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[26080] 彼の国の神語【完結】、此の国の神語【こちらは適当に】
Name: 八枝◆767618cd ID:da250079
Date: 2016/03/01 00:04
 自サイト及び小説家になろう、カクヨムにも載せているものです。

 2011年2月17日投稿開始。
 誤字などは見つけ次第修正しています。




の国の神語かんがたり

 開幕から九話を経て閉幕に。計100kバイト少々でしょうか。
 書いたの自体は七年ほど前ですが、それに少しだけ手を加えながら、のったりと。

 では














 ――――――冷たい雨が降っている。

















[26080] 開幕
Name: 八枝◆767618cd ID:da250079
Date: 2016/02/18 00:29





 身を切るように冷たい風が吹き抜けた。
 重く垂れこめた雲。今にも雨が降り出しそうなほど黒く、無論切れ目一つない。
 一護は雨があまり好きではない。具体的な理由は特に思い当たらないが、あえて挙げるならばふとした空虚が襲ってくるからだろうか。さらにその理由を問われたならば、もう答えられない。
 九鎧一護くがいかずもり、二十一歳。国立大学の医学科四年生である。
 大柄だが太っても痩せてもおらず、さらに筋肉質というわけでもない体格。適当に切っただけらしい黒髪には少々の寝癖。大きめの鼻に乗った眼鏡には、手入れが足りないのかわずかに汚れが見える。
 平凡の範疇に入れるには少々野暮ったい印象は拭えないが、どちらにしろ人の目に止まるような容姿ではない。
「さて……こんな寒い日に、今度は何の用なんやら……」
 低い声で呟く。
 一護は研究室に出入りしている。正式に所属しているわけではない居候ではあるが、立場的に可能な実験はやらせてもらっているのだ。研究と呼べるようなものではない、その一部の実験程度のものではあるのだが。
 とりあえずぼやいてはみたものの、実のところ用は大体見えていた。おそらくは細胞培養要員兼話し相手だろう。
 喋るのが苦手なきらいのある一護にとっては、細胞培養やDNA精製の方はともかく話し相手に選ばれるのは少々迷惑だった。教授が一人で喋って満足するような性質でなければ、辞退するところだ。
 あとは、居候させてもらっている恩もある。実のところ、実験の中には高価な試薬やキットなどを用いるものがある。それをただで使わせてもらっているわけなのだ。
「……それにしても……ほんま寒いなあ……」
 一護は身体を震わせた。どちらかといえば寒さには強い方なのだが、限度というものがある。しっかりとコートを纏っていてさえ震えの来る寒さだ。
 雪が降るかもしれない、そう思う。
 雪ならいい。雪は、憂鬱にならない。
 ふと、足を止めて雲を見上げる。
 やはり黒い。雨の色だ。
 ため息をついて視線を下ろす。
 そのとき、ひとつの姿が目に入った。
 恐らくは一護よりもほんの少しだけ年下であろう女性だ。近くを通り過ぎてゆく男の大半と女の一部が、一度ならず彼女に目を留める。
 美しい娘だ。肌理細かな、抜けるように白い頬はどこまでも優美な曲線を描き、やわらかに結ばれた薄紅いくちびるはかすかな笑みを湛えている。長い黒髪はしとやかに、艶やかに息づいて、腰にまで触れていた。
 その長身は羨望を集めずにはいられないほどすらりとしているものの、細い肩や腰とは裏腹に胸元などは充分以上に豊かな曲線を描いてもいる。それは服の上からでも見てとれた。
 白いセーターと、自然にふわりと広がった濃い茶色のロングスカート。足元を飾るのは黒いソックスとローファーだ。この寒さの中、コートの類は身につけていない。
 決して目立つ服装ではない。しかし何にも増して、娘自身が華だった。
 品良く歩むその様は、朝露に濡れて開いたばかりの、重なり合う花弁の、恥じらうように俯く一輪が時を静かに待つような、そんな情景を意識に挿し込む。
 匂い立つような艶と童女のようなあどけなさ。『少女』と呼ぶべきか『女性』と呼ぶべきかふと迷ってしまう。
 ただ、人を魅せてやまない容姿、姿態の中で、双眸を隠しているサングラスだけが明らかに場違いだった。
 一護は寒さも忘れて見惚れていた。目元こそ露わになっていないものの、少なくとも今の状態でさえ、見たことがないほどに美しい姿だった。
 何を思うでもなく、ただただ見つめている。一護は興味のあることに没頭して周りの状況が一切見えなくなる性質だが、それとはまた異なる放心だ。
 だが、それは後ろから背中を叩かれて終わった。
「キューちゃんてば何やってるわけさ?」
 とことこと前に回ってきた女性を、一護は恨めしげに見やった。
「ん、いや……」
「『ちょっと』?」
 人懐こく笑いながら彼女が一護の台詞を奪う。
「あんまり連発するから覚えちゃったよ」
 彼女は同級生だ。
 名は二ノ宮夕実。人付き合いの苦手な一護にとって、唯一親しいといえるクラスメイトである。一護が黙っていても気にしないので、やりやすい。
「また呼び出されたんだって? 何したのよ今度は?」
「……何もしとれへん」
 確実に頭ひとつ分は低い夕実を見下ろしながら、一護は仏頂面で言う。
 目だけでちらりと見回してみれば、既に先ほどの彼女の姿はない。どうやら夕実の相手をしているうちに、もう擦れ違ってしまったらしい。
 勿体無いとは思ったが、夕実を無視するわけにもいかないから、仕方がない。
「……っちゅうか、何で僕が呼ばれたこと、知ってんの?」
 再び歩き出す。
 寒さを感じ始めた。早く屋内に入りたい。
「ああ、それはね~」
 置いていかれそうになった夕実がすぐに追いついてくる。
 だから一護は振り返らなかった。
 振り返らなかったから、気付くわけもなかった。
 自分が見惚れていた彼女がこちらを向き、自分を見つめていることに。
 その美貌に驚きと喜びが溢れていることに。
 雑踏が日常を詠う。
 一護は気付かない。
 ぽつりとひとしずく、雨滴が地を濡らした。







[26080] 「時は過ぎ去れど」
Name: 八枝◆767618cd ID:da250079
Date: 2016/04/09 12:15
『世は、これほどまでに広うございますのね……』





 研究というものは地道な作業の積み重ねだ。
 数多ある資料、結果から意味を見つけ出し、組み合わせ、完成させる。
 そして、閃きも要る。何をどう組み合わせるかもそうだが、そもそも意味を見つけ出す過程にも不可欠だ。本当に無意味にしか見えないものから意味を読み取ることは、才能か偶然かがなければできない。
 加えて、長い時間を費やして実験を行うことに耐えられる心も必要となる。
 一護は、この実験作業の部分が苦痛とならない性質だった。作業を頼まれる由縁である。
 もっとも、自分の関係するものならば気合に満ちて行えても、頼まれ仕事ではやる気が出るほどでもない。
 それでも慣れた手つきでピペットを扱い、作業を進めてゆく。細胞を容器から剥がして数え、そこから定められた細胞数となる液量を計算、今回必要となる数の容器に撒いて培養液を加え、あとはインキュベーターに入れておく。最初はいちいちやり方を確かめつつ行わなければならなかったが、もう記憶だけで完遂できる。
 そして無菌操作のためのクリーンベンチを閉めていたときだった。
 突然頭を小突かれ、一護は振り返った。
「こぉらキューちゃん、さっきから呼んでるのに」
「おや? 二ノ宮さん」
 相手の姿を確認し、一護は呟いた。どうも、何だかんだ言いながらも没頭していたようだ。
 なぜ彼女がそこにいるのかを考え、思い出して一人頷く。
「そういや、おったんやったっけ」
 彼女も別の作業に駆り出されたのである。
「コーヒー淹れてやったと言いに来てみれば……まったく」
「僕やし」
 一護は身もふたもない返事を返した。
 この会話も飽きるほど繰り返している。
 夕実は肩をすくめ、出口の方を促した。
「で、今回は何撒いてたわけ?」
「昔のとある女性の子宮頸癌細胞を元にしたやつ」
「ほう、エロめ」
「……分からんとは言わんけど……」
 無茶だ。
 さすがに一護も苦笑した。
 にんまりと夕実が顔を覗き込んでくる。
「何? キューちゃんてばむっつり?」
「……さてな」
 からかいに来るのは夕実の趣味のようなものなので、一護は気にしない。
 ただ、そういうときは相手をしないとどんどん鬱陶しくなっていくので、できるだけ何か言うことにしている。
 もちろん、喋った所為で墓穴を掘ることもあるのだが。
「すると直線的エロ?」
「……そっから離れてくれ」
「残念……」
 夕実は身体を真っ直ぐに戻した。今回はこれで終わりらしい。
 だが、替わりに別の話を振ってきた。
「……それにしてもさ……結構付き合い長いのに未だに『二ノ宮さん』はないんじゃない?」
 夕実と話をするようになったのは二年生になってからだ。まだ三年も過ぎていない。一護の感覚では短い気がするのだが、夕実にとっては充分長いらしい。
 一護はしばらく沈思黙考した後、言った。
「却下」
「おい」
 夕実が眉をひそめるが、一護は気にしない。
 何かを変えるのは好きではない。あるがままが心地好い。
「……ま、いっか」
 結局は夕実にとってもさほど意味のある提案ではなかったらしく、あっさりと引き下がった。
 そして話しかけることはやめない。
「そういえばさ」
「またかい」
「キューちゃんってこっちの言葉うつんないね」
「そやな」
 これまた一護にとっては特に広げようのない話題だった。
 確かにこちらへ引越して来てからなら九年が近いが、言葉遣いの根本は変化していない。変化していても不思議ではないのにと夕実が思うのは自然なことであるに違いないが、その一方で変わらずともおかしくはない。
「子供の頃ってどこに住んでたの? 大阪?」
「いや、大阪やのうて……」
 そのとき、白衣のポケットでタイマーが鳴った。
 普通は電気泳動などの終了時間を知らせるためにセットするのだが、今回は別件だ。
「五時、か……一応そろそろ先生に報告にいかないとね」
「やな」
 一護は大きく伸びをした。
 さすがに肩が凝っている気がする。
「さて、次は先生のお相手か……」
 呟いた。





 廊下の窓から見える外はもうすっかり暗くなっていた。
 ただでさえ日が暮れるのが早い上に、冷たい雨がしとしとと細い糸を連ねている。
 憂鬱だ。
「ううむ……やっぱりまだ止んでないか……」
 夕実が独りごちる隣で、一護は黙って鞄から折り畳み傘を取り出した。
「お、準備がいいですな」
「いつも入れとるし」
 会話を交わしながら、出入口へと向かう。
 教授の相手はそれほどせずに済んだ。何やら急な来客ということで、早々に放り出されたのである。
 勝手なものだ、と思うよりもただ幸運だと感じる。
「折角早く終わったんだから、どこか食べにでも行かない?」
「んーあー」
「『めんどくさい』?」
「その通り」
「謎な割りに分かり易い男め」
 他愛もないやり取りが人気のない廊下に響く。楽しくないことはない。
 薄暗い明りに照らされ、外へ出るまでの距離はさほどもない。間もなく玄関に到着した。
 雨がアスファルトを打つ音が聞こえる。
 見回した一護の目に、ふと人影がひとつ留まった。
 出入口のすぐ外、折り畳まれた傘を手に、雨の振り込まぬ庇の下で佇んでいる。見えるのは後ろ姿だけだったが、一度強烈な印象で刻まれた容姿はすぐに判った。
「あ、そうだ、傘に入れてよ?」
 夕実が言うが、その台詞を聞き流し、ほとんど反射的にそちらに向かう。
「おいこらちょっと待て」
 無視された形になる夕実が今度は抗議の声を上げるものの、一護にはそれも聞こえていなかった。
 何らかの意図があるわけではない。ただ衝き動かされるように身体が動いた。
 外には予想通りの姿があった。
 彼女がゆっくりとこちらを振り向く。
 そこで一護は我に返った。
 偶然彼女と再会したといっても、自分が見惚れていただけであって、彼女の方は自分を知らないはずだ。
 とんだ失敗に内心冷汗をかいたが、表面上は何事もなかったように顔をそむけ、そのまま歩き出そうとした。
 だが。
「お待ちくださいませ……」
 鈴を転がすような声が一護を呼び止めた。
 ここには自分と彼女と夕実しかいない。
 しかし夕実の声ではない。
 わざわざそんな消去法を使うほど、一護は動揺した。
 そして彼女を振り返って何か言おうとして、声を失う。
 彼女の表情。
 泣き出しそうなのを抑えるように引き結んだ薄紅いくちびるを、精一杯笑みの形にしている。
 目元が隠れていてすら切に心を引き裂かれるくらい、深い笑顔だった。
 じっと対峙したままで、幾許かの時が過ぎる。
「も、申し訳ございません……あまりに胸がいっぱいになったものですので……」
 彼女がようやくそう言った。
 一護は応えられない。判るのは、彼女が自分を知っているらしいということだ。
 彼女はゆっくりとサングラスを外した。
 その下から現れたのは、切れ長の目、緋の虹彩。
 ぞくりと、一護の背に寒気が走る。
 予想していたよりもさらに美人だったから、ではない。
 無論虹彩が緋色だったからでもない。
 表情、仕種、声に表れる艶が尋常ではなかった。
「わたくしです……氷雨ひさめです……」
 切なげに訴えかけるように絞り出された声は、彼女の名だろうか。
 だが、名前も姿も一護には覚えがなかった。
 戸惑うばかりだ。適当に合わせられるような才覚も素養もない。そして、そんなことは彼女のまなざしが許さない。
 一護はただ沈黙するしかなかった。
 彼女の期待に満ちたまなざしに、徐々に蔭りが生まれてゆく。
 それは間もなく不安に取って代わられた。
「……大蛇……さま……?」
「……あの、分かりません」
 一護はようやくそう告げた。
 彼女は緋の瞳を揺らめかせ、薄紅いくちびるを震わせた。
「そんな……確かに感じられるのにどうして……」
 意識せずにこぼれた囁きが、一護の胸を締めつける。
「教えてくれたら思い出せるかもしれませんけど……」
 胸に湧き上がるのは強烈な罪悪感。決まり悪そうに呼びかける。
 彼女は目を伏せた。
 ほんの数呼吸の時間。
 そして再び上げたとき、彼女は微笑んでいた。
「いえ……お分かりにならずともよいのです……再びお会いできただけで、嬉しゅうございますわ……」
 何故だろうか。
 その言葉が嘘であるわけではないことが、一護には判った。
 だが言葉のままでもないことも、判った。
 彼女は一護を見つめている。
 交わされる言葉はない。
 何を言っていいのか解らぬ一護と、ただ微笑んでいる彼女。
 それを解いたのは彼女の方だった。
「申し訳ございません、また、落ち着いてから参ります……」
「あ、はい……」
 一護は気圧されたように頷くだけだ。
 彼女は傘を開いて雨の中へと歩き出そうとして、ふと振り返る。
「雨は……お好きですか……?」
「……は? いや、苦手……ですかね……」
 唐突な内容に、一護の眼が点になる。
 だが彼女は嬉しそうに微笑み、一礼すると雨の中へと踏み出した。
 途中でサングラスをつけるのが判る。
「……雨……なあ……」
 一護は呟いた。
 もしかしたら彼女が求めるものに関係あるのかもしれないとは思うが、推測の域は出ない。
 と、そのときぽんぽんと肩を叩かれた。
「ううん……ゾクゾク来るほど綺麗な娘だったねえ……」
 夕実だ。
 にんまりとした、獲物を捕まえたような笑みを浮かべている。
「こんなところで修羅場見せてくれるなんて、何やったのよ、キューちゃん?」
「修羅場……」
 使いどころが少々違う気もする。
 だがそれはいい。
「判ってたら苦労せんのやけどな……」
 真面目な顔で独りごちる。
「おや、マジですな、九鎧一護クン」
 茶化す夕実を放っておいて一護は傘を差して雨の中に出た。
 頭がうまく働かない。
 何もかもが唐突で、判断材料がない。
 とりあえず家に帰ろうと思った。
 その後ろ姿を夕実が眺めている。
「あれま……正真正銘マジだねえ……」
 呆れ顔で呟き、雨音を思い出した。
 微妙に口許がひくつく。
「ってぇか、あたし傘ないっつってんですけど……?」





 冷たい雨はまだ止まない。







[26080] 「確かなる糸は切れず」
Name: 八枝◆767618cd ID:da250079
Date: 2016/02/19 21:32
『大蛇さまにはお解りにならぬのでございますか? こんなにも素敵ですのに……』





 一護の朝は、大学生にしては早い。
 いくらでも寝ていられる性質ではあるが、当然のように毎日一講目から入っているのだから仕方がない。
 飯を掻き込み、行く。自宅から通っているので食事の準備や片付けはしなくてもいい。
 家族構成は、父と母と弟が二人。全員、この家で暮らしている。仲も悪くはない。
 が、不満はある。
 理論家の父親はいけすかない。
 名は隆一。常に社会的正論を展開してくれる。脛齧りを自覚している身では、反論のしようがない。
 無意味な心配に没頭する母親は鬱陶しい。
 名は英子。しかも人の話を聞いていない。母親を経ると、話の意味合いが必ず変わっている。
 遊び人を自認する一つ下の弟は最近意識に留まらない。
 名は隆弘。完全な夜型人間で、一護とはほとんど会わない。思い返せば、昔からあまり接点がなかったような気がする。女癖が悪く、会った時に今の彼女自慢をされるのには飽きている。
 如才ない二つ下の弟は何かと面倒だ。
 名は英介。表と裏の差が激しすぎる。社会に出て一番うまく溶け込めるかもしれない、眼力のある人間には嫌われているようだ。
 それでも、あくまでも仲は悪くないのだ。これが家族というものなのだろう。
 現在、朝食に全員が揃うことはない。根本的に、どんなときでも隆弘がいない。英介がいることもそれほどはない。父親がいないこともある。場合によっては母親も寝坊する。
 なお一護は土日に朝が遅い。夢うつつにまどろむのは、まるでそのために生まれて来たかのように心地好い。
 そんなこんなで、揃わない。
 今日は一護だけだ。
 茶漬けを作り、流し込んで茶碗を流しに置いておく。
 これでいい。誰もいなくても、片づけを除いては困らない。
 むしろ今日などは好ましい。
 今朝はずっと、いや、昨夜からずっと考えている。
 冷たい雨の中、静かに微笑んだ彼女は何者なのだろうか。
 考えて分かるものでもないが、さすがに忘れていることはできない。
「美人やったよなあ……」
 声が漏れる。
 何をおいても出てくるのがその感想だ。化粧などまったくせずにいて、なおかつ非現実的なまでに美しい。比べるまでもなく、見たことのある中で随一だ。
 そしてあの、匂い立つような艶。
 思い出すだけでぞくりと来る。
 所作のひとつひとつ、あるいは表情という表情。すべてが、人を惹きつけてやまない。
 思わずため息が出た。
 一護に恋人がいたことはないが、決して女に興味がないわけではない。
 ごく純粋に、美人は好きだ。ついでに言えば、可愛いよりは美人がいい。
「参ったなあ……」
 ろくに事情も分からないうちに既に惹かれている。
 だが、それを止める自分もいる。詐欺か何かかもしれないし危険だ、と理性が言っている。
「……困ったよなあ……」
 部屋に戻って鞄を取り、身支度をして玄関へ。草臥れきったシューズを履き、鍵を開ける。
 この家の慣習として、他の家族が全員寝ていても鍵は開けたままにしておくことになっているから、後はドアを開けて外に出てドアを閉めて、それで終わりだ。
 一護は気だるげにドアノブを回し、押し開ける。昨日とは異なり、冬にしては緩やかな空気が触れて来た。そして外を見て、凍りついた。
「おはようございます」
 耳朶を打つ、囁くようでいて艶を秘めた声。
 昨日から頭の中をぐるぐると回り続けていた姿が、目の前で深々と完璧な礼をしていた。そして顔を上げ、値千金のたおやかな微笑みを向けてくる。
「ご一緒しても、よろしいでしょうか……?」





「……それにしても、よう分かりましたね、僕の家」
 並んで歩きながら、最初に出た言葉がそれだった。
 大抵のことには驚かない自信があったが、こんな朝早くから昨日会ったばかりの人間の家の前で待ち構えているというのにはさすがに度肝を抜かれた。自信は、些か過剰だったかもしれない。
「お迎えに上がろうと思いましたので、少し調べさせていただきましたの」
 彼女はほんの少し遅れるくらいの位置を静々とついて来る。
 華やかさと密やかさを併せ持つ仕種と声。
「……ご迷惑でしたでしょうか……?」
 そして、控えめなうちにどこか強引なところ。
 一護は彼女を振り返ってかぶりを振った。驚いたのは確かでそれは迷惑とも言えるが、朝から会えて嬉しかったことにも違いはなく、何よりも心底悲しげな顔をされてしまっては頷けるはずもない。
「いや、驚きましたけど、迷惑ではないです」
「ありがとうございます」
 彼女はふわりと頭を傾けた。
 穏やかな表情に、一護は心を見透かされているような気持ちになった。
 黙っていてはいけない、とすぐさま自分に言い聞かせる。沈黙が訪れれば話しにくくなるだけだ。せめて彼女が何者であるかくらい、一気に確かめておきたい。
 それでも気恥ずかしく、一護は前を向いた。
「ええと、その……如月さんってですね……」
「……氷雨、とお呼びくださいませ」
「え?」
 声に込められた響きに、一護は再び振り返った。なぜだか、泣き出しそうに聞こえたのだ。
 だが氷雨は微笑んでいた。
「氷雨とお呼びくださいませ」
 微笑みのままで、繰り返す。
 何故を問えるような雰囲気ではない。
 気付けば一護は頷いていた。
「なら……氷雨さん」
「はい」
 氷雨はまだ少し不服そうにも見えたが、今度は素直に頷いた。
 一護は立ち止まり、まっすぐに向き直った。
「氷雨さんって何者なんです……?」
「はい……それを申し上げるために、今朝は参りました」
 氷雨はミラーシェイドを外し、一護を直接見つめ返してくる。
 吸い込まれそうに綺麗な緋瞳が揺らいでいる。
 その虹彩の緋色は、とても不思議な色だ。
 一護はアルビニズムによる血の色が透けた眼も見たこともあるが、少なくとも人間においてはこのように綺麗なものではない。
「けれど、未だに迷っております……」
「……まさか、言うと僕が何かに巻き込まれるとかですか……?」
 一護の脳裏をそんな可能性がよぎる。半ば冗談で口にしたことではあるのだが、昨日から小説より奇なる事実が起こっているのだ。ここで一つ増えても変わらないとも思える。
 だが、氷雨が不意に目を伏せた。
「申し訳ございません、少しお待ちくださいまし、大蛇さま。招かれざるお客様がいらしたようですので……」
「客……?」
 一護は怪訝そうにあたりを見回した。
 不意に風景が歪んだ。
 頭がくらくらする。
 視界の端に見慣れぬもの。
「え……?」
 一護は頭を振った。
 道端で小さな女の子が鞠を搗いている。
 ざんばら髪に隠された顔がふとこちらを向いて、口だけがにぃと笑った。
 さっきまではいなかった、と思う。
 違和感。
 どこか気持ちの悪い感覚が一護を襲う。しかしすぐに霧散した。
「あの方ではありません。あの方はこの道に住まう道祖神ですわ……」
 氷雨は一護に囁き、そして幼女に向かい一礼した。
「お手を、お貸し願えますか……?」
 幼女はくすくすと笑った。
 景色がぐにゃりと曲がる。
「『道』とは『未知』へと繋がるもの……」
 そして道祖神は境界を司る。
 前者は言葉として、後者は思考として紡がれる。
 それを成したのが自分であることに一護はしばらく気付かず、戸惑った。
 自分がそれを知っていることに驚きはない。しかしこのような訳の分からない事態にもさらりと出て来るほど、体得に近いものだっただろうか。。
 どこかで風が啼いた。
 再び風景が定まる。
 そこには相変わらず幼女がいた。
 そして遠からぬところに、異形がいた。
『見抜くとは、な。さすがは<緋瞳の戦巫女>よ……』
 鬼、と呼ぶのだろうか。
 見上げんばかりの巨躯、蓬髪から覗く二本の角。
 纏っているのは簡素な、しかし不思議と綺麗な輝きを放つ衣だ。
『よもや今更、古のものが復活するなど……』
 鬼の口調には苦悩の色が濃い。
 おかしい、と一護は思った。
 予想もつかぬ異常な状況、明らかな非現実。
 なのに、なぜ自分は落ち着いているのか。なぜこれを当然と思う自分がいるのか。
 鬼が自分を見たときも、一護が感じたのはむしろ、道で人と擦れ違っただけのような平凡でしかなかった。
 僅かな、しかし芳しい薫りが鼻腔をくすぐった。
 流れる黒髪。す、と氷雨が己が身で鬼の視線を遮った。
「ご用件を承りましょう」
 やわらかな微笑みが鬼に向けられている。
 鬼は苦い口調のままで続けた。
『解っているはずだ……解っているはずだ! そやつをそのまま放っておけば天津神どもが見つけ、殺し、奴らは満足したものを……』
 巨大な拳を握りこむと、そこから炎が吹き上がる。
『お前は天神地祇の戦を引き起こすつもりか? 地祇や妖を窮地に追い込むつもりなのか……!?』
「……明石様は勘違いをなさっておられますわ……」
 氷雨は目を細め、くすりと笑った。
 ぞくりとするほどの、艶。
「わたくしは大蛇さまの巫女……最初から、それだけなのでございますれば」
 ぎり、と鬼の牙が鳴る。
『……よもや、今まで我らを助け続けて来たのは……駒とするためか!?』
「如何様にもお思いくださいませ……わたくしはすべてから大蛇さまをお護りするだけですわ」
 鬼の怒りをさらりと流し、氷雨は婉然と頬に手をそえる。
 氷雨の後ろで、一護はぼんやりとやりとりを聞いていた。
 どうやらこの鬼と氷雨が知り合いであるらしいこと、自分が何者かに狙われていて、その巻き添えを食うことはこの鬼にとっては理不尽であろうこと。
 そして、氷雨が自分を護ると言っていることを頭に入れた。
『お前は……』
 憤懣やるかたなさそうに鬼がうめく。
 ゆっくりと拳が挙げられた。
『……ここで我が屠れば、天津神どもの気も済むだろう……』
 まなざしに、昏い色が灯る。
 同時に、腕全体が真紅の炎に包まれた。
「!!?」
 その炎を目にして、初めて一護の心に恐怖が刻まれた。人間ならばそうでなければならないと、思い出したように。
 息を呑み、何か言おうと口を開け閉めするが、漏れるのは空気だけだ。
 死が、目前に見えた。
 今まで、死ぬなどと本気で考えたことはない。つい今まで茫洋とした感覚だったところに突然現れた普通の感覚は異様なまでに膨れ上がる。
 恐慌すら起こせぬほどの凍りつくような感情が極大まで達しようとしたときだ。
「大蛇さまに害をなすとおっしゃるのであれば……」
 どこか笑みを含んだような声音で、氷雨が鬼に語りかけた。
「死んでいただきます」
 言葉とはうらはらに、春風のような優しい響き。
 鬼は答えなかった。
 が、徐々に薄れてゆく炎が意思を示した。
 氷雨はくすりと笑った。
「御礼申し上げますわ、明石様」
『……<緋瞳の戦巫女>とやり合うほど愚かではないこの身が憎いわ……』
 鬼は忌々しげに自然体に戻った。
 氷雨がくちびるに窘めるような魅惑の弧を描く。
「心配なさらずとも、貴方がたに対しての高位の天津神の介入はございませんわ。天香香背男様との約定を破るだけの利は得られぬと、計算高い彼らが気付かぬはずもない」
『だといいがな……』
 その声を最後に、再び景色が歪んでゆく。
 元に戻るのだ、と一護は思った。
 果たして、少しの違和感とともに、あたりは毎日歩き慣れた道になっている。
 もう幼女の姿もない。
「大蛇さま、御無事でございますか……?」
 氷雨は柳眉を寄せて振り返った。
「え、いや、別に僕は……」
 一護は居心地悪げに首筋を掻いた。途中で卒倒しそうになったとは、恥ずかしくて言えない。
 だが氷雨は細い肩をいっそう縮め、自らを苛むように目を伏せた。
「申し訳ございません……」
「いや、全然問題ないしまあちょっと驚いたというかええと……ええ経験なったというか貴重な体験したっちゅうかまた機会があったら経験してみたいっちゅうか氷雨さん気にせんでも……」
 一護は大慌てで言い繋いだ。喋る速さがいつもより数割は増している。
 その甲斐があったのだろうか、氷雨は少し目を丸くしていた。
「えっと……ええかな、そういうことで……?」
 そのことに気付き、一護もようやく我に返って息をつく。
 が、なぜか氷雨が嬉しそうに目を輝かせていた。
「大蛇さま、お願いがございます」
「ええと……何かな……?」
 無邪気な中にもやはりどこか艶のある笑顔に気圧され、一護はやや仰け反る。
 氷雨はそれにも頓着せず、両手を握り合わせてぐっと身体を近づけて来た。
「どうかそのまま、今のままの物言いをなさってくださいまし」
「今のまま……って…………あ……」
 自覚した。
 慌てたときに狎れた口調になっている。
「ああ……ええと……こっちがええん……?」
「はい。やはり大蛇さまには普通に話していただきませんと、面映うございますので……」
 氷雨はほんのりと染まった頬に手を当て小首を傾げた。
 どこか幼げなその仕種が少し意外で照れくさく、一護は首の後ろを掻いた。
 誤魔化すように、話題を変える。
「それで、氷雨さんが何者かってことなんやけど……」
「はい……」
 その一言で、氷雨は普段の雰囲気を取り戻した。
 一呼吸おき、微笑む。
「歩きながら、参りましょう……大蛇さまも遅刻なさると大変です」
「……いや、ええよ」
 一護は顔に張り付いて離れなくなっていたにやけを、手で無理矢理に消した。
 微笑に隠しても伝わって来る。氷雨はきっと必死だ。落ち着いて聴きたい、そう思う。
 さぼるのは好きではない性質だが、何事にも優先順位というものはあるのだ。
「近くに公園あるし、そこ行く?」
 思えば女性をどこかに誘うのは生まれて初めてだ。それでも言葉はすらりと出た。
 氷雨は品良く目を細め、そして恭しく頭を下げた。
「はい、何処へなりともお供いたします」





 人のいない公園を、風が吹き抜けてゆく。
 まだ朝露の残る草から雫が落ちる。
 誂えたようだと一護は思った。
 だが、悪くない。こんな雰囲気がいい。
「晴れて、ようございました……」
 氷雨が笑いかけてくる。
 艶やかな表情、匂い立つような仕種。
 静かな心持ちはあっという間に破れた。気を静めるのに精一杯になる。
 氷雨が僅かに眉根を寄せ、顔を覗き込んで来た。
「大蛇さま……?」
「そう、それ」
 訊くべき事を思い出し、一護は彷徨わせていた視線を氷雨に向けた。
「『おろちさま』って何なん?」
 その呼び方が全てを語ってくれるような気がしていた。
 氷雨が目を伏せる。
 惑いがあるようだ。
「はい……」
 一陣の北風が彼女の長い黒髪を流し、一瞬だけ表情を隠す。ざわめく常緑の葉の音も心騒がせる。
 たおやかに髪をかきあげるまなざしには、不安と期待。
「八岐大蛇……をご存知ですか……?」
「日本神話の?」
「はい」
「知ってる」
 立場にもかかわらず、一護の最も得意とする分野は日本古典。知らぬはずもない。
 そして問いに対する答えは、その一言で表されていた。
 ここはうろたえるのが普通か、一笑に伏すのが当然か。
 どちらもする気にはなれなかった。
「つまり……僕が八岐大蛇、と」
「そしてわたくしは大蛇さまにお仕えする巫女……」
 氷雨は寂しげに微笑んだ。
「……嘘のような……話でございましょう……?」
 確かに嘘のような話である。
 だが。
「嘘と決め付けるようでは、最近の学生はやってられんさ」
 一護はそう答えた。
 それに、先ほどのこともある。
 少なくとも、今まで知らなかった世界があることは事実なのだろう。
 氷雨は寂しげな表情を変えない。
「けれど、信じていらっしゃるわけでもない……」
 さらりと心の内を言い当てられ、一護は決まり悪げな顔になった。
 確かに否定する気もないが信じているわけでもない。
「……間違ってるとかいうことは?」
「ございません。わたくしには、間違いようがないのです……」
 少し奇妙な言い回しで、氷雨は断言した。
 その後に続く言葉はない。
 それ以上説明するつもりはないのか、それとも彼女にとって説明するなど思いもつかないほど当たり前のことなのか。
 判らなかったが、一護は自分にとって大事なことを尋ねた。
「それで……僕は何をしたらええんかな……? なんか、こう、僕が狙われてるようなこと言うてたけど……」
 自分が何ものだろうと、それはいいのだ。本当だろうが嘘だろうが、考えて判るものではなし、ひとまず置いておいていい。
 だが、今の状況が自分にどう関わってくるかが問題である。どうやら狙われているらしいが、自分や彼女の関わらない範囲ですでに狙われているものは仕方がないし、なぜかうろたえる気もしない。
 さきほどの恐怖は覚えている。なのに、それを瑣末なことと思えてしまう。
 むしろ精神が高揚してならない。
 おかしい。
 だが、おかしくともいい。
 異常であるべきものを己の心が異常と感じていない、そのことこそが何よりの異常なのだと自覚した上でなお、面白いとすら思って受け入れることを意思は肯定する。
 彼女が何かを望んでいるのなら、できる範囲で叶えてやりたい。
 言っていることは突拍子もないことなのだが、何故なのか彼女の想いが痛いほどに伝わってくる。
 氷雨は少し目を丸くして、そして嬉しげに細めた。
「何も……ございませんわ。大蛇さまはそのままお暮らしくださいまし」
「そのまま……って……」
 一護は戸惑った。
 それでは何が目的でやって来たのか。
 氷雨ははにかむようにすべらかな頬に手を当てた。
「ただ、わたくしをお傍に。またお仕えさせてくださいませ……」
 世界の全てが止まったような感覚。
 そして既視感。
 婉然としてかつ幼げな彼女の微笑み。
「わたくしは……そのために二千年を越える時を重ねてきたのです……」
 あの時とは逆の微笑みだと自分が思ったことに、一護は気付かなかった。







[26080] 「移ろい行く世にも」
Name: 八枝◆767618cd ID:da250079
Date: 2016/02/19 21:32
『はい……このままがようございますか……?』





 風が凪いでいる。
 小春日和。冬の青空はどこかやわらかく、大気は冷たくとも控え目に寄り添う。
「今日はお早うございますのね」
 午前の最後の講義が半分ほどで終わって外へと出てきた一護を、氷雨が満面の笑みで出迎えた。
「うん、先生が風邪引いとってな」
 一護の顔がにへら、と緩む。
 あれから一週間、氷雨は毎日のようにやって来てはこうやって会っている。
 というより、外にいる間は常に傍にいる。朝は家から少し離れたところで待っているし、講義中は中庭のベンチに座っているし、帰りは大学での用が終わるまで夜まででも待っている。
 ここまで来ると、薄気味悪くなるよりもむしろ申し訳なく思えてくるところだ。
 だが、いつもいつも顔を合わせる度にこれほど嬉しそうにされると何を気にする必要があるのだろうかと思ってしまうのである。
「大蛇さま、今日は大蛇さまのお好きなものを作って参りましたの。召し上がっていただけますか?」
 氷雨は優雅な動作でベンチの上に重箱を広げ、一護を見上げる。
 これも、いつものことだ。豪勢な重箱入りの弁当を毎日振舞ってくれる。
 しかもどうやら手作りらしい。さらに期待を外さず、美味い。
 最初の日は、寝るまでにやけた顔が元に戻らなかった。
「うん、食べる」
 差し出された朱塗りの箸を受け取り、重箱の中に伸ばす。
 何と言うか、幸せでしようがない。
 無論、かなりのやっかみを受ける破目にはなっている。講義室で出会う男は皆ことごとく鬱陶しい。今まで縁のなかった視線だけに、ことさらにきついものがある。
 と、感じるのだろう、本来なら。一護も、普通ならそうであったはずだ。だが、気にもならない。
 からかわれているのだと人は言う。
 思えばつり合わないと自分でも理解している。
 それでも疑う気が起きない。彼女は本気だと、自分でも解らない何かが断言する。
 自分の願望なのかもしれないと認識はある。一護は、茫洋としているように見えて人並み程度には慎重だ。
 それでも疑えない。
 確かに、容姿も声も雰囲気も何もかも、人を惹きつけて止まなくはあるが、この感覚はそんなところとは異なる場所にある気がする。
 だからこそ面白く思う。
 ただ、極端なまでにしつこい一人にはさすがに腹が立ったので、思い切り自慢してやったら次の日から近寄らなくなった。余程の苦痛だったらしい。
「あ、そういえばさ」
 ふと思い出したことがあり、一護は隣の氷雨を振り向いた。
 氷雨は緋瞳を嫣然と細め、微笑みを返してくる。
「はい、なんでございましょう?」
 その艶に、一護はどきりと心臓を跳ねさせ、後の言葉が続かなくなる。
 すると氷雨はほんの少しだけ首を傾げた。
「どのようなことでもおっしゃってくださいまし」
「あ、うん……こう、神とかそういうとこの話……」
 それは今まで訊かずにおいたことだ。
 尋ねなかったことに大した理由はない。今までは氷雨の方が一護の話を聞きたがることが多かったので、後回しにしていただけである。
「日本神話やと、天御中主から始まってるけど……」
「事実、でございますか……」
 氷雨は、わたくしもすべてを存じているわけではございませんけれど、と断ってから語り始めた。
 神話に語られる別天神の実在は定かではない。イザナギ・イザナミの二神すらいないという。
 ただ天の神と地の神と、それだけが在るのは確かだと。
 地の神とは地の守、世界そのものより生じた神。地祇とは呼ばれるが、天を司る神も存在している。
 一方、天の神は分からない。人の想念より生じた願望の神なのか、それとも彼らこそが異天の神なのか。
 あとは時期のずれこそあれ、神話の流れを概ねにおいて踏襲している。
「……そのまま、というわけではございませんけれど。神話で神に列せられていても、実際には神に関わっただけの人間を伝承の上で神の系譜に加えただけということも少なくございません」
 何を思い出してか、そう語る氷雨のまなざしはどこか厳しいものを湛えていた。
 一護はそれ以上そこには触れず、少しだけ話をずらす。
「すると……他の神話とか、どうなん?」
「似たようなものでございます。ほぼ、天神は簒奪者にございますれば。同じ神である可能性すら、あるいは。いえ、おそらくは」
 氷雨のまなざしは揺らがない。
 だが、そう思われた直後、ふわりと微笑みを浮かべた。
「大蛇さまは最大の、真の意味での地の神にございます」
「う、うん……」
 そう言われてみても、一護自身が自覚できるのは人としての自分であり、しっくりは来ない。
 それでも一応頷く。
「あと、さ……」
 よく味の染みた筍を頬張りながら、一護はさらに尋ねた。
「氷雨さんって、どこに住んでるん?」
 朝と夕方、あるいは夜の時間からして、そう遠くない所なのではないかと一護は踏んでいるのだが、確かめようとしてそのまま忘れていたのだ。
「わたくしならば、西の方に寝泊りしておりますけれど……」
 そこまで言って、氷雨はぽんと両手を打ち合わせた。
 良いことを思いつきました、そう言わんばかりの屈託のない笑顔だ。
「そうです、一度いらしてくださいませ」
「氷雨さんの家に?」
 一護は大いに動揺した。思わず早口になってしまう。
 だが、氷雨はそのままの口調で続けた。
「いいえ、わたくしの家ではございませんの。むしろ大蛇さまの仮の宿ですわ」
「……僕の仮の宿……?」
 一護は思い出した。
 氷雨にとって自分は仕えるべき神なのだ。文字にして思い返すと限りなく胡散臭く思えてくるので、普段は忘れているのである。
 神の仮の宿と言えば、神社だ。だが西に神社などあっただろうか。あのあたりにはほとんど出向かないので、よく分からない。
「……ええと、今日でええかな……?」
 とりあえず、興味はある。氷雨も来て欲しいと言っている。
 だが、明日から少々忙しいのだ。大急ぎで一気に片付けなければならない実験群があって、数日間は大学に泊り込むつもりでいる。
 だからといって今日いきなりというのは性急だろうか。
 そんなことも思ったのだが、氷雨はあっさりと快諾した。
「はい、それでは夕方にご案内いたします」





「ぬう……奴め、やりおるわ……」
 談笑する二人を講義室から眺めながら、夕実は呟いた。
 女には全然興味がなさそうな顔をしておきながら、ちゃっかりと捕まえてくるとは。そのうち誰か知り合いでも紹介してやらなければならないかと思っていたのだが、どうやら仕事が一つ減ってしまったようだ。
 ちなみに、自分が相手になってやるつもりはさらさらない。
 夕実は、異性間にも友情が成立する、という意見の支持者である。一護とは年中つるんでいるが、あくまでも親しい友人としてだ。
「しかし……そろそろ彼女をあたしにも紹介してもらわねばなるまいよ……」
 彼女のことは覚えている。
 先々週の雨の日、一護に会いに来たらしい娘だ。多分年下だろうとは思うがよくは分からない。
 邪魔をしては悪いかと思ってしばらく近付かないでおいたのだが、一護の方から紹介してくれる気配はまったくなく、そろそろ痺れが切れてきた。
 少なくとも一度は確かめておきたいことがあるのだ。
 一護はいわゆる研究者肌、しかも極端な、である。自分の興味のあることに対してならば、鋭すぎるほどの閃きと冗談のような記憶力と滑稽なほどの集中力と呆れるほどの持続力を発揮するが、それ以外はさっぱりだ。
 端的に言うと、世間知らずで世渡り下手。元来慎重な性質ではあるとはいえ、多分世間知らずの方が強い。今回の降って湧いたような展開、騙されたりしていないかどうかが心配だ。
「とりあえず昼御飯食べよ……」
 食事中の人間を見ていると、空腹が増してくる。
 とりあえず、紹介してもらうのは明日でもいいだろう。
 夕実は立ち上がった。
 途端に、くらりとくる。
 浮かぶような感覚。
 だが、無意識の領域で頭を振ると、それは消えた。
 最近多い。
「むう……貧血気味かな……」
 今日は学食でほうれん草のおひたしを食べようと思った。





「ほう……」
 氷雨に連れられてやって来た一護は独り、うなった。
 神社はかなりの大きさだった。祀る神は大山祇神、山神の総元締めだ。どうして今まで知らなかったのかとも思うが、人間の注意力などその程度のものだということなのだろう。
「さすがに八岐大蛇は祀ってないか……」
 それで八岐大蛇の仮の宿と呼ぶのもおかしい気もするが、構わない。
 氷雨は、本当は必要ございませんけれど着替えて参りますのでしばらくお待ちくださいませ、とたおやかな微笑を残して社の中へ入ってしまっている。
 一人きりで立っていると何やら落ち着かない。
 一護はそこからさほど離れていない大木の傍に寄った。
 何の木なのかはよく分からない。
 不意に何かに呼ばれたような気がしてあたりを見回してみるが、少なくとも近くには誰もいない。
 ふと、木に眼を留める。
 この木かもしれないと思う。道祖神がいるなら、木にも神霊が宿っているのだろう。
 木は、何を語っているのだろうか。
 風にざわりと梢が揺れる。
 また何かが聞こえたような気がしたそのとき。
「お待たせいたしました」
 氷雨の、笑みを含んだような艶やかな声がした。
 慌てて振り返る。
「やはり、こちらの方が落ち着きます」
 白衣に朱袴、白足袋に雪駄という巫女装束で、氷雨は薄紅く染まった頬に軽く手を添えた。緋の瞳が、はにかむようなやや上目遣いの視線で見上げている。
 それは、いつもの服装のときのようなお互いが引き立てあう美しさではなく、完全に一体となった玲瓏さだった。
 生きていてよかった、と。感動というものはこういうものか、としみじみ思う。
 かなり惚けていたようだ。
 氷雨が小首を傾げた。
「大蛇さま……?」
「え、や、あの、巫女装束というやつは後ろで髪くくるとかそういうん、なかったっけ……?」
 内心の動揺がまともに出て、自分でも何を言っているのか理解しないうちに一護はそんな言葉を口走る。
「はい、一般的にはそうでございますね」
 氷雨は弾んですら聞こえる声で屈託なく答え、そしてその場でくるりと回ってみせる。
 長く艶やかな緑なす黒髪が腰に絡みつきながら、ゆらりと揺れた。
「けれど、大蛇さまはこちらの方がお好きなのではございませんか……?」
 わたくしは大蛇さまの巫女でございますから。
 そう、艶やかさとあどけなさの同居する微笑みが告げている。
「うん……」
 魅入られて、一護は頷くことしかできなかった。
 氷雨は満足げに目を細めると、そのままやわらかに目を伏せた。
「大蛇さま、今日は泊まってゆかれますか……?」
「え!?」
 一護はぴくりと身体を跳ねた。
 まだ、見惚れていたのである。
 あたふたと言葉を紡ぐ。
「ええと……ここ祭神が大山祇神とか書いてあるけど……」
「はい、確かにここは大山祇神のお社……」
 問いに答えが返って来なくても、氷雨の口調には何の惑いもない。
「大蛇さまのお社はここより奥にございますわ。参りましょう……」
 歩きながらご説明いたします、と氷雨は続けた。
 その話によれば、大山祇神はよき協力者の一柱であり、日本中の社で領域を共有させてもらっているらしい。
 代々の宮司たちとも話がついているそうだ。
「系譜が異なるとはいえ、大山祇神の領域は大蛇さまの領域内にございますので……」
 それが協力の理由らしい。
「……ところで……協力って……?」
 一護は気になっていたことを尋ねる。
 狙われているらしいこととやはり関係があるのだろうか、と思う。
「概ねは……大蛇さまをお探しするのにご尽力いただきました。あとは、今回のように場所をお借りしておりますわ」
 おっとりと氷雨は頬に手を当てる。
 一分の隙もない姿勢で歩きながら、そこには気負いもない。
「それにいたしましても、誰よりも早くお会いすることができて、ようございました……」
 しみじみと、噛み締めるような呟き。
 ふと、一護は気付いた。
「見つけたって、どうやって見つけたん?」
 確か、感じられると言っていたような気がするが。
「はい、復活なされたのは気配から判りましたので、深月様の天眼で範囲を狭め、あとは気配の濃淡からさらに狭めて参りました」
「気配っちゅうんはやっぱり感じにくいもんなん?」
 とりあえず自分には判らない、と一護は思う。
 氷雨はどこか誇らしげに答えた。
「大蛇さまの気配は世界に遍く広がっておりますので、場所を特定するのは難しゅうございましたけれど、もう、どれだけ遠くに離れておりましても、参じられますわ」
「どれだけ遠くにおってもって……」
 それが比喩なのか事実そのままなのかはよく判らない。が、何となくではあるが事実の方のような気がした。
 と、ふと横を見ると氷雨の姿がなかった。振り返れば、少し後ろで足を止めている。
「いいえ、いいえ……二度と遠くへなど……」
 囁くような声は一護の耳には届かなかったが、何かに耐えるような表情は見えた。
「……氷雨さん……?」
 一護は窺う。
 氷雨ははっと我に返り、小走りに駆け寄ってきた。
「申し訳ございません、少し、ぼうっとしておりました……」
 嘘というわけではない、ぎりぎりの線。
 感じ取れたが、確証はないので一護はそのまま頷いた。
「そっか……」
 触れるのが恐ろしい。
 嫌われるのが恐ろしい。
 他の人間相手なら気にならぬようなことが、気になって仕方がない。
「あ……泊まるんはやめとくよ……うちの家族に詮索されるん嫌やから……」
 答えてなかったことをふと思い出し、今更に言ってみる。
 氷雨は少し残念そうに眉を寄せながら小首を傾げた。
「然様でございますか……急なことでございましたし……また、仰ってくださいまし」
「あ、ああ……」
 さすがに神社に泊まろうという気はこれから先にも起こらないだろうと思いながらも、一護はやはり頷くことしかできなかった。







[26080] 「想いは途切れず」
Name: 八枝◆767618cd ID:da250079
Date: 2016/02/20 15:07
『大蛇さま、お話をしてくださいませ……何か遠い昔のお話を……』





 夜。
 人は夜を克服したと思っている。
 それは誤りだ。人は夜の深さを忘れている。
 人の意識の届かぬ深い夜に小さな声が響く。
「鈴鹿のお姫さんは中立を貫いてくれるそうだよ」
 やや低めの女の声。
「それから、飛騨の五郎丸と富士樹海の天狐露姫は協力を惜しまないってさ」
「それは心強うございますね」
 夜の風に、氷雨の笑みを含んだような声が流れてゆく。
 氷雨は道路の端に佇んでいるだけだ。人も車も、何も通らない。
「露姫様のご協力をいただけるとは思ってもみませんでした」
「……嘘をつきな。あの高慢で知られる狐がかなり好意的だったよ。成算があったね……?」
 話し相手の姿もどこにも見えない。
 氷雨はくすりと笑った。
「五百年ほど前、露姫様の領域を侵そうとした龍神を屠って差し上げましたので……」
「五百年前にあの狐と喧嘩してた龍神ってぇと……劫葵かい……そうか、あれはあんたがやったのか……」
 感嘆とも呆れともつかないため息。
「露姫に恩を売るために、不肖とはいえ建御雷命の眷属に手を出したとはね……」
 龍は基本的には地祇だが、中には天津神に仕えることを選ぶものもある。
 劫葵はそんなうちの一柱だった。
「幸い、あの方の素行は悪うございましたので外聞が悪いのか、未だに報復はございませんわ」
 ころころと、無邪気に笑う。
 どこからともなく再度のため息が聞こえる。
「……まったく無茶をするよ……そんなに『大蛇さま』が大事かい?」
「当然です……比べるまでもございませんわ……」
 うっとりと、氷雨は頬に手をあてる。
「のろけ話を始めるのはやめとくれよ? あたしゃもうさすがに聞き飽きてんだから……」
 見えずの声に苦笑の色。
「もう、八重桜様は意地悪ですのね……」
 台詞とは裏腹に、氷雨の声は華やいでいる。
「ともあれ、ご苦労様でございました。これからは、大蛇さまの夜間の警護をお願いいたします」
「おや、自分でやらないのかい……?」
「四六時中お傍にいられないのは歯がゆうございますけれど、大蛇さまにも人としての生活と外聞がございますもの……」
 からかうような八重桜への答えは、本当に悔しそうだ。
「今までは毎日結界を張っておりましたが、やはり不安ですので……」
「分かった分かった、安心しな。妖ならどんな奴でも追い返してやるさ」
 声が気楽に言う。
「で、やばいのが来たらあんたに知らせりゃいいんだろ?」
「はい」
 緋の虹彩が妖しく輝く。
 見るものはない、真夜中の会話。





 二ノ宮夕実は暇人である。
 講義にはまめに出席しているが、時間の作り方がうまいからだ。
 かといって、その暇を持て余していたりはしない。友人は多い方であり、夕実自身も動き回るのが好きだ。だから、暇人なのに結局時間はない。
 それでもやはり、ぽっかりと空くこともあるのだ。
 今がそんな時だった。今夜カラオケに行こうと言っていた後輩は突然再レポートを食らって駄目になった。
 正真正銘の暇である。
 こんなときは社会性に欠ける友人をからかいに行くのが一番だ。
 というわけで、泊り込みで作業をしている一護に会うべく、夕実は夜の大学を訪れていた。
 大学には幾つもの研究室があるが、熱心さは様々だ。そのあたりは、いつから電気が点いているか、そしていつまで点いているかで分かることもある。長ければいいというわけでもないのだが。
 一護がいるのは、その中でも最も点灯時間の長いところだ。
「まったく……よくやるやね~」
 玄関に足を踏み入れながら夕実は呟く。
「別に院生じゃないってぇのに……ま、キューちゃんも好きなんだろうけどさぁ……」
 薄暗い廊下を目的地まで歩いてゆく。
 気兼ねする必要はあまりない。夕実も時々調達される方だからだ。
「……む?」
 と、目的地の前に佇む影に気付いた。
 ついさっきまではいなかったような気がするのだが、きっと気のせいだろう。
 人が唐突に湧いて出るはずがない。
「……って、おやぁ……?」
 少し近付くとよく見えた。
 知った顔だ。
「これは紹介してもらう手間が省けたかもね」
 向こうも気付いたらしく、前でやわらかに手を重ね合わせたままの姿勢で会釈した。
 すぐ隣まで行ってから、夕実は声をかけた。
「こんばんは」
「静かな夜でございますね」
 氷雨はたおやかに首を傾げ、笑みを含んだような声とともに微笑んだ。
 そこに潜んだえもいわれぬ艶に、夕実はぞくりとする。
「ええっと……キューちゃん……じゃなくて九鎧君に用なのかな?」
 いつもほど滑らかに口が動かない。
 落ち着かない。最近多い眩暈が不意にまた起こるが、耐える。
 そんな夕実に、氷雨は側のソファに置いてあった包みを優雅に示した。
「はい、お弁当を持って参りました」
「あ、なるほど……」
 一護は不精者である。三食を抜くことこそしないが、夕飯はおにぎり一個、など平気で実行するくらいには。
「ところで、夕実様はどのような御用ですの?」
「あたしは……」
 反射的に口を開いてから、夕実は思い留まった。
「……その前に、一つ訊いてもいい?」
「はい、承ります」
 氷雨はくすりと笑う。
 またぞくりと来るが、何とか普通の声に抑える。
「どうしてあたしの名前を知ってるの?」
 さっきの口調には全く惑いがなかった。
 一護から聞いていたとしても、断定できるなどおかしい。
 だが、氷雨は夕実の疑惑をさらりと流した。
「それは、調べさせていただきましたので……」
「調べた……って……」
 涼しい顔の氷雨と気圧された表情の夕実が向かい合う。
 ミラーシェードのせいもあるが、何を考えているのかが全く分からない。
 氷雨は軽く頭を下げた。
「申し訳ございません……近くにおられる方は気になるのですわ」
「あ、ああ……なるほどね……」
 それなら分かる。
 この一週間見ていた限りでは、可能な限り一護にべったりとくっついているくらいだから、近付く女性を気にしない方がおかしい。
 調べた方法にはあまり興味は湧かなかった。道行く男子学生にでも尋ねれば、たとえ知らなくても調べ上げてくれたことだろう。
 夕実は改めて、氷雨をしげしげと観察した。
 年下、それはおそらく間違いないだろう。
 そして高校生ほどでもない。
 ということは十八か十九あたりか。
 ずるいという思いさえ浮かびもしないほどに人を魅せてやまない容姿と、そこにある表情、仕種、声が醸し出す艶。
 女の自分ですら震えが来るのだ、耐えられる男はまずいまい。
「……それはそうと、あの男のどこが気に入ったわけ?」
 自分がここに来た理由を言うのがふと怖くなって、再び訊かれる前に夕実は話を逸らした。からかいに来た、などと言ったら何となく怒られそうな気がする。
 かなり苦し紛れの持って行き方だったのだが、効果は予想以上だった。
「どこが……でございますか」
 氷雨はほんのりと色づいた右の頬に手をあてた。
 どこか幼げなはにかみの見えるその仕種には、また別の魔性がある。
「そう。はっきり言って、別にいい男なわけじゃないと思うんだけど」
 夕実はまたもやや怯みながらも、距離を詰める。
 誤魔化すために振った話題ではあるが、気になっているのも確かなのだ。
「……そんなことはございませんわ」
 少しの沈黙の後、夢見るように、どこか恍惚めいた表情で氷雨が呟く。
 そして、やわらかに口許を結んだ。
 ミラーシェードの奥から覗き込まれているのを感じ、夕実は総毛だった。
 理由は分からない。
 だが、滲み出してきた汗は嘘をつかない。
「申し訳ございません……少々用事が出来てしまいましたので、わたくしが帰って参りますまでお弁当を見張っておいて下さいませんか?」
 氷雨は突然そんなことを言った。
「え!? あ……いいけど……」
 呪縛を解かれた夕実はようやくといった様子で頷く。
「御礼申し上げますわ……」
 氷雨は一礼すると、静々と歩き出した。
 向かう先は玄関だ。
 夕実には訝しく思うだけの気力は残っていなかった。
 身体のすべての力を使い果たしてしまったかのような疲労だけがある。
 ただ呆然と、小さくなってゆく後ろ姿を見送っていた。
 そして見えなくなり、さらにしばしの時が過ぎて、ようやく頭が働き始めた。
「……何だってのよ……」
 おかしい。
 歯車がずれている。
 一つ一つのことを考えたならば納得できないことはない現象も、これほど続けば間違いなくおかしい。
 どうして急に用事ができたことが判るのか。しかも、わざわざ作って届けに来た弁当を、人に預けなければならぬほどの用とくる。
 そして何よりも、自分は何故これほど疲れているのか。
「確かめに行かなきゃね……」
 弁当は持っていけばいい。ここで待っていろと言われたわけではない。
 夕実は自分にそう言い聞かせると、氷雨の後を追い始めた。





