突然だが、俺には奇妙な同居人が居る。
同居人、というのも変な表現かも知れない。ソイツはおよそ真っ当な意味で人ではないのだから。
「あー! もっと優しく扱ってって言ってるでしょうが!? 力入れすぎ!!」
「‥‥‥」
「だからアンタは繊細さが足りないってのよ! 傷付いちゃうじゃない!」
今日も今日とて、耳障りな罵声を飛ばされる。ここしばらくの間、こいつの文句を耳にせずにすんだ日の記憶が無い。
叶うならば今すぐにでも、やかましい!、と言ってやりたかったが自重する。そんなことをすれば、先に倍する勢いで罵倒が飛んでくるのは間違いない。
「ちょ、付けすぎ付けすぎ! なんでそんなにぽんぽん打つのよ!? 前から思ってたけど、思慮が足りないわよ思慮が! そんなに私の肌を傷だらけにしたいわけ!?」
我慢我慢‥‥‥
「落ーとーしーてー! 拭う前に落として!」
忍耐忍耐‥‥‥
「って、なんなのこれ! てっしゅ硬いわよ!? もっといいの買ってきなさいよ!」
怒鳴り声を聞き流し、感情を抑えつつも、努めて優しく肌を拭い終える。蛍光灯の灯りに照らされたそいつを目をすがめて観賞する。
しかし『てっしゅ』て。ババ臭いな。
「ふふん。どうよ、相変わらず美しいでしょ?」
腹立たしいことに事実だった。少なくともこの美しさがある限り―――この美しさに魅了された記憶がある限り、俺はこいつを手放そうとは思わないだろう。
「‥‥‥ちょっと、いつまで眺めてるつもり? いい加減寒いんだけど」
そんなわけねえだろ、と俺は思ったが、よくよく考えると温暖な瀬戸内生まれのこいつにとって、北海道の冬は初体験のはず。暖房を入れていても、精神的に寒さを感じることはあるのかもしれない。
‥‥‥精神、ねえ。
自分が随分と毒されていることに気付かされ、俺は溜息を吐こうとして自重した。今鼻息でも掛けようものなら、烈火のごとく怒られるのは目に見えている。
俺は油に手を伸ばす。さっさと塗ってやって、今日は終わりにしよう。
「ねえ、ちょっと」
なんだ。俺は口に出さず先を促した。
「てっしゅ、ちょっとは解しなさいよ。そのまま使われたんじゃたまったもんじゃないわ」
‥‥‥文句の多い奴だ。
仕方ないので、俺は左手でティッシュを数枚取ると、まとめて指先でくしゃくしゃと解してやる。片手だと実に解しにくい。あらかじめ用意しておくべきだったな‥‥‥。
「ちょっと、私の方がお留守になってるわよ」
はいはい、分かりましたよ。
もう右手もしっかりと握りなおす。ぐっと握り締めてやると、機嫌を直したのか大人しくなった。
それにしても、と俺は思う。なんでこんなことになっているのだろうか‥‥‥。
「どうしたのよ?」
問いかけに、俺は顔を背けて答えた。
「自分の境涯を嘆いていた所だ」
「嘆けるような身分でもないじゃない、馬鹿なの?」
「それは言わないで欲しい所だな‥‥‥」
「ま、私としてはどうでもいいけどね。いい加減就職したら?」
「‥‥‥」
俺は何故、こんなけったいな代物に説教されているのだろうか‥‥‥。
「べ、別に現状を非難してるわけじゃないのよ? 私としてはどっちでもいいんだけどね!」
「‥‥‥もういいだろ。油塗るぞ」
面倒くさい話になってきたので、会話を打ち切る。
最近妙な知識をつけたのか、俺の生活に文句を言われることが増えてきた気がする。由々しき事態かもしれない。
「あ、ちょっと、付けすぎないでよ?」
「いい加減心得てる」
「それと、もう大丈夫だと思うけど、元の方から先端に向かって優しく拭うんだからね!」
「さっきからそうしてるだろうが。一々言われなくても大丈夫だ」
「そう、ならいいけど‥‥‥」
「‥‥‥さっきからどうした。今日は妙に突っかかるな」
「だって‥‥‥」
しばし躊躇うように沈黙して、そいつは言った。
「だって、アンタこの前逆に拭ったでしょ?」
「ああ。あれは迂闊だったな」
この俺としたことが、随分とうっかりしていたものだとしみじみ後悔した。そして、しっかりと教訓を心と体に刻み込んだ。あんな真似は一度で十分だ。
