日課である日記を書くのもほどほどにして、金髪の愛らしい少女がベッドに沈む。その目には今にも溢れそうな涙が光っているが、それを流さないように少女は健気に天井を見つめて堪えていた。
――自分を信じられない。信じようがない。何故なら刻まれた記憶を実感出来ないから。
本当に自分はフェイト・テスタロッサなのか。誰にも相談せず、今もこの胸で騒ぎ続ける疑問。まだ『生まれたばかり』の少女、フェイトは、辛いことや悲しいことがあると、ベッドに座り膝を抱き抱えて、言えない悩みに葛藤してしまう。
記憶が正しければ、フェイトはある日大きな実験の被害に会い暫く眠っていたらしい。起きた後に母からそう言われ、記憶の最後も、確かにベランダに出たら何かが光って記憶が途絶えている。
だがフェイトは記憶が信じられなかった。何故かは知らないが、自分が見聞きして蓄えたはずの記憶が、何かの映像を見せられているようにしか思えなかったからだ。優しかった母の笑顔も、無邪気にはしゃぐ自分も、あの日二人で食べたご飯に、妹が欲しいと駄々をこねた瞬間も。
――だって、母さんは私を『アリシア』って呼んでいる。
全てが全て他人事にしか思えず、フェイトはかつての自分を信じられなかった。
起きてから暫くして冷たくなった母の態度も、記憶の正しさを信じられないことに拍車をかけていた。本当は自分が自分ではないから、あぁして冷たい態度なのではないかと、今だってプレシアに素っ気なくされて、フェイトは心苦しさに塞ぎ込んでいるのだから。
ならば、フェイトがフェイトの記憶として正しく認識出来るのはどこからか。プレシアの笑顔も、無邪気な自分も、破滅の瞬間も、何れも自分のものだという確信がないのだ。
思い起こすのは、冷たい水とガラスの感触。
「母さん……」
暗い室内。遠くから自分を見て今にも泣きそうな表情で微笑む母、プレシア。あの優しげな姿が脳裏にあるから、フェイトは例えそれ以前の記憶が信じられなくても、プレシアが大好きだった。どんなに記憶を積み重ねても色褪せない、自分を見て感激する母親の慈愛に満ちた姿こそ、フェイトがプレシアを嫌わない理由だ。
そしてもう一つ。誰なのかもわからないのに、ただ目が合っただけだというのに、こんなにも自分の胸の中に刻まれている。
それは、遠くの母親よりも自分のすぐ近くで、苦しそうな眼差しで見つめてくる傷だらけの少年。
「……お兄さん」
少年のことを呟き、思い出せばほら、悲しかった顔にも不思議と笑顔が戻ってくる。
信じられない記憶の中、唯一自分のだと認識出来る記憶に住む、母と少年の二人。優しそうな母と、傷が痛々しい少年。
少年の名前を知らないフェイトは、彼が兄なのではないかと考えていた。傷だらけ、もしかしたら危ないことをしているのかもしれない。
記憶の正しさに葛藤しながら、いつだってこうして記憶は振り替えるのはそう、おそらく自分より大変なのだろう少年を思い出しては、もう少し頑張ろうとやる気を出せるからだろう。
「うん……頑張れ、私」
プレシアにはこのことを話していない。もし言ったら、今より冷たくなってしまうかもしれないと思うからだ。
多分、事故の影響か何かなのだろう。幼いながらに達観した思考でそう自分に言い聞かせた。
「失礼しますよフェイト」
と、不意に部屋の扉が開き、見知らぬ女性が中に入ってきた。警戒心からか、後退りするフェイトを見て女性が苦笑する。
「アハハ、すみません。少しビックリさせちゃいましたね。私はリニス、今日からプレシアにあなたの教育係を任されました」
明るい口調で語るリニスは、フェイトが初めて出会う快活な人間―使い魔ではあるが―だったため、人見知りからか軽く会釈するだけだ。
