立花夏音は生まれてこの方、ずっとアメリカで育った。そんな彼は帰国子女と紹介されることが多いが「帰国」したのかと問われると首をかしげてしまう。ちなみに夏音の父親は何を思ったのか、夏音に二つの国籍を持って育つように措置をとったので、厳密に夏音は二つの国籍を持っていることになる。どちらにせよ、ずっと向こうの教育を受けて過ごしてきた彼を見て誰もが日本の高校教育についてこられるのだろうかと疑問を持っても不思議ではない。
しかし、答えは否。
ネイティブ並の日本語能力を持った夏音は、自らが入手した新たな趣味、日本の漫画や小説をこよなく愛したおかげで一般の日本人以上に達者な日本語を身につけていた。
つまり、何も問題はなかったのである。
「やっとテストから解放された~」
律は部室の中央で、天へと腕をかかげて自由への喜びを叫んだ。テスト勉強から解放された喜びを十二分に噛み締めている学生のよくある姿である。
「高校になって急に難しくなって大変だったわ」
お茶の支度を進めながらそう呟いたのはムギである。口ではそう言うものの、何でもそつなくこなしてしまうような雰囲気を漂わせる彼女が勉強に苦労するようには見えなかった。しかし、世の高校生は中学時代との勉強の難易度の差に困惑する時期である。中学でそれなりの成績を収めていても、おごってしまったばかりに一気に成績下位に転落する者も多い。いかに優秀な人物でも油断はできないという事かもしれない。
「そうだなー。私も今回ちょっとヤバかったかも……ていうか、もっとヤバそうなのがそこにいるんだけど」
澪が開放感に満ちあふれた部室でただ一人、暗雲を背負ってうなだれる少女を指さした。
彼女のとった成績がいかなるものだったか、火を見るより明らかだ。
「唯……そんなにテスト悪かったのか?」
頬をひくつかせて不気味な笑いを浮かべている唯は、ギギギと不可思議な音をたてて澪の方を向いた。
「ふ、ふ、ふふ……クラスでただ一人……追試だそうです」
そうして、ふらふらと立ち上がった唯が見せた答案をのぞきこんだ全員が青ざめた。
「よく……こんな点数をとれたな」
夏音は驚愕に目を見開き、思わず手を頬にあてた。これだけの点数だと逆に感心してしまう。
「だ、大丈夫よ。今回は勉強の仕方が悪かっただけじゃない?」
「そうそう! ちょっと頑張れば、追試なんてヨユーヨユー!!」
顔をひきつらせながらもムギと律がフォローをいれた。きっとそうに違いない。見事な優しさを目にして夏音もうんうんと首を振る。
「勉強は全くしてなかったけど」
唯はけろりとして言い放った。
「は、励ましの言葉返せこのやろう!!」
律が怒るのも無理はない。自業自得、因果応報。彼女にぴったりな四字熟語は幾らでもある。
何故、勉強をしなかったのかと聞かれると唯は勉強もそっちのけでギターの練習をしていたのだと答えた。
「おかげでコードいっぱい弾けるようになったよ!!」
Vサインで勝ち誇る唯。
「その集中力を勉強にまわせよ……」
完全に馬鹿にした態度をとる律にむっとした唯がじゃあ、と問い返す。
「そういうりっちゃんはどうったのさー?」
「私はホレ、この通りー!!」
そうして律が差し出した答案を見た唯が「うそっ……」と絶望した表情になる。
「こんなの、りっちゃんのキャラじゃないよ……」
「私くらいになると、何でもそつなくこなしちゃうのよーん?」
「そんな~りっちゃんは私の仲間だと信じていたのに」
さらに高笑いをしつつ、胸を張る律。
「テストの前日に泣きついてきたのはどこの誰だっけな?」
澪の氷点下を下回る冷たい眼差しが律に向けられた。自信にあふれた態度はただの虚勢だったらしい。
「はっ! そういえば夏音くんはどうだったの!?」
