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[26606] 【完結】黎明の吸血鬼(ネギま×女オリ主)
Name: あかいつき。◆3327a354 ID:742ccd16
Date: 2012/03/16 11:09
 ■ 注 意 ■ 


当作品は、ごく普通の女の子"雨音理多"を主人公とした、第三章以外は原作の裏側に位置する物語です。

表側、つまりネギを主人公とした原作とは違い、ばか騒ぎをしたり色恋沙汰があったりはせず、

またそれらに殆んど関わる事もない、非常に地味でオリジナル色の強い内容となっております。

原作の賑やかな雰囲気がお好きな方にも楽しんでもらえるよう努めておりますが、

その辺りをご理解して頂いた上でご覧になって頂くようお願い致します。

ネギ目線での描写はオリジナル展開時以外では行わないので、原作を読んでいた方が色々と判り易いかもしれません。


意見・感想・批判・質問は随時募集しておりますので、気軽に書き込み宜しくお願い致します。



[26606] 第1章 1時間目 真夜中の逃走劇
Name: あかいつき。◆3327a354 ID:742ccd16
Date: 2011/03/23 20:05
埼玉県麻帆良マホラ市にある、幼等部から大学部までありとあらゆる学術機関が集まってできている地。
日本人、特に学生なら知らぬ者は居ないほど有名な巨大学園都市──"麻帆良学園"。
そこで暮らしているというある人物を訪ねる為、雨音理多アマネリタは降りしきる雨の中を傘もささずに走っていた。

理多は雨の存在に気付いていない訳でも、濡れるのが好きな訳でもない。
頬を打つ雨粒の感触や、雫を滴らせている栗色の髪、乱れた制服が肌に張り付く感触を不快に思っている。
ただ、そんな瑣末な事に気を回している余裕が一切なかったのだ。

走り出してから一時たりとも足を止める事なく、理多は一心不乱に足を動かし続ける。
そんな中、懐疑心を抱いていたある事が徐々に確信へと変わっていった。
気の所為という事にしてしまいたかったが、自分の身に起きている確かな"異常"を無視する事はできない。

起伏の小さいワイシャツの胸元を握りしめながら、ポツリと呟く。
その声は消え入るほどに小さく、恐怖と不安から痛々しく震えていた。


「やっぱり、変だ……」


長距離を休憩なしに走り続ける事は、それ専用のトレーニングでもしない限り難しい。
例えしていたとしても、今の理多のように全力疾走をしていれば早い段階で息切れするだろう。
にも拘らず、理多は呼吸も心臓の鼓動も一定のリズムを狂わす事なく刻み続けていた。

理多は十七歳という年齢の割に小柄で童顔の、女性と言うより女の子と呼ぶに相応しい外見をしている。
しかしその外見から抱くであろうか弱いイメージに反し、意外と運動が得意であった。
体力に関しても何かこれといったスポーツやトレーニングをしていた訳ではなかったが、平均以上にある。

しかしそれは、あくまで同年代の女子にしてはという話。
疲れ知らずなどでは決してないし、無茶な走り方をすれば当然息が切れる。
その筈なのに、理多は未だ疲れを感じていないどころか、後数十分はこのまま走り続けられる余裕すらあった。

まるで自分の体が自分の物ではないかのような、そんな気持ちの悪い感覚に怖気が走る。
だが確認するまでもなく、正真正銘理多の体は理多の体だった。
それ故に、以前の自分との差がハッキリと判ってしまい、余計に嫌悪感を加速させる。

そして異常になってしまったのは、どうやら体力だけではなかったようだ。
汚いと思いながらも理多は雨水を飲んでみたのだが、喉の渇きが全く癒えなかったのである。
量の問題かと思って何度か飲み続けてみるも、やはり結果は同じだった。

走りながらでは息苦しくなるのを承知で、理多は下唇を強く噛みしめる。
実を言えば、雨水を飲む前から誰に教えられた訳でもなく、渇きを癒す方法を知っていた。
しかし、認めたくなかったのだ。

自分が、化物のように、"人の血を心から欲している"という事を。

ふと、薄汚れたチェック柄のスカートから覗く太ももに、じわりと血が滲んでいる事に気付く。
その赤い色と何故か感じ取れる匂いに思わず喉が鳴り、自分を支配しようとする欲求を理多は慌てて振り払った。
そして心が落ち着くまでは絶対に、ふとももへ──血へ目を向けないようにしようと心に決める。
そうしないと、沸き出す欲求に飲み込まれてしまう気がして恐ろしかった。

血を見てしまう可能性を減らす為、できるかぎり些細な怪我もしないようにしよう。
同時にそんな決意をした時、背後から何かの崩れ落ちる音が聞こえたような気がした。
何となくではあるが、とても、とても大きな何かが。

気の所為、で済ませられる状況ではない為振り返って確認してみるも、音の発生源を特定する事ができない。
ただ、微かに違和感を覚えた為、そのまましばらく眺め続けてみる事にする。
そうして、ある筈の物がない事に気付いて息を飲んだ。

先程まで兄の雨音直人アマネナオトと一緒に身を隠していた廃ビルが、景色から消え去っていたのである。
音の正体──それは、十人余りの"追手"をたった一人で足止めしている直人が居る筈の、廃ビルが崩れ落ちる音だった。

その事に気付いた瞬間、理多は思わず引き返そうになった。
だが血が滲むほど拳を握り、歯を食いしばってその衝動を抑え込む。
直人が追手の目標である自分を逃がす為に頑張っているというのに、戻ってしまっては意味がないと言い聞かせて。

理多は一見何処にでも居るような、ごく普通の平凡な学生である。
そんな彼女が、何故追われているのか。
その理由は、彼女に起きている異常──血を欲し、常識外れの体力を有する事と深く関係があった。

雨音理多。
彼女は、血を吸い生きる化物──"吸血鬼"なのである。

──吸血鬼。
燕尾服にマントを羽織り、城にでも住んでいそうな高貴な雰囲気を持つ紳士。
闇に溶け込みコウモリを従え、眠る時はベッドではなく棺桶の中。
弱点は、太陽の光に十字架やニンニクなど。
吸血鬼と聞いて思い浮かべるのは、大体こういった感じの存在だろうか。

理多はそんな、創作上の化物である筈の吸血鬼だった。
しかしそれは、生まれながらという訳ではない。
理多はずっと、人間として十七年間を過ごしてきている。
数刻前、外出中に気を失う前までは。

よくある設定通りなら、吸血鬼に血を吸われた事によって理多は吸血鬼になってしまったのだろう。
襲われた記憶がない為、おそらく気絶させられている間に吸われたといったところだろうか。
時間が経って消えてしまったのか、噛み傷がないので確証は何もないが。

犯人が理多を吸血鬼にした目的は一切不明。
しかし、犯人と思しき人物には心当たりがあった。
追手が理多達の元へやってくる少し前に現れた、闇に溶ける漆黒のフードで身を包み込んだ"謎の男"。
その男が、口元を笑みの形に歪めて理多に言ったのである。


──おめでとう、今日から君は吸血鬼だ。


当然理多は、そんな現実離れした言葉を信じる事はできなかった。
いきなり君は人間でなくなったと言われても、素直に受け入れられる訳がない。
何せ吸血鬼、ファンタジーだ。
まだ、お前は既に死んでいると言われた方がまだ納得できるというものである。

しかし今は、その言葉を信じざるを得なかった。
自分の身に起きている異常。
人間でなくなったというのなら、それらは異常ではなくなり説明が付くのだから。

追ってきている者達もただの人間ではないと、逃げ隠れている時に直人から教えられた。
呪文を唱え、現実には不可能な身のこなしや結果を実現する者。
ファンタジーの象徴的存在とも言える、"魔法使い"だという。

そのあまりにも非現実的過ぎる存在を、理多はやはり信じる事ができなかった。
だがそれも、今なら信じる事ができる。
吸血鬼なんてモノが居るのだから、魔法使いが居ても何らおかしくはないと。

そしてその魔法使い達の相手をしている直人も、自身の事を魔法使いだと言っていた。
また、だから相手が魔法使いだろうと平気だとも。
平気、と言うからには直人は強いのかもしれない。
しかし、それにしたって一対十数名では数に差があり過ぎるだろう。

喧嘩の経験がない理多にすら判る、その不利さ。
それでも理多は、直人の言葉を信じて走る事しかできなかった。
戻ったところで自分には何もできないし、かえって足手まといになる事は判り切っていたからである。
何よりそんな事をしてしまえば、直人の頑張りを無に返す事になってしまう。

情けなさでこぼれる涙を拭い、痛む胸を無視して理多は再び走りに専念する。
そして走りながら、別れ際に直人から言われた事を思い返した。


──理多、麻帆良学園は知ってるな?
  そこに"エヴァンジェリン"っていう金髪のちっこいのが居るから、そいつを訪ねろ。
  事情を知れば、きっと何とかしてくれる筈だ。だから理多……決して諦めずに、生きてくれ。


夜明けまで残り数時間。
太陽が出てしまえば、殆んど身動きを取れなくなってしまう。
理多の知る吸血鬼は、日光を浴びると灰になってしまうからだ。

それは作られた設定なのかもしれないが、本当である可能性を考えるととても試す気にはなれなかった。
だから日中に全く走れない分、夜は止まる事なく走り続けなければならない。

少しでも早くこの場から離れ、追手から逃げ伸びて生きる為に。
そして、目的地に辿り付き助けを求める為に。
色々な感情と問題を抱えながら、理多は走る。

──目的地は、まだ遠い。



[26606] 第1章 2時間目 衝動の果てに
Name: あかいつき。◆3327a354 ID:742ccd16
Date: 2011/03/20 13:51
直人と望まぬ別離をした雨の日から、丁度三日目の夜を迎えた頃。
満身創痍の体を引きずるようにして歩きながら、理多はようやく麻帆良学園へと辿り着いていた。

これまでの三日間、理多は常に人目や日光に対して気を張り巡らせ、闇夜を独り駆け抜けてきた。
寝ている間に何かあったらと、身動きが取れなくなる日中ですら満足な睡眠をとる事もできず。
また逃げる際に財布を持ち出す事ができなかった為、一切食べ物を口にしていない状態でである。

例え徹夜や野宿に慣れていたとしても過酷な状況に、理多の精神と肉体はもはや極限の状態。
吸血鬼の並外れた丈夫な体でなければ、とっくの昔に限界を超えて倒れていた事だろう。
もっとも、吸血鬼になってしまったが為に、こんな状況に追い込まれているのだが。

鉄の靴でも履いているかのような重い足取りで、理多は立ち並ぶ街路樹の一つにゆっくりと歩み寄る。
腰を下ろすか倒れるなどして休みたいところが、そうしてしまうと長い間立ち上がれる自信がない。
なので背中を合わせて寄り掛かるだけに留めると、夜の帳が下りる麻帆良学園をぼんやりと見渡した。

目に映る建物はレンガ造りの物が殆どで、その街並みや雰囲気は西洋風といった感じである。
否、西洋風というよりも、西洋の街を切り取ってそのまま持ってきたかのようだった。
もし看板などが日本語表記でなければ、此処が日本である事を思わず疑ってしまっていただろう。

そして遠くには、天を貫かんばかりに高く伸びた、不思議な雰囲気を持つ大樹が見える。
正式名称が確かあった筈だが、話題にする際には通称である"世界樹"と呼んでいる為、理多は覚えていない。
ここまで現実離れした、規格外の大きさをした樹は他の何処にもなく、世界規模で有名な大樹だ。

もしも観光目的でこの地を訪れていたのなら、嬉々としてあちこち見て周っていただろう事は想像に難くない。
しかし、今自分の置かれている状況でそんな事をする気には、とてもではないがなれそうになかった。
そんな余裕は、あらゆる意味でもう存在しない。

──余裕。
果たしてこの先、自分のしたい事を行う余裕のできる日がくるのだろうか。
吸血鬼でありながら、元の平穏な生活に戻る事は可能なのだろうか。
眠る事ができなかった時間に幾度も自己問答した、これから先についての事。

その末に導き出した結論は──不可能。
それは、理多を討伐しにやってきた魔法使い達の反応を見れば明らかだった。

一般人が知らない、魔法使いや吸血鬼などが当たり前に存在しているこの世界の裏側。
その世界でも、表の世界によくある吸血鬼の物語同様、吸血鬼は"悪"の存在であり。
そして吸血鬼である理多は、例えどんな理由で吸血鬼になってしまったのだとしても、"悪"になるようだった。

そんな、一見とんでもなく理不尽に思える方程式。
しかし、その方程式に対して理多は、自分の事ながら然程理不尽だと思っていなかった。
何故なら自分の内に沸く"強い欲求"を、危険なものだと判っているからである。

その欲求とは、人間の血を飲みたい思う──"吸血衝動"。

この三日間で理多が極限状態へと至ったのは、実は極度の疲労からだけではない。
尋常ではない喉の乾きや全身が裂けるような痛みといった、欲求を我慢し続けた事による"代償"があったからなのだ。
そしておそらくその代償は、他の要因よりも多く体を蝕んでいったのである。

それほどまでに辛い代償だが、これらは全て血を吸う事で解決し、同時に空腹や疲労なども回復する事ができる。
理多は誰に教わった訳でもなく、何の根拠もないが、漠然とそんな気がしていた。
実際その通りであり、全身の痛みなどは自己を護る為の生存本能が引き起こした警告だったのである。

やろうと思えば、誰にも見付からずに血を吸う事ができるチャンスは何度もあった。
それでも理多は、自分の身が危険である事を直感的に理解していたにも拘わらず、決して実行に移さなかった。
何故なら、理多や殆どの人達が知っている吸血鬼は──"血を吸った相手を吸血鬼にしてしまう"からである。

日光を浴びると灰になってしまうなどの伝承は、作られた設定に過ぎず、本当は違うのかもしれない。
しかし、万が一にも自分のような辛い思いを誰かにさせてしまわないよう、理多は必死に耐え続けた。
例え自分と何の関わりのない他人であろうとも、平穏な日常から引き摺り下ろしてしまうような事を、したくはなかったのだ。


「探さ、なきゃ……」


節々が軋んで痛む体を木から起こし、理多は再び這うようにして歩きだす。
目的地へと辿り着いたものの、目的はまだ果たしていないのだ、いつまでも思考に浸ってはいられない。
それに、自分に残された時間がもう少ない事を、何となく感じ取っていた。

少しずつ足を進めながら、霧がかった頭で目的の人物の居場所を考え始める。
麻帆良学園都市は、名前の通り都市のように敷地が広い──否、そこいらの都市よりも余程広かった。
それこそ、迷子が出る事なんてざらであるほどにである。

そんな場所で、名前とちょっとした特徴以外、何も判らないような人物を探し出す事など、果たしてできるのだろうか。
逃げる事に必死だった所為で、理多は今になってようやくその事に気付く。

誰かに心当たりを尋ねようにも、深夜〇時を過ぎたこの時間、外を出歩いている人は居ないと考えていいだろう。
実際、麻帆良学園に入ってしばらく経つが、誰一人として目にしていなかった。
今が春休み中であり、また学園の都市であるからして、その辺りの規則は厳しいのかもしれない。

だが、逆に人が居なくて困る反面、良かった面もある。
今人を見てしまったら、理多は正直自分を抑え込む自信がなかった。

吸血鬼になって二日目までは、人を見ても何とも思わなかった。
精々、吸血鬼のシンボルとも言える鋭く伸びた犬歯が疼く程度。
人は、当たり前の事ながら人でしかなかったのだ。

しかしそれは、時が経つにつれて変わっていってしまった。
今の理多にとって、人は人でなく──


「違う、違うよ……人は──」


 ──餌なんかじゃない。


ズキズキと痛む頭を抱えながら呟く否定の声は、か細く掠れており。
一度そよ風が吹いただけでも消えてしまいそうなほど、酷く弱々しいものだった。

ふと理多は、自分でも説明できないような何かを感じて足を止める。
それと同時に、寒気にも似た恐怖が全身を駆け抜け、肌が粟立った。
理多は無意識の内に、首にかかるホワイトゴールドで純白の宝石をシンプルに飾ったネックレスをギュッと握り締める。

全身が強張り嫌な汗が出るこの感覚を、理多は忘れたくても覚えてしまっていた。
それは数日前、魔法使い達から嫌と言うほど浴びせられた──殺気。

理多は弾けるように俯きつつあった頭を上げ、そして視認した。
抜き身の長い刀を持ったサイドポニーの少女が、跳ぶようにして自分へと駆け寄ってきているのを。

冗談のような速さで、瞬く間に二人の距離は狭まっていく。
このまま何もせず突っ立っていれば、刀の一太刀によって斬り捨てられ、死を迎えるのだろう。
だが理多はその事への恐怖よりも、少女を見た瞬間、自分の内に沸いた感情に──衝動に恐怖していた。


「ぁ……ぅっ」


思考が、理性が、どす黒い津波のような何かに呑み込まれていき、理多から理多を強引に容赦なく奪い去っていく。
何もかもがどうでもよくなり、何もかもが考えられなくなる。
ただ一つのモノを例外として。

その例外は──"血"。
そう、理多の心を覆い尽くした何かは、ずっと抑え込んできた吸血衝動だった。

視界が鮮明な紅に犯されていき、目の前に広がる世界は、まるで血塗れになってしまったかのよう。
その光景に対し無意識の内に舌なめずりをしていた理多の表情は、どこか妖艶な雰囲気を漂わせていた。

ふいにブツンと理多の視界にノイズが走り、そして、唐突に意識が途切れた。
しかし倒れたりはせず、頭だけを力なく俯かせて目蓋がゆっくりと閉じていく。
傍目から見れば、その行動は潔くこれから訪れる死を受け入れたかのように見える。

だがそれは、始まりの合図だった。
閉じて間もなく、今度は静かに理多の目が開かれる。
その時にはもう、理多は理多でありながら、理多ではなくなっていた。


「アぁ……喉ガ、渇イタなァ」


髪と同じ茶色だった瞳は、理性の光を失った深紅の血色に。
笑みの形に歪めた口から、血を求めて鋭く伸びた犬歯が覗く。

──まぎれもない吸血鬼が、そこに居た。

自身へと迫る刀を手にした少女に、理多は引く事なくあえて右足を一歩踏み込む。
そしてコンクリートを砕いてめり込んだ右足を軸にして、刃物のように変化した鋭利な指先を横薙に振るった。

一方、このまま攻撃を強行するのも防御するのも直感的に得策ではないと判断した少女は、体を無理矢理に捻って理多の攻撃を何とか回避する。
その判断が正しかった事は、空振りに終わった理多の攻撃が切り裂いた、ゴウッと鳴る空気の音が教えてくれた。
攻撃や防御を捨てて回避行動に専念していなければ、おそらく五体のいずれかとお別れをしなければならなかっただろう。

攻撃を避けられた事に苛立ったのか、理多は獣のように唸りながら少女へ振り返ると、その回転に乗せて再び爪を振るう。
それを少女は理多との距離が近い所為で満足に回避行動が取れない為、咄嗟に後方へ飛び退き爪の威力を殺しながら、強化を施した刀で受け止めた。
そして少女は、理多へ迫った時と同じ勢いで、後方へと吹き飛ばされるのだった。


「アは、アハハハハハッ!!」


踏み込んだ衝撃で粉塵を舞わせ、愉快そうに笑う理多は間髪入れずに吹き飛んだ少女へと跳躍。
一気に距離を詰めると、今度こそ真っ二つに切り裂こうと上段から下段へ叩きつけるようにして手刀を振り下ろした。
威力、速さ、タイミングの全てが噛み合った、普通の人間であったなら確実に片がついていただろう必殺の一撃。

だが刀を持っている事から判ると通り、生憎と少女は普通の人間ではなかった。
少女は吹き飛ばされながら空中で体勢を整えると、理多へと向き直って瞬時に体内の"氣"を練り上げる。
そしてその氣を刀に込め、即座に氣を"雷"へと変換した。


「京都神鳴流奥義──"雷鳴剣"ッ!!」


交差する二人の攻撃は、紙一重の差で刹那の方が速く。
雷を帯びて青白い光を放つ刀身が、隙のある理多の胸部へと叩き込まれた。
瞬間、耳をつんざく雷鳴が二人の間で轟き、身を焼く閃光と衝撃が理多を襲う。


「ガアアアァァ───ッ!?」


先程とは逆に吹き飛ばされた理多は、地面へ落ちた後もしばらく勢いが収まらずに滑り、数回転がった後ようやく停止した。
そのまま地面に横たわって身動ぎ一つしない理多の全身から、肌が焼ける臭いと何かが蒸発したのか湯気があがる。
そんな、何処からどう見ても致命傷を負った状態であるが、それでもまだ、理多は生きていた。

その事に対し、初めから今の一撃で倒せるとは思っていなかった少女は驚かない。
無理な体勢で威力は落ちていたし、余裕がなかった所為で気の練りが不十分であった為、当然の結果として受け止めていた。
それに、例え万全の一撃であったとしても、夜の支配者として恐れられている吸血鬼が、この程度で倒れるほど柔ではないと知っている。


「互角、いや……体力的にこちらが不利か」


ボロボロであるものの人間の身体能力を遥かに超えた存在である吸血鬼に対し、少女は中学生。
二人の身体能力の差は比べるまでもなく、このまま戦闘を続けて先に力尽きるのがどちらであるかは考えるまでもない。


「血ィ……血ガ欲しィヨォオオオッ!!」


反則的な回復力によってダメージが癒えたらしく、理多は雄叫びを上げながら再び少女へと襲い掛かる。
しかしまだ完全には癒えていないようで、先程よりも多少動きが鈍っているようだった。
だがそれは勝負の決め手になるほどではなく、少女は油断する事なく一層気を引き締めた。


 ◆


それから戦いの舞台を近くの森林へと移した二人は、どちらも決め手となる攻撃を相手へ与えられずにいた。
そんな時間だけが過ぎていく中、致命傷こそ受けていなかったものの、少女の顔には疲労の色が見え始めている。
しかし少女に悲観した様子はなく、寧ろ自分の勝利を確信しているかのように見えた。

疲労から徐々に下がりつつあった腕の上げ、少女は刀を構え直す。
そして、次はどう攻めようかと考え始めた時の事だった。
懐に忍ばせてあった術符から、少女がずっと待っていた人物の声が届く。


「──刹那、まだ生きているか?」
「……遅いぞ、龍宮」


からかうようにして尋ねてきた相手に、刹那と呼ばれた少女は少しムッとながら答える。
それを受け、龍宮と呼ばれた少女は刹那の声色から疲労具合を察し、先程の言葉は考えなしだったかと反省した。
いくら初めから弱っている様子だったとはいえ、相手は吸血鬼なのだ、大変でない筈がなかったと。


「悪い、思いがけず準備に手間取ってな」


龍宮の軽い謝罪の言葉に苦笑しながら、刹那は大きく飛び退いて理多との間合いを取る。
何かしようとしているのかと理性を失いながらも感じ取った理多は、そんな刹那を追う事はせず、ジッと様子を窺っていた。

刹那は何も、ただ闇雲に勝てる勝算の少ない戦闘を続けていた訳ではない。
ずっと、理多の相手をして時間を稼ぎながら、龍宮がやってくるのを待っていたのだ。
吸血鬼に対し、絶大の効果を発揮する"秘密兵器"の準備をしていた龍宮を。

刹那のずっと後方に立つ背の高い木の上で、龍宮は狙撃銃に特製の銃弾ヒミツヘイキを装填して撃鉄を起こした。
装填した銃弾は、桁外れの力を持つ真祖級の吸血鬼でなければ、ほぼ一撃で瀕死に追いやる事ができる対吸血鬼用銃弾──"福音弾"。
麻帆良学園全体を覆うように張り巡らされている結界を突破し、侵入してきた存在が吸血鬼であると見抜いた龍宮が急いで用意してきたものだ。

足場の不安定な木の上で器用に片膝をついて体を固定すると、スコープを覗いて理多の姿を捕捉。
急いでいた為福音弾は一発しか作っていないが、ボロボロの吸血鬼相手なら余裕を持って倒せるだろう。
龍宮はそう判断し、いつでも撃てるよう引き金に指をかけながら、刹那に単純明快な作戦を伝えた。


「刹那、弾は一発限りだ。どんな状況でも当てる自信はあるが、念の為確実に決めたい。少しで良い、吸血鬼の動きを止めてくれ」


そんな龍宮の指示に刹那は判ったと短く答えると、残り少ない氣を凝縮して足に込めた。
更に懐から五枚の護符を取り出すと、頭上に一枚、残りの四枚は自身を囲むよう四方へ投げ放つ。
そしてそのまま、理多が自ら仕掛けてくるのをジッと待った。

つい先程までの激しい攻防が、まるで夢か幻であるかのように周囲が静まり返る。
その差異による影響か、刹那は時が止まってしまったかのような錯覚に見舞われ、息をする事を忘却していた。
そんな中、罠を警戒して様子を窺っていた理多が静観に耐えられなくなり、ついに刹那へと飛び掛った。

ボロボロの体の一体何処に、それだけの動きを可能とする力があるというのだろうかと思うほどの速さ。
だが速いだけであり、攻撃そのものはフェイントも何もない一直線で単純なもの、避けるのは容易い。
しかし刹那は回避行動を取る事なくグッと足を踏ん張り、自身の役割を遂行する為その場に留まった。

大きく口を開いて牙を剥き、殺気を微塵も隠す事なく刹那に叩き付けながら肉薄する理多。
そんな人一人容易く殺してしまえる力を持つ吸血鬼を、刹那は真正面から受け止めようとしていた。
怖くない筈がないが、刹那はその恐怖を消し飛ばすよう、周りに展開した護符を起動させる為の言霊を大声で言い放った。


「──"五天結界護符錬殻"ッ!!」


札と札の間を繋ぐように光の線が走り、刹那を包み込むピラミッドの形をした結界が現れる。
直後、トラック同士が正面衝突したかのような重い衝突音が、静かな森の中に響き渡った。
遠くからは今の音に驚いたのか、一斉に飛び立つ鳥達の羽ばたく音が微かに聞こえる。

その音の発信源には、結界によって拳を阻まれた理多と、冷や汗を垂らしながらも無傷な刹那の姿。
結界にひびが入ったものの、刹那の結界は見事に理多の攻撃を耐え抜き、任された足止めという役割を果たしたのだった。
そしてここから先は、刹那ではなく龍宮の役割り。


「龍宮、今だッ!!」
「任せておけ──!」


刹那が叫ぶのと同時、龍宮は刹那が命がけで作り出した理多の隙を突いて福音弾を撃ち込んだ。
対する理多は、自身の危機が後方から迫っているのを生存本能からか感じ取り、それを振り払わんとして爪を振るう。
ギリギリ左右に飛び退く等する事も可能だったのだが、それは反射的な行動であり──そしてそれが、間違いであった。

──理多の胸部に、福音弾が抉り込まれる。


「あッ……あァ、アアぁ、アアアアアァァァッ──!!」


もし回避行動を取る事ができていたなら、理多は福音弾をその身に招き入れる事はなかっただろう。
せめてもの救いは、本来頭部に命中する筈であった銃弾の軌道を、爪によって胸部へと逸らせた事。
もっとも、福音弾が当たった時点で死は確定事項であり、救いといっても即死かそうでないかの違いしかないのだが。

理多は福音弾によって胸部に開いた弾奏から、白い蒸気を撒き散らして崩れ落ちる。
福音弾の効果なのか、それとも単純なダメージによるものかは判らないが、そのままもがく事も暴れる事もなく。
刹那と龍宮が警戒しながら様子を窺う視線の先で、理多はその動きを完全に停止した。


「……まさか、攻撃を察知して軌道を逸らすとはな。だが、これで終わりだ」


起き上がる様子のない理多に安堵しながら息を吐くと、龍宮は排莢口から福音弾の空薬莢を吐き出させた。
その空薬莢は丁度地面の石の上に落ち、戦闘終了の合図ゴングの如く、カンッと小さな音を響かせる。
こうして、吸血鬼と少女達の戦いは終わったのだった。

──そう、刹那も龍宮も思っていた。



[26606] 第1章 3時間目 決壊、そして──
Name: あかいつき。◆3327a354 ID:742ccd16
Date: 2011/03/20 13:52
石になってしまったかのように身体を動かせずにいる理多は、ただ霞んだ視界に映る地面と雑草を眺め続ける。
思考は形を成せずぐちゃぐちゃに掻き乱れ、今現在自分に何が起きているのかを認識する事が叶わない。
ただ視界に入る光景から、どうやら地面へ仰向けに横たわっているらしいという事だけは判った。

ぼんやりと夢でも見ているのだろうかと考えていると、何かの影が顔にかかった事に気付く。
その事に対して特に関心を抱く事はなかったが、唯一動かす事のできる目を動かし、影の主へと視線を向けてみた。
すると名も知らぬ同年代であろう黒髪の少女が、自分に刀を突きつけて見下ろしていたのだった。

そんな危機的な状況であるのにも拘らず、理多は逃げ出そうともせずにジッと少女──刹那を見つめる。
まだ幾分か幼さの残る凛とした顔立ちと表情に、お互いを上手く引き立たせている深い黒の髪と色白の肌。
そんな刹那が手にしている刀は非常に物騒ではあるが、綺麗な子だなと理多は呑気に思った。


「──吸血鬼の少女、貴女に恨みは無いが……討たせてもらう」


無表情でそう口にした刹那だったが、その瞳は躊躇いからかごく僅かに揺らいでいた。
これから自らの手で命を絶とうとしているのは、自身とそう変わらない年齢であろう、華奢で幼い少女。
始末しなければならない存在であると理屈で判っていても、簡単に実行できないのは無理もない事だろう。

しかし、例えどんな外見であろうとも、眼下の少女は紛れもなく吸血鬼。
情けで止めを刺す事をしなければ、後々学園都市で大惨事を引き起こされるかもしれない。
そう考えると情けなどかけていられる筈もなく、やがて刹那の瞳に決意が宿るのだった。

最後に一度だけ哀しそうな表情を滲ませ、刹那は虫の息になっている理多の首筋に刀を当てる。
そして、せめて苦しませずに済ませようと一息で首を切り落とす為、刀を振り上げて握る手に力を込めた。
これから理多の命を静かに摘み取る、刹那の刀が淡い月明かりに照らされて鈍く光る。

刹那が決意の元に宣言した殺害予告は、個人の情によって覆る事のない決定事項。
致命的な傷を受けた事により理性を取り戻した理多は、感情の見えない刹那の声を聞いてそれを理解する。
だがこれから殺されると理解したところで、身体を起こす事すらままならない理多には抗う術も力もなかった。


(――死にたく、ない)


数秒後に死が訪れるこの絶体絶命の状況で、理多はそう強く思った。
どうしてこんな辛い目に合わなくてはならないのか、一体自分が何をしたというのか。
答えが返ってくる事はないと判っていながら、納得のいく答えを求めて誰にともなく問いかける。

そもそも、何故刹那は誰かを襲っていた訳でもないというのに、突然問答無用で斬り掛かってきたのか。
きっとそれは先日の魔法使い達と同じ理由で、理多がただの人間ではなく吸血鬼だからなのだろう。
そしてどんな経緯で吸血鬼になったとしても、吸血鬼は悪であり、殺さなくてはならないといったところだろうか。

確かに理多は、吸血衝動を抑え切る事ができずに刹那へ襲い掛かってしまった。
それは決して望んでやった事ではなかったとはいえ、してはならない事──悪には変わりはない。
相手が戦闘に長けている刹那であったから良かったものの、一般人であったなら確実に殺してしまっていただろう。

ならば悪として潔く殺される事を良しとするのかといえば、そこまで理多は物分りが良くはなれなかった。
始めは今のような理不尽な状況に追い込まれてしまう事を、吸血衝動の存在から仕方のない事だと思っていた。
誰かを吸血鬼にしてしまったり傷付けてしまうような危険があるのなら、その前に死をも受け入れるつもりでいた。

だが実際に迫ってくる死を目の前にして、その考えを突き通す事ができなかった。
吸血衝動に飲まれ、自身の危険性を理解してもなお、生きていたかった。
死にたくは、なかった。

生への執着心と共に、理多の心に激しく渦巻く感情が湧き出し始める。
普通に生活していただけだというのに、突然全てを奪われ、更にこんな形で殺される事に対して。
そしてそんな理不尽を許容する世界や、刀を突きつける彼女、何もできない自分に対しての、"怒り"という感情が。

――ドクン、と胸の内で"何か"が鼓動する。

幼い頃から両親が居ないという一般家庭と少し違った環境は、正直楽ではなかった。
しかし、だからといって苦という訳でもなく、理多はこれまでの生活に対して何の不満も抱いていなかった。
ただ、ずっと守ってくれていた大好きな兄と、大切な友人達に囲まれて過ごしていければ、それで幸せだったのだ。

故意に悪い事をした覚えはなく、誰かに恨まれるような事をした覚えもない。
平穏な日々を過ごす事だけを望んでいた理多に訪れた現実が、このあまりにも理不尽な死だ。
そんなものを受け入れられる筈も、納得できる筈もなかった。

――ドクンドクン、と胸の内で"何か"が暴れだす。

"生きてくれ"と願って去っていった直人の言葉と、怒りという感情の裏返しである"生きたい"という想いが重なり合う。
すると突如として瞳が燃えるように熱くなり、それと同時に自分の中の何かが変わっていくのを理多は感じた。
変化の感覚は不思議と不快ではなく、寧ろ憑き物が落ちたかの如く心地良く、清々しくすらあった。

次第に乾きが、痛みが、感情が、理性が──今、理多が生きる為に不必要な全てのモノが遮断されていく。
底を尽きていたと思っていた力が、この時を待っていたとばかりに何処からともなく溢れ出す。
その膨大な力に身を委ねる事にした理多は、無言のまま静かに目蓋を閉じた。

そんな理多を見て死を覚悟したのだと解釈した刹那は、感情も躊躇いもなく刀を振り下ろした。
だがその次の瞬間、理多の目蓋が勢い良く見開かれたかと思うと、刀が首筋に当たる直前に左手で掴んで止めたのだった。


「なっ……!?」
「────ぁ」


そんな無茶な事をすれば当然手の平が切れ、手の平から鮮やかな赤い血がポタリと滴り落ちる。
その血の匂いに脳が蕩け、血の色が目に焼き付き、血の感触に肌が振るえると、視界がぶれ、真っ暗になった。
続いて意識が溶けるように薄れ始めると、思考に靄がかかって混濁し、やがて何も考えられなくなった。

そして最後に残ったのは、純粋な生の欲望。
こうして――理多は"覚醒"した。


「くッ……一体何が起きたんだ!?」


刹那は突然理多から噴出した禍々しい気配を警戒し、刃を掴む理多の手を振り払って間合いを取る。
今の理多が身に纏う気迫や放つ殺意は、そういったものに慣れている筈の刹那が震え上がるほどに凶暴。
つい先程まで全身傷だらけで虫の息であった死に掛けの吸血鬼は、今はもう何処にも居なかった。

外見的には傷が多少癒え始めている程度で、他にこれといって変わった点は見られない。
唯一、瞳の色が違っているという変化があるだけだったのだが、その事に気付いた刹那は驚愕した。

瞳の色が変わるという現象は、裏の世界の人間にとってはそう驚くような事ではない。
魔族や吸血鬼等の闇に属する者達の瞳は、感情によって色を変える事がよくあるからである。
時折人間の中にも、そういった瞳の変色を見せる者が居るくらいだ。


「ま、まさか……"満月の瞳"、だと……ッ!?」


にも拘らずここまで刹那が驚いているのは、理多の変化した後の瞳の色が原因だった。
今の理多の瞳は、血のような赤色から、闇夜に浮かぶ満月の如き淡い輝きを放つ"金色"へと変色していた。


「あは、あははっ、あはははははははははははッ!!」


理多がでたらめに撒き散らす強烈な気迫に脅えたのか、周囲の木々がざわめきだし、風も空気が凍りつく。
そして辺りは息苦しくなるほど重圧な雰囲気に包まれたが、そんな中、理多が瞳を金色に輝かせながらゆらりと立ち上がった。
その一連の動きはどこかゾンビのような不気味な存在を連想させ、刹那の心をより一層動揺させる。

無言のまま双方の瞳だけを動かした理多は、刹那エモノの姿を視界に捕らえて口元を笑みの形に歪めた。
一挙一動も見逃すまいとして理多を注視していた刹那は、必然的にその笑みを浮かべる理多と視線交える事となる。
敵から目を離さない事は当たり前の事なのだが、刹那はそんな当たり前に対し、恨み言を吐きたい気持ちで一杯だった。


「──ひっ……ぁ、うぁ……」


できる事なら目を逸らしてしまいたいと悩む間もなく、刹那は"満月の瞳"と正面から目が合ってしまう。
その直後、生物としての本能的な恐怖心が全身から噴出し、固く閉じていた唇から声にならない悲鳴が零れ出した。
理多に福音弾を撃ち込む事に成功し勝利を確信していたが、その確信は戦意と共に一瞬にして粉々に砕け散ってしまった。

悪意を形にしたかのような怨霊、嫌悪意外抱きようのない外見をした蟲、人間を遥かに超える体格をもつ鬼。
人に害成す魑魅魍魎を狩る退魔師である刹那は、その道を志してからずっと、そういった色々な化物を見てきた。
故にどんなに歪で邪悪で醜悪なものを前にしても、恐怖を感じる事はなく、慣れてしまっていた。

そんな刹那が今、死人のように顔を真っ青にし、硬直してしまっている。
普段の刹那を知っている者がその姿を見れば、信じられないと目を疑っていた事だろう。

――"満月の瞳"。

刹那はその存在を知っていたし、それを持っているという知り合いも居たが、実際に目にするのは初めてだった。
保有者が皆無に等しい事などから謎が非常に多いのだが、曰く、"満月の瞳"を持つ者の多くは強大な力を持っているという。
それは保有者である知り合いの実力からして事実である可能性が高く、今までと同じ対応では確実に痛い目に合う事だろう。


「……どうする、安易に手を出すのは危険だと思うが」


いつも冷静さを失わない龍宮も"満月の瞳"には動じたようで、声には少しばかり緊張の色が見えていた。
そして直接口にしてはいないものの撤退を提案しており、刹那もその判断に対して異論は一切なかった。
福音弾を失った今、ただの吸血鬼でも危険であるのに、"満月の瞳"持ちを相手にするなど自殺行為だからだ。


「ですが、逃がしてくれそうにな──ッ!!」
「ふふっ……」


鈴の音のような笑い声と共に、轟音を立てて刹那の目の前を何かが通過する。
まさに間一髪、咄嗟に一歩退く事によって避けたその何かは、理多の小さな握り拳だった。
もし僅かでも反応が遅れていたなら、音から察するにひとたまりもなかっただろう。

龍宮が牽制として理多に数発ほど弾丸を叩き込み、刹那が距離を取れるだけの隙を作り出す。
それを刹那は見逃さずに飛び退くと、自分の反射神経に感謝し、頭が無事繋がっている事に胸を撫で下ろした。
しかし壊れたように激しく脈動する心臓は、しばらくの間鎮まりそうにない。


「ふぅん、今のを避けられるんだぁ」


おもちゃを前にした子供のように、理多はくすくすと無邪気に笑った。
その笑みは同姓から見ても可愛らしく、今が戦闘中でなければとても和んでいただろう。
だが今の状況でのそれは、好意的な印象など抱ける筈もなく、ただただ不気味でしかなかった。

自らを奮い立たせる為に理多を睨み付けながら、拙いなと誰にともなく刹那は呟いた。
"満月の瞳"となってから、福音弾による傷が癒えているだけでなく、明らかに理多の身体能力が上がっているのだ。
これまでは戦闘技術によって身体能力の差を埋めていたが、今は完全に理多の能力がこちらを上回ってしまっていた。

戦うだけ不利になると判断した刹那は龍宮に牽制を頼み、早々に離脱すべく理多に背を向けて走り出した。
剣士として敵に背中を見せるというのは情けない限りであったが、絶対に死ねない理由がある為贅沢は言っていられない。
だから今は余計な事を何も考えず、ただ理多から逃げる事だけに専念し、足をひさすら動かし続けた。

そんな刹那を理多が追おうとするが、牽制を──命を任された龍宮がそれを許さない。
牽制によって理多の足を止め、更に遠ざかっていく刹那の背中を恨めしげに見つめる理多の頭部を撃つ。
ただの弾丸で吸血鬼を、ましてや"満月の瞳"持ちを倒せるとは思えないが、それでも多少の時間稼ぎにはなるだろう。

そう望んでいた龍宮を、理多は驚異的な身体能力によって弾丸を避けて裏切る。
そして鬱陶し気に眉をしかめると、肉眼で見える筈のない距離に居る龍宮を睨み付けたのだった。


(凄まじい視力だな、さすが吸血鬼といったところか……)


理多の視線をスコープ越しに受け、龍宮は表情に出さずに驚きながらも再び撃ち込む。
しかし理多は龍宮から視線を反らさず、今度は少しだけ体を反らすだけでそれを避けた。
見切られたかと龍宮は危機感を抱くが、それでも刹那を確実に逃がす為に撃ち続けようと構える。

だが次の瞬間、金色の光の尾を引いて、龍宮の視界から理多が消えた。

突然の事態にも龍宮は慌てず、冷静に先程まで理多が立っていた辺りを探しだす。
続けて、そうではない事を祈りながら刹那の走り去った方へとスコープを向け――
背後から圧倒的な死の気配を感じて胸の内から拳銃を抜き取ると、振り返ると同時に放った。

龍宮の背後にいつの間にか立っていた理多は、この一秒にも満たない射撃に反応し切れない。
銃弾は理多の胸元に吸い込まれるように飛び込んでいき、衝撃で理多の上半身が後ろに弾けた。
その光景を、龍宮は今度こそ終わってくれと祈るようにして眺める。

だがそんな龍宮の視界にあるのは、倒れずにいる理多の姿と、軽い金属音を立てて落ちた何か。
それは理多が首から下げていたネックレスであり、宝石の部分には、銃弾がめり込んでいた。
どうやら龍宮の一撃は、運良くネックレスが盾となって理多を守ったようだった。

龍宮はどうしようもないほどの不運さと、理多の悪運の強さに苦笑した。
それからもうどうにもならないなと死を覚悟し、最後に目に焼き付けてやろうと理多を見つめる。
その視線を受け、理多は見た者を凍り付かせる笑みを浮かべると――


「おやすみ、お姉さんっ」


龍宮を、文字通り殴り飛ばした。


 ◆


理多の気配を感じなくなるまで距離を取った刹那は、振り返りながら足を止める。
普段から人気のない深夜の森付近の為静かで当前なのだが、それでもその静けさに嫌な予感がした。
とりあえず、まずは龍宮に離脱が成功した事を伝えなければと通信用の術符を手に取る。

そして連絡を試みてみると、龍宮からの返答が一向にこなかった。
いつもなら比較的すぐに返答があるというのに、何度呼び掛けても返ってくるのは静寂のみ。
つい先程抱いた嫌な予感が一気に膨れ上がり、刹那は思わず大声を上げてしまっていた。


「おい、龍宮! 何か――」


あったのか、と言い切る前に、刹那は背後へ向けて刀を横薙ぎに振るった。
音もなく忍び寄ってきていた、濃厚な魔の気配を放つ何者か目掛けて。
その何者かとは言うまでもなく、可愛らしくも不気味な笑みを浮かべる理多である。

そんな理多はピョンと後ろに飛び退いて刀を避わすと、自ら楽しそうに刹那の疑問に答えた。
良い事をするから褒めてとねだる子供か子犬のような様子で、とある方向を指差しながら。
警戒しながらも理多の指差す方へ目を向けてみた刹那は、直後にゾッと背筋を凍らせた。

目を閉じ眠るようにして動かず、口元から血を流している龍宮が横たわっていたのである。
外傷が特に見当たらないところから推測するに、どうやら腹部辺りを殴られたのだろう。
中学生とは思えない豊満な胸が上下しており、何とか生きてはいるようだった。


「許さんぞ……貴様ッ!!」


刹那は理多へと意識を戻し、"満月の瞳"と目が合った時の恐怖も忘れて理多へと斬りかかる。
その動きは怒りからか戦闘を始めた時よりも速く、鋭さを増した攻撃を理多は避わせない。
もっともそれは、理多が瞳を金色に輝かせる前であったならの話であるが。

よっと、という場にそぐわない呑気な声を上げながら、理多は踊るようにクルリと回転。
攻撃を紙一重のところで避けると、目にも止まらぬ速さで刹那の背後に回り、グッと拳を握り締め。


「しまっ──!?」
「えぇーいっ!」


龍宮の時と同じく刹那を殴り飛ばし、龍宮のすぐ傍に倒れ刹那は、そのまま気を失った。


 ◆


理多の前に転がるのは、気を失った若く二つの新鮮な"餌"。
邪魔者はなく、これでゆっくり血を味わう事ができると、理多は喜びに身を震わせた。

吸血鬼になってから初めて口にする、食事として摂る人間の血。
それは甘いのだろうか、苦いのだろうか──何にせよ、きっと美味しいに違いない。
でなければこんなに身体が求める訳がないと、行儀悪くも思わず舌なめずりしてしまう。

弾むような足取りで餌へと歩み寄りながら、その記念すべき初めての餌を改めて観察してみる。
どちらとも可愛いと言うよりは綺麗な外見で、自分の所為で傷付いてはいるが、肌を見る限り健康体。
餌の外見や体調が血の味に関係しているのかは定かではないが、極上の味に違いないだろうと胸が高まった。

二つの餌の内、手前にあった刹那を選んで掴むと、抱きしめるようにして首筋へ顔を近づける。
そして焦る気持ちを抑えながら、ゆっくりと透き通るように白い肌へ鋭い犬歯を突き立てようとし――


「……このちゃ……ごめ、ん…………」
「――ぁ……っう!?」


刹那の苦しげな呟きに寸前のところで理性を取り戻すと、その直後、絶句した。
自分が今、気を失った目の前の人間に対して何をしようとしていたのかは、考えるまでもない。
衝動に身を任せ、欲望の赴くままに、血を吸おうとしていたのだ。

理多は顔を蒼白にして刹那を突き飛ばし、怯えたように頭を抱えながら後ずさる。
その様子を、倒れた衝撃で目を覚ました刹那が虚ろな目で見て驚き、訝しげな顔をした。
血を吸う気満々だった理多が直前になって身を離し、苦しげに胸を押さえているのだから当然だろう。

そんな不可解な行動に疑問を抱いた刹那は、恐るおそる血を吸わない理由を尋ねようとした。
だがその前に、理多は擦れ震えた声で一言ごめんなさいと呟くと、無警戒にもこちらへ背中を向け。
そしてこの場から逃げるようにして、振り返る事もなくそのまま去っていってしまったのだった。

助かったという気持ちよりも、血を吸わずに去っていった理多への疑問の方が勝っていた。
自分達と戦い始める前から、理多は同性として思わず同情してしまうほどに薄汚れ、やつれていた。
そして激しい吸血衝動にも駆られているようだったにも拘らず、何故血を吸わなかったのだろうかと。

自分も龍宮も満足に動けない状態である事は目に明らかであり、反撃を恐れたという訳ではない筈。
なのにどうして、と朦朧とする頭で刹那が思考していると、龍宮が痛みに顔をしかめながら上半身を起こした。
それを見て刹那も同じく苦痛に吐息を漏らしつつ上半身を起こし、龍宮に向けて疑問を口にする。


「あの吸血鬼は何故、私達の血を吸わなかったんでしょうか」
「……判らない。吸わない理由はない筈、なんだがな」


どうやら龍宮も刹那と同じ疑問を持ったらしく、理多の去っていった方へ視線を向けて目を細めた。
それからしばらくの間二人して無言で理由を考えてみるも、答えになりそうな理由は思い付かない。
できるかどうかはさて置き、その理由は直接聞く意外に知る方法はないだろう。

などと思考に耽っていた二人なのだが、本来なら一刻も早く理多の後を追って侵入を阻止しなければならない。
学園結界を破って侵入してきた者の排除が二人の仕事であり、吸血鬼を野放しにするのはあまりに危険だからだ。
しかしその事を重々承知していながらも、二人は一向に動き出そうとしなかった。


「龍宮、一つ確認しますが……動けそうですか?」
「くく、無茶を言うな。こうして生きているだけでも、奇跡なんだぞ」


そう、二人は仕事が嫌だからと動き出さないのではなく、動き出せないのだった。
刹那が戦闘前に貼った護りの札のお陰で、二人とも辛うじて何とかなっているような状態なのである。
血を吸われていたら間違いなく死んでいただろうなと、龍宮は殴られた腹部を押さえながら後ろへ倒れた。

こうして刹那達は侵入者に完敗し、偶然か情けをかけられる形で仕事に失敗した。
だがこの膨大な敷地を持つ学園の警備をしているのは、当然の事ながら刹那達だけではない。
そしてその中には、"満月の瞳"を持つ吸血鬼に対抗しうる者も存在していた。

それは、理多と同じく"満月の瞳"を持つ、一人の孤高な吸血鬼。
今は事情があって力は大幅に失われているものの、あの人ならきっと大丈夫だろう。
そう結論付けて龍宮と同じく刹那は横たわり、そして二人は同時に意識を手放したのだった。


 ◆ ◆ ◆ ◆ ◆


鮮やかな赤色のソファーにゆったりと腰を沈めている、十歳くらいの小柄な少女が一人。
顔の横にある窓から覗く月を眺めながら、どこか大人びた表情で眉をひそめていた。
その姿は一見子供が気取っているかのように思えるが、実際は不思議なほど様になっている。

学園結界を突破して侵入を果たした存在を察知してから、既に数十分。
その何者かが多少手強い相手だったとしても、普段ならとっくに片が付いている頃合。
しかし対応に向かった刹那達から、侵入者の排除が完了したという連絡が未だきていなかった。


(まさか、アイツ等がやられた……?)


刹那と龍宮は中学生でありながら、警備に当たっている者達の中でも特に優れている。
小、中級クラス程度の実力者が容易に勝てるような相手ではなく、また今日は二人一緒に行動している筈だ。
仲間割れでもしていない限り侵入者の勝算は更に低くなっており、その可能性は俄かに信じられなかった。

しかし、もし仮に二人の内一人が倒されてしまったとしても、もう一人が連絡をする事が出来る筈。
通信機の故障という可能性もなくはないが、それでも他に連絡する手段はいくらでもあるだろう。
にも拘らずどちらからも連絡がこない理由は、例え信じられなかろうと、考えるまでもなく一つしかない。

少女は片手に持っていた赤ワインを一気に飲み干すと、アルコールで熱くなった吐息を吐いた。
そして空になったワイングラスをテーブルに置くと、無言を決め込んでいる通信機を手に取る。
慣れない手つきでその通信機を操作し、苦戦しながらも刹那達が持つ通信機へと通信を試みた。

しかし返ってきたのは静寂だけであり、その事実に少女の憶測が確信に変わる。
二人はおそらく、応援を呼ばなくとも対処できると踏み、その結果侵入者に倒されてしまったのだ。
連絡をとる間もなく、学園結界が正常に作動しているのなら、たった一人の相手に。

本来ならば、学園を守る警備員として、危機感を持たなければならない緊急事態。
しかし少女は、まるで新しいおもちゃを手に入れた子供のように嬉々とした笑みを浮かべていた。
だがその笑みは釣られて微笑んでしまうようなものではなく、背筋がゾッとするような、歪なものだった。


「ククッ、これは久々に楽しめそうだな」


そう呟いて立ち上がると、少女は通信機を今まで座っていたソファーへ乱雑に投げ飛ばす。
代わりに居間の中央、テーブルの椅子にかけられていた、夜の闇のような漆黒のマントを手に取った。
それをやや芝居がかった動作で肩へ羽織ると、腰まで下ろした金髪とマントをなびかせながら歩き出す。

そして待っていたかのようなタイミングで姿を現した自身の従者に、反論を許さない口調で言った。


遊びシゴトに行くぞ、茶々丸」
「――はい、マスター」


メイド服を着用し、耳にあたる部分にアンテナのような機械をつける一風変わった格好をした、
黄緑色の長髪の少女──茶々丸は、反論する気がなかったのか無機質な声で即答すると、先を行く少女に寄り添うように背後へ付いた。
そしてそのまま二人は特に言葉を交わす事もなく、無言で侵入者の元へと向かったのだった。
一方は愉しげに、もう一方は無表情に。3



[26606] 第1章 4時間目 望外の出会い
Name: あかいつき。◆3327a354 ID:742ccd16
Date: 2011/03/23 20:10
気を失う一歩手前の朦朧とする意識の中、理多は一定の間隔でで機械のように足を動かし続けていた。
そして自分が歩いているという自覚すらないまま、全ての思考を先程の出来事への自問自答に向ける。
おそらくは最後のチャンスであった吸血の機会を捨てた自分の選択は、果たして正しかったのだろうかと。

気が狂ってしまうのではないかと思うほどの激しい欲求に従い、少女達から気の済むまで血を吸い尽くす。
そうすれば、欲求が満たされるのと同時に全身の痛みと渇きが消え、また傷なども完全に癒えていた筈だった。
逆に──つまり今回のように血を吸う事を拒んでしまった以上、そう遠くない未来に必ず、苦しみながら死ぬ事になるだろう。

それを直感的に感じ取っていながら、理多は血を吸う事を自ら拒否し、チャンスに背を向けて立ち去った。
経験はないし、誰かにやり方を教わっていた訳でもなかったが、本能的に知っていた"吸血の仕方"。
だから、血を吸う事はできた筈なのにだ。

生きたくない訳じゃない。我を失う前の"生きたい"という気持ちは本物だった。
でなければ、理多は満月の瞳を開眼させる事もなく首を斬られていただろう。
しかし結局、理多は相手を退けただけで、生き長らえる為に血を吸う事はしなかった。

否、できなかったのだ。
それは、完全に理性を失っていてなお無意識的に吸血を拒んだ理多の本心と、少女の呟きが耳に入ったからだった。
どちらが欠けていても、理多は止まれなかっただろう。

理性を取り戻すキッカケとなった、刀を持つ少女の悔しげに歪んだ表情と、懺悔するかのように呟かれた言葉を思い出す。
少女が死を前にして口にした、"このちゃん"という見知らぬ誰か。
その人が、刹那にとってとても大切なのだという事。そしてその人も刹那を大切に思っているだろう事は、
刹那の事を何一つ知らない理多にも何となく察する事ができた。

そんな大切な人が居る、また大切に想われている刹那や他の誰かを、自分と同じ吸血鬼にしてまで生きたい。
そういう風には、どうしても思えなかったのだ。
だから自分の選択はきっと間違いではなかったのだと、理多は自分の中で結論付けた。

それが合図になったのかどうかは判らないが、理多のひざがガクンと折れ、受身を取る事なく前のめりに倒れ伏した。
とうとう体力的に限界が訪れたらしい。全身から力が抜け落ちてしまい、もう立つ事どころか腕一本上げる事すらできそうもなかった。
元々限界近くまできていたところに命がけの戦闘があったのだ。寧ろよくもった方だろう。

理多は倒れた格好のまま、刹那たちの元から逃げ出してきてからずっと見開いているだけであった目を機能させる。
そして、その時になって始めて目の前に立派な噴水がある事に気が付いたのだった。
その淡い月光を浴びてキラキラと光る噴水の飛沫を眺めながら、自然と眠りに落ちるかのように目を閉じる。

このまま死を迎える事に対する覚悟はできているつもりの理多だったが、一つだけ気掛かりな事があった。
徐々に崩れていく意識の中、脳裏に浮かび上がったのは生き別れとなってしまった直人の姿。
自分はこんな結果になってしまったが、直人ははたして無事なのだろうかと。

閉じた目から、一筋の涙が零れ落ちる。
せっかく助けてもらった命を終わらせてしまう事を、何処に居るかも判らない直人へ囁くような声で謝り、
そして無事である事を祈りながら、理多は意識を手放した。


 ◆ ◆ ◆ ◆ ◆


少し離れた場所から、理多が倒れるの瞬間を見ていた凹凸な影が二つ。
その影の主たちが理多のボロボロな姿を見て、理多が刹那と龍宮を倒した侵入者だという事を判断するのは容易だった。

理多は倒れたまま、ピクリとも動かない。
呼吸をしているのかどうかも怪しく、死んでいるようにしか見えなかった。
そんな理多を見つめながら、短身の影を作っている、夜を身に纏った金髪の少女が額に皺を寄せながら呟いた。


「……倒れたな」
「はい、倒れました」


不機嫌さが滲み出ている少女の呟きに、長身な影の主である茶々丸は、感情の見えない平坦な声で答えた。
それが茶々丸の素の声色であると判っていながらも、少女はそれに苛立ちを覚えた。
今の自分の苛立ちに気付いていない、そんな風に思えたからだ。

だから今度は誰にでも判るよう、明らかな怒気を含ませって言った。
それが、自分勝手な八つ当たりであると自覚しながら。


「私はまだ、何もしていないぞ」
「はい、マスターは何もしていません」


少女の声は怒りで震えていた。声だけではなく、その小さな体も一緒に。
少女の従者となってからしばらく経つ茶々丸は、当然そんな少女の憤りに気付いていた。
しかし、だからといって対応を変える事はしなかった。
それが八つ当たりであり、また少女が自分に何かしらの反応を求めている訳ではないと判っていたからだ。

少女は今だ倒れたまま動きだす様子のない理多へと歩み寄る。
その口からは不気味な笑い声が零れていたが、目は決して笑っていなかった。
行き場のない怒りを笑う事で解消しているだけなのだから、それは当然である。
しかし笑えど笑えど、少女の怒りは収まりそうもなかった。


「クククッ、私はなぁ侵入者。お前と戦うのを楽しみにしていたんだぞ?」


少女は横たわる理多の傍で立ち止まって見下ろすと、身に纏う漆黒のマントを翻した。
そのマントの裏地は小物を収納できるようになっており、様々な魔法道具やワイヤー、そして数本の試験管が差し込まれていた。
その試験管には様々な色の液体が入れられており、赤や黄色など色鮮やかだった。

これは少女がある作戦の為に用意していた、魔法薬と呼ばれる物である。
この魔法薬を触媒にする事で、少量の魔力で魔法を発動できるという代物だ。
それらを理多に見せ付けるようにしながら、少女は言葉を続ける。


「久しぶりに骨のある奴と戦えると思ってな、こうしてわざわざ準備して私自ら出向いてきてやったんだ。なのに……」


少女は片膝をついてしゃがみ込むと、意識のない理多の胸倉を掴んで激しく揺すった。
少女の目に、表情に、全身に、ありありと怒りが浮かんでいる。
そして今にも噛み付かんばかりに顔を近付け、乱暴に扱われながらも目覚めない理多へ怒鳴りつけた。


「なのに、言葉を交わす事すらなく、勝手に一人でぶっ倒れるとはどういう事だ!!」


完全な八つ当たりである。
少女は心の底から楽しみにしていたのだ。
繰り返される代わり映えのない退屈な日々に訪れた、血沸き肉踊る戦いの機会を。

だがそれは、理多からしてみれば迷惑極まりない事だった。
もっとも意識を失っている今、自分が八つ当たりされている事にすら気付いてはいないのだが。


「マスター、その侵入者はどうされますか?」


茶々丸は名も知らぬ侵入者にほんの少しだけ同情しつつ、怒りで肩を震わせている少女を刺激しないよう、いつもより気持ち穏やかな口調で尋ねる。
通常侵入者を捕らえた際は、その場で命を奪ってしまうか、拘束して連行し、然るべき場所で話を聞くなりなんなりするものだろう。

しかし少女は、理多をこのまま殺す気も連行する気もなかった。
少女は背後に立つ茶々丸へ振り返ると、ニヤリと邪悪な笑みを浮かべた。


「期待を裏切った罰だ、私の糧になってもらう」
「しかし……」


少女の返答に、茶々丸は何かを言いよどむ。
少女が、"女子供は殺さない"というポリシーを持っている事は知っていた。
だが、今の少女が理多を殺さずに済ます事ができるのかは怪しく思えたのだ。
それを考えると、理多の見た目がごく普通の女の子だった為に、このまま少女の好きなようにさせるのは少々抵抗があった。


「私がそう決めたんだ、何か文句があるか?」
「……いえ、何も」


しかし、茶々丸は少女の従者。
主人の決定に異論を唱える事は許されない。何より、したくはなかった。
だから茶々丸は自身の意見を押し殺して口をつぐむと、目を伏せて異論がない事を示す。
少女はその様子に満足げに頷くと、理多へと向き直った。


「気絶していて良かったな。苦しまずに逝かせてやる」


不吉な事を言い、少女は理多の首筋へ顔を近付けると、口を開く。
その口内には、鋭く伸びた犬歯があった。
それは、少女がただの人間ではなく、理多と同じ吸血鬼である事を物語っていた。
少女はそのまま躊躇いなく理多の首筋へ牙を突きたてると、一口。


「…………んぅ?」
「マスター?」


しかし吸い始めてから数秒もしない内に少女は理多から牙を抜くと、眉をしかめて首を傾げた。
それを見た茶々丸もまた、少女の不可解な行動に同じく首を傾げる。
少女は口に含んだ理多の血をワインのように口の中でじっくり味わった後、ゆっくりと飲み込んだ。

そしてしばらくそのまま考え込むように黙り込むと、理多をジッと見つめ始める。
その表情は驚きに満ちており、茶々丸はそんな少女を心配そうにしていた。

理多が見た目通り普通の少女でない事は、身に纏う雰囲気から何となく察していた。
しかし大した事ではないだろうと、少女はその事に関して深く考える事はしなかったのだ。
だから、血を吸う前に理多の正体に気付く事が出来なかった。

別に、正体に気付かなかった所為で何か問題が起きた訳ではない。
だが、できれば事前に気付いておきたかったと、少女は少しだけ自らの行いに後悔した。


「あの、マスター。どうかされましたか?」


茶々丸の問い掛けには答えず、少女は理多へと手を伸ばす。
そして理多の口を指で無理矢理に開くと、理多の正体が何であるかが人目で判る物を見つけたのだった。
そっと覗き込んでいた茶々丸も、少女に少し遅れてそれを見つける。
そう、少女と同じく鋭く伸びた、吸血鬼の象徴とも言える牙の存在を。


「マスター、彼女は……」
「あぁ、まさかとは思ったが……この餓鬼、吸血鬼だ」


その事を知り、少女は刹那たちが負けた事に納得した。
吸血鬼が相手だったのなら、負けた事も納得いく事だったからだ。
しかし――


(龍宮が居たのなら、この餓鬼が吸血鬼である事に気付いた筈。
 自分達だけで吸血鬼を倒せると奢ったか。夜の王と畏怖されていた吸血鬼も地に落ちたものだな)


同族の血を吸う気にはなれなかったらしく、少女はため息を吐くと、少女は理多を地面へと下ろした。
するとその際、甲高い金属音をたてて理多の体から何かが落ちた。
それは、砕けてしまっているシンプルでありながらもどこか優雅で優しい雰囲気をもつ純白のネックレスだった。


「これは……」


少女はそのネックレスに見覚えがあった。
だが何時何処で見たのかを思い出せず、しばらくネックレスを見つめて記憶を辿る。

街などで売っていたのを見かけた訳ではない事は確かだ。
という事は、誰かが持っているのを見かけたという事になるだろう。
では、それは一体誰なのか。

少女はあまり人と接触する事がない為、ある程度持っていそうな人物を絞り込めた。
その結果、最近会った者の中に該当者が居ないという結論に達する。
なら、ここ数年では……?

そうしてどんどん記憶を更に遡っていくと、少女の脳裏に一人の人物が思い浮かんだ。


「そうだ、思い出したぞ。これは確か――」


数年前、少々過激な出会い方をした生意気な青年。
その青年がいつだったか、少女に見せた物と全く同じ物だった。
そしてネックレスの事に加えて、もう一つ思い出した事があった。

青年には確か、五歳年下の――


「……茶々丸、コイツを私の家に運べ」


少女は唐突にそう言って立ち上がると、ネックレスをスカートのポケットにしまいこむ。
そして、茶々丸の返答を待たずに一人家に向かって歩き出してしまった。

侵入者である吸血鬼を家に運べなどという意図の読めない命令に納得できる筈もなく、茶々丸は戸惑う。


「ですが、彼女は……」


茶々丸の言いたい事は重々承知していた。
いくら酷く傷ついているとはいえ、吸血鬼というものを侮ってはいけない。
それは、同族である少女は特によく判っている事だ。

そして理性の有無が判らないのに然るべき施設ではなく自宅に連れていくという事は、
少女たちにとっても学園にとっても危険であるという事も。
例え理性がなかった場合の対処法があったとしてもだ。
だが少女は、意見を変える事はしなかった。

当然、それを提案しているからにはそうする事の理由はあった。
しかし少女はそれをこの場で言う事はせず、茶々丸への回答を濁したのだった。


「ふん、牙を剥いて来たら容赦はせん。いいから行くぞ」
「……了解しました」


回答を濁された。
その事に当然気付いていたが、茶々丸はそれを追求する事はしなかった。
少女には何か思う事があるのだろう、そう思ったから。

危険を冒してまで侵入者を匿う理由。
それは皆目見当も付かなかったが、それをしなければならないというのなら、主人に危険が及ばぬよう万全の注意を払うだけ。
そしてもし牙を剥くようなら、少女の命令に背いてでもこの手で――

茶々丸は理多を抱えあげながら、一人そう決意していた。


 ◆ ◆ ◆ ◆ ◆


理多が目覚めて初めに思った事は、此処は何処だろうという疑問だった。
とりあえずベッドから体を起こすと、掛け布団が捲れ、全身にあった傷の全てにガーゼや包帯などの処置が施されている事に気付く。
服は着ていたので直接それを目にした訳ではなかったが、ごわごわとした布の感触で判った。

そしてもう一つの身の変化に気付く。
理多が今着ている服は、今まで理多が着ていた物ではなかった。


「……ゴス、ロリ?」


着せられていたのは、所謂ゴスロリ(ゴシック・ロリータ)服とよばれる種類の物だった。
全体的に黒を基調とし、襟に白のラインが入ったノースリーブブラウスに、十字架が刺繍されたネクタイ。
下はミニスカート、そしてオーバーニーソックスが履かされていた。

可愛い、そして何故と、理多は思った。
確かに可愛いし、悲しくも全身に巻かれた包帯がゴスロリ服に良くマッチしていたが、怪我人に着せる服としてはどうなのだろうか?
今まで着ていたボロボロの服よりは、マシである事は確かだったが。

他に着せる物がない、とは少々考え難い。という事は……趣味?
そういえばと、理多は一つ重要な事に気が付いた。

ゴスロリ服に着替えさせられてる訳だが、それはつまり、一旦脱がしたという事。
果たして、脱がした人物の性別は――
そこまで考えると理多は少し怖くなり、服装について考えるのを一旦保留にする事にした。

気持ちを切り替え、まだぼんやりとしている頭をフル回転させながら、現状を把握する為に部屋を見渡す。
壁や床、家具までもが木でできている、一般的なコンクリート造りの家にはない暖かさを感じる。
部屋はゴシックな装飾がなされており、やはりゴスロリ服はこの家の主の趣味のようだ。

ログハウスというものだろうかと、理多は昔テレビで見たものと部屋を見比べて思った。
ベッドの脇に空になった点滴があるものの、総合的に見て此処が病院ではない事は明らか。
おそらく道端で倒れていた自分を見つけ、家で保護したといったところだろうと理多は推測した。

しかし、それだと不自然な点があった。
はたして、傷だらけで見ず知らずの人間を、病院へ連れて行かずに自分で治療しようとするだろうか?
例え医学に対する知識があったのだとしても、普通は通報するもの。

一体此処は何処で、誰の家なのだろうか?
思考しながらベッドから降りると、ベッド脇にあった少々不気味なクマ型のスリッパを履いた。


「とにかく、此処から出よう」


此処が病院であれ、誰かの家であれ、人の居る場所に留まっているのは拙かった。
理性をなくしてしまう程血に餓えている今、人を目の前にしたら――


「……あ、あれ?」


そこまで考えて、理多はある事に気が付いた。
今普通に立ち上がったが、意識を失う前、そんな力は残っていなかった筈。
それに加え、渇きや痛みが気絶する前より薄れていたのだ。

それは治療のお陰なのか、それとも、長く眠っていたからなのか。
時計を見て時間を確認してみると、短針は八時を指し示していた。
閉められたカーテン越しに漏れる光からして、朝の八時だろう。

という事は、倒れたのが大体一時頃だとすると、七時間前後眠っていた事になる。
睡眠としては十分な時間ではあるものの、今の状態まで回復するのに七時間で足りるとはとても思えない。
吸血鬼である今ならそれが可能なのだろうか?
それとも、魔法の力?

判らない事だらけだったので、理多は考えるのを止めた。
今するべき事は、自分一人では答えが出そうもない疑問に頭を悩ませる事ではなく、行動する事なのだから。

とりあえず、今の状態なら助けてくれた人を襲ってしまうような事はなさそうだった。
しかし此処に居る事によって、図らずも何かしらの迷惑をかけてしまう可能性がある。
日は出てしまっているようだが、だからといって夜になるまで此処に留まっている訳にもいかない。

気は進まなかったが、何か日除けになるような物を拝借していこう。
そう方針を定めると、理多は扉に手をかけた。


「きゃぅっ!?」


――瞬間、バチッと目にハッキリと見える程強く、青白い火花が散った。

それは静電気なんて生易しいものではなく、感電というのが相応しいものだった。
完全に不意をつかれた事による驚きと刺すような痛みから理多は体制を崩し、尻餅をついてしまう。
ドアノブの触れた右手は痺れて感覚がなくなっており、微かに煙が出ていた。

涙目になりながら右手をさすりながら一体何なのだとドアノブへ目を向ける。
すると、ドアノブに記号のようなモノが淡く光って浮かび上がっているのに気付いた。

理多は青ざめた。
扉には何かしらの仕掛けが施されていて電気が流れ、窓の外は日差しが降り注いでいる。
これが意味する事は、部屋に閉じ込められたという事。
否、ドアに仕掛けられたモノからして、魔法使いに捕らえられたとみていいだろう。

手当てがなされているものの、だからといって相手が自分に交友的とは限らない。
何とかして此処から出る方法を考えなければ。
そう思い立ち、理多は壁に手を当て壊せるだろうかと乱暴な事を考えていると、電気を弾けさせる事なく突然ドアが開いた。


「だ、誰っ!?」


開かないと思っていたドアが開いた事にビクリと肩を震わせ、咄嗟にドアの対角線上へと飛び退く。
ドアの向こうに立っていたのは、耳に機械をつけ、メイド服を着ているという特殊な出で立ちの茶々丸だった。
もっと魔法使いらしい、杖にマントという出で立ちをした人物が自分を閉じ込めているのだと思っていた理多は、
想像とかけ離れた茶々丸に戸惑いを隠せない様子でいた。

それに対し茶々丸は『理性はあるようですね』と呟くと、続いて『ついて来て下さい』と言って背を向け歩き出してしまう。
ドアは開いているのだから無視して逃げてしまう事を考えた理多だったが、大人しく従う事にした。
何となく、逆らってはいけないような気がしたからである。

音を立てず歩く茶々丸について行くと、木のテーブルに頬杖をついて座っている少女に気付く。
理多はその少女を見て、思わず息を呑んだ。

電灯に照らされ、淡く輝く金色の長髪。
小さな顔に、強く触れれば壊れてしまいそうな程、華奢で小柄な体躯。
肌には一点の曇りもなく、硝子玉のような澄んだ青い瞳。

見た目は十歳位であるのに、大人の雰囲気をかもし出す少女は、可愛いというよりは、綺麗。
まるで良くできたフランス人形のようだと、理多は思った。


「……起きたか」


理多が少女に見惚れていると、少女は緩慢な動きで理多へと視線を向けた。
完全に見惚れてしまっていた理多は、自分の置かれている状況も忘れ、茶々丸に促されるまま少女の対面の席に座った。
惚けた様子でそのまま理多が大人しくしていると、茶々丸が部屋の奥にある台所から、カップとティーポットをお盆に載せ運んでくる。

それを合図に、二人は口を開いた。


「私はエヴァンジェリン。エヴァンジェリン・A・K・マグダウェルだ」
絡繰 茶々丸カラクリ チャチャマルと申します」



[26606] 第1章 5時間目 歪んだ瞳に映るモノ
Name: あかいつき。◆3327a354 ID:742ccd16
Date: 2011/03/20 13:53
エヴァはそのままの姿勢で、茶々丸はポットを片手に軽く会釈をした。
理多は茶々丸の会釈に対して無意識に会釈を返しながら、二人の名前をオウム返しにする。

そしてその後、理多は名乗り返す事もせずにエヴァの事をジッと見つめていた。
エヴァたちが黙り込んでいる理多を、不振な目で見ている事にも気付かずに。
見惚れていないと言ったら嘘になるが、それだけではなく、何か大切な事を忘れている気がしていたのだ。

理多はエヴァを見つめながら、記憶の糸を辿っていく。
すると、いくつかのワードが頭に浮かんだ。
金髪、小さい、そして兄の言葉――そして思い出す、この都市へ来た目的を。


「あぁっ、金髪のちっこいの!!」
「誰がちびっこか! というか、貴様に言われたくないわっ!!」


少々背が高い位で意気がるなと吼えながら、今にも殴りかかりそうな勢いで立ち上がったエヴァを、
茶々丸が必死に抑えてなだめる。
理多は少し遅れて自分がエヴァに失礼な事を言った事に気が付くと、慌てて謝った。

しばらく顔を赤くし、肩を震わせて理多を睨み付けていたエヴァだったが、
怒りと共に息を長く吐き出す事によって落ち着きを取り戻す。
理多はもう一度は謝った後、ようやく自分の名前を名乗るのだった。


「えっと、私の名前は雨音理多です」


大変なのはここからだと、理多は唾を飲んだ。
目的の人物であるエヴァと奇跡的に会う事ができたが、何からどう説明をすればいいのかが判らなかった。

理多が頭の中で言う事を必死に整理していると、エヴァは理多の名前を、
正確には理多の苗字を聞いて、何かを納得した様子で呟いた。


「……そうか、やはりアイツの、雨音直人の妹か」
「えっ、どうして……」


理多と直人は兄妹であり、双子のように似ている訳ではない。
多少の共通点はあるだろうが、見ただけで二人が兄妹である事を見抜くのは、実質不可能と言っていいだろう。
直人が理多の写真を持っていて、エヴァがそれを見た。それが、一番可能性としてはありそうだった。

雨音兄妹は、両親を早々に亡くし、ずっと二人きりで頑張ってきた為、世間一般的な兄妹たちと比べて非常に仲が良い。
だから、理多の写真を直人が持っていたとしても不思議ではないだろう。そう、理多は予想付けた。
理多は直人の写真を持ち歩いた事はなかったが。

しかしその予想は、エヴァが取り出した物によって否定される事となる。
エヴァはスカートのポケットから何かを取り出すと、理多にとって予想外な解答をした。


「なに、このネックレスに見覚えがあったからな」
「あっ……」


エヴァが取り出したのは、一つのネックレス。
それは、理多がいつも肌身離さず身に着けていた、そして先の戦闘で大きく傷ついてしまった物だった。

理多は思わず、ネックレスが目の前に掲げられているというのに、自身の胸元に手をやった。
当然、そこにはネックレスはない。

じわっと、理多の目が潤みだす。
エヴァが今手に持っているネックレスは、理多の母親の形見であり、
大切、なんて言葉だけでは伝えきれない程、理多にとって特別な物なのだ。


「ふん、心配しなくても返してやる」


うるうるおどおどとしながら、ネックレスとエヴァの顔を見る理多。
その様子に、エヴァは加虐心が疼くのを感じながら、ネックレスを理多に手渡した。

それをそっと受け取ると、理多はギュッと胸に抱き、素直に返してくれたエヴァに頭を下げた。
そして頭を上げ、改めてネックレスを見ると、ネックレスの宝石が砕けてしまっている事に気付き、また泣きそうになる。
自分に非があると自覚していながら、理多は宝石を砕いた龍宮を少しだけ恨んだ。

返してもらったネックレスをさっそく首にかけながら、理多はエヴァが自分を直人の妹だと気付いた訳に納得していた。
このネックレスは世界に二つしかない、母親が生前に二つ自作した物なのである。
一つは理多が、もう一つは直人が持っている。
エヴァはその事を、直人から聞いて知っていたのだろうと。


「あの、私お兄ちゃんに、エヴァンジェリンさんを尋ねるように言われて此処へ来たんです」


一つの疑問が解決した所で、理多は此処へ来た訳を話す事を決意した。
躊躇いはあった。何せ、理多はこれから、自分で自分の事を化物だと告白するのだから。
それを聞いたエヴァたちの反応は、十中八九良いものである筈がない。そう思っていたからだ。

しかし、それを話さなければ話は先に進まない。
理多はネックレスを片手で握りしめながら、ついに口を開いた。


「その、私……実は――」
「なるほど、餅は餅屋という訳か」


決意し、正体を告白しようとしていたのを遮られ、
またエヴァの言った事の意味が判らず、理多はポカンと口を開いたまま硬直した。
そのキョトンとした理多の様子に、エヴァは何故か満足そうな表情を浮かべると――


「お前、吸血鬼だろう?」
「っ!?」


先程とは比べものにならない程に理多を驚かす発言を口にしたのだった。

理多は座っていた椅子が倒れるのも構わずに勢い良く立ち上がると、一歩後ずさる。
それに対し、エヴァは座ったまま自分を守るようにして前に立つ茶々丸に手をかざすと、無言で下がるよう伝えた。


「そう警戒するな。お前が何かしない限り、私たちは何もせん」


茶々丸はエヴァに従って警戒を解いたが、理多は警戒の眼差しを緩めたものの、再び椅子に座る事はしなかった。
すぐにでもこの場から逃げられるようにという事だろう。それを見て、やれやれとエヴァはため息を吐いた。


「難しいだろうが、今はお前の兄が頼れと言った私を信用しろ」


エヴァの言う通り、今の理多が他人を信用する事は難しかった。
理多が吸血鬼である事を知っているなら尚更に。

直人が信頼するエヴァを、理多も信用したいとは思ってはいた。
だが自分の命がかかっている以上、そう易々と警戒を解く事はできなかった。

信用したいという気持ちと、信用できないという二つの気持ち。
その二つの気持ちに板ばさみにあい、理多が頭痛を覚えだした時。


「あぁ、言い忘れていた」


ふいに、自分の右頬を指で摘んで伸ばすと――


「私もお前と同じ、吸血鬼だ」


理多よりも小さな、かろうじて目視できる程度の牙を見せながら、理多にとっては衝撃的な事実を告白した。

エヴァの告白に、理多はあまりの驚きに声を失い、頭が真っ白になる。
そんな理多に気付いてか気付いていないのか、エヴァはそのまま言葉を続けた。


「これで、少しは信用する気になれたか?」
「え、あ……」
「……まぁいい。話がいつまで経っても進まんから、信用云々は保留だ。そのままでいいから質問に答えろ」


エヴァは今まで手をつけていなかった、冷めてしまっている紅茶を一口。
少し苦い表情をした後に表情を切り替え、真剣な面持ちで理多に尋ねた。


「事前に何の連絡もなく、吸血鬼のお前を一人で此処へ行かせた。行かせるしかなかった事が起こった。そうだな?」


 返答に端から期待していなかったようで、今だ放心状態にある理多をそのままに質問を続けた。


「雨音理多。お前に、お前たちに、一体何があった?」


 そう問いかけつつ、理多たちの身に起こった事に察しがついているのか、エヴァには珍しく同情の色を目に浮かべていた。


 ◆


理多は三日前からの事を、包み隠さず全てを伝えた。
それに対し、エヴァは相槌を入れる事も質問をする事もなく、最後まで終始無言で話に耳を傾けていた。

そして理多が話し終えてからもしばらくの間、エヴァは何かを考え込むようにして目を閉じ、そして呟いた。


「吸血鬼の男、か。この時代に、吸血鬼が表社会へ出てくるとはな……」


エヴァは表にこそ出していなかったものの、理多たち吸血鬼の存在に驚いていた。
吸血鬼は理多が感じ取っているように、表裏どちらの世界でも悪とされている。
そしてそれは、ただ人ではないからという理由からではない。
人の形をしていても人でない存在なんては、裏の世界では当たり前のように認知され、共存している。

吸血鬼が悪とされている理由は、他にある。
それは、強大な力と吸血、そしてそれらを容赦なく他者へと向ける凶暴性にあった。

吸血鬼は通常、理性というものは存在していない。
正確には、吸血鬼となった瞬間に、殆ども者が吸血衝動に飲み込まれてしまうのだ。
理多のように自我があるのは、かなり特殊な例なのである。

その為吸血鬼は、その存在を知られたが最後、全力をもってして排除される。
エヴァは外見とは裏腹に長い年月を生きているが、少なくとも、ここ数百年の間、
吸血鬼が表社会に出現したという話を聞いた覚えがなかった。

それが今現在、最低でも二人存在している。
今も何処かで増えている可能性だって有り得るのだ。
もしかしたら近い内に大きな事件が起きるかもしれないと、エヴァは内心ニヤリと微笑んだ。


「それで、最後に血を飲んだのはいつなんだ?」


理多は説明した事によって兄の事を強く思い出してしまったからか、目に涙を浮かべていた。
その今にも零れ落ちそうな涙を拭いつつ、理多はエヴァの質問に答えた。


「ないです」
「……は?」
「えと、だから一度もないです」


理多は聞こえなかったのかと思い、もう一度、ゆっくり言い聞かせるようにして言った。
しかしエヴァは聞こえていなかった訳ではなく、思わず聞き返してしまう程驚いていたのだ。

エヴァはアゴに手を当ててブツブツと呟きながら、頭の中で情報の整理を始める。


「まさか、真祖だとでも言うのか……? いや、それならば何故吸血衝動が……」
「……?」


エヴァがその様子が意味するところがいまいち判らず、理多は首をかしげた。
そんな理多をチラリと見て、エヴァは再び考え込む。

理多が嘘を言っているようには見えない。
だが、吸血鬼としておかしな点がこの事以外にいくつもある事もまた事実。

情報が足りず結論を出せない為、それらの疑問は一旦疑脇に置き、
エヴァはクエスチョンマークを頭上に浮かべている理多に、今自分が何気なく語った事の異常性を判らせる事にした。


「いいか、個人差はあれ、なりたての吸血鬼が三日間一度も吸血せずに過ごす事は容易じゃない。というか、不可能だ。
 どんなに本人が嫌がっても、普通は一日も経たない内に吸血衝動によって強制的に理性を奪われ、吸う事になる」


人と吸血鬼は、鋭く伸びた犬歯以外特に見た目の違いはない。
しかし、内面の構造は大きく異なっている。
その構造を変える為のエネルギーとして必要なのが、大量の血なのである。

そしてその血は、自身の物だけではまず足りない。
その為、他所から血を摂取するしかないのだ。
結果、なりたての吸血鬼は必然的に吸血衝動が起きる。


「どうりで、個体差としてみても、再生力が高い吸血鬼にしては傷の治りが悪過ぎると思った。
 当然だ。傷の修復どころか、生命活動を維持するだけの血すら足りていないんだからな」


吸血衝動を昨夜まで耐え続けられていた事も異常だが、こうして人の形をしている事も異常だった。
仮に自身の血だけで吸血鬼の体へとなれたとしても、その後体を維持する為にも血が必要なのである。
一日ならまだ可能性はなくもないだろうが、三日はまず不可能。

しかし、その不可能を可能にした存在が、エヴァの目の前に座っている。
エヴァは自分の頬を抓りたくなる気分になってきていた。


「……あ、そういえば」
「ん? どうした、言ってみろ」


エヴァが常識とは何かを考え始めていると、理多が何かを思い出したようで、ポツリと呟いた。
どんな些細な情報でも欲しかったエヴァは、囁くように小さかったその呟きに素早く反応して聞き返した。

その反応の早さにたじろぎながら、理多は思い出した事を口にした。


「あの、刀の人が私の目を見て、満月の瞳って言ってました」
「ほぅ、満月の瞳ときたか。それなら説明がつかん事もない……か?」


最後の最後で首をかしげたエヴァに、理多も同じく首をかしげた。
それを見て、めんどくさそうにため息を吐くと、エヴァは再び説明を始めた。
そこできちんと説明をするところが、エヴァの隠された本質をよく現していた。
出会ったばかりの理多はもちろん、エヴァ自身ですらその事に気付いていなかったが。

満月の瞳は"魔族のみ"に発現する、幻の魔眼の一種である。
通常、魔眼といえば"未来視"や"魅了"、"石化"など様々な力を有する眼の事を差すが、
この満月の瞳にはそういった特殊な力は何も備わっていない。
しかしながら、満月の如く淡い輝きを放つ金色という幻想的な瞳と、この満月の瞳を持つ者がほぼ確実に強力な力をもっている
(又はいずれもつようになる)事から、魔眼にカテゴライズされたのである。

なので、魔眼というよりは力をもつ者の"証"と認識するのが正しいのだが、
殆んどの人が"見たら死ぬ"などといった強力な力が満月の瞳に有ると思っている。

エヴァは、満月の瞳をもつほどポテンシャルが高いのなら、一度も血を吸わずにいる事ができるかもしれないと思ったのだ。
しかしその確証はなく、またそういった話を聞いた事がなかった為、満月の瞳のおかげと言い切れなかったのである。


「嬉しく、ないです……」


魔族としての才能。それがあると言われ、理多は明らかな嫌悪感を表情に出した。当然の反応である。
人間の、ならまだしも、化物としての才能があると言われても喜ぶ人間は居ないだろう。
理多はもう人間ではないが。


「あ、私の瞳って、今金色なんですか?」


ふと気になって聞くと、茶々丸が手鏡を持ってきてくれた。
それを借り、理多はおそるおそる手鏡を覗き込み、瞳の色を確認する。
理多の瞳は――栗色をしていた。

その事に、理多はホッと胸を撫で下ろした。
今後、もし人が居る所を歩く事があった時、金色では酷く目立つ。
それに理多は、自分の瞳の色が気に入っていたのだ。


「お前が本気で力を行使した時に変色するだろう。こんな風にな――」


エヴァが目を閉じ、再び開いた時には、瞳の色は青色から金色へと変わっていた。
しかしそれも、一回のまばたきと同時に直ぐ元に戻ってしまう。


「満月の瞳についてはこの辺で良いだろう。大分遠回りになったが、本題だ」


本題と聞き、理多は気を引き締めた。
エヴァは組んでいた足を組み直すと、鋭い目つきで理多に尋ねた。
その視線に、理多はびくりと肩を震わせる。


「奇跡的にもっているようだが、今も相当辛いはず。なのに何故、お前は血を吸わなかった?」


吸血鬼でありながら、吸血を拒む訳。
それは、理多の中で既に出ている。
だがそれを答える前に、理多にはどうしても聞いておきたい事があった。

少し間をおいた後、意を決した様子で、エヴァの質問には答えずに質問をし返した。


「……吸血鬼の弱点とかって、本当にそうなんですか?」


質問を質問で返された事に、エヴァはムッとした。
だが理多が質問をする前に作った間が、自分にムッとさせてしまう事を判っていて、
それでも尚聞こうと決意するまでの間だった事を察し、怒りを鎮めた。


「……そうだな。日光を浴びると灰になる等の、表世界の伝承でよくある設定は本当の事だ」


つまり、理多が吸血鬼になってから日光を避けてきたのは無駄ではなかったという事だ。
万が一考えて行動しておいて良かったと思う反面、もう二度と太陽の下を歩けないと判り、気が沈んだ。
しかし、伝承が本当の事だとすると――


「それじゃあ、血を吸った相手が吸血鬼になるっていうのも……」
「ん、あぁ、そうか。なるほど、それでか」


エヴァは、理多が血を吸わなかった理由を察した。
甘いとは思ったが、気持ちは判らないでもなかったので何も言わなかった。


「結論から言おう。ただ吸うだけでは、相手は吸血鬼にならない」
「どうしたら……」
「吸血鬼の血を相手に注入すると、だ」


吸血鬼の血を体内に取り込ませ、血で血を上書きさせる。
それが、人間が吸血鬼になるプロセスである。
注入する血の量が少なければ、吸血鬼化は魔法によって治す事ができる。
だが一定量以上注入すれば二度と、人間には戻れない。

私は戻れないんですかと理多は聞こうとして、止めた。
何となく、返ってくる答えを察していたからだった。
理多が何を言おうとしていたのかを察したエヴァだったが、そこには触れない事にした。


「不安はとれたか? 死にたくなければ、今日の夜にでも血を吸ってこい。
 お前の治療に使った輸血パックはまだあるが、それだけではいずれ足りなくなる」


何なら用意してやろうかと言うエヴァに、理多は無言で首を横に振った。
吸う相手は自分で選びたいかと思ったエヴァだったが、そうではなかったらしい。
理多は無言のまま顔を伏せると、感情のない声でエヴァに尋ねた。


「……エヴァンジェリンさんは、理性をなくす程、血を吸いたいと思った事はあるんですか?」
「いや、私は"真祖"の吸血鬼だからな。それはない」


真祖というのは、吸血鬼に血を吸われて吸血鬼になったのではなく、秘術によって吸血鬼になった存在の事である。
真祖はいわば、吸血鬼のもつ弱点をなくした存在。
日光も平気だし、銀も聖水も平気。血は吸えるが、血を吸わなくても生きていけるから、当然吸血衝動もない。


「そう、ですか……」
「それがどうかしたのか? まさか、自分が吸血鬼、化物である事を強く自覚したくないから、
 なんてくだらない事を考えている訳じゃないだろうな?」
「そうじゃないんです。でも、血は吸えません」


俯いたままでいる理多の表情は、エヴァの位置からは前髪で隠れてしまっており、見る事ができない。
泣いているのか、声の通り無表情でいるのか。何を考えていて、そして何故血を吸う事を頑なに拒んでいるのか。
エヴァには判らなかった。

お互いに何も喋らず、しばらく沈黙が続く。
それを静かな呟きで破ったのは理多だった。


「……エヴァンジェリンさんにとって」
「ん? ……っ!」


呟くと共に顔を上げた理多の顔を見て、エヴァは息を呑んだ。


「人は、人ですか?」


その表情は今にも消えてしまいそうな程儚げで、愁いを帯びた眼差しは、エヴァを真っ直ぐに見つめていた。

エヴァはそんな理多を綺麗だと思う反面、どこか苛立たしかった。
その理由は、エヴァ本人にも判らなかった。


「私は時々、それが判らなくなるんです。人は、人なのか」


真祖ではない吸血鬼にとって、血は人間で言う三大欲求全てに相当するまさに命の水と呼べるものであり、
それを多く有する人は恰好の餌なのだ。
血を摂取する必要のない、同時に吸血衝動がないエヴァには、人を見る目が変わるといった経験はなかった。
しかし、その見る目が変わる怖さは判る気がした。

エヴァは頭に浮かんだ一人の人物が餌としてしか見れなくなってしまう事を想像をし、すぐにかき消す。
少し想像しただけでも、怖くて、悲しくて、心が痛くなった。

好意をもっている相手が人として見れなくなってしまう。
それは、強く想っている相手が居れば、それだけ耐え難いものとなる。
そんな事には耐えられないから血を吸わないのだと、理多は言外していた。

エヴァはそれを察して、そして何も言えなかった。
仮に何かを言っていたとしても、きっと理多は意見を変えない。
それが判ったから尚更に。
 
理多はエヴァに問いかけた後、また儚げな表情を浮かべた。
そんな理多に対しエヴァはまた、原因不明の苛立ちを覚えたのだった。


 ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ 


エヴァは昨夜の侵入者、理多について報告する為、麻帆良学園中等部の学園長室へ向かっていた。
こういった報告は、いつもなら刹那や他の人に任せっきりなのだが、今回は流石にそうはいかなかった。
何せ侵入者は同族である吸血鬼で、更にはその吸血鬼によって刹那と龍宮が倒されたのだから。

そして理多は、エヴァの知らぬ間にエヴァが倒したと言う事になっているようだった。
事実ではないとはいえ、そういう風に思われてしまっている以上、エヴァ本人が詳細を話しに行くしかなかった。
この事以外の、もう一つの用件のついでにと思わなければ、やってられなかった。


「はぁ……」


もう一つの用件とは、理多を保護するつもりでいるという報告。
十中八九揉めるだろう。それを考えると、エヴァはため息をせずにはいられなかった。

直人にこんな面倒事を押し付けられる原因となった貸しを作ってしまった自分が怨めしい。
と思う傍ら、理多を保護する事をあまり嫌とは思っていない自分にエヴァは苦笑する。

エヴァは、雨音理多という人物に興味を持ち始めていた。
それに加えて同情と、同族であるという仲間意識も少し。
でなければいくら貸しがあるとはいえ、問題児を保護するなんて面倒な事を引き受ける事はしなかっただろう。


「私も随分と丸くなったものだな。この数十年の間に……」


――光に生きろ。
そう言われて、魔法ノロイをかけられた。

"登校地獄"。それが、エヴァにかけられた魔法の名称。
その魔法には、登校を強制させられるという特殊な効果があった。
そしてその魔法の効果により、エヴァは何度も何度も繰り返し中学校へ通わされているのだ。

本来なら、中学校卒業すると共に呪いは解除される予定だった。
だが訳あって呪いは解除されぬまま、既に十五年の月日が流れていた。

闇を知らない中学生に囲まれて過ごす日々は退屈で、呆れる程に平和だった。
傍目から見れば、エヴァが光に生きているように見えたのかもしれない。
しかしエヴァは一度も、光に生きていると思った事はなかった。
寧ろ逆に、自分は光に生きる資格のない、やはり闇で生きるしかない存在なのだと、そう改めて自覚しただけだった。

"闇の福音"、"不死の魔法使い"と恐れられ、裏の住人に知らぬ者はいない程に有名で。
生き抜く為に何人もの人を手にかけてきた手の平は、血で赤く染まっている。
そんな自分は、例え光に生きたいと思っても、もはや手遅れなのだと。

だが理多は違う。
まだ理多の手は血に汚れていない。闇に堕ちていない。
そうなる位なら死んだ方がマシであると、理多は血を拒んだのだ。
生きたいという気持ちを押し殺して――

あぁ、とエヴァは理多の話を聞いていた時の苛立ちの原因をようやく理解した。理解して、自分に呆れ返った。
女子供は決して殺さない。そのポリシーに秘められたものと同じで、自分は理多を自分のよう――


「まぁ、何処まで意地を突き通せるのか、見せてもらうぞ」


さて、と、エヴァは誤魔化すようにして頭を切り替える。
そしてこれから、理多を保護する事を認めさせる為の言い訳を考え始めた。
同時に、いつか理多が、吸血衝動を抑えきれなくなった時の事も。

考えながら、エヴァは自分でも気付かない内に微笑を浮かべていた。
何かを期待しているような、そんな暖かさのある微笑を。



[26606] 第1章 6時間目 驚愕の事後報告
Name: あかいつき。◆3327a354 ID:742ccd16
Date: 2011/03/20 13:53
麻帆良学園女子中等部の校舎にある学園長室のドアが、音を響かせて乱暴に開かれた。
そのドアの向こうから現れたのは、黒地のワンピースに白のライン、
しつこくない程度に飾り付けられたリボンといったシンプルなゴスロリ服に身を包んだ少女、エヴァ。
不機嫌なのか眠いのか、おそらくそのどちらでもあるしかめっ面をしながら、ない胸を張り上げ、
肩で風を切りながら無言で部屋へと足を踏み入れた。

事前に伝えられていた集合時間に大きく遅れているというのに、その堂々たる姿からはまるで悪気というものが感じられず、
先に時間通り集まっていた者たちの方が、集合時間を間違えたのではないかと不安に思ってしまう程だった。
エヴァは開けた時と同じく乱暴にドアを閉めると、そのドアのすぐ横の壁へと寄り掛かる。
そして胸の前で腕を組み、目だけを動かして室内に居る者たちを確認した。

窓際にある大きな机の前に座り、自身の長いアゴ髭を撫でているのは近衛 近右衛門コノエ コノエモン
絵に描いたような仙人の風貌をしている彼はこの部屋の主、つまり学園長であり、また同時に"関東魔法協会"の理事長でもある。
一見表情は笑みを浮かべていて穏やかなものであったが、隙がなく、その存在感は強い。

学園長から向かって左側の壁にある本棚の前に立つのは、高畑・T・タカミチタカハタ・ティー・タカミチ
スーツを完璧に着こなし、眼鏡と無精髭が良く似合う彼は、中等部の教師をしている。
年齢は三十代なのだが見た目は少々老けており、四十代に見える。

が、それは見た目の話であって、瞳に静かに宿る気は若々しかった。
死の眼鏡デスメガネ・高畑と一部の素行が悪い生徒たちから恐れられており、凄腕の戦士である。

タカミチの対面、エヴァと同じく壁に寄り掛かって目を閉じているのは龍宮 真名タツミヤ マナ
昨夜理多と戦った一人であり、服を着ている為見えていないが、腹部には包帯が巻かれている。
彼女は女子中等部の生徒であり、現在は春休み中であったが、学園長室に私服で訪れる訳にもいかず、今は制服を着用していた。

だが中学生にしては少々発育が良い所為で、若干その制服姿に違和感が感じられる。
体格と同じく大人びた綺麗な顔立ちと凛とした雰囲気も年齢と不相応で、彼女がただの中学生ではない事を物語っていた。

龍宮の傍で背筋をピンと伸ばして立つのは、 黒髪はサイドテールにした桜咲 刹那サクラザキ セツナ
龍宮と同様中学生でありながら、その身に纏う雰囲気は鋭く、学生と言うよりは武人。
日本美人という言葉が似合う彼女は、触れればその手が切れてしまうような剥き出しの刀を連想させた。

彼女も理多と戦った一人で、直接正面から相手をしていた為に龍宮よりも生傷が多く、手当ての痕が目立っていた。
刹那も龍宮と同様、制服を着用している。

以上の四名とエヴァが、今回集合がかけられた者たちのようだ。


「エヴァ、たまには時間通りに来たらどうだい?」
「ふん、だったら集まりを夜にしろ。毎回朝っぱらからやりおって、私は朝が苦手だという事は知っているだろう」


そんな我が侭を言って睨みつけてくるエヴァに、親しげに話しかけたタカミチが苦笑する。
外見的に親子といってもおかしくはない為誰も予想付かない事だろうが、以前二人は此処麻帆良学園で同級生だった事があった。
だからという訳ではないが、タカミチはエヴァが気を許す数少ない友人の一人でもある。

その為、エヴァはタカミチを睨んだものの、その目には怒気は全くなく、寧ろ口元に笑みを浮かべていた位であった。
タカミチもまた、エヴァに怒っている様子はない。呆れてはいたが。


「まぁよい、ちゃんと来ただけでも十分じゃ」


そのやり取りを見ていた学園長は、苦笑混じりの呆れ顔でため息を吐いた。
そして、エヴァに遅刻した事についての謝罪等を求めても無駄だという事は、
長い付き合いから判りきっていた為、さっさと話を先に進める事にしたのだった。
話というのは昨晩の事についてであり、この集まりは当事者と監督者による報告会なのである。


「さて、早速じゃが、昨晩何があったのか話てくれんかの」
「――それでは、私から」


学園長の言葉に小さく手を上げ、始めに口を開いたのは刹那だった。
刹那は学園長が無言で頷くのを確認すると、一歩前に出て昨晩の事を話し始めた。

昨晩の丁度零時頃、侵入者の存在を感知し、その後広場にて消耗している様子の吸血鬼を発見。刹那と龍宮は戦闘を開始する。
吸血鬼は龍宮の福音弾で一度無力化する事に成功するも、止めを刺そうとした直後、
吸血鬼の瞳が満月の瞳に変化したのを見て一時撤退を決めた。

あった事をそのままに、着色する事なく淡々と報告していると、報告内容の一つに学園長が呟いた。


「ほぅ……満月の瞳とはのぅ」


学園長は既に他の人から侵入者が吸血鬼である事を聞いて知っていたのだが、
満月の瞳である事までは知らなかったようで、目を丸くして驚きの声を上げた。
学園長のように口には出していなかったもの、タカミチもまた心底驚いたようで、目を見開いていていた。
この事を知っていた龍宮とエヴァは特に反応する事もなく、黙って耳を傾け続ける。

学園長たちの反応に報告を続けて良いものかと少し悩んだ後、
一応何拍か間を置いてから、撤退が失敗し、吸血鬼によって気絶させられた事を伝え、報告を終えた。

刹那は一礼し、一歩下がって元の位置に戻る。
その表情は申し訳なさそうで、声も幾分かいつもより暗く沈んでいた。
そんな刹那に、タカミチは優しい口調で労わりの声をかけた。


「吸血鬼相手に応援も呼ばず、二人で対処しようとしたのは無茶が過ぎたね。
 でも、無事で何より。あまり自分を責める必要はないよ」
「――ま、無事だったのも吸血鬼に見逃してもらったからなんだけどな」

今まで沈黙していた龍宮が片目を開き、自身に対して嘲笑の笑みを浮かべながら呟いた。
その龍宮の呟きに、刹那は言い忘れていた事を思い出す。
そして疑問の表情を浮かべていた学園長とタカミチに、慌てて補足の説明をした。


「実は、気絶する前に血を吸われそうになったのですが……何故か吸血鬼は、結局何もせずに去っていってしまったんです」


それを聞いて、学園長はアゴ髭を撫でていた手を止めると、その訳を考え始める。
だが考えても判らないという結論に達したようで、同じ吸血鬼であるエヴァに視線を向けた。
血を吸える状況で血を吸わなかった訳、もしくは吸えなかった訳に心当たりはないかと。


「何か事情があったのかの?」
「知らん」


投げられた球を剣で叩き斬るかの如く、言葉のキャッチボールを打ち切るエヴァ。
そんなエヴァにつれないのぅと呟きながら、学園長はエヴァに鋭く何かがあるなと感じ取っていた。
しかしこの事については一旦保留する事にして、報告の続きを促す事にした。


「桜咲君の元から去っていった後は、お主かの?」
「……めんどうだから簡潔に言うぞ」


心底面倒だと、エヴァは見せつけるようにしてため息を一つ吐き、宣言した通り、至極簡潔に一息で言った。


「噴水広場で倒れていた吸血鬼をウチで治療し保護する事にした」


あまりに自然体でサラリと言われた所為で、皆しばらくの間、エヴァが言った事の異常性に気付く事ができなかった。
しかしそれでも違和感はあったようで、頭にクエスチョンマークを浮かべながら首をかしげていた。

一番初めにその違和感の正体に気が付いたのは、学園長だった。


「…………保護、じゃと?」


もしかしたら聞き間違えたのかもしれないと、学園長は言いながらどこか自信なさ気だった。
仙人のような見た目通り歳が歳であったし、学園長もそれを嫌々ながらも自覚していたからだ。
だがエヴァが頷くのを見て、保護をしたと言うのが聞き間違いではなかった事を知り、まだまだいけると喜ぶ半面、
侵入者を保護しているなだという報告内容に頭を痛めた。


「な、何を考えているんですか!?」


こめかみを押さえて言葉を発せないでいる学園長の言葉を代弁するかのように、刹那は声を荒げた。
そんな刹那と同じ思いだったのか、龍宮とタカミチもその言葉に頷き、エヴァへと視線を向ける。
だがその視線を気にした様子もなくエヴァは無視し、唐突に学園長へ尋ねた。


「じじい、雨音直人は覚えているか?」


そんなエヴァを刺すような視線が襲うも、エヴァはそれでも尚無視を突き通す。
その所為で一瞬にして剣呑な空気に包まれた場を気にしながら、学園長は困り顔で、脈絡のないように思える質問に答えた。


「なんじゃ突然……覚えておるぞ、お主と色々あったからの」


そう答えながら、学園長は色々と鮮明に思い出し、思わず苦笑した。
その色々を知っていたタカミチもまた、静かに微笑む。
一方刹那と龍宮はその色々は知らなかった為、突然笑い出した二人に困惑。
特に刹那の方は、話題が変わってしまった事によって燻った感情をどう処理していいか判らず、一人眉をひそめていた。

そんな彼らに対し、エヴァは無表情で吸血鬼の正体を告げた。


「――アイツの妹だ、吸血鬼の正体は」


時間が止まったかのように、学園長とタカミチが固まる。
その顔にはもう、先程のような懐かしむ笑みは浮かんでいなかった。
代わりに浮かぶのは、戸惑いと疑心などからなる険しい表情だった。

展開についていけていない刹那と龍宮をそのままに、学園長とタカミチは自分の記憶を辿っていた。
二人とも、直人とは然程深い付き合いはなかったが、多少の事は情報として知っていた。
両親を早くに亡くしている事や、そして少しばかり歳の離れた妹が居るという事も。
しかし――


「しかし、彼の妹が吸血鬼だなんて話は……」


タカミチの言葉に、学園長が頷く。
学園長もそういった話を聞いた覚えはないという事のようだ。

吸血鬼である事を隠し通す事は、非常に難しい。
何故なら吸血鬼は生きる為に血を吸わなくてはならず、生きようとすれば必然的に必ず一人は被害者が出、
そして吸血された後が残るからである。

吸血鬼は夜の王として強く恐れられている為、その情報は遅かれ早かれ裏の世界の最高責任者たち、
その一端を担っている学園長の耳に必ず届く。
しかしその学園長ですら、直人の妹が吸血鬼であるという話を聞いた事がないとなれば、
エヴァの言った事を素直に信じる事はできなかった。


「……三日前だそうだ」


二人の記憶に間違いはない。
しかし事実だと、エヴァは理多から聞いた事を掻い摘んで話した。
その話を聞いて、皆信じられないといった様子だった。
吸血鬼らしき男の出現の事もそうだったが、それ以前に――


「あまり疑いたくはないのじゃが、雨音君の妹は信用できるのかのう?」
「そうですよ! それに、いつまた理性を失って暴れだすか……信用以前の問題です!」


理多が話したと言う内容が、本当の事であるかどうかだ。
理多たちのもとに現れたという魔法使いを通じて、学園長へ理多に関する情報が流れてきていない事など、おかしな点もある。
傷だらけの理多が隙を見て逃げ出す為に嘘を吐いたという事は、十分に考えられるだろう。

それにもし嘘でなかったのだとしても、刹那の言った通りまた理性を失って暴れだす危険性の事もある。
学園を守る者として、理多を保護するという事は、見過ごす事のできないレベルだった。
特に理多と直接対峙した刹那たちは、その危険性をより強く感じていた。
理多が満月の瞳となって暴れだしても、止める事のできる者が居ない事はないとはいえ、
被害が全くでないという事はないだろうからだ。


「――それもそうだが、吸血鬼を家に残してきて大丈夫なのか?」


龍宮の冷静な一言に、刹那はハッと窓の外、エヴァのログハウスがある方角を睨みつけた。
粉塵が上がっているなどといった変化は見られないが、ひっそりと抜け出して、
此処からは見る事のできない場所で誰かを襲っているかもしれない。

言われるまでそんな事に気付けなかった自らを叱咤しつつ、
刹那は布袋に入っている愛刀"夕凪"を強く握り締めると、弾けるように部屋を――


「慌てさせた私が言うのもなんだが、落ち着けよ刹那。今空にあるものは何だ?」
「……あっ」


またしても、言われて気付く。
空にあるもの。それは、吸血鬼の天敵であり、強大な力を持つ彼らを一瞬で灰と化す存在――太陽。
その太陽がある限り、吸血鬼は満足に活動できない。人を襲うなんて事もできないだろう。

だから、刹那の杞憂は無用なものなのである――普通の吸血鬼ならの話だが。


「ちなみに、妹さんは……」
「普通の、とは少々言い難いが、真祖でない事は確かだ。それに――」


エヴァは一息を吐き、何とも言えない微妙な笑みを浮かべた。
呆れたような、困ったような、そんな笑みを。

そんなエヴァの珍しい表情に学園長たちが驚いていると、エヴァはログハウスの方へ目を向け――


「それに、もし仮にアイツが真祖であったとしても、何も問題はないだろうさ」


そこまで言うと、エヴァはもう自分から話す事は何もないと、目を閉じた。

色々と含みのある言い方をしたエヴァに学園長とタカミチは追求しようしたが、結局二人とも何も言わなかった。
それは、エヴァが素直に答える事はないと察していたからである。
刹那もそれを察して何も言わなかったが、当然納得はしていない。
多少薄れてはいたものの、依然エヴァへと鋭い視線を向け続けていた。


「ふむ……」


アゴ髭を弄りながら学園長はしばらくの間思考すると、スッと目を細めてエヴァを見た。
その目は刹那とは比べ物にならない程鋭く、威圧的で、エヴァの真意を見定める為の"責任者の目"だった。


「それでお主は、雨音君の妹を保護するつもりでおるのじゃな?」
「アイツ、直人には借りがある。それに、少々興味があるからな」


エヴァは学園長の視線を軽く受け流しながら答え、その答えに学園長は再び考え込んでしまう。
そんな学園長に、痺れを切らした刹那が身を乗り出して訴えかけた。


「学園長! 不明瞭な点が多過ぎます。吸血鬼を学園内に留まらせるのは……!!」
「……教師であり、守る立場である僕がこんな事を言うのはどうかと思うけど、
 もし妹さんの言った事が全て本当の事で、完全な被害者だったとしたら?」
「うっ……で、ですが……!」


タカミチの言葉に、刹那が言葉を詰まらせる。刹那には誰よりも、自分よりも大切で、何が何でも守りたい人が居た。
だから、その人に危険を及ぼす可能性があるかもしれない理多に、学園内に居て欲しくなかったのだ。

しかし刹那は、大切な人だけ守れればそれで良いと思えるような人間ではなかった。
だから、タカミチが言いたい事も理解できていた。信用はできない。
しかし、被害者の可能性がある理多を見捨てるのは心苦しい。
それは刹那だけでなく、この場に居るエヴァ以外の全ての人間が思っている事だった。

さらに刹那は、理多との共通点を見つけ出していた為尚更思い悩んだ。


「――監視」


耳が痛い沈黙が続く中、刹那がふいに呟く。
刹那は悩み抜いた末に、一つの考えを思いついてた。
それが今口にした、"監視をする"というものである。

刹那は懐から一枚の札を取り出すと、それを人型へと変化させる。
その人型は手の平に乗る程度の大きさで、刹那をデフォルメ化した外見の、ぬいぐるみのような式神だった。


「信用できると判断できるまで、この式神を使って常に監視するというのはどうでしょう?」


刹那が出した式神の能力を判り易く言えば、"半自立型監視カメラ"と言ったところだろうか。
式神の視界を離れた場所から見る事ができ、刹那が操作して動かす事も可能という代物だ。
使用者、つまり刹那は常に気を消費する形になるが、苦になる程ではないので日常生活にも支障は出ない。

少々ふざけた外見をしている割に燃費や性能が良く、
手間をかければ更に色々な機能を追加できたりと汎用性は高いが、その分難易度も高い。

そんな刹那の提案に、タカミチは学園長へ視線を向けた。
提案にのるかどうかの判断を学園長に委ねたのだ。自分は学園長の決定に従いますと。
ちなみに、タカミチは賛成派である。学園長も、どちらかと言えば賛成派だった。

しかし、確実に居るであろう反対派を納得させるには、監視だけでは少々弱い。
そこで学園長は、一つ条件を付け加える事にした。 


「…………うむ。それに加え、外に出る事が可能である夜も外出を禁止する。それが、保護するにあたっての最低条件じゃな」


学園長は監禁するようで心苦しいがのと、最後に付け加えてそう言った。
するようでもなにも、れっきとした監禁である。
ログハウスから出る事を禁じ、また出られないようにするつもりなのだから。


「血についてはこちらで用意しよう。それでどうだい? エヴァ」


そう言って反応を伺ってくるタカミチに、エヴァはフンと鼻を鳴らした後壁から身を起こした。
どうだいも何も、提示された条件に文句はなかった。文句など、ある筈がなかった。
安全である保証のない吸血鬼を保護するというのだから、もっと揉めるものだと思っていたのだ。

どんな条件を付けたとしても、保護を認めてもらえない可能性だってあっただろう。
だからこそ、エヴァは此処へ来るまでに、学園長たちを納得させる為の屁理屈を考えてきていたのだから。
しかし学園長たちはエヴァの思っていた以上にお人好しで、エヴァが何を言うまでもなく了承を得てしまった。

エヴァは自身が苦労せずに済んだ事を喜ぶ半面、目の前のお人よし達に呆れ返った。
もちろん、機嫌を損ねて決定を取り消されてはめんどうなので、それを顔にも口にも出す事はしなかったが。


「……判った、それでいい。桜咲刹那、そいつを寄こせ」
「あ、はい。式神は天井の何処かにでも置いてもらえれば、後は此方で何とかしますので」


エヴァは、あぁと短く答えると、刹那から差し出された式神を受け取った。
そしてそれを脇に抱えると、解散の言葉も待たずに一人部屋を出て行ってしまう。
毎度の事であった為誰もその事には何も言わず、その後ろ姿を黙って見送った。


「相変わらず、勝手なヤツじゃのう……」


そうため息を吐きながら呟いたこの学園長の言葉が、今回の集まりの解散の合図となるのだった。



[26606] 第1章 7時間目 珍妙なトレーニング
Name: あかいつき。◆3327a354 ID:742ccd16
Date: 2011/03/20 13:54
ちょっと出かけてくると言ってエヴァが家を出てから数分。
理多は椅子に腰掛けた姿勢のまま、人形のように動かずじっとしていた。

虚ろな瞳は、時々僅かな振動によって波立つ紅茶の水面へと向けられている。
とは言え、それを見ているのかどうかは定かではなかった。
おそらくは、たまたま直線上にカップがあっただけなのだろう。
でなければ数分もの間、何の変化も見られないカップをひたすらに見つめ続けるのは難しい。

そんな心此処に在らずと言った様子の理多を気にしながら、茶々丸は居間の片づけをしていた。
しかしこの家の家事全てを請け負っている茶々丸が普段から整理整頓を心がけている為、
片付けは特に何をするまでもなく、あっと言う間に終わってしまう。
茶々丸は作業中に少し乱れてしまっていた衣服を正しながら、そっとため息を吐いた。


(する事がなくなってしまいました……)


そう心の中で呟く茶々丸であったが、実は何も仕事がない訳ではなかった。
今居るこの部屋以外の所の掃除や洗濯など、色々とこなさなくてはならない事がある。
しかし、茶々丸は居間から離れる訳にはいかない理由があった。
理多の監視を、主であるエヴァに言い使わされていたからである。

その為、理多の姿が見えなくなってしまう所、要するに居間から離れる事ができないでいた。
もっとも、エヴァは学園への体裁を考えてそうするように言っただけであり、振りで構わないと言っていた。
エヴァは監視の目がなくても理多が何かをするとは思っていないのだろう。

それは茶々丸も同じ意見だったが、だからと言って監視の目を緩める訳にはいかない。
例え形だけの仕事であったとしても、主に任された事に対して手を抜くなんて事は有り得ないのである。
そういった訳で、茶々丸は手持ち無沙汰になってしまっていたのだった。

監視の役目を言い使わされている以上、理多の対面の席にでも座ってジッと見ているだけで仕事をしている事になるだろう。
しかし茶々丸にはそれがサボっているようにしか思えず、実行しようとは思えないでいた。
茶々丸としては、できれば何か別の事をしながら同時に監視もこなせる事が好ましかった。
だから先程までの片づけをしながらというのがベストな形だったのだが……

茶々丸は思い悩んだ。実は、とうに現状を打破する方法は思い付いていた。
簡単な話だ。理多がこの部屋に居るから他の部屋に行けないというのなら、理多に移動してもらえば良いだけの事なのだから。
移動してほしいと言えば、おそらく理多は素直に従ってくれるだろう。

しかし茶々丸は、理多にそうしてもらうのは気が引けていた。
しばらくそっとしておいてあげたい。魂が抜けてしまったかのような状態の理多を見て、そう思っていたからである。
だから茶々丸はこの方法をとらず、別の方法を模索し始めたのだった。

そうして部屋を見回した後、ふと理多に視線を向けたところで、茶々丸の視界にある物が入り込んだ。
それは自分が数分前に出した、すっかり冷めきってしまっている紅茶。
何も口にする気になれなかったのか、単純に嫌いなのか、理多は一度もその紅茶に手をつける事はなかった。

その事を少し残念に思いながら、茶々丸はその紅茶を片付ける事にした。


「失礼します。紅茶をお下げします」


声をかけるのもできれば避けたかったので、無言で片付けてしまう事も考えた。
しかし気を使う為とはいえ流石にそれは失礼だろうと、茶々丸はなるべく静かに声をかける事にした。
まずはエヴァに出した空になっているカップを回収し、続いて理多のカップへと手を伸ばす。
そしてその指先がカップの取っ手に触れる直前、ハッと顔を上げた理多の待ったの声がかかった。


「あっ、ま、待ってください! 飲んじゃいますからっ」


酷く落ち込んでいるとはいえ、折角出してもらった紅茶を一口も飲まずに冷やしてしまった自分を理多は恥じた。
だからせめて、飲み干す事で謝罪の意を示そう。
そう思った理多は、慌ててカップの取っ手を握り――砕き潰した。

取っ手が割れた音と、支えをなくしたカップがテーブルに落ちて跳ね、床に叩きつけられて割れる音。
二度にわたる甲高い破裂音が、静かな室内に虚しく響き渡った。

理多は自分がしてしまった事を、数秒間理解できなかった。
だが割れたカップから流れ出した中身が、テーブルを伝って太ももにたれ落ちるのを感じ、そこでようやく理解した。


「ご、ごめんなさい!」


言いながら、慌てて椅子から立ち上がると後ろへ下がる。
不幸中の幸いで、借りた服を汚さずに済んだ事に理多は安堵した。

謝る理多の声を背に、茶々丸は部屋を出てすぐの所にある塵取りと雑巾を取りに行く。


「本当にごめんなさい。あの、自分で片付けますから!」


理多はそう言って、塵取りを手に戻ってきた茶々丸に手を差し出した。
その勢いに釣られ、自分が片付けるつもりでいた茶々丸だったが、つい塵取りを手渡してしまう。

早く片づけなくてはいけない。
その思いで頭がいっぱいであった理多は、どうして自分がカップの取っ手を砕いてしまったのかを考えずに塵取りを受け取り――


「あっ……」


そして今度は、鈍く軋む音が響くのだった。


 ◆


そうして誕生した、取っ手の部分が捻れ歪んでしまっている塵取りと割れたカップの破片、そしてその中身であった紅茶。
それらを片付けながら、茶々丸は部屋の隅で膝を抱え、しゅんと項垂れている理多へコッソリと目を向ける。

大きくクリクリとした瞳をうるませている姿は、どこか叱られて切ない泣き声をあげる子犬のようで、
茶々丸は知らない内に口元は笑みの形を作っていた。
そして思わず、慰めの声をかけていた。


「雨音さん、そんなに気にしないで下さい。
 割れたカップは誰かの思い出の品であったり、高価な物ではありません。当然、塵取りも。
 ですから、雨音さんが気にする必要はありません。わざと壊した、という訳でもないでしょうから」
「……はい」


心なしかホッと表情を緩ませた理多に、茶々丸は胸を撫で下ろした。

問題を一つ片付けたところで、茶々丸は続けて手に持ってるゴミも片付けに行く事にする。
ゴミ箱は居間の奥、キッチンにあり、その間理多から完全に目を離してしまう事になるのだが、
その事に対して茶々丸は、緊急事態だからと誰にともなく言い訳をした。

そんな自分に驚きつつ、ゴミを捨てて再び居間に戻った茶々丸が見たものは、
片付けたと思っていた問題が違う形で復活している光景だった。


「あの、雨音さん?」


理多はまだ、隅で膝を抱えていた。
てっきり問題は片付いたので椅子に戻っているものだと思っていた茶々丸は、少々戸惑いながらも考え始めた。
カップと塵取りの件に関して理多は茶々丸の言葉を聞き納得し、確かに一度は解決した筈なのに何故と。

その訳はすぐに気付いた。
そう、根本的に問題が解決した訳ではないという事に。
茶々丸が導き出した答えが正しかった事は、理多の口から直接語られた。


「私は此処でいいんです。さっきは大丈夫だったみたいですけど、今度は大切な物を壊してしまうかもしれないですから。
 あ、邪魔でしたら押入れの中にでも……」


本当に押入れの中に入るつもりでいるのか、キョロキョロと辺りを見回し始める理多。
一度入ってしまったら、理多はそのまま二度と出てこない気がした茶々丸は、このままでは拙いと、とっさに提案していた。


「――練習しましょう」
「え……?」


何の練習ですかと顔に書いてポカンとしている理多。
そんな理多から僅かに視線を逸らした茶々丸は、無表情ながらも自分の発言に驚いていた。

理多はエヴァに危害を及ぼすかもしれない要注意人物、警戒対象だ。
にも拘らず、先程は片づけるためとはいえ命令に背く行動をしたり、
落ち込んだ理多をを気遣ってとっさに練習をしようなどと言うなんて、と。

何が原因かは判らない。
しかし、どうやら自分は理多に対する警戒心が薄れ始めているらしい。
そう自己分析しつつ、茶々丸はどうしようかと考えた。

結論は、一度声に出して言ってしまった以上、責任を持って行うというものだった。
ちなみに何の練習かと言うと――


「手加減の練習です」


カップや塵取りを壊してしまった原因は判りきっていた。
要するに理多は、吸血鬼となって増加した力の制御が上手くできていないのである。
だから加減が判らず、物を握り潰してしまう。

そうしてしまわないようにするには、手加減ができるようにするしかない。
という訳で、世にも珍しい手加減の練習が始まるのだった。


 ◆


練習を始めるにあたり、まず茶々丸は外にある物置から、
後でまとめて処分するつもりで溜めていた大小様々な廃品を居間に運び入れる事にした。
その作業は、日光の問題で外に出る事ができない理多を、短い時間とはいえ家に残していかなければならず、
茶々丸は監視の役目を一時的に放棄する事となってしまっていたのだが、今度はその言い訳すらしなかった。
短い間に理多が見せた様々な表情に毒気を抜かれ、理多に対する警戒心が微塵もなくなってしまっていたのである。

手伝いたそうに見つめてくる理多の視線を無視しながら、茶々丸は一人黙々と運び続けた。
大人の男性でも一人で運ぶには厳しい量であったのにも拘らず、茶々丸は終始顔色一つ変える事はなかった。

そうして全てを運び入れた時には、部屋の中は物置のようになってしまっていた。
とは言え、運ばれてきた廃品や部屋にあったテーブルなどは壁際に寄せられており、
部屋の中心には円状の練習スペースが設けられている。


「なんだか、色々ありますね」


積み重ねられている廃品は、羽が割れてしまっている扇風機や何かの金属片など個性豊か。
そんな中、特に理多の視線を引いて放さないのは――


「特に、人形のパーツ? が、多いみたいですけど……人形、ですよね?」


人形であると言い切る自信がもてないのか、怖々とした様子で廃品の山を見る理多。
例え人形だと判っていたとしても、山積みにされた人形の手足、頭などは、見ていて気持ちの良いものではない。
お化け屋敷にでも置けば、不気味な最凶のオブジェクトとなる事間違いなしだろう。

茶々丸はその山から適当に一つ人形のパーツ、腕を手に取ると、人形である事が一目で判る間接を指差しながら理多に見せた。
間接には球体がはめられており、確かに人形だと理多はホッとした。


「もちろんこれらは全て人形のパーツです。マスターは真祖の吸血鬼であると同時に、人形使いでもありますから」
「人形、使い?」


聞き慣れない名称に、理多は首を傾げた。

人形使いとは、人形をまるで生きているかのように自在に操る者の事である。
表の世界での人形使いは、人形の手足や頭に糸を結び、
その糸を上から操って動かすマリオネットなどを使って人形劇を行ったりなど、人を楽しませる者だ。
だが、それに対して裏の世界での人形使いは、人形に武器を持たせて戦わせたりなど、
人形を使って人を恐怖に貶める者が殆どである。

エヴァは後者の人形使いであり、実力は超一流。
裏の世界で人形使いと言ったら、誰もがエヴァの名前を初めに思い浮かべる程である。


「マスターは人形を自ら作る事もしますから、こうしたパーツなどが多いのです」


言いながら、茶々丸は何の前ぶりもなく持っていた人形の腕を理多へと投げた。
それを理多は慌てて受け取り、そして塵取りなどと同じく握り潰してしまう。

バラバラとなって手から零れ落ちていく人形の残骸を見て、理多はため息を吐いた。
その様子を横目に、今度は金属の物体を取ると、茶々丸は宣言した。


「では、練習を始めましょう」


茶々丸が提案した手加減の練習法は、猿でも判る程に単純明快。
茶々丸が投げた物を理多が受け取る。ただそれだけである。
普通に物を壊さないように掴むだけでは、余り練習にはならないだろうと判断してのこの練習法だった。
これが壊す事なくできるようになれば、咄嗟に何かを掴もうとした時、壊してしまう程強く握ってしまわなくなるだろう。

しばらくの間お互いに無言で物を投げ合い、時々理多が握り潰す。
自分でも壊してしまうかどうかが判らない為だろう。
壊す度に理多はビクリとし、それを見て表情を緩ませる茶々丸。

そんな、何ともシュールな光景を繰り広げていた二人の内、
理多がもう何度目になるか判らない失敗をしながら、ふいに茶々丸へ尋ねた。
茶々丸を一目見た時からずっと気になっていた、ある部分の事を。


「あの……ずっと気になっていたんですけど……その耳の機械は、なんですか?」


服装がメイドである事も気になっていたが、それは茶々丸が見せた行動の節々から何となく理解できた。
見た目通り、エヴァのメイドか何かなのだろうと。
しかし耳の物は――

と聞いた直後、理多は一つのある可能性に気が付き青ざめた。
イヤリングなどのアクセサリーはともかく、普通は耳に機械を着けたりはしない。
会話をできているところからして、見た目的に何処となくそんな感じがするヘッドフォンという訳でもないだろう。

考えうるのは、機械を着けなければならない事情があるという事。
例えばそう、聴覚に何らかの異常があり、機械に頼らなければ――


「色々な機能がありますが……アンテナ、と言ったところでしょうか」


アンテナと聞き、理多はやっぱりと、考えなしに質問してしまった事を反省した。
そうして表情に影を落とした理多を見て、茶々丸は首を傾げる。
今の問答の何処に、理多が落ち込むような事があったのだろうかと。

いくら考えても判らなかったので、茶々丸はその訳を理多に直接聞く事にした。
そして、もし自分に非があったのなら、謝らなければいけないと思った。


「あの、何かご無礼を働いてしまったのでしょうか?」
「えっ? 無礼だったのは私の方です。ごめんなさい……」
「……?」


話が見えない。
てっきり自分に非があると思っていた茶々丸は、逆に謝られてしまい、ますます判らなくなった。
一つ判っている事は、自分は理多に無礼を働かれたとは微塵も思っていないという事。

アンテナについて聞かれていただけで、どうしてそう思わなければならないというのか。
顔に出さずに困惑する茶々丸と対照的に、顔に出して困惑する理多は、俯きがちに言った。


「その、あまり触れない方がいい事かと……」
「どうしてですか?」
「どうしてって……その、体に障害がある事とかって、気軽に聞いちゃ――」
「――なるほど、それででしたか」


ようやく理多の考えている事を察した茶々丸は練習の手を休めると、自身の手を理多に差し出した。


「雨音さん、私は別に、耳が悪いからアンテナを着けている訳ではありません。見てください」


耳の話しをしているのに何故手をと思いつつ、理多は言われた通り差し出された茶々丸の手を見た。
そしてようやく気付く。指や手首の関節部分が球体関節になっており、
丁度、積み上げられている人形の手のようになっている事に。


(……義手?)
「ちなみに、義手ではありません」


頭に浮かんだ言葉を、まるで心を読んだかのような絶妙のタイミングで否定される。
では一体、この間接は何だというのか。そして何故、アンテナを着けているのか。

そうである事を当然のように言う茶々丸。
それではまるで、自分はロボットだと言っているようではないかと理多は思った。

だが、そんな事は在り得ないと、その考えはすぐさま否定する。
もし仮に、茶々丸のような人間としか思えないロボットが存在するのなら、もっと話題になっていてもおかしくはない筈だと。

しかし、理多は知っている。
在り得ないモノが在り得るモノとして存在している、裏の世界の事を。
そしてその存在は、表の世界の人たちに隠されている事を。

魔法使いや吸血鬼が居るのだ。その中にロボットが加わったところで然程変わりはないだろう。
寧ろ、ロボットの方がまだ現実味があるというものだ。

もし間違えていたら恥ずかしいなと思いながら、理多はやや緊張した面持ちで、自身で導き出した答えを言った。


「茶々丸さんは……ロボット、なんですか?」


その問いに、茶々丸は一拍おいて頷いた。

不思議と、驚きはなかった。
でもそれは当然の事なのかもしれない。
吸血鬼にされ、魔法使いに襲われ、刀で斬りつけられ、銃で撃たれた経験をもっているのだから。

改めてそれらを思い返し、とんでもない事になってしまったものだと、理多は少し涙が出そうだった。

茶々丸の説明によると、茶々丸は科学の力だけで作られた訳ではなく、
魔法と科学の融合で作られたガイノイドタイプのロボットとの事。
エヴァの魔力が封じられ、それまで魔力によって動いていたエヴァをサポートする人形たちが動けなくなってしまった為、
魔力をマスター以外からも供給できる茶々丸が作られたらしい。

説明を受けた理多は、改めて茶々丸をまじまじと見つめた。
茶々丸がロボットである事を示す、耳のアンテナや球体間接などのあからさまな部位。
茶々丸がロボットであると知っている今なら、確かに茶々丸はロボットだった。


(でも――)


理多は、今こうして二人で過ごす中で見た茶々丸という存在を思う。
茶々丸は感情を殆ど表に出さないだけであり、決してない訳ではないのだと、理多は茶々丸に確かな"心"を感じていた。

だからもし、耳や間接などの外見的な問題が解決された時、ロボットでありながら心を持つ茶々丸は――


(私なんかよりずっと、人間です……)
「どうかしましたか?」


羨む感情が表情に出ていたようで、茶々丸が不思議そうに声をかけてきたが、
理多は笑みを浮かべてなんでもないと首を横に振った。
吸血鬼になってから、理多の気分は今まで生きてきた中で比べるまでもなく最悪だった。

だが自分の不調で誰かを心配させる事が嫌だった理多は、
今更遅いと思いながらも、様々な感情を胸の内にグッとしまい込んだ。
以前ずっと、そうしてきていたように。


「練習、頑張らないとですねっ」


そして理多は、今できる最大限の明るさで、自分に言い聞かせるように言って気合を入れた。
少しでも暗い気持ちを吹き飛ばすように、歪な笑顔を浮かべながら。



[26606] 第1章 8時間目 仮面下の素顔
Name: あかいつき。◆3327a354 ID:742ccd16
Date: 2011/03/20 13:54
集まりから帰宅したエヴァの視界広がるのは、悲惨としか言いようのない光景。
悲惨と言っても、血溜まりがあるだとかそういった感じのものではなく、
まるでオモチャ箱を引っくり返したかのような、物が散乱している室内だった。
ごみ箱を、と言った方が近いかもしれない。
とにかく数十分前の、それこそ塵一つない位に綺麗で整然としていた姿は見る影もなかった。

エヴァは床に散らばる物たちが、物置にあった廃品だという事はすぐに判った。
だが、何故それらが此処にあり、あまつさえ散らばっているのか。
少量ならまだしも、目算では全部を部屋に持ってきたとしか思えない量。
そんな量を、一体何の為に?

