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[26665] 混沌の国 (国盗り物語×ドラゴンクエストⅢ)
Name: ジンバブエ◆74606097 ID:d2736d75
Date: 2011/06/09 08:22
どうもジンバブエです。

本作は、基本的に司馬遼太郎先生の「国盗り物語・織田信長編」の世界を舞台にしていますが、たぶん他の時代小説的な要素も結構色々ぶち込む予定です。
時間設定的にはゾーマを倒して数ヵ月後(ちなみに神龍は攻略しておりません)。
登場する勇者一行は作者個人が過去にSFCでゲームをクリアしたときのパーティをそのまま流用しています。
色々お気に召さない点があるかもしませんが、温かい目で見てやって下さい。

3/27
板変更。
メインがDQじゃなく国盗り物語の方だと感想でレスされて、
確かにそういやそうだと納得してこちらに移らせて頂きました。
これからこっちに投稿する事になると思うので以後宜しくお願いします。






[26665] 第一話 「墨俣の一夜城」
Name: ジンバブエ◆74606097 ID:d2736d75
Date: 2011/05/25 04:04
(まいったな)
 ミルトンは困惑していた。
 見渡せば鬱蒼たる樹、樹、樹。一面の森のようだが、自分が歩いている獣道にかなりの傾斜があるようなので、単なる雑木林や樹海ではなく、ここは山林であると判断はつく。
 だが分かるのはそこまでだ。
 彼が目にする草や樹木、鳥や獣、空気の湿度や風の匂い、いやいやそれどころか宙に輝く太陽の大きさすら「故郷」とはどこか違う。
(いったい何でこんなところにいるんだよオレは……)
 道に迷ったわけではない。そもそも彼はこんな山に足を踏み入れた記憶さえないのだ。

 いや、記憶はある。
 だが、それは昨日までの日常の記憶だ。
 いつものように登城していた王宮からおのれの屋敷――アリアハン帰還後、魔王討伐の功績によって国王から下賜された――に帰宅し、いつものように酒を飲み、酔いが覚めやらぬうちにベッドに入り、いつものように高いびきをかいて眠った。
 それだけだ。
 だが、目覚めた時、彼はここにいた。
 この見知らぬ山野で、大の字になって眠っていたのだ。
 ミルトン自身にもわけがわからない。

 不思議なことは他にもある。
 寝床に入った時に着ていたはずの寝間着が何故か消失し、かつて魔王と戦った頃に装備していた武具・防具を自分が身に付けていたことだ。
“刃の鎧”を着込み、“グレートヘルム”をかぶり、“オーガシールド”を左腕に固定し、“バスタードソード”を腰に佩いていたのだ。まるでかつてのあの頃のように。
 いずれの装備品も冒険の旅から帰った後は身に付ける機会もなく、屋敷の地下蔵で空しく埃をかぶっていたはずだった。無論その夜に酔って寝惚けてそれらを装備した……などという記憶はミルトンにはない。
 しかも、それら以外はまったく――代えの下着から現金にいたるまで――何も所持品がないというのだから救えない。
(まあ、寝間着のままで山に放り出されるよりはマシなんだろうが……)


 とりあえず歩き始めてすでに数時間。
 すでに自分が白昼夢を見ているわけではないという認識はある。
 納得しがたいが、それでもこれは現実だ。
 太陽はすでに直上にある。時刻は正午といったところか。
 わかったことも幾つかはある。
 とりあえず「ここ」はアリアハンではない。
 と言うより、アリアハンを含めた彼の「故郷」でさえなく、かといってもう一つの世界アレフガルドでもなさそうだ。それは瞬間移動呪文ルーラを詠唱しても、どこにも移動できなかったという事実で判断がつく。

(ならば、ここはどこだ)
 その問いが果てしなく頭に浮かび続けるが、もはやミルトンは考えることをやめていた。
 もしも「ここ」がミルトンの知識にない世界だとしたならば、詮索するだけ時間の無駄というものだからだ。
 もっとも、いまやミルトンの理性はただ困惑するだけではなく、もう少し事態を建設的に考えようとしていた。
 つまり、ここがどこだか分からないならば、わかる者に教えてもらえばいい。わかる者とはつまり――こっちの「世界」に住む現地民ということだ。早い話が人里に立ち寄って情報を集め、それからこの先の自分の行動を決定すればいい。
 しかし、土地勘がなければ方角さえ分からない。
 せめて現在の暦や時刻が分かれば、太陽の位置から東西南北を判断する事くらいできるが、ここが異世界である以上、日昇や日没を含めた物理法則が、彼の常識と同一である保証はない。なにしろ宇宙には、かつてのアレフガルドのような太陽の昇らない世界さえ存在するのだから。
 だが、そこは、ここが山であることが幸いした。尾根に登って山頂から周囲を見下ろせば、集落の場所ぐらいは見つけられるだろう。だから彼はとりあえず坂を登っている。
(まあ、あとは出たとこ勝負でなんとかなるだろ)

 かなり楽天的な発想だということは承知している。
 山の頂上から見下ろしたところで、見える範囲に集落が在るとは限らないし、そもそも言葉が通じない可能性さえある。
 だが、ミルトンの心には、いまや不安や困惑よりも、むしろ先の読めぬ冒険を楽しむような期待やワクワク感の方が、次第に大きくなり始めていた。
 そこは勇者パーティの一員として世界を救ったほどの男なのだ。
 魔法使いとしてメラからパルプンテに至る魔道呪文を極め、ダーマで転職後は、戦士として一流の技量を持つミルトンは、決して小心者ではない。一度肚を決めてしまえば、くよくよ悩まずに開き直れる程の放胆さはある。
 しかも――理由は謎のままであるが――魔王を倒した頃の防具武具が手元にある。あるどころか装備さえしている。ともなれば、あの頃の冒険の日々を思い出して気が大きくなるのは当然とさえ言えた。
(鬼が出るか蛇が出るか……こうなった以上せいぜい楽しませてもらうか)
 むろん鬼や蛇ごとき、魔法戦士ミルトンの恐れるところではない。


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 その声が聞こえた瞬間に、とっさに樹を盾にミルトンが身を隠したのは、実は特に理由はない。敢えて言うなら反射的行為としか説明できない。

「しっかしよぉ、本当かいなその話?」
「ああ……わしも信じられんが、ここまできたらもう川向こうには簡単に手を出せんって組頭も言うとったわ」
「尾張の犬っころが舐めた真似しょってからに……!!」
「まあ、その墨俣の尾張衆どもの頭は、犬っちゅうより猿にしか見えん男らしいがの」
「猿が犬どもを仕切って砦造りか、桃太郎やあるまいしバカバカしいのう」

――そう話しながら眼前を歩いていく二人組。
 彼らを見た瞬間、自分の勘がなぜ彼らから隠れることを選択したのか、ミルトンは即座に理解した。
 簡素な甲冑と額に巻いたハチマキ、長槍を持ち、そして腰に剣を差しているところから見て、おそらくは兵士なのだろうが、背中に見え隠れする殺気はまぎれもない。
 しかもそれだけではない。
(人種が違う……)
 彫りの浅い顔つきに低い鼻、黒で統一された瞳と髪、薄黄色い肌。
 強いて言えば、かつての冒険の旅で知ったバハラタやジパング、スーの人間たちに似ている。明らかに自分たちとは違う人種であり、軍装を見れば、文化も異なっているのは間違いない。
(危なかった)
 身を隠して正解だったというべきであったろう。
 理由がわからないとはいえ、今の自分は当時の武装を身に纏っている。しかも異人種とくれば得体の知れなさは計り知れない。もしもそんな自分が「殺気立っている兵隊」に見つかっていたら、最悪の場合、問答無用で襲い掛かられても文句は言えない。
 そう思った瞬間だった。


「なんだおまえ……!?」
 
 
 振り向いたミルトンの視界に飛び込んできたのは、みるからに驚いた顔をした男だった。
 さっき自分がやり過ごした二人組と同じ軍装に身を包んでいるところから、この男もやはり兵隊なのだろうが、その驚きの表情は、先程の二人組とは比較にならないくらい人が好さげに見えた。
(やばい)
 と思ったが、もはや後の祭りだ。
 見つかってしまった以上は、取るべき行動は限られる。
 ミルトンは、そのまま両手を挙げて――そのままその男に駆け寄った。

「うおおおおっ!! 助かった助かった!! やっと生きてる人間に会えたよ助かったぁぁッッ!!」

 ぽかんとした男の顔がさらに呆然となる。
 あまりに不可解な事態に脳の処理が追いつかないのであろう。もしミルトンが逆の立場だったら、やはりそんな顔をするしかないはずだからだ。
(それでいい)
 そのまま男に抱きついて、まるで再会を喜ぶ恋人同士のように思い切り抱き締める。
 異文化交流においてファーストコンタクトの印象ほどのちのち影響を及ぼすものはない。
 なんとかここで、この男に自分の好印象を与え、でまかせだろうがデタラメだろうが言いくるめ、その上でここの現地責任者に自分の立場を説明できれば、あるいは……。

「いてっ、いてててっっ!! ちょっ――離せコラッッ!!」

 男の声が一気に険しくなった。
 ハッとなって身を離すと、男の体のあちこちに真新しい切り傷があり、そこから出血している。それはそうだろう、刃の鎧に身を包んだ者に抱擁されたりしたら――。
(まあ、当然こうなるわな)
 そうつぶやく余裕も無く、ミルトンはただ顔を青くして硬直するしかない。
 そして、眼前の兵士の表情にはすでに、先程までの驚き顔に確かに存在していた人の好さは無い。槍を構えてミルトンを睨み据える視線の先にあるのは100%混じり気なしの猜疑心のみだ。
「おめえが尾張の乱破かどうかはわかんねえが……とにかく、人は呼ばせてもらうぞ」
――よせ、とミルトンが叫ぶ暇も無い。
 男は首から下げていた呼子笛を咥えると、肺の酸素を全部使い切る勢いで吹き鳴らした。

 何かを考える暇は無かった。
 ミルトンは掌の先に集中させ、生み出した魔力を眼前の男――にではなく、自分に向けて解放させる。解放された魔力が対象を確認するや発動し、そしてミルトンの体は、まるで打ち上げ花火のように空へ向けて吹き飛ばされた。
――バシルーラ。
 遭遇した敵をはるか遠方に追放させる呪文であるが、これは緊急時の逃亡にも使用する事ができる。
「……ッッ!??」
 そして後には、やはり呆然と天空を見上げる男が残された。


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「いたかぁ!!?」
「いんや、いねえ!! そっちはどうじゃ!!」
「とりあえずシラミ潰しに捜せぇ!! 尾張の乱破を生かせて返せば今度はこっちが危ないしのぉ!!」
「どっちにしろ日が傾くまでに見つけられなんだら厄介なことになるぞぉ!!」
 
 午前中に山頂目指して尾根を登っていた時は、全くと言っていいほど人の気配を感じなかったにもかかわらず、いまや眼下に人の姿が溢れ返っている。
(ということは、あれか……オレが人の姿を見かけなかったのは、ただの偶然ってことか)
 ミルトンにとっては到底納得しがたい結論だが、それでも納得するしかない。
 人の姿が溢れ返る、という表現はすでに比喩ではない。
 まったく夥しい人の群れが、ミルトンを捜索している。しかも当然捜索隊の手はここだけに限らず、この山の全ての場所に及んでいることだろう。となると、兵の数は百や二百どころではない。おそらく全員合わせて千人近くはいることだろう。
 これだけの数の兵士が存在しているということは――ちょっと彼には信じがたいが――この山は単なる兵の駐屯地であるのみならず、すでに全山要塞化が進められていたということになる。
(どうするんだよ、この情況……)
 いかにミルトンが、百戦錬磨の魔法戦士とはいえ、軍勢に溢れ返った山に一人で取り残された経験は、当然無い。

 だが、それでもミルトンは、自分が彼らに素直に見つけられてやる気は毛頭なかった。
――レムオル。
 自分を含めたパーティ全員を透明にして、姿を隠す呪文。
 やつらが犬でも連れているならばともかく、透明化してしまえばさすがに見つかることもないだろうとは思うが、油断はできない。視覚から消えることができても、歩けば足跡は残るし、武具が音も立てよう。
 かといって、このままじっと動かずにいるのも危険だ。
 定石ならば、日が暮れるのを待って夜陰に乗じて逃げれば済む話なのだが、ミルトンの場合はそうはいかない。なにせ彼には土地勘がない。暗くなって周囲の見通しが利かなくなれば、不利になるのはどう考えてもミルトンの方である。
 しかも、彼は逃げる途中で一つ、彼らの怒りを買う真似をやらかしてしまっている。
 
 バシルーラでとりあえず当面の危機を逃れたとはいえ、彼が飛ばされて戻れる場所など、最初に目覚めた森の中しかなく、しかもすでにそこには兵たちがいたため、小規模ながら戦闘が起こった。
 つまり、剣を抜き、彼らと戦った。
 もっとも殺したわけではない。
 襲い掛かってきた足軽たちの槍を斬り飛ばし、剣を突きつけ「死にたくなくば失せよ」と命じただけだ。
 むろん彼らは一目散に逃げ出し、ミルトンは人心地つく暇を得たが、その一分後に数十人の味方を引き連れて彼らが戻ってきたので、さすがに泡を食い、レムオルで姿を消して隠れたのだ。

(さぁてどうする)
 実は当てがないわけではない。
 さっき兵たちが話していた内容をまだ記憶している。
(この山の川向こうにスノマタとかいう場所がある)
(そこに、この山の連中に敵対するオワリ衆とかいう者たちがいるはずであり、それを猿顔の男が率いているはずだ)
 敵の敵は味方という言葉もある。ならば、そこに一縷の望みを賭けるしかない。
 もっとも、この山がその「スノマタ」とやらの兵団に対する最前線基地であるなら、当然「スノマタ」もこの山に対する最前線基地であるということになる。最前線にいる気の立った兵士がミルトンを見かけたら、また同じ騒ぎになるのではないか。
 しかし躊躇している時間は無い。
 レムオルという呪文は、術者の姿を永久に隠し続けてくれるわけではない。
 さらに、その「スノマタ」がどこかはともかく、多少は歩き回らねば見つかるまい。ならば早く向かわねば、日が暮れてしまう。夜になってしまえば土地勘のないミルトンは、おそらく「スノマタ」には到底辿り着けないだろう。
(よし、いこう)
 ミルトンは腰を上げた。

 
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「猿、ちょっといいか」
 
 蜂須賀小六に声を掛けられ、猿――木下藤吉郎秀吉は、車座になって大工の棟梁たちに囲まれながら見ていた図面から振り向き、顔を上げた。
「おう、小六どん」
 図面を睨む視線は厳しい視線だったが、藤吉郎は元来、愛嬌と陽気さのカタマリのような男だ。振り向いた瞬間にはとろけるような微笑を浮かべていたが、――その笑顔も、小六の空気を察したらしく、次の瞬間には真面目な表情になっていた。
「なんぞ面倒でも起きたか」
「いや、面倒が起きたとすれば神名山の方じゃ。様子がおかしい」
「ほう」
 藤吉郎は興味深そうな顔をすると、深く頷き、すぐ行くと短く言って立ち上がった。
 

「なるほど」
 川岸に立ってはるか対岸を眺めれば、山に兵たちの怒声がこだましているのが、墨俣にいるこっちまで聞こえてくる。
 いや、それだけではない。うっすら煙も立ち上っているし、鉄砲の銃声すら聞こえるではないか。
 
「猪狩りでもやっちょる、というわけではなさそうじゃな」
「呑気な事を言うちょる場合か、ここは戦場じゃぞ」
「落ち着けや小六どん、密偵からは何ぞ言うてきよったか?」
「いんや音沙汰なしじゃ。ひょっとしたら山で謀反でも起こって連絡どころじゃないのかも知れん」
「なら斥候はバラ撒いたか?」
「お前に言われるまでもないわい、さっき二十人ほど送り込んだところじゃ」
「ならどっちにしろ、そいつらの話を聞かん内は動けんじゃろ」
「甘いぞ猿、それでは手遅れになるとは考えんのか」
「だから――落ち着けと言うちょるんじゃ小六どん」

 むしろ小六よりも一回り以上も若いはずの藤吉郎が、なだめるように笑う。
 この当時、蜂須賀小六はまだ正式には織田家の家臣――つまり秀吉の与力ではないため、その口調に敬意はない。もっとも落ち着けと言われても落ち着けないのは、小六としても無理はないだろう。今回の墨俣築城の是非で、彼を始めとする野武士蜂須賀党が尾張織田家に正式に仕官できるかどうかが懸かっているのだ。
 もっとも対岸の神名山に陣を敷いている美濃軍に何か動きがあれば、すぐに分かるように手配はしてある。足軽に扮した蜂須賀党の野武士たちを、密偵として何人も対岸の敵陣に送り込んであるからだ。
 彼らのもたらす戦場諜報には、墨俣の秀吉隊としては何度も窮地を救われたが――しかし現在、彼らから報告は無い。

「この現場を仕切っちょるのは猿、確かにお前じゃ。じゃからワシらは、お前の言う通り陣に引き篭もって辛抱を決め込んどる。じゃがの、手柄の好機をムザムザ見過ごすのは慎重とは言わん。臆病と言うんじゃ」
 だが、そう言われても藤吉郎は表情さえ変えない。
「いんや、こっちを誘い出す罠ということも考えられるしのう」
「猿ッッ!!」
「柴田様や佐久間様の轍を踏むわけにはいかん。もし我らが判断を誤れば小六どん、手柄どころかここにいる全ての者が討ち死にすることになるんじゃぞ?」
「ぐっ……!」
 そう言いながらじろりと睨む藤吉郎の視線に、小六は口惜しそうに言葉を飲み込んだ。
 美濃兵は元来、一人一人の兵質が織田家の尾張兵より格段に精強であり、さらに道三以来の風で、織田軍以上に巧緻で用意周到な戦をする。こっちを誘い出すためにどんな小細工を仕掛けてくるか分からない以上、道理は確かに藤吉郎の側にある。

「とはいえ、やはりこれは捨て置けんかの」

 そうつぶやくと、藤吉郎は小六を振り向き、ニカッと笑った。
「小六どんの言うことにも一理あるわ。いつでも兵を出せる準備を整えた上で、斥候なり密偵なりの報告を待つ。蜂須賀党にも手柄首の二つ三つは取れる機会を与えてやれんと、士気に関わるしのう」
「おっ、おう」
 小六は、思わず顔をほころばせると「すまん猿、恩に着るぞ」と叫び、そのまま一目散に走り去っていった。
 

 だが、小六が傍らを去って一人になった瞬間、藤吉郎の顔には能面のような、全く思考を読ませない表情だけが残されていた。


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 現在はともかく、戦国当時の墨俣川は、美濃尾張の国境線にして対岸がかすんで見えるほどの堂々たる大河であったらしい。墨俣は「州の股」という字義どおり、墨俣川が支流と合流する地点であり、Y字型に交差する川の中に残された中洲であった。

 織田家指揮下の尾張兵は、信長の父・信秀の代から数えて何度この川を渡って美濃に侵入し、そして何度空しく敗走を繰り返してきたか分からない。信秀を古渡織田家の中興と評するならば、そのピストン運動を容赦なく阻んできた美濃斎藤家の兵がいかに強悍であったか、推して知るべきであったろう。
 現に、信長の兵団はつい先日も美濃に大規模な侵入を図り、当時はまだ斎藤家の被官であった竹中半兵衛の「十面埋伏の陣」なる戦術によって、半ば全滅に近い大打撃をこうむり、むざむざ尾張清洲城に逃げ帰っている。
 つまり、織田家としては美濃斎藤家との抗争に際して国境付近に、まず橋頭堡を築こうと考えたのは戦略上の当然の帰結であったろう。
 そして、その築城ポイントに選ばれたのが、他ならぬここ「墨俣」であった。

 墨俣の城塞建築は困難を極めた。
 当然であろう。国境線上の中洲とはいえ、現状での墨俣は歴然たる斎藤家の勢力圏内である。そこに織田軍が前線基地を築こうとするのを、指を咥えて眺めているはずが無い。
 最初は佐久間信盛が、次いで柴田勝家が墨俣城の普請奉行を命じられたが、両者いずれも数千人の護衛兵ともども斎藤軍にあっさり蹴散らされ、空しく清洲城下に退却を余儀なくされている。
 そして、次なる普請奉行に抜擢されたのが、当時まだ織田軍では最下級の将校でしかなかった木下藤吉郎であった。

 柴田・佐久間と言えばいずれ劣らぬ織田家の猛将だが、その両者の失敗を鑑みて藤吉郎はやり方を変えた。現地での作業工程の時間短縮を目指し、設計図が必要とする寸法の木材や石材を川の上流で揃え、そこから墨俣まで水上輸送し、現地で組み立てるだけにしてしまうという――誰もが考えそうで考えつかなかった方法をとったのだ。
 さらに作業工程にしても一工夫加え、いきなり砦の建築にかかるのではなく、まず城壁を巡らし空堀を掘り、安全圏を確保する。その上で守備隊はあくまで城壁を出ない――いわば篭城方式で敵軍の迎撃に専心する。そうすれば戦闘中でも城の建築は可能になるわけだ。 

 守備隊の主力は尾張の正規兵ではなく、蜂須賀小六支配下の野武士たちを使って指揮系統を藤吉郎の下に一本化する。
 さらに藤吉郎は信長に依頼して、大規模な軍を編制してたびたび濃尾国境線を侵してもらっている。むろん陽動であるが、それによって稼ぎ得た時間は、墨俣の部隊にとっては十万人の援軍に等しい援護となった。
 もっとも防戦一方では、いかに擬似的篭城戦といえど士気は鈍る。野武士のような戦場稼ぎを生業とする者たちならば、それは尚更だ。必要以上に小六が出陣をせがんだ理由はそこにある。蜂須賀党の首領として小六は、部下の野武士たちに手柄首を稼ぐ機会を与えてやらねばならないからだ。

 また、斎藤家でも空しく日を過ごしていたわけではない。
 兵を墨俣の対岸の神名山に布陣させ、24時間体制で攻撃をかけられるよう手配したが、それでも防戦に徹した墨俣の守備は固く、容易に打撃を与えられない。
 無論それは、守備隊を指揮する藤吉郎の手腕ではあるが、それ以上に、送り込んである小六配下の密偵から、ぬかりなく攻撃の事前情報を得ていたということも墨俣陣地の堅固さを助長する一因になっていただろう。
 そうこうするうちに時間だけが経過し、城の外観と体裁はいよいよ整い、いまや神名山の攻撃部隊はいよいよ攻めあぐねるようになっていた。


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(なんじゃ……何が起こっちょる……?)
 藤吉郎は眼を凝らした。

 小六にはああ言ったが、彼としてはそう簡単に兵を出す気は無かった。
「墨俣の一夜城」は、そろそろ完成しつつある。
 ここで下手を打って、積み上げたものを水の泡にするような決断はできない。美濃兵の野戦の強さは決して侮ることはできないからだ。
 まあ、たとえ神名山の騒ぎがこっちを誘い出す罠であったとしても、自分が指揮を取っている限りむざむざ敗れはしないだろうが、それでも念には念を入れねばならない。石橋は叩いて渡るに越したことは無いのだ。

(じゃが、万が一ということもある)

 万が一、神名山での騒ぎが本物ならば、確かにこれは千載一遇の好機だ。墨俣の全戦力を投入して突撃をかけ、一気に敵軍を撃破すべきであろう。
 もしも、対岸の敵陣を潰せたなら、守備隊に回していた人員を一気に工事に投入し、築城を今日中に終わらせる事ができるだろう。墨俣築城を完遂させたのみならず、美濃兵を敗走させたとあれば、手柄としてはまさに破格のものだ。
 そうなったら、いかほどの加増に預かれるや分からない。
 藤吉郎は新婚だ。
 先日、祝言を挙げたばかりのおねね――後の従一位北政所――にも、随分と楽をさせてやれるだろう――とは、藤吉郎は考えない。

 それは藤吉郎が家庭的な男ではないという意味ではない。
 もっとも、現代的な意味で家庭的な人間など戦国時代には圧倒的な少数派であったはずだが――それでも、彼が家族に対して抱いている情愛の深さは常人の比ではない。秀吉とは、のちに母や息子の死に際して、悲嘆のあまり失神したような男なのだ。
 だが、いま彼の心を捉えているのは、何より仕事の面白さであった。
 出世し、おのれに与えられる権限が増えるほどに、藤吉郎はさらに大きな仕事を担うことができる。
 もし今の自分に、せめて柴田勝家の半分もの権限があったなら、まさに翼を得た鳥の如く、自在におのれの才能を仕事に生かすことができるだろう。
 そうなったら、毎日がどれほど楽しいか想像すら出来ない。なにしろ、この世には才能を発揮する場を獲得すること以上の愉悦は無いのだから。
 
(らちもないことを……)
 藤吉郎は首を巡らし、我知らず苦笑していた。
 物事はおのれの都合通りに進むことはまず在り得ない。
 彼は、一宿一飯を求めて東海一円をさまよった地獄のような過去を通じて、世界がいかに残酷なものかを骨身に沁みて知っている――。


「んっ!?」
 藤吉郎の目の色が変わった。
 彼は見たのだ。
 神名山の麓に起こった爆炎のような輝きと轟音、そして悲鳴の数々を。
 その瞬間、藤吉郎は自陣に向けて叫んでいた。


「小六どん、馬引けいッッ!! 全軍、神名山に向けて突撃をかけるぞぉッッ!!」


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「くそだらぁぁぁッッ!!」

 ミルトンの掌から発生した紅蓮の業火の奔流が大地を舐め、その場にいた槍隊が全員まとめて火柱へと変わる。のみならず、その圧倒的な熱量で周辺の樹木が引火し、天空に黒煙が立ち上った。
――ベギラゴン。
 火炎呪文ギラ系の最上級呪文であり、通常ならばどう考えても人間相手に行使していい魔法ではない。

 仮にも勇者の一翼を担ったほどの男が、こんな何処とも知れない異世界で、魔王相手に振るった剣と魔法を行使して、誰とも知らぬ人間を殺していることに抵抗を感じないのか――そう言われれば確かに返す言葉はない。
 だが、もはや事態はそんな綺麗事を言えるような情況にはないのだ。
 現に、彼はすでに負傷している。鉄砲隊の一斉射によって、彼はすでに右腕と左足を撃ち抜かれ、剣を握ることも走って逃げることも不可能になってしまっている。戦うためにはもはや手段を選んではいられない。
 ミルトンは「故郷」に於いては兵士でこそなかったが、それでも戦士であった。
 向けられた殺意に対しては、こちらも殺意を以って応じる以外のすべを持たない。

 たーん、たたたたーん、と乾いた音がまとめて響く。
「ぐッッ!!」
 とっさに“オーガシールド”で身を庇ったが、盾で防ぎきれなかった衝撃が全身に響く。
 もちろん豆粒ほどの鉛玉では、彼の“刃の鎧”や“グレートヘルム”を貫通させることは出来ない。さいわい今回の斉射では四肢や顔面といった露出部分への直撃は無かったが、それでもその衝撃力まで遮断することはできず、脳や内臓を直に棍棒でぶん殴られるほどの激痛とダメージをミルトンに与えた。
 そのまま地面に叩き付けられ、丸太のように転がるが、――もちろん次の瞬間にむくりと起き上がることなどミルトンにはできない。呼吸もできず、目も見えず、耳も聞こえず、ただ発作を起こしたマラリア患者のように全身を痙攣させることしかできない。

「よし!! 今だ捕らえろ!!」
「手ぇ焼かせやがって化物が!!」
「おい待て、油断するな!!」

 だが、当の斎藤軍からすれば、彼を化物扱いするのはやむを得ないことであったろう。
 なにしろ――。

「ぎゃああああああああああああっっ!!」

 ミルトンに駆け寄った足軽が数人、いや彼らの後方にいた者たちまで含めて二十人以上が、雪でもぶつけられたかのように真っ白になったかと思ったら、そのまま凍り付き、バラバラに砕け散ってしまった。
――マヒャド。
 冷凍呪文ヒャド系最上級呪文。
 たとえ目も耳も開かずとも、それで戦えなくなるようでは魔王は倒せない。
 無意識であるがゆえに彼の肉体は本能的に敵意に反応し、迎撃を実行する。
 だが、それが氷炎の洗礼ともなれば、彼の敵たちとしてはたまったものではない。


「くくくくっ…………っっ」
 
 
 ミルトンは倒れ伏したままゆっくり瞼を開けると、そのまま渋い笑みを浮かべて、周囲の兵たちを見回した。
 むろん、彼らへの嘲笑ではない。
 むしろ自嘲だ。
(こんなところで終わるのか、このオレが)
(魔王と戦い世界を救ったオレが、こんなわけのわからん情況で、わけのわからん連中から、化物呼ばわりされながら終わるのか)
 腕と足からの夥しい出血が、彼の肉体から力を奪っている。
 だが、それでもミルトンは傍らの樹に手を伸ばし、そのまま体重を預け、無理やりに立ち上がった。

 死ぬのはいい。どうせいつ死ぬか分からない日常を送ってきた身だ。実際に死を経験したことさえ何度もある。だが、その時ザオリクや“世界樹の葉”で自分を蘇生させてくれた仲間は、今ここにはいない。
(どうせくたばるならよ……せめて無様に寝っ転がって失血死ってのは……ちょっとなあ?)
 戦士としての矜持もある。
 どうせなら戦った挙げ句に、剣や槍を受けて死にたかった。
 銃創の激痛で、もはやほとんど感覚の無い右手で、むりやり“バスタードソード”を鞘から抜く。“オーガシールド”をその場に捨て、両手で剣を握ると、そのまま腰を落として構えを取った。
「どうした……手が止まってるぜ? 化物としちゃあ、それじゃ殺されてやれねえぞ……」

「く……っっ!!」
 ミルトンを包囲する大勢の兵士たち。その中でも彼と目が合った兵士が、そのままくやしげに顔を歪める。この兵士は最初にミルトンを発見した、人の好さげな顔をした足軽だった。
「あんた……いったい何者なんだ……?」
 その質問こそミルトンにとってはいい面の皮であったに違いない。
 たとえアリアハンにあっては人類の救済者であっても、この何処とも知れない異界の山林では、彼はついに何者でもない。
 だから魔法戦士は答えず、先程に続いて渋い自嘲の笑みを浮かばせ続けるしかなかった。
 