矛先がこちらに来たな、と夏音は自信をもって答案を差し出した。
「ほぉ~」
「どれどれ……」
それを唯と律が熱心に眺める。
「英語が百点っていうのは分かるけど、全科目高得点って何!?」
馬鹿は自分だけだと思い知らされた唯はさめざめと泣いた。
「ココの出来が違うんじゃないかなー」
自らの頭を指さして夏音が笑う。
「夏音くん……なんて嫌な子でしょう!」
唯が頬を膨らませて怒る。全然迫力がないので、夏音は肩をすくめて受け流した。
「そういえば、今更だけど夏音はやけに日本語が達者だよな」
澪がナポレオンパイを崩すまいと真剣な面持ちの夏音を見て言った。
「確かにそうですよね。夏音くんってずっと向こうにいたのよね?」
ムギがお茶のおかわりを律のカップに注ぎながら、会話に参加した。
「生まれてこの方、ずっとアメリカにいたよ。でも俺の場合、向こうのスクールに 通わされていたし、我が家では『日本語の日」っていうのがあったんだ。父さんが俺にしっかり日本語を身につけてほしかったみたいだよ」
「へぇ~~~」
一同、感嘆する。
「なんか夏音のお母さんってすっごく綺麗そうだなー」
すると律が唐突に切り出した。
「何で母さんの話なんだ? 今、父さんの話を……」
「夏音は母親似だろう?」
澪が間髪いれずに聞いてくる。夏音は何故か全員が急に突っ込んできた事にたじたじした。
「いや、まあ似てるとは言われるけど」
「お母様の写真とかってありますかー?」
ついにはムギがきらきらとした表情で夏音をじっと見つめてくる。
「い、家にはね。今は、ない」
夏音は居心地が悪そうに体を震わせ、お茶を一気に飲み干した。普段なら家族の事を聞かれると嬉しくなるものだが、何だか不埒な好奇心を向けられている気がしてならなかった。まだ何か聞きたそうにうずうずする視線を向けられたので「さーて」と立ち上がった。
「ベース弾こーっと」
そう言ってテーブルから離れてベースを取り出す。以前に持ってきていたフォデラではなく、別のベースである。定期的に色んなベースを弾く事も機材管理には必要な事なのだ。
「あれ! そういえば、私夏音くんがベース弾くの初めて見るかも!」
「そうだったっけ?」
「うん! ギター弾く所は何回も見たことあるけどベースは初めてだよ」
「ふーんそうかそうか」
ならばこの腕、見せつけてくれようと密かに意気込んだ夏音は足下の機材をいじり始める。すると、ふと天啓的な頭に閃きが浮かんだ。
「あ、そうだ律。暇してるならセッションでもしない?」
まったりと紅茶をすすっている律に声をかけた。思えば軽音部に入ってから、まだ一度もそういう”らしい”事をした覚えがない。この機会だからいいかな、と軽い気持ちで誘ってみたのだが。
「え、あ、私っ!? いやいやいや! 今回などは、ちょいと遠慮するかな!」
「何でさ。遠慮しなくていいよ」
「やーだー」
全く予想外の拒否反応が返ってきた。
「何でだよ」
人が誘ったセッションを頑なに拒むとは失礼な、とすっかり機嫌を損ねた声で夏音は律を睨んだ。
すると、律は目をそらして指をもじもじし始めた。
「だ、だって~私セッションとかあまりしたことないしー」
「私とたまにやってたじゃない」
「澪は黙りんしゃい!」
澪情報によって夏音の機嫌はますます降下する。
「嘘ついてまでやりたくないのかー?」
「そうじゃないけど……夏音のベースについていけないと思うんすよ」
「何それ!? ついていくも何もないじゃん! 楽しく音を合わせればいいだろ?」
夏音ダダダッと律に詰め寄って肩をつかんだ。肩をつかまれじっと視線をロックされた律はしどろもどろになる。
「そ、それでも……う~ん……そ、そこまで言うならやってみようか……かな」
