業している肉屋を訪ねる。
「おぉ、テオドールさんか。どうした、うちのバカが何かちょろまかしでもしたか?」と前掛けで手を拭きながら出て来たのはでっぷりとした体形の肉屋の親方だ。トリステインの城下町の食肉ギルドでは自前で解体した肉しか販売してはならないことになっているので、親方は昼も晩もなく肉を切っている。
「いやいや、そういうわけじゃないんだ。ちょっと王都を離れることになるんで」と普段の月極め料金より少し多めの金額を渡し、しばらく留守にすることを伝える。今日書いたばかりの手紙と書類を託すことも忘れない。
「なんだ、旅に出るのか。巡礼か何かかい?」そういう親方の顔には「あんた、幸薄そうな顔してるもんな」と書いてある。
「職探しだよ、職探し。いつまでも代筆屋でくすぶっているのもなんだしね」とテオドールが応える。「いつまでもぶらぶらとしてるのは性に合わないんだ」
「ははぁ、なるほど。それがいいや。テオドールさんももう若さで押し切れる歳じゃないからな」と言いながら親方は陳列台に残っていた炙り肉の切れっ端をテオドールに投げて寄越し、自分も口に含む。テオドールもそれに倣って口に含む。脂身の多い炙り肉の旨味が口の中に広がる。そういえば今日は朝食を食べたきり何も口にしていなかった。

 自分宛てに届いた手紙をしばらく預かって貰う約束を肉屋の親方と結び、簡単な書類をその場で作成する。肉屋の親方といえば字が読めなくても務まる仕事なのだが、ここの親方は少し学があって祈祷書くらいならすらすら読みこなす。親方用に一部と自分用に写しを一部作り、厳重に封をする。仕事が仕事だけに、自分宛てに届く手紙が紛失することは避けなければならなかったが、ここの親方に預かって貰えばとりあえずは安心だった。
 後は事務所兼自宅として使っている部屋の扉に休業の貼り紙をすれば、テオドールは晴れて自由の身だった。

 大叔父の助手をしていた時分に使っていた実用的な布鞄に下着と着替えと小切手帳と財布、その他もろもろのものを詰め込む。ちょっとした食べ物と読みかけの四つ切本。いざという時に開けるように言われている大叔父の遺書も鞄の底の隠しの中に仕舞い込んでおく。忘れないようにレスピナス子爵家からの手紙を入れて支度は出来上がりだ。
 隣の棟に住んでいる大家にしばらく家を空けることを伝えにいく。今月分とひとまず二カ月分の家賃として新金貨二十四枚と鍵を渡し、時々窓を開けて風を通してもらうことをお願いする。こちらにも心付けを渡すと留守の事は快く引き受けてくれた。

 これで準備は万端なのだが、テオドールはもう一つお荷物を抱えていた。大家の家の前の路地で外套の内懐から慣れた手つきで干し肉の切れっ端を取り出し、無造作に空に放り投げる。すると狙い澄ましたようにその肉を空中で捕える大きな影が一つ。影は肉をくわえたまま、テオドールの肩に降り立つ。鴉だ。
 鴉はおもむろに口を開くと「どうなさいました御主人、珍しい恰好をして」と人の言葉でしゃべりはじめた。テオドールは慌てず「ラッキー、ちょっとした旅に出るぞ」と応える。

 鴉はテオドールの使い魔でラッキーという。くちばしの太い立派な雄の鴉で、この辺りに大きな縄張りを持っていた。人語を解するルーンを刻まれており、よくしゃべる。
 ラッキーという名も自分で勝手につけたのだ。本人に言わせるとラッキーとは空の眷属に伝わる由緒正しい名前で、使い魔として人間と契りを結んだかつての大英雄の名だということだった。

「それは結構。御主人もそろそろ、つがいになる雌を探した方がよろしいでしょう」と皮肉げに目を細めるラッキー。
「……何か勘違いしていないか?」
「聞くところによると人間の雌は尻の大きい方が良い卵を産むそうですな。つがいを選ぶときには十分に考慮するべきです。相性も大切ですが、卵が産めなくては話になりません」
「ラッキー、勘違いだ、ラッキー。私は嫁探しにいくんじゃない、仕事を探しに行くんだ。後、人間は卵を産まない」と訂正するテオドールを見てラッキーは一声カァと啼き、「ええ、存じておりますとも御主人」と応じる。召喚される前から頭の良かったことを誇りにしているこの鴉はいつもこの調子でテオドールをからかうのを趣味にしていた。

「それで御主人、旅はどのくらいになりそうなのですか?  長い旅になるようならば縄張りのことなどで処置が必要になるかもしれませぬ」とラッキーが少し思案顔で訪ねる。こう見えてこの老鴉はこの辺りに比類ない大領を有する鴉で、子分としている鴉も少なくない。正式な形で禅譲が行われなければ、しばらくの間、城下町のゴミ捨て場はいささか騒がしいことになるだろう。

「上手く向こうで仕事が見つかればもうトリスタニアには戻ってこないつもりだよ。大叔父さんもそうだっただろう?」テオドールがラッキーの頭を撫でながら応える。
「なるほど、アルベール殿のような生き方をされたいと。しかし御主人、貴方は以前もそう言ってすぐにここに戻って来られたではないですかな」
「それはそうなんだが……」

 痛いところを突かれてテオドールが押し黙る。実はテオドールは以前に仕官したことがあり、ラッキーはその時のことを言っているのだ。大叔父が亡くなってからの四年間、ちょっとした代官職や貧乏貴族の廷臣として雇われたテオドールだったが、どういうわけか長続きしない。上手く軌道に乗ったと思ったところで妙な横杖が入って首になってしまう。

「三回仕官して三回とも暇を出されるというのは、明らかにおかしいでしょう。それも御主人には過失はなかったにも拘わらず。ひょっとすると御主人は大いなる意思によって働くことを禁じられた運命をお持ちなのではありますまいか?」
「……それは嫌な運命だな。私はこれでも人並みに出世したいし、一家を成したいとも思っているんだけどな」

鼻の頭を掻きながら応えるテオドールにラッキーは得心顔でうなずく。

「そう思われるのでしたらこのラッキー、止めは致しますまい。我ら空の眷属の言葉にも『嵐が過ぎて空晴れる』と言いますしな」


 逸るテオドールは夜の内から出発したかったが、ラッキーは申し訳なさそうに縄張りの処置にどうしても一日掛かると詫びた。結局テオドールも明後日の朝出発することになった。口やかましい鴉だが、性根は使い魔らしく従順なところがある。よくよく考えてみれば、テオドールもレスピナス子爵家のことをほとんど知らないと言っても過言ではない。旅立ちに準備が必要なのはラッキーと同じだった。
 明日は王立図書館と租税法院の公文書館を回ってレスピナスのことを少し調べてみようと考えながら、テオドールは家路に就いた。照燈持ちがどこからともなく黄昏時の街に現れ、トリステインの城下町に夜の帳が下りる。一仕事を終えた職人の集団とすれ違いながら、テオドールは空を見上げ、誰ともなしに呟いた。

「今度こそは、上手く職にありつければいいんだが」

 この旅立ちが後に彼の運命を大きく変えることになることをテオドールはまだ知らない。
 双月は今宵も変わらずにトリステインの大地を照らしていた。



[24531] ロランの盾
Name: 逢坂十七年蝉◆e570cb4a ID:3814543e
Date: 2010/11/25 11:44
 まだ脇に昨夜の雪の残るロラン街道を駅馬車が東に向かっている。二頭立ての簡素な造りの幌付き馬車だ。車中にはテオドールの他には目付きの悪い商人風の男一人しか客がいない。冬小麦の畑と休耕地を縫うように走る街道に吹く風は冷たく、車中でも外套の襟を立てないと寒さが這い上がってくるようだ。
 今年は冬が厳しい。トリステインの城下町でも薪の値段は風竜上りの天井知らずで、ついには王家が猟場での薪拾いをしぶしぶ認めたほどだった。どこまでも青い空は寒々しい。このままこの気候が続けば、夏の収穫にも影響することになる。貧乏貴族や平民には厳しい年になりそうだとテオドールは思った。

 馬車の後ろから見える景色はトリステインの田園地帯そのものだ。休耕地では雄の羊たちが草を食んでいる。はるばるゲルマニアの山岳地帯から牧童たちに連れられてきた羊たちはトリステインで冬を越す。山の冬は厳し過ぎるからだ。雌や子どもの羊は建物の中に入れられるが、雄は放牧され、休耕地に肥えという恵みをもたらす。
 大叔父アルベールが代官を務めていた土地にも冬になると牧童と羊の群れが訪れた。上質の羊毛を取る為には一年を通じて同じような温かさで羊を育てる必要があり、トリステインの地は越冬にちょうど適しているのだとテオドールは大叔父に教わっていた。

 ラ・ヴァリエールを経てゲルマニアへと東下るロラン街道は古くから整備された国王街道であり、大樹の幹に喩える古歌もあるように途中でいくつもの領主街道が枝分かれしていく。トリステインの東や北に急ぐ人々はこの街道を走る駅馬車で適当な駅まで行き、そこからまた駅馬車をつかまえるか、馬を借りるか、あるいは歩いて目的地を目指すことになる。
 テオドールと使い魔のラッキーの向かうド・レスピナス子爵領は幸いにしてラ・ヴァリエールの少し手前のロラン街道沿いにあり、近くに駅もあるということだった。駅のない適当なところで馬車から降ろして貰うと帰りに困ることになることは大叔父に連れられて各地を行き来することの多かったテオドールの骨身に沁みている。
 子爵家に雇って貰えなければ、一人と一羽はこの寒空の下をまたトリスタニアに引き返すことになるが、それはあまりに惨めだった。

 すべては相手の出方しだいだ。最初から子爵家の側にテオドールを雇うつもりが見てとれないのなら、大叔父が亡くなったことを伝えて帰るしかない。しかし、もし仮に子爵家の人手が足りていないようなら、上手く交渉すれば潜り込める可能性もあった。
 そうなればしめたものだ。末席に居座ることさえできれば、後は自分の能力で切り開いていけばいい。自分にはその能力も見地も経験もある。今まで足りなかったのは運だけなのだ。
 テオドールには自信の持ちあわせだけはたっぷりある。あるはずだ。微かに手が震えているのは寒さのせいだろう。

 東に向かうにつれて、小麦畑が途切れて森になっているところが多くなる。豚を飼う為に共有地として残している小さな森もあるが、もっと大きなものもある。かつては開拓されたのだろうが、放棄されて森に戻ってしまう土地も多い。トリステインの城下町から一日半も走ると、畑の中に森があるのか、森の中に畑があるのか分からなくなってくる。
 戦争や疫病で人の数が減ると、森は色濃さを増す。平和な時代になれば、森は拓かれて村の数が増える。それを繰り返してトリステイン王国は長い歴史を綴って来たのだ。

 御者によるとド・レスピナスまではもう少しあるようなので、テオドールは一寝入りすることに決め、まぶたを閉じる。遠くにラッキーの啼き声を聞きながら、テオドールの意識はゆっくりと眠りの中へ落ちて行った。