最初はそんなものだろう。リニスは笑顔で「よろしくお願いします」と言うと、フェイトの側に寄り手を差し出した。
「あの……」
「握手です。友好な関係のためには大切ですよ」
リニスの顔と手を見比べ、フェイトは意を決して彼女の手を握った。
「あっ……」
起きてから直ぐに触れたプレシアの手から、他人の体温を感じたことがなかったフェイトは、リニスの暖かな手のひらに驚き、知らず、目頭を熱くさせてしまった。
「えっ? えっ!? そ、そんなに嫌だったのですか!?」
「う、うぅん……違う。その、なんか、嬉しいのに……私、変だ」
慌てて手を離そうとしたリニスの手を強く握り、空いた手でフェイトは溢れる涙を拭う。
まだまだ幼い子が、手を触れるのにも怯え、その暖かさに涙する。その意味することを何となく察して、リニスは表面上は笑顔でいながらめ、内心は複雑だった。
つい先程、プレシアによって作られた彼女だが、精神年齢という点ではプレシアと同じくらいである。だからこそ、娘であるフェイトを自分に任せ、ただ『使えるように教育しなさい』とだけ言われたのは疑問だった。
「……」
リニスはそれ以上何も語らず、フェイトをそっと包み込んだ。
事情はわからずとも、この小さな少女が、どんな苦労をしてきたのかくらいはわかるつもりだ。
何せ、温もりを享受するのが当然の少女が、温もりに涙するなんておかしすぎる。
「大丈夫。大丈夫ですよフェイト」
冷えきった彼女を包み込む。せめて、この瞬間だけでも辛い出来事を忘れられるように、と。
―
それから、リニスとテスタロッサ親子の微妙な生活は始まった。
研究室にこもり、食事と排泄と風呂以外にそこから出ないプレシア。そんな彼女に認められたいがために魔法の練習を頑張るフェイト。その二人を見守り、親子の関係の橋渡しを出来ないか悩むリニス。端から見れば奇妙な関係だっただろう。
だが始めの一年は、それでも穏やかな一年だったと思う。フェイトとの会話を極力避けようとするプレシアに、毎度注意するリニスがプレシアと口論となることはあったが、その程度の小競り合いしかなかった。フェイトは順調に魔法の腕を上げていき、この調子なら、もう半年もしない内に自分の役目がなくなるだろうとリニスも思い始めていた。
そんなある日、フェイトから相談があると言われ、リニスとフェイトは庭園の外にある大きな木の下で並んで座った。
「あのねリニス……私……」
普段よりさらに歯切れの悪いフェイト。リニスはその深刻な様子から、魔法による悩みではないなと勘づいた。
「大丈夫。どうしました?」
「あ、あの……私、実は……」
フェイトはそこで一端言葉を切ると、深呼吸を一つ、勇気をかき集めるように胸に両手を置いた。
「私、本当に母さんの子どもなのかな?」
その一言を皮切りに、フェイトは次々に思いの丈を吐き出した。
事故より前の記憶では、自分がアリシアと呼ばれていたこと。
事故前と後で全然違うプレシアの態度。
そして、その中間にある、一瞬だけの確かな記憶。
その全てをフェイトは打ち明けて、静かに泣いた。溜め込んだ思いを全て言えたからか、あるいはこのことを言ってリニスに嫌われると思ったからか。
いずれにせよ、リニスはフェイトを抱き締めて「今までそれを一人で抱えて辛かったでしょう」と言って、ただ慈愛に満ちた笑顔を浮かべた。
「頑張りましたねフェイト。いっぱいいっぱい、頑張りましたね」
「う、うぅ……」
言葉も出せず、フェイトは咽び泣く。ようやく言えた己の罪。伝えるだけで、フェイトは救われていた。
一方、フェイトの告白を受けたリニスは、どうしてプレシアがフェイトに冷たかったのかの理由を知り、一つの決意を固める。
――どうしてそこまでフェイトにきつく当たるのですか?
