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[27535] 【習作】アマガツ【オリジナル】【完結】
Name: 三二一◆02c59522 ID:068f191e
Date: 2014/03/01 23:58
プロローグ

『さらに、科学者たちはこう述べた。
 「われわれは、新しい生命形成が何であるかを発見しなければならない。エネルギーがある場所で分離するとすれば、それはいつもどこかほかの場所で再結合しているということはあり得る」
 そして、それ以後のすべての実験で、それが立証されたのである。科学者たちは、エネルギーの再配分は全くロスがないことを発見し、“エネルギー保存の法則”という、物理的宇宙の新しい解釈をつぎのように定式化した。「物理的実験によって、エネルギーは作り出すことも失うこともできないことが明らかになった」と。つまりエネルギーは、保存されているだけでなく、有限なのであり、ひとつの閉じられたシステムなのだ。』――バックミンスター・フラー『宇宙船「地球号」操縦マニュアル』



 先崎明尚が息子と手をつないで会場に入ると、内部は活気に溢れていた。沢山の人で賑わってい、外国人も多く目につく。この十年で開発された新素材や電脳、ナノマシンなどの展示が立ち並ぶ。企業向けの専門的な紹介より、それらを日常生活に生かす商品の展示に人が集まる。漂流物を取得してからの十年を振り返った展示もある。
 やはり一番の目玉は装着型外骨格、パワードスーツの最新鋭機だ。正午には実動モデルでのダンスパフォーマンスがあるらしい。今までの鉄骨とチューブを組み合わせたような搭乗者剥き出しの骨組ではなく、息子が朝見る特撮が現実になったようなスマートで流麗なフォルム。置いてきたはずの少年心を掻き立てる。

 十年前、地球圏に近付く巨大物体が発見された。精査したところ地球外生命由来と思われる宇宙船であり、信号に応答しなかったため強引に回収し中を調べた。その結果、簡素な船内には生命反応は無く、三メートル大の異星人型外骨格だけが装甲を貫く無数の棘で固定されていた。ISSで検疫の後下ろされた地上での調査の結果、船体は大気圏を脱出するのみの簡易ロケット、外骨格には搭乗者も動力源も電脳も欠落していることが判明した。期待された地球外生命体との交流は無かったとは言え、ハード面では船体や外骨格から燃料や建材などの新素材、電脳に人工筋肉やナノマシン、スラスターなどの新技術を獲得し、ソフト面でも外骨格の内部構造や宇宙船が飛来した航路を逆算することにより、異星人の形態や惑星の大まかな位置が予測できた。
 二十一世紀になって「NASAと付いていれば売れる」時代が(日本限定で)再来した。

 十年の歩みを紹介するブースでは、漂流していた外骨格の構造が解説されていた。外骨格と言うが、元々はあちらの作業着らしきものをベースにしているらしい。インダストリアルな、こちらのツナギに要所を金属で補強したデザインの基本構造を、更に人工筋肉とその先端が結合した装甲が正に外骨格として要所の金属と癒着しているらしい。
 放射状にのびた五本の爪は、本来四本指だった異星人が便利なように付けた人工指で、地球上でパンダが持った六本目の指と同じだと説明されている。
 まるで爪先立ちのシルエットで一体化したようなくるぶしの無い、ヒレのような脚部といい、陸上生活に不向きな形態と、内部構造から復元された容姿から、異星人は初期鳥類のように爪をスパイクにして樹上生活を送っていた生物の末裔ではないかと推測されていた。機体解説の横には異星人の生活想像図が掛けられており、そこには幾何学的な、フラーレンを複雑にしたようなジオデシックドーム状の建造物の中を、外骨格の素体が壁面にスパイクを食い込ませながら縦横無尽に歩きまわり、足のバーニアから噴射しながら跳躍して別壁面にショートカットする様が描かれている。ダチョウを人間に近付けたような異星人の形態予想図は、子供の頃読んだ恐竜人類を連想させる。

 光速に達しない宇宙船が別の星系に辿り着くまでには天文学的な時間がかかり、漂流物の意図も送り出した異星人の存続も分からないが、電波を発信する以外にも宇宙船を送る計画が持ち上がっていた。今回一般公開となる最新型の外骨格は、漂流物の解析した機能を人間用に調整した、彼らの技術を消化し我がものにした集大成なのだ。



 イベントブースまで行くと輪をかけて人で埋まっていた。報道の姿も眼に入る。隙間をかいくぐって前列に進むと、ステージ後方には漂流物が飾られている。琢磨を肩車する。今回のイベントのために米国から輸送されてきたそれは、外国では愛称が付けられているが、日本では漂流物またはドリフ、あるいは単に外骨格と呼ばれていた。こうして直に見ても、人間味は感じられない。人間離れした長く太い首と角、全体的に鋭角的でおどろおどろしいフォルムのため、直立したドラゴンか怪獣のようだ。バイザーに光は無く、顎を覆う増加装甲は牙を剥くように逆立っている。

 首や掌に震えを感じ、見上げると琢磨が泣いていた。
「おい、どうした?」
 やがて決壊し、火がついたように泣き出す。あやしながらその場を離れる。

 ステージを離れ、やや落ち着いた息子に自動販売機で買ったコーラを差し出す。周囲を見渡すと同じように幼い子供を宥めている大人が目立った。なんとなく胸騒ぎがするが、動く外骨格はこの目で見たい。軽快な音楽が聞こえてくると明尚は親心と好奇心の間で板挟みになった。

「あの、どうしました?」
 声をかけられ顔を上げると、見知った顔があった。
「淀海さん家の……」
「紬です。先崎さん達もいらしてたんですね。どうかしましたか?」
 近所に住む家のお嬢さんだった。詳しく覚えていないが、高校生だったか。目尻の垂れた優しげな顔をしている。
「ああ、琢磨の奴が急に泣き出してね。新型を見にわざわざ来たのにどうしたんだか」
「どうしたんでしょう。他にも泣いている子供が目につきますが」
 そう言いながら彼女はしゃがみ込み琢磨と目線を合わせ、微笑みかける。
「どうしたの?」
 明尚はイベントブースのほうに目が行ってしまう。
「琢磨君は私が見てますから、行ってらしたらいかがですか?」
「いいんですか?」
「私もちょうど休みたいところでしたし、あとで感想を聞かせてください」
「ではお言葉に甘えて」

 人ごみをかき分けていくと、色別にペイントされた機体が軽快にヒップホップを踊っているところだった。解説で見た漂流物の基本構造に似ている。元々は人間とは異質なプロポーションを、人間向けに調整したのだ。
 漂流物が立ち上がる。観客たちからどよめきが起こる。ついに稼働させることに成功したのか。心憎い演出だ。
 観衆の全員が全員、一緒に踊り出すことを期待したそれは、挙動不審になった黒いペイントの機体に接近し、爪で貫き、観客席に投げつけた。



 あちらこちらで炎が燃えている。開放型ドームは熱がこもり、唯一の逃げ場である青空に黒煙が昇っていく。初夏の熱い日差しに白い雲が空を渡っている。涼しげで清浄な大気を見上げるのは、もの言わぬむくろの群れだ。ある者は引き裂かれ、ある者は逃げ惑う人々の足で踏み潰され、ある者は炎に焼かれた。

 殺戮の坩堝を徘徊するのは鋼の巨人だ。三メートルを超える巨体は角張った装甲で形を成し、その隙間、関節には毛羽立って黒縄じみた人工筋肉の束が蟠っている。鋭い角や牙、爪を持ち、鬼を連想させる。力強い部分部分が全体に集まると奇妙に歪み、生きた者とは思えない。そんな異形が、酸鼻な風景を歩む。

 一歩一歩、刻々と巨体が近付いてくるのを先崎琢磨は息を殺して見つめていた。未だ十を数えない出来ていく途上の体は、崩落したガレキの隙間に、姉だろうか、少女と共に収まり、非力な身を脅威から隠していた。少女は後ろから抱き締めながら涙目で自分と少年の口を押さえている。泣いているのは悲嘆と恐怖からばかりではない。辺りに散らばり、至近にもある数分前まで生きていた死体からは、血臭とと糞便臭が物理的な刺激として目鼻を蹂躙する。

 奇怪に揺れて化物が歩く。揺れるのは足首が無く、爪先立ちのシルエットで一体化した下肢を持つためで、動作はともかくその理由は奇怪ではなかった。少年はそれを見ている。凝視している。間断なく涙は流れて血走った目に最低限の視界を確保し、激情のままに溢れた鼻水は嗅覚からの過負荷を遮断して明晰な思考を補助する。鼠が誰に習わなくても巣穴の奥深くに隠れる如く、気配を殺し、威嚇を殺し、被食者に残された最後の武器、情報を逃すまいと捕食者を見つめ続ける。その視線の熱を感じたのか、化物の首が少年の隠れている方を向く。

 次の瞬間、化物は雄叫びをあげて飛来した何者かに殴られ、押し飛ばされる。飛来したのは別の外骨格であり、こちらは大柄だが人間サイズで、化物と対照的に突起が無く、曲線的で均整のとれたフォルムは人を落ち着かせる効果がある。鮮やかな赤で流麗なマーキングがされており、企業名と機体名を図案化したものと知れた。先程までステージ上で踊っていた一機だ。化物を殴打したのは建材の一部だったと思しき鉄骨である。外骨格から化物へ怒号が飛ぶ。低く、どっしりした男の声だ。

「言葉が通じるなら動きを止めろ。お前が何者だろうとこれ以上殺させない」
 化物が起き上がる。顔面を強打して数メートル吹っ飛んだのに平然としている。足首が無いので踏ん張りが利かない代わり、激突したエネルギーがそのまま運動に流れたのもあるが、そもそも苦痛を感じる器官を持っていないようにも見える。
 三メートルを超える巨躯に対し、人間の範疇の外骨格はあまりに非力。男が鉄骨を腰だめに構えると同時、別の外骨格が数体駆けつけた。男の赤に対し、他も各々別の色で差別化されている。

「リーダー!」
「動ける人々の避難が終了しました」
「よし、次はこいつを取り押さえるぞ。……ウム!」
 化物がリーダーと呼ばれた赤い機体に突進する。予期していた以上の速さで接近し腕を振りかぶる化物に、フルスイングしていた鉄骨を無理矢理軌道を変えて迎撃するが、支えきれず後ろに倒れ、覆いかぶさられてしまう。太いH形鋼に爪が食い込み、じわじわと裂け目を広げていく。その光景に、緑の機体が武器を探す。

「離れろ!」
 男の声で黄色の機体が馬乗りになっている化物の背を更に駈け上り、角を掴んで首をへし折ろうとする。だが全身の力に倍力機構を加上しても、首はわずかに反るだけだ。化物が空いている左手で貫こうとする。それをのけぞって避けるとバランスが崩れ、咄嗟に跳躍する。ただし、手は放さずに。強化された全身のバネに加えて大重量の慣性が加わり、化物の背ものけぞる。しかし、そのまま倒れると期待された巨躯は数瞬動きが遅くなったと見えた後、轟音と共に逆方向に折れ曲がり、同時に振り落とされた手刀は鉄骨を両断して赤い機体のヘルメット、中身はおろか下の床面まで切り裂いた。轟音は亜音速に達して音の壁を叩いた証であり、角を握っていた黄色の機体がゆっくりとくずれおちる。急激なGに脳が頭蓋骨に激突したのだ。

 立ち上がった化物がその無防備な背中に足を上げる。
「させるか!」
 目の前の光景に理解が追い付いていなかった青い機体が本能的にもう一本の足に体当たりする。踏ん張りの利かない体は容易にバランスを崩した。
「足!」
 新たな鉄骨を見つけてきた緑が膝に杭のように突き立てる。しかし一体化した膝当てに阻まれた。
「足だ!足を潰せば動きが鈍る!」

 見出した活路に声が裏返る。対抗し得ない怪力と頑丈さを相手にする以上、このチャンスを逃したら確実な死が待っているのだ。か細い希望が恐怖に拍車をかける。蛮声をあげて左足の人工筋肉に腕を突っ込む。数束を掴み、渾身の力で千切ろうとする。もがく爪の襲撃を、青が鉄骨で弾く。毛羽立った束が伸び、足が曲がる。次に来る動作に総毛立ちながら脛を両足で蹴りつける。瞬間、体験したことのないGが圧し掛かり、視界が赤くなる。自分とは比較にならない力で蹴られたのだ。しかし手は放さない。収縮で硬化した人工筋肉は同時に最も脆くなり、負荷が一点に集中したため千切れ飛んだ。黄色が行った跳躍に、それを阻んだ化物の怪力そのものを利用したのだ。

「人間舐めんな……っ」
 ガレキの塊に落下して弾き飛ばしながら拳を握る。限界以上の負荷がかかった指部は剥落し、露出した素手も所々黄色や白が混じっている。だが動くし、脳内麻薬が分泌されているのか麻痺しているのか、痛みを感じない。着地し、前を向いて愕然とした。中学生ぐらいの少女と小学生ぐらいの少年がうずくまっている。姉弟だろうか、少女は自らと少年の口を塞いでいる。自分が激突したガレキの間に隠れていたらしい。新たな生存者を見つけたことで、朦朧としていた意識に活が入る。ここで寝ているわけにはいかない!

 目を動かすと、起き上がろうとする化物を青が必死に邪魔しているところだった。仰向けなことと片足が不自由なことからなんとかなっているが、その左足も千切れた束の一つ一つが繋がりなおそうと悶えている。緑は駆け出し、途中である物を拾って蠢く束に押し通す。貫いたのは先の尖ったH型鋼、赤い機体が使い化物が切り裂いた半分である。もう一本を手に取り、右足にも突き刺す。ひしゃげながらも貫通し、怪力の筋繊維も邪魔のせいで全力を発揮出来ない。自由を奪い、余裕が出来たことで気付いたことが口をついた。

「中に誰もいない。無人機だ」
 青は無言で上半身を捌いている。話す余裕がない。構わず思考をまとめるために緑は喋った。
「疲れる筈がない……。手足を切ってバラバラにしよう。無理なら串刺しだ」
 鉄骨を用意し、化物の爪で尖らせ関節を貫く。左肘も刺してルーチンワークの予感に化物に対する侮蔑も生まれた頃、化物の動きがピタリと止まった。
 すると、化物は今まで振り回すだけだった掌で肘のH形鋼を掴んで抜き、寝そべってから倒立して起き上がると、両腕で移動しながら二人に襲いかかった。



[27535] 第一話
Name: 三二一◆02c59522 ID:068f191e
Date: 2011/05/05 01:58
第一話『選抜/親睦/封印目視』

 大人が屈んだのと同じぐらいの大きさの背嚢を背負い、青年が歩いている。石ころだらけの山の斜面である。青年は長身で、体格は登山服に隠れているが動きはしなやかだ。細く柔らかい髪質と柔和な顔立ちは軟派な印象を与えるが、本来なら涼しげな目は吊り上がり、三白眼で前方を睨んでいる。無言で歩きながら時々手に持った地図とコンパスを見る。水筒の水を飲む。
 ある地点まで来ると地図と見比べながら進む方向を変えた。向かう先には机に載ったノートPCがあった。画面を開き、スリープを解く。IDを打ち込む。すると以下の文字列があらわれた。
『63+38= 』
 思わず舌打ちする。次に目を閉じて深呼吸し、答えを入力する。続いて新たな問題。入力するとまた新たに問題。都合十回ほど二桁の計算を繰り返すと、次に進むべきポイントが表示される。
 ご丁寧にスリープモードにしろと書いてある指示通りに操作し画面を閉じると、同じ受験生が近付いていることに気付く。若い女だ。肩に食い込む背嚢を背負い、荒んだ三白眼をしている。服に付けた小物入れから菓子パンを取り出しながら齧っている。親の仇を見るような目が交差した後、男は無言で立ち上がり、歩きだす。女はPCを立ち上げる。荒野に舌打ちが響き渡った。



 数時間後、男は麓の集合地点に辿り着いた。リミット三十分前。背嚢を下ろし、計器に載せる。25キロ。規定クリア。隣では軽過ぎると告げられた男が抗議していた。
「運が悪かったんだ。温情をかけてくれ」
「運が味方しないなら合格しないほうがいいということだ。諦めろ」
23キロ。出発時には飲料水を含めて届いていたが、計られるのは到着時だ。必要なエネルギー源は別途背負わなければならない。活力を求めるほど重くなる。

 試験官が言う。
「ラストだ。背嚢をここに載せろ」
 自分の目線ほどの台だ。それに上げるには酷使しきった足腰と背筋のみならず、腕も総動員しなければならない。熱くむくんで水っぽい、重い体に鞭を打ち、硬質な重さの背嚢を持ち上げる。頑丈な布が掌を擦るのも、指から腰から間断なく溶けた鉛が首筋を通って脳に流れ込む感覚も、もう馴染み深い。筋肉が張りつめて上げる悲鳴に、裂けろと命じ、食いしばった歯が砕けそうな危険信号と恐怖に砕けろと突き放して力を供給し続ける。背嚢はゆっくりと持ちあがり、体は深刻な損傷に至ることなく台に載せた。膝をつき、滝のように次から次へと汗が流れ落ちて水たまりをつくる。
「時間まであちらで休んでいろ」

 教えられたプレハブに半信半疑で這うように進むと、同じように登山服を着た年かさの男がパイプ椅子に座っていた。
「コーヒーを飲むかい?」
 暫し見渡し、辿り着いた青年は口を開く。
「マジで?」
 これはコーヒーを進められたことへの答えではない。全て理解した顔で先にいた男がうなずく。今までの行程では、終わったと思ったら別の試験が始まったのだ。先程の背嚢挙げもまた然り。
「俺は三十分前からここにいる」
年 かさの男がそう言うと、男は呆れたような笑顔になってパイプ椅子に座った。時計は午後五時を指そうとしている。

「二人だけか」
「俺が一番で、お前が二番だ」
「そうか。アドバイスのおかげで規定を下回らずにすんだよ。感謝する」
「どうしたしまして」
「そう言えば、すごい女にあったよ。パンを食いながらあれを背負う女だ」
「理に適ってるが剛毅だな。女傑か?」
「いやそれが若い……」
男が言葉を切って窓を見る。
「彼女だ」

 二人が窓を開けると、女性が一人、集合地点に辿り着いたところだった。背負った背嚢の重みでガニ股気味になり、余裕のない表情は酷薄だが、顔立ちの美しさは保っていた。
「小柄で華奢な様子だな」
「俺も驚いた。あと五分じゃ間に合わないか」
 辿り着いても一度下した背嚢を高台まで持ち上げなくてはならない。しかも小柄なのでハードルは他の二人より高い。

 女が登山服を片肌に脱いだ。Tシャツとインナーだけをつけ、片腕が露わになる。二人が驚いたのはその細さだ。所々直線的な輪郭と影が走るのは筋肉のカットが出る、脂肪の少ない証拠だが、無駄なく引き締まった体と言え、大荷物を背負っての山歩きに耐えきれるとは思えない。月並みだがモデル並の肢体であり、実用を度外視して外見にのみエネルギーを注いでこそ到達し維持しうるプロポーションだ。

 直観的に二人に浮かんだのは「その体では持ち上げられないだろう」であり、次に事実背負ってきたことから来る驚愕である。実体験に裏打ちされた知識として、通常あの筋量では持ち上げられない。仮に持ち上げても長くはもたない。体を壊す。だが彼女は現に長時間背負って歩き通した。ここから導かれる答えは、彼女は非常に優れた肉体的素質を持っている。もしくは大変根性がある。実体験からすれば不可能事だが、同時に二人は経験的に、世の中には異常と思える怪力を発揮する人々がいることを知っていた。

 タイムリミットまであと三分。女は脱いだ袖をねじると横ぐわえにし、しゃがんで背嚢の両側面を掴んだ。すると背嚢は弧を描いて持ち上がり、担ぎ上げた肩で一旦溜めをつくった後、放り投げられて台に載った。力士が米俵を放り投げるような力技。
 こうして時間ぎりぎりで三人目が通過した。



 試験官と共に彼女が来た。険がとれ、最前と打って変わって明るい雰囲気を纏っている。
「はじめまして。俺は津具村光太郎。通過おめでとう」
 年かさの男が手を差し出す。
「はじめましてありがとう。響三輪です。これから宜しく」
 女がそう答えて握手を交わす。そしてもう一人に向き直った。ちょこん、と小首をかしげる。
「さっき会いましたよね」
「ええ、俺は先崎琢磨です。よろしくお願いします」
「こちらこそ」
「君達三人がヤソマガツ監視隊の選抜試験合格者である。明朝八時に研究所に集合。これから三十分後にここを引き払う。以上解散」

 試験官が退出すると、三人は大きく息をついた。
「失礼」
 三輪がパイプ椅子に腰を下ろす。
「お疲れ様」
「これからどうする?」
「風呂入って飯食って寝る」
 これは琢磨。
「右に同じ」
 これは三輪。
「そこは親睦がてら飲みだろう……琢磨は未成年だから仕方ないが」
「あ、私も未成年です」
 二人は驚いて三輪を見る。
「私、そんなに大人び……年取って見えます?」
 複雑な顔で三輪が笑う。津具村がなだめる。
「年齢相応に若々しいと思うよ。ただ……」
「ただ?」
「その若さで、それも女性がヤソマガツに近づきたいなんて珍しいと思ってね」
 琢磨がうなずく。実社会から半分以上はみ出ているあれに興味を持つのは、因縁があるか、かなりの変人だ。
「ああ、あれにはあまり興味無いです。関連するから入隊しただけで」
「では、何に?」
 三輪が嬉しげに笑う。
「装着型関節駆動機――強化外骨格です」
 なおさら珍しいとは、二人とも言葉を飲み込んだ。



 周囲の客から職場からの解放感と弛緩した空気が垂れこめる料理屋で、三人が杯を干す。
「明日もあるから軽くで切り上げよう」
 達成から来る高揚感を、年長の津具村がやんわりと抑える。
「明日はいよいよ現場ですね。監視隊とは言え、どんなことを望まれてるんでしょうか?選抜は徹底して体力頼みでしたが」
 ウーロン茶を傾けながら三輪が疑問を口にする。
「それは分からない……が、選抜の意図は大体予想がつく」
 魚の身をほぐしながら津具村が語る。
「まず根本的には体力だが、それ以上に重要なのが、限界に接してどれだけそれに耐えられるか、だ。極端な話、外骨格があれば筋力的な差異なんて無効化されるからな。休みなく続けられた運動も、なにも知らせずに、終わったと思ったら次が始まるメニューも、身体と精神を限界に連れていって見極めるためだろう。……警察で試験を受けた時からの類推だが」
「今日の最終試験なんかは最たるものだな。延々重い荷物を持ちながら山を登って問題を解く」
 トンカツをつつきながら琢磨は言った。
「あの問題はどういう意図があったんでしょう。延々簡単な計算を解かされ続けましたが」
「一応そうやって集中力を探るテストもあるにはある。が、それにしては問題数が少なかったな。あれはよく分からない」
 三輪の問いに津具村が首をひねる。語らいながら三人は箸を動かしている。琢磨はトンカツ定食。津具村は鯖の味噌煮定食。三輪はマーボー豆腐定食。

 食事を済ませると改めて自己紹介に移った。
「私は外骨格が好きでして。選抜に参加したのは興味本位です。詳細は分からないですが、肉弾戦を主眼においた外骨格なんて異例ですよ。軍隊は論外にしても警察でも非致死武器の発砲を前提にしているのに」
 三輪が瞳を輝かせる。

「俺は警察からの出向だ。閑職扱いされてるからな、のんびりやるさ」
 津具村が言う。

「俺はあれが暴れた時の生き残りだ」
 琢磨が話すと、舞い上がっていた三輪が申し訳ない顔になる。軽く笑顔を浮かべて沈んだ空気を払う。
「別に家族も失ってないし気にすることないよ。十年間何も無ければ危機感も薄れるさ。これは個人的な欲求だ」
 虚空を見つめ、琢磨は獰猛な笑みを浮かべた。
「あの野郎ぶん殴る」



 機械油の臭いが鼻をつく。広々とした一室には白銀に輝く鎧武者が壁に並んでいる。外宇宙漂流物研究所、ヤソマガツ監視隊用外骨格の格納ハンガーである。
「座学で説明したとおり、それが君達がこれから操縦する外骨格、玉串だ」
 琢磨は最寄りの機体の前に立つ。ヒトが作りだした外殻は、見るからに重厚で力強く、意外なほどに古代の鎧に似ていた。肩を覆うまで兜が広がり、一見して頭と胴が一体化したようである。神社の名前や念仏がペイントされているのが、ますます泥臭い。

「この機体、防具が過剰なように見えますが、何発ぐらい耐えられるんですか?」
 別の機体を同じように眺めていた三輪が、案内役の職員に問う。
「搭乗者の安全性を最優先に設計されている。後々訓練の際に詳しく説明するが、この機体はこれでも回避型なんだ」
「これだけ仰々しくてですか?警察でもこれだけの重装そう無いですよ」
 これは津具村。警察から出向している彼らしい感想だ。職員も肯いて同意する。
「想定している状況が違うからだ。軍用は無論のこと、警察も火器を持った相手に立ち向かう。しかしヤソマガツは遠距離攻撃力を持たず、パワーが未知数だが動きが目で追えるので、軽量が行動性と防御力を兼ね備えるために、火器以前の大鎧と似た形状になったんだ。重量だと民生の面影を残している」
 部屋を横切りながら職員は続ける。

 軽量、重量とは外骨格の区分で、四肢に装着して直感的に動かせるのが軽量。人間が中に入るため、胴体と肩股関節の制約から、装備次第でシルエットが変わっても、プレーンなプロポーションは胴長でずんぐりしている。重量はコックピットに手足が付いたもので、人体生理に制約されないため多様な運動と機能を搭載出来、各種耐久力も高い。本末転倒的な無人機を含めて百花繚乱の形態を誇る。
 「着る」軽量と「乗る」重量に分けられるが、操作方法によるもので運用ではどちらも同じ現場で分業することが多い。ここにも空だが重量用と思しきハンガーがあった。

「もちろんあちらが持っていないからと言ってこちらが火器を使わないわけではないし、当時の鎧そのままでなく要請に合わせてある。大体、鉄砲伝来以前だって弓矢による遠距離攻撃が主力だったしな。――これが近接で主力のチェーンソーだ。古代中国の戈を模しているが、柄を外すことも出来る。」
 職員が前に立った壁には長大な柄と、くの字型に大型の刀身が付いたチェーンソーが数振り掛かっていた。どういう使いかたをしたのか所々塗装が剥げ、細かなへこみや傷がついているのが、凶悪で頼もしい。
「次に、下層監視室へ行こう。火器もそこで見れる」



 エレベーターの二重扉が開くと、白く塗られたコンクリートの長い通路だった。天井が高い。下る前に着るのを促された防寒具が大袈裟でないほど寒い。白色LEDが煌々と照らす長い直線を曲がると、やや広いスペースを空けて再び左手に長い直線。その先は物々しい隔壁に続いている。通路には一定の間隔で給電装置が付いていた。
「この通路はヤソマガツを地上に出さないための最後の防御ラインとなる。そのため、地下という制約の中で出来る限り突入を警戒した造りになっている。突入では語弊があるが、上からでなく下からのにね」
 職員が壁面パネルにキーコードを打ち込むと、直線的に入り組んだ隔壁の歯が開く。薄暗い空間の手前には、背を向いてうずくまる二機の大型の重量外骨格と、傍らには一抱えもある複雑な面取りがなされた直方体があり、奥に目を凝らすと円柱状の空間を五つの部屋が囲んでいた。

 一歩踏み入れると、鳥肌が立つほど寒い。白い息を吐きながら職員が解説する。
「ここがヤソマガツを閉じ込めている区画であり、万一修復された際にはレールガンで足止めする。修復を遅らせているうちに増援が再び封じ込め、それが適わなかった場合は後退しながら先程の地点で遅滞戦闘をする。随所にあった非接触給電パネルはそのためだ」
 職員が片手を上げると、二機の外骨格も片手を上げて挨拶を返した。
「だがそれは最悪のケースであり、それ以前に対処するのがここの通常の任務である。つまり、肉眼での監視と修復への妨害だ。こちらへ」

 促されるまま、三人は一つの部屋の前へ移動する。それはコンテナを頑丈にしたような立方体であり、複数のかんぬきで閉ざされた扉には覗き窓が付いていた。覗くと、薄明かりの下に白いもやが溜まり、床一面に細かな破片が散らばっているのが見えた。津具村と三輪の二人は訝しげに眺めていたが、琢磨の心臓は早鐘を打つ。

「これがヤソマガツだ。モニターで監視しているが、即応も兼ねて肉眼でも監視する。前回にして最初の暴走時、民間人の抵抗によって機動力が落ちていたこれは、通報によって駆け付けたSATの重火器によって破壊された。しかし粉々になりながら修復は止まらず、結局はそれまで抵抗していた民間人の言うとおり、破片の集合を人力で防ぎ続けるという原始的な手段を取らざるを得なかった。結局それは十年経った今でも変わらず、修復はおろか稼働する理屈も分からないまま、粉々のパーツを更に分割して液体窒素で動きを遅らせ、時折邪魔をすることで悲劇の再発を防いでいる」

「ちょっと待って下さい」
 覗いていた三輪が振り返る。
「他はともかくとして、稼働の理屈が分からないとは?これの技術研究が外骨格に限らず科学技術を格段に引き上げたはず。電気仕掛けの人工筋肉で動くのではないのですか?」
 体が震える。脳が酸素を求めるが、吸った空気も体を冷やす。壁面に手をつくと、手袋越しに冷気が伝わってきた。
「平気か」
 津具村。
「平気だ」
 琢磨。職員が回答する。
「構造的にはその通りだ。だが、度重なる調査の結果、この機体には動力源や制御機能は搭載されていない。事件後でもだ。今判明している限りでは、これはガランドウの木偶だ」
 三輪が息を呑む。

「上に上がるぞ」
 再び待機している外骨格と挨拶を交わし、給電設備が埋め込まれた長い通路を歩く。曲がり角を過ぎて琢磨の呼吸も整った頃、エレベーターの扉が視界に入って三人は一瞬立ちすくんだ。行きの際の「下からの突入を警戒している」の意味を理解し、背筋が凍る。迷宮、ラビリンスとは入れないためでなく出さないためなのだ。
 エレベーターの扉には、種々のお札がびっしりと貼られていた。




[27535] 第二話
Name: 三二一◆02c59522 ID:068f191e
Date: 2011/11/18 00:06
第二話『訓練/考察/慰霊/訓練』

 耳元で鳴り続ける風音のような電装系の駆動音と共に、一時的に閉ざされていた視聴覚が回復し、同時に体が軽くなる。同じように着用を終えた三輪が画面に映った。
 玉串のヘッドアップディスプレイは頭蓋越しに脳波を読み取り、表示やデバイスを切り替える。外骨格着用時専用のインナーは人工筋肉への電位の伝達を補助すると共に防護服でもあり、それでいて通気性も良く、足の先も五本に割れて着心地がいいのだから申し分ない。未だ琢磨はやったことがないが、音楽を流すことも可能で、監視中にこっそり利いている職員もいるらしい。

 監視隊に入って一カ月、高校を卒業したばかりで未だ外骨格の免許を持たない琢磨と三輪は、まず軽量型の免許を取らされた。外骨格、特に軽量型は操作の大部分が自動化されているので公的な免許は年齢が達していればすぐに取得できるのだが、隊で求められている外骨格の役割は動作の補助ではなく、底上げであり、そのため二人は訓練に明け暮れていた。生身では出来ない高速移動や筋力、軽快さを達成することが求められる。
 機体そのものはそのように造られているのだから問題無いのだが、中で揉みくちゃに捻じられるのは生きた人間であり、元々そういう風に出来ていない人体には負担が大きい。故に免許自体は一週間で取得したものの、次の一週間は民生用の軽量機で、三週間目からは玉串で、反復練習を繰り返すことで動きに体を慣らすと共にカンを覚えた。一ヶ月目の今日は、外骨格の大きな特徴であり、普及した最大の要因でもある、ある機能を訓練することになっていた。

 装着すると手始めに、走る。敷地内に描かれたトラックで1500Mを4分で走る。次に反復横跳びを高速で行い、バク転、側転、宙返りなどのアクロバットを行う。これらは自分のペースで動ける分、初心者用のメニューであるらしい。勝手が違う跳躍は成功するまで何回も失敗した。

 一週間前から、ペアでの訓練が追加された。双方木製の棒を構え、一方が攻撃役として打ち込む。もう一方は出掛かりを抑え込む。防御役のほうが主旨であるらしい。生身でも寸止めでやらされたが、装着しては全力で行く。二人は上半身ばかり狙ってしまうが、教官役の先輩が見本を見せた時は足を打たれ転倒した。この程度ではダメージは無い。

「それでは、フィードバックの訓練を行う。まずは琢磨」

 一連の運動を終えて後、教官が二人に告げた。過去の動作記憶によるフィードバック。記憶しているのは外骨格の記憶媒体であり、これによって今まで一人の天才的技能は模倣ないし換骨奪胎して広まるしかなかったのが、別の機体、別の乗り手に共有され、そこから更に個々の工夫や偶然のファインプレー等が統合され、発展した。
 集合知と呼ばれるそれはインターネットが普及した頃から提唱され、また理想化されてもいたが、外骨格でなされた特異性はそれがアイデアのみならず身体技能に及んだことである。
それまで一人一人が修練を積むしかなかった、身体技能、技法が、機械の補助を受けることで任意に実現可能になったのである。極端な話、外骨格を装着すれば誰でもワールドレベルのファンタジスタを真似することが出来、新兵は一瞬にして古参兵のテクニックを身に付けた。
 装着者の身体的限界や活用センスというハードルは以前として存在するが、それまでと比べてマニュアル可能な技術を伝達するハードルは大幅に下がる。これは身体操作に関する労働集約から資本集約への転換である。孤独に研鑽を重ねるよりも、母集団の拡大に時間を費やしたほうが効果があるのだ。デモンストレーションではムーンウォークがなされたらしい。
 そのフィードバック機能の訓練だと言う。

「フィードバックをオンにしろ」
 琢磨は言われたとおり、アイコンを操作する。視界の隅に映る外骨格模式図の横に、『予測動作』の項が出現する。

「新たに現れた予測動作のアイコンを選択しろ」
 選択すると、『構え』や『カウンター』、『緊急回避』等の羅列が並ぶ。あとは能動的に動けば、それ従って統計的に優先順位の高い項目が表示される。或いは直接項目を選択する。いずれにせよ意識するだけで実行される。

「よし、では実際に体験してみろ。これからの攻撃を回避し続けるように」
 こちら側の画面を中継しているのだろう。準備が整ったところでそう言われる。棒が振り上げられる。反射的に、前に出て出掛かりを押さえようとしてしまうが、今は無手だ。振りかぶった腕まで届かない。天頂を越えて加速した打ち下ろしが接近する。
(ヤバイ……ッ)

 模式図が動くのを目の端に捉えた時、濁流に後ろから押し流される感覚に襲われる。硬い音と共に右足に軽い衝撃が伝わる。画面には地面が写り、模式図が高く右足を上げている。フィードバックがハイキックで迎撃したのだ。予想だにしなかった動作に股関節に熱い痛み。
 模式図が別の動作をするのと、教官が弾かれた棒を横薙ぎに振るのは同時だった。琢磨の体が深く沈み、膝、腕と支点をめまぐるしく代えながら足払いをする。
 棒の先端が兜に当たるが、大ぶりな半球状の傾斜が打撃を受け流す。足を払われたのと相まって教官が宙に浮くが、空中で回転して四つん這いに着地。すぐさま棒を横一線に両手で構え、押し出すように突進する。
 急激な旋回に情報処理が追い付いていなかった琢磨は、立ち上がりかけていたところを襲われ、咄嗟に手で受け止める。
 諸手で組み合い前のめり、というより腰が引けながら、新たな動作を無我夢中で選択する。

 束の間の無重力体験の後、目前の教官が消えていた。駆ける動作をしている模式図通り、股の痛みに耐えながら走る。
 数秒して頭が冷えたので振り返ると、三輪と教官がこちらを見ていた。アクロバティックに教官を乗り越えた背後を取った後、そのまま逃げ出したのだ。緊張の糸が切れ、しばし無言で見つめ合う。

「よし」
 教官の一声で琢磨の訓練が終わった。



 正午三十分前に訓練が終わる。格納庫に戻り、外骨格を脱ぐ。玉串を脱ぐ際は各種ロックを解除した後、頭部から外す。肥大した兜を持つため頭部は非常に重く、また電源を落とさないと頭部を外せないので、着脱は必然的に整備士の手を借りることになる。取りのけられると涼しく新鮮な外気を肌に感じる。空調は快適だが、生身で感じる解放感は格別だ。次に右腕を抜き、響三輪は右脇から簡易装甲を着けたまま脱出する。

 響三輪は思考する。
 初見でも思ったが、一般的な軽量機を経験してますます玉串の特異性を確認した。一般に、外骨格の搭乗口は、想定される危険の反対側、最も安全な位置に設けられる。建設用や災害救助用なら、崩落に備えて背面は厚く、脱出しやすいように前から着込む。警察などの法執行官用や軍用は前方から攻撃される可能性が最も高いので、背面から。対して、玉串の搭乗口は右脇にある。前もって右脇に膝まで覆う簡易装甲を着け、弱い搭乗口を補う。これなら前後左は堅固に覆われているし、弱点の右脇は通常なら武器を持っているので、格闘戦に限り攻撃が届く恐れは少なく、咄嗟の場合は腕で防ぐことが出来る。

 最初に知った時は呆れた。搭乗後に整備を行うのは当然だが、どうしてこんなに手間がかかる構造にしたのか。競技用の特注機ならともかく、これは体格さえ合えば女性でも乗れる量産機だ。そういった機体は乗りやすく、出やすいように余裕が設けられるものだ。この機体には、設計リソースの全てが稼働時のパフォーマンスに注がれているような、制約下で性能を突き詰めた印象を抱く。

 ディスプレイと一体化した兜は生身の首で支えきれないほど重いが、後頭部から鉢のように半球状に大きく広がった部位は肩まで覆い、猪首のシルエットには強固に首を支える機構と過剰なまでのバッテリーを隠している。板状の大型の肩当ては簡便かつ頑丈で、胴体から膝下まで覆う四角いスカートは、馬上にいることを前提に作られただけに、不格好な見た目に反して可動域が広く、腿当てと一体化して太くなった脚部でも動きやすい。それぞれ昔の大鎧のしころ、大袖、草摺を改造したものらしい。脇の簡易装甲は脇盾と言うそうな。

 騎馬が前提だったそれを人工筋肉による補助で徒歩用にし、騎射戦用の仕組みを削って素材を合金と炭素繊維と複合素材に変える。その他細かい修正を加え、人工筋肉で補いきれない攻撃力は武器自体に動力を仕込んで解決する。
 理屈は合う。筋は通っている。だが、腑に落ちないのは、破壊しきれない化物に対抗するためにこれだけの装備を造る前に、どうして原子にまで破壊するなり、元来たように宇宙へ放逐するなりしないのか?

 時間に気付き、頭を振って思考を切り替える。
 とんがった機体だが内装が快適で良かった。汗臭いのにも耐えられるが、臭いよりは清潔なほうがいい。
 そう結論づけて、三輪はシャワー室へ急いだ。



 正午、研究所それぞれの場所で全ての職員が目を瞑り、祈りを捧げる。現在ヤソマガツと仮称される宇宙からの漂流物が暴走し、大勢の犠牲者を出したのが十年前の今日である。一分間の黙祷の後、無言で散開。琢磨が備品のテレビを点けると、御影石の慰霊碑に集う人々が映し出される。去年までは、自分もそこにいたのだ。式典には研究所の所長や、十年前に暴走時に外骨格でヤソマガツと渡り合った今の先輩職員や、津具村の姿も見えた。モニターを注視する琢磨を三輪が心配そうに窺う。

「行きたかった?」
 軽く笑みを浮かべ、首を振る。
「俺はここでいい」
 拳を握る。思い出す度に恐怖と無力さに打ちのめされながら、体を鍛えた。ようやく今、対抗しうる場所に立っている。
「ここでいい」
 再び呟いた。



 ヤソマガツが放射状の五本の爪を振り上げる。力まかせに叩きつけられるそれを、前方に転がって回避する。ガラ空きの脇をくぐって振り返ると、三輪が長柄のチェーンソーで左膝の露出した人工筋肉を切断したところだった。
「運搬宜しく!」
「応!」
 立ち上がると同時に玉串の上半身に匹敵する大きさの下肢を抱え、脇目も振らず走り出す。無防備な背を、三輪が長柄を巧みに捌いて護る。注意を惹き付けている間に、津具村が右膝を切り離し、柄で弾き飛ばす。塊を再生が及ばないほど遠くに離し、解体する。関節を切り、装甲を砕く。四分五裂にし、津具村がレールガンで粉砕する。
 ヤソマガツはバラバラになった。

 ……モニターが切り替わり、見馴れた屋外の訓練場に変わる。お盆も近づく夏の一日である。
 三人は外骨格を纏ったままシミュレーションをしていた。傍からは見えない敵と戦っているようにせわしなく動いて見えるが、実際モニターに映る仮想敵と戦っている。人工筋肉が対応して動くことで、擬似的に衝撃や負荷を感じることも出来た。



 訓練後、反省のために外骨格を脱いで映像記録を囲んでいると、活力に溢れる三十代半ばの、壮年の男が現れた。監視隊の中でも最上級であり、かつてヤソマガツが暴走した際には着用していた外骨格を駆って被害の拡大を防いだ英雄だ。封印後は自らの体験を語り、玉串の仕様に影響を与えた男でもある。

「だいぶ慣れてきたようだね。だけど油断は禁物だ。仮想訓練での動きは、前回の記録に基づいてはいるが、あれの能力は未知数なんだ。亜音速を出したことさえある」
「あおん?」
三輪が珍妙な声を上げる。
「ああ。どうして常時出さないのか、そもそも明確な意識があるのかも定かではないが、一度亜音速を出したことがある」
そう言って、彼、盛口笹隆は琢磨を見つめる。
「君は……失礼、前から気になっていただが、どこかで会ったことがないかな?」
「十年前、あの会場で。助けてもらった生き残りです」
「そうだったか!そうか、君か!確か少女もいたはずだが、お姉さんかな?息災かね」
「近所のお姉さんです。元気で研究者をやっています」
「君はここを選んだんだね」
「ええ」
「君は覚えていないかね。亜音速」
「奇怪な印象ばかりだったので、どれがそうだったかは。けれど、やったことを不思議に思わない気持ちはあります」
盛口が頷く。
「そうだ。あれ、ヤソマガツは何をしても不思議ではない。しかしだからと言って厳戒態勢も維持出来ない。教訓を元に玉串を作り、戦法を講じるのが精一杯だ」
「戦法と言うと、攻撃は何より避ける。それが無理なら出掛かりを潰す。一対一でなく多対一で連携する。両断したら再生不可能なように遠ざける。……ですか?」
三輪が口をはさむ。
「一番大事な教訓を忘れている」
「……なんでしたっけ」
「遠距離攻撃の重要性だ。SATが間に合わなければ、今頃私は死んでいた。これは試合でも人間同士の戦いでもない。むしろ有害生物の駆除だ。相手が未知数の全力を発揮する前に、知恵を振り絞って対処するんだ。」

 三人が経験談に耳を傾けていると、琢磨と盛口の二人は所長に呼び出された。
「財団のほうから実験見学の招待が来ている。盛口君と先崎君の二人を指名だ」
「指名?」
盛口がいぶかしむ。
「責任者が淀海紬となっているのだが心当たりはあるかね」
琢磨が答える。
「あります。知人です」
「『ネビニラルの円盤』の実験だと書いてある。何のことか分かるだろうか」
「いいえ」
「同じく。私も分かりません。質問してみます」
「出来れば直接会いたまえ。先方に平日しか空きが無かった場合、有給を許可しよう」




[27535] 第三話
Name: 三二一◆02c59522 ID:068f191e
Date: 2011/11/18 00:06
 琢磨が案内された一室に入ると、散らかった部屋の奥で淀海紬がPCのモニターを睨んでいた。こちらに気付き、破顔一笑。

「久しぶり。親父さんは元気?」
「元気だよ」
 物静かだった彼女はヤソマガツと遭遇して以来、人が変わってしまった。無闇にテンションが高い。無理に気を張っているようだ。

「姉さんの名前で実験に招待されたけど、一体何の実験なんだ?どうして俺たちが呼ばれる必要がある?」
 紬が指を向ける。立てる。
「君ともう一人、盛口さんを呼ぶ理由と言ったら一つしかないよ。ヤソマガツに関することだからさ」
「一体どんな実験をするんだ?まさかあれのコピーでも造るのか?」
「あるよ。もう」
「なんだと」
 冗談半分で行ったことが簡単に肯定され、琢磨は気色ばむ。紬がひらひらと手を振って続ける。

「私達じゃないよ。十年前に、あれが暴走する前に技術研究の一環でコピー品が作られている。それも暴走したかどうかは知らないけどね」
「そんなことが出来たのか」
「そりゃあれはただの機械だし」
 紬は溜息をつき、立ち上がった。



「どこから話そうか。まず第一に、暴走以前でヤソマガツの技術解析は終了していた。だからイベントのためにわざわざ貸し出してくれたわけだし、私達を助けてくれた外骨格も造れた。」
 紬が冷蔵庫を開け、缶コーヒーを取り出す。

「粉砕した後、溶鉱炉に入れるとか硬化樹脂で固めるとか、色々試されたんだけど、結局再生を止めることは出来なかった。鉄が溶ける程度の熱じゃ分解されないし、どうしてそんな力があるのか分からないが、掻き分けて一つに集まってしまうんだ。そんな無茶苦茶な代物を物理的に阻止するために、一部分だけ海外へ送り返すことも考えられた。結果は、船員全滅」

「復活したのか。聞いたことないぞそんなの」
 それを受け取りながら琢磨が答える。向かい合って椅子に座る。外の広葉樹が風で揺れる。
「『二十一世紀のマリーセレスト号』っての、聞いたことない?」
 記憶を探る。

「聞いたような気がする……よく覚えていないが」
「日本を発ったアメリカ軍の船が一隻、無人でハワイに到着した。実は乗組員全員が消えたってのは嘘だけどね。本当は全員で殺し合ったんだよ」
「何故」
「理由は不明。運んでいた部分は腕の形に修復していたが、保管庫から出ていなかったとか。じゃあ何が彼らの駆り立てたのか――は今は関係ない。閑話休題」
 

「そんで日本に突っ返されたわけだけど、区分に困ってね。人を殺すという点では治安維持の警察の出番だが、人間が乗っていず、不断に邪魔しなければならないあれは、警察の手に余る。かと言って自衛隊では、兵器とも断定できず、かと言って災害救助の名目だとあれを天災と認めてしまう。体面がにっちもさっちも行かなくなって、半官半民の君達の研究所に投げたのさ。適切に作業すれば安全は確保されているしね」
 再びひらひらと手を振って仰け反る紬に、苛立って琢磨は口を開く。

「あれは、ヤソマガツは一体何なんだ」
「ヤソマガツ。意味は」
 仰け反った顔から眼球だけが向く。琢磨は黙る。

「八十禍津日神。記紀に出てくる神の名前であり、黄泉の穢れから生まれた、災厄を司る神である。勿論あれはそのものじゃない。大体が関係無い宇宙から来たものだしね。だが、あれに言いやすくて普段の語彙とは誤解されない名前を求めた結果、神の名の一部が与えられた。海外では別に呼んでるようだけどね。元々の名前が分からないから、どこもかしこも自分たちの立場に沿って好きなように呼んでるよ。例えばバチカンなら、デーモン。けど日本でアクリョウとかエビスとか言っても紛らわしいからねえ」

「そんな意味分からない危険物を、原子にまで破壊しない理由は三つ。一つはまだ自己修復の仕組みが分かっていないから。もう一つは危機を管理出来ているから。最後に、理解出来ないものに対して理解しようとするスタンスの組織の手元にあるから。あれが人を殺すことに恐慌をきたして破壊を支持するグループも、逆に神格化したり天の裁きだと言っているグループもある。何せあれを造った連中のことも仕組みも分からないんだから、言いたい放題さ」
「再三言っている、仕組みが分からないとはどういうことだ?分析は済んでいたんだろう?そして姉さんたちがやる実験はどういうもので、どう関わるんだ?」


 紬が身を乗り出す。顔が近い。
「分かってることと分からないこと、どちらが聞きたい?」
「分かってること」

「分かっていることは、あれは地球外生命体によって造られた異星人のパワードスーツみたいなもので、それが頑丈な素材で装飾され、装飾材の裏側、つまりパワードスーツと接する面には、あちらの言語らしき図形が刻まれている。というか、そう言う図形が浮かび上がるように設計された素材。自己結晶能力がある素材ね。装飾材だか増加装甲だかは非常に硬質かつ耐熱性がある。もっとも、素体のほうもかなり丈夫な素材で出来ている。パワーアシスト機能は電力で伸縮する人工筋肉。内部に搭乗者は無し。動力源無し。中継機をはじめとしてカメラなどのセンサーも電脳も電子機器は一切無し」

「……分からないことは」
「それが動いた理由。そもそも動力が無い。乗り手も制御系統も無い。なのに何故動いて、しかもよりによってあのイベントの時大惨事を引き起こしたのか。それと、どうして再生修復を行えるのか。素材自体は、こちらでも複製出来るぐらいの尋常な元素から成り立っているんだよ」
「ナノマシンとかそういうのじゃないのか?発見物の一つなんだろう?」

「ナノマシンでもエネルギー保存の法則は曲げられないよ。大体あれ、外骨格のほうにナノマシンは付いてない。付いてたのは船体のほう。外骨格の自己結晶化ってのは、へこみや穴なら直りますってレベルなんだよ。欠損は無理」
「だがあれは動いて直る」

「そう。事実として動く。直る。じゃあどっかの団体どもが言うように、物理法則が崩壊したのか?天にましますお偉いさんが証なり裁きなり下したのか?馬鹿言っちゃいけないよ。熱力学の大原則が間違ってたら、今頃私達はもっと楽な生活をしているよ。永久機関が作れるってことだからね」
「それで、それと実験、ネビニラルの円盤だったか、それがどう関係する」
 紬が珍しく言い淀む。渋面を作る。



「これは仮説だ」
「ああ」
「仮説ってのはデータからの予測以上に、直感によって導かれる。科学がオカルトや疑似科学と異なるのは、その仮説を検証することだ」
 言い訳するようにそう言って、訥々と語り出す。

「我々はあれに対処する最終手段として、再び宇宙に放逐することを考えている。しかし、ヤソマガツと呼んでいるあれは元々が、異星人による呪術、流し雛のようなものだと思う」

「あれの素体を覆う素材、人によっては増加装甲と呼ぶんだけど、機能的にはむしろ有害でね。あいつの足は後部が噴射口になっているんだけど、覆ってる素材が邪魔しているんだよ。あれが兵器なら、そんな無駄な事をするはずがない。飛ぶのは無理でも、蹴るなり跳躍なりで役立つからね。同様に、腰の後ろ、体幹に直結するしっぽの部分のハードポイントも覆われていた。素体各所にあるコネクターも同様。爪や角なんて仰々しいものを付けている割に、実際に役立つものはほとんど無し。しかもそんなものが本体以上に頑丈な素材で作られている。まるで、どうしてもその形を保たなければいけないように」

「あれに刻まれた図形は造った異星人たちの言語だろうけれど、素数との関連も付けられず、他との対話を目的としたものとは思えない。大体、船体も光速以下でただ慣性のまま漂っていただけだから、どこかに辿り着くことを意図したものではない。船体についてる電脳も、ハードは画期的だったが、中のソフトは自動で打ち上げるためだけのものだった」

「呪術と言ったが、呪術は比喩や混同が専門でね。それは科学でなく文学だ。それでも言うよ。言っちゃうよ」

「私達は目に見えない穢れに対して概念的な洗浄を行う際に、自分たちに似せた人形を川に流すけど、彼らは自分たちでなく穢れそのものに形を与えて放逐したのだと思う。邪神、厄神、悪神の姿として。彼らの民俗なんて想像しようもないけど、刺々しいのは捕食者の姿を擬人化したのかもね。実際、穢れを移すのでなく閉じ込めて放逐する話は地球にもある。たーくんはSFは読むかい?」
「あまり」

「SFの古典的テーマに、謎のオーパーツを調べたら時限爆弾だったというネタがある。知性体が生まれるまで眠っていた創造主とか、自分を復活させられるだけの技術を持った生き物を敵として殺戮する生物兵器とか。ヤソマガツをそう見る向きもある。けれど私はそう思わない。あれにはウィルスも閉じ込められていないし、さっき言った理由もある。広まるなら遺伝子というよりむしろミームだ」
「ミーム」

「意識の意の字で以って意伝子とか模倣子とか言われる、考え方や知識を自己増殖するものとの捉え方だよ。これ自体もミーム。人類以上に科学技術を発展させた彼らがどんな世界を見ていたか知らないけれど、迷信を捨てられなかった。それは大気圏を越える技術で作られ、私達に出会った」
「結局、姉さんはあれを、何だと考えているんだ。」

「意識の外殻。生き物を傷害する悪意の憑代。動力が元々備わっているなら発見された時微動だにしてなかったのもおかしいし、兵器なら発見された時に暴れるはず。私は、彼らの外骨格を模して作ったのが、その何者かが誤認して動き出すきっかけになったんだと思う」
 なおも紬は続ける。



「屋上屋を架すように、推測に推測を重ねるが、進んだ科学力を持っていた異星人がどの程度進んだ倫理観を持っていたにせよ、彼らにとって当船は「放逐すべきもの」である。既に暴走事件を経験している以上、それを単なる迷信と斬って捨てることは出来ない。そして、仮に彼らの意識が我々のものと似通っていた場合、流されたものは「悪、穢れ」であり、我々は封印を開けてしまった。舟とヒトガタという依代に寄り固められていたなにものかは、解き放たれて地上に満ち溢れてしまったのではないか。何があっても形態を維持しようとする依代の再生を遅らせようとすることは、ひょっとすると再生を完了させるよりも悪いことをもたらすのではないか。……この懸念の真偽を検証すべく、我々は前提となる未知のエネルギーの実在性を確かめるために『ネビニラルの円盤』の建造に着手した」

「その、ネビニラルって言うのはどういう意味なんだ?」
「今造っているのはね、フーコーの振り子、あれに近い。あれは地球の自転を証明したけれど、この円盤は現代科学に拠らない力……便宜上マナと呼ぶけど、それの存在を検証する」
「マナ。ゲームか何かで聞いたことがあるな」

「元々はメラネシア地方の単語なんだけど、それを普及させたSF作家がいてね。その作家は超自然的な力は減少する一方のリソースだと仮定して、物語を紡いだ。その作品にはマナが存在する限り永久に回転する円盤が出てきて、それが止まったことでマナの有限性が明らかになる。マナの概念を取り入れた世界的にメジャーなカードゲームでは、この作家に敬意を表してネビニラルの円盤というカードが出てくる。ネビニラルとは作家名のラリー・ニーヴンを逆さに綴ったもので、建造している円盤のコードネームもここから来ている。カードと効果は逆だけどね」
 そう言って紬は手元の紙に『Larry Niven』と書いた。その下に続けて『Nevinyrral』。ネビニラル。

「今回の実験の目的は」
「不思議パワーの目視」
「マナという?」
「前提として、再三言うがあの漂流物の稼働原理はさっぱり分からない。エネルギー源も動力に変える機構も無し。科学的にはあれはただのガランドウの人形。だが動く。これは事実」

「仮に、何と呼んでもいいが不思議パワーの存在を仮定して、それであれが動いていると仮定を重ねる。それは既存物理を超えて効率的か無限大に思えるが――歴史的に見て本当に無尽蔵の動力源というのはあり得ない。人間の歴史は利用できる動力を発見する歴史だ。自分から他人へ。他人から動物へ。動物から化石へ、化石から電気へ。
 しかし、それらも莫大でこそあれ有限であり、酷使続ければ自分でも他人でも腹は減り、心身は壊れ、化石燃料は枯渇し、電力は切れる。新しい動力を見つける歴史は、リソースの浪費で立ち往生になりかける繰り返しでもある。未だ観測出来ないあれの動力源も、熱力学の大原則と人類の経験則から考えるなら、無限大とは考えにくい。
 地球史的に考えるならば、浪費で立ち往生したのは人間に限らない。植物ですら最初期には二酸化炭素を消費し尽くし、全球凍結を招いたことがあるんだ」
「それは……上手くやればあれのエネルギー供給を断つことが出来ると?」
「それを調べるのが今回の実験の目的となる」



 語り終えると日は暮れていた。夕食を共にし、再会を約す。別れ際、最後に紬がポツリと言った。

「あれが動いてる理屈を色々考えるが、擬似科学よりも迷信のほうに寄っていくよ。鬼だとか悪魔だとか、目に見えない何者かがあれを着て暴れていると考えた方が納得がいく。魂なんて無い、死んだらそれで終わりと考えるには、私たちはあまりに多くの死を背負い過ぎた」



第三話『Nevinyrral』



 その日はうだるような暑さだった。日差しは苛烈なまでに強くて白く、年を追う毎に夏が厳しくなっているように思える。それは琢磨が生まれる前から使い古された感想らしいので、そうなら今頃日本は生き物が住める環境ではないのだが、気温や湿度、紫外線といった測ることの出来るもの以外の、感覚的な何かがなんらかの悪化に気付いている気がする。日差しを遮るものが無い開けたところにいれば尚更だ。

 傍らに立つ紬の言葉に耳を傾けながら、自分も麦わら以外に日傘を借りればよかったと思った。日は既に高く、隠れる影もない。
「あの円盤一つ一つに、ヤソマガツから抽出した文様が刻まれている。それが幾つもシャフトに重ね合わされて、一本の巨大な円柱になるんだ。実験の模様はネットで配信される。事故が起きるか止まるまで全世界に中継」

 彼女が指す先には、四階建てほどの高さも巨大な塔が聳えていた。言葉の通り、軸となる太い円柱に幾つもの円盤が間隔を空けて刺さっているので、全体的には更に太い円柱に見えなくもない。台座に備え付けられ、二人が立つなにもない空間を中心に、何本も上から見て円形に配置されている。
「質問はあるかい?」
 日傘を手に紬が振り向く。

「とりあえず」
「うん」
「何故こんなど真ん中に連れてきたのですか」
「分かりやすいでしょう?」
 首肯。
「では次に、あんなに大きいものが動くのですか?」
「こう見えて中はほとんど中空だからね。構造的には馬鹿らしいほど単純だし、結構軽いよ」

「どうしてこんなに幾つも建てる?」
「小型の卓上模型では動くのを確認した。それを受けて大型のこれを造ることになったけど、費用はともかくパーツを造る手間は一も百も変わらなくてね。便宜上マナと呼ぶ力、その有無自体ははっきりしたから、各国での追試を待たずに、今度はそのスケールと限界を知るために大型を複数造ることになったんだ」

「限界?しかし今軽いと」
「ああ、一度に出せるパワーじゃなくてね。埋蔵量と言うか、性質だね。一つの柱に円盤を冗長化し、更にそれを複数同時に起動させる。小型の模型は回転数を上げたら素材が耐えきれず自壊したけど、今度はきちんと設計したスーパーカーボン製だ。これだけ巨大かつ複数を動かしたら、マナの消費はどれ程にのぼるか。枯渇するか再生可能か。懸念材料は山ほどあるけど、分からないからとりあえずやってみようってね。初めてちらつく手掛かりに待ちきれないんだよ」

「話を聞くと単純な構造に思えるが、どうして今まで誰もやらなかったんだ?」
「知らないよ。馬鹿馬鹿しくて試す気も無かったんじゃない?あとは半世紀前のSFを読むような物好きはもういないのか。ま、おかげでポスドク崩れの私に大役が廻ってきたんだけどね」

「最後に、どうして俺たちが呼ばれたんだ?外骨格まで一緒に」
「マナ仮説はヤソマガツの異常性を説明するためのものだから、あれに関わる人にも立ち会ってもらいたかったのが一点。もう一つは私の勘。懸念はあると言ったけど、マナの消費がどれほどになるとしても、何かが起こる予兆の段階で止めることが出来ると思う。
 だけど万一、ここも警備は充実しているけど、何かあったら、最も頑丈で動きやすい外骨格を持っているのは君たちだ」

 広場を去る前、琢磨は空を見上げた。青空は立ち並ぶ『ネビニラル』の最上部で丸く囲まれ、昼間なのにまるであの世への門が開いているようだった。



 実験区域に割り当てられた一画、琢磨たち外部の者がここまで来るのに使ったトレーラーまで戻ると、荷台から下ろされた玉串が整備班によって調整を終えたところだった。ここまで来るのに報道陣や抗議の人々、それを阻む物々しい警備を抜けてきている。

「我々は装着して待機と聞きましたが」
 盛口が紬に話しかける。
「はい。よろしくお願いします。あと三十分で開始時刻になります」
 紬が一礼し、退出する。残された二人は整備の手を借りて玉串を装着する。
「彼女は我々を招待した理由をなんて?」

 起動し、各部のチェックを終えると、非公開通信で彼が尋ねる。
「ヤソマガツ関係者に見せるためと、万一の備えだそうです」
「どんな事態を想定しているようだった?」
「分かりません。ただ、勘と」
「そうか……彼女も生還者だったな?」
「ええ、俺と同じく、盛口さんとも会ってるはずなんですが」
「あの時は無我夢中だったからな。そうか、彼女は研究者になったか。招待の際、我々を指名したのは彼女らしいが、確かに、動くあれを見た我々は、関係者と言えばこれ以上無い関係者だ」

 盛口の背を追って歩き出す時、この実験を聞いた時から漠然と感じていた不安の中身が分かった。
 超自然的な力が飛来したと言う。それは異星人の迷信に沿ったものだと言う。しかし、宗教迷信は地球にも有る。彼らの迷信に謂われが有ったのなら、我々の信仰にもなんらかの妥当性が有るのではないか。八百万の神々にも通じる遍在する力。それを消費してしまっては、恐ろしいことが起きないだろうか。
 あれで消費するのは、地球由来の超自然的な力ではないのか。


「しかし、だ」
 指定された待機地点まで移動しながら、盛口が非公開にもかかわらず声をひそめながら言う。炎天下だが外骨格の中は空調のおかげで涼しい。
「体験者ならなおのこと、五機しかない玉串を施設の外へ出せと言うだろうか。しかも此処の警備は異常に厳重だ」

 整備の際に玉串はデータリンクに組み込まれており、ディスプレイには実験区域のマップとそこに散らばる外骨格の位置が把握できた。目を転じると、重砲を載せた車の荷台に、スマートなシルエットの外骨格が乗っていた。
「あれなんかテクニカルだぞ。ここは本当に日本か?」
「テクニカル?」

「一般車両に火器を備え付ける、火力と機動力を兼ね備えたゲリラ戦の主力だ。こいつら移動砲台を用意してやがる。しかも外骨格は軍用だ」
「なるほど」

 琢磨は納得する。確かに外骨格なら、生身では固定するしかない重火器でも振り回せる。勿論移動力は極端に下がるが、車に乗せることでカバーするのだろう。わざわざ外骨格単体で解決しようとするより手軽で安価だ。装甲と人工筋肉を載せまくった玉串のほうが異常なのである。

「コードが車体と繋がっているのもありますが、もしや電源直結でしょうか」
「ああ、あ――……、そうだな。こりゃうちが持ってるのよりはるかに強いぞ、レールガン」
 弾体の射出に火力を用いないレールガンは、バッテリーの向上による実用化後も銃刀法のグレーゾーンだったが、それは用途と出力を限定した上である。そもそもが入手したくても火器以上に高価だという理由もある。それを大量に備えた警備と、また実験をこれだけの規模で行える点で、紬の所属する組織が大きな力を持っていることは間違いなかった。



 刻限になると共に、円盤が回転を開始する。最初は軸が内蔵するモーターによるものであり、それを止めてからは謎の力である。永久機関の紛い物であるそれは、異星の呪紋を刻んでチベット仏教のマニ車のように回り続ける。
「目的通りだが悪夢のような光景だね」
 紬がひとりごちる。
「この速度だとフライホイールの充電は大したことないかな~」

 その後、少しずつ一定間隔で回転数を上げていく。夏の照りつける日差しの中、一時間かけて設計時の最高速度に達すると、急速に空が翳り始めた。『ネビニラル』上空を流れる雲が、目に見えないものを取り込むように膨れ上がり、虚空からも湧きあがり、黒雲となって天を覆い尽くす。

「実験中止。逆回転で制動をかけろ」
 軸に仕込まれていたモーターが配列を切り替えられ、円盤の回転と拮抗する。瀑布の如く雨が降り、遍く地上にあるものを叩く。突然の豪雨に研究者が機器の保全に追われる中、外骨格のカメラが円形に開いた広場の中心に、白いもやを見つける。
 その発見はまず外骨格のネットワークで、次にPCで監視していた研究者たちに気付かれる。大気より重いらしいそれは、一瞬大きく沸き立って霧散し、後にはギザギザに砕けた破片が散乱する。

 それは、管虫のようにねじれ、
 身をよじり、
 置換された氷面をひび割って一点に動き出す。

「あれは……」

「撃て!」

「ヤソマガツだ」

 琢磨、紬、盛口が同時に反応した。紬は警備担当のインカムを奪い取って叫ぶ。
「目標、円形広場中央!全機集中連射!分からないでもとにかく撃て!」

 同時に琢磨と盛口は駆け出していた。腰部後方に装備していたハンドチェーンソーを左右展開する。
「ネビニラル再加速!吸い尽くせ!」
 回線に紬の怒号が聞こえる。切迫した紬の声が届いた警備の面々は、それ以外に根源的な怖気のまま弾体を発射する。その頃には、既に頭部と胴体が形成されていた。それは人の枠を外れた体を持ち、鋭角的な角と牙を備えて……長く太い首を仰け反らせ、空を仰いだ。 雨の濁流をものともせず、むしろ建材にしているような速度で、四肢が構成される。射撃を正確にするためにテクニカルが接近し、琢磨達に警告が入る。

「あまり近づくな当てちまうぞ!?」
「銃だけじゃ倒しきれない。専門家だ、突入させろ」
 落ち着いた盛口の声。

「馬鹿かお前レールガンだぞ連射だぞ」
 盛口が共同通信帯で話すが、警備の外骨格は取り合わず、威力と消費電力を抑える速射モードにしてレールガンを浴びせかける。四散し、粉々になるヤソマガツ。

「これで倒せるなら玉串は造られねえ……」
 弾雨の外、天然の雨に打たれて立ち尽くしながら盛口の呟きが耳に入る。程なくして、射手達に動揺が広がる。

「バッテリーが半分を切った。これだけ食らってこの無人機はどうして動くんだ!?」
「こっちはもう切れる!あとはどうしろってんだ!」
「とにかく叩き込め!殴れるだけ殴っておくんだ!」
 数丁のバッテリーが上がり、破壊と拮抗していた再生力が優勢になり、所々欠けながらも瞬く間に四肢を形成する。

『意識の外殻』
 突入しながら、紬の言葉が脳裏をよぎる。彼女の予想通り、これは異星人が宇宙に流すほど忌み嫌った、人々を傷害する意思の憑代なのか。

 急襲する右爪を避け、カウンターで肘を切り裂く。強烈な抵抗を感じながらもダイヤモンド刃の回転は人工筋肉の束を両断する。ぬかるんだ地面を転がりながら振り向くと、盛口が左膝を両断したところだった。カメラが洗浄され、視界がクリアになる。
 バランスを崩したヤソマガツは、しかし残った二肢で身をよじって切断面を合わせ、瞬時に修復。砲撃が止んだ僅かな時間で、欠けていた部分も塞がる。

 こちらに向き直る。その側面をテクニカルの一台が激突する。ヤソマガツは押し流されながらもフロントを掴み、跳躍して荷台に着地。車体をエビ反りにするヤソマガツ。荷台に乗っていた外骨格は踏み潰される寸前に跳んで逃げる。

 ヤソマガツの巨体がたわむ。荷台から滑り下りながら、掴んだ車体を片手で投げつける。盛口と琢磨は左右に散開。両手のチェーンソーを構えて同時に攻める。
 ヤソマガツは、爪先立ちで一体化したシルエットを持つ、踏ん張りが利かず接地面の少ない脚をぬかるんだ大地に半ば埋めていたが、両手を交差して地につくと、腕を回しながら泥を跳ね上げて回転蹴りを繰り出す。
 咄嗟に体を沈めるが、泥の帯は幅広く、視界が覆われる。直後に頭に強い衝撃を感じて脳が揺れる。
 薄れる意識の中、反射的にフィードバックに任せ、四つん這いで着地する。叩きつける雨が泥をあらかた洗い流し、機械洗浄でカメラが復調する。同じようにヤソマガツも四つん這いで対峙する。

 一目見た時から分かっていた。これはこの世の外から来た化物だと。
 鼓動の音が頭蓋に響き渡り、鼓膜の震えが脈動にシンクロする。ブツ切れになった意識を、ノイズ混じりで繋ぐ。頭の後ろ側がチリチリする。
 ヤソマガツが立ち上がり、爪を振り上げる。墨を流したような雨空を背負う威容に死を受け入れた時、一条の光と共にヤソマガツが吹き飛ぶ。まだ稼働するレールガンの一撃だ。

「動けるか」
 盛口が駆け寄る。攻撃を受け流す傾斜がついた左側の頭部増加装甲が無くなっていた。自分の模式図も同じように欠けているのに気付く。この場で最も頑丈な装甲でさえ、かすった一撃を軽減するのが限度らしい。無茶苦茶な大振りに訓練した出掛かりを押さえる戦法も適用出来ない。バッテリーの一つがオシャカになり、稼働時間が大幅に減る。チェーンソーを本体電池に切り替え。

「あいつ、十年前より強くなってやがる。武器は使えるか」
「両方動きます」
「よし、では片方を誰かに渡せ」
「え?」

 ヤソマガツが顔を上げる。泥にまみれ、目があるべきところは隠れているが、微塵も変わらぬ動きで突進してくる。警備の外骨格が数機、ナイフ片手に殺到する。
「予備の電池でしか動かんが、今は手数が足りん。最低でも足を切らねば」
「分かりました」
 銃撃戦を想定し、装甲よりも回避に重点を置いた軍用の軽量は機敏だったが、スーパーカーボン製とは言えナイフ一本ではリーチも破壊力も足りない。ヤソマガツが反応すると同時、ヒットアンドアウェイで撤退する。

「使え!」
 本体からコードを切断し、チェーンソーを二人が投げる。二機が受け取る。
「硬い俺たちが前衛を引き受けるから、攻撃を頼む。まだ撃てる車両は逃亡を防いでくれ」
 盛口の提案と共に、全機が無言で配置につく。

 一体何が、何を見ているのか。取り囲まれたヤソマガツは頭を巡らせることもせず、大きく体を屈め、手を地につける。背がたわんで膨らみ、直後、四足歩行で琢磨に突進する。眼前に伸び上がる両の爪。今まで以上の力押し。

 横に避けた琢磨は、既視感と同時に後ろに飛び退く。腕と首を埋没させながら、胴の力で繰り出される蹴りの渦が、宙を舞う玉串の背面スレスレで空を切る。

 泥を撒き散らしながらヤソマガツが巨躯を持ち上げ、高々と上がった角の生えた頭を、最寄りの一機に振り下ろす。眼の辺りをチェーンソーが轟音と共に貫くが、頭部を両断されながらも両手が警備の外骨格を掴み、引き千切る。

 血と脳漿の霧を散らし、颶風のように次なる獲物へ接近したヤソマガツが、前のめりにくずれおちる。最初は恐る恐る、次は全力で蹴られ、最後に八つ裂きにされても修復は始まらない。

 その様を呆然と眺めていた琢磨は、豪雨にかすむ『ネビニラル』の回転がいつの間にか止まっていることに気付き、膝をついた。





[27535] 第四話
Name: 三二一◆02c59522 ID:068f191e
Date: 2011/11/19 00:04
(遺族からの提供資料と押収したPCに残されていた未送信文書)

9月17日
今日、オークランドで広洋丸に乗った。また一週間ほどで帰る。お土産を楽しみにしていて。

9月23日
すごいものを見た!今日(時間的には昨日)、当直をしていたら巨大な鯨が船を飛び越えたんだ!
あんな大ジャンプが出来る生き物がいるなんて信じられない。

君は笑うかも知れないが、自分の目で見れば海の広大さを信じるさ。

9月24日
君は元気かい?君は元気だろうか?あれ以降、船に変な気配がする。

最近、船がピリピリしてる。あと数日の辛抱なのに、みんなイライラしている。呂伽、君の言った通りだったかもしれない。




(未送信文書)
帰りたい。海はもう嫌だ。怖い。ここに居たくない。





第四話『海魔』





2035年9月22日



星々の明かりの下、一隻の船が黒々とした太平洋を行く。
船の甲板には様々な色の直方体が積み木のように重なっており、船橋の高さと船幅に匹敵する幅の塊が、船の前方から後方までを埋め尽くしている。
整然としたが故に資格を混乱させる巨大な直方体は、コンテナだ。



コンテナは、陸上輸送に使われるトレーラーをそのまま船に載せるというのが基本的なアイデアである。
風雨に耐える箱(コンテナ)に予め荷物を積んでおき、岸壁ではコンテナ単位で荷役を行う。

用途により色々な種類があるが、いずれも輸送する貨物を単一化する目的で作られた輸送用容器で、次の特性を備えている。
1 移動・積換えが容易で、雨天でも荷役できる
2 貨物の収納・取り出しが容易
3 鉄道・トラックなどにそのまま積換えて運べる
4 堅牢で長時間の反復使用に耐える

コンテナが成功したポイントは、世界共通の海上コンテナ規格とコンテナ専用船の登場、効率よく荷役できる岸壁設備や、陸上輸送のためのトレーラー。
そういった個々の発明が、輸送システムとして一つに統合された点にある。ITによって、荷物表などの情報の変更、取り扱いが容易になったことも後押しした。

海陸一貫のシステムが構築されたことで、それまでどこに何を置いてどう取り出すか、多大な労力と時間を費やしていた荷役作業が大幅に効率化し、所要時間が短縮。
海運革命はメイドインチャイナの安価な雑貨の輸出を行う、中国の急激な成長の一因となった。

通常、搭載コンテナ個数を20フィート・コンテナ(8フィート×8フィート×20フィート=2.4m×2.4m×6.0m)に換算して表わし、この換算をTEU又は20フィート換算という。

二十年前、外宇宙から飛来した異星人の漂流物によって各種分野にブレイクスルーが起こったが、普及し信頼性のあるコンテナのシステムは残った。
飛来前に建造された広洋丸も、一般的に船の耐用年数は二十年前後なので、老朽化しつつも現役で使用されていた。



広洋丸はフル・コンテナ船。
フル・コンテナ船はコンテナのみ積載輸送する船のため、船体はコンテナのサイズに合わせた無駄のない設計となっている。

甲板下、船体のほとんどにもコンテナが満載されている。

人員もコンテナ輸送に最適化され、300m近い全長と6000TEUを超える積載能力ながら、船員は23人しかいない。



その内の二人が、夜の甲板を巡回していた。一人は日本人の若い男で、垂れ目で中肉中背。ひげが伸び始める時間で、もう毛が濃い。名前は河津和久。三等航海士。
もう一人は浅黒い肌でほっそりしており、個々の動作が敏捷。彼、チュワン・ブンナークは、河津和久より年上だったが、一見して若々しい。甲板手。
二人とも落下した時の備えとして、蛍光色のライフジャケットを着用している。

甲板部前面。
船倉は6個あり、そのいずれにも7段以上コンテナが重ねられている。
居住区を下に抱えた船橋は船尾寄りにあり、振り返れば赤と緑の舷灯が闇夜に光っている。

辺りは一面黒い膜のような海で、船灯に星明かりがかき消され、水平線も判然としない。それでも見上げれば陸の市街よりは星が見えた。

「空に何かいるのカズヒサ」

共に当直をしているチュワンが言った。社会から離れた海上で、密航は別として侵入者はまずない。
二人が見回るのは海上と天候の異常や積荷の確認のため、そして海賊の襲来を警戒してだった。
二人なのは、一人だといずれのケースでもヒューマンエラーが起きたら取り返しがつかないからだ。

「ああ、悪い。考え事をしていた」
「そう」
時は夜。23時。この時間帯は俗に新米ワッチ(当直のこと)と呼ばれる、経験の薄い者に割り振られる時間帯である。和久は二十歳。

「俺さー、出がけにカミさんと喧嘩したんだよね」
「奥さん怒らせると怖いよ。ウチはその度に機嫌取って物が増えるよ」

「だよなー。まあ土産も買ったしほとぼりも冷めたはず。そもそも行く時日本ではヤソマガツってブームがさ……」
「何、あれ?」

海に目を巡らしていたチャンソンが一方を指差した。甲板上を点検していた和久はそちらに顔を向ける。
柵に体重を乗せ、闇に眼を凝らすと、船から程近くで魚が跳ねていた。

「エサでもとってんのかな」
(こんな夜中に?)
疑問が浮かぶ。

「嫌な感じ。死骸にたかったり何かに追われてる時、あんな風に興奮するよ」
「ドザエモンがいるってか?」
そう言いながら更に凝視すると、魚群の先に泡が浮かび上がっていることに気付いた。それは急速に数と規模を増し、大海の水を持ち上げる。





船長である稲田厳央が気づいた時、警報を発令するには遅過ぎた。

21世紀初頭から、各種航海装置は電子化され、統合されている。
まず付近の海域や船籍を感知するソナーが、海中に巨大な影を捉えた。
この船に匹敵する巨体は、正体を見極める前に水中にあるべからざる速度で接近。自動衝突回避装置が作動する前に体を崩す激震に至る。

ブリッジの横に張り出した監視用ウィングにも海水がかかり、床に水が流れる。あらゆる非固定物が流れ落ちる騒音の中、歯を食いしばりながら手近な台に掴まり体勢を保つ。
ともすれば重力が足裏からグリップを奪い滑りそうな中、彼は首を巡らし事態を把握しようとした。
そして見た。

船窓の先に広がる星の海。砂粒のようなかそけき輝きを、水の海から盛り上がった影が隠している。
山と言うべきか塔と言うべきか。正確を期せば楕円の半分。それは急速に高さを減らし、最後に巨大な双葉のシルエットを見せびらかして沈んだ。

(鯨?……UMA?)

出現の名残を留めるのは、高い波と散乱した小物、いまだ小ぶりに揺れる船体だけだった。





甲板上、河津和久は必死で柵にしがみついていた。理性では何も分からぬまま、危険信号を発する本能に従う。

海水が圧倒的質量で叩きつけられ、粘性が落下に道連れにしようとする。
頭と肺が潰れるような衝撃。息を吐き出した口と鼻を襲う塩水の激痛。遠くなる意識と、抵抗する意識を根こそぎ奪う冷たい波涛。

どこまでも下へ誘引する奔流に揉まれながら、感触が無くなった掌に更に力を込める。
実時間にすればわずか数十秒。体感で数刻に及ぶ時間の拡張の中で、諸々の苦痛とそれを上回る恐怖に耐える。

何度浮いていると錯覚したか。幾度平衡感覚を喪失したか。力んで閉じた目に映るのは、夜空よりもまぶたの裏よりも冥い闇。
心でなく体で思う。そこは嫌だ。その気持ちが力を生む。



気配が変わった。おそるおそる目を開くと、甲板の上だった。揺れているが空気がある。
咳き込み、吸う。
甘い。

強張った指を意識して引き剥がす。
全身の力が抜けた。濡れてべとべとの着衣も気にならない。というかどうでもいい。
体を支えるのがだるい。視界の端に蛍光色を見つけ、同僚の無事に安堵する。

「あたっ」
そのまま後ろに倒れ込むと、後頭部に硬いものが当たった。腕を巡らせて拾う。

「……貝?」
星明かりでは心もとないが、扇形で滑らかな表面を持つそれは、大ぶりの貝と知れた。
見渡してみれば、辺りには同じ貝と腐ったような臭いを発する肉の断片が散乱していた。





9月23日



濡れた服を着替えるため、出入り口室(甲板から下の区画へ下りるための出入り口。風雨密戸の付いた小さな甲板室)から和久とチュワンが船内に戻ると、乗組員が整列していた。
皆、眠たげか理解が追い付いていない顔をしている。一瞬いぶかしんだが、すぐに点呼だと気付く。
付近の壁には、非常用の手斧が固定されている。

「甲板当直の河津和久とチュワン・ブンナーク、戻りました」
告げる。

船長の稲田厳央が振り向いた。白髪が混じり始めたが体つきはまだがっしりしていて、長年の経験は、穏やかで眠たげな容貌に自負と威厳を与えている。

その顔が、二人の姿を認めてくしゃくしゃと歪む。
「おお、無事だったか。これから捜索に行くところだったんだ」
「何とか命拾いしました」

「機関部で手を離せない者以外、全員ここに集まっている」
それを聞いて安堵した。

「コンテナのほうは一回りしましたが、落荷はないようです。甲板は落とし物が散乱してますよ。掃除しますか?」
「いや、夜のうちは二次災害の危険もある。異常が無ければ日のあるうちにすればいい」



薄汚れたベージュ色の廊下を歩き、自室に戻る。狭いながらも個室だ。
ベッドや机、卓上のノートPCや電話機など、おおよその家具は固定されており、筆記用具や掛け布団が転がっていることだけが、先程の名残だった。
シャワーを浴びて海水を流す。

眠りに落ちる前に、最前の出来事を妻にメールした。





夢を見た。

目の前にはチュワン・ブンナークがうずくまっている。自分は金槌を振り上げている。
同僚が前にかばうように挙げた腕はアザで膨らんで歪み、飛び出た骨の縁は赤く染まっている。自分はゲラゲラ笑って金槌を振り下ろす。
硬い感触。湿った音。

腕の隙間をついて叩き込み、血で濡れた得物を振り回す。
ゲラゲラゲラゲラ。

ゲラゲラゲラゲラ。





喉の痛みで目が覚めた。眼に映るのは白い天井と壁、合板の机。そっけない個室。しかし二重写しになる情景が頭を離れない。
上半身を起こし、膝を抱え、顎を乗せる。
「夢……?」

白い壁。机とノートPC。太いのと細いの、二本のコードが伸びてそれぞれコンセントとジャックに繋がっている。
「夢だよな……?」

ようやく現実感が戻ってきた。
「くそっ、気持ち悪ィ」
汗ばんだ体をタオルで拭う。

備え付けの電話が鳴っている。出なくても当直の前任者からだと分かる。
交代の際は念のため次の担当者を起こすのだ。受話器を取り、ぼやけた頭でもきちんと英語で応対し、外に出る。



出入り口室から外に出た和久は、猛烈な腐臭にぶつかって吐き気を催した。
甲板に出れば新鮮な外気に当たれると思ったのだが、昨夜のUMA(鯨?)が残していった腐肉が陽射しを浴びてボルテージを上げたらしい。

日差しで腐肉はひどい臭いがし、貝は間から肉がはみ出ている。盛り上がった肉は横長の目のようで、見るだけで胸がムカつくような邪悪な気配を発している。

海は照り返しで白く、日差しで生じた風にうねっている。

既に仕事に取り掛かったチュワンが、デッキブラシで前任者たちがまとめた腐肉の山を海に叩き落としている。
「おはよう」
「おはよう」

起き抜けで最悪の環境に置かれてチュワンの顔色も悪い。
夢で見た苦悶の姿がフラッシュバックし、言葉少なに挨拶をして、和久も臭い塊と貝の山を落とす作業に取り掛かった。






四時間後、食事をとっても気分が優れなかったのでジムへ向かう。

人間が緊張状態を保てるのは四時間前後だ。
だから船では、24時間を四時間ごとに六つに区切り、見張りや操船をする船員を3グループに分けて、四時間操船しては八時間休むと言うサイクルを、一日二回繰り返す。
この四時間の当直をワッチと言う。

最も経験の少ない和久は、船長や他先輩たちが起きている8~12時、20~24時の時間帯を任されている。
これを新米ワッチや殿様ワッチと言う。起きるのに楽な時間で、薄暮や薄明のような視界が怪しくなることが無いからだ。



ジムと言っても、狭い居住区の中、中央に卓球台、隅にペンチプレスが二台あるだけのささやかな空間だ。
ジムでは先客でチュワンと操舵手のソムチャーイ・ピバルがいた。ピバルは太り気味の中年で、今は茶褐色のたるんだ肌に血管を浮き上がらせてバーベルを上げている。
サポートについているチュワンは、既に何十回もつき合ったこれに飽きて、手持無沙汰にステップを踏み、シャドーボクシングの真似事をしている。



「卓球やろうぜ」
和久が呼びかけると、チュワンは躊躇なくラケットを握った。

「ちょっと離れるよ」
「ああ。この程度(の負荷)なら平気だ」

慣れた二人のやり取りを待ちながら、ピンポン玉を胸の高さに上げる。
「何賭ける?」
チュワンが聞く。

「晩飯。デザート」
娯楽の乏しい船内で一番の楽しみが食事だ。二番目が睡眠。
和久が答えると言葉の代わりにパンッとラケットを叩き、チュワンが前傾に構える。

合意は成った。後は勝負だ。
ピンポン玉を軽く放る。対角線ギリギリを攻めたサーブは、台を越えて床で跳ねた。

「あれ?」
「ハハッ」
チュワンが拾い、打つ。閃光のような打球は台に反射した後、全力ですぼめているピバルの口にすっぽりと嵌まった。

「ワリい!」
すぐさま拾い、目の前で手を拝むように合わせる。血走った目から顔をそらし、服で拭いて努めて明るく再開する。

「おっかしいな。力の加減が上手くいかない」
「俺もだ」
ピンポン玉は非常に軽い。そのため繊細な力加減が必要になるが、どこか体の信号が狂ったように力むことが止められないのだ。

再戦。
数合に渡る打ち合いの後、再び吸いこまれるようにカポッとピバルの口に嵌まるピンポン玉。
いつの間にか、かつてない重さのバーベルを単独で上げていたピバル。

しばしの沈黙の後、蛸のように突き出た唇から、吐き出された息でフワーっと垂直に上がるピンポン玉。

限界だった。

爆笑した。
「カポッて!そんな狙った様にハマるかよ!コントじゃあるまいし!」
「俺も驚いた!綺麗な放物線描いたな!」

罪悪感を覚えつつ、ものすごく下らないと思いつつ、娯楽の少ない中現れた珍事に笑う。いつも威圧的なピバルのことならなおさらだ。
理性はもう止めろと告げているのだが、制御の及ばないどこかから溢れて来て抑えられない。
笑い合えることが嬉しくて溜まらない。

当然、ピバルは怒った。
「お前らいい加減にしろよ?」
ピバルは色黒の濃い顔に眉を逆立てて怒っている。そこばかりが白い白目が、なお一層睨んでいる黒目を強調する。

「そんなつもりはなかったんだ。ごめん」
「笑って悪かった。腕は平気か?」

この程度でキレるなよと思いつつ、二人は素直に謝った。しかし苛立ちは収まらなかったようだ。汗臭い怒気が発散される。
抑えようのない激情の奔流に地団駄を踏み、行き先を見つけられない腕が振り回される。
「ああ今日はなんて日だ!夢見が悪いからとジムに来てみれば自己ベストが台無しになりやがる。お前らトンカチで頭割ってやろうか!」





航海中、船員がする仕事はあまりない。エンジンを司る機関部ならともかく、忙しくなるのは検疫や荷渡しなど陸に近付いてからである。
三交代制で、睡眠と当番以外の時間は読書したり運動したり思い思いに過ごす。

衛星が地球を覆った現在、ネットもウェブカメラも可能だが、後者で陸の家族と連絡を取る者は少ない。
「かえってホームシックになる」や「閉鎖環境に女っ気は不要」などの理由による。航海地点によっては時差の問題もある。
和久もメールだけにしていた。

和久は同僚のチュワンと共に、持ちこんだDVDを見ていた。画面には航海中、何度も見た肌色の絡み合いが繰り広げられている。脳味噌を空っぽにするにはこれが最適だ。
怠惰で無防備な映像に、不快な記憶がようやく洗い流されてゆく。





夢を見た。



妻がいる。ニコニコと笑っている。
愛おしくて抱きしめる。柔らかくて、温かい。

一度離れ、今度は柔らかな乳房の間に顔を埋める。慣れ親しんだ臭いと体温に憩う。穏やかな鼓動を感じ、無言のまま安らぐ。
支える必要の無い意識は蕩け、甘やかな香りに包まれて肌理の細かい肌を抱く。
安堵に足の力は抜け、膝をつく自分を彼女は優しく受け止めてくれる。

(違う)
規則正しく心臓が脈打つ。自分の心臓も脈打つ。
二つの鼓動を受ける内に、体の後ろから這い上がる意思がある。それは汚濁のように意識に広がっていく。

強迫観念に駆られ、体を離す。
疑問符を浮かべた、しかし信頼しきった無防備な顔面に拳を叩き込む。
殺さなければならない。

ひたすら殴り、湧き上がる力を相手の芯へと突き通す。
もっと強く。
硬い肘を振り下ろす。

相手は柔らかくて細い、非力な腕を前へと差し伸べて身を守っている。
「どうして?どうして!?」
起きていることを信じられない、そんな声の懇願が、言語を成さない雑音として耳を通り抜ける。

止めて、止めてと告げる掌を振り払う。繊細な指を一束にへし折る。



いつしか相手の体は動かなくなり、掌は鳥のそれに変わっている。
指と一体化した、力強い猛禽の爪で表皮ごと肉を切り裂いて、手の内に収まるほどの一掴みずつ、黄色い脂肪ごと肉を千切って握り潰す。
細胞の一片一片、その生までも死に至れ。

屑肉を山と積み、骨を打ち砕いて一心不乱に破壊していると、目前に縦の裂け目が現れた。
それは見る見るうちに巨大化し、闇黒を背景にした巨大な単眼になる。肉が肥大して溢れた貝の邪眼だ。襞の間には色素が溜まり、毒々しい黒目と瞼を形作る。

自分を超えるスケールのそれを、中に浮いて眺めている。それはもはや縦長の目ではなく、禍々しくも荘厳な門である。
門が震える。
上方が盛り上がり、小さな球状突起がせり上がる。真珠だ。

それは赤い。血の雫が凍ったように赤くて丸い。
半分ほどはゆっくりと持ち上がり、やがてつるりと零れ落ちる。

自分の頭へと、落下してくる紅真珠。

自らを生んだ貝と同じく、それにも古代エジプトの邪視に似た、細長い目のような模様があった。





9月24日



河津和久は目を覚ました。
涙声が頭蓋に反響している。

(どうして?どうして!?)