などと俺の中ではとっくに整理のついていた話だったのだが、しかしながら俺の手の中に居るこいつは、俺以上にその一件を引きずっているようで、
「そうよ、迂闊な真似をして! アンタ凄い血出してたじゃない!」
「‥‥‥おまえが『凄い』と形容するほどの出血じゃないと思うんだが」
「でも、骨まで見えてたでしょ!?」
「自分の骨なんで見る機会がないから新鮮だったな」
「あー、もう!」
腹に据えかねたように叫ぶ。
「だから! アンタがこれ以上怪我しないように! あどばいすしてあげてるんじゃないの!!」
そんなこと叫ばれてもリアクションに困る。
というか俺は、こいつに心配されるほど落ちぶれたつもりはないのだが‥‥‥。
「べ、別にアンタの心配をしてるわけじゃないんだからね! 私にアンタの血を付けられるのが嫌なだけなんだから!」
「はいはい、俺だって付けたくないよそんなもん。というか、この前だって最優先でおまえに付いた血の処理をしてやっただろうが」
「うー‥‥‥」
唸るな。
「とにかく、怪我しないように注意するから。だからいい加減油を塗らせろ。いつまで経っても終わらん」
「分かったわよ‥‥‥怪我しないでよ?」
「留意する」
こうして、俺はようやく作業の続きに取り掛かることが出来た。
さて、いい加減にこいつについて説明するべきだろうな。
この口やかましくて横柄で、割とナルシストで微妙にツンデレ入ってるような同居人(?)
‥‥‥察しのいい人はとっくに気付いているだろうが、遅ればせながら、ここで“彼女”の正体を明かそう。
この物語のヒロインにして、俺の部屋に居座るお姫様。
輝く地肌に、優雅な曲線を描くすらっとした細身のシルエット。
いつまで眺めていても飽きないような美しさに、触れれば切れる危うさを兼ね備えた“彼女”の正体は―――
―――『日本刀』である。
たぶん病気な、俺と刀の物語
第一話「日々の手入れ」
登録記号番号 香川ろ第30×××号
種別 わきざし
長さ 37.5センチメートル
反り 0.8センチメートル
目くぎ穴 1個
銘文(表)備州住勝光
以上が、香川県教育委員会発行の銃砲刀剣類登録証に記された、彼女―――というには、些か抵抗があるのだが―――のデータだった。
縁あって、というか、普通に俺に買われて家に来たのが今年の春。以来俺の部屋で無聊をかこっている。
「んー‥‥‥やっぱりてっしゅじゃ駄目よ。ちゃんとした拭紙(ぬぐいがみ)買ってきなさい」
『あれ高いんだよ。文句言うな』
小さく切った眼鏡拭きで丁子油を塗りながら、口に出さず反論する。実の所、こいつと会話するのに声を出す必要は無かった。‥‥‥というか、そもそもこいつの声が俺にしか聞こえていない時点で、多分この声も俺の妄想の産物である。恐らく統合失調症だ。なんてこったい。
「高いって言ったって、高々五百円でしょ」
『おまえが頻繁に手入れしろって言ってこなけりゃ、拭紙使うところなんだがな‥‥‥』
「刀の手入れはマメにしないと駄目なのよ。特に私、白鞘(しらさや)持ってないし」
マメにやりすぎても傷が付く気がするのだが。それ以前に毎週手入れさせられては、流石に紙代も馬鹿にならない。
今回は勘弁していただくことにして、先ほどのティッシュを使って拭っていく。刀身を挟み込むようにして鍔元(つばもと)から切先(きっさき)へ。これを逆にすると、先週の俺のように指先を切る羽目になる。
「なによ、小さく切って使ってたくせに」
『あの紙、元がでかいんだからいいだろうそれくらい。一回の手入れに一枚全部なんて必要ないわ』
「貧乏性‥‥‥」
『貧乏ですが、何か?』
いい年して無職の俺が、そうそう無駄遣いできるわけ無いだろうが。
『というか今回打粉(うちこ)打つ意味あったのか? 週一で手入れしてるんだから必要ないだろうが』
「なによ、あんたがしばらく打粉打ってないなー、とかぼやくから練習させてあげたんじゃないの。‥‥‥余計な傷、付けられそうになったけど!」