自分がフェイトの教育係としていられる時間も短い。この調子でフェイトが成長すれば、半年、あるいは一年程か。自分の教えられることはなくなるはずだ。
幸い、フェイトのデバイスであるバルディッシュももう少しで完成する。代わりの使い魔候補も出来た。
心残りは、二人の関係だけだ。千切れかけている親子の絆を再び繋ぎ合わせる。
切っ掛けは今しかない。フェイトの語った真実が、リニスに覚悟を決めさせた。
「全部、私に任せてください」
柔らかな金の髪を撫で付けて、リニスは強い決意を瞳に宿した。
―
日に日に焦る毎日が続く。どんなに研究を重ねようと上がらない成果。体を蝕む病魔の影。それらがプレシアの今を追い詰めていた。
「これでもない!」
先程まで書いていた資料を払い退け、プレシアは肩で大きく息をしてから、苦痛を滲ませ吐血した。
「くっ……時間が、ない」
妄執と言いたければ言えばいいだろう。自分が産み出した幼い少女を放置するのは外道だと、蔑みたければ蔑めばいい。
だがプレシアは、アリシアと再び日々を過ごしたかった。あの優しい毎日を取り戻したかった。
そのための手段であったプロジェクトFは、アリシアとは似ても似つかないフェイトという少女を作っただけに終わった。アリシアとは違う、似てるからこそ、細部の違いがプレシアを苛立たせる。
「……」
だがそれでも、最初は嬉しかったのだ。あの日、培養槽で目覚めたあの時、どんなに嬉しかったのかわからない。
馬鹿馬鹿しい。プレシアは頭を振って、あんな偽物が目覚めたことで喜んだのを否定した。自分の娘はアリシアだけなのだ。あんな木偶人形と一緒にするのはおこがましい。
「あぁ、許してちょうだい……アリシア」
プレシアは培養槽な中で眠るアリシアを、虚ろな眼差しで見上げた。
ガラス越しに触れ合い、痛みと焦燥に忘れてしまいそうになる誓いを新たにする。
「必ず助けてみせる。必ず……」
死んだ我が子を蘇らせる。それは生命の禁忌に触れる所業に違いない。だがそうすると決めた。そのために自らの手も汚した。
だからもう、後には引き返せないのだ。
「アリシア……アリシア」
冷たいガラスごと我が子を抱き締め、プレシアは束の間の眠りに沈んでいく。
自分が産み出した現実には目を向けず、ただいつかの優しい記憶に包まれながら、プレシアは自分の中に芽生えている気持ちも偽って、たった一人で道なき道を進むのだ。
-
黒く輝く鉄の存在感。初めて目にする鋼の風格に、フェイトは年相応に瞳を輝かせた。
「わぁ……見てアルフ。凄いカッコいいね」
少女には大きすぎる鋼だが、見た目以上に軽いのか、容易く片手で扱える。
器用に鋼――インテリジェントデバイスのバルディッシュを振り回すフェイトを、その使い魔であるアルフが「フェイトカッコいい!」と、バルディッシュが回るのに合わせて尻尾を振り回し褒め称えた。
「フフッ、気に入ってくれたみたいですね。私も作ったかいがあったというものです」
「リニスありがとう!」
「リニスはやるねぇ」
幼い二人の感謝に微笑みで返し、リニスは微笑ましい光景に目を細めた。
あの告白から暫く、フェイトには使い魔のアルフが出来た。フェイトを第一に考える彼女ならば、きっとこれからの長い人生でフェイトの支えになるはずだ。
そして、バルディッシュと名付けたインテリジェントデバイス。今はフリスビー代わりになり、虚空に舞い、アルフにキャッチされるのを繰り返され『H,Help……』などと情けない声を出してはいるが、いずれフェイトの身を守る力として役に立つ『Noooooo!!』はずだ。多分。
「次は棒高跳びしてもいいかなアルフ」
「じゃあ私はチェーンバインドでバーを作るよ!」
『s,sir?』
「バルディッシュはポール役お願いね」
『oh……』
告白をしてから、フェイトに笑顔が増えてきたのは気のせいではないだろう。今までは言わなかった我が儘も少しずつ増えもした。そこには自分だけでなく、アルフがいたおかげなのもあるだろう。
何にせよ、今まで抱えていた不安が取り除かれ、未だプレシアの前では萎縮するが、前向きになってきたのはよい兆候だった。
フェイトが本来持っていた明るさが戻り、いつかは――
(そう、いつか……プレシアにもこの笑顔が伝わったら)
そのときこそ、自分の教育係としての役割は終わりを告げるのだろう。
こんなにも優しさに満ちた世界がすぐ側にあることを、プレシアにはわかってもらいたい。