訳が判らず、徐々に眉間にしわが寄って行くエヴァ。


「マスター、これは、その……」


出かけている間に自分の家を荒らされたのだから、怒るのも無理はない。
それはこの練習を提案した時から想定していたし、覚悟もしていた。

しかしどうやら覚悟が足りていなかったらしい。
室内を見回したエヴァが見せた渋い表情に、彼女を出迎えた茶々丸はあたふたとしてしまう。
しかしエヴァが怒っているなど、大きな勘違いである。
エヴァは怒って渋い表情をしている訳ではなく、ただ考え込んでいただけなのだから。

そんな茶々丸の人間味溢れる反応に、エヴァは思わず笑みをこぼしそうになる。
だが理多が見ている手前、素直に笑う事が少々気恥ずかしかったのか、エヴァは咳払いを一つ。
気持ちを切り替える事でそれを耐えながら、エヴァは眉間を押さえると表情を和らげた。


「別に怒っている訳ではない。お前が意味もなくこんな事をするとは思っていないからな。何か訳があっての事なのだろう?」


尋ねてくる声に努気が含まれていない事を感じとった茶々丸は、ホッと胸を撫で下ろした。
そんな茶々丸を見て、ハラハラとしながら二人を見ていた理多も、同じく安心する。
室内が散らかる事になった原因は自分にあると、茶々丸を庇おうと考えていた理多だったが、その必要はないようだ。

二人の信頼しあっている関係を羨ましく思いながら、理多は茶々丸に代わって訳を話した。


「その、茶々丸さんは私が手加減できるようにって、練習を手伝ってくれたんです」
「あー……」


たったそれだけの説明で、エヴァは部屋の状態に納得したようだった。
何故手加減の練習をなど、まだ説明するつもりでいた理多と茶々丸にとってその反応は予想外のもので、
理多と茶々丸はお互いに意識をする事なく、同時に首を傾げた。

玄関で立ち話をしている状態だった理多たちは、とりあえず話は一旦中断し、座る場所の確保を始めた。
といっても、片づけをしているのは理多と茶々丸の二人だけで、エヴァは部屋着に着替える為に自室へ入っていた。
だから決してサボっている訳ではなかったのだが、着替えが終わった後掃除が終わるまで、
自室から顔を覗かせていただけだったのだから、結果的にはサボったようなものなのだが。

そんなエヴァに、片づけをしていた二人は何も言わなかった。
茶々丸は主に雑務をさせる気など端からなく、理多は自分が散らかしたのだから自分で片づけるのは当然だと思っていたからだ。

二人は散らばる廃品の残骸を掃いて軽く水拭きをした後、
テーブルを元の位置に戻してそれぞれ椅子に座ると、早速茶々丸はエヴァが出かけてからの事を報告した。

エヴァは茶々丸の話す内容に、どこか懐かしむような表情で床に散らばる廃材の欠片を手に取る。
そしてそれを手で弄びながら、エヴァが先程見せた反応と、今見せている表情について疑問を浮かべている理多たちに呟いた。


「いやなに、懐かしいと思ってな」
「懐かしい、ですか?」
「私もしたからな。手加減の練習を」


手加減の練習なんてものをしているのは自分だけだと思っていた理多は、驚くと同時に仲間が居た事に少し嬉しくなる。
茶々丸も、エヴァは何でもできる主だと思っていた為に驚いていた。

しかし考えてみれば、エヴァも初めから完璧な真祖の吸血鬼という訳ではないのだから、
理多のような時があって当然なのだが、どうも茶々丸には想像できなかった。
エヴァが思わず物を握り潰してしまい、涙目になる姿を。


「吸血鬼になりたての頃だ。人間だった時と同じ要領で力を入れると、触れる物全てが壊れるからな。
 生活する為に練習したよ。まぁ、練習をしたという事しか覚えていないが」


どうだったかなと記憶を探るエヴァに、理多は授業中のように手を上げてから質問をした。
おいそれと聞くような事ではないと頭では判っていたが、疑問が勝ったようだ。


「あの、エヴァンジェリンさんはいつ吸血鬼になったんですか?」


昔の事過ぎてとエヴァは言ったが、理多の目には、エヴァは十歳前後にしか見えない。
そんなエヴァが、数年前の事を昔の事過ぎると言うのには違和感があった。
ただ単に、少し過剰に言った可能性も否めないが。

理多の質問に対し、特に気を悪くした様子もなく理多に告げられたエヴァの答えは、
驚きを通り越して唖然としてしまうものだった。


「中世の頃。百年戦争は知ってるか? 大体その頃だ」
「ちゅうせ……中世!?」
「約六百年程前ですね」


確かに、それ程までに昔の事であるのなら、エヴァが昔の事過ぎてと言った事には納得できる。
だが疑問が一つ解決したところで、もう一つの疑問が新たに生まれてしまった。

吸血鬼になったのが六百年程前という事は、六百年程生きているという訳でもあり、エヴァの年齢は六百歳程という事になる。
六百年近く生きる事自体は、吸血鬼であるなら可能なのかもしれない。
しかしそれなら何故、外見が小さな女の子なのだろうと。
魔法だからで、何でも解決できそうではあるが――


「私の外見が六百年生きた者のように見えない、そんな顔をしているな。知らんのか?
 吸血鬼になると、体の成長が止まるんだぞ?」
「――――え?」


理多だけ時間が止められたかのように、ピタリと固まって動かなくなってしまう。
数秒して、ギギギという音でも聞こえてきそうな重い動きで、理多はゆっくりと自身の胸に手をやった。
理多の胸は、同年代の平均値を大きく下回る、ハッキリと言ってしまえば、見事な平らっぷりだった。

それでも理多は、希望を捨てていなかったのだ。
いつか、背と共に大きくなると。成長期が人より少し遅いだけなのだと。
しかしその希望は叶う事なく、無情にも儚く散ってしまった。


「まぁ、なんだ……お前に魔法使いとしての素質があったら、姿を変える事ができる幻術を教えてやる。
 まぁ、使った後に切なくなるが……」


理多と同じく色々な部分が小さなエヴァは、理多に哀れみと同情の視線を向けた。
その視線を受け、自分にはもう本当に希望が残されていないのだと理解した理多は――


「あぅ……」


死んだ。
精神的な意味で。


「マ、マスターはどういった練習をしていたか、少しも覚えていないんですか?」


テーブルにおでこをつけて突っ伏し、口から魂的なモノが出てしまっている理多は一先ずそっとしておく事に決め、
茶々丸は今後の参考の為、そして単純な興味からエヴァに尋ねた。
エヴァは腕を組み、うーんと唸りながら改めて記憶を辿ってみるものの、やはり思い出す事はできなかったようだ。

無理もない。どんなに記憶力があろうとも、それだけ昔の事を覚えていられるかといったら否だろう。
記憶にハッキリと残るような、強く印象に残る何かが手加減の練習中に起きていれば、
可能性は無きにしも非ずだったかもしれないが。


「どうだったかな。できるようになるまで、そう時間はかからなかったとは思うが……練習の成果はどんな感じなんだ?」
「はい。雨音さんは運動神経が良いみたいで、余程早く投げたりしない限りはもう」


茶々丸は理多に目を向けると、少し嬉しそうにして言った。
そんな茶々丸に微笑みつつ、エヴァは理多を改めて観察する。

身長はエヴァよりも頭一つ程度大きい位で、見た目は中学の下級生といったところ。
華奢で小さくまとまっている体格と、リボンで結わかれた小さな二つのツインテールが耳のように見える事も相まって、
どこかか弱い小動物を連想させる理多は、とても運動ができるようにエヴァには見えなかった。


「ほぅ、それは意外だな。こんな成りで、運動神経が良いとは」


小動物は小動物でも動ける小動物なのかと、感心したように言うエヴァに、
ちゃっかり聞き耳を立てていた理多は少し頬を染めた。
理多に意識を向けていた事もあり、それを鋭敏に感じ取ったエヴァと茶々丸の二人は、顔を見合わせて苦笑した。


「それで、練習はまだ続ける気でいるのか?」


部屋の隅、もう残り僅かとなっていた廃品を見ながら言うエヴァが、理多の反応に気付いていない振りをして話を続けた。
そんなエヴァに再び苦笑しつつ、茶々丸は首を横に振って否定した。


「いえ、マスターに迷惑をかける訳にはいかないので、今日はもう……」
「私なら別に構わないぞ? 生憎と暇だし、なんなら手伝うが」


珍しくエヴァは乗り気のようで、自ら手伝いをすると言って茶々丸を驚かせた。
ただ驚かせる為だけに言ったのではない事を示すように、
エヴァは手の平にサッカーボール位の大きさがある氷球を魔法で作り出す。
どうやらこの氷球を使って、練習をしようという事らしい。



「宜しいのですか? 貴重な魔力を使ってしまって」
「これ位の物、百個作っても消費した事にはならん」


エヴァの作った氷球は中が空洞になっており、普通に投げて受け取るのに耐えられる程度の厚さでできていた。
だからエヴァの言った大した消費ではないというのは、強がりではなく事実だった。
その代わりに、創るのには高度な技術が必要なのだが、六百年を生きる熟練の魔法使いであるエヴァには朝飯前だった。


「少々冷たいが、これなら壊れても消えてなくなるだけで、部屋が散らかるような事はないだろう……どうする?」


伏せながら二人のやり取りをチラチラと見ていた理多に、指先で器用に氷球を回しながらエヴァが問いかける。
茶々丸は理多に判断を任せると、何も言わずに理多の言葉を待った。
二人の視線を受けて体を起こした理多は、しばらく考えた後、暗い気持ちを振り払って応えた。


「あの、お願いします!」


深い絶望と悲しみを乗り越え、理多の手加減の練習、第二ラウンドが始まった。


 ◆ ◆ ◆ ◆ ◆


日が沈み、空が黒で染めあげられ、今宵も吸血鬼の時間が訪れる。
だが吸血鬼である筈の理多は、用意されたベッドでスヤスヤと寝息を立てていた。
どこまでもらしくないなと、理多を何気なく見つめていたエヴァは呆れた。


「よく眠っていますね」
「まぁ、さっきまでずっと神経の使うキャッチボールをしていたからな、無理もないだろう」


氷球を使った練習は、開始から途中、二回食事休憩を挟んだだけでずっと続けられた。
初めは一対一で行い、それに慣れてきたら三人輪になり、最終的には二球同時に使って行われた。
そうやって次々と難易度が上がっていく中、理多は必死に食らいついていき、
不意打ちにも手加減して受け止めるようになったのだった。

今日の内にそこまでできるようになるとは思っていなかったエヴァは、
茶々丸が言っていた、理多は運動神経が良いという評価を認めざるを得なかった。
最も、疑っていた訳ではなかったが。

しばらくお互いに沈黙し、部屋が静寂に満たされる。
理多の腕に着けられた点滴の音だけが響いていた。
その静寂を破って口火を切ったのは、点滴が滴る様を眺めていた茶々丸だった。


「マスター、雨音さんの処遇はどうなったのですか?」
「常時監視。加えて外出禁止の二つだ」


そう言いながら、エヴァは天井を指差した。
その指先を追って茶々丸は目線を上げると、天井に小さな人型、刹那の式神が居るを確認する。
すると見られたからか、式神はこそこそと見えない位置に身を隠した。


「期間は決まっていない。じじいの気紛れだな」
「ですが、それでは――」
「外出の許可が下りたとしても結果は変わらんだろう。
 まぁ、もう少しコイツの我が侭に付き合ってやるつもりだ。その事については一応考えがあるしな」


知らず乗り出していた茶々丸だったが、エヴァの言葉に安心し、体を引き戻した。
そんな茶々丸に、エヴァは覗き込んで目を合わせると、からかうような意地の悪い笑い声をあげた。


「ククク、随分とコイツを気にかけているじゃないか?」
「それはっ……」


心なしか喜んでいるようなエヴァの指摘に、茶々丸は照れたのか目を逸らした。
しかしすぐに理多へ視線を戻すと今日の一日の事を思い返し、自身の想いを整理する意味合いも兼ねてエヴァへと言った。


「今日一日、雨音さんと接して判った事があります」


エヴァは黙って、先を促した。


「一つ目は、良い人だという事」
「少し、お人好しが過ぎる気がするがな」


他人を思い、辛い吸血衝動に限界まで耐え抜いた事。
カップを割ってしまった時や、掃除や準備を積極的に手伝おうとした事。
ちょっとした事にも気が回り、自分よりも他人を気遣う性格だという事は、行動の節々から感じられた。
それも作為的にではなく、自然にだ。


「二つ目は、無理をしているという事」


午前中は沈んでいたが、丁度手加減の練習を開始した辺りから普通にしていた。
だが今の理多にとって、この普通というのは普通でない。
理多の境遇からして普通にしている事は難しく、朝の状態が今の理多にとっての普通な筈なのである。

それはつまり、無理をしているという事に他ならない。
おそらくは心配をかけたくないからだろうと、エヴァと茶々丸は推測していた。


「三つ目は……」
「ん、どうした?」


ここで突然、茶々丸は言葉に詰まってしまう。
確証がないからなのか何なのか、言う事を躊躇っているようだった。
しばらく茶々丸が言う決心がつくのを待つ事にしたエヴァは、暇潰しにそっと、理多の前髪を指先で弄びだす。

しばらくして決心をつけたらしい茶々丸は、片手を胸の前でギュッと握り締めると、
やや上目遣いになりながら戸惑った表情を浮かべつつ、理多とエヴァの顔を交互に見やる。
そして、しどろもどろ口にした。


「その、ロボットである私が、こんな事を思うのは変かもしれないのですが……」


茶々丸の脳裏に浮かぶのは少し前、理多が手加減を覚え、練習を終えた時の事。
その時に理多が感謝の言葉と共に、エヴァと茶々丸に見せた――


「笑顔が、可愛いと……」


吸血鬼の天敵である太陽のような、心が温かくなる笑顔。
その笑顔に、茶々丸は強く惹かれたのだった。

まるで好きな人に告白でもしているかのような茶々丸の態度に、
エヴァは今のお前も可愛いぞといって無性にからかってやりたくなる衝動に駆られる。
それを必死に堪えながら、エヴァは茶々丸に微笑んだ。


「なに、そう思う事は少しも変ではない。お前はそう思う事ができる、心あるロボットなんだからな」


そのエヴァの言葉に、茶々丸は少し嬉しそうにしていた。
だが一変して暗い表情になると、理多を見てぼそりと呟く。


「きっと、あんな風な笑顔を良く見せるのが、雨音さんの素顔なんでしょうね」


今の理多は、理多であって理多ではない。
そう、理多の笑顔を見た二人は確信していた。

エヴァはくるりと理多へ背を向け、ドアへと歩き出す。
茶々丸もすぐにその後を追った。エヴァがドアノブに手をかけ、音を立てないようにそっと開ける。
追いついた茶々丸はドアを手で抑え、その間にエヴァは外へ。
そしてドアを開けた時と同じくゆっくりと閉じながら、先に行かず茶々丸を待っていたエヴァに、茶々丸は呟いた。


「雨音さんが自然と笑顔を見せるようになる日が、来るのでしょうか?」
「……さぁ、どうだろうな。案外、すぐに見せるようになるかもしれんぞ?」


首を傾げる茶々丸によって、完全にドアが閉められる。
エヴァの意味深な発言に茶々丸が追求するも、エヴァは不敵に笑うだけで、答える事はしなかった。

しばらく茶々丸は珍しく食い下がったものの、エヴァは結局最後まで笑いを返すだけ。
話せない訳があるのかもしれないと聞き出す事を諦める事にした茶々丸は、エヴァへのお茶を用意しながら静かに願った。
理多の仮面が剥がされて素顔を見せるようになる日が、少しでも早く訪れるようにと――



[26606] 第1章 9時間目 不器用なココロ
Name: あかいつき。◆3327a354 ID:742ccd16
Date: 2011/03/23 20:12
習慣というものは環境の急激な変化にも揺らいだりする事はないようで。
目覚まし時計が鳴ったなどのキッカケも特になく、理多は平日にいつも家事をする為に起きていた朝の六時に自然と目を覚ました。
もっとも、昨日は度重なる疲労の所為でその習慣も機能せず寝坊してしまったのだがそれは仕方がない事だろう。

目覚めは良い方なので、二度寝の誘惑に襲われる事なく上半身を起こすと、身体の異変に顔をしかめてうずくまった。
全身を襲う気だるさや鈍い頭痛、そして眩暈といった症状から、風邪をひいてしまったのかと思う。

だが実際そうでない事は嫌々ながらもちゃんと判っていた。
この不調の原因は、人間で言うところの栄養失調のようなものであると。
貧血、と言った方がイメージとしては近いかもしれない。

血は理多が口から摂取する事を頑として拒否した為、毎夜人工血液の輸血パック三個分を寝ている間に点滴で摂取している。
その量が少ないからなのか鮮度の問題なのかは判らないが、不調が見られるところからしてどうやら血が足りていないらしい。
しかしだからと言って輸血パックの量を増やしてもらえるようお願いしたり、
自ら新鮮な血を求めて人から血を、なんて事をする気にはなれなかった。

不調、果ては死がそう遠くない未来に訪れると言われ、また察していたにも拘わらず、
唯一の解決策である"吸血"を拒絶したのは他でもない自分自身。
そんな我が侭を言っておきながら血が足りないなどと言える筈もなかった。
だから、そんな現状に対してできる事は一つだけ。


「我慢、しなきゃ……」


幸か不幸か我慢する事には慣れているし、死ぬサイゴまで吸血を我慢し切る自信もある。
しばらく此処に居させてもらい、その間に何らかの解決策が思い浮かべば万々歳。
何もせずとも死なずに済む可能性だってゼロではないかもしれない。

だがもしそれらが無理であると確定した場合、今のところ吸血をして命を長らえる位ならという気持ちに変化がない以上――

生への執着や死への恐怖は、今も胸の内で激しく渦巻いている。
だからまた理性を失って暴走してしまった夜のように、死を目の前にしたら気持ちに変化が生じるかもしれない。
そればっかりは、その時になってみないと理多自身にも判らないが。

まだ若干重たく感じる目蓋を擦りながら重たい動きでベッドから降りると、部屋を出て洗面所へ。
朝だというのに、今まで寝ていた部屋も含め家の中は夕暮れ時のように薄暗い。
これは理多が日光を浴びてしまわないようにと家中全ての窓にカーテンが掛けられている為だ。

そんな朝か夜かも判らないような環境を、吸血鬼だからなのだろうか、エヴァは迷惑がるどころかむしろ快適だと言っていた。
それが本心からの言葉なのかそうさせてしまっている理多を気使ったのかは不明だが、どちらにせよ理多は申し訳なく思った。

顔を冷水で洗い流すと、不思議と少しだけ体が軽くなったような気がした。
洗面所の棚に積み重ねられているタオルを一枚使わせてもらい、理多は何気なく正面の鏡へと目を向ける。
鏡に映っているのは、吸血鬼になる前と変わらない長年見慣れた自分の顔。
唯一の違いは牙位なもので、口を開かなければ何処にでも居る少女だった。

いっそ吸血鬼バケモノとなった時、
それに相応しい外見になっていれば人間の心を捨て吸血鬼として生きていく気になれただろうか。
否、結局それも、雨音理多が死ぬという事に変わりはないのだろう。
そう考えると、頑張り次第で外見と心だけでも人間として死ぬ事ができる現状は意外と幸せなのかもしれない。


「――よしっ!」


気が沈むような事を考えるのはここまでと、理多は軽く頬を叩いて気持ちを切り替える。
鏡で見た感じ顔色は悪くない。自ら体調が悪い事を告白しなければ、エヴァたちに心配をかける事はないだろう。

とりあえず今は先の事を考えないようにして、今日を乗り切る事だけを考えよう。
そう決めていつもの形にゴムで髪を結わくとリビングへ向かった。
心身の苦痛を悟られぬよう、顔に仮面を被りながら。


 ◆


リビングには、昨日の物とは少し違うメイド服に身を包んだ茶々丸が居た。
茶々丸は理多の立てた足音に振り返ると少し驚いた表情を見せ、続いて眉を八の字に歪めた。
目に見える変化はそれだけでだったが、どことなく申し訳なさそうにしている雰囲気を漂わせていた。


「おはようございます雨音さん。もしかして、起こしてしまいましたか?」


どうやら、自分が何か物音を立てた所為で理多を起こしてしまったのではないかと思っているらしい。
この時間に起きるのは大抵主婦やお年寄りが殆どであるだろうから、そう思うのも無理はないが、それは勘違いである。
理多は茶々丸の所為でない事と合わせて自身の習慣についても話し、やや遅れて挨拶を返した。

家事に取り掛かった茶々丸へ自ら手伝いたいと名乗り上げた理多は、指示された仕事を手慣れた様子で片づけていく。
その姿に茶々丸は感心すると同時に少し対抗心を燃やしながら家事を進めていると、
気付けば七時を過ぎ、朝食を用意する時間となっていた。

キッチンが狭いという訳ではないが、料理は下手に手伝っても邪魔になる可能性が高い。
いつもなら理多も朝食を作る為、茶々丸のようにキッチンに立っているところなのだが、生憎と此処は自宅ではない。
どうしようかと迷った末、理多はキッチンとリビングの境界辺りの壁に寄り掛かると、茶々丸の調理姿を見学する事にした。

他人の調理姿を調理実習以外で見た事がなかった為、自分との差異などに興味があったのだ。
見られている事に気付いていながら何も言ってこないところからして、どうやら見学許可は得られたらしい。
とは言え、なるべく邪魔にならないように息を潜めようとした直後、冷蔵庫のノブに手を掛けながら不意に茶々丸が尋ねてきた。


「雨音さんは和と洋、朝食にはどちらが好みですか?」
「えっと、和食……です」


何故そんな事を聞くんだろうと思いながらも、特に隠すような事ではないので素直に答える。
ちなみに直人が和食派で、理多もどちらかと言えばやはり和食派であった為、雨音家の朝はいつも和食だった。
たまに理多が寝坊してしまったりなどして和食を作る時間がなく、洋食――と言ってしまっていいのかは疑問だが、
パンを食べる事が稀にある位。

洋食の方が何かと手間は掛からずに楽なのだが、やはり日本人だからなのだろうか。
多少手間が掛っても朝食にはお米が、和食が良かった。


「では、和食にしますね」
「え? で、でも……」


ただの雑談だと思って答えた内容がそのまま朝食になってしまいそうになり、理多は困惑する。
居候させてもらっている身である自分の好みに合わせず、家主であるエヴァの好みに合わせて作るべき。
そう口にしようとするも、その前に先手を打たれてしまう。


「マスターは和食好きですから、問題ありません」


問題ないと言い切られてしまい、理多は何も言えなくなってしまう。
茶々丸が言うには、エヴァは和食が好きと言うよりもお茶が好きで、お茶が合う和食が好きなのだそうだ。
では何故お茶好きであるにも拘わらず、今まで出された物が紅茶だけだったのかと理多が尋ねると、
外見とのギャップから変に思われないようにする為だったようだ。

エヴァがお茶好きという事を隠していた気持ちは、なんとなく判らないでもない。
でも、と理多は失笑する。ログハウスに和室がある時点で、その事は一目瞭然なのに、と。

そういった会話をしながらも、茶々丸は熟練のシェフを思わせる無駄のない動きで調理を進めていた。
そしてあっという間に作り上げられた朝食を見て、理多はその速さと出来に自然と小さく拍手をした。

しかし茶々丸はそれに対し、喜ぶどころか表情に影を落としてしまう。
作るのが早いのも美味しくできるのも、そうできるようプログラムされているからであり、自分の実力ではないと。

確かに茶々丸が自分で言った通り、プログラムされているからそうする事ができているのだろう。
例え毎日料理をしていたとしても、料理を始めて二年では到達し得ない動きを茶々丸はしてみせていたのである。
それを目の前で見ていた為、機械にはあまり詳しくはない理多にも何となく理解できた。

しかし料理は、上手く美味しく作る事だけが全てではない。
故に、茶々丸が落ち込む必要はない筈だと、理多は茶々丸のわきをすり抜けておかずの卵焼きを一口摘み食いした。
卵焼きはできたての熱々でハフハフとしながら良く味わった後、理多は『やっぱり』と頷いた。

「茶々丸さんは、プログラムされたレシピ通りに卵焼きを作ったんですか?
 それにしては、少し甘味が強いような気がするんですけど」

もしレシピ通りに作ったのだとしたら、甘味が強いというのはおかしい。
レシピというものは通常、個人的なものでもない限り甘すぎたりする事はない平均的なものである筈だからだ。
だが、茶々丸の作った卵焼きはそうではなかった。


「それは、マスターが甘い方が好みなので、少々独自にアレンジしてありますが……」


その答えに、理多は嬉しそうに微笑んだ。レシピ通りに作っていたのなら理多は何も言えなかっただろう。
与えられた技術とレシピで作った物は、確かに茶々丸の料理とは言い難いからだ。

 だが茶々丸は自らの意思で食べてもらうエヴァの好みに合わせ、レシピにアレンジを加えた。


「例え技術が与えられたモノだったとしても、食べてもらう人の事を想って作ったのなら――」


腰に手を当て、少しお姉さんぶるようにして茶々丸へと言った。


「それは立派な、茶々丸さんの愛情料理です」


プログラムされた事をプログラムされた通り完璧にこなす。傍から見れば、それは何でもできて羨ましく思えるかもしれない。
しかしそれはプログラムされているからできるのであり、そこに茶々丸という存在の力は関与していない。

当然だ、茶々丸がプログラムを動かしているのではなく、茶々丸がプログラムに動かされているようなものなのだから。
言ってしまえば、茶々丸でなくとも同じ機能を持ったロボットなら茶々丸と全く同じ物が作れてしまうのである。
それを茶々丸はロボットだから仕方がないと思いつつ、しかしどこかで気にしていたのだ。

だから茶々丸は理多の言葉が、自分の料理であると言ってくれた事が――


(これが、この感覚が、"嬉しい"という感情……)


自分に心が在るという事。それは聞かされていた事であったが、茶々丸はそれを自覚する事はなかった。
あってもなくても、どちらでも構わないとすら思っていた。
しかし一度自覚してみれば、その考えが酷く愚かに思えてしまう。

自分の胸に手を当て、そして目を閉じる。
体に異常は見られないにも拘わらず、胸の内がポカポカと温かくなっているのを感じた。
この温かさと嬉しいという感情を与え、教えてくれた理多にお礼を言いたい。


「あ、そうだ」


そう思い、茶々丸が口を開くその前に、料理をリビングへと運び始めていた理多が不意に振り返り――


「茶々丸さんの卵焼き、凄く優しい味がして美味しかったです!」


昨夜理多が見せ、そして茶々丸を魅了した笑顔を浮かべた。


「……っ!?」


それはもう、完全な不意打ちだった。
向けられた理多の笑顔と言葉は、心構えも何もなく、自覚したばかりの心に直撃。
茶々丸はポンッと頭から煙を出し、顔を真っ赤にしながらフリーズした。


 ◆


八時少し前、全身から眠いオーラを漂わせたエヴァがリビングに現れ、朝食を開始。
出された朝食とお茶が和物である事に驚き、エヴァは少し目が覚めた様子だった。
そんなエヴァに対して、エヴァが和物好きである事を理多が知っている事を話すと、少し恥ずかしそうにしていた。

しばらくし、エヴァが卵焼きを口にしたところで、理多が美味しいですかと訪ねた。
突拍子もないその問いにエヴァは訝しげな表情を浮かべながら、頬張った卵焼きをそしゃくする。
この卵焼きに何かあるのだろうかと警戒するも、いつも通りの味だった。


「まぁ、私好みの味だが……」


クエスチョンマークを頭上に浮かべながらのその答えに、理多ははにかみながら茶々丸へと目を向ける。
茶々丸は照れ臭いのか理多にそっと目を合わせると、見間違いようのない微笑みをハッキリと浮かべたのだった。



[26606] 第1章 10時間目 それぞれの過去
Name: あかいつき。◆3327a354 ID:742ccd16
Date: 2011/03/20 13:55
日差しが降り注いでいる所為で外には出られず、家事は茶々丸と二人で行い早々に終了。
暇を持て余していた理多は、虚ろな眼差しでテレビを眺めていた。
しかし映像からもたらされる情報は、何一つ頭に入ってきていない。
何かをしていなければ色々と考え込んでしまいそうで、現実逃避の為に眺めているだけなのである。


(……寝ようかな)


電気代もタダではないし、その上此処は他人の家。
現実逃避が目的であるなら、寝ていた方がお金もかからず、また体を休ませる事ができ一石二鳥。
そう思い、テレビを消そうとリモコンへと手を伸ばしたところで、エヴァが理多の正面に腰を下ろした。

テレビを見たいのかなと思たが、エヴァの視線は理多へ向けられている。
自分に何か用があるようだと察した理多はテレビを消し、姿勢を正してエヴァへと向き合った。
そして理多は、学園が下した自分への処遇を聞かされるのだった。

驚きはなかった。
それはおそらく、監視の目がある事に薄々感づいていたからだろう。
外出禁止、つまり信用されていないという事にも、然程ショックはなかった。
だから理多は一言そうですかと呟くだけで、後は何も言わなかった。
下された処遇について納得していたし、言い方を変えれば、諦めてしまっていたからである。

むしろ、何か物言いたげにしていたのはエヴァの方だった。
理多の反応が気に入らなかったのだ。別に、文句を言ってほしい訳でも暴れてほしい訳でもない。
何の反応も見せず、黙って受け入れた事に苛立っていた。


(少し探ってみるか……)


知ったところで何になるという訳でもないのだが、
何故そうまでして自身の内に色々なものを秘めようとするのかに興味があった。
吸血衝動を耐え続けたところからして、理多の秘密はそれよりも前、普通の少女として過ごしていた時にある。
そうみたエヴァは、さり気なく探りを入れようかと考えるも、めんどうなので率直に尋ねた。


「理多、お前の過去について話せ」


唐突な問いに、理多は目を丸くした。過去について話す事は特に問題ない。
しかし、今でこそ吸血鬼になってしまっているが、つい最近までは何の変哲もないただの少女だったのだ。
話せと言われて話すような事は、これと言って思い当らなかった。ましてや、他人が聞いて楽しめるような事など何も。


「それはいいですけど、面白い事は――」
「いいから話せ」


理多の言葉を遮って、エヴァが拒否する事は許さないという眼差しと共にぴしゃりと言い放つ。
何でそんな事を聞きたがるんだろうと首を傾げつつ、理多はつまらないですよと始めに断りを入れて話し始めた。
少しだけ特殊だった、自身の過去の事を――

雨音家は、特にこれと言った特徴のないごく普通の一般家庭だった――
もっとも、今にして思えばそれは、直人が魔法使いである事を理多が知らなかっただけで、
本当に普通だったかどうかは微妙であるが。

しかしそんな一家にある日、悲劇が訪れる。
理多が小学三年生、直人が中学二年生に進級してしばらくした頃、両親が事故で死んでしまったのである。

親類は皆亡くなっていたのか、連絡が取れたのは一度も会った事がなかった母親の姉、叔母だけだった。
だがその叔母は、身元引受人になってはくれたものの、理多たち兄妹の面倒をみる事は一切せず。
遺産の殆んどを取り上げた後、理多たちをこれまで住んでいた家で二人暮らしさせたのだ。

両親の死を悲しむ余裕もなく、理多たちは叔母から渡された遺産の一部で必死に過ごし始めた。
直人が高校生になってバイトを始めてからは、そのバイト代で生計を立てるようなる。
一方で理多は、幼心に直人へこれ以上苦労をかけまいとして自ら家事を覚え、そして全ての家事を受け持つようになった。


「そういえば中学に進学してしばらくした頃、ちょっと無理がたたって倒れちゃった時は、お兄ちゃんに凄く怒られました」


話の最後にそう言って苦笑する理多を見て、エヴァはスッと目を細めた。
その表情が怒っているように見えた理多は、どことなく申し訳なさそうにエヴァの様子を窺う。
内容が内容である為手短になるよう努めたのだが、やはり話さなかった方が良かったのではないかと。
しかしそんな心配をしている理多をよそに、エヴァは一人思考に浸っていた。

話し始める前に自分で言っていたように、理多の過去はこれと言ったドラマもなく。
飢えに苦しんだ訳でも血を見た訳でも心の傷になるような事があった訳でもない、少し特殊なだけの苦労話。
それでも人に話せば同情を引く事はできただろうが、エヴァが抱いた感想は、特殊な人生の中からすれば至って普通で、
言ってしまえば"つまらない"というものだった。

だが、理多が隠している内面についてを完全に見抜く事ができた。
両親の死をキッカケに、頼る事を良しとせず何でも一人でやろうとするようになり。
元々のお人好しな性格から、辛くとも誰かに心配かけまいとしてそれを打ち明ける事をせず一人で耐えてきた。

それを幼い頃からずっと続けてきた所為で癖のようになり、頼るという事が精神的にできなくなっているのだろうと。
そしてそれらを可能とする為にかどうかは判らないが、頭の回転も悪くない。


(とてもそうは見えんが……)


若干失礼な事を思いながら理多を盗み見ると、何やら愛らしい表情でキョトンと首を傾げていた。
話せと言われたから話をしたのに、何も言わずに黙っていられているのだからその反応は当然だろう。
そしてそんな理多を見て、茶々丸は誰よりも長い間傍に居るエヴァも見た事がないような、気の抜けた和んだ表情をしていた。

朝食の時といい理多と何かあったのかと疑問に思いながらも、特に害はないと判断して思考を戻す。

頭の回転が早い。故に、現状について得た情報から色々な事を推測し、問題に対してすぐに結論を出してしまっている。
それが、本当に正しいのかを確かめずに。例えば、自身が助かる方法が一つしかないと思っている事とか。


(まぁ、その方が都合が良いのだが)


計画、と言う程のものではないが、理多に関する問題を解決する方法はすでに考えてある。
それを理多にしてやるだけの価値があるのか見せてもらう為、そして見せつける為には、
今のまま勘違いしてもらっていた方が都合が良いのである。
今理多が何を考え、どんな痛みに耐えているのかを想像すると少々可哀想な気もしたが、
得られるものを考えればそれでも釣りが返ってくるだろう。


「あの、エヴァンジェリンさん……?」


少々思考に浸り過ぎた所為で、放置されていた理多はどうしたらいいものかと困惑してしまっていた。
そんな理多に一言と謝ると、エヴァは過去の事を話してもらったお返しに自らの過去を話す事にした。
事細かく話そうとすれば何日かかるか判らない為、要所要所掻い摘んでではあるが。

初め理多は、エヴァの過去を聞くかどうか悩んだ。
六百年余り生きている、自分と同じ吸血鬼の歩んだ道。
全く同じという事はないにしろ、似た人生を歩むかもしれない。
そう考えると、聞くのがとても恐ろしかったのだ。

それでも理多は聞く事を選んだ。
自分を助けてくれたエヴァという少女を、少しでも知る事ができるように。

動乱続く中世ヨーロッパ。
何処かの城で何不自由ない少女時代を過ごしていたエヴァは、
十歳の誕生日に目覚めると吸血鬼の体にされてしまっていた。

犯人への復讐を果たした後城から逃げ出したはいいものの、まだ十歳で、
しかも箱入り娘であった少女に一人で生きていく力がある筈もなく。
更にまだ吸血鬼らしい弱点も残っていた為、最初の数十年はただ生きるだけで精一杯だった。

成長しない事を疑われないようにする為同じ場所に数年と留まれず、
隠す事に失敗してしまった時には、焼き殺された事もなぶり殺しにされた事もある。
一度たりとも人間の世界でも魔法使いの世界でも受け入れられる事もなく、
気付いた時には"極悪人"のレッテルを張られ、世界の敵となっていた。


「そんな"悪の魔法使い"である私が、今じゃ餓鬼共に混じって中学生。情けなくて涙が出る」


嘲笑的な笑みを浮かべながらそう言い、エヴァが話し終わらせる。
それに対し理多は、話の内容の凄まじさに、まるで石像のように固まってしまっていた。

理多が信じられなかったのは、エヴァがそれらの話を何気ない思い出を語るように口にしていた事だ。
そういう風に話せるのは過去の話と割り切っているからなのか、
それとも、感覚が麻痺してしまう程に、何度もそういった事にあったのか。
エヴァの様子からは、実際にどうなのかは判らなかった。


「他人を想い、血を吸う事を頑なに拒むお前は……
 己の為に人を殺し、悪事を重ねてきた私をどう思う? 軽蔑するか?」


薄らと表情を笑みの形に歪めながら浮かべながら、エヴァがそう問うてくる。
呆けながらも辛うじて聞き取ったその問いに、理多は何も言い返せなかった。
できたのは、軽蔑するか否かという問いに対して、無言のまま首を横に振る事だけ。

何かを求められているのだとしても、それに応えられるような事は何も言えそうになかった。
理多とエヴァの間に圧倒的な経験の差が存在している以上、
見栄を張ってそれらしい事を言ったところで意味はないだろうからだ。

そんな事はエヴァにも判っている筈なのに、エヴァは理多の答えをジッ見つめながらと待っていた。
だから理多は思い切って、話を聞いて思った事をありのまま言ってみる事にした。


「……どんな理由があったとしても、悪い事をしてきたエヴァンジェリンさんは、悪だと思います」


理由が何であれ、人を殺し、悪事を重ねてきたエヴァは間違いなく悪だろう。
だが誰だって死から逃れる為なら、例えその方法が悪い事だと判っていても生きようとするのではないだろうか。
その死が、理不尽なものであるなら尚更に。

生きたくてそう思ってしまう事はきっと、誰にも責める事はできない。
誰だって死ぬのは怖い事だし、嫌な事だからだ。幸いにも人を殺してしまう事はなかったが、
理多も生きたいと思うあまりその寸前までいきそうになった。
だから生きたいという強い想いが理性を凌駕する事は、身を以て十分すぎる程に理解していた。

エヴァもきっと、自分と同じだったのだと理多は思っている。
自ら望んで悪事を行ったのではなく、ただ、生きていたかっただけなのだと。
それは、エヴァが自分を助けてくれた恩人だからという理由からではなく。
まだ出会って間もなく交わした言葉も数える程しかなかったが、エヴァと、そして茶々丸と過ごして抱いた印象だ。

エヴァは悪。世界がそう評価した事には、理多も同意している。だけど――


「――だけど、エヴァンジェリンさんの事を一方的に悪だと決めつけて、傷つけてきた人たちも悪です」


悪事を積み重ねたエヴァも、そう間接的にさせた世界も悪い。
そんな理多の答えに、エヴァは内心驚きに胸が震えていた。

お人好しな理多の事、エヴァは悪くない、
可哀想などといった安易な同情の言葉が返ってくると予想していたからというのもある。
だがそれだけではなく、十数年前ある人物へ同じ事を問い、そして言われた事と同じだったからだ。


(まさか、アイツと同じ事を言われるとはな……)


理多の言葉をキッカケに昔の事を思い返し、少し感傷に浸っていると、理多の目元から滴が零れ落ちている事に気付く。
思わずその様を見つめてしまい、自然理多と目が合う。すると、理多は照れ笑いを浮かべながら涙を拭った。


「あはは、ごめんなさい。そんなつもりはなかったんですけど」
「ふん、話は以上だ。退屈だとは思うが、今日も家の中で大人しくしていろ」


その涙に若干のくすぐったさを感じながら、頷く理多を横目に自室へと向かう。
試す為に昔話をした訳ではないが、今の会話で気持は固まった。

自室へ入り、あまり使っていない化粧台の引き出しを開けると、桜が描かれた黒塗りの小さな宝石箱を取り出す。
中に入っているのは、様々な経緯で手に入れた色とりどりの宝石たち。
その中から金色の宝石を手に取り、電灯に照らしてみる。


「……これで良いか」


呟き、理多から預かっているネックレスが入っている巾着袋へその宝石入れる。
何故理多のネックレスを持っているかと言うと、エヴァが直してやると言って強引に奪い取ったからである。
これは親切心からの行動ではなく思惑があっての事だ。嫌がらせでは断じてない。

部屋着から適当な服に着替え、財布と巾着袋をポケットに入れて部屋を出る。
茶々丸に出かける旨を伝え、エヴァは欠伸を噛み殺しつつ街へと繰り出した。
暇潰しも兼ねて、工房へネックレスを直してもらうよう依頼しに行く為に。



[26606] 第1章 11時間目 侵食する渇き
Name: あかいつき。◆3327a354 ID:742ccd16
Date: 2011/03/20 13:56
エヴァが工房の職人にお母さんのを壊したのかいと言われてキレ、暴れた末に補導されかけた日の翌日。
式神で理多の行動を監視しそれを録画したモノを受信用の式神で確認しながら、刹那は報告書にペンを走らせていた。

これは明日行われる予定である理多に関する会議で学園長に提出する為の物だ。
基本的に監視を提案した刹那にこの件は一任されている為、刹那がこうして書類を書いているという訳である。
一任と言っても、何か問題が発生した時には監視している式神が自動で反応し、
魔法先生や魔法生徒たちに渡されている札に伝わるようになっている。

それだけではなく、理多が滞在しているログハウスの周りには結界が張られているので、セキュリティ面での心配はない。

キリの良い所で手を止めペンを机に転がすと、両手を絡ませ天井へと思いっきり上げて背伸びをする。
あまりこういった作業は得意ではない為、然程長い時間机へと向かっていた訳でもないのにも拘わらず疲労感に襲われる。

肩を揉みほぐしながらため息にも似た吐息を零していると、部屋のドアノブが捻られる音が耳に届く。
一般人に式神を見られてしまっては拙いと、刹那は慌てて式神を隠そうとするが、
念の為にと作業前に人除けの結界を張っていた事を思い出す。

札一枚で形成された簡単な結界である為効果は薄く、
魔法などの心得が多少なりともある者には容易に看破されてしまうが、一般人の目を欺くには十分。
その結界を潜ってドアノブに手をかけたという事はつまり、一般人ではないという事だ。
同時に式神を隠す必要はないという事でもある為、式神はそのままに開かれようとしているドアへと振り返った。


「――ん、仕事の邪魔をしたかな?」


そう言ってドアを半開きにしたまま部屋に入って良いものかと伺ってくるのは、この部屋のもう一人の主。
所謂ルームメイトというものであり、仕事仲間でもある龍宮だった。

大丈夫だと刹那が呟くのを聞き部屋へと入った龍宮は、
手に持っていたコンビニ袋をベッドへと置くと、刹那の書いていた報告書を覗き見る。


「例の吸血鬼のか。見ても良いか?」


覗いてから確認するのはどうなんだと思いつつ報告書を手渡すと、しばらく龍宮はそれを読み進め――
これはなんだと、怪訝な表情を浮かべながら報告書を返したのだった。

報告書を受け取り自らが書いたその内容を流し読みして、龍宮が訝しむのも無理はないと刹那は苦笑する。


「初めは私も目を疑いました。本当にこの少女は、あの夜私たちを殴り飛ばした吸血鬼なのかと」


報告書には、理多がエヴァたちと手加減の練習を行うところから昨夜眠るまでの行動が書かれている。
そのどれをとっても、吸血鬼という化物である事を感じさせるものは一つもなく、
むしろ行動や態度からは理多の優しさが見て取れ。
寝ている間に点滴で血を摂取するところ以外はごく普通の、
自分たちのクラスメイトたちと何ら変わりのない少女だった。

一昨日エヴァが理多を家に置いてきても問題はないと言っていた理由を、監視をしてみて納得する。
一番理多を警戒していた刹那もすでに当初の警戒心は消えており、
内心何故この少女を監視しているのだろうとすら思い始めていた。


「ちなみに、今は何をしているんだ?」


龍宮に聞かれ、刹那は式神を操作して監視映像を見られるよう出力する。
映し出されていたのは、エプロンを着用しキッチンに立つ理多の姿だった。
その姿があまりにも似合っていて、刹那と龍宮の二人はお互いに目を見合わせると、肩を竦めて苦笑いを浮かべた。


 ◆ ◆ ◆ ◆ ◆


茶々丸に代わって昼食を作らせてもらう為キッチンに立っていた理多は、懐かしさを感じていた。
最後にキッチンに立ってからまだ数日と経っていないというのにだ。
やはり非日常に足を踏み入れてしまったという事が、数日を数週間にも感じさせてしまっているのだろうか。

冷蔵庫から食材を取り出し、そんな事を思いながら料理を始める。
どんなに懐かしく感じようとも実際には数日ぶりというだけである為、腕が鈍ってしまっているという事はないようだ。
その事に安堵しながら、理多は手際良く料理を進めていった。

理多の料理の腕は茶々丸に負けず劣らずといったものだった。
ただ理多には茶々丸と違い、居るべき所に居る、そういった安心感のようなものがあった。
そんな理多の姿を見て茶々丸は改めて思う。この子は非日常に関わらず、日常に生きるべき存在だと。

料理は理多に任せてリビングでエヴァにエネルギー源であるゼンマイを巻いてもらっていると、
キッチンからステンレスの軽い音が響いてきた。
おたまでも落としてしまったのだろうかとキッチンを覗いてみると、予想通り床におたまが転がっていた。

気になるのは、落としたおたまには目もくれず、唇に手を当てながら立ち竦んでしまっている理多の様子。
少し、顔色も悪いように見えた。


「雨音さん……?」


手を滑らせておたまを落としてしまい、ショックを受けているという風には見えない。
もっと別の、声をかけたにも拘らず何の反応も見せられないでいる程の何かが起きたとみて間違いはないだろう。

茶々丸はもう一度声をかけながら理多の肩に手を置いた。
そこでようやく茶々丸の存在に気付いて顔を上げた理多の顔色は、やはり悪かった。


「……茶々丸さん」


覇気のない、今にも消えてしまいそうな声。
原因は気になるが、その前にエヴァへ理多の様子がおかしい事を知らせた方がいい。
瞬時にそう判断し、踵を返そうとした茶々丸を引き留めたのは、理多のぎこちない笑みだった。


「あはは、落としちゃいました」


恥ずかしそうにおたまを拾い、何事もなかったかのように振る舞う理多。
それがおかしいとは判っていながらも、実際に何か起きたところを見た訳でもない為原因を強く追及できなかった。
何より、追及したところできっと理多は何も言わないだろう。


「そうだ茶々丸さん、味見はできますか?」


何もしてあげられない事に歯痒さを感じながら渋々リビングへと戻ろうとしていたところへ、唐突に質問を投げかけられる。
茶々丸の動力は魔力であり、人間のような食事は必要としない。
しかし味見、と言うより成分分析は可能であり、
そこから味の良し悪しを大まかに評価する事ができるので一応できますがと頷いた。

すると理多は、手作りした料理の内の一品を小さな受け皿に移して茶々丸へと差し出した。
それを受け取ると首を傾げながら口へと運び、
プログラムされているレシピと分析結果を照らし合わせるなどして味の評価を導き出す。

結果は――高確率で美味しいと思われる。
酷く曖昧な解答であったが、それでも理多はホッと胸を撫で下ろしていた。


「ご自分で味見をして、美味しいと思えたのなら自信を持ってください」


何を不安に思っているのかは判らないが、味の心配する必要はないと理多へと微笑みかける。
そんな思いが伝わったのか、理多も微笑みを浮かべて呟いた。


「いつも通りに作った。だからきっと、美味しい筈……」


しかしその呟きは食器の接触音によって遮られ、茶々丸の耳に届く事はなかった。


 ◆


どうも理多の様子がおかしい。
茶々丸からそう言われるまでもなく、その事にはエヴァも気付いていた。
そしてそれは、様々な不安や慣れない環境からくるストレスや疲労が原因だろうと推測している。

他人がどうなろうと、普段のエヴァなら気にしなかっただろう。
しかし理多がそうなっている要因の一つが、自分が何も言わないでいる所為という事もあり、多少の罪悪感があった。

自室に居たエヴァは、リビングに居るであろう理多の様子を確認しようと部屋を出て二階からリビングを見下ろす。
理多は少々ぐったりとした様子でテーブルに突っ伏し、うさぎのぬいぐるみを指でふにふにと突いていた。


「……ふむ」


ぬいぐるみを見て何かを思いついたのか、エヴァは指を鳴らしてほぐすと、両手をリビングへとかざした。
数秒して、ぬいぐるみとの接続を感知、理多の死角へと身を隠すと、人差し指をくいっと上げた。
その次の瞬間、理多の戸惑いの声が聞こえてきたのだった。


 ◆


両親が死んで間もない頃。
まだ幼かった理多が家に一人で居た時だった時の事。
ぬいぐるみが独りでに動いて、一緒に遊ぶ事ができたら良いのにと思った事があった。
単純に遊び相手が欲しかったというのもあったが、本音を黙って聞いてくれ、慰めてくれる相手が欲しかったのだ。

成長するに従って我慢強くなり、そういった幻想を抱く事はなくなったが、
本気ではないにしろ、不意に動けば良いなと思わない事もない。
今もうさぎのぬいぐるみのお腹を突きながら、動けば楽しいのになと少し思っていた。
だが実際に自分の足で立ち上がったうさぎを前にした理多は、小さな悲鳴を上げた後に固まってしまう。

しかしそういった有り得ない事に慣れ始めていた為すぐに我を取り戻すと、うさぎのお腹を再び突いてみた。
するとうさぎはくすぐったがる仕草を見せた後、ぺちぺちと理多の指を叩いた。
その反撃に、理多の表情頬笑みの形に歪む。


(……可愛い)


しばらく理多は何考えず、お腹を突いてからかったりしてうさぎと遊んでいた。
すると突然、うさぎがテーブルに腰を下ろしたまま動かなくなってしまう。
それに対して、理多は慌てる事なくうさぎの頭上へ目を凝らして見つめた。

動き出した時には流石に驚いたが、途中からどういう仕組みなのかには気付いている。
今はなくなっているが、微かに見えていた二階からぬいぐるみへと伸びていた糸。
それと、茶々丸から聞いた人形使いについての事。
それだけ知っていれば、仕組みは容易に察する事ができるだろう。


「やってみるか? 暇潰しにはなるだろう」


声に振り返ると、十字の板から垂れ下がる糸に吊り上げられてぶら下がっている人形――
マリオネットを手にしたエヴァが立っていた。
理多はそのマリオネットを受け取ると、うさぎのぬいぐるみを横目にしながら尋ねた。


「私も、エヴァンジェリンさんのように動かせるようになりますか?」


その問いに対しエヴァは腕を組むと、少し頬を染めながら鼻で笑った。


「はっ、文字通り百年早いわ。まぁ、私の指導についてくる事ができれば、ある程度動かせるようになるかもな」


そうして始まったマリオネットの練習だったが、その成果はあまり芳しくはなかった。
長年家事を受け持っていた事や料理が上手い事から、理多は手先が器用なものと思っていた。
だがそんなエヴァの予想に反し理多の動きは硬く、一時間練習して何とか動かせる程度にしかならなかったのだ。

自分の指導の仕方が悪いのかと少しショックを受けていたエヴァだったが、
逆に操られているかのようにしている理多を見て思わず微苦笑してしまう。
上手くできないと面白くないかと少し心配したが、意外とそうでもないらしい。
それは理多だけではなく、自分自身も楽しんでいる事にエヴァは遅れて気付いた。


「――まったく。少し手本を見せてやるから、よく見ていろよ?」


エヴァは仕方がないなと呟きながら糸が絡まってしまっているマリオネットを取り上げると、易々と糸を解き十字板を掴む。
そして理多の隣に腰を下し、理多がやや緩慢な動きで頷くのを見て指を動かし始めた。

魅せる為ではなく見せる為なので、歩かせたり跳ばせたりなど簡単な動きをさせつつコツなどを教えていく。
それに対し初めは相槌を打っていた理多だったのだが、次第にそれもなくなり。
エヴァが不審に思って理多の方へ顔を向けると同時、こてんと肩に理多の頭が乗せられた。

反射的に仰け反りそうになるも、何とか堪えて理多の顔を覗き込む。
夜あまり眠れずにいるのか、理多はすやすやと寝息を立てていた。

自分たちの前では平然と振る舞っているが、夜は一人震えているのだとしても何ら不思議ではない。
そう考えると、理多が起きるまでこの場から一歩も動けなくなってしまうからといって起こしてしまうのは少々忍びなかった。
今日一日何も予定はないから、それでも特に問題はないのだが……

救いを求めるようにして茶々丸へと視線を投げかける。
すると、起こしたらただじゃおかないという無機質な視線を返されてしまった。
そんな人間らしい反応を嬉しいと思う半面、少し悲しい。
唯一の味方にまさかの裏切りにあい、どうしたものかとため息を吐いた。

それがキッカケとなったのかは定かではないが、
理多の頭はエヴァの肩からずれ落ち、絶壁を滑って華奢な太ももへと着地した。
栗色の柔らかい髪が、呼吸する度太ももをくすぐる。
予期せぬ形で長い人生初めての膝枕をしてしまい、流石にこれは恥ずかしいと理多を起こそうとするが――


(……はぁ、私も眠るか)


きゅっと縋る様に握り締められた服の感触にエヴァはやれやれと苦笑いを浮かべ、伸ばした手を止める。
そしてその手で理多の閉じた瞳から零れ落ちた涙をそっと拭うと、労わるようにして髪を撫でつつ眠る体勢に入った。

仲の良い友人同士、または姉妹のようにして目を閉じている二人を見て、
一人家事をしようとしていた茶々丸が動きを止める。
今茶々丸の胸の内に渦巻いているのは――嫉妬。
それがエヴァと理多どちらに対してのものなのかは茶々丸にも判らない。
確かなのは、その嫉妬心が邪魔をして仕事に集中できそうにもないという事。

茶々丸は感情というモノの強さに驚きながら、少し迷った末、踵を返して二人の元へと向かった。
そしてなるべく振動を起こさないようゆっくりとエヴァの隣りに腰を下ろすと、二人に倣って目を閉じた。


「……さぼるのか?」


片目を開き、エヴァが悪戯な笑みを浮かべながら茶々丸へ問いかける。
そんなエヴァに対し、茶々丸は慌てる様子もなく僅かに口元を笑みの形に歪めると、しれっと答えた。


「ガイノイドにも、休息は必要です」


その堂々とした言い訳に、思わず吹き出しそうになるのを堪えた。
今まで自分から休息をとろうとした事がないくせにと。

理多が来てからというもの、徐々に茶々丸が人間らしくなってきている。
それは従者として、戦士として見るなら、あまり喜ばしくない変化だ。
人間に近づけば近づく程不安定になり、隙が生じるようになるからである。

しかしエヴァにとって茶々丸は、従者であると同時に家族でもある。
だからこの変化は、純粋に喜ばしいものだった。
そもそも、それが嫌なら茶々丸に心を与えたりはしない。


「クク、そうか。なら仕方がないな」


言って、エヴァは再び瞳を閉じた。
たまにはこんなのも悪くはないと、無意識の内に笑顔を浮かべながら。


 ◆ ◆ ◆ ◆ ◆


夜、ベッドに腰掛けながら理多は一人、自身の肩を抱き締めて震えていた。

身体に起きた異変に気付いたのは、今日昼食を作っていた時の事。
順調に調理を進めていき、味を確かめようと料理を口にしたのだか――いくら噛み締めても、味がしなかったのである。
幸い料理自体はエヴァに好評だったのだが、理多はその事を喜ぶ余裕はなかった。

身体の異変はそれだけで終わらなかった。
マリオネットの練習を始めてしばらく経った辺りから、今度は全身の感覚が殆どなくなってしまったのだ。
その所為で操作が上手くできず、教えてくれていたエヴァに申し訳なく思った。
しかも、しまいには途中で寝てしまったばかりか、膝枕まで……

正直、練習中はエヴァに感覚の事がばれてしまわないかと気が気でなかった。
とは言え、練習が楽しかったのは確かだ。それに嘘偽りはない。

昨日までは、頭痛がしたり体がだるかったりしただけだった。
しかし今日、五感の内味覚と触覚が消失してしまった。
その事から否が応にも判ってしまう、タイムリミット。


「――っ!?」


血がなみなみと入った輸血パックへ無意識の内に向けていた視線を慌てて逸らす。
そして、何かから隠れるようにして掛け布団を頭から被って丸くなった。


(今、私は何を考えた……?)


薄暗い布団の中、目をギュッと強く瞑りながら自問する。
答えを出すのに時間は必要ない、ただ認めれば良いだけなのだから。
無意識の内に血を見て、一瞬でも思ってしまった事を。
生きたいのなら血を吸ってしまえば良いと、そう思ってしまった事を。


(私は……私はっ……!)


何度も何度も、自己暗示するように頭の中で繰り返し呟く。
血を求めたりは絶対にしない、と。
それを邪魔するのは、生きたいという想いと、吸血衝動。
今はまだ、何とかそれらを抑え込む事ができている。
しかし、明日は――

そうして理多はいつの間にか、気絶するようにして眠りについていたのだった。



[26606] 第1章 12時間目 胸に秘めた痛み
Name: あかいつき。◆3327a354 ID:742ccd16
Date: 2011/03/20 13:56
幼く華奢な体躯を、学生服のブレザーとプリッツスカートで包んだ少女が一人。
栗色の短いサイドテールを揺らしながら、深夜の住宅街を歩いていた。
その足取りはとぼとぼとしていて重く、背中を猫のように丸めて時折ため息までこぼしている。

服装の事を差し引いても到底大人と見間違えようのない容姿をしている少女は、
警察にでも見付かれば確実に補導されてしまうだろう。
しかし街には警察どころか人の気配が一切なく、少女の行動を咎める者は今のところ現れそうになかった。

それは、深夜徘徊という一般的には悪い事をしている少女にとって喜ばしい事だと思われた。
しかし少女は喜ぶどころか黒一色の空に浮かぶ欠けた月を仰ぎ見て、どうしたものかと途方に暮れていた。
人気がないのは確かに"ある点"において都合が良いのだが、なさ過ぎるというのもそれはそれで困る事だったのである。

深いため息をこぼして足を止めると、右手にある大きくも小さくもないごく普通の一軒家へと目を向けた。
他の家同様明かりはなく、訪問者を拒むようにして門は硬く閉じられている。
空き家、もしくは旅行中でもない限り、この時間家の中には誰かしら居るだろう。

できれば強引な事をするのは避けたいのだが、そろそろ"空腹"が限界に達するのも近い。
このまま人気のない街を宛てもなく徘徊し、行き倒れてしまうぐらいならいっそ――


「あはっ」


そう思って門に手をかけた時、少女は突然ニヤリと破顔した。
背後から、ずっと探し求めていた人の気配を感じ取ったからである。

"血のように紅い瞳"を爛々と輝かせ、涎を啜りながら気配のする方へと振り返った。
そして街灯が照らす向こう側、暗闇の中に、薄っすらと人型の輪郭が浮かび上がっているのを見付ける。
互いの距離は数十メートルほどあり、人型の方は少女に気付いた様子はない。

少女は前のめり気味に身を屈め、足にグッと力を込める。
そして運動神経が良いなどでは到底説明できない、化物染みた速さで人型との距離を詰めた。


「……っ!?」


突然目の前に飛び込んできた少女に、人型──栗色の髪と瞳をした青年は、驚愕の表情を浮かべて悲鳴を漏らす。
それに一切動じる事なく少女は青年を押し倒すと、あーんと大きく口を開いた。
その口元で、人間の物と言うより獣の物と言った方が相応しい、"鋭く伸びた犬歯"が鈍く光る。


「なっ……!? やめ――」


牙にではなく"少女の顔"を見て驚いた様子の青年は、酷く困惑しながら逃れようともがく。
それを少女は外見からは想像もつかない怪力で青年を押さえ付けると、容赦なく青年の首筋へと牙を突き刺した。

少女の喉を、求めてやまなかった新鮮な血液が嚥下していき。
しばらくして首筋から顔を離すと、口元から垂れた血を舌で舐めとった。

少女は小さく吐息を漏らし、再び血を求めて首筋へと牙を突き立てようとする。
だがその直前に青年は力を振り絞り、噛まれた痛みに苦悶の表情を浮かべながら叫んだ。


「や、止めろ……理多ぁっ……!!」


青年の叫びに驚いたのか、それとも、"名前を呼ばれた"からか。
少女は、雨音理多は目を丸くしてピタリと動きを止めた。
そして青年と、自身の兄である雨音直人と視線を交差させる。

理多が反応を示した事に希望を見出した直人は、自身の肩を骨が軋むほど強く握りしめる理多の手を掴み。
何とか正気を取り戻させようと、何度も名前を呼んで声をかけた。
その呼びかけに、理多はきょとんとして直人を見下して固まっている。

――だが、それだけだった。

血を吸った事を謝る事も、押し倒した直人の上から退く事もしなかった。
苦痛に歪む直人の顔を映し出す理多の人には、依然として赤い。

理多と直人は、様々な苦労を二人で乗り越えてきた特別仲の良い兄妹だった。
しかし今の理多には、兄妹だった事や仲が良かった事は、どうでもいい事となってしまっていたのである。

何故なら"吸血鬼"にとって人間は、例え家族であったとしても、みな餌にすぎないのだから。


「理多、俺が判らないのか!? 俺はお前の――」


故に理多は静止の声を聞かず、直人の口を鬱陶しそうに片手で塞ぐと。
ご馳走にかぶり付くが如く、一切の躊躇いを見せず首筋に噛み付いた。


 ◆


弾けるようにベッドから体を起こした理多は、喉元を手で押さえながら荒い呼吸を繰り返した。
その表情は恐怖で彩られ、見開かれた瞳からは止めどなく涙がこぼれ落ちている。

理多は今見た夢への嫌悪感に嘔吐してしまいそうになりながら、目をぎゅっと閉じてうずくまった。

あまり夢を見る方ではないものの、それでも悪夢を見てしまう事は何度かある。
しかしいつもは、悪夢に限らずどんな夢を見ても、目を覚ますとすぐにその内容を忘れてしまっていた。

だが今見た悪夢は、深く記憶に刻みつけられてしまったのか、細部までハッキリと思い出す事ができる。

支離滅裂で、見た本人にすら良く判らないような、そんな夢であったのならそれでも良かった。
しかし今回の悪夢は、夢の中で得た感覚、感情、それら全てが気持ちの悪いほどに現実的リアルだった。

人の血を吸うという、自分にただ一つ与えられた生き長らえる為の選択肢。
その選択の先にあるものが、おそらく夢に見た光景なのだろう。

昨夜眠りにつく前は、死を恐れて血を吸うのもありかもしれないと思っていた。
しかしそれは大きな間違いであったと、皮肉にも悪夢を見た事によって気付く。
そして、理性と感情の間で揺らいでいた心が完全に固まった。

まだ生きていたいという思いは、胸の内で消えずに強く主張している。
だが、最も親しい存在である兄ですら、餌としてしか見る事ができなくなってしまうというのなら――

渇いた力のない笑みを浮かべ、理多はベッドへと体を倒す。
たった今した選択の結果を受け入れる覚悟は決まった。
もう二度と迷う事はなく、そして後悔する事もきっとないだろう。
その筈なのに、何故か涙が止まらなかった。


 ◆ ◆ ◆ ◆ ◆


昼下がりの午後、エヴァは封印に関する本に目を通しながら緑茶をすすっていた。
そこへ、理多の様子をこっそりと見に行っていた茶々丸が戻ってくる。

エヴァは持っていた湯呑を置いて本を閉じると、真剣な面持ちで茶々丸へと目を向けた。
そして、心なしか落ち込んでいる様子から内容は予想できたが、一応報告を聞く事にする。
結果は、何の面白味もない予想通りのものだった。


「……今日も、酷くうなされていました」


理多のうなされている姿を思い出したのか、
茶々丸は胸元をギュッと握りしめ、沈痛な面持ちで呟くようにして言う。
"今日も"と言ったのは言葉通り、うなされていたのが今日だけではなかったからだ。
寝ていたと言うよりも気を失っていたと言う方が相応しかった保護された日を除き、
今日で三日間連続しての事だったのである。

ただ、昨日三人で昼寝をした時にはうなされていなかった。
余程疲れていたのか、はたまた三人一緒だったからなのかは判らない。
もしうなされなかった理由が後者だったら――

エヴァは小さく咳払いをして今頭に浮かんだ考えを振り払うと、
テーブルに両ひじをつき、手の甲をアゴにあてがって思考する。
実を言うと、理多の五感が徐々に失われてきている事には薄々気付いていた。
そしてそれらの症状が、死ぬ間際の最終警告であるという事も知っていた。

にも拘らず何も対策を取ろうとしていないのは、決して助ける気がないからではない。
その"何もしない"というもの、計画の内だったからである。

とはいえ、それで肉体的、もしくは精神的に死んでしまったら意味がない。
できれば気絶して倒れるなどしてほしかったのだが、現状で十分かと、エヴァは計画を先に進める事を決めた。
それに、これ以上待ち続けると、茶々丸が命令を無視して暴走する危険もある事だしと。


「……茶々丸、じじいへ連絡しろ」
「は、はいっ……!!」


その言葉を待ってましたとばかりに返事をすると、茶々丸は電話へと駆け出した。
現在の理多は、条件付きでエヴァの家に滞在する事を許されている、いわば囚人のようなもの。
その為、何か特別な事をする際には、最高責任者である学園長の許可が必要なのである。
手加減やマリオネットの練習などは許容範囲だとしても、流石に吸血鬼に関する事はその範囲を逸脱してしまっているだろう。

例え結果的に良い事を行うのだとしても、体裁的に処罰せざるを得ないという事もある。
本心としては、今すぐにでも理多を苦しみから解放してあげたいと思っていた。
しかしそういった事をしっかりと理解していた茶々丸は、自身の気持ちを制御して電話を手にした。

だがその時、電話を邪魔するかのように来客を知らせる鈴の音が鳴り響いた。
普段全くと言っていいほど誰かが訪ねてくる事はないのに、よりにもよって何故このタイミングでと、
エヴァは思わず舌打ちをする。

茶々丸も内心苛立ちのようなものを感じつつ、電話は後回しにしてドアを開いた。
するとドアの向こうに立っていたのは、刀袋を肩に携えた制服姿の刹那だった。


「……今は取り込み中だ。つまらん用なら、日を改めてもらおうか」


明らかな苛立ちを表情に浮かべながら、エヴァは吐き捨てるようにして言い放つ。
きて早々訳も判らず怒りをぶつけられた刹那は、戸惑いながらも空気を読んですぐに用件を伝える事にした。


「……その、学園長先生が、雨音理多さんと直接会って話がしたいそうです」
「じじいが……? クソッ」


例えどんな用件であっても追い返そうと考えていたが、理多絡みの事となればそうする訳にもいかない。
タイミングが良いやら悪いやらとため息を吐き、エヴァは理多を連れてくるよう茶々丸へと伝える。

その間に着替えを済ませ、理多が太陽の下を歩けるようにする為の道具を用意しようと二階の自室への階段に足を掛けたその時。
重い"何か"が床に落ちる音が、茶々丸が向かった部屋から聞こえてきた。

嫌な予感が脳裏をよぎり、エヴァは考えるよりも先に駆け出していた。
慌てた様子で駆け寄ってくる茶々丸の横を通り過ぎ、理多の居る部屋を覗き見た。

そして、発見する。
胸元を苦しげに握り締めて倒れている、理多の姿を。


「くっ……」


倒れてくれれば都合が良いと、そう思っていた。
そして今、望み通りの光景が、目の前にある。

だというのに、胸の内に沸いた感情は喜びとは程遠いもので。
エヴァは理多を凝視しながら、無意識の内に拳を握り締めていた。


 ◆


理多をベッドへ移した後、エヴァは気を失っている理多の頬を軽く叩きながら、何度も名前を呼びかけていた。
その後ろでは茶々丸が、時々心配そうに理多へと目を向けつつエヴァに指示された通り"ある準備"を進めている。

一方刹那は邪魔にはならないようにと壁際に立ち、揺れる瞳で静かに事態を見守っていた。
できる事なら何か手伝いたいと思っていたのだが、これから何をするつもりなのか判らず。
その上、大丈夫ですとやんわりと茶々丸に断られてしまったのである。


「……エヴァン、ジェリンさん?」


もう何度目になるか判らない呼びかけに、理多がうめき声と共に薄っすらと目を開けて反応する。
どうやら視界が霞んでいるようで、エヴァの名を呼ぶ声はどこか自信なさ気だった。

弱々しくも理多が目を覚ました事に、エヴァ達は緊迫した空気を四散させて安堵する。
そんな時、パキリと硬質な何かがひび割れるような音が、理多から聞こえてきた。

何の音か判らなかった茶々丸と刹那が、理多を見た後きょろきょろとして首を傾げる。
そんな中、エヴァは音の正体に心当たりがあるのか、顔を青くして理多の腕を掴みあげ。
身長に袖をまくると、苦虫をかみつぶしたような表情を浮かべた。

茶々丸と刹那も、エヴァが掴んでいる理多の腕を覗き見てその表情の訳を理解する。
理多の細い腕が、乾ききった土のようにひび割れていたのだ。
そしてそれが何を意味するのかは、吸血鬼についてあまり詳しくない二人にもすぐ判った。

体の崩壊が、死がすぐそこまで迫ってきているのだと。


「私は、お前の強さを少々侮っていたようだ」


いくら我慢強いとはいえ、五感の衰弱が始まってしばらくすれば助けを求めてくると考えていた。
急激な視力の低下や感覚や味覚が薄くなっていく恐怖に、弱った少女が崩壊が始まり倒れるまで耐えると誰が予想できよう。

故に、それを計画の最終段階へ移行する合図の一つに決めた。
故に、堪え切るという可能性を考えず、上辺だけで判断して深く注意を払う事をしなかった。
その結果がこれだ。

すぐ傍に居ながら、理多の限界がきている事に気付けなかった自分をエヴァは嘲笑する。
茶々丸も、そして監視していた刹那も、悔し気に拳を握りしめていた。


「……理多。今ならまだ、血を吸う事で崩壊を阻止できる」


自分を責めるのは後にし、エヴァは理多へ、今が最後のチャンスである事を告げる。
今ならまだ血を吸えば助かるが、吸わなければ待っているのは死であると。

それは言われるまでもなく、理多も判っていた。
にも拘らず、小さく首を横に振る。


「どうしても、か? 吸血鬼として生きる事を決めれば、私自らがお前を最強の吸血鬼として育てる事を約束するぞ」


魔法使いとしても吸血鬼としても、エヴァは最高峰の実力を持っている。
そんなエヴァの元で修行すれば、余程才能がない限り間違いなく強くなるだろう。

強くなれば、それだけ現状のように誰かに縛り付けられる事もなく、また苦しむ事もなくなる。
もちろんデメリットもあるが、それでも生きている事ができるのだ。

エヴァの誘いが本気であり、言外に生かしてやると言っている事は判った。
しかし理多は、またも首を縦に振らなかった。

その返答に対し、エヴァは特に落胆した様子もなく、むしろ予想通りといった様子だった。
誘いは本気であったものの、乗ってくるとは端から思っていなかったからである。

そもそもこの誘いの乗ってくるくらいなら、すでに自ら血を吸う事を選んでいただろう。
理多が最も恐れているのは、死ではないのである。


「……あの時、言っていた事か?」
「力が強くなったり、体が丈夫になったり……私が私じゃないみたいで気持ち悪かった、悲しかった。
 私はもう、人間じゃなくて……化物なんだって」

エヴァの問いに、理多はゆっくりと頷いて呼吸を整え、静かに言った。
その言葉に刹那が微かに反応を見せたが、理多はそれに気付かずに話を進める。


「……でも、我慢できた。仕方がないって、そう思えた。私、我慢するのは得意なんです。
 だから、痛いのも全部、我慢できました。だけど――」


脳裏に浮かぶのは、自分が完全な吸血鬼となって兄を襲う悪夢。
そして思い出す。牙が肌を突き刺す感触と、生暖かい血の味。
人を人と認識できなくなる、吸血鬼バケモノの思考。

もう二度と、それらを体感したくはなかった。
それらだけは、我慢する事などできそうもなかった。
だから――


「例え、生きる為に必要でも……しなくちゃ、死んでしまうのだとしても」


ベッドのシーツを握り締め、何かを堪えるようにして目を閉じた後。
エヴァの瞳を真っ直ぐと見つめ、理多はハッキリと告げた。


「誰かの血を吸うのは、絶対に嫌です」


誰かの血を吸うくらいなら、死んだ方がマシであると。

人の心を捨て吸血鬼として生きるか、人として死ぬか。
他人に迷惑をかける事のない後者を選ぶのが、人として正しい選択なのだろう。

故に、道行く人たちに同じ問いをすれば、おそらく後者と答える者が多い筈だ。
それが正しいからというのもあるが、周りから敵意や殺意を常に向けられながら独り過ごすより、
その方がずっと楽だからである。

だが果たして、今の理多と同じ状態になってもなお、その選択を最後まで維持し続ける事ができるだろうか?
少なくとも、理多のように大人しく死を受け入れようとする事はできないだろう。


「……死ぬのは、怖くないのか?」


今もなお、泣き言一つ言わない理多へエヴァは尋ねた。
だがそれは、死を恐れているように見えないから尋ねた訳ではない。
そんな事は、聞くまでもなく判っている。
ただ、理多の"本音"を、理多本人の口から聞きたかったのだ。

エヴァらしからぬ質問だと理多は一瞬思うも、しかしすぐにその意図を察する。
察して、迷った。正直に答えるべきか、それとも、はぐらかすべきかを。

もし正直に答えてしまえば、今まで胸のずっと奥深くに"隠していたモノ"を曝け出してしまう事になる。
そうなればきっと、今までのように落ち着いていられなくなってしまうだろう。
そして人に頼り、多大な迷惑をかけてしまう事になってしまうのだ。

それが嫌だったから、昔も今も、ずっと独りで堪えてきた。
故に、エヴァの問いに対して迷う必要などどこにもない。
一言怖くないと否定し、覚悟はもうできていると、無理やりにでも笑顔を作って答えてしまえば良いのだ。

にも拘わらず、迷ってしまった。迷わされてしまった。
その結果、様々な感情を閉じ込めていた心に亀裂が生じ――


「――──怖いよ。凄く、怖いよ……」


理多は、自分で自分を、抑えられなくなってしまった。


「死にたくなんてない……もっと、もっと生きていたいよ!! でも、でもっ……!」


どれだけ心が強かろうと、理多は普通の女の子。
死が怖くない筈がなかった。死を望んでいる訳でも、達観している訳でもないのだから。


まだまだやり残した事があった。
大切な人たちに、伝えたい事が沢山あった。
未練なんて、数えだしたらキリがないほどにある。

ただ、悪夢が正夢となる事に対する恐怖が、死の恐怖を僅かに上回っただけなのだ。

大声を出した所為で咳き込む理多の瞳から、大粒の涙がこぼれ落ちる。
それを裾で拭いながら、ある事に気付いて少し驚いた。

心のどこかで、エヴァ達になら構わないと思っていたからなのだろうか。
隠していた本音を明かしてしまった事に対し、理多は後悔を感じなかった。
出会ってからまだ一週間も経っていないというのに、知らぬ間に随分と心を許していたらしい。


「なぁ理多、忘れていないか? お前は、直人に何と言われて私の元へきた?」


呆れた様子でエヴァはベッドに腰をかけると、横たわる理多を上から覗き込むようにして尋ねた。
その声は普段と比べて優しく柔らかいものであったが、反して視線はどこか責めるようだった。

それは、と理多は気まずそうに目を背ける。忘れた訳では絶対にない。
エヴァを頼れという言葉だけを頼りに、頑張って闇夜を走り続けたのだから。
 

「お前は、決して自分から助けを求める事はしなかった。
 そんなに私達が信用ならないか? それとも、頼りなさそうに見えるのか?」


そう言って僅かに眉をひそめるエヴァに、理多は慌てて首を横に振る。
助けを求めなかったのは、単なる自分の我が侭。エヴァたちがどうと言う訳ではない。

そう口にしようとした時、頭にエヴァの手が乗せられ、少し乱暴に頭を撫でまわされてしまう。
驚きに目を丸くしながらなすがままにされていると、撫でる手を止め、エヴァは言う。
親が子へ言い聞かせるように、薄らと笑みを浮かべながら。


「一人で何でもやろうとするお前の在り様は、個人的に好ましく思う。だがな、お前はまだ子供だ」


一人で頑張る事は悪い事ではない。むしろ、良い事だろう。
だが生死に係わる問題にまで一人で立ち向かうというのは、明らかに間違っている。

頼れる存在が居ないのならまだしも、すぐ傍にちゃんと居るのだから。
大人過ぎるほど大人で、しかも魔法使いという存在が。


「少しは大人を、人を頼れ。それは、悪い事じゃない」


その言葉に理多は反論しようとと口を開いたが、エヴァに人差し指を唇を当てられて塞がれる。


「迷惑をかけてしまうかもしれない、か? 確かに、その可能性は大いにあるだろう。
 だがな、それでもお前を助けたいと思っている者からすれば、その遠慮こそが迷惑だ」


そうだろうと視線を向けてくるエヴァに茶々丸は頷くと、作業する手を止めて理多へと歩み寄る。
そして理多の手にそっと自分の手を重ね、ロボットとは思えないほど自然に微笑んだ。


「マスターの言う通りです。私も、そしてマスターも、ずっと歯痒く思っていました」


おい、と頬を赤く染めながら茶々丸を睨むも、エヴァはその言葉を否定しなかった。
茶々丸ほど純粋に助けたいと思っている訳ではなく、どちらかと言えば頼られない事が悔しいという気持ちの方が大きかった。
しかしただ助けたいという気持ちもあった為、恥ずかしかったが否定する事ははばかれたのだ。


「エヴァンジェリンさん、茶々丸さん……」


理多は自分の頭に置かれたエヴァの手と茶々丸の手を取ると、胸に抱え込むようにして抱きしめた。
迷惑ばかりかけていた自分をここまで思ってくれている事が、言葉では言い表せないほどに嬉しかった。

だから、理多は思ってしまった。例え助からないのだとしても、迷惑をかけてしまう事になるのだとしても。
頼ってくれて良いと口外に言ってくれたエヴァたちに、頼りたいと。

ずっと胸の奥深くに閉じ込めていた言葉を、打ち明けてしまいたいと。


「――エヴァンジェリンさん」
「なんだ?」


恐るおそる呼びかける理多に、エヴァは首を傾げる。
何かを期待するようなその面持ちに、理多は口ごもった。
本当に、本当に良いのだろうかと。

ふと、茶々丸と目が合った。
すると茶々丸は、理多の迷いを見抜いたかのように頷く。
それを見て、理多は今度こそ決心した。


「私を、助けてください……!!」


その叫びは小さく、擦れ、震えていた。
それでもエヴァ達の心には、十分過ぎるほどに伝わっていたのだった。

エヴァは理多の頭を一撫でして握られている手を解くと、腰かけていたベッドから立ち上がる。
そして不安そうに見つめてくる理多に微笑むと、一転して真剣な表情で茶々丸へと言った。


「コイツの泣き顔は酷く腹が立つ。さっさと終わらせるぞ」
「はい。雨音さんには、笑顔がお似合いです」


言って、理多が倒れた後にかけてからずっと繋げっぱなしにしていた電話の子機をエヴァに手渡した。



[26606] 第1章 13時間目 笑顔を見せて
Name: あかいつき。◆3327a354 ID:742ccd16
Date: 2011/03/20 13:57
エヴァはそれを肩に挟むと、続けて受け取ったマントを羽織りながら電話の相手に有無を言わさぬ口調で言った。


「じじい、これから理多を助ける。良いな?」


端から答えを求めていなかった為、エヴァはそれだけを言って電話を切ろうとした。
その気配を電話の向こうから鋭敏に察知した電話の相手、学園長が慌てて止める。


「ま、待つんじゃエヴァンジェリン! 一体何を……いや、その前に何故理多君は倒れたんじゃ」


学園長の疑問はもっともだろう。
血は約束通り毎日ちゃんと用意されており、輸血もされていた。
傷付くような事は何も起きておらず、大人しく過ごしていたのにと。

しかしエヴァは何を当たり前の事をと、失笑しつつため息を吐きながら答えた。


「あんな鮮度の欠片もない血で、吸血鬼になりたての不安定な体を維持できる筈がないだろう」


その答えには学園長のみならず、理多と刹那も愕然として言葉を失った。
つまりエヴァは、いずれ理多が今のような危険な状態になると判っていながら傍観していたという事になる。
茶々丸が何も言わないところからして、冗談でもないようだ。

だが、それならば何故今になって理多を助けようとしているのだろうか。
助けるつもりだったのなら、わざわざ理多を苦しめる必要はない。
理多が血を吸う事を否定した時点で、対処すれば良い筈だ。

まさか苦しむ姿が見たかったという訳ではないだろうし、何かそうする理由があるのではと考える。
そして学園長は、ある一つの可能性を思い付いた。


「お主、まさかワシらに理多君の本質を見せつける為に……」


その予想は正しかったようで、エヴァはニヤリと笑みを浮かべた。
それに対して学園長は、何て無茶をと電話の向こうで顔を手で覆った。
理多と刹那など、ぽかんと目を点にして固まってしまっている。

理多を監視すると決まった時、エヴァは一つの計画を思い付いていた。
ただ監視をさせるだけでは、吸血鬼である理多が十分な信用を得るのは難しい。
それだけ吸血鬼という存在が畏怖されているという事は、自分が一番良く判っている。

そこで少々可哀想ではあるが、理多に苦しんでもらう事にした。
理多がどれだけお人好しで、また心が強い事を学園長達へと見せつける為に。
そして自分が理多という存在を見極める為に。

ただ一つ誤算だったのは、理多が想像以上に我慢強かった事。
計画通りに進んでいれば、体の崩壊が起きる前に、もう少し余裕をもって行動できていただろう。


「で、どうなんだ? まだ理多が信用できないか?」


と尋ねる一方で、エヴァは着々と準備を進めていく。
例えここで学園長がまだ信用できないと言ったとしても、止めるつもりはなかった。
このまま死なせる事は、絶対に有り得ない。

それは電話越しに聞こえてくる物音から伝わっており、学園長は苦笑しながら助ける事を許可した。
悩む様子もなく、あっさりと。

それもその筈で、今日学園長が刹那を使って理多を呼んだのは、
理多が信用に値すると判断し、監視を解いて正式に学園で保護する事を伝える為だったのだ。

上手くいったなと口元を釣り上げながら、エヴァはスカートのポケットから巾着袋を取り出し、その中身を手に取る。
それは、宝石部分の修理を終えたばかりの、理多の大切なネックレスだった。
満月の如き黄金の宝石が、電灯に照らされ淡く光を放つ。


「しかしお主、何をするつもりなんじゃ? それによっては……」
「ん、あぁ、別に誰かを襲わせたりはせん。そもそも、理多が拒む」


チラッと理多へ目を向けると、エヴァの言葉から会話の内容を察してコクリと頷いていた。

エヴァは子機を茶々丸へ渡すと、まずはこれから何をするのかを説明する事にした。
学園長はどうでもいいとして、理多は何をするかも判らないまま身を任せるのは怖いだろうと思っての配慮である。


「これから行うのは、お前にかけられた"吸血鬼という化け物を構成する魔法"の封印だ」


人の血を吸って生きる化物、吸血鬼。
実を言うと、この吸血鬼は"吸血鬼という種族"が存在していると思われているが、実際はそうではなかった。
純粋な吸血鬼が存在している可能性は否定できないが、少なくとも理多とエヴァは違う。

吸血でしか生命活動を維持できなくなったり、日に当たると灰になってしまうといった制約を受ける対価として強大な力を得る。
そういった呪い、魔法を幾重にも重ねがけされて構成された、戦争の兵器として作られたとされている人造の化け物。
それが、吸血鬼なのである。

エヴァがやろうとしているのは、その魔法の効力を弱める封印魔法をかける事だ。
身体は吸血鬼として再構築されてしまっている為、完全に人間に戻れるという訳ではない。
だが人間と同じ食事で生命活動を維持できるようになり、血を吸う必要がなくなるのである。


「できるんですか、そんな事が……?」


魔法について一切の知識がない理多であったが、何となく、とても難しい事なのではないかと思った。
実際その通りで、おそらくエヴァにしかできない難しい魔法である。

だがエヴァは、自信有り気に笑みを浮かべていた。


「ふん、私を誰だと思っている」


それは自分の腕に自信があったのはもちろんの事、もう一つの理由があったからである。

その理由とは、自身にかけられた"登校地獄"を解く為に、呪いや封印に関する事を片っ端から学んでいた事だ。
結局"登校地獄"を解く事は叶わなかったが、そのお陰で知識や技術は相当なものとなっていた。

まさかこんな事に役立つ日が来るとはなとエヴァは苦笑し、
マントから魔法薬の入った試験管を二本取り出すと、地面へ叩きつけた。

甲高い破裂音と共に試験管の中の液体が飛び散るが、次の瞬間には粒子と化し、
理多が横たわっているベッドを中心に魔法陣が展開した。
それと同時に茶々丸がベッドの周りに設置していた、
魔法の行使を補助する効果を持つ髑髏等の装飾が施された不気味な物の数々が輝きだす。


「――リク・ラク・ラ・ラック・ライラック……」


目を瞑り、呪文を唱えながら集中を高めていく。
呪文に反応して魔法陣が淡い輝きを放ちだしたかと思うと、
何処からともなく風が巻き起こり、エヴァのマントと長い金髪を乱した。

それらを鬱陶しく思いつつ、魔法に集中する為に無視しながら今度は片手に三本ずつ、
合計六本の魔法薬を取り出して魔法を成す。


「――紅き鎖 鮮血の呪いよ 仮初の体を得て その姿を現せ!」


魔法陣の輝きが増した次の瞬間、深紅の鎖が虚空より浮かび上がった。
その鎖は理多の体を締め付けるようにして巻かれており、理多は驚きと恐怖から息を飲んだ。

吸血鬼を吸血鬼たらしめる深紅の鎖は分厚く、とてもどうにかできるようには見えない。
鎖を見るエヴァの表情も、心なしか優れなかった。

だがそれは、解呪できるかどうかを不安に思っていたからではなかった。


「……薄いな。やはり、魔力が足りないか。別荘が使えれば楽だったんだが、タイミングの悪い……」


エヴァが呟いた通り、確かに鎖は半透明だった。
どうやらこれでは不満のようで、エヴァは数秒程唸り声をあげながら思考すると、
鎖を不安そうに見ている理多へ言った。何て事ないように、衝撃の言葉を。


「理多、血を吸いたいと思え」
「マ、マスター!?」


エヴァの要求にポカンと口を開けて呆然としてしまっている理多に代わり、茶々丸が疑問の声をあげる。
その反応に、エヴァは言葉足らずだったかと反省し、理由を説明する事にした。

鎖を具現化する際、エヴァは封印する為の魔力を残しておく必要があった為、消費魔力を最小限にして魔法を成した。
しかしその所為で具現化が不完全な結果になってしまったのである。

今の状態では封印が少々やり辛い為、
理多が吸血衝動を解放する事で呪いの方から強く姿を表させようとしたという訳である。

理由は納得できるものだった。
しかし、その方法は余りにも危険性が高い。
今の理多が吸血衝動を解放するという事は、即ち暴走を意味する。

弱っているとはいえ、力で抑え付ける事は難しいだろう。
魔法で抑え付けようにも、エヴァにはそうする為の魔力に余裕がない。
魔法を使わずに抑え付ける方法はなくはないのだが、そうすると今度は封印魔法に集中できなくなる。
封印魔法に集中は絶対不可欠である為、この手は使えない。

応援を待つだけの時間があるかどうかも微妙なところであり、できればすぐに封印に取り掛かりたい。
となれば後は――


「桜咲刹那。お前の協力があれば、理多が暴走しても封印を行える。借りはいずれ返す。だから――」
「貸し借りの必要はありません。私は、私自身の意志で協力します」


エヴァの言葉を遮って刹那はそう言うと、理多の傍へと歩み寄った。
今まで理多の位置から刹那の姿は見えていなかった為、たった今刹那の存在に気が付いた理多は、
あっと小さく驚きを表した。


「私は式神越しに貴女を見ていましたが、こうして直接会うのはこれで二度目ですね」
「あ、あの、私……」


襲いかかってしまった事、暴力を振るってしまった事、血を吸おうとしてしまった事。
自分の意思ではなかったとはいえ、それらを行ってしまった事を謝罪しようと、理多は体を起こそうとした。

それを刹那は手をかざして止めると、謝る必要はないと首を横に振った。


「あの夜の事は、お互いに仕方のない事でした。余り気にしないでください」


理多は吸血衝動の所為であり、刹那は仕事だった。
あえて悪かった点を挙げるとしたら、タイミングだけだろう。
しかし理多は納得のいかないといった表情をし、結局ごめんなさいと謝ったのだった。

刹那は薄らと微笑みながら自身もすいませんでしたと謝ると、制服の内ポケットから四枚の札を取り出した。
そしてその札を一枚ずつ理多の両手足に貼り付けると、右手の人差し指と中指を唇の前に立て、言霊を放った。


「――封魔穿杭!」


札に書かれた模様が淡く光りだし、白い杭へと変化すると、理多をベッドへと縫い付けた。
杭は理多の体を貫いているが、この杭はあくまで動きを封じる為だけの物である為、理多に傷がつく事はない。

術の成功を確認して刹那はベッドから離れると、エヴァを見て頷いた。


「理多、こっちの事はこっちで何とかする。だから私を信じろ」
「……判り、ました」


信じていない訳ではないが、それでもやはり想像してしまう。
束縛を逃れ、悪夢を再現してしまうのではないかと。
しかしその恐怖を飲み込んで、理多はエヴァと茶々丸、
そして刹那を見て覚悟を決めると、ゆっくりと目を閉じた。

そうしてしばらくすると、理多を縛る鎖が徐々に赤みを増していき、目に痛い程の紅となって軋みだす。
それと同時に部屋の空気が一変して重苦しいものとなり、エヴァたちは理多の覚醒を感じ取った。

拘束から逃れようともがく理多に、エヴァは魔法薬を取り出し笑みを浮かべながら歩み寄る。
空間が歪んで見える程の殺気や魔の気配を放つ理多を前にして笑うエヴァは、流石と言ったところだった。

エヴァは魔法薬を封印の触媒となるネックレスの宝石へと振りかけた後、それを理多の首へと掛ける。
続いて鎖にも魔法薬を振りかけると、左手を鎖に、右手を宝石へ当てて詠唱を開始した。

すると宝石が輝きを放ちだし、詠唱を終えた時には直視する事ができなくなる程になっていた。


「よく頑張ったな、理多」


誰かに聞かれると恥ずかしい為小声でそう呟くと、エヴァはありったけの魔力を込めて宝石を掴んだ。
その瞬間、眩い光が室内を埋め尽くし――

そして、魔の気配が四散した。


 ◆ ◆ ◆ ◆ ◆


ログハウスの外、無造作に置かれたアンティークなベンチに腰掛け、
エヴァは一人、疎らに星が煌めく夜空を仰いでいた。
そうしている事に特別な理由はなく、所謂何となくというやつである。

そんなエヴァの元へ、ふらつきながらゆっくりと理多が歩いて来た。
封印を終えた後、輸血を受けながら眠っていたのだが、もう歩ける程度には回復したらしい。
ベンチに辿り着き、若干息を切らせていた理多はふぅと息を吐くと、エヴァの横に腰を下ろす。

吸血鬼の呪いを封印し、血が足りない事に対する症状が身体の崩壊から貧血に変わった。
それにより死ぬ事は免れたが、肉体と精神の疲労は残留している為、理多の顔色はまだ良くなかった。


「少し歩くだけでも辛いだろう。病み上がりなんだ、大人しく寝ておけ」


近付いて来た犬を追い払うようにして、エヴァが手を振る。
しかし理多はどうしてもすぐに言いたい事があってと言って断り、そのまま数度、深呼吸を繰り返す。
そして呼吸を整えた後、立ち上がってエヴァへと向き直ると、深々と頭を下げた。
まるで、気持ちの度合いを示すかのように。


「今日は、本当にありがとうございました!」


真っ直ぐで純粋な、心からの感謝。
そんな事をされたのは一体いつ以来だろうかと考え、不意に照れくさくなる。

思えば、色々と自分らしくない事を言い、してしまっていたように思う。
いくら同族であり、同情や罪悪感、好意があったとはいえだ。

それもこれも、目の前で頭を下げている理多の所為。
助けた事に後悔はないが、そう考えると少し虐めてやりたくなった。


「頭を上げろ、理多。私は別に、礼がほしくて助けた訳じゃない」


エヴァがぶっきら棒に、"礼がほしくて"の部分を強調して言う。
すると理多は不満気に頬を膨らませ、エヴァの恨めしげに睨みつけた。

強調された部分に、恩返しも要らないという意味が含まれていると判ったからだろう。
そんな理多の額を、エヴァは意地悪な笑みを浮かべながら軽くデコピンを打った。


「どうせ、命を助けてもらったから、一生を使ってでも恩返しをしようとでも考えていたんだろう」


デコピンをされた部分を押さえていた理多が、ビクリと体を強張らせる。
図星らしく、エヴァが顔を覗き込むと、理多はスッと顔を逸らした。

判り易い奴だと苦笑しながら、エヴァが立ち上がる。


「そうだな。私の所に居る間一人で無茶しない事。それが、私が許す唯一の恩返しだ」


最後に見えない所で倒れられると迷惑だしなとそっぽを向きながら言って、エヴァは家に戻るぞと理多へ手を差し出した。
理多は目を丸くしてエヴァを見つめた後、エヴァの手を借りて立ち上がる。
そしてよろけてエヴァの腕に抱きつく形になりながらはいっと、太陽のような笑顔を見せた。

その一点の曇りもない笑顔に、不覚にも心がときめいてしまった事が悔しくて。
エヴァは再び、理多へデコピンをした。



[26606] 第2章 1時間目 晴れのち快晴
Name: あかいつき。◆3327a354 ID:742ccd16
Date: 2011/03/20 18:38
ある日突然何の前触れもなく吸血鬼にされ、それまでの平穏な日常を破壊されてしまった少女――雨音理多が、
兄の雨音直人に言われて麻帆良学園大都市に住んでいるという同族、
吸血鬼のエヴァンジェリン・A・K・マクダウェルに助けを求めてから早数日。
ついに理多を心身ともに苦しめ、死に追いやっていた"吸血鬼という化物を構成する呪い"が、
エヴァによって封印される事となった。

その翌朝の事、一晩睡眠をとってすっかり元気になった理多と、
相変わらずの朝の弱さで気だるそうにしているエヴァの二人は、麻帆良学園中等部の校舎へと足を運んでいた。
今朝ほど学園長から理多の今後について話しがあると電話があり、
理多とエヴァの二人で学園長室に来るよう言われたからである。

学園長室を目指して校舎の廊下を歩いていた理多とエヴァの二人は、学園の制服ではなく私服を着用していた。
その私服というのが普通の服であったのならまだしも、普通とは少々言い難い――
しかしエヴァにとってはごく普通の服である"ゴスロリ服"であり、
また、校舎という場所が場所なだけに酷く目立ち、完全に浮いてしまっていた。

しかし今は春休み。部活動で登校してきている生徒はいるものの、
そういった生徒は校庭に出ているか部室に籠っている為、
廊下には誰もおらず、目立ってはいてもそれを見る者はいなかった。
大きな欠伸をしながら、エヴァは服装に関してとやかく言ってくる者が現れない春休みに、少しだけ感謝した。
着る服がない――エヴァに用意された服を着るしかない理多はともかく、
エヴァは自分の制服を着てくればよかっただけの話なのだが、その発想は、エヴァの中にはなかった。


(……ん?)


後ろをついてきている筈の、少し前まで聞こえていた理多の軽い足音が聞こえない事に気付き、エヴァは歩きながら振り返る。
理多は、大分離れた位置をゆったりとした歩調で歩きながら、校内をきょろきょろと物珍しげに見回していた。

理多は麻帆良学園の生徒ではなく、校舎に入るのも初めてとの事、
目的地である学園長室が何処にあるのかなど判る筈もなく、置いて行く訳にもいかない。
校内なんて、何処も大した違いはないだろうにと思いつつ、エヴァは立ち止まった。

すると、それをきっかけに、エヴァとの距離をひらいてしまっている事に気付いた理多は、
小走りにエヴァへと駆け寄り――そしてごめんなさいと、はにかみながら謝罪した。


「――――あ、あぁ」
「……?」


反応の悪かったエヴァに、理多はきょとんと目を丸くして首を傾げる。
それに対し、エヴァは口元を押さえながら、理多を視線から追い出すようにして前へと向き直ると、
はぐれるなよと短く言い、理多の答えを待たず足早に歩き出した。

その後を、理多は両手を腰に回して指を絡ませ、嬉しそうに鼻歌を奏でながらにこにことついていく。

もし理多に犬の尻尾が生えていたなら、引き千切れんばかりに振られていた事だろう。
理多をこっそりと覗き見てそんな事を思っていたエヴァは、
理多の歩く度にひょこひょこと跳ねる短いツインテールが、段々と犬耳に見えてくるのだった。


(……拙いな)


自身のこめかみを押さえながら、内心呟く。
何が拙いのかというと、今の――元気を取り戻した理多が、である。
率直に、はっきりと、ストレートに言ってしまえば、 "すごく可愛い"のだ。

ただでさえ、小柄で、童顔で、素直という、可愛い要素を詰め込んだような存在だというのに、
昨夜までの無理をして笑っていた理多と、今の、心からの笑顔を見せる理多とのギャップがその可愛らしさに拍車をかけ、
また、エヴァが選んで着せたゴスロリ服がこの上なく、理多の為に作ったのではないかと思ってしまうほどに、
完璧に可愛らしく着飾っている事が、可愛らしさを限界まで助長させていた。

しかし、ただ可愛いというだけなら、別段何も拙い事はない。
問題は、可愛い事に加え、芯が強く、我慢強い、信念を貫く為に命をも捨てようとした性格が――
外見と内面、そのどちらもが、エヴァ好みであったという事。
簡潔に言ってしまえば、出会って間もない理多という少女に、
エヴァは心を鷲掴みに、もしくは射抜かれてしまっていた。

しかし、まだ耐えられる。"何に"と言われると返答に困るが、とにかく、まだ耐えられる。
だがもし、後一度でも、理多に心揺さぶる"何か"をされてしまったら――


「……ついたぞ、此処が学園長室だ」


心の中で頭を抱えながら、それをおくびにも出さず理多へと言う。
二人の前には大きな扉があり、その上に付けられた金のプレートには、学園長室の文字があった。

エヴァがさっそく扉を開けようとすると、理多がそれ止め、胸に手を当てながら深呼吸をし始めた。

普通、職員室ならまだしも、生徒が学園長室に入る機会など、そうあるものではない。
あるのは、部活動などで快挙を成し遂げた生徒か、相当な愚挙を犯した生徒くらいなものだろう。
学園長室が何処にあるのかも知らず、卒業する者も少なくない筈だ。
理多もこれまで学園長室に入るような機会はなかったらしく、
学園の最高責任者が扉の向こうにいると思うと、緊張してしまうようだった。

何度目かの深呼吸の後、理多が頷く。
それを確認すると、エヴァは学園長室の扉を開いた――ノックも、声をかける事も、会釈もせずに。
そしてそのまま、堂々と学園長室へ入っていってしまう。

理多は、そんなエヴァの礼儀など微塵もない行動に呆気にとられ、刹那の間、思考が停止してしまった。
だがすぐに我に返ると、慌てて「失礼します」と言い、軽く会釈。顔を上げて室内を――
ある一点を見て、表情を含めた全身を強張らせた後、エヴァにやや遅れて入室した。
そしてぴったりと、まるで恋人同士寄り添うようにして、エヴァの横へと並んだ。


「……理多?」


学園長室は、詰めなければならないほど狭くはない。それどころか、無駄に広いぐらいである。
なのに何故密着してくるんだと、エヴァが訝しげに理多を見ると同時、今度はすがるように裾を掴まれた。
何か用なのかと思ったが、理多の目と意識は学園長へと向けられており、その目には、"恐怖の色"が浮かんでいた。
それに気付き、エヴァはなるほどと、理多の不可解な行動と恐怖の訳を理解する。

エヴァは学園長とそこそこの付き合いがあり、
慣れてしまって今ではなんとも思わないが、学園長の頭は少々奇抜な形をしている。
良く言えば仙人、悪く言えば妖怪のように、人間として有り得ない長さをしているのだ。
理多が――初めて学園長を見る者が怖がるのも、仕方がない事だと言えよう。


「安心しろ。見た目は奇抜だが、正真正銘ただ人間だ。お前を取って食ったりはせん」
「あ、はい……」


エヴァの相当に失礼な言葉に、理多はそんな事を本人の前で言ってしまっていいのだろうかと学園長を気にしつつ、
裾から手を放すと、エヴァから数歩ほど離れた。

慣れているからなのだろう、理多の反応にもエヴァの暴言にも学園長は何も言わず、
苦笑するに留めると、わざとらしい咳払いを一つ。
視線を集めると、理多を怖がらせないよう気を使ったのか、
いつもより穏やかな声色で自己紹介をし、そして頭を下げた。


「理多君、お主には悪い事をしたのう」
「そ、そんな、悪い事だなんて……」


一瞬何の事かと思うも、これまでの監視生活の事だと思い当たり、理多は首を振って即座に否定した。

吸血鬼になってしまった自分の未来は、良くて、追手に怯えながらの逃亡生活、悪くて死。
そう思っていた理多からすれば、学園の対応は十二分に――贅沢と言っていいほどにありがたいものだった。
だから感謝こそすれ、誰かに恨み言を言うつもりなど全くなかったし、ましてや謝られる事など有り得ない。
むしろ謝るのは自分の方だと、感謝と謝罪、理多は二つの気持ちを込めて深く頭を下げた。

そうしてお互いに謝罪し合ったところで、早速本題へと移った。


「――それで、今後の事なんじゃがな……」


学園での保護が決まったという事は、昨日封印が終わって眠りから覚めた後、エヴァから聞かされていた。
だから今後の事というのが、自分にとって悪い事ではないだろう事は判っていたのだが、
それでも緊張はあり、理多はごくりを喉を鳴らした。


「まだしばらくは、学園都市の外に出してやれそうにないんじゃ」


言って、学園長は申し訳なさそうに表情を曇らせた。

一方理多は、何となくその事を予想できていたのか、表情に大きな変化はなく。
ゆっくりと瞬きをした後、そうですかと一言呟いただけだった。
学園から出られないというのは、悪くもなければ良くもない微妙な決定で、
どう反応していいか判らなかったのである。

封印によって、人を襲う原因となる吸血衝動はなくなり、また、日光を浴びても灰になる事もない。
今の理多は、身体能力が成人男性並みである事を除けば、人間だった頃と変わらなくなっている。
しかし、それでも、理多が吸血鬼である事実は変わらない。

吸血鬼としての力を封印によって抑えられ、"限りなく人間に近くなっている"だけなのである。
その為、理多の人柄を知ってもなお、麻帆良学園の魔法先生と魔法生徒の中には、
理多を自由にさせる事に反対する者が少なからず居た。
学園内でそれなのだ。学園外、県内、国内と範囲を広げていけば、無視できない数の反対者が出てくるだろう。
理多を自由にさせる為には、そういった者たちを説得し、納得させ、さらに色々な手続きをしなければならず。
多大な権力を持つ学園長でもってしても、時間がかかるとの事だった。


「理多君が悪いという事ではないんじゃ。吸血鬼、そして満月の瞳でなければ、
 ここまで危険視される事はなかったじゃろう。そこは、判ってもらいたい」
「……はい。ちょっと長い春休みって思っておきます」


何度も何度も、繰り返し"理多の所為ではない"と言う学園長に、理多は苦笑いを浮かべながらそう言った。

決定に対し、理多が特に傷付いた様子はなく、学園長はホッとする。
しかし、そんな理多の強さに甘えてはいけないと、学園長は少しでも早く、
理多を自由にしてあげられるようにしなければと決意した。


「明後日で春休みも終わり、新学期が始まる。理多君には、せめて退屈な思いはさせないよう、
 自由になるまで麻帆良学園で授業を受けてもらう事も考えたんじゃが……」


新学期という大変な時期に、色々と問題のある理多を転入させるのは勘弁してほしいと、
理多を自由にする事に賛成していた教師からもそれは反対されてしまったらしい。

ちなみに、理多が通っている高校には、学園長が手回しをして、理多は期間未定の入院中という事になっているという。
長くなるようなら、留年してしまわないよう処置してくれるとの事で、理多は安心した。
吸血鬼となってしまった今、気にする必要はないのかもしれないが、とりあえず高校だけは卒業しておきたかったのである。


「代われるものなら、代わってやりたいんだがな」


今まで黙って理多たちのやりとりを聞いていたエヴァは、そう言って大袈裟にため息を吐いた。
それに対し、理多と学園長は揃って苦笑した。

話すべき事を全て話し終わって会話が途切れた時、
机に置かれた少々古いタイプの電話が、この時を待ってましたとばかりに鳴り響いた。

学園長は理多たちに断わり、電話を取る――かと思いきや、掌サイズの小さな木の杖を手に取り、
ボソリと何かを呟きながらその杖を振った後、ようやく電話を取るのだった。

今の行動に何の意味があったのだろうと首を傾げる理多に、
エヴァは会話を聞かれないようちょっとした結界を張ったのだと説明した。

確かに声が全く聞こえないなと、理多が一人感心していると、
電話をしている学園長が驚きの表情を浮かべ、続いて理多を見て微笑んだ。
どうやら話の内容は理多に関する事――それも、良い事らしい。

数分後。
電話と結界を切った学園長は、理多を見て満面の笑みを浮かべた。
そして、期待半分不安半分といった様子の理多に、学園長はもったいぶらずに言った。
その内容は、良い事なんて範疇に納まらないほどの吉報だった。


「直人君なんじゃがな、関西呪術協会で無事保護――と言うか、勾留されておるそうじゃ」


直人が無事。


「――――ぁ」


それを聞いた瞬間、理多は全身の力が抜け落ち。
ぺたんと、その場に座り込んだ。


「よかった……お兄ちゃん、無事だったんだ……」


ぽろぽろと涙をこぼしながら、くしゃりと笑う。

必ず何処かで生きていると信じていた。何の根拠もなかったが、それでも信じていた。
当然、不安がなかった訳じゃない。"もしも"を考えてしまう事もあった。
だからこそ、直人が無事だという学園長の言葉が――


「本当に……よかった……」


嬉しくて。
嬉しすぎて、涙が止まらなかった。

それを、学園長は目を糸のようにして微笑みながら、エヴァは微かに口元を緩めながら、黙って見守る。
嬉しさを噛みしめさせてあげようと、気が済むまで泣かせてあげようと、二人は同じ事を思っていた。

それからしばらくして、理多はエヴァの手を借りて立ち上がった。
そして泣いているところを見られて照れ臭かったのか、
目頭を赤くしながらえへへとはにかむと、気になっていた事を尋ねた。


「あの、さっきお兄ちゃんが、"勾留されている"っていうのは……」


少し躊躇った後、学園長は言う。


「……ハッキリと言ってしまえば、理多君を逃がす為に協会の者を傷付けた罰じゃ」


体を張って助けてくれたのは、素直に嬉しいと思った。
しかしその所為で、直人が拘留されてしまったとなれば、嬉しさは半減――どころか、マイナスだった。

しゅんと項垂れる理多に、学園長は慌ててフォローを入れる。


「勾留と言っても、理多君と同じような待遇じゃよ。
 それと、協会の者たちを全滅させておきながら、怪我もしておらんそうじゃ」


学園長の言葉に、理多は顔を上げ、信じられないといった表情を浮かべた。
怪我をする事なく、十数人の魔法使いを一人で全滅させられる実力とは、一体どれほどのものだと言うのか。
家でだらしなくゲームをしている兄の姿しか知らない理多には、とても想像できなかった。
本当は酷い怪我をしていて、それを正直に言うと自分が傷付くから、そんな嘘を吐いているのではないか。
そう疑ってしまうほどに、信じれらなかった。

そんな理多の内心を読み取ったのか、エヴァは「無理もないか」と呟いた後に言った。


「兄としての顔しか知らないお前には信じ難い事だと思うが、じじいの言っている事は本当だろうよ。
 色々な意味で"化物"だからな、アイツは。お前の吸血鬼としてのポテンシャルが高いのも、家系だと言われれば納得できる。
 お前には直人のように、別の才能があるかも知れんな」
「別の、才能……」


直人の実力については、今度会った時にでも聞こうと決め、理多はエヴァの言った才能について考える。
もし化物としての才能以外にも才能があるというのなら、もっと平和的な――例えば料理の才能だったリ、
手芸の才能のようなものだと良いな、なんて事をわりと真剣に理多が願っていると、
エヴァが指を唇に当てながら少し試してみるかと理多を見て呟き、そして学園長へと手を差し出して言った。


「おいじじい、図書館島に入門用の魔道書があっただろ。貸せ」
「理多君に魔法を教えるのかの? "わしは"、別に構わないんじゃが……」


学園長はそう言って目を閉じ、唸った後、まぁ何とかなるじゃろと、引き出しから一枚の黒いカードキーを取り出した。
都市の敷地内にある麻帆良湖に浮かぶ、世界最大規模の巨大図書館、通称"図書館島"。
その図書館島の地下、一般人は当然の事、魔法使いも許可なしでは入る事を禁じられている
フロアへ入るのに必要なカードキーである。

エヴァはそれを受け取ると、少し怖いくらいに真剣な表情をして、理多へと言った。


「……さて。理多、私はじじいと少し話がある。悪いが、少し外で待っていろ」


どうやら、理多に聞かれては困る話らしい。
その内容が少し気になったが、理多は何も言わずに頷くと、一礼して部屋を後にした。



[26606] 第2章 2時間目 不完全な存在
Name: あかいつき。◆3327a354 ID:742ccd16
Date: 2011/03/20 18:39
扉がガチャっと音を立てて閉まる。
それを合図に、エヴァは学園長へ鋭い視線を向けた。


「――で? 茶々丸で事足りる理多の同伴者に、
 朝が苦手で苦手でしょうがない私をわざわざ指名したからには、それ相応の大事な用があるんだろうな?」

実に嫌味ったらしく言ってくるエヴァに、学園長は無表情のまま頷きつつ、
クリップでまとめられた資料をエヴァに手渡した。
その資料の見出しには、"連続昏倒事件の調査結果"と書かれており、エヴァは思わず目を細めた。
酷く、嫌な予感がした。このまま目を通さず、詳細を聞く前に帰ってしまおうかと考える。

それを察したからかどうかは判らないが、学園長は資料の概要についてエヴァの反応を待つ事なく語りだした。


「最近学園近辺の街で、"貧血で倒れる者"が多いと耳にしての。
 理多君の事もあって、詳しく調べてもらったんじゃよ。そうしたら……」


学園長は、自身の首筋を指差した。


「あったんじゃよ、二点の傷跡が」


二点の傷跡。
考えるまでもなく、この事件の犯人が"何であるか"が判る。

エヴァは帰る事を諦め、資料に目を通しながらため息混じりに呟いた。


「二人目の吸血鬼、か」


正確には、理多が二人目で、この事件の犯人は一人目かもしれないが。
それどころか、三、四人目の可能性も有り得ない話ではないだろう。
ただ、見つかっていないというだけで。

エヴァは黙々と資料を読み進めていく。

どうやら、傷跡は貧血で倒れた者全員にあった訳ではないようだ。
つまり、"ただの貧血"で倒れた者もいるという事だろう。
だが、時間が経って傷跡が消えてしまっただけという事も考えられ、事件に無関係かどうかの見極めは難しい。
その為、貧血によって倒れた者は、傷跡がなかった者も含めると三十人余りとの事だったが、
実際はもっと多くいるかもしれない。
そして今も、被害者が増え続けている可能性は十分考えられ、
さらには吸血による"吸血鬼の呪い"の感染で、新たな吸血鬼が生まれている可能性すらある。

吸血鬼というのは恐ろしいなと、エヴァは他人事のように改めて思ながら資料を閉じた。


「ただの腹ごしらえなのか、何か目的があっての事なのか。
 どちらにせよ、理多とは違い、人の血を吸う事に躊躇いのない"普通の吸血鬼"のようだな。
 理性を失っているのならまだ良いが、失っていないのなら少々厄介だぞ」


吸血鬼は、強大な力を持つ半面、弱点が非常に多い。
その為、理性のない吸血鬼であれば、十分に策を練って挑む事で、比較的簡単に対処する事ができる。
だが、理性があるとなれば、難易度は格段に跳ね上がってしまう。
弱点をつかれる事や罠を警戒されるし、策を練る前に奇襲をされてしまえば、並みの者ではまず勝ち目はないからである。
理性がある事の多い、"満月の瞳"を持つ吸血鬼――理多が恐れられているのは、その要因の所為であるところが大きい。


「判っておる。近々都市の大停電もあるからの。いつも以上に警戒を強めるつもりじゃ。
 ……お主も、余り手をかけさせるような事はするでないぞ?」
「……善処しよう」


言って、釘を刺してくる学園長に資料を投げ返すと、エヴァは不敵な笑みを浮かべた。
絶望的なまでに、言葉と表情があっていなかった。

学園長はため息を吐きながら資料を受け止め、机へと置くと、別の話題を切り出した。
別のと言っても、相変わらず吸血鬼関連の事なのだが。


「一つ、気になる事があるんじゃよ」
「気になる事……?」
「理多君を討伐しに行った者たちが受けた、通報についてじゃよ」


理多を襲った――討伐しに向かった魔法使いたちは、吸血鬼が居るとの通報を受けて、理多の家へ向かったのだという。
その通報をしてきたのは、傷だらけになった、冴えない三十路前後の魔法使いだったらしい。

通報を受けた魔法使いたちは、絶滅種と言ってもいい吸血鬼の出現という通報に、半信半疑ながらも隊を作って出動。
そして、半壊した理多の家で通報通り、魔の気配を漂わせた赤い瞳の少女、吸血鬼である理多を見付け、討伐を開始した。

学園長が気になっているのは通報後の事ではなく、冴えない魔法使いの通報についてだった。

エヴァが理多から聞いた話によれば、理多は夕方、
買い物帰りに人気のない森林の中を通る道の途中で記憶が途切れ、夜気が付いたら、家で眠っていたのだという。
家の中に居たのは、玄関の壁に寄り掛かって眠っている理多を、直人が家に運んだ為だ。
理多を家まで運んだのは、間違いなく理多を襲った犯人だろう。
そうでなければ、家に運んで通報もせずに放置するとは考え難い。
理多の家が判ったのは、判るような物を理多が所持していたからなのか、目を付けていたからなのか。

それはさて置き、犯人が理多を吸血鬼にした後家に運び、
直人が家の中へと運ぶ間、理多はずっと意識を失っていた訳なのだが、
しかしそうなると、冴えない魔法使いは何故"傷だらけになっていたのか"という疑問に行き当たる。

通報を受けた魔法使いたちは、傷だらけになっているのは吸血鬼、つまり理多の仕業だと思っていた。
しかし理多には、冴えない魔法使いを傷だらけにする暇などなかった。覚えていないだけ、という可能性もない。
直人が理多を見つけた時、理多の何処にも血は付いていなかったのだから。
冴えない魔法使いを襲った後、着替えて再び玄関に、というのは少々現実的ではない。

学園長の言いたい事を、エヴァは説明を受けて理解する。

通報した冴えない魔法使いは、理多を吸血鬼にし、理多の前に現れた男と"同一人物"で間違いない。
それは、学園長も判っている事だろう。問題は、通報した理由。


「人気のない場所で仲間にした理多を、目撃されるリスクを冒してまで家に運び、
 さらに退治させようとする理由が判らない、と」
「うむ……」


仲間が必要ないのなら、血を吸うだけでよかった筈。
自身が行った吸血の罪を押し付ける為だったとしても、
前日まで昼間普通に出歩いていた理多にはアリバイがある為意味を成さない。
相当な馬鹿でもない限り、その事は判るだろう。では一体何の為にと、唸りながら思考する学園長。
そんな学園長に、腕を組み、目をつむって無言でいたエヴァが、無表情でポツリと呟いた。
心なしか、震える声で。


「――なぁじじぃ。理多は、"血を吸われて"吸血鬼になったのかな?」
「……しかしお主、それは……」


エヴァも学園長も、理多は"吸血によって吸血鬼になった"と決め付けていた。
もっともエヴァの方は、理多が"ただの吸血鬼ではない"という可能性を考えなかった訳ではなかったが。

日光については不明だが、影はあるし鏡に映る。
炊事の際普通に流水――水道を扱って行っていた。
十字架も銀も、触って少しピリッとする程度だと、何かの際に言っていたように記憶している。
唯一、吸血衝動だけが正常に機能している理多は、あまりに"吸血鬼として"不完全過ぎるのだ。

だが、それらに気付いていながら、エヴァは可能性として除外してしまっていた。
ポテンシャルの高さ故の異常性だろうと。何故なら、"秘術"はもうこの世には――


「秘術は失われた。確かに、そう言われている。……だが、それは絶対じゃない。
 何処かの馬鹿が、新たに一から作り出した可能性もある。見つけたにしろ、作ったにしろ、
 秘術は不完全なんだろうな。だから――」
「だから、理多君で試した……? 秘術の完成度を、確認する為に。通報したのも、その為じゃと……?」


絞り出すような声で、学園長は尋ねた。
目には明らかな怒りが浮かんでおり、握り締められた拳は、力を込めすぎて白く、震えていた。
そんな学園長に、エヴァはおそらくなと言葉を返し、そして顔を覆うように片手で掴むと、失笑した。

一人の少女が、本人の気付かぬ間に、勝手に秘術を施され、吸血鬼にされてしまう。
それはまるで、何処かの誰かのようだと。

失笑しながら、エヴァは吐き捨てるように結論を述べた。
いつの間にか唇を強く噛みしめていたらしく、一筋血を滴らせながら。吐き捨てるように。


「理多は不完全な―― "真祖の吸血鬼"だ」


 ◆ ◆ ◆ ◆ ◆


理多が学園長室の前、部屋際の壁に寄り掛かりながら窓の外を眺める事十数分。
不機嫌そうに後頭部をかき乱しながら、エヴァが学園長室から出てきた。
そんなエヴァに、理多は何かあったのかと心配そうに尋ねたが、
エヴァは気にするなとやけに平坦な声で一言そう口にしたきり、黙って歩きだしてしまう。

様子が変だなとは思いながらも、理多は言われた通り気にしない事に――気にはしても、それを口にしない事にした。
あまりエヴァを困らせるような事はしたくはなかったし、何も言わないのには、意味があるのだろう。
それは自分の為かもしれないし、そうでないかもしれない。
どちらにせよ、エヴァの判断に任せようと、理多は一足先に玄関へと歩き出していたエヴァの後を慌てて追った。

すぐに追いついてこれるようにと、気持ちゆっくりと歩いていたエヴァの横に、理多が並ぶ。
それを横目で確認し、エヴァは口を開いた。声色は、いつもの調子に戻っていた。


「理多、本格的にやるかどうかは判らないが、お前に魔法を教えるからな」


――魔法。
誰もが一度は使ってみたいと思うであろう、ファンタジーの象徴。
不思議な力で火や風を出し、モノの姿形を変え、空を自由に飛ぶ――異能の力。
それらを可能とする魔法を教えてもらえるとなれば、誰だって――特に少年少女は喜ぶだろう。
そう思っていたエヴァだったのが、理多の反応は、今一パッとしないものだった。

自分の掌を眺めながら生返事を返した理多に、エヴァは目だけを理多に向けて尋ねた。


「……意外だな、嬉しくないのか?」
「興味は、あります。でも……ちょっと、怖いなって」


確かに魔法は、理多の言う通り素敵で便利なものというだけではなく、怖い――危険なものだ。
攻撃魔法は当然として、ちょっとした補助魔法――例えば、物を少し浮かせる魔法でも、
使い方次第で人を傷つける事は十分可能であるし、銃や刃物のように手に持ったりしなくてよく、
魔法が使われる直前まで目に見えない為、事前に危機を察知する事は非常に難しい。
使えるようになるのは大変だが、個人が有する事のできる凶器としては、非常に優秀のものと言っていいだろう。
その事を、理多は殺意と共に向けられた魔法から理解していた為、魔法を怖いと言ったのだった。


「それが判っているのなら、大丈夫だろう」


ようは使い方次第だ。銃や刃物だって、傷つける事だけではなく、誰かを守る事や、料理に使う事ができる。
魔法もそれと同じで――それ以上に、色々な事ができるのだ。
何をどうするかは使い方次第、理多次第という訳である。
もっともそれは、理多が自分で決めなければならない事なので、エヴァは何も言わなかった。


「私に使えるのかな、魔法……」


呟きながら、理多は自分の目でハッキリと見た事がある数少ない魔法の一つ、
追手が放った竜巻のような魔法を放つ自分の姿を頭に思い浮かべた。
恰好は何となく、幼い頃好きだったアニメの魔法少女と同じ物にしてみたりして。


「あはは……」


想像して、理多は失笑した。自分には、魔法を使えそうにないなと。
だが理多は、一つ大きな勘違いをしていた。魔法使いになるには、生まれもっての素質に大きく左右される。
アニメや漫画などからのイメージから、そう思っていた事だ。


「魔法は、手順さえちゃんとしていれば、誰にでも使えるものだ。もちろん、習得時間や力には個人差があるがな」


誰にでも、もちろん理多にでも使える。その事実は、素直に嬉しかった。
しかし、魔法使いという存在に強い憧れなどがあった訳ではなかったが、
そこらのスポーツと変わらんよとエヴァに言われて少し、ショックだった。


「お兄ちゃんは、どうだったんですか?」


エヴァが、直人は化物的強さだと言っていた事を思い出し、尋ねてみる。
兄妹であるし、習得時間等参考になるのではないかとの思いから。
しかし返ってきた答えは、理多の予想だにしないものだった。


「アイツは魔法を使えない。全く、な」


言って、直人が魔法を使えないという決定的瞬間でも思い出したのか、エヴァは失笑をこぼした。

直人は魔法を使えない――正確には、魔法を使う為に必要不可欠な魔力が使えないとの事だった。
という事はつまり、逃走劇の初日、直人が自分を魔法使いであると言ったのは、
理多を安心させる為に言った嘘、あるいは見栄という事になる。
例え嘘でも見栄でも、その言葉で少なからず安心する事ができたのは確かなので、それ自体に何も言う事はない。
しかしそうなると、魔法を使えない直人は、魔法使いたちをどうやって倒したと言うのだろうか。
その疑問を理多が口にする前に、エヴァは言った。


「魔法を使えない代わりに、アイツは"気"の扱いが天才的なんだよ」
「キ? 元気の気、ですか?」


言いながら、理多は両手で小さくガッツポーズをして元気を、あるいは気合いを表現した。
それは、元気はともかくとして、気合いという字が似合わない、ただただ愛くるしいものだった。
しかも、ガッツポーズをした際少々前屈みになっており、背が低い事もあって、自然上目使い気味に。
さらにその瞳は、少し前に泣いた為だろうか、うるうるとしていた。


(――――――っ)


エヴァは腕をがっしりと、痛いくらいに組みながら、心の中で誰にともなく胸を張った。
私でなければ、思わず抱きしめるか頭を撫でてしまっていただろう、と。

理多に気付かれぬようそっと息を吐きながら、説明をする。


「そう、その気だ。ここで言う気とは、つまり生命力の事だ。それを利用する事で、身体能力の強化を行ったりする。
 桜咲刹那なんかが、典型的な気で戦うタイプの者だな」


言いながら、エヴァは日差しに目を眩しそうに細め、特に何を思う事もなく玄関を出て外へ。
しかし理多は、屋内と屋外、日向と日陰、その境界の三歩ほど手前で立ち止まっていた。
意識的にではなく無意識的に、日光に対し恐れを抱いて、足が地に張り付いてしまっていたのだ。

今の理多は、日光を浴びても灰になる事はない。実際、行きは何事もなかった。
灰にもなっていなければ、火傷にもなっていないし、痛みを感じる事もなかった。
その事が嬉しくて、少し涙が出てしまった事も覚えている。

――しかし、それでも、日光に対する恐怖は、残っていた。

いずれ慣れていくだろう。慣れていかなければ、ならない事だ。
だがそれは、まだ先になりそうだった。
とは言え、いつまでも此処に留まっている訳にはいかない。
怖いだけで、以前のように日向に出られない訳ではないのだから。

深呼吸を繰り返し、徐々に恐怖心を鎮めていく。
そして、恐る恐る一歩を踏み出そうとした時――


「じれったい、さっさと行くぞ」


エヴァが理多の手を取り、そして引いた。
息を呑んだ理多の全身に、春の日差しが降り注ぐ。
突然の事で、恐怖が驚きで消し飛んでいた。

エヴァに手を引かれながら、理多は先程まで日光を恐れていたとは思えない、
太陽のような笑顔を浮かべながら、歩みを進めていく。
日光に対する恐怖は、落ち着きを取り戻した後も戻ってくる事はなかった。
恐怖が付け入る隙など、ありはしなかったのである。
何故なら今の理多は、安心感と嬉しさで満たされていたから――

しばらくして、エヴァは手を繋いでいる事が恥ずかしくなったのか、理多の手を放した――
が、理多はそれを許さず、今度は理多がエヴァの手を取った。
そしてそのまま、図書館島に用事があるエヴァと道の途中で別れるまで、手を放す事はなかった。

その代償は、エヴァによる頬を染めながらの拳骨一発だったのだが、
理多は殴られた頭を押さえながら嬉しそうにはにかんでいた。
後数十発は拳骨をしないと、罰にはなりそうになかった。



[26606] 第2章 3時間目 衝撃の出会い
Name: あかいつき。◆3327a354 ID:742ccd16
Date: 2011/03/20 18:39
理多が一人でログハウスに戻ると、出かける前は整然としていたリビングが物で溢れかえっていた。
丁度、手加減の練習をしていた時のような光景。その時と比べると、物の量は半分程度であったが。

足場がない訳ではなかったので、物の間を縫うようにして中へ。
そして、不思議な形をした物体を箱に詰めていた茶々丸へ、ただいまと挨拶をした後尋ねた。


「大掃除、ですか?」
「いえ、明日廃品をまとめて処分するので、そのついでに少し部屋の物も整理してしまおうかと思いまして」


なるほどと頷き、理多は茶々丸の整理している姿を無言でジッと眺めた。

目は口ほどにものを言うとはこういう事かと思いながら、茶々丸その視線を無視して作業を続ける。

吸血鬼の呪いを封印した後、理多は見違えるほどに元気になった。
それは、以前のように見せかけではない事も判っていた。
しかし、回復してからまだ一日と経っていない為、茶々丸としては、
せめて今日一日位は安静にしていてほしかった。ほしかったのだが――


「……あの、手伝ってもらえますか?」


理多の視線が徐々に恨みがましいものとなっていく事に耐えきれず、茶々丸の心が折れた。

茶々丸のその問いに対し、理多は頷くと、満面の笑顔をもってして答えた。
そんな理多の笑顔を見て、まぁいいかと納得してしまった自分に、茶々丸は少々不安を感じ始めるのだった。
その内、理多の頼み事を断る事ができなくなりそうだと。

リビングの片付けをある程度終え、茶々丸は二階の個室、理多は一階の奥にある、薄暗い物置の片付けをしていた。
片付けと言っても、理多には何がいる物で何がいらない物なのかの正確な判断ができない為、
明らかに要らないだろうという物をリビングに移す作業を行っていた。

物置には、用途不明の様々な物が並んでいたが、その中でも特に理多の目を引く物があった。
それは、以前操ったマリオネットよりもずっと大きい、三頭身ほどの人形。人形は他にもいくつかあったのだが、
理多が気になったのはその一体のみだった。
外見が茶々丸に似ていたからなのか、不思議な魅力のようなものを感じているのかは判らない。
とにかく、理多はその人形から目が離せなくなり、気が付けば、手に抱えていたのだった。

せっかくなので、電灯にかざして人形をよく見てみる。
小さな傷が目立つところからして、古くからある物のようだが、何処も壊れているようには見えない。
それだけ、この人形は大事にされているのだろう。


「――ん?」


余り触れない方がいいかなと、理多は元にあった場所に戻そうとしたその途中。
理多はある筈のない視線を感じ、両腕を伸ばした形で動きを止めた。
気の所為では済まされない、強烈な視線を感じたのである。
その視線は丁度、手に持つ人形辺りから――


「っ!?」


目が合った。人形と、目が合ってしまった。
人形の目の直線上に自分の目があったという事ではなく、確実に視線を交わした。

理多は、この人形は"生きている"のだと確信する。
その途端、惹かれていた人形が恐ろしいものに感じ始めた。
別に理多は、人形が生きているという事を恐ろしく思っている訳ではない。
生きている人形ならすでに出会っているし、魔法が関係していると察しがついているからだ。

では、何故恐ろしいのか。
答えは単純明快。人形の手に、鈍く光る包丁が握られているからである。
人形が握るのなら、それはただの装飾品に過ぎない。
だが人形が生きているのなら、例え素材がプラスチックだろうとも、それは立派な凶器となる。
しかも最悪な事に、光の反射具合からして、人形の持っている包丁はプラスチックではなさそうだった。
もはや完全な凶器である。

そして極め付けに、その包丁よりも鋭い、硝子の瞳に篭る強い殺気。


「――盗人風情ガ、何勝手ニ触レテヤガル」


遂にはカタカタと音を立てて喋りだした人形に、理多は硬直した。
そんな理多に、人形は手に持った包丁を振りかざすと――一切の躊躇いもなく、
自身を持ち上げている理多の腕めがけて振り下ろした。


「きゃっ!?」


理多は咄嗟に人形を手放し、よろめくように後退した。
結果、包丁は空を切り、人形は重力に従って地面へと落ちる。
普通の人形であったのなら、それで終わり。
誰かが拾い上げなければ、いつまでも地面に横たわり続けるだろう。
だがこの人形は普通ではない、生きている。そして、自ら動く事ができた。


「ケケッ」


人形は地面に足から落ちると、その衝撃をばねにするように理多へと跳ねた。

不気味な笑みを貼り付けながら迫る人形に、理多はネックレスの宝石を掴む。

迎え撃つという選択肢が浮かぶ――が、その案は即座に否定する。
大切な物である可能性の高い人形を壊してしまうのは、できれば避けたかった。
母親の形見であるネックレスが壊れているのを見た時の、あの胸の痛み。
その痛みを与えるような事は、したくはなかった。

なら、できる事は一つだけ――逃げるしかない。

理多は思いっ切り地を蹴って、飛び退いた。
その直後、包丁が鼻先をかすっていく。
後少し判断が遅ければ、おそらく顔を縦に切られていただろう。

と、避ける事ができた事を喜ぶ暇もなく――


「きゃんっ!?」


後ろに何があるのかも確認せずに跳んだ為、
理多は自分と茶々丸が積み上げていたガラクタの山へと背中から突っ込んでしまった。


「あ、雨音さん!?」


物が崩れる音を聞き、二階から駆けつけた茶々丸は、目を回している理多を発見する。
茶々丸は慌てて理多へと駆け寄り、汚れを払いつつ抱えあげた。
気絶しているが、特に外傷は見られない。その事に安堵していると、茶々丸にとって懐かしい声がかかった。


「ヨゥ茶々丸。オ、盗人ハ気絶シタノカ」


包丁を肩に担ぎながら、自分の足で歩いてきた人形はそう言うと、
気絶している理多を見てケケケと満足そうに笑った。

茶々丸は人形――自身の姉であるチャチャゼロの出現に驚き、何故動けるのかと疑問に思うも、
自分の腕の中で横たわる理多を見て、大体の経緯を察する。
理多がチャチャゼロを手に取った際、チャチャゼロが理多から自身の動力源である魔力を吸い取り、
そして、目を覚ましたチャチャゼロが有無を言わさず理多に襲い掛かったのだろうと。

茶々丸は、この事態を予測できなかった自分に自己嫌悪し、チャチャゼロの喧嘩っ早さに呆れつつ言った。


「姉さん、雨音さんは盗人ではありません」


言いながら、心なしか怒りの篭った視線を向けてくる茶々丸に、チャチャゼロは首を傾げた。
茶々丸はこんな、人間のような態度をとるロボットだっただろうか、と。

チャチャゼロは、盗人だと思っていた見知らぬ少女――理多へと目を向ける。


「……ドウヤラ、俺が眠ッテイル間ニ色々トアッタミテェダナ」


茶々丸を変える何かがあったのか、それとも、理多が変えたのか。
何にせよ、手に持つ包丁を血で染める事はできないようだ。
盗人をどう料理してやろうかと考えていたチャチャゼロは、残念そうに包丁を地面へと突き立てた。

――そして、茶々丸が理多が来てからの事をチャチャゼロへ大方の説明を終えた頃。


「……何だ。茶々丸と理多を留守番させると、部屋が散らかる呪いでもかかっているのか?」


本を抱えたエヴァが帰宅し、リビングを見回しながらため息を吐くのだった。


 ◆ ◆ ◆ ◆ ◆


片づけを終えたリビングのソファーで、理多と茶々丸は肩を並べて座っていた。
理多の手には、エヴァが図書館島から借りてきた入門用の魔導書が持たれている。
魔導書は、利用者が少ないのか、新しい物なのか、新品同様だった。

理多はその本を、難しい顔をしながら黙々と目を通していた。


「……茶々丸さん」


しばらくして、理多は本から顔を上げる。
瞳には、大きなクエスチョンマークが浮かび上がっていた。
目は心の鏡とはこういう事かと、茶々丸は思った。


「日本語で書かれているから、読む事はできるんですけど……内容が、全く理解できないです……」


例えるなら、解く為の公式を知らない数式を見た時のような感じ。
まだ、数式の方が何となるかもしれない。
何せ魔導書の内容は、どれも抽象的なものばかりだったのである。
教えてもらわなければ、答えなど判りようもない。

もしかして才能ないのかなと呟きながら、再び本を凝視する理多に、茶々丸は首を振った。


「初めから何でもできてしまう人間はいません。
 大丈夫です。雨音さんならきっと、すぐに使えるようになりますよ」
「茶々丸さん……ありがとうっ」


茶々丸の励ましに、理多はそうだよねと茶々丸へ笑顔を向けた。
良い事があったからか、その笑顔はいつも以上に素敵で、輝いていた。

その笑顔を見て、茶々丸は今まで見てきた理多の笑顔は、どこか陰りがあったのだという事を知る。
そして思った。この笑顔を取り戻す事ができて、本当に良かったと。

問題が全て解決した訳ではなく――また、全て解決する事ができないのだとしても。
できるだけ、この笑顔を再び失わせるような事がないようにしていきたい。
自分は従者であり、理多とはいずれ別れる時がくるだろう。
だからせめて、一緒に居られる間だけでもと、理多の笑顔に微笑み返しながら、そう思った。

コロコロと表情を変え、最後には笑顔を見せた理多と、その隣で微笑む茶々丸。

テーブルの上、花瓶に寄りかかりながら座り、その様子を眺めていたチャチャゼロは、
同じく片手で頬杖つきながら眺めていたエヴァに言った。
その表情は人形である為変わる筈がないのだが、どこか不満そうだった。


「随分ト仲ガ良イナ。直人ノ妹デ、吸血鬼ナンダッテ?」
「茶々丸から聞いたのか」


手間が省けたなと呟きながら、視線をチャチャゼロに移す。
チャチャゼロは、咎めるような目でエヴァを見ていた。


「助ケタノハ共感カ? ソレトモ、同情カ? ドチラニセヨ、ラシクネェナ、御主人」
「……確かに、な。自分でもそう思う」


らしくない。チャチャゼロの言う通りだと、エヴァは素直にそれを認めた。
誰かを助けるなど、昔のエヴァならとても考えられない事だと、エヴァ自身そう思っていたからである。
学園に閉じ込められるまで、長年ずっと一緒に過ごしてきた元従者がそう言うのだから、それは間違いないだろう。

理多に何かしらの利用価値があったのなら、昔のエヴァでも助けたかもしれない。
しかし、性格的に剣としても盾としても使う事ができず、エヴァの呪いを解くどころか魔法を使う事すらできない。
得意な家事も、現状茶々丸一人で事足りている為、理多に利用価値があるとはお世辞にも思えない。
では何故、エヴァはそんな理多を助けたのか。


「単純に気に入ったんだよ、理多の事が」


理由らしい理由など――ましてや、チャチャゼロが納得するような理由など何もなかった。
馬鹿みたいにお人好しで、頑固者で、笑顔の似合う。
そんな、理多という少女が気に入った。ただそれだけなのだから。


「御主人ノソンナ顔ヲ見ル日ガ来ルトワナ、気持チ悪イゼ」


知らず、微笑みを浮かべていたエヴァから、そんな顔は見たくないとチャチャゼロは視線を逸らした。
そんな態度を取ったチャチャゼロだが、実はそんなに、エヴァや理多に対して不満を抱いている訳ではなかった。
エヴァが、主人が現状を楽しいと思っているのならそれで良いと、そう思っていた。
何より、自分には関係のない事。どうせ後数分もしたら、理多から奪い取った魔力がなくなり、
再び眠りにつく事になるのだからと。


「しかしそうか、お前が居たか。ふむ……」
「……何カ面倒ナ事考エテヤガンナ。嫌ダゼ、俺ハ」


話の流れからして、理多が関係する事だろうと、片手でテーブルを叩いて抗議する。
エヴァが何をしようと口出すつもりはないが、それに自分を巻き込むなと。


「性格は面白い位違うが、意外と相性良いかもしれんしな」
「無視カヨ御主人」


しかし、エヴァは全く聞いてはいなかった。聞いていて無視している可能性も、大いにあったが。
と言うか、間違いなく後者だろう。でなければ、ニヤニヤとした表情の説明がつかない。

そして気が付けば、チャチャゼロは二択を迫られていたのだった。
もうチャチャゼロに、抗議する気力も魔力もなかった。


「チャチャゼロ、お前はどっちがいい? 理多の従者となる代わりに動けるようになるか、私の呪いが解ける日まで物置で眠るか」
「俺ニ、子守リヲシロッテェノカ……」


子守り――理多の相手をするのは、正直気が進まなかった。
しかし、その対価として自由に動けるようになるというのは、かなり魅力的だった。

エヴァの呪いが解ける見込みは、限りなくゼロに近いと、チャチャゼロは予想している。
茶々丸が言うには、近々解く事ができるかもしれないとの事だったが、きっと成功しないだろうと。
根拠はないが、強いて挙げるなら、エヴァの甘さと理多の存在といったところだろうか。
だから、そんないつになるか判らない解呪を待つくらいなら――

理多は厳しく行動を制限したりしなさそうだしなと、結論を出したチャチャゼロは、
残った魔力で両手を挙げ、降参のポーズをとった。


「……ワカッタヨ、ヤリャーイインダロヤリャー」
「決まりだな。理多を頼んだぞ、チャチャゼロ」


ため息を吐く仕草をするチャチャゼロを無視しつつ、エヴァは意気揚々と席を立った。
そして、当の本人を無視して勝手に決めた事を理多に伝えようとして――


「――あ、できた」


理多の驚きと喜びの入り混じった声と、手の平の上に浮かぶ、小さな光る球体によって口を噤まれてしまう。
その光りは、タネも仕掛けもない、正真正銘"魔法"によるものだった。



[26606] 第2章 4時間目 精霊の愛し子
Name: あかいつき。◆3327a354 ID:742ccd16
Date: 2011/03/20 18:40
魔法自体には、驚くべきようなところは何もない。
"光球"という、懐中電灯の代わりに使うような、初歩の初歩の初歩といった難易度のもの。
魔法使いを名乗る者なら、全員使えて当たり前と言っていいものだ。

――そう、"魔法使い"なら。


「……オイ御主人。チビッ娘ハ、今日初メテ魔法ニ触レタンダヨナ?」


チビッ娘とは、理多の事らしい。

エヴァはチャチャゼロの言葉に無言で頷きつつ、チャチャゼロを抱えて理多の元へ向かう。

理多は、近づいてくるエヴァに"光球"を差し出しながら、無邪気に瞳を輝かせていた。
自分の成した事の異常さも知らずに。


「エヴァンジェリンさん! 私、魔法が使えましたっ!」


初めての魔法に興奮しているようで、その声は喜々として弾んでいた。

自分が初めて魔法を使った時はどうだったかなと思いつつ、
理多の頭をグリグリと乱暴に撫でて落ち着かせながら、横に座る茶々丸に尋ねた。


「茶々丸、理多は一体何をした?」
「いえ、特別何も……ただ、魔導書に書かれている初級魔法を、一つずつ順番に唱えていっただけです」


茶々丸が判る範囲で、効果などの解説をしたりはしたが、それ以外は何もしていない。
理多も試しに呪文唱えただけであって、魔法を使おうとも、使えるとも思っていなかった。
本当にただ、国語の教科書を朗読するかのようにしていただけだったのだ。

――なのに、使えてしまった。

魔法は、呪文をただ読めば使えるという、簡単なものではないというのにだ。


「あの……私、何か悪い事を……」
「あぁ、いや、ただ驚いているだけだ。安心しろ」


エヴァのただならぬ様子に表情を暗くした理多へ、エヴァが微笑みかける。
そんなエヴァに、丸ッと笑いながら呟いたチャチャゼロが、エヴァに投げられ宙を舞った。

落下音と共にあげられた悲鳴を背に浴びながら、エヴァはオロオロとしている理多に説明する。


「理多。魔法はな、どんなに才能があろうと、初日でポンと使えるようになるものではないんだよ」


ある程度の実力を持った魔法使いであれば、一日で新しい魔法を使えるようにする事は決して不可能ではない。
だが、"今まで一度も魔法を使った事のない素人"が、というのはまず不可能と言っていいだろう。
何故なら魔法とは、極端に言ってしまえば感覚で行うものであり、魔力の流れを感じ、その独特の感覚を覚え、
慣れるという前段階が、才能の有無に関係なく非常に長いからである。

だというのに、理多はそれを一日で――正確には数分でできてしまったのだから、エヴァの驚きも無理はない。


「使えたのは、"光球"だけか?」
「はい。今のところは、ですが」


仮に、理多がエヴァの想像を絶する才能の持ち主だったとする。
しかしそうなると、他の同じような難易度の魔法も使えないと辻褄が合わない。
試しにもう一度、"光球"と同じような難易度の魔法をいくつか読ませてみた。
だがやはり、"光球"のみ使えるという結果になった。


(理多の得意な属性が"光"だから……? いや、それだけでは説明が――まさか)


ある可能性を思いついたエヴァは、口元を笑みの形に歪めながら、
理多の魔導書を手に取ると、あるページを開いて理多へと見せた。
そのページには、"魔法の射手"と書かれていた。
"魔法の射手"を選んだのは、各属性の難易度が全く同じだからである。


「理多、これを各属性一回ずつやってみろ。的は……これでいいだろう」


そう言って、エヴァは手加減の練習に使った氷球の人型版を、魔法で一つ作ってテーブルに置いた。
その人形がチャチャゼロの形をしているのは、先程気持ち悪いと言われた腹いせだろう。

人形の形が形である為、理多は若干躊躇いつつも、魔導書を見ながらたどたどしく呪文を唱え始めた。
攻撃する為の魔法だという事は何となく判ったようで、人形へ人差し指を向けながら。

――しかし、何も起こらない。

理多は少し恥ずかしそうにしながら、再び魔導書に目を落とす。
呪文を間違えている訳ではないようだと、気を取り直して再び呪文を唱え始めた。
だが結局、光属性を残した全ての"魔法の射手"が失敗に終わってしまう。

そして理多は、最後の光属性の呪文を唱え始める。
何度も唱えている内に覚えてしまったようで、本を見ず、的である人形を真っ直ぐ見つめながら。


「――光の精霊1柱  集い来たりて 敵を射て……」


今までなかった不思議な感覚が、不意に胸の内に沸き始める。
それは、先程"光球"を使った時微かに感じたものと同じだと気付いた。
その感覚を言い表すのなら、自身の内にある扉を開くような感じ。

理多はその開かれた扉から流れ込んでくる温かい力を、人差し指に集めるイメージをする。
すると、理多の指先に、蛍火のような淡い光りが浮かび上がった。
今の感覚を忘れてしまわないようしっかりと記憶に刻みながら、理多は呪文を完成させ、放つ。


「―― "魔法の射手"!!」


弱々しく発光した後、放たれた"魔法の射手"は人形へと一直線に飛んでいった。
その"魔法の射手"は、本来のものよりも小さく、速度も半分ほどしかなかったが、
それでも動かない物に当てるには十分で、"魔法の射手"は狙い通り人形へと直撃し、
人形もろとも跡形もなく消滅した。

理多は魔法を再び使う事ができた事に放心し、そして思い出したようにやったとガッツポーズした。

エヴァは少し驚きに目を丸くした後、自分の憶測が間違っていなかった事に対し、満足気に頷いた。


「ふむ、やはりか。理多は"精霊の愛し子"だ」


"精霊の愛し子"とは、数種類の属性魔法を扱える一般的な魔法使いと違い、
使用できる属性が単一である魔法使いの事である。

 
魔法は、使用者の魔力を使って精霊を召喚し、
その精霊の力を借りて様々な魔法を行使するという仕組みになっている。
"精霊の愛し子"は、その呼び出す精霊との結びつきが非常に強いとされ、
通常よりも簡単に、早く、強く魔法を行使できるのである。
その為、魔法のバリエーションこそ通常の魔法使いに大きく劣るものの、
理多の場合は光属性の魔法に関する全てにおいて、修練次第で通常の魔法使いに負ける事がなくなる。
それが、"精霊の愛し子"である。

ちなみに"精霊の愛し子"は、吸血鬼ほどではないものの、非常に珍しい存在だ。


「しかし、闇の眷属である吸血鬼が、よりにもよって"光精使い"とはな。
 くく、どこまでも吸血鬼らしくない奴だ。まぁ、お前らしくはあるがな」


面白い奴だと、エヴァは楽しげに笑った。
そんなエヴァに、冷ややかな視線が突き刺さる。
その視線の主は、エヴァに投げられたまま放置された、逆さまになっているチャチャゼロだった。


「勉強会モ良イケドヨ、イイ加減誰カ俺ヲ起コセ」
「あぁ、すっかり忘れていた。そういえば、契約するんだったな」


本気で忘れていた様子のエヴァに、チャチャゼロは怒りを通り越し、呆れてものも言えなかった。
だが静かに、契約して動けるようになったら何らかの制裁を与えてやると、心に強く決めるのだった。


「……契約?」


おそらく魔法使いに関するものなのだろうと予想付け、魔法使いと契約、
この二つのキーワードから、理多は連想し、推測した。
よくある魔女と黒猫のような関係。
"使い魔"と呼ばれるものとの契約の事を言っているのではないだろうかと。


「そう言えば、私と茶々丸の関係について、まだ教えてなかったな」


何の脈絡もなく、エヴァはそう言った。
実際はそうでもないのだが、理多には判らない。

契約が何であるかを気にしつつ、理多は思ったままを答えた。


「茶々丸さんはエヴァンジェリンさんのメイドさん、ですよね?」


普段何処へ行くにもメイド服を着用し、家事全般を請負い、エヴァをマスターと呼ぶ。
振る舞いから口調まで、メイドの他言いようがないだろう。
十人中十人が、理多と同じ解答をする筈だ。

しかし答えは違ったようで、エヴァは首を横に振った。


「それでは、半分正解と言ったところだな。茶々丸はな――私の"ミニステル・マギ"だ」
「……ミニステルマギ?」


片言気味にオウム返しをする理多。
少し中国語ちっくな発音になっていた。

理多にとってそれは、ここ数日間で初めて聞いた単語の中で、一番なんであるかが判らない単語だった。
何語であるかすら判らなかった。


(ミニスカートを捨てるマギさん……?)


