紅は―――嫌いだ。
紅の空、紅の水面、そして咲き乱れる無数の紅の椿。どこまでも続く目が痛くなるような紅色の世界。眠るたびに訪れるこの嫌いな色に染まりっぱなしの夢――もはや見慣れてしまうくらいに見続ける同じ夢。いつもと同じように唐突に始まり、いつもと同じように私はその少女を見つめ続ける。
紅
その少女を一言でいうならば、その言葉しか有り得ない。紅色の世界よりもなお赤い着物を身にまとい、赤い手毬をつきながら笑う年端もいかぬような女の子。
紅の世界で唯一の異なる色は、その少女の長い黒髪と―――目も鼻も口もない、なのにそれが「笑っている」とわかる白い頬だけ。
その、顔のない少女の笑顔を、私はただ見つめ続ける。
大嫌いな色の少女が、私は嫌いだ。嫌いで、嫌いで。どうしようもなく嫌いなはずなのに。
私はその子から目を離すことができない。
やがて紅い少女は私に気づく。そして笑いかけながら、顔のない笑顔で私を誘うのだ。
ネエ
差延ばされた手を、私は払おうとする。だがそこでようやっと私は気づくのだ。
ネエ ヨンデ
私の手は どこに ―――
「いつまで寝ているつもりだ。馬鹿者」
幼いころから聞いているというのになかなかに聞きなれることのない、厳しさの混じったハスキーな声が紅色の世界を切り裂いてやってくる。
夢の続きはその声にかき消されたように霧消し、視界に戻った紅以外の色に安堵を覚えながら、私は声の主が手を出す前に無理やり体を起こす。小さいころから自分の弟と私、そして私の姉に厳しかった人の手の速さは、それこそ嫌というほど熟知しているからだ。
「おはようございます。千冬さん」
「目が覚めたのならさっさと顔を洗って身支度をしてこい。何しろ今日からは新学期なのだからな。それと―――」
もうすでに身支度を終えた姿で、私の姉の親友はいつもより厳しめな余所行きの顔のまま微笑んだ。
「今日からは織斑先生と呼べ。篠ノ之箒」
***
公立IS学園―――世界に467機存在する最強の兵器、インフィニット・ストラトスの操縦者を育成するための教育機関であり、世界中のエリートが集うISの最高峰。
そのような場違いな場所にいる自分の滑稽さに、思わず溜息が出る。千冬さんの目の前でやると「辛気臭いからやめろ」と怒られるため控えてはいるのだが、そんな彼女自身もまた私の溜息の元凶であるのが皮肉ではあった。
もっともその千冬さんは今日から私の担任教師になるらしい。昨夜晩酌しながら「秘密にしておけよ?」と言われたので間違いはないだろう。
私としても、見ず知らずの他人よりは多少気心の知れた相手のほうがいい。もっとも、公私の区別はしっかりとつけるべきであろうから、少し寂しい気もするが『千冬さん』という呼び方はここでは封印せねばなるまい。
そう。ここでは、私達は『幼馴染』ではないのだから。
正確に言えば、千冬さんの幼馴染は私の姉であり、私の幼馴染は千冬さんの弟だ。だが、幼い頃は大体4人で一緒だったのだから、私がそう言っても大きな違いではないだろう。
あの頃はまだ両親とも離れ離れになっておらず、破天荒な姉とそれを叱る千冬さんを見て、私たちは無邪気に笑えていたものだ。
私の姉が、「インフィニット・ストラトス」を作り出すまでは。
冗談のような話ではあるが、「IS」は私の姉が作り出したものだ。正確に言うと元々は宇宙開発用のパワードスーツとして開発されていたものに、何の冗談か世界最強の戦闘能力を与えて突然変異させ、今の姿にしてしまったのが―――である。
しかしそれでもISの基幹部分であるコアを作り出すことができるのは世界中で私の姉唯一人であり、実質的に彼女がいないとISの本質的な部分は完全なブラックボックスとなってしまうため、私の姉―――「篠ノ之束」は世界唯一のIS開発者と呼ばれているのだ。
それだけならば私も誇らしい姉を持った妹でいられたのだろうが……
そもそも私がこの学園に入学させられたのも、「IS開発者の妹」という理由で半ば強制的なものだった。個人的には成績のことなども鑑みて故郷の中堅あたりの学校を希望していたのだが、私にそんな自由はなかったらしい。