 そんなミルトンに救済の手が差し伸べられたのは、その直後であった。
 陣貝の、低く野太い重低音が森に響きわたる。
「尾張勢じゃ!! 墨俣の尾張勢が攻めて来たぞ!!」
(オワリ? スノマタ?)
 その名を自分は知っている。だが、もはや意識が朦朧としてしまっているミルトンは思い出すことが出来なかった。
 




[26665] 第二話 「織田上総介」
Name: ジンバブエ◆74606097 ID:d2736d75
Date: 2011/06/09 07:25
「てっ、転職だとぉ!? ――オレたちがか!?」
「うん」
「いや、うんって……それマジで言ってるのか……?」
「うん」
「ふっ、ふざけるんじゃねえぞ!! オレたちゃこないだようやく最後の呪文を覚えたところなんだぞ!? それをまたレベル1に戻ってキャリアを積み直せってのか!?」
「うん」
「だから……うんじゃねえっつってるだろうがッッ!!」

「ちょっとストップ!! 落ち着きなよミルトン!!」
 興奮のあまり杖を構えそうになる魔法使いミルトンを、背後にいた女僧侶コーラスが羽交い絞めにして制止する。
「離せコーラス!! こいつはオレだけじゃねえ、お前の話でもあるんだぞ!?」
「だから、まずは説明を聞こうよミルトン! マッシュだって洒落や冗談でそんなことを言い出すはずがないんだからさ。何か考えがあって言ってるんだよね? ね!?」
「――うん」
 と、言いながら頷いた少年の表情には一片の屈託すらも無い。
「ミルトン、コーラス、キミたちの“転職”はゾーマを倒すために絶対に必要なことなんだよ」
 
 そう言い放った彼は、現在現時点で、世界で確認されている最後の“勇者”たるアリアハンのオルテガの忘れ形見にして、彼らのパーティのリーダー。
 戦士顔負けの攻撃力と、本来は僧侶の専門である治癒系の魔法、さらに選ばれし者にしか覚えられないという雷撃系の攻撃魔法をつかいこなす男。
――名をマッシュという。



 ここは、夜の世界アレフガルドの地方都市マイラ。
 その宿屋の一室である。
 勇者たちのパーティはみな機嫌がよかった。この街でようやく“王者の剣”を入手することが出来たからだ。オリハルコン製のこの剣の切れ味は凄まじく、きたるべき最終決戦において、魔王ゾーマの喉元を食い千切るには充分な牙となるであろう。

 もっとも、ミルトンとコーラスの両人がパルプンテとメガンテという、それぞれにとっての「最後の呪文」を習得したことの方が重要であったかも知れない。
 無論その二つの呪文は、それらを覚えたからといって、これからの戦闘が劇的に有利になるといった性質の呪文ではない。だが、二人にとっては「最後の呪文」を体得したという事実は、それぞれの道を極めたという証明に他ならない。まだ若い二人にとっては冷静でいられるはずがなかった。
(いよいよ世界をこの手で救う日が近い……か)
 そういう思いが彼らの士気を高め、否応も無くこれからの戦いへの闘志を掻き立てる。
 これから一眠りしたあとで、ルーラでリムルダールに瞬間移動し、そのままゾーマの居城に攻め込むぞと言われても、笑って頷けるだろう。
――まさしくそんな夜だった。
 パーティのリーダー格たる“勇者”マッシュが、そのあどけない表情のままで彼ら二人に、その宣告を言い渡したのは。



「今のままのキミたちでは、たぶん最後の戦闘では戦力にならない。だから今から“転職”して鍛え直してもらわないと困るんだよ」



 ミルトンは一瞬、自分が何を言われたのか分からなかった。
 それもそうだろう。
 仮にもミルトンや隣にいるコーラスは、パーティの一員として、地上制覇を目論んでいた魔王バラモスを倒したほどの魔法使いであり僧侶である。両者とも決して尋常の術者ではない。能力を数値化すればレベルだけでも40は下らないだろう。
 いや、そもそもその事実は誰よりも、このパーティのリーダーである勇者マッシュが一番理解しているはずであった。ミルトンの攻撃呪文は言うに及ばず、コーラスの治癒呪文に、パーティ全員がどれほど命を救われてきたか分からないからだ。
 だから、そんな自分たちがこんな――文字通りの意味での戦力外通告を受けようなど、予想できるはずも無かったのだ。
 
「どういうこと……マッシュ……?」
 コーラスが呆然としたまま呟くように尋ねる。
「あんたにとって、あたしたちは……もういらないってことなの……?」
「いや、そうじゃない」
 そう言いながら、それまでなりゆきを静観していた男がゆっくり椅子から立ち上がる。
 勇者マッシュ・魔法使いミルトン・僧侶コーラスに続くパーティ最後の一人――賢者ワイト。
「説明を代わろうマッシュ」
 ミルトンの表情が、先程よりもさらに一段と険しくなる。
 今回の戦力外通告の裏にあるのは、パーティの参謀役を自認するこの男の考えだという事に、ミルトンは思い当たったからだ。
「言えよワイト。とりあえず聞くだけは聞いてやる……ッッ」
 
「このアレフガルドをうろついているモンスターどもを適当にぶち殺して、小銭と経験を稼ぐだけなら、おまえたちの職業など何であっても問題は無い。だが、これから先はそうは行かない。それはわかるな?」
「わからないわ……いったいどういうことなの?」
 喰らいつくように身を乗り出すコーラスに、ワイトはやれやれと言わんばかりに軽く首を振る。
「そもそもお前たちも知っての通り、上級魔族には攻撃魔法が通じにくい。つまり、奴にダメージを与えるには白兵戦を中心に戦術を組み立てるしかない。となると、今のままのおまえたちではマズイということになる。魔法使いにしろ僧侶にしろ、近接戦闘で力を発揮できる“職業”ではないからな」
 だが、今度はミルトンが一歩前に出る番だった。
「んな事ぁ、もう知ってるよ!! お前に言われるまでもなくな!!」

「だが、それでも現にオレたちはバラモスに勝った!! お前の立てた作戦通りに戦ってオレたちは勝ったじゃねえか!! それと同じ事をもう一度やればいいって話じゃねえか!!」

 しかしワイトは静かに首を振る。
「ラダトームの城下町で言われたろう、バラモスなどゾーマの手下の一人に過ぎないとな。格下魔王と同じやり方で倒せるとは限らない」
「そんなもん戦ってみなくちゃわからねえだろうが!!」
「そうだ、確かに実際に戦ってみなければ何も分からない。だが、例のフォーメーションが通用しないと分かった後では、もう遅いのだ。それでは、我々に残された道は確実な死しか残らない」

 その一言に、ミルトンは反論の言葉を失ってしまう。
 そう。
 確かに彼らはかつて、魔王バラモスを倒した。
 だがそれは、パーティの各員がおのおのの役割分担に徹底したればこその勝利だ。
 攻撃を勇者マッシュと賢者ワイトが担当し、回復と蘇生を僧侶コーラスが担当した。
 魔法使いミルトンが任されたのはそれ以外の戦闘補助呪文である。スクルトで全員の守備力を高め、バイキルトで勇者と賢者の攻撃力を高めた。ワイトが言うところの“例のフォーメーション”とはこのことだ。
 つまり、メラ系・ギラ系・ヒャド系・イオ系のいずれの攻撃呪文もミルトンは使っていない。

 理由は――さきほどワイトが言った通りだ。
 上位魔族には魔法攻撃に対する強い耐性がある。だから、戦闘に使用する魔法はすべて味方に効果を発揮する呪文に限定すべきだ――そういう戦闘方針を賢者ワイトが立案したからだ。
 つまり、考えようによっては魔王級の魔族相手の戦闘パターンを、彼らパーティはすでに習得していると言えなくもない。
 だが、ワイトは続けて言う。

「ゾーマはバラモスのさらに上位にある存在だ、何をしてきても不思議じゃない。なら――何をされてもいいように対策を練っておくのは当然のことだろう」

 ミルトンとて、その理屈はわかる。
 たとえ“転職”したところで魔法が使えなくなるわけではない。バラモス戦と同じく、戦闘補助魔法は彼が担当することになるだろう。そして、その方針で戦うなら、直接攻撃で相手にダメージを与えられる人間は多いほどいい。
 それに眼前のワイトにしても、いまやバラモス戦当時の彼ではない。賢者として充分な経験をつみ、回復魔法にしろ補助魔法にしろ今やミルトンやコーラス同様に行使することが出来る以上、単なる僧侶や魔法使いのままでは、自分たちの役割の重要性はさらに低下してしまうと言えるだろう。
 そしてゾーマは、バラモスのさらなる上位存在だ。仲間の手持ち無沙汰を許しておけるような甘い敵だとは思えない。
 ならば戦士なり武闘家なりに転職して、攻撃にも参加できるようになっておいた方が、戦闘はより有利に進められるはずだった。

「結局のところ、ナイフでのブッ刺し合いが勝負を分けるってことなら、ナイフを持つ人間は多いほどいい。――ワイトはそう言うのさ。で、僕もそれに賛同したってわけだよ」

 あどけない笑顔を全く崩すことなく、少年勇者は平然と結論を言い渡した。
 だが、それでもミルトンとコーラスの表情は晴れない。
 

 
 余談ながら、勇者と賢者が命じたこの“転職”は――結果から見れば――成功であった。
 ゾーマの放つ“凍てつく波動”は、勇者パーティが自らにかけた補助魔法を全て打ち消す効力があり、最終的にマッシュとミルトンとコーラスによる肉弾戦が勝負の行方を決めたのだから。
 皮肉なことに、バラモス戦では攻撃役を担ったワイトは、“賢者の石”を使った全員自動回復の役割に集中せざるを得ず、ゾーマ戦では、その右手に持った“グリンガムの鞭”を振るう機会はほぼ無かった。
 だが、そういう確実な未来を現時点でのミルトンとコーラスは知らない。

 

「でも、そんなこと……急に言われたって……」
 コーラスが途方に暮れたように言う。
(そのとおりだ)
 ミルトンとて、ワイトとマッシュの言い分を頭では理解できる。できるだけの冷静さはある。
 だが、心から納得は出来ない。
 ミルトンにしろコーラスにしろ、おのれの“職業”に深い誇りと思い入れを持っている。いくら必要だからと言われたところで、それまで積み上げたキャリアをどぶに捨て、他の“職業”に鞍替えするなど簡単にできることではない。
(だが……マッシュにはそういうことはわからない……ッッ)
 ミルトンは本能的にマッシュを視界に入れないようにしている自分に気が付いていた。
 

 自分たちがルイーダの酒場でパーティを結成し、冒険の旅に出発した日から三年経つ。
 後にマッシュ本人が語ったところによると、その日こそが、彼の16歳の誕生日であったらしいので、現在彼の満年齢は19歳ということになる。
 19歳と言えば、世間では立派に大人をやれる年頃であるはずだが、このマッシュという若者は違う。
 一言で言えば、彼の性格は天真爛漫、無邪気で裏表がなく、まるで苦労知らずのお坊ちゃんのように人を疑うということを知らなかった。
 そして、そんな内面を象徴するように彼の相貌は、くりくりと少年のように輝く瞳が特徴的な童顔であり、その言動や外見だけを見れば、おそらくマッシュの年齢を正確に言い当てられる人間はいないであろう。
 少なくとも勇者として、モンスター相手に、日常的に生死の境界を潜り抜けているような人間にはとても見えない。頬に浮かべたあどけない微笑を崩すことなくドラゴンの首すら刎ねるこの勇者に、ミルトンもコーラスもある種の畏怖さえ覚えていた。

 むろん彼を愚人だと言う気はない。たとえばマッシュは、物事の本質を見抜くような、聞く人をハッとさせるような発言をすることがあるからだ。
 だがそれは「賢明」「聡明」と形容されるような理性的なものではなく、あくまでも子供ならではの、常識に囚われない柔軟な思考こそが導いたものに過ぎない。いわば多分に子供らしさを含む「利発」と形容すべき知性の閃きである。
 そんなマッシュに大人の気遣いを要求することこそ間違っているという事実を、年来の戦友とも言うべきミルトンもコーラスも知り抜いている。

 なにより“勇者”という肩書きは、その他諸々の“職業”とは、その性質が違う。途中で辞めることも、余人が新たに始めることもできない――いわば、マッシュという個人の存在と密接に繋がったものであり、切り離して考えることなどとても出来ない要素であった。
 つまり、そういう彼からすれば、他人の“職業”など、いかに肩肘張って構えたところで、しょせんは“転職”によっていくらでも変更できる程度のものに過ぎない。
 ならば、今のミルトンとコーラスが抱く葛藤など、理解できる精神的土壌をそもそも持っていないことになる。

「ワイト――」
 ミルトンは、底光りのする視線をこちらに向ける賢者に向き直った。
「本当にオレたちの“転職”が必要なんだな?」
「ああ」
 そう答える男の瞳に揺らぎはない。そこにはいつもと変わらぬ冷静な光が瞬いている。
 アリアハンのルイーダの酒場で初めて出会った頃から変わらない、常におのれの行動に芯を通す男の目であった。
(くそったれ……ッッ)
 ミルトンは荒い鼻息を吐くと、そのままうなだれるように瞳を閉じた。
 

「ならいい――わかった。戦士だろうが遊び人だろうが“転職”してやろうじゃねえか」


「ミルトンッッ!?」
 コーラスが悲鳴のような声を上げる。
 だが、ミルトンはすでに肚を決めていた。
 無言でコーラスに向き直るが、彼女は泣きそうな顔をふるふると横に振るだけだ。到底ミルトンの発言に同調するような様子は無い。

(無理もねえか)
 ミルトンはそう思う。
 僧侶という職業は、勇者や戦士といった「戦闘職」の人間を、後方から援護するのが主な役割ではあるが、それでも攻撃魔法以外に戦闘手段を持たない魔法使いとは違い、武器を手に取り、直接的な攻撃フォーメーションに加わることもある。
 だが、それでもこのコーラスという優しすぎる女僧侶にとって「戦闘」とは、やはり心から忌むべき暴力行為に他ならないのだ。たとえ、その相手が魔王の眷属であったとしても、だ。
 彼女はやはり、神に祈りを捧げ、その聖なる力によって仲間の傷を癒し、あるいは仲間を蘇生させる姿こそ最もよく似合う女なのだ。剣を振るい、おのれの敵を血の海に沈めることを歓ぶような女ではないのだ。
 そんな女に神職を捨て「戦闘職」に“転職”せよと言ったところで、すぐに納得するはずがない。
 
 だが、それを言い出せば、そもそも眼前の男からして、望んで賢者に“転職”したわけではない。
 ワイトはかつて戦士だった。
 それもおそらく、剣に於いては勇者マッシュさえも凌ぐほどの巨大な天稟を抱えた、一個の天才だった。まだパーティ全体のレベルが低かった頃は、彼の剣技に何度命を救われたか分からない。
 そんな彼が、今では「賢者」という魔法戦闘の総合職に“転職”を果たしている。
 むろんワイト自身の意思であろうはずがない。彼は戦士である自分に深い矜持を抱いていたからだ。

 つまり、これもマッシュの命令だった。

 パーティの実力が未熟であった頃ならば知らず、全員がそれぞれ、それなりにレベルを上げてからの戦闘では――剣による白兵戦よりも――魔法による大量破壊こそが合理的だと、パーティのリーダーたる勇者マッシュは判断したのだ。
 いわんや当時の彼らには、ガルナの塔で入手した“悟りの書”があった。
 ダーマ神殿に並んで順番を待つだけでは決してなれない「賢者」への“転職資格”をその手に持っていた以上、それを空しく嚢中で握り潰すのはさすがにもったいないとマッシュが思ったとしても無理はない。

 だが――当然と言っては当然だが――勇者の指示にワイトは素直に頷かなかった。
 しばし考える時間をくれ、とマッシュに言うやダーマから忽然と姿を消し、そして三日後、再びパーティの前に現れたときには、彼は持ち前の冷たい精気を失い、別人のように憔悴していた。
 もとより他者に容易に感情を曝け出すような男ではない。
 彼はまさに沈毅重厚と呼ぶにふさわしい性格の所有者であったが、そのワイトが、マッシュの命令にどれほど苦悩を覚えたかは、その顔を見れば一目瞭然であったろう。
 だが、もはや是非もなし――とばかりに肚を括った戦士は、そのまま従容と神殿に赴き、無言のままに剣を捨て、賢者として杖を取ったのだ。

 あいつはあいつ、オレはオレだ。納得できない言葉に従ういわれはない。――そう言いきることはいくらでも出来る。
 だが、あの時のワイトを見てしまっている以上、ミルトンとしてはこれ以上見苦しく反論する事は、やはり憚られた。
 たとえこのマッシュの転職命令がワイトの入れ知恵だとしても、そこに他意はないはずだ。彼は真実、ミルトンたちの“転職”が勝利のために必要不可欠なのだと判断を下したのであろう。
 賢者に“転職”して以来、ますます寡黙になったワイトではあるが、その人格は今なお信頼に足るものであるとミルトンは認識している。
 ならば、もはや選択肢はない――そう判断すべきであったろう。
 

「コーラス、オレは勇者の指示に従う。だからお前も……これ以上ワガママを通すのはやめるんだ」


 絶望的な表情を浮かべる女僧侶に、ミルトンは覚悟を決めた表情で毅然と言い放った。
 彼女の目元に光る涙に、思わず目を逸らしそうになるが、それでも彼は最大限の努力を払いながらコーラスと視線を合わせ続ける。
 そして結局、耐え切れずに目を逸らし、うつむいた彼女をなぐさめようと手を伸ばした――まさにその瞬間だった。

 どこからともなく馬のいななきが遠く聞こえた。
 この宿屋に、幌馬車に乗った行商人でも到着したのか。
(いや、違う)
 彼の耳に届く馬蹄の音といななきの声から逆算して、馬は少なくとも5・6頭はいる。個人の行商人にしては馬が多すぎるし、隊商にしては少なすぎる。むしろ、お忍び遊びの貴人だとでも解釈した方が――。


 それからたっぷり数十秒は経っていたであろう。
眠りから覚めたことも理解せぬままに、ミルトンがそのまま天井を睨みつけている自分自身に気付いたのは。


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 朝から降り続いた雨はそろそろ小降りになっている。
――こやつもいい走りをするようになったの。
 そう思いながら彼は、妻の濃姫にさえ見せないような優しげな手付きで、ぽんぽんと馬を撫でる。
 大早稲(おおわせ)と名付けられたこの馬は、かつては奥州より献上された評判の悍馬であったが、彼はそのじゃじゃ馬をさんざんに責め馴らして調教し、いまやすっかり己が意志のままに動く駿馬として躾直してしまったのだ。
 彼は、馬でも人でも役に立つ者が好きだった――というより、自分の役に立たない無能な存在を、彼ほど憎む人間はいない。その激し過ぎる気性こそが、馬なり人なりを自在に御する秘訣となっていることを、この青年が気付いていたかどうかは分からないが。

「よし」
 と呟くと、そのまま青年は馬から下りる。
 その動作は鋭く、そんな何気ない動きからも、かなりの身体能力を彼が所有していることが分かる。――いや、鋭いのは挙動だけではない。笠の陰になって遠目に面相までは判別つかないが、それでも彼の放つ猛禽のように鋭い眼光までは隠しようがない。
 彼が下馬するとともに、供回りらしい数人の武士たちも馬から下りて彼に続く。いずれの男たちも腕に覚えありげな空気を発しているが、それでも先頭を闊歩する青年ほどの光を瞳に宿している者は一人もいない。

 青年が見上げるのは、濃尾平野を貫いて流れる大河――その中洲に屹立する墨俣城。
 とはいっても、それは現代の我々が知る後年の墨俣城ではない。堅固な石垣も壮麗な天守閣もなく、それどころか木柵と土塀を城壁代わりとし、櫓や門や長屋の屋根は藁ぶきで瓦すら使わず、見るも粗末な野戦城塞に過ぎない。
 だが、この砦こそが、織田家が多大なる犠牲と努力の末に築き上げた、対斎藤家の橋頭堡なのだ。
 とはいえ、雨に煙る墨俣城のシルエットは、背景の美濃の山野とも相まって、一幅の水墨画のような美しさを醸し出している。
――が、青年の瞳が、そんなパノラマに見とれている気配は塵ほどもない。


 織田上総介信長。
 それがこの青年の名前だった。



「こっ、これは殿様……ッッ!? わざわざこのような場所までお忍びでお越しになられるとは……事前に連絡を頂ければ、城代ともども精一杯の歓迎の宴を張らせて頂きましたものを……ッッ!!」
 そう言いながら、引きつった顔で出迎える蜂須賀小六の一団に濡れた笠と蓑を渡し、大股で墨俣城の廊下を歩みつつ、信長はにこりともせず口を開く。

「宴など要らぬ。――猿は?」

 まるで斬り捨てるような視線と口調――ではあるが、彼は別に何かに腹を立てているわけではない。信長とは普段から、そういう不機嫌にしか見えぬ態度を日常的に振舞う男だった。
 彼の居城たる清洲城に詰めている織田家の直臣や近侍なら、信長のそういう言動に慣れていて、いちいち気にもしないが、新参の小六たちにとってはそうはいかない。主君の突然の来訪に満足に対応できない自分たちが、信長の機嫌を悪化させていると思えば、緊張もするし冷汗の一筋も流れて当然だ。
 なにしろ信長の気性の激しさは尾張一国に鳴り響いている。
 清洲城下の戦国乱世とも思えないほどの治安のよさは、犯罪者に一切の容赦をせぬこの若き支配者に対する恐怖こそが原動力になっていることは、尾張の住人ならば子供でも知っている事実だ。
 しかも、主君の問に対する返答が、またまずい。

「墨俣城代・木下藤吉郎は……ただいま不在でございます……」

 その途端に足を止め、氷のような一瞥を小六に投げ掛ける信長。
 信長の供として随伴していた武士たちも、
(おいおい、どういうことよ)
 と言わんばかりの表情で小六に白眼を向けている。
 彼らからすれば当然のことであったろう。
 この墨俣城は織田家にとっては美濃・斎藤家との最前線基地だ。当然、小戦や小競り合いは絶えず、逆に言えば腕自慢の武辺者たちにとっては格好の武功の場であったと言える。
 にもかかわらず城を預けられたのは、ついこの間まで信長の草履取りをしていたような小者・木下藤吉郎であり――そんな破格の抜擢すらも彼らにとっては腹立たしい話だというのに――しかもその城を留守にして、どこぞをほっつき歩いていると聞けば、それはもはや許されていい情況ではない。
 藤吉郎の出世に嫉妬する連中のみならず、彼を登用した信長本人でさえ激怒のあまり刀を抜いて然るべきはずであったが……。

「もっ、もちろん大急ぎで繋ぎを取るべく、今こちらの手の者を走らせておりますが、おそらく戻りは早くとも夜になるかと……ッッ」
「小六」
「はッッ!!」
「その使いの者を呼び戻せ」
「……は!??」
「おれが今日ここにきたのは特にあやつに用があってのことではない。どうせならば信長に構わず勤めに励めと猿に伝えよ」
「は……はい」

 信長は怒っていない。
 その事実だけで、蜂須賀小六は磐石の安堵を得た気分だった。
 むろん小六としては、藤吉郎が何をやっているのか知ってはいる。
 だが、当時の常識としてはやはり、城将が城を留守にして出歩くなど責任を追及されて当然の行為だったし、何より藤吉郎がしている秘密工作に対して信長が理解を持っていることこそが驚きだった。信長という男は、その苛烈な性格に象徴される短兵急な戦争しかしない人間だと、小六は解釈していたからだ。

「そうか――真面目に働いておるか猿のやつ。まあ、もっとも雨じゃからというて城にあぐらをかいて昼寝しとるような奴なら、おれも使ってやったりはせなんだがのう……フフフ」
 そう呟きながら頬を緩ませ、ふたたび歩き始める信長の背に、小六は尋ねる。
「では殿様、今日はこの墨俣にいかなる御用向きで……?」
「決まっておろうが」
 小六を振り向いた信長の口元には、まだ微笑が消えずに残っていた。



「例の異人に会いたい。部屋に案内せよ」



 永禄九年(1566年)六月、墨俣城は完成した。
 信長は、その責任者として木下藤吉郎を抜擢し、同時に召抱えた蜂須賀小六とその一党を与力として彼に配し、墨俣駐在の主戦力とした。
 当時の秀吉の俸禄はわずか三十三貫。
 むろん城を預けるについて信長は多少の加増を図ってやったが、それでも織田家の身分的には、ようやく最下級の将校と呼べるかどうかの立場であったに過ぎない。それでも墨俣城の実質的な築城責任者であった秀吉を、その城代に据えた人事は――たとえ他の家臣にとっては不快な程に乱暴なものであっても――信長にとっては至極当然なものであった。

 もっとも、美濃斎藤家が本気になって大軍を派遣したら、こんな小城などひとたまりもないのはわかっている。防衛拠点としての墨俣城の役割など、しょせんは織田の本軍が到着するまで斎藤軍を食い止める防波堤以外の何者でもない。
 その点、信長は藤吉郎の防戦指揮能力にさほどの期待を抱いてはいない。後に戦術・戦略家として天才的な才能を開花させる秀吉であったが、当時の信長は軍人としての木下藤吉郎にそれほどの評価を持っていたわけではない。
 信長の戦略構想的に藤吉郎に求めたものは、その卓抜した対人交渉術――いわゆる調略技能であり、この墨俣城も軍事拠点というよりむしろ、藤吉郎のための一大交渉基地であったと言うべきであろう。

 敵方の有力者と折衝を重ね、好条件を並べて裏切らせ、味方につける――調略工作とは一口に言えばそういう作業であるが、むろん誰にでも出来ることではない。柴田勝家や丹羽長秀といった譜代の宿将にも、この手の工作を一任することはまず出来ない。どれだけ有能であったとしても、彼らはしょせん単なる作戦指揮官に過ぎないからだ。
(だが、猿ならやる。やれるはずだ)
 信長はそう思い、そして藤吉郎は主君の意図をよく理解し、その希望に応えた。
 おのれが不在の間の指揮権を蜂須賀小六に一任するや、神出鬼没に飛び回り、いまや西美濃一帯の国人衆や地侍たち相手に大規模な調略活動を展開しつつある。現に西美濃三人衆(安藤伊賀守・氏家卜全・稲葉一鉄)らを始め、天才軍師・竹中半兵衛さえも織田家への内応交渉のテーブルについたと信長は聞いている。
 藤吉郎が城を不在にして、事前の連絡もなしにいきなり墨俣に現れた信長を出迎えられなかったのも、また、それを聞いて信長が怒るどころか笑みを浮かべたのも、まさにそのためだった。



 そして、今この城に一人の男がいる。
 墨俣城が竣工した正にその日、たった一人で暴れに暴れて二百名近くの美濃兵を死傷させ、墨俣対岸にある神名山の斎藤家の陣を秀吉隊が撃破する端緒となった男。
騎馬武者を馬ごと斬り捨てる剣の腕と、数十人の兵を一度に殺戮する氷炎の奇跡を行使する男。
 鉄砲隊の斉射を喰らいながらも銃弾を弾き返す甲冑を身につけ、さらに、その鎧の露出部分に被弾した後も、銃創からの大量出血に心を折られることなく剣を構え続けた男。
 神名山から美濃勢が撤退した後に藤吉郎によって保護された、その男の容態が数日前にようやく小康状態になったらしい。
 しかも、覚醒後に行われた尋問での供述は奇怪極まりなく、墨俣に突然出現しながら「美濃」や「尾張」どころか「日本(ひのもと)」という国号も知らず、南蛮人そのものの紅毛碧眼でありながらキリスト教について何も知らず、生まれながらの日本人のように流暢に言葉を操り、逆に「ありあはん」や「あれふがるど」なる地を知らぬかと訊き返す男。

 信長はこの男に興味を持った。
 むろん男の情報は、後方で聞く分にはあまりに信じがたい話である。しかし――いや、だからこそ信長はその男に多大なる好奇心をそそられた。
 男が意識を回復し次第、即刻清洲に護送せよと藤吉郎にはすでに命じてあるが、彼の負傷情況からして、そう簡単に清洲に移せるほどには回復しないだろうとの返信も受けている。なにより男の使う「魔法」のことを思えば、迂闊に主君の居城へ移送するのは危険すぎる――そう藤吉郎が考えていることも信長は理解している。

 だが、信長という人間は、一度思い立ったらもう止まらない。
 もともと少年時代には、その奇矯な言動で諸国の噂になったほどの男だ。他者に対する好奇心も行動力も溢れんばかりに持ち合わせている。たとえ梅雨の長雨の中であっても馬を駆って、その男に直接会いに来る程度のことなど――それが一国の国主としては相応しからぬ軽率な行動であったとしても――信長にとってそれは日常的な行為なのだ。
(確か、みるとん、とか言うたか……どういう奴なのか楽しみじゃ)
 信長の目的を聞き、戸惑い、あわてふためく蜂須賀小六を尻目に、信長の頬には先程までとはまた別種の、何かを期待する子供っぽい微笑が刻まれていた。





[26665] 第三話 「謁見(前)」
Name: ジンバブエ◆74606097 ID:d2736d75
Date: 2011/06/01 03:59
 目覚めたミルトンが最初に取った行動は、枕元の水筒を口に含むことであった。
 ぐびり、ぐびりと冷たい水が音を立てて彼の喉に流し込まれてゆく。
(うまい)
 寝汗で火照った体には、そう思わざるを得ない。
 救国の英雄としてアリアハンで国王から官職と官邸を与えられ、すっかり「勝ち組」の生活を手に入れたミルトンであるが、やはり冒険者だった頃の性根は抜けない。たとえ何処とも知れぬ異世界であったとしても、朝になるたびに冷たい井戸水を入れた竹筒が、枕元に置かれているような生活に、普通に居心地のよさを覚えてしまっている。
 勿論これは、あの猿顔の男――確かキノシタ・トウキチロウとか言ったか――の心尽くしの一環であり、右も左も分からないミルトンには、彼の厚意を拒むことなど思いもよらない。
 何より――起きぬけの冷水の美味さは、たとえどこの世界であろうが変わらないという事実が、彼を安心させるのだ。

――が、その瞬間、ミルトンの左膝と右腕の銃創に激痛が走る。
「……ッッ!!」
 反射的に顔をしかめるがそれで痛みが少しでも薄らぐものではない。
 無論この城の人間によって治療は施されている。傷を切開して弾丸を摘出し、包帯をきつく巻いて傷口が再び開かぬように固定した。
 とはいえ、情況が落ち着いてきたのはようやくここ数日というところだろう。それまでは激痛と高熱で動くことも出来ず、血膿で黄色く染まった包帯を日に何度交換してもらったか分からない。