そんな筈がなく、ミニステル・マギ―― "魔法使いの従者"とは、
魔法使いの詠唱を邪魔されないよう守る者の事である。

茶々丸は、エヴァのメイドであると同時に、"魔法使いの従者"でもあるとの事だった。
そしてその契約を、これから理多とチャチャゼロにさせようとしているらしい。


「まぁ、私と茶々丸が学校に行っている間の話し相手程度に思っていれば良い」


此処にいる限り戦うような事態にはならないだろうしなと言って、
エヴァは猫のようにチャチャゼロの襟を掴んで拾うと、理多の前に置いた。

理多は茶々丸に促され、その正面、チャチャゼロと向かい合う形で腰を下ろす。


「契約方法は簡単だ。互いの小指に糸を結んで、理多の血を糸に垂らせば良い。後は私がやる」


エヴァが何処からともなく取り出した糸を理多は受け取り、言われた通り小指に結んだ。
自分の事を想ってそうする事を提案した事がよく判った為、断る気はなかった。
少し前チャチャゼロに襲われた記憶が甦り、少々気乗りはしていなかったが。

チャチャゼロはどうなのだろうと、理多はそっと様子を窺う。
そっぽを向いていた。気乗りしていないのは、お互い様らしい。


「……いきます」


本当にいいのだろうかと思いつつ、理多はチャチャゼロの包丁を借りて指を刺し、傷から滲んだ血を糸に垂らす。
そして、糸が白から赤に染まり、完全に赤い糸になったのを見計らって、エヴァは詠唱を開始した。
それに伴い、理多とチャチャゼロを取り囲むようにして魔方陣が広がり、二人は柔らかな光りに包まれた。

魔法を使った時と似た感覚だと理多が思っていると、エヴァが力強く叫んだ。


「―― "ドール契約"!!」


光が激しく瞬く中、理多とチャチャゼロは、お互いの間に糸とは違う繋がりができるのを感じ取るのだった。


 ◆ ◆ ◆ ◆ ◆


「――チャチャゼロか」


音もなく近付いてくるチャチャゼロの気配を感じ取ったエヴァが、マントを羽織ながら振り返る。
その表情は、チャチャゼロがよく知る、丸くなる前のエヴァの表情に似ていた。


「何処ニ行クンダ、御主人」
「今のお前の主人は理多だろう。まぁ良いが」


チャチャゼロが理多を"御主人"と呼ぶ日が来るとは端から思っていなかったので、訂正を求めなかった。
それに、理多が御主人と言うのはどうも似合わないし、理多も自分が御主人などとは思っていないだろう。
それは契約後、よろしくねと言いながらチャチャゼロに握手を求めた時点で判りきっていた。


「……実はな、今年"アイツ"の息子が教師として私のクラスに赴任してきたんだよ」
「ヘェ。デ、コレカラ殺リニ行クノカ?」


いつの間にか両手に持っていた包丁を掲げながら、
自分も連れて行けと言うチャチャゼロに、エヴァは背を向けて否定する。


「いや、殺しはしない。死にかけるまで血を吸う事になるだろうがな。今日は、その準備の為だ」


茶々丸が言っていた"登校地獄"が解けるかもしれない事とはこの事かと、チャチャゼロは理解した。

何にせよ、またしても血を見る機会はないらしい。
チャチャゼロもエヴァに背を向け、包丁を肩に担ぎながら一応言っておく。


「ツマンネーノ。殺ル気ニナッタラ教エテクレヨ」
「なったら、な。それじゃあ、行ってくる――あぁ、理多には何も言うなよ」


振り向いてそう釘を刺すと、エヴァは茶々丸を引き連れて闇夜へと消えていった。
呪いを解く手がかりを見つけ、その為の準備に出かけるのだというのに、エヴァの表情は硬かった。
茶々丸もどこか、気が乗らないといった雰囲気をかもしだしていた。

それを見て、やはり呪いを解く事はできないだろうなと、チャチャゼロは確信した。
そして、自分が望むような血生臭い展開が訪れないという事も。


「……ナンダカナァ。ドイツモコイツモ、ラシクネェゼ」


エヴァたちが消えていった方向をしばらく眺めた後。
現在の主人が、何か心躍る展開を起こしてくれるようにと身勝手に願いながら、
チャチャゼロは理多が眠る部屋へと戻っていった。



[26606] 第2章 5時間目 桜通りの吸血鬼
Name: あかいつき。◆3327a354 ID:742ccd16
Date: 2011/03/20 18:40
両脇に満開の桜が立ち並び、一度風が吹けば桜吹雪が舞い上がる。
そんな幻想的な雰囲気を見せる、女子寮近くの通り――通称"桜通り"。
もうすぐ日付が変わろうかという深夜の十一時過ぎ、
規則を破ってでも花見をしようとする生徒も教師もおらず、
桜通りには現在、人気というものが一切なかった。
桜通りの半ば辺りに立っている、エヴァのものを除いて。

黒い帽子に黒いマントといった、闇夜から生まれ落ちたかのような出で立ちをしているエヴァは、
気を失ってぐったりとしている少女を抱きかかえていた。
佐々木まき絵ササキマキエ
元気が取り柄でちょっと勉強が苦手な、エヴァのクラスメイトである。
足もとに濡れたタオルやシャンプーボトルなどが入った桶が落ちているところからみて、
どうやら女子寮から少々離れたところにある大浴場に行った帰りのようだ。

深夜に大浴場から帰ってきたという謎はさて置き、何故まき絵は気を失ってエヴァに抱きかかえられているのか。
その原因は、首筋にある二点の傷跡にある。そう、エヴァの吸血が原因であった。


「……っ。泥水のようだ」


エヴァはまき絵を近くの桜に寄りかけた後、
口に残った血の味を追い出すようにして唾を吐き出し、顔をしかめた。

その血の持ち主であるまき絵の名誉の為に断っておくと、
まき絵の血は、決して"泥水"と言われるようなものではない。
基本的に規則正しい生活を送っているし、新体操部で十分な運動もしている為、
むしろ同年代の者たちの中ではかなり綺麗な方だろう。

綺麗な、そして若い女の血。それは吸血鬼が好む血であり、味である。
だからエヴァの泥水という評価はまき絵に問題があるのではなく、そう感じたエヴァの方に問題があるという事だ。
エヴァはその事を自覚していた。故に、呟いた言葉にまき絵へ対する嫌味は含まれていない。
単なる感想――否、自身に対する中傷だった。

口元から垂れていた一筋の血を乱雑に手の甲で拭いながら、エヴァは少し遠い眼をして誰にともなく呟く。


「まるで、初めて血を飲んだ時のようだ……」


真祖であり、吸血衝動も吸血する必要もない自分がどうして吸血をしたのかは、昔の事過ぎて覚えていなかった。
しかし、その時の血の味は、初めて"餌"として飲んだ血という特別さからはっきりと覚えていた。
一言で言えば、不味かった。二度と血なんて飲むものかと、そう心に決めてしまうほどに。
だがその時も今と同じで、不味かったのは血の所為ではなかった。
そう、吸う側の――エヴァの問題だった。

理多と同じく、エヴァも元々は人間だった。
その"人間だった"という意識が強く心にあった為、吸血という行為を嫌悪していたのだ。
人間から血を吸う事を、共食いのように感じていたのである。
実際その通りであるし、そうではないとも言えるだろう。
ようは、立ち位置の問題。自分で自分をどう思うかによって、それは変わってくる。

理多は最後まで、心だけは人間であろうとした。
だから吸血を嫌悪し、それによって心まで化物となってしまう事を恐れ、命がけで拒んだ。
エヴァも初めはそうだった。理多のように命がけという訳ではなかったが、確かに拒んでいたのだ。

しかし、度重なる迫害で人間を憎むようになってからは、
血を吸う事に対しても、味に対しても、いつの間にか何も感じなくなっていた。
それは、エヴァが人間である事を捨て、化物として生きる事を選んだから――立ち位置が変わったからである。
なのに今、再び吸血に対しての嫌悪感が甦っている。

エヴァは苦笑いを浮かべながら、その訳を戸惑いの視線を向けてきている茶々丸へ言った。


「……どうも、理多の泣き顔がチラついてな」


ようするに、感化されてしまったのである。理多の吸血へ対する強い拒絶心に。
かつて自分も、その思いを抱いていたから尚更に。
だからと言って、今更人間として生きようとも、生きたいとも思ったりはしていない。
ただ、吸血に関しては少々考えが変わりそうだった。


「マスター、それでは明日の計画が……」


茶々丸が戸惑った声をあげる。

魔力を封印されている今のエヴァにとって、吸血は魔力を得る事ができる唯一の手段――
であると同時に、明日は非常に大きな役割を持つ事になる。
その為、吸血がし辛くなるというのは非常に困った問題であった。
しかし、エヴァに焦った様子はない。何故なら、
し辛くなったというだけで、できなくなった訳ではないのだ。
ただ、我慢すればいいだけの事。焦る必要はどこにもないのである。


「明日は無理矢理にでも飲むさ。味がどうとか、そんな事は言っていられないからな」


心配そうにしている茶々丸へそう言いながら、エヴァは僅かばかり欠けている月を見上げる。

明日は、半年間待ちに待った満月の夜。
魔力を封印されたエヴァが、吸血鬼の特性によって現状で最も力を出せる夜であり、
そして、"登校地獄"の呪いを解く事ができるかもしれないカギを持つ少年――
"登校地獄"をかけた英雄、サウザンドマスターの異名をもつナギ・スプリングフィールドの息子にして、
担任の先生であるネギ・スプリングフィールドを襲う日である。


 ◆ ◆ ◆ ◆ ◆


春休みが終わり、最上級生であった生徒たちは最下級生へ、そうでない生徒たちは一段上の学年へ進級する新学期。
環境が変わる事に、みなどこか緊張したような、新しい生活への期待に満ちた面持ちをしていた。
しかしそんな中、エヴァは緊張も期待も一切合切、何一つ胸に抱いていなかった。
エヴァにとっては"五回目"の中学三年生なのだ。もはや負の感情すら抱く事はなかった。
ただただ無意識にため息を垂れ流すだけである。

そんな事よりも、これから教室で行われる事の方がエヴァにとっては問題だった。
多くの女の子にとっては悪夢の行事。特に不老であり、
自身のプロポーションに多大な不満を持っているエヴァにとっては嫌がらせでしかない――


「それではー、出席番号順に測定を行ってくださーい」


そう、身体測定である。

エヴァの出席番号は二十六番。出席番号順となると、測定の順番が回ってくるまでには少々時間があった。
しかし暇を潰そうにも、茶々丸は保健委員に交ざって測定の手伝いをしている為、
気軽に話す相手のいないエヴァは独り、壁に寄り掛かって室内へと目を向けた。
いわゆる、人間観察というやつである。

視界いっぱいに広がるのは、色とりどりの下着を身に付けたクラスメイトたち。
発育の関係でブラをしていない者から、逆に中学生とは思えないくらいに発育をした者もいた――
後者に対し、思わず凹めと念じたのは、エヴァだけの秘密である。

ちなみにエヴァは、レースがふんだんにあしらわれた黒のベビードールに身を包んでいる。
辛うじて見えない程度の薄さであるその恰好は、しかし下品な印象はなく、むしろ気品すらあった。

聞く気がなくとも自然と耳に入ってくる、順番待ちの間の談笑内容は、
下着がどうとか体重がどうとかといった、実に少女たちらしいもの。
それらを聞き流しながら、ふと、もし理多が吸血鬼になっていなかったら、
目の前のクラスメイトたちのように測定結果などで盛り上がっていたのだろうかと、
そんな意味のない"もしも"を考えてしまい、らしくもないと顔に出さずに苦笑した。


「――桜通りの吸血鬼ぃ?」
「そうそう吸血鬼! 満月の夜、桜通りに出るんやて!」


無視できない単語が耳に届き、声のした方へと視線を向ける。

腕を組んで胡散臭そうに眉をひそめているのは、
髪をツインテールに結わいた気の強そうなオッドアイの少女、神楽坂明日菜カグラザカ アスナ
下着は上下白の無地というシンプルな物。ワンポイントとして、それぞれ小さなリボンがあしらわれている。
対してやや興奮した口調で力説するのは、
日本人形のような漆黒の長髪と柔らかな雰囲気をもつ近衛木乃香コノエ コノカ
下着は明日菜と似た物だった。

明日菜たちはどうやら、吸血鬼の――エヴァの噂話をしているようだ。

趣味が悪いとは思いながらも聞き耳を立てていたエヴァは、過去自分が吸血を行った場所を思い返してみる。
特に決まった場所で行おうと決めていた訳ではなかったのだが、
確かに、吸血を行っていた場所は桜通りが多かった事に気付く。
昨夜まき絵を襲った場所も、例に漏れず桜通りだった。

桜通りの吸血鬼という新たな二つ名の誕生に微妙な顔をしながら、
一時外していた視線を明日菜たちに戻すと、黒板に誰かが描いた"謎の吸血生物チュパカブラ"の絵とその解説が目に入る。
解説によると、チュパカブラは体長一メートルから二メートル前後でトカゲのような外見をし、
ストロー状の長い舌らしきもので血を吸い、凄い脚力で走り去っていくらしい。

それが桜通りの吸血鬼を想像して描かれたものだと判った瞬間、
エヴァは思わずふざけるなと怒鳴りそうになった。
明日菜がそんなモノいるかとツッコミを入れなければ、耐え切れなかったかもしれない。
良くやってくれたと明日菜を見ると、明日菜は何とも言い難い表情をしていた。
チュパカブラへツッコミを入れはしたものの、吸血鬼の存在自体を否定するべきかどうか悩んでいるようだ。
担任のネギが魔法使いであると最近知ったようなので、そういった存在がいる可能性を否定しきれないのだろう。

丁度測定が自分の番になり、明日菜が測定場所の近くにいた事もあって、エヴァは珍しく自分から声をかけた。
気にすると危険な目に合うぞという、ちょっとした警告の意図を込めて。
もっとも、襲う襲わないは噂の吸血鬼であるエヴァが決める事であるので、警告には何の意味もないのだが。


「噂の吸血鬼は、お前のような元気でイキの良い女の血が好みらしい。夜道には十分気を付ける事だな」
「えっ? は、はぁ……」


茶々丸以外の者とは滅多に話す事のないエヴァに話しかけられ、明日菜は驚いてきょとんとする。
近くで一緒に噂話をしていたクラスメイトたちも、同様にきょとんとしていた。

――その時、ドアの向こうから誰かが駆け寄ってくる慌ただしい足音が聞こえてくる。
そしてその足音は教室の前で急停止したかと思うと、続いて乱暴にドアが開かれ――
緊迫した様子の保健委員、和泉亜子イズミ アコが悲痛な声で叫んだ。


「大変や!! まき絵が、まき絵が……!」


その言葉にクラスメイトたちが何事かと騒然とする中。
エヴァと茶々丸だけが、冷めた表情で目を見合わせていた。


 ◆


途中一悶着あったものの、無事測定を終えたエヴァたち3-Aは、
それぞれ仲の良い者たち同士で固まり、次の授業が始まるまでの休み時間を過ごしていた。

どのグループも、話題は共通して桜通りで倒れていたというまき絵についての事。
ただ倒れていたというだけだったら、すぐに新しい話題へと移っていたのだろう。
しかし倒れていた場所が桜通りであり、また倒れていた原因が貧血らしい事がパパラッチ娘――
朝倉和美アサクラ カズミによって伝わっていた為、
桜通りの吸血鬼についての噂が信憑性を上げ、人気の話題となっていた。
もちろん、本気で吸血鬼がいるとはみな思っておらず、面白半分に話しているだけであったが。

――クラスに、犯人がいるとも知らずに。

ちなみに、その犯人であるところのエヴァは、頬杖をついてうつらうつらとしていた。
デイライト・ウォーカーである為日光は平気なのだが、吸血鬼故か、日中は眠いらしい。


「大丈夫なんですか? 結構な騒ぎになっていますが」


凛とした声をかけられて目線を上げると、教室を見回している刹那が立っていた。
エヴァは欠伸をかみ殺し、目を擦りながら刹那の問いに答える。


「――ん、刹那か。まぁ、平気だろう。何か言われるとしても、明日以降だ……」


そこに、世界に恐れられている真祖の吸血鬼としての威厳は微塵もなかった。
ただの寝不足な女子中学生だった。見た目は小学生だが。


「やはり、何かするつもりなんですね。実は学園長から先程通達がありまして、
 エヴァンジェリンさんがこれから起こすであろう問題は、ネギ先生に解決させるから手を出さなくて良いと」
「あのじじい、私を坊やの修行の一環に組み込むつもりか……」


自分を勝手に利用された事は気に入らない。
しかし、修行の一環に組み込まれようが何も問題はない為、よしとする。
ネギを勝たせなければならないという訳ではないのだ。
適当に相手をして、その後血を吸えば文句は言われないだろうと。
それによく考えてみれば、ネギ以外の者の手出しを禁じてくれたのはエヴァにとって僥倖である。
限度はあるだろうが。


「……そういえば、雨音さんはどうしてますか?」


監視しているんじゃないのかとエヴァは一瞬思ったが、封印後に監視用の式神は回収されている事を思い出す。
刹那は封印を確認した後帰ってしまった為、その後の理多を見ていないのである。
情報としては、知っているのかもしれないが。

刹那は封印の際に手伝ってくれた事もあり、エヴァは意地悪はせず素直に話す事にした。


「元気でやっている。今頃、魔導書片手に四苦八苦しているんじゃないか」


クスリと、エヴァが微笑する。
そんなエヴァの微笑みに衝撃を覚えつつ、
魔法の存在を一般人に知られてはいけないという決まり事がある為、刹那は努めて小声で尋ねた。


「魔法、ですか。エヴァンジェリンさんから見て、雨音さんは才能がありそうですか?」
「クク……その気になれば、最強を名乗れるようになる条件はそろっている」


エヴァは脅かすように、ニヤリと不敵な笑みを浮かべた。
しかし刹那は顔色一つ変えず――それどころか、少し笑みを浮かべて言った。


「そうですか。……それで、"その気"にはなりそうなんですか?」


怯える筈もない。
何故なら、理多がその気になる事は余程の事がない限りないだろうと、
その気になったとしても、理多なら何の心配はいらないと、そう思っていたからである。
例え、悪の魔法使いであるエヴァに魔法を教わる事になるのだとしてもだ。

エヴァも刹那と同じで、理多がその気になる事は難しいと考えていたようで、
少しつまらなそうにため息を吐いた。


「どうだろうな。理多はどうも、力そのものを嫌っている節がある。気持ちは判らなくもないが……」
「昔の私と同じです。今は、力がある事を嬉しく思っていますが」


まだまだ未熟者ですけどねと言いながら、刹那は肩に引っ掛けている竹刀袋を握り締めた。
その顔は、言葉とは裏腹に全く嬉しそうには見えなかったのだが、エヴァは目を逸らして見なかった事にした。


「まぁ、此処にいる限り危険はないだろうから、しばらくは好きにさせておくつもりだ」


力や魔法の使い方を教わらずとも生きていける事が、理多にとっては一番良い未来だろう。
そしてそうなるよう学園長が頑張ってはいるようだが、おそらくそうもいかなくなる――
望みは薄いだろうと、エヴァは思っている。
だから本当は、余裕がある内にある程度使い方を覚えておいた方が良いと考えているのだが……

エヴァは、あの頑固者をどう説得すればいいのかと内心頭を抱えた。
なにせ、死にかけるまで血を吸う事を拒否していたのだ、説得が難航する事は目に見えていた。
何かキッカケがあればなと誰にともなく呟くエヴァに、刹那は竹刀袋を少し掲げた。


「言ってもらえれば、お手伝いしますよ」
「ん、そうか。まぁ、その時が来たらな」


判りましたと頷き、自分の席へと戻って行った刹那を横目に欠伸を一つ。
すると、話の終わりを待っていたかのように、タイミングよくチャイムが鳴り響いた。

しばらくして教室のドアが開かれ、エヴァと同じ背丈のスーツに身を包んだ十歳くらいの少年が入ってくる。
この少年は、教室を間違えた訳でも迷子という訳でもない。
この少年こそ、エヴァが今夜襲う予定のネギ・スプリングフィールドであり、3-Aの担任の教師なのである。

明らかに労働基準法違反なのだが、問題にはなっていない。
魔法の力は偉大だった。


「それではみなさん、ホームルームを始めます!」


元気な声を聞き流しつつ、エヴァは今夜の事に思いを馳せた。


 ◆ ◆ ◆ ◆ ◆


放課後。
エヴァは昨夜と同じ格好をして、桜通りの街燈の上に立ちながら獲物を待っていた。
この獲物というのはネギの事ではなく、ネギを人気のない此処へと誘き寄せる餌の事である。
茶々丸の報告では、ネギは桜通り近辺を見回っているとの事だったので、誰
かを襲って悲鳴の一つでも上げさせれば釣れる、そう考えての作戦だった。

しばらくして、見覚えある一人の女生徒が桜通りへと足を踏み入れる。
前髪で片目が隠れている、見るからに気弱で大人しそうな少女。


宮崎のどかミヤザキ ノドカか……」


噂を気にしてか、きょろきょろと辺りを見回しながら早足で歩みを進めている。

悲鳴をあげられるのだろうかと思いつつ、エヴァはのどかの前にマントをはためかせて降り立った。
のどかはエヴァの格好を見て、目の前に現れた人物が噂の吸血鬼であるという考えに至ったのであろう、
表情が恐怖に染まり、口をパクパクとさせながら一歩後ずさる。


「悪いが、お前の血を吸わせてもらうぞ……」


それらしい事を言って睨みつけ、悲鳴を出させる為両手を広げてやや過剰演出気味に襲い掛かる。
するとのどかはエヴァの予想以上に大きな悲鳴を上げて気絶し、その場に崩れ落ちた。

気を失ったのどかを抱えつつ、大声を出せるんだなと思っていると――


「待てーっ! 僕の生徒に何をするんですかーっ!!」


数秒もしない内に、目的の人物であるネギが飛んで現れた。
魔法は隠匿しなければならないものだというのにも拘らず、自分の身の丈ほどもある木の杖へ跨って。
のどかは気絶しており、周りに人がいなかったからよかったものの、そんなに罰を受けたいのかと舌打ちをしつつ、
迫るネギが何か魔法を使おうとしているのを感じたエヴァはのどかを手放して飛び退き、
マントの内から魔法薬を取り出して前方へと投げた。

魔法薬は、エヴァの "氷楯"という呟きと共に氷の盾へと変わり、
ネギが放った捕縛の効果を持つ風属性の"魔法の射手"を弾き返す。
それで終わると、エヴァは思っていた。しかしエヴァの予想に反し、
"氷楯"は"魔法の射手"を全て防ぎ切ったところで砕け、
その衝撃で被っていた帽子が飛ばされてしまい、ネギに素顔を晒してしまう。
餌――つまりのどかに見られないようにする為の物だったので、問題はないのだが。


「十歳にしてこの力……流石奴の息子、と言ったところか」


"氷楯"が割れた際に切れた指先から滲んだ血を舐めとりながら、エヴァは感心したと笑みを浮かべる。
一方ネギは、噂の吸血鬼が自分の担当するクラスの生徒だと知り、驚愕で目を見開いていた。

ネギは杖をエヴァに突きつけながら、困惑した声で叫ぶようにして尋ねる。


「な、何者なんですかあなたはっ!? どうして魔法使いなのにこんな事を!」


倒れるのどかを抱えながらそう言うネギに、エヴァは呆れ、失笑した。

魔法使いは基本、世の為人の為に魔法を使い、マギステル・マギ―― "立派な魔法使い"になる事を目標にしている。
だがそれは、あくまで基本の話。例外などごまんといる。エヴァもその例外の中の一人だ。
しかしネギは、魔法使いはみなすべからく善人であり、また"立派な魔法使い"を目指しているものだと思っているらしい。

その考えは年相応であるのだが、しかし仮にも教師であるネギがそんな事を言うというのは、失笑を禁じえなかった。


「天才とはいえ、ガキはガキか。……覚えておくといい、ネギ先生。
 この世にはな、善い魔法使いと悪い魔法使いがいるんだよ――」


言い終えると同時、エヴァは二つの魔法薬をネギへと放り投げる。
それに対し、ネギはハッとして杖を突きだすが、のどかを抱えている分行動が遅れ、
また防御魔法を唱える時間もなく――


「―― "氷結 武装解除"!!」


ネギとのどかの衣服が氷結し、かしゃんと軽い音を立てて砕け散る。
ネギはとっさに張った魔力障壁のお陰で、氷結は反射的に突き出していた左腕の袖の部分だけで済んだが、
のどかは殆ど全裸になってしまっていた。

そんなのどかのあられもない姿を目の当たりにし、ネギが顔を真っ赤にしながら慌てふためく。
その隙にエヴァが追撃しようとしたところで、茶々丸から通信が入る。


「――マスター、そちらに神楽坂明日菜、及び近衛木乃香が向かっています」
「……判った。お前は例の場所で待機してろ」


手短に通信を終わらせ、舌打ちをしつつマントの内に伸ばしていた手を引き戻す。
一般人の前では魔法を使えず、また素顔を晒す事は避けなければならない為、エヴァは仕方なく一時撤退を決める。
決められるならここで決めてしまおうと考えていたが、無理をしてここで決める必要はないのだ。

ネギを挑発するように不敵な笑みを見せ、魔法薬を一本使って煙幕代わりの濃い霧を発生させると、
マントを蝙蝠の羽の様にしてその場から飛び去る。

数秒後、霧の向こう側から明日菜と木乃香の声が聞こえ――振り返れば、
ネギが霧を突き破るようにして、物凄い勢いで駆け抜けたところだった。
魔力で自身の肉体を強化した走行。杖で飛ぶよりはマシだが、れっきとした魔法である。


(悪の魔法使いである私が言うのもなんだが、もう少しルールを守ろうとしたらどうなんだ……)


一生懸命なのは判るがと呆れつつ、仮に飛行を見られても誤魔化しの効く高さまで上昇する。
そんなエヴァを逃がすまいと、ネギも杖にまたがって空を飛び、後を追った。
みるみる内に距離を詰めていくネギ。しかし、エヴァには微塵も焦った様子はなかった。
エヴァが生徒である為か、ネギに今一気迫が感じられないのだ。

今日の為に学園の警備の目を掻い潜って少しずつ吸血をして溜めていた魔力は、
昨日理多の封印に全て使ってしまっており、今は満月の加護によって生じた雀の涙ほどの魔力しかない。
対するネギは、平均的な魔法使いの魔力量を軽く上回って一周するくらいの魔力を有している。
だがそれでも、このままいけばネギに負ける事はないだろう。迷いは、動きと判断を鈍らせる。
戦闘経験がないネギにとって、その迷いは致命的だ。


(すぐに終わらせてもいいが……しかし――)


しかし、ナギの息子との戦いをこのまますぐ終わらせるのはあまりにつまらない。
遊ぶほどの余裕などありはしないのに、エヴァはそんな事を思っていた。

そしてエヴァは、戦いを楽しむ為にネギの迷いを断ち切らせる事を決める。
もちろん負けるつもりは一切なく、勝算があるが故の行動だ。

飛行速度を落とし、ネギの隣に並んで問いかける。


「……坊やは、奴の――サウザンドマスターについての話を聞きたくはないか?」
「えっ!? 何か、何か知っているんですか!?」


ネギは、行方不明になっている――死亡されたとされている父、ナギについて知りたがっている。
それを学園長から聞いていた為、この話を餌にする事を決めたのだが、効果は抜群だったようだ。
自分を捕まえる事ができたら、その褒美として教える事を約束すると――


「――本当、ですね?」


ネギの目と顔つきが、一変する。
それを見届け、できたらなと言い残してエヴァは加速し、ネギとの距離を取った。

ネギは離れていくエヴァを追わず、しかし視線はエヴァを見据えたまま呪文を唱える。


「――ラス・テル・マ・スキル・マギステル……"風精召喚" 剣を執る戦友!!」


風と共にネギの周囲に現れたのは、ネギと全く同じ姿をした八人の精霊。
風の中位精霊による複製である。その手に持つ武器は、それぞれ剣や槍など違っていた。

ネギは精霊たちを散開させ、多方面からエヴァを攻撃するよう命令する。
そこに手加減する意志は存在しない。


(ほぅ……気付いたか)


ネギは一気に攻めるつもりである事を察し、楽しそうに笑みをこぼす。

エヴァの放つ魔法の威力が弱い事――そして、魔法を使用する際には必ず魔法薬を触媒にしている事。
以上の事から、エヴァの魔法保有量が少ないと判断し、力押しが得策だと判断したのだろう。
その判断は正しい。だが――エヴァに焦りは見られず、未だ余裕の表情だった。

エヴァは最低限の動きで精霊の攻撃を回避し、それができない場合にのみ"氷楯"で防いでいく。
一方的にネギが攻撃している為エヴァが劣勢のように見えるが、その実全くの均等。
圧倒的な魔力の差を、エヴァは圧倒的な戦闘経験の差で埋めているのが現状である。

魔力不足によって低下し体力を補う為にゼロ距離で放った"氷の射手"で、八体いた精霊を七体減らし、残りは後一体。
魔力が封印されていなければ、一瞬で全ての精霊を消し去る事ができるのにと内心毒づきつつ、最後の一体を――


「くっ……!!」


消したと同時、精霊を攻撃した時の隙をついてエヴァの背後に回りこんでいたネギとの間に"氷楯"を展開する。
それで、ネギの魔法は防ぎ切れる筈だった。


「これで終わりです! ―― "風花 武装解除"!!」


しかし今のエヴァの"氷楯"では、勝利を確信して力一杯に放たれた魔法を防ぐ事ができず――魔法薬を含めた身包みを、
下着を残して全て花びらへと変換されてしまったエヴァは、魔法の風圧によって時計台のある屋根へと吹き飛ばされた。



[26606] 第2章 6時間目 血の鍵を求めて
Name: あかいつき。◆3327a354 ID:742ccd16
Date: 2011/03/20 18:40
帰りが遅くなるという茶々丸に代わり、理多は夕飯を作っていた。
その頭に、魔力で編んだ小さな蝙蝠の羽をはばたかせて飛んできたチャチャゼロが着地する。
理多はその衝撃で「あぅ」と小さく息を漏らすと、魚を捌いていた包丁を止め、眉をひそめて注意した。


「あの、チャチャゼロさん。料理中に頭に乗らないでください。危ないです」
「ソンナ事ヨリチビッ娘、御主人ヲ迎エニ行コウゼ」
「そんな事よりって……」


包丁で指を切るかもしれない事をどうでもいいように言われ、苦笑いを浮かべる。
昨日の内にチャチャゼロの性格は大体掴んでいた為、怒る気にはならなかった。
どうせ、スルーされるだけだろうと。

頭は重たいが、手を動かすのには支障がないので料理を再開する。


「私、エヴァンジェリンさんに今日は外に出るなって言われているんです。
 ……あれ、チャチャゼロさんその場にいましたよね?」
「サテ、ドウダッタカナ。……デ、ドウスルンダ? 行クノカ、行カナ――」
「行きません! もぅ、料理の邪魔ですから降りてくださいっ」


会話だけならまだしも、喋りながら頭を叩いてくるのは流石に鬱陶しく、
理多は手にしていた包丁をまな板に置くと、頭に座るチャチャゼロに手を伸ばした。
が、その手はチャチャゼロを捕らえる事なく空を切る。
いつの間にかチャチャゼロは、調味料などが並べられている棚に腰を下ろして理多を見下ろしていた。


「本当ニ、行カナイノカ?」
「しつこいです。どうしてそんなに迎えに行かせたがるんですか?」


理多とて、別に迎えに行くのが嫌という訳ではないのだ。
むしろ、行きたいとすら思っている。
ただ、エヴァとの約束を破ってまで行く必要性が感じられないだけである。
予報もなく雨が降り、傘を届けに行く――そういった理由があるのならまだしも。


「……御主人ヲ、喜バセル為ダヨ」


チャチャゼロが理多の目線の高さで空中停止し、今までとは一変して真面目な声色で言った。
てっきり自分を困らせる為に言っているのだと思っていた理多は、思わずチャチャゼロを見上げる。
エヴァとの約束を破るつもりはないが、聞くだけ聞こうと思ったのだ。
それならば、何も問題はない。話す事でチャチャゼロが満足してくれればよし。
駄目なら、また断れば良いと。


「チビッ娘モ知ッテイルダローガ、御主人ハズット、中学生ナンテオママゴトヲ強制サセラレテイル。
 ソシテ今日ハ、連休明ケノ登校日。御主人ハ相当ナ"ストレス"ヲ感ジテイルダロウヨ」


理多は無関心を装いながら、黙ってチャチャゼロの話に耳を傾けつつ調理を進めていく。
しかし包丁を扱う手つきは、まるで素人のようにぎこちなくなっていた。
そんな理多にあえて気付かぬ振りをしつつ、笑みを堪えてチャチャゼロは話を進めた。


「ソンナ御主人ヲ、御主人ガ気ニ入ッテイルチビッ娘ガ迎エニ行ケバ……
 凄ク喜ブンジャネーカト、俺ハ思ッタ訳ダ」


自分がエヴァのお気に入りと言うのには頷く事はできなかったが、
迎えに来てもらえるのが嬉しいというのには納得できた。
だがその為に約束を破るというのは、果たしてどうなのだろうか。
約束を破った事によって迎えに来てくれたという喜びがなくなってしまうのなら、
それは本末転倒というもの。

約束がなければと悩む理多の包丁を握る手は、もはや完全に止まってしまっていた。
そんな理多に対し、何故判ったのかは全くもって不明だが、
チャチャゼロは理多にとっての必殺となりうるとどめの一言を口にした。


「御主人、撫デテクレルカモシレネーゾ?」


――パキリと、約束という名の鎖が砕ける音がした。

先程考えた本末転倒になる云々は、もはや理多の頭の中から抜け落ちてしまっていた。
何を隠そう、理多が好きな事――それは、好きな人に頭を撫でてもらう事なのである。


 ◆


エヴァとの約束を破って家を出た理多は、チャチャゼロが指示するまま、目的地も知らずに歩みを進めていた。
チャチャゼロはというと、飛んで移動しているところを見られてしまうと拙い為、理多が肩にかけている鞄に入り、
上半身だけ出して理多に指示を出している。

目に見える範囲に人はいないが、一応理多は小声でチャチャゼロに話しかけた。


「チャチャゼロさん、一体何処へ向かっているんですか?」


いつまで経っても行き先を言おうとしない事を不審に思った理多が、歩みを止める。
学校へ行ったエヴァを迎えに行くという話であった筈なのに、
どんどん学校のある方向から逸れ、遠ざかっているのだ。
もしかして騙されたのではという考えが、理多の頭をよぎる。
何の為に騙すのか、その根拠は全く想像もつかなかったが。

そんな自身に対する不信感を感じ取ったチャチャゼロは、モウスグ着クと一言だけ言って前方を指差した。
此処まで来てしまったのだからと諦め、チャチャゼロに言われるがまま進み、つきあたりを右へ曲がる。
すると、目の前には屋上がベランダになっている五階建て建物。他に道はなく、行き止まりだった。

道を間違えたのだろうと思っていると、チャチャゼロは屋上を指差しながら言った。


「アソコガ目的地ダ」
「……え? この上、ですか?」


屋上を見上げる。
何の建物なのかは判らないが、少なくとも、待ち合わせ場所にするような所ではないだろう。

説明を求めチャチャゼロへと視線を向ける。
しかしチャチャゼロはそれを無視し、尋ねてきた。


「屋上マデ跳ベルカ?」
「それは……」


理多は、何故此処が目的地なのかと考えるのを一旦中断し、質問について考える。
当然、"今の状態"では不可能だ――しかし、"吸血鬼の状態"なら可能だろう。

ネックレスに吊り下がる、空に浮かぶ満月のような黄金の宝石を握り締める。

実は、理多が宝石を握り締めながら念じる事によって"吸血鬼の呪い"の封印を解く事ができ、
再び吸血鬼になる事ができるのである。
これは、完全に封印できないと判っていたエヴァが、有事の際力を使えるよう施した仕掛けだ。

日は出ていない。
だから、灰になる心配はないのだが――


「封印ヲ解イタラ、即吸血衝動ニ侵サレルッテ訳ジャネェンダ」


怖がるなよと言うチャチャゼロ。
理多はしばらく宝石を見つめた後、宝石に魔力を込めながら念じた。


(―― "解錠")


胸の中で、カチリと何かが外れる感覚。瞬間、ぞわっと全身の毛が逆立った。
半化物から、完全な化物へと移行していく感覚。その感覚は、意外にも嫌な感じはしなかった。
吸血衝動も、特に今のところは何もない。

理多は息を深く吐き出し、良く見えるようになった屋上を見上げる。
そして、よしと覚悟を決めると、腰を落として足へ力を込め、屋上を目指して跳んだ。

一度三階の窓枠に足をかけ、そこからの跳躍で建物の屋上を裕に見下ろせる高さまで跳び、
勢いをなくして空中に静止。一瞬の浮遊感の後、屋上へと落下した。
そして、落下の勢いで少しよろけながらも、理多は無事屋上へと降り立つ事に成功する。


「ヤルジャネェカ」


激しく鼓動する胸を抑えて落ち着かせようとしている理多へそう言うと、
人目を気にする必要のなくなったチャチャゼロは鞄からを出て屋上の端、手摺へと飛び乗った。

理多は屋上を見回しながら、チャチャゼロへと歩み寄る。
屋上にも、屋上から見渡せる景色にも、特に何も見当たらない。
強いて言うなら、街灯に照らされた世界樹が不思議な雰囲気を醸し出していて目を惹かれる事位だった。
当然エヴァの姿がある筈もなく、また此処に来るとも考え難い。

今更ながら勝手に屋上へ入ってしまって良かったのだろうかと心配しつつ、
理多はチャチャゼロに此処へ連れて来た理由を尋ねようとした――その時。


「――来タナ」


チャチャゼロが、時計台の方を見ながら呟いた。

その視線を追ってみると、先程見た時には何もなかった夜空に、光を放つ二つの"何か"が飛んでいるのが見えた。
吸血鬼化して飛躍的に視力が上がった紅い目を凝らして見てみると、それらが人である事に気付き――
その内の一人、マントを羽織った小柄な人物の正体に気付く。


「……もしかしてあれ、エヴァンジェリンさんですか?」
「アァ。御主人ト、モウ一人ハ……ヘッ、餓鬼ジャネェカ」


空を飛び交い、光を――魔法を放つ二人の間に幾度も瞬く閃光。
傍から見れば、それらはまるで花火のように綺麗なものであったが、している事は間違いなく戦い。
それも、理多は一方的にエヴァがやられているように見えた。

数日前の自分とエヴァを重ねてしまい、理多は泣きそうになる。


「ど、どうしてエヴァンジェリンさんは襲われているんですか!?」
「ケケ、面白イ事ヲ言ウナチビッ娘。……逆ダ。襲ワレテイルンジャナクテ、襲ッテルンダヨ」


勘違イスルノモ判ラナクハナイガナと、チャチャゼロはエヴァたちを見ながら嘲笑しながら言う。
その態度が余りにもいつも通りのチャチャゼロであった為、
理多は少し冷静さを取り戻した――が、冷静になる事を阻止するかのような事態が起きる。
ネギの魔法を受け、エヴァが服と共に吹き飛ばされてしまったのだ。


「た、助けないと!」


空を跳べたとしても到底間に合う筈がないのに、
理多は手摺から身を乗り出し、エヴァの元へ向かおうとした。
それを、チャチャゼロの一言が封じる。


「必要ネーヨ。何カ策ガアルミテーダシナ」
「……え? あ、そういえば、茶々丸さんが……」


策と聞き、何処にも茶々丸の姿が見えない事に気付く。
こんな時に、茶々丸がエヴァの傍にいないとは考え難い。
茶々丸は空を飛べる筈、地上に取り残されているというのはないだろう。
となれば、すでに無力化されているのか、あるいは――それこそが策。


「……待ち、伏せ?」
「ソレガ正解ミタイダゼ」


見れば、屋上に着地しネギと対峙しているエヴァの背後から、
丁度茶々丸が飛び上がってエヴァの横に並んだところだった。

その姿を見て安心しつつ、理多はずっと引っかかっていた事をチャチャゼロへ尋ねた。
あまり聞きたくない事であったが、無視する事はできない。無視する訳にはいかない。


「……ねぇ、チャチャゼロさん。さっき、襲ったのはエヴァンジェリンさんの方だって言ってたけど、
 それってやっぱり……血を吸う為、なのかな?」


吸血鬼化している事も忘れて手摺を強く握り締めてしまい、鈍い音を立てて手摺が歪んだ。

理多と同じく、エヴァたちへと視線を向けたままチャチャゼロが答える。
不思議そうに、そして、あざ笑うかのように。


「不満カ? 吸血鬼ガ人間ヲ襲イ、血ヲ吸ウ。当リ前ノ事ダロ?」


理多は、反論する事ができなかった。しかし、納得する事もできなかった。
例えば、エヴァが理多と同じ"普通の吸血鬼"であったならまだ納得はできた。
吸血鬼にとって吸血は、生きる為に絶対不可欠な行為であり、その必要性は身を以て理解している。
だがエヴァは"真祖の吸血鬼"であり、吸血せずとも生きる事ができるのである。
つまり、今エヴァがネギを襲っているのは生きる為ではなく、別の理由であるという事だ。

その理由は"登校地獄"の解呪の為なのだが、その事を知らない理多は、悪い理由ばかりが浮かんでしまっていた。

暗い顔をしている理多に、チャチャゼロが言う。


「一ツ、確カナノハ……御主人ハ、
 誰カヲ襲ウ事デ生ジルアラユル事に対シテ、覚悟ヲ決メテイルッテ事ダ」
「……覚悟」
「ソノ覚悟ヲ邪魔スル覚悟ガアルノナラ、止メニ行ケバイイ。
 コノママダト御主人、アノ餓鬼ノ血ヲ吸ッチマウゼ?」


茶々丸がネギを羽交い絞めし、それを前にしている笑うエヴァ。
確かに襲っているのはエヴァの方だと、その光景を見てようやく理解する。

理多の中では、止めたいという気持ちが強かった。
記憶にはなかったが、血を無理やり吸われるというのはきっと、凄く恐ろしい事だろうから。
だがそれと同じ位、エヴァの邪魔をしたくないという気持ちもあった。
どうしても吸血をしなくてはいけない事情があるのかもしれないと、そう思っていたからだ。
でなければ、自分を助けてくれたエヴァがそんな事をする筈がないと、そう信じていたかった。
だからせめて、理由が判れば――


(理由が判って、それが、仕方のない事だったとして……
 あの子が血を吸われているのを、黙って見過ごすの……?)


――できない。

理多は、いつの間にか項垂れていた頭を上げる。
例え何か理由があるのだとしても、こんな襲うような真似をしてはいけない。
理由を言い訳にしてはいけない。悪い事は、悪い事だ。

今から駆けつけても間に合わないかもしれない。
それでもと、理多が手摺を飛び越えようとした直後――


「オイオイ、ナンダアノツインテール。
 弱ッテイルトハイエ、御主人ノ障壁ヲ突キ破ッテ蹴リヲイレヤガッタ」


突然屋根上へと現れた少女――明日菜が、エヴァを蹴り飛ばした。

エヴァは蹴られた箇所を押さえながらポカンとしている。
理多も同じくポカンとしていると、チャチャゼロがケラケラと笑いながら理多の鞄へと身を収めた。
そして戦いは終わりだと、鞄を叩いて帰宅を促すチャチャゼロに、理多は心此処に在らずと言った面持ちで返事をした。
エヴァにどんな顔をして会えば良いのか、そんな事を考えていた。


 ◆ ◆ ◆ ◆ ◆


明日菜に蹴られた後撤退したエヴァと茶々丸は、
出かける前に開けておいた窓から家の中に入り、着替えた後、リビングへと向かった。
玄関を通らず家の中にいる事に対して何か言われるかと身構えていたエヴァだったが、その心配は必要なさそうだった。
理多はソファーに腰をかけて俯き、声をかけなければエヴァが帰ってきている事にすら気付かなそうだった。

様子がおかしい。エヴァは、理多をこんな状態にした確率が極めて高い、
テーブルに腰かけているチャチャゼロを睨みつけた。
しかしその視線をまるで気にした様子もなく、チャチャゼロはエヴァを見返し、嫌な笑みを浮かべた。


「キッカケハ俺ダガ、ヤッタノハ御主人ダゼ?」
「……私が?」


身に覚えは全くなかった。しかし一応、今日一日を思い返してみる。
と言っても、理多と顔を合わせたのは登校前と今だけで、何かをしてしまうほど長い間一緒にいなかった。
だが現実として理多は項垂れており、チャチャゼロも言い逃れで嘘を言ったようには見えない。

となると、思いつく原因は一つだけだった。
できればそうではない事を願いつつ、エヴァは言葉を濁して尋ねた。
ネギと戦ったいるところを見たのか、と。


「……まさか、見たのか?」


無言のまま頷く理多。
エヴァはお前が見せたのかとチャチャゼロを睨んだ後、頭を抱えた。

見られれば、理多がどんな反応をするかは容易に想像できた。
だから理多の外出を禁じ、ネギとの事を見せないようにしたのだ。
今の理多の様子からして、想像した通り良く思われていない事は明らか。


「理多、あれはな、その――」


ちゃんと説明をすればいいだけの事なのだが、
あたふたと言い訳を考え始めたエヴァへ、理多が俯いたまま言う。


「エヴァンジェリンさんは……」
「な、なんだ?」


一言一句聞き漏らさないよう耳を傾けながら、恐る恐る聞き返す。

理多はしばらくの間を置いた後顔を上げ、エヴァと視線を合わせた。
その目は真っ直ぐとエヴァを捉えており、
今から自分は何を言われてしまうのだろうと、エヴァは息を呑む。
何をこんなに怯えているのだろうかと思いながら。


「エヴァンジェリンさんは、どうしてあんな事をしたんですか?」


てっきり、頭ごなしに非難されるとばかり思っていたエヴァは、理多の問いに少し面食らってしまう。

その間にエヴァを庇おうとし、茶々丸が口を開こうとしたのを片手で制し、
エヴァは理多の目を真正面から見つめ返しながら言った。


「"登校地獄"を、あの坊やの血を吸う事で解呪できるかもしれないんだよ」


解呪という言葉に、理多はどこか安堵したような、納得したような反応を見せた。

その反応で、理多が何か訳があるのだと思ってくれていた事が判り、エヴァは笑みがこぼれそうになる。
それを堪えて、言葉を続ける。


「私は学園から、此処から出たい。その為なら、いかなる事をする覚悟がある」


もう一生この学園から離れる事はできないと思っていたところに現れたネギ
学園長が戦う事を了承している今回の機会を逃せば、おそらく二度とこんな絶好のチャンスは訪れないだろう。
それ程までに"登校地獄"の呪いは強力であり、解呪できる鍵はないに等しいのだ。
エヴァが覚悟を決めるのも、当然と言える。


「あの、同意を得るのは駄目なんですか?」
「血を吸わせてくれと?」


理多らしい――否、理多でなくともまずは考えるであろう平和的な案。
断られる可能性があるが、リスクはなく、試す価値は十分ある。
しかしその案を、エヴァは受け入れない。

未熟な魔法使い相手に自ら平和的解決案を提案するというのは、
それしか手がないのならまだしも、他に手がある以上有り得なかった。
何故なら、自分は悪い魔法使いなのだから。ネギの修行も兼ねている事も、一応断る理由の一つである。
あまり重視はしていないが。


「な、何故笑う」


エヴァが自分の考えを言い終えると、理多はくすくすと小さく笑いをこぼした。
何か変な事を言っただろうかと、エヴァは戸惑う。
そんなエヴァに、にこりと嫌みなく笑った。


「エヴァンジェリンさんが悪い魔法使いって、似合わないなって」


悪い魔法使いである自分に誇りをもっているエヴァにとって侮辱的な言葉なのだが、
不思議と嫌な気はしなかった。


「……どうしても、同意を得る事はできないんですか?」


笑みを消し、理多が尋ねる。
珍しく、目を見ても感情は見えない。
まだ自分の中の意思が定まっていないからなのだろう。

同意を得る事。
それは、できない事ではない。
先程断ったのは、多くはエヴァのプライドの問題なのだから。

どうしたものかと息を吐く。理多との関係維持を優先するか、プライドを優先するか。
とりあえず、一つ尋ねてみる事にした。


「……嫌だと、言ったら?」


エヴァの問いに対し、理多はポカンとする。
断られた場合どうするのかを考えていなかったようだ。
理多は戸惑いの表情を浮かべた後、人差し指をもじもじと絡ませ、そしておずおずと言った。


「――お、怒ります」


チャチャゼロは、ガクリとよろけ、エヴァは腹を抱えて笑い、目頭に滲んだ涙を拭った。
自分でもこれはないと思ったのか、理多は顔を赤くする。

エヴァは、怒った理多を見てみたいと思いつつも約束する事にするのだった。
エヴァにとって理多は、もはや蔑ろにしていい存在ではないのである。


「くくく、判った判った。約束しよう、怒られるのはごめんだからな。
 だが、ただ吸わせてくれとは頼まんぞ? 一応、修行の件もある」


 理多は花咲くように笑顔を浮かべ、こくこくと頷いた。


 ◆


「魔法は、面白半分で学んじゃダメですよね、やっぱり」


いつもよりも少し遅めの夕食をとるなか、理多が不意に呟く。

それは、魔法使いとはいえ子供であるネギの修行の為に、
エヴァと戦う事を黙認するという学園長の決断を聞いて、理多が改めて思った事だった。

普通なら、保護者的立場にある学園長はエヴァを止めるべきだろう。
魔法使いだからなのだろうかと、理多はテーブルの端に置いてある魔導書に目を向けた。

一足先に食事を終えていたエヴァが、食後のお茶を楽しみながら理多の呟きに答える。


「その通りだ。生半可な覚悟で魔法使いになれば、早々に大怪我を負うか死ぬ事になる。
 裏の世界に足を踏み入れれば、死はずっと身近なものになるからな。
 まぁ、こちらの世界でそういった事態になる事は、あまりないだろうが」

死が身近なものになる。
それを聞いて、理多は魔法について真剣に考え始めた。
すでに得てしまっている、吸血鬼の力についても一緒に。
これまで適当に考えていたという訳ではない。先延ばしにするのをやめにしたのだ。

少し、空気が重くなる。
答えるのは食事が終わった後にすれば良かったかなと反省しつつ、
エヴァは空気を変える為に尋ねた。


「そういえば理多。お前が約束を破ってまで外に出たのは、
 チャチャゼロになんて唆されたからなんだ?」
「ふぇっ!?」


一生懸命に料理を食べ進めていた理多が、フォークを咥えたままガバッと顔を上げた。

思わぬ反応に、ギョッとする。
ギョッとしながら、これは何かあるなと顔に出さずにニヤリとした。

何となく気になったから聞いてみただけであり、隠すようなら適当な所で切り上げようと思っていた。
しかし理多の反応で考えが変わったエヴァは、何としても聞きだしてやろうと、
理多の口からフォークを抜き取りながら悲しげな顔を"作って"言った。


「私に言えない事なのか?」
「そ、そういう訳じゃないです。その……」


エヴァの表情に騙され、慌てる理多。
柔らかそうな頬は、心なしか少し赤くなっていた。
もじもじとした様子から、焦りではなく照れているらしい事が判るのだが。

エヴァにジッと見つめられ、理多の顔が徐々に赤みを増していき、リンゴのように真っ赤になった頃。
ついに理多は、ゴニョゴニョとエヴァから目を逸らしながら呟いた。


「エヴァンジェリンさんを迎えに行けば、喜んでもらえて……その、撫でてくれるかもって」


言ってエヴァを見た後、理多はあははとはにかんだ。
そんな理多のものがうつったのか、エヴァの顔がみるみる内にトマトの如く真っ赤になっていく。
茶々丸は赤くなる代わりに頭から煙を出していた。
それを見て、どこから出しているのかと思うほどの大声でゲラゲラと笑うチャチャゼロは、
エヴァに投げられて壁に叩きつけられた後、氷漬けにされた。

氷漬けとなったチャチャゼロを蹴り転がし、エヴァはこほんと咳払いを一つ。
理多から顔をそむけつつ、手で顔をあおぎながら言った。


「あぁ?、理多? その……撫でてほしいなら、いくらでも撫でてやる。
 だから、約束は破らないようにしてほしい」


――その後、さっそくエヴァに撫でてもらい、
茶々丸にも撫でてもらった理多は、とても幸せそうにしていた。



[26606] 第2章 7時間目 カルマの法則
Name: あかいつき。◆3327a354 ID:742ccd16
Date: 2011/03/20 18:41
空は茜色に染まり、カラスの帰宅を促す鳴き声が聞こえてきそうな夕暮れ時。
一通り家事を終わらせた理多は、時折チャチャゼロにからかわれながらも、魔法の勉強に精を出していた。

勉強を始めてから大体二時間ほど経った頃だろうか、そろそろ休憩しようかと指を絡ませて伸びをした時、
かける事はあってもかかる事は滅多にない電話が鳴り響く。

今家にいるのは、自分とチャチャゼロだけ。
この家の人間ではない自分が、電話に出ていいものだろうかと悩む。
チャチャゼロに出てもらうというのは、少々――いや、かなり不安。
このまま居留守を使う事も考えたが、何か急用だとしたら拙いので、理多は電話に出る事にした。

そこでふと時計を見上げれば、学生たちが平日の義務から解放される時間帯。
となると、電話の相手はエヴァかなと予想しつつ、
また願いつつ受話器を手に取ると、相手は願い予想した通りエヴァだった。
二言三言言葉を交わし、用件を聞く。


「理多。悪いんだが、今から茶々丸の所へ行ってくれないか?」
「茶々丸さんの所へ、ですか?」


電話越しに聞こえてくるエヴァの声は、心なしか苛立っているような気がした。
しかし、繰り返し中学生を強制させられているエヴァにとって、
放課後は普通の学生以上に嬉しい筈なので気の所為かもしれない。
表情を見る事ができない電話というのは、こういった点が不便だ。
とりあえず、余り気にしない事にして耳を傾ける。


「あぁ、私はちょっとじじいに呼び出されてしまってな。
 これから学園長室に行かなければならないんだが……茶々丸を一人にするのは避けたいんだ」


小声でぶつぶつと文句を言っているのが微かに聞こえる。
どうやら、苛立っているように感じたのは気の所為ではなかったようだ。
余程、学園長のところへ行くのが嫌らしい。

しかし、茶々丸を一人にしたくないというのはどういう事なのだろうか。
それではまるで、誰かに狙われているかのような――


「アノ餓鬼ニ、襲撃サレルカモシレネーッテ訳カ」


先程から受話器を持つ理多の腕にぶら下がり、会話を盗み聞きしていたチャチャゼロが言う。
理多は、襲撃という物騒な単語に顔を青くした。そうされても仕方がないかもしれない事を、
茶々丸が――エヴァたちがしたのを知っていたからである。


「チャチャゼロか。まぁ、そういう事だ。
 今日坊やに"決闘状"を渡したから大丈夫だとは思うが、念の為にな」


エヴァが言うには、坊やは――ネギは理多がエヴァの身内である事を知らないので、
理多が茶々丸についていれば、ネギも襲撃をしたりはしないだろうとの事。
ネギからしたら一般人である理多を、巻き込む訳にはいかないからである。
理多が吸血鬼――つまり一般人ではない事がばれる可能性は、以前ならまだしも、
力を封印した今なら、魔法を使うか何かしらの特殊な能力でもない限り、ないと考えていいらしい。

そういった理由から理多を向かわせようと電話したエヴァだったが、実は断られてもいいと思っていた。
必死に教師であろうとしているネギが生徒である茶々丸を襲う可能性は低く、
また茶々丸には別れる際にあまり一人にならないよう気をつけるように忠告してある為、
理多が向かわずとも何も起きない可能性が高いからである。
だからエヴァはハッキリと言った。おそらく無駄足になるだろう、と。


「無駄なんかじゃないですよ。行きます、私」


しかし理多は、特に悩んだ様子もなく頼みを聞き入れた。
自分が行く事によって茶々丸が危ない目に合う可能性を下げる事ができるのなら、
それは無駄などでは断じてない。断る理由なんて、どこにもなかった。
例え忙しかったとしても、茶々丸を優先していただろう。


「そうか、悪いな。……だが、もし何かあっても無茶はするなよ。
 吸血鬼化も禁止だ。日光が駄目かどうか判らないからな」
「……はい、気を付けます」


表情が見えなくともエヴァには判った。
理多が返事をしながら、自信なさ気な笑みを浮かべている事に。
しかし何も言わず、その代わりにチャチャゼロへと言う。
なんだかんだで仲良くやっているようだし、いざという時は何とかしてくれるだろうと。
たぶん、きっと。


「おいチャチャゼロ、まだ聞き耳を立てているんだろう? 理多の事は頼んだぞ」
「アイヨ」


茶々丸がいるであろう場所を聞いて電話を切った理多は、早速出かける準備を始めた。
急げとは言われていないが、早く茶々丸と合流するに越した事はないだろうと。

念の為に特製の日焼け止めクリームを塗り、戸締りを確認した後、
理多はやや早足気味に茶々丸の元へと向かったのだった。
日光に対する恐怖心は、茶々丸の事で頭がいっぱいだったからか、完全に忘れてしまっていた。


 ◆ ◆ ◆ ◆ ◆


火曜日と金曜日の週に二回、茶々丸は放課後、野良猫の餌やりの為に学園都市の一画、
猫以外は滅多に誰も足を踏み入れる事のない猫のたまり場に通っている。
金曜日である今日も、茶々丸は猫缶の入ったコンビニ袋を片手にたまり場へと向かっていた。
その道中で、人助けや猫助けを"積極的に"しながら。

それは、人間ではない自分を人間のように扱ってくれ、
また受け入れてくれている都市の人たちへの恩返しである――いや、"だった"と言うべきだろう。
今の茶々丸にとって人助けは、もちろん恩返しではあるのだが、それだけではなくなっていた。
理多のおかげで自分の中にある心の存在を自覚してからというもの、感謝される事に喜びを感じるようになり、
人助けを"しなくてはいけない"から、人助けを"したい"に変わったのである。

そういった訳で、考えていたよりも少し遅れてたまり場に辿り着いた茶々丸は、
その場にしゃがむと、ビニール袋から猫缶を取り出した。
すると、一匹、また一匹と、どこからともなく猫がやって来て茶々丸に――正確には猫缶に集まり始める。
中には、茶々丸の頭によじ登っている猫もいた。
この事から、相当猫たちから好かれているという事がうかがえる。

鳴いて猫缶の開封を催促し始めた猫たちに表情を緩めつつ、タブに指をかけて蓋を開けると、
猫缶と一緒に持ってきていた無地の皿へとその中身を移した。
我先にと皿へ群がる猫たち。それを眺めながら、茶々丸はふと思いついた事を口にした。


「紹介したい子がいるんですが、今度連れてきてもいいでしょうか?」


と、口にしてから思う。はたして、猫に日本語が通じるのだろうかと。
すると、茶々丸が野良猫たちのボスだと認識しているグレーの猫が一鳴きし、見つめてきた。

なんとなくその猫が言いたい事を感じ取った茶々丸は、新しい猫缶を開けながら言った。


「その子はとても優しいので、きっと仲良くなれますよ」


ちゃんと通じているのかいないのか、グレーの猫は茶々丸をジッと見つめた後、背を向けてまた一鳴きした。
そしてそれに続くようにして、他の猫たちも鳴き始める。

いくら超科学の集大成とも言える茶々丸とはいえ、流石に猫語は判らない。
だが猫たちの雰囲気は悪くなかったので、許可されたという事にした。
例えそれが勘違いであったとしても、理多ならきっと大丈夫だろう。
根拠はないが、そんな気がした。

それからしばらくし、猫缶が全て空になった頃。
茶々丸と猫たちは、近付いてくる人の気配に気付く。


「……迂闊でした」


振り返ると、杖を持ったネギと明日菜が立っていた。

複雑な所にあるという訳ではないが、
ここは偶然立ち入るような場所ではない。ずっと、尾行されていたのだろう。
自分が狙われる可能性は低いと、完全に油断してしまっていた。

ただならぬ雰囲気を感じ取った猫たちが、茶々丸へ心なしか心配の眼差しを向けながら去っていく。
その視線を背中に感じながら立ち上がり、確認する。油断した要因の一つを。


「今日お渡ししたマスターからの決闘状を受諾せず、
 生徒の安全を蔑ろにするという事と認識してよろしいですか?」


決闘状というのは、血を吸うなら同意を得てくださいという
理多のお願いを聞き入れたエヴァが選んだ、同意の得方である。
その内容は、生徒に今後一切手を出さない事を約束する代わりに、
エヴァはナギの情報を、ネギは自らの血をかけての決闘を受諾しろというもの。

殆ど脅しなのだが、それでも生徒の安全がかかっている以上、
ネギは受諾するものだと思っていたのだが――


「アニキを襲った吸血鬼との約束なんて信じられる訳ないッスよ! アニキ、やっちまいましょう!!」


突如として響く、ネギでも明日菜でもない声。
その声のした方――ネギの肩へ目を向けると、白いオコジョが乗っかっている事に気付く。


(オコジョ妖精……なるほど、マスターが言っていた"助言者"とは彼の事ですか)


この襲撃は、文字通り助言者であるオコジョが立てた作戦なのだろう。
それならば、ネギが乗り気でないのも納得できる。教師として生徒を傷つけたくない。
しかし、ここで倒さないと後で怖い目に合うかもしれない。
その迷いが目にありありと浮かんでいるところからして、おおかた助言者に言い包められたのだろう。

魔法使いであるネギに、一昨日学園で起きたネギのパートナー探し騒動から推測するに、
ネギの従者になったであろう明日菜。
そして助言者。状況は、最悪と言っても過言ではなかった。

ネギ一人であったなら、一般人に魔法を見られてはならないという規則がある為、
人通りのある場所に行くなどして逃げる事は、難しいだろうが可能だった。
だが、従者がいるこの状況でその方法を実現するのは、おそらく無理だろう。
将来的にはされる予定だが、今の茶々丸はまだ近接戦闘を十分に行えるようにはなっていない。
マスターから従者への魔力付与術、"契約執行"による身体能力強化をされた明日菜に足止めされてしまえば、
ネギの魔法で一巻の終わり、という訳である。
誰かが奇跡的にここへ現われでもしない限り、無事で済む確率はゼロに等しいだろう。


「……今手を引けば、マスターにこの事は報告しないでおきますが?」


気が乗らないが、手段を選んではいられない。
改めて生徒を人質にし、状況の打破を試みる。
だが、ネギは動揺する事なく言い返してきた。


「で、でも、次の満月が近くなるまで、エヴァンジェリンさんは血を吸えないんですよね……?」


何故その事をと驚愕するも、先日エヴァがその事を明日菜に言ってしまっていた事を思い出す。
少しだけ、エヴァに文句を言いたくなる茶々丸だった。


「人質はいない。だったら、ここで先に従者をボコッちまった方が得策ッス」


確かにその通りだと、茶々丸は思った。
茶々丸が助言者の立場だったら、同じ事を考えただろう。
だが、ネギは教師だ。人質をとっている側が言う事ではないが、
教師として生徒の安全を最優先にすべきである。

それは、ネギも判っている筈。
だから、茶々丸を前にしても未だ迷っているのだろう。
それでもこうして助言者に言われるがまま、茶々丸の前に現れたのは――


(満月の夜に襲われた事が、余程怖かったのでしょうね)


ネギは教師であると同時に、子供でもあるのだ。
間近に潜む恐怖の排除を、感情を制御しきれずに何よりも優先してしまう事は、仕方がないのかもしれない。
もちろん、子供だから何でも許されるという訳ではないが。


「そうですか……」


言って、エネルギーを脚部に回す。
そして気付かれぬよう、地面をならした。

助言者がいる限り、口でネギを言い包める事は無理だろう。
ならば、作戦を変更するしかない。
従者として主人の顔に泥を塗る訳にはいかない為、逃げる事は有り得ない。
となれば、選択は一つ。


「――残念です」


先手必勝とばかりに、茶々丸は地を蹴った。

狙うは明日菜。
"契約執行"が成される前であれば、従者とはいえただの一学生。
魔法使いであるネギを狙うよりも早く、確実に行動不能にできると踏んだ。
上手くいけば、それでネギとの一対一に持ち込める。逃げられる可能性はぐっと増えるだろう。

明日菜の懐に入り込んだ茶々丸は、最小限の動きで鳩尾へ拳を放つ。
もらったと確信する。だが、いつまで経っても手応えが感じられなかった。

――当然だ。
当たっていないのだから、手応えなどある筈がなかった。

茶々丸はすぐにその事実を受け入れる事ができなかった。
運動神経が良いだけで、何の武術の経験のない筈の明日菜が今の一撃を避けたのだ。
それも、"契約執行"もなしにである。その事に驚いていたのは、茶々丸だけではなかった。
ネギも、そして明日菜自身も驚いていた。


「――契約執行! 従者 "神楽坂明日菜"!!」


そして茶々丸は、窮地に立たされる事になる。

まず、誰よりも先に平常心を取り戻したネギが、すぐさま明日菜への"契約執行"を行った。

その瞬間、茶々丸の敗北がほぼ確定する。
それでも茶々丸は諦めず、明日菜から飛び退きつつ状況を覆す手を、頭をフル回転させて考える。
だが、絶体絶命のこの現状を打破する手段はなにも思いつかない。

全身に淡い光――魔力を纏った明日菜が、先程とは逆に物凄い勢いで眼前へ踏み込んでくる。
予想以上に速い。だが、反応できないほどではない。

左拳を顔面へ向けて放つ。弾かれるが、本命は右。下から一気に振り上げる。


「くっ……!!」


が、本命も弾かれてしまう。
"契約執行"されているとはいえ、とても素人とは思えない動き。
情報に誤りがあるとしか思えない。確か明日菜は転校生。
となると、転校してくる前に――


「ていっ!」


思考を停止し、なんとも緊張感のない声を発しながらなされた明日菜のデコピンを飛び退き回避する。

無理矢理であった為にたたらを踏みながら、再度踏み込んできた明日菜へ回し蹴りを入れる。
それも回避されるが、そんな気がしていたので気にせずに一度明日菜から距離を取る。
そこでハッとした。明日菜の動きに気を取られ、ネギの存在を忘れてしまっていた。

慌ててネギの姿を探し――そして、理解する。


「―― "魔法の射手" 連弾・光の十一矢!!」


自身の避けられない破滅を。


(追尾型魔法、至近弾多数――回避、不能……)


なんとも不甲斐ない結末に、茶々丸は胸の中でエヴァに謝罪した。
せめてもの償いとして、助言者の存在と、明日菜が"魔法使いの従者"になった事、
その能力についての情報を、破壊されても読み取れるかもしれない場所に記録して保護する。
そして理多には、猫たちの世話をしてくれるよう願った。

心を自覚したとはいえ、やはりロボットだからだろうか。
死に対する恐怖はなかった。しかし、未練はあった。

もっとエヴァの世話をしていたかった。
元気になった理多の笑顔を見ていたかった。
動けるようになったチャチャゼロとエヴァの事で色々と話したかった。もっと――


「もっと、一緒に居たかった……」


呟くと同時、"魔法の射手"が僅かに逸れ始めた事に気付く。
おそらく、ネギが土壇場になって生徒を傷付ける事に抵抗を感じたのだろう。
だが、もう遅い。何本かは逸らす事ができるかもしれないが、残りの何本かでも十分破壊は可能だ。

でも、少しばかり遅かったけれど、思い直してくれた事は嬉しかった。
尾行していたのなら、自分が人間ではない事はハッキリと判った筈なのにも拘わらず、
自分を生徒だと思ってくれた事が判ったから。

逸らし切れなかった数本の"魔法の射手"の内、
一足先に茶々丸へと辿りついた一本が左腕に着弾し、肩から吹き飛ぶ。
そして――

視界が、破壊の光に包まれた。



[26606] 第2章 8時間目 壊放の引き金
Name: あかいつき。◆3327a354 ID:742ccd16
Date: 2011/03/20 18:41
もはや理多にとって普通になりつつある普通でない服――ゴスロリ服を着た理多は、
俯き前髪で顔を隠すようにしながら、茶々丸がいる可能性が高いという猫のたまり場へと向かっていた。
真っ赤な顔をして、一刻も早くこの場から立ち去りたいという気持ちが見て取れる早い足取りで。
そんな理多は、道行く麻帆良の生徒たちの視線を集めていた。

以前理多がエヴァと一緒に学園へと訪れた時は、
春休み中で学園にも街にも人は殆どおらず、服装を気にする必要はあまりなかった。
しかし春休みが終わって新学期が始まっている今回は、そうもいかなかった。
街には友達と楽しそうに会話をしながら帰宅中の生徒や、
服屋へ寄り道をしたり買い食いをしたりしている生徒が多くいた。

自意識過剰と笑われるかもしれない。
そう頭では思いながらも、すれ違って行く人たち全員が、
自分へ奇異の視線を向けてきているように理多には思えた。
実際は、奇異の視線だけではなく、中には――というか、
ほぼ全てが好意的な視線だったのだが、それらの違いを感じ取る余裕は、
恥ずかしさで頭が茹って目を回してしまっている理多には一寸たりともなかった。

理多は視線から逃げるようにして、たまたま目に入った人気のなさそうな道へと入る。
その逃げ込んだ道が、幸いにも目的地へと続く道である事に気付いたのは、
少しして落ち着きを取り戻してからの事だった。

さり気なく辺りを見回して近くに人がいない事を確認した後、
理多は首にかけたバッグに入ったチャチャゼロへ小声で尋ねる。


「茶々丸さん、大丈夫かな?」


当然、聞いて判るような事ではないという事は理解している。
だが、尋ねずにはいられなかった。そして、"大丈夫"という言葉を返してほしかった。
不安な気持ちを、少しでも解消したかったのだ。例え、気休めであったとしても。

だが、聞いた相手が悪かった。
一番聞いてはいけない相手だった。
その事を失念していた理多は、すぐに後悔する事になる。


「サァナ。餓鬼一人ナラ何トカナルカモシレネーガ、従者ヲ手ニ入レテイタラ、マズ無理ダ」
「……いじわる」


理多が尋ねてきた意図を察しているだろうに、
チャチャゼロは理多の不安を煽るような事を言って笑った。

そんなチャチャゼロに対して頬を膨らませつつ、理多は無意識の内に歩調を早めていた。
早く、茶々丸の顔が――無事な姿が見たかった。


「ダガヨチビッ娘。最悪ノ事態ヲ想定シテ、予メ覚悟ヲ決メテオクッテノハ、生キ抜ク為ニハ重要ナ事ダゼ?
 例エバ、スデニ戦闘ガ始マッテイタラドウスル? 相手ガ逃ゲルッテノハナシナ」


また不安になるような事をと、理多は息をこぼす。
ただ、チャチャゼロの言う事は理解できるし、
何よりも珍しく真面目な様子だったので、少し考えてみる事にした。

相手は魔法使い一人と、もしかしたらいるかもしれない従者が一人。
人数だけを見るならば、二対二で互角だ。
しかし自分は、魔法使いとしても戦う者としても未熟者以下のど素人。
吸血鬼化すれば人並み以上の身体能力を得られるとはいえ、
それでも、できる事など精々茶々丸の盾になる事ぐらいだろう。

戦闘において自分は、足手まといにしかならない。
卑下でもなんでもなく、それが理多の自己評価だった。
だから、できる事など一つだけ。
させてくれるかどうかは、非常に微妙なところではあるが。


「できれば、茶々丸さんと一緒に逃げたいです。私には、逃げる事しかできないだろうから……」


言って、情けないですねと苦笑する。
しかしそんな理多の答えに、チャチャゼロは嫌味も言わずに頷いた。
予想外の反応だった。嫌味を言われなかった事もそうだが、肯定された事が特に。

らしくない、なんて思っていた事が顔に出ていたのか、
チャチャゼロはやや不満そうに目を細めて理多を一瞥した後、ため息を吐く仕草をした。


「確カニ情ケネェガ、今回ノ場合ソレガ最善ダナ。
 俺ガ殺ッチマッテイイナラ話ハ別ダガ、御主人ニ怒ラレソウダシ」


チャチャゼロ一人で、魔法使いとその従者を相手にできるのだろうか――という疑問は、何故か沸かなかった。
実際にチャチャゼロが戦うところを見た訳でも、誰かに強いと言われていたのを聞いた訳でもないにも拘わらず。
見た目"は"可愛い人形で、両手の平に乗せられるくらいの大きさしかないというのに。

それはおそらく、チャチャゼロならと思ってしまうような雰囲気、
或いは空気を、チャチャゼロから感じる事が理由なのだろう。
エヴァからも感じていたそれは、理多の考えが正しいなら――覚悟を決めた者が纏うもの。
自分にはないものなのだろう。


「ジャアヨ、逃ゲル事ガデキナイトシタラドウダ?」


続けてなされた問いに、理多は眉をよせた。
どうだと言われても、逃げる事しかできないのにそれができないとなれば、棒立ちする他ない。
しかし、それをそのまま正直に答えるのは少し悔しかった。
ならばと、自分ができるかどうかは一先ず置いておいて、事態を収める方法を考えてみる。

そうして理多が考え出した方法は二つ。
一つは、気絶させるなどして相手を行動不能にする事。
吸血鬼化して茶々丸と一緒に戦えば、やってやれない事はないだろう。
ただしそれは能力面での話であって、実際に戦うとなったら、精神面の問題できっと何もできないだろうが。

理多の答えに、チャチャゼロは何も言わず頷く。解答として合格のようだ。
嫌味を言われない事に対し、何故か少し寂しさや居心地の悪さを覚えながら、
理多は二つ目の案を口にしようとする。
二つ目の案は、話し合いで――


「話シ合イデ終ワラス、ナンテノハナシダゼ?」
「……戦って、隙を作って逃げる……とか」


目を逸らしながら冷静を装いつつ、内心慌てて代わりの案を口にする。
そんな理多の誤魔化しを、チャチャゼロは当然のように見抜いていた。
と言うか、"図星です"と顔に書いてあった。油性の黒マジック辺りで。


「行動不能ニッテノモダガ、見栄張ッテデキナイ事ヲ言ウモンジャネェゼ」
「うぅ……」


チャチャゼロの言う通りだったので、理多は何も言い返す事ができなかった。

いじけたように指を絡ませて黙ってしまった理多を見て、
"茶々丸がもうやられてしまっていたら"と聞くのを止める事にする。
それは、理多を気遣った訳では決してない。虐め過ぎて契約を解消されては動けなくなるので困るし、
そこまでいかなくとも、不仲になってからかい相手を失うのは少し惜しかった。
ただそれだけである。


「――チビッ娘。サッサト戦ウ覚悟決メチアワネェト、色々ト失ウ事ニナルゼ?」


不意に、チャチャゼロが諭すように言う。
その言葉には、妙に実感が篭っているように感じた。

一体チャチャゼロに何があったのか。
その言葉は経験から基づく忠告なのかと聞こうとして、思い止まる。
安易に尋ねるべきではないと、聞けるような仲にはまだなっていないと、そう思ったからだった。
もっとも、聞けるような仲になったとしても教えてくれるかどうかは別の話であり、
チャチャゼロの性格的に素直に教えてくれるとはあまり思えないのだが。

胸元で歩みに合わせて跳ねる、母親の形見であり、
エヴァからのプレゼントでもあるネックレスの黄金の宝石に目を落としながら、
チャチャゼロの忠告について思う。

直接口にした訳ではないが、遅かれ早かれ理多は裏の世界で生きていく事になり、
また戦う事になるとチャチャゼロは思っているようだった。それは、理多も同感だった。
根拠は言うまでもなく――理多が"吸血鬼"だからである。

しかし、裏の世界に生きるという事についてはある程度心の整理もついてきていたのだが、
戦う覚悟を決める事は、今だできないでいた。
それは、エヴァのように誰かを傷つけてまで成したい事がなかったからである。


「……キッカケガアレバッテ感ジカ」


理多の黙考するさまを見て、チャチャゼロが呟く。
図らずとも、エヴァと同じ結論に行き着いていた。

戦う覚悟を決める理由。理多本人は判っていないようだが、
チャチャゼロはその理由におおよその見当はついていた。
そのキッカケを作るのは、非常に簡単だ。
作ろうと思えば、今すぐにでも作る事ができるほどに。
ただし、"流血沙汰がありなら"という前置きがつく事になるが。

それを実行すると大変な事になるのは確実なので、他の方法を考える。
しかし、いずれも流血、もしくは暴力が必要となり、全ての案がお蔵入りになってしまう。
チャチャゼロ的には、どれも大賛成なのだが。

考えるのが面倒になってきたチャチャゼロは、
いつか向こうからキッカケが来るだろうと考える事を止めた。
そもそも、自分が理多の為に頭を使う必要はないのである。
そういう事は、理多を想っているエヴァと茶々丸に任せておけばいいのだ。


「――魔力の気配がする」


キッカケは、チャチャゼロの予想を遥かに上回る早さで理多の前に現れる事となる。
初めにその片鱗に気が付いたのは、理多だった。

理多は不意に立ち止まり、キョロキョロと辺りを見回す。
遠いからかどうかは判らないが、確かに微かな魔力の気配を感じる。
しかし此処は街の中、人も多くいる。だから、気の所為である可能性も大いに有り得るだろう。
とりあえず、目に見える範囲に魔法を使っている者はいなかった。



「何処カラダ?」


そう聞かれて、理多は気配が何処からするのかを探るべく、
"精霊の愛し子"の特徴の一つである高い魔力感知能力を駆使する。
目を閉じて、ひたすら集中力を高めていき、魔力の気配を辿っていく。
やはり、気の所為ではなかったようだ。

理多は大体の位置を割り出し、その方向を指差した。
その先にあるものは――


「オイチビッ娘。ソレガ確カナラ、"パーティー"ハモウ始マッテルッポイゼ」


目を開き、理多は自分が指さした先を見て血の気が引いた。
何気なく自分が指差した先にあるものは、自分たちの目的地――
茶々丸がいる可能性が高い、猫のたまり場。
そして、そこから魔力の気配があるという事の意味は――

はしたないと思いつつも、理多はスカートの裾を掴んで走りだした。
突然の疾走で振り落とされそうになっていたチャチャゼロが文句を言うも、理多の耳には届かない。
茶々丸の無事を祈る心の声で、頭の中は一杯だった。

裏路地に入り、数回の右左折をする事数秒後。
理多は茶々丸とネギ、そして明日菜の姿を捉える。
チャチャゼロの言う通り、パーティーは始まってしまっていた。
しかし、茶々丸は無事だった。それを喜んでいる暇は、一切なかったが。
何故なら次の瞬間、茶々丸へ向けて十一本の"魔法の射手"が放たれたからである。
束縛の風でも、麻痺の雷でもない、破壊の光が。

戦闘経験と魔法知識に乏しい理多でも判ってしまう。
茶々丸がそれを避ける事ができないという事を。
そして茶々丸を十分破壊しうる威力が、それに込められているという事を。


「茶々丸さん……っ!!」


反射的に、理多は吸血鬼化をして地を蹴っていた。

茶々丸までの距離は約二十五メートル。
今の一歩で大体五メートル詰めた。
全弾直撃までは2秒とない。
いくら吸血鬼の身体能力といえど、
到底間に合う距離と時間ではなかった。

それでも理多は諦めない。諦められない。
バッグから振り落とされていたチャチャゼロには目もくれず、
今度は意識して力強く踏み出す。
初めの一歩よりは距離が伸びた。
しかし足りない。

残り十三メートル程度。
このペースでは、最低でも後二歩必要。
だがそれでは駄目だ。
残り一秒を切っている。
それでは、二歩目を踏み出した時に全てが――


「――――ぁ……」


何かが、砕ける音がした。


(――やだ)


何かが、宙を舞っていた。


(やだ、やだ、やだっ……!!)


聞きたくない。
見たくない。
受け入れたくない。
信じたくない。
気の所為だ。
見間違いだ。
嘘だ。夢だ――

目の前で起きた現実を否定し、拒絶する。
だが、どれだけ拒もうとも、結果が変わる事はない。

頭を優しく撫でてくれた、
手を握りしめてくれた、茶々丸の腕が――

――暗転。
絶望に苛まれ、視界が闇に包まれる。
全身から力が抜け落ち、無力感に支配される。

自分では茶々丸を助ける事ができない。
茶々丸が死んでしまう。
目の前で。目の前にいるのに。
力が足りないから。時間が足りないから。
何もかもが、足りないから。


 ――本当に?


不意に走るノイズ。
誰かが問いかけてくる。
本当に、力も時間も足りないのだろうかと。
その声は、自分のものだった。
理多はその声に、自分に答える。
足りないと、血を吐き出すように。
消え入りそうな声で。

すると突然、頭上に光が灯る。
それは大きな、とても大きな、満月のような黄金の光だった。
その光は、周りの闇を容赦なく一掃する。
そして闇だった場所には、見覚えのある景色が広がっていた。
見渡す限りの木々。空を覆い隠すように伸びた枝と、
闇夜を更に暗くせんとして鬱蒼と茂る葉。
黄金の光といつの間にかすり替わっている月。

その月を見上げ、理多は思い出す。
麻帆良に足を踏み入れた時の事を。
満月の瞳を開眼した時の、身体能力を。
あの時の自分なら、きっと――
でも、あの時自分は――


「――っ……!」


歯を食いしばり、目を見開いて、あらゆる感情を押し殺す。
考えている時間はない。恐れている暇はない。
方法は知っている。理解している。

理多は、一つの"想い"に全てを委ねた。
前は"生きたい"という想いだった。
今度は―― "助けたい"という想いを。

それが引き金。
自分を自分でなくし、心身ともに化物へと豹変させ、
"満月の瞳"を開眼させる、禁断の引き金。
その引き金を、理多は躊躇いなく引いた。

即座に、紅い瞳が淡く輝く金色に変わる。
体が羽のように軽くなり、力が満ち溢れる。あの夜と同じように。

しかし以前とは違い、理性は残っていた。
それがどういう事なのかは判らない。
あの夜の時とは違い、精神が摩耗していないからなのか。
それとも、心が成長したからなのか。
だがそれは、あくまで現時点での話。
楽観はできない。そう、本能が告げてきていた。
おそらく、少しでも気を抜けば――

踏み込んだ地面が砕け散る。
その音と同時、理多は茶々丸との距離をゼロにしていた。
そして飛び込むようにして茶々丸を両腕で抱えつつ、
文字通り目と鼻の先にある"魔法の射手"を横目で見据える。
直撃までコンマ数秒。どんな魔法使いでも、例えエヴァであったとしても、
その刹那の時間に"魔法の射手"を防ぐ魔法を行使する事は不可能。
だが――


(―― "光子光障壁"!!)


"精霊の愛し子"であるなら、刹那の時間があれば――
否、時間がなくとも行使は可能。

"心言詠唱" ――望んだ瞬間に魔法の行使を可能とする、
"精霊の愛し子"の代名詞とも言える特殊能力によって展開された"光子光障壁"に、"魔法の射手"が阻まれる。
だが、一秒もしない内に"光子光障壁"は砕けてしまった。

"光子光障壁"は、効果は一瞬だが絶大な防御力を誇る魔法であり、
"魔法の射手"程度の下級魔法で砕けてしまう事は通常有り得ない。
これは、魔法使いとして半人前どころか全くの初心者である理多が、
"精霊の愛し子"の能力に甘えて無理矢理行使した為である。
それに加え、"心言詠唱"は詠唱を必要としない代わりに魔法の威力を犠牲とし、
魔法の熟練度に比例して威力が本来のものに戻っていくという仕組みである為だった。

"光子光障壁"の熟練度など、理多には微塵もない。
時間をかけて詠唱し、なんとか成功させた事が数回ある程度だ。
それを考えれば、約一秒とはいえ"魔法の射手"を防げたのは奇跡だった。
その奇跡を、理多は手繰り寄せたのである。
助けたいという、強い想いによって。

瞬く間に無に還っていく奇跡の結晶である"光子光障壁"。
だがそれで問題ない。"光子光障壁"はあくまで時間稼ぎの為であり、
"魔法の射手"を防ぐ為のものではなく、茶々丸を"魔法の射手"の射線から外す事が目的なのだから。
そして理多は、思惑通り茶々丸と一緒に地を転がって"魔法の射手"の射線から逃れる事に成功する。
"魔法の射手"は、着弾の直前に突如として目の前から消えた目標を追尾する間もなく、地面に突き刺さり、
粉塵を撒き散らして消滅した。

粉塵の中、理多は腕に抱えた茶々丸へと目を向ける。
左腕を失ってしまっている痛々しい姿に涙が滲むが、他に傷付いた個所は見られない。
目を閉じたままなのは、おそらく"魔法の射手"を避けられないと判断した茶々丸が
何らかの処置の為に機能を停止させたのだろうから、心配する必要はないだろう。

などと冷静に判断している自分に少し驚きつつ、理多は表情を綻ばせた。
その拍子に、目元に溜まっていた涙が頬を伝って、茶々丸の砂で汚れた頬へこぼれ落ちる。

茶々丸を助ける事ができた。
一度は絶望し、諦めかけたけれど、助ける事ができた。
最後まで諦めないでよかった。助ける事ができてよかった。
力が足りてよかったと、理多は笑みをこぼし――安堵"してしまった"。

瞬間、理多に力を与え、茶々丸を助けたいという想いを叶えた金色の闇が、牙を剥く。
抵抗する間もなく理多の理性をズタズタに引き千切り、蹂躙し、呑み込む。
理性は消化され、そして――


「――――――あはっ」


金眼の吸血鬼が、目を覚ます。



[26606] 第2章 9時間目 金色の闇炎
Name: あかいつき。◆3327a354 ID:742ccd16
Date: 2011/03/20 18:41
茶々丸はエヴァの"魔法使いの従者"で、命を狙ってくる敵だった。

だからネギは、二日前に"助言者"となったオコジョ妖精、アルベール・カモミールの作戦に乗って、
エヴァと別行動をとって一人になったところを見計らい、襲撃する事にした。
心配して"魔法使いの従者"になってくれた、明日菜に協力してもらって。


「人目がない今がチャンスっす! 心を鬼にしてボカッとやっちゃいましょう!」
「う、うん……」


茶々丸は生徒であり、そして自分は教師であるという事は常に頭にあった。
この襲撃作戦が、教師として最低の行いだという事も判っていた。
しかし頭では判っていても、カモの作戦を拒否する事ができなかった。
やっぱり止めようと、そうハッキリと口にする事ができなかった。

限界だったのだ。
一人になったりちょっとした暗闇を見かける度に、
血を吸われて指先から徐々に冷たくなっていく感覚を思い出してしまい、
心臓は狂ったように鼓動を速め、呼吸が苦しくなった。

目を閉じればその隙に再び襲われてしまう気がして、満足に眠る事もできなかった。
そうして満月の夜から二日が経った頃には、ネギの精神は擦り切れてボロボロになっていたのである。

エヴァは自分の事を"悪の魔法使い"であるというような事を言っていた。
まき絵やのどかを襲っていた事からしてそうなのだろう。
そして悪の魔法使いの従者であり共犯者である茶々丸も、"悪の従者"という事になる。
悪は、倒されて然るべきものだ。

どうせ茶々丸はロボットであり人間じゃない。
例え壊れてしまっても、人間に比べたら簡単に直す事ができるのだ。
だから、襲撃しても大丈夫。何も問題はない。
そう自分に何度も何度も言い聞かせながら、ネギはせめぎ合う感情を胸に抱きつつ、
襲撃作戦を実行に移したのだった。


「――光の精霊11柱  集い来たりて 敵を射て……」


襲撃するからには全力で倒さなければならない。
もし手を抜いて逃げられてしまえば、当然茶々丸を襲撃した事がエヴァに知られてしまうだろう。
そうなれば、生徒たちが危険な目にあわされてしまうかもしれない。
それだけは、絶対に避けなければならなかった。

だからネギは、明日菜が作り出した茶々丸の隙を突き、全力で"魔法の射手"を放った。


「―― "魔法の射手" 連弾・光の11矢!!」


その"魔法の射手"を茶々丸が避けられない事が何となく判った。
後数秒もしない内に茶々丸は大破し、襲撃作戦は無傷の成功に終わるだろう。
後は一人になったエヴァを倒せば、もう一人になる事や暗闇を恐れる事はなくなる。
眠れぬ夜を過ごす事はなくなり、大変だけど平穏な日々を取り戻す事ができるのである。

しかし、少しも嬉しいとは思えなかった。

迫る"魔法の射手"を避けられない事を悟ってか、茶々丸が悲しそうに表情を歪めたのが見えた。

それを見て、ネギはハッとする。
茶々丸は悪の従者で、ロボットで、敵だ。
だけど、此処へ来るまで積極的に人助けをしていて、
人間のように感情のある表情を見せる、生徒でもあった。
そんな茶々丸を、自分の保身の為に傷付けるなんて――


(やっぱり駄目ーっ!!)


放った"魔法の射手"を茶々丸から無理矢理逸らす。
"魔法の射手"は威力こそ低いが、代わりに汎用性に優れており、放った後に操作する事も可能なのである。
しかし、思い直すのが少しばかり遅かった。

十一本の内一本が茶々丸の左腕を吹き飛ばし、
残りの十一本も全ては逸らし切れず、何本かはそのまま茶々丸へと向かってしまう。
間に合わなかった。生徒を傷付けてしまった。


「――え?」


そう思った直後、疾風の如く飛び込んできた"何か"によって、
茶々丸が"魔法の射手"の直撃から逃れた。

突然の事に唖然とし、ネギは茶々丸が大破せずに済んだ事に安堵する事を忘れてしまう。

舞う砂煙の中目を凝らして見てみると、重なり合って倒れている二つの影を見付けた。
その形から、茶々丸を助けた"何か"は人間である事が判る。

安否を確かめようとネギが一歩踏み出した時、その"何か"がゆらりと立ち上がった。
そして衣服に付いた砂埃を払う事もせず、ネギの方へとゆっくりと振り返る。
それに合わせるようにして砂煙が晴れ、ネギは"何か"の顔を視認し、思わず息を飲んだ。

"何か"の正体である見知らぬ女の子の表情は、仮面でも付けているのではないかというほどに無表情で。
目を引く金色に淡く光る瞳からも感情は窺えず、まるで人形のようだった。酷く虚ろで、異質。

どうしようと、ネギは困惑する。
女の子が何者であるのかが判らない以上、迂闊な行動はできない。
茶々丸を助け、その際に一瞬であったが魔法を使っていたところから、エヴァの仲間であるようだが。
それに、満月のような金色の瞳も気になった。この瞳は確か、以前何かの魔導書で見たような――

とりあえず、声をかけてみよう。
そう思い、ネギが口を開いた直後――
数メートル先にいた筈の女の子が、文字通り瞬く間に目の前に立っていた。
そして息を飲む間も与えず、刃物の如く変質した爪が振り下される。
そこに一切の躊躇はなく、それどころか口元は喜々として吊り上がっていた。

ネギは他人事のように、あぁ死んだなと思った。


「――ナニ暴走シテヤガンダヨ、チビッ娘」


聞き覚えのない声がして、ネギは知らず閉じていた目蓋を開く。
すると、肉を裂き、骨を砕き、一つの命を惨殺する筈だった女の子の爪が、
一体の見知らぬ人形が持つ包丁で食い止められている光景が目の前に広がっていた。

ネギはひぃっと情けない悲鳴を漏らしながら尻もちをつき、そのままずるずると後ずさる。
それを庇うようにして、ずっと目まぐるしい展開についていけず呆然としていた明日菜がネギの肩を抱いた。

それを横目に人形――チャチャゼロは嘲笑しつつ、女の子――理多の爪を押し払う。
そして、飛び退いた理多へ視線を向けたまま、ネギたちへ吐き捨てるようにして言った。


「サッサト失セロ餓鬼共。邪魔ダ」


チャチャゼロに気圧されて反射的に頷いていたネギたちは、
お互い目を見合わせた後、すごすごとその場から立ち去った。

それを気配で感じ取りながら、チャチャゼロはジッと警戒の視線を向けてきている理多へ尋ねた。
口調はいつものからかうようなものではなく、鋭く真剣なものだった。


「俺ガ判ルカ、チビッ娘?」


その問いに、理多は警戒心を四散させて目を丸くする。
その表情はいつもの理多だったが、しかしいつもの理多ではない。
気配が、全く違った。

言葉は通じているのだろうか。
そうチャチャゼロが少し不安に思った時だった。
理多が、明らかに場違いな満面の笑みを浮かべて言った。


「敵っ!」


その言葉を合図にして、理多が姿を消す。
否、消えたと錯覚してしまうほどの速さでチャチャゼロの視界の外、
斜め後ろに理多が移動していた。

それに対し、チャチャゼロはまるで予めそこへ来る事が判っていたかのような反応速度で、理多目がけて包丁を振り下す。
おそらく、膨大な戦闘経験等から位置を予測していたのだろう。
でなければ、理多が攻撃行動に移る前に先制して攻撃を仕掛ける事などできはしまい。

完璧なカウンター。
しかし包丁は空を斬り、代わりに剣圧によって地面が縦一文字に抉られた。


「俺ガ敵、ネェ……ケケ、ケケケケケ……ッ!」


瞬間移動の如き速さでカウンターを避わして距離を置いた理多に、チャチャゼロは笑い声を振りかけた。
とても不愉快そうに。ガラスの瞳に、怒りを滾らせながら。
そしてキョトンとしている理多へ、包丁を両手で持ち、下段に構えながら、おちょくるようにして舌を出した。


「テメェナンテ、俺カラシタラ敵ニ値シネェ有象無象ノ糞雑魚ダ。
 速サシカ取リ柄ガネェクセシテ、思イ上ガッテンジャネーヨ」


そんなチャチャゼロの挑発に、理多の顔から笑みが消える。
敵意が明確な殺意へと変わり、チャチャゼロの小さな全身へと突き刺さった。

常人なら数秒と耐えられないその濃い殺気を真正面から受けているチャチャゼロは、笑っていた。
まるで、娯楽を楽しむかのように。実際チャチャゼロは、この状況を少なからず楽しんでいた。
久しぶりの殺気に酔っていた。

だが、素直に楽しんではいられなかった。
茶々丸は目を覚ます気配がなく、理多もこのままでは"戻ってこれなくなる"かもしれない。
だからチャチャゼロは、次の一撃で決めるつもりでいた。

それを察していたからかどうかは定かではないが、
理多はチャチャゼロの挑発に乗って闇雲に攻め入ろうとはせず、
ジリジリと間合いを測りながら隙を窺っている。

場を、緊張感が満ちていく。
一触即発。些細なキッカケで、この緊張感は爆発するだろう。
理多の頬を、一筋の汗が伝う。

そのキッカケは、チャチャゼロの瞬きだった。

理多はそれを見逃さず、それが"わざとされたもの"であると気付かずに、
切り刻み破壊し尽くさんとしてチャチャゼロへと斬りかかった。

もっとも、だからと言って何か罠がある訳でもなく、
焦れたチャチャゼロがさっさと決着をつけようとしてキッカケと隙を作っただけなのだが。


「甘メェ――!」


一閃。
瞬速で懐に入ってきた理多を、チャチャゼロは瞬速の一太刀で叩き伏せた。

理多は爪を振り上げた状態で停止し、額から一筋の血を滴らせぐらりとよろける。
それだけで済んだのは、チャチャゼロが攻撃する直前に包丁を上下逆さに持ち直し、峰打ちしていた為である。

峰打ち故、大したダメージはない。
しかし、"目を覚ますのには"十分だったようだ。

理多の瞳に、理性の光りが灯る。
そして金色の輝きが燻っていき、やがて赤色へと戻っていった。

それを確認すると、チャチャゼロはつまらなそうに包丁を一振りした後肩に担ぎ、先程と同じ質問をした。


「……俺ガ判ルカ?」


理多は額を押さえ、もう片方の腕で自身を抑え付けるように抱きしめながら、
苦しげに、しかしハッキリと頷いた。
今にも倒れてしまいそうな青ざめた顔色をしているが、理性は完全に戻ったようだ。

それならいいと、チャチャゼロは茶々丸の左腕を拾って抱え。
横たわる茶々丸へ目を向けた後、続けてまだ沈んでいない太陽へと視線を移し、ため息を吐いた。


「色々ト言イタイ事ハアルガ、一先ズ茶々丸ヲ研究所ニ運ブゾ」


 ◆ ◆ ◆ ◆ ◆


麻帆良大学工学部の研究室にエヴァが血相を変えて飛び込んできたのは、
学園長室にいたエヴァへ理多が連絡を入れてから数分後の事だった。

今のエヴァは外見通りの身体能力しかないというのに、長い道のりをずっと走ってきたのだろう。
肩で息をしながら、ふらついた足取りで茶々丸が横たわる装置へ歩み寄っていった。
そして傍らに立つと、目を閉じている茶々丸を見下ろした。

制服は砂などで薄汚れて所々解れており、外れた左腕が痛々しい。
また、茶々丸は人間のように呼吸をしている訳ではないので胸が上下するような事はなく、
生きているという事が判り辛い所為で、もう二度と動かないのではないかという不安に駆られてエヴァは顔をしかめた。
茶々丸を一人にせず、学園長の所へ行くのに同伴させればよかったと後悔せずにはいられなかった。


「……大丈夫、なのか?」


血が滲むほど拳を握りしめ、声を荒げて八つ当たりしてしまいそうになるのを抑えながら、
エヴァはキーボードを激しく打ち込んでいる少女へと声をかけた。
その声は、怒りからか、それとも悲しみからか、微かに震えていた。

それに対し、眼鏡をかけて白衣を着た、いかにも科学者といった格好をしたクラスメイト、
葉加瀬 聡美ハカセ サトミは手を止めると、エヴァへと振り返って答えた。
心配ないと、微笑み柔らかな口調で。


「損傷は少ないので、すぐに直りますよ~」


左腕の損傷は素人から見たら酷く思えるが、玄人から見たら大した事ないらしい。
ちなみに、茶々丸が目を覚まさないのは、理多の予想した通りデータを守る為の行動だったようだ。
修理中は眠らせる事になるので、そのまま起こさずにいるとの事。

茶々丸の生みの親の一人である彼女の言葉なら間違いないと、
エヴァは深く息を吐き出しながらホッと胸を撫で下ろす。
そうしてエヴァから心配の色が抜け落ち、後に残ったのは、
煮え滾るような一つの激しい感情。

エヴァは茶々丸を頼むと言って葉加瀬に頭を下げた後、
踵を返して今しがたくぐったばかりの出入り口へと向かった。

前髪で目元が隠れ、表情は見えない。
しかし全身から溢れ出てている、視覚できるのではないかというほど高密度の殺気で判る。
この後エヴァが何処へ行き、そして何をしようとしているのかが。

部屋の壁際でチャチャゼロと一緒に椅子へ腰掛けていた理多は、
慌てて椅子から立ち上がり、扉の前に両手を広げて立ち塞がった。

このままエヴァを行かせてはいけないと思ったのだ。
このまま行かせては、きっとよくない事になると。

エヴァは今の今まで部屋にいた理多の存在に気付いていなかったようで、驚きで少しばかり殺気が緩和した。
だがそれもすぐに元へ戻り、エヴァは据わった目で理多を睨みつけながら、突き放すようにして言った。
そこに親愛の情は一切含まれておらず、邪魔者に対する純粋な敵意だけがこもっていた。


「……退け、理多」


――ザクリと、心臓を氷のナイフで突き刺された。

そんな"錯覚"を覚えるほど鋭く冷たい殺気を向けられ、理多は気を失いそうになった。

だが気を失わず、それどころか立ち続けられていた。
そんな自分が、不思議でしょうがなかった。同時に、罵ってやりたくなった。
何故大人しく気絶しなかったんだと。気絶してしまえば、楽になれたというのに。

口の中が渇き、どうしようもなく体が震えて止まらない。
圧倒的な気迫を前に、胸を締め付けられて息をする事が上手くできず、嫌な汗が背中を伝った。
このままでは本当に氷のナイフで刺されかねない。心が怖い、逃げたいと絶叫を上げている。

しかし、それでも退く訳にはいかなかった。
何故なら、エヴァは間違っているから。間違いを犯そうとしているからだ。


「退かないと、痛い目を見るぞ?」
「退きませんっ!」


底冷えするような低い声でなされた警告を、理多は恐れで迷いが生じない内に即答する。
そしてその返答が本気である事を表すように、表情を苦痛で歪めながら瞳を紅く染めた。
力尽くでも止めてみせると。

頭に血が上ってしまっている今のエヴァには、
どうして理多がそこまでして止めようとするのか理解できなかった。
その為、つい責めるような口調になってしまう。


「どうして止める。お前が好いていた茶々丸がやられたんだぞ。お前はなんとも思わないのか?」
「――――そんな訳……」


冷淡なエヴァの言葉に、理多は酷く傷付いた表情をして頭を垂れ。
ポロポロと涙をこぼし、研究所の床を濡らした。

ギョッとするエヴァの後ろ、
椅子に座ったまま理多たちの様子を眺めていたチャチャゼロが、やれやれと肩をすくめた。


「そんな訳、ないじゃないですか……っ」


嗚咽を漏らしながら吐き出された理多の悲痛な声に、
エヴァは怒りで沸騰していた頭を一瞬にして氷結させた。

人一倍心優しい理多が、茶々丸の事でなんとも思わない訳がないのだ。
それも、茶々丸が傷付くところを間近で直接見たのだから。
そう電話で言っていたというのに、その事を怒りで忘れ、
さらに理多に対してなんとも思わないのかなどと口にした自分の馬鹿さ加減に目眩がした。


「……すまん、取り乱した」


こういう事になる事も全てひっくるめて覚悟を決めたというのに、暴走したあげく理多を泣かせてしまた。
そんな自分に対し、エヴァは情けなさ過ぎると、顔を隠すように片手を当てながら嘲笑した。

泣かせてしまった事だけではない。理多に止めてもらえてなければ、
自分がネギにした事を棚にあげてネギを殺すなどという愚かな事をしてしまっていたところだった。
それが間違いであると判ったから、理多は必死に自分を止めてくれていたのだと今更理解し、
エヴァはもう一度理多へ謝罪すると、続けて感謝の言葉を告げたのだった。


 ◆ ◆ ◆ ◆ ◆


葉加瀬に茶々丸の事を頼み、理多たちは研究所を後にした。

茶々丸が傍にも家に帰ってもいない事の喪失感は思いの外大きく、
帰路につく理多たちの表情は、現在の空のように暗く、また場の空気は重い。
チャチャゼロもそんな空気を読んでか、珍しく理多の鞄の中で黙っていた。

そんな中、エヴァはふとある事を思い出し、理多に尋ねた。


「そういえば理多、さっき吸血鬼化した時苦しそうにしていたが、どこか怪我でもしたのか?」
「えっと、それは……」


気まずそうに言いよどむ理多に、エヴァが首を傾げる。

また心配をかけまいと怪我している事を隠しているのかと思い、
エヴァが理多の体を見回そうとした時、チャチャゼロがその訳をあっさりとばらした。


「一度呑マレタカラナ、闇ニ」


理多があたふたとしてチャチャゼロの口を塞ぐ。
当然、言ってしまった後に口を塞いだところで意味はなく、エヴァはシッカリと聞いていた。

ギギギと錆び付いているかのようなゆっくりとした動きでエヴァが目を向けると、
理多は目を逸らしながら苦笑した。
そんな理多の頭へ、チョップが叩き込まれる。

へぅっと悲鳴を漏らし、目を白黒させて叩かれた部分を両手で抑える理多に、
エヴァは不機嫌そうに眉を吊り上げながら諭すようにして言った。


「茶々丸を助けてもらった事は、本当に感謝している」


エヴァにとって、茶々丸はただの従者ではない。
まだ二年と長い付き合いではないが、家族のように思っていた。
だから、今回の事は心から感謝していた。

しかし、その表情はとても感謝しているようには見えなかった。
寧ろ、怒っていた。

理多が無茶をしなければ、茶々丸がどうなっていたのかは察する事ができる。
だが――


「だがな、無茶をするなという約束を破った事は許せん。
 例えそうしなければ、茶々丸が完全に壊れていたとしてもだ。吸血鬼化の事と一緒に説明したよな?
 満月の瞳を開眼させる事が、どういう事なのか」

満月の瞳を開眼させるという事は、魔の力を――理多の場合、吸血鬼の力を全て解放した事を意味する。
それは、まだ心の幼い理多にとって非常に危険な事なのだ。

強大な力は、例えどんな善人であっても闇に飲み込んでしまう。
その力が魔族の頂点と言ってもいい存在である、吸血鬼のものであるなら尚更に。

今理多が普段理性を保てているのは、ポテンシャルの高さだけではなく、
吸血鬼の力を無意識の内に封印していた事が大きな要因なのである。

それらの事を、理多はしっかりと覚えていた。
そしてその危険性を、今回身をもって理解した。

開眼してからずっと抑え込んでいた、そして気を抜いた瞬間理性と意識を掻き乱した禍々しい力。
もしチャチャゼロが傍にいなかったら、確実にネギたちを殺してしまっていただろう。
それだけではなく、街の人たちをも襲っていたかもしれない。

理性下では絶対にしないと誓えるような事をさせてしまう深い闇。
それはエヴァに教えられ、そして想像していた以上に危険で、凶悪なものだった。


「……でも、本気を出さないと茶々丸さんを助けられない。そう思ったから私は……覚悟を決めたんです」


力に飲まれ、理性を失い、そしてそのまま戻ってこれなくなってしまうかもしれない。
考え出したりキリがない、言葉では言い現せられないほどの黒く冷たい不安と恐怖が、
満月の瞳を開眼させる事を思い付いた一瞬に圧しかかってきた。

しかし理多は、一時も悩む事なく即座に開眼させる事を決意した。

茶々丸を助けるか否か、などという問いは脳裏に浮かびもしなかった。
そんな事、考えるまでもなく答えは決まっている。
茶々丸を助けないなんて選択肢は存在せず、故に、覚悟を決めるか否かも決まっているのだから。

だから覚悟を決めたと口にしたものの、理多としては当り前の事をしたに過ぎなかった。


「力を使う事は怖いです。けど、茶々丸さんを――大切な人を失う事の方が、ずっと怖かったんです」


エヴァの目を真っ直ぐ見つめ、理多はハッキリと言い切る。
その目には、一片の後悔も浮かんではいなかった。

それを見て取ったエヴァは、呆れたような、喜んでいるような曖昧な笑みを浮かべて息を吐いた。


「……そうか。なら、この事についてはもう何も言わん。
 だがな、自己犠牲の上で成り立つ救済はただの自己満足にしかすぎないという事を忘れるなよ」


その言葉に、理多は素直に謝った。しかし、もうしませんとは言えなかった。
もしまた今回のような事があれば、きっとエヴァに言われた事を思い出しても体が勝手に動いてしまっているだろうと、
確信めいたものがあったからだった。

そんな理多の胸中を察し、仕方がない奴だとエヴァがため息を吐いた時、
ずっと黙っていたチャチャゼロが口を開いた。


「ツイデニモウ一ツノ事モ謝ッテオケ、チビッ娘」


もう一つの事とはとエヴァはチャチャゼロに目を向け、理多に視線を移す。
すると、理多は人差し指を合わせて罪を告白した。


「その、茶々丸さんを助ける為に走った時、吸血鬼化して日の下に――い、痛いでふっ!?」
「お、お前という奴は……」


理多が最後まで言う前に、エヴァは抑えきれずに理多の餅のように柔らかい頬を引っ張った。

理多は目頭に涙を溜めながらごめんなひゃいと繰り返し、
しばらくしてエヴァが手を放した時には、頬がリンゴのように赤くなってしまっていた。


「無事に済んだのは、遮光クリームのおかげか?」
「……イヤ、確カニ遮光クリームヲ塗ッタガ、服ノ下ニマデハ塗ッテナカッタゼ」


エヴァは服が破けて肌が露出している部分を確認する。
しかし、焦げていたりなど見た目に変化は見られない。

目に見えないだけかもしれないと、理多に痛い所はないかと尋ねるも、やはり何ともないようだ。
嘘を言い、隠している様子もない。

だが、確実に日を浴びている筈なのだ。
吸血鬼である理多が、猛毒である日の光を。
にも拘らず、何ともない。それはつまり――――


「デイライトウォーカー。チビッ娘ハ、日ノ呪イヲ克服シタ吸血鬼ッテ事ニナルナ」


理多はチャチャゼロの出した結論に、花咲くような笑顔を見せ。
一方エヴァは対照的に、やるせない表情で唇を噛んでいた。



[26606] 第2章 10時間目 人の良いバカ
Name: あかいつき。◆3327a354 ID:742ccd16
Date: 2011/03/20 18:42
茶々丸がいない所為だろうか。
心なしかいつもより静かだった夜が明けた、休日の土曜日。
エヴァは赤いソファーにだらしくなく寝転がりながら、ウトウトとまどろんでいた。

今日はこれといって特に用事もなく、また何故だか心がざわついていて何をする気にもなれない。
なので二度寝でもしようかと、目蓋を下し、寝不足という訳でもないのに繰り返し出る欠伸をした時。
目覚まし時計の如く、電話が鳴り響いたのだった。

いつも電話応対をしている茶々丸はおらず、
理多は外で洗濯物を干している為、おそらく電話の音に気付かない。
仮に気付いたとしても、エヴァが電話に出てくれると思うだろう。

ようするに、エヴァが電話に出なくてはならないのだが、
めんどくささが重しとなり、ソファーからなかなか体を起こせないでいた。

しかし、出ない訳にはいかない。滅多に鳴らない電話故、
それが鳴るという事は重要な用件である可能性が高いからだ。
今回の場合、十中八九茶々丸の件だろう。

茶々丸の件とあっては、主人である自分が出ない訳にはいかない。
そう奮起して体を起こした時、俺ガ出テヤローカなんて非常にふざけた空耳が聞こえてきた。
真っ先に空耳だと思ったのは、声の主であるチャチャゼロが自ら進んで雑用を引き受けようとするなど、
天地が引っくり返っても有り得ない事だからである。

そんな空耳が聞こえてしまうほど電話に出る事がめんどうなのかと、エヴァは自分自身に苦笑する。
しかし、どうやら先程の声は空耳ではなかったようで、チャチャゼロが電話の元へと向かっているのが見えた。
天変地異がその内起きるかもしれない。

代わりに電話に出てくれるというのなら、是非とも任せたいところだった。
だが、相手はあのチャチャゼロである。なので念の為、釘を刺しておく事にした。


「……電話の相手を怖がらせないと約束するのなら頼む」


するとチャチャゼロは振り返り、何を言っているのだという顔をしてキッパリと言った。


「ソリャ無理ダ。電話ニ出ル意味ガナクナル」
「お前は、電話を何だと思っているんだ……」


おそらく、"口先だけで相手を泣かせられるようになる為の練習機器"とでも思っているのだろう。

一時でもチャチャゼロに任せようかと思ってしまった自分にため息を一つ吐き、
エヴァは心底気だるそうにソファーから立ち上がる。
そして自ら電話に出るのはいつ以来だろうかと頭を掻きつつ、電話を手に取った。

相手は予想通り葉加瀬で、用件は茶々丸の件だった。
左腕は早々に修理が終わった為、ついでに今日行う予定だったメンテナンスも終わらせたとの事。

葉加瀬を信頼していたので心配していなかったのだが、それでも心のどこかで不安に思っていたらしい。
その事に、エヴァは少しだけ心が軽くなるのを感じてようやく気付くのだった。

葉加瀬へ感謝を伝えると、この後茶々丸をどうするかと尋ねられて考える。

茶々丸は一人で帰ってくる事ができる為、わざわざ迎えに行く必要はない。
流石に、昨日の今日でネギたちが再び襲撃してくるような事はないだろう。
だが――

洗濯物を干し終えた理多が、空になったカゴを手に戻ってきたのを見て答えを決める。


「研究所に待たせておいてくれ、迎えに行く」


エヴァはあえて迎えに行く事にした。
考えなしにそう決めた訳ではない。
理多を見て、そして昨日発覚したある事を思い出し、
一つの計画を思い付いたからだった。

電話を切り、研究所という単語を気にして様子を窺っている理多に、
今の電話の内容と、たった今思いついた計画について話す。


「茶々丸の修理が終わったらしい。それで、
 茶々丸を迎えに行くついでに都市を案内してやろうかと思うんだが、どうだ?」


修理終了、そして都市案内という言葉に理多の瞳が輝きだす。
しかし、すぐその輝きは曇ってしまった。


「でも、私はあまり外に出ない方がいいんじゃ……」


理多が気にしているのは周りの目。
理多が学園にいる事を好ましく思っていない人たちの事だ。

吸血鬼の呪いが封印されて日の光の問題が解決した時、理多は学園長から外出の許可をもらっている。
その為、外出する事は決して悪い事ではない。
しかし自分が外出した所為で誰かに嫌な思いをさせてしまうのならと、理多は外出しないようにしていた。

そんな理多に、エヴァはからかうようにして言った。


「なんだ、暴れまわるつもりなのか?」
「そ、そんな事っ――」
「なら何も問題ないだろう。なに、文句を言ってくる奴がいたら私が黙らせてやる」


言って不適に口元を釣り上げるエヴァに、理多は苦笑する。
しかし、黙らせる云々は問題だが、エヴァの言う事はもっともだった。
暴れる気は微塵もないし、余程の事がない限り暴れまわってしまう状態になる事はないのだから。

しばらく窓の外、絶好のお出かけ日和な青空を見た後。
理多はエヴァへと向き直り、頬を掻きながらはにかんで言った。


「えっと、それならお願いしたいです。ずっと、見て周りたいなって思っていたので」


 ◆ ◆ ◆ ◆ ◆


都市案内の前に茶々丸と合流すべく、理多たちは研究室へと足を運んでいた。
そして研究室の扉の前で、理多は震える手を胸元でギュッと祈るように握りしめている。

今自分が此処へ来ているのは、茶々丸が直ったからだという事は当然理解している。
しかし、好意を持っている相手が目の前で傷付くのを見るのが初めてだった理多は、
トラウマになるほどではないものの相当にショックであった為、"もしかしたら"という不安を完全に拭えないでいた。
足が固まり、一歩前へ踏み出す事ができなかった。

そんな時、エヴァが大丈夫だと微笑みながら優しく叩くようにして頭を撫でてくれ――
その励ましに勇気付けられた理多は、意を決して扉に手をかけ、そしてゆっくりと開けた。
すると、影を落としていた理多の表情がパッと花開くように笑顔になる。
そして何やら葉加瀬と話していた、左腕が完全に直っている茶々丸へと駆け寄り、抱きついたのだった。


「――! 雨音さん……」


自身の胸に顔を埋めながら、よかったと涙声で繰り返し呟き、
ギュッと抱きついている理多に茶々丸は戸惑う。
自分はロボットであり、そんなに心配する必要はなかったのにと。

しかし茶々丸は、何も言わずに口をつぐんだ。
理多の目元に涙が見え、それは言うべきではないと思ったからである。
その代りに理多を抱きしめ返し、頭を撫でながら謝罪したのだった。

その後理多たちは葉加瀬へ感謝の言葉を伝え、研究所を後にする。
そして歩きながら、茶々丸は自身が機能を停止させてからの経緯を聞いていた。

エヴァから連絡を受け、理多とチャチャゼロが茶々丸の元へ向かった事。
茶々丸が回避不能な攻撃をされるのを見て、理多が満月の瞳を開眼させて助けた事。
そしてその際日の下に出てしまったものの、何ともなく、つまりデイライトウォーカーだと発覚した事。

それらをハラハラとしながら聞き終えた茶々丸は、先程とは逆に理多を抱きしめた。


「なんて無茶を……雨音さん、私はロボットです。人間と違って痛みもないですし、直す事も容易です。
 ですから、今後は私を助ける為に無茶をするのは――」
「それは、違うよ」


茶々丸の抱擁から抜け出した理多が、茶々丸を睨みつける。
その目には、怒りの炎が揺らいでいた。

確かに、茶々丸の言う通りではある。
人間は左腕をもがれたら一日では到底直せないが、ロボットならそれが可能だ。
だから、ロボットを庇って人間が怪我をするというのは余計な事なのかもしれない。

しかし、理多はそれを許す事はできなかった。
今後も理多は、例え自己満足と言われようとも、身を挺して大切な人を――茶々丸を助けるだろう。
黙って茶々丸が傷付くところを見ているだなんて事はできない。
直すのが簡単だから、なんて事は見過ごす理由にはなり得ないのである。


「だって、傷付く事には変わりないんですから」


そんな理多の言葉を、滲む涙を見て、茶々丸は体が熱くなるほどの喜びを感じた。
ここまでハッキリと、自身の感情を感じ取ったのは初めての事だった。
それほどまでに、嬉しかったという事なのだろう。

茶々丸はその気持ちを抱かせてくれた理多へ、飾らず素直に、心の赴くまま言葉を贈った。


「ありがとうございます、雨音さん」


エヴァが知る中では最高の、純粋で綺麗な笑顔を浮かべながら。


 ◆


日の下を茶々丸と並んで楽しそうに歩く理多を眺めるエヴァは、
微笑んでいるとも悲しんでいるともとれる曖昧な表情を浮かべていた。
その表情の訳は、理多が日光を気にせずに済むデイライトウォーカーであったという事実の所為である。

常に締め切られた家のカーテンを、理多が悲しげに見つめていた事を間近で見て知っていた。
だから理多がデイライトウォーカーである事が判った時、自分の事のように嬉しく思った。
しかしその事実は同時に、理多が真祖の秘術を施されたという可能性をほぼ確定させてしまい、
それが不安の種だったのである。

不完全とはいえ現代に甦った秘術は、いずれ大きな事件を引き起こすだろう。
その序奏と思われる連続吸血事件などとは比べ物にならないほどに、大きな事件を。

正直なところ、事件自体はどうでもよかった。
自分は正義の味方ではなく、むしろその逆の存在。
騒ぎに乗じて自分もとは思わないが、自ら事件を解決しようとも思わない。
事件の解決は、魔法協会の人間に任せておけばいいと思っていた。

では何が不安の種なのかというと、それらの事件に理多が巻き込まれてしまう可能性である。
理多は秘術の被害者。だからもし秘術に関する事件が起こった時、
理多は嫌がおうにも巻き込まれてしまうのではないか、と。

封印されていなければ、何が起きようとも何とかする自信があった。
しかし、今の自分はあまりに無力。理多が事件に巻き込まれた時、
助ける事ができるかどうかはかなり怪しく、エヴァは眉間のしわを深めさせざるを得なかった。


「エヴァンジェリンさん! まずは何処を案内してくれるんですかっ?」


そんな時、理多が両手を腰に回し、クルリと笑顔を振りまきながら振り返って尋ねてきた。
その隣で、茶々丸が首を傾げる。

理多のはしゃぎっぷりに苦笑しながら、
そういえば言っていなかったなと、エヴァはこれからの予定を茶々丸に話した。


「でしたら、案内ルートは私にお任せください」


そう胸を張りながら言い、茶々丸はエヴァの返事も待たずに脳内に学園都市の地図を展開した。

そんな茶々丸と見えない尻尾を振っている理多に表情を緩ませながら、エヴァは秘術について考えるのを止めた。
今は、理多との時間を楽しもうと。そう頭を切り替えると、
エヴァは理多が少しでも楽しめるよう、ルート作成に協力するのだった。


 ◆ ◆ ◆ ◆ ◆


作成した案内ルートに従って街を見て回っていると、リズムよく響く鈴の音が耳に届く。
その音がする方向へ目を向けると、駆けてくるツインテールの少女が一人。
段々と近付くにつれてその少女の正体が判り、理多たちは歩みを止めた。

少し遅れて少女もエヴァたちに気付き、顔を強張らせて身構える。
その行動に街行く人たちの視線を集めるが、明日菜の目にはエヴァたちしか映っていなかった。

そんな明日菜に対し、エヴァは両手を上げてひらひらとさせながら苦笑いを浮かべた。


「そう警戒するな、神楽坂明日菜。私が用のあるのは坊やだけ。貴様をどうこうする気はない」


確かにエヴァからは戦いの意思は見られなかった。
それに人目のある街のど真ん中では、何かしようと思ってもできないだろう。
しかし相手は魔法使い。明日菜は念には念を入れ、そのまま気を抜かずに少しずつ後退していく。
そうして数メートルほど距離が開いた時、明日菜は茶々丸へ頭を下げた。


「あの、茶々丸さん。謝って許されるような事じゃないと思うけど……昨日はごめんなさい!」
「あ、明日菜さん……」
「私、バカだから……ネギを助けなきゃって、それで頭がいっぱいになっちゃって……茶々丸さんの事……」


頭を下げたまま、明日菜はぽつぽつと語りだす。
そこに自分を許してほしいという言い訳の色はなく、自らの罪をしっかりと自覚している事が判った。

明日菜は自分で言っていたように、お世辞にも良いと言えるような頭ではない。
しかし、人として馬鹿ではないようだ。
他人の為に必死になれ、素直に謝る事のできる、そんな良い馬鹿だった。


「頭を上げろ、神楽坂明日菜。お前たちが謝る必要はない。私たちが先に、坊やを襲ったんだからな」
「明日菜さん、私は気にしていません。ネギ先生にも、そうお伝えください」


エヴァたちにそう言われたものの、明日菜はそれを受け入れてしまって良いものかと悩む。
が、そこで良い馬鹿さが発動し、エヴァたち本人が良いと言っているんだからいいやと結論づけるのだった。

そして一つ肩の荷が下りた時、明日菜はようやくある人物の存在に気付き、キョトンとした。
その視線の先にいたのは、複雑そうな表情をしてエヴァたちのやりとりを見ていた理多だった。


「昨日、目が金色になっていた子……だよね?」
「そ、そうです……」


昨日の出来事を考えると、明日菜はおそるおそるといった感じになって然るべきところなのだが、
信じられないといった様子だった。むしろ、どちらかといえば理多の方がビクビクとしていた。

明日菜はジッと理多を見つめた後、思った事をそのまま口にした。


「なんか、別人みたい。昨日はすっごい怖い感じだったけど、今はほにゃっとしてるし」


よく判らない表現をされ、理多の目が点になる。
しかし当人意外は判るらしく、エヴァと茶々丸はコクコクと頷いていた。
それにより、理多はますます訳が判らなくなった。

何処となく和やかに雰囲気になりつつある中、ふとエヴァは明日菜が走っていた事を思い出す。


「そういえば、何かあったんじゃないのか?」
「あぁっ!! そうだ、ネギ!」


無理もない事かもしれないが、エヴァたちと遭遇した事により、用事を完全に忘れてしまっていたらしい。
エヴァに思い出すキッカケを与えられ、明日菜は思い出した瞬間思わず大声で口にしていた。
その後ハッとして口に手を当て、エヴァたちから目を逸らすが、もう遅い。
何かがあった事は、誰の目にも明らかだった。


「なんだ、家出でもしたか?」
「うっ……実はその、今朝起きたら部屋に"しばらく一人にしてください"って置手紙が……」


エヴァの推測は正解だったようだ。

置手紙と聞き、理多と茶々丸は心配そうに表情を曇らせ、エヴァは情けないとため息を吐いた。

ネギの家出は、エヴァたちが原因である。
その為、理多と茶々丸はネギを探す明日菜を手伝う事を提案したが、明日菜はそれを断った。
敵対関係であるし、この事は自分たちで解決させるからと。

そうして走り出そうとする明日菜に、エヴァは一つ言付けを頼む。


「坊やを見つけたら言っておけ。決闘状の返事を待っているとな」


明日菜はその言葉に驚き、足を止めた。

昨日の事は、決闘状を無視したエヴァに対する宣戦布告となってしまったはず。
なのに返事を待つという事は、昨日の件には目をつぶるという事であり。
また、ネギの不安が一つ減った事を意味していた。
それは非常に良いニュースだった。

明日菜は笑顔を浮かべてエヴァの手を取ると、ありがとうと感謝した。
そして、エヴァたちに手を振りながら走り去っていく。
その様子を、エヴァはポカンとしながら見送った。


「……いや、ありがとうって……私は一応、生徒を人質にしている立場なんだが……」
「あはは……」


やっぱり明日菜は、良い馬鹿だった。



[26606] 第2章 11時間目 幸せの境界線
Name: あかいつき。◆3327a354 ID:742ccd16
Date: 2011/03/20 18:42
明日菜と別れた後、理多たちは引き続き都市の名所や商店街を見て回っていた。

商店街はともかく、"学園"都市に名所なんてと思われるかもしれないが、
エヴァが生徒を襲った桜通りなど、都市には多くの名所があるのである。
見る場所を取捨選択しなければ、一日で回れないほどにだ。

作成した案内ルートを、計画通り半分消化した辺りでお昼時となり、
休憩を兼ねて昼食をとる事にした理多たちは、路面電車の一部車両を用いた中華屋台"超包子"に足を運んだ。
少々変わった外見の屋台であるが、味は確かな名店である。

外に設置されたパラソル付きの丸テーブルに腰を下ろすと、
厨房着姿のふくよかな女の子が、メニューを片手にお冷を運んできた。
彼女はエヴァのクラスメイトであり、エヴァがクラスで唯一認める人格者である四葉五月ヨツバ サツキ。
厨房着姿という見た目通り、超包子のコックである。

仕事中である為、理多と簡単な自己紹介を交わしてすぐに仕事へ戻っていった五月を見送った後、
エヴァは辺りを見渡しながら足をプラプラとさせている理多に、頬杖をつき、軽く口元を緩めながら尋ねた。


「……楽しんでいるようだな」


その問いに、理多は笑みだけで答えると、
つい最近まで脅威の存在であった太陽の眩しさに目を細めつつ、青く澄み渡る空を仰ぎ見た。
そして、柔らかな風が頬を撫でていくのをくすぐったく思いながら、静かに目蓋を閉じ、耳を澄ませた。

街の賑やかな雑踏。小鳥の歌うようなさえずり。
何を頼もうかと話しているエヴァたちの声。
お冷の氷が崩れ、カランと鳴る涼しげな音。

幸せだなと、理多は思った。正確には、"改めて"強く思った。

諦めていた都市の観光を、大切な人たちと一緒に、他愛のない会話をしながら行えている。
そんな、平凡で穏やかな今という時に、理多は胸が一杯になっていた。
今がどれだけ幸せであるかなんて、理多自身ですら計り知れない。
大袈裟過ぎる表現かもしれないが、一生の願いが叶ったくらいの気分だった。

エヴァには以前、恩返しはいらないと言われてしまった。
面と向かって言われてしまったら仕方がないと、その時は自分を無理矢理納得させた。
しかし、こんなに幸せな思いをさせてもらったにも拘わらず、何もしないというのは無理な話だった。

怒られるかもしれない。
いらないと、突っ返されてしまうかもしれない。
それでもいつか、何か恩返しをしよう。
そう、理多が密かに決意した時――


「おい理多! どうしたっ!?」
「――え?」


突然大声で名前を呼ばれ、理多はビクリと体を震わせた。
頭上にクエスチョンマークを乱立させながら目を開くと、
間近でエヴァと茶々丸が自分の事を心配そうに見つめていて、もう一度ビクリとした。

無意識の内に、何かとんでもない事をしてしまったのだろうか。
そう慌てるも、すぐに視界が歪んでいる事に気付き、そしてハッとした。
いつの間にか、涙がこぼれていたのである。

これでは、驚かれてしまうのも無理はない。
そう他人事のように思いながら涙を拭うと、パタパタと手を振り、なんでもないと誤魔化した。


「大丈夫です。どこかが痛いとかじゃないですから」


エヴァたちが、あからさまに納得できないという表情をしながら、周りの目を気にして席に着く。

痛みが原因でないというのなら、一体何故涙が出るというのか。てんで判らなかった。
ついさっきまで楽しそうにしていたのに、まさか辛いという事はないだろう――
いや、"楽しいからこそ"、今の自分の立ち位置を強く自覚してしまったのだろうか。
良い案だと思っていた都市案内は、その実、理多を悲しませるだけだったのでは――

そんなエヴァの考えを、理多は言葉で一刀両断した。


「……ただ、幸せだなって」


エヴァたちが、揃ってポカンとする。
その反応に、理多はやっぱりそうなりますよねと、苦笑いをこぼした。
自分が普通でない事を言ったという事は、ちゃんと自覚していた。
普通自分のような境遇に陥ったら、幸せなどとは言えないだろうと。
しかし、本当に幸せだと思っているのだから仕方がない。

皆に恐れられる化物にされてしまい、色々なものをいっぺんに失った事は、言うまでもなく不幸な事だ。
しかし、そうして色々と失った一方で、逆に色々なものを得る事ができた。
その対比は、おそらく後者の方がずっと多いだろう。

しかし――だからといって今が不幸かと言われれば、答えは断じて否だった。
誰が何と言おうと、今理多は幸せなのだ。


「強いな、お前は……」


幸せだと本心から言っている事が伝わり、エヴァは素直に感嘆した。
吸血鬼にされたにも拘わらず、幸せなどとはとても言えるような事ではない。
少なくとも、自分は無理だった。

それは、吸血鬼にされた時代が違い、
理多よりもずっと過酷な日々を過ごしたのだから当然の事ではある。
だが、それでも幸せはあったのではないだろうか。
あったのにも拘わらず、それを見つける事ができなかったのは、時代や環境の所為だけではなく。
自分は不幸な存在だと決め付けて目をつむり、見つけようとしなかったからではないだろうか。
そう、理多を見て思った。

自身へ"登校地獄"をかけたナギを思う。
もしかしたらナギは、平和過ぎるほどに平和な此処に留まらせる事によって、
閉じた目を開かせようとしたのかもしれない。
幸せは見付け難いだけで、すぐ傍にあるのだと教えたかったのでは――


(……いや、それはないか)


なにせアイツはとんでもない馬鹿だったからなと、内心苦笑しながら否定する。
だが思惑は何であれ、そんな馬鹿のおかげで理多に出会う事ができ、気付く事ができた。
自分は幸せになれるのだと。幸せだと笑う理多を見て、自分も幸せだと思えている事が、何よりの証拠だった。
だから少し位は感謝しても良いのかもしれない。いや、感謝しようとエヴァは考え直した。


(光に生きろ、か……)


そんな事は、ずっと不可能だと思っていた。
しかし周りへ目を向ける事ができれば、もしかしたら可能なのかもしれないと、今は思う。

別に、光に生きたい訳じゃない。
今の立ち位置は退屈ではあるが、それなりに気に入ってるのだ。
でも、理多が光に生きているのなら、生きようというのなら――自分も光に生きたいと、そう思った。

