私を乗せた車が警備員の敬礼に見送られて会社のゲートを潜る。運転席には誰も座ってはいない。すっかり普及した、ラプラス型コンピューティングによる完全無人の公共カーシェアリングシステムは、社会から自家用車という概念を駆逐しつつある。
我が社でも数台の社用車を保有して入るが、実際に使用する者はごく限られている。
ようやく上り始めた朝日がミラーに反射して目に染みる。
後部座席に座る私は小さく欠伸をした。
私は毎日7時半には出社する。
こう見えて私の仕事は多岐に渡り、一度デスクに着けば秒単位で管理されたスケジュールが私を待っている。
自分のペースを崩さずに仕事を薦める為には、余裕を持った時間管理がもっとも重要である。
私は昔から早起きが苦にならない人間であるが、今朝は少し堪えた。
昨日の夜なかなか寝付けず、今朝の起床時間も早かったからである。
それでも、私なりに満足できるものが出来て本当によかった。私は知らず鞄の中身を意識する。べ、別にこれはそういうのではないが、せっかくあげるものならいいものをあげたいと思うのは人間なら共通の思いに違いない。
「お早うございます」
いつの間にか車が社内駐車場に着いたらしい。
秘書がバタンと開いた扉の前で一礼している。
「お早う」
「お鞄、お持ちしますか?」
「いや、今日はいい」
私は車を出ると、最上階へと上がるエレベータに乗り込む。
「本日のご予定は、先般から伺ってますとおり、午前中だけとなっております。午後のご予定はございませんわ」
「そうだったな。ありがとう」
もちろんそんなことは覚えていたが、何だかそんな風に言ってしまう私がいた。この秘書とはもう4年の付き合いで、2つ年下の愛嬌のある美人であるが、どうにも今の台詞に私をからかうようなニュアンスがあったように思えてならない。
いや、それは私の気のせいだろう。
職務に忠実な彼女がそんな風に私を揶揄するわけもない。
だいたい、今日のことは、誰にも言ってはいないのだから彼女が知る由もないのである。
「今日は一段とお綺麗でらっしゃいますね」
「そうかな。いつもと変わらないつもりだが、まぁ、ありがとう」
嘘である。
今日の日の為に昨日はエステに行って今朝は用意していた勝負服を着て三十分かけてメイクしてきた。
58万もした、さりげなく胸元を強調する黒いワンピースである。自分で言うのもなんだが、私は人より胸が大きい。それでいて肥満ということもないから、サイズが合う服を探すのも大変である。下着もかわいいのが少ないし、肩も凝るのでいいことはあまりない。
「そういえば…」
物凄いスピードで上階に上がるエレベータの中で秘書が今思い出した、とでも言うようにそう口を開いた。
「今日はバレンタインデーでございますね」
「そうか。気付かなかったよ」
チン、と言ってエレベータが止まる。
私が入るべき部屋の扉には、社長室と書かれたプレートが掛かっている。
「それでは匣崎社長、今日も一日よろしくお願いいたします」
こうして、いつもとまるで変わることのない、私匣崎アヤコの一日が始まったのである。
100感想御礼!世界一遅いバレンタイン企画! 「恋とカカオとCEO」
「いない?」
「えぇ。ついさっき出かけてしまいまして」
午前中の業務を終え、特段焦ったり緊張したりすることもなく、私は5階の剣装部に武村主任を尋ねた。
特に意味があるわけではない。
日頃の業務をねぎらう意味を込めて、特別な意味など何もない昼食に誘おうとしただけだ。だが武村主任は営業職である。しかも、うちの会社でも数少ない、社用車を使いたがる類の営業だ。
剣装部の部長―小学生にしか見えないがこれでも30代後半だという―によれば武村主任は営業で社外に出ているという。
私は口の中で小さく舌打ちした。
「行き先は分かるか?」
「ええっと、わかりません」
なんだと。自分の部下の営業先も把握してないのか?
部長はてへ、とでも言うようにぺろりと舌を出した。そう言えば剣装部から上がってくる報告書やレポートは誤字や脱字が目立つ。
役員の中には小学生が書いているんじゃないか、と揶揄する口の悪いものもいたが、そうか。本当に小学生が書いていたか。
「…以後部下の行動は把握するように」
「すみません」
しゅん、と子犬の様に頭を下げる部長。おい、なんだこの私がいじめている様な雰囲気は?見れば部内の人間が皆痛ましいものを見る目で私たちを見ている。
違うからな?私が悪いわけじゃないからな?
「これをあげよう」
そう言って私は試しにポケットの中の飴を部長にあげてみた。
すると彼女はぱあっと顔を輝かせて「ありがとうございます!」と元気よく飴を持って席に戻っていった。
うんうん。元気があるのはいいことだ。それで…誰だあいつ採用したのは?
