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[24979] サリエルを待ち侘びて(Fate After Story オリジナルキャラ有り)
Name: tory◆1f6c1871 ID:582d51b1
Date: 2010/12/18 12:21
<前書き>
Fateのアフターストーリーです。
拙作である『匣中におけるエメト』と一部設定を共有していますが後日談ではありません。
一応、これ単体のみでも分かるようには書かせて頂きます。
皆さんに、楽しんで頂ければ幸いです。

Prologue


 外で感じた地中海特有の潮風の香りが、此処には全く届いていなかった。
 当たり前といえば当たり前なのだが、それでも過剰に密封されているという感が拭えない。
 息苦しいという訳ではなく、完全に滅菌された無味無臭の空気が循環しているイメージ。
 湿度も恐らくは、一定で保たれているのだろう。
 まるで、生命球にでも入れられているよう。
 無論、快適かと訊かれれば彼女にはそうだとしか答えようがない。
 一言で言えば、この部屋は心地良さに対しての細心の配慮がなされていた。
 例えば今座っているこのソファは、多分換算するならば5カラット程度のルビーくらいの価格にはなる。
 座り心地もデザインも、大抵の者が満足するのは間違いない。
 機能的に見えて、その実、意匠を凝らしたクリアガラスのテーブルも同様。
 敷いてある絨毯が薄いグレーで、壁が一点の染みも無い純白なのは印象としてこちらに清潔感を与える。
 その他、見渡す限り、絵や調度などが煩わしくない程度に配置されているのは趣味の良さを伺わせた。
 それらが全て紛れもなく希少で高価な品々であるのは、相手の財力から考えれば当然の事だった。
 強いて難をあげるならば、窓が一切無い事と部屋の主からすれば些か簡素過ぎるのではないかというか。
 前者は、当然の事として………後者は、余計な誇示はする必要がないという余裕なのかもしれない。
 さもありなんと、相対して座る高級スーツを着こなした壮年の紳士然とした男を見て彼女は思う。
 足を組み肘掛けに肘を乗せながら頬杖を突く彼の態度は、悠然たるものだ。
 その顔には、面白がるような親愛の笑みを浮かべている。
 しかし、実の所その正体を知っているだけに彼女としては同調する気にとてもなれない。
 勿論、表面上は合わせて優雅な微笑を形作ったのだが。

「改めまして………本日はお招き頂き誠に光栄に存じますわ、ムッシュ」

「いや、こちらこそ急の呼び出しにも拘らず応じて頂いたことに大変感謝するよ、マダム・トオサカ」

 流石というべきか、なかなかに人好きのする魅力的な表情と声だ。
 だが凛としては、内心で目前の湯気を立ち昇らせる芳しい香りの紅茶を、その澄ました顔にぶっかけてやりたい気分である。
 これは、こちらが断れるわけがないのを知り尽くしての強制徴用も同然ではないか。
 元より選択肢は一つしか無く、彼女としては応じざる得なかったのだ。

「それで? 私などで、まだお役に立てる事がありましたかしら? 正直に申し上げて、今の私にはそれ程の───」

「なかなか性急な物言いだな、マダム。君らしいといえば君らしいが、今日は少々余裕が無いように見える。もしかして、そこの彼のせいかね?」

 男の目が悪戯っぽい輝きを帯びて、一箇所へ向けられる。
 そこに壁に背を預け腕を組み、明らかなる敵意を放つ者が居る。
 和やかな会談を演出しようと心配りされたこの応接室にあって、彼は鋼の刃を思わせる剣呑な雰囲気をまるで隠していない。
 その射抜くような猛禽の如き視線は、室内に踏み入れてより片時も緩んでいなかった。
 男は、苦笑を浮かべ肩を軽く竦める。
 
「そのような所につっ立っていないで、君も座ったらどうかね? それでは、落ち着いて話も聞けないであろうに」 
 
「結構だ。私の事は、気にしてもらわなくて良い。今の私は、彼女を守護する者としてこの場に居るに過ぎない。置物か何かだと考えれば良かろう」

 にべもない拒絶の言葉は、斬り結ぶような威迫が込められている。
 それは相手に、軽挙を起こせば0.1秒後には血溜まりの中に沈む事を容易に理解させ得る類のものだ。
 しかし、男は過剰な反応は一切見せず、嘆かわしいというように溜息を漏らし大袈裟な仕草で首を振った。

「随分と物騒な置物もあったものだが………しかし、その態度は些か礼を失していると言えないかな? 確か、礼を重んじる文化は君の故国でもあったはずだがね」

「勿論あるとも。だが、それに倣うならば貴様の方こそがまず礼を欠いていると思うのだがな」

 冷淡な響きで吐き捨てるように言われたことに対し、男は心外だというように大仰に首を傾げる。
 それは、どこか演劇じみた白々しいものだった。

「ほう? 私が何か君に無礼を働いただろうか? 色々と心当たりがないでもないが………」

「以前にも言ったかも知れないが───貴様は、本当に精巧な創造には向いていないのだな。幾ら何でも、大雑把にも程があろう? 多分、性格的なものなのだろうが」

 明白な嘲弄に、男は悲しげな表情で天を仰ぐ。
 舞台俳優の如く一頻り悲嘆に暮れた後、彼は救いを求めるように凛に視線を向けた。
 彼女は、まるで白けきった観客であるかのようにそれを視界に入れること無く優雅に紅茶を嗜んでいる。

「マダムも、やはり彼と同意見なのかね?」

「まあ………私は、それ程に厳しくは御座いませんわ。そうですね、ぎりぎりですが及第点と言ったところでしょうか? 自分でも、大分甘いとは思いますが」

「ほほう? 確か、以前は手厳しく落第にされたと記憶しているが、今回はどこが違ったのかな?」 

 静かにカップをソーサーに品良く戻し、数回の瞬きの後に凛は華やかに微笑む。
 流石に良い茶葉を使っていると、香りと味を楽しんだ彼女は満足気に考えていた。
 質問されたことへの答えは、考えるまでもなく明白だった。

「それは、着ているスーツの趣味が良かったからですわ。その加点が+2というところでしょうか。それ以外はあまり進歩の跡は見られませんわね。まあ、でも、不出来な人形であるからと言って本人の端末には違いないのでしょう? このように意思の疎通は出来ますし、然程に私は失礼だとは感じていませんからお気になさらずに。電話の一本で済む話ではありますけれど」

 艶やかな黒絹の如き髪を掻き上げ、凛は淑女然とした微笑を浮かべる。
 声の響きは柔らかで無邪気ささえ含まれているようだが、言葉の内容は明らかに容赦のない辛辣な皮肉だった。
 端末の人形とされた男は、諦めたようにやれやれと大きく息をつく。

「全く………相変わらず手厳しいな。これでも、大抵の人形師は凌駕していると自負しているのだがね。君達の目が、恐らく肥えすぎているのだろうな。大方、例の封印指定の人形師を基準にでもしているのだろうが、あれらの創作物と比較されてはたまったものではない。まあ、彼が言ったように私の性向に合っていないのは事実だが。知っての通り、本領は別にあるからな」

 道化の如くおどけて両手を広げる男に、凛は余裕を持った笑みを崩していない。
 しかしながら実際には、内心で湧き上がる戦慄を堅固なる理性を以て抑制している状態にある。
 その正体について、彼女が知悉しているが故に。
 世間に憚りながらも知れ渡る男の“影”の部分は、その莫大なる資産を以て国家さえも思うがままに左右する怪物の如き人物というものだ。
 曰く、某大国でさえ彼の意向を主人に対する下僕であるかのように伺う。
 曰く、幾つかの国家の独立は彼の支援により初めて成り立つものである。
 曰く、彼が首を横に振れば国家元首でさえ速やかにすげ替えられる。
 財界の魔王と称され、それらの噂は大いなる畏怖を以て人々に実しやかに語られている。
 だが、彼女が問題とするのは、そのような生易しい認識ではない。
 限られた者達しか知らぬ“闇”の領域にこそ、この男の本質はある。
 それは、比喩などではなく真の意味でその正体が怪物であるという馬鹿馬鹿しくも悍ましき事実だった。
 簡潔に言えば、男は死徒と呼称される人間を遥かに凌駕した不老不死の吸血鬼なのである。
 しかも最悪なことに、年経る事により力を増すそのような者達の中にあって、祖と呼ばれる最古参の存在だ。
 そして、本人が認めるように繊細な創造をすることには確かに向いていないが、別の方向性では間違いなく最高位にある人智を超えた人形師でもある。
 それを、運が悪くもかつて垣間見てしまい、凛は記憶に刻んでいた。
 
 ───『魔城』のヴァン・フェム。 
 
 それが、絶大なる死徒の頂点の一角にして、災禍そのものとも言える悪夢の如き巨大なゴーレムの創造者としての彼の異名だった。

「さて………呼び出しておきながら、私自身が直接出向かない事に対しての非礼はお詫びする。誤解されているかも知れないが、他意は無い。ただ単純に、多忙を極めていてね。身体が幾つ有っても足りないというのが現状だというだけだ。それで、頼みたい用件の方なのだが───」

「その前に、条件の方をもう一度確認致しますわ。これが取引である旨が書面では明記されていましたが、その見返りは貴方を含めた傘下全ての私達陣営への敵対関係の解除ということで間違いありませんね? そして、今後のほぼ恒久的な相互不可侵ということも」

 皆まで言わせず鋭い声で遮り確認を取ったのは、凛としては当然の事だ。
 その条件を曖昧にしたままで話を聞いてしまい、後戻りできなくなったでは目も当てられない。
 古き存在だけに、契約に対する真摯さが人間よりも遥かにあるということは確かに彼女も知っている。
 しかしだからこそ、そこに穴が無いか慎重に見極めるべきなのだ。
 提示されたものが、今の彼女にとってはあまりにも破格であっただけに。
 だが、そのような緊張を知ってか知らずか………ヴァン・フェムは、貼り付いた笑みのままで即座に気安く頷いた。

「無論だ。というより、私個人としてはそもそも君とも、そこの彼とも、敵対しているという意識は全くなかったのだがね。失礼とは思うが、現実として君達それぞれでは私が敵として捉えるには矮小に過ぎた。麾下の者達が目障りだと報告してきたのを受けてはいたが、放置せよと指示を出したくらいだ」

「貴様…………まさか、イェリバレでの一件を忘却したということでは無かろうな?」

 横合いからの声音は、囁きに近い大きさながら臓腑を抉るような重みを帯びていた。
 凛には、それが彼の内面の怒気が発露したものであると解った。
 余計な口出しはするつもりがないと言っていたが、堪えきれなかったということだろう。
 彼女は横目に強い意志を込めた視線を送り、剣呑過ぎるものを発している彼を抑止する。
 気持ちは分かるが、今ここでこの交渉に亀裂を入れるわけにはいかないのだ。

 北欧のその地における激戦は、未だ凛の記憶にも新しい。
 そこで幾つかの勢力が、互いの利益と主張の為に人知れず血で血を洗う闘争を行ったのだ。
 勿論、そのような事はこの世に溢れかえっているわけだが、問題は無関係な犠牲が些か多すぎたという所にある。
 その殆どを担ったのが、戦いの終焉において唐突に立ち現れた凶々しい偉容だったのは間違いがない。
 深い闇の中で木々の間に聳えたそれが、呆気に取られる程の破壊を以て強引なる決着を付ける様は、まさに機械仕掛けの神デウス・ウキス・マキーナそのものだった。
 その場に居た者達全てに、肉体的にも精神的にも大きな傷痕を残した災厄………だが、この強大なる存在にとってそれは些細な事だったのだろう。
 嘆くように軽く溜息を吐きながらも表情に悔恨の様子など無いのは、目前のものが人形だからということではなく本人の意志を忠実に反映しているからに違いない。

「あれこそ、まさにその好例だと捉えてもらいたいものだね。私とて、盟約に対する義務は果たさなければならない。それは、どのように嫌悪する相手とのものであっても絶対に破ることは出来ない。だから、形のみとはいえ応えざる得なかったのがああいう結果だったというわけだ。理解していると思うが、あの時に私は君達を殲滅することは充分可能だった。見逃したとまでは言わないがね」

「………………人の世に寄生せねばその存在を保てない古蛭如きが、良く言った。ならば────」

「どうあれ───確約が頂ければ、とりあえずそれで結構です。後ほど正式な契約証文は整えますが、今は貴方のその在り方故の誇りを信用致します。私が知り得る限りにおいて、一度口にしたことを貴方が反故にする事は無さそうですからね。では、改めてお話を伺いますわ、ムッシュ」

 火花が迸る程に不穏なる粒子が渦巻いた空気を払拭する為、凛は透過するように明瞭な声を被せる。
 片手を上げて見せたのは、冷静さを欠いて決定的な事を口走りそうになっていた彼への最大限の制止だった。
 表面上の無機質さや口にする言葉の冷徹さ故に多くの者は勘違いしがちであるが、彼自身の本質は実のところ殆ど変わっていない。
 故に、凛はその事についても常に心を配らなければならなかった。
 何時爆発するか分からない危険物を抱えているようなもので、神経が摩耗すること甚だしいが、彼女としてはもう慣れてしまった。
 第一、自身が望んでの事なので誰にも文句は言えない。
 
 長い付き合いであるから、その心に何が浮かんでいるかも大体想像が出来る。
 大方、その時に取り零してしまった者達の最期が呪詛の如く彼を苛んでいるに違いない。
 残酷ではあるが、今はそれは余計な事だ。
 無論、そんな事は彼も良く理解しているのだろうが。
 凛は、視界の端に腕を組みなおして己を抑制するように瞳を閉じるその姿が映っている事に、内心で大いに安堵する。
 ヴァン・フェムは、その様子に目を細めつつ愉快そうに忍び笑いを僅かに漏らした。

「ふむ………やはり、君達は揃ってこそだな。正直に言えば、確かに君達それぞれでは敵するに値しないが、組み合わさる事で我々にすら充分比肩し得ると私は考えている。血分けした死徒と同じく、君達の力は乗算だ。となると、この盟約は決して軽くは無い。だから、これは今後の為に是非とも成し遂げて欲しい。流石に今までお互いに色々有り過ぎて、無条件での約定の締結は等価交換の原則から考えても出来ぬからな。では───前置きが長くなったが、話の続きをしようか。まず訊くが、君達はアルズベリという地を知っているだろうか?」

「アルズベリ…………ですか?」

 その響きは何処かで聞いたことがある気がして、凛は記憶を探る。
 そう………確か、未だ時計塔において学徒の一人だった時、その名称は曖昧でありながら無視できない噂話の一つとして耳にしていた。
 それは、イギリスの片田舎で過疎化が進み朽ちていくしか無かった寂れた村の名だった。
 それがどういう訳か、莫大なる投資により急速に工業地帯として発展した。
 大して資源もなく、特に地理的な要所にも無いのに何故? と人々は首を傾げた。
 無論、それには別の秩序からの明白な理由があったのだ。
 つまり、ある遠大に過ぎる大儀式の為に成されたものだったのである。
 そのような事は、曲がりなりにも根源を目指す魔術師達の間で囁かれるものとしては、そう珍しくもない。
 しかし、それに関わった者達が尋常ではない事に当時聞いた誰もが瞠目した。
 魔術協会よりは、雲の上に等しい極めて頂点に近い大貴族に率いられた軍勢が───
 聖堂教会からは、切り札とも言える異端殲滅に特化した埋葬機関が───
 それぞれ、容赦無い成果を挙げる為に出陣したのだ。
 そしてその中心には、単独ですら絶大な存在である複数の死徒の祖の勢力が在った。
 この互いに甲乙付けがたい凶悪なる集団は、当たり前のようにそれぞれの思惑の元で凄絶な殺し合いを開始した。
 それはもはや、闇の世界におけるその後の趨勢すら左右しかねない大戦に等しかったのだと言われている。
 一説によると、魔法使いですらその場には現れたという事だ。
 
 だが、この戦争の具体的な内容、ましてやその結末などは、もちろん凛に知る由もなかった。
 その情報は、当然ことながら悉く厳重に封印されている。
 判明しているのは、その儀式は失敗に終わった事と、どの勢力も大打撃を受けたということだけ。
 不滅に限りなく近い祖ですら、幾つか滅びてしまったらしい。
 時計塔内部の派閥も大きく改編され、多くの将来を嘱望された魔術師達が泥仕合の如き醜い争いに巻き込まれた。
 それは、その時の凛や彼の運命にも少なからず影響を与えたものだった。
 一通り知ることを彼女が述べると、ヴァン・フェムは苦笑を浮かべ頷いた。

「そう、大体知れ渡っているのはその位だろうな。実はあの地における出資は私がしたのだが、盟約に背けず仕方なく行ったことでね………その後は、あのような古臭くも馬鹿馬鹿しいお祭り騒ぎに関わりたくなかったから、すぐに手を引いた。つまり私も当事者とは言えないので、詳細については知らない部分も多い。だがそれでも全くの部外者ではないから、今の話よりもう少しだけ詳しく知っている部分もある。例えば………実はその三つの勢力以外にもう一つ極めて強大な勢力が存在し、それこそがあの戦いを終息させたのだ───とかな」

「もう一つの勢力? それは、アトラス院や彷徨海、もしくは他地域の組織が密かにその戦力を派遣してきたという事ですか?」

「ああ………そういう動きも多少は有ったようだが、その程度は取るに足らない事だった。そうではなく、純然として戦いの中で脅威であった勢力としてそれは存在したのだよ。だが、数で言うならば勢力としては最小だった。何しろ、たったの二者だったのだから。まあ、その内の片方だけで他勢力を圧倒してしまえる程に一方的な存在だったのだがね。勿体振らずに言うと、それは真祖の王族だったという事だ」

「真祖の…………なるほど」

 少なからずの驚きはあったが、そのような範疇外なモノのしかも王族ならば、間違いなく他を圧すると凛は納得する。
 吸血種という人外の化物の内で特に吸血鬼と分類されるものは、二種ある。
 その殆どが、ヴァン・フェムのような“死徒”と呼ばれる者達であるが、そもそも彼らが生まれる要因たるものが古より在った。
 それが“真祖”という、死徒とは根本的に次元が異なる吸血鬼である。
 それは死徒と同じく、人間にとっての大いなる脅威という意味では然程違いがない。
 ただ彼らは、どちらかというと存在の意義もその力も天災に近い、本当の意味での霊長の敵対者であり自然の代弁者なのだという。
 
 近年において真祖の目撃例は、恐らく皆無だ。
 世界の裏側に去ったか、もしくはもう根絶してしまったのではないかと唱える魔術師も多い。
 だが、少なくともアルズベリの大儀式にまつわる戦いの際には、現存していたという事か。
 確か、その王族名はブリュンスタッドであると凛は記憶している。

「それで………まさか、その真祖の行方を探し出して欲しいなどという無理難題を仰るおつもりですか?」

「いや、それは既に把握している。姫君は、ここしばらく城から出ていないな。私としては畏れ多すぎて、ご拝謁賜る気にもなれない。まさしく、触らぬ神に祟り無しと言ったところだ。問題なのは、その姫君の従者の方でね。実は、こちらの方が我々にとって具体的な脅威と捉えられていた。実際に、祖を含んだ無数の死徒が彼により滅ぼされたのだ。当時は災禍そのものとして語られ、怖れるものなど何も無いはずの死徒達を恐慌させていたな。そう───マルセイユ版タロットで一枚だけ表記が無いものがあるだろう? 彼はそのように呼称され、またそれは決して実情から外れた大袈裟な表現ではなかったのだよ」

「まあ、真祖の従者などと言ったらどのような幻想の類であっても有り得るとは思いますけれど。つまり───その存在は、貴方達にとって死神デスであったと?」

 真祖などという遙か古から存在するものであるならば、場合によっては神代からの幻想を従えていても何ら不思議ではないと凛は考える。
 それはもしかしたら、“死”という概念そのものを体現する怪物であるかもしれない。
 例えば、受肉した精霊や神霊の類であるとか………。
 そこまでとなると、もはや人間如きが出る幕はない。
 ヴァン・フェムの口調は当初からの余裕を持ったものだが、その中に明らかに畏れを含んだ揺らぎがあることに彼女は気づいていた。

「まさしく、な。そもそも死んでいる者が死に怯えるなどと笑い話にもなりはしないが、そうとしか言いようがない。夜の風に乗り、無明の中にあって其は来たれり。遍くを連れ去る者なり………という感じでな。まるで我々のお株を奪うかのように、彼は神出鬼没に現れては完膚無きまでに対象を殺し尽くしたそうだ。アルズベリにおいてもそれは遺憾なく発揮され、結果幾つかの祖は滅びてしまった。しかし、それが終焉した後に彼の脅威は嘘のように立ち消えた。姫君に付き添い、城に篭ってしまったのだろうというのが大方の者達の予想だ。甘すぎる、希望的な観測だったわけだが」

「すると───再び?」

「ああ、どうやらそのようだ。まだ、具体的に滅ぼされた者は居ないが………幾つかの目撃例が出た。君達に、その真偽を見極めて欲しいというのが私からの依頼となる」

 朝食の注文をするようなあっさりとした調子で言われたことに、凛は呆気にとられる。
 幾ら何でも、これでは交渉として成立しないではないかと内心で憤慨した。
 それを表すべく、彼女は貼り付いた笑みで固着してしまった端末たる人形を睨みつけた。

「祖ですら滅ぼす幻想の類を何とかしろと? 正直に申し上げまして、それは私達を捨て駒にする気としか考えられませんが」

「いや、そのようなつもりは全くない。彼が対象とするのは、前例から見れば死徒のみだからな。安全は保証するとまで言わないが、我々より数段君達のほうが危険は少ない筈だ。それと………一つだけ、マダムは勘違いしているな」

 ヴァン・フェムは、指を組みなおして少々困ったような表情を形作った。
 それは、その事実をあまり認めたくないながら、それでも認めざる得ないというような、口にするのを躊躇っている顔だ。
 一拍の沈黙に、空調の機械音のみが凛の耳朶に響く。
 促す意味を込め、彼女は蒼き瞳を以て正面から視線を外さぬように見据えた。

「───何をでしょうか?」
「我々が災禍と恐れた者の正体………それは未だ判然としない部分が多いが、これだけは言える。彼は、間違いなく人間だった(、、、、、。今以てそうであるかは、少々微妙だがな」

 溜息と共に呟かれた言葉に、凛は初めて本当の意味での諦めと嘆きを聞いたような気がした。



[24979] サリエルを待ち侘びて Ⅰ
Name: tory◆1f6c1871 ID:582d51b1
Date: 2011/07/16 00:35



空の天幕が漆黒ではないのは、ぽっかりと大きな穴から眩い輝きが漏れているからだ。

少しの悪戯心から、そこに指を刺し込みたくなったけれど止めておいた。

だって、とっても綺麗だったから。

それに、どうしたって届かないことも理解できる。

柔らかい光に優しく照らされ、何だか訳も無く悲しくなる。

人は触れることが出来ない美しさを認めると、自身の惨めさを思い知るということなのか。

でも………きっと、この気持はそれだけではないのだろう。

あそこに一人きりではあまりにも寂しそうだと、自然と心に浮かんだからだ。


いつから、孤独だったのか。

どうして、誰もそこに寄り添おうとしなかったのか。

あんなにも、あれは艶やかだというのに。

あんなにも、あれは愛おしいというのに。

あんなにも、あれは哀れだというのに。


遙かである事を理由に、誰もがそこに辿り着くのを諦める。

あるいは、触れ得ない故に畏れるか憎悪する。

だったら、せめて自分が傍に居てあげなければ。

理由なんてきっとそんなもので、それで充分だったのだ。

実は、そんなに難しいことでは無い。

当たり前のことを、当たり前のようにすればいいだけの話なのだから。

だから、その手をとって連れ出した。

もう孤独ではないのだと、分からせる為に。

世界は、こんなにも幸福で満ち溢れていると知ってもらう為に。


笑ってくれさえすれば、それだけで嬉しかったのだ。

色々と取り零したり失くしたりするかもしれないけれど、今は些細な事だ。

そう───とにかく、噛み締めなければ。

夢幻の中で過ぎ去る、一瞬の中の永遠を切り取る。

浮遊する光景に、泣きたくなる程の喜びが刻み込まれている。

ああ……本当に

こんやはこんなにも─────つきが、きれい─────だ─────



 私から見ると、シェイキィはどうにも脳天気に見えた。

「ねぇ、どうしていつもそんなに困った顔で笑ってるの? もしかして、君って日本人なの?」

「え? なんで?」

「だって、日本人って意味もなく笑ってるんでしょ? それで、怒るときはいきなり怒り出すから怖いって、マリーおばあちゃんが言ってた」

 そう言うと、ますます困った顔になる。
 眼鏡の奥の瞳が微かに細められて、何か直視できないものに視線を向けているかのようだ。
 実は、その表情は結構可愛いから私は気に入っていた。

「相変わらず酷いよな、ガビーは。幾ら何でも、それは日本人に偏見を持ち過ぎだよ」

「え? ということは、本当に日本人なの?」

 私としてはほんの冗談のつもりだったが、そこでそういう抗議をするということは自身がその国の人間ということしか有り得ない。
 少しだけ意外だったので、驚いた。
 口元に指を当てて僅かに俯いているのは、記憶を辿っているからだろうか。
 僅かに芳しい香の匂いが染み付いた静謐なる礼拝堂の中、私達は厳粛さとは程遠い調子で話をしている。
 私は、ヘブライ語で『そして神は光あれと言われた』と刻まれた講壇に背中を預けて寄り掛かっていた。
 シェイキィは、最前列の長椅子に前屈みで座っている。
 朝のミサを終えて村の人達が全て帰った後に、二人で一通りの清掃を行い一息ついた所だった。
 足元からの冷気は、訪れる者に此処が神聖な場所なのであるという事を解らせるのに一役買っているのだが、生活する者にとってはただ寒いだけである。

「うーん、どうだろう? 国籍はそのままになってるだろうから、多分………」

「ふーん、そこは覚えてるんだ。何か、他には思い出せないの?」

「うん………残念ながら」

 戸惑った表情で首を振っているが、悲観するような感じは全く見受けられない。
 そのうち何とかなるだろうと、シェイキィは本気で考えているようだ。
 そういうおおらかさは、私も嫌いじゃないけれど。
 でも記憶が殆ど曖昧で、名前と意味不明な強迫観念しか覚えていないでは、私であれば絶対に錯乱する自信がある。

「こうして話していると、君って普通すぎるほど普通なのにねぇ。とても、歩いて月に行こうとか言い出す子とは思えないわ」

「うん。自分でもどうかしているとは思う。でも、そこに大切な何かが待っている気がしてね」

「だけど、歩いて月には行けないのは分かるわよね? だって、ほら、あれ………上にあるのよ?」

「そうだね。間違いなく、行けないだろうね」

 私が天を指さしたのを上目遣いで見ながら、困ったように微笑む。
 柔らかく照らす日差しの中で、それがとても痛々しく見えてしまう。
 この子が、どこか壊れているのがよく分かるからだろうか?
 それとも、今にも消えてしまいそうなぐらい儚い印象があるから?
 どちらにしても、放っておくわけにはいかないだろう。
 昔から、拾ったものには猫でも犬でも責任を持つのが私の信条だからだ。
 シェイキィは…………うん、犬だな、これ。
 垂れ下がった耳を付けて、丸まった尻尾を付ければ、どこに出しても恥ずかしく無い立派な小犬の出来上がり。
 つぶらで澄んだ綺麗な瞳が醸すものは、誰もが頬ずりして可愛がりたくなること請け合いだ。
 ………と、いけない、少し妄想が先走った。
 こちらを見る不思議そうな目に、少し焦る。
 私は、一つ咳払いをした。

「とにかく………今後どうするかは、もう少しゆっくり考えることね。まだ暫くは、この教会に居ていいから」

「それはどうも。でも、大丈夫なのかな? 素性の分からない人間が居座っていると知れたら、迷惑が掛かると───」

「気にしなくていいわ。神は、迷える子羊を決して見放したりはしない。だって、迷える子羊一匹救うのに他の九十九匹の子羊を放っておくっていうのが御心に叶う道なのよ?」
「随分と都合が良い解釈じゃないかな、それ…………何度も訊くようだけど、ガビーって本当に修道女スールなの?」

 まったく………確かに、何度それを訊けば気が済むのだろう。
 伊達や酔狂で、こんな修道服を着る人間が居るとでも───ああ、まあ、居ないこともないか。
 ───ええ、紛う事無き修道女スールですのよ、私。
 清貧・貞潔・服従の三つの修道誓願だって立てて御座います。
 身も心も、全て主のために捧げておりますの。
 まあ、その…………日々をはやまったかなあという、心の囁きと戦って過ごしているわけだけど。

