アールヴェルツェ・ハーストレイト将軍がカレナリアのベネティアナにいたカルヴァン・クグニス将軍を引き連れてヴァンナークに到着し、その時点で通商条約案に対する返答が無かったことを確認したクロノワ・アルジャークは、ついにオルレアンに対して宣戦布告をした。
この時の遠征は親征であり、クロノワが動かした軍は総勢で十四万であった。この十四万を大雑把に分類すると、十万がアルジャーク軍で四万が旧テムサニス軍である。
アルジャーク軍十万は、四人の将によって率いられている。アールヴェルツェの直属部隊が三万で、さらに彼が全軍の実質的な指揮をとっていた。さらにカルヴァンが三万を率い、テムサニス遠征で功績を挙げたイトラとレイシェルの二人はそれぞれ二万を率いて戦列に加わった。
テムサニス領のヴァンナークには後方部隊や予備部隊が六万以上控えており、まさに万全の体制といえた。
この力の入れ具合だけをみれば、クロノワ・アルジャークが本気で遠征を行い武力によってオルレアンを征服しようとしていた、と考えることもできる。しかしこの遠征の顛末を知っている後世の者からしてみれば、それは怪しいと言わざるを得ない。なんというか、この遠征には詐術の臭いがするのだ。
この、後世の歴史家たちが感じる違和感について、順を追って説明していきたいと思う。
アルジャーク帝国から宣戦布告を受けたオルレアンは、すぐさま命令を出して軍を催した。総勢およそ十二万。このうち十万が敵遠征軍と雌雄を決するべく、東の国境線に向かった。
事態が思わぬ方向に動いたのは、この後である。カンタルクが突如としてオルレアンに宣戦布告。カンタルク軍が西の国境を越えてオルレアン領内に侵入し、国境の砦であるルードレン砦を占拠したのである。このルードレン砦を攻略したカンタルク軍先遣部隊はおよそ五万であり、この部隊を率いていたのはマルヴェス・フォン・ソルロバという若い将軍であった。
余談になるが、ルードレン砦は国境の砦だが、国境を守る砦ではない。この砦は小規模なもので、三百名程度しかそこにはいない。よってこの砦のおもな役目は国境線の監視であり、マルヴェス率いるカンタルク軍が迫ったときには、そこにいた兵士たちはさっさと逃げたので両軍ともまったく損害は無かった。
ルードレン砦を占領したマルヴェスはそこで本隊の到着を待った。このカンタルク軍の本隊の先頭を行くのは、ゲゼル・シャフト・カンタルクその人であり、つまりこちらも親征であった。東から侵入したアルジャーク軍にはクロノワ・アルジャークがいるから、もしかしたらゲゼル・シャフトは彼のことを意識していたのかもしれない。
カンタルクの、というよりもゲゼル・シャフトの腹のうちは極めて分りやすい。つまりオルレアンがアルジャークと戦っている隙に、その地をいくらか切り取ってしまおうということである。
オルレアンとアルジャークが正面きって戦えばアルジャークが勝つに決まっている。その時、指をくわえて見ているだけではオルレアン一国を丸ごとアルジャークに取られてしまう。この機会に三国同盟を成立させるという選択肢もあるが、それではアルジャークと事を構えることになってしまう。それは時期尚早、というのがゲゼル・シャフトの考えだった。
ならばオルレアンとアルジャークが凌ぎを削りあっている間に悠々と事を運ぶのが一番よい。やっていることは強盗か火事場の泥棒と変わらないのだが、おこなう主体が国家になると立派な戦略になりえる。
およそ七万の兵を率いてルードレン砦に入ったゲゼル・シャフトは、目の前に広がるオルレアンの大地を見て嗜虐的な胸の高鳴りを覚えた。阻むものが何もないこの大地をさてどれほど切り取ってやろうか、と頭の中で皮算用は進む。乱世の王としてこの時代で輝き歴史に名を残すのだという自負が、今の彼のうちには確かにあった。
しかしこの時すでに、事態は彼の想像を超えたところで推移していた。
カンタルクが宣戦布告しルードレン砦を落としたことを知ると、オルレアンはすぐさまアルジャークに降伏したのである。
使者が携えていたオルレアン国王エラウドの親書をクロノワは一読する。そこにはアルジャーク帝国に降伏する旨と、カンタルク軍を駆逐するための援軍の申し入れが記されていた。
「了解しました。その旨したためた新書を用意しますので、エラウド陛下にお渡ししてください」
クロノワがそういった瞬間、「オルレアンとアルジャークが争い、その隙にカンタルクが暗躍する」という構図は消えてなくなった。代わりに浮かび上がってきたのは、「オルレアン-アルジャーク連合対カンタルク」という新たな極彩色の構図であった。
この辺りが、後の歴史家たちが詐術の臭いを感じる第一の原因であろう。決断と事態の進展が早すぎるのだ。
オルレアンにしてみればアルジャークとカンタルクの二カ国を同時に相手にするなど、まず不可能である。ならば、どちらかにさっさと降伏して共同でもう一方に対処した方が最終的な傷は浅い、と考えることに不思議は無い。
問題は「なぜアルジャークを選んだのか」である。
カンタルクとアルジャークを比較すれば、アルジャークの方が“安全な選択”であるといえるだろう。しかし、だからこそカンタルクの方が高く売り込める、ともいえる。それにカンタルクが提案していた三国同盟の枠組みを使えば、わざわざ降伏する必要もないかもしれない。
にもかかわらず、オルレアンは頭を下げる相手としてアルジャークを選んだ。しかも即決と言っていいほどの早さでそれを決めたのである。
さらに不思議な点がもう一つある。
確かにエラウドの親書には降伏する旨と援軍の要請について記されていた。しかし肝心の降伏の条件について、ほとんど何も記されていないのである。
これを無条件降伏と見るのは、あまりに善意に過ぎるだろう。それはクロノワも重々承知していたはずである。それにもかかわらず、クロノワもまた即決で了解の返事を返した。アールヴェルツェを始めとする周りにいた者たちが、それについて何も言わなかったこともまた不思議である。
以上の点を踏まえて、こんな説を唱える歴史家がいる。
曰く「オルレアンとアルジャークは、一連の流れについてあらかじめ密約を交わしていたのではないか」
オルレアンはカンタルクからかなり圧力を掛けられていた。その圧力から逃れカンタルクの影響力を排除するために、アルジャーク帝国と芝居を打ったのではないか。そんなふうに考える歴史家は少なからずいる。
この説を証明する証拠はまだ見つかっていない。しかしここまでの流れと、そしてこの遠征の結末を知ると、そう疑いたくなるのも分るだろう。
閑話休題。なにはともあれ、オルレアンの大地は激動している。今はその動きを注視するとしよう。