「俺が知りてえよ……」
じっとりとした汗を拭った。



食堂。廊下。
船員たちはすれ違う度に怯え、目が合うと苛立つ。
どうしようもなく不愉快で、閉鎖環境だから叫ぶことも出来ない。甲板で叫ぶのもためらわれる。

声を立てるのが怖い。何かに見つかりそうで、隠れていたい。
しかし皆ピリピリしていて、憤りをぶつける捌け口を求めている。
だから弱みは見せられず、結果更に粗暴になる。

船内全てで刺すような雰囲気が生まれていた。





15時。

機関室のエンジンコントロールルームには、機関員たちが座って休めるスペースがある。
そこで10時と15時に行われるティータイムは、打ち合わせや報告の他に、機関長が部下の隊長をチェックする場だ。
今日はミスが多かった。一つ一つは些細なケアレスミスだが、事故とは、基本的には誰かのミスを他の者が修正できないために起こることが多い。

余程致命的でなければチェックによって挽回できる。そのためには相互に気遣い合うことが大切で、一連のミスは互いの連絡が欠けていたのが原因だ。
部下たちが皆、顔を合わせるのを避け、余所余所しくなっていることに機関長の糸杉清高は気付いていた。ここ最近夢見が悪いが、海では不思議なことがつきものだ。

「気分が悪そうだが、どこか具合が悪いのか」
声をかけたが、皆黙っている。だが何か重苦しい。

「いつも言っているけどな」
言葉を継いだ。
「何かあったら必ず連絡しろ。連絡したら、俺の責任。しなかったら、その者の責任」
突き放すようにそう言うが、返ってくるのは複数の沈黙。

辛抱強く待っていると、バツの悪そうに身ぶるいした後、一番若い機関員のサリット・タムロングがおずおずと口を開いた。
「悪夢を見たので気分が優れず、顔を合わせるのが気まずいんです。……仲間達を、その、殺す夢を見たので」





船橋で、船長の稲田厳央と機関長の糸杉清高が話し合っている。

「ここの所、船が異常な雰囲気に包まれている。アンタも、アレを見ただろ?」
「ああ。それに、操舵手と航海士に雑談が減ったとは思っていた……。とは言え、出来ることは塩を撒くぐらいだ」

「それでさ、物は相談なんだが、船内で煙草を付ける許可をくれないか」
「煙草?」

「俺は陸(おか)に上がったらこれでもかってくらい土を楽しむために、山歩きをするのが趣味なんだけどさ……、この辺、山も海と変わらないんだ。
そんな時は、煙草で一服すると良いって先輩の登山者に教わってね。お守り代わりに、一箱持って来てる」

厳央は暫し黙考した。
「やらないよりはマシだろう。ともかく、試してみよう」
「よっしゃ」

清高は船橋を出ていった。その背を見送り、厳央は船橋の一角に設えられている神棚を拝んだ。






夕刻。部屋に籠っていた和久が、ノックされたドアを警戒しつつも開けると、機関長だった。
火のついた煙草が灰皿代わりの金属缶に入っている。

「ちょっと煙を入れさせてもらうよ」
そう言って、立ち上る煙を一振り、二振り。

すると、ふっと心が楽になった。酷使していた脳の一部が麻痺した感じで、今まで感じていた圧迫が消える。
「これ、何ですか?」

「ああ大したことない」
そう言って機関長は手を振る。
「ただのまじないだ」
それだけ言って出ていった。別のドアをノックする音がする。



煙草の煙で落ち着いた思考を巡らせる。
冷静になってみれば、悪夢は所詮夢だ。
気分が悪くなるだけで、それ以上の不都合はない。夢だけならば。

思い返してみると悪夢は一番無防備な時に分かりやすく翻訳されていただけで、どこからか放射されてくる悪意に引きずられて、起きている間も粗暴になったり残虐な考えが浮かぶ瞬間があった。

(まじないだって?)
出航前、妻とした喧嘩を思い出す。



河津和久は船乗りである。海にほど近い街で生まれ、航海学校に入学、漁師に進む周囲の友と同じく同年代の、若い娘を早々と嫁に貰った。
結婚から二年。成人し互いに遠慮が無くなる頃、今から二週間前の出航直前に、お守りを妻が買ってきた。

和久も海の男である。人知を超えた自然と相対する仕事上、縁起を担ぐ。だからお守りというのは良かった。それが普通のお守りであったなら。

それは当時、話題になっていたネビ……?ネビ何とかを応用したという触れ込みの、チャチであやしげな霊感商法だった。疑似科学と言うべきか。
男ばかりの閉鎖環境で心労の種を抱え込みたくない。つっぱねた。



「とってもいいんだって!檜山さんが言うんだから!」
脳を殴るようなヒステリックな声で彼女が言う。檜山とは彼女が属する雑談グループの長で、町内会の筆頭だ。忌々しさと共に中年太りの姿を思い浮かべた。

「いらんいらん。そんなもん無くても平気だから」
「そんなものってなによ、私はあなたを心配して――」
「わかった、わかったから」

盆の最中に起きた事件以来、テレビでは御用学者と宗教家と年のいったんタレントが、来る日も来る日も同じことを繰り返していた。
具体的な内容自体もループしているが、言わんとすることはこうだ。

大変なことになったぞ。言う通りにしないともっと悪い目に遭うぞ。

和久としては、十年間放っておけたものが今更危険とも思えないし、後から騒ぎ出した奴らを信じる気にもなれないのだが、そうは考えない人もいるらしい。身近では妻がそうだった。

「いいかい?。陸にいる人より、海にいる船乗りの方が海については詳しい。でも船乗りである自分はあれに関する危険な話を知らない。
だから、噂になっているような心配は杞憂だと証明出来る」
冷静に、和久はじゅんじゅんと理屈を説いて納得させようとした。しかし妻は納得しなかった。

「あるわよ。不思議な話」
「なんだい?それは」
本気で分からなかったので聞いた。宇宙産の機械相手に何を合わせるのだろう。バミューダトライアングル?

「二十一世紀のマリーセレスト号!」

一瞬何のことか分からなかったが、米軍の船が乗務員全てを失って漂流していた、という数年前の事件だと思い出した。爆笑した。
「あれはデマだよ。デマ。大体軍人が幽霊に負けるわけないだろう?」
極々常識的なことを言ったつもりだったが。


「わかってない。全然わかってない」
お決まりの文句に疲れが圧し掛かる。

「私にも付き合いってものがあるんだからね!あなたを待つ数か月もの間私がどうやって過ごさなきゃならないか――」
食い潰される時間を最小限に抑えるべく、反論を呑み込んで和久は耐えた。

結果として、お守りは荷物の奥深く、目に付きも思い出しもしない所に仕舞い込まれることになった。
捨てたかったのだが、不純物のほうが多いとは言え、心配する気持ちそのものに嘘はない。
お守りを捨てることは、それを捨てることも意味した。



今現在。当直の合間に、PCで思いつく用語を適当に検索する。

宇宙から来た宇宙人の機械。
それにまつわる謎は大して興味を掻き立てられなかったが、一つだけ気になった言葉があった。
今回発端となったネビ何とかという装置を作った科学者。ほとんど表に出ない彼女が出した声明の一節。

『ヤソマガツは異星人が放逐した穢れの集積であり、その封印は研究の際に解き放たれてしまった』

ヤソマガツと言うどこか不吉な名と、対照的に平坦な語り口が耳に残った。幼い頃読んだギリシアの神話を想起させる、その内容。
アメリカで調べられたのが日本で惨劇を起こした。
本当に全世界に?

和久は頭を振って妄想を打ち切った。海上で怪談は御免である。出航前、妻に説いた理屈を思い出す。

世界即ち地球の七割は海である。不思議エネルギーだろうが悪霊だろうが、実在するなら船乗りの間で話題になっていなければおかしい。
そして船乗りである自分はそんな話を知らない。故に絵空事と証明出来る。

それが今起きた。よりにもよって当事者となって。





室内に閉じ籠り、膝を抱えて黙考する。
この煙草の匂いが消え去ったら、今度は何が起こるんだろう。
考えたくない。風に当たりたい。だが部屋の外は怖くて、なるべく他の人に会いたくない。



今日の食堂は最悪だった。
誰もが喧嘩のスイッチが入っていることに気付いていて、かすかな刺激さえあれば止まらなくなることを自覚している。
何か一言でも、何か一動作でも威嚇したら、行き着く処まで行ってしまいそうなのだ。

暴れたい。しかしそんなことしたくない。
焦げ付くような緊張の中で、誰もが一挙一動に張り詰めて口に物を運んでいた。



PCでメールを作成する。しかし読み返すと泣き言ばかりなので、ブラウザを閉じた。

ベッドに横になって、明かりが眩しいけれど消すのは怖いから腕で目を覆う。
甲板に出たい。今の時間は夕焼けに空が赤く染まって、風が涼しいだろう。





茜色の空は時と共に、群青へ移り変わる。更に深まれば漆黒へ。
見上げれば満天の星が、清らかに白く瞬いている。

風が渡る。海の塩気は大気に澄んで、雄大な景色に相応しい。
風に運ばれ、自分がどこまでも世界に広がっていく。

遥か先、丸く沈んだ水平線。彼方に没していく太陽が見える。
目を下げれば肌寒い夜の帳が降りる中、その付近だけが名残り惜しげに朱に染まっている。



更に下、自分の足元に意識を向ける。
すると上下が逆転し、海原の大パノラマが広がった。

中心には、一隻の船がある。積み木のようなコンテナを積載して、航跡を残しながら西へ進んでいく。



(俺……、なんで乗ってる船が見えるんだ?)
ネイチャー番組のように壮大な、高所からの視覚。
ふと湧いた疑問に、愕然として、自分が宙に浮いていることに気付く。

手を見ると、白く透き通り、淡く光っている。ふわふわと、夢遊病のように現実感が無い。着衣もないが、人形のように中性的な体で、感情が追い付かない。



ともかく不安なので、船に戻ろうと再び視界に収めた時、あるはずの無い心臓が大きく脈打った。

船の上、最も高い船橋の上に、歪な眼球が乗っている。屋根からこぼれるほど大きくて、荒唐無稽なのに禍々しい。
まつげも横長の光彩も、震えた線で出来ていて、遠目にも吐き気も催すほど磯臭い。
まばたきしない単眼は、こちらから見つめるだけで、目が合わなくても強烈な悪意が伝わってくる。



(こいつだ!)
確信する。視線を避けつつ、船へと落下するように戻りながら思う。
(こいつが全ての元凶だったんだ!)

船橋の屋根の上、UMAが飛び越えていった際に落とした貝があるに違いない。
一刻も早く体に戻って、あの貝を海に投げ捨てるのだ。



視界を埋め尽くすコンテナ。
甲板。
それらを突き抜ける視覚で自分の体を探す。

あった。
通路でうずくまっている。





気付くと、河津和久は通路に座り込んでいた。見飽きたベージュ色の壁に囲まれている自分を意識する。
(いつの間に部屋から出たんだ?)
疑問を浮かべながら立ち上がろうとする。

瞬間、経験したことのない激痛に襲われて、和久は倒れた。

断続的に呼吸が止まり、合間に荒々しく息をつきながら、全身を確かめる。
右の掌が、人差し指と中指の間から大きく裂けていた。ぐちゃぐちゃの傷口と、どぎつい色彩が網膜を刺す。
眼球を巡らせると胴体や足にも裂傷があり、脳を殴打する信号によれば背中にも重傷を負っているらしかった。

(何故!?)
あまりの転変に、激痛への耽溺より疑問が優先する。
頬をリノリウムの床に付けたまま、動く限り目を使って付近を探ると、辺り一帯が血飛沫で汚れていることに気付く。

辛うじて顔を上げると、チュワンが腹から出た血で、バケツをブチ撒けたような水溜りを作りながら壁にもたれかかっている。瞼は閉じ、微動だにしない。
すぐそばには非常用の手斧があった。

(何が起こった)
状況把握もままならないまま、血を失った脳から意識が薄れていく。出血と共に、体の熱が逃げていく。



船中の至る所で、人々は殺し合い、身動きも出来ず最期の時を過ごしている。
意識は混濁し、誰一人として起こったことを把握出来てない。船内で聞こえる音は、機関音の他は呼吸だけ。
その息遣いも消えていく。





船橋で、足を失った稲田厳央はコンソールにしがみつき、事態を把握しきれぬまま、最後の力を振り絞って救難信号を発信した。
船長の責任として、誰か一人でも生き残っている者のために。

後は静寂。
ゆっくりと、船内の空気は冷えていく。
ゆっくりと、命の名残が消えていく。



綿津見の鼓動に揺られ、幽霊船は進む。
船橋の上では、貝から溢れた目が一つ、逢魔時の空をじっと睨んでいた。





「……生存者は……そうですか。はい。……はい」
「いえ、郵送は二の舞です。マテリアルはこちらから取りに窺います」

薄暗い部屋の中、紬は携帯電話を切る。
一つ大きく溜息をつくと、立ち上がって部屋を出た。






[27535] 第五話
Name: 三二一◆02c59522 ID:068f191e
Date: 2011/11/19 00:06
第五話 『Voodoo Chile』





人類が2000年代に迎えると予測されている分水嶺に、都市の成長がある。
全世界的に都市部へと人口の流入が止まらず、人類史上初めて都市人口が農村人口を上回るのだ。

農業の機械化と効率化、働き口の多寡。
理由は多々あるが、正常と異常の判断を多数決に頼るなら、ホモ=サピエンスにとってあるべき生活とは、土に根をおろし風と共に生きるのでなく、自らが生み出した巣に群居しお互いに依存しあった極度の分業専門社会となる。

しかし、そこにある住居は鉄鋼と珪素で建てられた壮麗な塔ばかりではない。

都市とは経済活動の場である。買うのは人間で、売るのも当然人間だ。
人間は24時間365日起きていられない。職場は働く場所であって、食べたり眠ったり着替えたりする場所が別に要る。
人間は生き物であり、また物体でもあるから、物理法則に制約を受ける。身も蓋も無く言うとテレポーテーション出来ないから家と職場が遠いと辛い。

故に、ベッドタウンや郊外団地と呼ばれるものが、企業群や工場の周りに出来る。ここまではかつて日本の高度経済成長期にも起きたこと。

では更に、それら周辺部が埋まっても都市部で働く人々が増えたら、その人々はどうやって休み、どこから通えばいいのだろう?

最も理想的なのは、需給の均衡点が跳ね上がった高価な職場近くを借りるだけの金銭的余裕があることだ。
他に、もっと遠いが比較的安い土地から長い時間をかけて通勤するか、職場の近くの路上で一夜を明かすか、あるいはもっと別、放置されていた空き家に住みついたり、アバラ家を立ててしまう方法もある。

どれを選ぶかは本人の都合と仕事の質に左右される。金が無いから職を求めて都市に来たのに、仕事が見つかったら前二つは取りたくても選択できない。

最後の二つ、不正であっても生活のために合理的な手段をとる人々が少数の個人でなく大多数になった時、スラムは形成される。
未加工のレンガ、藁、再利用のプラスチック、セメントの塊、廃材で建設される間に合わせの住居。
或いは老朽化して住民が立ち退いた廃屋。

スラムの形成と同時に、治安に恐怖を感じた富裕層は更なる外へ逃げる。
そして新たな商業圏を築き上げ、労働層がスラムを構築する。
つまり、スラムとは単に無気力な犯罪の温床なのではなく、悪化していく中での再生産の場でもあるのだ。

物売りや廃品回収、ニッチを求めて生きる人々の寝床であり、職場から持って帰った仕事やない職をする場所でもある。
それ故に、国が解決策として用意する集合住宅は用を成さない。
スラムより職場から遠く、よって労働時間も稼ぎも減り、狭い部屋では仕事が出来ない。作り上げて来た人間関係が分断されるから、手助けし合うことも出来なくなる。



都市への人口の流入。政府の決定より早く成長し変化する、大地に広がる住居群。

理論上、都市とは地球規模の環境危機に対する解決策である。都市密度は土地、エネルギー、資源利用の効率を上げることに繋がる。
だが環境効率は、手つかずの生態系や公園などの、緑を生成するものの保存を前提とする。
持続可能な都市には、周囲に廃棄物をリサイクルする湿地帯や農業が必要だ。

拡大する都市生活層は樹木をスラムの建材にし、そうして出来た場所には上下水道がない。糞尿は垂れ流され、法の庇護外であるから清潔な水の価格は天井知らずの値段になる。

都市は発展して、スラム、半スラム、超スラムになる。

2010年に国連が発表した世界人口予想では、2050年までに90億を突破、21世紀末までに世界人口は100億を超えると予測している。

その人口のほとんどが、大陸を覆うほど成長したスラムで生活するのだ。





2035年10月。南米。

空から地上を眺めたら、アメーバのように広がる灰色と赤茶けた色の混淆物を見るだろう。
それらは皆スラムだ。遺棄された高層建築と、ありもので出来た仮設住宅に寄りそって人々は生きている。





銃声がする。
まだ体も出来あがっていない子供たちが数人、銃を構えて発砲している。少年兵だ。彼らはスカートを履いている。
「女装する事で銃弾を混乱させる」という弾避けの呪術だ。

付近には隊長と思しき大人がいた。
男の肌、迷彩服から露出している箇所は禿頭も腕も全て、象形文字とも工学記号ともつかない、奇怪な図形が彫られていて、チョコレート色の肌に白く浮かび上がっている。
腰には敵の肝臓を干したものがぶらさがっている。これも弾避けの呪術。



少年兵の一人は12歳で、親子で食事をしていた時やってきた兵士に誘拐された。
兵士が少年を連れていくと言うと父親が抗議し、家の裏で争っていると銃声がした。

「お前を連れていく。父親は死んだ」と兵士は言った。
母はやってきた時からずっと泣いていた。
連れ去られる時、頭から血を流して倒れている父を見た。

連れていかれた先では、無理矢理人殺しを強要された後に麻薬漬けにされた。

この前までサッカーと家事を手伝うことを考えていたのに、今ではどうやって敵を撃つかを考えている。



「ブラッディエッジ!モタモタするな!」
隊長の怒号が飛ぶ。血まみれの刃とは攫われた時に付けられた名前だ。彼ら組織は、本名以外に陰惨で現実離れした「戦闘名」を付けることで、少年たちを現実から切り離すのだ。

先行して銃を乱射しているのはベノムスパイダー。年かさの少年で、彼は自分から准軍事組織に入隊した。
「街じゃギャングどもがナイフやピストルを見せびらかしてるけどよ。ここに入った方が強力な武器をもらえるんだぜ。こいつは余程クールってもんじゃないか?」

他に、どうせ攫われるのだからと親が同意して入隊した子供たちもいる。そういう子どもたちは、1、2年してまだ生きていたら普通のスラムの生活に戻るのだ。



空は黒ずんだ灰色に濁っている。スラムを走る中古車の排ガスが溜まり、淀んでいる。
遠くの方で、小さな黒い影が飛んでいる。政府や企業側のPMF(民間軍事会社)が飛ばしている無人機だ。



少年たちが撃っていたのは、街の外れにある仮設住宅の一つだ。
中に入ると、並べられたベッドが乗った人間ごと血の海に沈んでいた。老人、女性。ベッドの側には棒が立っており、それにかけられたパックから伸びた管は息絶えた女性の腕に刺さっている。
ここは病院だった。スラムの中で援助と善意をかき集めて作った場所。

壁際に、数人の子供たちが倒れている。ブラッディエッジと同じく汚れたTシャツを着て、体と不釣り合いに大きな銃器を抱えて死んでいる。
彼らは弾避けに全身に泥を塗りたくるという呪術を行っていた。

非合法の武装組織がぶつかった。片方は病院に逃げ込んで、お互い気にせず殺し合った。



この場に生存している唯一の成人男性が、生き残っていた女性に銃を突きつける。
「お前たち、少しの間外で待ってろ」
少年たちは素直に従った。年長のベノムスパイダーだけがニヤニヤと唾を吐きながら。



男の全身に彫られた、誰にも意味が分からない入れ墨は、少年兵達の憧れの的だ。
連れてこられたばかりの子供は異様に怯えるが、入隊儀式で一人殺すなり、途端にそれがかっこいいものに見えてくる。そして刺青の一部を写すことと「戦闘名」を欲しがるようになる。
そんな魔的な力があった。

男は元々スラムの上層、正規で定職のある父を持つ次男坊だったが、十年前の十四歳の時、ニュースで騒がれていた異星の紋様をかっこいいというだけで全身に彫った。
その外見によって、それまでギャングの下っ端程度だったのが急速に身を持ち崩した。

今では精神年齢が近い子供たちだけに持ち上げられ、他の成人が組織の上層で指示するばかりなのに、少数の子供を率いて前線にいる。
上層部は刺青の奇怪な効果を便利と認めながらも、頭の足りない男が下剋上を企てるのを危惧してもいた。

男の肌には奇妙な刺青がある。それは下半身にも及んでいる。



不正なコミュニティが成長していくとこういうことが起きる。そこにはセーフティーネットが存在しない。往々にして、不正なコミュニティが成長出来るところでは正規も大差ない。
一度合法な生計から足を踏み外したら、あり余る活力と野心が暴力に引き寄せられ、更に悪化する。暴力的な組織が台頭する。

ほとんど教養が無く、合法的に稼ぐ力も無く、女性に対する魅力も無く、平和になんの利害も無い男たち。
未来の無い男たち。
彼らは他の方法では決して手に入らなかったものを略奪し、若者たちを自分たちの予備軍にする。

「未来がある」若者たちも、他に道標となる大きな存在がいないから惹き寄せられる。こうしてどんどん救いが無くなっていく。



男の額に風穴が開いた。脳漿をぶちまけつつ、下半身をまろび出したまま転倒する。

「下衆め……」
背後から射殺した、硝煙をたなびかせるピストルを握っていた初老の男は、辛うじて起こしていた上体ごと崩れ、二度と起き上がらなかった。
「先生……」
女が呟いた。





夜。黒々とした闇の下、遺された少年兵たちは焚火を囲む。

銃声の後、飛び出して逃走する女を見て室内に入れば、隊長が死んでいた。
ロクに訓練も受けていない、病院を戦場にするのが悪いことだとも知らない子供たち。どうすればいいのか年長二人で意見が分かれ、まとまらないまま夜を迎えた。

男の死体はそのままになっている。ベッドに寝かされも埋められもしていない。
明かりの無い暗闇の中、他の死体は早くもネズミがかじり虫がたかっているのに、男の死体だけ近づいていない。
見えない毒を避けるように。猛獣を怖れるように。

廃墟となったあばら屋の外で、少年兵たちは転がっていた廃材と弾丸の火薬で火を起こした。
車座に囲み、こめかみの絆創膏を剥がす。滲んだ傷口に白い粉を摺り付けると、ドクッドクッと心臓が脈打つ音が耳のそばで聞こえ、頭の芯がぼうっとなる。
注射針も紙巻きも無く、太い血管を傷つけて直接流す方法しか麻薬を摂取する方法を教えられていない。

三人は無言で火を見つめ、皆それぞれの物思いに耽っている。遠くから潮騒のように喧騒が伝わる中、薪の爆ぜる音だけがする。



(これからどうするんだろう)
ブラッディエッジは黙考する。逃げたところで行き場はない。人殺しだから元の家には帰れない。組織に戻るしかない。しかし、隊長が死んだことをどう伝えよう?

説明したら証拠の死体を持ってくるよう言われるに違いない。けどまた来るのは面倒臭い。あらかじめ死体を引き摺って行くのも大変だ。
(僕たちが殺したって思われたらどうしよう)



空を見上げる。排気ガスの雲に覆われて、地上の光量の乏しさにもかかわらず星は見えない。圧し掛かるような闇がある。
連れ去られるまでは、この闇に脅えたものだ。何も見えないが、何かがいる、圧迫するような気配があった。
見つめることで、それが姿を現す気がして、でも目を離したらその隙に近づかれる気がして、目を背けたくてもじっと見つめ続けていた。

だが麻薬漬けにされ、自分より大きな大人を、渡された「カラシニコフ」という銃で殺せるようになってから、怖くなくなった。
この銃は八つのパーツで出来ていて、自分でも分解して組み立てられる。
これを欲しがって入隊したベノムスパイダーの気持ちが分かる。

これがあれば、自分はビクビクと怯える9才の子供ではなく、恐れを知らない戦士なのだ。引き金を引くだけで、立ち塞がる敵はバタバタと倒れる。



目を転じると、二つの明かりの塊が見える。一つは白く強い光の集まりで、もう一つは赤く弱い光が集っている。
前の一つには近づいてはいけないことを知っていた。

スラムを分断する、フェンスで守られたきちんとアスファルトが敷かれた道路が続くそこは、高い塀と電流の流れる鉄格子で囲まれ、鎧みたいな機械が自分たちより強力な武器を持って徘徊しているのだ。
両親が揃っていた頃、疲れつつも羨ましげな目でそこを見つめていたのを覚えている。

もう一つはスラムの居住区だ。ドラム缶で火を焚いたり、盗んできた電気でスタンドを点けているのだ。
風に乗って糞尿の臭いがする。耳をすませばすすり泣きと諦めの嘆息が伝わってくる。





廃病院から物音がした。弾かれたように三人は銃を構える。

静寂。

続いて、木の床が軋む音。
焚火が照らす中、無人のはずの扉は黒々と盛り上がってくるような闇ばかりがある。

闇が揺らいだ。
そう感じた刹那、ベノムスパイダーは連射した。誰だろうと死んじまえ。

次の瞬間、圧し掛かってきた何かが自分を押し倒した。砂利だらけの地面に頬が激突する。焚火が近く熱くて眩しい。
押さえつけている何かの手は、身震いするほど冷たかった。



「オ――――――!」
ブラッディエッジが聞いたこともない声を上げている。耳にするだけで動悸がするような恐怖の声音だ。
顔にかかる力が上がっている。このままだと押し潰されるか握り潰される。

焦りながらもがき、銃口を相手に押し当てる。感触的に腹部と思しき場所。引き金を引く。
手首がイカれる反動と共に、爆音がして大穴の開いた手応えがする。しかし、かかる力は増していく。

「オイ!お前らも撃てよ!俺を助けろよ!」
膝でケリを入れながら、側にいるはずの二人に叫ぶ。だが返ってきたのは、それ以上の絶叫だった。





「うわああああ!」
ブラッディエッジは叫んだ。もう一人も叫んだ。
襲いかかってきた何かの正体が照らし出された時。依存していたAK47の銃撃を食らってもそれが死ななかった時。
二人は銃を投げ捨てて散り散りに逃げた。

「ああああ、うわああああん」
泣きながら、ブラッディエッジでなく、ただの子供に戻りながら。
見える光――他人がいる証――に向かって息を切らせて走り続けた。





遠ざかっていく泣き声を聞きながら、ベノムスパイダーはパニックに陥っていた。
(あいつら逃げやがった!ここで終わりかよ!)
頭の一部が冷静に死を見つめている。手足を振り回し、身をよじって抵抗する。

体を押さえていたもう一つの手が首にかかった。頭を押さえていた手も首にかかる。
その手を爪も剥がれんばかりに掻きむしりながら、自分を殺す相手を睨む。
(マジかよ)

白目を剥き、額に穴のあいた隊長の顔がそこにあった。



毒ガスがねじれて渦巻く悪夢じみた夜空の下、首のへし折れた少年の死体を手放すと、動く死体は明かりへ向かって歩き始めた。





スラムは騒乱に包まれた。
日が落ちると多くの住民は家に籠る。火の側にいるのは安酒を持った労働者や若者たちだ。
子供が声変わりもしていない悲鳴を上げて走り過ぎたと思ったら、血にまみれて損壊した死体が現れたのが数分前。

それが呻き声も上げずに手近な若者達に襲いかかり、ドラム缶が倒れ、炎は付近の建物に燃え移る。
喚き声と共に外に出た人々が元凶を見る。

殺戮は繰り返され、怒号と悲鳴は連鎖する。



臭い煙を上げて掘立小屋が燃え落ちる。人々は家財や商売道具、わずかな貴重品を抱えて逃げ惑う。
機に乗じて略奪する者がいる。取り縋って抵抗する者がいる。人波の怒涛の最中、彼らは大勢の足で踏み潰される。

真昼のように煌々と、スラムは明るく照らされている。
火中に黒点のように浮かぶ死体の影。火炎の舌が時折その輪郭をなぞるように滑る。



「壊せ!壊せ!延焼を食い止めろ!」
廃材や紙にプラスチック、可燃物で作られたスラムは火に弱い。まだ火が及んでいない箇所では、住宅を打ち壊すことで火災の拡大を食い止めようとしている。

「止めてくれ!」
「こうしないとどうせ燃えるぞ!」

「クソッ、そのまま燃えちまえよ!」
火中に目を凝らしていた若者が一人、自家製の銃を構えて発砲した。業火の中を悠然と歩く死体に耐えきれなくなったのだ。
攻撃に反応して死体は一直線に駆け出し、発砲した若者の息の根を止める。

全身は血で黒ずみ甚だしく損壊している。頭はへこみ、額に風穴があき、腹が蜂の巣のようになって千切れた中身が垂れている。脈流のとうに止まった血液は、針のように毛羽立っている。
まるで血の一滴まで殺意に凝っているようだ。わずかに露出した肌には奇怪な白いのたくりがある。

若者を殺したまま停止した後頭部に鉄パイプが振り下ろされる。何度も叩きつけると不快な音と共に容器が割れ、中身が零れる。
殴った男は首を食い千切られて死んだ。



「チクショウ……」
絶望の呻きが漏れる。頭を破壊しても死なないなら、このゾンビ野郎をどうしたらいい?
このまま足止めして一緒に燃えろってか?
「チクショウ……!」



「こんなものは、奴らにやっちまえ!」
誰かが叫んだ。

その叫びは、天啓の如く伝播した。そうだ!あいつらだ!
人々は布を持ち寄り、手渡しながら凶暴な動く死体を何重にも押し包む。

「アルファヴィルへ!」
「アルファヴィルへ!」

「あのいけ好かない金持ち達に!」
「くれてやれ!」

火にも放り込まず担ぎ、一体となって。
彼らは燃え盛る豪炎にも輝きを損なわない、白々とした地上の星へと向かう。進む先はアルファヴィル。映画に登場する都市の名前を冠された、富裕層の住まうゲーテッドコミュニティだ。

立ち上る幾柱もの黒煙は蛇のように天へ上がり、自らを生んだ猛火で踊っている。
多頭蛇が顕現する夜の下、かつて毛布と共に疫病を渡された人々の子孫たちは、宇宙から来た害を自分を無視する者達へと運ぶ。




都市と郊外がスラムに浸食されていった時、裕福な人々は自分たちの安全と資産が脅かされることを怖れた。
その不安と恐怖に、不動産屋は解決策を売り付けた。
関わるのが怖いなら、関わらずに済むようにすればいい。

堅牢な防壁と屈強な警備員に守られた住宅地。自分と同クラスの収入と未来がある人々だけが住める都。職場も買い物も全て壁の中で完結し、外に伸びる道路はアクセスの確保に過ぎない。
それら設備とサービスが一体になった幻想のユートピア。それがゲーテッドコミュニティだ。

言うまでもなく、ある者にとってのユートピアは別の誰かにとってのディストピアである。






ゲーテッドコミュニティ。

正門に程近い白亜の住居。

偶々トイレに立った男は、帰り道ふと目をやったガラスの窓越しに見える光景に驚愕した。
スラムの民衆が押し寄せて、肉の丘を作っている。

トラックがぶつかっても問題ない、頑丈で高圧電流が流れる背の高い門。
それを人々は、まるで一つの生き物のように重なり、支え合って頂きを超える高さに迫ろうとしている。
雪崩を打って入ってくるに違いない。中から開けられたらおしまいだ。

男は急いで寝室に携帯電話を取りに行った。

暫しの後、慌てて窓に貼り着くと、門の外に民衆の姿は無かった。門の中には奇妙なものが一つきり。
古ぼけたボロ布で出来た人間大の芋虫だけが、門の内側の芝生で常夜灯に照らされて蠢いている。

拍子抜けし、それでも警戒して契約している民間警備会社の番号に発信する。

「はい。ククルカン・セキュリティ・サービスです」
低く明朗な、格調ある男の声が応える。

「貧民共が門を超えて何かを投げ込んだ。爆弾かも知れんから至急対処してくれ。一体どうなってるんだ?不審者が入ったのに警報が鳴らなかったぞ」
「申し訳ありません。お客様。夜遅くのトラブルには、お客様の快眠を煩わさぬよう、秘密裏に対処するサービスとなっております。当方でも不審物を感知しまして、既にスペシャルチームを派遣済みです」
通話先の男は淀みなく答える。昼間の仕事を思い出して嫌になってきた。




窓の外では、休みない蠕動に芋虫を形作っていたキルトがはだけ、幾重もの封印から抜け出して中のものが姿を現す。
ロクに着衣をつけてなく、マトモな肌の部分もほとんど無い。ある部位はむごたらしく損壊し、ある部位は血に染まって毛羽立っている。

わずかに残った地肌には、煌々と灯りを浴びて奇怪な記号が蛆か小さな白蛇のように浮かび上がる。頭部は一番ひどく傷んでいて、元がどんな顔だったのか想像することも出来ない。



「ゾンビだ!あいつらゾンビを投げ入れやがった!」
思わず男は叫んだ。
どう見ても死んでいるのに動く、人間の形をした何者か。それを他に何と呼ぶ?

「……耳炎を患っているもので聞き取り損ねました。お手数ですが、もう一度お願い出来ますか?」
十分な間をおいて、完璧な困惑のニュアンスで返してくる相手。
ユーモアを交えるその余裕に、男は無性に憎悪を覚えた。

外では静寂の中、動く死体が徘徊を開始した。





「ゾンビだ!」
の叫びを聞いた時、大学生になる息子は台所でコーラを飲んでいる最中だった。
父親が見ているのとは別の個所の窓からのぞくと、成程、どう見ても死んでる奴が動いている。

息子は自室に戻ると、こんなこともあろうかと用意していたバンダナで顔の下半分を覆い、オートマチック拳銃をズボンにたくし込んだ。
中座する前に見ていた点けっ放しのPCには、大画面のモニターに無修正ポルノが停止している。だがそれには目もくれにない。もっと刺激的なことが見つかったのだから。

チェーンソーを装備すべく、彼は自室を後にした。





警備会社のバンが急行すると、動く死体は機敏に車へ突進し、跳ね飛ばされた。
そのまま数メートル程吹っ飛び、車もバンパーを少しへこませつつ急停止する。

「ゾンビって思った以上に馬鹿なんだな」
「そいつは良いニュースだ。この車はエアバッグがきちんと作動するって知った次ぐらいに良いニュースだ」

車の中には二人の男が乗っている。一人は運転席。エアバッグに突っ伏している。
もう一人は後部座席を丸々一人占めしていて、前座席を足で蹴って体が投げ出されるのを防いでいる。

二人の状態の違いは、乗車位置でもシートベルトでもなく、外骨格の有無である。
後部座席に座っている男は、艶消しの銀色で、筋肉の隆起を模したようなデザインのパワードスーツを纏っている。
真一文字のバイザーの下、口だけが露出しているが、そこも結局は透明な装甲で覆われている。着る者を古代アテネの英雄に擬す外骨格だ。

「なるべく形を残したまま捕えろってよ。現場の苦労も知らない癖に」
運転席、生身の男が言う。

「証拠を見せて、政府に賠償ふっかける気なんだろ」
外骨格の男が答える。
装備のせいか、性格か。口調が軽い。

死体が起き上がった。
「行こうか。黙示録の前哨戦だ」
「囮を頼むぜ。ご大層な鎧を着込んでるんだからさ」

二人が車を降りると、動く死体はパワードスーツの男に襲いかかった。
新たなる骨格を手に入れて強化された筋力で、男は掴みかかる腕を逆に捕まえる。
両者は数秒、組み合ったまま硬直した。

「オイオイ、ウソだろ?」
生身の男が至近距離から死体の頭部に鉛玉を撃ち込む。何発も叩き込んで、首から上がほとんど無くなった頃、外骨格から放たれる白い泡が死体を包んだ。

「助かったぜ。礼を言う。この野郎なんて力だ。ムースを操作する余裕が無かった」
動く死体を包んだのは、発射の衝撃で爆発的に膨らむ発泡性の樹脂だ。
本来は暴徒鎮圧用の非殺傷兵器であり、特殊な溶剤を調合しなければ脱出出来ない。

「ワイヤーもしといた方がいいんじゃないかな。念のため」
「ああ、そうしよう」
「というか燃やしちまおうぜ。こんなのと同じ車に乗りたくねえ」



人間大の塊を睨みながら相談していた二人の注意は、近づいてくる雄叫びに一瞬向かう。

「俺も混ぜろーっ!」
掲げたチェーンソーをけたたましく掻き鳴らしながら、通報者の息子が駆け寄ってきたのだ。口は大きく見開き、声は歓喜に酔っている。
反射的に二人が銃口を向けたのも、無理なからぬことであった。



瞬転。
粘着質の檻を千切り裂いた動く死体が、脱出の跳躍の勢いを乗せて強化外骨格の男の脳に拳を振り下ろす。
雷が戦神の斧かという強烈な一撃に、外骨格の男が膝をつく。

反作用に耐えきれず、死体の右腕が骨ごと砕け散りながら背中まで弾け飛ぶ。
肉を散らし、肩甲骨がズリ落ちる。酸素に触れてない体奥の肉は、まだ鮮やかに赤かった。
赤黒い雨に、生身の警備員は反射的に顔を手で覆って全身の粘膜を守る。



ドラ息子は目の前で展開する光景にフリーズしていた。
(ゾンビがダンクシュート決めてんじゃねえよ!)
ゾンビというものは馬鹿なはずだ。動きが鈍かったり速かったりはするが、感染と数が怖いのであってアクションは決めない。

そんな思考もあったが、最大の要因はその外見だ。
頭が無い。片腕も無い。檻にへばりついた皮膚をぶち破って中身だけが脱出したらしく、皮膚も無くて真紅。
足も胴体もボロボロで、どうしようもなく欠けているのに、立ち上がってかつての姿を窺わせるのだ。

ドラ息子はどうしようもない嫌悪感を覚えた。
今まで、拳銃でスラムの住人を面白半分に殺したことはある。そのことへの罪悪感は未だ無い。
しかし、銃声と共に遠くの方で人がバタバタ死ぬのには笑っていられたのに、目の前にある崩れきった人間の形を自分の手で壊すのには、途方もなく嫌悪感が湧き上がる。

死体が残った片腕を振り上げた。
このままだと自分が死ぬか死体が更に壊れる。
死ぬのは嫌だ。けど壊したくない。

自分の持つ刃で胴体が分断される映像が脳裏に浮かび、ドラ息子は口内に酸味を覚えると同時、工具を持つ手を放しかけた。

放さず済んだのは、自分と死体との距離を開けてくれた人物がいるからだ。
距離が開くと共に、名状しがたい不愉快さも薄れていく。

その人物とは父である。
死地に息子が登場した時、目ん物していた父は前後も忘れて外へと駆け出したのだ。



父の背に死体に肘が振り下ろされる。強烈な衝撃に数秒呼吸が止まり、苦悶すら上げられない。
息が止まっている背に再び肘が振り下ろされる。このまま続くと酸欠か背骨が折れて死ぬ。

「止めろー!」
ドラ息子が叫ぶと同時、死体の残っていた左腕が消滅する。
続いて胴も視界から消え去る。後に残るのは、頭ごと叩かれたような耳の痛みと静寂じみた轟音の余韻。
それからゆっくりと音が戻ってくる。

脳震盪から回復した外骨格の男が、大口径の銃で死体を吹き飛ばしたのだ。倍力機構と電子制御で、連射しても狙いは正確だった。
下半身だけになって、死体はもう動かない。



「親父!無事か!?」
チェーンソーを投げ捨てて、息子は父に駆け寄った。

「おお息子……怪我は無いか」
抱きかかえられた男は力ない笑みを返す。

「傷を負ってしまった。息子よ、私はもう駄目だ。化物になる前に、お前の銃を貸してくれないか」
「何言ってんだよ、オヤジィ!」
男が背中を見せる。死体の折れて突き出た骨によるものだろう、衣服に紛れて裂傷があった。

「強くあれ、息子よ。俺もスラムに生まれたが、がむしゃらに働いて今の立場を手に入れた。全身にタトゥーを入れた弟の更生すら投げ捨ててな……」
「お前にはまだ分からないかもしれないが、何かを手に入れるには、その何かを手に入れることを一旦捨てなくてはならない。それこそが法則なのだ」
そう言って、男は笑った。息子は顔をぐしゃぐしゃにして泣いた。

「泣くんじゃない。父さんは人間のまま、誇り高く生を全うするんだ」
「こうなったのも政府の責任だ。しっかりと賠償金を勝ち取るんだぞ。母さんによろしくな」

「オヤジィ……」
「元気でな、ビリー」

そう言い残して、男は息子の拳銃をこめかみに当てて自殺した。
「親父……。俺、分かったよ。絶対に国からゾンビを生み出した賠償金ふんだくってやるよ」
ビリーは誓い、強く拳を握り締めた。






しかし、その後動く死体によって負傷、また死亡した人間に変異はなく、訴えは却下。
男の死は自殺と認定され、保険金も下りなかった。
収入の激減した遺族はゲーテッドコミュニティに所属出来なくなり、別の場所へ移っていった。



この事件以降、スラムの住民が政府や武装組織に抵抗する際は、見よう見真似で奇怪なボディペイントをするようになる。
「殺したら殺してやる」のメッセージとして。






[27535] 第六話
Name: 三二一◆02c59522 ID:068f191e
Date: 2011/11/20 00:06
第六話『一霊四魂』





2035年10月。
日本。首都圏の片隅。

白色LEDが照らす一室で、一人の少年が作業をしている。
少年は年の頃17、18。老けた猿顔で、髪の毛は爆発したように縮れ、手入れのされてない剛毛は好き放題伸びている。
目は細く、飾り気のない眼鏡を掛けていて、右の眉の端がアザになって消えている。色褪せた着衣の裾から除く手首は細い。

広さにして四畳半の室内は、床のほとんどが机の下まで散らかった本で埋まっている。
四方の壁には更に山積みになり、その上には洗濯済みの衣類がタンスにも仕舞われず重ねられている。
別の壁には模型の箱の塔。学ランが掛けられている壁もある。



「出来た……」
混沌とした部屋の中、ペラペラの万年床に座って少年は呟く。低く、しわがれた声だった。発音し慣れていない声。
高校入学を機にコツコツと作り続けてきた二体の像が、完成したのだ。
立ち上がり、少し離れて被造物を眺める。

その二体は、等身大の女性の形をして、足を投げ出しながら座っている。頭頂高およそ170cm。

一体は漆黒のライダースーツを纏い、頭部はフルフェイスで濃紺色の奇怪なヘルメットを被っている。
フリッツヘルメットに、幾何学的に覗き穴のあいたバイザー。巨大なチンガードは扁平な鏃のように丸みを帯びて尖っている。
それらは少年がプラ板を加工して作った意匠だった。

両腕と両足には中まで詰まった鉄の棒がガムテープで固定されていて、両腕の物は両の先端が、肘と拳、それぞれより拳一つ分伸びている。

もう一体はジャージを着ていて、手足には何もない。
しかし、頭部にはチェーンソーが固定されており、その重さに耐えきれず大きく俯き、首の綿を包んだビニールが見えている。
黒々と、何かが記されている。

二体とも、足はスポーツシューズだった。開発費のしわ寄せである。
この二体を、少年はなるべく遠ざかろうと背を反らして睨んでいる。



この二体は、少年の理想の写し身だった。即ち、力。その中でも最も単純で、それ故に仮説を重ねやすい筋力。

仮に人体に不釣り合いな怪力を付与するとする。
負荷に自滅しないとする。あまり複雑な技はしないとする。
そんな存在を、どのような武器なら強化できるか。

この仮定には、背景に更なる前提がある。
その体は痛みを感じない。躊躇せず暴れまくる。道具を持てないぐらい馬鹿である。



人間から出発するなら、この前提は意味をなさない。
そんな人間は、薬物を投与でもしない限り存在しない。
そんな薬物を一介の高校生は入手出来ない。

わざわざ等身大を作ってまで、検証する必要はない。頭でこねくり回せば済むぐらい、現実味が無い。



彼の出発点は、人間ではなかった。
異形の怪物だった。

ヤソマガツ。
外宇宙から流れ着いた異星の人型。

その力が欲しい。あの存在に自分を重ね合わせたい。
そんな想いが募り、最も安価で容易に入手可能な素材、空気人形を用いて建造したのが目前の二体だ。
透明無貌で、傍目にはやたら煽情的な浮輪に見えるそれも、ネット通販を使えば未成年でも買うことが出来た。

マネキンでも自製の泥人形でもなく、欲望をぶつけられるだけの顔無しを買ったのは、廉価と省力の他にも理由がある。

女体とは美しいものだ。
自分にとって理解しがたい現実を破壊する化物は、同じぐらい理解の及ばない女の形をとるべきだ。

思想とも妄執ともつかない、そんな願望。



今夏、再び見せた異常な怪力。巨躯に有り得べからざる運動能力。
同時に、それだけの力を殺傷に向けながら、逃走に向けない知性。
これらを劣化と言えコピーしつつ、強化するにはどうしたらいいか。

一つは末端強化。四肢の先端に硬くて重たいものを固定しただけのシンプルな形。
一つは体幹強化。動力で裁断力を上乗せした重量による頭突き。手足は移動用。



あくまで写し身で、着衣で隠されている本体にはびっしりと異星の紋様が書き込まれているが、動かない。
これは少年が、自らの抱える破壊衝動と暴力への憧れを形象化し、客観視するための神像だった。

化身だから複数いて、その動く様を想像することで、背後にある心の在り様に目を向けるための象徴。
ともすれば自壊に向かいそうになる強迫観念に対処するには、それを安定させる器が必要だった。



「小さい」
少年は呻いた。猫背になる。

この二体がオリジナルのように動けば、腕を振る度に死ぬだろう。頭突きの度に死ぬだろう。
だがその動作は、八つ当たりだ。手足と頭を振り回してイヤイヤと、駄々をこねているだけだ。



小さい。
何と比べているかも分からぬまま、ただ小さいと思う。
刃物のストックはあるが、凶器の強弱の問題ではないのだ。



「うわああああ」
言葉にもならない音がこぼれる。
自分を苦しめる物はこんなに小さかったのか。こんな小さなものに振り回される程、俺の精神は弱いのか。

泣けたら切りがいいのだけれど、胸に寒々とした喪失感だけがあって涙が出ない。
助けて助けてと乞い願う。
しかし語る友人が居ないから神像を作ったのだし、ダッチワイフで出来たこれを誰かに見せることは出来ない。それはとても不快にする。

だがそれが、自分の精神の形なのだ。
嗚咽にもならない濁音を発したまま、少年は自分で自分の頭を抱えるばかりだ。





木刀を振ることから柏佳辰の一日は始まる。

畳でなくマットレスが敷き詰められた道場を雑巾がけし、神前に礼する。
そして、通常の木刀より一回り大きい素振り用の木刀で両手素振りを各百、片手を各百、通常の木刀でクーリングがてら各百。

外から聞こえてくる生活の気配を遠く耳にしながら黙々と振る。
静謐な道場に風を切る音がこだまする。



黒に近い、濃い褐色の長髪を束ねた少女は、Tシャツとジャージで木刀を振っている。
露出した腕は実用的な肉付きで、丸みを帯びながらも引き締まり、脂気のない顔の涼やかな双眸は、虚空の敵を飽くことなく斬り伏せている。



朝の日課が終わると隣の実家に戻って湯を浴び、朝食に祖父を起こす。

「おじいちゃん、朝ですよー」
やや低い、よく通る声とともに箒が祖父のくるまった煎餅布団に突き出される。
やにわに右肘にひび割れるような痛みが走り、それがかすかな予兆のうちにかろうじて手を放す。
ホウキの柄が空を切って壁に衝突する。

夢うつつの祖父が反射的に寝込みを襲う暴漢に対応したのだ。
これがあるから祖母が健在だった頃も布団は離されていた。
呼吸を心得た祖母亡き今、藪をつつくのは反射神経に秀でた孫娘の仕事である、日課その二。

「朝ごはん出来てるよ」
「……?…………おー…………」
生返事に、言語野が動く程度の覚醒を確認して部屋を出る。



父母と揃って食事。
「いただきます」
礼。今日の献立はハムエッグと茄子の味噌汁。

味噌汁をすする。
欠乏していた水分と塩分を感知して味蕾が有頂天の快感を脳に送る。
温かい味噌汁と人体の親和性は舌が味噌汁を味わっているか、全身が原始の海に溶けているか、そんな愉悦に誘う。

そんなだから、TVで流されているニュースにも、ほとんど意識は向いていない。



『中国で巨大な鯨の死骸が釣り上げられました。発見当初から既に白骨化し、
死亡から数カ月経っているものと見て、研究者たちはその原因を……』

『南米チリ、アルファヴィル近郊にてデモが起こり、警察と衝突が続いています。
デモ参加者はボディペイントをし、挑発的な行為を繰り返すため、当局は放水で対応しています』



黄身だけが残ったハムエッグを丸めて一息に口に入れる。
消耗した油脂とタンパク質に全身の細胞が休息の合図として恍惚となる。
真珠のような歯が黄身を割ると濃厚な栄養素が脳を揺さぶる。米を頬張る。



『全世界に配信されたネビニラル起動実験から二ヶ月が経ちました。
昨日、実験で使用された紋様のインターネットでの閲覧や印刷物への使用を規制する、フィルタリング法案が衆議院で可決されました。
一部では国民の知る権利の侵害だと言う声もあり……』

鉄面皮のまま心を極楽に遊ばせつつこの間十五分。祖父が卓につくころに佳辰の食事は礼で終わる。
食事を済ませると、紺のセーラーに着替えて登校する。





登校すると、正門の前で何やらビラを配っていた。
シカトして門をくぐる。しばらくすれば教諭が追っ払うだろう。

佳辰が通う高校は創立百二十年。建物自体は四十年前に建て直されたもので、白亜の校舎には長年の風雪で付いた埃で黒ずんでいる。
端的に言ってボロい。四十年で改築当初と変わったのは、照明設備とPC関連ぐらいらしい。
いまだにコンセントを使っている。佳辰の家もそうなのだが。



運動部の朝練を尻目に昇降口に至る。

「おはよ~かしかし」
昇降口で靴を履き代えていた友人が、佳辰を認めて挨拶をする。名を別当寺伊織。「かしわかしん」でかしかし。

「おはよう。受け取ったんだ」
「うん」

友人である少女の手には先程のビラがあった。
「ここのところ増えたね。なんだっけ?ネビ……、ネビ……」
「ネビニラル」

「そうそれ。動きがあったからって、今まで黙っていた奴らが騒ぎだす」
「面白いからいいじゃん」
「そう?」

憎々しげに吐き捨てる佳辰に、少女はふんわりと笑って流す。
怜悧か、ともすれば剣呑な気配を漂わせている佳辰と違って、友人はおっとりとして柔媚な雰囲気を纏っている。
ゆるくウェーブのかかった髪と合わさって箱入り娘だ。

「なんて書いてあるの?」
「あれは宇宙人からの試練でどうたらこうたら」

「アホだね」
「うん」
ビラは丸められてゴミ箱に捨てられた。



「にしても、わざわざ配りに来ることないだろうに」
「仕方ないよ。証拠が出たんだし。かしかしの家もご利益あるじゃん」

あの夏の暑い日、全世界に配信された回転する円盤の塔と、それに続く大立ち回り。
一連の出来事は、不可視の力を目に見える形で仄めかした。

科学、工学、経済、宗教。斯界の反応こそまとまらないものの、在野ではあやしげなグッズが売り出され、ヨガ、気功などに関心を持つ人々が増えた。

「確かに、どんな形であれ興味を持ってくれるのはありがたいんだけど……」
佳辰の家も、見学者や入門者が急増した。それと共に収入も上向きになり、人手が足りなくなったおかげで謹慎も解けたのだが……。

「流石に、大真面目に○メハメ波撃てるのか聞かれるのは参る」

「カメ○メ波(○動拳でも可)は撃てません」は、気の概念を扱う武道の自己紹介の際に口にされる、お決まりのジョークである。
しかし不可思議な何かの実在が明らかになった時、割と本気で期待する人が増えたのだ。

(撃てねーよ)



談笑しながら階段を上り、二階の教室に入る。朝は早く、まだ登校時間のピークには間がある。

「見て見てこれ。紅真珠」
教室で席に荷物を置くや否や、友人は鞄から雑誌を取り出して見せてきた。
そこには、一人の女優と、その首にかかる大粒の真珠の写真が載っていた。

サンゴよりも紅く、親指の先ほどもある。真珠としては規格外に大きく、限界まで膨らんだ血の雫に見える。
何より気味悪いのが、特に色の濃い部分が線を描き、古代エジプトの邪眼に似た「目」の模様を作っているところだった。

「気味悪い」
「女優が女優だしー」

紅真珠を着けている女優は、ハリウッドのホラー映画で鬼気迫る演技をしたと絶賛された女優だった。
佳辰も友人と連れ立って見たが、白人でここまで日本的な「立ってるだけでこの世のものとは思えない」幽霊を演じられるのかと大いにビビった。

「で?この記事は?」
「『心霊現象多発!呪いの紅真珠!?』だって」
この友人はそういう類が好きなのである。



佳辰が友人と雑誌の記事について駄弁っていると、一人の男子生徒が登校してきた。
頭は爆発したような天然パーマで、猫背。右の眉の端にアザがある。
名を末林創と言う。

三人は別に挨拶を交わすこともなく、創は無言で離れた自分の席に座る。
そこから普段は鞄から取り出した本を読むのだが、その日は机に顔を埋めるように突っ伏した。


時間と共に、級友たちが登校してくる。佳辰と伊織がそれぞれと他愛ない会話を交わしていると、HRの時間となった。

担任の女教師が教室に入る。短髪で、眼鏡を掛けている若い女性。教職四年目で初めての三年生担当らしいと佳辰は聞いた。
そのせいか、秋が深まる今頃は常よりも一層危なっかしげに忙しそうにしている。

日直が号令をかけ、一日の学校生活が始まる。






四時限目、古文の授業。

『此時日ははや西に沈みて、雨雲はおちかかるばかりに闇(くら)けれど、旧(しく)住なれし里なれば迷ふべうもあらじと……』

一人一人、席順で教科書を一文ずつ輪読する。口と耳で慣れるのが建前だが、三年にもなってそんなことをやらされても困る。
授業のうち、ほとんどの時間は暇だから、大抵の者は内職をしている。
佳辰も先の時限、物理で出された宿題を消化していた。新エネルギーが見つかろうが化物が出ようが、成績と受験は廃れないのだ。

「『雨雲のおちかかるばかり』。前節では『五月雨のはれ間』とありました。雨月物語では、月の他に雨も重要なファクターです」

一段落終わり、頭の禿げかかった教師が熱弁を振るっている。佳辰は問題に没頭している。

「この物語に置いて、作者の上田秋成は、怪異の出現の前後に、雨の語を用いるのです。
秋成にとって、雨という語、実際の雨でなく雨という観念は、人知らぬ霊界、異界への言語的通路であったかもしれません。
なんとなれば、この物語は『雨月物語』だからです。『雨は晴れて月は朦朧の夜』……なんという美の極致!」



「では次の人。……次の人?」
ひとくさり陶酔した後、何食わぬ顔で教師は授業を再開した。
「(佳辰、番だよ。いたうねびたれど)」

友人に促され、佳辰は開きっ放しにしていた教科書から指定の一節を見つけ出した。





昼休み。

学校は社会の雛形だ。そこで人々は親しくなる方法や、苦手な相手をやり過ごす方法を学ぶ。
様々な会話が飛び交っている。

教室で、廊下で、便所で。
目的を持つもの、持たないもの。ある者たちはスポーツについて語り合い、ある者たちは昨日あった出来事を語り、ある者たちは恋愛沙汰やここにいない者の悪口を語る。

誰もが付き合いやすい、自分を受け入れてくれる者同士で固まり合って談笑している。
ヒエラルキーの高いのも低いのも、とまれかくまれ居場所があって、緊張しつつも緩やかに、流動しながら繋がっている。



昼食を済ませた佳辰は、伊織に従って図書室へ向かった。
ここは他所の喧騒が嘘のように静寂に包まれている。心なしか気温も低い。

「何探してるの?」
声をひそめて尋ねる。
「ここ十年の新聞記事がまとめられた縮刷版。図書館ならあるあずなんだけど……」

意図が分からないながらも、探す後ろについていく。手伝えたら手伝って、手伝えなかったら自分の本を探すつもりである。
後方、入口付近では誰かがPCと繋がった印刷機を使っている。うるさい。



「(ん~。無いなあ)」
窓の下の壁際。
入口から近いが視界的に盲点となる箇所に、それはあった。

辞書を更に大判に、月刊漫画雑誌を更に大部にした厚みの本が、何冊も並んでいる。
伊織はしゃがみ、その横のCDケースを漁っている。



ふと気付くと、同級の男子生徒が側に立っていた。
片手にコピー用紙、片手にCDケースを持っている。

無言で二人が見守る中、DCケースを所定の位置に戻すと、猫背のまま無言で本棚へ歩いていった。



「(あった)」
戻されたディスクを手に取った伊織が呟く。

「それじゃ、コピー取ってくるね」
体を起こし、振り向いて佳辰に告げる。

「(スポーツに関する本ってどこにある?)」
「(あっち)」

伊織が指差した先は、創が消えた方向だった。



指示された方向、林立する本棚の隙間に入る。
苔のような、湿って暗い、植物質の臭いがする。手近な本棚を見る。日本文化論。

視線を通路に戻すと、先の方で創が本棚を眺めていた。通路は狭く、お互い横になってもすれ違うのは困難だ。
一度反対から出て戻ろうかと思ったが、本を探す手間は残る。佳辰は手っ取り早く行くことにした。

思考の間、暫し目を離した内に、創は通路の中ほどまで来ていた。
この男は気配が薄い。影のよう、と言うより、自分が居ると伝えるやり方が我流で違うのだ。

「ねえ」
佳辰が声を掛けると、創はビクンと震えて佳辰を見た。

この程度では佳辰はたじろがない。
震えた創のほうにも、目に怯えの色はない。

「体幹についての本がどこにあるか知らない?」
尋ねると、無表情のまま創は一歩下がり、腕を上げて棚の一角を指した。

「ありがとう」
口にする間に、創は背を向けて去っていった。

移送し、めぼしい本を読み比べる佳辰。
集中していたので、消えた反対側、自分が元いた側から創が現れ、一冊の本を抜き取ったのにも気付かない。
仮に気付いても、どうでもよかっただろう。





六時限目、LHR。
今週は開催まであと三週間となった文化祭の出し物についての相談だった。

三十人からなるクラスの意思決定だが、積極的に発言するのは三人程度。
少数がそれに乗る形で思い付きを口にして、大多数は内職も出来ぬまま時間を持て余している。

高校三年、最後のイベントと捉えるか、貴重な受験への勉強時間を削るものと考えるか。
個々の間でも温度差はあって、それでも逆らって目立つのは嫌だから、受動的に時間が経つのを待っている。



時間の終わり頃、出尽くした案が多数決にかけられる。
各々が許容できる多数派になりそうな案に手を上げて、今回は喫茶店となった。

鐘が鳴り、掃除の時間になる。佳辰は机を下げ、友人と談笑しながら当番の場所へ移動する。
教室では、創他数名の男子生徒が、ほったらかしにされた机を持ち上げて移していた。





放課後。
友人の別当寺伊織と並んで、佳辰は歩く。
油断するとスタスタと友人を置き去りにしてしまうため、意識して歩調を落とす。



結局、帰りのHRも使って売り物とクラスTシャツの可否が決まった。
売り物はゴマ団子。他、調理室を使わずそっとプレートで出来る物。

クラスTシャツは、クラスでリーダー格の男女が提案したもので、反対意見として根回しのされていない創が
「めんどくさい。それに十一月にTシャツ見えるように着たら寒いだろ」
と発言し、少々の笑いと賛同を受けたものの、多数決で可決された。

佳辰も賛成に挙手した。
わずらわしいのに変わりはなかったが、どうせ渉外は言いだしっぺが行うのだ。
紛糾するよりさっさと帰りたかった。

帰り際、担任が進路アンケートを配布した。



帰りの通学路、駅に近づくと林立する商業施設の詰まったビル群の中に、ひときわ大きなビルが建っている。

「ん?」
歩きながら昼間複写した印刷物を広げていた伊織が、佳辰の視線を辿る。

「どうしたの?」
視線の先にはガラス貼りのビル。そこにはいつも人だかりが出来ている。

「あそこに、ヤソマガツがいるんだっけ?」
「違うよ」
佳辰の疑問を、伊織は一蹴した。

「けど今は、CDFがヤソマガツを持ってるんでしょ?」



CDF、カウンター=ドリフ=ファウンデーション。

十年前、ヤソマガツが巻き起こす惨禍の拡大を体を張って食い止めた民間人が居た。
彼、彼女らは、当時最新鋭だった全身装甲型の外骨格を装備しており、そもそもイベント自体がそのプロモーションのためだった。

何の前触れもなく動き、殺戮を繰り返すヤソマガツ。
異星人製の外骨格オリジナル。

警察が到着するまで、逃げ遅れた参加者を救助し、ヤソマガツと対抗出来るのは、超人的な耐久力と怪力を与えられた彼らしかいなかった。

彼らは徳目を果たした。その場で最も力があるというだけの理由で、人を守った。
結果は、十人中生存者二人。

生き残った一人は、国に働きかけてヤソマガツを封印する施設を作った。それが外宇宙漂流物研究所。通称ヤソ研。

もう一人は、民間に働き掛けて有志を募り、海外資本とも結びついてヤソマガツ……外宇宙からの漂流物を研究し、対抗するためのネットワークを作った。
それが対漂流物財団。ドリフと言う語は、日本においては古典的な喜劇を連想させるため、CDFあるいは財団と呼ばれる。



目の前の友人から聞いた受け売りを思い出しながら、その際にヤソマガツはCDFの下に移送されたと語られたのも覚えている。

「ここは本部。と言っても、日本の中で一番ってだけだけど。ヤソマガツは静岡の方の研究所にあるみたい」
疑問を読んだように、伊織が答える。

「元々はどこにあったんだっけ?」
「長野の北のほう」

「飛んだなあ……」
隣接している県ではあるが。
「本当にトンだしね」

夏のあの日、友人から興奮した様子で懸ってきた電話を思い出す。
携帯片手に指示されたサイトを開けると、異形の巨躯と多数のずんぐりした人型が、目まぐるしく戦っていた。

(跳んでたなあ……)
脳内で映像を再生する。

構えも残心も無茶苦茶だったが、中に人が入っている金属製の外骨格は、息もつかせぬ大立ち回りをし、体重を感じさせないアクロバチックな動きをした。
佳辰にとっては、怪獣であることが自明であるヤソマガツよりも、人間にあれだけのハードとしての底上げを与える外骨格の方に関心が行く。

(ソフトの方も凄いんだっけ?)
門下生の誰かが切れていた気がするが、身近で体験していないので実感が湧かない。

その後、CDFも最初期に声明を出しただけで沈黙し、佳辰含む大多数の人々から関心は薄れ出している。
新エネルギーがあるのなら、産業化かエンドユーザーになるの目処が立ってから考えればいいのだ。それまでは学者の範疇。



「うーん」
「どうしたの?」

故に、関心を持つのは暇を持て余した類。
独考を打ち切り、紙を睨んでいる友人を見る。紙には潰れた印刷で奇妙な線がのたくっている。

「昼間コピーした奴なんだけど、印刷が潰れてよく分かんない」
「それは何?」

「ネビニラル。それに使われていた異星の呪文。規制始まったから、取っておこうと思って」
「何に使うの?」

「とっておくだけ。こっそり爆弾を隠し持っているようで、ドキドキしない?」
「別に」

答えると友人は大きく伸びをした。
「あー、Tシャツ捨てなければ良かった。あれがプリントされたTシャツ、昔持ってたんだよ?けど古くなったから捨てちゃった」





「今日、佳辰の家寄っていい?」
駅に着き、電車に乗り込む間際、伊織が尋ねた。

「いいけど、おじいちゃん散歩かもよ」
「散歩って、外骨格着てなかった?」

友人の意見に、手を振る。
「あーダメ。うちの古いから通信無いの。マジで姿勢補助だけ」
「そっか。それでもいいよ」



家の最寄駅で降り、改札をくぐる。
すると、佳辰ははるか遠くに祖父の姿を認めた。
輪郭はおぼろげでも、歩き方の雰囲気で親しい者だと分かるものだ。

「いた。あっち」
伊織を伴い、祖父の下へ向かう。



家の近所を散歩する祖父の体には、服の上から四肢に沿ってパイプが張り巡らされていた。
それは人間を包み込むような棒人間で、関節の所だけが太い。
関節の大きな円筒は、「JAXA」と書かれたペイントが、長年の使用で摺りきれ、色褪せている。

これを買ったのは、もう十年以上昔になる。
体が衰え、立ち歩くのを億劫がるようになった祖父。そのボケ防止に買ったのだ。

構造は単純で、各関節を人工筋肉で動かす。通信機能も無ければ、他機体とのやりとりも無い。
一応単体での学習機能はある。

日本中が漂流物に湧き、NASAと付ければ売れた時代の商品だった。
物は良い。本当に良い。何せ十年以上現役で動く。
しかし選んだ理由、発売した動機からすれば、NASAと紛らわしいパチもんなのだ。



「ただいま、おじいちゃん」
「おお佳辰か、お帰り。別当寺さんもこんにちわ」

佳辰が近付くと、祖父は快活に挨拶を返した。
かくしゃくとして、以前会った人の名前も覚えている。
製品のスペックの高低なんてどうでもいい。身内としては、祖父が健やかであればそれで満足だ。

「伊織が、じいさんの講義聞きたいんだって」
「宜しくお願いします、佳辰ちゃんのおじいちゃん」

佳辰が告げると、伊織はぺこりと頭を下げて、手折やかに笑う。

「ああいとも、殊勝なお嬢さんだ。それじゃそこでお菓子を買ってからな…談点」
「いいから。家にあるから。買えるよ、じいさん」
スーパーに入ろうとする祖父を制し、三人は連れ立って家へ向かった。





「一霊四魂」
と祖父が言う。
友人は畏まって正座して聞いている。佳辰はそれを、胡坐をかいて聞き流している。
祖父の寝起きする和室で、部屋の一角にはロボットプラモが積み重なっている。これもボケ防止の指先の運動。



「一霊とは、直霊。直日(なおひ)の霊(みたま)とも言う。直霊は魂の内奥にある純粋にして至善至美なる霊を言う。」
「この直霊が事の善悪美醜を直感し、人を正しく導く」

「もし間違った時はそれを反省してみずからを責め、悔い改めさせる。
いわば良心は直霊の働きで、現代的に言えばフィードバックの役割を担う」



「四魂とは、荒魂(あらみたま)、和魂(にぎみたま)、幸魂(さちみたま)、奇魂(くしみたま)の四つの魂を言う。」
「四魂にはそれぞれ本体と用(はたらき)がある。」



「荒魂の本体は勇。忍耐力、実行力」

「和魂の本体は親。親和の力」

「幸魂の本体は愛。愛は愛でも恋愛とは違う。何かを生み、育てる生成化育の力だ」

「奇魂の本体は智。智恵正覚の力」



「一霊四魂と言っても、物質でないからものを測る尺度では捉えられない。
直霊は四魂を統括すると考えてもいいし、四魂それぞれのうちに直霊があると考えてもいい。
四魂も、それぞれ独立しているというよりも、一つの魂の四方面と考えたらよい」



「荒魂が働くと、人は真の勇によって、物事を進め、果断に思い切りよく実行し、困難に対しても奮い立ち、苦労も厭わず勉め励み、悪に打ち克つ」

「和魂が働くと、人は真の親によって、平和を作り、身を収め、家を斉え、国を治め、あらゆるものと仲良く交わる」

「幸魂が働くと、人は真の愛によって、世を益し人を益し、ものを造り、生み、進化させ、育てる」

「奇魂が働くと、人は真の智によって、事をなすのに巧みであり、感覚が鋭くとぎすまされ、観察力が深くなり、知的な覚も精神的な悟も明らかになる」



「人によって四魂には偏りがある。例えば儂なら奇魂が、佳辰なら荒魂が、お嬢ちゃんなら和魂が強い、という風に言える」

「そう言えば以前、道場には奇魂が強そうな子が来ていたが、彼はどうしたのかな」
思い出したように「彼」に触れられ、佳辰の肩がピクリと動いた。






かつて、末林創は柏佳辰の家の道場に通っていた。
高校デビューをするべく活動的になっていた創は近所の道場に入門。
ロクに運動していない体を打ち身と擦りキズだらけにしながらもマイペースに続けていた。

ある時一念発起した創は、佳辰に木刀の教えを乞う。
性的な邪念はなく、純粋に剣という強さへの憧れがあった。
佳辰もそれを察し、真面目に基本の素振りから教えた。創もへっぴり腰ながら素振りを続けた。

木刀を用いた型稽古の時、佳辰の一撃を流し損ねた創が一撃を食らった。
咄嗟に佳辰は寸止めか軌道を変えようとしたが、額の肉が少し削げた。

痕が残ることになったが傷は軽微であり、二人はそれからも稽古を続けた。



ある時、創が
「抵抗感をなくす訓練をしよう」
と言ってピンポン球を持ってきた。

それを掌で包んで片目に当て、素手で抉る練習だと言う。

不快感が背筋を走ったが、人を斬る稽古しておいて怪我させるのが気持ち悪いでは済まない。
そう考えた佳辰はそれに乗った。

素手で抉ると、創は身をよじり、真に迫った豚のような悲鳴を上げた。
これに耐えることが訓練だと言う。

明らかになれば道理なり。
交代し、佳辰も創に抉らせた。



結果、創は首が後ろに回るほど他の門下生にぶん殴られ、破門。佳辰は無期限の謹慎処分となった。

ほとんどの門下生は健康のために通っており、彼や彼女らの月謝によって生活が成り立っている以上、それらが離れていく行為は道場で慎むべきものだった。
最低限、人気のない時を選ぶべきだった。

これ以前から、彼ら二人の血を流すような木刀稽古は危険視されていたため、最後の一押しをした形になった。

他の稽古人たちが道場の安全性に危惧を抱いている旨を注意された時、
「怪我が怖くて稽古が出来るか!」
と創が叫んだ事がトドメだった。知った口を利くなと言うことだ。

また、彼らの所属する道場はそのような殺戮の技を認めていなかったので、創は不適格として放逐。
佳辰がそうされなかったのは、家自体が道場であり、幼い頃から染みついた技は、今更居場所を奪ったところで消えなかったためである。


そこから負荷をかけて跳ね飛ばすか試している、あるいは燻ぶっている上位者に火を点ける。
或いは他の道場に通うなどの、他に影響を及ぼす力を二人は持たなかった。
餓狼が構うには二人とも脆弱過ぎた。



かくして破壊衝動を抱えた同類二人は捌け口を失う。片方は半永久的に、片方は一時的に。
どちらも相手に対して悪感情はないし、同じくらい好意も抱いていない。ただ顔だけを覚えている。





幸い、祖父は気にせず、また自分の説明に没頭していく。



「神も同じように一霊四魂を持ち、人と神との違いはその働きが有限であるか無限であるかの違いに過ぎない」

「人が神の霊代(たましろ)として抜きんでているのは、一霊四魂の中に五情の戒律、つまり安全装置を与えられているからだ」

「さっきも言った様に、直霊にはフィードバック、省みるという働きがある。
そして荒魂には恥じる、和魂には悔いる。幸魂には畏る、奇魂には覚るの働きがある」

「人がもし反省心を全く失ったら、つまり省みるということを忘れたら、折角の直霊は曲霊(まがひ)に変わる」

「すると荒魂は恥じることを忘れて私欲のために貪る争魂に、和魂は悔いることなく悪を好み憎しみや妬みの争魂に。
幸魂は道に逆らい、天地を畏れ敬う心を失う逆魂に、奇魂は覚れず、善悪美醜の判別すらわからぬ狂魂になる」



「力には安全装置が必要で、使うのであって使われてはいけない。大きな力や感情を持つ者には、それを制御する術と器を用意する義務がある。
若いうちはとにかく力が欲しいだろう。その荒魂は悪いものではない。
だがいつか、力を得るよりも、それに見合った器量を育てる方が何倍も難しいことに気付くだろう」

「いきなりこんなことを言っても分からないし覚えきれないだろうが、将来、もしもの時に一霊四魂を思い出してくれたら幸いだ」



講義の後、暫し歓談した後に礼を言って伊織は辞し、佳辰は夜の稽古の支度をする。






それらが済んだ夜遅く。佳辰は友人とメールをしつつ勉強をする。
佳辰の部屋にはメダカがいる。

一単元終わり、息抜きに借りてきた本を読む。


『体幹とは、古武術で昔から大切にされてきた感覚で云々。
これを鍛えるには近道はなく、稽古するだけが云々。
これは近代スポーツよりも合理的な動きで云々』

年配の門下生が語るのと同じことが書かれていた。奥付の出版念を見る。1985年。

ムカついたので、もう一冊新しめのスポーツ科学の本を開く。



『体幹とは手足と頭以外の胴体部分のことです。動作の出発点として重要視され、体幹と関係する筋肉には大別してグローバル系とローカル系があります。
鍛えることで運動中の事故が減るほか、姿勢が良くなる利点もあります。
古典的なトレーニングとしては自体重負荷の他にバランスボールを用いたものが……』

(道場より余程詳しいじゃねえか!)



憤激が湧き起こり、苛立ちをぶつける対象でもないのに本を壁に叩きつけたくなる。

書かれていることは、佳辰としても前々から知っていることだ。
だが言葉にして他人に伝えることは出来なかった。と言うより、見て分かれで放棄していたと言っていい。

年長の門下生にしても口にするのは半世紀前の本と同じようなことで、詳しいことは自分で感じろというスタンスだった。
そのスタンス自体には佳辰にも否はない。
所詮、書物は他人の脳を通した加工品だ。



しかし、仮に50年前は現代スポーツ学が見つけていないことを見つけていても、科学をそちらに注目させた後どうだったか。
一人一人の内感は、突き詰めれば計数化出来ないからと、合理的に検証を繰り返す集合知を甘く見て、先行したという事実だけで偉いのだ、偉いから追いつけるはずないのだと、外骨格が登場してからでさえ、胡坐をかいていなかったか。



(行こう。進学してスポーツ科学専攻しよう)
そう改めて決心し、佳辰は机に座り直す。
しかし憤怒は止まらず、ともすれば筆圧が上がってノートが痛む。

(落ち着け)
ゆっくりと三つ、数えて息を吸う。息を止め、三つ数えると同じリズムで息を吐く。

この呼吸法を三、四回繰り返すと、心が落ち着いた。
落ち着いたからこそ自覚する。

(これは体を動かさないと駄目だな)
血中にアドレナリンが溢れている。激しい運動をして燃やさないと、勉強どころか睡眠も覚束ない。

(あんま外出たくないんだよなあ)
夜の空には何かが居る。

何なのかはわからないが、空を渡る雲よりも、大きなものが流れている。
不審者は勿論のこととして、そうした嫌な感覚も避けたかった。しかし体は沸々と滾っている。

(しょうがない)
ジャージの上を羽織り、素振り用の木刀を持って、スエットのまま佳辰は家を出た。

隣の道場で四股を踏み、木刀振り。
適度に汗を流したところで帰宅。
入浴し勉強後、日付が変わる前に就寝。



柏佳辰にとって、今日という日は常と変わり映えのない一日だった。





日付が変わった深夜。
室内灯の明かりで創は、万年床に横になりながら借りてきた本を読んでいる。
読んでいる本はハードカバーで白い。

司書の手で施された防水加工の外装こそ、手垢に薄汚れているものの、そのフィルムの舌の本来の装丁はひたすらに白。
タイトル一字と著者名以外、全てが純白に拵えられている。

壁の片隅には二体の神像が、凶器に布を巻かれて座っている。創は携帯を持たない。



時折姿勢を変えながらページをめくっていた創は、中ほどまで読み進めると、やにわに起き上がり、散らかった書物を動かし始めた。

埃も気にせず、万年床の上に多数の書籍が重ねられていく。
ハードカバー、漫画本、雑誌。一番多いのは単行本だ。

それらが取り除けられ、床がのぞく。
虫も埃もほとんど姿を見せないのは、そもそもこの空間にエサとなるようなものが無いからだ。



創は空いたスペースを更に移動させ、タンスの引き出しを開ける。
子供服やバスタオルが詰まっていて、樟脳の匂いがツンとする。
それらを創は手当たり次第引っこ抜いていく。



混沌を更に散らかしていく創の手が止まった。
手にしたTシャツをゆっくりと広げ、掲げて実在を確かめる。

藍地のそのTシャツには、白い塗料で文字とも図形とも判別出来ない、奇怪な紋様が列をなしてプリントされている。

何回も着て洗濯したため塗料はひび割れ、失われた文明の碑文のようでありながら、歪にくねった形は不吉を表わす妖言のように禍々しい。

「取っておくもんだな……」
手を挙げて呆けたまま、創は枯れた声をこぼした。






[27535] 第七話
Name: 三二一◆02c59522 ID:068f191e
Date: 2011/11/21 00:05
第七話『凝視無形、聴無声』





響三輪は床に叩きつけられた。
数えていないが、もう十何度目かになる。

首を腕で反らされ、人体の構造に従って腰が仰け反る。
倒しにくる相手に習った通り、相手の体に近いほうの足を曲げて膝をつき、次に尻から地に落ちる。

頭を持っていく慣性に負けないよう、視線は帯の結び目を見つめて後頭部を守り、力を尻から背中に流し、硬いマットレスを叩いて受け身を取る。
威勢のいい破裂音が木霊する。



日曜、朝。
町の道場に三輪はいた。

十月の初旬、陽射しはまだまだ強いが朝は涼しく、体を動かすには絶好の季節となっている。
事実、時刻は九時を回ったところであるのに、マットレスを敷いただけの簡素な道場内には、老若男女がそれぞれのペースで体を動かし、技を掛け合っていた。

「起き上がりが遅いので、もっと速く立ち上がるようにして下さい。稽古とは言え、寝転がるのはいけません」
凛とした言の葉が三輪にかかる。



そう告げるのは、紺袴を履いた少女。
余分な肉が付いていない顔立ちで、切れ長の双眸は湖面のように涼やかに凪いでいる。

茶と言うには黒に近い褐色の長髪を、稽古の今は団子にして結わえている。
物言いと立居振舞いから上級者と知れた。
名を柏佳辰。この町道場の一人娘であり、高校三年生。

道場と言っても百畳敷きの一階建て。
マットレスも黒ずんで所々赤茶けた染みがあり、それも敷いてない出入り口は白木のまま。
窓をバッテンに補強した格子には赤錆が浮かんでいて、見上がれば屋根の骨組みが丸見えだ。

そんな道場でも人々は集まって体を動かし、道場の端にはその人達のカラフルなタオルや水筒が散らばっている。



「もっと速く?」
「こうです」
三輪の疑問符に、言うなり佳辰は実演した。

後ろに倒れたと思いきや、起き上がり小法師のように即座に起き上がる。
百数十センチ、何十キロある人体でなく、小さな民芸品がするような素早い動き。

立って並ぶと佳辰の背は小柄な三輪より二回り程高い。同年代の男子と比べても遜色ない。

「腹筋使うんだ」
「はい。特にへその下辺りを」

「鍛えられる(パッと見太る)?」
「相応に」

ちなみにこの道場の謳い文句は「ママもおじいちゃんも楽しく体を動かそう」である。





筋骨隆々とした壮年の男が佳辰に掴みかかり、両手を掴むや否や投げ飛ばされる。
何をどうやっているかも分からないそれが都合四回繰り返され、投げた佳辰でなく投げられた男が技名と解説をして、各自の稽古に移る。



佳辰が務めたのは見取りと言う。文字通り見て取るための模範である。
本来は投げる側が上位だが、道場主(佳辰の父)がわざわざ受けに回った。

「絵面のため。有り体に言って、客寄せパンダです」
佳辰はそう述べていた。

この道場の時間帯には、受けを務められる程度の熟練者がほとんど居ない。
かと言って体格の良い男が小娘を投げても恰好がつかない。
それじゃ役割を逆にしちゃどうか?

「ならば技を変えればいいのです」
二人きりの時、苦々しげにそう呟いていたのを三輪は覚えている。



三輪はここ二ヶ月程、週一回のペースで道場に通っている。
まだ目の前で繰り広げられる技の区別がつかず、そもそも個々の動作の手順すら覚束ない。

だから、なるべく年が近くて説明が分かりやすい佳辰につくようにしているのだが、今回は気がついたら目の前に一人の男がうずくまっていた。
肉の幅が厚い。揃えた指先が太くて毛深い。

慌てて礼をする。
立ち上がるのにつられて立ち上がる。
両手を掴まれる。

「さ、どうぞ」
(ええっと……)

三輪は初心者である。
ロクに技も覚えていない。
今までの稽古も、最初に佳辰に数回投げられて、ようやく最初に何をするべきか分かるといった塩梅だ。

「掴んできた相手を後方に流すんです。力が出るように腹部を密着させて」
圧し掛かってくる。

むくつけき体から湿っぽい熱気が襲う。
意図はどうあれ、あまり長時間接近していたくない。

(腹から、力を……)
三輪は歯を食いしばった。





見取りを終えた佳辰は、引き続き相手になろうと探した三輪に、相手がついたのを知った。
それが何者か認めると、鋭い目つきにより一層力がこもる。



その男は体格に恵まれていて、小柄な若者を力押しで馬鹿にしたり、女相手にセクハラ紛いの嫌がらせをする傾向がある。
セクハラの気持ちも皆無ではなかろうが、それ以上に、肉体的に劣る者が精妙な技に活路を求めるのを嘲っているのだ。

そして相手が疲弊したあと、
「柔よく剛を制すのは理想で極北。完璧に受け流すまでにも修練が要る。まずは体を鍛えなければ。
モヤシがいきなり達人級になれるわけないだろ。夢見てないで土台となる耐久力つけろよ」
と説教をかます。

現実として逆らえない。逆らえない相手にばかりちょっかいを出す。
下衆に変わりはないが一理あるから黙認されてるし、佳辰自身もやられた経験がある。
文句があるなら実地で反証してこそ武道だと思うから、不満も呑み込んだしかつて知り合いの少年がボコボコにされているのを見ても放置した。






しかし今回は違う。夢見る少年でも護身術求めてる女性でもない。そもそもが初心者だ。
相手の勢いを利用して投げるはずが、がっちり押されて呼吸が死んでいる。
何故手を出したのか予想が付いたが、あまりにも浅ましい。



三輪は力を入れようと腰を落とすが、そうすると腰が下がって相手との間にスペースが出来て結局力が逃げる。
直接手出しは出来なくとも、せめてアドバイスをしようと近づいた矢先。



「オラッ!」
雄々しい気合いと共に、三輪が男をぶん投げた。
男は大きく放物線を描き、風を切って窓を塞ぐ格子にぶつかる。

金属質の震動がやかましく響いた。






「申し訳ありませんでした!」
稽古後、応急処置を済ませた男に平謝りで三輪は頭を下げる。

「いえ平気っすよ。つっかかったのは自分からですから、どうかお気になさらずに」
男の方はやや放心気味、それでも反射的に謝辞に応える。

力自慢がそれ以上の力にやられたのだから、後ろめたさも手伝って強く出ることは出来ない。
幸い当人も打撲の他は鼻血だけ、窓ガラスも割れずに済んだ。

男は一礼すると雑巾を取りに行った。鼻血で汚れたマットレスを拭うのだ。こうしたまた赤茶けた染みが増える。



男が去った後も、三輪はまだ落ち込んだ顔をしている。
こうして立ち姿を見ると、整った顔立ちで、毛質の細い黒髪を、大工作業でもするかのように幾つものヘアピンで止めている。
体つきも小柄で華奢。場違いな良家のお嬢のようで、最前の出来事が幻覚に思えてくる。



「気にすることはありませんよ。自分から仕掛けて、自分がやられた。自業自得です」
「うん……。ありがとう。強いんだね」
慰めたつもりが、更に沈ませてしまった。それにこちらが気遣われたような。



「それにしても、ここにもああいう人が居るんだね。こういう所は、皆力入れないようにする人ばかりだと思ってたけど」
どうしたものかと頭を巡らせていると、独り言のように三輪が呟く。

「十人いれば十通りのやり方があります。それにあれは、いやがらせです」
それに乗る。三輪が罪悪感を感じることは無い。

「いやがらせ?」
「型の手順を守りさえすれば、体格の勝る相手にも勝てると憧れている相手に、お前の技じゃ勝てないと見せつける。本人としては親切なつもりの、からかい程度の気持ちでしょうが」



佳辰は数秒、侮蔑の目を男に向ける。
男は座り、背を丸めて雑巾でマットレスを叩き、血の染みを抜いている。

周囲では、それを気にも留めずに談笑したり今日の稽古のおさらいをしている人々が、まばらにいる。



「普段は男相手にしか手を出さないのですが……多分、三輪さんの職業が気になったのかと」
「職業?」
「確か、外骨格に携わるお仕事をしてらっしゃるのですよね?」

「うん。本当の職場はもっと遠くなんだけど、仕事でここに越して来たの。でも、それがどうかした?」
本当に不思議そうに、三輪が返す。今にも首を傾げそうなぐらい、無邪気に。
く、と笑いそうになった。



「外骨格は、人間の筋力を大きく上回ります。全身を覆うタイプなら、耐久力も」
三輪が理解した。くくくくく。

「一生懸命体を鍛えたのに、体力が必要な現場には大抵導入済み。とは言え、純粋な試合では上には上がいる」
じゃあ弱い勘違い君の希望を砕いたらどうか?