長い人生で二度目だった。そんな風に、誰かと在りたいと思ったのは。


「や、やっぱり、変ですよね……」


思考に没頭していた所為で黙ってしまったエヴァを、理多がはにかみながら上目使いで反応を覗う。
そんな理多に、エヴァは自然と微笑みを浮かべて答えた。


「いや、変じゃないさ」


――その瞬間、ひび割れるような幻聴と共に、エヴァを除いた三人の時が止まった。
そしてその数秒後、ポンッという小さな破裂音をキッカケに、再び時が動き出す。

音のした方へ目を向けると、茶々丸の頭から煙がたちこめていた。
一方テーブルの上に座っていたチャチャゼロは、
エヴァを脅えた目で見つめながらずりずりと後退し、テーブルから落下。
理多は、トマトのように顔を真っ赤にして目を回していた。


「お、おいっ、お前らどうしたんだ!?」


本気で困惑しているエヴァを横目に、
一人復活した茶々丸が、らしくない不敵な笑みを浮かべる。
その瞳には、光悦とした怪しい光が灯っていた。
誰がどう見ても、いつもの茶々丸ではなかった。

そんな様子がおかしい茶々丸が、不意にボソリと呟く。


「――保存完了」
「待て茶々丸、お前今何を保存した」


エヴァは突如襲ってきた悪寒に体を震わせながら、間髪入れずに茶々丸へと詰め寄る。
すると茶々丸は、怖いくらいに満面の笑みを浮かべて言った。


「先程の、世の男性のみならず、女性までもを一瞬で虜にする事ができそうな、
 温かで柔らかな、愛らしくも美しい、天使のようでいて聖母のようでもある、
 マスターの微笑みを撮影したデータをです、マスター」


茶々丸大絶賛っぷりに、エヴァの顔がグラデーションを経て真っ赤に染まった。

ちなみにチャチャゼロはこの時のエヴァの微笑みを、
自分が知る中で最も輝いていた笑みだった、凄く気持ち悪いと後に語り。
理多は少し頬を赤らめ苦笑しながら、あまり人前で笑わない方がいいかもしれないと語った。

エヴァは茹でダコのようになっている理多以上に顔を赤くして茶々丸に掴みかかると、
消せ茶々丸っと怒鳴りながらガクガクと揺さぶる。
だが、そんな抵抗も空しく――


「――保護、及びバックアップ完了」
「茶々丸ーっ!?」


結局エヴァは、茶々丸にデータを消させる事ができなかった。


 ◆ ◆ ◆ ◆ ◆


都市案内の最終地点は、都市の中心に天高くそびえ立つ世界樹だった。
正式名称は"神木・蟠桃シンボク・バントウ"といい、樹高は二百七十メートルという世界でも類をみない大樹である。

日は落ち、空には点々と輝く星と欠けた月。
それらの淡い光りを受けた世界樹は、理多が都市へと足を踏み入れた日と変わらず、不思議な雰囲気を纏っていた。
近づいてみて理多が感じたのは、世界樹がただの大樹ではないという事が判る気配。
それは、世界樹が内包する魔力の所為によるものらしい。

理多は世界樹を見上げた。木元から見る世界樹は、天辺が見えず、
まるで天を貫いているかのような錯覚にとらわれる。
凄い迫力だと感心している理多に、そういえばとエヴァは口を開いた。


「この世界樹はな、ニ十二年に一度、願いを叶える力を持つんだ。確か、今年が丁度その年だったかな」
「願いを……?」


理多が驚きで目を丸くする。
だが、有り得ない話ではないような気がした。


「まぁ、即物的な願いは無理なんだがな。恋の願いは、百発百中なんだったか」

即物的なものは無理と聞き、少し気を落とす。
人間に戻りたいという願いは、おそらく無理だろう。
もっとも、仮にそれが可能だとしても、世界樹に願う事は許されていないだろうが。

世の中、残念ながら善人ばかりではない。
他人の迷惑になるような願いをする人がいるだろうし、叶うという恋の願いにしろ、
例えそれが純粋で真剣な想いだったとしても、人の心を操るなど許されない事だからだ。

願いは叶わない。けれど、こんなに綺麗なものが見られるだけで満足だと、
理多は世界樹を目に焼き付けるかのようにジッと見つめた。


「……そろそろ帰るか。流石に、少し歩き疲れた」


理多の表情を見て都市案内の成功を感じながら、エヴァはグッと両腕を上げて背伸びをした。
そして家へ帰ろうと、世界樹へ背を向けて歩き出した時、理多がエヴァを呼び止めた。
振り返ると、理多は真剣な面持ちで見つめてきていた。


「エヴァンジェリンさんに、頼みたい事があるんです」


言ってみろと、エヴァは目で促す。
理多はそれを受けて頷くと、力強い口調で言った。


「本格的に、魔法を教えてほしいんです」
「ほぅ……」


少しばかり意外な頼み事だったが、断る理由はなかった。寧ろ、喜ばしくすらあった。
魔法を自由に使えるようになれば、それだけ理多の安全性が高まるからである。

しかし、一つだけ気になる事があった。
チラッと、横目で茶々丸を見る。


「念の為に聞いておくが、それは茶々丸が負傷したのは自分の力不足の所為だと思っているからか?」


だというのなら、それは勘違いが過ぎるというものだ。
茶々丸の負傷は茶々丸自身の責任であり、またエヴァの責任。
理多が負うものは、何一つとしてないのだから。
逆に、よく茶々丸を腕一本で済ませたと誉められるべきだろう。
助け方は、褒められたものではなかったが。


「それも、少しあります。でも、それはキッカケの一つです」


そう言うと、今度は逆に理多が尋ねた。
スカートの裾を掴み、覚悟を込めた瞳をして。下唇を噛みしめながら。


「エヴァンジェリンさん。私は以前のように、一般人として生きていく事ができると思いますか?」


その問いに、エヴァは静かに目を伏せた。言
葉はない。しかし、どう思っているのかはよく判った。

理多はそうですかと頷くと、胸元をギュッと握りしめながら、そうですよねと苦笑した。
返ってくる答えは判っていた。判っていて、それでもあえて尋ねたのである。確認の為に。決意を固める糧とする為に。
だから覚悟を決めたのだが、それでも、チクリと胸が痛んだ。


「これから過ごしていく事になる裏の世界は、昨日のような事が多くあるんだと思います。
 それならいざという時、自分や誰かを助けてあげられるようにしておきたいんです」


痛みを飲み込み、決意を言葉にする。
その決意を試すようにして、エヴァは理多が最も触れられたくないであろう部分を、ピンポイントで尋ねた。


「……だが、守る為に振るった力で傷付く者もいる。お前は、それに耐えられるのか?」


誰も傷付かず、なんてものは幻想に過ぎない。
何かを得る為には何かを失い、誰かを守る為には誰かを傷つけなければならない。
世の中は、そうやってできているのだ。
エヴァは、理多が誰かを傷付けられるとはどうしても思えなかった。

その予想は正しい。
正しいが、それは過去の事。理多の決意は揺るがない。


「……判っています。それでも、大切なものを守る為なら――」


話し合いで解決し、誰も傷つかないで問題を解決させる事が一番だ。
だが、それが叶わない時には――

もう二度と、大切な人を失う恐怖を感じたくなかった。
目の前で大切な人が傷付くのは、見たくなかった。だから、覚悟を決めたのだ。
あの刹那の時の中でした覚悟は、その場限りのものではない。
今も胸の内で息づいている。


「私は、力を使う事を躊躇いません」


そう言い切った理多の目は、絶対に血を吸わないと言い切った時のものと同じだった。
ならば、本当に躊躇わないのだろう。


「……いいだろう、修行の面倒を見てやる。ただし――」


怖いくらいに真剣な目をして、エヴァは理多の目を真正面から見据えた。
なんだろうと戸惑いつつも、何となく目を逸らしては駄目だと思った理多は、両手を握り締めながらエヴァの言葉を待つ。


「やるからには殺す気ゼンリョクでやる。いいな?」


瞳を金色に輝かせたエヴァに、ゴクリと理多は唾を飲む。
手を抜けば、弱音を吐けば殺される。そう口外にしているのを察し、
嫌な汗が理多の背中を滴り、後退りしそうになった。

だが寸でのところで足にグッと力を込め、踏み留まる。
辛い思いをしてまで学ばなくてもいいんじゃないかという、沸きあがる弱音をかき消す。
そして、自分を奮い立たせるように大声で返事をした。


「はいっ!!」


その返答に、エヴァはにやりと口元を釣り上げながら、殺気にも似た気迫を四散させた。
こうして、理多の修行が決まったのだった。

エヴァたちと肩を並べて帰路につきながら、理多は不安と僅かばかりの期待を胸に、世界樹へと振り返った。
願いは叶わないようだが、気休めにはなるだろうと、修行が上手くいきますようにと心の中で祈った。
そして、今日のような平凡で幸せな時間が、いつまでも続きますようにとも。

願った後前へ向き直る直前に、気の所為か少しだけ世界樹が光ったような気がした。



[26606] 第2章 12時間目 踏み出す一歩
Name: あかいつき。◆3327a354 ID:742ccd16
Date: 2011/03/20 18:43
三百六十度、見渡す限りに広がる清く透き通った蒼い海。
太陽に照らされて、宝石のようにキラキラと輝くその地平線を乱す物は何もなく。
例外として、屋上に魔方陣が設置されているだけの細長い塔と、ひらけた広場に屋根付きの休憩所のある巨大な塔。
その塔に巻きつく螺旋階段を下りた先の小さな島があるだけだった。

"レーベンスシュルト城"。海を含めたそれら全てが、エヴァが賞金首時代に居城として使用していた別荘である。

日曜日の早朝。
理多は魔法の修行を行う為、エヴァに連れられて別荘へと足を運んでいた。

別荘があるのは海のど真ん中。
いくら広大な敷地を持つ麻帆良学園大都市といえども、流石にこんな場所は都市内に存在しない。
ではどうやって理多や茶々丸、チャチャゼロはともかくとして、
"登校地獄"によって都市に閉じ込められているエヴァが別荘に来る事ができたのかというと、
方法は無論、魔法の力である。


「ここは本当に、あのボトルシップの中なんですか?」
「あぁ、凄いだろ?」


感嘆した様子で地平線を眺めている理多に、エヴァが誇らしげに薄い胸を張る。
この別荘は理多が言った通り、ログハウスの地下に設置されているボトルシップの中なのである。

入り方は簡単で、ボトルシップが置かれた台の周りに展開された魔方陣の上に乗るだけ。
すると自動で転送が行われ、別荘に入る事ができるのだ。
中に入るといっても、体を小さくして中へという仕組みではない。
転送されるのは、ボトルシップを依り代としてエヴァが作った異世界である。


「今から始めれば、明日私が学校に行くまでに大体三週間修行ができるな」


メンテナンスのできを確認するように周りを見回しながら、エヴァがとんちんかんな事を口走る。
だがこれは事実で、別荘での一日は外での一時間になっているのである。

"逆浦島太郎"といった感じのその設定は、色々と便利だがデメリットもある。
それは、別荘に居続けると、周りの人より早く老けるという事だ。
しかし、理多たちにとってそれはデメリットになりえない。
吸血鬼で不老のエヴァと理多、そして生物ではない茶々丸とチャチャゼロは、老ける事がないからである。

か細い柵なしの橋を渡り、転送用の魔法陣が設置された塔から休憩所のある塔へ。

いまだここがボトルシップの中だと信じられない様子でいる理多に、エヴァは手を叩き、注目を促して言った。


「早速修行を始めるぞ。その為に来たんだからな」
「は、はいっ!」


別荘への驚きと興味から、すっかり目的を失念してしまっていた理多は、
これから始まる未知の修行に対する様々な感情を胸に抱きながら、威勢よく返事をした。


 ◆


ペンが不規則に机を叩き、紙の上を滑る音だけが静かに響く。
そんな環境に懐かしさを感じながら、理多はホワイトボードに書かれた文をノートに書き写していた。

その内容は、日本語を主体に英語やラテン語などの様々な言語で構成された抽象的な文から、
学校で習うどんなものとも違う数式や図形、
デフォルメされた何かの生き物の絵と、なんとも統一性のないものだった。

そしてそのノートの横には、ノートの内容と似たものが記載された、
以前エヴァが理多の為に借りてきた分厚い魔導書が広げられている。

修行開始初日。
一番初めに行われたのが、何故か眼鏡をかけているエヴァによる魔法の基礎授業だった。

ペンを走らせながら、理多は頭の片隅で思う。

根っからの魔法初心者である自分は、何よりもまず基礎を学ぶ必要があるという事は判る。
それは判るのだが、修行と言うからには、
魔法を魔力の限界まで使うなどして体で覚えていくのだろうと想像していただけに、
机に向かって勉強というのは、なんとも地味だと思わざるを得なかった。

といっても、現状を不服に思っている訳ではない。
自分には実践よりもこういった事の方が合っているし、知らなかった事を覚えていくのは楽しかった。
それが、今までお伽噺だと思っていた魔法なのだから尚更に。
エヴァの教え方が上手いというのも、楽しさに一役買っているだろう。

ホワイトボードをノックするように叩く音がして、理多は顔を上げる。


「前に少し話したが、改めて"精霊の愛し子"について説明するぞ」


そう言って、魔導書片手に中指で眼鏡を直すエヴァの姿は、妙にさまになっていた。
眼鏡をかけている理由は不明だが。似合っているので気にしない事にする。


「まずは、"精霊の愛し子"の代名詞とも言える"心言詠唱"についてだ」


通常、魔法を――精霊を行使する為には、精霊を召喚する契約の言葉――詠唱を必要とする。
しかし"精霊の愛し子"は精霊との繋がりが強い為か、心の中で望むだけで精霊を行使する事ができるのである。
それを、"心言詠唱"という。

詠唱をせずに済むというのは、戦闘において非常に有利な事であるのだが、"心言詠唱"にはデメリットが存在する。
それは、威力の低下。熟練度に比例して威力が本来のものに戻っていくという仕組みになっているが、
熟練度が全くなければ結果は言わずともがな。
銃で例えるなら、撃てるには撃てるが空砲といった感じになってしまうのである。

また、ちゃんと詠唱をしたとしても、熟練度がなければ"心言詠唱"扱いとなり、結果はやはり空砲となる。
以前理多が"光球"や"魔法の射手"を使う事ができたのは、一応詠唱をしていた事と、魔法の難易度が低かった為だ。


「初めて使った"魔法の射手"が弱々しかったのは、"心言詠唱"でギリギリ出していたからだったんですね」


"心言詠唱"の他、"精霊の愛し子"には威力の増加や消費魔力の軽減など、いくつか補助的な能力が存在する。
希少な存在である為解明しきれていないだけで、他にも特殊な能力がある可能性は十分あるとの事。
例えば、真偽のほどは定かではないが、周囲一帯に存在する特化した属性の精霊を独占する事ができるなど。


「それらの恩恵を得る為にも、基礎が大事だという事だ」


一通り説明し終えた後、エヴァは茶々丸が入れたお茶を一口飲み、
ここはテストに出るぞと板書した数点を赤丸した。
それに倣い、理多もノートに蛍光ペンでチェックを入れる。
テストという響きが、また懐かしかった。


「次は、理多が特化している光属性について――と、その前に……板書したのを消していいか?」


文字やら何やらで埋め尽くされ、
黒くなったホワイトボードをペン消しで軽く叩きながらエヴァが尋ねる。
そして理多の了解を得た後、ホワイトボードを名前通りの白い状態に戻していきながら、
不意にボソリと呟いた。


「……少し楽しいかもしれん」


照れを含んだその呟きに、理多はクスリと笑みをこぼした。
なんとなく楽しんで教えているような印象を抱いていたのだが、勘違いではなかったようだ。
教えるのが上手く、また本人が楽しんでいるというのなら、
エヴァにとって教師というのは天職なのかもしれない。
もっとも、エヴァが教師になるのは、色々な理由から難しいだろうが。


「授業中は、"先生"って呼んだほうがいいですか?」


そう屈託なく微笑んで言う理多には答えず、
エヴァはワザとらしい咳払いをすると、理多へ背を向けて授業の再開を口にした。
ちらりと覗く頬は、少しばかり赤らんでいた。

その事に触れると間違いなく怒られるので、理多は頬をゆるめながら黙って耳を傾けた。


「――さて、光属性についてだが……光属性は、とても純粋シンプルな属性だ」


光属性は他の属性と違い、対象を燃やしたり痺れさせたりする不随効果が一切ない。
その分攻撃魔法は威力が、防御魔法は強度が他の属性と比べて高いのである。
特に光属性の性質が不浄を祓う"守護"である為防御魔法がずば抜けて優れており、
"精霊の愛し子"となれば、成長次第で最強と言って差し支えのない強度の防御魔法を行使できるようになる。

防御魔法の他には、治癒や浄化、封印の魔法が得意な属性だ。


「大切なものを守る為に魔法を使うと決めた理多に、光属性はピッタリだな」


そう言って、エヴァは再び赤ペンを手にした。


 ◆ ◆ ◆ ◆ ◆


修行開始から十日目。
エヴァにみっちりと魔法の基礎を詰め込まれた理多は、筆記試験を無事合格し、屋外へと出てきていた。
準備体操やストレッチをして体をほぐし、広場の中央へ移動する。
動くからか、エヴァは眼鏡をかけていなかった。


「さて、次は実践だが……理多、始動キーを考えてきたか?」


始動キーとは、魔力通路の扉を開ける鍵となる言葉の事で、
魔法を行使する際、魔力を安定させる為に詠唱の始めに唱えるものである。
扉によって鍵が違うように始動キーも人それぞれ違い、
扉を開ける事ができるのであれば自分の好きに設定できる。
ちなみにエヴァは、"リク・ラク・ラ・ラック・ライラック"だ。


「あの、始動キーはなんでもいいんですよね?」


理多は筆記試験の合格を告げられた時、
エヴァに宿題として自分専用の始動キーを考えておくよう言われていた。
そして夜、床に就きながら一人考えたのだが、これと言って思いつかず――
ふと、唯一知る始動キーを口にしてみたところ、それがしっくりきてしまい、
そのまま他の案を思いつかないまま今を迎えてしまったのである。

唯一知る始動キーとはもちろん――


「エヴァンジェリンさんと同じ始動キーがいいんですけど……ダメ、ですか……?」
「私の、か……? まぁ、駄目ではないが……」


嬉しいような、恥ずかしいような。
そんな表情をしながら、エヴァは頬をかく。

同じ始動キーを使用する事は可能だ。
しかし、せっかくなんだからと、理多に改めて他の案を考えてもらう事にした。
エヴァたちもそれに協力し、いくつかの案を挙げたものの、
エヴァの始動キー以上にしっくりくるものがなかったようで――
理多の始動キーは、エヴァと同じ"リク・ラク・ラ・ラック・ライラック"に決定した。

始動キーの設定を終え、理多はエヴァの解説を聞きながら魔法を実践していく。
基礎を学んだおかげか、下級魔法は難なく行使する事ができ、
また"心言詠唱"で行使しても空砲になる事はなかった。
中級魔法も始動キーを加えて詠唱すれば、威力こそ落ちていたもののなんとか行使が可能だった。
上級魔法は、"心言詠唱"扱いになった。

そうして実践していく中で判った事は、理多は攻撃魔法よりも防御魔法が得意であるという事。
エヴァは初め、光属性の特徴故だと思っていたのだが、どうやら理多の性格が影響しているようだった。


「―― リク・ラク・ラ・ラック・ライラック……
 不浄を貫く迅速の光、我が手に宿りててひっ……うぅ、噛んじゃいました……」


エヴァが作った氷の的へ"魔法の射手"を撃ったり、
"光盾"でエヴァの"魔法の射手"をタイミングよく防ぐ事二時間。
理多も大分魔法を行使する感覚に慣れてきており、使用可能な魔法の中でも、
"光盾"は"心言詠唱"でも"魔法の射手"数発くらいなら、十分に防げる強度を出せるようになっていた。

途中昼食をとり、再び実践練習をしようと意気込む理多の目の前で、不意にエヴァが宙へと浮かび上がった。
別荘内ではエヴァの封印が解けるようで、飛ぶ事はもちろん、魔法を魔法薬なしに使えるのである。

丁度人ひとり分くらいの高さで停滞しているエヴァを見上げながら、
理多は尋ねる。表情に影がかかっている事を気にしながら。


「……新しい事をするんですか?」


理多の問いにエヴァはあぁと短く答えると、ふわりと理多から距離をとった。

何をするんだろうと首を傾げながら言葉を待つと、エヴァは無言のまま右手を上に掲げた。
そして、その手に収束しだす魔力。嫌な予感がして、理多は一歩後ずさった。


「魔法に慣れてきただろうから、少しばかり修行らしい事をするぞ」


言って、エヴァは右手を横薙ぎに振った。
それを合図に、エヴァの周囲に生み出される数十本の"魔法の射手"。
これまでは最高でも三本だったというのに。
またそれだけでなく、今のエヴァからは明らかな攻撃の意思が感じられた。

一本の射手に動きを感じ、理多は咄嗟に"光盾"を前面に展開しつつ横に跳んだ。
そして今まで立っていた場所を射手が通過していくのを横目に確認する。
おそらく今の射手は威嚇で、避けていなくとも当たりはしなかっただろう。

嫌な予感が的中した事を察し、理多は表情を強張らせつつエヴァと周囲の射手を注視した。


「良い反応だ。さて理多、防いでも避けても構わん。これから放つ射手を全て回避してみせろ」


実践練習から実戦練習への移行。
エヴァは射手へ命令を下し、理多は胸元の宝石を握りつつ走り出した。


 ◆ ◆ ◆ ◆ ◆


血が滲む腕を押えながら、理多は休憩所の椅子に腰を下ろした。
着ている服は所々裂け、赤く染まっている事から、腕以外にも傷を負っている事が判る。

座った際の衝撃が傷に響き、苦悶の表情を浮かべながら息を吐く。
体中の傷が熱をもち、風邪をひいたかのように熱かった。

初の実戦練習から十日。練習内容は過激さを増し、
初めは魔法だけで対処できたいたエヴァの放つ"魔法の射手"の量は数百を軽く超え。
吸血鬼化し、的確に魔法で防ぎ、時には"心言詠唱"を駆使しなければ避けられないほどになっていた。

射手だけならまだなんとかなっていたのだが、
他にも色々な魔法を織り交ぜてくるようになってからは避けきれない時が出るようになり、
今日も集中力を欠いて障壁を破られてしまった。
エヴァが手加減をしてくれているから今程度の傷で済んでいるが、
本気だった場合を考えるとゾッとする。

休憩するようエヴァに言われ、
別れる際に塗るよう手渡された瓶詰めの傷薬を握りしめ、椅子に横たわる。


「――嫌ニナッタカ?」


そんな声がして、横たわった姿勢のまま目線を上げる。
チャチャゼロが、声色と同じく無表情で見下ろしていた。
理多は苦笑しながら、返答する。


「ちょこっとだけ、ね」


それが、今の正直な答えだった。
どうして籠りっきりで大変な思いをしなければならないのか。
どうして痛い思いをしなければならないのか。
どうして、どうして――と。

腕を組みながら、チャチャゼロは首を傾げた。


「ナラ、ナンデ止メナイ。別ニ強制ジャネェダロ」


この修業は強制では決してなく、理多が自分自身で望んだ事だ。
止めると言えば、エヴァは止めないだろう。
それでもなお、止めずに修行を続けている理由。
それは――

答えを待つチャチャゼロに、理多は微笑みを向けた後目を閉じた。


「止めたら、私も、エヴァンジェリンさんも、茶々丸さんも……
 そして、チャチャゼロさんも、守れないから……」
「チビッ娘ニ守ッテモラウホド、俺ハ弱ク……オイ、チビッ娘?」


目を閉じたまま微動だにしない理多に、チャチャゼロは言葉を止めて近付く。
死ぬような傷を負っていないから、死んだとは思わなかったが、一応呼吸を確認する。


「……寝テヤガル」


手からこぼれ落ちた傷薬をキャッチして、ため息を吐く。
吸血鬼化していれば眠っていても傷は回復するが、今の理多は力を封印してしまっている。
だから傷薬が渡されたというのに、塗る前に眠ってしまった。
当然、傷は治らずにそのままだ。ガーゼや包帯すら施されていない。

エヴァも茶々丸も、しばらく戻ってこないだろう。
探しに行くのはめんどくさいし、理多を起こすのもなんとなくはばかられる。


「アー……柄ジャネェンダケドナァ……」


もう一度ため息を吐きぼやきつつ、チャチャゼロは瓶の蓋を開けたのだった。


 ◆ ◆ ◆ ◆ ◆


――時は経ち、月曜日。
理多たちは約三週間ぶりに別荘から出てきていた。
エヴァと茶々丸が学校へ行かなければならないからである。

ログハウスに戻ってきた事によって気が抜けたのだろう。
理多はふらふらとソファーへ歩み寄ると、そのままうつ伏せに倒れこんだ。
理多らしからぬ行動だが、それだけ疲れているという事だろう。


「まだまだ気になる部分はあるが、一先ず私が目標としていたレベルにする事ができたと思う」


エヴァが定めた目標とは、理多の魔法使いとしての技能を、
麻帆良学園に通う魔法使い兼生徒である通称"魔法生徒"レベルにする事。
早めに、ある程度の事態に一人でも対処できるようにしておきたかったのである。
体術については、自分のものにするのに時間がかかる事と、
吸血鬼の身体能力がある為、後回しにする事にして。

修行をすれば、魔法生徒レベルには問題なく到達できると思っていた。
しかし、三週間程度で到達できるとは思っていなかった。だが理多はそれを成した。
"精霊の愛し子"であるという事が成長を早めた大きな要因である事は確かだが、それだけではきっとない。
理多がエヴァの厳しい修行から一度も逃げ出さず、
時折気を失いながらも真面目に取り組んでいた事が一番の要因だろう。


「よく頑張ったな、理多」


クッションに顔を埋めている理多の頭を撫でる。
すると理多は嬉しそうに目を閉じ、無抵抗に撫でられ続けた。
そんな理多を、エヴァはいつまでも撫でていたいという気持ちが湧き上がる。
学校に行きたくないという気持ちもあって余計に。

しかし、そういう訳にはいかない。
"登校地獄"は呆れてしまうほどに強力で、
規定時間内に登校しなければ学園へと強制的に転送されてしまうのである。
それは一見楽なように思えるが、もし転送された先に魔法の存在を知らない一般人がいた場合、
遅刻の罰に加えて魔法協会からも罰を受けてしまう事になる。それはとてもよろしくない。

転送された先にいたのが、裏の世界に携わっている者であった場合でも同じだ。
魔法協会からの罰を受ける事はないだろうが、思わぬ恥をかくかもしれないからである。
例えば、相手の頭上に転送されて顔面にヒップアタックをかましてしまったり、
思い切りパンツを見られたり――

頬を染め、コホンと咳払いを一つ。
今度直人にあったら、もう一発殴ってやろうとエヴァは心に決めた。

理多の頭から手を離すと、未練を断ち切るように背を向ける。
そして朝食は別荘で終えているので、すぐに学校へ行く準備を始め、鞄を片手に玄関を出た。
その直前、エヴァは理多に振り返って言った。


「あぁそうだ。帰ったら本格的な模擬戦をするからな」


模擬戦と聞き、理多があからさまに表情を暗くする。

修行の中で、模擬戦と似たような事は何度かしていた。
しかしそれらはある程度シナリオが用意された戦いとは程遠いもので、
それ故に理多はなんとかこなす事ができていた。
だが今度の模擬戦は、そういったものとは違うだろう。
シナリオが用意されていない、より実戦に近いもの。事故も有り得るだろう。

その可能性を考えると怖いが、いつか自分を、誰かを守る為にと覚悟を決めたのだ。
その為には、この壁を乗り越えていかなければならない。
だから理多は、恐怖や不安を振り切って頷いたのだった。


「私たちが学校に行っている間は好きにするといい。それじゃあ、行ってくる」


泣き言を口にしなかった事にエヴァは満足そうに頷くと、
背を向けたまま手を振り、扉の向こうへと消えていった。

吸血鬼の体だからという事もあるだろうが、
別荘内でしっかりと休暇をとっていたので、体に疲れはない。
しかし気疲れはしていたらしく、窓越しにエヴァと茶々丸を見送った後、
理多は息を吐きながら再びソファーに倒れこんだ。


「……私、誰かを守れるくらい強くなれたのかな?」


何度か寝返りをしつつボーっとしていた理多が、天へ伸ばした手を見つめて誰にともなく呟く。
それは誰かの応えを求めて言ったものではなかったのだが、
音もなく理多の腹部に着地したチャチャゼロがその問いに応えた。


「マァ、自分ノ身ヲ守レルクライニハナッタンジャネーカ」


何かと厳しいチャチャゼロが、
少しでも自分を認めてくれた事への照れと喜びから、理多は小さく笑みをこぼした。

そんな理多に、サービスが過ぎたかとチャチャゼロは少し思うも、嫌味を言ったり撤回したりはしなかった。
以前のチャチャゼロだったらおそらくどちらかをしていただろう。
だが修行する理多を見て、また修行の相手をして、
チャチャゼロは理多をただの餓鬼ではないときちんと評価し、認めていた。
だからしなかったのである。


「そっか。なら、まだまだだね」


思っている以上に評価されているとは露知らず、理多はそう言いながらギュッと力強く拳を握りしめた。
認めてくれたチャチャゼロを失望させないように。
そして、今の実力で満足してしまわないよう、もっと頑張ろうと決意を込めて。


「アァ、マダマダダナ」


本心を言わずにそう相槌をうちながら、チャチャゼロはゴロンと理多の上に寝転がった。
その表情は、理多の決意を感じ、どこか笑みを浮かべているようだった。


 ◆ ◆ ◆ ◆ ◆


学校へと続く道を、エヴァは腹部を片手で抑え、背筋を曲げながらトボトボと歩いていた。
この姿を見た人の内何人が、
彼女が世界中から恐れられている"真祖の吸血鬼"だと気付けるのだろうか。
おそらく、気付いたとしても目を疑うだろう。
それほどまでに今のエヴァは覇気がなく、また纏う空気は暗く重かった。


「胃が痛い……」


茶々丸に気遣われながら歩くエヴァがポツリと呟く。
学校へ行きたくないからそんな事を言っているのではなく、本当に痛かった。
眉は八の字で固定され、薄っすらと目に涙を浮かべている。
胃痛の原因、それは理多だった。


「理多の為とはいえ、模擬戦の事を考えると……」


理多の前では口にも態度にも決して出さなかったが、
修行で辛い思いをしていたのは、理多だけではなくエヴァもだった。
それどころか、理多以上に精神的苦痛を感じていた。
理多の苦しむ姿や涙を流す姿を見て、修行が終わった後、
理多の見えない所で一人悶絶した事は何度もあった。
胃痛も、今回が初めての事ではない。

苦しそうに唸るエヴァの姿を見て、茶々丸は自分に痛覚がない事を少しだけ良かったと思った。


「そういえば、痛いとかじゃないんだが……
 都市案内した日から、"登校地獄"が心なしか弱まっている気がするんだよ……いたた」
「と、とりあえずマスター、保健室へ行きましょう。胃薬があるかどうかは微妙ですが」


眉を寄せながら首を傾げているエヴァに、茶々丸は背中をさすりながら提案した。
"登校地獄"の事は気にはなるが、今の状態では思考に集中できないだろう。
エヴァも同意見だったようで、二日酔いの教師用とかで置いてある事を願いつつ、
茶々丸に支えられながら保健室へと直行した。


 ◆ ◆ ◆ ◆ ◆


幸いにも胃薬があったので一つ貰い、それを飲んだ後、
エヴァは教室に向かう事なくベッドや屋上で惰眠を貪っていた。
"登校地獄"は授業に出なくとも校内にいれば問題がないようで、
身体測定などの特別な用事がない時は、いつもこうして時間を潰しているのである。

何も知らない者からすれば、殆ど授業に出ないエヴァはとんでもない不良に思えるだろう。
それは間違いではないのだが、どんなに頑張っても卒業できず、
また一年からやり直しさせられる"登校地獄"の事を知れば、その考えは変わるだろう。
事実、これまでエヴァの担任を受け持った事情を知る魔法先生たちは、エヴァに出席を強要する事はなかった。
エヴァが怖かったから言えなかったというのもあったのだろうが。

結局放課後まで一度も授業に出なかったエヴァは、真面目に授業に出ている茶々丸が来るのを、
屋上のフェンスに寄り掛かり、徐々に沈んでいく太陽を眺めながら待っていた。

少しして、鈍く軋んだ音と共に扉が開く。
やっと来たかと息を吐きつつ扉の方へ目を向けると、そこには待ち人である茶々丸がいた。
しかし、一人ではなかった。


「……血を差し出しに来たのか?」


不敵な笑みを浮かべ、招かれざる客に敵意を込めた視線を向ける。
茶々丸と一緒に来た人物は、緊張した面持ちのネギだった。

ネギはエヴァの視線に怯むも、キュッと唇を噛み締めて一歩前へ。
そんな精一杯な様子に、理多と出会ってからなりを潜めていた加虐心が疼いたが、
ネギが何かを言おうとしているのを感じて口をつぐむ。
もしつまらない事だったら、問答無用で血を吸ってやると思いつつ。


「その、エヴァンジェリンさんにお話があってきました。でも、その前に……」


そう言葉を区切ると、ネギはエヴァの横に移動していた茶々丸に一度目を向け。
そして勢い良く頭を下げた。


「茶々丸さんを傷つけてしまってすいませんでした!!」


夕暮れの屋上に、謝罪の言葉が響き渡る。
この場にエヴァたち以外誰もいなかったから良かったものの、
誰かに聞かれてしまっていたら、何事かと注目を浴びていただろう。
さして遠くもない距離でそんな大きな声を出すなと顔をしかめつつ、気持ちは良く伝わったので頭を上げさせる。

ネギはいつもと変わらないエヴァの声色に少し戸惑いながらも頭を上げた。
そしておそるおそるエヴァに目を向けると、呆れるようにため息を吐いていた。
その表情には怒気はなく、本当にただ呆れているだけという事が判った。
昨日明日菜から聞いた、エヴァたちが怒っていないというのが本当だった事を知る。

不思議だった。エヴァにとって茶々丸は、家族同様の存在だという事を色々な人から聞いて知った。
怒られたい訳では決してないが、家族を傷付けられたのだから怒っても当然だと思っていたし、
それ相応の罰を甘んじて受けるつもりもあったのだ。


「先に言っておくが、この事についてどうこう言うつもりはないし、
 学園にお前を罰せさせるつもりもないからな?」


そう言われてしまうと、罰してくださいとは言えなかった。
罰を強要してしまえば、それは反省の為ではなく、自己満足の為になってしまうからである。
それは、ネギにとってどんな罰よりも辛いものだった。

エヴァは別に、ネギを苦しめる為に罰を与えなかった訳ではない。
単純に、ネギを罰する事エヴァの望む事ではないからだった。
学校を去る事にでもなってしまえば、
折角手の届く範囲に現れた"登校地獄"を解けるかもしれない鍵がなくなってしまうし、
何よりも前回のネギとの戦いで湧き上がった思いは、もっと別の事を望んでいた。

それは、うやむやとなってしまったネギとの決着。
今ネギに罰として血を差し出せと言えば、なんの苦労もなく血を手に入れられるだろう。
しかし、折角学園の最高責任者から許しを貰っている戦いの機会を、何もせずに終わらせるのはつまらない。
もはやエヴァにとって決着をつける事は、解呪よりも優先すべき事になっていた。


「それで? 謝罪の為だけに私の前に現れた訳じゃないだろう?」


どことなく期待のこもったエヴァの言葉に、ネギがギュッと持っていた杖を強く握り締めた。

エヴァの言う通り、ネギの本題は別にあった。
ネギは何かを決意した力強い目で懐から決闘状を取り出し、それをエヴァに突き出しながら言った。
悩んで悩んで、悩み抜いたうえで出した答えを。


「エヴァンジェリンさんとの決闘を受けたいと思います」
「ほぅ。では、生徒である私たちを傷付ける覚悟ができたという訳だな?」


覚悟のほどを試す為、意地の悪い事を言う。
しかしネギの覚悟は本物だったようで、揺らぐ事なく即答した。


「違います。決闘で決着がつくまで、エヴァンジェリンさんたちは生徒ではなく――敵です。
 決闘で正々堂々、正面からエヴァンジェリンさんを降伏させて、生徒を守ってみせます!」


そう言い切ったネギの表情に、これは思ったよりも楽しめるかもしれないとエヴァは口元を釣り上げた。
そして失望させてくれるなよとネギに背を向けると、
よくある悪役のように高笑いを上げながらエヴァはその場を後にした。
そして茶々丸も一礼した後、その後を追っていく。

一人残されたネギは、そんな二人の後姿を見ながらよしっと気合を入れると、
その気合をなくさぬよう、走りながら屋上を後にした。

――決闘は明日。
学園都市の電力メンテナンスにより、停電した暗闇の中行われる。



[26606] 第2章 13時間目 決戦前夜の激闘
Name: あかいつき。◆3327a354 ID:742ccd16
Date: 2011/03/20 18:43
予定通りに模擬戦を行う為、理多はエヴァたちと一緒に別荘を訪れていた。

別荘の外は夜なのだが、中は昼前後といった辺り。
こういった内外のズレが生じる事を予想していなかった訳ではないのだが、
それでも多少の驚きと違和感を覚えながら橋を渡っていく。
初めは怖かった柵のないこの橋も、一度塔から落ちた所為だろうか。
今はもう恐怖を感じなくなっていた。

模擬戦を行う場所は、いつも実践と実戦の修行を行っていた広場。
ルールは特になく、相手に負けを認めさせるか気絶させたら勝ちという至ってシンプルなもの。
そして理多の相手をするエヴァは、
精一杯頑張れば勝てるかもしれないといった程度に手加減をするとの事だった。

以上の説明を茶々丸から受けた後、
理多はウォーミングアップを済ませてエヴァと広場の中央で対峙した。
そこで理多は、エヴァの様子がいつもと違う事に気付く。
実戦修行の時に受ける威圧感が、エヴァから全く感じられないのである。
目線も理多へと向けられているが、見てはいないようで。
その表情は、何かを心待ちにしているような上の空なものだった。

そんな風にエヴァの意識を奪った何処かの誰か、
もしくは何かに対して嫉妬心を抱いた自分に苦笑しつつ、
理多は身に着けたウエストポーチに入ったチャチャゼロに呟く。


「何か学校で良い事があったのかな?」
「サァナ。ダガ、コレハチャンスダゼチビッ娘。
 別ノ事ニ気ヲ取ラレテイル隙ニ、ガツント痛イノヲブチカマシテヤレ」


そう言ってチャチャゼロは、極悪な笑みを浮かべた。

今回チャチャゼロは、助言者として理多と模擬戦を共にする事になっている。
それは誰かに頼まれたからではなく、自ら助言者役に名乗り上げてだった。
そんならしくない行動を不思議に思っていたのだが、今の発言と表情を受けて理解した。
チャチャゼロは、自分を使ってエヴァへの鬱憤を晴す気なのだと。

動機は限りなく不純であり、また自分に対しての温情は皆無。
しかしチャチャゼロが傍にいる事実は、
抱く不安を多少なりとも打ち払っていたので、文句は言わずに苦笑するに留め。
理多は心強い仮初めの助言者に、深呼吸をして言った。


「私は、全力を出すだけです」


自分の為に時間を割いてくれたエヴァたちに、修行の成果を見てもらう為に。
そして、自分や誰かを守る事のできる力が、どれだけついたのかを確かめる為に。
理多は口にする事で誓いを立てる。

攻撃する事に躊躇いはない。少なくとも、戦いに支障が出ない程度には。
守る為に傷付き、傷付ける覚悟。そして、戦うと決めたら決して迷わない決意。
そういった覚悟や決意を持たなければ死ぬ目に合うと、身をもって修行で学んでいたからである。


「これより、マスターと雨音さんの模擬戦を行います」


その言葉を皮切りにして、急に場の空気が重苦しくなったように感じた。
それだけではなく、胸の鼓動が激しくなり、吸血衝動からではない喉の渇きに見舞われ。
寒くもないのに体が微かに震えだし、暑くもないのに汗が背中を伝う。

自分で思っている以上に緊張しているのだと、理多は遅れて自覚した。


「今ノ御主人ハ"不死ノ魔法使イ"ダ。遠慮スル必要ハネェ、殺ス気デヤレヨ」


返事の代わりに頷いて、吸血鬼化を遂げる。
言われるまでもなく、エヴァに対して遠慮をする気はなかった。

腰を屈め、すぐに動き出せるよう身構える。
緊張はしているが、幸い体が硬くなったりはしていない。
これも修行の成果なのだろうかと、頭の片隅で思っていると──


「それでは──」


茶々丸が手を上げ、理多とエヴァを交互に見る。
そして一拍の後。


「始め──!」


手が振り下ろされ、師弟の模擬戦が始まった。

開始と同時に理多は、"心言詠唱"で"魔法の射手"を放つと地を蹴った。
そして、広場を縦横無尽に疾走。牽制の射手を撃ちながら虎視眈々と隙を窺う。
その間、一時たりとも足を止めずに。それは、エヴァが理多に教えた戦闘スタイルだった。

人それぞれ長所が違うように、吸血鬼も個体によって長所が違う。
力が強い者、再生能力が高い者、魔力が膨大な者など様々に。
理多はその中でも、身体能力と感知能力に優れた吸血鬼だった。
そして理多は、吸血鬼としての能力だけでなく、魔法使いの──
それも"精霊の愛し子"の能力も持っている。

吸血鬼と"精霊の愛し子"の能力。
これらを総合してみた結果、エヴァが理多の戦闘スタイルとして選んだのが"近接撹乱型"。
吸血鬼の機動力と"精霊の愛し子"の"心言詠唱"を活かして敵を撹乱し、隙を見て攻撃するといったものだった。

ちなみにエヴァはどのタイプかというと、魔力が膨大で再生能力が高い吸血鬼である。


「……っ!」


しばらくして、理多の射手に対し反応が遅れたエヴァに隙が生じる。

それを見逃さず、理多は思い切って間合いを詰めると、固く握った拳をエヴァの顔めがけて突き出した。
そしてその拳を防ごうと、エヴァが両腕をクロスさせたところで急停止させ、拳を裏返し──パッと開く。
そこには、解放の言葉を待つ光の塊が瞬いていた。


「── "光よ"!」


手の平を中心に白い閃光が爆発し、エヴァの視界を白に染める。

目暗まし。
初歩的な手だが、どうやら上手く決まったようだ。
目を瞑ってよろけるエヴァを見てそう判断し、その場に留まる事なくエヴァの頭上へ高く跳ぶ。
そして足元を薙いでいったエヴァの爪に肝を冷やしながら、雨の如く射手を降らせた。

エヴァに降り注ぐ光の雨。
しかしエヴァは頭上に傘代わりの"氷盾"を広げていた為その雨を直に浴びる事なく、
無傷のまま佇んでいた。

だが理多の表情に落胆の色はない。
何故なら端から射手が通るとは思っておらず、
今のはただ時間を稼ぐ為だけのもの。本命は、次の一撃なのだから。


「――リク・ラク・ラ・ラック・ライラック……」


エヴァの背後に着地しながら詠唱を開始する。
まずは始動キーで門を開き、本命の一撃を確実に行使できるよう集束した魔力の安定を図る。
ここまでは順調過ぎるほどに順調。


「不浄を貫く迅速の光 我が手に――」


いける。
そう思った次の瞬間、振り返ったエヴァと目が合った。

拙い。
想定していたよりもずっと早い反応。
このまま詠唱を続ければ、魔法を行使する前に反撃を受けてしまうかもしれない。
今ならまだ引く事ができる。どうする、と刹那の思考の後――


(── "閃光の槍"!)


確実な一撃を与える為、"心言詠唱"に切り替えた。
一旦引いてもよかったが、次のチャンスがいつ訪れるとも判らないので止めにした。

理多が望み呼びかけると同時、右手に生み出される光の槍。
時間がないのでそれには目を向けず、感覚だけで魔法の成功を確認すると、
すくい上げるようにしてエヴァへと投げつけた。

"心言詠唱"によって威力は下がってしまったが、"閃光の槍"は弾速と貫通力の高い中級攻撃魔法。
仮に障壁の展開が間に合ったとしても、それを貫く力はあるはず。
貫けと、祈るようにして結果を確認。そして──


「──うそ……」


理多にとって予想外過ぎた結果に、思わず足を止めてしまう。

槍は何に阻まれる事なくエヴァへと到達した。
にも拘わらず、防がれてしまっていた。
障壁にではない。槍の尖端を物理的に、素手で掴まれてである。


「……反撃を警戒して、"心言詠唱"に切り替えたのはいい判断だった。
 それまでの動きも、教え通りにできていたな」


掴んだ槍をぐしゃりと握り潰しながら、エヴァはこれまでの評価を口にした。
なかなかの高評価だったが、理多は唖然としてしまって耳に入らなかった。

エヴァは槍を握り潰した手を開いては閉じてを繰り返すと、
その手の平に拳を打ち付けて口元を釣り上げる。


「──しかし残念、熟練度チカラ不足だ」


魔法を行使する時に大切な"精神力の強化"や"術の効率化"などは、修行によって人並みにマスターできている。
しかし、まだまだ熟練度が足りなかったようで、"心言詠唱"によって放たれた"閃光の槍"は、
エヴァを傷つけるだけの威力を持っていなかった。

エヴァが地を蹴り、少しだけ浮かび上がる。
そんなエヴァの瞳には、先程まではなかった燃え盛る闘志の炎が見えた。
また、いつも実践修行の際に感じていた威圧感も復活していた。


「少々ぼんやりとしてしまっていたが、礼を言おう。今ので目が覚めたよ」


そう笑って、エヴァは何気なしに右手を理多に向けた。
それがあまりに何気なかった為に反応できず、足を止めたままでいた理多にチャチャゼロが叫ぶ。


「退ケチビッ娘! 御主人完全ニヤル気ニナッタゼ!」


チャチャゼロの叫びにハッとし、反射的に後ろへ跳ぶ。
すると目の前を、大地から弾けるようにして氷の柱が突き出た。
前髪が強引に断ち切られて数本ほど宙を舞い、
氷柱から流れてくる冷気によるものだけではない寒気が走る。

しかし、恐怖を噛みしめている余裕は与えられていない。
今度は機関銃の如く撃ちだされた氷の射手が襲い掛かってきていた。

攻撃するにしろ防御するにしろ、"心言詠唱"があるので詠唱時間を気にする必要はない。
だが"心言詠唱"では、おそらく打ち落とす為の威力も防ぐ強度も足りない。
かといって回避行動をとっても、閉じられたフィールドの中では遅かれ早かれ捕まってしまうだろう。
ならば──


(……いきますっ!)


心の中で自分を叱咤し、理多は覚悟を決めて雹の如く迫り来る射手の中へと飛び込んだ。

吸血鬼の身体能力と、小柄で小回りの利く体躯。
"心言詠唱"を駆使しながら、射手の間を紙一重ですり抜けていく。


それでも避ける事ができなかった射手によって、着ている服や髪、肌を削り。
しかし致命傷を一つも負う事なく射手を突破。
気を抜かず、エヴァの懐へ跳躍すると、飛び込んだ姿勢のまま体を捻り、
魔力を纏わせた爪を力一杯に振り上げた。

だがそれはエヴァの展開した"氷鏡・氷障壁"に衝突、防がれてしまう。
しかし、砕き破る事はできなかったが、障壁ごとエヴァを吹き飛ばした。


「――リク・ラク・ラ・ラック・ライラック……」


その隙に再び詠唱を開始。力一杯跳ぶと、エヴァの横を通り越して頭上へ。


「──満ちよ黄金の光……」


両手に集束する眩い光。
それは急速に輝きと大きさを増していき、理多一人を裕に包み込めるほどの光の塊となる。
だがこのままでは文字通りただの光の塊、眩しいだけだ。


「打ち砕け──」


光の塊をただの光の塊でなくす為、限界まで圧縮していき、おおよそニ分の一に。
それでもまだ軽自動車ほどの大きさがある、高密度の光の塊にする。
それを、エヴァを見据えて振りかぶり。
思いっ切り勢いをつけ、体重と重力を乗せて振り下ろした。

これが、今の理多ができるもっとも威力の高い攻撃魔法──


「"黄金の鉄槌"っ!!」


エヴァは"氷鏡・氷障壁"を展開。
直撃は間逃れるも、鉄槌は障壁ごとエヴァを床に叩きつけ、押し潰した。
鉄槌が塔の床にめり込み、ヒビの波紋が広がっていく。
雷のような炸裂音と地響きがし、粉々に砕けた床の粉塵が舞った。

その中へと着地し、理多は確かな手応えを感じながら波紋の中心を見つめた。
障壁を展開していたとはいえ、普通なら一たまりもない。
だが、普通ではないエヴァなら平気だろう。
とは思いながらも心配で、理多は晴れつつある粉塵の中心へと足を踏み入れた。

相手の生死が判らぬまま不用意に近づく事は危険であり、
チャチャゼロは理多を止めようとしたが、結局止める事はしなかった。
"黄金の鉄槌"は確実に直撃した。この程度ではエヴァを倒すどころか致命傷一つ付ける事はできないが、
エヴァが定めたであろうレベルの相手を戦闘不能にするには十分過ぎるものだった。
だから、この模擬戦は理多の勝ちで終了だと思ったのである。

審判である茶々丸も、そう判断していたのだが──


「── "氷爆"」


突然、粉塵の中で氷が爆ぜた。
氷の粒が出鱈目に飛び散り、気を抜いていた理多たちを襲う。

理多は修行の成果で爆発の瞬間、ほぼ無意識的に"心言詠唱"で"光盾"を展開して回避。
茶々丸は反応できずに直撃してしまったものの、"氷爆"は粒に触れた者を凍らせ、体力を奪い、
動きを鈍くする魔法である為威力は低く、体面が凍っただけで問題はなさそうだった。


「オイ御主人、模擬戦ハモウ──ッ!?」


終わりでいいだろう。
そう言いかけて絶句した。


「私、まだ飛べないんだけど……どうしようチャチャゼロさん……」
「ソリャア、オ前──」


言葉を切って、チャチャゼロは"それ"を見上げた。
苦笑いを浮かべながら、理多も"それ"を見上げる。
全くの無傷で立っているエヴァが、天に向かって突き上げている右手の上。
徐々に大きさを増していく、巨大な氷の塊を。

広場の直径と同じくらいになっている氷の塊を投げられたら、
飛ぶ事のできない理多は逃げ場がなく、押し潰されてしまう。
障壁を展開しても、質量に押されて結局は潰される事になるだろう。
先程理多自身が、"黄金の鉄槌"でエヴァに対してしたように。

潰されない為にできる事は、塔から飛び降りるか、土壇場で飛べるようになる事を祈るか。
後者は論外として、前者は有効のように思えるが、
百メートル以上ある高さから水面に叩きつけられれば命が危うい。
となれば、できるかもしれない事に賭けるしかなかった。


「全力デ壊スシカナイダロウ」
「や、やってみる……」


巨大とはいえ氷。もしかしたら、"黄金の鉄槌"叩き割れるかもしれない。
そう思い、詠唱を始めようとしたところで──無情にも、エヴァの手から氷の塊が投げられてしまう。

これでは詠唱が間に合わず、だからといって"心言詠唱"で行使しても威力が心許ない。
作戦を変更。すぐに放つ事ができ、それでいて威力もある"魔法の射手"を乗せたパンチで叩き割る事にする。


「── 光の精霊36柱 集い来たりて敵を射て……"魔法の射手" 集束・光の24矢……」


拳に乗せる事のできる射手の最大数を周囲に展開。
喧嘩も武術の経験もない理多は、自分なりにパンチをし易い姿勢をとり。
そして、光の螺旋が拳の先一点に集束したところで拳を突き出した。

一瞬の閃光と重い打撃音。氷の塊が、刹那の間動きを止める。
続いて拳が突き付けられた部分から亀裂が一直線に走り。
綺麗に真っ二つに割れた後、海面へと落下した。


「助かった……?」


理多がホッと胸を撫で下ろす。
チャチャゼロも、理多の方が分の悪い賭けだと思っていたので、理多同様安堵したのも束の間。
宙に浮かぶエヴァが、両手を掲げて追撃を始めようとしようとしているのが見えた。

エヴァの両手に集束する魔力量は、笑ってしまいたくなるほどに膨大。
今までで精一杯だった理多には、これだけの魔力を使った魔法を防ぐ事は叶わないだろう。
それでも足掻こうと、理多が全力で防御障壁を張ろうとしたところ、
それをポーチから出てきたチャチャゼロが止めて言った。


「チビッ娘、俺ヲ御主人ニ投ゲツケロ。流石ニヤリ過ギダ、止メテクル」


返事をする時間も惜しく、理多は無言で目の前のチャチャゼロを掴むと、エヴァへ全力で投げつけた。
チャチャゼロは蝙蝠のような羽を広げ、その勢いに乗って飛翔し、さらに加速。
今まさに魔法を放とうとしているエヴァに、そのまま速度を緩めず頭突きした。


「──とこしえのあだっ!?」


鈍い音がし、エヴァが宙で仰け反り一回転する。

痛覚のないチャチャゼロは何事もなかったかのように羽ばたいて姿勢を整えると、
赤くなった額を抑えて涙ぐむエヴァにヤレヤレと呆れ顔を向けた。


「チビッ娘相手ニ熱クナリスギダゼ御主人?」
「む……」


チャチャゼロの頭突きと言葉に、熱くなっていたエヴァは冷静さを取り戻し。
眼下で力なくへたり込む理多を見て真っ青になった。

エヴァはすぐさま理多の前へと降り立ち、
おろおろとした後、プライドがどうとか微塵も考えずに頭を下げた。


「す、すまんっ! つい楽しくなって……」
「あはは……大丈夫です。ちょっと、怖かったですけど」


エヴァを庇い、理多はぎこちなくも笑顔を作る。
その姿に、エヴァは強烈な罪悪感に襲われた。
目の前で震える理多を、撫でたり抱きしめたりしてやりたい。
しかしそうなった原因が自分である為、謝罪の言葉を繰り返すしかできなかった。

項垂れシュンとしょげてしまうエヴァの手を取って、理多は励ますように微笑みかける。


「でも、良い経験になりました。大きな怪我もしませんでしたし、私は怒っていないですから」


言って、大丈夫である事をアピールするかのように手をヒラヒラと振る。
本当は氷の塊を殴った時に手を少々痛めていたのだが、
エヴァへ追い討ちをかけてしまいそうだったので黙っておく事にした。

こうして少々問題が発生したものの、模擬戦は理多の勝利という結果で幕を閉じた。


 ◆


休憩所で手当てや着替えを終え、模擬戦の反省会──ここでまたエヴァが落ち込む──を行った後。
エヴァはお茶を啜って和んでいる理多に、放課後ネギに決闘を受けると言われた事を教えた。

それで浮かれていたのかとチャチャゼロが呆れ、理多は苦笑しつつ、気になった事を尋ねた。


「明日は満月じゃないですけど、大丈夫なんですか?」


エヴァとネギでは、圧倒的にエヴァの方が強い。
魔法も体術も経験も、比べるまでもなく全てがネギを凌駕しているだろう。
しかし今のエヴァは完全に魔力を失っている。

前回は満月の夜に力を増すという吸血鬼の特性を使い、
魔力を少しだけ得て渡り合ったが、今度は満月の恩恵がない。
別荘でならその問題が解決するのだが、身内でない者に知られたくはないとの事で使えないという。
魔法を使えないエヴァが、魔法を使えるネギを相手に戦えるとは思えなかった。

だが理多の問いにエヴァは自信あり気に笑みを浮かべ、茶々丸に目配せをした。
それを受けて、茶々丸が口を開く。


「実は、つい最近までマスターの魔力を封じているのは"登校地獄"だと思っていたのですが……
 実際は、学園都市の電力を消費しての封印結界だった事が判明したのです」


まさか魔法使いが電気に頼るとはなと、エヴァがため息を吐きながら呟いた。

決闘の日。
つまり明日は、都市の電力メンテナンスに乗じて封印結界のシステムにハッキングし、封印を一時的に解除。
それにより、エヴァは別荘内と同じ状態へと戻るとの事だった。

魔法でなくてもそんな事ができるんだと感嘆しつつ、
理多は先程の模擬戦を思い出して少し表情を強張らせた。
枷から解放されたエヴァ。他の魔法使いを見た事がない理多でも何となく判る、エヴァの反則的な強さ。
そんなエヴァが負ける場面を、理多は想像できなかった。

この時点で、理多の心配はエヴァからネギへと移っていた。


「封印ガ解ケルナラ余裕ジャネェカ。サッサト捻リ潰シテ血吸ッチマエヨ」
「……まぁ、坊や次第だな」


チャチャゼロの言葉に、何か含みのある返事をするエヴァ。
もっとやる気に満ちた事を言うと思っていた理多は、そんなエヴァに疑問を抱く。
呪いを解く為なら何でもする覚悟がある。そう言い切るほどに解きたがっていたのにと。

何か思うところがあるのだろうか。
その事を聞くか聞くまいか迷っていると、先に尋ねられてしまう。


「理多は、私たちが戦っている間どうする?」


エヴァとネギの決闘。
戦いは見ててあまり気分の良いものではないが、実力者の戦いは見るだけでも為になる。
そう思い、理多は見学すると答えた。

すると、理多に配られたお茶用のスプーンを弄りながらチャチャゼロが言った。


「ナラ、俺モ見学カ」
「意外だな、お前が参加したがらないとは」


心底驚いたとエヴァは目を丸くする。
チャチャゼロは絶対に参加したいと言ってくる。
そう思って、参加させない為の屁理屈をいくつか考えていたくらいだ。


「俺ガ暴レタラ、御主人ニ怒ラレソウダカラナ」


そう言ったチャチャゼロが、
ほんの一瞬だけ理多の方を見た事に気付き、もしかしてとエヴァは思う。

チャチャゼロが理多を主人として認めつつある事は、薄々気付いていた。
だが自分が思っていた以上に理多の事を、と。
それならば、めんどくさがりのチャチャゼロが、
今回模擬戦で助言者として自ら名乗り出た事も納得できる。

エヴァはニヤリと、いやらしい笑みを浮かべた。


「──それは、どっちの御主人だ?」
「……ア? 何訳ノ判ラナイ事言ッテヤガル」


チャチャゼロを探るように見つめる。
しかしチャチャゼロは人形。表情から何かを読み取る事はできず、
惚けているのか動揺しているのか判らない。
判らない以上、口で言わせるしかないのだが──

どうやって本音を聞きだしてやろうかと思考を巡らせていると、
やっぱりそうだったんだという理多の呟きが耳に届いた。
その少し気落ちした呟きに、チャチャゼロが動きを止める。
それを見て、エヴァは口をつぐんで二人を見守る事にした。


「でも、一緒にいてくれて心強かったです。ありがとう、チャチャゼロさん」


理多はそっとチャチャゼロの体を持ち上げ、可憐な笑顔を見せた。
その笑顔を間近で受けたチャチャゼロは、そっぽを向きながらオウと短く返事をする。
その声は、いつもの憎たらしい感じのものではなく。戸惑い、照れた声だった。
もしチャチャゼロが人間であったなら、間違いなく頬を赤く染めていただろう。

──頬を染めるチャチャゼロ。
それを想像し、エヴァは壮大に吹き出した。

瞬間、突き刺さる殺気。誰のものかは確かめるまでもなくチャチャゼロだと判った。
そしてそれが判った時にはすでに"氷盾"を展開していた。

その"氷盾"に鉈が振り降ろされ、弾き返される。
鉈の担い手であるチャチャゼロは、その反動に逆らわずにエヴァから距離を取ると、
鉈を肩に担ぎ、忌々しげにエヴァを睨み付けた。


「チィ、別荘デナケリャ……」
「ふん、外でもお前にはやられんさ」


互いジリジリと間合いを計りながら、視線の間に火花が飛び散らせる。

その様子を物陰へ避難していた理多が、隣にいる茶々丸の裾を不安そうに掴みながら見つめていた。


「だ、大丈夫なんですか? 止めた方が……」
「マスターも姉さんも、じゃれているだけですから」


殺気を当て合っているのに、じゃれているで済ませてしまう茶々丸に唖然としつつ。
理多はやっぱり見ていられないと、エヴァとチャチャゼロの間に入っていた。


 ◆ ◆ ◆ ◆ ◆


とある街の裏路地で、赤い瞳に月を映す少女が一人。
もう何日も外で過ごしているのだろう。
服も体も酷く汚れており、服には何やら赤黒い染みがいくつも付いていた。

不意に、少女の口から不気味な笑い声が漏れる。

不自然だった。笑っているのに表情は無表情のまま固定されており、
笑い声も、尖った犬歯が覗く口から出たものにしては少女のものではなく。
どう聞いても男の、それも電話越しのような篭ったような声だった。

その声で、少女は行き先を誰にともなく宣言した。

"麻帆良"へ、と──



[26606] 第2章 14時間目 私と僕の大切な事
Name: あかいつき。◆3327a354 ID:742ccd16
Date: 2011/03/20 18:44
学園都市の電力メンテナンスは年に2回、20時から24時までの4時間行われる。
その間病院などの一部施設を除いた全ての電力は絶たれ、緊急時以外の外出は暗く危険である為原則禁止。
都市で暮らす人々は、ロウソクを灯して静かに部屋で過ごすか早々に眠りに就くかを選ぶ事となる。
何処にも行けず何もできなくなる為、大半は後者だ。

──現時刻22時。
特殊な状況を楽しんで起きていた者たちも、流石に飽きて布団に潜り、目蓋を閉じている頃。
耳が痛くなるほどの静寂と夜の闇に浸かりきった都市で、エヴァとネギの決闘は行われていた。


「ふん。なかなかやるではないか」


操っていた最後の人形と繋がる魔力で編まれた糸が切れたのを指先に感じ取り、
背の高い建物の屋根に立つエヴァは呟く。
メンテナンスが始まってから2時間、決闘が始まってから1時間。
用意してきたチャチャゼロに似た10体の人形は、今ので全て撃ち落とされた事になる。

人形使いにとって、人形は失ってはならない武器であり生命線だ。
エヴァにはまだ他に頼れる魔法や体術があるとはいえ、その喪失は大きい──
その筈なのに、エヴァは焦る様子もなく、むしろ嬉しそうに口元を吊り上げていた。

それもその筈。人形を全て撃墜された事によって、
使う必要の全くない人形をわざわざ用意してきた目的が果たされたのだから。

その目的とは──余興。
人形は、エヴァがネギとの決闘をより楽しむ為に、その為だけに用意した遊び道具に過ぎない。
その証拠に、人形には武器を一切持たせていなかった。それは、人形で傷付けるつもりがなかったからである。

倒そうと思えば、その身一つで決闘の開始と同時に終わらせる事が可能であるほどに、
あらゆる要素でエヴァはネギを凌駕している。故に、人形を使う事はネギを倒すうえでなんの利点もない。
かえって邪魔ですらある。だが、倒す気がないのなら、戦いを楽しむのなら、その邪魔さが丁度よかったのだ。


(それにしても……)


黒のドレスの上から羽織る漆黒のマントをはためかせ、横にいた茶々丸と共に屋根から飛び立ちつつ思う。
対エヴァ用に用意してきたらしい魔法道具を全て人形に剥がされ、1時間と少々時間はかかりながらも、
ネギは見事全ての人形を撃ち落とした。正直な話、エヴァはネギが人形を退ける事は無理だと思っていた。
できたとしても、もっと時間がかかるだろうと。しかしネギは、どちらの予想も覆して見せた。

満月の夜に戦った時にも思った事だが、ネギは戦闘経験がないにしては動きが良かった。
それが勘違いでない事は、同じく戦闘経験がなかった理多の修業を受け持ち、比較対象を得た事によって証明付けられている。
理多も頭の回転の良さからか、早い段階から中々良い動きをするようになっていたが、ネギはそれ以上であると。

どうやらネギは、10歳という若さでありながら中学の教師をこなせるほどに頭が良く、
魔法の技術もずば抜けて高い正真正銘の"天才"というのは周知の事だが、それに加えて戦いのセンスもあるようだ。
本格的に鍛えれば、おそらく世界に名を残すほど強くなれるほどに。鍛えれば──


「──はっ、何を馬鹿な事を」


"自分が鍛えれば"と、そう思った自分に対して嘲笑する。
自信過剰だったから、という理由からではない。
命を賭けられるほど、神に誓って言えるほど、ネギを確実に強くする自信はある。
問題はそこではなく、父の背中を追い、"立派な魔法使い"になる事を夢見ているネギが──
"立派な魔法使い"とは対極の存在である自分に、師事を乞う日がくる筈がないにも拘わらず、
自分がネギの面倒を見ている光景を一瞬でも思い浮かべた自分に対して嘲笑したのだ。

理多のお陰で色々と変わる事ができた。
光に生きたいと思えるようになったし、毎日を楽しく感じられるようにもなった。
しかし、いくら内面が変わろうと、過去の悪行も、様々な悪名も消し去る事はできない。
そして、周りの目がそう簡単に変わる事はないのだ。理多のように、
全てを受け入れて慕ってくれる者は限りなく少ないだろう。
その事を忘れて空想するとは愚かなと、エヴァは少しだけ寂しそうに苦笑した。


(……む?)


街中で大規模の魔法を使う訳にもいかず、"魔法の射手"などの下級魔法による小競り合いを繰り広げていると、
ネギが逃げるようにして都市と本土を繋ぐ鉄橋へと飛んでいった。今更恐れをなしたのかと訝しむも、
すぐにその不可解な行動の訳に思い当たる。エヴァが"登校地獄"によって都市の外へ出る事ができない事を利用し、
いつでも戦いから逃れられる場所に誘い込む気だと。

少々卑怯に思えるが、これは戦い。正々堂々、清く正しくな部活動の試合とは訳が違う。
魔力以外全てにおいて劣っているネギが、こういった戦法をとるのは正しい。
戦いは、つまるところ勝てばいいのだから。
そういった戦法をネギは嫌いそうなイメージがあった為、その点は少し意外であったが。


「勝てば官軍という訳か。だが──」


それだけではないようだと、ネギが向かう橋へと目を向ける。
何故そう思うのかというと、"登校地獄"を利用した戦法をとる為に、橋へ向かう必要ないからである。
空を飛べないというのならまだしも、空を飛べるのなら、何処でも適当に、都市と本土の境へ行けばいいだけなのだから。

なのに戦闘中、ネギは気付かれないようにしていたようだが、頻りに橋の位置を確認していた。
まるで、橋へ絶対に行かなければならないかのように。
その理由は、想像に難くない。十中八九、橋に何らかの罠が仕掛けられていると見て間違いないだろう。


(……くく、面白い)


少しの思考の後、エヴァはネギの誘いに乗る事を決めた。
罠に屈する事はないという絶対の自信。そして、その方が面白いからという理由で。
万が一にもない事だが、それで負けてもそれはそれでいいと思っていた。
ネギが勝った事によって調子に乗られたら腹がたつが、差し出すものはナギの情報。
失うモノは何もないし、勝ったところで得られるモノもまたないのだから。

正確には──受け取る気がない、だが。


 ◆ ◆ ◆ ◆ ◆


エヴァが強襲する形で始まった決闘を、離れた場所から隠れて観戦していた理多は、
橋へと遠ざかっていくエヴァたちの後を追い、人外な速さで街中を駆け抜けていた。
停電中は外出禁止との事で、街に人気はなかったが、念の為に周りの目を気にしながら。
吸血鬼は夜目が随分と利くようで、明かりがなくとも昼間となんら変わらず視界が良好なのは、
仮に誰かの視界に入っても誤魔化しが効きやすく好都合だった。同時に、複雑でもあったが。


「チビッ娘ガ飛ベレバ、スグニ追イツイタンダガナー」


理多は地上を行き、エヴァたちは空を行く。
エヴァたちは障害物を気にする必要もなく目的地に向けて一直線な事に対し、
理多はそうもいかず、完全に引き離されてしまう。
すると、ポーチに胸から下を収めたチャチャゼロが、
厭味ったらしく見せつけるようにして翼をはばたかせた。

出会ってからまだそれほど経っていないが、一緒にいた時間は長く、それなりにチャチャゼロの事は理解している。
だから、一見厭味にしか思えないその行動が、遠回しに自分を鼓舞する為のものだという事は察せられる。
しかし、遠回し過ぎて素直に頑張ろうとは思えず、理多はふてくされたように口先を尖らせた。


「先に、飛んでいけば良いじゃないですか……」


飛ぶ事のできるチャチャゼロなら、追いつくのは難しい事ではない。
少なくとも、見失うような事はない筈だ。にも拘らず、チャチャゼロは一向にポーチから出ようとしなかった。
その訳と、何て言葉を返してくるかはおおよそ見当は付いていたのだが、そう言わずにはいられなかった。


「ケケケ、チビッ娘ヲ弄ッテタ方ガ楽シイカラナ」
「…………はぁ」


思った通りの返答過ぎて文句を言う気力も出ず。
理多はため息一つ吐いて頭を切り替えると、先程までのエヴァとネギの戦いを思い返す事にした。

早々に決着がつくと思っていた理多の予想に反し、戦いは随分と長引いていた。
その原因は考えるまでもなく、エヴァが明らかに手を抜いている所為である。

今のエヴァは、魔力を気にする事なく魔法を使える。
なのに魔法は、防御の為に最低限にしか使わず、攻撃は人形によるもののみ。
その攻撃にしたって、邪魔や嫌がらせの域を出ないようなものだった。
人形が全て撃ち落とされてからは"魔法の射手"などの魔法を使っていたが、
用途は人形とそう変わりはないように見えた。

ネギに隙が生じてもそこを突く事はなく、ただ挑発的な笑みを浮かべるだけ。
ネギを倒すという気がカケラも感じられない、決闘というよりも、前日に行われた模擬戦のようだった。


「どうして、本気でやらないんだろう」


知らず、疑問が口からこぼれ落ちる。

昨日の、チャチャゼロの言葉に対する曖昧な返事を聞いた時にも抱いた疑問。
結局それを本人に聞く事はできなかったが、今日の戦いぶりを見て確信する。
エヴァは、この決闘に勝つ気が──勝って血を吸い、"登校地獄"を解く気がないという事を。

しかし理多には判らなかった。15年もの長い間自由を奪ってきた"登校地獄"を解く絶好の機会を、
自らふいにしてしまう理由が。一体、どれだけ大きな理由なら諦められるというのか。想像もつかなかった。


「──マ、オ前ガ原因ダロウナ」
「……え?」


予期していなかった返答とその内容に驚き、理多は思わず足を止めそうになる。
いや、驚いたというよりも、どんな大きな理由がと考えていた事に対する返答が自分にあると言われ、唖然としてしまった。

自分が原因と言われるような事をした覚えはない。
ならチャチャゼロが適当な事を言っているのかといえば、きっとそれは違う。
とても、嘘や冗談を言っているようには見えなかった。
となれば、自分が気付かぬ内に何かを、無自覚に、自然にしていたという事なのだが──


「……了解ヲ得レバ、御主人ガ血ヲ吸ウ事ニ口出サナイト言ッテイタナ?」


質問の意図が読めないまま、小さく頷く。
確かに以前そう言った。血を求めてネギを襲ったエヴァに対し、強引に血を吸う事をしてはいけないと。

その結果、エヴァはその言葉を聞き入れてネギに決闘状を渡し、約束を取り付けて今に至っている。
約束を交わしているのなら、理多は何も言う事はなく、何を言う権利もない。
エヴァの吸血に関する話は、既に終わっている事なのである。

理多は、それが一体どうしたのかと尋ねようとして──


「──本当ハ嫌ナンダロ?」


今度は完全に足を止めた。止めざるを得なかった。

どうしてそれをと、理多はチャチャゼロへ目を向ける。
そして、気付いていないとでも思ったのかというような呆れ顔を見て、
隠しきれないと観念し、おずおずと頷いた。

エヴァがネギと約束を交わした事を聞いた時、表向きは何とも思っていないかのように振舞っていた。
しかし、本音を言えばチャチャゼロの言う通りだった。本当は嫌だった。
エヴァに吸血を、人ひとりの人生を大きく変えてしまうかもしれない事を、
例えそうなる可能性が限りなく0に等しいのだとしても、してほしくなかった。

しかし、言えなかった。解呪する為ならなんでもする覚悟がある。
そう言い切ったエヴァに、そんな我が侭を言える筈がなかった。

それよりも、自分が血を吸ってほしくないと思っている事と、
エヴァが解呪をする気がない事に何の繋がりがあるというのか。
理多は首を傾げ、そして気付く。気付くまでに、1秒もかかっていなかった。
何の繋がりがも何も、繋がりしかないのだから。

理多の顔が、瞬間的に赤一色に染めあがる。


「──え? ぁ、うそ……」


つまりエヴァは、理多が血を吸ってほしくないと思っているから、解呪を諦めたのだと。
そう、チャチャゼロは言っているのである。


「俺ガ記憶シテイル限リ、オ前ハ御主人ニ最モ気ニ入ラレテイル存在ダ。
 ソンナオ前ニ嫌ワレルヨウナ事ヲ、御主人ハデキヤシネーヨ。一度、大切ナ存在ヲ失ッテイルカラ余計ニナ」


今言った事は、チャチャゼロの推測なのだろう。
だが、それであっているんだと納得してしまう説得力があった。
それは、気が遠くなるほど同じ時を過ごしてきたからこその説得力だった。

理多はカーッと赤くなった頬を両手で挟むように押さえる。
真面目な話の途中だと判っていても、表情が緩むのを抑え切れなかった。
嬉しくて、どうにかなってしまいそうだった。悪く思われていないとは思っていたが、
まさかそこまで好意を持ってもらっているとは夢にも思っていなかった。

エヴァと次顔を合わせるのが照れくさいなと思いつつ、パタパタと熱くなった顔を手で扇ぎながら走り出す。
立ち止まってしまってから少々時間が経ってしまった。急いで追いつかないとと足に力を込めて加速する。


「チビッ娘……?」


しかし、その足はすぐにまた止まってしまう。

チャチャゼロが突如足を止めた理多を不審に思って見上げる。
すると理多は、先程までの赤面が幻であったかのように冷め切り、
何かを警戒し、恐れた表情をして周りを見回していた。

極稀にだが、都市を包む結界を抜けて侵入してくる族がいる。理多もその一人だった。
その気配を感じ取ったのかと思い、チャチャゼロも周囲に目を向けたが、何の気配も感じない。
感知能力の優れた吸血鬼である理多だから感じ取ったのかもしれないと、どうしたのかと尋ねようとした時──


「みぃつけた……」


違和感を抱く声と、風船が弾けるような音が、頭上から降ってきた。


 ◆ ◆ ◆ ◆ ◆


電力メンテナンスに伴う外出禁止令により、ただの巨大なオブジェと化している本土と都市を繋ぐ鉄橋。
エヴァにとっては行動可能範囲の最端であるそこで、ネギたちは地に足を着けて対峙していた。
一方は杖を片手に跳び跳ねながら喜びをあらわにし、
もう一方は足元の魔法陣から伸びる十数本の光の帯で全身を締め付けられながら。


「これで僕の勝ちですねっ、エヴァンジェリンさん!」


ネギは杖を突き出し、鼻息荒くエヴァへ勝利宣言をする。

推測していた通り、ネギを追った先でエヴァたちを待ち受けていたのは罠だった。
仕掛けられていたのは、主に強大な力を持つ竜種や魔獣を捕らえる際に用いられる"捕縛結界"。
設置に時間を要する代わりに、一度かかってしまえば術者か結界の専門家でもなければ解く事が敵わないほど強力なものである。
対人戦で使うには時間的にも拘束力的にも適さないが、
エヴァは竜種や魔獣と肩を並べても何らおかしくはない真祖の吸血鬼なので妥当だろう。


「やるじゃないか坊や、感心したよ」


自分と茶々丸に巻き付く光の帯と足元の魔法陣を見て、エヴァは素直に称賛の言葉を贈る。

丁寧に術式が組まれた、9歳の見習い魔法使いが設置したとは思えない完璧な結界。
"登校地獄"を解く為結界について貪るように学んだエヴァは、
結界に関して専門家と名乗っていいほどの知識も技術も持っている。
故に、この結界を解けない事はないのだが──解くには、時間がかかるのである。
ネギがエヴァに止めを刺すのに、十分過ぎるほどの時間が。
つまり──エヴァの敗北は、罠にかかった瞬間に確定していたのだった。


「──────くくっ」


にも拘らず、エヴァもその隣にいる茶々丸も平然としていた。
それどころか、エヴァの方は笑みを浮かべてすらいた。
口元を吊り上げ、楽しそうに。負けて悔しい筈なのに。負けた筈なのに。

作戦通りにエヴァを罠にかける事ができ、勝利が確定したと浮かれていた。
後はエヴァの口から自らの敗北を宣言してもらうだけだと思っていた。
しかしエヴァの表情に、ネギの胸に言い知れぬ不安が沸き出す。

丁寧に、慎重に、時間をたっぷりとかけて術式を組んだ結界は、完璧だと胸を張って言い切れる出来栄えにできた。
だから、絶対に解かれない自信がある。普通は解けない。普通は、解けない筈だ。
万が一、仮に自力で解けたとしても、相当の時間がかかるだろう。その間に、決定的な一撃を与えればいいだけの話。
勝利は揺るがない。ネギの勝ち、エヴァの負け。それは、決して揺るがない──────
なら、このエヴァの余裕は、一体なんなのだろうか?


「くく、何を追い詰められた顔をしている。安心しろ。
 私はこの結界を解けるには解けるが、少なく見積もっても30分はかかる」


心を読んだかのようなエヴァの言葉に、ネギはドキリとする一方で安堵した。
やはり、勝ちは揺るがないのだと。胸の内の不安が溶けるように消えて──


「だが──」
「──"結界解除プログラム"を始動します」


"結界解除"。その不吉な呟きに、ネギは目を見開く。
そして、茶々丸の耳のパーツからアンテナのような物が展開したのを確認した直後──
簡単には解けない筈の結界が、バラバラと砕け落ちるのを見て絶句した。


「茶々丸なら、一瞬なんだがな。原理は私にもよく判らんが、科学の力らしいぞ?」


もはや魔法だなと、エヴァは砕けた帯の欠片を一つ手に取って握り潰す。
そして、目の前で起きた出来事に唖然としているネギの持つ杖を握り、ネギを文字通り蹴り飛ばした。

放物線を描きながら3メートルほど吹き飛び、ネギは地に背中から叩きつけられる。
衝撃に肺が押し潰され、口から苦悶の声と共に息が吐き出された。
常に身に纏っている障壁で、衝撃はある程度緩和されている。
それでも痛くない訳ではないが、今のはただの蹴り。ダメージはほぼないと言っていいだろう。

なのにネギは、そのまま立ち上がろうとしなかった。
これまでの戦闘で大した怪我を負っていないし、魔力もまだ余裕がある。
体力的に立ち上がれないという事は決してない筈なのに、立ち上がらなかった──立ち上がれなかった。
切り札だった捕縛結界がいとも簡単に解かれてしまい、戦意を根こそぎへし折られてしまったのである。

この世の終わりみたいな表情をしたネギを、エヴァは杖を片手に冷めた眼差しで見降ろす。
その表情は、怒っているような、悲しんでいるような、呆れているような、複雑なものだった。
一つ確かなのは、負の表情であるという事。ネギはそれを、濁った瞳でただ見上げる。


「……ま、私相手に一人でよくやったよ。いいんじゃないか、ここで降参してしまっても。
 誰もお前を責めたりはしないさ。ただ──」


言葉を切り、エヴァは杖をネギの目の前に突き出す。
見せつけるように。ネギが父のナギから貰った、何よりも大切な宝物である杖を。


「この程度の事で簡単に諦めているようじゃ、奴の背中を追う事も、教師を続けていく事も無理だろうよ。
 前者は言わずともがな。後者は、問題児の多い3-Aだからな。もたんよ、きっと」


坊やもそう思うだろうと、エヴァは目を細める。
ネギはそれを、苦笑しながら見上げ──


「そうですね……」


突き付けられた杖を握り、力強く立ち上がった。


「色々と凄いですからね、みなさん。エヴァンジェリンさんも含めて」


そう言って再び苦笑するネギの瞳には、闘志の炎が燃えていた。
それを確認し、あいつらと一緒にされるのは不満なんだがと失笑しつつ、エヴァは杖から手を離す。
浮かべているのは失笑だが、どこか嬉しそうだった。


「……で? どうするんだ、ネギ・スプリングフィールド。いや、ネギ先生?」


とん、と黙って成り行きを見守っていた茶々丸の横へ跳び退き、エヴァが問いかける。
それに対し、ネギは何かを確かめるように杖を両手でシッカリと握りしめ、エヴァと茶々丸へと視線を向けた後。
迷いない瞳でエヴァを真っ直ぐと見つめ、自身へ言い聞かせるように宣言した。


「父さんの事も、先生である事も諦めたくありません!
 だから、決闘を続けます! そして、絶対に勝って見せますっ!!」



[26606] 第2章 15時間目 招かれざる客
Name: あかいつき。◆3327a354 ID:742ccd16
Date: 2011/03/20 18:44
「ふふっ、そうか。なら、パートナーと一緒に精々足掻くといい」


そう無邪気に笑って、エヴァはすっと指差した。
ツインテールが地面と平行になるほどの勢いで駆けてくる、神楽坂明日菜を。

その姿を見て、ネギは驚きの声を上げた。その予想外の反応に、エヴァも驚く。
てっきり、従者になったという明日菜が今までネギと一緒でなかったのは、何か作戦なのかと思っていた。
だが今のネギの反応から察するに、どうやら決闘の事を明日菜に教えていなかったようだ。
大方、生徒を巻き込みたくないと考えて言わなかったのだろう。
魔法の事を知られても記憶を奪う事なく、更に仮契約までしておいて何を今更という感じである。
と、思っていたのだが──


「ごめん! ちょっとこのバカ借りてくわよっ!」


明日菜は靴の底から火花を散らしながらネギの横で急停止すると、ネギの襟を猫のように掴んで物陰へ。
するとしばらくして、物陰から魔力の光が漏れ始めた。断片的に聞こえてくる会話の内容からして、
どうやらちゃんと契約を済ませていなかったらしく、今改めて仮契約をしているようだ。


「いいんですかマスター、契約を止めなくて」
「変身などの邪魔をしないのが悪役の美学──というのは冗談だが……」


エヴァは明日菜たちがいる物陰へと目を向け、茶々丸の問いに対しての答えを考える。
茶々丸が止めなくていいのかと尋ねたのは、ネギの戦力が増えるのを見過ごしていいのか、という事ではない。
一般人が裏の世界へ足を踏み入れる事への心配からである。

明日菜はおそらく、裏の世界に足を踏み入れる事の意味を、日常から非日常へ身を移す事の意味を判っていない。
裏の世界は、精々魔法などという不思議なものが存在する世界程度にしか思っておらず、死や危険が身近になり、
二度と平穏で退屈で、けれど小さな幸せに溢れた日常へ帰る事ができなくなる可能性というものを、一切考えていないのだろう。
今回も、以前街で会った時に言っていた"心配だから"という気持ちだけで動いているに違いない。

心配だから。ただそれだけで他人の為に動ける事はいい事だ。
だからと言って、考えなしに危険へ飛び込む事は褒められたものではない。
今はよくても、何か取り返しのつかない事になった時、きっと後悔する事になるだろう。
それでもいいと、傷付く事になっても構わないと、そう強く覚悟しなければ。
状況は大きく異なるが、誰かを守る為にと魔法を学ぶ事を決意した理多のように。

明日菜はきっと、その覚悟をしていない。
していたとしても、それは漠然とした覚悟だろう。
だが──


「神楽坂明日菜は馬鹿でお人好しだからな。先の事はよく判らない。
 だけど、どうせ後悔するなら他人を助けて後悔したい。などと抜かしそうだ」
「そうですね。そんな気がします」


そう言って、二人は苦笑いを浮かべた。
顔の造形は異なるのに、何故か姉妹のように似た笑みを。

丁度その時、瞬く間の強い発光が起こり、ネギと明日菜が物影から姿を現した。
ネギの手には、契約を行った証であるパクティオーカード。今度こそ、完全に契約を結べたようだ。

エヴァと茶々丸。そして、ネギと明日菜が対峙する。
明日菜が来た事により、数の優劣はなくなった。その事が、ネギの士気を高めていく。
瞳の炎が、その激しさを増していく。それを見て、エヴァは面白くなりそうだと胸を高鳴らせながら、
決闘の再開をと声をかけようとすると──キョロキョロとしていた明日菜が、
緊張感というものが毛先も感じられない口調でエヴァたちに尋ねた。


「ねぇ、理多アノコはいないの?」


あの子というのが誰の事を言っているのか察したネギが、ビクリと肩を震わせる。
闇に飲まれて暴走した理多に殺されかけたのだからその反応は無理もない。
しかし、その時の理多を理多であると認識されているのは少し残念だとエヴァは思った。
一方明日菜は、一度本来の理多と街で会っているからだろう、少しも怖がっていないようだ。
それはそれで、どうかと思うが。


「……安心しろ、理多は決闘に参加しない。どこかで観戦している筈だ」


出鼻を挫かれ、エヴァはため息を吐きながら辺りをぐるりと見渡す。
しかし、理多の姿は見えず、また気配も感じなかった。その事を少し疑問に思うも、
追いついていないだけかとネギたちへ意識を戻す。胸に、若干のざわつきを感じながら。


「さて、一時休戦はここまでだ」


メンテナンスの終了──魔力の再封印まで残り1時間半。
現時点で学園長は満足しているだろうし、後は全力でこの戦いを楽しもう。
そう思い、エヴァがふわりと浮かび上がった時──エヴァに悪寒が走り、茶々丸に緊急連絡が入る。


「マスター大変ですっ、都市に……大量の半吸血鬼が押しかけているようです!」


エヴァは驚愕する一方で、悪寒の正体はそれかと納得した。

大量の半吸血鬼。数を言わないところからして、おそらく相当な数なのだろう。
真っ先に思い浮かんだのは、学園長が調べていた連続昏倒事件の事。
十中八九、その被害者たちの中で治療を受けられなかった者たちが半吸血鬼の正体とみて間違いない。
吸血鬼の被害者など、そうそう出るものではないのだから。


「茶々丸。じじいに連絡を取ってメンテナンスを中断、結界だけ復旧させろ。
 それと警備している奴らに、私が行くまで迂闊に吸血鬼へ手を出さないよう伝えておけ」


都市を覆う学園結界があれば、完全にではないものの、都市への侵入を封じる事ができる。
復旧を結界に限定したのは、電力が復旧したとみて、一般人が万が一にも外へ出るの事を防ぐ為だ。
そして吸血鬼への手出しについては、本当に半吸血鬼であるのかなどを、同じく吸血鬼であり、
おそらくこの世で最も吸血鬼について詳しいエヴァ自身で確認してから対処したいと考えたからである。

指示通り連絡を取り出した茶々丸を横目に、再封印されて飛べなくなる前に着地。
そして、おろおろとしているネギと、困惑している明日菜へ言う。


「悪いな坊や、聞こえていた通り緊急事態が起きた。残念だが決闘は中止だ。
 事態が治まるまで、神楽坂明日菜と一緒に空で大人しくしていろ」


魔法がいくら上手くとも、戦闘に関してネギは完全な素人。
初っ端から集団戦闘などできる筈もなく、かえって足手まといとなりかねない。
それに、一般人の域を出ていない明日菜の事もある。半吸血鬼の対応に参加させる訳にはいかない。
だからといって下手に寮へ帰らせるよりも、吸血鬼の手が届かないであろう空が一番安全、という訳である。

大人しく指示に従った方が得策だと、ネギは明日菜を杖に乗せてふらふらと空へ上がっていく。
それを見届け、これからどう動くか茶々丸と打ち合わせようとした時──全身に電流のような衝撃が走り、
エヴァの全魔力が四散した。予想を遥かに凌ぐ早さの復旧だった為に不意を突かれ、
思わず犬の悲鳴のような変な声を出してしまい、エヴァは少し頬を染めて悪態をついた。


「ちっ、えらく対応が早いじゃないか」


こういった緊急事態に備えて、いつでも結界を再展開できるようにしていたのだろう。
別の意図もあった気がしないでもないが、今は関係ないので考えない事にする。
体の感覚を馴染ませ、エヴァは警備員がいるであろう一番近くの森に目を向けた。
そして、辺りを見渡して眉をひそめている茶々丸の腕を叩く。


「襲撃の対応が先だ。行くぞ茶々丸」


茶々丸に片腕を上げさせ、エヴァはその上に腰を下ろす。
茶々丸はもう一度周囲へ目を向けた後、各部のスラスターに火を灯し、跳び上がった。

茶々丸の気持ちは痛いほどよく判る。何故なら、エヴァも茶々丸と同じ気持ちだったからだ。
姿の見えない理多の安全を確認し、傍に置きながら対応したいと。しかしエヴァは襲撃の対応を優先した。
もし襲撃の対応を後回しにし、後で理多がその事を知れば、間違いなくこう言われると思ったからである。
少しでも早く、半吸血鬼カレラを助けてあげてくださいと。
もしかしたら怒られるかもしれない。それは、嫌だった。

だからエヴァは理多への思いを振り切り、茶々丸に乗って森へと向かうのだった。


 ◆ ◆ ◆ ◆ ◆


電力メンテナンスが行われている間は学園結界の力が著しく弱まる為、
都市の魔法先生たちは総出で警備にあたる事になっている。魔法生徒たちについてはボランティアなのだが、
みな"立派な魔法使い"を目指して切磋琢磨している為、特別な事情がある者以外は参加しており。
教師も生徒もみな、真剣に警備を行っていた。と言っても緊迫した雰囲気はなく、
パトロールと言った方が感じとしては近いだろう。

メンテナンスの終了まで残り1時間と少し。
今まで一度も特記するような事が起きておらず、今回もまた何が起こるでもなく終わる。
そう、誰もが思っている中──半吸血鬼たちソレラは何の前触れもなく訪れた。
比較するでもなく、過去最高最悪の緊急事態である。

魔物と遭遇した経験の少ない生徒たちパニックに陥った。
経験が多い生徒たちも、相手が吸血鬼であると判るとやはり平常心ではいられない。
それは、教師も同じである。だが、教師たちは生徒たちを落ち着かせ、
事態の収拾をしなければという使命を胸に、なんとか心を鎮めるのだった。

半吸血鬼たちが都市へ侵入するまで時間がない。
生徒たちを統率していく中、その前にメンテナンスの中断を申請しようと教師の一人が無線機に手を伸ばした時──
静電気のような小さな破裂音の後、結界が張られた。続いて無線機から警備員全員に、
茶々丸から半吸血鬼へ迂闊に手を出さないようにという命令が届けられる。
その命令は茶々丸からではなく、彼女の主であるエヴァからのものだという事は容易に察せられた。

エヴァンジェリン・A・K・マクダウェル。
"闇の福音"、"不死の魔法使い"、"童姿の闇の魔王"などの異名を持つ、
真祖の吸血鬼である彼女の印象は最悪といっても過言ではないだろう。
それは魔法使いたちに限らず、至る所で授業をサボっているのを目撃されている為、
一般の教師や生徒たちからもである。雰囲気や態度も、その評価を悪い方へ加速させている要因だ。

そんなエヴァからの命令に、警備員たちは従う事を躊躇った。
だが、吸血鬼との戦闘経験がある者は皆無。精々多少の知識が、常識の域を出ない程度にあるくらいだった。
なにせ、吸血鬼は幻の化物と言われているほどの存在。そんなエヴァ以外にいるかどうかも判らない存在の知識を、
必要以上に学ぼうとする者など普通はいない。だから不本意ながらも、
同じ吸血鬼であるエヴァの指示に従って攻撃はせず、監視だけしていると──
森に茶々丸の腕に乗ったエヴァが現れた。

早速吸血鬼に関する説明を求め近付く教師を無視し、エヴァはどこかイラついた面持ちで結界の前まで歩みを進めていく。
何をするつもりなのだろう。そう怪訝に思いながら警備員たちが見守っていると、エヴァは両手をぶらりと垂れ下げ、
そして何かを下から投げるように振り上げる。続いて開いていた手をギュッと握りしめると、次の瞬間──
結界の外で赤い目をギラつかせていた半吸血鬼の少年が、何かに体を締め付けられたような格好で結界内に引きずり込まれた。

突然の出来事に、エヴァの近くにいた者たちが悲鳴にも似た驚きの声を上げる。
それには見向きもせず、エヴァは地面で芋虫のようにのた打ち回っている半吸血鬼の少年を踏みつけると、
躊躇いなく顔を近づける。そして、覗き込むように瞳を真正面から見つめ、誰にともなく呟いた。


「確かに半吸血鬼だな。そして、何らかの暗示……やはり囮か。となると、親はおそらく……」


暴れる半吸血鬼はそのままに、エヴァは立ち上がって茶々丸に何かを伝える。
そのすぐ後、警備員たちに茶々丸からエヴァの指示が伝えられた。

要約すると、半吸血鬼たちはおそらく囮であり、目的は不明だが、親の吸血鬼が都市に侵入している可能性がある。
その為、半吸血鬼を拘束し治療する班と、親を探す班で分かれるようにとの事だった。
そしてどちらの班もかならず2人以上で行動し、捜索班は親を見付けてもまずは連絡するよう厳命された。

補足として、半吸血鬼は治療する事で人間に戻す事ができる為容易に殺す事ができず、
しかし手加減をしつつ相手にするには少々手強い事から、時間稼ぎの囮として非常に優秀なのだそうだ。
だが、良心のある者には到底使えない手段である。つまり、それを今現在行っている親は、良心のない、
平気で血を吸い他人を囮として行使できる堕ちた元人間である"化物"であるという事。
だから捜索班は、吸血鬼にされたくなければ、慎重過ぎるぐらいに警戒するようにとの事だった。


「──随分と積極的だね、"闇の副音"。てっきり君は、あの少女の傍にいる事を選ぶと思ったんだが」


明確な厭味を含め、エヴァへと歩み寄った黒色の肌を持つ魔法先生、ガンドルフィーニが言う。
これは、今のエヴァの姿を見た者全員が、口に出さないだけで内心思っていた事だった。
今夜は多くの魔法先生、魔法生徒が警備にあたっている。故に、いつも警備に対し微塵もやる気が見られないエヴァは、
警備は他人任せにし、気に入っているらしい少女リタを優先するだろうと。
それなのに警備を優先し、しかも自ら率先して事態の解決させようと動いているのだから、疑問を持って当然だろう。

エヴァは厭味に対し、特に気を悪くした様子もなく──


「怒られたくは、ないからな」


街へと向かった茶々丸を見送った後、どこか嬉しそうに苦笑した。

誰に、とは言わなかったが、それが誰を指しているのかはすぐに判った。そして同時に思う。エヴァらしくないと。
みなが知るエヴァンジェリン・A・K・マクダウェルという人物は、怒られる事を気にするような可愛い性格をしていなかった。
誰かを想い、柔らかな笑みを浮かべるような、そんな人物ではなかった筈だと。

雨音理多。彼女がエヴァを変えた事は間違いないだろう。
一体、どんな魔法を使えばそんな事が可能なのだろうか。
一人の教師として、ガンドルフィーニはその奇跡の御業を知りたいと思った。
これ以上ないほどの不良であるエヴァを変えられるのだ、どんな不良でもたちまち更生させられるだろう。


「……君が、そんな事を言うとは思わなかったな」


ガンドルフィーニはいつでも無表情な顔を驚きに歪めつつ、みなを代弁するかのように思った事を口にした。
するとエヴァは、再び苦笑し──


「私もそう思うよ」


そう言って、視界に入った半吸血鬼を縛り上げた。


 ◆


エヴァの指示に従い、拘束班は2人以上のチームを組んで吸血鬼を拘束し、治療する。
それを繰り返し、警備員側からは大きな怪我人を出す事なく、次々と半吸血鬼が拘束されていく。
エヴァも拘束班に加わり、懸命に拘束していっていた。額の汗を拭いながら、他の拘束班に負けないほど真剣な面持ちで。
そんなエヴァは、"闇の福音"などと言われている者と同一人物だとは思えなかった。

そうして見える範囲にいた半吸血鬼たちを全て拘束し終えた頃、ガンドルフィーニがエヴァに言った。


「君は、例の子の所へ行くといい」


鬱陶しそうに金色に輝く髪をかきあげる手を止め、エヴァは信じられないモノを見るような目をする。
自分たちの苦労が増すだけで、何のメリットもない事を提案してくると誰が予想できようか。
しかも評判が最悪であるエヴァに、エヴァを危険視している者たちの中で最たる人物であるガンドルフィーニがだ。


「…………いいのか?」


エヴァは、自分が周りからどう思われてるのかを自覚している。故に、何を企んでいるんだと邪推した。
しかし、ガンドルフィーニが何かを企んでいるようには見えなかった。訳が判らないと、ふと周りに目を向ける。
すると、自分に頷きかけてくる者たちが何人もいる事に気付く。

信じられないといった様子でいるエヴァに、ガンドルフィーニは後押しの一言を口にした。


「集中力を欠いている者が傍にいると安心できないからね。さっさと行きたまえ、私の気が変わらない内に」


そう言って、ガンドルフィーニは背を向けた。
その背中を見ながら、エヴァは不器用な奴だなと笑みをこぼすと──


「すまない、感謝する」


小さく頭を下げて、街へと駆けて行くのだった。



[26606] 第2章 16時間目 命を奪う覚悟
Name: あかいつき。◆3327a354 ID:742ccd16
Date: 2011/03/20 18:45
破裂音の後、理多たちの居る噴水広場を丸々全て包み込んだ半透明の黒い壁。
暗闇の中の暗闇という奇妙な空間を作り出したそれは、人払い、認識阻害、防音、
衝撃吸収など様々な効果を併せ持つ非常に高度な結界だった。
その中に閉じ込められた理多は、どこか違和感の覚える声と共に屋根から飛び降りてきた、
この結界を張ったであろう少女を注視した。

肩まである茶色の髪をツーサイドアップに結わき、独特の光を湛えている髪と同じ色の瞳。
ワイシャツと黄色のノースリーブセーター、そして青色のリボンとプリッツスカートは学校の制服だろう。
何処のかまでは思い出せないが、高校へ進学するにあたり、色々なところへ見学に回った時見た覚えがあった。

そんな、どこをどう見ても平凡な少女を前に、理多はじりっと半歩片足を下げて身構え、警戒を露わにしていた。
瞳が赤く変色キュウケツキカしているところから、その度合いが察せられるだろう。
何故理多がここまで、人当たりの良さそうな少女を警戒しているのか。それには当然理由がある。

言うまでもない事のように思えるが、普通の人間は、屋根から飛び降りたりなどしない。
そして、突如として張りめぐらされた闇色の結界。このレベルの物を張る事ができる少女は、熟練の魔法使いか、
もしくは魔法道具を使用したか──何にせよ、裏の人間である事には間違いだろう。
素性も、結界を張った目的も何も判らない以上、少女を警戒するなという方が無理な話である。

そして、理由はまだあった。少女を警戒する、大きな要因が。それは、一目で見抜いていた"少女の正体"である。
吸血鬼となって得た高い感知能力のお陰なのか、"同族"であるが故なのかは不明だが、判ってしまったのだ。
目の前の少女が、日の光を恐れ、闇に潜む、血を糧として生きる──"吸血鬼"であるという事が。 

本当は、吸血鬼だからという理由で、自分と同じ被害者である可能性の高い少女を警戒などしたくはない。
敵意の眼差しを向けられる気持ちを、心の痛みをよく知っているからだ。しかし、それと同じくらい、
吸血鬼が危険な存在であるという事も知っていた。故に、嫌だからといって警戒を解く事はできなかった。
なにより、この少女は──


「オメー、何ガ目的ダ」


理多の首にかかるポーチから出たチャチャゼロが、いつの間にか手にしていた身の丈の倍以上もある包丁を少女に突きつける。
背中に生えるコウモリのような黒い翼をはためかせ、心なしか理多を庇うように前へ出ながら。その姿には敵意しかなく、
下手に動けば即座に切り捨てるという言外の警告が見て取れた。

チャチャゼロの放つ敵意に、理多は息を飲んだ。守られている立場であるというのにだ。
それほどまでに鋭く刺々しい敵意を向けられたとなれば、気の弱い者なら尻尾を巻いて逃げだしてしまうだろう。
それすらできず、その場にへたり込んでしまうかもしれない。それを真っ向から向けられている少女も、
そうなってしまうだろう。そう、理多は思っていた。

だが、少女は包丁にも敵意にも一切怯える事もなく、それらを知覚していないのではないかと思ってしまうほど自然体でいた。
その事に内心驚愕していると、少女は柔らかな笑みを浮かべ、まるで親しい友達に対するかのような人懐っこい口調で言った。


「わたしは矢塚さつき。今夜は貴女をお誘いにきたんだよ、雨音理多さん」


初対面であるにも拘わらず、少々馴れ馴れしいその態度に不快感を覚えないのは、
さつきと名乗った少女の持つ雰囲気と笑顔の成せる技だろうか。などと思わず警戒心を緩めてしまいながら、
お誘いとはとオウム返しをすると、さつきはよくぞ聞いてくれましたといった表情で頷いた。


「そう、お誘い。たぶん貴女も経験あると思うんだけど……
 私、ただ"吸血鬼だから"って理由で殺されかけた事があるんだ。
 酷いよねぇ、必要なだけしか血を吸わないようにしてるのに」


腰に手を当て、さつきは眉をしかめて頬を膨らませる。
それに対し、あまり反応したりしない方がいいのかなと思いながらも、理多は小さく頷き返す。

確かにさつきの言う通り、理多にもそういった経験がある。
嫌というほど殺気を浴びせられながら後を追われたり、背中を撃たれて斬殺される直前までいったり。
保護という形ではあるものの、監禁されたりもした。そういった対応をされてしまうのは、
吸血衝動の恐ろしさを身を持って体感した理多としては、仕方がないとは思う。
しかし、さつきの言い分もよく判った。なりたくて、吸血鬼バケモノになったんじゃないのにと。


「それでね、わたし考えたんだ。吸血鬼同士で手を組んで、魔法使いたちにガツンと文句を言ってみない?」


名付けて"吸血鬼同盟"なんてのはどうかなと、さつきはニコリと笑って右手を差し出した。
一緒にこないかと、理多に向かって。

さつきの提案は悪くない──正直に言ってしまえば、かなり良いと思った。
吸血鬼を無警戒で受け入れてほしいとまでは言わないが、
問答無用で殺しにかかってくる事だけでも止めてもらえればかなり助かるし、
何処かで隠れ住んでいるかもしれない他の吸血鬼にとっても良い事だろう。
エヴァに対する世間からの目も、もしかしたら少しは和らぐかもしれない。
文句を言って良い結果に終わるとは限らないが、行動を起こさないよりずっと良い。


「──ごめんなさい、お断りします」


しかし、理多は誘いを断った。決して、さつきの提案が気に入らなかった訳ではない。行動を共にするのが嫌な訳でもない。
さつきがやっぱり止めると言っても、自分一人でやってもいいと思えるほどに提案を気に入っているし、
出会ってからまだ数分と経っていないが、さつきとは仲良くやっていける気がしていた。
にも拘わらずきっぱりと断ったのは、"ある一点"が全ての原因である。

理多は、目を細めて静かに問いかける。
どうして断るのと首を傾げるさつきに向かって──否、さつきの瞳の奥の、
"さつきではない誰か"に向かって。


「勘違いだったらごめんなさい……"アナタ"は、一体誰ですか?」


瞬間、場の空気が微かに変化したのを理多は確かに感じ取った。


「ソノ餓鬼ヲ操ッテルオメーハ誰ダッテ聞ィテンダヨ」


理多に続き、チャチャゼロがめんどくさそうに言う。
電池の切れた玩具のように、糸の切れた人形のように動きを停止させているさつきに向かって。
そして、長く感じた数秒後、さつきに変化が訪れる。それは、さつきに注意を向けていなくても一発で気付くほどの、
大きなな変化だった。

さつきの顔から、表情が抜け落ちた。

それはまるで、笑顔という仮面を剥がすかのようだった。
そして、仮面の下にあったのは、完全なる無の表情。変化はそれだけに留まらず、
雰囲気から何から、全てが別人と化してしまっていた。


「……どうして、判ったの?」


もう"演じる"のは止めにしたらしい。
吐き出された問いかけの声は、人工音声のように機械的で、抑揚のない平坦なものだった。
理多は無機質なラジオにでも話しかけるかのような、妙な心境を抱きながらさつきの質問に答える。


「私は、感知能力が高いんです。だから、
 矢塚さんに何らかの術がかけられている事は、最初からなんとなく判っていました」
「声モナカナカ上手クヤッテイタガ、不自然ダッタシナ」


とはいえ、そういった技術を知らない者──表の世界の人間相手であったなら、おそらく騙し通せていただろう。
声に違和感を抱く事はあっても、風邪か何かだと思ってしまう筈だ。なにせ、さつきという少女の普段の様子を知らず、
動きをちゃんとトレースできていたのかどうかを比較できない理多たちからすれば、声の違和感以外は完璧だったのだから。
さつきが操られていると勘付いていた理多でさえ、少しずつ自信を失っていってしまっていたほどに。


「──────なるほど、そこから操っている者がいると推測した訳ですか」
「えっ……そんな……その声、まさかアナタは……」


顔に笑みが張り付け、さつきはため息混じりに呟かれたその声は、少女のものでも、機械的なものでもない。
丁寧な口調の、"男の声"だった。そして、理多にとっては聞き覚えのある──


「どうだい? 吸血鬼の暮らしは」


非日常に突き落とされた日の夜、理多へ吸血鬼化の事を告げた男の声だった。

男の言葉を無視し、理多は敵意を超えた殺意の籠った真っ赤な瞳で睨みつけた。
怒りに呼応して、魔の気配が空気を震わせる。自分を吸血鬼にした事に対して怒っているのはもちろんの事、
自分のみならずさつきまでもを吸血鬼にし、更には操っているという事に怒っていた。
しかし男は、人を殺す事ができそうなほどに鋭い眼差しを受けているにも拘わらず、顔色一つ変えずに余裕の様子で言った。


「何をしに来た、といった顔をしているね。さっきも言ったように、君を誘いに──迎えにきたんだよ、雨音理多。
 満月の瞳を開眼させられるほどのポテンシャルを持つ君を、ね。素質がある判っていたら、
 協会の連中に"後始末"をさせたりはしなかったんだけれど……」


さらりと言った後始末という単語に、チャチャゼロは忌々しげに舌打ちをした。
この発言で、理多が真祖の秘術の実験体モルモットにされた事は、確定したようなものだった。
その事は、ただ傷付けるだけだから知る必要はないとエヴァが口止めし、理多には知らされていなかったのだが、
薄々察していたのだろう。理多は今にも泣き出しそうな顔で、ペンダントを握りしめていた。泣きたくなるのも当然だ。
不慮の事故であったのならまだ諦めがつくかもしれないが、故意に──しかも実験体にされたというのだから。


「それでどうだい? 僕と一緒に来る気は──って、聞くまでもないようだね」


と、男は右手を差し出そうとして止めた。チャチャゼロは心底不機嫌そうに包丁で肩を叩き、
理多はキュッと下唇を噛んで睨みつけている。良い回答を得られない事は、火を見るよりも明らかだった。
それ以前に、人生を狂わされた相手についていく筈がない。それは男も判っていたのだろう。
早々に勧誘を諦め、やれやれと首を振ると──


「それなら仕方がない……」


突然、さつきがガクンと項垂れた。理多の感覚が鋭敏に、さつきにかけられた何らかの──
おそらく操る為の術が解かれたのを感じ取る。それで解放されて解決、とは残念ながらいかない。
さつきの全身から狂ったように魔の気配が噴出し、そして、理多とチャチャゼロが身構えた直後──


「力ずくでも、君を"回収"させてもらうよ」


瞳を血の色に光らせ、牙を剥く吸血鬼が、檻から放たれた猛獣の如く理多たちへと襲いかかった。

理多たちは即座に左右に散り、寸前まで理多の居た場所へとさつき爪が振り下ろされる。
さつきの動きは速いものの理多ほどではなく、肉眼で十分捕らえる事ができる程度。
理多と比較して考えるに、おそらく機動力に優れたタイプではないだろう。
では一体、さつきはなんのタイプの吸血鬼だろうか、という思考は──
地面のタイルを粉々に粉砕し、抉ったのを見て無意味であると知る。


「パワータイプ……!」


魔力や気を纏わせて強化されていない、ただの一振り。それは、理多の力を一回りも二回りも上回っていた。
さつきの怪力に息を飲みつつ、自分の方を追撃する事を選んださつきとの間に"光盾"を展開する。だが先の一撃を見るに、
おそらく防ぎきる事はできないと判断し、"光盾"に拳が叩きこまれた瞬間跳び退いた。そして"光盾"は理多の予想通り──
否、予想以上にあっけなく、一瞬も拮抗する間もなく砕け散ったのだった。

あっさりと"光盾"を砕かれた事に驚愕しつつ、"心言詠唱"で"魔法の射手"を放ち牽制。
その隙に先程分かれたチャチャゼロと合流する。


「結界ハ破レソウカ?」


遠巻きにこちらの様子を窺っているさつきから視線を外さずに、理多は首を横に振る。
結界を破壊する際のセオリーは、結界を構成している起点となるモノを破壊する事なのだが、
それが何処にあるかは見当もつかない。相手も、探して容易に見つかるような場所に起点置いてはいないだろう。
試してみなければ確かな事は言えないが、力技で強引に結界を破壊するのも難しい。


「……ナラ、殺ルシカネーナ」


包丁を持ち直し、倒すではなく殺すと当たり前のように言って、チャチャゼロは理多が止める間もなく殺しにかかった。
有限即実行。チャチャゼロは容赦なくさつきの爪を掻い潜り、包丁で斬り付けていく。
そして生まれた一瞬の隙を見逃さずに懐に潜り込むと、さつきの横腹に横一文字の傷跡を作り出した。


「チッ、怪力ニ加エテ再生能力ガ高ケェノカ……厄介ダゼ」


吐き捨てるチャチャゼロの視線の先で、さつきの傷は徐々に塞がっていき、
何事もなかったかのように見えなくなってしまう。これではとても、
チャチャゼロ一人では殺しきる事ができそうになかった。


「チビッ娘、見テネェデ協力シロ!」


再生能力の高いさつきを殺すには、チャチャゼロが理多の盾となって詠唱の時間を稼ぎ、
強烈な一撃を持ってして即死させるか。もしくは、二人で連続攻撃を行い、
再生が追いつかなくなるほどのダメージを積み重ねていくか。
チャチャゼロは前者を選択し、さつきの前へ。そして理多は覚悟ができないまま、詠唱を開始した。


「──リク・ラク・ラ・ラック・ライラック……」


チャチャゼロの言う通り、此処から生きて出るにはさつきを殺すしかないのかもしれない。
結界をどうにかして逃げる事は難しく、外からの救援を限られた空間の中でさつきの攻撃に耐えながら待てるとは思えないし、
殺さないよう気を使って相手にできる強さではなかった。殺さなければ殺されるだろう。


(でも……)


ずっと、平穏な世界に生きてきた。殺し、殺される世界など、全て画面越しの──
言ってしまえばフィクションのようなものだった。人を殺す事は禁忌だと教えられ、それを当然のように思い、
納得して生きてきた。例え殺す事はいけないという決まりがこの世から消えたとしても、もはや心に、魂に、
それは覆し難い自分の中の常識として刻みこまれている。

そして両親の死を通し、死はとても辛くて悲しい事だという事を知っていた。
自分の世界が壊れてしまうほどに衝撃的な事だと、身をもって知っていた。
勝手に吸血鬼にされ、それまでの行いも何も関係なく悪の烙印を押されたさつきにだって、
今は会う事ができないかもしれないけれど、理多のように家族や友達が居る筈だ。できそうになかった。
例え、殺さなければならないのだとしても、殺す覚悟なんてできそうになかった。
誰かに悲しみを突き付ける事を、世界を壊してしまう事を、自分の手で行うだなんて理多には考えられなかった。


「満ちよ、黄金の光……」


それでも理多は詠唱を続けた。
殺す覚悟はできない。しかし、だからといって死にたくはなかった。
故に詠唱を続ける。覚悟もできぬまま、黙々と。

掠っただけでも身を削るさつきの爪を、チャチャゼロは避け、いなし、
時にはカウンターを叩き込んで理多の詠唱時間を稼いでいく。いまだに直撃は一度もない。
だが直撃はなくとも、さつきの怪力はダメージを蓄積させていき、チャチャゼロの体がギチリと鈍い音を立てた。
完全に堕ちてしまっているさつきは、もっとその音を聞かせろとばかりに怪力を振り回す。


「調子ニ乗ッテンジャネェ!!」


身長差を活かし、チャチャゼロは思い切ってさつきの懐に潜り込むと、
下段から上段へと幾重もの連撃を加えながら斬り上げた。さつきは咄嗟に急所を守ったものの、体勢を崩してよろけた。


「打ち砕け──」


詠唱は終わり間近、一撃を与えるには絶好のタイミング。
長方形に圧縮された魔力の塊を構え、理多はさつきに向かって地を蹴る。
この一撃で倒せるかはどうかは判らない。
だが、止めを刺す時間は十分に稼げるだろう。だから実質、この一撃が止めのようなものだ。
さつきの前、"黄金の鉄槌"の攻撃範囲で止まると、理多は体を回転させつつ振り上げ──


「──人殺し」
「っ……!?」


"黄金の鉄槌"を構成する魔力は、さつきの目と鼻の先で四散した。
男がさつきに言わせた一言に、理多が躊躇ってしまったのである。
それに気付いたチャチャゼロは卑怯だと毒づく。だが、もし理多が覚悟を決めていたら、
そんな言葉に惑わされたりはしなかっただろう。

覚悟を決めていなかった所為で、チャチャゼロが頑張って作ったチャンスを不意にしてしまった。
自分の所為で──


「チビッ娘ッ!!」


チャチャゼロの珍しく焦った声色の叫びにハッとし、理多は内に向けていた意識を外に向ける。
すると、気付けばさつきが目の前で拳を振りかぶっていた。万全の"光盾"を砕いた一撃を振わんとして。
理多はないよりマシだと、慌てて"心言詠唱"で障壁を展開しようした。

その瞬間、目の前に小さな背中が割り込んできた。


「チャチャ──ッ!?」


思考するまでもなく、それがなんであるのかを理解する。
そして退くよう言い切る前に、チャチャゼロが盾代わりにした包丁の腹へさつきの拳がめり込み、
真っ二つにし、チャチャゼロを吹き飛ばして結界へと叩きつけた。
チャチャゼロに庇われた理多は数メートルほど飛ばされ、3回ほど転がったただけでダメージは殆んどない。
しかし──


「ガァ……ク、ソ……ッ」
「チャチャゼロさんっ!!」


地面を抉り、"光盾"を純粋な力のみで砕いた一撃が直撃したチャチャゼロの状態は深刻だった。
人の形はしている。しかし、左腕と胸から下は、皮一枚でかろうじて繋がっているような状態だった。
人間なら、間違いなく即死しているだろう。吸血鬼となり、頑丈になった理多でも耐えられるかどうか微妙なところだった。
人形であったチャチャゼロは、辛うじて生きている。だが、動く事ができない事は、
戦闘をもう行う事ができないのは誰の目にも明らかだった。

自分が覚悟をしなかった所為でと、理多は自分を責めた。
以前チャチャゼロが言っていた通りだった。覚悟をしなければ、大切なモノを失うと。
だから覚悟をした。自分を、誰かを守る為ならば、傷付ける事を躊躇わないと。
だが、今になって、こんな状況になって初めて気付かされた。覚悟が全然足りていなかったという事に。
もしかしたら気付かなかったのではなく、覚悟をする事を無意識の内に避けていたのかもしれない。
誰かを守る為に──誰かを殺す覚悟を。

しかし、その事に気付いてもできなかった。
チャチャゼロが傷付くのを目の当たりにしても覚悟をする事ができなかった。
さつきを──エヴァと出会う事ができなかった、もう一人の自分を殺す覚悟ができなかった。
同じ境遇に立っているが故に。死にたいという気持ち。生きたいという気持ち。血を吸いたいという気持ち。
本当は吸いたくなどないという気持ち。どうしようもない気持ち。
それらの気持ちを手に取るように判ってしまうからこそ、覚悟を決められなかった。

全力で展開した"光子・光障壁"が、1撃、2撃、3撃目で砕け散る。
顔面に向かって放たれた4撃目は跳び退く事で回避。しかし、その後どうすればいいのかが判らない。
ただ、さつきを殺せないという事だけが頭にあるだけ。そして、死にたくないからひたすらに回避していく。
だが、拳1つで障壁を砕き、牽制の射手にも怯まなくなったさつきに対し、
理多はなんとか直撃だけは免れているものの、余波で全身傷だらけになっていた。


「躊躇ウナチビッ娘!! ソイツハモウ人間ジャネェ、心ガ壊レチマッテル正真正銘ノ化物ダ!」


地に転がるチャチャゼロが声を張り上げる。
半壊してしまった所為だろうか、声にノイズのようなものが走っていた。

チャチャゼロに張り合うようにしてさつきは咆哮を上げると、理多に跳びかかる。
理多は今まで曖昧に理解していた人の吸血鬼に対する恐怖を、
さつきという吸血鬼を客観視する事によって今ようやく理解していた。
確かに吸血鬼は──さつきは化物だ。そんな化物を殺しても、人殺しにはならないのかもしれない。
判っている。でも、それでも理多は魔法を身を守る為だけに行使する。


「オ前ガソイツノヨウニナッタラドウ思ウ!
 殺シテホシイ、死ンダ方ガマシダッテ思ウンジャネェノカ!?」


その通りだ。
平穏な日常を、家族を、友達を、何もかもを全てを失って。
全てが怖くて、痛くて、苦しくて、辛くて、悲しくて。
無理して生きても希望はないからと、誰かを傷付けるくらいならと。
誰が誰かも判らなくなって、人の心を失って、生きる為に血を吸い、
血を吸う為に生きる化物になってしまうなら死んだ方がマシだと、確かにそう思った。

でも、本当は生きていたかった。
全てを捨ててでも、人の心を捨ててでも生きたいという気持ちもあった。
死んだ方がマシだからといって、死にたい訳では決してなかった。


「モウコウナッチマッタ以上、ソイツニトッテノ救イハ死ダケダ!!」


本当に、そうなのだろうか。何とかできないのだろうか。
自分が吸血衝動に蝕まれていた時、死が救いだと本気で思っていた。それしか道はないのだと思い込んでいた。
けれど、道は他にもあった。失っていたモノは全てではなかった。代わりに手にいれたモノもあった。
希望は、確かにあったのだ。

障壁でさつきの怪力を防ぎ切れずに吹き飛ばされ、地面を数回転がって停止した時、カランと何かが音を立てて転がった。
どうやら今ので頭のどこかを切ったらしく、血が顔を半分を赤で染めていき、その血で赤くなった視界の中で転がった何かを見る。
その何かは、チェーンが切れてしまった、母の形見であるネックレスだった。
黄金の宝石が、傷だらけの理多を映している。


「────あった」


理多の口から笑みがこぼれる。殺すか殺されるかの2択だけではなく、第3の選択肢は──救いはあった。
自分は、その第3の選択肢によって救われた前例だというのに、思い付かなかった。
殺すか否かに囚われてしまい、すぐ傍にあった"切り札"に気付く事ができなかった。

叩き潰すように振り下ろされたさつきの両拳を、理多はネックレスを拾うと同時に四足で跳ねて避け、距離を取ると、
両足でしっかりと立ち上がる。切り札は見付かった。これによって、さつきを救えるかもしれない。だが、不安材料はある。
成功するとは限らない。でも──


「ごめんなさい」


何に対して謝ったのだろうか。理多はポツリと呟くと、強い眼差しでさつきを見据えた。
その目には迷いはなく、チャチャゼロはついに殺す覚悟を決めたのかと思う。が、それにしては、
理多の表情はあまりにも晴れ晴れとしていた。とても、これからさつきを殺すといった表情ではなかった。
物凄く嫌な予感がした。そして、その予感は見事的中していた。
理多はネックレスを握りしめ、口元の血を拭いながら宣言する。


「私、無茶します!」


絶句するチャチャゼロを余所に、理多の戦いがようやく始まった。



[26606] 第2章 17時間目 第三の選択肢
Name: あかいつき。◆3327a354 ID:742ccd16
Date: 2011/03/20 18:45
エヴァは焦りに焦っていた。理多を探して街中を駆け回っているのだが、一向に見つかる気配がないのだ。
半吸血鬼を学園都市へ差し向けた犯人を探す警備員たちに尋ねても、返ってくる答えはみな"見ていない"というもののみ。
あまりの手がかりのなさに苛立ち、エヴァは八つ当たりに街灯を蹴りつけた。

絹のようになめらかな金色の髪を掻きむしりながら、理多が見付からない理由を考える。
誰一人として理多の姿を見た者がいないというのは、流石に少々不自然だ。おそらく、
見付け難くする効果を持つ結界の中にいるといったところだろう。理多が身を守る為に張ったのか、
理多を閉じ込める為に誰かが張ったのかは判らないが、一つ確かなのは、
どちらにせよ理多が危険に晒されている可能性が高いという事だ。

学園の者が理多を犯人だと勘違いして結界を張るような事態になってしまっている場合は、それほど危険ではないだろう。
余程好戦的で相手の話を聞かないような者でもない限り、理多を前にして犯人だと勘違いをし続ける事が可能だとは思えないからだ。

しかし、相手が犯人や吸血鬼であった場合は最悪だ。
特に後者の場合、理多は相手の吸血鬼に感情移入してしまって攻撃できない恐れがあるからである。


「くそっ……!」


一刻も早く見付けなければと焦るあまり、足がもつれて転びそうになる。
そんな自分の姿が情けなくて、またある事に対して弱気になっている事が悔しくて、
魔力が封じられてさえいなければと痛くなるほど拳を握りしめた。

魔法が使えれば理多の居場所を探し当てる事など容易であるし、
どんな相手を前にしても理多を"絶対に"守る事ができると言い切る自信がある。
しかし、今の自分はあまりにも無力。魔法が使えなくともこの学園の魔法先生程度なら抑え込めるだろうが、
それ以上に強い者などこの世界にはごまんといる。先程は理多の心配をしたが、犯人がその強い者であった場合、
理多の元に駆けつけても守る事は──

本当に情けなくて悔しい限りだが、犯人が自分、
もしくは理多でも相手にできるレベルである事を祈るばかりだった。


「……なんだ、神頼みでもしろとでも言うのか?」


そんな時、ふと教会が目に入って嘲笑気味に呟き、そして唐突に思い出す。
記憶が確かであれば、教会にはもし自分の"登校地獄"や学園結界が解けて暴れた時の対策として、
対吸血鬼用の様々な道具が用意されてあった筈だと。それがあれば、今の自分でも理多を守る事ができるかもしれない。
相手が吸血鬼であった場合に限ってだが。


「弱点を克服しているとはいえ、教会に入るのはあまり気は進まないが……何か持っていくか──勝手に」


教会には強力な魔除けの結界が張られている為魔族や魔物は入る事ができないのだが、
今のエヴァは殆んど人間と変わらないので引っかかる事はない。
吸血鬼が吸血鬼かもしれない者を相手にする為に対吸血鬼の道具を持つ。
その事に何だかなと苦笑しながら、エヴァは教会へと入っていった。
そのついでに、神頼みするのも悪くないかと思いつつ。


 ◆ ◆ ◆ ◆ ◆


無茶します、などと不安しか抱けない台詞を口にした理多に、チャチャゼロは口をポカンと開けて絶句した。
その一方で、理多がこれから何をしようとしているのかをすぐさま察する。
それは理多の考えている事が顔に書いてあったからという訳ではなく、理多よりもずっと前に"ソレ"を思い付いていたからだった。
殺すか殺されるか以外の選択肢──さつきにかけられた"吸血鬼の呪い"を封印し、無力化する事により"救う"という案を。

そう、チャチャゼロは早々に──さつきを敵と認識し、どう対処しようかと思い始めた時点で、その案を思い付いていた。
にも拘わらず、理多が殺すか殺されるかで悩み苦しむ姿を間近で見ていながら、案を口にせず殺す事を強要した。
それは決して意地悪をする為などではなく、全ては理多を想っての事だった。

エヴァが理多を救う際に用いた封印魔法は、もし理多が封印魔法の起点となっているネックレスを失っても、
自分で何とかできるようにと約三週間の修業の中で教えられていた。教えられているのだが、
今までたったの一度も完璧に行使する事ができていなかった。
封印を得意とする光属性の特化型魔法使いでも容易に施す事ができないほど、
"吸血鬼の呪い"の封印は桁違いに難易度が高いのだ。

封印を確実に成功させられるというのなら、チャチャゼロも案を隠したりはしなかった。
赤の他人であるさつきが死のうが死ぬまいがどうでもいい事だが、理多が殺したくないというのであれば好きにして構わなかった。
そして、それに協力する事もやぶさかではなかった。

しかし、封印が失敗に終わる可能性が高いとなれば話は別だ。例え覚悟や納得ができないままさつきを殺し、
それによって心に一生の傷が残る事になったとしても、死んでしまうよりはずっと良い。だからチャチャゼロは、
理多に嫌々でも殺すという選択をしてほしかった。理多を気に入っているエヴァや茶々丸、
そして、一緒に居るのも悪くないと思えてきている自分の為に、死んでほしくはなかった。
案を隠していたのは、言えば成功率が限りなく0に近くても、お人好しな理多は救う事を選ぶと思ったからだ。
そして、案の定だった。


「止メロチビッ娘! ソノ無茶ハ無駄ニ終ワル!」
「確かに私は、封印を成功させた事はないです。……でも、この方法なら──」


そう言葉を切り、ネックレスの宝石に手をかざして魔力を込めた直後。
宝石を中心にして、複雑な模様の魔法陣が展開した。

その魔法陣を見て、チャチャゼロは理多がこれから行おうとしている事を理解する。
既存の完成された封印魔法の術式を、自分用からさつき用へと書き換えるつもりなのだと。
その発想はなかなか良いものだ。しかし、それでも──


「判っているつもりです。この方法も、無駄に終わる可能性が高いという事は」


チャチャゼロが否定的な事を言う前に、早速術式の書き換えを開始した理多自らが、
自分の選択が無茶であると認めて苦笑いを浮かべた。

術式の書き換えは、一から封印魔法を組み立てるよりも難易度が低い。
しかし、低いとは言っても"超困難"と"困難"程度の違いでしかなく、成功率は依然低いままである事には変わりはない。
それに、術式の書き換えというのは非常に精密な作業であり、普通は落ち着いた環境で深く集中して行うもの。
"魔法の射手"を放ってさつきを牽制しながらでは、当然難易度は上昇する。


「それでも賭けたいんです! 難しいからって、見捨てたくはないんです!!」


牽制と精密作業を同時にこなす事によって、理多の精神はみるみるうちに削り取られていき、
息は荒く嫌な汗滲みだす。しかし理多は、最後まで書き換えや足を止める事はしなかった。

書き換えを終え、魔法陣を宝石へと収める。
上手くいっているかどうかは試してみない事には何とも言えないが、その辺りは自分の力を信じるしかない。
理多は祈るように宝石を胸元でぎゅっと握りしめた後、チャチャゼロの制止を振り切ってさつきの攻撃範囲へと飛び込んだ。


「――リク・ラク・ラ・ラック・ライラック……」


空気を唸らすさつきの拳をあえて跳び込む事で回避し、前転しながら背後へと回り込む。
第一関門の近接は無傷で通過。続いて第二関門である"吸血鬼の呪い"の可視化を実行に移す。
理多の時は吸血衝動をわざと表に出す事によって可視化を強めたが、さつきは表へと出すどころか飲まれてしまっている。


「──紅き鎖、鮮血の呪いよ 仮初の体を得て、その姿を現せ!」


さつきの背中に触れて可視化の魔法を行うと、体に巻きつく痛々しいほどに紅い鎖が虚空より浮かび上がった。
可視化は問題なく成功。問題は、次の第三関門──封印魔法の行使だ。理多は振り向きざまに薙がれた爪で肩を浅く裂かれ、
苦痛に顔をしかめながら宝石を鎖へと押し付けると、願いを込めて封印魔法を行使した。


(お願い、成功してっ……!)