エラウドの親書を受け取り、即席ではあるがオルレアン軍との共同戦線を成立させた遠征軍は、旧テムサニス軍四万を国境付近に残して補給線を確保させると、純粋なアルジャーク軍十万のみでさらに西へ向かった。目指すはカンタルク軍が居座るルードレン砦、ではなくその少し東を流れる大河キュイブールであった。
キュイブール川は長大な大河である。オムージュにある三千メートル級の山を水源に持ち、川幅は最大で二百メートル近くある。水量も豊富で、多くの支流や合流する河川を持ち、その水で大地を潤いしていた。
実際の国境線はともかくとして、オルレアン人の心理的な西の国境といえばこのキュイブールであった。実際、カンタルクとの国境の一部とポルトールとのほとんどはこのキュイブールである。
キュイブール川の水量は豊富だ。深いところでは人の背丈をはるかに越えた水深を持っている。当然この川を歩いて渡るのは、通常不可能である。しかし、この時期はちょうど川の水量が少なくなる時期であった。
「ですが、徒歩で渡るのは不可能でしょう」
川の様子を見てきたイトラ・ヨクテエルが軍議でそう報告する。水量が少なくなっているとはいえ、キュイブールはもともとの水量が多いのだ。
「ですが、水量が半分になれば渡れるのでは?」
そう発言したのはカルヴァン・クグニスであった。イトラは少し考え込んでから、「それならば恐らくは」と答えた。
「しかし、カンタルク軍はわざわざそのような真似をするでしょうか?」
これはレイシェル・クルーディである。キュイブール川の対岸にはすでにアルジャーク軍が展開している。それを認めながらカンタルク軍はわざわざ川の水量を減らすための工事を行うだろうか。
「まさか。我々が減らしてやるのですよ。カンタルク軍のために」
カルヴァンは面白そうな笑みを浮かべてそういった。軍議の席についている者たちは皆不可解そうな顔をするが、彼が説明を始めると次第にその表情は真剣なものになっていった。
「いかがでしょうか、陛下」
最後にアールヴェルツェがクロノワにそう問いかける。アールヴェルツェが特に反論しなかったということは、カルヴァンの策は彼の中で及第点に達しているのだろう。そしてクロノワもまた、その策に欠陥を見つけることは無かった。
「その策でいくことにしましょう。細かい指示はアールヴェルツェが出してください」
「「「「御意」」」」
歴史上稀に見る完勝への策は、こうして採用された。
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アールヴェルツェはイトラとレイシェル、それに魔導士部隊に命じて、キュイブール川の上流で川幅が狭くなっている部分に堤を築くように命じた。今、土属性の魔道具を持つ者たちが中心となって土嚢を作っている。イトラとレイシェルの隷下にあるのは四万で、一人が一つずつ土嚢を作ることになっていた。
その作業の様子をリリーゼ・ラクラシアが手持ち無沙汰に眺めている。周りが忙しく働いているときに自分だけ何もしないというのは、どうにも彼女の性分にあわなかった。いや、落ち着かない理由は恐らくはそれだけではないのだろうが。
「少し落ち着きなさいな。わたしたちの仕事はこの後よ」
そわそわとした様子を見せるリリーゼに、彼女と同じ水属性の魔道具を愛用する女性の魔導士が声を掛けた。彼女はこれまでの旅路の間、なにかとリリーゼの世話を焼いてくれている。変人が多い魔導士部隊においては、稀有な人材といえるだろう。その女性魔導士の言葉にリリーゼは頷くが、やはり居心地の悪さは消えない。
なぜここにリリーゼ・ラクラシアがいるのか、少し説明しなければなるまい。
シラクサでの協議が終わった後、視察団はシラクサ側の代表者をつれて船でヴェンツブルグに向かった。宰相のラシアートやシラクサ側の代表者を交えて、話し合ってきた内容について最後の調整をするためである。この最後の調整が済み、そのあと皇帝たるクロノワの承認を得ればシラクサとの通商条約は発効することになる。
この時ラシアートは帝都オルクスにいたが、クロノワはテムサニス視察のために帝都にはいなかった。そこで最終調整が終わると、フィリオたちは再びヴェンツブルグから船に乗って今度はカルフィスクを目指した。クロノワとシラクサの代表による調印を行い、通商条約を発効させるためである。この時、リリーゼもまた同行していた。
折しもこの時、クロノワはオルレアン遠征に向けて動いていた。フィリオやラシアートが条約の最終調整を行っている間にもアールヴェルツェは兵を揃えて遠征の準備をしており、フィリオとリリーゼがヴェンツブルグから出航したころにはすでにテムサニスに向けて出立していた。
ただ船のほうが足が速かったのか、テムサニスのヴァンナークに着いたのはフィリオたちのほうが早かった。
すでに「共鳴の水鏡」を駆使して連絡を受けていたクロノワは、フィリオがヴァンナークにやって来ても驚きはしなかった。それどころかあらかじめ準備を進めており、到着後わずか一日で通商条約の調印式が開かれ、クロノワとシラクサ代表による調印が行われたのであった。
こうして「シラクサとの間に通商条約を成立させる」という大仕事を終えたフィリオを待っていたのは、テムサニス併合の事後処理とオルレアン遠征への準備という激務であった。帝都オルクスに帰ってしばらくゆっくり、などという彼の甘い計画は音を立てて瓦解していったのである。
当然、リリーゼもこの激務を手伝うことになった。後に彼女はこの時のことを、
「忙しかったけど、モントルム総督府で働いていたときのようで楽しかった」
と振り返っている。
そうこうしているうちに、アールヴェルツェがヴァンナークに到着し、本格的にオルレアン遠征が動き出す。今回は必ず親征すると決めていたクロノワは、残りの膨大な書類仕事をフィリオに押し付けて馬上の人となった。
この時、リリーゼが「水面の魔剣」という優れた魔道具を持っており、またその訓練を欠かしていないことを思い出したクロノワは、彼女を遠征軍の魔導士部隊に誘ったのである。あるいはこの時すでに、彼は今回の遠征で水を使った作戦があると予見していたのかもしれない。
ちなみにフィリオは、
「優秀な部下と職場の潤いを同時に持っていかれた」
と大仰に嘆いていた。
そのようなわけでリリーゼ・ラクラシアは今、アルジャーク軍魔導士部隊の一人としてキュイブール川のほとりにいる。彼女が落ち着かないのは、これが初めての戦場であるという事情も無関係ではあるまい。
戦場とはいえ、実際に敵兵と相対し殺し合いを演じることは無い、とクロノワや魔導士部隊の部隊長からは言われている。当てにされているのは「水面の魔剣」という強力な水属性の魔道具であり、その扱いに慣れた魔導士だ。作戦の概要を説明されたリリーゼも、そのことは理解している。
が、頭で理解していても体はそう簡単にいうことを聞いてはくれない。
(ああ、もう………、落ち着かない………!)