 静かな夜だ。
 世間の一切の喧騒から隔絶された、無音にすら近い夜。
 ここは人の住む世ではない。
 その裏にある、神霊の住まう世界。素質持つ人間以外には踏み入れることの出来ぬ領域。
 氷雨は異界の風に長い黒髪を流し、微笑んだ。
「明石様の御家来……いかな御用にございましょう?」
 氷雨の眼前にいるのは巨大な体躯を持つ鬼だ。背丈だけでも常人の倍はあるだろう。そしてその身に満ちる力は人とは比べものにならぬ。
 鬼は、巌が軋むかの如き声で唸った。
『我らが長は手を出すなと言うが……儂は看過することは出来ぬ』
 鬼は人に恐怖を与える。風貌、容姿ではなく、鬼という存在そのものが人にとっての恐怖なのだ。
 だが、氷雨は人に対するかのごとく微笑みを崩さない。
「……あえて最後の警告をさせていただきましょう……」
 優雅にミラーシェードを外す。
 それと同時に、服装が巫女装束へと変化する。
 緋瞳が艶やかに鬼を捉え、細められる。
「大蛇さまに仇なすというならば、死んでいただきます」
『……何故……今に満足できぬ……?』
 鬼は背を丸め、じりじりと近付いてくる。細心の注意と恐れと畏れを込め、僅かずつ。
『たとえ闇の奥に追いやられてはいても、静かに暮らしていれば無駄な死は起こらぬ。黄泉などない。死は終わり。魂はただ世界へと還るのみ』
 真っ当な人間にならば信じられなかっただろう。
 鬼の声に篭った響きは悲痛。血を吐くが如き音だ。
『そも儂らを隠れ里へと導き、そう言うたはぬしぞ? 儂らの荒ぶる鬼気を鎮めたお前が、何故? あれは嘘ではあるまい。偽りで我らを止められはせぬ』
「然様でございますね」
 密やかに穏やかに、氷雨は肯う。
「生こそが何にも勝るとは申しませんけれど、死に憑かれることもございますまい。流転する命、意思は儚くも尊いものにございましょう」
『その命を、今度は巻き込もうというのか。今更向こうから積極的に殺して回りはせぬなどと言うてくれるなよ? お前には多くの地祇と妖が手を貸そう。そやつらは決して見逃されぬ』
 低く、低く、鬼は憤る。その赫怒は牙を割り、炎となって漏れ出した。
『お前が殺すのだ。救い続けて来た命を、お前こそが死の前へと連れてゆこうというのだ!』
 矛盾を鬼は糾弾する。残酷を鬼は糾弾する。
 氷雨は微笑んだ。
「それが絶対に譲れぬということ。わたくしのすべては大蛇さまのために……ただそれだけのこと」
 何の気負いもなく、あくまでもやわらかな響きで言葉は紡がれる。
「大蛇さまをお守りする力は多いほどによろしゅうございますけれど……牙を剥きたいのであればそれもまた、よろしいかと」
 静かに、静かに、それでいてどこか熱を帯びて、鬼を圧倒する。
「たとえ独りであろうとも、世界のすべてを敵に回そうとも、わたくしは大蛇さまを護り抜きます」
 凛と鈴音の如き宣言。
 それは決意などという生易しいものではない。ふわりと佇む中に何よりも毅い刃を覗かせて氷雨は、<緋瞳の戦巫女>は其処に在った。
 鬼はいつしか進みを止め、むしろ後ずさっていた。
『……二千の星霜と聞いたぞ。未だ磨り減らぬとでもいうのか』
 数十年で人は摩耗する。長い時を生きる妖とて数百年、その中でも強い力を持つものであってさえも擦り切れてしまう何かはあるのだ。
『……いや、なにより……いかに<緋瞳の戦巫女>といえど世界を相手に戦えるつもりか!?』
 忸怩たる思いとともに鬼が叫ぶ。
 まさに時の流れのうちに自分たちが失ってしまっていた言葉は、千を越える歳を経た鬼の胸をざくりと抉っていた。
「わたくしは非力……でございますか」
 むしろ悪戯っぽい雰囲気を醸しながら問いつつ、氷雨は自ら頷く。
「仰る通りにございましょう。わたくしに三貴子を滅ぼせるような力はない、世界に比べてわたくしは矮小な存在でしかない……」
 鬼にとって不可解だった。
 己の非力をなぜ楽しそうに謳うことができるのか。
 何を思って絶望的な戦いを挑もうとすることができるのか。
 氷雨はそれを読んだかのように嫣然と笑った。
「けれど世界とはそんな小さなものが寄り集まって作られている……だから、わたくしの力が世界を変えてもいい。持てるすべてによって覆しましょう……いいえ、覆し返しましょう」
『……狂っている……』
 鬼が呻く。
『そんなことが本当にできるとでも思っているのか!?』
「当然ですわ。わたくしは、大蛇さまの巫女にございますれば」
 鬼の咆哮をさらりと流し、氷雨は優しく緋の双眸を細めた。
「まだお心は変わりませんか……?」
『それはこちらの台詞だ! お前を野放しにしては遠からず滅びの時が来る!』
 鬼はもう一度大地を踏みしめ、拳を氷雨に突き出した。地響き、そして大音声。
『覚悟せよ、<緋瞳の戦巫女>……お前が覆せるというならば、儂がお前を葬り去ることも不可能ではないということだ!!』
 拳が震えるのは、恐怖のためなどではない。圧縮されているのだ、力が。
 旧き鬼は今、遠い昔に忘れて来たものを取り戻していた。
「致し方ございませんね……」
 対して氷雨はくすりと笑い、無造作に一歩を踏み出した。
「それでは、死んでくださいましね?」
 拍子はなかった。
 二つの影が一瞬で一つになる。千年を生きた鬼の身体能力は人知を超えた速度で距離を無にしたのだ。
 振るわれるのは、かすめるだけで人を血袋と化す巨大な拳だ。それも力任せなどではない、闘争の果てに磨き上げられた武である。
 だが、拳の通り過ぎた場所に氷雨の姿はない。流れるように黒髪の舞う様が映ったかと思えば、逆に鬼の背から鮮血が噴き出した。
 そして、赤に塗れた白魚のような手。
 氷雨が鬼の腹を苦もなく貫いたのだ。
 だが、間髪入れず懐の氷雨に鬼の腕は巻き付こうとした。鬼の生命はこの程度で消えるようなものではない。
 しかしそれも成せなかった。
 今度は押されるようにして、鬼の身体が軽々と弾き飛ばされたのだ。
 鬼は空中で体勢を立て直し、地響きを立てて着地した。
『ぬう……』
 その腹からは血がだらだらと流れ出している。
 対して氷雨はやはり微笑みを浮かべたまま、右手を鬼の血に濡らしている。
 刹那の静寂。割り込むように一陣の風が吹いた。
『天の威、地の威、ただ無慈悲なる赤きもの……』
 次に動いたのも鬼だった。
 長き年月の果てに到達した、神の階梯にある力。人とは次元を異ならせる力を鬼は呪で呼び出す。
 意味としての炎。最も純粋な炎。より強くさえあれば因果そのものをすら焼き尽くす。
 一瞬にして氷雨が火柱に包まれた。
 それは人の力では決して破りえぬもの。破れぬはずのもの。
 それでも鬼は油断などしなかった。
 くすりと、炎の爆ぜる音の中に笑い声がした。
 途端に、すべてが幻であったかのように炎は掻き消え、鬼の全身から鮮血が噴き出した。
『ぬ……ぐ……』
 術を破られたことによる返しの風はこの旧き鬼をして苦痛に顔を歪めさせる。
 氷雨には欠片ほどの火傷もない。そのぬばたまの髪のひとすじすら焦げてはいない。
「力を奪われなさいました一言主様ほどにもございませんけれど、お強うございますね」
 静かに賞賛。
 あくまでも優しく、そして残酷に囁いた。
「あなたの思いは分かります……けれど、ここで滅んで下さいませ」
 緋瞳が淡く輝く。
 緋の邪眼。
 その威は絶対否定。
 抗う術を持ちながら、鬼は発動させたはずのその術ごと存在を消し去られた。





 そう遠くない場所に重箱が投げ捨てられていることに氷雨が気付いたのは、間もなくのことだった。



[26080] 「忘れえぬ思い出を胸に」
Name: 八枝◆767618cd ID:da250079
Date: 2016/02/20 15:07
『いつか大蛇さまのお役に立つことが……笑わないで下さいませ、わたくしは本気ですのに……』





 震えが止まらない。
 あれは何だろう?
 鬼。
 そう、鬼だ。
 鬼としか呼べない。
 そしてあの子は何なのだ?
 鬼と話をして、鬼の血に手を濡らして、鬼を消してしまったあの子は何なのだ?
 がたがたと震えながら思い出すのは、今は亡き祖母の昔語り。
『むかしむかし、ずぅっとむかし……』
 寝物語に聞かされた話。
『二ノ宮のご先祖様は術をもって朝廷に仕える家で……』
 のろのろと、だが身体が勝手に動く。
『ある日、帝の命を受けて鬼退治に行ったんだとさ』
 家の納屋。
『鬼は強かったが、神の加護を受けたご先祖様は苦戦の果てにとうとう鬼を追い詰めた……が』
 幼い頃、ここは遊び場だった。
『ご先祖様は優しいお人で、条件を出す代わりに命を助けてやったそうだよ』
 そして、見つけた懐刀がある。
『条件というのは、もう悪さをしないことと、何かの時に力を貸すこと』
 見つけたとき、こっぴどく叱られて二度と触らないようにといわれた。
『そしてその証として一本の懐刀を鬼からもらったという……』
 怒られるのは嫌だから、あれ以来触ったことはない。
『それは今もこの二ノ宮家に伝わっている……』
 嘘だと思っていた。
 作り話だと思っていた。
 いや、今でもそう思っている。
 そうであって欲しいと。
 だが手は止まらない。
 怖い。
 恐ろしい。
 確かめなければ、曖昧なままでは、心が耐えられない。
 人の恐怖は未知のものに対したときが最も強いという。
 だから、偽りであれ真実であれ、知らなければ駄目だ。
 憑かれたように納屋をひっくり返す。
 埃が舞うのも気にならない。
 ただ混雑しきったものの群れを次々と投げ捨ててゆく。
 どれくらい経っただろう。
「これ……」
 震える手の中に、古ぼけた懐刀がある。
 夕実の動きはそこで止まった。
 浅くなっていた血の眠りが、醒めた。





「まずいよ」
 夜から声がする。
 姿は見えない。
 唐突なその声に、しかし氷雨はわずかにまなざしを細めただけだった。
 研究室の外のベンチ。
 今日も弁当を持ってやって来たのだ。
 一護を待っている。
 姿なき八重桜の声は構わず続ける。
「深月が『視』た。荒水波あらみわが勘付いて動き出した」
「……それは、確かに思わしくございませんね……」
 氷雨の吐息が、冷たい空気へと艶やかに溶ける。
「だから、まずいって言ってるじゃないか。連中の力なんて上を除けば雑魚しかいないけど……」
「……奸計と絶滅主義は、二千年前よりの伝統でございますからね」
 苛立ったように声へと、氷雨は愁えげに頷いた。
 何を為すのが最良であるのかなど、とうに承知している。
 それを、替わりに八重桜が告げた。
「一刻も早くあたしらの本拠に連れて行かないと守りきれないよ? あんたの『大蛇さま』は奴らにとって最大の仇敵なんだ、有効だと判断したら街ひとつくらい壊滅させることも辞さない可能性だって……」
「然様、でございますね……」
 氷雨のくちびるは、躊躇いがちの肯定を紡ぐ。
 研究室のドアに、切なげな視線を送る。
 泊り込みは昨夜でもう終わりのはずだ。一護も今日は家へと帰ることができる。
「大蛇さまには……このままの暮らしをなさって欲しかったのです……」
 氷雨の呟きは、すでに過去形だ。
 何を為すべきかは明白、主の幸せを思う心のみが未練を残す。
 しかしそれも、生きていればこそのものだ。
「けれど、致し方ございませんね……」





 帰り道。
 氷雨の作ってきてくれた弁当も残さず平らげ、満足感とともに行く道のり。
 そのはずなのに、氷雨の様子だけがおかしかった。いつも湛えている微笑みが、今日は少し違う。
「……どしたん、氷雨さん?」
 ほんの少しだけ斜め後ろを着いて来る氷雨を振り返り、一護は問うた。
 氷雨は、どこか泣き出してしまいそうにも見える表情で、一護を見上げる。
 最近は二人のときは緋瞳を隠しておらず、そのまなざしが直接一護の心を射る。
「……大蛇さまには、嘘を申し上げたことになってしまいました……」
「……は?」
 嘘とそれだけ言われてみても一護に何のことだかは分からず、眼を丸くするのみだ。
 氷雨は小さくなるように目を伏せた。
「……危険な輩に、大蛇さまの存在を気付かれてしまったのです」
「危険、て……あの、鬼みたいな?」
 一護はむしろ落ち着いた気分だった。
 人ならば思い返せば誰しも恐怖に悶えるはずの記憶が、なぜか一向に怖くない。
 元来もその傾向はあったのかもしれない。それでも何かが変わっているような気がする。
 だが、一護の予想は否定された。
「いいえ、人ですわ。けれど、ときに見境がございませんので余程厄介なのです」
 氷雨は迷うように、それでもその台詞すら艶やかに告げる。
 その言葉が意味するものを、一護は漠然と感じ取った。
「……もしかして僕、危ない?」
「はい……かなり危のうございます」
「……なるほど」
 最初に鬼を見たから感覚が薄れていたものの、当然ながら自分は刃物ひとつで死ぬわけなのだ。
 と、気付いた。
「え? けど、嘘って?」
 危ないのは最初からのはずだ。
 嘘にはならない。
 すると、氷雨は儚げに微笑んだ。
「できれば、わたくしたちの本拠においでいただきたいのです。あそこならばわたくしの集めた戦力がおりますし、皆わたくしと同じく、近年の武装など効きもいたしませんので……」
「行くって……え? どこなん?」
「淡路……お嫌でございましょうか……?」
「……奇遇ではあるけど」
 氷雨の言葉を、一護は戸惑いをもって聞いた。確かに、そのまま暮らしていていいと言われた覚えはあるが、元々気にしてはいなかった。
 だが、この街を出て行くと言われるのもしっくりこない。淡路島には昔暮らしていたので馴染みはあるが、それでもだ。
 第一、家族はどうするのかとも思う。
 現実感がない。
 それでも、それは考えの根本が違うと、何かが警告した。
「お嫌でしたら、わたくしもここに残り、お護りいたします……ご安心くださいませ、大蛇さまには傷一つ負わせはいたしません」
 一護の思いを読み取ったのであろう氷雨の透明な声。それが一護の心をそちらへと向けさせるが、一護は自らかぶりを振った。
 氷雨の言葉は本気だろう。だがそれとともに、ならばなぜかつての言葉を翻してまでどこかへ連れてゆくという選択肢を付け加えたのか。
「もしかして、僕以外は……」
 戦慄とともに推し量ったときだった。
 するりと、氷雨が一護の手を引き、ぴたりとくっ付いた。
 身に纏っているのはいつの間にか巫女装束となっている。
 夜道。
 周りを囲む五人の男。
「……出遅れたやもしれません……」
 氷雨の呟きとともに、二人の周囲にからからと何かが落ちる。
 それが、氷雨の纏う防護呪によって無条件に落とされた狙撃の銃弾であることになど、一護は気付く由もない。
 それ以上に、そんな余裕はなかった。男たちすら目に入っていない。
「氷雨さん……?」
 ぴたりとくっ付いているがために、鼻先に氷雨の艶やかな髪から直接いい薫りが漂ってくる。
 視線の先にはほっそりとした首、華奢な肩。
 巫女装束であるのにそれでもなお豊かだと分かる胸。
 細い頤。
 薄紅い、可憐なくちびる。
 鋭く細められた緋のまなざしは危ういまでの艶すら秘め、敵を見据えている。
 一気に心拍数が上がる。
 いかに見慣れようと、これに魅せられるなというのは無理な相談だ。
「ち、ちょお……」
「離れないでくださいまし」
 たまらなくなって離れようとすると、今度は掴んでいた腕を抱きこむようにさらに強く引き寄せられた。
「お願いでございます。どうか、お任せくださいませ。わたくしを信じ、どうか……」
 懇願。
 逃げようとしたのだと誤解をしているようではあるものの、その声は哀切すら帯びていた。
 今度は照れることなどなかった。
 周囲の状況を、一護はようやく漠然とながらも把握する。
「これ……」
「……参ります」
 氷雨が宣言した。
「反し矢は避けられぬと申します……」
 最初は、近くに落ちた銃弾だった。氷雨の呟きとともにふわりと浮かび、飛んできた方へと消え去る。
 飛んで行ったのではない。
 だが、それらは帰る。
 氷雨だけは知っている。それは過たず、すべての狙撃手の頭を貫いた。
 次は、周りの五人だった。
 薄く輝きを放つ小太刀を手にした彼らは一斉に飛び掛ってきた。
 否、それは一斉ではない。時も位置も僅かずつにずらし、補完し合い、死角を埋める。
 それは必殺を期し、鍛え上げられた連携。
 人の領域に在るものが相手であったならば、まさに必殺たりえただろう。
「まつろわぬものは、これに」
 氷雨は改めての確認もせず、告げる。
 それは、そのものはただの言葉でありながら力を与えられて崩滅の言葉となった。
 掲げた右手に光が収束、万色の光芒となり、半球を形作って五人を押し返すように広がる。
 現実には押し返しはしない。そんな時間はない。
 触れた途端に五人は消失した。
 何も、塵ひとつたりとも残りはしない。
 一護はただその場に立ち尽くしていた。
 戦いなど遠いものでしかなかった一護にも分かる。目に映るのは戦いですらなく、人知を超える圧倒的な力を氷雨が振るっただけ。
「氷雨さん……」
「いいえ、まだ隠れております。今しばし、ご辛抱くださいませ」
 何を言っていいのかも分からず出た言葉に、氷雨はいつも通りの微笑みを含んだ声を返した。
 一護には隠れているものなどまったく分からなかった。
 分かるわけもないのだが、己が本当に神だというのならば何となく分かるということもあるのではないかと、漠然とそうしようとだけはしてみた。
 結局、感じたのは冬の夜の冷たい風と、氷雨の薫りだけだ。
 不意に氷雨がくるりと振り向いた。
 それもまた氷雨が誘導したのか、一護の身体も意識もせずにそちらに向いた。
 道。
 静か過ぎるほどの道だ。何もいるようには見えない。
 だが、氷雨の緋の虹彩が淡く輝くと、空が割れた。空が割れたとしか一護には見えなかった。
 光景が二つに引き裂かれて茜色の光が見え、そこに影を作る人々が溢れ出して来た。
 数など、一護には数えられない。少なくとも二十や三十ではあるまいと思えただけだ。
「神器『薄暮』……恐ろしいものを持ち出したものですね」
 氷雨が呟く。
 一護はその内容に何の恐れも抱かなかった。氷雨の声はいつも通りの笑みを含んだようなものだったから。
 果たして、氷雨は向かい来る刺客の群れに呼びかけるが如く、微笑んだ。
「まとめて、消えてくださいましね……?」
 絶対否定の緋の邪眼。
 言葉通り、あれだけいた影は瞬時にことごとく消失した。
 過程も順序もない。一瞬ですべてだ。
 そのことに一護が驚いている暇はなかった。
 氷雨はさらに少し向きをずらす。
 ぐしゃりという、鈍い音。
 ほんの少しだけ遅れてそちらを向いた一護の目に焼きついたのは、一人の男だった。
 時の流れが限界まで引き伸ばされたような感覚がある。
 気配もなくここまで近付いたのであろう男は、胸部がなかった。
 その中心となる空間を氷雨の右手が貫いている。
 どれほどの衝撃だったというのだろうか。すでに人に為しえるような領域など遥かに超えている。
 男の血が飛び散る。
 氷雨のたおやかな手を濡らし、白の袖を濡らし。
 飛沫が点々と、すべらかな頬を染める。
 胸で上下へと分かたれた男は、その場に転がる。
 生きていようはずもない。
 死体だ。
 人が死んだのだと、一護は初めて思った。文面や画像、解剖実習では見慣れていた死というものがそこにはあった。
 そればかりではない。死体が残ったのが初めてだというだけで、既に五十以上は死んだはずだ。
 一護は氷雨を見た。
 それだけの死をもたらした彼女は、いつも通りに微笑んでいた。
 風が匂いを運んできた。
 氷雨の華のような薫りと、鉄錆びた血の。
 なぜだろう。
 人の世における最大の禁忌よりも、ただただ見惚れた。
 理屈も理由もなく、彼女の美しさに魅せられた。
 鬼の使った呼び名を思い出す。
 <緋瞳の戦巫女>。
 仕える神のため、望んで戦い、惑わず屠り、自らを血に塗れさせることを厭いなどしない。
 それがゆえの、戦巫女。
 そうか、と思った。
 自分が神で、彼女がその巫女だというのならば、失わせた命は自分のためなのだと。
 そうしなければやられていたのだとも、正当防衛なのだとも、思わなかった。
 ただ、この怖いくらいに綺麗な氷雨は、自分のためにその手を朱に塗れさせているのだとだけ思った。
「氷雨さん……」
「とりあえず、この場にあった敵はこれですべてにございましょう。お怪我はございませんか?」
 氷雨は緋の瞳で男の死体を消してから振り向いて微笑み、そしてその微笑みを凍らせ、一護の初めて見る表情を浮かべた。
 それは、後悔。
 いまだ掴んだままであった一護の腕を放し、少しだけ離れて向き直り、綺麗な孤を描く眉尻を下げて、気弱な微笑みを浮かべた。
「申し訳、ございません……」
 なぜ謝られたのか、一護には分からなかった。
 それも、こんなに悲しそうな、むしろ怯えたようにすら見える表情で。
「氷雨さん……?」
「わたくしは……多くの妖の血と、多くの人の血と、少しの神の血に塗れております……申し遅れてしまいました……」
 氷雨は畏れるように、恐れるように、緋のまなざしを伏せる。
「それでも、お傍に置いていただけますでしょうか……?」
 何を今更、と一護は思う。
 そんなことが問題になるものか、と。
 だが氷雨は続ける。
「刺客のことならば、ご心配には及びません。陰ながらずっとお守りいたしますので、お気になさらず、お決めくださいませ……」
 人間は死を忌避するのが常だ。死をもたらすものも忌避するのが常だ。
 だからそれを思い、氷雨はこんなことを言うのだ。
 一護はズボンのポケットからハンカチを取り出した。少し広げてみてやはり野暮ったいのが気になったが、他にないのだから仕方がない。
 それを手に、俯いた氷雨の前に立つ。
「氷雨さん、顔上げてみて」
 意図せずとも、優しい声が出てくれた。
 氷雨はおずおずと顔を上げる。視線が合うと、不安で泣きそうな表情を見せる。
 一護はそのすべらかな頬に散った血を拭き取った。
 強くすると壊してしまいそうな気がして、やわらかく。
 だから少し苦戦した。
「大蛇さま……?」
 何もかも抜け去って無垢なまでに透明なまなざしを、氷雨は向けてくる。
 一護は照れて目を伏せ、今度は氷雨の右手を取ってぬぐいながら言った。
「いや、さ……氷雨さん、すごい綺麗やし、まあ……」
 氷雨はされるがまま、身を任せている。
 右手は苦戦というよりも、すべて取り去るのは不可能だった。ある程度以上は強くこすらなければ取れそうにはなかった。
 そこで中断し、再び視線を合わせる。
 氷雨はそのままの透明な表情で一護の答えを待っている。
 一護の答えなど、決まっていた。
「氷雨さん、僕を守ってくれたんやん」
 いいに決まっているのだ。自分のために塗れた血ならば、一護自身のものでもある。
「むしろ傍におって欲しいよ。僕もなんか幸せな気分やし」
「大蛇さま……」
 氷雨は少しだけ目を丸くしてから、ただただどこまでもあどけない笑顔を見せた。
「はい……はい、大蛇さま……!」
 これでいいのだ、と一護は思う。素直な心がそう告げている。
 あるいは死ぬはずだったのに一向に恐ろしくなかった理由。
 恐怖など塗りつぶしてしまうほどに、心囚われているのだ。
 極端であっても気にすることなどない。普通の人間の心の動きとは違おうがなんだろうが、問題などあるものか。
 むしろ面白い。
 命を狙われても何もできず、ただ守られるだけの自分が神だという。八岐大蛇だという。未だ本当に信じているわけでもないが、そのささやかな一端なのだとすれば、愉快なものだ。
 悪くない。まったくもって悪くない。
 これも自分だ。
 と、心の中で呟いたときだった。
 遥か遠くで爆発音が上がった。
 二人ともが反応する。
 朱く天を焦がすものが見える。
 家の方角だ。
 氷雨が、沈痛に呟いた。
「大蛇さま、あれはおそらく……」
 自宅が狙われたのだ。
 一護は少しだけ迷い、言った。
「確かめに、行けるかな……?」
 この事態そのものは当たり前のこととして心は受け入れ、だから未練だと思う。
 事実を確かめたい。
 氷雨は頷いた。
 行くことが一護にとって危険だなどということは充分に分かっている。あれは、罠なのだ。
 それでも頷いた。
「わたくしが、すべてをかけてお護りいたします……」
「なら、行こう」
 その言葉を告げた瞬間、一護の胸に冷たいものが走る。
 命の危険など重々承知している。自ら死地に向かう決定を下したことへの、それはさすがに抑えきれない恐怖なのだろうか。
 それでも、一護は高揚にも似た心地で呟いた。
「こう見えても……後悔はせん主義やから」







[26080] 「永き時を在り」
Name: 八枝◆767618cd ID:da250079
Date: 2016/02/20 15:08
『あの、大蛇さま…………いえ、なんでもございません……ですから、なんでもございません……過ぎた望みでございますれば……』





 見事、といっそ言うべきだろうか。
 辿り着いた頃には、一護の家だけが綺麗に焼け落ちていた。
 周囲の家への延焼はまったくない。そのような技術でもあるのか、それとも何かの術を使ったのか。
 ともあれ、ただ一軒だけが焼け落ち、燃えるもののなくなったからか、火は消えている。
 あたりは静かなものだ。消防車の音も救急車の音もない。
 それどころか、人の姿すらない。周りの家には明かりすら点いていない。
 ここまで真っ直ぐに辿り着けたわけではない。刺客をことごとく返り討ちにしながら来たのだ。
 それなのに、誰一人として顔を出す者すらない。
「『月の封界』……そのような神器を荒水波は所持しております」
 氷雨が静かに告げる。
 夜空を見上げれば、やや欠けた月。
「人は夜には眠るもの……月の光を用いて広域にかける眠りの呪縛……」
「邪魔されんように……?」
 一護は黒焦げた四つの人型を眺めながら、呟くように言った。
 四人もまた眠り、そのままで死に至ったのだろう。
「力至らず……」
「いや、ええよ」
 項垂れる氷雨に、一護は至極あっさりとかぶりを振った。
 心構えなら先ほど済ませた。ここに来たのは、確かめたかったからに過ぎない。
 悲しくないのかといえば、そんなことはない。だが、これで心残りもなくなったとも思う。
 あまりにも突然の岐路。
 あまりにも突然に迫られた選択。
 しかしそんなものだろうとすら一護は思う。そも、重要な選択は青天の霹靂のようにやってくるものだと。
 一護は氷雨に向き直った。
 口を開こうとして、ひとつのことに気付いてそれは後回しにされた。
 月光に照らされた氷雨の姿は清浄に美しい。血に染まっていたはずの衣と右手にも、既に何の汚れもなかった。
 一護の視線に気付いたのであろう氷雨は、微笑んだ。
「真に大蛇さまの巫女であるわたくしは、常に己が存在を清浄でおくことができる……いえ、それでは語弊がございますね。在るべき姿へと、還るのですわ」
「……っちゅうことはもしかして……」
 汚れなどすぐに消えてしまうというのであれば、自分がぬぐったのはまったく意味が無かったのではないかと、一護は困ったようにこめかみを掻いた。
 だが、氷雨はゆるやかに、頬に右手を当てた。ほんのりと、朱が散っている。
「いいえ、とても……とても嬉しゅうございました……」
 一護を見上げる緋のまなざしは、いつにも増して強い艶を秘めている。
「あのようなことをしていただくのは畏れ多いはずですのに、嬉しくて…………わたくし、どうしましょう……」
「いや、どうしましょう言われても……」
 清楚だからこそぞくりとするほどさらに蠱惑的に映るその表情に、一護は己の鼓動を抑えるのが精一杯だった。
 それ以上は何も考えられない。
 しかし氷雨の方が、静かに双眸を閉じた。
「……いえ、過ぎた望みでございますね……」
 その言葉は一護の耳には届かない。
 そして思考を取り戻すほどの時間は過ぎた。
 一護は大きく息をつき、もう一度だけ焼け落ちた家を見た。心の中だけで別れを告げ、また氷雨を振り返る。
「……行こか、氷雨さん」
 それは、答えだった。
 氷雨の提案に対して、まだ口にしていなかったこと。
「よろしいのですか……?」
 慮るように一護を覗き込む氷雨の声はどこか儚げに響く。
「本当に、一緒にいらしてくださるのですか……?」
「ああ。まあ、早よここを離れとかんとまずそうでもあるし」
 一護が殊更に明るく答えた、そのときだった。
「なんでよ!」
 第三の声がした。
 一護のよく知った声。
 だが、まさかこんな時間、こんな状況で聞くとは思っていなかったために、誰なのか気付くのは少し遅れた。
 振り返り、姿を確認してからようやく悟り、それでもなお戸惑う。
「……二ノ宮さん……?」
 今まで姿を隠していたのか、四つ角のこちらの隅に夕実が立っている。こちらを見る顔に浮かんでいるのは、恐怖だろうか。
 一護は氷雨へと視線をやった。
 氷雨は夕実へと、やわらかな微笑みを向けた。
「近くの刺客は皆屠りましたけれど……まだ危険にございますれば、出歩かれるのはいかがなものかと存じます、二ノ宮夕実様……」
 だが、夕実は氷雨を見ていない。
「分かってるの、キューちゃん!? そいつ、人を殺したんだよ!?」
「……見とったんか」
 一護はそう返すしかなかった。
 事実は事実であり、そのものには他の入る余地はない。
 だが、夕実にとってその返答は不満極まりないものだった。
「なんで!? どうしてそんなに落ち着いてるの!? そんな恐ろしい娘と一緒にどこに行こうっていうの!?」
「……遠くまで」
 経緯はよく分からないが、夕実が自分の心配をしているらしいことだけは一護にも判った。
 その上でぼかす。多分、知らせない方がいい。
 氷雨が前に出る。
「ついていらしていることは存じておりました。けれど、大蛇さまのご友人ゆえに干渉せず、見逃して差し上げたのです」
 その口調は、やわらかに響きこそすれ、切れ味鋭いものだった。
 まなざしはやや細く、確かな敵を見るもの。
「お引き取りくださいませ。命を徒花と散らすこともございますまい」
「殺すっていうの、あたしも?」
 夕実も負けてはいなかった。小柄な身体に限界までの気迫を詰めて睨みつける。
 それを、氷雨は小首を傾げて受け流した。
 まなざしは細めたまま、嫣然と微笑む。
「そのようなつもりはございません……けれど、このような状況になった以上、大蛇さまに関わるのであれば遠からず貴女様は儚くなることになろうかと存じます」
「なによ、あたしだってあんたみたいな力を手に入れたんだからね! キューちゃんくらい守ってみせる!」
 夕実が手に小さな刃を取り出す。質素な懐刀だ。
 だが、氷雨は小さくかぶりを振った。
「確かにその刃の呼ぶ鬼は、人にとっては強うございましょう。荒水波も神器もその鬼の作る異界でやり過ごしたのでしょう。しかし、その程度で荒水波を凌ぐことなど、できはいたしません」
 夕実は応えず、視線を強めるのみだ。
 二人のやり取りに口を挟めずにいた一護だったが、自分が言わない限り夕実は決して退くことはないだろうと見て取った。
 だから、告げた。
「帰ってくれ、二ノ宮さん」
「え……」
 夕実は、何を言われたのか分からないとでもいう風な惚けた表情を見せた。
 それでもやがて理解できてしまう。
「嘘……」
 無意識にかぶりを振り、今度は噛み付く。
「どうして! キューちゃんが何かできるわけじゃないじゃない! ずっと守られてただけじゃないの!」
「いや、まあ……それはそうなんやけどさ……」
 一護は困って苦笑い。
 そういう問題ではないのだ、と。
「一番安全らしい場所に行くだけやからな」
「どうして安全だって分かるのよ!? そいつが言ってるだけでしょ!?」
「……二ノ宮さん……」
 一護は突き放すように、尋ねた。
「僕の口癖、何やったっけ?」
「口癖……」
 いつもの台詞。
 覚えるほどになってしまっていたそれを夕実は思い起こし、真円に見えるほどに目を見開いた。
「『なんとなく』……? 正気!!?」
「多分」
 一護は高揚とともに頷く。氷雨を信じたいと、自分でもよく分からぬ何かが言う。
 夕実は震える声で呟いた。
「なんで……? おかしいよ、それ……命が危ないんだよ……? 知り合ってまだ二週間の奴に、なんで命預けるの……?」
「まあ……誰がどれだけ強いとかどないしたら安全とか、さっぱり判れへんわけなんやけど……」
 一護はちらりと氷雨を見た。
 どのような思いでいるのか、氷雨もこちらを見つめている。
「強さと弱さは表裏一体、強さこそが弱さ、弱さこそが強さ……判断材料ないから、心に素直に訊いてみた結果っちゅうことで」
「言葉遊びしてる場合じゃないのよ!?」
 夕実には、もう何が何だか分からなかった。
 二年間つるんで来た自分より最近知り合ったばかりの危険な奴を選ぶことも、その選択にまったく恐れを感じている様子もないことも。
 まったく、訳が分からない。
 言葉にしようにも思考が凍ってそれ以上はできず、沈黙する。
 そして一護も、もはや何も喋ることは思いつかなかった。
「行こか、氷雨さん」
 きびすを返す。
 氷雨は微笑みとともに頷き、しかし言った。
「ほんの少しだけ、お待ちくださいまし……」
 一護が不思議そうに足を止めると、氷雨は最後に夕実へと声をかけた。
「二ノ宮夕実様……今生の別れにはいたしませんわ。いつか生きて大蛇さまにお会いしたいと仰るのであれば、今はお引き取りくださいませ……」
 そして一礼すると、一護に並ぶ。
 歩き始めた二人を、夕実は見てはいなかった。
 声は聞こえてはいた。
 だが、ただただ渦巻く疑問のうちに在り、その場に立ち尽くすのみだった。





「尖兵全滅、か……」
 静かな街を見下ろしつつ、連絡を受けた少年が呟く。
 180cm近い体躯は異様なほどに鍛え上げられているが、それでも未だ十代後半に入った程度の、あくまでも少年だ。
 荒水波とは、古より怪異を滅し続けてきた独立戦闘集団である。時の権力にも寄らず、血脈にも拠らず、独自に活動してきた。それゆえに時の政府と敵対することすらあったが、その実力をもって絶えることなく続いている。
 起源は古い。三貴子の一柱たる素戔鳴尊が人に創らせたのだとさえ言われている。
 真偽の程は定かではない。
 だが、荒水波の統括者は『スサノオ』と名乗る。
「……気に入らねえな、どうしてわざわざこんな中途半端なことをさせる? 一気に全戦力を投入しねえ?」
 第九十七代スサノオ、須藤竜也は不機嫌そうに後ろを振り返る。
 そこにいるのは、同い年ほどの少女だ。その年頃の娘としても小柄な身は、幾重にも飾られた巫女装束に包まれている。
 額で中分けにされた長い黒髪をなびかせ、彼女は竜也に並んだ。
「我が君の御託宣です。仕上げには未だ早い、と」
 一切の反論を許さぬ声を荒水波の統括者へと向ける。
「仮に屠るにしても、名のある山神をも凌駕した力を振るう<緋瞳の戦巫女>を相手に人の力などいくら投入したところで無意味。今は危機感さえ煽ればいい」
「そうかい」
 竜也は口許を歪めただけだった。
 竜也ですら、この極めて美しい少女と会ったことは一度しかない。ちょうど一年前にスサノオを継いだ、そのときだけだ。何者なのかの事実は知らない。
 知っていることはたった二つ。
 彼女の名と、姿すら滅多に現さぬ彼女こそがこの荒水波の真の主であるということ。
「で、本命はこのまま行かせておくとして、あの鬼使いのねーちゃんはどうすんだよ?」
 竜也は逆らわず、別の一つに話を変える。
 たかが十代、ではない。相応しいからこそ、当代のスサノオなのだ。
 将たるものは万能である必要などない。むしろひとつのことを除いては何もできなくても構わない。
 できないことを補ってくれる者を見出し、惹きつけ、用いることさえできればいいのだ。
 竜也にはその器がある。少女の意向を受けて今ここでは近付かせていないが、六人の手足がいる。
 もっとも、スサノオたるにはそれだけではならないのだが。
 竜也をスサノオに選んだ少女は強く告げた。
「並みの者では存在を捉えることもあたわぬでしょう。捨て置きなさい」
「へいへい」
 竜也はちゃきりと手にした剣を鳴らし、それでも肩をすくめるようにして頷いた。







[26080] 「願うは一つ」
Name: 八枝◆767618cd ID:da250079
Date: 2016/02/20 15:09
『あの子が加われば、もう離れ離れになることなく皆で仲良く暮らせるのですね……』





 道なき道を行く。
 山は地祇の領域、未だもって人を受け入れきらず、天神の光も届かない。
 荒水波の手は、『月の封界』により夜でさえあれば人などものともせずに自在。そして昼であっても、後に強引に封鎖することを前提に襲撃をかけてくるという。乗り物を使うのは論外だ。
 それゆえに、氷雨が選んだのは山を踏破する道だった。
 紛うことなき冬、葉をつけるのは常緑樹のみ、冷たい空気と寒々しい光景を前から後ろへと流しながら二人は行く。
 氷雨のすぐ後を行く一護は無言。頭と身体のすべてを進むことにだけ特化して力を振り絞る。
 山を歩くとは、それだけで人には苦行になりうるものなのだ。
 一護の眉間には深い皺。目は霞み、脚は膨れ上がったような感触と、震えるような自覚がある。
 だからこそ、何も言わずに歩く。
 意地ではある。
 だがそれは、弱音を吐くなどという格好の悪いところを見せたくない、というばかりではない。むしろそれよりも大きいものがあるのだ。
「大蛇さま、お気をつけくださいませ。枯葉で滑りますゆえ……」
 ふわりとした微笑みの中に艶をも乗せ、氷雨がその白魚のような手を差し出してくる。
 氷雨は、正確には一護の先になっているわけではない。あるいは道を拓き、手を差し伸べ、横で支え、後ろで守る。
 ずっと、いつもの微笑みを浮かべたまま、疲れた様子などその欠片さえ見せずにだ。
 常に気にかけ続け、どうすれば一護が最も楽になるかということだけを考えて実行している。
 申し訳なくて弱音など吐けようはずもない。
 差し出された手をとり、一護は歩く。
 が、腹が鳴った。
 昨日の夜から歩き詰め、今はもう太陽が中天にある。
「申し訳ございません……今しばし、お待ちくださいませ……」
 氷雨は本当に申し訳なさそうに眉尻を下げた。
「いま少し行けば岩棚がございます。そこでお休みいただけますので……」
「ああ」
 歯を食いしばるついでに応え、一護はさらなる一歩を続けた。





 脚が熱い。
 岩棚に腰掛け、青空を見上げてまず最初に思ったのはそれだった。
 冷たい風が頬を撫でるが、寒さなど感じない。
「ふう……」
 一護はそのまま空気に融けてゆきそうな心持ちで息を吐く。
 一度止まってしまうと身体を動かす気力も湧かない。
 その視界に、氷雨の微笑みが映った。
「このような物しか手に入れることはできませんでしたけれど、どうぞ、お召し上がりくださいませ……」
「え?」
 その手にあるものを見て、一護は目を点にする。
 ビニールに包まれた、おにぎり。よく知っているコンビニエンスストアの名前までついている。
 こんなものを氷雨が持っている様子はなかったのだが。
 一護の疑問を察したのだろう、氷雨は傍らに跪きながらゆったりとまなざしを細めた。
「八重桜様に持って来ていただきました」
「八重桜……?」
 知らぬ名に、一護の疑問がさらにひとつ加わる。
 氷雨は手際よくおにぎりを露出し、差し出しながら説明した。
「深月様同様、わたくしの集めた力でございます」
「ほう……」
 何と答えてよいやらも分からず、一護はただ頷く。
 そして、ふと気付く。
 おにぎりはたった一つだけだ。
「氷雨さんの分は?」
 分け合うのだろうか、と思っていると氷雨は嫣然と微笑んだ。
「わたくしは大蛇さまより常にお力をいただいておりますので、本当は食事を摂る必要はございませんの」
「ほんまに?」
 そんな無茶な、と思って一護はその笑顔を正面から確かめる。自分に食べさせるためなら、そのくらいの嘘はつく気がする。
 すると氷雨はくすりと小さく声を立てて笑った。
「御心配には及びません。大蛇さまをお護りするからには、本末転倒なことはいたしませんわ。わたくしにも必要なのであれば、八重桜様に持って来ていただいております。もっとも……」
 少し申し訳なさそうな表情になる。
「そもそも大蛇さまの分が少のうございますね。栄養も偏りそうでございますし。次からはもう少しいろいろと……」
「あ、いや……あんまり、ええよ。その、八重桜さんいう人にも悪いし」
 気後れした一護は軽く手を振ったが、氷雨はまた艶やかな笑顔に戻ってきっぱりと断言した。
「いいえ、大蛇さまのお食事の方が大切でございますれば」
 その迷いのなさ、惑いのなさに、一護は改めて出会った頃の不思議な気持ちを思い出した。
 本来ならば強く疑問を抱くところ、そして自分でも分からぬ漠然とした確信ゆえにそのまま受け入れていたこと。
 それを今、口にしてみる。
「僕というか八岐大蛇というか……そんなに大事なもんなんかな? なんか、こんなにしてもろてさ……」
「わたくしは、大蛇さまの巫女でございますれば……」
 氷雨は、どこか誇らしげな響きを秘めて答えた。
 一護を見つめるどこまでも深く美しい双眸は、衒いのない喜びに震えている。
「再びお会いし、お側に仕えることのみを夢見て参りました。このように、これほど近くに大蛇さまがおられるなど……」
「けど、戦うんとか、怖ぁない?」
 それも、訊いてみたかったことのひとつだ。ありきたりで詰まらなくも思ったが、口からは素直に出ていた。
 氷雨は軽くかぶりを振った。
「慣れておりますわ。殺すことも殺されることも」
 それは必ずしも否定というわけでもなかったが、一護は言い募ることはしなかった。
 さらりと発せられた言葉に違和感を覚えたからだ。
「……殺されることも?」
 仲間のことだろうか、と一護はすぐに自ら答えを想定してみたのだが、氷雨は嫣然とした微笑みで異なる解を告げた。
「わたしは三度ほど不覚をとり、死んだことがあるのですわ」
 なんでもないことのように妙なことを言われ、一護は混乱した。
 ここにいる氷雨は夢でも幻でもない、と思うのだが。
「ええと……」
「大蛇さまが世に在る限り、わたしに滅びはございません。大蛇さまと繋がったわたくしの魂は、幾度でも人の身体を得て現れるのです」
 氷雨は上品に小首を傾げる。
 むしろ嬉しげな響きで語られるその内容に、一護は目を丸くした。
 だが、以前からの言動と一貫した言葉だとも思った。
 確かに感じられる、と言ったことがある。
 自分には間違えようがない、と言ったこともある。
 もうどこにいても見つけ出せるようになった、とも言っていた。
 その言葉の群れは、今の台詞に直接繋がっている。
「……巫女って、そういうもんなん?」
 半ば圧倒され、一護は呟くように言う。疑問の形をとってはいるが、問うたつもりはなかった。
 それでも答えは返って来た。
「仕える神の加護すべてを一身に受ける者は、そのようになるようでございます。とは言えど、そのような者は世のすべてを探しても十もいるものかどうか……」
 氷雨は一度目を伏せてから、手にしたままのおにぎりを差し出した。
 冷たい風が、氷雨の良い薫りを運んでくる。
「ともあれ、お召し上がりくださいまし」
「うん……」
 一護は手を伸ばした。いろいろと考えることはあるのだが、空腹なのも確かで、拒否する理由はない。
 だが、一護の手は空を切った。
 何かを思い出したような表情で、氷雨が少しだけ下げたのだ。
 もしかしてやはり氷雨も食事を摂る必要があるのだろうか、と一護が思ったときだった。
 氷雨が一護を見つめ、どこか悪戯っぽく映る微笑みを浮かべた。
 細められた緋瞳と品良く弧を描いた薄紅いくちびるが絶世の美貌に形作ったのは、背筋が震えるほどの艶。
「大蛇さま……」
 右手に左手をそえ、おにぎりが口許まで差し出される。白衣の袖からわずかに顕わになった白い腕が、ただそれだけだというのに艶かしく見える。
 一挙一動に滲み出る艶にも慣れて来てはいたものの、それでも今回は強烈だった。
 何をされているのかは、暴れる心臓を必死で収めようとしている一護にも容易に推測できた。
「い、いや、自分で食べれるし……」
 しどろもどろに言っておにぎりを受け取ろうとするが、そうすると氷雨は手を引いてしまう。
 艶やかな微笑みもそのままに、穏やかながらもきっぱりと言ってのけた。
「嫌でございます」
「いや、て……」
 駄目ではなく嫌と表現したのが少し意外で、一護は虚を衝かれた。
 しかも氷雨が断ったのは初めてではなかろうか。
「さ、お召し上がりくださいませ……」
 再び、おにぎりが口許に差し出された。
 一護は観念した。
 散々いろいろしてもらっておいて、ここであくまでも嫌がるのは悪い。
 第一、なんとなく恥ずかしいだけで、他に見ている者もなく、内容そのものは正直に言うと嬉しい。
 かぶりつく。
 この季節、しかも外気にさらされていたわけだから固く冷たいおにぎりだ。
 だがそんなことは、一護がおにぎりを口にしたときに浮かべた氷雨の表情を目の当たりにした瞬間、すべて吹き飛んだ。
 嬉しそうな、本当に嬉しそうな、無邪気としか言いようのないあどけない笑顔。
 無意識に咀嚼だけはしながら、心奪われる。
 一護に見つめられていることに気付き、ようやく我に返った氷雨はそのすべらかな頬に朱を散らし、視線を落とした。
「申し訳ごさいません……はしたないことを……」
 風が氷雨の艶やかな長い髪を流してから、氷雨は蚊の鳴くような声で続けた。
「けれど、御容赦くださいまし…………昔から、その……一度、して差し上げてみたかったのです……」
 おずおずと上げたまなざしは、上目遣い。
「お許しくださいますでしょうか……?」
「許すも何も……」
 一護は、目の前のこの年下に見える女性を抱きしめたくなった。
 どうしてこれほど尽くそうとするのか。
 どうしてあんな、幼子のような笑顔を浮かべて喜ぶのだろうか、と。
「……続き、食べさせて欲しい」
 腕がぴくりと動いたが、抑え、一護は続ける。
 抱きしめるなどしていいのかと、そんな思いに苛まれて。
 氷雨はまたあどけない微笑みとともに今度は、いそいそと、という形容がしっくり来る仕種でおにぎりを差し出した。
「本当は、お弁当のときにして差し上げたかったのです。思いきれず、ここまで延びてしまいましたが……喜んでくださり、本当に、ようございました……」
 敵へと滅びをもたらす緋瞳はただ一途に一護を見つめ。
 悲しく響くほどに澄んだ声は華やいで。
「大蛇さま……わたくしは、大蛇さまを心よりお慕い申し上げております……」
 氷雨は、そう告げた。







[26080] 「この冷たい雨が」
Name: 八枝◆767618cd ID:da250079
Date: 2016/02/20 15:10
『何処なりとも、お供させてくださいませ……そこがわたくしたちの在り処でございますれば……』





「何ものかが、おります……」
 氷雨が呟くように言った。
 五日が過ぎていた。一護も幾分山歩きに慣れ、踏破速度も上がり始めた頃だ。
「刺客……?」
 一護が問うと、氷雨は艶やかな微笑みを浮かべた。
「おそらくは。彼らにとって山は不利とはいえ、いつまでも手をこまねいているはずもございませんし」
 その微笑みは一護の心から不安など取り除いてしまう。
「迂回は百害あって一利もございません。突破いたしましょう」
「ああ、氷雨さんに任せるよ」
「はい。お任せくださいませ」
 華やいだ声で氷雨が頷き、二人は木々の中を前進する。
 それほどの時間は要らなかった。
 少し、開けた場所に出た。平坦で、ぽっかりと空の見える空間。
 そこに、一人の少年がいた。
 ちょうど十代後半になったあたり。背は高く、容貌と雰囲気にはどことなくガキ大将めいた匂いを残している。
 そして、右手には鞘に納まった剣。
「よお」
 少年は気安く片手を上げる。
 氷雨は一護の前へと出て、少年へと優しげな微笑みを向けた。
「お会いするのは初めてですけれど……当代の?」
「第九十七代スサノオ、須藤竜也だ」
 竜也の名乗りの意味は、一護にも分かった。
 荒水波の話は氷雨から聞いている。目の前の少年こそが自分の命を狙う組織の統括者なのだと。
 知っていても、特別な感情は浮かばない。氷雨を信じるのみだと、この五日間で思った。
「しかし、この目で見ると聞きしに勝るいい女だな、あんた」
 竜也が感心したように頷いてみせる。
「うちの無愛想で偉そうな巫女と交換したいぜ、ほんと」
「光栄ですわ。けれど、わたくしは大蛇さまのもの……そうは参りません」
 くすりと、氷雨。
 竜也のこれでもかというほど羨ましそうな視線が一護に向いた。
「なあ、くれよー」
「……やなこった」
 一護もぶっきらぼうに返す。
 何も考えることすらない、当然の返答だ。
 氷雨が嫣然と微笑む。
「その剣を持ち出したからには、世間話をなさるためにいらしたわけではございませんでしょう?」
「まあな」
 竜也はにやりと笑い、無造作にそれを抜き放った。
 その途端に、竜也の周囲に生えていた樹木が幹から圧し折れ、重い音を立てて倒れる。
 刀身は1mを越えるであろう両刃の剣。柄は長めで、両手でも振るえるようになっている。
 だが、それは些細なことだ。
 鞘に収められていた間は発されることのなかった強大な神気を、それは今放っていた。解放されたというそれだけで、周りの木々を薙ぎ倒したのだ。
 一護は神気を感じられない。そのはずなのに、びりびりと、何かがあるということだけは悟った。
「教えてやるよ、大昔の神様らしいにーちゃん」
 竜也が剣を振るうと、硬質な音を立てて一護と氷雨の後方の岩だけが砕け散った。
 氷雨の纏う防護の力が無条件に逸らしたため、二人に被害はない。
「ちぇ……さすがに余波なんざ効かないか……」
 舌打ちをしつつも、竜也はむしろ嬉しそうだった。
「こいつは十握剣のレプリカさ。当然、十握剣は知ってるよな?」
「……まあな」
 一護も知っている。十握剣とは厳密には剣の種類を示す名なのだが、竜也がここで言っているのは神話において火加具土の首を刎ね、また八岐大蛇の首と尾を切り落としたという、天津神が元来所有していた中では最強の剣のことである。
 竜也は満足げに頷くと、続けた。
「ま、模造品だからな、本物にゃ遠く及ばねえんだけど……それでも本物の十握剣が発する神気の依代じゃああってな、そこらの山神くらいなら一刀両断できる」
 それは、とてつもないことだ。
 神の力は凄まじい。小さな山の神であったとて、人のみの力で勝つなど不可能なのだ。
 それなのに、それを苦もなく為してしまうというのだから。
 もっとも、神というものの力の程を知らない一護にはどれほどの代物なのかは実感できなかった。
 だが、竜也の次の一言は心に刻み込まれた。
「ありえねえほどの極悪な強さを謳われる<緋瞳の戦巫女>を過去に三度殺したのは、こいつだ」
 一護は息を呑んだ。
 氷雨も自分で、三度死んだことがあると言っていた。
 それを為したのが目の前の少年が手にしている剣だというのならば。
 だが、氷雨は安心させるように、振り返りこそしないものの穏やかに一護へと語りかける。
「四十年に一度は、その剣を向けられておりますわ。ようやく傷付けることができる、その程度のものでしかございません。三度の不覚も、貶められ狂った神々を荒水波が利用したときの、それも十度は越えるうちの三度……」
 そして、竜也へと告げた。
「『薄暮』に隠れておられる方とともに戦われた方がよろしいかと存じますわ」
 それは相手の戦力を万全にさせようなどという考えから出た言葉では決してない。
 一護を守りながら戦う以上、予測できない攻撃が最も恐ろしい。自分だけならばどうということはないが、一護はただの一撃で死ぬ。一護自身は防ぐことはもちろん、かわすこともできはしない。どれほど必死に動いたとしてもだ。
 荒水波は霊的な意味において、天神側に属する人間の最強の戦闘集団である。隙さえ見つければ、必ずそれをものにして目的を達成する。
 だから、敵側のできるだけの情報を知っておく必要があるのだ。
 それに、竜也を倒すのに苦労はしない。十握剣はあくまでも攻撃のためのものだ。防御面において人の領域を出ない相手など、瞬殺できる。
 この提案も先制攻撃しなかったのも、『薄暮』に隠れた戦力を警戒するがゆえなのだ。
 竜也が笑った。
「いいぜ。出てきてくれよ」
 空が割れた。
 開いた空は、黄昏。
 その中から出てきたのは、一人だけだった。
「後ろの八岐大蛇を一緒に守るために、あなたの定常防護の力は半減する……今度は決して、かすり傷では済まない」
 彼女が告げる。
 豪奢な感のある巫女装束を纏った、髪の長い人物であることは一護にも分かった。
「そしてあなたの攻撃は私がすべて防ぐ。第九十七代スサノオは歴代屈指、もしかすれば随一。倒すことは生半可でできることではない」
 彼女がさらに告げる。
 そして『薄暮』は閉じ、その顔が見えるようになった。
 十五、六といったところだろうか。
 とても美しい少女だ。
 歓喜にも似た表情を浮かべている。
「直接会うの、二千年ぶりかしら……?」
「そう……そういうこと……」
 氷雨のその声に、一護は耳を疑った。
 いつも微笑んでいるような、敵に対してさえ艶やかに振舞うような氷雨の声だとは信じられない。
 ぞっとするほど、冷たかった。
 後ろにいる一護には見えないが、声だけではない。緋の双眸はどこまでも冷ややかに細く、少女の横の竜也が思わず目を逸らしたほどだ。
「おかしいとは思っていたのです……十握剣は対するその度に消滅させてきたというのに、いつまで経っても荒水波が所持したまま……」
 虹彩が淡く輝き、少女を消失させようとする。
 だが少女も瞬時に防御呪を構成、それに耐える。
「何度でも頂いて来たの。人間にとっては手どころか視線すら届かぬ境地に在る十握剣も、我が君にとっては模造品、粘土細工ですもの」
 少女の視線も極めて険しい。それでいて、口許には堪え切れぬが如き笑み。
 そして、無尽蔵に溢れ出るかのような霊気が装束をはためかせている。
「この場この時こそ決戦場……今度こそ、怨敵には滅びてもらうわ」
 少女の声は殺意に満ち満ちている。
 氷雨は、すぐには応えなかった。
 それでも己の内から溢れ出そうとするものを抑えようとして、やはり抑えきることはできない。
「……未知を恐れ、事実を知ろうともせず、安易な力に恭順し、騙まし討ちの手伝いすらした……」
 低く、氷雨は語る。
「許しがたいけれど、それは許してもよかった……」
 低くはあっても、それは情の籠もった声。
「事実を改竄し、都合のいい歴史を作り上げ、大蛇さまを初め数多の地祇たちをも貶めたこと、それだって許してもよかった……」
 人は未知を恐れるもの、無知は必ずしも罪ではない。歴史は勝者が作るもの、事実は過去に埋もれる。
 それはひとつの自然な在り方なのだ。
 だから、構わないと氷雨は告げる。
「……けれど」
 そこで初めて、怒りが含まれた。
「またもわたくしの許から大蛇さまを連れ去ろうというのね……?」
 艶やかな長い黒髪がふわりと揺れ、緋の虹彩の輝きが増す。
 しかし少女は恐れるでもない。むしろ笑い声すらあげてみせた。
「それが我が君の望みであり、私の望みだもの」
 氷雨には、少女の思いは分からないでもなかった。
 そうだろうとは思えた。
 だからこそ、完全に相容れぬ敵となるのだ。
 祈りなどしない。この手で切り拓くのだ。
「そう……いいでしょう。身の程を知るのね、櫛名田くしなだ……」
 氷雨の乾いた囁きとともに、戦いは始まった。





 竜也が剣を片手に迫る。
 早い。
 とてつもなく早い。
 まるで時を盗みでもしたかのように、既にそこにいて斬撃を放ち終わっている。
 今までの、いかなる刺客の比でもなかった。
 一護には何も見えないに等しい。
 ただ気配だけはある。濃厚な、殺そうとする気配だけは。
 風圧すら感じる。尾骨の辺りがむず痒い。
 死を感じているのかもしれない。
 一護は動かない。力を抜いて突っ立っている。
 風を感じても、脂汗が流れても、死んだと思っても、ただ突っ立っている。
 ほとんど密着するくらいの距離にいる氷雨を感じながら、すべてを任せている。
 気にしない。
 何も気にしない。
 それが、信じるということだと思って。
 氷雨も何もしていないわけではない。ほとんど位置すら動かせぬ状況で二人分の守りを、十握剣に対して素手で行っている。
 守りの隙を見て神の領域の力を行使してくる櫛名田の術を片手間に破り、緋の邪眼は竜也と櫛名田へと折を見て行使。
 非常識の桁を幾つ越えているのかさえ分からぬ力量である。
 しかし、一進一退ではない。お互いに、ひとつたりとも進みも退きもしていない。
 均衡を破ろうとしたのは、櫛名田だった。
「八岐大蛇!」
 一護へと呼びかけてくる。
 一護は戦いが始まって初めて、彼女のことを考えた。
 氷雨は櫛名田と呼んだ。
 櫛名田姫、八岐大蛇が倒されることと引き換えに素戔鳴尊の妻となった女性。
 二千年ぶりと言っていた。
 おそらくは当人。神との係わりのために神話には神として記されたのであろう人物。
 事実は、巫女。氷雨が八岐大蛇の巫女であるのと同様の、素戔鳴尊の巫女。
 一護はそう推測した。
 櫛名田が続けて告げる。
「何を勘違いしているのですか、何の力も振るえるわけでもないのに、何か特別なものにでもなったつもりですか?」
 それは正鵠ではあった。
 事実、一護は何ができるわけでもない。こうしてただ守られているだけだ。
「下らぬ特権意識など捨てなさい。あなたはその女に祭り上げられているだけなのです」
 櫛名田の言葉の群れに、一方氷雨は口を挟まない。
 挟めぬほど余裕がないというわけではない。
 それでも挟まない。
「そもそもその女が見ているのは、あなたなどではない。容姿も人格も能力も、何も必要としていない」
 櫛名田の言葉は止まらない。
 調べていたのかもしれないし、観察してきたのかもしれない。
 滔々と、糾弾するように、諭すように告げる。
「その女があなたの名を呼んだことが、一度でもありますか?」
 ない。
 一度たりとも、ない。
 最初からずっと、必ず「大蛇さま」だった。
 氷雨は仕えるべき神である八岐大蛇を求め、ずっと生きてきたのだ。
 そう、ずっと。
 一護は櫛名田を見つめ、言った。
「問題ないやん」
 一言。
 世間話の一環のようなあっけなさで。
 傲慢だといわれたことにも肯定。
 さらにもう一言だけ付け加える。
「僕が八岐大蛇なんやろ?」
 惑いがまったくなかったわけではなかった。
 それでも、口にしたことは本気だった。
 一護は氷雨を信じている。当初よりすべてが偽りである可能性すら知った、その上で信じている。
 櫛名田の表情が凍りついた。
 対して、笑い転げるような勢いで高らかに笑ったのは竜也だ。
「小っちぇえことは気にしねえって? 気に入ったぜ八岐大蛇、一世一代の山場にゃそうでなくちゃな!」
 同時に一護へと神速で突き出された剣の腹を押し、氷雨が逸らす。
「大蛇さま……」
 喜びで編まれた呟き。
 一護の選択に口を挟むまいと、我慢していたのが報われて。
 続けて、櫛名田と竜也に向け、告げる。
 二人の力量は読み取った。少々無理をきかせ、屠りにかかろうと決める。
「覚悟は……よろしいですね?」
「あなた方のね」
 だが櫛名田は、笑みを浮かべた。
 その笑みの不吉さに、氷雨は過去を思い出す。
 騙まし討ち。
 今、この状況でするならば、ひとつだ。
 しかし気付くのはほんの少しだけ遅かった。
 一護の足元の地が跳ねた。
 山であるからには、山神がいる。山神の存在は氷雨も感じ取っていた。
 だが、山神は地祇だ。だから味方ではなくとも第三者として受け取っていた。
 調略されて向こうの戦力になっていたと分かってさえいれば防げたが、もう間に合わない。
 一護は横へと跳ね飛ばされた。
 予め打ち合わせてあったのだろう、竜也が神速で追ってくる。
 地に打ち付けられ、転がり、膝をついて立ち上がろうとしながら顔を上げた一護の目に映ったのは、自分を殺そうとする切先。
 湧き出してくるものが恐怖なのか何なのか、それすらも定かではない。
 ただ、力を望んだ。
 自分が死ねば氷雨が悲しむのだと、そう思って。
 強く。
 強く。
 どこまでも強く。
 鼓動の一度にも満たぬ時間。
 それでも引き伸ばされ、長く長く感じる。
 その中で強く思う。
 強く思って。
 それだけだ。
 力が湧き出したりはしない。
 何かを感じたりもしない。
 目の前の死をもたらすものが無慈悲に近付いてくる、そのことだけが事実。
 そして、朱いものが広がった。







[26080] 「すべてを包んで白い雪に変わることを」
Name: 八枝◆767618cd ID:da250079
Date: 2016/03/22 23:59
『皆、心よりお慕い申し上げておりますわ……無論、わたくしが一番そうであるに決まっておりますけれど……』





 十握剣は一護の目前で止まっていた。
 目の前に黒髪が広がり、十握剣はその中から突き出していた。
 いや、違う。
 十握剣を赤い液体が伝う。
 それが血であることを、一護は感づいた。
 遅いくらいだ。非現実感が認識を曖昧にする。
 剣は、身を投げ出した氷雨の胸を貫いていた。
 氷雨と竜也の視線が間近でぶつかる。
「……消えなさい……!」
 くちびるの端から、つうと血が伝う。
 緋の邪眼が淡く光を灯した。否定の威が竜也を侵す。
 だが、櫛名田の力がそこまでは許さない。
 竜也は大きく後ろに吹き飛ばされた。
 それと同時に十握剣が引き抜かれることとなり、氷雨の胸と背からどっと血があふれ出た。
 ゆらりと身がふらつく。
 それを支えたのは一護だった。
「氷雨さん!?」
 ようやく、声が出る。
「……お逃げくださいまし、大蛇さま……この二人はわたくしが仕留めますゆえ……」
 氷雨は振り向かなかった。
 緋の邪眼の力は間断なく敵二人に行使されている。
「わたくしは幾度でも甦ります……大蛇さまさえ御無事なら、わたくしに滅びはございません……」
 勇気付けるように、言う。だが、その声は既に儚かった。
 溢れ出る血が、生命の終わりを感じさせる。
 逃げるなら、まだできる。
 すべてを忘れて普通の暮らしに戻ることはできなくとも、逃げ隠れることはできるかもしれない。
 だが、とひとつの思いが身体を支配する。
 たとえ戻れるとしてすら、戻れない。
 戻るわけにはいかない。
 出会った時の、期待に満ちた彼女。
 知らぬと言われても気丈に微笑んだ彼女。
 微笑んだまま、敵を殺めた彼女。
 来るかどうかも分からない時をずっと、ずっと待ち続けていた彼女。
『わたくしは……そのために二千年を越える時を重ねてきたのです……』
 彼女と出会わなければ、命を狙われることもなかったのかもしれない。
 家族も死ななかっただろう。
 だが、これほど自分を想ってくれる人がいるだろうか。
 これほど純粋な人がいるだろうか。
 なんでもないことを、あんなに嬉しそうに、あどけなく笑うのだ。
 一護はそのまま氷雨を抱きしめた。
「……ごめん……できんよ……」
「……大蛇さま……?」
 言われた通り逃げるのが賢いのだろう。
 今までは氷雨が守ってくれたが、今度はそうはいかない。
 死ぬかと思うと背中の芯まで凍てつく。
 自分がここにいて何ができるわけでもない。足手まといになるだけだ。
 留まる意味など皆無にも近い。
 だが、氷雨を置いて逃げることはできなかった。
 どうせ見つけられるであろうという事実など考えの外。
 それは意地だ。
 きっと下らない、たったひとつを除けば意味のない、愚かな意地。
「僕、氷雨さん好きやから、逃げるなんてできん……」
「……大蛇……さま……」
 氷雨は息を呑んだ。
 だが、やがて笑みを含んだ声で囁いた。
「……また、何千年も待てとおっしゃるのですね。困った方です……」
 一護の腕にぽたりと温かい雫が落ちる。
 それは涙だった。
「……でも、そんなお言葉を戴けるなんて、思ってもみませんでした……わたくしは三国一の幸せ者ですわ……」





