<このWebサイトはアフィリエイト広告を使用しています。> SS投稿掲示板

チラシの裏SS投稿掲示板


[広告]


感想掲示板 作者メニュー サイトTOP 掲示板TOP 捜索掲示板 メイン掲示板

[24776] 【習作】悪魔と妹(仮題)【オリジナル?/ファンタジー】
Name: 佐伯 緋文◆d27da47b ID:2d27b2b5
Date: 2012/05/22 21:00
!重要!
 メイン掲示板の雑談版、「そろそろ黒歴史を晒してみないか?」スレの[2]、ジャッカルさんに許可を頂いたので書いてみました。





 オリジナル?の?はそういう意味です。オリジナルと呼ぶには憚られますが、オリジナル以外に表記のしようがなかったもので……。

 書いているうちに色々な設定を練るのが難しく、正直難儀しましたがどうやら俺的には形になったようで、実力不足を承知で投稿してみようと思います。
 一度自分の短編集で投稿したのですが、よく考えたら自分のプロットではないということで自重し、新たに投稿しなおしました。
 上手く設定を活かせているかどうか自信はありませんが、とりあえず推敲を重ねつつUPしてみます。
 ちなみにこのページの下部、線で区切った後には、最新話を書き上げた後に更新しております。
 長くて読むの面倒だと言う方は読まなくて構いません。大したことも書いてありません。ただの独り言です。

2010.12.7 第1話 投下
2010.3.10 第2話 投下
2010.6.22 第3話 投下
2010.6.25 第3話 修正
2012.5.22 第4話 投下
-------------------------------------------------
2012.5.22

 はい。別の作品がひと段落ついたのでこちらに着手します。

 未だに話が先に進まないのはきっと力不足。すみません。



[24776] 第1話
Name: 佐伯 緋文◆d27da47b ID:2d27b2b5
Date: 2011/05/24 13:22
『汝の願いを言え、人間』

 目の前の巨大な、……見るからに強大な炎の塊――いや、巨人はそう言った。
 周囲には、ファンタジー世界のインプが炎に包まれたようなモノが、その炎の塊を護るかのように存在している。
 炎の巨人に視線を戻すと、ふふんと尊大な表情でこちらを見つめ、ほらどうしたとでも言わんばかりに言葉を付け加えた。
『我が全身全霊を持って、どんな願いも一つだけ叶えてやろう』
 妙に尊大な物言いとその威圧感、そしてその自信たっぷりな表情に、思わず少女はごくりと唾を飲み込んだ。
「ちょ、ちょっと待って」
 言ってしまってから、まさか「待って」を願いとして認識されないだろうかとふと思い、おそるおそる顔を上げるが、さすがにそこまで巨人はヒキョー臭くはなかった。
『ふん、まぁ良い。じっくり考えろ』
 さてどうしよう、と少女……アキラは考える。
 考えつつ、少女は状況を整理するかのように、今日これまでにあった出来事をひとつひとつ思い浮かべるのだった。


 まず朝起きてしたことは、いつものように歯磨きである。
 それからトーストを焼いて、その間に今日は何をしようかと考えた。
 トーストが焼きあがるまでの数分間の間に出た結論は、

「……本屋にでも、行ってみようかな」

 アキラは伝奇と、それにまつわる資料を読み耽るのが趣味だった。
 伝奇と言えば聞こえはいいが、実際の用途としては間違っているかもしれない。アキラが読むのは主にファンタジー的な何かであり、例えば妖怪の話であったり、例えばケルト神話だったり、新約聖書、ギリシャ神話、日本書記など、古いファンタジー的なものはひと通り目は通したと思う。思うだけで内容が頭に入っていないので、結局何度も何度も読み返して本の背表紙が取れかかっていたり、夏の暑い時期に読んで本が汗でふやけてしまっていたりと、アキラの蔵書はどれも古書の如くボロボロだ。
 ただし数はそんなに多いわけではなく、高さ横幅が1メートル、奥行きが20センチのカラーボックスを埋めるには至っていない程度だ。
 それもそのはず、アキラはまだ中学2年生。小学校1年から変わらず毎月もらっている金額はたった千円、それから9年間でもらった金額は、十万八千円だ。そのうち、アキラだって女の子だ。可愛らしい服があれば買いたくなるし、雑貨その他も可愛らしいもので揃えたい。
 結果、アキラの手元にはハードカバーの本を買う余裕など残らないのだが、母親に頼み込んで誕生日のプレゼントに買ってもらったり、クリスマスプレゼントに買ってとねだったりして、ようやくカラーボックスの6つの棚のうち、3つを埋めることができた。

 だから、そんなアキラが本屋で立ち読みをしたり、普通の書店は値段が高いからと古本屋を物色したりするのはある意味いつものことだった。
 焼きあがったトーストにバターを塗り、その上からスティックシュガーをまぶし、バターの香りを楽しみつつその甘さを堪能した後、口に残るパンの味を、考え事をしながら無意識にカップに注いでいたミルクで押し流す。

 ここで母親が起きてきた。

 1人で朝食を済ませてしまったアキラに、母親が「あんたって子は」とぶつくさ言うのを苦笑で受け流し、簡単に身支度をして、誰かクラスメイトに出会っても恥ずかしくない程度に身なりを整える。
 そして、どこへ行くの何時に帰るの誰と行くの宿題はないのと口煩く問い詰める、女手ひとつで自分を養い続けてくれた母親に呆れるほど律儀に全て返答し、ようやく「なるべく早く帰って来なさいよ」と許しを得て、「行って来ます」と元気に家を飛び出したのが腕時計が示す今、午前11時からちょうど2時間前。

 そして古本屋に辿り着き、いつものようにファンタジー的な「伝奇」を数ページ読んでは閉じ眺めては閉じ、そうして探し当てたのがおよそ10分前。見つけた瞬間、少し不思議な気分になったが気のせいだと構わず開き、日本語であることだけを確認した。「呪文集」とだけ背表紙に書かれたその本は、アキラが好きなジャンルであり、どうせ自分が読めばボロボロになってしまうことを知っているアキラはさほど本のボロさ加減も気にせず、値段シールに書かれた30円、と言う文字に驚愕し疑い、店員に本当に30円なのかと問い、肯定をもらった上でレジに提出して30円を支払った。
 本を見つけてから買うまでの時間、およそ2分。
 さらに、よせばいいのに歩きながら買ったばかりの本を読みながらぶつぶつと何事かを呟き、歩き続けること5分弱。

「――、この封解くべからず……我が命の限りにて封印せし炎の邪神、ここに眠る」

 わずか数ページにして「封印を解くな」と警告する文章に、「呪文集」と言う名の小説だったのかな、とアキラは少し胸を弾ませる。本当の呪文集だろうが偽物の何かのゲームの呪文だろうが小説だろうがラノベだろうが、アキラに取っては何でも構わなかった。
 そうして、「ここに眠る」と言う文章をアキラは無視してページをめくる。
 何だかべりっ、と音がしたけど気にしない。

――『それ』は、本当にそこに眠っていた。

 一瞬、アキラの耳から全ての雑音が途絶えた。
 何事かと顔を上げると、その視界を炎の柱が遮る。
「――えっ?」
 かろうじて上げたアキラの声は、その炎の柱が立ち昇る音に遮られてアキラの耳にすら届かない。
 ひどい耳鳴りを感じるほどの爆発音を上げ、目の前の火柱は燃え盛った。
『――』
 目の前の炎から、轟音に混じって何かが聞こえて来る。ひょっとして騒ぎに気付いて誰か助けに来てくれたのかな、と思いながら、アキラは耳鳴りに耳を押さえるのも忘れて呆けていた。
『煩い』
 次にそう、はっきり声が聞こえた。
 途端、嘘のように轟音がぴたりと止み、目の前の炎の柱が掻き消えた。
 助けに来てくれたらしき人は、一言で言えば中二病な巨人だった。
 端整な顔立ちで、男にも見えるし女にも見える。格好がひどく派手で、……と言うよりコスプレにしか見えない格好で、全身が炎に包まれている。あれって熱くないのかななどと余計な心配をしつつ、さらにその周囲に視線を回すと、周囲は炎柱の名残か、炎で色々と悲惨なことになっていた。
『ゴメんなさイ、エンテい王』
「わ。火が喋った」
 思わず反応してしまうほど、アキラは吃驚した。
 悲惨なことになっていると思っていた炎が突然喋りだし、中二病患者に謝罪したのだ。しかも土下座で。しかも姿が魔物っぽい。ついでに言うとほとんど、いや全く燃えてない。アキラじゃなくても驚くだろう。驚いて欲しい。アキラ的に。
『……人間か』
 一瞬睨まれたような気がしたが、彼、あるいは彼女の表情はアキラに微笑みかけていた。声を聞いても男か女かわからないほど、彼、あるいは彼女の声は中性的だった。中世的なのはいいけどその幸せそうな微笑みがアキラ的にちょっと怖い気がする。……正直こんな炎に包まれた巨人、もういいや炎の巨人で。正直こんな炎の巨人に微笑まれても誰も幸せになったりはしなさそうだけど。
『まぁいい。……我が封印を解きし人間よ。古からのしきたりだ』

 そして、この台詞は冒頭へと続くというわけだ。

 状況を整理し、まずアキラが気付いたことが2つある。
 この彼、あるいは彼女は自分を助けに来たわけではないということ。
 そして、この彼、あるいは彼女とその周辺にいる何かは、どうやら自分の持つこの本が原因で現れたようであるということ。
 だとするなら、……この本はこの炎の巨人を封じていたということだろうか。アキラが本を開いた、ただそれだけのことでこの本の封印は解けてしまったんだろうか。何だかとても嫌な気分だ。もしこの炎の巨人が大暴れでもして町の一つがなくなったりした場合、それはアキラのせいということになってしまう。アキラ的に不可抗力だと言ってしまいたいが、現実「封印を解くな」と本には警告文がある以上、それを無視してページをめくったのはまぎれもなくアキラだ。
『……』
 どうしようどうしよう、などと考えている間にも、炎の巨人の表情に少しだけ苛立ちが混じる。考えるフリをして時計を見てみると、どうやら思った以上に考え込んでいたらしく、時計の針は炎の巨人の封印を解いてしまってからすでに30分ほどが経過していた。むしろあわよくばこのまま一生こうしてこの危なさそうな巨人を繋ぎ止めていたいところだが、どうやらタイムリミットはこの巨人の堪忍袋の緒が切れてしまうまでらしい。あぁホントに困ったどうしよう。
『……いい加減その、考え事の合間に出て来る我を示す呼称を何とかして欲しいものだ』
 思考を読まれているのにようやく気付く。何だかイライラしている、もといイライラしていらっしゃる原因はどうやら巨人もとい彼、あるいは彼女の呼称が気に入らなかったかららしい。実際炎だし巨人だし仕方ないのだとは思うが、本人がダメだと言うのだから他の呼称を考えるべきなのか。むしろ真名を教えて下さいと願ってみようかな、なんて。
『一応、周囲からはイフリートとかアラストルとかヴァイエルとか呼ばれていたが、真名は教えられんぞ念のため』
 その名前に思わず驚愕するアキラ。イフリートと言えば強大な炎の魔人の呼称だ。同じくらい有名な魔人に、風の魔人ジンというのがいるが、一説によればジンはイフリートと同じもので、煙のない火から生まれたとされている。また他の説では、ジンはイフリートの炎が起こす風によって生まれる眷族であるとされている。そういえばジンはアラビアンナイトで超有名な魔人だ。そのジンより遥か上の存在だとするならば、町一つどころか世界を炎に包んでもおかしくない力を持っているかもしれない。あぁやだ怖いどうしよう。
『……博識だな。ちなみにジンと言うのは「目に見えず、触れ得ないもの」と言う意味で我々を呼称するものとは違うし、風の精霊というわけでもないのだが』
 そうなんだ、と素直に感嘆しかけてから、アキラは巨人……アキラの中ではイフリートと呼ぶことにしたらしい――を改めて見つめた。
 頭を読むのをやめたのかそれともアキラから視線を外しても読めるのかはわからないが、眷属であろう炎インプをつんと突付く。と、炎インプはしゅるり、と小さくなって姿を消した。
 どの道読まれているなら関係ない。もしかしたら運良く読まれていない今の間にこのまま考えをまとめてしまおうとアキラは思考をフル回転させる。どうやら目の前にいる存在は、イフリートまたはアラストルと呼ばれる強大な魔人ということで間違いはないらしい。

 と、ふと唐突にいい考えが浮かぶ。

「――決まったよ、願い事」
 アキラは涼しげに微笑んで見せた。
『ほう。もう少し時間がかかるかと思ったのだがな』
 イフリートは少しだけ楽しそうな、嬉しそうな顔を見せ、
『一応形式に法ろう。――願いを言え、人間。我がどんな願いも叶えてやろう』
 やはり、思考を読むのはすでにやめていたのかはたまた形式上の質問なのか、余裕の表情でイフリートは満面の笑みを見せた。