は、悪趣味なので呑み込む。どうせ本題と関係無い。
大事なのは三輪がとばっちりを受けたと納得することだ。



出来得る限り声をひそめる。
「そんな時に、外骨格絡みの非力なお嬢さんが現れた。ところが実際は力が強かった。そんな話。それだけです」
これなら勝てるとグレードを下げたら、最も負けたくない所で負けた。くはははは。バーカ。機械と潔く真っ向勝負すれば、成長の機会もあったのに。



心中では腹を抱えて哄笑しつつ、顔面は微笑んで三輪を気遣う。
勝敗は兵家の常で、構うべきはどうでもいい男より年の近い同姓だ。






「私は生まれつき力が強くてね」
黙って聞いていた三輪が口を開く。

話し込む内に、男を含めて道場から人は去り、後は自分が戸締りをするばかりだ。



「球技とか、思いっきりやると誰も取れないんだ」
「だから遊びにならないし、偶に気にしないで対抗する人もいるんだけど、そういう人は怖いの」

「痣が出来ても打ち返す、傷だらけになっても試合を続けようとする。
……それはとても素敵な意志の力だと思うけれど、私はただ楽しく遊びたいだけで、そんな風にボロボロになっていく相手を見ていられない」

「今着てる胴着も空手を習った時のなんだけどね……拳を痛めたから辞めちゃった」

「あそこが一番怖かったな……美容や健康のためって人も多かったけど、強くなりたいって人も沢山居て、試合になると骨が折れても気にしない。
強くなりたいなら当たり前だって、貴方みたいに自分にも他人にも厳しいんだ」



こちらを向いて、寂しそうに笑う。
「ハイタッチって、あるじゃない?」
「あの手を上げてパーンって。何を成し遂げた時、関わった皆で喜びを分かち合うあれ」
「あれいいなーって思うんだけど、私が気持ちのまんま叩いたら、叩かれた人怪我しちゃうんだよね」



「私は代償に耐える強さが無くて、気楽なままで頑丈になれる方法を探して、外骨格に辿り着いたんだ。あれなら、私の怪力ぐらいどうってことないから」

「そうして外骨格を着れるようになったんだけど……最近色々あって、やっぱ乗り手もセンスがいるなって思って。
下宿に近くて、力を使わないって触れ込みのここに通い出したんだけど、ちょっとビックリ」



「なんてね!湿っぽいね!忘れてね!」
そう言って、今度は明るい笑顔で、三輪は両手を振って話を打ち切った。

だが佳辰には、ものすごーく困ってるように見えたのである。






日曜の昼下がり。
創は自室でダラダラとPCでwebサイトを見ていた。
食事をするのに立ったきりで、平日と同じ時間に起きてから、ずっと万年床を座布団代わりにしつつ、毎日見ているサイトをひたすら巡回して時間を潰している。

一応、外に出ないのは通販した品の到着を待っているからである。
だが、本人ももうちょっとマシな時間の使い方はないものかと思いつつ、気付けばサイトが更新してないかとF5を一定間隔で押している。
金の損失も旨味も無いだけで、パチスロで所定の穴に玉が入るまで延々繰り返している行為と大差ない。



特に気に入っているのは、ネビニラル起動実験のヤソマガツ戦を編集して音楽を付けたムービークリップで、それを創は何回も再生している。

(敵が居ていいなあ。力があっていいなあ)
終わりまで見て、動画の外骨格を有する研究所を検索する。試験の体験記を検索する。



『ひたすら運動やらされた』
『何十キロ背負って山歩きやらされた。これでも軽くなったらしい』
『飲み水含めて規定値背負ったら、ゴールで飲み水抜きで十数キロ運ぶものだと告げられた。救済措置なし』



考えるまでも無く、自分には不可能だと理解出来る。

研究所には、保有する外骨格の武装の紹介もあった。
それによると、滑らかにヤソマガツを切り裂いたチェーンソーは、単分子のダイヤモンドカッターを複数並列した凄まじい代物らしい。

後ろを振り返る。
神像の二体目に固定されているのは、ホームセンターで買った普通の充電式だ。



打ちのめされながら、逃げるように普段の巡回にのめり込む。しかしそこにも創の居場所は無い。

個人のサイトやblog、人々が集まる掲示板。
学校と同じように、そこでも人々は寄り合って楽しそうに話している。

違いがあるとすれば、伝達がほぼ文字だけに限られるので、ニュアンスの混乱が起きやすいこと。
意図しなければ「自分」を強調して話さなくてもいいこと。発言せず耳をそば立てているのが容易なだけだ。

社会生活の延長としてあるコミュニティ、オフラインでは口に出せない嗜好を語る場、どちらも創は共感を抱けない。



創にとって関心があるのは一般社会で無いとされていること、特に化物の話なのだが、どうにも他の人々に溶け込めない。
話している内容が分からない。理解できないから質問も出来なくて、分からないままいつか分かるかもしれないと、ずっと見つめ続けている。



化物には大きく分けて実在(ヤソマガツ)と創作上の二種が居るが、創にとってあまり区別に意味は無い。
実在したという伝承も裏を取れないし、創作した別世界の化物も、ぞっとすれば同じ事だ。

感覚的に懐かしい。そちら側に郷愁を覚える。
ここまでは他人にも同じ人が居るらしい。
ここまでは分かるのだ。



世界に対する説明体系としては、科学が一人勝ちしている現在。
実在する化物の情報なんてほとんど出てこない。
明らかに異常なヤソマガツに関しても、オカルト的なのは「南米の暴動は、呪文を彫られた人間の死体が動いたから」という記事がオカルト系情報サイトに載ったきりだ。

多い話題は創作方面。創作なのだからいかに楽しむかが問題で、そこに正誤判定は存在しない。
ただ、そこで創は戸惑うのである。



作品について語るのは、煎じ詰めればどこが好きかを語る行為だ。
ネット上で、発言は保存可能な形で発信される。
場合によっては本当に保存される。

しかし好きでも嫌いでも違う部分、違う言い回しを挙げるには限りがある。
好きという気持ちは固定化し、固定化したら飽きられる。
わいわい楽しみたければなおのこと。

だから、新しい話題が挙げられる。
旧作に気持ちが残っていても、新しい作品に関心が移る。



作品は、作って売る方も商売だ。
続編外伝スピンオフ。

買って楽しみ、語って楽しむ。
しかしそれもやがて停滞し、別の作品に流れる。

語り合うためには買わなければならない。
発言に注目しても貰うためには、買った証拠をネットに上げるのが一番早い。
それは一次情報だからだ。



そんな光景を、創は輪に入れないまま眺めている。
彼らの楽しんでいる作品を楽しめない。
そもそも語ろうにも出ている数と移る速度が尋常でなく、追いつけない。



冷静になれば、何もついていくことは無いのである。
別に作品が好きなのであって、作品を語る誰かが好きなのではない。
仮にその誰かが好きなのなら、作品を知らずとも語りは楽しめる。



名前も知らない誰かを追おうとして、安全なところから有名どころの幻覚じみた顕示的な消費をただ眺めて。
同じクラスのそういう集団と自分に通じ合える何かを探しながら、創は自問する。

(俺は、自分の考えが分かる相手が欲しいとしてだ。一体俺は、そいつと何がしたいんだ?)



インターホンが鳴り、注文した商品が届いたことを告げる。
三体目のダッチワイフだ。

これに手製のネビニラルを装備して、動くコピーを作れないか試すのである。






心臓がまだバクバク言っている。
ビニールの焼ける煙と臭いで目と喉が痛い。空気が熱い。服が貼り付いてうっとうしい。
背と尻に当たる硬いタイルが冷たい。

窓から注ぎ込む日差しは穏やかで、静けさが破られるのが怖い。
五感全てが不快でしょうがない。全ての感覚を麻痺させて眠りたい。
だが、目を閉じるのも怖い。



目の前には、焦げた金網製の檻と、ドロドロに溶けて固まったビニールの燃えカスがある。
これを片づけなければならない。


呪紋とネビニラルを組み合わせれば神像を作れることに気付いた。
通販で届いた妙に精巧な人型の浮輪みたいなそれを膨らませ、耳なし芳一よろしく全身にマジックで呪紋を書いた後、ネビニラルを配置。

念のため百均のラックを組み合わせた檻に閉じ込め、ガムテープで床に固定したのち、チャッカマン片手に風呂場で手製のネビニラル回転開始。

数分後、網の隙間から関節の無い手足を出しながら暴れ狂う何かが完成する。

材質と構造的にありえない力で檻ごと体を持ち上げ、ガムテープの拘束もものともせずに殺到する。
それを燃やしたのが数――十分前?あれ以降時間の感覚が怪しい。



幻覚か、とも思う。だがこの痛い煙は本物だし、外に火事と思われないか心配で胸が痛いのも本当。
最初にあった位置から檻が動いているのも本当。
腰が抜けて水を流そうにも流せないのも本当だ。



(アルコール用意しておいてよかった……)
化学室から拝借して来たあれが無ければ危なかった。



今までとは違う意味で自分の正気を疑う一方で、風呂場で拘束した状態で実験をした先見の明に安堵している自分もいる。

自室でやっていたら、今頃俺は絞め殺されていた。
ガキの頃のケンカでしか感じたことのない、明確な殺意があれにはあった。それもケタ違いの。



漏らした小便の匂いと共に奇妙な安らぎを覚える。
一つは生きていること。もう一つは、真っ向から殺意を向けられたこと。

確かに恐ろしいが、アレはあけすけであり、今まで周囲から感じていた隠蔽し欺くような消化不良気味のそれに比べれば、爽快であった。
何せ、ここまではっきりしていると勘違いかと迷う必要はない。躊躇なく反抗出来る。

とりあえず、当座の問題は、家人が帰ってくる前に後始末を終えられるかどうかである。





文化祭の近づく、準備に割り当てられた六時限目のLHRの時間。

創は同級生と共に、イスに座ってぼーっとしていた。
まだ期間は九日あり、内装諸々の力仕事を行う下っ端達が自主的に仕事を見つけられる時期ではない。

指示を下す乗り気な面々は申請に試作にと忙しそうだが、センスも熱意も無い大多数にとってはただただ暇。
指示された小物類を無駄話しながら作り、作り終わったらすることが無い。

話し相手もいない創は、だらしなく椅子に体を預けて天井を見つめながら、ヤソマガツの戦闘を脳内でエンドレスリピートしていた。



「末林君」
ヤソマガツがトラックをぶん投げるシーンを何回も反芻していると、声をかけられた。

顔を向けると、名前を覚えていない太り気味の男子生徒だった。
「図書館で勉強したいんだけど、抜けて平気?」
「いいよ」



創が答えると、男子生徒は勉強道具一式を持って出ていった。
どうせ自分がやることはほとんどない。やれることもほとんどない。
明確な願いがある人がいれば、そちらを優先すべきだと思う。

(願いねえ)
先日、進路アンケートを提出した際に、担任から言われた言葉を思い出す。





進路には、進学とだけ書いた。
無難で問題ないだろうと思ったら、放課後一人だけ残された。

「末林君は大学進学が希望って書いてあるけど、今の成績だとボーダーフリーしか入れないよ?」



少なからず衝撃を受けた。馬鹿だ馬鹿だと思っていたが、学力的にも馬鹿だったか。
「勘違いしないで欲しいんだけど、今の段階だと君の学力はいいほうなの。頑張れば上位校を目指せるくらい。
でも、あと数カ月で他の子たちも同じぐらい高めてくる。そうなったら、今の学力のまま、現状維持だと中堅校にも入れない」
(つまり追い抜かされて負けると)



「だから末林君。君自身の熱意が必要なの。あれをしたい、こうしたいって目標。
そのためなら辛い勉強も耐えられるって熱意。末林君は、大学に入って何がやりたいの?」

自分が何をしたいか。
(ぶっ壊したい)

何もかも破壊したい。

あまりにも場にそぐわない思考に顔を背ける。
「何もしないで生きていくのではいけませんか」
「それの何が楽しいの?」

創にとっては、最高を求めるより最悪を防ぐ方が重要だったが、この教師には伝わらないのだ。



「何が出来るようになりたいとか、将来どんな職に就きたいとか、もっと単純に、こんなキャンパスに通いたいとか。そういった願いから道順を逆算するの」



力が欲しい。
自己の衝動を幼稚と自覚しても、破壊し畏怖させる力が欲しくってしょうがない。
何故か?



「ヤソマガツについて、調べたいです」
ようやく、声を絞り出した。普段よりもひきつって聞き苦しい。

「でも末林君は、文学科志望だよね?」
二年時の履修の段階で、数学の成績が悪かったために文系になっている。選択科目の物理ですらキツい。

「はい。文学の側からもあの怪獣について迫れると思います」
例えば、雨の降る中での召喚。
古代からおぼろげに感じられる、明文化出来ない法理。

大きく逸らしてはいるものの、願いには違いない。



担任が目頭を押さえた。
「真面目に行っているんだよね?」
「はい」

空気が張り詰める。人と話す時、この瞬間が嫌いだった。
目の上を怪我した時も、その道場に来るなと言われた時も同じ雰囲気を感じていた。

自分が喋れば喋るほど、相手は隔てられ、大気は帯電し肌を刺す。
まるで人間社会が、自分という異物を排除しようとしているようだ。



「悪いんだけど、末林君。それを指導できる先生は大学には居ないと思う。他の夢は無い?」

これだ。
何が好きか聞かれたので答えたら、別の物を好きになるよう言われるのだ。

彼女は先程、夢と言った。願いと言った。そういったものは胸の奥を掻き立てるものだろう。代わりなんか無いものだろう!
それを、別の物を差し出せと言う。

力が欲しい理由。黙らせたい理由。
そうしないと、自分の実在すら認められないからだ。
黙らせられず、認められなくても、自分の行動を貫徹するだけの強制力が欲しい。



「自分の将来について、よく考えてね」
言外に勉強しろと告げ、担任は面談を打ち切った。





(未来ねえ)
だらだらと。食い潰すように仕向けられた時間で考える。

創に取って未来とは、先の光景が繰り返されることだ。
自分の言語は伝わらない。他人の言語も理解出来ない。
他人に伝えられない認識に意味が無いのなら、創はほとんど生きながらにして死んでいる。

子供の頃は、もう少し会話が成立したのだが。



自分が異常、或いは特別である、という認識は創には無い。むしろ自分の考え方が正常で、違う他の方がおかしいと思っている

今までの常識を崩すものが現れたら注目するだろう。
その特異性が呪文にありそうなら、真似するだろう。
それで不思議な効果がある円盤が出来たら、コピーに搭載するだろう。

何故誰もしない!



しかし、自分が変わらないまま他が変わったということは、自分が幼稚なため成長した周囲についていけないのか。
だから会話が成立しないのか。



以上のように思考した創は、同級生の話に聞き耳を立ててみた。
一般的な高校生徒は何を語り、自分はそれにどう合わせるか。





同級生がパンツとスカートと大気について話している。
大雑把に言って、スカートを履いた女性のパンツは視覚的には隠されているが空気に野晒しであり、同じく男の顔面も野晒しであるから、女性と接する機会の無い男性も実は興奮すべき状態にあるという理論である。



この理屈には穴がある。大気を介して接していれば直接接触と同等。という考えは、何も異性にだけ適用される制約は無いという落とし穴だ。

男が履くものはズボンである。これも筒状で内部では大気に接している。
径が細くまた長いので、薄まっていると我慢できる程度ではある。

だが世の中には短パン、ハーフパンツという物がある。

更に言えば、男性の下着はトランクスが主流だ。
俺はブリーフで、ボクサーパンツを履いている男性もいるだろうが、ほとんどの男性は股間の一物を何食わぬ顔で揺らしている。

そして陰毛を落として「どうしてこんなところに。すわ妖怪か」と首をかしげる。
男性器の大気との接触は女性用下着よりも親密である。



最近知ったのだが、袴を履くような武道は重ね着で蒸れるからパンツを履かないらしい。
背筋を正し神妙な顔で技を掛ける最中も、文明社会に例を見ないスイング運動が幾重ものベールの奥で繰り広げられている。

爽やかで剛毅な選手たちが繰り広げるワールドカップでも、プレイヤーのハーフパンツの隙間から野晒しのチンコと金玉と観客の野晒しの顔面が、恋人よろしく同じ時間を共有をしている。



楽しいか?
スカートの下のパンツと顔面との距離を縮めるともっとひどいことが同性でも起こる。

そんなこと考えるの楽しいか?
俺は楽しくない。


ここまで考えて、俺はこの話題を楽しむためのエッセンスを冒頭で掴み損ねたのではないかという思いが去来した。
こんなだから俺に友達はいない。





鐘が鳴り、掃除の時間になった。





創たちの通う高校には武道場がある。
上から見て校庭を囲むL字の校舎。

大雑把に言って長い辺は中央の時計がある付近を目安に、正門に近い側が図書室や食堂、遠い側が教室や特別教室に分かれている。
そちらに近い短い辺には武道場、体育館、音楽室など、広いスペースを必要とする大きな音を出す施設が纏められていた。



掃除の時間、一回の武道場に佳辰はいた。
使うのは主に柔道部と剣道部。彼らも使用前、使用後に掃除するので、やることはあまりない。

箒で掃く。雑巾で拭く。出入り口の両脇にある楼台、その桟を拭う。楼はそれぞれの部の備品が置いてあるから、あまり手は出せない。

この楼に上る度、佳辰の目は壁に掛けてある木刀に吸い寄せられる。
油で磨かれた赤樫の木刀。佳辰の自宅にもある。

剣道自体にさほど興味はない。立ち合いたいが、体系が違うので習う気はない。
ただ、好いと思う。木刀は好い。



桟を拭いていると、同級の友人が来た。

扉を開け放し、佳辰に声をかける。
頑丈な両開きの扉は、その棟の昇降口正面に直結しており、燦々と午後の陽ざしを取り入れている。

彼女は剣道部に所属していた。
「佳辰、もう上がろう」

柏にせよ佳辰にせよ、呼び捨ての方が音は短い。
わざわざあだ名で呼ぶのは一人しかいない。
「うん」



階段を下りる。友人は懐かしげに道場を見ていた。秋、三年生は既に引退している。
ここで生活の大半を過ごしたことは、過去なのだ。

友人の髪は長く、薄く茶に染まっている。彼女を見る度、佳辰は髪の短さが羨ましくなる。



佳辰の長髪は背中の途中まである。
かつて勝手に切ったら母が泣いたためで、黒に近い褐色で染めているのは、目の前の友人に注意されたからだ。

曰く、お前の顔で黒髪長髪はヤバい。袴履いたら更に不審者誘う。だから髪染めろ。
事実、染めたことで向けられる視線は怯えに変化した。

その外見的系統で最後まで近くにいたのは創だが、おぼろげな印象によれば彼はそもそも全ての人間にビビっていた。
怪我をさせる以前から、苦痛を感じるほど見るのが怖いという目をしていた。



女らしくしろと言われても佳辰には分からない。だったら今の私は何だと思う。
特に男とばかり遊ぶわけではない。むしろ同性の方が多い。
スカートを履かないわけでもない。髪も伸ばしているし、体臭含めてケアには気を遣っている。これ以上何かを求められても困る。



例えば佳辰は、花の美しさが分からなかった。
審美的には分からなくもないし、伊織を飾ったら似合うだろうとも思う。それは同系統だからだ。
だが、単体で可愛いと思う感性は分からない。

あの形に、佳辰は何も感じない。
誰も彼もが無条件に好いとして、言葉で表わさないからズレを測れない。

佳辰にとって、世人が花に抱くのと近い感覚を得るとしたら、剣だった。

未だ本身を振ったことは一度しかなく、もっぱら木刀だが、あの細く湾曲しながらも剛く立つ。
刀の姿こそ花弁の美しさかと思うことがある。
撚って尖らせた菊の一片だ。



そんなことを考えながら、佳辰は談笑しつつ教室に戻った。






[27535] 第八話
Name: 三二一◆02c59522 ID:068f191e
Date: 2014/02/17 22:40
第八話『南蛮鴃舌』





「この棒の一方を上げてください」
日曜の朝稽古後、佳辰は真ん中を摘まんだ杖を横に倒し、前にいる三輪に突き出した。

終わったばかりで人は多く、佳辰が杖を持つと緊張を浮かべる人々もいたが、そいつらが目的ではないので佳辰は無視した。



「こう?」
三輪はそう言って自分の右側、佳辰にとっては左側を持ち上げた。つられて反対側が下がる。

「はい、普通、何かを持ち上げる時はそうします」
三輪が手を離すと、指を緩めて水平に戻す。

「しかしこうして支点がある場合、反対側を下げることでも、上げたい側が上がります」
片端を、支えていない手で押し下げる。すると反対側が持ち上がる。



「テコの原理ね。とんちみたい」
「その通り。発想の転換です。当然、上げるよりは下げる方が力は要らない」
一礼し、杖を一度床に置く。

「受け流した相手の腕をねじり上げるのが、難しいとおっしゃいましたが、これも同じで……」
三輪の側面に入り、技の途中、相手が正面から斬ってきた(あるいは突いてきた)のを横に深く入って避けた形をとる。

「腕だけを上げようとするのでなく、相手の頭を落とすのです」
佳辰が首に添えた手刀を切り落とす瞬間、各急所に負荷がかかって三輪の頭が落ちる。
同時、力にそって腕が回され、ねじり上げられる。

先程、杖で実演した動き。
頭を下げることで、反対の腕が下がる。一連の技のために見出された支点は肩関節だ。

ここから投げるなり顔に膝を打ちこむなり、その他諸々言い出したらきりが無いが、これはまだツカミなので佳辰はさっさと投げた。
受け身を取って立ち上がる三輪。



佳辰は杖を拾い直す。
「勿論、頭で知っただけでは無意味なので稽古をするわけですが――、この感覚はもっと基本的な動作にも繋がっています」
水平にした杖を差し出す。



「右側、響さんにとっての左側を前へ押し出したければ、どうするでしょうか」
問いかけると、暫し迷った末に、響三輪は自分にとっての右側を押し出した。

「そうです。そしてこれが、歩くという行為です」
「?」

理解しきれてない三輪に、実演する。

「通常、歩く時はこうですね」
前足を上げ、やや大げさに前傾姿勢でマットレスに出来た線を踏み越える。ゴール、とでも言うように。

三輪は思考を回転させながら見つめている。
「前足で反動をつけているわけですね。しかし先程の通り、一方を出したければ、反対側を引けばいいのですから――」
滑るように進み、手足を同時に同じ方を前に出した。この時、前足は胴体よりも前に出ていない。



「ええと、その――」
三輪が舌をもつれさせる。感覚的には分かったのだが、脳が上手く言語に翻訳できないのだ。

「実際にやってみてください」
佳辰は三輪の首筋に杖を乗せ、両腕を絡めさせる。これで上半身は、上から見て一本の直線になった。

「はい、それではそれで手足を同じ方向ずつ出して歩いてください」



人気の無くなった道場を、三輪が歩く。佳辰は別の杖を取って近づきながら、三輪に告げる。

「手足が同時に出る歩き方は、世間ではナンバ歩きと呼ぶのが一般的なようです」
言いつつ、指を視点に杖を前後に振る。びょわんびょわん。






ナンバ歩き。
一度に出る手足が、右手なら右足、左手なら左足、と胴体をひねらない歩き方だとは三輪も知っていた。

佳辰は自分に親切に指導してくれる。
このいきなりやらされている動きも、考え無しではないだろう。

体をひねらないと言えば、今の歩きもそうだ。と言うか、ひねれない。

同時に前に出す。腕と足が一体化し、体が右と左に分かれる。一方を持ち上げるには反対側を下げる。びょわんびょわん。



ふと、動き方を変えてみた。何か分からないが、しっくり来るものを感じた。
続けてその感覚のまま歩きながら、逃げていく感覚を思弁する。



「ああ」
感嘆の言葉が漏れた。
「前足の反動じゃなくて、後ろ足で体ごと押すのね」

感覚が明文化される。
その過程で掴み損ねた部分も感じるが、言葉にすれば概ねそう。
股間は両足があって二関節だから、気付きにくかった。


「そうです。魚と同じです」
(魚?)

「分かりやすく端っこに意識を集中させましたが、重要なのはこの棒で言えば指。つまり中心、体幹です」
そう言って佳辰はびょわんびょわん杖を振っている。

確かに、肉も何もない杖の両端すら中心の指で動くのだ。
基本となるのは腰(腹の力?)で、足は外付けのブースターのようなものだと、三輪は思った。
(きっと両者をピンポイントで集約出来たら凄いんだろな)





(『天地の道は極まれば則ち反り、盈つれば則ち損ず』……と祖父なら言うだろう)

冷えてきた道場で、佳辰は一人ごちた。
佳辰としては、そういう宗教的な感覚は個人で秘めるものである。
分かる人だけ分かればよく、共有に言葉は必要ない。
同じ感覚を持っているなら動きで分かって、分からないなら未熟なのだ。



感覚は自分一人で探っていけば良いのであって、本来は今みたいなマンツーマンも好ましくない。
それでも行ったのは、彼女には伝えたいと思ったからだ。

(伊織なら宗教臭いのも気にしないだろうが……)
その分、感覚も分かるまい。





「かしかし~、居る~?」
彼女のことを考えていると、当人が現れた。
道場の入り口、覗き込むようにして立っている。

「すぐ上がる。家で待ってて」
そう返すと、首を引っ込めて去っていった。
この後、文化祭の買い出しに行く約束をしていたのだ。



意識を落ち着ける。三輪に向き合う。
「丁寧に教えてくれてありがとう」
三輪が頭を下げた。年上に礼され戸惑う。

「……以前、響さんはセンスを磨きたいとおっしゃいましたが、物心つく前から稽古してきて、はっきり基本だと言えるのは先のような感覚です。
ご都合に合えば、これからも稽古していってください。それと、頭を上げてください」
「まるでお別れみたいな言い方だね?」



そう返す三輪に、佳辰は苦笑した。そういえば、そうかもしれない。
「これから暫く、稽古に出られないかも知れません。受験生ですから」

それに寒くなる。
寒くなると、稽古の出が鈍る。興味本位で芯がなければ休みがちになる。

佳辰からして朝は気合を入れて起き上がっているのだから、責められない。
三輪もそうとは限らないが、長く会えなくなるので、芯を与えたかった。自分の芯を見せたかった。



「かしかし~?」
友人の声がする。

「ちょっと待って!ではすいません。ここ閉めます」
「うん。手伝うね」

そうして二人で窓を閉め、一礼して退出する際。
「あの子のTシャツ……ヤソマガツの?」



上半身だけ見せた伊織は、開いたパーカーの内にTシャツを着ていた。
茶の生地に白い文字がのたくっていた気がする。

「おそらく。気にしますか?」
おそらく諦めきれず、ネットオークションで買ったのだろう。



ヤソマガツは怪獣だ。
その認識は漠然と未成年間で共有していて、だからこそ理解や利用を諦めている。

関わるだけムダという認識故に、新興団体やSFにせよ現行科学にせよ、アプローチを取る集団には冷めた視線が送られる。
それらはヤソマガツを制御可能と見なしているからだ。
怪獣は怪獣らしく、どこかで眠らせておけ。

古いことわざを借りるなら、触らぬ神に祟りなし。
話の流れで怪談を楽しんでも、心霊スポットまで行きはしない。
何が何でも怪談は駄目という人もいるように、アレ関係を見せびらかすのは気に触る人もいる。



三輪もそういう人かと思ったので、気遣った。と言うか、友人である自分を言い訳した。
「ううん、そうじゃないんだけど。知り合いの知り合いが言うにはね」
「そういうのは、都市伝説と言います」

「うう……」
話の腰を折られ、三輪がうなだれる。


道場の隣に設置された更衣室で着替える。土地の無駄遣いだと、利用の度に思う。
二人して出る時、ふと思いついて佳辰は尋ねた。

「響さんは、来週の日曜日、空いてますか?」
「?。うん。また稽古に来るつもりだけど」
キョトンと返す三輪。

「うちの高校で、文化祭あるんですけど、来ませんか?」
「良いの?行く行く」

「ではちょっと待っててください。招待券渡しますから」
全生徒に配布された、入校許可用のチケットを千切って渡し、来週の再開を約して別れた。





その夜。日中、伊織の買い出しに付き合った佳辰は、自宅で父と客人たちへの給仕をしていた。
稀に休日、年配の稽古者と父が酒を飲み合うことがある。

上下と言うより友人で、彼らが嫌いな佳辰は母の作る料理を運んだら自室に上がることにしている。
祖父は早々に寝入っている。

酒が入っての放言は、今回はTVでヤソマガツの特集をしていたため、佳辰の最も嫌いな話題になった。

「不可視の力を観測したとか言ってますが、そんなの武道ではずっと前から経験してますよ!」
「達人になれば悪霊妖怪を祓うも思いのまま」
「鬼斬り出しましょう鬼斬り!」

最後が最悪だった。部屋に戻り、悶々としたまま、彼らが帰った後に道場で木刀を振る。空を泳ぐ邪気も知ったことではない。



(腹立たしい。苛立たしい。いい年こいて熱を吹くなお前たち)
本気でやれると思っているなら倒せよ。他人の聞きかじりは馬鹿にするくせに、自分だって伝聞情報じゃねえか貴様達人か。



そんな憤激が体を焼く。それも木刀を振っているうちに治まっていく。



(日本刀の殺傷力は現実的にああだこうだ言いながら、実際には人を殺さない者は、精神修養の具にするよりも刀を貶めているのだ)

信頼出来る資料を漁ろうが、それで得た情報を元に動かすのが舌だけならば、結局のところ会話のネタに弄んでいることに変わりはない。

刀は正しく使えば優秀な武器だと言う。
使われない道具は無いのと同じだ。あるなら示せ。

殺人が犯罪だと言うなら公的機関で役立てろ。そして人殺しの技で出世しろ。
出来ない癖にさも玄人ぶって穢すな虫唾が走る。

自分たちだけの不文律の中で熱を吹くなら、彼らの馬鹿にするスポーツやオタク達と宗教と、性根に何の違いがある。
新しい価値を作り出している点で、そちらの方がお前らよりよほど上等じゃないか。

結局のところ、内輪で籠りたい者はどんな分野でも存在して、そいつらが同族嫌悪を誰かれ構わず投影しているだけなのだ。
そんな奴らに気を取られる自分こそが愚かしく恥ずかしい。



少し落ち着いた。頭に血が昇ったのは、彼らが家の恥部をさも誇らしげに弄んだからだ。即ち、鬼斬り。





鬼斬りとか霞斬りとか言われるその技は、名前に比してそう古いものでも格好良い物でもない。敢えて言えば逸話の部類。

話は戦後すぐ。祖父の父、曾祖父の話。
戦中、満州にいたという彼は、よく言えば豪快、有り体に言ってかなり無茶な人であったらしい。

今現在も不用意に起こせない祖父をそんな風に仕込んで、祖父よりも数段活動的であったというから、それはそれは大変なものだ。
その頃はまだ、今の流派ではなかった。



戦争中はこの辺りも空襲に遭い、暫くの間バラックを建てて暮らしていた。
ある時、貧苦から近所の婦人が狂った。
具体的には分からないが、狐憑きになったらしい。

看病に疲れ果てた夫が、酒の席でポロリと弱音を吐いた。

すると曾祖父は
「それなら俺が祓ってやる」
と言って家から真剣を引っ提げて男の家へ向かった。

その際、男たちが体を張って止めようとしたという挿話から、曾祖父がどう見られていたか偲ばれる。



目的の家に着くと、曾祖父はバラックを蹴り飛ばし、目がつり上がった男の妻に真剣を振り下ろした。
幸い寸止めで、男の妻は痙攣して気絶した後、起きたら元に戻っていたらしい。
バラックは皆で建て直したとか。



常識的に考えて幸運かショック療法で、曾祖父の「見えないなら見えないところを斬るだけだ」と分かるような分からないような言葉だけが口伝えで残っている。

狐斬りではしまらないからと適当な名前が付けられて、その後誰一人として再現出来てない。
そもそもそんな機会も無い。

技術どうこうでなく身内の逸話で、だからこそほとんど外に漏れていないし、口にされると恥ずかしい。





漠然と、そんなこともあるのか程度には思う。
しかし霊刀だ退魔の技だと口にするは勝手だが、霊というのはもっと精神的なものだと佳辰は捉えている。

つまり集中力。察知力。自分以外の何者かが体を動かしている感じ。
霊器を求めるならば、自分の五体と剣に降ろすことを目的とするべきだろう。



落ち着いた呼吸で木刀を振る。
既に激情は冷め、体を馴染んだ型の通り動かしながら、心は動きに囚われず、道場の静けさを味わっている。



武道に限らず、日本の伝統芸能には「守・破・離」という概念で以って上達を測る。

守は文字通り、基本を墨守する。初心者のうちはそうやって、体に規範を染み込ませていく。

破は、破る。既に基礎を体に刻んだ者が、自らの認識で以って先人たちの積み上げた道をあえて外れ、更なる上達を模索する時期。
この段階を一生を終えるものも多く、外れたまま戻れなくなる者もいる。一口に破と言っても、その内実は千差万別で雲泥の差がある。

離ともなれば、自分の欲するままに動いてしかもそれが道に外れない。融通無碍。達人はなべてこの領域にいる。



佳辰は破。幼い頃からの稽古で基礎は出来た。年齢的に体も土台が出来たところ。
しかしまだ、それ以上ではない。
故に今まで遠ざけていた本を読んだり、あえて基本を口に出して教えてみたり、激情のまま剣を振ってみたりしている。



修練の末、空白の器に神は宿る。
木刀を振りながら、ふと無関係な思考が像を結んだ。



空白に神は宿る。
ならば人為的、技術的に空白を作ることが出来るなら、意図的に神を呼ぶことも出来る?

生命に近い空白の器。
例えば真珠。例えば死体。






(空白を生み出す装置、ネビニラル)
夜が更ける中、自室で創は神像を黙々と改造していた。



机には小型の円盤が何枚も重ねられていた。
掌に包めるほど小さく、薄い。

しかしそれには手書きでは及ばない精緻さと量で、呪文がある物には彫り込まれ、ある物には浮かび上がっていた。
それらは工作機械によって作られた物だ。
当然、創はそんな機械を持っていない。



創がそのサービスを知ったのは、仲間を求めて様々なコミュニティのサイトを巡っていた時だった。
その時、創は模型やフィギュアの公開をするサイトを覗いていた。
自分のような神像を作った者がいないか探していたのだが、見つからなかった。

代わりに、別の物を見つけた。



光出力。
PCで作成した3Dデータを元に、自動で素材を造形してくれる機械。
それを店頭で使わせてくれる店舗。データさえ送れば、代行して完成させてくれるサービスの存在。



見つけた時はネビニラル公開前であり、神像を全て機械任せにする気も無かったので、「技術すげえ」で終わった。
しかしネビニラルの質、ひいてはヤソマガツコピーの威力が呪文の精度に大きく影響されると予測した時、創は最寄りの店舗と3Dデータの作成法を検索した。



結果から言えば、それは拍子抜けするほど簡単だった。

『光出力』でサービスを行っている店を見つける。
料金表と、対応しているソフトを調べる。

ソフトのサイトに飛んで体験版をダウンロード。
スキャナで取り込んだ呪文の画像を、円盤に貼りつけて完成。

あまりにも簡単だったので、彫ったタイプと浮かし彫り、二つのデータを作ってしまった。

後は放課後、模型店に寄り、張ってあるマニュアル通りに操作して持ち込んだデータを出力した結果が、今現在机の上に山積みになっている。
同時にモーターや電池、軸となる金属棒など必要な物も買ってきた。
(こんなに簡単でいいのだろうか)






神像の後ろの首筋を円形に切り裂きつつ、自問する。
出来ると思っているからやっているのだが、あんまりにもあまりじゃないか。



切れ込みをテープで留め、中の綿を引き出していく。この二体の元ダッチワイフには、本当に綿しか入れてない。



綿を抜いて出来たスペースに、ラップの芯を切って作った筒を差し込んでいく。
胸の中ほど、心臓の辺りまで押し込んだら、モーターの軸に直結したネビニラルを入れていく。
綿に触れるか触れないかで留め、円盤が壁に当たらないよう、気をつけて筒の真ん中にモーターを補強材で固定する。

電池入れとスイッチを首の付け根に乗せ、接合部ごと接着剤にパテ、それにガムテープで補強し、筒のふたを塞げば完成。
ネビニラルの多重起動が可能なことは、既に本家の実験で確かめられている。



完成を眺める。ハンドメイド感溢れる改造ダッチワイフ。

(死にたい)
切実にそう思った。

オリジナルを十年封印し続けたヤソ研でも、CDFでもいいから、今すぐ二体を持って行ってゴメンナサイしたい。
土下座して謝りたい。
と言うかこんな息子に育って父さん母さんマジごめん。



(俺はとっくの昔に狂ったんじゃないか)
一人で頭を抱えうずくまる。
だが狂ったとしたら何時だったか。

自分の小ささを自覚した時か。
武道にすら居場所は無いと知った時か。
神像を作り始めた時か。

頭がおかしいと言われること自体は、もっと昔からされていた。





社会に出ると、学校で習ったこととは正反対のことを教えられるそうだ。

(これを言った奴は相当恵まれていたに違いない)
神像を睨みながら考える。

(俺は小学校のころから習っている)
多くの場合、教師自身から教わっている。



彼らは現実を見ろと言う。しかし現実とは、人間の脳内も含めて現実だ。



人間は服を着る。
これは体温調節以外に記号の意味もある。

自分はどういう人間か。
自分はどんな風に見られたいか。
その場面はどのような役割の場であるか。

顔面がどうでも話し方が拙くても、誠意をその形にすれば他者は理解する。
それで満足するか、理想を追い求めるかは別として。

皆が妥協可能な約束事。
最大公約的なファンタジーが「現実」だ。

人間同士で向き合う時、前提となるのはほとんどそちら。
だから、物理的な現実に対しての認識と混同しやすい。



誰も彼もが決まった服を着て、設計された区画の設計された建物の中で、スケジュール通りの暮らしを続けていく。

学校とは、脳が外に出た「現実」の最たるものに違いない。



創にとっての「現実」とは、化物が身近にいるという認識だ。

現実と創作の区別がつき始めた6、7才の頃、初めてヤソマガツの動いているところをニュースで見た。

その際、
「なんだ、怪獣って本当にいるんだ」
と思った事を覚えている。

長ずるにつれて、見えないところで気配のする感覚は薄れないまま、人間の顔が猿に見え始めた。

なんで現実の顔の頬は丸く膨らんでいるんだ。
頬骨に表情筋が乗っていると理解してるが、喋る時に膨らんで歪んで、気持ち悪くってしょうがない。



霊能力と呼ばれる感覚は創には皆無で、本人も知っている。
それでもおぼろげな、一般的でない理に惹かれ、親しみを覚えるのだ。



分類したい、混沌から秩序を引き出したいという強い欲望は科学の根本的な動機の一つだが、創が引き出そうとする秩序は現行科学とは異なるのだ。

その衝動は消えることなく、己の鏡像を見つめても止まらない。





(ヤソマガツは神だ)
そう思う。

神という言葉は定義が多様過ぎて、何とでも言えるレッテルだが、今回に限るなら人間の手で制御したくても制御出来ないものだ。

その「人間以上」が、異星人の技術力によるものなのか、マジでオカルトなのか意見が分かれているのが現状。

創としては誇張抜きに化物で、訳分かんない呪文が付いているならそれが原因だろうと感覚的に思うのだが、証拠を見せられないと信じないものらしい。
もっとも、その呪文の効果を目視させても無視されているのだから、これはもう議論以前の問題だろう。

自分の生活に関わらない。自分の人生に関わらない。
関わらなくても暮らしていけるし、むしろその方が都合がいい。だから押し込められ、無いものとされる。
(俺のように)

とは言え、それを悪いとは創は思わない。
ただ、どうして気にしないのか不思議なだけだ。

将来について考えろと言うのなら、人間いつかは死ぬものだ。
死んだら生き返れないのだから、生き返った臨死体験者や生きてる宗教者の話はあてにならない。

端的に言って、死んだ後のことは死んでみなければ分からない。
だから自分自身の身の振り方を、死後確実に備えることは出来ない。
そこは信仰の領域であって、論理ではない。



しかしそこに、異星から理解しがたい異形が流れ着いた。

それは空間に満ちる不可視の何かを吸って駆動する。
その何かは枯渇する。

確かにそれも大事だが、創にとっては電脳も無いのに立ち上がり、知覚系統が無いのに物を見る方が重要だった。
動力源は分かりやすい矛盾だが、器官も無いのに思考し、外界を知覚することに注目した。
それは正に霊魂ではないか!





ネビニラルが消費する何かは、様々な立場から様々な名前で呼ばれており、それが一層の混乱を助長している。

マナと呼べば、有限なエネルギーソースの面が強調される。
気と呼べば、気体に似た独特の法則を。
霊と呼べば、それ自身が持つ性格的側面を。
魔と呼べば、霊の中でも動物的で特に有害な側面を強調する。

発言者や時と場合のバックボーンによって呼称が変わるが、いずれにせよ、どの呼び名も全てを言い表わしていない。
全体像が掴めないまま、掴めていない違和感だけは確固として存在する。

ひょっとすると、言語による思弁で捉えきることは不可能で、昔の修験者のように行動によって体得するしかないのかも知れない。





全体像を掴めない、意のままにならない、人間性を超えた大きな力。
否応なくそれらと向き合って生きていかねばならなかった先祖たちは、どうしていたか。

自分の限界を知った創は、宗教書や文化論を読み漁った。
見つけた。





あれはカミだ。
そう呼ぶしかない、遍在する荒ぶる力だ。
同時に、わざわざ危険なものを集めるための器にも見える。

触発された俺が、自分の衝動に破壊という指向性を与えて固めたように。



器。結界。
神社。



神道に於いて、八百万の神々は万象に遍在する。
人智を超えた神であるから、人の手で捕えることは出来ない。
しかし神は遍く世界に満ちているのだから、意図的に空白を作ればそこを埋める。

人工的に宿るための空白を作ることが出来れば、神を招くことが出来る。



地面の上、四方に柱を立てて、それぞれの頭頂部を注連縄で結ぶ。
すると内側に何もない空間が囲われて出来る。

これが「代(しろ)」の原型である。
今でも地鎮祭で見かけることがある。

これに屋根を付けたものが屋代。
即ち、中央に空白を配した屋根付きの空間のことである。

この屋代に、隙間の多い垣を巡らせ、神の通り道である参道を、鳥居を配して示したのが神社の構造である。



ヤソマガツは屋代だ。移動する神社であり、外装という結界に呼ばれ、封じられている神だ。
つまり、ヤソマガツに刻まれた呪文、ネビニラルで大気中の何かを運動に変える目的は、それ自体を資源として活用することでなく、その後の空白が狙いだった。



ネビニラルは空間中の何かを消費する。
そうして出来た空白に、神霊は降臨する。
器を得た神霊は暴れ狂い、周辺全ての何かとあるいは神霊自身も焼き尽くして停止する。

……幾ら空白に呼ばれるからって、ワープはないだろと思うが。



霊や気を利用することが目的でなく、その不在を目的とする装置。
神霊の実在を自明とするからこそ、傾力は新たに構築するのでなく虚空の用意に向かった。

そうして神はやって来た。

科学で霊的な力を解き明かしたなら、供給源を開発して、それを司る設備を造る。
そんな価値観からすれば逆転の発想。

だが言われてみれば親しみがある。



俺たち人類が漠然と感じる何か。特に多神教。
八百万の神々を戴く日本でも、概念上のコンセプトが精々だった理論を、物理の域にまで押し上げた技術力。

だがそこで招かれた神は穢れの塊だった。おそらくは、意図的に。



既に滅亡したかもしれないオーバーロード。
叶うなら、彼らと話がしてみたかった。

俺の神像を見せたかった。



今は封鎖されているネビニラル起動実験があった現場を見てみないと分からないが、空白が更なる空白を呼び込む性格上、破壊はどこまでも広がっていく。
今現在そうなっておらず、CDFがヤソマガツをかっさらったまま終結宣言も出さないということは、まだ欠けたピースがあるのだろう。



あの時、あの中身は燃えたはずなのに、うちの風呂場で動いたからな……。
本当に物質寄りの代物じゃないんだろうな……。



原理上、より純粋な空白を作るほど、強大な力を呼び込むことが出来る。
推測だが、オリジナルは異星で最高峰の素材と呪文で作製されたのだろう。

その空白の質を決めるのが、呪文の精度と元々の素体のキャパシティ。
それ自体の格が高いほど、消費された時の空白が大きい。





俺にとっての現実と興味はこういうものなんだが、他人には俺の言葉は伝わらない。
同じように、彼らの言語も俺には理解できない。



花の美しさ一つとっても、俺にとっては殺戮の美しさだ。
伝わらない。

野に咲く一輪の花。
それを世人は可憐と愛でるが、植物は一つが育つために、そこで芽吹いた百が犠牲になる。
静寂のうちに殺し合って、敗れた死骸を栄養に、目立つためだけの花弁を咲き誇る。

俺の細腕で折れる程華奢ながら、静かに道徳に喧嘩売っている生き様は支えになる。
植物に人間の理屈は関係ないし、人間である以上は社会の法に従わなければならないが、それでも距離をとれるのは心休まる。
そっち行ったら俺なんか即効死ぬけどな。



南蛮鴃舌、バルバロイ。蝿声なす邪しき神。
理解できない言語を話す、喉から不快な音を発する異郷の民。

郷に入らば郷に従え。
彼らの中で暮らすなら、彼らの法理に従うことが重要だ。
同じ発音が全く違う意味を持つ以上、最低限、文法を受け入れなければ意思の疎通が出来ない。


思い返してみれば、笑い合える正常にも、社会で暮らせない異常にもなりきれず、どっちつかずのまま塀の上を歩いてきた。
平均寿命通り生きるなら、今まで体験した以上の年月を、同じように過ごすわけだ。

マトモのほうに落ちれるとも思えない。あるとすれば異常だろう。
どうにか塀を渡りきっても自己満足で、それまで言われ続ける言葉は決まってる。



「それでお前はどっち側だ?」






金曜。
文化祭を翌日に控え、生徒たちは忙しげに駈け巡り、佳辰もまた、慌ただしく過ごした。
教室の椅子と机を動かすだけで喫茶は出来、衣装も結局Tシャツでなく、制服の上から羽織を着るだけになったので、面倒は無い。
あとは当日、正午から始まる学生だけの開催までに、十分済む。



「今日、学校に宿泊する人はこちらに名前を書いてくださ~い」
なので、クラスの文化祭担当が名簿を回した時、そこに名前を書いたのは、佳辰にとっては部に出ている友人たちの手伝いの為だった。

「残る?」
「朝早く来れば充分じゃね?」

「うーん。塗料の乾きから逆算すると泊まったほうが……」
「どっちにしろ決めるなら急ごうぜ。暗くなる」

そんなやりとりが交わされ、結局、クラス内をいじるのに、4、5人。
他、部の名簿で許可済みの数人が残り、後の同級生は早朝に登校することを聞いた後、帰っていった。



「それじゃ、これで全員だね?出しますよー」
ややハスキーな声で、文化祭担当が言う。

「買い出し行くか」
「ああ」

「佐竹に出してくるから門で待っててー」
「うぃー」
男子生徒の会話に、文化祭担当が合流場所を告げる。

「付き合うよ」
佳辰は彼女と共に教室を出、宿泊許可を司る生活指導の下へ向かった。



「ありがと。助かるよ」
生活指導の佐竹は教師陣の中でも年配の歴史担当。
普通にしてても威圧感があり、あまり一人では会いたくないタイプ。

「こっちにも聞きたいことがあったから」
在校生たちが足早に、荷物を抱えてすれ違う廊下を歩きながら、二人は語り合う。
名簿のバインダーを持った人々で、廊下には緩やかな流れが生じている。

「何?」
「打ち上げで何かすることがあるって、昨日ちらっと聞いたんだけど」

「ああ、そうそう。柏さん、別当寺さんと親しいじゃん?連れて来て欲しいんだー」

別当寺伊織。
日曜日にも買い物に出かけた、オカルト好きの友人である。

「それじゃ、するんだ」
「らしいねー。青春だねー」

クラスで牽引役の男子生徒。
彼が伊織に好意を寄せており、打ち上げの際に告白したいと伝えられたのが昨日。

ついては前段階として文化祭をなるべく一緒に回りたい。
そして打ち上げの席ではいい雰囲気で二人きりになりたいので、確実に参加するようエスコート諸々お膳立てに力を貸して欲しい。

と、いうことを、本人と、彼の友人の女子生徒から別々に告げられた。



佳辰としても、否意は無い。
言いたいなら言えばいいし、そのために役立てることがあるなら手伝おう。

(可愛いしねえ)
「可愛いもんねえ」
佳辰の感想と同じことを、級友も口にする。

そう、別当寺伊織は可愛い。
顔は愛らしく、スタイルも良い。立ち居振る舞いも楚々として、どちらかと言えば内向的で人見知り。

知る限りでも何人かに告白されたらしいが、お眼鏡には適わなかったようだ。
だから彼らも外堀から埋めることにしたのである。



生活指導に名簿を提出して許可を貰い、門のところで合流した級友たちと買い出しに向かう。
帰り、その頃にはもう、日は落ちていた。

空は深い紺色で、薄い紗がかかっている。
嫌な感じは、今日は薄かった。

「間に合わなかったな」
「まあ人数いるから楽だよな」
そんなことを男子生徒たちが話している。



正門に近づくと、腹に響く重低音がする。
脇に避けると、一台の車がライトを点けて通り過ぎる。
走り去った後には、独特の臭気が立ちこめる。

「やっぱガソリン車は音がちげーな」
「この臭いのがイヤ」
口を腕で覆い、または手で排気ガスを掃いながら、級友たちが口々に言う。

「増口の奴、あれに維持費すっげーかけてるって……」
その中の一人が呟いた。

古文の増口。
古典だけでなく、とにかく古いものが好きらしい。



門をくぐり、昇降口に至ると、校舎の窓という窓からは明かりが漏れ、文化祭前夜に忙しく立ち働いている生徒たちの姿が見える。

「俺たちも急ごうぜ」
暫し皆で眺めた後、教室に戻って準備をした。

佳辰は各部の友人たちを渡り歩きながら手伝い、また語り合った。





翌日、土曜。早朝の六時。
校舎を出て朝の爽やかな空気を吸いながら、佳辰は一度帰宅するか思案していた。
視界の端には、昨夜のうちに建てられたアーチで飾られた裏門が見える。


ふと、そこから一人の生徒が登校してくるのが見えた。
同じクラスの創が、人の入るぐらい大きなスーツケースを二つ、キャスターで転がしながら舗装路を歩いている。

かつで自宅の道場に通っていただけ、悪ノリで謹慎食らっただけの関係であるので、佳辰は彼のことをよく知らない。
それでも割を食わせた罪悪感から、居場所を奪ったのではないかと危惧があった。
あの様子では、何か他に入部出来たらしい。

体をほぐすのを適当なところで切り上げて、佳辰は教室に戻った。





創は一夜のうちに飾り付けがなされた校舎を見つめた。
屋上からは垂れ幕が下がり、校庭から見えるいくつかの特別教室の窓には、カラフルな看板が重ねられている。

(なんだか悪いな)
居心地が悪い。罪悪感があった。

(皆楽しそうなのに、申し訳ない)
そう思った。
だが決めたのだ。



――それでお前はどっち側だ?



荷物を手に、創は校舎に入っていった。





その日は午前中準備、午後からは学生だけの試験公開日。
佳辰はそれとなく伊織と離れ、適当にふらついて明日の案内の計画を練った。
明日は、自分が招いた響三輪が来るのだ。





2035年11月。

日曜。文化祭本番当日。
その日は穏やかに晴れていて、校庭には各学年各クラスの出店が並び、校舎の至る所には催し物のポスターが貼られていた。



「今日はお招きありがとう!」

昼前に三輪が訪問し、クラスで作ったゴマ団子でもてなしながら、佳辰は友人たちを紹介した。
佳辰を含め、今日は皆制服のセーラーの上に羽織を着ている。

創はビラ配りに出ていて、交代時間に配り残したビラを持って帰ると、またすぐに出ていった。
誰も彼のことを気にしない。

佳辰だけがなんとなく違和感を覚え、それは普段猫背の創が、まっすぐに背を立てていたからなのだが、疑問の正体に気付くこともなく、すぐに注意は三輪への応対に向けられた。



パンフレットを見せると、佳辰にとっては意外なことに、三輪は科学部の展示に興味を示した。
『ネビニラルを利用した発電展示』



四階の化学室に向かうと、男子生徒を連れた伊織が科学部員の説明に耳を傾けていた。
級友である困り顔の男子生徒と、アイコンタクトを交わして友人に近づく。

「伊織。紹介するよ。こちら、うちの道場に通ってる響三輪さん。こちらが別当寺伊織。友達です。」
説明中の科学部員に掌を見せて制し、互いに両者を紹介する。

「はじめまして……かな?別当寺さん。先週、柏さんの家でちらっと会ったよね」
軽く一礼し、三輪が柔らかに話しかける。

年上の友好的な態度に、一瞬強張った伊織の呼吸はほぐれていく。
「ええと……、そうですね。響さん」

「別当寺さんは、こういうのが好き?」
展示を視線で示しながら、三輪が尋ねる。

「はい。面白いです。ここにいる。ってことは、響さんも?」
「んー、少し」

三輪がそう告げると、伊織は春が来たような喜色を浮かべた。
(私も聞いているだけだったからなあ)

年の近い同性で、語り合える存在はレアだろう。
先週、根の部分を無理矢理語ってしまった佳辰には、彼女の喜びが共感出来る。



この後、掴んだ機を佳辰は、男子生徒が別の演し物に誘う手伝いに使った。
伊織は昨日も来ているのである。

「可愛い子だね」
二人が去ると、三輪は佳辰にそう言った。

「はい」
彼女が幸せになるのなら、裏で支えるのも悪くない。



「これはいつから動いてるの?」
三輪は展示してある電球やPCを眺めると、話し込んでいるうちに待機椅子に座ってしまった部員に聞いた。

「昨日からです」
「何時ぐらい?」

「朝の十時ですかね。完成したのがそれぐらいですので」
「どうやって止めるの?」

「装置自体を分解します」
そう言って彼は、誰も乗っていないのに車輪が回転し続ける自転車を指差した。

接地せぬよう固定され、安全のために柵で囲われている様は、軽いホラーか悪い冗談である。
友人がいたく関心を持ったのは容易に想像がつく。

「危険はない?」
「衝撃吸収用のクッションで受け止めます。既に試作品の段階で練習済みです」

「そっか。……ヤソマガツを呼ぶ危険性は?」
三輪が尋ねると、部員は気難しげに腕組みをした。

「分かりません。しかし、テレポーテーションのような無茶苦茶な現象は、あのような大規模な実験の出力故に起きたのであって、この程度の手作りではそこまでのエネルギーを変換できないと考えています」
「そう……」

考え深げに呟く三輪に、部員は続けてニヤリと笑った。
「それに、さっきも言った様に分解は容易です。空が曇ったら、雨が降る前に止めて見せますよ」



単なる諧謔だが、それを聞いた佳辰は何かに指の先端が触れるのを感じた。
闇の中を転がっていく鞠を追いかけて、手探りの手がようやくかすったような。
しかしその衝撃で鞠はコロコロと転がっていく。

そして鞠にも、絢爛豪華な模様が独自の法則で象られているのだ。



三輪が立ち上がる。
「ありがとう。頑張ってね」

部員に告げ、用が済んだことを察した佳辰と共に教室を出る。



「ああいったものに興味がおありなんですか」
「んー……、まあ、仕事柄」
佳辰が尋ねると、三輪は片手を頭にやりつつ答えた。

(仕事柄?)
そう言えば、外骨格に関わる仕事だと言っていた事を思い出す。

「ひょっとして、CDFで働いてるんですか?」
「正確には違うんだけどね。今ちょっと間借りしてる」
どういうべきか、言いあぐねるように三輪が応じる。

「それを聞いたら、伊織はきっと喜びます」
「さっきの彼女?うーん」
軽く額を押さえた三輪は、暫し黙考した後、全く別の話題を振ってきた。

「お手洗いどこ?」
「あちらです」
自分の後方を指す。

「ちょっと行ってくるね。失礼」
そう言って歩いていく。

(話したくない仕事?)
態度から、佳辰はそう思った。





羽織を脱ぎ捨て、末林創は神像の一体目が隠してある四階の歴史史料室に潜りこみながら、黙考する。
ボサボサで伸び放題だった髪は刈られ、年の割に濃い髭もあたっている。
ここは鍵が壊れているくせに威圧だけで侵入を防いでいたから、目的のためには都合がいいのだ。

電池は嵌めた。
あとは指を動かすだけだ。



余り物の武装を入れたバッグを脇に置き、一号機を見つめながら考える。
(今ならまだ止められる)
四肢を強化した一号機はそのままだが、頭部にチェーンソーをつけた二号機は刃の一枚一枚に呪文を施したり、簡易にゴザで装甲を作ったりした。
竹アーマーですらないゴザアーマーだが、衝撃が無意味な神像には刃物による穴開きを防ぐという点で十分だった。



(手間惜しまなければ、自分がネビニラル開発していたかも知れないのな)
チェーンソの刃に以前から書き込み、何らかの拍子にスイッチを入れていれば、ある意味一番簡単だった。

(後智恵は詮ないことだ)
神像の二体目に取りかかったのはここ最近。
体幹強化は以前から腹案だったが、頭部にチェーンソーと決めたのは配信された一戦でテンション上がったからだ。
創も流石に素面では、そんな安直なものを作るには照れがあった。



(これから自分がやることには言い訳が利かない)
科学部の平和的な展示を見て、創の胸中に一層の思いが募る。

止める気はない。
やる。
やると決めている。

しかし、何故自分は科学部のあれでは満足しないのか。
正当化しないからこそ、偽りない本心を自覚したい。



深夜に一人、神像を建造しながら考えたことを思い出す。
呪文で回転が止まらないのなら、どうしてTシャツのプリント機械や新聞の転輪機は止まるのか。事故を起こさないのか。

いい加減なそれは、機械と言うより誰かの呼びかけのようだ。

遠い誰かに呼び掛けるような……。薄れていく木霊に応えてくれる相手を待つような……。

誰もいないと分かっているトイレにノックし続けるような。

「誰か」を作り出す行為。「誰か」を迎える用意。

遥か昔、想像も絶する過去に想像を絶する文明を築いたであろう竜の種族。
遠い遠い、彼方の彼らがヤソマガツを造ったのも、そんな動機でこんな風だったのかもしれない。



発電するだけで満足出来ないのは、自分の関心がエネルギーよりも心だからである。

ヤソマガツの心。即ち、何もかも破壊し尽くすという行為。

それに自分は呼応した。ここがカギだ。

(俺は仲間を求めている)
ではなぜ、その方法が檻に閉じ込めた神像を見せるのでなく、こうなのか。
俺が求める仲間とは――
「おい!お前、何をやっている!」





弾かれるように振り返ると、生活指導の佐竹だった。
ヘルメットをかぶった女の姿をした神像に気付く。

「誰だ!?……人形か」
犯罪の臭いを嗅いだのだろう。
慌てて駆け寄って来た彼に、創は押し退けられる。
突き飛ばされ、勢いよく棚にぶつかる。

背中が痛んだ。しかし、素肌に着込んでいる物のおかげで、それ程でもない。



「オモチャか……」
嘆息し、教師は創を睨む。

「おいお前。三年か。俺の部屋で何をやってる」
睨み返したまま、創は答えない。どうせ自分の言語は通じないのだ。

すると、教師は創の腕を掴み、廊下へと引きずり出す。



廊下には多くの人が居た。
怒号に注意を向けた者、たまたま通りかかった者。

投げるように廊下に放り出され、よろめきながらも何とか踏みとどまった創は、遠巻きに人々の視線を浴びる。
晒し上げの中、創の注意は教師の左腕が持つ神像に集中している。


「お前、これはなんだ?」
頭の高さまで神像を持ち上げ、見せつける佐竹。
骨組みも何もない神像の体は、だらんと重力に引かれて垂れさがっている。

……首根っこを掴む教師の掌が、動かす弾みにスイッチを入れた。
音を立て、モーターが回転する。



「なんだ?」
ポイッと、無造作に放り捨てる教師。

「何も起きないな。おい、お前。お前が何考えてるかは知らないし、知ってやる義理も無い。だがこれだけは守れよ。自分の世界に浸りたきゃ一人でしてろ。そうしたら誰も文句言わねーよ」

創はじっと倒れた人形を見ている。
耳に当たる言語への反論は思い浮かぶが、今はそれどころではない。

「黙ってちゃ何も分からんねーよ。一人の世界に入って、お前友達いないだろ。口に出せよ。人と話して、身の程を知れって言ってんだよ。おい!他人が話してんだから目を見ろよ!」



そこだけ他の音が消えたような空間の中、円盤は回転し続ける。

怒鳴りながら、教師は身をかがめて電源を操作する。
「うるせえな……オイ、切れねーぞ」

電源を切っても止まらない。
電池を抜き出す。
止まらない。



突如、創が駆け出した。
まばらな人垣を抜け、ぶつかりそうな人は押し退けながら、血相を変えて階段を走り下りていく。

「逃げんなこら!顔覚えたぞ!皆が楽しんでる中でこんなことして満足か!」
教師が叫ぶ。



不意に彼は、周囲の戦慄を感じた。
自分に対してではない。
周りの視線は自分からズレている。

視線を追って振り返ると、先程投げ捨てた、芯のないグニャグニャした、やたらと軽い人形が。
まるで生きている人間のように、手で膝を支えて立ち上がる様を見た。






[27535] 第九話
Name: 三二一◆02c59522 ID:068f191e
Date: 2014/02/17 22:45
『かしり【呪】
[名](動詞「かしる(呪)」の連用形の名詞化)

呪文を唱えて、神仏に祈り、福や災いについて願うこと。また、それをする人。

*書紀(720)神武即位前「厳呪詛、此をば恰途能伽辞離(いつのカシリ)と云ふ」

[方言]呪い。◇かじり 三重県志摩郡584
[諸言説](1)マシリ(禁厭)の義(言元悌)。(2)神の作用のカジ(神為)に、活用語尾のリのついたもの〔日本古語辞典=松岡静雄〕』
――『日本国語大辞典 二版』






第九話『呪──カシリ──』





手水から帰って来た三輪は、いつの間にか遠方に出来ている人垣について佳辰に尋ねた。

「お待たせ。あれ、何?」
「多分……説教?誰かが禁止されている物を持ち込んだようですが」

校舎の端と端、人の背で隠れてよく分からないが、漏れ聞こえる騒音からすればそういうこと。

「ふーん。まあいいや、次はどこへ行く?」
「次はですね」

わざわざ不快な出来ごとに首を突っ込むこともない。
話題を切り替えた二人は、続く悲鳴に否応なしに注意を奪われた。



二人が近寄ると、ライダースーツに異様なヘルメットをかぶった女が、中年の生活指導の男を馬乗りになって殴っていた。

女の腕には長くて太い鉄の棒が固定されており、拳よりも長いそれは、頭をかばう教師の両腕をすり抜けて重傷を与えていく。
一際速い一撃に、背筋が総気立つような水っぽい音が生じた。



女が立ち上がる。
無言で立ち尽くすその姿を、刺激するの恐れて誰も動けない。

一人が身じろぎした。
その顔に吸い込まれるように、鉄棒が衝突する。



それが合図となり、堰を切ったように人々は叫びながら背を向けて駆け出していく。

佳辰も三輪の手を引いて逃げようとしたが、根が生えたようにどっしりとしてびくともしない。
焦って振り返ると、三輪は今までに見たこともない厳しい表情で殺人者を睨んでいた。

「早く逃げないと!」

最も近くなった二人へ向かい、女が腕を大振りに振り上げて突進する。
テレフォンな攻撃を大きく避けると、佳辰と三輪の間に大きく距離が開く。



「柏さん!何か投げる物ない!?」
「教室には何かあるんじゃないですかね!?」
突如投げかけられた質問を、意図の掴めぬまま叫び返す。

女は二人に目もくれず、騒ぎを聞き付けて顔を出した、付近の教室の面々に襲いかかっていた。

「しょうがない!」
そう叫ぶと、手近な教室の扉を蹴り外し、あろうことか女向かって投げつけた。

それは床でバウンドしながら回転し、振り向いた女の顔面に縦のまま激突する。

(……手裏剣とかゲームケース投げる感じ?)
もしくはトランプ投げ。

力が強くて困っていると言っていたが、これは確かに無茶苦茶過ぎる。
稽古では投げられているのに先程微動だにしなかったことといい、私の稽古なんだったんだと思いもする。



「すげーぜ姉ちゃん!」
強烈な一撃に、逃げ遅れ、まだこの会にいる人々から賞賛の声が上がる。

防具を着けてようが、あの勢いの物を顔面に食らったら、人間ならアウトだろう。
緊張がほぐれるのも無理はない。

しかし、三輪は女から目を離さず、もう片方の扉も外して肩に担ぐ。



女が起き上がった。
いや、それは女ではなかった。
人間どころか生き物ですらなかった。

激突の衝撃でヘルメットは剥がれ落ち、隠されていた頭部をさらけ出す。
そこには顔面もなかった。

目も鼻も口もないビニール質。
綿の詰まった透明な表皮には、びっしりと奇怪な紋様が書き込まれている。
のっぺらぼーと耳なし芳一が合体したようなそれは、明らかに動くはずも物が見えるはずもない木偶人形だった。



「皆逃げろー!」
叫びと共に三輪が第二弾を投擲する。
それを躱し、突進してくるライダースーツの木偶人形。

避け、三輪は壁の警報機を叩き割った。
本能的に危機感を煽るサイレンが、校舎中に鳴り響く。



近くにいた佳辰に、ライダースーツが再び大振りに腕の棒を叩き付ける。
今度は落ち着いて躱し、すれ違いざま首についている突起を弾き飛ばす。コードが切れた。
しかしすぐに横薙ぎが来、すんでのところで飛びずさる。

自分も相手も、稽古の約束通り動くはずないが、自分の周りの空気も自分の身体に感じられて、そこに冷たい相手の空気が入ると想像しただけで身がすくむ。

肉体の輪郭を超えて、自分が拡大したようだ。
(何来るか分からないのってマジ怖えー)



一旦距離を開け、立ち尽くしたと思われる人形は、今度は人形らしく関節のないムチのような動きで両腕を振り回してきた。
先端に重さ数キロの鉄棒を括りつけた鞭だ。それを体ごと突進しながらめったやたらに振り回す。

一度目はなんとか避けた。全身を爆ぜるように飛び退く。
狭い廊下、着地すると、慣性が足にかかって動きが止まる。

人形はそのまま倒立し、勢いを乗せて足が上から降ってくる。
足にも長い鉄の棒が縛られている。

(本当に同じ人形!?)
重傷、悪ければ即死も有り得る一撃は、人形が吹っ飛ばされたことで事なきを得る。

佳辰を助けたのは、三輪でなく男子生徒。
名も知らぬ一年生たちが、箒やモップを握って突き出したのだ。



「先輩たちばかり危険な目に合わせられません」
佳辰に最も近い位置。
彫りの深い、顔の濃い少年が言う。
手が震えている。腰が引けている。

「だからお下がりください」
女顔の少年が言う。

「警察には通報済みです!」
太り気味で童顔の少年が叫ぶ。
それに少年たちが軽口を返す。

「なんて言った?」
「殺人犯……」
「まあそれしかねーわな」



人形が立ち上がる。
一連の流れに、佳辰はかつて見たような既視感を覚える。

男子生徒達が長物を構える。
数とリーチは有利。
しかし佳辰は何か安心出来ない。



果たして、人形は壁を蹴って三角跳びで距離を詰めた。

長柄を突き出した瞬間を合わせられ、彼らは目で追えても体がついてかない。

直撃の瞬間、佳辰が男子生徒の襟を掴んで後ろに引っ張った。そのまま後ろに倒れ込む。
狙ったわけではないが射線が開き、滞空する人形を三輪の投げた机が叩き落とす。



辛うじて直撃は避けたが、かすっただけで彫りの深い男子生徒は悶絶していた。
学ランとYシャツを剥ぐと、どす黒いアザが急速に広がっていく。



「柏さん!柏さんはその人を連れて逃げて下さい!そこの人たちは防火扉閉じて!奥のほう!」

三輪の声がかかる。
声のしたほうに目をやると、いつの間にか廊下は投げ出された机や椅子で一大バリケードが構築されていた。



倒せるどうこうの相手じゃないし、怪我人を放っておくわけにもいかない。
そもそも相談している余裕もない。
肩を貸して男子生徒を立ち上がらせると、歩調を合わせて歩き出す。

それを三輪が遠距離攻撃で援護して、避けられたら男子生徒が長物で牽制する。



「残弾よーし」
展開された防火扉に机が衝突し、耳障りな騒音を立てる。

「気をつけて」
気が利かぬ頭に苛立ちながらそれだけを、言の葉に乗せてわずかな隙間を通り過ぎる。



佳辰が階段を下りる間際に振り替えると、人形が振りかぶる三輪と全く同じポーズで机を投げ返そうとしているところだった。



(ヤソマガツだ)
それを見て既視感の正体に気付く。

何故動いているのか分からない体に、ふざけんなと言いたくなるぐらい賢さが変わる知性。
数人がかりで連携して、牽制がやっと。

どこの誰が作ったか知らないし出来も数段劣るが、それでもあれはヤソマガツのコピーに違いない。

けたたましい騒音を聞きながら、佳辰はなるべく急いで階段を下りた。






「すいません……足手まといで……」
「助けられたのはこちらも同じだ。気にするな」

走って逃げたい気持ちを叩き潰しながら、人気のない校舎を下りていく。

酷く長い時間が経ったように思えるが、携帯を取り出すとまだ数分しか経っていなかった。

代わり、伊織からすごい数の着信が入っている。
(とりあえず、あいつは無事か)
安堵する。背後が気になるが、今のところ下りてくる気配はない。



佳辰たちが一階に降り着くと、避難最後発の人々が逆行してきた。

「おいあんたら!あっちはヤバいぞ!」
恐怖と驚愕に歪んだ顔で、走り抜けながらそう叫ぶ。
続いて、大音量の金切り声。

音のするほうに顔を向けると、昇降口の前で参加客らしき成人男性が、棒立ちで写メを撮った瞬間に視界外から急襲した二体目に殺された。





「一匹見つけたらもう二十匹……そりゃゴキブリか」
「俺のことはいいですから、先輩だけでも逃げて下さい」

ユーモアは過酷な人生に擂り潰されないための緩衝材である。
最前の男子生徒と同じように、強いて軽口を叩きながら、言葉を話すのも辛そうな後輩を支えて目前の状況を把握する。



昇降口。出口付近。
先程より凶悪な武器を備えた化物が塞いでいる。
轟音は耳を弄し、至近の危険に足は意に反して震えだす。



化物の頭部にはチェーンソーが固定され、血に染まった刃はむしり取った髪の束を巻き込みながら、倦むことなく力強く回転している。



目の前で死んだ成人男性は、写真を撮ろうとして死んだ。
お花畑と言うのも憚られる暢気さだが、頭に大型の工具を、体はジャージの上から切り貼りしたゴザを纏った人形が動いていたら、それは記録も取りたくはなろう。

袖から軍手がのぞいていて、足回りはスポーツシューズ。
はっきり言って、珍妙。
直感的に危険と分かるが、理性的には難しい。



(あっちのほうがマシなんじゃねーの)
片や鉄棒。片やチェーンソー。

しかも見るからに殴ったり叩いたりして収まる相手でもないし関節もない。
一体どういう理屈で動いてるか分からないが、ジャンルと言うべきか、方向性は見当がつく。



捨てても捨てても手元に帰ってくる人形。
髪が伸びる人形。
触ってないのにひとりでに動く人形。

怪談で語られる類の闇が似合うその部類。
それの等身大版が安直な凶器を備えて白昼堂々前にいる。
白々しいほど非現実的で、白昼夢じみて馬鹿馬鹿しい。



自分のどこかが、これは危険だと告げている。
緊張は下腹部から溢れ、膝ごと地に崩れそうになる。

気合で無理矢理ねじ伏せて、努めて呼吸をゆっくりに。狭まっていく視界を戻す。



(オトリが要るな)

校舎の出入り口は一つではない。
逃げていった人々のように後方にも存在するし、最悪窓から脱出してもかまわない。

同じことは敵にも言えて、鉄製の扉がある教室からは窓から逃げられる。
窓の小さいトイレでは工具を防ぐ扉がない。

喫緊の問題は、二人揃った移動速度では追いつかれるし回避もままならないことだ。



視界が狭まる。
見える枠が黒く塗り潰されて、それでも焦点は真ん中にあるから減ったことに気付けない。

心音が、耳の後ろにある程やかましい。
緊張し過ぎて胃どころか脇腹が痛い。

肩を離す。わずかの間に強張った足を前に出し、立ち塞がる。

「歩け」
カラカラに乾いた口は、その隻言半句に多大な労力を費やした。



意識は全て目前の敵に集中し、そんなだから廊下の先、反対側の階段に近いトイレから、一人の男子生徒が這い出た事にも気付かない。
血に染まった腹部を押さえながら、額の右にアザがある男子生徒は階段を上がっていく。





ノコギリ頭が突進する。
回転する刃を突き出し、そのまま刺そうとするかのように、前傾姿勢で駆け寄ってくる。

一見して危険なのは頭部だけ。
しかし全ては不確定。



佳辰がすべきは、「自分の身を守る」、「後輩を襲わせない」の二つ。
受けたら切られ、避けたらその間に後輩が襲われる。

この難題に対し佳辰は、
(知るか)

時間の無駄なので考えるのを止めた。

無造作に歩いて距離を詰め、後輩とのスペースを開ける。



巻き込まれないように、長く束ねた髪を掴み、急速に近づいてくる相手をギリギリで相手の側面に入るようにして避ける。
化物は勢いをつけたまま男子生徒に突っ込もうとする。
その片腕を。

ちょうど避けたら近くにあったので掴み、フルスイングする佳辰。
思いの外軽い体は、勢いを逸らされて近くの壁に激突した。
腕に振動が伝わる瞬間、佳辰は跳ね返るの勢いごと、化物を昇降口の方へ投げ返す。



思考はほとんど介在していない。介在する時間がなかった。

良くも悪くも積み重ねた通りにしか体は避けなくて、目の前に力の流れがあったから無意識に干渉した。
そうしたら慣れた感覚があったから筋繊維が勝手に予期して動いた。
そんな奇跡的なファインプレー。



大きく弧を描いて放擲された化物は、今度は四つんばいで着地し、地を這うような低姿勢を取る。

ひらひらして邪魔な羽織を脱ぎながら、佳辰は近づいていく。
(通報が数分前だから……早くて三分、あと五分?)



化物は足斬りを狙うように、寝かせた刃を高速で左右に振りながら近づいてくる。

「この野郎……地味に痛いところ突きやがって」
毒づきながら、自分からも距離を詰める。
とにかく、相手のペースに呑まれるのはマズい。



この期に及んで、鬱陶しい他人の言葉が浮かんだ。
流派の理念は何だとか、この時はこれこれこう出来ないとおかしいとかどうだとか。

(ああうるさいぞ私の脳)
初めての事態だから、他人のいいなりになって安心したいか。
どうしていいか正解が見えないから、自分でない誰かに委ねたいか。

死ね。
恐怖も塗り潰す怒りが腹中で回る。

常識も他人の経験則も知ったことか。
同門でどんなに優れた人物が存在しようと、ここにいるのはその人でなく私。
相手取るのも死ぬのも私。

邪魔をするなら、仏だろうと祖だろうと、羅漢父母親眷に至るまで、悉く殺してやる。





大雑把に、相手の戦力を測る。

四つんばい。低い攻撃で厄介。
チェーンソー。諸刃でそれ自体回転してるから、触っただけでアウト。

横振り。
諸刃のおかげで返しの隙がない。
しかも重い工具を、慣性負けすることなく安定して振っている。

胴体。ジャージにゴザ。軍手と運動靴。
一体目と同じなら無防備。持った感じでは軽くて柔らかい。……綿?

首筋に回っている何か。一体目は外しても無駄。

呼吸もなければ筋肉もない。視線もない。
動体予測が通用しないから、反射神経が全てを決める。



原理だなんだはどうでもいい。
こいつを避けなきゃ死ぬだけだ。
胴を潰せば簡単だが、素手かつ一人では試みる気にもならない。



それらを一瞬で取りとめなく思い、刃の間合いに入った瞬間、横っ跳びに佳辰は逃げた。
追ってくる刃は寸でのところで届かない。

佳辰が床に飛びこむと、そこは血の池地獄だった。
注意が元凶に集中し、余分な五感がシャットアウトされていたので気付かなかったが、昇降口は逃げようとして殺された人々の死骸と中身で濡れていた。

付近の下駄箱が大きくひっくり返っているが、頭が嵌まった化物が振り回したのだろうと、脳のどこかが冷静に補完する。

立ち上がろうとすると、弾力のある体に足が触る。
足を上げると滑る。

化物は構え、馬鹿の一つ覚えで突っ込んでくる。
普段より体がよく動くが、回を重ねるごとに被撃の確率は跳ね上がる。

血で濡れた髪を前に垂らし、巻き込まれぬよう握りしめながら思う。

(切る。絶対髪の毛切ってやる)
親が泣いても知るものか。



化物の腕が、手近な誰かの体を踏んだ。
自分に触れる寸前で刃を躱し、その体を引き上げる。
足場を崩されて不安定な化物がひっくり返る。

人間の面影を残すものを、ただの物として見る視点に、自分の中で大切なものがブチブチと切れていく。



「オイこっちだこっち!」
声のする方向に振り向くと、下駄箱の上に何人か男子生徒が乗っていた。

人形の方に向き直ると、背後の曲がり角から複数の男たちがゆっくりと近づいており、手に角材やサッカーゴールのネット、あるいは教室の扉を外して数人がかりで持っていた。



意図を察し、人形の攻撃を避けながら誘導する。
足が滑り、誰かに当たる。
顔面すらない相手の注意を、他に移さぬよう気をつけながら罠へ導く。

見えないまま後ろに下がり、急いで倒れることに恐怖する。
周囲では息が詰まる気配がする。



佳辰が男子生徒の乗った下駄箱を通り過ぎた時、下駄箱が倒れて人形を押し潰す。
同時、大勢の男子生徒や男たちが駆け寄り、下駄箱を押さえつけ、動きを封じる。

人形は持ち上げようとする他、下駄箱を裂き、食い込んだところで投げようとするが、男たちが全体重をかけて封じ込めるので動かない。



「前は気をつけろ!それ(チェーンソー)生きてるぞ!」
「上乗れ上!四隅行っとけ!」

頭部が旋回自在の回転刃になっていたのは厳しかったが、その分胴体が巨大な柄になっていた。
他に凶器があるかも知れず怪力も脅威だったが、陽動と力を合わせることで結果的に取り押さえることが出来た。

初期案としての扉。使えそうにないが、とにかくあり物としての角材やネット。



人形はいまだに動き、なおも刃を振っている。
そのせいで前方に人が寄れず、隙が出来ている。
「これなんとかなんねーか」

一度投げ捨てられた扉が再び持たれ、截断力と戦いながら横幅の厚みで強制的に刃を横にする。
上に男たちが複数乗り、人海戦術で人形は無力化された。





「かしかし!怪我はない!?」
昇降口を離れて一息つく佳辰の下へ、友人が血相を変えて駆け寄った。

「平気。食らったらそこでアウトだし」
痛みで動きが鈍った途端、押し切られて死ぬ。

血まみれなまま、そう答えると、友人は大きく息を吐いた。



「それにしてもあれ、何?あんなのを作る人がいるなんて。誰かを殺そうとする人がいるなんて、怖いよ……」
そう胸元を手で押さえるようにして、不安げに伊織は呟く。

その発言、その恐怖に共感を覚えながらも、佳辰は普通の感想とはそうなのかと思う。
封じられているあれに目をやり、対峙した時の印象を思い出す。

人間型の胴体に、人間より硬いものを切断する工具が付けてある。
安直でいびつだが、それ故に剥き出しの想いがあった。

姿を思い浮かべ、背後にある製作者の意図に思いを馳せる。
それは一切の不純物無く、こう告げていた。

殺してやる。



(お前が死ね)

ふつふつと腹の底から熱が上がる。
佳辰にとっての感想はそれで、死ぬのは怖いが萎縮しない。
自衛でも侵攻でも、対人攻撃を自明とするから武道はあって、精神修養は派生に過ぎない。

そう認識する佳辰には、敵意を向けられ慣れてないという反応が分からない。
(お前何年生きてんの?)
それでもわざわざ聞かないし、刺激しない。それだけである。



全身が重い。どっと疲れた。
上にもいることを男たちに告げ、困憊したから戻っても無駄。

昇降口では古文の増口が、汲んだガソリンを持って行き、そんなもの使えるかと怒られている。

感度の回復した耳が、遠くのサイレンを捉える。



瞬間、悲鳴と共に封じられていた人形が校庭に飛び出した。





響三輪は数十度目になるフルスイングを見舞った。
鉄棒と机が衝突し、強度的に劣る机がひしゃげる。
男子生徒二人は既に負傷し、軽傷だが下がらせていた。

「くっ……」
衝撃と擦り切れる掌の感覚に、三輪の唇から苦悶が漏れる。

生来の怪力は攻防に役立ったが、皮膚は普通の女性と変わらず、使える道具類も底を尽きかけている。
辺りにはひしゃげた机と椅子が転がっている。



ライダースーツが腕と同じく補強された足で蹴りを繰り出す。
三輪がひしゃげたままの机で迎撃する。
耳障りな轟音を立ててお互いが弾かれる。

(しつこい……)
声に出さずに三輪は愚痴る。

当座の目的は被害の拡大の阻止と時間稼ぎであり、概ねそれは達成されている。

当初、不穏な気配を発しながらも奇態な人間の女性に見えたそれ。
その頭部を覆っていたパーツが剥がされ、どう見ても生物でない顔面が露わになった時、三輪は咄嗟に火災警報を鳴らしていた。

それから後の行動は、直感に辻褄を合せるようにした後付けの作業でしかない。



一見して我が目を疑う荒唐無稽さ。
知性を感じさせない場当たり的な暴力性。
それらが相まって漂わせる、ある種浮遊した不気味な雰囲気。

理性は説明出来る理屈をこねくりだし、感覚は逃げろと叫び出す。

同僚に話を聞き、また実見したヤソマガツと同質の異常性。
懸念を裏付けする証拠を見た時、反射的に体は動いていた。

何よりも人々を避難させる。
惹きつけて被害の拡大を防ぐ。
通報で来た消防士たちに外骨格で対応してもらう。

ほとんど考える間が無かった割には上出来だと思う。
外骨格を優先するらしく、それが有った方が防御面でも安心なのだが無いのだから、生身で引き付けるしかない。

一連の思考には大きな穴があるのだが、事態収容に慣れず、頭に血がのぼった三輪は気付かない。



間近でその頭部を見て、これがヤソマガツのコピーであることに疑いはない。
鏡文字になっていて分かりにくかったが、ビニールの内側にネビニラルの呪紋が手書きで書き綴られ、そこから透ける物は白い綿ばかりでカメラもレドームも何もない。

「ガワがマジで呪いの人形的に動いている」
と言った同僚の言が今なら納得できる。蟹や昆虫とは違った形で、外側が動くための容器なのだ。



ビニール製であるから、その気になれば素手でも引き千切れそうではある。
しかし大部分は頑丈なライダースーツで覆われている。
脱がしたり怪力で無理矢理引き千切るのも不可能ではないだろうが、両腕の鉄の棒が接触の邪魔をする。



下腕に固定され、拳の先まで伸びた鉄の棒は地味な外観と裏腹に凶悪な破壊力を発揮した。
振り回すだけで脅威となり、遊びが無いシンプルさは堅牢で、綿がつまった化物の軽い突きを致命打に変える。
効果としてはトンファーに近い。

火も吐かなければ腹部の中から隠し武器が飛び出すわけでもない。
「綿詰めの等身大人形が殴りかかる」という間の抜けた状況ながら、痛覚も疲労もなく、硬い金属を怪力で振り回すだけで前に立つのが恐ろしい。



(あー、空手きちんとやっておけばよかった)
今更ながら後悔する。
ふらふらとつまみ食いでなく、何か一つでも修めていたら勉強器具の大量破壊以外にやりようもあっただろうに。



今までやってきたシミュレーションとは違う。
装甲が無いせいか緊迫感が肌の周りが帯電したようで、体が殺気に萎縮している。

何よりも時間の拡張。
数秒が何分にも感じられ、思考は目まぐるしく乱雑に飛び交う。

前者はともかく、状況的に後者は琢磨も感じたはずなのだが、緊張のあまり排尿したことすら語った彼が口にしなかった。
意識しなかったか体験しなかったか。

(ひょっとして、あいつ、思ってた以上に変?)
そんな益体もないことが頭をよぎる。

(そもそもこの人形、やたら出来がいいけど市販品?何に使うのこんなもの。浮輪?)