「胸ブチ抜かれてもまだ普通に喋ってやがる……聞きしに勝るバケモンだな、ありゃ……」
 竜也は十握剣を構えたままばねを溜めていた。
 全力で防御呪を行使し続けている櫛名田は言葉を返す余裕もない。
 一瞬でも気を抜いたならばその瞬間に滅ぼされてしまうことを知っているのだ。
 絶対否定の緋の邪眼。それはあらゆる論理と言葉遊びを無きものとしてしまう。たったひとつを除いて、対抗する術はない。
 不死を殺し、不滅を滅ぼし、在るものを消し、無いものを絶ち、仮にこの邪眼を封じることに特化した力があったとしても、それさえも無効化してしまう。
 それは大蛇の力の一端だ。最大の神霊は最大の荒御魂である。是非もなく、ただ在りただ圧倒する世界の猛威、人の賢しさなど歯牙にもかけぬ、言い知れぬ原初にして最果ての『おそろしいもの』こそがそれだ。否、それであるのかすら分からない。その欠片を行使しているのだ。
 己が主の意思を受け取る櫛名田はそのことを教わっていた。
 唯一可能なのは、耐えることだ。しかしそれも氷雨を上回る力を有する神霊か、あるいは極めて高位の神に仕える真正の巫女が借り受けた力を行使するか、このいずれかでしか耐え切れない。
 櫛名田は後者である。可憐なくちびるを引き結び、必死に忍ぶ。
「さて、どうしたもんかな……」
 一方で、呟きながらも竜也の表情に焦りはない。虎視眈々と機会を狙っている。
 そしてそのときは来た。
 <緋瞳の戦巫女>が目を閉じたのだ。
 それが何を意味するものであれ、迷いはしなかった。
 竜也は弾かれたように飛び出した。





 きっかけは、肌に触れた氷雨の涙だったのだろうか。
 それとも血だったのだろうか。
 定かではない。
 心が流れ込んでくる。
 記憶が流れ込んでくる。
 人の殻など、神の力の前では薄皮にも満たない。
 一護と氷雨の中の八岐大蛇の力を通して、想いが流れ込んでくる。















 何をしに来た?
 その恐ろしい存在は問うた。
 あなたの贄となるために。
 少女は気丈に答えた。
 恐ろしい存在は沈黙した。
 何かを考えているようだった。
 やがて呆れたように言った。
 人など食ろうて何になる、帰れ。
 少女は戸惑った。
 少女は八人の姉妹の長女だった。
 少女は恐ろしい存在への贄に選ばれた。
 恐ろしい存在は蛇だった。
 恐ろしい存在は八つの頭を持っていた。
 恐ろしい存在は八つの尾を持っていた。
 恐ろしい存在の腹からは常にじくじくと血が染み出していた。
 恐ろしい存在は八つの山、八つの沢を覆うほどに大きかった。
 恐ろしい存在の災いを避けるために、少女は贄に選ばれた。
 恐ろしい存在の、少女の身体よりも大きなアカカガチの如き眼が少女を見た。
 どうした?
 少女は意を決して言った。
 帰れませぬ。
 贄としてやって来て、どうして今更帰れましょう。
 逃げ帰ってきたと思われるだけでございます。
 ならば、と恐ろしい存在は続けた。
 遠き場所へと行くがよい。
 否、と少女は首を振った。
 年端も行かぬ童女ひとり、いかにして生きてゆけましょう。
 それも然り、と他の山に在った頭までもが首肯した。
 ならば食われるか。
 食って食えぬわけでもない。
 少女は今更ながらに身を震わせた。
 食べられるのは恐ろしゅうございます。
 恐ろしい存在は笑った。
 それではどうするつもりなのだ。
 できますれば、と少女は頭を垂れた。
 お傍に住まわせて欲しゅうございます。
 大蛇さまの御身体には、食べて食べられなくはなさそうな苔が。
 獣たちも大蛇さまを恐れて近づいては来ますまい。
 恐ろしい存在は身体を動かし、八つの頭を集めた。
 賢しき娘よ。
 我を恐ろしいとは思わぬか。
 少女は目を伏せた。
 恐ろしゅうございます。
 なれど、ここ以外にわたしの場所はございません。
 沈黙。
 やがて恐ろしい存在は笑いを響かせた。
 愚かよな。
 されどそれこそがお前の強さよ。
 面白い。
 人を養うもまた一興か。



 不思議な生活。
 流れ行く生命の営みを目に見る生活。
 滅び行くものの末を耳に聞く生活。
 万物の神霊を肌に感じる生活。
 力強くも残酷で、単純にして精緻な世界。
 少女は恐ろしい存在とともにその世界を生きた。
 恐ろしい存在は命を奪い、命を与えた。
 身を動かすごとに木々をへし折った。
 下敷きになったものは死んだ。
 倒れた木は肥となった。
 死んだものは生きたものの腹を満たした。
 恐ろしい存在は、恐ろしい存在だった。
 少女は恐ろしい存在とともに在った。
 恐ろしい存在はこの世界の神霊の中にあって随一の存在だった。
 恐ろしい存在は少女と話をした。
 恐ろしい存在は気まぐれに恩恵を与えた。
 恐ろしい存在は、少女にとって恐ろしい存在ではなくなっていた。



 一年の時が過ぎ、二の姫が捧げられてきた。
 その翌年に三の姫、その翌年に四の姫。
 毎年一人ずつ捧げられ、全員が同じ暮らしをすることを選んだ。
 しとやかながらも情の強い一の姫。
 勝気ながらも芯は優しい二の姫。
 悪戯好きで明るい三の姫。
 無口ながらも清廉な四の姫。
 乱暴ではあっても素直な五の姫。
 気弱で繊細な六の姫。
 甘えん坊で無邪気な七の姫。
 そして一の姫が捧げられてより七年。
 最後の姫が捧げられるであろう日のことだった。
 少女はすでに娘と呼ばれる歳になっていた。



 娘は必死に走った。
 雨が降っている。
 氷すら混じった、冷たい雨だ。
 それすら気にならずに娘は走った。
 足元はぬかるんでいる。
 雨だけではない。
 赤い液体。
 血だ。
 山のようにそびえ立つ大蛇の、八つの首と尾から流れ出た夥しい血。
 娘は最も近い頭に駆けていた。
 ゆるりと、大蛇の朱の眼が開く。
『……なぜ来た……?』
 普段なら圧倒的に響く思念が弱々しい。
「大蛇さま!」
 娘は悲痛な声で大蛇の鱗にしがみついた。
「どうなさったというのですか!? いくら相手が高天原を追い出されたほどの荒神と言えど、大蛇さまの方がよほど……!」
『……そうなのだがな。謀られた……』
 大蛇の声は苦い。
『信じた我が愚かか……』
「いいえ、いいえ!」
 娘の頬を涙が伝う。
「大蛇さまは何も悪くないではありませぬか……」
 すべては愚かしい勘違いの所為なのだ。
 娘の悲しみを受け、大蛇は沈黙した。
 やがて言い聞かせるように再び思考を発する。
『悲しむことはない……力の大半を奪われても、それがゆえに我は滅びぬ。いつの日か、甦るときが来る……』
 娘ははっと顔を上げた。
 すがるものを見つけたまなざし。
「それならわたくしは……」
『お前たちは帰れ』
 娘の言わんことを察して、大蛇は遮った。
『千か二千か……人に待てる年月ではない。我がいなくなれば帰って責められることもあるまい……』
 冷たい雨が降っている。
 娘は、額を大蛇の鱗に押し当てた。
「……それでも、わたくしだけは待ちとうございます……」
 ぐっしょりと濡れた衣は重く、その端々から、娘の白いおとがいから、長い黒髪から、絶え間なく水が滴る。
『……相変わらず無茶を言う……』
 呆れたような大蛇の声はどこか笑みに彩られていた。
『が、待てると言うならば、手はある……』
「お願いいたします」
 娘の返事には迷いがない
 大蛇は一層弱くなった思念で続けた。
『今、我に残された力を、お前に授けよう……』
 雨が降っている。
『老いることもなく、欠けることもなく、お前は生き続ける……』
 冷たい雨が降っている。
『殺されることがあったならば、再び生れ落ち、生き続ける……』
 涙のように降りしきる。
『我と共にしか滅びることはできず、狂気がすぐ傍に忍び寄ろう……』
 雨は冷たく、冷たく降りしきる。
『それでもお前はそれを選ぶか?』
「お願いいたします」
 やはり娘の返事には迷いがない。
 うっすらと微笑みすら浮かべて見せた。
「わたくしはすでに狂っております……いまさら、何を恐れましょう……」
 美しい、とても美しい微笑みだ。
 大蛇は、最早試す気もなかった。
『……よかろう……』
 娘の身体が強い輝きに包まれた。
 世界そのものに宿った力。
 効果的に使われぬ、しかしそれゆえに果てしない大きさを持つ力。
 ほんの一欠けと言えど、最大の地祇の力は人の身には大きすぎるものだった。
 漏れる苦悶の声。
 だが娘は耐えた。
 輝きが消えたとき、娘の魂のうちに神の力があった。
 娘は世界の欠片となった。
 森羅万象の一部を娘が占めた。
『……これで、もうお前は人の生は送れぬ……』
 大蛇の眼が娘の眼を覗き込んだ。
 娘の虹彩は緋色に変わっていた。
 緋の邪眼が朱の蛇眼を映す。
『眼は我が力の一つ……我が力を受けた証……』
 大蛇の声はもはや消えようとしている。
「大蛇さま……」
 娘の頬を再び涙が濡らした。
 涙は熱い。冷たい雨とは、間違えようもない。
『……新しいお前に、名をやろう……』
 大蛇の声が娘の頭に囁く。
 雨が降っている。
 凍えそうなほど、凍りつきそうなほどに冷たい雨。
『……氷雨……』
「……氷雨……」
 繰り返す娘に、大蛇は昨日までの圧倒的な思念で頷いた。
『それが、我が唯一の、真なる巫女に与える名だ』
 それは、消える寸前の最後の輝き。
 娘は息を呑んだ。
 大蛇の力が世界へと融け込んで行く。
 力により顕現、構成されていた身体も消えてゆく。
 アカカガチの色の眼も、牙も、鱗も。
 肉も、骨も、大地に溜まった血さえも。
 すべて消えてゆく。
 今まで大蛇が存在していた空間をかき抱くように、娘は自らの肩を抱いた。
「……氷雨……」
 もう一度、己の新たな名を呟く。
 今、降り注ぐこの雨をとった名。
 大蛇がどんなつもりでこの名を選んだのかは分からない。
 だが、与えられたことそのものに意味がある。
「千の年でも万の年でも……いつまでもずっとお待ちいたします……」
 氷雨の声は、氷雨の中に吸い込まれていった。















 もう待たせんよ。
 一護は呟く。
 神の生まれ変わりなのだと言われても困った。
 自分の中に何かを感じたりしたことはない。
 恐怖して何かが起こるわけでもなく、命の危険にさらされて何かが変わったりもしなかった。
 ひたむきに何かを貫こうとも得られるはずもなかったろう。
 それもそのはずだ。
 人と神は異なる。人の感じ方で神を感じるはずもない。
 虚仮の一念は、決して神への岩を徹すことはない。ただ人の岩を穿つだけだ。
 だが、今は違う。
 感じ方を思い出した。
 思い出しさえすれば、感じられた。
 人という仮面の下にある世界の力。
 あとはこの脆い仮面を砕けばそれでいい。
 迷いはない。
 壊す。
 氷雨さんを好きなままでおれるとええけどなあ。
 仮面の欠片が最後に残したのは、そんな思いだった。





 突き出した十握剣は止まっていた。
 無造作に動いた一護の左手が止めていた。
 驚愕とともに竜也は一護を見た。
 アカカガチの色に染まった眼球。
 無音の咆哮。
 己の存在を示す、すべてを圧壊させるほどに重い思念。
「……大蛇……さま?」
 氷雨は歓喜とともに朦朧とした意識から立ち直った。
『待たせた』
 低く、低く、とてつもなく重い大蛇の声とともに、氷雨の身体が圧倒的な力に包まれる。
 その力は氷雨を元として氷雨を再生する。
 傷はおろか、一切の衣の破れすらもなくして見せる。
『今は我が手の内に在るがいい』
「はい……」
 氷雨は童女の如き笑みを浮かべた。
 ここは氷雨自身が選んだ、自分の居場所。すべてが安らげるものだった。
 だが、竜也と櫛名田にとって、それはただ圧倒的な存在以外の何ものでもなかった。
 ただそこに在るだけだというのに、感覚が壊されてゆく。自分が何なのか、何が自分なのか、今ここにいるのは何なのか。すべてがあやふやになる。
 大蛇が左手を動かすと十握剣は砕け散り、崩壊の余波で弾き飛ばされた竜也は、転がった先にそのまま崩れ落ちた。
 だが、櫛名田は真正の巫女である。大蛇の威に呑まれきることなく大きく後ろに跳び、竜也を拾って凄まじい速度で離脱する。
「それじゃあね、お姉様?」
 その口許には、苦しげながらも笑み。
 大蛇は、追いはしなかった。
 自分に向けられた一つの力に気づいていたからだ。





 すべては計画通りだった。
 かつて一度だけ余儀なくされた戦略的後退を挽回するための策は今、大詰めを迎えようとしている。
 撃ち滅ぼすべき大いなるもの、三柱。
 ひとつは最大にしていと古き蛇。
 ひとつは天空の主にしていと猛き炎。
 最後は明星。変り種の忌々しき星神、天香香背男。前二者には及ばぬとても、武神二柱を軽々と退ける強大な存在。戦えば、総力をもってしても勝てるか否か。
 本来ならば正面からではなく計略にかけるはずだった。
 だが、先手を打たれたのだ。存在を賭してかの神霊と対峙し、ついに動かしたのは<緋瞳の戦巫女>。そして星神はこちらへ交換条件を持ちかけてきた。
 天香香背男が眠りにつくのと引き換えに、天津神は地に住まうものたちへの直接的な干渉を行わない。そのような条件を飲まざるを得なかった。
 だからこそ、荒水波が作られたのだ。千年後二千年後に怨敵を滅ぼすために。

 すべては櫛名田へと下した命の通り。
 倒しはしたものの滅ぼすことはできなかった八岐大蛇。それを今度こそ完全に滅ぼす。
 そのために一度復活させることを意図した。
 難しいことではない。いかに人として生きているように見えても、その奥は神霊なのだ。人か神か、どちらを選ぶかを迫れば、その深奥が神霊の見方を示す。
 異界を恐れるはずもない。なぜならばそこは大蛇の本来の住処。
 たくさんの死が与えられることを恐れるはずもない。そも世界は与えられる死に満ちている。大蛇はそれを体現している。
 親兄弟の死に憤ることもない。大蛇にはそのようなものがない。
 選択は、自覚なくとも確実に復活に近づけてゆく。
 そして最後の引き金によって再び「八岐大蛇」として顕現したところを、過剰な力を叩きつけることにより再生不能なほどに分解する。
 存在が巨大すぎる大蛇は星神の力の内に収まらない。地に住まうものへの、との約定を破るには至らない。
 使うべきは天神のすべての力。
 それを、最強の剣たる天叢雲剣を核として撃ち出す。
 一種の賭けとはなるが、力の量だけを鑑みた場合これに耐えられる存在は、ない。
 櫛名田に勅を下し。
 荒水波を使い。
 神気に中て。
 高天原から復活の時を待ち。
 その瞬間は今来た。





「氷雨さん」
『氷雨』
 一護の声と大蛇の思念が重なる。
 その双方ともが苦笑い。
「声にまとめようか……」
 不思議そうな顔の氷雨に呼びかける。
「よかったよ……私はお前を好きでいられた……」
 一護は大蛇。
 大蛇は一護。
 今ここにいるのは人たる大蛇。
 そして神である一護。
 仮面は全き仮面ではなく、二つの存在は根源において一つ。人の思考と感情と、神の知識と知覚を持つ存在。
 それが、今ここにいる存在。
 どちらでもあり、またどちらでもない自分に対する戸惑いが言葉を選ぶ。
 数えるのも無意味な希薄な時よりも、人の二十一年の方が強かったようではあるが。
 少なくとも、今この瞬間は。
「氷雨。時間がない。厄介なものが来る」
 想いを語りたいのを抑え、火急の用に思考を向ける。
「大蛇さま……?」
 氷雨の不安げな声。両手をそっと豊かな胸の前で重ねる。
「いや、いける……いけるはず。方策はある」
 大丈夫と言いながら、一護の声に不安が過ぎった。氷雨を抱く腕に力が籠もっている。
 苦笑い。
「……いけると思うても、怖いな。これが人なるものか」
 八岐大蛇に恐れるものはなかった。膨大な力は世界そのものに等しい。
 だが、それだけではない。
 世界に広がる精神は、己の何ものをも気にしなかった。
 生も死も、すべてはあるがままに。
 だが、人としての心が刻まれたとき、それは変わってしまったのだ。
 ふと、思う。自分を罠にかけるときの素戔鳴尊も、こんな気分だったのかもしれない。
「とりあえずお前はここから……」
「お断りいたします」
 何を言われようとしているのかを察して、氷雨はかぶりを振った。
「そんなに不安がっていては、失敗してしまわれます」
 細い声だ。
 聡い。僅かから、意味を見抜いている。
「大蛇さまが厄介と仰るからには、今度こそ滅びるやもしれぬのでございましょう……? わたくしは……滅ぶ瞬間に大蛇さまとともにいられないのは嫌です……」
 必死に感情を堪えようとしながら、成し切れない。
 一護の腕を強く握った。
「いいえ、いいえ、滅ぶなどとんでもありません……!」
 そのままの位置で氷雨はくるりと身体を返した。
 一護の顎に両手を添えて引き寄せ、爪先立ってそっとくちづける。
 ふわりと淡い、華の薫り。
 氷雨の匂い。
 どのくらいの長さだったのだろうか。
 氷雨は涙に濡れた緋瞳で、一護を見つめた。
「……どれほど強がってみたとしても、本当はわたくしが大蛇さまにして差し上げられることなどほとんどないのでしょう……それでもわたくしにできることはあります。分かることがあります……」
 二千年分の想い、そして二千年前から変わらぬ思い。
 そのすべてを込めて訴える。
「仰っておられたではございませんか。強さこそが弱さ、弱さこそが強さ、すべては表裏一体……」
 半ば呆然とした中で、一護は思い出した。
 確かに、自分で言った覚えがある。
「人は神と比べてあまりにも矮小です。でもわたくしは、だからこそ思うのです……」
 妻のように、娘のように。
 縋りつくように、抱きしめるように。
 大蛇の巫女は、氷雨は諭した。
「大蛇さまはきっと強くなられたのです……」
 惑いが生む、求める心の強さ、死を恐れながら生を捨てることのできるほどの愚かさ。
 人の弱さを得るということは、裏返しの強さをも得ることとなる。
 一護の脳裏を、人として生きた二十一年が走った。
 そうかもしれない。
 思う。
 しかし、やはりこの恐れが消えるわけではないのだ。
 氷雨は微笑んだ。
「……いえ、本当は構わないのです。わがままを言ってみただけです。わたくしは……氷雨は再び大蛇さまにお会いすることができました……」
 喜びの感情。
 純粋で、無垢な、何の衒いもない笑顔。
 自分は一体何をしているのだろう。儚い、人としての想いが叫ぶ。
 怖いくらいに綺麗な彼女を護りたいと思っているのではなかったか。
 悲しいほどに一途な彼女を幸せにしたいと思っているのではなかったか。
 今、自分には力がある。彼女を護って、そしてきっと幸せにもできる力が。
 うまくゆかないかもしれない、などと。
 お笑い種だ。成功させずにどうする。
「……すぐ行く。待っていろ」
 氷雨を一度軽く抱き、それを最後に彼女を遠くへと送る。
 これから叩き込まれる一撃は、正真正銘世界を消し飛ばせる威を持つ。その威はこの身に収束されて余波などほぼ皆無だろうが、氷雨が此処にいるとその無きに等しい余波だけでも彼女の身が消えてしまう。
「はい。お帰りを、お待ちいたしております……」
 一護が恐れを踏み潰したことを悟ってか、氷雨は素直に受け入れた。
 そしてその瞬間、自分に向かって力が撃ちだされたことを一護は感じた。





 勝機は先端に感じる懐かしい力。
 自分の力の大半を担う、天叢雲剣。
 自分を滅ぼすためには天叢雲剣も同時に滅ぼす必要がある。高天原は最強の武具よりも危険極まりない敵の排除をとったようだ。
 しかし、天叢雲剣は己の半身であるがゆえに一護はこの攻撃をかわすことができない。どこへ逃げようとも頭上に落ちてくる。
 そして天神の総力に今の自分は耐え切れないだろう。
 だが、それは現在の力でならば、だ。
 先端の天叢雲剣を先に取り込み直すことができれば、己の力は完全に回復し、逆にこの攻撃の威力は激減する。
 天叢雲剣と破滅をもたらす力が到達する時間の差はほんの一瞬だろう。
 剣に妙な仕掛けは施されていないようだ。朱の蛇眼は今や森羅のすべてを見通す。
 ふと、笑った。
 疑いの心は、明らかに人の心だ。
 力が近づき、一護は天空へと手を伸ばし。
 そして辺りは光に包まれた。
 震えるような感覚が全身に走る。
 己に奇跡はない。そのようなものではなく、当然のものとして結果を成す。
 応えなければならない。
 二千の年を耐え抜いたことに。
 変わらぬ思いを抱き続けたことに。
 そして一護は思う。
 絶対に、大事にしたい。





 天空よりの、一帯を覆い尽くすかのような光が地上を撃った。



[26080] 閉幕
Name: 八枝◆767618cd ID:da250079
Date: 2016/02/20 15:11





 灰色の雲が空を覆っている。
 ここは丘。
 どこの丘なのか氷雨にも分からないが、周りは冬でもなお力強く生きている丈の低い草。
 人の姿は他にはない。
 家も見えない。
 野原と、丘。
 氷雨の心に不安はない。
 ここがどこなのか分からなくとも構わない。
 主が選んだ場所なのだから。
 風が吹く。
 冷たい風が、氷雨の長い黒髪を流す。
 その中で姿勢よく立ち、ただ主を待つ。
 少しの間だ。
 今まで待ってきた時間に比べれば、瞬きのような時間。
 それでも、それでさえも待ち遠しい。
 高鳴る鼓動を感じながら、待ち望む。
 最初には何を申し上げようか。
 やはりお帰りなさいませ、と。
 それから何をして差し上げようか。
 たくさんありすぎて、選べない。
 どうしましょう。
 とりあえず、皆のところへはお連れしなければ。
 風が吹く。
 とても冷たい風が、氷雨の艶やかな黒髪を流す。
 巫女装束の裾を揺らす。
 そして。
 ゆらりと湧き出すようにして、人影が現れた。
 もう、見慣れた姿。
 万感の思い。
 もう、どのようにも表わせぬ、どうしようもない気持ち。
「……お帰りなさいませ……」
 氷雨は美しい、とても美しい微笑みとともに、主たる八岐大蛇を出迎えた。
 八岐大蛇は、一護は頷いた。
「ただいま」
 二人の間に、ちらりちらりと白いものが舞い降りてきた。
 雪。
 その中を、一護は氷雨の元へと歩み寄る。
「氷雨……」
「御無事で、なによりでございます……」
 氷雨は艶やかに愛しい主を見上げる。
 一護は、神の記憶と人の心で、言った。
「頑張ったな」
 どこか無愛想にすら響くその声は、しかし優しい。
 氷雨はゆるやかにかぶりを振る。
「いいえ……このようなこと、いかほどのものでも、ございま、せ…………」
 言葉が、続けられなかった。
 頬に、温かい感覚。
 それは風に冷やされながらも次々と溢れ出し、留まることがない。
「あれ……お、おかしゅうございますね……何でもございませんので、今しばし……」
 氷雨は戸惑ったように微笑みを浮かべたまま、ぽろぽろと涙をこぼしながらそんなことを言う。
 一護は氷雨を抱き寄せた。
 細い腰を抱き、ゆるやかに撫でるように艶やかな黒髪に指を通す。
 背は高いのに意外なほど小さく感じる。
 この華奢な体躯でずっと戦い続けてきたのだ。
 本当に抱きしめてもいいのかと、以前迷った理由が今になって分かる。
 崩してしまいそうだったから。
 だが、今ならもういい。
 一護の中で、人が薄れてゆく。
 いかに表裏一体であったとはいえ、いかに生の濃さの違いがあったとはいえ、それ以上に存在に差がありすぎる。
 大海に一滴落とされた墨は、その瞬間はそこを濃く染めようとも、やがては薄れて見えなくなるのだ。
 それでも変わらず問う。
「つらかったか……?」
 氷雨は肩を震わせるのみで応えずにいたが、やがて蚊の鳴くような声で答えた。
「……意地悪でございます……そのようなこと、当たり前ではございませんか……」
 責めるような響きなどない。
 ただ縋るように、訴えるように。
「だって、大蛇さまがおられぬのです……お慕い申し上げている大蛇さまが、ずっとおられなかったのですから……!」
 そうだった、と大蛇は思う。
 恐れながらも話しかけてくるほどに勇敢で。
 生きるために己を傍に置いて欲しいと頼むほどに聡く。
 あくまでもしとやかでいて怒らせると怖く。
 無限への恐怖を一言で切って捨てた一の姫は。
 寂しがりやで泣き虫でもあった。
「お願いでございます……もう二度と、置いていかないでくださいませ……」
 それだけが最後の願いであるとばかりに氷雨は絞り出すような呟きを漏らす。
 大蛇は抱きしめる力を強くした。
「ああ」
 短く応える。
 疑問の余地すらないように、力強く、端的に。
 大海に落とされた墨がいかに薄れようと、なくなってしまいはしない。
 他のものがすべて神のものとなっても、たったひとつだけ強く残る想いがあった。
 あるいはそれは、人のものに限られてはいないのだろう、きっと。
 雪が舞い落ちる。
 何も音はない。
 雪がすべてを吸い込むかのごとく、ただ静寂だけがある。
「心より……」
 その静寂に融けるように、氷雨が密やかに可憐なくちびるを動かす。
「心より、お慕い申し上げております……大蛇さま……」
『ああ……』
 この娘と行こうと大蛇は思う。
 ともに消え去るそのときまで。
 遠い遠い時の果て。





 ――――終へ。








[26080] 此の国の神語
Name: 八枝◆767618cd ID:da250079
Date: 2011/02/21 23:50
注)

 彼の国の神語とは、作者としては方向性がかなり異なると思っています。
 こちらを先に読んだ場合、分かるのか分からないのかが作者には判らないので、奇特な方がいらっしゃいましたらご報告ください。
 進行強度は至極弱く、おそらく終わりへ向かっている気がまったくしないであろうと思われます。
 フリーダムです。
 連続性はあったりなかったりします。
 一話増えたと思ったら1kbもないという可能性もあります。
 娘さんが多いですが、ハーレムは期待しないでください。
 基本的にはこれから書きます。
 あとは適当に。



[26080] そして続く
Name: 八枝◆767618cd ID:da250079
Date: 2011/02/21 23:23





 そこは異界。
 人の棲む世と重なりつつも外れた、人の踏み込むことは許されぬ神霊の世。
 その山々には深い森の息吹。
 狭間を流れる河には穏やかな旋律。
 ここは昼も夜も大蛇のもの。
 ここは大蛇が己の場として創った広大な異界。
 その中にぽつりと屋敷がある。
 大蛇が住まうためのものではない。
 大蛇はもう、必要がなければ人の姿をとらない。
 屋敷は己が巫女たる氷雨とその許に集うものたちのためのものだ。
 その屋敷の裏、八岐大蛇は頭の一つを氷雨の前に鎮座させていた。




 光。
 薄闇の中で六つの勾玉が輝きを放っている。
 それらは似ていながら、どれひとつとして同じ光ではない。
 あるいは強く、あるいは弱く。
 あるいは鋭く、あるいはやわらかに。
 清冽に輝き続けているものもあれば、気ままに明滅するものもある。
 色合いもそれぞれ異なる。
 僅かずつの差異ではあるが、一度気づけば二度と同じだとは思わない。
 いずれもが美しい、それは魂の輝き。
「お分かりになりましょう……? あの子たちです……」
 氷雨は愛おしげに六つの勾玉を撫でる。
 本当に生身の妹たちを撫でるように、優しく撫でさする。
「人の身では待てぬと聞いたあの子たちは魂を勾玉に封じ、このような姿となってまで、大蛇さまをお待ちいたしておりました……」
 そして大蛇を見上げる。
 氷雨の身体よりもなお巨大なアカカガチの如き眼を、その緋瞳で切に見つめる。
「どうか、お願い申し上げます。今一度の、人としての生を与えてやってくださいませ。新たな名と、人の身体をこの子たちに……」
『人は二百の歳も経ずして消ゆる』
 大蛇の応えは拒否ではない。今度こそ真の別れが来ることになる、と氷雨に告げているのだ。魂のままであれば、永久にとはいかずともまだ数千年は保つ。
 しかし氷雨はゆるりとかぶりを振った。
「それも理にございましょう。何より、この子たちはもう一度大蛇さまにお会いすることを願っております。その願いを、どうか……」
 来るべき永劫の別れと喪失の悲しみを理解して、その上で微笑んでいる。
 望むものは、妹たちの幸せ。
 大蛇は肯った。
『よかろう。一年ごとに上から一人ずつ、齢五つの肉体を与えることとしよう』
 二千の年を過ごした彼女たちの魂は、記憶のすべてを残すわけではない。以前と同じ歳からでは不便であるし、現代の知識も身につける必要がある。
 だからといって赤子からでは、残った記憶と身体の齟齬が激しく多大な苦痛を与えることになるだろう。
 それゆえの選択だった。
『まずは……』
 大蛇はゆらりと頭を上げ、二の姫に新たなる名をつける。











 そして十三年の時が過ぎ去った。







[26080] プロローグ「六ツ護巫女」(あるいはこんなキャラ紹介)
Name: 八枝◆767618cd ID:da250079
Date: 2011/02/26 12:25



 快晴。
 休日のアーケードは、いつも以上に人通りが多い。
「遅ぇ……」
 アンティークショップの前に設置されたポストに背を持たれかけさせ、不機嫌そうに若葉は唸った。
 如月若葉。
 一見して受ける印象は、どこか好いガキ大将めいたものを思い起こさせる少女、だ。
 それには服装を含めた容姿も一役買っているだろう。十五歳という年齢の平均の範疇に入る体格ながら、春だというのに袖を捲り上げたTシャツと、本当に擦り切れたジーンズ、そして使い込まれたスニーカー。肌は既に陽に焼けて淡い褐色、黒髪は比較的短めに整えられ、活動的。
 しかし、最も大きいのは所作や表情に内側から滲み出してくるような雰囲気だ。生傷が絶えないけれど真っ直ぐな少年、そんなものを少女が発している。
 とはいえ、容貌そのものはむしろ、鋭角的でありながらも繊細な少女のもの。そこに少年めいた空気と表情が乗せられているのである。
「……ってか、杏姉ぇが時間通りに来るわけないんだよな、まったく……」
 待ち合わせ相手、上から二番目の姉のことを思い、若葉は嘆息した。
 思い返せば、待ち合わせに間に合ったことがない。五分十分の遅れは当たり前、一時間どころか都合が悪くなると無断ですっぽかすことすらある。
 いい加減、というよりはもう、単純に自分勝手なのだ。
 いっそ置いていきたい衝動にも駆られるものの、悔しいが自分一人ではうまくいかないことが分かりきっている。
「あの我侭姉が……ほんとに俺より三つ上なのか、あれ」
 腕組みをしたまま、人差し指でとんとんと腕を叩く。苛立っているときの癖だ。
 若葉は特に気が短いというわけではない。血の気は多いが、他の人間の過失などにはむしろ寛容だ。
 しかし、いい年をした大学生が幼児並みに自己中心的で、しかもそれが実の姉であるとなれば話は別である。容認できる範囲を大きく逸脱している。
「ったく、なんだってそのくせ……」
「なにぶつぶつ言ってんの、あんた」
 若葉の独り言は途中で遮られた。
 よく知った、自分の待ち合わせ相手、あんずの声だ。
 気配に気付けなかったことには驚かない。慣れている。
「あのなあ……」
「どうよ?」
 振り向いて文句を言おうとしたら、杏は自信ありげに腰に右手を当て、不敵にそう言った。
 その容貌は、端麗という表現が最もしっくり来るだろう。涼しげな目元、すっと通った鼻筋、薄めのくちびる、どこか中性的な美しさをも備えつつも、やはり女性的に柔らかい。
 肩のあたりで切られた黒髪は、やや大雑把な印象を与えつつもなぜかそれが自然に感じられて綺麗に溶け込んでいる。
 しなやかに鍛え上げられた175cmの細身の長身に纏うのは、白と赤の鮮烈なコントラスト。白いブラウスの上に、まさに純白と言って差し支えないカーディガン。黄金色の留め金の付けられた真紅のタイが、細く、しかし鋭く首周りを彩っている。足元まではないフレアスカートは臙脂色、覗く脚には黒のソックス。
 そこに颯爽とした身のこなしと不敵な表情が加わって、攻撃的なまでの雰囲気を醸し出している。
「どうよじゃねぇよ」
 男女を問わず見惚れさせるだけの魅力を、若葉は一言で流した。
「待ち合わせは十時だぞ? 今何時だと思ってんだよ……」
「んー?」
 杏はひょいと腕時計を見て、にぱっと笑った。
「十時半。うん、杏さん、なかなかにお早い」
「ぜんっぜん早くねえっ!!」
 こういう反応が返ってくることなど分かりきっていたはずなのだが、それでも若葉は言わずにはいられなかった。
「分かってんのか? 待ち合わせは十時! 今十時半! 三十分の遅刻!!」
「分かってるに決まってるでしょう? あたし、あんたみたいな万年赤点娘とは頭の出来が違うわよ?」
 ふふん、と杏は大きく胸を張る。責められていることなどどこ吹く風だ。
 この幸せな脳味噌がかなりの学業成績を叩き出すことの理不尽を思いながら、若葉の堪忍袋の緒は既に切れていた。
「頭に行った栄養の十分の一でも胸に行きゃよかったのにな、杏姉ぇ?」
 引き攣りそうな笑顔で、禁句を放つ。
 二人の間の空気が凍りついた。
 こちらもまた引き攣った笑顔の杏の胸元は、確かに目に見えて寂しい。
「ふ、ふふ……ふふふふふふふ……」
 そして、大事なのは杏がそのことをとても気にしているということ。
 右手が音でも立てそうなほどに力強く握り締められる。震えていないのは完全に力が内側に溜め込まれているからだ。
「死なす……家に帰ったら三度死なすッ」
「それはこっちの台詞だっ……」
 小声で火花を散らす二人。ここが街中でなければ即座に喧嘩を始めていただろう。
 それは周りの眼を気にしてということもあるのだが、あともう一つ、何よりも大きな理由がある。
「く……姉様に止められてるんじゃなきゃ……」
「まったくだぜ……」
 お互いにそう口にして、急に思い出したように視線を逸らし合った。怒気があっさりと消えてしまったどころか、怯えたような色さえ感じさせる。
 しばし無言だったが、どちらからともなく気まずそうにまた視線を合わせる。
「……さっさと行きましょうか、若葉。姉様に怒られるのヤだし」
「賛成。俺も姉様に怒られたくねえし」
 二の姫、杏。
 五の姫、若葉。
 二人は同じ恐怖を知る者として、このときだけ共感を確認し合ったのだった。











「じゃあね~」
 そんな声とともに大学生らしき二人組に軽く手を振りながらこちらへと戻ってくる姉を、紅葉くれははベンチで待っていた。
 このあたりは非常に混雑しているが、目立たないように隅を選んだおかげか、周りにはそれほど人がいない。
 紅葉は人ごみが苦手だ。というよりも、見知らぬ人が苦手だ。怖がりすぎなのだと自分でも分かっているのだが、こればかりはどうにもならない。
 だから姉を、千草を羨ましいと思う。
 今日のように調査をするときでも、暇なので世間話を始めました、と言わんばかりに声をかけ、適当に話を集めてあっさりと帰ってくる。紅葉には到底無理な所業だ。
 と、見られていることに気付いたのか、千草が小さく手を振ってきた。ポニーテイルに結ってなお背の中ほどまである髪も揺れる。
 街中へ出てくるとあって、家である社では普段着となっている巫女装束ではない。ノースリーブのワンピースの上に、一番上だけを留めた薄手のカーディガン、スカートはごく短く、素足にサンダル履きといった服装だ。
 身長は平均よりもやや高い程度ではあるのだが、衣服の上から感じさせる曲線は要所要所が充分以上に豊かに実っている。悪戯っぽく緩んだような印象を与える目許と弧を描いたくちびるもまた、どこか十七という年齢を上回る色香を感じさせるものだ。
「ど、どうでした……?」
 紅葉はおずおずと千草を見上げる。蚊の鳴くような声、行儀よくぴたりと揃えられた脚、その膝の上に重ねられた掌。
 そればかりでなく、何もかもが気弱な印象だ。
 華奢とは、まさにこのような娘のことを言うのだろう。上品な水色のワンピースの半袖から伸びた腕や首は痛いほどに白く、あえかに細い。
 腰まである黒髪は、うなじのあたりで紙縒りによって一つに括られている。
 揺れる黒瞳や顔立ちそのものは若葉と瓜二つと評して構わぬほど、つまりは年の頃ゆえにまだあどけなさはあるものの鮮烈な中にも繊細に整った美貌の片鱗を見せているにもかかわらず、こちらはその強さを打ち消して余りあるほどに内気さを感じさせる。
 正確には若葉の一つ下になるのだが、身長がほぼ同じということもあって双子と思われることも少なくない。
「最近集中的に不幸だそうよ?」
 どこかからかうような調子でそう答えて、千草が隣に座る。
 不幸続きは珍しくもない収穫だ。
 たまには本物の何かが関わっていることもあるが、本格的にどころか一応形だけ調べるのであってさえ身が持たなくなるほどの頻度で存在する。
「そうですか……」
 紅葉はそっと目を閉じる。
 その途端に周りの空気が変わった。ここが街中などではなく、森の中でもあるかのように錯覚する。
 やっぱり紅葉が一番姉様に似ている、と千草は思う。巫女としての本質、神、ひいては世界と意識を通じる才において紅葉は六人の中で群を抜いている。
 そしておそらくは、性格も本当は近いのだろう。
 やがて紅葉は小さな吐息とともに目蓋を上げた。
「……嫌な感じは濃くなってます……多分、遅くとも今夜までには何か……」
「大変だこと、ほんとに」
 千草は苦笑、ベンチの背もたれに体重をかけて大きく伸びをする。胸が強調されて、前を行き過ぎる異性の視線がこっそりと集まる。
 体勢を元に戻した途端に何事もなかったかのような振りをしてそそくさと離れるのを、充分気付いた上で千草は悠然と脚を組んだ。
「ふふん」
「……そういうこと、あんまりしない方がいいと紅葉は思います……」
 紅葉の視線は地面に。頬は赤い。
 千草は悪戯っぽい笑みを浮かべ、その頬をくすぐった。
「紅葉も今に大きくなるわよ、きっと。多分姉様に似ていくと思うし」
「ぅ……」
「あと五年くらいしたら歳が姉様の見た目に追いつくし、その頃にはきっと……」
 抑揚の強い、心に揺さぶりをかけるような声。
 紅葉の頬の赤みが己の名のようにまで増す。
 何かを言おうとくちびるは震えているのだが、言葉にならないようだ。視線も落ち着きなく地面の上を這っている。
 可愛いのはいいんだけど、と千草は笑みをやや苦笑の色に変えた。
 紅葉は追い詰めすぎると危ない。思いもよらぬ行動に出る可能性が高い。
 だから話題を変える。
「ところで、姉さんと若葉はうまくやってるのかしらね?」
「……判らないです……でも、もしも喧嘩してたら若葉ちゃんが心配……」
 若葉と紅葉は特に仲がいい。そのあたりも双子と思われやすい一因だ。
「まあ……姉様が釘刺してたし……」
 大丈夫、とまでは千草も言えなかった。
 杏と若葉の喧嘩は日常茶飯事だ。そして若葉は杏に勝ったことがない。紅葉が心配するのも当たり前である。
 が、ここで思案していても無駄だ。
「とりあえず、二人を信じてこっちの調査を再開しましょうか」
「はい……」
 三の姫、千草。
 六の姫、紅葉。
 二人は同時にベンチから立ち上がった。











 公園の中央に設置された池の水面を春風が撫でてゆく。
 その風はそのまま、畔を歩く撫子の髪とスカートを揺らした。
「気持ちいい風~」
 撫子は鼻歌でも歌いだしそうなほど上機嫌に笑った。
 足取りも何かのステップを踏むようなもの。ふわふわとした長い栗色の髪もそれに合わせて踊る。
 髪の色は色素の薄さによるものだが、それは肌の方にまではあまり関わっていない。白くはあっても、病的なものは感じさせない。
 十代前半の、愛らしさを天真爛漫で染めて少女の形にしたかのような容姿容貌、そして立ち居振る舞い。身に纏っているのも健康的な若草色のワンピース。
 下がった目尻やふっくらとした頬が明るく優しそうで、そして本当に明るく優しい。それが如月撫子という少女である。
「そう思わない、あやめお姉ちゃん?」
「そうだな」
 くるりと振り向いて笑いかけてくる妹に、あやめは静かに頷いた。
 常に笑顔なのではないかと思えてしまう撫子とは対照的に、禁欲的に引き締められた表情の娘だ。
 黒髪はすべて後ろへと撫で付けられ、肩に触れるか否かといったところで綺麗に切り揃えられている。顕わになった秀でた額、細いながらもくっきりとした眉。まなざしは特に厳しくしてもいないというのに強い力を感じる。
 やや大柄な体躯を白いワイシャツとスラックスという男装にも似た服装に包み、歩む足取りは確かなものだ。
 清廉にして清冽。鞘に納められた銘刀の如き静かな威圧感を与える娘ではある。十六と言われて信じることのできる者はまずいまい。
 しかし、撫子にとってみればそのようなことは何の関係もない。大好きなお姉ちゃんの一人であるというだけのことだ。
「こんないい天気なんだから、どっちかっていうとみんなで遊びに行きたかったなあ……」
 軽やかに一回転、花開くようにスカートが広がる。その仕種、甘えるような声は、見る者に微笑ましい気持ちを与える。
 それでも、あやめは静かに窘めた。
「今は優先すべきことがある」
「はぁい」
 撫子は素直に頷く。元より、遊びに行きたいと本気で言っているわけではない。
「でも、見つかるのかな……?」
「見つけねばなるまい。人の命に関わるやもしれん」
 余人の耳には入らぬように、撫子にだけ聞こえる程度の押さえた声。表情も揺るがない。
「小なりとはいえ、欲に堕した神はそうそう対応できる相手ではない。力ある者とて敗北しよう」
「……でも、可哀想だと思う……何もなかったら堕ちることになんかならなかったはずなのに……」
 撫子の眉が曇るが、あやめはかぶりを振った。
「ただ貶められた神ではない。厄災と化してでも己が地位に固執した、その結果なのだ」
 天津神の侵攻によって地位と力を失った神は多い。鬼と呼ばれる存在のうちで由緒正しいものなど、その典型だ。他にも土蜘蛛、安曇、夜刀神、枚挙に暇がない。
 しかし、神としての在り様を捨て去って失われた力を取り戻すために純然たる厄災と化したものも在る。
 そのような存在の力は、伝承に語られる大妖でなければ匹敵しえないのだ。
「……それでも、可哀想だよ」
 可哀想だよ、と撫子は繰り返す。
 その無垢、純粋をあやめは嬉しくも危うくも思う。あやめとて、堕ちた神を有無を言わさずただ葬り去ればいいだけの存在だとは思っていない。
 衣食足りて礼節を知る、という言葉があるが、ある意味においてはそれに近いものはあるのだろう。撫子の言うとおり、何もなければ堕ちることにもならなかったはずだ。
 あやめも撫子も、感じている思いに違いはない。撫子は素直に表し、あやめは意思をもって判断しただけだ。
「人にも神にも仇為すものなのだ、撫子。我らとて人であり、大蛇様の護巫女。少なくとも、この刃の届くところで厄災の好きにさせるわけにはいかない」
 この刃、と口にしたところで左手を握る。そこには何もない。しかし一瞬だけ淡い輝きが浮かび上がった。
 刀のように見えたそれは、見ていた者がいても錯覚として片付けてしまったことだろう。
「そのために、姉様に頼んでこの件を任せてもらったのだからな」
 八岐大蛇は何もしない。人の世を見守ってすらいない。見ているだけだ。それがこの世における神の在り様というものなのだ。
 動くとすれば、己が敵が在るか、己の唯一真の巫女たる氷雨の願いに応えるときのみ。
 そして氷雨は、あやめたちの長姉は余程のことでなければ大蛇の意向に従う。
 結果、大抵のものは捨て置かれるのである。
 もっとも、堕ちた神ならば氷雨が屠りに出ることが多い。大蛇は何をせよとも示さないが、氷雨なりの考えあってのことだ。
 今回もそのはずだったものを、六人が代わりに成し遂げたいと申し出た。
 大層な理由があるわけではない。かつて生き、今また生きているこの国と人々をこの手で守りたいと思った。そして、六人揃えば堕ちた神に刃を向けられるだけの力はある。
 ある、はずだ。
「行くぞ」
 あやめは心に浮かんだ惑いを表さない。確かな足取りで撫子を追い抜く。
 撫子は足を止めてその背を見送り、思い出したように追いかける。
 四の姫、あやめ。
 七の姫、撫子。
 並んだ二人の前に広がるのは、少なくとも見えるのは平穏な休日の公園だけだった。











 大蛇の六ツ護巫女むつもりみこ
 力こそ受けていないが、彼女たちはそのつもりであり、そしてそうであった。








[26080] 「帰還」
Name: 八枝◆767618cd ID:da250079
Date: 2011/07/11 19:12




 苔むした石段を上って辿り着く、古い社。
 淡路島の隅に、その神社は存在していた。
 鳥居にはその社の名も示されていない。
 近くの住民すらも存在を意識していない、秘された社。
 ただ静かに、ただひっそりとそれは在った。
 古い拝殿、古い本殿、年老いた木々。
 広くもない境内を氷雨は掃き清める。
 差し込む夕陽には音もない。
 照らし出されたその姿はかつてと寸分違いない。
 違おうはずもない。
 腰の位置を越えるぬばたまの黒髪、二十歳前と映る震えの来るほどの美貌、巫女装束に包まれたほっそりとしていながら豊かさをも兼ね備えた体躯。
 今は閉じられているものの、開けば緋の双眸が覗く。
 そして、所作の一つ一つから醸される、尋常ならざる艶。
 そう在り、そう在り続ける、八岐大蛇の戦巫女。
 此処は、八岐大蛇の世界へと繋がる場所だ。
 妹たちはそれぞれ学校に行かなくてはならない。
 人の世の拠点として、此処がある。
「……帰って来ましたね……」
 眼を閉じたまま、石段の方を振り返る。
 妹たちの存在が近付いてくるのを感じる。
 駆け上がる二つの軽快な足音。
 まずは誰なのかを悟って氷雨がくすりと笑うと同時に、最初に飛び込んできたのは杏だ。
 すぐさま後ろを振り返り、底抜けに勝気な表情で踏ん反りがえる。
「ふふん、杏さんに勝とうなんて生意気」
「ちっきしょ~!!」
 少し遅れた若葉が、参道に倒れこんで心底悔しそうに唸っている。
 まず間違いなく、どちらが先にここに辿り着けるか勝負をしていたのだろう。それも、相当前から。
 息も切らしていない杏と荒い呼吸を繰り返す若葉、力の差は歴然としている。
 それでも挑むのが若葉であり、容赦なく退けるのが杏だ。
 もっとも、杏が手を抜かないのはただ単に負けるのが嫌いだからなのだが。
 度が過ぎると注意をする氷雨も、今回は笑って迎えた。
「お帰りなさい」
「あ、姉様……」
「ただいま、姉様」
 二人が同時に気付き、それぞれに笑みを浮かべる。
「きっちりかっちりしっかり、不届き者はあたしが締めてきたのよ、姉様」
「あ、ちょ……何だよ杏姉ぇ、手柄独り占めする気かよ? 単にとどめ差しただけだろ!?」
「あんな状況でも美味しいところをさらっていける……それが杏さんの実力」
「絶対違うっ! 絶対狙ってただけだろ!!」
 かと思えば、もう若葉が杏に噛み付いている。杏は腕組みをしたまま伏し目でにやりと笑うだけだ。
 その気の緩んだ様からは、万事が無事に片付いたのだとは分かったが。
 続いて、紅葉と撫子が頭を覗かせた。
「わ、若葉ちゃん落ち着いて……」
 瞬時に状況を見て取った紅葉は、今にも杏に殴りかかりそうだった若葉に後ろから抱きついた。
 途端に、若葉の動きが止まる。
「む……」
 若葉の筋力は見た目からは予想もつかないほどのものであり、紅葉の全力くらいであれば軽く弾き飛ばしてしまうことも可能なのだが、だからこそそんなことはできない。
「ううううう……」
 それでもまなざしと呻きだけは剣呑に杏へと向けられている。
 一応は止まってくれたことに紅葉は胸を撫で下ろす。仕掛ければ、返り討ちに遭うのは若葉の方だ。
 それに、姉様が見ている。目蓋は閉じられていても、関係ない。
「……ただいまです、姉様……」
 若葉に抱きついたままで顔だけを氷雨へと向けておずおずと、しかしその奥の喜びは隠しきれない。
 紅葉とて、高揚している。
「はい、お帰りなさい。撫子も、お帰りなさい」
 氷雨は紅葉に微笑みを返し、そしてすぐ近くまで寄って見上げてきていた撫子の頭も撫でる。
 撫子はまるで喉をくすぐられた猫のように上機嫌に目を細め、ぽふ、とそのままくっついた。
「えへへへ……」
 首筋に耳の後ろをこすりつける様などもまた、猫のよう。
 そのやわらかな栗色の髪を、氷雨は指で梳いてやる。
 そして最後に姿を見せた二人にも笑いかけた。
「千草、あやめ、お帰りなさい」
「姉様ただいま~」
 ごくごく軽い口調でひらひらと手を振る千草。
「ただいま戻りました」
 静かに顎を引くあやめ。
 そこで、声が止んだ。
 若葉は唸るのをやめて力を抜き、それを受けて紅葉も抱きついていた腕を解く。
 撫子も軽く後ずさって氷雨から離れ、にこりと屈託ない笑顔を見せる。
 一陣の風が吹き抜け、木々のざわめきの中、再び声を発したのは杏だった。
 頬にかかった髪を払い、内に熱を秘め、静かに告げる。
「やったわよ、姉様……」
「災禍は確かに除いて参りました」
 杏も、それに続いたあやめも、千草も若葉も紅葉も、撫子さえも無傷ではない。
 袖は切れ、脇腹には血が滲み、激戦の痕を生々しく留めている。
 それでも苦痛を見せている者はない。
「ご苦労様でした」
 明けた緋瞳でゆっくりと六人を順に見回し、妹たちの雄姿に氷雨は頷いた。
 労いの言葉こそ短いが、そこに込められた思いは深い。
 歪み果てていようと確かに神であるものを葬り去る、それを成し遂げるのは、人の身には重すぎるほどの所業だ。
 大蛇から名と身体を与えられていようと、妹たちはそれでもやはり人なのだ。
「まあ、結局大したことなかったんだけどね」
 ふふん、とまた勝気に戻って杏が薄い胸を張る。
 その胸を横目で見ながら千草は苦笑した。
「どっちかっていうと、この格好でここまで帰って来る方が大変だったかな」
「ここへ入ったことまでは見られていない、はずではありますが」
 あやめも思案げな声を上げる。
 確かに、目立たぬはずなどないなりだ。実に衆目を集めたことだろう。
「一応結界が張られてるから大丈夫なはず……なんだよね、姉様?」
「ええ」
 撫子の問いに氷雨は頷く。もう両の眼は閉じられている。
 この社を覆う人払いの結界は、強大な力を持つ術者をすら容易く謀る。だからこそ拠点となりえてきたのだ。
「それよりも……ふふ、お腹が空いたでしょう? すぐに夕餉の支度をいたしましょう」
「……姉様、紅葉も手伝います……」
 紅葉は半年ほど前から、料理をほぼ一手に担っている。腕前も、もう氷雨に並びそうな位置にまで達しているのだ。
 だからこその申し出だったのだが、氷雨はくすりと笑った。
「気持ちは嬉しいのだけれど、先に温まってきた方がよいと思いますよ」
「あ……」
 言われて、紅葉は今の己の姿を思い出した。白い頬が夕陽以外のものによっても染まる。逸る気持ちで馬鹿なことを言ってしまった、というだけではなく、切れ目から肌が覗いていたのだということも思い出して。
 その首に若葉の腕が力強く巻きついた。
「よっし、一緒に入ろうぜ、一番風呂だ!」
「あ、ちょっと、一番風呂はあたしに決まってるでしょ?」
 当然のように杏が割り込む。妹相手だろうと譲らない。容赦などない。実力行使に及んででも勝ち取る。
 しかし、だ。
「杏さん?」
 優しく名を呼ぶその声に、杏は一瞬にして震え上がった。
 ぎこちない動きで声の主、氷雨を振り返る。
「ね、姉様……?」
「あなたはもう少し譲ることを覚えましょう、と……何度申し上げましたかしら?」
 氷雨は笑顔だ。声も口調も、あくまでも優しい。
 だが、普段とは喋り方が違う。妹たちに対しては、もう少し砕けている。
 もっとも、そのようなことを考えるまでもない。杏にとっては聞き慣れたものだ。
「姉様ごめんなさいー!!?」
 本格的に叱られる前に、脱兎の如く逃げ出す。
 それを追うでもなく見送り、氷雨は呟いた。
「本当に、困った子……」
 苦笑交じりではあるが、同時に愛おしげな響きもある。
 そして残る五人を振り返った。
「さあ、参りましょう。大蛇さまにもご報告申し上げなければなりませんし……」
「風呂入ってからでいいよな? じゃ、行こうぜ紅葉」
「ちょっと、若葉ちゃん……」
 紅葉の手を引き、まずは若葉が駆けてゆく。
 すぐに撫子も後を追った。
「わわ、あたしも~」
「……そんじゃ、あたしたちも行きますか」
 肩をすくめる千草。
「そうですね」
 頷くあやめ。
 並んで歩き出した二人の背も微笑みとともに見送り、氷雨は箒を古びた社務所に仕舞ってから、妹たちと同じく拝殿の向こうに消える。
 探すものがいたとて、既に誰の姿も見出すことは出来ない。
 この世界での拠点たる此処から、本来の家である大蛇の異界へと帰ったのだ。









 苔むした石段を上って辿り着く、古い社。
 淡路島の隅に、その神社は存在していた。
 鳥居にはその社の名も示されていない。
 近くの住民すらも存在を意識していない、秘された社。
 ただ静かに、ただひっそりとそれは在った。
 今も同様ではある。
 しかし、もう必ずしも静かであるとは限らない。







[26080] 「謎の如月家」
Name: 八枝◆767618cd ID:da250079
Date: 2011/02/27 16:07




 がやがやと、十数人の声が重なる。
 あるいは被さり、あるいは一つが際立ち、総じてはがやがやと。
 出て行く者、留まる者、それぞれに様々な表情を見せる。
 放課後の教室は独特の空気を持っている。窓から差し込む茜色の光に染め上げられた教室はいっそうだ。
 終わりとしての終わりと始まりとしての終わりが入り混じり、その両者が生徒たちの胸に宿っている。
 その中で、彼女は別格だ、と公彦は思う。
 視線の先、如月あやめは窓際の自分の席でぴんと背を伸ばし、教科書やノート、筆記用具を鞄に詰めている。
 落ち着いた手つき、禁欲的な表情。何もかもが引き締まって感じる。
 今年同じクラスになって彼女を見て、少ししてから本当にこれが自分と同じ十六歳、高校二年生なのだろうかと心底疑ったものだ。
 それほどに、他のクラスメイトとは異なる空気を彼女は纏っていた。
 動揺に感じているのは自分だけではないだろう。その証拠に、彼女にはほとんど誰も話しかけない。話しかけるのは本当に用があるときだけだ。
 そのようにあやめを観察する公彦にしても、どうしても挫けてしまう。視線でだけは追っても、いつもそこで終わる。彼女が出てゆくのを見送るばかりだ。
 今日もそうだろうと自分で思ってしまうのは、要は既に諦めてしまっているのだろう。
 早めに帰らなければならない用もあり、それでも習慣のように追い。
 そして目が合った。
「っ!?」
 息を呑む。背筋が寒くなった。
 偶然に合ったのではない。こちらを振り向いたあやめは、特に訝しげな色も浮かべていない。
「やはり、私に何か用があるのか?」
 さして大きいとすら思わなかったのによく響いた。
 教室の音が一旦すべて静まり、視線が公彦に集まる。
「え、いや……」
 口籠もる。本当に、用があるわけではないだけに言える言葉がない。
 焦燥は募るものの如何ともし難い。
 どうしよう。
 とりあえず口だけ開いてみたときに、救いの女神は現れた。
「あやめ? いる~?」
 ひょいと、教室の入り口にポニーテイルが踊る。
 教室中の注意が今度はそちらに向いた。
 が、闖入者は気にも留めなかった。
 あやめの傍まで寄ると、にんまりと笑う。
「実はお願いがあるの」
「……下級生の教室だからといって、ずかずかと入り込んでくるのは遠慮願いたいのですが」
 対するあやめの口調はきっぱりとしていた。実の姉の行動によって自分まで注視されることになっても、表情は微塵も揺らがない。
「それで、頼みというのは何です?」
「ほら、あたしがいつも行ってる店あるじゃない? あそこに頼んどいたのができたらしいんだけど、今日用事があって取りに行けないの。代わりに取りに行ってくれない?」
 あやめの席の椅子を引いて腰を下ろし、千草は上目遣いと甘い声。
 横目で推移を見守っていた男子生徒たちをどぎまぎさせつつ、しかし妹には通じるはずもない。
「今日の当番は紅葉のはずですが?」
「いやいや境内の掃除じゃなくて、遊びにいく約束があってさ」
「……姉上」
 けらけらと笑う千草に、そこで初めてあやめが眉を動かした。
「あまり干渉したくはありませんが、帰りに年中寄り道をしているのはいかがなものかと」
「硬いこと言わない言わない。それが高校生活の醍醐味ってやつじゃない」
 そんなやりとりを、すっかり視線から解放された公彦は呆気に取られて眺めていた。
 会話から姉妹だということは判るが、あまりにも対照的な二人だ。
 と、その肩がぽんと叩かれる。
 そして耳元で友人の囁き声。
「もしかして知らへんの? 如月の年子姉妹って有名やぞ?」
「年子姉妹?」
 軽く向き直り、尋ねる。
「ほら、去年の三年に愉快な先輩おったやろ、文化祭のステージ乗っ取ったりしてた人」
「ああ……」
 見てはいないが、聞いたことはある。
 確かに、楽しい人もいるものだと思っていたりはした。
「……この流れで行くと」
「あの二人のお姉さん。で、今年の一年に妹がおって、中学二年と三年にも一人ずつおる」
「……六人?」
 近年珍しい大家族である。
 が、否定された。
「さらに上にも一人おるらしい」
「……そらまた凄い」
 そんなことを話しつつ、再びあやめたちの方に視線を向けると、事態は少しだけ進展していた。
 頼み込む千草に、ついに折れたらしい。
「……分かりました。ならば行って参りましょう」
「やった! 恩に着るわよあやめ?」
「要りません。それよりも次からは自分で行ってくれた方がいい」
 鞄を手に、あやめはその厳しいまなざしで姉を見やるが、当の千草に堪えた様子はない。
「あはは、じゃあよろしくね?」
 椅子を擦る音もなく立ち上がり、軽やかに教室を出て行ってしまう。
 凄い姉さんだ、と公彦が思っているうちに、あやめはため息をつくでもなくこちらも既に教室から足を踏み出そうとしていた。
 声をかける理由もなく、そのまま見送る。むしろうやむやになっていたことを思い出されずに済んでよかった。
「謎の如月七姉妹の四番目、どや?」
「……どうって何についてよ?」
 先の友人がまた耳元で囁いて来るのを振り払い、向き直る。
「大体、謎って?」
「ああ……オレ小学校んときからあいつと同じやねんけどな、あいつの家、誰も知らんのよな。家庭訪問行ったはずの担任も、どこやったっけとか言い出すんやで?」
「単に迷いやすいだけとちゃうん?」
 家を知らないというのは、ありえないとまで言うほどの話ではないと思う。
 だが、返ってきたのはきっぱりとした否定。
「小学生の地元地理知識舐めたらあかん。探検言うて草むら突っ切って訳分からんとこまで行きよったくらいやぞ? 分からんわけがない」
「けど事実として、分からんかったんやろ?」
「そらそうやけどやな……あと、十年以上ここにおるのにまったく言葉がうつれへんっちゅうんも考えてみたら変やぞ?」
「それこそ如月さんの勝手やがな、そんなん」
 鞄に荷物を入れ、提げる。興味がないわけではないのだが、生憎今日は用事がある。
「ならな、また」
「はいよー」
 話を振ってきたことそのものには大して意味もなかったのだろう。食い下がられることもなかった。