(オレにホイミが使えれば、こんな傷あっという間に直せるのによ……)
 ミルトンとしてはそう思わざるを得ないが、同時にこれが魔法なき世界の負傷の代償なのかと思えば、これまでの冒険の日々で、自分がどれだけ甘い意識の中で戦ってきたのかが骨身に沁みるというものだ。
 回復呪文や蘇生呪文に対する絶大な信頼は、恐れを知らぬ攻撃の深さ鋭さに直結するが、そのまま戦傷や戦死に対する危機感の欠如としても跳ね返ってくる。
 それは当然の事だ。
 だが、その当然すぎる事実を自覚していなかった自分自身に腹が立つ。
 死んでもどうせ蘇生できるという甘い考えが、無自覚なうちに自分自身を単なる猪武者に堕さしめていたという事実こそ、なによりミルトンに怒りを覚えさせるのだ。

 そう思えばこそ、ぶざまにも倒れて動けぬ自分に対するキノシタ・トウキチロウとその一党たちの、手厚い看護が身にしみる。
 もとより治療手段のことごとくを魔法が解決する世界に生きてきたミルトンには、これほどの長期間にわたって肉体回復に伴う苦痛を味わった事も、さらにはその過程において他者の世話になった経験も無い。
 いや、傷口のケアだけではない。
 さすがに酒こそ出ないが、食事のたびに魚や肉がふんだんに盛られた膳を用意され、さらにはミルトンが望めば、世間話の相手さえこの部屋に来てくれる。それどころか――さすがに彼としても丁重に退室願ったが――夜伽の女性さえ、この部屋に現れたのだ。
 この城の人間がミルトンにどれほど気を使っているか分かろうというものだ。

 無論そこに彼らの下心が透けて見えないと言えば嘘になる。
 魔法無きこの世界では、ミルトンの魔法技術はさぞかし利用価値があるものなのだろう。
 だが、それとこれとはまた別なのだ。どことも分からぬ異世界で行き倒れ、誰とも分からぬ者たちから手厚くもてなされているという現実に、何も感じないような図太さをミルトンは持ち合わせてはいないのだ。
 だが、それと同時に、回復呪文への追憶は嫌でも過去の仲間たちに対する記憶を喚起させずにはいられない。



 あの後、ミルトンとコーラスは“転職”を果たした。
 ミルトンは戦士に。
 コーラスは武闘家に。
 そして、彼らのパーティはルーラを使って再び全世界を飛び回り、自分たちのレベルアップに数ヶ月を費やした後、満を持してアレフガルドのゾーマの居城に乗り込んだのだ。
 結果は――もはや言うまでもあるまい。
 ゾーマのいなくなったアレフガルドは、夜の世界から太陽の照り輝く、文字通りの「もう一つの世界」になり、文化的にも経済的にも交流が始まった。
 パーティも解散し、かつての仲間たちはそれぞれ新しい道を歩み始めた。
「勇者ロト」の称号を与えられたマッシュは、そのままラダトームに移り住み、ワイトはミルトンと同じくアリアハンの王宮に召抱えられ、コーラスはダーマで再び僧侶に“転職”し直して、やはりアリアハンの教会に戻っていった。
 
 もともと魔王打倒という目的あってのパーティであったため、冒険終了後もずるずる付き合いを続けるほどに仲が良かったわけでもない。
 ラダトームに移住したマッシュはともかく、ワイトやコーラスとも未だに顔を合わせる機会こそあるが、そのたびに昔を懐かしんで肩を叩き合うような真似はしない。「お前も元気そうだな」とばかりに目線を合わせて静かに微笑みあうだけだ。
 それでいいと思っていたし、ミルトンとしても不満はない。

(おいおい……まだ自分に嘘をつき続ける気かよ)
 フッと自嘲の笑みが浮かぶ。
 もういい、わかっている。
 こんな見知らぬ世界にやってきて、初めてミルトンは、懸命に目を背け続けてきた自分の感情に向き合わざるを得なかった。

 彼はコーラスが好きだった。
 
 いつから彼女に心を奪われていたのかは定かではない。
 でも、気付けばミルトンは、コーラスの可憐な姿を目で追うようになっていた。
 戦闘でも無意識の内に彼女を庇い、彼女を守り、彼女のために戦おうとしている自分がいた。
(まるでガキだな……)
 しかし彼は、その感情から当時は懸命に目を逸らそうとしていた。
 なぜなら、コーラスが自分を男性と意識してはいないことなど、ミルトンには百も承知だったからだ。彼女にとってミルトンという人間は、あくまで魔王打倒の戦友の一人でしかなく、それ以上でもそれ以下でもなかった。
 相手にされないと分かっている想いなど、男子にとっては抱くだけ屈辱というものではないか。
――そう考えていた自分を「若かった」と自嘲するのは簡単だ。
 だが、同じ釜の飯を食べて過ごした冒険の頃や、その気になればいつでも教会まで会いに行けた「戦後」の頃とは、もはや違う。
(もう夢でしか会えないんだな……あいつとは)
 そういう想いが、傷口の激痛とはまた違う、寂寥感を伴う胸の痛みを生み出すのだ。


 
 その時だった。
 何人かの人間が廊下を渡ってこの部屋に近付いてくる。
 物思いに沈んでいたミルトンは、その気配にハッと我に帰ったが、いまさら警戒するつもりはない。この城の人間が傷の経過と食事の提供のために、この部屋に朝昼晩の一日三回現れるのは、もはや彼も周知の事だったからだ。
「みるとん殿、少し宜しゅうござるか?」
 という声が、スライド式の紙のドア越しに聞こえる。
 鍵のかからぬ部屋に紙のドアという、用心の悪すぎる居住空間に、かつて彼は困惑を覚えたものであったが、――まあ、今はそれを語る時ではない。
 声の主も知っている。
 確かハチスカ・コロクとかいう中年男で、この城の首領であるキノシタ・トウキチロウの副官だ。

「どうぞ」
 と、一声かけると、からりとドアが横に開いてハチスカが顔を見せる。
 だが、普段の彼とは何か様子が違う。
(緊張してる、のか?)
 一瞥でミルトンがそう思うほどに、彼の顔は強張っていた。
 だが次の瞬間、ミルトンは気付いていた。
(なんだこれは……っっ!?)
 彼の背後から、壁越しに形容しがたい凄まじい存在感が伝わってくる。
 まるでバラモスやゾーマを思い出させるほどに剣呑な気配であったが、確かにある意味、その比喩は正しいと言うべきであろう。
 なにしろそこにいたのは、のちに「第六天魔王」と呼ばれ、まるで修羅の国のごとく戦乱に明け暮れるこの島国で、同時代人たちから最も恐れられるようになる男だったからだ。


/////////////////////////

 異人の横臥する部屋は、おそらくこの墨俣城でも最上級の居住空間であったろう。
 本丸の最上階にあるこの部屋の広さは十二畳ほどであり、日当たりも風通しもよく、窓のすだれを上げれば美濃の美しい山野が遠望できる。さらに使用されている寝具など当時では珍しい綿布団であった。また、部屋の片隅には陶磁器の瓶に花が活けられ、ほのかな香りがここまで届いてくる。
 おそらく城の最高首脳であるはずの藤吉郎や蜂須賀小六でさえも、これほど贅を凝らした私室をもってはいまい。敢えて言うなら、これは彼らの主君――信長が入城した時に提供すべき居室であったかも知れない。
 だが、藤吉郎はその部屋に、この得体の知れぬ異人を運び込み、のみならず医者を呼び、薬を手配し、滋養に満ちた食事を与えている。この異人に藤吉郎がどれほど細心の心配りをしているかが一目で分かる待遇だった。
(なるほど)
 信長はうなずく。
 藤吉郎が彼をこれほどまでに厚遇しているという事実は、彼が清洲に報告してきた荒唐無稽な情報が、それなりに裏付けのあるものだということを証明している。藤吉郎ほどに抜け目のない男が、利用価値の無い人間にこれほどの金と気を遣うはずが無いからだ。


「ミルトン殿、こちらにおられるのが我らの主君・織田上総介さまじゃ。ご挨拶なされい」


 先に入室し、中にいた異人と言葉を交わした小六が、彼と信長の中間に立ってそう言った。
 さすがに異人も、ぎこちない動作で腰を上げて挨拶しようとするが、信長は鷹揚に手を挙げてそれを遮った。
「信長じゃ。――楽にせい」
 そう言いながら彼は部屋に入り、蒲団の傍らの円座に腰を下ろした。
 貴人を前に居ずまいを正さないというのはさすがに礼に反するが、それでもケガ人に正座を強要するほど信長は理不尽な人間ではない。
 そんな彼に、とりあえずミルトンは黙礼する。
「ミルトンです。この城の方々にはお世話になっています」

 その発言に、信長の後ろに控える供侍たちも思わず声をもらす。いや、事前に藤吉郎から聞いていなければ信長も耳を疑っただろう。――確かに異人とは思えない。その流暢な言葉の操り様は、正しく日本に生まれ日本で育った日本人そのものだ。
 かつて堺で信長が会った南蛮人宣教師たちも、異人にしてはなかなか器用に日本語を話したが、それでも眼前の男とは比較にならない程たどたどしい口調であった。
(ただの異人ではない、というのはこれでわかったが)
 だが、それでも信長は“その程度”の事実に瞠目しようとは思わない。彼が、この異人に求めているものは、そんな口の利きようなどではないのだから。
 つまり、信長の態度は普段と同じく、取り付く島の無い刺々しさに覆われていた。
 

 異界の救世主と、日本に近世の幕開けをもたらした革命児。
 これが二人の初めての出会いであった。


「そちのことは藤吉郎からいろいろ聞き及んでおる。じゃから、まずは見せてもらおうか」
「見せる?」
「決まっておろう。美濃勢を蹴散らしたという例の奇跡の技をよ」
 そう言う信長の瞳は、まるで猛禽のように鋭さが抜けない。
 
(おいおい……)
 まるで喧嘩を売るようなその態度に、さすがにミルトンも困惑する。
 ここにいるコロクやトウキチロウから、このオワリの国にはノブナガという名の支配者がいる事を聞いてはいた。だが仮にも一国の主であり――さらに魔王に匹敵するほどの存在感を持つ――この若者が、こんな直接的な言動をするとは、やはりミルトンには予想外すぎる展開だったのだ。
 だが、戸惑いながらも傍らのコロクに目をやったミルトンは、彼が懸命に――いいから黙って従え! 殿に逆らうな!――という空気を発していることに気付かざるを得なかった。
(つまり、これは単なる謁見じゃない。国王自らのオレに対する面接だということか)
 ならば話は違ってくる。
 魔法の業は見世物ではない。だが、ここで自分がブザマを晒せば、自分を救って手厚い庇護を与えてくれたコロクやトウキチロウにも恥をかかせることになる。ならば、何をためらう必要があろうか――。
 ミルトンは軽く瞑目し、そのままうなずいた。

「では――」

 ミルトンが差し出した左手。
 信長の眼前で開かれた掌には、当然ながら何も握られてはいない。
 だが、やがてそこに、豆粒ほどに小さな火がポツリと湧き上がるのを見て、信長は思わず息を飲んだ。
 その火はやがて手鞠ほどの大きさになり、さらにやがて人の頭ほどの大きさになり、そこからさらに大きくなっていく。

「おおお……ッッ!!」

 信長は思わずうめき声を上げて立ち上がり、小六や供侍たちとともに壁際まであとずさる。
 気付けば火球は、すでに子供一人がすっぽり入ってしまえるほどの巨大なものになっている。彼の手に炎が出現してから、この間わずかに数秒しか経っていない。
「これはメラミという呪文です。現時点で、人間一人焼き尽くして骨も残さぬほどの熱をこの火は持っております」

 確かに、距離を取ってなお顔をそむけるほどの熱さが信長に伝わってくる。
「ミルトン殿もうよい!! そこまでじゃっ!!」
 小六が叫び、その瞬間、紅蓮の火球は何かの幻であったかのように、跡形も無く消えた。
 残ったのは、何が燃えたわけでもないというのにツンと鼻につく焦げ臭い空気だけだ。
(いや――)
 信長は天井を見上げた。
 見れば、強火で炙られたような黒い焦げ跡が羽目板に残っている。
(あの火から出る熱気だけで焦げ目を作ったというのか……)
 そう思うと、信長は慄然となった。
 この部屋の天井がことさら低いわけではない。だがたいまつやロウソクの熱というものは上に逃げる。人一人を骨まで焼き尽くす熱気ともなれば、むしろ天井の木材に引火せず、その程度の焦げ跡で済んだことを安堵すべきなのか。


「他には!? 他には何ができるッッ!?」
 半ば狼狽したような表情で信長が叫ぶ。
「はい」
 誇らしげに頷いたミルトンの目がすっと細くなる。
 
 再び差し出された左手の掌に、先程と同じく豆粒ほどの小さな何かが生じる。
 だが、今度のそれは火ではなかった。
 まるで降りたての雪を凝縮したような白い――いや、その表現はまさしく比喩では済まなかったようだ。なぜなら、この“雪”が出現した瞬間、梅雨の湿気にむせ返るこの部屋の気温が、それこそ一気に数度は下がったのだから。
 食い入るように見つめてくる信長に、ミルトンは悪戯っぽい微笑を返すと、そのまま掌の白い粒にフッと息を吹きかけた。
 一同の視線がミルトンから、そのまま宙を漂う“雪”に集中する。
 風に吹かれるタンポポの綿毛の速度で、ゆっくりと部屋を横断したその“雪”は、部屋の片隅に飾られた花瓶に到達し、――その瞬間、陶器の花瓶は活けられた花ごと、びしりと真っ白に凍結してしまったのだ。

「――ッッ!?」

 呆然と立ち竦む織田家家臣団は、もはや声もない。
 蜂須賀小六にしても、神名山での戦闘でミルトンの魔法は目にしているはずであったが、無論こうして目の当たりにすれば、そのすさまじさに改めて毒気を抜かれてしまうのは当然であったろう。ならば、その奇跡の業を初めて目にした者たちならば、驚愕のほどは計り知れない。
 いや――ただ一人、信長だけがその場を動く余力を持ち合わせていた。
「殿……?」
 小六が声を掛けるが、彼は振り向きもせず凍りついた花瓶に近寄り、手を伸ばす。
 ぱりぱり、という乾いた音とともに信長の手の中で、その花は砕け散り、粉々になった。
 その眺めは、彼らをさらに慄然とさせるには充分だった。



「見事じゃッッ!!」



 その大声にミルトンが顔をしかめる暇さえない。
 まるで駆け寄るように大股で彼の蒲団に歩み寄った信長は、そのまま腰から自分の脇差を鞘ぐるみで抜き取り、ミルトンの左手に握らせた。
「よいものを見せてもろうた!! 受け取れっ、褒美じゃっ!!」
 そう叫ぶ信長の表情は、さっきまでの仏頂面はどこへやら、まるで子供のような満面の笑みに包まれている。さすがにミルトンも信長の豹変に戸惑っているようで、脇差を渡された左手を握ろうともしない。
 だが、そんなことはどうでもいい。
 信長にあったのは、ただひたすらな興奮と歓喜であった。


 そもそも織田信長という男は、日本思想史上最初の唯物・無神論者というべき男であった。
 この世のあらゆる神秘を否定し、神仏を否定し、霊魂を否定し、死後の救済を否定した。
 もっともこの時代には、中世的な神聖権威など屁とも思わない者たちはいくらでもいた。後に天下人となる秀吉然り、家康然り――だが、ある意味、信長ほどそれらの否定に情熱を傾けた者はいない。
 寺社勢力と結びついた同業者組合“座”を廃し、浅井朝倉をかくまった比叡山を破壊し、甲斐の名僧・快川を寺ごと焼き殺し、さらには、必要以上の憎悪を以って伊勢長島や石山本願寺の一向門徒衆たちを磨り潰すように皆殺しにしたのも信長だ。

 だからといって、彼が既存宗教の全存在を認めていなかったわけではない。
 彼が憎むのは、あくまで世俗の汚濁にまみれた貪欲な聖職者であり、現世権威と癒着して利益を得る宗教勢力であり、それに該当する者はたとえ町の拝み屋であっても容赦しない。現に彼は――後年の話ではあるが――安土城下から逃亡した無辺という修験者を、全国各地で戦闘中の部下に連絡をまわして執拗に追跡し、ついに刑殺してしまった事さえある。
 信長が南蛮人宣教師たちを保護し、その布教を認めたのは、何もその教義を認めたからではない。彼らがもたらすヨーロッパ直輸入の新知識と、彼らイエズス会修道士たちのモットーとする「清貧」の概念を、当時の仏僧たちにはない思想だとして気に入ったからだ。
 余談ではあるが、もしもローマ・カトリック絶頂期のヨーロッパに信長が生まれていたなら、横暴を極めた当時の教会権力に対して当然のように激怒し、ヴァチカンに攻め込んで何のためらいもなく時の教皇インノケンティウスを焚殺したであろう。
 
 つまり、信長にとっては奇跡や魔法は共存できない価値観ではない。
 たとえ己の理解が及ばぬ怪力乱神であろうとも、世俗の手垢に汚れきっておらぬならば、そして何より――ここが重要なのだが――その業を利用できるなら、手を差し出す度量は、当然のごとく持ち合わせている。
 だが、信長がここでミルトンを抱き締めんばかりに興奮したのは、そういうことではない。


 彼はただ、ひたすらに感動したのだ。
 まさに人知を超えた奇跡を具現化する男を見て。


 その力を己が戦に利用する――などという小賢しい計算などではない。
 もとより少年時代より、自分を規制するすべを覚えぬままに狂児のように暴れ回っていた男だ。信長は、むしろ同世代の他の男と比較しても純粋というべき感性を持っている。その純粋さこそが、おのれが容認できぬ存在に対して火のような攻撃性を発揮させるのであろうが、もはやそれはいい。
 おのれの持つ常識を超えた存在を目の当たりにした時、人間の反応は二つに分かれる。
 すなわち、絶賛と反発。
 そしてこの場合、信長は前者――理解の及ばぬ奇跡をまるごと受容し、絶賛できる器量を持っていた。
 ならばこそ信長は、この得体の知れぬ異人の肩を抱き、こう叫ぶ。


「そちを我が家来として召抱えたい!! 異存はあるかッッ!?」





[26665] 第四話 「謁見(後)」
Name: ジンバブエ◆74606097 ID:d2736d75
Date: 2011/06/09 18:33

 信長に肩をつかまれた瞬間、さらに電流のような激痛がミルトンの右腕の傷に走った。
「ぐうぅ……ッッ!!」
 顔をしかめ、うめき声をあげる彼に、さすがの信長も「おお、済まぬ済まぬ」と言いながら距離を取り、ミルトンの蒲団から円座に戻る。
 その様子を薄目で見ながら――実はミルトンはホッとしていた。
 傷は痛い。それこそ顔を歪めるほどの激痛ではある。
 だが、とりあえず前のめりになりすぎているこのオワリ国主から、一呼吸ほど間を取れたことにミルトンは安堵していたのだ。

「――で、どうじゃ。わしに仕える気はあるか?」

 そう問う信長は、いまだ興奮覚めやらぬように紅潮している。
 しかし、それでもミルトンの魔法を目撃した感動で、自分の脇差を鞘ぐるみ抜いて「褒美じゃ受け取れ」と叫びながら押し付けてきた先程に比べれば、よほど素に戻っているとミルトンには思えた。
――冷静に非ざる者とは、冷静な話は出来ない。
 ミルトン自身が、簡単に熱くなる人間だったためか、よくコーラスやワイトにそう言われてたしなめられたものだ。

 もっとも、たとえ冷静であったとしても、このノブナガという若き支配者は、きっかけ次第では即座に激怒して躊躇なく剣を抜くであろう。ミルトンにもそれくらいはわかる。
 だが、それでもこれから自分が吐く言葉を鑑みれば、ノブナガにはあくまで冷静でいてもらえるように祈るしかない。なぜなら、やはりこの危険な一言は、危険であるがゆえに言わずに済ませられるものではないからだ。
 だから、ミルトンは口を開いた。
 左手に握らされた脇差を、返却するように差し出しながら。


「国主閣下のお言葉はまことにありがたい限りでござりますが……それでもやはり、少し考える時間を頂けませんか」


 はたして信長の表情は、たちまち剣呑なものに一変した。
 いや、それだけではない。この部屋の空気が一瞬にして丸ごと凍てついてしまったようだった。蜂須賀小六や、信長のお供としてここにいる前田又左衛門や池田勝三郎・佐々内蔵助などの面々でさえ、ここへきてこの恐るべき主君に逆らう異人に、顔面蒼白になってしまっている。
 おそらくはミルトンも“故郷”で数々の修羅場を経験していなければ、信長の発する凄まじい圧力に何も言えなくなってしまっていただろう。それほどまでに彼の眼光は、人に顔を背けさせるものだった。
「つまりそちは、わしにではなく他の誰かに仕えるということか?」

 ミルトンは静かに首を振った。
「そうではありません」
 そう言いながらミルトンは信長の強烈な視線をまともに見返す。
 睨み返したわけではない。水のように冷静な瞳を向けただけだ。むろんミルトンは、この国において貴人の目をまともに見るという行為が無作法に当たることなど知らない。

「閣下に仕えるということは、閣下の戦場で閣下の敵と私が戦うということでしょう。しかしながら私の魔法は、人間相手に使う為に学んだものではないのです」

 信長は、咄嗟にその言葉の意味が分からなかったに違いない。
 形のいい彼の眉が、不審げにピクリと動く。
「どういうことじゃ?」
「私の魔法――いや、私が持てる全ての戦闘技術は、人類の敵と戦う為にこそ身に付けたものなのです」
「何を申すか、人間の敵はしょせん人間であろうが」
「閣下がそう仰られるのは当然です。ですが、私の“故郷”では違うのです。私の知る人間とは、魔王の影に怯え、互いに寄り添って暮らす以外に生きるすべなき、哀れな種族に過ぎないのです」
「たわけたことをほざくでないわッッ!!」
 怒りに任せて信長は叫んだ。
「ならば、そちもその哀れな種族の一人に過ぎぬと言うのか! さっきわしに見せた魔法とやらは、互いに傷を舐めあう為の座興の手品でしかないと言う気なのかッッ!!」

「むろん違います」

 万人が顔をそむける信長の鉄鞭のような一喝を受け――しかしミルトンはもはや怯まない。
「先程申し上げた通り、我が剣や魔法は、そんな逼塞した人類を魔王の脅威から解放する為にこそ学んだ技術なのです。悪夢のごとき魔獣の軍団を撃退し、その首魁たる魔王を殺す為に鍛え上げたものなのです」

 そう言い返すミルトンの目には一切の揺るぎもない。
 これが余人の言葉であったなら普通に正気を疑う話でしかないが、さっき信長が目の当たりにした「魔法」から考えても、眼前の異人が真っ当なこの世の存在でない事は明白だ。ならば、この男の口からどんな非常識な発言が飛び出そうが、それを嘘だと断じる証拠は、どこにも存在しないことになる。
 だが、それ以上に信長には――ミルトンが口からでまかせを並べて、この場をやり過ごそうとしているわけではないことが――わかるのだ。
 なぜなら彼ほど他人の嘘に敏感な男はいない
 信長は人の虚偽虚飾を激しく憎む。僧職の本来の勤めを忘れて現世利益を貪る戦国の寺社たちに一切の容赦をしないのもそのためだ。つまり、そんな彼ならばこそミルトンの言葉に真実を感じたのだ。
 そもそも信長の目をまともに見返して物を言う人間など、清洲にいる妻・濃姫と亡き父・信秀、あるいは木下藤吉郎くらいのものなのだ。ならばここへきて、こんな真摯な目でおのれの意に逆らう異人に、信長はあらためて興味を覚えざるを得なかった。
「そういえば……わしはそちについて、魔法が使えるという以外に何も知らなんだのう」
 呟くように言う信長は、さっきまでとは違う視線をミルトンに向ける。
「まずは聞かせよ。そもそも、そちは何者じゃ?」


「我が名はミルトン。世界救済の英雄たる勇者ロトを補佐したパーティの一翼。攻撃魔法と攻撃補助魔法、そしてこの手に握った剣で魔王と戦った者です」


 そう名乗ったミルトンは、先程までの負傷の痛みに縮こまっていた異人とはまるで別人であるかのように信長には見えた。
 その面魂は、確かにただのネズミではない。たとえ魔法という飛び道具が無かったとしても、何かをやらかす男であろう。
 信長は、秀吉以外にも明智光秀、滝川一益、荒木村重などの人材を在野から次々と発掘し、弱兵で知られた尾張兵を天下の織田軍団に仕上げる男だ。自分の人物眼には並々ならぬ自信を持っている。たとえ歴然たる異人種であっても、顔付きと言動を見ればその人物の程はおおよそ見当がつく。
 だが、そういうことだけではない。
 彼は、器量才幹とは無関係に、こういう気骨のある男が大好きだった。

「くっくっくっく……」
 信長の笑いが、部屋に低く響く。
 人材の価値を出自や門閥で判断しないという意味では、信長以上に徹底した機能主義者は戦国でさえ珍しい。だが、そんな彼も所詮は人の子だ。能力以上に「好みのタイプ」というべき人間の種類はある。
 どれほど嫌な奴であっても有能ならば信長は重用する。だが、たとえば明智光秀のような陰気な教養主義者を好きにはなれないし、佐久間信盛のような財貨に卑しい愚痴屋なども嫌いなタイプだ。
 彼が好むのは、頭が多少悪くとも――もっとも完全なバカでは話にならないが――古武士のような気骨とサッパリした陽気さ、そして損得計算以上の確固たる信念に基づいて行動できる男なのだ。
 そういう意味では、この異人も毅然さも、信長にとっては好印象であった。

 ミルトンは幸運だった。つまり彼は信長に気に入られたのだ。

「……とりあえず、その脇差を納めよ。わしに恥をかかせるでないわ」
 鷹揚にそう言う信長を、この場にいる家臣たちが驚きの表情で見ている。
 彼の峻烈極まりない気性は、尾張の住人なら子供でも知っている。その主君が、自ら与えた脇差を突き返されて、それでも激昂せずに笑って済ませようとしているなど、目を疑うのが当然だったろう。
 そして、この情況がいかに異常なものであるかは、ミルトンさえも理解していた。眼前の青年国主が、おのれの意に添わぬ情況を笑って済ませるような人間でないことは、その魔王を思い出させる圧倒的な存在感に触れれば、即座に理解できる事だったからだ。
 だが、やはり彼としては、黙ってこの短剣を受け取るわけには行かない。王から剣を拝領するという行為は、ミルトンに言わせれば、それは忠誠を誓う儀式に他ならないからだ。
 だが、信長は言う。
 
「ならばじゃ、その脇差は一時そちに預け置くということでどうじゃ。そなたがわしを主と認めたならば、その時に改めてそれを受け取ったということにすればよい。それでどうじゃ?」

「では――そういうことならば」
 そう言いながら、ようやくミルトンは左手に持った小剣を握り締め、一度おのれの胸元に抱えたのち、枕元に置く。
 拝領、ではなく預かるというだけならば、とりあえず今この場で忠誠を誓う事は避けられる。
 だが、そういうこととは別に、ミルトンもまたこのノブナガという男に、言いようも無い魅力を覚え始めていたのは確かだった。
 

「――で、その魔王というのは一体何じゃ?」
「人類の天敵たる悪霊、悪鬼、魔獣どもの統率者にして、自身も強大な魔力を誇る悪魔の王です。奴らの侵略によって我々の世界の人間は、いくつかの王家と都市、それと点在する集落に押し込められ、人間同士で覇を競い合うなど思いもよりません」
「ふふっ、皮肉を言いおるか」
 信長はそう言って目を細めると、訊いた。
「で、世界救済とか言うておったが、つまりそちとその仲間が、その魔王とやらを討ち果たしたという解釈でよいのか」
「――はい」

 その返事に、信長以外の一同がどよめく。
「そっ、そんなたわけた話が……ッッ!?」
 まるで皆の意見を代表するように前田又左衛門がつぶやく。
 それはそうだろう。
 話の内容があまりに荒唐無稽過ぎるために、まるでおとぎ話を聞かされているような実感しか沸かないが、それでも「魔法」という現世には存在し得ない奇跡を実行する男の言うことだ。百歩譲って、彼の言う“故郷”や魔王の存在を信じることは不可能ではない。
 だが、人類全体を侵略するほどの一大勢力の首領――しかも自身も圧倒的な強さを持つという――そんな絶望的な相手を、軍を率いてというならともかく、たったの数人で討ち果たすなど容易に信じられる話ではない。戦国の世に生きる彼らならばこそ、それがわかるのだ。

「控えよ又左」

 しかし、そんな彼らの動揺も、信長の一睨みでたちまちに封じられる。
(たわけめらが)
 信長はそう思う。
 確かに「世界救済」というミルトンの台詞だけ聞けば、まるで天神や仏陀の所業だ。
 だが、信長に言わせればそうではない。
 そもそも家臣たちが――それも自分の身近に侍る前田又左衛門や池田勝三郎のような側近までもが、軍の相手は軍を以ってしか出来ないと考えている鈍感さが、いかにもカンに障ったのだ。
 名のある忍び者ならば、たった一人で敵の城に乗り込んで、目指す大将首を持ち帰ることなど珍しい話ではない。忍者に出来て、勇者とやらに出来ぬことでは無いだろう。

(むしろ、軍が相手でなければこそ、その魔王とやらも不覚を取ったのではないか)
 と、さえ信長は思う。
 軍が相手ならば、こちらも敵を上回る大軍を派遣すればそれで済む。
 だが、相手が数人単位の少数精鋭であればあるほど、有象無象の味方の兵力は意味を持たなくなる。ミルトンたちが打倒したという“魔王”は、おそらく数を頼みにし過ぎたあまり、その事実に気が付かなかったのではあるまいか。
(なるほど……確かにこれは一つの教訓じゃな)
 というこの時の雑念が、のちに信長の忍者への嫌悪感の発端となり、後年の天正伊賀の乱を巻き起こす遠因となるのだが……それはまた、のちの話だ。

 だがミルトンは、信長が魔王の側に立った思考をしていることなど気付きもせず、ただ誇らしげにうなずいた後、それでも一言付け加える事を忘れなかった。
「ただ、それはあくまでも我が力による功ではありません。私を含めた三人の同志は、リーダーである勇者ロトに従い、手足となって戦ったまでに過ぎないのです」
 