あとスタイル良くてなんかすっごい羨ましい!
細い腰の上に乗ってる胸が谷間に生地を浮かせて大きな三角錐を寝かせたようになっている。
理屈抜きでかっこいい。

どうであれ今は関係ない。



逃げたい。怖い。痛い。死にたくない。

だが代わってくれる誰かはいない。
これが何か確信を持てるのは自分だけ。
ここで逃げたら職場の皆に顔向けできない。

何より背を向けたら殺される。



膝が笑う。指が強張る。
ひしゃげた武器を交換しようにも、指が固まって離れない。

「ッ……オラァ!」
開き直って歪んだ椅子を迫り来る腕へと迎撃する。
ほとんどかすった。

肉薄。息遣いが感じられるほどの距離。
しかし人形に呼吸は無く、ただ底冷えする殺気だけが肌を嬲る。

先程突き出してきた腕は片手。
体勢を崩した所へもう一本が動く。

それを体ごと吹っ飛ばす。
拍子抜けする程軽い五体は、大きく壁にぶつかってバウンドして距離を開ける。

息が上がる。
全身が痛い。
詰んだその瞬間、言語思考を介する以外の脳が駆動した。



腕が避けられないならその土台を遠ざけてしまえ。

理性が戻った現在では馬鹿馬鹿しいが、敵の軽さと自分の怪力なら合理だ。
結果、自分は無傷で生きている。

しかし、その代償は高い。
無理な姿勢でひねったせいで、腰も肩も全部痛い。
脳内麻薬で痛いのは分かっても痛くないのだが、これからどんな激痛が走って動きが止まるとも限らない。

今の自分は目の前にニンジンをぶら下げられた馬のようなもので、どこまで騙くらかして先に進めるか、それが重要だ。
一度止まればそこで終わりだ。
もう動けない。


(怖いわりによく動くのは幸いだけど……)
週一でも運動するのが良かったか、ウォームアップもしていないのに体が思い通りに動く。
怪力や発想も普段より湧いて来て、見えないどこかから汲んできているようだ。



ルーチン作業と化しているが、同僚によればその時が一番危ないらしい。
中身が切り替わったようにいきなり賢くなるとか。

実際、先程三輪も体験している。
(投げるんだもんな……)



ライダースーツは壁を蹴る立体機動で三輪の背後に踊る。
肩をかすめ、衝撃を逃がすために体を浮かす。

内臓に響く衝撃と、直後にぶつかる鉄パイプ類が痛くてしょうがない。
(なのにあちらは痛がるどころか疲れてもいねえ)



消防のサイレンが聞こえてきた。

ライダースーツはそちらに目鼻の無い顔を向ける。
今まで歯牙にもかけなかった扉を蹴破り、化学室を抜け窓ガラスを粉砕して飛び下りた。

「これをさせないために引きつけてたのに……!」
体を起こす。
命は助かったが腑に落ちない。

(「あいつは外骨格の方を優先する」)
同僚の言葉を思い出した。

「あー!私の馬鹿!」



怪力の化物に対処するため外骨格を呼ぶ。

人々を避難させる。
避難する人々は外(校門)に向かう。

そこに外骨格が到着する。
避難した人々の下に、外骨格に誘われて化物が現れる。



台無し。
相手の察知力が尋常ではないが、予見出来なかったのは自分のミスだ。
これでは騒ぎまくって猛獣を餌場に誘導したのに等しい。

割れた窓から外を見ると、悲鳴と共にパニックになる人々。

その中には佳辰もいる。
先程の少女を守るように背に回し、体を二体に向けている。



(なんだこれ。裏目ばっかじゃん!)

遠ざけたはずがお膳立て。
加えて人為的なら複数体あることを予測出来ず、友人を更なる危険に追い込んだ。

常識外相手には巧遅より拙速を重んじたが、拙いのにも程がある。

「ああクソ、畜生!」
憤りのまま自分を罵倒しながら、階段へ駆け出す。
無理をすれば窓から直に降りることも出来ないではないが、焦っての失敗が続いている以上急がば回れだ。
その間に対策を考えよう。



(研究所か琢磨に電話。駄目だ)
遠い。
地理的に電話して即動いても到着に数時間かかる。
装備の準備にはなおさらだ。

報告は要るが今は違う。
そもそもが、外骨格だけなら既に来た消防で足りる。
誰かが通報してくれていれば生身でも警察が。



問題は、あれを破壊するまでに出る被害だ。
今走っている間に起きている被害だ。

自分の知識から言って、消防は出動時には常に外骨格を装着する。
材質は耐熱性と剛性に優れた合金で、業火の中を活動する都合上肌が露出しない。

トンファーもどきの鉄の棒だろうとチェーンソーだろうと、怯むことなく無力化出来る。



展示の看板が倒れて散らばった廊下を走る。
チラシが貼られまくった階段を駆け下る。

警報は鳴り響き、気を利かせて展開された防火扉を開けても開けても無人。



だが、あの非常識な存在に頭がついていくか。
壊しても再生するかどうか分からないが、武器を取り上げただけで大人しくはならないだろう。
バラバラにするまでに、その決心がつくまでにどれだけ被害が広がるか。

早く辿り着いて、破壊することを伝えなければならない。



祭りの形のまま、校舎は人気なく冷えている。

記憶を逆に辿って昇降口に至ると、辺り一面に血飛沫が散っていた。
壁にも天井にも、三日月状の血痕が狂ったように乱舞している。

酸鼻な刺激臭が充満し、ようやく見つけた人々はグロテスクに歪んでいる。
心臓が跳ね上がり、喉がひりつく。
涙が流れるのは物理的に痛いからだ。

(どうか、どうかお願いだから)

柏佳辰よ、無事でいてくれ。
歯を食いしばりながら、動かなくなった人々の隙間を踏みしめ、響三輪は校庭に出た。





(作っておいてよかった。……四体目)
背を曲げて腹を押さえ、手と廊下を汚しながら、創は校舎を進む。



神像が起動した時、真っ先に死ぬが自分だと容易に想像がついた。

空白に神は宿る。
ならば最大の空白を。
量産品のダッチワイフでない、自分が用意出来る最高の素体。

即ち自分の死体。



もっとも、準備が整う前に起動させる羽目になったのは誤算だったが。
神像が予想以上に考え無しで、目の前の相手の息の根すら気にしないのも誤算だった。

それでも放っておけばこのまま死ぬ。
……本当に合っているのだろうか?いかんせん最後に関してはぶっつけ本番だ。
南米の事件は、本当に死体によるものだったのだろうか。



おかげで、モツが出そうなまま這いずり回らなければならない。
コルセットのように巻いた、呪文付きの包帯。
ボディペイントの代用として、あらかじめ仕込んでおいたのが、致命傷を防いだのは皮肉だった。

痛みで頭が痺れたようになっていて、断続的に揺さぶってくる。

苦痛の針が踊る。
タンタンタタンと、旋律は神経を焼き、息をするのも痛いから、口からは涎を垂れ流す。


考えろ。考えろ。
うずくまらずに済んでいるのは、脳内麻薬と目的があるからだ。

激痛の波の度、休み休み無人の校舎を壁に寄りかかりながら歩む。
のろのろと、体で赤い帯を描きながら。

段々と休む間隔が短くなり、時間の方は伸びていく。





何故俺は、漠然と理解者を求めるのか。
実際問題として近くの人間に共感を覚えないが、それでも、こんなことをせずに神像を見せて
「俺は凄いんだぞー」
と言わないのは何故か。

一分の理を認める度量ぐらいは、彼らに期待しても楽観的ではないだろう。
振り返ってみると、俺って他人とほとんど会話してねーでやんの。



結局のところ、俺は浸食したいのだ。
自分と同じ認識を増やし、社会を好みのように作り変えていきたい。
そのために一番楽なのは同じ見方をする奴を募ることで、つまるところ、俺は友人を欲しがっていたわけでなく、要領よくやりたいだけだった……。



この世には、怪物がいる。
それに怯えつつも憧れるのが俺の価値観で、他の認識は見たくてもこれしか見えない。

今日までずっと、誰かに先を越されるかも知れないと不安で過ごした。
万一の発見の怖れて、神像の作成法をアップロードも出来ていない。

しかし、同類がいるなら気付くだろう。
いないかも知れない。届かないかも知れない。
けれど、見えてるものは消えなくて、吐き出さないと一歩も先に進めない!



二体は起動した。
機械製のネビニラルのおかげだろう。
最後の一体は成功するだろうか?

分からない。
器はあれよりマシだが、呪文の精度は悪いし少ない。

それでも試さずにはいられない。

ここは嫌だ。
自分の言葉が通じない場所は嫌だ。
楽で賢い方法が駄目になったら、無理な力づくででも破壊してやる。

嫌なものでなく、好きなものに目を向けるからこそ、こうするしかない。
分からない分からないと迷うだけでなく、分かることから確かめないとな……。

俺の認識、俺の見る宇宙。
そこにいる見えるもの。

見せてやる。





自分は幸運だと、俺は思う。
力も精神力も中途半端な俺。
しかし同質で巨大な力が実在する。



力の実在を喧伝する。
力へのアクセス方法を公開する。
力の性質と利用方法を告示する。



俺が信じるのはそれだ。価値を認めるのはこれだ。

俺の頭と体でぐるぐると渦巻く力。
今まではこれはただの感情でしかなく、共鳴する物は創作にしか存在しなかった。
実社会への出口は無かった。

しかし今は違う。

力がある。
力を招く器の製造法がある。

取るに足らない小僧の激情と呼応する外部がある。



あーそうだよ。
俺は馬鹿だよ。
楽な方に流れてるよ。

だが俺はそいつが好きなんだよ。
その力を借りないと何も出来ないんだよ。

神様に頭下げてでも為したいことがあるんだよ。

ぶち撒けないと反省も出来ないんだよ。







霞んでいく視界の中、創は誰ともつかない相手へ向けて思考をぶつける。

それこそが創の原風景だった。
他人の顔の区別がつかない。

だから別々の相反する意見の板挟みになって、細かく分けられないから各個に対処出来ない。

一人の矛盾なのか、その集団全体の矛盾なのか。
区別出来ない。

不安定な思考は、強烈な指向性に吸引されていく。

確固とした足場。
苦痛と暴力。



自分を抑える器として偶像を求めたはずなのに、いつの間にか自分がより強大な偶像になろうと血道をあげている。
自分の小ささを受け入れたはずなのに、そこから歩き出すのでなく、それ以上の力を別の所から持ってこようとしている。
謙虚になるはずが、新たな可能性の提示に好奇心が止まらない。




私は能力がありません。
考えることも休むに似たりです。
ですから自信に溢れて仲間がいる人の言うことに従います。

それだって長いものに巻かれてるだけじゃねえかふざけんな。

どうせ擦り寄っても「納得してないのに顔色をうかがう奴は駄目」とか言って足蹴にするんだろ。
価値観の合う人間に出会えるのもネガティブになり難いメンタリティも、一切合切が手前の手柄か!



違うだろう!
幸運に恵まれたからこそだろう!それに齧り付いて離さなかった結果だろう!

努力すれば成人になることが約束されている国に、健康な体で生まれることが出来んのか!



散々他人のことは後ろ向きだ贅沢だ現実見ろ抜かしといて、自分は気に入る形でなきゃ好意を受け取れないのか!
貴様ら自分が立ってる土台がそんなに堅固だと思ってんのか!



結局のところ、「現実を見ろ」との謂いは往々にして、「俺の思う通りに見て俺の満足するように動け」との我欲に過ぎない。
自分から仕えてくれる俺より優秀な奴隷募集。



文句に対応出来るのは素晴らしい能力だけど、どの文句に対応するかは判断出来るようにならなきゃな……。

脳内の現実に生きている奴に、従ったところで褒められれるわけでも認められるわけでもない。
何故なら彼らにとってはそれが当たり前だから。
俺の常識が当然でそれ以外屑。

反語表現的に「お前の言った通りにしたけどそうならなかったぞ。お前の言ってることは間違いだ」と従った姿を見せたところで、
「努力が足りない(=俺の思い込みへの服従が足りない)」と言われるだけなんだ。



人を見る目の重要性を、言い表わす語彙を俺は持たない。
同じ価値観を共有出来る友人や、目標とする人物の選定が出来る。

その重要性は、千言万句を費やしても言い足りない。
どうやって磨くんだろうな……それ。

真面目に忠告してくれた人もいるはずなのに、俺はその意味を掴むことが出来なくて。
掴めるのはそれに似た強欲だけ。

俺が共感するのはそうした物だけ。



俺は野良犬だ。一人じゃ何も出来ないくせに、群れに入れないちっぽけな雑魚だ。

だが犬だ。
自分の上は自分で決める。



先なんかないだろうな。
死ぬもんな。

それでも俺はまだ生きてるし、痛い以上にどうしようもなく苦しくてしょうがない。

本当にもう、自分でも嫌になるぐらい、これをせずにはいられない。





響三輪が校庭に辿り着いた時には、全てが終わっていた。
校庭の中央で、二体の異形の人形は武器を剥ぎ取られ、四肢を千切られている。
再生することもなく、それはただの物として砂にまみれて転がっている。



それを囲んで二人の銀の外骨格と、三人の男がおり、角材を支えにして柏佳辰もしゃがんでいる。

多くの人々は遠巻きに見ているか、どこかに通話しているか、校門の方へ向かって帰ろうとしている。

外骨格は三輪が親しんだ玉串と違い、関節部に布を多く使っている。
体の各部には器具が張り出している。



近づいてくる三輪に気付き、佳辰が疲れながらも笑みを浮かべた。
「お疲れ様です」

その言葉を聞いて、三輪は汚れも構わず佳辰に抱き付いた。
「え?えっ!?」

かつてなく動揺した佳辰の声が耳を打つ。
温かい。
とくとくと、心臓が脈打っている。

体を離す。
「無事で良かった……」

目を見つめてそう言うと、佳辰はしばし面食らった後、
「響さんこそ。心配しました」
と微笑んだ。



「申し訳ありません。通報したのは貴女ですか?」
落ち着いた声で呼びかけられ、三輪は顔を上げた。
外骨格の一人がバイザーを上げて三輪を見ていた。

「ええ、そうです。校舎にいる人々を避難させるために」
立ちあがって答える。

「そうすると、火災は起きていないわけですね?」
「はい。ご迷惑をおかけして、申し訳ありません。この件は後日お詫びを……」
深々と頭を下げる。

「いえ、そちらは止むを得ない事情があったとお察しします」
間が空いた。言外の意味を受け止められる時間を計っているのだ。

果たして、次に開かれた時には直截的な質問、否要請であった。
「これらが一体何であるか、説明いただけますか」



「はい。その前に、確認のためこの中身を出してもいいですか」
「どうぞ」

しゃがみ、ライダースーツごと千切られた胴体に手を伸ばす。
内心動きやしないかと怯えたが、ファスナーを下げて気味悪い記号で埋め尽くされた胴の中に手を突っ込んでも、何も起きなかった。
そのまま掴んだ物を引き摺り出す。

出てきたのは、純白の綿だった。
容器から出た途端膨らんだそれを捨て、更に引き摺り出す。
硬い物に触れることなく、弾力のあるコットン100%が引っ張り出される。

周囲の人々が、顔を近づけて覗きこんでいるのが感じられる。

偶に触れる硬い物は内部に張り巡らされたビニールの膜だった。
そのまま肘まで腕を突っ込んで、胴体内部を全て掻き出したが中身は全て木綿の塊。
半分ほど出す頃には、佳辰含めて他の人々も残骸から中身を引き出し始めた。



全てを検めた時には、大人が余裕で寝転がれそうな、腰までの高さのある綿の山が出来ていた。
隣にはペラペラになったビニールと、わずかな鉄の棒。それに回転し続ける謎の器具。

中身を浚ううちに集まってきた人々が輪になって、他愛無いそれらを見つめている。
それらは風に揺れ、ともすれば飛ばされて砂まみれになるほど頼りない。



「綿……ですね。綿しか無い」
尋ねてきた外骨格の男が小さな声で言う。
信じがたい光景を、声に出して整理するかのように。

「これは襲いかかってきたんです。血に濡れた刃で……三階から飛び降りて……」

「この刃、何か絵が描かれています。その体の方に書かれているのと似たような」
チェーンソーを点検していた佳辰が言った。

「これ、どうやって破壊したんですか?」





血を失い、言語的な思考はほとんどなく、自分は何をしてるんだろうの疑問だけが残りながら、目的地に着く。

歴史資料室。

置き去りにされたバッグを掻き出し、虚ろなまま中身を出す。
ガムテープを千切り、傷口を塞ぐ。

広げられるイラスト付きのマニュアル。
平易な言葉で書かれたそれを、少ない力を振り絞って行っていく。

神像を作る時、買ったはいいがビニール製の体につけるのは難儀した刃物類。
万一起動しても殺されなかった時の予備装置。
土壇場で手順を忘れた時用の紙。

それら、考え過ぎて自分を追い込んだからこその備え。



『1、まずベストを着ます』
胴を覆う程の鉄板が、呪文付きのガムテープで固定された、大ぶりのベストに袖を通す。



『2、肘に包丁を括りつけます』
刃を布で保護された四振りの包丁。

そのうち二本を抜き身にし、柄と肘をガムテープでぐるぐる巻きにする。
左右両方。



『3、てのひらに牛刀を括りつけます』
絵の通り、逆手にして大振りで身幅の厚い牛刀の柄を、開いた掌に固定する。
ガムテープを千切る力が無くなりかけたが、何とかこなす。
左右両方。



『4、ドリルをあたまにつきたてろ!』
刃に極細かい文字で呪文が書かれた、小型の電動ドリルを持ち、構えたところで突然意識が立ち上がった。



「ううううう」
死にたくない。怖い。苦しい。

打ちのめされた時にすら出なかった涙が溢れ出る。

(俺はどうしてこんなことになってしまったのだろう)

分からない。
思い出すべきことがあるのに思い出せない。
このまま救助を待ち、丸くなって泣き崩れたい。

寒い、喉が痛い、息が苦しい。
温かい煎餅布団、一椀の水、呼吸の満足があれば、長い年月も過ごしていける。



ふと、プリントに貼られた写真と一文が目に入った。
直立する異形。
『怪獣になりたい』



視界が晴れた。
憧れを思い出す。

自分は他人を傷付けることしか出来ない。
他人にも、自分はそんな人間だと納得して欲しい。

揺らぐことのない、圧倒的な災害。
「自分は何者か」を、反論の余地なく押しつける存在。



大勢の人間を殺しておいて、今更のうのうと「皆と同じただの人間だよ!」なんて言えるか。
そんなことが認められていいものか。

彼らは線を引いた。
俺は乗った。
だから、最期までやり通す。

温かなまどろみ、喉を潤す満足、大気に抱かれる安らぎも。

それら全てを、捧げよう。
この期に及んでしがみつく執着も、それを千切る意志も全て与えよう。
尊いもの全てを差し出すから。

だから、来い。
それらが欠けた空白に神よ来い。



「うおおおお!」
眼鏡を外し、雄叫びと共に、回転し始めたドリルを口内に向ける。





――それでお前はどっち側だ?

俺は、人間を辞めたかったんだ。





「柏さん?」
職場である研究所へ連絡を入れた後、響三輪は怒っていた。
柏佳辰が自分から危険に首を突っ込んだことを知り、それまでの心配と自責が裏返ったのだ。

校庭で正座を強制される佳辰。

「柏さん。あなたが無事で本当に良かった。だけど無茶をしないで。あの化物を取り押さえる役は、あなたがしなくても良かったでしょう?」



佳辰は反省した。
二体目登場で忘れていたが、そもそも逃がすために体を張ってくれたのだ。
それが立ち向かっていては世話はない。

ハイタッチとか提案できる雰囲気ではなかった。





目頭を押さえる三輪。

体が重い。まぶたが重い。何より眠い。
理解しがたい物を理解しようと努めたせいで、脳を酷使して栄養が枯渇した。

(甘いもの食べたーい。お風呂入りたーい)
そして肩が甚だしく痛い。

しかしまだやるべきことは残っている。
例えば、サイレン鳴らしてやってきた警察の現場検証に付き合うとか。

実物を見ていない相手、それも現実主義であろう警察に、綿詰めの殺人人形を納得させる労を想像して気が萎える。

同僚となった出向職員もその辺はドライだった。
眼で見れば驚くほど即座に受け止めるのだが、又聞きでは話の内容より人となりに注目している気がする。

最前の出来事は、異常過ぎて自分でも既に記憶を疑い出している。
集団幻覚と思われやしないか。





悲鳴が響き渡った。



頭に直接響く絶叫。
叫び過ぎて笑い声に近づいた、魂を焼尽する業火の灼熱が伝わる声音。

底抜けの苦痛。
哀訴と、その他恐怖絶望、諸々の激情が入り混じる剥き出しの情念。

体と心の奥の奥。
自分を形作る何かが、その意味を見知っていて怯えている。



例えることが許されるなら、さながら地獄の火刑に処される罪人の嘆きだった。




始まったのと同じく、唐突にそれは終わる。

「……?」
頭を押さえていた佳辰は、ゆっくりと顔を上げた。
余韻が意識に残っている。

三輪も体を折り曲げ、同じように耳を掌で覆っていた。
今は汗の浮いた顔で周囲を窺っている。

煙はない。



「何?」
「怖かった……」

「誰だよ今の」
「どっか火事?」

ザワザワと、周囲の声が意識に届くようになる。
生徒達は口々に言葉を漏らしていた。
それと、ごく若い来賓も。



「みんなどうしたの?」
「一斉に頭を抱えて、何があったんだ?」
「何か聞こえたのか?」

それに対し、ある程度以上の社会人は聞こえていないようだった。
男でも女でも、壮年も老年も関係無い。


(以前これと似た状況を、私は聞いたのではなかったか)
確か、伊織に話されたヤソマガツ暴走事件の逸話。

何が似ていて何が違うか。
探る思考も、突然翳った空に遮られる。

反射的に見上げた空は、薄雲が浮いているだけの秋空。
風は涼しく、陽射しは暖かく、数分前の凄惨な光景が嘘のように穏やかに澄んでいる。

平和な秋の昼間。冬も近い最後の行楽日和。
どこまでも昇っていけそうな高い空は、薄氷にも見え、今にも裂けて隠していた何かが溢れ出てきそうな、危うさを備えている。



「翳った?」
「だよな」
「雲ねえな」



三輪も空を見上げていた。
無防備な白い喉を、場違いなことになまめかしいと思う。

今何か、大きいものが空を渡った。
何か分からないが、夜に空を覆う奴やさっきの人形に入っていたのとおんなじだ。



遠く、鳥獣たちのわめく声が聞こえる。

大津波の前に一度波が引くように、大気、大地、木々に校舎、無生物までが緊張して、次に来る大海嘯を待っている。





影が走った。

校舎から放たれた一筋の黒い光条は、校庭の真ん中にいた消防の外骨格をかすめて裏門まで突き進む。



この移動の余波で、佳辰の剣道部の友人と文化祭担当が死んだ。

動線にいた大勢の人々が重傷を負う。
脇腹を斬られ、腕を落とされ、何も分からぬまま潰される。

彼女たちと共に、以前創に途中退席していいか尋ねた男子生徒も、肉団子になって絶命していた。



一連の粉砕音に、困惑していた人々の視線が集中する。
そして見た。

額から回転する角を突き出し、穴からとめどなく軟組織をこぼしている死体の鬼が、自分達を見ていることを。
押し潰れた死体を踏みつけながら、それは刃で武装し、壁を蹴って飛びかからんと身構えている。


誰もが言葉を失った。
常識の埒外の光景に、脳が受け入れるのに時間がかかる。

この時、うずくまったのは二人だけ。

一人はそれがかすった外骨格。
AIが自動回避したものの、避けきれず手首から先が斬り飛ばされている。

もう一人は柏佳辰。
一目見た瞬間に、放射される圧力に嘔吐する。



次元が違う。
格が違う。

どんなに馬鹿で鈍感でも、一目見たら分かるだろう。
超科学だの集団幻覚だの、今までに存在した逃げ道がない。
先程の二体とは比較にならない、ド級の情念がそこにある。

視界に入れただけで激痛が走り、頭蓋の中でいくつもの鉛玉がゴロゴロする。

ここまでの頭痛を患ったのは人生でも一度か二度。
今まで経験した病魔を超える瘴気を、軽々と振り撒いてそれはいる。

過負荷がかかった意識は断続的に切れ、混線する。

ヤソマガツ。ネビニラル。
不可視の力を仄めかしながら、技術の衣装を纏っていたものが本性を露わにする。

酸えたものが喉を逆流する不快感も、呼吸が止まりかねない恐怖も、今はただ、別のことを考えさせてくれるだけでありがたい。



それが動いた。
でたらめな四つんばいに近い駆け足で、しかし速過ぎて誰も捉えられなかった。

結果、偶然頭を下げた形になった外骨格は無事で、動く死体は射線上にいる人々を巻き込みながら校舎を踏みしめて止まる。



一拍にも満たないうちに、轟音と共に移っている異形。
紅く華咲いた、かつてそこにいたはずの人々。



「ひいいいい!」
「ぎゃあああああ!」

ようやく、恐慌が訪れた。





それは世界を塗り替える神格。



存在するだけで現実を侵す猛毒。





太陽は元気に輝いて、青空には雲が泳ぐ。
木々は幹をゆすって踊り、風が謳う。
校庭は寝そべり、その上の屋台たちは不安そうに怯えている。



人間以外に人間的な心を見出すのは、幼い頃特有の擬人観だろう。
太陽は単なる天体だし、無生物が物を考えたり外界を認知したりすることは、あってはならないのだ。



神無月を過ぎた秋空の下、少年の死体が憤怒している。
頭から工作用ドリルをくわえ、目は白目をむいて、額からは回転し続ける螺旋状の刃がピンク色を吐き出している。



生き生きと大気は、生まれ変わったみたいにくねり、その裏から目に見えない何かがこちらを見て笑っている。



ヤソマガツと名付けられた、宇宙から漂着した異星人の似姿。

最初の惨劇の際、記紀に残る災厄の形象の名を与えたのは、正しかった。
伝聞情報だけでそれを選んだ官僚たちの直感は、凡ではなかった。



比する神の名は、八十禍津日神。
黄泉の穢れから生まれた災厄の神。

それは死の穢れから新生する。





まるで現実に大きな亀裂が走り、そこからぱっくりと隠れてきたものが出てきたようだ。



ヤソマガツの分霊、角を生やした鬼が両手に四つ股の鞭を振っている。
頭を掴まれた人々は一瞬で絶命し、柄が貼りつけられた鬼の掌は、物を掴んでも刃を落とさない。

粗雑に投げつけられる時、比兼亮子の顔が手につけられた牛刀に引っ掛かり、ズタズタになる。
彼女は佳辰の担任だった。



およそ異常の極致にあって、逃げ惑う人々はそれでも歪みや異質といった違和感を覚えなかった。
感じるのはむしろ懐かしさ。

これは別世界の法則が突然現れたのではなくて、古いものが帰って来たのだ――という感覚。
本当と言うなら、むしろ今こそが本当なのだ。

幼児的な悪夢や、夜や影の闇に隠れていた奴らが白昼堂々やって来た。

物言わぬ異形は、それでも雄弁に、行動で語っている。



鬼が駆ける度に大勢の人が死ぬ。
狙われている外骨格は緊急回避で避けてるが、それが被害を拡大していく。

警察の発砲にも意味は無く、応援を要請した後、矢面に立った彼らも死んだ。

それまで叫びながらも助け合ってきた人々。
お互いに手を差し伸べる間もなく死んでいく。
佳辰が共闘した、名前も知らない同校生たち。彼らも動線に巻き込まれて死んでいく。





「佳辰!逃げないと!」
「急げ!早く!」

「うるせえ菖蒲、伊織連れてとっとと逃げろ!」
何とか快復した佳辰は、あだ名を呼ぶ余裕もない友人を抱きしめている男子生徒に叫ぶ。



彼らや佳辰、それに三輪が生き残っているのは、単純に鬼の動線に入っていないからに過ぎない。
ほとんどのところ幸運で、気まぐれに駆け巡る嵐の中、下手に動けない。
逃げ遅れた人々、負傷した人々も同様で、崩れ落ちた屋台を盾に身を伏せながら、まばらに残った人々が息を殺している。



素体となった体はガリガリに痩せているのに、鬼には熊になったような怪力と重量感があった。



「あ、琢磨!?ゴメン会話無理もう一体出た!え?違う!人間!死体!」
近くにいて同じく奇跡的に生き延びている三輪は、かかってきた誰かと通話している。
最前の対処と言い、大概肝が太いと思う。



鬼を見る。
その器たる死体を見る。

躍動するそれは捉え難く、数瞬動きが止まる遠方では細部が分からない。
それでも、眉を削るアザははっきりと目に映った。

(私のせいか!?私のせいなのか!?)
居場所を奪ったから。助けられなかったから。予兆に気付けなかったから。

いないものと捉えていたから。



「どうして……」
逃げあぐね、それでも少しずつ離れていく親友が言葉をこぼした。顔はほとんど泣きそうだ。

何を尋ねているかはよく分かった。



猛り狂う化物の姿は、宿り溢れている何者かの殺意の他に、かつて本人だった者の強烈な意志を表わしていた。

「ここは嫌だ」

何か板が巻き付けられたベストも、腕に括りつけられた刃も、頭を貫通するドリルも全てが本人の望んだこと。
最前の二体もまた同じ。

それら全てが、佳辰たち現実を拒絶している。
お前たちなんか死んでしまえ、自分が死んででもお前たちと一緒にいるのは嫌だと――強烈に今あるものを否定している。



現実否定。
そうして現実を構成する自分自身も、道連れに周囲も破壊しようとした、自爆テロ。
拡大自殺の呪詛に他ならなかった。



その彼ももういない。
焼き尽くされる苦痛の声だけを届けて、どこにもいないことが空っぽの器で分かる。





鬼は消防の外骨格を執拗に襲い続けている。
外骨格も重い割に機敏に動いたが、小柄な鬼のほうが小回りが利いた。

両腕を掴まれたまま、自分より大きな相手を押していく。

異様な音がした。
何かが千切れる音。

次の瞬間、外骨格の両腕が引き千切られた。
金属と、人工の伸縮繊維で作られたそれが、ただの服を剥ぐように脱がされる。

幸い、生身の部分は無事だったが、拘束の無くなった鬼は両手の刃を叩きつけつつ、その勢いだけで外骨格を押していく。


校舎の壁に衝突すると、肩に刃を突き立て、何度も何度も頭で叩き付ける。
ドリルが曲がっても止まらない。
それを追ってもう一体の外骨格が急行する。



(相変わらず無茶苦茶だ)

立ち尽くしていると、切迫した様子の男子生徒に腕を掴まれた。
「今のうちに逃げるぞ、早くしろ!」

怒鳴られて我に返る。
確かに一か所に固まっている今が好機だ。

頭痛も治まって来たし今の好機を逃しては……そう考えた佳辰に、三輪の声がかかる。



「柏さん!この学校に、窓のない、あるいは小さい教室ってない!?」
突然の質問に、頭がついていかない。

「窓の小さいのなら、一階に武道場がありますよ」
名も知らぬ男子生徒が答えた。

「どっち?」
「あっち」

指を指す。
ちょうど外骨格と鬼が戦っている側。

「扉頑丈?」
「まあ、和風の体育館ですから」
「よし、それでいこう」



「閉じ込めるんですか?」
意図を推測して、会話に合流する。
「焼く」

帰ってきた答えは、予想以上に不穏だった。

「は?」
男子生徒と異口同音に驚愕する。

三輪の目は、今まで見たこともないほど荒んでいる。

「のが理想だけど、最低、閉じ込めるだけでも。消防士生きてたら火ィ止めてくれるし」
「どうやって火を」

「あれが着てるの学ランじゃん?」

間。

「燃える」



親の仇でも討つような凶悪な人相になりながら、三輪は平坦に語る。
そのまま移動し、転がっているコンロを手に取る。

「ボンベ要るじゃん……」
辺りを見回し、他のカセットタイプのコンロを手に取った。

「悪いんだけど、扉押さえるの手伝ってくれない?最後だけでいいから」
苦笑しながら聞いてくる。



「……ガソリンが昇降口にあるはずです」
佳辰は絶句するが、男子生徒が返す。

「ホント?じゃあそれで」
三輪が歩き出す。男子高校生も昇降口へ走り出す。

(ああ二体目の時の奴か……)
増口が燃やそうと抜かした時の。

(本当にやるのか)



三輪に駆け寄る。
三輪は、転がっているガスボンベを担いでいるところだった。
腹まであるそれを、無造作に肩に担ぐ。

「無茶です。響さん。あなたがここまでやる必要はないはずです!」
そう叫ぶ。

「そうねー。倒すのは無理よねえ」
鬼の位置を確認しながら、歩く三輪が答える。
自分も気が進まないというように。

「ただ身内にね、ここで逃げたらね、顔向けできないのが二人いるのよ」
そう語る。
表情は、ボンベに隠れて窺えない。

「だからせめて閉じ込めるぐらいしないと……。警察の人も応援呼んでたし、時間稼ぎくらいしないと不味いんだ」
武道場の前に着いた。
男子生徒は校舎の入り口で待っている。



鬼は無事な方の外骨格と遠方へ移りながら争い合い、佳辰の傍らには、壁に倒れ落ちた外骨格の一体がいる。
周りを見回すと校庭は台風が来たようで、あちらこちらに血の池が出来ている。

「動けますか?」
三輪が尋ねる。

外骨格の男が答える。
「怪我のほうは大したことない。だがガワがイカれた。動けないし脱げない」

「ちょっと手伝ってもらいますよ」
告げ、三輪は外骨格を肩に担ぐ。

「馬鹿な……両腕が無くなったって合わせて百キロ以上あるんだぞ」
「生まれつきでして」

そう告げる足も揺れている。
(骨とかどうなってんだ)
思わず手を貸して外骨格を支える。

「一体何をするつもりなんだ」
「あれは外骨格に惹かれます」
動物の生態を語るように、断定する口調。

「あなたを誘いにして、あれを武道場に閉じ込めます。可能ならガソリンかけて燃やします」

「そんなことしたら爆発するぞ!」
「じゃあ爆発しないで燃やせるだけの量を教えてください本職さん。あれを外に逃がすわけにはいかないんですよ……」



自分はいつの間にか、とんでもない糞溜めにはまってしまったのではないかと、それを聞いた未成年二人は思った。

(あれが外に出る?)
動いただけで誰かが死ぬ化物が。

姿が見えなくなった友人は無事逃げ切れたか。それも外に出られたら……。



「どうやってガソリンかけるんですか、響さん一人で」
「その場の勢いで。駄目なら止めます」

「ザルじゃないですか」
「ザルです」



「で」
静寂を逃さず、三輪が息を継ぐ。
「相談している間にもう一人の方がヤバいので、もうやりますね」

そう言って三輪は左に担いでいたガスボンベを、大きく振りかぶって投擲した。
それは長大な放物線を描き、鬼の至近に着弾する。



攻撃に反応し、鬼がものすごい勢いで疾走する。
その迫力は今までの比ではない。
明確に向けられた殺意に足がすくみ、目で追い切れない動きに心を奪われる。



「じゃあ横に避けてね」
そう言って武道場奥に下がる声で我に返り、ガソリンタンクをひったくって楼によじ登る。

後ろでは、男子生徒が同じくコンロを奪っている。

「ここはよく知ってます!回避に専念してください!」
叫ぶ。
この女は、何故自分から死のうとするのだ。



「悪いね。やりたくないだろうに」
鬼が開け広げた扉を通過して踊り入る。

轟音の中、続く口角を上げた三輪の呟きは、佳辰の耳に届かなかった。
「これが終わったらあの男一緒に殴ろう……」





突進してきた鬼は常の通り、壁に激突する形で止まった。
校舎全体が震撼する衝撃に、壁が破壊されないか悪寒が走る。



佳辰は動きの止まった瞬間にガソリンタンクをぶつけ、三輪は外骨格を盾にしつつ移動する。
しかし、鬼は直前の刺激に反応して佳辰に跳びかかる。



光のような殺気の照射を感じて咄嗟に体を沈めると、上体があったところを鬼が通り過ぎた。
折れた刃を天井に刺して、蜘蛛のように這う。

紙一重で致命傷を避けた佳辰だが、右目の上を斬られて神秘体験どころではない。
幸い眼球は無事だが、両眼視を封じられ、距離感が掴めない。



鬼は再び外骨格に襲いかかる。
それを両腕剥き出しの外骨格を盾にして迎撃する三輪。
積極的に装甲の部分を刃にぶつけることで、致命傷を防いでいる。

立ち上がり逃げようとして、佳辰は壁に掛かっている木刀に気付いた。

発狂した宇宙にあって、信頼できる慎ましやかな態度で佇むもの。
それら全てが炎に包まれる情景が二重写しになり、一本だけ掴んで桟を飛び越え、武道場から出る。



「柏出ました!」
「オッシャァアア!」

稽古でも聞いたことのない蛮声が応える。
横を見ればもう一体の外骨格が着いていて、半球型のバイザー越しに疲弊した中年の顔が見える。



外骨格を担いで三輪が出る。
扉をくぐりざま、男子生徒が点火したコンロを鬼に投げつける。
扉が閉められる瞬間、オレンジ色の炎が駆け巡ったのを佳辰は見た。

「ラストォ――!」
外骨格を担いだまま、それごとぶつけるようにして三輪が壁を押さえつける。
他の男子生徒も外骨格も、全力で爆発の衝撃に反抗する。



佳辰も中央付近、木刀を扉に押し当てて体重を掛けていた。
流血で右目が潰れているが、緊張状態で痛覚が遠い。

扉には強烈な衝撃が何回も伝わってくる。
鬼、人間の死体を借りたヤソマガツが、業火の中から出ようと扉にぶつかっているのだ。
腕では足りず、肩ごとぶつけるようにして体重と力を乗せる。





炎が走った。

扉の一部が切断され、扉に密着していた佳辰の左腕も深く切り裂かれる。

酸素を求め、勢いよく炎が伸びる。
炎は天井へと広がり舌を這わす。その揺らぎが鱗をちりばめ、そのうねりが胴を成す。
その場にいる全員が見た。

少年の死体を動かす荒ぶる精霊。
目に見えないそれが、形を持たない炎を借りて、太い首を持つ多頭蛇となって顕れるのを。

灼熱の大波を殺意で染めながら、生滅を繰り返す蛇体はとぐろを巻き、禍々しい生命力を放っている。



腕を切り裂かれて脳は沸騰し、脳内麻薬を凌駕する激痛に、閃光のような激情のまま佳辰は片手打ちの斬撃を送る。

その切っ先は死体に届かず、炎の膜を通っただけだ。
だが死体は一瞬動きを止めると震え、やがて赤ん坊のように腕を折り曲げて、またたく間に黒焦げになり、崩れ落ちる。



大炎も悉く消え去り、名残りを遺すものは熱気のみ。

多くの未来を奪った惨劇。
居合わせた者全てが慣れ親しんだのとは別の力学を垣間見せて、幕を閉じた。





まず眩しさを感じ、続いて記憶が繋がってから、佳辰は木刀を振り上げた。

「痛っぁ!」
その太刀ゆきが初動で誰かに潰される。

佳辰も左腕から襲う激痛に、数十秒、目をつぶって歯を食いしばる。



波がひいて目を開けると、辺り一面真っ白な、病院の個室と思しき場所だった。

(ここは……?あれはどうなった?)
右手で額を押さえる。
最後に見た光景を思い出す。

炎蛇。

と、自分の手が木刀を握り締めたままなのに気付く。
離そうにも、指が強張って離れない。
そして傍らにはうずくまる三輪。



「響さん?」
声をかける。
すると彼女は、ようやくいつものような明るい笑顔を見せた。

「うん。おはよう」
「おはようございます。これは一体……」

とりあえず、腕を斬られたところまでの記憶はある。
しかし、それと現状が繋がらない。
生きているから何とかなったとして、何故木刀を持ったままなのだ。



「ああ、うん。あの後病院に運んで手当てをしたよ」
(そうではなく)

「その、斬られた後の記憶が無いのですが、どうやってあれを倒したのですか?そして何故木刀を持ったままなのでしょうか」

「それはね、外せないし、外そうとしたら斬られるから」
そう言って掌を見せる。赤い。

最前の反応を思い出す。



「外したいのに外せないんです。指が強張って」
そう言って手の内を見せる。指は震えるだけで外れない。

「緊張のせいかな……。引っ張るよ?」
結局、離そうとする意思と、外から無理矢理剥がしてもらうことで指は離れた。

その際に、友人の伊織が無事なことを聞いた。



「それで結局あれは、どうなったんです?」

三輪は困ったように首をかしげた。
「なんと言っていいか……」

無言。

「柏さんが倒したのよ?」
「はい?」

「なんかズバーってやってビクンビクンって。何アレ。そういう技じゃないの?」
「存じません」

見てないものを、そんなフィーリング全開で語られても分からない。



「私が言えるのはそれぐらい。それでね、会いたいって人がいるんだけど、会ってくれる?」
「どちら様ですか?」

「ネビニラルを開発した、ヤソマガツ研究の第一人者……大丈夫?辛ければ今度でいいよ?もっと鎮痛剤貰う?」
「いいえ、会います」

「会わなくていい」でなく、「今度」なら、どうせ会うまで終わらないということだ。
用はともかく、不意を打たれるよりさっさと終わった方がいい。



「そう。じゃあ呼ぶね」
そう言って木刀を拾い退出し、代わりに一人の女性が入って来た。



その姿を見た時、鬼となった死体を見た時以上の鈍痛が脳を襲う。
左腕の傷が疼き、全身が目の前の女に怯え、破壊衝動を抱いている。



視覚情報的には、どうと言うことのない成人女性である。
やや小柄で、眼鏡を掛けカーディガンを着ている。
長く伸びた前髪を後ろに上げて額を見せた髪型も、垂れ目がちの目を精一杯つり上げた三白眼も、特に異常とは言えない普通の人間。



だが気配が違った。
上がったばかりの水死体のように、濃厚に海の臭いを漂わせている。
存在しているだけで、そこが光の差さない深海に変わったようだ。

原始的で生々しい、獰猛な何十もの視線が彼女から放射されている。



「はじめまして。私は淀海紬。CDFで研究員をやっている」
どちらかと言えば涼やかで、美しいはずのその声も、佳辰の耳にはゴボゴボと海水の音が入り混じって聞こえる。

「単刀直入に言う。君の能力?を、調べさせて欲しい」
そう言って困ったような顔になる。
顎が上がり、眉と目尻が下がると、急に子供っぽく感じられた。

しかし「目」はまだ注がれている。



「どうも要領得ないんだよね。外骨格の記録媒体もまだ上がってこないし。ホントに倒したの?」
その疑問は佳辰にとっても同じだった。

「その時の記憶がありません。心当たりもありません」
後半は嘘だった。
話すうちに一つ浮かんだ。

曾祖父の逸話、鬼斬り。



「まあいいや。顔色悪いし、今日はこの辺で下がるよ。研究の代価は先進治療だ。よく考えておいてね」
「どういう意味ですか」

「そのまんま。腕治すよ」
「普通の治療とリハビリで治します」
「それじゃ元通りにならないよ?」

本当に親切心のように他意もなく、女、淀海紬は続ける。

「私は医学の方は門外漢なんだけど、その腕、焼けた刃で斬られたんだよね?
神経とか色々切れてて、周りの組織もごっそりイカれてる。
そのまま取って繋げただけでも奇跡的で、リハビリしても日常生活が限界って担当医に聞いたよ?」



音が遠くなる。
目の前の景色が色を失う。
寒気がして、歯の根が合わなくなるのを必死でこらえる。

(剣が振れない?)



どんな時も、木刀を振れば落ち着いた。

高校入学時、初めて許された試し切り。
初めて持つ真剣の重さに圧倒され、いつか自分の刀を持ちたいと思った。
真剣を自在に振れるほど、強くなりたいと思った。



いつか。未来。
それが一瞬で奪われる。

繰り返される多くの死。

見知った顔が死んでいくいずれよりも、自分の未来が曲げられたことにヤソマガツの凶災を知る。



三つ数えて息を吐く。
三つ止め、三つ数えて息を吸う。

数回行い、心を落ち着けて紬に問う。
(そりゃ……戦えば怪我するよな)
するよりはしない方がいいし、治らないより治る方がいいが。



「そんな腕を、真剣が振れるほど元通りにする技術があると?」
「iPS細胞とかナノマシンとか。神経組織と欠損分の筋肉、ハード的な再生は請け合うよ。その後は本人のリハビリ次第だがね」

「その二つは、聞いたことがあります。頼らなくても……」
「すっげえ、高いよ?特にナノマシン。
だから代価。世界で一つしかないかも知れない技能のためなら、相応の代金を払う用意がある……。つーか顔色マジヤバいって!ナースコールナースコール!」



悪寒に身震いし、頭を半ばシーツにうずめながら、最後に問う。

「その治療法は安全なんだな?お前みたいにはならないんだな?」
ほとんど意味を成さない懇願を聞き、初めて紬の表情が和らいだ。



「なるほど、本物だ。試してみる甲斐はあるもんだね。安心しな、これは科学とは別物さ。気絶するなよ?」

カーディガンを脱いだ紬に百の目は沸騰し、情報の洪水に佳辰は失神した。






[27535] 第十話(一)
Name: 三二一◆02c59522 ID:068f191e
Date: 2014/02/17 22:46
『結論としていえば、富の物理的構成要素、つまりエネルギーは減少することはあり得ず、その形而上的な構成要素、つまり専門知識はふえるだけである、ということだ。
ということは、われわれの富というものは、使うほどふえるということになる。つまり、エントロピーとは逆に、富はふえるだけである。
エントロピーが、エネルギーの離散を引き起こす混乱の増加であるのに対して、富とは局部的に見れば増加した秩序ということになる。

すなわち、物理的な力を、人間の形而上的な能力によってつねに秩序づけ、それを、部分的に把握されながらつねにひろがっていく宇宙の中に凝縮してゆくこと――それが富なのである。
何度も経験をくり返し、知識を得るにつれて、すべての特殊な経験に作用している、相対的に関係し合い適応し合っている一般原理の目録がますますふえてゆくのに対しても、人間は以外にも十分にこれを消化することがあり得るのである。

こういう不可逆的な富とは、こういう一般原理の適用を物理的に組織し秩序づけをどれほど効果的に幅広く行いうるかにかかっている。』
――バックミンスター・フラー『宇宙船「地球」号操縦マニュアル』





2035年の8月、文字とみられる異星人の図形を元に、未知の新エネルギーの実在を検証する実験が行われた。

その最中、ヤソマガツと呼ばれる、発明の起点となった異星人製の外骨格が、空間転移したかのように出現。
現場の警備員と招待されていた監視隊員相手に交戦を始める。
ジリ貧になる人間側だったが、交戦中も稼働し続けた実験機器が付近一帯のエネルギーソースを枯渇させたことにより、ヤソマガツは活動を停止した。

戦闘後、実験を行っていたCDFと、本来ヤソマガツを封印、監視していた研究所(通称ヤソ研)はそれぞれ輸送車を要請。
ヤソ研より早くCDFの手配した急冷コンテナが到着し、最寄りの施設へ移送される。

同乗した隊員達の尽力で、実験場を離れたら即時再開された修復は阻害。
施設到着後は、そこで進められていた実験機器の試作品をかき集め、間に合わせの封印作業。


十年前。ヤソマガツは通常の電源も電脳もないまま突如起動し、祭典を惨劇へと変えた。
今回、本来の封印施設であるヤソ研への再移送にも危険が伴う。
そのため、新発明である無力化出来る装置、ネビニラルが十分な信頼性を得るまでは、CDFの預かり(貸与)となることが上層部同士の話し合いで決まった。

それに当たり、ヤソ研側はCDFに対策用の専門装備とノウハウを持つ人員を派遣する。
その中には、若輩でありながらヤソマガツとの実戦経験を持つ先崎琢磨も含まれていた。



それが三か月前。
実験と戦闘の一部始終が公開されていながらも、以降、社会は疑問符を浮かべながら大枠で無関心に、日々は平穏に過ぎていった。

11月のある日までは。





第十話『来し方行く末』





2035年11月。

高校生が大量殺人事件を起こした一週間後、先崎琢磨は東京のCDFビルの一室に居た。
目の前にある大型スクリーンでは、連絡員として此処に出向いていた響三輪の他、消防士や高校生が円になって座り、当時を振り返っている。





AAR。
After-Action-Review.
行動後評価。

事件や自己、戦闘に関わった人々が事後に集まり、錯綜した記憶を整理して教訓を導き出す。
加えて、混乱した言葉を言葉にして、それを各人つき合わせる。
これによって欠落を補い、歪みをほぐし、記憶と感情を切り離すことで、PTSDを防ぐ儀式でもある。

事件後報告会とも。
三か月前、琢磨も同様の会に参加した。





関係者数百人に及ぶ事件全体のAARにCDFが場所を提供し、その後特に特殊な経験をした五名が別室に移される。

「我々だけが集められたのは最終盤について語り合うためですが、その前に、そもそも契機となった閉じ込め、燃やすという作戦を立てた経緯について伺いたい」
消防士の一人が三輪に尋ねる。片方の手首から先は拳まで、痛々しくギプスで固定されている。

「はい。以前自己紹介しました通り、私はヤソ研の監視隊に所属しています。
事件後、あの死体が登場して対応に苦慮しているところに同僚から電話がありまして、状況を説明したら「可能な限り閉じ込めろ」と」

「ヤソ研では普段からそうした訓練をしているのですか?」
「いいえ。これは単に同僚の癖です」



「閉じ込めろ?焼けでなく?」
「どうもあの時はテンションがアクセル踏んでまして……。コンロあるし化繊着てるからあ、燃えるじゃんって」

「調子が良かったと言えば私もです」
「俺もそんな感じだった。ガソリン調達したのは俺だけど、今なら躊躇しそうなことでも当時はするっと出てきた。頭と体が直結したって言うか、痒い所に手が届く感じ」
「腕が伸びた感じですよねえ」

現場に居合わせた女子生徒と男子生徒、両名が三輪に賛同した。



記憶と感情を切り離す会の性質上、淡々と振り返りは進行していく。
普段よりも突出した三輪の怪力、隔離後に現れた暴れ回る炎の太い帯。
そしてその際の女子高生の奇行と決着については、当事者達にとっても何故なのか分からないらしい。

炎の帯を、蛇体と比喩でない口ぶりで述べているのが気になった。





AARを終え、部屋から出る参加者達。
挨拶と、何より無茶をさせたことを謝るため、琢磨は三輪の下へ向かう。

会の前、消防の外骨格の記録媒体を見た。
そこには、通話から想像した以上の脅威と、自分のアドバイスを超えて奮戦する彼女の姿があった。

「お疲れ様」
「うん」
声をかけると、振り返って三輪は薄く笑った。共に居た少女の注意がこちらに向く。

(本当はここに居る全員に謝るべきなんだろうな……)
結果的には発言が収拾に役立ったが、そのために犠牲を払って汗を流したのは自分以外だ。
無茶振りするだけで解決していれば苦労はない。

「報告会聞いたよ。外骨格の記録映像も見た。何て言うか、無理言って済まなかった。そしてやり遂げてくれてありがとう」
改めて三輪に向き直り、頭を下げる。

詫びたところで非は消えない。だが深刻ぶっても許すかどうか決めるのは相手側だ。
まずは伝えないと話にならない。許されなかろうと顔面をブッ飛ばされても文句は言わぬ。



頭を下げられた三輪は暫し面食らったが、すぐに普通の調子に戻って返した。
「うん。もうやらない。二度は期待しないでね」
「ああ」



「響さん、この人が?」
気まずさがやや打ち解けた時……三輪の背後から低めの、凛とした声。

解決に協力した女子高生だった。
髪は極端なベリーショート。
切れ長の右目の上には大きなガーゼが貼られており、パンツスタイルの私服に左腕を吊っている。

「こちら、先崎琢磨。さっきの話で出た電話の同僚。で、琢磨。こちらが柏佳辰さん。彼女に招待されて、当日文化祭に居たの」

「はじめまして」
「はじめまして」
三輪の紹介に合わせ、二人は挨拶した。

「申し訳ない。一般の方を巻き込んでしまいました。
負傷についてはCDFで治療を受けることになったと聞きます。
大したことは出来ませんが、私に出来るお礼なら何でもさせて下さい」

彼女に対しては思うところも無いではなかったが、無茶をさせたことも事実だったので素直に詫びた。

表情が硬いまま、
「別に自分の判断でしたことですから、謝られる義理はありません」
と返す柏佳辰は続けて。

「あのまま放置して敷地外に出たら避難の意味もなくなりますし。あの窮地を逆転する名案を電話越しで立てた人に。
感謝こそすれ責めるだなんて。……ねえ」

些細な棘。
受け流すべきである。元より赦しは期待してない。
だが言葉の綾か判断がつきかねるので、確かめるためつい大人気ない返しをしてしまった。


「あの場に貴方のような特殊技能者がいて幸運でした。カッコイイ技名とかあるんですか?」

双方笑顔。
空気が冷える。





(やっちまったあー)
口に出して後悔した。
完全にアウトである。

だが一つはっきりしたこともある。
最前の相手の毒も故意だ。
事ここに至っては、半端に取り繕うより正確に嫌い合ったほうがマシというもの。



「年も大して離れていないし、タメ口でいい。慇懃無礼よりよっぽどマシだ」
だから口火は琢磨が切った。

取り繕った笑顔から瞬転、すさまじい真顔で睨み合う二人。
拳一つ分ほどの身長差。吐息がかかる程肉薄する。

「選り好んで謝る人に礼を云々されたくないですね……。と言うか頭を下げて何になるんです?そんな保険打つ暇があるんなら自分で結果出して下さいよ」
「いいこと言うねえ。ああ全く俺も同感だ。次の戦いでは先陣切ってみせるよ。それまで天才は精々踏み台になれ」
「踏み台って言っても調べるのは研究者ですよね?研究畑で育った顔には見えないなあ……。結局他人任せのそのプラン、真似出来るなら自分で盗んで下さいよ」

「盗むためにも出し惜しみは無しでお願いしたいね。あんなの出来るならもっと早くやれよ」
「なんで出来たか自分でも分からないと申し上げてるのに話を聞かない御仁ですね。体裁だけ実直ぶったその態度、お仕事に支障は出ていませんか?」

「相手見て選んでるよ。ガワだけ作ってるのはお前もだろ。タメでいいって言ってるのに気に障る慇懃無礼、何時まで続けるつもりだ」
「選ぶはこちらも同じこと。呼び捨てる程お近づきになりたくないという心の綾、察して下さいよ名指揮官」





(いや、君達なんでそんなにキレてんの?)
蚊帳の外で三輪は困惑していた。


幼少期にオリジナルの惨劇に巻き込まれた男と、その男の言が遠因で重傷を負った、オリジナルに有効かもしれない技を持つ少女。
衝突を全く予期しなかったと言えば嘘になる。
それでも二人とも、内心がどうであれ表面上は取り繕えると評価していたが、推移は予想を超えてあからさまで迅速だった。

三輪もアレと直に対峙した当時こそ殴ってやろうと思ったが、喉元過ぎれば頭も冷えて知り合いを殴るのも気持ち悪い。
甘い物でも奢らせて手打ちにする腹づもり。しかしもはや事態はそのように穏やかでない。
近い近い。互いの息を吸い合ってるぐらい近い。

余計な刺激を与えたらすぐにも発火しそうで、止めようにも喉が強張る。






「お?仲いいなお二人さん」
止めたのは、能天気とも思える野次だった。

その一言で弾かれるように距離を取り、二人は闖入者に抗議の目を向けた。
安堵の息を吐く三輪。



気勢を逸らせた当の津具村光太郎は、意に介すでもない。

「琢磨。悪いんだけど淀海さんから資料回してくれるよう、お前からも頼んでくれないか」
「滞ってるのか?」
「一応最低限は貰ってるんだけどさ。ほら、お上としては判断はこちらで下したいってわけよ」

津具村光太郎は元々、ヤソマガツを封印していたヤソ研に警察から出向していた。
肝心の監視対象が移行したので、又貸しのような形でCDFに異動することになる。
事件一週間後にようやく上京することになった琢磨と違い、事件直後から息もつかせぬ忙しさに翻弄されていた。

「だからアドバイスという結果だけじゃなく、元になった判断材料も提供して欲しいんだよ。口利いてくれない?出来れば今すぐ」
「無理」
拝むようにされる頼みを、一蹴して琢磨は顔を伏せた。



「事件前から俺が寄ると機嫌悪いんだ。多分今は逆効果だと思う」
大体、と続け、
「今上層部の会議だろ。それから降りてくるんじゃないか?」
「俺もそう思ってるんだけどね。板挟みは辛いよ」
言って、二人は直上を仰いだ。





始まりは二十年前に遡る。

当時、地球圏に近い宇宙空間を漂流していた異星人の宇宙船。
我々……地球人類はそれを地上に降ろし、高度な技術を接取した。
研究の際、舟の中で拘束されていた無人のパワードスーツは分解され、それに閉じ込められていた中身は地球全土に広がった。



一体何が起きているのか?
一言でまとめるなら、「発達した科学が超自然を解明した」だ。
ただし、解明したのは異星人。物理法則は全宇宙で共通だから、製造から遠く離れた地球でも有効。

異星人は、マナ、不吉、穢れ……とにかく何か、彼らにとって都合の悪いものを容器に閉じ込め、廃棄した。
やがて文字通り天文学的な時間と確率を経て、他の知的生命体に拾われることになる。
そして、未だ段階に到達していない地球人類は、その本質を見誤った。

超自然的な存在なんて、非現実的なものだ。確たる証拠がない。迷信だ。
これまではそれが主流だった。

遠い宇宙から来た、人類以上の科学力で出来た産物を発見したら、百人が百人ロボットだと思う。
そこでいくらフォルムが異形だからって「発達した科学は超自然的存在を解明する」を連想する奴がいたら頭おかしい。

だから孤立した。



ガランドウの強化外骨格が勝手に動いてひとりでに直るのは、それが呪いの人形だからだよ。
全身に刻まれていた図形は呪文で、だから記すと円盤が回ったり死体が動くんだよ。
命令式でなく通路だから、こちらから刺激したり元々器が空っぽじゃないと反応しないんだ。

事ここに至っては、全てを想像力の産物と切り捨てることは出来ない。
常時証明出来るほど確実でないだけで経験的に、人間もおぼろげに実在を感知していたのだろう。
比較や比喩が出来る程度には、彼らほどでなくてもセンサーはあったのだ。

二十年前、封じられていた何かは地を覆い、以後に誕生した子どもたちは発達の当初からそれに曝されてきた。
展開時には既に脳の配線が出来上がっていたそれ以前の世代と違い、元々有していたセンサーや、理解するためのソフトが向上していることはあり得る。



仮説の端緒となったのは、十年前の会場で、あれの暴走直前に怯える子どもたちを目にしたから。
しかし、あくまで物理の延長として思考していた。

8月の実験でヤソ研を招待したのも、事故対策。
アイデアに刺激を受けた作品では、最悪の場合砂漠化や倒壊が起きるので、頑丈で小回りが利く外骨格と切断力の高い工具を保険にしようと思っただけ。

万一最悪の結果になったとしても、大出力の装置を建造するには相応の製造施設が必要なので、公開しても監視は容易だと考えていた。



「まさか本当に呪術、それも人間の死体をベースにしても動くだなんて……」
語り終え、淀海紬は顔を覆った。





琢磨達が居る東京のCDFビル、地上25階。その最上階である長の執務室。

緋色の絨毯が敷かれた一室では、三人の男女がそれぞれの場所に座していた。
奥に大きな机と椅子。その前に応接用のソファが向かい合い、一人ずつ男女が座っている。

「ご苦労」
豪勢な作りの机を挟み、上座にある椅子に座る男が労った。
地黒の肌を上等なスーツで包み、髪は耳まで届く程度。しなやかな雰囲気で目が鋭い。

背後の壁は一面がガラス張り。遠く視界の彼方まで町並みが広がっている。
ガラス張りでない壁は同時に全てモニターとなっており、最前のAARの映像の他、一週間前の映像記録、南米の事件記録も映し出されている。
片隅には緑のラインが入ったインダストリアルなデザインの全装甲強化外骨格が、中世の鎧のように飾られている。

研究、警備、そして渉外。
十年前の再来とも思える事件が首都圏で起き、政府に情報提供する前に、今後の対応を協議するため、対策を司る各分野の三者が情報共有をすることになった。

先程までなされていたのは、研究部門で停滞に活を与えた淀海紬による、事態の要約。
この場で一番地位は低いが、錯綜する情報に枠を与えることが求められていた。



紬本人は下座のソファーで縮こまっている。
格や年齢的な部分も大きいが、一番の理由は実験以後の展開のせいだ。

「検証が浅い部分も多く含みますが、よろしかったですか……?」
問う声も弱々しい。
確度を求める研究者としての性だけでなく、自責しているからでもある。

「構わない」
先程の男、CDFの長である三斗恭也が答える。

「試行錯誤。トライアンドエラー。
成功でもサクセスでもない。試したら失敗するのは当たり前だ。
そこから教訓を引き出し次に繋げることが重要であり、一度失敗したらすぐ止めるのは経験が足りない」

その声音は力強く、一言一言には一代で組織を作り上げた自負がうかがえる。

「勿論、故意であれば罰は必要だ。だが具体的に何をしでかしたかが分かっていなければ、処罰も警察に突き出すことも難しい。
今欲しいのは地図だ。
そしてその全体像を探ることにおいて、例え不正確だろうと実績から言って有効な視座を持つのは君だけだ」

「そう言っていただけると助かります。はい」
「だからこそ、考えていることは全て話してもらう必要がある。
重要かどうかはこちらで判断する。資金を提供する立場から言って、研究費が多分に宝飾品に流れていることは見過ごせない」

「それは……」
「研究に必要だ、と」
「はい」

「では話せ」
「それが……」



「各部門が現状をどう捉えているか。
ひいては将来に対する危機管理を話し合う前にアウトラインを欲しがったのは恭也だろ。
本人が細部に脱線してどうする」

CDF長と紬。煮詰まる二人の会話を割ったのは、もう一人の参加者、盛口笹隆だった。

直接の雇用関係にある二人と違い、警備部門を管理している彼は、ヤソ研所属。
十年前のヤソマガツ初起動の際は、CDF長とは共に、外骨格を駆り抵抗した戦友でもある。
引き締まって無駄がない三斗恭也とは対照的に、身が分厚かった。

「……それもそうだな。淀海君。続けて研究サイドとしての意見を頼む」
既存科学では検知できない不可視のエネルギーソース。それを検知するための装置が開発されて、研究はどの程度進んだか。
実験後、予想外の事件が発生して、結局振り出しに戻ったのか?



水で唇を湿らせ、紬は報告を開始する。
研究部門が報告した後は、警備部門が報告する。
それぞれの認識を把握したところで話し合うが、最終的な決定は後日、CDF長が一人で下す。

「まずは8月以降の研究からです。……開発された反応装置、ネビニラルを用いて分かるのはその場にリソースがあるか否かだけで、言うなれば0かそれ以外か。
回転時間で保有量や回復時間を探る研究も続けられていますが、統計的に有意な結果が出るのは厳しいと思われます」

ネビニラル自体の出力向上や効率化は可能だが、装置自体は言うなれば洞窟に運ぶカナリアや蝋燭のようなもの。
大雑把な有無は分かるが細部は不明。
そして多寡を測りきった時には当該の燃料は使い切っている。

「研究は定量でなく未だ定性の途上であるということです。
有ったらどうなる無かったらどうなる。性質は一体どのようであるか?
粒子か波か、あるいは両方か。それ以前に定義でもめている議論の最中。
その段階です。ですから御所望の計測装置は目途も立ってません」

要するにスカウターとか無理。

「次に南米と先日起きた事件ですが……」
区切り、何か重いものを呑んだように言いあぐね、遂に言い切った。
「有り体に言って、収穫です」

「行動様式の事例が集まり、それを安全に検証出来るコピーの作成も可能になりました。
加えて、特異な素質を持つ人物が発見されました。
知識は増進し、より安全な対処法が確立する足がかりとなります」
そう、かつて被害の当事者であった人間は、今回を事態の前進だと評価する。



「最後に御指摘がありました宝飾品です。
これは研究の都合により秘匿することが重要なので、口外法度に願います」

言って、胸元をまさぐり、紬は鎖を持ち上げた。
細い金鎖の先に繋がっているのは、血の雫が凝ったような鮮やかな球。
袖口に包帯が覗く。

「真紅の真珠……?」
「珍しいのか?」
訝しげに呟くCDF長に、盛口が尋ねる。

「薄くピンク色をした真珠なら稀にあるが、珊瑚のように赤い真珠というのはなかったはずだ。
いや、以前どこかで聞いたような?」

「先程も申し上げました通り、現在の装置では精度が甚だ粗いのです。そして人間はそれより鈍い」
記憶を探る長をよそに、紬は続ける。

生身で感知できないのは磁力も同じだが、磁力の場合、磁石によって可視化出来た。
吸着力を比べれば、磁石同士でどちらが強力か区別がつく。
鉄粉を使えば磁力線も見て分かる。

ネビニラルは、回転速度は与えた刺激に左右される。
速度や時間を測っても、止まった瞬間に枯渇している。

「新世代もそれ以前よりは高い感度を持っているようですが、同時に世代間で断絶があります。目の前に実例が居ても我々は気付けない」

「耳が痛い」
盛口が息を漏らす。
これは響三輪のことだ。

「ヤソマガツ以後に生まれた第一世代。
あるいはそれ以前にひょっとしたら居るかもしれない第零世代。いわゆる霊能者とか超能力者ですね。
こうした実例を掘り起こす必要があります。
もちろん、これ自体も特殊な物質が含まれてないか化学者に任せなければなりませんが……」

紬の予想では、紅真珠は天然の回廊だ。
加えて、呪文や機械などの人為によらず産出したこれは、ヤソマガツが飛来する以前からあった地球本来のものとも繋がっていて、土着故に旧世代とも親和性が高い。

可能ならその固有の部分をヤソマガツと対抗できるまでに高めたい。
しかしそのためには知識も技術も足りない。
前段階として、これを隠し持ち、反応した人物を抜き出していく。

「その真珠が予想通りだという根拠はどこにある。
予想通りだった場合、リスク管理はどうなっている」
CDF長。

「この真珠は真珠貝以外の貝から発見されました。貝は、乗組員が全員死亡した船から。
有効性は私も半信半疑でした。なにせ自分が何も感じませんので」

だが動く死体の事件時に、特異な動きを見せた少女と面会した際、彼女は自分の異常を言い当てた。

「反対に響三輪さんは無反応でした。世代内でも偏りがあるみたいですね」
「先崎琢磨は?彼も同世代だろう」
加えて十年前に反応した一人でもある。

「彼は……無反応です。どうも成長につれてなくなったようで。
昔尋ねたこともあったんですが、その頃既に要領を得ませんでした」

「危険は?」
「わずかに残る記録によると、最初は悪夢から始まるようです。それから段々親和性が高まって乗っ取られる。
タイムラグがありますから、海上生活のような特殊な閉鎖環境に置かれない限り、その時点で遠ざければ対処可能かと。
常人は鈍い分、影響も受けにくいですから」

お二方気付きませんでしたよね?
と、顔の前で鎖を揺らした。





「次は警備部門からだ」
盛口が紬に代わる。

「全体的に言えば、封印と監視は新装置のおかげで格段に良くなった。だが不安材料は山ほどある。人員に装備に襲撃対策に……エトセトラエトセトラ」

人員間の関係は良好。
ただし練度は不安。
配信のおかげで、監視対象の特異性は説明の手間が省けた。

「自分たちが何を相手にしてるかってはっきり分かるのも良し悪しでね。
いざ戦いが始まった時には判断ミスが減って生存率が高まるんだろうが、そもそもマトモな頭を持ってたら殺しても生き返る敵と戦いたがらない。
以前なら実際交戦確率は低かったし、義憤を感じて入隊する奴も居たんだが、傭兵だとなあ……」

「PMFだ。請負人であって兵ではない」
「要は金目当てってことだろ。まあむしろ、それはマシな方なんだが」

要するに、人材は自分が相手する対象のことにも興味がないまま回されてきたぼんくらか、リスクを計算してでも金が欲しい事情を抱えた者、あるいは正反対にとにかくスリルのある相手と戦いたい危険人物に分けられる。

「装備も、先の再戦で既存の対策では力不足だと判明した。少数生産機だから補給も厳しい。
警備や訓練なら当分保つが、また動き出したら全員がきちんと働いてもどうしようもないぞ」

「長野の地下と違って地上階だから、襲撃も心配だ。内ならともかく外へは想定されてない。俺自身も対人は素人だ」

ああそれと、と思い出したように。
「事件に対する反応は世間と同じだな。
大虐殺に衝撃を受けてはいるが、それが自分たちの前にある物と関わっているとは思いもしてない」

言って、呆れるように笑みを浮かべた。
「もっとも、これは私も同様だ。彼らより多くの情報を得てさえ、何か別物じゃないか?という意識が強い」

「南米の事件もそうだったのでしょうね。今事件の映像が流布するまで、警備会社の記録媒体に眠っていました」
紬が補足。

「大体、なんで模倣したほうが動きがいいんだ?」
「多分、オリジナルは拘束用であるのに対し、コピーにはそうした制約が働いてないからかと」
「つまり……中身についてはコピーの方が本質を表わしていると?」
「おそらく」





「両部門の現況はよく分かった」
報告を受け、CDF長が口を開く。
「要するに、着地点を何処と見据えるか。と言うことだ」

「今事件を受けての社会や政府の反応だが、大勢は冷静だ。
正確には、事件の規模が大きすぎて麻痺している。
だが遅かれ早かれ事態を把握するだろう」

突飛過ぎる異常事態。
それも時間をかければ結論に辿り着く。

「その時にはパニックや模倣犯、そして政府が本腰を入れて乗り出すことが考えられる。
そうなれば、我々は素直に渡すしか手がない」
頬杖をつく。

国が動けば私的機関は解体される。
なし崩し的な現状は、危険を低く見積もられているからに過ぎないのだ。



「淀海君。今回の事件の再現はどれぐらい可能だ?」
「情報が出回ればいくらでも。厄介なのは、要因が技術である点です」
紬はため息をついた。

「理屈が分かってなくても手順さえ踏めば真似出来るんです。今回は犯人自身の死体でしたが、何も用意するのは自分でなくてもいいんです。実際、遺された資料にはその案もあったようです。
同様に、外骨格にペイントすれば頑丈な通り魔が量産されます」
端末を操作して、壁面に表示された両事件の映像を再生する。

「一方で、作成されるのはあくまで再生能力のない鉄砲玉です。
事件前に米国でコピーの起動実験が行われましたが、オリジナルと近しい素材ですら再生修復は行われませんでした。
全装甲の外骨格、または強力な火器で破壊可能ですし、あれ自身が外骨格を優先するので率先して寄ってきます」
再生された映像では、南米では血まみれになった死体が上半身ごと消し飛び、先週の事件では接近した二体が手づかみでビニールを引きちぎられていた。

「情報公開は再現が不可能な程度に。対症療法的には外骨格の配備普及。警察にはそう助言を送ろう。
それと、周囲が枯渇状態にあれば活動は停止するんだな?」
「ええ。枯渇には相応の時間がかかりますが」
「盛口。封印周辺にネビニラルを増やそう」

問いに応じて返される紬の答え。
根拠はあるが確度の曖昧な推論を元に、CDF長は矢継ぎ早に方針を決定していく。

「ネビニラルを用いたリソース自体の研究は足踏み。一方で実例は多く集まった。これからは?」
「まずは響三輪さんの怪力について仮説を検証したいと思います。よろしいですか?」
盛口に振る。

「本人の同意を得るのなら」
「ではそのように。柏佳辰さんの方は、怪我の治療が終わってから段階的に行おうかと……」
「宗教者や自称能力者を大勢集めて炙り出しをやろう」

「……はい?」
CDF長の発言に、紬がいわく言い難い声音で返した。
トップの口調はにべもない。

「本物を見つけなければならないと言ったのは君だろう。
どうせアレを科学でなく心霊現象と認めたら、途端に騒ぎ出すのだ。
自薦、もちろん他薦、全て集めて有望な候補を選り分けよう」

居なくて元々。証拠付きで外せるのなら、研究分野の絞り込みに有効だ。
万に一つも本物が見つかれば儲けもの。

「……仰るとおりです。はい」
気乗りしないまま肩を落とす紬。



「ネビニラル設置域の拡大は賛成だ。だがそれは枯渇状態を拡大することでもある。危険は?」
盛口が紬に問う。

「追跡調査では健康被害は確認されていません。ただ、まだ数ヶ月なので長期的な影響がどうなるかは」
「元々の地下施設なら最低限で済むんだがな。装置の確実性を期すつもりだったが、襲撃のリスクが上がった今では長野への輸送も難しい」
両手を上げて、ソファに体を預ける。

「健康被害もだが、場への影響は?」
「現封印と同様です。止まっても再開し続けていれば、0か極めて低い状態で安定していると思われます」
「中断したらネビニラル実験場、か」



盛口の呟きに沈黙が訪れる。

紬は眉根を寄せて顔を伏せる。
今まで情報を元に予断を交え、説明を組み立ててきた。それが途絶える。
額から手櫛を入れられ髪が乱れる。

CDF長が沈黙を破った。
「オカルトである。有害なものである。人間にも影響する。
不明なところは多いが、とりあえず納得した。この混乱状態で、試せる方針が出来ただけで御の字だ。
以前淀海君が予想したように、ヤソマガツは穢れを閉じこめて捨てた流し雛なのだろう」

「それは比喩で」
「本人が意図していなくても、だ。直感が正解なことは往々にしてある」

実のところ、この場では正確さは大して求められていない。
意思決定の参考になる程度の整合性があればいいのである。
他は完全に面食らってるのだ。証拠に基づいているか検証可能性、片方あれば十分に過ぎる。



「穢れを捨てた。ヤソマガツの中身は穢れ。空白を用意すると中身が宿る」
「ヤソマガツはオカルト。そう受け入れてしまえば、奇怪な暴れ回る炎もそういうものだと思える」
紬の反応を流し、CDF長は独りで思考を漏らすように言葉を紡ぐ。

「だったらネビニラル実験場。あれは何なんだ」

「異星人が恐れた穢れとは、一体何だ?」





「デスクワークばかりで鈍ったんじゃないか?」
「腹が出るよりはマシだ。ジムに通っているし、最近は人工赤血球も入れた。
毎日ただ漫然と負荷をかけるより、余程持久力上がる」

その後、細々とした話し合いの続きが暫く続いた。

会議を終えて紬が退出した後で、盛口と三斗は椅子にもたれたまま、何するでもなく語り合っていた。
三斗の位置だけが長の椅子から向かい合うソファに移っている。

「コツコツやるより機械の導入、か」
「効果とリスクを計算して導入する。外骨格自体がそうだろう。……そう言えば、お前は外骨格が苦手だったな」

「自分より力のある機械が全身に密着するってのがどうもなー。まあ、結局は慣れか」
「本番前まで着るのが一番遅かったものな」

「俺じゃねえよ。一番最後に着てたのは咲田さんだ」
「リーダー汗っかきだったからなあ」
「消臭剤どころか保冷材用意してたよな。体温上がらないように」

両者、暫し笑いを噛み殺し。

「……化物みたいな奴だと思ってたが、本当に化物だったんだな」
「落ち込んでいるようだが、彼女を責める気にはなれない。中が空のあれを見て、無人機だと判断したのは俺だ」
打って変わって静かにこぼした。そして盛口を眺める。

「この十年、机にかじりつく時間の方が多かったのはお前も同じだろう。
機械の補正があるとは言え、そろそろガタが来てるんじゃないか?」
「どうせアレ相手は短期決戦だ。まだまだイケる。楽しかったよ」

静寂。
やり取りが絶えた沈黙ではなく、むしろ当事者だけが共有出来るニュアンスを味わう時間だ。
三戸は視線だけで、飾られている外骨格を見た。
それはダンサーだった自分が初めて巻き込まれた時の装束。

「まずいな」
「ああ」







[27535] 第十話(二)
Name: 三二一◆02c59522 ID:068f191e
Date: 2014/02/17 23:48
翌日。静岡。

琢磨と佳辰の喧嘩はあの後うやむやになり、三輪の要望もあって女性陣二人を階下の植物工場を併設したパーラーで奢った。
琢磨は日帰りで静岡に戻り、AARや関係者に対する報告書を提出。それから仮眠。
昼を過ぎた現在は、ヤソマガツ封印前で警備をしている。



CDF研究所。元々関連技術の基礎研究の場であったらしいそこは、三か月前から急増した武骨な人員と設備に比率の上で逆転されていた。
本来の施設から離れて塒を巻く建屋と通路。それが現在のヤソマガツ封印である。

十年前の暴走以降ヤソマガツは、長野の地下施設内において分解した上に液体窒素をかけて再生を滞らせてきた。
盛口が立ち上げ、琢磨が所属する監視隊もそのためにあり、訓練を除いた一日の主な仕事は、見る度に少しずつ集まっているヤソマガツの破片を再び散らすことだった。



そして今、目の前には完全に五体を復元したヤソマガツがある。

複合強化ガラスを隔てたコンテナサイズの格納庫。

三メートルを超える体躯は黒光りする金属と毛羽だった荒縄のような人工筋肉で覆われ、太い首は人間なら頭がある比率から更に一つ分飛び抜けている。
太い腕、太い腹、そして対照的に鋭角に伸びる足。
床に臀部をつけ、壁にもたれかかるように磔になっている。

床には一面に大小さまざまなネビニラル。
エネルギーソースを対象より速く浪費する装置が並んでいる。
この発明が、旧来とは比較にならない地上階での安全で負担の少ない封印をもたらした

淀海紬が作り出した、ヤソマガツに刻まれている文言を掘り込んだ円盤の塔。
小型化と改良が加えられ、蓄電システムと回転センサーを内蔵したそれは、一度回し始めれば付近の「何か」が必要量を下回るまで回転する。
止まったら一定時間後タイマーで再回転。普段は外部電源だが、万一停電しても蓄積した電力で作動する。

理屈の上では警備員は不要。
稼働確認は動体センサー、時間稼ぎはラジコン無人機で済む。
それでも全身を覆う外骨格を着て監視するのは、「ひょっとしたら機械では動きを察知出来ないかもしれない」という理屈でない懸念故だ。

今日、今まで拘束室内だけであったネビニラルが、通路にまで拡大された。
3D出力の小型の円盤が、ぶつからないよう鳥籠の中に入れられて、コンクリの床に点在している。



直立不動の琢磨の横で、ペアの外骨格が小さく体を震わせた。ヤソマガツに動きはない。
眠気防止に仕込んでいたランダムバイブレーションへの反応である。
情けない話だが、根性だけで集中力が保つものではないのでしょうがない。

前触れもなくワープして交戦してから三ヶ月。
現場には窺い知れない研究上の理由から修復が放置された期間以外、ヤソマガツにさしたる動きはない。
大きく動くようなら乗り込んで切断しなければならないが、取り付けられた動きセンサーも数秒鳴って止まる。

ワイヤー混じりの交叉越しに透かし見るヤソマガツは、拍子抜けするほど間延びした姿のただの置物だ。



通信が来訪者の存在を伝えた。入口の検問を抜けて誰かが来るらしい。

いつものように政府の見学者だろうと予想したが、現れたのは三輪だった。
彼女は拘束室であるコンテナを覆う大型外骨格に気を惹かれたようだったが、耳に添えた携帯で誰かと連絡を取りながら封印に近づく。

そしてガラスに指を触れた。
「これで良いですか?」

『琢磨。彼女の様子に変化はない?』
三輪がヤソマガツに接近すると同時に、外骨格の回線から紬の声が聞こえる。

「普段通りに見える。何か?」
監視カメラの映像は外部からも見えるはずだ。

『近場で何も感じないならそれでいい』
返すとそう言って一方的に切れた。
三輪は、こちらに軽く一礼して戻っていった。





(そういや姉さん最近来てないな、ここ)
警備のシフトが終わり、封印外に出るべく通路を歩きながら思い出す。
ネビニラルの配置や諸々の作業にこそ立ち合って指示を出していたが、研究対象なのにそれ以降は近づいていない。

新たに建設された封印は、中心にヤソマガツを格納する箱とそれを覆う四脚の大型外骨格。
その周囲を渦巻状に配置されたコンテナが外壁をなす、螺旋を描く一本道だ。
壁となる容器の中には土砂が詰められている。

急造で地下にあった以前とは比べるべくもないが、余程効率的であるのも新発明の賜物だ。
検問として働く入口に近づくと、そこにも地べたに鳥籠が置かれていた。

(グルグル回ってハムスターみたいだ)
この回転が意味するところは色々あるらしいが、目にする度に琢磨は何時も同じ印象を受ける。

回るだけ回って自滅する。
機械的な法則と言うより己を省みない愚かしさ。
怖さより馬鹿馬鹿しさが先に立つ。

施設外に出るとその足で訓練場に向かった。

四時間警備して二時間訓練。残りの時間は作戦手順の相談や事務作業。そしてまた警備して仮眠。それが普段のスケジュール。
警備時間は人間の維持出来る集中力の限界から求められたというが、根拠が何なのかは不明。
ついでに言えば人員が二倍以上に増えたので相当楽になった。

琢磨が着ている強化外骨格、玉串は対ヤソマガツ専用に開発されたもの。
草創期に開発され、着脱性や整備性を犠牲にして性能を高めているので、一々脱ぐぐらいなら直行で訓練に繋がるように配置されている。

三か月前の実戦から、教訓を元に小改造はなされたものの、基本的に着脱は他人の手を借りなければならない。
おかげでCDFの警備員が比較的気楽に脱いでトイレや補給に行くのに対し、琢磨達は備え付けで済ませている。





(かーっ!気持ちいー!)
訓練後、琢磨はシャワーで汗を流していた。
四時間全身を覆ったまま立ち尽くして二時間汗だく。その後に温水で表皮をかきむしる快楽は何物にも代えがたい。

「ああ……、これを楽しみにして一日を乗り切れる……」
栄養が切れて虚ろになりかけた意識でそう呟く。
血が足りないとどうしても意識はマイナスに傾く。

ヤソマガツと戦うためにヤソ研に入ったのだ。
訓練を受けて8月に戦ったのだ。
そして今、外部が風雲急を告げようと、とにかくにも無力化は成っている。

同じく派遣された先輩は、
「これが出来る時間を稼ぐために俺たちは食い止めていたんだ」
と手放しで喜んでいた。

予期せぬ被害が明らかになったが、当初の目的が達成されたのは違いない。
理性では同調すべきだと思う。だがそこまでは達観出来ない。

受かった鍛えた殴った。限りなく順風満帆。
出来る限りの努力以上の成果が実り、それでもなお納得がいかなくて案が見つからない体は力が抜けていく。

何かを得るということは、「手に入れるのは何か」を選ぶだけでなく、「手に入らないのは何か」を選び捨てることだと悟った。
戦うことに最適化された半生は、いざ叶ってなお満たされない時、他に進む道を見つけられなかった。

雨に静止する塔を見た時、自分の膝が支えきれないほど重たくなったことを覚えている。
そして周囲の誰も、同じ感覚を共有していない。

(あー、辛気くせー)
自分は恵まれているという自覚はある。

このまま不完全燃焼で終わるのかと燻っていたら、横合いからいきなりちゃぶ台をひっくり返された。
沈む前に使える札は全部使うべきだろう。
服を着替え、琢磨はシャワー室を後にした。





研究所内にある紬の一室。
本式の(それも工学の)研究室がどういうものか琢磨に縁はない。
少なくとも、そこには家具の他はPCと紙の山しかなかった。

可燃物に囲まれた室内で、机の上には一本だけ線香が立っていた。抹香臭い紫煙が天女のように優美に揺らめく。

奥では部屋主が打鍵の音も高らかにPCに打ち込んでいた。その片手にはペン。
時折何か動画を再生しているのか、英語でない外国語が聞こえる。
薄雲のように漂う煙が、彼女に触れた際に一瞬だけ奇怪にうねるのは錯覚だろうか。

「用があるならさっさと入りな」
声色がきつい。
きっかけが掴めないまま中に入って椅子に座る。

今度は日本語の悲鳴が聞こえてきた。
聞き覚えがある。どうやら外骨格の記録映像を見ているらしい。
彼女の口から、有り得ないだろ。や、何故動く。などの断片が耳に入る。



不思議だったので、つい口にした。
「流し雛って言ってたじゃん」

「比喩だとも言ったあ!」
弾かれるようにすさまじい剣幕で立ち上がり、大声で叫ぶ。

「……ごめん」
直後、顔を背けて消え入るような声で言い、椅子に座る。

一息入れると、剣幕の余韻もそこそこに、紬が席を立つ。
「何の用か知らないけど、急ぎじゃなければ後にして」
そう言って線香を吹き消し、コートを羽織る紬。

正直なところ、もう一回再戦がしたいから何か当てはないか泣きつくつもりだった。
しかし、見切り発車な上にロクな交渉をしたことがないので、どう切り出したらいいのか分からない。
流石に直球は憚られる。

とりあえず、思いついたことを口にしてお茶を濁した。
「最近船の方で何かやってるらしいが、なにやってるんだ?
それとあの剣術少女。何か不思議な芸を持っているようだが、どうやって真似るんだ?」

部屋から出るか出ないか。扉が半開きのところで近くに寄る。
紬は顔をむこうに向けたまま、黙って聞いている。
「本人は当時の記憶がないようだが、まさか未成年を危険に晒すようなことはしないよな?」


「未成年はお前もだろうが――!」
突如、目の前で膨れ上がる怒気。
腹部に強烈な衝撃を受け、琢磨は部屋の奥まで吹っ飛ばされる。
……紬が振り返る瞬間、髪の匂いに潮の香りのような腐った臭気が混じった。

「質問して答えが返ってくるのは高校までだ!」
机を巻き込んで止まった琢磨に怒号が浴びせかけられる。
だがこの時の琢磨は、背中の痛みや怒鳴り声よりも他のことに気を取られていた。

この怪力は。
見た目や常識から大きく乖離する白昼夢じみた筋力は。
(まるで……)

数ヶ月間一緒に訓練した同僚。
(まるで……)
更にはもっと古い衝撃と共に刻み込まれた、禍々しい圧力の源泉である……。



「ヤソマガツの相手して一生終えんの!?お姉さんは君の将来が心配だよ!」

連想は悲痛な声に断ち切られた。
見上げると姉にも等しい女の人が、穏和な顔を精一杯厳めしくし、肩で大きく息をしている。

呼吸を整える音だけが響いた後、紬は背を向けて大きく一度深呼吸をして、
「矢面に立たせるつもりはないよ」
打って変わって静かな声で答え、去った。

後には、用を為さなくなったガラクタと、埋もれる青年だけが残った。





深夜。
戻ってきた紬は自室の片付けをしていた。
中身を取り出して少しでも軽くした机を、一人で苦労しながら起こしていると、津具村光太郎の訪問。

「夜分遅くにすいません」
「資料ならお渡しした限りですよ」
二人はほぼ同年代であり、何回か資料のやり取りをしている。

「今回は別口です」
「何のご用でしょう」
訝しげな紬だったが、続く台詞を聞いてより一層視線が胡乱なものになる。

「琢磨のことです」



「漏れ聞きましたが、折角ノウハウがある奴に厳しいこと言う必要ないんじゃないですか?
問題が解決する前にその後のこと考えさせてどうするんです?」
貴重な戦闘要員かつ実戦経験者。それに迷いの種を蒔いて何とする。

「温かく見守れ、と?」
薄く笑みを貼りつかせて紬が返す。

「幼い頃からの知り合いだと聞いています。でも、彼ももう自分の判断に責任をとれる歳ですよ」
最初から人当たりのいい笑顔浮かべた津具村が応う。

紬はため息をついた。
表情も、仮面が剥がれて疲労の濃い困り顔になる。

「どうも男の人は放任と言うかドライと言うか……。
『自分の責任だから好きにやれ。代わりに文句を言っても聞かないよ』
それはそれでアリなんでしょうが、だったら叩かれるのも一環でしょう?」

告げ、背を向けて机を起こすのを再開する紬。その進捗は遅い。
「手伝いましょうか?」
「結構です。代わりにドアを閉めて下さい。また大声が漏れるのはごめんですよ」

「まさか件の発明もそのために?」
問われると紬は心底嫌そうな顔をした。
折角持ち上がりかけていた机が再び床に落ちる。

「皆さん私を何もかも見通してるかマッドサイエンティストと思っているようで。
いい加減何度目か嫌になりますが、私が意図していたのは精々アレの動く原理が分かったら逆手にとれてラッキーって程度です」
家具に手をついたままうんざりと。

「それで成功したら長野の方の封印も危険性が減るし、交戦の確率が減るとしたら人生あの子も考え直すんじゃないかなって!それがまだうろうろウロウロ」
口にする内、怒りがぶり返してきたのかぶるぶると肩を震わせる紬。
掴んでいる机の縁が音を立てて変形する。

その光景を視界に収めながら津具村。軽く。
「聞きたいことは他にもあります。海保にも伝手がありましてね。最近よく事件現場に現れているとか」

「ああ、お前か。お前が吹き込んだのか」
我慢の限界だとばかりに口調は荒く。低く忌々しげに息を吐き、振り返って紬は叫んだ。
翻る裾から一瞬、足首に包帯。

「私はただあの子を吹っ切れさせたいだけ!」





翌日。
午前十時。朝御飯が消化されていい感じにお昼が気になる時間帯。
窓から注ぐ日差しが暖かい。

「頼もう――!」
突然の来訪者に紬は作業の手を止めた。

先崎琢磨再参。



「仕事は?」
「さっき夜勤シフト済んだ!」

琢磨は茹であがったような顔色でずかずかと入り、部屋の中央で床にしゃがんでる紬の肩を掴む。
「姉さん今何やらかしてる!?」
「……また誰かさんの入れ知恵?」

不機嫌に、めんどくさそうに返す紬に、琢磨はなおも勢い任せで意をぶつける。
「俺を吹き飛ばすような蹴りかましといて誤魔化せると思ってるのか!」

呆けたような顔がそこにあった。
「吹き飛ばした?いつ」
「昨日。まだ家具ぐちゃぐちゃじゃねーかよこれでも帰りがけ直したんだよ俺」

腕ごと振って机を指差す。何か記憶にない変形が加わっていた。
心底覚えがないという表情で記憶を探っている紬。



と、琢磨は足元に広げられた奇妙なものにようやく気付いた。
「……何これ」

床には、等身大の人間の形をしたビニール袋が横たわっていた。
近くには鋏やセロテープにサインペン。設計図らしき紙や見慣れた象形文字が羅列された用紙も並べられている。
「神像コピー」



(うええ……)
数分後、琢磨はダッチワイフに異星の呪文を手作業で筆写していた。

最初に足踏みポンプで軽く膨らませて皺を伸ばす。
次に鋏で背中に切り込みを入れ、破けないよう端をテープで止める。
浮輪と同じような代物だが、人間の形をしたものに鋏を入れるのは理屈でない不快感が湧いた。

それから内側に腕を突っ込み、サインペンで一文字一文字、記号を書いて埋めていく。
(やっぱ書き間違えたらヤバいのかな)

「手作業以外じゃ駄目ですか?」
「多分プリントしたテープを巻き付けても可能だと思う。でも今回は構造の再現だから」
答えながら、紬は合体させる軍手に綿を詰めていた。

途中、三輪がやってきた。
紬が人手が増えたからいい、と言うと、無言でこちらを眺めた後退室した。
せめて何か言って欲しい。

(帰りたい)
自分が買ったわけでもないのに、女性の目に触れるのが恥ずかしくていたたまれない。それも知人のコンボで。
完全に予想外の種類のアウェイだ。



そのまま無言でいられたら切り上げてとっとと逃げそうだったが、紬は淡々と話し続ける。
単純作業で本人が退屈していたのかもしれない。

「ヤソマガツは異星人の全身ツナギに色々後付けパーツが付いてる、って事は知ってるだろ?」
今語る本人から聞いた記憶がある。
「今回の事件も、構造自体は同じでね。ベースとなる人型に補助パーツ上乗せしたのが実行犯」

異星人の全身ツナギか、空気人形か。
その上に載せるのが人工筋肉や金属か、それともゴザや布のような軟質か。運動を阻害させるか、攻撃に最適化した武器か。
フォルムと技術力の圧倒的格差に目をつぶれば、呪文を起点にした構造は驚くほど同じだと言う。

「カーツワイル曰く、『現象を理解したうえで、その現象を集約して大幅に拡大させるシステムを設計するのがテクノロジーの本質だ』。
その意味では独学なりに基本に沿っている」
最期に自らの死体をベースにして被害を拡大させ、死体ごと焼き尽くされた犯人。



筆写が終わり、次は首筋に使い古したラップの芯を埋め込んでいく。
分かったような気になる説明を聞いているにもかかわらず、現実感が揺らぐ。

「ここで完成させてしまうと危険なのでは?」
「いや。ここでは綿入れだけにする。ネビニラルを嵌めて動かさない限り動きださないらしい。ただまあ、出来たら実験場に直行だ」

芯を嵌めて固定したら後は綿入れ。作業の手が四本あるので分担してすぐに終わった。
二人して立ち上がり、完成品を見下ろす。
のっぺらぼーと耳無し芳一とおっぱいを合体させたような、珍妙奇天列な物体がそこにある。

「材料費一万円ちょい……。綿とネビニラルは再利用出来るから、次からは五千円を切る」
見下ろしたまま、紬。
「これを考案した男の子と言い君と言い、持てる能力の使い方が根本的に間違っている」



「こいつで行動様式の研究は安全に行える。学習するにしろ馬鹿のままにしろ、一々命懸けの対戦を企てる必要はない」
いい勝負なんてものは、人工的なルールのある、ゲームの中でだけ有ればいいんだよ、と。
「だからこのまま研究が進んだところで、求めるものは「より安全で一方的な封印」だ」

「戦いが起こるとしたらイレギュラー、か」
「そうなったら、たとえどれだけ研究が進んでいようと、どの道準備不足でジリ貧だ」
現時点の力関係は、どの戦いでも天秤のゆらぎを奇跡的に掴めたに過ぎないのだ。



そこで言葉を切り、目の前の男を睨む。
「このまま戦える機会待って警備続けて、それでいざイレギュラー起きたら準備不足のまま突っ込んで死ぬのか。
拾った命大切にしろよ馬鹿野郎!」

敬愛する女性の目を見据え、琢磨も正直な思いを前に出す。
「それでも殴らないと一歩も前に進めない」

「本っ当に話聞かないなキミは!」
怒気が爆発する。繰り出された拳を、渾身の力で掴み取る。
ろくに運動もしていない、華奢で体格も劣る相手だが、先日と同じく自分と同等以上の膂力があった。

(本当に気づいてないのか?)