 さても妙なことになった。
 そんなことを思いつつ、公彦は横目でちらりと隣を見やる。
 今日の用事というのは、近くに住んでいる叔父の手伝いだった。叔父夫婦はパン屋を営んでいるのだがそれとは関係なく、模様替えのための家具の大移動に駆り出されたのだ。両親は息子をそういったことに気軽に貸し出す。
 特に駄賃が出るわけでもなく、アップルパイとコーヒーをご馳走になって暇した。休日に自分でやってくれればいいのにと正直思わないでもないが、叔母の焼くのアップルパイは絶品なので、まあいいかと思う。
 そして今は、その帰りだ。赤みもすっかり引いて黒に近い空の下、住宅が建ち並ぶ道を歩いている。
「……如月さんは家こっちなん?」
 気後れしつつも、凛々しい横顔に尋ねる。
「ああ」
 少しこちらに顔を向けて頷く様もまた、凛々しかった。
 先ほど出くわした時にも、こちらは腰が引けるほど驚いたのに、あやめはいつもの禁欲的に引き締まった表情で会釈しただけだった。この落ち着きっぷりは一体何なのだろうと思い、すぐに答えに気づく。クラスメイトに会っただけで驚く自分の方が、一般的にはおかしいのだ。
「どうした?」
 続けて、あやめが尋ねてくる。小首をかしげたためか、すべて後ろに流された黒髪が一筋だけ頬にかかっていた。街灯に影を落とすそれを払い、ほんの僅かにまなざしを細めた。
「教室でも思ったのだが、私に何か用があるのか?」
 決して責める口調でも急かす口調でもない。それでも、纏う空気が細められたまなざしを鋭いものに見せ、言葉を厳しいものに錯覚させる。
 公彦は目を逸らした。
「あ、いや……何でもない……」
「そうか」
 あやめはそれ以上の追求はしなかった。再び真っ直ぐに前を見て、確かな足取りで歩む。
 手元で小さな紙袋が揺れている。恐らくは、姉に頼まれていたものだろう。
 長く伸びた影が揺れる様も規則正しい。
 行き過ぎる車や自分たちの足音すら公彦にとってはどこか遠く、静寂にすら感じた。
「……この辺りに住んどるん?」
 耐えかね、尋ねる。質問が先ほどとほぼ同じであることには、口に出してしまってから気付いた。
 が、訂正よりもあやめの答えの方が早かった。
「もう少し先だ」
「へえ」
 意外と近いんやなと思い、それから公彦は我に返った。自分の家は、方向こそ同じだがまだまだ遠い。歩いては通えないほどの距離というわけでもないのだが、普段は通学にバスを利用しているのだ。だというのに何故ここまで歩いて来てしまっているのか。
 本数がそろそろ減り始めているであろうことは気にかかるが、今からでもバスに乗ろうと決める。
「……と。俺、やっぱり」
「『やっぱり』何なのかな、ボク?」
 そう言って楽しそうに笑う声はすぐ後ろでした。
 無論、あやめではない。
 虚を衝かれた公彦は反射にも近い速度で塀に張り付いた。足がもつれかけはしたが、一層無様な姿までは見せずに済んだ。
 一方あやめは悠然と振り返り、提げた紙袋を後ろにいた相手に差し出した。
「頼まれていたものです」
「ん、ありがとね」
 長いポニーテイルを揺らして受け取るその姿を、公彦は覚えていた。人の顔を覚えるのはさして得意ではないが、つい三時間ほど前に強い印象とともに焼き付けられたものを忘れるほどでもない。
 と、千草がこちらを向いた。
「確か、あやめのクラスにいた子よね?」
 教室で見た印象とは異なる、明るく素直な笑顔だ。爽やかでさえある。
「となれば、一応自己紹介しとこうか。あたしはあやめの姉で、千草っていいます。君は?」
「……木下公彦です」
 ごく普通の声で返すことが出来たのは今の彼女の雰囲気に緊張が解けたからだ。まだ心臓はやかましいが、それもすぐに収まるだろう。
 なるたけ自然な動きに見えるように塀から身を離す。
「木下君ね。ふむ」
 千草は小首をかしげ、やや上目遣いで見上げて来た。
「もしかしてうちに遊びに来るの?」
「え、いや……」
 そんなわけはない。慌てて否定しようとして、ふと思い出してしまった。誰も場所を知らない、謎の如月家。
 ほんの二呼吸ほどだが、少しの時間が過ぎてしまった。
「あれ? 否定しないんだ」
「先ほど言いかけていたのはそのことなのか?」
 あやめまで真顔で尋ねてきた。やはりいつも通りの禁欲的に引き締まった表情で、何を考えているのかまったく読めない。
 それだけに、公彦の焦りは倍増した。日も暮れた時刻に親しいわけでもない女の子の家に行きたがっているなどというのは、気味悪がられるのが当たり前だ。そんな勘違いだけは御免だった。
「ちゃう、あれはもう俺バス乗って帰るからって……」
 顔が熱くなっているのが判る。
「ほなな! 帰るから!」
 そう捨て台詞を残すと、脱兎の如く逃げ出した。
 残された二人は顔を見合わせることも無く、あやめはいつもの禁欲的に引き締められた表情、千草はにんまりとした顔で見送った。
「脈ありじゃない、あれ?」
「私には、妙な誤解を受けるのが嫌だっただけに見えますが?」
「……あやめってばほんとにからかい甲斐がなくて詰まんな~い」









「まあ」
 胸の前でぽんと手を合わせ、目を閉じたまま氷雨は嬉しそうに笑った。
 長姉にまでそんな反応をされては、さしものあやめも苦笑せざるを得なかった。
「姉様、姉上に乗せられないでいただきたい」
 夕餉も済み、順々に入浴している時間帯。月明かりの縁側で千草が氷雨に今日の出来事を語っているところへ、湯上りのあやめが丁度通りがかったのだ。
 自分と同じ単姿の千草の横に正座し、涼風に身を浸す。
 止めようという意図があるわけではないが、事実ならともかく無いことまででっち上げられかねないので見過ごせない。
「ふふ……少なくとも、その子があなたに何も思うところはない、ということは考えにくいとわたくしは思いますよ、あやめ」
 婉然と小首をかしげる氷雨は白と緋の巫女装束だ。
「それはそうでしょうが……」
 先ほどの苦笑の残滓を乗せながらも、あやめの禁欲的に引き締められた表情は揺らがない。人が人に対して本当に何も思わないというのは余程のことだ。それに、自分がクラスの中で距離を置かれていることはあやめも自覚している。
「間違いなく、姉上が囃したい類のものではないでしょう」
「ほんとに……何でこう、うちは七人もいてからかい甲斐があるのが紅葉だけなのかしらね」
 千草は小さく肩を揺らした。入浴後とあって髪は下ろしている。
「姉さんは深読みしてキレるし、撫子は素でお友達大好きだし、あんたと若葉は取り付く島もないし……あと姉様だと大蛇様を惚気られるだけだし。ここらで恋人の一人も作ってみようとは思わないの、あやめ?」
「無理に作るものではあるまい」
「いいと思う男の子とかいない?」
「いないな」
「これだよまったく」
 小さくため息をつく。本当にと、そう繰り返したのはもう何度になるかも判らないくらいに思うのだが、この類の話題におけるあやめは難儀だ。特に色恋沙汰を忌避しているわけではなく、やや疎い程度であって、それでかつ反応がこの調子なのである。
「夢がないわね」
「夢は人それぞれでいいでしょう」
「いやまあ、同感だけど……若葉みたいに夢は地上最強っていうのは正直女の子としてどうかと思うわよ。そのうち嫁が欲しいとか言い出したらどうする?」
「構わんと私は思うが」
 あやめは真顔だ。いつもの禁欲的に引き締められた表情である。
 要は、と千草は思う。感性が少々ずれているのだ。
「……いつかあんたも嫁貰いそうよね」
 今度は大きくため息をつき、しかしほどなくしてくちびるを笑みの形にした。
「うん、まあ、髪も結構乾いたし、あたしはこれで行くわね」
「……姉上」
「じゃあね~」
 むしろ上機嫌に立ち去る千草の胸の内に湧き出たものの方向性だけは察して声をかけたものの、千草はそのまま部屋の中に消えてしまった。
 二人のやり取りを見守っていた氷雨がくすりと笑う。
「また何か企んでいるのね、千草は」
「杏姉上と違って防ぎづらいのが厄介なのですが」
 千草が何かを仕掛けてくる場合、その高い対人能力と交友関係を駆使して人を動かしてくる。どこまで影響し、どこから来るかが判らない。しかも時間を置いて警戒の解けた頃に仕掛けるのである。
 害は気分に来るといった程度のことしかしないのだが、それだけに付きまとってでも止めようとまでは思えないのだ。
「ふふ?」
 氷雨はこちらを向いているが、視線は合わない。余程のことがない限りは双眸は閉じられたままなのだ。
 くちびるに乗せた小さな笑みは婉然と、かしげた小首にしなる黒髪は艶然と。伸びた背筋や綺麗に重ねられた両手はそれでなおやわらかい。
 そして、恐ろしいことを口にした。
「あまり悪戯が過ぎるようなら、久しぶりにお灸を据えねばなりませんね」
「きっと、その必要はないと思いますが。姉上も加減は心得ているでしょう」
 あやめは一応擁護しておいた。本音でもあるが、それとは別に千草が可哀想だ。あやめ自身は幸いにも味わったことがないが、杏や若葉の怯えぶりからすると、長姉の灸はさぞかし恐ろしいのだろうとは推測出来る。
「だといいですけれど」
 そうは言うものの、品良い氷雨の声にはどこか笑みが混じっている。
 あやめはゆるやかに瞼を下ろした。吹き抜けた風が肌を冷やした。







[26080] 「夢に見る」
Name: 八枝◆767618cd ID:da250079
Date: 2011/03/06 11:14





 間違いない。
 西丸亜里沙はそう思う。
 赤々と、春の西日の差し込む教室。生徒は既に三々五々に散り、最後から三人目も立ち去って残っているのは亜里沙と今日の日直だけ。
 今がチャンスだ。
「あの……如月さん……」
 思い切ってかけた声は、我知らず上擦っていた。
 如月紅葉は目を引く少女である。
 羨ましいほどに白い肌、腰まであるぬばたまの黒髪をうなじのあたりで紙縒りによって括り、気弱げな面立ちは美しいとしか言いようがない。
 背丈は平均よりも少し高い程度だが、体躯は華奢そのものだ。決して過度に痩せているわけではなく、それでも首や肩の細さは印象的である。
 飾りはあえて言うなれば紙縒りのみ、髪型など普通なら野暮ったくなりかねないもの、それなのに同級生がどう足掻いても届かない領域にいるのだ。
「っ……!?」
 驚いたように振り向いた紅葉は、続けて怯えを帯びた表情を見せた。
「……紅葉に、何か……?」
「えっと……」
 亜里沙もよく知っている。紅葉は非常に内向的だ。クラスに親しい人間もいて孤立しているわけではないものの、親しくない人間に対してはこのような態度をとる。
 だが、今は亜里沙にも余裕がなかった。自分のことしか考えられなかった。
「ちょっと、一緒に来て欲しい所があるんだけど」
 言った。
 ついに言ってしまった。鼓動がおかしい。不規則に乱打している。
 大丈夫だ。間違いないはずだ。彼女でなければ他に誰がいるというのだ。
 彼女はどう見ても特別な存在だ。嘘のように美人だということもある。学業成績も学年主席だ。その上、信じがたいことにこの華奢な身体で運動能力まで高いのである。単純な筋力には秀でないということが、せめてもの欠点になっているのか否か。
 特別でないはずがないと、これだけでも亜里沙は思う。その上、もう一つある。
 昼休みに中庭で見かける彼女は、時々雰囲気が違う。木々に寄り添う姿はどこか神聖に感じられる。緑に守られているように見える。周囲の世界がまるで彼女のために回っているようだとすら思える。
 だから間違いない。
 彼女、如月紅葉こそが自分たちの頂くべき巫女姫なのだ。















 亜里沙は夢に見る。
 千年以上前、超文明によって築き上げられた天空の城があった。それは世界中を移動する、最強の騎士団の城であった。
 何処の国にも属さず、巫女姫を主と仰ぎ、魔物が現れれば行って打ち滅ぼし、非道な僭主が圧政を布けば天誅を与えた。
 騎士はすべて一騎当千、超絶の戦士たちであった。
 亜里沙は幾度も夢に見る。
 天空城には門がある。
 それは外と内との境界となる場所だ。城壁の上などは視覚的には続いているように見えてもその外と内は完全に遮断されている。唯一、門のみが通じているのだ。
 床が小さく揺れる。巨大な城が大地へと降り立った反動にしてはあまりにも小さな振動。
 門の前に集う騎士たちは剣や槍で武装し、視線を外へと向けていた。
 迫り来るのは虚ろな目をした、巨大な獣に似たものの群れ。
 それらは獣ではない。形だけ異形の獣である、侵略する力だ。
「『魔獣』だな」
「ああよかった、『魔獣』だな」
 先頭の二人の青年が本来の役割であることに頷き合う。
 『魔獣』が何ものであるのかは分からない。だが『魔獣』は人を殺し、国を滅ぼす。だから見つけ次第殲滅するのだ。
 無論、世界の調停者たる騎士の役目は他にもある。しかし武力をもって人を裁くよりも人の敵たる『魔獣』と戦う方がいい。だから、良かったと言う。
『敵数およそ七百、正面から一塊となってこちらへ突き進んで来ます。これを殲滅、少なくとも一時間食い止めてください』
 柔らかに響く声は巫女の座の二階層下にある指令部からの連絡だ。そこに詰めているのは術者である。神器を触媒とする必要なく自力で術法を使いこなせる彼らは、直接的な壊し潰ししか出来ない騎士とは異なり極めて多彩な術を使う。この連絡も遠話の術である。
「了解した。出るぞ」
 静かに鋭く、号令をかける。
 デ=ネス=クォルセ神聖騎士団、その第三騎士隊二十名、いずれも一騎当千のつわものだ。それが赤い荒野に躍り出る。
 十八名は三名一組となって大きく横に広がる。戦力比はむしろこちらが大きく勝ると言って良いほどなのだが、数は圧倒的に向こうが多い。固まっていては、遠くを悠々と抜けられてしまう。
 そして余った二人、隊長と副隊長はそのまま『魔獣』の中央へと突入した。
 目指すは一際巨大な一体。おそらくはこの群れの核だ。
 言葉はない。二人は視線だけを交わす。それで充分なのだ。



「そんな感じの夢、見たことない?」
 もう陽も稜線の下に落ちた時刻。公園のベンチに並んで座り、亜里沙はきらきらとした目で紅葉を見つめた。
 強引に出られると嫌と言えずに引きずられて来た紅葉は酷く困惑した表情とともに無言でかぶりを振った。
 しかし亜里沙は気にしない。
「うん、いいの。まだ分からないのね。あたしも最初は何のことかと思ったし」
 自分も教えられ、やがて思い出した口だ。時間がかかることは覚悟の上である。巫女姫ならばその存在の大きさのせいで騎士たちよりも強力な封印がなされているはずだ。
「巫女姫様について一から教えてあげる。あ、それともあたしのことの方からがいい?」
「……えっと……紅葉はそういう人じゃないと……」
「うん大丈夫、まだ分かってもらえないのは分かってるから。まずはあたしのことからがいいかな」
「あ、あの……紅葉はお夕飯作らなきゃ……」
「本当のあたしは第三騎士隊隊長、アルシオン。なんでかこの身体は女になっちゃってるけど、本来男なの」
 喋り始めた亜里沙は既に紅葉の言葉を聞いていなかった。ベンチを強く叩いた衝撃に紅葉が怯えても気にしなかった。
 まくし立てる。
「愛剣は紅蓮剣シリーズの最高作、<第三炎帝>。2mくらいあるんだけど、まあ、あたしも身長2m越えてたし」
 まさに立て板に水。アルシオンの生い立ちを喋り、少年時代の挫折に鼻息を荒くし、騎士団に入ってからの戦いには大きく身振りを交え、恩人の死には涙ぐみ、そして最後の戦いについて語り終える頃にはすっかり夜になってしまっていた。
「あいつの裏切りさえなければ魔獣王にも負けるはずなかった。巫女姫様も死なずに済んだ。きっとあいつも転生してると思うから気をつけて。あいつ、人の心に入り込んでくるの上手いから」
 そう締めくくって、ようやく亜里沙も周囲の状況に気付いた。
「……あ、まずっ、行かなあかっ……行かなきゃいけないところがあったのに」
「……遅いから、もう帰った方がいいと思う……」
「それは駄目」
「……塾か何か……?」
「いや、違うけど」
 本当は塾に行くはずの日ではあるのだが、そもそも亜里沙は最近まったく通っていない。そのようなもの、世界を守るという使命の前には瑣末事である。
「じゃあね、また明日……も明後日も駄目だから明々後日、日曜! 『屋敷』に連れてってみんなを紹介したげる」
「……いえ、そういうのはちょっと……」
「怖がらないで。目覚めればきっと分かるから。じゃあ」
「あの……」
 駆け去る亜里沙を、紅葉は呆然と見送った。
 三時間もの時が怒涛のように押し寄せ、過ぎ去っていた。














「うーん……まあ、なんと言うか……」
 氷雨の姿だけがない、夕食の席で話を聞いた千草は苦笑いした。
「妄想? って言うか、設定? ありえないわよ、それ」
 時間は遅い。ようやく家に帰り着いてから、改めて買い物に行ったためだ。
 あやめはいつものように禁欲的に、撫子はどこか残念そうに、と皆それぞれの表情で頷く中、杏だけはひらひらと手を振った。
「無いって証明もほぼ不可能でしょ。や、ま、ないと思うけどね」
「……それは……悪魔の証明ですから……」
 揚げ足取りにも等しい台詞を肯定し、大蛇様にお聞きすれば判るかもしれませんけど、と繋ぎ、更に紅葉は付け加える。
「でも……少なくとも紅葉が千年前にそんなところにいたなんてことはありえないです……」
「六人揃って勾玉の中だったもんね」
 今度の千草の台詞には全員が頷いた。
 六人は二千年の時を、魂を勾玉に封じた状態で過ごしたのだ。千年前に前世などあるわけがない。
「で……日曜に『屋敷』とやらへ連れて行かれるわけ?」
「……みたいです……」
「んなの断りゃいいじゃないのよ」
 出汁巻きに舌鼓を打ちつつ、面倒そうに杏が箸を振った。
「付き合う義理なんてないでしょ? 紅葉が遅くなったら夕飯まで遅くなるじゃない」
「……止める理由がこれでもかってほど姉さんらしいわね」
 やれやれと千草が頭を振る。
 それから紅葉に向き直った。
「まあ、でも、行く必要ないっていうのには賛成ね。紅葉は騙されやすいし」
 そうは言うものの、紅葉を侮っているわけではない。押しこそ弱いが紅葉は根本的に頭は良いのだ。騙されやすいということならば、直情的な若葉や善意が過ぎる撫子の方が遥かに危ない。
 ただ、社会的なものは比較的苦手の部類に入るということと、やはり押しが弱いということは、大丈夫だと太鼓判を押すにはあまりにも心許なく思えてくる要素である。
 紅葉自身もそもそも見知らぬ人間と話すことからして避けようとする性質であり、だから千草は紅葉がすぐに頷くと思っていた。
 しかし、紅葉はしばらく押し黙った。
「……どうしたの?」
 問うてようやく口を開いた。
「……西丸さんだけじゃないです」
 訥々とした、呟くような、囁くような調子。俯き加減の面差しは濃く憂いを匂わせている。
「『みんな』って言ってました。同じ人は他に何人もいるはずです」
 何を言いたいのかは皆に分かっていた。
 だがだからこそ、千草は言う。
「話聞いてた感じじゃ、別に親しくないんじゃない、その子?」
「……喋ったのも今日が初めてです……」
 俯いたまま、紅葉。
 千草は更に続ける。
「正直苦手でしょ? 出来るなら関わりたくないくらいに」
「……話を聞いてくれない人は苦手です……」
 やはり俯いたまま、紅葉。
 千草はあくまでも軽く、促した。
「いいんじゃない、別にほっといても。そのうち目が覚めるわよ。大体、単なる設定の可能性は高いと思うわよ?」
「……それは駄目です」
 紅葉はそれでも俯いていた。
「……多分ですけど……妄想にせよ、騙されているにせよ……複数の人間で認識を共有することによって安心を得て、強固に信じ込んでいるんだと思います。そうだったら、ちょっとやそっとじゃ自分は取り戻せないです……」
「苦手な子なのに助けに行くの? むしろ夢を壊して恨まれそうな気がするけど?」
 ああ、本当に、と千草は心の内だけでこっそりと笑う。
 厄介ごとは避けたいはずなのに、苦手な相手なのに、恨まれるのも嫌なくせに、行きたくなどないのに行きたいのだ。
「……行かなきゃです……クラスメイトです……」
 そこで顔を上げ、紅葉は言った。
 眉尻は下がり、なんだか泣き出しそうにすら見える。
 ばしりと拳と掌を打ち合わせ、若葉が腰を浮かせた。
「よっしゃっ! オレが付いてってぶっ潰してやる!」
「却下」
「うわっ!?」
 立ち上がったところで千草が絶妙に膝裏を打ち、若葉は見事にひっくり返った。いい音がする。
「っつぅ……何すんだよ千草姉ぇ!?」
「うわだっさ」
「るせえよ!!」
 横合いからの杏の容赦ない一言に、さすがに恥ずかしくはあるのか頬を赤くしながら身を起こし、千草を恨めしげに見やる。
「なんで駄目なんだよ?」
「いや、だってあんたが行ったらミイラ取りがミイラになりそうじゃない」
「そこまでアタマ悪くねえよっ!!」
「やー、詐欺とかって引っかからないように気を張ってる時にこそ引っかかり易いから、気張る若葉はやばいと思うわけなのよ、あたし」
 千草はひらひらと手を振り、それから真顔になった。
「とは言え、やっぱり紅葉独りでっていうのも不安なわけだけど……」
 皆で顔を見合わせる。
 現状では情報が少なすぎて、どうにも判断し難い。
「そもそも怪しいからといって力尽くで潰すというわけにもいきますまい」
「そうよね、ただの詐欺師だったりしたら紅葉のクラスメイトを取り戻すくらいがやれる限度よね」
 あやめの言葉に小さく頷きつつ、思案する。
 現在の社会はなるたけ乱さないようにと長姉からも言われている。例えば堕ちた神が力を振るっているのであればこちらも全力で構わない、と言うよりもむしろ全力でなければ対抗出来ないわけだが、ただの犯罪者を捕まえるとなれば警察の仕事である。
 ことはできるだけ少ない人数で小さく片付けるべきなのだ。
「……うん、あたしが明後日までに調べとくわ。撫子もできれば校内の話とかをお願い。色々決めるのはその後ってことで」
 千草はちらりと杏に視線をやった。
「どうせなら姉さんも手伝ってくれるとありがたいんだけど?」
「やだ」
「……ったく、暇人のくせに」
「あんた、大学生なめてんの?」
「実際、暇そうじゃないのよ」
 杏はいつもこうである。頼んでも動かないか、逆に頼みもしないのに割り込んでくるか、そのどちらかであるのがほとんどなのだ。
 もっとも、そもそも期待もしていなかったので落胆もなく、千草は少しぼやいただけですぐに頭をいま最も重要なことに切り替えた。
「ところで今日のお風呂の順番どうする?」
 最後に入ると風呂掃除が待っているのだ。







[26080] 「イワちゃん」
Name: 八枝◆767618cd ID:da250079
Date: 2016/03/06 14:03
 人は群れるものである。
 何らかの集団に帰属し、『自分たち』を作るとともに『自分たちではないもの』も作る。
 それはどのような年齢、どのような場所においても変わらない。孤立しているつもりでいてすら、何かに属している。
 一つの集団の中にも幾つもの集団が出来る。力ある派閥、無力な寄り合い、様々だ。
 一種の小さな社会である学校においても、いずれに所属するかは重要なことである。
「んー……あ、これなんていいんじゃない?」
 千草はファッション誌をぱらぱらとめくると、二十歳ほどのモデルを指差した。正確には、その装いを示した。
「ええ~? ちょお、あたしには派手ちゃう?」
「そうでもないと思うけど。まあ、このままじゃなくて、できれば色は淡いのに変えた方がいいかもね」
 尻込みするクラスメイトににこりと笑い、助言する。躊躇は一種の儀式であり、背を押して貰いたがっているのだということを千草は承知していた。
 周囲に集まった他の女生徒達も口々に、やってみたらええやんと勧める。
 生徒の作るグループというものは純粋な構成であることが多い。役に人が就くのではなく、人に自然と役が割り振られるのだ。中心人物は中心となるだけの何かを持っている。
 如月千草もその一人だった。どのグループの中心というわけでもないのだが、替わりに交友そのものは派閥はおろか学年すら越えて広く、集まってくる人間は後を絶たない。
 秀でた容姿も大きな魅力の一つではあるが、決して高嶺の花にはならない。付き合いは広く浅くがモットー、と公言し、誰とでも気さくに話すし、誘われれば遊びにも付き合う。無論陰口の一つや二つも叩かれるが、むしろそこに楽しそうに切り込んでゆく性質ですらある。
 では本当に誰に対しても同じであるかと言えば、そういうわけでもない。例えば幼い頃からの友人であればやはり優先するし、他の誰かでは共有できないものを持っている相手とはそのことについての立ち入れぬ話もする。
「……じゃ、今日はあたしもこの辺でおさらば」
 話の切れ目を見計らい、千草は鞄を手にして立ち上がった。
「また明日ね」
 口々に返って来る別れの言葉にまとめて小さく手を振りつつ、教室を後にする。
 教室を出てもまだ、別のクラスの知り合いに何度も手を振りながら、階段を下りて昇降口へ。
 そこで、久しぶりの相手と出くわした。
「あら久しぶり、ストーカー君?」
「……誰がストーカーや」
 ちょうど大きな靴を手に取った体勢で、同級生の男子が振り返った。
 体躯に見合う低い声だが、口調はどちらかいえば柔和だ。下がり気味な細い双眸の与える印象のせいもあるかもしれない。
 巨漢と言って構うまい。190cmを越える背丈に広い肩幅。頑丈そうな大きな顎にはちらほらと無精髭が残り、強い黒髪はごく短く、大雑把に切られている。
「それで、何か用か?」
「や、ただの偶然。見かけたから声かけただけよ?」
 千草はきゃらきゃらと笑い、それから笑みを残したままに声だけ抑えた。
「でも折角だから手伝って欲しいことがあるかな、イワちゃん」
「……碌なことやない気がするが」
 ぼやき、それでも和泉巌は立ち去ることはしなかった。替わりに促した。
「ともあれ、ここで話せる内容ちゃうんやろ。移動せんか」







 小さな公園に似つかわしく、半ば地面に埋め込まれたタイヤも小さい。
 それでも夕日に長く影を伸ばし、そして潰すようにしてその上に腰を下ろした巌の影は巨人のもののようだった。
 一方、千草は向かいのジャングルジムに背を預け、にんまりと笑う。
「それにしても、考えてみたら今年に入って話すの初めてじゃない?」
「正月には話した」
「あ、そういえばイワちゃん姉様相手にしどろもどろやってた気もするかも」
「それで本題は?」
 あまり触れられたくない過去なのか、不機嫌そうな声。 
 千草はもう一度喉の奥で笑い、それから切り出した。
「ちょっと懲らしめなきゃいけないかもしれないのがいるっぽいのよね」
「随分と不確定な言い方やな」
「まともに調べるのはこれからだからねー。とりあえず判ってるのは、『千年前に空飛ぶ城で世界各地を回って悪い奴を修正してた騎士団の生まれ変わり』ってやつが自分なんだって信じてる子がいるってこと」
 巌はぴくりと眉を動かした。それだけで少なくとも千草が現時点で知っていることは理解したようだった。
「……つまり、その裏には何か変なんが湧いたっちゅうことか」
「そ。まあ、かもしれない、程度だけど。相変わらず話が早くて助かるわ」
 千草は長々とした説明が嫌いではない。色々と反応を見ながら話をすることはむしろ好物だ。
 だが、今日は時間がないのだ。
「それでこれから調べなきゃいけないのよ、それがどういう背景になってるのか、明日の夜までに」
「……それを手伝えと?」
「明後日乗り込むことになったら、それも一緒に行ってくれると嬉しいな」
 にこりと、わざとらしいまでに輝く笑顔を向ける。
 不慣れな男ならばそれだけで陥落させそうな勢いではあったが、実のところ手管としては随分と控え目なものだ。千草は必要とあらば保護欲を誘う演技も完璧にやってのける。
 だが、必要なのは実際にその相手を動かすことのできる手である。こちらのことをよく知っている巌に全力で仕掛けたところで通じないのは判り切っている。
 だから、使うのは別のものだ。
「お前らだけで片付けられん相手やほとんどおらんやろが」
「そりゃ、六人フルパワーで物理的に潰すなら朝飯前だけど、替わりに相手もひどいことになるわ。若葉とか絶対やり過ぎるもの」
 頷き、巌用の台詞を付け加える。
「今回の事件、巻き込まれたのは紅葉なのよ。あの子ならなるべく穏便に済ませたがるの、分かるでしょ?」
「む……」
 思惑通り、巌は苦悶にも似た表情を浮かべた。
 以前から、氷雨と紅葉には弱いのである。
「しかしやな、おれが敵対組織の一員っちゅうことを忘れてへんか?」
「忘れてないわよ、ストーカー君?」
 千草は猫のように悪戯っぽく笑う。
「でも協力せざるを得ない。違う?」
 和泉家は古くからこの地に居を構える家であり、同時に荒水波に所属している。
 荒水波は創設以来二千年、八岐大蛇を最大の敵と扱ってきた組織だ。八岐大蛇が拠点をここに定めたならば監視をつけるのは当たり前のこと。荒水波本部から送られて来た人員とともに、やはり和泉家もその役を担うこととなったのだ。
 当然ながら並みの力量では務まるはずもない。巌自身もそのために中学時代に当たる三年間を荒水波本部で修行して過ごしたほどだ。
 分かり切った監視ではある。何かあった際に制止するだけの力もない。しかしだからといって置かぬわけにもいかないのだ。
 そして、監視とは千草たちを見張るだけでは済まされないのである。
 巌は一度押し黙り、諦めたように肩を落とした。
「……しゃあない。けど情報収集は期待するな」
「まあ、そのあたりはあたしがメインでやるし。イワちゃんは主に虫除けやってくれればいいわよ。じゃ、早速行きましょうか」





 商店街での聞き込みは、さすがにそううまくはいかないようだった。
 何分扱うのが前世などという話題だ、それだけで胡散臭い。
 それでなお、千草は話を引き出していた。ほとんどはにべもなく立ち去るだけなのだが、稀に反応を見せる相手がいたなら逃さない。ただ、それも気を引くために話をでっち上げている風ではあった。
 巌が出てゆくのは本当にしつこい男が出て来たときだけだ。体格のお蔭か、無言で睨めば全員逃げてくれた。
 だが巌は、これでいいのだろうかと、そう思わずにいられなかった。
 千草に協力することを今更思い悩んでいるわけではない。
 実のところ、昔から荒水波と<緋瞳の戦巫女>一派とは単純な敵対関係ではないのだ。
 そもそも荒水波には二つの顔がある。
 ひとつは八岐大蛇に対抗する組織としての顔。これは二千年前より続く本来のものであり、だからこそ何十年に一度か仕掛ける際には全力を注ぎ込む。十三年前こそ唐突な指令のせいで碌な準備もなく襲撃を強行せざるをえなかったが、それまでは十年以上を費やしての仕込みなど当たり前だった。こちらの顔は、明確な敵となる。
 対してもうひとつの顔は、権力に拠らずにこの国を護る組織としてのものだ。
 これは<緋瞳の戦巫女>の目的に逆らうものではない。<緋瞳の戦巫女>には地祇やその眷属たちに静かな暮らしをもたらし存在を保たせるという目的があった。彼らの行く末を案じてでもあるが、それとともに八岐大蛇復活の際の戦力とするためにだ。
 利害は一致した。双方ともに望む平穏については、互いの行動や力を利用し合える。
 荒水波は後者の共闘に前者の仕込みも隠し、あるいは巧く陥れ、あるいは逆手に取られながら、二千年間やって来たのだ。
 彼女たちの動きを見張るという意味もある以上、協力そのものを責められることはまずあり得ないし、事実として責められたこともない。
 ただ同時に、彼女たちと結果的に親しくなっていることは、やがて来るかもしれない裏切りの前提となる可能性は高いのだろう。
 嫌いではない。本当に、彼女たちのことは嫌いではない。
 以前とは違う。既に八岐大蛇は復活してしまっている。第九十七代スサノオも好意的だという。十三年前には計三百名ほど殺されたというが、巌自身には直接の恨みなどない。
 できれば方針は変わっていて欲しい。ずっとこのままでいたい。それが本心だった。
 いつしか当然に陽は落ちる。人工の明かりが街を照らし始める。
 巌は千草に声をかけた。
「まだ続けるんか?」
「んー、効率が悪いのは分かってるんだけどね。どうせ本命は撫子が今日見つけてくれるかもしれない誰かなんだし」
 見せないようにしてはいるが、疲労は明らかだ。声が必要以上に強い。
「なら、今日はもうこのあたりでやめてもええんやないかと思うが」
「あれれ、今日のイワちゃんてば優しい。好みは紅葉か……せめてあやめあたりかと思ってたけど、実はあたしがお目当て?」
「寝言は寝て言え」
 にんまりとした笑みをぶっきらぼうに切って捨て、巌は密かにため息をついた。
 冗談とはいえ何かと色恋に結び付けたがるのは千草の悪い癖だと思っている。慣れている自分ならばともかく、勘違いする者や、そこまではゆかずともその色に中てられる相手は決して少なくない。
「ともかく、もうええやろ」
「ふーむ……まあ、そうかもね。気力は明日にとっておきましょうか」
「そうしとけ」
 空にはまだほんの少しだけ赤みが残ってはいるものの、時刻は間違いなく夜だ。あともう少しもすれば往来に酔っ払いも混じり始めることだろう。
「一応、おれも家の方で調べてはみるけど……まあ、期待はすんな」
「ついでに千草さんからのお願い。行方不明者がいないかとかも、警察に訊いてみてくれると嬉しいかも?」
 甘い声、わざとらしい上目遣いの視線。
「無茶言うな。荒水波は国家権力とはそう仲良うもないんや」
 溜め息一つ。
 ずっと政権から独立したまま活動して来た荒水波は、むしろ疎まれていると言ってもいいほどだ。そういったものと親密なのは陰陽寮由来となる別の組織である。
 それでも、一般人扱いをされてしまうであろう千草たちとは一線を画してはいるのだが。
「……ただの設定で済めばそれが、骨折り損が一番なんだけどね」
 からかうような笑みを収め、千草が呟くように言う。
 それは一番の本音なのだろう。能天気なほど陽気に振る舞うだけが如月千草という女なのではないことは巌にも分かっている。
「はっきりせんうちから思い悩んでもしゃあないやろ」
「ん……ごめんね。じゃあ帰るとしますか」
 千草はすぐににこりと笑う。それは決して仮面ではないのだが。
 巌は無言で社の方へ足を向ける。
「あれ、もしかして送ってくれるの?」
「要らんような気もするけどな」
 小走りに追いかけて来る千草を振り返ることもなく返す。
 千草は強い。例えば自分がやり合っても勝てるかどうかは非常に怪しいくらいなのだ。疲れている今でも不審者の一人や二人は軽々と返り討ちにできるだろうし、十や二十に追いかけられたとしても家まで容易く逃げ帰ることだろう。
 くすりと笑う声がした。
「確かに必要はないけど……」
 千草が並んだ。両手を腰の後ろで組み、こちらを見上げる。艶やかな髪が躍動的に跳ねた。
「あたし的にはポイント高いかな。うん、千草さんの好感度が一ポイント上がった」
「そんな珍妙なもんは要らん」
「ひどっ!? 千草さんの好感度が二ポイント下がったー」
 ころころと変わる表情。
 脇腹を軽くつねられたが巌は涼しい顔で流した。
 見上げれば星が瞬いている。
 一際明るいのは、宵の明星だ。






[26080] 「香」
Name: 八枝◆767618cd ID:da250079
Date: 2016/03/06 14:04
 春の陽光に海が煌めいている。
 青と言おうか、それとも緑だろうか。穏やかに揺れては光を散らす。
 その眩さに紅葉は目を細めた。艶やかな黒髪は緑なすと形容される由縁を示すように瑞々しく陽を吸い込み、対して肌理細かな白磁の頬は儚さを思わせる。
 白いブラウスに臙脂のロングスカート。いつかの姉のような出で立ちだ。あるいは、巫女装束に似た配色の。
 背後で古いバスの扉が閉まり、重い音を立てて発車する。排気の臭いを払って振り向けば、クラスメイトが嬉しそうに笑った。
「ここから少し歩くんだ。付いて来て」
「……はい」
 弾む足取りの西丸亜里沙、その背を追う。
 そういえば、と思い出した。彼女に声をかけられるよりも前から不思議に思っていて、公園でも奇妙に感じたことだ。
 言葉。
 以前は皆と同じように地元の喋り方をしていたのに、今はほぼ標準語になっている。おそらくは意図的にそうしているのだろう。時々元に戻りかけては慌てて言い直すのだ。
 しかし尋ねることはできなかった。単純に、内気さのせいで。
 しばらくは道路沿いに歩いた。周囲に民家は見当たらない。右手には防波堤、左には小さな山がせり出していて道路との合間に飲食店が何軒か並んでいる。
 このあたりに来たのは初めてだ。バスに十五分ほど揺られ、学校から社を通り越して辿り着いた。さすがに遠いが歩いて来られない距離でもないと紅葉は思う。
 風が吹いた。潮の香が鼻腔をくすぐり、木々がざわめく。
 山へ入るのであろう道が行く先の脇に見えた。
「あそこから登るんだ」
 こちらを振り返った亜里沙が指差した。



 道は中腹の館まで続いていた。
 息を荒げて登るクラスメイトの後ろを、周辺の気配を探りながら紅葉は静かに行く。
 山歩きは慣れている。長い眠りにつく前の記憶は半ばぼやけているが、あの冷たい雨の日までの二年間は山で暮らしていたのだ。今の世に生きるようになってからも、大蛇の異界で遊んでいた。
 木々の、土の、岩の匂いが薄い。そして替わりに人の手が入っている。紅葉はそう思う。
 やがて現れたのは、確かに屋敷と呼びたくなる建物だった。煉瓦造りと思しき西洋風の二階建て。日本の気候には合わないだろうに。
 小さな山である。ちらりと横を見れば木々の間からは先ほどの道路が見えた。背の高い木はない。向こうからもこの館が少しは見えてしかるべきだったはずだが、まったく気がつかなかった。
 紅葉は亜里沙に尋ねる。
「ここは……特定の人しか近付けないようになっているんですか……?」
「え?」
 亜里沙はぎょっとした顔を見せたが、すぐに笑った。
「……さすが巫女姫様、分かるんだ? そう、この『屋敷』の主人に招かれた人しかここには来れんように……来られないようになってる」
「わたしは望む人なら入れるように……する方がいいと思います……」
 孤立させられるのは危険だ。後を追って来ているはずの姉たちが入れるようにしなければならない。いや、本当に侵入するだけであればどうとでもするだろうが、できれば忍び込めるようにしておきたいのだ。
「いや、そういうわけにも……ほら、魔獣のこともあるし」
「……残念です」
「それより中に入ろう? みんなもう待ってるはずだし」
「はい……」
 誘われ、紅葉は一歩を踏み出す。
 これからが本番だ。







 その部屋は焚きしめた香に満たされていた。
 よい香りではある。むせるほど濃いわけでもない。
 紅葉は少しだけ眉根を寄せ、一通り室内を観察した。
 およそ二十畳といったところだろうかと見る。高価そうな絨毯を敷いた洋室だが、紅葉は畳を単位にした感覚にしか馴染みがない。
 正方形に近く、窓はない。壁を飾る様々なタペストリーには中華風から南米風、カナダの国旗にエジプトの壁画めいたものと統一感がまるで見られず、四隅の台にはそれぞれ煙を吐き出す香炉がひとつずつ。タペストリーの間から覗く壁には奇怪な紋様。
 部屋の中央を占めるのは大きな丸テーブルだ。それに対して六脚の椅子は寂しいように思えた。
「さ、座って。もうちょっとしたらみんな来ると思うから」
 そう言って亜里沙が先に席に座る。
 まつろわぬものはこれに。そう呟いて紅葉はその隣、入口を左手に臨む席へと腰掛けた。
 そして亜里沙を見つめながらどう切り出したものかと迷う。話をするなら昨日も一昨日もあったのだが、どうにも勇気が出なかった。まだ背景がまったく判っていなかったため話の進め方を想定できなかったということもある。
 が、すぐに亜里沙の方から話しかけて来た。
「いよいよだね。巫女姫様が加わればきっと反撃も開始できるはずだから」
 上気した頬、張りのある声。見るからに嬉しそうだ。
「…………西丸さん」
 違うのだと、否定するようなことを今は言わず、素直に尋ねる。
「……紅葉は……西丸さんのことを聞かせて欲しいです」
「うん、いいよ。アルシオンには親友がいてさ」
「えっと、そうじゃなくて……」
 案の定アルシオンについて語り始めようとする亜里沙を遮る。それだけでさえ緊張のあまり卒倒しそうな気分だったが、もう少し、もう少しすればもうちょっとだけ慣れてほんの僅かだけ平気になると自分に言い聞かせて耐える。
「紅葉のクラスメイトの、西丸さんのことを教えて欲しいです……」
「え……」
 意図は今度こそ伝わってくれたのだろう、亜里沙はきょとんとした顔をした後で眉を曇らせた。
 ひどく詰まらなそうに言う。
「別に……何もない。聞いても面白くないだろうし、喋ることも別に思い当たらないし」
「……たとえば……好きな食べ物とか……」
「それなら栗饅頭とか」
 食い下がる紅葉にはさすがに違和感を覚えたのか亜里沙は戸惑い気味に、それでも素直に答えた。
「……紅葉は……南瓜の甘辛煮が好きです……」
「え、あ……うん……そうなんや。微妙に渋いな」
「あとは……風呂吹き大根も」
「……そっちはむっちゃ渋いな」
 呆気に取られてか、亜里沙の口調がすっかり本来のものに戻っている。慌てて訂正する気も起こらないようだ。
 実のところ、紅葉には何らかの意図があるわけではない。本当にただの世間話を、必死に続けようとしているだけである。
 しかしそれは亜里沙の方から打ち切られた。
「そや! ……ああ、いや、そうだ。そんなことよりあたしの力、見せたげる」
 そう言うが早いか、両手を胸の前で合わせ、眉間に皺を寄せて見るからに気力を漲らせる。
「まだこの部屋でしか使えないけど、あたしの、アルシオンの力」
 ゆっくりと両手を開く。赤々と燃え盛る炎がそこに現れた。
 ゆらゆらと儚げに揺らめく紅い火。紅葉は愁えげにまなざしを伏せた。
 見えている。この炎が、一体何であるのか。
「西丸さん……」
「おっかしいなあ……いつもはもっと大きいんだよ? それになんか熱くない……」
「……西丸さん」
 小首を傾げる彼女は紅葉の言葉に、表情に不審を抱かない。ただ己が手の内の炎を見つめ、疑問に眉をひそめるばかりだ。
 不安が見える。炎の様子がいつもと異なるという、それだけのことをとても気にしている。
 紅葉はそっと繊手を伸ばした。おそるおそる、亜里沙の手に触れる。ふ、と炎が消えた。
「……学校は……詰まりませんか……?」
「詰まらないというか……ほら、仮の姿に過ぎないわけだし」
 言葉が速い。目が泳ぐ。この話題は嫌だと、声も表情も雄弁に語る。
 紅葉が眉を曇らせ、さらに続けようとしたときだ。
「やあ、お待たせしたね」
 ゆらりと、ドアが開いた。





「今の名前で名乗ろうか。私は野上清文だ。一応、神聖騎士団の団長を務めていた」
 ドアの向いとなる席に腰掛けてにこやかにそう挨拶したのは、落ち着いたスーツに身を包んだ中肉中背の男性だ。年の頃は四十ほどだろうか。
 一応は、人好きのする笑顔である。左目を覆う眼帯さえなければ。
「やはりこれが気になるかな。幼い頃に病気でね、治療のために摘出したんだ」
 眼帯に触れながら苦笑する。
 紅葉は何の反応も返さない。いつもの気弱な表情で、ただ見上げている。
 その姿を果たしてどう受け取ったものか、男は喉の奥で唸った。
「確かに巫女姫様は内気な方でいらっしゃったが」
「でしょ? 絶対間違いないですよ」
「しかししっかり確かめてみるまでは分からないな。二人きりで話したい。アルシオンは外してもらえるかな。居間の方にあとの三人もいる」
 はしゃぐ亜里沙をやんわりと制する顔つきも穏やかだ。それなのに反抗を許さないような強さがある。
 亜里沙も素直に言うことを聞いて立ち上がった。
「じゃあね、巫女姫様」
 そう言い残して部屋を出てゆく。足取りは軽く、紅葉が巫女姫であることへの確信と、野上清文と名乗った男への信頼が感じられた。
 だからこそ紅葉は眉を曇らせるのだ。
 ぱたん、とドアの閉じる音。
「さて……」
 僅かに声音が変化している。
 紅葉を見つめる隻眼も冷やかに温度を下げ、笑みは皮肉げに。
「君は……誰だ?」
 口調そのものはあまり変わらない。声も穏やかで染みとおるようであることには違いない。
「もちろん名前は知っている。如月紅葉。歳は……まあこの時期だ、十四なんだろう。だが誕生日は分からない。どこで生まれたのか、どこに住んでいるのかも分からない」
 紅葉は答えない。
 しかし、こちらもまた先ほどまでとは異なる。亜里沙に話しかけていたときの気弱げな表情などどこにもなく、静かで落ち着いた面差しだけがあった。
 相手がただの詐欺師であれば、隣には千草の姿があっただろう。そうではなかったからこそ紅葉は独りなのだ。
「答えない、か」
 男は冷徹に紅葉を観察している。
「この部屋に焚きしめてある香はうちの秘伝でね、霊木と呪術とを複合して、ちょっとお喋りをしやすくするんだ」
 無論、『お喋りをしやすくする』などというのは言葉の綾だ。おそらくは暗示を受けやすい状態に落とし込むのだろう。そして恐らくはこれこそが妄想を補助する要なのだ。
 人の意識はあやふやなものである。触れ続ければそのうちに、最初は偽りだと知っていたはずのことすら信じ込む。言い聞かせ続けることで偽の記憶を作り出すこともできるなら、密に浴びせ続けられる妄想はやがて他者へと転移する。
 ただでさえそうなのだ、そこへこの香のような力が加われば何の不思議があろうか。
 こういったものが存在しているであろうことは紅葉も予見していた。亜里沙たちはこれをいつも吸っていたことになる。後遺症が残るようなものでなければいいけれど、と思わずにいられない。
「けれど喋ってくれないところをみると、どうもやはり君には効いていない。気付いたのは不思議じゃない。よくある手だからね、真っ当な術者であれば中身までは分からなくとも危険を即座に予測するだろう」
 男は語る。何を狙っているのかは分からない。だが少なくとも、無意味に喋っているわけではないはずだ。
 巌から昨夜もたらされた情報からすれば、そのような人物ではありえない。
「だが……どうやって防いだ? 解毒の術自体は数多の体系に、それこそ閉鎖された山奥の集落に伝わる土着の呪術にだってあるだろう。けれどこの香は本当に特別製でね、幾つもの体系の呪を練り込んで、ちょっとやそっとの解毒では歯が立たないようにしてある。お蔭で効力自体は低くなってしまったがね」
 男の声に少しだけ熱が籠もる。それだけ自信があったのかもしれない。
 事実、口にしたことが本当であるのなら、この香は決して容易く作り上げることの出来るものではないのである。
 術法というものは単純ではない。血が要ることがある。信仰が必要となることがある。知識は必須であるように思えて、逆に無知こそが奥義へと至る条件であることもありうる。要する天性や経験、鍛錬は異なり、複数の術法体系を操るならば相互に負の影響を及ぼすのが当然だ。
 だから、力を弱めたとはいえ幾つもの体系の呪を組み込むなどという芸当は余程の才に恵まれるか、工夫の果てにしか成し得ないことなのである。
「つまりこの香に対抗するためには、そのすべてへの対抗手段を持っているか、あるいは広域スペクトラムを持つ強力な術でなければならない。例えば一切の害毒を打ち払う薬師真言や孔雀明王呪、大祓祝詞のようにね。しかしずっと『視』ていたが、君はこの部屋に入ってから何の術も使ってはいないはずだ。それとも入る直前に呟いたあれで防いだとでも言うのではなかろうね」
 紅葉はなお答えない。沈黙をもってただ見ている。
 双眸と隻眼とがぶつかり合う。
 唇を歪めたのは、やはり男の方だ。
「……聞いていたのとは違って、随分と落ち着いている。先ほどまでとも別人のようだ」
 紅葉は背筋を伸ばし両手を膝の上で重ね、姿勢良くいる。張りこそあれ気負いはない。
「……あなたは何を目的としているのですか?」
 男へと初めて発した声も表情と同じく、静かでいながら確かな形を持つものだった。
 正直に答えてくれるとは思っていない。今まで語ったこともすべて、あるいは肝心な何か一つが偽りである可能性がある。
 それでも尋ねる。
 答えは、にやりとした笑みとともに。
「無論、魔獣王の打倒だよ、姫巫女様」
「中学生の捜索願が、このあたりだけで五件出されているそうです」
 紅葉は告げる。
「心当たりはありませんか?」
「それこそ『魔獣』の仕業かもしれないね」
「その『魔獣』の名は……馬込涼河まごめりょうがと言いませんか」
 さらりと、目の前の男の名を告げる。
 男は表情をまったく動かさなかった。とぼけた笑みのまま押し黙り、そして喉を鳴らした。
「剣よ」
 その言葉の響きが終わらぬうちに、武骨な短剣が部屋中を満たす。百を越える切っ先が虚空から紅葉を狙って静止している。
 しかし紅葉はほんの僅かに双眸を細めただけだった。それで一切の幻影は消え去った。
 壁に施された呪紋が強い思念に反応して幻影を映し出す、単純な唐繰りだ。先ほど亜里沙が作り出した炎の正体である。普段は香の効果とも相まってより大きく、加えて熱さまでも錯覚していたのだろう。
 そして消すにも同じこと。望む世界を幻視することを基礎とする術法体系は多い。それを裏返して現実を『視』れば、創り出された不自然なものは消え去るのだ。
「なるほど」
 馬込涼河という名の男は苦笑した。
「よく調べたものだ……というより、恐ろしいお嬢さんだ。香の効きが悪くとも、時間をかければ空穂名うつほなの術くらいは浸透するものなんだが……本当に香の効果がまったくないのか」
 名はその存在を象徴する。呪的に名を捉えれば、その存在をも捉えることになりうる。空穂名なる術は偽の名を相手に信じ込ませるという、ひとつの呪術というよりもそれ以前の防衛技術なのだろうと紅葉は推測した。
 侮っていたかもしれない。そう思い、己を強く纏い直す。
「恐ろしいと思うなら諦めてください。しかるべきところに引き渡すことになりますけど」
「いや、それはどうだろう」
 男の口調はなおもとぼけていた。
「護衛もいるし、あの子たちは君への人質になる。ここは私の領域だ。優秀な術者である君なら、相手の領域に入ることがどれほど不利かを知らないわけではないだろう?」
 とぼけた口調ではあっても、それは威圧だ。重圧をかけ、どこかで判断を誤らせるためのものである。
 だから紅葉も送り返す。
「本当に独りで来たと思いますか」
「この屋敷には招かれた者しか入れないように結界を張ってある。招かれざる客が入るには破るしかない。そして結界は今も保たれている。残念ながら援軍は来ていないということになるね」
 隻眼の視線はやはり冷やかに乾いている。
「しかしそうだね、とりあえず護衛と人質を呼んでみようか。この部屋には監視システムも仕込んである。私は指を鳴らすだけでいい」
 右手が動く。
 止める暇はなかった。至極自然に、高く鳴り響いた。







[26080] 「対極」
Name: 八枝◆767618cd ID:da250079
Date: 2011/03/28 10:46



 珠込たまごめという家がある。
 人形作りを生業とする、古い家系だ。鎌倉の頃には既にあったと伝えられる。
 ただし、職人の家ではない。霊木を削り、組み合わせ、磨き、化粧を施して衣を着せ、術を施して戦闘人形とする、そのような業を脈々と伝える術者の家だ。
 その一員として涼河は生を受け、十五の歳には有象無象の一人となった。
 お前に人形作りの才はない、と切り捨てられたのである。病で片目を失っていたことも、もしかすると影響していたか。
 珍しいことではない。むしろ後継として認められ、珠込となることを許されるのは一世代に三名程度のものだ。それ以外を占める大多数は馬込と名乗り、珠込を支えることになる。
 しかし涼河は、自分が無用の半端ものであると確定されたときに家を捨てた。
 閉鎖的な環境に愛着はなかったし、使われるだけの人生は耐えがたい。ならばたとえ野垂れ死ぬことになろうとも、と。
 それから三十年近く、様々な人の間を巡った。中でも、最初に齧ったのが修験道だったことが後の方向性を決めた。
 修験道は山岳信仰から始まって仏教、陰陽道に道教まで混淆した体系だ。涼河はその多系統を並立させる技術に目を付けたのだ。
 涼河に並み以上の術才はない。霊力もやはり平凡な術者の範疇を出るものではない。身体能力に優れるわけでも武才に溢れているわけでもない。
 術者の力量は才の占める割合が高い。芸術にも似て、天性と感性が何よりもものを言う。涼河は決して一流と呼ばれるようにはなり得ないのだ。
 だから、視点そのものを変えた。高みや深みを目指すのではなく、広く浅く広げた薄紙を引いて相手を転がすような。
 有名どころばかりではなく、それこそ鄙びた集落の呪詛なども、ほんの初歩だけではあるものの蒐集していった。
 多系統を操る才もやはりあるわけではないので、すべての呪の効力を落としながら、それでもひとつの術体系が確かに完成した。
 弱く、弱いがゆえに相手に侮らせる。しかしその実、数多の系統の複合であるがためにまとめて無効化するには極めて強力な力が必要となる。危機感を抱かせぬうちにじわじわと首を絞めてゆく毒である。
 そこへさらに自分以外の力も加える。たとえば香の原料となる霊木がそうだ。家の秘伝などと言ったのは偽りである。
 そして力ある物品の対価として、今回の年若い少年少女などはある。
 馬込涼河は一般的には外道と呼ばれる類の人間だ。望んだわけではなく流れによる必然からそうなっただけではあるが、同時にそうである自分を忌まわしく思いはしない。
 力を求めるには金が要り、金のために悪行に身を浸し、力をもってその悪を成す。そこに戸惑いはない。
 求めるものは当初より己が生の証明であり、善悪など犬の餌にでもくれてやるべきものでしかないのだ。
 術者社会の闇にあって、馬込涼河は決して一流とは呼ばれない。だが、密やかに一流を食い殺す男である。



 なぜか一向に効果を表さぬ香の中、指を鳴らした残響も消えて幾許か。
 聞こえて来たのは遠くの破壊音だった。
「事実は火を見るよりも明らかではないでしょうか」
 紅葉が淡々と告げる。
 確かに、涼河の予定を裏切る音である。
 しかし侵入者はいないはずなのだ。顔には出さぬまま今一度結界の様子を確認して。
 愕然とした。
 結界自体はやはり今も健在だ。だが、意識に伝わって来る条件が書き換えられている。
 招かれた者だけを通すはずが、人間でありさえすれば無条件に入れるように変更されていた。
 まさかと思う。破るならまだしも書き換えなど容易くできるはずはない。結界もまた、幾つもの体系を複合して構築されたものなのだ。そして少女はまともに術など使っていない、これも確認できる限りでは事実である。
 しかしどのようにしてか結界の条件を上書きし、香を完全に打ち払ったのも現実なのだ。おそらくは同様にして自分を制圧することも可能なのだろう。
 涼河は迷わなかった。先ほど高らかに指を鳴らした際にそれとは逆の手、手品と同じく一方に注意を引いてもう一方で準備を整える、そんな手管で取り出しておいた三枚の呪符を投げつけた。
 予め呪力を込めておくことで本来よりも高い効力を発揮する、しかもそれぞれ催涙、束縛、幻覚と異なる術が解放される。
 対する紅葉は一言だった。
「まつろわぬものはこれに」
 凛、と。さほど大きくはないのに圧倒するほど強く響く言葉。
 呪符はその言葉に耐えられず、塵となる。
 嫌でも理解できた。先ほど自らが口にした軽口が事実だったのだ。これこそが香を退け、おそらくは結界に干渉した。
「……言霊遣いか!」
 苦鳴が漏れる。
 言葉には力が宿る。術者でなくともそこには僅かに呪力が宿る。呪文と呼ばれるものもこれを利用して成り立つのだ。それを極限まで高めて術の域にまで昇華させるのが言霊遣いである。
 しかしそれならば分かる。言霊は未分化で、そのため術法体系に囚われない。長い年月の中で研鑽されて来た術と比べれば効力は遥かに弱くなるが、これ以上ないほどに自在だ。複数の体系を編み込んだがために弱くなってしまった呪法など誂えたような獲物である。
「大人しくしてください」
 またも凛とした声。
 身体が重い。脂汗が浮く。
「今までは……手加減していたのか……」
 喋るのも億劫だ。涼河とてこういったときのための護符を身につけていたというのに、それは懐で早々に儚く崩れ落ちていた。
 ぞっとする。いかに言霊遣いと言えどこの威は異常だ。弱いはずの言霊で、腕利きの術者すら正面から屈服させかねない。
 しかしそれでも焦りはなかった。元より正面から戦わぬことを選んだ身なのだ。
「不思議なものだな。実に滑稽だ」
 心身を苛む苦痛を堪え、嘲笑を浮かべて見せる。
「神聖騎士団ときた。世界を救う存在ときた。空想にしてももう少し身の程を知るべきだと常々思っていたのだがね。付き合う身にもなって欲しいものだ」
 目の前の少女が優秀な術者であるのは分かる。霊力や術才を除いたとしても、敵陣へ乗り込んでおきながらひどく冷静にこちらの言葉を捌く姿は、それだけで称賛に値する。
 なにせ、まだ十四やそこらのはずなのだ。
 そう、そして。
 彼女は十四やそこらの、知り合いを案じて首を突っ込んで来た少女なのだ。
 背景に不明な点は多くとも、今この時に間違いないと推測できる要素はある。
「手軽に特別が欲しいのは分かるがね、普通に、人並みのことすらできない自分に特別なことが成し遂げられるとでも思っているのかねえ?」
 賭けではある。唐突に不自然な言葉を投げかけてみたところで、大抵の人間は気にも留めないか、あるいは不快な雑音として意識的に締め出すかすることだろう。
 だが、親しくもないクラスメイトを助けようと勇気を振り絞って乗り込んで来たらしき、心優しい少女ならばどうだろうか。
「彼女は飛び抜けて酷いね。喋り方まで変えて今の自分を否定したいらしい」
 無言のうちに紅葉の肩が揺れた。可憐なくちびるが引き結ばれる。
 耐えていることを見てとり、涼河はいっそう煽るように続けた。耐えるということは、つまり。
「ああ、でも前世を男という設定にしたのはせめてもの良心なのかな。さすがにあの男だか女だか判らない哀れな面相で美女と申告するほど面の皮は厚くなかったらしい」
「……そんなに……可笑しいですか?」
 耐えるということはつまり、限度を越えたなら耐えられなくなるということで。
「こんなのは自分じゃないって、自分はもっと素敵なはずだって……苦しむ姿がそんなに可笑しいんですか?」
「それは努力によって自分自身を磨こうとすべきところだろう。空想に逃げ込んでどうするんだね。現に私は君たちくらいの歳で自分を変えようとして、実際に変えて来たんだがね」
 涼河にとっては本当にどうでもいい、ただの方便に過ぎない言葉だったが、なまじ事実であるがために重みを持つ。
 そしてその重みは紅葉を大きく打った。
 打ちのめされたわけではない。そんな正しくてありふれて今更益体もない意見は疾うに承知で、それでも言わずにいられなかったのだ。
 もっと許されていい。もっと優しくていい。そう思う。
「でも……!」
 重ねようとする言葉は未熟の証。
 涼河の意見はどうでもいいのだ。認めさせる必要などないのだ。自身の中で練り上げて、やがて己の意思を構成するひとつとして確立させればそれでいいのだ。
 先ほどまで、紅葉は涼河へ向けて無駄な言葉を一切発していなかった。
 今は違う。呪縛は緩み、自由な時間までも与えてしまった。
 どれほどの才、いかほどの力を持とうとも、己自身に惑う年頃の少女である。制御しきれぬ自分を持て余す子供である。付け入る隙は確かにここにあり、馬込涼河は笑う。
 笑って、切り札を露わにした。
 眼帯が毟り取られる。左眼は本当に病で失ったものだが、なにもそのままにしておく必要はない。
 現れたのは義眼だ。虹彩代わりに薄い緑柱石を、水晶体にはエメラルドを、そして眼底には術式を。
 人造魔眼。高い金を払って手に入れた逸品である。眼帯に覆われているときにはひたすらに呪力を溜め込み、解放された瞬間に眼底に彫り込まれた術を起動させる。
 この人造魔眼が行使するのは重圧の術法、ただ標的の精神に漠然とした負荷をかけるだけの単純な術だ。
 本来あまり出力の要らない術を過剰なまでに溜め込まれた膨大な呪力で後押しすることにより、とてつもない衝撃を与えることが可能となる。
 単純で強いという特性は涼河自身の術とは正反対、ゆえにこそそれを越えて来た相手に対する切り札たりうるのだ。
 眩い緑。
 輝きが紅葉を襲った。
 それは先ほどの言霊による防護をも貫き、紅葉は声もなく華奢な身を折る。
 たかが重圧、されど重圧。これほどの強度ともなれば常人なら発狂する。運が良ければその前に喪神、耐えたとしても数分はまともに動けない。
 そうなれば、あとは煮るなり焼くなりどうとでも。石化だの疑似未来視だのと気取った力ではこの確かさは得られない。
 どうとでもできる、その状況を作り出して、涼河はぎりと奥歯を鳴らした。
 迷うこともなくドアを開け、脱兎の如く逃げ出す。
 確かにとどめを差しておくことはできるかもしれない。他の侵入者に対する人質にすることもできたかもしれない。
 しかし涼河は状況を悲観していた。想定されるあらゆる敵を侮っていなかった。
 自ら行使する言霊以外に少女が何の備えもしていないとは思えない。ほんの少しの正気があれば一言で自分を死に至らしめることができるのかもしれない。人質にしたとしても、それが通用するとは限らない。
 この屋敷も受けている依頼も何もかもを捨てて全力で逃げる。
 最大の札こそ切ってしまったもののまだ幾つかの手札を残している、そんな今の状況だから逃げ切れる可能性は高いはずだ。
 そして、少なくともその選択は間違いではなかった。