「なるほど、ようわかった」


 重々しくうなずいた信長は、言った。
「確かに、そちの事情を聞けば、人の世の戦に手を貸したくないと言うのも至極もっともな話じゃ」
 その言葉に思わずミルトンはホッとする。
 だが、そんな彼に信長は鋭い視線を向けた。
「じゃがな、わしは残念ながらそちの言い分を聞くわけには行かんぞ」
「か、閣下……!?」
「この国はそちの“故郷”とは違うと言うたのう。確かにそうじゃ、この尾張には――いやこの日本(ひのもと)には、魔法もなければ悪鬼を率いて人を襲う魔王なぞおりはせぬ」
 そう言いながら信長は立ち上がり、硬い表情でミルトンを見下ろす。
「じゃがのう、結局は同じじゃ。何処の国であろうが世界であろうが、しょせん何も変わらぬ。強き者が弱き者を治め、支配する。それが天の摂理というものよ」

「ばかな!?」
 ミルトンは思わず反論する。
 魔王という敵対種による征服事業を人間同士の戦争ごときと一緒にされてはたまらない。
 人間同士ならば、たとえ敗戦してもそれが即ち死に直結するとは言い難い。だが魔王による侵略は、それこそ死体以外にはぺんぺん草一本残らない。やつらは人間を労働力として家畜化する気さえなく、ただただ殺戮の対象としてのみ認識していたのだから。

「じゃが、その魔王とやらも、そちたちの手にかかって倒されたというではないか。ならば何故そちたちが勝てたのか、その理由が分かるか?」

 信長が何を言おうとしているのか、ミルトンにはわからない。
 だが、それでも自分の過去を侮辱されては黙っていられない。あの冒険の日々は、彼にとっては「聖戦」とも呼べる崇高なものだったからだ。
「言うまでもありません。正義は我が方に在ったからでござい――」
「戦場には正義なぞ存在せぬ」

 鋭い声で信長が口を挟む。
 だが、何も彼は怒っているわけではなかった。その言葉でミルトンの主張を封じた後、一転した静かな声で自分の結論を言い放つ。


「そちたちが勝てた理由は簡単じゃ、そちたちがその魔王よりも強かったからよ。弱き者が滅び、強き者が生き残る。それだけのことじゃ」


 あまりの傍若無人な言い草に、むしろミルトンは絶句してしまう。
 だが、信長が本当に言いたかったことは、実はここからだった。
「そして、それほどまでに破格の功を上げたそちたちに、ただ日和見を決め込んで成り行きを見ていた“故郷”とやらは、いかなる恩賞を与えて報いたのじゃ?」

「…………ッッ」
 ミルトンは答えられず、ただ黙して俯き、唇を噛んだ。
 確かにアリアハンに帰還後、ミルトンは官位官職、そして広大な屋敷を下賜された。
 そして何よりミルトン自身が、おのれに与えられた処遇に不満を抱いた事など無かったのだ。彼は何の疑いもなく「戦後」の自らの生活を受け入れ、おのれを「勝ち組」と定義していた。
 無理もないだろう。ミルトンが王都で民衆たちから圧倒的な支持を得ていたのは事実であるし、そもそも庶民の出自の彼が貴族に取り立てられたと言えば、まさに平時では考えられない破格の出世だ。そこに不満など発生しようがない。

 だが、いま改めて信長に言われて気付いたが――そんなことが世界を救った働きに見合う褒章だったかと問われれば、残念ながら「否」と言うしかない。
 官位をもらったといっても所詮は貴族の末席に加えられたに過ぎないし、官職といったところで実質の無い名誉職でしかない。領土と言えば屋敷の庭と周辺の森だけ。仕事における権限も知れたものだ。
 自分たちのパーティは、世界を救った英雄であり、人類を救った救世主なのだ。
 にもかかわらず、王宮に上れば、ミルトンが頭を下げねばならない貴族たちなどいくらでもいる。彼らはミルトンたちが命懸けでモンスターと戦っていた時に何をしていたわけでもない――にもかかわらず、それでも官位が上というだけで、ミルトンは連中に逆らえない。一発殴らせろと言われれば、大人しく右の頬を差し出すしかないのだ。

 むろん全幅満腔の不満ではない。
 所詮は指摘されて初めて気付くような感情なのだ。魔王を倒し、世界を救ったという達成感に比べれば微々たるものに過ぎない。
 しかし、だからこそ彼は、自分の与えられた処遇を信長に誇る事が出来なかった。
 今この瞬間に、急速に湧き上がってくる黒い感情を懸命に押し殺し、オレは満足しているはずだと自分に言い聞かせるのに必死だったからだ。

――魔王と戦い世界を救った。その誇りだけを支えに、与えられたささやかな物に満足しながら、これから生きていくのか?
――すごいなミルトン、おまえらほど使い勝手のいい“英雄”なんて他にいないぞ。

(違う! 違う!! 違うッッ!!!)
 だから彼は叫ぶ。
「王から与えられる“ごほうび”を目当てに、私は戦ったわけではありませんッッ!!」
 眼前の男と、自分自身にむけて。
「私はただ、世界を救いたかっただけだ!! そして目的は果たされた。それ以上の何を私に望めと言うのですかッッ!!」

 だが信長は切り捨てるように言い放つ。
「それは、そちの言い分じゃ。じゃが恩賞を与える側としてはそうもいかん。功烈主ヲ凌グ者ハ之ヲ誅サルと故事にいう。そちたちは魔王を倒したことで、おのれが魔王以上の強者であると証明してしまったのじゃ。ならば弱者たる者たちの王が、そちたちを魔王同様に警戒するのは当然であろうが」
「…………ッッ」
「いいや、それだけではない。そちたちは警戒されると同時に侮られてさえおる。働きに応じた領土や権力を与えずとも、しょせん奴らは何もせぬ。何もできぬとな」

 ミルトンは何も言わない。
 むろん信長の言葉は、いちいち胸元を抉られるような刃だ。
 彼は祖国を侮辱し、自分たちの冒険を侮辱し、そしてミルトン自身をも侮辱している。
 しかし、それでもミルトンが何も反論しないのは、信長の台詞が一面の真実を突いていると思わざるを得ないからだ。
 だから、ミルトンは歯軋りさえ聞こえてきそうな表情で、開き直った台詞を叫ぶ。
「しかし、たとえそれが事実であったとしても、それは閣下には関係の無いことでございましょう!! だいたい閣下は、今ここでそれを指摘して、一体私にどうせよと言うのですかッッ!?」


「だからこそ、わしに仕えよと言うておるのじゃ――わからんのか、そんなことが」


 ミルトンは言葉を失った。
 論理が飛躍しすぎて、一瞬自分が何を言われたのか分からなかったのだ。
 だが、信長は言う。
「よう聞けミルトン、そちが生まれてきたのは魔王とやらを討ち果たす為でも、その功で楽隠居をする為でもない」
「…………」
「そちは、ここで――この国で、このわしに仕える為にこそ生まれてきたのじゃ」
「…………」
「そちは虎じゃ。人の身からすれば虎も魔王も大した違いはありはせぬ。じゃからこそ、そちの“故郷”の者どもは、そちを怖れ、虎たるそちを人として飼い馴らそうとした。じゃが、わしは左様な真似はせぬ」
「…………」
「虎たるそちに、虎としての働きの場を与えてやる。そして働きに応じた恩賞をくれてやる。そちが望むのなら望むがままにのう」
「…………」
「人の戦に関わりたくないという、そちの気持ちは分かる。じゃが、この国に魔王はおらねど、人を縛り付け、人を抑え付けるものはいくらでも存在する。古き因習、悪しき伝統、腐り切った権威とそれらに寄生する亡霊のごとき奴ら――それらを掃除し、新しき世に人間を解放することこそが、この信長の覇業じゃ。それをそちに手伝わせてやる」
「…………」
「わしの創る世が気に入らんと言うなら遠慮は要らん、いつでもわしの首を取りに来い。かつてそちが魔王相手にそうしたようにな」
「な……ッッ!?」
 


 そして、信長は立ち上がり、
「とりあえず傷を治せ。それまでの時間はくれてやる。わしに会いたくなったら、いつでも猿にそう言え。わしの城からその日の内に迎えを寄越す」
 そこまで言い切った後、信長はくるりと背を向け、無言で部屋から出て行った。
 前田・池田・佐々の三人の供侍や、蜂須賀小六が慌てふためくように主君を追い、そして部屋には、呆然となったミルトンだけが残された……。


///////////////////

「――小六」
 ミルトンの部屋を出て、しばらく歩いた後、信長は背後に従う蜂須賀小六に鋭い一瞥をくれた。
「猿がわしに宛てた書状に、ミルトンの身の上を敢えて書かなんだのは――わしの興味をそそらせ、ここまで出向かせた上で、自らの眼であやつを引見させるためじゃな?」

「なッッ!?」
 蜂須賀小六は真っ青になった。
 藤吉郎が信長への報告書に何を書き、何を書かなかったのかなど、いくら小六といえども知りようが無い。だが、この主君の眼差しに射止められてそう言われれば、反論するなど思いもよらない。すべて叱責される自分に責任があるかのようにさえ思ってしまう。
「おっ、おそれいりましてございまする!!」
 その場で土下座し、額を床にこすりつける。
 むろん蜂須賀小六は信長よりも年長だ。
 かつては野武士蜂須賀党の大親分として二千人の配下に君臨した男が、この若き戦国大名の一睨みで、なすすべなく膝を着くしかない。
 それほどまでに信長の威は本物だった。
「思い違いを致すな、わしはそなたを責めてはおらん。ただ、のう……」
 その声と同時に土下座した小六の襟元が、猫の子のようにぐいっと上に引っ張られ――そこに信長の秀麗な顔があった。
 

「こたびは許す。じゃが、次に信長を試すような真似をしたら、その首を叩き落す。――左様に猿に申し伝えよ」


「ははぁッッ!!」
 ふたたび床に額を押し付けて許しを請う小六をその場に置き捨て、信長はそのまま悠々と歩き出した。









[26665] 第五話 「忍び者と魔法戦士」
Name: ジンバブエ◆74606097 ID:d2736d75
Date: 2011/06/29 01:53
 払暁の墨俣城・本丸。
 一面の青に彩られた美濃の山河を眺めながら、立番をしている男はあくびを噛み殺す。
 交替で睡眠を取っているとはいえ、夜眠り朝に目覚めるのは人間の抜き難い本能だ。あくびの一つも出そうになるのは無理もないだろう。
 だが、油断は出来ない。何と言ってもこの墨俣城は、織田家の北部戦線――美濃斎藤家に対する最前線基地なのだ。いつ美濃兵が来襲してくるかも知れない。常に気を張っておくに越した事は無いのだ。

「おはよう、朝から精が出るな」

 突然背後から声をかけられ、あくびを見られたかとビクリとなった男だったが、振り返って彼は二度驚いた。
 そこにいたのは、金色の髪に青い瞳を持った異人だった。
 しかも、その姿は平常の衣装ではない。甲冑を身に着け、兜をかぶり、盾を背負い、腰に見事な拵えの剣までぶら下げていた。
「え……ええぇ!?」
 男は思わず言葉にならない声をもらす。

 無論この本丸の最上階に異人が収容されているのは、この城に詰めている者ならば誰でも知っている。そして、その異人がただの異人――いわゆる南蛮人宣教師――ではない事も。
 なんとなれば、この門番も、あの日神名山の戦に出陣し、この異人が指先から炎を放出して美濃兵どもを虐殺――戦場で使うにはおかしな表現だが――している現場を目の当たりにした兵の一人だったからだ。
 斎藤軍の鉄砲隊に撃ち抜かれ、血まみれで収容されたその異人が先日来、容態が快方に向かっているとは聞いていたが、まさか今朝いきなり武装を身にまとって本丸から出てくるとは、さすがに予想外極まりない事態であった。
 目を見開いて「え……あの……あんた……」と不明瞭な言葉を漏らす門番に、その異人は白い歯を見せて爽やかに笑う。

「なあに、どこへも行かないよ。寝込みすぎて鈍ってるから、ちょっと体を動かそうと思っただけさ」

 そう言うと、異人は大手門ではなく、庭の方に足を向け、飄然と歩いていった。


//////////////////////

(現金なものだな……)
 そう思い、ミルトンは苦笑する。
 すでに国主ノブナガの来訪から十日が経っていた。
 ホイミ系の治癒呪文以外で負傷を癒した事は無かったが、それでも基礎体力が消え失せたわけではない。一度快方に向かえば、体はメキメキと良くなり、今では立居振舞いに何の不都合も無い。
――とはいえ、
(くっ……ッッ!!)
 右手に引きつるような痛みが走る。
 いや、右手だけではない。
 左足の大腿部にもまだ痛みは残っている。体重をかければそれがズキリと、ハッキリした形を持って彼の脳に痛覚を伝達してくる。
 だが、傷口はすでに塞がっている。ノブナガと謁見した当時のような、高圧電流をまともに浴びるような激痛を発していた頃に比べれば、随分とマシになったと言わざるを得ない――。


 ミルトンは足を止めた。
 戦ともなればこの空間も、兵が待機する防御城郭なのだろうが、払暁ということもあって、今この庭には誰もいない。
 もっとも、この見知らぬ国では、自分という人間がどれほど好奇と警戒の対象となっているかはミルトンも理解している。あの門番から連絡が行き次第、さほどの時間を要することなく、ここにも人が集まってくる事だろう。
 だが、そんなことはどうでもいい。
 一分一秒でも早く、ミルトンは本来この肉体が所有するはずの、おのれの戦闘能力を回復させてしまいたかったのだ。



『そちが生まれてきたのは魔王とやらを討ち果たす為でも、その功で楽隠居をする為でもない。そちは、ここで――この国で、このわしに仕える為にこそ生まれてきたのじゃ』


 勇者とともに世界を救った彼に、何の迷いもなくそう言い切った、この国の青年国主。
 無論ミルトンとしてはその台詞を聞いた瞬間、当然のごとく反発を覚えた。――なめるんじゃねえ、この平たい顔族が――と、反射的にそう思ったのだ。
 だが、心中に浮かんだ思いは、それだけではないことも当然ミルトンは気付いていた。
 彼は、こうも言ったのだ。

『この国に魔王はおらねど、人を縛り付け、人を抑え付けるものはいくらでも存在する。古き因習、悪しき伝統、腐り切った権威とそれらに寄生する亡霊のごとき奴ら――それらを掃除し、新しき世を創りだすことこそが、この信長の覇業じゃ。それを手伝わせてやる』
 

 その言葉の意味が、ミルトンには分からない。
 だが、それを恥じるつもりはない。それに理解できずとも、あの国主閣下が言ったことは、何か大事な事だったのだろうということはわかる。
 今は遠い彼の“故郷”とて、言うほど天下泰平の世であったわけではない。確かにこの「ニホン」ほど群雄割拠の大乱世でこそなかったが、魔王が出現する以前には普通に国家同士の戦争もあったし、一揆も内乱もあったのだ。
(魔王のおらぬ――人が人を治める世界というものも、あながち理想郷ではないらしい)
 つまるところ、ノブナガの言い分とはそういうことだったのだろう。

 だが、肝心なのはそこではない。
 ミルトンにとって重要なのは――そこから先の自分の事だ。
 彼は自分が正義と信じるもののために剣を振るい、魔法を唱えて戦ってきたつもりだったし、たとえここが何処であれ、今後ともその信念を曲げる気はなかった。
 だが――ノブナガの言葉を聞くほどに気付かぬわけにはいかなかった。
 ミルトンの言う「正義」とは、魔王という「純粋悪」の存在によってかろうじて支えられていた程度のものでしかなかったということを。
(魔王なき世界では、オレの正義は意味をなさない……ッッ)
 ならば、いまこの「オワリの国」に自分が存在している意味は何だ。
 何故ここにいるのか――ではない。
 何のために、何をするために、自分がここにいるのか。
 それがミルトンにはわからないのだ。

 そして続けて浮かぶのは、にこにこと愛嬌に満ちた笑みを絶やさぬ猿のような顔。
 キノシタ・トウキチロウという矮躯の男。
 ノブナガが尋常ならざる者だというのはわかるが、それと同様に、あのトウキチロウという男も尋常の人物ではない。魔物ばかりを相手に半生を費やしたミルトンにもそれくらいはわかる。
 あの男ならば、ノブナガの残した言葉の意味を正確に、余すところ無くミルトンに理解させてくれることもできるだろう。
 現に、彼は自室に尋ねてきたトウキチロウに尋ねたものだ。だが――その人懐っこい笑顔の向こうに深沈たる瞳を浮かべながらも――ついにミルトンに答えてくれる事は無かった。

――信長様のお言葉は、いずれミルトン殿にも分かる日がくるでござろう。
――それまでは、その胸の内にしかと留め置くだけで充分でござるよ。
――ただ、これだけは覚えておかれい。信長様の戦は、私利私欲に拠るものだけでは断じてござらぬ。
――かの御方は、たとえばこの藤吉郎を草莽より拾い上げ、城一つをお預け下された。いや、この城一つに留まらぬ。わしが手柄を上げ続ける限り、街一つ、そして国一つでさえも、お預け下さるであろう。
――そして、信長様はいずれ、この日ノ本すべてに左様な政(まつりごと)をお敷になられるはずじゃ。それがどういうことか、今ミルトン殿に理解せよとは言いますまい。
――話を戻すようじゃが、我ら織田軍に合力くださるならば、ミルトン殿にもいずれ信長様の大いなる志を、御理解できる日も遠からじと存ずるが。


(思わせぶりな言い方をしやがって……)
 ミルトンはそう思う。
 この胸の苛立ちを抑える為にも、凝然と寝ているだけの生活は、彼にとって苦痛でしかなかった。
 負傷した肉体がある程度の回復を遂げ次第、まるで逸るように武装を身につけ、庭に出てきたのもそういう理由だったのだ。



 しばし瞑目し、心気を凝らして雑念を払うと、“バスタードソード”の鞘に手をかけて、そのまま一気に剣を抜き放つ。久し振りに陽光を浴びる刀身が、ぎらりとした硬い光を反射する。
 当然、剣を握る右手に痛みが走る――が、それだけではない。握力自体もかなり低下しているようだ。
(上等だよ……ッッ!!)
 握り締める右手に力を込める。
 多少の痛みはある――が、その痛みが今はむしろ心地良い。
 絶え間なく走る痛みが、かつての戦場を肉体に思い出せてくれるからだ。
 そのままミルトンは、眼を開く。
 彼が見ているのは、人っ子一人いない夜明けの城庭ではない。
 かつて“故郷”で戦った敵――魔獣の姿を眼前に、正確にイメージする。彼の心眼には、息遣いさえありありと感得できるほどのリアルさで、そこにいるボストロールを感知していた。


///////////////////////

――あの異人が城の庭で剣を振り回している。
 そう聞いて現場に駆けつけた稲田大炊助は、やや拍子抜けをした。
 何と言っても神名山で美濃兵相手に大暴れをしたほどの男だ。「剣を振り回している」などと聞けば、今度は味方が何人殺されたのかと慌てこそすれ、まさか本当に虚空に剣を振り回している「だけ」などとは思わなかったからだ。
(驚かせやがる……)
 そう思ってホッとしたのは、どうやら自分だけではなかったようだ。
 すでに二十人近い人垣が、例の異人を遠巻きに取り囲んで見物しているようだが、彼らの顔に一様に浮かぶ感情は、好奇心よりもむしろ安堵だったからだ。
 
 大炊助は、隣にいる見物人を肘で突付いた。
「おい、何やってるんだアイツは?」
 見物人――蜂須賀党の若い野武士は、隣にいるのが党の大幹部である稲田大炊助だと気付くと、一瞬緊張したような顔になったが、それでも卑屈な笑みを浮かべると首を振った。
「さあ……俺が来た時はもう始まってたし、あの調子でずっとタコ踊りを続けてるんでさ」

 タコ踊り――確かにそう見えなくもない。
 シャドーボクシングに代表される、頭に描いた架空のイメージを敵として戦う稽古法は、当時の日本には当然ながらそのままの形では存在しない。だから大炊助を始め、ここにいる者たちにミルトンが何をやっているのか、一見しただけでは分からなかったのも無理はない。
 そもそも、ここにいる野武士たちには、トレーニングによって刀術や槍術の技能を向上させるという思想をほとんど持っていない。そういった戦闘技術は、彼らにとっては戦場という実戦の場で研鑚し、叩き上げるものだからだ。逆に言えばそれは、戦場という実戦訓練の場が、彼らにとっていかに身近な存在であるかという証明でもある。

 だが……、
(おいおい……なんだありゃあ……ッッ!?)
 大炊助は、心中に呟いた。
 異人の振り回す剣の鋭さ、踏み込みの速さ、跳躍力の高さ。なによりギラリと輝く異人の眼光。
(タダ者じゃねえってのは聞いてたけどよ……)
 大炊助は、例の神名山での戦いにはむろん出陣しているが、彼の指揮する手勢は、蜂須賀小六や木下藤吉郎の直属部隊とは違う方面の抑えに回ったため、噂に名高い――清洲から信長がわざわざやってきて確認したという――ミルトンの「魔法」は目撃していない。
 むしろ、だからこそ藤吉郎たちがこの異人に気を遣う理由は、その「魔法」によるものだと理解していたのだ。しかし……、
――あの長剣を片手で振り回す膂力はどうだ? 
――あの甲冑の重さまるで感じさせない身のこなしはどうだ?
 そしてこの異人が、今朝まで本丸の一室で寝込んでいたことを思い出した瞬間、大炊助は更に慄然とならざるを得なかった。


 稲田大炊助は、野武士蜂須賀党の幹部格と言っても、ただの年功序列の相談役ではない。
 時には小六に代わって戦場で軍配を握り、蜂須賀党二千の全軍を指揮する事もある――いわば蜂須賀党の副将といってもいい男なのだ。もっとも彼は後の阿波徳島藩・蜂須賀家の筆頭家老となり、淡路一国の裁量を任された程の人物である。凡庸であるはずが無い。
 むろん駆け引きのみならず、腕に覚えもある。
 自らの勇猛さで指揮下の兵を煽り立て、錐となって敵陣を突き崩した事も何度もある。打物取っての立ち合いでは、そこら辺の荒武者が相手ならばまず負ける気はしない。

 だからこそ――彼には分かる。
 この異人が、卓抜した戦士であるということが。

 自分の横でいまだにへラへラ笑いを浮かべている若造はともかく――人垣をざっと見回せば、やはり自分と同じく凄まじい顔になっている者たちが何人もいる。加治田隼人、日比野六太夫、河口久助、長江半之丞などといった面々で、いずれも蜂須賀党では武勇で知られた男たちだ。
 そして、もう一人。
(伝八までもか……)
 ある意味予想通りではあるが、それでも大炊助は、人垣の中でも一際目立たない、その小柄な男の瞳に闘志の光が輝いているのを見直さずに入られなかった。
 太田伝八――「霞の伝八」の異名を持つ、蜂須賀党に所属する数少ない本物の忍び者であった。


 野武士蜂須賀党――またの名を蜂須賀乱破党ともいう。
 乱破(らっぱ)とは、いわゆる戦場における諜報活動や破壊活動――またはそれに従事する者――を意味する言葉であり、また野武士とは野伏(のぶせり)とも書き、野山に起き伏して人を襲う山賊――というほどの意味を持つ。
 つまり蜂須賀党という集団の構成員がどういう連中であるかは、字義どおり正に明白なのだが、それでも伊賀や甲賀といった本場で修業した本物の「乱破者」――いわゆる忍者――の存在は、やはり貴重だ。
 この太田伝八は、おのれの腕を頼りに諸国を流れ歩く、いわゆる“渡り”の忍び者であり、それだけに自尊心や功名心は人一倍強い男だ。地味で篤実な外見をしているが、そんなものは伝八にとっては、乱破仕事を上手くやり遂げる為の“道具”に過ぎない。
 そんな彼ならばこそ、ミルトンの剣さばきを見て血が騒いだとしても不思議ではない。

(面白い……)
 そう思い、大炊助は頬を緩めた。
「霞の伝八」と言えば、これでも濃尾一円では知られた名だ。いくら大炊助でも、彼と立ち合えるかと言われればやはり二の足を踏むだろう。
 それほどの忍びが、眼前の異人と戦えば一体どっちが勝つか。
 異人が「魔法」を使うというならともかく、剣を以っての仕合ならば、これはわからぬ。
 虎と熊との対決にワクワクする子供のような……そんな興味本位な心持ちで、大炊助は人垣を離れ、ぐるりと回って伝八に近付いた。
 

//////////////////////

(どいつもこいつも暇な奴らだ)
 実は、ミルトンは内心苦笑していた。
 むろん彼は自分を取り巻く人垣に気付いている。どれだけトレーニングに集中していようが、いくら何でも、ここまで人数が集まって注目されたら、気付かない方がどうかしているだろう。
 だが、ミルトンは素知らぬ風を装い、構わず剣を振るった。
 彼とて人間だ。まるで見世物でも見るように、薄笑いを浮かべて自分を見ている連中に、不快な思いを抱かぬわけが無い。だが、そんな嘲笑の中でも、自分に向けられている真剣な視線に気付かぬほど、ミルトンはボンクラではなかった。

 つまり、見物人どもの中には、ちゃんといるのだ。
 自分の――この動きを見て、強さを測れる「見る眼」を持つ者たちが。
 
 その事実が、まるで我が事のように嬉しい。
 彼は本質的に目立ちたがり屋の派手好きではない。だが、たとえ異世界の人間が相手であっても、おのれの実力を見せ付けて他者を瞠目させる行為が楽しくない筈が無い。
 だからこそ彼は自分の意識を、脳内で作り上げたモンスターとの戦闘にいよいよ集中させ、没入していく。
 だが、そうなると次に気になるのは、現在の自分のコンディションであった。

――我ながら動きが重い。
 まあ、体重移動のたびに左足がズキズキ疼くので、仕方が無いと言えば仕方が無いが。
(あの頃の六割ってところか)
 そう思いながら、ミルトンはダースリカント(イメージ)から距離を取って呼吸を計り直す。
 冒険の旅を終えた後、ミルトンはアリアハンで城勤めを満喫していたため、ただでさえ往時に比べて腕は落ちていたであろう。そしてこの「オワリの国」に来て以降の、数週間に渡る療養生活で、体力は更に落ちたはずだった。

(それで六割なら、まだマシってことか)
 そう思いながらミルトンは、眼前のダースリカント(イメージ)の攻撃をかわしつつ踏み込んで懐に入るや、擦れ違いざまにそのアキレス腱に、右手に握った“バスタードソード”の一撃を入れて動きを封じる。
 そして、とどめを刺そう――とした瞬間、思わぬ反撃が来た。
 振り返りもせずにダースリカント(イメージ)が爪を振り回してくる。
 それを左手に固定した“オーガシールド”で受け流し、返す刀で袈裟斬りの一剣を叩き込む。
 肉食獣型のモンスターというのは、一般的に分厚い毛皮と皮下脂肪、そして強固な筋肉によって全身を鎧われているものだが、それでもこの“バスタードソード”を弾き返すほどではない。
 胸を深々と斜めに切り裂かれ、耳を塞ぎたくなるような悲鳴をあげてダースリカント(イメージ)は後ずさるが――逃がしはしない。ミルトンはそのまま間合いを詰め、魔獣の頭蓋を一刀両断に斬り下げるや、その後方に現れたドラゴン(イメージ)に素早く向き直り、剣を構える。

 雑念を払い、心を研ぎ澄まし、耳を傾ける。
 耳と言っても、聞くべきは周囲の見物人どものひそひそ声ではない。おのれの内部に対する聴覚をさらに深く、鋭くしていく。
 内部……つまり、自分自身の肉体の声だ。
 意識の記憶は強いショックで喪失する事もある。
 だが、肉体の記憶は消せない。
 つまり、かつての全盛時――魔王ゾーマをこの手にかけたあの当時の動きを、おのれの肉体は記憶しているはずなのだ。その声に耳を傾ける。
 いわゆる“内観”というべき行為であるが、これはシャドーボクシングのごとき日本に存在しない方法論ではない。
 上泉伊勢守や塚原卜伝といった戦国中期の――つまり劇中の時間軸より一世代前の――剣客たちが「剣禅一如」の言葉の元に、意識操作による身体能力の向上方法として考案したテクニックであり、近世以降の日本武道がその精神的な色合いを強くしていく端緒ともなった概念なのだが……それはまあいい。

――違う、そうじゃない。あの時はこう動いたはずだ。
――そうだ、この感じだ。このタイミングで手首を返し、こう斬った。

 さすがに世界を救った自分の肉体だ。
 一度とっ掛かりを見つけると、あとは早かった。一挙手一投足のたびに、まるで鉱脈を掘り当てるように記憶が確たるイメージを伴って、体を動かしてくれる。
 そうなると、今度は体を動かすこと自体の楽しさが、急速に彼の心を支配していく。つまり、ミルトンの肉体は、“戦闘”開始以来、急速にかつての勘を取り戻しつつあった。
 負傷が癒え切らない肉体ではしょせんベストの動きは出来ない。だが、おのれの身体状況を完全に把握すればこそ、その「範囲内」でのベストな動きが可能になるのだ。もはやミルトンの脳裡には、自分を取り巻く周囲の視線など消えていた。

 その瞬間だった。――眼前に対峙するドラゴンとは完全に別方向から強烈な殺気が向けられたのは。

「ッッッ!!?」
 振り向くより先に“オーガシールド”が投げつけられた得物を弾き返す。甲高い金属音と同時にパッと火花が散り、その刹那には、すでに彼の脳裡にはドラゴンも消えた。傷の疼きも、体を動かす喜びも消えた。
 向けられた殺気にミルトンの肉体が思考よりも早く反応し――半身になり、盾を構え、腰を落とし、彼は戦闘体勢をとっていた。
 彼の視線は――その瞬間が見えていたはずは無いのに――正確に、自分に何かを投げつけた当の本人を捉えていた。

 だが視線を向けられた“その人物”は、むしろ楽しげに頬を緩ませる。
「見えない相手と戦ってても面白くねえだろ異人さんよ」
 小柄で、地味で、温厚篤実な農夫のようなその男は、顔に酷薄な笑みを浮かべて人垣から一歩前に出る。そのアンバランスさがミルトンには、この男に対する不気味な印象を更に濃厚にさせた。
「言葉は通じるって聞いてるから、何言ってるかは分かるんだろ? どうせなら、おれが稽古相手になってやるって言ってるのさ」
「……あんたは?」
「おれの名は伝八。これでも腕にゃあ覚えがあるから、退屈はさせねえぜ――」