   □

 街道の分岐点に建つ駅舎は宿屋を兼ねた石壁の立派な建物だった。掲げた馬首の看板の下に小さく『エキュ・ド・ロラン(ロランの盾)亭』と書かれている。駅舎の周りは鬱蒼としたナラの森に囲まれている。盛り土をして少し小高くなったところに建てられた本館に馬を十数頭は繋いでおける厩舎が付随している。二階建てだが塔が一本伸びており、これは戦争がはじまると物見櫓や狼煙台として使われるのだろう。
 街道の北側に面した本館は、後ろのなだらかな丘に控える別棟と回廊で繋がっている。別棟と厩舎も回廊で結ばれており、上から見ると囲壁によって本館、別棟、厩舎の間の三角形の土地が守られているように見えるはずだ。その真中の空間に生命線ともいうべき井戸が配されている。
 常に東からの夷敵に備えなければならないトリステインの各街道沿いにはこうした簡易の要害と連絡用に整備された駅がかなり密に維持されている。金さえ積めば夜にでも馬車を出してくれるので、トリステインの交通の便は他の国にも引けを取らない。
 テオドールが辿りついた時にはすでに陽が落ちかかっていたので、ド・レスピナスへの訪問は明日にすることにし、今晩はここで宿を取ることにした。


 野宿を好むラッキーに一晩の別れを告げ、頑丈な外開きの扉を押し開ける。駅舎の中は思ったよりも明るかった。防備の為に窓が少ない造りなので、魔法の灯りが使われている。暖炉の側では商人風や巡礼者風の男たちがエール酒のなみなみと入った木のジョッキを片手に噂話に興じていた。入ってきたテオドールの方を一瞥するとまた話の輪に花を咲かせている。
 扉の脇にかかっている土鈴を鳴らすと奥から大柄な男が宿帳を手に現れた。あばたの多い顔で、気難しそうな印象を受ける。マントは羽織っていないが腰を見ると杖が下げられていた。

「ようこそのお越しで。泊りですかい?」と言いながら男は宿帳を広げる。
 駅は旅人の素性を確かめる義務がある。一昔前のようにいきなり『探知(ディティクト・マジック)』の呪文をかけられることはなくなったが、メイジであるかないかは宿帳に書き込む決まりになっていた。
「ええ。明日の朝、レスピナスへ行こうと思って」と応えながらテオドールは促されるままに宿帳に名前を記す。墨つぼのインクが少なくなっているので字がかすれてしまう。
「レスピナスへ? なるほど。……一泊でごぜえますね。晩餐は御入用ですか?」
「もちろん。ずっと馬車に揺られていたんで、もう腹がぺこぺこで」とテオドールが言うと、「申し訳ないんですが晩餐まではもう少し間がありまして」と男はあばたの多い顔を申し訳なさそうに下げた。

 いつの間にか黒い大きな犬が足元にまとわりついてきていた。立派な毛並みの狩猟犬で、よく見ると鼻頭にルーンが刻まれている。男の使い魔なのだろう。
 老眼の気があるのか宿帳を遠ざけたり近づけたりしながら男は「ふぅん、デュ・カタン殿、ね。珍しい姓ですな。ひょっとしてあのアルベールさんのお知り合いですかい?」と尋ねる。
 自分がアルベール・デュ・カタンの大甥に当たることを伝えると、男は大きく眼を見開いた。彼はこの駅の駅長で、前の任地ではアルベール大叔父の世話になったことがあるという。大叔父のことを命の恩人とまで言われると悪い気はしない。
 大叔父アルベールが亡くなったことを伝えると、駅長は「ああ、ああ、存じておりますとも」とうなずき、「受けた恩は返さなきゃなりますめぇ。テオドールさん、貴方さまが何か困った問題にぶち当たった時に助けることが出来るかもしれない。この辺りじゃちょっと顔が利く方なんでね」と請け負ってくれた。

 別棟にあてがわれた部屋で長靴を脱いで部屋履きに履き替え、部屋着に着替えるとテオドールは夕食までの時間を、四つ切本を読んで過ごすことにした。羊皮紙を畳んで四つに切ることからそう呼ばれるこの種類の本は、活版で印刷された紙の本が普及してから随分と数が少なくなった。
 それでも活版印刷するほど需要のない本については未だにこの形式で販売されているものが多い。学術的な書物や実用書の筆写はブリミル教に仕える修道僧や貧乏な学生たちにとって格好の小遣い稼ぎだったし、何事にも格式を重んじる貴族にとって、活字体が踊る紙の本は何だかとても新奇で頼りないものに思えるらしい。
 アルビオンの大修道院に仕える荘園管理人の書いた農書を読みながら、要点を羊皮紙に書きとっていく。何かにつけて美文にしたがるトリステインやガリアの文章と違ってアルビオンの文章は散文的でテオドールの趣味に合っていた。

 農繁期に合わせて南へ北へと放浪する日雇いの土メイジたちが媒介となって、ハルケギニアの農業技術は驚くほどの速さで伝播する。ガリアでは魔法を使った農業技術を実験農場まで作って研究しているというが、トリステイン王国はそのおこぼれにあずかっている形だ。
 農業以外の技術も少しずつだが進歩していく。魔法を使った技術や、平民がそれに代わる工夫を考え、日々の暮らしの中で試され、洗練されていく。
 それゆえに、技術を吸収する努力を怠ると途端に進歩から取り残されてしまう。放浪のメイジ達がもたらすものはあくまでも実地面での技法であり、その奥にあるはずの意図や方法論はこうやって書物の手助けを借りながら想像するか実際に旅をして見聞を広めるしかない。
 旅をすることを考えれば本で得られる知識は少ないかもしれないが、ないよりもマシだ。大叔父はそれこそ万巻の書を激務の合間に繰っていたが、「まだ読み足りない」といつも零していた。書痴の気があったのかもしれない。その性質を受け継いだのでもないだろうが、テオドールは本を読むのを苦にしなかった。
 いつしか空き腹を忘れて農書に没入していたテオドールは、危うく折角の温かい晩餐を逃すところだった。


 晩餐は駅舎で出されるものとしてはとても結構なもので、塩味の利いたパン、茹で野菜と豚の炙り肉、肉団子とキャベツの入ったスープとたっぷりのエール酒という献立だった。
 よほど上手く保存しているのか、野菜は瑞々しく、肉は汁気がたっぷりしている。炙り肉に齧り付くと中からじわりと旨みが溢れ出てくる。空きっ腹にはたまらない御馳走だった。
 おのおのの客室から食堂に集まった客たちは思い思いの席に座り、談笑しながら次々と料理と酒を平らげていく。配膳係の男がエール酒の入った木のジョッキを載せたお盆を両手に持ってせわしなく駆け回っている。
 旅人だけでなく、近くに住んでいる平民の客もいるらしい。こちらはエール酒と干し肉だけの簡単なものを口にしながらカード遊びをしている。ちょっとした小銭を賭けているようで、一勝負終わるごとに嬌声や罵倒が聞こえてくる。
 湯気の立つ料理に舌鼓を打ちながらテオドールは隣の席の商人風の男から色々な噂話を仕入れるのに余念がない。少しでもレスピナスについて知っておきたかった。

「とするとレスピナスの子爵様は代替わりしたばかりということですか?」
「したばかりという言葉が当たるかどうかは分かりませんがね。少なくとも三年か四年前までは今のオリヴィエ様ではなくて先代のお殿さまが治めていたはずですよ」とユルバンという名の赤ら顔の商人は立派な太鼓腹を叩きながらエール酒を流し込む。テオドールがお代わりを頼んでやると、ユルバンは上機嫌で先を続けた。
「あすこに行くつもりなら止めた方がいいですよ。最近はよくない噂ばかりだ。代官がころころ変わるし、税は重くなるしで商人も敬遠しておるんです。領地の境界問題や御家中もゴタゴタしているみたいですし、ひと悶着あるんじゃないですかね。はい。この辺りでは一番の寺院と評判のグラン・セルヴの修道院へのいい抜け道なんですが。街道も荒れの放題。もったいない話ですよ」

 グラン・セルヴ大修道院についてはテオドールもその名を聞いたことがあった。格式のある古刹で、信心に篤いブリミル教徒が巡礼の目的地に選ぶこともある立派な寺院だ。
「では、人の流れが変わったと?」とテオドールが先を促してやると、商人はしたり顔でうなずいた。
「そうなんですよ。もう少し東に進んでから大沼を迂回してくる旧街道があるんですがね。最近はもっぱらそっちを使う人が多いんですが…… あちらの道は人の手の入ってない森が近くにあるんでね。盗賊やら傭兵くずれもちょくちょく出ているようだし、オーク鬼を見たって人もいるようですよ」

 子爵さまがちょっと街道を整備してくれればまた元通りに人が通ると思うんですがね、と商人はジョッキを傾けるが、もう中身は空っぽだったらしい。
 商人の分のエール酒のお代わりをもう一杯頼んでやりながら、テオドールは暗澹とした気持ちに包まれる。今話を聞いている商人以外にも何人かに話を聞いたが、レスピナス子爵家はあまり良い印象は抱かれていないらしい。
 ちらほらと見える平民の客について配膳係にそれとなく聞いてみると、レスピナス子爵領にあるラ・マレ村の農民たちだという。彼らがこの時間にここにいるということは、どんなに急いで帰っても翌朝の仕事に取りかかるのは陽が昇り切ってからになってしまうだろう。

 食堂は遅くまで賑やかだったが、テオドールは早々に切り上げて部屋に退散した。早く寝付いてしまいたかったが、眠気はなかなか訪れなかった。

   □

 まだ朝靄の立ち込める時間にテオドールはベッドを出た。結局、一睡もできなかったのだ。
 昨日の晩の料理を温めたらしい軽い朝食を駅長は用意してくれた。普通の宿では朝食を用意してはくれないのだが、駅長が大叔父に恩義を感じているというのは本当らしい。冬の夜明けに湯気の立つスープは涙が出るほどありがたかった。
 一晩の宿代として金貨一枚と心付けの銀貨二枚を見送りに出て来た駅長に手渡す。恩人の縁者からは金は受け取れないと固辞する駅長を納得させられるのは中々に骨が折れた。
 馬を勧められたが、ラ・マレ村まではさほど離れてもいないようなので丁重に辞退し、歩いて行くことを伝える。村の農民が夜毎にこの駅にまでエールを飲みに来るのであればほとんど離れていないのだろうし、自分の足で歩いて確かめたいという気分もテオドールにはあった。
「十分に気を付けてくだせぇ」と駅長がテオドールの肩を叩きながら言う。
「要らぬ先入観は持たない方がええとは思いますがね。それでも、注意は怠らんことです」


 ロラン街道から逸れてレスピナスに続く領主街道は細い。国王街道と領主街道の追分に建つ駅舎を発つと、テオドールは雑木林の中を走る街道を北へ向かった。
 雑木林の樹々がヤラの月の冷たい風に揺れる音を聞きながら、テオドールは歩を進める。石が敷かれ砂利の撒かれた国王同街道と違い、ここは単に踏み固められた土の道だ。雪が降ったのはもう二日前のことだったが、馬車のわだちはぬかるみ、ともすれば足を取られそうになる。
 トリステインの国法は『領主の整備する街道は馬車のすれ違うことの出来る横幅を有すること』と定めているが、この道幅では難しいだろう。申し訳程度にところどころすれ違う為の空き地が用意されているが、そもそもすれ違うほどに馬車の行き来があるようにも思えない。
 慣習として、街道から馬首が届く範囲の草は馬の餌として旅人が使っても構わないのだが、ここではほとんど草が食べられた形跡がない。つまり、旅人がほとんど行き交うことのない街道に成り果てているということだ。
 試しにテオドールが歩測で測る限り里程標はしっかりしているので元はちゃんとした街道だったのだろうが、これでは見る影もない。