瞬く閃光。
白ずむ視界の中、宝石から鎖へと無数の光の帯が伸びて絡み付き、締めつけられた鎖がギチギチと悲鳴を上げ始める。
その光景は、封印魔法を教えてもらう際にエヴァが実際に封印をやって見せた時のものと同じだった。

術式を書き換えるという少々ズルイやり方であったが、初めて自分の手で封印魔法を行使させる事ができた。
その事に、戦闘中である事を忘れて思わず笑みをこぼす理多の前で、さつきにかけられた"吸血鬼の呪い"が封印────

"されなかった"。


「えっ!? ぐ、ぁっ……!!」


光の帯が音もなく四散し、その下から無傷の鎖が現れる。
そして封印が失敗である事を示すかのように、
雄たけびを上げながら振り回されたさつきの拳は理多を10メートルほど吹き飛ばした。


「は、ぁ……くぅ……」


飛ばされ方が良かったのか、理多は高所から落ちた猫のように上手い事着地し、拳を防いだ両腕を振った。
痺れて若干感覚を失っているが、しばらくすれば回復するだろう。折れている様子もない。その程度で済んだのは、
直撃の寸前に障壁を張り、さらに跳び退いて威力を殺していたからである。でなければ、
チャチャゼロのように体を破壊されてしまっていただろう。さつきの雄たけびがなければ、きっと反応する事ができなかった。


「諦メロチビッ娘! オ前ジャ無理ダ!!」
「嫌、ですっ……!」


それみた事かと、考え直す事を迫るチャチャゼロに対して小さく首を振って即答すると、
理多は封印魔法の失敗で沈んだ気持ちを切り替える。痛がっている余裕も、落ち込んでいる暇もない。
"魔法の射手"を纏わせた手でさつきの怪力を何とか弾き返し、距離を取って書き換えた術式を見直す。

しかし、術式に間違いは見付けられなかった。
見落としてしまっている可能性は否めないが、だからといってじっくりと確認できるような状況ではない。
封印に失敗した原因は魔力の質と気合だと若干適当に見当つけて、理多は再度封印を実行に移す事にした。
まずは、近接する為の隙を作り出す事から始める。

脚や"魔法の射手"を使って翻弄し、隙を作り出そうとしていると、自分の攻撃が当たらない事に苛立ったのか、
さつきが隙の多い大振りの攻撃を繰り出してきた。一撃必殺に成り得る怪力に正面から立ち向かうのは怖いが、
このチャンスをみすみす逃す手はない。理多は"光子・光障壁"で攻撃をいなし、
カウンターで宝石を叩きつけて封印を行おうと目論んで身構えると────"全力で跳び退いた"。


「──っ!? "光子・光障壁"!!」


救う事を諦めた訳ではない。怖気ついた訳でもない。"生きる為に"跳び退いたのだ。
感知能力の高さで微かな違和感を抱き、即座に回避行動に移っていなければ、おそらく首から上を失くす事になっていただろう。
さつきの強化された──"気を纏った"拳の一撃によって。

強化されたさつきの拳は、これまで砕くのに四撃必要だった"光子・光障壁"を一撃で砕き破る。
そしてその障壁の先にいる理多を噴水へと勢いよく叩きつけ、水飛沫と瓦礫を撒き散らせた。

結界の中に、大破した噴水による雨が降り注ぐ。
視覚的にも聴覚的にも、遠目で見ても判る明らかな異変。
広場の傍には人の居る建物もあるというのに、誰一人として窓から顔を出して確認しようとする者はいない。

瓦礫の山に埋もれながらも、理多はまだ生きていた。切り札であるネックレスも、何とか手放さず右手の中に収まっている。
"心言詠唱"で展開した障壁をクッションにしたお陰で、見た目の惨状の割に受けたダメージは少なかった。

しかし、そんな事で喜んではいられない。
ただでさえ悪かった状況が、さつきが"気"を扱えるようになってしまった事でさらに悪化してしまった。

気というものは通常、その存在を意識して修練を積んだ者が扱えるようになる力であるが、
何の知識もない表の世界の人間が使えてしまうという事例はなくはない。
しかしそれは人生をささげて修練を積み重ねた達人たちの至る境地であり、
並みの武闘家や素人がおいそれと扱えるようになれるほど簡単な力ではない。

ただ数か月の修業で扱えるようになる天才や、魔力と違って格差が出辛い気で圧倒的な格差を作り上げてしまう超人など、
例外というのは何事にも存在する。どうやらさつきは、その例外に含まれるポテンシャルの持ち主だったようだ。
それも、いつ満月の瞳を開眼してもおかしくはないほどの。

気による身体能力の強化が可能になった事により、さつきは"光子・光障壁"を一撃で砕けるようになってしまった。
理多が現在使用可能な障壁の中で、"光子・光障壁"は最も強度の高い魔法。それが通じなくなってしまった事は、
封印を行うにあたって近接しなければならない理多には大き過ぎる痛手だ。守りもなしにパワータイプに接近するなど、
自殺行為以外の何物でもない。


「何デソコマデシテ救オウトスルンダ。自分ヲ守ル為ニ修業シテキタンジャネーノカ!?」
「──っ……自分と"誰か"を……ですよ、チャチャゼロさん」


だというのに、理多の目に諦めの色はなかった。瓦礫を跳ね除けながら、震える足に力を込めて立ち上がる。
たったそれだけの動作で、体のあちこちが悲鳴を上げた。そして思ったよりも出血が多いようで、
嫌な寒気がしている上に吸血衝動が疼き始めてきていた。

限界は近い。おそらくここが、救う事を諦める最後の機会だろう。
チャチャゼロが何度も言っていたように、無茶してまで失敗に終わる可能性が高い事などせず、
殺す事を選ぶ方がいいのかもしれない。かもしれないではなく、そうなのだろう。
なにせ、失敗はさつきのように男のモノになるという、死と同等の結果をもたらす事になるのだから。
命が惜しいのなら、殺す事の方が簡単で安全だ。


「救って、みせます」


しかし、それを十分に理解していてもなお、理多の決意は揺らがない。
さつきを見据え、誰にともなく宣言する。

命が惜しくない訳じゃない。ただ、エヴァが絶望の淵から自分を救ってくれたように、今度は自分がさつきを救いたかった。
そして、自分がエヴァたちと過ごす中で知った事を──吸血鬼コンナコトになっても、
独りではない事や得るモノがある事、幸せになれるという事を教えてあげたかった。

心の中の拳銃を手にし、トリガーに指をかける。
銃弾に込める"想い"はすでに決まっている。後はただ、トリガーを引くだけだ。
迷いはない。恐れは──ある。茶々丸を助けた時のように、また暴走してしまわないかという恐怖はあった。

暴走してしまう可能性は、きっとかなり高いだろう。
傷付き吸血衝動が表に出つつあるこの不安定な心理状況で抑え込めるほど、身に宿る闇の力は優しくない。
それでも理多は、躊躇なくトリガーを引いた。無茶を通そうというのに、手段など選んではいられないのだから。


「絶対に──"救ってみせます"!!」


しかし、だからといって暴走してしまっては救えるモノも救えなくなってしまう。
それどころか、自分が救いを妨げる事になってしまいかねない。ならば意地でも暴走する訳にはいかないと、
クリアになっていく思考の中で強く決意した。苦笑すら浮かばないほど一から十まで無茶ばかりだが、それだけの価値はある。

双瞳が、夜空に浮かぶ満月の如き黄金の輝きを放ちだす。迷いも恐怖も痛覚も、さつきを救う為に不要なモノは全て遮断される。
暴走の兆しは──ない。理多は僅かに感情の窺える無機質な表情で一息吐くと、ネックレスを握り直して地を蹴った。

開眼した事によって得た機動力と圧倒的速さで結界内を駆け跳び回り、さつきを翻弄して封印する為の隙を作り出そうとする。
それに対してさつきは、常人ではまともに視覚できない速さの理多に気で強化した動体視力や感覚で反応し、
掠るだけで地面を抉る拳圧による弾幕を張って接近を拒む。

女性らしい繊細さなど欠片もない。どこまでも荒々しく苛烈な攻防。
結界の中は、二人の吸血鬼によって台風が訪れたかのように蹂躙されていく。
もはやこの場所が噴水広場であった頃の面影など何処にもない。水浸しで瓦礫が散乱した荒地と化していた。

攻防は完全に拮抗している。どちらかが危険を承知で一歩踏み込まなければ、
この状況はお互いの体力が続く限り変化する事はないだろう。そうなれば、どちらが不利であるかは明白。
これまでの戦いで傷付き、いつ己に牙を剥いてくるか判らない力を使用している理多の方だ。


「……く、ああああああ!!」


その事を悟り、理多は現状を打破する為に"魔法の射手"を限界まで拳に纏わせて肉迫した。
そして迎え撃つ事を選んださつきの拳と拳が正面から激突。その衝撃で二人を中心に地面が砕け、
瓦礫は吹き飛び、こころなしか結界が震えた。

二つの拳は合わさった状態のまま、周囲の被害に比べて静かに停止している。
傍から見ればそれは、相殺したかのようだったが、次の瞬間理多が眉をひそめ、
続いて理多の拳からのみ鈍い音と共に血が噴き出した。

さつきのもう片方の手が動く。障壁は通じず、この超近距離で出遅れてしまった以上回避する事は叶わない。
掴まれるか殴られるか。どちらにせよただでは済まないだろう。そんな絶体絶命の状況で理多がとった行動は──


「──"光爆"」
「っ──!?」


瞬間、二人の間で光が弾けた。

エヴァが以前使用した氷属性の"氷爆"と違い、相手を凍らせるなどといった付随効果が一切ない"光爆"は、
視界を白に染める閃光と純粋な衝撃を撒き散らす。そこに敵味方の区別はなく、さつきと理多の二人を平等に襲った。

しかし、それでも違いは出る。各々の防御力の差によるダメージ量と、事前の心構えによる反応の差だ。
不意に目と鼻の先で爆発が起きれば、無機物でもない限り思考に隙が生じる。だが事前に爆発がくると判っていれば、
少なくとも前者よりは隙が生じない。

そんな瞬き一つできるかできないか程度の差など、通常は大した意味を持たない。
だが、高速で移動が可能な理多には非常に大きな意味を持つ。理多はその差を利用し、
粉塵を後に残して文字通り瞬く間にさつきの死角へと移動した。

その動きは、さつきから見れば理多が突然消えたかのようだった。
理多の居場所が判らない。ただ何もせずにいるのは拙いと刹那の間に判断したさつきは、勘に頼って爪を振った。
それは運が良い事に──理多にとっては運が悪い事に、保険として張っていた通常詠唱と
"心言詠唱"による二重の"光子・光障壁"を貫通して胸部を斜めに斬り裂き、血飛沫が舞う。

普通なら悲鳴を上げるなり怯んでしまうところだが、今の理多には痛覚も何もない。
傷に構わず深紅の鎖に宝石を押し付け封印を行うと、閃光の中封印の結果を見届ける事をせずにずるりとその場に座り込んだ。
正確には、限界が訪れて座り込んでしまった。

しばらくし、パキッと金属が割れるような音。
赤い瞳に戻った理多はその音がした方へ目を向け、そして力なく項垂れると渇いた笑みを浮かべた。


「あはは……やっぱり、エヴァンジェリンさんのようにはいかない……よね」


封印魔法は、二度目のチャレンジの結果発動していた。
ただし、"半分だけ"。鎖は──"吸血鬼の呪い"は、半分ほど消えずに残っていた。

半分でも"吸血鬼の呪い"を封印できた事により、その対価として得ている怪力は失われたとみていいだろう。
だが、同時に理多の力も尽きてしまった。それも、半分どころではなくほぼ全てを。全身に力が入らず、意識があるのが──
生きているのが不思議なくらいだった。

さつきを救う事は、失敗してしまった。
もはや動けない理多に対し、さつきはまだ半分力があるのだから。
それだけあれば、瀕死の少女一人殺す事など訳はないだろう。赤子の手を捻るも同然だ。


「────なかなか楽しめたよ。でも残念、回収は確定だ」


男の声が頭上から聞こえてくる。のそりと視線を上げると、
再び男が操作しているらしく、不自然な笑顔を張り付けたさつきが右手を振り上げていた。


「もう立ち上がる事さえできなさそうだけれど……その脚、念の為に切断させてもらうよ」


逃走の可能性を完全に潰してしまいたいのだろう。
理多の反応を待たず、怪力を失ってもなお脚の一本や二本優々と奪う事ができる爪が振り降ろされる。
もう回避どころか身動ぎする事すらできない理多は、一瞬先に来る激痛に備えて目をつぶり歯を食いしばる事だけしかできなかった。

救ってみせるなどと豪語しておきながら、結局無駄に終わってしまった。
この後くる痛みや男にどんな扱いをされるのかなどといった恐怖よりも、今はただその事が何よりも悔しくて情けなかった。


「…………?」


悔しさを噛みしめている内に、一秒、二秒、三秒と、何も起きずに時が過ぎていく。
そのまま一〇秒経っても変化が見られず、どうした事だろうと意を決して目を開いてみる事にした。
死にかけの体が痛みも何も感じなかっただけで、実際はすでに脚を切り裂かれてしまっているのではないかと不安に思いながら。

結論から言えば、脚はまだ体に繋がっていた。そんな当たり前の事で安堵し、
そんな当たり前な事を心配しなければならない事が起きる世界に身を置いているんだなと思いつつ、
理多はスカートから覗く擦り傷だらけの脚から視線を上へと動かす。
そして目線の高さで何故か停止している爪を通り過ぎ、爪を止めた理由を求めてさつきの顔を見た。

しかし、さつきを操っている男も理解できていないようで、困惑がさつきの顔を通して浮かび上がっていた。
口からも、どうしてと言葉がこぼれ落ちる。


「────ぁ……」


それはこちらの台詞だと眉をしかめたところで、理多はある事に気が付いた。
そして、危機的状況であるにも拘らずホッと胸を撫で下ろした。気を抜いたからだろう、
その瞬間思い出したかのように激痛が走り、その痛みで意識が飛びそうになる。

それを堪えて静かに笑うと、青白くなった手をそっとさつきの顔へと伸ばして拭った。
さつきの目元から頬を伝って流れ落ちる、一筋の涙を。
その涙で、男は爪が"勝手に止まってしまった"原因を理解した。


「コイツ……自我をっ……!?」


生き物を操作するというのは、魔法という特別な力をもってしても非常に難しい。
虫や鳥といった小さな生き物は比較的簡単だが、それ以上の大きな生き物となると儀式や特殊な技術が必要となり、
人間は意識を奪ったりしなければまず不可能だ。

さつきは吸血衝動にのまれ、血を吸いたいという欲望のみで動く獣のようになっていた為に、辛うじて操作が可能であった。
しかし理多の封印魔法によって半分ほど吸血衝動を失い、僅かではあるが自我を取り戻した事で操作ができなくなったのだろう。

それでもまだ、さつき自らが衝動に従って理多を傷付ける可能性はあった。
しかしそれをしなかったという事は、さつきが拒んだという事だ。涙を流し、理多を傷付ける事は嫌だと。
その事に気付いたが故に、理多は思わず嬉しくなってしまったのだ。


「くっ、動け実験体モルモット──!」


しかし、男はそれを許さなかった。ビクンと、さつきの体が痙攣したように揺れる。
男の命令に対し、さつきが拒絶しているのだろう。

だが無情にも、再びさつきの体は男に掌握されてしまう。
さつきは涙を流しながら男の声で笑うという奇妙な様子で、ゆっくりと見せつけるようにして爪を振り上げた。


「もう……大丈夫、だよ」


それでも理多は、笑みを絶やさなかった。虫の息で、指一つ動かす事すら辛いような状態であるというのに。
絶望するどころか、希望に満ちた花のような笑顔を浮かべていた。朦朧とする瞳でさつきの背後、結界の向こう側を見つめながら。

その視線の意味に気付かず、男は理多の態度と言葉を負け惜しみだろうと嘲笑した。
そしてそのまま爪を振り下ろそうとした直後──


「……だって、私を救ってくれた人が……来たんだから」


理多が囁き前のめりに倒れるのと同時、噴水広場を包み込む結界が崩れ落ちた。

男は絶句し、慌てた様子で周囲を見回している。
それを横目に、理多は視線の先──此方に駆け寄ってきている金髪と緑髪の少女に後の事をお願いすると、
眠るように瞳を閉じて意識を手放した。



[26606] 第2章 18時間目 救われぬ者に救いを
Name: あかいつき。◆3327a354 ID:742ccd16
Date: 2011/03/20 18:45
気が付くと、理多はベッドの上に寝かされていた。
目覚めたばかりのぼやけた思考でも、自然目に入る天井から今自分が居る場所を把握できた。
修業中に何度もお世話になった、別荘の休憩所であると。

目蓋をこすり、しばらくぼけーっと天井を眺める。此処が休憩所であるという事は判った。
しかし、何故自分はその休憩所に寝かされているのだろうか。それに、何故こんなにも頭が痛くて体がだるいのだろうか。
それらを思い出す為、理多はゆっくりと最後の記憶を手繰り寄せ──弾けるように飛び起きた。


「そうだっ! 矢塚さんは──いたたたた……」


胸元を押さえてうずくまる。今の痛みで完全に目が覚めた。
あれだけの傷を負って激しく動けば痛くて当たり前だと、反省しながら目頭の涙を拭い、
着せられていたパジャマに指を引っ掛けて胸元を覗き込んでみる。
とても高校生とは思えない平らな胸には、真新しい包帯が巻かれていた。

普通なら手術して入院コース確定なのだろうが、今ので傷口が聞いたりしていないところを見るに、魔法薬を使ったのだろう。
裏の世界の医療技術に感心しながら、さてどうしようと考える。痛みを我慢すれば動く事は可能だが、
可能とはいえベッドの上で安静にしていた方がいいだろう。しかし、自分が気絶した後の事が凄く気になる。
特に、さつきがあの後どうなったのかが。


「……よしっ!」


いてもたってもいられなくなった理多はそろりとベッドから降りると、エヴァたちを探しに月明かりの下へ歩き出た。
そして別荘内にはいない事を確認すると、今度は転送用の魔法陣に向かうのだった。特に何も考えず、無警戒に。

それが、"地獄の入口"であるとも知らずに。


 ◆


別荘の外には、エヴァが居た。

それは、エヴァが吸血"鬼"だから鬼と表現した訳ではない。
別荘を出てエヴァと顔を合わせた際、理多にはハッキリと見えたのである。
エヴァの頭に、二本の角がにょっきりと生えているのを。もちろんそれは幻覚だったのだが、
そんな幻覚を見させるほどにエヴァは怒っていた。にも拘らず、笑顔なのが余計に怖い。

ちなみに理多は今エヴァの自室で、エヴァと向かい合って畳の上に正座をしている。
正座するよう言われたからではなく自主的に、気付けば正座していたのだった。


「傷はどうだ、大丈夫そうか?」


極めて穏やかな口調でエヴァが尋ねる。
それに対し、理多は小動物のようにビクビクと震えながら小刻みに頷いた。
本当は割と大丈夫ではなく、さらに現在進行形でストレスによる新たな傷が生まれそうな感じであったが、
命が惜しいので黙っておく事にした。口をつぐみ、ただただこの時が過ぎる事を願う。

するとエヴァはそうかそうかと大袈裟に頷き返すと、両手を理多の肩に置き、満面の笑顔で言った。


「また約束を破ったな?」


永遠の氷河が訪れたかのような、痛いくらいに冷たい沈黙と空気が室内に流れる。
理多は顔を青くしてエヴァから顔を逸らすが、グリンと無理矢理頭を回されてエヴァの方へと向けさせられてしまう。

恐怖で理多が悲鳴すら上げられないでいると、聞こえていないとでも思ったのか、エヴァはもう一度繰り返し言った。
相変わらずの笑顔と、表情とは違い極寒の眼差しをしながら。


「また、約束を破ったな?」


ここで何の約束ですかと尋ねてしまえば、首を人型としてオカシナ方向に捻じ曲げられてしまいそうだが、
理多はシッカリと覚えている。エヴァの見ていないところでは、決して無茶しないと約束をした事を。
その証拠に、さつきを救うと決めた時にちゃんと謝っている。もっとも、忘れていまいが謝っていようが、
相手からすれば破った時点で同じようなものなのだが。

エヴァの手が両肩に食い込む痛みに冷汗を垂らしながら、理多はちらりと、
いつもと変わらない様子でお茶を点てている茶々丸に無言で助けを求めた。
すると茶々丸は、お茶を配ってエヴァの横に腰を下ろすと、理多のうるうるとした瞳を正面から見つめて言った。
とても素敵な笑顔を浮かべて。


「雨音さん、反省してください」


エヴァに負けず劣らずの迫力があった。感情を窺えないガラスの瞳が、恐ろしさを倍増させている。
絶体絶命のピンチ。心なしか、エヴァと茶々丸が大きくなっているような気がした。

もうこの場に味方は──いや、一人だけ居る。しかし、確認するまでもないように思う。
何故ならその一人とは、チャチャゼロだからだ。怒っているかどうかは微妙なところだが、
怒っていなくとも面白がってエヴァたちの側につく事は容易に想像できる。それでも一応と、視線を向けてみた。


「────ケケ……」


危なげな笑みを漏らしながら包丁を研いでいた。完全無欠に四面楚歌だった。
せっかく生きてログハウスに戻ってこれたというのに、きっと説教されながらあの包丁でざくざくと刺されるに違いない。
死ぬ。吸血鬼化しても絶対死ぬ。というか、すでに恐怖死しそうだった。


「────って、チャチャゼロさん!? 体は大丈夫なんですかっ!?」
「テメェソノ反応、命ノ恩人ノ俺ヲ忘レテヤガッタナ?」


ぬめりと光沢している包丁を向けられ、ギロリと睨みつけられる。
どうやら理多を庇った事によって破壊された体は、エヴァにすぐ直してもらったようだ。
包丁は理多を刺す為の物ではなく、折れてしまったので新しい物を用意していただけなのだろう。

それらは普通に考えれば容易に察しのつく事なのだが、心理状態が普通でなかった為にネガティブな方向に考えてしまった。
理多が慌てて謝ると、チャチャゼロは怪我に免じて許してやると作業に戻っていった。


「──その……お説教の前に、何があったのかを教えてもらえませんか?」


一難去ったところで、理多はおそるおそる手を胸元で上げてお願いしてみた。
話を摩り替える為ではなく──そのつもりが全くないといったら嘘になるが──純粋に気になっていたからだ。
そんな理多の気持ちを察したエヴァは、仕方がないなと息を吐いて怒気を抜くと、一つ一つ理多が気絶してからの事を話し出した。

まずは矢塚さつきについて。エヴァが教会から勝手に持ち出した吸血鬼の動きを封じる杭で捕らえた後、
理多が命がけで施した封印魔法を別荘で完全なモノにし、吸血衝動を抑え込む事に成功する。
しかし長時間衝動にのまれてしまっていた為に心はボロボロで、意識はあるものの抜け殻になってしまっていた。
ただ理多の前で見せた涙の件から、回復する見込みは十分にあり、回復するまでは魔法協会で保護する事になった。


「よかった……本当に、よかった……」
「チャチャゼロに礼を言っておけ。止められていなければ、私はあの吸血鬼を殺していたところだった」
「久々ニ切レタ御主人ヲ見タナ。魔力ガアリャ、街ガ壊滅シテタンジャネェカ」


続いてさつきを操っていた男について。男に関する情報や手掛かりは、今回の事件でも一切掴む事ができなかった。
ただ真偽のほどは微妙なところだが、こちらから理多の前に現れる事はもうないとエヴァに言い残していった。
大量の半吸血鬼を囮に使うという大掛かりな手を使っておきながらあっさりと手を引くのは、
半吸血鬼は全てが理多の為だけに用意したという訳ではなかったという事だろうとエヴァは考えていた。
それが何かは判らないが、ろくでもない事なのは確かだ。


「色々と聞き出してやろうと思ったんだがな、ムカつく笑みを残してさっさと逃げやがった」


最後に、半吸血鬼たちについて。さつきによって半吸血鬼にされていた人たちは、全員治療が施された後自宅へと戻された。
後遺症などの心配もないようだ。最終的に、警備の任についていた魔法先生及び生徒、住人たちや被害者たちの中から、
大規模な事件であったにも拘らず一人の死傷者も出す事なく終わりを迎える。


「結界の外では、大変な事になっていたんですね……」
「いや、結界の中も十分大変だったと思うが……チャチャゼロから、結界内での事は全て聞いたぞ」


そう言って頭に手を伸ばしてくるエヴァに、理多はビクッと目を閉じて硬直した。
叩かれると思ってのその反応だったのだが、やってきたのは優しい感触。
目を開けると、エヴァは先程の恐ろしいものとは違った穏やかな笑顔で理多の頭を撫でていた。

撫でてもらうのは好きだし嬉しいのだが、
そのギャップが腑に落ちず素直に喜べずにいると、エヴァはどこか誇らしげに言った。


「今日はよくやったな、理多。お前の頑張りで、一つの命が救われたんだ」
「エヴァンジェリンさん……」


エヴァの言葉に、理多は思わず涙がこぼれてしまいそうになる。
だが、その涙はすぐに引っ込む事になる。エヴァが頭を撫でる手を止めて言った提案によって。


「そうだ。理多に御褒美をやろう」


嫌な予感がした。凄く、嫌な予感がした。
確かに今日は頑張った。その頑張りを称して御褒美を与える事に、何ら不自然な点はないだろう。
若干エヴァのキャラではないように思えるが、それでもまだ許容範囲内だ。

しかし、忘れてはならない。何故今自分が正座しているのかという事を。
別荘を出て最初に出会ったモノが、なんであったのかを。


「その、矢塚さんの件は私がしたくてやった事なので、そういうのはもらえな──」
「なに、ちょっとしたものだ。遠慮する事なく受け取れ」


そそくさと立ち去ろうと──もとい、逃げようとした理多の頭が抑えつけられる。
捕まるのは拙いと感じた理多は、吸血鬼化して強引に抜け出そうとする。
しかし、ペンダントを掴む直前で何故か体が動かせなくなってしまう。
目を凝らすと、物凄く細い何かが体に巻き付いている事に気が付く。それは、糸だった。


もう逃げられないと観念し、理多は胸元から顔を上げる。すると、目の前にエヴァの小さな顔があった。
もう隠すのは止めたらしく、こめかみに青筋を立てて怒りの表情を浮かべている。そしてその頭には、再び二本の角。

理多は驚き悲鳴を上げそうになったが──


「二泊三日、幻術空間特別説教ツアーの権利だ」


その前に、幻術空間へと引きずり込まれたのだった。



[26606] 第3章 1時間目 密かな決意
Name: あかいつき。◆3327a354 ID:742ccd16
Date: 2011/03/20 22:58
大量の半吸血鬼が学園都市へと押し寄せた事件が、一人の犠牲者も出す事なく終わりを迎えた翌日。
理多とエヴァの二人は、中等部の校舎近くにあるカフェのオープンテラスで昼食を共にしていた。
普段昼食は距離や時間の都合で別々にとっているのだが、今日は理多が学園長に呼ばれて学園へと足を運んでいた為、
どちらからともなく一緒する事を提案し、今に至るという訳である。

茶々丸は昨日の事もあって急遽行われる事になった学園結界の点検を手伝いに行っており、
チャチャゼロは人目のあるところでは自由に動けないからと家で留守番をしている為一緒ではなかった。
もっとも、茶々丸とチャチャゼロは魔力がエネルギーである為この場にいても意味はないのだが。
それでも一緒が良かったなと、理多は少し残念そうにしていた。

日中は眠いだの授業はつまらんだのと愚痴をこぼすエヴァを、理多が苦笑しながらなだめる。
そんな昨日の出来事が夢であったかのような和やかな雰囲気の中にいながら、エヴァの心中は穏やかではなかった。
それは物凄く嫌な予感がしていてなかなか聞き出せないでいる、"学園長が理多を呼び出した理由"の所為だった。

理多の立場は今、非常に危ういものになってしまっているとエヴァは考えている。
吸血衝動は封印によって抑える事ができているとはいえ、それでも吸血鬼である事には変わりはなく、
また昨日の事は理多が一つの原因となってしまっているからだ。
何を言われたのかは判らないが、良い事ではないという事は確かだろう。


「……それで理多、じじいは何でお前を呼び出したんだ?」


大分時間をかけて覚悟を決めたエヴァは、会話が途切れたところを見計らって理多に尋ねた。
内心の恐れを悟られぬよう、努めて静かな声色で。今聞いても後で聞いてもそれで何かが変わるという訳ではなく、
こちらから聞かなくともいずれ知る事になるのだろうからと自身に言い聞かせながら。

すると理多は動きを止め、表情に影を落としてエヴァから目を逸らした。嫌な予感がしていた通り、
学園長の用件は良い事ではなかったらしい。和やかだった雰囲気は曇り空のようにどんよりと暗くなり、
エヴァはせめて食事が終わってから聞けば良かったかと後悔した。しかし、今更後悔したところで何の意味もない。
エヴァは表情を固くして理多の言葉を待った。

理多は持っていたフォークをテーブルに置き、伏し目がちにエヴァを見る。
そして理多は怒らないでくださいねと釘を刺した後、ごくりと唾を飲んだエヴァへやや沈んだ声で言った。


「……その、京都にある関西呪術協会へ移ってくれないかって──」
「あのクソじじい!!」


学園長の言葉の意図を瞬時に理解したエヴァは、数秒前に釘を刺された事も忘れてカッとなり、
両手でテーブルを叩きながら立ち上がった。その衝撃でテーブルに置かれていた皿やティーカップが音を鳴らし、
理多が小さく悲鳴を漏らす。周りにいた他の客は、喧嘩かと好奇の視線をエヴァたちへと向けた──が、
すぐに青ざめた顔をして明後日の方向へと逸らした。

それは、エヴァに対して"見ている事を知られれば殺される"という恐怖を抱いたからである。
それほどまでに、修行である程度慣れている理多でさえ身が竦むほどに、エヴァは殺気立っていた。
周りの迷惑になるからとなだめる理多の声も、全く意味をなしていなかった。


「お前は何故そうも平然としていられるんだ! "学園都市から出ていけ"と言われたようなものなんだぞ!?」
「それは……学園長先生の判断が、正しいと思うからです」


理多とて本当は此処にいたかった。いずれ離れるその時までは、エヴァたちと一緒にいたいと思っていた。
理多にとってエヴァたちは命の恩人であり、また家族のように大切な存在だと──ログハウスを、
第二の家として思っているのだから。

しかし、自分や矢塚さつきが突きつけられた絶望を、自分が此処にいる事によって誰かに与えてしまうかもしれないというのなら、
此処から去るという選択以外に有り得なかった。例えどれだけ此処にいたいと思っていたとしても、
それだけは避けなければならない事なのだ。だから理多は、自分の気持ちを押し殺して学園長の提案を受け入れたのである。

そしてその自分がいる事でという懸念は、移住先の呪術協会にも当てはまる。
退魔士が多く在籍している呪術協会ならば、再び吸血鬼たちが襲撃してきても対処し易いとはいえだ。
実は学園長から移住の事を聞かされた際、理多は吸血鬼に関する事が解決するまで何処か人のいない場所で
独り隠れ過ごすと言っていた。その提案は、学園長にそんな事はさせられないと却下されたが。


「それに、私を追い出したいように思えるかもしれないですけど……
 学園長先生やその場にいた先生方は、私に謝ってくれたんですよ?」


そう、学園長は理多を追い出したくて移住を命じた訳では決してない。
昨夜の件で理多に悪いところがない事は、学園長や先生たちもちゃんと判っていた。
だから理多を責める者はいなかったし、それどころか守ってあげる事ができなくてすまなかったと謝る者がいたくらいだ。

だが、学園長たちは都市に暮らす大勢の人々を預かる身。
一個人としては引き続き理多を都市で保護したいと思っていても、理多が原因となって再び襲撃がないとも言い切れないし、
今度は誰かが犠牲になるとも限らない。その為、何らかの対処を取らない訳にはいかないのである。


「ぐぅ……」


理多の移住が想像していたような悪い理由からではないと判り、エヴァは不満げに唸りながらも腰を下ろす。
移住という対処は正しく、また理多本人が心から同意しているのならと無理矢理自分を納得させて。
それに、実を言えば"ある一点を除いて"理多の移住には賛成なのである。

エヴァは昨夜の、血塗れになって倒れていた理多を思い出す。
昨夜はギリギリのところで守る事ができたが、それは教会から対吸血鬼用の杭を持ちだしていたからであり、
それがなければ力で押されて自分もろとも殺されていただろう。今の自分は守る側ではなく、
どちらかといえば守られる側なのだ。そんな自分の傍や広い学園都市にいるよりも、協会の方が安全である事は確実である。

だから理多を想うのなら、例え離れるのが嫌でも黙って京都へ行かせるのが最善なのだ。
それに今協会には、裏の世界でそこそこ名の知れている実力者であり理多の兄である直人がいる。
余程の事がない限り、理多は直人が守りきるだろう。魔力を封じられた自分と違い、直人なら──


 ◆


校舎へと戻る道を歩くエヴァの足取りは、
少し前まで営業妨害になりかねないくらいに殺気立っていた人物のものとは思えないほど軽かった。
それだけならただ機嫌の良い少女で済んでいたのだが、口元からはずっと笑い声が漏れていた。
その横を歩く理多は、エヴァが上機嫌な訳を知っている為苦笑を浮かべるに留まっているが、
何も知らない道行く人たちは気味悪そうにしていた。

エヴァは自分が気味悪がられている事に全く気が付かないほど、完全に浮かれてしまっていた。
自分らしくないと理解していながらも、自分の感情を抑えきれないのである。
全ては、食後のお茶を楽しんでいる時に現れたネギからの情報が原因だった。


「フ、フフフ……殺しても死なんような奴だとは思っていたが、まさか本当に生きているとはな」


その情報とは、十年前に死んだとされているナギ・スプリングフィールドが生きているというものである。
ネギが言うには、六年前の雪が降る夜に会ったとの事だった。それを聞いた瞬間は信じる事などできなず、
見間違いではないのかと疑った。しかしネギの真剣な表情を見て、エヴァは信じるに値すると判断したのだ。

ちなみにこの情報は、何故十年前に死んだナギの情報を求めているのかという何気ない質問への返答で得たものである。
その為エヴァは、本来決闘でネギが勝ったら与えるつもりであった、
以前ナギがしばらくの間過ごしていたという家が京都にあるという情報を対価として差し出している。


「良かったですね、好きな人が生きていて」
「……好きな人、か」


理多の言葉に少し思う事があって、エヴァは笑みを止めてポツリと呟く。
理多の言う好きとは、"友達としての好き"ではなく、"異性としての好き"なのだろう。
なら今の自分は、果たしてナギを前者Like後者Love、どちらとしての好きなのだろうかと。
何故理多がナギの事を好きだと知っているのかは、とりあえず気にしない事にする。

昔は後者だった。ナギの後を雛鳥のようについて回ったりしていたし、一度も成功した事はなかったが、
自分のモノにしようと"色々な意味で"襲ったりもした。今思い返すと、死にたくなるようなトンデモナイ事もしていたように思う。
それくらい、ナギを異性として好きだったのだ。

しかし今は、学園に閉じ込められたからか、約束を破られたからか、知らぬ間に何処かの誰かと愛し合い、
ネギという子供を作っていたからかは判らないが、仮に今ナギに会えたとしても、昔のような事をできるかといったら、
答えは"否"だった。今も変わらず好きではあるが、その好きは昔の好きとは違い、今は前者として──理多に対する想いと同じで、
ナギという一人の人間として好きになっていた。


「正しくは好き"だった"人、だな。今の私にとって、ヤツは好きな人ではなく……特別な人だ」


誰にも言うなよと、エヴァは少し頬を染めて微笑んだ。それが理多には、どこか少し寂し気に見えた。
しかし、恋愛経験が全くない理多にはこんな時何と声をかければいいのか判らず、
それでも何かできないかとエヴァの手をぎゅっと握りしめた。

それに対してエヴァは目を丸くした後、一杯一杯な様子の理多にありがとうと笑みをこぼし、
優しくて温かな手をそっと握り返した。


 ◆


「──そういえば、"登校地獄"って修学旅行はどうなるんですか?」


ふと気になって、理多はナギについての情報をネギと交換した際話題に出た、京都への修学旅行について尋ねた。
意識して取り組んでいる者は殆どいないだろうが、修学旅行も一応授業の一環である。
その修学旅行を、エヴァにかけられている"登校地獄"はどう処理をするのだろうかと。


「数年前の修学旅行で試したが、無理だったよ」


そんな理多の問いに、エヴァは首を横に振った。
"登校地獄"は、休校日を除いた平日に"学園への登校"を強制するもの。
その為、例え授業の一環である修学旅行でも、多少呪いが緩くなる程度で学園の外に行く事はできないそうだ。

その事を聞いて自分の事のように肩を落とす理多に、エヴァは気にするなと苦笑して、繋いだ手を理多の頭にこつんと当てる。
すると理多はエヴァの目を覗き込んで、本心を聞かせて欲しいと真剣な面持ちで聞いた。


「行きたい、ですか?」
「……そう、だな。例え一時的にだとしても、外に出られたら良いとは思う。京都は嫌いじゃないしな」


そう言ったエヴァの表情は、どんなに焦がれても行く事はできないという諦めに満ちていた。
魔法使いとして完成されていると言っても過言ではない実力を持つエヴァが、
解呪の為に色々と努力した結果行き着いた結論なのだ、その結論にはおそらく間違いはないだろう。


(──でも……)


しばらくお互いに無言のまま歩き、ログハウスと学園へと続く分かれ道に差し掛かったところで、
ふいに理多が繋いだ手を放して足を止めた。修学旅行の話をしてからずっと何かを考え込んでいるようだった為、
エヴァは心配になって俯く理多を覗き込んだ。しかし、見た感じ顔色は悪くない。


「どうした理多? どこか調子が悪いのか?」
「ひゃい!? ち、違います! その、ちょっと用事があったのを思い出したんですっ」


声をかけられて、ようやく覗き込まれている事に気付いたらしい。
理多はハッとしてエヴァから離れると、両手を振りながら否定した。
少々挙動不審だが、本人が言うように体調は悪くないようだ。


「……そうか? ならいいんだが。遅くなるようなら、必ず連絡を入れるんだぞ」


そう言って一人学園への道を歩き出したエヴァを、理多はその場で見送った後。
エヴァとは違う道で、学園へと向かうのだった。先程エヴァへ言ったように、用事があった──
からではなく、用事が"できた"からである。学園長に図書館島の地下へ降りる許可を貰い、
そしてエヴァを修学旅行へ行けるようにする為の方法を探すという用事が。

理多がナギでなければエヴァ並の魔力と技量があっても不可能だとエヴァが結論付けた解呪に挑戦しようと思ったのは、
ある一つの可能性にかけようと思っての事だった。例え"魔法使い"にできなくとも、
"精霊の愛し子"なら解呪できるかもしれないという可能に。

当然それにはなんの根拠もなければ自信もなかった。
仮にそんな方法があったとしても、昨夜のさつきを救える可能性と比べ物にならないほど、
絶望的な難易度である事は想像に難くない。まだまだ魔法初心者である自分が、その方法を行えるのかといえば……


──例え一時的にだとしても、外に出られたら良いとは思う。

「……よしっ、頑張ろう!」


弱気になっていた自分に活を入れ、理多は歩調を速める。
自分がこれからやろうとしている事は、無駄な足掻きなのかもしれない。
それでも、何かをせずにはいられなかった。いつも助けてもらってばかりのエヴァに、
今度は自分が何かをしてあげたかったのだ。



[26606] 第3章 2時間目 京都行きの切符
Name: あかいつき。◆3327a354 ID:742ccd16
Date: 2011/03/20 22:59
京都某所。隠れ家のような質素で小さな木造の小屋の中、
胸元が開いた着物を着こなしている濡羽色の髪の女性──天ヶ崎千草アマガサキ チグサは書類に目を通していた。
その表情は不敵な笑みで歪み、小屋唯一の明かりであるランプに反射した丸眼鏡が怪しく光る。
背後では、隙間風でランプの火が乱される度にゆらゆらと影が揺れていた。

人影は千草のモノだけではなかった。千草の影の横に並ぶ、ほっそりとした長身の影。
形としては千草の影と似ているが、シルエットは男性のモノであった。
千草はその影の主へ、書類に目を向けたままどこか親しげに声をかける。
それは、兄弟に対するもののような感じであった。


「なぁ、ウチと一緒にやらへん? 胸に抱く想いは一緒やし」


そう期待の篭った口調で尋ねられ、黒いスーツ姿の男は渡されていた書類のコピーを改めて見た。
内容を要約すると、修学旅行の妨害を警戒している麻帆良学園の魔法使いたちに、
カエルや酒を使った悪戯の域を出ない嫌がらせで油断を誘い、隙を見せた所で計画の要である"近衛木乃香"をさらう。
もしそれが失敗した場合は、呪術協会を一時壊滅させてでも再度木乃香をさらい、
封印されている"リョウメンスクナノカミ"を復活させるという計画である。
主な協力者は、雇った魔法使いフェイト・アーウェルンクス、神鳴流剣士の月詠ツクヨミ
狗神使いの犬上小太郎イヌガミ コタロウの三人のようだ。

視線を感じ、男は書類から顔を上げた。
向けられていた千草の切れ長の目に浮かぶのは、どす黒い悲しみと憎悪の色。
千草の両親を奪ったかつての大戦、それにより生まれた西洋魔術師への恨みが見せるその色は、
男の目にも"以前は"浮かんでいたものである。そう、"アレ"を偶然見つけてしまう日までは。
今はもう、男にとって復讐は数ある目標の一つになり下がってしまっている。

今でも同じ恨みを抱いていると思っている千草は必ず誘いにのってくると確信しているようだが、
男にはもう誘いを受ける価値はない。それどころか、"自分の計画"の邪魔にすらなる。
故に、千草の手を取る事は万が一にも有り得ない。だが、千草が雇った三人の協力者はなかなか使えそうであり、
特にフェイトという少年の力は魅力的であった。

計画書を見る限り、この協力者たちと千草の繋がりは薄い。
月詠という少女と小太郎という少年は知り合いであるようだが、千草のような恨みを抱いている訳ではない。
そして、それぞれ協力する事を決めた目的はバラバラだった。フェイトという少年の目的については不明のようだが、
おそろくは月詠たちと似たようなものだろう。ならば、それぞれにある目的を達せられる舞台を用意しさえすれば、
誰に協力してもいいと思っている筈だ。そう、"千草でなくとも"。


「……いいでしょう。君の復讐に協力してあげますよ」


男がにこりと微笑むと、千草は体ごと振り返って喜びをあらわにした。
これでまた、復讐に一歩近付いたと。それが勘違いであり、本当は全くの逆である事に気付かずに。


「ほんまか! あんさんの力を貸してもらえるなら心強──……え?」


突然の小突くような軽い衝撃に、千草は唖然と自らの胸元を見下ろした。
しかし、何が起きたのかを確認する前に意識は闇に飲み込まれてしまう。何を思う間もなく、一瞬にして。

男は静まり返った小屋で一人嘲笑を浮かべると、声がもう届かない事を承知で呟いた。


「ただ、復讐は私のやり方でやらせてもらいますが」


 ◆ ◆ ◆ ◆ ◆


日曜日の昼頃、エヴァは低い唸り声を吐き出しながら超包子のオープンテラスで突っ伏していた。
大分前から居座っているようで、頬が潰れて歪んだ顔の横に置かれたグラスの氷は一つ残らず溶けて水と化している。
注文も何もせずにそうしていられるのは店として大迷惑なのだが、クラスメイトのよしみという事なのか、
店長の五月は注意する事もなく仕事をこなしていた。

それからしばらくし、今だぐでっとしているエヴァのテーブルには昼食を済ませにきた刹那が相席していた。
相席のお礼として刹那がエヴァに奢った緑茶の氷が、カランと涼しげな音を響かせる。
その音に負けない位に凛とした印象を持つ声で、刹那がおそるおそる尋ねた。


「……何か、あったんですか?」


などと尋ねはしたものの、実は原因に思い当たる節はあった。
というよりも、エヴァがこんな事になる原因など一つしかない。
と思っていたのだが、刹那の予想は外れていた。もっとも、あの少女絡みである事は当たっていたが。


「……理多が部屋に籠もり切りで、もう三日もまともに顔を合わせていないんだ」


エヴァはのそっと起き上って緑茶を一気に喉に通すと、ため息混じりに吐露し出した。

理多が出かけますと書置きを残して何処かへ行った日の深夜。
茶々丸によると、理多は自身が埋もれるほど大量の本を抱えて帰宅し、別荘へと入っていったらしい。
そしてそれからずっと、理多は別荘から出てこなかった。

それだけならエヴァも(たぶん)落ち込んだりはしない。
問題なのは、何故かエヴァだけ別荘への立ち入りを禁止されている事である。
しかもその理由すら話してもらえず、エヴァは憂鬱を越えて若干鬱になってしまっていた。

あの"闇の福音"が一人除者にされているという状況に、刹那は睨まれると判ってはいてもつい笑ってしまう。
すると、案の定拗ねたように睨まれてしまい、今度は苦笑した。
それにしても、態度といい雰囲気といい別人のようだと、刹那は今のエヴァを見て思う。
無論悪い意味ではなく、良い意味で。


「変わりましたね、エヴァンジェリンさん」
「最近よく言われるよ」


言って微笑みを浮かべたが、その表情にはどこか影があった。原因は、聞くまでもないだろう。
自分だって、それを知った時はショックだったのだから。エヴァと理多の気持ちを考えると、居た堪れない。


「雨音さん、京都へ移るそうですね……」
「あぁ、近い内にな」


刹那は想像せずにはいられなかった。
自分も理多と同じく"訳あり"である以上、他の者よりもエヴァたちのように大切な人と──
"このちゃん"と離ればなれになる日がくる可能性は高いだろう。
もしそうなってしまった時、自分はどうなってしまうのだろうかと。

"このちゃん"の安全が保障されるのであれば、それでも構わないと頭では思っている。
しかし、その気持ちを最後まで維持できるかどうかは自信がなかった。
距離を置いて守る事を決めて行動している今でさえ、辛く感じているというのに。


「……傍に居るのに触れてもらえないというのも、辛いと思うがな」


エヴァはそれだけ言うと、再びテーブルに突っ伏す。
刹那はエヴァの心を読んだかのような言葉に、何も言い返す事ができなかった。

そんな時、小柄な少女がエヴァへと駆け寄ってくるのが見えた。
何か作業でもしていたのだろうか、いつもツーサイドアップにしている髪はポニーテールにされていた。
動く度にひょこひょこと跳ねるポニーテールとリボンに、刹那は思わず口元を緩めてしまいながら会釈すると、
理多は花咲くように笑顔を浮かべてお辞儀をした。


「あ、桜咲さんっ。封印の時はありがとうございました!
 京都へ行くまでに会えて良かったです。……エヴァンジェリンさん此処にいたんですね、探しちゃいました」
「り、理多……」


三日ぶりに理多と顔を合わせたエヴァは、突然の事に思考が上手く回らなかった。
三日も別荘で何をしていたんだとか、大量の本は一体なんなんだとか色々と聞こうと思っていた事があった筈なのだが、
全て頭から飛んでしまった。驚いてしまったというのもあるが、何よりも理多と会えた事が嬉しかったのである。
それこそ、此処が人目の付かない自宅等であったら抱きつきたいほどに。

そんな事を思っていると、理多はエヴァの両手を包み込むようにして握り、太陽にも引けをとらない笑顔を見せて言った。


「エヴァンジェリンさん、ついにできたんですよ!!」
「…………は?」


ぽかんと口を開けたままエヴァが呆然としていると、理多は笑顔を見せながらえっへんと滑らかな胸を張った。


「エヴァンジェリンさんを、修学旅行へ行けるようにする魔法がですっ!」


難しい魔法でも覚えたのだろうと思っていたエヴァは、完全に不意をつかれて息ができなくなるほどの衝撃を受けた。
間違いなく、ここ十数年間で最も驚いた瞬間だった。理多以外の者が言っていれば、
嘘のをぬかすなと即座に一蹴していただろう。"登校地獄"をどうこうする事など、
現存する魔法使いには不可能なのだから。


「なん……だと……? そ、それは本当、なのか?」


だから一蹴しなかったとはいえ、流石にこればっかりは理多の言葉でも素直に信じきる事ができず、
エヴァはおそるおそる確認した。


「……絶対、とは言えないです。茶々丸さんとチャチャゼロさん、
 学園長先生に協力してもらって作った"登校地獄"に似せた呪いでは成功しました。
 けど、それが本物の"登校地獄"に通用するかは、実際に試してみないと……」


理多は本当の事を隠して"絶対に大丈夫"と言い切りたい気持ちを抑え、誤魔化さずに伝える。
本当は本物で練習したりしたいところなのだが、解呪をする為の全ての条件が揃うのが修学旅行当日のみなのである。
その為、自信を持って大丈夫とは言えないのであった。

無責任に大丈夫などと言って失敗してしまったら目も当てられない。
自分が恥をかくだけならまだいい。期待させるだけさせて失敗し、エヴァが傷つく事は避けたかった。
しかし、だからといって弱気なのはいけないと、理多は慌てて言い足す。


「でも、きっと成功させてみせますから!」


ギュッと、理多は握る手に力を込める。それを受け、エヴァは成功するか否か等を考えるのは止めにした。
ただ、理多を信じていようと思った。しかし、純粋に一人の魔法使いとして"登校地獄"をどうするのかが気になる。
だから詳細を聞こうとしたのだが──


「しかし、私でもできなかった事を一体どうやって──て、ちょっ、理多!?」
「ほらエヴァンジェリンさんっ、修学旅行の準備をしないと!」


エヴァの言葉を遮って、理多は握る手を繋ぐ手に変えて走り出した。
修学旅行へ行けるという実感が沸き辛いからか、今はエヴァよりも理多の方がはしゃいでいた。
エヴァにとって現状では、正直理多がはしゃいでいる事の方が嬉しいのであった。

そうして理多に手を引かれながら走り去っていくエヴァへ、
刹那は良かったですねと微笑むと、エヴァに言われた事を一人思い返した。


 ◆ ◆ ◆ ◆ ◆


修学旅行当日。理多とエヴァの二人は、茶々丸とチャチャゼロが見守る中、
本土と都市の境界を跨ぐ形で展開させた魔法陣の中に入った。
エヴァは本土に背を向けて都市側の魔法陣に立ち、理多はエヴァと向かい合うように立つ。
二人とも、どこか緊張した面持ちだった。

それもその筈。これから行われるのは、"登校地獄"の設定改変である。
何を改変するのかというと、本来ある筈なのにナギの所為でなくなってしまっている、
"修学旅行は学業の一環である"という設定の追加だ。

ちなみに難易度はというと、さつきを救う際に行った"吸血鬼の呪い"封印の推定十倍程度といったところ。
封印魔法に干渉する事が、普通の魔法使いよりも桁違いに容易い光の特化型魔法使いだからその程度で済んでいるのであって、
実際は特化型でなければエヴァの言う通り不可能な難易度である。

実は本来この"登校地獄"は、さして解く事は難しくない魔法なのである。
しかし困った事に、エヴァへこの魔法をかけたナギが"適当な呪文"で"必要以上の魔力"を使って無理矢理行使してしまったが為に、
かけた者以外ではエヴァですら解く事ができないような難易度になってしまったのである。


「"精霊の愛し子"だから、規格外な強固になってしまってる"登校地獄"への干渉を可能とするというのは判る。だが……」
「私の魔力だと、書き換えた状態を十秒と維持できない」


大抵の封印魔法は一度書き換えてしまえばその状態を維持するのだが、"登校地獄"は何故か元の状態へ戻ってしまうのだ。
その維持に必要なのが、魔力という訳である。だが自分で言っていた通り、平均値よりも少し多い程度しかない理多の魔力では、
到底維持する為の魔力には足りない。では、その問題をどうするのかと言うと──


「そこで、エヴァンジェリンさんの魔力を使うんです」


手順としては、まず"登校地獄"に干渉して修学旅行へ行く事ができるよう設定を書き換える。
これによって理多の魔力が尽きるまでの十秒間だけ都市の外へ出る事ができるようになり、
その間に学園結界の効力範囲外へと出てエヴァの魔力を解放。
続いて書き換えの維持に使用する魔力を理多からエヴァに移して完了。
狙った訳ではないが、これによって魔力が解放されているからと旅行先から拒まれる心配が少しはなくなり、
まさに一石二鳥だった。


「それじゃあ、やりますね──」


説明を終えてエヴァも納得したようなので、理多は本格的に解呪ヘ挑む事にする。
練習では上手くいったし、成功させる自信も気合もある。しかし、緊張だけはどうしても消えなかった。
だが、"登校地獄"へ干渉し易くする為にエヴァの胸へ右手を置くと、その緊張は消えた。
手の平から、明らかに心拍数の高くなっているエヴァの鼓動が伝わってきたからである。

息を吐き、まずは吸血鬼の呪いの封印と同様可視化を実行する。
これはさして難しい事ではない。すぐエヴァの胸元に、"登校地獄"が浮かび上がった。
その浮かび上がったモノを見て、理多は思わず息を飲む。

幾重にも折り重なって球状になっている、魔法陣の帯、帯、帯。
乱暴にかけられたものであり、修学旅行が近付いている為綻びはある。
しかし、それによる難易度の低下を覆い潰すほどに頑丈で、圧倒的だった。

簡単に解呪できるとまでは思っていなかった。
だが、練習を積み重ねてやれない事はないという自信はあった。
しかし、そんな考えが愚かであった事を、理多は"登校地獄"に触れて思い知る。
これを今から解呪するのかと思うと、眩暈を覚えずにはいられない。
練習によって積み重ねてきた自信が、ガラガラと崩れ落ちていくのを理多は感じた。

エヴァの胸に重ねていた手を放し、その手をおもむろに振り下す。
そして理多とエヴァを囲んでいた魔法陣の四方に、魔法陣を四つ新たに追加して展開し、
計五つの魔法陣で更なる安定を求める。本当なら、さらに倍以上の魔法陣が欲しかった。
やろうと思えば展開できない事ない。だがそれをしてしまえば、
解呪へ向ける集中力と魔力が減って本末転倒となってしまう。
だからこれで、これだけで何とかしなくてはならないと妥協せざるを得なかった。

目を閉じ、深く深呼吸をする。これだけの魔法に干渉し、失敗してしまえば何が起こるか判らない。
それはエヴァだけにではなく、理多にもだ。これは、理多のお節介、我が侭で行う事。
だから、エヴァに被害が及ぶのだけは何が何でも阻止をしたい。その代わり、自分はどうなっても──

慢心を捨て、理多は覚悟を決める。開いた目に滾るのは、強い決意。
理多は再びエヴァの胸に手を当てると、最後にもう一度だけ深呼吸をし、そして干渉を開始した。

外界と自身を精神的に切り離し、干渉する為だけに全神経を注ぎだす。
その集中力にあてられ、エヴァはゴクリと唾を飲んだ。
そんな些細な音が響き渡りそうなほど、辺りは静まりかえっている。
自分だけでなく周りのモノもこの緊張感にあてられているのだろうかとエヴァが思っていると、
干渉が本格的に始まった事を示すかのように魔法陣が強く輝きだす。しかし変化はそれだけで、
後は静かに時間だけが過ぎていった。

そして干渉が始まってから決して短くはない時が経った頃、
エヴァは自身の内で何かがカチリと組み変わるのを感覚的に感じた。
エヴァはハッとして、手が当てられた胸元から理多の顔へと目線を上げる。
すると視線が合った理多は額に汗を滴らせながらニコリと笑うと、右手でトンとエヴァを押した。


「──ぁっ……」


押し出されてエヴァが境界を完全に越え本土へと出た途端、膨大な魔力が封印から解放された。
ついに都市から出られたという事に、嬉しすぎてどんな表情をして良いのか戸惑うエヴァに、
突然理多が抱きついたかと思うと、耳元で苦しげに呟いた。


「──修学旅行、楽しんできてくださいね」
「え……?」


その呟きと同時、エヴァの魔力が"登校地獄"の書き換えを維持するのに回されて再び空となる。
こうしてエヴァは、修学旅行の期間だけではあるが、ついに念願の自由を手に入れたのだった。

一方理多は何事もなく本土へ立つエヴァを見て安心したように微笑を浮かべると、
エヴァから危なげな足取りで離れ、そして──その場に崩れ落ちた。



[26606] 第3章 3時間目 再会は涙と共に
Name: あかいつき。◆3327a354 ID:742ccd16
Date: 2011/03/20 22:59
枕では決して感じる事のできない後頭部の温かくて優しい感触に、理多はこのまま身を任せていたいと思いながらも目を開いた。
すると、目線の先では口元を笑みの形にし、硝子の瞳に安堵の感情を滲ませた茶々丸の顔があった。

その光景や自身の体勢から、自分はどうやら膝枕をされているようだと寝起きの頭でゆっくりと理解する。
頭に手が当てられているところからして、おそらく眠っている間は頭を撫でられていたのだろう。

そんな、小さい子供か恋人に対するかのような扱いを照れくさく感じ──
また同時に嬉しく思いながら、理多は体を起こして何気なく視線を周りに向けた。

もう少し頭が起きていたなら、この後の展開を予想できていただろう。
もっとも、予想できていたところでどうする事もできなかったであろうが。

氷漬けにされたかのように、理多が硬直する。

向かいのシートでエヴァが足を組んで頬杖をつき、不機嫌さを隠す事なくジト目でこちらを見据えていたからである。
今だ状況も何も判らないが、とにかく拙いという事だけは瞬時に理解した。


「ようやくお目覚めか、この馬鹿娘」


怒りを堪えているからか、エヴァが不自然に平坦な口調で毒づき目を細めた。

その冷ややかな視線を受け、理多は氷水を頭から被ったかの如く一瞬にして目が覚める。
続けて顔を青くした理多に、エヴァは眉をしかめてため息を吐いた。


「まったく、突然倒れた時は心配したぞ。"登校地獄"を弄ったが為に、
 何か良からぬ事が起きたのではないかとな。まぁ、ただの魔力切れだったが」
「ごめんなさい……」


"登校地獄"の改変終了後、理多が倒れたのは魔力切れによる精神疲労が原因だった。

これは、ただ気を失うというだけで体への害は特にない。
数時間休んで魔力を回復させる事で、問題なく動けるようになるものだ。

とは言え、何も知らずに突然目の前で倒れられれば驚くのは必須。
エヴァは心配したとだけ言ったが、実は理多が倒れた時に物凄く慌てふためいている。
魔力が封印されるまでは不死身であった為に、エヴァは治療の知識や技術等が皆無なのである。
その場に茶々丸やチャチャゼロがいなければ、今頃理多は病院に運ばれていただろう。

改変を行い魔力が切れてしまう可能性は十分有り得ると、理多は事前に予想していた。
しかしエヴァへ余計な心配をかけまいとして言わなかったのだが、それが返って裏目に出てしまったようだ。
エヴァの修学旅行を要らぬ心配からスタートさせてしまった事に、理多は肩を落として落ち込んだ。


「……あの、それでどうして私はエヴァンジェリンさんたちと一緒に居るんですか?」


呆られながらもエヴァに許してもらった理多は、改めて今居る場所を見回す。

百八十度回転させる事が可能な三人掛けと二人掛けのシートが、通路を挟んで並ぶ車内。
窓の外を流れていく見慣れない景色に、前方の席から聞こえてくる少女達のはしゃぐ声。

それらの情報による助けもあって、乗るのは三年ぶりだったが、此処が新幹線"ひかり"の中であるという事が判った。
そしてその新幹線に乗るエヴァは、考えるまでもなく京都へ向かう最中なのだろう。

理多が気にしているのは、その修学旅行に自分が同行している事だ。

ハッキリと言ってしまえば、理多はトラブルの種である。
麻帆良学園から関西呪術協会へと移住する事になったのだって、それが理由なのだ。
そんなトラブルの種である理多が、修学旅行に同行するというのはどう考えてもおかしいだろう。
それに、理多はエヴァたちに隠していたが、移住は生徒達が京都についてから行われる予定であった筈だというのに。


「あぁ、その事ならじじいに"オハナシ"して何とかした」
「"お話"の言い方に、何か違和感があるんですけど……」


どうやらエヴァは、修学旅行へ行けるようになった事と理多が倒れた事を学園長へ連絡した際に、
移住の手筈について知ったらしい。何をどう"オハナシ"したのかは、聞くと後悔しそうな気がするので気にしない事にする。

秘密裏に移住を行うと学園長が言うから、理多はエヴァに移住の手筈を黙っていた。
それだというのに、その時のやり取りは判らないが、学園長がばらしてしまったら駄目じゃないかと理多は苦笑した。
そして同行を認めさせる為に、四日間学園長の付き添いで"本国"へ行く事になったチャチャゼロに同情した。

現状を把握した理多は、茶々丸からお茶のペットボトルを受け取って一息つく。
アナウンスを聞く限り、眠っている間に京都駅まですぐという所まで来てしまっているようだ。

修学旅行のしおりを見せてもらうと、三年前のスケジュールとさして変わりはない様子。
可愛らしいキャラクターが描かれた表紙のしおりや、スケジュールの内容を懐かしく思いつつ。
そういえば京都に着いたらエヴァたちはどうするのだろうと尋ねようとした時──


「あー! 起きてるー!」


とても中学三年生には見えない双子の女生徒、鳴滝風香ナルタキ フウカ鳴滝史伽ナルタキ フミカが、とても高校三年生には見えない理多を指差して言った。

その大声を聞きつけた生徒たちが、目を丸くして固まる理多の元へ続々と覗きにやってくる。
皆、茶々丸に背負われてきた見覚えのない理多の事が気になっていたのだ。

理多に対し、可愛いや萌えなどといった好意的な声がかけられる。
しかしそれらの評価に喜ぶ様子は微塵もなく、理多は茶々丸の影に身を隠した。
慣れていなくては、大人数の注目を一身に浴びるというのは怖いだろう。

休学中で、理多は同年代の者と接する事がめっきり減ってしまった。
だから生徒たちとの触れ合いは良い事かもしれないとエヴァは密かに思っていたのだが、流石にこの状況はよろしくない。
その為、騒ぎを鎮めようとしたのだが、それよりも先に声を張り上げた者がいた。

この底抜けに元気で騒がしいクラスの担任である、子供先生のネギだ。


「みなさーん! 雨音さんは本調子ではないので、そっとしておいてあげてくださーい!」


"立派な魔法使い"になる為の修行として、ネギが学園へやってきてから約三ヶ月。
仕方のない事ではあるが、始めは九歳という年齢や外見の所為であまり教師として思われていなかった。

しかし今は、依然弟のように可愛がられながらも、一人の教師として認められつつあるらしい。
ネギの言葉に生徒たちは渋々ながらも従い、理多に手を振りながらそれぞれの席へと戻っていった。

戻っていく生徒たちの姿に少し申し訳なく思いながら、理多はネギに感心していた。

正直なところ、子供が教師をしていると聞いた時、いくら天才であろうとも務めるのは無理だと思っていた。
教師であるといっても、精々副担任のような補佐的なものだろうと。

しかし実際にこうして見てみると、なかなか立派に教師をしていた。
それを素直に凄いと思い、だから少しだけその思いを言葉に表した。


「ありがとう、ネギ"先生"」


理多が"ネギ先生"と呼んだ訳を察したらしいネギは、年相応の照れた笑みを浮かべて去っていった。
その姿を見送りながら、理多は微笑を浮かべてポツリと呟いた。


「──ネギくん、もてるだろうなぁ……」


その呟きに、エヴァは愛娘から男の気配を感じた父親の様に狼狽。
一方茶々丸は、そっと目を逸らしてもじもじと指を絡ませていた。

そんな二人の様子に首を傾げつつ、今度こそ理多は今後の事について尋ねた。

理多は協会へ直行するという事がもう決まっている。
今はエヴァたちと行動を共にしているとはいえ、修学旅行で京都に行く訳ではないのだ。
観光できない事を少し残念に思いはするものの、寄り道をしたりするつもりはない。

スケジュールでは清水寺へ行く事になるようだ。
しかし、エヴァがそれに従うような性格をしていない事は知っている。
だからわざわざ尋ねたのだが──


「私も、理多と一緒に行こうと思う」
「えっ、でも……!」


修学旅行を楽しんでほしくて頑張ったというのに、それでは意味がない。
協会に着けば、おそらく件の男が捕まるまで外に出してもらえなくなるだろう。
そんな自分と一緒に居るなど、修学旅行の自由行動中にゲームセンターで時間を潰すようなものだ。

理多は修学旅行を楽しむよう必死に説得する。
しかし、エヴァは頑なに決定を変える事はしなかった。

それでもなお食い下がる理多に、エヴァは窓の外を眺めながら噛み締めるようにして言った。


「……十五年だ。十五年間、私は学園に閉じ込められていた」


十五年という歳月は、想像するまでもなく長い。
考えても見て欲しい。クラスメイトたちが生まれた時には、すでに学園に居たのである。
最初の同級生などは、もう三十路だ。

それだけの間、エヴァは一人変わらず一箇所に閉じ込められていたのである。
だだっ広い麻帆良学園都市とて、もう狭い檻にしか感じられなくなるのだ。


「だから、ただ外に出られただけで胸が一杯なんだよ。それに……」


窓から視線を外し、エヴァは理多を瞳に映す。
そして、どこか大人びた柔らかい笑顔を見せて言った。


「少しでも、理多と一緒に居たいんだ」


カァッと理多の顔が赤くなる。
同姓から見ても、惚れぼれしてしまうような笑顔だった。
もし自分が男であったなら、きっと瞬殺であっただろうと理多は思う。
もっとも、男だったらこの笑顔を見せてはくれないような気がするが。


「……その笑顔で言うのは、卑怯です」


理多は顔を逸らして口を尖らせる。
できれば、エヴァには修学旅行を楽しんでもらいたい。
しかしエヴァが本心からそう言っているのなら──
そう言ってくれているならそれも良いかと、笑顔を見て思ってしまった。

それでもしばらく粘ったが、
エヴァの笑顔で完全に心が折れてしまった理多は、最後には丸め込まれてしまうのだった。


 ◆ ◆ ◆ ◆ ◆


何事もなく京都駅へとたどり着いた理多たちは、
清水寺へと向かう生徒たちと別れて関西呪術協会に来ていた。

少し先に見える巨大な協会の屋敷に、理多は緊張から表情を強張らせて固まった。
外観の風格からして、自分のような者が立ち入ってはいけないと、場違いだと思ってしまう。
滞在期間は不明だが、此処でやっていけるのだろうかと早くも不安になった。

そんな理多を先導するように、エヴァが一歩足を踏み出す。だがすぐに動きを止め、
そしてキョロキョロとしながら一歩後ずさった。それは不安からではなく、
覚えのある気配が突き刺さってきたからだった。

すると、理多たちの行く手を遮るようにして、刀を構えた六人の男たちが現れた。
刀や格好が袴であるところからして、協会の者なのだろう。
つまりは刹那と同じ京都神鳴流剣士──退魔師だ。


「来たな、吸血鬼バケモノども……」
「なんだ、ずいぶんと物騒な歓迎じゃないか?」


殺気に怯む事なく、エヴァは無表情で静かに言う。
そこに怒りはなく、ただ見慣れたモノを見るよう冷めた目をしていた。
実際、こういった事には慣れてしまっているのだろう。

しかし、理多は違う。
吸血鬼になってからまだ間もなく、早い段階で学園から雨音理多という人格が認められ、
敵視される事はなくなった。その為、慣れていないのである。

久々の蔑みの視線に、理多は表情に影を落とした。
理多は自身が化物である事を認め、その現実と向き合っている。
しかし、だからといって化物と呼ばれて平気という訳ではないのだ。

下唇を噛んで何かを堪えている理多を横目に見たエヴァは、構えを解いて一歩前に出る。
そして、敵を前に隙をざわざわ見せたエヴァに戸惑う退魔師たちに言った。


「私の事は何と呼んでもらっても構わん。去れと言うなら大人しく去ろう。
 だが、理多は人間として受け入れてやってくれないか……?」


両者の間に沈黙が流れ、退魔師たちは困惑した様子で目を見合わせた。
エヴァの真摯な物言いが、抱いていたエヴァのイメージと異なっていたからだろう。

しかし、退魔士たちは刀を下げる事はしなかった。
エヴァもそれに対して何を言う事もなく、再び身構える。
端から提案を飲んでもらえるとは思っておらず、念の為に言ってみただけなのだ。

静かに殺気立ち始める状況に、理多は茶々丸に庇われながら拳を強く握りしめた。
できる事なら戦いを止めたかったが、原因の一端は自分にある為、止めるよう言ったところで無駄になる事は明らか。
結局何もできないまま、戦いは始まってしまったのだった。

初めに動いたのは六人の退魔師たち。
瞬時にエヴァを取り囲む形に散開すると、間を置かず一斉に飛びかかった。

上下左右、それぞれ違う角度からの同時攻撃。
それに対してエヴァは落ち着いた様子でだらんと両腕を下げると、目に見えぬほど細く強靭な糸を地面に垂らす。
続いて舞うようにして両手を空に走らせると、力強く拳を握り締めて振り下ろした。
それと同時に退魔師たちが地面へと叩きつけられ、二人が気絶して戦闘不能になる。

何が起きたのか判らないと地面に転がったままポカンとしている退魔師たちに、エヴァは下っ端かと鼻を鳴らす。
そして一番近くの退魔師へと歩み寄ると、手刀で意識を刈り取った。
さらに自力で糸から抜け出した二人の内一人を、拾った刀でいなして糸で拘束。
もう一人は茶々丸の拳によって吹き飛ばされた。


「この程度でよくもまぁ……」


そう、エヴァが呆れたように呟いた時だった。


「マスター、後ろです!!」


倒れながら隙を窺っていた一人の退魔師がエヴァへと斬りかかった。
エヴァは全て片付いたと気を抜いてしまった所為で反応しきれず、茶々丸は離れてしまっている為対応できない。
守りのないエヴァ目がけて、刀が袈裟がけに斬り下ろされる。


「危ないっ!!」


しかし刀はエヴァに触れる事なく弾かれ、退魔師は力なく崩れ落ちる。
エヴァを守ったのは、障壁を展開した理多と、退魔師を手刀で気絶させた着物姿の細身な男性だった。

理多が誰だろうと若干警戒しながら思っていると、エヴァが図らずとも教えてくれた。


「……近衛詠春コノエ エイシュンか」


その名前は、此処へ向かう道中に聞いた関西呪術協会の長のものだった。
また、エヴァのクラスメイトである近衛木乃香の父親だ。

見た目は少々頼りない感じであるが、相当な実力者であると理多は気配から察する。


「三人ともすまない。手を出す事は固く禁じていたんですが……」
「ふん、今後理多に何もしないのであればそれでいい。さっさと館へ案内しろ」


申し訳ないと頭を下げる詠春に、エヴァは不機嫌そうに刀を放り投げながら言う。
そんなエヴァに、詠春は顔に出さず驚いた。

以前のエヴァであったなら、粗相を働いた退魔師たちや近衛詠春に対し、
何かしらの罰を与えるよう言っていただろう。しかし今は何も望まず、それどころかもうしなければと許しさえした。

エヴァの変化については、理多の移住に関する打ち合わせを行った際学園長から聞いて知ってはいた。
だが、百聞は一見に如かずという諺を実感する。エヴァとは短くはない付き合いをしているからこそより強く。
もはや、別人と言っても過言ではないだろう。

その変化をもたらしたという理多に、エヴァは怪我はないですかと心配されてくすぐったそうにしている。
そんなエヴァへ、詠春は知らず顔を綻ばせながら言った。


「素敵な仲間ができたようだね」
「う、五月蠅い! さっさと案内しろ!!」


頬を赤く染めて怒鳴るエヴァに、詠春は声を殺して笑った。


 ◆


詠春の計らいで、まずは雨音兄妹の再会からという事になった。
挨拶や移住に関する説明等は、夜にするとの事。
そして今理多は、直人が居るという部屋の前に立っていた。

理多は緊張していた。
それが何故だかは判らなかったが、とにかく緊張して扉を開ける事を躊躇ってしまう。

長年一緒に居た兄と会うだけなのにと思いつつ、一度深呼吸をする。
そして意を決してドアノブに手を伸ばしたところで──


「あ……」
「──ん?」


独りでに扉が開かれた。
否、部屋の中から絶妙なタイミングで開けられたのだった。

扉を開けたのは、薄茶色の短髪に気の強そうな同色の瞳。
協会に借りたのであろう着物を適当に着ている、中肉中背の青年──
この部屋の主、理多の兄である直人だった。


「空気を読め、この馬鹿者」


お互いポカンとしている兄妹に、深い溜息を吐きだしつつ片手で頭を抱える。
兄妹の再会に気を使い、黙って立ち去ろうと考えていたエヴァだったが、堪え切れずに毒づいた。

それに対し、直人は反射的に言い返そうとするも、
何やら俯いてしまっている理多を見て思い留まり、後頭部を掻いて謝った。
エヴァに対して強気にいけるらしい直人も、妹に対しては弱いようだ。


「いや、悪ぃ。気配が扉の前で留まっているから一体誰かと……」


すると、理多はゆっくりと顔を上げた。
その瞳からは、ボロボロと大粒の涙がこぼれ落ちている。

それを見たエヴァと直人はギョッとして目を見合わせ、そして同時に吠えた。
エヴァは直人の襟首を掴み、直人はその手首を掴みながら。


「見ろっ、貴様がアホな事をするから私の理多が! 土下座して謝れ!!」
「んな訳あるか!! つかテメェ何さり気なく"私の"とか言ってやがんだ──っと……」


言葉を切り、直人は胸に飛び込んできた理多を受け止める。
中背と言っても理多よりは大きい為、理多は直人の胸にすっぽりと収まった。

両手で服を掴んだ理多は、ぐりぐりと甘えるように顔を擦り付ける。
まるで、直人が確かに目の前に存在している事を実感するかのように。


「お兄ちゃん……」
「……元気そうで何よりだ」


直人は怒気を四散させ、理多の背中をあやすよう叩いて頭を撫でる。
そんな二人の様子を、エヴァたちは優しく微笑んで見守っていた。



[26606] 第3章 4時間目 雨音兄妹とお姉ちゃん
Name: あかいつき。◆3327a354 ID:742ccd16
Date: 2011/03/23 20:15
直人にあてがわれている部屋は、旅館の一室として貸し出されても何ら違和感のない──
質素ながらも品のある、直人が拘留者ではなく客人として扱われているという事が一目で判る立派なものだった。

一人で使うには十分過ぎる広さな上に畳張りでは掃除が大変そうだなと、理多は若干主婦染みた事を思いつつ部屋に入る。
雨音兄妹を二人きりにさせる為、ひっそりと立ち去ろうとしていたエヴァと茶々丸の手を掴みながら。

気を使ってくれた事は嬉しいのだが、エヴァたちが一緒に居て困る事は何もないのである。
照れくさかったので言わなかったが、家族のように思っているのだから。

部屋の隅に積まれていた座布団を直人から受け取り、各々適当な場所へ腰を下ろす。
その結果、理多の両斜め前に直人と茶々丸、正面にエヴァという円を囲むような配置になった。


「──早速で悪いんだが、これまでの事を聞いても良いか?」


再会を喜ぶやり取りもそこそこに、直人は真剣な面持ちで理多に話を促した。
詠春から大まかな事は聞いているのだが、詳細までシッカリと把握しておきたかったのである。
もし理多に何か問題が起きた際には、困惑する事なく迅速に対応ができるように。

少々過保護かもしれないが、しかし吸血鬼化というのはおざなりにするには重過ぎる事だ。
過保護なくらいが丁度良いだろう。

断る理由はなく、促されていなければ自ら話しだそうと思っていた理多は二つ返事で頷く。
そして、直人と廃ビルで別れてから今日までの出来事を一つ一つ思い返しながら話し始めた。
まるで思い出を語るかのように、終始穏やかな表情をしながら。

理多の口から語られた内容の比率は、表情から判る通り辛かった事よりも幸せに思った事の方がずっと多かった。
基準は人それぞれとはいえ、どう考えても辛かった事の方が多い筈なのにである。

昔から本音を隠すきらいがあった為、直人は最初無理をしているのではないかと思った。
しかし理多はちゃんと、比率がおかしいながらも辛かった事を話している。

となるとおそらくは、麻帆良学園でしばらくの間過ごして色々な事を見たり聞いたり経験したりし、
辛かった事も笑顔で言えるほど精神的に強く成長したという事なのだろう。

吸血鬼化キッカケがキッカケなだけに素直に喜ぶ事がはばかれるが、そういった強さを得た事は良かったと思う。
そして自分以外にも本音を明かせられ、頼ったり甘えたりする事ができる相手ができた事も。
自分の見ていない所で知らぬ間に成長を遂げた事が、多少の寂しくはあったが。

理多が話を終えると、静かに耳を傾けていた直人はこっそりと胸を撫で下ろした。
五体満足で、以前と変わらない笑顔を見せる理多本人が目の前に居る。
それは語られた出来事がどんなに過酷なものであろうとも、無事に済む事を証明する最大級のネタバレだ。

しかし、それでも体が崩壊しかけた事やさつきとの戦いの話を聞いている最中は、正直生きた心地がしなかった。
妹に情けない姿は見せられないというつまらない見栄から、内心の焦りなどは決して表に出さなかったが。

理多が胸元で大切そうに抱えている、自分が肌身放さず持ち歩いている物と全く同じ形の母親の形見。
"吸血鬼の呪い"を封印する魔法が込められているという、金色の宝石がつり下がるネックレスへと目を向ける。

過酷な事がありながらもこうして無事再会する事ができたのは、両親があの世から助けてくれたからではないだろうか。
なんて、そんな柄にもない事を直人は密かに思った。


「……なぁ、理多」


話が一区切りついたところで、直人は眉を八の字にして頬を掻いた。
一見困っているようにも見えるが、実際は微かに頬を赤くして照れているだけである。

では何に照れているのかというと、あぐらをかいている自分に抱え込まれる形で座る理多が原因だった。
理多はこれまでの事を話し始めてすぐ、この場所に座り直したのである。


「離れて、座らないか? 金髪エヴァの視線が鬱陶しくてたまらないんだが……」


言って、こちらを見ながらニヤニヤとしているエヴァを睨みつける。

妹に甘えられるのは兄として嬉しいし、そうしたい気持ちは判らないでもない。
一時はお互い二度と会えないかもしれないと覚悟した家族と再会できたのだ。
妹に甘えたいとは流石に思わないが、しばらく傍に居たいと直人は思っていた。
理多もそういった思いから、こうした形で傍に居る事を望んだのだろう。

それは判るのだが、今まで一度もこうした直接的な甘え方をされた事がなかった為非常に恥ずかしかった。
二人きりの時にならまだしも、エヴァと茶々丸が見ている前でというのはかなり厳しい。

なら断ればいいじゃないかと思うかもしれないが、可愛い妹にお願いされて断れる兄はいないのである。
少なくとも、直人には無理だった。


「嫌、なの? お兄ちゃん、いつも俺にもっと甘えろって言ってたのに……」

「いや、それは頼ってくれって意味だったんだが……まぁいいや」


ご機嫌な様子の理多を落ち込ませたくはないので、直人の方から早々に折れる。
すると、許可を得る事ができた理多はやったーと無邪気に喜んで直人に寄り掛かった。

そんな滅多に見せない子供っぽい態度に、直人は仕方ないなと口にしながらも嬉しそうに理多の頭を撫でる。
その微笑ましい光景に、エヴァたちは和むと同時にちょっぴり羨ましく思った。


「お兄ちゃんは、あれからどうしてたの?」

「あー、俺はお前と違って何もなかったぞ」


撫でられて気持ち良さそうに目を細める理多に、直人は苦笑を返す。
これは嘘でも何でもなく、本当にわざわざ話すような事はなかったのである。
戦って逃げた、それだけだったのだ。

理多と廃ビルで別れた後、直人は足止めの為に理多を討伐しにきた魔法使いたちを相手にした。
そして魔法使いたち一人一人の戦闘力は大した事がなかった為、殆ど傷を負う事なく勝利を収める。
ただ如何せん相手は十数名と数に差があり、理多と別れてから大分時間を消費してしまう。

他に理多を狙う魔法使いが居ないとも限らない為、直人は急いで理多の後を追おうとした。
しかし、協会から新たに送られてきた三人の刺客によって身動きが取れなくなってしまう。
協会に所属する身でありながら吸血鬼討伐を妨害した、裏切り者の直人を捕らえる為に送られてきたのだ。

気配や身のこなしから察するに、刺客たちは決して倒せない相手ではなかった。
だが倒そうとすればどちらかが致命傷を負う事になるのは確実であり、分が悪いのは単身の直人だ。

一か八か捨て身で仕掛ける事も考えた。
しかし、致命傷を負う事になれば理多の後を追う事も逃げる事も難しくなる。
だからといって、倒さずに理多を追わせてくれるような甘い相手でもない。

直人は悩み抜いた末、逃げに徹する事を決めた。
捕まれば、いざという時に行動できなくなるからと自分に言い聞かせ。
そして理多の事は、エヴァが何とかしてくれるだろうと身勝手に信じて。

捉えようによっては理多を見捨てたかのように思えるかもしれない。
少なくとも直人自身はそう思っており、理多に責められても仕方がないと覚悟していた。
しかし理多は特に気にした様子もなく、お兄ちゃんが無事で良かったと微笑んだだけだった。

その反応は別に、理多がお人好しだからという訳ではない。
単に、理多には直人を責める事などできる筈もなかったからだった。
そもそも理多を助けたが為に、直人は刺客に狙われる事になったのだから。
それに、本当に責められるべきなのは理多を吸血鬼にした男ただ一人だろう。

と言っても直人は納得しない事は判り切っている為、理多は話を切り替える事にした。
色々と話題はあるが、とりあえず直人が此処に居ると聞いてからずっと気になっていた事を聞く事にする。


「どうしてお兄ちゃんは、京都に来たの?」

「あぁ、此処のオサには以前から良くしてもらっていてな。
 主なら俺を上手く匿ってくれるんじゃないかって思ったんだよ」


直人が埼玉から遠路はるばる京都までやってきたのはその為だった。
結果は直人の期待通り、関西呪術協会に拘留という名目で保護してもらえる事になる。
直人が協会の者たちを傷付けていたら、また理多が誰かを襲っていたらこうは上手くいかなかっただろう。

自分の事についてあらかた話し終えた直人は、猫背になって理多の頭に顎を乗せる。
そして、置物のようにじっとしている茶々丸へ目を向けた。

存在をエヴァから聞いて知っていたものの今日が初対面であった茶々丸とは、簡単な自己紹介を部屋の前で終えている。
またその際、茶々丸は人間ではなくガイノイドだという事を教えられていた。

理多の恩人であり友人である茶々丸を、例えそうでなくとも偏見の目で見るつもりは毛頭ない。
頼まれた訳ではないが、ガイノイドとしてではなく一人の人間として接したいと思っている。

しかし、"ガイノイドである"茶々丸に失礼を承知でどうしても一つだけ聞きたい事があった。
手に汗を握りつつ、期待の籠った瞳をしながら直人は尋ねる。


「なぁ茶々丸……ロケットパンチってできるか?」


あまりにも突拍子のない問いに、茶々丸はすぐに反応する事ができなかった。
エヴァも理多も、ぽかんとして動きを止めている。

とりあえず、ロケットパンチ──腕を射出する機能は両腕で可能だ。
しかし、そのロケットパンチが一体何だというのだろうか。
質問の意図が判らないまま、茶々丸は首を傾げつつ答える。


「……? 一応できますが、それがどうか──」

「マジか!? ちょ、ちょっとやってみせてくれないかっ!!」


茶々丸が全てを言い切る前に、直人は星空のように瞳をキラキラとさせて歓喜の声を上げた。
理多を抱えていなければ、おそらく茶々丸へ身を乗り出して手を取っていた事だろう。

直人の勢いに気押されて困り顔を見せる茶々丸に、エヴァと理多は揃って苦笑した。


「お前もドリルはロマンとか言う口か。葉加瀬と気が合いそうだな」

「あはは。お兄ちゃん、昔からそういうの好きだよね」


その後、直人の要望でロケットパンチのお披露目会が庭で行われる事となった。
当然、夢にまで見たロケットパンチを見る事のできた直人のテンションは最高潮に達する。
何度ももう一回やってみせてくれとせがむその姿は、特撮を見て興奮する少年のようだった。

そしてそのお披露目会は、理多がいい加減にしなさいと直人をたしなめるまで続いたのだった。

名残惜しそうにしている直人を引き連れて部屋に戻ると、みなそれぞれ元の位置へ。
もう満足したのか、理多も直人の所ではなく自分の席についていた。


「……悪ぃ、はしゃぎ過ぎたな」


両手を合わせて謝る直人に、茶々丸は首を横に振る。
初めは少し困惑したが、自分の事を褒めてくれ、また喜んでくれた事は悪い気はしない。

それに茶々丸も喜ぶ直人に理多の面影を感じ、やはり兄妹なんだなと見ていて楽しかったのである。
直人は気付いていないが、すでに対価はちゃんと貰っているのだ。


「いえ、雨音さんに喜んでもらえたようで良かったです」


少々乱暴な口調と態度だが、優しい妹想いな所が時々見え隠れする直人に喜んでもらえて良かったと。
社交辞令ではなく、そして理多の家族だからという訳でもなく、茶々丸は本心からそう口にした。


「そっか、ありがとな。あぁそれと、雨音さんだと理多と区別がつかないから直人でいいぞ──
 って、知り合って間もない内にいきなり名前で呼ぶのは抵抗があるか」


そう言って、一拍口をつぐんで唸った後。


「んじゃ良い機会だ、今後は理多を名前で呼ぶようにしたらどうだ?」


別に良いだろと、理多へ目を向けた。

大切な人に名前で呼んでもらえるようになる機会を、自ら断る理由など存在しない。
理多は当然ですと茶々丸へと向き直り、さぁどうぞと言わんばかりにニコリと笑った。

対する茶々丸は理多と目を見合わせると、何かを口ごもりながら俯いてしまう。
照れているのか何なのか、その人間にしか見えない自然な態度に直人は一人感心した。
人間に見えるよう間接などの細部に拘れば、誰もガイノイドである事に気が付かなくなるのではないだろうか。

直人個人の意見としては、そういった部分を残してもらった方が嬉しかったりするのだが。

ロマンだなと直人が内心頷いている間に覚悟を決めたらしく、茶々丸はゆっくりと顔を上げた。
そしておそるおそるといった感じに、噛みしめるように名前を口にする。
視線を交わし合っている、大切な人の名前を。


「────理多、さん……」

「はい、茶々丸さんっ」


名前を呼ばれた理多と呼び返された茶々丸が、二人してはにかむ。
お互いに名前を呼び合っただけだというのに、二人とも本当に嬉しそうで、幸せそうだった。
それは、呼び方が変わった事によって仲良くなったという実感がわいたからなのだろう。

若干二人の世界に入ってしまっている二人を見て、直人は無意識に優しい顔をしていた。
そしてふとエヴァが先程から一言も言葉を発していない事に気付き、何気なくエヴァへ目を向けた。

エヴァは、何とも形容しがたい不思議な表情をしていた。
そこそこ長い付き合いをしているが、今まで一度も見た事のない表情だった。
だがそれでも、その表情の訳には大方の見当がついていた。


「くくく。なんだ金髪、羨ましいのか? 何なら"キティちゃん"って呼んでもらうよう頼んでみたらどうだ?」

「殺すぞ貴様。……ふん。別に、羨ましくなんてないさ」


そう吐き捨てるように言って、エヴァはそっぽを向いた。
しかし、口調や態度から羨ましく思っている事はバレバレだった。

直人は考え込むように腕を組むと、そんなエヴァから理多へと視線を移す。
そして何かを思い付いたのか、ポンと手を叩いた。

何を企んでいるんだと訝しげにしているエヴァを無視して、直人は理多に何やら耳打ちをする。
すると理多は頬を染め、本当にそれを言うのと直人に目を向けた。

それに対して直人は有無も言わせない面持ちで頷くと、理多はスカートをぎゅっと握りしめ。
少し強張った笑顔で、躊躇いがちにエヴァへと言った。


「──エヴァお姉ちゃんっ」


照れているからだろう、微かに震えた呼び声。
瞬間、エヴァの時間だけが停止したかのようにピタリと固まった。

その反応に戸惑う理多は、直人に背中を押されるままエヴァに近寄る。
そして袖を摘まんで小さく引き、潤んだ瞳で上目使いに見つめると、心なしか幼い口調で言った。
潤んだ瞳以外は、全て直人の指示通りに。


「エヴァお姉ちゃん、いいこいいこして……?」


小動物のように首を傾げながらなされた理多のお願い。
しかしエヴァは一切反応せず、依然動きは停止したままだった。
その代わりにという訳ではないが、ターゲットではない茶々丸が頭から煙を出していた。

ここまで動かないと、ただでさえ人形のような容姿をしているエヴァは人形にしか見えなかった。
ショーウィンドウにでも飾られれば、誰も気付かないのではないだろうか。
今だけ見れば、茶々丸よりもよっぽど人形のようだった。

あまりにも動かない為、理多は少し心配になってエヴァの体を揺さぶった。
一方エヴァのリアクションを期待していた直人は、心底残念そうにつまらんとため息を吐く。

固まるというのも一応リアクションではあるのだが、直人が期待していた反応とは程遠い。
これでは無反応と変わらず、地味にもほどがあるというものである。


「ちっ、赤面でもしてくれりゃ面白かったのに……まさかフリーズするとは」


そう、ため息混じりに呟いたその時だった。
唐突にエヴァが口元に手を当てて、弾けるように理多たちから顔を背けた。

突然の不可解な行動に、理多と茶々丸が目を丸くして首を傾げる。
そんな中ただ一人、直人だけがもしやと勘付き、そして満面の笑みを浮かべた。
何処かの性悪人形のような、虐めっ子が浮かべていそうな感じの悪い笑みを。


「……お前、もしかして──興奮し過ぎて鼻血でも出たか?」


ギクリとエヴァが肩を震わせる。
しかし反応はそれだけで、何も言ってはこなかった。

もし違うのであれば否定なり何なりするだろう。
ただ一言違うといって振り返るだけだ、何も難しい事はない。

だというのに無言を貫き通すという事は、図星と見て間違いない。
そう沈黙を肯定と受け取った直人は、腹を抱えて笑い転げた。


「だははははははははっ。さ、最高の反応だぜ金髪! はな、鼻血って……くくくくくっ」

「もうお兄ちゃん! 大丈夫ですか、エヴァお姉ちゃ──エヴァンジェリンさん。
 ごめんなさい、お兄ちゃんに会えた事が嬉しくてちょっと調子に乗りました」


ゴロゴロと全身を使って笑っている直人を叱りつけ、理多はエヴァを覗き込もうとした。
しかしエヴァはそれを片手で留めると、鼻の下を拭いながら理多へニコリと笑った。


「……いや、理多が謝る必要はない」


その笑顔を見て、理多は理解すると同時に背筋が凍った。

まだ記憶に新しい──というよりも、記憶から消せないでいる幻想空間でのお説教。
おそらくその時と同じくらい、もしくはそれ以上にエヴァは怒っていた。
怒りの矛先が自分に向けられていたらと思うとゾッとしない。


「謝るべきなのは──」


エヴァはゆっくりと、僅かに発光する金色の瞳で直人を見据える。
この上ないほど殺気立っていたが、鼻血を拭った跡がある所為で今一迫力がなかった。

そしてエヴァは、その拭った跡を見て直人が噴出したのを合図に──
鬼のような形相で、今だ転がり回って笑う直人へ跳びかかった。


「貴様だこのチャチャゼロ二号!!」


大の男と見た目十歳ほどの少女が、畳の上で本気の取っ組み合いを繰り広げる。

そんなおかしな状況をどう治めたものかと理多と茶々丸がオロオロとしていると、騒ぎを聞きつけた使用人が現れた。
使用人の眼前に広がるのは、取っ組み合いをしている二人組と荒れる部屋。

そして理多たち四人は、鬼と化した使用人にコッテリと怒られたのだった。
流石に直人も反省したらしく、エヴァに渋い表情をしながら謝った。
無実な茶々丸と、加害者であり被害者でもある理多はいい迷惑である。

ちなみに、エヴァに対するお姉ちゃんという呼び方は禁止になりました。


 ◆ ◆ ◆ ◆ ◆


空が橙色から紺色へと変わり始めた頃、部屋には直人とエヴァの二人だけだった。

理多はというと、予定通り詠春から移住に関しての説明や館の案内を受けに行っている。
茶々丸はその付き添い兼ボディーガードとしてそれに同行していた。

直人は壁に寄り掛かって座り、エヴァは窓の外を腕を組んで眺めている。
男女二人きりとはいえ良い雰囲気など微塵もないが、かといって険悪という訳でもなかった。

顔を合わせる度に昼間のような言い合いや取っ組み合いをしている二人だが、これで結構仲は良いのだ。
二人は絶対に認めはしないが、喧嘩するほど仲が良いというやつである。


「──ん、あれは……」


エヴァは誰にともなく呟くと、目を細めて注視する。
視線の先の廊下では、何やら理多が袴姿の男たちに頭を下げられていた。

顔は全く思い出せないが、彼らは門前で襲いかかってきた者たちで間違いないだろう。
自ら謝りに来たとは考え難いから、詠春オサに言われてといったところか。

この事に対し、理多はどういった反応をするだろうかと見守る。
結果はエヴァが予想していた通り、パタパタと両手を振りながら頭を下げて返していた。

何を言っているのかは此処からでは判らないが、行動と同じく大方の予想はつく。
どうせ、吸血鬼バケモノの自分がお邪魔してごめんなさいだとか卑下た事を言っているのだろう。

一方的な被害者であるというのにと、相変わらず他者優先的な理多にため息が出る。
しかし、男たちが罪悪感で表情を歪ませた事が愉快だったので良しとした。
男たちの反応を見るに、今後理多が襲われるような事はなさそうなので一安心である。

偶然目が合った理多へ手を振りつつ、エヴァは室内へと視線を戻す。
そして理多と再会できて気が緩んだのか、大きな口を開けて欠伸をしている直人へ言った。


「直接会うのは二年振りくらいか? 少なくとも、茶々丸が家に来てからは一度も会っていないだろう」

「あー、結構会ってないんだな。ちょくちょく電話してるから、全然そんな気がしねぇわ」


欠伸を噛み殺しつつ、直人は記憶をさかのぼる。
確かにいつも電話ばかりで、顔を合わせたのは大分前のようだった。

電話といっても、別に仲良くお喋りという訳ではない。
雑談をする事がない訳ではないが、主な要件は"登校地獄"の解呪に利用できそうな情報や、裏の世界の出来事をエヴァに報告する為である。
直人は仕事先等で時間に余裕ができると、そういった事を調べているのだ。

それは頼まれているからとかではなく、五年前二人が初めて会った日に直人の方から提案した事だった。
報酬も何もない、何かあった時適当に借りを返してくれればそれでいいという、殆んどボランティアのようなものである。
エヴァが理多を助ける気になった要因の一つは、この借りを返す為だったりする。

口調や態度で誤解されがちだが、直人は理多の兄というだけあって結構なお人好しだ。
しかしかなりのめんどくさがりであり、自ら進んで自分の為に動こうする事がエヴァは腑に落ちなかった。
故に何度か理由を尋ねたのだが話そうとはせず、惚れられたかなんて事を思いながら聞く事を諦めていた。

だが理多と出会った今改めて考えてみると、何となく理由が判る気がした。
おそらく直人は、ただ漫然と日々を過ごしていた自分と理多を重ねて見ていたのだろう。
それで、放っておけなくなったと。
推測でしかないが、当たらずとも遠からずといった感じの筈だ。


「しっかし完全に解いた訳じゃねぇみたいだが、理多に先を越されるとはなぁ……俺の情報は何の役にも立たなかったってぇのに」


妹に負けた事が悔しいのか、エヴァの役に立てなかった事が悔しいのか──
確実に前者だろうが、直人はひざを抱えてぼやいた。

そのまま放置しておいても良かったのだが、感謝の意も込めて誤解を解く事にした。


「お前を慰めるような事を言うのは癪だが、十分過ぎるほど役に立ったぞ?」


確かに直人からの情報では"登校地獄"の解呪には至らなかった。
しかし、慰めでも何でもなく本当に役に立っていたのである。
本来の目的とは別の──直人にとって最高の形で。


「お前からの情報で培った知識と技術の助けがあって、理多の"吸血鬼の呪い"を封印できたのだからな」

「情けは人の為ならずってか……んで、"吸血鬼の呪い"を完全に解呪する事はできるのか?」


そうかと口元を緩めたのも一瞬の事。
直人はすぐに真剣な面持ちになり、沈んだ口調で問いかけた。
そして返ってくる答えが薄々判っているからだろう、エヴァが首を横に振っても心なしか表情に影を落としただけだった。


「一度完全に吸血鬼となってしまった者を人間に戻す事は"不可能"だ。
 それに、理多はもうこちらの世界で生きる事を選んでいる」


選んだのではなくこちらの世界で生きるしかないんだろと、直人は歯を食いしばる。
仕方のない事だと判っていても、表の世界で生きる事を許さない協会に毒を吐かずにはいられなかった。
両親を亡くしてからずっとお世話になっているとはいえ、それでも──

だが理多がこちらの世界で生きる覚悟ができているというのなら何も言うまい。
覚悟ができていなければ、できないのであれば話は別だったのだが。
できている以上、自分よりもよほどしっかりしている理多の事、過度な心配は必要ないだろう。


「そういえば、自分と誰かを守る為にお前から魔法を習っているんだってな。
 んでもって、早速一人救ったらしいじゃねぇか。くく、流石俺の妹」

「あぁ、血塗れになりながらな。まったく、危なっかしくて目を放せんよ」


エヴァは顔に手を当てて、やれやれと深くため息をこぼす。
その態度から、理多を本当に好いてくれている事が感じ取れた。
直人はその事が、自分の事のように嬉しく思った。

正直、エヴァには吸血鬼に関する事だけを何とかしてくれるよう望んでいた。
エヴァが意外と面倒見が良い事は知っていたが、他の事は期待していなかったのだ。
心の問題は自分にしかどうにもできないと、自分が時間をかけて癒やしていこうと考えていたのである。

しかしエヴァは、望んでいた以上の結果を残してくれた。
救うだけではなく、精神的に強く成長させてくれさえした。

そんなエヴァに対して、理多の兄として言わなければならない事がある。
否、言いたいと思った。


「ありがとな、エヴァ。理多の命と笑顔を守ってくれて。お前に預けて、本当に良かったよ」


感謝の言葉を口にして、直人は今まで見た事もない自然な笑顔を見せた。
外見も態度も全く違う理多と直人だが、やはり兄妹、根底は同じなのだろう。
その笑顔は、どこか理多のものと似ている気がした。

そしてどうやらこの兄妹の笑顔に自分は弱いらしいと、エヴァは顔を背けた。


「ふん、お前が素直に礼を言うなんてな。それほどお兄ちゃんは妹が大切だという事か」

「ちゃかすんじゃねぇよ。まぁ、否定はしないが」


お互いに顔を背けながら、けらけらと仲良く笑い合う。
そんな二人の頬は、薄らと赤く染まっていた。

理多たちが戻ってくるのを待ちながら、他愛のない話を交わす。
理多の学生生活についてや直人が某傭兵に半殺しにされた時の事など、主に雨音兄妹に関する話題が多かった。

そしてそろそろ理多たちが戻ってくるかという頃、直人が不意に真面目な口調で言った。


「……なぁエヴァ。いざという時は、お前が理多を守ってやってくれ」

「なんだその、近い内に死ぬ事が決まっているかのような台詞は」


神妙な物言いと突拍子もない内容に、エヴァは思わず失笑する。
真剣らしい事は判るのだが、突っ込まずにはいられなかった。

自分でも変な感じがしていたからか、エヴァの突っ込みに対して文句を言う事なく直人は苦笑する。
だがすぐに表情を戻して、拳を固く握りしめた。


「死ぬ気はねぇよ。ただ、嫌な予感がすんだよな……」


虫の知らせというヤツだろうか。
直人の態度を見るに、無視できないレベルで予感がしているらしい。
でなければ、直人の性格的に気にしたりはしない筈だ。

その嫌な予感が信用に値するか否かはひとまず置いておき、直人の頼みについて思考を向ける。
といっても答えは既に決まっており、正確にはそれ一つしか答えがないのだが。


「……悪いが、私には無理だ」


予想外の返答だったらしく、直人は口をあんぐりと開けて唖然としていた。
驚き過ぎだと思うも、しかし逆の立場であったらと考えると妥当かもしれない。
もし直人が弱気な事を言ったりなんかしたら、熱でもあるのではないかと疑っていただろう。

だが自分は熱がある訳でも気が狂った訳でもない。
冷静に考えたからこその"無理"という答えなのである。
そしてその答えが正しい判断である事は、昼間に証明されていた。


「今の私に、理多を守る力はない。何せ、此処の下っ端相手に不覚を取るくらいだ」


笑みを浮かべるのに失敗し、血が滲むほど唇を噛みしめる。
理多を守るどころか逆に守られてしまったのだ。
その有様で、どうしたら理多を任せろなどと言えるだろうか。
言える筈もない、大切であるからこそ。

改めて"登校地獄"という呪いを忌々しく思う。
光りに生きる事も悪くない。理多と出会ってそう思えるようになったというのに、
"登校地獄"は──ナギは一体何が気に入らないのか。

エヴァのイライラがみるみる内に募っていく。
その様子は、どんなに鈍感な者でも見て取れるほどだったのだが──


「"登校地獄"、か……まぁ、大丈夫じゃないか?」


なんて、適当な調子で直人は言った。
それがあまりに適当だったので、エヴァは怒りを通り越して唖然としてしまった。
もっとも、数秒後には怒りが沸き始めたのだが。

しかしすぐに怒鳴らずエヴァは堪える。
もしかしたら、報告を受けていないとっておきの情報があるのかもしれない。
そう思い、ほんの少しの期待を胸に直人へ尋ねた。


「……根拠はあるのか?」

「んにゃ。ただの勘」


根拠とかそれ以前の問題だった。
エヴァは割と本気でこのアホを殺してやろうかと、こめかみに血管を浮かべる。
そして、一時でも期待した自分自身をも。

そんな爆発寸前のエヴァへ、直人はいつもの調子で手をひらひらと振りながら言った。


「金髪も色々と大変だろうが、とにかく理多を頼んだぜ。"お姉ちゃん"?」



[26606] 第3章 5時間目 鬼娘の縁結び
Name: あかいつき。◆3327a354 ID:742ccd16
Date: 2011/03/23 20:15
広い敷地の大半を覆う緑の芝生に、季節の移ろいを色濃く映す山や木々。
餌を貰ってのんびりと過ごす鹿達と、それを見て和む観光客達。
今は特に学生の姿が多く見える奈良の有名な観光地の一つ奈良公園へ、
制服姿の理多とエヴァ、そして茶々丸の三人はやって来ていた。
観光も兼ねて、別行動を取っていたクラスメイト達と合流する為に。

エヴァと茶々丸がそうする事は至って自然な流れであり、何もおかしなところはない。
しかし他校の生徒である上に"トラブルの種"である理多がこの場に居る事は明らかにおかしく、
本来ならば万が一にもトラブルが起きないよう協会に籠もっていなければならない筈。
なのに違和感なく修学旅行に溶け込み、あまつさえ他の観光客に負けないくらい楽しんでいた。

修学旅行と同時に移住が行われると知った時、理多は内心一緒に観光できれば良いなと思っていた。
それは確かなのだが、だからといって迷惑を考えず自分勝手に行動するような性格はしていない。
では何故此処に居るのかというと、現在の身元引受人である詠春に同行を薦められたからだった。

理多を吸血鬼にした謎の男を警戒し、二十四時間体制で京都と奈良の街を巡回している協会の者達。
そして生徒達につけられている護衛達から、今のところ何も起きていないと報告を受け、
詠春は修学旅行中の短期間であるなら理多が外出しても大丈夫だろうと判断したのである。
エヴァがこちらから理多の前に現れる事はないと謎の男に言われていた事も判断材料の一つだ。

修学旅行前に麻帆良学園で起きた事を考えると、楽観するのは避けた方が良いだろう。
しかしこの厚意を断ってしまえば、理多は謎の男が捕まるまで自由に外へ出る事ができなくなってしまう。
最悪、"登校地獄"によって麻帆良学園に縛られたエヴァのように何年も長い間。

色々と不安や心配は尽きないが、これはいわばちょっとした最後の晩餐。
それをふまえて話し合った結果、せっかくの機会であるし厚意に甘えようという事になった。
そして一度そう決めた以上、煩わしい事を忘れて楽しまなければ損というものである。
という訳で、理多は修学旅行に参加させてもらっているのだった。

担任のネギが見付からなかったので他の引率の教師に合流と同行する旨を伝えた後、理多達は奈良公園を回り始めた。
しかしずばり言ってしまえば、奈良公園は鹿以外に自然くらいしか見るモノが何もない。
少し歩けばいくつかあるにはあるのだが、しおりと時計を見る限り他の場所へ行くだけの時間は残されていなかった。
なので、他の観光客に倣う事にする。


「私達も鹿に、あの味がない煎餅でもやるか」
「味のない……マスター、もしかして鹿用の餌を食べた事があるのですか?」


食べても害はありませんがと若干呆れた様子の茶々丸から、エヴァは魔が刺したんだと目を逸らす。
その横で苦笑する理多も、頬を掻きながらこっそりと目を逸らしていた。
実は以前修学旅行で奈良に来た際、理多も友達と一緒に興味本位で口にしていたのである。

味がないのに鹿は美味しいのだろうかと、他愛のない会話をしながら豊かな景色の中を歩く。
すると会話の終わり、計ったかのようなタイミングで鹿せんべいと書かれた旗が立つ小さなワゴンの販売所を見付けた。
そしてその傍の木陰には、竹刀袋を携えて静かに佇む見覚えのある姿。
理多が手を振りながら近付くと向こうもこちらに気付いたようで、小さく会釈をした。


「こんにちは。桜咲さんも鹿せんべいを?」
「いえ、私は……」


販売所の傍に居るものだからてっきりそうなのかと思ったが、特にそういう訳ではないらしい。
神妙な面持ちで言葉をとぎり、販売所を挟んだ先へと向けられた刹那の視線を追ってみる。

近からず遠からずといった距離に居たのは、流れるような黒髪をもつ少女と明日菜だった。
こちらに背を向けている為手元が見えないが、どうやら少女は鹿に餌を与えているらしい。
また怖くて踏ん切りがつかないのか、撫でようと鹿の頭上に伸ばした手が宙をさ迷っていた。

刹那は彼女達をこっそりと眺めるような真似をして一体何をしているのだろうか。
理多はそんな刹那の怪しげな行動に眉をひそめて首を傾げるが、エヴァは瞬時に察したようだった。
鹿せんべいを二束買いながら、少女を横目で流し見て鼻で笑う。


「修学旅行中でも護衛か、ご苦労なこった」
「いえ、私が望んだ事ですから……」


生徒達に付く護衛の一人が刹那であると知り、理多は思わず耳を疑った。
魔法や気は戦いにおける年齢という壁を容易に飛び越えてしまう事がある。
故に刹那の実力を身をもって知っている事もあって、まだ中学生なのにという驚きは然程ない。

問題なのは、今が修学旅行中だという事だ。
同じ立場である方が、護衛として動き易く自然と傍に居る事ができるのは判る。
仕事だから仕方がないというのも、納得はいかないが理解できなくはない。
だがそれでも、修学旅行の時ぐらい誰か大人が代わってあげられなかったのだろうか。

そう思わずにいられないが、しかし、よくよく考えると自分の所為なのかもしれない。
警備や護衛をしているのは自分の所為ではないと、何度も言われているし頭では判っている。
判っているのだが、つい自分が外出しなければという考えに至ってしまう。

やっぱりお兄ちゃんと一緒に留守番していれば良かったんじゃないか。
今だけはと忘れようとしていた気持ちが、徐々に甦り始めた時だった。
視線を感じて気付いたのだろうか、いつの間にか少女が目の前まで迫って来ていた。
そしてその事に驚く暇もなく、ぎゅっと抱きしめられてしまう。


「もしかして一緒に回る事になったん? あーん、それにしてもちっちゃくて瞳がクリクリでかわえー!」
「ちょ、ちょっとこのか!? 理多ちゃん苦しそうだから放しなって!」


着物が似合いそうな外見から勝手にお淑やかな人物だと想像していたのだが、実際は天真爛漫な明るい少女だった。
明日菜にたしなめられ、少女──木乃香は謝りながら素直に抱擁から解放してくれた。
こういった事はよく同級生や先輩にされていたので構わないのだが、息苦しさには慣れようがないので明日菜には感謝である。


「あれ、木乃香……? もしかして、あの大きなお屋敷の?」


昨日の屋敷案内の際、詠春が木乃香という娘が一人居ると言っていた事を思い出す。
エヴァと同じクラスだとも言っていたし、当然修学旅行にも参加している筈。
口調も京都弁のようだから、彼女が木乃香で間違いないだろう。


「あ、知ってるん? あそこはウチの実家なんや」


やはり彼女が詠春の娘だったようで、少し照れくさそうに笑った。
恥ずかしがる必要のない実家なのだが、その家の人間からすると何か思うところがあるのだろうか。
単純に実家を見られてしまったからというだけなのかもしれないが。

それにしてもお嬢様かぁと感心する中、理多はふと刹那が居ない事に気付く。
辺り一帯を見回してみるも、それらしき姿は見当たらなかった。
どうやら思考にふけっていた為に全く気が付かなかったが、
エヴァによると木乃香がこちらに気付いた瞬間何処かへ行ってしまったらしい。


「……せっちゃんと、一緒におったん?」
「せっちゃん……? あ、いえ、桜咲さんとはついさっき此処で偶然会ったんです」


せっちゃんというのが誰を指しているのか判らなかったが、流れ的に刹那の事だと察する。
愛称で呼んでいるところからして仲が良いようだが、何か話したい事でもあったのだろうか。
先程まで屈託のない笑顔を見せていた木乃香の表情に、暗く深い影が落ちる。

その様子に引っ掛かりを覚えつつ明日菜と二人首を傾げた時、せっちゃんという愛称に脳裏を過ぎるものがあった。
"せっちゃん"という愛称と似た、以前耳にした事のある"このちゃん"という愛称。
刹那でせっちゃんなら、近衛、もしくは木乃香でこのちゃんなのではないかと。


「……突然なんですけど、近衛さんは誰かにこのちゃんって呼ばれていたりしますか?」


そんな人居たっけと、木乃香の横で明日菜が記憶をさかのぼる。
一方木乃香はどうしてそれをと訝しげに、また驚いた様子で頷いた。
しかしすぐにハッとして目を見開くと、心なしか期待した面持ちで尋ねた。


「もしかして、せっちゃんがそう呼んでたん?」


前のめり気味に尋ねてくる木乃香に戸惑いながらコクリと頷く。
すると木乃香はそっかぁと呟いて涙ぐみ、本当に嬉しそうに微笑んだ。
その予想外の反応に、更に戸惑ってしまう。

愛称というものは、普通仲が良い者同士で呼び合うものだろう。
その愛称で呼ばれている事に涙ぐむほど喜ぶのは、仲が良いと思ってくれているという証明が成された事による安堵。
要するに今、刹那と木乃香の関係が揺らいでしまっているという事なのではないだろうか。
それならば刹那の名前が出た時の反応にも納得がいく。
刹那が姿を消したのも、木乃香と顔を合わせ辛くて逃げ出したのかもしれない。

もし喧嘩をしているのなら、自分にできる範囲で何とかしてあげたいと思う。
しかし木乃香とは今日が初対面であり、自信をもって友達とすら言えないような関係だ。
そんな自分が、木乃香に事の真相を尋ねる事は躊躇われた。


「このかと桜咲さんが友達だったなんて知らなかったなぁ。
 二人が話したりしているところとか一度も見た事ないけど、もしかして喧嘩でもしてるの?」


いっそ、怒られる事を覚悟して聞いてしまおうか。
そんな事を思っていると、友達である明日菜が理多に代わって尋ねた。
いささか直球過ぎではと思ったが、木乃香は気を悪くした様子もなく渇いた笑みを浮かべただけだった。
しかしそれは友達だからというよりも、怒りなどの感情を向けるだけの余裕がないようにも思える。


「あはは……ウチが迷惑かけてばっかりやから、呆れられてしもうたんよ」


そう言って、木乃香は刹那との事を語り出した。

木乃香が初めて刹那と会ったのは、麻帆良学園に引っ越して明日菜と出会う前。
京都の屋敷で、山奥の為に友達も居らず一人で過ごしていた幼い頃の事だった。
ある日大人達に連れられ、屋敷に刹那がやってきたのである。

他に歳の近い子供も居らず、二人が友達になるのは必然だった。
木乃香は初めての友達である刹那を慕い、また刹那も同様に木乃香を慕った。
その頃からすでに刹那は剣道を習っており、怖い犬から刹那を守ったりなどまるで姫と騎士のようだったらしい。

だが木乃香が川で溺れてしまい、一生懸命それを助けようとした刹那も溺れてしまう事があってから、二人は疎遠になってしまう。
急に刹那が剣の稽古で顔を合わせられなくなるほど忙しくなり、何日も会話を交わせない日々が続いた。
木乃香が麻帆良に引っ越してからは完全に交流は途絶え、中一の時にようやく再会できたものの──


「せっちゃん、昔みたく話してくれへんよーになってて……
 あ、ごめんな理多ちゃん。初対面でこないな話しちゃって」
「いえ、そんな……」


どうやら木乃香は、疎遠になってしまった原因が自分にあると思っているようだった。
急に避けられているかのように接する機会がなくなったとなれば、誰だってそう思うだろう。

だが、刹那が木乃香に対して何らかの負の感情を抱いている事はないように思った。
でなければ、死を覚悟した際に木乃香の名前を呼んだりはしないだろう。
一切の余裕もない状況で、おそらく真っ先に浮かんだ人物の名前なのだ。
大切に、特別に思っていない筈がない。

お互い想い合っているのにも拘わらず、二人はどこかすれ違っているような気がした。
本心を自らの内に閉じ込めてしまっている所為で、事態をややこしくしてしまっているのではないだろうか。
それはおそらく、もし嫌いだと言われてしまったらという恐れの所為で。

故に近付けなくて、その結果どんどん悪い方向に考えが向いてしまう。
お互いがお互いを恐れてしまっているから尚更にだ。


「直接桜咲さんに避けてる理由を聞いちゃえば……って、駄目か」


明日菜の言う通り、直接本心を聞いてしまうのが一番手っ取り早く確実な方法だろう。
もっとも、それができていたらすれ違ったりなどしていないのだが。


「放っておけ理多。傷付く事を恐れている者に、こちらから手を差し伸べてやる必要はない」

「ちょっと、そんな言い方──」
「それに……」


辛辣なエヴァの言葉に明日菜が声を荒げるが、エヴァはそれをぴしゃりと遮る。
そして意地悪な笑みを浮かべ、木乃香に意味有り気な視線を向けた。
表情等はカッコいいのだが、鹿に餌を与えながらなのでどうにも締まらない。


「それにゴールまで後一歩という所でもう動けないと言っている光景は、なかなか面白いからな」


どうやらエヴァも、理多と同じく二人はただすれ違っているだけだと考えているようだ。
エヴァらしい背中の押し方に笑みをこぼしつつ、理多は俯く木乃香に手を差し伸べた。
確かにエヴァの言う通り、覚悟のできていない者に手を差し出すのは甘やかしかもしれない。
だがそれによって少しだけ背中を押すくらいの事は、許されていいのではないだろうか。


「実は私、以前近衛さんに助けてもらった事があるんです。
 なのでもし一歩踏み出す覚悟があるのなら、その恩返しとして桜咲さんを連れてきます」


刹那と木乃香の間に絆がなければ、あの夜正気を取り戻す事ができずに刹那と真名を殺してしまっていただろう。
そうなれば、人を殺してしまったという自責の念からきっと自らの命を絶っていた。
でなければ、弱っていたところを容赦なく協会の者達に討伐されていた筈だ。

直接命を救ったのがエヴァなら、間接的に救ったのが木乃香と刹那なのである。
理多の事情を何も知らない木乃香からしてみれば、いきなり恩返しと言われても困るだろうが。

差し伸べられた手を、木乃香はじっと見つめる。
一歩を踏み出すか否かを、傷付く覚悟をもてるか否かを自らに何度も問いかけた。
ずっと保留にしてきた事への決着をつけるというのだ、容易に決められる事ではない。

目を閉じ、刹那との過去を振り返る。
二人で色々な事をして遊び、話し、見て聞いてきた大切な人。
結果次第では、今以上に離れていってしまうかもしれない。
それが震えあがるほどに恐ろしかった。


「──お願いしてもええかな。ウチは、せっちゃんの本音を聞きたい」


でも今のままではいけないんだと、目を開いて理多を正面から見据える。
そして、促されたからではなく自らの意思で理多の手を取った。

木乃香の手を笑顔で握り返し、理多はネックレスを握りしめながら頷く。
明日菜と茶々丸、そして密かにエヴァも、その決断に対して満足気に笑みを浮かべた。


「任せてください! あ、その代わりに、少しの間目を閉じていてもらえますか?」


断る理由もなかったので、木乃香は素直に目を閉じる。
協力をお願いしたものの、理多が何をどうするつもりなのかは判らない。
だが理多の笑顔を見て、全てを任せても大丈夫だと思ったのだ。

理多は木乃香が目を閉じたのを確認すると、
エヴァと茶々丸に目配せをして封印を解除する呪文を呟いた。
その後ろでは、エヴァがめんどくさそうに指先から糸を垂らし、
茶々丸は耳に手を当ててセンサーを起動させた。


「ちょっとあんた達、一体何を始める気よ!?」


瞳を赤く変色させた理多と不穏な動作をしたエヴァ達に対し、明日菜が慌てて尋ねる。
此処は奈良公園、殆んどが鹿とはいえ人目がない訳ではない。
ネギの為という訳ではないが、騒ぎになるような事をするつもりなら止めなければと思ったのだ。

明日菜の問いに、理多はエヴァと自分自身に目を向ける。
そして、はにかみながら小首を傾げて言った。


「えっと、リアル吸血鬼オニごっこ?」



[26606] 第3章 6時間目 剣を鞘に納めて
Name: あかいつき。◆3327a354 ID:742ccd16
Date: 2011/03/23 20:16
理多達によるリアル鬼ごっこが始まってから数十秒後。
人気の少ない広場の一角に立つ木乃香の前には、糸でぐるぐる巻きに拘束された刹那の姿があった。

短時間であっさりと捕まえられてしまった刹那だが、それは彼女の能力が低いという訳ではない。
一対三という人数差の上に、身を隠しても茶々丸の各種センサーによって瞬時に捕捉され、
エヴァの糸で包囲された中を俊敏な理多に追われたのだ、むしろ良くもった方だろう。
理多達の前から姿を消した後も少し距離を置いていただけで、
何処か別の所へ行った訳ではなかった事も捕まるのが早かった理由である。

また、心のどこかで捕まっても良いと思っていたのかもしれない。
でなければもう少し逃げ伸びる事ができていただろうし、捕まった後も大人しくはしていなかった筈だ。
人目がある所為で派手に使う事ができないとはいえ、刀や術符を持っていたのだから。
なのにそれらを一度も使わなかったという事は、つまりはそういう事なのだろう。

エヴァは刹那の行動や態度から逃げ出す気はないと判断して拘束を解いた。
そして話の邪魔にならないよう刹那と木乃香の二人を残し、この場を離れたのだった。
ここから先は二人だけの問題であり、できる事があるとすれば仲直りが上手くいくよう祈る事だけである。

という訳で、理多は再び観光を再開しようと思っていたのだが──


「あの、こういうのはよくないんじゃ……」


刹那達の会話が辛うじて聞こえるかという位置にある茂みでうごめく、怪しげな四つの人影。
こそこそと隠れる姿はどう見ても不審者で、不気味がってか鹿も避けて近付こうとしていなかった。
人影の正体は言わずもがな、立ち去った筈の理多達である。


「この状況を作ってやったんだ。私達には結果を見届ける権利があって当然だろう」


そう言ってしゃがみながら器用に胸を張るエヴァに対し、理多は納得がいかない様子でマユを八の字にする。
しかし反応はそれだけで、何かを言い返す事もこの場を去る事もしなかった。
それはエヴァのような興味本位からではなく、純粋に刹那達が心配だったからである。

だからといって、覗いている事には変わりないのだが。
理多と同じ理由で留まっている明日菜も、エヴァが残っているから此処に居るだけの茶々丸も同罪だ。

一方刹那達は、理多達が覗いている事には全く気が付いていなかった。
一般人である木乃香はともかく、警備や護衛を主な仕事とし、視線や気配に対して敏感な筈の刹那もである。
いくら視線に敵意や殺気といったものが含まれておらず、あってもエヴァの悪意だけとはいえだ。

鈍感になってしまっている原因は、傍から見ても判るほどにハッキリとしている。
刹那の前に立つ、緊張した面持ちの近衛木乃香。
その木乃香へと全神経が向けられている所為で、周りを気にするだけの余裕がなくなっているのである。


(このかお嬢様……)


教室や廊下ですれ違ったりはしていたものの、こんなに間近で顔を合わせたのは久しぶりの事だった。
記憶が確かであれば、本格的に剣を習うようになって疎遠になり始めた頃が最後の筈。
改めて思い返せば相当長い間今の曖昧な関係なんだなと、刹那は時の流れの早さを実感した。

気まずさから逸らしていた視線を、おそるおそる木乃香へと向ける。
昔は悪かったという訳では決してないが、本当に綺麗になったと胸が高鳴って動揺した。
そんな時、俯いていた木乃香が視線を上げた事でバッチリと目が合ってしまう。

反射的に目を逸らし、頬を若干赤く染めながら逃げてしまいたいと弱気になる。
だが、逃げたところで再び理多達に捕まえられてしまうだろうと思い留まった。
精神が乱れ切っている所為で上手く気配を探れず勘なのだが、
エヴァ辺りが面白がって覗くと言い出し、他の者がそれに付き合うといった感じで見ている筈だ。

では捕まえられないと判っていたら逃げたのかと言われれば、実はそうでもなかった。
今のような状況になる事を恐れていた半面、中途半端な現状に決着がつく事を望んでいたのである。
もっともそれは、強引な形で木乃香と対面した今になってようやく気付いた気持ちなのだが。


「ごめんなせっちゃん、無理矢理な事してしもうて。
 ……でもな、どうしても直接聞きたい事があったんや」


いつも無邪気な笑顔を振り撒いている木乃香の表情が、今にも泣き出しそうな形に歪む。
その表情と"どうしても聞きたい事"という言葉に、刹那は一体何を聞かれてしまうのだろうかと汗ばむ手を握りしめた。
命を賭けて戦う時よりも緊張している自分がおかしくて、思わず渇いた笑い声を上げてしまいそうになる。

身に覚えはまるでないが、何かしてしまったのだろうかと悪い想像ばかりが頭に浮かぶ。
しかし木乃香の口から発せられた言葉は、想像していたもののどれとも違っていた。
シンプル過ぎるほどにシンプルな、それ故に知りたいという気持ちが強く感じられる問いだった。


「せっちゃんはウチの事……嫌いになってしまったん?」
「……え?」


難解な問いでも何でもないのに、言葉の意味を理解するまでに時間がかかってしまう。
予想外で驚いたというのもあるが、木乃香が嫌いかどうかなどただの一度も考えた事がなかったからだ。
絶対に変わる事がない答えが胸にあるのに、わざわざそんな事を考えたりはしないだろう。

そう、考えるまでもなく答えは決まっていた。
しかしそれを口にしてもいいのだろうかと考えると口ごもってしまう。
本音でも嘘でも、答えてしまえば確実に二人の関係は変わってしまうだろう。
それだけではなく、場合によっては周囲の者にも影響を与えかねない為、迂闊に答える訳にはいかないのである。


「ウチな、疎遠になってもうてたせっちゃんと一緒のクラスになれて嬉しかった。
  いっぱいな、話したい事があったんや。せやのに……どうして、ウチを避けるん?」


目頭に涙を溜める木乃香に言葉が詰まり、息苦しくなるほどに胸が締めつけられる。
自分と話したがっている事には、影ながら見守っていた以上当然気付いていた。
しかしその事でここまで悲しんでいたとは、そして想われているとは考えてもいなかった。

自分は木乃香にとって初めての友達だったのかもしれない。
だがそれはただ周りに自分以外誰も居なかったからであり、友達が大勢居る今、
自分など"友達だった人"程度の存在に思われていると考えていたのだ。

思い違いにもほどがあると、刹那は顔に出さずに自嘲する。
改めて考えてみれば──否、改めて考えなくとも、木乃香は昔の友達を蔑ろにするような人間ではない。
身分の違いなど気にもせず、誰とでも仲良くなる事のできる優しい心を持つ木乃香。
そんな木乃香だからこそ、自分は彼女を心から守りたいと思ったというのに。
一体今まで何を見て、守り、判った気になっていたのか。


「ウチが嫌いなら、そうはっきり言うてーや。ちゃんと、受け止めるから……」


言葉を詰まらせた事を黙秘と受け取ったのか、木乃香は悲痛な面持ちで言った。
その今まで見た事がない表情に、修学旅行前エヴァから言われた事を今更になって思い知る。

ずっと、万が一にも裏の世界に関する事がバレてしまわないようにとか、
傍に居る資格がないからと色々理由を付けて木乃香を避けていた。
離れた場所から守る事ができれば満足なのだと、自分に言い聞かせていた。
気付けない筈もないのに、木乃香の気持ちから目を背けて。

護衛対象コノカと馴れ合わずに距離を置くのは、護衛としても秘密を守るのにも適切な行動といえる。
しかし刹那が今の立ち位置に居るのはそういったちゃんとした理由からではなく、ただただ怖かったのだ。
傍に居ながらまた守れなかったらと考えると、拒絶されてしまうかもしれないと考えると怖かったのである。

だが木乃香にこんな顔をさせてしまうなら、してくれるのなら覚悟を決めよう。
自分の意地や臆病さでこれ以上お嬢様を傷付けるのはもう止めにしようと決意する。
もし今までの事を許してくれたなら、後の事は二人で考えていけばいい。
今優先すべきなのは、友達として体だけではなく心も守る事だ。


「──嫌いだなんて、一度も思った事ない」


木乃香を安心させられるよう笑顔を浮かべ、不安に揺らぐ瞳からこぼれ落ちる涙を拭う。
頬に触れられ肩を震わせた木乃香と目が合うが、今度は目を逸らさずに見つめ返した。
そしてちゃんと想いが伝わるようにして、ゆっくりとこれまで秘めていた想いを口にする。


「私は昔からずっと、お嬢様の事が……このちゃんの事が、大好きや」
「……ぇ?」


木乃香は自分で口にしていた通り、どんな返答をされても受け止めるつもりでいた。
嫌いだと言われればもう二度と話しかけたりする事は止めにしようと思っていたし、
目障りだと言われればクラスを変えてもらう事すら考えていた。
できる事なら一生自分の都合で頼ったりはしたくなかったが、それを可能にするコネを持っている。

それだけ刹那は木乃香にとって特別であり、返答次第ではそうするだけの覚悟があった。
だが好意的な発言に対する覚悟をまるでしていなかった為、喜ぶべきところなのにも拘らずキョトンとしてしまう。
しかししばらくして脳の処理が追い付くと、みるみるうちに真っ赤になった。

一拍置いて、刹那も自分の発言に対して木乃香以上に赤面する。
本心を打ち明けた事に後悔は微塵もないし、大好きというのは嘘偽りのない言葉だ。
ただもっと他に言いようはなかったのだろうかと、内心頭を抱えて反省した。
ずっと好きだったなんて、これではまるで──


「告白とは、なかなかやるじゃないか」
「そういった意味での好きではないかと思いますが……おそらく」
「そ、そうよ! そんな訳ないじゃないっ……たぶん」


面と向かって誰かに好きと言うのは、相手が友達だろうと恋人だろうと家族だろうと恥ずかしい。
故に刹那が赤面する事は別段おかしな事ではないのだが、それにしたって刹那の照れっぷりは少々過剰だった。
まるで、異性に対して"愛の告白"をしたかのように。
茶々丸と明日菜が強く否定できなかったのは、刹那の過剰な反応の所為である。

また、そういった"特殊な恋愛"が決して有り得ない事ではないと理解しているというのも、否定できなかった理由の一つだった。
周りに異性が居ない女子校という閉鎖空間では、同性に対する一線を越えた好意を比較的抱き易い。
麻帆良学園の場合一歩外に出れば他校の男子が居る為確立は低いが、
それでも何度か同性同士のカップルが居るという話を明日菜達は耳にした事があったのである。


「はわわ……」


一方理多も同じような印象を抱いており、禁断の愛イケナイモノを見てしまったと両手で顔を押さえていた。
しかしよくよく見ると、両手の隙間からはチラリと目が覗いている。
育った環境故、見た目の幼さに反して精神的にやや大人びた理多もやはり女の子。
エヴァが直人から聞いた限り男の気配はこれまで皆無だったようだが、色恋沙汰に興味がない訳ではないようだ。

ただ性格によるものなのか経験不足によるものなのかは判らないが、耐性は恐ろしく低いようだった。
刹那に負けないくらい赤くなっており、今にものぼせてきって倒れそうになっている。


「ウチの事、嫌いになったんじゃないん……?」


恥ずかしさで目を回す刹那に、気を取り直した木乃香がずいっと詰め寄る。
咄嗟に刹那は顔を逸らすも、木乃香は両手を取って強引に覗き込んだ。
それにより、見る角度によってはキスをしているようにしか見えないほど顔が近くなる。
ちなみに理多達の位置からはまさにそう見えていたりした。

下手に動くと本当にキスをしてしまいそうな為、刹那はギュッと目をつぶりながら小刻みに頷いた。
それでも十分意志は伝わるだろうと思っていたのだが、しばらしく経っても木乃香の反応がない。
両手に柔らかくて温かい感触を依然感じるところから、少なくとも目の前に居ないという事はないのだが。

もしかして、覗き込んだのではなくキスしようとしたのでは。
などと想像してドギマギしつつ、深呼吸した後に意を決して目を開いてみる。


「良かったぁ……せっちゃんがウチを嫌いでなくて……」


そして、目に飛び込んできた光景にギョッとした。
木乃香が再び、大粒の涙をこぼしていたのである。

今まで溜めてきた悲しみを全て流し出すかのように、止めどなく涙がこぼれ落ちていく。
木乃香は心配をかけまいとしてぎこちなく笑顔を浮かべていたが、
それがかえって無理をしているように見え、刹那は余計に戸惑ってしまう。


「な、泣かないでこのちゃん。もう避けたりはしないから。ずっと、傍に居るからっ」


何とかしなければと懸命に声をかけるが、その言葉がかえって木乃香の涙腺を刺激する。
そして更に刹那がオロオロとするという悪循環に陥った。
刹那からすれば必死だが、傍から見ると何とも情けない光景である。


「あぁーじれったい。茶々丸、ロケットパンチだ!」


いよいよ泣きそうになっている刹那にエヴァは舌打ちをすると、アゴで刹那を指して茶々丸に命じた。
明日菜はその唐突な命令に首を傾げるが、さすが主従関係というべきか、
茶々丸はすぐに命令の意図を察し、刹那の"背中目掛けて"ロケットパンチをした。


「あっ……!?」


背中を押された刹那はつんのめり、目の前に居た木乃香を抱きしめる格好になる。
それを見て明日菜はなるほどと感心し、エヴァと茶々丸にグッジョブと親指を立てた。
その賞賛を受けた茶々丸は手を回収しながらお辞儀をし、エヴァはフンと鼻を鳴らして口元を吊り上げる。

理多はというと、抱き合う二人を見て大人だなぁと呟いたっきり放心状態になっていた。
ここまでくると耐性がないというか、純情過ぎて心配になるレベルである。
魔法の前にもっと他の事を教えた方が良いのかもしれないと、エヴァは固まる理多を横目に苦笑した。


「あああああのっ、お、お嬢様! これは私の意志ではなく……!?」


エヴァに二つの意味で背中を押された刹那は、慌てて木乃香から離れようとした。
だが普通に抱きしめられたと思っている木乃香にきゅっと服を掴まれ、胸に顔を埋められてしまう。

この状況は満更でもないのだが、非常に照れくさい為できる事なら離れてほしい。
しかし自分と仲直りできた事で嬉し泣きをしてくれている木乃香を引きはがせる訳もなく、
覚悟を決めて割れ物に触れるかのようにそっと抱き締めたのだった。

それが、長いすれ違いが終わり、仲直りを遂げた瞬間である。


「……さて」


二人の仲直りを見届け、エヴァはこれからどうしたものかと考える。
時間はもう僅かしかなく、元々奈良公園を見て回りたいという気持ちは薄かった事だし、
五分前行動をという訳ではないが、早めにバスへ戻るのが妥当なところか。
今だ心ここにあらずな理多の頬を軽く叩きつつそう決めた時、ふと疑問に思う事があった。


「そういえば、坊やは一緒じゃないのか?」


契約者パートナーとなった事もあって、ここ最近ネギは明日菜と一緒に居る事が非常に多くなった。
だから今ネギが明日菜と一緒に居ない事が、少しばかり気になったのである。

本当にただそれだけで他意はなかったのだが、明日菜は不満そうに眉間にしわを寄せた。
クラスメイト達に嫉妬や羨望から一緒に居る事に対して色々とからかわれているので、今回もそうだと思われたのだろう。
心外だと思うも、そういった側面がないとは言い切れない為何も言わないでおく。


「何でいつも一緒みたいな感じで言うのよ……ネギはちょっと色々あって、バスで休んでるわ」


詳細を言いたくないのか、明日菜は知恵熱がどうのこうのと言って口ごもる。
特別今何をしているのかが知りたい訳ではなかったので、言いたくないのであればそれで構わなかった。
が、明日菜の様子から面白い気配を感じ取った以上そうはいかない。

いいから言えとエヴァが迫ると、明日菜はうーんと唸って腕を組む。
そして遅かれ早かれ知れる事かと判断し、何があったのかを白状したのだった。
その内容は、エヴァが期待していた以上に面白いものだった。


「……実は、本屋ちゃんがネギに告白したのよ」
「ほぅ、あの宮崎のどかがか。くくく、それは良い事を聞いた」


キラーンという擬音が聞こえてきそうなほど、エヴァの瞳が光り輝く。
そして極悪な笑みを浮かべると、早足気味にバスへ向かって歩き出した。
告白の事でネギをからかうつもりなのは、その欲望が滲みでている表情を見れば明白だった。

何となく結果が判るものの、明日菜は一応釘を刺しておく事にする。
理多の影響で大分丸くなったようだし、もしかしたら自重してくれるかもしれないと期待を込めて。
ついて行くのが一番手っ取り早いのだが、木乃香達を置いていく訳にはいかない為仕方がない。


「ネギのヤツ相当てんぱってたから、あんま虐めないであげてよー!」
「あぁ、任せておけ!」


右手を掲げ、エヴァは良い笑顔で力一杯に返事をする。
この場面だけを見れば非常に頼もしくてカッコいいのだが、しかし何が任せておけなのだろうか。
どう考えても、そっとしておいてあげてほしいというお願いに対する反応ではない。
後、エヴァはそんな熱血っぽいキャラだっただろうか。

とにもかくにも、やっぱり釘刺しは無駄なようだった。


 ◆ ◆ ◆ ◆ ◆


時間と場所は飛び、修学旅行中宿泊する事になっている旅館の近く。
右手には古めかしくも味のある木造の家が並び、左手には小川が流れる夜の道を、
旅館から貸し出された浴衣を着たエヴァと理多が肩を並べて歩いていた。

見回りが居るとはいえ、二人が夜道を歩く事は性別的にも状況的にもあまりよろしくない。
だがエヴァはそれを承知した上で、二人きりでゆっくりと話をしたいと言って理多を連れ出したのだった。
旅館で済ませないのは、疲れ知らずのクラスメイト達が直接でなくとも騒いで邪魔をしそうだからである。
また、話したい内容というのが裏の世界に関する事の為というのもあった。

小川に映る星々に目を落としている理多を、エヴァはちらりと覗き見る。
浴衣に合わせて結わいた髪を、理多は土産物屋でエヴァが買ってあげた赤いかんざしで留めていた。
温泉から上がってまだあまり時間が経っていない為、ほんのりと赤らむうなじがどこか色っぽい。

実は理多の物とは色違いの青いかんざしで髪を留めるエヴァを見て、
理多もエヴァと同じ事を思っていたりするのだが、お互いに気付く様子はなかった。

同じ夜の街でもやはり学園都市とは違うなと、当たり前の事ながらエヴァはしみじみと思う。
何か見る物がある訳でもないただの道だが、十五年振りの外出という事もあって少しも退屈はしない。
今なら薄汚い路地裏だろうと何処だろうと楽しんで歩ける自信があった。

しかし理多はそこまで長い間閉じ込められていた訳でもなし、退屈だろうなと少し申し訳なく思う。
だが意外にも、理多はニコニコと笑みを浮かべ楽しそうにしていた。
散歩が好きなのか何か他の要因があるのか、何であれ退屈していないのであれば何よりである。
もっとも、楽しく散歩をする為にこうして歩いている訳ではないのだが。

刹那の事やネギの事を話しながらしばらく行くと、空き地のような公園に辿り着く。
遊具は申し訳程度にしかなく広さもあまりない公園だが、話をするのには何も問題ない。
ベンチに腰を下ろして少し雑談をした後、エヴァはわざわざ外へ連れ出した本題に入った。


「……理多は問題が解決した後、どうするつもりなんだ?」


謎の男が捕まり、学園長の働きが上手くいった後。
様々な制約が付くだろうが、復学はもちろん進学も就職も可能になる筈だ。
また以前とは違い、理多には魔法使いとして生きていくという選択肢が増えている。
ちなみに一般的なのは、魔法使いと何かの兼業だ。

どの道へ進むのであれ、これからもずっとログハウスに居てほしい。
内心エヴァはそう思っていたが、話がずれそうなので今は黙っておく。

理多は足をぱたつかせ、夜空を見上げながら考える。
とりあえず、将来何をするにもまずは高校を卒業したいと思っていた。
そして高校卒業後、直人の負担を少しでも減らす事ができればと思い就職するつもりだった。
直人には止められていたが、特にこれといってやりたい事もなかったし、何の不満もなくそうしようと思っていた。
吸血鬼になる前は。

しかし、今の気持ちは違った。


「実は、やりたい事があるんです」


漠然とした想いを抱く事になったきっかけは、エヴァに命を救ってもらった時だった。
しかし何をどうしたいのかという具体的な案が思い浮かばないまま、
エヴァ達と過ごしていく中でただ何かをしたいという気持ちだけが強まっていく。
それが明確に定まったのは、矢塚さつきとの出会いと"登校地獄"の一時的な解呪に成功した時だ。

定まったといっても最終目標が決まっただけで、そこに至るまでの事は何も決まっていない。
それは道筋があるような事ではなく、本当に到達できるのかどうかも怪しい事なのである。
もっとも、だからといって諦める気は毛頭ないのだが。

何をやりたいんだと尋ねるエヴァに、理多はくすりと笑って立ち上がる。
正直に言えば、エヴァはそんな事をする必要はないと言って怒るだろう。
本当はそうなる事を望んでいるのに本心を隠し、自分の事を心配して。

例えお説教をされても止めるつもりはないし、また黙って始める気もない。
だから今ここで言ってしまっても別に問題はないのだが、
ちゃんと準備ができてから言った方が良いかもと思い、くるりと振り返った後。
ウィンクしつつ、唇に人差し指を当てて理多は言った。


「えーっと、秘密ですっ」
「なぁっ!? こら理多、秘密とはどういう事だ!」


秘密にされた事はショックなのだが、それよりも秘密にした内容の方が気になった。
無茶な事か恥かしい事か、何にせよ聞き出してやろうとエヴァは立ち上がる。
"また"無茶な事をするつもりなら考え直させなければならないし、協力できる事なら手伝いたかった。

理多は笑いながら背を向け、からかうようにして跳ねるようにエヴァから距離を取る。
その態度から、どうやら理多は絶対に言いたくないという訳ではないようだと察した。
それなら、理多自ら話してくれるまで待つのが大人の対応というものだろう。

腕を組み、仕方がないなとエヴァはため息を一つ。
事前にちゃんと言う事を約束すれば、今は何も聞かないでおいてやる。
そう口にしようとした時、不意に理多が横を向いた。
そして次の瞬間、理多の眼前に淡い光が瞬いたかと思うと──


「────"岩の拳"」


平坦な少年の声と同時、地面から飛び出た岩石の塊によって理多が吹き飛ばされた。

軽々と宙を舞った理多は公園の端、数メートル先のフェンスに激突して茂みの中に姿を消す。
そのまま痛みに呻く声ももがく音もなく、起き上ってくる気配がまるでなかった。
人間の状態で食らってしまったのだ、余程運が悪くない限り死ぬ事はないだろうが、ただでは済まない筈だ。

今すぐ理多に駆け寄って安否を確かめたい。
しかし、得体の知れない相手から意識を逸らすのはあまりに危険。
焦る気持ちを抑え、エヴァは声のした暗がりへと身構えた。

悠然とこちらへ向かってくる人影に、頭の中で警告音が鳴り響く。
幾多もの地獄を生き抜いてきた経験が、この相手は危険であると自身に告げてきていた。

先程の"岩の拳"から判る通り、相手は魔法使い。
という事は、昨日のように呪術協会の者が襲ってきた訳ではないと判る。
何故なら殆んどの呪術師が西洋の魔法を嫌っており、魔法を使える者が誰一人として居ないからだ。
ただ、魔法使いを雇ったという可能性も十分有り得るが。


「……貴様、何者だ」


念の為に懐へ忍ばせてきていた、魔法薬と糸に手を伸ばしつつ名を尋ねる。
すると電灯の下、ネギと同じくらいの背格好と年齢をした白髪の少年が姿を現した。
茶々丸のような感情の見えない瞳が、目を引くと同時に妙な違和感を覚える。

少年はエヴァの不躾な問いに何を言う事もなく礼儀正しく一礼。
そして無表情のまま、やはり平坦な声で名乗ったのだった。


「"フェイト"と名乗っている。こんばんは、人形使いドールマスター



[26606] 第3章 7時間目 理想と現実の狭間
Name: あかいつき。◆3327a354 ID:742ccd16
Date: 2011/03/20 23:00
返答はあまり期待していなかったが、白髪の少年は自らをフェイトと名乗った。
躊躇なく名前を明かしたのは、偽名だからか、それとも冥土の土産のつもりなのか。
どちらにせよ、相手が名乗った以上名乗り返すのが礼儀というものなのだが、
エヴァはそれがどうしたと言わんばかりに口をつぐんだ。
理多をいきなり殴り飛ばすような相手に払う礼儀など、生憎と待ち合わせていないのである。

正面からフェイトと向かい合い、改めて得体の知れない奴だと思う。
それは目的が判らないからというだけではなく、フェイトという存在そのものが判らなかったからだ。

人形使いは基本的に人形をより本物ニンゲンへ近付けようと努力する為、人間の動きに対する関心と観察力が高い。
人形使いの頂点に立つエヴァもその例に漏れないのだが、どうもフェイトの動きには違和感があるように見えるのだ。
精巧な人形が動いているかのような、そんな違和感が。

この状況を前にどう動くべきだろうかと、嫌な汗が滴るのを感じながら努めて冷静に思考する。
長い人生の中で培ってきた戦闘における勘を信用するなら、フェイトは間違いなく強者だ。
それも、そんじゃそこらの魔法使いと比較するのも馬鹿らしいほどに桁違いの。
情けない限りだが、ろくに魔法も使えない今の自分や理多が勝てる可能性は皆無だろう。

そう思っていながら、何とかして理多だけでも逃がさなければと戦う覚悟を決める。
全力で臨めばやってやれない事はない筈だと、自己暗示するかのように自分自身に言い聞かせて。
そしてその決意が揺るがない内に浴衣の帯に潜ませていた糸と魔法薬を取り出すと、先手を狙って早速行動を開始した。


「――リク・ラク・ラ・ラック・ライラック……」


周囲の木々を利用して瞬時に糸を張り巡らせつつ、"登校地獄"から逃れた雀の涙ほどの魔力を魔法薬に込める。
目的を達成させる為にわざわざフェイトを倒す必要はない。
理多と、できれば自分が逃げられるだけの時間を稼げればいいのだから。