ついに律は夏音の目力に負けてしまった。
「よし、きた!」
夏音は手を叩いて喜び、急いでセッティングを再開した。
しぶしぶと立ち上がった律に早くセットするよう促し、律がスネアやバスドラを鳴らすのを待った。
「ふんふん……律、少し気になったんだけど。律のスネア低すぎない?」
「え? 私は思いっきり叩いてダーンって音出る方が好きなんだけど」
「そうかぁ……別に、律の好みだからいいんだけど。今はもうちょっと硬い音が欲しいかなーって。もっとタイトな感じにできないかな」
「うーん、別にいいけど……」
「ま、面倒ならいいや」
すごく面倒くさそうな律の顔を見たら強制はできなかった。
しばらくしてスティックをつかんで軽くストレッチしていた律は、最後に首をこきっと鳴らして8ビートを刻み始めた。お手本的なプレイである。三点から徐々にライドを絡めて、跳ね気味のドラミングを続けた。普段はほんわかとした空気に満ちる部室だが、誰かが楽器を鳴らした瞬間にそれは軽音部としての空気へと様変わりする。というより、ドラムの場合だとうるさすぎて会話がままならない。
夏音は律の音をじっと聴きながら、自身の音作りを終わらせた。
「うん、私は準備オッケー!」
律の準備が整ったらしい。
「こっちもいつでも!」
夏音はひょこひょこと律に近づいた。
「テンポはどうする?」
律がスティックを叩いてテンポを示した。
「BPM110だね」
「え、わかるの!?」
夏音がすんなりBPMを当てたので「絶対拍だ……」と律が瞠目した。自分でさえ分からなかったというのに。
「そうだなぁ……フリーセッションということで! 特に決めごとなしでやろう。Play it by earでね! じゃあ、律頼んだ!」
「え、え、いきなり!?」
いきなり指さされた律は焦ってなかなか演奏を始められない。たじたじと、どう始めたものかと焦っていた。
「Hey, look!」
いきなり英語を使われ、律が夏音を見る。
「One, two, one, two, come on Ritsu!!」
陽気なノリの夏音につられて、律が咄嗟にフィルインからドラムを叩き始めた。律が四小節ほど叩いたところで、夏音もリズムを合わせていく。
律は夏音の顔を見て、びくりと頬をあげた。夏音は彼女が緊張しているのかなと思った。音が硬いというか、体に力が入ってリズムがよれてしまっている。どちらかというと、夏音のベースに必死に食らいつき、合わせようとしているようだ。
違うのに、と夏音は首を横に振った。こちらの音をうかがいつつ叩くのでは、まったくノリが生まれてこない。お互いの音を探りつつ、徐々に合わせていくのがセッションの醍醐味の一つであるというのに。夏音は彼女が今まで澪と行ってきたというセッションでは何をしてきたのだろうと不思議に思った。
しかし、このままで終わらせないのが立花夏音であった。
ふと夏音が演奏の手を弱めた。ほとんど聞こえないくらいに音が小さくなり、律の刻むビートが宙に放り出される事になる。
音は何よりその人の心境を伝える。夏音の音を見失ったことで、律のドラムに不安が折り混じる。顔をあげた律が困惑した瞳で夏音に訴えかけた。食い入るように見詰められた夏音は苦笑を漏らした。普段は飄々としている律が「まって、まってよ―」と健気な少女に見えてしまうのだ。まるで保護者からはぐれてしまった子供のように。
だから夏音はその宙にさまよう手をしっかりとつないであげなければならない。
(こっちにおーいで、っと)
足下のエフェクターを踏み込んだ夏音のベースが爆発する。
大気圏から地表まで一気に駆け下りるようなグリッサンドの下降音。とんでもない熱量で軽音部の狭い部室に墜落した。