 
 私、ガビーことギャブリエル・ヴァルツは現在ドイツに限り無く近いフランスの東の端っこの端っこ───生まれ故郷であるアルザスの小村ソルスティスで、教会付きの修道女スールを務めている。
 こう言っては何だけど、ソルスティスはとても田舎だ。
 何しろ、この村の人口は七百人に届いていない。
 ただ、村自体の景観はとても美しいのが自慢だ。
 まず周囲に葡萄畑が風光明媚な広がりを見せているのが、文明の猥雑さから隔絶させる防壁のようである。
 その中に、中世さながらの木組みの建物が立ち並んでいる。
 生活に必要最小限の公共施設や僅かな店舗が唯一ある大通りに面し、あとは全て民家。
 間を走る路地は、時の重みを感じさせる疎らな石畳で下品に彩る華美な部分は村の何処にも見られない。
 強いて装飾を挙げるなら、時折ある花壇に飾られた花々や申し訳程度にその建物が何であるかを示すシンボリックな看板くらいか。
 それらは、夕陽を浴びると一つの芸術作品として完成するとまで言われるほど出来過ぎな光景を紡ぎ出す。
 どうやら、かつて著名な絵描きがそれをモチーフにする事を目的に頻繁に訪れたりした事もあったらしい。
 その為、村はそこそこ有名で観光目的に来る人も珍しくなかった。
 少し離れれば、ちゃんと立派な地方道が走っているので交通の便もそれ程悪くないのだ。
 だが、ここは別にそういう観光地としての演出をしているわけでは決してない。
 あくまで、人々の営みの結果として自然とそうなっているだけである。
 それもまた、外の人間を喜ばせているようだが。 

 私は村に代々住む大工の一人娘として生まれた。
 しかし、両親のことは殆ど憶えていない。
 父母ともに、自動車の事故で私が幼い頃に亡くなっているのだ。
 何でも、とても仲が良い評判の若夫婦だったそうで、前途洋々たる彼らに起きたこの事件は当時の村を震撼させたようだ。
 私は、その時にたまたまご近所の人に預けられていて助かったのだという。
 この出来事は、私にとってあまりに理不尽すぎる不幸であった筈なのだが実は薄弱な印象しかない。
 幼さ故にそれが上手く理解できなかった所もあったからだろう。
 ぼんやりした喪失感しか記憶に残っていなかった。
 それは、極めて客観的で俯瞰的な白黒の画像が幻灯機で途切れ途切れに映し出されるような曖昧なものだ。
 だが、周囲から見れば突然に悲劇的な境遇となった哀れな幼子だったわけで、村の人々には事あるごとに同情された。
 小さな村なので、外の者には閉鎖的なところもあるが内の者には皆家族のように親身になってくれたのだ。
 まるで自身に降り掛かった事に実感など無かった私などの為に、皆で真剣に話し合い等もしてくれたらしい。
 その結果、どういう経緯でそうなったのか未だ良く分からないが、身寄りのない私は今居るこの教会の神父様に引き取られたのである。
 そしてこの巡り合わせこそが、私にとっての運命だったのだ。
 つまるところ、私のそれからは保護者となってくれたこの人にこそ帰結しているのだから。
 
 だけど、まあ………その辺りの自身の詳細については少々省かせてもらおう。
 私がそれからどうして修道女スールになってしまったのかとか、その原因となった神父様がどういう人であるかということは、それなりに馬鹿馬鹿しくも複雑で悲しくも笑えるロマン溢れるものがあるのだが、それを語ると長くなるし第一死ぬ程恥ずかしいので。
 とりあえず私が修道女スールになったのを後悔していること、良く分からない事情により神父様が長期間留守にしており無責任にも教会を私一人に任せっきりにしていること、その事により心が荒んで日々を悶々と過ごしているという現状だけ述べておく。
 Verdammte Scheiße忌々しい、クソッタレめが! と日に何度か心の中で呟いては、許しを乞うているというそんな見事な駄目修道女スールなのである、私は。
 無論、村の人達には敬虔にして貞潔なる物静かな修道女スールで通っているが。
 やっぱり、今まで猫をかぶり続けてきた身としてはその部分は保たないと色々世間と上手くやっていけないし、教会の評判を落としたら神父様も悲しむだろうし。
 それくらいは大目に見てもらいたいものだ。
 天に在す御方は、時々それは流石にどうか? と思う程の無茶をするが、基本的には寛容で愛に溢れている………と、私は考えている。
 だから、取るに足らない信徒の弱さやちょっとした過ちなど、おおらかな心で許してくれる筈なのだ、多分。
 ──────ま、許してくれなかったら、それはそれで良いけどさ。

 さて、つまらない私のことなど置いておいてシェイキィを拾った際の話をするとしよう。 
 ちなみに、この拾ったというのは修辞としての言葉ではなく単なる事実だ。
 要するに、草むらに文字通りシェイキイは落ちていたのだ。
 それこそ、勢い余って飛ばしてしまいそのまま打ち捨てられた物悲しいスニーカーのように。
 
 それは、月が鏡のように輝き真円を描いていた夜だった。
 私はその時熱ってしまった身体を冷ますために、村の離れの雑木林を吹き抜ける風を浴びながら散歩をしていた。
 神父様の部屋で密かに所蔵されていた上等なワインを見つけてしまい、腹いせに手を付けたら止まらなくなってしまった為だった。
 独りで教会に取り残された寂しさから、ストレスが相当溜まっていたのか。
 恨みがましい愚痴を零しながら飲んだそのペースはかなり速かったと思う。
 少しだけの味見のつもりが、気がついたら一本丸々空けていた。
 結果、結構いい具合に酔っ払ってしまったというわけだ。
 今考えると、へべれけの修道女スールなどという醜態を村の人に見咎められなかった事を主に大いに感謝するべきだろう。
 その時は全くそんな心配など心に浮かばず、とにかく気分が良かっただけだったのだが。
 
 私は、頭の窮屈なベールを脱いで自慢の赤毛を風に靡かせながら、妖精にでもなったつもりで軽やかに危機感もなく歩んでいた。
 高低の組み合わさった木々の間を通り斑に影を落とす月明かりはなかなか幻想的な雰囲気で、幼い頃に聞かされた童話の一幕を思い起こしていた。
 時折、自分の足元で枯れた枝が折れる音が軽やかに鳴るのが意味もなく面白く、くすくす笑ったりしたのは端から見たら結構不気味であったかもしれない。
 そんな御機嫌な私が心赴くままに出鱈目に歩いてから暫く、急に視界から今まで連なっていた鬱蒼とした木々が途切れた。
 いつの間にか、丁度広場のようになっていた小さな草原に辿りついていたのだ。
 
 丈の短い草のみが生えて風に揺られ天からの銀光に濡れているそこは、なかなか素敵な場所だったと思う。
 今にも本当の妖精や動物たちが現れて舞踏会でも催しそうだなと、一目で私が極めて乙女丸出しな想像をしたくらいだ。
 切り取られた薄蒼い天幕は、月を中心と据えてまるで黎明間近のような静寂を演出していた。
 すっかりそこが気に入り、鼻歌交じりで夜空が真上に見上げられるなだらかな傾斜に寝転がろうと足を進め───しかし、私はそこに先客がいることを察知し跳ねるような歩みを止めた。
 
 最初は、自分から伸びた影が映っているのかと思った。
 やがてそれが立体であると分かり、不法投棄されたマネキンかと考え、僅かに身動ぎしたことで仰向けに倒れた人影だと漸く私は気がついた。
 ここまでプロセスを踏まなければならなかったのは、何となくそれが生きていることが信じられなかったからである。
 で、普通なら私ぐらいの年頃の娘のそんな時の正常な反応としては悲鳴の一つでも上げているのだろうが………酔いというものは、本当に恐ろしいもので。
 私は、あまりに怪しすぎる人物だと理解しながらも少々喧嘩腰に勢いで声をかけたのだった。
 その時の自分を推測するに、多分何か楽しい気分に水を差されて癪に障ったとか些細すぎる理由だったのだろうと思う。
 一応付け加えるならば、何かのトラブルで行き倒れているのかも知れないという現実的な懸念もしていた。
 
「君。そんな所で倒れていると危ないわよ」

 不機嫌な声で言いながら、回りこんで正面から人影を見下ろす。
 細身で少々小柄な体格。
 パッと見は随分と歳若い。
 無造作に伸びた黒髪が蔦のように草に波打って広がっていた。
 眼が微かに朧な蒼い輝きを発したのは、私の錯覚だったのだろうか?

「え─────」

「え、じゃないでしょ。こんな夜更けに草むらで寝てるなんてよっぽど暇なのね。気をつけなさい、危うく蹴り飛ばされるところだったんだから」

 自身の影が重なっていたが、鮮明過ぎる月光で勢い良く上半身を起き上がらせたその子の表情が分かった。
 意外過ぎるものを見たように、目を限界まで見開き本当に呆気に取られていた。
 確かに急に声を掛けられて、こんな不躾なことを言われたら誰でもこの様な反応をするかもしれない。
 一陣の夜風が草を揺らし潮騒のような音を奏でる。
 私は、その子の口元が淡く変化するのを見逃さなかった。
 そして、それが何故か大きな喜びと僅かな悲しみの中間に位置する表現だと理解する。
 恐らく、それに題名をつけるとしたら『郷愁』といったところか。
 そのように形作った理由はさっぱりわからないが。

「───ふうん。蹴り飛ばされるって、誰に?」

「馬鹿ね、そんなの決まってるじゃない。ここにいるのは私と君だけなんだから、私以外に誰がいるっていうの?」

 悪戯っぽい問いかけに、私は腕を組んで自信たっぷりに答えてやった。
 そんな事は自明の理ではないかなどと勝手な事を考えていたのは、酔っていたからだということで許してもらいたい。
 ただそんな酔っぱらいの私でも、その反応が薄いことには不審を覚えていた。
 どうも何だかぼんやりした感じだし、大丈夫だろうか? などと、自身を棚上げして思った。
 言葉に、ぜんまいが切れた人形のように動きを止めて呆然となっていたのである。
 風鳴りが途切れ、演劇の間のような静寂が僅かに流れる。
 が、次の瞬間

「は─────」

 詰めていた息を吐き出し、その子は顔をくしゃりと崩した。
 堪え切れ無いというように、身体をくの字に曲げ腹を抱えながら震え始める。
 何かの持病が突発的に発症し苦悶しているのかとも見え焦ったが、息も絶え絶えに引きつった高い声を上げているのを聞き、それが爆笑だと気がついた。
 一体何がそんなに可笑しいのか、理解不能だ。
 暫くその様子を呆れながら眺め、私は段々と腹が立ってきた。
 こちらが分らない理由でそこまで笑うなど、全くもって失礼である。
 文句の一つでも言ってやろうとして───だが、すぐに思い止まる。
 その頬を伝うものを認めてしまったばっかりに。
 どうして心底笑っているのに、この子はそこまで悲しそうな涙を流せるのか。
 明らかに情緒が不安定に見えた。
 虚空に響く陽気な高い笑いが今の幽玄な世界にあまりに不釣合いに思えて不気味で、不安にもなる。
 この時には、怖いもの知らずを後押ししていた酔いも大分醒めてきていたのだ。

「ちょっと───」

「………ああ、ごめん。こういう事ってあるものなんだって、ちょっとびっくりしてね。そりゃあ、奇跡なんて掃いて捨てるほどこの世に有り触れているのは知っていたけど」

 一頻りの笑いを漸く収めて濡れた目元を袖で拭い、幼く無邪気な微笑をこちらに向けた。
 意味が分からない。
 分からないけれど───その儚い笑顔は、ちょっと、どうなんだろう?
 顔が熱いのは、これ、きっとアルコールのせいじゃない。
 いや、待て、待て。
 私には、そんな趣味は無いはずだ。
 ああ、申し訳ありません、神父様。
 決して心が揺れてたとか、そんな事は一切無いですから。
 ええ、そりゃもう、主に誓ってそのような事は決して。
 私は、そんな撃沈されかかった心の慌てふためきを表面に出さないように苦労しながら、睨むように眼に力を込めた。
 結局、顔は逸らしてしまったが。

「あー、その………要するに君、お月見でもしてたの?」

「いや、違うよ。見てたんじゃなくて、行こうとしてたんだ。そうしたら、少し目眩がしたからここで寝転がって休んでたって所かな」

「は? 行こうって、何処に? まさかと思うけど、あそこに?」

「そう。あそこに」

 巫山戯半分で指差した方向に、神妙な顔で頷かれてしまった。
 つまり、私は夜空に粛々と鎮座するお月様を差したわけで………。
 何か私の方が勘違いしているのだなと、この時は考えた。
 話している相手が正気じゃないなんて怖かったから、自分を誤魔化したとも言える。

「ふ、ふーん。まあ、良いけどさ。こんな所にいつまでも居ると風邪をひくと思うよ」

「もう少し休んだら行くから、心配しなくてもいいよ。えーっと………」

「私はギャブリエル。ガビーって呼んでくれていいわよ。君は?」

 怪しくはあったし、関わったらどうにも厄介そうな子だなと思ったが、私はちゃんと名乗ることにした。
 先程の笑顔が頭にちらついていたせいもある。
 それで、むこうも一つ頷いて名乗ってくれたのだが、聞き慣れない発音に私は戸惑った。

「え? ちょっと、良く聞き取れなかった。トゥーシェイキイ?」

「うーん、少し違う。名の方だけでいいから」

「名って………どれが?」

「後半部分。シェイキィって言ったように聞こえたけど、そうじゃなくて───」

「ああ、シェイキィね。随分と変な名前ね。英語?」

 正直な感想に、むっとしたように眉を寄せ少し不服そうな顔をしていた。
 でも私は、変な名前だと思うし似合ってないようにも思えるのだ。
 それとも、仇名か何かだろうか。
 私が首を傾げたのを見てか、シェイキィは諦めたかのように溜息をつきつつ苦笑いをした。

「もう、それでいいや。ところで、ガビー………だっけ? 何でそんな格好してるのかな。そういう趣味なの?」

「………趣味って何よ。見て分らない? 本物の修道女スールなのよ、私。今は、ソルスティスの教会に務めてるってわけ」
 
 私は、踊るようにくるりと回って修道服を見せつける。
 スカートが想像通り、花開くように広がった事に満足した。
 機会が無かったから、一度人前でやってみたかったのだ。
 修道院でこんな事やったら、多分懲罰を受けた上に有り難いお説教を一ダース位受けることになるだろう。
 村の人達の前では体面上できないし、ましてや神父様の前でなんて私自身がしたくない。
 だから、私としては結構勇気を出してやってみたことなのだが、あまり受けはよくなかったようだ。
 というより、殆ど無視されて怪訝な表情をされただけだった。

「え? 本当に? ああ、でも、そうか。修道女スールって言っても色々いるしなあ」

「何か凄く失礼な言いようね。君には私が、どう見えてたってわけ?」

「そりゃあ、酔った勢いで修道女スールのコスプレでもしてた、少しヤバめの女の人って感じかな、正直」

「フ、フフフフフ………言うわね。ガキのくせに」

 そんな可愛い顔で、なかなか直球な事を仰る。
 効果音付きで、額に青筋が浮き上がったのを自覚する。
 確かに、酒の匂い漂わせた女がこんな夜更けにフラフラ歩いてたら、そんな風に思われても仕方ないかもしれない。
 でも、もう少し婉曲な言い方というものがあるだろうに。
 目上の人間に対する態度がなってないなこの子は、と自分でも大分きつくなっていると分かる目付きで睨みつけた。
 鈍そうに見えるが、流石にこれには気がついたのか、シェイキィは慌てて誤魔化すように手を振った。

「ああ、でも俺が知ってる修道女スールって半分人間じゃ無いみたいのとか物騒な銃や剣振り回したりする人達だったから、それに比べればガビーは大分マシだと思う」

「どういう言い草よ、それ。そんな訳の分からないのと、比較しないでもらえる? それに、デリンジャーくらいだったら懐に入ってるけど?」

「げ───本当に?」

「当たり前でしょ。それくらい、淑女の嗜みってやつよ。女ってのは、いつ良からぬ狼に襲われるか分からないんだから」

 ………と、実はこれ、村一番のお菓子作りの名人であるマリーおばあちゃんの受け売りである。
 マリーおばあちゃんとは、私の事を何故か昔から気に入ってくれて私もまた本当の祖母のように慕っている、有り難くも頭が上がらない存在だ。
 何と言っても、村で唯一私が猫を被っても通用しない相手なのだから只者ではない。
 この人が作ってくれて時々差し入れてくれるお菓子は本当に絶品で、特にオレンジピール入りのクグロフを私はアルザス一だと思っている。
 しかし、今でこそ品の良い穏やかな老婦人で通っているそんなマリーおばあちゃんであるが、昔は相当無茶をした愉快な人だったらしい。
 何でも、私に譲ってくれたこの年代物のデリンジャーはおばあちゃんが若かりし頃に恋人から貰ったもののようで、おばあちゃんはその人と一緒に夢物語のような活劇を繰り広げたんだとか。
 尤も、嬉しそうに語ってくれたその時の事を聞く限り、私には数字のコードネームを持った謎装備満載の特殊工作員の話みたいだなと思えたくらいなので、大分脚色が入っているのであろうが。
 シェイキィは、胸を張ってそう言った私に呆れたような視線を向けてから大きく息を吐きつつ俯いた。
 我が身の不幸を慨嘆しているようでもあるが、どういう訳か少々楽しげでもあった。

「まったく………何で、俺の周りってこういうのしか寄ってこないんだろうな。日頃の行いは、それなりに良いつもりなんだけど」

修道女スールの前で、そんな事抜け抜けと言える神をも恐れぬ厚顔さが悪いんじゃないの? ま、色々言いたいことはあるけど、そろそろ帰った方が良いと思うよ。何処から来たんだか知らないけどさ」 

「いや、そうしたいのはやまやまなんだけど…………」

 途方に暮れた幼子のような瞳をこちらに向けて、シェイキィは言い淀む。
 そういう顔は、出来ればやめてもらいたい。
 何だか、その柔らかそうな髪を撫でてしまいたくなる誘惑に駆られてしまうじゃないか。
 私は、意識して仏頂面を作り不機嫌そうな低い声を出す。

「なに?」

「言い辛いけど………何処から来たとか、自分の事がさっぱり分からないんだよね。ただ何となく月に向かわなきゃって考えてて、いつの間にかここに居たって感じで………」

「はあ? でも、さっき自分の名前は言ってたじゃない、君」

「うん、名前は憶えてたけど。後のことは、夢の中の出来事みたいに曖昧で。断片的に時々記憶が浮かぶけど、どうにもいまいち繋がらない。ちょっと困ったね、これ」

 肩を竦めながら軽く言われたから、一瞬それ程大したことじゃないのかと思えてしまう。
 しかし、善く善く内容を考えてその深刻さに驚き、シェイキィの呑気な態度に私は呆れた。

「ちょっと困ったねって………要は、本当に記憶喪失みたいなものって事? しかも、迷子って………こういう場合、何処に連れて行けばいいのかしら? 病院? 警察?」

「それは、どっちも勘弁してもらいたいな。身動き取れなくなると、目的が果たせなくなる。時間もあまり残ってないだろうし…………」

「目的って、月に行くっていうのが? あのさ………一応、言っておくと───」

「ああ、言いたいことは分かるよ。これでも、一応それなりに常識は備わっていると思うし、信じてもらえないかも知れないけど正気のつもりだから。それでも、どうしてもそこに辿り着かなきゃならないって衝動は消えてくれない。我が事ながら、どうしたものかって目下悩み中」

 それなりに渋い顔をして考え倦ねているようには確かに見えるが、どうにも論点がずれているように私には思える。
 幾ら悩んだところで、それは解消されることは無いし解決手段もあるまい。
 私が知る限りでは、某超大国の宇宙開発局だって今は月へ行くことはしてなかったんじゃなかったか?
 昔から今に至るまで、あれは地に足をつけて浮かんでいる美しい様を愛でるものなのだと個人的には思う。
 多分、この子は記憶の混乱で何らかの比喩を勘違いして捉えている可能性があると私は考えつく。
 本人が言うように、一応は正気に見えるし。
 となると、その状態を何とかする方が先決だろう。

「とりあえず、持ってる物全部出してみせて」

「え? 何で? まさか、今更追い剥ぎ?」

「そんな訳無いでしょ! いいから、出す! 何か身元分かる物があるかも知れないじゃないの。自分で、ちゃんと確認したの?」

 失礼な言われように思わず怒鳴ってしまった私の剣幕に圧されたように、シェイキィは慌ててポケットやら懐やらを探る。
 丸っ切り手ぶらに見えたから、出てきたのはほんの僅かなものだった。
 薄っぺらな財布と、眼鏡と、小さな鉄の棒、首元にマフラーのように巻いていた布切れ。
 それを、恐る恐る差し出してくる。
 いや、それじゃあ本当に私が追い剥ぎでもしている気分になるから。
 でも、とにかく、ひったくるようにそれらを受け取って注意深く調べることにする。

「財布の中身は………しけてるわね、5ユーロも無いじゃない。カード類も無いし、他にも君の事が分かるような物も………これ、眼鏡って事は、目が悪いの? 今は、コンタクトでもしているとか?」

「眼が悪いというか……そういえば、どうも頭がぼうっとすると思ったら視え過ぎてたせいかな」

 微妙に意味が通らないことを言いながら、手振りで物色している私に眼鏡を返すように要求してきた。
 手渡したそれをシェイキィが素早く掛けると、ただでさえ幼い顔がますます幼く見えた。
 少々先程よりすっきりした表情なのは、視界が鮮明になったせいなのだろう。
 それにしても、自分が眼鏡していた事まで忘れていたというのか。
 態度があまりに平然とし過ぎているからいちいち分かりにくいが、思ったよりも重症みたいだ。

「この鉄の棒は何なのかしら? 何か刻まれてるみたいだけど、模様───って、わ!?」

 私は、弄りまわしている内に何処をどう触ったせいか分からないが、その鉄の棒から軽い金属音と共に急に出てきたものに驚いた。
 ほぼ同じ長さの、鋭い刃が飛び出てきたのだ。
 心臓の鼓動が速くなっているのを自覚しつつ、憤慨してシェイキィを睨みつける。
 危うく指を切ってしまうところだったのだ。

「ちょっと! ナイフだったらナイフって教えてよ! それとも、これも忘れてたっていうの?」

「あ、いや────」

 乱暴に振ってみせたナイフにシェイキィは不意を突かれたように呆然となり、まじまじと見詰めてくる。
 その反応に、やっぱりこれがナイフだという事が分かってなかったということなのかと気が付いた。
 勢いで責めてしまったことを、私は少し反省した。
 奇妙な沈黙が流れ、遠方からの夜鳥の鳴き声だけが一際響く。
 気まずくなり、私は意味もなくそれを夜空に翳した。
 月光に、刃の部分が妖しく煌いた。
 私はそれを、結構綺麗だなと何気なく考えながら眺めた後、僅かな間で視線を戻し

「え…………?」

 ───目の前の雰囲気が一変していた事に慄然とし声を詰まらせる。
 先程まで少々気弱そうだったシェイキィの穏やかな眼鏡の奥の瞳が、細く絞られている。
 それは、何故か何の感情も読み取れない機械のようなものになっていた。
 瞬間、淡く幽かな蒼い光を不気味に発したように見えたのは果たして錯覚だったのか。
 闇の中に残光のように浮かぶ二つの輝点が向けられ、私は金縛りにでもなったかのように恐怖で硬直する。
 自然と脳裏に浮かんだのは、巣に囚われた哀れな獲物へ無情にも迫る巨大な蜘蛛という馬鹿げた妄想。
 私は悲鳴を上げることもできず、頭の中が真っ白になり───

「ごめん。今、思い出した。確かに、それは危ないよな。返してもらえるかな?」

 だが、微笑みと共に発せられた柔らかな声の響きに、あまりに凶々しいこの気配は一瞬で嘘のように霧散した。
 私は、悪い夢から急激に目覚め周囲が鮮明になっていくのに似た感覚を覚える。

「え、ええ……………」

 ぎこちなく頷き、差し出された手に刃が出たままになっているそれを乗せる。
 心にほんの少し、これをこのまま返してしまっていいのかという躊躇いが浮かんだが、誤魔化すようにそれを打ち消した。
 そう───今のはアルコールの残滓が見せた気の迷いに違いないと考え、私は精神の均衡を取り戻す。
 背中に冷たく貼り付いたままになっている汗は、無視することに決めた。

「そ、そうだ。その、刻まれているやつに見覚えとかはないの?」

「ああ、これ? えーっと………」

 慣れた様子でぱちりと刃を手早く収めながら、シェイキィは柄の部分を指差し困惑したように首を撚る。
 私は、動揺のままにした質問に大して期待などしていなかったが

「ナ───そうだな、こっちの言葉に直すと七つの夜セプト・ニュイ七番目の夜ラ・セプティエメ・ニュイという感じになるのかな? このナイフ自体の名前だよ、これ」

 と、あっさり答えられたことに少々意外さを覚えた。
 何かの装飾にしては確かに乱雑に見えたが、それは文字か記号であったということか。

「随分と詩的な言葉ね。どういう意味合いなの?」

「さあ、そこまでは………あまり意味なんて無いのかもしれない」

 シェイキィは何故か肩を竦めて、自嘲するように言う。
 浮かんだ虚無感を漂わせる表情に、私は嫌な予感がして方向を変えて問いかける事にした。

「でも、とにかく君はそれが読み取れたということだよね? それで何か少しは思い出したりしないの?」

「今見てる様な光景を、何処か他の場所でも見たことがある事くらい───かな? ほんとうに、よくおぼえてないけれど」

 憧憬を寄せるような視線を、シェイキィは月に向けた。
 それが一際幼い表情に見えて、私は胸を突かれる。
 まるで独りぼっちで取り残された迷い子のようだなと、改めて思う。
 寂しさに耐えかねて今にも泣き出しそうなのに、それに耐えて微笑んでいる
 あるいは、その事実を受け入れながら尚も楽しいことはあるのだと強情を張る。
 そんな、哀れで悲しい子供に見えてしまった。
 もしかして………本当に月から落ちてきて地上にただ一人で残ってしまった子なのではないかと、柄にもなくメルヘンな想像を私はしてしまう。

「よし! 決めた! 君、教会に来なさい。その調子じゃ、どこかで野垂れ死ぬのは目に見えてるし。そうなると、私の寝覚めが悪いからね。何より、一応神職の身にあるから迷っている子なんて放っておけないわ」

「え? いや、いいよ。それに、もう行かなきゃならないし。好意は嬉しいけど───」

「いいから、来なさいっての。もう少し落ち着いて、自分の事を思い出したほうが良いわよ、絶対。大丈夫、警察にも病院にも連れていかないから」

「でも───」

 言い募るつもりで立ち上がろうとしたシェイキイは、足を縺れさせて尻餅をつく。
 今の一動作だけで、全力を使い果たしたかのように荒い息をついている事に、私は驚いた。
 夜更けとは思えない程に明るかったとは言え、月光では流石に気がつかなかったのだ。
 この子………顔が土気色になってるし、大分弱ってる?