 呼吸ふたつ。
 全身が冷たくなり、世界が見えなくなる。
 落ちてゆくような錯覚に、すべてを失いそうになる恐怖に、だからこそ紅葉は踏みとどまった。
 ぼやけたかつての記憶は、決して忘れてしまったわけではない。
 たった呼吸ふたつでもう、可憐なくちびるが呟いた。
「わたしは望む」
 それは己の言葉の持つ本来の威力を解き放つための鍵だ。
 そして続けるのは、勾玉へと封じられる前に七人で確かめ合ったもの。
「まつろわぬものはこれに」
 この十と一言は力の及ぶ限りありとあらゆるものに抗う。周囲に存在して干渉して来るすべてのもの、重圧の呪が、香が、呪紋が、隠しカメラが、皆ことごとく消し飛ばされた。
 強過ぎる力の余波を受け、紙縒りが解ける。解放された黒髪が幾筋か白い頬にかかる様は幼くもどこか艶めかしく。
 紅葉は背を伸ばし、くちびるを噛み締めた。
「……ごめんなさい」
 泣き出しそうに囁く声がこぼした言葉を、紅葉自身は傲慢なものだと思う。なぜならば、それはなるたけ穏便に制しようなどと考えていたことへの謝罪だからだ。
 紅葉は言霊遣いではない。巫女としての素質である世界そのものへの親和を核に、幻視や言霊などあらゆる術法の大基盤となる要素を用いて我流の一体系を成す始祖である。こと術才だけを見るならば、年端も行かぬからこそ言霊を本来の威力で行使したときには長姉のような手加減がまだできないでいる、そんなものを欠点として挙げるしかない領域にいる。
 胸へ招き入れるように右手で虚空を掻く。その手の内には世界に満ちる力が溢れ流れるほど掬われて目に映るまでの煌めきとなり、すぐに十体の真白な鼠が床へと跳び下りる。
 続いて五羽の雀、三頭の犬、最後に虎。
「お願い」
 祈るような吐息。紅葉はまだ望んでいる。
 誰もがもっと許されていい。
 虚空より打ち出された式神は、命を果たすべく目にも留まらぬ速さで散った。







[26080] 「その頃」
Name: 八枝◆767618cd ID:da250079
Date: 2016/03/11 22:56




 時は少し遡る。
「さすがは紅葉、見事なもんね」
 樹の陰から煉瓦造りの屋敷を見上げ、千草が当然とばかりに頷く。
 身体にぴたりと沿ってラインを浮き上がらせるノースリーブシャツは襟刳りも深く、豊かな胸の谷間を垣間見せている。ミニスカートから伸びた肉感的な太ももはスパッツが覆い、足元は使い込まれたスニーカーだ。なんとも活動的な出で立ちである。
 さも分かっているような口ぶりであるが、実のところ屋敷に張られた結界の質の変化などまるで読み取れてはいない。ここに辿り着いたばかりの頃には認識できなかった建物を先ほどしかと目に収められるようになっただけである。
「そのようです」
 頷くあやめにも結界の作りが分かるわけではない。しかしこちらは最初から屋敷が見えてはいた。
 白いシャツとジーンズというあまり変わり映えのしない服装で、表情もいつものように禁欲的に引き締められている。
「いつ突入しますか」
「うぅん……紅葉には五分くらい時間をおいて欲しいとは言われてるわけだけど……やっぱり心配ではあるわね、性格的に」
 千草は困ったように眉尻を下げた。
 術を行使することさえ心に決めれば、全力を出さずにいてすら紅葉の力量は凄まじいものだ。術にせよ武器にせよ、至近距離から不意打ちで大威力の攻撃でも受けない限りはその身を傷つけさせることすらあるまい。そして負傷や苦痛に容易く屈するような精神の持ち主でもない。
 しかし、紅葉はなるべくなら傷つけずに終わらせたいと言っていた。その心根の優しさは得難いものだが、果たして今回の相手はそれを見逃してくれるだろうか。
 一昨日、撫子が学校でこの件に巻き込まれている生徒をもう一人見つけ出した。亜里沙と同じ立場である。そしてその子から聞き出せたのが外見的特徴だった。
 実のところ、これは駄目かと思ったのだ。見た目くらいならば紅葉に頑張ってもらえば亜里沙からでも聞き出せる。
 ところがこれを巌に伝えて調べてもらった結果、一応一致するとして馬込涼河という名が出て来たのである。
 理由は単純だ。
「荒水波のブラックリストに載ってたってことは、つまり一度見つかっておきながら今まで逃げていられたってことで」
「強い、というよりも強かなのでしょう。生き抜くための覚悟が余程固いのかと」
 単純な強さや戦いの駆け引きで荒水波を凌ぐことはほぼ不可能だ。荒水波は最強である。その手の内に捕らえられれば、どれほど卓越した術者でも終わりとなるのだ。
 だから、馬込涼河は自分が荒水波の視界内に入ってしまったと自覚した瞬間に逃げ、身を隠しながら生きて来たのだろう。
「……もう行っておきましょうか。屋内戦闘は苦手なんだけど……ならないことを祈っとくわ」
 やはり姉としての心配が勝る。三分は待ったしこれくらいならもういいわよね、と自分を納得させた。
「でもあやめ、うっかり結界壊さないでね?」
「心得ております」
 軽口にも真顔で答えるあやめに思わず苦笑を漏らし、千草はそこから一歩を踏み出した。





 鍵は開いている。
 閉めたかどうかは知らないが、常に開いているように今は設定されている。
 入ってすぐの場所に監視カメラも設置されていたが、それも誤魔化されているはずだ。
 いずれも密やかに紅葉の成したことである。
 二人は無造作に歩んでいるように見えながら足音もなく、目配せで進行方向を決める。
 広い屋敷ではあるがそれでも高は知れ、二階までの吹き抜けとなっている空間まで辿り着くとすぐに左手奥から続く廊下より扉の閉まる音とこちらに小走りに駆けて来る足音がした。少し戻って扉の陰に身を隠せば、近付いても気付くことなくそのまま右手奥へと。
「左奥の部屋に紅葉がいるのかしら? 右に走って行ったクラスメイトは……」
「屋敷の主を呼びに行ったのか、それとも主は既に紅葉と対面しているのか。私が左へ参りましょう。姉上は右の様子を」
「了解」
 そう呟き、千草がやはり音もなく動き出す。
 紅葉が監視の術や機械を騙くらかしているのは、さすがに自分自身が通った場所だけだろう。ここから先はいっそう気を付けなければならない。
志那都比古シナツヒコ様、お力を」
 ミニスカートが揺れ、屋内であるにもかかわらず、ふわりと風が吹いた。その流れる先の感触を、千草は触覚にも似た感覚で受け取る。
 これは千草独自の術法の一端だ。全般的な術そのものはさほど得意ではないが、半ば天性の異能と言ってもいいこれだけは次元を異ならせる。
「……よし」
 小声で呟く。
 決して鋭敏に知覚できるわけではないものの、少なくとも壁や床、天井から突き出した異様なものは存在していないことだけは確認できた。
 その間にも壁沿いにするすると歩み、亜里沙が部屋に入るところをかろうじて把握、どうしようかと少しだけ思案した後で小さく笑う。
 カメラの有無を今度は視覚で確認してからドアの前に立ち、左手で軽くノック。後ろに回した右手には、どこからともなく現れた短刀。
 返事はすぐに来た。
『はい?』
 戸惑ったような声とともに内側からドアを開けたのは亜里沙だった。千草の顔を見てさらに不思議そうな顔になる。
「えっと……誰ですか?」
「紅葉の姉の千草です。妹が心配でこっそり付いて来ちゃった」
 にっこりと笑いながら後ろ手の短刀を消す。
 返事もドアを開けるまでの時間もごく短かったということは、室内には無用心を止める者がいないということだ。馬込涼河の側の存在がいる可能性は低い。
「でも見つかっちゃって、ここで待ってろって言われたんだけど、入っていいかな?」
 さりげなくドアを少しずつ大きく開け、目の前の亜里沙にばかりではなく他の三人にもこちらの姿を見せて微笑みかける。特に男子二人に目をやるときには、だめ? と少し甘えるように。ちなみにその一方とは昨日会っている。
 効果は覿面だった。
「って、昨日のおねーさんやん。どーぞどーぞ座ってください!」
「え、なに? お姉さんがこれやと巫女姫様ってほんまに可愛いん?」
 露骨に目の色が変わっている。
 亜里沙も残る最後の一人も面白くはなさそうだったが、さすがにそこまで慮ってはいられない。
 彼らの安全を確保することは千草とあやめの役割のひとつである。ひとかたまりになっておいてくれたこの僥倖を生かさない手はない。
 素早く部屋の様子を確認する。
 窓はない。ごちゃごちゃとタペストリーによって飾り立てられた壁には、果たして何があるのやら。霊的・呪的な何かは感じないものの、隠しカメラくらいならばどこかに仕込まれているのではなかろうか。
 もう見つかっていると仮定して、この子たちを守らなければならない。突入前の言葉通りに屋内戦闘は苦手としているのだが、背に腹は代えられない。
 できればこのまま説得して外へ連れ出すことができればいいのだが。
「けど、もしかしておねーさんも騎士とかやったりして」
「え、いやー、違うと思うけどねー。それよりできれば一か所に固まっといてくれると嬉しいかな」
 非常に大きな労力を必要としそうではあったし、説得の暇もない可能性が高い。
 千草はドアを振り返った。
 その向こう、比較的遠くから重い破壊音。
「うわ、もう何か来たわけ……?」
 思わずぼやいた。



 ドアが閉まるまでのやりとりは、あやめにも聞こえていた。
 随分と思い切った行動に思えるが千草のことだからうまくやるのだろうと信用し、自らは左へと向かう。
 しかし五歩歩んで、足を止めた。
 急速に張り詰めてゆく空気。気配がある。
 いや、気配と呼ぶには少し違和感を覚える。肉体的な息遣いというよりも、意識だけがこちらを見ているような。
 なにはともあれ、おそらくは見つかったということなのだろう。
 動かぬままにあやめはその何かを探る。術でも異能でもない、人が当たり前に持つ感覚を研ぎ澄まし、察する。
 右手手前の階段ではない。左右の奥でもない。無論、背後でもない。
 吹き抜けとなっているこの空間、一階部分は壁に絵画が飾られているだけだが、二階に当たる高さには窓が一つある。それも大きい。
 その窓で、影が動いた。
 甲高い破砕音。高度の差など存在しないかのように直線的に迫り来るもの。
 あやめは退るのではなく、むしろ斜め前方へと跳んだ。降って来る硝子を浴びない位置だ。
 襲撃者のあるならば、それが紅葉や千草の許へ行かないようにしなければならない。右手を握れば虚空から染み出すようにして現れた刀の柄の感触。即座に振り返り、目の当たりにしたのは重い音とともに床が砕ける様だ。
 そこにいたのは奇妙な姿だった。
 人に似た形はしている。腕は二本、脚は二本、紺のスーツを着込み、革靴を履いている。
 しかし袖から覗く手には木目。目のようなもの、口の如きものが刻まれた顔にも木目。その顔は仮面にも等しく、表情は見られない。
 『それ』は機敏に身構えた。ねじくれた柄の戦鎚をゆらゆらと揺らめかせながら、瞳のない溝をこちらに向けている。
 対してあやめは正眼に構えた。
 す、と双眸が緩やかに細められ、黒瞳が奇怪な存在を素直に映し出す。
 正体は分からない。木を用いて造られた人形が動いているということだけが確かな事実だ。
 式神の一種だろうかとまずは考える。
 文化や体系によって呼称も分類も異なるが、式神と呼ばれるものは術者の使役する霊的存在である。術者の創り出した疑似生命であるか、あるいは意思を持つ妖や精霊が使役されている場合も当てはまる。
 後者は勿論、前者も力の程は千差万別だ。最低限の自律機能を与えられて目鼻の代わりをするだけのものから強大な戦闘能力を有するものまで、術者の力量によって大きく異なる。
 このとき大抵の術者が寄り代を用いる。あらかじめ術を施しておいた物を核とすることにより、力や機能を大幅に強化するのである。多いのは作成や持ち運びの簡便な呪符だが、そこで手間暇をかけた人形を用いれば極めて優秀な式神が出来上がる。
 それが今目の前にいるこの人形なのではないかと推測したのだ。
 もし推測が正しいのであれば、あやめにとっては本来組みし易い相手である。が、今はそうもいかない。
 全力を出せばこの館を包む結界もおそらくは破壊されてしまう。当然馬込涼河は気付くだろう。それは紅葉の危険に繋がる可能性がある。
 実際にはちょうどこの時点で涼河が結界の異変に気付いたのだが、それを可能性の一つとして推測することまではできても確信には至らない以上、あやめとしては紅葉を優先したいのだ。
 あるいは早々にこの人形を片付けてしまった方がいいのかもしれないと思わぬわけでもないのだが。
 じり、と幅の半分だけ足を摺る。
 途端に人形が跳んだ。何の予備動作もなく前方、あやめの方へ。大気を唸らせ鉄槌が振り下ろされる。
 初動を読むことができないその一撃は、素人よりもむしろある程度の腕に達した者にとってこそ恐ろしいものだ。見えるはずのものが見えないことによって虚を突かれてしまうのである。
 だが、あやめはいつもの禁欲的な表情で静かに見据えていた。身体ひとつ、その幅だけするりと右に動く。
 いつかは来るであろうとは判っているのだ、読めずとも不意打ちとはならない。ならぬほどの腕にまで達している。
 身ひとつ分の移動とともに刃が閃く。鎚が床を砕くよりも早く、こぼれ落ちる光が人形を撫でた。
 あやめはほんの僅かに眉を顰める。
 音と感触はあった。しかし人形は頭部の半ばまで断ち割られながら跳び退っていたのだ。先端に重心を置く鎚をあれだけの速度で打ち込んでいながら、床に打ち付けてしまうよりも早く制動をかけ、慣性を殺し切って間髪入れぬ次の動きにまで繋げてみせたのである。
 解せない。
 たった一度の交錯ではあるが、この人形は些かならず異常だと思えた。
 創生された式神の強さというものは、結局はどれほどの出力を持つかに拠るところが大きい。速く、重く、傷ついても倒れないことが強さに繋がるのだ。
 確かにこの人形も速くて力強いが、それよりもむしろこちらを慎重に窺うような雰囲気がどうにも強い気がする。
 創生型式神との戦いは嵐のような攻撃をかいくぐって一撃を打ち込む形になるのが普通だというのに、これではまるで人間を相手にしているようだ。
 余程高度な戦闘式でも組み込んであるのだろうか。
 答えの見出せようはずもなく、またも互いに機を量る。
 だが、機が来るよりも早くあやめの後方の廊下で扉の開け放たれる音がした。次いで駆け去る音。
 そして、妹が全力で扱う膨大な霊気がここにまで届き、肌に響くようだった。
「……紅葉の思い通りにとはゆかぬか」
 優しい妹のことを思って呟くも、まなざしは揺らがない。
 緩やかに長く、息を吐く。
 これでもう全力を出しても構わないということだ。







[26080] 「水波」
Name: 八枝◆767618cd ID:da250079
Date: 2012/07/02 00:01
 白鼠がちょろちょろと走る。
 屋敷中を駆け巡り、狭い隙間にも入り込んで紅葉の脳裏に屋内の構造を完成させてゆく。加えて行方不明の子たちの捜索も兼ねる。
 雀は壁を抜け、外から屋敷を観察して屋内の情報と統合することで屋敷全体を捉え、同時に周囲を警戒する。
 犬はその鼻で亜里沙を追い、姉たちと合流してともに護衛する。
 そして虎の役目は、馬込涼河を可及的速やかに取り押さえることだ。







 涼河は裏口から外へ出る。
 当然のように逃走経路は準備してある。獣道を幾つか利用することによって出られる空間に、バイクを一台隠してあるのだ。
 そこから先は分からない。国外に飛ぶにはまず本州へと渡らなければならないが、読まれる可能性は高い。少なくとも一度四国を経由すべきだろうか。
 苦く口を歪める。
 あの少女を入れるべきではなかった。中学生がたった一人で乗り込んできたことで、組織ぐるみの可能性は低いと判断してしまったことも間違いだった。
 こういった失敗は稀にある。裏に生きる人間にとって慎重さは非常に重要な資質であるが、同時に死地に飛びこめないようでは意味がない。命を賭けたくないのなら、こちらへなど来ずに最初から真っ当な職に就いて真っ当に働いておけばいいのだ。
 だから涼河は何十度と賭けをし、何度も追い詰められて来た。
 今回も賭けに乗るだけの魅力はあった。今集めているのは強い魂を持つ子供だ。亜里沙の話からだけでも大きな霊力を有しているのであろうことが推測できる如月紅葉という少女は、手に入れることさえできればもう今回の仕事は切り上げてもいいと思えるほどに魅力的だった。
 ただ、蓋を開けてみれば大きな霊力などという生易しいものでは済まされなかっただけだ。
 本当に、こういった失敗は稀にある。
 そしてそれでも今まで逃げ延びて来たのだ。今回もそのつもりでいる。
 まずはバイクまで辿り着かなくてはならない。それには護衛が、護衛としての命を与えてある人形がどれほどの時を稼いでくれるかだ。
 荒い息の中、不意に舌打ちが漏れた。
 すべてを投げ捨てて逃げる涼河とて、惜しいものはある。その中でもあの人形は格別である。
 あれは、涼河の珠込への最後の未練だ。
 珠込の造る人形は通常の式神とは異なる。霊木を削り、組み合わせ、磨き、化粧を施して衣を着せ、術を施すうちに、人形には心が生じる。付喪神にも似て、魂を持つのだ。珠込たまごめとは魂込たまごめなのである。
 あの人形は涼河が霊木を削って組み立てたものだ。その時点でもう二十年以上のブランクがあったため、特に顔などは酷くて結局仮面のようになってしまった。そこに服従の呪縛で縛った人の魂を入れることによって動かしている。正確には、人の魂を入れたと聞いただけで、本当にそうであるかは怪しいが。
 無論のこと、人形に魂を封じ込めたのは涼河ではない。今回の仕事の依頼者でもある男だ。あのときは対価として赤子を二十、攫って来ることになったものだ。
 その甲斐はあった。どんな魂が使われているのかは分からないが、充分に護衛の役割を果たせるほど高い戦闘能力を人形は有している。
 しかし結局、護衛人形は作品として何もかもが珠込に及ばない。それでも涼河は外法で造られた己が人形に昏い愉悦を覚えていたのだ。
 そして、その愉悦を捨てても涼河は今走る。
 獣道まであと僅か。入ってしまいさえすれば地の利のある自分に追いつける人間はいないはず。そう思ったときだった。
 重く、軽快な足音がした。しかも四つ脚の。
 背後からの衝撃。涼河は吹き飛ばされて前方の樹に叩きつけられた。
 息が詰まる。苦鳴を堪えて転がれば、仰向けとなったときに肩を押さえつけられた。
 目の前には白い虎の顎。
 しかし食らいつくことはなかった。替わりに声が響いた。
『降伏してください』
 あの少女の声だ。
 ということは、この虎は式神か。
 思わず口許が笑みを形作った。なんと緻密な霊力で構成されているのだろうか。この虎一体ですら自分の全霊力を上回っているに違いないのだ。
 そして美しい。実在の虎の持つ機能美とともに、俗世を忘れさせるような、畏怖を覚えさせるような幻想を体現している。
「嫌だと言ったらどうなるのかな?」
 苦痛に口許を歪めながらも挑発する。弱点はもう分かっているのだ。決してとまでは言わないが、あの少女に自分を殺すことはできない。
「殺すのかね、私を?」
『そんな……わたしはただ、やり直して欲しいだけです……』
 案の定、健気なほど真摯にそんな言葉が返って来た。
「ふ……くくっ。生きて償えとでも言いたいのかね」
 失笑する。これが笑いを漏らさずにいられようか。そんなお約束のような台詞を、二十年も生きていない小娘に言われて。
 とりあえず打ちのめしておくべきではあるだろう。いくら甘いとはいえ力の方は桁外れ、霊力も術の腕も常軌を逸している。逃げようとする前に心を大きく傷つけておいた方がいい。
「君の言霊で強制でもしてみるといいさ。容易いだろう」
『そんなことしません……それじゃ何の意味もないじゃないですか……』
 泣き出してしまいそうな声だ。この式神の向こうでどんな表情をしているのかも目に浮かぶようだった。
『あなたにだって何か理由があったんだと思います。だから……』
「だから何だというんだ」
 人の善性を信じているというより信じたい性質か、と涼河は読む。
 理由ならば当然ある。よんどころない理由には、どんな道筋によってもまったくもって辿り着かないが。
「随分と高みからものを言うんだねえ。その日食うものに困る人間の気持ちが分かるのかね? 悪以外に生きる術を持たない者の思いが分かるとでも?」
 涼河の言葉は相変わらず詭弁と戯言である。頭はいいが人の好さが邪魔をする、そんな相手に真っ当な論理は必要ない。もっともらしい言葉を並べて非難し、その空気に呑み込んでしまうのがいい。
 だが、その目論見は完全には果たされなかった。
『食べ物に困る気持ちなら分かります……でも空腹はあなたのやって来た方法でしか解消できないものではないはずです』
「そういうことを言ってるわけじゃないんだがねえ」
 涼河にしてみれば食うに困ったことがあるとは思えない少女がなぜか食らいついて来たことに少し驚きながらも、動揺は見せない。
 さらに続けようとして、ふと思い直した。
 改心したように見せかけて見逃してくれるように頼みこんでみたら、案外聞き入れてくれるのではなかろうか。
 自分の半分にも満たない歳の少女に土下座するなど造作もない。大層なことだと思うからいけないのだ。みっともないだとか、逆にだからこそ格好良いだとか、その両方を涼河は嘲笑う。いや、利用し易いという意味では有り難いか。
『お願いです、降伏してください……!』
 紅葉の声は哀切すら帯びて聞く者の胸を締め付ける。
 しかし同時に強引だった。もっとゆっくりと筋道を追って思いを告げたならあるいは、大抵の者は聞き入れたかもしれないが。
 馬込涼河はただ、どうすればその悲痛を最もうまく利用できるかを考えるばかりで。
 だからなぜ強引であるのか、そう急くのか、理由に気付かなかった。
『お願いです、早くしないと……』
「いや、もう既に終わりや」
 低い声が降って来た。理由がやって来た。
『巌さん、あと少しだけ……』
「これでも大目には見た。約束や。屋敷の外に出したらおれの管轄にする、てな」
 涼河は知らない。
 ブラックリストに載せてある標的を見つけたならば、当然この一帯を預かる和泉家が仕掛けるという流れになった。そこで紅葉が無理を言ったのだ。そして妥協点として示された条件のひとつが、標的を屋敷の外に出してしまったならそこからは完全に巌が始末を付けるということだ。
「約束や」
 巌は無情にもう一度それだけを繰り返し、別の言葉を続けた。
「クラスメイトのフォローでもしとくことやな」





 無言のままに白い虎が消え、背の痛みを堪えながら涼河は立ち上がる。
 そして先ほどからの声の主を観察した。
 巨漢だ。なんとも無骨なつくりの顔と身体で佇んでいる。
 簡素なシャツに浮かんで見える筋肉の束。太い腕、太い手首、握られた大きな拳。太い脚に巨大な足。そして頭が小さく見えてしまうほど太い首。風雪に削られながらも耐えた巨岩を思わせてならない。
 涼河も無数の修羅場をくぐって来たのだ、その体躯が見せかけのものであるか否かは判る。無論のこと、これは立ち塞がるものを物理的に打ち倒すことを目的として鍛え上げられた肉体であるに違いない。
 ならば、と涼河は即座に動いた。
 用いるものは、相手の認識を僅かにずらす術法だ。元々の術ならば十歩分でも認識を狂わせることのできた術だが、涼河が扱うと最大でも10cm程度にしかならないほどにまで弱体化している。
 しかしそれでいいのだ。肉体や近接武器を用いた攻撃のほとんどは、極められた一撃に近づくほど、必要なときに必要な打撃や斬撃を与えるようになるものだ。だから10cm外れただけでもその真価を発揮できなくなる。
 もちろん無傷ともいかないが、なまじ傷を負わせることが可能であるため逆に気付かれにくい。空間を蹂躙するような攻撃手段を持っている相手以外には非常に有用なのである。
「ゆらゆらと」
 発動の言葉が古神道の魂振りに似ているのも欺瞞に一役買い、当然ながら術そのものは多系統複合呪。余程のことがない限りは破られない。
 そのはずだったのだが。
 巌は左の眉をぴくりと跳ねさせると、右手を開いた。
「押し流せ」
 大きな掌から溢れ出したのは水。水流が巨体の周囲を三重の螺旋状に取り囲んだ。上端では虚空に消え、下端では虚空から現れる。
 ふ、と吸い込まれるような感覚。
 放った呪がその水に受け流されるのを涼河は肌で感じた。紅葉のときのような言霊ではなく術として確立されたものだ。
 反射的に跳び退る。
 様々な体系を修得して来た涼河は、自分自身は使えない体系についても非常にたくさん目にして来た。水は世界中どこへ行っても穢れを洗い流すものだから、水をもって無効化されたのだろうとは推測できる。
 しかし、今使われた術がどの体系に属しているのかは確定できなかった。神道に近い気はしたが何か違うと経験が告げている。
 それとともに、目の前にいる相手が強力な浄化術を容易く扱ってみせるほどの腕前であることに戦慄した。
「……君は」
「なりはこんなやが、おれはかなり術者寄りでな」
 体躯に相応しい声で飄々と。無論、今行ったことは術者寄りなどという告白で済まされるものではない。
 ならばと次に放ったのは、小鬼を顕現させる使鬼符だ。
 身の丈は子供ほどだが並みの男では相手にもならぬ膂力を誇る。四肢を引きちぎることまでは出来ずとも、むしゃぶりつけば骨をへし折り肉を抉ることができる。
 三体の小鬼は一斉に飛びかかった。
 呼応するように、水の描く螺旋が外へと大きく広がる。
 それは飛沫すら見せず、小鬼の二体を軽々と切り払った。頭に胸に腹に脚、何箇所もを霊刀の如き切れ味で斜めに輪切りにしたのだ。
 だがその二体を踏み台に、最後の一体が身軽に跳躍して上を跳び越え、肉薄する。
 しかしそれも、大きな手で頭を鷲掴みにされていた。
「おれは術者やが」
 そのまま地に叩きつけて首を踏み砕き、巌はぶっきらぼうに告げる。
「なりは一応こんなんでな」
 小鬼は断末魔の苦鳴もなく、あえなく薄れて消える。巨躯のもたらす体重と筋力、あとは物々しい靴に薄い金属板でも仕込まれているのかもしれない。
 そしてその間、視線は涼河から外されていない。この程度のことであれば慣れ切っているということなのだろう。
「……なるほど。強いな、君は」
 苦笑が漏れてしまったのはやむないところだ。
「随分と厳ついが、まだ十代だろう? よくぞそこまで鍛え上げたものだ。天地院には若き天才が一人いると聞くが、もしかして君がそうなのかね」
 天地院は陰陽寮の流れを汲む、政府と密接な関係を持つ退魔組織だ。大きさで言えば日本随一である。
 誤った称賛を口にしながら、涼河は攻略法を見出そうとする。
 戦って勝つのは不可能であろうから、もちろん逃げる手立てを探るのだ。
 その心の弱いところを探るべく、更なる言葉を発しようとしたときだった。
「投降か、死か。選べ」
 端的に、巌は告げた。表情を殺し切って、何も読み取れない。
 涼河はどちらとも答えなかった。
「容易く死を口にするのだね。君が死の何を知っているというのだ」
「特例や。お前の技術は役に立てることができるかもしれん。それまでは生かしても構わん」
 巌も返答しなかった。決定事項を淡々と告げるのみだ。
 そして繰り返す。
「特例や。まだ生かしても構わん」
「……本来は殺すのが前提と言わんばかりだねえ」
 殺気はおろか嫌悪すら感じないことが何よりも不気味に思えた。
 こんな例に出会ったことが今までにあったろうかと自問、一つだけ思い当たる。
 軍人だ。それも、表には出せないような案件を無感動に処理する類の、並みの兵士などとは隔絶した。
 術の心得はなかったため、逃れるのにはそれほど苦労しなかったおかげであまり意識に残らなかったのだ。
「――――須らく滅すべし」
 不意に巌が言った。
 その音はどうしようもなく不吉に響いた。
「人の世に災いを為すもの全てを、須らく滅すべし」
「君は……」
 記憶の隅で警告が火花を散らした。
 知らず、身体が震えた。握り締めた右手も震える。
 何よりも『これ』を恐れていたはずだ。全ての可能性を考慮すべしと自戒してなお、奥底に押し込まれてしまっていた相手だ。
 口許だけが歪んだ。
「……君はまさか、天地院ではなく……」
「荒水波や」
 それは涼河にとっての最悪を示す名だ。
 涼河だけではない。日本国内で霊的な事象に関わる者にとって、荒水波の手の内に捉えられるということは死を意味する。
 荒水波は苛烈だ。標的を葬ることが六の民を救うことに繋がるならば無辜の四を犠牲にする、そんな手を一切の惑いなく行ってのける。
 標的に対して容赦などするはずもない。生かすことがあってもそれは益になる間だけ、結局は全てを絶ち、滅ぼし去るのだ。
「選べ。投降か、死か。動けば殺す。投降以外の言葉も殺す。五秒過ぎても殺す」
 先ほどから巌が宣告している通りであるのだ。死ぬのは今がいいか、投降してもう少し先になるのがいいかを問うているのである。
 涼河は今まで、何が何でも生き延びて来た。絶望的な状況など幾つもあった。それでも諦めなかった。
 その涼河をして、為すすべもなく意思が挫かれていた。
 降った振りをして隙を見て逃げる、それが馬込涼河という男が迷いなく選ぶ選択肢であるはずだったのに、冷酷に時だけが刻まれる。



 荒水波は絶望的なのではない。
 絶望であるのだ。







[26080] 「夕暮れ」
Name: 八枝◆767618cd ID:da250079
Date: 2011/06/12 11:15




 紅葉は自らのことを名前で呼ぶ。
 それは往々にして幼さの現れであると人には見られ、あるいは侮られることもある。
 仮にからかわれることがあっても紅葉は何も言わないし、改めることもない。
 理由がある。
 己を『紅葉』と第三者的に語ることによって意思の在処をぼかし、言霊の力を削ぐ鍵とするのだ。
 誰も操ってしまわないように、誰にも強いたりしないように。
 強過ぎる言霊を扱うからこそ、紅葉はただの言葉の方が難しくて好きだった。
 いつか自分の言霊をすべて掌握できるようになるまで、紅葉は自らを名前で呼び続ける。





 事件は終了した。
 屋敷の地下室からは、術で昏睡させられた上で中心静脈栄養によって生かされていた行方不明の五人も見つかった。
 医療手技にまで通じているとは、馬込涼河という男は本当に多芸であったのだと、ある種の感服も覚えないでもない。
 ともあれ平和な日常が還っては来たのだが。
 巻き込まれた者には記憶が残っている。
 千草による説明で皆、最終的に一応の理解は示したものの、問題がすべて消えるわけではない。
 心は理屈だけでどうにかなるものではないのだ。
 赤々と、春の西日の差し込む教室。生徒は既に三々五々に散り、最後から三人目も立ち去って残っているのは紅葉と今日の日直だけ。
 今がチャンスだ。
「……あの……」
 西丸亜里沙に声をかける。
 びくりと、亜里沙は肩を震わせた。振り返るのはとてもゆっくりで、こちらを向いた顔には何とも言い難い笑み。
 困惑を残しながら、自嘲するような。
「……あたしに何の用なん?」
 その口調にも明らかな棘がある。
 紅葉は小さなくちびるを震わせ、しかし今更になって何を言っていいのかは分からなかった。いつものことと言えないこともないが、こんなときでも何も浮かんでくれないのだ。
 ただ見つめるだけ、何かを言おうとしているだけで、立ち尽くす。
 亜里沙は鼻を鳴らした。
「笑えた? 最初から分かっとったんやろ? 違うて言うてたもんな」
「……全部じゃ、ないですけど……でも笑うなんて……」
 蚊の鳴くような声はまともには届かない。気弱に見つめる視線も容易く振り払われる。
「で、あたしのは妄想で如月さんはほんまに特別って? 笑えてしゃあないやろ?」
「そんなこと……」
「間違いなく特別やんか」
 吐き捨てるように亜里沙は言う。激昂こそしないものの、それを煮詰めて濃縮したような、粘りつく口調だ。
「よう分からんけど、何か術とかも使えるんよな? あたしみたいな偽物と違て?」
「それは……」
 紅葉に自分が特別であるというつもりはない。だが、そう思っていることと客観的にそうであることとは異なる。
 術法を行使できること。そればかりではなく、亜里沙の知らぬことではあるが本当は二千年前に生まれて、神や精霊の近くに暮らして、九年前まで勾玉の中で眠っていて。これを特別ではないと思う人などほとんどいないだろう。
「でも、紅葉は……」
 それでも否定しようとして。
 今度は亜里沙の頬をこぼれ落ちるものに言葉を失った。
「ずるい……」
 絞り出すような、かすれた声が胸を締め付ける。
「……なんでこんなに差があるんよ……如月さんはそんな綺麗でさあ、頭も良うて特別な力もあって……」
「西丸さん……」
 亜里沙の本当に求めているものが戦う力や術法の類であるわけではない。もっと漠然とした、そしてささやかなものだ。
 誰だって今よりも素敵な自分でありたいのだと、あるいは特別な人間でありたいのだと紅葉は思う。
 紅葉自身にしてみても、好き好んでこんな内気な自分でいるわけではない。千草や撫子のようにまで社交的にとは思わないくとも、クラスメイトとくらいなら気負わずに喋れるようになりたい。
 努力すればいい。そう、誰しもが言うだろう。
 そうなれるよう努力すればいい。それは間違いなく正しい言葉であるのだが。
 そんな誰にでも言えて誰でも知っているようなことは、もう自分でそうすると決めた者の背を押す役にしか立たない。まだ何かが見えているわけではない誰かにとって必要なのは、そんなものではないと思うのだ。
 紅葉はおずおずと手を伸ばし、亜里沙を抱き締めた。亜里沙の方が背が高いせいで抱きついているようにも見える。
 さすがに虚を突かれたのか、頬を濡らしたまま亜里沙はうろたえた。
「っ……」
「……紅葉が泣いてると……姉様はいつもこうしてくれました……」
 身じろぎする亜里沙を、紅葉は離さない。たどたどしく、語りかける。
「一番大事なことなんだって、言ってました……」
「一番、大事……?」
 亜里沙は戸惑う。こんなことをされるとは夢にも思わなかったのだ。
 しかし次の言葉にこそ最も混乱した。
「もし紅葉を特別だと言うのなら……紅葉の友達であることは特別になりませんか……?」
 見方によっては傲慢とも言える台詞だが、惑った理由はそこではない。
「……友達……?」
 二人は親しくもないクラスメイトであり、騎士の生まれ変わりなどというものが偽りであった以上、亜里沙としては今もそれ以外の何ものでもないつもりだった。
 だが紅葉は訥々と、囁くように続ける。
「栗饅頭……好きなんですよね……? 紅葉が南瓜の甘辛煮を好きなのを知ってるの、家族以外はほとんどいないです……」
「如月さん……」
 どきりと鼓動が跳ねる。首筋にかかる吐息はくすぐるようで、鼻腔にはほんのりと清々しい薫り。
 何よりも必死なのであろうことが言葉ならず伝わって来る。何も特別な力などなくとも分かることはあるのだ。
「それでも、友達じゃないですか……?」
 細く、静かな声だ。
 そして優しい。
 不意にまた涙が溢れて来た。
「あたしが友達でええんかな……釣り合えへんことない……?」
「……友達に釣り合うとか釣り合わないとか、紅葉にはよく分からないです……」
 紅葉の言葉はあくまでも訥々として、囁くようで。
 艶やかな黒髪が、亜里沙の揺らぐ視界の中でやわらかく夕陽に染められていた。





 同じ夕陽の中、道路に揺れる影二つ。
「それにしてもさ、イワちゃん」
「ん?」
「報われないわね」
「……何がや」
 千草の唐突な台詞に、巌は眉を顰める。
 またも昇降口で出くわしたのはいいとしても、なぜまた今日も付いて来られているのか分からない。事件はもう終わったはずだ。
 しかし千草はきゃらきゃらと笑う。
「ほら、警察にかけ合って行方不明者とか無理に調べてくれたの、紅葉のためでしょ? でも紅葉的には結局イワちゃんへの好感度下がってるんじゃないかなあ……って思って」
「そもそもそういう気はない。何遍言えば分かる?」
 巌には理解できない。本当に、なぜこうも色恋沙汰に結び付けたがるのか。
 紅葉に弱いのは自分でも認める。あの懸命な姿を見れば手助けしてやりたくなるのは確かなのだ。
 ちらりと千草を横目に見下ろせば、思いもかけず静かな表情。
「紅葉もね、もうちょっと大きくなれば納得できるようになるんじゃないかなと思う。元々あたしたちが生きてた環境は、むしろ今のイワちゃんより生死が容赦ない世界だったし」
「いや」
 言わんとすることを汲み取り、巌はかぶりを振った。
「一生分からんでええ」
「え?」
 千草がきょとんとした顔を見せるが説明はしない。
 紅葉は優しい子である。撫子のように無邪気なわけでもないのに、馬込涼河にも機会をなどと望んでしまうほど心根から蕩けるように甘い。
 それでいいのだと巌は思っている。その優しさの何を笑おう、何を責めよう。
 殺す覚悟だの殺される覚悟だのと、そんな碌でもないものを腹に呑まなければならない人間は少ないほどにいい。荒水波の苛烈と冷酷の理由の一つはそこにこそある。
 優しい誰かの心が惨劇の引き金になるのなら、その分の血と悪名も被ればいいのだ。
「ならな」
 道の分かれ目に辿り着く。巌は振り向くこともなく手を上げることもなく、そのまま大股で歩いてゆく。
「じゃあね、イワちゃん」
 一方、千草はひらひらと手を振りながらその大きな背中を見送り、随分と小さくなってから大きく息をついた。
 それから社への道を行こうとして、もう一度だけ振り返る。
 背中はまだ消えていなかった。
 苦笑だろうか、微笑だろうか。どちらを浮かべたのかは自分自身でも分からなかった。
「……ばーか」
 どちらにせよ、呟きはやわらかに。







[26080] 幕間「洞穴にて」
Name: 八枝◆767618cd ID:da250079
Date: 2011/05/05 21:40





 思い起こす。
『お止しなさいませ』
 困ったように微笑む様も艶やかに、愁えげに告げる声すらも艶然と匂う。
 そして、緋の双眸はただただ優しく。
『伊吹の御神にはわたくしが取り成して差し上げます。お引き返しなさいませ。葛城の一言主様は力を奪われ屈服なさいましたが、伊吹の御神の神威は衰えておりませぬゆえ、その懐にある限りはあなたの身は守られます』
 秋の山は黄に紅に色づき、吹き抜ける風も涼を帯びて彼女のぬばたまの髪を揺らす。
 父祖たる伊吹の神の客人まろうどであるとだけ、そのときは知っていた。力を持て余して暴れ回る日々、それを理由に放逐されようとしていたときだ。
 無論、忠告など聞かなかった。





 洞穴。
 その奥底には外からの光など一切届かないが、彷徨う燐光がすべてを朧に浮かび上がらせる。
 大小様々の岩と石とが影を落とし、燐光はその影にも遊ぶ。
 ちろちろと流れる水に素足を浸して追想に耽る美丈夫が、ふと顔を上げた。
 煌めく魂が還って来るのに気付いたのだ。
 手を伸ばし、それを受け止める。
「もう戻って来たのか、虎熊」
 からかうように言えば、魂は不満げに明滅した。
 苦笑する。
「動きにくかった、か。そうであろうな、あのような木偶、それも出来損ないになど入っては」
 洞穴に豊かな声が響く。
「まあ、休め…………む?」
 魂が明滅する。
 美丈夫はその意図を確かに読み取り、秀麗な眉を顰めた。
「ふむ……健在なのか、荒水波は。まさかまだ俺を八岐大蛇の眷属と勘違いしているのではあるまいな?」
 また、魂が明滅する。
 美丈夫は呵々大笑した。
「違いない。そうでなくとも奴らの敵となるだけのことは、ああ、したとも。したともさ」
 貴族の姫をかどわかし、喰らい、すべてを常に正面から屈服させ、暴虐の限りを尽くしたものだ。
「ともあれ、休め。あれが魂を持って来てくれぬとなると、俺もまだまだここから動けん。茨木はどこへ行ったのかも分からんし、困ったものだ」
 やれやれと言いたげだが、浮かぶ笑みは太い。楽しくて仕方ないのを堪えているようだ。
 むしろ魂こそが、やれやれとばかりに大岩の陰に消えた。
 美丈夫は洞穴の天井を見上げる。
 人形を斬った娘の顔は先ほど伝わって来た。何とも凛々しく静かなまなざしで、堪らない。
「さて、今度俺を止めるのは誰だ。荒水波か、因縁の白鳥しらとりか。あるいは……これがえにしとなるやもしれんな」







[26080] 「天地院より」
Name: 八枝◆767618cd ID:da250079
Date: 2011/09/25 10:15


『あなたは特別な人間なの』
 脳裏を母の言葉がよぎる。
 あきらはその言葉を胸に落とし、夜の中を駆ける。左右を流れてゆくのは蔦の絡む木々だ。
 暗き森、深き山は未だまつろわぬ。何が出てもおかしくない。
 本来であれば警戒の術を幾重にもかけ、複数でもって臨むべきなのだ。
 だが晶は独りで駆ける。
『あなたは特別な人間なの』
 独りで成し遂げることを期待されている。
 初めて剣を握ったときのことは覚えていない。初めて大人を負かした歳ならば、八つだ。
 初めて術を教わったときの気持ちは覚えていない。至難と言われる孔雀明王呪を会得したのならば、十二の歳のことだ。
 天地院きっての天才。それが立花晶である。


 天地院とは、明治に入って陰陽寮が廃止される際にその流れを継いで密やかに形成された退魔組織だ。
 旧陰陽寮の人員を中心として、日本各地で降魔や調伏にあたっていた家を組み込み、またたく間に日本最大の規模にまで膨れ上がった。
 その武器は数だ。母数が大きいということは、あらゆるものの絶対数も大きくなるということでもある。
 卓越した術者の数も、異能持ちの数も、情報の量も網羅する範囲も、ほとんどのものが日本最大となった。
 だが同時に欠点も大きくなった。
 権力争いと、腐敗である。
 元々横の繋がりで形成された天地院は、結成当初から幾つもの派閥が存在していた。あるいは潰れ、あるいは統合され、それでも決してひとつになることはない。幾らでも新たに生まれ来て、争いを繰り返すのである。
 その闘争の申し子、現在の最大派閥であり天地院最高評議会の四割を占める遠野派の要請を、晶は受けた。
 標的は生成り、鬼へと変じかけている人間だ。極みに達した感情や、先祖返り、あるいは呪いなどの何らかの要因で人は鬼と成ってしまうことがある。
 まだ救える可能性もないではないが、人と鬼との間でもがき苦しむ生成りは大抵が心を壊し、結局は完全に鬼と成ってしまう。
 しかし、成るまではまだ人であるのだ。儚い可能性に賭けて呼び戻そうとすることはできる。
 もっとも、今回追っている相手は違う。卓越した術者が自ら望んで鬼へと変じようとしているのだ。当初はそのことに気付けずに人へ還そうとして、そこへ付け込まれて十名以上の死傷者を出した。
 その程度で済んだ、と言ってもいいのかもしれない。元から力を持ち、戦い方も知っていた男が不完全とはいえ鬼の身体能力と生命力までも手に入れ、しかも弱みを利用してきたということなのだ。
 そして、もはや並みの退魔師では歯が立たぬと、晶に要請が出たのである。


『あなたは特別な人間なの』
 逃れ続ける生成りを追い、ついには淡路にまで辿り着いてしまった。
 まともに刃を交えたのは一度きり、真夜中の明石大橋。手傷は負わせたものの、その一合だけで逃げられた。
 駆けながら、晶は生成りの力量を計算する。いかに逃げに徹しているからと言っても、自分の追撃をここまでいなして見せるなど、既に並みの鬼の力を軽く上回っているとしか思えない。
 頭の中に確たる基準があるわけではないが、分かるのだ。剣を振るうときのように、術を扱うときのように、なんとなく推し量ることができる。
 厄介だ。強いということもあるが、淡路島に入られてしまったことが何よりもやり難い。
 日本中をくまなく網羅する天地院であるが、例外となる地域が二箇所だけある。中国山地と、ここ淡路島だ。
 両方とも荒水波絡みである。縄張り争いになど興味のない荒水波も、本拠とこの始まりの島だけは天地院の好きにさせなかった。
 今、淡路に天地院所属の家は皆無だ。それは、他の地域でならば受けられる現地の家による支援がないということを意味する。
 そしてもうひとつ。
 淡路に入ってからというもの、胸の内から底知れぬ不安が湧き上がって来る。ざわざわと、じくじくと、恐怖にも似た何かが這い上がって来る。
 こんなものは知らない。今までに一度もなかった。幼い頃、明らかな格上とやり合ったときにも、こうではなかった。
 しかしそれでも何とかするしかない。
 不安を押し殺す。
 自分は期待されているのだ。
 頭上が開ける。
 金色の月が煌々と輝きを降らせていた。
『あなたは特別な人間なの』
 何度も母の言葉が繰り返される。
『あなたは特別な人間なの。だって……』
 亡くなった母の言葉。嬉しそうに語る言葉。
『だってあなたを身籠る直前に、白い鳥が母さんの中に入って来たのだもの』















 朝日が差し込む。
 ここは大蛇の異界。すべてが大蛇のものであるからには、陽光もまた大蛇のものだ。
 光はやわらかに瞼をくすぐり、若葉の意識を眠りの園から連れ出した。
 うっすらと目を明け、眩しそうに瞬かせてからまた閉じ。
「むー……あれ?」
 ぱちりと開いた。
 枕元の時計で時間を確認すれば、六時。
「寝坊したー!!」
 布団を撥ね飛ばした。
 如月家の朝は早い。個々人である程度の差はあるが、概ね夜明け前、五時くらいには起きている。
 慌てて寝巻から剣道着にも似た鍛錬着に着替え、部屋を出る。
 台所からはもう規則的な包丁の音が聞こえて来ていた。
「なあ紅葉、杏姉ぇ知らねえ?」
「……若葉ちゃん?」
 首を突っ込んで問えば、手を止めた紅葉は振り返って小首を傾げた。いつもの訥々とした口調で答える。
「どこにいるかは、調べないと分からないです……」
 去年から、食事の支度は主に紅葉が行っている。朝夕に一人だけ仕事の量が多いが、料理好きな紅葉自身は何ら負担には感じていない。
 そもそも自分から言い出したことであり、その華奢な身を割烹着に包み、台所はわたしの城とばかりにいつも上機嫌で鍋や包丁を扱っているのだ。
「杏姉さんは六人の中で一番早起きですから……」
「ちぇ……今日こそボコボコにしてやろうと思ってたのによ」
 口を尖らせる若葉にくすりと笑い、紅葉は俎板の上のものをひとつ、口許に差し出した。
 苺が若葉の瑞々しいくちびるをつつく。
 ほのかな甘い香り。決して濃厚に鼻腔を満たすわけではなく、おずおずとくすぐるような。
「若葉ちゃん、あーん……」
「んー」
 ぱくりと食い付けば途端に広がる上品な甘さと酸味。入り混じり、心を蕩かせる。
 またたく間に食べ終えてしまうと若葉は軽く右手を挙げた。
「そんじゃま、今からでもせめて走るくらいはして来る。あやめ姉ぇと遇ったら一戦交えて来てもいいかもなあ……」
「気をつけてね、若葉ちゃん……」
 見送る紅葉の表情は微笑ましげで、それでいて少し心配そうで、むしろ紅葉の方が姉めいて。
 一方、視線を背に飛び出す若葉には何の惑いもなかった。



 蔦の絡む木々が左右を流れてゆく。
『おはよう、姫』
『おはよう、若葉姫』
「おう、おはよう!」
 草の陰、木の股に顔を覗かせる毛むくじゃらの小さな精霊たちに挨拶を返し、若葉は朝を駆ける。
 その足取りに危うげなところはない。地を蹴って、行く手を遮る岩を跳び越え、その向こうへ消えてゆく。
 袴とは決して走り易いわけではない装いだというのに、信じられぬほどの速さで森を走破するのだ。
 そうそうできることではない。森自体も原生の森に近く、若葉たちが踏み入ることで道らしきものも形成されている、その程度のものなのである。
 しかし若葉にとっては長く親しんだ場所だ。極めて高い運動能力を持つこともこの速さの理由ではあるが、やはり慣れていることが大きい。
 とは言え、油断できるわけではない。
 大蛇の異界は決して、皆が仲良く共存する優しい世界などではない。奪うものと奪われるものとが存在する、生命の流転する世界だ。存在しないのは機械による開発くらいのものだ。
 その中で確かに若葉たちは特別な立場でありはするものの、それでも危険がないわけではないのである。
 緑、茶、黒みがかる灰色。やわらかな光の下、毒をも交えながら色彩豊かに森は息づく。肺腑を満たし頬を撫でる大気は、涼しく健やかではあるが。
 若葉は駆けに駆け、やがて目の前が大きく開ける。
 泉だ。信じられぬほどに透明な水を湛え、だというのに底が見えない。
 形は楕円に近い。人の背丈、およそ二十人分が長径となる。
 その畔に、求める姿のひとつがあった。
 姿勢良い長身、涼しげなまなざし。髪はすべて後ろへと流されて、秀でた額が露わになっている。
 若葉と同じ鍛錬着に身を包み、徒手空拳ながらもまるで居合いでも行おうかという体勢で、あやめはそこに静止していた。
 そして若葉が声をかけようとした瞬間、動く。
 刃の顕現と同時の薙ぎ。瞬き一つの間に手首を返し、今度は袈裟。そこで再び静止したならば、切先は微塵も揺るがない。
 やはり凄い、と若葉は思う。
 止まれば揺るがず、動けば剣閃は零れ落ちる光にしか見えない。速さを求めたがゆえの速さではなく、鋭さを求めて速さにも至った剣である。
 と、不意にあやめが声をかけて来た。少し低めの、静かではあるが不思議なほど朗々と響く。
「寝坊か、若葉」
 静止を解き、刀も消える。
 若葉はきまり悪げに小さく笑った。
「春眠……ほら、なんとか言うだろ?」
「春眠暁を覚えず、だ。もう五月も近いが」
「うん、そんな感じ。それより今日は何してたんだ?」
 本音が半分、誤魔化しがもう半分で問う。
 その誤魔化しを見抜きながらも咎めることはせず、あやめはもう一度、刀をその手の中に顕現させた。
「術の修練だ」
 この刀は今この時に創り出したものだ。紅葉の編み出した術のひとつで、単純に『武装法』と呼んでいる。
 ただ武器を創り出すだけ、ではあるのだが、存外に深い。習熟によって発展させることができるのだ。たとえば千草は、用意しておいた呪符を使用することによって大量の短刀を一度に生成し、手を離れた後もしばらく形を保つように工夫している。
 しかし答えを聞いた若葉は露骨に詰まらなそうな顔を見せた。
「えー、術かよ……どうせなら俺と模擬戦でもしようぜ」
「若葉」
 名を呼ぶあやめの口調は変わらない。だが、まなざしが少しだけ細く、厳しくなった。
「苦手なのは分かるが、お前や私のように不得手な者こそ修練するものだ。特にお前の場合は、本気で戦うなら正真正銘の生命線だろう」
「いや、まあ……そうなのかもしれねぇけどさあ……」
 若葉は柳眉を寄せて渋る。内心では理解できているのだ。認めたくないだけで。
 ただ同時に、本当に苦手なのだ。あやめは基本的なところを幾つかと、特に磨き上げている武装法、あとは異能混じりの術と呼んでよいのかどうか分からぬものを使えるが、若葉はたった一つしか使える術がない。決定的なまでに才能が欠落しているのである。
 そして、その一つが使えるのにも理由がある。
「紅葉の努力を無駄にしてやるな」
「う……」
 一番仲の良い、双子のようなと言われる妹の名を出されて言葉に詰まる。
 紅葉は常軌を逸した術才と、姉への愛情とをもって、若葉に必要であり、かつ修得できる術を創り上げたのだ。
「ああ、もう分かったよ! 三十分だけな、その後は模擬戦だからな!?」
「よかろう」
 あやめは悠然と頷く。
 が、ふと空を見上げて呟いた。
「……三十分も経てば朝食の時間になるような気もするがな」









[26080] 「隠形」
Name: 八枝◆767618cd ID:da250079
Date: 2011/08/21 15:27



 青空に輝く雲が眩しい。
 公彦は底なしの空を見上げて目を細めた。
 東西を校舎、北を渡り廊下に囲まれた中庭は、五月も近い今ならば色彩豊かである。校舎に沿っては常緑樹、中ほどには花壇が並べられ、同時にベンチも据え付けられている。
 色とりどりに咲き誇る花たちがその姿と甘い香りで誘うせいか、昼休みに弁当を食べに中庭へ出る生徒の姿はいつもより多かった。
 公彦は弁当を食べに来たわけではない。いい陽気にふらふらと出て来ただけである。
 日光は心地好いし空気も澄んでいる気はする。
 しかしクラスメイトや恋人と昼食を摂っているのであろうベンチに近づくわけにもいかず、うろうろと中庭を彷徨う破目になった。
 なんとも居たたまれない。正直、出て来てしまったことを早々に後悔し、なんとか格好だけ付けて校舎内に帰ろうとしたときだった。
 南東に据えられたベンチ。誰かが身体を横たえているのに気付いた。それまでは花壇越しで無人に見えていたのだ。
 調子が悪そう、という風には見えない。穏やかな寝顔で安らかな寝息を立てている。
 女子だ。学年章からすると一年生。
 見知らぬ女の子の寝顔を眺めているなどあまり褒められたことではないと承知していたはずなのだが、不覚にも魅入られて視線を外せなかった。
 可憐なのだ。髪は活動的に短く切られているし、一応はまだ春だというのにうっすらと日焼けしてもいるが、そんなことを忘れさせるほど令嬢めいて繊細に整った横顔。瑞々しく色づいたくちびるはほんの少しだけ開き、無垢な眠りの吐息を大気に溶かす。
 日焼けしている、と分かるのは制服の襟からちらりと覗く肩が驚くほど白いからだ。
 不意に罪悪感に襲われて周囲を見回す。
 こちらを見ている者は誰もいない。大丈夫だ。
 ほっと一息ついて視線を戻すと、少女が身じろぎした。眉根を寄せ、すぐにうっすらと目を明ける。
 公彦はまたもうろたえた。何をしているのかと問われたら、きまりが悪いなどというものではない。しかし逃げても既に顔を見られている以上はいつかは見つかるに違いない。
 その間にも少女は眩しそうに目をしばたたかせ、その美貌にぼんやりとした表情を浮かべて身を起こした。
 正面から見ると、今までの印象が一層強くなる。瞳に意識が徹ってゆくほどに鮮烈に引き締まってゆく。
 そして彼女はそのくちびるを開いた。
「俺に何の用なんだよ?」
「あ、いや…………え?」
 言い訳をしようとして、公彦は違和感に言葉を詰まらせた。
 口調が容貌とちぐはぐだった。まさか大雑把な印象の男言葉が出てくるとは思ってもみなかったのだ。
 が、違和感はすぐに薄れた。
「昼寝邪魔したんだから、用があるんじゃないのかよ?」
 何言ってんだあんた、とばかりに浮かべた苦笑は不思議と快活で、まるでやんちゃな少年のようで、なるほどと妙に納得してしまった。
「……男ちゃうよな?」
 どこからどう見ても女にしか見えないものの、念のためですらなく反射的に尋ねれば、返って来たのは当然のように否定だ。
「女だよ。ついでに言っとくと、男になりたいわけでもねえよ」
 豪快に大あくびをして、慣れ切った口調で答える。おそらくは昔から同じことを訊かれ続けて来たのだろう。
「それで、用事は? 果たし合いとかならいつでも受け付けてるぜ?」
「……なんで果たし合い申し込まなあかんの」
「理由は、まあ……適当でいいんじゃねえの?」
 冗談なのかと思いきや存外に真顔でそんなことを言う。なんとも変わった子だと思った。
 ともあれ、このまま立ち去れば寝顔を見ていたことは誤魔化せる気がする。
 表情が引き攣ってはいないだろうか、目が泳いではいないだろうか。これ以上不審に思われる前に距離さえとってしまえば。
「じゃあな、風邪引くなよ?」
 言い残して立ち去ろうとしたときだった。
『喧嘩だ!』
 昇降口の方で誰かが叫ぶ声がした。
「喧嘩なら俺も混ぜろ!」
 くわっと目を見開き、少女が獲物を追う肉食獣の如くに飛び出した。
 置いて行かれた公彦は、誤魔化す必要もなくなったことに安堵しながらも、何とも不思議な気分で少女の背を見送る。
「……何なんだ、ありゃ」