それは彼女の反射であった。次の瞬間、律はかっちりと夏音のベースにリズムをはめていた。
隕石が秒速五一キロメートルで天を下る先に人は何を見るだろうか。脳裏によぎる光景は強制的に大爆発を浮かび上がらせるだろう。それくらい当然の結果として、律は自分が叩くべき場所に逃げ込んだのだ。
さらに巧妙にシンコペーションを入れられた後には、先ほどまで既にその場になかった物が存在していた。
グルーヴ。
二つの楽器のビートが融合してうねるような音の波が誕生していた。
律の演奏は憑きものがとれたように変化した。肩に入っていた余計な力はどこかへ消えている。
夏音が挑発するようにオカズを入れると、律も笑ってそれに対抗する。時折、ベースが少しドラムとずれても律が焦ることはない。そうすることで生まれる新たなノリを感じることができるのだ。
離れるように見えて離れない。曲が崩れそうになっても、夏音がそれをすぐに修正して戻す。
しばらくセッションは続き、夏音が最後の一音を止ませた瞬間、唯、澪、ムギは二人に盛大な拍手を送った。
夏音はベースを置くと、スティックを握りしめたまま放心している律に近寄った。
「いやー楽しかった! ありがとう律!」
笑顔で片手を差し出した。律はぼーっと差し出された手を眺めていたが、顔を赤くして「あ、ハイこちらこそ」と言って弱弱しく夏音の手を握り返した。
「すっごいすっごーーーい!! 二人ともカッコいいーー!!! セッションって初めて見たよ!!」
唯はぱちぱちと手を鳴らして大はしゃぎであった。
「や、やっぱりスゴイ……」
呆然と呟いたのは澪である。拍手する事も忘れて棒立ちになって演奏の余韻に意識を持って行かれたままになっていた。
「夏音くん何でそんなにすごいのさ!」
「え、何故と言われても……。練習したからじゃない?」
「私もギターいっぱい練習したらあんな風に弾けるかなー。私も夏音くんとセッションしたいなぁ~」
「そうだな。早くそうなれることを祈ってるよ」
その後の律といえば、セッションが終わったところでそそくさとお茶に戻ってしまった。「ふっ、いい仕事したぜー」とでもいわんばかりの、爽やかな笑顔であった。それからずっと唯やムギと女三人で姦しいお茶会に没頭している。
(お茶が基本の部活かい……)
さすがに夏音も半眼になってそれを横目に見ていた。今の感動の余韻はどこにいったのだろう。
あれ、澪がいないと思っていたら足下にいた。
「うおっ!」
彼女は夏音が苦労して運んできた自前のアンプの前でじっと見詰めていた。
「どうかしたのか?」
「このアンプ……畏れ多くて使えなかったんだけど、私も使ってみてもいいかな?」
それが今世紀最大のお願いと言わんばかりに澪は両手を合わせた。
「何言っているんだよ! 最初から使っていいって言ったじゃない? これは澪のために持ってきたような物なんだよ?」
「え……私のため!?」
「澪も、ちゃんとしたアンプで音を出した方がいいと思ってさ。俺も使うからってのもあるんだけど……って澪? おーい? 澪さーん?」
心なしか顔を赤くして遠い目をしていた澪を現実に引き戻す。
それからしばらく澪の音づくりに付き合った夏音であったがふと時計を見て、慌てて自分のベースをケースにしまった。
急に帰り支度を始めた夏音に注目が集まると、夏音は部室の扉に手をかけて振り向いた。
「ごめん! 俺もう帰らないと!」
「用事か何かあるのか?」
夏音がエフェクターで嬉々として遊んでいた澪が尋ねた。
「ちょっとね。エフェクターは自由に使っていいから、最後にしまっておいてね! アディオス!」
一同はぽかんとしながら別れの言葉を告げるが、既に扉の向こうへ消え去った後だった。