「歩くに難儀そうな道ですな、御主人」と肩に止まるラッキーがぼやく。飛んでいっても待ちぼうけを食うかまた戻って来ないといけないので、こうしてテオドールの肩や頭に止まって話し相手になることをこの鴉は好んでいる。「御主人も飛んでいけばよろしいのに」
 テオドールは風のドットメイジだったが、魔法の修練はほとんど積んでいない。もしここで『飛行(フライ)』の呪文を唱えてもレスピナスに辿りつく前に精神力が尽きて墜落してしまうだろう。
「人間には向き不向きがあるからね。飛ぶのは私には向いていないらしい。ラッキーが算法に向いていないのと同じようにね」とテオドールは鼻を掻く。
「御主人の場合は向き不向きというよりも単に努力が不足しているだけのように見受けられますがね」といつもながら手厳しい言葉を投げかける。確かに努力は不足しているかもしれないが、テオドールの場合は受けた教育が魔法の修得を目指したものではなかった。


 テオドールは魔法が得意ではない。
 彼が生まれた時、すでに家には家督を継ぐべき長男がいた。次男坊というのは辛いもので、長男の代用品、いざという時の保険として部屋住みを強いられる。この処置は長男が結婚し、次代の当主候補を作るまで続く。嫡男が修めるべき帝王学や高度な魔法教育を受けることはまず出来ない。そんなことをすれば次男を主として担ぎ出そうとする家臣が確実に現れるであろうことは想像に難くないからだ。
 テオドールの父親は大変に開明的な人物だったので、血を分けた息子が軟禁状態で生涯の大半を棒に振る(実際にはその後の人生も華々しいものになることはあり得ない)ことを痛ましく思い、古くから地域の貴族に伝わる儀式を執り行うことにした。
 生まれてからちょうど一年が経つ最初の誕生日の夜、テオドールは父親の書斎に一人で入れられた。部屋の床には、三つの贈り物が置いてある。すなわち、杖と拍車と祈祷書だ。半時間後に父親と司祭がこの書斎に入った時、赤子の持っていたもので彼の生きるべき道は定まる。
 杖を握っていれば、メイジとして。
 拍車を玩具にしていれば、軍人として。
 恭しく祈祷書に接吻していれば神官に。
 三つのいずれにも興味を示さなかった子どもは残念ながら本来あるべき運命、つまり部屋住みの次男として長男の身代り人形としての生涯を送ることになる。

 この儀式を行うに当たって、優しい親は工夫を凝らす。始祖と神々の恩寵で将来を選ばせるということになっているが、実際には親は子を軍人にしたい場合がほとんどだった。杖一本で生きていくことは厳しい時代になっていたし、平民と伍して始祖と神々の教えの精髄を解き明かす神官職は辛く険しい道だったからだ。それに比べればまだ、軍人という在り方は貴族の本分に近く、生計も立てやすい。
 そこで、拍車には仕掛けが施される。怪我をしないように尖った部分が丸められた拍車には甘い糖蜜が塗ってあるのだ。半時間後に扉を開けた時、多くの赤子は拍車を大事そうに抱えて口に含んでいることになる。
 テオドールの場合もそうなる筈だった。万事手回しの良い父は既に息子が兵学校に入るまでに師事するべき人物の選定まで終えていたほどだ。

 父親と司祭が書斎に入った時、三つのギフトは床に放り出されたままだった。二人は大いに落胆した。ロマリアから取り寄せた糖蜜は無駄になり、次男は部屋住みとしての運命を定められたのだ。この儀式は神聖なものであり、やり直しは効かない。では、息子はどこにいったのか。書斎を見まわした父と司祭は、すぐに彼を見つけることが出来た。

 テオドールは、机の上で羽ペンを握り、墨つぼを振り回して遊んでいたのだ。


 こうして(あまり例のないことであったが)テオドールは法律と実務の道に進むことが決まった。本来七歳までは家庭で教育が施されるのが常だったが、父はテオドールを立派な実務家にしてやる為には何よりも早く文字に慣れ親しませるのが肝要だと考え、寺院の付属学校に五歳になったばかりのテオドールを通わせることにする。
 トリステイン王国で司法官の黒絹衣を纏う為には長く険しい教育を受ける必要がある。寺院の付属学校で読書きを覚えた後、法学院の予科に相当する各地の学院で基本的なことを学ぶ。本科である法学院に進むことが出来るのは満十八歳になってからだ。法学院で三年の間、一日に二つの講義を受講し、論文を提出。三時間にわたる公開試問を経てようやく法学士の資格を得ることが出来る。
 法学士はトリスタニアの高等法院に出頭し、弁護士として法曹の道に生きることを始祖ブリミルに宣誓をする。そこでもろもろの手続きを終えてはじめて司法官としてのスタートラインに立つことが出来るのだが、手続きを無事に終える為には結構な額を包む必要があった。。
 この時点で肩書きとして法院付弁護士の資格を名乗ることが出来るので多くの法曹家達はその資格を持って故郷に帰り、下級裁判官や代訴人、公証人として生涯を送ることになる。王都や大都市で生きる糧を得ようと思えば国庫にそれなりの額の金貨を納め、なにがしかの官職を購う必要があった。

 この厳しい教育の合間に魔法の修練を行ったとしても、それを専門とする者たちとは比較にならない習熟度しか得られないのは仕方のないことだった。また、精神の昂揚によって威力を増す魔法というものの存在それ自体が、法曹家とは相容れない。
 法曹に携わる者は常に心を波立たせずに平静であらねばならない。であるならば、テオドールが魔法を不得手とするのも仕方のないことかもしれなかった。

 もちろん、法曹の道に携わる人間の中にも魔法を得意とする人間がいなというわけではない。将来の高等法院長の候補と目されているリッシュモン大法廷部長評定官は高位のメイジだったし、テオドールが知っているだけでもライン以上の実力を持つ司法官は何人かいた。

 そういえばモーリスの奴もラインだったな、とテオドールは懐かしい名前を思い出した。
 モーリス・ド・ルセギエとテオドール、それにエリック・ダストンの三人は法学院予科からの仲で、いつも一緒につるんでいた。学生時代から優秀で将来を嘱望されていたモーリスと、いつも法の抜け道ばかり考えていたテオドールは良きライバルで、おっとりしたエリックが仲裁するまで殴り合うこともしばしばだった。
 高等法院の第二予審部に籍を置いているモーリスとはある一件以降、縁遠くなってしまったが、エリックとは今でも文通する間柄でトリスタニアを発つ前にも手紙を一通出したばかりだった。
 レスピナス子爵家とやらで雇って貰えなかったら、実家に戻っているはずのエリックを訪ねてもいいかもしれない。久しぶりに旧交を温めたかったし、酒を飲みながら話したいこともたくさんある。エリックは確かラ・ヴァリエールの近くに住んでいたはずだった。
 そうと決めると、ぬかるんだ街道を行く足にも力が戻ってくる。むしろ早くこの就職活動に失敗してエリックに会いたいような気もしてくるから不思議だ。急に歩調の速くなった主人の顔を訝しげに覗きながら、ラッキーは一声カァと啼いた。


 ほどなく雑木林は途切れた。街道はゆるやかに東に蛇行し、小川に差し掛かる。小川といっても深さはそれなりにあるようで、歩いて渡れる様子ではない。ヤラの月に水の中に入るのは苦行者か自殺志願者だけだ。
 飛んで行こうと目で促すラッキーを、テオドールは手で制する。街道の途中に川があり、橋も掛かっていないということは、渡し場が必ずあるはずだった。渡し場のある川をメイジが魔法で越えていくと、後々厄介なことになる。
 水の王国トリステインでは川や湖は特別なものであると看做されており、敬意を払われている。川は大いなる自然の作り出した天然の境界線であって、それを正規の手続き踏んで越えることに意味を見出す風習は主にトリステインの南部と東部に広く伝わっている。その川をメイジが飛んで越えたとなると、水に敬意を払わない存在として扱われかねない。この土地に居つくかもしれない身としてはそういった事態は避けなければならない。
 ラッキーを向こう岸に先行させ。テオドールが渡し場を探して視線を彷徨わせていると木陰から男が声を掛けて来た。

「旦那、渡しが要り用ですかい?」

 声を掛けて来たのは老いた渡し守だった。頭巾をかぶり木陰に設えた風除けの椅子で寒さをしのいでいたらしい。テオドールが渡しを頼むと、歳に不相応な機敏さで準備を整え、テオドールを小舟へと案内する。年季ものの舟を修理しながら使っているようで、頼りない印象がある。

「渡し賃はどれくらいになる?」と尋ねると、渡し守はテオドールの腰に目をやる。
「貴族さまからは足一本に付き、四スゥ頂いておりやす」
「八スゥか…… 結構取るんだな」
「いえいえ、旦那。男衆からは足三本分頂く決まりになっておりますでな。十二スゥでございますよ」と渡し守は不遜に笑った。

 下品な冗句だが、土地の伝統なのかもしれない。それに川の上では渡し守は絶対だ。二本の足とその間のもう一本の分を合わせて銀貨十二枚を支払い、テオドールは小舟に乗りこんだ。雄の馬に乗っていなくて本当に良かった。
 ヤラの月の水は凍りつくように冷たく、小船のへりに当たって砕けるしぶきがかかると刺すような痛みが走る。対岸の渡し場まで太い綱が結えてあり、小船は滑車で綱と繋がっている。渡し守は綱を手繰るだけで小舟を反対の渡しにまで渡すことが出来る。渡し守は慣れた手つきで綱を操り、流れの早い小川を渡っていく。
 川は澄んだ色をしている。西から東に流れる川は大元を辿るとラグドリアン湖から流れ出るいくつかの河の一本から出ているという。渡し守によると、昔は時々この辺りにまで水の精霊が遊びに来ていたらしい。

 老練の渡し守の綱捌きは素晴らしく、川の流れは早いのにほとんど舟は揺れずに対岸に辿りついた。小舟から一歩足を踏み出したところで、テオドールは気が付く。ここはもう、レスピナス子爵領だった。

「ラ・マレ(沼)村はその名の通り近くに沼のある村でしてね。この川はその沼に流れ込んでおるんですよ。村はもうすぐそこですでな」

 そう言いながら渡し守が指さす方、雑木林の向こう側に、丘の上に立ち並ぶ家々の屋根がもう見えてきていた。



[24531] レスピナス子爵とその妹
Name: 逢坂十七年蝉◆e570cb4a ID:3814543e
Date: 2010/12/22 11:13
 ラ・マレの村はテオドールが想像していたよりも随分と大きかった。
 村の名前の由来ともなった大沼(グラン・マレ)に大きく張り出した半島状の丘の上に家々の屋根が並んでいる。
 五〇戸は下らないだろう。子爵家の抱える村としては結構な数だ。
 村は人の高さほどの石壁と堀で囲われている。農地を広げていく時に掘り出した石を積み上げて作ったらしい石壁には年季が入っており、苔生して蔦が這っていた。
 石壁の前には堀が割ってあり、沼から引いた水が湛えられている。
 冬の弱い陽射しを照り返す水面に魚が跳ねていた。