 学校内において殴り合いの喧嘩というものは、起こったとしてもすぐ終わる。
 なにせ顔見知りが多い。クラスメイトや教師など、即座に止めるべく行動する人間が多いのだ。あるいは、周りにいなくともすぐに呼ばれて来る。
 決着がつくまでやり遂げようとすれば、人目のないところを選ぶしかない。
 若葉が昇降口前に辿り着く頃には既に、野次馬の残りが興奮気味に様子を語り合っているだけだった。
「どうせこんなオチだろうとは思ったよ……」
 見るからに肩を落とし、呟く。
 喧嘩に混ぜろとは言ったものの、本当に人を殴りに来たわけではない。強い奴を探したいのである。下手な鉄砲数撃ちゃ当たるとばかりに喧嘩の現場に駆けつけてみるものの、まともに間に合ったためしはない。
 間に合ったとしてもほとんど無駄になる、とは姉妹たちにも言われている。あとは、何らかの格闘技を身につけている者を探した方がまだ建設的だとも。
 だが違うのだ。若葉自身にも上手く言い表すことができないが、根本的なところで何かが違う。
 よく分からない衝動が、喧嘩の現場へと走らせるのである。
「やれやれ」
 溜め息一つ。これ以上ここにいても仕方がない、と若葉がそのまま校舎内へ上がろうとしたときだった。
 ゆるやかに流れた風の中に、微かな血の匂い。
 若葉はぴたりと足を止めた。
 確かに微かではあるが、これは僅かに滲み出たような血ではない。若葉の五感が鋭いとはいえ、獣並みというわけでもないのだ。匂いを感じ取れるからには、それなりの出血であるはずだ。無論のこと、距離は近いだろう。
 そして、混じり気のない純粋な血の香だと思った。生々しく、今も溢れているような。
 昇降口の近くには駐輪場しかない。術か何かで姿を隠しているのだろう。
「……紅葉がいてくれたら一発なのに……」
 数ヶ月前までは同じ学校に紅葉がいた。その探査術にかかればこの匂いの元など容易く探り出せるはずなのだが。
「よりによって千草姉ぇとあやめ姉ぇじゃあなあ……」
 若葉自身は言わずもがな、あやめも探査系統の術を修得していないし、千草は苦手ではないだけで得意なわけでもない。頼んだところであまり期待はできない気がする。
 若葉は比較的よく的中する自分の予感を信じることにしているのだ。
 あるいは、術ならもうひとつ選択肢があるかもしれない。
「もしかしてその辺に八重桜いたりしねえか?」
 長い時を姉に協力し、今も大蛇の異界やこちら側を気侭にうろついている知り合いの名を呼んでみたものの、返事はない。
 やはりそう都合よくはいかないようである。
 しかし、だ。
 若葉は昇降口前からじっくりと辺りを見回した。
 放っておくわけにもいかない。怪我をしている誰かがいるということなのだ。
 あるいは、何か、が。
「よし」
 頷く。
 匂いを隠せていないのだ、見えなくともきっと触れられはするだろう。手探り足探りでこの辺りを虱潰しに触れて回れば見つけられるかもしれない。
 もう予鈴の鳴りそうな時刻だが、清掃と午後の授業はサボるとしよう。
 如月若葉は一度決めれば一直線なのである。



 珍妙な動きで駐輪場をふらふらとしているその姿を何人かの生徒が見かけたが、見なかったことにしてくれた。



 もう一時間も探し続けた頃だろうか。
 門にほど近い、自転車一台分の空間の空いた場所にさしかかったとき、喉元に何かが押し当てられていた。
 冷たい。おそらくは刃物。
 まだ見えない。だが声はした。
『どうやら僕を探していたようだが、君は何者だ? 僕に用でもあるのか?』
 高いが男の声だ。冷え冷えとして、明らかな警戒を含んでいる。
 対する若葉は、突然であったことに驚いただけで返答そのものは平然としていた。それこそ、姿の見えない相手との会話など八重桜で慣れている。
「怪我してるっぽい奴をほっとけるかよ。ほら、保健室とか病院とか連れてってやるから姿見せろよ。物騒なものは仕舞ってな」
『ここに天地院の関係者はいないはずだ。君は誰だ? 荒水波の構成員か?』
 しかし声は疑念を表すばかりで、喉元の冷たさも下げられることはない。
 若葉は眉根を寄せた。
「誰だっつっても……どう言えばいいんだろうな」
 さすがに、事実をそのまま口にしたとしても神秘に関わる者にすらほとんど信じてもらえない、信じてもらえたならそれはそれで碌なことにならないことが多い、ということは承知している。
 だが、適切な誤魔化し方も思いつかない。
「とりあえず、天地院でも荒水波でもねえよ。強いて言うなら地上最強を目指す女だ」
 若葉としては最大限に気を利かせて答えたつもりだったのだが、何の反応も得られなかった。
「まあ、俺のことはいいだろ。それより怪我は大丈夫なのか?」
『……言う必要があるのか?』
「心配じゃねえか。何のために授業サボって探してたと思ってたんだよ。安心しろよ、俺は絶対に敵じゃない……とまでは言い切れねえけどな」
 また、返答がない。突き付けられた刃も動かない。
 若葉は大きなため息をついた。
「分かった分かった。何か要るもんはあるか? 手に入るなら持って来てやるけど」
『首に当たっているのが何なのか、君は分かっているのか?』
「刀とかナイフとか、とにかく刃物なんだろ? そんなに怯えるんじゃねえよ。不利なときほど笑うもんだろ、男なら特にさ」
 切先が震えた。肌が僅かに切れ、ぷくりと浮いた血がやがて流れて制服に染み込む。
 確かな痛み。しかし若葉は自分の言葉を証明するように、頼もしいガキ大将の顔で笑って見せた。
「まあ、要るのは包帯と消毒液と、あと昼飯ってとこだろ。向こうの建物の角曲がって、プール横のあたりで待ってな。あそこなら姿なんか消さなくても、プールサイドから見下ろされねえ限り見えねえから」
 す、と身を引き、背を向ける。斬りかかるつもりがあるなら容易く斬り捨てられるであろう、無用心な背中だ。
 当然のように、斬られることなどなかった。





 若葉の指定した位置は袋小路になっている。
 建物とプールと、それを繋ぐ通路に挟まれた狭い空間だ。
 陽の光も風も遮られるので快適とは言い難いが、校内でここほど人の来ない場所はない。
「待ったか?」
 角を曲がりながら、若葉は声をかけた。
 ちょうど休み時間だったので教室に帰って鞄に常備してある包帯と消毒液を持ち出し、購買で残ったパンを大急ぎで買い込んで来たのだ。
「別に」
 プール側の壁に背を預け、姿を現していたのは若葉とほとんど歳の変わらぬ少年だった。
 小柄な体躯や少し伸ばされた柔らかそうな髪、女性的に整った面立ちは、一目見ただけでは少女めいた印象を与える。おそらくは、むしろ少女と思う者の方が多いのではないだろうか。
 その黒尽くめの左袖は切り裂かれ、ざくりと割れた前腕から今も血が滲み出している。
「思ったより出てないんだな」
 傍にしゃがみ込み、手当の準備をしながら若葉は感想を漏らした。これだけの傷ならもっと血が溢れていてもよさそうな気がしたのだが。
「動脈を圧迫するとともに薬師真言でとっくに治療は開始してる。それより君はちゃんと処置ができるんだろうな? むしろ悪化した、じゃ笑えない」
「任せとけって。俺もよく怪我するから慣れてるよ。ほら、沁みるぜ」
 やや乱暴ではあるが的確な動きをしていると思ったのか、少年はそれ以上何も言わなかった。
 自然、問いかけるのは若葉になる。
「しっかし、何だってわざわざ学校で姿隠してたんだ? ホテルにでも潜んでりゃよかったろうに。あ、金がないのか?」
「……学校というものは、何も仕込まなくても排他結界を形作るものなんだよ。術で探されたときなんかには地味に利いて来る」
 そんなことも知らないのか、と言わんばかりに少年は重い溜め息をついた。
「学校というのは特殊な空間だ。年若い人間が多くて、外からの干渉を拒絶して内部だけでの決済が認められ易い。最近は開けて来たせいか排他結界も随分と弱まってはいるけど」
「へえ」
「別に学校に限った話じゃない。閉鎖的な集落なんかでも同じことは起こる。ただ、学校ほど構成員の数と個々の排他の強度の乗算が大きいところはあまりないんだ」
「そういや紅葉もそんなこと言ってたことが……んー、あるような気がしないでもないな」
 さして記憶力のよくもない若葉だが、紅葉の言うことは比較的よく覚えている。
 確か、だから現代においては学校に巣を張る妖が多いのだと言っていたか。外部の人間にはひどく見つけづらくなるのだと。
 去年解決した事件の際に聞いたことだ。
 実のところ、理解出来ているのは学校が結界を形成しているということだけだ。排他だの乗算だのといった言葉は少なくとも耳にしただけでは何のことやら見当もつかない。
「なるほどね。よ、っと。これで大丈夫だろ」
 処置を終え、若葉はぽんと腕を叩いた。
 痛んだのか少年は僅かに眉を顰めたが、苦鳴は漏らさなかった。
「……一応礼を言っておくが……」
「これ以上関わるな、って?」
 視線と視線がぶつかる。
 少年は鋭く、若葉は熱く。
「そうはいかねえだろ。お前がここらの平和を乱そうってのなら力尽くでも止めるし、逆ならお前の敵は多分俺たちの敵でもあるんだぜ?」
「君じゃ力不足だ。少なくとも僕を見つけるのにあんな頭の悪いことをやってるようじゃ話にならない。いいように踊らされるだけだ」
「なんで初対面の奴にまでンなこと言われなきゃなんねえんだか」
 酷い言われようではある。だが、若葉はやれやれとばかりに苦笑しただけで、怒りはおろか苛立ちすら見せなかった。
 言葉そのものは厳しいが、少年の口調にも表情にも馬鹿にするような雰囲気はないのだ。ただ真摯なのである。
 まったく気にしなかったわけでもないが。
「力不足ってなら、まあ、そういうことにしとこう。俺も好き好んで足引っ張る趣味はねえよ。でも、引っ張らなくてもお前負けそうだけどな」
「……なんだと?」
 その言葉に少年のまなざしが剣呑なものになった。
「僕は負けない」
「こんなとこで傷治してる奴が何言ってんだよ。その余裕のなさは勝ってる奴の雰囲気じゃねえだろ。杏姉ぇなんか、いつもクソいまいましいくらい無駄に余裕たっぷりだぜ?」
 若葉はあまりものを考えて喋ってはいない。しかし思ったことを率直に口に出すだけで、痛いところを抉ることはある。
 少年も自覚はあるのだ。人は己自身をも騙せるものだが、騙し切れるほどにまで面の皮は厚くなかった。
 悔しげに口許を揺らめかせ、そして。
 素早く印を結んだ。
 その印も、同時に小さく唱えた真言も若葉には解らなかった。
「まりしえい……何だって?」
 問い終わる時すらなく、ぶわりと広がったのは白いもの。
 霧だ。それも、少し離せば自らの手すら見えなくなるほど濃い、世界を塗り潰すような。
「おい、ちょっと待てよ! お前一体何を」
 視界を奪われ、若葉は少年がいたはずの空間を慌てて探るものの、一切の手応えはなかった。姿も気配も、そのすべてが忽然と消え去ってしまっていた。
『無駄だよ』
 姿のない声だけが響く。
『さっきまで使ってたその場凌ぎの隠形じゃない。摩利支天の呪法だ。僕はもう、此処にいて此処にいない』
「だから待てってば!」
『もう一度だけ礼は言っておく。二度と会うこともないだろうからね』
「待てっつってんのに!」
 引き留める声も虚しく、もうそれ以上の返答はなかった。
 大きく溜め息をつく。
 まるでその吐息に押し分けられるようにして、白が割れる。
 あとは早かった。見る見るうちに薄れ、光が戻って来る。
 見上げれば青い空を鳥が過ぎる。くるりと弄る黒髪はさらりと指を通し、艶やかではあっても湿ってはいなかった。
「いきなり何だってんだよ、そんなに急がなくてもいいだろうに」
 怒っているのではない。そういうこともあるだろうと思う。
 いかにも短気そうに見えて、若葉は大抵のことに対して許容的だ。
 今、思うのはただ一つ。
「せめて飯くらい食ってけよ、もったいねえ」
 折角買って来たパンが、残った包帯の脇で寂しそうに在った。







[26080] 「密呪」
Name: 八枝◆767618cd ID:da250079
Date: 2011/08/21 15:04





 ノウマクサンマンダ バザラダン カン



 夜に赤が走る。
 それは炎だ。晶を中心に渦を巻き、六つの穂先を形作ったかと思うと標的へと次々と襲いかかる。
 不動明王火炎呪。一切の邪を焼き尽くすと言われる呪法だ。周囲の林を焦がすことはなく、滅すべきもののみを焼却する。
 だが、自らを滅ぼすはずの炎に照らされながら生成りは笑った。
「一つ」
 瘴気を叩きつけてまず一つ。
「二つ、三つ」
 両腕で掻き消して二つ目と三つ目を。
「四つ五つ六つ」
 四五六は捉えられない。ぐんと加速して生成りが晶の目前に辿り着く。
 振るわれるのは棒だ。太い鋼の棒。
 まともに打たれたりしようものなら、人は肉塊と化すだろう。半ば鬼と化した肉体の有する膂力はそれを可能とする。
 そればかりではない。一分の乱れもない鋭さは、棒でありながら刃物のように切り裂くことさえやってのけたのだ。
 しかし晶は側方へと跳躍、易々とかわして見せる。枝に手をかけるとその勢いのままくるりと上に乗り、すかさず隣の木へと移る。
 重い破壊音。
 晶が跳躍した瞬間に、今まで乗っていた木が幹を粉砕されてゆっくりと倒れ始める。
 異常だ。
 己を誤魔化すためではなく、本心からそう思う。
 明石大橋での一合のときはこうではなかった。速さも膂力も、ただの強力な鬼程度でしかなかった。だから一太刀を与えることができた。
 しかし何よりも恐ろしいのは、不動明王火炎呪すらいなしてしまうことだ。
 およそ密呪の中では最強に近いと言っても過言ではない術だというのに、それをさえ強引に打ち破ってしまうのだ。
 無論、より鬼と近しくなってはいるのだろう。強くなること自体は不思議ではない。
 だが、いかに元が優秀な術者だったとはいえ、これは人が成る鬼の領域を越えている。
 もし完全に鬼と化したならば、一体どれほどにまで達するというのか。伝説に語られる鬼の王や貶められた神の域にも至るのではないか。
「はーはははははっ!」
 生成りが些か奇妙な笑い方をする。どこか乾いた、毒のある笑声だ。
「どうしたどうした、この程度か!」
「自らを鬼と化して力を得ただけの雑魚がよく囀る!」
 印を結ぶ。



 ノウマク サラバタタギャテイビャク サラバボッケイビャク 
 サラバタタラタ センダマカロシャダ ケン ギャキギャキ 
 サラバビキンナンウン タラタ カンマン



 紅蓮。
 迦楼羅炎が周囲を埋め尽くす。
 先ほどの火炎呪とは異なり、正式な不動明王火界呪だ。
 逃げ場はない。打ち消そうとも、次から次へと押し寄せ、焼き尽くすのだ。
 それでも生成りは笑う。
「はははっ! これはこれは!」
 風が渦巻いた。
 炎に押されながらも荒れ狂う暴風の中心で、狂ったように笑う。
「お前もオレも大して変わりゃしない。天地院の天才だ? 笑わせる!」
「喚くな。ここで燃え尽きろ」
 拮抗、よりは晶が有利だ。
 そのはずなのに、じりじりと炙られながらも生成りが語るのだ。
「違うだろ、『お前』の力はこんなもんじゃない」
「言われるまでもない!」
「違う違う、お前なんかじゃない、憎き『お前』だよ」
 その双眸は言葉通りに憎しみに溢れて。
 なぜこれほどまでのまなざしを向けられるのか、晶には分からなかった。
『あなたは特別な人間なの』
 不意に母の声が脳裏に響く。
 特別だから。特別な人間だから。
 戦わなければならない。任務を果たさなければ。
 ぎりと奥歯を噛み締めて呪に一層の力を込める。
 だが。
「哀れだなァ、白鳥しらとり!」
 炎は、むしろ少しだけ押し返された。
 今度こそ本当に拮抗する。
 生成りも決して余裕があるわけではない。牙を剥き出し泡を吹き、咆哮する。
「舐めるなよ? 神器もないお前如きに! まだ戻り切っちゃいねえとは言え、このオレを倒せるものかよッ!」
 唸る、唸る、風が唸る。瘴気の嵐となって炎を押し戻さんとする。
 無論、一切を浄化する迦楼羅炎は瘴気を焼き捨てているのだ。だというのに底なしに湧き出でて、押し流そうとするのだ。
「く……」
 苦鳴が漏れる。
 瘴気は焼かれようとも、怨の念は届く。
 それでも晶はそれを斬り払った。文字通り、抜き放った刀によって。
 銘はない。歴史もない。だが、特別な術の込められた一振りだ。
 刃長79.9cm、反り2.7cm。
 天下五剣がひとつ、童子切安綱と同じかたちをしてその力を受けるものだ。元には及ばぬまでも強大な威を有する霊刀である。
 印が解かれたことによって不動明王火界呪もまた途切れたが、今度は霊刀が瘴気を割る。
「はは、ははははは!」
 生成りが笑う。
「そうだな、そうでなくちゃな。『お前』には術よりも剣が似合う」
「お前は一体何を言ってるんだ」
 胸の奥の苛立つ思いを押し殺し、晶は僅かな苦みを口許に浮かべる。
 この生成りはおかしなことを言う。
 まるで自分のことを以前から知っているような、それも恨んでいるようなことを言う。
 だが。
「……だが、剣の方が得意なのは間違いない」
 昨夜手傷を負ったのは、ほんの数時間の間に力を増していた生成りに不意を打たれたからだ。
 こうしてまともに向き合えば負ける気はしない。
 そう、そのはずだ。
「覚悟しろ」
 晶は宣言した。

















「んー、確かに気になると言えば気にはなる、かな」
 涼しい風が吹く。
 あと少しもすれば暑さが侵食し始めるのだろうが、まだ夜風はえも言われぬ心地好さを保っている。
 縁側で若葉の話を聞いていた千草は、思案げに小首を傾げた。
 風呂上がりの頬は上気して、下ろした髪の濡れた様など歳以上の色香を醸しているものの、妹である若葉にとっては要領よく一番風呂に入っただけの姉に過ぎない。
「だろ? 見つけらんねえかな?」
「あたしに言われてもね。さすがにそれが出来るのは紅葉くらいじゃないかな。どう?」
 千草は今縁側にいる最後の一人、当の本人に話を振った。
 華奢な身をいつものように姿勢良く居る紅葉は、少し困ったように眉尻を下げて見せた。
「……頑張ればできないことはないと思いますけど……摩利支天の呪法を使ってる最中だとさすがに大変です……」
「へ? 難しいのか?」
 若葉が驚いたのは決して無知であるがためばかりではない。
 紅葉の術の腕は実際に桁が外れている。対抗しうる者など、人の内にはほとんどないのだ。
「真言は神性術ですから……それもその本地を辿れば主神級ばかり……」
「ん? んん?」
「ああ、つまりねえ……」
 千草はほんの少しの間、薄紅いくちびるに人差し指を触れさせて思案した後、その指で若葉の頬をつついた。
 紅葉の説明を欠片も理解出来ていないのであろう妹に助け舟を出す。
「真言っていうのは自分の力だけじゃなくて、ほんの少しだけ神霊の力を貸してもらってるのよ。だから修得さえすれば、速くて強くて効率がいいの」
「ああ、なんとなく分かった。そりゃ強えわな……ってか何だよ、つつくなよ、俺の顔がどうかしたのかよ」
「なんでもない、遊んでるだけよ?」
 千草の頬に微かに浮かぶ苦笑は、術法体系がそう単純に強い弱いで量られるものではないことを知っているからだ。しかし若葉に説明するならこのくらいで丁度いい。
 だが紅葉は更に続けた。
「何よりも強いというわけじゃないですし、修得には厳しい修行を必要としますけど……神性術を相手にして何よりも厄介なのは、術そのものがとても強固なことなんです。少ない力を基に大きな効果を得ようと理を駆使する呪は、それだけ干渉出来る箇所も大きいですけど、元の力自体が大きい神性術は……」
「はいはい、そこまでそこまで。若葉が頭から煙吹くわよ?」
 つん、と今度は紅葉の額をつつく。
 大人しい紅葉だが、術のことを語るときには熱が籠もるのだ。
 そして若葉にとって最も興味があるのは、強いか否かである。
「もしかしてあいつほんとに凄ぇ強えの?」
「多分ね。少なくとも若葉よりは上でしょ」
「千草姉ぇより?」
 ぐっと乗り出して来る。その瞳はきらきらと、少年めいてまっすぐに輝いて。
 これで相手に恋心の一つも抱いてくれたら面白かったのにと、千草は思う。
「それは知らないけど」
「えええええー、千草姉ぇって能力評価とか大好きじゃねえかよ」
「いや、そりゃ好きだけど……無茶言わないでよ」
 苦笑が大きくなる。
 そもそも分かっていること自体が、摩利支天と薬師如来の真言を使ったらしいということ、あとは刀を持っていたということだけなのだ。それも、要領を得ない若葉の説明を基にした推測だから、正しいのかどうかさえ分からない。
「まあ、あたしとしては逃げちゃえば勝ちのつもりだから、大抵の相手には勝てちゃうけど」
「前から思ってんだけど、逃げて勝利宣言はずるいだろ……」
「だってあたしは支援役だもの」
 千草はにんまりと笑う。
「状況によって勝利条件って変わるのよ、若葉? 別にその場であたしが倒さなくったっていい。逃げて、有利な状況にするの。かくして千草さんは、イワちゃんを相手にしてさえ十中八、九勝てると嘯くことができるのです」
「詐欺だろ、それは」
「あら、イワちゃんは認めてるわよ?」
 荒水波は標的を確実に抹殺することを旨とする。最初から予定されていたのではない限り、逃すことは敗北だ。だから巌も、仮定であってもそういった見方をするのだ。
「逃げるわけにはいかねえときだってあるだろ」
「まあ、あとは逃してくれない相手とかね」
 千草に若葉を言い負かすつもりのあるわけではない。極端なことを言っているのも自覚している。
 向ける言葉は相手に合わせて変えるものだ。正面から突進しがちな若葉だからこそ、こんなことを言っているのだ。
 ただ、正面切ってやり合わないようにするというのは、紛うことなき千草のやり方ではある。
「ともあれ、首突っ込むかどうかだっけ?」
「ああ、多分あれ勝てねえよ。凄え負けそうな雰囲気だった」
「当たり前のような顔して勝つって宣言して勝ちそうな雰囲気してても一度も勝てたことない、なんて例もあるわけだけど」
 軽口を叩きながらも、確かにそれはあるかもしれないと思う。
 若葉の言う、負けそうな雰囲気というものは何ら特別な代物ではない。焦燥から来る動揺、他者への攻撃性など誰もが感じ取れることだ。
 格上に勝つために必要なのは彼我の戦力を冷徹に分析しての具体的な方策。だというのに、焦燥に駆られていると希望的観測が先に立って、結局は碌に何も考えていないか、あるいは判断を誤ってしまう。
 若葉の出会った少年は、おそらく手錬れではあるのだろう。複数の真言を扱い、何より独りで行動している。
 しかし、若葉が負けそうだと感じたのならば危ない。
「まず、荒水波じゃないわよね」
 此処には巌がいる。荒水波から送り込まれたのならば協力していないわけがない。
 それに荒水波は真言など使わない。二千年の間に作り上げられた独自の体系を用いるのだ。
「普通に考えれば、天地院の密教系かな」
「……修験道の可能性の方が高いと紅葉は思います」
「ああ、純粋な密教系はあんまり刀使わないんだっけ」
「結印を行いにくいですし、金剛杵がありますから……」
 金剛杵とは、密教やチベット仏教における法具である。中央に柄、その上下には槍状の刃が付いている。
 扱いにくい形状からすれば武器としては向かないのだが、元々が雷を模したものであり、霊的な威は生半な弓や刀を遥かに凌ぐ。
「まあどちらにせよ、天地院としての行動なのなら下手に手を出さない方が賢明だとは思うんだけど……」
 ちらりと若葉、それから紅葉を見やる。
「……思うんだけど、納得しないわよね」
「独りで暴走してるのかもしれねえだろ?」
「……それに……その相手が悪いとは限らないです……」
 二人はそっくりの顔立ちに別々の表情を浮かべて頷いた。
 真っ直ぐな若葉と優しい紅葉。可愛い妹たちに見つめられ、それじゃあと千草が言いかけたときだった。
「あんたら何やってんの?」
 杏が姿を見せた。
 買い物にでも行っていたのか右手にはビニール袋を提げ、そして。
「まあ、いいや。何でもいいから適当にこれ治して看病しといてくれる? 社の下で倒れてたから拾って来た」
 杏の後ろから、数十の棒人間のような小型式神に持ち上げられ、気を失った少年が一人、姿を現した。
 一目見ただけでは男とは判らぬ、繊細に整ったやわらかな顔立ちと小柄な体躯。しかし右腕と左脚がおかしな方向に曲がり、脇腹が真っ赤に染まっている。
「姉さん、これ……」
「というか、俺が会ったのこいつだよ!」
「じゃ、お願い。あたしお風呂入って来るから」
 大怪我をしている人間を連れて来て、何事もなかったかのような顔で放り出し、杏はそのまますたすたと歩み去ってしまう。
 残された三人は一瞬だけ顔を見合わせ、慌てて動き始めた。







[26080] 「異邦」
Name: 八枝◆767618cd ID:da250079
Date: 2016/04/02 21:02



 思い起こす。
『お止しなさいませ』
 困ったように微笑む様も艶やかに、愁えげに告げる声すらも艶然と匂う。
 そして、緋の双眸は残酷なまでに優しく。
『わたくしは万に一つであってもと、取り戻しに参っただけにございますれば。残念ながら模造品ですらございませんでしたけれど』
 その手には、置いて来たはずの神剣。
 紛うことなき神器であるそれに皹が入り、彼女のたおやかな手の中で音もなく崩れ去る。
『皇子の得た名はとても強い言霊にございましょう。けれどそれが最後の武器。それをも失いたいと仰せであるのなら』
 冷たく張り詰めた大気の中、彼女は白大猪を庇うかのように進み出た。
『伊吹の御神に代わり、わたくしがお相手致しましょう』

 自分の得た最強の名は人々の畏怖であり、恐怖であり、希望であり、憧憬であった。
 強き者によって名づけられ、その名を知るすべての者が抱く思いによって形作られた絶大な呪力を、皇子という器は受け止め、加護にも似た力としていたのだ。
 そしてその力は、最強と引き換えにして致死を病に留め、自分を逃したのである。











 目覚めは吐き気とともに。
 だというのに意識が戻った瞬間にそれを堪えて晶は跳ね起きた。
 しかしいかに精神が戦いに備えようとも、身体は限界を訴えていた。
 目が眩み、為すすべもなく布団の上に倒れ込む。
 あるいはそのまま、また眠りに落ちていたのかもしれない。
 意識に漠然と陽の匂いが満ちて、その中にたゆたううちに、いつしか此処は何処だろうと思って覚醒する。
 だが、目覚めるとやはり吐き気が襲って来るのだ。胸には不安が満ち、頬は冷たく、動悸は激しくなる。
 これは淡路島に入ってからずっと続いている不安感が膨れ上がっているのだと、晶は自覚した。
 それでも今度こそしかと身を起こす。
 和室だ。自分が寝かせられている布団以外には本当に何もないが、障子は目に痛いほど白く、明るい。
「僕は……」
 呟く。
 続けようとした言葉は無意識が排除する。
 幼い頃ならばまだしも、今となっては自分が負けるなど、あってはならないことだ。
 四肢を伸ばし、確認する。大丈夫だ、どこにも痛みはない。なぜか服の脇腹が破れているが、これはかわし切れなかったのか。
 ぎり、と奥歯を噛み締めた。
「……馬鹿な」
 記憶と食い違う。脇腹はあの生成りの鋼棒で抉られた覚えがある。最後の方はまともに立てていなかった気もする。
 少なくとも、無傷ではなかったはずだ。
 しかし記憶は曖昧で、どうにも思い出せない。
「何が起きた? そもそもここはどこだ……?」
 立ち上がるとまたくらりと来たが今度は耐え、のろのろと光に向って歩き出す。
 一方で不快感はまったく治まっていない。むしろ程度は激しくなっている。
「これは……」
 そして、激しくなっったからこそ判ることもあった。
「恐怖、なのか……?」
 障子を開け放つ。瞳を灼く白光にしばし目をしばたたかせ、やがて視界に飛び込んで来たのは、豊かな緑だった。
 この屋敷は丘か小山の上にでも建てられているのか、庭の向こうにはどこまでも広々と続く大草原が見下ろせた。
 右手には霞を纏う山だ。蒼く鋭く、人を拒絶するかのように雄々しく聳え立っている。
「……ありえない。本当にどこなんだ、ここは」
 淡路島にこれほど広い草原があるとは考えづらい。本州か四国に連れて来られたのかとも思ったが、その可能性も薄そうだ。田畑ならばともかく、大草原なのである。
 命が、遠目にすら満ちていた。
 惹きつけられる。どこまでも青々とした世界は、不思議なほどに意識を吸い込む。おそらく古には、世界はこうであったのだろうと思わせてならない。
 感傷だと思う。なぜこうも心が動かされるのだろうか。
 その疑問が晴らされるだけの時はなかった。
「よお、目が覚めたのか」
 白と緋。いつの間にそこにいたのだろう、巫女装束に身を包んだ少女が庭からこちらを見て朗らかに笑った。
 日焼けした肌、少年めいた雰囲気。しかし少女であることは疑いようもない繊細で可憐な容貌。
 無論のこと、見覚えはある。二度と会うことはあるまいと思っていたのだが。
「また会ったじゃねえか。傷は……ま、大丈夫だろ、紅葉が治したし」
「……一体、何がどうなってる? 説明してくれ」
 場所、状況、それから正体。訊くべきことは山ほどある。
 胸に浮かぶのは警戒だ。地上最強を目指す女などと、そんな戯言で流しておける状況ではない。
 だが少女は屈託なく告げる。
「お前がぶっ倒れてて、杏姉ぇが拾って来て、紅葉が治した。それだけだよ。後は何も知らねえ」
 それは昨日と同じく裏表をまったく感じさせない笑顔で。
 だから晶は苛立った。
「証拠がないな」
「めんどくせえ奴だな。男は疑り深いよりちょっとアホなくらいが一般的にはいいって千草姉ぇも言ってたぞ? ってぇか、色々訊きたいのはこっちなんだけどな」
「……交換条件だ」
 こんな奴は知らない。天地院で接する輩は必ず裏に何かを持っている。無条件に信じられる人間などいないと晶は思っている。
「もう一度訊く。君は誰だ?」
「俺は如月若葉ってんだ。お前は?」
 警戒をあからさまに滲ませたはずなのに、返って来たのは真っ直ぐな視線。
 それはどうにも抗いがたい圧力に感じられて、気がつけば晶も名乗り返していた。
「……立花晶だ」





 立花家は遠く父祖を辿れば橘氏に連なると晶は聞いている。
 橘氏と言えば源平藤橘のひとつであり、平安時代中期までは代々公卿を輩出した家柄だ。
 権勢が衰えて後、地方に土着して武士となった子孫の中に晶の祖先はいる。退魔の業を伝えながら、やがて響きはそのままに字だけを変えて今に至るのだと。
 あくまでも聞かされた話だ。真偽のほどは定かではない。
 晶自身も家柄には何の興味も持ってはいなかった。
 だが。
「あり得ない話では……ないと思います……」
 若葉の背に半ば隠れるようにして、紅葉が囁くように言う。
非時果実ときじくのかくのこのみのように、橘は永遠を象徴します……その名は力となって代々受け継がれたとしても、不思議ではないと思います……」
 なんとも妙なことになって来たと晶は思う。
 燦々と降り注ぐ日差しの下、縁側で問われるがままの世間話。周囲にいるのは若葉に紅葉、そして千草だ。
 倒すべき敵を野放しにしたままであるというのに実に悠長な、この状況を甘んじて受けている。
 無論、焦る気持ちはある。しかし自分のものとは思えぬほどの身体の重さを否定出来ない。このままでは力を十全に発揮することは不可能だ。
 それでも戦わねばならぬときもあるだろうが、今はそうではない。少なくとも無理を利かせることの出来る領域まで調子を持って行かなければ、あの生成りに対しては自殺行為となるだろう。
 それに、無理に行こうとしても果たして出られるものだろうか。あまりにも自然に満ちたこの広大な景色はやはり淡路島のものではない。おそらくは異界なのだと推察していた。
 異界に入った経験ならばある。これほどのものではなかったとしても。
「さてさて、口が柔らかくなったところで質問はあるかな、美少年クン?」
 若葉や紅葉とは逆隣に腰掛けた千草が顔を覗き込みながらにんまりと笑う。
 緩んだ目許が優しそうではあるが、その中にほんのりと嗜虐の色。何か機会があればからかう気でいるのだろう。
 晶は容姿のせいでこういった形のちょっかいを出されることにも慣れてはいたのだが、今回は殊のほかやり難かった。
「どうしたの?」
 巫女装束とは神に対するための、人ならざるものに接するためのものだ。普通であれば特別な出で立ちである。
 しかし、千草たちの装いは何の特殊性も感じさせない。まさに普段着であるとしか思えぬほどにこなれて、だからこそ何の違和感もなくそれぞれの固有の印象を強く顕している。
 千草の肩の細さや、あからさまに存在感を醸す胸元の急峻な曲線は、それでさえ包み隠されて印象を薄めているであろうというのに堪らぬほど蠱惑的だった。
 天才であるという周囲からの期待を受け、ほぼ退魔師としてだけ育てられてきた晶にしても、年頃の少年であることは間違いのない事実だ。決して異性に興味がないわけではないのである。
「……僕が訊くべきことは二つだ」
 目は合わせない。遠くを見たままで問う。
「この場所は何なんだ? そして君たちは何者だ?」
「あたしたちのことならさっき説明したと思うんだけど」
「信じろって言うのか、神話上の登場人物の姉だなんて戯言を?」
 無茶苦茶である。地上最強を目指す女だと誤魔化される方がずっとましだ。
 しかし千草はきゃらきゃらと笑うばかりだ。
「だってほんとのことだもの。ちなみにこの世界は大蛇様……八岐大蛇の世界ね。根の国、常世のひとつと言うべきかしら」
「真面目に答える気がないのなら最初からそう言え」
 晶はどちらも信じない。
 信じられるわけがない。そんなものが現代に存在しているなど、聞いたこともないのだ。
「うぅん、そんなに無理に隠してるってほどじゃないはずなんだけど、つまり天地院としては徹底的にガセだと思ってるのかな。まあいいわ。重要なのはそんなことじゃないし」
 千草は自らのくちびるに人差し指を触れさせ、立ち上がる。そしてポニーテイルに結った長い黒髪を躍らせ、くるりと振り返ると、ぐっと身をかがめて晶の顔を覗き込んで来た。
「それで、君の今回の仕事は何なのかな?」
 甘い匂い。
 前髪の触れそうな距離で見つめて来る瞳も甘い。
 だが、晶も惑わされはしなかった。あくまでも、やり難いだけだ。
「教える必要はない」
 きっぱりと告げれば、あら残念と千草は身を起こしてにこりと笑う。
「じゃあ……そうね、交渉といきましょう」
「交渉?」
「そう、あたしたちは君の目的について、絶対にとは言わないけどできれば教えてもらいたいの。一体何が起こっているのか、それは本来傍観していいことなのかどうか」
 その台詞に、晶は若葉の口にしていたことを思い出していた。平和を乱そうというのであれば止め、逆なのであれば自分たちの敵でもある、とそう言っていたはずだ。
「交渉ってことは僕にも得るものがあるはずだが、それは一体何になる?」
 正直なところ、交渉事は得意ではない。そういったものは大抵上が行ってくれていた。晶はただ標的を葬り去る刃であればよかったのだ。
 あるいは、その刃が交渉材料になるのであれば経験は幾度かあるが、敵ではないどころか助けてくれたはずの相手にまさか切先は突きつけられない。逆にその事実を向こうの材料にされそうである。
 ところが予想は至極あっさりと裏切られた。
「あたしたちが解決するか、せめて手伝うわ」
「傍観していい事態でもか?」
「今の体調だと君だけじゃ目的は果たせないでしょ? そんな簡単なものならあんな傷だらけで倒れてない。そういう意味では傍観していい事態というのはないってことになるわね」
 何ともあっけらかんと千草は告げ、どこか悪戯っぽい表情で続ける。
「もちろん、君たちが悪いと判断した場合は君を止めるためにあたしたちも付いて行くというわけ。ここに引き留めとくだけでもいいかもしれないけどね」
 晶は少し迷った。言っていることが本当であれば、止められることはまずあり得ない。標的は自らを鬼と化そうとしている術者であり、既に十名以上の死傷者を出しているのだ。
 しかし、彼女たちの正体をどうにも信じられない。
 力はあるのだろう。その証拠に、自分が受けていたはずの負傷が傷跡すら残されていない。即効性のある治癒術というものは体系を問わず極めて難度の高いものである。
 それに加え、世界の霊的な側面についても当然のように知っていて、こんな場所に住んでいる。
 間違いなく、常人ではありえない。戦力としては確かに役に立つのかもしれない。
 それでも迷うのだ。騙されてはいまいかという疑念、巻き込んでもよいのかという躊躇、自分独りで解決すべきだという矜持。胸の内で混ざり合い、答えを示さない。
 その混迷のうちにもう一度、生成りに対する認識を改める。
 最初はただ淡路島に逃げ込んだのかと思っていた。中国地方は荒水波の目が密に存在しているから不思議ではないと思っていた。
 だが、おかしいのだ。昨日傷を治している間に生成りは逃げることができたはずだというのに、それどころか向こうから襲って来た。
 淡路島自体に用があるのか、あるいは自分に用があるのか。あの憎しみの様子を思い返せば後者の方が可能性は高いだろうか。
「もう、そんなに怪しい?」
「怪しいな」
 晶は深い溜息をついた。答えは示されずとも、無理にでも結論を出す。
「だがそれ以上に、巻き込むつもりはない。だから悪いが何も教えられない……と言ったらどうする?」
「仕方がないから独自に動くわ」
 相変わらず目許を甘く緩め、しかしくちびるに浮かんだ笑みはどこか不敵に、千草は小首を傾げる。
「あたしたちが片付けるまで、君もここから出してあげない……って言ったらどうする?」
 それは晶の真似のつもりなのだろう、からかうような響きがあった。
「……だからそれよりは一緒に連れて行けと言いたいわけか」
「協力し合うのが、お互いにとって一番無難な選択だと思うわ。あるいは、怪しいと思うのなら監視が要るんじゃないかしら?」
 晶は無言で口許に苦さを浮かべた。
 立場自体がそもそも対等ではないということに気付いたのだ。行動すると彼女たちが決定している以上、自分が独りで戦いに行こうとするならば、彼女たちに行動させないようにした上で、この世界をどうにかして脱出しなければならない。
 しかし、まさか一応は恩のある相手を力づくで叩きのめすなどという真似は晶にはできない。それならまだ提案に乗った方がましだと思える。
 それでも最後に、正面から睨みつけて脅してみた。
「死ぬぞ?」
 あまり様にはなっていないが、響いた声は充分に不吉な音をしている。
 だが、千草は微笑んだ。
「そうね、そういうこともあるかもしれないわ」
 ただの笑みではない、不思議な表情だ。
 我が意を得たりと、喜んでいるかのような。
「だって、生きてるんだもの」







[26080] 「深月」
Name: 八枝◆767618cd ID:da250079
Date: 2011/11/05 18:29




 えにしとは繋がりである。
 目に見えぬ、触れることも出来ぬそれは確かに結ばれ、不可思議なほど引きつけ合うものである。
 そして、その繋がりを利用した術法も存在する。
 似たもの、同じ要素を持つものの間には縁が結ばれる。厭魅に代表されるような、身体の一部や持ち物を埋め込むことで人形と標的とを繋ぐ呪いがあるなら、逆に形代に厄を移して逃れる術もある。
 無論、そればかりではない。たとえば所有物から縁を辿って所有者を探し出すことも出来るのだ。
 晶が生成りを追う手段として用いていたのはまさにその手法だった。身に着けていた服の切れ端に術をかけ、猟犬の鼻に勝る精度で探し当てていたのだ。
「でも、失くしちゃった、と」
「失くしたというよりは、追われないようにあいつが持ち去ったんじゃないかと思うが」
 晶はため息をついた。
 どうやって生成りを追うつもりなのかと千草に問われ、答えとともに確認してみれば、入れておいたはずのポケットは空、他のどこにも見当たらなくなっていた。
 持ち去られたという予測は負け惜しみではない。むしろとどめを差さずに立ち去られたということになってしまうそちらの方がよほど屈辱的である。
「一体、何のつもりなんだか」
 淡路島からは逃げない。追われたくはない。なぜか自分を憎んでいるようで、そのくせ殺しはしない。生成りの行動は、まったくもって訳が分からない。
「それで、何か代替手段はあるか?」
 晶は三人を振り返った。まだ忸怩たる思いは残るが、力を借りると決めた以上は意見を求めることに惑いはない。
 海沿いの道路に車の通りは少なかった。昼下がりの波の煌めきは今日も眩く、潮風も薫る。
 その風にポニーテイルを揺らし、千草は小さく笑った。
「ふふん、そこはおねーさんに任せなさいな」
 その姿は、無論のこともう巫女装束ではない。ベージュのオフショルダーニットをワンピースのように着こなして、ウェストには太いベルトが緩く巻き付けられている。
 首筋から肩は華奢な鎖骨の陰影も艶めかしく剥き出しにして、下にはおそらくショートパンツでも穿いているのだろうが、傍目には際どいまでのミニスカートから健康的な太ももが伸びているようにしか映らない。
 随分と目の毒になる出で立ちである。
「昨日の夜に戦ってた場所は判る? そこへ行けば紅葉がなんとかできると思う」
「それ、千草姉ぇは何もしねえパターンだろ。任せろって何をだよ?」
 こちらはシャツにジーンズという飾り気の欠片も感じられない服装で、若葉がやれやれとばかりに頭を振る。
 陽に焼けても失われることのない繊細な面立ちに大きな表情。その落差が奇妙なまでに人を惑わせる。
「ってか、それで大丈夫なのか、紅葉?」
「……多分、大丈夫……」
 訥々とした囁くような声で、紅葉。ほっそりとした体躯を、今日は白いワンピースに包んでいる。太陽を避けるように大きな麦わら帽子をかぶっているのは、特に白いその肌のせいだろうか。
 晶はこの三人を量りかねていた。戦闘になる、それも命懸けのものであるかもしれないというのに、たとえば千草の服装はまったくそれに向いているように見えない。まるでこれから遊びに行くかのような装いだ。
 紅葉に関しても、後ろから術法で援護するのであろうからまだましと考えていいのかもしれないが、それでも山中を踏破するのには向かないはずだ。
「本当にそんな格好で行くのか? 舐めてないだろうな」
「まさか。必要あって、とまでは言わないけど充分に戦えるものを選んでるわ。むしろ晶クンの格好は人に見られたら目立つなんてもんじゃ済まないわよ?」
 あくまでも悪戯っぽい響きと表情で千草が返して来る。
 晶にしても自分の格好が人目につくのは判っていた。全体的には黒っぽい、耐刃繊維の仕込まれた戦闘服だ。それだけならただの黒尽くめで済むかもしれないが、袖や脇腹が破れているため気付かれれば不審に思われるのは避けられない。昨日穏形術を用いていた意味のひとつがそこにある。
「そもそも奴は見るからに人外に成り果てているからな、人前に出られない。こっちも基本的に街へ出る必要がないんだよ」
「なるほどねー。あ、でも、生成りなのに成り果ててるっていうのもちょっと不思議な表現よね」
 にこりと、千草。
 そんな揚げ足取りのようなことを言われても困るんだが、と思いつつもわざわざ咎める気もせず、晶は歩き出した。
 まだ、三人を信じ切っているわけではない。助けられたらしきことでもあり、一応は信用できるのかもしれないと捉えてはいるが、心を預けてはいない。
『あなたは特別な人間なの』
 絶対的に信じるものはその言葉と、その言葉が保証する自分だけだ。
 それは、己のみに価値を見出しているという意味ではない。任された以上は何もかもを自分自身で確かめたいのだ。そして本来戦うべきなのは自分だけであるとも思っている。
 あの屋敷で胸を掻き乱していた恐怖も今は元通り、不安にまで落ち着き、身体そのものに不調はない。
 大丈夫だ。
「……ともあれ、案内する。今は少しでも早く見つけ出したい」











 夕暮れまではあと少し。
 女は北の空を見遣る。
 二十歳ほどだろうか。小柄な美しい女だ。本当に何の装飾もない白の単を纏い、浅黒い肌に小さなくちびるが不思議な笑みを刻んでいる。薫る花、今咲き誇るように艶やかに。
「やれ、訪ねびとありか。茶の用意でもせねばなるまいな」
 片目でそう呟く。
 とは言っても、閉じられた右目には何の傷もない。一方で左は精気に満ちている。
 そして女は小さな庵に姿を消した。
 穏やかな風が吹く。もう春も終わろうとしているというのに、此処では初夏へと向かう風にはまだ変わらない。
 塀はない。垣根もない。しかし生い茂る草々が庭と外とを分けている。
 その切れ目が動いたのは、しばらくしてからのことだった。
 のそりと巨躯が現れる。
 こめかみからは短い角が生え、口許からは牙が覗き、元は洋服であったのであろうとだけ推し量れる衣は上半身をほとんど覆っていなかった。
 およそ誰に訊いても鬼と答えるであろうその姿は、携えた鋼鉄の棒を杖のように地へ突くと、果たして自分の求めたのは此処であったのかと惑うように辺りを見回した。
「そこな御仁、合うておるとも。合うておるともさ。ぬしは儂に会いに来たに違いない」
 くっくと笑う声。
 庵から女が顔を出す。右目はやはり閉ざされたまま、左目はからかうように。
 手にした盆には急須が一つと湯呑みが二つ。それをちょいちょいと示す。
「茶の用意もしておいた。氷雨殿か八重桜以外の来客は珍しいがの、八重桜は茶にうるさいゆえ悪くはないぞ。飲むじゃろ?」
「知ってたか。ああ、いや、それでこそか。それでこそ苦労してまでやって来た甲斐もあろうってぇもんだ」
 生成りは天を仰ぎからからと。しばし声を存分に吐き出してから向き直った。
「貰おうじゃねえの。思えば休む暇もなかった」
「とりあえず縁側にでも座るがよいさ。そっとじゃぞ? 儂の見たところ、ぬしが乱暴に振る舞うとこの庵は崩れてしまいかねんからの」
 女は先に腰を下ろす。頬にかかる黒髪を払えば、素直な流れは背を下って床に触れんばかりだ。
 生成りも、言われた通りに気を使いながら腰を落ち着けた。
 湯気を立てる湯呑みの一つを無造作に掴み、そのまま一気に飲み干す。人であれば舌を火傷するに違いないが、半ば以上を鬼と化した身にこの程度の熱さなど問題にはならない。熱に溶け込む風味をそのまま贅沢に味わった。
 粗野に映る所作を、しかし女は小さく笑って済ませる。
「余程喉が渇いておったか。まあ、そのなりで人前には出られぬわな」
「いかにもいかにも。雌伏のときは辛いもんよ。自分が鬼であると思い出しちまった以上はな」
 湯呑みを静かに置き、生成りは女を見下ろした。細く長く、息を吐く。
「さて、どうせオレの正体も分かってると見たが」
「分かっておるよ。神霊や真正の巫女でもあるまいに、世界へ還らず再び生まれ来るのは実に骨であったろう」
 右目を閉じたまま、女は悠然と自らの茶を口に含む。
 人にとって存在そのものが恐怖の対象となるはずの鬼を横にしながら、表情にも心中にも恐れはない。
「あまり旨くいってはおるまい。その右腕も、無理にくっつけておるだけじゃろ」
「はーははははははっ、分かるかよ、そこまで」
 生成りが些か奇妙な笑い方をする。どこか照れたような笑声だ。
 左手で右腕を引けば、それは肉と骨の切り口も生々しく、あっさりと離れた。だというのに一切の血が流れないことが不気味でもある。
「鬼だってことに目覚めた瞬間、ぽろりと落ちやがったんだぜ、これ? 元々はこれを治すためにわざわざ生まれ変わったってのにな。髭切恐るべしだ」
「遣い手の腕のほどもあるがのう」
 女の声はあくまでも飄々としている。生成りに共感を示すでもなく、拒絶するでもなく、ただのほほんと相槌を打つ。
 ふう、と丸い息を吐いて空を見上げれば、さすがに少しばかり赤みを帯びつつあるようではあった。流れる雲もほのかに色づいている。
「……それで、訊きたいのは『伝説との呼び名に違わぬ武具の在処』でよいな?」
「話が早くて助かるね。さすがは<天眼>の深月だ」
 おどけた口調で、生成り。
 そもそも淡路に来たのは、この女、深草深月に会うためだ。会って、まさに彼女の口にしたことを尋ねるためだ。
 その二つ名の元ともなった異能、<天眼>は万物を見通す。六神通の一つとして語られる天眼通どころではない。世界を読み解き、距離も時も越え、望むものを見通すのだ。
「言うておくが、儂の限度はたかが知れておるぞ? 本来の持ち主のような、森羅すべてに通ずる瑠璃の色の瞳のようにとはゆかぬ。あれでさえ高位の神霊や神器にはまともには触れられぬのじゃからしてな」
 深月はゆるゆるとかぶりを振る。その右目はまだ閉じられたままだが、その奥では抑え切れぬほどの力が荒れ狂い、溢れ出さんとしているのが生成りには感じとれた。
 それはきっと本当に、受け継ぐ前と比べたならば威を弱めているのだろう。しかし生成りの知る限りにおいて、彼女を上回る森羅見の力を持つ者は誰も存在しない。
「充分だ。別に神器が欲しいってわけじゃねえからな。そんなもん、今のあの野郎に使えるたァ思えんし。とりあえず刀が一番いいんだが」
「もの好きよな」
 当然のように深月には分かっている。生成りは、得たその武器を己の力にしようというわけではない。それどころか敵へ渡そうとしているのだ。
 その理由も知って、それでも口に出して問うてしまう。
「力満ちぬ今のうちに葬ってしまえばよいものを、何故じゃ?」
「誇りの問題だ」
 生成りは答えを迷わない。言葉を選ぶ必要のないほど、それは魂に刻まれた思いなのだろう。
「奴らはオレたちを倒した。騙し討ちではあってもな。少なくともあのとき以上の奴を倒さねえと意味がねえんだよ」
「満たされぬか」
「満たされんね。オレは意趣返しも嫌いじゃねえが、すべてを正面から叩き潰すってぇのがうちの首領の趣味でね」
「副首領殿は、まっこと忠義者よな」
 微笑のような苦笑のような、そんな笑みを深月は浮かべた。
 彼らは渾身の力を込めて真っ直ぐに繰り出される拳である。目の前にいるものすべてを破壊せんとする、闘争と暴虐の担い手だ。
 そして、その拳はいつか潰されることになる。『視』るまでもなく、彼らの滅びは予測できる。
 狂騒は一夜の夢。昇る朝日に掻き消され、あとは寂寥が残るのみとなるだろう。
 深月はその在り様が嫌いではない。懐かしくも思える。
 無論、それに巻き込まれた人々のことも忘れてはいないが。
「今代のあれは初代と二代目の生の影響が強く見受けられる。現状ではもう既に頭打ちじゃが、目覚めさえすれば……目覚めて力と経験を可能な限り取り戻すことが出来れば、ことによってはぬしらの目当て、四代目を凌ぎうる」
「ほう、そこまで強くなるかよ」
「嬉しいじゃろ?」
「嬉しいねえ」
 耳まで裂けたように見えるほどに口角を上げ、生成りが大きく笑う。
 喋るうちに、いつしかその身が一回り大きくなっていた。強敵との闘争に対する期待が、かつての姿を急速に取り戻させているのだ。
 筋骨はもはや人を越えて隆々とした威容を示し、纏う鬼気も、常人ならばそれだけで腰を抜かして泡を吹くほど。もはや生成りなどとは呼べない。
 重量に耐えかねてか、縁側が大きく軋みを上げた。
「む」
「おっと済まねえ」
 眉根を寄せる深月に、乱暴には振る舞うなと言われていたことを思い出し、なんとも殊勝に謝ったものだが、答えは予想と異なっていた。
 相も変わらず右目は閉じ、左だけで深月が見上げて来る。
「お主がここにおること、どうやらばれたようじゃ」
「おかしいな。追いかける手段は潰したし、そもそもしばらく起き上がれねえくらいボコボコにして捨てて来たはずなんだが……早速目覚めでもしたのかよ? そもそもオレだってここを見つけるのは苦労したんだぜ?」
 首を傾げる鬼貌は魁偉であるが、悪意のないせいか存外に朴訥にも映る。
 深月はくちびるの右端を吊り上げた。
「これは紅葉姫の仕業じゃな。ぬし、迂闊な場所に放り捨てたな。病院の前にでもすればよいものを」
「戸隠のがどうしたってんだ?」
「戸隠の鬼女ではない。氷雨殿……<緋瞳の戦巫女>の妹御の一人じゃ」
 立ち上がり、鬼を振り返る。小柄なせいもあって、それでも鬼を見上げることとなる。
 飄々とした佇まいは変わらない。艶やかな頬にわずかな笑みを残し、告げた。
「とりあえず今すぐにでも立ち去った方がよいぞ。求める武具の在処は教えてやるゆえな」
 乞われたときに手を貸す程度ではあるものの、深草深月は<緋瞳の戦巫女>一派として数えられる。口にした言葉はまだ中立であるが、鬼にとってはやはり味方というより敵の方が近いということになってしまう。
 鬼もそれは知っていた。だが、より気になることが一つ。
「そいつら『できる』のか」
 にぃっと、口が裂ける。
「手を出すな、たァ言わねえよな?」
「言わぬさ。そもそもあの子ら自身の考えで動いておるからの、氷雨殿に気兼ねすることもない。元よりぬしら大江山の面々はそのようなものとは無縁の気もするがの」
 茜色を背に、深月の右目が薄く覗く。
 そこにあるのは、高い高い空の果てを思わせる群青だ。淡く輝き、鬼の求めるものを見出さんとする。
 そして独り言のように呟いた。
「無情にして無常なるこの世界、知らぬ子らではない。縁あらば自身で問うてみるもよかろうさ」







[26080] 「鬼来たる」
Name: 八枝◆767618cd ID:da250079
Date: 2012/02/14 00:46



 現在と過去、いずれにおける術者が優越するのか。
 この命題への答えは一言では表し切れない。
 技術としては、多くの要素において現在が優勢となる。技は常に研鑽され続けるものだ。より少ない力を用いてより大きな効力を得られるよう、あるいはより多くのことをより容易く成し遂げられるよう、進化し続ける。
 無論、失われて再現できない技術もあるが、進む時の中で磨き上げられた多様な術法はそれを補って余りある。
 しかし逆に、個人の力は弱まった。根本的な霊力や言霊の強さなどは、なまじ技術が発達したがために強大である必要がなくなり、世代を経ながら衰えたのだ。
 総じてはどちらが優越するとも言えない。
 ただし、間違いなく言えることが一つある。
 技術は当然ながら後天的に獲得できるものであり、存在を知っていれば模倣し、果ては改良することも可能だということである。



 淡い光が浮かび上がる。
 それは太陽よりも遥かに弱い輝きでありながら、打ち消されることなく一帯に広がっていた。
 中にあるのは島の姿だ。南北を5mほどにまで縮められた、淡路島である。
 精巧、などという言葉では済まされまい。芥子粒のような自動車が移動してゆくのが見える。強い風が山を撫でたのか、緑の細波が赤みを帯びて伝わってゆく様までも幻像に映し出されているのだ。
 晶は声もなかった。
 つい数分前のこと。広範囲に木々の薙ぎ倒された昨夜の戦いの跡をしばし痛ましげに見つめた紅葉がおもむろに膝を突き、呟くように言ったのだ。
『力をお貸しください』
 最初に現れたのは、ただの点だった。しかし同じような点が見る見るうちに増えてゆき、やがて淡路島を形作ったのである。
 口にしたのが常軌を逸して強力な言霊であったことは分かる。その言葉を起点として術法が紡ぎ上げられているのであろうとは分かる。
 だが、これほどのものを構成できるはずがない。淡路島は南北50km、東西20kmを越える。これだけの精度で幻像を創り上げるならば、何千何万という式神を放ち、得られた情報を統合するしかないのだ。
 紅葉は今も膝を突いたままで目を伏せている。その横顔はどこまでも静謐で、純白のワンピースとも相まって決して触れてはならぬものを目の当たりにしているように思えた。
 と、千草が幻像の一点を指差した。
「出るわよ」
 この地点よりも10kmほど南に、赤い光点が一つ。緩やかに明滅しながら留まっている。
「そこにいるってことか」
「そうなんだけど……」
 晶の言葉に頷きながらも、千草は困ったように眉尻を下げ、ほんの少しだけ笑った。
「確か、深月さんのとこってこのあたりだったような……」
「……まさにそこです」
 紅葉も双眸を上げて小さく嘆息する。
「これなら普通の探査術でもよかったです……」
 この術は、そこら中に遊ぶ小さき精霊に願いかけ、そこから集められた情報を統合して立体小図を作り上げるものだ。島全体を調べながらどれほど小さなものも逃さず、当たり前にそこに在るものの目で見ているために神霊や、せめて大精霊にでもなければ気付かれることがない。
 最も必要とされるのは、精霊たちと当たり前に通じ合えること、そして受け入れてもらえること。術才や研鑽だけでは、それが天地を転覆させるほどのものであっても決して為し得ない術法である。紅葉にしてすら、慣れ親しんだこの島以外では情報が抜け落ちてまだらになってしまうのだ。
 今回これを用いたのは標的に気付かれないようにするためだ。追跡の手を一度絶った以上、向こうは目から逃れたと考えているはずである。そこで気付かれぬまま追うことができれば、大きな利点となるのだ。
 しかし深月の<天眼>には隠し通せない。無論、黙っていてくれれば問題はないのだが、それはあまりに都合のよい考えだろう。
「あの人、天津神関連以外では限りなく中立に近いもんね。けどそうか、考えてみたら妖が淡路に用があるっていったら、一番考えられるのは深月さんのとこか」
「どういうことだ?」
 話が見えず、晶は問いかける。
 おそらくは逆探知されづらい術を使ったのであろうことと、それでも見つかってしまったこと、そして深月なる人物が妖にとって有用な何かを持っているということまでは推測出来ている。訊きたいのは、ではあの生成りが何を得てこれからどうするかだ。
「奴はどうなる?」
「欲しかった情報を手に入れた。それは間違いないでしょうけど、中身までは判らないわね。あの人の『眼』にかかればほとんどのことを調べられるし」
「なるほど、それでどうせ気付かれるのなら普通の探査術でもよかったということか」
 晶は落胆もしなかった。元々さほど当てにしていたわけでもないのだ、場所が分かっただけでも充分過ぎるほどだと思う。今からでも追いつくのはすぐだ。
 三人のことは気にせずに、印を結ぼうとしたときだった。
「……移動を始めました。秒速…………およそ150m、こちらへ向かって来ます。一分もかかりません」
 紅葉が囁くような声で告げる。速度を述べるまでちょうど5秒空いたのはその間の移動距離を測っていたのだろう。
「こっちにって……ここに来るのか」
 晶は唸る。探知されていたことに気付いているならば偶然ではない。こちらへ来るならば、目的地はここなのだ。
 そして、標的は自分だろう。憎しみを見せながらも今まで殺そうとはしなかった理由が解消されたということなのだろうか。
 知らず、口許に笑みが浮かぶ。雪辱を果たせる、そう思うと胸の奥が疼いた。
「分かり易くていいな! 探すなんて正直うげぇとか思ってた」
 だが、横に並んだ若葉が清々しいほど快活にそんなことを言うものだから妙に気が抜けてしまう。
「……あのな、そんなことじゃ」
 退魔師として失格だと言おうとして、そもそも未だ自分にとっては正体の知れない少女だったことを思い出した。どうにも調子が狂う。今、まるで旧知の間柄だったかのように錯覚していた。
 南を向いた視界の中央に黒雲が湧いている。なんとも古めかしいが、鬼に限らず多くの力ある妖が飛行の際にまとうものだ。先ほど聞いた速度といい、もう既に完全に鬼と化してしまったのだろう。
「……帰るなら最後のチャンスだぞ。死んでも僕は知らないからな」
 振り向かぬままで三人に言う。
 さしもの晶も、あれから更に強くなっているのであろう相手に勝てるとは言えなかった。ましてや守るなどとは。
 しかし負けない。
『あなたは特別な人間なの』
 その声が、言葉が湧き上がりかけた恐怖を掻き消してゆく。昨夜重傷を負わされたことなど、己を誤魔化すまでもなく忘れ去った。