一発。二発。
両の拳を封じ合った後は、金的の攻防。
激しい音と共に、衝撃を交えて額同士が激突する。
お互いに息を切らせ、三白眼で睨み合う。視界の端で、胸元にガーゼらしき白い繊維がかすめた。

「消化不良なんだよ。頭の中がそれで一杯なんだよ。確かに俺は大学にも通ってない。犠牲を払ったからこそ、これだけは絶対に譲れない!」
「それが駄目だと言っている!」

掴んだはずの腕を掴み返され、壁に向かって投げられた。
つかの間遠心力の浮遊感を味わった直後、体重を上乗せした激突の衝撃が臓器を揺らす。

間合いが開いて小休止。
両者、荒い息継ぎの音。



会話を再開したのは、琢磨の方が先だった。
「……数字で語ろうか」
足元で、書類の山が崩れる。

「アレに巻き込まれたのが十年前だ。その時、俺は九歳だった」
「だからいい加減同じこと繰り返してないで――」
「人生の半分費やしてるんだよ!」

琢磨の大音声に、紬が黙った。

「俺はまだ十九だ。再出発も容易だろうし、四半世紀生きてる姉さんからしたら子供に見えるだろう」
ともすれば傾いで悪循環に陥りそうな体を押しとどめながら、距離を詰める。
「だが考えてみろよ。二十以下だぞ?今の男性平均寿命は何歳だ?八十歳だ」

残りの人生は今までの半生の三回分。
幼少期の大部分は記憶していないのだから、実質、主観的にはそれ以上。

経験がないことを自分で考えろといってもそれは無理。元々材料自体がないのだから。
そこで察しろと告げるのは、元々能力が高いもの以外は切り捨てると暗に面倒臭がっているに過ぎない。
無いから馬鹿げたことを口にするのであって、それを強制するには経験として痛い目に遭わせるか、噛んで含めるように教えるしかない。

「それより早く死ねるとしても、普通に暮らせば今まで以上の期間だぞ?そんなの正確に想像できるわけないだろ」
例えどんなに愚かに見えようと、自ら体験しなければ智恵というものは身につかない。

「終わってないのに先のこと考えさせるな。一段落しないとどんな風に変わるかなんて予測出来ない」
例えどんなに愚かでも、経験により生まれた主観からしか、未来の感触は想像できない。
「今考えられる一つのことがアレなんだ。解決しないまま何十年も過ごせるものか」



感情をぶつけた琢磨に対し、紬の返答は冷めたものだった。
「埋没費用(サンクコスト)って知ってる?」
やはり駄目なのか――無駄骨と拒絶の恐怖が浮かびながらも更に押す。

「だから、俺のためを思うなら、早く戦えるように協力してくれ。姉さんが何をやっているかは知らない。だが、何かすごくヤバいってことだけは分かるんだ」

それが力に繋がる何かなら、頑丈さだけは取り柄だから自分にも手伝わせてくれ。
そう琢磨は最後に頼んだ。



間合いは再び肉薄し、互いの息もかかるよう。
長い間沈黙していた紬は、苦しげに胸を押さえて口を開く。
「重要なのは、着地点を何処と見据えるかなんだ」

新エネルギーとして数量化、制御できるようになれば終わりか。
それとも、オリジナルを退治出来ればいいか。
倒せずとも、脅威は脅威として存在を受容出来ればそれでいいか。

「私は封印が限度だと考えている」
つまり、最も消極的な三番目。
終息は不可能。それどころか退治することも無理だと予想していることになる。

「リソースは既に二十年前の研究時から拡散しており、この除去は困難だ。
まずやるべきは理論を立てることよりも土台となる事例を集めることで、発明も今やっていることも、目的は要するに客寄せパンダだ」

公開実験をしたネビニラル。目的は関心を集め、研究に携わる母集団を増やすことだった。
現在行っていることも、詳細は明かせないが同じくサンプルを収集するのが目的だと語る。

「マナとか言う?」
「適当な呼び名がないからそう読んでるだけ。
名前があると分かったような気になれるでしょ。それも諸刃の刃だが」
ミスリードしてしまう危険こそあれ、まずは対象に注意を向けさせることが肝心。

「さっきも言ったように、研究の方向は安全で一方的に。戦うなら同等以上。最低でも再生と無尽蔵のスタミナが必要。もしくは一撃で仕留められるだけの攻撃力。物理以外で」
「無茶苦茶だな」
「しかもそんな奴いたら時間をかけて解析して非戦闘で抑制できるコード作り出すわ」

あえて後者で近いのが柏佳辰の技能だが、
「大体さあ、アレ相手に効くと思う?」
「無理だな。効いても大したことないだろう」

次元が違う格が違う。仮に何かが斬れても斬られた端から溢れて塞ぐだろう。
根本的に規模が大き過ぎるのだ。
「だろうね。お二方も同意見だったよ。彼女は有為だが、それだけでは力不足」

紬は大きくため息をつき。
「だから現時点の判断材料では、どう転ぼうがこっちから仕掛ける戦いはな、い、の!」
赤子に噛んで含めるように言い切った。



「……それで、君の着地点はどこにある?」
「何度でも言ってやる。アイツ殴らないで前に進めるわけないだろ」
勿論わざと解き放つ以外の方法で。いわずもがな、封印内に乗り込んではたいて終わりみたいな肩透かし以外で。

「自殺する気はない。周囲を巻き込むのは……それでもやる」
「君は本当に馬鹿だねえ」
つくづくと、完全に呆れられた。



「だったら、事例を探してきな」
現在、琢磨の希望は詰んでいる。
だが、既に仮説は何回も覆された。同じように状況認識すら変える新発見があれば、再戦の目もあるかもしれない。

「最低限、発見者なら方針に対する発言力は増すだろうさ」
再戦の鍵となる何か、殴る蹴る以外の実績をここらで一つ挙げてみろと紬は説く。
「見つけられるもんなら見つけてみな」






[27535] 第十一話
Name: 三二一◆02c59522 ID:068f191e
Date: 2014/02/18 22:43
アメリカの映画女優、メアリー=ヴォーンが自宅で死亡しているのが発見されました。
彼女は2035年、『Incarnation(邦題 インカーネーション)』に出演。
土着的で静かな憑依の演技が高い評価を受け、アカデミー賞受賞が期待されていました。

数ヶ月前から言動に不明確な点があったとして、当局は関係者から聞き取り調査を行う構えです。





第十一話『産霊・死創残響』





木刀を振ることから柏佳辰の一日は始まる。

片腕が怪我をしていても、もう一方の腕だけで片手振りの素振りは出来る。
だが今日は他にやりたいことがあったので、薄く水を張った洗面桶とタオルを自室に運んだ。

軽く湿らせたタオルを、一呼吸で絞る。
負傷した腕も使って、ゆっくりと途切れなく。
床に正座し、膝には桶。

俗に、雑巾絞りは刀の振り方に通じると言われる。
それを取り入れた今回の稽古法だが、成果があるかどうかは定かではない。
単に両腕で振る感覚を何としてでも味わいたいから、負荷の少ない方法を探している。

(あー、たのしー)

「簡単に手にしたものは簡単に失うが、苦労して得たものは簡単にはなくならない」という言葉がある。
実際は物質だろうが地位だろうが、失う時はあっさりと失う。
体捌きも正座で足がしびれただけで、同年代の運動音痴どころか幼児にすら劣る。

苦痛と長い鍛練がもたらすのは、強固な安定でなく執着と復元力だろう。
容易く奪われるかもしれないが、楽に手に入れたものよりは取り戻そうと足掻きがちだ。
それは既に自分の一部になっているからである。



怪我に対する不安が欲求を凌駕した時点で雑巾絞りを止めた。
風呂へ向かう。

数日前に投与されたナノマシンは、気味が悪いほど急速に機能を回復させていく。
諦めかけていた頃に出来た一人娘の治療。
それを代価に提案された研究の要望を、家族は二つ返事で受け入れた。

鏡には、裸の自分が映っている。
動いてない間に肉が減った気がして不安になる。

腕を回すと、左腕は傷口が大きく癒着して皮膚が覆っている。
まだ急激な負荷をかけると激痛が走るが、上げ伸ばしや掴む等、基本動作なら可能だ。

頭はギリギリ五分刈り間際のベリーショート。
軽過ぎて、頭が風船になったような首の違和感がある。

入院時に美容室があったのでさっさと済ませたら、結果を見た母は泣いた。
思い出す度胸が痛くなるが、顔面にぶら下げているもう一つに比べれば楽なものだ。

右の眼窩の上。
眉を寸断するように走る細い線は、半月前に折れた刃で付けられた傷痕だ。
腕の治療の際にこちらも勧められたが、通常の外科整形だけで済ませてもらっている。

(これは恥の記憶だ)

自分は弁えていると思っていた。
知らないことは多くあるが、何について無知で、何について知っているかは知っていると。
結果を出しているのだから、自分の受け取る印象は正しいのだと。

(それが実際はどうだ?)
予兆は何度も目に入っていたのに、凶行に気付けなかった。
人殺しの技で出世しろとか熱を吹いた自分が、唾棄していた風聞である、神殺しの技を売っている。

事件後に報道された人となりから、通じ合うものがあったことを知った。
互いに気付かず素通りした。
(知っていたら、せめて話ぐらいは出来ただろうに)

(あいつも私も節穴だ)
その結果、友も多くの人間も失った。
後智恵だろうが過失の一部は己にある。恥を貼り付けて生きていけ。

飼育しているメダカに餌をやり、祖父を起こした後、用意されている朝食をとった。
運動量が少ないので、空腹が弱く美味さが普段より薄い。
何の味が美味いか分かるようでは、命を食うに物足りぬ。

その分、外界の情報を受け取るゆとりもある。
味噌汁の豆腐を噛み締めている間に、友人お気に入りの女優が死亡したというニュースが耳に入った。





自習をしてから登校する。

通勤ラッシュを過ぎた駅の構内は広かった。
閑散として、その分風の通りがよく、髪型のせいか寒い。
十時を過ぎているのに、他校の制服が普通に電車を待っていた。

人のまばらな電車を降りると、そこは普段と同じように賑わっていた。
スーツ、私服。サラリーマンも買い物客も、特に大声で話すわけでもなく流れていく靴音の雑踏。

社会は変わらない。
百数十人が死んだところで、生活の要請はそれより強い。





事件直後、組織的なマスメディアが動く前に、大量の情報が電子網に回った。
それは、ソーシャルメディアへの大虐殺の報告。親しい知人への悲鳴や遺言、動画共有サイトへの映像の投稿。

リアルタイムでの推移は、佳辰は気絶していたので分からない。
あの状況下で撮影する余裕があったというのも驚きだ。
ともあれ、公的な発表の前に「何か大事件が起こったらしい」ということは周知となった。

そして現在、社会は大した混乱もなく回っている。
一つには、報道規制のせいでもある。

映像は、手ぶれが激しく、また被写体が無軌道に高速だったので、正確に写っていない。
辛うじて捉えられているのは前半の人形のみ。

公的な発表も、
「在校する男子生徒が周到に計画してテロを起こした」
のみ。

映像を調べれば、ビニール製の等身大人形であること、表面に鏡文字で異星からもたらされた文字が描かれていることまでは分かる。
だがそこから、何をどうやって自律判断かつ人間サイズのそれを作ったかは直結しない。

会見では、
「犯人は先日の配信に影響されて今回の事件を計画した」
とだけ触れられていた。

聞いた時は完全にバラしていると思ったが、どうやら世間では呪文を凝った装飾であると捉えたらしい。
これは同時に公開された、中学時の文集によるところも大きいだろう。

生存者の言葉は成人と未成年で大きく断絶し、伝聞を掻き集めた群盲は奇怪な象を描き出す。
元々交友が乏しい上に最近の関係者が軒並み死亡。
卒業アルバムの公開は、痛々しい文章を全世界に配信するにとどまった。

つまるところ、事件があまりにも常識外であるために、体験した被害者以外(被害者すら)、事件の性格を把握出来ないのだ。
映像が携帯カメラであるだけ、CGの疑いが挟まれにくいのがマシ、という始末。





黙々と歩き続けると封鎖された学校に着く。
平日の日中に人気のない校舎はそれだけで異質だ。
二年半通っていた間は覆いかぶさるようだったのに、外から見ればボロさ相応に小さくて弱々しい。

命を賭けて壊したちっぽけな箱庭。
荒れ狂う刃も、圏外にはコップの中の嵐。

一時期は道路を埋め尽くしていた報道関係者も、二週間経つと大分まばらになっている。
裏に回って関係者専用通用口をくぐり、職員室へ向かう。

職員室で教師からプリントを二人分貰う。
自分と、事件後ふさぎ込んで引き籠っている友人用。

帰りがけ、事件時に協力し合った男子生徒と出会った。
人気のない校舎を、一緒に移動する。廊下には一面ブルーシートが張られている。

「腕、平気?吊ってたけど」
「うん。手術したから。補助具も付けてるし無理しない限り平気」
「そっか。そりゃよかった」

「これからどうなるんだろうなー。俺の担任、佐竹だったんだよ」
「私のとこも似たようなもんだよ」
「タイミング的には最悪だよな。いつやられても困るんだけど」

受験生である三年の担任が死んだ。
これはつまり、内申書を作成できる人物が居なくなったことを意味する。
今回受け取った書類は、授業の他そうした今後の対応を説明する書類も含まれていた。



校舎を出る寸前、男子生徒は立ち止まり、真剣な面持ちで尋ねてきた。
「なあ、あの時、俺たちは頑張ったよな?」

「……そうじゃない?」
頑張ったの意味がいまいち掴めぬまま、それでも手抜きということはないので返す。



何をもって頑張ったとするか。
怖かったのに立ち向かったことか。
不可能を思えることを協力し合って実現したことか。

一度結果を出してしまえば、それが無理を重ねた末であろうと、次からは実績として当然視される。
更には、期待以上の成果をもたらして不平も驕りも見せないのが頑張りであると評価される。

当然なことは無理でなくて、頑張っていないから更なる負荷が課せられる。
修練に苦痛は状態だ。苦痛の中の快が楽だ。
一度に一の限界が超えられないのなら、一割一分一厘ずつ練ればいい。

苦しいことにすることは更なる苦行。
もう嫌だと思ってからが本番で、本番はやるのは当たり前だから、限界を超えるなんて当たり前のことは努力でない。
リハーサルだけでやり遂げた気になる奴は馬鹿だ。

拒否したりドロップアウトしたらサボりか増長。
元々やりたくても出来ないんじゃなく出来ることをやらないんだから、そんな奴には手を貸さない。
私は善意です。認めて評価してるのに攻撃するんですか?信じてるやれば出来る!もっと望みを持って満足しちゃ駄目安住したら腐っていくだけですよ!



(で、「頑張る」って、何だろう?)

ダブルスタンダードと片づければそれまでだ。そもそも従う義理もない。
それでも他人が使う言葉の意味としてはそう捉えているので、意を汲み取れずやや訝しんだ。

だが、男子生徒は至極一般的な意味で使ったらしい。
「あんなわけ分かんない中で、誰にも頼まれないのに逃げないで、それぞれが自分に出来ることをやって、これってすごいことだよな!?限界を超えたよな?」

何故そんなことを自分に話すか分からず、それまでの斜めの流し聞きから佳辰は正面に向かい合った。

相対して顔を見ると、平均的だが整った造作に日焼けした肌、手入れのされた素直な髪質を持っていることが分かった。眉が濃い。
話す滑舌も明瞭であり、背筋を伸ばしまっすぐに相手を見据えてものを話す。

ほとんど男に成長したそんな少年が、混乱ばかり伝わる身ぶり手ぶりで、しどろもどろに言葉を探す。
最前と一変して慌ただしく目は泳ぎ、そうしないと他人には見えない何かを捕まえられないかの如く。
……覚えのある仕草だった。



「つまり、もう一回同じことをやれって言っても無理だよな?一度きりの奇跡だよな!?」

佳辰はいよいよ困惑した。
「それは当然だと思うけど……」

「だよな!だよな!!」
同意に、肩を掴まんばかりに感謝と興奮を溢れさせる男子生徒。
本当に掴まれたら激痛が走っただろう。



ひとしきり騒いだ後、我に返った男子生徒はバツが悪そうに謝った。
「ごめん。一人で興奮して。あれからさ、ヤソ研の募集要項とか見ちゃうんだよ」

怖かった。ドキドキした。
同時、自分は上手くやれたよな?という自信のような達成感もある。

気がつくと、当時の経過を追想している。
家族も友人も、詳細は知らないままに、人助けに身を呈したことを褒めてくれる。
するとその内に、最初はそんな気がなかったのに、自分は経験を生かして他人を守る義務があるんじゃないかと考える。

「正直言うと、当時を振り返って初めに浮かぶのが「楽しい」って感情なんだ。それが俺、スゲー怖い」

佳辰は納得した。
つまり、こういう形の傷跡もあるのだ。

分かりやすい敵と、闘争の提供という体験。
同時に、そこに馴染みかけている自分への無意識の警戒。

「こういうの、あの場に居た人間以外に言えなくてよ」





下校後、親友の家に辿り着くと、女親に迎えられた。
心配する彼女に書類を渡し、お構いなくと伝えて勝手知ったる階段を上る。

部屋に入ると、別当寺伊織は力なく横臥していた。
暖房のきいた部屋で部屋着を着崩し、被ったヘッドフォンからは有名な洋楽が漏れている。
CDFの下部店舗で買ったケーキを差し入れると、礼を言ったが手をつけない。

唯時折、携帯を除いては何かを打ち込んでいる。
着信音も振動もないからメールではない。

(サイトかSNS?)
悪い虫に引っ掛かれば問題だが、自分以外であっても誰かと話す気があれば、とりあえずよしとしよう。
出来れば食事もして欲しいが、とりあえず何か許容できる外界があるだけでいいことだ。

(友人だからって全部を知っているわけじゃないんだよな……)
予想以上の憔悴っぷりに、当たり前のことを今更思う。

哀れを覚えるが、さりとて気遣いを表わす言葉も浮かばない。
励ましも鞭になって辛いだけだし、休んでろと言うには時期が悪い。
無言のまま、側にいることしか出来はしない。



「皆死んじゃったね」
長い沈黙の後、ポツリと伊織が言った。
「そうだね」

死傷者のうち、何の偶然か同じ学級の半数がそれに当たった。

「あの人と私、同じ中学だったんだ」
クッションに顔をうずめるように、伊織は身をよじる。
「話したことはないけど、何回かクラスが一緒になって、要領は悪いけど真面目な人だと思ってた」



「上手く言えないけどいつも視界の片隅あって、風景の一部?
言い方は悪いけど、フェードアウトすることはあってもいきなり変わることはないと思ってた」

朝、通学の度に通り捨てるゴミ捨て場や、満員電車の体臭。そういったものと同じ。
決して愉快ではないが慣れ親しんだ、秩序と隣り合わせの安全で緩やかな停滞。

当たり前の景色が突然牙をむく。

「だけど本当はお前なんか死んだ方がいいと思われていた!死ぬほど気持ち悪がられていた!どうして?私はただ何もしていないのに!」

耳を覆うヘッドフォンごと頭を抱えるようにして、絶叫する伊織。

「あの末期の悲鳴が、頭にこびりついて離れない」
糸が切れたように力は抜け、憔悴し、己に近い趣味を持っていた男の死に囚われる。



(一体何が悪いのか?それはね、何もしていないから悪いんだよ)
納得する気は佳辰本人には微塵もないが、犯人の論理はそういうものであったろうと直感している。

言う気はない。正解不正解すらどうでもいい。
責めるにしても他人よりまずは自分だが、アレを前もって予測できる人間なんか存在しないとも思う。

(出来たって言うならそいつが止めろ)
既に事件は起きた。
何を言っても、もう遅い。



「髪、切ったんだね」
唐突に話題が変わった。
ヘッドフォンはずり落ちて首に掛かっている。

「うん。長いのは邪魔だから」
「まっすぐで綺麗だったのに。腕の傷は大丈夫?」

「ナノ治療が受けられることになって……リハビリすれば復帰できるって」
「一緒に目の上も治してもらったらよかったのに」
「ああ、そうだったね……」

忘れないようにとっておきたい、という本心は酷だろうと、言葉を濁す。
耳障りな音楽が止まった。

「強いんだね」
「そう?」

その感想が本気で上滑りしたから首をかしげた。
「うん」

暫く一緒に時を過ごして騒動を起こし、直接怪我もした。伊織の論理に従えば、より深刻な衝撃を受けているはず。
苦しんで手を差し伸べられるべきという先入観じみた圧力は方々から感じているが、事実割り切ってしまったのだからしょうがない。

ひょっとしたら、自分なりには苦しんでいるのかもしれない。

だが傷は治療されている。
去る者は日々に疎しで、死んだ人間はどうせ忘れる。記憶は風化する。
だからこそ傷を戒めとして残したい。

「暮らしていかなきゃならないからね」
世間一般で言うところの頑張るだ。

「……うん。やっぱりかしかしは強いね」
友人は、同じ感想を繰り返した。

「そして怖い」



「あなたは強いけど、その強さは残酷なんだよ。
折角無事だった髪をバッサリと捨ててしまったり、事件の記憶を顔に貼りつけたままにしようとしたり……」

社会との食い違いはささやかながら以前から感じていた。
当初は道場稽古や体育会系のせいだと思っていたが、謹慎の一件からするにどうも違うと見当がついたのがごく最近。

「私はちょっと堪えられないかな……」



「彼」は天を割った。
引き裂かれた創痕は膿んで爛れ、露出した傷口からはかつては見過ごされていた齟齬が溢れ出している。

(なんだろうな……これは)
強さを求めて生きてきた。苦痛に対し自己完結していれば、他人に迷惑をかけることはないと思っていた。
それが今、親友がお前の側にいると辛いのだと泣いている。

弁解も、慰めの言葉も浮かばぬまま、退去するまで佳辰は座っているしかなかった。



相談したら意見を返してくれる友人たちは、もう居ない。





12月下旬。静岡。CDF研究所。

世間一般では休日のその日、東京から帰還した琢磨を三輪が迎えた。
一か月前、姉代わりに親しい研究者から示唆された再戦への道筋。
ヤソマガツに対抗し得る(少なくとも対策の契機となる)才能を見つけるべく、シフトの隙を窺って独自に調査をしていた。

今のところ、全て空振り。
そもそもがマトモな調査のイロハすら知らないし、この場合どこに指導を乞えばいいのかも不明。
闇雲に動くまま、仕事で稼いだわずかな貯金が減っていく焦燥だけがある。



「琢磨。ちょっといい?」
「三輪。来てたのか」
「うん。今日は柏さんのがあるから」

「手応えは?」
「駄目だ。全然分からん。ただ、遺族のストレスが凄いな。署名を募ってた」
「無理もないね」

世間話をしながら、談話室に向かう。





二週間前、一つの実験が行われた。
響三輪の常識外である筋力に関する実験。

先行する精密検査の結果、筋力量や細胞は通常と同じ。
身体的には特殊な部分は何も無し。
強いて挙げれば健康的。

これを受けて、淀海紬は事件時に特に著しかった怪力を、念力による強化だと仮説を立てた。

神経を通した身体感覚、五体の輪郭に沿う形で無意識に使っている。
そしてそれは、本来動くはずのないビニール人形や死体、オリジナルであるヤソマガツが動く仕組みと同じである。

検証のために行われた実験は、通常時と枯渇時、両方の室内での重量挙げ。
被験者本人には分からぬよう区別された二室の中で、通常時には最高200キロ上げた三輪。
一方、枯渇時では、筋疲労では説明がつかぬまで低下した。





実験後、目に見えて落ち込んでいた三輪。
今日の呼び出しには予感があった。

「これからは、淀海さんの手伝いに専念します」
これは前線に立たないということだ。
監視隊からの連絡員であることには変わりないが、一時的なものでなく、恒久的にサポートとして本来の役割からは離脱。

「そうか」
非難に取られぬよう、なるべく静かに、短く肯定した。

「ごめん。同期だけどイチ抜ける」
「謝ることなんかないだろう。一遍無理を通してくれただけで感謝してもし足りない」

本心から言う。
生身でコピーと渡り合う。
限界が来たのなら、負荷を掛けたのもまた自分だ。

「紬さんの手伝いってのも、どうせ戦い方が変わるだけだろ」
「うん……」



談話室は殺風景な部屋である。
扉もなく開放的で、長椅子と自販機があり、壁にはテレビが掛けてある。
昼前の時間帯は人気がなく、それでも訪れた何人かが雰囲気を察して素通りしていく。

「どうして自分だけこんなに馬鹿力なのか不思議だった」
訥々と三輪は語る。

「まともにスポーツも出来やしない。中和出来る道具に惹かれ外骨格に出会い、この仕事を選んだのも外骨格を着れるから」

覚えてる?ちょっと前までは閑職だったんだよ?
と笑う三輪。
無理にくしゃくしゃにした顔は、すぐに力なくくずおれる。

「でもどんどん事態は動いた。それは仕方がない。あの時も、そう思って頑張った」
「危険を冒して食い止めてくれた」
「違う!」
聞いてる方も弾かれるような声だった。

「いや、違わないんだけど、なんて言うか……自分が思う以上に体が動くんだよ。アイデアも普段なら思いつきもしないものまでポンポン出る。
人の死体を燃やすなんて、自分に出来るなんて考えもしなかった」
だが事実、やった。

「あの場では、そうしてやろうと思った。すごく怖いんだけど、同時にすごく興奮して、全身が同時にものを感じる」
それが怖い。
と、奥歯を噛み締める。

「私は今まで全力を振るったことなんかほとんど無かった。
入隊の時も追い込まれたけどあれはむしろ持久力で……それ含めても、あんなに振り絞ったのは生まれて初めて。
限界ってさ、知らないから接近出来るんだね。私はどんなものか知ってしまった。どころか、その先まで押しやられた。
アレの近くってさ、そんな効果があるんだよ」

知ってるよ。と答えようとして、話の先が見えたから、琢磨は黙って続きを促した。

「琢磨も三か月前に体験したんでしょ?あるいは、もっと前に。私はあそこが怖い」

限界とは、一種の極地だ。
そこは普段とは違ったものが見え、違った感じ方をする別世界。

平時とは相容れない。
慣れてしまえば平時が物足りなくなり、帰還出来たら一転して恐ろしく感じられる異境。



「琢磨がね、もう一度挑戦しようとする姿勢はすごいと思う。
似たような部分は盛口さんや津具村さんも持ってるけど、琢磨や柏さんは特にそう。
でもね」

その強さはね、鈍いってことなんだよ。

「戦うと他の仲間も巻き込むことになるって気付いてる?
気付いてるよね。
触らぬ神に祟りなし……誰もが琢磨ほどは強くない。どうかアレはそっとしておいて」





午後、柏佳辰が到着した。
空気人形を用いて、術技の再現実験の初回が予定されている。

その前に、ヤソマガツの見学がなされた。
監視カメラ越しに移る封印の前で、いつかの三輪のように歩いてきた佳辰。
同じようにガラスに触れるのかと思いきや、数メートル前で足を止めた。

そうして紬に感想を報告した。



その後、外骨格を着るために更衣室へ案内しようとする三輪。
移動前、鉢合わせした琢磨と佳辰は無言で睨み合う。
先日、甘物を奢って一応の和解を経た二人だが、根本の緊張は相変わらずだ。

「ね、琢磨。オリジナルと対戦した経験から何かアドバイスない?」
努めて場を和ませようと、佳辰の肩をほぐすように触れながら三輪が話題を振ると、佳辰にやや反応があった。
力んで硬直していると思っていたが、意外なことに肩はむしろ柔らかい。



「真正面に立つな」
いきなり言われて悩んだ琢磨だったが、数秒の沈黙の後、簡潔にそう言った。

「相手から見て右か左、どちらか斜めにそらせ。可能なら横に入って後ろをとれ。
要するに、足を使って位置取りに気をつけろ」

それを聞いて佳辰もまた、じっと見つめて黙っていたが、
「『三寸横に動けば皆隙だらけ』ですか。了解」
言って口角を上げる。

「そういうことだ。
真っ向からぶつかったら、相手の方が力も強いし疲れも迷いもしない。
わずかの揺らぎで押し切られる」

打てば響くような要約に明るく返す琢磨。



「じゃあ足を止めて迎撃に専念するとかは……」
やや和んだ空気に横から三輪が自分の採点を希望。

「下策だ」
「よく無事で済みましたね。流石です」

息の合った落第通告を食らった。





十数分後、琢磨は野外の路上に居た。

背後には研究所の正門。
仰ぎ見れば白いシートに覆われて、ビルの建築現場のように隠れたネビニラル実験場。
右も左も植物な田舎道。季節は冬だから緑より黒が多い。幹の色。

本当は実験を見学したかったのだが、もぐりこんでいると先程の件で三輪が気まずそうだったので遠慮することにした。
シフトは夜からだからまだ時間があるし、気がたって運動しないと眠れそうにない。

天気もいいので走ることにした。
運動着に着替え、軽く柔軟をしたら携帯のアプリを起動して走り出す。

使っているのは、走るスピードと合わせた音楽を、楽曲リストの中から自動的に再生するソフトウェア。
携帯端末自体が内蔵している各種センサと通信機能を利用する、オーソドックスなもの。
本体のサーバーと連携して、データを時系列で確認することや、SNSに投稿することも出来る。

琢磨は個人利用で、ペースや移動距離ごとに流す曲を決めていた。
走れば走るほどテンションが上がるし、お気に入りを長く聴き続けたければ安定してペースを保つ必要がある。
ともすればストイックになりがちなランニングへのご褒美だ。

琢磨は購入当初にいくつかゲームのボス曲を設定し、自己ベスト以上が出た時に聞けるようにした。
それぞれがプレイ時に思い入れのある曲で、最難度をフルに聴けるようになることが目標である。

首筋に骨伝導イヤホンをつけて公道に入る。
辺りは山に挟まれた谷間の農地で、休日であっても人通りがほとんどない。
日によっては抗議団体がたむろしているようなことがあるのだが、幸いにして今日は見当たらなかった。

12月の傾いた日差しは暖かくも弱く、都会に比べて済んだ空気の中を名も知らぬ野草が揺れている。
走るにつれて息が上がるのが心地よい。



聞き慣れたBGM越しに、ふと足裏が他人の振動を捉えた。
(小さくて軽い。三輪?)

この近所に、昼間から走る趣味の住人はいない。
物好きはCDFの警備要員だけで、それもほとんど屈強な男性だ。
研究や食堂に女性職員自体は居るが、外で走るような顔ぶれは思いつかない。

距離を稼ぐためにわざと蛇行するルートを選んでいるので、追いつくこと自体は直線コースなら可能だ。
(でもアイツの世話あるよな?)

答えが出なかったので減速した。
音楽がよりスローテンポなものに変わる。

追い抜かせてみると、件の柏佳辰だった。
持参したらしいジャージに着替え、玉の汗を流しながら疾走している。

疑問は膨れたが、喋ると余計疲れるので後回しにしてペースを戻す。
あっさりと頭一つ分、佳辰を追い抜く。

佳辰も女性としては身長が高いが、基礎体力が違うのである。
相手が陸上専門だったり自分がインドア派ならともかく、鍛えてるのに負けたら話にならない。

(ちょっと大人気なかったかな)
少し反省したので、支道である細い道を曲がった。
ここは土地勘がないと戻るのに苦労する。もちろん、GPSがあれば些細なことだが。

十数メートル走ると、背後から気配。
直後、自分を追い抜いていく佳辰。

ややペースを上げて追い抜く。

追い抜かれる。
追い抜く。

身体能力的には琢磨が優位。
一方、佳辰は動き方が独特で速い。効率がいいのである。



繰り返す内に、脳に叩き込まれる楽曲はペースを超過したことを示す重低音。
鼓動と合わせて意識が揺れる。脇腹の痛みが不協和音に脈を打つ。
息は独立したリズムに急き立てられるよう。

体重を努めて受け止めないようにする。
慣性の糸をたぐる。
転ぶ代わりに足を前に運ぶ。

言葉になる前の微弱な感覚で。
頭蓋骨の裏側を親指の腹で擦られているような綱渡り。



分岐点の前で三度佳辰が自分の前に出る。
上下動が極端に少ない滑るような走りだ。上体のぶれもわずかで、流れる景色と相まって清流の中を泳いでいる気持ちになる。

目の前には太い大きな円弧。これに従えばいずれ市街に出て楽に帰れる。
もう一つは脇に生えた細い直線。琢磨もまだ入ったことがない、どこへ続くとも知れぬ道。

前者はCDFに繋がるから、行きでどういう道であるかを佳辰も知っている。
こちらを選ぶなら、一人で帰れるし競争を続けても安心だ。
もう一つなら……。

果たして、佳辰は直線を選んだ。

(サドンデス、か)
追って小路に入り、擦るようにして脇をすり抜ける。
何か振動が伝わっていることだけは分かったが、もはや聴覚のことはどうでもよかった。





数分後、河川敷に倒れ伏す二人の姿があった。
斜面に辛うじて肘で上体を支え、尻を突き出したみっともない姿でぜいぜいと息をつぐ二人。
口に土が近く、吸うと水っぽい草の臭いがする。

本来、急激な運動の後は低負荷でクールダウンすべき。
そのための余裕すらスタミナの限界まで費やした。
明らかにオーバーワークだ。



一呼吸ついたところで、琢磨は膝を伸ばして横になった。
火照った体に冷えた大気が心地よい。

隣では佳辰がごろりと回転して大の字になっていた。
全身で土による冷却を堪能している。

携帯を取り出すと、速度では自己ベストを更新していた。
GPSによると、CDFから直線距離にして3キロほど離れた川。
「ペース乱れまくったじゃねーか」

「そちらが乗らなければ……」
「知らない土地で迷うかもしれない相手を放っておけるか。財布や携帯持ってるかも分からないのに」
「……」

「つーか、そもそもなんでお前走ってるんだ?実験は?」
佳辰は答えるまで、長いこと無表情に空を見上げていた。





一週間かけて着馴れた外骨格を装備した後通されたのは、普通の部屋だった。
建物自体と同じ白い壁にリノリウムの床。
パイプ机の上にパソコンやその他何か大がかりな電子装置が置かれているだけの、高校の視聴覚室と似たような印象を受ける。

「準備は出来た?」
そう告げるのは淀海紬。異様な圧力は、初対面以降弱まっていた。
あちらが変わったのか、それとも当時自分だけが過敏になっていたのか。

「入試が終わるまで待つぐらいの余裕はあるから勉強しなよ現役受験生」
と、当初猶予を持たせた彼女。
対し、面倒なことは手早く済ませて集中したいとの佳辰の要求が通り、今回の運びとなった。

「目視チェックOK。自己診断も正常です」
案内してくれた三輪が外骨格の状況を報告する。
着替えの際にオムツを渡されたのが面食らったが、まあ戦いはそういうものだ。

二人はそれから周囲の研究者と話し合って細かい作業をしていた。
この段階では指示待ちなので、持参した木刀片手に周囲を見回す。

すると、壁の一面が大きな強化ガラスになっているのに気付く。
こんな目立つ箇所が目に入らない辺り、思ったより緊張しているらしい。
生理的な意味で視野が狭まっている。

ガラス越しには、同じくリノリウム床の一室が見えた。
同じ間取りなのにこちらと違い、完全に物がないので広々と感じられる。
その奥には、足を投げ出すようにして壁にもたれて座る、一体の人形があった。

白い光に照らされたそれは、光沢のある目鼻もない肌に、虫のようなうねりをびっしりとまといつかせている。
胃が重くなって、胸が締め付けられた。
凝視しているとカメラの補正がかかり、鏡文字となってくねる象形文字、異星の呪文が詳細に見える。



「お待たせ。はい電池」
声に振り向くと、淀海紬が佳辰に腕を伸ばしていた。掌に何か握っている。

「前もって説明したように、武器を外した綿詰め状態でコピーを作った。君が今着ている全装甲と合わせて、ダメージは一切通らないはず」

佳辰が着ているのは、成人男性の身体を理想化したような外見。
家にある枠組み剥き出しでも、消防のゴテゴテ付けていったらシルエットが丸くなったようなものでもない。
強いて挙げれば、子供の頃特撮でこんなのを目にしたような、そんなヒロイックなデザイン。
免許の必要性を尋ねたら、私有地内でなら無くても可だと教えられた。

「この電池をはめてスイッチを入れることで起動する。万一に備え、あれに繋がる別室には他の外骨格も待機しているから安心して」
向うを見ると、確かにもう一つ扉があった。

「用意周到ですね」
「部屋が余っているからぶち抜いただけだよ。本来の出入り口は潰してね」
佳辰の邪推をあっさりと紬は払った。

電池を受け取り、扉へ向かって歩き出す。

途中、大事なことを思い出して頭上を見た。
木刀を掲げると、腕を伸ばしきっても天井にはまだ余裕がある。
これならやたらめっぽうに振り回しても、意図せずぶつかることは免れた。

木刀を脇に抱え、空いた手でドアノブを回そうとして。




突然、体が硬直した。

口内が干上がり、息が詰まる。
目の通路を通して、奥まった場所に「自分」が、後ろ向きに吹っ飛んでいく。

頭の中に焦燥と疑問符が押し寄せる。
どこでもいいから体が動く方向に行こうとしたら、膝を屈して体を抱え込む格好になった。

心臓と肺が微細な針でチクチクと刺されている。
胃の痛みはしびれるような熱さの広がりに変わっていた。

(いや、この程度で)
(え?)
(あれ!?)

恐怖は以前から感じていると同時、この程度なら慣れている。
肉体的苦痛も同様。
にもかかわらず、普段なら達成されるはずの指令が霧散する。

強化外骨格は、装着者の挙動に応じて補助するはずだ。
実験のために外部データからの補正機能は消したと言っていたが、その分ピュアに追随する。

深呼吸して、自身の骨格に注意を向けた。
脊髄から股関節。及び膝から踝、指先。ここを回そうとすれば付随する筋肉も動くはず。
落ち着いて、骨が動くよう、筋肉に力を入れる。

体は相変わらず静止したままだった。

「闘争 or 逃走。逃げることを選択したか。失敗だ。これでは治療費返せないな」
混乱する自分の後ろで、もう一人の自分が冷静に分析している。
気合を入れたつもりでも、無理なものは無理だと。

更にその背後ではもう一人、無様さに腹を抱えて笑い転げる私が居た。



焦燥に頭は焼けつき、言語は頭蓋を上滑りする。
本能と理性が衝突する混乱の中で、意図も自覚できないまま佳辰は木刀を握った。

鎧越しに慣れた重量バランスを手の内と肘に感じ、少し、息が楽になった。
既に自明となった体の動き。
その中に喫緊の課題に見合う箇所を見つけ、佳辰は身体記憶をトレースする。

……ツルギを立てる。
白樫の刀身を縦に構えると、反射的に腰も据わって膝が起きた。
これでとりあえず立ち上がった。

次にその勢いの流れを感じたまま、滞らぬよう、だが緩慢に上へ練る。
肩甲骨を前に回す。肘が上がる。連動して拳も上がる。

(下手糞が)
羞恥に染まりながら仙骨と腹部の筋を意識する。
後ろ足が前に移動して距離が縮まった。

拳は柄を握ったまま、ドアノブに接触する。
想起された技術動作を、共通箇所から今必要な日常動作へと無理矢理流し込もうとして。

「心拍数、呼吸、脳波全部乱れてるね。中止にしよう」
柄から指を剥がそうと悪戦苦闘している間に、紬の声が振りかかった。
数十分数時間にも感じられたが、実際には三分にも満たない時間だ。

「まだ出来ます。やれます」
萎縮した喉に無理を重ねて震えさせた。

扉の先にアレが居る。
わずかに意識が向いた途端、圧迫の気配が全身に流れ込む。
フラッシュバックする、変わり果てた彼とその後ろ。

左腕に激痛が走り、右で咄嗟にかばう。
……こんな時だけ、体は動いた。

「研究はチキンレースじゃないから。もっと余裕あるから」
そう言って終了へと周囲を促す紬。
現金なもので、危険が去った途端滑らかに体は動いた。

「また入試が終わってから日を改めてやろう。今日はゆっくり休みな」
彼女の視線と口調には真率な同情があった。
丁寧な三輪に手を引かれて退出する佳辰。



着替えの後、休憩の勧めを振り切って佳辰は走り出した。





「……結局、威勢のいいことを言っていても体は正直だったということです」
ゲラゲラゲラゲラゲラ。



そう、柏佳辰は締めくくった。
話す途中で、寝そべった姿勢から、体育座りになっている。

(強いは鈍い、か)
その態度に共感を覚えながら、琢磨は三輪の評価を思い出す。

言うだけ言って、佳辰は黙り込む。
自分なら余計なことを言われたくなかったので、琢磨も別のことを考えた。



「ああ、空が綺麗」

呟きに見上げると、光り輝く穴のような太陽。
都心よりも心なしか色の濃い青空に、刷毛で擦ったような雲が流れている。

日差しは弱い。
じっとしていれば温まるが、そよ風一つで鋭く削がれる。

公転に従い恒星は遠く離れ、ボタンのように小さくなった太陽は、代わりに縫い付けられた天の高さを誇っている。

「あの事件があった日も、こんな風な美しい空でした」

琢磨の方を向き、
「聞きましたよ。十年前に会場に居たんですって?」

「ああ。……誰から?」
「淀海さんから」
「あ~……」

「あなたもアレを見たんですか?」
「アレ言われても知らねえよ。霊感とかそういうセンスは持たねえんですよ俺は。
大体、十年昔の細かい所なんて覚えてない。俺が覚えてるのはただあれを殴らなきゃって焦りだけだ」

「……」
「ただ、十年前も空は綺麗だったよ」

それだけ返すと佳辰はまた黙った。
座ったまま川を見ている。
まだ立ち上がる気にならないので琢磨も座っていた。



「感情なんて即行変わるものですよね。嫌なことがあったら気が沈むし、体を動かせば楽になる」
「朝布団から出たら、震えているうちに慣れるようなもんだと思う」

精神の苦痛は肉体の苦痛でリセットできる。
目的の状態に辿り着くための経路だと俯瞰すれば、無理も苦痛も単なる途中経過だ。
味わっているうちに、いつの間にか吹っ切れて平静になる。

二人は経験から、まさに体で知っている。

時間と共に、汗と熱も引いてきた。手入れの浅い川の傍らで、肌寒さに身を縮める。

「……何故そう出来ない人が居るんだろう」
「お前だってトラウマ刻まれてるじゃないかよ」
「あなたこそ、一回戦っておいてまだ消化不良ですか?」

心臓が破裂するような恐怖も、狂いそうな悲しみも、年月を経るうちに風化して、習慣の中に埋もれていく。
薄められるような習慣を持っていれば断ち切ることが出来、促進するような習慣を持っていれば病になるパブロフの犬。
行動の刷り込みは意志の精神力に優越する。

苦しいも、辛いも、楽しいも、口に出せる程度なら鳴き声だ。
意識したら自分が持っていかれそうな衝動すら、時計の秒針を聞いてやり過ごせば薄まってしまう程度の一過性。

心なんてあいまいだ。想いも受け取り方も脆いもの。
刺激を通して操れる。
そんな不確かな負の面を、どうして一々引き摺らなければならない?

そう断じる当人同士が翻弄されていることを指摘し合い、押し黙る二人。

十年前も。一か月前も。
地上が死体と嗚咽に溢れようと、大気に汚濁が蔓延しようと、蒼穹はそこにあった。
どれだけ苦しんで右往左往しようと人間の事情であって、自然は一切関知しない。

虐殺の現場でも空は美しい。
平等で、酷薄で、不干渉に広がり続ける壮麗な天。

自然科学で言えば、ただの気体の層なのだから当然だ。
神仏が実在するとしたら、救済せずに沈黙を保つことは今更だ。



「無理をしないでどうしろと。前からこうだったのに、今更おかしいなんて言われても困る」
「心配してくれてるのは分かるけど、納得して選んできた結果だから、一線を越える危惧ってのは的外れなんだよな」
「変わったのはあっちなんだよなー」

それによって迷惑を被らない限り、苦痛耐性も戦いに駆り立てられる心境もただの他人の選択だ。
自分に関わっても、余裕があれば笑って眺めていられる。

共感するからこそ、自分とは異なる選択をしたものを許容出来ない。
繋がるからこそ、断絶が露わになる。

世界も社会も変わらない。大文字の枠組は、些細なゆらぎなど日常の恒常性で呑みこんでいく。

それでも個人は傷を受ける。
個人は異物を拒絶する。

「……あー休んだ休んだ」
どちらともなく立ち上がり。歩き出す。
「腹が減ったなーオイ






後日――
当初、警察は事件に対し情報規制を実施。
報道機関も自己が持つ最強の武器、「報道しないこと」を使用したため、情報は溢れかえる一方で輪郭はぼかされていた。

それを遺族たちの訴えが穴を開ける。



彼らはある日、突然家族の亡骸と対面した。

気持ちの整理をつけようにも、事件の経緯そのものが隠されている。
警察は口を開かず、普段なら事細かに経過を解説するマスメディアも同様。
生き残った人々に話を聞こうにも、口が重いか要領を得ない。

一方的に人生に絶望した少年が刃物で凶行に及んだ?
なら何故、こんなに数十人も死んでいる。
あのロボットはなんだ?

一体俺の家族は何に巻き込まれたんだ。
誰か教えてくれ!

百を超える遺された者達の請願は義憤と好奇心を巻き込んでうねりとなり、肉眼限定で一編の動画が遺族にのみ開示される。



やがて情報は流出し、映像を見た誰かが犬猫で模倣する。
実写と明らかになった時、見たうちの誰かが理解する。

理性が封じようとした魂を燃やす火炉。
人の心が点火する。



「そうか、こうすればいいんだ」



我が南蛮鴃舌の声を聞け。






[27535] 第十二話
Name: 三二一◆02c59522 ID:068f191e
Date: 2014/02/19 22:32
2036年1月。
年明けて東京のCDF。

医師立ち合いの下、三輪と佳辰は経頭蓋磁気刺激の実験を受けていた。

経頭蓋磁気刺激法(TMS)とは、電磁石を用いて脳内に弱い電流を流すことにより、任意の部位のニューロンを興奮せる方法。及びその装置。
8の字状の電磁石を頭部に近づけるのが一般的。
本来は脳の機能を調べたり、幻肢やてんかんなどの治療に使われる。

1990年代、カナダはローレンシアン大学のマイケル・パーシンガー博士がある発見をした。
側頭葉(こめかみの下)に刺激を与えると、80パーセント以上という高い確度で人々に宗教的恍惚や、神や悪魔が部屋にいるような感覚を得たのである。
以後、TMSを用いた装置は「神のヘルメット」と呼ばれ、擬似科学界隈で持て囃されることになる。

今回は、側頭葉に刺激を与えるまでは同じだが、その後マテリアルと呼ばれる箱が取り付けられる。

箱を近づけるのは後ろから。
被験者どちらに付けられるか分からないし、職員が近付いても取り付けられないこともある。
取り付けても実は中身が空だったこともある。

全体像を知るのは直接関わらない上位者のみ。
昨年末から職員で志望者を募り複数回、手順に改良を重ねながら続けられている。



佳辰の背後に人の立つ気配があり、同時にざわざわと潮騒のような気配が首筋を這い回る。
近づけられる「マテリアル(素材、素体)」と呼ばれる代物は、指輪でも入れるような白い小さなケースだ。
当初は無意識に吐いたが、慣れてくると不快とはまた違う。

苛々する。
上手くいかない友人との関係や、受験に関する不安や、彼の逸話を漁りに道場まで押し掛けてきた記者。
等、等、等。普段意識の下に閉じ込めていたはずの嫌なことが浮き上がる。

胃がムカムカして心臓が荒ぶる。手足が強張ってばたつかせたい。

手が感触を求めるのである。
手軽な達成感を味わいたいのである。
例えばそう、人間の頭を壁に叩きつけるような。

ゴンゴンゴンゴン。ゴンゴンゴン。

人の頭は好い。
適度な重さとコンクリに叩きつければ形が崩れる程度の硬さを持っている。
西瓜よりはちょっと固く、皮と毛で得た強靭さ。

割れろ。割れろ。次で割れろ。やれ割れろ。さあ割れた。超気持ちいい!
全身の血が炭酸に変わったような爽快感。






(首落としたいなー)

手近な研究者をズンバラリン。
並み居る連中を首スッパン。
外骨格が来て自分がスッパン。

響さんはまあいいや。

なおも胴は動いて腕を刈り、首は宙を回って噛み千切る。
斬った死体も動いて斬られ放題斬り放題。挽肉になるまで太刀筋試し放題。
飛び散る血の飛沫は梅の花。

こんなものが見渡す限り100億近く実っているとは、豊作にも程がある。





(スッパンスッパンスッパンパーン♪)
神妙に真面目くさった鉄面皮のまま胸中で歌う佳辰。
情景を思い浮かべているうちに大分体も楽になり、気も落ち着いた。
スッパンパンとスッポンポン(全裸)は似ている。




不意に視線を感じた。
頭上遥か先、天井より彼方、空から誰かが見ている。先の事件の時とは気配が異なる。
「観察」している。

まるで知性ある人間のように。



横では、三輪が鎮静剤を打たれていた。





実験後、佳辰と三輪の両名は紬の研究室に居た。
研究室と言っても大がかりな実験器具は他所であり、部屋自体はこじんまりとしている。

要するに専用の個室である。
壁や床はCDFビル全体の基調である、シミ一つないオフホワイト。
ソファや机、小型冷蔵庫、そうした最低限の調度以外は紙の本と束で埋まっている。

先の実験の際、紬本人は他に抱えている要件で忙しいらしく、ここ最近二人は会っていなかった。

脳科学者やリハビリの専門家などとの共同で行われる脳磁気の実験。
また、炙り出しとか呼称される予定されている実験。
紬という個人は、集団の中に埋没していた。



「これ本日の結果報告です。
淀海さんも昨日も夜遅くまで忙しかったみたいですが、毎日根詰め過ぎたら体に毒ですよ」

「昨日は奇跡的に日付が変わる前に横になったんだけど」
「でも二時頃に壁越しに物音がしましたよ」
「えー、あそこは寝るだけで、有ってパソコンぐらいなんだけどな……。別に起きたとき普通だったし」



「こんなにのんびりしていて良いんでしょうか」
「良いんだよ。一年二年なんて誤差なんだから」
本日の実験報告を提出する三輪についてきた佳辰は、頃合いを見て紬にそう訊ねた。

昨年末以降、紬は佳辰の技の再現実験を休止した。

「そんなに練習したければこれ貸すよ。慣れるところから始めなさい」
そう言って無造作に等身大の人形浮輪と空気入れを放る紬。

「一応注意するけど書いちゃ駄目ね。あくまでフォルムに慣れるだけ」
「いや……待ってくれるのはありがたいんですが、ここはアレの対策組織ですよね?焦らなくていいんですか?」
それだけだとコンパクトなビニールの塊を胸に抱えたまま当惑する。

「うん。説明したでしょ?」
インフォームド・コンセントとして行われた各実験前の説明で、紬の意図するところは大部分が説明された。





犠牲を払って獲得された情報を元に、紬は研究の長期計画を立てた。
その第一段階が事例研究とセンサーの拡充。



センサー。プロセッサー。エフェクター。

淀海紬の専門はロボット工学。
故に仮説もその概念を下敷きとしている。

センサーは外界のデータを感知、検出する。
プロセッサーは処理装置。収集した情報を元に対応を決める。
エフェクターは周囲に影響を与えることで、決定した対応を現実に移す手段だ。代表的なものが足などの推進システム。

感覚器。思考器。効果器。

この機能区分が適用出来るのは、当然ながらロボットに限らない。
むしろ生物と同等(以上)の働きを機械にさせようと、研究のため分類していると言える。

センサーにおいて特に優れるのが、マナ展開後第一世代の柏佳辰。
怪力と言う形でエフェクターを表わしているのが、響三輪。
両者共に、出生時から影響を受けた脳がプロセッサーとして発達していると考えられる。

佳辰も特異な斬撃としてエフェクターを有している。
これには遺伝による分子的基盤というハードウェアの他に、相伝している武術武道が何か力を捉え、扱うための感性とノウハウ、つまりソフトウェアとして役立っている可能性が高い。



直系三代のサンプルが手に入る遺伝子情報は、どうせ専門でもないので一旦脇に置く。

調査研究のためにはセンサーが必要である。
理想を言えば数で測れる計測器が一番だが、それを発明するのは人間だ。
知能と工作技術と感度とマトモな人間性、全てを兼ね備えた天才の登場を口を開けて待っていられない以上、携わる母集団を大きくする必要がある。

既に有している人物を発掘するのが炙り出し。
感度の強化を目的とする試みが後の二つ。一つが脳磁気刺激。

側頭葉磁気刺激自体に、スピリチュアルなものはない。
脳科学からすれば、悟った、や、神に出会った、などの確信は、情動を司る辺縁系からくる。
それは真贋を識別する思考を司る脳領域、つまり前頭葉とは別の部位である。

ただし、第一世代の例にあるように、脳は理解出来るだけの潜在力がある。
実はそれ以前の世代も本当は気付いているのに、常識で固まった意識が拒絶しているのかも知れない。

「確信すること」はあくまでも思い込みだが、常識が障害なら陶酔することで存在に気付くための心理的なハードルが下がる。
そしてそこにもし「何か」刺激を与えたら、既に成人している者でも一気に感覚が開花する可能性は有り得る。



その検証のためのブラックボックス。「マテリアル」。

「言わば霊障で敏感にしようぜって試みだね。怪談語ったらビビりやすくなるとかあるじゃん?」

話しているうちにテンション上がってどんどん長くなる話を、二人は黙って傾聴していた。
「あの人は興が乗って脱線してるほど的を射たことをぽろっと言うから、なるべく喋らせとけ」
と琢磨にアドバイスを貰ったからでもある。

紬はブラックボックスを、黒く塗りつぶされた回線図に例えた。
電池があってスイッチがあって電球がある。間にはコンデンサなど色々なものが詰まっている。
それの枠内を全部塗り、「スイッチ入れたら電球がつく」と過程も何もすっ飛ばして決めつける抽象化がブラックボックスだ、と。

「私が作った装置なんかがブラックボックスの最たるものね。
円盤に文字刻んで動かしたら回り続けまーす。電気とれまーす。
なんでこんなのが動き続けるの?分っかんなーい」

へらへらふざけた動きで語った後、手で顔を覆ってしゃがみこむ紬。

「マジで分かってる事この程度なんだよ。
ライター渡されて、薪も燃やさずどこでも火が起こせる魔法の道具だと驚いてる戯画された未開人が、私らの現状なの」



感度を増強し、人材の育成を目的とする試み二つ目が佳辰の技のトレース。

三輪の念力(怪力)も、動作に追随して発動していた。
脳の配線や霊魂といった構造があるのかどうかは実際のところ不明だが、様態を見るに運動感覚と発現のための回路は混線しているらしい。

ならば反対に、逆流して、肉体経由で脳の回路を育てることも可能なのではないか。
もし佳辰が生まれつき特別だっただけだとしても、それで培われた技を他人が真似して身に付けたら、センサーの感度が上がったりしないだろうか。

身に付けた上で脳磁気刺激とブラックボックスによるドーピングをしたら。
あるいはオリジナルである佳辰自体を底上げ出来たら。

仮説である。都合のいい可能性ばかりを重ねていて確度は低い。
だが周辺技術の発達により、一昔前と比べて、実験の手間は大幅に下がった。



外骨格による運動記録のフィードバック。
その淵源は、元々ヤソマガツ取得前のスポーツとエレクトロニクスの融合にある。

大体2010年前後。
各種センサーが小型高性能化して、携帯端末がスマートフォンと呼ばれる区分の、パソコンと連動する進化を遂げた頃。

捉えようとしても指の間から零れ落ちてしまうものを捕まえたい。
それまで研究室の屋内に留まっていた計測が、屋外の現場で高精度に行えるようになる。
エレクトロニクス分野で技術力が追い付いてきた21世紀初頭、デジタル技術はスポーツの分野に普及した。

一例を挙げよう。
2004年にハンマー投げで金メダルを獲った選手は、同時に大学でスポーツ・バイオメカニクスを専門に研究する科学者でもあった。
彼は、通常では力として体感不能だが、ハンマーの飛距離を左右する回転方向の角速度を測るため、ハンマーに動きセンサーを取り付けた。

センサーは角速度をリアルタイムで定量化し、近くに置かれたスピーカーから計測値に応じた音を流して選手に情報を伝える。
選手は音を聞くことで、ハンマーの回転が上手く加速出来ているかを、投擲動作中にリアルタイムで把握できるという仕組みだ。

この手法は、聴覚フィードバック法と呼ばれる。



本人やボールの動きを計測する技術と、計測したデータを可視化する技術。
その利用は、まずは個人のトレーニングの効率化から始まった。

移動速度の計測や、GPSを用いてのコース取り。
フォームの解析、修正補助。

音を利用する物の他に、スノーボードとウェアにセンサと振動子を組み込んで、振動によってフォームの崩れを知らせる、というものもある。

視覚化の例では、2009年にはゴルフスイングの診断アプリが、翌2010年には歩行フォーム診断アプリが登場する。
ロボット研究から派生した、限定的な入力情報から体全体の動きを抽出する。

アプリとあるように、これは携帯端末に内蔵されているセンサを利用する。
後年、スマートフォンが普及することで、小型高性能のセンサが低価格となり、スマホの通信機能でWebとの連携も可能になった。
2012年には、速度と音楽を同期させるランニング用アプリや、心拍計とつなげるアプリも出ている。

「他にもシューズに仕込んだ情報をスマホ経由でパソコン、ひいてはサーバーに送るとか色々あるんだが……」
説明時、ここまで語って紬は不思議そうに佳辰を見た。
「と言うか、こういうのは現代の高校生の方が詳しいんじゃない?」

「そう言えばサッカー部の奴がそんなこと言っていたような……」
佳辰は要領を得なかった。現代技術関連を積極的に遮断してきたせいである。

「サッカーだと、他にもカメラと組み合わせ、試合全体を通してフィールド上での運動量や守備範囲を可視化するとか。
動きってのはただどう動くかのハードだけじゃなく、何時動くか動かないかのソフト面も重要なんだよね。こっちもかなり詳しく調べられるようになった」

故に、技術の萌芽の元々はトレーニングの補助を目的とした計測。
やがて、そうしたセンサーと解析するプロセッサーが、外骨格というエフェクターを手に入れることで、複製可能なデジタルデータは他人にも同等のパフォーマンスを提供する。



今回の使い方は初期に近い。
まずは計測。
計測装置の土台かつ防御としての装甲、増加した重量の帳消しに限定したパワーアシスト。

計測したら複数にコピー。
コピーした外骨格で訓練する数十人(数百人~万人?)の内、誰か一人でも再現出来たらそれでいい。
より分かりやすく、真似しやすいように変化させる者が居たらもっといい。



安全で、一方的に。
かつてそう語った通り。

「今やっていることは全て、明後日の方向だったと明らかになるのが前提なんだ」
研究は最初、全て失敗ばかりで途上だが、経験する度に失敗を元に手順が改良され、有効になっていく。
「結果を公表し、もっといいやり方を提案してもらうための叩き台」

科学は知識が共有されてこそ意味がある。
研究結果を秘匿し続けるには限界がある。
故に、他研究者が理解し検証出来る内容を、被験者のプライバシーを保護する書き方で提出することが、自分の義務だと紬は言った。

「君達みたいにセンサーの優れた世代が研究者になり、更に蓄積を重ねた時。
解明そのものは数世代先になるだろう。
私の役目はそういった人々がまず自らの能力を安全に立証出来るフォーマットを整えることであり、千里眼や丸亀事件を繰り返してはたまらない……」

そのための迂遠な方法。
そのために既にある能力者の強化でなく、母集団の拡大。
人体に直接手を加えるのでなく、非侵襲で危険が少なく改良も容易な機械装置を優先する。

可能になった背景は、ともかくにもオリジナルであるヤソマガツの無力化がなされているため。
大体、模倣犯の対処や背景となる諸問題の解決は、社会全体の管轄であり、一朝一夕で出来るものでもない。



かつて説明を受けた時、佳辰は当然の疑問をぶつけてみたことがある。
「その装置、貴女自身は試してどうだったのですか」

「全然駄目」
首でも振らんばかりにお手上げーといった態度を取る紬。
「実はかなり期待していたんだが。どうも私はドーキンスと同じで、脳の宗教的な領域がどんなに働いている時でも無関心であるらしい」

脳における共感を司る部位。
ミラーニューロンとも言われる他人の意図と感情を追体験する細胞群。
どんなに疑ってもそこは、彼女が本音を語っていると訴えていた。





そして今日。
「あのう……私も気になってることがあるんですが」
不安げな様子で三輪が片手を挙げた。心持ち恐る恐る、顔の辺りまで。

「さらっと流された上に私達のこと第一世代とか呼んでましたけど、この力は遺伝するんですか?
子供に自分と同じ悩み抱えさせるのはちょっと……」

尋ねられて、珍しく紬は言葉を選んだ。
「多分、大丈夫だと思う。二人の特技の要因は、脳がマナを理解出来るようになったからだけど、これは遺伝でなく後天的な獲得形質だから」
「でも……柏さんは遺伝の可能性があるんですよね?」

「だからっておじいさんもお父さんも同じこと出来るわけじゃないんでしょ」
「はい」
ねえ、と振られて返事をする佳辰。

「元々、遺伝と環境、氏と育ちは完全に切り離せない。
柏さんも遺伝や教育的な素養は御先祖と共通してるかもしれないが、その中で一人だけ出来るようになったのは、自然環境がそういう風になったからだ。
だから、まあ、素養は遺伝するが発現には個体差があるはず」

相手の分もあるから自分は半分に薄まるしねと紬は言い、
「大体、遺伝ならそう急速に変化するはずがないんだ。
後天でも同様で、そんな即効変わるなら社会は異変をもっと早く認知してるよ。
そうでないから怖いんだよね?」

「……はい」
「元々隠れていたにしても適応したにせよ、君達は早過ぎる!能力が突出し過ぎてる」

そう叫んで、ふっと優しく二人を見た。
「でも安心して。君達を人身御供になんてさせないから。
折角血を流して手に入れた優勢と情報。個人に依存しない安全な対処法を見つけてみせるから」

個人の才能依存からの脱却。訓練次第で誰にでも可能なテクニックとテクノロジー。
長期的な研究期間の猶予をてこに、非戦闘で全てを終わらせる研究の方向性。



「それに、完全解決は百年先だろうと、対処療法ならもうちょっと早い見込み」

GNR。

G 遺伝子工学
N ナノテクノロジー
R ロボット工学

遺伝子工学が発達すれば柏家の直系三代(と三輪)の遺伝子を調査して特殊能力に関わる分子的基盤を見つけられる。
ナノマシンが実用レベルになれば、ヤソマガツと拮抗出来るだけの再生力を持った無人機に白兵線を任せられる。模倣犯による危険度も下がる。
ロボット工学が強いAIを作り出せば、いずれそれが超自然を解明する程賢くなる可能性がある。

特異点と呼ばれるものはかつては半信半疑だったが、異星人の技術による革新で予想通りに来そうだと紬は語る。
その予想年は2045年前後。
そこまで文明が保てば後はどうにかなる。

時間稼ぎに必要なのは後十年。
来なかった場合は根本的な解明で百年前後。

どちらにせよ、佳辰の技一つが半年や一年遅れたところで大した誤差ではない。
駄目なら駄目で手順さえまとめておいけば、誰かが対案を出す助けになる。



皮肉にも、科学的認識が全盛であるが故に脅威を見逃したが、元凶そのものの現在理解できる技術から、科学は対応策を生み出せるのだ。

このまま安全に、着実に歩を固めていけば、いつか未知は明らかになり恐怖は失せる。
絶滅しない限り、被害からも根を張って、脅威すら実例という養分に変えて成長し、やがて圧倒する。

それが科学。迷信を駆逐してきた過程と思考法。
天然痘を。寄生虫を。

現代最優勢である世界に対する説明体系。



再び、三輪が遠慮がちに口を開いた。
「あのー、リスクが少ないのは喜ばしいことなんですけど、一方で琢磨は再戦のために駆けずり回ってますが」
「まあね。私が戦いたければびっくり箱探せって言ったんだ」

「あるんですか?」
「居ると思う?」

黙りこくる三輪に、呆れたように紬は頬を歪めた。
「男は馬鹿だのう。問題が解決しないと生きていけないと思い込む。現に未解決の今生きているんだから、それでいいだろうに」





第十二話『ヤドリギ』





『今日は最高の体験をしたわ。
撮影中、空から眺めているみたく周囲の動きが手に取るように分かったの。
きっと無我の境地ってこういう感じね。自分が世界に広がっていくみたい!』
メアリー=ヴォーン。生前のコメント。

『この頃彼女は夜になるとふらふらと動き出すようになっていた。でも本人は覚えていないんだ。
ストレスが溜まると夢遊病になるって聞くから、医者を勧めたが彼女は笑って受け流した。
だから録画をしようと提案したんだ。『パラノーマル・アクティビティ』のようにね』
同居していた、恋人である俳優の証言。





同日。静岡。昼。



郊外に位置する研究所から新幹線が乗り入れる駅まで、長い距離を出向いた琢磨は、切符も買わずに駅前の広場で人々を眺めていた。

再三の空振りで、入隊以降貯めていた先立つものが半減する。
組織の意向でなく、自主的に動いているので補填も無い。
コツコツと溜めていた数字が見る間に溶けていく様は流石に臓腑が冷えた。

(何かが間違っている)
緊急に修正を求められている。しかし、何を、どう変えたらいいのかすら判然としない。



「ヤソマガツ移送に署名お願いしまーす」
駅出入り口近くでは、市民団体が道行く人々に声をかけていた。

彼らにも都合はある。
いきなり観光地近くに危険物が降ってきて物騒な連中が出入りするようになったら、誰だって他所へやってもらいたい。

顔が隠れる機体かつ、話題性はもう一人の英雄が持っていったおかげでもう一人のヒラの個人情報は守られていた。
そうでなかったら、今頃こうして暢気に放心してもいられなかっただろう。

目的達成には程遠い探索だったが、組織の外に出たことで、CDFやヤソ研が世間にはどう見られているか知れた。





「気になるのは隠されているネビニラル実験場ですね。
あそこはヤソマガツも手に入れましたから、何か特別な発明や特殊部隊を擁しているに違いありません」

シフトの合間を縫って東京まで出かけた異能者や関連集団探し。
手持ちの端末に衛星写真を映しながら、ある男はそう言った。
警備上の懸念からすぐに削除が申し入れられた地理情報だが、それ以前にもう保存されていた。

外骨格を使ってトレーニングするという集団に会いに行くと、仮想敵を見立ててスポーツセンターでスパーリングをするサークルだった。
見学後、装備について雑談していると件の台詞を言われた。見たこともない新しい玩具を羨むような口調。

8月以後、ヤソマガツと交戦した実験場は敷地丸ごとが覆われて立ち入り禁止となり、PMFと無人機が哨戒している。
差し迫った危険があるならその程度の警戒で済むはずがなく、時折外人含め政府関係の見学者を入れているので、詳細から外されている琢磨達も落ち着いている。

だが、それほど組織の上位陣を信じられない外部では、疑念と好奇があるらしい。
検索エンジンで呼び出された、四角い白。
野次馬どころか、衛星の目すら排除しようとする内部では、一体何が起きているのか。

一応寺社仏閣に行ってみたが、調子に乗ることもなく普段通りだった。
強いて挙げれば本尊のキャラクターグッズが普段より売れていたし売る気が強かった。
こういう時代だから、不安を和らげる助けになればいいと住職は言っていた。

一般に、新し物好きで効果を知ったら一斉に飛びついて乗り換える。が日本人の気性だと言われる。
琢磨は特にそうとも思わないが、昨年の除夜の鐘と今年の初詣は参拝客が軒並み増えたらしい。
十年前の慰霊碑には、ヤソマガツを拝みに来る人がたむろってると聞いた。

事件に際し、宗教関連に対する弾劾が緩いのは、この国においてデリケートな問題に繋がっているからである。
布教においてすら科学との共存が最優先になる現代。
そこを責めるのは誰にとっても本意ではない。





「『大力女』というものを知っていますか」
ブラインドを下した部屋で、老年の男性はそう語った。

区民館の片隅でひっそりと開かれている、民俗学系サークル。
訪れると、パイプ机と椅子があるだけの部屋に一人座っていた。
他は食事に出かけているらしい。

誰かを彷彿とさせる長広舌を要約すると、以下のようになる。



大力女とは、力持ちの女ということ。往々にして、怪力に見合わない華奢で美しい容姿をしている。
文献的には日本霊異記の美濃狐や「道場法師の娘(これで人名)」、源平合戦の巴御前、江戸時代の金十など。

伝承には時代も場所も超えて共通する話型がある。
これを伝播のルートと捉える人もいるが、私は文化も血縁も超えて人間は同じことを考えるのだと解釈している。

「その方がより普遍性を表わしていると思いますから。もしくは、本当に存在したのかもしれません」
それからこれは噂の域を出ないのですが、と続けて。

「11月の事件の際、正に大力女が出現したという話もあります。
噂は所詮噂ですが、口伝えの中にも何がしかの真実が――客観的事実であれ主観的要因であれ――含まれていると捉えるのが民俗学の骨子ですから」

老いた彼。
先程の人達とは違った意味で日焼けした、雨の日も炎天下も野ざらしにされた古本のような質感の膚を持つ老人は、脆くなった体をヨレヨレのYシャツで包み。
姿勢も口調も静かながら、好奇に輝く目でそう語った。



他にも色々なところを回った。

後に逮捕される詐欺師にも接触した。
彼が売っていたのは死者との再会。
本来成立しえないほどズサンなそれは、死体が動くなら霊魂もあって死んだあの人に会えるかもという願いを揺さぶり、大金を奪っていた。

全て空振り。
あえて言えば施設周辺部と違って反対派以外の多様性もあるが、どちらにせよ求めているものはない。

邪神を奉じる秘密組織なんてない。
なんか不思議な力の理由と使い方を知ってる特殊能力者なんていない。
よしんば居てもネットで検索して上位に出るわけがない。

当たり前である。
常識的に考えれば分かる。
しかし当たり前でないことが起こり続けて判断基準が麻痺していた。

代わりに、一つだけ確信出来たことがある。



(一番怪しいのはどう考えても姉さんだ)

ほとんどが誤解ばかりの世間の評判にあって、唯一正解していると思えるもの。
それは、淀海紬が何かヤバい研究に手を染めているという認識に他ならない。

製作を手伝ったコピーの起動実験の際、外骨格や他の何かより優先して紬に襲いかかったという噂も、内部から漏れ聞いていた。

最近は脳に関する実験を行っているらしい。
試用期間で今は東京の本部に留まっているが、拡大されたら参加してなんとかして食いつかなくてはならない。
一回拒否されてエサをぶら下げられたから、素直に他所へ追い払われていたのは愚か過ぎた。



広場では、どこかの集団が宣伝をしている。

「ヤソマガツの行動は布教です!」
駅前の一角を占拠して、スーツを着た中年の男が語ってる。

「我々はヤソマガツを自分たちより進んだ技術による産物か、さもなくば動くはずがないと傍観してきました」

「しかし昨年起きた事件を思い出して下さい。
人形が動くはずがない、死体が動くはずがないと目の前の現実を信じなかった人々は皆死にました。
生き残ったのは危機感に従って逃げ出した人たちだけです」

「実在を受け入れなければ殺される。これは選別です!」
マイクがハウリングを起こし、一際声が高くなった。

この後、ミームの概念と伝播から、あれは悪の像だから安全が確保されているうちにさっさと宇宙に放逐すべしと繋げていった。
その横では、あれは異星人実在の証だから貴重な人類遺産であり、民間に委ねず早く国際管理すべきというポスターが貼られている。

未だ個々は決定力を持たぬなれど。
その全てが、現状の警備を解体し、より強力な国家組織への移管を求めていた。



人間が顔を突き合わせて殺し合っていたのは遠い昔だ。少なくとも、日本では。
この世が競争であることは変わらなくても、その形はティラノサウルスがニワトリになったように変わっていく。

そんな平和に兵糧攻めし合っている中に現れた、時代遅れの恐竜。
一つは迷信の闇と繋がった破壊の像。
もう一つはそれと爪が触れるほど近くで対峙する戦士。極地という異境に染まった異人たち。

見渡すと同年代はおろか、関心を持っている人々すら現状に適応している。
もっと広く、共同体の外へ出ると、組織化され、多数の外骨格と武器を持つ集団そのものを、危険なものとして視ている。

行動しないと何も変わらないと踏み込んだ自分が、一番場に合ってない役立たずになっている。

警備の中で、設立者を除けば自分の他に当時を直接経験した者はいない。
巻き込まれた子どもたちは他にもいるはずだが、十年前の出来事なんか皆吹っ切っているということだ。

(そりゃ反対もされるよな)
進路相談時を思い出す。

それでも頑と聞き入れず選抜試験に参加した。
周りが単語帳めくってる間に体力作りに精を出していた。

納得はしているから後悔はない。
だが実際問題として行動のしようがない。
消化不良であるし、まだ可能性が残っているから動くけど、経験のない門外漢だから労多くして益が少ない。

スッパリと捨てきれない。
だからと言って気合を入れても状況は相変わらず。
ヤケクソの拘束解除はもっての他。

気がつけば肌寒いところに取り残されて、それでも熱の惰性でジリジリと転がっていく。





その男と出会ったのは、そんな調査とも言えない彷徨の最中だった。

「あいつらは、顔が人間の方を向いているんだよ」

振り向くと、同年代と思しき男が笑いかけていた。
髪は耳にかかる程度で、さも無造作のように慎重に跳ねている。
コートのファーに囲まれた顔は彫りが深く、長身と着衣越しでも窺える肉付きから偉丈夫と言ってよかった。



(誰?)

怪訝な表情で気付いたらしい。
「ああ悪い。俺は暮佐怜次」

続けて、
「ヤソ研の人だよな?受けた時、俺も居たんだよ」

俺は落ちたけど。
言って、彼、怜次は琢磨の横に座った。

「悪い、思い出せない」
正直に告げると、怜次は気負いなく受け止めた。
「まあ当然だ。選抜中はほとんど話さなかったもんな」

「十年越しで決着つけようとしたら、思わぬところでつまずいてしまった」
と語る怜次。

「十年って言うと、そちらも?」
「なんだ、お前もか。
そうだ。十年前の暴走の時、俺も現場で見た。家族が死んだ、なんて因縁はないけどな」

「そうか、居たのか。他にも」
仲間が出来たところで自分の馬鹿さ加減は変わらないのだが、急に肩の力が抜ける琢磨。


「そう言えばまだ名前を聞いてなかったな。いいか?」
「ああ、先崎琢磨だ」
「改めて。暮佐怜次だ。よろしく」
「よろしく」



「今は知り合いの伝手で、人工筋肉発電の施設で働いてる」
広場のベンチに座り、目の前の雑踏を眺めながら、言葉を交わす。

「発電?」
「俺も詳しくは知らないんだが、人工筋肉って電気を元に収縮するだろ?だったら反対に収縮させたら電気を発生させられないかって話らしい」

(単純な力仕事以外の使い道って有ったんだ……)
強化外骨格に義肢。
治療のためのナノマシンも戦いに駆り立てるのなら同様で、琢磨の触れる限りヤソマガツ由来技術は闘争に関わるものばかりであった。

しかし目の前の男の前には、全くの別の平和利用の道が拓けているらしい。
「同じ県内だが伊豆の方だ。近くに来ることがあったら寄ってくれ」
そう言って彼は名刺をよこした。



昼下がりの広場では、
「超自然的な存在を信じ、畏敬を以って付き合ってきた昔の人々の知恵を取り戻そう」
と主張する団体が、昔ながらのやり方で作った自然食品の街頭販売を販売していた。

(あれ旨いけど高いんだよなー)
そこも一応琢磨は調査していた。
感想としては、スーパーで高級品買った方が味もコストパフォーマンスもよろしい。

昔からあった力だよ!人間は昔から知って付き合ってきたんだよ!