私は数少ない社用車に乗り込み、自分の端末を開く。パスコードを入力し、「タケちゃん探索機能」と題されたアプリを開く。
すると東京タウンの地図が表示され、ついでそこに赤い点が点灯した。
武村主任のバイオデータを検知して捜索するアプリであり、製作に1,800万ほどかかった。大部分が口止め料だったような気がするが気にしない。
このアプリによって、私は地下に居ようが結界内にいようが神域にいようが武村主任がどこにいるか知ることが出来る。
上司が部下の居所を知りたがることは別におかしなことではない。
私は車を起動する。どこにいようと今日だけは逃がさ―もとい、私もたまたまその辺りに用があるような気がするので、ついでだから行ってみることにする。それだけだ。
「うわ!社長、まじですか!おお!ありがとうございます!」
武村主任の声が聞こえる。ちなみにこの社長とは私のことではない。喫茶店で武村主任の前に座る、乳のでかい女の事らしい。
おい、誰だその女は?
グラスを握る私の手に、思わず力が込められる。
「いいっていいって。かえってごめんな、こんなことで呼び出して~」
「いやいや、いいっすよ。今日のこの日は、女性に呼ばれたら俺はどこでも行きますよ」
「調子いいよな、タケちゃんは~」
まったくだ。何なんだその気安い会話は。
女は作業着を着ていた。
鈴木攻務店と刺繍されたその胸は大きく膨らみ、いかにもタケちゃ―武村主任の好みのように思える。
どうやら仕事先のゼネコンの人間らしいが、その気安さがどうにも気に入らない。
可愛らしいピンクの包装の包みをもらって、武村主任がでれでれと笑っている。
ピシリ。
私が握るグラスにひびが入った。
「お。やば。午後考証検討会だからうち、そろそろいくね~」
「え?もうそんな時間すか?俺もそろそろ行きます。いやぁ、本当にありがとうございます」
「いいのいいの。こんなことでタケちゃんに恩が売れれば安いものよ~」
「そういうのは本人いない時に言ってもらってもいいですか?」
そう言って立ち上がった女がふと私の姿をその目の端に捉えた。誰だか知らないが、意外に鋭い眼光である。だが、女はにやりと笑うと、声に出さずに唇を動かして見せた。
「そうだ、タケちゃん」
「何すか?」
「これもあげよう」
「え?ええええええええ!」
真っ赤になるタケちゃん。
にへら、と笑う作業着の女。
ほっぺただった。確かにほっぺたではあるが…ちゅ、ちゅ、ちゅうしやがった!私のタケちゃんに!タケちゃんにちゅうだとぉ!
「ど、どどどうしたんすか、社長!」
「挨拶だよ、挨拶。ハッピーバレンタイン♪」
そう言って女は私に艶のある流し目を送って、店の外に消えていった。
タケちゃんはしばし呆けていたが慌ててその後を追う。
私が握るグラスの中身が、ぐつぐつと煮えたぎって溢れ出していた。
「ちゃんと掴まえとかないととられちゃうぜ」
女の唇は、私をそう言ってからかっていた。
「私、何やってるんだろ」
それから3物件ほど、私はタケちゃんの後を追って車を走らせた。最後の物件は深い山林の中にあり、私は木々に隠れてタケちゃんが出てくるのを待っている。
タケちゃんはモテる。
それは昔から知っていた。
最近になって発覚したが、タケちゃんには入社してから彼女が居たらしい。彼の妹によれば、色々と経験もあるらしい。
っていうか「証拠です」と言って映像データを送ってもらったのだが、あまりに過激な内容に2分ほどで視聴を断念した。心臓がばくばく言って死ぬかと思った。
タケちゃんは格好よくて運動も出来て優秀で、剣術で私と張り合える唯一の男だった。
いつもだらしなくてずぼらなのに、ここぞと言うところでいつも私を助けてくれた。
お父様がなくなった時、一番に駆けつけてくれたのもタケちゃんだった。
「何も心配しないでいい。俺がそばに居るよ」
タケちゃんのその言葉は気休めだとばかり思っていた。それでも十分にうれしかった。
なのにタケちゃんは本当に大学を辞めてしまい、私が知らない間にうちの会社に就職してしまった。
私は泣きながらタケちゃんに復学するように迫った。私の為にタケちゃんの人生を捻じ曲げてしまったら、おじさんやおばさんにも申し訳が立たない。
なのにタケちゃんは。
泣きじゃくる私を見て困ったように笑いながらこう言ったのだ。
「アヤ姉のこと、放っておけないからさ」
なんで私が言ってほしい言葉をこんなに的確に言えるのだろう。
私はタケちゃんの胸にすがりついて一晩中泣いた。
「私のこと、どう思ってるんだろ」
自分で口に出して、悲しくなって涙が流れた。
タケちゃんにとっては私、手のかかる幼馴染程度のものなのかもしれない。
世界に冠するパンドラのCEO。
皆が私に期待を押し付ける中、タケちゃんだけは昔と変わらず接してくれる。
その関係に変化を求めるのは――私のわがままだろうか?