『それについてはすまんかった』
こいつを傷つけるのは、所有者の俺としても不本意である。‥‥‥しかしながら、こいつがぎゃーぎゃー騒がなければ、もっと丁寧に扱えたんじゃないかと思うと、文句を言われる筋合いはないのではないだろうか。
さて、先ほど塗った油を数度拭い、薄い油膜が残る程度になったところで、御刀様の判断を仰ぐ。
『‥‥‥こんな所か?』
「まあ、いいんじゃない?」
『質問に質問で返すな』
この時は、拭いすぎても拭い足りなくても駄目である。頻繁に手入れする場合、拭いすぎるということはあまり心配しなくてもいいのだが‥‥‥まあ、俺の場合は聞けば済む。有難いといえば有難い話である。
油を塗った刀身を灯りにかざして見る。地鉄(じがね)の美しさは勿論だが、俺は油を塗った直後の曇った輝きも結構好きだった。
「いや、いいから鎺(はばき)嵌めて」
『‥‥‥人が浸っている所を‥‥‥』
「刀身の観賞なら鎺嵌めてたって出来るでしょ? 手を滑らせて指落としたらどうする気よ?」
‥‥‥ご尤も。
横に置いておいた鎺を手に取ると、茎尻(なかごじり)から嵌めこむ。ちなみに、こいつの茎は至って普通の形状だ。茎尻は刃上栗尻(はあがりくりじり)といったところか。素人判断なので断言しがたい。ちなみにどうでもいいことだが、栗尻とは、『栗の尻のように丸い』という意味らしい。だからどうしたと言われても困る。閑話休題。
軽い抵抗を感じつつ、親指でゆっくりと鎺を押し込む。
「んんっ」
妙な声を出すな。
奥まで押し込んで一息つく。刀身の観賞の場合は、鎺を嵌めて行うこともある。手を滑らせた時、鎺があればいきなり指を落とす羽目にはならないからだそうだ。こいつは脇差なので片手で保持するのも楽なのだが、大刀ともなれば結構な重さがあるはず。気をつけるに越したことはないのだろう。
「見ないの?」
鎺を嵌めて一息ついた俺に、御刀様は言った。そんなに見て欲しいのだろうか。
しかしながらさっきの妙な声で気分が萎えていた俺は、さっさと次の工程に移ることにした。
『柄嵌めるぞ』
「‥‥‥まあいいけど」
俺はまず、鍔と切羽(せっぱ)に手を伸ばした。嵌めこむ順番は、最初に切羽、次に鍔、また切羽の順である。鍔を挟み込むのが切羽の役割だ。
なお、こいつの鍔は、片面に人物が彫金されている。この彫金がどちらを向くかというと、切先ではなく柄の方を向くのだ。刀の装飾要素は刀を腰に差したときに見栄えがするようになっており、決して抜いて対峙する相手に見せるものではない。刃文(はもん)だって、対峙した相手からは見えない。友達に模擬刀の切先を向けてもらったことがあるが、本当に点にしか見えないから刀は怖い。
次いで、柄を嵌める。この時刀は片手に持って垂直に立て、もう片方の手で柄頭(つかがしら)を叩いて嵌めこむ。これも先ほどの話と繋がるのだが、叩くのは柄“頭”である。刀を腰に差したとき、上を向くから柄頭だ。刀身の場合は切先が上になるので茎“尻”だが、拵(こしらえ)―――刀の外装、つまり柄、鍔、鞘など―――の場合は逆になる。よって腰に差した時に下になる鞘の先端は、鞘“尻”(さやじり)となる。
「‥‥‥さっきから誰に解説してるの?」
心を読むな。
それにしても、今俺が叩いたのはこいつにとって尻なのだろうか、頭なのだろうか‥‥‥。
さて、柄を嵌めたら、最後に目釘(めくぎ)を入れる。目釘こそは刀身を保持する最重要パーツであり、その重要度たるや、目釘の無い日本刀は日本刀として認められないほどである。
刀身を手で持ったまま、目釘を指で挿し入れる。
「んっ、もうちょっと奥まで‥‥‥」
『あとで目釘抜(めくぎぬき)で打ち込んでやるから黙ってろ!』
だから何故一々声を上げるのか。これが俺の妄想だとすると、俺は全く以って度し難い変態ということになる。
たしかに俺は日本刀が好きだが、別に性的な意味ではないはずなのだが。
「納めるぞ」