何故なら、リニスはフェイトの教育係である前に、プレシアの使い魔だから。主人の幸せこそが、何よりの望みなのだから。
「フェイト、アルフ、バルディッシュ」
笑い合う(一部悲鳴)彼らをリニスは呼んだ。フェイトとアルフ、そして機械なのに今にも泣きそうに点滅しているバルディッシュ、それぞれがリニスを見る。
大事な大事な自分の家族。その姿を目に焼き付けるようにジッと見つめると、フェイトとアルフの頭を撫でた。
「リニス?」
突然のことに首を傾げるフェイトだが、すぐに目を閉じるとリニスの手のひらに自分の頭を委ねた。
初めて会ったとき手を握るのすら躊躇った少女も、今は甘えることにだいぶ慣れた。そうだ、この姿こそが普通なのだ。
リニスは腰を屈めると、二人の目線に顔を合わせる。
「少しプレシアの所に行ってきます。ご飯はいつもの場所に置きましたので、陽が落ちるまでには戻って食べてくださいね」
アルフは「はーい」と片手を上げて快活に答え、フェイトもいつもと雰囲気の違うリニスを不思議には思ったが「わかった」と言った。
リニスは二人の返事に笑顔で頷くと、踵を返してプレシアの元へと歩いていく。
「フェイト、次は何する? ……フェイト?」
去っていくリニスをいつまでも見るフェイトの肩をアルフが叩いた。
「あ、うん……」
笑顔のアルフと二人、僅かに過った不安を振り払うように笑顔でこう言った。
「じゃあ次は野球してもいいかなアルフ」
バルディッシュは絶望した。
―
「やっと、やっと出来た!」
プレシアは大量の紙がばらまかれた部屋で、遂に自分の望んだ成果が見つかり歓喜していた。
虎の子だったプロジェクトFは頓挫し、最早現行の技術ではアリシアを救うのは不可能と考えた末、プレシアが求めたのはおとぎ話とされている国。アルハザードだった。
古い文献から、絵本まで。アルハザードに関連する資料とあればあらゆる物を手に入れ、分析し、ようやく座標の特定にまで漕ぎ着けた。
だが問題はまだある。次元の狭間に閉ざされたアルハザードへの道を開くには、莫大なエネルギーが必要となる。それこそかつてアリシアを奪った忌々しい事件を超える量のエネルギーがだ。
しかし道は開けたのだ。エネルギーの問題はあるが、そんなの条件に見合ったロストロギアを見つければいいだけの話。
「そうよ。そして私はまたアリシアと一緒に……」
胎児のように丸まり、まるで眠っているかのようなアリシアを培養槽越しに慈しむ。今は触れないが、いつかきっとこの手で抱き締められる日が来るのだ。
「すみません。プレシア、入ってもよろしいですか?」
アリシアとの触れあいに、第三者の邪魔な声が入る。プレシアは僅かに眉を潜めると、アリシアを転送させて「いいわ。入りなさい」と言い扉のロックを解除した。
「失礼します」
自動で開いた扉。来訪したリニスは、いつも通りとはいえ紙が散乱した部屋を見て顔をしかめた。
「プレシア。先程、フェイトにデバイスのほうを渡しました。後はバルディッシュの使用方法を教えれば、私に与えられた目的は完了します」
「そう」
プレシアの返事は簡素なものだ。目的を果たす。それがつまり、リニスとの使い魔契約が終わる――リニスの死であることを意味するということなのに。
あまりにも冷たい主人の言葉に、リニスは仕方ないなと苦笑を漏らした。結局、今日このときまで、彼女との信頼関係だけが築けなかったことを寂しく感じる。
でも、だからこそ、この関係を自分がいなくなった後にフェイトへ引き継がせたくなかった。リニスは、両手に抱いたフェイトの部屋から持ってきた数冊の古びたノートを握りしめ、すでにリニスではなく新たな資料を見るプレシアにただ一言。
「もう、やめませんか?」
と、悲しげに目を伏せて呟いた。
資料を捲る手を止めてプレシアがリニスを見る。まるで何を言っているのかわからないといった風な眼差しを、リニスは直視することができなかった。
「プレシア、あなたの気持ちもわかります。ですが、そのせいであなたの子どもであるフェイトが――」
「ふざけないで!」
リニスの悲痛を遮り、プレシアが怒りに顔を歪めた。
普段なら不愉快だが軽くあしらったかもしれない。だがようやくアリシアを目覚めさせる方法に届き気が僅かに緩んだプレシアには、リニスの言葉は許容できるものではなかった。
「あの子が私の娘!? 馬鹿を言わないで、私の娘はあんな紛い物ではないわ!」
「な、にを……」