おかげで私の入学時の成績ときたらひどいものだった。ISは起動こそできるもののその適正値は最低ランク。筆記試験は強制的に叩き込まれた付け焼刃の知識で合格点すれすれ。教官との戦闘試験では千冬さんに徹底的にしごき倒され……何というか、普通に受験していたなら合格したほうが不思議な結果である。真面目にこの学園を目指していた人にしてみれば、それこそコネを使った裏口入学そのものなのだから怨恨の刃で刺されても文句を言える立場ではない。
身内ですら怖気を覚えるような姉の化け物じみた才能の、ほんの一かけらでもあるならこんなこともなかっただろうに。受験前に千冬さんから直々に受けたスパルタ式学習方法を思い出しながら、思わずまた溜息が出た。
…ああ、いかん。何回溜息をつけば気が済むのだ、私は。おそらく、こんな辛気臭い顔をしているのは私くらいのものだろうな。
周りを見渡してみると、おそらく私と同じ新入生なのだろう。皆が皆、一様に晴れ晴れとした表情でこれからの学生生活に胸躍らせているように見える。…いや、わかってはいるのだ。それが普通であるということは。
まあ、「普通」であるならば四六時中政府の監視がつけられ事あるごとに聴取や尋問を受け、両親と離されることもないのだろうけども。
「普通…か」
私自身はほぼ間違いなくその範疇におさまる人間だ。しかし――
「私の周りにはどうしてこうも『普通』からかけ離れた連中ばかりなのだ…」
真新しい生徒手帳の裏面にそっと忍ばせた新聞記事のスクラップ。初めてそれを見たときは思わずわが目を疑ったものだが、思いを馳せれば不意に頬が緩むのがわかる。我ながら、現金なものだ。
『世界で唯一ISを動かせる男性』
センセーショナルな見出しと共に映されていたのは、照れたような表情のなかなかの美少年(酔った千冬さん談)。幼いころの面影を残したまま成長した幼馴染であり、千冬さんの弟―――織斑 一夏。
彼も私と同じくこの学園に入学することとなっている。何しろ世界でただ一人、ISを動かすことのできた男性―――女性のみが動かせたが故にそれまでと在り方すら変えてしまった世界を再び捻じ曲げかねない唯一の楔。
そんなものを無為に放り出しておくわけがなく、一躍時の人となった彼はすぐさまこのIS学園に入学が決められた。世界で唯一のIS専門の教育機関であり、その特殊性ゆえに如何なる国家、企業、団体からの干渉を受けないこの場所は、彼のような存在を守るには最高の場所なのだから。
「しかし、なんという事だ。よもやこんな形でもう一度私達が再会することになるとは…」
ISによって離れ離れになったはずの私達が、今度はISによって再会することになる。きっと、一夏は私のことなど覚えてはいないだろう。ひょっとしたら千冬さんから名前くらいは聞いているのかもしれないが、かれこれ6年も経っているのだ。容姿もすっかり変わっている事だし、判りはすまい。
そうは考えていても、一夏と離れてしまった頃から髪型をずっと変えずにいてしまっているあたり、私の未練がましさも相当なものだ。思わず自嘲とともにため息が出そうなくらいに、
だから最初は、私の幻聴だと思った。
「あれ?ひょっとして箒か?」
いや、だって普通そう思うぞ?都合よく思い出していた時を見計らったかのように、記憶の中よりもずっと低くなってはいるがそれとわかる声が聞こえてきたら。
誰しも最初は自分の耳を疑うだろうし、次は目とついでに頭を疑いたくもなるだろう?
「……い、一夏…か?……ひ、久しいな」
「やっぱ箒かあ!よかった~、知り合いが見つかって。久しぶりだよなあ。てか、よく俺のこと分かったな?」
写真で見るより、ずっと精悍な表情。昔と同じ活発な笑顔。
「こ、ここにお前以外の男子生徒がいるわけないだろう。分かって当然だ」
「あー……そういやそっか。まあ、とにかく箒がいてくれて少し安心したよ。マジでビビりまくりだったからなー」
私よりずっと高くなった背丈。子供のころとは違う、男性的な体躯。
「とにかく、これからまたしばらく一緒だな、箒。よろしく頼むぜ」
「……そうだな。こちらこそ、だ。一夏」
それが、6年ぶりの幼馴染との再会だった。