「妹が欲しい」

 アキラのその言葉に、イフリートは笑顔のまま、――硬直した。
『……何と言った?』
「妹が欲しい、って言ったんだけど」
 イフリートがやや引き気味でこめかみの辺りを人差し指で押さえた。
『――そっちの趣味があるのか?』
「んーん全然。純粋に一人っ子だからさ、妹が欲しいだけ」
 うぅむ、とイフリートが唸り声を上げる。
 実際、イフリートにとってこの願い事は虚を突くものだった。目の前の少女が博識であることから、てっきり自分の能力をフル活用できる願い事を頼んでくるものだと思っていた。たとえば世界征服がしたいとか、金が欲しいとか、人間の願うものなどその程度だろうとタカを括っていたし、身勝手な人間の願いを叶えることなど容易いと思っていた。
 現にアキラの願いはあまりに身勝手と言えば身勝手だ。一人っ子だから妹が欲しいなどと言うのは、叶えられた場合、自分の家族に負担がかかる。食費や生活費、学費など、父母に負担がかかるであろうことは賢いであろう少女なら予想が付くはずだ。身勝手なことに変わりはないが、イフリートの存在意義とは全くの正反対の願いなのだ。

――世界を炎に包める力を持ったイフリートでも、さすがに命の誕生は専門外。

 生命の神秘は天使の管轄。イフリートにはその願いを叶えられない。
「……何でも叶えてくれる、んでしょ?」
 上目使いに問うアキラ。頭を読んでみると「どーせできないよね」と考えていることから、どうやらイフリートを困らせたいだけの確信犯だ。しかし何でも叶えると言ってしまったのはイフリートの落ち度で、叶えられないならば契約違反だ。

 これは、負けたか……

 思わず負けを認めかけ、落ちる先……地獄を想定して身震いする。
 封印されていた方がマシだった気がする。とするならば、封を解かれた時点で自分の負けは確定していたのだろうか。地獄など怖いとは思わないが、そこで契約違反者の烙印を押され、魔人の恥晒しとして罵られることは、……気位の高いイフリートには、耐えられる範疇を超えていた。
 本なんかに封じられるだけでも恥なのに、と少しの間悲憤慷慨した後、考えは何とかしなければ何とかしなければ、と前向きな方向に一応向かうものの、どうにもいい考えは浮かばない。

 いや、実は一応あるのだ。……だがそれを実行するのを酷く躊躇っているに過ぎない。

 願い事を考えるまでの時間を待ってくれたことに対する礼のつもりか、アキラはイフリートが封じられていた書――今はただの書物のはずだ――を開き、黙々と読んで待っていた。待っていてくれるのはありがたいが、もう他に考えられる手段は見つからないのだ。あとはイフリートがそれを実行する腹を決めるだけだ。
 一瞬イフリートをちらりと横目で見たアキラの思考を読んでみると、願い事を変えてあげようかな、などと侮辱極まりない思考が飛び込んで来た。これで願い事を変えられてしまえば、それはそれで恥晒しだ。いつだったか、……もう数百年、ともすれば千年も昔の話だが、人間ごときを相手に不覚を取ったのはこれで二度目と言うことになる。人間というものは狡賢いと言うのをうっかり忘れていた、などと思わず自分の迂闊を棚上げしてみたりもするが、もう迷っている暇はなかった。

『――良かろう、その願い叶えてやろう』

 まさか、とアキラは顔を上げる。
 イフリートにそんな力はないはずだ。まさか誰かの子供を掠って来てこれが今日からお前の妹だ、とか言わないかと心配になる。
『安心しろ。確り貴様の妹として誕生したものをお前の目の前に必ず用意しよう』
 思考を読んだのか、イフリートは『時間がかかるが構わないか?』と付け加えるように言った。
「――うん、無理だと思ってたからそれくらいは譲歩する」
 正直、イフリートに無理難題をぶつけるつもりで言った願いだったが、それはアキラの本心でもあった。父のいない自分にとって、母が全てだった。母にとってもアキラが全てだったと思いたい。
 そこに、もう一人家族が加わるのだ。イフリートはそう約束してくれた。
 こんなに嬉しいことはない。

『ではな人間。また会おう。お前の願いが叶ったその時に』

 あ、とアキラは思わず声を上げた。
――イフリートは、自分の願いを叶えてくれると言ったのに、自分は無理難題を押し付けて困らせたのだ。……そして、叶えることが困難であるはずのそれを、叶えると約束してくれた。
「待って!」
 イフリートの姿が微かに揺れた時、アキラは思わず声を上げていた。
『――まだ何かあるのか』
 叶えると言っただろう、と不満気な声で抗議するイフリートだったが、それでもイフリートは振り返ってアキラを見た。
「えっと……あの、」
 思わず口篭るアキラに、イフリートは溜息を吐いた。そして思考を読んで手っ取り早く理解しようと考え、

「――意地悪言って御免なさい」

 ぺこり、とアキラが頭を下げた。
――思わず絶句するイフリート。
 人間とは自分勝手で狡賢くて、……そう思っていたイフリートの目にその光景は信じ難いものだったのだ。しかも少しだけ頭を読んでみれば、どうやらその言葉は本心からのようらしかった。
『――ふん』
 思わず視線を逸らし、――イフリートは考える。
 そういえば、イフリートは昔から人間に対して悪感情しか持っていなかった。だから人間の姿を見たらまず食うか殺すかしか考えていなかった気がする。――自分を封印したあの男にすらそうだ。だから自分を封印しようという気持ちだけは何となく理解できるし、自分の力があの男に劣っているのだと気付いた瞬間、仕方のないことだと諦めて封印されもした。

 そう、イフリートは自分を封印した男を憎んではいなかった。

 無性に悔しいとは思ったが、それは魔人同士で決闘して負けた悔しさにも似て清々しいものだったし、だからこそ封印が解けた瞬間、またあの男と戦える、今度こそ叩きのめして食ってやる、と上機嫌にもなった。だからこそ、古臭いしきたりに従って少女に願いを叶えるなどと言ってしまったのだ。

『叶えると言った願いだ。――待っていろ人間』

 アキラに背を向け、今度こそその場を去ろうと自らの周囲に炎を纏う。
 これが魔人としての自分の終わりだ。――あの男に勝負を挑めないのは残念だが、この少女の知恵に自分は負けたのだ。……悔いはない。

「ありがとう」

 イフリートが消える寸前、アキラが呟いたその言葉は、果たして届いたのかどうなのか。
――アキラの目には、その表情を見ることさえ適わなかった。



[24776] 第2話
Name: 佐伯 緋文◆d27da47b ID:6e68c083
Date: 2011/03/10 01:07
 はたと気が付くと、アキラは再び本を読みながら歩道を歩いていた。
 読みながら、と言うより読む仕草のまま考え事をしながら、とでも言うべきだろうか。
 時計を見ると、時計の2つの針は11時15分を指していた。
 ふと気付いて周囲を見回すが、さっきの場所は一体どこなのか、そしてあれは何だったのか、夢なのか幻なのか、現実なのか自分の想像なのかと考えを巡らせるが、当然考えたところでさっきの場所を探し当て、そこに痕跡でも残っていない限りはそれを現実であると認識できないことに気付く。そして困ったことにさっきの場所がどこなのか、見当もつかないほど見覚えがない場所だった。
「――ま、……いいか」
 アキラは考えるのをあっさりと諦め、本を開く。
『――、この封解くべからず……我が命の限りにて封印せし炎の邪神、ここに眠る』
 栞代わりに挟んでいた指で本を開くと、見覚えのある文章が目に飛び込んだ。次のページを開くと、少しだけ水にふやけたような、ゴワついた感じがしたが、この本の前の持ち主を恨むこともなく文章を読み続ける。そして数ページ進み、さっき読んだであろう場所を見つけると、そのまま本の虫と化したアキラは再び読書をしながらの帰途についた。

 アキラは気付かなかった。
――読んだ所に指を挟んだのであれば、指を挟むべき場所は今読んでいるところ……数ページ先だったであろうことに。


「……あれ?」
 家に辿り着いたアキラは家の玄関を押し開けようとして、玄関が施錠されていることに気付いた。
「母さん出かけちゃったのかな」
 苦笑しつつ、玄関前にある鉢植のひとつ、……唯一アキラが育てている楓の盆栽を軽く持ち上げつつ、そろそろ切りそろえてあげないと、と切り方をシュミレートしながらその下に隠された玄関の鍵を指で摘み上げ、それを鍵穴に差し込んだ。カタン、と錠が開く音がするのを確認して、その鍵を盆栽の下に戻そうと、アキラは一応周囲を見回してから盆栽の下にそれを隠した。
「ただいまー」
 念のため玄関を開けてすぐに家に声をかけ、下駄箱の靴を確認するが母親のお気に入りである靴が一足足りない。出かけたと見て間違いないと判断しつつアキラは靴を脱ぎ、律儀に下駄箱にそれをしまい込んだ。
 そのまま再び本に目を落とし、玄関前の柱に寄りかかって座る。
 朝、母親が一緒にご飯を食べないアキラを見て「あんたって子は」とぶつくさ言っていたのを律儀にも覚えていて母親が帰るのを待っているのか、それとも単に部屋まで移動するのが面倒なのか、そのままの体制で読み終えたページをめくり、文字を追う。
 今にも表紙が落ちそうな、まさに「古書」を手に、玄関で胡坐をかき、読み耽るアキラの姿は意外にも絵になるらしく、母親の知り合いの絵描きはその姿を是非いつか絵にさせてくれ、とアキラに懇願したことがある。面倒臭いので一蹴してみたら、母親からも「お願い」と頼み込まれ、まぁどうせいつもの格好で本を読むだけだし、と何気なく了承した。
 どうやらその絵描きは世間では結構有名らしく、先日テレビにも出ていたことがある。ファンに媚びずひたすらに自分の気に入ったモノだけを描くという姿勢をドキュメンタリー番組で語っているのを見て、そこだけは絵描きに共感を覚えた。
 その絵描きの趣味は樹海のとある風景を描くことらしい。自分の恋人が自分に見せるために描いた絵を、後を継ぐわけではないが必死になってアキラの家でスケッチしていたのを見たことがある。画材は鉛筆のみという絵なのに、アキラにはその絵がとても美しいものに見え、「綺麗だね」と言ってみると、その絵描きは「今度実物を見に行かない?」とアキラをよりによって樹海に誘い、母親にこっぴどく叱られ、しかし絵描きは「どうしてダメなの?」と猛反論して母親を言い負かした。連れて行く約束の日取りはまだ決まっていないが、とりあえず行くことだけは確定していて、その際には母親も何故か同行するということになっていた。
 数ページ読んだところで、鍵がかかる音がしたが、アキラは気にせずページをめくる。がちゃ、と扉を押す音と、「あら?」と言う間の抜けた母親の声がして、もう一度、今度は鍵を開ける音。
「――おかえりなさい」
 本を読みながら棒読みで母の帰りに祝福を送る娘に、母親は苦笑しながら「ただいま」と告げ、すぐにご飯の用意をすると言い残すと台所に向かった。その手に買い物袋をいくつかぶら下げているのを見て、ちらりと玄関に目を向けると、持ち切れずに置いたのであろう袋から、葱と大根が覗いていた。
 読んでいた本を下駄箱の上に伏せ、残っている袋を手に持つ。重い。重いが持てないわけではないと判断し、アキラは両腕に力を込めて残った袋3つを全て持ち上げ、そのままゆっくりと台所に向かう。
「――あらあら、ありがと」
 それでも数メートルしか進まないうちに母親が戻って来てそのうちの1つ、葱や大根が覗く一番重い袋をひょいと片手で持ち上げると、アキラの肩にかかっていた重量が一気に軽くなった。あの一袋にどれだけのものが詰まっていたのか、というよりアキラがやっとの思いで持っていたものをあっさりと片手で持ち上げる母親に若干の敗北感を感じながら、まぁ自分はインドア派だし、と言い訳にもならない言い訳を心の中でして自分を納得させつつ台所へ向かう。
「今日のお昼は何がいい?」
 問う母親に即答で「焼きそばか焼きうどん」と答えると、「あんたはまた手間のかからないものをリクエストする」と苦笑する母親。そう言いながらも母親が取り出す材料はそれでも結構多いと思うし、手間がかからないと思っているのは母親だけで、アキラが自分で作る場合、母親が作る時間の3倍近くの時間がかかることは実証済みだ。どうやら焼きそばの方らしい、と取り出されたにんじんにピーマン、玉ネギを見て思う。短冊切りや細切りにするのに時間がかかるのが敗因なのはわかっているのだが、母親の手捌きはアキラには神業に見える。あれは無理だ。
 とは言え、とりあえずリクエストを変える気もないアキラは下駄箱に戻り、本を手に取って再び読み耽った。