 黒雲。
 それは南から、東へも広がりながら北上して来る。
 西へは行かない。その様は沈みかけの太陽すら恐れるようだった。
 黒雲。
 濃い灰色が山の直上にまで至った。
 来る。
 身構える暇もあらばこそ。 
 音もなく、黒雲の中から巨躯が降り立つ。
 軽く3mはあるだろう。背丈に比してすら過剰とも思える筋骨隆々とした肉体を青の着流しめいた衣で覆い、牙を向き出して笑う。双角は天を衝き、裂けた口から瘴気が溢れ出す。。
「おう、本当にぴんぴんしてやがるな、あれだけボコボコにしてやったってぇのに」
「そっちは随分と調子がよさそうだな」
 竹刀袋に隠しておいた童子切安綱の模造刀はとうに抜き放ち、晶は口許に皮肉げな笑みを刻む。
 改めて観察するまでもない。やはり完全に鬼と成っているのだと、姿も纏う妖気も何もかもが告げている。
 ゆっくりと息を吐き、吸い。
「よく分からないが、欲しかったものは見つけたのか?」
「おうさ、いいことを聞かせてもらった。望んだもの以上だ」
 からからとけれん味たっぷりに鬼が笑う。隙だらけにも見えるが、それはあえて見せてあるものだ。迂闊に踏み込めば死が待っている。
 晶は全身を撓め、その死をも切り裂くべく機を窺うのだ。
「なら、それを抱えたままで死ね」
「強気だなあ、おい」
 鬼はなおも笑い、そして残る三人にも目をやった。
「女子供が三人増えたくらいで、といつもなら言うとこなんだが……ただの嬢ちゃんじゃないそうだな」
「あら、深月さんってばそんなことまで喋っちゃったの?」
 歳に似合わぬほどに艶然と、千草が微笑む。晶とは対照的に、まだ戦いに備えた様子はない。剥き出しの肩をすくめて小首を傾げる。
 圧倒的なまでの鬼気など知らぬかのように、華やかに問うた。
「状況がややこしくなる前に聞かせて? 今後、何をしたいの、鬼のおじさま?」
「うはははは、人間としてはまだ三十年も生きちゃいなかったんだがな、その呼び方も悪くはねえ」
 鬼は相変わらず隙だらけ、に見える。魁偉な鬼貌をくしゃくしゃにして、陽気に衒いなく、凄惨な未来を告げた。
「壊す。殺す。喰らう。力こそ我らが本懐。すべてを暴虐にて蹂躙し、享楽に耽る。文句はあるか?」
 それは古い、千年前の鬼の在り様だ。鬼が鬼として最も荒ぶっていた時代の。
 人にも理解できないことはないだろう。しかし付いてゆくことはまず叶わない。人を外れて初めて追いつける。
 木々がざわめいた。力ある鬼の意思を、小さな精霊たちが恐れたのだ。
「もちろんあるわ、おじさま」
 甘く緩んだ目許に悪戯な色。千草は不吉な言葉に呑まれない。三人を代表するように朗らかに言ってのける。
「あたしたち、今の生活を楽しんでるの。そういう物騒なのはちょっと、ね。住みにくい国になるのは嫌だもの」
「そうかいそうかい、そいつは相容れねえなあ」
 巨大な口を実に愉快そうに吊り上げ、鬼は身を揺する。ぎらつくような双眸にあるのは歓喜だ。
「罪のない人々を云々、たァ言わねえか」
「そういう気持ちもあるわよ。でも、おじさまにとっては無価値な言葉。でしょう?」
 千草は相手に合わせて言葉を使う。
 効かぬ言葉、通らぬ想い、その甘い痛みも知らぬわけではないが、そんなものを使うのは本当に大切な相手にだけだ。
 今、目の前にいるのは正体の未だ知れぬ鬼。それも極めて強い力を有する。身構えずとも、既に戦いは始まっている。
「一度だけ、形式的に聞かせてね。人と融和して生きていくつもりはない? あるいは、大蛇様の世界は何ものも拒まないわ。たとえ敵であってすら」
「ねえな」
 きっぱりと、端的に。鬼はいっそ静かに答えた。
 気を悪くした様子はない。しかしそれ以上の説明もしない。生き方は語るものではなく示すものだ。既に語り過ぎたくらいなのである。
 千草は振り返らぬまま、ほんの少しだけ苦笑した。
「諦めてね、紅葉」
 返事はなかったが、頷いたであろうことは判った。
 世界が赤い。春も終わろうというのに空気が凍えてゆく。
 木々がざわめく。風が強い。ただの流れではなく、鬼と千草とがその力を解放しつつあるのだ。
「君の言う通りね、美少年クン。協力するわ」
「まあ、面倒がないのはいいことだ」
 半ば背を向けるように身を捻り、くすりとも笑うこともなく晶は頷く。双眸は鬼を惑うことなく見据え、戦いへと心身を練り上げてゆく。
 あるのは高揚だけだ。他の何もかもは薄れて消え、やがて目の前の鬼だけが意識に残る。
 なぜだろうか、とてもしっくり来る。改めて対峙した今、再び湧き出した恐れはある、不安もある。それなのにこうしていることが自然に感じられる。
 今まで相手をしたことのある雑魚などではない、ともすると国を揺るがしかねない敵。



 ノウボウ タリツ タボリツ ハラボリツ シャキンメイ シャキンメイ タラサンダン オエンビ ソワカ



 口を衝いて出たのは秘法中の秘法、太元帥明王の真言、国家鎮護の大祈願。
 太元帥明王は一説にはすべての明王の総帥とされ、不動明王にも匹敵する霊験を顕す。その力は護国のためにこそ発揮される。
 さしもの晶もこれだけで効を成すことは出来ない。難度ではなく、規模に問題がある。文字通り国そのものを守るための力、独りでは限度があるのだ。
 それでも言霊として、山々に遠く響いた。
「ほう」
 鬼がにぃと笑う。
「いかにも我らは国の災い、滅ぼすべき邪悪よ。そうでなくちゃいけねえ。来い、白鳥しらとり!」
 巨大な手の中に現れるのは鋼鉄、鬼の巨躯をも越える長さの極太の棒だ。鬼の怪力をもって振るわれたなら、人など跡形も残らないだろう。
 纏う暴虐の気配に草花は怯え、赤に染まった世界はこれから流れる血を見せつけるかのよう。
 無言。
 そして山肌に深く刻印される足跡。
 とうに始まっていた戦い、双方が待ち望んだ動きの端緒は晶の踏み出した一歩となった。







[26080] 「一条戻橋」
Name: 八枝◆767618cd ID:da250079
Date: 2016/04/13 23:19





 鬼の巨躯が一気に近付く。
 景色を置き去りにして晶は駆ける。手にするは名もなき刃、ただし童子切安綱の霊力を受けた。
 背後の三人の力を当てにしてはいない。この期に及んでとも言えるが、彼女たちをなるたけ危険に晒さぬようにするには自分が白兵戦を行うしかないと考えての行動だ。
 だが、晶の思惑は良い意味で外された。
 ごう、と耳元で風が鳴いた。背後から追い抜いてゆく。白いものが舞った。
 呪符だと気付く暇もあらばこそ、生き物のように、むしろ鳥などには不可能なほどの奇怪な軌道を描き、十二枚のそれは鬼へと殺到した。
 迎え撃つは一閃。
 目にも留まらぬ技の冴えにより、一振りで鋼鉄が七枚までを叩き落とす。
 七枚も、ではない。本来であれば返す閃きで残る五枚をも吹き飛ばすはずだったのだ。
 風に乗り、呪符は返しの一撃の軌道から瞬時に外れていた。一枚は低く、一枚は頭上から、残る三枚は鬼の左腕を遡るように。
「は」
 愉快そうに鬼が肩を揺する。それだけで己の周りに暴風を渦巻かせた。それは今まで呪符を操っていた風を砕き、荒ぶる強い流れでもってくわえ込む。
 しかし既に晶が眼前まで辿り着いていた。
 横薙ぎの斬。刃は鬼に届きはしないが、霊気の残光が小さな嵐を割った。
 解放された呪符を尻目にもう一歩踏み込む。手首を返し、半ば右肩に担ぐような形から斜めに切り下ろした。
 狙いは左脚だ。勝利への布石としてまず足から殺すのは有効な手である。何より、巨躯の鬼を小柄な晶が斬るならば、ちょうど斬り頃の位置にある。
 速さも鋭さも迅雷、加えて強い霊気まで纏った剣閃は丸太を遥かに越える太さの鬼の脚すら断ち切るだろう。
 だが、成せない。聳え立つように、甲高い音を立てて頑強な鋼鉄が遮っていた。
 棒とは優秀な武器である。部位に囚われることなく、どこを使ってもよい。攻めは自在、守りも自在、剣としても槍としても盾としても使える。単純なつくりであるため構造上弱いところもない。
 欠点を挙げるとすれば殺傷力に劣ることだろうか。しかしそれも、戦闘術として棒を磨き上げたならば人程度の大きさの生き物など容易く打ち殺せる。
 ましてやこの鬼が扱うのは太さが男の腕ほどもある鋼鉄の逸品、そして振るうのはそれを軽々と操る膂力と体躯。直撃すれば羆でも肉片と化すだろう。
 生成りの頃ならばまだしも、今となってはもう絶対に打ち合ってはならない。たとえ霊刀は耐えられても、人の肉体が壊れてしまう。
 晶は大きく跳び退った。ただ盾のように遮られただけだというのに手が痺れている。
 隙である。鬼にとって、この瞬間は好機であったはずだ。
 が、その場に縫い留められざるを得なかった。
 晶が仕掛けた隙を突いて、巨体に二十枚以上の呪符が纏わりついている。先の十二枚自体を囮とし、晶の後ろに張り付くようにして追従させていたものである。
「顕現!」
 短く鋭く、千草が起動の命を発する。
 その瞬間、風によって操られていたすべての符が、執拗に巻きつく蛇の如き振舞いのまま、突如短刀へと変化した。
 武装法だ。符を用いて一度に多数の短刀と成し、手の内から離れても持続するのは千草独自の工夫である。
 もっとも、欠点も生じてしまった。顕現の瞬間にその場に固定されてしまい、宙空にあれば止まった後で落下してしまう。
 だからこの方法で行う場合は、停止時に顕現させておいてから投げるのが通常の使い方だ。
 しかし、この欠点をこそ利用するやり方も心得ていた。それを今、行使する。
 機を合わせる。鬼の肌に触れる距離で刹那だけ空間に固定され、食らい込むような顕現の流れそのものが切先を鬼の肉へと押し込むのだ。
 そればかりではない。固定がどれほど強固になされているのかは千草自身も把握し切れていないものの、もしも鬼が晶を追って踏み出していたなら、押し通ることができたにせよ己自身の力によって深く抉られるのは間違いない。
 そう、追ってくれさえしたなら大きな傷を負わせることが出来たはずなのだが。
 派手に血煙が舞うが傷は浅い。ひとつひとつは精々が皮膚を裂いた程度のものだ。
 鬼は動かなかった。この術の中身までは見抜けぬまま、それでも文字通りの鬼神めいた勘で行ってはならぬと察したのである。
 しかし千草はくすりと笑った。
「凄いわ、おじさま?」
 これでいいのだ。自ら口にしたことがあるように、敵を斃すことを目的とはしていない。晶への追撃を防ぐとともに、もうひとつの時間稼ぎも出来たなら充分だ。
 千草よりも更に後ろ、守る若葉の背後で紅葉が紡ぎ続けている術法がある。
「力をお貸しください。命果てた無念を、わたしに」
 呼び掛ける相手は昨夜の戦いで生を終わらせた木々や草花たちだ。
 精霊、神霊に真に親しむ紅葉は整えられた祝詞を必要としない。あるいは、あらゆる自由な言葉が祝詞となる。
 紅葉は憤らない。無為に散る命はいくらでもある。生命は流転する。何ものもが多くの死の上に生きているのだ、己自身も例外ではないのだ、果たして何を言えようか。
 だが、悼むくらいはいい。
 白くしなやかな両腕を軽く、優しく広げる。
 純白のワンピースは今や屍衣めいて、死して後、未だ世界へと還り切らぬ魂たちの受け皿となる。
「そしてお休みなさい、永遠とこしえに」
 決して強くはないのに凛として響く声。
 一帯にほのかな燐光が浮かび上がった。西日に焼き尽くされそうに見えながらもゆるゆると舞う数多の小さな光は、ひとつとして同じものはない魂の最後の輝き。導かれるように紅葉に触れては世界へと消えてゆく。
 どこまでも静かに、呪は完成へ至る。
 迷える魂を鎮め、受け取った無念でもって敵を侵す一手。即興の術法だ。
「あなたに痛みを」
 清冽な双眸、視線に乗せて呪は放たれた。
 回避など出来るわけがない。刹那の時すら必要とせず、短刀の群れを振り払い改めて晶を追おうとしていた鬼を捉え、浸透する。
 右肩、胸、左腕、左脚。四箇所が破れる。青の着流しが朱に染まった。
 深さは先の千草の短刀がもたらした傷の比ではない。
「……これはこれは!」
 鬼が大笑する。血塗れていることそのものも楽しそうだが、真に感心したところは別にある。
 怨の念でこれを成したことが重要なのだ。鬼は暴虐の輩であり、幾千幾万の恨みを浴び続けた存在である。だからこういった類の術法には極めて強い耐性を持っている。事実上、通じることなどないはずだった。
 だというのに、これだ。
「貫いて来たかよ! 単純に人間業じゃねえぞ、おい」
 歓喜の声を上げながら、今度こそ晶に迫る。
 振るわれる鋼鉄は達人の域。打ち下ろし、跳ね上がり、晶を上下左右に翻弄する。
 しかし晶も乗せられはしない。弧を描き、あるいは突き出される先端をことごとく見切っては、嵐のような攻勢の中に一筋の穴を見出そうとする。
 技と読み、速さは互角だろう。だが一撃のもたらす威力には大きな差があり、おそらく持続力も鬼が勝る。長引けば不利だ。
 それを後ろから把握しながら、紅葉は次の術に移っていた。
 鬼の棒術は恐ろしいほどの冴えを見せている。白兵戦での攻略は難しいだろう。
 だが、そこに穴を作り出せる術を紅葉は心得ていた。晶の剣腕はおそらくあやめに勝るとも劣らない。穴さえあれば貫いてくれると判断したのだ。
 繊細な美貌は幽玄。小さなくちびるが呪を唱える。
「書に記され、人の伝える。此処は一条戻橋、遭うたる鬼の腕を獲る」
 呪法『一条戻橋』。
 平安時代、鬼の片腕を切り落とした渡辺綱の伝承を基盤とした術だ。
 鬼にしか効かない上、伝承でも後で腕を取り戻されたために、一人の術者が一体の鬼に対して一度しか使えないという限定的な術だが、それだけに鬼にとっては抵抗の難しい術となる。そして紅葉の力量をもって使うならば、たったひとつの例外さえ除けば鬼の王の腕であろうとも容易く落とす。
 片腕となっても得物は振るえるだろう。そのくらいの怪力であると見た。しかし棒術は両手で行うものである。片手では巧を欠く。
 呪は過たず鬼を捉えた。
 必勝の道筋、最も堅実で確実な手。決して油断ではなく、侮っていないからこそ選んだ術法。
 その手が、術者に牙を向いた。
 紅葉の右腕に赤い筋が走る。前腕がぱくりと割れ、鮮血が溢れ出したのだ。
 術を破られたがための逆さ風。腕を奪うならば腕を奪われる。
 他の術ならばあらかじめ対処もしてある。まともには受けなかった。が、無効化されるはずのなかったこの術だけはそのままだったのだ。
 完全に予想外でありながら、本来であれば片腕を完全に殺されるところを咄嗟に力尽くで傷にまで抑え込んだことこそ、紅葉の術才の真価である。
「っ……!」
 苦鳴を喉の奥に留め、紅葉は即座に治癒に入る。返しの風による傷は癒え難いが、少なくとも血だけは止めておかなければならない。
「紅葉!?」
「……大丈夫」
 気付いて顔色を変える若葉を言葉だけで押し止め、紅葉は答えを得る。
 思わぬ事態に陥っても思考は曇らない。事実を事実として受け止め、そこから敵の正体を即座に推測してみせた。
「あなたはもしかして……」
 声は細いが精気は失われていない。双眸も怜悧な光を宿している。
 『一条戻橋』には唯一、術そのものが根本的に通用しない鬼が存在する。
 この術は一度しか用いることが出来ない。紅葉が目前の鬼に対して使ったのは初めてだが、そもそも術の根幹を成す因果には本来の標的があった。
 その標的、この術の利用する因果によって既に腕を奪われたことのある鬼にだけは、力の多寡によらず効かないのだ。
 推測が正しければとてつもない相手だ。同時に、この事態は決して力ある鬼が暴れているというだけでは済まされないことを意味する。
「ああ、そうか」
 晶を大きく弾き飛ばし、鬼が苦笑じみた顔を見せた。どのような術を仕掛けられようとしたのかを察したのだろう。
「悪かねえよ。そんな術まであるたァいっそ光栄なほどだ。判断自体は間違ってなかったんだろうが、巡り合わせが悪かったってぇとこかね」
 鋼鉄の棒を掴んだままの右腕が肘のあたりで外れる。
 これこの通りとばかりににやりと笑ってまた接ぎ合わせ、唸りを上げて鋼鉄を縦横に操ってみせる。
 割って入れるような演武ではなかった。豪放なその動きをただただ見守れば、やがて仕舞いとなったのか鋼鉄で地を突いた。
 足元が揺れる。どれほどの衝撃だったというのだろうか、椀状に抉れてさえいた。
 未だ引かぬ黒雲の下、鬼が耳まで裂けた口から牙を覗かせる。
 そしてけれん味たっぷりに名を告げた。
「そういえば名乗り忘れていたなァ。オレは人呼んで茨木童子。大悪賊、大江山の副首領ってぇやつさ」











 茨木童子とは、大江山に棲んでいた酒呑童子一党の次席である。
 現代においても高名とまでは言い難いが、強大な鬼として知られる。記録によれば三百人力、数多の神通力を行使する、歴史上十指には入るであろう鬼だ。
 出生には諸説ある。有名どころでは越後と摂津だが、事実を知るのは自身と、あとは酒呑童子くらいのものだろう。
 特筆すべき事項として、記録はどうあれ実際には茨木童子は斃されていない。源頼光と四天王による討伐を生き延び、その後で四天王の一人である渡辺綱を一条戻橋で襲撃、腕を切り落とされたもののその七日後には取り戻して姿を消しているのだ。
 茨木童子は強かである。鬼に横道はないと言い放った酒呑童子の言葉に、必ずしも沿う鬼ではない。
 だからこそ副首領に相応しい。直情的で野放図な鬼たちの手綱を引き締め、あるいは酒呑童子に足りないものを補える。
 そしてだからこそ、源頼光たちの策略を見抜き切れなかった己を許せないのだ。



 さても弱った、と茨木童子は内心で唸る。
 見栄は切って見せたものの、目的がある以上は闘争に酔いしれるわけにもいかない。
 深月の語った情報は、厳密には求めたものと異なっていた。しかも一応は知っていることですらあったのだ。
 しかし、にやりと笑った彼女の言葉には素直に頷くしかなかった。
『なに、ようある話よ。求める答えを既に持っておるなどということはな』
 充分に価値はあったと思う。厄介な仕事をひとつ成功させなければならないが、うまくゆけば仲間に今度こそ最高の闘争を味あわせてやることが出来る。
 問題は、厄介な仕事が本当に厄介極まりないことになってしまったことだ。
 白鳥はいい。最も重要ではあるが、一対一であれば目的を果たすにも余裕はある。
 歳に似合わぬ色香の娘もいい。白鳥の片手間に何とか出来る。
 日焼けした少女は守りの姿勢で最初から動いておらずよくは判らないものの、少なくとも今のところ問題になると思えない。
 だが最後尾の術者は駄目だ。神代の遣い手だから、などという理由では足りない。称賛した通り、力量そのものが疑う余地もなく人を超えている。与えることの出来た竹箆返しは本当に巡り合わせによるものであり、ここから先は致命的な術ばかりを矢継ぎ早に放って来ることだろう。勝ちに行くならば早急に潰さなければなるまい。
 しかし冷徹に計算すれば、白鳥を捌き、妨害をいなし、守る少女を抜くまでに自分が生きていられるとは到底思えない。後回しにすれば言わずもがな。どう戦っても一人か二人を道連れにするのが精一杯というところだろう。
 情動に身を任せるならばそれでも構わなかったのだが。
 声もなく笑う。ままならぬことが何故か楽しかった。
 力と人となりを味見してみようと思ったことはどうやら軽挙であったようだ。やり方を切り替えなければならない。
 攫うしかあるまい。かつて、渡辺綱に試みたように。
 頭上の黒雲ならばまだ消えてはいない。見せてやることとしよう、本物の鬼の力というものを。
「此処は一条戻橋」
 奇しくも言葉は同じとなった。
 急速に光が薄れる。黒雲が下りて来る。薄墨に世界が塗り替えられてゆく。
 最も早く行動したのは晶だった。千草はオフショルダーニットの裏側から符を取り出すのに、熟練なれど四分の一秒を必要とする。紅葉は対抗すべく大がかりな術の準備をしてしまう。最前列から斬りかかるだけの晶が圧倒的に早いのだ。
 霊気を纏う刃が脇腹に食い込んだ。闘争を旨とするこの身に、痛みなどいかほどのことか。がばりと抱え込む。無理に連れ込むには接触している必要があるのだ。
 行われようとしていることに勘づいたのか、紅葉が何かを言おうとするがもう遅い。
 神霊ばかりではなく、力ある妖は自らの異界を持っている。どの程度の広さであるかは力量によるが、茨木童子はひとつの山を覆って余りある。
 異界はその主のための、半ば世界そのものに支えられた領域だ。ただの術などとは強度の桁が違う。いかに紅葉の力量が人間離れしていたとしても、名だたる鬼である茨木童子の異界を外側から独力で破ることは不可能に近い。
「こいつは連れてゆく。しばし、おさらばだ」
「くそっ!?」
 晶が暴れるが、思うようにはさせない。
 景色が切り替わる。世界が切り替わる。千草と紅葉の姿が見えなくなる。
 だが、招かれざる客が一人混じってしまっていた。
 どれほどの瞬発力を持っているというのだろうか、そして訳も分からず本能的に食らいついていたのだろう。
 ずっと紅葉を守る位置にいた若葉が、今は晶の肩を捕まえていた。ともに異界へ引きずり込まれているのだ。
「やらせるかよ!」
 そう叫ぶのは、状況をよく理解出来ていないからだろう。
 何にせよ、今から送り返すなどという間抜けな真似をするわけにはゆくまい。
「はーはははははっ、ついでだから嬢ちゃんも招待してやるよ」
 茨木童子は些か奇妙な笑い方で二人を誘った。







[26080] 「愛宕山」
Name: 八枝◆767618cd ID:da250079
Date: 2012/03/25 20:32





 薄墨が晴れる。
 淡い光が頭上から降り注いでいた。先ほどまでの赤ではなく、やわらかな白い明かりだ。
 見回せば辺りは河原、大小の丸い石が自然に敷き詰められて広がり、両脇は切り立った崖となっている。
 川は細い。色など判らぬほどに澄みきって底を映し、そのあまりに透き通った様がかえって不吉に思われた。
 小さく鳴くのは何という鳥だろうか。幾羽かが器用に崖に留まってこちらを見下ろしている。
 先は見えない。薄靄に融けている。
 後も見えない。薄闇に落ちている。
 晶と若葉が放り出されたのはそんな場所だった。
「橋より落つれば愛宕山、此処は何処いずこの愛宕山。幽明境を異にする、此処は境の愛宕山」
 三十歩の距離に茨木童子はいた。脇腹こそ血に染まっているが、苦悶の色はない。
 呪を朗々と締め、改めて鋼鉄の棒を構えた。
「河岸を変えさせてもらったぜ。さすがにあの嬢ちゃんだけは洒落にならんわ」
「いい、どうせ最初から僕独りでやるつもりだったんだ」
 じり、と晶は靴底を僅かに滑らせる。右の脇構え、やはりまずは足を殺さん、と。
 対して茨木童子は右を上に、左は地を摺るほどに。それだけで既に、晶の狙う剣筋を封じている。
 だからと言って、構えを変えたところでほとんど意味はない。こちらが変えればあちらもそれに対応して構え直すだけなのだ。封じられてなお、それを越えてゆかなければならない。
 斬撃ではなく刺突という手もあるが、それは下策だ。速く、長く、受け難いという利点は、茨木童子の体格と間合いの広さによってほとんど無意味となる。しかも一突きで殺せなければ捕まってしまう。そうなればあとは、軽々と四肢を引き千切られて終わりだろう。
「やれるかねえ……剣でオレに勝つなら、渡辺綱以上でなくちゃいけねえぜ? あの頃ですら既に、単純な強さなら綱の野郎の方が上だったと見てるんだが……果たして今のお前に越えられるかよ?」
「また訳の分からないことを!」
 煽る声を晶は拒絶する。双眸に苛立ちが潜んでいようとも、肉体は必要な緊張と弛緩とを成している。
 対して空気は熱を持つほどに張り詰め、まさにそれが破裂しようとしたときだった。
「あのよぉ……なんか俺、無視されてねえ?」
 繊細な面立ちに困ったような表情を浮かべ、若葉が一歩進み出た。
「特に晶だ。協力するって言ったろ?」
 しかし先に反応したのは茨木童子の方だった。
「出来れば見といて欲しいんだがなァ、嬢ちゃん。なに、用事さえ済みゃそのまま無事に返してやるさ。オレに限っちゃ騙し討ちをしねえわけでもないんだが、この約束は守るぜ?」
「あいつの言う通りだ。今まで立ち居振る舞いを見せてもらってたが、随分と無駄が多い。正直、君はそれほど強いわけじゃないだろう」
 晶までも、視線は敵から外さぬままにそんなことを言う。
 若葉は怒りはしなかった。晶の背と茨木童子の顔を順繰りに見やってから、右拳を軽く左掌に叩きつけてにやりと笑ってみせた。
「そういうことなら、吠え面かかせてやるぜ?」
 言葉と同時の行動は無造作だった。倒れ込むような動きから、前方への跳躍とでも言うべき疾行法でまたたく間に茨木童子との間合いを詰める。
 速い。戦闘において速度を大きな武器とする晶より、僅かながらも確実に。
 晶が此処へと連れ去られようとしたときに食らいついたのは、決して不可解なことではなかったのだ。
 大人しくしていろと言った茨木童子だが、刃向うとあらば容赦するつもりはない。若葉の動きを視界の内に捉え、斜め右から弾丸のように迫り来るのに対し、右足を引いて少しだけ構えを変える。
 そしてその変化を逃す晶ではなかった。若葉と対称的な軌道で駆け、緩んだ守りの隙を突く。
 無論、先に辿り着くのは若葉であるはずだ。しかし咄嗟のことでありながら、晶はその援護さえやってのけた。



 オン マリシ エイ ソワカ



 摩利支天は光と陽炎の天部である。先行く光は己自身を敵に捉えさせぬまま闇を打ち払うことから軍神として扱われもする。
 その力は自分をしか対象とできないわけではない。
 若葉の姿が四つに増えた。元の場所からは消え、その周囲に現れたのだ。
 若葉は戸惑わない。よく分からないが自分が奇妙なことになっている、などということには紅葉のおかげで慣れているのだ。
 元の場所から消えたとは言っても本当にいなくなったわけではなく、見えなくなっただけである。そのまま真っ直ぐに駆けるのは愚の骨頂だ。
 だから若葉は本能じみた勘で軌道を変えた。蹴立てる砂利ごと消えたまま、茨木童子のより側方へと回り込む。一方で陽炎たちも散開した。
「ちィッ!?」
 茨木童子は短く唸る。
 本体の位置を見抜くこと自体はそう難しいことでもない。この『愛宕山』が自分の領域であるからには、すぐに割り出せる。
 しかしその暇もなく、霊刀の斬撃が来る。若葉が遠回りになった分、ほんの僅かにだけ早く晶が辿り着いたのである。
 そのほんの少しが絶妙だった。陽炎は晶が操っているにしても、若葉自身はそうではない。偶然の産物ではあるが、もしもこれが鍛え上げられた連携だったならば、荒水波にも匹敵する錬度と言えたろう。
 晶の刃を受け流す動きから続け、鋼鉄の対側で最も近い『若葉』の胸を突き破り、そこから大きく一振りすることで更に二人の『若葉』の胴をまとめて薙ぎ払った。攻防自在たる棒術の真骨頂だ。
 本物は姿を消したはずだが、見えているものも無視は出来ない。摩利支天の陽炎がいつ互いに入れ替わっていてもおかしくないことを茨木童子は承知している。
 屠った三つには、いずれも手応えがない。揺らぎ、靄のようになって消えた。そして伏せることで大薙ぎをやり過ごした『若葉』の拳が、確かな実体をもって右大腿に触れた。
 やはりいつの間にか陽炎の一つと摺り替わっていたのだ。晶の剣をいなしてさえいなければ、この最後の『若葉』も逃しはしなかったのだが。
 油断はしていなかった。若葉が徒手空拳であるのには何らかの理由が存在するのだと、茨木童子は見抜いていた。だから触れられたくはなかったのだが、こうなっては己の肉体の頑強さに委ねるしかない。
 大気が震えた。
 痛みを覚悟して、その上で次の瞬間に訪れたのは想像を絶する衝撃だった。鍛えに鍛えた男の胴をも凌駕する太さの、異常なまでに筋骨の発達した脚がその刹那だけ半分に潰れたかのようだった。
 踏み堪えるどころの話ではない。体積にすれば若葉の軽く十倍以上はあるであろう肉体が軽々と吹き飛ばされ、河原を転がって崖に激突し、ようやく停止する。
 されど茨木童子も凡百の鬼などとは違った。
「おぉぉぉぉああああッ!」
 咆哮。即座に跳ね起きる。強撃された脚でしかと立ち、揺らぎもしない。
 鋼鉄を構え、大笑した。
「すげえな、おい! 馬鹿力にもほどがあるぞ」
 茨木童子を吹き飛ばして見せたのは、技巧ではなく単純な力だ。繰り出された拳は理を知ったものではある。上体だけで放てば反動で己自身も吹き飛ぶことになる打撃を地によって支え、放ったのだ。それでも達人にはほど遠い。
 逆に、もしも玄妙の業までも手に入れたならば、少なくとも殴り合いで勝てる人間など存在しないだろう。若葉が地上最強を目指すと口にするのも大言壮語とは言い切れない。
「どうだ、痛いだろ?」
「ああ、痛いねえ」
 へへん、とばかりに胸を張る若葉はどこか微笑ましい。少年めいて、けれど息を呑むほどに繊細で可憐な少女なのだ。
 茨木童子にとってはその得難い素直さが好ましく、同時に哀れでもあった。
「金剛力の術……いや、単に異能か。金時と同じだな、野郎も似たようなことしてやがった」
 その推測通り、若葉は異能を有している。千草の風のように術混じりのものではなく、純然たる特殊能力だ。
 一度深く集中することによって自在に切り替えることが可能で、普段でも大人を腕力だけで捻り倒せるほどである剛力が、いざ異能を発揮すれば大抵の鬼をも凌駕するほどになるのである。
「これで俺も戦えるって分かったろ?」
 若葉の言葉は茨木童子というよりも半ば以上を晶に向けたものだった。きらきらとしたまなざしはどこまでも真っ直ぐだ。
 だが、晶は素っ気なかった。
「当たらなきゃ意味がないだろ。さっきだって僕が援護しなかったら頭を割られて終わりだった」
「その辺は多分なんとかしてくれるって信じてた」
 なんともあっけらかんと若葉は笑う。
 信じていた、その言葉が癇に障ったが晶は眉を顰めるだけに留めた。
「ともかく、同じ手は多分もう通じないんだ。危険過ぎる」
「いや、でも……」
「いんや、嬢ちゃんはやっぱり見学行きだ」
 茨木童子の声。
 それはどういう意味かと問う前に、瘴気よりもなお濃い黒の風がこの異界を駆け抜けた。
「虚ろの禍津風。こいつは本人に使うこたァついになかったが、坂田金時用に仕込んでおいた罠だ。運が悪かったな、オレは嬢ちゃんみたいな力の封じ方をとっくの昔に考案してあるんだよ」
「これは……」
 ごう、と鳴る黒の一吹きによってごっそりと霊力が削られたことを晶は感じとった。およそ総量の三割ほどを持って行かれたろうか。眩暈のように揺れる景色を抑え込んで茨木童子をしかと見据える。
 若葉の顔色も悪い。そして茨木童子までも顰め面だった。
「胸の底で感じるだろ。この場にいる奴の霊気を削り取る風さ。オレすらも例外じゃねえが、破り難い上に一流の術者でもぶっ倒れるくらい、きつい。もちろん、千年前の基準でな」
 術者の力量自体は今も千年前も変わらない。しかし、こと霊力量だけを抜き出せば現代の術者が劣る。千年前の一流でも耐えられぬほどであるということは、おそらく現代ならばこの国でも十指に入るほどでなければ凌げまい。
「う……」
 茨木童子の言葉を証明するように、耐え切れなくなったのか若葉が膝を突く。秀でた額には脂汗が浮き、シャツの背もぐっしょりと濡れていた。
「オレにとっちゃそれほど問題にならんし、白鳥しらとりにも致命的じゃねえだろ。さっきの麦藁嬢ちゃんだったら蚊に噛まれたようなもんだろうな。それどころか破りかねんが。だが……嬢ちゃんは違う。今の術者なんぞと比べりゃ格段に大きいとはいえ、それだけだ」
「だから何だってんだ! 俺の力は霊力なんか関係ないぜ?」
 もう一度立ち上がる。語調は明らかな強がりだが、膝は笑っていない。
 だが茨木童子はそこへ止めを刺した。
「嬢ちゃんの力は強過ぎる。自分の力で自分自身も壊すのさ、本来ならな。だから保護の術が必須なんだが……もう使うだけの余力もねえだろうがよ?」
「っ!?」
「得物を使わんのも、壊すからだァな。壊さねえほどの業は身につけてねえし、オレの棒みたいなのを使うにゃ身体が小さ過ぎる」
 正鵠を射ている。
 紅葉が創り、若葉に唯一使える術こそがそれだ。似たようなものはあれど、何から何までもを若葉用に調整して、若葉にだけは行使し易く、かつ強固に組み上げられた特別な術法である。
 この術の影響下にないときには絶対に異能を使ってはならないと紅葉にも懇願されている。
 武器を使わないのも、若葉自身の気性もあるが茨木童子の口にした指摘こそ最大の理由だ。
「それでも戦えないわけじゃ……!」
「やめろ」
 いっそ冷やかに、晶が遮った。
「効かない拳なんて振るったところで意味はない。むしろ心底足手まといだ。おとなしくここで見てろ」
「けど……!」
「しつこいようだけど、さっき君は僕がフォローしなきゃ危うく死ぬところだったんだ。あんないい加減な戦い方をされたら困る。君は一体なんのためにこの戦いについて来たんだ? 僕の足を引っ張るためなのか?」
 応えはなかった。
 若葉はまだ未練を残しているようだったが、ぴしゃりと切って捨てられたのが堪えたのか、見るからに悄然とした顔で傍の大岩に寄りかかった。
 その表情に胸が痛まぬわけではない。
 ただ、これで本来の姿に戻ったのだと晶は思う。
『あなたは特別な人間なの』
 脳裏を母の言葉がよぎる。
 特別だから、独りで成さなければならないのだ。
 不思議と安らいだ。
 なぜか、その表情を目にした茨木童子がぬたりと笑った。
「おう、使いっ走りの小僧が随分と偉そうに吹いたもんじゃねえかよ」
「それは言われるがまま、それだけしか出来ない奴にでも言うんだな」
 晶は眉を顰める。ぞわりと来るほどに不愉快だった。
「来いよ、茨木童子。今度こそ引導を渡してやる」







[26080] 「雑密」
Name: 八枝◆767618cd ID:da250079
Date: 2012/04/16 19:26

 晶は敗北を認めない。
 己の中の何かが、一度たりとも負けてはならないと言うのだ。
 しかし絶対に認めないわけでもない。いかに八つの歳で大人を凌ぐ剣の腕に至ったからと言っても、それは全員に勝てるということではない。
 どうしようもないほどに打ちのめされれば負けたと自覚してしまうことはあった。
 それでもなお、すぐに元通りになる。
 呪縛のように何かが言うのだ。恐怖として忍び寄って来るのだ。
 決して負けてはならない、と。





 動かない。
 晶は左半身となり、右手だけで霊刀・模造安綱を胸の高さで水平に構え、一方で左手は刀印を結んでいる。
 対する茨木童子はまるで槍の如くに鋼鉄を把持、とは言えどその延長線は体格差のせいで晶の頭部よりも高い位置にある。
 動けない。
 茨木童子は待っている。どのような手で来ようともそれを打ち砕く自信があるのだろう。
 生成りだった昨夜までの方が余程油断があったのではなかろうか。今は根を生やしたかのような重厚な佇まいで、炯々と輝く双眸も静かに力を秘めていた。
 強い。疑う余地もなく、今までに対した相手の中では何よりも。
 此処は相手の庭、ということもある。このままでは封殺されて終わりだろう。
 攻略の手ならば持っている。晶には切り札があるのだ。
 とはいえ、それをおとなしく切らせてくれるかどうか。
 背に、額に、じとりと汗が浮く。
 たとえ止まっていようとも、身体は焼けつくように熱い。この熱に忍び寄る冷たさこそが最大の敵だ。冷たい手に足を掴まれたとき、自ずから敗れることとなる。
 高空で、風の吠える声。呼応して名も知らぬ、もしかすると実在せぬ小鳥が鳴いた。
 じり、砂利が擦れる。
 それはどちらの立てた音だったろうか。
 いずれにせよ、先に仕掛けたのは晶だった。
「臨・兵・闘・者・皆・陣・裂・在・前」
 使うのは左の刀印だ。右の霊刀は静かに時を待つ。
 横五つと縦四つを交互に。瞬閃の刃を振るうことの出来る晶の早九字は、それ自体が何らかの業に支えられてでもいるかのように奇術じみて早い。
 導かれて淡い九つの金色が浮かび上がり、茨木童子を絡め取ろうとする。九つの金が四方八方から組み合わさり、格子の内に閉じ込めようというのだ。
「ハッハァ!」
 対する茨木童子も早かった。己の巨体の高さをすら軽々と越えて跳躍、外れを引かされてあえなく消え去る格子を眼下に、その一跳びで頭上から晶に襲いかかる。
 振り下ろされた鋼鉄の上げる唸りは数多の亡者の嘆きのように不吉だ。
 空中にあるから避けられないだろうなどという甘い誘いを振り切り、晶は横へ転がるようにしてその場を跳び退いた。茨木童子は彼我の生命力の差を冷徹に把握している。一撃で撃墜しなければ潰されるのはこちらである。
 轟音と震動。立ち上がり、向き直ったところで砕き散らされて飛来した石片が眉間を強く打ち据える。
 瞬きなどしない。既に茨木童子も鋼鉄を左手に、こちらへと切り返している。
 片手だ。
 その意味を悟り、晶は反射的に地に伏せた。賭けになることは分かっているのだが、悠長に選んでいられる余裕はない。
 頭上を斬撃のような瘴気の風が水平に通過する。茨木童子が大きく薙いだ右手から放たれたものだ。後方や左右に避けようとしていたら両断されていたことだろう。
 晶はそのまま横に転がると可能な限り迅速に身を起こし、砂利を蹴って離脱する。
 再度の震動。紙一重で脚をかすめることなく、鋼鉄が今まで伏せていた場所を槍の如くに穿っている。上でも下でも、瘴気の斬をかわした先を自在に突き殺す一手であったのだ。
「やるねえ」
 鋼鉄を構え直し、茨木童子がにやりと笑う。
「昨日や一昨日より間違いなく強えぜ。どうだ、少しは思い出して来たかよ?」
「何をだよ」
 晶もまた、最初の構えに戻る。呼吸は乱さない。茨木童子を睨めつけ、機を窺う。
 茨木童子が笑った。さも可笑しそうに、肩を揺らして。
「とぼけるなよ。実感はねえだろうが、まあ自覚もないのかもしれんが、なあ白鳥しらとり、こんだけしつこく呼んでやったんだ、推測くらいは出来るだろ?」
 それは隙だったはずだ。なのに打ち込めなかった。標的がひどく遠くに見えた。
「オレたちゃ大江山の悪鬼だ。憎むのは誰だ? 白鳥しらとりってなァ何を意味する? この業界にいて分からなきゃあ、ちょいと知識不足だぜ?」
 晶は左眉だけをぴくりと動かす。確かに、知識としては持っている、あるいは意味を推測することならば出来る。
 白鳥しらとりとは、死した後、白い鳥となって飛んで行った日本武尊を指すのだろう。そして大江山の鬼たちが憎むというならば、自分たちを騙し討ちにした源頼光と四天王である。
 加えて、先ほどわざわざ渡辺綱の方が単純な強さでは上だったと口にしていた。四天王筆頭の渡辺綱と比べる相手は、その主である源頼光だと考えるのが妥当だ。
「つまり、僕がヤマトタケルか源頼光の生まれ変わりなんだとでも言いたいのか? どっちだよ」
 鼻で笑う。
『あなたは特別な人間なの。だってあなたを身籠る直前に、白い鳥が母さんの中に入って来たのだもの』
 亡くなった母はよくそう言っていた。
 なるほど、合致すると言えるのかもしれない。そういうことがあってもおかしくはない。しかし事実であれ嘘であれ、それ自体はどうでもいいことだと思う。
 が、茨木童子もまた、嘲るように笑った。
「『か』じゃねえよ、『と』だ。ヤマトタケルと源頼光とその他諸々だ」
「だからどうした」
 晶には笑われる理由が分からない。誰の生まれ変わりだろうが、今此処にいる自分が変わるわけではないのだ。
「そんな下らない御託を並べてないでさっさと来いよ。帰ったらどうせ次の任務が待ってるんだ、忙しい」
「やれやれ、まだまだオレにゃ敵わねえ分際でそんだけ強気でいられるのは……ま、らしいっちゃらしいのかねえ。最強でなきゃあならんかった残り滓みたいなもんか」
 茨木童子が魁偉な鬼貌に憐憫の色を滲ませた。
「哀れだなァ、タチバナアキラ」
 鬼には初めて呼ばれた名、その響きにどこか違和感があった。何がおかしいのかは分からないが、全身の毛を逆さに撫でられたような気持ちの悪さがあった。
 そこで鬼貌がぬらりと歪む。
「お前はどうして戦うんだ、タチバナアキラ」
 奇妙な問いだった。
「お前のような奴らがいるからだろう」
 考えるまでもなくそのまま素直に答えると、返って来たのは苦笑。
「違う違う、敵がどうこうなんて話じゃねえよ。なら質問を変えてやろう。敵がまったくいなくなったら一体お前はどうするんだ?」
 晶は思う。とても下らない、馬鹿げた問いだった。想像だに出来ない。そんな状況はあり得ない。
「それがどうしたっていうんだ? お前に何の関係がある」
「不思議なのさ」
 茨木童子の口調はどこか笑みを含んでいる。芝居がかった節回しが気に障る。
「お前は何が欲しい? 戦いの果てに何を望むんだよ?」
「何を言ってる?」
 晶は気付かない。今仕掛けられようとしていることに経験がなかったのだ。
 呪術戦というものは、必ずしも相手を傷つけるようなものであるとは限らない。むしろ知らぬうちに相手を呑み込み、戦わずして勝つことこそ真骨頂なのだ。
 晶は戦闘能力が高過ぎた。一気呵成に片付けてしまえることが多いため、このような事態に陥ったことがなかった。
 無論、知識としては有している。だが置かれた状況と繋がらない。
「よくあるだろうが。金が欲しい、名誉が欲しい、誰かを守りたい。人間が戦うにはなァ、理由が要る」
 術としては決して強いものではない。ささやかに、密やかに、言葉の裏に隠れて忍び寄る。
 それは晶の意識をほんの少しずつ動かしてゆく。僅かを重ね、落とし込むのだ。馬込涼河が香を用いて行っていた行為とも似ている。
「オレたちは闘争そのものが目的だ。その前にも後にも何も要らねえ。だが人間は違う。似たような人間はいてもな、本当に突き詰めれば人じゃあなくなっていくのさ。人が人のまま戦うには、必ず理由がある。さて、お前の理由は何だ?」
「僕の理由……?」
 晶は呟く。
 生まれて初めて考えることだった。
 考えて、否、考えようとして、頭の中が白くなった。
 茨木童子の声が自己の中で不気味に反響する。
「お前は殺し合いが好きなのか?」
 違う。
「お前は誰かを守りたいのか?」
 違う。
「任務だからか?」
 違う。
『あなたは特別な人間なの』
 ただその言葉だけが答えとして空白の中で響いていた。
「なあ、答えてくれよ。お前は戦いたいのか、戦わなきゃならんのか。義務なら、どうしてお前でなきゃならんのだよ?」
「それは……」
『あなたは特別な人間なの』
 やはりその声しかない。他には何も、自らの内から湧き出してくるものがないのだ。
 無論、戦いとは関係のないものであればごく当たり前のように存在はしている。だがいずれもが結びつかない。
「……僕が、特別だからだ」
 傲慢なはずの台詞が寂しく響く。それはずっと晶を支え続けていたはずの言葉だったというのに、今はあっけなくも、教わっただけの魂の籠もらぬ言葉と堕ちていた。
 そのことにも戸惑う。不安で仕方がない。
「僕は特別だから戦わなきゃいけない。お前も僕が生まれ変わってると言ってただろ」
「言ったさァ」
 茨木童子はなおも笑う。
「言ったが、だからどうした? ヤマトタケルの、源頼光の生まれ変わりだったらどうして闘争の中に身を置く必要があるんだ? そんなもん、巻き込まれる理由程度にしかなりゃしねえよ」
「何をっ」
「どうしてその先がない? 戦いが楽しいだの、無辜の民を守りたいだの、称賛が快感だの、立場上強いられているだの、何か湧いて来るもんだろ?」
 晶は声を詰まらせる。この不安を掻き消したくて、焼けつくような胸の内、吐きそうな混乱の中から何かないのかと必死で言葉を探し出す。
「……僕でないと対応できない相手がいる!」
「荒水波にでも頼みゃいいだろ。質が落ちてなきゃ、今のお前の代わりをやれる奴なら十人はいるはずだ。いなくたってどうとでもなるんだよ、特にこの国はな」
 やっとのことで放った台詞も即座に切って捨てられた。
「本当に哀れだなァ、タチバナアキラ。教えてやるよ」
 再びの、憐憫の色。
 晶は動けない。気息が乱れる。これ以上聞いてはならないと自分の影が警告している。
 しかし恐ろしいからこそ、忌まわしいからこそ聞いてしまうのだ。
「お前はこの鋼鉄の棒と同じだ。振るわれるがままに何の疑問もなく敵を打つ、ただの武器だ。天津神が朝廷に仇なすものを討滅するために作り上げた、人間兵器だ。戦い方も生まれる前から知ってただけなんだよ。いやはやまさに、文字通りの天賦の才だ」
 茨木童子はゆったりと鋼鉄を操る。流れるような動きで傍らの岩を打ち。
 技によるものか力によるものか、その一撃は遅いにもかかわらず岩が砕けて石となった。
「最盛期のヤマトタケルはそりゃあ強かったらしい。神霊すら屠ってのけたほどだからな、精霊や妖じゃあまるで歯が立たない。奴らはそれに目をつけた。魂が擦り切れ果てるまで使い倒すことにしたのさ」
 鋼鉄が晶を指す。正確には、胸の中央を。
「人間が空想する冥府なんざありゃしねえ。死せるものの魂は本来なら世界に還るのが自然なんだ。だが、ヤマトタケルの魂は白鳥しらとりと変えて保存された。でもって、朝廷の敵が現れると予見されたときに、都合のよさそうな赤子の身体に放り込むのさ。元々の魂を押し潰してな」
 無意識に晶は胸を掴んでいた。鼓動が痛いほどに大きくなっている。
 茨木童子の口にしたことはあまりにも不吉だった。晶に信仰と呼べるほどのものなどないが、それでも反射的に拒絶してしまうほどに。
「嘘だ!」
「お前、別に信心深いわけじゃねえだろ。自分が特別だってこと以外に戦う理由がないくらいなんだからな」
 強い声を浴びせられてもどこ吹く風と、茨木童子は涼しい顔で指摘する。
「それがどうしてあれだけ強力な密呪を大量に使える? 才能だけでも多少は使えねえこともないだろうが、限度があるぜ? 真行寺悠馬とは付き合いあるだろ、奴ァ元はお前にも匹敵する天才的な密呪使いだったらしいぜ? それが破戒僧になった今はそれこそ、使えないこともねえってザマだ」
 真行寺悠馬とは、天地院に所属する破戒僧にして、有数の退魔師だ。知人程度ではあるが、確かに付き合いはある。そしてその法力の多くを失っているということも聞いている。
「お前の使える中でも得意とする密呪は、不動明王といい摩利支天といい、なぜか天照かその眷属の力を借りて来るやつだ。ヤマトタケル、小碓命は神代の皇子だからな、お前の魂は皇祖神との親和性が高いんだよ。だから得意で、ついでにその余得で他の密呪も山ほど使える」
 不動明王の本地は大日如来、神本仏迹では大日如来の本地は天照大神だ。加えて、摩利支天を従える日光菩薩の本地もまた、天照大神である。
 晶は非常に多くの真言を扱えはするが、得手とするのは確かにその二尊の密呪だった。
「……嘘だ」
「荒水波は国と民は守るが朝廷なんざ知ったこっちゃないそうだからなァ、朝廷を守る剣も欲しかったんだろうさ。それがお前だ。死ぬたびに魂を囚われて、朝敵討伐のために生を受けて、オレが把握してるのは四代目までだがもう十代越えてるんじゃないかね」
 茨木童子は晶の表情を楽しむかのようにじっくりと観察しているようだった。
「『生まれ変わりなんてどうでもいい、今の自分は今の自分だ』なんて思ってたんだろ? 違うぜ、タチバナアキラに価値なんざねえ、今の自分なんぞありゃしねえよ。お前は今でも道具だ。可哀想な剣のままなんだよ。その証拠に、お前の戦う理由は剣そのものじゃねえか」
「……黙れ……」
「『特別だから戦う』……そいつァ、剣だから敵を斬るつってんのと何が違うんだ? おっと、剣じゃねえな。最初はこの棒に喩えてたっけか」
 何もかもが溶け崩れてゆくような気がした。
 全身が冷たい。どうして自分がこれだけ動揺しているのかもよく分からなかった。
『あなたは特別な人間なの』
 母のその言葉以外に何もないのは、それだけで充分だったからだ。戦うだけの価値を見出せていたからだ。
 要は誇りである。特別であり、それに見合う力を有していることが余人の謗りなど受け付けない。
 しかし一つであったからこそ何よりも強固で強大だった柱が今、崩されようとしている。どうしようもなく敗北を認めざるを得なかったときですら揺らがなかったものが今、あまりに頼りない。
 巨大な柱が崩れたなら、積み上がるのは大量の瓦礫だ。
 己が道具であることをよしと思えるはずもない。自ら立っているのではなく、立たされ、あまつさえ使われているなどと認めてはならない。それなのに何かがじわじわと沁み込んで来る。
 晶はまだ気付いていない。茨木童子の密やかな呪言あってこそこれほどまでに心を追い込まれているのだ。一の不安を二に、二の焦燥を四に増幅し、絡め取られているのだ。
「……僕の得意はそれだけじゃない!」
 印を結ぶ。叫びはもはや悲鳴だった。



 オン マユラ キランディ ソワカ



 孔雀明王呪は、体系立てられた密教が日本に入って来る以前から知られていた、いわゆる雑密のひとつだ。
 諸毒厄災を打ち払い、空を行き、若返りまでも成し遂げるとされた万能の密呪である。
 その根源は蛇殺し。世界中で地祇の多くを占める蛇を葬り去るためにこそ、この国においても何よりも早く在ったのだ。
 しかしそれを知るものはもはや、神霊ばかりである。十二の歳で、まるで思い出すかのように会得した晶も知らない。
 知らずとも、その威は発揮される。晶に対するありとあらゆる攻撃を緩衝し、手にした刃には斬神の力を与え、そして。
 晶の突進は人の速さを超えていた。一度地面を蹴っただけで間合いを侵略、閃いた剣は今まで歯が立たなかった鋼鉄を易々と裂いて茨木童子の頬から鮮血を迸らせる。
 今や高さなど問題ではない。空を踏み、飛んでいるのだ。
 同じ印、同じ真言を遣いながら、晶の孔雀明王呪はすべてにおいて余人のものと桁が違う。万能であるがために威を損なわざるを得なかった呪ではなく、かつてただ一人だけ遣い得た真正の、神殺しの呪に迫るのである。
 無論、晶もただでは済まされない。本来ならば人など比べものにならぬ力を有する神霊に抗するほどの強化は、膨大な霊力を湯水のように消費してゆく。枯渇するまで遣えば命までも吸い尽くすだろう。だからこそ最後の手段としていたのだ。
 それでなくとも、この呪を晶は己を明らかに上回るものを相手どったときにしか使えない。昨夜は不可能だったが、今の茨木童子ならば不足はない。
「おおおおおおおあああああああああッ!!」
 地を踏めば、印も呪もなく韋駄天の真言を凌駕する。傍で見ていた若葉の目には、晶が幾人にも増えたかのように映った。
「これでも……これでもまだ言うのか!?」
 剣閃の嵐。姿は捉え切れず、声だけが奇妙に響きながら四方八方にこだまする。
 しかし茨木童子は凌いでいた。
 こちらは瘴気の嵐。侵すことまでは出来ずとも速度と冴えを僅かに削ぎ、端の切り落とされた鋼鉄をなお短くしながらも捌いてゆく。
「ハッハァ! なかなかいい顔になったじゃねえかよ」
 それでも徐々に押されつつある。当然だ。今の晶の力は常軌を逸している。
 だというのに茨木童子は笑うのだ。
「伊吹山でヤマトタケルは最大の力を失った」
 血がしぶき、衣を濡らす。
「それを不完全であっても埋めるために、二代目には天竺で編み出された呪法が与えられた」
 首筋に割が入る。あと少し深ければ死に至る傷だったはずだというのに、愉しげに吼える。
「二代目の名は役小角、呪法の名は孔雀明王呪。やはり魂が覚えているようだなァ、白鳥しらとり!」
「黙れぇっ!」
 晶は思わず叫んでいた。
 自分が操られていただけなどということがあってはならない。ならないのに。
 抑え切れぬ動揺は己の術への不信を招き、危うい境界で制御がなされていた孔雀明王呪の手綱を引き千切った。
「風よ!」
 すかさず茨木童子が呼んだのは虚ろの禍津風。
 ごう、という一吹きが守りを失って墜落した晶の残る霊力を根こそぎ奪い去ってゆく。
 音を立てながら河原を転がり、水中へと落ちる寸前で晶は踏み止まった。
 とは言えど、右手の霊刀こそ放さぬままだが地に突いて身を支える左手は限界を迎えて震えていた。
 そして表情は、まるで泣き笑いのような。
 対して茨木童子は血塗れの巨体を揺すり、耳まで裂けた笑みを浮かべた。
「いけねえなあ……斬るだけの剣が迷っちゃあ、剣としての価値すらなくなるぜ?」
 追い打ちに反駁することも出来ず、晶は荒い呼吸を繰り返す。
 最後の手である孔雀明王呪が潰えた今、これ以上の手段はない。霊力も尽きている。
 敗北を認めるか否かなどという段階ではない。何も考えられなかった。
 それは同時に、誇りを完全に打ち砕かれたということでもある。
 唯一であった『特別』は道具であったという証明に置き換わり、立ち上がる力さえ奪い去ってしまう。こんなときに寄りかかるべき他の大切なものは、ない。
 動かぬ晶に茨木童子が声をかける。
「そこまでか、白鳥しらとり。これで終わりか?」
「……終わりだ。殺すがいいさ、復讐なんだろ?」
 音を立て、力の抜けた掌から霊刀が落ちる。投げ遣りに晶は応えた。
 何を思ったものか茨木童子は深く嘆息し、すっかり短くなってしまった鋼鉄を剣のように構えた。
「ああそうかい。じゃあ終わりだ、物として壊れろ」
 一切の熱を失った声。
 振り下ろした一撃も冷やかだった。





 そこへ、横合いから過剰なまでの熱が叩きつけられた。







[26080] 「強き者」
Name: 八枝◆767618cd ID:da250079
Date: 2012/04/23 19:47



 玉振り。
 魂振り。
 それは魂を揺り動かし、その器である肉体に活力をもたらすことである。
 熱を呼び、力を呼び覚ますことである。
 古い、古い、邪視と同じく術として確立すらしていない頃から確かに存在していたものだ。