どうにも落ち着かない。しかしやることもない。立ち上がってはウロウロと歩き回り、そしてまた座る。座っても体を揺らしてソワソワしている。
そんなリリーゼの様子を、世話好きな女性魔導士は呆れつつも温かく見守っていた。
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大将軍ウォーゲン・グリフォードを伴い、およそ七万の軍勢を率いてルードレン砦に入ったゲゼル・シャフト・カンタルクは、そこでマルヴェス・フォン・ソルロバ率いる先遣部隊五万と合流し、カンタルク軍の総勢はおよそ十二万となった。
その軍勢を率いて、ゲゼル・シャフトは意気揚々と東進を開始した。オルレアン軍の主力は東から侵入したアルジャーク軍に対処するべく動いているはずで、抵抗を受けたとしてもカンタルク軍の進軍を阻むほどの部隊はこの近くには無いはずであった。しかしキュイブール川に近づいたとき、その対岸にたなびく旗はオルレアンのものではなかったのである。
深紅の下地に漆黒の一角獣(ユニコーン)。それはアルジャークの旗であった。その軍勢はおよそ六~七万といったところか。
「なぜ………、ここにアルジャーク軍が………」
ゲゼル・シャフトの呟きには、二つの意味がある。
一つは距離的な意味である。アルジャーク軍は東の国境から、そしてカンタルク軍は西の国境からオルレアンに侵入した。東西の端から入ったもの同士がこんなにも早く出会うものだろうか。
しかしゲゼル・シャフトはオルレアンの地理的な特徴を失念していたというべきだろう。すなわち、南北に細長いその国の形である。南北に細長いということは、逆に言えば東西に短い。他の国ならばいざ知らず、オルレアンに限れば東西の踏破にそう時間はかからない。
二つ目は戦略的な意味合いである。そしてこちらが主たる心情であったろう。
アルジャークはオルレアンに宣戦布告したのではなかったのか。なぜこんなところでカンタルク軍に対して戦闘陣形を取っているのか。戦うべき相手が違うのではないか。
「ウォーゲンよ、どう思う?」
そういってゲゼル・シャフトは大将軍に意見を求めた。ウォーゲンは太い指で顎を撫でながら少し考えてから、こう答えた。
「なぜアルジャーク軍がここにいるのか、それについては分りかねます。ですが、陛下がアルジャークとことを構えるつもりが無いのでしたら、その旨を伝えるべきかと」
ちょうどクロノワ陛下も親征されていると聞きます、とウォーゲンは付け加えた。
それを聞くと、ゲゼル・シャフトの顔色が変わった。彼はもともと虚栄心や名誉欲が強い。そんな彼にとって、クロノワ・アルジャークが直接率いる軍を撃破する、という軍事的偉業とそれに伴う栄誉は喉から手が出るほどほしいものだった。
見ればアルジャーク軍の数は六~七万。十二万を誇るカンタルク軍は、圧倒的な数的優位にあるといえる。それにここで勝ってアルジャーク軍を撤退させれば、オルレアンは丸ごとカンタルクのものとなる。それは現状で最も大きな軍事的成功であり、また富国強兵をなすための手っ取り早い手段ではないだろうか。
とはいえ、ゲゼル・シャフトはすぐさまアルジャーク軍に攻撃を仕掛けるような真似はしなかった。ともかく使者を立てた。幸いなことにキュイブール川の水量は多くない。使者は馬に乗って川を渡った。
カンタルク軍は知らなかったが、川の水が少なくなっているのはアルジャーク軍の仕業であった。イトラとレイシェルの部隊が作った土嚢四万個を使い、上流で川の水をせき止めているのである。無論完全には程遠い。あちらこちらから水が漏れているし、放っておけば一日程度で溶けて決壊するだろう。しかし一日程度とはいえ、キュイブール川の水量を半減させることに成功していた。もしかしたら、上流の支流ではいきなり水量が増えて驚いているかもしれない。
ゲゼル・シャフトは使者にこう問わせた。
曰く「我が国が宣戦布告をしたのはオルレアンである。なにゆえアルジャーク帝国が我が方に軍を向けるのか」
それに対する答えはこうであった。
曰く「すでにオルレアンはアルジャークに降伏し、貴軍に対する共同戦線の申し出がなされている。我が国はこれを受理しており、すなわちオルレアンに対する宣戦布告は我が国に対するそれと同義である。このままルードレン砦を返還して国に戻るのであればよし。しかしなお軍を進めるというのであれば、我が軍がお相手いたす」
その返答を聞いて、ゲゼル・シャフトは唸った。オルレアンがアルジャークに降伏することは織り込み済みだ。しかし、こうも早い時期に降伏するとは思っていなかった。というよりも、オルレアンはカンタルクが宣戦布告した後すぐに、それこそ一戦する前にアルジャークに降伏したとしか思えない。
「オルレアンの腰抜けどもが………」
自分の予定が狂ってしまったことに、ゲゼル・シャフトは苛立つ。
「陛下、進言いたします」
馬上で爪を噛むゲゼル・シャフトの前に進み出たのは、先遣部隊を率い、今は先鋒を務めるマルヴェス・フォン・ソルロバであった。
曰く。
オルレアンが戦う前に降伏したのであれば、アルジャーク軍は無傷のはずである。にもかかわらず目の前にいるのは六,七万で、これは少なすぎる。思うにアルジャーク軍は足の速い兵のみでここまで来たのであって、時間を置けば敵兵力はさらに増大する。ならば数で勝っている今のうちにこれを退け、戦略的優位を築いておくべきである。
「ふむ………」
マルヴェスの言うことは正しいようにゲゼル・シャフトには聞こえた。特に時間を置けば敵兵力はさらに増大する、というのは確実であろう。アルジャーク軍がどれだけの余力を残しているかそれは定かではないが、少なくともオルレアン軍は丸ごと残っているはずなのだ。
この二軍が連合して立ちはだかれば、カンタルク軍は劣勢に追い込まれるだろう。勝つためにはそれぞれを確固撃破するのが望ましく、アルジャーク軍しかいない今はまさにその好機ではないだろうか。
ゲゼル・シャフトは改めてアルジャーク軍の陣形を見た。
アルジャーク軍は、軍を大きく二つに分けている。同じ規模の部隊を、縦に二つ並べた形だ。一つの部隊につき、およそ三万といったところか。手前、つまりキュイブール川に近いほうの部隊は両翼がある。いや、“両翼”と呼ぶにはあまりにも小規模だろう。目算であるが片方二,三千といったところで、“翼”というよりはどこからか部隊を借りてきたように見える。