 買って来た古本は、読みやすい物語だった。
 多少色あせてしまって、文字が読み取りにくい所が多々あるものの、文脈や前後の文字を読めば何が書いてあるのか理解できないほどでもない。要するに本の虫には気にならないということだ。
 また、文章そのものも文語体で書かれてはいるものの漢字は控えめで、漢検2級を持つ……まぁ漢検自体、古書を読み耽るうちに何となく漢字に強くなり、何となく勉強して何となく受験してみたら合格してしまったものだが、その漢検の勉強の恩恵で、今ではほとんどの漢字を、辞書を引くことなく理解することができるアキラにとっては逆に物足りないくらい古本は読みやすかった。
 古本の内容はアラビアンナイトを筆頭に様々な神話や逸話を織り交ぜて書かれているものらしく、物語としてはありきたりなのだが、しかし伝奇好きのアキラには嬉しくもあり興味深くもある内容だった。この本の作者の趣味なのか創作なのかは知らないが、独創的というか突飛というか……要するに変わった話だったがそれなりに史実や伝奇の類を織り交ぜてある。さっき突飛という言葉を使ったが、話の辻褄は合うし意外と興味深い――要するにアキラ好みの物語だった。


 母親の呼ぶ声に数回の声かけで気付いて顔を上げ、本を階段に伏せる。人間の体というのは同じ体勢のままでいると徐々に痛くなってくるものだが、例に漏れず少しだけ痛む肩や腰、背中を軽く曲げたり伸ばしたりしながらアキラは台所に向かう。途中、焼きそば独特のソースの香りが鼻腔を刺激し、アキラはようやく自分の腹が不満を訴えていることに気が付いた。思ったより腹が大きな声で喚いたので、思わず苦笑する。苦笑しながら台所に辿り着くと、焼きそばの香りで気付かなかったが、コンソメスープの香りが微かに感じられた。どうやら今朝作ったようで、母親の顔を見ると「残り物だけど」と苦笑した。残り物だろうがなんだろうが味に違いはないし、あったとしてもそんな繊細な舌を持っているわけではないアキラにとっては同じことだ。要するに腹に入って味が良ければ何でもいい。
 まずいつものアキラのパターンでスープを口に含む。朝作ったからかスープの玉ねぎは口の中で溶けるように消えた。もう少し玉ねぎに歯応えがあってもいいような気はするが、アキラ的には神の所業だ。いつか自分にもこんな料理を作れる日が来るのだろうか、などと考えながらアキラはテーブル中央に置かれた焼きそばの大皿に手を伸ばす。小皿に少し盛り付けた焼きそばを、律儀に丁寧に箸に巻き付けつつ口に運ぶ。まず感じられるソースの香りはともかく、屋台の焼きそばのように油っこさは感じない。そもそも油を使わなくていいという触れ込みのフライパンなのでアキラの母は油を使っていないのかもしれない。その分、というわけではないが、にんじんやピーマンの味がほのかに甘く感じられる気すらする。オニオンスープ同様、アキラにとっては神業だ。
「……アキラ、味はどう?」
「うん、……美味しいよ」
 反射的に返事をしようとして、それでも律儀に一度口の中を飲み込んでから改めてから返事をする。
 それにしても、今朝といい今といい、今日の母親はアキラと食事を一緒にしたいようだった。今の様子を見るに、どうやら何か話があるのかもしれない、とアキラは推測するが、どうやら話しにくいことらしい。一向に箸が進まない母親をちらちらと見ながらアキラは自分の食べるペースを落としつつ、不自然ではないようにテレビのリモコンに手を伸ばした。

「ね、アキラ」

 リモコンを掴む直前、不意に母親から声がかかる。
「うん?」
 返事をしつつ、一応リモコンを手に取る。
「今度の希峰(きみね)行くの、楽しみ?」
「ん?夕ヶ丘樹海(ゆうがおかじゅかい)の?」
 件の絵描きとの約束のことだろう、とあたりを付ける。樹海に一番近い駅――希峰駅、と言う――の名で「樹海」と言う言葉を伏せるあたり、母親らしいとアキラは思う。本当に着いて来るのかどうかは別として、顔を見る限りただの好奇心だろうと思う。実は楽しみにしているのは母親の方ではないのだろうか。
「……うん。楽しみだよ」
 正直な気持ちを話す。絵描きの描いていたあの風景は、白黒でも美しさがわかるほどに美しかった。実際の風景はあの3倍は美しいのだと言う絵描きの言葉が真実ならば、「樹海」というだけで怖れて見に行かないのはもったいないとすら思う。そもそも絵描きは世界的に有名人で、……その彼女が言うには、初めてその風景を見た時は感動し、言葉すら失ったのだそうだ。
 それに、彼女が世界的に有名になった絵画、「3人」のモデルの1人にも興味がある。
 樹海を死に場所に選んでやって来る人を説得することを生き甲斐としている人だそうで、そのきっかけは自らの生還と愛犬の死だったと言う。詳しい話は本人から聞いてね、と絵描きは言って教えてくれないので、是非その話も聞いてみたいと思う。その人が絵描きにあの美しい風景を教えたと言うから、その風景を探し当てた経緯も是非聞いてみたい。
「――そうね」
 母親はそんなアキラの心を知ってか知らずか、ふっと微笑んでスープを一口含むと、ほうと溜息をついた。どうやら、話したいのはその話ではないようだとアキラは母親の仕草で気付く。樹海探索の話をしたいのであれば、話を区切る必要はない。つまり話しにくい内容なのだろうか、とあたりを付け、アキラはわずかに皿に残った焼きそばをフォークでかき寄せ、スープの中に落とした。以前、汁物以外の皿に口を付けるのは下品だと母親に言われてから、律儀にもそれをしっかり守るのは莫迦正直かもしれないとアキラ自身思うが、その母親の前で皿に口を付けるのは抵抗があるし何だか負けた気がする。

「――ね、……アキラ」

 少し間を置いて再び母親から声がかかる。
「うん?」
 敢えてさっきと同じ生返事を返し、少し腕を上げてテレビに向けたリモコンの電源ボタンに手をかけ――

「お母さん、好きな人ができたかもしれない」

 アキラにとっては衝撃的な一言に、思わず「え」と声を上げる。リモコンを操作しようとしていた指も思わず硬直したように止まり、手から滑り落ちたリモコンが重みでテーブルとぶつかってごとり、と音を立てた。
 どういうことだろう、と考えるまでもない。母親だって人間であり女だ。ただ恋愛をしたというだけのことだ。それが即結婚に繋がるわけでも、その相手が今すぐ目の前に現れるわけでもない。
「――というより、実は付き合ってる人なんだけど」
 母親の言葉はまたしてもアキラに衝撃を与えた。どうやらすでに付き合っていたらしい。そうなるとこのタイミングで話をするということは、そろそろ娘を紹介するとかそんな話の流れにでもなったのだろうか。それは困るちょっと困るううんだいぶ困る、とアキラは顔には出さずに混乱した。
「――そうは言っても、そういう人がいるって話をしたかっただけなんだけど」
 あぁ何だ、とアキラは内心で盛大に溜息を吐いた。それなら別に問題ないと思う。突然父親ができるとか、突然紹介されるとか、突然子供ができましたとかそんな超展開じゃなくてよかった、と心から思う。ひょっとしたらそう言った超展開を避けるために前もって教えてくれたんだろうか、とアキラは内心で考えを巡らせ、母親にかける言葉を模索した。
「ん……どんな人?」
 我ながらデリカシーのない、と、言ってしまってからアキラは自分の言葉に内心で苦笑するが、母親はそんなことは気にしないと言った様子で微笑む。
「優しい人よ。――お父さんくらいにはね」
 母親の言葉に、父親の顔を一瞬で思い出す。
 厳格だったが笑うと豪快な父親は、今思えば確かに一家の大黒柱だった。父親が亡くなったのはもう10年以上も前のことだが、厳格なわりに父親は幼いアキラに手を上げることもせず、厳しい言葉でひたすら説教をするタイプだった。生まれてこの方反抗期をスルーしてきたアキラには、悪いことを悪いことだとしっかり教えてくれるいい父親であり、良い行いをすれば必ず褒めてくれる、優しい父親だった。
 反面母親は父親とは違い良いことも悪いこともただ笑って見守ってくれる存在だった。悪い方ではさすがに行動を止めるくらいはしてくれたが、どうしてそれを止めるのかを教えるのは父親の方だった気がする。
 父親が死んでからは、――母親は自分が代わりにとでも考えていたのか、説明下手ながらも色々教えてくれるようになった。
 難しい、いわゆる道徳的問題などにも、母親なりにどうして悪いのかを一緒になって考えてくれたり、時には意見をぶつけ合って一緒に悩んでくれたりもした。
「優しいだけ?」
「あと格好いい」
 母親の言葉に、思わず「何それ」と噴き出すと母親も一緒になって笑い、「痘痕も笑窪かな」とか言い出したので、アキラは何故か安心した。この様子なら、相手は悪い人じゃないんだろう、と朧気に思う。

「――反対は、しないのね」

 ぽつりと、母親の口からそんな言葉が漏れる。
「まだ会ってすらいないし顔も見てないし。――反対する理由がないよ」
 アキラの中では当たり前の気持ちだけを伝え、皿を洗い桶に溜められた水に沈めようとして、そういえば油物だった、と考え直して皿をシンクに置く。スープのカップは桶に入れた。


 ごちそうさま、と台所を出てから、当たり前だと思って言ってしまった言葉を少しだけ考えてみる。
 反対する理由、と考えれば実は1つだけあると言えばある。母親が口にした、死んだ父親のことだ。もう母親は父親を愛していないのか、もしくは父親よりもその男性を好きになってしまったのか、……と考えれば少し寂しい気がするのは確かだ。だからそれを理由に反対しようと思えば反対はできただろうか、とアキラは玄関前の、自分の部屋へと続く階段に伏せて置いたボロ本を手に取りながら考える。そのまま自然な動作で読んだ箇所を確認しながらも、自然と思考は母親のことを考えていた。
 アキラ的に結論を出してしまうのならば答えは“NO”だと思う。
 母親は父親よりもその男性を好きになったのでも、父親のことを愛していないわけでもないと思いたい。むしろ思い出として美化されて、誰よりも忘れることのできない存在なのだと思うし、そうであってほしいと思う。
 だがそれでいいのかと問われればそれも“NO”だ。
 母親だって人間である以上、自分の幸せを追求するのが人としてあるべき姿だ。父親の思い出やアキラのために自分の幸せを蔑ろにするのは間違っていると思う。だからこそ反対はしない。

 でも、本心を言えば反対はしないが聞いてはみたい。

 聞いたらどんな答えが返ってくるだろう、と想像するが、母親の困った顔しか出てこないのはどうしてだろう。
 説明下手の母親が、どんな言葉で自分にその気持ちを説明してくれるのか、かなり興味がある。
――本どころじゃないと判断し、アキラは本に栞を挟むと、学習机の上に丁寧に置いた。
 聞いてみたい気持ちと、母親への気遣いと、どっちを優先すべきなのかはわかりきっているように思えた。女手ひとつで自分をここまで導いてくれた母親を、ただの好奇心で困らせてはいけないというのはわかっている。
 あぁ、でも聞いてみて困った顔をしたら即座に撤回すると言うのはどうだろうか。いやそれでも、母親に余計な気遣いをさせてしまうのには違いないだろう。下手をしたら、アキラの気持ちを邪推し、邪推したそれを優先して付き合いをやめてしまうかもしれない。そんなことになってしまったら困る。かと言って「別れないでね」なんて押し付けがましい言葉を言うわけにもいかないだろう。逆に別れたいと思ってもそのせいで別れられなくなったら最悪だ。

「アキラ、紅茶飲まない?」

 階下からかかった母親の声にかぶって、わずかに別の声が聞こえた。
 考え事をしていたせいか、来客に気付かなかったらしいと気付き、「今行く」と慌てて返事をしてしまってから、どうして「行かない」と言わなかったのかと少しだけ後悔する。まぁ言ってしまった以上、紅茶好きのアキラとしては行くべきだろうと勝手に納得し、アキラが階下へ降りると、母親の声に混じる声の正体はすぐにわかった。相変わらずの大きな声に安心してドアを開ける。
「こんにちは、アキラ」
「うん、こんにちは」
 言って、アキラは声の主――例の絵描きの対面に座った。
 例の樹海探索のことでも話しに来たのかと思ったが、彼女はただ近くに寄っただけだとアキラの邪推を笑い飛ばした。
 それにほっとしたわけでもがっかりしたわけでもないが、肩すかしを食らったようにアキラは「じゃあ何しに」と思わず聞き、「用がなきゃ来ちゃダメ?」ととても悲しそうに言うので、思わず慌てて否定して絵描きに笑われた。
「で、何だっけ。――あぁそうそう、ケイサの女としての幸せって何よって話」
 絵描きの言葉に思わず一瞬固まってから、ケイサ――アキラの母親のことなのだが――の顔をちらりと見る。少しだけ赤くなっているところを見ると、反応に困っているといったところだろう。ちらちらアキラを見ているところを見ると助け舟が欲しいのか。
「……彼氏ができたって言ってたよ」
「え?」
 絵描きが驚いた顔をすると同時、母親が素早くアキラの口を塞ぐが時すでに遅し。
「どんな人?」
 まず絵描きが質問を浴びせると、母親は観念したかのように苦笑しながら話し出した。