夏音は学校を出てから、すぐに目的の場所へ急いだ。今夜、とある知人と会う約束をしていたのだ。学校を出て全力で走ったおかげか、約束の時間を十分ほど過ぎ、待ち合わせ場所の喫茶店の前に着いた。
そこに見知った人物の姿を見つけて、笑顔で走り寄った。
「How are you John!!」
夏音にジョンと呼ばれてニコっと笑みを浮かべたのは、ブロンドの髪を後ろに撫でつけスーツを着込んでいる背の高い白人であった。がっしりとした肉体をスーツの中に隠し、肩はがっしりとしていて、屈強なアメフト選手を思い浮かばせる。
夏音の姿を確認したジョンも喜色満面で夏音とハグをした。
「会うのは久しぶり、だな。まったく驚いた……まさか本当に日本のハイスクールに通っているなんて!」
ジョンは夏音が日本の高校の制服を着ているのを見て、大袈裟にのけぞった。
「真面目に学生やってるよ」
「まあ、元気そうでなによりだ」
ジョンが夏音の顔をしみじみと眺めながら感慨深く嘆息した。
「最後に会った時より、少し大人になったみたいだ。背がのびたのかな……いやしかし、ますますアルヴィに似てきたな」
「本当!? 実はちょっとだけ背が伸びたんだ! 0・5センチくらい!」
お世辞だったのに、とジョンは心に浮かべた。
「立ち話もなんだから腰を落ち着けようよ」
夏音は今自分たちが目の前にいる喫茶店を差し、笑った。
「ここジョンの好きなバニララテが美味しいんだ」
店に入り、注文が来るのを待ってから二人は話を再開した。
ジョンはひとまずバニララテを一口飲んで驚いた声を出した。
「こいつは……まさしく、バニラビーンズの味を完全に再現している。まいったな」
「だろう?」
夏音も相好を崩して、同じものを口にした。ジョンはカップをテーブルに置くと、すぐに真剣な表情でさて、と話を切り出した。
「さて。これからは、君をカノン・マクレーンという一人のアーティストとして話をする」
「そうだろうね」
夏音の表情が真剣味を帯びた。
「そのことだが、まず何回も電話ですまなかった。うっかり時差のことを考えに入れていなかったんだ」
ジョンは話を始める前に、今までの自分がしてきた非礼を詫びた。
「気にしてないよ。ジョン、あんたは売れっ子敏腕で通してるエージェントだ。俺が勝手に契約待ってーって言ったせいで皺寄せをくらっているんよね。こちらこそ、申し訳ないよ」
「いや、いいんだ。僕はその小っ恥ずかしい形容詞がつくエージェントの前に、いち君のファンだからね。迷惑なんて思っちゃいない―――だが、」
ジョンは言葉を切り、バニララテを一口含む。
「問題は君がいつまでそこにいるつもりかってことさ」
「それについては……前にも話したはずだよ」
「僕は君の才能が人々の前から一時期でも隠されるべきではない、と考えている。一瞬でもマクレーンから離れてしまう人がいてはならない、とね」
「そいつは随分大きく買われてるね」
嘆息まじりに夏音は笑う。
しかし、ジョンは夏音から視線を外さずに続けた。
「冗談でもなんでもない。このまま取り残された君のファンはどうなるんだ!?」
「サイトにもライブでも告知はしただろ? しばらく俺は――」
「普通の男の子になる?」
「まずかった?」
「ひどいなんてものじゃない。なんたって君は普通じゃないのだから」
「おいおい、ハリウッドでも天才子役とよばれる子供は思春期の頃くらいは役者業をやめた方がいいって言われているだろ?」
「役者とは話が違うだろう!」
「ヘイ、そう熱くならないでよ」
ただでさえ外見によって目立つ二人である。注目を浴びてきていることもあり、夏音は鼻息を荒くしているジョンにバニララテの二杯目をすすめた。
すると、ジョンはぶるぶる震えたと思うと、とたんに肩を落としてうつむいた。
「夏音は……あの世界に戻らなくても平気だというのか?」