「──"こおる大地"……!!」


魔法薬の入った試験管が地面に叩きつけられて割れるのと同時、触れた者を凍てつかせる氷柱が地面を伝ってフェイトへと迫る。
込められた魔力が少ない所為で規模は小さいが、事前に張った糸が逃げ場を狭める事によって低下した命中率を補う。
それでもおそらく氷柱は避けられてしまうだろうが、理多の元へ駆けつけるだけの時間は稼げる筈だ。

"こおる大地"に対するフェイトの行動を確認する時間も惜しく、即座に踵を返して走り出す。
しかし、"こおる大地"が目標へ直撃した際に聞こえる涼しげな音が耳に届き、
まさか当たるとは思っていなかったエヴァは思わず振り返った。

するとそこにあったのは、下半身を氷漬けにされたフェイトが頭から形を崩して水となり、
氷を伝って土に吸い込まれていくという何とも不気味な光景だった。


「幻像!? クソッ……!」


"岩の拳"を放った後、暗がりから姿を現す前に入れ替わったのだろう。
今まで顔を合わせていたフェイトは、水を利用した高度な魔法による幻像ニセモノだった。

どうりで違和感がある筈だと、まんまと騙された自分に歯噛みしながら魔法薬を取り出す。
そして、微かな気配を頼りに正面を向いた──その直後、忍び寄っていた本物のフェイトに魔法薬を払い落とされ、
首を鷲掴みにされてしまう。

首を掴む手は魔力で強化されており、いくらもがいても固定されたかのように緩まない。
それならと魔法薬を取り出すが、苦しさのあまり手から滑り落としてしまう。
負けじと再び帯に手を伸ばそうとするも窒息によって力が入らず、つには満足に手を動かせなくなってしまった。


「……最凶と名高い"人形使い"が修学旅行に参加しているというから、リスクを冒して来てみたけれど……」


フェイトは眼前で意識を朦朧とさせているエヴァを一瞥。
手を緩めると、酷くつまらなそうにため息を吐いた。


「魔力がなければこの程度ですか。これでは、とても障害には成り得そうも──」


ありませんね、と最後まで言わずにフェイトは言葉を切ると、不意に空いている手を左に向かって振り上げた。
するとその手の動きを追うようにして、大人一人隠せる大きさの分厚い壁が地面から生える。
そして土でできているものの密度が高く、岩のような強度を誇るその壁へ──


「エヴァンジェリンさんを放して!!」


射手を纏った理多の拳が突き刺さり、土の壁が弾けるように粉砕した。

土煙の舞う中へ理多は着地し、自分の周囲に展開させておいた射手を右手へ。
いつでも二発目を放てるよう準備をすると、視界を遮る土煙を左手で払う。
しかし晴れた視界の中にフェイトの姿はなく、首を押さえてむせるエヴァだけだった。

"岩の拳"で殴られた腹部を片手で抑えながら庇うようにしてエヴァの前に立ち、フェイトの姿を探す。
撤退してくれていたら良かったのだが、そんな都合の良過ぎる展開はなく。
フェイトは、理多が一歩で詰められるかどうかという絶妙な位置に立っていた。


「本気の一撃でなかったとはいえ、咄嗟に張った障壁でほぼ無傷ですか……」


新たに射手を展開し、自分の腹部を見て呟くフェイトに身構える。
エヴァのような相手の実力を見極める目も勘もないが、それでも絶望的なまでに勝ち目がない事は判った。
身に纏うの気配や静かな威圧感が、別荘でのエヴァ──つまり封印が解け、
最強の魔法使いとなったエヴァと似ている気がするのだ。

故に自分達が取るべき行動はただ一つ、戦おうなどと考えずに逃げる事。
足には自信があるから、囮となってエヴァを逃がした後に自分も逃げるというのが最善策だろう。
最悪、満月の瞳を開眼させる事も視野に入れなければならないかもしれない。

エヴァには一生開眼すると言われており、理多自身できればその通りにしたいと思っていた。
だが何もせず殺されるくらいなら、暴走しない事に賭けた方がまだ希望があるだろう。
そんな事を考えていた所為か、闇が理性を蹂躙する感覚が甦り、またフェイトの無言の重圧に理多は固唾を飲んだ。

そんな微かな動きを戦闘開始の合図にしたのか。
次の瞬間突然フェイトは地面に手をかざし、そしてポツリと呟いた。


「──"障壁突破・石の槍"」
「っ!? ──"二重・光子光障壁"!!」


格上相手に出し惜しみをすれば死ぬと判断し、全力で障壁を展開。
更に維持し続けていた射手を障壁と自分の間、地面に向けて全弾発射する事によって即席の弾幕を張る。
続けてエヴァへ振り返ると、自分自身を楯にするようにエヴァを抱えて目を閉じた。

初めに背後から聞こえてきたのは、二枚のガラスが割れるような音。
それとほぼ同時に土砂が跳ねる音が聞こえ、最後は硬質な物に亀裂が走る音だった。
耳にしない事を願っていた骨肉が貫かれる音とその感触は──ない。

理多は片目ずつそっと目蓋を開け、おそるおそる後ろを確認してみる。
地面から突き出た円錐の"石の槍"は、脇腹に欠けた先端が当たる数センチ手前で停止していた。
欠けたのは障壁か弾幕によるものだと思われるが、もし欠けていなければと考えるとゾッとしない。


「ふぅん、多少なりとも抑えるとはね。どうやら障壁の腕だけは一人前──いや、一人前以上のようだ」


興味があるのかないのか判らない冷めた瞳で理多を見ながら、フェイトは淡々と評価を口にする。
障壁についてだけは悪くない評価のようだが、自分を殴り飛ばしたりしてきた相手にそんな事を言われても喜べる筈もなく。
理多はフェイトへと向き直りながら、今まで以上に警戒を強めた。

その一方で、内心フェイトの態度に困惑していた。
フェイトが敵である事は疑いようもないのだが、向けられる視線からは敵意も殺気も何も感じないのである。
最初の攻撃を辛うじて防げたのだって不自然な魔力を感じ取って不審に思ったからであり、
そういった類の気配はなかったのだ。今の攻撃にしても然りである。

一体、フェイトは自分達をどうしたいのだろうか。
そんな疑問と不安が膨れ上がっていく中、フェイトはまるで心を読んだかのように答えを口にした。


「あぁ、君達にはもう何もする気はないから、そう身構える必要はないよ。ただ実力を測りにきただけだからね」


圧倒的な能力差がありながら、今だ自分達は大した怪我もなく生きている。
さすがに警戒を解く事はできないが、その事からフェイトの言葉をある程度は信用しても良いと思った。
もし殺す気があったなら、とっくの昔に自分達は殺されていただろう。
今にして思えば、最初の"岩の拳"も今の"石の槍"も、直撃していたとしても然程重症にはならなかった筈だ。

しかし、助かった事を素直に喜ぶ事はできなかった。
エヴァに対してぼやいていた言葉と今の言葉から、万全を期して成し遂げたい何かがフェイトにある事が窺える。
いきなり襲いかかってくるような者が企んでいる何かだ、確実にろくな事ではないだろう。
それを考えると、ここで喜ぶのは無神経に思えたのだ。

フェイトの企みは気になるが、とりあえず今はどう動くべきなのだろうかとエヴァへ視線を向ける。
助言を貰いたかったのだが、エヴァはたぎる感情を押し殺すようにして歯を食いしばり、
穴が開いてしまいそうなほど地面を睨みつけていた。

本来の力を見せる事ができず、実力がないと言外されたのが悔しいのだろうか。
目に涙はないにも拘わらず何故だか理多にはエヴァが泣いているように見え、声をかけるべきかと思いあぐねた時だった。
吸血鬼化によって強化された感覚が、此処を目指して向かってくる何者かの気配を察知する。

そしてその気配の主は、公園に隣接する住宅の屋根から理多達の前に飛び降りてきた。


「フェイトはん大変です~。小太郎はんがー抜け駆けしました~」


間延びした口調でそう言ったのは、ホワイトロリータの格好をした眼鏡の少女。
エヴァが好んで着ているゴスロリ服を白くし、可愛らしくした感じといえば判り易いだろうか。
花が添えられたツバの大きな帽子が、お嬢様のような印象を抱かせる。

しかし、手に持つ二本の刀が良い印象を全てぶち壊しにしてしまっていた。
もっとも、屋根から飛び降りてきた時点で良い印象も何もないのだが。


「……僕が出かけるのを見て、抜け駆けしたと勘違いしたのかな。
 彼一人でどうなるほど向こうも弱くはないと思うし、負けて捕まったりしたら面倒だから迎えに行こうか」
「ずるいわー小太郎はん。ウチも戦いヤリたいのに……」

可愛らしく指を咥えながら、少女は理多達へと目を向ける。
その瞳はいつの間にか黒から金へと変色しており、ドロリとした殺気で濁っていた。

理多はゾクリと嫌な寒気に震えながら、思わず一歩後ずさる。
思い出すのは、自分と同じ被害者キュウケツキである矢塚さつきの事。
さつきの殺気は鋭く突き刺すような感じで、少女のはねっとりとした感じと違いはあるものの、
渦巻く殺気の質は同等のように思えた。

だが方や正気を失った吸血鬼であるのに対し、少女はおそらく正気の人間。
その事を考えると、軍配は少女の方に上がるだろう。無論、悪い意味で。

少女は今にも跳びかかってきそうな様子で、どこか艶めかしく刀の鞘を撫でている。
根拠はないが、フェイトが良しと言ったその瞬間刀を抜くような気がした。
そんな理多の考えを察してかは判らないが、フェイトはタイミングよく少女に向かって駄目だと首を振った。


「特に禁止はされていないけど、此処で手を出すのは得策じゃない」
「お預けは辛いわぁ……でも、我慢して我慢して、溜まったものを一気に吐き出した方が気持ちええって、
 あの人は言うてました。だから、今は頑張って堪えますぅ」


うふふと少女は頬を上気させながら瞳を潤ませ、解放の時が待ち遠しいと刀を抱きしめる。
その様子は恋する乙女のようにも見えるが、金色となった瞳や刀の存在を考えると気味が悪かった。


「──それじゃあ僕達は行くけど、巻き込まれたくなかったらこの事は忘れて修学旅行を楽しむと良いよ」


そう割りと身勝手な言い残し、フェイト達は駅のある方へと去っていった。
何を企んでいるのか、黒幕らしきあの人とは誰なのかと問う事もできず、理多達はただ黙ってそれを見送る。
言ったところで名前のように教えてもらえるとは思えないし、対価として何を要求されるか判ったものではない。
相手よりも弱い以上、一か八かで尋ねるにはあまりにリスクが大き過ぎる為仕方がないだろう。

フェイト達の姿が見えなくなると同時、理多はその場へ倒れるようにペタンと座り込む。
これまで体を吊るしていた緊張の糸が、安堵によって切れたのだ。
そしてそのまま両手をついて土下座のような格好になると、深く長く息を吐き出した。


「たす……かった……」


別に、首元へ刃物を突きつけられた訳でも銃で撃たれた訳でも体を引き裂かれた訳でもない。
それなのに、これまでの人生で最も生きた心地がしない時間だった。

化物ジブンを庇う訳ではないが、フェイト達ニンゲンの方がよっぽど恐ろしい。
自分やさつきよりも、フェイト達──特に少女の方が化物じみているのではないだろうかと、そう思った。
そしてそう思わせる見えない何かが、彼らにはあるような気がした。

恐怖で強張った全身に力を込めて立ち上がり、先程から一言も言葉を発していないエヴァへと振り返る。
エヴァは唇を噛みしめながら、フェイト達が去っていった方をジッと見つめて拳を握りしめていた。
どこか痛めたのかと心配したが、見た感じ怪我をしている様子はない。
見えない部分については判らないが。


 ◆


何もできなかった。旅館へ戻る道を歩きながら、エヴァは隣の理多にも聞こえないほど小さな声で呟く。
理多に言った訳でも自分に言った訳でもなく、ほぼ無意識の内に口から出た言葉だった。

この程度かとフェイトに軽くあしらわれた事は別によかった。
どうでもいい奴らの評価など知った事ではないし、惨敗した事についても自分の事ながら不思議と気にしていなかった。
むしろ、見逃してもらえて良かったと内心喜んでいるくらいである。

血が滲むほど拳を握りしめなければ、感情を抑えられないほど悔しく思っている理由。
それは、理多を守る事ができなかったどころか、逆に守られてしまった事だった。


(やはり、私では……)


いや、やはりも何も初めから判っていた事だ。
今の自分では、理多を守る事などできはしないという事は。
魔力がなく真祖の力も使えない自分など、ただの小娘でしかないのだから。

多少武術ができたところで、熟練の魔法使いには手も足も出ないという事が今回良く判った。
直人は大丈夫だと無責任に言っていたが、そんな筈がなかったのだ。
これも、初めから判っていた事であるが。


「──小太郎って人は、ネギくんの所に行っていたんですね」
「はい、自分へ"契約執行"する事を思い付いていなかったら危なかったです。
 それにしても、狗族って初めて見ました」


理多以外の声が聞こえ、大して興味もなかったが一応顔を上げる。
いつの間にか、少し顔の腫れたネギと疲れた様子の明日菜が合流していた。

どうやらネギ達はフェイト達が話していた小太郎と戦い、そして勝ったようだ。
ネギはまだまだ未熟だが、手加減していたとはいえ枷から解き放たれた自分と渡り合えるほどの力を持っている。
そのネギが辛勝したという事は、小太郎もなかなかできる奴なのだろう。


(きっと、私では勝てないだろうな……)
「あぁっ! そうだ、大変なんですよぉ!!」


心配そうにこっそりと横目で様子を窺っている理多に気付かずエヴァが鬱々としていると、ネギが唐突に大声を上げて立ち止まる。
他人に構っていられるほど心の余裕がないエヴァも、ネギのただならぬ様子に理多達同様足を止めた。


「なんなのよ、突然大声出したりなんかして。もう大変な目にはあったじゃない」
「そ、それはそうなんですが、こっちも大変なんです!
 それに、元々は明日菜さんに相談したい事があって外に出てもらったんですよ」


そういえばそうだったわねと、明日菜はネギに相談したい事の詳細を尋ねた。
せっかくだから一緒に聞いてほしいとの事なので、理多達も聞く事にする。

言い辛い事なのか、身の丈以上もある杖を抱きしめながら口をもごつかせた後。
明日菜に催促される形で、この場に全員が想像していた事以上に大変な事を口にした。


「じ、実は今日の夕方……朝倉さんに魔法の事がバレてしまったんですー!!」
「ちょ、えぇーっ!?」


口をあんぐりと開けて明日菜が絶句し、エヴァは目を丸くした後ため息を吐く。
理多は相当拙いんじゃと慌てつつ、エヴァから学んだ裏の世界のルールを思い返した。
一般人に魔法の事がバレてしまった場合、オコジョの姿にされてしまうというルールを。

しかし理多には判らない。確かに魔法がバレた事は拙いのだが、それ以上に拙い事態であるという事を。
明日菜達が心配しているのは、その事よりもバレた相手にあるという事を。


「一応、誰にも言わないと約束はしてくれたんですけど……」
「そんなの素直に信じてんじゃないわよ! 仮に黙ってくれてたとしても、あの朝倉よ?
 絶対に面白がってとんでもない事をしでかすに決まってるわ」


こうしてはいられないと、明日菜がネギの手を引いて走り出す。
理多とエヴァも目を見合わせた後、二人の後を追って走り出した。
どうせこの暗さでは見えないだろうと、浴衣が若干はだけるのを無視して全速力で。

大した距離ではなかった為、全員息を切らせる事もなく旅館へとたどり着く。
だが誰一人として中に入ろうとはせず、"ある位置"よりも前へ踏み出そうとはしなかった。
それぞれの表情に浮かぶのは──困惑。

みな、初めは敵の罠ではないかと身構えた。
何せ、戦闘の後に旅館へ戻って来てみれば──おそらく大きな魔法陣を基点の一つにし、
旅館を丸々とり込むほど巨大な魔法陣が展開されていたのだから。

まさか、生徒達を人質にしたのでは。
そう理多達が青ざめる中、そうではないと初めに気が付いたのはエヴァだった。

確信を得る為に良く調べようと、基点となっている魔法陣を真剣な面持ちで確認する。
それからしばらくし、自分の答えが間違いないと事が判ると、理多達へと振り返って眉をしかめた。
意味が判らないといったような表情をしながら。


「この魔法陣……仮契約のものだぞ」


エヴァの確認する様子を固唾を飲んで見守っていた理多達は、魔法陣の正体を聞いてポカンと硬直。
そして同時に首を傾げると、"誰と誰が"と声を揃えて口にした。

仮契約の魔法陣は、契約を交わす二人が入れるだけの大きさがあれば十分であり、
必要以上に大きくする事には何のメリットも存在しない。旅館台の大きさにするなど、
巨人同士が契約をするのでなければただ無駄に労力を消費するだけである。

あるとすればメリットではなく、契約する気がなかった物同士が仮契約してしまうデメリットくらいなものだ。
常識を持った者なら、こんな事は決してしない。それが目の前にあるという事は、
常識を持たない者が居るという事に他ならず、エヴァ達はその事実から目を逸らしたくなった。


「……ちなみにこの仮契約の魔法陣は、専門の技術を持つ魔法使いか、
 オコジョ妖精しか作成する事ができないものだ」
「専門家かオコジョ妖精……ってまさか!?」


エヴァの補足説明に、明日菜は弾けるようにネギの肩へ目を向ける。
しかしそこにネギの助言者、オコジョ妖精カモベールの姿はなかった。
思い返せば、旅館を出た時から居なかったように思う。

この魔法陣は十中八九、あのエロガモの仕業だと明日菜は確信する。
だが果たしてエロガモだけの仕業だろうかと、嫌な予感が脳裏を過ぎった。
そしてふと思う、エロガモと朝倉は気が合いそうだなと。


「もしカモ君の仕業だったら、僕からきつく言っておきます!
 それよりもまず、この魔法陣を──っ!?」


ビクリと若干跳ねながら、ネギは途中で言葉を止めた。
間近で聞こえてきたプラスチックをへし折ったような音に驚いたのである。

驚いたのはネギだけではなく、明日菜やエヴァもその音が何であるのかを確認しようとしたその瞬間。
巨大な仮契約の魔法陣が、突如として夜の闇に飲み込まれて消滅した。

その事に再び驚きつつ、ネギ達は目線を下げる。
すると、元々魔法陣が展開していたと思われる地面に、理多が手の平をつけていた。
直前の出来事から考えるに、おそらく理多は魔法陣に干渉して破壊したのだろう。


「……理多?」


無言のまま背を向けてスッと立ち上がった理多に、エヴァが怪訝な表情で声をかける。
何となく、理多の様子がおかしいような気がしたのだ。魔法陣の破壊にしても、
対処方法として間違ってはいないのだが、少々乱暴で理多らしくない。

エヴァは反応のない理多に歩み寄り、表情を心配気なものに変えて覗き込む。
そして一瞬驚いた表情を見せた後、理多がそういった感情を抱くのは仕方がないと苦笑いを浮かべてため息を吐いた。

人一倍お人好しで優しく、周りを和ませる雰囲気を持った笑顔の似合う少女。
そんな理多が、エヴァの知る限り"吸血鬼の呪い"を封印した日以来ぶりに──怒っていた。



[26606] 第3章 8時間目 非日常への妄信
Name: あかいつき。◆3327a354 ID:742ccd16
Date: 2011/03/20 23:00
火照った顔を団扇で扇ぎながら、刹那は露天風呂の入り口近くに設置されたベンチに腰掛けていた。
どこか日本刀を思わせる雰囲気があるからだろう、和服である浴衣姿が良く似合っている。
男子はもちろん、中性的な凛々しい顔立ちという事もあって女子の目も引いていた。

そんな刹那は扇ぐ手を止めると、力なく項垂れてため息を吐いた。
その様子は、つい先程まで湯船に浸かって体を休めていたとは思えないほど疲れ切っている。
また、今日大切な人と仲直りを果たしたとは思えないほど不幸そうだった。

全ての原因は、今刹那が脱衣所から着替えを終えて出てくるのを待っている人物──近衛木乃香タイセツナヒトにあった。

奈良公園で木乃香と仲直りをした後、刹那は無視をしたり避けたりする事を止めにした。
しかし久しぶりに友達として接するという事で、何となく照れくさくなり、会話などがぎこちなくなってしまう。
しかしそれでも嬉しそうな木乃香に刹那も感化され、気付けば二人の間にあった距離は綺麗さっぱりなくなっていたのだった。

そこまでなら幸せだと心から言えたのだが、一つ問題が発生してしまう。
長い間話す事さえできなかった反動か、木乃香が積極的過ぎるほどにコミュニケーションをとってくるようになったのだ。

初めは普通に会話するだけだったのだが、
木乃香は次第に腕を組んだり抱きついたり、用もなく名前を呼んだりするようになる。
そして例えトイレだろうと何処だろうと、一時も傍を離れようとはしなかった。
その所為で、クラスメイト達からはカップルと認識されてしまい、更にはバカップルと称されてからかわれる始末。

そういった経緯から、刹那の心労は軽く限界地を超えてしまっていた。
と言っても、クラスメイト達からのからかいはともかくとして、木乃香との事は決して嫌な訳ではない。
恥かしくて正直なところ疲れるが、それだけ木乃香に想われているという事なのだから。


「贅沢な不満なのかもしれませんね……ん?」


とその時、視線の先を理多が物凄い速さで駆け抜けていった。
少し遅れて、エヴァやネギ達も理多の後を追うようにして通り過ぎていく。
訳もなく走り回るような人達ではないから、何か問題が起きたのだろう。

もしその問題というのが襲撃であるなら、護衛対象の木乃香を一人にするのは良ろしくない。
竹刀袋を手に立ち上がり、失礼しますと一声かけた後で脱衣所の戸を開ける。
そして木乃香の姿を確認──しようとしたところで、戸の向こう側から伸びてきた手が首に回された。

しまったと、不意を突かれた自分に舌打ちしつつ刀へ手をかける。
だが相手が敵ではない事がすぐに判り、ホッと胸を撫で下ろして刀を袋にしまった。


「お嬢様、脅かさないでください……」
「せっちゃんが覗こうとするのがいけないんやえ?」
「してませんっ!!」


今日何度目になるか判らないため息を一つ、刹那は木乃香の手を解いて懐から一枚の紙を取り出す。
鳥の形をしているこの紙は、主に監視や伝書鳩のように使用する式神の型である。
自分は木乃香を傍に離れる訳にはいかない為、代わりに様子を見に行ってもらおうと思ったのだ。

木乃香には目を閉じてもらい、理多達が向かった先へと式神を飛ばす。
望みは薄いだろうが、何事も起きていない事を祈りながら。





少々乱暴に仮契約の魔法陣を破壊した後、理多は赤い瞳に怒りの炎を灯しながら廊下を駆け抜けていた。
マナー違反な上に人間離れした速さの所為で目立っていたが、今はその事を気にしている余裕はない。
魔力を感知して特定した、魔法陣を展開した犯人の元へと疾走する。

お互いが同意の上でなら、仮契約を結ぶ事に文句は何もない。
だが旅館全てを包み込む形で展開されていた魔法陣は、
明らかに何の理解も覚悟もできていない一般人と無差別に無理やり契約する事を目的とされている。
そんな事は常識的に許されないし、理多にとっては絶対に許せない事だった。

"吸血鬼の呪い"を封印し、理多はとある一室の前で足を止める。
魔法陣を破壊された事に気付いて逃げると思っていたが、犯人はまだこの部屋に居るようだった。

観念して自主する気になったのだろうかと、珍しく荒立っていた心が少し静まる。
だがそれも一時の事。ふすま越しに聞こえてきた慌てふためく声が、ただ逃げ遅れただけである事を教えてくれた。

冷めた表情でふすまを開けると、部屋の中には一人の少女と一匹のオコジョ。
テーブルには、おそらく監視カメラのものだと思われる映像六つを一つの画面にまとめて映したモニターと、一枚の紙があった。
ギクリと顔を引きつらせる一人と一匹を無視してその紙に目を通すと、空欄になっている表の上には"トトカルチョ"の文字。

平常心でない所為だろうか、上手く頭が回らない。
このモニターは何を見る為の物なのか、そして、このトトカルチョとは何に対しての物なのか全く判らなかった。
ましてやこれらと仮契約の繋がりなど尚更判らないし、できる事なら判りたくもない。

だが、とりあえず──


「動かないでください」


紙に目を向けている隙に逃げ出そうとしていた、朝倉とカモを引き止める。
一瞬で部屋中に展開した、"魔法の射手"で牽制する事によって。
ここでみすみす逃がしてしまうほど、理多は間抜けではない。

抵抗の意思はないと両手を上げて怯える朝倉達に、少し罪悪感を覚えながら射手を消す。
丁度その時、此処へ向かってくる気配と足音を感じ取る。
おそらく置いてきてしまったエヴァ達だろうと振り返ると、予想通りの顔ぶれに茶々丸を加えた四人が居た。

エヴァ達は理多の横に並ぶと、朝倉達の姿を見て納得し、呆れたような表情を浮かべる。
そしてほぼ同時に、体中の酸素を吐き出す勢いでため息を吐いた。


「やっぱりアンタ達だったのね。ていうか、トトカルチョって一体何をするつもりだったのよ!?」
「大方、生徒達に仮契約をさせる為の餌といったところだろう。ん、これは……」


部屋の隅に転がっていた、くしゃくしゃに丸められた紙をエヴァは広げてみる。
そこには、カラフルな色使いで"くちびる争奪!! 修学旅行でネギ先生とラブラブキッス大作戦!!"と書かれていた。
詳細までは判らないが、何をするつもりだったのかが大体予想の付くタイトルだった。

そんなふざけたタイトルを見たネギは、当然驚くと共に怒りを露わに。
エヴァと明日菜は頭が痛いとこめかみを押さえ、茶々丸はそんなエヴァ達を気遣った。
一方理多はというと、怒りが一周してしまったのか、不気味なほど無反応だった。

ネギはカモ、明日菜は朝倉に、何を考え何をしようとしていたのかを聞き出そうと、青筋を浮かべながら詰め寄る。
そんなネギ達の剣幕に気圧され、朝倉達は目を逸らしながら自分達の計画を口にした。
その内容は、どこまでも浅はかで自分勝手なものだった。

カモはネギとエヴァの決闘以来、まだまだ未熟なネギには契約者がもっと必要だと考えていた。
そんな時、ネギの不注意で魔法の存在を知った朝倉と出会い、意気投合。
契約者を増やすにはどうしたら良いかと朝倉に相談したところ、唇争奪戦の企画が立ち上がったのだという。

唇争奪戦の内容は、3-Aの各修学旅行班から二人ずつ選手として参加し、
教師達に見付からないよう誰よりも早く旅館の何処かに居るネギの唇を奪うというもの。
他選手の妨害は枕でのみ有効で、教師に見付かった時点でその選手は失格というルールだった。
そして上位の者には、仮契約すると出現する仮契約パクティオーカードが賞品として贈られる予定だったとの事。

もちろん生徒達を巻き込む事に抵抗はあるが、全てはネギの為。
そう目を合わせずに主張する朝倉達に、エヴァは無表情のままジッとモニターを眺めている理多を気にしつつ、
目を細めて問いかけた。明日菜も、トトカルチョの紙を突き付けながらエヴァの後に続いて口を開く。


「確かオコジョ妖精は、仮契約を成立させる度に金が手に入るんじゃなかったか?」
「トトカルチョもネギの為だって言うの? どう考えても、お金の為よね」


二人の指摘に滝のような汗を流し、朝倉達は目だけでなく顔全体を逸らす。
もはやネギの為というのは建前であり、本当の目的が金である事は明白だった。
巨大魔法陣の時点で真っ当な理由でない事は判り切っている為、その事が判ってもエヴァ達には呆れの色しかない。

自分達がどれだけ軽率な事をしようとしていたのか、そして人に迷惑をかけようとしていたのか。
それが判っていない様子の朝倉達に、ネギが先生らしくお説教をしようとした時。
音もなくネギ達より前に出た理多が、嵐の前のように静かな口調で朝倉に尋ねた。


「……裏の世界が危険な場所だという事は、判っていますか?」
「えっ、あ……た、確かに魔法は危なそうだけど……でも、魔法だよ? ファンタジーだよ?
 きっとみんな、喜ぶと思うんだけど……な」


理多の顔色を窺いながら、朝倉はおそるおそるといった感じで口にする。
しかし理多が怒る事も表情を変える事もなく黙っているのを見ると、あははと乾いた笑みを浮かべながら続けて言った。
自分よりも小さくて可愛らしい子を相手に、何をこんなにビクビクとしているのだろうと思いつつ。


「それにほら、ちょっと刺激的な方が、退屈な日々を過ごしている私達には丁度良いっていうか──」



何とかしてこの場をやり過ごそうと、正当化できそうな言い訳をまくし立てる。
多少無理がある事は自覚しているが、口には自信があるし、とりあえず大人しそうなこの子は何とかなるだろう。
そう内心で笑みを浮かべ、思い付くまま続々と言葉を吐き出していく。


「ちょっとくらい怪我しても魔法があるし、嫌な人はそんなに居ないと思うから──」


今回は惜しくもバレてしまったが、修学旅行はまだ終わりではない。
唇争奪戦を開催するチャンスは十分あるし、何だったら学園に戻ってからやっても構わないのだ。
学園では人の目が多くなる為難易度は高くなるだろうが、それもまた一興。
などと思いながら、言い包められそうかなと朝倉が思っていると──


「もう、いいです」


これ以上聞いても無駄だと、理多は首を振って朝倉の言葉を断ち切った。


「何も判っていないという事が、よく判りました」


自分でも驚くぐらい、口から発せられた声は冷たく鋭かった。
それほどまでに頭にきているんだなと、理多は頭の片隅で他人事のように思う。

部外者である自分が、これ以上出しゃばってはいけない。
そうは思うものの、しかしここで引く訳にはいかなかった。
仮に自分が身を引いてネギや他の誰かが説教したところで、
言い訳ばかりの朝倉にはちゃんと判ってもらえないだろうからだ。

可愛い悪戯や間違いであれば、そう目くじらを立てる必要はなかった。
なにせまだ中学生だ、知らない事はとても多く、ある程度は仕方がない面もあるだろう。

しかし、今回の件ばかりはそうもいかない。判ってもらえなかったでは済まないのだ。
また同じような事をされるのだけは、絶対に止めなければならない。そう、絶対に。

気は進まないが、幸か不幸か自分には判らせる事ができるであろう手段があった。
だから、と理多はネックレスに手を伸ばし、目を閉じる。
そして、金色の宝石に込められた封印の術式を解いた。


「……?」


何も言わず突然目を閉じた理多に、朝倉は訳が判らず動揺した。
何も判っていない事が判ったと言われ、怒られると思い身構えていたところをこれだ。
怒られずに済むならそれに越した事はないのだが、ゴシップ収集の際に遭遇した男女の修羅場と似たような緊迫感を肌で感じ、
逆に不安になる。これならむしろ、怒られた方がスッキリしてマシというものだ。

すると気の所為だろうか、唐突に理多の雰囲気が変わったような気がした。
その事に嫌な予感がした朝倉は、直後に目を開けた理多を見て息の飲む。
理多の瞳が、薄茶色から血のような赤色に変わっていたのである。

人間は、カラーコンタクトもなしに瞳の色を変えられたりはしない。
しかし、何らかのトリックを使ったようにも見えなかった。
では、今目の前で起きた事は──それを行った理多は、一体何なのだというのか。

理多の瞳に映る真っ赤な自分が血塗れになっているように見え、朝倉は体が竦み上がる。
その所為でゆっくりと近づいてくる理多に対して何もできず、息が触れ合うほど間近で視線を交わす事になってしまった。

理多は目を細めると、心なしか妖艶な笑みを浮かべてボソリと呟く。


「口で言っても判ってもらえないと思うから……
 朝倉さんには、その身をもってこちらの世界の片鱗を知ってもらおうと思います」
「──え?」


不吉な言葉と表情に戸惑う朝倉の前で、理多が薄らと口を開ける。
初めはその様子を見て抱いた違和感の正体が判らなかったが、しかしすぐに気付いた。
口元で鈍く光る、鋭く長い犬歯の存在に。

理多が吸血鬼だという結論へ至るのに、思考する時間は必要なかった。
赤い瞳に鋭い牙、それだけの情報があれば、例えオカルトに詳しくない者でも判るだろう。
後はその結論を信じるか否かだが、魔法使いが実在している事を知っている朝倉の答えは決まっていた。

目の前の存在が吸血鬼バケモノであると認識した瞬間、途端に理多が酷く恐ろしいモノのように感じる。
その恐怖心が力となったのだろうか、朝倉は動くようになった手で理多を突き飛ばした。

しかし理多は少しも動じず、まるで壁を押したかのように朝倉の方が体勢を崩して尻餅をついてしまう。
例え理多が鍛えていたのだとしても、自分よりも小さく華奢な者を押した結果がこれというのは異常だ。
その事が更に恐怖心を煽り、朝倉は尻餅をついた状態のままズリズリと後ずさった。

そんな朝倉を、理多はくすくすと微笑みながら追いかける。
そしてその追いかけっこは、朝倉が部屋の隅に辿り着いた事で早々に終わりを迎えた。
立ち上がって逃げればいいのだが、恐慌状態の朝倉はそんな簡単な事すら思い付けない。
仮に思い付けていたとしても、完全に腰が抜けてしまっている為結果は変わらないのだが。

壁へ寄りかかる朝倉に、理多がひざをついて覆い被さる。
その際首元へ伸ばされた手を朝倉は弾こうとするも、ガッチリと掴み取られてしまう。
そしてその手は、まるで手錠のように固く締め付けられて外れなかった。

口元から牙を覗かせて迫る理多に、もう駄目だと朝倉は目をギュッとつぶる。
知識通りならば、自分は血を吸われて吸血鬼にされてしまうだろう。
そうして一生、日の当たる生活ができなくなるのだ。
そんな事は絶対に嫌だったが、しかし自分にはどうする事もできない。

走馬灯のようにこれまでの人生の思い出が脳裏を過ぎる。
固く閉じた目の端からは、一筋の涙がこぼれ落ちた。



[26606] 第3章 9時間目 喪失者の忠告
Name: あかいつき。◆3327a354 ID:742ccd16
Date: 2011/03/20 23:00
「──私が、怖いですか……?」


そんな朝倉の耳元で、理多の感情のない声が囁かれた。当たり前だと、朝倉はガタガタと震えながら声に出さず叫んだ。
だがそれを正直に答えてしまえば酷い事をされると思い、かといって嘘をついても同じ結果になるような気がし。
どうせ血を吸われてしまうのだからと、最終的には正直に頷いた。

選択は正しかったという事なのだろうか、理多は怖いという返答に対して怒ったりはしなかった。
そして、首筋に牙が刺さる感触もなかった。それらの代わりにあったのは、手が放され理多が離れる気配だけ。

不思議に思いながら目を開いてみると、瞳を薄茶色に戻した理多が見下ろしていた。
胸がざわつく嫌な気配もなく、理多が元に戻ったのだと知る。
だが、一滴たりとも血を吸っていないというのに何故戻ったのだろうか。

そこでふと、一つの可能性に辿り着く。理多は言葉ではなく、体で判らせると言って迫ってきた。
しかし、"血を吸い吸血鬼にする事で判らせる"とは一言も言っていない。
そもそも本当にその気だったのだとしたら、いくらなんでもネギ達が止めに入らない筈がないだろう。

今までのは演技だったのだと、そうに違いないと確信する。
確信して、緊張が解けると同時に全身の力が抜けてずり落ちた。
そんな情けない格好になっている朝倉へ、理多は諭すようにして言った。


「……裏の世界には、確かに刺激的なモノが沢山あると思います。
 でも、それと同じぐらい危険なモノもあります」


理多は自分の胸に手を当て、言葉を続ける。


「貴女が友達を引きずり込もうとしていた世界は、私のような"化物"が、
 当たり前のように存在している世界なんです。そして、死がずっと身近な世界なんです」
「あ……」


理多がわざわざ演技をしてまで伝えたかった事に、朝倉はようやく気付く。
そして、自分が想像していた以上に裏の世界が危険である事を。
先程まで抱いていた恐怖を、友達に抱かせようとしていたという事にも気付いた。

恐怖だけならまだいい方で、取り返しのつかない事になっていたかもしれないのだ。
仮契約をして契約カードを手にするという事は、裏の世界に関わる者であると証明するようなもの。
敵に殺意を抱かせるには、十分過ぎる理由となるだろう。

目先の欲に目が眩み、とても大事な事を見逃してしまっていた。
もしここで理多に強く止められていなければ、自分は自業自得であるが、誰かに絶望を抱かせていたかもしれない。
最悪、殺してしまっていたかもしれないと考えるとゾッとした。


「平凡な日々を大切に思っている人達は、そう思っている事に気付いていない人を含めて確かに居るんです」


理多はどこか悲しげに、それでいてとても真剣な表情で頭を下げた。


「だから……何も知らない人達を無理やり引き込む事は、どうかしないであげてください」


理多の事は、名前やエヴァ達と仲が良い事以外に何も知らない。
それでも、平凡な日常をとても大切に思っている事はよく判った。
吸血鬼だからこそ、特にそう思うのかもしれないと朝倉は思う。


(──いや、"吸血鬼になったからこそ"、なのかも……?
 って、そうだ、それよりもまず謝らないと)


立ち上がろうと体を起し、竦んでいた足に力を込める。
すると、嫌な思いをさせた相手にも拘わらず、理多は手を差し出してきた。

しかし、朝倉はその手を、取る事ができなかった。

そんなつもりなど毛頭なかった。
牙を剥いて迫ってきたのは全て演技で、本当の理多は自分達と一緒に修学旅行を楽しんでいた時のもの。
そう判っていた筈なのに、手を差し出された瞬間、朝倉は思わず目をつぶってビクリと肩を震わせてしまったのだった。


「──あっ……こ、これはっ」
「……怖がらせて、ごめんなさい」


理多は苦笑いを浮かべると、踵を返して足早に部屋から出て行ってしまう。
涙は見せなかったものの、肩を落として落ち込みようを表していた。

恩を仇で返してしまった事に心の中で頭を抱えながら、朝倉は追いかけて謝らなければと慌てて立ち上がる。
慌て過ぎて少しよろけるも、腰が抜けていたり体が強張ったりはもうしていない。
これならいけると走り出すが、エヴァの横を通り過ぎたところで手を引かれて止められてしまった。

どうして止めるんだと、追いかける邪魔をしたエヴァに対して少しムッとする。
しかしエヴァに悪戯や嫌がらせの色はなく、同級生とは思えないほど大人びた表情をしていて思わず息を飲んだ。
そして従わなければと思わせる不思議な説得力のようなものがあり、苛立ちが消えていく。


「理多に謝るのは、お前が今回の事を良く考え、今後どうしていくのかを決めてからにしろ」
「今後、どうしていくのか……」


目を伏せて呟く朝倉を一瞥すると、エヴァはこの場は頼んだぞと茶々丸に目配せをして理多の後を追っていった。
その後姿を見つめながら追うかどうか悩んだが、エヴァの言う通りにしようと決める。
今後についての考えと一緒に謝った方が、確かに良いと思ったのだ。

一方茶々丸は、頼まれ頷いたもののどうしたらいいのだろうかと困っていた。
唇争奪戦の開催は生徒達に告知されていないようだし、特に後処理をしたりする必要はないだろう。
開催本部らしいこの部屋も、朝倉達が逃げだそうとした際に自分達で片付けている。

となると後は朝倉のフォロー辺りしかする事がないのだが、それもあまり必要ないように思えた。
むしろ、横から口を出すのは邪魔でしかないだろう。気の利いた助言も、正直できる気がしない事だし。

やる事がないからといって、早々に部屋へ戻るのは拙いだろうか。
そう思い始めていたところ、おずおずと手を上げたネギに尋ねられた。


「あの、茶々丸さん。聞いてはいけない事かもしれないですが……雨音さんって、何者なんですか?」
「それは……」


新米教師であるネギは、理多に関する事を何も教えられていないらしい。
それならば、"闇の福音"であるエヴァに想われ、部外者であるにも拘らず修学旅行に参加する、
吸血鬼でありながら吸血鬼らしくない少女を疑問に思うのは当然だろう。
朝倉と明日菜も、ネギ同様理多の事を知りたいと目で語っていた。
その気持ちが興味本位などではない事が、真剣な面持ちから判る。

麻帆良へきてからの理多の事は殆ど知っている為、話す事自体は可能だ。
しかし、果たして自分がそれを教えてしまって良いのだろうかと口ごもる。
何せネギ達が知りたがっている事は、趣味や好きな物などとは訳が違う、理多の辛い過去の事なのだから。


「……判りました、お話します」


しばらく考えた後、心の中で勝手な事をしますと理多に謝りつつ、ネギ達の要望に応える事にした。
理多の事を知ってもらった方が、どんな想いで脅すようなマネをしたのかを良く理解してもらえると思ったからだ。

そして茶々丸は、ある日突然吸血鬼にされてしまった一人の少女について話し始めたのだった。


 ◆


理多は自室の窓にかかる柵に突っ伏し、夜の闇に沈む外の景色を眺めていた。
こちらの存在に気付いていないのか、もしくは無視をしているのか、背を向けたまま振り返る様子はない。
ビニールスリッパを脱ぎ捨て、エヴァは驚かせてしまわないよう心持ち柔らかい口調で声をかける。

首だけを回してゆっくりと振り返った理多は、目が合うと何を思ってかはにかんでみせた。
少しばかり表情に影があるように思えるが、泣いたりはしていないようなのでホッとする。
もっとも、泣いていなければ傷付いていないという訳ではないのだが。

理多の傍の壁に寄りかかり、何気なく夜空を見上げる。
自由気ままに流れる雲を見る限り、明日も晴れて絶好の旅行日和となるだろう。
何やら企んでいる様子のフェイト達が、厄介事アラシを起こさなければ、だが。

理多を励ます前に自分が沈んでしまいそうになり、フェイト達の事は頭の隅に追いやる。
そして気を取り直し、からかうようにして理多へ言った。


「事前に言ってくれればあの役、私がしてやっても良かったぞ? 理多もなかなかだったが、私の方が上手いだろうからな」
「あはは、できればそうしたかったかもです。でも、最初からあんな事をしようと思っていた訳ではなかったので」


本当は一言文句を言いたかっただけで、それ以上の事は担任であるネギに任せるつもりだった。
吸血鬼化して演技をし、脅すようなマネをしてまで注意するつもりなど理多にはなかったのだ。
朝倉達のやろうとしていた事が、予想を遥かに上回る酷さであったと知るまでは。

怯えていた朝倉の姿を思い出し、理多は罪悪感で胸が締め付けられる。
伝えたかった事を判ってもらえたようなので後悔はしていない。
しかし、他にもっとやりようはなかったのかと反省せずにはいられなかった。


「……意外と、平気そうだな」
「傷付いていないと言ったら嘘になりますけど、今回の場合、自業自得でもありますから」


そう言って苦笑いを浮かべる理多に、慰めは必要なさそうだなとエヴァは安堵した。
反面、頼られたり甘えられたりする事がないと思うと少しガッカリする。
そんな自分に、これでは子離れできない馬鹿親か、どこぞのシスコンのようだと自嘲した。

やはり朝倉の事が気になるのだろうか、理多は遠い目をして再び外を眺め始める。
助けが必要であれば、自ら明かしてくれるだけの関係を結べている筈。
だから何も言ってこないという事は大丈夫なのだろうと信じ、エヴァは何も言わず目を閉じた。


「──ところで、エヴァンジェリンさん」


しばらくして、理多は部屋に敷かれている物を見ながら口を開いた。
この部屋に戻ってきた時からそれの事は気になっていた。
だが嫌な予感がしてずっと目を逸らしていた事だった。


「どうして、敷いてある布団が"一組"だけなんですか……?」


この部屋は理多とエヴァ、そして茶々丸の三人で使う事になっている。
となれば当然、布団も三組敷かれていなければならない。
理多とエヴァはもちろん、眠る必要がない茶々丸も一応布団で休んでいるからだ。

布団が部屋に一組しかなかったという事はない。
それはこの部屋に初めて訪れた際、布団の数を含め部屋に問題がないか点検した時に確認済みだった。
足りないどころか、2組ほど余分にあったのだ。

にも拘らず、敷かれているのが一組だけというのは、異常とまではいかないが変だろう。
部屋の中央に敷くという、三組敷く事を視野に入れていない状態からして、
人数分敷いている途中だったとも思えない。

布団は自分達で敷く事になっている為、外出している間に茶々丸が敷いたのだろう。
それならば茶々丸に聞くべきなのだが、理多はエヴァがこの事に関与している気がした。
故に駄目もとで尋ねてみたのだが、予感通り一組である理由を知っているようだった。


「……理多。昨日の夜、久しぶりに再会したお前たち兄妹に気を使い、理多と直人、私と茶々丸の二組は別々の部屋で眠ったな」


確かにエヴァの言う通りなのだが、どうして今その話が出てくるのだろうか。
頷きながら布団に視線を落とし、急激に上昇していく嫌な予感指数から目を背ける。
"あの件"はちゃんと口止めをしているから大丈夫な筈と、祈るように心の中で繰り返し呟いた。

どこか落ち着かない様子の理多に対し、エヴァは不敵にクスリと笑みを漏らす。
そして理多の肩に優しく手を置くと、内緒話をするかのように耳元で囁いた。
理多にとって、ダイナマイト級の爆弾発言を。


「──昨日はアイツと、一緒の布団で眠ったそうじゃないか」
「なっ……なぁー!?」


理多は言葉になっていない叫び声を上げ、まるで赤いペンキを頭から被ったかのように一瞬で真っ赤になる。
顔のみならず耳から首から全て真っ赤で、空気中の水分が蒸発してしまいそうなほどだった。
顔から火が出るというのは、こういった状態の事を言うのだろう。

浴衣の裾を両手で握りしめ、理多は羞恥で小動物のようにプルプルと震えている。
見開かれた丸く大きな瞳は涙で潤み、鯉のように口をパクパクとさせていた。
しかし、声はまるで出ていない。

口の動きを見て何が言いたいのかを察したエヴァは、ギリギリと歯を軋ませながら忌々しげに答えた。
直人が今朝協会を出る前、理多の居ない間に自慢げに教えてきた事を。
その時の態度が、よく殺してしまわなかったものだと自分で感心するほど腹立たしかった事を。


「は、恥ずかしいから絶対内緒って言ったのに……お兄ちゃんのバカー!!」


涙声で叫ぶと同時、理多は顔を両手で覆ってしゃがみ込む。
今ここでスコップでも渡そうものなら、数十メートルと穴を掘って埋まってしまいそうだった。
その光景を見たい気がしないでもなかったが、色々と面倒な事になりそうなのでエヴァは自重する。

流石の理多も、怖い夢を見たからといったような理由で一緒に寝ようとお願いした訳ではない。
生き別れの果てに再会した為、直人が確かに存在しているという事を強く実感したくて。
また二人きりになり、ふと両親が死んで甘えきりだった頃の事を思い出してお願いしたのだった。

改めて一組だけ敷かれた布団を見て、理多は大体の察しがついた。
要するに、昨日は直人だったから、今度はエヴァ達の番という事なのだろう。

一緒の布団で寝る事自体は別に嫌ではなかった。
むしろ嬉しいくらいなのだが、布団は特別大きい訳ではない一人用の物。
当たり前の事だが、三人で使う事は想定されていない。


「三人で使うのは、無理だと思うんですけど……」
「いや、私と茶々丸がお前を抱きしめる形になれば何とかなるだろう。理多抱き枕だな」


一瞬、それもありかもしれないと思う理多が居た。
しかし、抱き枕にされては眠れる気がしないので断る事に決める。
が、その決意を口にする前に、口答えは許さないとエヴァに布団の上へ押し倒されてしまう。

そしていつの間にか二人は、くすぐり合ったり枕を投げたりしてじゃれ合い始めていたのだった。
環境の違いによるものか、はたまた旅の恥はかき捨てという事なのか、
知り合いが目撃したら驚くようなはしゃぎっぷりである。
理多はそうでもないが、エヴァは普段クールである為別人かと疑われるほどにギャップが凄まじかった。

そんな姉妹のような仲良しっぷりを、こっそりと覗き見ている人物が居た。
行動は怪しいが、怪しい人物ではない。その正体は、
朝倉達の元から戻ってきたこの部屋の最後の使用者、茶々丸だった。

何故部屋に入らず、不審者のようなマネをしているのか。
それは、目の前の光景を自分が入る事によって壊してしまわないようにする為だった。
故にただ黙々と、自身に内蔵された録画機能を稼働させ続ける。

仲良し空間に交わる事は魅力的だが、しかしその選択は選ばない。
何故なら録画すれば、いつでも何処でも何度でも楽しめるからである。


「……ふふ」


とても微笑みとは言えないようならしくない笑みを浮かべ。
茶々丸は、理多達に気付かれるまでたっぷりと録画し続けたのだった。


 ◆ ◆ ◆ ◆ ◆


様々な騒動から一夜明け、修学旅行三日目の朝。
今日は名所を回るも良し、ゲームセンターで暇を潰すも良しの完全自由行動となっている。
服装も自由となっており、みな制服ではなく私服姿だった。

旅館前の広場から、各班元気一杯にそれぞれの最初の目的地へと向かう中。
理多達とネギ達、そして刹那達計七人は、旅館の裏口から出た先にある橋に居た。
何も知らない木乃香を除き、理多達の表情は旅行を楽しもうといった感じではなく、真剣そのものである。
ちなみに、カモの姿はなかった。

本来なら、理多達と刹那達は他の生徒達同様修学旅行へ、
ネギ達は学園長に頼まれている親書を関西呪術協会の長へ届けに行く予定だった。
しかし昨夜のフェイトと小太郎による襲撃の事もあり、これからどう動くべきかを相談する事にしたのだ。

そして相談結果、満場一致で理多達全員は協会へ行く事になった。
一般人への被害を避ける為、フェイト達に再び襲われる可能性のある自分達はみんなから離れた方が良いという判断だった。
刹那達はその可能性があるかどうか不明だが、万が一を考えて理多達と行動を共にする事に。

行き先を協会へ決めたのは、協会は本山というだけあって侵入者などに対する守りが非常に強いからである。
また協会は一般人の立ち入りは禁止されており、万が一襲撃されても全員裏の世界の者だからという事もあった。
襲撃の際に人目を気にせず力を振るえるというのは、非常に大きい。

実のところ、ネギ達は最初、協会へ行く事はむしろ危ないのではと心配していた。
それは関東魔法協会と関西呪術協会は非常に仲が悪いと知っていた為であり、親書を届けに行くのもその事が原因だからである。
そして昨夜関西呪術協会出身らしい小太郎から、関東の魔法使いである事を理由に嫌われていると身をもって知ったからだった。

が、これは小太郎と同じく関西呪術協会出身の刹那が否定した。
関東と関西二つの協会の仲が悪い事は確かだが、小太郎が特殊なだけであり訳もなく襲うほどではないと。
また親書も心配する理由にはなりえないと、ネギの修業の為に学園長が無理やり作った用事である事を明かして。

そうして行き先が決まり、早速出発といった時だった。
旅館の方から聞こえてきた理多を呼ぶ大きな声が、みんなの足を止めた。
そして、呼ばれた理多だけでなく全員が振り返る。

すると此処まで走ってきたのだろう、少々息を切らせた朝倉が立っていたのだった。

理多は荷物を茶々丸に預け、朝倉へと小走りで駆け寄る。
対する朝倉も荷物を置き、理多、ネギ達の順に視線を巡らせた後。
両手をひざに置き、勢いよく頭を下げた。


「昨日はごめんなさい!」


ネギ達は朝倉が素直に謝った事に驚くも、空気を呼んで口をつぐむ。
一方理多は口元を緩め、肩を叩いて朝倉に頭を上げさせる。
そして両手を後ろで組み、小腰を屈めて上目使い気味に問いかけた。


「……もう二度と、昨日みたいな事はしないと約束してくれますか?」


見た目はとても年上には見えず、どうなのと首を傾げる仕草は思わず抱きしめたくなるほど可愛らしい。
しかし同時に物言いや態度は年上らしくもあり、そのギャップが凄く魅力的に思えた。
そんなところは、どことなくネギと似ているかもしれないと思う。

そんな余計な事を考えている間に、理多は約束してくれないのかなと頬を膨らませていた。
その様子にきゅんとしてしまい、しばらく怒っている事に気付かずボーっと見つめてしまう。
が、ハッと我に返った後慌てて頷いた。


「約束する。理多ちゃんのような辛い思いをする人を、私の所為で出したくないから」


一瞬驚くも、昨日寝る前に茶々丸が、朝倉達に自分の事を勝手に教えたと謝られた事を思い出す。
同じように勝手に聞いてしまったと朝倉にも謝られたが、
恥ずかしくはあっても怒る理由は特に思い付かなかった為気にしないよう伝える。

そして本題である昨日の事については、約束してくれただけで十分だった。
にこりと笑って頷くと、照れくさそうに頬を書きながら朝倉も笑顔で頷き返したのだった。


「それで、朝倉さんは今度どうしていくつもりなんですか?」
「あ、うん。その事なんだけどね、私──お、早速初仕事だ」


首を傾げる理多に何やら自信あり気にウィンクをし、朝倉は唐突に駆け出した。
理多はそんな朝倉を目で追ってみると、向かう先には数人の生徒達。
彼女達の目的はおそらくネギであり、おそらく自由行動を一緒にと誘いにきたといったところだろう。

そんな彼女達に朝倉は何やらまくし立て、そしてネギから遠ざけるようにして背中を押し始めた。
その光景に、朝倉の選んだ道を把握する。記憶はそのままにし、ネギの秘密を守る手伝いをするという事なのだろうと。

朝倉は遠ざかっていく途中で振り返ると、こちらへ向かって大きく手を振った。
そしてメガホンの代わりに両手を口元に当て、理多に大声で言った。


「昨日は怖がっちゃったけど、もう絶対に怖がったり偏見の目で見たりしないから!
 だから今度会う時は、色々な事を喋ったり遊んだりしようねー!」


その言葉に、理多はこくこくと頷きながら手を振り返す。
そして歩み寄ってきたネギと明日菜に朝倉と同じような事を言われ、嬉しさに涙をにじませつつはにかんだのだった。

そんな彼女たちをエヴァは腕を組み、橋に寄りかかりながら目を細めて見ていた。
眩しいモノでも見るかのように、また、嬉しそうに。
そして、同じような表情を浮かべながら横に立つ刹那に口元を吊り上げた。


「羨ましいのか?」
「……そう、ですね。受け入れてもらえた雨音さんが、正直羨ましいです」
「せっちゃん……?」


心配そうに覗き込んでくる木乃香に、刹那はぎこちない笑顔でなんでもありませんと首を振った。
それが誤魔化しである事は誰の目にも明らかで、それは木乃香も例外ではなかったが、
木乃香はそっかと気付かない振りをした。刹那のように、ぎこちなく笑顔を浮かべながら。

気にならなかった訳ではない。ただ、何となく予感があったのだ。
これから向かう先で、今の刹那の表情の意味も、
明日菜に撫でられネギに励まされている理多の正体も、全て判ると。

関西呪術協会という名称らしい、自身の実家で。



[26606] 第3章 10時間目 忍び寄る闇
Name: あかいつき。◆3327a354 ID:742ccd16
Date: 2011/03/20 23:01
管理の手が行き届いていない所為で好き勝手に生い茂る草木の中、ひっそりと佇む一軒の家。
協会の比較的近くにある、京都には少々似合わない近代的な外観をしたその家は、壁一面床から天井まで全て本棚になっている。
また机や階段にまで本が積み重なっていたりと、何処を向いても本が視界に入るという小さな図書館のようだった。

そんな家にワイシャツとジーパンというラフな格好で一人訪れていた直人は、
一般人対策として軽い結界が施された本棚から一冊適当に抜き取り、これまた適当に目を通していく。
主に結界について記されているらしい古びた魔導書からは、目新しい情報は見付けられない。
いつ頃かまでは覚えていないものの、過去に一度読んでいる筈なのだから当然である。

直人は昔から外で体を動かす事が好きな、根っからのアウトドアタイプ。
だからという訳ではないのだろうが、本を読むのはあまり好きではないし、得意でもなかった。
にも拘らず一度はちゃんと通して読み、適当とはいえ再び本を手に取ったのは、他ならぬエヴァと理多の為。
そう、直人はエヴァにかけられた"登校地獄"を解く方法を求めて、苦手な本を手に取っているのである。


「……ふと此処の事を思い出したからきてみたが、無駄足だったかなこりゃ」


お世辞にも几帳面とは言えない性格の為、いくつか見落としがあるかもしれないと思っていた。
しかし過去の自分は意外にも一つ一つシッカリと調べていったらしい。
早朝から調べ始めてかれこれ数十冊になるが、全て既読の物だった。

パタンと小気味良い音を立てて本を閉じ、何処から取ったんだっけと少し迷いながら元の場所へしまう。
そしてため息のように鼻から息を吐き出すと、両手を頭の後ろで組んで近くの本棚に寄りかかった。
倒れこむようにした所為で本棚から埃が舞い、それを手で払い除けながら目頭に涙を浮かべて咳き込む。

たまに掃除をしていると聞いていたが、この埃っぽさから推測すると年に一回とかなのだろう。
一聞とんでもない事のように思えるかもしれないが、この家を別荘として使用していたナギが姿を消し、
誰も訪れない書庫同然になってしまっている現状では妥当な回数である。
理多ならここで掃除を始めるところなのだろうが、直人は応急処置として空気を入れ替えるだけだった。

木々で下半分を遮られた青空を見上げ、続いて室内の無数にある本を見渡す。
正直なところ、もう一度此処の本を調べる意味も気力もあまりなかった。
それなら昼頃に理多達が屋敷へ戻ってくるようだし、自分もこの辺りで見切りを付けて屋敷に戻ろうか。
そう思い本棚から跳ねるように体を離した時、その振動で一冊の本が狙ったように頭の上へ落ちてきた。

角が当たらなくて良かったと、頭をさすりながら落ちてきた本を拾い上げる。
題名を確認してみると、"よくわかる封印魔法"という初心者向けの魔導書だった。
学校で使う教科書のような見た目で、数年前に卒業した高校を思い出して懐かしくなる。
行った事がない為判らないが、魔法学校で使用されていた物なのかもしれない。

今日調べていない本を偶然とはいえ手にしたので、せっかくだからとパラパラめくってみる。
内容は第一印象通り、解説に絵やキャラクターが使われた教科書のような内容で、
"よくわかる"という題名に偽りのない判り易さだった。


「──ん?」


テンポ良くページをめくる手が、眉をひそめると同時不意に止まる。
封印の解除について書かれたページの隅に、気になるメモ書きを見付けたのだ。
この家にあった図書館島地下の地図に書かれた字と見比べてみる限り、ナギの書いたもので間違いないだろう。

書いてあったのは、一息で難なく読めるほど短い一文だけ。
それも、おそらくナギが自分の為だけに書いたもので、誰かに宛てたものではないのだろう。
その一文だけでは、何の事についてのメモなのか到底判りようもない内容だった。
最初から最後のページまで確認してみたが、他に詳細が判るようなメモ書きもない。

しかし直人はこのメモに、確信に近い心当たりがあった。
もしかしたらようやく見付けたのかもしれないと、興奮と歓喜から体が震えだす。
ずっと、エヴァと二人で何年間も探していた、"登校地獄"を解呪するヒントを。

いち早くエヴァ達に教えたいところだが、生憎と携帯電話は自宅から逃走した際に落としてしまっている。
そして此処には電話があるものの今度は相手の電話番号が判らない為、メモの書かれた本を手に屋敷へ戻る事にした。
今すぐに教える事はできなくとも、何事もなければ昼に屋敷で会えるのだから。

そうして家を出る前に戸締りの確認をしていると、控えめに二度扉がノックされる。
この時直人は二階に居たのだが、家も周りも静かだった為ノックの音は良く響き、聞き逃す事なく駆け足気味に玄関へ向かう。
そして協会の者が呼びにでもきたのだろうかと頭の片隅で考えながら扉を開けた。

訪ねてきたのは、だらしなく見えない程度に着物を着崩した黒髪の女性だった。
丸眼鏡の奥から覗く切れ長の目は力強く、表情に多少影はあるものの十分美人といえよう。

そんな女性は目が合うと軽く会釈をし、落ち着いた口調で言った。


「関西呪術協会の千草いいます。長がお呼びやから、一緒にきてくれへんか?」


丁度屋敷へ戻ろうと思っていたところなので、長の元へ行くのは一向に構わなかった。
例え屋敷に戻るつもりがなかったとしても、お世話になっている長からの呼び出しとあれば行かない訳にはいかない。
そう思っている直人だったが、その割にはすぐ返答をせず、苦々しい表情をして唇を一文字に結んでいた。

全ての原因は、目の前の人物にある。

できる事なら、今此処で思いっきり殴り飛ばしてやりたかった。
この世全ての、ありとあらゆる罵詈雑言を叩きつけてやりたかった。
しかし此処では場所が悪いと、直人は煮え滾るどす黒い感情を何とか鎮めて頷いてみせる。
上手く作れているかは判らないが、平然とした表情を浮かべながら。

すると千草は直人の内心に気付く様子もなく薄らと微笑んで踵を返し、ついてきてくださいと協会の方へと向かって歩き出す。
その隙だらけの背中に言い知れぬものを感じながら、直人は両手を強く握りしめて後を追った。

四方を木々で囲まれた道を、二人は無言のままただひたすらに歩いていく。
そしてそろそろ協会が見えてくる頃だろうかという時、千草は唐突に足を止めて振り返った。
千草を注視していた直人は驚く事もなく続けて足を止めると、酷く冷たい目で見据える。

少しばかり直人の視線に肩を震わせた後、千草は興味津々といった様子で手を合わせた。


「長から聞いたんやけど、あんた、随分と強いそうやな」
「……さぁ、どうだろうな」


質問の意図が読めず、直人は警戒したように目を細めて素っ気なく答える。
話に乗って色々と聞き出す事も考えたが、そうする気にはとてもなれなかった。
心の底から憎い相手と嬉々として会話する事ができるほど、心臓に毛は生えていない。

突き放すような態度をとる直人に対し、特に気を悪くした様子もなく千草は口を開く。
直人と違い、千草の方は心臓に毛が生えているようだった。


「ご謙遜を。魔法世界ムコウでは、結構な有名人なそうやないですか」
「あぁ、"伝説の傭兵"にド派手な一撃で半殺しにされた事でな」


吐き捨てるようにそう言うと、直人は遠い目をして自嘲した。
これは照れ隠しでも冗談でもなく、紛れもない事実である。

元々直人は特殊な戦闘方法で目立ち、実力もあった為、二つ名を付けられる程度に名が知れていた。
それが伝説の傭兵という超有名人に半殺しにされた事で、一気に有名になってしまったのだ。
正確には、よくあれほどの攻撃が直撃して生きていたなという理由で。

有名になる事自体は直人も悪い気はしない。
しかし有名になった理由が理由なだけに、素直に喜ぶ事はできなかった。
周りは称賛のつもり囃し立てているのだとしても、直人からすれば恥でしかないのだから。

何があったのかについては、できれば思い出したくないので割愛する。
ただ、それがキッカケで伝説の傭兵と仲良くなれた事だけは良かったと直人は思っていた。
本気で半殺しにされた事に見合うだけの価値は、たぶん、きっと、おそらくあると。

 ──閑話休題。


「で、いつまでこの茶番を続けるんだ?」
「……何の、事や?」


返事に間が開いたのを誤魔化すように、千草はにっこりと笑みを浮かべる。
そんな千草の一挙一動を見逃すまいと睨み付けながら、直人は両手を開いて集中した。
そしてその手の平に気を集束させ、白く淡い光を放つ塊となった気を拳へ纏わせる。

千草に対する殺意は、もう一切隠していなかった。
下手な動きをすれば容赦なく拳を叩き込んで、その綺麗な顔を吹き飛ばす。
そう憎悪のこもった目で語りながら突き出された拳は、白く禍々しい悪魔の手のようになっていた。


「俺の事を多少なりとも知ってんなら、俺が気に特化している事も知っているな?」


簡単に言えば、特化型魔法使いの対極に位置する存在。
理多が色々な属性の魔法を使えない代わりに光属性の能力がずば抜けて高いように、
直人は魔力がなくて魔法が使えない代わりに気の能力がずば抜けて高いのである。

どう能力が高いのかというと、例えばつい先程直人が行った事は気を纏う事での身体強化なのだが、
方法こそ同じものの過程や結果が異常だった。気というものは本来透明であり、
相当時間をかけて練り込まない限り目に見えたりはしない。それを直人は一瞬で、
しかも二つ同時に練ってしまったのである。また纏わせた気の形が変化した事も、
通常の身体強化では有り得ない現象だ。

そしてそれだけの濃い気は普通、奥義などの切り札に対して使うものなのである。
何故なら練り込む事自体が大変であるし、維持する事は非常に難しく、
そうして使ってしまわないと四散させてしまうからだ。
しかし直人は容易く練って維持し、奥義などで使用するほどの気で身体強化を行っているのである。
その効果のほどは、言うまでもないだろう。

そんな気に特化している直人には、他にはない特殊な能力が一つあった。
変な壁を作られたくないからと、今まで誰にも明かした事のない能力が。


「俺さ、相手の"精気"を視る事ができて、そこから性別や年齢、種族、感情とかが何となく読めるんだよ」


例えば精気が生成されている心臓の部分が、男なら青く、女なら赤く光って見える。
そしてその光は若いほど薄く、年齢を重ねていくに従って濃くなっていく。
種族は比較して違いが判る程度で、感情は全身を包む淡い気のモヤが赤く見える時は怒っている、
青く見える時は悲しんでいるといった感じだ。

視る視ないの切り替えが可能なこの力は、戦闘において相手の次の手を読む手助けとなり、敵か味方かの見極めにも役立つ。
直人はよく親しい者を怒らせない程度にからかう時に使っていたりするが、基本的には戦闘以外で視ないようにしていた。
相手の感情を読むという事は、相手の心を勝手に覗いているとも言えるだろう。
それは卑怯で下劣な事だと、そう思っているからである。

何故突然この事を話したのかというと、直人の目から見た千草はどう考えてもおかしいからだ。
精気だけを見て千草を言い表すと、"人間の男で年齢は二十代後半、何か良からぬ事を考えている"となってしまう。
感情はともかく、二十代前半の女性という外見と全くもって合わない。


「……面倒だから、直球で聞く」


そう言いながら、直人は先程よりもゆっくりと両足に気を纏う。
その足は、邪悪で刺々しい鬼のようになっていた。

精気と外見の差異から導き出される答えは、考えるまでもなく判るだろう。
だがその事についても何を考えているのかも、正直今はどうでもよかった。
そんな事よりも問いただしたい事が、念の為に確認したい事が一つあった。

それは、精気から読み取っていたもう一つの情報シンジツ


「──お前、ウチの妹を吸血鬼にした野郎だな?」


直人はハッキリと覚えていた、忘れられる筈がなかった。
大切な妹の人生を一度は破壊し尽くした、あの夜自分達の前に姿を見せた男の精気を。
だから千草を一目見た瞬間には、もう正体は見抜いていた。

殺気と共に気が膨れ上がり、強く握りしめた拳は軋み、足元の土がひび割れる。
食いしばった口元から血が滴るほど、精一杯自分を抑え込む。
でなければ、殴り飛ばすどころか原形を留めなくなるほどに千草を破壊していただろう。

心臓を抉り取るような殺気を真正面から受け止めてもなお、千草は仮面を付けているかのように笑顔を絶やさない。
しかし直人と目を合わせたまましばらくして表情を崩すと、顔に手を当てて深くため息を吐いた。
そしてやれやれと頭を振り、聞き覚えのある男の声色で言った。


「どうやら君達兄妹には、この手の偽装は通用しないようだね」


困ったなと、まるで困っているようには見えない態度で苦笑する。
そんな危機感のまるでない千草を脅すように両拳をぶつけ合わせ、直人は唸るような低い声で尋ねた。


「気色の悪い変装までして、俺に何の用だ、何が目的だ。
 まさか、わざわざ俺に殴られにきてくれたって訳じゃーねぇだろ?」
「あぁ、それはね……君は今消えても然程問題にならない、比較的簡単に排除できる強者だから──」


簡単に排除できると言われて青筋が浮かぶが、蛇の如く這い寄る嫌な予感に頭が冷える。
そしてその予感の正体が判らぬまま、とにかくこの場から離れようと慌てて足に力を込めた。
しかしその直後、千草の醜悪な笑みと同時に足元へ魔法陣が浮かび上がり、発光。
魔方陣から黒い触手両足へと伸びて、地面に縫い付けるかのように絡まれてしまう。


「一足先に、退場してもらおうと思いまして」


続けて、いつの間にか底の見えない影と化していた魔法陣から黒い泥が噴出し、その泥を頭から被ってしまう。
閉ざされた視界の中、泥を拭い落とそうとしていると、足元から嫌な感触。
まるで泥沼に足を突っ込んでいるかのようだと思った次の瞬間、とぷんと音を立てて直人は影に飲み込まれてしまった。

魔法が使えないからか魔力感知能力が皆無であり、その所為で予め仕掛けられた罠に気付く事ができなかった。
そんなところだろうかと、思いの他あっさりと直人を排除できた事に千草は口元を緩める。
そして計画の達成へまた一歩近付いた事に、笑みをこぼしながら打ち震えた。


「安心してください。全てが終わったら出してあげますよ。そう、全てが終わったら……ね」


スゥッと土の中へと消えていく影を眺めていた千草はそう呟くと、
含み笑いを浮かべながら誰も居なくなった森から去っていった。



[26606] 第3章 11時間目 関西呪術協会壊滅
Name: あかいつき。◆3327a354 ID:742ccd16
Date: 2011/03/20 23:01
初めて協会を訪れたネギと明日菜が見せた反応は、驚愕からくる絶句だった。
それは、"協会は大きな屋敷"と聞いて想像していたものを、遥かに上回る大きさだったからである。
クラスの委員長、雪広ユキヒロあやかの豪邸へ何度も遊びに行き、
大きな家にはいくらか慣れている明日菜が驚いてしまうほどの大きさだ。
あまり慣れていないネギの方など、天才とは思えないようなアホ面で、口をあんぐりと開けたまま固まってしまっていた。

なんとか気を取り直したネギ達は、大きさに圧倒されてやや緊張した面持ちで社門を潜り抜ける。
今ので数ヶ月分は驚いた気がする、だからもう早々驚く事はないだろうと、何の根拠もなく思いながら。
しかし社門の先に広がっていた光景に、今度はネギ達だけではなく理多達までもが息を飲んでしまう。
屋敷まで続く石畳の両側に、大勢の巫女達がズラリと立ち並んでいたからだ。

事前に今日訪ねる事を連絡しておいたので、長の娘である木乃香を出迎える為に待機していたのだろう。
巫女達は一斉に頭を下げ、そして綺麗に声を重ねて歓迎の言葉を口にした。


「お帰りなさいませ、木乃香お嬢様!!」


恥ずかしそうに頬を掻く木乃香同様ネギ達も歓迎され、小太郎との戦いで負った傷を労わられる。
一日振りに戻ってきた理多も、いつの間に仲良くなったのか揉みくちゃにされて可愛がられていた。
この様子を見て、初めは協会の者から蔑みの目を向けられ襲われたとは誰も思えないだろう。

そして理多を庇っていたエヴァも認められたという事なのか、多少ぎこちなさはあるものの笑顔で出迎えられる。
エヴァはそんな慣れない対応に若干の居心地の悪さを感じながらも、ただいまと言葉を返した。
といっても照れくさいのか、とても相手に聞こえそうもない消え入るような小さな声で。

巫女達に屋敷へ案内され、ネギ達は詠春が待っているという謁見の間へ。
そこで学園長から託された親書を渡し、東西の不仲を解消するようお願いするとの事。
一方その件には関わりのない理多達は、荷物を置きに二日前用意された自分達の部屋へと向かった。

その途中直人の部屋を覗いてみたが、どうやら電話をした時に詠春が言っていた別荘へ行ったまま、
まだ戻ってきていないようだった。何をしに誰の別荘へ行っているのかは、
詠春が直人に口止めされているらしく教えてもらえなかった為、理多は何も知らない。
だがエヴァは事情を知っているらしく、隠している事に対して相変わらず素直じゃないなと苦笑していた。

そんなエヴァもこっそりと茶々丸に苦笑されていたのだが、エヴァはその事に気付かない。
訳が判らない理多は、二人を交互に見ながら頭の上にクエスチョンマークを浮かべるばかりである。


 ◆ ◆ ◆ ◆ ◆


謁見の間にてネギの用事が済み、直人を除いた全員で旅館に負けず劣らずの豪勢な昼食をとった後。
詠春とエヴァ、そして刹那の三人は、フェイト達についての会議を行う為とある一室に集まっていた。
他の者達は屋敷を案内されていたりなど、各々協会の敷地内で自由に過ごしている。

そうして始まった会議なのだが、フェイト達の目的が判らない為まともに話し合う事ができず、長い沈黙が続いてしまう。
目的を推測する材料も、フェイト達の一味らしい小太郎がネギを襲った事くらいしかなく。
結局、協会や生徒達の警備を強化するという会議の意味がまるでないような案しか出なかったのだった。

今度の方針としては、今日一日協会に留まって様子見し、何らかの進展があればまた会議をするという事になる。
どうしても受身になってしまい歯痒いが、圧倒的な実力を持つフェイトの存在を考えると仕方がないだろう。
もっとも、フェイト達の居場所も目的も判らない為、動こうにも動きようがないのだが。


「詠春、フェイトヤツに対抗できるとすればおそらくお前だけだ。
 念の為、屋敷の中でも常に刀を持ち歩いておけ」
「そうだね、そうする事にするよ。話を聞く限りだと、此処の結界もあまり過信しない方が良いだろうしね」

具体性のないまま会議は終わり、エヴァは背伸びと欠伸をしながら退室する。
詠春も久しぶりに会った木乃香ムスメと話そうかと思いながら席を立つと、えらく畏まった口調で刹那に引き止められた。
何度普通に接してくれて構わないと言っても聞かない刹那に苦笑いを浮かべつつ、再び腰を下ろす。

詠春の表情から、刹那は言わんとしている事を察したが、今後も対応を変えるつもりはなかった。
親代わりの存在とはいえ長であるし、今回の場合特に普通にできない理由があった。
これから話そうと──お願いしようと思っている内容が内容だからである。

刹那は大きく深呼吸をして覚悟を決めると、奈良公園での木乃香との事を包み隠さず全て話した。
色々な事を秘密にしている事や立場を気にし、木乃香と再会してからずっと避けていた事。
それに対して木乃香は想像以上に悲しく思い、傷付いていた事。
そして、自分は木乃香の傍にずっと居たくて、木乃香もそう思っていてくれている事を。

だが傍に居ては、木乃香に裏の世界の事を知られたくないという詠春の希望を、
遅かれ早かれ守る事ができなくなってしまう可能性が高くなる。
それを知られてしまうという形ではなく、わだかまりなく付き合えるよう刹那は自ら明かしたかった。
我が侭である事を承知でその許可を、木乃香の親であり協会の長である詠春にもらいたかったのだ。


「もう彼女に隠し事は、悲しませるような事はしたくないんです!」


拒否する事を躊躇わせるような、揺るぎのない強い想いが伝わってくる真剣な瞳。
自分の事を押し殺しがちな刹那が、こんなにも強く気持ちを主張するのは久しぶりに見る気がした。
木乃香が川で溺れる事件の後、京都神鳴流を本格的に習いたいと言ってきた時以来ではないだろうか。
前々から判っていた事ではあるが、本当に木乃香を大切に想ってくれているのだなと改めて嬉しく思う。

木乃香に裏の世界について教えず隠したのは、木乃香を想っての事だった。
親として、危険の多い裏の世界に関わらせたくなかったのである。
英雄ナギ率いるパーティー"紅き翼"の一員として世界各地を渡り、様々なモノを見てきたからこそ。

だが、親である自分に負けないくらい木乃香を大切に想っている刹那の希望なら。
そして、そんな刹那と手を取り生きたいと木乃香が願うなら──


「……刹那君、今日まで私の個人的な我が侭に付き合ってくれて有り難う」


まるで娘を嫁に出すようだなと思い、そんな事を思った自分に内心で苦笑しながら。
詠春は協会の長ではなく、一人の親として言った。


「──娘を、宜しく頼むよ」
「っ……はい!!」


ぱぁっと花が咲くように刹那は笑顔を浮かべるも、長の前である事を思い出し慌てて表情を戻す。
そんな珍しい表情を見せた刹那に笑みをこぼしながら立ち上がり、詠春は刹那の肩をポンと叩いた。
それは、少しばかり変則的なバトンタッチ。


「今後、木乃香の事は全て君の判断に任せるよ。それと、"君自身の秘密"についてもね」


"掟"の事は気にしなくて良いからと言い残し、詠春は心なしか嬉しそうに部屋を出て行った。

その後ろ姿を見送りつつ、刹那は叩かれた肩に手を当てて託されたモノの重さを噛みしめる。
そして決意を新たにし、これからの事を考えながらみんなの所へ向かうのだった。


 ◆ ◆ ◆ ◆ ◆


予定通り協会に泊まる事となったネギ達の為、夕食を兼ねた歓迎の宴が行われる事となった。
旅館へ戻らない事は引率の教師へ連絡済みだが、念の為にと警備員の派遣と一緒に詠春が式神の身代わりを送っておいたという。
朝倉も誤魔化すのに協力してくれているらしく、今日は生徒達の事を気にする必要はあまりなさそうだった。

自分達だけ豪華過ぎる待遇を受けた事に、旅館に居る生徒達へ少し罪悪感を抱きながら宴を終える。
その後各々風呂へ行ったりする中、理多とエヴァの二人は詠春の部屋へと訪れていた。
夜になっても帰ってこなかった、直人の行方についての手がかりを見付けたという詠春からの言付けを、
巫女から受け取ったのである。

手がかりのあった場所は協会と別荘の中頃で、巧妙に隠された魔力痕を警備の者が偶然見付けたらしい。
場所や魔力の残り方から推測するに、おそらく結界か封印の魔法が使われたのではないかとの事だった。
それも、隠しても隠し切れないほどの魔力を有する、かなり強力な。

不安気にエヴァの裾を摘んでいた理多が、話を聞いてぷるぷると震えながら青ざめる。
そんな理多に、エヴァはまだ直人がやられたと決まった訳ではないし、
仮にそうだったとしても結界や封印なら何とかなると励ました。
直接手助けする事はできないものの、結界や封印の知識量には自信がある自分が居るし。
学園長達の協力があったとはいえ、難攻不落の"登校地獄"を何とかしてしまった理多もいるのだからと。

まだ表情が優れないながらも気を取り直した理多は、ぎこちなく笑うと小さく頷いた。
エヴァはそれを確認すると、微笑ましそうに自分達を見ている詠春を睨み付けながら話を先に進める。


「この件、フェイト達の仕業だと思うか?」
「……そうじゃない、と考える方が難しいだろうね」


昨日の襲撃に続き、協会近くの森で見付かった怪しい魔力痕と直人の失踪だ。
協会へ逃げ込んだネギを狙うフェイト達が、邪魔と成り得る直人を排除した。
そう見るのが、これ以上ないほどにシックリくる。

もし本当にフェイト達の目的がネギだとするなら、
警備の強化だけではなく本格的に戦闘の準備をした方が良いのかもしれない。
深刻な面持ちで詠春とエヴァが相談していると、
直人の無事を願って胸の前で両手を握りしめていた理多が唐突に、勢い良く立ち上がった。
そして驚くエヴァ達が何事かとかけてくる声が聞こえていないのか、
返事をせずに瞳を赤くさせながらキョロキョロとし始める。


(気の所為……?)


ほんの一瞬、軽く触れるくらいに感じ取った微かな魔力の気配。
膨大な魔力量制御しきれず、何かと魔法を暴発させてしまうというネギが発信源かもしれないとは思った。
だが直人の件もある事だしと、理多は念には念を重ねて吸血鬼化による更なる感知を試みる事にする。

可能な限り索敵範囲を広げ、怪しい気配の有無を丁寧にかつ迅速に調べ上げていく。
しかし、屋敷全体の気配が少し静かな気がする程度で、これといっておかしな点はなかった。
先程感じた魔力の気配も今はなく、気の所為であったのではないかという気持ちが強くなっていく。

直人が失踪した事で、少し過敏になり過ぎてしまっていたのかもしれない。
そう結論に達したところで、エヴァ達が訝しげな視線をこちらに向けている事に気付き、何でもないと笑みを浮かべる。
そして、吸血鬼化を解く為にネックレスへと手を伸ばし、腰を下ろそうとした直後──


「──違う、気の所為じゃないっ!」
「っ!? 二人共!!」


廊下から感じた覚えのある不自然な気配に理多が声を上げるのと同時。
詠春は手元に置いていた刀を抜き、空いた手で理多達を突き飛ばした。

突然の事で身構える事ができず、理多達は短い悲鳴を上げて背中から襖に激突する。
その目の前、つい先程まで自分達が立っていた場所を、剣閃の如く灰色の光線が駆け抜けた。
理多達を突き飛ばした、詠春の腕の上を通過しながら。

光線は切り裂く類いのモノではなかったようで、詠春の腕は傷一つなく健在だった。
しかしその事にホッとしたのも束の間、パキッと弾けるような音と共に腕が石へと変化していく。
息を呑む理多達とは対照的に詠春は冷静に石化への抵抗を試みるも、左腕は完全に石と化してしまった。

衝撃的な光景に出かけた悲鳴を何とか飲み込み、追撃を警戒して理多は急いで態勢を立て直す。
だが何をする間もなく、今度は四十九本の"石の射手"が室内を満遍なく蹂躙せんとして撃ち放たれた。

理多とは違い、人の身であったエヴァは背中の痛みに表情を歪めながら廊下の反対側、縁側へと飛び退く。
そんなエヴァを庇うようにして理多も縁側へ跳びつつ、空中で身を翻して障壁を張ろうとした。
だがそれよりも速く、目にも留まらぬ速さで全ての射手を詠春が斬り落とす。

その素人目にも判る見事な剣筋に、理多は現状を忘れて見惚れてしまう。
そんな理多とエヴァへ、詠春は廊下の向こうから姿を現したフェイトへ剣と目を向けたまま言った。


「此処は私に任せて、無事な者と合流するんだ!」
「で、でも……あっ」


手負いの詠春を置いていけないと渋る理多の手を強引に引き、エヴァはとにかく此処から離れようと走り出す。
理多の気持ちは判らないでもなかったが、自分達の実力では足を引っ張るばかりで邪魔にしかならないのだ。
理多もすぐにその事を察し、悔しそうにエヴァの手を握りしめた。

生存者を探しながら縁側を走る中、エヴァは今自分が考えている事に自己嫌悪した。
左腕を使えない状態では、現役から遠のいてそう短くない詠春はフェイトに勝てない。
だからせめて、やられる前に少しでもこちらの勝率を上げる為傷を負わせてほしい。
そう、詠春が無事に済む事を冷静に無理だと結論付けている自分に。

そして無力な自分が嫌になって思わず強く手を握りしめてしまい、理多が痛みに眉をしかめた時。
耳をつんざく雷鳴が轟き、地震と勘違いするほどの揺れを起こす重い物が、地面へと叩き付けられる音が響く。
最後には屋敷の崩れる音がし、その付近から灰色の煙が爆発した。

二人して瓦礫と化した所へ目を向けつつ走っていると、曲がり角でネギと明日菜の二人と鉢合わせになる。
余所見をしていた為衝突しそうになり理多が謝るが、明日菜は謝罪を無視して理多に抱き付いた。
怒らせてしまったかと慌てるも、しかし怒る事と抱き付く事の繋がりは不自然だ。

突然の事に硬直しながら、理多は何かあったのかとネギへ視線を向ける。
そしてネギが涙目になっている事と、明日菜の体が震えている事に気付く。
ただならぬ様子にエヴァがネギの両肩を掴んで揺さ振ると、ネギは涙声で言った。


「茶々丸さんが、僕達を庇って石にっ……!」
「……そうか」


一時目を閉じ、波立ち動揺した心を鎮める。
茶々丸も、此処へくるまでに見てきた者達も、石にされただけなら助けられると自分に言い聞かせる。
シッカリしろと叱咤し、自分達がどうすれば良いかを考える事だけに思考を回す。

今はとにかく、生存者と合流しなければ。この後何をするにも、人手は多い方が良い。
集まれば集まるほど、できる事が増え生存率は高くなるのだから。


「刹那達はどうした?」
「わ、私達は見ていないわ。ケータイもずっと圏外で……
 確か二人は、話があるからってお風呂場に──あっ!」


明日菜が指差した先には、刀を手に駆けていく刹那の姿があった。
表情は見えないが、相当焦っている事が見て取れる。
今木乃香を置いて何処かへ行くとは考え難い事から、木乃香に何かあったと見て間違いないだろう。

フェイト達の目的は、ネギではなく木乃香だったのだろうか。
もしそうだとするなら、思い当たる要素が一つ。
詠春が木乃香を裏の世界から遠ざけていた要因の一つでもある、魔力だろう。
木乃香は世界で五本の指に入るナギやエヴァを超えた、膨大な魔力の持ち主なのだ。

それだけの魔力を必要としている理由は判らないが、ろくでもない事に使うのは、屋敷の惨状からして明らか。
それを止めたいという気持ちも、木乃香を助けたいという気持ちも判るが、今単独行動を取るのは危険過ぎる。


「私達も追うぞ!」


掛け声と共にエヴァ達は頷き合い、刹那の後を追って走り出した。
それぞれ言いようのない不安に首を締め付けられる感覚を抱きながらも、口にせず歯を食いしばって。


 ◆


理多が全力疾走をして引き止めた事で何とか刹那と合流し、木乃香が着物姿の女性にさらわれた事が判る。
着物という格好からして協会の者だと思われるが、協会に忍び込む為に変装した可能性もある為何とも言えないだろう。
何にせよ、事が起こってしまった以上、今は女性が何者であるかは後回しだ。

木乃香を任されたばかりなのにと、今にも切腹してしまいそうな刹那をなだめて再び走り出す。
早々に見失ってしまった為不確かではあるが、女性は木乃香を抱えて湖の方へと向かっていったらしい。
何らかの罠や大勢の敵が待ち受けているかもしれないが、追わない訳にはいかないだろう。

しばらく行くと小川の流れる岩場に辿りつき、そこで突然全員が足を止めた。
急がなければならないのは重々承知しているが、怪しげな大小の人影があるのだ。
大人しく通してもらえない事は、人影から向けられた敵意が教えてくれている。

小さい方はネギと同年代の、学ランを着て力強く好戦的な瞳をした黒髪の少年。
ネギの呟きから、少年はフェイト達の仲間と思われる小太郎だという事が判明する。
こちらの姿を捕捉してすぐに気を滾らせ、早くも戦闘体勢に入っていた。

大きい方は、三メートルはあろう身長と岩のような筋肉に被われた、一目で判る人外。
赤い瞳に闘志の炎を燃やす、頭部に生える短い二本の角が目を引く黒い鬼だった。
食べるかどうかは判らないが、理多達程度の大きさなら軽く一飲みしそうである。

数で勝っているので、時間に余裕があれば全員で叩き潰せば良いのだが、生憎と時間に余裕はない。
一刻も早く木乃香を助ける為には、此処で誰かが二人の相手を引き受けるのが最善だろう。
別に無理して倒す必要はなく、とにかく木乃香を助け、その後全員で戦略的撤退をすれば良いのだから。

そうして残る事になったのは、発案者のエヴァと理多の二人。
足止め役として後に控えているであろう月詠や、木乃香をさらった女性の実力差を考え、
何とかなりそうな小太郎達の相手を買って出たのだ。実力差といっても、月詠達の実力は未知数なのだが。


「どうやら坊やにご熱心のようだが、私達の相手をしてもらうぞ」
「悪いが速攻で片付けさせてもらって、アイツの所へ行かせてもらうで」


懐から取り出した鉄製の扇子を構えるエヴァと、不機嫌そうに指を鳴らす小太郎が睨み合う。
去っていくネギを名残惜しそうに見ていたところからして、小太郎はネギと戦いたかったようだ。
昨夜負けたそうだから、そのリベンジをしたかったのだろう。

一方黒い鬼は大木のように佇み、理多を見下ろして口元を吊り上げた。
空気を読める鬼のようで、命令はなかったが小太郎とは別の相手──理多を相手にする事を決めたらしい。
対する理多は、いつの間にか自分が相手にする事になっている鬼を見て、目に涙を浮かべながら震えていた。


 ◆


置いていった理多達に後ろ髪を引かれる思いを感じながら、それでもネギ達は先へと進む。
辺りは嫌な静けさに沈み、とても教会が襲撃されたとは思えない。
嵐の前の静けさといった現状に、周りを警戒しながら進むネギ達は固唾を飲んだ。

理多達と別れた場所と湖の、大体中間地点を超える。
このまま何事も起きず、木乃香の元へ辿り着く事ができれば。
そんな願いは、頭上から聞こえてきた風斬り音によって掻き消された。

真っ先に気付いた刹那が、降ってきた"石の射手"を斬り落とす。
続いて明日菜が仮契約によって得たハリセン型の魔法道具を呼び出し、刹那が斬り損ねた射手を叩き消した。
そしてネギが安心した瞬間、今度は森から黒い柱が飛び出してくる。

咄嗟に"風花・風障壁"で防ぐも、衝撃を殺し切れずに吹き飛ばされてしまう。
そんなネギを庇うように明日菜と刹那が立ち、森へと身構えた。
そして姿を現したのは、エヴァ達の報告と一致する白髪の少年、フェイトだった。

フェイトには何人がかりでも敵わない、だから万が一出会ってしまったら形振り構わず逃げろ。
それがエヴァに言われていた事なのだが、逃げしてくれそうなまるで気配はなかった。
フェイトの目はずっと、ネギへと向けられたまま固定されている。
どうやら小太郎同様、フェイトの指名はネギのようだ。

モテモテねとからかうように言う明日菜に苦笑いを返しつつ、ネギは刹那に目配せをする。
此処は自分達に任せて、先に木乃香を追ってくださいと。
震える体を何とか抑え込みながら、心配させないよう笑顔を作って。

間違いなく負け戦になる為、ネギとしては明日菜も刹那と一緒に行ってもらいたかった。
しかし返ってくる言葉が予想できた為、明日菜には何も言わない。
案の定、明日菜はそこが定位置とばかりにネギの横に立ち、フェイトを見据えていた。

刹那は数秒ほど悩んだ後、すいませんと頭を下げて湖へと向かった。
その後姿を横目で見送ると、生徒の為に無茶をしますかと杖を構える。
明日菜もハリセンを構えつつ、ネギを元気付けるように頷いてみせた。

無言でネギ達のやり取りを眺めていたフェイトは、ネギ達の準備が整ったと判断。
そして、無表情のまま呪文を呟いて腕を振った。


 ◆


ネギ達の元から走り出してすぐ聞こえてきた轟音に、どうか無事でいてくださいと祈りつつ。
足止め役の相手を買って出てくれたみんなの為にも、絶対に木乃香を助けなければと気合を入れる。

エヴァの話では、フェイトと小太郎の他にもう一人、流派不明の女性剣士が居るという。
その剣士はフェイトと同じく何処か異質で、身のこなしなどから確実に強いだろうとの事。
そしてその剣士は、まだ自分達の前に姿を現していなかった。

もうそろそろ森を抜け、目的地の湖が見えてくる頃。
出てこないなら、このまま木乃香の元へ直行する事ができて非常に助かるのだが、
そう易々と取り返させてはくれないだろう。
何せ、西の総本山である協会を襲撃してまでさらったのだから。

とその時、刹那はハッとしてその場に急停止し、刀を横にして眼前に掲げた。
そこへ、木の上から飛び降りてきた女性の持つ長短二本の刀が叩き付けられる。
突然の襲撃だったものの刹那に驚きはなく、むしろやっときたかという気持ちの方が強かった。

そう思ったのは、別に剣士と戦いたかった訳ではない。
ただ、木乃香が傍に居る時に斬りかかられるなら、向かっている途中の方が良いというだけの話。


「お初にお目にかかります、センパイ」


羽のようにふわりとバクテンしながら刹那から距離をとり、剣士──月詠は満面の笑みを浮かべて言った。


「さぁ、殺し合いアソビましょう」



[26606] 第3章 12時間目 立ちはだかる壁
Name: あかいつき。◆3327a354 ID:742ccd16
Date: 2011/03/20 23:01
大きな湖の中ほどまでかかった橋の先にある、何の装飾もされていない石造りの台。
儀式の際に使用するその台へ、着物姿の女性──千草は、協会を襲撃してまで手に入れた木乃香を横たえた。
彼女が傷付こうと知った事ではないのだが、彼女の持つ力は大切である為丁寧に。

気で身体を強化していたとはいえ、そこそこある距離を人一人担いできた為少々疲れてしまう。
今更ながら式神にでも運ばせれば良かったかと後悔しつつ、今しがた自分がやってきた森の方へと振り返る。

初めは木乃香の護衛である刹那や他数名が追いかけてきていたが、此処まで辿り付いた者は居ないらしい。
足止め役の中には協会を実質一人で壊滅させたフェイトも居る事だし、邪魔が入る心配をしなくて済みそうだった。

術によって静かに寝息を立てている木乃香を見下ろし、ついにこの時がきたのだと思わず笑みがこぼれる。
現状、まだ料理でいうところの材料を揃えた段階に過ぎないのだが、すでに目的を完遂したと言っても過言ではなかったからだ。

仲間に引き入れる事に失敗した雨音理多や、
駒であった矢塚さつき、野良猫などで試し、自身の全力をもってして研究し尽くした。
故に、材料さえ揃っていれば失敗する事はないと、そう言い切れるだけの自信があったのである。

仕事で潜った遺跡で偶然発見し、ボロボロの状態から何とか復元させた、失われた秘術の記された魔導書。
一応その魔導書は持ってきているものの、それを見ずに淀みなく魔法陣を構築していく。
今日という日を夢見て擦り切れるほど何度も目を通していた為に、内容は一言一句全て覚えてしまっていた。

だからといって、構築を簡単にできるようになったという訳ではない。
難しい、などという次元の難易度ではない秘術に、じわりと汗が滲みだす。
元々結界や呪いに関する術を得意としていなければ、実行はまず不可能だっただろう。

凄まじい集中の末、時間感覚を失いつつもようやく魔法陣の構築を終える。
だが秘術の前準備はこれで終わりではなく、いくつもある工程の一つ目を終えただけに過ぎない。
万が一という事も否定できない為、邪魔が入らない内に早速第二段階へと移行する。

歯で親指を切り、そこから滲んだ血を魔法陣へと垂らす。
続けて横たわる木乃香へ目を向けると、事前に胸部へ貼っておいた札を起動。
木乃香が持つ膨大な魔力を、魔法陣へと全て流し込んだ。

魔力が魔法陣へ満遍なく行き渡り、徐々に赤黒い光が強さを増していく。
そしてその輝きが最高潮に達した時、魔法陣が生物のようにドクンと鼓動し始める。
それはまるで邪悪なモノが生まれ出す前兆のようであり、強ち間違いでもないのだった。

繊細で美しい、それでいて何処か醜悪な魔法陣に見惚れた後。
不気味な魔法陣を光悦の目で見つめながら、千草は興奮した様子で呟く。


「もうすぐです。もうすぐ私は脆弱な人間を辞め、最強の存在となる……!!」


静寂な湖畔に、千草の狂気染みた笑い声が響き渡る。
そんな彼女を止める者は、この場には誰も居なかった。


 ◆ ◆ ◆ ◆ ◆


小太郎と鬼に対し、自分とエヴァのどちらがどちらの相手をするのが的確であるかを、理多は改めて考えてみる。

ネギに敗れた小太郎は、おそらくどちらが相手をしても問題はないだろう。
しかし、身体つきからして確実に怪力である鬼はそうもいかない。
魔法や身体強化が使えなければ非常に厳しい事は容易に想像でき、故に理多が鬼の相手をするというのが妥当だろう。

つまり、成り行きで今の相手に決まっていなくとも、結局は現状の組み合わせになっていたという事。
その事については理多もちゃんと理解し、納得もしていた。
にも拘らずエヴァのようにすぐ戦う事ができなかったのは、別の事が問題だったからである。

つい最近までごく普通の女子高生であった理多は、人外を相手に戦った経験どころか見た事すらもない。
自分やエヴァは人外であるものの見た目は普通の人間と変わらず、目の前の鬼のような見るからに人外というのは初めてだった。
要するに、理多は鬼が怖かったのである。

鬼を見上げる理多の瞳は恐怖で潤み、体は酷く震え、立っているのがやっとの状態。
早くみんなを追いかけなければならないというのに、戦意を削ぐ恐怖心がどうしても拭えなかった。
もし小太郎のように鬼がすぐ飛び掛ってきていたら、今頃成す術もなくペシャンコになっていただろう。

鬼が一歩前へ踏み出すのと同時に、小さく悲鳴を上げて理多が一歩後ずさる。
そんな理多と鬼による一進一退を繰り返していた時、横からエヴァの怒声が聞こえてきた。
ビクリと肩を震わせてそちらへ目を向けると、エヴァが小太郎の拳を鉄扇で受け止めながら理多を睨んでいた。


「怖がるな理多! 修行中の私を思い出せ、そこの鬼よりも断然怖かっただろう!」


修行中、特に実践練習の際のエヴァは、殺されるのではないかと思うほどスパルタで、確かに怖かった。
思い出す事を脳が拒否するほどに、そしてエヴァの言った通り、鬼よりもずっと。

しかし、それとこれとは怖さのベクトルが大きく違う。
同じ怖いという感情ではあるが、エヴァと鬼では大きな違いがあった。
それは──


「エヴァンジェリンさんも怖い時は凄く怖いけど、綺麗で優しいもんっ!」
「真顔でそんな事言っとる場合かー!! えぇい、ちょっと待っていろ!」


頬を紅く染め、にやけるのを微妙に堪え切れていないエヴァはそう言うと、小太郎の拳を広げた鉄扇で受け流す。
そして体勢を崩した小太郎の手首を掴んで片足を蹴り飛ばし、その足で続けてもう片方の足を払う。
両足が宙に浮いたところで掴んでいる手を引き、自身と一緒に小太郎の背へ捻り回して地面へと押さえつけた。
更に、止めとばかりに両手両足を糸でがんじがらめにする。

流れるような一連の早業に、理多もやられた小太郎も唖然としてしまう。
しかし小太郎はすぐハッと気を取り直し、離せという無理な命令をエヴァの背に投げかけた。
その声をエヴァは当然無視しながら理多の横に立つと、理多を鼓舞するように声をかける。


「私が一緒に戦ってやる。それなら──」
「──無理ダ」


理多ではない声が聞こえたかと思った次の瞬間、
数メートルは離れていた筈の鬼が、いつの間にか手の届く範囲に移動していた。
自分の横、理多が立っていた場所に向けて拳を突き出した格好をしながら。
そして理多の姿は横になく、後方の森からは微かに枝がへし折られる音などが聞こえてきた。

重い見た目の割りに、もしかしたら本気を出した理多並みに速いのではないだろうか。
例えどんなに力が強くとも、距離を取れば理多はもちろん自分も大丈夫だと、鬼の力を見た目で判断した事を後悔する。
理多はおそらく速さについていけるだろうからまだ大丈夫だが、自分は動きをまともに視認する事すらできないだろう。

鬼が疾走して巻き起こった風に目を細めながら、エヴァは理多の無事を信じて回避行動に努める事にする。
魔法も身体強化もろくに使えない自分が攻撃を受ければ、一撃で確実に致命傷を負ってしまうだろう。
元々足手まといだというのに、それを更に悪化させて理多に迷惑をかける訳にはいかない。

舐められているのか、辛うじて視認できる速度で振り下ろされた爪を鉄扇で受け流す。
鉄扇越しに伝わってきた衝撃に手が痺れ、鉄扇を落としそうになるのを何とか堪える。
敵に手を抜かれている事は身がよじれるほど悔しいが、それで生き残れるのならいくらでも我慢できるというもの。

相手が油断している内は、理多が戻ってくるまでなら何とかなるかもしれない。
そう思ったのを嘲笑うかのように、返す爪が突然速さを増して振り上げられ。
何とか鉄扇で受け止める事ができたものの、エヴァは木の葉の如く宙を舞った。


 ◆ ◆ ◆ ◆ ◆


フェイトの相手を引き受けてから早数分、ネギ達はまだ大した怪我もなく生きていた。
というのも、圧倒的な実力差でねじ伏せられてしまうかもしれないと心配していたのだが、思いのほか拮抗しているのである。

横薙ぎに振るわれたフェイトの手の動きに合わせて生えた"石の槍"を、ネギは"風盾"を展開しながら回避。
追撃として放たれた"石の射手"に"光の射手"をぶつけ、相殺し切れなかった分は明日菜がハリセンで叩き消す。
障壁で防がれたのならともかく消滅させられた事に、仮面を付けているかのようであったフェイトの表情が微かに困惑の形に歪んだ。

倒すつもりも倒せるとも思っていないが、即座に反撃として風精"剣を執る戦友"を召喚。
攻撃は最大防御と言えるような活躍とまではいかなくとも、多少なりとも時間稼ぎになってくれればと進撃させる。
そして射手をすぐに放てるよう準備をしながら、ネギは身構えもせずに無防備なフェイトを見据えて思考した。

一目見ただけで相手の実力が判るほど戦闘経験がない為、自分ではフェイトの実力を見抜く事ができない。
故に、明日菜の"完全魔法無効化能力"があればと思ってしまうが、エヴァの言っていた事を信じて逃げる事を第一に考える。
此処にきたという事は、信じ難いが協会の長である詠春を早々に打倒したという事なのだから。

逃げる方向は、刹那や理多達の邪魔にならない所であれば何処でも構わないだろう。
可能であれば、ケータイの電波が届くところか電話のあるところが望ましいが。
なんであれ、まずは何とかしてフェイトから逃げなければ始まらない。

格上であるフェイトを相手に隙を作ろうとして攻撃しても、隙を作るどころか通用すらしなかった。
おそらく殺す気ホンキでやって、ようやく隙ができるかどうかのラインへと到達できるといった感じなのだろう。

生徒を一か八かの賭けに巻き込む事は気が乗らないが、今は手段を選んでいられる余裕はない。
明日菜に目配せをして頷き合うと、明日菜は任せなさいとハリセンを構えて駆け出す。
ネギはその言葉と後ろ姿に力を貰いながら、明日菜の後を追わせるようにして"風の射手"を放った。

フェイトはネギが初めに放った風精を"石の槍"で一掃し、当たり前のように無詠唱で"石の射手"を放つ。
それを明日菜は掛け声と共に叩き消すと、"契約執行"によって強化された脚力で一気に間合いを詰める。
そしてフェイトが腕をかざして防御の姿勢を取っているのにも拘らず、そのままハリセンを叩き付けた。

直後、甲高い音と共にフェイトを包んでいた障壁が砕け散り、フェイトが驚愕に目を見開く。
ハリセンで叩かれたところでダメージになりはしないと、余程強力な攻撃でなければ障壁が破れる事はないと思っていたからだ。
それは油断などではなく、明日菜の"完全魔法無効化能力"を知らなければ当然の考えである。

そしてそれこそが、ネギ達が格上のフェイトに対抗できる唯一の切り札だった。
何度か射手を消しているところを見られてしまっているので不安であったが、
障壁までも一撃で破る事ができるとは思っていなかったのだろう。

二度は通用しないこの切り札でできたチャンスを、絶対に逃す訳にはいかない。
ネギは障壁を張り直す時間を与えずに射手で追撃し、立ったまま地面へ縫い付けるようにしてフェイトを拘束する。
一方明日菜は自分の力で万が一にも拘束を解いてしまわないよう慎重に、それでいて急いでその場を跳び退いた。

そしてフェイトの目に飛び込んできたのは、手の平に魔力を集束させたネギの姿。
明日菜を信じて射手を放った後すぐ、詠唱を始めて待っていたのである。
それは、魔法使いとその従者の基本でありながら、心が通じ合っていないと上手くいかない立ち回りであった。

ネギは明日菜が射線上から退避するのを確認すると、詠唱を終えて手を突き出し。
そして、フェイトが拘束を解く間もなく、ネギの手から渦巻く風と轟く雷が放たれた。


「──"雷の暴風"!!」


フェイトと木々を飲み込んで、凶暴な風が一直線に駆け抜ける。
放電しながら木々を倒して突き進むその様子は、まるでドリルのようだった。

後に残ったのは、根ごと薙ぎ倒された木々と、抉り取られて素肌を晒す地面。
美しかった森を破壊してしまった事に胸を痛めつつ辺りを見渡してみたが、フェイトの姿は何処にもなかった。

いくらフェイトとはいえ、拘束された状態で直撃したのだ。
暴風に飲み込まれてなお、その場に留まる事などできる筈もない。


「……やったの?」


そうであると信じたくて同意を求めたのだろう、明日菜が少し離れた場所から尋ねてくる。
その不安は察せられたし、正直なところネギも同じ気持ちであった。
しかし、例え気休めでも容易に頷く事は躊躇われた。

この程度で倒せるのであれば、エヴァが格上などと評する筈がない。
確実に、フェイトは倒せていないだろう。故に、ここで安心させる事を言って気を抜けさせるのは避けたかった。

倒せてはいなくとも此処に居ないので、逃げるなり応援を呼ぶなりの対応を取るなら今をおいて他ない。
とりあえず、何をするにしてもまずは此処から離れた方が良いだろう。

不安気に周りを見渡している明日菜へ、そう伝えようとした時だった。
明日菜の背後、土から染み出した水が水溜りへと変わり、そこから人型がゆらりと生え出す。
それは次第に明確な形をなしていき、見覚えのある──フェイトの姿になった。


「明日菜さん、後ろっ!!」
「えっ!? くっ……!」


ネギの声に素早く反応し、明日菜はフェイトのヒジ打ちを体を捻る事で回避。
その回転の勢いを乗せて、ハリセンを野球バットに見立ててフルスイングする。

その中学生とは思えない戦士のような反応に、フェイトは感嘆しながらも冷静に身を屈めて避わした。
そしてがら空きになった明日菜の腹部へ、容赦なく拳を抉り込ませて意識を刈り取った後。
猫の首を持つようにして襟を掴み、ネギが放った射手の盾にしようとした。

それに対し、ネギは慌てて射手をでたらめな方向へ飛ばす。
そして明日菜を放せと言おうとしたのだが、その前にフェイトは明日菜を手放したのだった。
どうやら、端から人質として利用するつもりはなかったようだ。


「安心して良いよ、彼女に何かをするつもりはない。
 何故か魔法が効かないようだから、打撃で眠ってもらっただけ」


鵜呑みにはできないが、今すぐどうこうするような気配はないので安心する。
だが安全が保障された訳ではないし、自分には冷やりとした敵意を依然として向けられている為気は抜けない。

嫌な汗を流しながらフェイトを注視し、戦いが中断した今ならと駄目元で尋ねてみる。


「木乃香さんをさらって、一体何が目的なんですか」
「さぁ? あの人の目的は、聞いていないから知らないな」


あの人というのは、おそらく木乃香をさらったという女性の事だろう。
どうやら、女性とフェイトの目的は違うらしい。もしかしたら、他の人達もそれぞれ目的が違うのかもしれない。

それでもこうして足止めをして協力しているのは、いずれ自分の目的を果たす際に協力して貰う為か。
それとも、女性の目的を達する過程にフェイトの目的があるかだが。


「──今の僕の目的は……ネギ・スプリングフィールド、君だよ」


そうフェイトが呟いた瞬間、悪寒が全身を駆け抜ける。
その感覚にネギが咄嗟に"風盾"を張ると、そこへ拳が打ち込まれたのだった。
もし障壁を張るのが間に合っていなければ、今の一撃で終わっていただろう。

フェイトの拳に数センチほど体が浮くも、障壁は健在でダメージもない。
だが続けて飛んできた回し蹴りに、障壁ごと吹き飛ばされてしまう。

よろけながらも着地し、上空から聞こえてきた風切り音に急いで"風花・風障壁"を張る。
その直後、無数の"石の射手"が雨の如く降り注いだ。圧倒的な射手の量に、障壁がひび割れ軋みだす。

恐怖を堪えて飛び退き、間合いを詰めてくるフェイトへ"剣を執る戦友"を放つ。
また"石の槍"で一掃される事を警戒し、今度は上空から散開させながら。
続けてネギは"雷の射手"を放つと、詠唱しながらフェイトに向かって駆け出した。

風精の迎撃に気を取られていたフェイトは、捌ききれなかった射手の一本が直撃。
"雷の射手"には相手を痺れさせて一時的に動きを止める効果があり、フェイトは射手が直撃した箇所に手を当てて俯く。

明日菜が気絶している今、もうあるかどうかも判らない貴重なチャンス。
ここで確実に決めなければと、右手に収束した魔力を可能な限り圧縮して威力を高める。
そしてその高密度の魔力を、手を覆う白く瞬く雷へと変えた。

中級の攻撃魔法ながらかなり威力の高い、昨夜は小太郎を一度ノックダウンさせた純白の雷。
その雷を纏う手を、ネギは祈るようにしてフェイトの胸部へと当て、呪文と共に一気に解放した。


「──"白き雷"っ!!」


ゼロ距離で放たれた雷は、弾ける閃光と共にフェイトの体を駆け抜ける。
フェイトほどの実力者なら耐え切ってみせるのだろうが、それでもしばらくは動けなくなる筈だ。

ゆっくりと前のめりに倒れていくフェイトを横目に、ネギは明日菜の元へと駆け寄る。
明日菜の上半身を抱え起こして頬を軽く叩いてみるが、まだしばらくは目を覚ましそうもなかった。
だが息はあるし危なげな様子は見られないので、何もしなくてもいずれ気が付くだろう。

時間に余裕がない為、目を覚まさせる事を諦めて杖で運ぶ事にする。
明日菜は"完全魔法無効化能力"の所為で杖に乗せて飛ぶ事が難しいのだが、背負って歩くよりは確実に早い。

後ろから抱き付くようにして杖に乗せ、良い香りと柔らかい感触に少しドキドキしながら杖を浮かせる。
集中力が乱れて杖が不安定になるが、深呼吸を繰り返して何とか安定させる事に成功する。
そして、いざ出発しようかという時──ポンと、肩に手が置かれた。


「──何処へ行くつもりだい?」


心臓が止まるかと思うほど驚き、杖が制御を失って着地する。
感情が一切込められていない、無機質で平坦な声。その声の主が誰であるかを確認する必要はないだろう。

全く歯が立たないフェイトに背後を取られ、腕の中にはぐったりとしている明日菜。
この上ないほどに、万事休すだった。


 ◆ ◆ ◆ ◆ ◆


ノースリーブでスカートの丈が短く、腰などをベルトで締めた動きやすそうな白いワンピース。
表情は遊園地にきた子供のように楽しそうで、二本の刀を手にしているものの、月詠の場違い感は凄まじかった。
だが絡み付くような粘り気のある殺気は、これまで向けられたどれよりも濃く、そして強い。

月詠はニコリと笑って赤いアリスシューズで地を蹴り、長い髪をなびかせて地面すれすれに跳躍。
おっとりとした口調や雰囲気に似合わない速さで、刹那との間合いを一瞬にして詰める。

そのギャップに面食らいつつも、刹那は身を屈めて疾風の如き一閃を回避。
最短距離で素早く反撃をするも、月詠が左手に持つ小太刀で防がれてしまう。
これは厄介だなと、刀で押し飛ばしながら舌打ちした。

そして四合、八合、十六合と刀を交わしていく中で、刹那は苦々しく眉をしかめる。
体力はまだ十分にあるし、大きな傷を負ってしまった訳でもない。
ただ、月詠との戦いが完全に拮抗してしまっているのである。

エヴァがただ者ではないと評した以上、すんなりと倒して先に行けるとは思っていなかったが、月詠は想像を上回っていた。
扱いが難しい二刀流を完璧に使いこなし、両手持ちの一刀に比べて威力は弱いが、鋭く速い太刀筋。
剣士としてはふざけた格好をしているものの隙がなく、今まで戦ってきた剣士の中では最上位の強さだった。

そして独自のアレンジが加えられているようだが、太刀筋で判る。
正直仲間として認めたくはないが、月詠は京都神鳴流の剣士だろう。
協会で姿を見た覚えがない為、神鳴流"だった"という可能性もあるが。

そんな月詠は今だ神鳴流の技を見せておらず、笑顔を浮かべて瞳を輝かせている。
足止めだけが目的だからなのか、神鳴流同士の戦いを長く楽しみたいからなのか。
こちらもまだ本気を出していないとはいえ戦いが拮抗している現状、余り考えたくはないが、
おそらく月詠はまだ本気の半分も出していない。

不真面目なのか戦いが好きなのかどうかは知らないが、どちらにせよ構っている余裕はない。
手を抜いているのなら好都合と、刹那は月詠が本気を出す前に全力で潰させてもらう事にする。
多少強引に懐に飛び込みつつ攻撃を捌き、そのまま気を練り上げて反撃へと移行した。


「秘剣──"百花繚乱"!」


花吹雪が吹き付けるが如く包み込むようにして、無数の斬撃を月詠に向けて放つ。
できれば奥義で一撃の内に仕留めたかったが、本気でないとはいえ、
奥義を放てるだけの気を練る時間は簡単に与えてはくれないだろう。
故にここは、焦らずダメージを積み重ねて倒そう、そう思っていたのだが──

月詠は無感情で冷えた目をして二刀を構えると、目にも止まらぬ速さで斬撃を捌き始める。
そして傷一つ負う事なく、刹那の秘剣を全て防ぎきるのだった。

おそらく今の動きが、月詠の本気の一片なのだろう。
悪くない状態で放った秘剣が全く通用しなかった事に、刹那は顔へ出さずに驚き、落胆する。
と思いきや、辛うじて一撃だけ防御を抜けていたようで、月詠の頬に浅く一線傷が付いた。

跳び退く刹那を追わず、月詠は血が滲む頬の傷にそっと手を当てる。
女にとって顔に傷が付く事は耐えがたい事であり、お洒落に興味のない刹那ですら嫌だと思っていた。
故に月詠も激怒して斬りかかってくるだろうと警戒していたのだが、俯きプルプルと震えたまま動く気配がない。

怒りに飲み込まれてしまわないよう、必死に堪えているのだろうか。
そう思う刹那であったが、顔を上げた月詠の表情を見て全くもって違うと知る。
刀を胸に抱えて一際大きく震えた月詠は、頬を赤らめ、瞳を潤ませて光悦としていた。

その官能的な様子に、全身が震えるような怖気が刹那に走る。
顔に傷を付けられた者の反応として、今の月詠の反応は明らかに間違っているだろう。
これで喜ぶなど、変態以外の何者でもない。

鳥肌が立ち思わず一歩後ずさる刹那に対し、月詠は手に付着した自分の血を美味しそうに舐め取り。
そして自分をギュッと抱きしめ、熱い吐息をこぼしながら言った。


「はぁ……センパイ、最高やわ。もっと、もっとウチを感じさせてくださいっ!」


カッと目を見開いて、三日月のように口元を歪めて笑う。
瞳は金色へと変わっており、人間である筈なのにも拘わらず魔の気配が滲み出していた。
その恐ろしい表情に、刹那は冷汗を滴らせながら思わず反射的に身構える。

そして、今まさに刀を構えて月詠が地を蹴ろうかという時。
湖の方で、血のように赤黒い不気味な光がパッと弾けた。
続けて、女性のようにも男性のようにも聞こえる笑い声が、微かに聞こえてくる。

木乃香が居るであろう湖の異変に、刹那はとてつもなく嫌な予感がした。
月詠に苦戦している間に、取り返しのつかない事になってしまったのではないかと青ざめる。
唇を噛みしめた痛みで気を保たなければ、今にもこの場に座り込んでしまいそうだった。

敵が何をしようとしているのかは判らないが、その実行に必要なのが、おそらく木乃香の持つ膨大な魔力なのだろう。
そしてその魔力を使い切った時、木乃香の存在は敵にとってただ邪魔なだけの存在となる。
そんな木乃香を敵がどうしてしまうのかは、あまり考えたくなかった。

最悪の展開を迎えない為にも、早く月詠を何とかして退けなければ。
焦りで嫌な汗が滲む手を強く握りしめ、湖に目を向けている月詠へ斬りかかる。
不意を突くような真似はしたくないが、最早そんな事を言っている場合ではない。

気を纏わせ、例え防御されても刀ごと斬り捨てるつもりで振り下ろす。
だが余所見をしていたにも拘らず、月詠は二刀をクロスさせて難なく不意打ちを防いだ。
そしてキスを迫るかのようにグイッと顔を近付けると、うっとりとして笑みを浮かべた。


「もう、せっかちやなぁセンパイは。でも、そんな焦ったセンパイも素敵や」


月詠を押し飛ばした反動で距離を取って刀を振るうも、くるりと踊るように回転しながら避けられる。
刹那は続けて一歩踏み込んで斬り込むが、またも余裕の表情で同様に回避されてしまう。
更にもう一歩と刀を振りかぶったが、それを振り下ろす前に月詠は大きく跳び退いた。

ふわりと羽のように地面へと降り立ち、腰に手を当てて大きくため息。
そして悪戯した子供を叱り付けるかのように、月詠は眉を八の字にして口を尖らせた。


「センパァイ、もっとじっくりと楽しみましょうよ。
 ウチ、この時の為にずぅっと戦うのを我慢しとったんですから」
「そんな事っ……!」


知った事ではないと、刹那は他の行動を忘れてしまったかのように連続して斬り付けていく。
本当は焦らずに落ち着いて攻めるべきなのだろうが、自分を抑える事ができなかった。
早く木乃香の元へ行かなければという気持ちだけが、先行してしまっていたのである。

段々と攻撃が荒くなっている事に気付かぬまま、刹那はひたすら攻撃を繰り返す。
時折秘剣なども交えていたりもしたが、月詠には掠りもせず全て防がれてしまっていた。
そしてその事に刹那は更に焦り、また攻撃が荒くなるという悪循環に陥ってしまう。

初めは必死な様子の刹那に胸をときめかせていた月詠だったが、次第に表情が変化していった。
不貞腐れた顔、困った顔、そして最後は、頬を膨らませて怒った顔。
その変化にも刹那は気付かず、結局月詠に蹴り飛ばされるまで気付かないのだった。


「センパイ、いい加減にしてください。
 必死な様子は素敵やけど、肝心の戦いがお粗末過ぎて話になりませんわ」


暗く淀んだ瞳でひざを付く刹那を見据え、月詠は今までにないほど力強く刀を握りしめる。
そんな月詠の気迫に息を飲み、そして湖で異変が起きる直前の気配と同じである事に気付き。
月詠の本気がくると察し、刹那は慌てて立ち上がって身構えた。

その直後に月詠がその場で刀を振り上げ、刹那目掛けて突風が駆け抜ける。
風によって砂と落ち葉が舞い上がり、ほんの数秒だけ視界が閉ざされた。
気配を頼りに刹那が刀を振り払うと、砂埃の中間合いを詰めていた月詠の刀と衝突し、火花が散る。


「いいです。他の事に気を取られてしまうんなら……私の事だけしか考えられないようにしてあげます」


鍔迫り合う刀越しに、月詠が加虐的な笑みを浮かべた。
そして刹那はこの宣言通り、他の事を考える余裕を根こそぎ奪われる事となる。
これまで基本的に防戦一方であった月詠が、積極的に攻めるようになったのだ。

そして刹那はハッキリと思い知る。
これまでの月詠は予想通り殆ど本気を出しておらず、
自分はただ、月詠に遊ばれていたという事を。

月詠は、力、速さ、技術、全てにおいて刹那の能力を上回っていた。
それでもまだ手を抜いている可能性は大いにあるが、現時点での差はそれくらいあり。
完全に一方的ではなかったものの、刹那は徐々に傷を増やし、疲労を積み重ねていった。


「ざんがんけーん!」
「っ……"斬岩剣"!」


間延びした気の抜けるような掛け声とは裏腹に、岩をも切り裂く鋭い一撃が放たれる。
対する刹那は避け切れないとみると、同じ技での相殺を試みた。
しかし苦し紛れに放たれた刹那の秘剣は切り裂かれ、刀で防ぐも吹き飛ばされてしまう。

背中から地面に叩き付けられた刹那の上空へ月詠は跳び、刀の刃を下へ向けて降下した。
刹那は串刺しにせんとして迫る刀に対し、倒れたまま地面を転がって回避。
両手両足で蛙のように跳び上がると、何とか月詠との間合いを取った。

月詠は地面に突き刺さった刀を抜き、付着した土を振り払いながら肩で息をしている刹那を一瞥。
唇に人差し指を当てると、んーっと唸りながら眉をしかめた。


「ウチに集中してくれたんは嬉しいんやけど……今度はいまいち必死さが足りんなぁ」


勝手な事を、と刹那は心の中で文句をこぼす。
声に出して言わないのは、口は呼吸を整える事で必死だったからである。
月詠は必死さが足りないと言ったが、刹那からしてみればこの上ないほどに必死だった。

月詠が何やら思考中である隙に、刹那は月詠から他の事へと意識を向ける。
木乃香の事ばかり気にしていたが、足止めの相手をしている理多やネギ達は無事なのだろうか。
特に、フェイトの相手をしてるネギ達が心配だった。

そんな時、月詠の懐からポンという軽く短い音が鳴り響く。
何事かと即座に刀を構えて警戒する刹那を余所に、月詠はなんやろと首を傾げて懐から一枚の札を取り出す。
その赤い文字が淡く発光した札は、どうやら空間転移のスイッチとなる物のようだった。

月詠は札を見てそれが何であるかを思い出したのか、丁度良いと呟いて不敵な笑みを浮かべる。
一方刹那は、札を使って仲間を呼ぶ気なのだろうかと顔面蒼白になった。
例え呼び出されたのが雑魚だろうと、今敵が一人でも増えたら生存は今以上に絶望的になってしまう。


「センパイセンパイ。今からセンパイを物凄く必死にさせる、とっておきのモノを用意しますね」


表情に影を落とす刹那とは対照的に、満面の笑みでそう言って月詠が呼び出したとっておきのモノ。
それは、敵の増援なんかよりもずっと、刹那を絶望のどん底へと突き落とす"モノ"だった。

絹のような漆黒の長髪に、協会が用意したシンプルな浴衣。
そこから覗く白い肌の手足には札が貼られ、そこから伸びる赤い光がそれぞれを束ねて拘束している。
そして眠っているのか気を失っているのか、目を閉じぐったりとして月詠に抱きかかえられているそれは──


「こ、このかお嬢様っ!?」


敵にさらわれていた、助けようとしていた、近衛木乃香だった。



[26606] 第3章 13時間目 残された者達
Name: あかいつき。◆3327a354 ID:742ccd16
Date: 2011/03/20 23:01
雲一つない、それでいて曇っているかのように濁った土色の空。
見渡す限りに広がる荒れた大地には雑草の一本すらも生えておらず、
大小様々な岩が空からばら撒かれたかのように無造作に転がっている。
自分以外の存在を感じられるモノが一切ない、岩と砂しか見当たらない光景に、
地球が滅んだらこうなるのかなと直人はふと思った。

熱くも寒くもない気温に、湿っても乾燥してもいない空気。
時間が止まっているかのように風も吹かない気候に息苦しさを感じながら、宛てもなく適当に歩き続ける。
そうしていても体力の無駄でしかない事は判っているが、ただジッとしているのは性に合わなかったのだ。

千草の姿に変装した男の罠にかかり、黒い泥に飲み込まれて放り込まれた死の世界。
エヴァの"登校地獄"を解く為色々と調べていく内に養われた知識によると、
この世界はかなり高度な結界であるという事が判る。
結界を破る術がなくはないのだが、これだけの結界を相手に行う気にはとてもなれなかった。

あらゆる点で生命の息吹を感じない世界を、無言のままトボトボと進んでいく。
これまで歩いている時に景色を気にした事など一度もなかったが、
緑豊かな景色でなくとも構わないから生きた景色を見たいと思った。

目印になるようなものがない所為で、どれくらい歩いたのかが視覚的に判らない。
唯一の判断材料が消費した体力の量のみで、本当に進んでいるのだろうかと苛立ちが募っていく。
体力的にはまだ消費した内に入らず問題ないのだが、精神的に辛かった。

あまり自信はないが、体内時計を信用するなら外はおそらく日が沈みきった頃。
千草の偽者が準備を整え、余裕を持って悪事を実行する事ができるだけの時間が確実に経っている。
それを考えると、ただ結界に閉じ込められているだけの自分よりも、外に居る理多達の方が心配だった。

体力を大きく消耗する事を承知で、一度結界を破れるかどうか試してみようか。
ヤケクソ気味にそんな考えを巡らせた時、視界の隅に動く何かが映り込む。
瞬時に身構えてそちらへ目を向けると、岩陰に寄りかかって座り込む人影が一つあった。

人影の背後に立っている為岩で隠れて全体は見えないが、
黒髪に着物という和風の出で立ちからしておそらく協会の者だろう。
気が進まないながらも気を視てみると、二十代の女性で大分疲労しているようだった。
攻撃の意思はなく──というよりも、こちらに気付いている様子がないので待ち伏せとかではないようだ。

此処に自分以外の人が居るとは思っていなかったのでかなり驚く。
彼女も自分と同じで、千草の偽者に計画の邪魔だからと閉じ込められたのだろうか。
もしそうであるなら色々と協力ができそうで助かるのだが、まだ敵である可能性もあるので警戒は怠らないでおく。


「……いつから此処に居るんだ、アンタ」


驚かせないよう、心持ち柔らかな声色で一声かけてから歩み寄る。
すると彼女はビクッと跳ね上がるように驚くと、懐から札を取り出して振り返った。
反応から推測するに、彼女も自分以外に人が居ると思っていなかったのだろう。

警戒の眼差しを向けてくる女性に、今度は直人が目を見開いて驚く。
後姿を見てもしかしたらとは思っていたのだが、女性の正体は変装されていた千草だった。
気から読み取れる情報と外見が一致しているので、本物の千草で間違いないだろう。


「何者や、あんはん。なんで此処に……」
「俺は雨音直人。たぶん、アンタと同じで閉じ込められた。
 念の為に確認したいんだが……アンタ、千草か?」


どうして名前をと視線を強め、千草はすり足で後ずさって距離を取る。
有名人という訳でもないのに名前をズバリ言い当てられ、
その相手が結界の中で出会った初対面の人なのだから当然の反応だろう。
それでもその気はないのに敵意を向けられるというのは気分が悪いが、
いきなり攻撃されないだけマシかと我慢する。

こちらに攻撃の意思がない事を示すように、直人は両手に何も持っていない事を見せながら適当な岩へ腰かけた。
千草の偽物の仲間でないのなら、結界脱出などの為に協力するしないに拘わらず、敵意は解いておいた方が良いだろう。
とりあえず別段隠す必要もないので、勝手にこれまでの経緯などを手短に話す事にした。

変装されている事や此処に居る事から、十中八九千草は千草の偽物と関わりがある。
そう確信めいたものを感じていたのだが、やはりその通りであったらしい。
話を聞いている内に警戒を解き、少し離れた位置に座っていた千草は、苦々しい表情で言った。


「小太郎、フェイト、月詠……全員ウチが金で雇った奴らや。
 ほんで、ウチの姿に変装してそいつらを動かし、ウチとあんはんを此処に閉じ込めたんは──日野一樹ヒノ カズキ。ウチの幼馴染や」


目的は今一判らないけどと、千草はミネラルウォーターのペットボトルを直人に投げ渡す。
どうやら一樹は千草を殺すつもりはないようで、結界の中に水とちょっとした食料が置いてあったらしい。
直人は一応危険がないかを視て確認した後、千草の厚意にお礼を言ってミネラルウォーターを口に含んだ。

何もない景色を眺めながら一息ついた後、思い切って千草に尋ねてみる事にする。
人を襲う仕事を引き受けるような、真っ当とは思えないフェイト達を何の為に雇ったのか。
結界に閉じ込められていなければ、何をするつもりであったのかを。

すると千草は表情に影を落とし、どこか遠い目をして嘲笑した。
そして憎悪に淀む瞳で直人を見据えると、吐き捨てるようにしてポツリと呟く。


「──復讐や」


その言葉と表情に、直人は何も言わずただ目を細めた。
裏の世界で復讐という言葉はさして珍しいものでもない為驚きはない。
ただ、今の千草の様子に少し見覚えがあった。

千草は暇だったからか、それとも誰かに聞いてほしかったのか、復讐を志すまでの経緯を自ら語り出す。
関東魔法協会と関西呪術協会の戦争で両親を亡くした事。
それからずっと、関東魔法協会に復讐する事を夢見て技を磨いてきた事を。

順調に計画が進行していれば、今頃木乃香の持つ膨大な魔力で封印されている両面宿儺リョウメンスクナノカミを召喚。
関東魔法協会の長が居る麻帆良学園を攻め、復讐を果たせていた筈なのにと千草は舌打ちをした。

そんな憎悪に囚われた千草を見て、直人は一人確信する。
千草は昔の──といっても一時期のではあるが、自分と同じであると。


「復讐……ね」


"復讐"と口にした事で昔を思い出し、当時の自分に対して思わず苦笑がこぼれる。
それを自分が笑われたと勘違いした千草は、眉を吊り上げて怒りをあらわにした。

そんなつもりは毛頭なかったのだが、否定しても信じてはくれないだろう。
千草と似ていると思った過去の自分を笑う事は、千草を笑っているのと同じようなもの。
そう考えると、強ち勘違いとは言えない事だし。


「なんや、復讐なんて不毛だから止めろとでも言うつもりか? よしてや、そないな事耳にタコができるほど言われとるわ」
「んにゃ、実行したら無論止めるが、全てを失ってでも復讐を果たしたいと思う気持ちは判るからな。何も言わんよ」


誰かに殺意や復讐心を抱く事は、どんなに心の優しい者でも一度くらいはあるだろう。
ましてや千草の場合、理不尽の最たるものである戦争で親を殺されたのだ。
そういった感情が生まれない方が不自然であり、抱くなという方が無理な話なのである。

そして例え復讐が悪い事だと理性では判っていても、意味のない自己満足に過ぎないのだと判っていても。
殺された人が大切であれば大切であるほどに、自分を抑える事ができなくなってしまう。
その負の感情の強さを身をもって知っているからこそ、直人は千草に何も言うつもりはなかった。

今までずっと馬鹿な事は止めろと頭ごなしに言われてきた千草は、直人の言葉が新鮮で少し反応に困ってしまう。
何て返事をすれば良いのだろうか。そう口ごもっていた時、ふと直人の言い回しである事に気付いた。


「あんさん、もしかして……」
「あぁ、相手の不注意で起きた交通事故で、両親をな」


両親を亡くしたのは、極有り触れた交通事故。
車の運転手が余所見をして対向車へ突っ込みそうになり、
慌ててハンドルを切ってその加減を間違えた結果、歩道を歩いていた両親に衝突というものだった。

初めは両親が居なくなった事による生活の変化に、
妹の理多と二人で対応していく事で精一杯になり、両親の死を悲しむ余裕がなかった。
そしていざ生活に慣れ始めてきたという頃には、時間の経過によって悲しみは消えてしまっていたのである。
だから直人は、加害者に対して許せないという気持ちはあったものの、復讐をしたいだとかは思わなかったのだった。

そんな直人が復讐心を抱く事になったのは、理多が隠れて泣いているのを見たのがキッカケだった。
その姿を見た瞬間カッとなり、殺したいとまではいかないものの、何かしら復讐したいと思ったのである。
そんな筈がある訳もないのに、妹も加害者が酷い目に遭う事を望んでいるだろうなどと考えながら。

結局何かをする前に、両親の墓の前で加害者が一人花を供え、
泣きながら頭を下げているところを見て怒りが静まってしまったのだが。


「俺には妹が居て、加害者が十分反省している事を知った。だから、復讐は思い留められたんだ」


残されたのが自分一人ではなく、自己満足よりも優先すべき大切な存在が居た事。
そして加害者が悪い人ではなく、見せ掛けだけではなくちゃんと反省していたから、復讐する事なく許す事ができた。

だがもし自分が千草の立場であったのなら、きっと復讐を思い留まる事ができなかっただろう。
千草のような大掛かりな事はしなかっただろうが、何かしら事を起こしていた筈だ。
そう考えると、自分は色々と恵まれているなと直人は思った。

口を挟む事なく最後まで黙って聞いていた千草は、
直人の語った内容に何か思う事があったのか、どこか気まずそうに目を逸らす。
先程まで怒りを宿していた瞳は徐々に輝きを失い、今は悲しみが入り混じった暗い色をしていた。
そして直人がその訳を考えていると、千草がボソリと呟くようにして言う。


「ウチかてほんまは判っとるんや。復讐しても何にもならへんって。
 でも、復讐でもせな気がおさまらへんねん……っ!」


同じ両親を亡くした者として、気持ちは痛いほど判る。
しかし、麻帆良学園を襲撃して無関係の人達を巻き込む事は見過ごせない。
かといって、ただ我慢しろと言われて我慢できるほど簡単でもないだろう。

千草が恨んでいるのは、おそらく両親を誰が殺したのかが判らない事もあって関東魔法協会全体。
それを相手に、被害を最小限にしつつ千草が満足する復讐方法などあるのだろうか。
これが個人相手だったならば、まだ何とかなる気がしないでもないのだが。

此処で会ったのも何かの縁、できる事ならなんとかしてやりたい。
というのが半分で、理多やエヴァが危険な目に遭わないようにする為にも、何か解決策はないのだろうか。

あまり良くはない頭をフル回転させて考える。
千草は本来協会自体に強い恨みがある訳ではなく、復讐するつもりであったのは気が済まないからだという。
ならば、気が済みさえすれば復讐の対象は協会でなくとも、協会の代わりになるような何かがあれば良いのではないだろうか。

我ながら良い考えだと思う。
しかし、協会の代わりになるようなモノなど──


「んー……じゃあ、協会の長でも殴ったらどうだ?」
「……は?」
「いやほら、協会=長とも言えなくは……ちょっと厳しいか」


数えるほどしか会った事はないが、協会の長──学園長は気さくで包容力のある人だった。
両親を亡くした後に裏の世界を知り、仕事を欲していた自分に良く仕事を回してくれた本当に良い人なのである。
きっと長の責任として、千草の恨み辛みも全部受け止めれくれるだろう。

千草にその機会を作る方法については何も問題はない。
普通なら一介の魔法使いが長に会う事は難しいが、こちらには学園長と長い付き合いのあるエヴァが居る。
学園長を殴らせる為と言えば、満面の笑みで約束を取り付けてくれるだろう。あらゆる手段を使ってでも。

ポカンとしてしまっている為、千草が提案に乗ってくれそうかどうかを察する事ができない。
だが断られる確立の方が高い事は何となく判っているので、駄目押しとして意味がないと判っていながらも一言言ってみる。


「ベタな事言うが……さっさと気持ちを切り替えて、
 死んだ両親の分も楽しんで生きた方が、両親も喜ぶと思うぞ」
「ハッ、ほんまベタやな」

鼻で笑う千草に、やっぱりなと直人がケラケラと笑う。
直人の言葉は、すでに何度か言われているほどにベタだった。
これまでの言葉と違うのは、直人のは冗談半分であるという事だけである。

親は子の幸せを願うもの。故に復讐などに囚われず、
楽しんで生きていく事を両親はあの世で望んでいるのかもしれない。
しかし死人に口なしであり、本当のところは誰にも判りはしない。

だから結局のところ、どうするのかは自分で決めるしかない。
復讐が正しい事かどうか判断するのも、その責任を背負うのも自分自身なのだから。
説得に亡くなった者を引き合いに出すのは、あまり意味はないのである。

直人は反省する加害者を見て許す事を自分で決めた。
そして、直人に協会襲撃以外の道を示された千草は──


「……ほんまに、東の長を殴るチャンスをくれるんやな?」
「あぁ。それで満足しなきゃ……そうだな、最終兵器イモウトに協力を仰ぐ事にするか」


そうして二人は握手をし、約束を交わす。
学園長が殴られる事が確定事項になっている事へツッコミを入れる者は、この場に居なかった。


 ◆


学園長涙目な約束が勝手に交わされてから数分後。
ミネラルウォーターを一気飲みした直人が不意に立ち上がり、グッと伸びをする。


「──さて、体力も回復したし、外に出る為に行動するかな」
「外にって……あんはん、この結界をどないかできると思うてはるんどすか?」
「高度な結界だから無理ってか? 二人居れば、気合いで何とかなるだろ」