(変則的、いや、急きょ編成した、といったところか………)
ゲゼル・シャフトはそれをアルジャーク軍の焦りと判断し、その判断が彼の心を決めた。
「マルヴェスに命じる。五万の兵を率いてキュイブール川を渡り、敵先鋒部隊を撃破せよ」
ゲゼル・シャフトの攻撃命令に、マルヴェスは喜色を浮かべて頭を下げた。
「大将軍、なにか言うことがあるか」
「………水のある戦場じゃ。決して油断せぬよう」
――――水のある戦場には気をつけろ。
これは古来より言われてきたことで、軍を率いる用兵家たちには常識とされることだ。マルヴェスは表向き神妙に聞いていたが、内心では「何を今更」とせせら笑っていた。貴族でもないウォーゲンが大将軍の地位にいることが、彼は気に食わないのである。
マルヴェスが自分の部隊に戻ると、戦況を見るためにゲゼル・シャフトも馬を進めて前に出た。もしアルジャーク軍が先鋒のみならず後ろの部隊も動かすのであれば、カンタルク軍も本隊を動かすつもりである。
一人残ったウォーゲンのそばに、副官のアズリアが馬を寄せる。その手には相変わらず銀色の魔弓があった。
「………大丈夫でしょうか?」
アズリアはアルジャーク軍の布陣に不気味なものを感じている。それを上手く言葉には出来ないが、一つだけ明確な疑問がある。アルジャーク軍の動き方が、これまでと明らかに違うのだ。
用兵の基本は「遊軍をつくらないこと」、そして「数で相手を上回ること」である。これは作戦を立案する者の一般常識と言ってもいい。
しかし今回、アルジャーク軍は遊軍を作り数的劣勢に陥りながらも、戦場をここに定めた。少なくともオルレアン軍と合流すれば数的劣勢を挽回できるのに、である。
アルジャーク軍は何か企んでいるのではないか。アズリアが抱いているその疑問を、上官であるウォーゲンが抱いていないはずがない。
「分らぬ。我々も油断せぬことだ」
ウォーゲンの言葉にアズリアは頷き、白銀の魔弓「|夜空を切り裂く箒星《ミーティア》」を強く握り締めた。
自分の部隊に戻り馬にまたがったマルヴェスは興奮していた。彼は先遣部隊として宣戦布告の後すぐにオルレアン領内に侵入しルードレン砦を制圧したが、それはいわば空き家に上がりこんだようなもので、戦功を上げたとは言い難い。
(しかしアルジャーク軍を撃破してみればどうだ?)
精強と名高いアルジャーク軍である。それを撃破したとなれば、彼の勇名は全土に轟くのではないだろうか。その様子を想像して、マルヴェスは武者震いした。
(そうなればあの老いぼれを蹴落として大将軍になることも夢ではあるまい)
キュイブール川の対岸に整然と陣を構えるアルジャーク軍。それはマルヴェスの目にはもはや戦功のための生贄にしか映らなかった。
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カンタルク軍が動いた。動いた部隊の数は、目算ではあるがおよそ五万。翼を持つ獅子を描いた旗が揺れカンタルク軍が前進するが、しかしその動きは遅い。
ウォーゲンに言われたからではないだろうが、マルヴェスはやはりキュイブール川を警戒していた。アルジャーク軍が罠を仕掛けているとしたら、あの川の中に違いない。そう考えると、川に入るのは躊躇われる。
「川はアルジャーク軍に渡らせればよい」
マルヴェスはそう考えた。すでにわずかではあるが前進して交戦の意思を明示して見せた。「我が軍がお相手いたす」と大見得を切った以上、敵軍は動かないわけには行くまい。敵が川を渡りきったところで戦えばよいのだ。
カンタルク軍が動き、しかしキュイブール川を渡る気配が無いのを見ると、カルヴァンは先陣を切って川に入り敵軍を目指した。彼が指揮するおよそ三万の軍勢がその後を追う。ただ、カルヴァンの部隊の両脇に控えていたそれぞれ三千の部隊は動いていない。この部隊は全て歩兵で構成されており、長槍と盾を持った兵士が一千、弓兵二千で、この部隊が二つあり、合計で六千となっている。
カルヴァンは川の中を進み、ついには対岸に達した。アルジャーク軍が次々と岸に上がってくるのを認めて、マルヴェスは攻撃を命じた。カンタルク軍の動きが加速する。両軍は戦意をみなぎらせて間の距離を瞬く間に詰めていく。
マルヴェスは敵軍の側面を突くことはせず、最短距離である真正面からぶつかった。数の優位を全面にだして押し込めるつもりであった。
ついに両軍が激突する。当初アルジャーク軍のほうが勢いで勝り、カンタルク軍はそれを受け止めるために停止とわずかな後退を余儀なくされたが、数的優位を生かしてすぐに踏みとどまって戦況を五分に戻した。
カルヴァンは自分の周りを精強と名高いアルジャーク兵の中でもさらに選りすぐりの精鋭たちで固めている。自軍の足が止まったことを認めると、カルヴァンは自分の周りを固めているそれらの兵士たちに、
「驚け、怯えろ」
と命令した。
たちまち、深紅の下地に漆黒の一角獣(ユニコーン)を描いたアルジャークの旗数十本が一斉に乱れた。それは見ている者に分りやすくアルジャーク軍の劣勢を印象付ける。そしてその印象を最も強く受けたのは、相対するカンタルク軍を率いるマルヴェスだった。
趨勢の天秤は徐々にカンタルク軍に傾いていく。アルジャーク軍は隊列を乱されて防戦一方となり、少しずつキュイブール川の中に押し戻されていった。
「精強を誇るといえどこの程度か!」
カンタルク軍を率いるマルヴェスは興奮のままに吼えた。アルジャーク軍の精強さはエルヴィヨン大陸中、特にその東半分では良く知られている。ただ、カンタルクはアルジャークとこの戦いを除けばおよそ百年間は交戦したことが無く、ただ噂話としてその精強さを知っているだけだ。
噂話というのは尾ひれがつきやすい。そのことはマルヴェスも承知している。最近はアルジャークの遠征活動が盛んだったため武勇の噂は彼も良く耳にしていたが、五割は差っ引いて聞くようにしていた。
が、こうして実際に相対してみると、どうやら五割では足りなかったようである。目の前のアルジャーク軍は、マルヴェスが思っていたよりも随分と脆く弱い。川の中に押し戻されたアルジャーク軍はすでに対岸に向かって退き始めており、そのせいでカンタルク軍との間に距離が開き始めている。