「ハ?昔っていつだよ」
突然に、横で吐き捨てる怜次。その怒気は侮蔑に混ざり、怨嗟に近い。
十年前の犠牲者というだけでは説明がつかない暗さがそこにあった。

「ここで失礼する。また選抜があったらその時はよろしくな先輩」
そう言って怜次は去っていった。

立ち上がり自分も移動しようとする琢磨。
どこかのアルバイトがポケットティッシュをくれた。
見ると、通常なら適用されないナノマシン治療も対象とした保険の宣伝だった。



研究所に戻ってから、琢磨は津具村に暮佐怜次のことを知らないか聞いてみた。
「ああ、そいつだったら確か、ゴールしたのに規定量足りないって不合格にされて抗議してたやつだ。お前も横通ってる」
「よく覚えてるな」
「人を覚えるのが本職だからな」





こうして日々は過ぎていき。
琢磨も警備と訓練を続け、夜を迎え、朝を待ち。
自衛隊に管理が移行するという噂と共に、施設内でも背広組を見かけるようになった頃。

自称他称の特殊能力持ちを掻き集め、一堂に首実験する炙り出しの日を迎える。






[27535] 第十三話
Name: 三二一◆02c59522 ID:068f191e
Date: 2014/02/20 22:23
インド。ワーラーナシー。

インド北部にあるヒンドゥー教と仏教の聖地。
釈迦が初めて説法を行った鹿野苑が近くにある。

ガンジス川沿いに位置するこの都市は、数千年の間、解脱を求める人々が死を迎えようと集ってきた。
ヒンドゥー教の教義においては、人々は死に生まれ変わる都度苦しみに耐えなければならない。
しかし、死後に遺体を沐浴場の火葬場で焼き、遺灰を川に流すと罪が清められ、輪廻から解放されるとされている。



この大いなる火葬場の片隅の一寺院で、警察の強化外骨格が静かに移動していた。
人気の絶えた石造りの通路に四機。雲が日差しを遮り、寺院の中は暗い。
それぞれが火器を携行し、何時でも脅威に即応できる体勢をとっている。

……どこかから、石を砕く音がする。
彫刻をしているような。しかしかなり不規則に。金属と岩との激突音。
力強く、もの寂しく、梵鐘の如く院内にこだまする。

外骨格達は音の出所へと近づいていく。



曲がり角で、先頭の機体がハンドサインを出す。
これ以上の接近は危険だ。
全機が音もなく片膝をついてしゃがむ。

流れるような動作で、一機がピンポン玉サイズの無人偵察機を取り出した。
付属している小さなプロペラで空中に浮遊すると、高所に上がった後音源の方向に進んでいく。

『CDFから提供された資料によると、アレは外骨格を優先する。
突入と同時に襲いかかってくる可能性が高いからそのつもりでいろ。
ともすると無人機にも反応するかもしれない。その時は気をひかれている隙に排除する』

先頭の隊長が隊員達に手順を確認する。

『アレの様子はどうだ。逃げ遅れた負傷者が居れば配置を教えろ』
ドローンを飛ばした隊員に尋ねる。
映像自体は全機で受信出来るのだが、視界と集中力の奪われるので、前線では一機が情報処理に集中して連携することになっていた。

『民間人は居ません。無人機にも反応してません……でも……これは一体……』
現場にあるまじく、また精鋭としての常にもあらず、発言の不明瞭な担当隊員。
その間にも角の先、広間からは物を砕く大きな音が聞こえていた。聞いているうちに気付いたのだが、位置が高い。

暫く待ってなおも混乱している部下に、隊長は決断した。
『説明は不要だ。ターゲットアイコンを全機に送れ』

無音で残りの機体が追随する。
フォーメーションを組み、突入。
視界に蛍光色で敵の位置が四角く囲われ、視線が誘導されると共に機械で制御された正確無比の銃口が獲物を捉える。

そして発砲――しかし、今回銃声には間があった。
隊長も含めて三人とも、先程の一人と同様に、目の前の光景に立ち尽くす。



この寺院は、ヒンドゥー教の主神であるシヴァの妃、カーリーを祀る寺院だった。
四本の腕に三つの目。首から下げた生首のネックレス。
全ての手に刃を携え、長い舌を垂らしながら夫の腹の上で踊る黒き女神。

突入した特殊部隊の標的は、先日に日本で発生した動く死体。その模倣。
彼らが目撃したのは、それが石像によじ登り、頭から生えたドリルを幾度も叩きつけている姿だった。
その死体は、幾条も体を貫く鉄鎖と、山吹色のボロ切れを身にまとい、そして何より毛髪が剃られていた。



インドで誕生した仏教だったが、開祖の死後、弾圧を受けて衰退していく。
今でも国民のほとんどはヒンドゥー教徒だ。

しかし1956年。
インド憲法の起草者の一人でもあるアンベードカルが、自らと同じ不可触民50万人と共に仏教徒に改宗。インド仏教復興の運動が起こった。
この運動は死後も受け継がれ、その中には日本人僧侶もいる。

事件の背景が洗われる中、一編の動画が投稿される。
溢れかえる目撃動画と一線を画すのは、それが明確なメッセージを伝えるために編集されたこと。

極急進派の手によるそれは、一人の僧侶が宣言と共に外法を行い、脱走するまでの一部始終が記録されていた。



霊魂は実在する。
魂は六道を輪廻する。
異星の呪文を用いた火炉は霊魂を焼き尽くす。

つまり、ネビニラルによる自殺は、解脱である。





第十三話『Plug and Pray』





2月、東京。

今回の行事で、雑用に志願した琢磨が人を捌く手伝いをしていると、佳辰に会った。

「淀海さんに呼ばれたんだけど」
「ちょっと待て確認する……よし通れ」
端末で裏をとり、道を開ける。

外から見て近代的なCDFのビルは、中も相応に機能的で華美である。
体格のいい琢磨が着馴れないスーツを身につけて立っているロビーはタイルが幾何学模様をなし、入口から奥の受付まで伸びる広いスペースには、臨時の窓口と集まった人々でごった返していた。

待っている間、佳辰は警備の外骨格を眺めていた。
外骨格自体はありふれた半装甲だが、遠く壁に居並ぶ全てが透明な盾を装備していることが機動隊のような印象を与えていた。
盾は胸まで覆う大きさの湾曲した長方形と、それの半分の長さの腕を覆う二種類があり、それぞれ前面にコの字型の銀板が埋め込まれている。

「随分物々しいな」
「あんなのただの非致死武器だ。面で制圧するスタンシールドだから」





埃一つない新素材製の廊下を渡り、佳辰が研究室に入ると、紬は不機嫌そうに階下店のケーキを貪り食っていた。
「いらっしゃい。ご要望の装置が届いたよ」
机の上の小さな段ボールを指さす。

「外骨格に希望の改造を加えるまでは時間がかかるから、とりあえずそれで普段の生活をしておいて」
箱を開けると、ベルトとSDカードサイズの極薄のチップがあった。それとヘアピン。
「腰に巻いたベルトと脳波測定のピン。本格的な機器には及ばないが、基本的なクセくらいは録れる」

佳辰の特殊技能再現実験の際、本人がどうしても直接肌で相手を感じたいと主張したため、皮膚露出かつ十分な防御力を出すために、外骨格の改修が行われていた。

「どうせフレームオンリーなら『アカシャ』買えたらよかったんだけどねー。柏さん『リンガフランカ』も『クレオール』も嫌だって言うんだもん」
紬がぼやくのは外骨格の名前だ。

最低限カメラでなく肉眼で。
そうごねた彼女に提示された数機のうち、佳辰はほとんど骨組みだけの機体を選んでいた。

「家にある機体の直系機だったものですので」
「まあ余剰部分でかいから改造は楽しいよ。確かに。
いっそ脳に探査ナノマシン注入したほうが精度も運動性も高いんだけど。サンプルはなるべくプレーンなままで欲しいし」

話しながら菓子を食う。とにかく食う。

「しかし……思ったより協力的で助かる」
「受けた恩は早めに返してしまいたいだけです」
そう言って佳辰は左の二の腕を撫でる。

「君はそうでも、ご家族の方から反対されると思ってたのでね。娘を実験材料にしたがる親は居まい」
「私も家系も別に見鬼ではありませんよ」
「その年で十分上手いと思うが……」

「?」
食い違いを感じて、佳辰はふと頭を巡らせた。
そして気付く。

「ケンキとは、剣の鬼ではありません。鬼を見ると書いてけんきと読みます」




「漢語だね」
「レ点が付くからそうなのでしょうね」

「よく知ってる」
「祖父が古典を好きなので……古い言葉です。死語です」

「君のおじいさんのような人がセンサーを持っていたら良かったのになあ」
紬が立ち上がった。大きく伸びをする。
「廃れて、死んだ言葉と知識であろうとも、役に立つものは拾い集めてカタチを作らなければならない」

そして、真面目な表情でそう語った後、盛大に崩れた。



「あ~ヤダヤダ面倒臭いやりたくない相手すんの嫌ー!」
机に突っ伏して転がる紬。手足も振り回さんばかりの勢いだ。

「計画したのは淀海さんなのでは?」
「スポンサーの意向だから行うだけ。どうせ役に立たないならならないではっきりさせる必要があるし」
可能性の枝葉を調べていく。普段の研究と同じ。

「伝統宗教は、自己主張したところで自分の首を絞めるだけだと分かってるから比較的静かにしてたけど、インドの事件で声が大きくなるよ。
ただでさえ以前からデーモン呼ばわりだったカトリックが調子づいてるのに、仏教もかよ」
もっとも、一部声高になるのは神道でも同じであり、原因は宗派でなく本人である。

「あれは……どう捉えたらいいのでしょう」
「ヤソマガツの認識ロジックなんて本体にしか分からんよ。まあ多分、外骨格と同じでしょ」

自分と似た存在だから反応した。

「居るのでしょうか?」
回廊ならば、その先に本物が。

「分からない。単に人の念に反応しただけかもしれないしー。
実利的には外骨格より優先順位高ければ囮に使えるってだけだよ。
十年前までの研究中に、十字架かけてる奴が居なくて良かったね」



三輪が、時間を告げに来た。

なおも紬は言葉を継ぐ。
「そもそも私は霊とか何とか想像も出来ないんだよね。提唱したマナもフィクションと気象からの類推で立てただけ」

掌を透かすように持ち上げた。
「私にとっちゃ、人間なんて動物の一種だよ。
これに詰まるは血肉と骨。構成するは分子式。気だの霊だのとか意味分かんない。
君のところはそういう概念で捉えるんだっけ?古武術だから?」

「私のところは戦後に体系化されたやつですよ」
「そうなの?江戸時代からどっかの藩でやってんじゃないの?」
「それは、源流になったうちの一本です」

「へえ。まあいいや。ともあれ人間は動物だ。それも大分無理してる」
進化の歴史において、ヒトは四足歩行から進化し、四足歩行は海棲生物から進化した。
他の動物の視点からすれば、人間は言わば常時犬が前足を上げて後ろ足で立つ姿勢のままでいるようなものだ。

「部位からもう少し俯瞰して、医学で言えば人体は間に合わせの欠陥だらけ。
四足で立っていたのが二足で立ちだしたせいで、背骨が湾曲して腰に負担がかかる。
それまで吊り下げられていた内臓が横倒しになったせいで胃腸は自重に耐えなければならない。
だから腰痛が起きてヘルニアになり、痔が発生する」

骨格として支える箇所が後方だけだから、腹筋が弱いと肋骨から上体が崩れて猫背になる。

四本から半分の足で前後片方の部分だけに体重が集中するようになったくせに、筋肉の配置は以前からの小改造に留まっている。
一説によれば、背中の筋肉を7とすれば腹部の筋肉は3。
故に、CTスキャンの胴体と、水煮缶で確かめやすい魚の輪切りは似ている。横長と縦長。

「それまでうつぶせで寝ていたのが仰向けに寝るようになり、また立った時に気道の配線が以前のままだから、いびきを立てたり睡眠時無呼吸症候群になったりするんだ」

「つまり人体は構造としては不完全も不完全……。
進化という適応はそもそも間に合わせだから当たり前だが、インテリジェントデザインを例に出すまでもなく、人間はそんな自分たちを完全なものだと思ってしまう」



でもそのくせ変なんだよねーと紬は笑った。

「私の専門がロボット工学だとは前にも教えたね。
今盛んなのはヒト強化の外骨格やヒト代替の人型ロボットなんだけど、これらにとって腕の起点は肩なんだよ」
「玩具みたいですね。祖父がよく買ってます」

「胴体、というか腰に当たる基部から旋回する軸に腕アーム付けるタイプは、産業ロボの頃からある。
でも人体とは違う」

解剖学の観点からすれば、腕の起点は胴体に収められている。
腕に関わる筋肉は肩甲骨と鎖骨に付き、前後に腕を上下するに当たっては脇の前鋸筋と背中の広背筋が司る。
肋骨の上に鎖骨と肩甲骨が重なって配置された、更に周囲にそれを動かす筋肉が広がることを考えれば、洗練されたコンパクトなシステムだ。

「そういえば、祖父が使っている機体は背骨から板のように並んでました」
「外骨格でも、完全な鎧型より最低限のフレームで済ませる場合は骨に似るね。そもそも人間は内骨格だから、同構造求める方が間違ってるし……。
でもさ、他のもっと曖昧な問題で差別される人もいるのに、構造自体が異なる機械が「人型」に疑問なく分類されるのっておかしくない?」

社会的差異か、外見的分類か。基準の精度が異なると言えばそれまでである。
人間は人間に一番関心を持っている。だから人間関係に関わる能力や価値が大問題になる。
超自然的な存在すら、自らの似姿に造形される。あるいは、どこかが主張するように、そちらの形が先にあったか。

「そんなに重要視されてる自分の中身に対する認識が、意外とザルなのって面白くない?」

人間が人間に形を問う。お前の姿を描いてみろ。
本来ならば、その答えは自明なはずである。
同じ生き物なら同じ答えを、少なくとも出された答えが奇妙とは感じないはずだ。

「予算と協力があったら戦闘機とかF1カーとか試してみたいんだよね。人間が自分の身体と思うのって人型に限らないじゃん?」

しかし意外と、日常で人の意識は生物としてのヒトの形から逸脱して拡張する。
そうして異形となり、目的に最適化された意識が、時に常識外れの好成績を出す。

例えば、車を運転する人間が、初めての道を高速で移動する時でも、車体の幅をもう一つの肩幅と認識しているように。
銃の名手が、手にした瞬間に我が一部とし、当てる前から銃口の先に標的を撫でているように。
もっと卑近に、テレビゲームに熱中したその日、同化している床の中。



形態、機能、歴史、価値。
雑多なものを含む「人間」。

それらの中で、枠としての肉体。
見て、嗅いで、触って、舐められる。
耳を当てれば音が聞こえる。臭いが鼻をくすぐり、体温が伝わる。

当たり前のように意識しないそれは、確固として在るからこそ目印となる。
何がそれをどう捉えるか。
どのように世界を見ているか。

フィルタ越しの人体。



異星人は、外骨格を使って廃棄する穢れを彼らなりに自分たちに似せて象った。
我々は、瞬間的な技術体系で型に嵌める。

有形と無形。
目に見える型と、目に見えない武道の「型」。



「……なんだいその冷めた視点は」
「ロクに運動経験ない人から高説賜っても……と、言うか、淀海さんがやりたいことって海老で鯛を釣ることですよね?」
「配当金全額を次の賭けにつっこんではいる」

「今回の実験も身体技術も、お会いした時から既にとんでもないもの持ってません?
それ完璧マガヒですよ!?」
思わず声が荒立った。

他は過剰なぐらい安全を配慮しているのに、目の前の相手はこれに関してだけ奇妙に警戒が薄い。
そこだけ思考のポケットに入っているようだ。
佳辰は当時の印象を話す。

すると、紬は一瞬虚ろになった後、首から金鎖を持ち上げて、
「私はこれを見せただけだが?」
と鎖を揺らした。

「キミが想像した以上の本物だと今更分かったが、だからって相変わらず異変がないからなあ。
一霊四魂もレクチャー受けたけど、要するに性格診断でしょ?」

「淀海さん時間押してます。淀海さんが挨拶しないと始まりません」
再三の三輪の懇願に、ついに扉へ向かう紬。
この時佳辰は、紬の頭に先程渡されたのと同じヘアピンが付いてることに気付いた。

「ボディイメージを語るなら、ペンフィールドの「脳の中の小人」も外せない。だが、今まで語ってきたのは、ほとんどが外から静的に眺めるものだ。
では明確な目的を持ち、自らが行動するスポーツや格闘技、武道なんかは人体をどう捉えているのか。
それを訊きたかったし、研究したいんだが、まあ今日話すことでもなかったね」

紅い真珠が付いた首飾りを仕舞って、別の何も付いてない金鎖と取り替える紬。
装身具を収めたケースを手に、三輪が後を追う。



去り際。
「……ああ、『The EYE』か」
紬は、何か佳辰には分からない事情で一人、合点した。









炙り出しで行われる検査は、非常に単純なものである。

集められた人々の前に紬が登場し、スケジュール説明。
説明後、トランプを用いた透視や念写の実験。
適当な品々を並べて「見えるものを書いてください」と基本的なスケッチ。

ほとんどの項目自体は何の意味もない。
初対面とスケッチ時に、それとなく視界の隅に収まっている紬にどう反応するかが要点。
当然、参加者は評価ポイントについて知らず、先入観を排除するために、担当する研究者たちも何も知らないまま各個の検査を行う。

後々にも広く募るために厳正に適切に行われるが、仮に超能力や霊能力を発揮する本物が登場しても、紬に反応しない限り余禄である。
脳磁気刺激装置の使用も検討されたが、機械に頼るレベルなら今は間に合っているとして却下された。

今回議論になったのは難度だ。
初見で気付いた佳辰クラスがありふれているなら、いくら難しくてもいい。
しかしそれ以下が普通だとしたら(仮に居るとしたら)、折角の適性ある者すらハードルの高さゆえに切り捨ててしまう。

淀海紬は人を集める誘蛾灯であり、気付かない人を排除するフィルターでもある。
だがその精度は、どの程度に求めるべきか。

結局、テストとしてありきたりな方法に決着した。つまり難易度の二極化だ。
あからさまに注意を向けるべき対象として、スケッチ時にケースに収めた紅真珠を提示。
その時同じ方向に紬も待機。

いくつも並べられた品々のうち、該当品に反応したら候補。
紬にも触れていたら及第。
挨拶の時に即反応したら高待遇。



特に滞りも無く検査は終わり、結果は後日報告すると告げられて、集められた人々は帰される。
一握りの伝統ある宗教の関係者だけが、紬に直談判しに向かった。



(よくもまあこれだけ集めたものだ)
階下の店へのルートを尋ねる人に教えながら、琢磨は退出する流れを整理していた。

自称他称、伝統的な宗教の高僧から、草の根で話題になっている何か一芸に秀でている者まで、百を超える人々が全国から集められていた。
海外から自発的に来た人も居る。

万一の発見があればと思って雑用に参加したが、当然の如く実りはなかった。
精々あった収穫は、自分と本職の調査員との情報収集力の圧倒的な違いだけだ。

(なんだよ、居るじゃん)
異能者居なーいとか脱力していたが、出口に流れていく人の群れの中には、スーツの上に着流しを羽織ったイケメンのような、いかにもな人物すら存在する。
真偽は度外視して、これだけ目立つ逸材を見落とした自分が悔しい。

今日の前に何か装置の実験に参加したのだが、多幸感と言うのだろうか、妙な頼もしさや励まされてる感覚だけ味わって終わった。

(真面目に働けってことかな……)
こうも成果がないと不甲斐なさが一周して、素直に自分の役目に専念しようという気にもなる。





それは、虫の知らせ、というものだったのかも知れない。
何かを感じて、琢磨は頭上を振り仰いだ。
(姉さん……?)

視線の先、天井の彼方には検査で使われた部屋がある。
目を凝らしても網膜に映るのは、天井の微細な表面だけだ。
なのに、背骨が氷になったような悪寒が神経を這い上がる。

息が詰まる。
苦いものが口内ににじみ、そのくせ喉はカラカラだ。
胃には大きな差し込みがあり、周りの音が引いていく。

頭を巡らすとエレベーターは動き出したばかりだった。
心臓が、針でも紛れ込んだように痛い。
強迫観念に駆られ、階段へ走り出す。

「あ、おい琢磨!?」
背後で津具村の叫びが起こったが、構わずチェーンを潜り抜けた。



二段飛ばしで駆け上がる。
何の根拠も見つからないまま、胸騒ぎだけが増していく。
大して使われていない灰色の階段を、息継ぎの間も惜しんで体を押し上げる。

問題の階に辿り着いた時、目や耳に先行して全身の毛が逆立った。
分析や理性を司るよりも古い部分が、警鐘を鳴らしている。

水底のようにまとわりつく空気を透かして目をこらす。
捉えたのは、壁に追い詰められた宗教関係者達。誰かが一人倒れている。
うずくまる三輪と佳辰。



そして、フロアの中央に立つ紬。
布地を通して首から下が不規則に隆起し、その度に服が鮮やかな朱に染まっていく。

「……!………っ!!」
何だろう。紬が何か叫んでいる。
確かに耳に届いているはずなのに、その語句は不明瞭だ。

ただ、ただただ怒っているという強烈な意思だけが伝わってきた。



お前ら今更何の用だ。
現代科学と教義の擦り合わせに必死だったくせに何様だよ。
「宗教は生きてる者のためにある」とか訳知り顔で説いてたじゃないか。

「それが素人でも分かる展開になってから伝統経験則って訳知り顔で出てくるなよ!」

「お前らが、あの人たち見たことあるのかよ!」



怒号と共に駆けずり回る医療関係者。
外来に殺到して名前を告げる人々と、確定して椅子に寄り集まり、沈痛な面差しで待つ被害者の家族。

充満する嗚咽と泣き喚く子供の声。
壁に沿って寝かされた患者たち。
大きな刷毛で描いたような、病院の床をのたくる帯みたいに太い血痕。

携帯使用圏は立錐の余地もないほどだ。
近過ぎて誰も彼もの声が混ざり、大多数は文字を送って無言で返信を待っている。

消毒液の臭いと、片手に握り締めた小さな掌。



十年前の悲劇を防ぎたかった。
その発明が、まさにその惨劇を再来した。

伸縮に耐えきれず着衣の繊維が切れた。
露わになった肌は沸騰し、泡の一つ一つが目玉のような同心円の染みを描いて生滅を繰り返す。
頭は無事。首から下がボコボコと沸き立つ様は、地獄の釜に浸かっているようだ。

「神も、教義も、人を救うって言うのなら!二十年前から何をしていた!」
紬が憤りをぶつけるように床を蹴ると、骨が砕ける音と共に床に亀裂が走る。

「数か月前はどうして止めなかった!」

制止に駆けつけた外骨格も、近づくほどに外装が歪む。
スタンシールドは触れた瞬間、スポンジのように爆発した。
触れるとは触れられるということだ。わずらわしいものを払っただけの無造作で、怪力に吹っ飛ばされる。

「目の前に何があるかも気付かない節穴が――!」

激昂と共に力の奔流は肉体の輪郭を超えて拡大する。
接地する足を伝わり、床や壁に至るまで、見えない鑿で穿たれるが如く、眼球模様が刻まれていく。
さながら精神病者の描いた唐草模様。連なるまぶたの縁が、隆動に従って蔓のようにのたくっている。



硬質の音がする。
足元を見れば、全身の目玉から赤い粒が涙のように零れている。

拒絶反応、の語が浮かぶ。
総身が一気に冷えた。

矢も盾もたまらず、紬へと駆け寄った。



空気が重い。粘りついて肌にまとわりつく。
窓も無い屋内なのに、風が吹いている。
一歩距離が縮まるだけで、風圧が段違いになる。

通り抜ける何かに自分が作り変えられていく――そんな戦慄。
進むために足を持ち上げるだけで、転倒すると錯覚する。
実際、足元では内装が踊りかなり危うい。

琢磨は鈍痛を感じている。
腐ったような磯の香りが鼻から入り、更に頭が揺らされる。
それでも歯を食いしばり、転びそうなまま前へと進む。

肉体の酷使と反比例して、激情は跳ね上がっていた。

もう言葉の意味はほとんど掴めない。
むせかえるような暑苦しさに肌が汗ばむ。
放射する迫力が、目に眩しいほど痛々しい。

広がった唐草模様は環境を改変し、辺りでは壁もまた生き物のように、眼球の沸騰を始めていた。

叫ぶ紬の姿は猫背を超えて極端な前傾姿勢になり、それで叫ぶ様はまるで尻尾が千切れた恐竜だ。
その膝も自重を支えかねて崩れ落ちる。

それでも紬は咆哮し続ける。
流れる涙は悲嘆なのか、それとも単に痛いのか。
大き過ぎる感情の渦中にあって、付近の者たちは区別の暇なく浴びるのみ。



倒れ込むようにして紬を抱きしめた。
途端、自分の内側が何百も炸裂し、考えていた制止の言葉が空に溶ける。

胸に触れた体が灼けつくように熱い。
伝う心音はこちらの臓腑を揺さぶる程強烈で、間隔が速過ぎる。
高鳴っていく鼓動は同調し、それと共鳴して何かとんでもない領域に迫っていく。

叫んだのは、生じたままの本心。
「分かってる!こいつら役立たずだってのはずっと前から分かってる!だから姉さんも俺と一緒にアイツ殴ろう!」



圧力がわずかに緩んだ。
続いて、糸が切れたように急激に下がる。
鼻腔に鉄の臭いが広がった。

「君は本当に手のかかる……」
彼女は涙を流したまま、困ったような顔で薄く笑った。

掌が琢磨の頬を撫でる。
初めて抱いた義姉の体は、小さくて嘘みたいに軽かった。
べったりと血の跡を残して手を落とし、目を閉じる。

「姉さん……?」
板みたいに薄い体はボロボロで、ぬめぬめと赤黒くてそこらじゅうに穴があき、破れ果てた下着だけが辛うじてこびりついている。
腕から伝わる体温が、ありえないほど低い。



「落ち着け、まだ息はある!」
全てが崩れ落ちる寸前で、背後から津具村が肩を掴んだ。





『出血多量と栄養失調だって』
搬送された病院で、担当した医師はそう診断した。

「脂肪どころか筋肉まで枯れています。
相当の飢餓を経験しないとなりませんが、遭難でもしたんですか?」

意識の戻らないまま、紬はICUに置かれた。
命に別条はないが、絶対安静だという。



『もっと早く気付いていれば……』
「言うな。どうしようもない」
『……』
「一応、あいつにも自分も責めるなって言っておいてくれ。お前らは悪くねえ」
『……琢磨もね……』



今、琢磨の眼下には、夕暮れの街が広がっている。
CDFビルの屋上。
黒さを増す空を背に負って、琢磨を含めた十数機の外骨格が立っていた。



あの後、医務室へ運んで応急処置を済ませた後、ある程度回復した三輪が佳辰を伴って搬送。
佳辰は意識こそ取り戻したものの、かなり不調が残っているらしかった。

心情的な繋がりこそあれ、恋人でも法的な続柄でもない琢磨は居残りとなった。
ビル側で急を要する作業があったからでもある。



地上数十階からの眺めは、地上に溢れる群衆の規模を把握するのに役立った。
外骨格のカメラがズームすると、集まった人々が携帯で写真を撮るのがよく見える。

『09、やれそうか?』
「OKです。フィードバックも順調に作動中」

これからやるのは、ビル外壁の上覆。
先程現れた現象を、外部の視線から遮断することが目的だ。

あまりにも広範囲かつ緊急なため人手が足りず、本職以外に外骨格を動かせるならと琢磨まで駆り出された。
今着ているのも倉庫から引っ張り出した備品だ。

機体からワイヤーを射出して頑丈な箇所に固定。
周辺機とお互いに確認。
屋上の縁には、これまた掻き集められたブルーシートの束があった。

聴覚センサーが、暴風音を捉えた。
見上げると、高所の気流にも負けないほどの風を吹き荒ばせて、ヘリが接近する。
おそらく、CDF長が乗っている。盛口もまた、こちらに急行していることだろう。

リーダーの合図と共に降下。
基本的な動作はマニュアル化されて既に機体の中に入っていて、後は現場に合わせて微調整すればいい。



紬の「事故」がもたらした余波は、彼女が居た階に留まらず、上下数階に及んでいた。
広がるほどに大型化するらしいそれは、降下してきた琢磨の前で縦に開き、身長を超えたサイズで見つめている。

一つ一つは水ぶくれのように焼け爛れ、眼球は焦げた飴色をして膨らんでいる。
それが精神的な不快感を催す執拗さで、ビルの四方、数割に蔓延っているのだ。
評判を気にするのは当然だが、見ているだけで心の奥底から腐臭が泡立つようなそれは、景観の面から言っても遮蔽するのは必要と言えた



(後からならどうとでも言える……。が、何だコレ)

矢継ぎ早に進んでいくからつい受け入れてしまったが、規模も毛色もこれまでのものと大分異なる。
センサーに優れる三輪と佳辰の二人があてられて参っていたから、おそらくはこれもそういうものなのだろう。
だが琢磨個人で分析するなら、全く別の化物が現れたとした方が妥当だった。

紬によれば、ヤソマガツも11月の事件も三輪の一芸も、念力の変形だということだった。
力は所与として与えられた器の輪郭に沿って働いている。

三輪の連絡によれば、体に何か、研究材料を百個以上埋め込んでいたらしい。
安全に非侵襲にと言いながら、本人だけは得体の知れないものをインプラントして今日の実験に臨んだのだ。

(それがどう作用すればこんな風になる?)

縦横に広がる凍てついた沸騰。

それは、今までヤソマガツに関してはともかくも機能していた境界線。
要するに、当たらない限り安全である。
その制限を、優に逸した爆発だった。



彼方の山脈に、太陽が沈む。
闇の接近は緩やかから急激に加速する。
シートを接着テープで固定し終えて戻る時、人間を瞬く間に追い越して壁面を駆け上がった。

天を染める透き通ったその色は、たちまち地上の灯りによって濁る。
夜と呼ばれる地球の影が、大地そのものを呑み込んだ。






数日後。静岡。
三輪と共に、琢磨は紬の研究室で段ボールの梱包を解いていた。

あの後、琢磨は監視のためトンボ帰り。
高所数階分が浸食されたビルもまた、強度の懸念もあって立ち入り禁止。

影響圏内にあった研究室から持ち出された資料一式。
深夜、とにかく体を動かしていたい琢磨は、三輪に頼んで整理を手伝わせてもらっていた。

摘出された紅真珠は、安全のためここへ移送された後、別室でネビニラルを設置。
恒常的な枯渇状態に置かれていた。

経緯が明らかになると共に、より一層風当たりが強くなり、外国からの関心が増した。
「超能力」によって変成した物質。サンプルを求め、各種研究機関から化学分析の申し込みが殺到する。



招待が間に合わなかったという、未開封の封筒。
その中の一つに注意をひかれて、手に取った。
(この住所って……暮佐が働いてる所じゃなかったっけ)

消印は一週間前。同じような封筒がいくつも重なっている。
(意外とザルだな)
もっとも、あの後の採点では、めぼしい成果はなかったと聞く。



「これ、開けていいか?」
「いいよ」

封を開けると、二枚の紙。
抜き取る際に一枚が床に落ちた。
もう一枚は短い一文が書かれた書面。



『近いうちに伺います』



ただそれだけ。

他には署名があるきりだが、暴れ出す狂奔を無理矢理文字の形に流し入れたように、下半分の余白を丸々使って殴り書きされている。
一画一画が紙の端を突き抜けているのが、筆遣いでよく分かった。

(舞、鳥、……なに英だ?)
元々勉強は苦手だが、文字自体が部分部分で比率がおかしい。

近寄ってきた三輪が、覗き込む。
「翠?」
「なんか違くね?」

悩んでいる間に、三輪は落ちたもう一枚も拾って開いた。



「駄目だ。『卒』まではともかく、その上が読めない」
音を上げた琢磨は、横で三輪が硬直しているのに気づいた。
覗く。



同封されていたのは、一枚のデジタル記事のプリント。
8月当初、数回だけメディアに露出した紬の数少ない写真。
それに上書きがされていた。

筆記具は不明。
まるで紙自体が内側から焦げた如く、跡はわずかに滲んで黒々と浮かび上がっている。

ちょうど、炙り出しのように。



写真には、紬の姿を覆うように、びっしりと目玉模様が描かれていた。






[27535] 第十四話(一)
Name: 三二一◆02c59522 ID:068f191e
Date: 2014/02/21 22:09
第十四話『瀬織津比売大海原に持出でなむ』





2036年2月下旬。伊豆半島の一角。時は午前の10時前。

人工筋肉発電所は緑に没していた。
琢磨の横に立つ佳辰も、同じく目の前の光景に呆けている。



降りた駅の改札で何故か出会った。

「どうしてこんな所にいる」
「こっちの台詞だ」

「仕事の用事で来たんだよ」
「友人がこちらに居るんだよ」

顔を背けるように吐き捨てると奴も右に倣う。
早くも桜のほころぶ道の下。辿り着くまで、悪態をつき合いつつ道行を共にした。

「仕事の用って、アンタ警備員だろ?」
「答える必要はない」

「ふーん。何でもいいけど、他所様に出しても大丈夫な教育受けてんの?」
「……それは俺もそう思う」



二週間前、手紙を発見した琢磨はただちに上に報告。
そして二日前、その後音沙汰を尋ねたところ、停滞中。
人手が足りないなら自分に行かせろと自己主張した。

通った。

琢磨としても半ば感情的に急かしたに過ぎない。
佳辰が疑問視したように渉外とは対外的な顔であり、実務能力以外にも信頼や礼儀などが必要とされる。
評判を良くするも悪化させるも渉外次第。

そもそも琢磨は十日間前後というものが、こういった案件ではどの程度の意味なのかすら不案内。
的外れなら、そんなに早く決まるわけないだろ世間知らずと内々で怒られるだけだから聞いたまでだ。
そのはずが、じゃあお前がやれと投げられた。ついでにシフトまで調整された。

(なんだ?このやる気のなさ……)
と言うより、肌で感じた印象では警戒している。
それも何か、対人的なものでなく、もっと得体の知れないものへの危機感。ヤソマガツへと向けるそれ。



出発前、現在入手している資料を熟読した。

手紙の送り主の名は舞鳥萃英。

女性。
人工筋肉発電所の設立主である所長の一人娘。
母は既に他界。現在は父と二人暮らし。

現在28歳。
高校一年時から不登校になり、その後は周辺調査の限りでは、姿を目撃したものはいない。

発電所自体の設立は十五年前。
暴走前の技術改革に湧いた時期、それまで理論上に過ぎない物を実用化しようという機運があった。



人工筋肉による発電理論。

生体の骨格筋は、その最小単位においてアクチンフィラメントとミオシンフィラメントという二つの繊維状タンパク質が滑ることにより、力学エネルギーを発生させる。
この構造は直線的な運動を起こすという点でリニアモーターと同じであり、ATPを利用した時の効率は60%以上。これはガソリンエンジンの二倍。
ただし筋肉中では各運動が打ち消し合っているので、正しく同期させれば90%以上が見込める。

エネルギー源となるATPの分解は、栄養素を燃やすエネルギーで行われているが、ATP分解のプロセス自体では、二酸化炭素は発生しない。

筋肉のリニアモーターが力を発生するメカニズムを解明する。
ATPの分解で有害物質(CO2)が発生しないサイクルを作り出し、クリーンエネルギーを手に入れる。
そうした議論が旧世紀になされた。

一方、現在の主流は「筋肉の機能を」「人工的に達成した」という意味で人工筋肉であり、複数する存在するどれもが原理は生体のそれとは異なる。
理想とする発電を行うには、「天然の筋肉構造を」「人為的に再現した」人工筋肉を開発する必要がある。

そのために設立された研究施設の一つが此処なのだという。





そこは今、昼間でもなお暗い木立の中に埋もれている。
冬なのに広葉樹が青々と茂り、幹と枝を苔が覆う。
羊歯やランが育つ根は、地のアスファルトを割って隆起している。

どうやら佳辰の目的地も此処らしい。

一歩踏み出す前に、折角だから聞いてみた。
「ここ、どう思う?」
「どうって……――用事ってそういうこと?」

失態にかかわらず依然センサー扱いをされて不機嫌な佳辰だったが、意味することに気付いて俄かに警戒する。
「いや、外観から奇妙に思っただけだ」
咄嗟にとりつくろうも、佳辰は既に集中していた。

目を細めて眉間には皺が寄り、四肢は力を抜いて緩く猫背になる。
偶に肘から下だけが持ち上がって空を撫でる。
挙動不審なその姿は見る、聞くというより、「自分に圧し掛かってるのは何か」を触感で判別しているようである。

十数秒後姿勢を正し、ビッと指を銃の形に突き出して断言。

「以前上から覗いていた人と同じ!」
「すまない。それもう知ってる」
だから来たのである。



来訪を告げると、こちらより先に尋ね人が来てどこかへ消えた。
佳辰と同年代と思しき、花のような雰囲気をまとった少女だった。

「ここは全体的に意味分からん」
別れる前に、それだけ言って歩いていった。



少し遅れて怜次がやってきた。
進んだ先も、薄暗く覆われている。
クヌギ、白樺、植生として正しいかも分からない木々が異様な密度で群立している。

かすかに潮騒が聞こえる。

敷地の中心となる建物は、横に幅の広い二階建て。それでも一階自体が背が高く、並の二階建てよりは大きい。
外壁は屋根まで蔦が飲み尽くし、一面にバイキンのようなヒビを走らせて食い込んでいる。

老朽化した家屋がある種の人間らしさを纏うのは普通のことだ。
だがここは、いっそ動物的で静かに禍々しい。



歩き続けると海に出た。
遠く聞こえた潮騒の正体はこれだったらしい。
建物の裏側は海に直結していたが、生い茂った樹木が音を吸収し、視覚からも切り離していた。

「まさかこんなことになるとはな」
怜次が口を開いた。
「こちらの事情は知ってるな?」



琢磨、三輪の報告を受け、まず電話での交渉を試みたCDFはそこで予想外の反応を返されることになる。
家族から拒否されたのである。
どうやらこちらへの接触は、当事者以外には寝耳に水だった。

一度目の発電所職員に繋がった電話では、該当する存在すら否定された。
本人の父親である所長まで回って、ようやく実在の確認と交渉拒否まで進む。

その後も周辺調査と並行して交渉を続けたCDFだったが、突然ぱたりと交渉が止まった。
琢磨が渡された資料では、先述の情報の他は、周囲からの評判、それと敷地外観の写真があるきりだ。
印象だけは掴んでいたが、それでも実物を前にすると圧倒された。



「大体は引き継いだ。しかしご家族の方が許可しない理由までは聞いてない。成人の意思だろ?」
「舞鳥さんは……なんというかデリケートなんだ。だから今の外へは連れ出せない」

婉曲な説明だが、言わんとすることを解釈する。

十年以上外に出てない、いわゆるひきこもり。
本人に意思があっても周囲としては過保護にならざるを得ないというところか。
署名を見た感じでは、その語に当てはめるには違和感もあったが。

加えて、先の事故の際、琢磨や他の人々が比較的無事だったのに対し、佳辰も三輪も潰れている。
なまじ感度が優れている分、鈍い者でも分かる強烈な刺激を浴びるとアンテナが焼け焦げてしまうのだろう。

(つまり能力がある程、化物と直接戦うのは無理ってことだが……)
現在、地球上にはヤソマガツに封じられていた中身が遍在している。
特に著しく過敏な者にとって、その只中をのこのこ歩くのは不可能なぐらいストレスなのかもしれない。
(でも十年前?もっと前から広がる自体はしてたんだよな?)


しかし、琢磨にも事情がある。
紬が莫大なリスクと引きかえに得たリターン、何より自分の都合のため、はいそうですかとそのまま枯れさせてしまうわけにはいかない。

「じゃあ誰が投函したんだ?」
「事情を知らない人間が客として滞在してるんだよ……こちらへ向かったようだが、会わなかったか?」





別当寺伊織は花のような少女である。
可憐で、華やかで、静かに清々しい。そうした雰囲気を纏っている。
ある時を境に、「身近にいただけの他人」から殺意を向けられて萎れていた。

それが今は、旧来とは言わないまでもかなり回復した輝きを取り戻している。

非難を受けた三ヶ月前より以降、佳辰は伊織に気を遣って過ごしてきた。
とは言え、以前よりは意見の提出に慎重になる、連絡があった時はなるべく即時対応するなどの基本的なも。

その伊織が失踪した。
本命の受験が済むと保護者に何も残さず居なくなったという。
連絡を受けて、初めて佳辰はそれまで彼女が佳辰宅への宿泊と嘘をついて外泊を繰り返していたことを知る。

そして先日、本人から自宅へ連絡があった。とにもかくにも無事だと言う。
伝え聞いた佳辰は電話。再三不在であった携帯と連絡がつく。
場所を聞いた佳辰は伊織両親を説き伏せ、行き先を記した上で自分だけ向かうことにした。

「ごめんなさい」
開口一番、伊織は謝って頭を下げた。

勝手に居なくなって心配をかけたこと。
佳辰の名を利用して隠し続けたこと。
そして、昨年心ない人格攻撃をしたことについて謝られた。

(いやそんな下手に出られても)

前二つは無事であったしまあよろしい。
三つ目はそもそも思ったことを自由に口に出しただけだろう。
友人なら全肯定という法はない。

「それより、ここ」
「綺麗でしょう?」

佳辰が連れられたのは、これまた季節外れのツツジが咲き誇る場所だった。
背後には建物の壁が高くそびえ、反対の木立の隙間からは鈍く沈んだ海が見えている。
足元の黒土からは、大きな石が露出している。

「綺麗って……」



   額■■■■■■角■突■■■、穴か■■■■■■軟組織■■■■■■■死■■■■、■■■■見ている■■■。




足元から腰の高さにかけて、ピンク色の柔らかい塊が、見渡す限り撒き散らされている。



   ■■■■用■■■■くわえ、■■■■■■■■、■■■■回転■■■■る螺旋■■刃■■■■色■吐き出して■る。



「平気なの?」
「なんのこと?」



壁の側には、他にも多種多様な花が咲いていた。
藤、百合、ハイビスカス。菊、薔薇、紫陽花。他にも他にも。
とにかく毒々しいほど鮮やかに、色とりどりに咲き乱れている。

「それでね、かしかし。もう少しここにいたいの」
「卒業式はどうするの」

「出来るの?」
「なんとか生徒集めるって」
「そっか……それじゃあその日は戻るね」

「そんなに長くここで何してる?」
「ネットで会った友達が居てね、話し相手になったり、外に出られない事情があるから代わりに用事を果たしたり」

「男?」
「女の人だよ。とても優しい。ねえかしかし」

伊織が強い表情で言った。
「本当に苦しい時、私は萃英さんに助けてもらったの。
だから今度は私が力になりたい。今度こそきちんと見てる!」

思い詰めたまっすぐな眼差しに、抵抗する気力は佳辰にはなかった。
「……分かった。やるだけやる。伊織からも親御さんに連絡入れなよ」

「うん」
素直に頷く伊織。



(私は前のほうが話せたかな……)
明るさとひたむきさを取り戻した友人。
抜き取られた毒気が、背後の極彩に変じているように映った。





「なあ、ヤソマガツを作った異星人の社会ってどんなものだと思う?」
全身で海風をくらいつつ琢磨は、質問を上手く切り出せないまま怜次の雑談に相槌を打っていた。

「さあ……なんか発達した科学を持ってて、網目状の都市を立体的に移動してるんじゃないか。鳥類みたいな恐竜人類だろ」
「それは子供の頃見た予想図だろ。そうじゃなくて、ヤソマガツを作った後の生活を考えてみろよ」

「と、言うと?」
「あれを贖物、と舞鳥さんは呼んでいた」
「アガモノ?」

「穢れや災厄を移した道具とか、代償に差し出す財物とか。要するに身代わりだ。
贖物でも流し雛でも、奴は病や負の感情といった災いをまとめて捨てたものだ。それが無くなった社会はどんなものだ?」
「つまり、穢れを捨てた社会とはどういうものか?」

(そうだなあ……)
そもそも穢れとは何なのだろう。
異星人と我々とで価値観が共通するだろうか。

少なくとも、捨てられた実物は散々体験している。
意味不明に理不尽で過激、そんな超自然的な力は捨てられる第一候補だろう。
それが排除されると自然災害や個人の不幸も、大部分減るかもしれない。

「現在以上に進んだ科学技術があれば、自然災害なんて大部分対処可能だ。怖いのは構成員の心」
だから、流し雛を作った社会では犯罪を引き起こすような過度な感情が失われると怜次は説いた。

穢れを捨てた社会には、負の感情も存在しない。
天災や事故、病や不幸が起きないだけならまだ想像は簡単だ。単純な順風満帆を思い描けばいい。
では、構成員の誰も彼もネガティブな想いを抱かない社会とはどのようなものだろう?

「身を焦がすような権力志向も痴情のもつれも無ければ、能力格差による差別や劣等感も存在しない。
判断ミスで失敗しても、根気よく理知的なアドバイスでフォローする」
誰もが自分の分を弁えて尊重し合う。





(その中で、俺はどう生きているのだろう)

その中で自分は……警備員をやっているだろう。
戦争に備える必要がなくなって除隊になった兵士。
朝起きて職場に向かい、日がな一日立っている。

犯罪が起きないんだから警備も要らないか?
いや、困っている客の手助けをする者は要るだろう。



勤めているのは近所のスーパーで、ここには色んな人が来る。

昼過ぎには学校帰りの生徒たち。
要領で劣る少年も孤立せず、話が合う少女たちと笑い合う。

兵器が廃された中で伝統芸能として残された武道。
槍を抱えながらはしゃぐ女学生たちを、何の感慨もなく素通りする。
暴力に触れていながら地位が確保されていることに、不平等も感じずに。



夕暮れが近付くと、会社勤めを終えた社会人達が来店する。
入隊試験の時知り合った、今は安定した職に就いた男が妻に頼まれた買い物に訪れる。
互いに挨拶をし、軽く談笑をして別れる。

ドロップアウトした方が高収入で、受かった方が労働強度強くても、蔑みも妬みも無い。
俺は立ち直って身の振り方を改めた彼を尊敬し、彼は今まで盾となってくれた俺に感謝する。
そんな徳の行き渡った社会。



深夜、勤めを終えると夜食を差し入れに向かう。
研究所では、研究者たちがうんうん唸って過去の事件や文学を調べている。

この日のテーマは、劣等感から道行く人々を切りつけて回った青年。

「そんなことをしても社会的地位が上がるわけでもない。
事前に脅迫して何がしかの取引を持ちかけたわけでもない。
ただ無差別に強制力を撒き散らしたのが分からない」

「彼を突き動かしていたのはどんな力だったのだろう?
あるはずの未来を棒に振り、見えていたはずの末路に転がり落ちる力」

「もしかして、彼には違うものが見えていたのかな?我々にはもう見えなくなったものが」

穢れそのものが一掃されたのだから、有害書物も禁書もない。
受け取る側が変わったのだから、かつて伝えようとしたものも伝わらない。どこか上滑りして逃げていく。

この徒労にも似た過去へ向かう好奇心こそ、最後に生き残った非合理かも知れない。



家に帰れば眠り、たまの休日にはかつてと同僚と娯楽を共にして日を過ごす。
元々無いのだから子供達も健康優良で不良にならず、自然現象は技術で制御。

富豪は家を開いて貧民を迎え入れ、雇用を創出する。
貧者は暮らしの格差に妬むことなく感謝して、スラムは清潔に整備される。
子どもたちは教育を受け、兄弟は失敗を許し合って力を合わせる。

もし外敵が来ても相手の穢れを抜いて捨てればいい。
万一穢れがないことで衰退してきたら、その時は宇宙からまた導入しよう。

ここは滅菌された完全温室。
不確定が許容内に計算された、科学の庇護を受ける完結した結晶。
切り拓かれた新世界では、誰もが自分の居場所を見つけて天寿をまっとうする。

そこは確かに、人によっては楽園だろう。



「過度、ってのは誰が判断するんだって話だよ、なあ」
怜次の声がする。

穢れが消えた世界では、自殺も絶えたに違いない。





空は曇り。
銀鼠色の起伏が、見渡す限り水平線の果てまで広がっている。
遮るものが一切ない大パノラマ。

視力の限界まで遠くを見られるのは、普段詰めている山間部とは違った雄大さだ。
眼下を占める海もまた、鈍く光りながら緩やかにうねっている。

「この辺一帯」
言いながら怜次が腕で左右をなぞる。
「海中には人工筋肉が沈んでる」

続けて。
「発電の方法は知ってるか?」
「資料を呼んだよ。ATPを使わない収縮が出来る筋肉を作って運動を電気に変えるんだろ」

「理想はな。だがここのメインは通常タイプの波力発電への実用化だ」
筋肉は電気を元に収縮して力に変える。ならば反対方向もまた然り。
与える力に膨大で野放しになっている自然エネルギーを利用しよう。

そうして波力発電で人工筋肉がとってかわった。
薄いフィルム状に出来るから必要とするエネルギーも小さくてロスが少ないし、水中に沈めて波の力を受け止められるから護岸対策になってテトラポッドも減る。
景観にも良い。

「ああ……だから立地が観光地なのか」
「どうだろう。元々ここに住んでたらしいから」



「なあ怜次」
機を捉えて、まずは一番遠回りそうなもので攻めてみる。

「お前は舞鳥さんとどんな関係なんだ?」
お前はいつから彼女の能力について知っていた?



「素直になれよ」
酷薄に暮佐怜次は笑った。

「お前が知りたいのは舞鳥さんが十年前を防げたか。
隠れていたのにどうして今になって出ようとしてるか。
そしてちんたら話してる俺が、機嫌をとる程この件に決定力を持っているかどうか。だろ?」



琢磨は黙った。
最後からややしている偏向を除けば一々その通りだが、いざ出してみると角が立つ。

こちらの屈託を知ってか知らずか、構わず怜次は語り続ける。
「最後に関しては、懸念の通り力不足だ。偶々拾ってもらったとは言え、ただの顔見知り。
姿が見えなくなる前に一年間、町道場で世話になった程度だよ」

「それ、6歳そこらだろ。よく覚えていたな」

経歴から逆算すると、怜次は自嘲するように首を振った。
「当然、覚えてない。バイト感覚で応募したら近所だから縁があった。それで尋ねてみたらこんなことになっていた」

大きく天を仰いで嘆息する。
「所長の家と発電所は繋がってるが、彼女のことは所員もほとんど知らない。
わざわざ居住区に入ることないし、あちらも大人しくしてるからな」



「十年前を防ぐなんて、元々無理な話だ。声を上げたって誰も取り合ってはくれない」
「どうしてそう言い切れる?」
「そりゃ、どうでもいいからだよ」

顔を覗き込んでくる。
「お前も見てきただろう?」



十年前は言うに及ばず、超自然と認識してもまず頼るのは人間の力。

人を超えた何者かと向き合うのが専門であるはずの宗教家たちは、グッズをこしらえて人々に安心を売り、能力者(?)と共に目の前の爆弾を素通りする。

元凶を手に入れた時注目した、本質からすれば余禄のような技術の断片。
ナノテクノロジーによる人工筋肉と外骨格。最初の惨禍はこれが拡大を防いだ。
それより十年経って後、実用化されたレールガンや、力のとば口に立ったネビニラル。

既存科学の延長上にある装置だけで、無力化に余りある。

危険に対しては、その後の社会復帰のための保険を用意する。
とりあえず手を合わせたり頭を下げるなど、対人行為をして安心する。
人智を超えた化物が、布教という人間に関心を持った行動をしていると思い込む。

「『あいつらは、顔が人間のほうを向いている』……」
ようやく、初対面(あるいは再会)の時の台詞の意味が分かった。



「俺らは集団生活してるおかげで生きてるからな。人間関係が最優先順位なんだよ」
常識的な思考だろ?といった態度で怜次。

「それに比べたら事実関係なんてとてもとても……。
今あるものであらかた説明つくんだから、他は例外や誤謬、作為にした方が面倒がないだろ?」
間違える、企む。これもまた、「もっと気になるものである」人間の働きである。

「それでも、事実は事実だ」
反論し、琢磨は食い下がった。
「ああ。それでも地球は回っているな」
怜次も肯定する。

「今はまだ先入観が強くても、事実は重ねていくことで打ち破れるはずだ。
たとえ現在では解明に程遠くても、おぼろげにでも証拠を後世に残せるのが科学ってものじゃないか?」
理系でも、科学者でもないのに、大切なものを守る気持ちで琢磨は弁護していた。

「そうしたら、遠い未来の被害を防げるんじゃないか?」
あるいはそれもまた、自らの人間関係の所為なのかも知れなかった。



今度は長いこと怜次が沈黙していた。

「萃英さんは、物心ついた頃から不思議なものが見えたらしい」
迷い、口にするか決めかね、歯切れ悪く。

「と言うより、舞鳥という家系自体が元々そういう血筋らしい。親父さんも少しあると言っていた」
自分でも口に乗せるが厭わしい話題が如く。

琢磨の眼光が鋭さを増す。
怜次は手を挙げて制す。

「これを聞いた時、俺も同じ疑問をぶつけたよ……。
そんなに古いなら、もっと昔から表に出ていれば、アレに対する理解ももうちょっとスムーズに行ったのではないかとね」

ヤソマガツが長らく(そして現在も)意味不明であった理由の一つは、科学全盛であったからだ。
そして、現代科学において超自然的な要素が看過されていたのは、理論としても事例としてもロクに存在してなかったからである。

よくて時代遅れの理論か不明瞭な実験ばかりやっている。
往々にして何年周期かで同じ話を蒸し返す、暇潰しか新規層から金をとって終わりのマンネリ産業。

もっとも、超自然だの超能力だのは、既存のカテゴリー外にあることで「超」のラベルを手に入れている。
科学の先端研究で扱われる時がくれば、それは既に別の、科学の文脈における用語に分解されており、売りである未知に対するセンスオブワンダーは実証や技術的なそれへ変わっているだろう。

一例としては、雨乞い。
雨乞いでかがり火を焚くと、上昇気流を作り出し、舞い上がった灰の粒子が上空の水蒸気を凝結させる核になって雨が降りやすい。
同じ原理で、ドライアイスやヨウ化銀をロケットで雨雲の中に打ち上げると局所の晴天降雨を操作できる。等。

同様に、仮に霊魂の実在を科学的な方法で証明したところで、それは宗教や呪術の勝利ではない。
人体という有機物を構成する多量元素が6元素であること、感情も脳内物質や電気信号で成り立っていることとと同じく、科学の側で一元化されるだけである。



それでも、そこまで行かなくても。
何か今の技術では観測しきれない、数字にも明文化も出来ない「何か」――その曖昧模糊とした感覚だけにでも、市民権を得させることぐらいは出来たかもしれない。

本物が居さえすれば。



「それで?どうだった、答えは」
それこそが、一人娘が研究へ関わることを阻む本当の理由だろう。
「昔話をされたよ」



「千里眼事件を知っているか?」





日本における科学勃興期に、今現在でも検証が困難な分野に科学者が挑んだ。

当時はまだ迷信を駆逐する啓蒙の最中で、研究者間でも現象の解釈のみならず、研究自体の是非すら意見が分かれた。
最終的には能力の真偽は不明なまま、被験者の二名が死亡したことで幕は降りる。

背景に有ったのは、研究者間の意見の対立及び、国家としても教育システムのために、教える科学(物理法則)が絶対的な権威を持たなければならない、という態度。
それを受けて報道は偏向し、煽動されていた大衆の興奮は雪崩を打って被験者を攻撃した。



時は1910年(明治43年)から翌1911年。
日露戦争の5年後であり、大正元年が二年後の1912年。

列強とまだ力関係で絶対的な格差があり、それが故相手の技術のみならず価値観も吸収して、認められようとしていた時代。
近代科学は成立してから時が浅く、まだ多くの説明しきれないものに囲まれていて、同時に日進月歩を信じて果断に未知に切り込んでいった時代。

X線の発見が1895年。
ラジウムの発見が1986年。
そしてアインシュタインによる特殊相対性理論の発表が1905年。

日本のみならずお手本としていた西洋で、かつてなく科学が扱える領域と、それ以外が接近した時があった。

それが心霊主義とも訳されるスピリチュリズムも、その後二、三十年遅れで輸入された「こっくりさん」やウィジャボード、催眠術だった。



その中で研究者である福来友吉は、御船千鶴子に出会う。
催眠術によって、彼女は透視に目覚めたという。
当時催眠術は教育ある人には遊びとして、また人間に眠っている力を目覚めさせる術として巷間に広がっていた。

明43、西暦1910年4月には実験結果が新聞に連載され、千鶴子の名は一躍世間に広まった。
同年9月には諸学者立ち合いの下で透視実験を行い、医学者を中心とする実験にも応じた。

学者が関わることで透視=千里眼の報道は一大センセーションを巻き起こす。
これらの実験は心霊学や催眠術に対するものの他、物理学、心理学などの学問分野からも学者の注目を集めた。



一方で、研究の必要性を認めながらも、「千里眼の実験」が今までの科学的解釈に疑念を抱かせ、人々を逆行させる危惧を抱く者もあった。

千鶴子の実験結果は、既存の理論を裏切るものである。
これにより、例外からただちに飛躍して原則を疑うこと、つまり通常の精神現象に対する医学、心理学の解釈を疑いはじめ、学派としての心霊学派が勢力を拡大するのではないか。
そして、透視が実用的な道具として、近代治療でなく透視で治そうとする人々も出てくるのではないか。



これが第一の事件。
千里眼事件。
この時はまだマスコミの報道はおおむね好意的であり、西欧心理学との関連を強調していた。



次に続くは丸亀事件。

御船千鶴子の「千里眼」は、催眠術によって開花した。
御船千鶴子の実験結果と共に、開花の経緯も広く報道されていく。

催眠術は技術である。習い覚えれば誰でも出来る。
起こるのは、同じように催眠術を試すことで開花していく能力者達と、より難易度が高く刺激的な実験の報道。
感化されて催眠術を試し、現れる能力者と更なる実験という拡大現象。



そして四国は丸亀に、新たな千里眼能力者、長尾郁子が現れる。
彼女の名前が中央の新聞に登場するのは、1910年10月23日。

新聞が介在することで、透視そのものは実験室から飛び出て社会性を帯びる。
例えば船の遭難の探索。二人の下には全国から透視の依頼が殺到したという。

過熱する報道は、一部の研究者の心胆を寒からしめた。



長尾郁子は、「透視」の他に「念写」も行った。

1911、明44年1月8日、丸亀で念写の実験が行われる。
この実験に先だって、それまで肯定一方だった新聞の文面に、「正誤を世に問う」という名目で否定性が表れる。
この記事で新聞社によって送り込まれた一人の研究者。

彼が助手として関わった実験。
それは写真の乾板に「健」の字を「念写感光」させるものだった。

しかし、郁子は乾板は入っているはずのボール紙に入っていないと指摘し、実験は中止。
事実、乾板はなかった。

13日には、この助手が乾板を入れ忘れたと謝罪したこと、実験が失敗したという虚報への怒りの談話が発表される。
この日には、念写したフィルムが盗まれるという事件も発生し、発見されたフィルムには脅迫文が入っていた。
これによって刑事事件に発展し、実験も中断。

一方で、16日に帰京した件の助手は、郁子の念写は手品であり、ことごとく詐欺であると断言する。
これに対し、長尾家や福来家は反論。

報道、論争が起こるが、報道は徐々に後退する。

長尾家は研究の主導者だった山川健次郎、前東京帝国大学の総長も疑っていた。
何故なら彼は実験の前、
「国定教科書、修身書の編纂に関わり、迷信にまつわる事実を極力排除してきた。したがって千里眼の問題は国民教育上見逃すことは出来ない」
と発言していたからである。

しかし彼はまた、実験中止後の談話では、十分に確かめないうちに大発見と発表することは自然科学者がもっとも慎むべきことであるが、しかし一方で、研究もしないで排斥することもまた、慎まなければならないと述べている。



1月18日には、御船千鶴子が服毒自殺。
2月26日には、長尾郁子がインフルエンザをこじらせて病死。
それまで神仏の如く尊敬されていた郁子は、実験中止後は外を歩くと子供達から「ラジウム」と言われて石を投げつけられたという。

結局、真偽は分からないまま幕引きとなった。
死亡後の新聞には、「能力者が居なくては」の見出しが踊っている。



推移の背景には、国家としての意向や、学者間での立場の対立があったとされている。

山川健次郎は三年後、再び総長として東大に返り咲く。綱紀粛正、制度改革のため。
そして福来友吉は、同年に「透視は事実」と主張する本を出版する。

冒頭には、
「雲霞の如くむらがる反対学者を前に据え置いて、余は次の如く断言する。透視は事実である。念写もまた事実である」
の宣言。

福来は出版後所属の学長に呼ばれて、
「あれはまずかったよ、きみ。本を出す前に相談してもらいたかった」
と言われたそうである。

しかし福来は、本を出してから共同実験を他の学者に申し込んでも断られるのを訝しんでおり、山川博士が実験を申し込んでくれたらどんなにいいだろうとも発言している。

彼に「思想公平、人格高潔な」と評された山川は、福来についてあの男は「信じすぎる」と述べている。

この年、福来は辞表を提出し東大を辞めた。



学問の正統としては、「千里眼は科学にあらず」。

当時、近代科学は規範としての絶対性を確立する過渡期にあった。
「科学的にありえないイコール現象として存在しない」。
この常識が成立する線引きこそが、「科学的手法」である計測可能性、再現可能性、更にそれによる追証可能性である。

技術として訓練出来、教育を受ければ誰でも真偽を検証出来る。
条件を揃えば必ず再現出来るならば、その現象は実用面でも応用出来る。
そして、それらは個人の素質や所属信条の垣根を越えて共有され、世代を越えて知が積み重ねられていく。

その基準からすれば、そもそも実験はずさん過ぎて判断以前。
極端に肯定されることで、一般大衆の物理法則への信頼が消え、ひいては科学を背景にした教育制度が頓挫することも問題なら、否定のあまり実験そのものが中立を外れて事件になるのも問題だ。

だが人が行う人の実験、感情と思惑が絡み合って挫折する。



近代科学、そして国家として権威を確立する上でのグレーゾーンの切り捨て。
科学は科学として自らの内での専門化と住み分けを進めていた。
国家もまた近代化し、国民にイデオロギーを教え込む上で、教育の正当性を主張する最も確かなもの、科学への信頼性を揺らがせるわけにはいかなかった。

いまだ研究者が象牙の塔にこもらず、政治的にも配慮を巡らせていた時代。
文明開化による廃仏毀釈の後、国家神道として祖先崇拝もまた序列化され、一元化されはじめた時代。
人を救うが建前の宗教家たちもまた、非難、迫害を傍観した。



1910年は、後に民俗学の泰斗となる若き日の柳田國男が『遠野物語』を発表した年。

当時、首都圏は既に近代化。
挙国一致で富国強兵を目指し、坂の上の雲に追いつけ追い越せと切り捨ててきたはずの過去の残滓が、岩手県遠野町ではまだ息づいてることが人々の心を捉えた。
では、都市化から隔たった田舎では信仰が生き、人々は畏敬を持って折り合いをつけてきたか。
畏敬があったとしたら、それを成立させていたものは一体何か。






「彼女らの真相は藪の中なれど、透視ブームの時、全ての能力者が表に出たわけじゃない。というより、出たのはほとんど新参だ。
様子をうかがっていた彼ら古参は、事件を教訓としてより一層息を潜め、親しい個人的な知己以外には能力を知られないようにした。
その中の一家が舞鳥家である」

「……と、親父さんから聞いた」
言って、怜次は話を締めくくった。



「……百年以上前の話だろ」

昔、冷戦というものがあって、その頃に超能力がブームになった。
1999年、自分の親が幼い頃、世界が終るかもしれないという期待があった。
日本史の資料集で、めくっていた現代史のページにそんな記述を見かけた記憶がある。

それよりも遥か昔。
2010年で百周年になるぐらい古い、歴史の中の一ページ。

「そう、過ぎた話だ。信心どころか、切り捨てた時点で古過ぎる」

だが、事実として特異な能力を持ったとされた人間は、真偽が明らかになる以前に犠牲になった。
過去に無知や楽観的なままでは同じ轍を踏むことは明らか。
かつての事件は、特定の糸をひいた誰かが悪い。というような陰謀ではないからだ。

「お前のところに何が起こったかはニュースで知ってる……。言ってる意味分かるよな?」



「あーー」
たまらず琢磨はしゃがみこんだ。
目を覆うように額を手で支える。そうしないと頭蓋が限りなく垂れ下がってしまいそうだ。
「分かってるよ」



市街地での事故は、当然ながら多大な耳目とバッシングを呼び込んだ。

結局、何が紬の逆鱗に触れたかは不明。

「人智を弁えろ」と言われたのが発端だという報告もある。
「あなたの苦しみだけでも取り除かせて欲しい」と言われたのが発端だという報告もある。

あるいは単に、犠牲者のケアを充実させるために、もっと連携しての分担を要請されたという報告もある。
分担。得意分野。つまり、生き残った人々の心の安定である。

真相は五里霧中。
ただ一つ言えることは、どれも冷静さと余裕があったら受け流せる程度の代物だったということだ。

紬は日本津々浦々、伝手が届くなら各国までも手を伸ばし、主に養殖場から変異のサンプルとして紅真珠を買い上げていた。
それを極道よろしく、通常の真珠を保管する要領で体に隠す。
診察記録から、外科医が容易に見つかった。医者は扱った物の特性について何も知らず、患者の身元についての漏出も控えていた。

危険ではあるが不思議なものだから試しに体に埋め込んだ。効果がないから増やしてみた。
所詮無意味かと思っていたら本物に指摘された。
だから同じことを意図的に二重盲検法として脳磁気刺激装置でもやって、なるべく関わらないようにして炙り出しでも行った。

……事件後、安全管理や紬の人格について多くの批判がなされている。
曰く、防げた事故だった。
曰く、人の命を顧みない危険なマッドサイエンティスト。

目覚めた後本人が一番こたえていたのは、「どうせやるならもっと厳密に上手くやれ」という主旨の同業者からの言だった。



暴走時は言うに及ばず、そもそもの始まりであるヤソマガツの拾得から、神秘に対する経験則なんて死んでいる。
既に神を殺した現代。そこに流れ着いた祓えの贖物。
遠い未来の果てに、積み上げ損ねた事例の集積は、新たな過ちを生んでいる。



「先例的にリスクが高過ぎる。万一最初が好意的だったとしても、懐疑派が雑な妨害をしただけで袋叩きになる綱渡り。
そんなもの、この高度情報化社会でむざむざやらせると思うか?」



傍らに広がる大海原。
凪いだ海面の下では、ヤソマガツから派生した発電機が今も生活を支える電力を生み出している。

(頭いてえ。面倒くせえ。何でもいいから殴りてえし殴られてえ)
一連の話に、琢磨は不快感と行き詰まりを覚えていた。
そこで、不意に疑問が浮上する。

「その話は、萃英さんも知ってるんだよな?」
「……ああ」

顔を上げる。怜次は渋い顔をしていた。
「だったら、なんで自分からアクション起こすんだ?今までどおりのほうがいいじゃん」
それは聞きたかった事の最後の一つ。

怜次は肩をすくめた。
「知らん。本人に聞け。と言いたいところだが、生憎決める権限は俺にはない」

「そうかー」
詰んだ。容赦なく。これ聞いてからもう一度初対面のオッサンと交渉試みるとか無理。

(姉さんは知ってたのか?)
先の実験以外、少なくとも三輪と佳辰に対してはプライバシーに気を遣っているように見えた。
考えてみれば、拝み倒すつもりだったのにそういった保護体制についてすら思考の埒外。
手前の状況も把握せずに物を頼もうとするとか相手を舐めてんのか。

(とりあえず、それが収穫だな……)
あちらの拒絶背景とこちらの穴が分かった。

「今日は一旦退くわ」
「そうか」



「また俺が来るにせよ、経験を積んだマトモな担当に戻るにせよ、折角築き上げたささやかな暮らしを尊重させるよ」
「ささやかな暮らし、か」

ふっ、と怜次が肩の力を抜いた。暴力の前の予備動作。
最前と違う、私的な怒気がかすかに漂う。
「その言葉が嫌いだ」

「何故なら全然ささやかではないからだ。
ささやかな幸せと言う例でもそうだが、苦労して勝ち取り、維持するには時には他人を押しのけてでも守らなければならないものを、どうしてささやかと呼べる?
それをささやかと呼ぶのは予防線だ。『そちらから奪ってないから、自分からも何も奪うな』」

「……で?」
尻を踵に付けたヤンキー座りのまま、琢磨は真意を測りかねた。
それではまるでこの家族をズタボロにしようと言っているようなものではないか。

「さっき話したのも、全部本当だ。俺は非力で、身内は反対してるし、本人の意図は不明」
列挙し、肩をすくめる。
「一方で、舞鳥さんが動く気になったら誰も止められないんだよ。父親でもだ」

「……つまり、何もしないで待っていたら向うから来てくれる?」
「それも難しい。外に出られる状態じゃないってのも本当なんだ」
「意味分からん。具体的に頼む」



それまで横に立っていた怜次は腰を曲げ、顔を近づけてきた。
口角はわずかに上がり、目には企むような喜悦の光を帯びている。

「手を組まないか」
「は?」

「俺はもう一度ヤソマガツと対峙したい。しかしもうすぐ3月だというのに募集はない。
内部に居るお前から見てどうだ?これ以上人を増やす状況か?」

琢磨は言葉に窮した。

現在、琢磨の所属するヤソ研とCDFはかなり混じり合った状態にある。
ヤソ研としては監視対象を貸与してる状況でこれ以上隊員を増やす意味はない。
CDF側は戦力が欲しければ請負人を雇い入れればよく、その人材も外国から兵役経験者を選別出来る立場にある。

そして、両者共に、危険を伴う監視作業は国家に吸収、解体するよう圧力が日ごとに増している。

「多分、募集はもう無い」
ようやくそれだけを絞り出した。

心情を想像すると痛ましくあったが、本人は想像通りだというように冷静に頷く。
「正直言って、理性的には今も反対だ。しかし実は誰にも止められない」

強い意志の眸が琢磨を射る。
「だったら、乗っかるしかないだろう?」



「具体的にはどうするんだ?」
「まずは高精度のネビニラルが欲しい。外に出すのは無理だが招くのなら出来る。
ここで強力な結界を張れば、外部の人間も彼女と対面することが出来る」

「……詭弁だろ」
「妥協点だ。俺はこの方向で動く。お前は発表時のプライバシー保護とネビニラルの手配で上とかけあえ。
二人で引き合わせるのを成功させよう」

「それは俺の望みだが、お前は?」
「決まってる。実績作ってポイントを稼ぐ」
そして決定打となる組織に潜り込む。

「……踏み台にするってか」
顎を引く。非難するつもりはなかったが、どうしても口調にそれは滲んだ。
目も似たような半眼になっていることだろう。

「確かに恩は感じている。
だがお前なら、安定した生活があるからって今までやってきたことを捨てられるのか。
お前が今駆けずり回ってるのは給料のための使いっ走りかよ」

要するに、二人は同じ動機で生きている。

「そう心配するな。勝算はある。隠れたって言ったけどな、親父さんは昔ここでセミナー開いてたんだよ
「何の?」
「超能力開発。詐欺同然だったらしいが」

琢磨のツラを見て怜次が続けた。
「当事者でない数世代後なのはあの人にとっても同じだからな。母集団が増えれば排斥されることもない、は名目で、楽に金が稼げると考えたらしい。
だから、自分だけ好きに生きてきて、他人をあれこれ抑圧出来る義理もないのさ」

「リスクは承知の上だ。糞にまみれ、泥をすすってでも蓮を咲かせてやる」

誇らしげに、毅然として海を見つめる。
雑に座った姿勢のまま、琢磨は無言でその態を見上げていた。





[27535] 第十四話(二)
Name: 三二一◆02c59522 ID:068f191e
Date: 2014/02/21 23:16
その後、琢磨は上とかけあい、怜次もまた萃英の父を説得させることで対面が決定。

数週間後。高速回転の遠心力にも耐えられる、ナノカーボン製で大出力のネビニラルが伊豆に搬送、設置された。





ネビニラルが萃英宅に設置された当日。日付が変わる深夜。
先崎琢磨はCDF研究所に至る国道に立っていた。

吐く息が白い。街灯すら無い田舎の夜。
一人の心細さに抗うように、琢磨は携帯を握り締める。
頭上には星月夜。太古より緩やかに移り変わってきた光の海は、もう一つの悠久なるモノの影を投げかける。

地上で遠くに見えた蛍火は、軌跡を描いて大きくなり、騒音と共に近づいてくる。
ほどなくして、道路の中央に仁王立ちする琢磨の前で軽トラが止まった。荷台に幌が張ってある。

「外れて欲しかった……」
ライトを浴びながら、忌まわしげに琢磨は呟く。



運転席のドアが開き、男の影が姿を現す。
「轢いても良かったんだが」
暮佐怜次。

「よく分かったな」

「あからさまに怪しくしておいて何を言う。
お前が俺と似た奴だってのは納得した。舞鳥さんが頭抜けた力を持っているってのも分かった」
自虐気味に琢磨は自分の頭を指差す。そこにある脳ミソ。

「それでぱっと浮かんだんだよ。
『俺と同じ攻撃性があるのなら、そんだけ強ければ殴り込みをかけるんじゃないか?』って。
半端ない能力者でも、ネビニラルを使えば隔離帯が形成できるからな!」

つまり、原理的にはヤソマガツの運搬計画と同じである。
ただし、防性封印でなく攻性としての戦力輸送。



声を立てずに怜次は笑った。
かなり受けているらしい。
琢磨も笑いたい。笑えるのなら。

「それで?一人で待ち伏せしてたのか?誰にも話さずに?」
怜次はまだ笑っている。

「んなわけねーだろ。きっちり報告連絡相談したよ。
お前らが出発するところから雇った連中が見張ってる。
俺だって連絡受けてさっき出てきたわ」

怜次はいまだ、余裕の気配を漂わせていた。

「盛口さん達はこうなることなんか織り込み済みだ。
敷地内の警備にだって通達は行ってる。今なら無かったことに出来るからすぐ引き返せ!」

そう叫ぶと、怜次は背を向けた。
車両後部の荷台へと向かう。

「怜次!」
とっさに駆け寄って肩を掴むと、流れるような動作でこちらの肩を外された。
まるで全身が丸ごと痛点に包まれたように感じ、数秒ほど息が止まる。
肥大した痛みの感覚に耐えきれず、思わずうずくまる。

荒い呼吸を続けながら視線だけを上へ這わすと、見覚えのある強化外骨格が荷台から現れた。
それは十年前の記憶に刻まれた機体。幼き日の琢磨と紬を救った、全装甲の嚆矢となる機体。

どこか微妙に形状が違うそれは、腰ほどもある供与されたばかりのネビニラルを片手で投げ捨てると、スピーカーを通して声をかけた。
『萃英さん。もういいよ』



数分にも思える静寂の後、それは降り立つ。
地面に足がついた瞬間、道路を渡る電信柱が根こそぎ上から踏まれたように折れ曲がった。
千切れた電線が、電光を帯びながら射干玉の空に乱れ舞う。その様は、さながら海底で揺れ動く海藻類。



彼女の姿を見た瞬間、息苦しさと共に琢磨は自己の不明を呪った。
身を削って誘蛾灯とした紬の人体実験も、足を棒にしてさすらった琢磨の探索も、盛口達の看過すら、全ては彼女のような存在を引きずり出すために。

だが。

紅真珠とそれを正確に当てたこと。
海に面した立地と異常な敷地内。
超能力開発。

これだけの情報が揃っていて、何故に自分は気付かなかったのか。





時は少しばかり遡る。
研究所内のトレーニングルームで、柏佳辰は自主的に木刀を振っていた。

卒業式を終えた以降、四月に入る前に終わらせてしまおうと、泊まり込みで入り浸る。
紅真珠の研究は凍結。ネビニラル自体の基礎研究も行き詰まり。
残った候補である佳辰もまた、対戦こそ可能になったものの再現は未達成。



数時間前、琢磨と顔を合わせた時、奴は宿泊と木刀の有無を尋ねかけ、途中で考え直すように立ち去った。
荒事、それも佳辰の技能が必要になるような事態と推測し、とりあえず再現をと振っている。
腰と、再び伸びてきた髪には、極小の計測機器がセットされている。

(そもそも私は何をしたんだ?)
行っていた素振りに一息つき、習慣になった自問をする。
記録映像こそ穴のあくほど見返したものの、決定的な気付きは特になかった。

大きく息を吐き、吸い、振る。
当時の行動の再現もしてみる。

押さえて、切られて、振って……。
風鳴りの音と共に、切り上げた切っ先が宙を薙ぐ。
咄嗟に片手で抜き打ちの体裁を取ったことだけは褒めてもいいが、映像を見る限り運剣は無茶苦茶で間合いも遠い。
肉どころか、それこそ霞程度しか斬れはしない。

何より記憶が完全に飛んでいる。
治してもらった以上義理は果たすが、こうして真似してみてもまるでとっかかりがない。
やればやる程、違和感だけが膨らんでいく。

そもそも戦いとは、相手が居るものである。
人形相手には、記録通り遠間でやろうとしたら空振った。
紙一重でやろうとしたら突っ込んでくる相手に激突した。当然不発。

最後は首を絞めに来る人形を鋏で切り裂く羽目になるのだが、安全に配慮された相手と格好で立ち回っても、何とも言えず上滑りしていく。

頭を振って、今日の一人稽古を終了した。



トーニングルームから出る際、外国人に舌打ちされた。
態度の悪さに恐怖と同時反感を抱くも、何か外国語で怒られた。
出るな、とか、気をつけろ、とか、そういう叱り。

(夜遅いから?)
善意ではあったらしい。
事故以来、ここに居る警備員もピリピリして荒立っている。



廊下を食堂へと歩きながら、以前聞いた話を思い出していた。
左手には木刀を携えている。

自分の体を、どのように捉えているか。

話した本人は色々並べた視点に振り回されていたが、人体が奇妙に見えるのは佳辰にとっては今更だ。

不安定であり、そのまま使ったら刀を振るのにも都合が悪い。
他の虫や動植物は合目的に洗練されているのに、人間の身体が効率的に動くには、原始的な道具の方が覚えること多いとは、どういう欠陥構造だ?
何故発想の転換をしなければ最大限に使えない。マンモス絶滅させた投槍器から、どういう進化と技術発展を歩んできた。

それを少しでもマシにするために、丹田を始めとした先人たちが残した智恵がある。
それらのおかげで、体という変な物を、刀で斬るという機能のために集約できる。
刀というフィルタ越しの人体。

臍から指三本分下。
丹田には何か神秘的な効果があると思われがちだが、基本的な機能はそれこそ人体の重心だ。
袴を履くと帯で締め付けられて意識しやすい。

重心がふらついていたら、鋼鉄の棒を遠心力乗せて振り回したり出来ない。
全身の筋肉を増やすより、要所のバランスを効率化したほうが解決策として手っ取り早い。
だから刀にだって鍔がある。

重心を安定させるためには、腹と背中の圧力が釣り合っていれば良い。
しかし以前聞いた話のように、背筋と腹筋では格差がある。
加えて、胴体に走る運動神経は数自体が少なく、更に普段能動的に刺激されないためほとんどが眠っている。
要するに精密さより省エネへ効率化されている。

動かしているうちに段々開いていくが、それでも絶対値は相変わらずだ。
(だから釣り合うだけの圧迫を得たければ、もっと思いっきりやることが必要で……)

酸素の呼吸は横隔膜の運動によって肺に取り込まれる。
横隔膜は収縮し、それと同時に肋骨より下を圧迫する。
圧迫の感覚を腹筋で受け継いで、上下に均すように下へ送る。

下部の限界まで誘導した力は後部から上がった力と衝突し、その合流を更に後ろへと押し流す。
抜け道は仙骨の更に後ろ側。背後に広がる空白に。

尾を生やす。

(まあ実際は足に流して推進力にするんだが……)
不思議ちゃんと見なされるのがオチの身体感覚。こればっかりは口に出来ない。
だが外にある尾を内へと取り込む度、懐かしさに似た甘美な安らぎを覚えるのだ。



「知ってる?超心理学では、超能力をESPとPKに分けるんだよ」
久しぶりに会った友人は、読心能力や千里眼などの第六感をESP、念力や念写をPKと呼んでいた。
(つまり、センサーとエフェクター?)

舞鳥萃英。
伊織のまた友人であるという女性の名を、先日、意外なところで耳にした。
ここ静岡へ宿泊する前。機嫌取りにやった客への給仕。



「また稽古が出来るよう治って良かったですね」
いつもの門下生たちが、酒を飲みながら父と談笑する。
まだまだ道場には立てないが、それでも毎日素振りしていると恥ずかしげに述べる父に、大げさに褒めそやす。

「それが偉い!一度切れたらね、そのまま止めちゃう人って多いんですよ。
……まあ、楽しいことなんて他にもあるし、若い女の子なら尚更だから無理もないんですけどね」
勿体ないですよね。と、一人が常にもなく寂し気に言った。

それを受けてもう一人。
「ああ、俺が伊豆に単身赴任した時に、通った道場にすごい子が居た。確か、萃英だったか」
「詳しく」

酒瓶置いて迫る佳辰に面食らったようだったが、その中年男性はうすらうすら記憶を辿る。
「佳辰ちゃんより若かったかな。16か17?
俺は日曜稽古にしか参加しなかったんだが、何て言うか、一人だけ違ったな。
普段は子供達の相手をしてるんだが、偶につくと、その質にわくわくした」

「華のある?」
「うん。そう言ってもいいかもしれない。
型通りに綺麗に出来るとか、運動神経がいいとか、理屈が分かる上手さはどの年齢でもそれなりに居るんだよ。
でも彼女は、動きも見た目だけ同じで別種だった。いわゆる神童だね」

そんな彼女もまた、ある時を境にふっつりと居なくなる。
参加する人は誰も事情を知らず、会えなくなるのを残念がったという。
「名前の響き通り、翡翠のような美しさを持っていたよ。だからかな、今も覚えてる」

そんな詩的な感想を、普段ガサツで生活の苦労で騒ぐ男に抱かせ、惜しませる。



その彼女が住まう場所は、何とも言えず異質だった。

人間にしては大き過ぎる。アレにしては静か過ぎる。人間にしても静か過ぎる。
近い存在を挙げるなら、雲、滝、台風の目、夜明け、日没。
自然現象。

自分の感想で未然に被害を防げるなら、積極的に出していくべきだとは思う。
しかし、本人すら意図が不明確なものを、どうやって他人に理解させるのか。

伝わらないものは、無いものである。
それが一般世間の理屈。だから分かるように伝えない発信者が悪い。
一方で、発信者の文脈に同化して察しない奴は馬鹿だという風潮もある。
どちらが通るかは結局弱肉強食だ。

道場なら、感じた通りやって成功すれば認識は正しい。普及は各自次第で済んだ。
わざわざ「ここは言葉が優先されるところではない」と最初に告げてくれるだけ、道場は相当お優しい。
……今まで、自分がそこに守られてきたことを痛感する。

口に出して後は相手の理解力に委ねられえば、どれだけ気楽だろう。
疑問や感想を体系的に位置付け、答えくれる専門家が実在したら、どれほど助かることか。



誰にでも伝わる言語と文章として、あの科学者は論文を仕上げていた。
自分もまた、彼女に従って、自分の動作を機械に移すべきなのか。

(あれ嫌いなんだよな)
情報取りに限定されているから我慢しているが、フィードバック機能というのは佳辰にとって相当不快である。
効率的なのは理解している。今までの狭き門を開く役割はあると認める。
しかし、所詮補助輪だ。

大体、奇跡的に自分が何か新しい気付きに至ったとしてだ。
それを即座に試したらどうなるか。
身に付けた機械は折角芽生えた感覚を、旧式の通り一辺倒の動作で上塗りするだろう。

ある段階を越えたら機械は邪魔であり、役立つのは精々が守だ。
(そんなの、ただの拘束具じゃん)

ならば、自分は自力でどうしたら表現と伝達を両立できる?
道を下りた神童なら、どういう方法をとるのだろうか?



そんな取りとめのないことを考えながら歩いていたら、目の前を件の人物が通り過ぎた。

服はコート。襟の端から寝巻が覗く。
長く伸びた髪の頭頂は白く、そこだけ雪を被っているようだ。
先の事故の後遺症として、負荷により毛髪は色素の生成を止めていた。

(淀海さん、か?)

判断に迷ったのは、服装だけの問題ではない。
異常はむしろ歩き方。
全体は地に足が付いていない夢遊病のようにふらついているのに、正中線だけは安定している。

人の歩き方には癖がある。
動作に関心があるから他人の動きはよく見ている。
それで、一瞬別人かと惑う。



声をかけると目の前の女性が、振り向いた。

目が合った瞬間、発作的に体が動く。
手に持った木刀の柄を握り、鎚のように頭を打ち据えようと突進。

単純な一直線の攻撃を、相手は体を斜めに傾けるだけで避け、すれ違いざま足を攻める。
引っかけられて転びかけた体勢を何とか捌く。
半膝ながらも向き直った佳辰は、標的が至近距離で天を仰いでいる様を認めた。

ガードの猶予もなく顔面に頭突きをもらい、目の前で星が飛び散る。
痛覚に蹂躙されているうちに、頭を掴まれる。

息を喘がせ、相手を見上げる。
この頃には、大分思考もクリアーになっている。

体ひねって仰け反ってドン。動き自体は単純だが、タイミングが尋常じゃなく上手い。
そしてかつての比でない破壊衝動。

「可愛らしい雀さん」
そいつは、そう言って目の上の傷に指を這わせた。

「聖痕を刻まれていながら、あれに気付けない……」
精一杯殺気を込めて睨みつけるも、体は硬直しそれが限界だ。

「――その鈍さが羨ましい」
立てた爪が剥がれる程力強く。切り裂かれた傷跡に指が食い込んでいく。
急所に隣接するおぞましい痛みと共に、左腕もまた疼いている。

「誰だお前……淀海さんじゃない」
震える息で、ようやくそれだけ絞り出した。



誰?
知ってる!