「良さそうな村じゃないか」と呟き、テオドールは目を細める。
 これから、ここで働けるかもしれない。そう考えると胸が熱くなってくる。紙の上で全てが完結してしまう代書屋の仕事にはない、“匂い”のある仕事だ。
 就職に失敗すればトリステイン法学院時代の旧友エリック・ダストンに会いに行けばいいと自分に言い聞かせてきたテオドールだったが、それでもここで働ければそれに越したことはない。
「確かに。土も富んでいて、良い地虫が採れそうですな」とラッキーも彼なりの言葉で土地を褒める。この奔放な使い魔は許可を求めるようにテオドールの方を一瞥すると、早速探検に飛んで行ってしまう。一羽の雄として、新天地での縄張りはなるべく良いところを取りたいのだろう。
 ラッキーを見送りながら、テオドールは布鞄を背負い直す。住み慣れたトリスタニアを発ってまだ二晩しか経っていないが、随分と遠くまで来たような気がするのが不思議だ。

 板葺き屋根の波の向こうに浮かぶ島のような館が見える。テオドールの目指すレスピナス子爵の館だろう。背後に巨大な岩塊を背負うように建つ館は、どちらかと言えば城のような印象を与える古風なものだった。
 前カーペー朝時代の様式に則って縄張りされた城には威圧感があるが、のどかな村に孤立するようにそびえる様に滑稽さを感じないでもない。

 別れたばかりの駅長の言葉がテオドールの頭を過ぎる。先入観を持つべきではない。
 どんなに良さそうな村にも必ず問題点はあるし、人がどれほど悪く言っていても領主が悪い人間とは限らない。
 テオドールは意を決し、堀に渡された小さな橋を渡って門におとないを入れた。
 門番が門扉の横の覗き窓から顔を出す。老人だ。
 こんな寒い冬の朝にどうしなすったねと言いながら窓の横の小さい扉を開けてくれる。大門の方は頑丈な閂がしてあり、普段使いはしていないようだ。
 子爵に目通りしたいという旨を伝えると、門番は慌ててその辺りを歩いていた若者を捕まえた。子爵の屋敷まで走らせるのだという。デュ・カタンが来たと伝えれば分かると思う、とテオドールが言うか言わないかの内から若者は丘の上を目指して走り出していた。


 冬の村は喧騒に満ちている。
 野良仕事の出来ない農閑期の間、村人たちは村の中で細々とした内職をしたり、炉端で昔話に興じたりする。藁を打つ音や農耕馬の嘶き、子どもたち楽しげな声が響く中を、テオドールは子爵の館に向かう。
 並ぶ家々は粗末な造りのものが多い。
 土壁と板葺きの屋根。前庭で少しの野菜を育て、鶏を何羽か木の柵で囲って育てている。石造りの家や、スレート葺きの家はほとんどない。少し開けたところにある寺院と旅籠だけが少しは見られた造りをしているが、それ以外はアルヴィーの背比べだ。

 行き交う村人たちは皆、のんびりとしている。パン屋の騾馬が練ったパン生地を運んでいく。蓄えていた小麦を水車小屋に挽いて貰いに行く者や、家で妻に紡がせる糸の原料を納屋から運び出す者、何に使うのか頭陀袋のようなものを担いで出かけていく者など、ヤラの月の農村としては活気がある。着ているものはみすぼらしいが、これより酷い村をテオドールはたくさん見てきた。

 半分が丘の斜面に埋まったパン焼き窯からパン焼ける香ばしい匂いが立ち昇る。この村ではパン窯の余熱で風呂を焚いているらしい。斜面の上には風呂屋を示す看板が掛けられた掘っ立て小屋が立っている。風呂は村人同士の大切な社交場だが、整備されていない村も多い。
 後で入れて貰えるだろうかと考えながら、テオドールは所々岩盤が剥き出しになった丘を登っていった。


 歩きながら家の構えを見ていたテオドールは不思議な事に気が付いた。
「家紋かな?」
 門扉に小さな兎をかたどった紋が飾られている。だが、家紋であるはずはない。
 家紋を掲げることが出来るのは、貴族の特権だ。トリステイン王国では権勢を誇る商人ですら家紋を付けることは認められていない。こんな辺鄙な農村の平民が家紋を使っていることが法院の耳に入れば、莫大な懲罰金を払わされることになるだろう。

 ところが、この家紋らしきものを掲げている家は一軒だけではなかった。
 ほとんど全ての家の門の上に、兎か水滴をあしらった紋章が掛けられている。兎紋といえばレスピナス子爵家の紋章で、とても珍しいものだったと記憶している。確か、初代のレスピナス子爵の使い魔が兎だったのが由来だと年鑑には記されていた。
 水滴紋にも、見覚えがある。“水の王国”の雅称を持つトリステイン王国には水をモチーフとした家紋を代々受け継ぐ家門はとても多い。種類も多様で、水滴の形でどこの家系のどの分家かも分かるように王立紋章院によって整理・分類されている。
 掲げられている紋は、水滴紋の中でも大元の一つとされる涙滴様水滴紋と呼ばれるものだ。水の精霊との交渉役を代々仰せつかっているモンモランシ伯爵家の本家と庶流が特にさし許された意匠だったはずだ。
 目で数えてみると、レスピナスの兎紋の方が多いが、四軒に一軒くらいの割合で水滴紋を掲げている家もある。
 何故、村の家の中にレスピナスの紋とモンモランシの紋が併せて飾られているのか。

 テオドールがそのことに思案を巡らせようとしたその時、丘の上から馬が二騎、駆け下りてきた。


「あなたがデュ・カタンさまですね」

 馬から降りたのは、美しい女性だった。
 濃い蜂蜜色の長髪に柔らかそうな白い肌。意思の強そうな太い眉の下に、赤い瞳が燃えている。歳の頃は十八くらいだろうか。愛くるしさと気丈さの同居した、どこか兎を思わせる雰囲気がある。見るまでもなく腰には小ぶりの杖を吊っていた。
 急いで出てきたのか、部屋着にズボンを履いただけのような格好だ。
「レスピナス子爵オリヴィエが妹、アンヌ=マリー・ド・レスピナスです」と深々と礼をする。
「兄の名代として、迎えに参上いたしました」

「お初にお目にかかります、アンヌ=マリーさま。お招きに与かり参上いたしました」とこちらも丁寧に応じながら、テオドールは自己嫌悪に陥っていた。
 自分の名を名乗れない。これは貴族の末に連なる者として、恥ずべきことだ。しかし、ここで名乗るわけにもいかない。名乗ってしまえば、それでおしまいだ。レスピナス子爵が自分の妹を迎えに出してまで廷臣に迎えたいのは、大叔父だ。自分はではない。

 名を名乗らないことで相手を騙す。最低の行為に、良心が痛む。
 だが、ここで雇って貰えなければ、またトリスタニアに戻って代書屋稼業で糊口を凌がねばならなくなる。少なくとも子爵に会うまでは正体を隠しておかなければならない。

 そう思ったテオドールに、アンヌ=マリーは柔らかく微笑みかける。

「ええ、存じております。テオドールさま」



 どういうことだ。
 今、目の前のアンヌ=マリーが呼んだのは、「デュ・カタン」ではなく「テオドール」という名だった。大叔父の名ではなく、自分の名が呼ばれたのだ。
 レスピナス子爵のオリヴィエという人物は、アルベール・デュ・カタンではなく、テオドール・デュ・カタンを廷臣として招聘したということか。二十七にもなって、まともな名声も無い人間を廷臣として迎えるなどという酔狂な人間がトリステイン王国にいるとはまったく新鮮な驚きだった。
 一体、どこの誰が子爵に自分を紹介してくれたのか。そもそも手紙にあった約束とは、何か。

 頭の中で疑問が飛び交うが、腑に落ちることもある。
 あの封筒を手に取った時から感じていたことだ。
 肉屋の上階にあるあの下宿にテオドールが住み始めたのは、ほんの一年前のことだ。大叔父はもちろん既に亡くなっていたし、テオドール自身も大叔父の葬儀の後、何度か住まいを移している。アルベール大叔父が亡くなったことを知らない人間では、あの住所に宛てて手紙を出すことなど出来ないのだ。

 それに、あの手紙の封蝋には『固定化』の魔法が掛けられていなかった。
 人から人に渡される郵便物の封蝋に『固定化』の魔法を掛けておくのは、トリステイン貴族の一種の嗜みだ。だが、逆に『固定化』を掛けない方が良い場合もある。信頼のおける人間に、直接届けさせる場合だ。
 あの封筒には、五エキューもの金貨が同封されていた。もし、人伝てやフクロウ便に頼るのであれば、封蝋に『固定化』を掛けないことは考えられない。
 つまり、あの手紙は、直接届けられたのに違いなかった。


 テオドールの名をどうして知っているのか、問い質すべきか。
 いや、そんなことはするべきではない。
 表情を隠しながら考えを巡らせる。
 大叔父を呼んだと思い込んだのは、テオドールの側の問題だ。相手としてはテオドールを呼ぼうとして、実際にテオドールが来たに過ぎない。そこには何の誤謬も齟齬もない。要らぬ詮索をして荒立てるのは得策とは言えなかった。

 鷹揚に構えていれば良い。
 王都で無聊をかこっている下級貴族が田舎諸侯の招きに応じて参じた。それだけのことだ。テオドールの名をどこで聞いたのかも、子爵自身から説明があるだろう。
 ひょっとすると前の雇用主にテオドールの素性を確かめているかもしれない。見も知らぬ人間を廷臣の列に加えようというのだから、それくらいはして当然だろう。

 何故暇を出されたのかと聞かれたらどうしようか。
 そんなことを考えながら、勧められるままに馬に跨る。
 乗馬があまり得意ではないテオドールもすんなりと乗ることが出来たのは馬がよく訓練された軍用馬だからだろう。太股を通して伝わる馬の体温が冷え切った体に心地よい。

 丘の斜面をゆっくりと登る。
 アンヌ=マリーの方を見ると、あちらもテオドールのことを見つめていた。視線が重なり、相手が微かに微笑む。
 笑うと、えくぼが出来る。
 その笑顔をどこかで見たような気がするのだが、どうした訳かどこで見たのか思い出せない。そうこうする内に、一行は丘の上の城壁に囲まれた地区に辿りついた。


   □


 民は耕すもの、坊主は祈るもの、そして貴族は戦うもの。
 古くから言い慣わされたこの言葉はハルケギニアに住まう人々にとって、始祖の定めたもう役割の神聖な分担であり、朝になれば陽が昇るくらい当たり前のことだった。

 特に貴族はこの分業に煩い。
 戦うことは貴族にとって義務であり、使命であり、権利であった。
 であるからには、貴族の住まいもそれに相応しくなければならない。
 レスピナス子爵が住まう城館も、そういう考えに基づいて建てられていた。
 自身の城館と廷臣の邸宅とを取り巻く城壁には頑丈な門扉が取り付けられ、鋳鉄製の落とし格子も備えられている。不意の戦が始まっても、トリステインの王軍が援軍に到着するまで独力で持ちこたえることを主眼に置いた構造になっている。

「変わった造りですね」
 レスピナスの館は、背後の岩塊にめり込むようにして建てられている。厩舎や鳩小屋、井戸といった設備を内包する為、城壁の中はどうしても手狭になるからだ。
「そうでしょう。私のご先祖様が建てた自慢のお城です」
 夏は涼しく、冬は暖かいんですよとアンヌ=マリーが楽しそうに説明する。洞窟内に建てられた館は一年を通じて気温があまり変わらないのだという。