はじまった――と夏音は思わず天井を仰いだ。
(勘弁してくれー……このアメコミのヒールみたいなナリしてる奴が小鹿みたいに縮こまってんなよー)
目の前でしょんぼりとしている男は、今この瞬間までこの男の体を覆っていた屈強なオーラの鎧をすっぽり脱いでしまったようだ。
これをやられた人間は思わず、母性本能らしき感情をくすぐられるという七不思議の一つだ。さすが末っ子。さすが「泣き落としのジョン」。
「だがそれは通用しないよジョニー坊や!」
「そんな! 頼むよー!」
純真無垢な少年の瞳で詰め寄ってくるジョン。
夏音はただちに帰りたくなった。
夏音は上を向いて視線を彷徨わせた後、びしっとジョンに人差し指を突きつけた。
「なら、これだけははっきりしておこうか」
ジョンは姿勢を正して夏音に向き合う。
「こっちの高校を出るまでは以前のようには活動する気はない」
きっぱり言い放った夏音の言葉にジョンはずどんと顎からテーブルに沈んだ。
「待ってジョン! そのタイタニックでも沈められそうなご自慢のアゴでテーブルを割る気!? だから、まったく活動をしないという訳ではないんだって!」
「え、それは本当!?」
ジョン、蘇生。
「ああ。スケジュールさえ合えば、レコーディングとかなら受けてもいいよ。それとカノン・マクレーンとして公に活動するのは無理! それと学校がある日は夜じゃないと無理!」
夏音が挙げた活動内容をゆっくり頭の中で咀嚼したジョンは、しばし巨大に割れたアゴに手をあてたが、瞬時に手帳を取り出した。
「なら、早速このアーティストのレコーディングがあるんだけど、どうだろう!?」
「早いな!?」
そうと決まればすぐに動き出すジョンに苦笑しながら、夏音はしばらく二人で予定を合わせた。
しばらくして話もまとまったところで、ジョンは小腹が空いたと料理を頼んだ。
ジョンはステーキ定食。ポテト。牛丼。ナポリタン。マルゲリータ。それだけでは飽きたらず、食後にジャンボパフェを持ってくるようオーダーした。
「日本のお店は一品の量が少ないね」
「向こうとはいろいろ規格が違うんだよ」
そんな会話をしながら、二人は料理を楽しむ。
夏音はこれでも序の口、というジョンの相変わらずの食の量に呆れたが、同時に懐かしさが沸き起こって頬をゆるめた。
「こんな光景も、久し振りだね……」
「ん、何か言ったかい?」
「何でもないよ」
食後にパフェとコーヒーを楽しんでいたジョンはふと夏音に質問をした。
「ところで、クリスとは連絡を?」
夏音の表情がその瞬間、固くなる。
「たまに、ね」
「そうか。彼も寂しがっているんじゃないか?」
「まぁ、立花家の奇行は今に始まったことじゃないし。初めの方に……そうだね、去年の夏に一度遊びに来たよ。それからも二ヶ月に一度くらいは電話をしている」
夏音の語ったそれは全くの嘘である。日本に来てからアメリカから自分を訪ねてきた知人はいない。誰にも居場所を教えていないのだから。
「うん、ならよかった。この間、クリスとマダム・ナーシャがコラボレーションしたシングルが出たが、もう聞いたかい?」
「もちろん。相変わらず、といったところで……」
「ところで、マークは未だに夏音がいなくなったことで騒いでいるらしいけど」
「そうらしいね……最初のうちは一日に三回は熱烈な電話が携帯に来たよ。すぐに解約したけど」
その時のことを思い出し、夏音はつい青くなった。
「仲が良かったからね」
「……そうだな」
ジョンとの会話は楽しい。心の芯がぽかぽかしてくる。
しかし、夏音はこれ以上話しているとあまりに向こうにいた頃のことを思い出してしまう。
すぐに今を捨てて戻りたくなるくらいな……。
「どうしようもないな……」