「逃がすな!追え!!」
優勢に立ったことで気を良くしたマルヴェスは、自分の指揮する全部隊を使ってアルジャーク軍に追撃を仕掛る。優勢と信じて疑わないカンタルク軍の兵士たちは次々と川の中に入ってアルジャーク軍を追う。しかし川の中では淵をさけて移動しなければいけないため、自然と隊列が横に広がっていく。そのせいで追撃の圧力は弱まり、効果的な攻撃はできていない。
それでもカンタルク軍優勢は変わらない。ついにアルジャーク軍はキュイブール川から追い出され、全軍が川岸に上がってしまった。それでもカンタルク軍の勢いは止まらず、その先頭は川を横断して岸に上がり、さらに敵軍を追い回す。
「苦戦しておりますな」
戦況を後ろから眺めながら、アールヴェルツェが呟く。しかしその口調からは焦りは感じられず、むしろ苦笑しているかのようだった。
「ええ、カルヴァンは上手い」
味方が劣勢であるはずの戦況にもかかわらず、クロノワの声にも焦りは感じられない。それもそうだろう。全ては織り込み済みの行動だ。良く見てみれば、追われているはずのアルジャーク軍にほとんど戦死者が出ていないのが分る。
そして、カンタルク軍が半分近く岸に上がりその最後尾がキュイブール川の真ん中辺りに来たところで、ついにカルヴァンは動いた。手に持っていた槍を天に向かって突き上げたのである。
「狼煙を上げろ!」
その合図を認めたアールヴェルツェが鋭く命令を発する。赤い狼煙が、空に向かって立ち上った。
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赤い煙が一筋、空に向かって昇っていく。その合図を見た瞬間、キュイブール川の上流で待機していた魔導士部隊に緊張がさざなみのように広がった。いやそれを見た瞬間に緊張を感じたのは、もしかしたらリリーゼだけだったのかもしれない。
なんにせよ、その合図を確認したことである種覚悟が決まったのは確かだ。先ほどまでの落ち着かない居心地の悪さは消えてなくなり、背中に鋼の支柱が差し込まれたかのように背筋が伸びた。
「いい顔ね」
ずっとそばにいてくれた世話好きな女性魔導士がそう言ってくれる。その言葉にリリーゼは無言で頷き、鞘に収めてある「水面の魔剣」を抜いた。その魔剣の刀身は相変わらず美しい。魔力を込めることで波紋が広がるような輝きを見せるその刀身は、今は主の心を表現するかのように美しくも力強い光を放っていた。
あらかじめ定められていた所定の位置につく。リリーゼは一つ大きく息を吐くと意識を集中して研ぎ澄まし、「水面の魔剣」に徐々に魔力を込めていく。彼女の周りでは、同じように魔道具に魔力を込める魔導士が数多く見受けられた。
川辺に立っている魔導士の手には、リリーゼと同じ水属性の魔道具がある。急造した堤防の辺りには土属性の魔道具を持つ者たちが多く集まっている。
「銅鑼三回目に合わせろ!!」
イトラ・ヨクテエル将軍の声が響く。将軍の横には銅鑼を構えた兵士が立っていた。
――――ドガラァァアアアンン!!
低くて鈍い金属音が響く。リリーゼは目をつぶりその銅鑼の音に全神経を集中させ、それと同時に「水面の魔剣」に込める魔力を増やしていく。
――――ドガラァァアアアンン!!
二度目の銅鑼の音が響く。「水面の魔剣」に全力で魔力を込める。魔剣が強い光を放っているのか、目を閉じているはずなのに視界が蒼く輝いている。リリーゼはそのままキュイブールの水に意識を向け、可能な限り多くの水を掌握していく。そして………。
――――ドガラァァアアアンン!!
そして三度目の銅鑼の音。その音が響いた瞬間、リリーゼは目を見開いた。
「いいいぃぃぃぃっけぇぇぇぇぇ!!!」
その瞬間、複数のことが同時に起こった。まず土属性の魔道具を持っている魔導士達が中心になって、土嚢を積み上げて作られた堤防を決壊させた。そして水属性魔道具を持っている魔導士達がその堤防によって溜められていた水を、魔道具の力を使って一気に下流に流したのである。
水属性の魔道具は水が無ければ役に立たない代わりに、水さえあれば大きな効果を比較的容易に得られる。これこそが「水がある戦場には気をつけろ」と古来より言わしめてきた理由である。
今、リリーゼの目の前にはキュイブール川が満々と水を湛えている。彼女は手にした「水面の魔剣」に全力で魔力を込めながら、なるべく多くの水を下流へ下流へと流す。流された水は崩された土嚢の土を巻き込み、濁流となって川を猛然と下り始めた。
「つっ!」
そして限界が訪れる。もうこれ以上魔力を込め続けることができなくなり、リリーゼは水を操ることをやめた。魔力の供給が途切れた魔剣はその輝きを弱め、リリーゼ本人も体を折り曲げて肩で息をしている。
しかし、それに見合う成果は挙げた。先ほどまで満々と水を湛えていたキュイブール川は、今は劇的に水量を減らしている。徒歩で歩いて渡ることは出来なくもないだろうが、しかし随分と危険なように思えた。それにこうしている間も、減った水量は徐々に回復している。
「お疲れさま」
こちらはまだ余裕を残している女性魔導士がリリーゼの肩に手を置く。その一言でリリーゼの中に達成感が生まれ、そしてそれは徐々に体中に広がっていく。自然と、笑顔になる。
「はい、お疲れさまでした」
これで魔導士部隊の仕事は終わりだ。よほど戦況が不利になれば、今度は前線での仕事があるのかもしれないが、この作戦が上手くいけばそのようなことはあるまい。
「後は将軍たちに任せましょう」
そういう女性魔導士の視線の先では対岸でイトラとレイシェルの両将軍が出撃の準備を整えている。
戦局は最終局面へと転がっていく。
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アルジャーク軍の本陣と思しき場所から赤い狼煙が上がったとき、ウォーゲンは背中に氷刃を差し込まれたかのような錯覚を覚えた。殴られたわけでもないのに、内臓が重く痛みさえ訴えている。その全てを無視して、ウォーゲンは叫んだ。
「早く川から出ろ!!」
今から引き返しても間に合わない。ならば先鋒部隊全てを一秒でも早く対岸に上げてしまうしかない。そのためならば隊列が乱れてしまってもいい。しかし、その命令が実現されることは無かった。
――――ドドドドドド………!