「ちょっと!? 君、大丈夫!?」

「大した事無いよ。慢性的な貧血でね。時々、目眩起こして倒れるぐらいだから。ほんと、もう少し休めば大丈夫………」

「そんなの聞いたらますます放っておけないわよ! 病院に連れていかないって言ったの無しね。こうなったら引っ張ってでも───って?」

 獣が唸るような音が大きく響き、慌てて肩を抱えようとした私は動きを止めた。
 いや、今のは、大きかった。
 シェイキィは俯いて、バツが悪そうにお腹を抑えていた。

「念の為聞くけど………君、何日くらい、食べてないの?」

「あ、えーっと…………三日ぐらいになる………のかな───っつ!?」

 無言でひっぱたいたのに、シェイキィは頭を抱えて涙目になる。
 その時の私の表情は、神の子に死刑を言い渡した総督ピラトのようであったと自分では思う。
 
「も・う・一・度・訊・く・け・ど、教・会・に・来・る? オニオンのスープだったら、まだ結構残ってるけど」

 耳元に口を寄せ、一字一字区切るように私は言った。
 シェイキィは、オニオンのスープというのに触発されたのか、鳴り止まなくなった腹の音に観念し力無く項垂れていた。

「……………はい、行かせて頂きます」

 うん、素直で宜しい。
 私は、シェイキィに肩を貸してふらついている身体を立ち上がらせる。
 背が殆ど変わらないから、然程苦労することは無さそうだが、ここから教会までこの状態で戻るのは結構難儀だ。
 心の中で気合を入れ直し、歩き出す。
 この状況を誰かに見咎められるという心配を自分がしなかったのは、後から考えると不思議だった。

 
 こうして私は、シェイキイを拾った。
 まあ、餌付けしたのだとも言えなくもない。
 放っておけなかったのは事実だが、教会で独り寂寥を抱えていた私にとってこの子と居る時間はとても楽しい。
 一応、恩義を感じてくれているらしく、教会の務めに関しても骨惜しみなく手伝ってくれるのも助かる。
 つまり、事あるごとに出て行こうとするこの子を何度も引き止めたのは自分の為でもあったのだ。
 勿論、未だに碌に何も思い出さないのでは話にならないとちゃんと考えてもいたのだが。
 だから、その後に巻き起こった数百年の平穏を打ち破り村を滅茶苦茶にした騒乱は私のせいでもあるとも言える。
 幾人もの外部からの異常な来訪者のせいで、それは起こった。
 しかし、その中心にあったのは間違いなく、この穏やかで呑気そうな陽だまりの中の小犬を連想させるシェイキィだったからである。



[24979] サリエルを待ち侘びて Ⅱ
Name: tory◆1f6c1871 ID:45ae5c93
Date: 2011/02/26 21:28



「祖からすら恐れられる人間ね…………一体、どんな化物なのかしらね、そいつって」

 凛は、呆れたような物言いながらも、どこか面白がるように呟く。
 手にしたその人物について纏められた書類は、それ程厚くない。
 何しろその殆どが不明で埋め尽くされているのだから、厚くなりようがないのだ。
 目にかかる艶やかな髪を軽く掻き上げ、彼女は無造作にそれをテーブルに放り投げる。
 全てを記憶するのに、さして時間は掛からなかった。
 凛が話しかけたのは、対面のソファに長い足を折り畳むように組み身体を投げ出している青年に対してだ。
 先程まで何処から見ても完璧な紳士然とした所作で慇懃に彼女をエスコートしていた彼は、今は身に包んだフォーマルな服を脱ぎ捨て、窮屈だったことを主張するようにシャツの首元を大きく開いて憮然とした顔をしていた。
 彼女の最初の弟子にして最強の守り手であり、かつての最大の難敵………そして現在は最愛の伴侶。
 凛としては状況をそれなりに堪能させてもらったのだが、彼の方は茶番じみていると思っているのか不本意そうであるのは些か残念だ。
 もっとも、本来は非常に危うい立場にある彼を随伴させる気など凛には毛頭無かった。
 しかし、今はやはり一緒に来て良かったと部屋を見渡し現金にも彼女は考えている。

 ミラノのスカラ座から徒歩五分程、モンテナポレオーネ通りの入り口に位置する伝統あるホテルの一室に彼女達は居る。
 著名な音楽家や作家等が宿泊したこともある此処は、流石に五つ星の名に恥じない豪壮さだった。
 二人には広大すぎる空間の内装のその全てが、19世紀の様式の高級な調度で彩られ品の良い雰囲気を醸し出している。
 床が見事なアールデコ様式の寄木造りであることが、特に目を引いた。
 上方に視点を向けると、天井が優美な曲線を描き中央に緻密な装飾を施されたベネチアングラスであろうシャンデリアが飾られている。
 漏れ出る暖色の光は、まるで燭の輝きであるかのように部屋全体を照らし落ち着きを演出していた。
 
 この部屋の優雅さは、まこと恋人同士が甘美な語らいをするのに相応しいと凛は密かに思う。
 無論、現状の立ち位置はそのような甘やかなものとは程遠い。
 しかし、それが望めないにしろ二人きりでこのような場所に居るという事実に彼女は満足していた。
 かつて失ったものを、辛苦を重ねて再び取り戻したという成果を改めて確認していると言っても良い。
 が、彼の方はそのような気分には到底なれないに違いないというのも、また承知している。
 
「さて………別段、驚くべきことでも無い気はするが。そもそも奴らにとって、人間こそが天敵とも言える存在ではないかね? まあ、種ではなく個で対抗するには極めて困難な輩ではあるが特に逸脱せずとも、必要な情報を収集し、充分な装備を整え、優れた戦術を練りさえすれば人間に滅ぼせないものなどこの世界に存在しない。言うまでもなく、我々はそうやって現在に至るまで怪物達を駆逐してきたのだからな」

 案の定、答える声の冷厳さも鋼を思わせる双眸も敵地に居る戦士のそれを思わせた。
 それもまた仕方が無いことだと、凛は内心で溜息をつく。
 イタリア北部の芸術と文化の中心たるこの都市に滞在しているのは、残念なことにバカンスの為ではない。
 指示通りヴァン・フェム配下の者よりの情報提供を受け取る為に、此処に訪れたのだ。
 それは、どういう回りくどさなのかスカラ座においてのオペラの観劇中にお互い顔を合わせること無く手渡された。
 何かに対して非常な警戒をしているのは明らかだ。
 それが何であるか、凛は大方の予想がつく。
 故に瞬間で己の浮ついた感情を心の奥底に封じ込め、理知的で冷徹なる魔術師としての思考に切り替えた。

「ええ、勿論そうでしょうね。人間の全てを総括し単純に考えれば、確かにそういう結論になる。極端で偏った見方にも思えるけど、示唆したいのはそういう事じゃないわよね? 要するにあなたは、祖という強大で特異な存在さえ滅ぼし畏怖されていた者だからと言って、そいつが人間である以上、同位の力を持っていると考えるのは早計だと言いたいんでしょ?」

「まあ、そうだな。我々人間の特性を考えた場合、どちらもあり得ると考えるのが妥当だろう。慢心が多い連中には受け入れがたい現実というのも、この世にはある。無論、何らかの要因により人間でありながら真実奴らを凌駕する者なのかも知れんが」 

 その口調は皮肉げながらも、どこか微かに悲哀を含んでいると凛には感じた。
 人間の特性───それは即ち、自分達にとっての異分子を結果として(、、、、、徹底的に排除するという、種としての過剰な防衛機能を指している。
 つまり病的な排他の意志により、圧倒的な存在さえ伏してしまうというのが世界に霊長として君臨する人間の人間たる所以だ。 
 人間が群体として一番に長けているのがこのような事とは、ある意味救い難い。
 彼の言う“どちらもあり得る”というのは、多様性により極めて強大な突然変異が救い手として奇跡的に齎される場合と───
 脆弱であるはずの平凡な者が、状況と自他問わず妄執じみた意志により特化した『装置』として機能するまでに押し上げられた場合。

「そう、未知である事による曖昧さと齎した結果が、そいつの存在を誇大にしているという可能性は否定出来ないわ。ああ、そうか。あなたには、それが───」

「お察しのとおりだよ、マスター。君が誰よりもその事を認識しているのは承知しているが………それでもあえて言わせてもらえば、それが幻想というものだ。何の冗談か、稀に証明されてしまうのが困りものだがね」

 自嘲するように口端を吊り上げ肩を竦めた彼に対し、凛は脳裏に巡る思いのまま目を細めた。
 まさに、彼自身がそういうものであったということを彼女こそが最も理解していたからである。
 正体が不明でありながら、結果だけを人々に映す者。
 経緯を明かさないまま、結論のみを人々に享受させる都合が良い存在。
 そんなものが、良きにつけ悪しきにつけ幻想を抱かれないわけがない。
 かくして幻想の対象はいつしか逆説的に昇華され証明の機会を得る。
 それが彼───かつての衛宮士郎という人物が辿りかけた過程だ。
 そして、そのカラクリを正確に把握し、自身の目的の為に叩き壊したのが遠坂凛という稀代の魔女だった。
 要は、二人ともに幻想が及ぼす効果というものを実感として捉えていることに他ならない。

「でも、幻想だとしても元になる事例というものが存在しなければ、そもそも成立しない。死徒という超越者にただ一人の人間がその幻想を抱かせるなんて、果たして有り得るのかしら? 死徒とは、つまり既に死しているが故にそれ以上は死なないモノを指す。弱点が多いのは事実だけど、彼らは知を持ち社会性を理解するが故にそれを克服したり隠蔽するのにも長けている。ましてや祖ともなると、その不滅性は条件が揃えば最難度の怪物と言っても良いわ。彼らを知り尽くした最高の吸血鬼ハンターだとしても、そのような認識をされるに至るか私には疑問よ。少なくとも何処かの吸血鬼退治で有名な教授でさえ、彼らにとっての“災禍”とまでは言われないでしょうよ。ま、あれは、それこそ幻想だけど」

 凛の冗談混じりの言葉に、それが予期した答えであったかのように彼は即座に頷く。
 彼女自身もそうだが、今まで無数の死線を乗り越えてきた彼であっても、死徒を敵に回した際の危機というものは恐らく最上位に入っている筈である。
 実際に対峙した人間であれば、それが如何に絶望的な脅威であるか否が応にでも肌で感じ取ることが出来る存在。
 それが死徒という、近しくも最悪の怪物だ。

「まあな。でなければ、教会が埋葬機関などという剣呑な組織を築きあげる筈もない。つまり逆に言えば、そこまでしないとその脅威に人間は対抗できないという証左でもある。あそこは、異端審問がその主な役割ということになっているが、事実上ほぼ吸血鬼専門の殲滅機関だからな。その彼らが営々と時をかけ偏執的に力を傾けてさえ、未だ祖全てを滅することは叶っていない。故にそれを一人の人間が成立させるには、突き抜けた討滅手段が最低一つは必要なのだろうと思う。確率として高いのは………人間の人間たる所以である手段を採る事。簡潔に言えば、道具に頼るのが一番手っ取り早い。つまり、奴らにとって何かしらの致命である物をその人物が武装として用いていたなどだが」

「未知の特化した礼装の使い手であるとかね。それは、私も考えたわ。後は、知られざる驚異的な術式や技術をその身に刻んでいる場合。もしくは、因果を覆すほどの異能の持ち主。でもこれって全部が全部、結局は祖こそが純度が高いそういうものを持った存在なのよね。武装だって出鱈目なものを多く所持してるでしょうし………同じ方向でそれらを人間が駆使したとしても、そうそう彼らの脅威足りえないと思うのだけ───何よ、その顔?」

 その凛の疑問を呈した呟きに、彼は人の悪い笑みを浮かべていた。
 それがかつての相棒に似過ぎて見え、今更ながら彼女は複雑な心境となる。
 以前とはあまりにかけ離れた喋り方、仕草、表情。
 それらは、幾多の尋常ならざる苦難を潜り抜けたが故の擬態であることを彼女は知悉している。
 本人曰く処世術ということだが。
 
「それは、遠坂凛の言葉とは思えないな。そういう所は、昔の君の方が遙かに柔軟性があった気がするが。最近だと、自分を遙かに上回る者との対峙というものがあまり無いだろうから、少々考えが大雑把になっているんじゃないかね? その部分で、私が君から学んだ事は結構多い筈なのだがね」

「───どういう意味?」

「だから、性能差が状況を決定づけるのに必ずしも絶対ではないという認識だよ。特に私のような“持たざる者”からすると、常にその方向で事態を切り拓かないと今頃生きてはいなかっただろうよ」

 溜息混じりに述懐しつつ、彼は座る姿勢を変え腕を組む。
 その声の響きには、かつての自身を思い返しているからなのか、微かに疲労の色があった。
 もっとも、今まで彼が辿ってきた修羅の日々から考えれば、それは溜息一つで片付けられるような簡単なものではない筈だが。

 “持たざる者”とは、殆どの魔術師にとっては噴飯物の言い草だろう。
 しかし確かに、彼がどのような地獄からも生還し、自身より強大であろう者との戦いにも勝利し、目的を遂行し得たのは、その特異性によるものでは決して無いのも事実だ。
 数知れない戦いと、愚直な鍛錬により培われたこれ以上無い的確な状況判断。
 窮地に立とうと己を失わず、逆転の一手を手繰り寄せる奇跡のような洞察力。
 絶望の淵にあろうとも折れない、鋼のような不撓不屈の意志。
 それらこそが、最強の魔術使いと一部で囁かれた衛宮士郎という人物の本当の真価なのだと凛は知り尽くしていた。
 何しろ、そのような彼を長年に渡り追跡し、苦渋を飲まされ、遂には打ち倒したのは彼女自身なのだから。

「無論、力の大小で物事が決することが多いのは事実だが、切り札が一手でもあれば布石の打ち方によってはそれを幾らでも覆すことが出来る。要は、最後の詰め手さえ確かなものであれば良いということだ。先程、最低一つ必要と言ったのはそういう意味合いだな。古い話だが、君はかつて神代の魔術師との対決においてそれを実証したのではなかったかね」

「確かに………本当に古い話ね、それ」

 言われた事に過去の記憶が鮮明なる色彩を帯びて浮かび、素っ気ない呟きとは裏腹に凛の顔が懐旧の念により綻びる。
 それは彼との明確なる最初の1ページ。
 共に歩む事を決意した、摂理を歪めた血塗れの狂宴の一幕。
 そう………あれから既に十数年の月日を経ている。
 しかし、今でも彼女はあの半月足らずの事を大切に心の裡に刻み込んでいた故に、忘却することは有り得ない。
 そんな凛を見て、彼の方は遙かを遠望するかの如き目をする。
 が、何かを払拭するように言葉は淡々と続けられた。

「───そいつは、神出鬼没に現れては標的を反撃の間もなく滅ぼしたのだろう? しかも、ほぼ正体を掴ませなかった。聞く限りだけの印象だが、私にはそいつが死徒達に絶対的な“毒刃”を振るえる稀代の暗殺者のように思えるだけで、超越者のようにはあまり感じないな。この場合、その“毒刃”と死徒の超感覚すら欺ける隠行の手段さえあれば良いということで、そいつ本人の能力スペックが奴らと対峙できるほどに逸脱している必要性は無い。もっとも、その隠行だけで充分過ぎるほどだという見方もできるがな」

「そうは簡単に言うけど、その“毒刃”とやらも充分常軌を逸してると思うわ。祖を滅ぼすなんて、教会秘蔵の聖典ですらそう簡単にはいかない筈よ。それを例え暗殺に近い形であるにしろ反撃の間も無く出来るなんて………どの様な形のモノか見当もつかないけれど、出鱈目も良いところだわ。ヴァン・フェムが言ったように、死神に等しいというのも頷ける。一体、どんな神秘なのか───ある意味ではそれが魔法の領域にあるとしても、私には納得できそうね」

 この辺りが、自分と彼との在り方の違いによる神秘への見解の差異だろうと凛は考える。
 即ち、理を求めるか実利を重視するか。
 無論、二人ともにどちらかに偏重しすぎているという事では無い。
 彼が、あえて結論に対して整合性が取れる単純な方法論のみを提起したのであろう事も彼女には理解出来る。
 だが、果たして………。
 思考に埋没しかける凛に、彼は注意をひく為かわざとらしく大きく息をつく。

「さて………魔術師として君の興味が尽きないのも分かるがね、凛。それを追究したところで、今の私達には益が無いとは思わんか? 第一、そのような考察は直接脅威に晒された死徒共が散々やっていただろうよ。にもかかわらず未だ正体が掴めていないということなのだから、ここで我々が少し考えたところで答えなど出るはずが───」

「それが、そうでも無さそうなのよ。実は、あなたの見解は私の予測を補強している。後で全部目を通すでしょうけど………とりあえずこれを見てもらえる?」

 凛は、テーブルに自身が放った資料を素早く右手で捲り、目的のページを開いて見せる。
 そこには、ある写真が大きく写し出されている。
 彼は怪訝な顔で受け取りつつ、猛禽を思わせる鋭い目で注意深くそれを眺めた。

「ふむ? …………重厚に鍛造された鉄の棒だな。多分、年代はかなり古い───いや、待て。これは、短刀なのか? 造られた時代からすれば、恐らく相当珍しいな。飛び出し式の刃が出るタイプという感じか」

 あっさりと、それを見ただけで看破した彼に感心した。
 凛は、その写真の古ぼけた鉄の棒が何であるか、資料の他のページに書かれた注釈と刃が出た状態の写真を見なければ解らなかった。
 余程の目利きでも、現物を見たならともかく、これだけではそれが短刀だなどと判るまい。
 用途としては暗器に近いのではないかと思えるほどだった。
 だが、彼が見抜けたのも当然と言えば当然だ。

「流石ね。写真じゃ解析は出来無いにしろ、大体の事は経験で分かるって所? “錬鉄の魔術使い”の二つ名は伊達じゃないってワケだ」

「…………その言い方には、多少の皮肉を感じるな。ああ、魔術の弟子としてその部分以外が碌に伸びなかったのは、内心忸怩たる思いだよ」

 上目遣いにむっとした顔になった彼に、凛は吹き出しかける。
 そのような意図は全くなかったが、思いがけず昔と同じような子供っぽい拗ねた表情をされたのが面白かったのだ。
 少々の嗜虐心が湧き上がり、彼女は口元を意地悪く歪め涼し気な流し目を送る。

「今更何言ってるんだか。才能無いっていうのは最初から言ってたんだから、師としては自分の見立てに間違いは無かったって誇りたいくらいよ。ほんと………あなた程手間がかかる弟子はいなかったけど、これからきっちり苦労した分を返してもらうからそのつもりでね」

「やれやれ………改めて考えると、今の自身の境遇には目眩がするな。ま、それなりに善処させてもらうよ、マスター」

 嘆くように言う彼は、しかし言葉とは違いどこか嬉しげな笑みを僅かに口元に浮かべていた。
 凛はそれを読み取り、心の中に愛おしさと同時にある種の諦観が湧き立つ。
 結局は、どこまでいってもこういう人物なのだと心底理解したのは何時の事だったか………。
 自より他の優先を掛け値なしで行う基本原理。
 最終的にほぼ破滅に向かうしか無いその不器用な在り方にこそ、彼女は惹かれた。
 故にその全てを認め、愛し、持ちうる限りの手を尽くして引き止めていたのだが………それでも、化け物じみた混沌衝動に抗しきれず一時彼を失ったのは、凛の中で最悪に近い苦い記憶である。
 だから、彼女は同じ熱量を以て対抗し己の存在の意義を賭して戦った。
 そして、結果として漸く一年程前に勝利を収め自分の元へと強引に取り戻したのだ。
 つまり、今の二人は未だ実に危うい均衡に基づく殺伐とした関係性にある。
 だが───それもまた、ある意味とても自分達らしいと開き直りの境地の中で凛は思う。
 互いの心臓に刃を突きつけあっているようで、少なくともこれからの人生退屈だけはせずに済みそうだ。
 ───と、思考の方向が大幅に逸れているのを自覚し、表情を改めた。

「それより………問題はそこに刻まれているものだけど、何だと思う?」

「恐らくだが、銘だな。鍛鉄の精度から考えるに、そもそもこれは日本のものだろう。もっとも、『七夜』などという銘は聞いたこともないが」

「───そう。私は、聞いたことがあるけどね。鍛冶師の銘では無いけれど」

「…………というと?」

 不審な顔で問いかけの視線を向ける彼に、凛は不敵な笑みを口元のみで浮かべる。
 考えていた一つの推測は、曖昧な知識に基づく極めて論拠が薄弱なものであるのは承知していた。
 しかし、幾つかの事項はこの仮定で説明でき、彼女自身が魔術の才と同じく信頼を置いている直感に訴えるものがあった。
 凛が焦らすようにテーブルに置かれたカットグラスを手に取ることで、氷が微かに澄んだ音を鳴らす。
 芳醇な香りを放ち揺蕩う琥珀色のそれを軽く口に含んだ後、一息ついて彼女は言葉を続けた。
 
「………私も、実はそれ程確信があるわけでもないわ。ただ、日本で管理者をやっている以上、ほんの僅かだけどあの国独自の“組織”ってやつに接点があってね。その筋から偶然にも『七夜』って名称を耳にしたことがあるってわけ。まあ、彼らとは相互不可侵であるという暗黙の了解を確かめ合う関係って感じで………良く言って、お互い無関心って所だから詳しくは知らないし、その『七夜』と結びつけるのは少し飛躍しすぎかなって自分でも思うけど」

「ふむ? 我が祖国のそちら方面は、確かに噂でしか知らんな。大相閉鎖的らしいが………」 

 彼がその程度の認識しか無いのは仕方ない事だ。
 何しろ、その活動の殆どは西側に偏っていた。
 一時極東に足を運んだこともあったようだが、大陸は出ていない筈である。
 日本という国は、世界的に見れば平穏極まりない。
 故に、彼のような存在は必要とされる余地が殆ど無かったのだ。
 そして、言うように協会の魔術師達にすら殆ど伝わらないほど、日本の神秘の領域は独自性が強く秘匿性が高い。

「昔、ルヴィアに言われたことがあってね………日本というのはたまに稀少種が出るにしろ、神秘を学ぶに値しない劣等人種の国だって。その時は頭に血が上って大喧嘩したんだけど、後で冷静に考えたら、これ多分魔術師達の殆どの見解で一面の事実なのよね。但し、あくまで『魔術師にとっては』だけど」

「なるほど。それは何時だったか、聞いた記憶があるな。昔の彼女が言いそうなことではあるが………ああ、そうか。確かそれでノーリッジの───ミス・レイランドも気の毒にな」

「余計な事まで思い出さなくていいわ。とにかく───ここに一つの盲点と、筋道があると思わない?」

 語尾に言葉を重ね威嚇するようにこの上なく優美な笑みを閃かせながら、凛は問いかける。
 それに対して彼は、瞬間で揶揄と呆れを含んだ苦笑を収め軽く咳払いをした。
 これ以上言及しても無駄な被害を被るだけだと、誰よりも経験上で知っていたが故に。

「………いや、失礼。言いたいことは何となく分かるが、相変わらず論旨が飛び過ぎだな。つまり、君の推論はこうか? 奴らに畏怖され祖すら滅ぼした尋常ならざる人間とは、知られざる日本の神秘を体現する者だった。故に、正体不明であり謎だったのだと。それこそ、ルヴィアが言ったように稀少種だったのではないかと?」

「そういう事ね。私が知っている『七夜』っていうのは家名でね、どうも連綿と続いた尋常じゃない『退魔』の血族らしいのよ。あの国はそもそも、遙か古より内部の『魔』と対峙している。その歴史は、ひょっとしたら教会より古いわ。遭遇したことはないけど、『混血』というあの国独自の『魔』との混じりモノはかなり超越した連中らしいし、もしかしたら死徒にすら匹敵するのかもしれない。とすると………」

「とすると、その『七夜』とやらはそれら『魔』を討滅の対象にしていたのだから、同じ『魔』であろう死徒ですら狩ることが出来るほどの特化した連中だったのかもしれないという訳か。なるほど、真偽はともかくその人物を説明するに尤もらしくはある。特に、何故に正体不明だったのかという事について………それは西欧圏に極東の辺境と認識されている、極めて閉鎖的な日本の神秘に属する者だったが故に誰も考えが及ばなかったか、情報に手出し出来なかったのだというのは一つの解答に成り得るかもしれん」

 先取りされ言葉が結論を過不足無く説明するものだった事に、凛は満足気に頷く。
 才気走る閃きこそ無いものの、幾多の状況に培われた彼の思考は柔軟であり察するに鋭敏だ。
 だが、理解はしたものの納得しかねるということを示すようにその表情は渋面を形作っていた。

「しかしだ、やはり全ては推論の域を出ることはないし裏付けも出来まい。確かに、対象の背景を知れば我々の安全率が高まる場合もあるだろう。が、所詮はその程度の問題だ。ヤツからの依頼は極めて曖昧なものだが、要はそいつの現状の確認なのだろう? ならば───」

「だから、そこで私が日本での管理者だということが生きてくるんじゃない。その“組織”とは薄いにしろ関係性はある。というより、今まで必要も無かったし興味も無かったから接触してなかっただけで、こちらから多少のアプローチは出来るわ。そうすれば、有益な情報だって握れるかもしれない。私の直感が外れて無ければだけどね。それと、何故ここまでするのか………あなたには本当に理解出来ない? 私が、まさか使い走りみたいな真似させられて馬鹿正直にそれに甘んじると思う?」

 凛が怜悧な微笑を浮かべながら言った挑発的な言葉に、彼は一瞬虚を突かれた表情となる。
 見詰め合うような形となった間は、秒に満たない。
 すぐに彼の口からは呆れに似た吐息が漏れ、気障な仕草で手を広げて見せる。
 しかし、その瞳にはどこか眩げなものを見るかの如き感情が揺れていた。

「………そうか。遠坂凛とは、そういう魔術師だったな。失念していた私が愚かだったようだ」

「少し引っかかる言い方だけど、納得してくれて何よりだわ。言っとくけどね、何もそいつを捕縛して使役しようとまでは考えていないから。というより真祖の従者なんだから、そんな真似して強大すぎる敵を作るのは御免よ。要は、祖ですら滅ぼし得る神秘の一端が少しでも解明出来れば良い。人間が為している神秘なんだから、私達にだって糸口くらいは掴めるかもしれないし。それが無理なら、そいつと何らかの関係を築く。貸しを作るのが一番だけど、これは相手によるわね。借りを借りと感じ無い人間なら無意味でしょうから」

「ふむ。まあ、なんだ………頼もしい限りだよ、マスター」

「───言いたいことがあるならちゃんと言って頂いたほうが、これからのお互いの為になると思いましてよ、あなた?」

 含む所があるような口調に、凛は最上に近い艶やかな笑みで首を傾げ甘やかな声となる。
 それは彼女を知るものであればある程、背筋に寒気を感じさせずにはいられない類のものだ。
 が、彼は即座に降参するように両手を上げながらも

「いやいや、他意は無いさ。ただ、遠坂凛が遠坂凛である所以を再認識したまでだ。君は君である限り、恐らく誰よりも鮮やかで強い。つまり───俺が勝てなかったのは、おまえのそういう所だったんだなって改めて実感したってことさ、遠坂」

「──────まったく…………ずるくなったわよね、本当に。あなたにそんな言い方されたら、私何も言えなくなっちゃうじゃない」

 突然の変調した声音に、凛は拗ねたように子供っぽく口を尖らせる。
 懐かしむべき彼からの自身の呼ばれ方は多分意識しての事だと分かるが、分かっていても去来する想いに顔が綻びそうになるのが悔しかった。
 まだまだ過去に思いを馳せるには早過ぎる。
 それでも、柄にもなく少々の未練が首を擡げる。
 もう二度と………彼をかつての名では呼ばないと誓った。
 それが、彼女としては自らの行為の最低限の義務だと考えていたからだ。
 でも───

「あー、やめやめ。ぐたぐたと思い悩むのは、性に合わないわ。この部屋、念入りに私が結界張ったし、あなたにも厳重に構造把握してもらって不審なものは無いって確認してもらったし………」

「? ああ、確かにそうだが、油断は禁物───」

「ね、あなた。私も、その………衛宮くんって昔みたいに呼んでいい? 今夜だけでも」

「…………は?」

 意表を突かれて絶句し、その目が見開かれる。
 見ると、凛は恥じらう乙女であるかのように顔を俯いて指を所在無げに動かしていた。
 この様子を目にしたら、破滅の象徴として“赤き魔女”などと畏怖を以て彼女を語る連中は、果たしてどう思うのだろうか?
 だが、それを言うなら彼も人の事は言えない。
 やがて、紅の装束を纏う冷厳なる魔術使いを知る多くの者達が瞠目するだろう程に、その顔は徐々に堰を切ったように崩れ

「くっ…………ふふ、は、ははははははははははは」

「ちょっと………笑いすぎよ。そりゃあ、私は───」

 腹を抱えんばかりに爆笑する彼に、凛は咎めるように睨んだ。
 それに対し一頻りの笑いを何とか収め、彼は殊更に真面目くさった顔で腕組みする。
 
「ふ………すまない、あまりの不意打ちに上手く対応できなかった。全く、時に君の反応はこちらの想定を軽々と超えるから敵わない。てっきり、曲がりなりにもこういう関係になったのだから意識してそう呼んでるのかと思えば…………ああ、人前では俺のことを以前のように呼べないのは仕方ないにしても、こういう時は良いんじゃないか? 昔みたいに衛宮くんとでも、士郎とでも、へっぽことでも何とでも。それは、君にだけ与えられた権利というものだろうよ」

 明らかに、無理矢理吹き出すのを堪えている様子が凛には少々腹立たしくはあった。
 彼女としてはそれなりに悩んだ末の、思い切っての言葉だったというのに。
 不満を表すように、凛は斜に構えて拗ねた視線を送った。