夏音が目を押さえて突然そう漏らすと、ジョンは口をぬぐって夏音にこう言った。
「君が後悔してはいけないよ」
「I know......」
「君がどう生きようと、僕は――僕らは君のことを好きであり続けるし、君の生き方が好きだよ。君らファミリーはどこかぶっとびすぎている感は否めないがね」
「さっきはあんなに喚いていたクセに大人ぶって」
夏音は拗ねるように口をとがらせた。
「僕は君のことをずっと妹のように思っているからね」
「ほう……俺にそんな冗談を叩いたらどうなるか忘れたのか?」
ジョンが最後に楽しみにとっておいたパフェのイチゴがまるごと夏音の口におさまった。
ジョンはこれから都内のホテルで人と会うらしい。
そろそろ時間だと言って、別れることにした。
「とにかく夏音。今日は君に会えてよかったよ。体には気をつけて」
「そっちこそ。日本にはまた来るだろう? その時はもう少しゆっくり、ね。父さんと母さんもいる時に」
そう言ってもう一度ハグをしてジョンはタクシーに乗って去った。
それを見送ってから、夏音はすっかり日が暮れてしまった夜の道を歩き出した。
外は風が出てきて、少し寒い。
ふと浮かんだのは軽音部の皆の顔だった。
そのことに少し驚いてから、顔を少し赤くさせて夏音はポケットに手をつっこんで歩き続けた。
帰宅後、抜群のオーディオ環境がそろっているリビングで録画していたアニメを真剣な眼差しで鑑賞していた夏音。携帯のバイブが鳴り、それを一時停止せざるをえなくなったことに舌打ちをした。
「澪からだ」
【夏音、大変だ。唯が追試で合格しなかったら軽音部が廃部になってしまうらしい……】
「Holy shit......」
夏音は即座に返信した。
【唯は馬鹿だねー。けれど唯には頑張ってもらわないとね! まあ、何とかなるさ!】
「送信……と」
夏音は無駄な時間をとった、と再びリモコンをいじってアニメを再生したが、またもや澪からのメール着信で中断させられた。
【そうだな……何とかなるはずだな!】
澪から返ってきた内容に、うんうんと頷いてからいざ、とリモコンを握ろうとしたが、メールの文章に続きがあることに気がついた。
【ところで、夏音さえ迷惑じゃなければ今度……私のベースをみてもらえないかな?】
思わず二度見してしまった。
「もしかして……こっちが本題か?」
まさか、唯の件がフェイントだとは思わなかった。彼女にとって唯と廃部の件は軽いジャブだったということだ。
夏音は、それとなくこの文章を作った人物について思い浮かべてみた。
あまり自分を出さない彼女のことだ。この文を打つのにどれだけの勇気が必要だったのだおる、と想像する。おそらく顔を震える手でおそるおそるメールを打つ澪の姿が想像できて、笑ってしまった。
「いいよー、と」
了解のメールを送信して一分も経たないうちに澪から着信があった。
「澪から……?」
夏音は首をかしげながら電話に出た。
「もしもし、澪? どうしたんだ?」
『も、もしゅ……夏音ですか?』
「夏音ですよー」
『ベ、ベースの件本当にいいのか!?』
「いいけどー」
『あ、あの……このことは他の人には内緒にしてもらいたいんだけど』
「何で?」
『恥ずかしいからに決まってる!』
堂々と言われても……と夏音は通話相手に苦笑した。
「ふむ……じゃあ、どこで見ればいいの?」
『あ、部室はだめだよな……どうしようか……』
「俺の家でもくる?」
「はぁーーっ!!」
ぶちり。
ツーツーという音が通話終了を教える。
「What the hell happened!?」
その夜、悶々と女心について悩んだ夏音であった。
※こんな時ですが、投稿します。こんな作品でも、わずか一瞬だけでも気が紛れれば幸いです。