 優しい人なのだそうだ。娘がいることを知っても嫌な顔ひとつせず、是非一度会って挨拶をしたい、どんな娘なのかと目を輝かせるように聞いてきたそうで、実はロリコンなのではないかと冗談で返すと、真面目な顔で「俺が愛しているのはケイサだけだ。誤解しないで欲しい」ときっぱり言い切ったそうだ。「どこで出会ったのか」という質問には、絵描きの親友である「3人」のひとりと例の打ち合わせをするべく町で会った時――ちなみにアキラはこの人と会うのは樹海が最初と決めているので参加しなかった――に偶然待ち合わせ場所で出会ったらしい。「3人」のひとりとは元々知り合いで、「彼女」が自殺を思い止まらせたうちの1人なのだという。実は「彼女」が好きなのではないかという冗談で返すと、やはり真面目な顔で「俺が愛しているのはケイサだけだ。誤解しないで欲しい」ときっぱり言い切ったそうだ。会ったその場では何もなかったのだが、「彼女」に彼のことを聞いているうちに気になり、「彼女」を通してコンタクトを取り、メールし何度か会い――「今まで何度くらい会ったの?」と絵描きが遮るように問うのを「回数なんか覚えてないわ」と返す――そして先日、相手の方から「付き合ってくれないか」と求愛を受けたのだという。

 ふぅん、とアキラは思う。
 どんな人なのかまるで見当も付かなかった相手の性格が少しだけわかった気がする。もしかしたら母親の惚れた欲目なのかもしれないが、少なくとも悪い人ではなさそうだ。会いたいと言うのなら一度くらいは会ってみてもいいと考えるが、それは母親次第で任せることにしようかなと考え、アキラは自分のカップの紅茶を一口含む。

「……ねぇ、一応聞いておきたいんだけど」

 絵描きが、妙に真面目な顔で母親に問いかけるので思わずドキッとする。母親の方はどんな問いが来るのか予想はしているようで、慌てる様子もなく笑顔で応対する。絵描きもそれで大体の答えは察したのか、それでも確認と言わんばかりに言葉を繋いだ。

「――彼とモリオを重ねてるわけじゃないのよね?」

 まず自分の聞きたいことをニアピンで聞いてくれた絵描き――ちなみにモリオとはアキラの父親の名だ――に驚きつつ感謝する。彼、という表現から、どうやら絵描きはそれが誰なのかを察しているらしいとアキラは推測したが、「彼女」の知り合いなのであれば絵描きの知り合いであってもおかしくはないと考え、そこに疑問の声は挟まなかった。

「当たり前じゃない」

 予想していた質問と同じだったのだろう。母親が即答し、笑顔を見せる。
「――あの人と彼はまるで別人よ。似てるわけでもないし、もし似てたって同じ人なわけじゃないんだから」
 ああ、とアキラは胸を撫で下ろす。自分の聞きたいことと少し違いはしたが、この答えはアキラの疑問をも解消してくれた。もうアキラから母親に聞きたいことなんかない。アキラはカップの紅茶を口に運びながら嬉しさで胸を詰まらせそうになる。

「残りは上で飲むよ、ご馳走様」

 アキラはカップと受け皿を手に持つと立ち上がった。「まだいいじゃん」と止める絵描きに「昨日買った本を読みたいんだ」と言い訳すると、「この本の虫め」と絵描きから最大級の褒め言葉を笑い声と共にぶつけられ、アキラは部屋から退散した。

――母親は、父親より彼を好きになったわけでも、父親を忘れたわけでもなかった。
 その気持ちが同じ「愛」と呼ばれるものであっても、別のものであると確信し、アキラは安心した。


 さぁ本の続きを読もう。
 アキラにもはや迷いや悩みなど存在しない。



[24776] 第3話
Name: 佐伯 緋文◆d27da47b ID:6e68c083
Date: 2011/06/25 16:39
 アキラは、それが夢だと理解していた。なぜなら、自分の目の前にはいるはずのない男が立っていて、自分に何事かを話しかけていたからだ。
 この男が何者かは知っている。アキラと言う名付けの元になった名前、穏やかな笑顔をいつも浮かべていた顔、笑顔同様に穏やかながらも厳しい性格、そして何よりいつもアキラを撫でてくれた暖かく大きな手。

――彼の名はモリオ。アキラの父親でありケイサの夫だ。

 何故彼が夢に出て来るのか、自分に何を語りかけてくれているのか、アキラにはよくわかっていない。いや、そもそも夢なのだから目覚めてしまえば全て忘れてしまうのだろう。それでもアキラは知りたかった。父親が夢に現れた理由とその言葉を。

 父親が死んだと聞かされた時、アキラはまだ小学3年生だった。

 その言葉の意味を理解するまでに数時間を要し、理解してもその残酷さに気付くまでにさらに時間を要した。だから葬式の日も学校の準備をし、母親に「今日は学校はお休みよ」と聞かされるまで学校へ行かなければいけないものだと思っていたし、行かなくてもいいと言われた時母親が目に涙を溜めて自分に抱き付いてきた意味もわからなかった。行かなくていいなら部屋で本でも読んでいよう、と本の虫は思い、実際本当に葬式の間中本を読んでいたものだ。

 その残酷さに気付いたのはひとつ学年が上がった夏休みだった。

 他の子が夏休みに両親と出かける中、母親が多忙だったアキラは独り家に残された。図書館から借りた本を読んでいたアキラは、その本によって人間の「死」と言うものがどんなものかをようやく悟る。
 そうか、死ぬと言うのはそういうことだったんだとアキラはようやくその重大さに気付き、そして父親のいない不幸をようやく涙することができた。

 父親が死んだ理由は未だに知らないが、その理由は焼死だったという。

 どこかの養老施設が火事になった時、父親はそこにいて巻き込まれたのだと中学に上がってから改めて母に聞かされた。父の仕事は介護でも看護でもボランティアでもなかったが、父がそこにいた理由はその養老施設へ誰かを訪ねて行ったからだと言う。何を聞きに訪ねたのか、その訪ねた先の人も一緒に亡くなってしまい全てがわからず仕舞いではあるが、少なくとも父親の死因は理解し、そしてアキラは部屋で改めてこっそりと涙した。
 その父親が自分に何かを伝えようとしているのか、それとも父親恋しさに見ている夢なのか、はたまた何か精神的なものが作用してそれが夢に反映された結果なのか、兎にも角にも夢に出ている父親の唇の動きをとりあえず注視してみるが、注視したところで読唇術の心得があるわけでもないアキラにはさっぱりだ。

 なのでアキラは父親の言葉を理解するのを諦めた。

 諦めてしまえば後は父親の穏やかな表情を楽しむ余裕ができた。穏やかに穏やかに、ただ穏やかに語りかける父親の顔を見るのは、夢とは言え久し振りだ。何度か夢に出ては来たものの、その都度父親が焼け死ぬ様を見ただけだったような気がする。穏やかに自分に語りかける父親の唇はいつの間にか止まっていた。自分に言葉をかけるのが無意味だと悟ってしまったのか、それとも語りかける言葉が終わったのかはわからないが、そうして父親がふっと微笑んで見せた。
――そして、ゆっくりと父親の唇が再び動き出す。
 今度はその唇の動きが読み取れた。
 完全に唇を閉じずに舌を打つような、あ列の動き。その唇も舌も動かさず、言葉を伸ばすような感じが少し続く。完全に唇を閉じぬまま唇が横に伸ばされた、い列の動き。そしてその唇が再びあ列に開く。
 生前にも何度も見た唇の動きだ。――多分、「なぁ、アキラ」。
 さらに唇はゆっくり動く。
 唇を横に引き、い列の動き。唇をわずかに開き、あ列の動き。一瞬窄めるような動きの後、再びあ列の動き。え列独特の動きに加え、少し舌が動く。さらにもう一度あ列の動き。これも生前に何度も見た唇の動きだ。

――多分、「幸せか?」……だ。

 アキラは思わずこくりと頷く。言葉には出さなかったが、そこに迷いなどあるはずもない。
 アキラにとって幸せとは何だと問われれば、「父親と母親の子として生まれたこと」だ。たとえ今父親がそばにいなくても、アキラはれっきとした父親と母親の娘だ。

「――当たり前よ、私は貴方と貴方の愛した女の娘だから」

 そう言って父親を見ると、父親は歯を見せて笑った。そうして言った次の言葉は、――初めて聞いた言葉のはずなのに、何故か容易く読み取ることができた。

「――一丁前に」

 その言葉と同時に、髪をぐしゃぐしゃと撫で回された感覚を覚えて目を覚ます。
 薄く目を開けて見れば、母親が苦笑しながら「もう朝よ」と、階下に下りてくるようにと自分の頭から手を離した。
「もう五分……」
 絶対に守られることのない常套句で甘えてみると、「はいはい」と母親が笑いながら階下へと降りて行ったのを確認して、かすかに溜め息を吐き、アキラは何の夢を見ていたんだっけ、と少しだけ考えるがすでに遅い。忘却の彼方へと飛んで行った夢は、恐らく二度と思い出すことはないだろう。
 けれどもアキラの胸にはほんの幽かな幸福感が漂っていた。きっと幸せな夢だったに違いない。

 五分とは言ってみたが、いつもその五分は守られることはない。
 何故なら、五分より早くアキラがその約束を破るからだ。案の定と思っていたのか、母親はアキラの姿を見て「早い五分ね」とくすくす笑う。「撫で方が乱暴なんだよ」と欠伸混じりで呟いてみると、「悪かったわね」と食卓に朝食を並べて行く。
 今日の朝食はベーコンエッグとトースト、そしてコーンポタージュだ。
 ちなみにレトルトのスープではなく母親の得意料理のひとつで、多分昨夜のうちに多く作って残りは昼の弁当用にポットにでも入れてあるのだろう。
 ひとくち口に含んで確信する。いつも通り絶品で神がかり的な美味しさだ。
 トーストに置かれたバターをバターナイフで伸ばしつつ、アキラは無駄だと思いながらもぼんやりと今朝の夢を思い出そうとする。幸せな思いと言えば、本に囲まれた夢でも見たか、あるいは他の、例えば未来の幸福なビジョンでも見たのか。……どちらも違う気がする。
「ところで今度の日曜日だけど、アキラ空いてる?」
 不意に……と言うより、いつものように母親が話しかけてくるので、生返事でアキラが「うん」と返答すると、母親が手に持っていた受話器を耳に当てる。どうやらアキラの考え事の間にいつの間にか誰かと電話中らしい、と気付いてアキラは思わずぎくりとして息を飲んだ。まさかとは思うが彼氏を連れてくるから会って、とか言い出さないだろうか。それは困る断じて困る非常に困る困る困る困る。
「……うん、わかってる。希峰駅で降りればいいのよね?」
 希峰、と聞いてアキラは思わず盛大に溜息を吐き出した。決して母親の彼氏という存在が嫌なわけではないが、心の準備が全くない今の状態では会いたくない……いや違う。会いたくないと言うのは語弊がある。今の心理状態で会うのは失礼だとでも言うべきか。いやまぁ、遠くない将来会うことにはなると思うからどの道心の準備は必要なのだが、兎にも角にも、希峰という名前で思い出す。例の絵描きの「樹海」だ。と言うことは、日程は日曜日に決まったのだろうかと考えつつ、すでにアキラは何を着て行こうというレベルまで頭が回っている。寒いと絵描きが言っていたから、長袖のパーカーでいいや、と思考がひと段落したところで、母親はようやくその電話の終話ボタンを押した。
「――日曜日になったの?」
 パーカーでいいやと思ったものの、それでも少しは格好に悩んでいるのか、アキラは母親にちらりと視線を送りつつ問い、トーストを一口、口に含んだ。
「ん?決定じゃないけど最有力候補ね」
 どうやら絵描きの方の都合らしく、あとは絵描きがスケジュールを調整できるかどうかで流れるか決定するかということらしい。まぁあの絵描きのことだから、自分のスケジュールを無理に変えてでもその日に決めてしまうに違いない。こと何故だか気に入られてしまっているアキラに関しては、その約束やアキラの都合を最優先する癖のようなものがあり、そして絵描きにとって、スケジュールを無理矢理捻じ曲げることは造作もないことらしい。以前もアキラの誕生日にわざわざアメリカの個展を2日ほったらかして祝いに来たことがあり、さすがのアキラも、決して嫌だったわけではないが、それには苦笑したものだ。そんな感じで母親に言ってみると、「そうね」と一笑された。どうやらこの笑い方は同意の笑いのようだった。
 母親が言うには、絵描きの言うところによれば、メンバーはアキラと母親、絵描き、「彼女」の4人なのだそうだ。どうやら日曜日と言うのは「彼女」の都合でもあったらしく、「彼女」は現地で落ち合い、アキラと母親は希峰で落ち合うと言うことになったらしい。
「寒いとは限らないけど、暖かい格好の方がいいかもね」
 という母親の言葉を聞いて、アキラは再び自分の格好をシュミレートし、パンを食べ終わる頃には、パーカーの上に薄いものを羽織ればいいや、という結論に落ち着いていた。そもそもパーカーは秋用のもので少し厚手だし、そこに春用の上着を羽織るだけでも十分暖かいはずだ。色は両方アキラの好みで地味めの淡い灰色なので、実際に合わせてみなくても不自然ではないはずだと思う。あとは下にブラックジーンズか何かを履いて行けば、動きにくいこともないだろうし汚れてもそんなに目立たないだろう。
 そこまで思ってから、アキラは心中で苦笑した。
 何だかんだと言いつつ、実は自分だって楽しみにしていることに気付いたせいだ。母親だって楽しみにしているのだから悪いことではないはずだが、その母親が一度は猛反発した「樹海」。どんなところかと悪い風に考えなくもないが、それ以上にアキラはやはり楽しみにしている。あの日絵描きが怒られていた間も、絵描きの言葉に賛同こそしなかったが、それでも母親の酷く勝手な樹海のイメージの方に賛同する気にはなれなかった。
 あの絵描きの描いた白黒の「樹海」は、それほどまでにアキラの心を揺さぶったのだ。今まで見たどんな美しい絵画よりもイラストよりも、そしてアキラ自身が見てきたどんな風景よりも、あの「樹海」は美しく見えた。「綺麗だね」と言った、絵描きに対する賛辞は決してお世辞でも過大評価でもない。