低い地響きが戦場にこだまする。その地響きは徐々に大きくなっていく。その音に負けないよう、ウォーゲンは馬を走らせて前に出て声の限り川から出るように叫んだ。
しかし、彼の努力は報われなかった。キュイブール川の上流から濁流が凄まじい勢いで流れてきて、川を渡りきれずにいたマルヴェス率いるカンタルク軍先鋒部隊のおよそ後方半分を流し去ったのである。
つい先ほどまでそこにいた仲間が濁流に飲まれて流されるのを見て唖然としているカンタルク軍を尻目に、アルジャーク軍は素早く反転して敵軍を川辺に追い詰めていく。さらにこれまで動いていなかった二つの部隊も動いてその包囲を堅固なものにする。たちまち、カンタルク軍は川辺に半包囲された。
半包囲と言っても後ろは水かさが一気に増したキュイブール川である。事実上、退路は断たれている。カンタルク軍を半包囲したアルジャーク軍は近矢を射、また遠矢を射、射すくめつつその包囲網を狭めていく。
マルヴェスは必死に戦線を維持しようとしたが、このときすでに事態は彼の統率力を超えていた。周りにいる数百名を別にすれば、もはや誰も彼の命令を聞いてはいなかった。この時指揮していたのはウォーゲンであれば、と考えるのは後世の歴史家の悪い癖なのかもしれない。
カンタルク軍の多くの兵が浮き足立ち逃げようとした。敵兵がいない場所は後ろしかない。その後ろとは水かさの増したキュイブール川であり、とてもではないが徒歩で渡れる状態ではない。川に最も近い位置にいたカンタルク軍の兵士たちは川に入ることを躊躇ったが、後ろからやってくる味方に押され、押し倒され、踏みつけられてへい死するものが続出した。川の中に突き落とされて溺死した者も多い。
そうやって味方の死体を踏みつけて川に入ろうとした者のうちいくらかは、後ろからアルジャークの弓兵に射られて川の中で倒れ流されていく。攻撃をまぬがれて川に入った者たちも、その多くは流され溺死した。運よく対岸まで泳ぎきることが出来たのは、本当に少数だった。
実際アルジャーク軍に殺された兵士よりも、踏まれてへい死した兵士や川で溺れた兵士のほうが多かった。
マルヴェスの最後はひどくあっけない。乗っていた馬に矢が当たり振り落とされたマルヴェスは立ち上がる前に槍で滅多ざしにされて死んだ。
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ゲゼル・シャフト・カンタルクは、目の前で起きていることが現実だと認められずにいた。
つい先ほどまで優勢だったのだ。川を渡ってきたアルジャーク軍を、先鋒部隊は逆に押し返し対岸まで攻め立てた。圧倒的優勢だった、といえるだろう。
しかし、あの濁流が全てを一転させた。先鋒部隊のおよそ半分を流し去ったあの濁流は、同時にカンタルク軍の勝利も流し去ってしまった。
渡ることのできない川辺に押し込まれた後は、一方的な展開だった。ゲゼル・シャフトが放心している間にも、カンタルク軍の兵士たちは次々に倒れていく。敵軍から逃れるために川に飛び込んだ者たちのうち、果たしてどれだけ生き残れたであろうか。
気がつけば、カンタルク軍先鋒は壊滅していた。いや、“壊滅”という言葉ですら生ぬるい。“全滅” してしまった、というべきであろう。少なくとも対岸でアルジャーク軍と交戦しているカンタルク兵はもはや一人もいない。
五万の兵が、消えていなくなったのである。
対岸で武器を掲げて歓声をあげるアルジャーク軍を、ゲゼル・シャフトは血の気の引いた青白い顔で呆然と眺めた。目に入るもの、耳に入ってくるもの全てが希薄で、現実感が薄い。まるで夢(間違いなく悪夢であろうが)を見ているようだった。
「アルジャーク軍襲来!!」
悲鳴にも似たその報告で、ゲゼル・シャフトはここがまだ戦場であることを思い知らされた。
しかし、アルジャーク軍はどこから来るというのか。キュイブール川は増水してとてもではないが渡れるものではない。
その答えはすぐに現れた。キュイブール川の上流から、アルジャークの旗を掲げる軍勢が猛然と近づいてきたのである。
その軍勢を見た瞬間、ゲゼル・シャフトは馬首を翻して走り出した。
「陛下!」
「ふ、防げ!」
途中、声を掛けてきたウォーゲンに短くそう命じ、ゲゼル・シャフトはルードレン砦に向かって遁走した。およそ一万の兵が、軍旗と隊列を乱しながらその後に従う。
「浮き足立つな!!」
戦場に取り残され動揺する兵士たちを、ウォーゲンは一喝した。ざわついていた兵士たちが、その一言で静かになる。
「急いで逃げれば敵も急いで追う。隊列を整えて隙を見せるな。それからゆっくりと引くのじゃ」
ウォーゲンはそういって浮き足立ち混乱していた兵士たちに明確な指示を与えた。その指示に従うことで、カンタルク軍およそ六万は統率を取り戻していく。
その様子は、急襲したアルジャーク軍からも見えていた。
「混乱に乗ずるつもりだったが、アテが外れたな」
「ああ。ウォーゲン・グリフォード大将軍だな。優れた将というのは、どの国にも一人はいるものらしい」
二万ずつ、合計四万の兵を率いるイトラとレイシェルの二人は、馬を疾駆させながら馬上でそう言葉を交わした。
カンタルク軍に隙は見当たらず、態勢を立て直された以上急襲は失敗したといえる。このまま数に劣る状態で攻めかかっても、守りに入ったカンタルク軍を効果的に攻撃することはできず、むしろ跳ね返されてこちらの損害が増えるばかりであろう。そうなればせっかくの完勝に水をさすことになる。
実際、二人はじりじりと後退するカンタルク軍に追撃を加えることはしなかった。それは当初の予定が崩れたからでもあったが、恐らくはそれ以上にウォーゲン・グリフォードへの敬意を表した結果だろう。
一方、ゲゼル・シャフトは馬を走らせルードレン砦に逃げ込んだが、その砦が彼に安心感を与えることは無かった。