気合いって、と千草はため息を吐いて呆れ返る。
しかもそれを本気で言っているのが目を見て判り、更に呆れた。

しかし不思議と、この男なら何とかできるのではないかと思う自分が居る事に気付く。
何となくだが、ケラケラと笑いながら適当にやり遂げてしまうような気がするのだ。

いい加減此処から出たいと思っていたし、千草は賭けてみるのも良いかもしれないと思う。
どうやら直人は結界を破る手段を持っているらしく、自分もそれに協力できる術を持っている。
それならば、協力すれば良い線いくのではないだろうか。


「……結界の薄い所を探すだけなら、式神でできると思う」


本当かと目を輝かせる直人に、千草はあまり期待するなと釘を刺す。
式神はいつも保険として持ってきている物であり、性能はあまり良いとは言えない物なのである。
そんなコウモリ型の式神を出すと、その式神を先頭に歩き出した。

しばらく進むと、コウモリ型の式神が空の一点を向いたまま停滞する。
どうやら式神の視線の先が結界の薄いところらしいが、薄いどころか結界が張ってあるかどうかすら判らない。
示された先には、相変わらずの雲一つない空が広がっているだけだった。

無言のまま立っていると、千草はムッとして式神を紙に戻す。
何の反応もない直人を見て、式神の能力を疑われたと思ったのだろう。
不機嫌そうな千草に、直人はヒラヒラと手を振ってその誤解を解く。


「アンタの事は信じてるよ。少なくとも、この世界を脱出するまではな」
「ふん、適当に見えて意外とシッカリしとるんやな、あんはん。まあええわ、それで結界は破れそうなんか?」


千草の問いに、腰に手を当てて改めて空を見上げる。
これから行おうとしているのは、結界に穴を開けるという強硬手段。
真っ当な手段でない以上、当然難易度は高い。

だがあまりのんびりもしていられず、結界を構成する基点を探しても見付けられるとも限らない為仕方がない。
薄い箇所が見付かっただけでもかなり助かるのだ、これ以上を望むのは高望みだろう。

そして結界を破れるか否かだが、これについては正直何とも言えなかった。
魔法使いの障壁を破った事は何度もあるが、これだけの結界を相手にした事はない。
そうなると重要なのはと、直人は千草へ振り返って真顔で言った。


「俺の気合い次第だな!」
「さっきの言葉、取り消させてもらうわ……」


疑わし気な目をしてため息を吐く千草に、直人はケラケラと笑って体をほぐし始める。
千草はふざけられたと思っているようだが、気合い次第というのは強ち嘘ではない。
気が唯一無二の武器である直人にとって、その気を最大限に生かすには気合いが大切なのだ。

結界の強度を弱める術を施した後、千草は直人から離れた場所にある岩陰に身を隠した。
一方直人は腰の横で両腕を曲げて拳を握り、目を閉じて気を静め始める。
何度も深呼吸を繰り返し、そうする事によって全力を出す為の準備を整えていった。

呼吸の音だけが響く中、千草は膨れ上がっていく直人の気迫に目を見張る。
先程までのおちゃらけた態度からは想像も付かないほど気の圧力は凄まじく、それでいて氷のように冷たく静かだった。
本当に結界を破れるのかと心配に思っていたが、気迫に当てられてピリつく肌の感覚に期待が高まっていく。

そんな千草の期待を背に、ついに直人が動き出す。
一際大きく息を吐き出してカッと目を見開くと、右手をピンと開いて左斜め上に腕を伸ばした。
同時に、自分を奮い立たせるようにして声を張り上げる。


「天破ッ!」


何もなかった世界に、直人を中心とした突風が四方八方に吹き抜ける。
気迫に耐えられなかった直人の足元の地面が抉り取られた衝撃で揺れ、太陽、
もしくは月の代わりにでもなったかのように、直人の全身を覆い始めた高密度の気が白く発光しだす。


「豪烈ゥ……!」


唸る声と共に右腕で円を描くようにして右へ大きく回し、纏う気を止めどなく膨張させながら腰の横へ戻す。
続けて左腕を右斜め上へ勢い良く伸ばし、再び両腕を腰の位置へ戻した。

本当に必要なのか疑問に思うポージングにツッコミを入れたい気持ちを必死に抑える千草を余所に、
直人は両手を重ねて前へ突き出す。そしてその手の間に渦巻くようにして、全身を覆っていた白い気を収束した。
その結果、サッカーボール台の球体になった気を右手で掴んで引き、野球ボール台にまで圧縮させながら右脇の横へ。

色々と大丈夫なのかと呆れたように様子を窺っていた千草は、思わず息を飲む。
かつて、これほどまでに高密度の気の塊を見た事があっただろうか。
まだ真面目に協会へ通っていた時、師範代が奥義を実演する際に収束させた気の何倍──何百倍もあった。

今更ながら何者なんだと、吹き荒れる突風に腕で目を覆いながら考える。
もし一樹に邪魔されず自分が計画を実行していたら、直人と戦う事になっていたかもしれない。
そうなれば、どれだけの威力を持つか想像もできないこの気の塊をぶつけられていたのかもしれないと思うとゾッとした。

直人は空間が歪んで見えるほどとなった気の塊を制御しつつ、左足を一歩前に出し、両足を肩幅ほどに広げて固定。
体を限界までひねって振りかぶり、息を止め。式神が教えてくれた結界が一番薄いらしい場所目がけて、
一息に拳を突き出して解き放った。


「──"超絶爆砕滅光流星気砲拳"ッ!!」


撃ち出された気弾は光の尾を引き、大気を抉りながら一直線に空を突き抜ける。
そのさまは、夜空を駆ける流星のようだった。圧倒的な破壊力を持っているとは思えない、煌びやかな輝きを放っている。

撃ってすぐに駆け出していた直人は、千草の居る岩陰に飛び込む。
そして頭を出していた千草の手を引き、岩の影に全身が収まるよう抱き寄せた。
その突然の抱擁に驚いた千草が、文句を言って直人を振りほどこうとしたその直後。

視界全ての土色が弾け飛び、世界が白に染め上げられた。

それから少し遅れてやってきた甲高い破裂音に、千草は小さく悲鳴を上げて耳を塞ぐ。
さらに遅れて、音を追いかけるように全てを吹き飛ばす衝撃波が弾けた。
台風よりも強烈な豪風が吹き荒れ、岩陰に隠れていなければ、遥か彼方に吹き飛ばされていただろう。

世界が元の景色に戻り、風が止んだのを見計らって直人は岩から顔を出す。
その後に千草も続き、そして目の前の光景に思わず感嘆の声を上げた。

一樹が解くまで出る事ができないと思っていた結界に、巨大な穴が開いていた。
その穴の向こう側は闇よりも深い黒色で、何処へ続いているのかは目で見ても判らない。
外へ続いていると判っていなければ、絶対に行きたくない不気味な暗闇だった。

直人は腕を組み誇らしげに踏ん反り返る。
その顔はどうだと言わんばかりで、千草はイラッとして殴りたい衝動に駆られた。
だが活躍に免じて止めておこうと、苦笑に留めて再び穴へと視線を戻す。


「言ったろ、気合いがありゃ何とかなるって」
「アホ言うな。気合いで何とかできはるんは、あんはんだけや」


気合で結界を破壊できてしまったら、世の呪術師も魔法使いも涙目である。
そんな事はないけどなと頭を掻く直人をどついて、千草は穴へと向かう。
その足取りは、まるで肩の荷が下りたかのように軽やかに見えた。



[26606] 第3章 14時間目 心変わりと鬼退治
Name: あかいつき。◆3327a354 ID:742ccd16
Date: 2011/03/21 00:21
結界に開いた穴を前にし、直人はほれ、と千草に手を差し出した。
何のつもりだと眉をしかめる千草だったが、万が一にもはぐれないようにする為と言われで納得する。
誰かと手を繋ぐのなんて何年振りだろうかと少し照れくさく思いながら、千草はオズオズと直人の手を取った。

少し冷たい千草の手を握り、直人は先が一切見えない漆黒の穴を見据える。
そしてこの世界には何の未練もない為、振り返る事もなくサッサと穴をくぐり抜けた──
その直後、宇宙へ投げ出されたかのような浮遊感に襲われる。

何がどうなっているのかを確認したいところだが、残念ながらそれは叶わない。
目の前にかざした自分の手すら見えないほどに視界が黒一色で、上も下も判らない状態なのだ。
念の為事前に手を繋いでいて良かったと、千草の手の温もりを逃さないよう握る力を強める。

穴をくぐり抜ければ外に出られる。
そう当然のように思っていたが、もしかしたらとんでもない勘違いをしていたのかもしれない。
世界を埋め尽くす闇を前に、直人は珍しく弱気になり、二度と出られないかもしれないという考えが脳裏を過る。

だがそれは杞憂だったようだ。
不意に足元から草の感触と緑の匂いがしたかと思うと、気付けば森の中に立っていたのだった。

星々の煌く夜空と、冷たくて澄んだ空気。風に吹かれてざわつく木々に、虫達の歌声。
つい先程まで居た結界内と違って生の気配に満ち溢れた世界に、直人は思わず呆けてしまう。
それから無事結界から出る事ができたのだと実感し、ホッと胸を撫で下ろした。

一緒に脱出した千草の手を離し、短く視線を交わすだけで喜びを分かち合う。
そしてこれからどう動くかを相談しようとした時、ピシッと何かの砕ける音が背後から聞こえてきた。
直人達は反射的に振り返って身構えるが、視界内には誰も居らず、また怪しい気配もない。

だが二人が耳にしている以上、空耳や気の所為という事はない筈。
罠である事も視野に入れて慎重に音の発生源を探してみると、
真っ二つに割れた紫色の水晶が下半分地面に埋まっているのを発見する。
おそらくこの水晶を媒介にして結界を構築したか、水晶そのものが結界を作る魔法道具なのだろう。

しかし、と直人は割れた水晶を見下ろしながら一つ疑問に思う。
それは千草も同じだったようで、腕を組み唇に指を当てながら訝しげに呟いた。


「一樹はんもウチと同じ境遇で、魔法使いを恨んどったんや。せやのに、魔法を使うなんて……」
「目的の為に手段を選んでられないってこったろ。それよりも今は、この後どう動くかだ」


直人は脚を気で強化して水晶を踏み砕くと、大木を見上げ、足場になりそうな枝目掛けて一気に跳躍した。
そしてグルリと周囲を見回すと、現在位置は一樹の罠にかかった場所の近くという事が判る。
それなら協会が比較的近くにあるので、体力がなくても特に苦労する事なく辿り着けるだろう。

ただ一つ気になったのが、湖から感じた妙な気配。
何故だか判らないが、大変な事が起きるかもしれないという嫌な予感がヒシヒシとした。

この予感が確かなものであるなら、タイミング的におそらく湖には一樹が居るのだろう。
そしてそこが今一番危険な、或いは危険になる可能性が非常に高い場所となる。
だとすれば、そこから離れた所にある協会は一時的な避難場所として最適だ。

最後にもう一度湖に目を向けてから飛び降りると、辺りを見て感じた事を千草へ簡単に話す。
そして自分は湖へ様子を見に行く旨を伝え、千草には長い間閉じ込められて疲れているだろうと協会へ避難する事を勧めた。

返答も聞かず早速湖へ向かおうとする直人の腕を、千草は慌てて掴んで引き止める。
避難する事に異論はなかったが、直人を湖へ行かせるのには抵抗があった。
疲れているのは、結界を破壊する為に膨大な気を消費した直人も同じだからである。


「ちょい待ち。あんはんには約束を果たしてもらわなあかんのや、無茶して死なれたら困る」
「安心しろ、俺はしぶとい事で結構有名なんだぜ? 余程の化物が出てこない限り、死んだりはしねーよ」


しかし直人はじゃあな、とまるでコンビニへでも行くような気軽さで別れの挨拶を済ませ、足早に湖へと向かってしまう。
今度は引き止めるのが間に合わず、伸ばした手が目標を失って宙を彷徨った。

小さくなっていく後姿を呆れたように眺めながら、千草は直人の指示に従うか否かを考える。
大人しく協会へ行き休むか、直人の後を追いかけて事態の調査や解決に協力するか。
もしくは、直人との約束を破って一樹に協力し、再び協会への復讐を目指すか。

考えるまでもなく確かなのは、自分の身を削ってまで解決させる気はないという事。
そんな事は、"立派な魔法使い"を目指す正義の味方共に任せておけば良いのだ。
では裏切るのかといえば、何となくその気にはなれなかった。


「……言われた通り、休ませてもらいますか」


そう結論付けて踵を返し、協会に着いたらまず何をするかを考えながら歩きだす。
柔らかい布団でグッスリと眠るのも良いし、美味しい物をお腹一杯食べるというのも捨て難い。
あぁ、その前に一樹の事と直人への増援要請を忘れず伝えないと。

などと呑気に考えつつしばらく歩いていた千草だったが、遭遇した光景に睡眠欲も食欲も吹き飛んでしまう。
疲れて幻覚でも見ているのではないかと目を疑うも、幻覚でも夢でもなく現実だった。

鉄扇と糸を扱っている人形のような金髪の少女と、血のように赤い瞳が目を引く可愛らしい少女。
そして、少女達の何倍もあるかという巨大な黒い鬼。木々はへし折られ、
地面にはいくつものクレーターが存在するような嵐が通った後よりも酷い場所で、
黒鬼にと二人の少女が戦っていたのである。

この黒鬼はおそらく、湖に用のある一樹が足止めの為に召喚したものなのだろう。
鬼を召喚する術を持っている為判るが、召喚の難しいかなり上位の強い鬼だった。
そんな黒鬼を足止め程度に使っている事から、それだけ一樹が全力で何かをしようとしているのだと察し、
湖に一人で向かった直人がほんの少し心配になる。

怪力かつ素早い黒鬼を相手に、少女達は表情を歪め肩で息をしながら苦戦していた。
赤目の少女は黒鬼の速さについていけているものの、攻撃は不得手なのかダメージを余り与えられていない。
金髪の少女の方など防ぐので精一杯らしく、しかも見た感じ身体強化を使わず生身と鉄線のみで黒鬼の攻撃を受け流しており、
危なっかしくて見ていられなかった。

千草はもはや勝負になっていない戦いを前に助力した方が良いのだろうかと思うも、しかしすぐその考えを掻き消す。
この戦いは自分に関係ない事であるし、何より自分は言い訳でも何でもなく心身共に疲れている。
身を犠牲にしてまで助力する義理など、彼女達に対して微塵もないのだから。

とはいえ、協会へ避難するついでに応援を呼ぶくらいの事はしてあげても良いだろう。
もっとも、それまで彼女達が持ちこたえる事ができるかどうかは微妙なところであるが。
そう薄情にも立ち去ろうとした時、赤目の少女が首にかけるネックレスが目に入り、千草は思わず立ち止まった。


「あのネックレスは……」


特別気になっていたりしていた訳ではなかったのだが、まだ記憶に新しい為すぐに思い出す事ができた。
直人が身に着けていたネックレスと、宝石の色以外は全く同じ物であると。

こんな身近に同じ物を身に着けている人が居た事を、偶然の一言で済ますのは躊躇われた。
では二人は恋人同士でペアルックをしているのではと考えたが、赤目の少女は大きく見繕っても中学生。
別に年の差があっても良いとは思うが、直人と赤目の少女が恋人というのは無理があるような気がした。

そうなると残された答えはそう多くなく、おそらく赤目の少女は直人の妹なのだろう。
そう思って改めて良く見てみると、髪の色や顔立ちなど似ている所が結構あった。
瞳の色も今は何らかの魔法の影響なのか赤いが、普段は髪の色と同じなのではないだろうか。

直人は復讐心を抱き、また消す要因となるほどに妹を大切に想っているようだった。
その妹が、今自分の目の前で死の危機に瀕している。
気付けば、立ち去ろうと直前まで思っていたにも拘らず、千草の足は動かなくなっていた。


「……家族、か」


家族を失う辛さは、痛いほど良く知っている。
もし両親のみならず妹まで失ってしまったら、直人はあの痛みを再び受けてどうなってしまうのだろうか。
また気合いだとでも言って乗り越えるのか、それとも、今度こそ復讐心に飲み込まれてしまうのか。

障壁ごと吹き飛ばされた直人の妹が、木に背中から打ち付けられて息を漏らす。
そしてそのままグッタリと木にもたれ掛かり、ゆっくりと近付いてくる黒鬼をただ虚ろな目で見つめる。
金髪の少女も木に手を着き震える足で辛うじて立っているような状態で、荒い呼吸を繰り返し動けずにいるようだった。

直人の妹を前にし、黒鬼が大木のような腕を振り上げる。
あんなモノを叩き付けられれば、少女の華奢な体など跡形もないだろう。
黒鬼の拳が、ギチギチという音が聞こえるほどに強く握り締められる。
しかし少女はそれを俯きがちに見上げるばかりで、逃げる様子も障壁を張る気配もなかった。

このままでは、確実に直人の妹は死ぬ。直人の大切な家族が、死んでしまう。
口は悪いが、割りと好ましい性格をしている直人。
その直人が妹を失い、復讐心に囚われてしまう姿は、何となく、見たくはなかった。


「──あぁ、もうっ!」


髪をグチャグチャに掻き乱し、両頬を叩いて気合いを入れながら戦いの場へと駆け出す。
手持ちの札だけでは、いけない事もないがかなり厳しいだろう。
勇ましく跳び込んだところで、返り打ちにあって無駄に命を落とす可能性の方が確実に高い。
などとネガティブな事を考えながらも、しかし足は止まらない。

直人に出会うまでは、大勢の人達に大切な人を失う辛さを抱かせる為に動いていた。
そんな自分が、今はそういった気持ちを抱かせないようにする為に動こうとしている。
その百八十度変わった自分の立場に、自分の事ながら苦笑を洩らしつつ懐から札を取り出す。

金髪の少女が、呼び出した丸いフォルムの鬼──"前鬼"と"後鬼"を両側に従えたこちらを見て絶句する。
敵の増援だと思われたのだろうが、攻撃してこないのであれば別に良いと気にせず前後鬼の頭をポンと叩く。
それを合図に、直人の妹へ拳を振り降ろそうとしていた黒鬼へと前後鬼が飛び掛った。

黒鬼が前後鬼に気を取られている隙に、今度は大量の式神の型をばら撒く。
すると型は次々と立体になっていき、その全てが三十センチくらいの猿になった。
そして猿達すぐさま森の中へと散開し、残った一部が直人の妹を担いで戻ってくる。

木々を利用して四方八方から鬼を翻弄する猿達に、チームワーク良く攻防を繰り広げる前後鬼。
それらを指揮する千草を訝しげに見据える金髪の少女と対照的に、
直人の妹は人懐っこい笑みを浮かべてありがとうと千草へ頭を下げた。

その笑顔を受け、千草はプイッと頬を染めてそっぽを向く。
久しぶりにお礼を言われた気がして、それがなんだか照れ臭くさかったのだ。
そして同時に思う。こんな保護欲を掻き立てられる子が、本当にあの直人の妹なのだろうかと。


「べ、別にあんはんの為やあらへん! あんはんの兄貴に約束を果たしてもらう為や、勘違いせんといてな!」
「え、お兄ちゃんに会ったんですかっ!? あ、あのっ、お兄ちゃんは無事なんですか?!」


どこにそんな力が残っていたというのか、直人の妹が痛いくらいに腕を掴んでくる。
それは、それだけ心配していたという事なのだろうと家族の絆を羨ましく思った。
だが以前のように、嫉妬や妬みなどの負の感情が湧き出す事はなかった。

直人の妹を落ち着かせ、直人は結界に閉じ込められていたものの今は脱出して無事である事。
そして、怪しい気配がすると言って一人で湖へ向かった事を教える。
一方直人の妹からは、協会が壊滅して木乃香が何者かにさらわれた事や、フェイト達がそれに協力している事を聞いた。

それらを聞き、木乃香をさらったのは一樹だと確信する。
もし自分の計画を引き継いでいるのなら、湖で両面宿儺を召喚するつもりなのだろう。
そうでなかったとしても、大変な事が起きるというのは間違いない。

木乃香を取り戻しまた一樹を止めたいのなら、こんな所でグズグズしている暇などないだろう。
千草は黒鬼から直人の妹達を守るようにして立ち、振り返って追い払うように手を振る。
罪悪感なく行けるように、若干辛辣な口調を投げかけながら。


「此処はウチが何とかするさかい。
 お勧めはしいへんけど、あんはんらは足手まといやから行くならさっさと行き」


そう言って直人の妹達から離れると、直人の妹は微笑を浮かべながらお辞儀をして湖へと向かった。
金髪の少女も意味あり気にこちらを見つめた後、直人の妹を追っていく。
そんな彼女達の反応に、もしかして辛辣に言った意図がバレバレだったのだろうかと不安になる。
もしそうなら、非常に恥ずかしかった。

そういえば、名前を聞いていなかったなとふと思う。
だが次に会った時にでも聞けば良いかと黒鬼へ集中し、これからどうしたものかと考える。
直人の妹達には何とかすると言ったものの、正直倒せるとは思っていなかった。
できて防御に専念し、しばらくの間耐え切れるかどうかといった感じだろう。

せめてもう一人、黒鬼の速さに対抗できる攻撃役が居れば。
そんなないモノねだりをしていると、何処からか覚えのある声が耳に届く。
それは、自分の名前を呼ぶ少年の声だった。

黒鬼へ注意を向けつつ辺りを見回してみると、声の主は糸でグルグル巻きにされて地面を転がっていた。
千草はその正体よりもまず、この戦場の中不自由な状態でありながら無事であった事に驚く。
死ぬよりはマシとはいえ、全身土やら葉っぱまみれで悲惨な状態であったが。


「──おぉ、"本物の"姉ちゃんか。無事だったんやな」
「本物……あぁ、ウチの格好に変装してはるとか言うてましたな。
 しかし、偽者と判っていて助けにきいへんとは。薄情やな、小太郎はん」


転がっていたのは、雇った内の一人である小太郎だった。
どうやら小太郎は狗族である為鼻が良く、変装した一樹の正体に気付いていたらしい。
そして気付いていながら、そのまま一樹に従っていたようだ。

金で雇った関係に過ぎない為、目的を優先されるのは仕方がない。
とは思うものの、裏切られた事には変わりはなく当然腹が立つ。
なのでこのまま放置してやろうかと思ったが、しかしそうはしない。

今はそうして憂さ晴らしをするよりも、もっと良い使い方があるからだ。
小太郎の目的からして、それを断られる可能性はないとみて良いだろう。
小太郎が自分を呼んだのも、おそらく同じ事を考えての行動なのだろうし。


「小太郎はん。ウチを裏切った事は許してあげますさかい、共闘せえへんか?」
「もちろんオッケーや! オレは強い奴と戦えるなら、相手はだれでもええ」


予想通り、思考する間もなく交渉は即成立した。
千草は有り得ないほど強靭な糸を何とか切り、小太郎を解放する。
そして二人並んで黒鬼へ目を向けると、それぞれ札と拳を構えて駆けだした。


「雉の代わりに鬼なのが残念やけど、いっちょ鬼退治といきましょか!」



[26606] 第3章 15時間目 人でなしの剣士
Name: あかいつき。◆3327a354 ID:742ccd16
Date: 2011/03/21 00:22
月詠に抱きかかえられた木乃香は、重力に逆らわずぐったりと肢体を垂らしたまま目を閉じていた。
刹那が思わず上げていた呼び声にも目を覚ます事はなく、それどころか身動ぎする様子すらない。
傍目からは呼吸しているのかどうかハッキリと判らず、刹那は叫びだしたくなるほどの不安に駆られた。

月詠は適当な木に呪術を使って木乃香をはりつけにすると、満足そうにニコリと笑う。
そして刹那の心境を知ってか知らずか、ちゃんと生きているので安心してくださいと言った。
木乃香は魔力を限界まで搾り取られ、その所為で気を失っているだけであると。

そんな木乃香をわざわざ転送させてまでして此処に送ったのは、
月詠が魔力のない木乃香に利用価値を見出し、その身柄を引き受ける事を決めたからだという。
月詠達が木乃香をさらった目的は、刹那達の予想通り木乃香の持つ膨大な魔力。
だからその魔力が尽きれば用済みであり、本来ならそのまま処理されるか放置される予定であったらしい。


「何かに使えるかと思って引き取ったんやけど、想像以上に使えそうで嬉しいわぁ」


用済みだとか利用価値だとか、まるで木乃香が物であるかのような言い草。
実際、月詠達は木乃香を便利な道具程度にしか思っていないのだろう。
でなければ、人を人と思わないような発言を嬉々として口にできる筈がない。

その事に刹那はカッと頭に血が上るが、歯を食いしばって何とか堪え切る。
月詠は、怒りに身を任せて何とかなる相手ではない。
それに月詠のこの行動は嫌がらせ目的のようだが、考えようによっては都合が良かった。

木乃香の無事を目で見て確認できるし、いざとなれば身をていして守る事もできる。
そして月詠を倒しさえすれば、すぐに助け出す事ができるのだ。
無事かどうか不安に駆られる必要はなく、目の前の敵にのみ集中できるというのは非常に大きい。

ただ一つ気になるのは、魔力を必要としていた者にとって木乃香が用済みになったという事。
それはつまり、木乃香の魔力を使った計画が確実に進行しているという事に他ならない。
先程湖の方から感じた嫌な気配についても気になる。

取り返しのつかない事になってしまっているのではないかと湖へ意識が向かうも、
今は木乃香の救出にのみ集中する。
悔しいが、一つ一つ問題を解決していくのが今の自分にできる精一杯。
二兎を追い、一兎を──木乃香を失う訳には絶対にいかない。

刀と心を構え直し、目の前の敵へ今まで以上に精神を集中させる。
木乃香がどう利用されてしまうかなどを心配する事に、思考は回さない。
何かをされる前に決着をつけて、助けてしまえば良いとだけ考える。

頭は冷静に、怒りは刀に。息を吐き出し、
木乃香が突然現われた事に驚き解けてしまった身体強化をもう一度施して跳躍。
月詠との最短距離を、最速速度で駆け抜ける。

動きは最小限に、まずは当てる事だけを目標にする。
無理して一撃で決める必要はないし、何より月詠相手にそれができるとも思えない。
もちろん隙あらば狙ってはいくが、ないものと思っておいた方が精神的に楽だろう。

踊るように、または見せ付けるようにして連撃を弾かれ、紙一重に避わされる。
だが初めは苦戦していた二刀流にも、刀を合わせていく内に大分慣れてきていた。
変則的な動きと速さに惑わされないよう注意し、焦らず攻撃を積み重ねていく。

突き出された小太刀が脇腹を掠り、熱をおびてじくりと痛む傷口を無視して一閃。
回避に間に合わなかった月詠の着る服のリボンが切れ、ハラリと宙を舞う。
その様子に、月詠は微かに眉をひそめてリボンへ意識を向けた。


(──そこっ!)


僅かにできた隙を逃す事なく、岩をも斬り裂く流れるような一太刀。
受け流す事を許さず、防ごうとしてかざされた刀を腕ごと弾き飛ばす。
驚きの表情を見せる月詠だったが、しかしその一方で何故か嬉しそうでもあった。

一瞬の思考、返す刀での追撃は間に合わないと判断。
振り上げた勢いを殺さず体を捻ると、がら空きとなった月詠の腹部へ回し蹴りを叩き込む。
穿つような鋭い一撃、まともに食らえば骨の一本や二本持っていかれるだろう。

月詠の軽い体が打ち上げられ、"予想以上に"高く飛ぶ。
その光景と蹴った手応えから、当たる直前に自ら跳んでダメージを殺したのだと察する。
最初から判っていた事だが改めて思う、手強いと。


「ずいぶんと動きが良くなりましたね。大切な人が手の届く距離に居るお陰なのかな?」


押され気味であったにも拘らず、着地した月詠は腹部をさすりながら特に焦った様子もなく感想を述べてくる。
図太くも余裕な振りをしているのか、はたまた本当に余裕なのか。あまり考えたくはないが、おそらく後者なのだろう。

巻き返しが不可能なほど、お互いの実力に差があるのではないか。
そう弱気になる自分を叱咤し、やられる前にやるといった調子で刹那は積極的な攻撃を再開する。
だが何度も後もう一歩というところまでいくが、どうしてもその一歩が詰められない。
刀はただ空を切り、体力の消耗につれて焦りが生まれ始める。

それからしばらくして月詠は距離を取ったかと思うと、何を思ってか突然構えを解きだした。
両腕をだらんと下げた姿は一見隙だらけで、攻めるには絶好のチャンス。
しかし、あからさまに絶好過ぎて攻めようという気にはとてもなれなかった。

警戒して様子を窺う刹那に対し、月詠は不機嫌そうに眉を八の字にする。
誘いに乗ってこなかったからかと思ったが、どうやら原因は別にあるらしい。
憂鬱な表情をしてため息を吐くと、刹那からスッと目を逸らして呟いた。


「センパイならウチを満足させてくれる気がしてたんやけど……この程度が限界なんかなぁ」


言外に弱いと言われてカチンとくるも、気にせず呼吸を整える事に専念する。
疲れがないと言ったら嘘になるが、まだまだ戦いを続ける事は可能。
手を抜いている隙に満足を通り越して倒してやると、密かに闘志を燃やす。

そんな時、不意に月詠が怪しげな笑みを浮かべた。
その笑みに不吉なものを感じ、一体何をする気なのだろうかと身構える。
本気の一撃がくる事も視野に入れ、懐の結界を張る札へと手を伸ばした。

そして何の合図もなく、おもむろに振るわれる月詠の刀。
その斬撃は、カマイタチのように鋭い衝撃波となって放たれた。

──刹那ではなく、木乃香に向かって。


「なっ!?」


予想外の行動であり、また自分への攻撃を警戒し過ぎていた所為で反応できず、刹那は何もできなかった。
障害もなく木乃香の元へ辿り着いた斬撃は、腕の柔肌を撫でるようにして裂く。
浅い傷口から滲む血が浴衣に染みていき、刹那にはその様子がスローモーションの如くゆっくりに見えた。

痛みに表情を歪める木乃香を目にし、刹那の中の何かがぷつんと切れる。
そして無意識の内に、足元の地面が砕けるほどの勢いで地を蹴っていた。
頭は冷静に、怒りは刃に。そんな考えは、理性と共に激情で吹き飛んでしまっている。

怒りが力となり、限界を超えた速さで月詠との距離を詰める。
その動きに月詠は目を見開くも、しかし著しい反応はただそれだけ。
慌てる様子もこれといってなく、一息の間に刀を構え直した。

それとほぼ同時に、刹那の怒りが込められた刀が振り下ろされる。
その刃に纏うのは、音を立てて弾ける青白い電。
それを迎え撃つのもまた、空気を振るわせる雷の刃だった。


「──"雷鳴剣"ッ!!」
「らいめーけ~んっ!」


対照的な掛け声と共に衝突する、二つの激しい雷。
目の眩む閃光が爆発し、四方へ音と爆風が叩き付けられる。
それらの発生地から吹き飛ばされたのは、刹那のみ。

一人その場で耐え凌いだ月詠は、拍手をしながら嬉しそうに笑った。
それから木乃香へ目を向けると、新しい玩具を手に入れた子供のように瞳を輝かせる。
その様子だけを見れば無邪気で微笑ましいものだったが、ろくな事を考えていないのは明らかだった。


「センパァイ、今の動きは凄く良かったですよ。なるほど、お姫様を傷付けると良いみたいですね」


想像を裏切らない言葉の内容に、痛みで頭が冷えた刹那は苦い表情で拳を握る。
月詠の目的は自分にあり、戦っている間は人質である木乃香は安全だと思っていた。
傷付けるにしても、月詠が追詰められた時だと思っていた。

だから木乃香の事を今は忘れ、戦いに集中しようと思ったのだ。
そうしなければ危険な相手であるし、倒してしまえば取り戻せるのだからと。
まさか、自分を焚きつける為に傷付けるとは思いもしなかった。

月詠が木乃香を傷付けるというのなら、優先順位を変更せざるを得ない。
例えこの身が切り刻まれようも、何としてでも助けださなければ。
とは思うものの、それができるような相手であれば苦労はしない。
もしそんな事をすれば、二人まとめて切り捨てられるのがオチだ。

月詠は倒せそうにない。木乃香も助けられない。
そんな万事休すな現状だが、手がない訳ではなかった。
木乃香を助けだし、かつ月詠と戦い退けられるかもしれない。
そんな夢のような方法が、一つだけあった。

しかしその方法は、刹那にとっての最大の禁忌。
できれば一生人目に晒す事なく、死ぬまで自分の中に封じておきたいモノ。
存在を忘れてしまいたい"力"だった。


「このお姫様を痛めつければ、も~っと楽しい戦いになりますかね?」


だが今は、そんな泣き言を言っていられる状況ではない。
月詠は躊躇いなく木乃香を傷付け、最悪殺してしまう可能性だって大いにある。
現状を打破する手段があるのなら、禁忌だろうがなんだろうが使うべきだ。

幸いにも一番知られたくない木乃香は目覚めておらず、この場には月詠以外に誰も居ない。
今なら、自分の気持ちさえ無視すれば精神的にも比較的実行は容易。やるなら、今を置いて他にない。

数刻前までは、木乃香に自分の禁忌を打ち明けるつもりだった。
と言っても信じてもらえそうもない思考内容に、刹那は自分の事ながら呆れてしまう。
だが、仕方がない事なのだ。それほど刹那にとって忌々しいモノであり、
誰かに知られてしまう事が怖いモノなのである。


「──っ……」


刀を地面に突き立て、深く息を吸い込みながらグッと身を丸める。
続けて胸に手を当てると目を閉じ、今し方吸った息を吐き出しながら意識を自らの内に沈めた。
そして、深く深く、一切の光も届かないような心の奥底にあるモノに手を伸ばす。

十数年振りに触れる醜悪な気配。暗く、どす黒い、もう一人の自分。
ずっと消えてしまえば良いと願っていたそれは、昔と変わらず健在だった。

目にした瞬間様々なトラウマが脳裏を過り、怖気付いて手が固まる。
だがここまできて、今更後に引く事はできない。一拍の躊躇の後、刹那はそれを一気に──


「──ん、ぅん……」


引き上げようとしたところで、気だるげな吐息が耳に届く。
それに気を取られて集中力が切れてしまい、掴んでいたモノを手放してしまった。
次第に闇が晴れ、自分の意思とは関係なく意識が覚醒していく。

声のした方へ目を向けると、木乃香がぼんやりと辺りを見回していた。
そして少し遅れて自分の立場を自覚し、サーッと青ざめる。
木乃香が悪い訳では決してないのだが、タイミングが悪いと思わざるを得ない。

ふと、月詠が自分に向けてくる視線が変わっている事に気付く。
どこか熱っぽい、纏わり付くような不快な視線だった。


「変わった匂いがしはるとは思ってましたけど……ふふ、ふふふ……」


ゾッとするような笑みに、背筋を凍らせつつ刀を構える。
変わった匂いというのは、身に纏う気配の事を言っているのだろう。
裏の世界の人間かどうかなどを刹那も気配から感じ取る事ができるので、何かに気付いたとしても別段不思議ではない。

では月詠は、一体何の気配を感じ取ったというのか。
それはおそらく、解放しようとしていたモノ、"刹那の正体"だろう。

月詠は、ニタニタと嫌らしい笑みを浮かべて木乃香に歩み寄る。
その表情から何かを企んでいるのは明らかで、その何かも大体予想できた。
確実なのは、こちらにとって良い事ではないという事。

余計な事を話される前に口を封じてしまいたい。
しかし月詠のすぐ傍には木乃香が居る為、安易に斬りかかる訳にはいかなかった。
もし盾にでもされてしまったら、この手で大切な人を殺めてしまう事になりかねないからである。

嫌がる木乃香の耳元に、月詠は内緒話をするように口を寄せた。
そして挑発するように木乃香のアゴへ指を這わせ、刹那へチラリと目を向けて口元を歪める。
それから木乃香へ意識を戻すと、刹那がずっと秘密にしてきた事を、何気ない事のようにあっさりとを口にした。


「──ねぇお姫様。あんはんの騎士様、"人間やない"みたいですよ?」



[26606] 第3章 16時間目 白き守護の翼
Name: あかいつき。◆3327a354 ID:742ccd16
Date: 2011/03/21 00:22
「な、何を……言って……」


自分の置かれている現実離れした状況に混乱する頭でも、
月詠の言う騎士様が刹那の事を指しているのは判った。
しかし判るのはそれだけで、何を言っているのかが理解できない。
本当か嘘か、信じられるか信じられないか以前に、言葉の意味が木乃香には判らなかった。

刹那は人間ではないと、月詠は確かにそう言った。
つい最近まで疎遠であったが、幼い頃から知っている大切な人に対してである。
そんなふざけた話を、一体どうして信じられようか。
実家が魔法使いなどの存在する裏の世界で、
関西を取り纏める協会であった事を信じるのとは訳が違う。

しかし、月詠が嘘を言ってからかっているようには見えなかった。
だからといって、刹那の外見は人間以外の何者でもないし、言葉だけではやはり信じられない。
何か別の存在に変身したりするところなどを自分の目で見ない限りは絶対に無理だろう。

実際にそれらを目の前にしても、夢だと思ってしまうかもしれないが。
などと困惑する木乃香を余所に、月詠は恋する乙女のように瞳を潤ませ、両頬に手を当ててうっとりとする。
当然ながらそこに微笑ましさなど皆無であり、刹那は警戒を強めて一歩後ずさった。


「それにしても素敵やわぁセンパイ。まさか、化物やったなんて」


まるで憧れの存在にでも出会ったかのような物言いと態度。
しかしその言葉を向けられた刹那は、全くもって嬉しそうではなかった。
月詠の言い方に騙されそうになるが、
化物だから素敵というのは間違っても褒め言葉ではないので当たり前である。


「さ、早う人間の皮なんて脱ぎ捨てて化物になってください。
 人間のまんまだと、ウチに勝てませんよ?」


その事に気付いていないのか、
本気で褒め言葉だと思っているからか、月詠はなおも輝く視線を刹那へ向けて両手を広げた。
しかし一向に刹那が動く気配を見せない為、しびれを切らした月詠は木乃香の頬を刀でペチペチと叩き始める。
木乃香を傷付けると脅せば、嫌でもなってくれると考えたのだろう。

木乃香は冷たい刀の感触に息を飲み、固く閉じられた目から恐怖で涙を流す。
少しでも月詠を刺激するような真似をすれば痛い目に合わせられると思ってか、
悲鳴を必死に飲み込む姿が痛々しかった。
その堪える姿に倣い、刹那も怒りが爆発しそうになるのを抑え込んだ。

このままでは月詠の言う通り、勝てる可能性は限りなくゼロに等しい。
それ以前に力を解放してみせなければ、月詠は今にも木乃香を殺してしまいそうだった。
月詠にとって木乃香は道具、痺れを切らせば躊躇いなく首を落とすだろう。

自分が死ぬのは実力不足の所為であり、仕方のない事だと諦めはつく。
だが木乃香が死ぬ事だけは、実力不足だろうが何だろうが絶対に阻止しなければならない。
詠春から任された、そして何より自分が守りたい大切な人なのだから。

そうして刹那は力を解放する事を決意した。
例えその結果、木乃香に嫌われてしまおうとも構わないと。
その事を恐れた結果、目の前で死なれるよりずっとマシだ。

それに元々こんな状況に追い込まれていなくとも、今日自ら打ち明けようと思っていた事。
その時が、自分のタイミングではなく勝手に向こうからやってきただけ。
月詠がこの場に居る事は気に入らないが、それは諦めるしかない。


「おや、ようやっと覚悟を決めましたか?」


刹那が構えた刀を下ろすのを見て、月詠は期待に満ちた表情で問いかける。
しかしそれをキッパリと無視して胸に手を当てると、刹那は再び心の底へと潜り込んだ。
そして深海のように暗い奥底に眠る、化物の力へと辿りつく。

周囲の闇よりも深くて濃い、力の塊。
それに手をかけると、一旦意識を戻して木乃香へと目を向けた。
そして返ってくる不安気な視線に躊躇いながら、自らの口で改めて告白する。


「……お嬢様。彼女の言う通り、私は人間ではありません」
「せっ、ちゃん……?」
「見ていて、ください。これが──」


目を閉じ意識を内へ、躊躇う間を自分に与えず一息に力の塊を引き上げた。
今度は横槍が入る事もなく解放された力は、途端に全身を余す事なく駆け巡る。
ギチギチと体の組織が変化していく音が耳に届き、嫌悪感に荒い吐息がこぼれた。

失われつつあった力が満ちあふれ、痛みはなくなり五感が鋭く研ぎ澄まされていく。
意識以外の全てが自分のモノではなくなっていく。
それは人間が化物へと変わっていく感覚だと、刹那は久しぶりに思い出した。

苦悶の表情と共に、刹那は胸元を掴んで背中を丸める。
その様子に木乃香が心配そうに声をかけるが、その声への返事はない。
聞こえてはいたものの刹那には返事をする余裕がなく、それに今更止めるつもりはなかった。

背中が疼き、温かいを通り越してジワジワと燃えるように熱くなる。
これまでは目に見えない変化だったが、次の変化は決定的に違う。
人間とは違う存在であると、木乃香にも一目で判ってしまうだろう。

息を目一杯吸い込み、背筋を勢い良く伸ばす。
それと同時にバサッと音を立て、背中から"白く大きな二対の翼"が生えた。
魔法や呪術による幻でも紛い物でもない、本物の翼が。

刹那の体を丸ごと包み込めるほど大きい、白い鳥のような翼。
月明かりを浴びたその翼は、薄暗い森の中で淡く輝いて見える。
その光景はふとした拍子に消えてしまいそうな、幻想的な雰囲気があった。

──強力な力を持つ人型の烏、烏族。
その烏族の父と人間の母との間に生まれた、人の身に翼を持つハーフ。
それが、桜咲刹那の正体だった。

また刹那は、烏族の間で禁忌とされる白い翼を持っていた。
その所為で昔は命の危険に晒されるほどの迫害を受けており、
刹那に力の解放を躊躇わせた原因の一因となっていたのである。


「これが、私の本当の姿です……すいません、お嬢様にこんな醜い姿を晒して……」


自分の姿を見て浮かべた木乃香の表情が、嫌悪に類するものかもしれない。
そう思うと、とても木乃香の顔を見られそうになかった。
もしそれを見てしまったら、木乃香を助ける前に心が折れてしまうだろう。

迫害によって自分の姿を酷く醜いものだと思っている刹那は、
木乃香が外見で判断するような性格ではないと知っていても、この事に関してだけは信じる事ができなかった。
人間ではない上に禁忌の存在である自分を受け入れてもらえるとは、到底思えなかったのである。

しかし、キュッと恐怖を堪えるように唇を硬く結ぶ刹那の耳に届いてきたのは、予想外の言葉。
聞き間違えたのではないか、そう言ってもらいたいという願望が幻聴となってしまったのではないかと思う、
そんな木乃香の一言だった。


「……綺麗」


うっとりとした様子で、木乃香は刹那をジッと見つめる。
こぼれた言葉は、無意識の内に口にしてしまったようだった。
思わず刹那は背後を振り返るが、木乃香の視線は間違いなく自分へと向けられている。

一方月詠も木乃香同様うっとりとし、木乃香の横で飛び跳ねる事によって興奮を表していた。
それでも全く隙がないというのが、月詠の実力がずば抜けている事を証明している。
とりあえず今すぐに斬りかかってくる様子はないので、刹那は瞳を輝かせる木乃香へと意識を向けた。

綺麗だという、短くも心のこもっていた木乃香の感想。
これまで一度だって言われた事のない好意的な言葉に、刹那は困惑を隠さずに聞き返す。
綺麗だと思う事を別にしても、人間でなかった事に対して何の感情も抱いていない様子なのが不思議だった。


「この姿が、綺麗……? 翼が生えているんですよ? 人間では、ないんですよ?」
「うん、まるで天使みたいや。それに、例え人間でなかったとしても……せっちゃんは、せっちゃんでしょ?」


悩み恐れていた事が馬鹿らしくなるほどの即答。
どうしてそんな当たり前の事を聞くのと言わんばかりに、木乃香はキョトンとして首を傾げる。
そんな反応をされてしまったら、納得できないと否定の言葉を口にする事はできなかった。

褒め言葉としては最上位であろう天使のようだと評され、赤くなった刹那は何も言えず口をパクつかせる。
今の姿は色々な事を思い出して辛く、嫌いであったが、少しだけ好きになれそうな気がした。
我ながら単純だと、刹那は翼を手で弄びながら内心苦笑する。

同時に、嬉しくて泣きそうになった。
吸血鬼であると知られながらも、ネギ達や朝倉に受け入れられて涙を流した理多の気持ちが良く判る。
誰かに、大切な人に受け入れてくれた喜びは、あふれるほどに胸を満たしていった。


「せっちゃんは知られるのが怖かったみたいやけど……ウチは、大切な人を知る事ができて凄く嬉しい」


今日旅館の前で理多達の様子を見た時、刹那の事も理多の事も近い内に全て判る気がしていた。
まさか自分をさらった者の仲間の口から、こんな形で知らされてしまうとは想像もしなかったが。
自分がさらわれてしまう前、刹那に話があると呼び出されたのはこの事についてなのかなと今にして思う。

涙を必死で拭っている刹那に木乃香は微笑んだ後、一変して拗ねたような表情を浮かべた。
その可愛らしくもある変化に、刹那は和む一方で嫌な予感がする。
そして木乃香はジトッと非難するような目で刹那を見据えると、翼へと視線を移して問いかけた。


「……それで、他に隠し事はあるん?」
「あ、ありません……」



木乃香に隠していた事は、裏の世界の事と烏族の事のみ。
木乃香へ対する個人的な隠し事は、誓ってもうない。
ないだが、これまで隠し事をしてきた後ろめたさによって、刹那は気圧されてしまう。

嫌われてしまっただろうか、呆れられてしまっただろうか。
そんな不安に思う感情が顔に出ていたのか、木乃香はおかしそうにクスリと笑みをこぼした。


「……そっか。それなら、許してあげる」


秘密にしている事はもうないと言ったばかりだが、一つだけ。
今の木乃香が天使に見えたという事は、恥ずかしかったので胸の内にしまっておく。
これくらいの秘密なら、言わなくとも木乃香も怒りはしないだろう。

さて、と気を引き締め、刹那は月詠へと向き直る。
空気を読んで何もせず、木乃香と話をさせてくれた事には感謝するが、それはそれ。
力を完全開放した今、正真正銘全力で倒させてもらう事にする。

烏族の力を手にした事で慢心し、油断するつもりはない。
全力でなかったのは月詠も同じであり、勝てるとは限らないのだから。
苦戦するかもしれないと思っておくのが、おそらく丁度良いのではないだろうか。

その考えが正しいものであった事は、すぐに思い知る事となる。
刹那の闘志を正面から受け止めていた月詠は、気圧される事なく不敵に笑い。
そして、金色に変色した瞳を爛々と輝かせて刀にペロリと舌を這わせた。


「この心身を震わせる、死の気配を感じさせてくれる相手との死合い。
 ウチはこれを、この時をずっと待ち望んでいたんですぅ」


光悦としたとろける表情に、噴き出す重く禍々しい殺気。
これまで以上に嫌悪感を煽る、まるで魔物のように邪悪な気配だった。

血と戦いに魅了され、精神が闇に堕ちたのか。
人間の皮を被った魔族なのかは、気配から読み解く事ができない。
しかし、人間だと思って戦わない方が良い事は確かだろう。

刹那と月詠、双方が刀を構える。
空気はピンと張り詰め、些細なキッカケで破裂してしまいそうなほど。
これから始まるであろう死闘の気配に、木乃香は緊張から固唾を飲んだ。

すると空から、白い何かがふわりふわりと落ちてくる。
不規則な軌道を描くそれは、刹那の白い羽だった。
羽はゆっくりと高度を落としていき、そして──


「──っ!!」


羽が地面に舞い落ちた次の瞬間、木乃香の視界から刹那と月詠の姿が消えた。
二人が立っていた場所に残るのは、ひび割れた地面と撒き上がる土煙だけ。

しかし二人は、木乃香の視界内から居なくなった訳ではない。
二人が消えた事に木乃香が驚いた直後、周囲で無数の金属音と風切音、そして衝撃波が弾けた。
木乃香の目では速過ぎて捉えられないだけで、二人は激しい攻防を開始していたのである。

常人では一秒間に何十回と切り刻まれてしまう高速戦闘。
戦況は、恐ろしい事に人間である筈の月詠が僅かに優勢だった。
敵ながら、刹那は月詠の戦闘能力に感嘆してしまう。


「あ、センパイが手を抜かない限りお嬢様を利用するような真似をするつもりはないので、
 安心してウチだけを見てください」
「それはどうもっ……!」


完全にとはいかないが、今の言葉は信用しても大丈夫だろう。
月詠は純粋に戦いを欲し、そして命のやり取りを楽しんでいる。
その戦いを自ら壊すような事はしない筈だ。

それよりも今は、早急に何とかしなければならない別の問題があった。
このまま戦いを続けていけば、力尽きるのはこちらが先になってしまうという事。
相手よりも劣っている以上、リスクを負ってでも攻めなければ負けは確実だろう。

刹那は斬撃を強引に弾き、翼を羽ばたかせて木々を見下ろせる辺りまで上昇。
月詠が追ってきていない事を確認すると、刀を正眼に構えて深呼吸をする。
少なくない全身の傷が痛むが、力を解放した今なら多少の自己治癒能力があるので問題はない。


「……もう少し斬り合いたかったけど、センパイの策に乗ってあげます。でも、後悔しないでくださいね」


月詠はそう言って笑い、刹那同様呼吸を整えて二刀を構える。
どうやら刹那の誘い、大技で雌雄を決する策に乗ってくれるようだ。
ハイリスクハイリターンな策だが、刹那が月詠に勝つにはもはやこれしかない。

姿を見せた二人の雰囲気から、木乃香はもうすぐ決着がつく事を察した。
それは同時に、自分の処遇が決まるという事でもある。
だが木乃香は自分の心配をせず、ただ純粋に刹那の勝利を祈った。

天と地に立つ刹那と月詠の二人は互いに睨み合い、目に見えるほど濃い氣を刀へと収束させていく。
次第にそれは周囲の大気や草木を乱す塊となり、その輝きは月明かりも掻き消す光源となる。
木乃香の素人目でも、それらが想像を絶する力を持つ事は察せられた。

初めに動いたのは、見せ付けるかのように大きく双翼を広げた刹那。
羽ばたいた勢いと重力を利用し、氣を纏う刀を携えて弾丸のように降下する。
そのさまは、遠目に見れば空を翔る一筋の流星に見えた事だろう。

流星は見るみる内に加速してゆき、地上の星目掛けて一直線に突き進む。
一か八かの大勝負、刹那が繰り出すのは自身が最も使い慣れた技──"雷鳴剣"。
膨大な氣を余す事なく雷へ変換し、いつもの何倍もある雷を纏った"雷鳴剣"を超える"雷鳴剣"を放った。


「──"真・雷鳴剣"ッ!!」


白雷の一閃、極大の雷が月詠へと容赦なく打ち落とされる。
耳をつんざく轟きに、目を焼く純白の閃光。
天然の雷と相違なく見える人工の雷は、月詠を飲み込み全てを切り裂いて焼き尽くす。

いくら身体を氣で強化しようとも、これだけの攻撃を身に受けて無事ではいられまい。
と、普通の相手だったのならそう思っていたところだが、生憎と月詠は普通とは程遠い存在。
自分と同じく技の準備をしていたにも拘らず、何の反撃もなくこのまま終わる事は有り得ない。

その警戒心が無駄でなかった事は、自分の身を持って刹那は知る事となる。
振り下ろされた刀は硬質な何かによって途中で阻まれており、青白い雷が突如轟いた紫色の雷に飲み込まれ始めた。
誰が放った雷かは考えるまでもなく、囁くような月詠の声が、衝突し弾ける雷の音を抜けて聞こえてくる。


「……"滅・雷鳴剣"」


刹那の渾身の一撃は、月詠の一刀によって食い止められていた。
それだけではなく、月詠の放つ紫電は白雷を越えて刹那の全身を傷付けていく。
痛みに表情を歪める一方で、防がれる事は予想していたものの刹那は驚きを隠せなかった。

烏族の力を解放して放った"真・雷鳴剣"は、過去最高の威力を持っていた。
現状使用できる技の中でこれ以上はないと言える、おそらく最も強い一撃だっただろう。
それを、防がれてしまった。

月詠も自分と同じで今のが最強の一撃であり、防ぐので精一杯であったというのならまだ希望はある。
だが人の身でありながら烏族と渡り合った月詠の事、悲観などではなくその可能性は低いように思えた。
大方今の一撃も本気の技ではなく、自分の"雷鳴剣"に合わせて同じ技で相手をしたのではないだろうか。

徐々に押し返されていきながらも、しかし刹那は諦める事なく抵抗し続けた。
ここで一度引いてしまえば、月詠を超える一撃を持たない自分は防戦一方にならざるを得なくなる。
拮抗している今何としても一撃を与えられなければ負けたも同然であり、引く訳にはいかなかった。

だが抵抗も虚しく白雷はその殆どを紫電に食い尽くされ、勢いを失った刹那は限界を迎えようとしていた。
月詠も己の勝利を確信したのか、鍔迫り合う刀の向こう側で嫌らしい笑みを浮かべている。
その血に飢えた瞳には、情けなくもボロボロとなった自身の姿が映っていた。


(負ける訳には、いかないというのにっ……!)


望んでいた形ではなかったものの、自分の正体を木乃香に明かす事ができた。
そして自分が人間ではないと知ってもなお、受け入れてもらえた。喜んですらもらえた。
目の前の敵を倒し、木乃香をさらった者の企みを阻止できれば、夢のように最高の結末を迎える事ができる。

それだというのに、ここで負けてしまうというのか。
改めて大切な存在だと実感した木乃香を、守る事ができないというのか。
こんなところで、こんな奴に負けて。何もかもを、失ってしまうというのか。


「──せっちゃん!」


想いについていかない自身の能力に絶望しかけていた時、木乃香の必死な呼び声が耳に届いた。
しかしその声に応える事なく、刹那はギリッと歯を食いしばって心の中で謝罪する。
守れなくてごめんなさい、不甲斐なくてごめんなさいと、何度も何度も謝った。

その心の声が聞こえたのか、木乃香は悲痛な面持ちをして唇を噛んだ。
刹那が全力を出している事や、それでも負けてしまいそうになっている事は見ていて判る。
大切な人の事、まるで自分の事のように辛かった。

それでも、今何を言われたところで意味はなく、
苦しくなるだけだと判っていても、どうしても言わずにはいられない事があった。
木乃香は一度何かを言おうとして躊躇った後、意を決して口にした。
今の刹那にとって残酷な、それでいて嬉しい我が侭を。


「ウチ、今まで疎遠だった分、せっちゃんと色々な事がしたい!
 お喋りしたり、遊んだり、もっと一緒に居たいっ!! だから……」


理多に後押しされてようやくできた、刹那との仲直り。
それからまだ一日しか経っていないのだ、まだ数え切れないほど刹那とやりたい事があった。
満足など、当然している筈がない。

このままでは、死んでも死に切れなかった。
もし今死んでしまったら、未練で化けて出る事になるだろう。
そんなのは絶対にご免だった。


「だからせっちゃん──頑張って!!」


木乃香の叫ぶような応援に、刹那は内心で苦笑いを浮かべた。
全力を出しているというのに、これ以上何を頑張れというのか。
いくら相手が木乃香とはいえ、さすがに毒づかずにはいられない。

だが月詠の例えを借りるなら、木乃香は守りたい大切な姫で、自分はその騎士。
どんな無茶な望みにも応えて守ってみせるのが、騎士の役目というもの。
無理だからと足蹴にする事は有り得ないだろう。

それに、一緒に居たいという想いは刹那も同じ。
木乃香のペースに巻き込まれて正直大変ではあったが、木乃香と一緒に過ごした時間は心から楽しかった。
そんな時間をずっと過ごせたなら、どれだけ幸せだろうか。


「──ものか……」


衝撃に痺れて緩んだ、柄を握る手に力を込める。
失った勢いを取り戻す為、翼を引き千切れんばかりに羽ばたかせる。
絶望に沈み込んでいた気持ちを、無理やり引きずり上げる。

大切な人を守る為に、一緒に居る為に、もっともっと幸せになる為に。
それらを奪おうとする月詠に、負ける訳にはいかない。
絶対に、絶対に──


「負ける、ものかあああああああああああ!!」


想いを力に、絶叫と共に月詠の刀を押し返す。
それに続くようにして、白雷の輝きが増した。
そうして鍔迫り合いは再び拮抗状態に──否、刹那が月詠を圧倒し始める。

なおも焦る様子のない月詠は、それどころか嬉しそうに紫電を強めて抵抗する。
必死な刹那と違いまだ余裕有り気で、負ける気など微塵もしていないようだった。
唯一つ、ある物を除いて。

刃がぶつかり合う辺りから、ピシッと何かの割れる音が聞こえてくる。
その正体は、月詠の刀が衝撃に耐え切れずにひび割れる音だった。
そしてアチャーと月詠が眉をひそめて舌を出した直後、刃が真っ二つに音を立てて折れる。

しかし刹那は、これで勝ったとは思わない。
刀を失くした剣士は負けたも同然だが、神鳴流は武器を選ばない無手でも戦闘可能の流派。
刀がなくとも戦う事に不自由はないし、何より月詠は珍しい二刀流剣士なのだから。


「──二刀連撃っ」


刀を折って振り下ろされた刹那の攻撃を一歩引いてかわし、月詠は小太刀に紫電を纏わせて振り上げた。
攻撃後の隙を突いた連撃、回避や防御をする手段は残されていない。
五体で構成された、真っ当な人間ならば。

しかし刹那は人間ではない。
手足を防御に回せなくとも、天使のようだと評された白い翼がある。
例え切り落とされても力を封じ翼を消せば出血を止める事が可能であるし、
五体があれば戦いの続行は十分可能。

翼を前面に、自身を覆い隠すようにして降りたたむ。
そこへ叩き込まれる紫電一閃、羽と血しぶきが舞い上がった。
穢れのない純白の翼が、痛々しい鮮血によって彩られる。

翼は体の一部であり、人間で言うところの手足と相違ない。
半ばから翼を切り落とされ、尋常ではない痛みに視界が真っ白になり、意識が飛びそうになる。
だがここで気を失って骨を断てなければ、肉を切らせた意味がなくなってしまう。


「あああああああああああ!!」


大声を目覚まし代わりに折りたたんだ翼を広げると、返す刀で切り上げる。
真っ当な人間とは言い難いものの、五体で構成されている月詠に防ぐ手段はない。
刃はがら空きとなった腹部から胸部を斜めになぞり、混じりけのない赤が散った。

手応え有りと力を封じて木乃香の傍へ飛び退き、傷付いた翼を消して片ひざをつく。
一方月詠は脂汗を滲ませ、致死量の血が流れる傷口を抑えていた。
もう戦える状態にない事は、誰の目にも明らかだろう。

それでも月詠なら、傷を気にせず笑って襲い掛かってくるような気がした。
そんな恐ろしい光景が鮮明に脳裏を過り、刹那は気を抜く事なく震える足で立ち上がる。
翼を消した為一見大きな傷のない刹那だが、実際は月詠と似た状態だった。

刹那の想像した通り、月詠はぎこちなくも笑顔を浮かべる。
血を失い青ざめたその表情は狂気染みており、刹那と木乃香は二人して息を飲んだ。
今が夜という事もあり、暗闇に浮かぶその姿は幽霊にしか見えない。

だが想像通りであったのは笑みだけで、月詠はふらりとよろけると、近くに木に寄り掛かった。
力が抜けたのか手から刀を滑り落とし、荒い呼吸を繰り返す。
今にも死んでしまいそうな様子だったが、その瞳は生命と相変わらずの狂気の光に満ちていた。


「……残念やけど、お楽しみはこれまでのようです。
 遊びが過ぎたツケが、ここにきて回ってきましたね」


心底残念そうにため息を吐き、月詠は懐から取り出した式神の型を宙へ投げる。
そうして呼び出されたのは、可愛らしい外見をした人魂形の一つ目お化け。
ふわふわと浮いているサッカーボールよりも少し大きい程度のそのお化けに、月詠はゆっくりと腰掛けた。

外見からして察せられるが、どうやら戦闘用ではなく移動用の式神らしい。
小さい体には重量オーバーなのか、苦しそうに目を細めているお化けが少し可哀相だった。
涙目になっているのは、きっと気の所為ではないだろう。

警戒しつつ様子を窺っていると、刹那の背後から木乃香の短い悲鳴と何かが落ちる音。
奇襲かと思い慌てて振り返ってみれば、呪術による拘束が解けたらしく木乃香が尻餅をついていた。
月詠へ向き直ると愉快そうに笑っており、撤退を決め木乃香を解放するついでに驚かしたのだと察する。


「事を最後まで見ていたかったけど、さすがに厳しそうです。
 では、もう一度私と戦う為にも、死なないように頑張ってください」


からかわれてムッとする刹那にふふふと笑い、月詠は幽霊の頭をポンと叩く。
そして刹那の返事を待たずに背を向けると、闇の中へと消えていった。
激しい戦闘であった割りに、随分とあっさりした幕切れである。

あれだけの傷を負って大量の血を流せば、普通は長くもたない。
しかし月詠があの程度でくたばるとは考え難い為、きっと生き長らえて再び姿を現すのだろう。
その日がこない事を祈りつつ、刹那は座り込む木乃香へと駆け寄った。

まずは敵に何か呪術をかけられていないか、そして傷を負わされていないかを確認。
しようとしたのだが、屈んだ際に木乃香に抱き付かれてしまい、身動きが取れなくなってしまう。

安全である事を早々に確認してしまいたく、また恥ずかしかったので離れてもらいたかった。
しかし木乃香の体が震えている事に気付き、引き剥がす事はせずそのままにしておく事にする。
こうして守る事ができた大切な人の温もりを感じるのも、悪くはないと思いながら。

烏族の力、そしてその象徴たる白き翼は、ずっと忌々しいものだった。
しかしその力のおかげで木乃香を守る事ができ、また受け入れてもらう事もできた。
記憶している限り今日初めて、烏族の力があって良かったと思ったのではないだろうか。

それでもなお忌々しく思う気持ちはあるものの、
これからは理多のように烏族の力と向き合っていけるような気がした。
木乃香が居てくれるのなら、きっと大丈夫だろう。
いずれは木乃香以外の大切な人達にも、自ら打ち明けていければ良いなと思った。


「……せっちゃん、守ってくれてありがとう」
「ウチこそ、受け入れてくれて有り難う……このちゃん」


お礼を言い合いながら、お互いがお互いの存在を確かめるように強く抱きしめ合う。
こうして刹那と木乃香はお互いの事を深く知り、二人の絆はより強固なものとなるのだった。

しばらくそのままでいた後、刹那は木乃香から離れて立ち上がった。
いつまでもこうして居たかったが、残念ながらそうもいかない。
湖から漂ってくる嫌な気配は少しずつ強まってきており、
何かに巻き込まれる前にこの場から離れた方が得策だろう。

できる事なら敵の計画を阻止したいところだが、
体力の消耗は激しく、今の状態で向かっても返り討ちに合うのが関の山。
まずは木乃香を助け出す事ができたところで良しとし、ここは一旦引く事にする。
足止めの相手をしてくれている、理多達の安否も気になるところだった。

とりあえず刹那は、木乃香と共に協会へ向かう事にする。
協会の者達は全員石にされて壊滅状態のようだが、だからこそ木乃香に隠れてもらうには丁度良い場所となるだろう。
敵もわざわざ既に落とした拠点を再び攻めるような、無駄でしかない事はしないだろうからだ。

そして協会へ向かうもう一つの目的は、外部への連絡手段の確保。
ネギ達の話によると携帯電話がずっと圏外の状態──おそらく通信妨害の結界か何かが張られているのだろうが、
いくら強力な結界にたいぶ頼っているとはいえ、協会にはそれに対抗する為の道具が用意されている筈。
協会が攻め込まれると想定した時、通信妨害される可能性は非常に高いからである。

木乃香の安全を確保し、外部へ連絡を取って応援を要請。
可能であれば理多達に木乃香の救出に成功した事を伝え、一緒に撤退する。
これから取るべき行動はこんなところだろうかと計画し、刹那は木乃香の手を引いた。

湖に月詠から感じたものとは桁違いの醜悪な気配が突如として出現したのは、その直後の事だった。



[26606] 第3章 17時間目 ヒーロー参上
Name: あかいつき。◆3327a354 ID:742ccd16
Date: 2011/03/21 00:22
時間が経過するごとに、湖との距離が縮まるほどに、思わず顔をしかめてしまうような嫌な気配が色濃くなっていく。
肉体と精神の両方に、まるで見えない重りが圧し掛かっているかのような圧迫感が襲い掛かる。
さらには心なしか夜の闇が深くなってきているような気がし、直人は地獄でも歩いているかのような気分だった。

一体何をどうすれば、こんな人間にとって害にしかならないような醜悪な気配をばら撒けるというのか。
全くもって想像もつかないが、それを完全に成し遂げられてしまえば拙い事だけは判る。
現状からして既に手遅れである可能性は大いにあるが、それでも何かできる事があるかもしれないと足を速めた。

敵と遭遇していない今の内に、見付け次第即全力で叩き潰せるよう準備をしておいた方が良いだろうか。
協会と湖の中間地点辺りを越えた頃、行き当たりばったりの直人にしては慎重な考えを巡らせた時。
割りとすぐ近くから、ドンッと小さくない揺れと木々のざわめきが聞こえてきた。

誰かが戦っているのだと瞬時に察し、立ち止まって数秒ほど思案した後、直人は音のした方へと進路を変える。
いち早く湖へ向かいたいのは山々であるが、味方──最悪理多が戦っているかもしれないというのに、
それを無視する事はできない。もし劣勢であったなら当然助けなければならないし、
できれば協会の動きや理多達がどうしているかを味方に聞いておきたかった。

気配をできる限り消して戦場に近付き、木の陰からこっそりと状況を覗き見る。
どこか気だるげな白髪の少年を敵とするなら、状況は味方の──見覚えのある眼鏡をかけた賢そうな少年が劣勢。
なんて生易しい状態ではなく、今まさに止めを刺されようとしていた。

木にもたれ掛かって尻餅をついている眼鏡の少年を前に、白髪の少年はつまらなそうな表情で詠唱を始めている。
それに対し、力尽きてしまっているのか戦意を喪失してしまっているのか、
眼鏡の少年は反撃する素振りも抵抗する様子も見せようとしない。ただ表情を悔しげに歪め、
血が滲むほど唇を噛みながら白髪の少年を睨み付けていた。

加戦する前に、敵であるらしい白髪の少年の戦い方を観察したり、何やら気を失っている様子の少女を安全な場所へ運ぼう。
妙な胸騒ぎがする為そうして慎重にいきたかったのだが、残念ながらそんな悠長な事をやっていられる状況ではない。
直人は白髪の少年の実力も状況も良く判らないまま、舌打ちをしつつ自身に身体強化を施して戦場へと飛び込んだ。

初めから直人の存在に気が付いていたのか、はたまた感情が表に出難いのか、もしくは単純に驚いていないのか。
どれが正解なのかは判らないが、白髪の少年──フェイトは突然現れた直人に対し、特別驚く様子もなく眼鏡の少年──
ネギの傍から離れた。牽制としてかざした濃い氣を纏う拳にすら無反応で直人は少しカチンときたが、
フェイトを退かせるという目的は達成したので気を静める。

直人は壁になるようにしてネギの前に立ち、フェイトを見据えたまま背後のネギへと意識を向けた。
面識がないからだろう、背中にネギの困惑する視線が突き刺さっているのを感じる。
味方に信用されていないというのは問題がある為、確認ついでに自己紹介をする事にした。


「お前はナギ・スプリングフィールドの息子だな? あー、名前は何つったか……」
「えっ、あの、はい。ネ、ネギです。えっと、あなたは……?」
「俺は雨音直人。雨音理多の兄で、裏の世界の人間だ」


雨音さんのお兄さんでしたか、という呟きと共に、向けられていた視線から棘が消える。
吸血鬼の兄という事で余計に警戒されてしまうかもしれないと少し不安だったが、その心配は無用だったようだ。
世界から悪とされている吸血鬼でありながら、理多の事を悪く思っていないようでホッとする。

ネギとの簡単な自己紹介を終え、直人はネギにこの場から離れて休むよう伝えると、目の前のフェイトに集中した。
念には念を入れ、少しでも戦闘を有利に運べるような情報を得る為に、
視覚を切り替えてフェイトの氣の読み取りを試みる。
そして、ここで初めて直人は、フェイトが"おかしい"事に気が付いたのだった。

直人の瞳に映るのは、怒りアカでも悲しみアオでも殺意クロでもない──虚無ムショク
生き物なら誰もが身に纏っており、また色がある筈の氣。
しかしフェイトの氣には色というものが一切なく、そこから感情を読み取る事ができなかった。

それだけだったなら、熟練の戦士などは意識的に感情を消す事ができる為、珍しくはあるが変ではない。
直人も頑張ればできない事もないし、以前エヴァと模擬戦を行った際には、
エヴァも感情を消して直人を翻弄したりしていた。
おかしいのは、性別や年齢などの隠しようのない情報を読み取れない事だ。


(何なんだコイツは。まさか、人間じゃないのか……?)


幻影か何かではないかと思ったが、それは有り得ないと早々に自ら否定する。
もし幻影であったならそれを作り出す為の魔力、
もしくは氣しか視えず、肉体が視えない事から人間ではないと一目で判るからだ。
ふとした瞬間に目の前から消え去ってしまいそうな存在の希薄さは幻影のようだが、
フェイトは確かに此処に存在している。

そうだ、と幻影よりもフェイトに似ているモノがある事を思い出す。
昔、魔法世界でとある仕事をしている際に戦った、人の形をした作り物──人形。
寂然とした雰囲気や感情の見えない空虚な瞳などが、まるで人形のようだと思った。

人間であると自信をもって言えないほどに得体が知れず、ネギを圧倒していたようだが、実力もいまいち判らない。
そんなフェイトを相手に直人がどう動こうかと考えていると、人形のように黙って佇んでいたフェイトが口を開いた。
その声は、見た目同様静かで無機質な、機械が発した音のようだった。


「……雨音直人。二つ名は確か、"白銀の戦鬼"だったかな?
 ネギ君カレ一人だと"目的"を満足に果たせそうになかったから、君が加戦してくれて助かったよ」
「ハッ、まだ大して広まっていない俺の二つ名を知っているとは。
 もしかしてアンタ、俺のファンか何かか? 男のファンは、謹んでご遠慮したいんだがな」
「僕はフェイト・アーウェルンクス。ファンではないけど、あのジャック・ラカンの一撃を耐えた君に興味はあるかな」


耐えたんじゃなくて生き残っただけだと吐き捨てるように言い、手足を重点的に全身へ氣を纏わせる。
無色である筈の氣は瞬く間に濃度を増していき、闇夜の中白く淡い輝きを放ち始めた。
その様子を、フェイトは邪魔する事なく興味深そうにただ窺っている。

通常なら倍以上かかる量の氣を短時間で集束させ終え、
直人は感覚を確かめるようにしてその場で軽くジャンプを繰り返す。
トン、トン、トン、とリズム良く地を蹴る音だけが辺りに響き渡る、そんな静かな緊張感が空間を包み込む中。
唐突に、何の前触れもなく直人はフェイトへと一瞬で接近すると、容赦なく近付いた勢いを乗せた拳で顔面を殴り飛ばした。

ゴキッという人間が鳴らしてはいけない音を置いて、フェイトはきりもみしながら軽々と吹き飛ぶ。
その光景を明日菜を戦場から離れた場所へと運びつつ見ていたネギは、驚愕と歓喜の入り混じった表情を浮かべた。
どうやっても勝てないと思っていたフェイトに対し、あっさりと一撃を与えた直人が、
昔も今も憧れているヒーローのように思えたのだった。

しかし羨望の眼差しを向けられている直人はというと、浮かない顔をして拳を何度も握りしめていた。
そして何かを確信したかのようにフェイトが飛んでいった方へと視線を向けると、ハッと目を見開いてその場から飛び退いた。
その直後、先程まで直人が立っていた場所に、十数本の"石の射手"が突き刺さった。

妙な手応えがした為警戒していたのが、その判断は正しかったらしい。
直人は地面から突き上げてくる"石の槍"を蹴り砕き、魔力に還っていく射手の向こうに現れたフェイトの頭上へ跳躍。
身を屈めて空中でくるりと前転すると、遠心力と重力を味方に踵落としをした。

だが大振りであったその一撃は難なく避わされ、踵は何もない地面へと振り下ろされる。
すると、巨大な斧でも叩き付けたかのような地響きと土柱が上がった。
そこから窺える威力の高さに、フェイトは誰も気付かないほど微かに目を細める。

地面に埋まった足を引っこ抜き、直人はフェイトが距離を取りながら放った射手を片手で受け流し、砕く。
同時にもう片方の手の平に氣を集束させ、野球ボール台の球体を作り出す。
そしてその球を、いつか見たプロの投球フォームを見よう見真似で行い、フェイト目掛けて力一杯投げつけた。

一直線に飛んでいく小さな氣の塊は、その見た目に反して凄まじい破壊力を秘めている。
膨大な氣を圧縮して作られたこの球は、いわばちょっとした爆弾のようなもの。
障壁を挟む事なく直撃したら最後、腕の一本や二本余裕で消し飛ばしてしまえるのである。

それを一目で理解したフェイトは、小ぶりな見た目に騙される事なく回避行動を取った。
例え必殺の威力を持っているのだとしても、結局のところ当たらなければどうという事はない。
追尾性能のない球はフェイトの張った"石盾"にそのまま直進し、障壁もろ共弾けて消滅した。

舞い上がる粉塵と瞬く閃光に、フェイトと直人の視界が遮られる。
閃光はすぐに収まるも、しかし粉塵は強風でも吹かない限りしばらく晴れる事はないだろう。
故に場所を移さなければ、視界を封じられた手探りの戦いとなる──そう、フェイトは思っていた。

だがその時、フェイトへ向けて直人の手が一直線に伸びた。
まるでこの一帯を漂う粉塵の中、フェイトの姿が見えていたかのように。

実際、直人の目にはハッキリとフェイトの姿が視えていた。
氣を視る事ができる直人には、煙幕など何の意味も成さないのである。
例え感情などの情報が読み取れなくとも、気を纏っている以上直人には姿が視えるのだ。


「──掴まえたぞ、白髪」


フェイトの白い学ランの襟首を掴み、直人はニヤリと口元を吊り上げる。
その表情は、先程直人に対してネギの抱いたヒーロー像を破壊するには十分過ぎるほど、邪悪なものだった。
そんな直人はフェイトの足を払って地面に叩き付けると、再び作った球体の氣を握りしめ、それを直接叩き付けた。

籠ったような鈍い音と共に地面が揺れ、フェイトを中心にして円状にクレーターができあがる。
障壁でも防ぎ切れなかった、肉を抉り骨を砕く強力な一撃。それをゼロ距離から腹部に受け、
フェイトは──"粉々に砕け散った"。

今の一撃は、全身を粉々にしてしまうような類いの攻撃ではない。
それを可能にするだけの威力を持ってはいたが、できても内臓を潰し腹と背をくっ付かせるだけだった。
つまり、この現状が意味する事は──


「幻像か……ッ!」


理解すると同時、直人は両手を付いてカエルの様に真横へと跳ぶ。
直後、上空からクレーター目掛けて"石の射手"が雨の如く降り注いだ。
もう少し動くのが遅ければ、今頃ハチの巣になって地面へ貼り付けにされていただろう。

本来、氣の視える直人に幻影などの身代わりは一切通用しない。
達人のように心の目で判るとかではなく、単純に一目視ただけで偽物だと判ってしまうからだ。
だというのに、おそらく障壁を張った際に入れ替わってのであろうフェイトの幻影に、直人は気付く事ができなかった。

それは、フェイトの感情などが視えないからではなく、フェイトの気配が原因である。
息つく暇もない短い時間では、人形のようなフェイトと幻影の見極めが難しい所為だった。
これでは、氣が視えようが視えまいが何も変わらない。

厄介だなと、直人は不機嫌さを隠す事なく眉をしかめる。
そんな直人に、木の陰から姿を現した本物のフェイトが、ふむ、とアゴに手を当てて言った。


「……なるほど。二つ名を付けられたのは、ジャック・ラカンの件によるものだけではないようだ」
「別に、強いからって理由で付けられた訳でもねぇけどな。
 俺程度の実力の奴にも二つ名が付くような緩い基準なら、世界は今頃二つ名持ちで溢れてる」
「そう、自分を過小評価する事はないと思うけど」
「手ぇ抜いてやがるくせに、余裕で無傷の奴に言われたかねぇよ」


頬をひくつかせて怒りを露わにする直人に、それもそうだね、とフェイトはどこか納得したように呟く。
その次の瞬間、直人の視界から幻のようにフェイトの姿が掻き消えた。
そして反射的に身構えた腕へ穿つような衝撃を受け、直人は防御の姿勢のまま吹き飛ばされる。

フェイトは突き出した拳を引くと、片ひざを付いて着地した直人を見据えた。
その表情は、直人には気の所為か楽しそうに見えた。


「なら、"少し"本気を出そうかな」
「……少し、ね」


痺れる腕を振りながら立ち上がり、直人は苦虫を噛み潰したかのように表情を歪める。
それは、なめられている事に対してと、今のが少しなのかという事に対して。
もしフェイトが見栄を張っていないのなら、今の身体強化を抜いてきた攻撃から察するに、非常に拙い。

再びフェイトの姿が消えるも、二度目の為心構えはできている。
直人は慌てず周囲へ気を配ると、限りなく薄い気配に合わせて拳を突き出す。
その一見何もない空間へ向けられた拳は空を切る事なく、フェイトの拳と真っ向から衝突した。

一瞬の拮抗の後、互いに弾き返された拳に直人はギリッと歯ぎしりをする。
現状フェイトに素早さで負けているとしても、力ではまだ勝っているという自信があった。
しかしその自信は、今の引き分けで呆気なく崩壊する。

それからは直人の防戦一方だった。
フェイトの速さについていく事ができず、気配を頼りに攻撃を弾く事しかできない。
今のところ全て防げているが、このままではいずれ集中力が切れてミスをするのは目に見えていた。

ミスはそのまま自身の、ひいてはネギや明日菜の死に繋がる。
死ぬまではいかなくとも、今の能力差で怪我を負えば結果は同じ事。
せめて、せめて背中を任せられる味方が居れば。

そんな弱気な事を考えていると、心に焦りが生まれ、フェイトの攻撃に対して反応が一歩遅れてしまう。
伸びきっていない半端な位置で合わせた拳は打ち負け、横に弾かれてしまい致命的な隙が生まれる。
そこへフェイトは手をかざし、止めを刺さんとして呪文を呟き、そして──


「──"風花・風障壁"ッ!!」


放たれた"石の槍"から直人を守るように、烈風の障壁が展開された。
突然の事に唖然としてしまうも、直人はこの隙に槍の射線上から退避する。
そして、障壁を張って助けてくれた人物へと声をかけた。


「わりぃ、本気で助かった。でも動いて大丈夫なのか?」
「僕は平気です。それよりも直人さん、僕も一緒に戦います!」


直人の横に並んだネギは、杖を構えながらやる気に満ちた声色で言い放つ。
その瞳は光を失っておらず、直人は横目で様子を窺いつつ素直に感嘆した。
この芳しくない状況に居ながら、まだそんな力強い目をしていられるのかと。

しかしそれは、ネギがキチンと状況を理解していない所為かも知れない。
そう考えた直人は、余計な事かもしれないと躊躇いながらも現状について話す事にした。
その上で、今一度これからの行動について問いかけようと思ったのだ。

もっとも、ネギがどんな選択をしようとも、結果はおそらく変わらないのだが。
奇跡でも起きない限り、既に直人達の運命は決まってしまっている。言うまでもなく、最悪の形で。
それでも直人が戦う事を止めないのは、単なる悪足掻きと、そして意地だった。


「一緒に戦うのは構わない。だが、こんな事は言いたくねぇが……
 俺達は、絶対にフェイトアイツに勝てないぞ」
「……判っている、つもりです」


ネギは杖の握る手に力を込め、直人へ目を向けながら小さく頷いた。
死への恐怖からだろう、ネギの体は微かに震えていたが、直人は気付かない振りをする。
その事を指摘するのは無粋というものだし、何より、震えてはいないものの自分だって怖いのだから。

覚悟ができているのなら良いと、直人はネギの頭をポンと軽く叩く。
それが加戦する事を許可した合図だと察し、ネギは直人からフェイトへと意識を移した。
そしてこれから始まる負ける事が決まっている戦いを思い、無意識の内に固唾を飲んだ。

低くない確率で死ぬかも知れないと判っているというのに、ネギは絶望に打ちひしがれない。
その強さに直人は感心し、絶望的な状況にも拘らず笑みを浮かべる。
そして、悪戯な表情を浮かべながらネギへ言った。


「よっしゃ! どうせ負けるってなら、あのすかした顔に一発かましてから負けようぜ!」
「はいっ……!」



[26606] 第3章 18時間目 窮鼠猫を噛め
Name: あかいつき。◆3327a354 ID:742ccd16
Date: 2011/03/21 00:23
お互いの覚悟を確認し合った後、直人は肩に手を当て、腕を回しながらネギよりも一歩前に出た。
今は何が卑怯だとか言っていられる状況ではなく、何としてでも一致報いる事だけを最優先とする。
ならば相手に勝っている部分、二人であるという利点を最大限に利用しなければ勿体ないだろう。

という事で、詠唱中は無防備になってしまいがちな魔法使いの盾となる"魔法使いの従者"の役割を、
魔法の使えない直人が買って出ようという訳である。直人は身体強化を自分で行える為、"契約執行"に頼らずに済み、
ネギへの負担もないので現状では最良の策と言えよう。ただ、それでも勝ち目がおそらく全くないというのが、
なんとも情けない話ではあるが。

問題は、直人はこれまで基本的に独りで戦ってきた為、上手く役割をこなせるかどうかが自分でも判らないという事。
正直に言ってしまえば、猪突猛進な性格的に誰かに合わせて行動する事は昔から苦手であり、自信がなかったりする。
しかし上手く連携できなければ数分ともたずに敗北する事は目に見えており、自信がないと弱気になってはいられない。


「……相談事は、もう済んだのかな?」
「あぁ、ばっちりだ。泣いて謝るってなら、何もせずに逃がしてやっても良いんだぜ?」
「ご忠告どうも。でも、そのつもりも必要も、"僕の方には"ないかな」


無表情で返されたフェイトの皮肉に、直人はイラッとしながらも心の中で確かになと同意した。
できる事なら、逆にこちらが泣いて謝るから殺さずに見逃がしてほしいものである。
しかしそんな情に訴えるような事をしたところで通用するとはとても思えないので、さっさと行動を起こす事にした。

言葉を交わさずに直人とネギは頷き合うと、お互いに自分ができる事を全力で開始する。
格の違うフェイトを相手に後手に回ってしまえば、いつまで経ってもこちらの攻撃が届く事はないだろう。
そう考え、先手必勝と両手に濃い氣を纏った直人はフェイトへと肉迫した。

盾代わりだからといって手を抜いていないのに、フェイトは直人の攻撃を悠々と見切り弾いていく。
だが直人の役割りはあくまで時間稼ぎであり、攻撃は後方に控えているネギの役割。
故に攻撃を無理に当てる必要も焦る必要もないのだと気にせず、当たらない攻撃を繰り返す。

その間に詠唱を始めていたネギだったが、直人の連打を後ろへ退いて逃れたフェイトに"石の射手"を放たれる。
しかし射手は数十センチと進まぬ内に、直人が投げつけた氣の塊の爆発により相殺された。
続けて放たれた地を駆ける"石の槍"も、直人によって殴り、蹴り砕かれて早々に魔力へ還される。

そして次は何がくると直人が身構えた時、背後から風の揺らぎを感じて準備ができたのだと察し。
ならば下準備だと、脇腹に軽くはない一撃を貰いつつフェイトの手首を掴み取り、ぐるんとその場で一回転。
砲丸投げの如く上空へ投げ飛ばすと、フェイトを指差しネギに向かって叫んだ。


「まずは景気付けに一発、ガツンとぶちかましてやれ!」
「──"雷の暴風"!!」


直人への返事の代わりに、ネギは轟く雷を纏った凶悪な嵐を放つ。
それはまるで全てを薙ぎ倒す力を圧縮し、弾丸として撃ったかのようだった。
宙に居たフェイトはまともに回避行動が取れず、その弾丸に打ち抜かれて飲み込まれてゆく。

 標的に直撃してもなお魔力の奔流は止まらず、雲を裂き雷光を数度瞬かせた後にようやく四散した。
その様子を、余波で飛ばされないよう踏ん張っていた直人が、片手を目元に当てて光りを遮りながら見上げる。
そして魔法は派手だなぁと誰にともなく呟き、魔力を持たない直人は少し羨ましく思うのだった。

それからすぐ、予想していた通りの"悪い"展開になった事で気を引き締める。
圧倒的な風と雷の暴力に対し、直人達の前に着地したフェイトは、何事もなかったかのように全くの無傷だった。
あれだけの攻撃を受けたにも拘らず平然としている様子に、直人は改めて感情のない人形のようだと思う。

直人同様ネギもこうなる事は何となく判っていたとはいえ、それでも自分の最大攻撃を難なく凌がれてしまい気落ちする。
だが直人がフェイトへと再び攻撃を仕掛け始めたのを見て、落ち込んではいられないと両頬を叩いて気を取り直した。
そして考える。今のが効かなかったフェイトに対し、一撃を与えるにはどうすれば良いのかを。

フェイトは身動きを取り辛い宙に居たとはいえ、不意を突かれた訳でもなく真正面から魔法を受けた。
位置的に自分の目で確認する事はできなかったが、多少とはいえ時間もあった事だし、障壁を張って耐えたのだろう。
だったら、とネギは左右に四体ずつ風の精霊を召喚し、木の陰に隠れるように散開させた。

どんなに威力の高い魔法でも、当たらなければ、防がれてしまえば何の意味もない。
相手が並みの相手であったなら、防がれてしまっても力押しで何とかなる可能性はある。
しかし相手は圧倒的なまでに格の違うフェイトだ、生半可な攻撃ではとても通用しないだろう。

ならば、障壁を張られてしまう前に、フェイトの隙を突いて攻撃するまでの事。
その隙を突くのが非常に難しいのだが、今の自分の実力ではそれ以外にできる事はない。
だが自分には直人が居るのだからと、ネギはそう悲観的にならなくとも何とかなる気がしていた。

前後左右上下、全方向から同時に剣や槍を手にした精霊で攻撃する。
それに加え、ネギは当たれば麻痺させる事のできる"雷の射手"を隙間を縫うようにして放った。
しかしそれだけやってもどれか一つでも当たれば御の字だと、端から通用するなどという期待はしていない。

ネギによる、一見逃げ場のない四方八方から圧殺するかのような攻撃。
だがそれに対し、フェイトは微塵も表情を変える事なく手刀で精霊達を一閃。
雷による麻痺を警戒してか、射手は射手による相殺と"石盾"で対処し、魔法の包囲網を突破した。

瞬く間に防ぎ切った手腕は、敵であるネギ達が思わず感嘆してしまうほどに見事。
しかしそれでも隙はできるものであり、直人はそれを執念深く見付け出し逃さない。
直人は障壁を消した直後のフェイトへと駆け寄ると、スライディング気味に懐へ潜り込み。
屈みながら体を捻って片手を地面につくと、フェイトのアゴを穿つように蹴り上げた。

ハラリとフェイトの前髪の何本かが切られ、風に吹かれて何処かへ飛んでいく。
だが上半身を逸らして直撃を回避していたフェイトは、眼下の直人へと目だけを動かして視線を向け。
至近距離から容赦なく魔法を──放とうとした直後、急激に視界が横へ倒れた。

当事者であるフェイトは何が起きたのかすぐに判らなかったが、傍目から見ていたネギには流れが判る。
直人は蹴り上げた足を伸ばしたまま下へ降ろし、両手でぐるんと自身をコマのように回して足払いをしたのだ。
その流れるような連携におぉっと声を上げつつ、フェイトが体制を崩した今がチャンスとネギは駆け出した。

その右手には、暗闇の中一際輝く純白の雷。
直人が何とかして隙を作り出してくれると信じて、事前に準備をしておいたのである。
そして後数歩で攻撃範囲に入るというところでネギは跳躍し、仰向けに倒れているフェイトへ右手を振り下ろした。


「──"白き雷"ィッ!?」


変な声を上げつつも放った事は放ったのだが、百雷が襲うのは何もない地面。
土に流れた雷は儚くも徐々に輝きをなくしていき、最後には弾けるようにして四散した。
白雷が放たれた瞬間、フェイトはネギの右手首を掴んで受け流したのである。

ネギと入れ替わりに立ち上がったフェイトは、右手を空へかざして何かをボソリと呟く。
すると、見上げるほど巨大な黒い石の柱が、倒れるネギの上空に突如出現した。
柱は見るからに重く、人一人程度冗談のようにペシャンコにしてしまえるだろう事が判る。

フェイトが手を振るうのを合図に、柱はゆっくりと降下し出した。
しかしネギは、逃げようにもフェイトに右手首を掴まれている為、その場から逃げる事ができない。
だが何故かネギの顔に恐怖の色はなく、それをフェイトが不思議に思った直後。
柱が、鈍い音を立てて中央から真っ二つにへし折られた。

柱を折った主である直人は柱が相当硬かったのか、着地しながら殴った手を目頭に涙を浮かべつつ振る。
そんな直人にフェイトが気を取られている隙に、ネギはフェイトの手首をぎゅっと掴み返し。
弾かれるようにしてこちらを向いたフェイトに笑いかけると、秘策の呪文を口にした。


「──解放……"魔法の射手・戒めの風矢"!」


詠唱後、すぐに放つ事なく少しの間留めておく事のできる遅延呪文により、無詠唱に近い形で射手を放つ。
そして驚いたように初めて表情を見せたフェイトの体を、リボン状の風がぐるぐる巻きにして地面へ縫い付けるように縛り上げた。
両手も一緒にガッチリと締め付けられており、以前ネギがエヴァに対して使用した捕縛魔法には劣るものの、射手にしては強固な拘束である。

だが、いくら強固であろうとも、ネギはフェイト相手に捕縛魔法が長く通用するとは思っていない。
多く見積もったとしても、拘束時間は精々三十秒いくかいかないか程度だろう。
もし今この瞬間拘束を破られてしまっても、然程不思議に思わないような、そんな桁違いの相手なのだから。

しかしそれでも、"リベンジ"するには十分過ぎるほどの時間は稼ぐ事ができた。
紡ぐ呪文は、先程障壁によって完全に防がれてしまった嵐の魔法。
拘束を解こうと身動ぎしているフェイトへ手をかざすと、ネギは今度こそはと万感の想いを込めて放った。


「──貫け……"雷の暴風"ッ!!」


強力な対魔法障壁も効力が減少される、ゼロ距離射程からの攻撃。
それに加え、万が一にも再び障壁を張られてしまう可能性を、拘束によってなくしている。
いくらフェイトが強かろうと、これだけ防御手段を排除した上で攻撃を受ければ、ただでは済むまい。

突風によって巻き上げられた砂埃の中、ネギの傍らに立った直人は視界を切り替える。
そして吹き飛ばされていったであろうフェイトの姿を探し、遠くの木にもたれ掛かってうずくまるフェイトを発見した。
また幻像なのではないかと不安に思ったが、氣を視る限りフェイトは間違いなく本物のようだ。

その事をネギに伝えると、ネギは無邪気にやったと杖を誇らしげに掲げて笑みを浮かべた。
しかし直人はというと、笑顔どころか眉をしかめ、険しい表情でフェイトが居る方へと視線を向け。
そして突然乾いた笑い声をこぼしたかと思うと、片手で頭を抱えながら嘆くように呟いた。


「おいおい、マジかよ……」
「……え? どうしたんですか、直人さ──」


問いを投げ掛けようとした言葉を切り、ネギは顔色を青くし目を見開いて絶句する。
その視線の先にあるものは、薄れ始めた砂埃による煙幕の中立ち上がる、一つの小さな人影。
何でもないように、ふらつく事もなく、シッカリとした足取りで立ち上がった、フェイトの姿。

しかし、直人とネギが怯えるようにして驚いたのは、フェイトが立ち上がった事に対してではない。
それも要因の一つではあるが、今の一撃で易々と倒されてくれるとは、端から微塵も思っていなかった。
つまり、立ち上がった事に対しては想定の範囲内であり、驚愕の理由は、別にあった。

ネギが今現在使用できる最も威力のある魔法──"雷の暴風"。
その威力は、並みの魔法使いの障壁では正面から防ぐ事が難しいほど。
特に魔力保有量がずば抜けて高いネギのものは、一回りも二回りも威力が増している。

それをフェイトは、障壁も何もなしにゼロ距離射程から直撃し──"無傷"であった。

障壁を張る隙はなかった。
幻影を身代わりにする隙もなかった。
確かにフェイトは生身で受け、そして無傷で居る。

こんな事は通常有り得ない。
がしかし、今その有り得ない事が、現実に目の前で起きてしまっている。
一見何のカラクリもなしに、あまりに非常識過ぎる事が。

魔法を学び常識を知っているからこそ、常識でものを考え、そしてネギは困惑し混乱する。
一方魔法の素養がまるでない直人は、常識でものを考えず、そして非常識な考えに思い至る。
否、非常識でありながらも、決して"不可能ではない"という事を思い出していた。


「……なぁ、眼鏡。魔法使いが常に身に纏っている障壁ってのは、一般的にどれほどの強度を持つんだ?」
「え? えぇと、対魔法障壁は銃弾を防ぎ、
 魔法なら射手を衝撃を受けるだけにする程度かと……えっ、まさか、でもそんな事──」
「そう思う気持ちは判るが、有り得なくはねぇんだよ。
 さっきの魔法よりも強い攻撃が直撃したにも拘らず、服以外無傷だった奴を、俺は一人知っている」


直人の脳裏に浮かぶのは、金髪をなびかせて高笑いを上げる真祖の吸血鬼──エヴァの姿。
以前模擬戦を行った際に、エヴァは対魔法障壁のみで直人の攻撃を耐えて見せたのだ。
これまで障壁を張りながらも誰一人として耐え切る事ができなかった、直人の自慢の攻撃を、である。

故に、対魔法障壁のみで強力な攻撃を耐える事は、絶対に有り得ない事ではない。
しかしそれを実行するには、並大抵の実力では限りなく不可能に近い所業なのである。
英雄とされているネギの父や、真祖の吸血鬼であるエヴァほどの力がない限りは。

この事が意味するのは、直人達にとって夢も希望もない絶望的過ぎる現実。
つまりフェイトは、"この世で五本の指に入る人物達並の実力を有している"という事だ。
二つ名を持っているとはいえまだまだ未熟な直人や、新米の魔法先生であるネギが勝てるような相手ではない。

いや、例え未熟でも新米でもなかったとしても、おそらく勝つ事はできないだろう。
それは直人達だけに拘らず、この世界の者達の殆どにいえる事だ。
ようするに直人達が弱いという訳ではなく、フェイトが桁違いに、次元違いに強過ぎるのである。

自分達では万が一にもフェイトに勝てないという事は、直人達も最初から判っていた。
しかし、それでも死ぬ気になれば一度くらいなら攻撃が届く思い、だからこそ負ける戦いを挑んだ。
だがそれは、思わず笑ってしまいたくなるほどに、途方もない思い違いだった。

勝てないどころの話ではなく、きっとフェイトには、かすり傷一つ負わせる事ができない。
いくら本気を出そうとも、いくら死ぬ気になろうとも、手が届く事は有り得ない。
両者の実力はそれだけの雲泥の差があり、天と地のように、世界が違うのだから。


「──だけど、それでも何もできないまま負けを認める事は……絶対にしたくないです」
「ククク、言うねぇ眼鏡。だが、そうだな。ここで諦めるようじゃ、男じゃねぇよな」


絶体絶命の状況にも拘らず、だからどうしたと言わんばかりに直人はケラケラと笑う。
それに釣られてネギも苦笑を浮かべながら、直人の突き出した拳に自分の拳を合わせた。

そんなネギの表情に悲壮感は感じられず、ただ強がって言っている訳ではないと察し。
直人は珍しく躊躇いを顔に表してネギを見、口にするべきかどうかと口ごもった後。
酷く真剣な、それでいて申し訳なさそうな瞳でネギを見据えると。


「……ネギ、一分だけで良い。独りで時間を稼いでくれないか」


そんな、遠回しな死刑宣告をした。



[26606] 第3章 19時間目 一分間の死闘
Name: あかいつき。◆3327a354 ID:742ccd16
Date: 2011/03/21 00:23
強敵過ぎるほどに強敵であるフェイトを相手取った、たった独りでの時間稼ぎ。
直人がネギにしたその頼みは、"死んでこい"と言っているのと同意と思って良いだろう。
何せ、直人とネギが二人で挑んでようやく倒されずに持ち堪えているようなギリギリの状態なのだから。

直人は自分が口にした頼み事の過酷さを、これまでの戦闘経験と目視した氣からネギ以上に理解している。
本当は自分よりも一回りほども若く、そして実力の劣っているネギに対し、こんな事を頼みたくないというのが本音だった。
しかし、命を賭けるほどのリスクを冒さなければ自分達が望む結果を手にする事は到底叶わないというのもまた、同時に理解していた。

直人ほど正確にではないにしろ、絶望的なまでに自分達の勝ち目がない事は、まだ戦闘経験の薄いネギにも判った。
故にネギは、直人の頼み事に対して考える素振りを微塵も見せず、自分の命が惜しくないかのようにあっさりと頷いた。
無論命が惜しくない訳ではなく、直人に任せれば、何とかして現状を打破してくれるのではないかと、そう思ったのである。

そんなネギの即答と力強い眼差しから、直人はネギが自分に期待して命を預けてくれた事を感じ取った。
だから直人は罪悪感から浮かべていた悲痛な表情を消して、両頬を赤くなるほどに強くパチンと手で叩き。
これから死地へと向かうネギを不安がらせないよう、危機的な状況にそぐわない悪戯な笑顔で言った。


「余力を残そうだとかは考えなくて良い、ひたすら全力で耐え切ってくれ。あぁ、白髪を一発殴る力は残しておけよ?」
「あはは、判りました。僕の全身全霊をかけて──持ち堪えてみせますっ!」


そう言ってネギは気丈な笑みを浮かべて呪文を呟くと、杖を持たない右手を地面に振りかざす。
そしてフェイトが行動を起こすよりも早く魔法を発動させ、自分を中心とした天を貫く竜巻を発生させた。
フェイトと直人の間を遮るように吹き荒れる竜巻は、ネギと直人の姿をフェイトの視界から消し去ってしまう。

"風花旋風風障壁"──術者を中心に数分間中規模の竜巻を発生させる、風の障壁魔法。
ある程度の強度を誇り、不用意に近寄った者を飲み込んで吹き飛ばしてしまう攻防一体の障壁である。
しかしフェイト相手では攻防共に通用するとはとても思えないが、それでも多少の時間稼ぎと目暗ましにはなるだろう。

今の内にと直人へ頷きかけ、ネギは次の魔法の詠唱を始めながら直人が後方へと退避するのを見送る。
案の定すぐに障壁に穴を穿ち"石の射手"が飛び込んでくるが、焦らずに召喚した八体の精霊"剣を執る戦友"で迎撃。
杖を硬く握りしめて今一度覚悟を決めると、精霊と共に竜巻を飛び出してフェイトの元へと向かった。


「──少しでも早く終わらせて、助けに行かねぇとな」


小さくも頼もしい背中を戦闘区域から離れた木陰で見送りながら、直人はさっそく"秘策"の準備をに取り掛かる。
実を言えば、秘密の策とは名ばかりで、フェイトの裏をかき、一泡吹かせる緻密な作戦があるという訳ではなかった。
そういった作戦が考え付くような頭や性格、能力を、直人は持ち合わせていないのである。

そんな直人のできる事は、呆れてしまうほどに単純明快で、一切の裏も表もない──"力技"。
直人の秘策とは、現状の打破を可能とする強力な身体強化を、自分自身へ施す事だった。

我ながら脳筋だなと自分に対して嘲笑しつつ、直人は広げた両手に膨大な氣を集束させる。
本来無色透明である筈の氣が徐々に穢れのない白へと染まっていき、次第に淡い輝きを放ち出した。
その見た目は儚く優しい光だが、見た目とは裏腹に、触れただけで岩を粉砕できるほどの力の塊だ。

その塊を手の平からゆっくりと伸ばすように広げていき、綻びがないよう馴染ませながら腕全体に纏わせていく。
通常の氣による身体強化はこれで完了だが、直人はもう一度先程作ったものと同等の氣を両手に集束させた。
そしてそれをグッと握り潰すと、拳同士をゴツンと力強く胸の前で叩き合わせる。

直後、風に吹かれた炎のように腕を包む氣が静かに揺らぎ、目が眩むほどの純白の輝きが増した。
しかしそれは一瞬の事で、すぐにその輝きが治まったかと思うと、合わせた拳を始点として氣が"実体"を持っていき。
直人の両腕は、月明かりに反射して白銀の光沢を放つ、指先や肘、肩の部分を鋭く伸びる、刺々しい甲冑へと形を変えた。

極度の集中によって気付けば止めていた呼吸を再開し、直人は甲冑に綻びがないか確かめる為両腕を振る。
独り命をかけて戦っているネギの為にも急ぎたいところだが、フェイトを相手にするには万全を期さなければならない。
ネギへ心の中でエールを送りつつ両腕に問題がない事を確認すると、今度は両足へと丁寧に氣を集束させ始めた。


「──ハッ……ハッ……ッ!」


時間稼ぎを任されたネギは今、おそらくこれまで生きてきた人生の中で最も必死になっていた。
何故なら自分がちゃんと役目を果たせなければ、全てが終わってしまうからであり、またそれ即ち死だからである。
ちなみにネギが二番目に必死になったの時とは、トラブルにより中断してしまったエヴァとの決闘の時だ。

フェイトを中心にして森の中を駆け回り、魔力残量を気にせず絶え間なく魔法を浴びせていく。
直人に言われた通り、出し惜しみをせず今この時に魔力も体力も全て使い切る気持ちで。
連続した魔法の行使に風邪を引いた時のように身体が熱を持ち、眩暈や倦怠感に襲われるが、
止まる事は許されないと自身へ鞭を打つ。

しかしそんな捨て身の攻撃も、格の違うフェイトにとっては雨粒に等しいものなのだろう。
精々視界を塞ぐ魔法に対して腕を振るう程度で、これといった防御も回避もする事もなく、対魔力障壁だけで防がれてしまう。
そんな圧倒的過ぎる光景にネギは驚愕と共に恐怖するが、
こちらの攻撃が通用しない事は端から判っていた事だと気を取り直し、引き続き魔法を放った。

フェイトを倒そうとも倒せるとも最初から思っておらず、故に攻撃が通用しようがしまいが関係ない。
例え傷一つ与えられずとも、攻撃を続ける事でフェイトの目を引き付け、時間を稼ぐ事ができればそれで良いのだから。
落ち込む必要も、憤る必要も、焦る必要もなく、ただ直人の準備がいち早く完了する事を願い、ひたすら耐えるだけだ。

瞬く閃光と舞い上がる土煙、弾かれて消失する魔法の破裂音、その中心に佇む無傷のフェイト。
空気を切り裂くようにしてお返しとばかりにネギへ飛来する、無骨な無数の矢、槍、柱の群れ。
フェイトの障壁を易々と貫く魔法の威力もさる事ながら、
こちらの攻撃を軽く上回る魔法の数に、ネギは思わず気圧されてしまう。

それでも歯を食いしばって踏ん張り、回避を優先しつつも攻撃の手を休める事なく立ち向かっていく。
一旦防戦に回ってしまえば、攻撃をし続けなければ、フェイトは無防備な直人へと躊躇いなく魔の手を差し向けるだろう。
そんな、自分達の未来を左右する秘策の準備をしている直人の集中力を削ぐようなマネを、絶対にさせる訳にはいかない。

直人から任された約束の一分まで、一体後どれくらいなのだろうか。
極度の緊張状態から時間の感覚が狂い始めていたネギが、ふとそんな事を考えた時だった。
飛んできた射手への反応が僅かばかりに遅れ、身体への直撃は避けられたものの、愛用の杖が手から弾き飛ばされてしまう。


「くぅッ! 間に、合え……!」


人間の魔法使いにとって杖は必須であり、杖がなければ魔法の行使は叶わない。
しまったと自らの失態を嘆くよりも先に、懐から先端に星の飾りが付いた手の平サイズの小さな杖を取り出す。
見た目は安い玩具のような外見だが、これでも一応魔法の行使を可能とする立派な杖である。

杖を手にすぐさま地面から突き出てきた"石の槍"に対して障壁を張り、追撃として迫る槍の斜線上から退避。
冷や汗を流しつつ再び攻撃に転じようとしたところで、ピシッとひび割れる音が耳に届いた。

嫌な予感を抱きつつ音のした方へと目を向けると、杖の星に走る一筋のヒビ。
おそらく、全力で魔法を行使した際の過負荷が許容範囲を超え、小さな杖は耐え切れなかったのだろう。
たった一度障壁を展開しただけでこれなのだ、攻撃魔法を繰り返し放てばどうなるかは容易に予想が付く。

魔法が使えなければただの子供でしかないネギは、時間稼ぎどころか自分の身を満足に守る事すらもできない。
かといって、飛ばされてしまった杖をノコノコ取りに行かせてくれるほど、フェイトも甘くはないだろう。
正確な時間は判らないが、それでもおそらくは、約束の一分にまだ達していない事は何となく判る。

一体どうすれば、この絶体絶命の状況を凌ぐ事ができるだろうか。
そういつ砕け散るか判らない頼りない杖で障壁を張っていた時、ふと"ある案"を思い付く。
その案とは、昨日小太郎と戦った際に一か八かで使用した、魔力による身体強化だ。

それならば、強化する際に一度魔法を行使するだけで、杖を消耗させずに時間稼ぎを続行できる。
あまり長時間は使えない上に体術などからっきしではあるが、残り時間を耐え切るぐらいなら何とかなるかもしれない。
少なくとも、生身で立ち向かうよりは遥かにマシだろう。

どうせ他に有効な手段などないのだからと杖を懐に戻し、昨日の感覚を思い出しながら身体強化を施す。
まだ一つの魔法として確立できていない為に少々不安定ながら、疲労によって重くなっていた全身に力が満ち始める。
そして頭上から落ちてきた石の柱を避けてそれを足場にすると、強化された脚で一気にフェイトへと迫った。

だがそれも、所詮は何とか形になっているような身体強化であり、付け焼刃でしかない。
そんなものでは格上のフェイト相手に長くはもたず、身体強化をしていないも同然に軽くいなされ。
ネギとは違い魔法だけではなく体術もこなせるらしいフェイトに、完全に翻弄されてしまう。

突き出した拳は虫を払うかの如く片手で受け流され、がら空きとなったネギの胸部へとフェイトのヒジが打ち込まれる。
身体強化を抜いて襲ってくる穿つような衝撃と激痛に、くの字になって吹き飛ばされたネギは思考が真っ白になった。
しかし意識だけは何とか手放さずに耐えると、地面に手を付き蹲るようにして着地し、痛む胸元を抑えながら体勢を立て直す。

耐え難い一撃ではあったものの、打撃である為服越しには一見して目立った外傷はない。
だが今の一撃で骨や内臓をやられたのか、呼吸が上手くできず満足に体が動かせなくなってしまう。
しかし、それでもまだ生きている以上、ここで簡単に諦める訳にはいかない。

どうせ勝てずに死ぬなら、せめて直人の秘策でフェイトに一矢報いたい。
その気持ちが満身創痍のネギを奮い立たせ、そして最後の悪足掻きを無意識の内に実行させた。
ネギの全身から目視できるほどの濃い魔力が噴出し、身体強化の効果が爆発的に上昇する。


「あああああああああああああッ!!」


制御を失った魔力の暴走──"オーバードライブ"。
今のネギの状態を判りやすく説明するなら、"火事場の馬鹿力"を発揮している状態と言ったところだろう。
ネギの持つ魔力量は一般的な魔法使いの平均魔力量の何倍もある為、その馬鹿力はより一層凄まじい。

その馬鹿力で地面を抉りながら跳躍、弾丸のようにフェイトの眼前へと飛び込む。
そしてネギは、持てる残り全ての魔力を、出し惜しみせずにたっぷりと拳に乗せて振りかぶる。
膨大な魔力により大気は乱れ、ゴウッと空気を唸らせながらフェイトの顔面目掛けて振るわれた。

岩石や鋼鉄、魔法使いの障壁でさえも容易に粉砕する渾身の一撃。
しかし、それでもなお、フェイトには届かない。

フェイトは赤子の手を捻るかの如く、あっさりとネギの拳を片手で受け止めた。
ネギの表情が驚愕と絶望に染まり、"オーバードライブ"によって魔力を根こそぎ失った為に身体強化も解けてしまう。
生も根も魔力も何もかも尽きたネギは、拳をフェイトに掴まれたまま、ガクリと力なくヒザを付いた。

項垂れたまま動く素振りのないネギを感情のない瞳で見下ろしながら、フェイトは左手をネギへとかざす。
そしてネギの恐怖を煽るかのように、じわじわと手の平に魔力を集束させて精神的にいたぶった。
しばらくして魔力を集束させ終えると、止めを刺す為の呪文を口にし、今日ここで終わるネギへと最後の声をかける。


「良く頑張った方だと思うけど、君はこれで終わりだよ」
「──いや、まだ終わるにはちょっと早過ぎるな」


しかしフェイトのその言葉は、ネギの耳にした最後の言葉にはならなかった。
フェイトの言葉を否定する笑い混じりの声に、ネギとフェイトが反応するよりも一息早く。
重く鈍い音がネギの目の前で弾けたかと思うと、突如としてフェイトの姿がネギの視界から消し飛んだ。

遅れてきた全速力のトラックが激突したかのような衝撃波に、ネギは思わず両腕を顔の前にかざして身を固める。
目の前に立つ人物の、右腕を振り抜いた格好を見なければ、今の衝撃などがただ殴っただけで発生したものとは思えなかっただろう。
もっとも、それを実際に目で見ているにも拘らず、同じようにそうだと思えていなかったりするのだが。

ネギは突然の出来事に硬直したまま、今の一撃で決着がついたのではないかと思った。
例え障壁を張っていたとしても、そんなものは物ともしない威力がある事は、見ただけでも十分に判る。
もし自分があの一撃を受けていたらと想像すれば、人としての原型を保つ事なくミンチになってしまう姿が明確に思い描けた。

しかしどうやら、あれだけの衝撃波を発生させていたにも拘らず、フェイトを殴った人物は手応えを感じなかったらしい。
右腕を引き戻して何かを確かめるように拳を開閉し、フェイトが吹き飛んでいった方向へ視線を向けていた。
そしてその身に纏う気配は、研ぎ澄まされた警戒心と息が詰まるほどの殺気に満ちている。

だが無事であるらしいフェイトに対する恐怖よりも、今は目の前の人物へ対する疑問にネギの思考は占領されていた。
先程耳にした声からその正体は直人であると判っているというのに、それでも疑問を抱かずにはいられなかったのだ。
人の形をしていながら人には到底見えない容姿をしている、禍々しい姿の彼は何者なのだろうかと。

流線形のフルフェイスから脚部のグリープまで、その全てが白銀の輝きを放つ騎士甲冑。
しかしその神秘的な色合いとは裏腹に、甲冑はどこか甲殻染みており、騎士というよりも騎士に敵対する化物のよう。
その印象を肯定するかの如く、瑠璃色に光る硝子の瞳が覗くフルフェイスの後頭部からは、二本の角が生えていた。
更にフルフェイスの口にあたる部分には、明らかに獣の牙をイメージしたギザギザの模様が刻み込まれている。

見た目だけでは、直人かどうか以前に人であるかどうかすら判らない不気味な外見。
その姿を一言で言い表すとするなら、全身を甲冑に包まれた今の直人は、"鬼"のようだった。


「それが君、"白銀の戦鬼"の本気の姿という訳だ。素直に称賛するよ。
 それほどまで完全に氣を固体化させられる者は、世界で君くらいなものだろう」


"鬼纏キテン"──膨大な氣を擬似的に固体化するほど練り込み、それを身に纏う事で通常の何十倍もの効力を得る身体強化の業。
騎士甲冑の外見が鬼のような形をしているのは、固体化した氣で作り上げる鎧をより完璧する為の形をイメージする際、
直人が思い描いたものが、直人の中で強さの象徴となっている鬼をイメージした為である。
そしてこの"鬼纏"こそが、直人の秘策だった。


「称賛は有り難く受け取っておくが、ただ固体化しただけと思ったら大間違いだぜ?
 その違いを、これから身をもって判らせてやるよ」


当たり前のように無傷の状態で姿を現したフェイトに、直人はゴキリと指の骨を鳴らしながら答えた。
手応えを感じなかった為無傷である事に然程驚きはないが、改めてフェイトのデタラメさを感じ取る。
それでも臆する事なく無言で身構えると、目で離れた場所へ移動するようネギに伝えた。

直人の姿に呆けていたネギは、少し間を置いてからハッとし、若干足を引き摺りながら後ずさる。
そして頑張ってくださいと直人に向かって頷くと、今だ気を失ったまま目を覚まさない明日菜の元へ向かった。
ここから先は直人の役割り、ネギの出番はまだ少し後だ。

ネギの足取りはふらつき今にも倒れそうであったが、心配はなさそうだと横目で様子を窺っていた直人は内心ホッとする。
それから気を取り直してフェイトへと意識を戻すと、その存在にのみ全神経を集中した。
命がけで無茶な役割りを果たし通してくれたネギに負けないよう、自分も役割りを全うしなければと。

ネギのおかげで準備は整ったのだ、もう何も考える必要はない。
後は、ただひたすらに拳を振って振って振い続ければ良いだけ。
自分達の望む結果に辿りつけるかどうかは、根性次第だ。


「俺の持てる力の全てを使って──道を切り開くッ!」


決意を拳に込め、直人は土煙を背に置き去りにしてフェイトへと疾走した。



[26606] 第3章 20時間目 男はど根性
Name: あかいつき。◆3327a354 ID:742ccd16
Date: 2011/03/21 00:23
鋼のような外見に相応しい怪力と、外見に不相応な速度で、鬼と化した直人は一方的にフェイトを攻め立てる。
近距離では丸太の如き豪腕を唸らせ、遠距離では高密度の氣の塊を放つ直人の攻撃一つ一つが、凄まじい威力を持っていた。
戦場となっている森は地が抉れ、木々は圧し折れており、緑豊かであった景観は見るも無残な有様となっている。

相変わらずの無表情でいるフェイトだが、傍から見れば直人の猛攻に防戦を強いられているように見えた。
無表情でいるのは感情が表に出ていないというだけで、反撃をしたくともその隙を突けないでいるのだと。
しかし実際に戦っている直人はもちろんの事、ネギもそうではないという事は判っていた。

そもそも、ただかすっただけで吹き飛ばせる攻撃の連打を、真っ向から防げている時点でおかしいのだ。
しかも防御障壁を張らずに身に纏う魔力障壁のみで、赤子の手を捻るように軽々と受け流し、防いでいるのである。
鬼と少年という外見からすれば、立て場は逆であってしかるべきだというのに。

だが完全にいなされてしまっている直人の目に、動揺や悲観といった負の感情は見られなかった。
ただジッと、何かを探るようにしてフェイトを見据え、通用しない攻撃を繰り返している。
戦いを離れた場所から見守っているネギの方が、余程焦っている様子だった。

見た目竦み上がるほどの攻防の割りに両者とも無傷でいる中、やがて直人の表情が凄惨な笑みに変わる。
そのあまりにも状況にそぐわない表情に、フェイトは辛うじて見て判るくらい僅かに眉をしかめた。
そして攻撃を易々と弾いた後距離を取ると、抱いた疑問をそのまま口にした。


「笑っていられる余裕が君にあるとは思えないのだけど……いや、だからこそなのかな?」
「別に頭がいかれちまった訳じゃねぇよ。ただ、"突破口"を見付けたってだけだ」


そう再び笑みを浮かべながら口にすると、直人はフェイントを交えてフェイトの右肩を狙ってハイキック。
それを右腕の一本で防がれると、今度は体を一回転させて左肩へ回し蹴りを打ち込んだ。
またしても左腕の一本で防がれるも、直人は満足そうに口元を吊り上げてフェイトから距離を取った。

これまでとは違いすぐに退いた直人に対し、ネギは訝しげに、フェイトは何かを察したのか目を細めて視線を向ける。
それを受け、直人は自身の左腕をトントンと拳で叩きながら挑発するかのようにニヤリと笑った。
もっとも鬼のフルフェイスを身に付けている為、その表情をネギ達が見る事はできないのだが。


「なぁ、白髪。お前──その左腕はどうした?」
「……長らく前線を退いているからと、油断した事への報いだよ」


ざまぁ、と嘲笑う直人の後方で、ネギは二人のやり取りの意味が判らず首を傾げる。
しかしすぐに、無敵にも思えるフェイトが、自分達と戦う前からすでに傷を負っていたという事。
そしてそれが理多達を助け、送り出してくれたという詠春によるものだという事を察した。

しかし直人は突破口を見付けたと言ったが、果たして本当にそう成り得るのだろうか。
確かに無傷の状態よりかは隙があるのだろうが、しかし今まで気付く事ができなかったほど腕を動かしていたのだ。
何やら自信有り気であるしネギも直人を信じたいと思っているのだが、どうしても不安が拭えなかった。

そんなネギの視線の先では、直人がフェイトの左腕に狙いを定めて執拗に攻め始めていた。
他の箇所には目もくれず、隙有らば左腕に拳や蹴りを打ち込んでいく。
一見フェイトの表情に変化は見られないが、心なしか鬱陶しげに思っているように感じられた。

直人は正々堂々フェイトと戦い、相手の怪我した箇所を避けて攻撃するなんて事はしない。
これは命懸けの戦いであり、守らなければならないルールがある試合ではないのだ。
臆面もなく言ってしまえば、どんな手を使ってでも最終的に勝てば良いのだから。


(弱点を狙わずに何とかできるような余裕もないし……なッ!)