 豪奢というよりも剛健と言った方がこの館には相応しい。
 『土』魔法によって岩塊をくり貫いて造ったという館の中は、確かにアンヌ=マリーのいうように温かかった。
 ざらつく岩肌を丁寧に魔法で均してあるので貴族の館としても無骨過ぎるということはない。水晶を模った魔法燈のほのかな光が照らし出す室内は、王都の貴顕が住む館よりも幻想的ですらあった。

 長い廊下にはさまざまな調度が飾られている。
 全て銀で作られた軍杖や兎紋が金糸で縫い取られた陣羽織など戦場に用いるものが多いようだが、トリステイン王家の紋章をあしらった砂金の砂時計など文化的な価値のありそうなものも少なくない。
 壁面には歴代当主の肖像画が飾られている。
 同じ血を引くというだけあって累代の当主の顔はよく似ていた。少し痩せぎすの男たちの目が遠く虚空を見つめている。

 ここに来てテオドールは初めて気が付いた。しまった、旅装のままだ。
 沐浴はともかくとして、旅塵を落としてからでないと貴人に対する謁見の儀礼も何もない。
 そのことをアンヌ=マリーに伝えると、彼女は意味深な微笑を浮かべる。

「構いませんよ。そのままお連れしろとの命ですので」
「しかし」
「少しでも早く会いたいそうなのです、テオドールさまと」

 そこで不意に、アンヌ=マリーの口調が変わる。
「兄は、篤い病に冒されています」
「病、ですか」
「ええ、比喩的な意味ではなく」
 慢性的な吐き気と便秘、貧血。意識の混濁。
 アンヌ=マリーの口から語られる子爵の病状に、テオドールは逃げ出したくなった。それは病人とは言わない。半死人というのだ。
 『水』のメイジでも杖を投げるような状態の子爵が、なぜ自分を招いたのか。

 子爵が病だから、自分が招かれたということか。
 ただ、自分で言うのも変な話だが、病身の当主の代わりに政務を執らせる人間としてテオドールは不適格だろう。能力や識見、経験はともかくとして、名声がない。テオドール自身が子爵であれば、よほどの理由がなければテオドール・デュ・カタンを招くつもりにはならない。
 その、「よほどの理由」がテオドールには思いつかない。

「テオドールさま。兄を支えて下さいまし」

 灯りの加減で、彼女の表情はうかがえない。
 何か気の利いた言葉を返そうと頭をひねるが、出てこなかった。

 アンヌ=マリーが立ち止まると、一際しっかりした造りの扉をノックする。部屋の中には一人で入って欲しいと目で促される。
 目を瞑り、小さく息を吸う。鼓動が、早い。


「入れ」

 弱々しい男の声が聞こえる。
 テオドールは、扉を押し開けた。


 部屋には病室特有の甘ったるい匂いが満ちていた。
 部屋は、暗い。
 唯一の光源である暖炉では薪が耳良い音を立ててはぜている。廊下よりも暖かい。
 部屋の真ん中に鎮座する巨大な天蓋付きのベッドに、子爵は横たわっていた。

「近くに」

 かすれる声で子爵に呼ばれ、テオドールはベッドに近寄った。
 暖炉のかすかな明かりの影になり、顔はよく見えない。
 恭しく膝をつき、杖を外す。

「テオドール・デュ・カタン、お召しに従い参上いたしました」

 神妙な顔をして口上をいうが、返答はない。
 妙だな、と思い顔を上げようとすると、くっくっくと忍び笑いが聞こえる。
 誰が笑っているのだろう。まさか、子爵が。
 意図せず、顔を上げてしまう。

 そこには、懐かしい顔があった。

「よぉ、テオドール。久しぶりだなぁ」

 ベッドに横たわっていたのは、エリック・ダストンだった。


   □


「おい、エリック、悪ふざけは止せ。早く降りろ、そこは子爵さまのベッドだぞ」と慌てるテオドールにエリックは楽しげに眼を細める。
「おお、如何にも子爵さまのベッドだ。ふかふかで寝心地が良いぜ。トリスタニアの安下宿の藁布団とはえらい違いだ」
「馬鹿、なら早く降りろ。部屋の外には子爵さまの妹御もいらっしゃるんだぞ」とテオドールが叱っても素知らぬ顔だ。記憶の中にあるエリックはこんな悪戯をするような人間ではなかったはずなのだが。

 そこで、エリックは一つ咳払いをする。

「よく来た、テオドール・デュ・カタン。レスピナス子爵であるオリヴィエ・シャルル・ル・コント・ド・レスピナスは貴殿を心待ちにしていた」

 急に威厳が出たエリックにテオドールは戸惑いを隠せない。
 どういうことだろう。今、エリックはオリヴィエと名乗らなかったか。

 エリックは悪戯が成功した悪童の笑みを浮かべる。

「つまり、レスピナスの子爵はオレなんだよ。法学院で名乗っていたエリック・ダストンは偽名だ」

 そして、真面目腐った顔で言葉をつづけた。


「テオドール・デュ・カタン。貴殿をレスピナス子爵の名代たる代官に任命する」



[24531] 葡萄の絞り汁
Name: 逢坂十七年蝉◆e570cb4a ID:ad2b0f97
Date: 2010/12/22 11:21
 冬の宵闇に巨大な灯りがともされる。
 レスピナスの城館を抱く岩塊の頂きに焚かれた魔法の炎は灯台の役割を果たしていた。
 普通のフネであればこれほど低い高度を飛ばすことはないが、吝嗇な荷主が風石をケチって飛ばし、船底を引っ掛けられても敵わない。
 竜籠を持つヴァリエール公爵の領地が近くにあることもあり、レスピナスでは毎晩マジックアイテムでこの魔法の炎を焚くのが習慣となっている。

 その炎のゆらめきをテオドールはぼんやりと見つめていた。
 どこかで犬の鳴く声が聞こえる。
 夜風は頬に冷たいが、酒精に濁った頭には有り難い。
 予定よりも早く訪れたテオドールを迎える為の客間がどうしても用意できなかった子爵は、旅籠の一室を借り上げてくれた。客室も三つしかないような田舎の宿にしては気の利いた部屋で、家具もきちんと揃っている。
 部屋にはバルコニーのような洒落たものまで付いている。寒い夜だったが、テオドールは毛織の外套を着込んでまでそこに出ていた。
 部屋には戻りたくない。暖炉の火が照らす石造りの室内は、子爵の部屋をテオドールに思い起こさせる。そこで話された内容は、テオドールの気を重くするのに十分な内容だった。

 こんな時に話を聞いてくれる人が傍にいてくれれば、と思う。
 薄情な鴉は主人が酒の臭いをさせているとすぐに退散してしまう。大叔父のいいところも受け継いだが、酒癖の悪いところまで受け継いでしまったテオドールのことを実によく理解している。
 法学院時代のように記憶がなくなるまで酩酊することはなくなったが、それでも酒量を過ごすことがないわけではない。特に、嫌なことがあった時には盃が進む。それを察して逃げ出したのだろう。
 それでも、今晩だけは近くにいて欲しかった。

 気が付くと、夜の闇に白い物が舞い始めた。
 粉雪だ。
 手に持ったままになっていた器の中身を干す。すっかり冷たくなった林檎酒の強さが喉に心地よい。
 のろのろとした足取りで部屋に戻りながら、テオドールは昼間の事を思い出していた。


   ※


「ちょっと待ってくれ、ああいや、待って下さい」と慌てるテオドールの肩に、エリック、ではなくオリヴィエが手を載せる。その指はテオドールの記憶にあるよりも随分と細い。
「久しぶりに会ったからといって四方山話でもするつもりか、テオ」
 そうじゃないだろう、テオドール・デュ・カタン。お前さんが会いに来たのは旧友のエリック・ダストンじゃなくてレスピナス子爵のオリヴィエのはずだ、と目で訴えかけられる。
 確かにその通りだ。その通りだが、話の展開が速過ぎて理解が追いつかない。
「オレは待たない。それに、待てない。何せ身体の方がごらんの有様なんでな」と言いながらオリヴィエは軽く咳き込む。顔は確かに土気色になっている。
 法学院で机を並べた頃の彼は、どちらかといえばふくよかな体形をしていた。声音は当時のままだが、痩せてしまった表情から当時の温和なエリック・ダストンの残滓を見出すのは難しい。
 聞くまでもなく、病気は重いようだった。

「オレにはもう、あまり時間がない」
 濃い茶色の髪の間にのぞく赤い瞳だけが妙にぎらついている。
 オリヴィエは金属の碗を台から引き寄せると、手ずから鉄瓶から中身を注ぐ。葡萄の香りだ。
「よろしいのですか、酒など」
 言外に病気の身体に障るのではないかと尋ねるが、オリヴィエはどこ吹く風という表情だ。
「酒じゃない。ただの葡萄の絞り汁だ。あと、その喋り方は止めてくれないか、テオ。昔みたいにオレおまえで行こうじゃないか」
 勝手な言い分だった。旧交を温める雑談は拒否する割に、言葉遣いは正せという。まるでわがままな子どもの理論だ。
 言いながらオリヴィエは絞り汁もう一杯注ぎ、そちらはテオドールに差し出す。恐る恐る口に付けてみると、不思議な甘さがある。葡萄そのものの甘みではない。糖蜜のような何か加えられているのだろうか。
「そういう訳には参りません。それなりの地位にある方と話すにはそれなりの言葉を用いるのが世の倣いですから」と応えながら、口元を拭う。果汁など呑気に啜っている場合とは思えなかった。
「細かいことを言うな。オレとテオの仲じゃないか」
 その言葉にテオドールは沈黙で返す。二人の中だからこそ、礼儀は弁えなければならない。
 代官として仕えるのなら、尚更だ。主君と親しく振る舞えば振る舞うほど、他の廷臣からのやっかみは増えるだろう。そうなると出来る仕事も出来なくなる。

 黙っているテオドールを見て、オリヴィエは少し遠い眼をした。
「四人で馬鹿をやっていた頃とは違う、ということか」と呟くと、オリヴィエは自分で杯に果汁を注ぎ足す。碗に魔法が掛かっているらしく、鉄瓶の中でぬるくなってしまった果汁も温まるようだ。
 部屋の闇に湯気がふわりと立ち昇り、消えていく。
「信頼できる友と信用できる代官は同時には手に入らない、ということだな。まったく」
 ならば選ぶのはやはり代官だなと呟き、オリヴィエは碗を置いてテオドールに向き直った。

「改めて頼もう。テオドール・デュ・カタン。お前の力が欲しい。我がレスピナス子爵家の代官としてオレに仕えてくれ」


 テオドールは答えに窮した。
 正直なところ、願ったり叶ったりの話だった。
 名声の無い人間を最初から代官で雇うという話が有り触れたものでないことはテオドール自身が一番よく知っている。
 徴税と領主裁判を代行する代官という職は責任も重いが権限も大きい。事務方を志すからには諸侯の代官を一度は経験したいとは誰もが思うことだ。
 それに、領主は旧友だった。
 見知らぬ人間の下で職を奉じることを考えればこれは破格の条件に違いない。代官にとって最大の懸案は唯一の上司である領主との信頼関係であり、そこが巧くいかない代官はどれだけ手腕が優れていても不遇である。
 ここで受けないという選択肢はないだろう。何といっても、テオドールはもう二十七だ。旧友の伝手でも何でも使って実績を挙げなければならない年齢だった。