 アキラはあの風景を見たい。

 夕ヶ丘樹海。一度電車で眺めたことはあるが、それだけだ。あの時はただの森なのだと思っていたし、特にイメージを持っているわけでもなかった。いや、それは今も同じだ。そもそも樹海とは別に恐ろしいところでも何でもなく、ただ単にそういう地形だと言うだけの話だ。方位磁石が効かないとか携帯の電波が通らないとか、一度入り込んだら出て来られない、などと言うのは全てデマというかただの迷信で、そもそも携帯の電波はアンテナに依存するものだし、迷いやすい場所であるというのは深い森であればどこだって同じだろう。方位磁石云々に関しては完全にデタラメだ。また、自殺の名所として知られているのも迷信に近く、むしろそんな迷信があるからこそ自殺志願者が樹海にひっきりなしにやってくるだけの話だと何かの本で読んだ記憶もある。一般によく知られる青木ヶ原樹海は、遊歩道を歩いている限りは迷うことはないとも聞いたことがある。遊歩道を大きく外れた場合でも、来た道をちゃんと戻って行けば遊歩道に戻れなくなることなどないらしい。決定的なのは、青木ヶ原樹海が自衛隊だったか、踏破する訓練として使用されているということだ。ちゃんと踏破される場所でなければ、訓練に使用されたりはしないだろうし、毎年行方不明者が必ず出ることになってしまう。
 ただ、夕ヶ丘樹海は青木ヶ原樹海と違い整備されておらず、遊歩道などは一切ない場所だ。絵描きは、自分とはぐれなければ絶対大丈夫だと笑っていたが、逆を言えば万一はぐれた場合は大丈夫ではないということだ。自殺の名所だという迷信に従い、自殺志願者が迷い込むことも多々ある場所で、月に一度、夕ヶ丘樹海は『清掃活動』が行われている。
 一般人の立ち入らない地域にその活動が何の意味があるのか、まだ子供のアキラにでも想像はつく。

 それでも、アキラはあの風景を見たい。

「――楽しみだね」
 アキラがぽつりと呟くと、母親は複雑そうに「そうね」と苦笑して見せた。


 朝食を済ませ、ベッドに座って古書を読んでいたアキラはふと思い出した。
 そう言えばあの白昼夢は夢だったのだろうか。妙にリアルで現実感があって、夢だと言うのに自分やあの「イフリート」が話したことは何一つ忘れていない。まるで本当にあったかのように自然に思い出せるし、――そもそも夢だと思えないリアルさがどうにも引っかかる。
 あれが現実だとするのなら、自分にはいずれ妹ができるのだろうか。
 母親が再婚し、母親が身篭るのであれば間違いなく子供はできるだろうが、それが女の子である保障はないし、むしろ自分は何故妹が欲しいと願ったのだろうかと今更ながら不思議だ。まぁ、できれば弟よりは妹のほうが嬉しいのは確かだが、弟だとしても家族が増える嬉しさに変わりはないはずなのだが……まぁ咄嗟の言葉に理由を求めても仕方ないかもしれない、とアキラは考えるのを諦めた。

 とにかく日曜日が楽しみだ。


 アキラは、それが夢だと理解していた。
――というより、現実であると思いたくなかった、夢であって欲しいと思ったと言うべきか。
 母の、……現実にはまだ見知らぬ「恋人」がそこにいて、――それがなぜか「恋人」だと知っていることも含め――アキラをそこから出させようと躍起になって肩を引くのも、腕を痛いほど……いや、実際には痛みは感じないが、それでも痛みを覚えるのも、

――目の前には母がいて、その体が炎に包まれるのも、
――その母の腹を裂いて、赤子の腕が宙を掻くのも、

 あれはきっと女の子に違いないとなぜか確信できることも、あの時自分が欲しいと願って成就を約束された「妹」に違いないと断言できることも。
 アラビアンナイトの魔人も神話の悪魔も、願いを叶える代償に、予想もしないような形を要求するものだ。昔話の悪鬼などは、人の世に悪をばら撒くため、願いを故意に悪意として叶える。

――そして、この夢の通りのことが実際に起きたとしても、アキラの願いは叶う。

 あの時口に出した願い事は「妹が欲しい」だ。アキラの妹がまさに生まれた日、……いや生まれた瞬間に何らかの犠牲に、病気に、いや代償になったとしてもアキラの願いは成就したことになり、成就した後に何が起きようと、確かに妹は生まれたということであり、アキラの願いは成就する。その後あるいはその瞬間何が起きようともそれはただ不幸な事故、不幸な結果だったということに過ぎない。それに巻き込まれ、誰か……たとえばアキラ自身やケイサ……いやこの場合「周囲」や「他人」と言うべきか――とにかく巻き込まれたとしても、それはアキラの「願い」とは無関係だ。
 悲鳴を上げることも母を呼ぶことも、アキラにはできなかった。いやしなかっただけかもしれないし、そもそも夢なのだからどうとでも解釈は可能なのだが、ただ眺めることしかなす術が見当たらなかったのだとしか言いようがない。眺めるだけのアキラの前で、やがて炎はケイサを包み、その腹を裂いて宙を掻いた腕が炎に崩れるのが見え、その炎が今度はアキラ自身を包もうとするのが見えた。
 自分を非難させようとしていた母の「恋人」は、すでに炎に包まれもがき苦しんでいる。それでも腕を、肩を離そうとしない、ほとんど炭の色と化したその力強い手から炎が燃え移ろうとしている。自分もその炎に包まれるのだろうかと覚悟した瞬間、苦しみもがいていたその「恋人」が渾身の力を込めてアキラを引き、廊下の壁にアキラを叩き付け――

――その衝撃で、アキラは目を覚ました。

 肩で荒く息をしながら辺りを見回し、自分の部屋で昼寝をしていたことだけを思い出すと、アキラは毛布を引っ掴んで顔を埋め――その毛布を防音剤代わりに、……声の限りに号泣した。


 嗚咽が止まった後、アキラは階下へ降りた。靴箱の母のお気に入りの靴を探してみる。母が家にいないことにようやく気付いたアキラはそのまま台所へ足を運び、テーブルの上に小皿を見つけた。
――ラップに包まれたその中皿に貼り付くようにメモがあった。母は昼を外食で済ますらしい。きっと恋人とランチを取るのだろう。羨ましいような寂しいような、……それでも母親が幸せなのであればそれでいいとアキラは思う。メモには他に、中皿を暖めて丼に乗せて食べるようにと指示があった。ラップをちらりと取ってみるとカツの卵とじだ。母親の十八番、醤油と味醂の併せ方が目分量なわりに絶妙の、アキラの好物のひとつ。確認だけして、アキラはラップを戻してレンジに入れる。待機電力を節約するという名目で抜かれているコードをコンセントに刺し、2秒ほどしてからレンジの内部にオレンジ色の明かりがかすかに点いたのを確認し、アキラは開けておいたレンジの扉を閉めた。この順序を守らないと、このレンジは「省エネ」状態になり、……要するに作動しない。面倒な作業ではあるのだが、アキラの家ではもうこれが当たり前になっているため、アキラは不便を感じない。この作業を「面倒」だと言うのは専ら絵描きだ。アキラは「あたため」を指で押し、食器棚から丼と箸を出し、食器棚の脇に据え置かれた炊飯器から自分が食べる分だけ、――さっきのカツを頭に思い浮かべながら――盛り付けると、まだ音の鳴っていないレンジを構わず開けた。あまり暖めすぎると卵が固くなってしまい、――というか以前音が鳴るまで待っていたら焦げたこともある。とはいえさすがに今回は早すぎたようで生温かった。アキラはもう一度レンジに入れ、15秒ほど待って上から触り、今度はしっかり温まっているのを確認した上で取り出すと、
「熱っ」
 意外と上より下の方が先に温まっていたようで、アキラは慌てて手を離す。思わず手を見てから、アキラは今度は中皿の淵だけを掴み、素早くテーブルにそれを置いてから、アキラははっと気付いた。横着をして鍋つかみをしなかったのだが、考えてみれば結局、これを丼に乗せないといけないのを思い出したからだ。少し損をした気分になりつつ、アキラは改めて鍋つかみを左手にして、その左手で皿を掴み、箸を右手で持って丼の中へ滑らせるように落とした。そして丼を自分の席へと寄せ、やれやれどっこいしょ、と心中思いながら椅子に腰を下ろし、手を合わせた。

「――いただきます」

「ご馳走様でした」
 律儀に手を合わせ、丼にぺこり、とお辞儀をしてから、アキラは丼をシンクに置き、水を丼いっぱいに張りながら、すでにこれからどこに出かけようか――と考えていた。
 夢のせい、というわけではないが、今日は本を読みたい気分になれなかった。かと言って何をしたいということもない。
 家にいると気分が落ち込みそうなので外に出たい。ただそれだけの気分で外出を決めてみたはいいものの、どこへ行こうかとなると本屋か古本屋くらいしか思いつかない自分はワンパターンなのだろうか、とアキラは勝手に少し傷付いた。
 何か行く先のヒントにならないか、と思い客間へと足を運んでみる。絵描きくらいしか客の来ないこの家は、当然のように絵描きが来た場合ここに絵描きを案内する。
「――あ」
 ふと客間のテーブルを見ると、見覚えのある一枚の縦に細長い紙が目に付いた。映画のチケットのようにも見えるが、紙には有名な絵画の写真が小さく縮小されて印刷されており、さらに下の白い部分に料金は書かれておらず、代わりに「無料」と大きく印字されていた。そして、写真と余白部分を大きくまたいで、「悠崎 灯理 個人作品展」と書かれている。ちなみに悠崎 灯理(ゆうざき あかり)とはあの絵描きのことだ。場所は1つだけ駅を離れた隣町だった。


――入り口に入る時、少しだけ気後れした。
 そんなアキラの心中を見透かすかのように、入り口のお姉さんがにっこりと笑いかける。実はアキラにとって、絵描きの個人展に来るのは――いや、そもそも絵を見に来る、ということすら初めての体験だった。美術館見学という行事が学校であったはずなのだが、確かアキラはその日風邪をひいて学校自体を欠席したため、――とは言っても、後で聞いてみたら実はアキラ以外にも3人ほど休んでいたようだが――アキラは美術館にも行かなかった。
 数メートルおきに絵が飾られ、歩くスペースを設けただけの簡素な作品展だったが、アキラにとっては、――言ってしまうならば別世界に足を踏み込んだ気分だった。
 入り口に一番近い絵を見て、アキラは思わず息を止めた。
――タイトルは、「岬」。
 青空と海が融合したような、美しい光景に思わず目を奪われる。空に浮かぶ雲が少し意地の悪い気がして、アキラは何故か少しだけ恥ずかしい気分になった。
 それを誤魔化すように次の絵に目を向ける。
――タイトルは、「夕岬」。
 あれ?とアキラはさっきの絵に視線を戻し、あれ?と視線を元に戻す。

――構図が、全く同じだった。

 岬の位置も、海の広さも、――さっきは意地悪に見えた雲の大きさも位置も、何もかもが同じ構図だ。夕暮れの赤のせいか、雲は優しく微笑むように見え、その微笑みがまるで絵の全体を包むかのように優しく見えた。
 もう一度視線を青空に戻すと、さっきは意地悪く見えた雲も、何だかツンデレに見えてくる。何度も見返すうちに、これは配置の効果なのだとようやく思い立った。敢えて同じ構図で色だけが違う絵を並べることで、絵の印象さえもこんなに変わるものだと気付き、アキラは感動を覚えた。
 次に目を向ける。
――タイトルは、「狐」。
 しかしそれは狐を描いたものではなく、祭りの風景の中、一人の女の子を描いたものだった。ちょっとよくわからない感性かもしれない、とアキラは思いつつ、じっと絵を見て観察してみる。どうみてもただの女の子にしか見えない。尻尾があるわけでも、耳が生えているわけでもない。狐が背景にいるわけでもないし、騙し絵のようにどこかに狐が隠れているわけでもない。さっきの例もあるし、試しにと次の絵を覗き込み、アキラの疑問は吹き飛んだ。
――タイトルは、「白銀」。
 ほとんど一面が真っ白であるにもかかわらず、どこかの山だろうか、という印象をひと目で抱かせた。良く見れば、絵全体に「白」という色がしっかりと塗り込められている。決して手を抜いているわけではないことがひと目でわかる。わずかに、しかし確かに表現されている雪の質感が絶妙だ。
 次の絵は、と目を向けると、そこが折り返し地点だった。
 次の絵は、あえてだろうか、ディスプレイイーゼルではなく三脚型イーゼルに飾られていた。