明かりで陰になった顔。その上から今も見ている。視線を感じる。



女はかすかに笑みを浮かべ、続いて淀海紬の身体がくずれおちる。

抱きとめた体は禍々しさが抜け、今は安らかな寝息を立てて眠っている。

「何なんだよ一体……」
遅れて鳴り出した歯のかち合う音。
激震と共に光は落ち、佳辰の視界は闇に閉ざされた。





やや前後して同刻。
食堂で、響三輪は両手でコップを頭上に掲げながら目をしばたたかせていた。



数分前。
今日は琢磨から紬の世話を妙に執拗に頼まれた三輪。
彼女は退院後、細々と短時間だけ書類仕事をしている。

就寝したのを確認してから、一息入れようと寮から研究所まで足を伸ばした。



深夜には明かりもほとんど消え、少数の研究者と監視員だけが居残っている。
まばらに散った座席のうち、テレビの前には比較的人が集まっていた。

映っているのは海外ニュース。
アメリカで起こった立てこもり事件。その現場を中継している。

モニターを眺めていた三輪は、誰かが側に立ったのに気付いて視線を移した。
「よう」
そこに居たのは、首から下は外骨格を着込んだ津具村光太郎だった。

「どうしてそんな格好?」
ヤソ研からの移動組は専用機が装着に手間取るので、中途まで着て動き回るのはおかしくない。
だが彼は警察からの出向であり、事態がややこしくなってからは、ほとんど書類と報告に追われていた。

「こっちこそなんでここに居るか聞きたい。琢磨から聞いてないか?」
「ううん。何を?」
「まあ大事なく終わると思うが……」

急に、自分を含めてあらゆるものが跳ねた。
とっさに机に置いたコップに手を伸ばし、中身が零れないように持ち上げる。



「……あれ……?」
続く本震に備えて身を強張らせていると、周囲とのギャップに気付く。

テレビの前の連中は平然として、相変わらずリポーターは何かを読み上げている。
備品が調度類が動いた形跡もない。
目の前の同僚は、突如とられたコミカルなポーズに面食らっている。

「揺れた……よね?」
確かな体感を、声に出して同意を求める。
「いや、そんな激しいのはなかったと思う」

揺れた。
確かに揺れた。
何か大きくて重いものが、確かに地面に激突した。

混乱する意識は、一つの既視感を探り出す。

「っ――何だこれ」
不意に、津具村が後方を振り向いた。視線の方向は研究所入口方面。
窺える表情と声音は、かつて見たこともないほど厳しい。

三輪が、続いて津具村が食堂を後に駆け出した。
順序は、先に察知した分思い至る猶予があったに過ぎない。
そして停電の闇が二人を包む。



非常電源の赤色灯の下、息を切らせた二人の前で、監視の外骨格が怒鳴り、慌ただしく動いている。
封印区画。入口付近のネビニラルが一斉に回転しだし、その範囲は少しずつ広がっていく。

「ヤバい」
脇を汗が伝う。戦慄と共に三輪は呻いた。
「レールガンを潰された……」

非政府系の組織が有する最大戦力。電磁力を利用するレールガンは膨大な電力を使用する。
銃座のほとんどは電線からの直の供給。
電池や自家発電でもある程度は待つが、無限回の修復を行う相手には焼け石に水だ。

脅威を防ぐには燃料を先に浪費。しかし今は何か巨大なそれが雪崩を打って近づいてくる。
ヤソマガツが、起きる。





いつの間にか津具村は消えていた。装備を完全にしに行ったのだろう。
私もまた退避と、非戦闘員の避難誘導をすべきだ。

恐ろしくて逃げ出した喧騒と蒸し暑さがやってくる。
騒がしさに駆り立てられていく中、頭の片隅で不思議に思う。

ここは「外」の脅威に立ち向かう施設だ。
建物の中に閉じ込めてはいても、目に見える敵と戦うのが仕事だし、危険は覚悟していたはずだ。

なのにどうして私は、自分の内側を怖れるようになったのだろう。



きっとその二つは繋がっていて――

噴き出せるヒビが出来る時を待っている。





夜の道路を、少女が歩く。
少女――実年齢に比して、その容姿は非常に幼い。
見た目は精々16、7歳。

胸に襟を締める紐のついた、生地の厚い胴着をまとい、下には袴を履いている。
袖口からは硬質な葉状の金属が、胸元からは外骨格を着用する際に推奨される、ボディスーツ状のアンダーウェアが見える。

左腕には断面が緩やかに湾曲した小ぶりな長方形。
半透明なそれにはコの字型に銀板が走り、伸びたコードが袖口に消えている。
その掌には、胸の高さよりやや短い、樫製の棒を、鞘のように携えている。



うずくまった琢磨を通り過ぎる時、ブーツが目の前をよぎったが、彼は一心に息を殺していた。
怜次が携帯を奪って握り潰したがどうでもいい。
腕を外すことで、小さく自分を屈めてくれた彼に感謝する。

とにかくひたすら見つからないことを願っていた。気付かずそのまま行ってくれとやり過ごしていた。





舞鳥萃英は艶やかな黒髪を結っていた。
双眸は見開かれた四白眼。
かすかに唇を開き、蒼白に張り詰めた顔は小刻みに震えている。

臈たけた美貌は、後天的に受けた傷のせいでより一層無機質になっていた。
生え際から眉間にかけて裂ける黒々とした断層。
周辺へと無秩序に広がったヒビが、彫像を鑿で砕いた如き非現実的な印象と美を与えている。



割れ目のやや下、傷を眼窩として覗く第三の瞳。
額には夜目にも鮮やかな真紅の珠が、埋め込まれていた。






[27535] 第十五話(一)
Name: 三二一◆02c59522 ID:068f191e
Date: 2014/02/22 22:14
静岡の北部に位置するCDF研究所。
山間部である敷地内には自然を多く残し、夜になると時折動く赤い光点を目撃出来る。外周警備用の外骨格と無人機だ。
研究所の傍らには、勤務者用の寮も用意されている。

かたつむりのように円を描く建造物を、横にはみ出した一際大きい直方体が、研究施設だ。
有する設備のために一階一階の天井が高い建物は、外目には倍以上の階数に見える全高を持つ。
今、その屋上には巨大な穴が穿たれ、地上階全てを貫いて断面を露わにしている。

漏斗のように広がった穴の底、かすかな月明かりに照らされるのは、一人の女性。
四肢は砕かれて泥のように黒ずみ、民俗衣装じみた着衣は活動的なまでに千切れている。
だが一番異様なのは、その額だろう。

琢磨も、怜次も、他の警備の外骨格たちも、全て動きを止めていた。
先程突き立てられた光の剣によって施設は半壊し、切り開かれた通路の先には、研究者が介添えと共にうずくまっている。

脳直で開いた大回廊。
ジャガーノート(圧倒的な力)を相手に、ヤソマガツの封印直前まで肉薄を許す。
こうして、紬と萃英。二人の対面は実現した。





第十五話『外道邪道左道』





敵が来た。





夕焼けの――逢魔ヶ時の――如き朱色の闇を、質量を持った閃光が貫く。

施設一階のロビー。
非常電源が作動していることを示す赤色灯の下、外骨格、都合八機。
屈強な肉体を金属で鎧い、更に跳ね上げた集団が、元凶目掛けて我先にと押し寄せる。

目指すは額。
あからさまな異常の源泉向けて、合金の装甲で鎧った掌が疾る。
各人の到着タイミングでバラけた乱撃は、アメーバの増殖を逆回しにするように包囲を狭めていく。



縦に裂けた第三眼。
噴き出す大穴が歩く度、圧倒的な余波が周囲を襲う。その範囲は敷地全域。あるいはそれ以上。
わずかに足裏を浮かせて滑らせる、それだけの着地で人も家屋もあらゆるものが八百万、彼女の世界を分かち合う。

心臓を直接握り締め、身心を根こそぎ揺さぶる初発の楽曲。
初めは生物の腹中を思わせるゆっくりした鼓動から、今は心拍より速い一続きの鼓の連打に。



前後左右上下。
隈なく全天を埋める鋼鉄の戦士。

相手は不可思議な強化がされてようが、土台は所詮人の体。
殴れば当たる。当たれば潰れる。
鋼鉄の重量に体重を乗せ、疾駆する一機が萃英に激突した時も衝撃は軽かった。

萃英を基準とすれば前方に当たる一機。
萃英は自ら懐に入ることで拍子を外し、盾と杖を利用して受け流す。
外骨格の衝撃吸収機構を算に入れても滑らか過ぎる抵抗のまま、叩き潰す打撃力を保って彼は仲間の塊に飛び込んでいく。

八方からなる密集を一点突破で抜けた萃英。
投げの残心で暫し向き直る。
その隙を、傍らに溜まる、巻き添えを免れた左右の三機が反応する。

意に追随する仕組みは呼吸より早く瞬時に切り返し、装甲の内側で蠢く人工筋肉は生身であれば転倒する程の極端な前傾姿勢でも急激な接近を可能にする。

直近の左斜め、10時の機体は利を生かして直線からの這うような突進攻撃。
右斜め、2時はそれに合流するように小さく弧を描いて、四つん這いから掃くように蹴りで薙ぐ。
一番遠い左の機体、9時に当たる男は前が目に入らないかのように直進。

機体に依存した力任せの攻撃は、それ故に正統派の威力でもって瞬息。

杉なりになった連撃の一番手。
足ごと抉る砲丸と化した外骨格の額に掌が触れると、彼はそのまま萃英を運び、そのせいで後に続く二つが外れる。
その背中で萃英が大きく回ると共に、耳障りな大音響と共に電光が走った。
硬直したまま倒れる外骨格。慣性のまま数メートル先まで滑る。

彼が萃英と接触した時も、あるべき重みは雪のように溶けた。
重く鋭い力を流すと同時に移動、そして回避に使った萃英は、受け身で逃がす時に押し当てた盾の電撃を使った。

着地の際、傍らに立つは最前一番遠かった機体。
前方のロビー入口では、最初に受け流された者たちが立ち直りかけている。



掲げた斧を振り下ろすように。
萃英は最寄りの機体に袈裟斬りを送った。
てこの原理を利用して、半円を描いて打ち下ろされた一撃は、先端に力を溜めて梵鐘の如き音を鳴らす。
咄嗟に行った相手の防御にもひるむことなく、白樫の杖が目に見えてしなるほどの圧力を掛け続ける。

外骨格にとっては大した損害ではない。駆け抜ける戦慄と光明。
萃英の膝は抜かれて落ち、背もやや前傾し、威力を追求するあまり足は完全に地についている。
このまま機動力を殺していれば後続でやれる。

より確実に、あるいは急いて、彼は空いてる片手で杖を掴んだ。
彼の背中を押したのは一つの気付きだった。
半透明の盾に隠れた左の手。補正された映像越しに、杖を握るそこから血が滴り落ちているのを発見した。

壊れるのなら、より早く。
その焦燥に突き動かされて、武器を奪い下へと崩す。
瞬間、体重をかけた肘に粘着質な気配を感じる。同時に無重力体験。

復帰した機体群に、再び仲間が投げつけられた。





「落ち着け。訓練通りの連携を使え」
敷地内最端に位置する、研究施設と直結した封印区画内入口。
警備部門の責任者である盛口は、回線越しに混乱を収めようと努力していた。

辺りには警護に残った外骨格の他、三輪や佳辰と紬がいる。
佳辰と紬は、衰弱した紬を背負った佳辰が暗い中で迷った結果だ。
三者とも本来なら非戦闘員としてサポートないし避難する立場だが、同時多発的に起きた挟撃により、移動を封じられている。

ヤソマガツ起動の危機を知らされて現場に入った盛口は、続く停電と侵入者に、それぞれ人員を割くことを余儀なくされた。
電力に関しては、設備は正常。何らかの原因により送電自体が遮断された可能性。
監視カメラによって映像自体は入手出来るものの、現場の人員が揃って逆上しているため、制圧以前に警告すら困難になっている。

「能力値の高い犬」を目指して強化外骨格は開発された。
それが今は、狼に先祖返りしている。
高揚が――狂熱が――場を呑み込んでいる。

『撃っていいか!?撃つぞ!』
「駄目だ。指示を待て」
各所に配置されたレールガンの銃座も同様だ。

ヤソマガツを想定して用意されたそれの射角は、大きく内側に偏っている。
研究施設の入り口近辺は、その観点から言えば外も外。
向けられる銃口の数も限られているし、第一遮る壁をぶっ壊して最大出力で大穴開けるという意味である。
それは本当に切り札の一つだ。

長野の地下施設であれば、入口が一つだけなので対応も簡単だった。
組織の性格上、対人装備の配置も外周に限定的。
相次ぐ急展開に対し、間に合わせに間に合わせを重ねてきたツケを、今払わされている。



『関係各所への通報は終了した』
手持ちの携帯の一台は三斗恭也、CDF長に繋がっている。

『居住棟は通常の訓練通り避難させた。現在研究側の職員は極わずかだ』
「助かる。こちらは大分動物的だ」
普段は東京や外部で渉外を務めるCDF長だが、今回は所用で研究所に赴いていた。

『にしてもそちらから襲撃の予想を告げられた時は半信半疑だったが、まさかこれ程の代物だとはな』
「対策はとってあるし通達さえしておけば通常の警戒で十分と考えていたが、ここのところ背広のお相手ばかりしてて勘が鈍ったな。なんだこの規模」

『件の装置はどうなっている?』
「ネビニラルは一時期封印足元でまで回転したが止まってる。今動いてるのはこの辺の入り口付近だけだよ」
『装置がないここの空気は蒸し暑い。馴染み深いアレだ』





彼が居るのは長としての執務室であり、同時に封印を引き継ぐ以降、増築された司令室でもある。
本来なら危機に際して盛口を初めとして人員が集合し、戦闘全体の配置や経過を統括する情報室として機能するはずだった。

『お前の避難は出来そうか?』
月明かりが照らす下、マホガニーのデスクチェアに座っている。
深く椅子の背にもたれて机に肘を置き、呼吸は平静そのものだ。

現在は夜勤のオペレーター数名が、監視カメラや外骨格からの報告、敷地全域の戦闘情報を取り捌いて提供している。

「さて……どちらへ移動した所で同じと思えるしな。それに危機にトップが右往左往しても有害だ。
どうせ指示はお前に一元化したほうがいいのだし、居ると分かっている場所で岡目八目を決め込むとしよう。
重要だと判断したことがあったら報告する」
『分かった。助かる』

通話は終わり、後には端末の操作の音と息遣いだけが残される。




封印区画。
通話を終えた盛口の下に、外周警備に当たる軽量級外骨格に背負われ、琢磨が辿り着いた。

「おう先崎。相手を過小評価し過ぎてたぞ」
盛口は脂汗を流す琢磨の肩を触り、無造作に戻す。

「すいません遅れました。襲撃は三人です。軽量一機に生身一人。それと桁外れの能力者が一人」
「数はこちらも把握してる。最後の一人は誰だ?あれが件の人物か?」
「怜次……襲撃犯の一人は萃英さんと呼んでいました」

「随分若い外見だな。もう一人は?」
言って、タブレット状の端末を外して寄越す。
画面には萃英と警備の交戦の遥か後方、暗がりに縮こまって佇む少女が映っている。
「いえ。以前発電所に向かった時見た少女だと思いますが、誰とまでは」



「えっ……」
反応したのは佳辰だった。
床に伏した紬の面倒を三輪と共に見ていたが、しゃがんだまま背を伸ばして画面を凝視する。

近寄ってモニターに手を伸ばすと、信じられないといった面持ちで確証した。
「私の、友人です。でもどうして……」

「理由なんて、場合によっちゃ本人に分からないよ。彼女には何か特技が?」
モニターを受け取りながら盛口が訊く。
「いいえ。普通の学生です。彼女が何か?」

したんですか、という問いに。
「今のところ遠くで見物しているだけだ。とりあえず身柄を確保したいんだが、中々上手く運ばない」

「私が直接尋ねます」
「それは駄目だ。まだ冷静な者も数人いる。そいつらを向かわせよう」

「ですが」
「それに君も怪我をしているし、場所に不慣れじゃないか」
佳辰の拳が血の出るほど握られる。

「一元化されてない指示系統が、緊急時にどういう危険をもたらすか君なら知っているはずだ。これでも地の利はこちらにある。大人を信じて任せて欲しい」
「……はい」
正論を前に佳辰はうなだれた。

「俺が出ます」
嵌め直された肩を回しながら琢磨が外骨格ハンガーへ向かう。
背に盛口の声が掛かる。

「最後に。どうやってここまで来た?」
「中が騒がしいので外を横切ってきました。途中から背負われて」
「俺と同じコースだな。普通そっちの方が早い」

盛口はそれから周囲に指示を始めた。

緊急司令部として封印区画内を使用。
それに伴い、本来の設備が使えないので、外骨格の通信機能をフルに利用する。
差し当たっては、装備に優れる重量級外骨格。配備されている一機を指揮管制機として割り振る。

現在、侵入者と戦っているような、着用型の人間サイズが軽量。
対し、今目の前や、封印最奥にあるような搭乗する大型が重量。
巨大な分、パワーや装甲の他に、情報処理力等の電子装備でも軽量を圧倒する。

「野外警備班は引き続き周辺を警戒。
無人巡回機と連携して、万一これが陽動であった場合に備えろ。
それと軽量級外骨格が一機潜んでいる。発見したら重量を回せ」

「封印区画内の担当は持ち場を堅持。狙撃班は待機。今戦ってる奴らは……とりあえず続けろ。指示は追って送る」
「津具村。備品は足りるか?」
『使い切ればいけます』

手持ちの端末を接続しながら、施設内の見取り図と配置を重ねて作戦を立てていく。

司令部がより安全な封印内奥に移動するに伴い、避難者も動く。
寝入ったままの紬は疲労困憊で、三輪が背負う。放心気味の佳辰がそれに続く。
外骨格ハンガーに繋がる出入り口の前で、琢磨と三人はすれ違った。

やつれながらも精悍さを増して目の据わった琢磨の視線が、紬の寝顔から俯いた三輪に流れる。
「手、あげろ」
肘を開いて右手を開き顔の高さまで上げる琢磨。

「……?」
うしろめたそうに目を逸らしていた三輪が、真似をして右手をゆるく上げる。

途端、濡れ雑巾を叩いたような威勢のいい音が響く。
爽快な音と共に三輪の掌は赤く痺れ、耳も少し鳴っている。
目の前には背中を見せて震える琢磨。

傷んだ肩のまま、思いきりぶっ叩いた平手打ちの気合入れ。
ハイタッチの変形だ。

「お前は守れ」
脂汗をかきながら琢磨は顔を上げ、歯を見せて笑った。

「淀海さんを頼む。菓子パン食いながら規定時間で踏破した走力、期待してるぜ」
「……うん」
眉を崩しながら告げる相手に、三輪も頬が緩む。

佳辰と目が合った。
「やっぱりお前、嫌いだわ」
「褒めてもお前の友人のエスコートのランクは変わらんぞ?」

背筋が伸びて、佳辰も常の楽な姿勢に戻っている。
長く沈んでいた水中から口を出したように、深く大きく息をする。





琢磨が格納庫へ向かうと、居残っていた整備班が玉串を前もって立ち上げてくれていた。
上着を脱ぎ、念のため着ていたアンダースーツ姿に。
脇のパーツや右腕の篭手、各パーツを身に付けながら調整。

辺りの外骨格はほぼ出払い、残っている数機も搭乗者が来ると中に入った途端一人で着用して数秒で出撃していく。
じりじりと焦りながら装着完了を待つ数十倍の時間。
その間にも事態は変化する。

想定下の運用では、二十四時間体制の監視によって装着から出撃までの時間を稼げた。
整備性を代償として追究された格闘性能。



「行って来い!」
「あざっす!」

装着完了と共に、前傾から床を蹴り、爆発するような音を立てて飛び出す。
足を止めるぐらいなら方向転換は壁を蹴って立体的にバウンド。

装着の最中に確認したマップでは、警備の配置を示す光点は施設中ほどに集中している。
そこが萃英として、伊織とかいう佳辰の友人はその後方。
通路のほとんどは障害物で塞がれているから、戦いの真っ只中を通過するか、迂回して上階を通る必要がある。

(まあ普通に考えて階段使うのが……)
視界の隅の光点図。その中で集中から離れた二機がある。
それが接近している。

気づくのと、目の前に外骨格が現れるのは同時だった。
琢磨にとっても因縁深い、旧式の全装甲。
(怜次!?)

反射的に、琢磨は大きく倒れ込み、着地の瞬間に腕を交差させた。
並びを戻すと共に足を大きく広げて横に薙ぐ。進行エネルギーを回転運動に変える蹴り技だ。
生身の胴ほどもある腿が大気を割り、相手の胴を捉えて吹っ飛ばす。
行ってから最前の意趣返しになっていると気付く。補助機能により、腕への負荷は極端に低かった。

怜次は扉をぶち破って一室に突入し、交戦していた軽量二機が追撃する。
外骨格がぶつかったことで安置されていたケースが壊れ、溢れた中身が床へ石榴のように散らばる。
落下の衝撃以外に、紅真珠はそれ自体が小刻みに震えている。

警備の二機は一方が警戒し、もう一方が拘束していた。
外装を剥がされるのも時間の問題だろう。
姿勢を立て直す数秒だけ注意を傾けて、再び伊織を確保すべくバネをたわめる。

(……ってオイ!)
辛うじて寸前で、何を見たかに気付き、弾かれるように向き直る。



右腕から全身を極められた怜次は、それでも弱々しく片腕を動かしていた。
その腕がそろそろと頭部へと向けられる。

室内には鳥籠が幾つも置かれ、その全てで中の円盤が塔のように回っている。
紅真珠はぶるぶると震え、外骨格の指につままれた一粒も今にも零れ落ちそうだ。

怜次が纏う機体には頭部の側面に改修がなされ、8の字を描くようなコイルが埋め込まれている。
そこに用意された穴に紅真珠がはめ込まれる。

「脳磁気刺激……」
広がる衝撃波に、吹き飛ぶ二機の外骨格。





数多の足よりも多く二本の足は大地を踏む。揺るがす波動は流れ落ちる瀑布の如く。
二本の足が発する地響きは、もはや大規模な環境音となって支配する。





「雨が降ってる」
背中で目を覚ました紬に、三輪は体をよじった。

研究所からはみ出した封印区画内。
螺旋状に巡る通路の中心から数えて第三層。まだ入口にほど近い。

「ここ、どこ?何があった?」

気だるく、眠たげに吐かれた言葉は、苦痛の呻きに中断される。
息も止めて背の上で身が強張る。
かつて佳辰を掴んだ右手は爪が剥がれ、今は紫色に腫れている。

三輪は事情を説明した。
横に立つ当事者の一人である佳辰は、封印内に入ってから言葉少なに沈んでいる。
「襲撃?」

遠くから伝わるかすかな揺れ。
紬が雨音と誤認した震動は、一人の人間が発する気配だ。
曝される者を芯から蝕んでいく熱を帯びたその波動は、鳥肌が立つと共にどこか蕩けるように懐かしい。



傍らでは、重量に乗り込んだ盛口が現場に指示を飛ばしている。
彼は今、電池容量に秀でる玉串二機に携行型のレールガンを持たせ、散開させようとしていた。

「お前たちには負担をかける。難しいと思うが……」
『大丈夫です。……狙えます』
『俺もです。仕事だからですよね?』
「そうだ。頼む」

組織が有する機体および実働員の数は、三交代全部足して四十二。
この内、現在外周警備に当たる四人(機)と銃座用、更に本来の封印に関わる人員を引く。
更に琢磨ならびに他、バリケードなどの作業要員を引く。
当然、脱落者や休暇で離れている者もいる。

諸々ひっくるめて正味の戦闘要員は十四人。
更に離れて動く侵入者の通報に、より一層数は割かれていく。

(それでも私達だけだった時より多いけど……)
相手の詳細は知らないが、人だろう。
元々対人に秀でたPMF。たとえ前回の事故を超える力を有してようが、対抗出来るだけの技量はあるはずだ。



「口で言うより見た方が早い。出せる情報があれば頼む」
駐機している重量から盛口の腕が伸びた。端末を受け取って三輪は紬に見せる。

三輪が個人的に気になるのは外骨格。
少女のほうは『アカシャ』。琢磨と交戦している方は『ロゼッタ』。

ロゼッタは最初の全装甲機に、他者とのフィードバック機能を付与した大衆版の後期型。
アカシャは更に古い。インドで造られた芸術性の高い高級機。
使用による発熱も少なく静粛性も高いが、フィードバックに関しては自己完結。精々矯正目的の姿勢補助のみ。

両者共に、本来なら記念館行きの骨董品もいいところ。
なのに、改造とユーザーによって、強化フレームとしての役割をフルに発揮している。

「…………黒髪?」
予想に反して、紬が注目したのは機体はおろか、明確な一点ですらなくそこだった。
(と言うかぶっちゃけ「欲しい!」と言われたらどうしようかと思ってた)

視界の隅で、白くなった頭頂部がちらつく。
背の虚ろだった気配が急速に鋭くなる。

「先崎の情報によると、彼女が舞鳥萃英らしい」
盛口の補足に、紬は厳しい表情になったまま黙り込む。

「前線のサーモグラフィーはどうなってますか?」
三輪にとっては意味不明な問い。
しかし、盛口は滑らかに行動で答える。

新たに表示された画面には、真っ青な人型が映っている。左腕の張り出してる所だけが赤い。
辺りを囲い、目まぐるしく動いている多数のも、青みがかった人型。
しかしこちらは輪郭が角張って鋭く、背中や脇の下など、要素要所が赤く発光している。
……外骨格の放熱だ。

(え)
血の気の引く音を、初めて聞いた。
「体温が外気温と同じ。つまり死んでる」



何故長年家に籠ったまま出てこないのか。
何故年齢に反して異様に若々しい容貌なのか。
何故桁外れの出力を放っていながら、髪が黒いままでいられるのか。

脳に及ぶほどの亀裂を晒しているのに、傷口が乾いているのはどうしてか。
それほど巨大な力を持っていながら、どうして十年前の悲劇を看過したのか。

「単刀直入に聞きたい。あれは、「どちら」だ?」

何故何故何故――
何のことはない。十年以上前に舞鳥萃英は死んでいた。

「……左前では、ないんだな」





舞鳥萃英を外骨格が押し包む。
刹那、瞬間的な破裂音と共に紫電が迸り、外骨格が機能を停止する。

2012年、ある護身用品メーカーが防護盾型のスタンガンを開発した。
ポリカーボネート製の盾に放電プレートを配置したそれは、通常の点による刺激と違い、面による高い制圧力と盾由来の防御力を兼ね備える。

勿論外骨格も、一般の既製品レベルなら対策はとられている。
しかし萃英が装備しているのは出力を上げた改造品。
外骨格と接続されたそれは、増大した電源の恩恵を受け、視認できるほどの雷電を連発する。



『クッソ抜かれた!二回目だ!』
『バレてんのか!?盾超ウゼェ!』
通信網を外骨格の罵倒が駆け巡る。

発泡性のウレタン拘束剤。調度類。それらを使いきって津具村ら作業班が急遽設営したバリケード。
戦闘班がそこへ誘導し、移動を封じ、自らが壁になってでも力づくで閉じ込める。
数、体格、そして情報。あらゆる面で有利な作戦の檻は、その実幾度も突破される。

相手は身体能力的には軽量外骨格一機を下回った。
精々が鍛えている程度の外見相応。
本来即座に制圧されているはずのそれは、体術によって回避する。

いくら受け流したところで、所詮は軽減しているだけである。
現に今も損傷を重ねている。真っ向からぶつかれば鎧袖一触で、避けるなら避けるで誘導しやすい。
正解を塞いだ上で、避けさせたい方向へと攻撃すればいいのだ。

なのに、選りにも選ってその時だけ正面突破ですり抜ける。



刺子が入った分厚い木綿の胴着上下と紺の馬上袴。
萃英の着衣は切り裂け、破れ衣からは夥しく傷を負った四肢が覗いている。

肘と膝、胴着と肌の間に見えるのは黄金色の外骨格だ。
蓮の葉や唐草の蔓に似た、古風な宗教美術のような意匠のそれもまた、削られていびつに歪んでいる。
杖もところどころ歪んでささくれ、盾も擦過傷で曇っている。

押してはいる。
少なくとも、肉は削っている。
なのに、あと一歩が防がれる。

そう、防がれる。
こちらが無能なのではなく、あちらが能動的に起こしている。



彼女は人間?
人間じゃない?



人間が、これだけの力を?化物が、知性を?

人は死ぬ。
死んだら生き返らない。
信仰が何だろうが、死んだらそれでこっちでは終わり。

肌に染みついた生の一回性。
あらゆる宗派を超えて共通する、倫理以前の現実主義。

目の前の死体。
それは肉を食いたがるわけでもなく、道具を扱い、節々に人としての片鱗をのぞかせる。
ただ起き上がっているだけで、彼らPMFの足元を音を立てて崩していく。

そして何より恐ろしいのは、そんな彼女は誰かが「作った」ものだということだった。
背後に広がる別世界。
今まで積み立ててきた細目を、突き崩す。

侵攻する祭礼の化身。髪飾りの金細工が、ゆらゆら揺れる。
「それ」が、自分に近づいて手を伸ばす。

恐怖に駆られて発作的に放つ拳は、空を貫いて左脇に抱えられる。
悲鳴もひきつる程の距離。胸元で、仄暗い死の谷の陰が押しつけられる。
筋力比的にまずあり得ないことに、杖を用いて関節が極まっていた。

振り払う怖気に力を合わせて投げ飛ばされる。離れることへの安堵。



単なる総和も、身を呈しての肉壁も、追い込む猟も用をなさない。
残りの手段は数の積。処理しきれない手数による飽和戦術。

研究所内の通路は相応に広い。幅3メートル高さ3メートル。
しかし、あくまで人間を基準にした場合の話だ。
故に、人間を超過したサイズと共に比較にならない出力と耐久性を持つ重量級は待機中。

相手は手にした杖を半分に持ち、常に後方に残りを伸ばしている。
これのおかげで壁や障害物を事前に察知し、接近も阻害される。
常に包囲を警戒した立ち回りのせいで、杖を掴むこともままならない。
速度を優先した突進は捌かれる。背後からですら。

萃英が身動きする度、暴風が起こる。体感だけでなく、センサーも反応する。
見た目より大きなものが動いているように。

一つ一つの障害にかかずらうよりむしろ、移動のためにすり抜けることを優先していた。
この時点で、ヤソマガツとは別系統である。
目も合わせないまま前進する姿は、さながら深海魚。



萃英が近づくと、前を通すように機体が横に退いた。
彼はそのまま壁を背にするように近づくと、すれ違いざま壁を蹴って高所から横蹴りを放つ。

萃英は電撃を使うことなく、左手を上げて単純に捌いた。
空中で機体の天地が反転する。外骨格の運動能力を生かし、そのまま空中で回し蹴り。
萃英は身を沈めて回避。

しゃがんだ萃英に他の外骨格が迫る。
肩が床に擦れるほど地を這った半身。腕は大きく回して盾や杖を迎撃の構え。

密集の比較的薄い、空隙に萃英は逃げた。彼女もまた極端な前傾姿勢。
獣脚類の突進のよう背中が平行になるまで体を下げ、頭を隠した盾は足払い。

電撃を避けるように、進行上の膝が上がる。
体勢の崩れを増幅して萃英は投げる。反射を我慢したところで、直撃し行動不能になっただろう。
仲間が投げられると同時、離れていた機体が壁を蹴った。

『オラァ!』
まさに投げられた直後の機体が蹴り返され、勢いを反転して萃英に向かう。
至近距離であり、想定では杖が邪魔。

足が動く。
側面に入った萃英は間一髪で直撃を躱し、杖を横咥えにすると空いた両手で頭と腿の付け根を押す。駄目押しで顔面に膝も入っている。
翻弄された機体は回転しながら仲間にぶつかり、接近を阻害。



それでも一機抜けた。
教本のように綺麗なジャブを、側面に歩くことで動線ごと回避。
避けられた機体は即座に横にエルボー。

踵から体を乗せる寸前で、出掛かりを制される。
拮抗受け流すは正中通る杖。
親指向き合う両端握り。自らの振り向く力を線上に配置することで膂力に優れる初動を誘導。

今度は空間を自在に使った極至近。
相手が状況を判断するまでの一瞬で、力を滑らせて左のスタンシールドが脇腹を撫でる。



単分子チェーンソーや長物の武器。
同士討ちの懸念から使用は制限されているが、使ったところで狭い空間での多人数戦では、軌道が限定されるだけ逆効果だ。

突っ込んだら捌かれる。
間を取ると、無視できない打撃で崩される。
掴まれれば、あるいはこちらが掴んですら接点から関節経由で支配される。

投極打融通無碍。
また得物無手で共通する身体操法。動作自体は、むしろ単純だ。
だが呼吸と言うべきか、判断とタイミングが異様に巧い。それを武装が先鋭化する。

そして何より土台となる、外骨格と同等か、それ以上の挙動と反応。
その様はまるで、発作の沸騰を無理矢理型に流し込んでいるような、病的な香気がある。

舞鳥萃英は破だ。歪みきって取り返しがつかなくなった守破離の破。
もはや天賦の才や技術体系を通り越して、妖術の域にある。



『話が違ぇ!』
一人が叫んだ。それが、捌けた調子の合いの手と共に背中を叩かれる。
『落ち着け。実戦ってそういうもんだろ』

警備の外骨格は約七名。通路の右半分に乱雑な塊となって集中している。

一機が跳躍し、上段から振り下ろす。
他の機体も追随し、大振りを放つ。
速度を追求し、かつわざと真芯から外れるように放たれた一撃は、回避方向を誘導し、故意に作られた空隙に追い詰める。

飛びずさる萃英の杖が壁を突く。
瞬間、肩から滑って横に逃れる。
同時に、触れた壁からチェーンソーが生えた。

突如として隆起した刃は轟音を立て、線を描いて横に抜ける。



萃英を追い詰めた瞬間、外骨格たちは背を向けて弾かれるように駆け出した。
寸でのところで奇襲を避けた萃英もまた、一方向に疾走する。

寸毫の後に、上方と前方から光の雨が降り注ぎ、射線上にあるあらゆるものを破壊していく。
部屋と上階、携行した玉串によるレールガンの速射モードだ。

萃英は器用に疾走の勢いを生かしたまま方向転換を繰り返し、交差する面の射線を紙一重で避けていく。
銃口が上に向けば右。右を向けば下。でたらめな軌道も予測も裏切ってくるくる回る。

半身で面積を減らすと共に、腕が動いて腹を守った。
肉が見る間に削られていく代わりに、金属と骨に激突して弾道が逸れる。

両機が全弾撃ち尽くす。

四肢は被弾し、無惨に砕かれている。辛うじて繋がっている程度に垂れ下がる。
露出した肌からの流血は極端に乏しく、代わりにどす黒い光沢が凝っている。
形態的に機能を維持していないはずの腕が、なおも杖を保持する。

『誰だ勝手にチェーンソー使った奴!お前のせいでタイミングずれたじゃねえか!』
『多少ずれてどうにかなる攻撃かよ!』
『それよりあいつ避けやがった!絶対見えてる!監視カメラハックしてるのか!?』

通信同士でがなりあう外骨格の喧騒を他所に(外に漏れてないから客観的には無音なのだが)、萃英は再び歩き出す。
全てを呑み込む瀑布が再開する。

絶対を期していた決め手が外れ、警備達の気配が変わる。



一機が中段から高速で接近した。萃英が動く寸前で跳躍。
彼に隠れてもう一機居た。飛びかかって勢い任せの右ストレート。
真芯からずれた攻撃は回避される。

人工筋肉が駆動し、空中から右蹴りの追撃。
萃英は後方に倒れて回避。膝から下だけで立つ異様な仰け反り。

影矢の二。
最初に目の前で跳躍した機体は天井まで届き、衝撃を利用して追尾。
ドロップキックが迫る。
これら、萃英から見て左方の攻撃に加えて、右からも両拳を組んだ打ち下ろし。

対処に動く萃英の身体が大きく崩れた。
初めて視線が移動する。



意識を上段に向けておいて、下段から滑り込んでの蟹ばさみ。
代償として、姿勢変更の影響で他の陽動は全て空振る。
そのまま体をひねり、関節を極めて地に落とす。

細く素早い足の動きは、辛うじて一本自力で抜けた。
倒れ込む寸前、杖の先が床に触れる。
不安定な姿勢のまま体重を預け、三本目の足として使うことで極めきられる前にもう一本もすり抜ける。

外骨格は掬い上げるような蹴撃。
地を摺るところからの見事な変化。
萃英の背中に抜け、着衣の一部ごと金属製の何かを吹き飛ばす。

瀑布が止む。



不自然な体勢で萃英が硬直した。
先程吹き飛ばされたのは、外骨格の中枢演算部。
稼働を停止した機体は一転して、枷となって拘束する。

「分かった。こいつ人間だわ。予断を持たせて新味で裏切れば効く効く」
安堵したようにPMFの一人が近付く。

動きを止めた萃英が地に引き倒される。
と、外骨格達が再び、急に距離を取る。



轟音と共に付近の壁が粉砕された。
レールガンの光条が走り、被害もお構いなしに辺りを穿っていく。
萃英もまた、飛散する瓦礫を頭部と言わず全身に被る。

煙の中から現れるのは、丈の詰まった巨大な人型。
装甲に覆われた球形を中軸として、四角ばった四肢や無機質な頭部がダークグレーの全体を構成する。

『ヒャーハッハッハ!手こずってるようじゃねえか!』

高揚に引きずられたまま、重量級外骨格の登場。
その機械的な、プライヤーにも似たアーム。
人間の上半身にも匹敵するサイズのそれが、瓦礫ごと萃英の身体を持ち上げた。




「いーやだー!絶対嫌だー!」
床ににかじりついて抵抗する佳辰の足を抱えながら、三輪は彼女を引きずろうと悪戦苦闘していた。

想像以上に早い侵攻に、再び移動を迫られた封印区画の面々。
琢磨も三輪本人も感覚的に馴染みが薄いので失念していたが、「何か」が枯渇した空間というのは、つまり三輪にとっても怪力が失効した状態にある。
その環境下にあっては常識的な法則のみが適用され、筋力ではまっとうに鍛えている佳辰が上。

区画内は急ごしらえかつ全装甲の外骨格が基本。故に、その室温は外気と同じである。
これまでの間中、重量の排熱部にひっついて暖をとっていた佳辰。
侵攻に伴い一番奥、ヤソマガツ至近まで退避すると聞いた途端、薄着のまま、冷たい床に密着するにも拘わらず、這いつくばって内奥へ向かうのを拒否している。

背後では盛口がCDF長と最終手段である四脚の起動について連絡を取り合い、紬は侵入者との面会を求めて却下された後は、そんな嫌がる佳辰の様子を見つめている。



不意に佳辰の身体が軽くなり、三輪は姿勢を崩してたたらを踏み、尻もちをつきそうになる。
「うわっ」
鉄が風船に変わる、急速な重量感の変動に、反射的に手を放す。そして、ぞっとした表情で自分の掌を見下ろした。

佳辰が軽くなったのではない。
自分の筋力が跳ね上がったのだ。
辺りに這い寄る気の影響で。

伽藍に似た間に合わせの天井。
そこかもっと彼方の頭上から、熱を感じる。見られていると気づいた時だけ感じる種類の温感。
誰かが上方から、こちら側をじーっと観察している。

「いーやーだー!」
指がアスファルトの床を圧迫し、それでも移動させられて爪が割れる。

足をバタバタと振りまわし、血で汚しながら連れて行かれまいと掻きむしり続ける。
「やだ!やだ!行きたくない!」
その声も涙声。就学年齢に満たない子供のように、顔をくしゃくしゃにして泣きじゃくる。

心を鬼にして雑巾の如く引きずっていくと、再び重さが元に戻った。
同時に、うなじを炙る熱も無くなっている。

「ねえ、ひょっとして、誰か……私達のこと見てる?」
恐る恐る尋ねると、鼻水を垂らしながらこくこくと佳辰は頷いた。

「……今来てる人?」
こくこく。



「盛口さん!超ヤバいっス!行動筒抜けです!」
「そうだな。だから移動してるんだ」
泡食って叫ぶと、ひどく平静に首肯された。

「瞑想なしで動いてても見えるのか。まるで空中機とのデータリンクか、いっそゲームだな」
関心する上司にして現場指揮官。
周囲の適応能力の高さに、凡夫である自分の限界を痛感する昨今。

安全にハメ殺し出来ると言っておいてこの惨状。首脳陣軒並み追い詰められ。
(イヤ確かに狙いは封殺出来てるけど!眠いし寒いししんどいし……)
他は不満を怒鳴りつつも対処していくが、現状待機の三輪は文句を垂れる以外出来ることがない。

「話が違う……」
実地の戦闘が思い通りにならない、までは直に経験したし異論はない。まだ受け入れられる。
しかし何故、こうも連続で有り得ないはずものから不意打ちを食らうのか。
戦場の霧とやらは、戦術ばかりでもなく戦略でも存在するのか。

ここまで考えて、三輪は意味するところに苦笑した。
(未来がどうなるか分からないなんて、当たり前じゃん)

それがこと戦いというだけでこうなる。
(だったらもう金輪際関わりたくない。こんなに辛くて理不尽なら、戦いなんて要らない)

だから捨てた。

通路脇に鎮座する鳥籠の列。
その中で停止している多層の円盤。刻まれた異形の図形は異星の言語。
何と書いてあるか読めるような、そんな錯覚を感じた。

「放して!お願い!悪いところを吸われたら、私が消えてなくなる!」
腿をがっちり脇の下にロックされた佳辰は、怯えを剥き出しにして泣き叫んでいる。

天井は暗い。
ひたすらに暗く静謐で、遮断されている。

(神様、仏様)
無駄と分かっている祈りを捧げつつ、三輪は我から呪術めいた感慨を抱いた。



化物による脅威を、もっと強力な化物の欠片が守っている――





闇に火花が閃く。
線香花火が爆ぜる一瞬を切り取った輝きは、高速で衝突する金属により生じる。

玉串とロゼッタ。
二機の強化外骨格が拳をぶつけ合う度、金属音と共に閃光が辺りを照らす。
その光跡は彼岸花にも似て、その正体は装甲の表面粒子の、摩擦による瞬間的な燃焼。
怜次が拳を振るう度、一拍遅れて颶風のような奔流が追随する。

突きに対し身を屈め、床に腕を交差させて足を後方へ跳ねあげる。
脇腹を狙った回し蹴りを、肘と膝で挟んで怜次は受けた。
その動きは前に見たとでも言うように。

(だったら!)
受け止めている相手を支えにして、琢磨は上体を持ち上げた。
股を大きく開き、相手の肩を抱える。
勢いを利用して投げようとした時、衝撃波が来て吹き飛ばされた。



遭遇の後、昏倒した二機に代わって対処するために、琢磨は交戦していた。
連絡を受けて盛口も了承。
百を数える紅真珠。それを萃英の下へ運ばせるわけにはいかない。
佳辰の友人の保護は、目の前の相手を無力化した後だ。

運動量の多い琢磨に対し、怜次が行っている動作はほぼ単一。

真正面からぶつかれば単なる打撃。あるいは拮抗から利用した崩しへ移行する。
横に当たれば捌かれる。
更に体の変更と合わせれば、そのまま投げられる。

一つの動作が一合毎に意味が変わる。その度に、新しく産まれる。

その力の流れに合流して、不可視の衝撃波が乗っている。
特化した玉串とも互角に戦える力。



(まあ、こんなもんだよな)
起き上がりながら、琢磨は自嘲した。

元々、同じ時間を愚直に走り込みやスパーリングに費やすより、その分だけ働いて部品や有料ソフト入れた方が強いのが、強化外骨格だ。
アップデートを重ねて目的用には高性能であり、洗練されたカリキュラムもこなしているが、所詮は一般人の底上げだ。
自衛隊ならもっと厳しい訓練を行っているし、自分は平均的な人間が訓練すれば動ける域だと思っている。

(動きに別々の呼吸が入り混じってる。フィードバック?萃英か)
三輪のように身体感覚と融合した発露。佳辰で目指したものの成功例。

別方向からの黒船や、才能ある奴と戦えば当然遅れをとる。
そんなものは最初から認めてる。誇りに思うのは別にある。
口惜しいのは、別のことだ。



「何故だ……?」
無駄だと分かっていて、口を開いかずにはいられない。
通信が不明なので、スピーカーで直にぶつける。

「どうしてこれだけの才能がありながら、襲撃なんかする……?」

怜次は優秀だ。
既に外骨格の扱いに習熟している。特殊な能力を持った知り合いもいる。
こちらでは不完全でしかなかった装置を実用化し、加えて本人にも適性があるとすれば、正規のルートでも余裕で自分を追い抜ける。

事実、その方向で動いているはずだった。



「真に強烈な呪詛は他に対する加護に転ずるんだ」

期待していなかった答えは、そんな呪文のような文句で返ってきた。
理解しかねる琢磨。

「前に来た時は女の子と親しげだったが、彼女か?」
「は?」
場違いな質問に、つい馬鹿みたいな声を出す。

「じゃあ他に、気になる誰かはいるか?」

呆れ、心中戦慄しながら琢磨は答える。
「そんな暇あるわけねえだろ。まさかひょっとしてと思ったが恋が動機とか言うんじゃないだろうな」

気配だけで怜次は笑った。
「いや。俺も同じだよ。自分のことで手一杯の奴に、他人を容れる余裕なんてないのさ」



「じゃあ、何故だ?」
意見の多様性が認められるのは犯罪犯す前まで。その一線は維持のためにも絶対なのが、社会というものだ。

「あれだけ御託並べといて、やるのが火事場泥棒かよ」
「動機、衝動自体はお前も既に知ってる。今更何を言ったところで、襲撃かけた時点で取り返しがつかないんだから会話は無意味だ」

どんな理屈こねようが、法的にアウトな時点でどうしようもならないのは、共に理解している。
戦端を開いた以上は問答無用。
その点では怜次は正しい。

しかし、なおも琢磨は叫んだ。
「それでも知りたいんだよ!」



「……最終的な決断をどこで下したのかは、自分自身もよく分からない」
長く佇んだ果てに、彼はそう返した。
ただ強烈に焦っている。焦がれている。

「お前は俺の欲しいもの全部持っていたのに」
「欲しいもの?」
今度は怜次が失笑した。

「普通の働き口も、才能も」
「じゃあ交換するか?」
怜次の返しに、琢磨は黙る。

「欲しいって言ったってそれは確実になすためと事が済んだ後のことだろう。
戦えなきゃ話にならない。羨ましい?こっちからすれば、お前のほうがよほど俺の欲しいもの持ってるよ」
つまり役割。戦うことを認められている社会的立場。組織内での居場所。

静かに。ただ静かに。
「そこから目を逸らして喋っても無駄なだけだ。マトモな説教と罰は世間にでも任せてろ。
大体今の状況見ろよ。俺が何しようがあの人は徒歩ででもここへ来た。街への被害を減らした分、感謝して欲しいくらいだ」

「彼女は何を企んでいる?何故ヤソマガツを解き放とうとする?……もしかして、恨んでるのか?俺達を」
「さあな。正直よく分からない。だが戦いになるのは確実だから、一枚噛む」



「前に話した穢れ祓いな、萃英さんからの着想なんだよ。案外、ここ地球でもやるのかもな。自分が大手を振って歩けるように」
そうしたら、刑罰すらも無意味になる。

スケールの規模に目眩がした。それと、荒唐無稽さにも。
「そんなこと出来るわけ……可能だとしてもそんなことやっていいわけない」
「いいわけない?お前こそ、自分がやろうとしていることが分かっているのか?」
語気が強まる。

「ヤソマガツは穢れを移された後捨てられた贖物だ。
どうにもならない感情ごとあいつにぶつけてけじめをつけようなんてするのは、個人的な穢れ祓いそのものなんだぜ」

「アレを解放するリスクも動機も、否定できるほど高尚な俺たちかよ。
騙されてるの薄々分かった上で、それでも力を欲したお前が。
大体、被害を防ぎたいだけなら、対処療法じゃなく研究者を目指すべきだ。それだけの時間は確保されてたのだから」

紬の姿とやり合いが浮かんだ。
穢れが祓われた先には、今の自分たちもまた、居なくなる。

「刹那的と言うのなら、お前も大概だ。なあ、そんな生き方をしてきて、不安を感じないか?」
……十年前の機体が、そんな言葉をかけてくる。

臓腑を絞り出すように、これだけ吐いた。
「是非なんて考えられるようなら、最初からやるわけがない」

「俺は不安だよ。
このまま幸運で得た職に妥協して、将来「あの時ああしてれば俺もやれた」なんて懐かしむようになるんじゃないかと、嫌でたまらない。
挙句、失職したら自力で何かを手に入れた経験すらない中年の出来上がりなんて、許せるわけないだろう?」



「真に強烈な呪詛は、他に対する加護に転ずるんだ」

ヤソマガツに呪縛された琢磨が、将来に対する不安や恐怖から守られているように。
大力女という異能異才を生まれ持ったことで苦しんだ三輪が、それによって惨劇を生き延びたように。
道場により社会で居場所を得る佳辰が、対人攻撃に過剰適応する代わり、衝動を安定させたように。

そこからすら切り離された創が、神を喚ぶことで社会に抵抗したように!



辺りに逆巻く力の流れ。
どこか遠くの方で、大きな力が渦巻いている。
雨垂れか太鼓のように拍子を刻むそれは、体の奥を駆りたてる。

かつて源泉の側で語り合ったことが、我ながら信じ難い。
静寂は裏返り、傍若無人に威を掻き鳴らす。



思わず、琢磨は歯噛みした。
「……れよ」

「もうすぐ最終決戦が始まる。お前も一緒に来ないか?」
そう、誘いの手が差し出される。

「黙れ!」
堪らず琢磨は殴りかかった。

自分から会話を振っておいて理不尽だとか、そういうことは後から気付いた。
心の奥底に沈めていた醜い部分。立場を得ることで隠されていた部分。
目の前に現れたそれを消し去るように、衝動的に拳を放つ。

空振った拳の横に入った怜次に、もんどりうつ勢いのまま胴回し蹴り。
壁に飛んで避けた彼を追って、琢磨もまた跳躍する。

感情としては理解できる。だからこそ、説得は無理だと確信した。

怜次が天井を蹴り破る。
高所を取り合い、壁を走り抜けながら、駆け抜けるその足を掴んで前方に叩きつける。
掴み返されて自分が天井をぶち破る。

殴り合う。自分の身体が切られるように。
動く度に嵌め直された箇所が脈動し、右肩を起点に激痛が血流の如く蠢いて全身を蹂躙する。

「そこまで自覚していてどうして止めない!」
「自覚してるからこそ止まらない!」

額で鍔競りながら。
お互いの意を激突させ合いながら。

法を犯してまでやるか否か。
才能がないが立場は得ていたか、才能があるのに乱入以外の機会を推移に奪われたか。
彼らは些細で、だが絶対的な一線で対立しながら、鏡合わせの二人は失うために疾走する。

「どうして!」
「どうして!」
いつしか二人とも叫んでいた。

どうして受かったのが、片方だけなんだろうな。



貫き抜いた天井で、なおも怜次は駆け上がった。
振りかぶり、虚空に月を背負った一撃は、今までとは比較にならないプレッシャーを感じる。
肘と掌底を軸とした、視界を圧する巨大な双頭槍のイメージが脳内に閃く。

防御は不可。
回避も困難。見かけ以上のリーチと範囲がある。
何より、ここで距離を取ったら封印区画へ直行される。

複数の思考が交錯する一瞬で、琢磨は腰の単分子チェーンソーを起動した。
指示もあり、何より躊躇していては結局自分が後れをとる、対人戦では邪魔だったからだ。
それを抜く。

振り抜きざま膝を落とし、琢磨は大きく円弧を描いた。
切り裂いたのは、足場と化した天井だ。

落下していく琢磨。
目標と着地点を喪失し、怜次の一撃が空振りする。
円形の天井板が、一瞬で砕けた。

焦点を外し、不可視の攻撃範囲をかすっただけで、前面装甲を徹して凄まじい衝撃が臓腑を揺さぶる。
辛うじてやり過ごし、胃腸への負荷を振り切って腹筋下に指令を出す。
膝を上げると空中で一回転し、その隙に友と高低が逆転した。

「こっちだって、得手はある」

そのまま全身のバネを爆発させて蹴撃。
反作用で更に落下速度減少。
側面を蹴り飛ばされた怜次は、最前開けた穴を通って床へ激突する。

穴の淵を蹴り降りながら、一階へ着地。
叩きつけられた怜次は横になってのびていた。
旧式とは言え、機体が保護出来る範疇である。

(あちらの方はどうなってる?)
通信ではPMF達がスラング叫びまくってるが、特にレイジレイジうるさい。
(なんでお前らがこいつの名前知ってんだよ)

そんな思考を巡らせながら、紅真珠を回収しようと手を伸ばす。





目の前で彼が悶えた。
やり過ぎたと怯えが走るのもつかの間、焼けつくような頭痛に襲われる。
苦痛を突き抜けて訪れたのは――歓喜。

この昂ぶりをなんと表現しよう。
この抑圧をなんと表現しよう。
自らとは別のものに成りたがっている。しかしどこへ奔ろうべきか定かではない。

背を仰け反らせて咆哮する。
吼えるとは、熱く倦んだ己の軟らかい組織をやすりにかけて、冷え冷えとした虚空に差し出す行為である。
体の奥から聞こえる音にならないざわめきを、喉を介して一息に束ね上げ、言葉ならぬ震動として吐き出す行為。

その口を仮面で塞いだ強化外骨格。
出口を失った熱で血は沸いて、勢いを増した血流に押されて肉が跳ねる。
それは意識から離れた暴発。脳なんて臓器、とっくの昔に煮えている。

景色が揺れる。景色が溶ける。

辛うじて残った意は張り詰めた弦のよう。
千切れる瞬間を焦がれて矢継ぎ早に爪弾かれる。
無駄打ちする命の矢種であり、奏でるのは祭りを言祝ぐ楽でもある。

昂ぶりのままに体は足を運び、握り固められた拳は横に倒れた獲物を狙う。
(!?――)

人間を、それも近しい相手を殴ることへの嫌悪を覚えた途端、心臓を始めとして全身を圧迫が襲う。
回転数を上げて血液を送り出す心臓とそれを押さえつける筋肉で力が衝突し、今まで湧き上がっていた勢いが全て自分に返ってくる。
奔流と静止の激突。些細なササクレが抵抗を一気に増やし、肺腑を刺されるような痛みのまま、破壊衝動は内向して自壊へと向かっていく。

制御など不可能な押し流す力の濁流。
(こんなものどうやって……)
一体、怜次やもう一人の特級は、どんな繊細があれば扱えるのか。

何故か、頭の中でヤソマガツの姿が浮かんだ。
抱いてきた熱は全てあいつの下へと辿り着くため。
そう思い出すと、心なしか負荷が軽くなった。



光条が二人の間を貫く。
レールガンの弾体が至近を掠めた時も、琢磨は床に接して眺めていた。

壁面は液体のように流れ落ち、それもまた渦を巻いて上昇する。
病んで溢れた川に身を浸し、川のほとりではカビが髭のように蔓を巻く。

「萃、英、さん……?」
苦しげな怜次の呟きと同時、一際巨大なそれが放たれた。

崩壊した景色の先。あらゆるものが舞っている。
琢磨と同じように狂熱に踊る者。屋内に置かれていた調度類や備品すら、空中に浮いている。



土煙の先にそびえるのは重量。
足元には人影。

煙が晴れて現れた舞鳥萃英。
衣装はまるでボロ切れ、四肢は粉々に砕けてぶら下がっている。
特に損壊が著しいのは左腕で、小指などはねじ曲がって肘に貼りついていた。
……流れ出た血液が腕の形に凝り固まり、衣服のかけらと混じった血の指が、杖だったものの成れの果てを握っている。

目は白目をむいた三白眼。筋力を失ったその造作は、重力に従って唇がだらりと垂れ開く死相。
黒髪はおどろに乱れ、そんな彼女が歩くと、足裏が床に触れた途端後方が大きく爆ぜる。
同士討ちに興じる警備の外骨格たち。合金を歪め合う他愛ない遊戯が、押し流される。

ズキン、ズキンと、その度に空間が軋む。
鈍く鎧越しの自分すら、頭の中がひび割れる。



萃英が腕を振ると重量も腕を振る。
小回りの効く軽快さに何拍も遅れながら、腕に搭載されたレールガンは連射して、軌跡の延長線上を刻んでいく。

巨大な分、重量の動きは鈍重だ。
機銃を振るうを支えるその膝は、一度傾けば生身より大きく沈み込む。

気がつけば付近の変動は収まっていた。
目の前では、表情が戻った萃英が、剣閃を思わせる動きで流麗に舞っている。
既に動きは奇妙に遅く、切り替えの際は体重を支えるより大きく膝が沈む。

かすかだが、背後の重量のほうがタイミングが早い。
決定的だったのは、斬撃の際、腕を縦にぐるりと一回転させた。
機械ならともかく、人間なら出来ない動きである。直後、再び逆回転して肩を戻す。

乱雑に見えた連射はブレードのように建築を寸断し、ほとんどが封印区画への一本道へと役立っている。

(機体に自分の動きをトレースさせるだけじゃなく、自分が機械の構造に沿っている?)
立ち上がり、冷静さを取り戻した頭で、そんなことを考えた。
まるで自分より大きな力に仕える巫女のように。



セメントの川は総合的に見て萃英を中心に弧を描いていた。
彼女の足から始まるように。あるいは、集まるように。
上空もまた渦を巻き点となり、頭の直上が一番被害が甚だしい。

屹立する刃の威容。とぐろ巻く蛇。

銃身の過熱に伴い、腕が爆発する。
炎は寄り集まり、腕の形へ。見間違えようにも見間違えられない、細く長い女の腕へ。

機影よりも大きく広がるは、幾重にも重なる輪。
位置としては臍から下。萃英から噴出する力は尾となって還流し、巨大な蓮華座を形作っている。
それにより、野放図な力が、肉体から拡張しながらも一定の圏を定めている。

『異星人は有形の像に収め、我々は無形の型に収める!』

自分は何者か。
光輝、救済、慈悲。かくあれという誓願の形。
または衝動の下に体を動かした時、己とはどういう仕組みで機能を有しているか。

「意識の」
あるいは無意識の――
「外殻」

刀というフィルタ越しの人体。
一生を費やしてきた脳が、脳が破壊されても全身の細胞が覚えている。
肉体を通して培われた感覚が、正に血肉となり器となって、噴き出す大穴に指向性を与えている。



(無理無理無理それでどうにかなる規模じゃないだろ!?)
工学武道両面での技術の補助。本人の天才性。
まだ足りない。根本的に開いた穴の桁が違う。それだけでは無理なはずだ。

萃英が歩く。
糸が切れた人形のように、背後で重量が倒壊する。

正気を取り戻して飛びかかる警備達。
両の腕が上下する度、彼らの軌道が逸らされる。

静かに近づいてくるそれを前に、琢磨は魅入られたように固まっていた。
今和風に踊るように歩く片手には、遠心力で伸びた血刀が携えられている。

目の前で動かれるとよく分かる。
その歩行は拡散と収斂。両の足を交互に出すただの動作すら、相反する機能が同時に潜んでいる。
徹底して合目的なものには一種の美しさが宿る。我知らず見惚れる。

集中するとは、裏を返せば一方向に、元々流れていたもの以外、全て捻じ曲げるということである。
刃は総じて前へと威力を集約するが、刃筋が立った正面は両断する一方で、横の腹は触っても安全であり、抵抗を受け流す、
薙刀や長巻と比べて手元に近い刀は、その傾向が特に強い。

彼女が腕を掲げた時も、琢磨は停止して進路を塞いでいた。
闘気も邪気も突き抜けた一刀は、刃が左鎖骨から入って右骨盤に抜ける。
血は所詮、血。斬撃のペイントに留まり、装甲を切り裂く硬度はない。

一拍遅れて、斬られたと思った。
途端、息が止まる。肺と心臓に焼けつくような痛みが走り、倒れ込む。
呼吸に喘ぎながら表示を見ると、左肩から脇腹にかけて炎症が起こっていた。
(その程度のはずがない)

這いつくばる琢磨の脇を、既に萃英は通り過ぎる。
封印区画の直前まで近づいた彼女は、不意に、あらぬ方向を向いて血刀を振るった。





施設中部。レールガンの銃座に待機する一機。
「撃っていいいな?撃つなら今だな!?今撃たないで何時撃つってんだよ!」

内蔵されている予備電力全てを使っての一撃。
チャージされた最大出力の一撃は、遮蔽となる壁を貫通しながら対象を破壊する。
トリガーを引くと同時に弾体は加速され、気化する輝きを帯びながら放たれる。

「電磁投射砲(レールガン)ってのは、これが本来の使い方だ」
発射と同時。
閃光が彼の全身を照らし出した。





天に衝き立つ光の柱。
空中より地表を貫通するレールガンの砲撃は七色を帯び、上階を根こそぎ破壊して地表にクレーターを作り出した。
剣のように真っ直ぐ伸びた返し矢は、衝撃波によって既に亀裂を加えていた封印区画の障壁すら吹き飛ばす。





「空間歪曲……」
慄然と、紬は呻いた。
視界の彼方に映る人影を認めながら、その先に伸びる夜空の残光。

昨年、ヤソマガツが転移した時の現象。
空中からの俯瞰で砲撃を察知した萃英は、寸でのところで切り返した。
単体で既に意味不明な現象を、萃英は小規模ながら任意で行ったのだ。

『SFかオカルトか、はっきりして欲しいものだ』
繋がりっぱなしの回線から、CDF長の言葉が聞こえる。

「アハハハハ!」
突然、盛口が笑い出した。ぎょっとした目を向ける一同。

『とうとう壊れたか?』
代弁するCDF長。その割には、大分平静な口調だったが。

「ネビラルが止まった」
言われて視線を巡らせると、確かに無効化装置は止まっていた。
こんなに距離が近いのに。

「今の大技で相手も大分リソースを消費したはずだ。立て直すぞ!」



外骨格たちが移動する。
各所に分散されていた機体が、距離を保ったまま立体的に陣形を組む。

琢磨は独立し、直援に回られないよう相変わらず怜次を牽制する。
津具村が最後の侵入者、別当寺伊織を抱えて区画内に入る。

レールガンの一件からも分かるように、奥に入るほど警備は増す。
中央に辿り着けば、分散していた戦力は、訓練通りの一ヶ所、無効化空間に集中する。
射角も大きく重なる。

盛口だけが覚えていた。十年間とは、彼がヤソマガツに向き合ってきた歳月でもある。
「入れない」でなく、「出さない」ための施設なのだ。





舞鳥萃英は緩やかに歩を進める。

人工筋肉発電海洋波力。ブラックボックス紅真珠。念力幽体離脱意識の外殻。フィルタ越しの人体。
超能力とセンサー/エフェクター/プロセッサー。ロボット工学外骨格。武術。武道。
運動のデジタル解析と動作フィードバック。
千里眼事件。丸亀事件。

関わる事柄は経文の如く、絡み合う様は有機的なマンダラ模様。
科学、医学工学、特殊芸能、武術武道、呪術、そして金。
異なるアビリティの重ね合わせ。

あらゆる諸力が手を携えて、秀英が一つに萃まった時、どれだけ途方もないことが出来るのか。



外骨格の一機は、封印最奥にある四脚に急行した。
ヤソマガツコンテナを収める大型の重量外骨格。
搭乗に際し軽量全装甲の装着が要求されるじゃじゃ馬は、危機に対する最終フェイズだ。

格納後は、四脚の不整地踏破能力を生かして最寄りの自衛隊駐屯地まで疾走する
封印施設外に突如現れた危険物を民間で管理するに当たって、政府との間に合意がなされた緊急時の対策がそれだ。

大型の機動兵器が高速で移動することによる、既存インフラや周辺住民への被害は不明。
その際の伏兵の有無も不明。
そもそも無力化装置の性能が移動中堪え切れるか、国道でヤソマガツが解放されるリスクの確率も不明。

それでも、襲撃によって確実にヤソマガツが解放、ないし武装勢力の管理下に収まることよりはマシだ。
既に侵攻の際、警備により、ヤソマガツは再び破片にまで寸断されている。

この措置をとることは、組織としての終焉を意味する。
無力が明らかになった対抗組織など用を為さない。対象の管理は政府の、自衛隊あるいは米軍下に移行する。

度重なる事件で組織は打撃を受けていた。
だが、決定的であった紅真珠の暴走であっても、場所が違うので封印施設自体は無傷。
あくまで心証の問題であり、解体にしろ軟着陸させて余波を最小限に抑えるべく、CDF長や紬は尽力してきた。

それを本来の意味で瓦解するまで追い込んだのは、実質的にはたった一人。



通信の中で、誰かが言った。
『まるで料理番組だな』

これこれこうしたらこういうものが出来ます。
それには相応の時間がかかります。
そして、これがあらかじめ仕込んでおいたものです。



舞鳥萃英はおかしい。
異常を通り越して笑ってしまうぐらい可笑しい。

立ち塞がる万障轢き倒すジャガーノート(山車)。
別世界からの来訪者と言われた方が信じる程、その存在は現代を超越している。



それはひょっとしたらあったかも知れない未来の姿だ。
別の選択をしていたら普及していたかも知れない技術と思想だ。

付き従うのは、組織から選り落とされた男。



切り捨てた未来が、復讐に来る。





[27535] 第十五話(二)
Name: 三二一◆02c59522 ID:068f191e
Date: 2014/02/22 23:18
舞鳥萃英は封印区画の境界で止まる。
一度閉じ、再び開かれた双眸は、最前とは異なる輝きを帯びている。
例えて言えば、魚から人間になったのだ。



「直にお目にかかるのは初めてですね、淀海紬さん。舞鳥萃英と申します」
第一声を放った時、まず「それ」が人間的な行動を取ったことに驚愕が走る。

(喋った!?)
署名を目撃しておいて今更発話も何もないのだが、琢磨も正直ありえないことのように動揺する。

喉を押さえてから紡がれたその響きはしわがれて、琵琶や琴などの割れた弦楽器のよう。
長く使われていない埃すら感じさせる。

「あまり時間がありません。お話しましょう。さて、何から話しましょう?」
どこか彼方を見据えながら、萃英はとりとめもなくそう言った。
その注意は全て、淀海紬一人に向けられている。

「……こちらから質問してもいいか?」
「いいですよ」

いまだ大枠は戦闘の最中。
銃座が向いて人質もとられた状況で、萃英は今までになく落ち着いた態度をとっている。

「まずは襲撃の目的からだ」
「それは……何と言ったらいいんでしょう。多過ぎてまとめきれません」
一歩一歩、手探りするように言葉を選ぶ紬に、萃英も和やかに応える。

盛口も、回線が繋がっているCDF長も、全てが黙って聞いていた。
あえて口を挟まないし、「無茶をしなくても方法があったかも」なんて刺激を避ける。
今は凪。しかしそれは常に逆鱗の一歩手前だ。

外骨格たちは全て固唾を飲み、琢磨も強烈なノドの渇きを覚えていた。
備え付けのキャメルバックからこっそりと吸引すると、舌に強烈な快感と共に全身に活力が駆け巡る。
一呼吸置いて思考は鮮明になり、今までの視界がどれ程狭小していたか気付く。

にもかかわらず即座にストップ高になる警報度数。
肌で感じるプレッシャー。
全身全霊が警戒して、機嫌を損ねたらヤバいと告げている。

数多の鎧を剥がされてなお、舞鳥萃英は絶対者だ。
何故だろうか。そこにあるというだけで、その身体から強烈な格上としての指令を感じるのだ。



「言い方を変えよう。ヤソマガツを解放して、どうするつもりだ?」
「ああ、そうでした。そこから説明しないといけないんでしたね」
邪気なく、教師に道筋を見つけてもらったかのように萃英。

「私に、ヤソマガツを解放するつもりはありません」



(何?)
目の前の機体を見やる。怜次は、静止したまま間合いを測っている。
機体越しでは表情が分からない。



紬の気配が鋭くなった。
「……死ぬ気か?」
「そうなりますね」

ある種意味不明(もう死んでる)な問いに対し、萃英は首肯した。
続いて、上機嫌に切り返す。

「あなたは何を根拠にそう思うのでしょう?」
「根拠って、その強過ぎる感受性で、ヤソマガツに接近して無事で済むわけがない」

「何故」
「何故って……」
「どのように、無事に済むはずがないのです」

鬼気が膨れ上がる。
紬は虚を突かれたような困惑の表情。
位置はそのまま、その瞳を圧迫するように覗き込んだ萃英は、ふと笑って呪縛を解いた。

「あなたに自覚できるはずがないのですよ、可愛らしい雀さん。他の説明体系で補えるあなたでは」
この点は琢磨も分かった。
要するに、知識による分析や類推は得意だが、いざ自分でやるとなるとまるで駄目ということだ。

一気に紬は憔悴し、それでもなお確信を言葉に紡ぐ。
「子供のためか?」
「正解」



目の前で、目に見えてロゼッタが動揺した。



「相手は殿方ではありませんよ」
これは、周囲に向けられたものらしかった。おそらくは怜次への。

自分の額を指差す。
「ここが開いた時、私の中に流れ込んで来たものがあります。
何分私は代謝の止まった体ですから、本来なら身籠ることがないはずが、非常にゆっくりとですが成長しています」

意味するところを理解した時、琢磨は愕然とした。
一瞬で背筋が凍る冷たさに、機体の中で膝が笑う。

空白に魔は宿る。
その一つが死体だとして、人体にはもう一つ候補がある。
それは女性だけが持つ器官。本来の機能として生命を育む中空。

すなわち子宮。

拘束制御を失った時に萃英が見せた、精神の壊れた顔。
一つ間違っていれば、紬がああなっていた可能性。
それどころか、見過ごされているだけで既にもう……。

「他は当然、あなたも無事に済んだようですね。ですが事実私はなりました」
その台詞に安堵する。と同時、先程の萃英の台詞を理解する。

溶鉱炉に直近して、回線が繋がっていないから平気でいる。
高圧電流に止まって囀る雀に同じ。
かつての際、唐突で意味不明に見えた暴走すら、この女にとっては行住坐臥の延長に過ぎないのだ。

「可愛らしい雀さん」
その呼び方は、絶対的な立つ瀬の違いを表わしていた。



ヤソマガツは実質無尽蔵に再生するが知性がない。
萃英は強大で知性を保っているが死体だ。

どちらも現在は、不自然に器を借りている状態にある。
月満ちて産まれるのは、人間か、化物か。

いずれにせよそれは、初めから肉を持って顕現し、知性はおろか生殖能力すら有するかもしれない。

「私が見えるものは他人には見えないそうですが、あいにく未生の記憶も黄泉の見聞もありません」
荒廃した建物に響くその声は、しゃがれたことを除けば震えが来るほど玲瓏だ。

「望まず産まれて望んで死んだ。しかし父は私を呼び戻した。
新しく産む者の責任として、せめて産まれてくる場所はよいところだと告げたいのです。
主観ですら祝げないようで、どうして尊重することになりましょう。しかし、お世辞にも現代はいい時代とは言えません」
中身がどう分類されようと知ったことではない。ただ、このままでは、この子はとても悪いものになってしまう。



お前(子供)を愛している。
この世は地獄だ。
そううそぶくのなら、何故生んだ。

何か、強烈な呪詛が周りを漂った。



「……どうして手紙を寄越した?ヤソマガツに近づくだけなら、そちらの方が確実だったはずだ」
そうでなければ、こちらは完全な不意打ちを食らっていた。

「……空を知らないんですよ」
それは絞り出す夜露のように。

「ヤソマガツを拾って二十年。
それ以降に生まれた子供達は、かつての清浄な夜空を見たことがないんです。
彼らが目にするのは、何か得体の知れない恐怖に染まった危険な景色のみ」

問いかけるように向けられた紬の視線に、傍らに居た三輪と佳辰は不思議そうに頷いた。
琢磨も含め、当たり前過ぎて疑問にも思わなかったことだ。
(夜って怖いものだろ?)

怖がっても大人たちは、臆病だとか勇気を出せとしか取り合わない。
お化けがいるよ。迷信だ。
大人とは怖くても我慢するものだと教われば、大人は皆これに耐えて平気なのだと尊敬する。

無自覚に走る世代の断絶。

当時既に物心ついていた萃英。
並外れた見鬼だった彼女は、空が変わっていく様を覚えている。

「あの空を元に戻すだけの力は私にはありません。
だからせめて、既に成人しているあなた方に私達が見ている世界を見せることにしました」



「世界?」
紬の問いに、萃英はゆっくりと頭上を指差した。
皆も後を追って首を傾ける。

砲撃で穿たれた天井。
頭上の先にあるものが、琢磨にも常よりはっきりと領域が分かる。
月明かりと共に広がる空には、彼方をとってなお無量の、大陸のように巨大な何かが渡っている。

紬は息を呑んだ。盛口も、津具村含む外骨格も。
突如として現れた大パノラマに、成人たちは言葉を失う。
その気配は静かに降り、今自分の隣にも。

外骨格の数人が、発作的に体を払った。

「そう……大きければ分かると言えど、大き過ぎても気付けないんですよね」
と、萃英。

「勿論本来の目的を果たすだけなら、奇襲が最善です。
しかし唐突に起きた出来事では、あなたたちは意味すら掴めないことを別の人が教えてくれました」
佳辰とその友人の顔が歪んだ。

「虫のいい話ですが……今回の経験を後生との疎通に活かしてくれることを願います。
次の世代はまだまだ若い。現在力を持っているのは、あなたたちなのですから」

子どもたちの未来のために。
いずれ産まれ落ちる我が子のために。



「とは言え、元々は単なる気まぐれです。あなたと話がしてみたかった」
萃英は息を――生前の癖か――ついた。

「私と?」
「初めは単なる好奇心。次に無茶をする心配と鈍さへの呆れでした。
こんなに鈍いのに、どうしてあれをわずかなりとも理解できるのだろう。そう関心が湧きました」

そう語り、童のような笑みで称える。
「注意をする前に限界を迎えたのは申し訳なく思います。ですが、あのタンカは好かった!
私も胸がすっとしました」

彼女が触れているのは、東京で暴走した時の激情だろう。

続いて萃英は上機嫌のまま大きく伸びをする。
「それはそれとして、久しぶりに思いきり体を動かせて面白かったです。
最後も、かなり際どかったですが、一応死者が出てないから及第です」


今までの戦闘全ては遊び。
極上の気晴らしだったと満足する感興に、超自然とは別個の恐怖で平衡感覚が乱れる。
表面上は話が通じる態度を取り繕ってはいるが、根っこのところでは自分本位の濁流だ。

「陰は陽、陽は陰へ。末は本へ。呪詛は加護へ。
天地の道は極まれば則ち反り、盈つれば則ち損ず。
災いは、幸いへと変じましょう」





大気と共に、暴君の意が変わる。
「さて――刻限です」

一歩、本当に一歩。
萃英は封印区画に足を踏み入れた。

同時、背後で全ての銃座が円錐状に変形して崩壊する。

足を中心にへこんだ床。
その範囲圏から隆起して、血管のように走る流れがある。

「電気配線を経由して、遠距離にまで干渉した……?」
信じられないといったように、佳辰が呻く。
個人的にはそれを見抜ける理解力も信じがたい。

再び、萃英の背後で衝撃波が爆ぜた。
遅れて軽量の数機が急加速し、頑健に残っていた障壁の最奥へ激突する。

そう、直接には無効化されても間接的に投擲すれば攻撃は出来る。
形を与えていた念力で薙ぎ、鞭みたいに振るったのだ。
紬たちは近くに居た盛口の重量が、咄嗟に覆いかぶさって守っている。



爆発的な音を立てて、ヤソマガツを収めた重量級外骨格が動いた。
超重量物が地を蹴る衝撃は地震に似て、萃英を除く全員が反射的に腰を落とす。

『四脚!』
盛口の怒号。

本来、ここからが本番の封じ込め戦。
しかし一瞬で最有力の手札を潰され、接近される緊張に搭乗者が耐えきれなくなったのだ。



怜次が一番早く立ち直った。
臓腑に響く震動を感じながら、駆け出す背中を追い、琢磨も走る。

萃英から距離をとるルートを取ったことで、わずかながら距離が開く。
その間に、上階から一直線を走る他機体が先行する。

(この分ならアレは無事だな)
事機動力、それも長時間の移動距離に関しては、外骨格の独壇場。
その中で純粋な技量において、新参の琢磨は最下層に位置する。あくまで優位は経験。
腕と数、先程とは比較にならない相手が怜次を阻む。

そもそも重量に関しては絶対的な歩幅、ストライドの差が大き過ぎる。
追いつけるのはロスの少ない精々数機。



一際速く助走をつけて、怜次が跳んだ。
距離としてはまだまだ遠い。あくまで重量本体には。

怜次は既に先行する重量にとりつこうと跳躍していた外骨格を蹴り、空中で姿勢を転換しながら四脚へと接近していく。
――跳躍の際、念力で反作用を増幅させながら。

次々に墜とされていく僚機たち。
悔しさより先に技能と一発に賭ける度量に驚嘆する。やはり才能だけなら怜次のほうが数段上だ。
(マジかよ)



『琢磨!』
前方から切迫した通信が入った。

目を向けると、先を行く先輩が横に腕を振っている。
その方向には生い茂った木々の群れ。
他の機体は全て踏み台にされ、残った機体達もまた単独では追いつけない。

『了解!』
意を察してルートを逸らす。

景気づけの雄叫びと共に、なるべく太い枝を選んで駆け登る。
過重で足場が折れる前に飛び移って疾走。

背を丸め、頭部の前で腕を交差して面積を少なくし、視界は枝葉に覆われる。
突如として開けた視界の下には、データリンク通り、先輩の玉串がある。
その背を目標に琢磨は跳ぶ。

やにわに彼がすっ転んだ。勢いのまま逆立ちし、曲げた足を上に向ける。
その足裏めがけて琢磨が迫る。

着地は一瞬。
刹那の間に発射台の足は大きく伸び、臨界点で琢磨も威力を上乗せする。
格闘性能でも特に足回りの出力を強化した、玉串二機の跳躍力をピンポイントで集約した一合は、上の一機を砲弾として射出する。
人体の筋反射を凌駕するインターバルで行われた運動に、軟骨は悲鳴を上げ膝の筋肉が断裂する。



放物線の頂点に至るまでに、琢磨は四脚を追い越した。
普段と異なる角度から眺める機体は心なしか小さい。

接近と共に、急激に大きくなる。その間隔も、予想を超えて早い。
外したら、良くて空振り悪ければ地面の染み。

「当たれ当たれ当たれどうか当たって!」
目見当でやった計算が。何より自分が。

視界の全てが装甲板で覆い尽くされ、着弾と共に横っ転がりで衝撃を緩和。
それでも外骨格越しに爪が剥がれるぐらい握力を酷使して、落下を阻止。
妙なハイテンションで立ち上がると、ロゼッタを着た怜次が中腰でとりついていた。

『無茶をする奴だ』
「お前には言われたくねえー」

機上にはお互いのみ。決着をつけるべくじりじりと距離を詰める。

その怜次の動きが止まる。
そして視界の隅。ほとんど意識の外に追いやられていた外骨格の後部カメラ。
後にした施設の近く。遥か後方の地面で、何かが翻った。

機体ごと注意を向けると、舞鳥萃英がアスリートのような姿勢で疾走していた。
見事なフォームの手と足は信じられないペースで交錯し、木々をくぐり、猿か魔物のような速度でみるみる近づいてくる。

「嘘ォ!?」
思わず叫ぶと怜次も固まっていた。お前もかよ。

その足が木の根を踏む度に、それがうねって次に四脚の背中が揺れる。
脚が弱まった隙に側面を走り抜けて追い越す萃英。
即座に足を止め、迎撃の体勢を整える。

彼女を中心に木々は根と土ごと吹き飛び、突如出現した落とし穴に四脚の大型建造物の柱ほどもある脚が吸いこまれる。

衝突の瞬間、萃英が腰だめに構えた掌底は、自分二十人ほどもある太さの鋼鉄に吸い込まれる。
同時に機体が一際大きく揺れ、二人は必死で手掛かりにしがみつく。

結果として脚を一本失い機体はバランスを崩し、貼りついた面々共々、前方のシートで覆われた一画に飛び込んでいく。





取り残された封印内。佳辰は友人と向き合っていた。
伊織は、自分を形作っていた一部を失うことで、毒を減じていた。
全てが無菌なら、それでも十分である。しかし複雑で葛藤する事象が起こった時、打ち消して抵抗するだけの力を持たず、強烈な偏りに引きずられる。

「かしかし……私、あの人を助けたくて……でもこんなことになるなんて分かってなくて……」
困惑するように震える彼女を、佳辰は抱きしめた。肩入れする理由も、少しは分かったからだ。
性別を越えてしわがれて壊れたあの声は、やり直せるならやり直したいあいつと似ている。





「オラァ!」
蛮声と共に琢磨は自分を押し潰している残骸を自力で持ち上げて脱出した。
ヤソマガツ対策に過剰ともいえる剛性を設計された機体は、巨大メカの下敷きになっても着用者を守った。

心底から認識する。
自分が生きているのは科学文明のおかげだ。



(それで、どこだ?ここ)
状況判断もままならないまま、とりあえず見当をつけて怜次を発掘する。
単分子刃の切断力は、人命救助にも迅速な効果を発揮した。

強制脱着ボタンを探り当てて機体を剥がす。
回収した紅真珠は、工具を一本捨ててラックに仕舞った。
旧式に加えて素人が改造を加えた頭部は防御力で劣り、友人は額をぱっくりと開けて血を流していた。

動悸に胸弾ませながら探った結果、危惧ほどは深刻でなかった。
かすかに骨は割れているが、息はあるし漏れてもいない。

辺りを見渡すと白いシートが散乱し、近くには十メートル単位の巨大な刀身が、刃を上にして立っていた。
そのオブジェはでたらめで、ところどころ原形を保った四脚の部品が見える。

「なんだそれ……自分一人で全部出来るじゃん」
単独で莫大な量の力を有しながら、周囲の経絡を利用する感性も桁外れに高い。
その気があれば初手の電線を千切った時皆殺しにされていた。
そうならなかったのは、本人の言う通りじゃれてただけだからだ。



当の本人が背後に居ることに気付き、呼吸が止まる。
直後には軽く、おそらく本人的には軽く、弾き飛ばされ、空高く宙を舞う。
広がった視界の先、灯火にきらめく街が見える。

いい加減驚愕という感情が麻痺しているので、冷静に高度を測る琢磨。
不意に何かに衝突し、不規則に激突を繰り返しながら地面まで滑り落ちる。
もう一人の自分が、その正体を知っている。



着地と共にモニターにノイズが走る。
流石に酷使し過ぎたらしい、完全に停止する前にヘルメットを脱ぎ捨てる。
こうした部分脱着が出来るようになったのも、昨年の戦闘からの改修だ。

直に当たると夜風は寒く強かった。
清冽な肌を切る刺激が火照った体に心地よい。

すすきが背丈よりも高く生い茂り、払って進むと露は時雨のように降りこぼれる。
足元には季節の早いつくしが生えている。

季節も植生もバラバラな植物が繁茂している様は、萃英の実家と共通した。

視線を上げると辺りには円で囲むように高い柱がまばらに生えており、背後にある自分が激突したのもその一本だ。

布状のものがひっかかる円塔らしきそれの先には尾根が巡り、見上げれば金に輝く朦朧の月。
満月からやや削れた、爬虫の虹彩のような衛星は、視界を縁取る円柱群、まるであの世への門の先に浮かんでいる。

そして気付いた。



「ネビニラル実験場か、ここ」

ネビニラル――開発者の言によればスーパーカーボン製の円盤――の一枚一枚に、ツタがはびこり、強固であるはずの結合が手折やかなツルに浸食されている。
細く緩やかに宇宙を包むかのような唐草模様は白糞に汚れ、隙間からねぐらにしていたと思しき鳥たちが、騒ぎに飛び立って喚いている。

かつて、ここは吸い尽された。
空白に宿るのがヤソマガツの中身だというのなら、これもまた姿なのか?
「そんな。これはまるで――」



遠く彼方から音がする。
あれが辿り着いた時全てが終わる。



風に乗って猛烈な金気が鼻を打った。
地上では、怜次と萃英が向かい合い、何かを言い争っていた。
枯れ木のように立つ萃英に、辛うじて上体を起こした怜次が一方的に話している。

足を引きずりながら近づく。
接続強度が下がったからなのか、それとも単純に疲れ切っているからか、体が重い。



「騙されていたのか、俺は」
「誤解していると気付いていた。好都合だから黙っていた。向かうための用意を整えてくれたことも。
特にあの盾を用意してくれたおかげで、相当楽が出来た。悪いとは思ってる」

「あいつは知っていたんだな?」
「本来の目的だけはね。でも伊織も君が騙されていた事までは知らないよ」



「お腹の中に子供がいるって、そのせいで死んだのか?」
「ううん。言ったでしょ?時系列が違うよ。
父は自殺した私を蘇らせようと知己に頼ったけど、額のこれをブラックボックスとして利用する目的は本来それだった」

「意味が分からないよ……」
「でもあの研究者は原典を知っていた。
多分、だからこそ、無意識にでも首から上に埋めるのを避けていたんだろうね」



「最後に一つだけ教えてくれ」
「うん」

「俺の衝動は、本物か?」
混じり気のない恐怖をたたえ、怜次はそう尋ねた。

「弄ってないよ。それは君自身のもの」

聞いていた琢磨も安堵する。
……しかし、そう応えた彼女の腕が怜次に伸びる。

「ずっとお返しをしなければならないと思っていた。しかしどうするべきかずっと悩んでいた」
血で作られた手が、頭を掴む。
意図を察して、怜次が呻く。

「やだ……止めろ……それだけは止めてくれ……」
「あなたにはこれが幸いだ」
「やめてやめてあいつみたいになりたくない!」

絶叫する懇願をよそに、萃英は怜次を抱きしめ、頭を撫で、そして掃う。
目に見えない何かを叩き落とすように。



琢磨が辿り着いた時、怜次は放心して固まっていた。
萃英の側に近寄るのは抵抗があったが、当の本人は小虫に歯牙もかけることもなく自分の都合を完遂する。
「さようなら。れい君」

そうして彼女は歩き出す。ヤソマガツへと至る道を。

「あ……」
遠ざかる背になおも手を伸ばす。
そんな姿にどうしたらいいか分からなくて、琢磨は湧き上がる感情のまま追いすがろうとする彼を押し倒した。
「いいんだ。もういいんだ」





投げ出された封印ケースは、実験場跡地の中央に落着していた。
発進に先だって分解されていたヤソマガツは四散し、飛び散らばった破片は集合しようと蠢いている。

萃英が無造作に腕を大振りすると、後方の円塔からネビニラルが一枚千切れてヤソマガツに突っ込んだ。
再生が再び始めから。

歩みと共に、萃英の体に傷が及ぶ。
まずは頬に走る裂創から。
四肢から、胴から、着衣と共に血肉が消えていく。
外骨格のフレームも削り落ち、鉤爪が生えた幾十もの見えない掌で、むしり取られるように。

ヤソマガツは器だ。
惑星規模の穢れを収めるキャパシティーは、同調する程、近づく毎に、際限なく吸い取っていく。



頭部の下へ辿り着いた時には、心臓すら喪失し、残るは骨と四肢の取りこぼし。
かすかに残った顔の上部で萃英はかすかに笑い。
視線で、そこだけは無傷を保った腹部を撫でる。

そして、巨大な掌に握り潰された。



後に残った血だまりに、二人はただ茫然と顔だけを向けていた。
彼女とその子供が影響しているか、ヤソマガツの再生は遅い。

(うわ……ひでえ……あの女、鬼か)
鬼子母神。
我が子のために利用して一方的に清算。
ひょっとして、長い目で見ればこのほうが楽なのかもしれないが、そこに本人の意思は無視されている。





頭上から音がする。
大気にこだまする重機の振動が。
空を渡る幾数ものヘリ。月明かりを逆光に、四肢が生えたものも見える。

「自衛隊……」

連絡を受けて最寄りの駐屯地から急行した自衛隊の空挺部隊。
陸空シームレスな重量級外骨格を保有し、装備も練度も桁違いである国の精鋭。

空にポツリと生まれた黒点は、見る間に肥大して見上げる琢磨の頭上をかすめて着地した。
同じく雹が降るように、側十数センチに落下傘も使わず、急速に正確に、音もなく降下する軽量外骨格。
構えた銃口を向けられるのと関節を極められるの、どちらが早かったか。

無言のまま手分けして、有無を言わせぬ圧力で制圧していく。
かつて提出したマニュアル通り、分断した破片単位で修復を阻害され、ヤソマガツが梱包される。
敷地の外縁では、追いかけてきた盛口や紬たちが取り囲まれ、命令系統の上らしき人物とやり取りをしている。

職人的な作業の緊張感。
もはやヤソ研やCDFが主役ではないのだ。
国が。政府の機関が。主体となって能率的に処理している。





「なあ……怜次。俺達は強くなりたかったんだよな。そのために動いたんだよな」
覆いかぶさりながら、囁いた。

何も最強なんて願ったわけじゃない。
自分の身は自分で守り、自分の力で抵抗したかっただけだ。

世界における自分の占める位置。
それを知りたくて、少しでも上に置きたくて、確かなものにするために苛烈を求めた。
苦難をくぐり抜けて試された力は、まやかしでも借りものでもない一つの実力だと。

そうして踏み越えた範の先。
支えにしてきた自負すら奪われる。

穢れを抜き取られて訪れるのは、誰もが分を弁える理想世界。
だったらこれが身の程か。



暮佐怜次。
自分、先崎琢磨。
それはおろか盛口やCDF長、PMFに至るまで、自分の前に立ち塞がる者その全て。

あの女は、満遍なく踏み潰した。

こいつが入隊試験に落とされた時、何と言われていたかようやく思い出す。
「運が味方しないなら合格しないほうがいいということだ。諦めろ」

身銭を切ってもなお足りず、要領を気取っても利用し返される。
推移が頭越しに通り過ぎていくのを感じながら、土を噛むのが俺達だ。



肩が痛い。息をする度胸に痛みが走る。それでも呼吸は自動的に続く。どうでもいい。
自分はこれから、取り調べか何か受ける。後は無職だ。その程度で済んでまだマシだ。


怜次はどうなる。
家宅侵入、強盗、それに傷害?
刑事罰がどうなるか、詳しいことは知らないが、前科がつくことは間違いない。
死刑まで行くのだろうか?命だけは助かっても、何年も一般社会から隔離されることになるだろう。
こいつは額から血を流している。その傷もいずれ治る。刻印の原因を失ったまま。