 そして何より、病床の友を助けてやりたい。
 オリヴィエの病気がどういうもので、回復する見込みがあるのか、ないのならどれだけ時間が残されているのかをテオドールは知らない。知らないが、出来る限りのことはしてやりたいと思う。
 天に召される時に、心残りがあるような最期を迎えさせたくはなかった。


 恐らく、困難な仕事なのだろう。
 オリヴィエの表情にはテオドールに対する申し訳ないという気持ちが覗いている。仕事の詳細を語らないのも、言えばテオドールが断ると考えてのことに違いない。
 こういう時に隠し事をするのが昔から下手なのがテオドールの知るエリック・ダストンという男だった。
 喉の奥に鉄臭い息が上がって来る。鼓動が速い。顔が火照り、息苦しくなる。
 知性ではなく、もっと根源的な部分がテオドールに警告を発している気がする。
 受けてしまえば、後戻りは出来ない。断るなら、ここが本当に最後の機会だ。



「お受け、致します」

 それでも、テオドールはこの仕事を受けることにした。
 ここで逃げるのは、臆病者か卑怯者のすることだ。
 テオドール・デュ・カタンは自信を持って仕事を引き受けなければならない。

 畏まって頭を下げる。ひざまずき、肩に杖が置かれるのを待つ。主従の契りを交わすお定まりの儀式だ。
「大変結構」
 肩に杖を受けるのは、これで四度目になる。
 一回目の時はこれで最後になるだろうと思ったものだが、二回目、三回目となると感慨も薄れた。自分が絶対に必要不可欠な人材というわけではなく、取り換え可能な人間だということを理解しただけのことだ。

 肩に置かれる杖が重い。
 この重みはオリヴィエの寄せる期待の重さか、それとも。

「我、レスピナス子爵オリヴィエはテオドール・デュ・カタンに祝福と代官たる資格を与えんとす。
この者が他の人物ではなくとくに我を主君として選んだことを鑑み、我が宮廷の習いである正義に基づき、レスピナス子爵領の徴税および領主裁判の一切はこれを汝に委任する。
高潔なる魂の持ち主よ、比類なき智慧を誇る者よ、並ぶものなき賢者よ、始祖と我と領邦に変わらぬ忠誠を誓うか」

 テオドールの口元が緩む。
 エリックの奴、随分とふざけた文言を捻ったものだ。トリステイン王国の貴族なら子どもでも諳んじることの出来る騎士(シュヴァリエ)叙勲の詔を模倣している。公の場でこれと同じ代官任命を行えば不敬の誹りは免れないだろう。
 そこまで考えたところで、テオドールはオリヴィエの真意に気づく。
―――ああ。つまり、騎士のように仕えてくれということか。
 廷臣は、二君に仕えることが出来る。主君と家臣の関係は純粋に契約関係であり、それに抵触さえしなければ複数の主を持つことは不可能ではない。
 批難されることさえ恐れなければ、両の手指と杖先を足したよりも多くの宮廷に出入りすることが出来る。ゲルマニアの何とかいう貴族は七十三の主君を持っていたと伝わっている。
 対してシュヴァリエが仕えるのは王ただ一人だ。
 シュヴァリエである個人が他に主を持っていてもその個人が仕えているだけのことであり、“シュヴァリエとしての彼”は王に変わらぬ忠誠を誓い続けることになる。
 移ろいやすい世の中ではそんな建前の通用しないことも多いが、それでもシュヴァリエという言葉の響きには貴族の胸に眠る何かに火を付ける力があった。

「謹んで、誓います」
 乾いた唇からはかすれた声しか出ない。今更、膝に震えが来る。
「よろしい。我、オリヴィエ・ド・レスピナス、その名を持つ三番目のレスピナス子爵は始祖ブリミルの御名において汝をレスピナス子爵領の代官に任ずる」
 オリヴィエはテオドールの肩を伝統通りの所作で叩いていく。略式ではあるが、これで代官の完成ということになる。
 右に二度、左に二度。
 探るように、確かめるように。
 この短い時間が、テオドールにはとても長く感じられた。

 ふぅと息を吐き、オリヴィエは杖を傍らに置く。
 土気色の顔は微かに上気していた。
「今日は良き日だ」
「有り難いことです」

「正直に言えば、お前が来てくれなければ手詰まりだった」
「と、申されますと」
 尋ねるテオドールにオリヴィエは凄みのある笑みを向ける。


「戦場だよ、ここは」


   □


 テオドール、お前さん、杖の方はからっきしだったよな、と新しい主君は記憶を確かめるように尋ねる。
「はい、『風』メイジとは言ってもそよ風程の実力です」と臆面もなく応える。事務屋はその畑で勝負するものだ。全ての戦場で英雄であることは出来ない。
「よろしい、ならば護衛を付けておかなければならんな。おい、アンヌ=マリー、いるんだろう?」
 護衛?
 また、随分と物騒な言葉が出てきたものだ。のどかな田舎領主の領地で命が狙われることがあるものだろうか。
 廊下から、「はい兄上」と応じる声がある。
「済まんが、サクヌッセンムを呼んできてくれ。もちろん、息子の方だ」
 返答の代わりに聞こえてきたのは部屋の前から足早に立ち去る音だった。
「サクヌッセンムというのはうちで扶持を出している、まぁ食客のようなもんでな。ベルゲンの出の傭兵だよ。小器用な男だ。テオドール、お前に付けるから自由に使ってくれ」
 オリヴィエはそう言いながら杖を振ってチェス盤をテオドールの前に運んでくる。サクヌッセンムがこっちに来る前に詰まらない説明ごとをやっつけてしまおう、と妙に楽しそうだ。
 チェス盤は大理石製の中々の逸品で、駒の細工も立派なものだった。
 オリヴィエはそこに駒を並べていくが、何故か白も黒も王と王妃を置かない。

「テオドール、我が子爵家の抱える最大の問題は何だと思う」
 そんなことを急に聞かれても、応えられる筈がない。何せ、貴族年鑑にすらまともに取り上げられない家なのだ。ここに来るまでに聞いた噂は色々あるが、どれも最大の問題とは思えない。
 当て推量で応えるしかないが、ヒントはある。
「派閥争い、ですか」
 チェス盤を指さしながら応えるテオドールにオリヴィエは満足げにうなずく。
「その通り。派閥争いだ」
 言いながら駒の一つを取り上げる。黒の城だった。
「全ての駒の名前をあげつらう様な無駄なことはしないから安心してくれ、テオドール。要点だけ掻い摘んで説明する。黒の陣営の中心人物は、デュ・バリーという小悪党だ」
 黒の陣営、という言い方にテオドールは引っかかりを覚える。対する白の陣営がオリヴィエの陣営なら、敵陣営とか相手陣営という言い方で良いはずだ。

「このデュ・バリーを中心として、古くからの非主流派が集まっている」と言いながらぞんざいな手付きで城の周りに黒の駒を集める。
 つまり負け癖の付いたろくでもない連中の吹き溜まりという訳さ、とオリヴィエはこともなげに言う。領内の小さな砦の城代の肩書を持つデュ・バリーは、自分の砦に仲間を集めてまるで領主のように振舞っているらしい。
 よくもそんな不届きな連中を放っておくものだ。
「デュ・バリーの陣営の厄介なところは、たった一つだけだ」
 たった一つ、という所を強調しながら、オリヴィエは碗の中身で唇を湿らす。
「その一つというのは」
「奴らの主張によると、デュ・バリーの血統の方が正しいレスピナス子爵だ、ということさ」


「どういうことですか」と尋ねるテオドールの碗に、オリヴィエは果汁を注ぐ。
「デュ・バリーの父親は、オレの祖父の兄に当たるんだ」
 トリステインとガリアでは、男系長子相続が古くから相続法の根幹を成している。結婚の女神の名を採ってフリッグ法典とも呼ばれるこの相続法の精神はハルケギニアに広く通用するもので、トリステインの婚姻・相続法の法源となっている。
 古いもの、はじまりに近いものほど、正しい。
 この考え方はとても分かりやすいが、分かりやすいが為に悪用しようとする者が現れることがある。デュ・バリーもその類だろう。
 デュ・バリーによれば、このフリッグ法典の解釈上では彼こそがレスピナス子爵なのだという。
「デュ・バリーの親父がヘマをしでかしたせいで廃嫡されて、オレの祖父が子爵を継いだんだがな、どうもそれが納得いかないらしい」
 世が世なら自分が子爵の筈だと思っている人間が、憎い相手の下で廷臣の地位に甘んじている。出奔もせずに留まっているのは、自派の勢力を拡大してオリヴィエを追い落とす為だろう。
「相続問題ですか。それは、また厄介な」

 相続に関する問題は、貴族にとって死活問題だ。
 法院はおろか国王裁判所であっても貴族の相続に口を挟むことはしないことになっている。
 王は大きな貴族であり、貴族は小さな王である。
 誰が当主であるかということこそがそれぞれの家の存立に直結する問題である以上、そこに干渉することは貴族の王権に対する精神的な独立性を脅かすことになるからである。

「父が亡くなった時も、兄の葬儀の時も、デュ・バリーは随分と運動してな。空手形をばら撒いたんで向こうに転んだ奴も多かった」
「しかし、オリヴィエさまの方にこそ、正統性があるではないですか」
 どういう理由であれ、レスピナスの子爵はオリヴィエの祖父が継いだのだ。その子、その孫が当主の座を継ぐのは当然のことであった。
「父も兄も病弱でな。オレと全く同じ病気をやったんだ。頭痛、吐き気に便秘に貧血。『水』のメイジもお手上げさ。オレは大丈夫だと思ったんだが、当主の座に就いた途端にこの様だよ」

 当主は相続問題を自力で解決しなければならない。
 心身ともに健康であれば、デュ・バリーのいうことなど一蹴すれば良いだけの話なのだ。それが出来ないことが、レスピナス子爵家の不幸の源と言えた。
 三代続けて原因不明の同じ病気にかかれば、「始祖の恩寵が足りない」と喚きだす連中が出てくることは想像に難くない。妄言に同調する人間も少なくないだろう。
 そうかと言って余所からの力に頼ることは出来ない。自身の力量不足を喧伝するようなものだ。引いては自家の中での発言力にも影響する。
 デュ・バリーなる人物が血の正統性を訴えるなら、オリヴィエは更なる正統性を突き付けるか、黙殺するだけの力を持たなければならない。
 これはなかなかに厄介な問題だった。


「で、次は白の陣営だ」
 次にオリヴィエが持ち上げたのは白の僧正だった。王の駒でないところを見ると、どうもオリヴィエ自身ではないらしい。
「こいつはベルトレ。会計担当者だ。立場上はお前の部下ということになるな」
 妙に持って回った言い方だ。会計担当者であれば、代官以外の部下であることはありえないはずだ。
「こいつはオレの兄がクルデンホルフから招聘した、うちの領地建て直しの切り札、その生き残りだ」
「生き残り、ですか」
 その言い方だと、他にもいたのではないか。
「ああ、暗殺されたのが一人と、逃げ出したのが二人。残ったのはベルトレだけだな」