「そうそう特権だって言って、好き勝手出来無いわよ。普段なら衛宮くんが許してくれたって自分が納得できないし、何人かには確実に恨まれるだろうしね。でも、ほら………色々有って、私達ってこうなってから二人きりでこんな時間過ごしたこと無かったじゃない。だから、今夜くらいはそんな気分に浸ってもいいかなって。ま、私も一応女だから、心の贅肉だって分かってても雰囲気に流されることぐらいはあるのよ」

 笑うのなら笑えばいいじゃないとばかりに、少し赤面しつつ凛は憤然と言う。
 が、返ってきたのは彼女の予想に反して揶揄の言葉ではなく、詫びるように顔を曇らせながらの真剣味を帯びた声だった。

「なるほど、そういう面に思い至らなかったのは確かに申し訳なかった。しかし、こんな形でというのは些か業腹だな。利用できるものを利用し尽くすのは、とても君らしくはあるがね。ふむ………では、改めてちゃんとした時間を作る為にも、こんなものはさっさと終わらせねばな。正直に言えば、先程まであまりやる気も湧かなかったが」

「なかなか殊勝な事を言ってくれて嬉しいわ、衛宮くん。じゃ、いい機会だからこの際纏めて色々と私の要望を───」

「あ、あー、なんだ。とりあえず、資料を読む前に君の方から今回の件の経緯を俺にも分り易く口頭で説明してもらえないか? その方が手っ取り早いだろう?」

 冊子となった資料を捲ろうとする手を止め、幾分慌てたように彼は言葉を重ねる。
 が、そのような事で逆襲の糸口を掴んだかのような、端麗に唇で形作られた凛の嗜虐に満ちた笑みが消えるはずもなかった。
 ───そんな話の逸らし方で、私が簡単に誤魔化されるとでも? 
 ───その事はきっちり後で話すから覚悟してね?
 そういう言外のものを雰囲気から正確に読み取り、後でどんな無茶苦茶な要求をされるのかを想像して彼は内心大きな溜息をついた。
 何しろ、凛との付き合いは長い。

「───ま、いいわ。じゃあ、ご要望通りに説明する事にしましょう。一応要点は外さないつもりだけど、言うまでもなくその資料は読み返してね。それ程、複雑な話ってわけじゃないけど不審点は少しあるから」

 機嫌が良さそうな声で言いながら耳にかかる髪を軽く掻き上げ、凛は愛用の黒縁眼鏡を掛ける。
 それは彼女にとって、意識を切り替える為のスイッチのようなものだ。
 彼は、諸々の考えをとりあえず放棄して、話を聞くべく集中した。
 夜中でもそこそこ響く通りの雑踏は、防音著しいここには届かないのが幸いだった。
 


 十日前の事、パリ郊外であるイヴリー・シュル・セーヌ市の警察署において少々の騒動が起こった。
 身柄を拘束し留置場内に入れていた人物に脱走されてしまったのである。
 
 その人物は、セーヌ沿いに乱立する廃工場を利用したアトリエ群付近を彷徨っていたのだという。
 近頃そこは、不法入国者が潜伏しているという噂があったのだ。
 あるシーズンのみ開放し、道楽で自作のアートを披露する場として利用されるアトリエに普段殆ど人は居ない。
 その為、近所の住民が不安に駆られていち早く通報したのも無理なからぬ事だった。
 
 その人物の風体も、一目で怪しまれる程にかなり異様だったようだ。
 手入れがされていない長髪が顔全体を覆い隠し幽鬼さながら。
 服装は黒色で統一され、生気の無さとも相まってまるで影そのもののような覚束無い足取り。
 しかも、その時身柄を確保した警察官の最初の印象よると明らかに薬物中毒者のような状態にあったという。
 周囲のことなどまるで目に入らず虚ろな表情で独り言を呟き続ける様はかなり不気味で、駆けつけた警官達も大相困惑したとの事だ。
 が、外見から言えば小柄で華奢な風貌の人物で、狂乱して暴れている訳でもなかった。
 故に、全く抵抗も受けず警官達は拍子抜けするほど簡単にその人物を警察署に連行することが出来た。
 
 しかし、取り急ぎ薬物反応検査をしたものの、予想に反してその人物から薬物を摂取しているという形跡は検出されなかった。
 改めて尋問同様に身の上を訊いても、やはり要領を得ない言葉しか返ってこない。
 所持品も僅かで、身分を証明できるものは無く何かを特定できる手掛かりも無し。
 無論の事、この時点で不法入国者として扱うことも可能だったが、問題なのはその人物が原因不明の心神喪失状態であるということにあった。
 病人に見える人間を不当に扱ったことが発覚した場合、警察への市民からの不信を必死に払拭しようとしている昨今においては非常にマイナスだ。
 そこで頭を悩ませた警察が次に考えたのは、その異常な様子からどこかの精神病院から抜け出してきた患者かもしれないという可能性だった。
 が、かなりの数の病院に連絡をとったものの、その人物に該当するような脱走患者はやはり確認がとれた中では居なかった。
 つまり、これも徒労に終わった。
 
 良く揶揄の対象になるフランスの警察とて、実際の所は常に人手が足りないくらいに多忙である。
 最近は特に、通常事件のみならず移民問題による治安維持にも頭を悩ませている。
 だから、イメージの問題は確かにあるとは言えいつまでもこのような身元不明者に時間を割いているわけにもいかなかった。
 結局その人物については落ち着くまで然るべき施設に預け回復を待ち、改めて処遇を決めるということになった。
 要は、先延ばしにした曖昧な処理を警察はすることにしたのである。
 ある程度時間が経てば、その人物の捜索願等が出される可能性もあるという希望的観測もあったらしい。
 こうして一応の落着がつけられようとしたが………

「ま、仕方ないわよね。お役所仕事と言えばそうだけどそれなりに努力してるし、評判が悪いフランスの警察にしては人道的な処置とも言えるかな。だけど、担当になった警官は義憤に駆られたか、下心か、もっと真面目にそいつを何とかしてやりたいと本気で考えたみたい。ちょっと貸して────ほら、これ。何となく、何とかしてやりたくなる気が分かるでしょう」

 凛は意地悪い口調で言いながら資料を奪うようにもぎ取り、ページを捲って見せつける。
 彼はそれを見て少々面食らったように数回瞬きした後、澄ました表情に戻して微かに首を振った。

「さて………それは、まあ、人それぞれと言ったところであろうよ。警官の中には、職業的な矜持からか人徳者というのもそれなりに存在する。確か、あの市はパリ警視庁の管轄だと思ったが、昨今の情報流出のせいか綱紀粛正も激しいと聞くからまともになりつつあるんじゃないか? 君の勘繰りも、有りうる話ではあるがね。ふむ………既に一つ疑問が出来たが、それは後にしよう。それで?」

「ええ。それでね───」

 それでその人物は、警察署内の留置場に勾留されることとなった。
 二十四時間内の勾留期間中に何とか手続きを終え、翌日には然るべき施設へ移送する手筈となっていたのである。
 その間、その人物は当初と同じく抜け殻のように一点を呆然と見詰め続けたままであり、大人しいことこの上なかった。
 ただ時折、『月が………』などと消え入りそうな声で意味不明の呟きを繰り返していたという。
 瞳が時折淡い蒼の輝きを発したのを見たという証言もあるが、これは証言者自身も錯覚の類と思ったようだ。

 零時を大幅に過ぎた深夜、それは起こった。
 その時間、当日起こっていたとある殺人未遂事件のせいもあって、署内の職員は人数にして約三分の一程は居たという。
 留置場は、覗き窓でさえ防弾に成り得る無骨な鉄の扉のみが唯一の出入口であり、部屋の構造は厚いコンクリートで四方を囲まれた部屋だった。
 ここに通常身柄を確保した者達を纏めて押し込める訳だが、その日は珍しいことにその人物しか入っていなかったのはある意味では運が良かったと言える。
 
 最初の犠牲者は、この留置場のその日の担当として監視業務を行っていた警察官である。
 異常は、その彼が金属が打ち鳴らされたような甲高い音が響いたのを聞いた所から始まった。
 直後、起こった事のあまりの信じ難さに彼は我が目を疑ったという。
 厚さが五センチはあろうかという鉄の扉が出来の良いパズルでもあるかのように幾つにも寸断され、瞬時に崩れ落ちたのだ。
 しかも、目の前で起こった現実離れした馬鹿馬鹿しい光景はこれだけでは済まなかった。
 何か目では追いきれない黒い塊が、残骸となった鉄の扉の破片を撒き散らしながら飛び出す。
 それは、狭い通路の壁や天井をピンボールの球であるかのように跳ね回り瞬時に音も無く迫る。
 抵抗どころか悲鳴をあげる間もなく───彼の意識はここで暗転した。

 彼とほぼ同様の事を、数人の職員が経験したと証言していた。
 何か黒いものが視界を過ぎったと察知した瞬間に、首筋や腹に衝撃を受けて意識を失ったと皆が口を揃えて言った。
 ただ、それが何だったのかを明確に断言できるものは当然居なかった。
 他にも、得体が知れないモノを瞬間的に見たと証言した者達も居た。
 しかしながら、この辺りになってくるとただの睡眠不足や疲労による幻覚との区別もつけられないので、あまり重要視はされていない。
 つまり───脱走の発覚が遅れたのはこういう理由からだったのだ。
 騒乱はまるで起こらず、恐ろしく速やかにそれは遂行されたのだ。
 その後の調査により、その人物の行動を整理したところによると次のようになるようだ。
 まず、何らかの手段により留置場の扉を破壊して脱出。
 監視の任についていた警察官に襲いかかり、意識を失わせる。
 その後、署内を並外れた身体能力と隠行を駆使して徘徊。
 目撃されそうになると一瞬で相手を気絶させ、何故か迷うこと無く向かった保管室にて押収された所持品を回収。
 目的を果たした後に、即座に署から逃走。
 恐らくこれらは、時間にして五分にも満たないうちに為されたであろうと推測されている。
 
「警官達を責めることは出来ないでしょうね。幾ら何でも、これは相手が悪すぎたのだと思う。見た目に騙されたというレベルじゃあないわ。拾ってきた小犬が、異星の怪物だったくらいの理不尽さだもの。まあ、それはともかく………この脱走事件を調査したのがパリ警視庁の本部の人間らしいんだけど、こいつが実は協会から離れた魔術師崩れでね。早い話が、ヴァン・フェム子飼いの人間みたいで」

「なるほどな。だからこそヤツは、これを死神デスとやらの仕業ではないかといち早く疑念を抱けたわけだ。だが、特定したその論拠は? 今の話程度の事を実行出来る連中は、『こちら側』だったらごまんと居るだろうよ。単純に能力の問題だけなら、形は違え君にも私にも可能だ」

「そうね。だから、論拠は当然あるわ。実は、この調査したっていうヴァン・フェムの配下………魔術師崩れなんて言うけど、階位としては相当上の方に位置しててね。一歩間違うと王冠グランドに到達する程の魔術師だったらしいのよ。何でも、かつては解体されたクロンの大隊に所属していたって言うから一流なのは間違いないでしょうね。どうして吸血鬼狩りが主任務だった大隊所属の人間が、吸血鬼の配下に成り下がったのかはかなり奇妙ではあるけれど………とりあえずそれは置いておくとして、着目すべきは、こいつの魔術師としての見解が恐らくは相当に精度が高いという事。これ、さっき話した中に出てきた解体された鉄の扉の写真なんだけど」

 資料を開き、連続で並べられた写真が載っているページを凛は指し示す。
 無惨にも無数に寸断された鉄の破片は、しかしその実、言われなければ最初からそういう物であったかのような綺麗な解体のされ方だった。
 寄木細工の部品を彼は連想する。
 確かに異常ではあるが、これを再現出来る者は魔術師に限らず居るだろう。
 刃物によるものというのであるならば、知る範囲では、決して世俗には関わらない絶技を極めた武芸者なら魔術を駆使せずともこのような真似が可能かもしれない。
 しかし、そのような考えはページ下段に写し出されたそれらの断面を見ることで吹き飛んだ。
 
「突き抜けた討滅手段などと先程は自分で言ったが、まさかここまで直接的で容赦が無いものだとは………」

 その戦慄すべき切り口に、彼の言葉は呆気に取られたように語尾が途切れる。
 滑らかで、職人が長年に渡り研磨したかのような鈍い鉄の輝き。
 しかし、そのような安易なものでは決して無いと己の直感が訴える。
 一目で感じたのは、死骸を目の当たりにした時のような生者ならどうしても湧き上がる瞬間の悍しさだった。
 何故こうなる? と、理不尽ささえ覚える。
 これまで数々の戦いに身を置き、曲がりなりにも剣の修練を積んだからこそ理解できる。
 そこにあるのは、覆せぬ不可逆の運命の具現。
 底に蟠る因果の帰結への畏怖。
 所詮は、印象に基づく曖昧なものであろう事は承知している。
 だが───
 逡巡する彼を、凛は興味深そうに上目遣いで覗き込んだ。

「ああ………あなただとやっぱり、一目でこれの異常さが解るんだ? 私には、この写真だけじゃいまいちピンと来ないのよね。実物を見たら違うとは思うけど。一応、これの見解として付記されたものを読むわね」

“───つまり、これらは歴然とした理外の神秘の痕に他ならず、しかもこれを再現するのは私が知りうる限り、如何なる魔術でも不可能であろうことを見解として述べさせて頂く。何故なら、魔術において『死』という絶対的概念そのものを直接扱う事は未踏の領域であり、届かざる神秘だからである。そう、これらの切り裂かれた物体の数々は物理的に解体という現象として目に映るが、概念の見地からすると『殺されている』のは明白である。実の所、これらを目のあたりにするのは初めてでは無い。かのアルズベリの大儀式における闘争において、この理不尽な現象は幾度も痕を残し我々を大いに懊悩させた。これを為し得るのは、真祖の王族の従者であり死徒達の間で死神デスと称された人物のみであると断言できる。よって、この現象が痕として残された以上、長年行方が掴めなかった死神デスは再来したと言わざるを得ない。しかし、だとするならば何故に───”

「………というわけなのよ。要するに、論拠となっているのはこの『死』そのものを扱っているかのような理外の現象が確認されたからということみたいね。ちなみに、この鉄の扉の解体ね………留置場内の剥離したコンクリート片でやったらしいわ。そんなの、『強化』を『相乗』しても無理でしょうね、多分」

 喋り過ぎて渇いた喉を潤す為、一息ついて凛はグラスを呷る。
 彼もそれに付き合うように、目前にある氷が溶けきり薄くなったウィスキーを僅かに口に傾けた。
 元より彼は酒が然程強く無い為、これくらいで十分だった。
 凝り固まった思考を解きほぐす潤滑油としては多少役に立つ程度の認識で、あまり美味いと感じたことはない。

「先程、後回しにすると言った疑問だが………」

「なに? 大体見当がついてるんだけど、一応聞くわ」

 言いながら、凛は優美な仕草で首を傾げつつグラスを置く。
 その彼女の余裕を持った表情と言葉に、彼は得心したように軽く頷いた。

「………だろうな。君も同じ疑念を抱いた筈だ。再来したとされるこの死神デスは、資料を読む限りでは明らかにヴァン・フェムが言った事と咬み合っていない。現象のみに着目すれば、確かに合致するのだろう。だが、それだけだ。まあ、正体不明であったというのなら錯誤ということなのかもしれないが。あと、君が先ほど言った予測も外れているようにしか思えない。いや、しかし……………そうとも限らないのか」

「ええ。神秘の領域にある以上、どうとでもなるし手段は無数にあるとしか私には言えないわ。今の段階ではね。だから、一つ一つ確認していくしか無い。さっきの予測はその一環だと考えてくれればいい。ヴァン・フェムだって気がついていない訳は無いし。『真偽を確認して欲しい』なんて持って回った言い方は、多分そのせいね。根気よく地味な方法って趣味じゃないけど、やらないわけにはいかないからね。それに誰かさんのせいで、結構我慢強くなったと思うわ、私」

「やれやれ、そこでこちらに矛先が向かうというわけか。手を緩めないのは相変わらずだが、少しは───?」

 鳴り響く電子音に、言葉を止める。
 テーブルの上の赤い樹脂の古い形式の携帯が、モーツァルトのアイネ・クライネ・ナハトムジークを振動しながら奏でていたのだ。
 凛は、それを確認して一瞬緊張するように身体を強ばらせる。
 それは電話に出たくない相手だから身構えたというわけではなく、携帯電話そのものを扱うことに未だに抵抗がある為だと彼は知っていた。
 思わず呆れたような苦笑を漏らした彼に対しきっと睨みつけた後、凛は意を決したように電話に出た。
 出るための操作を五秒ほどで終えることが出来たのが進歩の証かと、意地悪く彼は心の中で評価した。

「はい、もしもし。───ええ、そうですわ、ムッシュ。はい………はい、確認しました。なかなか興味深く、上手く纏められた資料でしたね。それで…………そうですか、流石ですね。───え? 何処ですか? 生憎、フランスのコミューンについては詳しくありませんので………アルザス? それは、ほぼ最東端ですわね。では、私達はそちらに向かえば………と、言いますと? はあ!? なんですって!?」

 華麗極まる貴婦人として振舞っていた凛の箍が急に外れたことに内容を察し、彼は緊張の糸を引き締める。
 つまり、彼女が一瞬我を忘れて激高するほどの事態が起こったということだ。

「教会の領域って………そんな事を言い出したら、西欧圏はほぼ全てそうじゃないですか! ───それは、明らかにそちらの失態ですわね。少々の失望を禁じえませんわ、ムッシュ………いえ、今更の破棄は有り得ません。報酬の加増くらいは要求させて頂きますが。それで、教会のどの…………………それは………幾ら何でも最悪です。────そうですか。そうでしょうね。ええ、もう何も期待しません。この件が済み次第、そちらに伺わせて頂きます。弁明は後ほど───無論です。お会いできるのを楽しみにしていますわ、ムッシュ」

 あまりに鮮やかで玲瓏な笑みを閃かしつつ、凛は電話を静かに切った。
 相手が何かを懇願するような喚き声が受話口から漏れていたが、どうやらそれを無視しての事らしい。
 これは………激怒よりもさらに酷いと彼は悟る。
 可視化出来るほどの膨大な魔力が、気炎となって渦巻いているのを感知した。
 ここまでとなると、彼女は最悪相手が再起不能になるまで徹底して潰す。

「どうした? 何か、状況が悪い方へ傾いたのは察したが」

 落ち着かせるような淡々とした口調に、凛は握り潰さんばかりにしていた罪の無い哀れな自身の携帯を掌から解放した。
 それで五台目となる同機種の携帯は、何とか六台目へ引き継ぐという運命を免れた。
 頭痛を堪えるように顳顬に指を当てつつ、彼女は重い口を開く。

「…………最悪よ。この短時間で目標対象が潜伏している先を何とか突き止めたのは評価に値するけど、その過程でとんでもない大ポカやらかしたみたい。どうやら、情報が漏洩したらしいんだけど…………よりにもよって、一番関わってほしくないところにこの情報が渡ったようだわ。既に、先んじて対象に接触してるって」

「というと、やはり?」

 彼の強まった眼光を受け、凛は言葉を続けるのを躊躇する。
 果たして………いやしかし、今更誤魔化すのは無理だ。
 ここでそうした所で、彼は強引にでも彼女の助けになろうとするだろう。
 そして、挙句に暴走するに決まっている。
 ならば、正直に全て伝えて自身の目の届く範囲に居てもらった方がましだと、彼女はこれまでの経験から判断する。
 それは、あまりに苦い決断だった。

「…………ええ、教会よ。しかも、先行して動いているのはどういうわけかとんでもなく物騒なヤツね。聖銃の代行者………つまり───」

「───埋葬機関か。なるほど、それはなかなか笑えない。君が通話中に携帯を破壊しなかったのが奇跡のようだ」 

 冗談めかした調子で肩を竦めるが、その瞳が猛禽のように絞られたことを凛は見逃さなかった。
 彼は以前、教会と決定的に対立をしている。
 そちらとの交渉は相手が相手だけに慎重に運んでいる為、未だ殆ど進展がない。
 彼女はこれからの先行きを考え、今回の件に対する自身の甘さに心中で悪態をついた



[24979] サリエルを待ち侘びて Ⅲ
Name: tory◆1f6c1871 ID:582d51b1
Date: 2011/08/02 23:45



 ───要するに、ただの間が悪い『偶然』に過ぎなかったのだ。
 
 彼、ジョルジュは壮年のトラックの運転手である。
 勤続年数は、十五年と八ヶ月。
 それ以外の職に就いたことはなく、その風貌は如何にもな感じでなかなか厳つい。
 190センチ近い長身に屈強な体格。
 眼窩に落ち窪んだ鋭い眼。
 高い鼻柱に、せり上がった額。
 眉間に、常に不機嫌そうな深い皺の跡。
 と、このように大抵の場合まず喧嘩を売られることはない見事な強面だ。
 お陰で、良くちょっとした暴力沙汰(具体的に言うと酔っぱらいの喧嘩など)の仲裁に駆り出されることが多い。
 何しろ、少し睨みつけるだけで殆どの相手は怯む。
 付け加えるならば、発せられる声も地を這うように低く野太い。
 だから、実際のところそんな外見とは裏腹に彼が極めて気が小さく、お人好しで、誰よりも諍いを嫌う優しさに溢れる人物だと知る者は殆どいない。
 親しい友人、両親、最愛の妻、子供達といった極々近しい家族もしくは家族同然の僅かな人々だけがジョルジュの本当の性格を理解している。
 何故そのような本来の人格がまるで知られていないかというと、彼がどちらかというと無口で自分を表現することに不器用だという事に起因していた。
 要するに、誤解されやすいのだ。
 ついでに言うと、運もかなり悪い。
 そのせいか、大袈裟にして尾鰭がついた風評が立つこともある。
 無論、全部が全部出鱈目ばかり。
 それは、例えばこういうものだ。
 
 曰く、片手一本でマフィアの用心棒すら務めるプロの格闘家を病院送りにした。
 
 ───実際は、相手が大分酔っ払っていて勝手に転んで気絶したのである。彼が、話せば分かるというジェスチャーのつもりで慌てて手を突き出したのに対し、相手がタイミング良く倒れたので、見ていた者たちが妙な曲解をしたのだ。
 
 曰く、熊を凝視することで追い払い、それだけでは飽きたらず素手で仕留めて食べ尽くした。
 
 ───実際は、バカンス先で運が悪いことに熊に遭遇し、恐怖で固まっていたら勝手に熊の方が何処かへ去っただけの話。後にハンターにより熊は仕留められ、そのハンターに熊料理を振舞われたが彼は熊が哀れで食べることが出来なかった。
 
 曰く、ストライキの時に警官隊と衝突し、怒りに任せて十数人をまとめて薙ぎ倒し血の雨を降らせた。
 
 ───警官とストライキを敢行した輸送業者の組合員達の興奮した揉み合いに巻き込まれただけである。血の雨どころか、こちらが何かの拍子で殴られ鼻血を出した。

 曰く、懐から豹を飛び掛かからせた。
 
 ───意味不明である。懐に豹など入るわけがない。

 曰く、懐から鰐が這い出てきた。
 
 ───全く理解出来ない。鰐も入らないと思う。

 曰く、懐から無数の鴉を羽ばたかせた。

 ───自分は運転手であって、手品師ではない。

 曰く、懐から象が突進してきて車を粉砕した。
 
 ───ここまで言われると、溜息しか出てこない。何故、人間動物園扱いされなければならないのだろう。

 曰く、懐から巨大な怪物の脚らしきものが……
 
 ───いい加減にして欲しい。荒唐無稽にもほどがある。

 ただ、これら生き物関係の怪談じみたものは十数年前の一時期だけの噂だったのだが、身に覚えがなさすぎて未だ彼には謎だ。
 もしジョルジュに非があるとしたら、これらの誤解を解くための努力が不十分だったというところにあるだろう。
 しかし、彼にしてみれば元々が口下手なのにどう説明したらこれら馬鹿げた噂を否定出来るか見当がつかなかったのだ。
 本気で弁明するのもどうかと思ったので。
 まあ、多少は好都合だと考えた部分もある。
 自分のままお人好しに振舞い舐められると酷い目に遭うというのを、経験として知っていたからだ。
 それだったら、誤解でもまだ怖がれていた方がましだ。
 大切な人にさえ、自身がちゃんと理解されれば問題はない。
 実際、ジョルジュは今の姿形とは似ても似つかない、まだ小柄だった幼い頃によくいじめられていた。
 故に、彼をこのような見た目に成長させてくれた神に大いに感謝すらしていた。
 気弱で不器用な自分が世間で生きやすいように配慮してくれたのだと。
 そう───ジョルジュは素朴にして敬虔なカトリックの信者でもある。
 日曜のミサへ家族と共に行くのを欠かしたことが無いのは言うに及ばず、それ以外でも頻繁に教会に訪れる。
 ジョルジュにとって信仰は生きて行く上で不可欠なものである。
 もし幼馴染の現在の愛妻の存在がなければ、間違いなく修道院にでも入っていたと思う程に。
 つまり、そんな彼が難儀にあって往生していた神職の者を見過ごすことなど出来なかったのは道理だった。
 例え、それが彼に危難を訪れさせる者であったとしても。
 本当に彼は、色々と運が悪かったのだ。

 
 殆ど車通りがない県道を、のんびりとジョルジュが走っていた時の事だ。
 その日、季節特有の快晴の透き通った青空が見渡す限り道の果てまでどこまでも続いており、彼の心は自然と軽かった。
 何事も無く順調にいけば、これから向かう荷物の受け渡し先である目的地カールスルーエへの到着時刻は予定より大分余裕がある。
 最近少々機嫌が悪かった愛車であるルノーのマグナムも、要因は不明ながら快調に轟くエンジン音を不安無く響かせていた。
 この大型トラックは、箱を二つ縦に並べたような奇抜なデザインの為か比較的車高が高く、またフロントガラスの範囲が広い。
 つまり、ドライバーにとってありがたい事に視界が非常に良好であるのがジョルジュが気に入っている点の一つだった。
 この時もそのおかげで、かなり遠い位置からそれに気がつくことが出来たのである。
 
 片側一車線の両側に鬱蒼と雑木林が広がる道の途上、路肩に白煙を上げた車を停めつつ成す術なく佇んでいたのは、華奢で小柄な姿だった。
 恐らく、エンジンがオーバーヒートでもして動かなくなってしまったのだろうか? と、ジョルジュはその状況に遠目で見当をつけた。
 さて、彼の性格としてはこのように困っているだろう者を前にして知らぬ振りで通り過ぎるのは難しい。
 とは言え、過去の経験から少々の躊躇も心を占める。
 かつて、不運な事に全く同じような状況で無警戒に相手を助けようとしたら強盗だったという出来事があったのだ。
 車のトラブルを装い、それを助けにきた人物を隠れていた者達が銃で取り囲み所持している金品を強奪するという手口だった。
 あの時は幸い荷物が空の帰路途中で財布を取られたぐらいで済んだが、本当に命が助かった事は僥倖だとジョルジュは後に涙を流して神に感謝したものだ。
 少ない収穫しか無かったことに、強盗達が腹立ち紛れで自分を殺すことも充分にあったからだ。
 だから、そのトラウマと困っている者を見過ごせないという想いの二律背反にジョルジュは一瞬懊悩したわけだが………距離を縮めしっかりと確認できたその人物の扮装で、天秤は即座に一方に傾いた。
 明らかに修道服を着ていたからである。
 しかも、かなり歳若く見える女性………つまり修道女スールということだ。
 このような相手では、信徒としても自身が男であるという点でも放って置ける訳もない。
 神に仕える者を助けるのは信仰を持つ者として当然であるし、男が困難に直面している女性に手を貸さないということも彼の価値観からは有り得ない。
 少なくともジョルジュは両親に、特に父親に、そう言い聞かせられて育てられた。
 威圧的にならぬよう配慮しながら、徐々にスピードを緩めて車体をその修道女スールの近くで停止させる。
 こちらに向けた彼女の顔は、穏やかながらも強い意志が容易に垣間見えるほど凛々しく端正な造形だった。
 蒼穹の青空と樹々の深緑を背景に屹立する修道服を纏った姿に、まるで荘厳な宗教画に描かれた聖女を既視感と共に連想する。
 端的に且つ下世話に言えば、滅多にお目にかかれない程の美人だ。
 尤も、ジョルジュにとっては妻以外の女性への評価自体あまり自信がないが。
 声を掛けるためにパワーウィンドウを降ろした後、渇いた音を響かせるエンジンを切る。
 