――作品名は、「三人」。

 悠崎 灯理という画家を一躍有名にさせたアートディーラーをひと目で惚れ込ませたという、絵画の世界ではほぼ「伝説」の一枚。
 是非譲ってくれと頼まれた灯理は、億単位で提示された金額にも首を横に振ったという。

 アキラの感想を言うのならば、「幸せそう」だった。そしてまさにその感想は、アートディーラーも惚れ込んだ理由であり、また誰もが感じる感想でもあった。その幸福そうな顔は笑顔ですらなく、そのうちの一人など、困ったような顔を浮かべてすらいる。だというのにこの3人を「幸せそうだ」と感じる理由は、……自分にはわからないものかもしれない、とアキラは思う。

――そこまで思ってから、アキラはふと気付いた。

 通路を引き返し、二つ前の絵へと戻る。画廊では実はマナー違反ではあるが、幸い今日はアキラしかおらず、また入り口のお姉さんも見逃してくれたようだった。

――タイトル、「狐」。
 絵の中を少しだけ探るように見ていたアキラは、やっぱり、とその絵のタイトルの理由にようやく気が付いた。


 背景に、豆腐屋。
――狐の好物は――油揚げだ。



[24776] 第4話
Name: 佐伯 緋文◆d27da47b ID:0f26c9ba
Date: 2012/05/22 22:11
 その美しい景色は、アキラを魅了するのに充分だった。


 樹海の知識はあっても、それでもイメージを払拭できなかったまま、アキラとケイサは絵描きに連れられて電車に揺られていた。
 電車で40分の距離を暇なく過ごせたのはひとえに、絵描きのトークの饒舌さだ。いつも思っていたことだが絵描きは絵の才能だけでなく、どこかのテレビ局でバラエティ番組くらいなら司会も勤められるのではないだろうか、とすら思う。実際そういう依頼も来ているようで、しかし絵描きはそのことごとくを「自分は芸術家であって芸能人ではない」の一言であっさりと突っ撥ねているらしい。
「今日が晴れてて良かったよ。ほら、アレ見てアレ」
 絵描きが指差す方……これから樹海に入ろうと言うのにまだ見える海。遥かその向こうに微かに、世間では「離島」と呼ばれる大地が見えた。絵描きの解説によればあそこはほぼ無人の島で、住人はたったの1人。その1人はすでに高齢だがまだまだ元気で、もうすぐ100にも届こうというのに畑仕事に精を出しているのだとか。
「あ、1人って言っても猫を合わせたらどんだけ!って数がいるんだけどさ」
 さらに追加情報。その島は、その猫の数の多さから猫島と異名を付けられるほどに猫が繁殖しているらしく、その数を数えるのが億劫になるほどだとか。
 川もあり、自然も豊かなので食材には困らないのかもしれないが、……それでも生態系は崩れているのではないだろうか、とも思ったが、頻繁にペットショップから依頼が来ては引き取られて行く――しかもそれが安価なので、そのペットショップでは一番人気でよく売れているらしい――そうで、特に子猫は躾けやすく引き取られやすいらしい。
 そうこうしているうちに、電車はトンネルへとさしかかる。
 トンネルに入って景色が見えなくなれば止まるだろうと思っていた絵描きのトークは、それでも止まらずに続くことになり、アキラを心底感心させた。とは言っても、トンネルに入ってからの絵描きのトークは怪談だったので、その手の話が苦手なアキラはちょっと窓の外を見れなくなった。主に恐怖で。
 その怪談は、トンネルで起きた列車事故を元に作られたもののようで、電車がそのトンネルを走るとどこからともなく(と言うのもおかしな話だが)すすり泣く声や嘆く声、泣き声などが聞こえ、その声の元を探そうと窓の外を見ると――と言ったところから始まり、時々絵描きの驚かすための悪戯などを含めて、トンネルをようやく出た頃、アキラはもう一押しされたらきっと気絶か失神していたであろう状態まで憔悴させられていた。まぁ絵描きの狙いはアキラを怖がらせて遊ぶことなので当たり前なのだが。
 トンネルを出て心底ほっとしたアキラは、今度はその景色に目を奪われた。
 季節はもうすぐ秋になるのに、まだ全くその緑は変化していなかった。
 涼しいとは言っても、まだ少し厚さが残るせいだろうか、――ちなみに、アキラはシュミレートしていたパーカーではなく、少し薄手の別のパーカーの上に、シュミレート通りの上着を羽織っている――その山の色はまだまだ夏真っ盛りと言っても差し支えない程度に瑞々しい緑。それを以前見た時は確か小学校4年生だっただろうか、同じくらいの季節だったが、それでも少し紅葉していたように覚えているので、そういった色を想定していたアキラはしかし、そのギャップに逆に感動を覚えた。

「次はー、希峰ー。希峰でございます」

 車内アナウンスにはっと我に帰る。
 ちょっと絵描きの方を見ると、絵描きはまるで実家にでも帰ったかのように穏やかな表情を浮かべていたが、アキラの視線に気付くと視線を合わせ、「期待しちゃっていいんだよ」とアキラの頭にぽん、と手の平を乗せた。


「ゆー!」
 絵描きが大声で、――ちょっと回りが注目して恥ずかしいくらいの大声で呼びかけると、車椅子の長髪の女性がくるりと振り返る。そして絵描きの顔を見ると笑顔を向け、絵描きとは対象的ににこりと笑うだけで声は出さず、代わりに手を振ってその返事に変える。
 先日、アキラはその顔を見たばかりだ。
 横で恥ずかしげもなく――そして自分が有名人だという自覚もなく、嬉しそうに手を振る絵描きの描いた絵の中で、絵描きともう1人の男性と一緒に、幸せそうな表情を浮かべていた顔。
 絵描きからその名前は聞いている。そして地元でもちょっとした有名人なのだそうだ。
 以前テレビの取材の話もあったそうだが、彼女の体調の都合でキャンセルになったと聞いていたので、今回こうして会うことができたのは僥倖にすぎないのかもしれない。絵描きからも「最近調子がいいらしいんだ」と言われていたので、――体調の話だけをするなら無理をさせることは禁物なのだろう。
 絵描きはアキラとケイサを置いてさっさと走って行ってしまったが、アキラとケイサはそれを苦笑で見送ると、自分たちのペースで歩き始めた。
 ケイサと二人家族になってから、アキラはこれが実は最初の家族旅行だ。……若干旅行とは違う気がするし余計な、と言っては可哀想だがオマケ付きだが、それでも一泊するのだし旅行と言っていいかもしれないのでアキラ的には家族旅行だ。絵描きだって家族みたいなものだし、と考えることにしている。
 改札を出ると、やたらとテンションの高いのはいつもどおりだが、そのテンションの高さを普段を基準に10として、11くらいに上げている絵描きが車椅子の女性の頬にベタベタと触りながら話していた。
「――ほら灯理。来たわよ?」
 言われてようやく絵描きは手を離した。女性の頬に手の跡でも付いているのではないかと思ったのだが、その白い肌は全く変化はないようで、――いや若干羞恥で赤くなっているような気もするが――女性は器用に車椅子をくるりと回すと、アキラとケイサに向き直った。

「初めまして――西湧 遊希(ニシワキ ユウキ)です」

 3人の1人。イヤでも意識してしまうその肩書きを頭の隅に追いやりつつ、アキラは差し出されたその手を握った。少しひんやりする感触に、思わず腕を見てしまうと、自分の腕よりもやはり白く、美しいのだがか細い肌に感じられた。
 その手は自然に力を抜き、アキラも合わせて力を抜くと、これもまた自然に手は離れていた。
 アキラは何も意識していないのだが、アキラの年代でこれができるのはすごいことで、それを知る遊希は内心感心しつつ、次にケイサに手を伸ばす。
 ケイサも同じように手を握り、「今日はよろしくお願いします」と声をかけてきた。そして同じように自然と手を離すので、遊希はそうか、と納得した。アキラの作法の成り方はきっと、ケイサの模倣であり教育の賜物だ。――いい親を持って幸せね、と内心二人を賛美する。
「さて、いこっか」
 言うと、絵描きは自然に車椅子のグリップを握る。
「走らないでね、貴女はいつもせっかちなんだから」
 くすくすと笑いつつ、それでも絵描きがグリップを握ると同時にハンドリムを離してアームレストを持つあたり、実は二人には信頼関係が成り立っている。さっき頬を触っていたのも、きっと冷たい遊希の体を心配して、少しでも自分の体温を与えておこうと考えた絵描きの浅知恵に違いない。医学的にはあんまり意味はないが、それでも恥ずかしさで遊希の体温が若干なりとも上がったので、全くの無駄というわけでもないのだが。


 樹海を歩きながら、アキラは辺りを観察するのに必死だった。
 すごい、という感想しか出て来ないのは、きっと自分が芸術家ではないからだろう、とアキラは思う。
 きっと絵描きなら色々とここがすごい、とかあそこがどう美しいだとか、……ボギャブラリー豊かに話してくれるに違いない。でもまだ中学生の自分には――中学生ということを言い訳しているだけに過ぎないだろうけど、それでも自分が子供であることを自覚している――とてもではないがこのすごさを全部理解はできていないのだろう。小さい頃は遠くから見ても何も感じなかったこの樹海が、今回駅に着いた時に感動を感じることができたように、もっと大人になってから改めてもう一度来たい。
 それを少し要約して絵描きに呟いてみると、
「――そうだね、でも今、ただ感動を覚えることだって、きっとアキラには必要なことなのさ」
 絵描きは嬉しそうに、そして楽しそうにそう返した。遊希も無言で頷き、それが間違った意見ではないことを示す。ケイサは何も言わなかった。それが絵描きを肯定しているということでも、アキラの成長を喜んでいるということでもあることをアキラは知らない。


「さすがに4時間ぶっ続けで歩くのは辛いねぇ」
 絵描きの呟きに、アキラはようやく自分が疲れていることに気が付いた。
 見る景色見る景色が感動の連続であったアキラは、自分の体が疲労を訴えていることに気付く余裕がなかったのだが、自分が疲れていることに気付くと、他の面々に視線を向けた。
 ケイサは普段から仕事で歩き回っているので平気なのか、汗はかいているものの、それをハンカチで拭う程度の余裕はあるようだ。絵描きは普段の運動不足なのか、それとも今日はハッスルしすぎたのか、グリップから手を離しはしないが、完全に疲れている表情だ。それでも嬉しそうな表情は全く衰えていないのがよくわかるが。遊希はそもそも絵描きに自分の身を任せてしまっているので、全く涼しい顔だが、絵描きの疲労を心配しているのか、絵描きの言葉にちらりと視線を後ろに向けた。
「――ご飯にする?実は一応用意して来たん――」
「食べるッ!」
 絵描きが、遊希の言葉を遮って遊希の肩に頭を乗せた。
「――ちょっと灯理、犬か何かみたいよ?」
「犬でいい!わん!」
 絵描きの言葉に吹き出して、アキラは絵描きに賛同した。
 ケイサが実は私も、とリュックから弁当を取り出して、「じゃあ皆でつついて食べよ!」とまるで弁当など用意していなかった絵描きが、座るための場所を――何故か持ってきたブルーシートで作った。
「お弁当持って来ないのにブルーシートだけは持って来たの?貴女らしい」
 苦笑して言うと、絵描きはあっはは、と笑って見せた。

 ケイサの弁当は、気温も考えて簡素なサンドウィッチだった。
「ケイサってさ、料理上手だよね、これなんて、マヨネーズと卵のバランスが絶妙だし」
 言い切ってから、実は隠し味にマスタードを入れていることなど一切気付かない絵描きはタマゴサンドをぱくりと口に入れた。入れてすぐ、「んぅー!」と嬉しそうに声を上げた。
 ケイサはそれを嬉しそうな顔で見た後、遊希にもそれを勧めると、遊希は遠慮することなくそれを手に取り、ぱくりと口に入れる。入れて2秒。その顔が驚きに満ちた表情に変わり、それでも口を開くことなく――むしろ手で口を抑えるようにして驚きながら、遊希はようやく一口目を喉へと押し込んだ。
「――美味しい」
 アキラもそれには同意する。母の料理は絶品だ。現にこの料理を作ったところを見ているが、特に変わった材料を使っているわけではないのだ。卵に塩、胡椒、マヨネーズ。そしてマスタード。それらを焼いたサンドウィッチ用食パンにバターを塗って挟んだだけだ。本当にただそれだけのはずだ。
 それがこんなにも美味しい。――母の料理はいつも、調味料その他全てが目分量だ。だから正確に同じものではないのだが、アキラだってこの味に挑戦したことはある。あるが全て失敗した。
 味が足りないのかとどれかを多く入れたりしてみてもダメ。じゃあ逆なのかと少なくしても見たのだが、それでも同じ味を再現できない。母の手をもって目分量で調味料を入れてもらったとしても、今度はパンの焼き加減が微妙に違う。バターの塗り加減が微妙に違う。
 ケイサの料理は、全てがケイサの目分量でそれが黄金比。アキラ的にはどんな食堂やレストランよりも、母の料理が最強で完璧なのだ。