上空より飛来する射手を最小限の動きで受け流し、一息で距離を詰めて左腕の肩付近に手加減なしの一撃。
フェイトがたたらを踏んでよろけたところにもう一撃、軋むほど硬く握りしめた拳を叩き付けた。
更にメキリと鈍く嫌な音と感触を拳から感じながら、身体を捻って同じ箇所へ回し蹴りを決める。

すると人形のように無表情であったフェイトの表情が目に見えて歪み、大きく飛び退いた。
そしてだらりと力なく垂れる左腕を右手で抑えたフェイトの姿に、直人は悪魔のような笑みを浮かべる。
これではどっちが悪役か判らないと、ネギが密かに引きつった笑みを浮かべていた事に直人は気付かない。


「っ……少々、甘く見ていたようです」


戦いが始まってから初めて、フェイトの口から弱音染みた言葉が吐き出される。
詠春によって負った傷の為に反応が鈍っていたとはいえ、ここまで抵抗される事は予想外だった。
すぐに決着がつかないよう手を抜いていたのだが、しかしそれでも決して侮ってはいなかったのだ。

感覚が途切れ身体にぶら下がる物体と化した左腕を右手で触り、その具合を確かめる。
全く動かせない時点で判りきっていた事ではあるが、骨が粉々に砕かれて完全に破壊されていた。
とはいえ本気を出せば片腕だけでも戦闘の続行は十分可能であるし、それどころか瞬殺すらも可能なのだが──


「僕と"あの人"の目的は果たせましたし、もうこの辺りで十分でしょう」
「目的? あの人? おい、一体どういう事だ……?」


言葉の真意を測りかねて警戒する直人の問い掛けを無視し、フェイトはこの戦闘初の言葉を口にする。
それは自身の内に存在する扉を開け放つ鍵であり、魔力を満ちさせる為の始動キー。
続けて流れるように詠うのは、これまで使ってきたモノ以上の異能を成す為の言霊。

いち早くフェイトがこれからしようとしている事を察知したのは、同じ魔法使いであるネギだった。
一方直人は、自分へ放たれようとしているモノが判らない以上不用意には動けないと、その場に留まっている。
そんな直人に対し、ネギは自身が狙われる事を覚悟した上で、必死の形相で声を張り上げた。


「直人さん避けて下さい! 石化の魔法がきますッ!!」


ネギの警告が耳に届き、その危険性を理解すると同時に後先考えず思いっ切り飛び退く。
それから間を置かずにフェイトの右手が瞬いたかと思うと、灰色の細い光線が射出。
間一髪直撃を避わして安堵した直人の後を追い、剣のように光線が袈裟懸けに薙がれた。

避わし切ったと思っていた直人は、予想外にも追ってきた光線にギョッと目を見開く。
そしてそれが数秒先に胴体へと直撃する事を察すると、空中で腕を振り無理やり身体を捻った。
しかし完全に避わし切るには時間も体勢も無理があり、左腕の上を光線が走り抜けてしまう。

体勢を崩した事によって着地に失敗し、地面を数回転がった後、木の影へと飛び込んで身を隠す。
恐るおそる急激に重くなった左腕へと目を向けると、光線が通過した部分から徐々に石化していっていた。
パキッと時折音を鳴らしながら身体の一部が石へと変わっていく様子は、自身の死を見ているかのようで酷く恐ろしい。


「ぐぅッ……くそッ……!」
「無駄な悪足掻きを。大人しく石になってくれないかな」


石像になるのは御免だとフェイトの言葉には耳を貸さず、直人は必死に石化への抵抗を試みる。
膨大な氣を身に宿している為なのか、魔力が一切なく当然魔法が使えない為、氣による抵抗を実行。
その結果、できるという確証があって行った訳ではなかったのだが、石化の侵食は左腕のみで止める事に成功した。

戦闘中であるにも拘らず、石像にならずに済んだ事に、思わず緊張を解いてホッと胸を撫で下ろす。
そして改めて石となった左腕に目を向け、皮肉にもフェイトと同じ左腕が使用不能となった事に苦笑した。
しかし左腕が使えないというのが同じでも、直人とフェイト、どちらが不利であるかは言うまでもないだろう。

一層不利になってしまった事に頭を抱えていると、ピシリとヒビ割れる音が左腕から聞こえてきた。
石になる事以上に背筋が凍りつく思いで音の発生源を見てみると、石化した左腕に走る一本のヒビ。
それを見て数年振りに泣いてしまいそうになったが、そこでふと、ある可能性に気付く。

再び自分目掛けて走る石化光線を、木陰を飛び出し木々の間を縫うように駆け抜けて回避。
その間、気付いた事が正しいのかどうかを確かめる為に、恐怖心をかなぐり捨てて実験を行ってみた。
それからしばらくし、フェイトからは見えない位置で直人が顔に浮かべたのは、またしても悪い笑みだった。

丁度直人の顔が見える位置にいたネギは、今度こそどうにかなってしまったのではないかと心配になる。
だが不意に自分へと顔を向け、不敵な笑みと自信に燃える瞳を見せる直人を見て、その考えを改めた。
そして直人とフェイトの一騎打ちが終わり、自分も加わった最後の勝負の時がきたのだと理解したのだった。

ネギが表情を引き締めて頷くのを見て、直人は自分の考えが伝わったのだと察する。
おそらくこれから行う事が、泣いても笑ってもフェイトに対して一矢報いる最初で最後のチャンス。
成功しても失敗しても最終的な結果は変わらないが、成功すれば意地を見せ付ける事ができるだろう。

何度か深呼吸を繰り返して緊張を和らげると、直人は覚悟を決めて一直線にフェイトへ向かって駆け出す。
待っていたと言わんばかりに石化光線が放たれるが、それに構わずフェイトとの距離を詰めていった。
光線を避ける事は決して容易ではないが、例え当たってしまったとしても多少であれば問題はない。

直人の捨て身にしか見えない特攻に、ついに諦めたのかとフェイトは光線を止めて右手を握り締める。
そしてその目に若干の失望を滲ませながら、今度こそ完全に止めを刺す為の呪文を口にした。
口の動きから魔法を放とうとしている事に気付いていない筈がないのに、直人が足を止める様子はない。


「これで終わりだ──"石の息吹"!」


直人の眼前、フェイトとの間を遮るようにして灰色の煙が爆発し、視界を埋め尽くす勢いで拡散する。
この煙は光線同様触れれば石化するモノなのだが、直人は止まる気がないのか無謀にもそのまま飛び込んでいった。
それから間もなくして聞こえてきたのは、石化の侵食を知らせる無機質な破裂音と、重い物が落ちる鈍い音。

しばらくして煙が晴れ、フェイトの前に鎮座していたのは、まるで生きているかのように精巧な鬼の石像。
そんなあまりにも呆気ない幕切れに、今度は明らかな失望を目に浮かべてフェイトは石像から視線を逸らした。
ただの置物と化した直人にもう用はなく、次に狙うのは、満身創痍で魔法一つもまともに使えないであろうネギただ一人。

一歩、二歩と踏み出し、物言わぬ石造の横を警戒する事なく素通りする。
そして石像を完全に視界の外へと追い出した時──無視できない物音が背後から届いた。
まさかと思いながら振り返ると、右腕以外人の姿へと戻った直人が、眼前で拳を振り上げていた。

不意を突かれて無防備なフェイトの顔面へ、気を纏った拳が振り下ろされる。
岩をも容易に砕く直人の拳が直撃すれば、どうなってしまうかは想像に難くない。
例え直撃せずとも、思わず目を覆いたくなるような無残な光景が広がる事だろう。


「──なるほど。固体化した厚い鬼の鎧で、石化から身体を守ったのか」


だが実際には、そのどちらの結果にもなる事はなかった。
完璧な不意打ちであるにも拘らず、直人の拳がフェイトに届かなかったのである。
振り下ろされた拳は、フェイトを常時包み込んでいる魔力障壁によって完全に防がれていた。


「でも残念だったね、僕の障壁は君程度に破れはしないよ」


ネギが使える魔法の中で最も威力の高い一撃も、鬼纏を使用した直人の一撃も防ぐフェイトの魔力障壁。
通常、魔法使いが常時纏っている魔力障壁の強度など、多少外部からの衝撃を和らげる程度のモノだ。
だというのにフェイトのそれは、一般の魔法使いの防御魔法と同等──否、それ以上の強度を持っていた。

並大抵の攻撃では、魔力障壁を突き破りフェイト自身へ攻撃を届かせる事はできないだろう。
余程自信があるのか、フェイトは眼前で止まっている直人の拳を、微塵も脅威に思っていないようだった。
実際直人の拳は障壁に傷一つ負わす事なくピタリと止められており、その自信が偽りのモノではない事を証明している。

フェイトの力量と障壁に対する自信からして、おそらくただの一度も破られた事がないであろう鉄壁の魔力障壁。
それは誰が相手であろうと破られる事はないと、フェイトの中では覆される事のない常識となっているのかもしれない。
しかし直人は、その常識を前にしても悲観する事なく、寧ろ立ちはだかる巨大な壁に対して熱い闘志を燃やし──


「嘗めるんじゃ、ねぇえええええええええッ!!」


──その常識を、覆す。

獣のような咆哮を始まりの合図にして、直人は障壁に阻まれた拳に濃厚な氣を渦巻かせながら集束させていく。
残った全ての氣を余す事なく掻き集めて破壊力が増大した拳は、反発によって障壁との間に眩い火花をいくつも弾けさせた。
次第に火花は激しさを増し、やがて鉄壁である筈の障壁に僅かな亀裂が走ったその直後。

歓喜と驚愕、対照的な表情を浮かべる二人の前で──フェイトの障壁が、粉々に砕け散った。

思いもよらなかった障壁の崩壊による肉体と精神への衝撃で、フェイトはたたらを踏んでよろけてしまう。
魔力障壁を失い、体勢も崩している今のフェイトは、これ以上ないほど目に見えて隙だらけになってしまっていた。
しかし直人は力任せに障壁を破ったところで力尽きたようで、そんな絶好のチャンスを活かす事なく地面に膝を付いていた。

その隙に体勢を立て直し、僅かにあった油断を捨てて即座に止めを刺さんと直人へ手をかざす。
初めて自分の魔力障壁を破った直人は、瀕死の状態であるとはいえフェイトに警戒心を抱かせたのだった。
魔力障壁を張り直す事を後回しにし、すぐに止めを刺す事を選ばせるほどに。


「ああああああああぁ──ッ!!」
「なっ……!?」


──その結果、フェイトはいつもなら即座に気付いていたであろう背後から迫る気配に対する反応が遅れる。
掛け声に驚き慌てて振り返った時にはもう遅く、直人に言われて残していた魔力を纏わせたネギの拳が、フェイトの頬を貫いた。
魔力だけではなく、直人とネギ二人分の気合いが込められているその拳は、フェイトをキリモミさせながら吹き飛ばす。


「これが男の、僕達の意地と根性です!」
「思い知ったかこの野郎……ッ!」


地面に背中から叩き付けられたフェイトを指差し、興奮したネギがらしくない啖呵を切った。
直人も無茶がたたって壊れた腕を抱えながら震える足で立ち上がり、嬉々とした様子でネギに続けて言う。
二人共全身傷だらけでボロボロだったが、目標を達成した事によってその表情は清々しさに溢れていた。

その一方で、殴られた頬を抑えながら立ち上がったフェイトは冷えびえとした気迫を放っていた。
表情は一見いつもと変わらない無表情に見えるが、その無機質な瞳には静かな炎が揺らめいている。
それは、フェイトが初めて他人に傷付けられた事によって生まれた、"怒り"という確かな感情だった。


「人形みたいな奴だが、ちゃんと感情はあるようだな」
「……そのようだね。こんな感情が、自分にある事を知らなかったよ」


相手の感情を身に纏う氣の色から読み取る事のできる直人は、フェイトが感情を抱いた事を即座に感じ取った。
判り易く行動に起こす事も表情に出す事もしなかったが、自分達への明確な怒りを抱いているという事を。
今まで人形を相手にしているようだと不気味に思っていた直人は、
ようやく人間味を見せたフェイトに対して驚くよりもホッとしたのだった。

しかしすぐさまこれからの事を考えて気が沈み、そしてあまりのどうしようもなさに失笑してしまう。
そもそも捨て身でフェイトに一矢報いようと決意したのは、絶望的なまでの勝ち目のなさによるもの。
それによって勝率を上げようと思っていた訳ではないのだから、この結末は当然の事である。

高過ぎる目標を何とか達成した対価として、直人達は体力も魔力も完全に底をついてしまった。
元々一ミリたりともなかったが、もうこれで万が一にも億が一にも直人達に未来はないだろう。
直人達が後どれだけ生きていられるかは、勝者であり命を握っているフェイトの気分次第である。

改めて言うまでもなく、直人は妹を残してこんなところで死にたくなどないし、ネギを死なせたくもない。
だから無駄だと判っていながらも、どうせ死ぬのならと意地もプライドも捨てて命乞いをするだけしてみたくなった。
しかしそんな事をしてしまえば先程までの死闘は何だったのかという話であるし、無意味に恥をかくだけなので実行しないが。


「……ここまできて、見逃して欲しいなんて考えてしまう自分が嫌になるな」


男らしくない思考をした事に自分自身へ嘲笑を浮かべ、ボソリと草の音に掻き消されるほど小さく呟く。
するとその呟きを地獄耳で聞き取ったのだろうか、怒りの炎を瞳から消したフェイトはスッと目を細め。
そして何かを確認するかのようにマジマジと直人とネギを交互に見つめると──


「──別に、見逃しても構わないよ」


なんて事ないかのように、あっさりとそんな事を口にしたのだった。


「……は? えっ、それは、もしかしてマジで言ってるのか……?」
「冗談を言ったつもりはないよ。目的は十分果たしたし、それにその方が色々と面白そうだからね」


そう言ってフェイトは意味有り気に赤く腫れた頬に手を当てると、僅かに口元を吊り上げた。
ひょっとしてそれは、好敵手ライバルとして今後に期待しているという意味合いの仕草なのだろうか。
もしそうだとするなら丁重にお断りしたいですと、冷や汗を滝のように流した直人とネギの心の声がシンクロした。

見逃すというのは口から出任せではないようで、フェイトは無警戒にも直人達へ背を向けて歩き出した。
それを見て直人達は緊張を和らげると、要らぬ誤解を招かないよう拳を緩め構えを解く。
すると遠ざかっていたフェイトが不意に振り返り、無表情のまま口を開いた。


「せっかく見逃すんだ、君達が生き残る事を願うよ」


ついさっきまで命がけの戦いを繰り広げていた相手からの、感情が込められていないながらも身を案じる言葉。
そんな思いもしなかった類の言葉を去り際にかけられ、直人とネギは思わず顔を見合わせて困惑する。
そしてそれは一体どういう意味なんだと、直人は嫌な予感を抱きながらフェイトへ問い掛けようとした。

だかそれを行動に起こす直前、絶妙のタイミングで直人の口を噤ませる事態が発生する。
これまで感じていたものとは比較にならないほど凄まじい魔の気配が、湖のある方向から届いたのだ。
その気配は津波の如く辺り一面を一瞬にして飲み込み、心なしか空気や視界が淀んだように思える。

直人達はゾッと肩を震わせながら反射的に身構え、恐るおそる湖の方向へと視線を向けた。
すると湖の上空に、濃厚な魔の気配を見せ付けるかの如く強烈に放つ何かが浮かんでいる事に気付く。
氣が底をつき視力の強化を行えない為その何かを視認する事はできないが、直人はそれが人型のように見えた。

あの不穏すぎる存在の正体は一体何であるのか、お前達は一体何を企んでいるのか。
湖の方向から目を離せずにいるネギに代わって、いち早く気を取り直した直人がフェイトへと問いかけようとした。
だが先程までフェイトが立っていた方へと向き直ってみると、既にフェイトの姿も気配も何処にもなかった。

情けなくもホッとする反面、何かを知っているであろうフェイトを逃した事に舌打ちする。
かといって後を追いかけて問い詰める訳にもいかないし、情報は自力で探るしかないだろう。
そう気持ちを切り替えた時、酷く焦った様子のネギから衝撃の情報がもたらされた。


「た、大変ですっ! 刹那さんと木乃香さんが湖の近くに居るんです!! きっと理多さん達も……!」
「……何か知っているようだな。俺が居ない間に何があったのか、手短に話してくれ」


ネギは協会が壊滅した事や、自分達が攫われた木乃香を追っている事を直人へ説明した。
それを真剣な面持ちで黙って聞いていた直人は、予想を遥かに上回る最悪の事態に頭を抱える。
まるで一難去ってまた一難なんて可愛い状態ではなく、百難去って千難やってきたような状態だった。

湖に突如出現した十中八九敵であろう禍々しい気配は、フェイトに決して引けを取らない気迫を放っている。
それに対して数少ない主戦力である直人とネギは、今の戦いで立っているのがやっとの状態。
足止めされている理多達も体力の消耗は避けられないだろうし、まともな戦いになるとは到底思えない。

何らかの妨害によって携帯電話が使えなくなっている、外へ応援を要請する事は叶わない現状。
ひとまず今動けるであろう直人達五人で、他の生存者を捜しつつ早々に退却するのが上策だろう。
もはやこの状況は、まだまだ未熟な戦士や魔法使い数名でどうにかできるレベルではないのだから。

まず雑魚にも簡単に捻り潰されてしまうであろう自分達は、気絶している明日菜を担いで避難しよう。
そう考え早速行動を開始しようとしたその時、湖近くの森から漆黒の空へと一対の白い翼が躍り出る。
そしてその翼の持ち主は、一直線に禍々しい気配へと向かって行った。

翼の持ち主に心当たりのないネギは、退魔師が多く在籍している協会に烏族が居たのかと心底驚いている。
一方で直人はその人物の顔を視認する事ができなくとも、それが刹那である事を見抜いていた。
氣を視る事ができる直人は、以前一目見た時から気付いていたのだ、刹那が人間ではなく半妖であると。

極秘である筈の姿を人の目が届く場所で晒している事に直人は驚き、そしてそれ以上に焦った。
烏族の力を解放した刹那は、並み外れた身体能力と剣術から並大抵の者では敵わないほど強い。
だがそれでも、あの禍々しい気配の持ち主には到底敵わないだろうからだ。

刹那は戦闘のプロだ、己の力を過信して相手との実力差に気付いていない訳がない。
だというのに立ち向かっていったという事は、おそらくそうせざるを得ない状況にあるという事。
ネギから聞いた事から察するに、刹那の護衛対象である木乃香を守る為にといったところなのだろう。

禍々しい気配の持ち主が誰なのかは判らないが、刹那に対して容赦するとは残念ながら思えない。
瀕死の自分達ができる事など殆んどないだろうが、それでもそんな刹那を見捨てて逃げる訳にはいかなかった。
去り際にフェイトが残した言葉の意味はこれを見越しての事かと、直人は姿を消したフェイトに悪態をついた。

ネギは生徒である刹那達や理多を助けようと、杖を手に湖へ向けて歩き出そうとしている。
その責任感と根性は見上げたところだが、何も考えずに向かっても瞬殺されるのがオチだ。
何とかして全員で生き残る為に、絶体絶命なこの現状を打破できる方法はないだろうか。

考える事があまり得意ではない直人が、必死になって頭を捻っていた時。
"とある人物"の存在と、結界に閉じ込められる前に知った"ある事"を思い出した。


「────そうだ、エヴァだ。エヴァが居る……!」


絶望の中で見出した一筋の希望は、魔力を封じられた真祖の吸血鬼──エヴァンジェリン。
押し付けるようで気は進まないが、彼女なら、この状況を一変させる事ができるかもしれない。
だがその為には、直人の持っているモノがエヴァにどうしても必要だった。

それをエヴァへと届ける為、直人は歩き出そうと全身の痛みを堪えて一歩踏み出した。
しかしその身体はそれ以上前に進む事はなく、うぉっと声を漏らして尻餅をついてしまう。
どうやら直人は自分自身で思っていた以上に、満身創痍であったようだ。

直人は走る事など論外であり、歩くどころか立ち上がる事すらもままならない。
だがネギは直人と同じくボロボロでありながらも、辛うじて立って歩けるようだ。
危険な事を頼むのは心苦しいが、我が侭も言っていられないので直人はネギに頼む事にした。


「……ネギ、悪いがもう一度だけ、無茶な頼みを聞いてくれないか?」


真剣な表情の直人に、ネギは表情を不安で曇らせながらも頷いた。
自分に何かできる事があるのならば、生徒達の為に何でもやりたかったのである。
その返事に対して直人は嬉しそうに、それでいて申し訳なさそうにしながら口を開いた。


「俺達全員で生きて帰る為に、エヴァへ伝えてもらいたい事がある」


そうして直人は、命運を握る情報カギをネギに伝えたのだった。



[26606] 第3章 21時間目 甦る月夜の王
Name: あかいつき。◆3327a354 ID:742ccd16
Date: 2011/03/21 00:23
木乃香を拐った者のモノであろう禍々しい気配が、湖の上空で急激に膨張し、そして音もなく爆発する。
湖が木々の間から覗けるくらいの距離に居た刹那達は、この場から撤退しようと動かしていた足を揃って止めた。
限界まで膨れ上がった、図り切れないほどに強大な気配を至近距離から全身に受け、足が竦んでしまったのである。

刹那はそんな中、抑え切れない震えに歯を食いしばりながら、浴びる気配に少し前の事を思い出していた。
新学期が始まる前の春休み中、当時は敵だと思って戦った理多が、追い詰められて"満月の瞳"を開眼させた時の事である。
その時の理多が発していた、畏怖を抱かずにはいられない重圧で濃い闇の気配が、湖から届く気配と非常に良く似ているのだ。

敵が木乃香の持つ膨大な魔力を利用し、何か途轍もなく良からぬ事を企んでいる事は誰の目にも明らかだった。
しかし、そんな刹那達の予想を悪い意味で遥かに上回る最悪の事態を、どうやら敵は引き起こしてしまったらしい。
"満月の瞳"と対峙する事と同じ、もしくはそれ以上の事態など想像すらもしたくもなくて、刹那は目を逸らすように思考を停止した。

とにかく、万が一戦闘が始まってしまっても木乃香に危害が加わらないよう、可能な限り遠くへ離れなければ。
刹那は使命感を燃やす事で気持ちを奮い立たせ、木乃香を所謂お姫様抱っこをして地面を蹴り、低空で飛び立つ。
こんな事を仕えている木乃香を相手にするのは申し訳なさや抵抗があったが、今はそんな事を言っている場合ではない。

だがほんの少しだけ進んだ辺りで、気の所為では済ませられない強い悪寒を感じ、首だけで振り返って背後に視線を向けた。
その結果、図らずも目が合ってしまう。空中に浮かび上がり右手を天に掲げている、木乃香をさらった着物の女性──千草と。
そして手の平で大きさを増していく、一般的な魔法使い三人分はあるであろう、球状に渦巻く闇色の魔力に気が付いた。


「──くッ!」


刹那が思考を挟まず咄嗟に、形振り構わず地面を蹴って横に跳んだ瞬間千草から放たれる、魔力の塊。
それは人間の一人や二人余裕を持って丸々飲み込める太さを持つ光線となって、刹那達の横を通り過ぎていった。
射線上にある木々や地面の全てを、触れた瞬間容赦なく抉るようにして蒸発、消滅させながら。

火の粉のように光の粒子を散らし、徐々に大きさを縮めて後方へと消えていく光線を見て、刹那は冷や汗を流して絶句した。
何故なら凄まじい威力を見せ付けた今の光線が、ただ単純に魔力を集束して放っただけのモノだと判っているからである。
もし今の光線に攻撃の指向を──例えば砲撃の魔法として放った際の威力や被害は、あまり考えたくなかった。

明らかに狙って放たれた光線からして、千草は戦意の有無に関わらず、刹那達を生かして逃がす気はないようだ。
だが大き過ぎるが故に魔力を扱いきれていないのか、取るに足らないと舐めているのかは判らないが、魔法を放つ気配はない。
とはいえ、再び手の平に集束させ始めた魔力の量を見れば、魔法でなければ何とかなるなどと楽観的にはなれないだろう。

向けられた手の平から放たれる魔力の塊を、今度は幾分か余裕を持って避わした後、刹那はある決意する。
そして傍から離れる事に抵抗を抱きながらも木乃香に一人隠れるよう伝え、三度魔力を集束させている千草へと飛んだ。
途轍もなく嫌な気配はするものの、千草の動きはどこかぎこちなくて鈍く、退けるチャンスはあるのではないかと思ったのである。


「やぁあああああーッ!」


白い翼を羽ばたかせて千草の懐へ飛び込み、気合いのこもった掛け声と共に雷を纏った刀を振るう。
瞬時に接近した刹那への反応が遅れた千草は、魔力を集束させていた所為で隙があり、防ぐ素振りも見せずに直撃した。
パッと夜空に青白い雷の閃光が爆ぜ、確かな手応えを感じた刹那は、距離を取り緊張を保ちながらも満足げに微笑んだ。

今の刹那は、烏族バケモノである事を木乃香に受け入れられ、封じていた力の全てを惜しみなく解放している。
筋力や瞬発力、先程放った"雷鳴剣"の威力などはいつもの何倍にも増しており、直撃したとなればただでは済まない。
それは"満月の瞳"を持つ吸血鬼と良く似た気配を纏う千草であっても例外ではないと、刹那は自らの力を過信する訳ではなくそう思っていた。

事実、力を解放した刹那の"雷鳴剣"が直撃して耐え切れる者など、例え相当の手練れであっても不可能だろう。
中級程度の実力者であらば、一撃で障壁の上から消し炭にされていても何らおかしくはない威力があるのだから。
刹那という存在が人間であるか化物であるかはさて置き、その力は否定しようがないほどに化物的だった。

──ならば、刹那の前に佇んでいる無傷の千草は、一体なんだというのか。


「ふふ、素晴らしい……なんて素晴らしいんだ、この身体はッ!」


障壁を挟む事なく直撃していたにも拘らず、千草の身体にはかすり傷一つ刻まれていなかった。
痛覚がないのか痛がっている様子もまるでなく、驚愕している刹那を無視して自身が無事である事に狂喜している。
唯一目に見える被害は、千草が正体を隠す為に被っていた"身包み"が剥がされているだけだった。

自信のあった攻撃で一切の傷を負わす事の出来なかった刹那だが、しかしその事に対しての落胆はない。
全くしていないと言ったら嘘になるが、千草の姿が──性別すらも変わっている事への驚きの方が強かったのだ。
そして当然無傷で済んでいるデタラメさにも驚いており、まともな答えが返ってくる事を期待せず、両方の疑問をまとめて尋ねた。


「……貴様、一体何者だ」


全身から溢れ出る敵意を隠す事なく刀を突き付けてくる刹那に、千草の姿をしていたスーツの男は不敵に笑う。
その余裕を感じさせる態度に刹那は気迫を強めて睨み付けるが、それを物ともせず、男はなおも笑みを浮かべ続けた後。
欠けた月を背後に大きく両手を広げ、まるで世界中に知らしめるかのように、歓喜に声を打ち震わせながら言い放った。


「私の名前は日野一樹。今宵、この世に誕生した、真祖の吸血鬼さッ!!」


 ◆ ◆ ◆ ◆ ◆


千草に敵の足止め役である黒鬼の相手を任せた理多とエヴァは、木乃香が連れさらわれた湖を目指して走っていた。
その間、目的地から届いてくる魔の気配の膨張は留まるところを知らず、時間の経過と共に段々と色濃く強くなってきている。
それにつれて、より正確に気配を感じ取れるようになった理多達は、とある確信をそれぞれ抱いていた。

何の確信かというと、抑えようという素振りを微塵も見せずに気配を撒き散らしている者の正体──種族についてである。
通常は余程鼻が利かない限り気配のみで種族を特定する事は難しいのだが、今回に限っては判らない方が難しいだろう。
何故ならその者の放つ気配は、理多達吸血鬼のモノにとても良く似た、同じと言っても過言ではないモノだったからだ。

湖に居ると思われる木乃香をさらった者の種族は、間違いなく、夜の支配者の異名を持つ吸血鬼だろう。
しかし、ただの吸血鬼にここまで濃い気配を放つ事は不可能である為、吸血鬼は吸血鬼でもそれを超えた存在である。
つまり、この先待ち受けているのは、最強の力を持ち、不老不死の存在である──真祖の吸血鬼に他ならない。

エヴァは真祖の気配を感じ取った事によって、木乃香をさらった者の目的をようやく理解した。
小太郎達に足止めをさせて時間を稼ぎ、一般的な魔法使いの何倍もある木乃香の膨大な魔力を利用。
そしてどういった経緯からか手に入れた秘術を使い、真祖の吸血鬼になるつもりだったのだという事を。

それは同時に、真祖になった者と理多を吸血鬼にした者が、同一である可能性が非常に高いという事を示している。
だがその事に対してエヴァも、推測を聞いた理多も色々と思う事はあったが、顔をしかめただけで深く考える事はしなかった。
今はあれこれ考えたり憤ったりする余裕が、それらを"そんな事よりも"と切り捨てしまえるほどに、全くもってなかったのである。

何故なら真祖という者は、例え世界一の実力を持っていたとしても、決して相手にしてはいけない存在だからだ。
自身が真祖であるエヴァはもちろん、真祖を相手に実践練習した事のある理多は、その事を誰よりも良く判っている。
なのにそんな相手の元へ自ら飛び込もうとしているのだから、それ以外の事に意識を向ける余裕などある筈がなかった。

今すぐ踵を返して逃げる事が正しい選択なのは、言われるまでもなく理多もエヴァも判っている。
しかしだからといってネギ達を置いて行く訳にはいかないと、並んで走る理多達は頷き合って足を速めた。
真祖に見付かり絶対に勝てない戦いが始まってしまう前に、全員と合流して逃げられる事を願いながら。

そんな時、真祖の気配が跳ね上がるように増したかと思うと、限界に達したのか気配の膨張がピタリと治まった。
そして今度は気配に対抗するかの如く急激に魔力が増し始め、理多はその事に対し、何か言い知れない悪寒を覚える。
その感覚を信じる事にした理多は、エヴァを引き止めて身構え──直後、そう遠くはない距離を、巨大な光線が駆け抜けていった。

木々を飲み込みながら後方へと消えていく、ただ魔力を集束させただけの光線が持つ圧倒的威力に、理多達は恐怖を抱く。
先程の光線ならまだ何とかできそうだったが、それに攻撃の指向を持たせて放たれたモノを防ぐ自信は、正直理多にはなかった。
十分な障壁を張るだけの魔力を持たず、魔力の封印で人間と変わらない身体になっているエヴァなど、今の光線の時点でひとたまりもないだろう。


「チッ、誰かが目を付けられてしまったようだな。これで撤退が難しくなったぞ」
「で、でも、みんなで力を合わせれば逃げられる可能性も──ッ!!」


ハッとして途中で言葉を打ち切った理多は、エヴァの手を取ると飛び込むようにして真横へ跳んだ。
同時に先程まで自分達の立っていた方へと空いた手を向け、"心言詠唱"で即座に"光子・光障壁"を展開する。
それから間を置かず、障壁を一枚挟んだ向こう側を光線が通過し、理多達は障壁ごと衝撃によって吹き飛ばされた。

流れ弾にしては狙ったかのような一撃であった為、理多達はすぐに体勢を立て直して追撃に備えた。
しかし見上げた視界に入ったあるモノによって、今のが偶然によるものであったらしい事が判明する。
真祖の気配を纏う者目掛け、遠目からでも目立つ白い翼を羽ばたかせて飛翔する者が見えたのだ。

理多はそれを目撃し、常識的な思考を持って巨大な白い鳥が無謀にも突っ込んで行ったものだと考えた。
一方でエヴァは、それが鳥などではない事をすぐに理解し、そして真祖に目を付けられた者の名前を焦った様子で口にした。
人前で烏族の力を解放している事に対する驚きと、真祖と戦う選択をした事に対する怒りを声に滲ませながら。


「クソッ、無謀にもほどがあるぞ……桜咲刹那!」
「え? あの飛んでるのって、桜咲さんなんですか!?」


おそらく、一緒に居るであろう木乃香に被害が及ばないようにする為、注意を引き付けようとしているのだろう。
それは理解できるのだが、例え烏族の力を解放しているとはいえ、真祖を相手にするのは無謀でしかないのである。
真祖であると判っていないが故の行動なのかもしれないが、まだ全力を持って撤退を試みた方が、生存時間が長くなるというものだ。

刹那が戦っていると知った二人は、潜んでいるかもしれない敵への警戒を怠らず、可能な限り急いで戦場へと向かう。
その途中、何度か刹那を狙った流れ弾が飛んできていたのだが、どうやら真祖は徐々に魔力の扱いに慣れ始めたらしい。
初めの頃の光線に比べ、威力は変わっていないにも拘らず、込められている魔力の量が減ってきていたのである。

最初から戦わずに戦意喪失させるほどの力を見せ付けていたというのに、慣れによってますます凶悪さを増していく真祖。
その認めたくない絶望的過ぎる事実を前に、エヴァが思わず笑い出してしまいそうになっていると、理多が唐突に立ち止まった。
真祖の居る湖の畔が間近に迫り、怖気付いたのだろうかと思っていると、湖の方から弧を描いて何かが飛んできている事に気付く。

真祖の攻撃かと思いエヴァはビクリと身体を強張らせたが、飛んできた何かの正体は、白い翼を血で汚した刹那だった。
その一方で、理多は飛んでくる何かが刹那であるとすぐに判っており、準備していた為衝撃で後退しながらも見事に刹那を抱き止める。
そして刹那の意識があり一応は無事である事を確認すると、隠し切れない怯えを瞳に映しながら湖の上空へと視線を向けた。

エヴァも理多の視線を追って目を凝らしてみると、夜空に悠然と浮かび上がり、淡い月明かりに照らされた一つの人影を見付ける。
そしてその人影が纏う、同じ吸血鬼でありながらも今の自分達とは比較にならないほど禍々しい、闇の気配を見て瞬時に理解した。
あの人影──スーツに身を包んだ男が、理多達を非日常へ引き摺り落とし、秘術によって現代に誕生した真祖の吸血鬼であると。


「──ッ……」


被害者である理多は当然の事、理多を慕うエヴァも、真祖──日野一樹に対する計り知れないほどの怒りを抱いている。
しかし今この状況においては、その感情を丸々塗り潰してしまうくらいに激しい動揺と戦慄に、心を支配されてしまっていた。
予想以上に早く真祖と対峙してしまった為、撤退する為の策も、心の準備も、全くと言って良いほど不十分だったのである。

何処からか駆け寄ってきた木乃香に刹那を預けると、理多はエヴァ達を庇うようにして一歩前へ出た。
真祖に対して何が出来るとも思えないが、此処には自分の他に戦える者が居ないのだからと気持ちを奮い立たせて。
潔く殺されるつもりも殺させるつもりもない以上、例え結果が判り切っていようとも、立ち向かわない訳にはいかないと。

自分の後ろに居るエヴァ達を守る盾になろうと、決死の覚悟で一樹を見据えて理多は身構える。
それに対し、一樹は理多からの敵意や警戒心に気付いていないかのように無防備なまま、互いの表情を覗える距離まで近付き。
思わぬところで友人に会ったかのように理多達を見て目を丸くすると、嬉しそうに笑みを浮かべた。


「良く知っている顔がありますね。丁度良かった。会いたいと思っていたんですよ、君に」


敵対しているとは思えないような、非常に交友的な一樹の物言いに、言葉をかけられた理多は戸惑う。
それは後ろに居るエヴァ達も同様で、一樹の状況にそぐわない異様な態度に、不信感と嫌悪感を露わにしていた。
しかし一樹は、やはりそれらに気付いた様子もなく理多に微笑みかけると、手本のように丁寧な会釈をした。


実験体キミ達のお陰で秘術が完成し、念願の真祖になる事ができました。協力に感謝します」
「ッ……! 大勢の人に迷惑をかけて手に入れたその力で、貴方は、一体何をするつもりなんですか!」


被害者への悪気など一切感じていない事が判る態度に、理多は頭に血が上るのを感じながら怒鳴るように問いかける。
もちろんそれで納得できるような返答を得られるとは微塵も思っておらず、またこの場で企みを止められるとも思っていない。
それでも知らない間に、無理矢理という形であれ、少なからず協力してしまっている事であった為、聞かずにはいられなかった。


「……初めは、東の奴らへの復讐……だったんですけどね。今はもう、そんな事はどうでもいいと思っています」


そう言って麻帆良学園のある方角へと目を向けた後、一樹は口元を吊り上げて首を横に振った。
その様子は心から関心がなさそうで、そんな目的を持っていた過去の自分に対し呆れているように見える。
理多達が本当に復讐を目的にしていたのだろうかと、思わず疑ってしまうほどに熱のない態度だった。

訝しがる表情から理多達の考えを読んだのか、一樹は苦笑しながら右手を広げる。
そして大魔法を使用する際に必要な量に匹敵する魔力を、瞬く間に手の平へ集束させた。
しかしその魔力で何をする訳でもなく握り潰して四散させると、身構えていた理多達へと言った。


「別に、不思議がる事ないでしょう?
 真祖の力を持ってすれば、東の奴らへの復讐などもはや些事に過ぎないのですから」


どうして一樹が関東魔法協会に対して復讐心を抱いているのかを、理多と木乃香の二人は判らない。
だがエヴァと刹那は、それが昔にあった関東と関西の戦争に関係のある事なのだろうと経験から察した。
そして同時に、目標としている復讐を些事と言い切ってしまう事に、言い知れない違和感を抱いていた。

一樹が相当な苦労をして真祖の秘術を復活させた事は、エヴァ達にも容易に想像できる。
そして、それだけの行動を起こせてしまう復讐心が、決して弱いものである筈がないという事も。
にも拘らず、復讐を楽に果たせるようになったからその意欲をなくした、というのはどうも納得できなかった。

おそらく一樹は、最強と言っても過言ではない真祖の力を得て、それに溺れてしまったのだろう。
力に心を支配されて暴力を撒き散らし、自滅していく者達を少なからず見てきたエヴァと刹那はそう推測した。
擁護する訳ではなく、真祖の力というのは本当に凄まじいものである為、無理もない事かも知れないとも思いつつ。


「──まぁ、今後どうするのかは後で考えます。不老不死シンソになった今、時間などいくらでもありますしね」


そう言って一樹は理多達を見回すと、腕を組んで何やら楽し気に考え始めた。
一見して表情から読み取る事はできず、読唇術も習得してない為その内容は判らない。
だが自分達にとって間違いなく良い内容ではないだろう事は、理多達にも何となく予想できた。

大方、目の前の取るに足らない存在をどう処理しようか、などと考えているのだろう。
見逃すか見逃さないか、ひと思いに殺すか痛めつけて殺すか、駒として利用するかしないか等々。
半ば諦めにも似た感情を抱きながらどれになるのかと唇を噛む理多達に、一樹は予想通りの言葉を呟いた。


「さて、君達についてです。このまま見逃しても、私としては一向に構わないんですが──」


思わせぶりに言葉を切った一樹は、何をするつもりかが言わずとも判る凄惨な笑みを浮かべた。
それから理多達へ向けて右手をかざすと、焦らすように、ゆっくりと大量の魔力を集束し始める。
そして、最後まで予想を裏切らない、くると判り切っていた死刑宣告を口にしたのだった。


「せっかくです。真祖の力に慣れる為の肩慣らしに、付き合ってもらえませんか?」



[26606] 第3章 22時間目 悽絶な真祖の力
Name: あかいつき。◆3327a354 ID:742ccd16
Date: 2011/03/21 00:24
一樹は今にもこちらへ牙を立てようとしており、先の事をアレコレ考える暇はなさそうだった。
理多は向けられた圧倒的な魔力量に気圧されながらも、みんなを守る為の行動を急いで開始する。
まともに戦えるのは、多少疲労しているだけで特に負傷はしていない、自分だけなのだからと気持ちを奮い立たせて。

歌うように詠唱を口ずさみ、同時に可能な限り早く、それでいて丁寧に魔力を集束させる。
一樹よりも先に準備を終え、魔力の集束を妨害できなければ、その時点で壊滅しかねない。
妨害するだけではこの危機的状況に対する何の解決にもならないが、それでも僅かなりとも時間は稼げる。

しかし、少しだけとはいえ後手に回ってしまったツケは大きかったようだ。
先に準備を終えた一樹が、一人抵抗を試みようとしている理多を見下ろしてほくそ笑む。
それに対し、例え完全に防げなくともやらないよりはマシだろうと、理多が障壁を張ろうとした時だった。

背後でバサリと羽ばたく音が聞こえたかと思うと、頭上を白い何かが飛び越えて行く。
その何かは全身に傷を作り、白い羽を血の赤色で汚す、烏族の力を解放した刹那だった。
刹那は刀に氣を纏わせて一樹に肉薄すると、一閃、魔力を集束させている腕を斬り付ける。

普通なら致命傷足りえる大きな傷を負ったとしても、不死身の真祖はすぐに再生してしまう。
とはいえ、皮一枚で辛うじて繋がっているような状態にさせられれば、ダメージにならずとも意味はあったようだ。
刹那の一太刀をもろに受けた一樹は、痛みによってかはたまた驚きでか、集束させていた魔力を放つ事なく四散させた。


「雨音さん! 私が前衛を請け負いますので、魔法による援護をお願いします!」


ひとまずの危機を脱した事に安堵していた理多に、一樹を見据えながら刹那が声をかける。
その一声にハッとして気を引き締めた理多は、精一杯頑張りますと返事をして再び詠唱を開始した。
さつきとの戦いの時のように、傷付ける事を躊躇って相方に迷惑をかけないようにと心に誓いながら。

一方、真祖を相手にする力のないエヴァは、同じ立場の木乃香を連れて撤退を試みようとしていた。
理多達を置いて行くというのは気が進まなかったが、この場に残っていても足手纏いにしかならないのは明らか。
木乃香と一緒に撤退する事が理多達への最大の手助けになるのだと、悔しい気持ちを抑え付けて行動を開始する。

理多達による風を斬る音と閃光が上空で瞬くのをしり目に、エヴァは木乃香の元へと駆け寄った。
無理もない事ではあるが、一般人である木乃香は戦場の雰囲気に、完全に飲まれて固まってしまっている。
エヴァは木乃香の肩を些か乱暴に揺さぶって気を取り戻させると、戸惑う気配を無視して手を取り走り出した。

一樹の目的が肩慣らしだと言うのなら、的代わりにすらならないような自分達に用はないだろう。
応援を呼ばれる可能性を気にする必要も、世界すら敵に回せる強大な力を手にした今、ある筈がない。
だから何事もなく撤退する事ができ、それから応援を呼ぶなり自分達にできる事を探せるものだと、そう思っていた。


「──エヴァンジェリンさん、避けてっ!!」
「なっ!? くそ!」


だがその考えを覆し、理多の悲鳴のような声が聞こえてきた直後、すぐ横を光線が着弾した。
地面が爆ぜ、土砂や粉塵と共に爆風によって吹き飛ばされたエヴァ達は、地面を転がって蹲る。
直撃こそしなかったものの、不意打ちであった為に受身を取れず、全身を鈍痛が襲い掛かった。

エヴァは痛みに顔をしかめて起き上り、隣に居る木乃香の無事を確認しながら何故と思う。
真祖の力を手にしたとはいえ、応援を呼ばれたりする事に対して以前の感覚で警戒したのだろうか。
そう有り得そうな理由を思い浮かべたエヴァに、一樹は心を読んだかのように疑問に答えを口にした。


「いえ、守るべき者が傍に居た方が、力を出してくれると思いまして」
「この、下衆がッ……!!」


やり取りを聞いていた刹那が憎悪を隠す事なく瞳に浮かべ、今まで以上の速さで一樹に斬り掛かった。
刹那と同じく頭にきているらしい理多も、一樹の逃げ場をなくすように"魔法の射手"を放って包囲する。
それを眺めながら、ただ迷惑をかける事しかできない不甲斐なさに、エヴァも木乃香も泣きそうな表情を浮かべた。


(……しかし、拙い事になりました。簡単にいくとは思っていませんでしたが)
(どうしよう、何か考えないと。私達で、何とかしなきゃ……)


理多と刹那は打ち合わせをしていないものの、考えていた作戦は同じだった。
時間を稼いでいる間にエヴァ達を逃がし、その後で自分達も逃げるというものである。
しかし、エヴァ達を先に逃がす事ができないと判ってしまった今、作戦を変更せざるを得ない。

ならばと、また打ち合わせもせず理多達が思い浮かべた作戦は、ひたすら防御に徹するというもの。
完全に沈黙した協会を不審に思った誰かが様子を見にきてくれるまで待つという、運任せの作戦だった。
作戦と呼べるのか判らないほど無茶苦茶な内容だが、しかしこれ以外にできる事があるとすれば潔く死ぬ事だけだ。


「絶対に諦めない。みんな揃って、帰るんだから……!」
「受け入れてもらったこの力で、不可能を可能にせてみせます!」


何もせずに殺されるくらいなら、例え無に等しい僅かな可能性であってもそれに賭ける。
口にした想いを胸に、理多は効果のない攻撃を控えて体力と魔力の消耗を抑え、その分防御に回す。
刹那は烏族の力を解放した事で体力に余裕がある為、攻撃する事で一樹の行動を抑える方法を選んだ。

刹那は縦横無尽に空を翔け、理多の援護を受けつつ一樹が魔力を集束し始めるとすぐに妨害する。
まだなりたてで吸血鬼としての力を使えないらしく、超再生のみで霧化して回避される事はなかった。
また魔力障壁を張られる事もなく、予想通りダメージを与えられてはいないが、妨害する事は十分可能だった。


「くっ……鬱陶しい!」


ダメージの代わりにストレスを蓄積させられた一樹が、苛立たしげに刃物のような爪を振るう。
満足な魔力の集束をさせてもらえないとみて、渋々直接肉体によって攻撃する手段を選んだようだ。
と言っても決して劣っている訳ではなく、吸血鬼の肉体を持ってすればただの拳でも十分脅威になりえる。

だがそれも直撃すればの話であり、一樹は刹那の高速飛行にあまり対応できていなかった。
武術を学んでいなかったのが見て判る構えで、ただ闇雲に爪を振り回して風を唸らせるだけ。
殆んど偶然的に当たりそうになった時も、逆に斬り返されてしまっていた。

深い一文字が刻まれた右手を反射的に抑えながら、一樹は苛立ちによって表情を歪める。
そして刹那の隙を何とかして作り出そうと、そこそこ集束させた魔力を、妨害される前に放った。
ただし、狙ったのは跳び回る刹那ではなく、この場に留まらざるを得なかったエヴァと木乃香にである。

しかし、そんな一樹の卑怯な目論見が果たされる事はなかった。
エヴァ達が狙われる事を予想して警戒していた理多が、障壁を張って防いだからである。
刹那は一瞬動揺して飛行速度を緩めたものの、理多の存在に隙を作るまでには至らなかった。


「こっちは私に任せてください! 絶対に守り通してみせます!」


そう宣言して援護射撃を再開した理多に刹那は頷き、再び刀を振るう事に専念する。
その一連の光景を口惜しげに見つめながら、エヴァは理多の後ろで必死に思考を巡らせていた。
撤退する事を禁じられた現状で、無力な自分にも理多達に協力出来る何かがないかを探して。

今は理多達の頑張りで何とか一樹を抑え込めているが、それも時間の問題に過ぎない。
魔力の扱い、もしくは吸血鬼の身体に慣れてしまえば、あっという間に戦局は覆されてしまうだろう。
故に、対抗できている今の内に、次の一手をどうにかして考える必要があるという訳である。

そして比較的早くに思い付いたのが、自分がされているような真祖の力の封印を試みる事。
エヴァが僅かな魔力を使って封印魔法の術式を構成し、理多がそれを引き継ぎ実行するという計画だ。
完全に封印が出来るなどとは思っていないが、少しでも枷になれば生存率が上がるし、試す価値は十分あるだろう。


「理多、悪いがネックレスを貸してくれ。それを真祖専用にする為に手を加える」
「え……? ど、どういう事──っ! わ、判りました、お願いしますっ!」


何をしようとしているのかをすぐに察してくれた理多に頷いて、ネックレスをコッソリと受け取る。
そして一樹に勘付かれないよう木乃香にも壁になってもらいながら、ネックレスに込められた術式の改変を始めた。
以前理多がさつきを救う為にした事と、封印対象と難易度は大きく違えど、やっている自体は大体同じである。

理多を信頼してはいるものの、時折近くに飛んでくる流れ弾に肝を冷やしながら術式を編む。
それからしばらくし、流石は世界最強と恐れられた実力を持つ魔法使いと言ったところだろうか。
難易度を知っている理多が唖然としてしまうほどの短時間で、エヴァは対真祖用の封印魔法完成させたのだった。

離れている間の安全を確保する為にエヴァ達の周りに結界を張った後、ネックレスを隠し持った理多は"光球"を瞬かせた。
それに気付いた刹那は攻撃の機会を窺いながら理多を横目で見て、何かをするつもりのようだと察する。
何をするつもりなのかまでは判らなかったが、理多を信じてその何かに賭けてみる事に決めた。


「──リク・ラク・ラ・ラック・ライラック……」


両手を前にかざし、胸の内で開いた実体のない門から流れ出す魔力を、手の平に集束させる。
それに気付いた一樹は邪魔をしようと魔力の弾を数発放つが、その直後に全て刹那が斬り捨てた。
その事を心の中で感謝しながら、理多は更に集中力を高めて集束した魔力をギュッと圧縮する。

十分な魔力を手にし、理多は吸血鬼の脚力を持ってして刹那達の元へと全力疾走する。
それから木の枝を足場に思いっ切り跳躍すると、一樹と鍔迫り合いをしている刹那の背後を通り過ぎ。
二人の丁度真上でクルリと一回転して勢いを殺すと、魔力の塊を両手で握りしめながら詠唱を口ずさんだ。


「──聖なる光よ此処に集い、我が呼びかけに応え、闇を断ち切る剣となれ!」
「──京都神鳴流奥義!」


理多の手にした魔力が全て光に変換され、その光は次第に西洋剣風の形へと変化していく。
その光の剣を上段に構えながら一樹目掛けて急降下する理多に合わせ、刹那は刀に氣を纏わせる。
そして一樹の薙ぎ払いを紙一重で回避しつつ腹部を蹴り上げると、理多と刹那は上下から必殺の一撃を放った。


「──"極光の剣"ッ!!」
「──"真・百烈桜華斬"ッ!!」


まず刹那の繰り出す無限にも思える剣閃が、一樹を防御の上から構わず滅多切りにする。
初めはすぐに再生されてダメージになっていなかったが、次第に一樹の身体は削られていった。
再生はされているのだが、傷の上に傷が刻まれ、再生が追い付かなくなってしまっているのである。

続けて刹那が崩した一樹の防御の隙を突き、理多が光の剣による重い一撃を叩き込んだ。
袈裟懸けに斬られる直前に身を引かれ、両断はできなかったが、大差ないダメージが刻まれる。
真祖でなければ間違いなく即死、真祖でも見た目には助からないのではと思わせるほどの傷だった。

だが実際には、どんなに見た目酷い傷を負わせたとしても、それで真祖を倒す事はできない。
しかし痛覚がない訳ではない為、一樹は激痛と憎悪に表情を歪めながらよろけると、決定的な隙を見せた。
それを確認した理多は、光の剣を放り投げてネックレスを手にすると、刹那に足場になってくれるよう声をかける。

突然足場にと言われて戸惑う刹那だったが、不思議な事に身体は理多の足場になろうと反応していた。
翼を一度羽ばたかせてその場に滞空すると、両手を絡ませて前に差し出し、バレーのレシーブの構えになる。
そして理多の両足が手に乗る衝撃にグッと歯を食い縛りながら耐えると、一樹の方へと思い切り投げ飛ばした。

いきなりのお願いに応えてくれた刹那に感謝しつつ、理多はネックレスに魔力を込める。
そして宝石の部分に込められた、エヴァが組んだ真祖の力を封印する術式を起動させた。
どうやら宝石を一樹に触れさせれば効果を発動するようなので、理多は即座に振りかぶり──


「封印魔法、てんか──」
「何か企んでいるようだと思っていましたが、油断なりませんねぇ」


そして、一樹の呟きに何かを思う前に、弾かれるようにして吹き飛ばされた。

刹那に受け止めてもらって墜落を免れた理多だったが、その表情に安堵の色はない。
むしろ逆に、この世の終わりを迎えたかのような、絶望に染まった表情で一樹を見つめていた。
それは理多だけではなく、刹那も、そして作戦が成功するよう見守っていたエヴァも同じだった。

上手くいったと思った直後にその喜びを破壊した、先程まではなかった筈の見えない何か。
その正体と、そしてそれが意味するものは、予想していた最悪の展開を迎えたという事だった。
刹那に抱えられている理多は、その事を再確認するかのように、また信じたくない様子で口にする。


「うっ……い、今のは……魔力、障壁……!」
「そう、正解だよ。吸血鬼の力に関してはまだだけど、魔力にはようやく慣れた」


そう言って手の平に魔力を集束させると、今まではそのまま放っていたそれを球体にして留める。
そしてその魔力を天に高くに掲げ、初級中の初級魔法である"魔法の射手"の詠唱を口ずさんだ。
しかしそれは、初級魔法だからといって決して安心できないような、驚愕すべき内容だった。


「──"魔法の射手" ・闇の666矢!」


夜空から染み出すようにして現れた、天を覆い尽くすほどに大量の闇色の射手。
それらが一樹の合図をもって、局地的な豪雨の如く理多達へと一斉に降り注いだ。
一つひとつは初級魔法らしい威力しかないが、これだけの量となれば話は別である。

どう見ても避けられる量ではないので、エヴァ達の前に降り立った理多達は防御の構えを取った。
一番前に立った理多が二重の"光子・光障壁"を張り、きたる衝撃に備えて身構えグッと歯を食い縛る。
その後ろでは、刹那が術符で作った結界でエヴァ達を包み込み、更に自分の前へ魔力障壁に似た結界を展開した。

そして傘のように展開された三種類の盾に降り注ぐ、黒い雨の如き無数の破壊の射手。
視界は黒で埋め尽くされ、着弾音によって聴覚は麻痺、自らの口から出る苦悶の声が掻き消される。
ただ障壁や結界が防げる許容範囲を超えて悲鳴を上げている事は、指先から伝わる感覚によって知覚していた。

理多が二重に張った障壁の内一枚が砕かれ、残りの一枚も後数秒もしたら持ち堪えられないだろう。
障壁を突き破ってやってくる死を覚悟しつつ、寸でのところで射手が降り止む事を理多達は願った。
そんな願いが通じたのかは定かではないが、止んだのはそれからすぐの事だった。


「──耐え、切ったの……?」


静寂を取り戻し、崩壊寸前であった障壁を四散させると、理多はペタリとその場にへたり込んだ。
一番前で防いでいた理多ほどではないものの、刹那も疲労を隠せない様子で結界を解いて片膝を突く。
初級魔法の射手を防いだだけなのだが、二人ともまるで偉業を成したかのような達成感に包まれていた。

しかし、当然の事ながらそれで全てが終わった訳ではなく、気の緩みを突いた追撃が放たれる。
先程とは違い一本だけの、だが威力は劣ったどころか増している、貫通力を重視した"闇黒の槍"。
その気配にすぐ気付いた理多だったが、それを防ぐ事のできる障壁を張るだけの猶予はなかった。

それでも威力を軽減する事はできるだろうと、理多は"心言詠唱"で障壁を張ろうと立ち上がる。
そして痺れる両手を前にかざした時、一つの人影が理多の前へ飛び出し、庇うようにして立ち塞がった。
その正体は、理多よりも早く追撃に気付いて術符を手にし、盾代わりする為翼を前で畳んだ刹那だった。


「桜咲さん!? 駄目っ……!」


防ぐ事はできない、無茶だと止める間もなく、闇色の槍は結界と翼を貫いて刹那を吹き飛ばした。
刹那は理多達の頭上を飛んでいき、その軌跡を描くように焦げて黒くなった羽と、血で赤くなった羽が降り注ぐ。
それを間近で見た理多は目を見開いて息を飲み、木乃香は見たものを信じたくないと目を閉じ声にならない悲鳴を上げた。

理多達の後方の地面に叩き付けられた刹那は、そのまま起き上がる気配もなく横たわり続けている。
そんな刹那に木乃香は恐るおそるといった様子で近付いていき、無残な姿を見て口に手を当てて嗚咽を漏らした。
その横では理多や木乃香よりかは知識のあるエヴァが刹那の容態を調べており、やがてホッと胸を撫で下ろす。

刹那は全身、傷付いていないところがないほどに悲惨な状態であったが、それでも何とか生きていた。
しかし、だからといって助かったとは言い難く、刹那だけではない全員が依然として絶体絶命の状態である。
そんな崖っぷちの理多達とは逆に、心底楽しげな一樹は刹那を一瞥すると、再び魔力を集束させ始めた。


「一人脱落、かな。残りの人達にも、無駄に抵抗した分たっぷりとお礼をさせてもらわないとね」


一樹が魔法が使えるようになってしまった今、これまで何とかできていた時間稼ぎは非常に難しくなった。
──否、理多一人であったならまだしも、言ってしまえば足手纏いのエヴァ達が居る以上、もはや不可能だろう。
それでも頑張って抵抗したところで、稼げる時間などおそらくは一分にも満たないのではないだろか。

そんな極短時間の間に現状を打破できるような事態になるとは、とてもではないが考え難い。
だからもう、無駄に抵抗せず、次に放たれる魔法によって幕を下ろしてしまっても良いのではないか。
エヴァも、木乃香も、普段は前向きな理多ですら、そしておそらくは刹那も、絶望的な状況にそう思っていた。

そして無慈悲にも放たれる、初めの頃に放たれていた光線に攻撃の指向性を持たせた"闇の濁流"。
見た目こそ黒色な事以外に光線との違いはないが、指向性を持たせている分破壊力は倍近く増している。
苦しめて殺す気はないのか、勢いあまってしまったのかは判らないが、直撃すればまず生き残れないだろう。

エヴァと木乃香は、迫る死と黒い閃光に思わずギュッと目を閉じて身を固くする。
だがしばらく時間が経っても、何故かそれらが自身に襲い掛かる様子がまるでなかった。
代わりに届いてきたのは、肌が震える衝撃波に、圧倒的な力に抵抗した何かが軋むような音。

エヴァ達が戸惑いながら、しかしある可能性を思い浮かべつつそっと目を開いてみる。
するとそこには予想通り、だが同時に驚くべき事に、障壁を展開している理多の姿があった。
そしてついには耐え切って見せた理多は、肩で息をしながらエヴァ達へと振り返り、あははと苦笑する。


「り、理多。お前、どうして……」
「せっかく守る為に手に入れた力があるんだから、守れるだけ守ろうかな、なんて」


最後の悪足掻きですと自嘲した理多は一樹へと向き直り、再び放たれた黒色の光線を防ぐ。
一度目に比べて威力が上がったのか、それとも疲労からか、今度は光線を逸らす形で直撃を免れた。
だがその代償に、理多の左腕は垂れ下がったまま、力が入らずに持ち上げる事すらできなくなってしまう。

抵抗される事を面白がっているらしく、口元を笑みの形に歪めた一樹から三度放たれる光線。
もう止めろというエヴァの声を無視して理多はそれを見据えると、今度こそ防ぎ切る事ができないと悟った。
片腕だけでも魔法の行使に支障はなく、また魔力も残ってはいるのが、原因は単純に力不足によるものである。

しかし理多には、戦いに関する事の師匠であるエヴァに禁じられている、奥の手が存在する。
その奥の手である"満月の瞳"を、強い"守る"意思をトリガーにして開眼させ、着弾する直前に障壁を展開した。
眼前に迫る死への恐怖、開眼によって侵食を始めた闇に思考を滅茶苦茶にされながらも、何とか耐え切る事に成功する。

初めは面白がっていた一樹も、手加減しているとはいえ、こう何度も防がれては面白くない。
それに必死な理多とは違い魔法を放っているだけの一樹は、このやり取りに飽き始めてしまっていた。
思えば肩慣らしは済んでいるし、魔力の扱いにも慣れた以上、理多達に構う理由はないんだったなと少し考える。


「……ふむ。しぶとい人間は嫌いではないが、これで終わらさせてもらうよ」


そうして集束されたのは、軽くこれまでの倍はあるのではないかという量の魔力だった。
今までの魔法でギリギリであった以上、次にくるであろう魔法は明らかに防げるものではない。
それでも理多は抵抗しようとするが、どうやら心身が限界を迎えたらしく、両ひざを地面についた。

諦めずに理多はその状態から障壁を張ろうと試みるも、しかし魔力は集束されずに四散する。
様々な要因から精神を乱されてしまっている為に、魔法の行使ができなくなってしまっているのだ。
その事に遅れて気付いた理多は掲げていた手を地面につくと、悔し気に土を握りしめた。


「くっ、理多……」


最後まで何も出来ず、眺める事しかできなかったエヴァは、悔しさで血が滲むほど歯を食い縛る。
魔力を封じたナギを恨む気持ちが沸き上がるが、封印させるような行いをしてきたのは自分に他ならない。
その事を考えるとナギを恨む事は出来ず、自己嫌悪で一樹の手で殺されるよりも先に自分から死にたくなった。

今度こそ、正真正銘止めの一撃となるであろう一樹の魔法に、視界が黒一色に染め上げられる。
そんな死の瀬戸際で、エヴァは聞き覚えのある少年の声が、後ろの方から聞こえてきた事に気付く。
そしてその声に反応したのだろうか、胸の奥に潜む何かが、静かに鼓動するのを確かに感じたのだった。



[26606] 第3章 23時間目 その力は誰が為に
Name: あかいつき。◆3327a354 ID:742ccd16
Date: 2011/03/21 00:24
エヴァが初めて理多と出会ったのは、麻帆良学園都市へ侵入した者を排除する為に外へ出た、春休みのある月夜の事。
噴水広場で発見した時には既にボロボロになって気を失っていた、知り合いの妹らしき吸血鬼の侵入者、それが理多だった。
そして、その理多に対してエヴァが最初に思った事は、"何だかめんどくさい事になりそうだ"という何とも薄情なものであった。

命辛々エヴァの元へやってきた理多からすれば、エヴァの感想は酷い事この上ないものだが、それも仕方のない事だろう。
借りのある知り合いの妹らしき人物を、侵入者とはいえ排除する訳にはいかず、放ってもおけないので保護する事はほぼ確定。
そうなると同時に、侵入者──しかも危険極まりない吸血鬼の保護について、相当な非難を浴びる事も確定してしまうのだから。

だが目を覚ました理多にこれまでの経緯を聞き、エヴァは"面白そうな奴だ"と保護をする事に対して乗り気になる。
何せ、吸血鬼になってから数日間一滴たりとも血を摂らず、吸血衝動に精神力だけで抗い吸血を拒み続けていると言うのだ。
その無茶苦茶さは血に餓えた経験こそないものの良く判り、"満月の瞳"まで持っているとなれば、興味を抱けなければ嘘である。

またエヴァは、そんな若くして並外れた精神力を持つお人好しな理多に、勝手ながらとある可能性を見出していた。
それは、想い人であったナギに示されながらも出来なかった"光に生きる"事を、理多なら出来るのではないか、というもの。
もっとも、だから何だという訳では特になく、良い暇潰しにはなるだろうと、まさしく他人事のようにそう思っていただけなのだが。

それから数日経ち、エヴァは吸血衝動による苦痛に耐え忍んでいる理多に、次第に惹かれ始めている自分に気が付く。
吸血鬼にとっての吸血は、人間の三大欲求を一纏めにしたようなものであるというのに、それを我慢し続けられる心の強さ。
そこに惹かれる一方で、自分達に弱音を吐く事も頼る事も一向にしてこない理多に、密かな苛立ちを覚えていったのだった。

やがてエヴァが抱く理多への想いは、吸血衝動の原因である"吸血鬼の呪い"を封印した頃から、大きく変わっていく。
どこまでも純真で、ビックリするほど頑固な性格故に、目を離すと危なっかしい理多を、この手で"守りたい"という想いに。
その心情の変化は、長い付き合いのチャチャゼロに心底気持ち悪がられるほど、自他共に驚くとてつもない変化だった。

知らぬ間に吸血鬼にされ人間ではなくなったあの日からというもの、エヴァの守りたいモノは自分自身だけになった。
他人など、害意を持って接してくる敵か、気にする必要のないどうでもいい存在の二種類でしかなくなってしまったのだ。
中には生き様を気に入る者なども極少数とはいえ居たが、しかし守りたいと思った相手は、ただの一人も居はしなかった。

不本意に手にした膨大過ぎる真祖の力は、自分の身を守る為に邪魔者を排除する、ただそれだけの為の破壊の力。
その力で誰かを守れるとも、守りたいとも思った事はなく、化物の自分にそういった感情が残っているとも思っていなかった。
このエヴァの考え方は数百年ずっと変わらず、チャチャゼロはその事を知っているからこそ、エヴァの変化に酷く驚いたのだ。

そして想いの変化はそれで終わる事はなく、いつしかエヴァは、"理多と共に歩みたい"と強く思うようになる。
自分には無理だと端から諦めてしまっていた、光に生きる事ができるであろう理多と、可能な限りずっと一緒に居たいと。
その為ならば、これまで犯してきた数多くの罪を背負いながら、光の世界で生きる努力をしていこうと決意できたほどに。

こうしてエヴァは、様々な想いの変化と決意を経て、徐々に理多の事が大切に──好きになっていったのである。
今や、数百年変える事のなかった"悪い魔法使い"としての生き方をキッパリと止めてしまえるくらい、大好きだった。
その家族に対するモノと良く似ているであろう好意は、かつて異性として好きだったナギへの想い以上に、強く温かい。

もしも理多が死んだなら、その時はおそらくナギが死んだと聞かされた時以上の喪失感を得る事になるだろう。
無意味な中学校生活を永遠と繰り返す事の方がずっとマシだと思えるほどの虚無感に襲われる事も、想像に難くない。
エヴァにとって自分を変え、生きる幸せを与えてくれた理多という存在は、それほどまでに大切で、何にも代え難いのだ。

──その理多が、今自分もろとも殺されようとしている。

百歩譲って自分一人だけが死ぬというのなら、残される理多達にとっては好ましくない事でも、まだ良かった。
しかし、誰よりも大切な理多が死ぬ事だけは、例え神が定めた事であろうとも、絶対に受け入れる事は出来ない。
だがどれだけ心の中で拒んだ所で事態が好転する筈もなく、無力なエヴァは、ただ眺める事しかできないのだった。

力さえあれば、と闇色の光線にいち早く飲み込まれようとしている理多に侘びいりながら、無念の死を覚悟する。
そんな時であった、どこか聞き覚えのある少年の声が、光線による空気の唸りに紛れて後方から聞こえてきたのは。
人違いで敵の増援である可能性もあるが、何にせよ、死が目前に迫っているこの状況で現れても全く持って意味がない。

自ら死地に飛び込んできた自殺志願者の大馬鹿者を一目見てやろうと、エヴァは首だけで振り返って顔を確認する。
だが声の主を視認する前に、細長い何かが無防備な背中目掛けて飛んできている事に気付き、思考するより早く掴み取った。
そして手にしたその何かが木製で、自身の身長以上もある、ナギから託されたというネギの大切な杖であると認識したその直後。

胸の奥深くで強固な扉の錠前がガチャリと音を立てて開くようなイメージと、何らかの魔法が起動した感覚がし。
そしてふと気が付いた時には、視界に広がる地平線を遮るモノが何一つとして存在しない、真っ白な空間に立っていた。
濁りが一切ない透き通った水で覆われた底の見えない足元も、少し屈んで覗いてはみたものの、やはり何も見付からない。


「これは、一体……」


エヴァの口から疑問の声がこぼれ落ちるが、それはこの場所が何であるのかが判らないからではなかった。
もしかして死後の世界だろうか、なんて間の抜けた発言をする事もなく、即座に此処が"精神世界"であると察している。
正確に言えば、結界魔法を応用して作り出した仮想空間に、対象人物──エヴァの精神だけを移したといった所だろう。

この空間がエヴァの知っているモノに近いのなら、時間の概念は存在せず、中で起きた事が外へ影響する事はない。
それだけ聞くと色々な用途で使えそうに思えるかもしれないが、出来る事など殆どないと言っても過言ではなかったりする。
精々内緒話をするのに便利なくらいであり、その割には難易度が物凄く高く手間が掛かるという、存在価値の疑わしい魔法だ。

エヴァが疑問に思っていた事とは、そんな無意味な空間をわざわざ作り出し、自分を招待した者の意図にである。
死の間際にこんな毒にも薬にもならないような事をする理由やされる理由が、いくら考えてみても全然判らなかったのだ。
何故なら例え此処で最悪な状況を覆せるような助言や特訓を受けようとも、外の世界へ戻った瞬間に終わってしまうのだから。

そんなエヴァのもっともな疑問は、染み出すようにして突然この空間に現れた者によって、すぐに解消される事となる。
エヴァが警戒しながら気配のした方へ視線を向けると、クリーム色の煤けたローブを身に纏った、一人の青年が立っていた。
そしてその青年の、予想だにしなかった外見に、目と口をポカンと開けたみっともない格好のまま、石像のように固まってしまう。


「よっ! 元気でやってたか? 何年ぶりなのかは判らないけど、久しぶりだな」


エヴァの反応に笑顔を浮かべながら、青年は木製の長い杖を持つ右手を挙げて親しげに声をかける。
だがその挨拶に対し、エヴァは頭と心を渦巻く様々な感情を処理し切れずに、何の反応も返す事が出来なかった。
ただ、少年のような笑顔や赤毛の髪、見覚えのある使い古された杖とローブを見て、懐かしくて泣きそうになっていた。

しかし、久しぶりに見た姿にいつまでも懐かしんではいられないし、ましてや感動していられる心境でもない。
首を振って気を取り戻したエヴァは、こちらの事情など知りもしないで暢気な顔をしている青年を睨み付けるように目を細め。
内心の感情を隠す為かいつもより割かし低くした、それでもどこか嬉しさが含まれた声で、大切な人であった青年に問い掛けた。


「これはどういう事か話してもらうぞ──ナギ・スプリングフィールド」


久しぶりの再会にも拘らず、挨拶すらなく説明を求めたエヴァの刺々しい声に、ナギは苦笑を浮かべながら頷き返した。
エヴァとて特別に想っている数少ない人物の一人であるナギに会って早々、そんな顔をさせたくはないのだが、状況が状況だ。
会えない間にあった色々な事を話したい気持ちや、再会によって生じた様々な感情を抑え込んで、ナギの話を聞く体勢に入る。

まず最初に説明されたのは、今居るこの目が痛くなりそうなほど白く、物が何一つとして存在しない空間について。
これは予想していた通り結界魔法を利用した幻想空間で、魔法はネギの持つ杖へ事前に仕込んでおいたとの事だった。
それと空間の維持は魔法と一緒に杖へ込めた魔力を使用しているらしく、それほど量がない為あまり長くは保たないようだ。

続いて説明があったのは、目の前で珍しく真面目にしている、現在行方不明である筈のナギの存在について。
これも何となくは予想していたのだが、本体ナギとの繋がりがない、とある役割を与えられた幻影との事。
此処での出会いや会話が本体ナギに伝わらないと知って少し残念に思ったが、例え偽者であっても姿を見れたので良しとする。

そして最後になった説明は、最も知りたいと思っていた、自分をこの空間へと招いた目的について。
魔法がただ使われたならまだしも、隠すように杖へ仕込んでおいたりなど、余程の理由がなければしないだろう。
いくつかの予想は付けているものの確証がある訳ではなく、エヴァはどんな内容だろうかと固唾を呑んで耳を傾けた。


「この空間は、お前が"ある条件"を満たして杖に触れた時、展開するように設定しておいた」


いよいよもって明かされる、この空間を使った特別──だとエヴァが勝手に思っている、ナギの目的。
ある条件、という言葉が気になり聞き返しそうになったが、ナギが言葉を続けようとしていた為口をつぐむ。
そんなエヴァに、ナギは思わずドキリとしてしまうような、当然ながらネギと良く似た真剣な面持ちで口にした。


「目的は、お前にいくつかの質問をする為だ。エヴァ、お前は今──俺を良い子にして待っているか?」
「…………は?」


予想の斜め上を行くナギの目的と、物凄くどうでもいい質問に、エヴァはポカンと口を開けっ放しにして硬直する。
それからしばらくすると、こめかみに大きな青筋が浮かび上がり、怒りによって身体と固く握りしめた拳が震えだした。
空気を読まずに意味の判らない質問をした事についてはともかく、その質問内容が、エヴァには許せなかったのである。

待っていたかなんて間の抜けた質問は、エヴァからしてみれば、ナギだけは絶対に言ってはいけないものだった。
かつては淡い恋心を抱き、恋が冷めてからも特別に想っていたナギに待っていろ言われたのだ、答えなど決まっているだろう。
だというのに、約束を破って何度卒業式を迎えても姿すら見せず、しまいには死亡通知を送ってきたナギに、待っているかなんて──

此処で何をしても本体には伝わらない事が判っていても、エヴァは溜まっていた鬱憤を叩き付けてやりたくなった。
しかしそんな激情は、無言でこちらが回答するのを待っているナギの表情を一目見て、冷や水を浴びたかのように冷めていく。
質問し回答を受け取る事が存在意義の幻影だからか、ナギはこれまでに見た事がないほど、少し怖いくらいに真剣だった。


「色々と思う所があるのは判る。殴りたければ殴って良い。だがその後で、質問には必ず答えてくれ」
「……ちっ、大人しくはしていた。だが、お世辞にも良い子ではなかったな」


質問の意図は不明だが、嘘でも印象の良い回答をしておいた方が良いだろうかと考えるも、エヴァは正直な答えを口にする。
普段はやる気のなさから大人しくしていたが、卒業式を迎えても解放されなかった時や、ナギの死を聞かされた時は酷く荒れた。
卒業できないと判ってからは授業をほぼ全てサボっていたし、血を求めて一般人やネギを襲ったのだ、これで良い子の筈がない。

自分で言っててどうかと思うような回答に対し、何かしら言われるかと思ったが、ナギはそうかと頷いただけだった。
その薄い反応に、エヴァはこんな意味があるとは到底思えないような質問をする意図が、ますます判らなくなって困惑する。
まさか、たったこれだけの事を聞く為に手間の掛かる下準備をしたのだろうかと眉をひそめたが、質問はまだあるようだった。


「二つ目の質問だ。学園生活は楽しいか?」
「楽しい筈がないだろう。楽しめると思っていたのなら、正気を疑う」


両親の事など少しも覚えていないが、まるで父親が会話の糸口を探して娘にするような質問だなとふと思う。
それはともかくとして、何度もくり返しているからとかに関係なく、学園生活を楽しいと思った事は一度もなかった。
他に選択肢がないから仕方なく行って戻ってくるだけの場所、形の違う檻、エヴァにとって学園はそんな認識だった。

学園で学ぶような事は長く生きている内に習得済みであり、悪人が交友を持って良い人間などそこに居はしない。
だからという訳ではないが、同僚以外のクラスメイトと会話をした事や、放課後に遊びに行ったりする事は一度もなかった。
それは年齢が凄まじく離れているからだとか、趣味があわないからとかではなく、自分とは何もかもが違う存在だからである。

退屈とも言い換えられるくらいに平和な日々を楽しそうに生きているクラスメイト達が、エヴァにはただただ眩しかった。
その自分との違いを見せ付けられた事によって感じる眩しさは、日常への憧れをずっと昔に捨てた筈の心を静かに傷付ける。
勝手に傷付いている自分に問題がある事は判っていたが、そんな学園やクラスメイト達の元で、楽しくなんて過ごせる筈がなかった。


「三つ目の質問。お前は今、光に生きているか?」
「いないな。光に生きようと思っていなかったし、しようともしていなかった」


ナギと最後に会った時に言われた事であった為、気にはしていたが、していただけで実際には何もしていない。
死が身近であったそれまでとは違う、日常という名の光の中に居たというだけで、エヴァはその中で生きていなかった。
それでも光に生きていると言えなくもないかもしれないが、そんな回答でナギを納得させる事は、おそらくできないだろう。

これまでナギからされた三つの質問その全てを、エヴァは取り繕う事もなく正直に、真っ向から否定してみせた。
それはナギに対して悪い印象しか与えない事は誰からも明らかで、実際、エヴァは答えながらそうだろう思っていた。
しかしナギは、ただの一度もエヴァに呆れた表情を見せる事や、叱咤するような事もなく、ずっと静観を貫いていた。

そんなナギの、自分の心を探るかのようにジッと見つめてくる瞳の中に、エヴァは失望の色が見えない事に気付く。
それは一体何故だろうかと考え、もしかしたらこちらの"変化"に気付いているからかもしれないと、根拠もなく推測した。
もしそうであるなら正解であり、タイミングを見て明かそうと思っていた事である為、エヴァは丁度良いと胸中を口にする。


「……私は一生、闇に生き続ける事しかできないと思っていた。だから十五年間、ただ漫然と学園に通っていた」


自ら進んでした事ではなかったが、数え切れないほどの罪を重ね、数え切れないほどの人を傷付けてきた。
両手だけに留まらず、全身が大量の、大勢の血に塗れ、綺麗な場所など微塵もないほどに穢れ切ってしまっている。
そんな咎人が、今更どんな顔をして平穏な日常という光に生きている者達の中に混じり、生きていく事などできようか。

吸血鬼になってからそれほど経っていない頃であったなら、まだ生き方を変える事もできたかもしれない。
だが約六百年間吸血鬼として生き、血と闇に染まり切ってしまっている今、それをするにはあまりにも遅過ぎた。
光に生きたいと足掻き願う心は遠の昔に殺し尽くされており、エヴァは闇に生きる存在として完成してしまっていた。


「だがな、ある日とんでもないお人好し──理多に出会って、私は変わった。いや、変えられたんだ」


理多はエヴァの血塗られた過去を教えられながら、ナギや直人と同じように、エヴァだけが悪いのではないと語った。
化物と忌まれ、人殺しと罵られ、魔王と畏怖されてきたエヴァを、心から信じ、頼り、慕い、日向のような暖かい笑顔を向けた。
自分のした事を棚に上げて身勝手に怒りを振り撒こうとしていた時には、本気の殺気に怯え、震えながらも引き止めたりもした。

どれも"闇の福音"と世界中から恐れられているこの私相手にだぞと、エヴァはその時々の事を思い返し、穏やかに笑う。
以前しばらくの間一緒に行動した時には見せなかった──否、失くしていたのであろうその表情に、ナギは驚きを隠せない。
数百年生きている相手への感想としてはおかしいかもしれないが、笑顔を浮かべたエヴァは、普通の少女にしか見えなかった。
そんな風に驚かれているとは露知らず、エヴァは自分の想いを再確認しながら、更に言葉を続けていく。

生きてきた約六百年という途方もない年月に比べれば、エヴァはほんの一瞬でしかない時間しか理多と一緒に居ない。
しかしそんな一瞬の間に、理多からは時間なんてものともしないほど沢山の大切なモノを、胸が一杯になるくらい貰っていた。
そしてそんな理多だからこそ、ずっと一緒に居たい、その為に必要ならば光に生きられるよう変わろうと、そう決意したのである。

今までは学ぶ事など今更何もないし、面倒だからとサボって屋上などで寝ていた授業にも、頑張って出るようにした。
交友なんて煩わしいと張っていた心の壁を取り払い、挨拶するようにしてみたら、何かと構ってくる姦しい友人達ができた。
純粋な好意に慣れず疲れる事も多々あるが、学園生活の楽しさというものが、最近少しは判るようになってきた気がする。

学園生活にある程度慣れてきたら、街でアルバイトをしてみたり、特技を活かした自営業をするのも良いかもしれない。
裏の世界の仕事にも積極的に協力して、まずは身近に居る魔法先生達から、受け入れてもらう努力をする必要もあるだろう。
まだまだ光に生きる為の行動を始めたばかりで、不老不死のちょっと趣向を変えた暇潰しだとしか思われないかもしれない。
だが、それでも──


「いつかは必ず、私が "闇の福音"と呼ばれていた事を周りが忘れるほど、光に生きてみせる」


そう強く言い切ってナギを見つめるエヴァの瞳には、絶対に成し遂げてみせるという決意の光が見て取れた。
悪として認知されてしまっているエヴァにとって、これから歩もうとしている道は、長く険しい、茨の道になるだろう。
しかし今のエヴァと不思議な魅力を持っているらしい理多なら、それでも何とかできてしまうような気がナギはしていた。

していたのだが、突然エヴァが強気な様子から一変し、らしくもない気弱な表情を浮かべながら俯いてしまう。
口では何と言っていても、やはり長年続けてきた生き方を変える自信がないのだろうかと思うが、どうやら違うらしい。
エヴァは項垂れたまま上目使いでナギを見ると、左腕の裾をギュッと右手で握りしめ、恐るおそるといったように問い掛けた。


「なぁ、ナギ。私にしてきた質問は、"登校地獄"に関係があるんじゃないのか?」
「──流石に、察しがつくか。その通り、幻影オレの役割りは、"登校地獄"を解くかどうかを判断する事だ」


エヴァの人生や裏の世界に大きな変化をもたらす選択を任せられた、ナギを基にして作られた幻影。
この世界にエヴァがくる為の条件は、光に生きる事を口だけでなく心から決意し、ネギの持つナギの杖に触れる事。
エヴァの"登校地獄"を解きに行く事ができなくなる可能性を考え、ナギが保険として仕込んでおいた魔法との事だった。

本物と相違なかった声色や表情の豊かさを消し去った幻影ナギは、平坦な声で無表情に自らの役割りを明かす。
それはまるで人形のような無機質さで、エヴァは目の前に居る存在が、作られたモノに過ぎないという事を改めて理解する。
その事実に少し寂しさを覚えたが、"登校地獄"に関する役割を与えられた幻影である事は、同時に幸運な事でもあった。


「そうか、私の枷を外す鍵を持っているのか……それならナギ、お前に一生の頼みがある」


エヴァは少しでもこちらの誠意が伝わるように、姿勢を正し、ナギの目を真っ直ぐに見て言った。
一生の頼みというのは、何もいい加減な気持ちで言った訳でも、口から出任せを言った訳でもない。
頼みたいと思っている事に、それだけの──一生分を消費してしまえる価値が十分あると思ったのだ。


「どうせ今の私じゃ、まだ試験には合格できないのだろう? ならそのまま、ずっと解かなくて構わない」


例え永遠に学園の敷地内に閉じ込められる事になろうとも、燻らず光に生き続ける事を誓おう。
代償としてこの命を求めると言うのなら、今すぐ胸の中から抉り出し、自ら差し出しても構わない。
今現実世界の目の前で殺されようとしている理多を、そうする事で助けられると言うのなら、喜んで。

そんなエヴァの唐突な、一生の頼みどころか自身の命を蔑ろにするような発言に、ナギは思わず耳を疑った。
てっきり何が何でも"登校地獄"を解除して欲しいと言われるかと思いきや、その実、正反対の内容だったのだから。
そう、どちらも結果だけを見れば同じではあるが、その動機は、自分の為か他人の為というとても大きな違いがあった。


「私は理多を、何としても助けたいんだ。だから、だから一時だけで良い、今すぐ私に力を返してくれ……ッ!」


驚き固まってしまっていたナギを見て、誠意が足りないと思ったのか、エヴァはプライドをかなぐり捨てて頭を下げる。
それは、以前のエヴァであったなら到底考えられない行動であり、自分の為ではなく他人の為なのだから尚更の事だった。
そしてだからこそ、そのひた向きな態度は同時に、理多へ対するエヴァの想いの強さや証明をありありと示していたのだった。

エヴァの言葉全てに嘘偽りがないという事は、声色や表情、態度などから伝わり、疑うまでもないほど良く判る。
自分で言っていた通り、どんな内容の契約書であろうとも、力を得られるのならば躊躇わずにサインをするのだろう。
ナギは無意識の内に笑顔を浮かべていた、そんなにも強い覚悟を見せられてしまったら、答えは一つしかないだろうと。


「──エヴァンジェリン・A・K・マグダウェルの想いを真実と認め、今この時をもって、"登校地獄"を解除する!」


声高々に言われたその内容に、エヴァは弾かれるようにして顔を上げ、先程のナギ同様耳を疑った。
自分にとって最高の結果である筈なのだが、喜ぶより先に、驚愕や疑問の方が勝ってしまったのである。
こんなにあっさり解除してしまって良いのかと、思わずナギに理由を確認しようとするが、その前に時は訪れた。

エヴァの胸元から、魔法の帯が幾重にも折り重なってできた球状の魔法"登校地獄"が可視化されて浮かび上がる。
京都へとくる前にも見たそれは相変わらずの存在感を見せ付けていたが、しかし次の瞬間には抵抗もなく砕け散っていた。
十五年間もの長い間、エヴァの自由を縛り付けて苦しめていた物とは到底思えない、冗談のように呆気のない最後だった。


「早く助けに行ってこい、お前の大切な人を」


"登校地獄"が解除された事により、殆どないに等しかった魔力──エヴァの求めていた力が全て戻ってきた。
この力があれば理多を助ける事など容易く、勝てない相手はこの世界中何処にも居ないと言っても過言ではないだろう。
呆けてしまっていたエヴァはナギの言葉にハッと気を取り戻し、言われなくとも判っていると背を向けると、そのまま歩き出した。

別れる事に対して名残惜しむ様子のないエヴァに苦笑しながらナギが見送っていると、不意にエヴァが立ち止まる。
何か自分に言い忘れた事でもあるのだろうか、それとも、どうやって幻想世界ココから出るのかが判らないのだろうか。
もし後者についてであれば、出たいと願えばすぐに出られるぞと伝えようとすると、エヴァは金色の髪を掻きながら首だけで振り返り。


「……ナギ、幻影オマエではなく本体に言うべき事だが、いつ会えるか判らないからな。今此処でも言っておく」


 首を傾げるナギに、少しだけ照れくさそうにしながら、しかしハッキリとした口調で言った。


「──有り難う。理多に出会うキッカケと、助ける力を取り戻すチャンスを与えてくれて」


ワザとらしさも裏もない、自然で綺麗な笑顔を見せて言うエヴァに、ナギは思わず見惚れてしまう。
そんな中で、ふと自身の想い人である女性の事が頭に浮かび、エヴァと重なる部分がある気がするなと思った。
そういえばと、エヴァが自分を手に入れようとしていた事を思い出したナギは、からかうようにしてエヴァへ笑い掛けた。


「アイツと出会う前に今のお前と出会っていたら、もしかしたらお前に惚れてたかもな」
「ハッ、何を戯けた事を。そんな事よりさっさと帰ってこい、坊やがお前に会いたがっているぞ」


ナギの発言を鼻で笑って一蹴したエヴァは、まぁお前に帰れと言っても仕方がない事だがなと苦笑いを浮かべる。
それから前へと向き直り、じゃあなと言って背を向けたままおざなりに手を振ると、今度こそ幻想世界から去っていった。
そうして一人残されたナギは、茨の道を行く事を決めたエヴァに光あれと、幻想世界が消滅するまでの間、静かに祈った。


 ◆ ◆ ◆ ◆ ◆


「足手纏いを置いて一人で逃げれば、生き長らえる可能性もなくはなかっただろうに。無駄な悪足掻きだったね」


精神の乱れによって魔法の行使ができず、理多が黒い閃光を見上げていると、一樹のそんな言葉が聞こえてきた。
もはや自力で立つ事もままらならない刹那と、魔力はあるも一般人の木乃香、そして魔力を封じられてしまっているエヴァ。
一樹の言う通り、三人を置いて逃げていれば確かに死なずに済んだかもしれないが、しかしそんな事は絶対にしたくなかった。

一人生き残っても罪悪感に囚われ続ける事になるからでも、最後まで守れるだけ守ろうと思ったからでもない。
ただ単純に、諦めてしまいたくなかったというだけの、自他共に認める意地っ張りな性格であるが故の悪足掻きだった。
そう、助けが現れる可能性に賭けた足掻きなどではなく、未練を残さずに死ねるようにした、自己満足の為の悪足掻きである。


「──いや、無駄ではないぞ。理多が足掻いてくれたからこそ、私達全員が助かるのだからな」
「え、エヴァンジェリン、さん……?」


理多の横に歩み寄ったエヴァは、困惑する理多に微笑み掛けると、迫る破壊の光線に向けてスッと右手をかざした。
魔力のないエヴァが何をする気なのか、先程の言葉の意味は何なのかと思う理多だったが、すぐにエヴァの変化に気が付く。
そしてその変化に対して言葉を発する前に、エヴァは着弾しようとしている光線を見据えると、軽い動作でそれを横に弾き飛ばした。

弾かれた光線は、木々の天辺をいくつか削りながら上空へと逸れていき、何かに直撃する事もなく最後は空で霧散した。
その光景に、理多は自身が感じ取ったエヴァの変化が気の所為ではない事を知り、同時に自分達が助かる事を確信する。
一方エヴァは理多の頭を撫でつつ、信じられないといった面持ちで硬直している一樹へ、不適な笑みを浮かべながら言った。


「肩慣らしは済んだか? なら今度は、私のリハビリに付き合ってもらおうか」



[26606] 第3章 24時間目 童姿の闇の魔王
Name: あかいつき。◆3327a354 ID:742ccd16
Date: 2011/03/21 00:24
間一髪で理多を助ける事ができたエヴァは、内心で密かに喜びを噛み締めながら、宙に浮かぶ一樹を見上げた。
少し前までは勝ち目など微塵もなかった相手だが、"登校地獄"が解けて力を完全に取り戻した今、脅威を感じる事はない。
相手が真祖の吸血鬼であろうと、例え神に等しい存在である古龍であったとしても、今は誰にも負ける気がしなかった。

一方、予想外の出来事に呆然としていた一樹は、エヴァの視線を受けてハッとすると、慌てて事態の把握を開始した。
仲間が傷付けられている様子を見ている事しかできなかった無力なエヴァが、何故本気で放った自分の一撃を防ぐ事ができたのかと。
魔力があればそうする事も可能だったのかもしれないが──と思い、そしてようやく、エヴァの魔力が復活している事に気付くのだった。

エヴァが魔力を取り戻した事によって理多達は希望を抱いたが、一樹が抱いたのは、死を前にしたかのような絶望だった。
何せ、裏の世界で知らぬ者は居ない、最強にして最凶の真祖の吸血鬼"闇の福音"を相手にしなければならなくなったのだから。
魔力がない時はただの小娘にしか過ぎないと見下せていたが、優位性を失った事により、一樹は完全に怖気付いてしまっていた。

そんな弱気な自分に気付いた一樹は、私は一体何をやっているんだと、恐怖を払うように頭を振って自らを叱咤する。
"闇の福音"の復活に思わず動揺してしまったが、今は自分も真祖の吸血鬼で、エヴァと同じく強大な力をこの手にしているのだ。
故に対等であり、恐れる必要はどこにもないのだと、一樹は自身が劣っている要素から無自覚に目を逸らし、そう信じ込んだのだった。


「なんだ、どうかしたのか? あぁ、怖いというなら、肩慣らしの相手は無理にとは言わないぞ」
「──ッ! だ、誰がッ……!」


なかなか攻めてこようとしない一樹に痺れを切らしたエヴァが、腕を組み、鼻で笑いながら判り易い挑発を口にする。
冷静であれば挑発に乗ったりはしなかったのだろうが、図星であった事もあり、一樹はカッと頭に血が上って反応してしまう。
魔力を乱雑に集束し、怒鳴り声で詠唱を謳い上げると、先程易々と弾かれた事も忘れ、"闇の濁流"をエヴァへ向けて放った。

一樹の放つ魔法は、どれも並みの実力の魔法使いでは防ぐ事が難しい、必殺と言っても過言ではない破壊力がある。
しかし今のエヴァを傷付けるにはあまりにも非力であり、障壁を張るどころか身構える必要もない程度のモノでしかなかった。
エヴァはその場から一歩も動かず右手に魔力を纏わせると、まるで虫でも払うかのように軽々と光線を弾き飛ばしてしまう。

心底苛立たしげにギリッと歯を食い縛る一樹へ向けて、今度は不適に笑うエヴァが、ゆっくりと右手をかざした。
そして真祖の力はその程度ではないぞと、最初からそこにあったかのように一瞬で手の平に膨大な魔力を集束させ。
手本を見せてやろうと口元を吊り上げると、命の危機を感じ取った一樹が反応を表すよりも先にそれを放った。


「──"闇の濁流ノミコメ"」


気負った様子のない、呟くような一言でエヴァから放たれたのは、先程一樹が放った魔法と同じモノ。
その筈なのだが、一樹と違い詠唱を破棄していたにも拘らず、比べものにならないほどの威力を持っていた。
だが端から当てるつもりはなかったのだろう、闇色の光線は一樹の横を駆け抜けると、空へ溶けるように霧散した。

頬を掠めていった光線の余波に冷や汗が流れ、恐怖心がよみがえるが、一樹はそれを無視して攻撃を再開する。
桁外れの魔力で詠唱を無理やり破棄し、両手に作り出した"闇黒の槍"を投げては作りを繰り返して手数で攻めた。
"闇の濁流"にこそ威力や範囲は劣るものの、貫通力が非常に高く、連続して放たれればエヴァとて弾く事は難しいだろう。

そう一樹は思っていたが、相手が常識の通用する存在ではないという事を、まだしっかりと理解できていなかった。
エヴァは"闇の濁流"と違って後ろに居る理多達に被害が及ばないと見ると、驚く事に全ての槍を身体で受け止めたのである。
それは自殺行為にしか思えないような行動であったが、しかし、エヴァは常に身に纏っている魔力障壁だけで防ぎ切っていた。


「──"魔法の射手フリソソゲ"」


もはや驚愕した表情が基本形になりつつある一樹に対し、エヴァは手数で攻めるならこれくらいやれと言ってそう呟く。
すると、エヴァの周囲に数え切れないほどの氷の射手が浮かび上がり、指を鳴らす合図でもって一斉に解き放たれた。
あまりにも数が多過ぎて豪雨どころか壁のようになり、別の魔法と化してしまっている射手は、一樹を押し潰そうと追い詰める。

吸血鬼の特技の一つである"霧化"を使えるようになっていれば話は別なのだが、とても避けられるような量ではない。
早々に回避する事を諦めた一樹は、押し寄せる壁へと両手を突き出すと、念の為強めに障壁を張ってやり過ごす事にした。
凄まじい量ではあるものの、所詮は初級魔法の威力のない射手であるし、同じ真祖なのだから十分防ぎ切れるだろうと。

しかしそんな考えは、エヴァを相手にしていながら甘過ぎたという事を、一樹はようやく身をもって思い知る事となる。
最初こそ問題なく防げていたのだが、しばらくすると障壁にヒビが入り、終いには突破されて蜂の巣にされてしまったのだ。
何をどうすればそうなるというのか、エヴァの放つ射手はたった一矢だけで、通常の魔法使いの中級魔法並みの威力があった。

再生が追い付かないほどボロボロになった一樹は焦りを自覚しながら、回復を待たずがむしゃらに攻撃を続ける。
それでも一つひとつが必殺の威力を持っているのだが、その全てをエヴァは軽々と防ぎ、更には苛烈な反撃を加えてきた。
ここまでくると一樹もエヴァとの圧倒的な実力差を認めざるを得ず、気付かぬ振りをしていた恐怖心に飲み込まれてしまうのだった。


「……どうして、そいつらを守っているんですか。力が戻ったのなら、関東魔法協会ヒガシへの体裁など気にする必要はないでしょうに」


そんな中、逃げる隙を求めて一樹が問い掛けた事は、今思い付いた事を言った訳ではなく、ずっと気になっていた事だった。
その突然の問いに、エヴァは手に纏っていた全てを断ち切る"断罪の剣"を消すと、腕を組んで探るように一樹を見据える。
その表情からは何も読み取る事ができなかったが、心なしか、そう質問される事を待っていたような雰囲気を一樹は感じ──
そしてそれは、正解であった。

エヴァは瞬く間に一樹を倒す事ができたが、目的の為に戦闘を長引かせるよう肩慣らしをなどと言ったのである。
その目的とは、力に溺れてしまっている一樹の思い上がりを叩き潰し、冷静で真っ当な思考を取り戻させる事だった。
以前の理多と同様、自分と似た血塗られた人生を歩もうとしている一樹を、完全な闇の世界へと沈み込ませない為に。

傷だらけの理多や刹那、ネギ、そして安否不明の直人達の事を考えれば、即座に決着をつけるべきだったのだろう。
理多と出会うキッカケをくれた恩人ではあるが、最低でも理多とさつき、二人の人生を大きく狂わせた悪人でもあるのだから。
しかし光に生きると誓った今、一樹を見捨てて自分だけが闇の世界から抜け出すというのは、どうも違うように感じたのである。
故にエヴァは、一樹との会話を求めたのだった。


「……確かに真祖の力があれば、好き勝手に生きる事ができるだろう。いや、"できた"と言った方が良いか」
「そ、そうだろうな。この力があれば、何だってできる。だから私はまず復讐を果たし、その後は思いのままに──」
「──そして、最後に残るのは永遠の孤独と退屈だけだ」


同意を得て見逃してもらおうと企んでいた一樹の言葉を断ち切り、エヴァは確信を持ってそう強く断言した。
無限に思える欲望も、永遠の生の中ではいずれ尽き果て、何をしても満たされなくなる事を知っていたからである。
そして、力による強引な方法で満たした欲望がもたらす快楽は、一時のモノでしかなく、自身に何も残さないという事も。

私にはそれが耐え難い苦痛だったが、全員が全員そう思う訳でもなし、どう生きる事を選ぶのかは貴様の自由だがな。
そう言ってエヴァが一樹に背を向けた直後、辺り一帯にむせ返るほどの濃い魔力が満ち始め、急激に気温が低下し始める。
その唐突な変化は、上級魔法の前触れである事は明らかで、一樹は次の一撃で終わらされるのだという事を察したのだった。


「まぁ、時間は腐るほどある。今一度、どう生きていくのかを良く考えると良い。私が言いたかった事はそれだけだ」
「……わ、私は、私はこの力で……! あああ、あああああああああ──ッ!!」


私はお前とは違うと言い切るつもりだったのだが、説得力のあるエヴァの言葉を前に、一樹は言い返す事ができなかった。
真祖としての絶対的な格の違いを見せ付けられ、まともな思考を取り戻した結果、エヴァの言葉に納得してしまった事もあって。
だがそれを認めてしまう事はとても許せるものではなかった為、手遅れで無意味な事だと判っていながら、自棄になって飛び掛った。

真祖の反則染みた身体能力と後先を考えない動きによって、一樹は図らずも限界を超えた速さでエヴァへと肉薄した。
これなら敗北という結果は変わらずとも、背を向けている隙だらけなエヴァに対し、意地の一太刀浴びせられるかもしれない。
などという考えが一樹の頭を過ぎったが、エヴァに通用する筈もなく、触れる事すらないまま決着の魔法が放たれるのだった。


「──"永遠の氷河、凍る世界コオリツケ"」


一五〇フィート四方の空間をほぼ絶対零度にして凍結させ、対象を半永久的に氷柱へ封じ込める最上級の連続魔法。
どちらも詠唱を破棄している為に威力や範囲は格段に落ちてしまっているが、それでもエヴァの誇る最強の切り札である。
白銀の冷気が渦巻くようにして一樹を包み込んだかと思うと、抵抗する暇を一切与えず、一瞬の内に氷漬けにしてしまうのだった。

それは、最強種である真祖との戦いの決着にしては、あまりにも呆気なさ過ぎる地味な最後だった。
しかし割りと目立ちたがり屋なところのあるエヴァは、そんな決着に対して不満を抱くどころかむしろ満足そうで。
月明かりに輝くダイヤモンドダストが舞う中理多達の無事を改めて確認すると、ホッと胸を撫で下ろして笑顔を浮かべた。


「……あぁ、光に生きる事を選んだ時は私の所へ来ると良い。その時は、一緒に光の中で足掻こうではないか」


大きな氷のオブジェと化して地面に突き立つ一樹に、エヴァはふと振り返ってそう言うと、理多達のもとへ歩き出す。
その言葉は辛うじて一樹の耳に届いており、一樹はそれも良いかもしれないなと思いながら、眠るように意識を手放した。
こうして、真祖の吸血鬼となった一樹の起こした歴史に残る大騒動は、様々な人達の活躍によって終わりを迎えたのだった。



[26606] 第3章 25時間目 穏やかな夜明け
Name: あかいつき。◆3327a354 ID:742ccd16
Date: 2011/03/21 00:24
静寂に包まれた森の一角、疲労を顔に色濃く滲ませて木の寄り掛かっていた千草は、湖の方へと目を向けた。
先程まで届いてきていた、素人でも感じ取れるほどに濃い魔力の気配と、魔法による閃光と炸裂音が止んだのである。
もしそれが戦闘が終わったという事を表しているのだとしたら、果たして敵と味方、どちらの勝利で決着がついたのだろうか。

そう思考を巡らせる一方で、湖の様子を見に行くと言って湖へと向かった直人や、理多達の事を思い浮かべる。
本当に今更の事ではあるが、無理やりにでも引き止めた方が良かったのではないかと、見送った事を少し後悔していた。
しかしそれは、決して三人の事が心配だからではなく、ただ死なれると後味が悪いからだと、千草は誰にともなく言い訳をした。

それはさて置き、気を抜くにはまだ早いなと、黒鬼を倒して休んでいた千草は身体を起こして意識を切り替える。
そして共闘こそしたものの、今も味方なのかがよく判らない、地面にあぐらをかいて座っている小太郎へと歩み寄った。
今のところこちらに敵意はないようだし、今後も一緒に行動するのなら、これからどうするかを相談しようと思ったのである。

だがいざ声を掛けようとして口を開いた時、千草の視界の横で、草むらが不自然にガサリと音を立てて揺れた事に気付く。
もしかしたら、黒鬼が倒された事を察知した敵が送った刺客かもしれないと、千草と小太郎の二人は瞬時に戦闘体勢に入った。
しかし鬼が出るか蛇が出るかと固唾を飲んだ二人の前に姿を現したのは、気を失っている明日菜を背負う、傷だらけの直人だった。

思わぬ相手の出現とその格好にしばし硬直する千草だったが、小太郎が飛び掛ろうとしている事に気付いて慌てて止める。
一方、後少しで襲い掛かられていた事に気付いているのかいないのか、直人は千草の顔を見ると、暢気にヨッと片手を挙げた。
その緊張感の欠片もない態度に脱力した千草は、少しでも心配して損したと、見せ付けるようにして深いため息を吐くのだった。


「人の顔見てため息吐くのはどうなんだ。まぁいい、どうやら一戦やらかしたようだが、無事で何よりだ」
「その言葉、そっくりそのまんまお返しするわ。ウチと違って随分とまぁ、ボロボロになってるようやけど」


そう言って眉をしかめる千草に、直人は規格外の化物と一戦してなと苦笑しながら、明日菜をそっと木に寄り掛ける。
それから千草達の元へ行こうとし、何歩か歩いたところで不意によろけたかと思うと、そのまま抵抗もなく前のめりに倒れた。
咄嗟に駆け出して直人を抱き止める事に成功した千草は、異性の感触に少し頬を赤らめるも、次の瞬間にはサッと青ざめる。

口調や表情が変わっていなかった為、直人は見た目ほど危険な状態ではないと勘違いしてしまっていた。
しかし間近で見て触れてみれば、全身に力が入っていない上に脂汗が滲んでいたりと、無事とは程遠い事が良く判る。
とてもではないが、人を背負って歩く事ができるような──それどころか、立っている事すらできるような状態ではなかった。

千草に会ったら安心して気が抜けちまったと謝罪し、千草から身を離した直人は、その場にドカリと座り込む。
気が抜けたとかそういう問題じゃないと思う千草だったが、強がりたいならさせておこうと、呆れながら口をつぐんだ。
そして直人が休憩する時間を利用し、別行動を取っている間に何があったのかを、お互いに報告し合う事を提案したのだった。

まずは千草の報告が終わり、理多達の代わりに黒鬼と戦った事を知った直人は、千草と小太郎にお礼を言った。
次に直人の報告があり、自分が雇ったフェイトの話を聞いた千草は、ただの研修生ではなかったのかと驚きを露わにする。
自分でもよく無事で済んだなと思うよと、直人はフェイトとの戦いを思い出しながらしみじみと言うと、千草を見てフッと微笑んだ。


「何であれ、死なずに済んで良かった。お前との約束を果たさなきゃならないし、それに、泣かせたくはないからな」
「なっ……!? ウ、ウチはアンタが死んでも泣いたりしいひんわ!! 精々、約束を破った事を怒るだけや!」
「いや、泣かせたくないのは妹の事なんだが……なんだ、結構心配してくれていたのか?」


かなり恥ずかしい勘違いをしてしまった千草は、頭を抱え、ギャーッと女性らしからぬ悲鳴を上げてうずくまる。
その様子を、直人はニヤニヤと悪戯な笑みを浮かべて、小太郎は良く判っていない様子で首を傾げながら観察した。
しばらくし、唐突に立ち上がった千草は、顔を真っ赤にしてコホンとワザとらしい咳払いを一つすると、強引に話を逸らす。


「い、妹はん大丈夫なんか? 今は物静かやけど、湖の近くに居てはるんやろ?」
「まぁ、大丈夫だろう。何せ、最強無敵のエヴァお姉ちゃんが一緒に居るんだからな」


物静かになったのもきっと、と不安の欠片も見せない直人は、訝しげな顔をしている千草達を横目に立ち上がり。
先に協会へ戻って治療とかの準備をしておこうぜと言うと、フラフラとした危なげな足取りで明日菜の元へと歩き出した。
千草は一度湖の方へ視線を向け、そこまで言うならと思考を止めると、明日菜を背負おうとしている直人を止めに向かった。

──そして数分後、余裕だと言って明日菜を背負ったにも拘らず途中で力尽きた直人が、千草に引き摺られている光景がそこにはあった。


 ◆


「ほんとーっにスゴかったです! まるで、ヒーローのようでしたっ!」


直人が地面に背中を削られている丁度その頃、瞳を輝かせて詰め寄ってくるネギに、エヴァは褒めちぎられていた。
杖を支えにしなければ立つ事すらままならないほど満身創痍だというのに、ネギは余程エヴァの腕前に感動したようだ。
そんなネギに対し、エヴァは判ったから大人しくしていろと苦笑しながら頭を軽く叩くと、お前のお陰で助かったとお礼を言った。

何に対してのお礼なのか判らず首を傾げるネギに、エヴァは元ナギの杖を自分の元へ運んできた事にだと答える。
それを聞いたネギは、直人から"登校地獄"を解く鍵は"想い"と"杖"だと伝えて欲しいと言われた事を思い出し、納得した。
そして、一刻の猶予もなかった為にその依頼を果たす事はできなかったが、最終的には役に立つ事ができたと判りホッとするのだった。

エヴァはすれ違いざまネギにもう一度お礼を言うと、若干虚ろな目をしながらへたり込んでいる理多の元へと歩き出す。
理多はさほど外傷はなかったが、真祖の攻撃を限界まで防ぎ続けた事と"満月の瞳"を開眼させた事で酷く衰弱していた。
その疲労困憊した様子を見て色々な感情が湧き上がると同時、改めてエヴァは理多の事を大切に思っているのだと自覚する。

そして気が付くと早歩きになっていたエヴァは、理多の前へと辿りつくと、ヒザ立ちになって思わず抱きしめていた。
理多が今ここに存在しているという事を、理性では当然判っていたのだが、肌で触れる事によって確かめたかったのである。
そんなエヴァの内心を知るよしもなく、理多は突然の抱擁に戸惑いの表情を浮かべたが、嫌ではなかったらしくそのまま受け入れていた。


「えっと、エヴァンジェリンさん……?」
「理多……お前を助ける事ができて、本当に良かった」


そう想いを吐露したエヴァは涙こそ流していなかったが、理多を胸に抱いて感極まったようで、声が震えていた。
その事に気付いた理多は、静かに微笑んで優しく抱き返すと、子をあやす母親のように背中をポンポンと繰り返し叩く。
子供扱いされているようでエヴァは恥ずかしかったが、それでもしばらくの間はこうしていたいと、理多の頭に顔を埋めた。

エヴァがネギ達の存在を思い出し、抱き合う姿を思い切り見られていた事に気付いたのは、少し経ってからの事だった。
羞恥によってまともな思考を失ったエヴァは、ただ暖かい気持ちで見ていたネギ達がニヤニヤとしているように見えたらしい。
口をパクパクしながらトマトのように顔を真っ赤にすると、ポンッと意味もなく無数のコウモリと化して理多から離れ、顔と話を逸らした。


「と、ところでお前達、怪我は大丈夫か?」


あまりにも強引なエヴァの話の逸らし方に苦笑を浮かべつつ、理多達はそれぞれ自分の状態を確認していく。
どちらかと言えば大丈夫ではなかったが、かと言って命に関わるような状態ではなく、動こうと思えば動けなくはない。
理多と刹那は人外故の回復力もあるし、簡単な応急処置を施せれば問題はないだろうと、理多達は揃って頷き返した。

だから理多達は自分の事よりも、安否不明の直人達や、石にされてしまった協会の人達の方がずっと心配だった。
それに対し、エヴァは確かにそうかもなと納得しつつ理多達の不安を拭おうと口を開くが、それよりも先に応える者が居た。
やっと出番がきたと本気で泣きそうになっているネギの肩に乗った助言者、オコジョ妖精のアルベール・カモミールである。


「俺っちの見た限りだと、石化に関しては治癒魔法に長けた魔法使いに任せれば大丈夫な筈だぜ」
「なんだ、居たのかオコジョ妖精。あまりの影の薄さに、てっきり逃げ出していたものだと思ったいたぞ」


ひでぇと嘆くカモは置いておくとして、彼の言う通り、フェイトによって石にされた者達の回復は可能だった。
もしこれが通常の石化魔法ではなく、最上級土属性魔法"永久石化"であったなら、回復は非常に難しかっただろう。
元に戻ると知った理多達はホッと胸を撫で下ろし、直人達についても無事だろうと言うエヴァの言葉を信じる事にした。

一安心したところで理多達はこれからどう動くかを相談し始めたのだが、エヴァのお陰ですぐに決まる事となる。
魔力を取り戻した事によってエヴァが使えるようになった影を媒介にした空間転移で全員協会へ戻り、救援を要請。
その後無傷のエヴァが生存者の確認と直人達を捜索し、理多達は応急処置を施して救援を待つと流れで動く事になった。


「──あぁ、もう一つ決めなければならない重要な事があったな」


そう言ってエヴァが視線を向けた先にあったモノは、氷漬けにされて気味の悪いオブジェと化している一樹だった。
詠唱を破棄した事によって封印の効果が薄れているが、後数日は確実にこのままだとエヴァは少し誇らしげに説明する。
そして一樹に下される処分は、力の封印と真祖の秘術についての記憶を抹消後、牢獄入りとなるだろうという事も。

もしそれが自分の人生を狂わせた罰にしては軽いと思うのなら、今が私刑を加える絶好のチャンスだとエヴァは黒く笑う。
不死と言われている真祖だが、方法こそある程度限られているものの、精神的にも肉体的にも殺す事が可能であるらしい。
しかし理多はそんな煽りに対し、エヴァを含めたこの場に居る全員の予想通り、考える素振りもなく即座に首を横に振った。


「……いいのか? 以前の日常を壊された恨みが、ない訳ではないだろう」
「そう、ですね。だけど私はもう、非日常に生きる事を選んでいますから」


もし非日常を受け入れる事ができていなければ、恨む感情を抑え切れずに復讐する事を選んでいたかもしれない。
だが非日常を受け入れ、優しい周りの人達のお陰で現状を幸せと思えるようになっている今、復讐する気は起きなかった。
もちろんエヴァが言った通り一樹に対する恨みが消えたという訳ではない為、心からの謝罪でもなければ許す事はできないが。

そうか、と理多の答えに対して満足そうに頷いたエヴァは、一樹へと歩み寄ると、氷に手を当てて封印魔法を施す。
さらに何度か魔法を重ね掛けし、真祖の秘術を欲した何者かに持ち去られないようにすると、瞬く間に協会へ転移させた。
そして振り返って手招きするエヴァに従い、空間転移を軽々と行えてしまえる力量に感嘆していた理多達は影の前へと行く。

空間転移の準備ができているというエヴァの影は、一見ただの影に思えたが、よく見てみると全く透けていなかった。
夜の闇よりも深く黒い、人型の底なし沼のような影に少し飛び込むのを躊躇する理多達だったが、意を決して影の中へと入る。
すると何かに触れる感触もなく一瞬だけ視界が黒に染まり、思わず閉じていた目を開いた時には、協会の前に立っていたのだった。

扉を挟んだ向こう側へ移動しただけのようなアッサリとした転移に、理多達は何となくリアクションに困ってしまう。
そんな理多達が、派手な演出でもあればななどと思っている事は知るよしもなく、エヴァは戸惑う理多達に首を傾げた。
その際、エヴァは森からこちらに向かって歩いてくる人影に気付き、その正体が直人達だと判ると、笑いながら声を掛けた。


「ククッ、随分と楽しそうな事をしているじゃないか。どれ、私にも引き摺らせてくれないか?」
「楽しくねーよ背中が痛てーよ……って待てやコラ。何エヴァに代わろうとしてやがんだオイッ!」


直人がまともに動けないのをいい事に、日頃の鬱憤を晴らそうとしたエヴァだったが、寸でのところで理多に止められてしまう。
理多が言うなら仕方がないと大人しく引き下がったエヴァは、おもむろにクイッと指を曲げると、魔法で直人を浮かび上がらせる。
そしてそのまま協会の中へと移動させると、自分達も後に続いてお互いにあった事を話しながら協会へと入っていくのだった。


 ◆


それから救援を要請したり傷の手当をしたりした後、一向は用心の為に結界を張った一室に集まって休んでいた。
明日菜とネギ、刹那と木乃香は布団で、千草と小太郎は部屋の隅で、理多は壁に寄り掛かって泥のように眠っている。
そんな中、エヴァと直人は万が一に備えた救援がくるまでの見張り役として、理多を間に挟む形で座って起きていた。

正直なところ、見張りはエヴァ一人居れば十分過ぎるほどであり、戦える状態にない直人が起きている意味は皆無に等しい。
だが直人は見張りの為に起きている訳ではなく、口にはしていないが、エヴァの暇潰し相手になる為起きている事にしたのである。
それは理多を助けてくれたエヴァへの遠回しなお礼で、エヴァはその事を察していたが、空気を読んで何も言わないでおく事にしていた。

激しい戦闘の後だから余計にそう感じるのだろうか、屋敷が凄く静かだなと、直人はこぼれかけたあくびをグッと噛み殺す。
そしてみんなが眠ってからずっと黙り込んでいるエヴァに、自分が起きている必要はなかったのではないかと思い始めていた。
しかしたまにはこうしてゆったりとするのも悪くないとも思っていると、隣に居る理多が起きないようにか、小さな声でエヴァが言った。


「……そういえば、お前には礼がまだだったな。ナギ杖の件は助かった、ありがとう」
「あ、あぁ。いや、なんつーか、俺の方こそ理多をまた守ってくれて……その、あ、ありがとな」


自然にお礼の言葉を口にしたエヴァに対し、直人は目を丸くしてそう言い返すと、顔を逸らして赤くなった頬を掻く。
これまでの付き合いの中で、お礼を言われた事がない訳ではなかったが、ここまで素直に言われたのは初めてだった。
その為、何となく照れて戸惑ってしまい、いつものように茶化す事ができなかった上に、お礼まで言ってしまったのだった。

そんな自分に直人が内心で俺キモッと悶えていると、不意に身動ぎした理多が、自分の頭をエヴァの頭に寄り掛けた。
その光景を微笑ましく思いつつ、エヴァがどう対処するだろうかと横目で窺っていると、エヴァは理多の髪を優しく撫で始める。
エヴァの理多に対する愛情が見て取れるその行動に、直人は自分の事のように嬉しさを覚えながら、エヴァ達の変化ついて考えた。

数日前に再会した時から気付いていた事だが、今の理多に対する態度など、エヴァは確実に変化している。
直人はまだ茶々丸が居らず、常に独りで過ごしていた頃の、ナギの死を知り酷く荒れていたエヴァを知っていた。
だから今の幸せそうにしている姿は、彼女の事を内心好ましく思っている直人としては、素直に嬉しく思っている。

そして、兄として当然の事のように気が付いている理多の変化については、その事以上に喜ばしかった。
兄にすらあまり頼ろうとしていなかったのが、エヴァに手当てを頼んだり、甘えたりするようになったのである。
何でも自分でこなそうと無理をしていた理多をそう変えてくれたエヴァには、いずれ拒否されても恩返しをしなければならないだろう。

それにしてもと、兄である自分よりも姉妹らしい二人の様子に、直人は少し嫉妬心を覚える。
しかし、だからこそエヴァが最適だろうと、二人の変化に気付いた時から考えていた事を口にした。
本来他人に頼むような事ではないとは思うので躊躇われるが、最愛の妹の為だ、背に腹は代えられない。


「──なぁエヴァ、理多の姉になってくれないか?」
「……プロポーズにしか聞こえないのだが、まさかそうではあるまい」


エヴァの問い掛けに直人は頷くと、理多には甘える事のできる存在が必要だと思っていたと話し始めた。
仕事でさほど一緒に居られる時間の少ない自分に代わり、無理しがちな理多の面倒を見てくれる、そんな存在が。
そしてそれに適任だと思うエヴァに理多の事を任せたいと思ったのだと、直人は真剣な面持ちでエヴァを見つめた。

対するエヴァはそういう事かと納得し、同時に理多の事で自分を頼ってくれた事を嬉しく思う。
直人の最愛の妹を任せてくれるという事はつまり、それだけ自分を信頼しているという事だからだ。
となればその信頼に答えなければならないだろうと、理多の手を取りながら逡巡する事なく返答した。


「頼まれずとも、私はもう勝手に理多の事を妹だと思っている」
「……くく、そうかそうか。そりゃ良かったよ……あぁー、何か安心したら眠くなってきたな」


エヴァの答えに満足そうに笑うと、直人は何の為に起きていようとしていたのか忘れて眠りにつく。
逆にその理由を覚えていたエヴァは呆れたように苦笑し、くしゃみをした直人に魔法で運んだ布団をかける。
それから理多と直人の寝顔を順に見ると、胸に陽だまりのような温かさを感じながら、微笑みを浮かべて呟いた。


「まったく、世話の掛かる兄妹だ」


その声は夜の闇に溶け、そして、穏やかに夜が明けていく。



[26606] 第3章 26時間目 ここから始まる物語
Name: あかいつき。◆3327a354 ID:742ccd16
Date: 2011/03/21 00:24
要請を受けた救援部隊が協会に到着したのは、太陽が山の合間から少しばかり顔を覗かせた、肌寒い早朝の事。
救援部隊の者達は正直なところ、協会が壊滅したという内容の連絡に、そんな事は有り得ないだろうと半信半疑だった。
だが事実を目の当たりにし、即座に心を入れ替えて各々治療の準備に取り掛かると、次々と石にされた人達を癒していった。

理多達を含めた全員の治療が無事終わり、事のあらましを聞いた詠春達協会の者は、現在事後処理の追われている。
そんな協会全体が慌しく動いている中、何か手伝おうとして止められた理多達は、居心地の悪さを感じながら休息していた。
千草と小太郎は今回の騒動に大なり小なり関与している為、重要参考人として事情聴取を受けているのでこの場には居ない。

規則正しい生活をしている人達が起き始める時間となった頃、ある程度落ち着いたのか、詠春が部屋を訪れる。
そのまま楽にしていて良いと言われたものの、特に刹那などはできる筈もなく、部屋を整理した後で聞く体制に入った。
笑顔で準備ができるのを待っていた詠春は、座布団に腰を下ろしてエヴァ達に視線を向けると、深々と頭を下げて感謝した。


「此度の件、協会を代表してお礼を申し上げます。本当に有り難う御座いました。特に、エヴァンジェリンさんには──」
「私はただ、最後の最後に止めを刺したというだけだ。理多達が必死に頑張ったからこそ、できた事だよ」


むしろ一番私が頑張らなかったと言うエヴァに、詠春は早々に石になった私ほどではないでしょうと苦笑する。
それからコホンと咳払いをすると、処理が終わったエヴァ達が気になっているであろう事柄について報告をし始めた。
まずは理多達の吸血鬼化、麻帆良学園襲撃事件、そして関西呪術協会の壊滅、その全ての主犯である一樹について。

一樹に対する処罰は、特に驚く要素のない、おおよそエヴァが予想していた通りのモノになるとの事だった。
つまりは真祖の力を封印し、悪用されないよう真祖の秘術に関する記憶を抹消した後、投獄するというものである。
ただ一つだけ予想外だったのは、力の封印に、エヴァが施されていた麻帆良学園の"学園結界"を使用するという点だ。


「そうなると、私の力の封印はどうするんだ? 真祖二人分となると、"学園結界"の許容量を超えてしまうだろう」
「貴女の力の封印や解けた"登校地獄"に関しては、現在丁度本国に居る東の長が、会議で検討しているようです」


そうか、とあまり興味なさそうにエヴァが頷くのを確認して、詠春は次に千草と小太郎について話し始める。
小太郎は、一樹に協力した理由が強い相手と戦う為という悪意のないものであったとしても、敵対した事は事実。
なので未成年である事や、途中で騒動の解決に協力した事で罪が軽くなるが、しばらくは投獄される事になるらしい。

千草は関東魔法協会へ復讐する計画を立てはしたものの、結果的には実行しておらず、騒動の解決に協力。
反省もしている為に処罰はなしとの事で、千草と力を合わせた直人と助けてもらった理多は、ホッと胸を撫で下ろした。
事情聴取が終われば、早くてもうそろそろ、遅くても今日の昼までには確実に解放され、理多達と合流する事ができるようだ。


「千草君を説得して復讐を止めさせたのは直人君のようだね、有り難う。私がもっと、下の者を気にかけていれば……」
「失礼を承知で言ってしまうと、正直どっちもどっちかと。いきなり逆恨み染みた復讐を決行するのも、どうかと思いますし」


ただ家族を亡くした──殺された以上、そうしてしまうのは仕方がない事だとも思いますがと、直人は目を伏せる。
直人が加害者の過失による交通事故で、幼い頃両親を亡くしている事を知っている詠春は、その言葉を真摯に受け止め。
関東との和平は慎重に行う事を誓うと、直人はそうしてくださいと微笑を浮かべ、自分の事のようにお願いしますと頭を下げた。

その後ろでは、普段とは別人のような直人の態度に驚いている者達が居たのが、省略する。

一樹に協力した理由が判っていない、逃走したフェイトと月詠については、引き続き調査していくとの事。
ただ元協会所属の月詠についてはともかく、フェイトについては本物かどうか怪しい名前しか判っていないようだ。
千草がフェイトを雇った時に聞いた、イスタンブールから研修で派遣されてきたという情報は、全くの偽りであったらしい。

偽装工作や引退しているとはいえ自分を退けた力量から、裏の世界の"闇"を暗躍している者なのかもしれない。
そんな詠春の呟きに沈黙が場を包み込んだ時、それを破るようにして、電話の子機を手にした巫女が部屋へ訪れた。
どうやら詠春宛てで学園長からの電話らしく、詠春はお礼を言って子機を受け取ると、エヴァ達に一言断って席を外した。

しばらくして戻ってきた詠春だったが、その手には子機を持っており、まだ学園長との電話は繋がっているようだ。
それを見て自業自得な面もあるとはいえ、長は色々と大変だなとエヴァが思っていると、詠春が子機を差し出してきた。
大人しく子機を受け取り、"学園結界"や"登校地獄"の事かなと耳を傾けたエヴァは、学園長の言葉に目を見開く事になる。


「前置きは省いて本題を伝えよう。ついさっき理多くんの処遇が決まった」
「──っ! そうか、それで理多は自由になれるのかっ!?」


エヴァが思わず姿勢を正しながら、急かすように大声で問い詰めると、電話の向こうで学園長が苦笑した気配がした。
理多は麻帆良学園に滞在していた時の態度や、さつきを救った事、そして今回の事から、吸血鬼ではあるが危険なしと評価。
機密保持の観点から麻帆良学園への転校となり、卒業までの一年間を問題なく過ごす事ができれば、完全に自由になれるようだ。

麻帆良学園へ転校と聞いたエヴァは、理多は寮住まいではなくログハウスウチから通うようにすると興奮気味に言う。
そんな今にも小躍りし始めそうなエヴァの横では、理多がまた以前のように学校に行けるんだと、満面の笑顔を浮かべていた。
電話越しに聞こえてくる歓声に釣られて口元を緩めつつ、学園長は咳払いをしてエヴァの注意を引き付けると、もう一つの用件を口にする。


「お主についてはまだ決まっておらん。こう言っては不快に思うかもしれんが、何せ"闇の福音"の事じゃからのう……」
「ん。まぁ、そうだろうな……処遇に困っているのなら、私自ら案を挙げてやろうか?」


賞金は取り下げられ、全ての罪が時効になっているとはいえ、本国としては枷の外れたエヴァを野放しにはしたくない。
故に再び力を封印するなりしてしまいたいのだが、それをエヴァが了承する筈もなく、下手な事を言って敵対されるのは困る。
そう本国が思っている事を学園長が濁した言葉から察した為、エヴァは自ら納得させられるであろう案を挙げる事にしたのだった。

一つ目は、いざという時に理多や誰かを守る事ができる程度を残して力を封印し、その鍵を学園長に預ける。
二つ目は、再び──今度はちゃんとした"登校地獄"を施し、それが解除されるまでの間、麻帆良学園の警備をする。
最後に、自分や理多達カゾクがいわれのない危害を加えられない限り、こちらからは絶対に手出しをしないと誓約する。

それらの案を聞いた学園町は、無言でその内容について吟味した後、この後の会議で話してみようと頷いた。
エヴァは宜しく頼むと言い、これから京都を観光する許可を半ば強引に取ると、通話を切ろうとボタンに指をかける。
だがボタンが押される直前に、直人がエヴァの背後から手を伸ばして子機を奪うと、無駄に爽やかな笑顔でこう言った。


「ご無沙汰してます学園長、雨音直人です。今度一発殴らせてもらいに行くので、覚悟しておいてください」


それだけ言って学園長の返事を聞かずに詠春へ子機を返した直人は、何かをやり遂げたかのようにガッツポーズをする。
そして突然とんでもない事を口にした直人に全員が戸惑う中、エヴァだけは何やら楽しそうだと、瞳をキラキラと輝かせていた。
一方、訳の判らないまま殴られる事が決まった学園長は、何故じゃと嘆きながら頭を抱え、それを詠春が必死になだめるのだった。

──後日、学園長を殴りに数十名が麻帆良学園を訪れる事になるのだが、この時はまだ誰も知らない。





妙な事になった報告会の後、朝食を終えたエヴァ達が部屋へ続く廊下を歩いていると、窓の外に見覚えのある姿があった。
気になって覗いてみると、先に朝食を終えていたネギ達が、携帯電話を片手に慌てた様子で門の向こうへ走り去っていくのが見える。
エヴァが念話で事情を確認したところ、旅館でネギ達の身代わりになっている式神が暴走し、朝倉がそれを誤魔化そうと必死になっているようだ。

理多は朝倉が自分との約束を守ろうとしている事を嬉しく思いながら、自分達も旅館へ戻るかエヴァに尋ねる。
しかしエヴァはその必要はないだろうと答え、私達は外出の許可をもらった事だし、早速京都を見て回ろうと言って笑った。
その待ち切れないといった様子のエヴァに、理多は微笑みを浮かべると、何処から回りますかと京都の名所を挙げていった。

前を歩く理多とエヴァ、茶々丸が楽しそうに観光ルートを決める様子を眺めた後、直人は横を歩く千草に目を向ける。
千草は詠春が言っていた通り早くに解放されたらしく、朝食を終えて部屋を出たところで、タイミング良く鉢合わせしたのだ。
そして少し気疲れした様子の千草を見て、直人が気晴らしにどこかへ行かないかと、少々無理やりに同行させたのである。

ちなみに先程、学園長を一発殴らせるという約束を果たせそうだと直人が告げたところ、マジかよと千草は絶句した。
約束こそしたものの、本当に最高責任者を殴らせるなんてそんな無茶が通るとは、正直あまり思っていなかったのである。
実際はまだ殴りに行くと告げただけなのだが、エヴァが凄く興味を抱いていたようなので、おそらく何とかなってしまうだろう。


「──お前達は何処か行きたい所はあるか? 今なら特別に要望を取り入れてやらん事もないぞ」


不意にこちらへ振り返ったエヴァが、上機嫌に声を弾ませてそう尋ねてきたので、直人は少し考える。
理多達が楽しめるのなら、そして千草が元気になるのなら何処でも良いのだが、せっかくだから何か答えたい。
しかし何も思い浮かばず、唸りながら眉間にしわを寄せていると、我ながら素晴しい迷案──もとい名案を思い付いた。


「なぁ、今の金髪は転移魔法使えるんだし、いっそ海外にでも行かねぇか? 俺、凱旋門とか見てみてーな」
「直人さん、無断入国は些か拙いかと思います。マスターと理多さんがお望みとあれば、全力でサポート致しますが」


直人の違法行為を勧める発言を嗜めつつも、強く止めはしない茶々丸が、キリッとした表情で目を光らせる。
そんな茶々丸に対し、エヴァは茶々丸が人間らしさを通り過ぎて変な方向へ行ってしまいそうで、少しばかり心配なった。
しかし無断入国には何とも思わず、むしろ面白そうだと思うエヴァの横から身を乗り出した理多が、眉を吊り上げて却下した。


「望みませんっ! もぅ、今日は大人しく京都を観光しようよ……あの、天ヶ崎さん。お勧めの場所とかありませんか?」
「ウ、ウチは参加確定なんか? ……そうやねぇ、改めてそう言われると、パッと思いつかへんのやけど──」


エヴァ達の賑やかな雰囲気に、千草はいつの間にか笑みを浮かべていた事に気付かないまま、思案し始める。
まだ自覚はないが、千草はもう関東魔法協会に対する激しい憎悪が、消えてこそいないものの、すっかり薄れていた。
直人のような支えてくれる存在が近くに居れば、千草は自分が思っているよりもずっと早く、立ち直る事ができるかもしれない。

一樹の起こした一連の騒動は、悪い事ばかりではなく、色々な人達に、様々な変化をもたらすキッカケとなった。
そしてその結果、甘えられるようになった者、生きがいを得た者、心を自覚した者、憎しみから解放された者などが居る。
彼女達は変化した事で幸せを得る事ができたが、逆に変化した事によってその幸せを上回る不幸が降り注ぐ可能性もあるだろう。

しかし、例えそうなったとしても、変わった事で新たな強さを、大切な存在を得た今の彼女達は。
どんな不幸も乗り越える事ができる、そう誰もが思えるような、力強くて頼もしい表情をしていた。


「行くぞ理多、最初は清水寺だ! 今日は目一杯楽しむぞ!」
「──はいっ! 思い出一杯作りましょうね、エヴァンジェリンさんっ!」


新たな門出を歩み出した彼女達を祝福するかのような、とびっきりの快晴の下。
出掛ける準備を終えたエヴァは、理多の手をギュッと握り締め、笑顔で屋敷を飛び出した。
その後に続いて、どこか羨ましそうな表情をしている茶々丸と、微笑む直人と千草も走り出す。

──ここから始まる物語。
それはきっと、光に満ちている事だろう。



[26606] 最終章 0時間目 吸血鬼同盟
Name: あかいつき。◆3327a354 ID:742ccd16
Date: 2011/03/21 00:25
裏の世界──特に魔法世界では、八月の始めから英雄ナギの死亡が公表された時と同等に騒がれている話題がある。
それは、ナギによって倒されたと思われていた"闇の福音"が生きて現れた事と、本国がその"闇の福音"と正式に和解した事。
そしてそれ以上に世間を困惑の渦に叩き込んだのは、エヴァとその仲間の吸血鬼達が、"何でも屋"を試験開店した事だった。

その何でも屋は、飼い猫探しから魔物退治まで受付中の、魔法世界ではごくありふれた何でも屋と何ら変わらない。
"闇の福音"の店だというのに、殺しなどの法律に違反した依頼は一切受付けないが、嫌がらせ染みた雑用も快く受付ける。
仕事は早く丁寧で、法外な請求をされる事もなく、それどころか現在はお試し価格という事で言い値か血液の提供で良いという。

だが当然の事ながら、生まれた時から悪と教えられてきた"闇の福音"と吸血鬼の店など、誰も利用しようとはしなかった。
普通の店という評価も、度胸試しや冷やかしで雑用を依頼したほんの数名から流れた情報で、全く信用されていなかったのだ。
だが開店から一週間程経った頃の事、傷を負って暴れた竜が村を襲っているところに無償で救援に現れてから、徐々に変わり始める。

世界中から注目されていた事もあって一気にその話が広がり、まだ雑用の域は出ないものの、依頼が増えていったのだ。
"闇の福音"や吸血鬼が完全に信用された訳ではなく、疑う者も多く居るが、それでも世間が受け入れ始めているのは確かだった。
何でも噂によると、竜へ果敢に立ち向かう"闇の福音"達の勇姿に見惚れた者達によるファンクラブまで、早々に出来ているらしい。


「──なぁ、例の店どう思うよ。"闇の福音"が始めた何でも屋、"吸血鬼同盟"だっけ?」


拳闘士達が日夜勝利と栄光を賭けて闘っている闘技場のある、常に喧騒の絶えない自由交易都市"グラニクス"。
道端での決闘が珍しくない、少々治安の悪いこの都市の酒場で、二人の男が"闇の福音"の何でも屋について話している。
一人は大剣を背中に携えたラフな格好をした虎の獣人で、もう一人は腰に二本の刀を差した袴を着こなしている鷹の鳥人だ。


「そもそもあれ、本当に"闇の福音"なのか? 竜から村を救ったとか、ちょっと信じ難いし」
「だよなぁ。仮に本物だとしても、何か企んでるんじゃねーか? 吸血鬼の仲間を増やしてるとかよ」


眉をひそめながら言われる"闇の福音"達への中傷的な意見は、別段珍しいものではなく、むしろ一般的なものだ。
何でも屋は世界征服の下準備の為、本国との和解は脅してさせた、などと色々根も葉もない事を言われているのである。
だから鳥人の男も、獣人の男のように根拠のない悪い想像を口にしようとしたその時、明るい少女の声が、入り口から聞こえてきた。


「こんにちは! 今日も三人なんですけど、席は大丈夫ですか?」
「あらいらっしゃい、今日も可愛いわねぇ。えぇ、席は空いているわよ。空いてなかったら空けさせるわ!」


そう言って力こぶを作って見せた店長の女性に、先程の声の少女は、頬を染めて止めてくださいと苦笑いを浮かべた。
少女は中学生辺りだろうか、童顔で小さく華奢な体躯をしており、栗色で少しクセっけのある髪はツーサイドアップにしている。
服装はフリルがあしらわれた白いノースリーブのワイシャツに、オレンジ色ネクタイ、ラインが入った黒のプリッツスカートだった。

思わずスカートと黒のオーバーニーソックスの間の絶対領域に目を奪われながら、獣人の男は少女をさり気なく観察する。
少女を見てまず最初に思った事は、店長が言った通り可愛いで、次はこの世界には合わないな、というものだった。
それは服装がという意味ではなく、幼い見た目や優しい雰囲気が、争いが日常茶飯事な此処に合わないという意味である。

だからどうしてそんな子が此処に居るのだろうと不思議に思い、獣人の男は素直に店長へ尋ねてみる事にした。
それに、男女の関係を望む相手としては幼いが、可愛い子と仲良くなって損はないし、キッカケにできたらと思いながら。
まさか少女が今この世界で最も話題になっている事の関係者だとは、無理もない事だが、全くもって想像していなかった。


「店長、その見慣れない子は誰なんだ? もしかして、新しいバイトの子?」
「ん? あぁ、この子はリタちゃん。ほら、件の何でも屋の一人だよ」


質問した獣人の男と連れの鳥人の男、そして気になってこっそり聞き耳を立てていた客達が、一斉に青ざめて凍り付く。
件の──"闇の福音"の何でも屋の一人という事は、見た目がどんなに可愛らしくても吸血鬼である為、恐ろしくなったのだ。
外見が実力の判断基準に成り得ない事を、人形のように綺麗でありながら最強の、"闇の福音"が証明している事もあって。


「ごめんねぇ、リタちゃん。毎回こんな反応されるのは傷付くだろう?」
「いえ、だからこそ私達は何でも屋をやっているので。仕方のない事ですし」


客達のような反応に慣れてしまっている少女──雨音理多は、特に気にした様子もなく店長へ笑みを浮かべる。
その笑みに、客達は哀しさの色が微かに混ざっている事に気付いて罪悪感を抱くものの、しかし恐怖心は拭えなかった。
そんな時、一人の少女が入店し、流れるような黄金の髪をなびかせながら、堂々とした足取りで理多達へと歩み寄ってきた。


「──どうかしたのか、理多」


そう言って理多の横に並んだ少女は、理多よりも小柄で幼かったが、しかしこの世界に合わないとは思わなかった。
服装は襟に白いラインの入った黒いノースリーブのワイシャツとプリッツスカート、赤色ネクタイと可愛らしいものではある。
しかし身に纏う気配は凛と冷たく澄んでおり、背中を向けて佇んでいながらも隙のない姿は、熟練の戦士のそれだったからだ。

両腕を組んだ年下である筈の少女に横目で見られ、客達は傍目から見たら心底情けないほどに震えて怯え上がった。
金髪で人形のような外見をし、吸血鬼同盟の一員である理多と一緒に居る事から、ある人物が頭に思い浮かんだからである。
エヴァンジェリン・A・K・マクダウェル──数々の二つ名を持ち、英雄ナギに匹敵する力を持つとされる最強最悪の魔法使いを。


「あぁ、いつもの事だから気にしなくていいよ、エヴァちゃん」
「ちゃん付けは止めろと言っているだろう。まったく、私の方が何倍も年上なんだぞ」


店長が名前を呼んだ事によって、少女が"闇の福音"だと確信した客達は、恐怖と緊張からダラダラと脂汗を流した。
エヴァは吸血鬼同盟のメンバーと非常に仲が良い事は噂で流れており、理多を悪い気分にさせた自分達の命はここで終わる。
仮にその事で殺されなかったとしても、少しでも機嫌を損ねるような事をしてしまえば一巻の終わりだと、勝手にそう思ったからだ。

しかし、本当にそうだろうか、そんな事をするような人物なのだろうかと、エヴァと店長のやり取りを見ていて思い始める。
もし自分達が思っているような凶悪な人物だったのなら、無謀にもちゃん付けをした店長など、今頃挽肉になっている筈だ。
だがそうなってはいないという事は、本国が和解をしても良いと思えるくらいに改心した、証明になるのではないだろうかと。


「──おぉっ、相変わらずの凄い怯えられっぷり。前から思ってたけど、これって営業妨害にならないのかな?」
「ケケケ。ドウセナラ、襲イ掛カッテクリャ楽シイノニナァ。オイ薄幸娘、チョット店ノ奴ラヲ挑発シテミロヨ」


どうしたものかと客達が思い悩んでいると、酒場の入り口から緊張感のない明るい声と、片言な声が聞こえてくる。
まだ誰か厄介な人物がくるのかと強張る身体を動かし、声の方へ目を向けると、小さな人形を肩に乗せた少女が一人。
今度は理多に近い穏やかな雰囲気を持っていたが、という事はつまり二人の関係者であり、吸血鬼という事になるのだろう。

三人目の少女──矢塚さつきは、理多やエヴァよりも色々と大きく、見た目は高校三年生か大学生辺りといったところ。
理多よりも長く濃い茶色の髪をツーサイドアップにし、学校の制服だろうか、半そでのワイシャツに青のリボンとプリッツスカートを着用している。
外見的には三人の中で一番年上なのだが、活発な印象の為か、長女エヴァ、次女理多、三女さつきといった感じに思えた。

そんなさつきの肩に乗った人形──チャチャゼロは、黄緑色の短髪とガラスの瞳をし、服装はエヴァの服をそのまま人形用にしたような物だった。
魔力による自立活動をする自我のある人形のようで、先程好戦的かつ挑発的な事を言っていたが、物騒な性格が気配からも伝わってきている。
もしかしてエヴァよりも危険な存在なのではないだろうかと、客達はチャチャゼロと目が合わないよう、視線や意識を向けないようにした。

様々な──主に負の感情が多く込められた視線を背中に受けながらも、エヴァ達はそれを気にせず店長に注文を伝える。
そして注文した料理がくるまでの間、直人と千草の関係がどうとか、茶々丸やネギ達はいつ頃くるのかなど、姦しく雑談をし始めた。
そんな和気藹々としているエヴァ達の様子に、客達は何だか過剰に警戒しているのが段々と馬鹿らしく思えてきて、緊張を解くのだった。


「……なんかよ、普通の子達にしか見えないんだが、これは俺がおかしいのか?」
「大丈夫だ、お前は変じゃない。俺も"闇の福音"とリタって子が姉妹に見えるから」


そう言って獣人の男と鳥人の男が向けた視線の先では、理多とエヴァが一足先にきた前菜を仲良く食べ比べしている。
それを見たさつきもその食べ比べに加わり、それぞれに感想を言い合った後、さつきが身を乗り出して店長に感想を伝えていた。
三人の仲はとても良いようで、その中でも特にエヴァと理多の二人はお互いに気を許し、鳥人の男の言う通りどこか姉妹のようだった。

エヴァとチャチャゼロは気付いていたのだが、気付かれないように様子を窺っていた二人は、エヴァ達にドキリとする。
それは二人だけに限った事ではなく、同じく覗き見ていた客達の殆どが、エヴァ達が時折浮かべる笑顔に目を奪われていた。
そんな表情を見せるエヴァ達が、エヴァについては確かに過去は極悪人だったかもしれないが、現在も悪人とは思えなかった。


「な、なぁ。どうして、何でも屋を始めたんだ?」


何でも屋を始めた理由に何かあるのではと思い、どうしても気になった鳥人の男が、勇気を出してエヴァに尋ねてみる。
すると話しかけられた事がよほど意外だったようで、エヴァは目を丸くして振り返り、
また一緒に理多達も男へ振り返った思いがけず全員からの視線を一身に受けた鳥人の男は硬直し、
それを見たエヴァは大丈夫かと苦笑した後、問いに答えた。


「光に生きる為……判り易く言えば、償いの為だな。あぁ、理多達は違うぞ? 償う罪なんてないからな」


こいつらはただの被害者だ、だからあまり怖がらないでやって欲しいとエヴァは言外に言い、客達をチラリと見回す。
それからエヴァの回答に何か思う事があったのか、口をつぐんでいる鳥人の男に視線を戻すと、今度はエヴァが尋ねた。


「数え切れないほどの罪を重ねてきた私が、今更光に生きたいなんて、おこがましい事だと思うか?」
「……いや、良いんじゃないか。俺は、そう思う……けど」


鳥人の男の恐るおそる言われた答えが、どうやら余程予想外だったらしく、エヴァは鋭い雰囲気を緩和させてキョトンとした。
その横では理多とさつきが自分の事のように喜んでおり、そんな彼女達を見て、エヴァの心変わりの理由が判ったような気がする。
そして少し時間は掛かるかもしれないが、きっといつかは光に生きる事ができるだろうと、鳥人の男を含めた客達はそう思った。

コホンと咳払いをして気を取り直したエヴァは、鳥人の男の言葉と、客達の好意的な様子を噛み締めるように目を閉じる。
そして客達に向けて、エヴァから超級魔法にも匹敵する──それは決して過大評価ではない、とんでもないものが送られた。
それは、思い掛けない反応に照れ、ほのかに赤く染まった頬を掻きながらなされた、乙女のようなエヴァの微笑みである。


「……そうか、そう思ってもらえると励みになる。ありがとう」


世界には"魅了の魔眼"という見た者を虜にする能力が存在するが、エヴァの微笑にはそれに匹敵する力があるようだ。
女性を含めた客達の心を鷲掴みにしたエヴァは、普通の趣向だった者をイケナイ趣向に目覚めさせ、元からの者は悪化させた。
その中で平然としていたのは、エヴァの笑みに多少慣れている理多とさつき、チャチャゼロと、"吸血鬼同盟"の者達くらいのものだった。

なんだかキュンキュンしている客達に、理多はあちゃーと苦笑いを浮かべ、熱い視線を向けられているエヴァは思わず身を引く。
一方口元を引きつらせたさつきは、ロリコン大量発生ダナとケラケラ笑っているチャチャゼロに、こっそりと小声で問い掛けた。


「ほ、微笑でこの反応なら、理多ちゃんにだけ向けられる満面の笑みを見せたらどうなるんだろう」
「アァー、理性ガブッ壊レテ襲イ掛カッテクルンジャネェカ? 面白ソウダガ、ソレ以上ニ気持チ悪イナ」


償いの為、そして同時にエヴァや理多達吸血鬼に対する悪い印象を拭う為に始められた何でも屋"吸血鬼同盟"。
その活動によって少しずつ、少しずつ印象は回復していっているが、仲睦まじいやり取りでも回復していっていたりする。
たまに行き過ぎてイケナイ趣向に目覚めさせてしまったりする事もあるものの、今のところは非常に順調と言って良いだろう。

今回は割りと簡単にいったが、常識のように根付いてしまっている悪い印象を拭う事は難しく、また世界は広い。
しかし諦めずに根気強く努力していけば、エヴァ自身が思っているよりもずっと早く、印象を回復する事ができるだろう。
世の中は簡単に救われるほど単純で甘くはないが、かと言って光に生きようとする者を見放すほど、厳しくはないのだから。

エヴァンジェリンと雨音理多、二人の吸血鬼を主人公とした成長と変化の物語は、ここで終わりを迎える。
後は 何でも屋"吸血鬼同盟"として、時に笑い、時に涙しながらも、ゆっくりと光に生きていく事になるだろう。

──と思いきや、直接ではなく間接的に、"吸血鬼同盟"のみならず全世界を巻き込んだ新たな騒動が向こうから訪れる。


「──た、大変だ! 世界を渡るゲートポートが暴走して、ぶっ壊れたらしいぞ!!」


息を切らせて酒場に駆け込んできた男が口にした衝撃の内容に、店内は騒然とし、理多は顔色を青ざめさせた。
今日の丁度この時間辺りに、エヴァの従者であり家族でもあるガイノイドの絡繰茶々丸が、ゲートを使用しているのだ。
一緒にネギや生徒達数名も居る筈であり、何らかの事件に巻き込まれている可能性もあると考え、エヴァは立ち上がって理多達へ告げた。


「……よし。私達"吸血鬼同盟"は救援活動を兼ねて、茶々丸達の無事を確認しに向かうぞ!」


エヴァの作り出した影の転移魔法に、"吸血鬼同盟"一向は店長に注文のキャンセルをした後、次々と飛び込んでいく。
一難去ってまた一難、エヴァ達が何でも屋として光に生きる為の活動をじっくりとできるのは、大分先の事になりそうである。



[26606] 最終章 放課後 あとがき+α
Name: あかいつき。◆3327a354 ID:742ccd16
Date: 2011/03/21 00:25
『あとがき』

当作品"黎明の吸血鬼"は、京都編ラストにヒロインを守る為、
エヴァが自力で"登校地獄"を解除するという、私的に超熱い展開が見たいと思った事を始まりに執筆を始めました。

また他にも、絶対に書きたい展開がありました。

原作のような成り行きではない刹那と木乃香の和解。
刹那が自ら覚悟を決めて木乃香に烏族と正体を明かす。
フォローもなく退場した千草の救済。
直人とネギが協力してフェイトと死闘。

以上の四つです。

これらの展開や、オリジナルキャラである理多を登場させるにあたって、非常に気を付けていた事があります。
それは原作のネギまの雰囲気を壊さないようにするという事です。要するに、シリアスにし過ぎない。
さつき戦はそうなってしまう可能性がありましたが、理多に頑張ってもらいました。

そして原作キャラを崩さずに書くというのも、当作品を書くにあたって気を付けていた事の一つです。
二次創作において、原作キャラは頻繁にキャラ崩壊させられています。それらを見ていて、
"それ、二次創作の意味なくないか?"といつも思っていたので。
第二章からのエヴァに対して違和感が出ていなければ良いのですが、どうでしたか?

それと原作主人公であるネギのフラグを奪わない、京都編以降の流れを崩さないようにするというのもありました。

学園祭編や魔法世界編も書きたい気持ちがない訳ないではないのですが、ここで完結させます。
理由としては、学園祭編から先は完全にネギの物語となり、下手に介入できない為と、
現在の修学旅行編をもって理多とエヴァで書きたい事(テーマ)が綺麗になくなる為です。
短編という形であれば書けなくはないかもしれませんが、需要なさそうですしね。

最後に一言。

面白かった、つまらなかったの一言でも構いませんので、感想をください。
いや、理由も一緒に書いて頂ければ更に嬉しいですが。

──それでは、長い間当作品にお付き合い頂き、本当に有難う御座いました!


 ◆


『おまけ:エピローグ時点での各キャラについて』

〇雨音理多

京都から戻った後、麻帆良学園聖ウルスラ女子高等学校へと転校。
エヴァの家に引き続き居候しており、学校にもそこから通っている。
直人も実家にあまり帰っていないようなので、家を売ってしまおうかと考え中。

一連の騒動を経て無理をせず他人に頼るようになり、心に余裕ができた為か、以前よりも魅力的になっているとは知人談。
転校後も相変わらず、みんなの妹的存在として可愛がられている。

理多がナルシストな男子生徒に強引に交際を迫られた事を知り、
修羅と化したエヴァがその男子生徒の学校に乗り込んで以来、理多への告白はご法度となった。
エヴァとしては普通に告白するなら口を出すつもりは毛頭ないのだが、理多自身今はその気がないようなので結果オーライ。

別荘での修行によってどんどんと成長していっている──主に防御面が。
今では魔力の大半を封印しているとはいえ、エヴァでも理多の障壁を突破する事が難しくなってきている。
更にエヴァと仮契約して手に入れたアーティファクトにより、鉄壁となった。

夏休みに魔法世界で奉仕活動をしようとエヴァに提案し、その結果何でも屋"吸血鬼同盟"を試験開店する事になる。

エヴァという主人公の為に作られたキャラクター(ヒロイン)。
理多の設定ほぼ全てが、エヴァが自力で"登校地獄"を解く展開にもっていかせる為にある。

二次創作においてエヴァは異常に惚れっぽいキャラにされがちだが、
本来のエヴァはこれくらいお膳立てされなければ落ちないと私は思います。


〇エヴァンジェリン・A・K・マクダウェル

京都から戻った後、学園長に電話で話した通り魔力の大半を封印し、また大人しく"登校地獄"を施される。
理多が引き続き自宅に居候する事を非常に喜んでいる。最近理多に料理を教わっているが、なかなか上手くいっていない様子。

一連の騒動を経て光に生きる事を選んだエヴァは、積極的に他人に関わるようになり、
授業も真面目に受けている為教師達からの評判が良くなっている。
クラスメイト達からも同様で、みんなの姉的存在として頼られている。
担任のネギよりも頼られるようになってしまった為、ネギが密かに落ち込んでいるらしい。

ネギから師事を仰がれそれを承諾、別荘で理多と──たまに直人なども一緒に鍛えている。
自らが編み出した"闇の魔法"を理多に教えようとしたものの、理多に素質がなかった為断念。
その事を残念に思っていたが、理多と仮契約できたので妥協する。

理多が提案した魔法世界での奉仕活動を、光に生きる為に必要な事と思い賛成。
奉仕活動の方法は何でも屋で行うと決め、"吸血鬼同盟"を夏休み中に試験開店させた。


〇雨音直人&天ヶ崎千草

京都での騒動の後、直人は理多の事をあまり気にしなくても良くなった為、
家に殆ど帰らず魔法世界での仕事を中心にするようになった。
半ば強引に千草がついてきた為、現在は二人で仕事をこなしている。
前衛を直人が、後衛を千草が担当し、結構良いコンビのようだ。

実のところ、氣を視る事によって相手の感情を知る事ができる直人は、
千草が自分に好意を抱き始めている事に気付いている。
今のところ直人にその気はないが、千草の事は悪く思っていないので、
千草が何らかのアクションをしたら真剣にどうするか考えようと思っている。

フェイト戦で直人は自らの未熟さを強く思い知り、暇ができたら理多達と一緒に別荘で修行をおこなっている。
共に死線を乗り越えたからか、直人はネギに懐かれている。

親しく想っている相手をからかうのが好きな、熱血主人公というコンセプトで作られている。


〇矢塚さつき

エヴァ達が京都から戻ってきてから数日後に意識を取り戻す。
自我もハッキリしており、理多と同じような状態となっている。
"吸血鬼の呪い"を封印する魔法は、ブレスレットに込めている。

意識を取り戻した後は、理多同様麻帆良学園聖ウルスラ女子高等学校への転校となった。
理多と二人、美少女転校生として話題になっている。社交的なので、すぐにクラスに溶け込む事ができた。

命懸けで助けてくれた理多に非常に感謝しており、理多の為なら例え火の中水の中。

"吸血鬼同盟"への参加を希望した為、エヴァによる超過酷な修行をこなした。
魔法のあまり素質はないが、並みの障壁を素手で破壊してしまえるほどの驚異的な怪力がある。
"満月の瞳"を開眼させ、氣による強化を行うと、もはや誰にも防げない。

魔法世界で出会った眼鏡の青年に一目惚れをしたが、その青年には彼女がいる事が後に判明した。

吸血鬼、女子高生、怪力、ポテンシャル高い……あれ、これさっちんじゃね?
といった感じで"月姫"の弓塚さつきのオマージュキャラを出す事に決めました。
ただこのさっちんはさっちんであってさっちんではないので、
この世界のさっちんも幸薄なんだなぁ程度に思っていてください。


〇その他

宮崎のどか他、原作で立っていたフラグが立たなかった人物は、なんだかんだあって原作と同じになる。
原作と大きく違っているのは、刹那と木乃香がこの時点で仮契約をしている事くらい。たぶん。


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