「暗殺だって!」
 思わず叫んでしまったテオドールをオリヴィエがなだめる。
「油断していたんだよ。デュ・バリーはクルデンホルフから呼んだ四人のことを「高利貸し野郎」とか呼んで毛嫌いしていたが、まさか殺すとは思わなかった。よりにもよって暗殺された一人というのが代官を任せていた奴だったんで、改革はおじゃんというわけさ」
 困ったもんだろう、とオリヴィエは疲れた笑いを浮かべる。だからお前には護衛を付けるんだ。お前まで魔法でズドン、とやられちゃ敵わんからな。

「戦場に喩えた理由がよくわかりました。それで、ベルトレさんとは上手くやっているのですか」
 気を取り直してテオドールはオリヴィエに尋ねる。この話の流れだと、ベルトレに対してもオリヴィエは腹に一物ありそうだ。
「そこがまた問題なんだよな」
 テオドール、お前さんは仲間を殺された職場で明るく元気に働こうという気になるかね。オレなら真っ平ごめんだね、とオリヴィエは白の駒を集め始める。
「ベルトレはデュ・バリー派の連中から身を守る為に事務方の連中をまとめ上げて派閥を作るのに大忙しだ。お陰で仕事は滞っているし、厄介事も色々持ち上がっている」
 地元の人間であるデュ・バリーは、当然領民の有力者との関わりも強い。新参者のベルトレの仕事を邪魔するのは簡単なことだろう。そうなると、事務方のベルトレの採る対抗策も強硬なものにならざるを得ない。
 扶持の遅配などまだ可愛い方で、街道に利権のあるデュ・バリーを締め上げる為に整備の資金を差し止める所まで来ているらしい。明らかな職権の濫用だったが、それを止めるだけの力すらオリヴィエには残されていないということか。

「主流派の方たちは何と言っているのですか」
 オリヴィエの説明には、主流派の廷臣のことが入っていなかった。歴史のある子爵家であれば、譜代の廷臣たちが安全弁になっているはずだ。少なくとも、助言くらいは得ることが出来るだろう。
「……父の代からの主流派の廷臣が、揃いも揃って英雄王の麾下に加わっていてな」
 今頃はヴァルハラで一戦やらかしている頃だろうよ、と碗を弄びながらオリヴィエが応える。
「ああ……」
 テオドールの口からは慨嘆の溜息しか漏れなかった。
 冷たい土の下にいるのであれば、確かにこの問題には口は挟めない。

 フィリップ英雄王(ル・エロ)と言えばトリステインの歴史にも燦然とその名を輝かす偉大な先王だったが、この王の活躍こそが今のレスピナスの停滞の元凶でもあったようだ。
 優れた将帥であり、武人でもあったフィリップ三世は、生涯を戦いの中で過ごした。毎年のように貴族の軍役である陪臣召集(アリエール・パン)が繰り返され、諸侯を筆頭とする貴族たちは自弁した装備を手に馳せ参じるか、軍役免除金を支払うかしなければならなかった。
 先々代のレスピナス子爵、つまりオリヴィエの父ギヨームは病身を押して戦場に赴くことが常だった。武門の誉れ高いラ・スルス伯家の寄騎として杖を振るい、いくつかの武勲も挙げることが出来たという。
 その代償として、出陣する度に廷臣の数は減っていく。激戦の中に身を置く病の主君を守る為に命を散らすことは、貴族として名を上げる絶好の機会だったのだ。
 櫛の歯が抜けるように廷臣は数を減らし、遺されたのは恥知らずにも恩を忘れてデュ・バリーの下に奔るような利に敏い人間ばかりだった、というわけか。


「テオドール、お前が来てくれなければ手詰まりだった、という言葉は理解したか」
「……しかと、理解いたしました」
 病弱な領主と、その座を狙う親戚。改革は失敗し、手足となるべき廷臣は派閥を作って潰し合い。まさに、手詰まりだ。
 オリヴィエはどんな想いで日々を過ごしていたのか。旧友であるテオドールにどんな想いで手紙を書いたのか。テオドールには想像することすら出来ない。
 ただ、胸にあるのは悲愴な覚悟だけだ。
 どんなことをしても、この主君を支えなければならない。


「さぁ、テオドール。サクヌッセンムを紹介したら、一緒に飯を食おう」
 久しぶりにトリスタニアの話も聞かねばならんしな。最近は何を食べても飯が金気臭くて敵わないんだが、テオドールと食べれば気分も変わるだろう。実のところ、お前からの手紙だけが日々の慰めだったんだ。そう言って、オリヴィエはまた軽く咳き込む。
 その背を擦りながら、今日くらいは酒に溺れても良いだろう、とテオドールは思った。



[24531] 初出勤
Name: 逢坂十七年蝉◆e570cb4a ID:3814543e
Date: 2011/01/26 12:58
 初出勤したテオドールを待っていたのは、思わぬ歓待だった。

「代官殿、ようこそお越し下さいました」とにこやかな笑みを浮かべた男がテオドールを出迎える。ベルトレだ。
 慇懃な態度で深々と腰を折り、まるで敵意のないように振る舞う。
 子爵領を二分する派閥の一つを率いる領袖としてはいささか軽薄な感じのする四十絡みの男で、頭髪が薄い。痩せてはいるが良い物を食べているのか肌はつやつやしている。その所作はどことなくネズミを思わせた。
 ベルトレに倣い、他の事務員たちも同様に挨拶してくる。
 彼らはベルトレと違って腰に杖を吊っていない。オリヴィエに聞く限りでは、領内外から賃雇いで雇い入れている平民だということだった。

 代官執務室として割り当てられている部屋に詰めているのは、ベルトレと七人の事務員だ。
 元は書斎として設えられたらしい部屋は四方を書架に囲まれているが、それでも十分に広い。人数分の机を置いてもまだ空いているスペースには長椅子が置かれ、ちょっとした応接が出来るようになっている。
 明かり取りの天窓から差し込む光が埃っぽい室内を寒々しく照らす。羊皮紙を湿気から守る為、部屋の空気は乾燥していた。
「わざわざの出迎え、御苦労さま。新しい代官のデュ・カタンです」以後よろしく、と握手を求める。差し出した右手をベルトレは如才なく両手で握り返し、「代官殿、ご安心ください。我らがいる限り代官殿の手を煩わせることはございません」と強い口調で応えた。


――ベルトレは私を自陣営に取り込むつもりか。
 テオドールは持って来させた帳簿を眺めながらそんなことを考える。昨晩は結局ほとんど眠れなかったのでベルトレがどう出てくるか考えていた。
 対立か、勧誘、迎合あるいは無視か。
 ベルトレが派閥を率いていられたのは、代官不在という空隙を突いて徴税権や裁判権を勝手に代行していたからだ。その権限が正しく代官の下に戻るのであれば、少しくらいは抵抗すると考えていたのだが。
 いっそ、対立姿勢を明らかにしてくれた方が、気分は楽だった。本当に恭順するつもりなら構わないが、そうでない場合は色々と面倒なことになる。
 強靭なマンティコアも、身中の虫には抗えない。自分を幻獣に比するつもりはないが、内側から妨害されるのが最も厄介な手段であることは疑いようもない。
 協力的に仕事をするつもりがあるのか、油断させて権力を奪い取るつもりか。
 あるいは、全く別の理由があるのかもしれない。何にせよ、油断しないことだ。


 横にちらりと目をやると、護衛のサクヌッセンムが面白くなさそうに古証文の束を繰っている。字の読めるこの傭兵に、テオドールは簡単な仕事を頼んでいた。
 背の高いサクヌッセンムが小さくなって羊皮紙を捲っているさまはどこか滑稽味がある。
 昨日紹介された時に二、三言葉を交わしただけだが、中々頭の回転の早い男だった。ただの傭兵にしておくには勿体ないほどだ。

 ミズナラの机の上に大叔父から譲り受けたインク壺を置く。
 永年勤続の褒賞として王室より下賜された壺には“困難は分割せよ”の銘が彫られている。大叔父はこの言葉を大層気に入っていて、デュ・カタン家のモットーに定めたほどだった。
 困難を分割する。
 今、分割しなければならない困難とは何だろう。インク壺の中身のようなどろどろとした何かを、切り分けなければならない。それが出来るのは、今この場にテオドールしかいないのだった。


  □


 それにしても、とテオドールはこぼれそうになる溜息を押し殺した。
 地方の小領の事務員たちの水準は低いだろうと覚悟はしていたが、帳簿の内容は予想通りの拙さだった。
 ベルトレ以外の七人の事務員はしきりにこちらの様子を窺いながら羽ペンを動かしているが、精勤と表現するには程遠いだらけ切った態度だ。

 ロマリアの商人が考案した複式簿記と呼ばれる一連の財産管理法は今やハルケギニア全体で無くてはならないものになっている。
 貴族といえども大王ジュリオ・チェーザレ以前の時代のように「あるだけ使う」「足りなければ徴発する」といった杜撰な家産管理は出来ない時代になって久しい。
 貸借対照表や損益計算書など、会計年度の変わる降臨祭後に纏めなければならない書類の数は多いが、これらがなければ正確に領地財政がどういう状況か掴むことが難しくなる。この様子では、本来作っておくべき書類も作っていないかもしれない。

 技術面でも大いに問題があった。
 俗に、“ロンバルディアの陥穽”と呼ばれる帳簿上のミスがある。
 これはロマリア北部を拠点とするロンバルディア商人たちが、商取引の慣行として伝票を二回ずつ送付することによって引き起こされるミスで、気を付けていないと帳簿に一つの伝票を二重に計上してしまうことになる。
 ロンバルディア商人に範を取った商人は伝票を二回送ることをなかなか止めようとしない。災害や盗賊の被害によって伝票が相手方に届かず、計上が漏れる事故を無くすために伝票を複数回送付するのは送り手としては理に適っているからだ。受け取り手としては注意を払っていないととんでもないことになる可能性がある。
 帳簿上の数字が全く出鱈目になってしまえば、正確な判断など下すことは出来ない。
 後日チェックし修正されてはいるが、こういった初歩的なミスが帳簿のところどころに見受けられる。事務員の再教育が必要だった。


「ミスタ・ベルトレ、帳簿のことで少し聞きたいことがあるのですが」
「ええ、はい。何でしょう、代官殿。私に応えられることであれば」
 テオドールの席から最も離れたところに置かれている席からベルトレが速足でやってくる。やはり、ねずみに似ている。
「ここの箇所なのですが」と見つけたミスをテオドールは指摘した。
 帳簿上のミスとしてはありふれたものだが、よくよく帳簿の見方を知っている人間でないと、見落としてしまいがちなミスだった。

 その瞬間、ベルトレの表情が変わるのをテオドールは見逃さなかった。
 まずミスに気づき、次にテオドールを憤怒の表情で睨みつけ、慌てて表情を取り繕って微笑を浮かべる。
「あぁ、これは失礼しました。すぐに修正いたします」と帳簿をひったくるようにして自席に戻り帳簿の手直しを始める。