 そして、驚くべきはそれだけではない。

 ケイサのサンドウィッチを食べた後、遊希の持ってきた、遊希作の弁当を食べた瞬間、その作り主自身の表情は再び驚きに、そして戸惑いに満ちた。
 重箱4層に全員分、――1人1層として――を詰めてきたので、絵描きにそれを取られることはない。ないがもし、1人1層にしなかったとしたら、絵描きは遠慮なくひょいひょいと人のことなど考えず、ケイサの弁当と同じように美味しいと、食べ続けたことだろう。
 だが、同じように美味しい、――というのは実はありえない。
 誰もが、どちらかの料理に対して逆の料理との優劣をつけてしまうのが普通なのだ。

 だが、ケイサのサンドウィッチとこの料理は、まるで同じ人が作ったかのように優劣が付かない。

 サンドウィッチが初めから、この料理の前菜として作られていたかのようだ。
 いや、そんなことは有り得ない。何故ならこの料理は今朝遊希が思い付いて、誰と相談することもなく決めた遊希しか知らない内容なのだ。――弁当にエビチリとか、まぁ入れる家もあるにはあるだろうがそうそう思い付くものでもない。というか、考えていたはずがない。何故なら現に、遊希の弁当には卵焼きがあり、さっきの卵サンドとかぶるではないか。
「遊希の弁当も絶品だねぇ」
 何も考えずに美味しいと言ってくる絵描きの声に、遊希は完全に――ケイサに対して脱帽した。
 自分の料理は完全に負けている、と思った遊希すらもケイサは打ち砕いた。
 あのサンドウィッチを覚えたい、と思うが――多分、ケイサ的には何の工夫もない、変哲のない卵サンドなのだろう。実際変わった材料など何一つなかったし、隠し味であろうマスタードも看破した。それでも、ただマスタードを隠し味にしたただの卵サンドだ。

「遊希、ケイサ。ご馳走様」

 気付くと、絵描きが食った食ったうまかった!と満足そうに、そしてだらしなく自分の腹を撫でた。
 それを見た途端、遊希は思わず吹き出した。
「な、何よぅ失礼ね」
 人の顔見るなり、と口を尖らせる絵描きに、遊希はごめんごめんと謝りながら、一瞬でも勝ち負けなどにこだわってしまった自分を恥じる。
 そう、料理は勝ち負けではない。美味しいならそれが正義であり絶対だ。

 自分の料理がケイサの料理で引き立てられた。それだけのことではないか。


 食事の後小休憩を挟んでから、再び3人は歩き出した。
 遊希を数に入れていないのは、例によって絵描きが押しているので「歩いて」はいないからだ。
 厳密には、「4人は進み出した」とでも言えばいいだろうか。
 すでに日は傾き始め、時間にしてすでに15時。
 駅に着いたのが10時なのでそろそろ戻らないと危ないのではないか、とアキラは思うのだが、平然と進む絵描きと遊希の表情からして、その心配はないということなのだろう。
「今日はちょっと遅かったねぇ。……まぁそれでもあの景色は見ておくべきに限るけど」
 言う絵描きの言葉に「そうね」と遊希は賛同した。
「――ここまでの景色をちゃんと楽しんでくれたアキラちゃんなら、きっと喜んでくれると思うから」
 言って、ちらりと絵描きを見る。
――貴女もね、灯理。
 言葉には出さない。言わなくてもいい。
 何度来ても同じように感動し、何度来ても同じように風景を目に焼き付けて帰る絵描きなら、言わなくてもどうせ感動して帰って行くのだから。


 その美しい景色は、アキラを魅了するのに充分だった。
 目にした瞬間から、その景色のあらゆる場所をアキラは思わず目で追った。
 すごい。――またしても陳腐な表現しか出て来ないアキラは、しかしそんなことを考えている余裕などなかった。その後ろで、ケイサですらも言葉を失っている。
――言葉を失うほどの美しさ。今はそこに、赤い夕日が光を与え、逆行となってはいるが、――それでも。
 いや、だからこそ美しいというべきだろうか。すでにアキラの頭の中での絵描きの絵の美しさは塗り替えられた。この自然の美しさに完全に心を奪われた。
 思い付き、携帯を構えて写真を撮ろうと試みる。思い付いた頃には、すでに日が落ちようとしていた。それほど長い時間、アキラはこの景色に心を奪われていた。そしていざ携帯を構えてから愕然とする。
 どうやってもこの景色をどこで切り取るべきなのかがわからない。
 あぁ、とアキラはようやく気付く。
 そう。切り取るべき場所がわからないのだ。
 絵描きがあの絵を未完成だと何度も書き直すのは、切り取るべき場所がわからないからなのだ。
 全体を描こうと思うのなら、ドーム状のキャンバスでも用意すべきか。いや、それでも多分ダメだ。きっと足元のこの、根が蔓延る、泥が、雑草が。この全てがこの美しさの全てなのだ。
 全部描こうとは絵描きも思っていないだろう。一部でも描こうと思っているんだろう。だがそれでもこの美しさは絵ではきっと伝わらない。
 呆けているうちに、どんどん夕日は落ちていく。
「――気持ちはわかるけど、そろそろ帰ろうよ」
 遊希がくすくすと笑いながら、声をかけた。
 夕日が完全に落ちたら危ないことを誰よりもよく知っているから、今がリミットだとわかっているのだろう。そして、そのリミットギリギリから抜け出す道も、実は彼女しか知らないことだ。

「明日、今度は朝早く来ましょう。まだ足りないって気持ちはわかるけどね」


 ほう、と溜息を吐く自分に気付いた。
 と同時に、「何コレ」と苦笑する。まるで恋する乙女のような溜息だった。母に見られたら恥ずかしいにも程がある。――と思ったが、同じように後ろで溜息をついたケイサを見て、あぁ、同じように感動してたんだ、――とアキラは思わずくすりと笑った。

 今日の宿泊はホテルと名前がついているが、実際には民宿なのだろう、外見とは打って変わって純日本風の内装、そして客対応の丁寧さに感動しつつ案内された部屋は、以外というか当たり前というか、親子二人だけの部屋にしては広かった。
 部屋に内風呂がついていたが、アキラは大浴場へと足を運び、風呂をしっかりと堪能した後ホテルを軽く散策し、――まぁ散策している間も例の景色に思いを馳せたりしてはいたのだが――食事前に戻って来て母親と、絵描きと遊希との4人で山の幸満載の豪華な食事を食べた。
 絵描きと遊希は隣の部屋で宿泊するらしく、食事の後は引き上げて行き、そうしてアキラとケイサだけが残されて今に至るというわけだ。

「――母さん」
 声をかけてみると、ケイサは「んー?」と腑抜けたような声を出した。
 その声に、アキラは自分の考えを大々的に修正する。これは自分と同じ感動を思い起こしていたわけではない、と。――いや、それもあるかもしれないが、これは多分。
「彼氏のことでも考えてるの?」
「んぇっ!?」
 素っ頓狂な声を上げてケイサがばばっ、とこっちを向いた。顔が赤い。決定だ。
「図星かな。――もう結婚しちゃえばいいのに」
「――もう」
 自分がからかわれていることに気付いたのか、ケイサが苦笑した。
「珍しいわね。――アキラがそんな冗談言うなんて」
 そう、冗談だ。いきなり結婚なんてされても困る。それをあっさり見抜いてしまうあたり、我が母ながら自分をしっかり見ていてくれているのだと嬉しくなる。
「ねぇ。――いつ紹介してくれる?」
 そのアキラの言葉に笑いながら、しかしケイサはそれを冗談とは言わなかった。
 アキラ自身驚いている。――心の準備なんか、全然まだできていない。
 それでも、母親をここまで惚れさせた相手はどんな人なんだろう、と関心が出た。それだけのことだ。いい人なんだと母親は言ったし、その言葉にきっと偽りはないんだろう。
 いや、それを明日と言われても困ってしまったりするのだが、……それでも早く心構えをしておこう、と自分で言った言葉でようやくアキラは観念した。
「うーん……仕事の都合もあるからね。お互いに」
「何の仕事してるんだっけ」
 矢継ぎ早、というわけではないがアキラは続けて質問した。
「派遣社員よ。色々な会社に派遣されて――」
「ふぅん……あ、派遣って言葉は知ってるよ」
 派遣社員という言葉自体は聞いたことがある。いつだったか、ニュースで派遣社員が大量にリストラされたということを聞いた。記憶では確かまだ小学生の頃だったか。
 母親は、「そう」とだけ呟いて言葉を切った。
 それ以上は質問が続かなかった。どんな人?というのは前に聞いたし、父親と比べているわけではない、重ねているわけではない、というのも前に聞いた。
 あとは、本人たちの恋愛事情だ。――などと思ってしまう自分は格好付けたがりなのかな。とアキラは内心で苦笑する。

「ケイサー、アキラー。ゆーがトランプでもしないかってー」

 控え目とはお世辞にも控えた表現でも言えない大声が響く。というかノックくらいして欲しい。
 いや、待った。
「あ、うんやるやる」
 言ってアキラは襖を開けた。
 案の定、遊希は一応ノックしたのだろうその手が膝へと置かれるのを見てやっぱり、と確信する。
 大声でノックが掻き消されるとか、絵描きはやはり遠慮がない。――それが心地よくもあるのだが。

 何をやるかという話し合いの結果、最初は7並べになった。
 全員に万遍なく、全てのカードが配られる。ジョーカーは1枚。
 ちなみにルールはやるメンバーによって違うようだが、今回のルールはこう。

・同じマークの隣り合った数字のみ、カードを置くことができる。
・KとAは隣り合わない。
・ジョーカーは、カードを置き、同じマークのひとつ開いた場所に並べて置くことで、そのカードを持っている人に強制的に置かせることができる。
・ただしJOKERの場所が埋まった状態でそのカードを置くことができることが条件とする。
・ジョーカーの置かれた場所のカードを出した人は、変わりにジョーカーを手札に加える。拒否はできない。
・3回目のパスは無効。その場で負けとなる。
・負けとなったプレイヤーは、全ての手札を場に出す。置くことができるカードが発覚した場合、置いたカードを手札に全て戻さなければいけない。

 つまり、3回パスをするか、最終的にジョーカーを持っていた人の負け。そういうルールだ。
 その両方がゲーム終了時にいた場合には、3回パスをした方が先に終わるのでそっちの負けだ。

 まず、アキラの手からダイヤとスペードの7が出された。ケイサからはハート、遊希はクローバーの7を出して開始。ちなみにアキラがスペードの7を出したので、アキラが最初。そこから時計周りで順番が回る。
「手加減は?」
「なしに決まってんじゃん」
 よほど自信があるのか、絵描きがニヤリと笑う。
 アキラは少しだけ考えて、ダイヤの6を場に出した。
 次はケイサ。ケイサは迷わずダイヤの5を出し、次は遊希だ。
「――パス」
 番が回ってくるなり、遊希は即座にパス。
「――じゃあ私もパスで!」
 それを聞いて即座に絵描きもパスをした。

 一巡し、次のアキラのターン。手札を軽く揃えつつ、ダイヤの4と3があったので4を場に置く。7から遠いところにカードを出すのがこのゲームの必勝法その1だ、と誰かから聞いたような覚えがある。
「パス」
 ケイサは、少し困ったような顔をしながら呟くようにそう言った。
「2パス」
 遊希もあっさりとそれに続く。遊希は後がないのだが、わかっているのだろうか。
「うぇっ!?マジで……?」
 途端、絵描きが慌て出した。その様子を見るとさっきのは演技で、出す札が本当にないのだろうか。
「――2パス……」
 熟考したのか探していたのか。
 観念したかのように絵描きはそう宣言した。

 3巡目。
「んー。パス」
「ちょっ」
 絵描きが慌てたような声を上げる。
「皆パスしすぎ!絶対止めてるっしょ!?」
「2パス」
 ケイサはそんな絵描きを完全に無視し、パスを宣言する。
「で、でも……遊希はもうパスできないよね」
 と言った絵描きは、多分本当に出すものがないのだろう。マンガならここで、ダラダラと汗が滝のように流れ落ちているだろう。まぁマンガではないのでそんなに汗は出ていないが。
「うーん……」
 言いつつ、遊希が出したのはハートの6。
「助かった……」
 はぁー、と溜息を吐いた絵描きがハートの5を出した瞬間、アキラは気付いてしまった。
 遊希の目からは、きっと絵描きのカードが丸見えであることに。
 そしてあれはきっと、簡単に脱落させては面白くないと思っている。
 つまるところ、今のハートの6は助け舟だ。