「ご機嫌よう、修道女様マ・スール。どうやらお困りのようですが、私で宜しければ何かお助けできることはこざいますか?」

「暖かいお心遣い感謝致します、ムッシュ。お恥ずかしい話なのですが実は…………って、え───」

 ジョルジュの真摯な言葉に、貞淑を旨とする修道女スールらしく彼女は粛々と頭を下げる。
 しかし、改めて見上げる形で顔を上げてジョルジュと視線を合わせた途端に絶句していた。
 眼鏡の奥の澄んだ蒼い瞳が見開かれ、丸くなる。

「ネロ・カ…………!?」

「は? え?」

 瞬間で正視し難い程に厳しい表情に豹変した彼女に、ジョルジュは訳が分からず狼狽し言葉を詰まらせた。
 背筋に冷たいものが走る。
 何故か、銃口を突きつけられたような恐怖を感じ身体が固まった。
 初対面の女性に面相で怖がられてしまうのは慣れているが、これは一体………?
 が、───やがて息苦しくなるほどに緊張した空気はすぐに霧散する。
 何かに気がついたように言葉を止め、修道女スールの雰囲気が穏やかなものへと急速に戻ったからだ。
 彼女は一度咳払いをした後、再度深々と頭を下げた。

「あ、いや、大変失礼致しました。実は、えー………あまり、良い気分では無いかもしれませんが、亡くなった知人に貴方がとてもよく似ていたので」

「あ、ああ、そうでしたか」

 こちらが恐縮する程に本当に申し訳なさそうに言う彼女に、ジョルジュは緊張を解いてぎこちなく頷く。
 なるほど、そういう事もあるのかもしれない。
 そういえば、過去に何度か全く知らない人々から全く知らない名で呼ばれたこともあったのを彼は思い出す。
 確か、世の中には良く似た顔の人間が三人はいるらしいというのを聞いたことがあるし。
 しかし───自分によく似ているというその人物は、このく修道女スールにとってどんな相手だったのか。
 今の剣呑な雰囲気から考えると、とても尋ねる気にならない。

「………まあ、どうかお気になさらずに。それよりも、ここから見た感じですとその車───」

「はい。色々手を尽くしてみましたが、駄目でしたねえ。どうやら、天に召されてしまったようです。任務に使うからなるべく頑丈な車を用意しろと言ったのに、ちょっと無茶したらこの始末でした。全く………最近、私に対するサポートが特に杜撰なんですよね。ま、嫌がらせには慣れてますけど」

「はあ………」

 困ったものです、と腰に手を当てつつ溜息をついて呟く修道女スールに、ジョルジュは馬鹿みたいに相槌を打つしかなかった。
 今も車体前部から煙を棚引かせているのは、空色の車体の角張った形をした古い年代のボルボだった。
 それだけならばエンジントラブル等なのだろうと思うのだが、善く善く見ると側面部が何かに激突したように大分へこんでいたり、ミラーが取れかかっていたり、テイルランプが無惨に割れていたりするのが気になる。
 無茶といっても………一体、どういう無茶をすればこうなるのだろう?
 つまり、このく修道女スールはもしかしたら運転が極端に下手なのか?
 いや………車体の至る所に穿たれた穴が見えるが、あれはもしかして弾───

「その………ご覧の通りなので、出来れば行けるところまで同乗させて頂ければ有り難いのですが。勿論、充分な謝礼は致しますので」

「あ、ええ、はい。実は、こちらからそう申し出ようと思っていたところです」

 照れくさそうにはにかんで言う彼女にジョルジュは慌てて答える。
 一瞬の不審が目眩と共に消える。
 そう………自分は過敏になって何か想像力を逞しくしてしまったのだろうと彼は思考を切り替えた。
 このようなく修道女スールが、派手で荒唐無稽な映画でしかお目にかかれないような事に関わっていよう筈もない。
 とにかく今は、この難儀している不運な彼女の期待に応えなければ。

「主にお仕えする方をお助けするのは、信徒の端くれとして当然ですから。謝礼などと言われても逆に困りますよ、修道女様マ・スール。とりあえず、目的地は何処なのでしょうか?」

「はい、ソルスティスというコミューンです。アルザス地方なんですが、ご存知でしょうか?」

「ああ、それなら丁度良かった。通り道です。かなり近くまでお送りすることが出来ますよ」

 ジョルジュは、言いながら安心させるつもりで自身では最上のものと信じる笑顔を浮かべる。
 だがそれは、極々限られた彼の身内にしか通じない類のものだ。
 口元はどう見ても不敵に歪んでいるし、瞳は大抵の者が圧迫感を覚えるような輝きを放っている。
 端的に言うと、完全に逆効果だった。
 だから、対するこのく修道女スールが穏やかな微笑を保っていたのは、ある意味只者では無い証拠だったのかもしれない。
 例え頬が少々引き攣り、思わず手を懐に伸ばしかけたとしても。


 陽光と青空に映える低木と牧草地の広がり。
 時折見える、申し訳程度の疎らな建物。
 そのような長閑な風景に差し掛かり緩やかなカーブ以外はほぼ一直線である起伏のない田舎道を、トラックは一定の速度でひた走る。

「それで、私の上司が何て言ったと思います? 『お前に回せる余剰の手は、例え子猫のものだろうともはや無い。そもそも、お前に車など必要無いだろう。さっさと目的地まで走れ。父と子と聖霊の御名において、今度こちらにこのような下らん要請をして手を煩わせるような真似をしたら千の苦痛と万の断罪の後に速やかに八つ裂きにするから、そのつもりでな』ですよ!? 性格が破綻してるにも程がありますよ、本当に! そうは思われませんか、ジョルジュさん?」

「はあ……………」

 助手席に座った憤慨して捲し立てる彼女に、ジョルジュは訳が分からずもハンドルを操作しながら曖昧な表情で頷く。
 元々気の利いたことなど言えない彼であったが、何よりもその内容がいまいち理解し難く言葉を濁さざるを得なかった。
 とても教会に属する者とは信じられない物騒な言い回しだったからだ。
 それとも、何か聖職者特有の暗喩に満ちた言葉なのだろうか?
 その後に続いた彼女の『何も結界施術された移動要塞やMBTを持って来てくれと言ってるわけじゃないんですから、特殊車両の一台や二台手配してくれても良いじゃないですか』という小さな呟きは、さっぱり意味が解らなかったが。
 何にしろ、あそこで立ち往生した際にこのく修道女スールは自身を派遣した教会に現状を報告したら相手にされなかったというのは事実らしい。
 彼女の言う通りだとしたら、確かにその上司とやらは間違いなく酷薄だ。
 第一、あの場所から徒歩でソルスティスに向かうのはどう考えても無茶である。
 50Kmは優にあるし、大体彼女は全部合わせたら100Kgは超えるだろう荷物を自分の車に積んでいたのだ。
 
 その殆どは、ほぼ鉄の塊同然の鎖を巻きつけられた立方体………どこか神秘的で畏怖すら覚える、過剰に装飾が施されたパンドラの箱じみたケースだった。
 それを荷台に積み替えるのにジョルジュは結構苦労した。 
 まあ、大型冷蔵庫よりは重くなかったし一人で持てないこともなかった。
 何の冗談か、持ち運び用の取っ手もケースに付いていたがこれを気軽に持って歩く人間など居ないだろう。
 ましてや、このか弱げにすら見えるく修道女スールには微塵も動かせるとは思えない。
 それは自分で積みますなどと彼女は遠慮がちに申し出たが、ジョルジュはその社交辞令に大丈夫ですよ任せてくださいと笑顔で答えた。
 それでも不安げな表情をされたので、彼は安心させる為に仕事で鍛え抜かれた腕で力こぶを作ってみせたら何故かますます複雑な表情をされたが。
 これが何なのかは全く想像がつかないが、このような重量の荷物では積み下ろしも目的地まで辿り着いたらやってやらなければならないだろう。
 それはほぼ正規の運送の仕事に等しかったが、仕方ない事だとジョルジュは腹を括った。
 
 修道女スールは、シエルと名乗った。
 正直、随分と珍しい名だとジョルジュは感じる。
 洗礼名とも思えない。
 だがくシエルとは、その雰囲気が清廉で柔和なこのく修道女スールにはぴったりだと自然と納得した。
 シエルが同乗してからの道中の会話は、他愛もないものに終始した。
 彼女は屈託なく良く喋る。
 それだけでも、ジョルジュが知る静謐を旨とする修道女スールとは相当違う。
 が、決して不快ではないのはその柔らかな口調と品のある穏やかな雰囲気故にだろう。
 ジョルジュも訊かれるままに、色々と自身の事を喋った。
 仕事について、故郷について、家族についてと言葉少なにぽつりぽつりと。
 特に、幼馴染である妻とどうして結婚に至ったのかという事に対してシエルは好奇心のままに目を輝かせ訊いてきたので、赤面しながらも出来るだけ詳細に話したら

「ははあ、そんな経緯が───なかなか、ロマンチックで素敵なお話ですね。率直に言うと、少々妬ましいくらいです」

 などと嬉しそうに目を細めて返されたので、ますます恥ずかしくなった。
 それを誤魔化すために話を変え、ジョルジュの方もシエルに対してどういう理由でソルスティスに向かっているのかと尋ねる。
 彼女がその質問に対して絶やさない笑みで答えてくれたところによると、無論観光目的などではなく臨時でそこの教会に着任する為に向かっていたという事のようだった。
 何度か仕事の関係でそこに訪れたことがあるとジョルジュが遠慮がちに話すと、天真爛漫な仕草でシエルは興味深げに村の印象を訊いてきた。
 ジョルジュはソルスティスの風光明媚な様を思い返し、訥々と答える。
 
「そうですね………良い所だとは思いますよ。牧歌的でありながら、洗練された美しさを持つ村かと。ただ………」

「ただ?」

「あくまで私個人がですが………決して住みたいとは思えない所でしたね。何というか………上手く表現できないのですが、空気が澄み過ぎてるとでも言えばいいんでしょうかね? まるで凌明や黄昏の最中の雰囲気に村全体が常に包まれているような………もしかしたら、自分のような俗な人間には似つかわしくない場所だからということなのかもしれませんが」

 横目でちらりと見たシエルが、意外そうな表情をして目を瞬かせているのが分かった。
 全開に開けられた窓からの風で、彼女の頭に被ったベールのはためく音が耳障りにになるほどの間が空く。

「はあ、なるほど。失礼ながら、見かけによらず結構繊細な方なんですね。なかなか感性豊かで、ちょっとびっくりしました」

「いえ、その………少々衒いが過ぎました。分かりづらい言い方で申し訳ありません、修道女様マ・スール

 本気で感心するような声音で言うシエルにジョルジュは口篭る。
 改めて考えてみると、今のは確かにあまりに大仰かつ無防備な心象の吐露だと気恥ずかしくなる。
 だが、修道女スールからの問いかけだからという事でなるべく真摯に答えたつもりだったので言葉に嘘はなかった。
 二、三度だけ、ソルスティスにいつも行っている者の代わりに緊急で物資の運送をしたのだが、その時に受けた印象がそういうものだったのだ。
 廃村のように陰気で不気味だというのではなく、人が住むには畏れ多いというべきか。
 あの時に連想したものは、敢えて言うならば聖堂のそれだ。
 それに、住民たちがあからさまに他所者に対して閉鎖的なような気もした。
 表面的には笑顔なのだが、その内面には帯電するような緊張した雰囲気を隠し持っているというか………。
 観光に訪れる人達も多いと聞くからもう少し開放的でも良さそうなものだが。
 もしかして、単なる気のせいか何か間が悪かっただけなのかもしれない。
 
「いえいえ、大変参考になりましたよ。実に的確で驚いたというのもあります。ジョルジュさん、周りから鋭いと言われませんか?」

「あ、いや、そんな事は。そもそも、お恥ずかしながら自分口下手な方でして………」

 言い淀むジョルジュの耳に僅かに“徹底してるとは聞いていましたが、そこまでとは……”という彼女の小さな呟きが入る。
 意味は分からなかったが、それは何かに切迫したような真剣味を帯びているように感じた。
 それにしても………人見知りも激しく、言葉をよく吃らせる自分が、今日はやけに気軽に話が出来ていると彼は不思議に思う。
 この修道女スールの人徳であろうか?
 
「ところで話は変わりますが、貴方にとって信仰とは何ですか?」

「はあ? いや、そうですね………日々の生きる上での糧であり、愛そのものです。肉親への愛、隣人への愛、共に大切ですが私にとってそれらは主への愛という大前提のもとで成り立っているものです。俗世にある身ではありますが、そこは忘れることはありません。無論、神にお仕えする修道女様マ・スールのような方々のお覚悟とは比べるべくもありませんが」

 本当にうって変わった問い掛けに、ジョルジュは戸惑いながらもこれ以上無く心よりの言葉で答える。
 しかし、何故このタイミングで?
 話の前後が繋がらなさ過ぎる。
 尤も、修道女スールからしたら当たり前の質問なのかもしれないが。
 その証拠に、シエルの問いを発する顔が異端審問もかくやという能面の如き静謐なものになっているではないか。
 が、やがてそれは何処か苦笑を僅かに滲ませた柔らかいものへと変化した。 

「なるほど、理解できました。やはり、貴方が今時珍しいくらい敬虔な信者だから影響を受けやすかったんですね」

「? と、言いますと」

「すいません、ジョルジュさん。あまりに都合よく貴方が現れた事と合わせてちょっと疑ってしまいまして。余程上手く擬態して私を欺こうとしているのかと。見かけの印象を拭えなかったというのもありますが。まあ、逆に考えたらそんなあからさまである筈ありませんよね」

 私もまだまだ精進が足りませんねなどとシエルは呟き、反省するように溜息を吐く。
 無論、ジョルジュには彼女の話は飛び過ぎて付いていける訳も無く返す言葉も思いつかないで運転に集中するしか無かった。
 しばし、振動を伴う重いエンジン音と風を切る音のみに車内が支配される。
 彼は運転中に音楽をかける事を嫌ったが、こんな気まずさになるんだったら何か用意するんだったと後悔した。
 しかし、こんな噛み合わなさは予想しろと言われても無理だろうし………。
 シエルは、一つ咳払いして重い沈黙の空気を破るように言葉を続ける。
 ただ、彼女がミラーを僅かに鋭い目で一瞥した事にジョルジュは全く気がつかなかった。
 
「いえ………仰るように本当に少々普通じゃ無い場所なんです、あそこ。まあ、後で忘れてもらいますから言いますけどね。私、その後始末に向かってるわけでして」

「あの………忘れてもらう、というと?」

「───申し訳ありません。それも先に謝っておきます。どうしても、そうせざる得なくなりました。そもそも他の組織に関わる話じゃあないのに、何故ここまでしつこいのか良く分からないんですよね、本当に。好意に甘えて結果的に大変な迷惑を掛ける形になってしまいました。でも、貴方にもこのトラックにも毛程の傷も付けませんから」

「───何の話でしょう?」

 ただならぬ物言いに驚いてジョルジュが完全に顔を横に向けると、確かに助手席に座っていた修道女スールが陰も形も無く消えていた。
 彼女が被っていたらしきベールが、窓から入り込む風に巻かれて飛んでいく。
 混乱のあまり、頭が真っ白になる。
 即座に思い浮かべたのは、数々の得体のしれない怪談話。
 が、状況の唐突な変化はここからが本番だった。

「おおお?!!」

 怪鳥の叫びの如き尾を引く残響。
 花火が破裂するような渇いた炸裂音。
 連続しての腹に直接響く、経験したことの無い爆発による轟音。
 信じ難い事に衝撃でこの巨大な車体が微かに揺れたのに対し、ジョルジュは慌ててハンドルを保つ。
 ───何だ………今のは?
 ───これは、何かの悪夢か?
 幾ら自分が運が悪いからと云って、こんな馬鹿げた───

「ジョルジュさん! 停めてください!」

「は、はい!!」

 横合いからの叱咤に等しい厳しい声に、ジョルジュは驚きのあまり条件反射に近しい反応で急ブレーキをかける。
 タイヤが、接地しているアスファルトに大きな傷痕を残しつつ甲高い悲鳴を上げる。
 気弱な彼にしてみれば、目を瞑らなかったのが上出来だった。 
 窓から逆さまに覗く顔は、短い髪が乱雑に煽られ靡いている。
 シエルは、その不安定極まるトラックの制動の最中にも拘らず常人には到底理解出来ない身体の駆使の仕方で再び車内に滑り込んだ。
 手には、どこから出したのか自身に比してあまりにも不釣合な大型の拳銃が握られていた。

「いい加減、頭に来ちゃいました。こんな所でパンツァーファウストまで持ち出すなんて、何を考えているんでしょう。見境ないのも程があります。この際、徹底的に潰しておくことにします」
 
修道女様マ・スール、それ…………それ!? 貴女、一体───」

「まあ、何とかこれで弾頭は撃ち落せましたが、さて………」

 この非常識な事態に対して悠長とすら言えるシエルの口調に、ジョルジュは唖然とした表情で見詰め返すしか無かった。
 手慣れた様子で取り回しているこの大型拳銃もさることながら、彼女があまりにも自分とは違う世界に生きていると今の事で漠然と理解したからだ。
 話している間に、停まったトラックの横合いを頑強な棺を不吉に連想させる装甲車らしきものが猛スピードで追い越す。
 その装甲車は二十メートル位先で停止すると、後部のハッチが開き幾人もの剣呑な装備で身を固めた者達を吐き出した。
 集団は即座に槍の穂先を揃えるように、幾多の長身の銃器をこちらに向ける。
 丁度の逆光で、黒炭で塗り潰された一塊の不気味な影絵の模写のようだ。
 そもそも彼らが、全体的に黒系統の統一された衣服を身に着けているのが原因だろうと気がついた。
 …………こんな場面を何時だったか映画で見た覚えがあると、ジョルジュはすっかり現実感が希薄になった頭でぼんやり考える。
 あのような前に立って蜂の巣にならないような登場人物は、多分最初から何か馬鹿馬鹿しい超能力を持っていると設定された派手な衣装を身を包んだヒーローくらいだろう。
 少なくとも現実に即した物語の登場人物だったら、成す術なく血溜まりに沈むしか無い。
 それを目の前の清楚な美しさに満ちた修道女スールと自分の姿に置き換え、ジョルジュは嘔吐しそうになる。

「何なんですかあれ!? 何で私達を………」

「いえ、狙われてるのは私だけですが。結構減らしたつもりだったのですけれど、まだあんなに居たんですねえ。まあ、でも、十数体と言ったところですか」

「と、とにかく話し合いましょう! きっとあの人達、何か勘違いしているんですよ!! 話し合えば人間誰だって───」

「ええ、私もそうしたいのはやまやまなんですけど。そういうの通用しないんですよね、彼ら。そもそも、人間じゃないですし」

「………は?」

 肩を竦めながらさらりと言われた言葉に、ジョルジュは絶句する。
 だがそれは、彼の思考の中で形を為さなかった。
 それがどういう意味なのか、具体的に考えられないほど彼が焦燥し混乱していたからだ。
  
「………ええっと、じゃ、じゃあ、私がトラックで突っ切りますから───」

 そんな事をして今の状況から脱し切れるものではないのは百も承知だ。
 しかし、先程見た未来視に近い妄想がジョルジュを駆り立てる。
 自分はともかく、この修道女スールが血塗れで殺される所など決して見たくはなかった。
 何とか、彼女だけでも絶対逃さなければ。
 だが、そのような覚悟が伝わったのかシエルは苦笑を湛えながら僅かに首を振った。

「………ジョルジュさんて、本当に良い方なんですね。でも、貴方は御家族を深く愛されているのでしょう? それこそ、主に仕えるのを諦めたほどに」

「え? あ、はい。そうです………けど」

 慈愛に溢れた表情で言われた唐突な指摘に、ジョルジュは虚を突かれたように反射的に答えてしまう。
 シエルはそれを聞いて一つ頷くと、子供を叱るような咎める目付きをした。
 その瞳には、何故か僅かな悲しみが揺れている。

「だったら、そういう軽はずみな事を言わないでくださいね。自身を蔑ろにし愛する方を悲しませるのは、主を裏切るに等しい業罪ですよ。───巻き込んでしまい本当に申し訳ありませんでした、ジョルジュさん。縁があったら、また違う形でお会いしましょう。」

 何を………とジョルジュは言いかけるが、それは声にならなかった。
 蒼く透き通った双眸に覗き込まれ、視界は暗く閉じていく。
 意識が洗浄されるように曖昧になり、規則的な点滅が脳裏で繰り返された後にジョルジュの身体は力無く崩れ落ちた。
 シエルはそんな彼の座席のリクライニングを素早く倒し、楽な姿勢にさせる。
 気持よさそうなジョルジュの寝息を耳にして、彼女はくすりと微かに笑った。

「………ご丁寧に待っていてくれているのは有り難いですが、どういうつもりなんでしょうね、実際。こんなもので私をどうにか出来るとは考えていない筈ですが」

 シエルは、動きを見せずに構えたままの姿勢でいる特殊部隊さながらの装備で身を固めた集団を蔑むように見据える。
 実は、彼らが一斉に射撃してきても数分は耐えぬく程の強度の守りをこのトレーラーに乗る際に施してある。
 しかし、パンツァーファウストのような対戦車弾には対応しきれないので先程は少々慌てて撃ち落としたのだ。
 それが、相手には分かっているのかいないのか。
 ソルスティスへ向かう途中の今日だけで五度目。
 あのような木偶どもに何度襲撃されようが、自身への被害など無いに等しい。
 それは、あれらの操り主も承知しているだろうが。
 いや………不覚にも油断して足とした車は壊された。
 どうも、乗り物の扱いは苦手である。
 忌々しいが、上司が言うように最大限の性能を発揮するのが目的なら彼女にどのようなものであれ車など不要だ。

「とは言え、あの状態のセブンを持ったまま数十キロの強行軍というのは、いくら私でも流石に無茶ですからねえ。とりあえず、あの装甲車を頂いていくとしましょうか。少し目立ちますが、途中で乗り捨てれば良いですし」

 シエルは、溜息を吐きつつ窓から車外へ俊敏に跳躍して降り立った。
 気軽に散歩へ行くが如く悠然と歩を進める。
 手には、その華奢な外見にあまりに不釣合いな大型の自動拳銃デザートイーグル.50AE
 しかも、何処から出したものか左右両方にそれが握られている。
 つまり、馬鹿げた事に映画や漫画でしかお目にかかれない冗談じみた二挺拳銃だった。
 多対一ではあるが、まるで果し合いのように………一定の距離で不気味な沈黙を保つ銃器の群れと彼女は対峙する。
 全員が黒い目出し帽を被る故に唯一そこだけ露出した彼らの瞳は、ガラス玉同然の生気の無い鈍い光を発していた。

「さて…………つまり、今回はこういう趣向ですか。何となく目的が解ってきましたけど、正直大分高く付きますよ?」

 怜悧に唇を吊り上げ、緩慢にも見える動作でシエルは銃口をそれらに向けた。
 応じて、対する十数の黒色に鈍く輝く銃身の金属音が連続して鳴る。
 一陣の冷気を伴った強風が吹き抜け、彼女の黒色にも近い紺の修道服をはためかせた。
 それを合図とするように───
 叙情的な広がりを見せる風景に異物同然に浮かびあがる彼らは、悪夢の如き銃撃戦を開始した。


 暮れかける日差しに顔を直接照らされ、ジョルジュは眩しさのあまり目が覚める。
 薄目で見る窓の外の光景は、淡い暖色に染められつつも陰影の輪郭が鮮明で美しかった。
 いつの間にか敷き詰められた綿に似た雲も、斑に橙で色付けされている。
 それは、影絵の如きなだらかな丘の稜線に良く映えた。
 何気ない風景がほんの刹那に垣間見せる美は決して完全には固着できない。
 それは、どれだけ人間の文明が進み記録媒体が発達しても神の御業故に不可能なのだ………そう断言したのは誰だったか。
 多分、芸術家か哲学者なのだろうが、もしかしたら自分の勘違いなのかもしれない。
 ただ、今素直に感じているものがあまりに自然と心に浮かび過ぎた為に自身の言葉だとは思えなかったとか。
 いや、そんな事より少し腹が減った。
 それに、どうも関節の節々が痛い。
 それは身体の大きさに合わないシートに収まり無理矢理睡眠をとっていた為だと分かっていた。
 自分は、走行中に連日のハードワークが祟ったのか急激な睡魔に襲われ、このままでは危険だと判断したので仮眠を取ることにしたのだと少し思い出す。
 つまらない事故を起こしてしまっては元も子もない。
 自分に何か有ったら待っていてくれる家族は大いに悲しむ。
 無論の事、妻にも子供にも絶対にそのような思いをさせたくは無い。
 それについて、実際につい先程窘められた事であるし………? いや、誰に?
 自分はずっと一人だった。
 それについて疑問の余地はない筈なのだが………ああ、そうか何か夢を見たのか。
 もしかしたら、無意識の不安が夢となって誰かの形をとって表れ己を叱ってくれたのかもしれない。
 今は、どんなそれが夢だったのかすら思い出せないが、例え夢であってもその何者かに感謝すべきであろうとジョルジュは苦笑混じりに考える。
 徐々に空が晴れ渡るように、頭がすっきりしてきた。
 薄暗くなった車内でもくっきり浮かび上がる時計のデジタル表示を、視線だけで確認する。

「え!? 何で───」

 仰天のあまり倒れたシートから発条仕掛けのごとく起き上がり、勢い余ってハンドルに付いたクラクションを手で突いてしまった。
 吹きすさぶ風鳴りと鳥の微かな長鳴き以外音がしなかったこの場に、無粋で攻撃的な高音が響き渡った。
 ジョルジュは大いに焦って即座にクラクションから手を離したが、目だけは無慈悲に時刻を告げる数字から離れることはなかった。

「そんな…………納入時間を、二時間以上も過ぎている……なんて………」

 呆然とした表情で、ジョルジュは力無い声を漏らす。
 仮眠の予定は一時間の筈だった。
 計算では、その程度の時間だったならば余裕があったのだ。
 彼の数少ない特技に、目覚ましなど無くても自分で決めた時間にほぼ正確に起きることが出来るというものがある。
 これは地味ではあるが普段の生活の中で非常に重宝して、お陰で今まで寝過ごすという体験をジョルジュはしたことがなかった。
 だから、今の状況がとても信じ難かった。
 四時間近くも眠っていたなんて、自覚はなかったがそこまで疲労が蓄積していたのか。
 
「と、とりあえず所長に電話を」

 初めての事態に大いに慌てつつも、即座に荷の運び先であるカールスルーエの倉庫所長へ携帯で連絡を入れる。
 正直に言えば、胃が縮まり目眩を覚えるほどの重圧をジョルジュは感じていた。
 あの、豪快で陽気ではあるが、仕事となれば鍛えに鍛え抜かれた鋼玉のように厳しく頑固なドイツ人に怒号を浴びるのは確実だったからだ。
 前の担当だった者は、この所長と些細な事で折り合いが悪くなり、事故に巻き込まれて遅れたという事情があった時でさえメッタ打ちにクレームを付けられ続けたのだという。
 結果、彼は急性の胃潰瘍で入院してしまいジョルジュが担当を代わったという経緯があった。
 幸いなことに今までミスもなくきっちり仕事をしてきた為か、ジョルジュは所長に気に入られていたのだが、それも今日までかもしれない。
 直通の番号へのコール音に対し、早く繋がれという焦燥とこのまま繋がらないでくれという逃避の気持ちが複雑に混ざり合う。
 向こうは、着信番号が表示されているから誰からの電話か分かっているだろう。
 いきなりの怒鳴り声には少し受話口を離したほうが良いだろうか?
 が、やがて

『よー、どうしたよジョルジュ。何か書類に不備でもあったか? 新入りが作成した奴だから、ちょい怖かったんだが』

 聞こえたあまりに予測と違う陽気なだみ声に、ジョルジュは呆気に取られ即座に言うべき謝罪の言葉が詰まった。
 何だ? 何故だ?  
 しかし、混乱極まるジョルジュを取り残して、所長はドイツ人とは思えぬ流暢なフランス語を続ける。
 口調には、面白がるような響きがあった。

『それにしても───お前さんただ者じゃあ無いと踏んじゃあいたが、あんなもので荷物寄越すとはねえ。あれ、お国の装甲車だろ? パリのパレードで見かけたこと有るよ。確か、VABとか言ったか』

「は? あの? え?」

『しかも、運転席から出てきたのはとんでもなくべっぴんの修道女様マ・スールときたもんだ。“今日だけジョルジュさんの代わりに、荷物お届けに参りました”なんて、天使様みたいな笑顔で言うもんだからウチの若いもんなんか骨抜きにされちまったよ。どういう冗談かと、俺なんかしばらく考え込んじまって───』

「え!? 荷物を? ちょ、ちょっと!! ちょっと待ってください」

 ジョルジュは、運転席より転げるように飛び出し最後部に息を切らせて走って荷台の扉に取り付く。
 いつも何気なくやっているロックを解除する作業がこんなにもどかしいと思ったことはなかった。
 やがて、いつもより十秒近く手間取って厳重なロックを外すと重い両開きの鉄の扉を勢い良く開いた。

「どういうことだ…………これは」

 中を見て、思わず膝が折れるほどに力が抜けて呆然となる。
 そこには、帰路で受け取るべき荷物がこれ以上無く整然と並べられていた。
 満載に程遠いのは、荷が機械部品の為に扱いがデリケートだからだ。
 実は積んでいた荷物は全て合わせても荷台の五分の一も満たさないほどしか無い大きさだったが、一つ一つが非常に重い。
 それだけに、積み方にもコツというものがあるのだが、これは完璧だった。
 自分がやるよりも遙かに。
 一体、誰が?