ルードレン砦は小さな砦だ。それは国境を守るための拠点ではなく、見張るための砦であり、いうなれば物見小屋でしかない。オルレアン人の心理的な国境線はキュイブール川であり、国防もこの川を中心にして考えられている。そのためこの砦は堅牢な城壁など備えていないのである。
「我が身を守るためにはカンタルクに帰るしかない」
ゲゼル・シャフトがその結論に達するのに、そう時間はかからなかった。しかし後ろからはアルジャーク軍が迫ってくる。彼らに対してなんの備えもしないで背中を見せることに、ゲゼル・シャフトはいい様のない恐怖を感じた。
「五千の兵を率いてルードレン砦に残りアルジャーク軍を防げ」
六万の軍勢と共に砦に帰還したウォーゲン・グリフォード大将軍にゲゼル・シャフトはそう命じた。殿、それも生き残れる可能性が極めて低い「死に残り」であることは誰の目にも明らかであった。顔を青くして絶句する副官たちを尻目に、しかしウォーゲンはその命令を淡々と承諾した。
「閣下………」
「勅命には従わねばならぬ。それが軍人というものじゃ」
国家の“武”を体現する軍人たちが王の命令に従わなくなれば、ただそれだけで国は崩壊する。ましてやウォーゲンは大将軍である。彼は戦場にいる全ての兵士たちの規範とならねばならない存在であった。
「モイジュよ」
「ここに」
ウォーゲンの副官の一人であり、名前を呼ばれたモイジュ・フォン・ハルゲンドは一歩前に進み出た。
「お主はゲゼル・シャフト陛下の御側に控え、陛下をお助けせよ」
「それは………!」
それはこの砦を離れて生き残れ、と言われたに等しい。しかしここで喜色を浮かべられるほど、モイジュは恥知らずにはなれなかった。
「私もここに!」
「命令じゃ!」
残る、とモイジュがいう前にウォーゲンが一喝した。それから彼は厳しい相好を崩してモイジュの肩に手を置いた。
「話は儂の方で通しておく。期待しておるぞ」
「………微力を、尽くさせていただきます………」
その答えに、ウォーゲンは満足したように頷いた。
その夜、夜陰に紛れるようにしてゲゼル・シャフトはルードレン砦を発ち、その進路を西に取った。彼に従うのは六万五千のカンタルク軍だ。当初十二万を誇っていた軍勢の半分程度しかいないことになる。惨敗して逃げ帰った、と言っていいだろう。夜陰に紛れて進まなければいけない惨めさが、ゲゼル・シャフトの誇りを傷つける。
さらに追い討ちを掛けるように次々と兵が夜陰の向こうへ逃げていった。勝手に故郷を帰ってしまったのである。夜ごとに隊列を離れて逃げ出す兵の数は増え、最終的に六万五千の兵のうち、カンタルク王都フレイスブルグまでゲゼル・シャフトに従ったのはたったの三万のみであった。自国民にまで見限られたようなもので、惨めを通り越して哀れですらあった。
明かりも付けずに夜陰に紛れていくゲゼル・シャフトと軍勢を見送ったウォーゲンは、後ろに控えている二人の副官に、
「すまんな」
と短く謝った。
「閣下とご一緒ならば、地獄の底までもお供いたします」
「もとより、カンタルクで私の居場所は閣下の御側しかありません」
ウィクリフ・フォン・ハバナとアズリア・クリークの二人は悲壮感を微塵も見せずにそういった。
士気が高いのはこの二人だけではない。砦に死に残った五千の兵全てが、悲壮感を見せずむしろ誇りすら感じているようであった。
「大将軍と共に死のう」
兵士たちは口々にそう言い合っていた。その刹那的な感情が良いものなのかはさておき、死に残ったこの五千の兵士たちの士気の高さは、ゲゼル・シャフトと共に砦を離れた兵士たちの士気の低さと対照的であった。
次の日の正午前、ついにアルジャーク軍はルードレン砦に迫った。その砦にまだカンタルク軍がいることを知ると、クロノワはすぐさま攻撃を命じた。
「我が方有利、ですな」
「そうですね」
クロノワは昨日のキュイブール川での戦いと同じように後ろから戦況を見守っている。ただ彼の護衛をしているのは、アールヴェルツェではなくカルヴァンだった。アールヴェルツェはイトラとレイシェルの二人の将を従え、合計で七万の兵を率いて今ルードレン砦に猛攻を仕掛けている。
戦況は終始アルジャーク軍優位だが、カレナリア軍に目を引くものが一つだけあった。断続的に砦から放たれる、魔道具と思しき強力な一撃である。
「確かに強力ですが、あまり意味は無いでしょう」
大軍を相手にするには魔道具の数が、あるいはその攻撃範囲が足りない。当たって一人二人死ぬだけならば普通の弓矢と大差は無く、これではただ目立つだけの攻撃である、とカルヴァンは冷静に判断を下した。
彼のその判断は正しいのだろう。その一撃は一射ごとに轟音と土煙を立てているが、趨勢の傾きを止めることは出来ていない。
しかし、クロノワの感想は少し違う。
(似ている………)
彼はそう思っていた。何と似ているかといえば、彼が友人であるイストからもらった魔道具である「雷神の槌《トール・ハンマー》」の一撃に良く似ているのである。
あの時彼は「雷神の槌《トール・ハンマー》」について、「ある魔道具の簡易版だ」と言っていた。その基になった魔道具を持っているものが、あの砦にいるのだろうか。
「味方が砦の内部に侵入したようです」
カルヴァンのその言葉で、クロノワは意識を目の前の戦場に引き戻した。見れば砦から放たれる矢がめっきり減っている。もうしばらくすれば完全にやむだろう。強力なあの一撃も、すでに放たれなくなっていた。
「私たちも行くとしましょう」
砦から放たれる矢が完全にやんだのを見計らってクロノワは前進を命じた。ルードレン砦に近づくと、その門のところにアールヴェルツェがいた。どうやらここで内部の制圧状況について報告を聞き、随時指示を出しているようだ。
「陛下」