 その言葉を言い終わらないうちに男は動いた。
 目にもとまらぬスピードでミルトンに接近し、たちまちのうちに間合いに入り込む。
「ちぃッッ!!」
 ミルトンは舌打ちしながら、振り払うように左手の“オーガシールド”を男に叩きつける。
 男は、その素晴らしいダッシュ力にふさわしい軽やかなバックステップで盾の一撃を躱すが、そこまでは予想通りだ。後退した男を追うようにミルトンは一歩踏み込み、そのまま剣を振り下ろす。
――だが、凄まじい金属音と同時に、ミルトンの表情は凍りついた。


 男は“バスタードソード”の一撃を受け止めていた。
 ナイフ程度の刃渡りしか持たない短刀で、あまたの魔王の眷属どもを斬殺した、魔法戦士ミルトンの攻撃を防いでいたのだ。


 むろん手加減した覚えはない。男の殺気は本物だったからだ。
 いま自分の置かれている状況を考えれば――いかに一方的に喧嘩を売られたからといって――ここで城の人間を殺せばどうなるか、ミルトンといえども分からないはずは無い。
 だが、さっきまでのイメージトレーニングで軽く興奮状態になっていたミルトンの肉体に、そんな理性は働かない。殺意には殺意を以って応じるのが、彼の生きてきた世界の掟だったからだ。そしてミルトンの剣は、自らに叩き込まれた習性に従って動いたに過ぎない。
 しかし……そんな一撃を、この眼前の小男は短刀一本で受け止めたのだ。

(マジ、かよ……ッッ!?)
 ようやく情況にミルトンの思考が追いつく。
 だが、男の持つ短刀にしても、この“バスタードソード”に匹敵する業物であるとは到底思えない。その外見から判断しても、まずまず、そこいらの武器屋で買える程度の品であろう。
 つまり――男は「剣」によってではなく「技量」によって、ミルトンの一太刀を受け止めたという事になる。

「やっぱ、やるねえ……おれじゃなきゃ死んでたぜ、おめえ」

 そう囁きながら男――デンパチは、逆手に短刀を握る右手首を自分の左手で掴み、両腕の力でさらに刃を押し付けてくる。
 いわゆる鍔迫り合いの形に持ち込んだわけだが、そうなるとミルトンには不利だ。しょせん腕力勝負になってしまえば両腕と片腕では結果は見えているし、なにより彼の右手の握力は本調子ではない。
「ぐっ!!」
 思わずミルトンも“オーガシールド”の握りから左手を離すや、両手で剣を握り締め、押し返した。
 少なくともパワーに関してはこれで対等――いや、刃渡りが長い分“オーガシールド”の方が、鍔迫り合いでは有利になる――と思った瞬間だった。

 デンパチがまたもバックステップで間合いを取ったのだ。
 しかも今度は一歩や二歩の踏み込みで追える距離ではない。ミルトンの押す力を利用して、この猿並みに身軽な忍び者は一気に数メートル近く後方に跳躍したのだ。だがミルトンは心中に叫ぶ。
(逃がすかッッ!!)
 むろん間合いなど取らせる気は無い。
 一歩や二歩で届かないなら、届くまで踏み込めばいい。五歩でも六歩でも。
 が、その瞬間、ミルトンは渾身の力を込めて――自らの勢いを殺して静止していた。

「…………ッッ!!」

 いまだ空中にあったはずのデンパチが、右手に持っていた短刀を投げつけ、それがミルトンに――ではなく、その足元の地面に、凄まじいスピードで突き刺さったのだ。
 あのまま無鉄砲に突っ込んでいたら、足元の凶器は確実にミルトンの足の甲を貫いていただろう。その想像は、彼の背筋に一気に冷たいものを走らせる。
 そして男は、そのまま着地の瞬間さえも、毛ほどの油断も隙も見せず、そしてふたたび笑った。――勿論その右手には、魔法のように新しい短刀が握られている。

「そう焦るなよ異人さん、もったいねえ」

 その言葉にミルトンは引っ掛る。
「勿体無い……だと?」
 デンパチはうなずく。
「ああ、あんたのさっきの一人暴れを見れば、ただの手妻使いじゃねえってのは分かったはずだ。――見る目のある奴にはな」
 そこまで言って彼は、ミルトンに悪戯っぽい視線をちらりと向けた。
「何より、おれの仕掛けを死なずに捌けるような野郎がザコであるはずがねえ。だったらよぉ……」
 そして、デンパチの悪戯っぽい視線が、徐々にだが怖いものに変わってゆく。

「どうせやるなら、本気でやった方が楽しいってもんだろ?」

 その瞬間、男が無駄に撒き散らしていた殺気が消えた。顔に貼り付けていた、これみよがしに不気味な笑いも消えた。一分の隙さえ見えなかった構えから力みが消え、まるで素人のような棒立ちになったのだ。
 だが、ミルトンは油断しなかった。
 いや、それどころか、彼が覚えたのは全身に鳥肌が立つような感覚だった。
 彼は瞬時に理解したのだ。この自然体のような棒立ちこそが、先程のデンパチの言葉通り――「本気」の戦闘態勢なのだということに。
 

 それまでは、ミルトンの中にも一抹のためらいがあった。
(この野郎、本気でオレを殺す気なのか)
 その判断が付かない限りは、うかつに手は出せない。すでに一度本気の斬撃を繰り出しておいて――まあミルトンとしては結果的に、防いでくれて助かったと言うべきであろうが――言えた義理ではないが、それでも自分の立場は承知している。現在ミルトンは、この城の人間と面倒を起こすわけには行かない。だが、それと同じく、この城の人間もミルトンを始末する理由は無いはずだった。
 にもかかわらず、眼前のデンパチという手練は、どう見ても本気だ。
 ならば、その裏に在るのは何だ?
 その殺意は、デンパチのただの勇み足なのか、それとも何者かの指示によるものか。
 それが後者だとしたら、指示を下したのは誰か。国主ノブナガか。城主トウキチロウか。

 だが――それもこれも全部、この瞬間、ミルトンの頭から消え去ったのだ。
 この男の眼は、何者かの指示によって動かされている眼ではない。彼は間違いなく、おのれの考えでミルトンの前に立ち塞がり、戦おうとしているのだ。
 無論そこに目的は無いだろう。
 ミルトンを殺すことで自分が得る利益など、このデンパチは考えてもいまい。あるのはただの「オレかお前か、どっちが強いかを較べ合いたい」という子供っぽい遊び心に過ぎない。
 馬鹿げている――確かに冷静になって考えれば、そう言わざるを得ない。
 だが、そこはデンパチも言ったではないか。――どうせやるなら、本気でやった方が楽しいってもんだろ――と。
 そして、それを理解すると同時に、ミルトンの中に急速に膨れ上がった感情は、この男に対する、震えるような興味であった。
(おもしれえ……ッッ!!)

 このデンパチという男の強さは、間違いなく本物だった。
 おそらく今ここにいる彼を、そのままゾーマの居城に向かう自分たちのパーティに加えたとしても、戦力的には自分やワイトやコーラスに並ぶ実力者として、何の齟齬も支障もなく魔王打倒の為の刃となるだろう。
 人間とは可能性の生物だ。
 イナゴはついにカマキリのエサに過ぎず、猫を噛み殺せるネズミはいない。
 だが、人間は違う。
 種としては、あくまで魔族や魔獣の下位存在でありながらも、修行や努力次第では、魔王さえも凌駕する実力を身につけることも出来る。
 ならばこの世界に、自分たちと同じような――本物の強者がいないはずがない。
 そして、いま自分の眼前にこの男がいるという事実が、ミルトンにとっては、とても喜ばしい事に思えたのだ。

 その途端、伝八の乱入によってざわついていた周囲の盛り上がりは頂点に達した。
「よっしゃあ伝八、オラぁおめえに二百文だ! 絶対に負けるんじゃねえぞ!!」
「俺も伝八に三百文だ!! 損させたら承知しねえぞテメエ!!」
「だったら俺は異人に賭けるぜ! 次の戦の報奨金全額だ!!」
「おれも異人に二百文だ!! いざとなりゃあアイツは指から火を出す男なんだぜ!!」
 たちまち蜂須賀党の野武士たちは懐をまさぐりだし、隣にいるもの同士で肩を叩き合って騒ぎ出す。
「待て待て、仕切りはおれがやってやるから、みんなこっちに並べ」
 そう言って地面に人名と金額を書き始める男も現れた。
 

 だが――当事者の二人は、周囲の騒ぎなどまるで別世界の事であるかのように凝然と睨み合ったまま、微動だにしなかった。





[26665] 第六話 「友誼と謀略」
Name: ジンバブエ◆74606097 ID:d2736d75
Date: 2011/07/24 17:35
 半身になって盾を構え、油断の無い視線をこちらに向けてくる異人は、対峙している伝八から見れば、まるで鉄の甲羅に閉じこもった亀のように見えた。
(だが、まだ隙はある)
 そう思いながら伝八は歩みだす。
 ゆらり――と表現すべきような緩慢な動き。
 そして、誘われたようにミルトンも前に出て、間合いを詰める。

(来た――)
 異人はそのまま止まらず稲妻のような突きを繰り出してくる。
 狙いは胸でも腹でもない。
 顔面だ。
 だが、伝八は――ある意味余裕を持ちつつ――首を傾けてその剣を躱し、そこから更に一歩踏み込む。
 伝八の得物は短刀だ。つまり懐に入り込まねば攻撃は出来ない。
 だが次の瞬間、伝八が躱した異人の剣が角度を変えて閃き、凄まじい剣風とともに薙ぎ付けられた。
(ちっ!!)
 舌打ちする暇さえなく、伝八は首を竦めて腰を落とし、かがむような姿勢でその斬撃を回避する。ただの人間なら、その一撃できれいに首を刎ねられていただろう。

 だが異人の攻撃はそこで終わらない。
 足が止まった伝八に、今度は鋼鉄の盾が叩き付けられる。
 しかも攻撃に使用したのは、盾のいわゆる「面の部分」ではない。左手に固定した盾をまるで手甲のように使い、盾の上端の「縁(ふち)の部分」で伝八に殴りかかって来たのだ。
 まともに喰らったら、意識を根こそぎ持っていかれるだろうその攻撃を、伝八は、なんとか後方に跳んで回避するが――無論ただで逃げるつもりはない。

 この異人の“癖”を、すでに伝八は幾つか見抜いている。
 たとえば自分の攻撃で相手が後退すれば、必ず追撃に来る――というのも、その“癖”の一つだ。その攻撃精神を伝八は逆手に取る。
 退がりながら繰り出した前蹴りが、追撃のために踏み込んでくる異人の顎に命中するはずだった。
 ただの蹴りではない。樫板にさえ一撃で穴を穿つ忍び者の蹴りだ。まともに決まれば、内臓を傷め、骨を砕く威力は充分にある。
――が、その蹴りに手応えは無かった。
 異人は首を傾け、彼の前蹴りを間一髪のきわどさで躱したのだ。それも、伝八の予想通りのタイミングで踏み込んできたにもかかわらず、だ。

「へえ……」
 そのまま間合いを取り直し、伝八は感嘆の声を上げた。
 まるで獣並みの反射神経だが……しかし伝八が感服したのは、そんなことについてではない。
 あの盾で殴られそうになったのは今ので二度目だ。つまり異人にとってその行為はただの反射行為ではなく、歴然たる武技であるということを意味する。
 つまり、
(あの盾は武器でもあるのか)
 という、純粋な驚きだった。



 縄文弥生の往古の時代ならばともかく、中世以来、日本には盾を個人武装とする風習は無い。
 むろん盾という防具そのものが存在しなかったというわけではない。
 だが、それは個人武装というより拠点防衛や行軍の際の「移動壁」というべきものであり、ヨーロッパの騎士たちが使用するような「手盾」は、日本の武家社会では普及しなかったのだ。

 理由は幾つも存在するだろう。
 だが、その最大の理由はやはり――盾という防具の取り回しの問題と言うより――矛、槍、薙刀、そして太刀などの、いわゆる日本の一般的な武具が、あくまで両手の使用を前提とした構造であるからと言えるだろう。
 日本人の平均的体格による筋力量の限界という問題もあるが、それだけではない。
 両手で使用せねばその打撃力を発揮できない重量がある――というよりむしろ、両手を使用してテコの原理を生かす事で、その重量を攻撃力に転化させる技法が一般的となりすぎたという点もあるだろう。
 むろん小太刀のような片手使用を前提とする武器術も、日本には歴然と存在するではないかという反論も出来るが、それでも両手にそれぞれ得物を持って別個に使用するという武器術は、宮本武蔵の出現までは、ついに日本に確立されることはなかったのだ。

 つまり、剣と盾をそれぞれ別個の武器として使用するミルトンの戦闘法は、伝八にとっては「魔法」などよりもはるかに新鮮で、興味をそそるものであった。



(おもしれえ……この異人野郎はやっぱり心底おもしれえぜ……ッッ)
 そう思いながらも、今度はこっちから仕掛けてみる。
 誘いではない。
 懐から手裏剣を取り出すや、投げつける。異人に最初に喧嘩を売った時に投げつけたものと同じ種類の棒手裏剣である。
 それを異人はとっさに盾で防ぐが、その隙に伝八は間合いに入り込む。

――が、迎撃は即座に来た。
(おいおい)
 と、彼が心中にツッコむ暇も無い。さっき後の先を取られて顎を蹴り割られそうになった事など記憶にないかのごとく、まったく躊躇の無い猛烈な斬撃が、伝八を襲う。
 だが異人の攻撃――というよりその闘志に瞠目しながらも、それでも彼はうろたえない。
 無論その攻撃は単発ではなかった。
 袈裟斬りを躱されれば、その剣は跳ね上がるような突きに変化し、突きを躱されれば、そこから薙ぎ払うような胴斬りが繰り出される。
 賭けの声に賑わっていた周囲の野武士たちも、異人の鬼気迫る連続攻撃に、もはや声もない。
 だが伝八は、まさにその名の通り霞のごとく、異人の攻撃をことごとく外し続ける。
 さすがに先程のようなカウンター攻撃は、もはや入れられそうもない。
 だが、防御に専念した伝八は、舞を思わせる見事な体捌きで、その斬撃を回避し、あるいは手にした短刀で受け流し、異人の左へ左へと回り込む。

(やはりな)
 伝八は、ほくそ笑んだ。
 その左手に持つ盾も武器として使うが――それでも異人の主たる得物は、やはり右手に握った、その両刃の剣だ。
 当然のことではあるが、盾はしょせん防具であり、攻撃に向いた形状はしていない。つまり盾が凶器として機能するのは、敵が懐――近間に侵入した場合だけなのだ。
 ならば、こちらが無理に踏み込もうとせぬ限り、やはり警戒すべきは右手の剣だけということになる。つまり異人の左側の空間は――盾を攻撃に使用できない距離を保つ限りは――厳然たる「死角」であることを意味するのだ。

 そして――更に言うなら、伝八が見抜いた異人の“癖”はそれだけにとどまらない。

 異人の連撃をしのぎきり、ふたたび二人は対峙する。
 むろん両者とも肩で息をしているが、それ以上に異人の表情は冴えない。
「どうした異人さん、お疲れかい?」
 そう言いながら伝八は嗤う。
 さすがに異人はムッとなったか、
「逃げ回るばかりがこの国の戦いか! この腰抜けが!!」
 と叫んだ。
 その言葉には、むしろ人垣の野武士たちの方が騒然となったが、しかし伝八は冷笑を隠さない。

「まあ、泣き言言いたくなる気持ちは分かるがよ……どっちにしろその太刀筋じゃ、おれは斬れねえぞ」

 さすがに異人も並みの剣士ではない。
 その一言がただのからかいではないと気付いたのだろう。怒りに燃えるその眼を今度は驚きに染め、
「見切ったってのか……まさか、たったこれだけのやりとりで、オレの剣を……ッッ!?」
 と、うめくように言った。
 そこで初めて伝八は笑みを消し、真顔でうなずく。


「あんたの剣はさ、素直すぎるんだよ」


 その言葉に、異人はなかば恐怖に近い顔色を浮かべて凍りつく。
 だが伝八は油断することなく、そのまま言葉を続けた。
「速さと鋭さは大したもんだけどよ、殺し合いってのは戦と同じで、相手の裏をかいてナンボだろ? そんな真っ正直な剣じゃあ、この霞の伝八は斬られてやれねえ」

「ほざけッッ!!」
 怒号と同時に異人が動くのを、伝八は冷静に見ていた。
 異人の表情は怒りと焦りに満ちていたが、それでも、負の感情が動きを鈍らせてはいないところがさすがだと思う。
 だが、今の台詞は伝八としてもハッタリではない。
 太刀筋を見切った――とまでは言う気はないが、ほぼそう言って差し支えない程には、いまや異人の“癖”を見抜いているつもりだった。



 先程の鍔迫り合いで気付いたが、異人の片腕の筋力は伝八の両腕の筋力に勝らない。つまり異人の腕力は、その体格に反した非常識なものではないということだ。
 ならばこれほどの豪剣を片手で振るえる理屈が立たないが、それはおそらく剣の重さが、その見た目に反して脇差並みに軽量だということなのだろう。その刃の異常な切れ味も、いわゆる普通の鍛鉄ではなく、伝八の知らない――たとえば異界の軽金属を鍛え上げた剣だと解釈すれば納得がいく。

 だが、問題はそこではない。
 重要なのは、両手持ちの剣と片手持ちの剣では、斬撃一つにしても、おのずから体の使い方が違うということだ。
 しかし、剣士の筋力が平均的な人間の範囲内というなら、その動きも予想できる。
 たとえ日本刀より軽い剣であっても、片手持ちの剣に、両手持ちの剣以上の速度と体重を乗せようと思えば、全身の筋肉と反動をフルに使わなければ不可能だ。
 つまり、必然的に攻撃の際の予備動作がどうしても大きくなる。
 いわばテレフォンパンチ――という言葉は当時の日本には当然存在しないが――その予備動作によって、彼が繰り出す剣技の種類・狙い・タイミングなどが敵に読まれやすくなる。
 もしも異人がもう少しひねくれた性格ならば、その予備動作にフェイントを入れることで、敵の意表を突くだろう。だが、彼の剣にそういう老獪さはない。
 伝八が見抜いた異人の最大の“癖”である「太刀筋の素直さ」とは――いわばそういうことだ。

 無論これらのことは、誰にでも見抜けるようなものではない。
 これまで数々の修羅場を生き延びた手練の伊賀者――霞の伝八にして初めて気付き、確認できる要素に過ぎない。


 そして今も、たっぷりと反動をつけた一剣が、唐竹割に伝八の頭蓋を襲う。
 彼でなければ脳天から股間まで、真っ二つにされていただろう。
 だが伝八は身を翻してその剣を躱し、例によって異人の左手側に回り込む。
 そうはさせじと異人は一歩踏み込んで盾の一撃を見舞うが、そのコンビネーションは伝八も想定内だ。
 その打撃をするりと避けると盾に手を掛け、体重を浴びせ、まるで相撲のように異人を盾越しに押し出す。

「ッッ!?」
 伝八の仕掛けた盾越しの押し相撲に、異人は一瞬戸惑ったようだが、すぐに腰を落として足を踏ん張ったのか、金属製の盾はあっさり動かなくなる。
(いまだ!!)
 伝八は、その猿のような身軽さを最大限に生かし、異人が押し返す盾を足場にして空中に跳び上がった。



 ミルトンの使う盾は直径四尺(約120cm)ほどの円形をしており、いわゆるラウンドシールドと呼ばれる種類の盾で、“オーガシールド”という名の通り、盾の前面には鬼を意趣したリレーフが彫られており、しかも幾多の戦闘でつけられた傷や返り血が、その鬼面に異様な迫力を付与していた。
 が、その外見はともかく、防御性に関してはただの金属板ではない。アレフガルドの魔獣どもはもとより魔王ゾーマの吐く“凍える吹雪”さえも耐え凌いだ歴戦の防具なのだ。

 しかし、たとえ魔王の攻撃さえ受け切る盾であっても、使いようによっては、それは視界を遮る「壁」になってしまう。例えば顔面への攻撃を盾で防いだ場合、また――いま伝八がやったように――敵がぴたりと盾に身を寄せてしまった場合などもそうであろう。
 ましてや、その敵が「空中」という戦闘の常識範囲外のエリアに身を躍らせていようとは、さすがの異人も予想していないはずだった。



 そして今この瞬間、この異人は、まだ頭上の伝八を視認していない。
 こういう情況で、彼が伝八の上空からの蹴りを回避できるとは思えない。
 もっとも、この異人は一軍の将も顔負けなほどに立派な兜をかぶっている。
 だが、たとえ鋼鉄の兜をかぶっていようが、棍棒で思い切り頭をぶん殴られて何も感じない者などいない。人間が直接着込む甲冑は、どうしてもその衝撃や振動を人体に伝播してしまうものだからだ。

 ましてや大木に穴を穿つ伝八の足刀の威力は、棍棒ごときの比ではない。
 異人がぐらつき、一瞬でも意識を飛ばすようなことがあれば、もはや戦いはそこまでだ。
 足を払って地面に転がし、あとはいくらでも伝八の好きなように料理できる。
「終わりだよ異人さん」
 勝ち誇りながら伝八は、満を持して空中から蹴りを放った。
 何ぞ知らん、その足刀が――あっさりと空を打たされるとは。


「な……ッッ!?」
 驚きのあまり伝八は声も出ない。
 視認すらしていない上空からの蹴りを――異人はまるで予知していたかのように余裕を持って躱し、そこで初めて伝八を振り向いた。

 異人が浮かべていたのは、笑顔だった。
 
 伝八の全身に恐怖が走る。
 空中で――しかも攻撃を回避されてしまった彼の体勢は、とても戦闘態勢とは言い難い。
(やられた……ッッ!!)
 もう間違いない。
 異人の誘いにハメられたのだ。
 この男の“癖”を見抜き、さんざん裏をかいたつもりで、それでも結局伝八は満を持した攻撃を回避され、隙だらけの我が身を晒している。
――なんのことはない。全てはそうなるように、異人に誘導された結果なのだ。
 その思いは、もはや圧倒的な敗北感となって伝八の肉体を縛り上げた。

 そして、なすすべなく地面に降り立った伝八の首筋には、当然のように異人の剣が突きつけられていた。
 むろん寸止めだ。異人がその気だったら伝八の首など確実に刎ねられていただろう。だが、それまでの殺意に満ちたやりとりなど忘れたかのように、異人の剣は動かない。
 だが、彼ら二人にとってはそれも当然の話であったろう。これはあくまで「遊び」なのだ。自分たちが欲しいのは眼前の相手の首級ではない。互いが本気で立ち合い、強いのはどっちなのかという事実と確証だけなのだから。
 だから――、

「終わりだ、デンパチとやら」

 異人――ミルトンは爽やかに言うと、そのまま剣をパチリと鞘に収めた。


/////////////////////

 まだ血が熱い。
 興奮が収まりきらないようだ。
 久し振りに味わった高揚感がまだ体に残っているという事実に、ミルトンは妙に喜びを覚える。
 今夜初めて飲むこの“ニホンシュ”の味わいさえも、その体の火照りがあればこそ美味に感じるというものであろうか。
 ミルトンは手にした盃を飲み干した。
 白く濁ったこの酒は、エール酒やワインとは違ってなかなか癖が強いが、それでも慣れると悪くない。もっともパン食から米飯を主食とする日本食に早々に適応したミルトンにとっては、酒の味など多少変わろうが気にすることではないのだが。
(いや、これはこれで、かなりいけるな)
 むしろそう思うと、ミルトンはふたたび陶器のビンから盃に濁り酒を注ぎ、くいっと一息にあおった。


 すでにあの“決闘”からすでに十数時間が経っている。
 水を浴びて汗を流し、食事を取り、日が暮れて宙天に星と月が輝く時間になってもミルトンの火照りは納まらない。ならばこそ彼は、夕食の食膳を下げに来た城の小者に、この「オワリの国」に来て以来初めて酒を頼んだのだ。

 むろん戦闘そのものの冷めやらぬ興奮もある。
 だが、それと同時にミルトンが血を沸き立たせるのは、あの男――デンパチという戦士の存在についてだ。
 戦闘開始以来わずかの時間でミルトンの戦闘パターンの癖に気付き、冷静に観察し、分析し、それを活かした闘い方ができる――そんな男の存在に、ミルトンは少なからざる感動を覚えていたのだ。


 デンパチが見抜いたミルトンの“癖”は、その全てがフェイクであったわけではない。
 と言うよりも、彼からの「太刀筋が素直すぎる」という指摘は、かつての仲間たちのダメ出し以来ミルトン自身が自覚するところだった。
 まあ、彼の剣がそうなってしまったのも、ある意味無理もないだろう。
“故郷”の魔獣たちを相手に鍛え上げたミルトンの剣は、やはり「対人用」の技巧や小技など歯牙にもかけない、パワーとスピードを重視した大味なものとなるのは自然の成り行きだったからだ。
 とはいえミルトンとて凡庸な剣士ではない。
 雑兵を敵として戦うならばともかく、一流と呼ばれる使い手が相手ならば、自分の剣技のパターンを見切られてしまう可能性も当然理解している。ならばこそ、ことごとくミルトンの裏をかくデンパチの動きを、むしろ予想し、誘導することが出来たのだ。
 人間同士の撃剣ならば非常識な領域であるはずの空中からの攻撃さえも、むしろ魔獣相手の戦闘に慣れたミルトンにすれば予想の範囲内であったことも、デンパチにとっては誤算であっただろう。


(しかし、おそろしい男だったな)
 そう思う。
 あれほどの男は、ミルトンの“故郷”にも滅多にいないだろう。
 剣のみの戦闘ならば、勇者ロト――マッシュでさえ危ないかもしれない。逆に勝てそうな者を誰か挙げろと言われたら、ミルトンには“転職”以前の天才剣士だった頃のワイトくらいしか思い浮かばない。
 そんな相手と戦い、見事に出し抜いて勝った。
 だが、それは結果論だ。同じ条件でまた勝負すれば、今度はミルトンに勝てる保証はない。二度目ともなれば、素知らぬ態でデンパチの動きを誘導する手も通用しないはずだからだ。

 だが、そういうことではない。
 それほどの強者を相手に戦士として戦い、堂々と勝利したという事実が、ミルトンには素直に嬉しいのだ。
「霞のデンパチ、か……」
 人知れず笑みを浮かべると、ミルトンはふたたび盃をあおり、その濁り酒を飲み干した。
 


「おう、呼んだかい異人さん」



 この部屋には、自分以外の誰も居ないはずだった。
 にもかかわらず――男は、そこにいた。

 愕然と振り向いたミルトンの視界に飛び込んできたのは、円座に腰を降ろし、部屋の隅の壁に背をもたれかけさせた男の姿だった。
 小柄で、地味で、温厚篤実な農民のようなその顔は、実際一度や二度、挨拶をされた程度ではとうてい記憶に残らないような特徴のないものにしか見えない。
 だが、ミルトンにとっては、つい今朝方、命を賭けてやりあった相手だ。間違えようはない。

「なんで……いつの間に……?」

 デンパチは懐から小袋を取り出し、さらにそこから豆を取り出し、ポリポリと噛み砕きながら右手で上を指す。
 そこには、天井の羽目板が一枚外され、そこから真っ暗な天井裏が見えた。
(あそこから入って来たってのか……)
 そう思うが、それでもミルトンには物音一つ聞こえなかったし、それ以前に、背後から声をかけられるまで、侵入者の気配など一切感じなかったのだ。

(どういうつもりだこの野郎……ッッ)
 そう思いながらミルトンはデンパチを睨みつける。
 無防備に酒を嗜んでいたミルトンではあるが、もちろん侵入者に気付いた瞬間に、彼は戦闘態勢に入っていた。立ち上がり、足を肩幅に開き、腰を落とし、デンパチの襲撃に油断せず備えている。
 なんといっても、この男の猿並みの身軽さはミルトンも周知のことだ。この距離なら一呼吸で間合いに飛び込んでくるだろう。
 残念ながら“バスタードソード”はデンパチの背後――部屋の上座の刀架に掛けてあるので、もう取りに行くことも出来ない。
 だが、そんなことはどうでもいい。魔法戦士ミルトンにとって剣など戦闘の道具の一つに過ぎないからだ。
 ミルトンは開いた右掌に無言で魔力を集中し、紅蓮の炎を現出させる。
 この炎を敵に向けて解放すれば“べギラマ”は完成する。 

「へえ……それが噂の、アンタの“魔法”か」

 ミルトンにしてはいかにもわざとらしい呪文展開だが、もちろんそれには、魔法を見慣れていないはずのデンパチに対する威嚇の意味もあった。
 だが、この男は壁にもたれたまま、豆を齧りながら薄笑いを浮かべるのみで、表情一つ変えない。

「いいのかい異人さん? 迂闊に“火”なんか使っちまったらおめえ、下手すりゃこの城ごと焼いちまうなんてオチになっても知らねえぜ」

 その言葉を聞いて、さすがにミルトンも青くなった。
 とっさに出した“べギラマ”だが、確かにその威力を考えれば、間違いなくこの本丸を丸ごと焼き尽くす規模の火災が発生してしまうだろう。
 何より、このデンパチの敏捷さから考えれば、たとえ壁にもたれて座っていてもなお“べギラマ”の炎を躱してしまう可能性さえある。

 書けば長いがミルトンも判断は一瞬だった。
 次の刹那には、右手の炎を解消し、同時に左手に“ヒャダルコ”の凍気を立ち上らせる。
 だが、デンパチの笑みは消えない。
 むしろその嘲るような口元の歪みは、さらに顕著になった。


「そう慌てるなよ異人さん。殺す気だったらとっくの昔に殺してらあな。なんせニヤつきながら酒喰らって酔っ払ってたおめえは、隙だらけだったからな」


 もはやミルトンには言葉も無かった。
 反論もクソも無い。すべてはこの男の言葉通りだからだ。


「これでおあいこだな」


 勝ち誇るように言うデンパチを見て、――そこで初めてミルトンは、フッと胸の内に張り詰めていたものが消えていくのを感じた。

 デンパチの復讐を全く予期していなかったのは、確かにミルトンのミスだ。
 まあ、早朝の決闘で恥をかかせた人間が、その日の夜に――それも本丸の最上階に寝起きする彼の居室の天井裏から――出現するとは、普通は考えないはずだった。
 しかも、天井裏に潜んでいたデンパチの気配を感知できなかったのは、一概にミルトンのミスだとは言えない。たとえ酒に酔っていないシラフの状態だったとしても、五感を研ぎ澄まして警戒していなければ、この男の存在に気付くことは不可能であったに違いない。彼の隠行は、それほどまでに見事なものだったのだ。
(オレの感覚が鈍っていたわけじゃない。この野郎がオレを出し抜いただけの話だ)
 そう思えばむしろ、ミルトンは笑いさえ込み上げてくる。