「えぇそうよ。所詮あれはアリシアが蘇るのに役に立つだろうから手元に置いただけの人形でしかない。私のアリシアとあれを一緒にしないで!」
「……!」
リニスはプレシアに近づくと、感情の赴くままに彼女の頬を叩いた。
「フェイトは……! あの子がどんなにあなたを!」
最早、言葉にはならなかった。涙を溢れさせながら、腕に抱いたノート――フェイトが書き記した日記――に宿る想いがリニスには辛かった。
言ってやりたかった。フェイトが、プレシアに避けられて、自分の記憶も信じられないのに、それでもプレシアに喜んでもらえるよう努力したフェイトの想いを言って、分からせたかった。
だが、それはリニスの役目ではない。本当は言いたかったけれど、この家族の絆を作るのは、自分の言葉ではない。
「……あなたが言うアリシアのことは知ってます。失礼ながら、密かに調べさせてもらいました。アリシアがどうなったか、そしてフェイトがどのようにして産まれたのかも」
「だったら!」
「それでも! フェイトはあなたの娘です! どんなにあなたが突き放しても……フェイトは! フェイトは!」
あの日、記憶を疑うフェイトの告白を受けてから、リニスは密かにプレシアの研究室を調べていた。そこで、アリシアとフェイト、二人がどんな関係にあるかを知り、何故記憶が間違いなのかの理由もわかった。確かに明確にはプレシアはフェイトの親ではないかもしれない。しかし、それでも二人は親子なのだ。
そのことを上手く言えない自分がもどかしい。だが、言葉の代わりは確かにこの手にある。
リニスは持っていたノートを資料の散乱した机に置いた。
「プレシア、私からはもう何も言いません。ただ、もしあなたが僅かにでもフェイトのことを思う気持ちがあるなら、どうかそのノートを読んでください」
願わくは――それ以上は告げずに、リニスは研究室を後にした。
閉まる扉。叩かれた頬を押さえて、プレシアは身体中をかき乱す気持ちを持て余していた。
自分は正しいはずだ。あんな人形なんかに情などわかない。大切なのはアリシアとの再会と、失われた優しい時間の再開、この二つだけのはず。
「そう、他のことなんて……」
自分に言い聞かせるように一人言をぼやくと、プレシアは机に散らばる資料を取ろうとして、ポツンと置かれたノートを見た。
ただ静かにそこにあるだけのそれは、まるで物静かなフェイトを彷彿とさせるようで、プレシアは怒りのままにノートを掴むと床に叩きつけた。
「こ……の!」
腹立たしい。息を荒々しくさせたプレシアは、次の瞬間込み上げる何かを押さえられず、口に手を当てるとそのまま咳き込んだ。
「ッ……!」
床に膝をつき、手のひらを見つめる。付着した赤色、体が限界を訴えていた。
それでも、とプレシアは執念に目を眩ませ立ち上がろうとして――叩きつけて開いたノートの内容が目に入った。
始まりの一ページ。数冊のノートの、大事な大事な初めての日記の一文。そこにはたどたどしい文字で――
――アリシアって、誰なんだろ?
書かれた言葉。フェイトがプレシアに語らなかった悩みの鎖。
プレシアはただ惹かれるように、無意識にノートを手にとって、続きを読み始めた。
そこに書かれるのは、苦悩しながら、それでも努力を続ける、自分が人形と言い切った少女の『生』の記憶。
今、冷えきった親子の関係に、小さな波紋が揺らぐ。
-
◯月×日。
母さんはあれ以来笑ってくれなくなった。やっぱし私がアリシアって子じゃないからなのか。でも、記憶では私がアリシアだ。わからない。でも、がんばれば母さんはまた笑ってくれるはず。
◯月△日
今日も母さんに怒られた。泣いちゃうとまた母さんは怒るから我慢。でも部屋に戻ったら泣いた。そんなとき、母さんとお兄さんを思い出すと安心する。あのときみたいに母さんはまた笑わないかな?
△月×日
リニスっていう新しい家族ができた。母さんは研究で忙しいから私に冷たいらしい。なら、いっぱい勉強して早く母さんのお手伝いができるようになろう。それで研究が終わったらお兄さんを探しに行く。いつもありがとうっていつか二人に言いたい。
「……」
無言のままにプレシアはフェイトが記した日記を読み進める。
初めは苦悩に満ちた内容だった。プレシアさえ知らなかったフェイトの悩み。それは記憶のダウンロードの失敗を意味していたが、プレシアはその事実すら考えずに、無心で日記に目を通す。様々な日常の書かれた彼女の世界の断片。
母さんは喜ぶかな?