 4巡目。
 アキラは少し考えた。パスをすべきか、それとも出すべきか。
 ダイヤの3が手元にある。そしてダイヤの1も手元にある。
 実はダイヤの1を出すためには、ダイヤの3を出すのが一番望ましいのはわかっているが、アキラはひそかにジョーカーが欲しい。なのでジョーカーを狙うのに敢えてここを出さないのもひとつの手だ。
 当然ながら、他にも止めているカードが2枚ほどあるにはある。
 だがこれらを出すと、喜ぶのはきっと絵描きだ。
「――うーん……」
 考えつつ他の顔色をちらりと伺うと、絵描きはさっと視線を逸らした。
――しまった、と思った時には遅い。
 今、自分がどこを持っているのかを、手札と場を確認しながら考えてしまった。
 なので、――視線の先にある場、すなわち持っている場所を、大方の目安ではあるが絵描きに教えてしまったことになる。
 これはしょーがない……。
 アキラは諦めて、ダイヤの3を場に出した。
 2パスしていないのは自分だけ。今のところ有利な材料ではあるが、果たしてこれが勝利材料となるのか否か。
 ケイサは、ハートの4を出した。
 続いて、遊希がダイヤの2を出す。――ということは、と思ったところで、案の定絵描きはハートの3を出した。

 5巡目。
 アキラはノータイムで準備していたハートの2を出した。ちなみにハートの1はアキラの手の中だ。
 1が2枚手元にあるというのは不利なように見えるが、こうなってしまうと1はいい材料だ。
 ルール上、Aの次にKを置くことができない以上、このAの次を誰も置けない。つまりアキラは2ターン、誰の有利にもならない手を置くことができるということだ。
 ケイサは、クローバーの8を出した。というかこのゲーム初めての8以上だ。
 遊希はハートの8を置く。というかこれが残っているのに初回パスするとはなかなかの戦略家だ、とアキラは分析した。
「ありがとー、ケイサ!」
 言いながら、絵描きがクローバーの9を出した。

 6巡目。
 アキラはちょっとだけ考え、ハートの9を出した。
 続けてケイサがハートの10を出す。
 ちらりと遊希が絵描きの手札を視認したのが見えた。
 そして彼女は、てきぱきと二枚のカードを場に出す。JOKER、そしてクローバーの11だ。
 クローバーの10はアキラがもっていたので、それを手札に加え、アキラは10を変わりに場においた。
 絵描きがクローバーの12を出す表情を見て確信した。きっと絵描きは13を持っている。

 7巡目。
 考えるのを放棄して、アキラはハートの1を出した。
 ケイサがダイヤの8を出し、遊希は少し考えるように場を見つめた。
 しかしほとんど間をおくことなく、涼しい顔でスペードの8を置く。
 ほとんどノータイムで絵描きがスペードの9を置いた。

 8順目。
 出せるカードはいくつか持っているが、アキラは敢えて出さない。ダイヤの1をそっと置いた。
「あぁもう誰?スペードの6止めてるの!」
 言って、ケイサは自分の手札を場に並べ出した。
「やった!ビリじゃなかった!」
 若干悔しそうながらも苦笑を浮かべる母親と絵描きのギャップに、とても年齢関係がこの逆だとは誰も思うまい。実は絵描きの方が2歳ほど年上だ。
 場のカードを整理すると、ケイサのカードはスペードの12、5、3、2、1、ダイヤのJ、クローバーの2だ。
「ごめんなさい、私です」
 言いながら、あっさりと遊希はスペードの6を埋めた。
 くっくく、と笑いながら、絵描きは嬉しそうにクローバーのKを置く。

 9巡目。
 アキラはノータイムで、準備していたスペードの10を置いた。
 即座にノータイムでカードを置こうとするのを「ちょっと待って」とアキラは止めた。
「何?待ったはなしだよ。置いたカードは動かしたらダメだかんね!」
 絵描きはぶーぶーと文句を言うが、……ルール上これは問題ないと判断すると、アキラはJOKERを置いた。
「うぇっ!?」
「――あ」
 しまった、という顔をする遊希と、驚愕する絵描き。
 ルール確認はきっちりしたはずだ。その際に、「置けなかったら」という定義は、JOKERに対してされていない。むしろこれがアキラの学校でのJOKERの使い方だ。「――ちぇ、仕方ないかー」と言いながら、絵描きがスペードの4を置いてJOKERを手に加えた。
 遊希はハートの11を場に出した。
「――!」
 出してしまってから、遊希は無言で失敗したという顔をした。
 それに気付くこともなく、絵描きはそれに続いてダイヤの9を出す。

 10巡目。
「2パス」
 アキラはようやくここで最後のパスを宣言した。
 遊希はカードを出す前から自分の敗北に気付いていたようだ。
 仕方なく、と言った感じで降参し、全部のカードを場に出した。
 クローバーの3、1。ハートの13。ダイヤの13。これは運がない。むしろよくここまで粘ったものだと感心するが、ハートの8とダイヤの8を止めて2パスしたのは遊希自身だ。と言うより、絵描きをフォローしようと手を回しすぎたのもひとつの敗因だろうか。自分を意地悪く見せようと最初に2パスすることで、完全に絵描きは遊希を敵と認識したのだから。まぁ策士的にはあわよくば3パスはしたくなかったのだろうが、出せるものがもうないのでは仕方ない。
 そんな水面下の内情を露ほども知らぬ絵描きはダイヤの10を場に出した。

 11巡目。
 アキラはダイヤの12を出した。
 絵描きは何も考えなかったのか、クローバーの5とJOKERを出し、アキラにクローバーの6を要求。
 アキラはそれを出し、内心ほくそ笑んでJOKERを手に取った。

 12巡目。
 アキラはスペードの11を出した。そして一番端、……Kの入る場所にJOKERを置く。
「あ!」
 ようやく気付いたらしい絵描きが声を上げるが、もう遅い。
 すでにアキラの手札は残り1枚。クローバーの4だけだ。
 そして、その4以外のクローバーは全て埋まっている。


「悔しいー!」
 絵描きは今度こそ、とかぶつぶつ呟きつつ、カードを入念にシャッフルしている。
「さっきのパスはよかったね」
 にこやかに微笑みながら、遊希は素直にアキラを褒めた。
「あそこでパスしてなかったら、灯理の勝ちだったよね?」
 そう。
 パスした理由はひとえに勝つためだ。
 すでにパスできない灯理はいずれJOKERを使うしかない。
 使ってしまえば他のところで逆襲されるともし仮に気付いたとしてもだ。
 あの時点でJOKERを出さずに埋めようと思っても、灯理がダイヤの10を出し、そこでJOKERを使った場合、アキラはまずスペードの11を出せばいい。それで勝負はついていた。
 どっちにしても、アキラがパスし、遊希のカードがオープンになった時点で決着はついていたということだ。
 まぁ、遊希のカードがもし運良く何か出せるものであったとした場合、今度はどのみち絵描きが落ちていたのだろうから、絵描きの勝つ道は残されていなかったのだろう。もし、と考えるのはすでに遅いし、どっちにしても勝負はついてしまったのだから仕方ない。

「次こそは!」

 そうして、いつの間にかシャッフルを終えた絵描きが次に提案して来たのは10回勝負のポーカーだった。本来なら負けたケイサか、もしくは勝ったアキラが提案するところなのだが、誰もそれに異論は唱えなかった。


「――ねぇ、アキラ」
 遊希と絵描きが部屋に戻り、布団が敷かれて床に入って電気が消された後。
 寝られずにいたアキラの耳に、母親の声が届く。
「うん?」
 布団に入ったまま、体だけを母親の方に向けてアキラが返事を返すと、母親は次の言葉を言いよどむように押し黙った。暗くて顔は見えないし、虫の声が3階であるここにも煩く聞こえてくるので、ただ寝言でも言ったのかもしれない、とアキラは内心ふっと思い付くと、それならいつまで構えていても仕方ないか、と軽く目を閉じた。

「――お父さんの夢をね、見たのよ」

 ようやく帰ってきた返事への問いが、アキラの目を再び開かせた。
「……お父さんの?」
 言ってしまってから、それが迂闊な発現だったかもしれない、とアキラは思った。
 アキラも、夢を見たことはある。それがどんな夢だったのかは覚えていないが、父親がそこにいたというそのことだけを覚えている夢もある。小さい頃の父親との懐かしい思い出をそのまま夢として見たことも、父親が炎に焼かれてしまうという残酷なものも、覚えているだけでいくつもある。
 母親の場合はどれなのだろう、と少しだけ想像する。
 よもや、付き合っている男と別れろなどという内容ではないだろう。むしろ父親は逆に死んでしまった自分よりも、今愛しているその男を大切にしろと言うに決まっている。
 後はもう、アキラの創造の範疇を超えている。父母の思い出など、アキラが生まれる以前の話なら知るはずもないし、アキラが生まれてからの話であるなら、今度は多すぎてどの思い出なのかわからない。
「――昔ね、お父さんは」
 自分の知らない時代の話は、今まで聞いたことがない。
 ないが、父親が元々どんな仕事をしていたのか、何が原因でそれを辞めてしまったのか……というくらいには知っている。
「神父さんだったのよ。――知ってた?」
「うん、――知ってる」
 神父という職業がいかに重要なものであるのか、それはアキラにはわからない。
 むしろいまだに神父なんてものは胡散臭いと思っているし、――父親がその神父だったというのは、職業としての神父であって決して疑わしい胡散臭い怪しいものではなかったのだと信じるしかないのだが、それを信じきれずにいるのも事実。事実だがそれを口にしたことはなく、というよりむしろアキラが物心付く頃にはそれをやめていたし、父親が神父だったと彼自身の口から聞いた時には、「またまた」と平然と突っ込みを入れてしまうほどに信じられないものだった。
 母親はその続きを口にしなかったので、とりあえずさらに思い出してみることにした。
 父親自身が語るところによれば、神父とは、神を皆に信じさせるのが仕事なのだそうだ。
 神を語り、教え、時には信じぬ人を叱り――そうして、神を信じる人は必ず幸せになると教える。
 実際には違うことも承知している。神などと言うものは存在せず、架空のその人物を人の心に絶対の規律として作り出し、それを信じる者が自分なりの正義を見出し、それを遵守することで、逆境を「神の試練」という言葉に変えさせ、幸福を「神の賜物」と言う言葉に変えさせ、生きていく気力を与える。宗教とは得てしてそういうものだ。アキラは父親の話からそう解釈した。
 だから、信じれば無条件に自分を幸せにしてくれるなどという陳腐なものではないことを、アキラは知っている。自分という規律、――すなわちそれが神であり、仏であると信じている。

「お父さんはね、……神があるままにあれ、……ってそう、言ったのよ」

 少し、感傷に浸る声で呟いた母親の声は、かすかに震えていた。
 ああ、お父さんらしい言葉で、お父さんらしい言い方だ。
 きっと彼だって神なんか信じてはいなかっただろう。それなのに、「神」という言葉を使って。
「お父さんは」
 アキラは、そこまでを口にして、言葉を止めた。
 きっと、言われるまでもなく母親はわかっている。彼の妻としてあった彼女はきっと、――わかっているのだろう。それでも言ってしまうことが悪いことだとは思わない。
「――お父さんはきっとね」
「……うん」
 母親としてではなく、女として向き合う時があるとするなら、――きっとそれは、今のような時なのだろう。この先何度もあるわけでもないこんな話を、できるのは今しかきっとない。

「――幸せになれ、って言いたかったんだね」

 暗闇の中でも、母親が息を堪えるのがはっきりと聞こえた。
「そう、……ね。そうなのよね」
 呟いた声は、はっきりと震えている。
 きっと、それでも思い悩んでいる理由はたった一つだ。
 きっと彼女は、彼を愛していた――いや、愛しているが故に。だからこそ、その言葉を取り違えた。彼の本心は、きっともう1つ、きっと彼自身と彼女の愛が深すぎるが故の取り違えを、……もし彼の精神がその言葉を本当に呟いたとしたのならの話だが……きっと、今母親が泣いているのは、彼女を泣かせてしまったのは悔恨の極みに違いない。
 それがわかってしまったからには、アキラは言わずにいられなかった。

「きっと、お父さんは今でもお母さんを愛してるんだね」

 返事はしばらく返らなかった。
 嗚咽を堪える声が数分ほど聞こえ、――アキラはその間、ただ黙って次の言葉を待った。
 泣き寝入ってしまう可能性もあったが、それはそれで構わないと思い、それならばいっそ自分もこのまま寝てしまおうか、と考え、

「――アキラ、ありがと」

 震える声で、小さく。ただ小さく呟かれた言葉に、アキラは少しだけ嬉しくなり、聞こえなかったフリをして目を閉じた。


感想掲示板 作者メニュー サイトTOP 掲示板TOP 捜索掲示板 メイン掲示板

SS-BBS SCRIPT for CONTRIBUTION --- Scratched by MAI
0.093302011489868