「なら、これで互いに一本ずつ……ってところか」

 おそらくこの男がその気だったら、ミルトンは何も気付かず殺されていただろう。
 いわば一本取られたということだ。
 だが、今朝の勝負で、ミルトンはすでに伝八から勝ちを一本取っている。
 つまり、この悪趣味な不法侵入者は「いい気になるんじゃねえぞこの野郎」と言いたいがためだけに、城の本丸の最上階にある、この部屋までやってきたのだ。
 そうでなければ、わざわざ自分の前に姿を現して“勝ち名乗り”などするはずがない。目的が暗殺ならば、それこそ何も言わずミルトンの首を取ればいいだけの話なのだから。
(あんがい子供っぽい野郎なんだな)
 そう思えば、ミルトンはむしろ腹も立たなくなっていた。
 それどころか、今朝以来抱き続けてきたこの男に対する疑問が、自然と口に出てしまう。
 
「あんた……いったい何者なんだい」

 それを聞いてデンパチは笑った。
 先程までの嘲笑を含んだ、歪んだ笑みではない。
 子供のようにからりとした、無邪気な微笑だ。

「おれは伊賀の忍び者よ」
「シ、ノビ?」
「おうよ。命令一つで何処であろうと忍び込み、忍び足で目指す標的に忍び寄り、その首級を頂戴する。それこそが“忍び者”よ」
「暗殺を生業(なりわい)とする者か」
「他にも色々やる。流言・火付け・情報収集――その他色々な。だが、やはり忍びの華といえば敵将の首盗り仕事じゃ。少なくともおれはそう考えておる」

 世に言う“忍者”の職業概念について、むろんミルトンにはかけらの知識も無い。
 だが、それでも暗殺こそが稼業の華よと胸を張って言われれば、さすがに眉をひそめざるを得ない。
 しかしデンパチは、そんなミルトンにむしろ意外そうな目を向けた。
 
「話が違うな――何故お前がそんな目でおれを見る?」
「話?」
「噂じゃ、お前も似たようなことをしておったと聞いたぞ?」
「なに!?」

 いくら何でもミルトンは自分が暗殺者であるなどと言った覚えはない。一体自分に関してどこまで荒唐無稽な噂が流れているというのか。
 だが、デンパチはむしろ誇らしげな表情さえ浮かべてミルトンに言った。


「鬼どもに支配された地獄のような国で仲間とともに戦い続け、見事めざす閻魔大王を討ち果たしたと聞いておるが……噂は間違いなのか?」


 ミルトンは何も言い返せなかった。
 いや――むしろ、彼の心を満たしたのは、純度100%に近い自尊心であった。
 照れくさそうに頬を染めると、
「昔の話さ」
 とデンパチから目をそむけ――その場に、どっかと腰を下ろした。
「まあ……立ち話もなんだ、あんたもこっちにきて座れよ」
 そう言いながらミルトンは、先程まで自分が飲んでいた酒のビンを掲げると、
「酒もある。この国の酒は今夜初めて飲んだんだが、なかなかいける。あんたもどうだい?」
 と言った。
 そう言われてしまえば、無論デンパチも否とは言えない。
「なら……御相伴に預からせてもらおうか」
 と、苦笑しながらミルトンの傍に座り込む。


 つまり男たちは、互いに自らを認め合った、ということなのだろう。
 魔法戦士と忍者は軽口を叩き合いながら、一つの盃で一本の酒を回し飲み始めた。
 さっきまで部屋に充満していた殺気は、もはや跡形もない。


//////////////////////

 煌々と輝く満月が墨俣城の庭を照らす。
 その月を愛でるように、朧々と形容すべき響きの笛の音が、ここまで聞こえてくる。

 無論それはミルトンのものではなく、霞の伝八の吹くものだ。
 名うての忍び者である伝八は、様々な職種に変装して他国に潜入する間諜のプロフェッショナルだ。つまりそれは、彼が所持する変装用衣装の数だけ職業的技能を身に付けているということでもある。
 たとえばそれは行商人に変装した場合の相場知識や、虚無僧に変装した場合の経文、農民や漁師に変装した場合の農業知識や漁業知識などであり、そして旅芸人に変装した場合の笛や軽業の心得なども、忍びにとっては当然の必須技能だ。
 そして、おそらくは伝八が異人に聞かせるために奏でているのであろう、その音色は、市井にあれば笛一本でめしが食えるほどの見事なものだった。

 本丸の最上階から洩れる灯りを見ながら、そこにいた三人の男たちはその演奏を耳にした瞬間、反射的に安堵の表情を浮かべていた。
 無論その音曲に感動を覚えた――などという理由からではない。
 その笛の音は、伝八から彼ら三人に対しての合図であったのだ。
 
「大炊どん、どうやら上手くいったようじゃな」

 そう言って笑ったのは、木下藤吉郎。
 それに応えるようにニヤリと唇を歪ませたのは、稲田大炊助(いなだ おおいのすけ)――今朝、城の庭で独りトレーニングに勤しんでいたミルトンに、伝八をけしかけた男である。そして今夜、ミルトンの部屋に忍び込んで来いと言った本人でもある。
 だが、その二人の後ろにいた蜂須賀小六は、まだ懐疑的な表情を崩さない。

「しかしよぉ猿、本当にお前が言うように異人が心変わりするもんかね?」

 だが、その問いに答えたのは藤吉郎ではなく、大炊助だった。
「おそらくは、まず間違いないかと」
 その口調は自信に満ちていたが、それでも小六は首を捻る。
「そうかのう……そう簡単に話が進むかのう……?」
 そんな小六に、今度は藤吉郎が笑いかけた。
「小六どん、納得がいかんのも分かるが、少しはこのわしを信じてくれや」

 思わずとろけそうな笑顔ではあるが、それでも小六としては簡単にうなずく気にはなれない。
 そもそも藤吉郎は調略を得意としすぎるためか、人の心を甘く見ているフシがある。
 人間とはそう簡単におのれの信念を曲げるものではない。
 むろん小六は、ミルトンを織田軍に参戦させる一件について、藤吉郎が信長から督促されている事実は知っている。そして信長が、自分の命令を遂行できない家臣に対して、どれほど峻烈な怒りを以って報いるかということも、だ。
(じゃからというて……そう簡単にあの異人が、わしらに合力する気になるものかよ)
 蜂須賀小六としては、やはり心中にそう呟かずにはいられない。


 藤吉郎の立てた策とは、言ってしまえばそれほど複雑なものではない。

 そもそもあの異人が、織田軍に命を救われたという重大な恩義があるにもかかわらず、それでも信長に逆らい、ひたすらに参戦を拒む理由はただ一つ。魔王という「人類の敵対者」と戦うために鍛え上げた自分の戦闘技能を、人間相手に使用する気にはなれないからだ、という話であることは――今ではこの墨俣城に詰めているほとんどすべての者が知っている。

 だが違う。
 そうではない。
 あの異人の本音は別に在る。
 藤吉郎はそう主張する。
 つまり、あの異人にとっては、たとえ命の恩人の故国であろうとも、所詮この「オワリの国」に存在するすべてのものはみな他人事にすぎない。だから誰が戦に勝とうが負けようが、戦で死のうが生きようが、どうでもいい。それ以上の感想を持ちようが無いのだ――と。
 
 ぶっちゃけた話、その考えは基本的に小六も同意見だ。
 あの異人と同じ境遇に立場を置き換えて考えてみれば、それはさらに一目瞭然だ。
 もし小六が異人と同じ情況に置かれても、見知らぬ国の見知らぬ異人種たちの戦など、他人事以外の感情など持てるとは思えない。助太刀を頼まれたとしても、やはり心中では(面倒は御免じゃ)としか思えないであろう。たとえそれが自分を救ってくれた命の恩人たちの戦であったとしてもだ。
 
 ならば、そんな男を戦いに参加させるにはどうすればいいか。
 その疑問に、藤吉郎はこう答える。



「――じゃが、実際に戦っちょるのが“他人”やない、ともに酒を酌み交わす“友”じゃったらどうじゃ? ひとかどの武人なら“友”が血を流し、むざむざ戦で殺されていくのを黙って見ていられると思うかいな?」



(確かに、その理屈はわかるがのう)
 それでも小六は、得意げにそう語る藤吉郎を見て、やはり眉をしかめざるを得ない。
 その計画を実行する為には、異人にとって一人や二人の友人が出来た程度ではどうにもならないからだ。それどころか、この城にいるすべての人間が異人と友情を確かめ合うほどの人間関係を構築しなければ、異人はとうてい我々に感情移入してはくれないだろう。

 だが、藤吉郎は語る。
 肝心なのは、その最初の一人であると。
 その、最初の一人との友誼さえ上手く結べたなら、あとは「友達の紹介」というシステムで芋づる式に人間関係を膨らませることが可能だ。
 ならばこそ、その最初の一人は、異人が万全の信頼をおける能力者であり、人格者でなければならない。
 どれほどの名門の出であろうと、どれほど眉目秀麗であろうとも、それだけではこの役は勤まらない。
 さらに言えば――たとえば小六のように――紅毛碧眼の異人種すべてに無意識な偏見や畏怖を抱くような、そんな保守的な人間ではダメなのだ。

 むろん、そんな人間はおいそれとは存在しない。
 だが、それでも藤吉郎が小六や――特に、この稲田大炊助に――その人選を任せていたのは知っていた。だが、まさか大炊助が、ここで太田伝八などという名を挙げるとは思わなかったのだ。
 だからこそ小六は、大炊助にいぶかしげな目を向ける。

「しかし大炊、何故あの伊賀者なんじゃ?」
「口では嘘はつけますが、腕は嘘をつけませんからな。馬が合うかどうかはともかく、奴ほどの手練ならば、腕に覚えのある者同士通じ合うものも多いでしょう。現に――上手くやっているようですし」
「いや、お世辞抜きでなかなか見事な人選だったぜ大炊どん」
 藤吉郎が真顔で言う。


 この墨俣城の防衛隊長ともいうべき藤吉郎ではあるが、美濃勢に対する実質的な防戦指揮はこの蜂須賀小六や、その片腕とも言うべき稲田大炊助などに一任している。
 だが、のちに織田家の五大軍団長に抜擢される秀吉だ。戦闘指揮に関しては、ここにいる二人に劣るものでは当然ないが――それでも自らの武勇で軍の士気を鼓舞し、統率力を発揮するタイプの将ではない。

 つまり、彼はしょせん戦場の勇者ではないのだ。

 のちに日本史上に輝く“人蕩(ひとたら)し”の天才と呼ばれた彼ではあるが、その才能は、彼自身の現在の主任務である、美濃斎藤家に対する調略交渉に向けられており、現に竹中半兵衛を筆頭に、いまや西美濃一帯の有力国人たちは続々と織田家になびきつつある。
 だが、それほどの藤吉郎であっても、異世界出身のミルトンを織田の戦に参陣させる交渉の取っ掛かりが見つからない。この国の人間ではないミルトンに、この世界の利害を説いたところで無意味だからだ。
 ならばこそ――藤吉郎は、ミルトンと価値観を共有できる者を捜していたのだ。

 そういう意味では、大炊助の選んだ忍び者――霞の伝八はうってつけの相手であろう。
 武勇に優れ、敵中の孤軍戦闘の厳しさを知り、なにより人を欺き、懐柔することさえも稼業の一環と割り切れるのが忍び者なのだ。


「とにかく、あの異人をなんとしてでも我らの味方につけねばならん。たとえ、どのような手を使ってもじゃ。あやつを我が軍に引き込めば、美濃斎藤どころか近江の六角、大和の筒井、京の三好――ことごとくを叩き潰して上洛することも雑作もなかろう。織田の天下までの距離を三年、いや五年は縮めることが出来ようぞ……!!」


 藤吉郎は満腔の闘志をみなぎらせ、闇夜に染み入るような声音で言った。
 それはまるで、おのれ自身に言い聞かせているようにも見えた。






[26665] 第七話 「墨俣急襲」
Name: ジンバブエ◆74606097 ID:d2736d75
Date: 2011/08/14 15:52
 その場所は、ある意味異様な熱気に包まれていた。
 まるでどこかの道場か、もしくは寺社の本堂のような板敷の広間。
 その広間の中央には畳数枚分の面積をもつ白布が敷かれ、そこだけがまるで別空間のような態をなしている。
 というのも、部屋の熱気の発生源であろう二十人あまりの男たちが、その周囲をぐるりと取り囲むように座り込んでいるにもかかわらず、彼らはその白布の上にはまるで踏み込もうとはせず、ただ熱を帯びた凄まじい視線を向けるばかりであったからだ。
 といっても、その白布の上には誰も座っていない。
 そこにあるのは、一辺一尺(約30センチ)ほどの正方形に切り取られた小さな畳。
 着物を片脱ぎにした半裸の男が、その盆茣蓙(ぼんござ)と呼ばれる小畳に、茶碗大の編みカゴを乗せ、油断の無い視線を周囲に飛ばしながら、叫ぶ。


「さあ張った張ったッ!!」


 その途端、白布を包囲するように座った大勢の男たちは皆一様に、興奮に我を忘れたような顔で、掌中に残った木製の札を床に叩き付け、あるいは山と積まれた木札をズイッと中央に寄せ、口々に叫ぶ。

「丁!!」
「丁!!」
「半ッ!!」
「丁!!」

 木札といってもただの木片ではない。
 これは駒札――いわばカジノにおけるチップと同じで、現金で購入してギャンブルに使用する金券なのだ。だから、それを扱う男たちの顔には、いずれも見る者をたじろがせるような強い感情が浮かび上がっている。
 半裸の男は、そんな男たち――客の張りが偏っていると見るや、鋭い声で威圧するように呼びかける。
「半方ないか半方!!」

「半!!」
「おれも半だッ!!」
「なら、こっちも半ッッ!!」

 そして、客の掛け率が五分五分あたりになったと判断するや、半裸姿の男は、
「丁半、駒揃いました――勝負!!」
 と言いながら、一般的に「壺」と呼ばれる茶碗大のかごを、ゆっくりと持ち挙げる。
 そこにあった二つのサイコロの目は4と6――つまり、その合計の目は、偶数。

「四六(しろく)の丁ッッ!!」

 途端に室内全体に歓声や悲鳴が溢れる。
 賭けに勝った客、負けた客、それぞれが悲喜こもごもといったところであろうか。
 そしてミルトンはというと、――やはり顔をしかめながら天を仰いでいた。
 また負けた。これでもうスッテンテンだ。
 張った駒札は全て回収され、もはや一枚たりとも手元に残っていない。

「くっくっくっくっく……」
 隣を見ると、デンパチが子供のようにはしゃぎながら、新たに勝ち得た分の駒札を数えている。
 有り金を全部スった自分に比べ、ミルトンとしてもさすがに苛立ち混じりの視線を向けざるを得ない。だが、デンパチはわざとらしくニヤつくと、
「どうしたいミルトン? またおれの金でも借りたくなったか?」
 と囁いた。

 たまらずそっぽを向くミルトンに、今度は背後から別の声がかかる。
「しかしミルトンよ、おめえさんの負けっぷりはええのう。見てて清々しいくらいキップのええ負け方じゃ。――わしも昔を思い出したぞ」
「負けに清々しいもクソもあるかよ」
 ミルトンも苦々しげに言い返すが、背後の男――ハヤトの言いたい事も分かる。何といってもミルトンの駒札は、ついさっきまでは今のデンパチに劣らぬほどに積み上げられていたからだ。
 まあ、彼自身、先程までの自分のリスクを恐れぬ張り方を思い返せば、たとえどれだけ「貯蓄」があろうとも、たった数回連敗しただけで散財してしまうのは無理からぬ話だと溜め息をつくしかないのだが。

 だがミルトンは――今でこそこんな苦い顔をしているが――それでも心底では現状を楽しんでもいた。
 そもそも“故郷”では、こういう遊戯施設は“すごろく場”くらいしか知らないミルトンにとって、このサイコロ賭博自体が勝とうが負けようがどうでもいいほどの新鮮な経験だったということも一つ。
 さらにもう一つ理由を挙げるならば、やはり新たに“友人”となった者たちとの和気藹々たる空気に酔いしれていたということも大きいであろう。

 そもそも装備品以外は無一文の状態で、この「オワリの国」に飛ばされてきたミルトンにとって、こんなカジノでギャンブルを楽しむ金などあろうはずがない。つまり、一時的にしろ彼が駒札を積み上げた元金は、みな他人の懐から出ているということに他ならない。
 他人とはつまり、デンパチの紹介によって新たに知遇を得た“友人”たちであり、いま背後から声を掛けてきたハヤト――加治田隼人も当然その一人だ。
 その他にもミルトンを取り巻く一団には、松原内匠助(まつばら たくみのすけ)や日比野六太夫、青山新七、河口久助、長江半之丞(ながえ はんのじょう)などがおり、いずれも蜂須賀党では武勇で知られた男たちであるのみならず、いざ合戦ともなれば、彼らはそれぞれが手勢を率いる中隊長格の将校たちでもあった。
 つまりそれは――ミルトン自身の預かり知らぬところで、彼は蜂須賀党内部に着々と人脈を築きつつあったということであり、そこには当然、秀吉を始めとする墨俣城首脳陣の意図が存在していた。

「とりあえずスッカラカンになったんなら、ここからどこうぜ異人さん。盆の進行を邪魔しちゃまずい」
 一座の中で一番年少のキュウ――河口久助が慰めるようにミルトンに言うが、それまでニヤつきながら駒札を数えていたデンパチが、刺すような口調で言葉を挟む。


「異人さんじゃねえ。ちゃんと『みるとん』って呼びな河口」


「あ?」
 その一言に、さすがにキュウも反発するように眉間に皺を寄せるが、それでも両者の間に殺気が迸ったのは一瞬だった。
「済まねえなミルトン……気を悪くしたんなら謝るぜ」
 そう言うと立ち上がり、バツが悪そうに背を向けたキュウにミルトンが何かを言おうとするが、それを遮るようにデンパチが声を掛ける。
「とはいえ河口の言うことも道理だ。とりあえず貧乏人は席を譲って外の空気でも吸ってきたらどうだ」
 先程までの険しい声など忘れたかのような、けろりとした顔でデンパチは笑う。
「……キミは?」
「おれはもう少し遊んでいく。せっかくタマがここまで膨れ上がったんだからな」


 
 デンパチとの出会いから、今日で五日経つ。
 以前のように本丸最上階の居室に引き篭もるのをやめ、積極的に蜂須賀党の野武士たちと交流するようになったミルトンの姿は、もはやこの城では珍しい光景ではなくなりつつある。
 紅毛碧眼の南蛮人そのものの外見を持ち、「魔法」という得体の知れない妖術を使う男――と言えば、まともな人間なら係わり合いになるのをむしろ嫌がりそうなものだが、そこはやはり、言葉が通じるという強みが大きくモノを言った。
 腕が立ち、お人好しでサッパリした気性をもつミルトンのキャラクターは、むしろ一度認知されてしまえば、野武士たちの中に溶け込むのに時間はかからなかったのだ。
 だから――というわけではないが、いまやこの空間で、サイコロ博打に熱中していたミルトンに奇異な視線を向ける者は誰もいなかった。


 そこは墨俣城のとある一室。
 見ての通り、ここでは賭場が開かれ、シフト交替によって城の戦闘配置から束の間の自由を得た兵士たちの、しばしのレクリエーション場として機能している。

 とはいえ、やはり通常の城塞ならば在り得ない光景だというしかないが、それでも百歩譲って、この城の勤番衆が蜂須賀党だという事情を鑑みれば、まだしも理解できる話だったかも知れない。
 彼ら野武士は――たとえば大名に仕える知行取りの正規の武士団とはまったく違う。
 山に在っては山賊と化し、いくさに際しては傭兵と化す剽悍の民であり、にもかかわらず、あくまでも士籍を持たぬ在野の集団であり、その刹那主義的な生活態度は、むしろ江戸期のやくざに近いとさえ言える。
 そんな彼らならば、たとえ戦時であろうとも、その生活から「飲む・打つ・買う」の三拍子を除去した日常など考えられぬ話なのだが、ならばこそ――あくまでおおっぴらではないが――この墨俣城には「賭場」の存在が、城代・木下藤吉郎によって黙認されている。
 もっともそれは、この城に存在する織田家の正式な被官が、藤吉郎ただ一人であるからこその話であり、もしも彼以外に織田家の正規兵が一人でもいたなら、さすがの秀吉も、こんな非常識な“黙認”は不可能であったろう。

 そして何よりこの墨俣城には、守備兵たる野武士たちが博打にふける余裕を持てる、もう一つの理由があった。


「なあ、この城って確か最前線要塞なんだろ? そんな城の兵隊がこんな事してていいのかよ?」

 賭場が開かれている部屋から外に向かう廊下を歩きながら、「その理由」を知らぬミルトンが、今更ながらに当然とさえ言うべき疑問をハヤトに投げ掛けるが、彼はいやらしい笑いを浮かべるのみで、何も答えない。
 さすがにむっとするミルトンだが、そんな彼の質問に答えたのは、右隣にいたタクミ――松原内匠助という男だった。

「まあ、いわゆる“大人の事情”ってやつだ」
 聞きなれぬ言葉に振り向くミルトンに、タクミは渋く笑う。
「早い話が、もうこっちにゃ分かっちまってるんだよ。敵がいつどういう作戦で攻めてくるのかって、そこら辺の話が全部な」
「え!?」
 ミルトンは唖然となった。
 このオワリの軍は、現在の敵方たるミノ軍に、かつてさんざん煮え湯を飲まされてきたとトウキチロウから聞いていたからだ。


「そいつは昔の話だ。いまや美濃軍の中には、おれたち蜂須賀党の間者が何十人と入り込んでる。いや、それだけじゃねえ、敵の部将どもの中にも、おれたちに寝返った裏切者が何人もいて、そいつらから送られてくるのさ。この墨俣をいつ、どんな作戦で攻め寄せるかって情報がな」
「じゃあ……この城がここまで油断してるのは、今日は敵が攻めてこないと?」
「ああ、次の攻撃は明日の夜だ」


 それを聞いてミルトンは思わず顔をしかめていた。
 彼は、魔王直属のモンスターとの戦闘こそゲップが出るほど経験しているが、人間同士の紛争やら合戦やらの経験はほとんど絶無である。
 だからこそミルトンには「戦争」に対して――美々しく綺羅を飾った騎士たちによる闘争の場であるという風の――子供のように真っ正直なイメージがある。
 そんな彼にとっては「間者」「裏切者」といった言葉は、たまらなく不潔な響きとして耳に届いたのだ。
 だから、彼は口を尖らせる。

「何故そんな卑怯な真似をする? 正々堂々と戦場で雌雄を決すればいいじゃないか」

 途端に、ミルトンを囲む男たちの目に孫を見つめる老人のような、生温かい光が宿る。
 ロクダユウ――日比野六太夫という男が、ミルトンから目を逸らすようにポツリとつぶやく。
「まあ……確かに卑怯と言われりゃ、こっちとしても一言も無いんだけどね」
「なら、何故そんな――」
「ミルトン」
 彼の声を遮るように、この一団の中でも最年長のハヤトが錆びた声を差し挟む。


「つまり、いくさってなぁ、勝って終わらなきゃ意味がねえということさ」


 年齢的には、ハヤトとミルトンは父と息子ほどに隔たりがあるだろう。
 しかしミルトンは、年長者の言葉だからといって素直に頷くような腰の低い男ではない。納得のいかない現実に対しては、やはり納得できないと言い切るだけの我の強さがある。もっとも、その程度の向こうっ気の強さが無ければ、モンスターどもと命のやりとりなど、とてもできるものではないが。
「勝利の為にはどんな卑怯な行為も正当化されると?」
「おうよ、いくさってのは騙し合いだ。騙されて、出し抜かれて、裏をかかれる方が間抜けなのよ」
「卑劣な勝ち方をするくらいなら、堂々たる敗北にこそ“美”があるとは思わないのか?」
「思わねえな。負けの美学なんて、それこそ負け犬の言う台詞だぜミルトン」
「しかし――」
「おめえだって分かるはずだぜ? 絶対に負けられないものを背負って戦ったのは、おめえだって同じはずだ」

 同じはずだ――と言われても、無論ミルトンはその言葉には同意できない。
「それは事情が違うッッ!! オレの場合は……オレたちの敗北が人類全体の滅びを意味していたんだ!! でもキミたちは違う!! キミたちの敵は同じ人間じゃないか!!」
「同じだよ」
――と言ったのはハヤトではなく、ミルトンの隣にいたロクダユウだった。


「相手が人間だろうと地獄の鬼だろうと、何も違わない。敗者は勝者に従わされ、田畑を荒らされ、女房や娘を奪われて何も言い返せない。――なぜなら、それが敗者の運命だからさ。いくさに負けるっていうのは即ち、そういうことなのさ」


 さすがにそう言われてしまえば、もはやミルトンにも反論の糸口は無い。しかし当然の事だが、反論不能という情況と、納得という精神作業はイコールではない。
「…………ッッ」
 敢えて何も言わず、口を真一文字に結ぶミルトンに、野武士たちは苦笑を浮かべるしかなかった。



 勝利という目的のためには手段を選ぶべきではない。
 もっとも、ミルトンに胸を張ってそういう主張を口にできるのは、彼ら野武士蜂須賀党なればこそ、と言えるかも知れない。もしも、今ミルトンが口にしたような疑問を聞いていたのが、清洲城の騎乗身分の武士であったなら、返ってきた答えはまったく正反対なものになっていただろう。
 たとえ戦争犯罪という概念が存在せず、百年の戦国乱世に明け暮れる日本列島といえども「勝利の為なら全ての工作は正当化されるか」という世論調査を当時の武士階級に実施したならば、その九割までは「否」と答えたはずだ。
 彼らにとって戦争とは――たとえこの数十年で急速に意識や認識が変革されつつあるという事実があるにしろ――やはりおのれの武勇と知恵を命懸けで競い合う、マッチョイズムの実践の場に他ならないのだ。
 つまり、そういう場において最も恥ずべきは「卑怯」と「怯懦」であり、それは八幡太郎源義家が武家による合戦の美学を成立させて以来、変わらぬ禁忌として概念づけられていたのだ。

 彼ら蜂須賀党が「乱破(らっぱ)党」などと蔑みを込めて呼ばれるのは、彼らが主君への忠誠を原動力として働く正規の武士団とは違う、一種の傭兵団であったからという理由だけではない。そういう合戦の際における――直接の戦闘行為とは一見無関係な――敵の混乱を誘導・助長する放火・流言・破壊工作などの「汚れ仕事」を一手に引き受ける集団だったからだ。
 江戸期の儒教化された武士道は、当時においてはまだ確立されていない。
 だが、やはり中世以来の古い価値観が根強く残る戦国時代においては、もっとも賞賛されるべきは槍先の武功であり、それ以外の働きなどは武功にあらずという風潮が厳然と存在しており、そういう価値観の元では、敵の裏切りを誘う離間工作――すなわち「調略」なども、まともな武士のやるべからざるものという認識が厳然と存在していたのだ。

 余談になるが、たとえば秀吉は、そのずば抜けた交渉技術によって西美濃一帯の国人・地侍衆の切り崩しを担当し、見方によっては織田家の美濃征服の立役者というべき働きを示したが、それでも彼自身は「調略家」と見なされる事に満足せず、のちに越前金ヶ崎の撤退戦で、ほぼ自殺に近い程に生還が絶望的な殿軍担当を志願している。すべては自分が口先だけの業師ではないと織田家中にアピールするために、である。


 話を戻すが、つまり蜂須賀党はもとより、それら乱破仕事のプロフェッショナルである忍び者でさえも、世間の武家の価値観的には白眼視されるべき「被差別階級」であったという事実に他ならない。
 だからこそ彼ら野武士は、ミルトンに言う。
「汚れ仕事」の担当者として、敢えて彼らは言うのだ。
――勝利という目的のためには手段を選ぶべきではない、と。
 


 その時であった。
 大気が割れんばかりに鳴り響く半鐘の音と、重低音の利いた法螺貝を吹く音色が、墨俣の空に轟く。
 ミルトンを囲んでニヤついていた野武士たちが一斉に凍り付き、その表情は、まるで白昼に幽霊を見たかのような恐怖と狼狽に固定される。
「おい……ちょっと待てよ……」
「どうなってんだこりゃあ……!?」
「今日は仕掛けてこないんじゃなかったのかよッッ!?」
 いや、それは彼らだけではない。墨俣滞在半月に及ぶミルトンにとっても、そのけたたまし過ぎる騒音の意味はもはや分かっている。それはまさしく寝耳に水などというレベルでは済まない――油断し切った野武士たちが凝然となるのも当然なものだったからだ。

 織田家の兵制上、法螺貝と半鐘の二重奏が意味するものはただ一つ。
 それは――「敵襲」であった。


///////////////////

 蜂須賀小六は信じられなかった――というより信じたくなかった。
 美濃斎藤家に対する蜂須賀党の諜報網は、木下藤吉郎の調略による切り崩しも相まって、ほぼ完璧なものだったと言っても過言ではない。ならば、いまさらこんな形で裏をかかれようなど、まったく予想の範疇外だと言うしかなかった。
 だが現実逃避をしている暇はない。
 事実、小六のもとには矢継ぎ早に報告がもたらされる。
「一の曲輪(くるわ)、突破されました!!」
「寒河江主馬殿、釜津田刑部殿、討ち死に!!」
「美濃兵、総数一万二千!! 旗指物から、率いているのは日根野備中守と思われます!!」

(いちまん、だとぉ……ッッ!!?)
 長年連れ添った部下が死んだという報告よりも、それ以上に美濃軍の兵数が五ケタを越える大軍団だという事実に、小六は絶望する。

 墨俣城は「一夜城」と呼ばれる通り、構造的にはしょせん急ごしらえの城塞に過ぎない。城の防衛能力の限界は、だいたい敵兵五千人といったところであり、それ以上の兵力にカサにかかって攻めかかられては到底持ち応えられない。
 なにより墨俣城は、織田家にとっては美濃攻略の為の橋頭堡――つまり出撃拠点として築かれた城であり、南下してくる美濃兵を国境で食い止めるための防衛拠点ではない。
 だが、これまではそれでも問題はなかった。
 美濃斎藤家とは、そもそも「蝮の道三」と呼ばれた斎藤道三――山崎屋庄九郎という京の油商人が、その財力と権謀術数の限りを尽くして一代で美濃一国を切り取ったという典型的な戦国大名であるが、現在の当主たる斎藤家三代目・龍興は、暗愚にして家臣領民の人望を失っており、その動員能力は、いまや往時の半分以下に落ち込んでいるという。
 つまり織田家としては、墨俣城に五千の兵に耐え得る防戦能力さえ持たせれば、それで問題はなかったわけだ。