母さんが辛そうだ。
母さんのために頑張ろう。
その何れの文にも、必ず自分を思う言葉があった。人形と蔑む少女の、確かに感じる自分への慈愛の心。
「……ッ」
だからどうしたというのだ。プレシアは唇を噛み締め、自分を惑わせる忌々しい日記を投げ捨てようとするが、心とは裏腹に、日記を掴む指は、次のページを静かに捲る。
沢山の気持ちがあった。物静かな少女の、ありったけの気持ちが詰まっていた。自分の笑顔と、誰とも知らぬ男の記憶しか信じられないはずなのに、そこには溢れんばかりの心があった。
プレシアの心は乱れる。何故こんなにもフェイトは頑張れるのか。何故こんなにもフェイトを人形としか見てない自分を愛せるのか。
わからない。もう答えは遥か昔から出ているのにプレシアはわかりたくない。わかるには、フェイトを人形と突き放した時間はあまりにも長かった。
だがそれでも、複雑にプレシアの心に絡みつく鎖は、ページを捲る度に少しずつ解かれていく。
知らず、苛立ちに歪んでいたはずのプレシアの表情は、今にも泣きそうなそれに変わりつつあった。
彼女は事実、唯一の存在であるアリシアを蘇らせるために狂気に浸った。今もそうだ、全てはアリシアのため、アリシアを取り戻すために、最早治すことも難しい壊れるだけの体に鞭打ち、非道を進んできた。その道で沢山の過ちを積み重ね、その業は既に、アリシアを救うという目的がなければ、容易くプレシアを奈落に引きずりこむほどだ。
だがプレシアは昔からそうだったわけではない。アリシアを失う前は、ただの母親にすぎず――どうしようもなく普通の人だった。人を愛して、愛されるのを喜べる人間だったのだ。
アリシアのために積み上げた罪がプレシアを変えた。それしか見えない、そういう風にならざるをえなかった。
そんなプレシアの心が、フェイトの言葉によって昔のものに戻っていく。
「……フェイト」
それでも、プレシアは昔に戻るわけにはいかなかった。今更どうして戻れようか。戻ることがアリシアを見捨てることに繋がるならば尚更だ。
「たかが人形の癖に……!」
いつもなら容易く言えた言葉が、今はこんなにも心苦しい。それでもそう言わないと、プレシアは自分を保てそうになかった。
だがプレシアの指はページを開く。まるでアリシアのように自分のことを一番に考えるフェイトの日記を求めるように。
心が痛かった。全てを後悔したくなった。でも引き返せるような強さをプレシアは持ってなかった。母親としての強さがないなら、ただの人に戻って、これまでの罪を自覚できるほどプレシアは強くない。
葛藤、混乱。渦を巻く心中のまま、フェイトの日記はどんどん今へと向かっていく。過去に戻ろうとするプレシアとは真逆に、未来へ向けてフェイトの日記は進んでく。
そして、プレシアは遂にその一文を見つけた。それは、フェイトがリニスに悩みを告げ、ある程度自分の偽りの記憶に折り合いをつけられるようになった日の、フェイトにとって大切な日の日記。
書かれていたのは他愛ないものだ。悩みを打ち明けられて、自分は自分のまま頑張ろうと書かれたそこには――
「あ……」
堪らず、プレシアは日記を取りこぼした。同時に、天井を見上げ、溢れそうな涙を堪えようとしたが、堪えられずに涙が流れる。
「そう……そうだったわね。アリシア」
プレシアは、いつかの記憶を思い出していた。アリシアとの優しい記憶、晴れた空、束の間の休日に、二人だけのピクニック。
あの日言われた言葉に、プレシアはどう答えていいかわからず赤面してしまった。そんなかつての日々の名残。
「フェイト……」
プレシアは日記を全て抱えると、半日ぶりに研究室から出た。
元からの体調不良と寝不足等で足下がふらつく。それでもプレシアは今すぐに行きたかった。何を言いたいのかもまとまらないけれど、今すぐにフェイトに会いに行きたかった。
これまでの葛藤も何もかも関係ない。脳の端っこにそれらは追いやり、プレシアは広い広い庭園を歩く。
あの子は何処にいるのだろう。まるでフェイトの行動がわからない自分に自嘲する余裕もない。水を求める旅人のようにプレシアはフェイトを探す。