一声掛けて―――無論顔は背けてである。唾でも飛ばした日には、一晩中怒鳴られ続ける羽目になるだろう―――鞘を取り、棟(むね 峰と言う方が一般的か)を下にして鞘に納めていく。ゆっくりと、一定の速度で、刀身を鞘の内側に触れさせないように、だ。ここが非常に気の使いどころと言っていい。下手に扱うと鞘が削れたり、刀身に傷が付いたりする。刀身の擦り傷をヒケ傷と言い、ほぼ全ての愛刀家はこれを恐れる。
無論鞘の損傷も忌避すべきことだ。特にこいつの拵は中々の時代物で、鞘は小柄櫃(こづかびつ)付の代物だ。かなり気に入っているので、損傷は出来る限り避けたい。
「‥‥‥ふう」
最後ぐっ、と力を込めて刀を納め終えると、俺は息を吐いた。刀の手入れはそれなりに神経に緊張を強いる。引き篭り気味の今の俺には、少々辛い。
「お疲れさま。‥‥‥それと、外に出なさい」
「心を読むな。てか、気付いたら雪が積もってやがるんだが」
「出なさい」
何故俺は刃物に説教されているのだろう。
「ちょうどいい機会だし、近所に新しく出来たっていうスーパーで、良いてっしゅ買ってきなさいよ。来週使ってみるわよ」
「ティッシュは駄目なんじゃなかったのか」
「一応使ってみてから批判するわ。一応最近の本には、てっしゅでもいいって書いてあるんでしょ?」
「薬品含まないやつな。まあ、部屋のティッシュも無くなってるし、買ってきてもいいか‥‥‥」
たまに高級品を使うのも悪くは無い。できれば安売りやってるといいんだけどな。
「そういえば昨日使い切ってたわね。ゴミ箱にはいっぱいあるのにね」
「おまえ少し黙れ」
寒いんだから仕方ねえだろうが。それ以外の用途が無いとは言わないが。
「水に流せるてっしゅが便利だー、とか言ってたくせに」
「便利なものを便利だと言って何が悪いんだ‥‥‥!」
実に口うるさい御刀様だった。
というかなんで刀なのに女性人格なのか。フロイト的におかしいと常々思っているのだが、いまだに答えが見つからない。単なる俺の願望だと言う説が最有力ではあるが、正直認めたくなかった。
刀を擬人化するなら、渋い古武士だろう常識的に考えて‥‥‥!
などと憤ってみても現実は変わらない。そもそも俺が見ている現実は、多分本物ではない。なんだこのホラー。この話、ラブコメじゃなかったのか。タイトル詐欺にもほどがある。
「なんか変な思考が挟まったけど大丈夫?」
「電波が飛んできたようだ」
「‥‥‥頭、大丈夫?」
「貴様の存在そのものが、その疑問に答えをくれているな!」
―――とまあそんなこんなで、どうにか俺は今日も生きている。
この物語は、たぶん頭のイカレちまった俺と、刀の物語。
ここまで読んで後悔しなかった方は、また次回もお付き合いいただければ幸いに存じ候―――
あとがき
皆様はじめまして。ハイントと申します。
ふと気が乗ってしまった物で、こちらに場所をお借りし、習作など公開させていただきます。
自ら書いた文章をネットで公開するのはほぼ初めてなので至らない点、多々あるかと存じますが、平にご容赦下さいますようお願いいたします。
ご感想などお待ち申しております。
さて、この話ですが、最近『俺妹』にハマってしまいまして、ツンデレラブコメなんぞを書いてみようと思って書き上げた次第です。
つまり『俺の脇差がこんなに可愛いわけがない』という発想です。二次創作と紛らわしいので、タイトルは変えましたが。
ヒロインは日本刀です。別に擬人化されているわけでもなく、単に主人公の脳内に声が聞こえる、ただそれだけの存在です。
途中で主人公の病状が悪化し、美少女形態とかも見えるようになるかもしれませんが‥‥‥そこまでネタが続くか、正直微妙です。
とりあえず次回は、「駄目ー! 目釘穴広がっちゃうー!」を予定しております。
この度はこのような駄文をお読みくださり、誠にありがとうございました。
追伸
ちなみに刀の手入れにおけるティッシュの使用についてですが、普通のティッシュは原則使えないものと思っておいて下さい。
作中では省きましたが、結構条件厳しいです。興味のある方は自己責任で。