 熱。
 恐ろしい速度で突っ込んで来て、そのまま放たれた力任せの拳。
 それは人を超えた威力の衝撃でもって茨木童子を弾き飛ばす。
 しかし先ほどよりも弱い。
 当然だ。今は身体が反動から保護されていない。殴った右拳が前腕ごと壊れ、まずその分が弱まる。地を踏みしめる脚も支えきれずにへし折れ、その分だけまた弱まる。最後に残っていた霊力の残滓で体幹の形だけは守られたのがせめてもの僥倖と言っていいだろう。
 熱は、迸り溢れ出す血と肉、生命の熱さだ。
 そのままふらりと倒れて目の前に転がった若葉の姿に、晶は目を疑った。
 右腕はひどいものだ。肘から先は原形を留めていない。肉と血と骨が非現実的なほどに入り混じり、形容しがたい有様となっている。上腕も折れて骨が皮膚を突き破っていた。
 両脚もおかしな方向に曲がっている。それでは立っていられるわけがない。
「何を……」
 目の前の光景を理解するのに少しの時を晶は必要とした。
「何をやっているんだ、君は!?」
「そりゃ、助けに入ったんだ……ろっ!」
 蒼白な顔で、脂汗を浮かべて、それでも若葉は叫び返して来た。途中で言葉が切れて不吉に喉が鳴りもした。
 見れば口許からも血が滲み出している。外からは判らないだけで体内にも何らかの傷を負っているのかもしれない。
「……助けに入る必要なんてどこにある? 異能を使えばそうなることは分かってただろうに」
 訳が分からなかった。茨木童子は若葉に手を出さないと言った。実際にもそのつもりだったろう。だというのにどうしてこんな行動に出たのか分からない。言われた通りおとなしく見ていればそれでよかったはずなのだ。
 若葉の瞼が震えている。苦しいのだ、痛いのだ。
 今の若葉はきっと全身を引き裂かれるような心持ちだろう。痛みと出血によるショックでそのまま死に至ってもおかしくない。
 いっそ気を失ってしまえば楽だろうに、若葉は晶に笑いかけて見せた。
「ま、痛いくらいよくある、さ。生きてるんだからな」
 生きてるんだからな、とそう言ったときの表情はどこか静謐ですらあった。
「そんなことより、なん、であっさり……諦めっ……」
 くぐもった音。可憐なくちびるが今は真っ赤に染まり、つぅ、と鮮血が流れた。
「オン コロコロ センダリ……」
 反射的に薬師真言を唱えようとするも、自分の中で反応がないことに気付いて途絶する。もうそれだけの霊力も残っていないのだ。
 咳き込む若葉の背を呆然と眺めている。何をしていいのかが分からない。
 ひとしきり血液を吐き出すと、若葉は幾分すっきりとした口調で言った。
「これしきで諦めるなよ、そこらの子供だってもうちょっとしぶといぜ?」
 不敵な笑みだ。困難を困難と思わぬ、無邪気な瞳が見つめて来る。
 しかし晶は、そのまなざしに応える言葉を持たなかった。
 そうかもしれないとは思う。同時に、諦めるのが普通であるとも理性は判断する。だがそのどちらもが他人事のようだった。
 こんなにも自分は空虚だったというのか。
 晶が声を失っていると、苦笑いめいた太い声がかけられた。
「やれやれ、無茶しやがるぜ。オレとしちゃ、こんな展開になると目的果たす前に<緋瞳の戦巫女>が来そうで嫌なんだがなァ」
 茨木童子である。襲って来ることもなく、鋼鉄でぽんぽんと肩を叩いている。
 若葉はそちらに顔を向けるとまたにやりと笑った。
「姉様なら……来ねえよ。俺たちから首、突っ込んだことには……絶対に手を出さない、そういうことになってる。そう、約束してもらった」
 無事な左手で拳を作る。どこまでも真っ直ぐな双眸の輝きを些かも翳らせてはいない。
「俺たちの戦い、くらい……俺たちでなんとかするさ。それで死んだり、死んだ方がましな目に……遭ったりしても、よくあることだろ…………生きてるんだからなあっ!」
 喋るうちにまた溢れて来た血を吐き、握った拳を地に突いて上体を持ち上げる。それは、戦いを継続するという意思表示。
 晶も茨木童子も知らなかったのだ。地上最強を目指すと豪語する少女が、死にかけているくらいで止まるわけがない。
「おい馬鹿、やめろ!」
「お前がやるって言うから譲ったんだぞ? やらねえなら俺の番だ、ぶっ潰してやる!」
 若葉が吼え、そして茨木童子は大笑した。
 無謀を通り越して狂気の沙汰としか思えぬ物言いは、旧い鬼の琴線に触れた。
「はははははははははは! いいなァ、お前! <天眼>の言う通り、命の意味を知ってやがる」
 万全であってさえも、若葉が茨木童子に勝つなどというのは世迷言もいいところだ。
 しかしその世迷言を語る瞳に暗い色などない。ただ純粋な闘志が溢れている。
 命はいつか終わるものである。しかも容易く潰えるものである。その単純な理を若葉は体得している。
 その儚い命を文字通りに賭して最強を目指しているのだ。斃すべき敵を目の前に、諦めた味方を背にして、たとえ腕一本しか残っていなくとも戦わぬわけがない。
 死を恐れないのではなく、命の使い方を決めてある。
「おい、馬鹿なことは……」
「お前に止める資格はねえよ、白鳥しらとり!」
 若葉の肩を掴んだ晶を茨木童子が一喝する。
 鋼鉄を肩に担ぎ、牙を覗かせてゆっくりと息を吐くと、異様なまでに筋肉が張り詰めて体躯が一回り大きくなったかのようだった。
「いいぜ、来いよ。その闘志に敬意を表して全力で、一撃で終わらせてやる」
 その言葉を向ける相手は、無論のこと若葉だ。
 晶にも判る。茨木童子は本当に、見逃すつもりだったはずの若葉を一打ちで葬り去るつもりだろう。
 だからこそ理解出来ない。どうしてこんな馬鹿げた状況になっているのだろうか。
 そう思ってから、おかしいと考え直す。分からないはずはないのにと、理性が囁くのだ。意思あるものであれば分かるはずのことなのだ。
 自分に意思などないからだろうか。人形だから分からないのだろうか。
 ちり、と。
 なぜか、胸の奥で震えるものがあった。
 音もなく、茨木童子が動く。ただ鋼鉄を力の限り振り下ろすだけだが、今の若葉にかわせるはずもない。
 死ぬだろう、間違いなく。原形など留めず、木端微塵になって。
 その瞬間、晶も動いていた。
 空虚も惑いも置き去りにして、身体だけが別の存在であるかのように風を切る。
 その場を動けぬ若葉を抱き抱え、庇いながら河原を転がって破滅の一撃を回避した。
「無事か?」
 腕の中の若葉へ向けたその問いは、自らの行動による被害を確認するためのものだ。体内までぼろぼろであろう今の若葉はおそらく、少しの衝撃でも致命傷になりかねない。
 果たして、最初に見えたのは苦痛を堪える表情だった。
 だが、気付くと笑ってのけるのだ。
「助かったぜ」
 本当に不思議だ。どうしてそうも自然体のまま、不敵でいられるのだろうか。もう死ぬしかないようなこの状況で。
「おいおい、今更どうしたよ、タチバナアキラ。戦うのか? 理由は見つけられたか?」
 茨木童子は追撃して来ない。煽るようにそんなことを口にするだけだ。
 しかしやはり、晶は返す言葉を持たなかった。胸の内の惑いも空虚も、我に返ればそのまま残っている。
 疼く何かは、分からない。
 と、若葉が不意に溜め息をついた。
「お前さあ、絶対馬鹿なんだよ」
「何を……」
 君にだけは言われたくない。そう言おうとした口許に左の人差し指を突きつけられる。
「俺と一緒でさ、馬鹿が小難しいこと考えるから何言っていいか困るんだ。こんなもん答えは簡単なんだよ、代わりに言っといてやる」
 そして人差し指は、びしりと茨木童子に向いた。
「ごちゃごちゃぬかすな。気に食わねえ、ぶん殴ってやる! 戦う理由なんてそんだけありゃ充分だろ」
 あまりにも単純明快で乱暴で、笑ってしまうような口上だ。
 それでも、なぜだか胸の疼きが大きくなる。
 これは一体何だろう。
 若葉の言ったことは晶の思いに一致しない。確かに気には食わないが、だからといってそれで殺し合いをしようとは思わない。
 では、自分は何を望んでいるのだろう。
 腕の中の若葉を見下ろす。重みを感じた。
 さすがに華奢とは言えない。異能などなくとも力に満ちた、しなやかな肢体だ。
 日に焼けた繊細で可憐な面立ちは、抑え切れぬ苦痛を滲ませながらも笑みを絶やさない。
 少女である。それも、おそらくは年下の。
 疼きが痛みになる。
 引き裂かんばかりの羞恥が全身を苛んだ。どうしようもなく口許が歪む。
「……僕がやる」
 鼓動が全身に熱い血潮を送り込むのを自覚した。
 どうかしていた。なぜ意識しなかったのだろう、頭から抜け去っていたのだろう。
 生まれも立場もない。総身を満たすのは衒いのない、本能にも近い衝動だ。
 女が傷つくのを惚けて見ている男がどこにある。
 若葉を横たえてそれを背に立ちはだかり、両手をきつく握り締める。
 痺れにも似た疼痛が心地好くさえあった。
「来い」
 呼べば、霊刀・模造安綱が右手に還る。それを構え、晶は茨木童子を睨めつけた。
 霊力は尽きている。身体は重い。空虚も埋まり切っているわけではない。それでも可笑しいほどに単純な、戦うべき理由を手に入れていた。
「女のために最後まで足掻いてみる、か。ようやく人並みだなァ、白鳥しらとり
 茨木童子が鋼鉄を左手に構え、右は拳を握る。裂けた口は、先ほどまで晶に向けていたものではなく、若葉へ向けていたのと同様の素直な好意の笑みを浮かべていた。
「ああ、だがそれが……それこそが人の戦う表情かおだ。そうでなくちゃいけねえ」
「御託はいい」
 晶は短く応える。
 自分が今、どのような顔をしているのかなど知らない。そんなことよりも、戻って来た思考で敵を分析する。
 与えた傷は大きい。満身創痍と言ってもいい有り様だ。加えて得物はもう半分にまで切り落とされ、本来の業も発揮できまい。術法はまだ使えるだろうが、もうそれほど保たないはずだ。あの風は自らをも侵すからこそ強固なのだ。
 状況は決して不利ではない。どうして先ほど諦めたのか分からないほどである。
 とは言えど、こちらも最後の力を振り絞っている。有利でもない。
 賭けだ。しかし天に任せるのではなく自分で切り拓けるだけありがたい。
 兆しも見せず、駆ける。
 晶は強いのだ。たとえそれが、魂に継がれているだけのものだとしても。
 閃く剣に淀みはない。並の相手ならば気付く前に葬り去る、それだけの鋭さを取り戻している。
 しかし茨木童子の業も達人の域にある。鋼鉄が半分になっていようとも、見事捌いて見せた。
 互いに身体は流されない。知っていたかのように次を、そして更にその次を行う。
 打ち合わされるわけではない。かわし、かわされ、時折鋼の擦れる音がする。
 ある種の美しさはある。けれど爽やかなものなどあろうはずもない。血腥い、殺し合いだ。
「まだだ! まだ足りねえよ!」
 茨木童子が吼える。
「どこまで付いて来られる、白鳥しらとりィ!」
 ほんの少しだが、速度が増す。まだ限界に至っていないのだ。
 薙ぎ払われる鋼鉄に続いて巨大な拳。それを凌いでも、吐息に乗せた瘴気の砲撃。
 技、力、速さ。何もかもが混然一体となって競い合う。
 一瞬たりとも止まることは許されない。どうしてまだ自分が戦っていられるのか、晶自身にも不思議に思えた。
「本当にその嬢ちゃんを信じられるか? 信じて戦い続けられるかよ!?」
「黙れ!」
 ざわりと胸の内に蠢くものがある。信じられるわけがないと、不自然なほど露骨に疑念が湧きだして来る。
 だから晶は茨木童子にではなく、その蠢くものに言い放つのだ。
「黙れよ、黙ってろ!」
「因果応報ってぇやつだぜ、白鳥しらとりィ……騙し続けて来たお前だからなァッ!」
 振り下ろされた鋼鉄を、転がることで回避する。
 脳裏に幾つもの光景が過ぎる。知らぬはずなのに、遠い記憶として呼び起こされる。
 クマソタケルを奇襲し、イズモタケルを騙し討ちにし、酒呑童子たちを謀り。そんな光景が山ほど湧いて出る。
 だから恐ろしい。独りがいいのだ。誰をも恃むことなく、ただ独りで在り、敵を葬れば背後から味方だったはずの者に切りつけられることはない。
 精一杯の抵抗が、数に喰い破られてゆく。
 空虚を隠そうとしていた思いが、塗り替えられてゆく。
 どこまでが自分なのだろう。何が自分なのだろう。こうして剣を振るっているのは、果たして立花晶なのだろうか。それとも日本武尊なのか、あるいは源頼光か。
 わずかに手が震えた。自分は自分だなどという上滑りする理屈では、本物の恐れは止められない。惑いが動きから精彩を奪い去る。
 そのままであれば死は免れなかったろう。
 だが、致命的な隙が生まれる寸前で一つの声がかけられた。
「別に俺を信じなくたっていいさ」
 振り向いて確認するまでもない。若葉だ。
 呼吸は怪しいが言葉ははっきりと届いた。
「会ったの、昨日だしな。でもな、晶。俺はお前を信じてるぜ?」
 まだそんなに易々と、信じるだなどと言う。
 そんなことを聞かされると疼くのだ。そして苛立つのだ。
「お前は強い。俺よりずっと強い。間違いなく強い。俺は強い奴が好きだ、ヤな奴以外なら」
 訳が分からない。今のこの状況とその台詞に一体何の関係があるというのだろう。
 自分を惑わせていることにそぐわない。まったくもって助言になっていない。
 だというのにどうにも、本当にどうしようもなく疼くのだ。
 胸の奥、奥の奥、手には掴めぬ何かが奮えるのだ。
「勝てよ、晶。見せてくれ。俺はお前を信じてる」
 どこまでも真っ直ぐに若葉はそう言う。きっとあの愚かしいほど曇りのない瞳をしているのだろう。
 晶は奥歯を噛み締めた。
 構わない。
 震えるその身は力の兆し。
 惑いを押し切り、踏み込む。今までよりも力強く。霊刀の柄は離さない。
 構わない。たとえ騙されていたとしても。
「構うものか!」



 晶自身は知らない。
 その魂は疲れ果てているのだ。
 いかに強大であろうともその魂は人のもの、世界の終わる時まで不滅というわけにはいかない。時の流れだけでも摩耗する。
 そして、そればかりではない。人として生まれ来ること十六度。戦いの渦中に置かれなかったことなど一度もなく、安らかに死ねたことも二度しかない。必要があったとはいえ、騙し、裏切り、ずっとそうして来た。
 疲弊し切った魂は、やがて己自身を保護しようと殻を被り、閉鎖した。
 普段の生活ならば、それでも磨り減るものの安らげはする。
 しかし殺し合いにおいては異なる。必要とされるときに必要な技能を肉体に行使させることで機械的に戦うのだ。
 理由を外側に作ってはならない。自己の内で完結させておけば何も得ない代わりに何も失わない。そうやって摩耗を抑え、出来るだけ長く存続しようとしたのだ。だから空虚でしかいられなかった。
 それが今、奮えていた。揺り動かされ、持てる真の力を揮い始めていた。
 今生を最後と定め、熱を呼び、迷いを払い、輝きを放ち始めたのである。



 先ほどよりもほんの少しだけ速い。
 先ほどよりもほんの少しだけ強い。
 先ほどよりもほんの少しだけ鋭い。
 それは互いに重ね合わせられ、晶の力量を冷徹に量り続けて来た茨木童子の認識を些かならず凌駕した。
 守りが間に合わない。
 薙ぎが鬼の腹を確かに裂いた。
 濃密な臭い。鮮血が舞う。
「おおおおおおおおおおおっ!」
 晶は止まらない。跳躍とともに返す刃は胸板を袈裟に抉る。
 しかし殺し切れない。同時に放たれた茨木童子の巨大な拳がまともに胴を打ち貫いていたのだ。
 他の鬼のような、ただの力任せなどではない。人として過ごした時に修めた拳理を用いた、衝撃を十全に浸透させる玄妙の業である。
 即死どころではない。骨も内蔵もぐずぐずに崩れて血袋と成さしめる、それほどの力と技だ。
 だというのに、晶は生きていた。弾き飛ばされはしたが、肋骨が数本砕けはしたが、それだけだ。
 倒れることもなく刀を構え直し、咆哮する。
「まだだ、まだ終わらない!」
「ふ、くく……」
 その叫びを受け、茨木童子も笑った。腹の底から、身を折るほどに。
「ははははははははははははははははははははは!!」
 己が目論見の果たされたことを悟り、歓喜せずにいられない。
 強さということでは孔雀明王呪を使っていたときの方が余程上だろう。だが、これはそんな無粋なものではない。
 人々の畏怖を、恐怖を、希望を、憧憬を、加護にも似た力として受け止める能力。
 その名は<強き者タケル>。かつて神霊をも正面から下すことを可能とした、真の意味で人の持てる最強の力だ。
 とは言え、昔ほどに至ることは望めない。力の源は質と率だ。数ではない。晶を知る者の中でどれほどの者がどれだけ純粋にその強さを信じているかで決まる。漠然と想う輩など、億を数えたところで若葉一人の足元にも及ばない。社会の広がった現代では、晶を知るすべての人間が恐れ憧れることは決してないだろう。
「やったなァ、おい! 本当に目覚めやがった!」
 本当は誰にでもはたらく力だ。ただ少ししか受け止め切れないだけなのだ。己を知る人間すべての純粋な想いを力へと昇華し切ってのけたのは、少なくとも日本には小碓命しか存在しない。
 二代目ですら使えなかったその力が今、晶を包み、支え、守っているのだ。
「それだよ、立花晶……それがお前だ!」
 茨木童子は初めて、本当に晶の名を呼んだ。
 ヤマトタケルはとうの昔に敗れている。今となっては神話の一部としてしか語られず、魂の籠もらぬ名は晶にさしたる力を与えない。
「お前が作り上げていくんだ、お前自身の名を」
 放たれる瘴気の刃。
 先ほどは伏せてかわしたものを今、晶は切り払う。不快なだけの風として吹き散らす。
 その隙に茨木童子は風に乗って崖の上に飛び上がっていた。
「いまさら逃げるのか!?」
「逃げるとも。オレの用事はほとんど終わったからな。まあ、あとちょいと楽しみたくもあったんだが……」
 咎める声にも飄々と返し、顎をしゃくって晶の背後の若葉を示す。
「いくら頑丈でもさすがに死にかねんぜ、その嬢ちゃん」
「っ!?」
 さすがに茨木童子に背を向けるような真似はせず、視界に収めたままで晶は若葉の許まで退いた。
 息はあるが、意識は途切れているようだ。確かにもはや一刻の猶予も許されない状況だろう。
「オレとしても死なせるのは本意じゃねえよ。面白ぇ嬢ちゃんだからなァ」
 見上げる空が割れ、茨木童子が吸い込まれてゆく。
「でもって最後の用だ。今となっちゃついでみたいなもんだがな。壇ノ浦に行きな」
「壇ノ浦……?」
 鸚鵡返しに晶は呟く。
 地名は分かる。何が起きた場所かも知っている。
 そんな晶をからかうように鬼は続けた。
「あそこに沈んでる剣は何だ? <天眼>の言うことにゃ、粗悪極まりない紛い物の、更に模造品らしいが……ただの人間なんざ触れただけで消し飛ばす代物があるだろ。だが今のお前になら扱える」
 風が大きく啼いた。
 いつしか薄靄と薄闇が入り混じり、境界である此処自体が曖昧になってゆく。
 既に茨木童子の姿は見えなかった。
 ただ、声だけが最後に聞こえて来た。
「万全の準備を整えて、今度こそ正面から来い。大江山で待ってるぜ、立花晶ァ……」







[26080] 「蓮華」
Name: 八枝◆767618cd ID:da250079
Date: 2012/04/30 19:42




 眩いほどの緑が眼下に広がっている。
 涼やかな風の足跡は若草の細波として残り、やがて晶の立つ蓮華の丘も駆け抜けて行った。
 ふわりと広がる草原の香。燦々と降り注ぐ日差しが肌を焼く。目を細めて空を仰げば、果てのない青さに落ちてゆきそうだ。
 言われたことを信じるならば、此処は八岐大蛇の世界。現世に劣るものなど何もないその広さと豊かさ、細やかさに戦慄する。
 一方で胸の内には再び恐怖が湧き出してならない。
 それは、自分がこの世界の主にとって敵となる側の存在だからなのだろうか、それとも。
「いいえ、この世界は何ものであろうと拒みはいたしませんわ」
 静かな、けれど艶やかな声。
 すらりとした長身に白と赤の巫女装束を纏い、白皙の美貌が品良く微笑んでいる。
「あなた様の恐れは、死に対してのものにございましょう」
 見詰めて来る瞳は深い緋色。
 この瞳を、晶の魂は知っている。
 形の上では逃げ延びたといえ、事実上日本武尊を殺したのは、これだ。傲慢なまでに最強を自負する魂が、彼女だけは恐れてならない。
「……<緋瞳の戦巫女>」
 あの頃、既にそう呼ばれていた。
「何と、お呼びいたしましょう。あなた様はどなたにございましょうか」
 問いかけもやわらかに、氷雨は小首を傾げる。
 その意味は晶にも分かる。
 そして己の由来を知った上で迷いなく返すことが出来た。
「……僕は立花晶だ」
「然様にございますか」
 長い、ぬばたまの髪がさらりと揺れる。もう一度優しく微笑むと、氷雨はたおやかに深々と柳腰を折った。
「では立花晶様。無茶をする妹をお助けいただき、篤く御礼申し上げますわ」
「え、いや……」
 戸惑い、言葉に詰まる。
 照れたのだ。言われたことに対してばかりではなく、ただ自然に振る舞うだけの姿態に匂い立つ艶、未だ残る恐れを忘れさせるほどの巧まざる甘い毒に中てられた。
「僕は別に……」
 慌てて取り繕おうとするも、続く言葉が出ない。
 顔が赤いのは長く日に当たっていたからだと思いたかった。
 仕方がないので頭を振って無理矢理振り払う。
 滑稽にも映る仕種であったはずだが、頭を上げた氷雨は静かに目を閉じ、くちびるに品の良い弧を描いたまま告げた。
「どうやら、もうしばらくもすれば若葉が参るよう。どうか相手をしてやってくださいませ。わたくしはこれにて失礼いたしましょう」
 ごう、と今一度、風が吹き抜ける。
 一瞬だった。
 視線は外さなかったのに、笑みを含んだような声も耳に残っているのに、今までが幻であったかのようにその姿は消え去っていた。
「あ……」
 尋ねるべきことは、思い返せば幾つもあった。しかしもう遅い。
 晶は溜め息をつき、頭に手をやった。
 丘は蓮華の園。ほのかな香りが鼻腔をくすぐる。
「……困ったな」
 ああ言われてしまっては、この場を離れられない。元よりこれ以上歩き回る予定のあったわけではないといえ、意識してしまうと落ち着かない。
 所在なげにしゃがみ込み、蓮華の花を一輪摘む。
「いや、ほんとに……」
 誰もいないというのに呟いてしまった自分に気付き、小さく声を上げて笑っていた。





「ったく、ようやく見つけたぜ」
 その快活な声がするまで、五分もかからなかっただろう。
 動き易いとは到底思えない巫女装束をなびかせ、横合いから恐ろしい速度で駆けて来た若葉が目の前で急停止した。
 両膝を曲げて勢いをしなやかに吸収、振り向く仕種にも無理はない。
 調子は万全のようだった。あの酷い有り様だった右腕さえも綺麗なものだ。
 一昨日の夜、きっと自分もこんな風に治してくれていたのだろう。
「……元気そうだな」
 晶はいっそ呆れたように声をかけた。
 負傷がもたらすものは機能不全ばかりではない。痛みや出血がもたらす気力と体力の低下も極めて重要な要素だ。術法で傷を癒したとしても体力まで戻るわけではないはずなのだが。
「体力なら自信あるんだ」
 実にいい笑顔でふんぞり返る。
「あ、でもちょっと疲れた。無茶しすぎだって姉様に怒られた」
「……大怪我より説教の方が堪えるのか、君は」
「姉様の説教、すっげえ怖いんだぞ? 笑顔のまんますっげえ丁寧だからなー」
 何とも分かり難い台詞だが、言いたいことは察せないでもない。
「まあ、自業自得だな。あれはフォローしようもない」
「なんだよ、身を捨てたら背が高いとかそんな感じの言葉あるだろ?」
「……身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ、と言いたいんだろうか」
 苦笑が漏れるのを抑えることは出来なかった。この様子では、さぞかし姉妹は苦労しているに違いない。
 若葉は少しばかり膨れ、それから真顔になった。駆けて来たからであろう、やや乱れた髪を整えるでもなく見詰めて来る様は不器用なまでに真っ直ぐで、なぜか胸を締め付ける。
「お前、これからどうすんだ?」
「とりあえず、急いで帰る。大事だからな、報告をしないと」
 手にしたままの蓮華をいじりながら、晶は頭の痛くなりそうな予定を反芻する。
 茨木童子が現れた、というだけでは済まされない。酒呑童子一党が丸ごと復帰した、少なくとも近いうちに活動を始めると見ていいだろう。
 仮にも三大悪妖怪と呼ばれたうちのひとつだ。酒呑童子の力量は、小なりとはいえ神霊にも匹敵する。さらにその他の鬼たちもいるというなら、天地院の大半の力を傾けなければなるまい。
 それから、言われた通り壇ノ浦にも行ってみようと思っていた。
 源平合戦決着の海。安徳帝とともに沈んだ三種の神器のうち、草薙剣ならばとうの昔に捕捉はされていた。海の底とはいえ、辿り着けないわけでもない。ただ、誰も触れられなかったのだ。
 目にするだけならば問題はない。しかし手を伸ばせば、あるいは網や綱をかけようとすれば弾かれ、決して触れることを許さない。
 茨木童子の口にしたことが正しいとすれば今の自分になら扱えるようになっているはずである。だが、そもそも晶は今の自分というものがよく分かっていない。無論のこと心持ちは少し変化したものの、自覚としてはそれだけなのである。
 正直な思いとしては、扱えようが拒まれようがどちらでも構わない。手に入れば確かな戦力になるだろう。それと同時に罠である可能性は残されているし厄介事の種にもなる。拒まれたならば、下手をすれば死ぬかもしれないが。
 理解はしている。本当に頭が痛いのは手に入れてからだ。
 権力闘争に明け暮れる天地院の上層が、草薙剣などという神器を見過ごすわけがない。本当に自分だけが扱えるのなら、策謀の渦に巻き込まれることは避けられないだろう。
 晶は他者を信じないだけで、腹の探り合いだのが得意なわけではない。どう捌いたものやらだ。
 小さく息をつく。
 信じない。
 それが、意識するまでもない自然な思いだったはずなのだが。
「そっか。ま、しゃあねえな。よく分かんねえけど頑張れよ」
 そう言って笑うこの少女だけは信じたい、むしろ騙されるなら自分の頭があまりにも悪過ぎただけだろうと、そう思う。
「決戦のときには呼んでくれよ、助太刀に行くからな!」
「……足手まといにならないくらいになってたらな」
「言ってろ、お前くらいすぐに越えてやる」
 本当に、どうしてこうも怖じることを知らないのだろう。今の自分、明日の自分を信じてゆけるのだろう。
 思わず尋ねていた。
「怖くはないのか? 静かに暮らしていたいと思ったりはしないのか?」
「どんなもんだって、怒った姉様ほど怖くはねえよ」
 若葉の答えは相変わらず単純で快活だった。
 しかし、決して浅いものでもなかった。
「千草姉ぇが話したろ? ほんとなら俺たち六人はとっくの昔に死んでたはずだったんだ。だから今、凄く楽しいんだよ。生きてること自体、楽しくて仕方ないんだ。怖いのは怖いし、痛いのは痛いし、ヤなもんはヤだけど、そりゃそうだろ。生きてるんだからな」
 晶は思い出す。痛いくらい、死んだ方がましと思えることくらいあってもよくあることだと、そんなことを口にしていた。
 生が愛おしいのだろう。痛みさえも実感として胸を躍らせるのだ。
「せっかくだから俺は最強を目指す。だって楽しいじゃねえか」
「分からないことはないけどね……」
 本当は晶にとって、最強とは義務として負うことを期待されたものであって楽しめるものでも何でもなかった。だが若葉に引き摺られたのか、今なら共感めいたものはある。
 笑いはすまい。どうせ自分もまだその位置にいるわけではないのだろうから。
 大きく息をつく。
 なるべく早く去っておくべきだと思った。名残惜しいと感じてしまうことが既に、駄目なのだ。
「……そうだな、またいつか会おう。いつになるかは分からないけど」
 右手を差し出す。
 握手のつもりだった。明治以降、天地院もさすがに西洋の影響を受けている。
 しかし若葉はきょとんとした顔を見せた。
「花がどうかしたのか?」
 先ほど摘んだ蓮華が、晶の右手にはまだ絡まっていた。結果、それを差し出したような形になってしまう。
 不覚だった。自分が何を持っていたかを失念するなどあるまじきことだ。間が抜けているにも程がある。
「あ、いや……」
「俺にくれるのか?」
「……ん、まあ……そう、かなあ」
 今更引っ込めるわけにもゆかず、誤魔化すように言葉を濁しながら花を押し付ける。
 押し付けてから、不意に気付いた。
 緑満ち、万物の息吹豊かなこの世界。己の為したことは無為に命を刈り取っただけなのではないかと意識させられる。
 若葉が何も言わないこともその印象を強めていた。
「……ごめん」
「何が?」
「いや、摘んだりしたらまずかったかと思って……」
 なんともばつが悪そうに言えば、若葉はまたしても不思議そうな顔。
 それでもやがて察したらしい。
「いや、いいさ。命はそういうもんだよ」
 憂うでもなく呟くようにそう口にしたときの表情は、隔たりを覚えずにいられぬほど静謐で、その硬質な美貌とも相まってこの世のものならぬ存在に思えた。
 しかしそれも一呼吸の間のこと。すぐに若葉は能天気にすら映る笑顔になった。
「んなこと気にしてたら、飯食えねえどころか外も歩けねえだろ」
「……じゃあ」
 単純に花そのものが好きではなかったのだろうか。見た目以外は何かと男っぽい若葉だから充分にありうることだ。
 そもそも気にする必要もないはずのことである。渡すつもりで摘んだわけではなく、渡そうと思っていたわけでもない。
 だが、やはり気にはなった。
 若葉は小さくかぶりを振る。
「いや、貰うの久しぶりでびっくりした。小さい頃は紅葉とか撫子がくれてたんだけどな」
 囁くようにそう言うと、まるで口づけるように蓮華の花をくちびるに触れさせた。
 どこを見るでもなく伏せたまなざし。くるりと花が、触れたままで回る。
 何度目だろうか。この丘は風の通り道でもあるのか、また強い一吹きが抜けてゆく。
 さすがに若葉にとっても髪が乱れ過ぎたらしい。空いた手で大雑把に整え、そしてこちらを正面から見つめて来た。
 とくりと、心臓が跳ねる。
「ありがとう、晶」
 いつもの少年めいた雰囲気など欠片も見当たらない。
 その少し照れたような笑顔、花を扱う仕種、口調や声音さえも甘くやわらかで、可憐な少女のもの以外の何ものでもなかった。















 そこは大蛇の世界の何処とも知れない。
 ほのかな森の香と淡い光に満たされた、緑の領域だ。
『構わぬのか』
 その思念は底なしの奈落から響くかのように低く、重く、圧倒的に、すべてを知って大蛇は問う。見ているだけの大蛇が、己の巫女にだけは確かめる。
 自らの身よりも大きな、大蛇の眼の傍らに寄り添い、氷雨は肯った。
「恋慕であれ友情であれ、たとえ敵であったとしても想ってならぬ道理はございますまい」
 妹を思う言葉は慈しみに満ちて、あるいは来るやも知れぬ悲しみを抱き止めて、それでも微笑む。
 抜けるように白い肌、すべらかな頬にほんのりと朱を散らし、はにかむように密やかに囁いた。
「……愛しい方とともに在るだけで、こんなにも幸せでございますもの」







[26080] 「傘」
Name: 八枝◆767618cd ID:da250079
Date: 2016/09/18 22:01




 雨が降っている。
 ぬるま湯のような雫が大気を煙らせ、アスファルトを打っては流れてゆく。
 梅雨であるからには連日の光景だ。朝方には晴れていたとしても、傘を忘れたならば迂闊であるとしか言いようがあるまい。
「ふん、生意気」
 しかし大学の講義室を出た杏は、悪いのは天気の方であると言わんばかりに鼻を鳴らした。
 白のブラウスに臙脂のスカート、首周りを彩る真紅のタイはお気に入りの服装だ。流行など知ったことではない。
 化粧気のない涼やかな美貌に颯爽とした身のこなしで歩むその姿は、小細工を要さずして有無を言わせぬ魅力を男女問わず叩き込んでいた。
 近付く者はない。知らぬならばその凛とした容姿と立ち居振る舞いに気後れし、知っているならば三才児並みと評される傍若無人ぶりに巻き込まれることを恐れるのだ。
 己の扱いを杏は気に留めない。自ら有象無象であろうとする者を有象無象と扱うことに何の躊躇もない。孤独も孤高も望んではいないが、そうであってもまったく構わない。
 だから、かける声に遠慮はなかった。
「あんた、ご主人様は?」
 一階玄関。周囲に人の姿はない。錆の浮いた古い傘立てに破れ傘ひとつ、斜めに突き立てられているだけであった。
 返事はない。雨音と遠くの話し声が耳朶を打つ。
 杏は眼差しを嗜虐的に細めた。
「応えないなんて、いい度胸じゃない」
 待つこと三呼吸。
 溜め息が聞こえた。
「……あのなあ姐さん……どこの誰だか知らんが、周りに人がいねえくらいで喋らせんでくれよ。別に怪談の主にゃなりたくねえんだからよう」
 人ではない。破れ傘に目が一つ、ぎょろりと開いていた。
 時経た器物に意思の宿った、付喪神つくもがみである。あるいは九十九神つくもがみとも書くように、九十九の齢を重ねて成るとされるが、必ずしもそればかりとは限らない。
 唐傘であれば、唐傘お化けと呼んでもよかったろうが。
「聞かれてないことくらい確認してるわ。この杏さんを舐めないことね」
 薄い胸をふふんと張る杏。
 傘はまたも溜め息めいた響きで大きな一つ眼を瞬かせた。
「こりゃあ強引な御仁だ。それで姐さん、おいらに何の用なんだ?」
「だからさっき訊いたじゃない、あんたのご主人様はどうしたのかって」
 愛情を受けたにせよ放置されたにせよ、付喪神には元の持ち主がいる。成るために人間を必要とするわけではないが、成り易いのは強く想念を受けたときだ。そして道具を使うのは人である。
「十年も前に事故で死んださあ」
「ふぅん、よく十年も捨てられなかったわね、あんた」
 傘の口調は過去の事実を語るだけのもの。頷く杏にしても同情するでなく。
「というか、十年も何やってんの? もしかして動けないの?」
「動けんってほどじゃあねえんだけどよ」
 なんとも面倒くさいことになったと言わんばかりの投げ遣りさで、傘はぎょろりと一つ眼を動かす。
「別に行きたいとこがあるわけでもねえしよう、ここでのんびり世の中眺めつつ悠々自適よ」
「ならよさそうね」
 杏はその薄い桜色のくちびるを綻ばせた。
「あんた、あたしの傘になりなさい。今日忘れて来たから」
「……姐さん、正直は美徳だけどよう、間に合わせとか言われて喜んで付いて行く奴がどこの世にいるんだ」
 傘の言うことは至極もっともである。
 ものを頼むときは、お前だからこそいいのだと嘘でも言うものだ。世辞と分かっていても気分の良くなることは多い。
 しかし杏は一筋縄ではいかなかった。
「嘘言って信じちゃったら可哀想じゃない」
「おいらはそんな初心うぶじゃあねえよ」
「まあとにかく暇なんでしょ? 来なさいって」
 無造作に傘を抜きとると、雨の下に出ながらそのまま開いてしまった。
 驚いたのは傘である。いつ引っこ抜かれていつ差されてしまったのか、まったく覚えがなかった。それほど自然で堂に入った振る舞いだったのだ。
「あ、目は閉じとくのよ? あと、気合い入れて綺麗になって」
「いやはや、注文の多い姐さんだ」
 一息のうちに破れ傘が品の良い薄桃色の逸品に変化し、灰色に煙る世界に大輪の花を咲かせる。
 ただ、可愛らしくはない。むしろ取手のつくりなどは無骨で、八方に張り出した骨も長い。色を除けば男ものである。
 しかし杏は機嫌よさげに笑った。
「やるじゃない。これからも愛用してあげる」
「嬉しくもねえんだがねえ」
 大学を出て、煉瓦の敷き詰められた遊歩道を行く。
 傍らを流れる川は雨粒に無数の波紋を広げ、水底の泥を巻き上げながらやや嵩を増していた。
 市中を貫きながら幾筋にも別れ、あるいは合流するこの川は太陽の下で見たならば美しい。数多の橋や住宅、ビルとともに作り出される景色は味わい深いものだ。
 けれども、雨に沈む今はどこか不吉なものを孕んでいた。
「これ、暴れ河の支流なんだっけ?」
「暴れ河っつってもおいらが生まれるより遥かに前の話だろうけどな」
 ゆるゆるりと頭上で揺られながら、傘。連れて来られたのは不本意であっても特に逆らう気はなさそうだった。
「知りたいなら年食ってる奴にでも訊きゃあいいさ。その分じゃあ、妖の知り合いも多そうだしよう」
「んー……そこまでして知りたいわけじゃないわね」
 杏の歩調は雨の中でも緩まない。綺麗に伸びた背筋で、水面みなもを踏むようにして歩む。
 国道を越え、小さな橋を渡り、やがて城山公園へ。
 城跡を利用して造られたこの空間は、さほど広くはないがよく手入れの行き届いた憩いの場である。
 春には公園中を染め上げる桜も濃緑の葉から雫を滴らせ、砂利道には幾つもの水たまりが形作られていた。
 砂利をほとんど鳴らすことなく、とん、と。臙脂のスカートはふわりと。行く手を遮る水たまりを、杏は速度も変えぬまま軽やかに跳び越えてゆく。
 雨勢は決して弱くないというのに、裾もほとんど濡らしていない。
「もしかして割と雨は好きかい、姐さん」
「結局は程度の問題だけど。大雑把に言えば嫌いじゃないわ」
 薄めのくちびるに浮かぶ笑みはやわらかなもの。まなざしは少しだけ過去へと向けられて、帰って来る。
「……冷たい雨が降っていた。それはもう昔のことだもの」
 その言葉の意味は傘には分からない。
 杏もそれ以上説明することなく、一方で歩みは止まらない。
 そして、興味も止まらない。
「お」
 今度は道を外れ、石垣の方へふらふらと近づいて行った。
 少し手入れが足りないか、あるいはそれも風情として残されているのか、狭間から緑の葉と幼いつぼみとが顔を覗かせ、雨露を滴らせている。花開くのは今しばし先のことだろう。
 そしてその隣では小さな蛙が喉を膨らませていた。
「あんたが経立ふつたちに成るのにはどのくらいかかるかしらね?」
「姐さん、普通に考えりゃ、成る前に天寿を全うするだろ」
 経立とは、広義には年を経て怪異を為すようになった動物の総称だ。何らかの条件を満たさない限りは、傘の言う通りそうそう成るものでもない。
 しかし杏は薄く笑った。
「このあたりは成り易いんじゃないの? 夜行さんの本拠よね?」
「だからって千に一も成りゃあしねえだろうよ」
「詰まんないの」
 そしてまた、歩き出す。
 歩み出しながら、声は途切れない。
「そういやさ、あんた武器にはなれる?」
「物騒な話だ。ま、姐さんが切った張ったする人間なのは予想外でもないが」
 傘は動じない。ただ、少しばかり憂鬱な響きを含んではいた。
「悪いけどさあ、好きじゃあないねえ」
「ふん、生意気」
 元々その気は薄かったのだろう。杏はそう鼻を鳴らしただけで、無理強いはしなかった。
「ま、いいわ。そろそろ帰りましょうか」
 涼やかな横顔、その視線の向かう先は、あろうことか城跡に半分食い込んでいる小さな山への道だ。
 当然、頂上で行き止まりである。あるいは道すらない斜面を軽々と駆け降りることができるのなら、近道になるのかもしれないが。
「おいおい、どこへ帰る気なんだよう?」
「あたしの家なら淡路だけど」
「海渡った向こうじゃねえか!?」
「毎日毎日、遠い自宅から通学してるの。杏さんもなかなか素敵に学生してると思わない?」
「おいらが訊きたいのはなんでそれで山に登るんだってことだよ!」
「うるさいわねえ……」
 傘がわめくのも無理はないところなのだが、杏はうんざりとした顔でやれやれと頭を振った。
 そして、にんまりと笑ったのである。
「この杏さんを舐めないことね。普通ならめったに味わえないはずの面白い体験させたげる」



 薄桃色の大きな傘が木々の向こうへ消えてゆく。
 雨に打たれ撓う緑の葉、張り出した枝の隙間からちらちらと覗いていたのも束の間のこと。やがて本当に見えなくなる。
 人の姿はもうない。温い雨滴に面を上げ、蛙が喉を膨らませている。
 時とともに夜へと向かう雲はますます重く、何もかもを遮ろうとするかのように垂れこめていた。



 夏が来る。







[26080] 「お花畑」
Name: 八枝◆767618cd ID:da250079
Date: 2016/09/18 22:02




 南向きの窓から斜めに差し込む朝日が眩い。
『おはよ』
『はよー』
 クラスに満ちる朝の挨拶はいずれもよく似て、しかしそれぞれ異なる調子と声で。
 そんな中にあって、明らかに異色な挨拶がひとつ。
「撫子ちゃん撫子ちゃん、今日のお花畑には何が咲いてんの?」
「うぅん……パンジーかな」
 教室に入るなりの問いかけだというのに、屈託なく撫子は答えた。
「パンジーはね、種類がたくさんあるんだよ。白とか赤とか紫とか、とても綺麗なんだけど……種や根茎には毒が含まれてるから気をつけてね」
 自分の机に鞄を置くと、右手の人差し指を立て、えっへんとでも言わんばかりの仕種。どうにも微笑ましい。
 元々は嘲笑のはずだった。頭がお花畑、という皮肉のはずだったのだが、まるでそんなことは知らぬとばかりに朗らかな答えを最初から返して来た。
 肩透かしを食わせられながら、それでも悪意を頑張って維持しようとしたのだ。しかし何を言ってもまるで手応えはなく、撫子は世の全てが善意に満ち溢れていると信じているかの如き屈託のなさで、悪意など結局一月も保たずに雲散霧消したのだ。
 これが三十も四十も歳を食いながら練り上げられたものであったならば充分以上に対抗し得たのかもしれない。だが、その半分にも満たないのではとても勝てたものではなかったのである。
 今となってはもう、今日もいつも通りであることを嬉しく思うばかりで。
「そうなんや。そうそう、今日って放課後空いてる?」
 パンジーのことは気にしない。ただの挨拶である。
「今日は何もないけど、どうしたの?」
「んー、みんなで遊びに行こかって計画しとってな」
「あ、いいね。そんなにたくさん時間はないかもしれないけど」
 満面の笑みで撫子は頷く。今までも、用事のあるとき以外に断ったことはない。
 『みんな』というのが毎回異なる面子であっても気にしない。知らぬ相手がいてもその場で自己紹介を聞いて知り合いになるのだ。
 撫子は知らぬことだが、こういったときの『みんな』の正体は、ファンクラブの会員である。
 ファンクラブとは文字通り、何らかの対象のファンが形成する集団だ。多くは組織化され、会誌の発行やイベントにおける会員への優遇などが行われる。
 しかし必ずしもそればかりがファンクラブではない。
 誰かのファンだという人間が三人も集まってファンクラブを名乗ったなら、たとえ何の特典もなかろうとも、それはファンクラブに違いないのだ。
 だから、一介の学生にファンクラブが存在するという現象はあり得ないことでもないのである。
「それで、どこに行くの?」
「んー……ま、無難なとこでカラオケとか? もう昼までやから結構時間あるし」
「そだねー。あたしも六時くらいまでが限度だし、ちょうどいいかな」
「はよ夏休み来ぇへんかなー、遊び倒したるのに」
 椅子に背を預け、手をうちわに見立ててあおぐ。
 七月、それも期末考査の結果も出終わった時期である。朝からもう既に暑くて仕方ない。
「もうあと三日だよ」
 少し困ったような、それでも笑顔で撫子は言う。
 そのやわらかそうな肌もうっすらと汗ばんでいた。まったく日に焼けていないわけでこそないものの、それでもクラスの中では飛びぬけて白い。
 不思議な子だと思う。
 小学生の頃からいたはずだが、こちらの言葉にまったく染まらない。家がどこにあるのかもよく分からない。なんとも無邪気で陽気で天然だが、学校の成績はいい。運動能力も高い。特に長距離走などほとんど疲れた様子も見せない。お姉さんが六人いて、少なくとも一つ上の三年にいる人は度肝を抜かれるほどの美少女ぶりを誇る。
 列挙したならば、数十人分もの不思議を一人で持っていると言っても過言ではあるまい。
「ん? どうしたの?」
 撫子が小首をかしげる。
 色々ありそうなのにもかかわらずのこの笑顔こそ、一番の不思議かもしれない。
「や、なんでもない」
 誤魔化し、窓の外に目をやる。
 ここは三階だ。眼下に映る中庭は手入れが足りていないのか雑草が蔓延り、不必要に緑が多い。
 そんな中、黄金の顔を上げる向日葵が鮮やかだった。中央の小道に沿って並び、花を北東へと向けている。
「なんちゅうか、ヒマワリは『夏』感凄いよなあ」
 特に意味もない、同意を得るだけの言葉。
 しかし返事はすぐには来なかった。
 撫子は戸惑ったかのように向日葵をじっと見つめていたのだ。
「どしたん?」
「……花の向きがおかしい」
「ん? ああ……お日さん今南東やしなあ」
 常に向日葵は太陽の方へ向いているものだ、という認識で頷いたのだが、撫子は小さくかぶりを振った。
「向日葵が首を振るのはまだそんなに生長してないときだけなんだ。あの子たちはもう育ちきってるのに」
「ふーん」
 あまり興味はなかった。三日後には始まるはずの夏休みをどう過ごすかの方が余程重要だ。
 だから撫子が何をそんなに気にしているのか分からなかったし、どうせすぐに忘れるだろうと思った。既に記憶の隅へと押しやり、これ以上向日葵と関わることもなかったのだ。
 そして撫子も理由を突き詰めることは、今はしなかった。
 予鈴が鳴る。担任教師が廊下を歩いてくる影が、そちら側のガラス窓に映っていた。







 陽は南天を過ぎり西へと向かい、空を茜に染め落としながら山向こう、海の果てへ消えてゆく。
 友人との遊びを楽しみ、帰途に就く撫子はやがて思案げに足を止めていた。緑の水田を吹き抜ける風は生温くあるが、汗ばんだ頬には涼しい。
 しかし心地好さのうちにもわだかまるものがあった。やはり向日葵が気になるのだ。
 遅くなれない、と友人に言った言葉は嘘ではないものの、このまま帰るのは落ち着かない。だから家には式神で連絡を送り、田へと向き合う。
 姉妹は、元々は田の神、稲の神を祀る血統だ。だから巫女としての資質が最も低い千草でさえ田には親しむ。そして、六人の中で紅葉に次いで資質が高いのが撫子である。だから招くこともできる。
 淡路の田を統べるのは足穂比古命タルホヒコノミコト。しかし今回は違う。
 見つめる先は、呼びかける先は、古びた案山子である。
 長姉が大蛇のために集めていた力の一つ、精霊や妖、人の成れの果ての中で唯一の、真正の神霊。彼の神にとって案山子こそは何にも勝る神籬ひもろぎだ。
 畦より言祝ぐ声に応え、ほどなくして其処に顕れる。
久延毘古クエビコ様!」
 まるで大好きな祖父に会ったときのような甘えた声で、撫子が満面の笑みを浮かべた。
『撫子姫かい。何か用かね』
 案山子の姿は変わらない。空気が変わったりもしない。けれど、ゆっくりとした穏やかな声が響く。
 草臥れた、朽ちかけた姿で田に在って世界を見続ける知恵の神は、撫子の問いをも既に知っている。
『いや、答えるわけにはゆかぬけれどもの』
「どうして?」
 きょとんと無垢に小首をかしげる撫子へ、返って来るのはやはりゆったりとした笑い声だ。
『知らぬでよい。知らぬを一度ひとたび失えば、再び得ること難きゆえ』
「よく分からないよ」
『おまえは姫たちの中で一等幼い。知識は多くとも、芯を未だ持たぬ。おまえの善意を無慈悲に焼き尽くすものはあるのだよ』
「そのくらい知ってるもん」
 ぷくっと頬を膨らませる様も愛らしく、撫子はねだるように上目遣いに見上げるが、案山子は穏やかに笑うだけだ。
『今は忘れておくことだ。やがて自然じねんにおまえの知るところともなる』
「でも……」
『それよりも、おまえの知らぬ花の話をしてやろう』
「むー、誤魔化されないもん……」
 そうは言ったものの、花となれば撫子の興味はやがてそちらへと向いてしまう。
 案山子が語ったのは失われてしまった花の物語だった。高い高い山に咲く真紅のその花は、今となっては記録にすら残っていない。
 生まれ、長じ、咲き、一帯を覆いながらもついには潰えてしまった儚い命である。その花は特別な存在ではない。栄枯盛衰に呑み込まれた一つだ。
 語り口は優しくも淡々と、起こりから終わりへと至る。
 久延毘古に何らかの意図があったのかどうかは判らない。撫子の言った通り誤魔化しただけなのか、あるいは伝えたいことがあったのか。
 いずれにせよ、話が終わるとともに案山子から神の気配は薄れた。
「むー……」
 夜空を見上げ、撫子はもう一度向日葵について考える。
 向日葵のみならず、植物には多かれ少なかれ太陽の方を向く性質を持つものが多い。マリーゴールドやダリアなどは有名だろうか。
 その性質は特別なものではなく、絶対的なものでもない。向日葵は大抵の場合において東か西を向いて固定化されるというだけで、他所を向いている花もある。
 それが一糸の乱れもなく北東に顔を向けていることこそが奇妙なのだ。
 しかし向日葵にならば起こりうるのかもしれない。物質的にではなく霊的に引き寄せられている。
「そう、向日葵と……あとは金盞花きんせんかもそう」
 いっそあの花々の精が問いかけに答えられるほどの自我を持っていたならば、直接尋ねるだけで済んだのだろう。しかし漠然とした意図のようなものを読み取れる程度で、判ったのは何かを畏れているということだけだった。
 もっとも、そこから仮説を立てること自体は容易かった。
 北東に、太陽があるのだ。
 知りたいのは、それが具体的に何を意味するのか。何かよくないことに繋がっていたりはしないのか。穏やかで平和な暮らしを愛する撫子としては不安だった。
 まだ知らなくていいと久延毘古が言うのであれば本当にまだ問題ではないのだろうが、やはりすっきりとはしない。
 見上げれば満天の星が瞬いている。並びは大蛇の世界のものとは異なる。大蛇の世界は星もまた大蛇のものなのだ。
 守られているのだと撫子は思った。少なくとも自分は守られているのだと。
 忸怩たる思いが浮かぶわけではない。しかし、望む平和の中で暮らしているからこそいつかまた奪われることになりはしないかと不安ではあった。
 しかし結局、撫子は納得してしまう。
 自分の花畑から出る勇気は未だ持たなかった。







[26080] 「退魔様」
Name: 八枝◆767618cd ID:66d8c461
Date: 2026/03/01 15:35



 夜を一人の娘が駆ける。
 息を切らし、時折後ろを振り返りながら青い顔で、足をもつれさせもしながら必死に駆けてゆく。
 逃げているのだ。追われているのだ。
 酸素を求めて喘ぐ喉が痛い。助けを求める声は既にもう何度も上げた。
 周囲には明かりの点いた住宅が連なっているというのに、誰も窓を開けることすらしない。人だけが消えてしまったかのようだった。
 怪異である。もう必死に足を進めるだけがすべてである娘には、何も考える余裕はないが。
 追って来る何かは追いつかない替わりに引き離せもしない。ただ、荒い息が耳朶を打ち、恐怖を煽ってゆく。
 胸は狂ったように鼓動を刻み、目が霞む。見えなくなってゆく。まったくの闇にいるようだった。
 しかしその闇が回った。意識がどれほど危険を叫ぼうと、ついに肉体が過酷な運動に根を上げてしまったのだ。
 もんどりうって倒れ伏し、噎せ、激しい咳とともに胃液を吐いた。
 一度止まってしまった身体は動かない。頬が、手足が冷たかった。
 死ぬのだと思った。大学生になったばかりなのに、と不運を呪った。
 もう一度嘔吐しかけた、まさにそのときだった。
「そこまでだ!」
 底無しの洞穴から響いてくるような、それでいて大音声が響き渡った。
 喘ぎながら上げた顔、視線の先に巨大な影が映る。
 全高は2メートルほどにもなるだろう。全体的にずんぐりとした姿だ。鎧を着ているように見える。兜を被っているように思える。
 そして眼窩には、そもそも眼窩と呼ぶべきなのかすら怪しい穴には黄金の輝きが灯っている。
 それは巨大な武人埴輪だった。
 娘は歓喜の声を上げた。
退魔タイマ様!」
おう!」
 埴輪は応え、跳躍した。







 この一月で聞かれるようになった都市伝説が一つある。
 夜中、独りで歩いていると何ものかに追われる。ここで決して諦めてはならない。全力で逃げなければ捕まって食べられてしまう。しかし最後まで諦めずに走り続けたならば巨大な武人埴輪が助けに来てくれる。
 助けられた誰かが名を問うたところ『タイマ』と答えた。それ以来、退魔タイマ様と呼ばれることとなった。
「やっぱり退魔タイマ様は実在したんよ!」
「そらいいこった」
 正午を少し過ぎた時刻、暇を生協食堂で潰しながら、きらきらと目を輝かせて語るクラスメイトへと杏は気のない返事をした。
 三歳児並みの我儘とまで言われる杏ではあるが、あにはからんや友人はいるのである。大学に入ってから知り合った彼女はどうにも浮世離れしているというのか何かと夢見がちな性質で、怪奇の話を聞きつけては首を突っ込もうとする。
「もー、きょーちゃんはこういう話、いつもドライやなあ」
「そんなことよりあんたのアイス寄越しなさい」
 小さなテーブルで向かい合う二人の前にはそれぞれ幾つもの冷たいデザート類が並んでいる。そのうちの一つを宣言と同時に強奪、杏は自分の前へと持って来た。
「ぅあ!? ああ、まあ、ええよ」
 理不尽な展開にも挫けることなく彼女、三木本集みきもとつどいは困ったように笑ってみせた。
「けど、きょーちゃん、こういうこと詳しいわりに全然興味ないんよなあ」
 『きょーちゃん』なる呼び方は、初対面のときに杏の名を読み間違えたことに端を発する。訂正を受けても気にせず『きょーちゃん』と呼び続ける強引さは、伊達に杏の友人をやっていられるわけではないことを示している。
 だが同時に、べったりとした関係でもない。友人の枠には入るという程度の親しさであり、時折行動を共にすることはあっても積極的に誘いはしない。今向かい合っているのも偶然見かけて同席しただけなのだ。
 にもかかわらずアイスを強奪するのが杏である。
「別に楽しくないもの。涼しい部屋で漫画読んでる方がいいじゃない」
「うぅん……きょーちゃんはほんま、よう分からん人やなあ」
「何がよ?」
 きょとんとした顔すらすこぶるつきの美人だと集は思う。中性的な凛々しさの中に女性らしい甘やかさが匂う容姿容貌に敵う者など、およそこのキャンパスにあるまい。男には判らない程度、ではなく正真正銘の化粧なしで既にこれである。いや、さすがに肌の手入れくらいはしているのだろうけれども。
 ただ、恐ろしいまでに自己中心的なことを除いてさえ変な人だとも思う。
「例えば……きょーちゃん、イケメン好きや言うてたやん?」
「その言い方、杏さんは安っぽくて嫌い」
「ああ、うん、どういう言い方やったかな……とにかくかっこええ男の子好きや言うてたやんか」
「それがどうかしたの?」
 アイスを頬張る合間に、やはり興味の見えない表情で杏は続きを促す。
 そんな姿さえも、黙っていれば凛と咲く花である。気後れする者が多いとはいえ、近づく男も稀にはある。
「昨日、木野村君、こっぴどく振ってへんかった?」
 木野村某は容姿端麗で知られた男だ。別段大仰に感動して見せるほどではないが、クラスメイトの中では群を抜いている。
 その告白――――とまではいかないまでもあからさまなアプローチに対し、杏は興味もなさげに切って捨てたのである。
「なんかめんどくさくて」
「きょーちゃん、かっこええんが好きなんよな?」
「そうね」
「木野村君、顔はええよな?」
「まあね」
「興味ないん?」
「ない」
「ワケ分かれへん」
 ゆるゆると集はかぶりを振る。実際には大して気にしないのか、あるいはあの程度では基準に達しないのか。どちらにせよ、杏にとっては目の前のアイスの方が余程価値があるのだろうことは確かだった。
「いや、それは置いといて、退魔タイマ様よ」
 話を本題へと戻す。
「うちも退魔タイマ様にうてみたい!」
 叫びが食堂に木霊した。
 大学は既に夏休みに入っている。しかし来なくていいとなると無意味に顔を出したくなるものであったり、あるいは単純に部活に出たりしてか人は多い。何事かとこちらを振り向く者もいくらかあったが、タイマの響きに最近流行っている件のオカルトか、と覚って興味を無くす。
「あんた、怪物に追われたいの?」
 呆れたような半眼で、向かいの杏は鼻を鳴らした。
「あの埴輪なんかより、この一月でそんなに沢山の子が襲われてることの方がよっぽど重要だと思うんだけど」
「言うても、お巡りさんの反応とか微妙っぽいやん」
 警察にしてみれば頭が痛いところだろう。証言という証言が、怪物に追われたが埴輪が助けてくれた、である。示し合わせて一芝居打っているのではないかと疑いたくもなる。
 それでも嘘と決めつけることまではできず、一帯に警官の姿がよく見られるようにはなっている。
 しかし好奇心に背を押された集が彼らの複雑な心中を推し量るわけもなく。
退魔タイマ様にうて、怪物の正体も暴く! きょーちゃん協力して!」
 そのとき杏の浮かべた表情はまさに、何だこのめんどくさい生き物は、と言いたげだったが集も杏にだけは言われたくないだろう。
 そして杏はアイスを平らげると姿勢よく立ち上がった。
「いいけどさ。それがあんたの意思なら」
 この食堂は先払いだ。食べ終わったなら食器を片付け、ごみを捨てて出て行くだけでいい。
 さすがにそこまで人任せにはせず無駄に鮮やかな手並みで始末をつけて背を向けた杏を、集は慌てて追った。
 まさかあっさりと承諾されてしまうとは夢にも思っていなかったため呆気にとられていたのだ。
 屋外に出ると日差しが強い。薄桃色の大輪が、くるりと一回りしながら肌を焼く光を遮った。
 最近集もよく見る傘である。お気に入りなのか、雨が降っていようが晴れていようが杏はそれを持ち歩いている。色以外は男物の雨傘と見えるのだが、日傘としても使えなくはあるまい。
「きょーちゃん、ちょお待って」
「愚図愚図しないの。付いて来なさい」
 こちらを振り向いた瞳が鋭い。傲慢なまでの、いつもの輝き。
「ええっ!?」
 予想外の展開になって来た。
 集の予定としては、まずは被害者を特定して話を聞いて、と自分が中核になってことを進めるはずだった。それが無理に誘ったはずの杏に指図されては困惑もしようというものだ。
 しかしすぐに、さもありなんと思った。如月杏が人の背に大人しく従うわけがない。
 姿勢よく杏は行く。しかも速い。少し足を緩めると薄桃色の傘が遠くなる。未踏の荒野であろうとも踏みしめ道としてしまいそうな後姿に集は駆け出した。
 アスファルトが靴底に熱い。もちろん裸足で砂浜に踏み入るように火傷を負いそうなものではないが。
 サッカー部がボールを奪い合うフィールドを左手に望み、続いて体育館の横も通り過ぎて、果たしてどこへ向かおうというのか。
 角を曲がったところで左右に樹の植えられた道へと入り、頭上に差し伸べられた緑が光と熱をやわらかく遮った。
 このまま進めば大学の外に出てしまう。それでも杏の足は緩まない。
「なー、きょーちゃん?」
 さすがに声をかけずにいられなかった。
 杏は振り向きもせずに返事だけ寄越した。
「目的地はまだ先だけど、とりあえずこいつを拾っていくわ」
 こいつ、との言に何のことなのか惑う暇こそあれ、答えは別の声で示された。
「えらい遅かったなあ」
 門のすぐ傍に見知った姿。180センチメートルほどの背丈に気の抜ける顔で青年が独り立っている。洒落気など微塵もない、一山幾らと思しき白いシャツに黒いズボンはところどころ汗にか濡れ、この暑さであるから仕方がないとは言え些か清潔感にも欠ける。しかも太っては見えないのになぜか腹だけ出ているものだから魅力度はさらに半減、逆に印象に残る。
 同じ学部の同じ学科、要はクラスメイトの一人だ。姓が新開しんかいであったのは覚えているのだが。
「まだ一時過ぎじゃない。杏さん、今日はとてもお早い」
「なんかもう慣れてもたわ」
 いけしゃあしゃあと言ってのける杏に怒るでもなく、青年は続けてこちらへと目を向けた。
「……と、確か三木本さんか」
 集はその声をまだ覚えてはいなかったが、容姿からは想像しがたく涼やかに低い美声で、なんとなく癪に障った。しかしそんな理不尽な感情を露わにするほど馬鹿ではない。
「新開君やったっけ」
新開鉄朗しんかいてつろう
 やはりいい声だが、杏へ向けたものよりもどこか冷ややかに響いた。
 それで思い出した。この新開鉄朗はあまり目立つ方ではない。騒がないし、大きな話し声を立てたりもしない。だから声に慣れていなかった。
 距離を測りかねている集を横目に鉄朗の方は再び、困ったような顔で杏に尋ねた。
「で、三木本さん連れて来たんは事件にでもうたんかい?」
「まだよ」
「まだ?」
「首を突っ込んで埴輪に会いたいって言うから連れて来たの」
「んなことで連れて来んなよ」
 鉄朗が口元を歪める。
 しかしそれ以上に穏やかならざる心地だったのは集である。
 二人の会話が意味するところが分からぬほど鈍くはない。
「……え、なに? もしかして……」
 よく考えてみたならば不思議はないのだ。杏はこういった怪奇めいた事象に妙に詳しい。まさにそこへ期待して誘ったわけだ。しかし怪奇が実在するのであれば、詳しいだけでそちらに関わりがないなど、むしろその方が不自然だろう。
「きょーちゃんと新開君、霊能者とかそういうん?」
 浮き立つ思いで尋ねれば、ふたりともが殊のほか気の乗らない表情を返した。
「なんか安っぽくて杏さんの趣味じゃない」
「なんや僕とは根本的にちゃうわな」
 それぞれ別々の否定である。そして違うと言われても、では何であるのかが分からない。
 杏はそれだけだった。この件でじゃれるつもりもないのか、すたすたと容赦なく歩み去ろうとしている。
 一方、鉄朗は酷く面倒そうに溜息をついた。
「来ん方がええで。三木本さんが見よる夢や多分、何もないからなんもないけんな。詰まらん結果と碌でもない現実があるだけやて」
 木漏れ日揺れる光と影の中、その声が奇妙に大きく集の耳に響く。気遣いはない。本当に、ただ面倒ごとを減らそうとしているだけなのだろう。
 そう言われてしまうと集の天邪鬼が目覚めてきた。
「新開君には聞いてへんもん。うちはきょーちゃんにくっ付いて来たんやからな」
左様さよか」
 ぽん、と鉄朗が腹を叩いた。響く、良い音がした。






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