「所長! そっちは、荷物受け取ったんですか?」

『お? おうよ。検品したが、不備はねえってよ。相変わらず、荷の扱いが丁寧で助かってるぜ。しかも、あの嬢ちゃんのはええこと、はええこと。積み下ろしから積込みまで少し目を離した隙に一人でやっちまいやがってな。ほんの五分程だぜ? 意味が分からねえよ。ありゃ、何かの魔法か? 急いでるとは確かに言ってたけどよ………』

「五分って…………いや、それより、誰もおかしいとは思わなかったんですか?」

 ジョルジュは一通り荷物を目視で確認した後、荷台から飛び降り扉を再び閉める。
 これらの積み替えが一人で、ましてや五分で、出来る分量である筈がないと思いながら。
 自分のような慣れた者であっても、最低もう一人サポートは必要であるし、早くて三十分はかかるだろう。
 所長は大袈裟に言っているのだろうが、それにしたってこれがあまりに異常すぎるのは間違い無い。
 だが、脳裏で不審が駆け巡り続けているものの自分が意外と落ち着きを取り戻しているのはどうしてだろう?
 慣れてきたというべきだろうか?
 いや………何に慣れたというのか。
 運転席に戻り、ダッシュボードから伝票やら書類を取り出すと当然のように完璧に必要事項が記入された形でそれがあった。
 何となく、予想はしていたが。

『そりゃあ、なあ。けど、どういうわけか誰もおかしいとは何故か思えなかったんだよなあ、あの時は………何たって、装甲車だからなあ。それだけで何事かと普通は思うわな。知ってるとは思うが、ウチの守衛の爺さんだって入場許可証が無けりゃあ戦車でも入れねえって頑固ジジイの筈なんだがね。というか、そもそも警察に連絡だよな。ただ、馬鹿馬鹿しすぎて突っ込めなくてよ。何か、みんながそんな異様な雰囲気だったな』

「そう………ですか。とにかく、問題自体はなかったと」

『そういうこったな。ま、俺は深く考えるのはやめにしたよ。あんまり詮索すると、お前さんの組織の人間に消されちまうかもしれねえからな、わははは───そういや、あの嬢ちゃんの顔が思い出せねえや。何でだ?』

「所長………お言葉ですが、仰ってる事が滅茶苦茶ですよ。何ですか、その組織って。そもそも、顔が思い出せないのに何で美人ってことは覚えてるんです?」

 少々の頭痛を感じつつ、ジョルジュは疲れた声でもっともな疑問を呈す。
 また、いつもの如く自分をダシにして出鱈目な妄想でも頭の中で繰り広げているのだろうと呆れる。
 まあ、与太をちゃんと与太と分かって楽しんでいる分だけ彼はまだマシな方だ。
 時々行き過ぎた部分もあるのだが。
 この所長は何故か、子供じみた荒唐無稽な話を好む。
 テレビドラマや映画は云うに及ばず、アメリカンコミックや日本のアニメーションやMANGAとやらも大好きらしい。
 見た目は、童話に出てくるようなずんぐりむっくりしたドワーフ小人を思わせる髭面の頑固そうな初老の男である。
 なので、周囲の殆どの者はその趣味について似つかわしくないこと甚だしいと内心考えてはいるだろう。
 だが無論の事、それを指摘する勇気ある人間はいない。

 余談ではあるが、そんな所長にジョルジュはまずこの容姿で喜ばれた。
 何という悪役面と初めて挨拶した際に嬉しげに言われて、内心で大分落ち込んだりもしたものだ。
 声もジョージそのものじゃないかとはしゃがれたが、これは未だ何のことかよく分からない。
 何かのキャラクターなのだろうが、深く知る気にもなれなかった。

『そうだよなあ………言われてみれば、漠然とべっぴんの修道女スールだったとしか思い出せないってえのも妙な話だが。ま、お約束だ、お約束」

「本当に、さっぱり意味がわかりませんが…………」

『まったくだな。でも、世の中意味が分からねえものがたくさんあったほうがおもしれえだろ?』

 ジョルジュは、愉快げな口調で言われたことに対し憮然とした表情で溜息をついた。
 駄目だこれは、と一種諦観の中で思いながら。
 どうも、価値観の違いからか、論点に大きな齟齬がある。
 どうやらこの件に関して、先程自身で宣言したように所長は本気で棚上げしているようだ。
 確かに、どうあれ荷物は間違い無く倉庫に届き、出荷すべきものはちゃんとジョルジュに渡っているのだから彼にとって不都合など何も無い。
 例えその経緯が不自然を通り越して不条理に過ぎたとしても、だ。
 さて、では自分はどうするべきだろうか? と、ジョルジュは思い悩む。
 身に覚えがないとも今更言いづらくはあった。
 大体、正直に話すにしろどう話せばいい?
 聞いた話が本当なら、自分が寝ている間に、その美人の修道女スールとやらがやるべき仕事を全て行ってくれたということになる。
 しかも、何故か装甲車でだ。
 これが所謂、奇蹟というやつだろうか?
 いや、幾らなんでも運送業の肩代わりを請け負うなどというスケールの小ささは無いだろう。
 こういう発想に至ったこと自体、あまりにも不敬だ。
 ジョルジュは心の中で主に許しを乞う。
 それに───これはどちらかというと、靴職人のところに現れた小人の童話に似ているように思える。
 …………何とも馬鹿馬鹿しい。
 こんな想像を巡らす時点で、自分も所長のことをとやかく言えない。

『お? おう、今行く! ………じゃねえや、Ya! ich komme gleich!! Ist ja gut, beruhige dich......』

 急に切り替えられた言語での野太いがなり声に驚き、思わず携帯の受話口を少々耳から離す。
 ドイツ語に対する偏見もあるのだが、その語調が全て怒っているように聞こえるのがどうにも馴染めない。
 まあ、この所長の場合は四六時中部下に本当に怒っているのかも知れないが。
 とにかく………これ以上、こうやって話していても無駄であろことは理解できた。
 ジョルジュは遠慮がちに、会話を切り上げるべく甲高い機械音と雑多な喧騒が聞こえる電話の向こう側へ声をかける。

「…………あの、失礼しました。どうやら、私の勘違いだったようです。御忙しそうですのでそろそろ切りますね、所長」

『Ya,ich....おおっと、わりいな。じゃ、ま、そういう訳だから荷の方は宜しく頼むぜ。お前さんのことだから間違いはねえと信じてるが。それに引き換え………ウチの今度の新人は、本当に使えやしねえ。やっぱItakerは駄目だな』

 ブツブツとドスが効いた不平の呟きを耳に残して、通話は切れた。
 どうやら、最近入社したイタリア人の新入社員がいたく御不満らしい。
 さもありなん。
 以前一度だけその新人の彼に会ったことがあったのだが、常に躁状態かと思うほどに陽気過ぎる優男で正直苦手なタイプだなと自分も辟易したからだ。
 所長とは、相性が最悪ではないかと思える。
 ただ、ジョルジュが見る限り有能ではあるようだ。
 怒鳴って出す彼の無体な指示を、軽口をたたきながらも何とかこなしてしまうのだから。
 それはともかく

「さて………どうしたものかな」

 ジョルジュは途方にくれて、再度大きな息を吐く。
 自分の中で今の状況をどう処理すればいいのか。
 一度、頭の中を整理する。
 と言っても、それほど複雑な事ではない。
 要するに、居眠りしている間に自身の仕事を終わらせてしまった何らかの異常があったというだけの事だ。
 過程を無視するならば、不都合どころか大いに幸運であったとさえ言えるだろう。
 しかし、当たり前だがそれを“はい、そうですか”と容易に納得出来そうには

「───するしか無いのだろうなあ………やはり」

 運転席に戻ったジョルジュは、腕を組み命題に挑む哲学者の如き表情で低く呟く。
 眩さに耐えるように目を細め、なかなか暮れない茜色の空を眺めた。
 声には何かを妥協するような響きが滲んでいる。
 この不可思議は、どう考えても自身の及ばない領域にある。
 何も分からない。
 だが、心の何処かで理解出来ないながらも何故かそう実感せざる得ない拭い去れない何かがある。
 実は、こういう経験は幾度もあるような気がするという朧な感覚もあるのだが。
 何か、世間から隠されたものと僅かに擦れ違ったという………。
 三度目の大きな溜息。
 とりあえず、エンジンを始動すべくキーを回す。
 馴染みの軽い振動の後に、愛車は渇いた低い回転音を上げた。

「やれやれ。まあ、明日は久しぶりの休みであるし───」

 路肩に停められた状態からUターンすべく大きくハンドルを切りながら、パリに居る家族を心に浮かべる。
 自身と不釣合だと常々考える今以て可憐で美しい妻と、彼女によく似た(自分には欠片も似なくて本当に良かったと考える)幼き愛娘二人。
 ジョルジュは、最愛の彼らと明日は教会に行こうと思い立つ。
 そういえば、もうすぐ復活祭も近いから、その準備を皆で考えるのも良いだろう。
 それは彼としてはごくごく自然な発想であり家族も特に不審に思わないかも知れないが、どうも幾分罪滅しのような成分が僅か気持ちに含まれている。

“自身を蔑ろにし愛する方を悲しませるのは、主を裏切るに等しい業罪ですよ”

 そう優しげに言われた筈なのだが、誰の言葉だったのか。
 暖かみのある口元しか思い出せないが、それは悲しげな実感がこもった心からのものだったのだと響きから察する事が出来た。
 この人物の為に主に祈りを捧げるのも悪く無いだろう。
 ジョルジュは、自然とそう思う事に何の疑念も抱かなかった。
 トラックは、長閑な風景を一定の速度でひた走りはじめる。
 前面のライトは、薄紫に染まりつつある空に合わせて煌々と輝いていた。
 無論の事、ほんの10kmほどの反対方向の道に、その言葉を発した人物が鼻歌混じりで装甲車を走らせているなどとはジョルジュは夢にも思っていなかった。

 
 こうして───この不運なトラックの運転手は、要所に大いに釈然としない部分を残しながらも無事に帰路についた。
 彼は巻き込まれ虎口を目前としながら、それを無自覚に辛うじて脱することができた。
 本当に色々と運が無い人物なのである。
 それは、あまりに間が悪い外見でこの世に生れ落ちたところから始まっている。
 ありふれた日常と隠された異常は、本来顔を合わせる事が無い。
 意図的に厳重なる境界が設けられている故に。
 しかし、それらは本来隣り合ったあまりに近い距離にある。
 だから、些細なる瑕疵から向こう側が稀に垣間見える事はあり、人々はそれを『怪異』もしくは『奇跡』もしくは『錯覚』と称するのである。
 
 ジョルジュは、端的に言えばその悪意に満ちた陥穽の如きものに陥りやすい人物だったのだ。
 実は、今回のような状況は彼自身自覚は無いが極めてありふれたものだった。
 当然、その要因に彼自身の特殊性というものは微塵も存在しない。
 あえて言うならば、その要因は複雑さや混沌とした煩雑さから人々に読み解く事を放棄させた事象………つまりは『偶然』と一括りにされる類のものだ。
 だが、『偶然』とは神秘の皮肉なる隠語でもある。
 ジョルジュの場合、あまりにも不運ではあるが不幸ではなかった。
 何故なら、彼は生涯に渡りそれに無自覚で、主観的には平穏であり続けたからだ。
 擦れ違い、巻き込まれ、翻弄されながらも盲目を保つ。
 『奇跡』というなら、これこそが『奇跡』というべきだろう。
 それはまた、幾多の別の物語となるが。

 さて、では“彼女”はどうであろうか?
 今回中心となる“彼女”は、呆れるほどの『偶然』で構成されていると言える。
 自身の特殊性は確かに際立っているが、それにしても───客観的に見て、そこには何かしらの要因とも言うべき悪意が存在するのではと勘繰りたくなるほどである。

 ───何故、こんな事になったのか?
 それは、起こりえる事だからである。

 ───では、何故それは避けられなかったのか?
 それは、起こり得なかった事だからである。

 そんな容赦の無い0と1の構成で成り立っているようだと、万人が舌打ちしつつも容認しているのがこの世界だった。
 故にそれは、性質が悪い事に無慈悲ではあるが理不尽ではない。
 だが、しかし、では…………
 “彼女”にとって幸いだったのは、今回そう問いかける者達が『偶然にも』周囲に存在したという事実だろう。
 しかも、その内の一人はあまりにもそれが飛びぬけていた。
 あまりに馬鹿馬鹿しくも、悲痛な願いに満ちた異名で呼ばれたほどに。
 だからこそ、その顛末は決して────


 ──────四時間程前。
 
 吹き抜ける風は、本来草の香りが多く含まれているはずだが、それは今は瞬間の刺激臭で鼻を付く硝煙のそれに取って代わられている。
 無論、そのようなものは即座に洗い流され薄く引き延ばされるのであるが、量が量だったのか結構残留しているのだ。
 見れば、濛々と霧がかるような煙が揺れ動いているようにも思える。
 その殆どは、今荒れた草地に無造作に転がっている者達が発した。
 完全武装の特殊部隊を思わせるような装束と装備は、しかし無惨にも激戦区を潜り抜けた後であるようにボロボロだった。
 いや、そのような生易しいものではなく、彼らは明らかに圧倒的な武力で蹂躙された戦死者といっても良い。
 
 腕が獣に食われたように千切れ飛んでいる。
 
 脚が途中から吹き飛ばされ、白い棒のようなものが僅かに突き出している。
 
 腹の大部分が抉られ、筋のようなもので辛うじて繋がっている。
 
 胸に、太い杭で串刺しに穿たれたような穴。
 
 頭部が内部から破裂したように粉々で首に下顎しかない。
 
 過剰なる大量虐殺。
 惨殺死体の博覧会。
 ある意味、ありふれた地獄絵図。
 平和を享受している人間がこの状況を見れば、盛大に嘔吐するか気を失うかのいずれかだろう。
 が、鋭敏な者ならすぐにある一点に気が付き、それを避けられる可能性もある。
 それは───

“わー、ひどーい。相手がお人形さんだからって、よくもまあ、ここまでできますよねー。さすがマスター。相変わらずの人でなしです”

 そう、これらの無惨な屍達は血の匂いなど全くしなかった。
 要するに、これだけ肉体が破損すれば流すであろうものを一滴たりとも漏らしてはいなかったのだ。
 当然、血液を持たない人間など存在しない。
 注視すれば、彼らの傷口と言うには些か憚られる破壊の痕から覗き見えるものは、複雑に噛み合った歯車だったり、縺れたように絡まる管だったり、摺り合った線で構成された金属の部品だったりする。
 つまり、比喩などで無く本当に人形なのである。
 恐らくは、僅かな有機体と無機物で組み立てられる、魔術師が秘術を以て創り出した自動人形。
 用途は、明らかに戦闘用。
 故に、最低限の偽装しか施されず擬似的な血液も持っていなかった。
 余計なものはカットし特化させようとした意志がありありと見える。
 だが、それにしてはあまり出来が良くない。
 動きに滑らかさも足りないし、単純な肉体性能も通常の人間を然程上回るものではなかった。
 これならば、訓練された本当の人間の軍隊の方が同等の火力を持たせれば数段マシであろうし、コストも安く上がる。
 しかし………

“あ、すごい。あのお人形さん、まだ立ち上がろうとしてますよ? 脚もとれかけて、お腹半分無いのに。まるで、生まれたてのお馬さんを見ているみたいです。ううう………ああいうの見ると、こう、つい手に汗握って頑張れと応援してあげたくなるというか………って、ひー!? 撃った! 頭が弾けた西瓜みたいに!?”

 残響する甲高い乾いた音。
 再び燻る硝煙。
 薬莢が地に落ちる音にあわせ、肩のみの背になった人の形が緩慢に倒れ伏していくのを淡々と眺める。
 一応は、頭部を破壊されれば動きが停止するようだということを改めて確認した。

“うー、まったくもう………そんなだから、マスターってばとりがーじゃんきーなんて言われちゃうんですよー”

 先程の戦闘で狙いを散らしたのは、動力の核が意表をつく部分ではないかと疑った故だ。
 一から創られた人造物の場合、脆弱さの基準が人間と異なる事がままあるのだ。
 が、人の形である以上その部分はセオリーを外していないらしいと確信する。
 どうやら創造者は、自動人形にありがちな単体での強化のさせ方は重視していないらしい。

“私、前から言ってますけど……マスターが情緒不安定なのって、あの明らかに幻覚作用ありそうな粉ばっかり混ぜた茶色い食べ物のせいなんじゃないですかね?”

 丁度最後の一発を撃ち切った空の弾倉を落下させ空中で受け止めた後、流れるようにリロード。
 念の為だ。
 更なる襲撃が無いとも限らない。
 五度目においての決闘じみたあからさまさによって漸く気がついた。
 これは何かの実験ではないかと。

“あれ、どう考えても脳に悪そうですし。それを山盛りで毎晩三杯なんて、そりゃあ段々と正気じゃなくなってきますよね、きっと。ってことは………ああ!? マスターってば、とっくに取り返しがつかない残念な人ってことに!? ううう………薄々気がついてましたが、私のマスターがそんな人でかなりショックですー”

 人形達の部隊は、別に性能自体は向上していかなかった。
 だが、些細ではあるが襲撃の度に明らかに変わったものがある。
 それは、集団としての正確なる連携だ。
 戦術の精密さと言っても良い。
 あまりに迂遠であるが、主旨は理解できる。
 こちらは毛程も被害を受けなかったが、回を重ねる毎に掃討する為の時間が秒単位とは言え延びていったのは事実だからだ。
 となると、個人で対軍の領域にある自分はこれら人形を操作する者の目的に格好の相手ではないか………

“それとですね、幾ら見た目が昔と変わらないといっても実際若くは無いんですから、ああいう暴食はそろそろ控えないとお尻とかお腹に余分なお肉が………って、あう!? いた!? いたい! いたい! いたい! いたいです!! やーめーてーくーだーさーいー!!”

「………あははははははは。久しぶりではしゃぐのはわかりますけどね、セブン。そろそろ自重しないと、また変わっちゃいますよ? 具体的に言うと、頭の形とか。ジャスト、ナウ」

“割れる! 割れる! 割ーれーるー! 頭割れちゃいますぅ!! ごめんなさい! 許してください! あと、知らない間に改造されるのはもういやですー!” 

 泣き叫ぶのを無視し、シエルは更に締め付ける力を強める。
 とは言っても、実際の肉体を使ってそれを行っているわけではない。
 そもそも、この能天気な声は彼女にしか聞こえないしその姿など何処にも無い。
 彼女の意識の中で間借りするように、各所に馬の特徴を持つ人外の美少女は居た。
 だから、有り余る魔力で強引に自身の手を意識内部に形作り、力任せの制裁を行っているのだ。
 蹄状になった手足をばたつかせて、金髪の頭を鷲掴みにされながら少女は悶絶している。
 やがて、きゅうともくうともつかない呻きの後にぐったりとした彼女をシエルは漸く解放した。
 
「まったく………あなたときたら、人に居座っている分際で言いたい放題。退屈なのは分りますが、もう少し我慢なさい」

“あー、うー。ほんと、馬鹿力なんだから、マスターって………だって、あんな仕打ちって無いです。あんな雁字搦めじゃあ、私全然出られないし周りが何も見えないじゃないですか。だから、法印通してマスターに逃げ込むくらいしかなかったんですよー”

 哀れみを誘うように半泣きの表情になる少女に、シエルは溜息をつきつつやれやれと腰に手をやった。
 先程トラックから降ろし、荘厳な建造物のように地面に鎮座する鉄の箱へ視線を送る。
 確かに、ここまで聖別を施された鉄鎖が何重にも巻き付き過剰に封印施術されては、精霊たる彼女がほぼ無力化するのも仕方が無い。
 何しろ、その内部には少女の本体とも言うべきものが収められている。
 寧ろ、ここまでされながら思念を辿り自分の意識に潜り込める事こそ驚嘆に値する。
 流石は、祀られて千年を超える器物の分身たる存在と言うべきか………。

 普遍的な意味を持つ、唯一の神を拝する最大宗教の裏の顔というべき聖堂教会。
 この秘された人類の守り手を自任する組織が、異端殲滅の為に秘蔵する切り札の一つこそがこれであった。
 概念武装『第七聖典』
 摂理を正すべく、転生批判・永劫無不滅の理を刻み込む魂砕き。
 その守護精霊が、この半人半馬の姿をした少女である。
 呼び名は“セブン”。
 シエルが特に捻り無く、簡潔に名付けたものだ。
 それでもセブンは、名を得た事を大いに喜んだものだったが。
 そもそも、このようなカタチを成したのさえシエルがマスターになった故だ。
 だから、自意識を持った特定の存在として呼称されるのが少女には随分と新鮮だったらしい。
 
「仕方ないでしょう。ああいう状態で無いと、あなたを持ち出す許可が下りなかったんですよ。まあ、形式上とは言え、あの枢機卿に気を使った処置ということなんでしょうね。あのでぶチビ………あ、いやいや、あの方は、どうも何かを勘違いして埋葬機関を目の仇にしているようですし。あなたのような曲がりなりにも秘蔵の聖典を、私のような洗礼名も無い魔に汚染された者が担っているというのが気に食わないみたいです。だから、今回は特例的に制限付きで一時預かりという形に書類上ではなっています」

“? マスターはマスターですよ? 私が認めてるんですから、それは間違いないのです”

 神妙な顔で不思議そうに首を傾げるセブンに、シエルは苦笑で返すしかなかった。
 この無邪気で能天気過ぎる存在に、組織内部における人間の醜い機微を教える気にはなれなかったからだ。
 ある大戦の終結を機に成り上がった、矮躯の枢機卿を思い浮かべる。
 表の理屈と同じように、教会の裏の顔すら掌握しようと無駄な奮闘をする人物。
 彼を、巷では極めて徳が高く慈愛に満ちた人格と評価している。
 また、行動力にも溢れ有能な為に次期法王候補の筆頭にと推す人々は多い。
 が、シエルには聖職者とは思えぬ程の下卑た野心を持つ男としか感じなかった。
 器も存外に小さい。
 
 だから───いずれ思い知る事になるだろう。
 何故、聖堂教会などという教派を越えて統一された影の組織が存在するのかを。
 それを必要とされる世界は、下らない権謀術数を内部で行っている悠長さなど無いという事を。
 今はまだ、彼の立場を慮って苦笑で返される程度で済んでいるが、一線を越えた瞬間どうなるか。
 多分、何の理屈も無く……………。
 彼の主張する、埋葬機関不要論も的を外れている。
 それは、誰もが承知している事だからだ。
 そんなものは、無い方が良いに決まっている。
 代替の方策など、どれ程検討されたと思っているのか。
 根本的な解決など、たった一つしかないというのに。
 あれでは、あの嗜虐性を持つ比類ない怪物そのものである局長に、弄りがいがある生餌を与えている事にしかならない。
 彼女にはその程度にしか考えられていない筈だ。
 彼に何時か訪れる末路を考えると、ある意味同情にすら値する。
 恐らく、そう先の話では無い。
 “そろそろ飽きた”と、彼女が冷たく言い捨てたのをシエルは耳にしていたからだ。

「まあ、それはともかくとして………その括りを解く事は、私ですらそう簡単には出来ません。ですが、やがて日が訪れればそれは自動的に解けますから、安心なさい」

“はあ? それって、いつなんですか?”

「さて………現地で確認しないといけませんが、多分あと数日の猶予でしょうね。復活祭前の一番弱まる時を突いて、至点は決壊するでしょうから。そうなったら、あなたの出番というわけです」

“出番? あの………私、何やらされるんですかね? 何だか、すごーく嫌な予感がするんですが、マスター”

 おずおずと頭の中で問いかける不安一杯の表情をしたセブンに、シエルは残骸と化した人形達を短剣で屠殺さながらに淡々と分解していた手を止めた。
 内部を探り構造の傾向から、創造者の情報を把握しようとしていたのだ。
 結局、無駄だったが。
 その辺りは、実に上手く隠蔽されている。
 理解できたのは、これらが経験したものはリアルタイムで送信され創造者に反映されているだろうという事だけ。
 そういう、送受信を司る術式が込められた装置のみ何とか判別できた。
 つまり人形達は末端に過ぎず、制御は違う場所で独立しているということだ。
 予想通りだが、それが判明したところで今のところ意味は無い。

「嫌な予感も何も、あなたの役割など一つしかないでしょう? 最近あまり使われなかったからって、少し気が緩みすぎじゃあないですか?」

“私の役割って………あの、何度も何度も言ってますが、私は由緒正しい厳かな聖典であってですね。正直、斬ったり抉ったり突き刺したり殴ったりなんて物騒な事に向いてないんですよ? だから、そういう乱暴な扱いは、怖いからいい加減止めて頂け無いかなーって”

「何言ってるんですか、セブン。人聞きの悪い」

 シエルは、名前通りの蒼穹の空を思わせる爽やかな微笑を浮かべた。
 駄々っ子に言い含めるような雰囲気には、天使を思わせる優しさがある。
 だが、セブンは内面の戦慄のままに顔を引き攣らせる。
 付き合いが長い故に、よく分る。
 こういう顔をする時は決まって───

「私、あなたをそういう風に扱うつもりしかありませんけど? その為に、ああいう形に改造したんですし」

“う、うわーん! やっぱりー!! マスターのおにー! あくまー! いんどー!! こ、今度は何を斬ったり抉ったり突き刺したり殴っちゃったりするんですかー!? 吸血鬼さんですか!? また、吸血鬼さん達なんですね? ふ、ふふふふ…………所詮、私は良い様に使われるだけの哀れな高位存在。あんな、血をちゅうちゅう吸うわけのわからない人達の灰に塗れてろと、マスターは言うわけですね? ほんと、酷いです。しくしくしくしく…………”

「……………多少の暴言は許しますが、蹄で地団駄とか踏まないで下さいねー。うるさくて仕方ないですし」

 意識の片隅で丸まって陰気にいじけるセブンに、シエルは気の無い声を掛けた。
 惨状に似つかわしくない、悠長な牛の鳴き声を彼女は背後で聞く。
 改めて見渡すと、周囲はどこまでも牧歌的な草地が広がり、空には綿に似た雲が点々と連なっていた。
 それらと目前の凄惨な光景との落差に───少々やりすぎたかと、ようやくの慙愧の念らしきものが湧いた。
 



「セブン、今更ではありますが………」
 
 全ての事後処理を終え、間も無く目的地である小村ソルスティスに辿り着くという途上。
 シエルは、ハンドルを握りながら淡々とした口調で呟きを漏らす。
 アメニティなど当然一義のものとして考えていない車内は、腹に響かんばかりの低いエンジン音に満たされている故に、それはかき消されんばかりの小さな声音と言える。
 しかし、相手がそれを聞き逃す筈はない。
 にも拘らず、反応が返ってこない。
 しばらく、低い響きの振動を伴う走行音のみの沈黙が続く。
 
 五度目以降の襲撃は今のところ無い。 
 一応警戒は続けているが、恐らくは同じ形で相手が仕掛けてくる事は無いだろうとシエルは踏んでいる。
 撃破した人形たちの総数は、全部で三十三体。
 あれらは、確かに一体一体がお粗末であるが集団での行動に特化する為の術式は相当高度だ。
 装備も、現代おいて最新のものを使用していた。
 つまり、コストも時間も相当かかる代物だということだ。
 無論、それらを湯水のように使える背景が相手にはあるのかもしれない。
 しかし、実験の為とは言え、そろそろリスクの高さを考慮する頃合だろう。
 既に連絡をした事で、教会の処理班は動いている。
 戦闘跡に残された物を回収し手掛かりを徹底的に洗っているであろうし、網も張っているはずだ。
 故に、教会の、ましてや埋葬機関の代行者を敵に回すということがどういう事かに対し無知でなければ、そろそろ手を引く。
 正気ならば、であるが。
 厄介なのは、その保証が決して出来ない事にある。
 何故なら、人形の構造から創造の法を鑑みるに相手が魔術師だろう事は確実だからだ。
 あの連中は理知と高度な意思に基づく(と彼らが信じる)独自のルールで、時に保身にも常識にも不在する。
 まあ、人形達に自爆を敢行させなかったので、まだこちらの予測の範疇に収まる相手なのだとは思うが………。
 
 シエルは、備え付けられていたコンマ四桁まで表示するデジタルの時計を一瞥する。
 日付が変わるまで、あと二時間弱。
 陽光の残滓は嘘のように払拭され、黒色に近い闇が辺りをすっかり占拠していた。
 雲が厚い故か、星の輝きも月の光も地に届いていないのがそれを更に助長している。
 人々の営みを表す灯の光も、砂漠におけるオアシスの蜃気楼の如く遠近の定かでない点として揺れるのみだ。
 擦れ違った車は、数時間の走行で僅か三台。
 恐らく、上空から俯瞰する視点がある者が居れば、この走行する装甲車が発し続ける強力なライトの輝きのみが帳を切り裂くナイフさながらに目立って見えるかもしれない。

“え? は? ね、寝てません! 寝てませんよ?”