 だが、眼下に攻め寄せる敵兵は一万二千。
 それは斎藤家――というより美濃一国の総兵力と言えるほどの兵数であり、つまり、この墨俣を陥とした後、一気に尾張の首都である清洲を突こうという算段なのであろう。
 斎藤龍興に万の軍勢を動かし得るだけの人望・影響力があるというなら、それは彼の「暗愚」という世評自体が巧妙に偽装されたものであるという可能性が出てくる。
 なにより小六が美濃に潜り込ませてある間者や、藤吉郎が裏切らせた斎藤家の部将たちから、美濃軍が総動員令を掛けて出撃準備を整えていたという報告が、なぜ届いていないのか。

――ここまで事態が進めば答えは歴然だった。

(やられた……ということかッッ!!)
 もう間違いない。
 自分たちはハメられたのだ。
 斎藤家の部将たちは、最初から裏切る気など無かったのだ。彼らからもたらされた数々の情報は、今日という日のためにこちらを信用させ、油断させる釣り針に過ぎなかったのだろう。
 ならば最初から小六の手の者である間者たちの運命は、さらに悲惨なものであったろう。彼らは、この出撃が決定された時点で、残らず粛清されてしまったに違いない。

「猿ッッ!!」
 小六は怒りに任せて藤吉郎を振り返る。
 この男の中途半端な調略こそが、今日のこの事態を招いたのだ。
 美濃に間者として送り込んだ部下たちはもとより、今この城にいる部下たちも――そして何より、この自分の命さえも風前の灯のごとき死地に陥っている。
 その全ての原因は、この小男――木下藤吉郎にあるのだ。
 こやつの口車に乗って斎藤家から織田家に鞍替えし、この墨俣で守備兵の真似事などしていなければ――少なくとも、濃尾国境付近を拠点とする野武士のままであったなら、ここまでおのれと部下の命を危機に晒すような事態にはならなかったに違いない――。


「わしを責めとる場合か小六どん!! 今は他にやるべきことがあるじゃろう!!」


 ぎらりとこちらを睨み据えた藤吉郎の眼光に、思わず小六がたじろぐ。
 確かに常識で事態を考えれば藤吉郎の発言は全面的に正しい。今はもはや内輪揉めを許される情況ではないからだ。だが、それでも小六は野武士二千人に君臨した大親分だ。こんな若造の一睨みに気圧されたなどという事実は、彼の気位が許さない。
――にもかかわらず小六は何も言い返せなかった。
 彼は藤吉郎の瞳に宿っていた、信長に匹敵するほどの「威」に打たれたのだ。
 蜂須賀小六正勝は、無論この時点で眼前の小男が――後の天下人となる確実な未来を知らない。

 だが藤吉郎は、この情況に慌てることなく、さらに非難の目を向ける小六の存在を歯牙にもかけず、伝令たちに的確な指示を飛ばして兵を動かしている。
「二の曲輪には稲田隊を後詰めに向かわせろ!! これ以上、敵の侵入を許すなッッ!!」
「はッッ!!」
「清洲に早馬は飛ばしたか!?」
「はッッ!! 十騎の早馬がすでに清洲へ向けて発ちました!!」

(間に合うものかよ、そんなもの)
 と小六は思ったが、さっき藤吉郎の目に見た威圧感を思い出し、実際に口には出さない。
 しかし、この墨俣からでは、どんなに速い馬であっても清洲までは半刻(およそ一時間)はかかる。いかに神速の行軍を誇る信長であっても、そこから軍を編制して墨俣救援に辿り着くまでは、さらに二刻(およそ四時間)近くはかかるだろう。
 四、五千の敵ならともかく、一万二千の大軍勢を相手にそんな長時間、この急造の城で耐え凌げるとは思えない。
 ならば、ここを生き残る道はただ一つしかない。
 斎藤軍に降伏して織田家を裏切り、かれらの尾張攻めの先鋒に加わることだ。

「言っておくが小六どん、わしらは降伏はせんぞ」

 機先を制するように藤吉郎が言い放つ。
 ぐっ――と口篭もる小六だが、それでももはや黙ってはいられない。
「ならどうするんじゃ猿!? 清洲から信長様の本軍が到着するまでは、とても持ち応えられんぞ!?」
「小牧山に佐久間様の軍がおったはずじゃ。そこにも馬を飛ばす」
「小牧山!?」
「うまくいけば、殿が到着するまでに一息つける」
(確かに……)
 とは小六も思ったが、やはり彼の表情は晴れない。


 小牧山の要塞は、清洲と墨俣を結ぶ中間地点にあり、信長はかねてより美濃攻略のために、尾張の本営を清洲からこの小牧山に移すことを計画していた。だが、家臣たちの猛反発にあい、信長ほどの独裁者が執行していながら、現在のところ、この「遷都」は遅々として進んでいない。
 しかしながら、それでも小牧山には、すでに信長の新たな居城となるべき城が築かれ、街普請も実施されている。それを二千の兵とともに宰領している駐留部隊の将が、他ならぬ佐久間信盛であった。

 確かに佐久間隊が援軍として駆けつけてくれれば、この墨俣はおそらく信長の本軍到着まで持ち応えられるかもしれない。
 だが、佐久間信盛の用兵の特徴として、良く言えば慎重、悪く言えば鈍重というべきところがあり、そんな佐久間隊がこの急場にどれだけ速やかな到着を期待できるかといえば、やはり首を捻らざるを得ない。
 また、不安要素はそれだけではない。
 織田家の中でも林・佐久間・柴田といった家老格の部将たちが、出自も怪しい小者あがりの藤吉郎に決して好感情を抱いていないことは家中に隠れもなき事実であり、もし彼の軍が墨俣に到着したところで、藤吉郎や蜂須賀党の野武士たちの救援に、どれだけの士気を注いでくれるかは、果てしなく疑問であった。

 だが、藤吉郎は毅然と言い放つ。
「安心せい小六どん、佐久間様に日和見はさせんわい」
 普段はあれほど陽気な藤吉郎が、ニコリともせずにそのまま部屋の円座に腰を降ろし、机を引き寄せる。
「わしが今から佐久間様に書状を書く。――もしも墨俣が陥ち、わしらをむざむざ死なせるようなことになれば、間違いなく信長様は貴殿の裏切りを疑うでありましょう――という意味の文面を書いて、小牧山に送りつける」
「…………まあ、のう」
 確かに、そこまで尻を叩かれては佐久間信盛といえども動かざるを得まい。
 だが、それですっきり後顧の憂いがなくなったわけではない。
「あと小六どん、ミルトンをここへ呼べ」
「そっ、それじゃよ猿ッッ!!」
 その名を聞いた瞬間、蜂須賀小六はまさに身を乗り出さんばかりの勢いで膝を打った。

 あの得体の知れない妖術使いの異人であれば、あるいはこの死地を何とか出来るかもしれない。といっても、いくら小六でも、あの異人が一万人以上の大軍を相手に出来るなどとは考えない。
 必要なのは一撃だ。
 城を包囲する大軍に一撃を食らわせ、その足並みを乱させる。
 そうなって初めて、味方に反撃の余地が生じるのだ。
 そして、神名山で披露した、あの異人の妖術ならば、充分に敵の出鼻をくじけるだろう。

「しかし小六どんよ、わしはミルトンをいくさに出す気は無いぞ」
「あぁ!?」
「あの男はいわば信長様からの大切な預かり物じゃ、傷一つ付けるわけにもいかん。それに、何よりミルトン本人が、いくさに出ることを納得しちょらんわい」
「そッ、そんなこと言うとる場合かッッ!! ここを切り抜けん限り、あの異人にとっても死ぬしか道はないのじゃぞッッ!?」
「いや、ミルトンと半兵衛は城から落ち延びさせ、清洲へ向かわせる」

 半兵衛――とは竹中半兵衛のことである。
 のちに秀吉幕下で辣腕を振るい、天才の名を欲しいままにした軍師であるが、当時の彼は正確にはまだ織田家の家士ではない。
 酒池肉林に溺れる斎藤龍興を諌める為という大義名分によって、美濃の主城・稲葉山城で手品師のような鮮やかな手際でクーデターを決行し、そのまま稲葉山城を無血占拠しておきながら、何ら野心を剥き出すことなく、そのまま龍興に城を返して飄然と美濃を後にしたという信じられぬ来歴をもつこの「美濃浪人」は、墨俣城で藤吉郎の客分のような待遇を受けている。

「半兵衛の智謀は、今後の織田家にとって欠くべからざるものじゃ。こんなところで死なせてよい男ではない。じゃから半兵衛とミルトンには伝八をつける」
「なっ、伝八じゃと!?」
「半兵衛には武勇の腕こそないが、魔法使いと伊賀者がその場におれば、清洲に辿り着くまでに殺られる事はないじゃろう」
 そこまで聞いて、たまらず小六は吼えた。
「ええかげんにせい猿ッッ!!」

 冗談ではなかった。
 異人の妖術を戦力として使用しないというなら、あとは腕自慢の武辺者たちに決死隊を組ませて、敵の本陣を突かせるくらいしか、もはや自分たちに生き延びる道はない。
 そして、もしその作戦を決行するなら、伝八ほどの忍びは、それこそ必要不可欠な存在なのだ。それをむざむざ脱出者に同行させて城から出すなど、もはや正気の沙汰ではない。
 だが腰の刀に手を伸ばした小六を、視線だけで封じる藤吉郎の瞳には、一分の狂気さえ宿っていない。むしろ湖水のような冷静さをたたえていた。



「小六どん、これは賭けじゃ、何も言わずにわしを信じてくれ。上手く行けば城は陥ちぬ。それどころか、逆に今日こそが美濃斎藤の最期の日に――いや、信長様が天下布武の第一歩を踏み出した、記念すべき日となるじゃろう」



「……その賭けとやらの……勝ち目はあるのか?」
 しばし凝然となった末に、老婆のようなしわがれ声で小六が問う。
「無論じゃ」
 そう言って初めて藤吉郎は、この男特有の赤子のように無邪気な笑みを浮かべた。

(こんな絶望的な情況で、なぜ笑える!?)
 そう訊き返す気力さえ、もはや小六にはない。
 この期に及んで藤吉郎が何かを企んでいる事は間違いない。
 だが彼には、もはや眼前の小男が何を考えているのか見当もつかない――というより、 この男が、完全に自分と違う次元に立脚し、物を見ているという事実に、気付かずにはいられなかった。




[26665] 第八話 「決意」
Name: ジンバブエ◆74606097 ID:d2736d75
Date: 2011/09/08 05:08
 彼らの耳に、遠雷のようにそのどよめきは聞こえ続けている。

 墨俣は、たとえ急ごしらえの小城とはいえ、戦闘用の城塞には違いない。ミルトンが、この「オワリの国」に出現したその日に一応の竣工を迎えたが、それ以降も、城の補強工事は断続的に行われてきた。だが、その補強された分厚い土壁を通して、轟くような人の声が聞こえてくる。
 いや、声だけではない。
 この墨俣城の存在する川の中洲に、いまや一万を越す人員が終結し、敵味方に分かれて互いに殺し合っている。その者たちの発する怒号・悲鳴・断末魔の叫び、さらに軍の進退を指揮する軍鼓・戦鐘の響き、鉄砲隊の銃声や軍馬のいななき、そして彼ら全てが走り回る地響きなどが、一つのオーケストラとなって、彼らの耳に否が応でも届いてくるのだ。

 そして、聞くともなく響くそのどよめきの中、二人の男が墨俣城本丸の長い廊下を歩いていた。
 一人は――言わずと知れたアリアハンの魔法戦士ミルトン。
 そしてもう一人は、ミルトンが一面識もない蜂須賀党の若い野武士。


 その野武士に案内され、歩くミルトンは一切の無駄口を利くことはなかった。
 もっともそれは、人見知りや不機嫌が生み出す気まずい沈黙ではない。 
 ミルトンには眼前の野武士が、まったく心ここにあらずといった、ある種の放心状態にあるように見えたからだ。
(まあ当然だよな)
 と、ミルトンは思う。彼はつい先程まで、壁一枚向こうに存在する、血みどろの戦場にいたのだから。
 その肩から立ち上る興奮と殺気から判断して、彼に無駄口を叩く余裕があるとは、ミルトンには思えなかった。

 やがて目的地とおぼしきその一室に到着すると、その野武士は顎をしゃくって、
「中で親分がお待ちだ」
 とだけ言い、そのままミルトンが入室するのを確認すらせず、そのまま足早に廊下を戻っていった。
 しかし、その人もなげな振舞いに際してもミルトンは、
(無礼な)
 などとは考えない。
 というより、そんな思考に至るより先に、その部屋の紙の引き戸がカラリと向こうから開かれたのだ。
 
「おおっミルトン殿、待ちかねたぞ!!」

 部屋の中からそう叫んだのはミルトンも知る猿顔の小男――キノシタ・トウキチロウ。
 この男の癖である鼓膜に直接響くような大声に、思わず顔をしかめながらミルトンが室内に視線をめぐらせると、トウキチロウの背後で苦虫を噛み潰したような顔をしているハチスカ・コロクと目が合う。
 だが、さらにもう一人、ミルトンの知らぬ顔が部屋の片隅にいた。


 すっきりと美しく背筋を伸ばしてあぐらをかき、こちらに涼やかな視線を向けてくるその男は、まるで少女に見紛うほどの美形であり、目があった瞬間、ミルトンはしばし狼狽したほどに匂い立つ気品があった。
 そんな彼の反応に興味深げな視線を向けながら、トウキチロウは言う。
「この御仁は竹中半兵衛殿というてのう、まあ道中仲良くやってくれや」
「道中?」
――それは何のことだ?
 そうミルトンが訊き返そうとした刹那、ハンベエが床に拳をつき、頭を下げて挨拶した。

「竹中半兵衛重治と申します」

 あわててミルトンも床に片膝をつき、頭を下げて騎士のように礼を返す。
「こちらこそ……ミルトンです」
 だが、ハンベエから漂う花のような香りをミルトンの鼻は嗅ぎとり、反射的に顔を上げてしまう。
 そんなミルトンに、トウキチロウはニヤつきながら耳打ちする。
「どうじゃ、男に見えぬほどの美形じゃろ? じゃが残念ながら、半兵衛殿には姉上も妹御もおられぬそうじゃ……勿体無いのう」

 その軽口を聞いたミルトンは、むしろ奇異なものをみる目をトウキチロウに向けている。
(この男は、いったい何を言っているのだ?)
 今この墨俣城がどういう状況であるかを知っているなら、そんな冗談を言える余裕などあろうはずがない。なにしろこの城は今、視界を埋め尽くすおびただしい敵兵にすっかり包囲されてしまっているのだから。
 だが、表情を改めたトウキチロウが口にした言葉は、ミルトンの予想のさらに斜め上を行くものだった。


「とりあえずミルトン殿、貴殿にはこの竹中殿と共に墨俣を落ち延び、清洲へ向こうてもらう」


 その瞬間、ミルトンは思わず凝然となった。
 彼はてっきりこの醜貌矮躯の城主が、自分に篭城戦への参戦を依頼してくると思っていたのだ。

 無論ミルトンは自分が万能ではない事を知っている。
 たとえ魔王を打ち倒した英雄としての過去を持っていたとしても、万の軍勢を前にしては、しょせん彼はただひとりの人間でしかないのだ。
 だが、それでも彼が単なる端武者ではなく、たった一人で鉄砲陣の代わりが勤まるほどの戦力を保有している存在だという事は、この城にいる人間ならば誰でも知っている事実だ。
 ならば、この絶望的な情況に際して、城の責任者が自分の協力を求めないはずがない。
――そう思っていたのだ。

 むろん求められたからといって、それに応じるかどうかは別問題だ。
 だがミルトンの中に、決心の踏ん切りがつかぬ以上、これはいい契機になるかもしれないと彼が思っていたのは事実であり、そういう意味では、これ以上ない肩透かし感のようなものがミルトンを包んでいた。 

「どうやら……逃げろと言われた事がよほど意外なようですね」

 美青年が、見透かしたように微笑しながらトウキチロウとミルトンを交互に見る。
「しかし、あなたの立場から言えば、むしろ城から逃げるのは望むところかと思っていましたが」
 その言葉に、さすがにミルトンはムッとする。
 どうやらこの人物は、外見に似合わず、かなり辛辣な口を利く人物であるらしい。
「あんたにオレの何が分かる」
 思わず口を尖らせたミルトンに、ハンベエは表情も変えず答える。
「いまや美濃斎藤家において、神名山に出現した妖術使いの異人を知らない者はおりませんよ。それにわたし自身も、木下殿からもあなたの話は伺っております。織田家に拾われ、命を救われたあなたが、墨俣の守備隊に参加すらせず、ぶらぶらしている理由も」

「ぶらぶら、だと……!?」
 思わず拳を握り締めるミルトンだが、そんな彼を揶揄するように、まったく表情も口調も変えずハンベエは言う。
「ミルトン殿、人間救済のために鍛え上げたその力を、人間相手に行使したくないという貴殿のお気持ちは、しかとお察しいたします」
 しかし――と、ハンベエは微笑する。
「貴殿の祖国“ありあはん”が隣国に攻め寄せられた場合、貴殿はやはり同じことを言うのですか? 人間とは戦えないと言って日和見を決め込み、同胞を見殺しにするおつもりですか」


「竹中殿、そこまでになされい」
 コロクがうんざりしたような顔で振り返るのが見える。
 だが、ミルトンは唇を噛んだまま、何も答えられない。

――そうなのだ、この優男の言う通りなのだ。
 ここがアリアハンであったなら自分はどうしていただろうかという疑問は、これまでも浮かばなかったわけではなかった。だが、そんな前提はしょせん自分にとっては意味を持たない。何故ならここは結局のところ「オワリの国」であって、アリアハンではないのだから。
 しかし、だからといって、それがハンベエの問いに答えない理由にはならない。
(なら……オレはどうすればよかったというんだ……)
 一度開きかけた口を、ミルトンはふたたび閉じる。
 わからない。
 もう何が正義なのか、自分がどうすべきなのか、ミルトンにはわからなかった。



 だから――というのもおかしいが、からりと障子が開き、一人の男が興奮覚めやらぬ表情で入室してきた時、沈黙のミルトンはいまだ言うべき言葉を見つけられずにいた。

「おおっ伝八!! 生きていてくれたか!!」

 トウキチロウが歓声を上げるが、その声を聞いて振り返ったミルトンは、思わず立ち上がり、うめくような声を上げる。
「デンパチ……大丈夫なのかお前ッッ!?」
 確かに、さっきまでの葛藤を忘れて、ミルトンが思わずそう叫んだのも無理はなかった。
 デンパチの全身は、目を背けんばかりの鮮血に彩られていたからだ。
 だが、一見篤実な農民にしか見えない風貌をもつシノビ――霞のデンパチは顔を朱に染めて笑う。
「そんな顔するなよミルトン、こいつは全部返り血だ」
 そう言われてミルトンが安堵の表情を浮かべるのを確認することもなく、デンパチはそこで初めてトウキチロウとコロクに向き直って腰を降ろし、頭を下げる。
「太田伝八、お召しにより推参いたしました」

「情況は!?」
 イラついた声で訊くコロクに、デンパチは表情も変えずに言う。
「敵は軍を三手に分け、一手を本陣の後詰めとして残し、他の二手が現在、大手と搦手(からめて)へ攻撃を仕掛けているようです」
「で?」
「搦手の陣はすでに城門を突破されましたが、現在、二の城郭(くるわ)で稲田殿が御味方を立て直し、そこで支えておられます」
「大手の方は?」
「そっちの城門はまだ破られてはいません。河口隊と松原隊が中心になって防戦されておりますが……」
「が?」
「すべては時間の問題かと」
「…………そう、か」
 呟くようにそう言うと、コロクは痛みをこらえるように唇を噛みしめ、瞑目する。

「で、脱出は出来そうか」
 そう訊いたのはトウキチロウだった。
(おい、部下を見殺しにして手前一人逃げる気かよ)と言わんばかりの表情で、睨むように自分を見上げるデンパチに、からからとトウキチロウは笑った。

「わしやあらへんがな。城から逃げるのは、この二人や」

 そう言われて、こっちに視線を向けたデンパチに他意はなかったはずだった。
 現に、彼の瞳には咎めるような感情は一切宿っていないように見えた。
 だが、ミルトンは自分を見たデンパチの視線に、言いようのない罪悪感とズキリと痛むような胸苦しさを覚えた。
――いや、何よりもミルトンの心を焼き尽くしたのは、ただひたすらな羞恥の一念だった。
(逃げる……オレが、ここから)
(せっかく出来た新しい仲間を――この城の連中を見捨てて)
(かつて“故郷”で世界を救ったオレが、人を見捨てて、おのれの安全のために逃げる!?)
 ミルトンは目を逸らした。
 耐えられなかった。
 羞恥が焼き尽くすように身を包んでいる。
 だが、デンパチの声は冷静だった。

「仰せのままに」

 その声は力強かった。
 あたかも子供を守れと言われて頷く騎士のように、おのれに与えられた命令に誇りさえ抱く者の声だった。
 思わず顔を上げるミルトンに、デンパチは微笑を返す。
――なんて顔してやがる。おまえの立場は分かってっから、胸張れよ。
 そう言われたような気がして、ミルトンは再び顔を伏せた。
 重すぎる後ろめたさに、もはやデンパチの目を見ることなど出来なかったのだ。

「そのことですが、せっかくの申し出は有難いのですが、やはりわたしはここに残ろうと思います」

 そう言ったのは美青年――ハンベエとか名乗った男だった。
 なかば愕然としながらミルトンが振り返る。
 その視線に答えるようにハンベエは、
「なにも先程、寝返り者の身でありながらミルトン殿に偉そうな口を利いたから、というだけの理由ではありませんよ。これはわたしなりに考えた上での結論です」
 と言った。

 そんなハンベエに、トウキチロウも不審げな目を向け、言う。
「しかし竹中殿、それでもあなたは、旧主たる斎藤家の軍とは戦いたくないと申されていたはずですが?」
「ええ、たとえ見限った主だとしても美濃斎藤家を敵に回して戦いたくない――わたしがそう言ったことは明白なる事実です」
 そこで一度言葉を切り、ハンベエは微笑みながら――しかし、と言葉を続けた。

「しかし木下藤吉郎殿は、いま現在わたしが主と見定めた御方です。主君が城を枕に討ち死にしようとしているのに、一人逃げ出す家臣はおらぬでしょう?」

 この妖艶な男の吐いた意外な台詞に、一座は言葉を失ってしまう。
 それはミルトンとて例外ではない。この女のような形のいい口から、こんな骨っぽい言葉が飛び出すなど、実際に耳にしてなければ信じられなかっただろう。
 コロクやデンパチも目を丸くして絶句している。
 だが、当のトウキチロウだけは口元の笑みを消さない。しかも目だけは冷たいままだ。

「何か勘違いなされているようだが竹中殿、そなたの主君は、この藤吉郎ごときではなく、尾張清洲におわします織田信長公にござる。わしがそなたを落ち延びさせようとするのは、あくまでもその智謀を織田家に役立てるためでござるぞ」
「そう言われても、わたしにも主を選ぶ権利はあります。そして、わたしが選んだのは貴殿であって他の何様でもない。ならば、わたしが取るべき行動もおのずと明白でございましょう」
「ならば、わしと共にこれより戦っていただけると?」
「それが主の御下知であるならば」

 まるで一連の芝居を見ているかのような眺めであったが、それでもこのやりとりが茶番でないことは、両者の視線にこもる熱でミルトンにも分かる。
 やがてトウキチロウは豪快に笑い出すと、そのまま端座するハンベエに歩みより、肩を叩く。
 むろん彼が何を言うつもりか、ここまでくればミルトンにも見当は付いた。


「惜しいのう、その言葉を吐いてくれたのが、おぬしと同じ顔の女子であったなら、今すぐにでもここに布団を敷いて服を脱ぐところなんじゃがのう!!」

 
「木下殿……」
 さすがにハンベエも呆れたような声を出すが、その表情に不快さは読み取れない。
 だが、トウキチロウはあくまで筋を通すようだった。
「じゃが竹中――いや、半兵衛どん、そなたを昔の仲間と戦わせる気はないぞ。どちらにしろ今この墨俣に必要なのは軍師ではなく兵士じゃ。じゃからと言って、そなたに槍仕事をさせるには忍びないしのう」

 その言葉に、またもミルトンの胸はずきりと痛む。
 トウキチロウがそう言うのはわかる。確かに事態がここまで及んだ以上、必要とされるのは軍師や策士の類いではなく、強力な実働戦力だ。だがこのハンベエという男は、どう見ても槍一本抱えて敵を蹴散らす戦場の勇者ではない。
 それに、彼がどういう事情でここにいるのかは知らず、少なくとも同郷の者と殺し合うことを喜ぶ人間がいるはずがない。
(だが、オレは違う……)
 自分にとって、少なくとも知己と呼べる存在は、この墨俣の野武士たちだけだ。
 それにミルトンがその気になって戦えば“故郷”に於いてさえ正騎士数十人程度の働きは出来るだろう。仮にも魔王を倒した男なのだ。彼の魔法・剣技を含めた戦闘技術はそれほどに卓抜している。
 いわんや魔法の存在しない「オワリの国」ならば、それこそ一騎当千といえる戦力となり得るはずだ。少なくともこのハンベエ以下ということは在り得ない。

 しかし、それでもミルトンは、いまだ自分の力をこの戦場で振るうことに対する決心が、どうしてもつかなかった――。


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 大手の方から聞こえてくるどよめきに、いっせいに悲鳴と怒号が響いた。
(どうやら大手門が破られたらしいな)
 そう思うと、伝八は溜め息をついた。
 墨俣城もこれまでのようだと見極めをつけたのだ。
「はぐれるなよミルトン」
 そう言いながら振り返るが、伝八の視界に紅毛碧眼の異人然とした男の姿が映ることはない。ただ繋いだ手から、彼の体温が伝わってくるばかりだ。
 それも当然だろう。
 いま現在、兵で埋め尽くされている墨俣城の庭を移動する二人の姿は、ミルトンの透明呪文“レムオル”によって完全に隠されていたからだ。

(しかしまあ、便利な術もあったもんだぜ)
 無論そんな余計なことを考えていられる情況ではないが、忍び者としての伝八の意識はそう思わざるを得ない。いかに気息を整えておのれの気配を殺したところで、物理的に姿を隠せるわけではないのだ。熟練の忍び者といえど、ふとしたはずみに誰に目撃されるか分からない――客観的に言えば、彼らの隠行とは所詮その程度の危ういものでしかない。
 だが、この異人の使う妖術は全く違う。
 風の如く、空気の如く、完全に人間の視界から姿を消してしまえるような術など、忍びからすれば、喉から手が出るほどに欲してやまない究極の理想とさえ言えるだろう。
 

 まあ、それはいい。
 伝八とつないだミルトンの手は冷え切り、その熱は伝わってこない。
 そして何より、武装を身につけ本丸から屋外に出て以来、この「脱出者」は一言も口を利かなかった。
 無理もないだろう。
 たとえ腕一本を頼りに諸国を渡り歩く「流れ忍び」の伝八でも、味方の城の落城など何度経験したところで慣れるものではない。ましてや、隣に並ぶこの男にとっては、もはや本人にすら形容しがたい複雑な感情が、その胸の内を渦巻いているはずだ。

 この墨俣城にいる蜂須賀党の野武士たちの中で、いまやミルトンがこの世ならぬ国から来た理外の存在であることは、もはや知らぬものはいない。
 にもかかわらず彼らはミルトンを受け入れた。たとえそれが首領の蜂須賀小六や、その小六に命令権をもつ織田家の代官・木下藤吉郎の指示であろうとも、とにかく彼らはミルトンを受け入れ、酒や博打や猥談を共に楽しむ仲間として遇した。
 それは伝八とて変わらない。
 蜂須賀党の副将・稲田大炊助の指示でミルトンに喧嘩を売り、そして伝八は、意図的に彼に接近した。
 だが、意図したのはそこまでだ。
 実際知り合ってみればミルトンという人物は、気さくでシャレのわかる、いかにも気のきいた男だった。
 彼の話す冒険譚や経験論、彼の“故郷”との比較文化論、さらには剣技や“魔法”といった戦闘技術などは、個人としても忍者としても伝八の好奇心を刺激するには充分だったし、ミルトンも伝八の話――たいした話はできなかったが――に食い付かんばかりに聞き入ってくれた。
 つまり、奴と仲良くなれ――という命令を忘れるほどに、伝八はミルトンとウマが合ってしまったと言っていい。
 
 だから伝八はミルトンの立場を理解したつもりだった。
 ここにいる異邦の友を戦国乱世の権謀術数に巻き込むまいと伝八なりに考え、戦闘に参加させず城から落ち延びさせよという命令にも、むしろ喜んで従っているとさえ言えるだろう。
 だが、ミルトンの胸の内を想像すれば、その決定を彼が素直に喜んでいるとも思えないし、また、それが当然だとさえ思う。
 彼は戦士なのだ。それも、ただの戦士ではない。一国一城どころか一つの文明圏を丸ごと侵略する悪鬼の王を討ち果たす強者なのだ。
 戦うすべなき女子供ならばともかく、ミルトンほどの男にとって――たとえ自分の主義主張のためとはいえ――仲間を見捨てて不戦を貫くなどといった選択が、どれほど苦渋に満ちたものであったかは想像にかたくない。

 だから伝八は必要以上にミルトンを気遣い、透明化した身でありながら、何かと彼に囁きかけている。
 だが、その声に見えざる連れ合いが応えることは無かった。



 大手門の方向から津波のように美濃兵が雪崩れ込んでくるのが見える。
 蜂須賀党の野武士たちは、圧倒的なまでの兵力差に押し流され、組織的な抗戦もままならず、蜘蛛の子を散らすようにこっちに逃げ戻ってくる。
中には踏み止まって戦おうとする者もいたのだろうが、察するにそういう奴らは最初に殺されたのだろう。それほどまでに彼我の兵力差は圧倒的だった。
 もはや、こうなってしまっては組織的な抵抗など思いもよらない。
 一人、また一人と野武士たちが、迫りくる斎藤軍に飲み込まれ、押し包まれ、まるで咀嚼されるように惨殺されてゆく。