 一体、何が起こったのか分からずにぼんやりとするテオドールの肘を、サクヌッセンムが突いた。
「デュ・カタン殿、少し早いですが昼食にされてはいかがですかね」


  □


「つまり、ベルトレは私が事務の素人だと思っていたのか?」
 はい、と頷きながらサクヌッセンムは羊の肋肉を取り分けてテオドールの前に置く。昼食にしては重いメニューだが、まだ昼餐には早い時間だったので粥は炊き上がっていなかったのだ。
 この時間の食堂には人がいない。二人で使うには広すぎる食堂で、テオドールは羊肉に舌鼓を打った。
「連中だけでなく、デュ・バリーもそうでしょうが。子爵さまからは“古い馴染みの友人”とだけ聞かされておりましたので」
 なるほど、そう考えると合点がいく。
 帳簿も読めないはずの代官が上司であれば、実権は全てベルトレが握ることになる。
 ベルトレは代官の権限を、奪うまでもなく自分が代行できると考えていたに違いない。お飾りの代官は適当におだてておき、決済の印だけ押させておけば良い。いや、印すらも自分で押すつもりだったかもしれない。何せ、相手は何も知らない素人なのだ。

 テオドール・デュ・カタンという人間を、ベルトレはどう見ていたのだろうか。
 友人である子爵が病に臥していることを知ってレスピナスに押し掛けてきた小悪党か。
 あるいは、経験もないのに代官職を引き受ける友情にもろいだけのカモか。
 どちらにせよ、帳簿を見ることすらはじめての“自称代官”が形だけ仕事をしている、今朝のテオドールの行動をベルトレはそう見ていたのだ。

 ところが、思わずミスを指摘された。テオドールが帳簿を読むことが出来ると、この時初めてベルトレは知ったのだ。騙された、と感じたに違いない。憤怒するのも無理はないだろう。
 与しやすい相手と見たからこその今朝の歓待だったというわけだ。となれば、テオドールが少なくとも帳簿のミスを指摘できるだけの知見を持っていると知れば自ずと相手の接し方も変わって来るだろう。
 テオドールとしても、対応を考えなければならない。


「それで、どうなさるお積りですか」とサクヌッセンムが肉に齧り付きながら尋ねる。北方の傭兵らしく、肉の食べ方が不思議と絵になる。
「解雇はしないよ」
「ほう」
 相槌は、意外そうなものだった。テオドールが彼らを解雇すると見ていたのか。
「あいつらを解雇しても、“デュ・バリー対ベルトレ”の対立が“デュ・バリー対デュ・カタン”に替わるだけだからね。大きな意味はない。むしろ、悪化するといって良い」
「道理ですな」とサクヌッセンムが頷く。
 実務能力が低いとはいえ、これまで継続して領土の統治に当たってきたベルトレを放逐してその後をテオドールが引き継げば、取り返しのつかない断絶が発生することになる。
「ベルトレの力を削ぎながら派閥を乗っ取り、強化するというところですか」
 ベルトレの急ごしらえの派閥はデュ・バリーのそれに拮抗するところまで育っていない。対するデュ・バリーは領内の古い砦を改良して拠り、食客も集めてまるで領主気取りだという。
 これに真正面から対抗する為には、確かにベルトレの派閥を利用して当たるのが一番の近道に思えた。思えはしたが。

「……それだけでは不足だな」
 もう一つ、大きな策が要る。そう、ゲームのルールを変えてしまうような、大きな策だ。


  □


 早めの昼食を終えたテオドールは午後いっぱいを使って帳簿に目を通すのをひとまず終わらせた。これ以上詳しく知ろうと思えば、今回分の財務諸表が出来上がるのを待ってから分析するしかない。

 状況は、全く良くない。
 収穫に対する税率は前年より重くなっているにも拘わらず、税収は下がっている。当然、支出に足りていない。
 金額にして、ざっと六五〇〇エキュー。通商に関する税が大きく減収しているのが響いていた。投資先からの配当やその他の雑収入を繰り込んでも、おおよそ四八〇〇エキューが金融できない。
 不足分をあちらこちらからつまみ食いのように借りた借金の額のそれぞれは少額だったが合算すればそれなりの額になる。
 先代、先々代の遺した借金も合わせると、利子の支払いもかなりの額になる。

 加えて、現金での収入が大きく不足していた。
 税率は上がっているのだが、平民たちの納める税は現金納付よりも現物納付の方が増えており、現金化出来なかった分は館の蔵に小麦や大麦、ソーセージや蜂蜜・蜜蝋の形で蓄えられている。これまで街道を通る巡礼者が落としていた金が入って来なくなった分、レスピナス領全体で貨幣不足が発生していることの証拠といえた。
 オリヴィエはベルトレが俸給の遅配や街道整備費を出し渋っていると詰っていたが、この状況であれば金策に腐心していたといわれれば納得してしまう。金納を義務付けられている王税を滞納するわけにもいかない。

 そして、もう一つ大きな問題があった。


「ここからここまではモンモランシ伯に租借されているということですか」
 テオドールが指さしているのはレスピナス子爵領の絵図だ。精緻とは言い難いが、使えないほどではない。
 レスピナス領は東側を大沼、北をグラン・セルヴ大修道院の寺領に接し、ラ・マレの南に広がる雑木林と西に開けた農地を領有している。
 絵図の農地はいびつに二色に塗り分けられており、片方に“モンモランシ”と記入されている。
「ええ、私がここにお世話になるよりも以前からのことだそうです」
 ベルトレは大袈裟に頷いて見せる。ラ・マレの住民も一部はモンモランシに税を払っておるのです、と続ける。
 午後になってもベルトレはテオドールに対する態度を変えなかった。どういう対応をするのか決めかねているのかもしれない。
 テオドールはここに来るまでに見た、家々に飾られていた家紋のようなものを思い出す。
 兎紋の掲げられている家がレスピナス子爵家に納税し、水滴紋の方はモンモランシ伯爵家、ということだろう。

 歴史の長いトリステイン王国では、他家の中に荘園を持っている貴族も少なくない。
 貴族同士での土地の売買は禁じられていないので、借金の担保として土地が人手に渡ってしまうことはままあることだった。
 レスピナス領におけるモンモランシ伯の荘園も同じような方法で取り上げられたのだろう。あくまでも“租借”されている土地なので、所有権が移っていないのがせめてもの慰みだ。

「それで、あと何年の期限で貸し出されているのですか」
 一年二年で返って来ることは期待できないが、五年程度の期限であれば今後の展望に期待が持てる。何といっても、貴族の貴族たる所以は土地を所有していることだ。富も権威も元を辿れば魔法と土地の所有に行きつく。
 尋ねるテオドールからベルトレは応えにくそうに眼を逸らす。
「ミスタ・ベルトレ。あと何年の期限で貸し出されているのですか」
 再度、同じ問いを繰り返され、ベルトレは絞り出すように応えた。
「既に期限は過ぎておるのです。二年も前に」

「馬鹿な。それじゃ、占領されているようなものだ」
「ええ、はい。代官殿の仰る通り、占領されているようなものなのです」
 上目遣いに顔色を窺うベルトレを怒鳴りつけようとして、テオドールは寸でのところで自制する。
「お怒りはごもっともです、代官殿。しかし、実のところ相手側にも事情がございまして」
「事情、というと」
「モンモランシ伯爵家は干拓事業の為の資金が御入用なのです。トリステイン王室の肝煎りで始められた事業ですので、その資金調達への協力を拒んだとなれば外聞が悪い、と思いまして」
 国土の狭いトリステイン王国にとって、干拓は国家事業だった。水の精霊との交渉役を仰せつかっているモンモランシ伯爵家はこれまでに類を見ない大規模干拓の指揮を取っていることは広く知られていた。

「しかし、それとこれとは話が違います」
 租借地を契約期間が過ぎても占有されているとなると、向こう側に所有の正統性が生じる可能性がある。改めて租借契約を結び直したのならともかく、旧来の契約の枠組みをそのまま使ってモンモランシ伯爵家に土地を租借させ続けるのは危険だった。
 最悪の場合、高等法院にまで持ち込む騒ぎになるかもしれない。テオドールは裁判になれば負けるつもりはないが、領地問題で高等法院のお世話になるということは、それだけ脇が甘いということを知らしめているようなものだ。
「ともかく、一刻も早くモンモランシ伯爵家と交渉しないといけません。ミスタ・ベルトレ。契約書はどこに保管してあるのですか」


「ええ、はい。実は、契約書はデュ・バリーが持っておるのです」


  ※※※


 ラ・マレの西、農地を挟んだ少し小高い丘陵にその砦は建っている。
 土地の人間からは単に“砦”とか“出城”とか呼ばれていたこの古い軍事建造物がデュ・バリーの父に下賜されたのは、もう随分前の話だった。
 打ち棄てられかけた陰気な砦は、今ではレスピナスのもう一つの中心となりつつある。

「ほう、オリヴィエの小僧は新しい代官を立てたか」
 ジャン・デュ・バリーは強い古酒の酒杯を傾けながら取り巻きの報告を聞いていた。痩せぎすの長身をビロードの赤い長衣に包むその姿は、まるで諸侯の列に連なる人間のそれだ。
 歳は四〇の峠を越えていたが、爛々とした眼光には少しの衰えもない。
 連日連夜の宴席で部屋は散らかっていたが、その中で一人清潔な衣装に身を包むことで却って異質な迫力を醸している。

「はい、トリスタニアから呼び寄せたデュ・カタンとかいう冴えない小男です。オリヴィエが遊学中に作った友人だそうです」
「冴えない、な。まだこちらに来たばかりだろうに。冴えないかどうかこれから次第だろう」
 と応えながら、デュ・バリーの表情には余裕の色が浮かんでいる。既に少々の人材が来たところでオリヴィエに対する彼の優位は覆らない所にまで来ていた。

 病身のオリヴィエには、実は後継者がいる。息子だ。
 子爵位に就く前に授かった一粒種は、今は妻と共に妻の実家に預けられている。原因不明の病気が感染しないようにという配慮からだ。
 だが、レスピナスの地から離れて育てられている子に領民の親しみの情は薄い。
 対するデュ・バリーとその子どもたちは地元にしっかりと根を張っている。特に有力者とは切っても切れない関係が築かれている。
 このままオリヴィエが倒れれば、力を持っているデュ・バリーが後を継ぐことも不可能ではないだろう。

 将来のレスピナス子爵に恩を売っておこうという人間は少なくない。目端の利く商人から届けられる付け届けはかなりの額になっており、それを使って傭兵崩れも雇い入れている。
 傭兵を当て込んで、物売りが砦の周りに集まってくれば、それはもう一個の集落だ。人、物、金の全てを手に入れたデュ・バリーは、既に一個の領主として独立した存在になっている。
 モンモランシ伯爵に貸している租借地についてもいずれ独自に交渉し、デュ・バリーとして買い取るつもりであった。そうなれば占有している土地の面積でも子爵家に迫ることになる。
 もはや、どちらに転んでもデュ・バリーの勝利は揺るがない。

「それに、優秀であってくれた方が却って有り難いではないか」
「と、申しますと」
「どうせレスピナスは儂の土地になるのだぞ、精々富まして貰っておかんとな」
 自信に満ちた口調でそういうデュ・バリーに取り巻きたちは笑みをこぼす。主家を裏切っているという罪悪感も、この男の滲ませる圧倒的な威容の前には霞んでしまう。

「森に放している豚が帰って来るなら、どんぐりをたっぷり食ってからの方が良いのだ。餓えて痩せた豚に来られても一ドニエの得にもならん」
「まったく、デュ・バリーさまの仰る通りにございます」
 追従する取り巻きたちの声に鷹揚に頷きを返しながら、デュ・バリーは遠くを見つめる。


「さぁ、もう後がないぞ、オリヴィエ。少しは儂を楽しませてみろ」


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