 いい加減返事が無い事を不審に思いシエルが意識を探るのと、寝ぼけ眼のセブンが一段高い声を上げながら慌てて跳ね起きたのはほぼ同時だった。
 ……………今更だが、本当に精霊とは信じ難いほど人間臭い。
 まあ、実際にセブンの性格骨子は捧げられた人間の少女であるので当然といえば当然である。
 ただ、カタチを成したのも話しかけたのもシエルが最初であった為、その影響も大いにあるのでは? と周囲には目されていた。
 随分と失礼な話だと彼女は思う。
 少なくとも、自分はここまで能天気ではない筈だ、と。

「道理で大人しいと思ったら………。何なら、そのままあなたの出番が来る当日まで、そうしててもらっても構いませんけれど」

“む………………………あ、いや、その手には乗りません。起きたら、またワケの分らない改造をされているかもしれませんし”

「いえ、言ったように今のあなたには私でも簡単には手出しできませんから。それにそんな事だったら、今までだってあなたがどんな状態だろうが関係なくやってますが?」

“うううう………そういえばそうでした。マスターは、私が泣こうが喚こうがハンダまで押し付けるあくまでした………”

 よよよと器用に蹄の底部で顔を覆い泣き崩れるセブンを無視し、シエルは道から逸れる為に大きくハンドルを切る。
 既に遠目でソルスティスが見える所まで差し掛かっていたが、その前に確認したかったのだ。
 説明は受けていたが、やはり自身の目で見ておきたい。
 風に揺れる、切り絵の如き樹木がアーチを形作った丘の入り口を潜る。
 道は満足な舗装もされておらず、車幅ぎりぎりの実に危ういものだった。
 おまけに、片側は雑木林が連なる急斜面となっており、車高が高いこの装甲車ではタイヤを踏み外したら一息で横転しそうだ。
 シエルは、ギアを落とし慎重に運転をする。
 時折、照らし出す直線的な輝きの中に小動物らしきものが横切った。

 それ程大きな丘ではない為、十分もかからない傾斜の走行で頂上に近い地点の広場に辿り着く事が出来た。
 簡易な木のベンチと水飲み場があったので、多分近隣に住む者達が軽い行楽に訪れるようなちょっとした憩いの場なのだろう。
 車を駐車できそうなスペースは何とか一台分。
 そこに強引に突っ込ませる形で、VABは停められた。
 エンジンを切りライトを消す事で、本来の時刻に相応しい静謐さと濃い闇が瞬時に蘇る。
 重い扉を開け、ふうと一息つきつつ外に出ると、即座に木々や草花の香りが混じる特有の冷気がシエルの身を包んだ。
 特に嗅覚を刺激したのは、アンゼリカの放つ強い芳香だ。
 どこかに群生しているのだろう。
 しかし、当然不快ではない。 

“わー! なんか此処って、凄く気持ち良い場所じゃないですかー! 生気に満ち溢れていながら、人を決して拒絶していないというか。多分、お日様が昇った時に来たらもっと楽しそう。それに、何だか少し懐かしい雰囲気もしますー”

「そうですね。人と自然の調和の体現であるあなたには、そう感じられるかもしれません。生憎の曇天だから見えませんが、ここから見る星や月はさぞかし綺麗なのでしょう。今の時期ならば、アークトゥルスのオレンジ色の輝きが良く映えている筈です。でも、私は別に、夜中のピクニックと洒落込んで此処に来たわけではありません」

 夜空に目を遣りつつ、シエルは無邪気にはしゃぐセブンに苦笑混じりに答える。
 実は、その視線は上方に向けられつつも、夜空ではなくもっと低い位置にあった。
 広場の中心には、十メートルを優に越す樅の木が主であるかのように聳えている。
 彼女が此処を目指したのは、この高木が特に目に付いたからというただそれだけの理由だった。

 露で濡れた野草を柔らかく踏み鳴らしつつ、その側に歩み寄る。
 そして、身体を僅かに沈ませると瞬間でシエルは飛鳥のように跳躍した。
 途中、枝が蹴られた事で樅の木が風に浚われた様に揺れ葉鳴りを大きく発する。
 だが、それは二度だけだ。
 獣すら凌駕する動きで、頂点に近い場へあっという間に辿り着く。
 視界は、常人であれば眩暈を起こすほどの黒々とした俯瞰風景として広がった。
 足元はあまりにも脆そうな枝であるが、まるで体重の無い者の如く彼女は静かに屹立している。
 しかし、高所の強風が流れる中でその修道服と短い髪が煩くはためいているのにも拘らず身体が微動だにしないのは、一体どういう体勢制御なのか。

“あの………マスターって、なんで、こう、高いところ昇りたがるんですか? こういう危ないところが好きって、生き物として色々間違ってませんかねー? もしかして、煙と同じ?”

「遠まわしに何かを言いたいみたいですけど、常にふわふわと飛んでられるあなたに言われたくはありません。それに、私は必要が無ければこういう事はしませんよ」

“えー? そうですかー? だって………あ、いや、分りました。怖いから、大きい拳骨創ろうとするのやめてくださいってば!! そ、それより、何でこんな所に?”

「まったく………隙を見せるとすぐに余計な無駄口を叩きますね、あなたは。いっそのこと今度、消音機能でも付けてやりましょうか?」

 意識の隅に逃げ込みびくびくと頭抱えるセブンに、疲れたような投げ遣りな声でシエルは言う。
 小動物のように気弱で臆病に見えるが、実の所は意外に図太く何をされても懲りる事が無いというのがこの不良精霊の本質なのだという事を彼女は知り尽くしているのだ。
 咳払い一つ。
 彼女は、気を取り直したように代行者としての冷徹な表情に改めた。

「───ま、いいでしょう。今の状態ですとあなたと私の視界は同調しているわけですから、視線の先にある小さな集落が当然分りますよね? あれが、私たちの今回の目的地であるソルスティスなのですが」

 通常であれば、星も翳り月も隠れた今夜のような曇天の視界に映るのは、深い闇と僅かに灯された蝋燭の炎のように頼りない村から漏れる民家の明かりのみである。
 だがシエルの修練された眼は、既に簡易な術式を叩き込まれ闇を日中さながらに見通すものと変じていた。
 他の感覚器官も当然のように、一時的に人を超越したものとなっている。
 これを彼女は、呼吸をするが如く苦も無く自然に行える。
 当然である。
 闇を本領とし、影から影へと潜む死徒どもを相手にその程度が出来なければお話にならない。

“へー? あ、葡萄畑に囲まれてるんだ。随分、面白い形してますね。まるで、領主様が住んでた都市の防壁みたいになってますよ。ばうむくーへんとかいうお菓子も思い出します”

「そう。ほぼ正確に、不自然なまでに真円を描いて葡萄畑が連なり、その中に人々が暮らす場があります。で、村に行く為にはあの県道から北の道を入るか、もう少し行って北西に逸れた道を入るかして、しばらく行った後の多叉路を北か北東の方向へ進みます。つまり、南北の道と北西から南東に伸びる道が交差して、その交差部分から北東にも道が伸びている。そして、あの円形の村の位置は北への道と北東の道に挟まれるようにあるというわけですね。さて………あの村も一部と考えて、今言った周囲の道の形に心当たりはありませんか?」

“え? え? え? あ、えーっと、えーっと、こう書いて、こう書いて、こう。で、ここに丸で………あれ? これって?”

 セブンは説明に対して頭で理解することを放棄し、慌てて手を使って見える道と村の位置を簡易に宙に描いてみた。
 現れた形に目を丸くして驚いた表情をしながら口元を覆い、鳩のような仕草で首を傾げる。
 何故? とセブンは全身を使って問いかけていた。
 シエルはそれに対し軽く頷き、答えを示すように淡々と言葉を続ける。

「理解できましたか? ちなみに、あの場の流れもその形に沿っています。少々幼稚なはったりが過ぎるとも思えますが、そのはったりもあそこまでやれば概念的な力となるでしょう。つまり、そこまでやらなければならない程のものがあそこにはあるという事です。浅はかな輩を抑止するという目的もありましたがね。主に容認されしものは、容認されているが故にこれを討つをあたわず。ただ、御名において祓うのみ。しかし………」

 執務室で命を受け、交わされた会話を思い浮かべる。
 『とんだ茶番を、随分と続けていたものだ』と切って捨てるように言い、あの人格破綻者は相手に殺意を抱かせずにはいられない独特の冷笑を形作っていた。
 説明を受けてそれに同意する気持ちも確かに湧き起こったが、シエルにはそこまでの侮蔑は決して出来ない。
 そこが彼女の甘さだと言えるし、自覚もしている。
 しかし、むしろ自身がそうある事にこそ本質があり拠り所があると信じてもいた。
 出来る事なら、持ち得る力で修復すらしたいと思っていたが、今一目で確認した限りでは残念ながらそれも適わないだろうと分った。
 感じ取れた地脈の乱れは、法則を乱したことにより調律出来る範疇を超え、封は水で浸された紙も同然に脆弱となっている。
 あれでは、あの範囲内の感覚が鋭敏な者や“魔”を内包した者に何らかの影響すら及ぼしかねない。
 恐らく、彼ももはや限界だろうと予測できる。
 だからこそ、自らの存在を保つぎりぎりで書面をこちらに送ったのだ。
 乱れた血を吐き出すような筆跡でそれは充分に理解できた。

「セブン。今更ですが、あなたの誤解をまず解いておきましょう。今回、我々が罰するのは宿敵である死徒どもではありません。とある『現象』であり、それは地に根付き、人に根付き、想念に根付くという、ある意味では下手な死徒より余程厄介な相手と言えます」

“ほえ? で、でも、マスターは吸血鬼さん以外は相手しないって───”

「確かに、埋葬機関の存在意義の優先順位から言えば死徒達の殲滅こそ至上で、それ以外に力を用いる暇など無いというのが実情なのですがね。けれど、今回あなたの力こそが鍵となりますので、私が出てこざる得なかったというわけです」

“えー!? それってどういう…………”

「───喜びなさい、セブン。あなたが願って止まなかった、本来の聖典としての力を今回は存分に奮ってもらうことになるのですからね。概念を討ち得るは概念のみ。特に、あなたの持つものこそが最も適しています。効果は覿面でしょう。何しろ、相手はかつての我々の同胞なのですから」

 寒気さえ感じる冷酷な口調で、シエルは機械的に呟く。
 その顔は、人としての感情を捨て去ったように作り物めいた無表情だった。
 セブンは、言われた自身に関わる内容よりもその彼女の様子に心を衝かれ悲しげな顔で言葉を詰まらせる。
 知る限り、優しすぎる自分のマスターは、このようになった時こそ深く苦悩し何かに耐えているのだという事を知っていたからだった。

 この時点で───シエルは、代行者として拝した命により運命を決せられる人物、それを引き起こした特殊な地での自らの任にのみ思いを巡らしていた。
 故に、そこで自らに深く関わる人物の『ある結末』を見せつけられるとは、神ならぬ身の彼女の想像を遥かに超え予見することなど出来なかったのだ。

 ───要するにこれは、ただの間が悪い『偶然』に過ぎなかったのである。
 



[24979] サリエルを待ち侘びて Ⅳ
Name: tory◆1f6c1871 ID:5c14e23d
Date: 2012/10/27 22:28
 間桐桜がその遠方の街に漸く辿り着いたのは、学生達が帰宅の途で忙しなく行き交う時間帯だった。
 暮れかける郷愁を誘うオレンジの残光の中。
 網膜の中にボンネットに反射して、乱舞する結晶に似た輝く欠片が飛び込んできた。
 信号待ちの自身の車の前を、家路を急ぐ数多の雑踏が横切る。
 歩行者用信号が青を点灯させている間、お馴染みの寂しげで不気味な関所と参拝を巡るわらべうたの電子音が鳴り響いていた。
 桜は、見慣れぬ制服を着た学生が談笑しながら横断歩道を渡っているのを何とはなしに目で追ってしまう。
 きっと彼らは、未だ日々の輝かしさを疑わず己に倦むことも少なく、自身と世界が等価であると無条件で信じているのだろうなと羨望混じりに考えつつ。
 
 少年少女達を目に映し、ふと思わずその姿を幻視するように重ねた。
 かつての自分と、掛け替えの無い存在であった赤毛の朴訥な少年とを─── 
 複雑な心をそのまま表すように桜は大きく息を漏らし、無理矢理頭を頭を覚醒させるかの如く必要以上に背筋を伸ばす。
 桜は、今の連想は我ながらあまりに情けないではないかと内心で苦笑した。
 そんな簡単なものではなかったし、その時の自分がそのように幸福な幻想を描けたのは極々僅かであったというのに。
 普段は心の奥底に頑強に封じ込めているものが無防備に浮かび上がったのは、少々の疲労のせいか。
 無理もない。
 何しろ、八時間を越えて運転し通しだったのだから。
 
 冬木から此処まで、普通ならば飛行機や高速鉄道を利用する遠大な距離だった。
 それを、高速道を幾つか乗り継ぎつつ愛車を駆り立ててやって来た。
 しかも、およそ尋常ではない速度で。
 あえて車でという選択をしたのは、無論の事、彼女自身の嗜好の問題だった。
 端的に言えば、単純にこの跳ね馬のエンブレムのモンスターマシンを思う様に走らせるという、そうそう無い機会を逃したくなかったのだ。
 つまりは、極めて個人的な欲求である。
 
 誰もがそのたおやかな見た目や雰囲気の落差から愕然とするが、桜は車をより速くより獰猛に走らせることに快楽を見出す。
 少々、周囲から見れば逸脱していると思われる程に。
 より簡潔に表現すると、重度かつ深刻なスピード狂というやつである。
 “ハンドルを握ると性格が豹変する”などと評される人間は多いが……変わらないからこそ恐ろしいものもこの世にはあると、彼女をよく知る者達はしみじみと語った。
 更に言うならば、その運転技術が実際に相当神憑っているというところも性質が悪かったのだ。
 
『冬木には時折、化け物じみたマシンを神の如き腕で走らせる謎の美女が忽然と現れる』
 
 冬木一帯の走り屋達の間では、怪談と紙一重のそういう畏怖を伴う噂があった。
 事実、遭遇した腕に覚えがある猛者が幾人も挑んでは呆気無く彼女の後塵を拝していたのである。
 
 当初は、桜もこのような性向と才能が自身にあるのが不思議だった。
 そう、これを最初に自覚したのは確か───

『その、なんだ……もしかして、桜って極度に集中を要するもの全部に才能があるんじゃないのか? 弓と同じでさ。ただ、これに関しちゃ俺なんかじゃ足元にも及ばなさそうだけどな』

 そうだ───困ったように赤毛の頭を掻いていた彼にそんな事を言われたんだった、と桜は明確にその場面を思い出し自然と表情が綻んだ。
 確か、あの美しい湖と森の国へ所用があり訪れた際の一幕。
 その地でちょっとしたトラブルに巻き込まれ、何故か自分が車の運転をすることになり、そしてどういう訳かカーチェイスじみた真似をしなければならなくなった時の会話だった。
 思えばあの時こそが、自身の嗜好を自覚する最初のきっかけだったのかもしれない。
 が、

『いや、これって、そういう問題なのかしら?……そもそも免許取り立てでこの運転って、正直どうなの? この先、果てしなく危険の匂いしかしないんだけど』

『遺憾ながら、全くの同感ですわね。率直に申し上げて、軽々しく我が家の車を貸し与えたのを、今私は猛烈に反省しているところです』

 あの時、赤と青の普段はいがみ合っている筈の二人の魔女からは、本当に双子のようにそっくりな頭痛を堪えるような表情で同時に溜息を吐かれてしまった。
 最初に煽ったのは、あの二人だったというのに。
 まあ、確かに……あまりに夢中で形振り構わない状態になっていたとは言え、ドリフトやスピンターンを知らずに多用して道無き道を駆け巡っていたので、そんな風に言われるのも無理なからんことだったのかもしれない。
 最終的には、カースタントじみた片輪走行やジャックナイフすら駆使して追跡した相手を湖にたたき落としたのだから、ほんの少しだけやり過ぎだったと今だったら思わないでもない。
 

 信号が青へと変わったと同時に、悲鳴のようなアスファルトへの擦過音を残し急発進した。
 平和な街並みに似つかわしくない爆音を轟かせ、人々の呆気に取られた注目を取り残し黒銀の車は弾丸さながらに走り去る。
 蹴りつけるようにクラッチを切り、ギアを少々乱暴に変えてアクセルを思い切り踏み込んだ結果である。
 考えてみると、あの日々は本当に目が回るほどに忙しなかったけれど、とても大切で輝かしいものだった……そんな、懐旧の想いに囚われそうになるのを慌ててかき消したのが彼女の動作に表れたのだ。
 今は気を緩ませる訳にはいかなかった。
 何しろ、冬木の管理者の全権を任された『代行』としてこの地の尋常ならざる支配者と相対せねばならないのだから。
 特殊な地での定番として、睥睨する一段高所に居を構える古き一族。
 その当主たる人物は、伝え聞く通りならば……


 昨日の昼。
 桜は、幽玄にして清浄なる山を貫く長大な石段を登り、あらゆる意味で馴染み深い冬木一の名刹である山寺に訪れていた。
 こちらから依頼をした件の、結果を受け取る為である。
 それは、予想より大分早く齎されたのだ。
  
「三咲市……ですか? 聞き覚えがないのですが、どの辺りなのでしょう?」

「そう、冬木からだとかなりの遠方ですな。まあ、大雑把に言うと車だったら半日程度の距離。一応は、首都圏ということになりましょうか」 

「そうですか。確かに遠いですね」

 独特の香の匂いが染み付いた、風雅な調度が配された応接の和室。
 黒檀の机を挟み桜と相対する濃紺の作務衣に身を包んだ僧は、一部の隙もない佇まいで茶を嗜みつつ頷いた。
 彼女は、久しく会っていなかった彼をそれとなく観察する。
 厳格かつ謹直な表情は相変わらずだなと、内心で桜は思う。
 ただ、眼鏡の奥の涼やかな目が鋭さに加えて危ういものと空虚さを湛えているのが気になる。
 見た目で特に以前と一番変わっているのは、その頭髪が半ば以上それまでの艱難辛苦を物語るように色が抜け落ち白くなっていることだろうか。
 雰囲気も、どこか昔の鷹揚さに欠け重苦しく隙がなさ過ぎる。
 それは、お互いの関係性によるものなのか。
 それとも……

「とは言え、何も人も通わぬような未開の地という訳でも無し、赴くに困難ということでは当然ないです。それに、確かあの近隣には空港すらあった筈。ま、それはともかくとして………しかし、聞き覚えがないとは少々意外ですな。あの辺りは確か、君達にとっても特殊な地だと耳にしているのだが」

「と、言いますと?」

「いや、自分も今回の件とは外れるので詳細は調べていないのですが、なんでも“蒼崎”という家名は君達にとって決して無視できないものだとか?」

「それは……」

 桜は、目を見開いて息を飲む。
 流石に、それを知らぬ筈はなかった。
 少なくとも、魔術師と自らを定めている者であるならば。
 ただそれが、目の前の彼の口から出たのに驚いた。
 
 魔術師達にとって辺境であり、取るに足らない地とされる極東の島国より輩出された、本流である西欧の名家達すら認めざる得ない随一の魔導の名門。
 もしくは、名門とは程遠く只々異常極まりないだけの変質的な家系に過ぎないと忌避に近い評をされる場合もある。
 これは一見相反するようではあるが、実はどちらの評価もそれなりに正しい。
 “蒼崎”は古い家系ではあるが、大貴族と呼称される"貴き血"の三家は言うに及ばず、その直下の二十余りある親族からすらも程遠い血筋なのだという。
 無論、表の伝承にすらその存在が垣間見えるような著名な一族でも神代よりの業を脈々と受け継ぐ一族でもない。
 つまり、血の純潔を尊ぶ魔術師という観点では名門では無いのだ。
 だが何者も軽侮できない、畏怖すべき一つの大いなる事実がある。
 それは、その血筋が信じ難い事に僅か数代で───。
 
「ふむ……その様子では、本当に御存知無いようだ。まあ、確かにあの辺りはこの冬木以上に色々と事情が複雑らしい。しかし、一説によるとこの三咲市というのはその“蒼崎”の地であると言われているようなので、君達にとっては周知の場所なのかと。もっとも、情報が交錯して判然としないのですが」

「そうですか……勿論、“蒼崎”の地が関東にあるのは存じていましたが、具体的な場所について“こちら”には伝わっていないので少々驚きました。何しろ相手が相手なので、その辺りの余計な詮索は出来ないですから」

「ああ、なるほど。要するに、“触らぬ神に祟りなし”と言ったところですか。“蒼崎”とは、君達にとってそれほどの銘というわけだ。もっとも、事情はこちらも似たようなものですがね。どうやら、何らかの難儀な盟約があるようだ。その辺り、かつての冬木と同様なのでしょう」

「あの、すると───その土地の管理者は、“蒼崎”の縁者ということで宜しいのでしょうか?」

 些かの緊張を持って、桜は僅かに首を傾げて問うた。
 もしそうであれば、魔術師にとって死地へ赴くのと変わりがない。
 無論、そこに否やは無く、ある意味では望むところだった。
 彼女はもはや、縮こまって恐れにただただ震える小娘ではない。
 厳然と自身を確定させた、世界と対峙する者なのだ。
 が、その雰囲気が伝わったからなのか、目の前の彼は考え倦ねた顔を改める。

「失礼。どうにも脱線が過ぎたようだ。誤解を先に解きますが、“蒼崎”については調査の過程で出てきたのであって今回の件とは全く関係無いです。そもそも、自分は“蒼崎”などというものは知らなかったのに、今回の調査にあたって冬木の関係者という事で妙な疑念を抱かれましてな。軟禁までされて逆に散々問い質されたので、少々興味が湧いたというだけです」

「そう……でしたか。それは、余計な御苦労をお掛けしました」

「いや、そのように詫びられると困る。君の姉君であれば、“気を抜いて不覚をとったあんたが悪い”などと手厳しく言うでしょうからな」

 苦笑と共に冗談めかして言う彼に、桜も気持ちを僅かに緩ませる。
 それはまさしく姉が言いそうな事だと、容易に想像が付いたからだ。
 彼女ならもう少し婉曲に皮肉を効かせ容赦無く言い放つかも知れないが、内容はきっと同じようなものだろう。
 流石に姉のことをよく分かっていると桜は言いかけたが、それで彼の表情がみるみる不機嫌な渋面へと変化するのを予測できたので止めておいた。
 
 彼───柳洞一成と姉である遠坂凛は、学生時代より不倶戴天の敵同士という間柄だ。
 彼らが相見えれば決まって遠慮が無い皮肉や悪態の応酬となるのを、桜も後輩の学生として穂群原学園に在籍していた時より何度も見かけている。
 しかもその腐れ縁(と、お互いが言う)は、穂群原以前よりというからなかなか一筋縄ではいかない関係性だ。
 もし機会があるのならば、躊躇いなく止めを刺すだろうというのが二人に共通する認識らしい。
 
 しかし……それはある意味、彼女の屈折した信頼の証だと言えなくもない。
 あの複雑極まりない天才は、一目置く相手とはどうもそういう間柄となりやすいのだ。
 武芸百般で鳴らした弓道部の女主将しかり、ほぼ鏡に写したように彼女に酷似した青き魔女しかり、兄弟子であった神父しかり。
 それを覆し彼女を無防備にしたのは、肉親以外では知る限り唯一“あの人”だけだった。
 まあ、あれは、相手が悪すぎたが故の手段を選ばない遠坂凛という人物らしい攻め手の一つなのか、本心から来る感情の吐露なのかは判断が難しいところだが……。
 
 胸に去来する、僅かな痛みの残滓。
 ……未だ蟠る未練に、桜は自己嫌悪する
 だが、暗く沈みかける気持ちは咳払いを耳にしたことで引き戻された。
 正気づいた桜が慌てて視線を合わせると、話を切り替えるように厳格な僧としての声音で彼は話を続けた。 

「ともかく───その三咲市の管理を担う者が、“蒼崎”とは何の縁もゆかりもない事は確認済みですので御安心を。しかし……」

 一成は、言葉を切り微かに俯く。
 桜は、ほんの僅か垣間見せた彼の表情を見逃さなかったが、沈黙を保って見詰めるのみにとどめた。
 静寂は数瞬。
 先程まで気にならなかった、山特有の清涼な風に浚われる葉鳴りがやけに大きく聞こえた。
 桜には、彼が何を逡巡しているのか大体の予測がついている。
 はたして感情を消したような面持ちとなり彼が淡々と続けた言葉は、やはり彼女が想像した通りのものだった。

「……間桐さん。やはり、君が遠坂から託されたというその『七夜』の情報をこちらに渡して頂き、最後まで一任してくれないだろうか? 先程言ったように、先方はただただ『七夜』についての情報を欲しているだけのようだ。故に、特にそれが誰からのものであっても気にはしないでしょう。であるならば、自分が赴きその者と直接掛け合っても同じ事と思うが」

「『七夜』という一族についての詳細を話すという事への条件が、こちらの持っている『七夜』と思しき者の目撃情報を直接面談し伝える事───でしたか。まあ確かに、仰る通り誰がそれを行っても気にはとめられないのでしょうが……」

「では───」

「けれどそれは、やはり私の役目かと。一成和尚───ここまでこちらの無理な要請に御尽力頂き誠に有難う御座いました。『遠坂』に代わりまして、改めて厚く御礼を申し上げます」

「………………………む」

 居住まいを正し完璧な礼を以て深く頭を下げた桜に、一成は言葉を詰まらせて口を固く結ぶ。
 それが提案への柔らかい、しかし断固とした拒否だと理解できたからだ。
 即座に表情を厳しいものへと変え、彼は眼鏡を軽く指先で押し上げつつ咎めるような強い眼光で桜を見据えた。

「いや、そのような大仰な礼をされるくらいなら、もう少しこちらの言い分を考慮されたらどうか? そもそも敢えてこちらに話を通したのは、僅かとは言え『組織』と繋がりがある当山の面目を立てる為と目していたが。となれば、筋としてこのような半端なところでこちらを用済みとするのは如何なものか。更に言うならば、少々の僥倖があったにしろここまでお膳立てをした自分の労苦も斟酌していただきたいものだ。それとも……君まで姉に倣い、最後の最後で成果のみ横から掻っ攫うような下卑た真似を良しとするのかね?」 

「ああ……そういう仰りようは少々懐かしいですね、生徒会長」

 言いながら顔を上げ、桜は悪戯っぽい上目遣いで見詰める。
 その正論を以て自身の意を押し通す攻撃的な口調に、かつての学生時代の彼を桜は思い出したのである。
 が、一成はそんな桜の懐旧の念に同調することは無かった。
 それどころか、眉間の皺をますます深くし不愉快げに顔を顰める。

「間桐さん。茶化して話を逸らそうとしているのであれば───」

「あら? 話を逸らそうとしているのはそちらとお見受けしますけれど?」

「それは……どういう意味ですかな?」

「では、肝心なことをお話頂けないのは何故なのでしょう? 例えば───“蒼崎”とは縁がないにしろ、その相手が如何様な者なのか、、、、、、、、という類のことなのですが」

 言いながら桜は、穏やかな雰囲気を意図して一変させる。
 静かな柔らかい口調とは裏腹に、彼女のその視線には安易な逃避を許さぬ攻性のモノが含まれていた。
 しかし、一成はそれに僅かに表情を硬化させたものの動じる色も無く口元を皮肉っぽく歪めた。