そんなことを考えながら、少しだけ泣きながら、私はいつの間にか寝入ってしまった。
「う……ん…」
私は身じろぎしながら車の中で目を覚ました。
外を見ると、いつの間にか日が落ちていた。
「うそっ」
タケちゃんを待ってなくちゃいけなかったのに!
見れば現場の灯も消えている。
一体今何時なんだ!
私が慌てて車のドアを開けようと動くと、何かはらりと足元に落ちた。
「え?」
それは男物のスーツの上着だった。
私は落ちたそれを拾い上げて見る。
その時になって初めて、私は後部座席から人の寝息が聞こえてくることに気付いた。
「…あはは」
そこには私のよく知る人が横になって眠っていた。
純粋な子供のような寝顔に、私は思わず笑ってしまう。
「タケちゃん…」
本当に涙が出るほどこの人が好きなんだなぁって思った。
この人が居てくれるだけで、こんなにも安心できる。
何もしてないってタケちゃんは言うけど、でもね。
タケちゃんがいてくれるから私、ちっとも似合ってなんかない社長の仕事をやっていけてるんだよ。
「タケちゃん…」
もう一度その名前を呟いて、そして軽くその肩を揺する。
昔からタケちゃんは一度眠ったらなかなか起きない。
心臓の鼓動がうるさい。
車内は暗いのに、ほんの少しだけ開いたタケちゃんの唇が妙にくっきり見える。
「ちゃんと掴まえとかないととられちゃうぜ」
女の言葉が耳に響き。
私は座席を倒してタケちゃんに顔を寄せた。
「ふわぁあ」
「ようやく起きたか」
「うわっ。アヤ姉。うそ、今何時?」
タケちゃんはがばっと起きると慌てて腕時計を見る。そして「あちゃあ」と一言呻くと、「会社帰らなきゃ」と言ってもう一度大きな欠伸をした。
「あ、あのな。ここにはたまたま来てて、タケちゃんがいてびっくりして…」
「う~んと、うん、わかってるよ。たまたまなんだろ?」
「そ、そう。たまたま」
「俺もたまたまアヤ姉を見つけたんだ。たまたま」
そう言ってタケちゃんが苦笑する。本当はわかってるんだろうけど、タケちゃんはそんなこと言わない。まぁ流石に自分の生体データを採取されていることまでは知らないだろうが。
「じゃあ。俺、行くわ」
どくん、と心臓が高鳴る。
何の為にここまでタケちゃんを追いかけてきたんだ。
そう思うけど声が出ない。
指先に力が入らない。
私は気がつくと、当たり障りのない言葉をタケちゃんに掛けていた。
「べ、別に。私を置いていってもよかったんだぞ」
私がそんなかわいくない事を言うと、タケちゃんは困ったように笑って、そして言った。
「アヤ姉のこと、放っておけないからさ」
「…え?」
あの時と同じように、タケちゃんは言う。この人はちっとも変わらない。いつも同じように、私に笑いかけてくれる。いつも、勇気をくれる。
「これ、あげる」
「え?」
私は自分でもいやになるくらいぶっきらぼうに、鞄から包みを取り出してタケちゃんに渡した。
日付が変わってようやく2時ころ寝入った私は、3時半に起きてこのチョコレートを作った。そんな自分の気持ちだけは、タケちゃんに伝えておきたい。
「…ありがとう。すっげー、嬉しい」
タケちゃんがそう言ってはにかみながら笑ってくれる。
その笑顔で、今日の私、ううん、これまでの私が報われた気がした。
「お早うございます。匣崎社長」
「お早う」
いつもの様に、私は出社する。秘書の女性が私を迎え、エレベータのボタンを押した。
「昨日は社用車を御使用でらしたようですね。言ってくださればこちらでご用意致しましたのに」
「いやいい。私用だったからな」
秘書の言葉に短く答える。
緊張したせいか、昨日はぐっすり眠ってしまった。今朝は私としたことがあやうく遅刻しそうになった。
「進展はございましたか?」
「は?」
チン、と言ってエレベータが止まる。
私が入るべき部屋の扉には、社長室と書かれたプレートが掛かっている。
「それでは匣崎社長、今日も一日よろしくお願いいたします」
元気に、礼儀正しくそう言う秘書に釈然としないものを感じながら、私は社長室の扉をくぐった。こうして、いつもとまるで変わることのない、私匣崎アヤコの一日が始まったのである。