「――べ終わったら、バルディッシュとまた……」
「じゃぁ私はキャッチャーやるよ!」
そしてプレシアの耳に、ようやく求めた声が届いた。プレシアは急いで声の元へと小走りに進み、あまりにも広い食堂の扉を開いた。
数人で使うにはあまりに大きなテーブルで、フェイトとアルフが向かい合って食事をしている。
見つけた。プレシアはこちらを見るフェイトの元へ歩く。
「あっ……母、さん?」
突然現れた母親に驚いたのか、フェイトを目を見開いて食事の手を止めた。
どうしたのかな? 今日は朝から研究室にこもっていて心配だったんだ。でもまだまだ魔法は勉強不足だから、お手伝い出来なくてごめんなさい。そういえば今日リニスからバルディッシュっていうデバイスを貰ったんだよ。あっ、母さんご飯まだだったね。今から母さんの分を――
ぐるぐると言葉が浮かんでは消えていく。何を言おうか悩んでいる内に、プレシアはどんどんフェイトとの距離を詰めていき――疲労にピークが来たのか、その場な膝をついた。
「母さん!」
慌ててフェイトはプレシアへと駆け出す。貧血もあるのか、顔は青ざめていて、側に寄ったはいいがどうすればいいかわからず、フェイトは混乱して、ふと、プレシアが抱えているものに見覚えがあるのに気付いた。
「あれ? これ……私の?」
そうだ。間違いない。これは自分の日記だ。プレシアの体を、その小さな体で支えながら、どうしてプレシアが自分の日記を持ってるのか聞こうとして。
ふわりと、フェイトの頭はプレシアの胸に抱き抱えられた。
「えっ? えっ?」
「フェイト……」
「は、はい!」
何がなんだかわからず、自分を呼ぶプレシアに上擦った返事をする。
その表情は伺えない。それよりも久しぶりの母の温もりにどうすればいいかわからずフェイトはもう混乱の境地にいた。
プレシアは胸にフェイトを抱くだけだ。葛藤の多さで言えば、彼女のそれも同じくらいだろう。言葉も出せず、『娘』をその手で包むしかできない不器用な自分。
でも言わないといけない言葉があった。言っても意味ないし、自己満足にしかならない。
だけど、伝える言葉が一つある。
「ごめんなさい……」
「母さん?」
「ごめんなさい……フェイト」
それ以上は今は言えない。静かに啜り泣くプレシアの気持ちを汲み取って、フェイトは抱かれるに任せてもう何も言わなかった。
突然プレシアがこんな行動に出た理由はわからない。でもこの温もりは、フェイトの切望した温もりだ。
だから、これでいい。これで充分。
だけど一言、フェイトだって言いたい言葉が一つだけ。
「ありがとう母さん……」
何に対してのありがとうかはフェイトにだってわからない。
でもありがとう。
だからありがとう。
伝えたかったありがとう。
全部まとめてありがとう。
「フェイト……!」
プレシアの手に力がこもる。少し苦しいが、それだって優しくて。
「母さん……母、さん……」
フェイトもまた、自然に流れた涙は止まらなかった。
そんな不器用な親子を見守るのは、おろおろするアルフと物言わぬバルディッシュ。
「よかった。ようやく家族になれましたね」
そして、優しく見守る、忠実な使い魔が扉の向こうで、口の両端をにっこりと吊り上げるのだった。
○月◎日
リニスに全部を打ち明けた。何か変わったわけではないけど、何かを変えようって気持ちになった。私はフェイトで、アリシアではない。母さんが何度も笑顔なのはアリシアで、私は一回しか笑顔がない。でもいつか母さんが笑顔になるようにがんばろう。
そうなると、アリシアって誰なんだろう。記憶にしかない知らない私。でも、私の記憶は母さんとお兄さんからだから、それより昔のアリシアは、きっと私より年上なんだろう。
だったら、アリシアはお姉ちゃんなのかな? そうならすっごい嬉しいな。
――私、妹が欲しい!
かつての約束は、未だプレシアの心に刻まれたまま――
後書き
今回は簡単だから英語ですが、基本デバイスのセリフは日本語表記なのでご容赦を。
7/17
修正。この作品は皆様の突っ込みにより進化していく予定。