「ふむ……何か余計な危惧をされているようだな。君らが予想したとおり、『七夜』とは“こちら”に深く関わる銘なのは間違いが無い。なれば、自分と君とどちらが適任か言うまでもないという、ただそれだけの話の筈だが」

「そのような、御自身でも信じられてないようなことを仰られても到底納得できません。確かに、そこまで調査し得たのは貴方の人脈と手腕による所が大きい。けれど………」

 語尾を濁らせ、桜は意味有り気に目を細める。
 それに対し、一成は今度こそ真から不愉快げな感情を露にした。
 
「……要するに、俺ではその相手に対して決定的に役者不足であると、君はそう言いたいのだな?」

「ええ。端的に言えば。ご理解頂き誠に幸いです」

 一成の怒気が伴う強い視線を真っ向から受けながら、桜は何の痛痒も感じていないかの如く花開くように微笑み頷く。
 その彼女の断言は、ある意味無慈悲なものですらあった。
 暫くの互いの沈黙。
 それはさながら、引き絞られ弾ける寸前の弓弦に似た危うさを孕んでいた。
 が、やがて───一成は目を伏せ、重い溜息を吐き出す。
 その苦りきった顔には、大きな無力感が滲んでいた。

「まったく……君の厄介さは、一見あの女狐めとは異なるが根っこの部分はそっくりだ。やはり、血は争えぬということかな」

「まあ。随分と乱暴な括り方ですね、それ。でも……この場合、お褒め頂いたと考えたほうが宜しいのかしら?」

「その解釈は御自由になされよ。もっとも、俺があやつをどう見ているのかを考えれば答えは明白かと思うがね」

 吐き捨てるかのように言った口調は彼らしい厳しさが含まれていたものの、何かを諦めた様に少々投げ遣りなものだった。
 その様子に、桜は内心の緊張を漸く緩める。
 もし一成がこの件でどうしても折れないとなれば、強硬な手段を弄してでもこちらの意に従わせるとまで桜は考えていたのだ。
 彼が頑ななまでに己が赴くことを主張した理由……その執心を桜はおぼろげながらにしか理解できない。
 だが少なくとも、こうして『魔術師』としての自分と対峙する程には、柳洞一成という人物の立ち位置も認識もかつてからは激変している。
 ただ、問題なのは───

「本当に……君は立派な『代行』となってしまったようだな。大方、今の君の応対はあやつの入れ知恵も多分にあるのだろう?」

「ええ……否定はしません。が、姉である遠坂凛が、『遠坂』の当主であり冬木の管理者である前に、友人として柳洞一成という人物を彼女なりに案じているのもご理解頂けるでしょう?」
 
 その言葉に、鼻先だけでふんと笑い一成は何も答えなかった。
 桜は、姉との一幕を思い返す。
 天才である生粋の魔術師の彼女は、まずこう伝えてきたのである。


『うわー……』 

 桜は、思わず何とも言えない困惑を伴った感嘆の声を漏らしてしまった。
 言われた通りの時刻に黴臭く薄暗い遠坂の屋敷の地下の儀礼場に訪れると、もうそれは始まっていたのだ。
 相変わらず雑多な物が散乱する中に、不必要な大きさでこの場の主であるかのように鎮座している物。
 それにまず驚いた。
 確かに、ここ最近はこの場所に立ち入らせてくれなかったが。
 アナクロな、ガチガチと歯車の軋む音。
 振動を伴って、蒸気を思わせる怪しげな煙が時折漏れる。
 つまりは、前時代極まりない、人によっては郷愁すら誘う奇怪で前衛的なオブジェ。
 一体、いつの間にこのようなものを完成させていたのかと呆れる。
 ───仕方がない。
 桜は溜息をつきつつ、それから吐き出される白蛇のように長大になりつつあるものを手に取り目を通した。
 
 それは随分と不審な依頼だった。
 が、内容を把握するにつれ幾つか信じ難い事柄に引っかかりつつも納得した。
 彼女の見解はあくまで私見ではあるがと前置きした上で、さらに続けられる。
 
 “───つまりね、桜。この国の裏側は、私達のような闇に住まうことを常とし歪みを厭わない魔術師にとってさえ、決して軽々しく踏み込んではいけない領域だと思うのよ。どこぞのお貴族様なんかは、日本に訪れた後で事後処理ばかりが得意で日和見な国だとか能天気に吹聴してたらしいけど……それは一面の真実ではあるものの、多分価値観が大きく乖離しているが故にその大部分を見過ごしてしまっている。ま、そいつが端から見下して真剣味が足りなかったのも原因でしょうけど。殆ど関わらない以上は、お互いにとって損は無いし特に問題視する理由も無いからね”

“ただ、そうね……魔術師は『協会』なんてものがあるわけだけど、厳然とした力を持ちつつもその構造だけ見ればある意味互助会的なものでしょ? 大義名分ではあるものの、君臨はしていないと明確に標榜までしているくらいだし。当然よね。魔術師は、基本的に個人個人が独立独歩であることこそに価値があるのだから”

“で、対して日本の伝え聞く『組織』の方はというと……実はこれ、その真逆の構造なんじゃないかと私は睨んでいる。朧気に垣間見えるものから推測するに、隠然とした何らかの意志に厳格なまでに律されているような………そう、もしかしたらその在り方は、狂気の度合いにおいて『教会』にすら近いのかもしれないとまで感じるわ。でも、印象としてはより迂遠でより用心深くより閉鎖的。とにかく、何もかもが薄暗い。何を以ってその行動の指針にしているのか、未だ外部からはおいそれと読み取れないほどにね”

“『組織』は、私達みたいな“遠くかけ離れている存在”には決して自ら干渉してこようとはしない。冬木は、特に昔からの取り決めがあるらしいというのもあるけど……でも、それは果たして異端の魔術師という存在が彼らにとって手に負えないからなどという、そんな弱腰な理由なのかしら? 私は、否だと思う” 

“彼らが徹底した不干渉を貫き、外部に頑ななまでに縁を持とうとはしないのは何故か? ……それは多分だけど、言葉にするとこんな感じじゃないかな───『我々は、お前たちに関わり合うほどには暇でない。こちらは、既に内に在るモノだけで手一杯なのだ。故に、この地でお前たちが幾ら無礼を働き傍若無人に振舞おうが大目に見てやろう。だが、お前たちも我々の邪魔をするな』って”

“要は、その在り方があまりに余裕が無さ過ぎるって気がするのよね。だからこそ、一線を越えた場合の対処は徹底して容赦が無いと予測できる。問題なのは何がその不明瞭な一線なのかということだけど………正直に言えばこの『七夜』というのは、恐らく彼らの内側の銘であるが故に、そこに抵触している可能性が充分にあるわ”

“別にこちらとしては、彼らと無理に事を構えるほどにはこれに執着するつもりも無い。でも、出来れば把握しておきたいのは確かだし、それは直接的でないにしろ今の私達が抱えている問題に大きな益を齎すとは思う。だからその辺りの判断は、『代行』としての貴女の判断に一任する”

“どこまで踏み込み、どの辺りが妥協点か? ま、こちらの持っている手札がどれ程のものかも分からないからね。幾ら『七夜』というのが優れた退魔の血族でそいつが祖ですら滅ぼせるような信じ難い力を持っているしたって、何故か遥か遠い異国に居る人間の所在情報なんて彼らにとって既に無意味かもしれないし。ましてや、『組織』の中で『七夜』がどんな立ち位置なのかも不明。ひょっとしたら、無視されるか多少威嚇されて交渉にすらならないというのが一番有り得そうな対応かもね。それでも、やれるだけはやってみて。期待は、一応しておくから”

“───で、肝心の『組織』へ接触するための取っ掛かりである窓口なんだけど、『遠坂』の銘で通用するのは………そうね、三つ………いや、二つかな。一つは、桜も分かってるでしょうけど柳洞寺。正直、あまり気は進まないけれど。ただ、もう一つの方が今となってはちょっと繋がりが薄いみたいでね……良くも悪くもそこは現世利益優先だから、末端も良い所だろうし。結局は柳洞寺経由……というより、あいつに依頼するのが一番効率が良いかな。安全率や信頼という面でも認めざる得ないしね”

“もっとも──”

 カタカタギシギシバタバタと、時代錯誤な機械音はさらに絶え間なく響こうとする。
 が、要所に宝石が配された複雑怪奇な装飾が著しい箱型の装置に何気なく目を遣り………気がついてしまった。
 魔術とは、過程こそ奇跡的ではあるが結果は即ち等価交換の原則に基づくものである。
 例えばそれが次々と吐き散らかすものは、紙に見えて恐らく紙とは程遠い材質のものだ。
 自動で記された文字は、随分と絢爛な輝きを帯びているではないか。
 そもそも、この装置の動力が何であるのかは明白だ。
 そういう諸々の、決して無視できない事柄。
 何故“あの”遠坂凛のやる事に、今までそういう注意を払わなかったのか。
 桜は自分の至らなさにらしくもなく舌打ちし、内心で猛省した。
 堪らず装置のスイッチらしきものを切り、携帯で電話を掛ける。
 幾つかの電子的な信号音と切り替え音の後に、コールが正確に十回。
 ──相手が出た。

『……あの、姉さん?』

『あれ? どうしたの? 突然切れたけど、やっぱりそれ調子悪くなった?』

『いえ、心臓に悪いから私が切ったんです。これ自体は、完璧に動作していましたよ。こんな物を作れるなんて流石は姉さんだなって、感嘆の思いを禁じえません。ある意味、至高の逸品とも言えるでしょう。ただ……』

『ただ……なによ?』

『大変言い難いのですが……私、これとほぼ同じような機能を持つ便利な物を知ってるんですけど。しかもそれは、一般にかなり普及してたりもします』

 何かに耐えるような抑制された口調に言いたい事をようやく察したのか、電話の向こうのぞんざいな雰囲気が剣呑なものに切り替わる。
 が、桜は無論怯んだりはしない。

『ふーん……随分と小憎らしい持って回った言い方できるようになったものね。姉として、そんな妹の成長をとても嬉しく思うわ』

『ええ。これも全て、姉さんの日頃の薫陶のお陰と感謝の念が絶えません』

 澄ました微笑を含んだ声で答えると、少々の不利を悟ったのか逡巡するように凛はしばし沈黙した。
 桜は、伊達にこの破天荒な姉を長年相手取ってきたわけでは無かった。
 遠坂凛のそういう根底のところを一番理解しているのは厄介なことに自分だという認識もある。
 その部分では、あの魂の双子の如き蒼き魔女や彼女の最愛の人物である青年すら凌駕しているだろう。
 逆もまた然りだが。
 まこと、げに恐ろしきは血の繋がりだった。

『一応言っとくけど───言語野からダイレクトに文字として転写するなんて事は今の文明の利器には到底できない筈よ。あと、機密の保持もこっちの方が優れてるし』

『それは、その通りかもしれませんけれど……姉さんの場合、それが主な理由ではないですよね? ───いい加減に、メールくらい使えるようになってください。それが駄目なら、せめて要点をまとめた文書をFAXして頂くとか。機密の保持については、それらを使っても幾らでも方法はあると思いますが。ご自身で出来なくても、取り巻きの御友人の方々にはそういう関係のスペシャリストが確か大勢いらっしゃった筈ですよね? その携帯だって、確かある程度の保護はかけてもらったと以前仰ったじゃないですか』

『まあね。でも、盗み聞きしてる輩はどこにだっているし。それに、今は単独行動中だから彼らは居ないのよ。これからは、そういう状況の方が多くなるから』

 凛の答える声は自嘲の色を帯びながらも、どこか楽しそうで清々したというように明るい。
 その原因を桜は知っていたし、確かに無理なからんことだとも思う。

 遠坂凛という稀代の魔術師。
 宝石の後継者の系譜にして、現在においてその至るべき到達点に一番近い位置にあるのではないかと目されている突出した大天才。
 その周囲には、当然ながら多くの異才や奇才が集まった。
 あるいは純粋なる憧憬から、あるいは単純なる私欲から、あるいは複雑なる友誼から。
 とにかく、多くの者が決して彼女を無視は出来なかったのだ。
 そして、これこそが『破滅の魔女』などと揶揄される一因であるが……そうやって吸い寄せられるように集まった者達は、どういうわけか彼女の為に身を捧げ尽力する破目に陥るのである。
 しかも、その殆どが自ら望んでだ。
 無論、彼女が形振り構わず恣意的かつ作為的に人心を掌握することに腐心した結果でもある。
 そうやって出来上がった集団は、旧来の時計塔の特権者が目障りだと苦々しく思うほどに強大で異常なものだったらしい。
 もっとも、それは彼女にしたところであまり本意では無かったようだが。
 ただ、遠坂凛の極めて個人的な目的の為にどうしても必要な過程だったのだ。
 
 取り巻きの御友人などと桜は言ったが、それは真実彼女の忠実な部下同然だった筈だ。
 どうやら妹にはそういう面をあまり見せたくないらしいから桜も話を合わせているが、流石にそれくらいは察しがつく。
 凛が心を噛み殺しつつそんな彼らを率いて、キナ臭くも血生臭い死地に赴き続けたに違いない事くらいは。
 恐らく彼女は、目的の為に数多の血が流れても何の弁明もしなかった。
 本来の彼女の人格からすれば、その過酷さを自らのみで終止させたかったであろうがそうはしなかったのだ。
 それはどうあっても無理であると、早い段階で見切りをつけていた故に。
 後になって桜はその理由を知り、よくも全てを投げ出さなかったものだと改めて遠坂凛という人物に畏怖を覚えたものだ。
 
 こうして───一つの奇跡の逆理は成し遂げられた。
 つまり遠坂凛は遠坂凛のまま、運命を力任せに捻じ伏せ勝利したのだ。
 だから今は、その後始末に彼女は奔走している。
 それも決して生易しいことではないが。
 しかしながら、それとこれとはまた別の話である。
 桜は、溜息混じりに少々疲れた声を吐き出した。
 
『───だったら、尚更自分で何とかして頂かないと。とにかく……これはコストが嵩み過ぎます。今の文量だけで車が一台買えるくらいの金額には恐らくなっていますよ? そういうのって、ちゃんと把握されてますか?』 

『カシミール・サファイアだと、せいぜい1カラット程度ってとこかしらね? でも、これは───』

『今の姉さんの資産って、どれくらい目減りしてたんでしたっけ? 私が知る限りでは、確か二年前と一桁は違った筈ですけど』

 冷たく言い放たれたその指摘に、今度こそ凛はグッと苦しげに言葉を詰まらせる。
 それは彼女にとって、もっとも触れて欲しくないことの一つであったからであろう。
 とは言え、そうなった現状においてさえ今の遠坂の総資産が莫大なものであることはもちろん桜も承知している。
 恐らく単純に財だけの話ならば、遠坂の偉大なる大師父より薫陶を受けたとされる至宝とも言うべき術理──しかしながら、浪費の極みとも言える宝石魔術の研鑽でさえ、何もせずとも優に数代は支え続けることができるくらいにはある筈である。
 だが、それさえもこの些か型破りな姉にかかれば、数代どころか半代で泡の如く費えるかもしれないという懸念は、彼女を知る者であればあるほど同意が得られる事だろう。
 とかく彼女は、あらゆる面において徹底的かつ大胆に過ぎるのだ。
 特に金銭面に限って言えば、基本的には吝嗇なくせにいざ一度決断するとまるで後先を考えていないかのように湯水の如く散財するという悪癖がある。
 それで結果を残すほどの成功ばかりならば良いが、時に彼女は誰もが及びもつかない常軌を逸した失敗をするから性質が悪い。
 しかも大抵の場合、周囲を大きく巻き込んでだ。
 もしかしたら、傍からの的確な手助けと彼女自身の厳然とした覚悟がなければ、遠坂凛という人物は自身の代で家を没落させた魔術師という不名誉な名の残し方をしたかもしれないと桜は考える。
 無論、その時は自分も一蓮托生であったろうとも。
 だから、この点において苦言を呈し過ぎるということはない筈である。
 大体、今の凛はそれまでの環境が環境なだけに金銭感覚が大幅に狂っているであろうし───
 
『……ふん。ま、いいわ。次は、もう少しその辺りも考慮して改良すればいいんでしょ。OK。分かった。了解。次は上手くやる』

 一時的な撤退を余儀なくされた司令官といった重々しい響きの口調で、凛は不承不承矛を収めた。
 しかし、やはり次も自分が提示したような文明の利器を使うつもりは無いらしい。
 少しはその辺りマシになったと聞いていたが、あくまで“以前よりは”という比較の問題であり根本的な発想自体がやはり常人とかけ離れている。
 確かに、生粋の魔術師であればあるほどこういう者たちは多いが、もう少し何とかならないものか。
 “やっぱり、父さんの振り子でも使うべきだったかしら? でも、あれ対になるペンの方が無くなってるのよね。あんな古臭い機構のもの、今更造り直すのもどうかと思うし……”
 と、愚痴っぽくぶつぶつ小声で呟くのが耳に届く。
 その振り子とやらがどういったものか皆目見当も付かなかったが、この大仰なFAXもどきよりは大分マシなものではなかろうかと桜は思った。
 無論、口に出しては言わなかったが。
 やがて、気を取り直すように咳払いを一つした後、凛は言葉を続けた。

『んー……じゃあ、さっきの続きはそれほど重要でも無い瑣末事だから、このままこの電話で話すことにするわよ。要するに、あいつ───一成のことなんだけど、最近どんな感じなのか知ってる? というか、まだ生きてるの?』

『生きてるって……姉さん、幾らなんでもそれはあんまりでは……少なくとも、亡くなったという事は聞いていませんが』

『ふーん、一応死んではいないわけね。だけど、あいつって殆どそこには居ないわよね。今じゃ正式に衣鉢を継いで御山の主だっていうのに。つまり、まだ続けてるんでしょ? 例の無駄な事を』

 気の無い口振りで瑣末事とか前置きしたわりには、凛の言葉の端々にはどこか微妙な感情の揺れが滲み出ている。
 それを、他ならぬ桜には読み取ることが出来た。
 彼女は自身を酷薄であると信じているし、確かにその言動は容赦が無く苛烈なものである場合が殆どである。
 が、その真芯と言うべき人格はそれとは大きく背反するものだ。
 その矛盾ゆえの遠坂凛の本当の強さを理解する者は、極々近しい者に限られる。

『それは───そう……みたいですけど。私も殆どお見掛けしたことがないから、詳しくは分からないです。ただ……以前に『代行』として御挨拶に伺ったとき、ご隠居された先代にその件を尋ねたら“無益極まりない”って大層憤慨なさっていましたが』 

『でしょうね。あの人も傍からだと欲まみれの破戒僧にしか見えない碌でもない坊さんだけど、あれでも権僧正だったくらいだから。色々自分達の役回りってのを理解してるし、悟ってもいる大人物なのよ。ま、一成にはその境地は伝わらなかったんでしょうけど』

 その言葉に皮肉っぽくも相手に対するある種の敬愛が含まれているのを感じ取り、桜は少々意外に思う。
 昔から、遠坂という家系と柳洞という家系は折り合いが悪かったのだという。
 無論、両者の立ち位置を考えればそれも当然とも言えるが、そういうことを抜きにしても決定的にその気質の相性が合わないのだと凛はどこか煙たそうに以前は言っていた。
 それは学生時代の凛と一成の関係を見れば一目瞭然と桜も納得していたが……よくよく考えてみるとあの豪放磊落な先代はあまり一成に似ていないし、どちらかというとこの破天荒な姉と通じるところがある。
 遠坂の当主として先代の柳洞寺の主と邂逅を重ねる内に、お互いの確執が緩和されるような機会でもあったのだろうか?
 
『でも、その先代も似たような事をされてたんでしょう? 何でも、各地を飛び回って様々な難事を解決なさったとか』

『そうね。けれど、あの人は己というものをよく弁えていた。例えばその事態が“闇”に属するようなことであれば、彼はあくまで調整役に務め即座に手を引いたそうよ。そりゃそうよね。何しろその血脈には、そっち方面の才能というものがまるで無いんだから。だからこそ、厄介過ぎるその土地の管理だって自分らじゃ手に負えないって冷静に判断してこっちに丸投げしてた。その代償として、どんな災厄が降りかかろうが甘んじて受け入れてね。こういうのって一見すると無責任にも見えるけど、これはこれでなかなかできる事じゃあないと思うわ。相当器が大きくないと。一成だって、その辺り理解してるとは思うんだけど……』

 何があったのか、どういう経緯が彼をそうしたのか詳細は分からない。
 あるいはそれは、本来あの柳洞寺に居るべき彼の血縁が忽然と失踪したことと関わりがあるのか。
 “その件について、私達は何も知る権利が無い”───仮面のような無表情を崩さぬまま、そう冷淡な声で一言だけ凛が言い捨てたのを桜は憶えている。
 ともかく柳洞一成という人物は、ある時唐突に真っ当な僧としての道を外れ“裏”の世界に足を踏み入れたようだ。
 だが、凛の言うとおり柳洞という血筋にはそもそも神秘に触れる才というものが欠如している。
 この国の神秘が魔術師である自分達からは概念からして程遠いものであるとしても、その礎となる本質は同一であろうしその位は桜にも分かった。
 にもかかわらず、一成自身もそれを自覚しながら───いや、自覚しているが故にと言うべきか、周囲から見れば自殺行為としか思えない『魔』と対峙する為の過酷な修行へと決然と入ったという。
 様々な深山幽谷にある霊場や修験場を訪れては生死の境に身を置き、未だもって壮絶なまでに己を滅却する鍛錬を繰り返したりもしているらしい。
 
 しかし……残酷な事実だが、その並みならぬ覚悟と決意を持った行為は恐らくほぼ実を結ばないのは明らかだ。
 神秘とは地域や民族性により形は違え、特異なる者達が脈々と血を積み重ね刻み続ける妄念にも似たものであるという事実は変わらない筈なのだから。
 即ち、単純に“力”を求めるとなると多分に下地というものが要求される領域なのだ。
 無論、さまざまな要因が重なった一代限りの突然変異的な者も居ないわけでは無い。
 例えば、かつての誰かのように。
 が、言うまでも無く柳洞一成にはその類の潜在的な力は皆無だろう。
 『魔』が身近に溢れていた古ならばいざしらず。
 神秘が衰微し文明が進んだこの時代において、持たざる者が幾らその方面の研鑽に励んだとして生涯をかけて何か一つでも得るものがあるかどうか。

『ま、全くの無駄とまでは言わないけれど、犠牲に対する見返りが殆ど無いのは確かでしょうね。そこの神秘がどんなものか、いい加減な風聞でしか耳にしたことが無いから私もよくは知らない。でも、普通の人間が不用意に近づいて五体満足でいられるほど甘く無いのは確かなはずよ。次にもし私が一成に会う機会があったとして、その時にあいつが手足の一本ぐらい欠損してたり五感の幾つかをを喪失してたりしても何も不思議じゃないわね。本当……何をしたいのか全然わからないし興味も無いけど、身の程知らずにもほどがある。その類の馬鹿は一人で十分だっていうのに───』

『……って、本人にも似たような事を忠告したんですね? でも、聞き入れてはもらえなかったと』 
 
『そ。まあ、そもそも私の言うことなんか端から耳に届いてないようだったから、それ以上は言う気になれなかったけどね。そんな義理もないし、なにより本人の意志だし。だから、一成が生きてるうちに出来るだけ利用させてもらうことにするわ。あいつが望んでいるような才能は無いにしろ、色んな意味で“使える”のは間違いないみたいだからね』

 露悪的に素っ気無い口調で凛は言うが、義理もないのに忠告までしているのが彼女らしいと桜は思う。
 ただ、一成が『組織』内部において霊能や超常等の退魔の力などほぼ皆無なのにも拘らず、持ち前の有能さ故に重用されているのは事実のようだ。
 確かに、あの正道を憚らない信念に裏打ちされた大胆さと行動力、そして場の機微を的確に把握する柔軟さを併せ持った思考の鋭敏さは、どのような集団にとっても有益であろう。
 特に、この国の『組織』の在り方を鑑みるに彼の卓越した処理能力というものは得難いものなのかもしれない。
 もっとも、先代に言わせれば『なに、あの小僧ごとき碌に役に立たないから、雑用として使われているだけですよ』ということだが。
 しかし、少なくとも学生時代において自らを厳重に隠蔽した遠坂凛という人物の異常性をいち早く見抜き、曲がりなりにも正面切って張り合うことができたのは柳洞一成だけだった。
 その事実のみで、彼の才気が尋常では無かったのだという証左に成り得るのではないだろうか。
 今の凛が到達してしまった立ち位置から考えると、尚更にそう思える。
 
『一応は互いに不干渉というのが昔からの取り決めで、あいつが私に対して個人的な感情もあるにしろ、霊地を直接管理しているこちらの依頼をあちらとしては決して断れないはずよ。だから、一成をこき使うのには何の遠慮も要らないわ。だけど───』

『ああ……何となく分かりました、姉さん。つまり、今回の件で“詰め”は私がやればいいんですね?』

『そういうこと。流石に、随分と察しが良くなったわね。そりゃ、それだけ厄介な場所の『代行』なんてやってれば当然か。任せっきりにした私の言うことじゃないかもしれないけど』

 自嘲混じりの凛の言葉に、自分に対する信頼がある事には少々嬉しく思う。
 しかし、いつもの事ではあるが、軽い調子で随分と厄介な難題をこちらに与えてくれるものだと桜は内心で重い溜息をついた。
 ───『七夜』とは、『組織』における古からの秘された退魔の一族なのだという。
 故に自分達のような外来の者がそれを探るべくもなく、柳洞寺──いや、より正確に言えば“柳洞一成”という個人をアテにしてその実像に迫る。
 そこまでは良い。
 しかし、彼なら辿り着くだろうという信頼は彼なら辿り着いてしまうだろう、、、、、、、、、、、という一つの大きな不安要素になりえる。
 隠匿されているものには隠匿されるだけの理由があるだろうし、そこに不用意に近づこうとする者に容赦が無い制裁があろう事くらいは容易に想像が付くからだ。
 一成が『組織』内部の人間だとしても……いや、内部の人間だからこそいざとなれば簡単に『処理』されてしまう可能性が高い。
 特に神秘に立つ者達にとって、秘されたものを暴かんとする行為はほぼ宣戦布告と同義であろうと桜は考える。
 例えそれが一方的な略取を目的とはしない対等な取引を望む交渉だったとしても、最終的には血で血を洗う凄惨な殺し合いになる事など魔術師の世界ではあまりにも有り触れていた。
 凛から齎された情報が真実であるとすれば、その『七夜』は信じ難い事に“人智の及ばぬ不滅なる者達”を殺し尽くした人間、、だという。
 そのような、想像もつかない破格の神秘を抱えるだろう一族を探るということがどういう結果を招くか……『組織』が幾ら外来の者達に関わらない事を基本方針としていても、こればかりは鷹揚には構えていられないのではないだろうか?
 “どこまで踏み込み、どの辺りが妥協点か?”───凛の言う様に焦点はこれに尽きる。
 引き際を間違えると、際限がない闘争にすら発展しかねない。
 それに、もし交渉が成立したとしてもこちらの手札がただの薮蛇にしかならない可能性すらある。
 さらに、これが一番の問題だろうが……この『七夜』を知る為には、はたしてどのような者と対峙せねばならないのか?、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、
 だが、桜としては今更怖気づく訳にもいかなかった。
 恐らく、凛はこれらを全て考慮に入れた上で自分に任せてきたのだ。
 彼女ならば、必要とあらばどのような難事が行く手を阻んでも悪態一つで踏破してしまう。
 その『代行』を任されている以上、同等に近いことが出来なければこの地で待ち侘びる自身の存在意義がないではないか。

『まあ、駄目なら駄目で良いからね。一応は期待するなんてさっきは伝えたけど、結構な無茶を言ってるような気もするから。こっちの持ってる手札に食いついてこなければそれで手詰まりだし。ただ、間違ってもその手札を一成には与えないように。あいつの『魔』に対する妙な執着を甘く見ないこと。この件が原因でくたばりでもされたら、後々面倒だし大損だからね』

『ええ、ええ。よーく分かりましたよ。ところで、姉さん……』

『ん、なに?』

『……私のことは、本当に、これっぽっちも心配してくれないんですね』

 殊更に拗ねた声で、桜は言った。
 それに対して、電話越しの声は虚を突かれたように数秒無音となる。

『───えーっと、なに? 新手の嫌がらせかしら?』 

 本当に意味が分からないという口調の凛に、桜は思わず吹き出した。
 それが、今の自分と姉の関係だという喜びに心を満たされながら。


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