クロノワに気づいたアールヴェルツェが馬を寄せてくる。
「状況はどうですか?」
「小一時間もあれば完全に制圧できると思います。ただ、居残った敵兵たちの士気が予想外に高く、局地的には攻めあぐねている部分もあるようです」
アールヴェルツェの言葉にクロノワは頷いた。カンタルク軍の士気が思いのほか高いことは、先ほどまでの観戦でも良く分る。よほど兵に慕われている将が殿として残ったのだろう。
「捕らえさせますか?」
その将を、ということだろう。確かに話をしてみたい気はするが、追い詰められた手負いの獣を捕らえるというのは難しい。
「いえ、無理に捕らえる必要はありません」
首を振りながらクロノワはそう答えた。自軍の兵士たちに損害を出してまで捕らえたいとは思わない。アールヴェルツェは頷き特に命令を出すことはしなかったが、それから少しして思いがけない報告がもたらされた。
「報告します!敵将ウォーゲン・グリフォードを捕らえました!」
その報告はクロノワに二重の驚きをもたらした。まず敵将を捕らえられたということ、そしてその敵将がかの大将軍ウォーゲン・グリフォードであったことだ。思いがけず名将の名前が出たが、アールヴェルツェはどこか納得したような様子を見せていた。
「それで、大将軍はいまどこに?」
聞けば、浅からぬ傷を負ったウォーゲンは、アルジャーク軍が確保した一室でその傷の手当てを受けているという。
報告に来たその兵士に案内をさせ、十数人ほどの護衛を引き連れたクロノワはウォーゲンのもとに向かった。
部屋の中に入ると、ウォーゲンはまだ手当ての途中であった。随分と深手を負ったらしく、巻かれた白い包帯にすでに血が滲み始めている。クロノワに気づいた彼は、手当ての途中にも関わらず椅子から立ち上がり、床に膝をつき頭をたれた。
「クロノワ・アルジャーク陛下とお見受けします」
「はい。確かに私がクロノワです」
それを聞くと、ウォーゲンはなお一層深く頭をたれた。彼がさらに何か言う前に、クロノワが口を開いた。
「砦内のカンタルク兵たちに降伏を呼びかけてはもらえませんか?」
「………すでに降伏はやむなきこと。ですがこの戦の責任は全てこのウォーゲンにありまする。事はこの首一つで収め、どうか降伏した兵たちには寛大なご処置を………!」
自分の首で降伏した兵たちを救おうというのである。もしかしたらこれを見越して、彼は自害しなかったのかもしれない。ウォーゲンのその言葉には力があり、それでいて配下の兵士たちへの愛情に溢れている。どことなくアレクセイに近いものを、クロノワは感じた。
「武器を捨て降伏した兵士全ての命を保障します。もちろん貴方も」
死ぬに及ばず、とクロノワは言ったのである。最後の一言は、もしかしたらアレクセイを死なせてしまった後悔が言わせたのかもしれない。
クロノワはウォーゲンを立たせるともとの椅子に座らせ、手当ての続きを受けさせた。それから兵士たちに彼を丁重に扱うよう命じてから、その部屋を出た。
部屋を出ると、クロノワは「ウォーゲン・グリフォード大将軍は降伏した」と砦のあちこちで呼ばわらせた。同時に大将軍は生きていること、投降する全てのものの命を保障することを告げる。この呼びかけは効果的で、砦のあちこちに立てこもっていたカンタルク兵たちは次々に投降した。
戦況も収束へ向かい一安心と思っていたクロノワの目に、一人の敵女性仕官が連れて行かれるのが映った。まだ若く、クロノワと同じくらいの年齢だろうか。両腕を拘束されているにもかかわらず黒くて長い髪を乱して抵抗を続けており、目は敵意と憎悪で燃えているように見えた。
「何ごとですか?」
「殺せ!」
クロノワのことをアルジャーク軍の将官と勘違いしたのか、連れて来られた女性仕官はそう吼えた。
「どうやら、魔導士のようでして………」
恐らく、あの強力な一撃を放っていたのは彼女だったのだろう。兵の一人が彼女が使っていたという、魔弓と思しき白銀の弓をクロノワに見せた。
「これは………!」
その弓を見たとき、思わず驚きの声が漏れた。クロノワはその魔弓に既視感があったのだ。いや、既視感というのはおかしい。クロノワがこの白銀の魔弓を見るのは間違いなく初めてだからだ。だがクロノワは間違いなくこの魔弓を知っている。より正確には、この魔道具を作った職人を知っている。
「ああ、まったく。君は本当に………」
ここにはいない友人が得意げに笑う様子を想像し、クロノワは楽しげな苦笑を浮かべる。どうも“縁”というやつは奇妙なところで繋がっているらしい。
面白そうに笑うクロノワに、事情がつかめていない兵士たちは怪訝な表情を見せる。拘束されている女性仕官も、毒気を抜かれてしまった様子だ。
「お名前をお聞きしても?」
「………アズリア・クリークだ」
思いのほか素直に答えてくれて、クロノワは満足そうに頷いた。
「ではアズリアさん、実はウォーゲン大将軍が負傷されて看病が必要です。お願いしてもいいですか?」
その言葉を聞くと、アズリアの表情が明るくなった。ウォーゲンが生きていることは叫ばせていたのだが、もしかしたら信じていなかったのかもしれない。
「………分りました」
「では、彼女を案内してあげてください」
アズリアの腕をつかんで拘束している兵士たちにそう命じる。兵士たちは真意を量りかねる様子であったが、それでも「かしこまりました」とクロノワに応じ、アズリアの拘束を解いた。
「ああ、それと」
二歩ほど歩いたところで、何かを思い出したようにクロノワは振り返ってアズリアのほうを見た。
「この魔弓は私が預かっておきます。いずれ、お返しできる日が来るのを待っていますよ」
そう笑いかけられて、アズリアは本当にわけが分らないといった顔をした。そんな彼女の表情を見て、クロノワはやはり面白そうに笑う。
なんとなく、いい気分だった。