 いかに急ごしらえの「一夜城」といえども――さらには織田家の防御拠点ならぬ出撃拠点たる墨俣城であるといえども、それでも城塞の端くれである以上、一応の防御施設は存在する。
 たとえば城の敷地内は城郭(くるわ)と呼ばれる幾つかの封鎖区画に分かれており、平時には開放されているそれらの大木戸を閉ざせば、侵入軍が一気に城の中央指揮所たる本丸に容易に辿り着けないように設計されている。
 つまり、大手門や裏門を破られ、敵軍の侵入を許したからといって、そうやすやすと落城するものではない。
 だが――ものには限度というものが在る。
 設計思想を度外視した大軍に押し寄せられては、たとえ城郭(くるわ)の備えがいかに堅かろうとも、また守備兵の士気がいかに高かろうとも、どうしようもないものなのだ。
 現に、進軍してくる美濃兵の数や勢いから察して、大手側の一の城郭(くるわ)は、あっさり突破されてしまったに違いなかった。

「退け!! 速やかに退け!!」
 逃げ惑う兵の中にいた物頭(小隊長)とおぼしき男がそう叫ぶのが伝八にも聞こえる。
「キュウ……ッッ!?」
 背後でミルトンがつぶやくのが聞こえる。
 確かにあれは、この城でもミルトンと特に親しくしていた男たちの一人である河口久助に間違いない。たとえ藤吉郎や小六の指示であったとはいえ、彼らとミルトンとを仲立ちしたのは伝八自身なのだ。泥と血で人相も分からぬほどに汚れているが、それでも間違えようが無い。
 が、それはともかく、河口隊の兵たちも、彼の指示に答える余裕さえない。
 当然だろう、追いつかれれば待っているのは確実な死なのだ。
 ここは一度引いて、二の城郭(くるわ)の向こう側にいる味方の野武士と合流しなければ、とうてい戦えるものではない。
 だが、全員が全員、背を向けて遁走しても逃げきれるものではない。誰かが踏み止まって一時的にでも追撃を食い止めなければ、いずれは背後から飛び道具で狙われて殺されるだけだ。

「鉄砲隊、構えッッ!!」
 そして案の定、美濃兵の先陣を指揮する物頭の号令一下、斎藤家の鉄砲隊がその場に膝を着いて種子島を構え、敗走する河口久助の手勢に一斉射を浴びせかける。
 流れ弾を避ける為に、思わずミルトンとともに地面に伏せた伝八だが、空気を震わす銃声の後に、血まみれで地面に転がる野武士たちを見た時、さすがに胸のざわめきをとどめることは出来なかった。
 むろん全滅ではない。
 死にきれず、悲鳴やうめき声をあげながら、のた打ち回る野武士たちも少なからずそこにはいた。だが、美濃兵はそんな彼らを、さしたる感情も見せずに機械的にとどめを刺してゆく。
 指揮官級の兜首ならばともかく、社会的には足軽並みの地位しかない野武士など、美濃兵たちにとっては首級を取る価値さえないのだろう。その骸は置き捨てられ、踏みにじられていく。

「待て!!」
 それを見て血まみれの男が立ち上がる。
 部下には手を出すな、殺すなら俺をやれ――といった無意味な台詞などは、彼は当然吐かない。
 だが、その出血からして、黙って死んだふりをしていれば、あるいは眼前の美濃兵をやりすごせたのではないかと思わせる体を引きずって立ち上がり、鞘から剣を抜いた河口久助の顔に表れていた感情は、見紛うことなき怒りだった。
「よせ河口!!」
 そう叫びそうになるのを伝八は懸命にこらえる。
 せっかくの姿隠しの術を無駄にすることは出来ないし、たとえその声が聞こえたところで、あの血気盛んな男が、部下を虫のように殺されて黙っていられるはずが無いからだ。

「野武士蜂須賀党……河口久助宗成ッッ!!」

 むろん雑魚に目もくれない斎藤軍にとって、おのれの名を名乗るほどの武者は捨てては置けない。そんな彼らが目を付けるとすれば、当然それは雑兵ではなく、その雑兵どもの指揮官であるはずだからだ。
「兜首じゃ――」
「兜首じゃぞ――」
「手柄首じゃ――」
 これが通常の野戦ならば、一騎打ちが始まるところだったろう。
 しかしこの場合の美濃兵は、大手門を破って続々と城内に雪崩れ込もうとしている味方の大軍に、その背中を押されている状態だ。つまり、河口久助たった一人ごときに手間をかける暇はなかった。
 河口は、その血刀をふるうどころか、洪水のような人の群れに飲み込まれ、なすすべないままに殺され、解体され、その首なし死体はゴミ箱に投げ捨てられるように蹴り出された。


「――キュウッッ!!」


 傍らのミルトンが叫んだのが聞こえる。
 何人かの美濃兵が、その声に応じてこちらを振り向いたが、透明化した伝八たちを視界に入れられるはずもなく、何事もなかったかのように眼前を遮る二の城郭(くるわ)に向けて進軍してゆく。
 城方としても当然それを見過ごす気はない。
 二の城郭(くるわ)の大木戸の銃眼から、たちまち迎撃の銃声が響き、大木戸の向こう側から雨のごとく矢が降り注ぎ、そしてひるんだ斎藤軍の前に大木戸が開くや、城兵の一隊が長柄槍を構えて突撃してくる。
 それを指揮する物頭は、ミルトンとも旧知の一人・日比野六太夫だった。
「者ども、かかれいっ!!」

 そして乱戦が始まった。
 

 
「なあ、デンパチ」
 不意に耳元で囁かれ、忍び者らしくもなくビクリと体を震わせる伝八。
 だが、ミルトンは彼の返事を待たない。
 彼は震えるような小声で――しかし、確たる意志を感じさせる声で、言った。

「もう……いいかな」

「何が?」
 とは伝八も訊き返さない。
 この期に及んでミルトンが何を言いたかったか分からないはずがないからだ。
 しかし、だからこそ伝八は逆に問い掛ける。
「本気かミルトン」
 もしここで剣を抜き、魔法を行使して戦うというなら、もはやミルトンは「自由人」の身ではいられなくなる。織田家に属し、織田家のために戦い、織田家のためにその能力を発揮する――いわば「所属者」となることを意味している。
 それでもいいのかと伝八は訊いたのだ。
 だが、ミルトンは言う。
「そもそも間違ってたのはオレなんだよ、デンパチ」
 
 その瞬間、魔法が解かれた。
 今まで空気のごとく透明だった自分たちの姿が、瞬時に現世に出現し、伝八は反射的に光を避けるように目をつぶって頭を巡らせた。
 だがミルトンは、まるで何かに立ち向かうように背筋を伸ばし、胸を張っている。


「オレは今まで、この世界の戦いに身を置くことを避けてきた」
「…………」
「でもオレは最初から知ってるはずだったんだ。生きる――生き抜くってことは、戦うって事と同義だとな」
「…………」
「たった一人で尻尾を丸めて、この世界とオレとは関係ないと言い張ってはいれらないんだ。ここにいる以上、オレの次なる戦場はここなんだ。――そう解釈しなきゃいけないはずだったんだ」
「…………」
「たった今キュウを見殺しにしたオレが言える筋合いじゃないことは分かってる。でも、今ここで肚をくくらなければ、これからずっとオレは人を見殺しにしながら、俯いて生きなきゃならない。それはさすがに御免だ」
「…………」
「今から思えば、ただ踏ん切りがつかなかったってだけで、オレの心は最初から決まってたんだよ。本丸で会ったあの優男も、それを見抜いた上でオレのケツを叩いたに違いねえ」


 そう言って笑ったミルトンは、気合もかけず力みも見せず、振り向きざまに二の城郭(くるわ)に向けて続々と殺到する美濃兵に、紅蓮の炎を発射した。
 火だるまになった美濃兵たちの耳をつんざく悲鳴と同時に――乱戦に沸き立つその場は凍りついた。
 無理もないだろう。
 彼らは見たのだ。
 いつの間にやらそこに立っていた、神名山で二百名近い死傷者を量産したという“妖術使い”が、その腰の剣をゆっくり抜き放つのを。



「我が名はアリアハンのミルトン!! この城を襲う侵入者よ即刻立ち去れ!! さもなければ――今この瞬間より、オレが貴様らの相手だッッ!!」






[26665] 第九話 「越後の聖女」
Name: ジンバブエ◆74606097 ID:d2736d75
Date: 2011/11/04 16:16

「ぐうううっ!! あっ、ああああああああっっ!!!」

 血まみれの負傷兵がうめき声を上げる。
 いや、声だけに留まらない。
 寝返りを打つ体力すらも残っているとは思えないようなその兵が、口から血混じりの泡を吹き、のた打ち回らんばかりに身をよじる。
 しかし結果としては、彼はほとんど微動だにしていない。
 その負傷兵を、彼を取り巻く数人の男たちが取り押さえ、地面に敷かれた莚(むしろ)に無理やり固定していたからだ。

「やっ、やめろっ!! もういいはなせぇぇぇえええ!!!」

 この負傷兵は農村から徴兵された一兵卒ではなく、軍の中でも中隊長格というべき物頭(ものがしら)の武士である。
 物頭は物主(ものぬし)とも呼ばれ、その職務も中隊長格というだけあって、ただ直属の将に応じて指揮を取るだけではない。情況に応じて部隊の先頭に立ち、自らの武勇で配下の兵たちを煽り立て、敵軍に突撃を敢行したりもする。当然それなりの腕も威もなければ勤まらない――そういう立場の男である。
 にもかかわらず、彼は子供のように泣き喚き、髪を振り乱して声をあげている。傍目にも異様な光景であったが、それは逆に言えば、いまこの物頭を襲っている激痛がどれほどのものであるかの証明でもあった。

 ここで行われているのは拷問ではない。
 むしろ逆だ。
 これは“治療”であった。
 その証拠に見るがいい。この物頭の、地獄の苦悶のごとき表情とは対照的に、とめどなく流れ続けていた出血は止まり、見るも無残な傷口は、まるでビデオの巻き戻しを観るように“再生”していく。
 その眺めは、見ようによっては再生前の傷そのものよりも人に目を逸らさせるものであったと言える。なにしろ腹が破れ、そこから腸すらはみ出していた瀕死の傷に、地面にこぼれおちた血液が生き物のように傷に向かってさかのぼり、ピンク色の筋肉や白い皮下脂肪、さらには皮膚までがみるみるうちに元の状態に戻っていくのだ。
 それはまさに、ある種のスプラッタームービーのようだとさえ言えなくもなかった。
 現に、その物頭を押さえ込んでいる男たちも、その隣に寝ている別の負傷兵も、そのおぞましい光景を視界に入れるまいとばかりに懸命に目を逸らしている。

 だが、その奇跡の業を行使する女は、まったく目を逸らすことなく、まるで学者のような冷静さで、不気味に蠢き塞がっていく傷口を観察している。
 むろん彼女は、苦悶の表情を浮かべるこの物頭を、今どれほどの激痛が襲っているか理解している。魔法によって強制的に生命力を与えられた損傷部位が、再生する瞬間にどれほどの苦痛を当人にもたらすのか――彼女はそれを、己が身を以って知っているのだから。
 しかしそれも当然の話だった。
 今ここで横たわる大勢の負傷兵たちと同じく、彼女自身も何度となく戦いの日々の中で負傷を繰り返し、自らの肉体をこれらの治癒魔法によって強制的に修復してきた過去を持つ身だったからだ。




 ここは関東管領・上杉輝虎の関東遠征軍の陣中であり、さらにこの場所には、今朝のいくさ――と言っても「合戦」と呼ぶまでも無い小競り合いだが――で傷を負った者たちが、兵種・身分を問わずに集められ、そこで平等に、彼女から“治療”を受けていた。

 小者・足軽から物頭や使番、さらには一手の隊将・部将クラスの人間までが、地面に敷かれた莚(むしろ)にその身を横たえ、粛然と自分の順番を待っている。
 さらにその順番というのも階級順ではない。負傷の重さや箇所などによって彼女が直々に判断を下し、生命の危険がある患者が何よりも最優先に回され、そうでない者はたとえ一軍の将であったとしても、それが軽傷であるなら彼女は容赦なく後回しにしたからだ。
 つまり、いわゆる救命救急における「トリアージ」と呼ばれる治療順位制度を彼女は実施していたのだ。

 戦国時代というのは周知のとおり下克上の世ではあるが、ある意味では天下泰平の江戸期と比べてもよほど秩序意識の厳しい戦時社会である。そんな彼らが、文句一つ差し挟まず、彼女の“治療”の順番待ちをしている光景は、ある意味異様なものとさえ言えた。
 だが順番を待つ兵士たちにとっては、この時代にそぐわぬ平等主義的集団治療もすでに制度的に確立されたものであるらしく、不平どころか不満そうな顔一つ見せない。
 もっとも彼女の方にも、そんな階級無視の非社会的な行動を認めさせている「政治的背景」があるといえば、ある。たとえば彼女は単なる医療ボランティアでも従軍医師でもなく、軍の総帥たる上杉家当主・上杉輝虎――後の不識庵・謙信――の知遇を得ている一種のVIPだという事実がある。
 だが、無論そんな理由だけで、人は人に従わない。
 この越後兵たちが彼女に従う理由とは――彼女自身の人となりに在るといって過言ではない。

 彼らは魅せられてしまったのだ。
 あくまで人命救助を最優先に考える、この女の情熱に。
 傷を癒し、時には死者さえも蘇生させる、この女の奇跡に。
 それほどの神秘を行使しながら、まるで驕らず尊大にならず、あくまで陽気で洒脱な態度を崩さない彼女の人柄に。

 そして何より、女神を思わせるほどに人間離れした――彼女の美貌に。

 現に、彼女と並んで物頭の手足を固定する男たちも、彼らの周囲で莚(むしろ)に横たわって“治療”の順番を待つ者たちも例外なく、巫女のごとき森厳さを窺わせる彼女の整った横顔に眼を奪われている。
 彼らはみな、そこに女がいればそれだけで集中を欠いてしまうような小僧ではない。彼らはただ、寒中に両手を火にかざすような自然さで、特に意識する事もなく眼前の女性の美貌に眼を吸い寄せられているに過ぎないのだ。

 つまり――彼女の美貌はそれほどまでに卓抜していた。
 白い肌。
 亜麻色の髪。
 高い鼻梁。
 形のいい顎。
 妖艶な唇。
 そして日本人離れした大きな眼には、まるで宝石のように青く輝く瞳が、確かな意志を感じさせる強い光を放っていた。

 もっとも「日本人離れした」と形容しておいてなんだが、つまり彼女は日本人――というより、いわゆるアジア系黄色人種ではない。
 彼女を一瞥しただけだと、カトリック布教を目的に大陸から日本に渡来したという“南蛮人”や“紅毛人”と同じ白人種に見える。細かく言うならイエズス会の中心となったイタリア系より、その白い肌や金髪という彼女の外的特徴は、むしろ北欧系に近いと言うべきかも知れない――が、まあどうでもいい話だろう。彼女はしょせん本物のヨーロッパ人でも何でもないのだから。
 それに、彼ら「本物の宣教師」の行動範囲は西日本がメインであって、現代でさえ“裏日本”と別称される北陸の民である越後兵たちにとっては、噂に聞くだけの遠い存在でしかない。
 だから、上杉家上層部が「キリシタンの魔術」だと領民に説明している彼女の“魔法”を敢えて疑う者など、ほとんどいなかったのだ。


「よし、これでおしまい、もう大丈夫よッッ!!」


 そう言って彼女は、まるでおてんば娘のような大声で物頭の背中をバンと叩き、彼もそこで初めて、自分の負傷が完全に回復――というより、もはや傷の痕跡さえ跡形もなく消失している事実に気付いたようだった。
 そして自分を寝床に押し付けていた男たちから解放されるや、彼はガバッと立ち上がり、その全身に傷一つ無いことを確認するや、興奮覚めやらぬ声で叫ぶ。
「あっ、ありがとうごぜえます!!」
 そんな物頭を見て、うんうんと頷きながら微笑んだ彼女は、次の瞬間にくるりと男たちに振り向き、
「さあ、次いくわよ!!」
 と宣言するや、新たなる負傷兵の傍らにかがみ込んだ。


「しかし、キリシタンの“魔法”っちゅうのは便利じゃのう」
「おう、これほどの不思議の術なぞ、本朝はおろか唐天竺にもありえまいという話だそうじゃ」
「あの“観音様”が我ら上杉の陣中に現れて以来、死人の数は目に見えて減ったそうじゃしのう」
「確か、御屋形様もいくさの傷を直々に治してもろうたと聞くぞ」
「すごいのう……こんな術が使えるようになるんなら、わしもキリシタンに宗旨変えしようかのう」
「いやいやそれがな、噂ではどうやらあの“観音様”の“魔法”は、この国の人間には使えんらしいぞ。あの方が生まれながらに持っておる何かが、わしら日ノ本の民には根本的に欠けておるらしいわ」
「ほう?」
「まあ、わしらと南蛮人とではそういう違いもあるかも知れんのう。ならば堺や九州におるキリシタンの南蛮人どもなら――」
「いや、それもどうやら、奴らではあのお方の御業は再現できぬらしい。なんでも同じキリシタンでも、やつらと“観音様”とでは宗派が違うらしいんじゃ」
「それは……どういうことじゃ?」
「キリシタンはキリシタンであろうが?」
「何を言うかい、御仏の教えにも禅やら法華経やら一向念仏やら色々あるじゃろうが。そういうことじゃ」


 などという周囲の声を聞くとも無く耳に入れながら、自分の存在が越後上杉家の領民に充分受け入れられているという事実を改めて確認しつつ、それでも彼女はホッとしていた。
 そして、さきほどの物頭に代わって新たに自分の“患者”となった足軽の傷を再度確認する。

 腹部に二本の矢を受けたこの足軽は、決して軽傷には見えないが、それでも彼女が治療順位を後回しにしたのは、その矢が二本とも急所を外れているためだ。だが、その傷からは湧き水のようにじくじくと出血が続いており、このままでは間違いなく出血多量で死に至るであろう事も明白だった。
(どういうアプローチをするべきか)
 そう思考する彼女の面貌はすでに一個の医療技術者のそれであり、先程耳にした自分に関する噂話など、すでに脳裡から綺麗サッパリ消失していた。

 確かに矢を引っこ抜き“ベホマ”を使えば話は早い。
 だが――この足軽以前に、すでに彼女が“治療”を施した負傷兵は本日38人目を数えていたが、それでも彼女が“べホマ”を行使したのは、今日はさっきの物頭だけだ。
 それはそうだろう。彼女の魔力とて無限ではない。“ベホマ”のごとき高位呪文を相手構わず連発していては、とうてい身が持たない。
 負傷者の情況によって“ホイミ”や“ベホイミ”などといった治癒魔法のランクを使い分け、さらには鎮痛・止血作用を持つ薬用植物や、傷口の縫合といった金創治療技術なども併用して負傷兵の看護に当たっている。

 とはいえ、「医療」といえばホイミ系治癒魔法や“薬草”という名の万能薬、さらには“賢者の石”などによる肉体再生が常識だった彼女にとっては、真なる意味での医療技術や人体知識など皆無に等しい。
 ある意味、無理もないだろう。
 彼女にとっては、治癒呪文を行使する“僧侶”たちの不在時に重傷を負うという事態は、すなわち「死」を意味するものであったし、逆に言えばそれは“僧侶”たちの回復呪文が、戦時平時を問わず、いかに彼女の“故郷”の生活と密着していたかを物語っている。
 だから彼女は、損傷治癒どころか死者蘇生さえ可能にする奇跡の体現者でありながら、骨折患者に添え木を当てる常識さえ知らなかったという、まことに奇妙極まりない「白衣の天使」であったといえる。
 もっともそれは以前の話であって、現在では当然この世界の医療関係者から、多大なるサジェスチョンを受けている。側近の如く彼女に付き従う屈強な男たちはただの助手や護衛ではなく、その全員が城下町で開業医が勤まるほどの医者でもあったのだ。


 そして彼女は、戦場の余燼が納まりきらぬ陣中で、今日も今日とて彼女は負傷兵の治療に励む。
 誰に命じられたわけでもない。
 あとで報酬を受け取る為でもない。
 戦う者たちの傷を癒す――それが異境の地にたった一人残された彼女にとっての正義であり、真実であり、自己確認のすべであったからだ。
 


 彼女の名はコーラス。
 かつて世界を救った勇者ロトのパーティ――その一翼を担った女だった。




 馬蹄の轟きが響き、真っ黒な軍装に身を包んだ騎馬武者が一騎、この「野戦病院」に駆け込んでくる。
 それを最初に目撃したのは、コーラス率いる「従軍医師団」の一人である奥村弥五兵衛であった。
(なんじゃ?)
 と、弥五兵衛が顔を上げるや、真一文字に口を結ぶ。
 颯爽と馬を下り、いかめしい顔でこちらに向かって歩いてくる侍は、ただの将校ではなく、母衣(ほろ)武者であったからだ。
 母衣衆とは、軍の総大将に直属する親衛隊であり、さらに伝令として部将・隊将・物頭ら作戦指揮官の元に走り、大将の意向を一分の誤謬もなく伝え、忠実にトップの意図通りに作戦を実行させる役割を担う。
 要するに、ただの使い走りではなく、総大将・上杉輝虎の言葉を運ぶ者であるということだ。

「コーラス殿はおられるか!? 御屋形様から至急のお召しである。さっそく拙者と同道願いたい!!」

(こいつは、面倒なことになったな……)
 弥五兵衛はそう思わざるを得ない。
 上杉輝虎は、その剛毅な人格と武略によって越後に於いては「軍神」と誉れも高い神格的権力者である。その言葉は絶対であり、逆らうなど思いもよらない。それは無論コーラスとて例外ではないはずだった。

 が、“患者”を前にした彼女は違う。
 救うべき命を救わぬうちは、たとえ何があろうともこの“観音様”はテコでも動かない。
 現に、さらなる“患者”を診ている彼女は、母衣武者の声が聞こえていないはずはないのだが、にもかかわらず全く顔を上げようともしなかった。
 それは(おいおい……)と、弥五兵衛が心中に突っ込むほど不遜な態度であったが、それでも無視を決め込むつもりはなかったらしく、彼女は叫んだ。

「お使者の方、申し訳ござりませんがワタクシただいま手が離せませぬ!! もう少しだけ時間を下さりませ!!」

 当然、その若き母衣武者は顔をしかめる。
(やれやれ……)
 と思いながら弥五兵衛は、自分の腰にぶら下げた水の入った竹筒をその母衣武者に渡し、
「とりあえずお使者殿、喉がお乾きでござりましょう。これでも飲んで落ち着きくだされ」
 と穏やかに言い、そしてその水で喉を潤す彼に、コーラスの代わりに頭を下げる。
「お使者殿のお怒りは誠ごもっともなれど、我が軍の兵を一人でも多く救おうという“観音様”の御心は、どうか御理解いただけませぬか」
「しかし御屋形様は至急と申されておる。申されておる以上、その方らの言葉に素直に頷くわけにも行かぬ。わしとて子供の使いではないぞ」
「なれど、今朝のいくさが終わってかなり時が経っておりまする。今になって本陣に“観音様”のお力を必要とするような負傷者が出たわけでもござりますまい?」
 そう言われて、途端に母衣武者はむっと口をつぐむ。
「ならば、せめてあの者一人――いま“観音様”が治療を施しているあの者の処置が終わるまで、どうかお待ち願いませぬか」
「……あと、いかほどの間じゃそれは?」
「いやいや、ほんのすぐでございますよ」

(わかってくれたか)
――やれやれ、今日の使者殿は話が分かるお人でよかったわ。
 そう思いながら弥五兵衛は安堵の笑みを浮かべる。
 当然であろう。何とか言いくるめはしたが、もしこの母衣衆が短気な男であったなら、ここで刀を抜かれていても仕方ない事態なのだ。仮にも越後の領民であるならば主君の急の呼び出しに猶予を請うなど、あっていい話ではない。
 だが、ホッとした弥五兵衛に飛んできた言葉は、そんな空気をまるで読まぬものだった。
 

「ヤゴベエ!! 何をべらべらおしゃべりしてるの!! こっちに来てさっさと手伝いなさい!!」


 まるで出来の悪い後輩か弟子を怒鳴りつけるように彼女は叫ぶ。
「…………」
 その言い草に、むしろ母衣武者の方が絶句しているようだが、逆に弥五兵衛は笑いさえ浮かべていた。それは当然苦笑と呼ぶべきものではあったが、それでも奥村弥五兵衛にとって、救命の現場に於ける彼女の言動の理不尽さなど、日常茶飯事に過ぎないからだ。
 いや、肩を竦めて苦笑を浮かべているのは弥五兵衛のみではない。処置を済まされ、莚(むしろ)に横たわる負傷兵たちも、同じく苦笑いしながら意味ありげな視線を弥五兵衛に向ける。
 常に国主・輝虎の傍らに仕える母衣衆ならば知らずとも不思議は無いが、この上杉陣中のナイチンゲールは、その美貌に反してきわめてじゃじゃ馬――というより時として男以上に乱暴な口を叩く女だと、一般兵の間では知らない者はいないからだ。
 もっとも、その悪口雑言には貴顕の驕りの匂いは皆無に近く、当時の武家女には在り得ない江戸の下町娘のごときキップのよさが、美貌を鼻にかけない彼女の気さくな人柄を象徴するものとして、その人気と評判ををさらに高める一助になった事は間違いない。
“観音様”に怒鳴りつけられた兵は決して少なくないが、彼らはいずれもその事実に腹を立てるどころか、他者に自慢するのが常になるほどであった。

 彼らの羨ましげな視線に自尊心を満足させながら――しかし弥五兵衛としてもこの短気な“観音様”に、いつまでも逆らうつもりはない。
「はいはいわかりましたよ、すぐに参りますってばよ」
「ハイは一回!! さっさとそこの酒をこっちに持ってきなさい!!」
 弥五兵衛にそう言うと、彼女は他の“助手”たちにもテキパキと指示を出し始める。
 彼女の眼下に横たわる足軽の腹部には二本の矢が刺さったままであり、その患部には、思わず目を背けさせるほどの異臭漂う血膿さえ沸いていたが、彼女はまるで気にせず、その血膿を口で吸い出し、吐き捨てる。

「ブンシロウ、今からあなたはこの人の腕を固定して! ハンノジョウは足よ! ヒョウマは彼の口に布を噛ませてこっちの矢を持って! ヤゴベエあんたはこっちの矢よ!! 矢を抜いたらすぐに酒で消毒してべホイミで傷を消すわ!!」
「「「押忍(おす)ッッ!!」」」
 牧文四郎、興津半之丞、犬飼兵馬の三人が、忠実な番犬のような表情で彼女の指示に答える。
「せーのでいくわよ! みんな呼吸を合わせてっ!!」



////////////////////

 結局、彼女が母衣衆に伴われて輝虎が本陣代わりに接収し宿舎にしている某寺院に到着したのは、すぐどころか30分近くは経過していた。
 だが、コーラスにとっては、残った負傷兵の中に、今すぐ“魔法”で治療を施さねば致命傷になるであろう者がいないことを確認してからの出発であったため、それでも急ぎに急いだギリギリの時間であったと言える。
 しかし、それでも君主を待たせた事には間違いない。
 彼女が一般兵であったなら死を覚悟したであろうが、そんなコーラスを私室に迎えたのは、豪放磊落に笑うヒゲ面の“越後王”であった。


「相変わらずじゃなコーラス。我が家中でわしを待たせる女なぞ、そちただ一人じゃ」


「いえ、お待たせいたしまして誠に申し訳ございませぬ御屋形様!!」
 と、懸命に頭を下げるコーラスに、
「よいよい気にするな。思わず皮肉を申したが、そちが寸刻を惜しんで我が軍の兵を手当てしてくれておることを知っておれば、小半刻(こはんとき:約三十分)の無聊など何程のこともあるまいよ」
 と、笑みを返し、額を畳にこすりつけて遅参を詫びる彼女に「面を上げよ」と命じる。
 顔を上げたコーラスの視界には、座敷に座ったまま、男臭いという表現そのものの笑いを浮かべながらも手酌で盃に酒を注ぐ、その男がいた。


 越後上杉家当主・上杉弾正小弼輝虎――この年(永禄九年)三十六歳。

 越後守護代・長尾家の分家たる三条長尾家の四男としてこの世に生を受け、十九歳で兄を退けて家督を相続するや、乱れに乱れきった越後をわずか三年で統一し、領民を慰撫して産業を振興し、現代にいたるまで戦国最強の呼び声高き上杉軍団を育て上げた男。
 だが、彼のキャラクターには信長や道三、元就ほどの権謀術数の臭味は無い。
 輝虎を突き動かすエネルギーは天下に対する野心などではなく、むしろ大義名分を重んじる少年のような正義感であるからだ。あくまでも旧権威復興による秩序回復を悲願とし、そのために自身が継いだ「関東管領職」再興のために、京都とは正反対の方角にある関東に勢力を拡大するという――天下に志を持つ者ならば誰もが不可解だと言う筈の戦略を実行するのもそのためだ。
 だが、義を重んじるその高潔な人格と、戦争芸術家のごとき天才的な軍略を形容する異名は「軍神」「聖将」「越後の龍」と枚挙にいとまが無く、その血の熱さは、おのれの宿敵とも言うべき武田信玄が、今川の塩止めにより苦境に陥った時に敢えて越後産の塩を送り、さらに彼の訃報を聞くや、
「我、好敵手を失えり、世にまたこれほどの英雄男子あらんや」
 と涙したほどだ。

――それが彼、上杉輝虎であった。



「実はな、急にそちを呼び出したのは他でもない、是非とも聞かせてやりたい話を耳にしたからじゃ」
「話……でございますか?」
「うむ。さきほど早馬が到着してのう」
 そう言いながら、輝虎は再び盃に酒を注ぎ、言った。



「美濃に忍ばせておる軒猿からの知らせなのじゃが……どうやら、尾張の織田の家中に、そちと同じく“魔法”を使う者がおるらしいわ」



「…………ッッッ」
 目を見開いて絶句するコーラス。
 そんな彼女を見て興味深げに鼻を鳴らすと、輝虎は盃の酒をぐびりと飲み干し、悪戯っぽく笑った。
「詳しく話すと長くなるが、それでも聞きたいか?」




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