徒労よりなおひどい倦怠に、全身の力が抜けていく。
多くを積み上げてきたはずだった。
獲得の手触りを覚えたまま、それら自分を鎧い、強化していたものたちが崩れていく。
今更に、吹く風が肌寒い。



それでも力は傍にある。



心臓が一つ、大きく跳ねた。血流は逆流し、呼吸は止まる。
胸の下では、もう一つの温かい血潮が疼いている。

脇に手を入れられ、部隊の人員に抱え上げられた。
目に映る視界は、最前と同じ季節外れの雑草に埋め尽くされた草原。
しかし新しく開かれた理解に風景は、全くの異なった意味が広がっている。

先の一瞬、本当にわずかの間だが、琢磨は何かに触れた。気付いたと言えるかもしれない。
同じく怜次も。

栄養の不足で目がかすむ。
あらゆるものが溶けあう汎神論的宇宙。
目が悪いものには、現実がこう見えているのか。



銃口はいまだ向けられたまま。
だが束縛が緩む一瞬を突いて、下に居た怜次が駆け出した。

その顔面に銃床が叩き込まれる。琢磨を拘束する隊員とは別、銃を構えていた隊員が間髪入れずに反応した。

前歯を悉く折られ、大きく仰け反りながら、それでもすぐさま走り出す。
跡地の中心へ。

やにわに起こった騒動に、展開していた部隊の気配が一瞬にして切り替わる。
帯電する重苦しい殺気は、さながら一つの巨人。

取り逃がした隊員は優雅なぐらい大胆に跳躍し、着地点に設定した怜次を足裏で踏み倒す。
地面に接吻する時には、既に腕が極まっている寸法だ。

腱が切れる、関節が外れるというのは独特の不快さがある。
見ているだけで、取り返しがつかないことが起きていると問答無用で分かるのだ。
隊員はその不快さに耐えて職務を遂行し、なおも抗う敵にミチミチと音を肌で感じながら、腱を切った。
関節を外した。それ以上の不快さにも耐え、あくまで腕は握っていた。

肉を千切り骨を外し。更に伸びきった皮も破って右腕と肩甲骨を喪失しながら。
間欠泉の如く血を噴出させて怜次は走る。
目指す場所はヤソマガツ胴体――目前の血だまりの寸前で、一機が発砲する。

狙いは過たず。膝を撃ち抜かれて怜次は縦に車輪のように回転し。
通り抜ける衝撃波に内臓は損傷し。割れた額を頭から血の池へ落ちる。

血だまりに立つ隊員は、取り押さえられていたもう一人が、自分に向かって叫ぶのを聞いた。
「雫だ!拾え――!」





腕が生えた。足が生えた。

それは形を持った爆発だった。
質量を伴う爆風が巌となり剣となり、同時多発的に、複数の外骨格が宙を舞う。

裂けた額に嵌め込んだ紅真珠。
多重にとられた安全弁も無しに適性ある身に脳直で繋がった回廊は、激情に呼応して本来の域で噴出する。

あらゆるものが隆起する。
土砂は瓦礫は身の丈を超える牙の如き岩塊に。
踊る草を駆逐して樹木が伸びる。

見る間に月明かりは隠され、原始の闇に。
その闇もすぐに晴れる。
隆起し続ける地面は樹冠を突き破り、広がる光景は更なる太古のジュラ紀の姿。
鳴動する剣山の背において、頭上には雲がさんざめく。

それは御魂の大号令。
圧倒的な感情の激流に、かそけき霊は付和雷同して臣従する。





夜を迎えれば朝を待ち、朝に至れば夜へ進む。
天体は人為にあらず運行し、人はその疾走に暦を刻む。

成果を焦る日々の外側で、八月以降、かの生い茂る草々はすくすくと育った。
寝たり起きたりするその生活の傍らで、草木は芽を出し鳥獣は成長する。

意志力を誇示する人体の鍛錬。
いくら負荷を掛けようが、増大する筋肉量やスタミナを人間が決めることが出来ようか。
出来るのは、先行する経験から法則化し、予想を以って行動を効率化することだけである。

ものを食って栄養に変える時、意志を以って一体どこまで介在出来るか。
精々消化を助けるか、分解済みを直に注射するのが限界だ。



肉はつく。
傷は治る。
食えば体は吸収する。


いまだ呼吸は連続し、心臓は収縮して意識は繋ぐ。

万物に宿る造化の力。



身を焼き尽くす瞋恚の火。

どんなに荒び危うい姿になろうとも、それは元は清いものであった。
願い抱える偏りが、人として認められる限界を超えた時、直き想いは曲霊となる。





溢れ出す力は地形を変えて幾本もの柱を隆起させる。
無秩序に重なっていた増殖は、ある時一つに束ねられる。
すると同時同じものが四本出現し、一方の端で繋がる。

同時に突如、それまでは影響を免れた外から五本の柱が屹立し、両者は対となってより太い柱に乗って上昇する。
大地が、それまでとは比較にならない規模で盛り上がる。
振動する傾斜に並居る者達を滑り落としながら、弧を描いていた隆起の側面でまた二つの爆発。

上空から一望していた操縦士は戦慄する。
荒れ狂う変動が、人体を模倣して加速した。

まずは背骨。
それはやがて指となり、一揃いの腕となって更に巨大な胴を作り出す。



背中から二対の手足が生え、大気を攪拌しながら更に背は裂ける。
既に自重は限界を超え、崩れ落ちる端から寄り集まって上昇する。

腕は六――十――三十本?
頭は全方位に果実のように実り、造作が細かくなる前に大地に零れる。
その度に形成されかけていた足が崩れ、総体として上体だけの立像を保っている。

全てを押し流す濁流は体構造という別の流れに合流して効率化し、それすらも塗り潰していく。
頂点に坐す原型としての依代は形状を留め得ず、肉体の沸騰と共に気化し大気へ溶ける。

土くれの一つに至るまで咆哮し、空間そのものが玻璃の音を立てて軋む。
全身を貫通する凄涼な衝撃波は、地平線を超えて視界の彼方まで。

指向性の制御たる意識の外殻は吹き飛ばされ、増殖を上回って影響は広がっていく。
肉体の輪郭を越えて拡大する力。

力の偏向そのものに成って、行き着く先は荒々しい梵我一如だ。





左肩から胴体にかけて脈打っている。
脇腹に痛みが走り、見るとヤソマガツの腕が紅真珠を収めたラックを握りつぶしていた。
力任せに蹴り飛ばすとそれを追って剣山が伸びる。
接近する毎に削られながら、それ以上の速度で増殖して串刺し。

「分かったああああ!」
下方での絶叫に目を転ずれば、剣山の一つを足に敷き、木刀掲げて佳辰が気焔を吐いている。
片目からは血を流し、残った一つ目を真円にまで見開く。顔半分が木刀で隠れて単眼のようだ。
彼女が力づくで木刀を地面にぶっ叩くと一時的に隆起が止まる。

その後ろ襟が掴まれて三輪に投げ飛ばされた。
盛口や紬、侵入者の一人だった少女もまた、ジャイアントスイングに似た暴投で強制的に離脱させられていく。



「ごめん後は考えてないわ」
手当たり次第避難させて呟く元に、琢磨は滑り下りる。

光条が天を衝いた。
自衛隊の重量によるレールガンだ。
胴体に大穴が空いた端から再生し、そしてどうしたものかヤソマガツの頭部が飛来する。

すると付近の隆起が局所的にえぐれた。
プラズマ状の弾体を目視して視力が弱ってる時に、カタカタ鳴りながら迫ってくるヤソマガツ。

「アハハハハ!」
ヤケクソになりながら三輪を頭上高く掲げ、人によっては世界遺産扱いするそれを足蹴にする。
なおも地盤ごと上昇し、視界の隅が移り変わる。
大気と共に全身の細胞が震え、歓喜と共に光へ近づいていく。

それが急速に冷却し、後に残るのは二人の男女。
「あれ?」
体は勝手に動いてヤソマガツを蹴り飛ばし、拍子抜けしたまま立ち尽くす。



空気が焦げる火薬の臭い。
上空からは高所に避難していたヘリが再来し、再生したヤソマガツを機銃で以って砕いていた。
その破片を、残っていた隊員達が拾い集めることで削れていく。

「えーと、とりあえず琢磨。下ろして?」
頭上からかかる声も耳に入らずに、琢磨は立ち尽くしていた。

「おーい?」
高さ数十メートルの奇岩に立つ琢磨は、かつてなら空に属す領域に居た。
その横には、大気を挟んで黒い影が横たわっている。

それは山。
足場のような間に合わせの代物でない、悠久の造山運動が生んだ、本来の意味での山。
ここに配属されてきた時から自分たちを取り囲み、見下してきた木々が目線の先、前にある。

先程の急転を経てすら、依然としてかつての雰囲気、優美で厳かな雰囲気を保っている。
名前すら知らないただの地理。
目線が上がっても対等と錯覚することすらおこがましい、接触した感覚すら塵とする、圧倒的なそのスケール。

知らず、琢磨は奥歯を噛み締めていた。






翌昼。事件から十数時間後。

身柄を拘束された職員達。
琢磨は、あてがわれた宿舎でベッドに入ることもなく、直に床へ伏せていた。
同室の者たちが食事をとりに行っても、琢磨は横倒しになったまま停滞している。

つけっ放しになったテレビからは、事件に関する報道がかまびすしい。

『突如出現した森林ですが、その木々にはおかしな点が存在します。お願いします』
レポーターが一礼して促すと、作業員が、傍らにある一抱えほどもの幹に斧を打ち込んだ。
厚く頑丈そうな皮の見た目に反して刃は深々と一息に入り、割り箸を割るような脆く水っぽい音を立てて倒れ落ちる。
その切れ目からのぞく断層は眩しいほどに単調。

『ご覧下さい。この通り、真っ白で、通常あるべきものがありません』
年輪のない一夜木。それまで枝葉、種であったものが急成長したのが、突如現れた森林の正体だ。

続けて、付近市街で局所的な振動があったこと、
付近住民および宿泊客は避難を余儀なくされたこと、
水道管の破裂や逆流などの被害があったこと、定点カメラが捉えた二度に渡る空へ伸びる光条などを紹介している。



(どーでもいーよ)
何かでっかい穴があいていて、やる気や食欲、活力が生まれる端からそこを通って流れてしまう。
右肩は疼き両膝も痒いように痺れる。左胸から右脇腹にかけて、一直線に火傷の跡が走り、呼吸するのもしんどい。
全てどうでもいい。



扉が開いた。
琢磨は視線を床に固定していた。というより上げる気も起こらない。

「――父親への聞き取りで、彼女の仕組みが分かったよ」
才能なしその2がそう告げる。

「脳直であれだけの出力の程繋がっているのに、どうして理性を保っていられるのか不思議でしょうがなかったんだが、
遺体に自分自身を憑依させることで、帯域の一部を占有して流れ込む量を制御していたらしい。
交通規制を施すことで、生前から突出していた素養や、矯正器具付きでの動作と組み合わせて、
「とりあえず野放しにしていても暴走しない」程度に漏出を押さえていたわけだ」

「この紅真珠をブラックボックスとする方法は元々父親の友人が超能力開発として温めていて、彼女の自殺に伴って親が擬似蘇生としてすがったらしい」
『パンの大神』って知ってる?と紬。
「それで、流れ着いていた紅真珠を使い、外科手術は友人が、魂と真珠との接続は父がやったんだって」

そこまで語って、紬は大きくため息をついた。
「そして件の男は、十年前のヤソマガツ暴走に巻き込まれて死んだとさ。
「みえる人」であった父や萃英は貝の異常や空についてをアレと結び付け、いい機会だからと見に行ったんだと」

立て板に水で話される説明をほとんど聞き流し、その1は内向していた。
どうでもいい。分かったような気になる説明に意味などない。



あれは呪術だ。
自分のハラワタをかっさばいて引きずり出し、そのまま相手にぶつけるようなもの。
自分の内側と外側を逆転させる方法。

そうして既存の流れに乗りながら拡大していって、遂に混じり合う規模が大きくなり過ぎて、拡散の果てに主導権を奪われた。
巨大過ぎる流れの中には、薄まりまくって霧散する。



(あいつとなら一緒に戦えると思ったんだけどなー)
話し合えて、肩を並べて。しかし実際は一人で先に走っていった。

(考えてみたら俺一人じゃ何も出来てないよなー)
入隊はアドバイスのおかげ。初戦も盛口他多数の協力があったからだし、探索もあいつが居なきゃ空振りだ。

足りない足りないと駆け回ったその挙句。
置き去りにされたまま、どうにもならずふて寝している。



「……理外の化物が二つに増えて、一方に対する監視設備も周辺に多大な被害を与えて破壊された。
度重なる想定が合わせ、民間に委ねておける域を超えた」

(だろうね)
それはようやく訪れた正しい理解。移るのは、自衛隊か、米軍か。
「……災害と認定され、自衛隊の管理下に移ることが決定した」

既に四脚が走り出した瞬間に、分かりきっていた結末でる。
応援を要請した時に決まっていた決定である。
なのに、それを望んでいたであろう彼女は、珍しく言い淀んでいる。

「私は人事面までは触れられないが、ノウハウの引き継ぎ後は、あるとしても再度正規の入隊過程を踏むと思う。
ヤソ研、CDF共に、対抗班は解散だ。……ついては、組織最後にヤソマガツ戦が決まった」






「正確にはちょっと違うんだけどね。
以前話したよね?ヤソマガツと戦うには、同等以上の化物が必要だって」

「毒を以って毒を制する。獣は獣に食わせろ。
二つに増えた脅威は、コントロール出来る一つにまとまった方が都合がいい。あわよくば共倒れ」
……真に強烈な呪詛は他に対する加護に転ずる。

「新しく出来た化物を、ヤソマガツにぶつける」



ほら、君の望んだ再戦だよ。



反射的に激昂し、紬の胸倉を吊り上げる。
「……っ!……っ!!」
語彙にもならぬ怒りを前に、宙にかかとが浮いたまま、紬は不快気にその腕を手の甲で払う。

「私だってこんなリスキーなのは反対だ。でもトップ二人がやる気で了解取り付けたんだからしょうがない」
「盛口さんが……」
「現れた二体目は、遅くなっただけで拡大はまだ続いてるんだよ。影響圏がどこまで続くか分からないけど、あんなものがその内水脈やマグマに触れたらどうなると思う?」

なおも吊られたまま足が揺れる。
「どう交渉したらこんなもの呑ませられるのか想像もつかない。でも二人は本気だ。
犠牲を払ったからこそ、見返りはなんとしてでも手に入れなければならないとね」

「それ、は……」
掌から力が抜けた。
その台詞は、かつて自分が目の前の相手に吐いた啖呵ではないか。

「この苦況をあの二人は奇貨とした。しかし戦わなくても、あの新型はどの道消える。
作り方が分かってる危険物だ。ネビニラルで地域全体枯渇させてそれで終わり。
リソースの回復が明らかになったから、これからは濫用が横行するぞ」

淡々と、事務的と言うよりは酷薄に。



立ち尽くす琢磨を暫く観察していた紬だったが、やがて手に提げていたビニール袋を胸に放った。
「とりあえずご飯食べな」
袋には、菓子パンやプロテインバー、ペットボトル飲料などが入っていた。






[27535] 第十六話
Name: 三二一◆02c59522 ID:068f191e
Date: 2014/02/28 22:30
第十六話『贖物の神』





休暇をもらったので勧め通り帰省した。
微妙に変化してる街並を通り過ぎて辿り着いた自宅。
母に土産物の菓子を渡し、日曜の休日の昼下がり、父と共に茶が入るのを待っている。

集合住宅の一室。
平机を囲んで床に直に座った琢磨は、壁にもたれたまま何するでもなく旧式(デジタル)テレビの黒曜石のような画面を眺めていた。
父は隣の辺に陣取り、狭い空間を目一杯満喫して、横になっている。

「淀海さんと同じ職場になったんだよな?どう?」
「どうもこうもあるものか」

辟易するような質問を投げかけながら、手が空を掃く。
リモコンを探しているようだが、微妙に距離があってそのままでは届かない。
体を起こすなりすればいいのだが、その労もめんどうくさいらしい。

「ゴームゴームの~」
父、先崎明尚の掛け声と共に、右腕がびょーんと伸びてリモコンを捕まえた。

かつての事故以来、その片腕は機械製の義手へと変化していた。
当然、ゴム製ではない。
先程の台詞は、彼の少年期に人気があった漫画の台詞らしいが、琢磨は大分読んだ記憶が曖昧である。





『先日、国はヤソマガツを災害として認定しました。
そして渦中にあるCDF、ヤソ研と共に、ヤソマガツを神として祀り上げる動きがあります。
色々物議を醸す事件もありますが、現代、それも政府が神を認定するということについて問題はないのでしょうか』

あれから十数日後。
テレビでは、ワイドショーが一連の経過についてやっていた。
触れられていることは、佳辰の技の再現に関わるものだ。

あの後、トランス状態になっていた佳辰のデータ。
それと辛うじて回収出来た怜次、萃英の機体残骸から入手した記録を擦り合わせることで、佳辰の技(本人曰く霞斬り)の再現が可能になった。

それを用いて空気人形のコピーを退治するデモンストレーション。
既に流布している神像を敢えて作り、破壊することで人心の安定を名目に公開されている対処法の実演。
その際に神官が帯同し、大祓の祝詞を唱えていることへの危惧である。

『実物を見れば有効なことは分かりますよ。
でもあまりにもナショナリズムと言うか……外国が真似できないでしょうあのやり方じゃ。
被害者感情に配慮しても、惨劇の原因を神と崇めたてることはどうなんでしょうねえ』

もっともな、客観的には正確な司会者の疑問。
答えるのは最近売り出し中のコメンテーターだ。
端整なスーツに身を包み、肩には着流しを羽織っていた。



『まず押さえておきたいのは日本の神概念です。
「神」という語は非常に刺激的かつ多義的な記号でして、危惧なさっている理由の一つは神を「優れた尊いもの」と捉えているからでしょう』

『そうです。神業とか言うでしょう』

『しかし伝統的に見ると、神という語が表わすのは「人智を超えた手に負えないもの」だったんですね。
火山、水害、疫病などです。どうにもならないからおだてて機嫌をとって治まっていただく。
例えばですね、昔東北の方で地震があったでしょう。
あの時沿岸を大津波が襲いましたが、祭神がスサノオのところは被害を受けていないんですよ。』

『……』

『これは勿論、神様が実在して超自然的な力で守ってくれたなんてじゃなくて、合理的に説明がつきます。
要は大昔に洪水があった時、被害が無かったところにスサノオを祀ったんです。
それでなんでスサノオを祀ったかと言うと、この神はヤマタノオロチを倒した治水の神だからですね』

『因果関係が逆だということですね』
『そうです。
祭った神社も高いところにありましてね、津波が来てもそこに逃げればギリギリ助かるというところにあります』
『面白い話ですがそれとこれとがどういう……』

『さてそんなスサノオですが、これもまた多面性のある神です。
その中でも、彼は疫病をもたらすが故に疫病を防ぐ祭りの神様なんです。
昔彼が旅をしていて、兄弟の家に別々に宿を求めたが、弟は拒み兄は泊めた。
後に彼は拒んだ弟の一家を皆殺しにしますが、その際嫁いでいた兄の娘に茅の輪を与え、巻き添えを防ぐ目印とします』

『これに関わる祭りが蘇民祭であり、スサノオを祀る信仰が祇園信仰。
そして6月に大きな茅の輪っかをくぐり、疫気を払い無病息災を祈るのが、夏越の大祓です』



『災いを起こすことが出来るものは、防ぐことも出来るというのが日本古来からの宗教観念なんです。
昔、祟り神という言葉が流行りましたが、「触らぬ神に祟りなし」と言うように、神とは元々祟るものなのです』

益となる神か、有害な悪魔か。この二分法は神が全知全能で善である一神教でのみ成立する。
ニューギニアでは善神と悪神が存在し、祀られるのは主に悪神である。何故なら、善神は祀らなくても害を及ぼさないからだ。



『意外に伝統を背景にしているというのは理解しました。
しかしやはり、やり方が限定され過ぎているのではないでしょうか』

『技自体の再現は、実演者の中に外国籍の者も見受けられます。
あくまで一国としてそこに住む国民のために行うから、図らずも日本は日本的になるのであって、海外ではそれぞれ国ごとにやり方を工夫していくでしょう。
派手だから分かりやすい半面、接近するよりは撃った方が楽で確実なのは、アメリカの例でも明らかですし』

「お前のところってこいつに金出してるの?」
父が聞いた。
「さあ?」
琢磨にはどちらかというと悪化させているように見えるのだが。



『被害者に対しては、分からないものは分からないとはっきりと告げ、安易にエネルギー問題や軍事などに利用することを阻止していく。
自分の限界を認めた上で対処法を詰めていく、それこそが被害者に対し誠実な態度と言えるのではないしょうか』

「disった」
「批判した」

琢磨も今更思い出したのだが、こいつ炙り出しの時居た霊能者?である。
理路整然と、常識的と言うよりは確信している口調に、司会者も根を上げたようだった。
とうとう、根源的な問題を切り出す。

『発想はわかります。あれが超自然的な存在であることも、海外でそう認定するところがあることも踏まえます。
でも、「神」ですよ?
神というのは、こんな現世的な……言ってしまえば政治的な都合で定めていいんですか?』

『そうです。「神」とは、人間が勝手に与える称号です』





『怖かった。そしたら兵士たちが助けに来てくれた』
チャンネルが変わった。

アメリカで起きた立て籠り事件。
兵器利用された外骨格にデーカルでマーキングしたコピー達は、作成陣を皆殺しの後、州兵達と真っ向から血みどろの激闘を繰り広げた。

今は救助された少年が、インタビューを受けている。
彼は兵士たちに感謝すると共に、自分も大きくなったらああなりたいと応えていた。

終末演出派と呼称される犯人達の教義。
明確に、殺しに来る、敵がいるのは救済だ。

(ひょっとして、こういう事件が起こる度に、千人のあの高校生と俺や怜次が出来て)
その度に、ゆっくりと社会は壊れていくのだろうか。





気付くと茶は冷めていた。
「なあ、琢磨」
啜っていると、父の声。

「あの時、俺がそばに居てやれば。
好奇心に負けたりせずに、泣いてるお前を気にかけていればどうなっていたのかな」

茶が苦い。
「あれで気付けとか無理だろ。
たられば言い出したら俺だってもっと引きとめとけば、ってなるんだし……。
進路好きなもの選ばせてくれただけ感謝してるよ」

「そうか」
「そうだよ」

自分で買った緑茶饅頭を、自分で片づける。
「もう管理移ったんだろ?ゆっくり出来るか?」
「今日は泊まれるけど明日また帰る」

「まだ忙しいんだな」
「まあね」
「そうか……」





翌日。
静岡の自衛隊駐屯地。間借りしている一角。

帰還した琢磨を、津具村が出迎えた。
「おかえりー。早かったじゃん」
「ああ。顔見れて良かった」

「帰れる距離なんだから、ゆっくりしてくれば良かったのに」
「いやー、また会うためにも練度上げとかないと」

「三輪も同じように出かけてまだ戻ってないぞ」
「奈良だっけ?あいつの家」

「で、挨拶は済ませたか?」
「おう。遺書、自室に置いてきた」





「神像」のビニールで出来た腕が顔の横をかすめる。
回避してすれ違いざまに一閃――軽い音を立てて空気人形が壁まで飛ぶ。

CDF、ヤソ研対策班用に割り当てられた訓練場。
その一室で、琢磨は霞斬りを再現すべくコピー相手に木刀を振っていた。
なお昨年の事件によって材料は製造、販売が規制され、実は貴重品となっている。

身につけているのは、枠組みだけの簡易な外骨格。
装甲が無きに等しい代わりに、整備も着脱も簡便な訓練用。

「切れねえ……」
空振り、激突。何度も何度も繰り返される失敗と手応えの無さに、つい弱音が零れる。

動作的には、既にかなりの部分一致している。
あとはコピー相手に再現出来れば成功。
万一コピーが学習したら?本番で明らかになるよりはマシだ。

「キアイだよ。キアイ」
「オラァ!」
既に再現させた監督役のPMFが見守るなか、雄叫びをあげて力任せに一撃――失敗。
コピーは木刀の下でカエルのように這いつくばっている。


「オラァアアアアアダッシャアアアア!」
意気消沈している合間に、隣から強烈な怒号が聞こえてきて少し挙動不審になった。
盛口の発声だ。
目を向けると、同じタイプの練習台が痙攣でもしているかのようにビックンビックンしている。

コピーを倒してみせた佳辰は、コツとして
「力の中に技あり」
と言った。とりあえずまずは成功とか度外視して思いっきり振って下さい、と。

(それ空手の言葉じゃん……)
垣根を越えて繋がっているものなのだろうか?
ともあれ、言われた通りやっているが、成功はいまだ遠い。

機械の判断上は再現出来てしかるべきなのだが、実際は見ての通りだ。
「キェアアアアア!」
防音されているはずの区画を越えて、猿みたいな大音声が全身を震わせる。

才能とか練度とかそういう小賢しい話ではない。
根本的に気合いが違う。
何か持っている総量自体が桁外れに隔たっている。



腕の下では、神像がじりじりと怪力を増していっていた。
機体の方にも負荷が掛かり出している。
今回も未成功だ。

「おーいギブアップだ。処理頼む」
「OK!」

両腕で押しつけたままPMFに頼むと、彼は駆け寄ってきてハサミをビニールに通した。
空気が抜け、それまで動いていたものは単なる分別ゴミへと変化する。



盛口に対し琢磨は複雑な思いを抱いている。
再戦の決定以降、挨拶以外でろくに言葉を交わしていない。





再戦に至るまで、訓練と舞台設営に費やした。

個々の訓練はもとより、それぞれの連携。
戦闘計画は立案され、それを元にして戦場が整備される。
工事の現場を確認して、また作戦と作業のすり合わせ。その繰り返し。



「何が敢えて戦うだよ俺はSASじゃねえーっての」
万一に備え人工血液の注入を行った日、PMFの一人がそうぼやいた。

「お前は戦いたがってたな」
そう琢磨に振る。

「じゃあ、なんであんたは逃げないの」
「バーカ。今辞めたら、折角我慢してきたのに箔がつかないだろ」
琢磨の皮肉、というか疑問を、彼は鼻で笑った。

「オリジナルとの実戦経験。
コンサルタントだって護身術のインストラクターだって高収入が選り取り見取りだぜ!」

アホみたいな襲撃をやり過ごして、世間の注目を集める経歴が目の前にある。
ここで逃げて命だけは助かって、それでどう働いて暮らしていく。





2036年5月。

再戦一週間前。
朝起きて情報端末を弄っていると、極秘だと思っていた再戦が報道されていた。

当日、自衛隊は近隣で演習を名目に近隣で待機。警察機動隊も同様。
そもそもが物資や人員が大量に流入し、大掛かりな工事を行っているのだ。
これだけ動きが重なれば、それは隠し通せるものではない。

第一、ヤソマガツは自分たちはおろか、日本の持ち物ですらない。
研究やただ被害を防ぐだけならともかく、本来はあまり勝手な無茶は慎むべき。
しかし各国は軒並み保管を拒否し、唯一求めていたアメリカも、先の自国内の被害で態度を改めた。

だから前回のような配信は抜きで、最低限の情報だけがあらかじめ通知されていた。



再戦当日。
その日、付近一帯には交通と飛行の制限が敷かれた。

午前9時。
柏佳辰は友人と共に、違法に飛ばされているUAVの配信を探し。
先崎明尚はテレビの前で中継の、遠方から眺める支柱群を見つめていた。





その日の午前6時。
訓示を終えた後、集合した一同は食事をとる。

今朝食のメニューは、マカロニグラタン、豚汁。
白米、パンは任意で、他に焼き魚とフライドチキンが選択式。

琢磨は焼き魚を選択し、鯖と鮭にせめてもの抵抗に大根おろしを山盛りにする。
隣ではPMFの外人がフライドチキンにタバスコを臭うぐらい振りかけている。

津具村も盛口も皆同じ机の前に座り、一同ひたすら黙って噛む。
この一年で一番鍛えられたのはどこかと言えば、胃腸を初めとする内臓だと琢磨は思う。
勤務中は流動食を飲むぐらいしか出来ないので、決まった時間に食べなければ余計に辛い。

重い腹のままデザートのプリンを完食した後、自室に戻って軽いストレッチ。
しばしの休憩の後、早目に生理現象を済ませると、手を洗う頃には入口に列が出来ていた。





搬送された現場では、最後のチェックに余念がなかった。
増殖を繰り返した巨体は崩れ、今は針のように尖った一部だけが無数に天を刺している。
(前見た時より太くなってないか……?)

ヤソマガツの装甲を突き破るため被された外装、海外で造られていたとかいう同一コピーの分解品。
余裕があったはずのそれが、内側から張り裂けそうになっている。
先端は漂着時に刺さっていた杭の複製。その穂先を、鮮やかな紅真珠が梅の蕾のように彩っている。

隣接する、比較的平坦な部分は均され、そこが今回の主戦場だ。
支柱と単分子ワイヤーで四角いリングを作り、それらを複数重ねることでお互いを守るほぼ円状の舞台を整える。
幅は半径百メートル程。

その上で多角形の外に防壁を築き、それぞれに管制車や祝詞を上げる神主が配置される。
更にワイヤーの隙間から四方八方を囲むように、電線を引いたレールガンが。



移動前に既に機体は着込んでいた。
以前の戦闘を経て、琢磨の着ていた玉串は直すよりイチから作りなおした方が早いぐらいに損耗していた。
当然、そんな余裕は時間的にもない。

パーツ共食いで完全状態に持っていった二機。
それぞれ盛口、津具村が装着し、琢磨含め他隊員はPMFと同じリースの既製品だ。
エアフレームのヘルメットのような見た目の、甲殻類に似た額のみ多重の頭部と、プレートキャリアに近い胴体の重要部に集中した装甲レイアウト。
外骨格が普及する前の歩兵に外見は似ていた。

霞斬りを成功させて、玉串を着る候補ぐらいにはなりたかったが、装備としては不満はない。
どうせマトモに一撃食らったらやられることはどれも同じだからである。
(あいつを防ぎたかったら建築物の意味で壁持ってこい)



移動の途中、ふと紬と目が合った。
装甲越しで視線も分からないながら、一瞬見つめあって互いの持ち場へ向かっていく。
淀海紬は管制車へ。

琢磨は、一部だけ開いているワイヤーをくぐり抜けて戦場に足を踏み入れた。
既に何回も均しているのに、地面が不規則に隆起している。
全戦闘員が入場すると共に、入口に当たる部分が新たに張り直され、透明な防護壁を隔てて祭壇が設置される。

ワイヤーの張り方は一メートル辺り十や百ではきかないほど密であり、絡め取った蜘蛛の巣か繭を連想させて視界を遮る。

内側に入る戦闘員は二十名程。
何だかんだで、PMFの三分の一程度が離脱した。
脅しながらも、盛口達はこれを許可。ノウハウを得た一部は確実に生き残るからである。

津具村もまた、貴重な経験者にして霞斬りの体得者。
本来の所属としても戻るはずだったのだが、最後の最後で参加が決定した。
人々を守ることが義務の者として、戦力さえあれば危機を未然に防げる時に、その場に居ることが務め。そう主張したという。

この場に居る全ての機体が、運動性に優れる軽量だ。
一発二発なら耐えれて壁になれる閉鎖空間ならともかく、広所では重量は鈍重過ぎて敵に追いつけないからだ。
判断力とタイムラグの問題から、無人機も除外。


見上げると、支柱で区切られた先にヘリが飛んでいた。
円陣の上方もワイヤーで遮られ、更にそれぞれを渡って大人の胴体ほどもある注連縄が張り巡らされている。
その色は黒い。かつて紅真珠貝が付着していた伊豆の人工筋肉。そのカーボンナノチューブの加工品。



短冊状のものが幾つも垂れ下がっている。

『天照皇大神』
『大国主大神』
『諏訪大明神』
『大山津見神』
『綿津見大神』
『木花之佐久夜毘売命』
『神直毘神』

……関わる神々の神名だ。
当然もっとある。出雲系だ伊勢系だと色々悶着もあったそうだが、先例や縄張りの破壊はこれに限ったことではない。
続いて要求された更なる形式破壊に、関係者一同、死んだ目をして準備をしたと言われる。



空は青い。初夏に近づく暑い日差しに、白い雲が流れている。
慰霊の中継で拳を握り締めたあの日から、この一年で多くのことがあった。
報道によると、今年は一際参列者が多かった。
(散々安全に確実にって言って、結局最後は大バクチか……)

背後の神官たちを眺める。
万が一を覚悟した彼らの表情は固い。
そんな彼らを、琢磨は気の毒だと思った。

軍事じゃなくて神事だよ。神事だから軍事力使わないよ。
待機してるじゃん。
ほら、災害だから。

『神ハ幽ニ在リ、人は顕ニ在リ、顕露ノ罪ハ法律刑名アリ、幽冥ノ罪ハ如何トモ為ルコトナシ。
故ニ古来深クコレヲ恐レ慎ミ給ヒ、其幽冥ヲ祓除スルノ方ヲ以テ、大祓ノ儀アル也。是朝廷天下万民ヲ恵顧シ給フ所ナリ。云々』

これが、いわば表の儀式、霞斬り実演の時に出された声明だ。
元々は何か古い告示らしいが、その辺は聞き漏らした。
裏の本番、再戦もまた同じ。

泰山が鳴動して、要は収まるところに収まった。
今崇める態をとって鎮静化を祈るのは、力関係の不均衡故だ。玉虫色のまつりごと。
それですら、利用の打算が働いている。

思えば利根川のような大河川ですら、有史の初期から治水工事がなされているのだ。
自分たちより大きな力を畏れ敬うのは、操作しようと試して駄目だったからだ。
やる前の最初から、諸手を挙げて降参しているわけではない。倫理、感性の前に単純な実力差がある。

先の電波ってるトランス状態の時、筋肉は意志の力でなく生理現象の結果、負荷によって増大するとした。
しかし、まさに今着てるのは、人工的に性能を計算され製造された筋肉だ。

文明開化、廃仏毀釈、終戦。
神殺しなんて何度も何度も繰り返してきた。
それなのにごく最近の異能者の件にだけ怒る怜次もまた、顔が人間の方を向いていた。

昔、翻弄されるなら翻弄されるなりに、付き合い方で精神安定を謀ってきた。
近代化で力関係が逆転して以降、古びて文化財扱いされてきた各宗教。
それをもう一度、実用に戻そうと鉄火場に叩き込まれている。



いつの日にか、科学はより実例を得て発展し、三度力関係は逆転するだろう。
その時、人間はこの力を制御しようと考えるだろうか。
それとも、自分たちもヤソマガツと同じものを作るだろうか。

(まあどうであれ……)

長柄の先に単分子のチェーンソーがついた、古代中国の戈に似た得物を構える。
柄の先端の石突を地面に刺し、足で押さえるカウンターの構え。
琢磨の役目は神主達の保護。及び長期化した時の増援要員だ。

(自分たちの分でも持て余してるんだ。他所の分まで背負えるか)

運び込まれていたヤソマガツの破片が、硬化樹脂を破り、再生を再開する。
倦まず、疲れず、かつての戦いと同じ速さで。
十年前と同じ速さで。





当たり前だが死ぬのは怖い。

(なんで俺はこんな所にいるんだろー)
今更、本当に今更。
そんなことが頭をよぎった。

熱も記憶も擦り切れたまま、境遇に過去を留める。
まるで若い頃頂点を極めた人が、後は名声だけで食っていくように。

良くも悪くも自分をここまで運んできた力。
それとの付き合いも今日で決着。
どんなにこじれようが実時間では短時間。日没どころか正午までに終わる。



陣の先頭には、銀の機体がチェーンソーと木刀を両手に携えて立つ。
度重なる戦闘と訓練で表面には無数の擦過傷が走り、記された経文やお札の図案は薄れている。

「体が動く内に無茶をして、後は他人を使うステージに行くんだよ」
戦闘の危険も信頼も全ては金のため。
あのPMFは、そう言っていた。

その権力の機会も捨てて、盛口は自分から前線に立っている。
後手に回り、今の今まで既に起きた出来事に翻弄され続けた人々は、この時初めて自分から攻めるのだ。
過ちも力に変え、率いる者達を道連れにしてまでも。

(その時が来たら、恐れられるのは俺たちの側の人間だ)





ヤソマガツが立ち上がる。

素体となる布地状のパワードスーツに、過剰に施された装飾。
海獣のようなヒレに近い脚、太く長い首。頭には鬼面に似て角が生える。
ごてごてと金属板で覆われたその体は人型としては巨大でいびつで、無理矢理二足歩行に矯められたドラゴンのようだ。

人形。
死体。
紅真珠。
それと、炎が変化した多頭の蛇?

殺しても殺しても、形を変えて現れる。
それは、生命の姿そのものだ。

思えば今までの事件とは、ヤソマガツとは何かを知る過程であった。
穢れとは何かを探る道程であった。



穢れの──
感情の──
力の──

贖物の神。



ヤソマガツを災厄をもたらす悪神と捉えたのはつまり、末と本とを取り違えたのである。






[27535] 第十七話
Name: 三二一◆02c59522 ID:068f191e
Date: 2014/03/01 22:55
『[名]守りとして幼児のそばに置き、凶事を移し負わせる形代(かたしろ)の役をさせる人形。
(中略)
諸言説(1)アママガツビ(天禍津霊)の約略〔大言海〕
(後略)』――『日本国語大辞典 二版』

『名 祓(はらへ)の具。もと、祓のために諸凶事を負わすのに用いた木偶人形。のち転じて、小児の守りとし、三歳まで枕頭に置いて諸凶事よけとした。
(後略)』――『角川古語大辞典 初版再版』





第十七話『天児──アマガツ──』





『高天原(たかまのはら)に神留(かむづま)り坐(ま)す、皇親神漏岐神漏美(すめむつかむろぎかむろみ)の命(みこと)以(も)ちて、
八百万(やほよろづ)の神等(かみたち)を神集(かむつど)へ集(つど)へ賜(たま)ひ、神議(かむはか)り議(はか)り賜(たま)ひて、
我(あ)が皇御孫之命(すめみまのみこと)は、豊葦原(とよあしはら)の水穂(みづほ)の国を、安国(やすくに)と平らけく知(しろ)し食(め)せと事依(ことよ)さし奉りき』

大祓の祝詞が響き渡る中、PMFの持つ単分子チェーンソーがヤソマガツの腕、注連縄じみた太い人工筋肉の束を両断すると、快哉が通信を渡った。
『ヨッシャァア!当たった!』
ふわふわと重いのに掴みどころがない、散々萃英に翻弄された鬱憤を晴らすかのように、ヤソマガツは多くの刃によって寸断される。

殺すために祀り上げる神の依代との戦闘は、狩猟を越えて害獣の駆除に近い様相を呈していた。



ヤソマガツの特性と行動は、受け入れてしまいさえすれば非常に単純なものである。
怪力で、速くて、硬くて、何度でも直る。
狙うは自分と近しい外骨格か偶像、回廊。動きはほぼ猪突猛進の衝動的。

相手がシンプルであれば、対処法もシンプルだ。
間合いに優れる武器で初動を捉え、小回りの利く者が続いて削る。
近接の反応だけでは間に合わない時は、レールガンの遠距離攻撃による精密狙撃でカバー。

再生を終えたヤソマガツ。攻撃範囲に優れる武器を持った二人が、円を描いて左右から直りきったばかりの胴に刃を食いこませる。
その柄を走って二機が肉薄。
柄ごと相手を吹き飛ばそうとしていたヤソマガツの両腕を切断。

なおもヤソマガツは胴をひねり、自らの装甲を切り裂きながら武器を掴んでいる二機を振りまわした。
二機の外骨格が宙に浮く。
その足の後部を光条が弾き、バランスを崩してヤソマガツは転倒。
回転する勢いで胴を切り裂き、二機は退避。

今回、以前のように急場を救ったネビニラルの柱はない。
再生を阻害し、分断して固めない限り、何度でも襲いかかる。
しかし、この程度の状態なら、もう二、三段上がっても圧倒して封印に戻せる。

そのための訓練。そのための装備。計画的戦闘であるからもちろん、他の保険も用意されている。



今回の懸念はむしろ別。
人間側が背後に擁する大剣山、人の成れの果ての曲霊である。





ヤソマガツと新たに現れたそれを潰し合わせ、相殺する今回の再戦計画。
問題になったのは、どの程度の刺激を与えれば再び動き始めるかだった。

具体的な方法はいくつか出たが、意見が分かれたのは以下に三つ。

一つ目、戦闘が始まる前に安全な(取り返しがつく)刺激だけを与えて、駄目だったら中止。
これは紬他、政治家や関係当局者の意見。

二つ目、比較的低脅威であるヤソマガツとの対面まで行って、それで捗々しくなかったら即応援を頼んで本職に任せる。
これはCDF長の意見。戦闘そのものは行うが、試してみるだけで後は時間稼ぎ。

三つ目、試せる可能性は全て試す。本職?アレ相手なら自分たちだ。当然対策はとる。
盛口。

全員、短期決戦が理想なのは一致している。
相違は耐えられるリスクとダメージの程度だ。

しかし実際は、二つに一つなのである。
準備をするだけして駄目でした、では、わざわざ金も手間もかけて用意をした意味がない。
それぐらいだったら素直に渡した方が、一貫して物分かりがいい。

意見を求めて舞鳥円位、萃英の父が呼ばれた。
彼曰く、怜次が変じた高位眷属は地脈と繋がることで薄まっている。
回線を切断し同質の刺激を与えれば、再活性の可能性はある。

一番確実なのは巫だが、最も能力ある人間はヤソマガツの中に入ってしまった。
そう語る彼自身は頼るには信用が薄く、また本人も固辞した。
脳磁気の使用も考えられたが、不用意な同調は(成功して)紬の二の舞なので没。

最終的に、CDF長と盛口、双方が折れた。
どう転ぼうが、CDF長は戦闘開始から即応援を要請。どのみち成功しても管理は移行する。
盛口に残された猶予は到着までの十数分。



準備の段階で、紅真珠が設置された。
奇しくも枯渇していたせいで再流入で過給状態になっていたそれは、器具無しで人に異常を与えるようになっていたが、処分を兼ねてつけられたそれによっても無反応。

続いて戦闘直前、あらかじめ掘っておいたパイプの中でネビニラル回転開始。
地上と地下にエネルギーの断絶を作る。

そして、ヤソマガツの搬入と覚醒。
ここでせめてヤソマガツが襲いかかってくれればよし。
しかし、眺めるように前方を向いたまま数秒停止しただけで、不発。

そして外骨格に注意を向けた戦闘は冒頭へ。
盛口は今、ヤソマガツの前で木刀を肩に担ぎ、用意を待つ。





琢磨が待機する先で、戈を持つ二機が股の付け根から切り落とした。
達磨落としのように落ちるヤソマガツの上体。
ヒトの目線まで落ちてきた頭に、盛口の霞斬りが振り下ろされる。

額に直撃した木刀は、勢い余って刀身から弾け飛ぶ。
掬い上げるようにでたらめに振り回す腕を、盛口はバック宙して回避。

その後方から一機が迫り、折れた得物と新たな木刀を交換。
用意された本数、百。全国に流布している一般的な大量生産の樫製だ。
とりあえず、一合目は不発。



狙撃で弾き、遠ざけられる両脚部。
人工筋肉の束はトウビョウのように溢れてうねり、再生へと蠕動する。

もがくヤソマガツは両腕で地を叩き、後を追う。
その殺到が柵によって阻害される。
最前の戈を持つ二機。彼らが斜め十字に柄を交差させ、接近を阻んでいる。

なおもヤソマガツは腕力だけを推進力に、押し破る。
その両肩が、別二機の刃によって落とされる。

突き破ろうと長く伸びた首。
荒ぶるヤソマガツの眼前で、盛口は高く上段に得物を掲げる。

拳ごと大地にめり込ませる一撃は空を切り、切っ先は贖物の神の顔面を擦過する。
居並ぶ一同が、固唾を呑んで静止した。



ヤソマガツが痙攣する。





後方、管制車では、歓声が上がった。
『まだか!?』
「まだだ」

盛口の叫びに、CDF長は冷静に答えた。

増援の到着はまだ。
曲霊の反応もまた同じ。





霞斬りが成功した後も、ヤソマガツは再生し、通常通りの威力を保っていた。
これは予想の範囲内。
予想外だったのは別のことである。

『少し休憩する。デコイの投下を頼む』
「了解」

通信と同時、ヘリからデコイ、つまりヤソマガツの気を引く物が投下される。
仏像、十字架、イコン……、CDFビルの外装。本来、これはもう少し後の局面で使われるものだった。
確かにこれは真似したくても真似できない。どこまでも無節操。

しかし、「とりあえず徹底的にぶっ壊す」を考えればいいだけのとは異なる実戦、加えて特殊な剣技は、体力精神力を急速に消費した。

スタミナなら、前もって注入しておいた人工血液で補える。
しかし集中力は、より有限だ。
一発の被撃も致命傷となる格闘戦。長引けば長引くほど、天秤は相手の方に有利になる。



投下されるデコイの量は、目に見えて減っていた。
今ヤソマガツは円空彫りをカカト落としで踏み砕く。
周囲では、最初の前線役だった人員たちが小休止をとっている。

ヘリそのものへ跳躍しないのは素直に助かったが、休憩時間ももうすぐ終わる。
全体を見回すと、回廊たりえなかったのだろう、ちらほらと破壊を免れたお守り群がある。

米俵に爪を立てようとした時、レールガンがヤソマガツの頭部を直撃し、数メートル吹き飛ばした。
その隙に他の機体が、米俵を担いで遠く離れたところに退避させる。

『おい、囮を守ってどうするんだよ』
『うるせえ。あんなもの候補だとは聞いてないぞ』
通信で、PMFと狙撃手が言い争っている。

『やったものは仕方ない。俺も嫌な気持ちになってたところだ』
彼も米俵を逃がしたのも日本人だった。



琢磨に指示が入ったのは、ヤソマガツの注意が改めて外骨格に向いた時だった。
『総員警戒。全開にするぞ』
常と変らぬ落ち着いた声。それが意味するところに、柄を握る手に力が入る。

それとヤソマガツが四つ足で突進してくるのが、同時だった。

浮きかけた踵をめり込ませて支えた刃に、ヤソマガツの頭部が激突する。
くの字に曲がるように設置された戈のチェーンソーは、頭を潰して首で引っ掛かる。
辛うじて弾かれることだけは避けたものの、位置は大きく後退し、背部装甲がワイヤーで擦り切られる。

更に後ろでは、神官たちが物理的な脅威を前にしても強靭に滑舌を保っていた。

『集侍(うごな)れる親王(みこたち)諸王(おほきみたち)諸臣(まへつきみたち)百官人等(もものつかさひとたち)諸(もろもろ)聞(きこ)し食(め)せと宣(の)る』

戦闘が終わるまで延々エンドレスで、なおかつ玲瓏に調子を保つ困難に、意地が奮える。
食い込んだまま再生を続けるヤソマガツは暴れる度に得物を振り回し、琢磨は刃筋が立った瞬間に振り抜いて頭上を越すように一時離脱。

邪魔がなくなって瞬時に直ったヤソマガツは、頭上の獲物に気をとられて上体が伸びる。
そのがら空きの下を狙って別機が疾る。

寸前で気付いたヤソマガツは、沈み込むことで手甲で受けた。
と言うより、叩き潰そうとしたらずれてそうなった。
身をたわめた四足の姿勢、下から掬い上げるような左の爪が迫る。

狙撃。頭部破壊。
再生。
狙撃。今度は三方向から。頭部腕部肩部破壊。

辛うじて逃れた機体に蹴り上げられた足が迫る。
追いついた別機体が脛に柄を押し当てた。
宙を舞う。

四肢再生。
頭部再生。
狙撃。胴体。

耐える。

硬直の隙をついて足が薙れる。弧を描いて配置に戻った琢磨だ。
戦場の端側で、崩れる胴を戈が掬い、柄を橋に津具村が走る。
首が落ちる。

彼を掴もうと伸ばされた腕が、先程天へ昇った機体の振り下ろしで叩き落とされる。



砕かれた部位は跳ね、傷口を修復する。
琢磨と先程の機体は、戈の刃と反対側でフルスイング。
更にレールガンの後押しで、残骸を中央まで押し戻す。

撃たれて離れて絡み合い、ヤソマガツは元の姿へ。

その傷一つない完全な、ヒトより高所に位置する頭に。

盛口、津具村、前後から。
上を向けた戈の石突に坐して屈み、射出する捌きと共に脚力を上乗せして、不可視の刃を振るう。
霞斬り。

ダブルで叩き込まれた「本体」へ通る斬撃に、器が甚だしく痙攣する。
格闘員は急速退避。
レールガンの連射が精密射撃で要所を粉砕する。



『……来るぞ!』
盛口の一声と共に、黒い残像を残してヤソマガツが消える。

琢磨の視界の端で、戦場を区切る支柱群が大きく歪む。
その強烈な激突音と突風が襲うのがほぼ同時。
一ヶ所の外骨格が一斉に散開。

後に残ったのは、戦場を横切る不規則な陥没の跡。

亜音速に達したヤソマガツが、体当たりを行っている。
視覚に捉えられるのは一瞬。位置を認識するより速く、音が四方八方に移動する。
上下前後左右。接近して勢い余って柱にぶつかり、ワイヤーでの損傷と再生を同時に繰り返しながら、地を抉る。

曲霊再動の最後の一手。
同質の刺激の内、規模、質、共に最上の個体。すなわちヤソマガツ。
わざとヤソマガツを追い込んで、限界まで開いた大穴によって賦活する。

言うまでもなく危険である。
作戦が通ったのが不思議なくらいに本末転倒。
(それでも、あいつを後世に託すにはこれしかない)

この段階に達したヤソマガツに、レールガンの狙撃は不可能。
至近用の武装の機体は、衝突回避機能を全開にして判断を機械に依存。
より小回りが利かない戈、それも後方組は、待機。



軌道を追っていた琢磨は、半分以上勘で右脇をガードした。
新しい機体は玉串より0.05秒ほど反応が早いが、いかんせんその分質量も軽い。
衝撃と共に急激な横滑り。ヤソマガツが掠める。

戦闘前に行ったシミュレータ、速度をアホみたいに増加させた全開時予想との対戦が役に立った。
もっとも、それで倒すまでに集中力の切れ目を突かれて十回以上死ぬダメージを受けた上、今の一撃で中身が詰まってる複合素材の柄が豪快に曲がった。
どれぐらい曲がったかと言うと、刃の接合部と同じぐらい。く。

(わーお)
あまりの豪快な折れっぷりに意識を奪われた瞬間、再度の衝撃が襲った。

閃光と共に、ヤソマガツの体勢が崩れ、広場の中央に滑り落ちる。
開戦前に仕掛けておいた指向性爆薬。
これまでの戦闘で注意深く避けられていたそれが、四肢を断裂したのだ。

しかし被害は予想以上に大きかった。
到達から爆発までのわずかな間に、回避した面々も含めて多くの負傷者を出す。

戦闘前、琢磨と会話したPMFもやられた。
襲撃時に萃英に一矢報いたPMFも重傷を負う。
ヤソマガツのヒレのような足に貫かれ、琢磨も死んだ。



……ヤソマガツが立ち上がる。
爆発で飛散されるはずだった四肢は強固に張りついたまま落着し、人間が立て直す猶予も与えぬまま再生を完了する。





心肺停止。脳波も停止。
管制車で戦況を監視していた紬は半狂乱になり、三輪に羽交い絞めにされている。

「曲霊、感あり。伝播ではない微動を確認」
オペレーターが剣山に設置されていた振動センサーの情報を告げる。

「救護!治療を!撤退を!」
『まだだ!』
紬の懇願に、盛口の怒号が被さる。

『脈が止まっても脳は6時間保つ!そのための人工血液だ!』

外骨格により、琢磨に電気ショックが施される。
その度に体が大きく跳ねるが、見開かれた眼球は装甲に遮られ、天を睨んでいる。





天秤は大きく傾いていた。
的に制約がなくなったレールガンが、全方位から連射される。
破壊されながらも移動するヤソマガツは外骨格に迫り、人間は流れ弾でやられるか避けきれずにやられるか、二つに一つだ。



先の司会とコメンテーターの応酬の際、本当に問題にされていたのは戦力である。
神でも確実に倒せます。神じゃないのでこの程度でも倒せます。
そう言って欲しがっていた。

結論から言えば、それは不可能である。
通常レベルなら研究しつくした戦法で攻略可能。
現在の全開状態でも、爆弾落とせばリセット可能。
単に原子レベルにまで分解するなら、核以外にも科学は色々な手段がある。

一方で、本体である地球全体に拡散した中身には対処不能。
紅真珠も発想の典拠となった著作も根絶不可な以上、もう一度誰かが萃英になったらそこで詰む。
それを防ぐためには、今のうちの少しでもカウンターを仕込んでおかなくてはならない。

そのための再戦。
そのためのぶつけ合わせ。



「時間稼ぎが出来ればいい!とにかく逃げ回れ!もう少しだ!」
逃げ場のない中で踏みとどまる部下たちに、自分もまた回避で手一杯になりながら、盛口は声を送る。
そう叫ぶ間にも、ジリジリと装備は削れ、動ける人員は減っていく。

その間にも曲霊はうねりを増し、既に目視できるほどに揺らいでいる。
しかしヤソマガツはあくまで近くの外骨格を襲う。
曲霊もまた、身じろぎはするものの、本格的な活動には未だ鈍い。

「もう一押し……もう一押しなんだ……」
他人には迷妄と区別がつかぬまま、それでも自分だけは理性と信じて思考を重ねる。
蠢きだした曲霊、ぶつけ合わせるには、一手足りない。

「あちらを切ってみるか?」
いまだ可能性を探りながら、直感のままに太刀を振るう。

自分の前方数メートルで、遠所から急接近していたヤそマガツが方向を変えて脇を滑る。
再生と怪力が加速する中、痙攣もまた劇症化しながら、ヤソマガツが起き上がる。
度重なる攻撃にもかかわらず、その外皮は傷一つなく新品同然に滑らかだ。

その威容。



『安国と平らけく知し食さむ国中に、成り出でむ天(あめ)の益人等(ますひとら)が、過ち犯しけむ雑雑(くさぐさ)の罪事(つみごと)は、
天津罪(あまつつみ)と、畔放(あはなち)・溝埋(みぞうめ)・樋放(ひはなち)・頻蒔(しきまき)・串刺(くしさし)・生剥(いけはぎ)・逆剥(さかはぎ)・屎戸(くそへ)・許許太久(ここだく)の罪を天津罪(あまつつみ)と法(の)り別(わ)けて』

でたらめに手足を突き出す様は舞いにも似て、四肢を振り回し、身をよじって戦場をランダムかつ縦横に彷徨いながら、少しずつ盛口へと近づいてくる。

それは浮きだった。
無秩序なまでの力の本質を、どのように表現するか。
あるいは爆発。あるいは彫刻や建築。

ヤソマガツを造った者は、間接的にすることでより明瞭に感じさせると判断した。

視線が追い付かない程目まぐるしい瞬転は、流されることで表現した、人形による激流だ。
翻弄される草の船。
背後に広がるものに意識を向けるためのマーカー。

東洋的な、あまりに東洋的な。
破壊神の踊り。

地に満ちて染め上げる、混沌なる力の形象。



夏へ向けて空は高度を上げていた。一日一日と濃さを増していく青空に、白い太陽が熱する。
辺りに生えていた一夜木たちは、続く寒さに耐えきれず、早々に立ち枯れていた。
青々としているのは雑草だけ。寂しくなった木立を数キロ行くと、市街地が広がっている。

太陽は巡る。正確には、地球が周囲を公転する。
惑星は楕円を描いて恒星の周りを落下し、太陽系という惑星系の中心に座す恒星は、今もまた核融合を行い水素をヘリウムに変換している。
それは何度も何度も地上を、人々の頭上を通過してきた。

十年前も。去年の夏も。海上でも。地球の反対側でも。十一月も。今年の二月も。
遥かな昔から。
そして今も。

天が下を遍く照らす無染の光輝。



頭(こうべ)を垂れろ。
圧倒的なその存在に。
掛けまくも畏き御霊威に、恐み恐み額ずいて拝み伏せ。



知らず、足が後退していた。その外殻も土埃に汚れ、撒き散らされた飛沫に染まっている。
もう戦場内に残っている機体は残り少ない。津具村もまた利き腕を負傷し、試させるには力不足。
瞬時の再生速度に、もはやレールガンの直撃すら振り付けを複雑にする程度。

足裏で地面がぬめり、かかとに何かがぶつかった。
画面の後部カメラに注視すると、琢磨の体だった。
電気ショックも不発に終わり、下腹開いた大穴に影を落とし、天を向いて寝そべっている。

分かりきった結果。
防ぐことが出来た犠牲。

紅真珠や他コピーと異なり、ヤソマガツは元々器という範囲制限が掛かっている。
現在、再生医療は急速に発展している。
脳が破壊されれば死亡するが、人工血液などで心停止後も酸素供給を可能にすれば、頭さえ守れば回復可能である。

それを踏まえて、自分含めて十数名が重傷を負うのは、戦闘として許容範囲内である。
そう押し切って、再戦のゴーサインを出させたのは自分である。

チェーンソーか、それ以外か。
体に馴染んだ前者を使えば、楽だしより確実だ。

代償は背後への被害。
躱した一撃で吹き飛び、中身は衝撃で損壊する。
「こいつ」はまだ死体ではない。

自己の拠り所である計算を貫くため。己の正気を示すように。
盛口は、木刀を握り締めた。



意識は断続し、視界は擦り切れる寸前だ。
鉛のように重い意志を転がして、距離を稼ぎ、そして少しでも時間を稼ぐために腰を落とす。

振り下ろされる放射状の五爪。
上弦の月を描いて放たれる霞斬り。

だが爪は、別のものによって阻まれた。



盛口の背後から突き出された拳は、合金の装甲を切り裂かれながら、片腕でヤソマガツと拮抗している。
「先崎……」
呟きに、外骨格の体が傾ぐ。

ぎこちない倒れ込むような猫背で盛口と位置を交代し、追で来た二の爪に頭部装甲を剥ぎ取られる。
外気に露わになったのは、口から血を流し、白目を剥いた顔。筋肉も重力に垂れ下がった、死人の顔。





「どうして……」
管制車。映し出される映像に、紬は茫然と立ち尽くした。

先崎琢磨は元々第一世代。
最初の暴走前に怯えたように、その肉体と脳は発生の始めから展開した中身の影響を受けていた。
長じるにつれて常識を学び、意識は感覚を切り離す。

事件の渦中にあって解釈は漂流し、肉体もまた浴し、折れ、削れ磨り切れて、宿る可能性は一つの芯へ。
力に馴れた彼の身は、器へと罷り成る。





原初――宇宙が発生した時、そこは全てが一つだった。
誕生から同時、急速に冷えた宇宙は寸毫の間に夥しい変遷を経る。
やがて粒子、反粒子の対消滅を経て粒子だけが残った宇宙に、元素が生まれる。

最初期に作られた元素である水素やヘリウムから、恒星が生まれる。
恒星は一生の間に核融合を繰り返す。
恒星は大きいほど反応が急速に進み、寿命が短い。

太陽の質量では水素からヘリウムを合成するだけだが、それ以上の質量を持つ星ならヘリウムから炭素と酸素を作る。
更に高温高圧に耐えられる質量を持っていれば、最終的にはケイ素から鉄を合成する。

太陽の数倍の質量を持つ恒星は、超新星爆発を起こす。
その時の核融合によっても元素は生まれ、太陽の八倍以上の質量を持つ星では、マグネシウムやネオンを合成する。

鉄を合成できた星ではそれ以上核融合が進まず、自らの重力で重力崩壊を起こす。
これによって起こる超新星爆発による高温高圧状態の中、銀や金、プラチナや鉛、ウランなどの鉄以上の重元素が生まれていく。

星の塵は再び星々を形成し、生まれた元素を基にして惑星が生まれる。
やがてそこに化合物から生命が発生し、進化を遂げる。
遥か未来、遠く離れた地球で起きるような天体衝突を経験しなかった彼らは、恐竜に似た姿から人間型へと変遷し、知能の増大と共に文明を発達させる。

およそ計算式上最も早い時代。
まだ宇宙が若かった頃。
文明の隆盛を極めた彼らは、遂に物理法則そのものを成り立たせている力を解き明かす。

既に物質的要求を満たしていた彼らは、それによっても満たされない渇きそのものを切り離し、外へと捨てる。



流され、捨てられたアマガツは、天文学的な距離と時間をくぐり抜け、やがてそれは他の知的生命体、太陽系に住む地球人類に捕獲される。

『蠱毒(まじもの)為(せ)る罪、許許太久(ここだく)の罪出でむ』
過剰な生命力の塊に対し、救済を求めた少年は直感的に模倣する。

『速川(はやかわ)の瀬に坐(ま)す瀬織津比売と云ふ神、大海原に持ち出でなむ』
穢れを祓う力を持つ女は我が子を守るために内なる大海に旅立った。



生む力。繋ぐ力。
生の助けになり、人々を出会わせ、託す。死に至らしめ、絶望も受け継がせる。
全てを押し流す、善悪両義のその波涛。

それが神格。それが一霊四魂。

依り固められ
星の海を渡り
福と厄をもたらし――

今、呪詛を加護とした拳が叩き込まれる。





気がつくと、真っ白い場所にいた。
光り輝く純白の空間に囲まれながら、下の方では自分が戦っている。

前も後ろも上下左右が全て一望できた。
空気が軽くて全身が溶ける、
どこまでも続く緩やかな流れに押され、五体の形は少しずつ崩れ、漂っていく。

天地の区別も重力もない世界。
霊魂が実在したら、その在り様は水棲生物に近いのかもしれない。



(へったくそだなあ)
自分の戦いぶりを眺めながら、琢磨は嘆息した。

素手で戦っている自分の姿。
左肩から胴を両断するように黒い線が走っており、そこから何だか猛々しいものが流れ込んでいた。

(あーあー、あー。足止めちゃって、そこはくぐり抜けて脇に一発入れるんだ)
思うように動かない自分の身体を、もどかし気に食い入るように見つめる。

視線の先では、接近し過ぎたヤソマガツに足を踏まれ、左の親指から中指までが全部潰れていた。

(まず足だ!足を止めて体勢崩すんだよオラ動け!)
ちんたらみっともない戦いを繰り広げる自分に苛立ちながら、もっと近づこうと体を這わせる。
が、透明なガラスでもあるようで、ある一点から先、どうしても進まない。

段々と後ろへ流れていく体を強引に引き摺りながら、壁に額をぶつけてもがく。

既に両の指は曲がっていた。適当に握られた拳で放たれた攻撃は、攻撃と共に自己を損壊する。
なおも振るわれる拳。その血痕は咲き誇る梅の花に似て、ヤソマガツの外装を彩る。
その度に、肘が軋む。既に外骨格の機構で辛うじて関節としての役割を保っている状況だ。

太く冷たい足が胴を薙ぐ。
そのまま血飛沫に変わってもおかしくなかったが、腰の入ってない琢磨の体は勢いのままきりもみで回って吹っ飛ぶ。
肩から腰、足、木偶人形みたいに受け身もとらず地面に激突。

内臓に来るような打撃を食らっても、体はすぐさま起き上がって直線的に突っかかっていった。
(よし俺!回復の早さだけは褒めてやる!)

左肩から胴を横切るように脈動が熱く疼いていた。
激痛と共に身体の輪郭は定かになり、膝を動かして足掻く。

(これで最後なんだよ。これ逃したらチャンスがないんだよ!)
ガラスがあれば引っ掻けるほどに。爪を立てて渇望する。

視界の下では乳白色交じりの赤。
体から流れた血が、夥しく池のように広がっている。

所々断面がのぞいた全身の裂傷は、骨が砕かれて肉一面に針が刺さったよう。
その四肢を振り回して乱暴に黒々とした大穴に叩きつける。
顔は頬の肉が削がれ、永久歯が歯茎ごと露出していた。

琢磨も歯を食いしばる。
(変われ!俺と変われ!)

臓腑が熱い。血が巡る。
押さえる息は鼻から漏れ、満腔の苛立ちを絶叫した。

「俺のほうが強え!」



不意に、背中に衝撃を感じた。
強固だった不可視の境界を突き抜けて、誰かに蹴られたように琢磨は自分の身体へ落下していく。





琢磨は地上での視界を回復した。
わずかの遅滞の後、再び純白に塗り潰す激痛の閃光。

声も上げられないままぱっくりと口だけ開け、執念じみた条件反射でヤソマガツに拳を送る。
息は吸うだけで肺は破裂した。本当に破裂しているのかもしれない。

明かりが、色が目の奥に刺さる。
風が通り抜ける度に肌はヤスリにかけられたようにザラザラし、聞こえる祝詞で人の声が空気の振動だと初めて分かった。
その響きで頭を殴られる度、肩や腕の産毛もチリチリする。

舌は粘ついて痺れるよう。対象的に乾いた口蓋に、空気が甘くてメントールのように辛い。
神経は脈動し、全身の細胞を同時に感じる。
体重が訳分からなくなった膝を進めると、足の裏が砂利と割れた装甲の刺激を伝えてきた。

喉から尻を通して目口に手足。
痛みは苦しみを通り越して未知の感覚となり、全身からの強烈な信号で蹂躙される脳細胞は、明晰に自らである領域を理解している。



ヤソマガツの爪が迫る。
駆け出したい衝動をそのまま、足を敵の側面へ送る。三寸避ければ皆隙だらけ。
全ての歯がひび割れたのが顎を伝わって分かる。

強引に元の形に戻した拳を脇腹に入れる。
反動の余韻も消えぬうちにその手を開き、掌を開いて握力だけで吸着。
威力優先の両足蹴りでヤソマガツの膝裏を蹴り崩す。

崩れた胴を駆け上がった。
急速な運動に外骨格のフレームが邪魔をする。
諸共、肘ごと埋めるつもりでヤソマガツの顔面に全体重を乗せて激突する。

ヤソマガツが大きく揺れた。

更にめり込ませて、倒れた地面に後頭部激突。
爪が届く前に弧を描いて宙返り。
着地に遅れて腸が落ちる。その端を踏み潰して、歩を進める。

(あいつの型は一つだった)
立ち上がったヤソマガツ。その脛に、拳の正面衝突。

爪。
左の突き上げ。
わずかにずれた一撃は相手の攻撃を逸らし、続く頭突きのガードとなる。

その顔面に一撃。
それを支点にして体をひねり、体を持ち上げての回し蹴り。
更に踏ん張って後ろ回し蹴り。

(怜次の動きは一つだった!)
当たればカウンター。掠めれば逸らし、一つの動作が相手の出方によって千差万別に生まれ変わる。

自分より先を見ていたあいつが、決戦の時の戦術を練っていないはずがない。
俺を苦しめたあいつなら、必ずヤソマガツにも有効な方法を見つけていたと信頼して――
勝手に手足が暴れ回ることには強いて逆らわず、流れに乗り、戦闘として最低限の意味だけ命令する。



技は力の中にあり。
高い運動能力の生かし方は、今までの訓練と戦闘で散々真似してきた。
バランスを崩すベクトルで頭部に連撃を受けたヤソマガツが倒れる。

だがそれも一瞬だ。
崩れる勢いを利用して側転したヤソマガツは、網膜が像を結ぶ間に琢磨に襲いかかる。
激情は共鳴して拍子を刻むように跳ね上がり、万物は高揚に酩酊する。

迎撃しようとした瞬間、膝が落ちる。
限界を越えて酷使していた足はかつての負傷も伴って失陥し、無防備なうずくまった姿にヤソマガツの爪が迫る。
久しく忘れていた感覚――支えてくれていた機械は、激戦で傷つき、役目を終えている。

あと一歩。せめて体勢を立て直せれば。
(動け……!)
どうにもならぬ体でその一念、それだけを逸り立てるまま前へ――

足元で、地面が滑った。
押し上げるように流動した大地は、琢磨を肩から激突させ、次の瞬間ヤソマガツが弾け飛ぶ。
琢磨の頭上を貫くは、鉱物質の太い杭。

背後で剣山が震えた。
地面から牙の如き円錐が乱立し、注連縄もまた悶え踊る。

『国津罪(くにつつみ)と、生膚断(いきはだたち)・死膚断(しにはだたち)・白人(しろひと)・胡久美(こくみ)・己が母犯せる罪、
己が子犯せる罪、母と子と犯せる罪、子と母と犯せる罪、畜(けもの)犯せる罪、昆虫(はふむし)の災(わざはひ)、高津神(たかつかみ)の災(わざはひ)、
高津鳥(たかつとり)の災(わざはひ)、畜仆(けものたふ)し、蠱毒(まじもの)為(せ)る罪、許許太久(ここだく)の罪出でむ』



穂先が唸りを上げてヤソマガツに迫る。
接近に伴って紅真珠を砕けさせながら、貫く直径は四肢を両断する。

髪のように繋がった人工筋肉をよすがに、ヤソマガツはその内部をくり抜きながら再生。
両の腕で掴んだ、自分の胴体以上の太さの穂先をへし折り、投げ捨てる。

殺到する幾本もの触手。
迎撃するヤソマガツの姿勢が、後ろに崩れる。
身を屈めた琢磨の拳と共に、触手の一本がヤソマガツの膝を薙ぎ払う。

鳴響(どよも)す戦いの渦中にあって、起動による大気の震動で琢磨の五感は蹂躙されていた。
震えが伝播して上空のワイヤーが千切れる音が耳元で脳を揺さぶる。
毛羽立ち、吹き荒ぶ空気そのものが、風にそよぐ産毛となる。

暴力的なまでに五体が溶ける。今削られた曲霊の傷、自分の腕が抉られたよう。
大気は残った身体と同調し、脈打つ様はまるで一繋ぎの心臓。

周囲では仲間たちが這い回る。
再び地脈と繋がり戦場そのものが崩壊するなか、負傷者を抱えて退避することで手一杯。

ヤソマガツが迫る。
膝をついた足元が滑る。流動に乗って移動。
空振りしたヤソマガツの背後を、触手が襲う。

自らを背後から押し流す力。
何度か触れたそれを先程と同じように、流れを認めた上で誘導する。

一度受け入れてしまえば、自分以外に主導権を委ねるのは恍惚として覚えもあった。
なんとなれば、外骨格のフィードバックもまた、自分より大きなものに体を預ける事だったからである。
新たに生まれる電子の巫。



『如此(かく)出でば、天津宮事(あまつみやごと)以ちて、大中臣天津金木(おほなかとみあまつかなぎ)を本打切(もとうち)り末打断(すゑうちた)ちて、
千座(ちくら)の置座(おきくら)に置き足らはして、天津菅曾(あまつすがそ)を本刈(もとか)り断ち末刈(すゑか)り切りて、八針(やはり)に取辟(とりさ)きて、
天津祝詞(あまつのりと)の太祝詞事(ふとのりとごと)を宣れ』

再生修復と増殖、両者の力は共食らい、拮抗していた。
ほとんどは乱雑に突き立てられる杭の内、要所の数本だけ範囲とタイミングを指定する。
と言うより、それが干渉の限界だ。

『如此乃良(かくのら)ば、天津神(あまつかみ)は天(あま)の磐門(いはと)を押披(おしひら)きて、
天(あめ)の八重雲(やへぐも)を伊頭(いつ)の千別(ちわ)きに千別(ちわ)きて聞し食さむ。
国津神(くにつかみ)は高山(たかやま)の末(すゑ)短山(ひきやま)の末(すゑ)に上(のぼ)り坐(ま)して、
高山(たかやま)の伊穂理(いほり)短山(ひきやま)の伊穂理(いほり)を撥(か)き別(わ)けて聞こし食さむ』

死ね。死ね。死ね。

ただひたすら前へ向かう、狂奔するように拡散した意識を掻き集め、拳で地面を殴りつける。
肩を揺らして立ち上がる琢磨。数秒遅れて、閉じられる顎のように連鎖的に杭が降りかかる。
荒れ狂う惟神。

最大限強制しても誤差の広い、ピンポイント攻撃など程遠いその一本が、琢磨の右腕を轢き潰す。
ヤソマガツの振り回した腕は増えるように残像を帯び、襲いかかる触手その悉くを弾く。
印を切るように舞う爪が、琢磨の露出していた首筋を掠った。

いいから、死ねっ。

「だ……」
再び意識が宙に浮遊する。

『如此聞し食めしてば、皇御孫之命(すめみまのみこと)の朝廷(みかど)を始めて、
天の下四方(よも)の国には、罪と云ふ罪は在らじと、科戸(しなと)の風の天の八重雲の吹き放つ事の如く、
朝(あした)の御霧(みぎり)夕(ゆふべ)の御霧(みぎり)を、朝風夕風(あさかぜゆふかぜ)の吹き掃(はら)ふ事の如く、
大津辺(おほつべ)に居(を)る大船を、舳(へ)解き放ち艫(とも)解き放ちて、大海原に押し放つ事の如く、
彼方(をちかた)の繁木(しげき)が本(もと)を、焼鎌(やきがま)の敏鎌(とがま)以ちて、打掃ふ事の如く、遺(のこ)る罪は在らじと祓へ給ひ清め給ふ事を』



血飛沫は霧となり、大気に拡散し

「だからなんだああああ!」

意識の外殻:激痛。
半死半生の自己憑依。復活後初めて上げられた咆哮は、大気を割って空に登り、血を拳の形に凝結する。
その指は爪と一体化した猛禽の指。

呪詛は加護に。
災いは幸いに。

『高山の末短山の末より、佐久那太理(さくなだり)に落ち多支都(たぎつ)、速川(はやかわ)の瀬に坐(ま)す瀬織津比売と云ふ神、大海原に持ち出でなむ』

かつてもたらされた災いを、いつか至る幸いへ変じよう。
指の末端までも続く痛み。失った激痛を握り締め、形を結んだ拳がヤソマガツの腹に吸い込まれる。



叩き込んだ拳は隙間を伝い、乱れながら肘の付け根まで押し通った。
見えない爪にむしられるように、琢磨から肉が消えていく。

何かが急速に吸われる。
(繋がる!広い!)
果てしなく浩渺たるスケールと対峙する寂寥感と孤独。
急速に冷え切っていく意識を奮い立たせながら、琢磨は内側から外装を引き剥がした。

中に広がるのはガランドウ。スーツの裏地が影になっている。

足場が崩れる。
なおも踏み暴れる足を、蹴り押さえて移動を押さえた。

視野はあくまで前方の一方向。
見えなくても分かる。信じられる。
散々一ヶ所で続いた戦い。たとえ疲弊し混乱の最中でも、あの人ならチャンスを捉える。

(と、言うか、アンタも責任とれオッサン!)

『如此持ち出で往(い)なば、荒塩(あらしほ)の塩(しほ)の八百道(やほぢ)の、
八百道(やほぢ)の塩(しほ)の八百会(やほあひ)に坐(ま)す、速開津比売(はやあきつひめ)と云ふ神、持ち可可(かか)呑みてむ』

蹴りつけ振り向いた光景の中。
半ば入り混じった琢磨が目を奪われたのは、天を覆う幾本もの触手でもなく、上空を旋回する自衛隊のヘリでもなく。
こちらに跳びかかる盛口が構える木刀だった。

『如此可可呑(かくかかの)みてば、気吹戸(いぶきど)に坐(ま)す気吹戸主(いぶきどぬし)と云ふ神、根国底之国(ねのくにそこのくに)に気吹(いぶ)き放ちてむ』

ただのありふれた市販品だったそれは、斬撃の瞬間だけ何よりも恐ろしい神になった。
空白を設け、常時どれだけの強大な力を留め置けるか、ものを追究したヤソマガツやそれまでの変異、研究。
対し、武術武道は行為の一瞬にだけ針が振り切れることを選んだのである。

『如此気吹(かくいぶ)き放ちてば、根国底之国(ねのくにそこのくに)に坐(ま)す速佐須良比売(はやさすらひめ)と云ふ神、持ち佐須良(さすら)ひ失ひてむ』


自壊する。
強烈な干渉によって自らの凶暴ながら安定していた偏向が狂い、崩壊する。
閃光のような名残だけを留めながら、琢磨もまた漂白されていく。



『如此失ひてば、天皇(すめら)が朝廷(みかど)に仕へ奉る官官(つかさづかさ)の人等(ひとども)を始めて、
天の下四方には、今日より始めて罪と云ふ罪は在らじと、高天原に耳振り立てて聞く物と馬牽き立てて、
今年の皐月の、大祓に、祓へ給ひ清め給ふ事を、諸(もろもろ)聞こし食せと宣る。四国(よくに)の卜部等(うらべども)、
大川道(おおかはぢ)に持ち退(まか)り出でて、祓ひ却(や)れと宣る』






[27535] エピローグ
Name: 三二一◆02c59522 ID:068f191e
Date: 2014/03/01 23:56
エピローグ 『曲霊八十禍津天児』





気がつくと、何か白いものを眺めていた。
目の前で、逆三角形に並ぶ黒い三つの大きなしみが、驚いたように揺れている。
五感も記憶もぼやぼやして、こうしている事情すら定かではない。

不意に、網膜が像を結んだ。
病院らしき天井を背景に、紬の顔が、自分の前――上?――に覆いかぶさっている。
(姉さん……)

極端な明度の後光を背負い、久しぶりに見る童に似た好奇の眼差しで、一心に観察している。
辺りをとりまく光のベールは、腰まで伸びた純白の髪が照明を反射しているらしかった。
(すっかり老けて……)

辛うじてそれだけの感慨を残し、再び、鉛のような眠気に沈んでいく。





人が行き交う石畳の上で、頭を巡らせていた三輪は視線の先に、目指す二人の姿を見つけた。
佳辰を腕を組んで引き摺っていく。

日傘をさす、自分と同い年の男と、それよりわずかに年上の女性。
顔立ちも違う。性格も違う。
しかし雰囲気はそんな彼らに姉弟の印象を抱かせる。

それは揃って根元まで色素の抜けた白髪であり、どことなく生気の希薄な、幽鬼のような気配を帯びているからだろう。





「よう」
声をかける前に、気付いた先崎琢磨が片手を上げて振り向いた。
Tシャツにジャケットを羽織った、ラフな格好をしている。

髪質の柔らかい女顔。細い髪は耳元まで刈り込まれ、掲げる右腕は肘から義手になっている。

2040年4月。
最後の戦いから3年間昏睡状態にあった琢磨。
その後リハビリを重ね、外出許可が出た彼を祝って関係者が集まるのが今日だった。

「久しぶり。待たせちゃった?」
「いや。ここもゆっくり見てみたかったし、ちょうどいいよ」

「え?そうですか。はい。伝えておきます。いえ、ありがとうございます」
携帯で通話していた紬がこちらを向いた。
柔和な顔立ちで眼鏡をかけ、ゆったりとした露出の少ない服を着ているが、ふとした弾みに着衣がまとわりついた水死体が二重写しになる。

「急用が入って盛口さんは来られないって」
「マジか。お礼言わなきゃならなかったのに」
がっかりしたように琢磨。

あの後、雪崩を打つ曲霊の触手の怒涛に、琢磨の身体を担いで離脱したのが盛口だった。
「結局また助けられちまったなあ」
そう琢磨はボヤく。

琢磨をはじめとして負傷者全員への治療費と他費用。
CDF側が負担してもなお高額なそれを工面するために、盛口は解体後も各方面での意思決定に関わっていた。

「仕方がないよ。顧問やオブザーバーとして忙しくしてるんだし」
「まあな。仕事を斡旋してくれるらしいしその時にでも頭下げるか」
三輪のフォローに琢磨は頭を掻く。

「津具村からは連絡あったんだが、緊急入ったって」
「SATが動く事態はあまり起こってほしくないんだけどねえ」
「でも代わりに一人で会いに来てくれたぜ。お前らはどう?元気してる?」

再戦時、現役では志望校に落ちた佳辰は一浪して入学。
三輪もまた、解体による失職後は進学を選択。一年間での貯金を元手に、実家の補助も受けて受験。
今は、二人でそれぞれ都心の大学に通う学生である。

「私達以前に、自分の方がすごいことになっているでしょう」
頭のてっぺんから足の爪の先まで。まじまじと全身を眺めていた佳辰が、口を開いた。
「それと、あの人達何者です?」
そう言って、目だけで人ごみに紛れる黒服を示した。ここで三輪は初めて存在に気付く。

「私とこいつ。細胞レベルで浸食受けた私達は死亡後確実にアレになる。
バイタルのモニタリングは必須だし、監視もつくってことさ」
答えるのは紬だ。白く透けた髪を弄ぶ。



「と言うか自分で言うのもなんだけどさ」
と、琢磨。
「そもそもなんで生きてるんだろ。あの時は何とも思わなかったが、冷静になれば死んでたよね俺」

直接目撃出来なかった佳辰を含め、その後の惨状を知っている全員が首肯。
「それで病院運び込まれて治療してもらって……」
そう語る彼はごく一部を除き、ほとんど外見的な差異がなかった。

「その手はわざと義手に?」
「再生させてくれるって候補もあったんだが、親もこうだしあまり抵抗ないんだよな義手」
そう言って質問した佳辰に義手を見せる。

「それ自由度も高くてほら、こんな動きも出来る」
肘の逆回転と円運動、そして手首と指の反り返る動きを実演して見せる琢磨。

「スゲー!」
それを目の当たりにすると佳辰は新しい玩具を見つけた子どものように目を輝かせ、許可を得てかなり乱暴にいじる。

「ワハハ技効かねー怖ぇー!」
下は固い石畳。病み上がり相手に超嬉しそうに崩しにかかる佳辰と口角を上げて興じる琢磨。

「にしもよく外出できるようになったね」
「ああ、三斗さんとかが奔走して、内臓の再生治療を受けさせてくれたらしい」

高度に発達した研究段階含む先進治療に、移植までの人工臓器。
四肢には人工的な補填がされた他、顔も整形美容に配慮されて修復され、ぱっと見には負傷箇所の区別がつかない。

「ザ・被験体」
「ハハハ私とおんなじだ」

「技の一号!」
「力の二号!」
「うるせえ」

やにわに体を離し決めポーズをとる二人。
明らかに息が合い過ぎである。



琢磨の身体が傾き、傘を杖にして踏ん張る。
「はしゃぎ過ぎよ」
「久々に外に出たものだからつい……」

肩で息をつく琢磨は、そう言って頭を上げた。
視線の先、人々の流れの向こうにあるのは巨大な剣山。

青空を背に浮かぶ黒い細い頂点には、百舌の速贄のような塊がある。
曲霊に貫かれたヤソマガツ。再び地脈と繋がった曲霊。
四肢が復元した上で動きを止めたそれは、両者が繋がることで起動分と増殖分、双方が釣り合ったと予想されていた。

外に開きつつも固有の偏向で流れていた両者。
それに穴を開けたのが盛口の霞斬りであり、こじ開けて曲霊が刺し貫くまでを作ったのが琢磨である。

加えて再戦以降、コピーの動きも緩慢化。
ヤソマガツを通して広がる純粋な中身に、混成である曲霊を通して直に地球そのものがぶつかることで、抑制していると考えられている。

「オリジナルは止まったがネビニラルは未だ有効。拡散は健在。生態系への影響も未知のまま……」
紬が呟く。
人々が参拝する境界には、鳥居と共に巨大な額が掛けられている。



『曲霊八十禍津天児』
マガヒ ヤソマガツ・アマガツ。



勇壮な書体で縦に書かれたそれが、異星より漂着した流し雛に新たに与えられた神名だ。
今更と言うべきか、悪い名前をつけたのだから悪いものになったという思想が横行した。
名前には意味がある。名は原初の呪である。

それで与えられた新たな型。
マガマガマガ。くどいまでの音の繰り返し。
言うまでもなく、重ねの繰り返しは呪術の基本である。



設けられた賽銭箱の先は舗装されてない地面が覗き、数十メートルを隔てて高く分厚い壁が隔てている。
壁の前には自衛隊員が、外骨格を着込み直立不動で待機している。
その姿は方正で静かに張り詰め、自分たちのようなルーチンとして弛緩したところはまるでない。

地図を塗り替えた新たな地形。
広大な敷地は丸々、国の所有地である。

それでも人は集まる。人は崇める。
やがては神社の態を成し、傍らの社務所ではお守りを販売する。
非常時には簡単に切り捨て投げられるそれを皆、実用の護身具として買っていく。

超自然的なものや魔法が解明された世界。
今は言わば、過渡期の段階だ。
行われたことは、解決の先延ばし。精々が時間稼ぎだ。

だが、その「たかが」に、どれ程の労と血が流されたかを私達は知っている。

いずれ来る新時代。
その前に、結局人類は滅びるかもしれない。
解明されても、今は暗黒期の始まりだったと評されるかもしれない。

理解と受容が訪れた未来。
そこに住む人々の中でなら、あの母子も普通に暮らしていけるのだろうか。



「すまない。遅くなった」
三斗恭也、かつてのCDF長が合流した。

「ご足労ありがとうございます」
「お久しぶりです。便宜を図って下さり感謝に堪えません」
カジュアルな服装で現れた彼に、紬、琢磨が頭を下げた。

「利害が一致したこともある。それだけの働きをしたんだ。恩に着る必要はない」
サバサバと三斗。
「それと、盛口から伝言だ。出向けなくて残念だ、と」

「伺ってます。ところで質問が」
「なんだね」

「同僚たちの近況や、盛口さんや淀海さんのお二人がまだヤソマガツに関わってることは耳に入ります。
ですが、CDF解体後の三斗さんだけ存じません」

「差支えなければ教えてくださいませんか?」
三斗は紬を見た。
「尋ねても教えてくれないのです」

「そう気遣うことでもないのだがな」
嘆息。
「ダンスだ」

「は」
「正確には、ダンスの講習所を開いている」



あっけにとられていた琢磨は、彼の前歴に気付くと同時、爆笑した。
「あはは!ダンス!ダンスですか!」
腹を抱え、涙すら流して大口開ける。

「最近ではレッスン場も増やし、テレビ出演も決まっている」
「ダハハハ!失礼!最高です貴方!」

その後も呼吸困難になるぐらい笑い転げた琢磨は、数分後ようやく落ち着きを取り戻した。
「嬉しくって泣いたのは本当に久しぶりです」
「あいつが回す仕事で物足りなく感じたら連絡したまえ。状況次第では厚遇しよう」





語り、笑い、やがて別れる。
ヤソマガツが縁で集った人々は、それぞれの方向へ戻っていく。



立ち去る人々の中で、琢磨は暫し聳える剣山を見つめていた。
「たー君?」
紬の声に踵を返し、並んで歩く。

「ところでさ」
傘で開いた距離を、傾げて紬が詰めてきた。

「君が目を覚ました時、何かものすごく失礼なことを思わなかった?」
「どうだろう……戦いから先、あの頃のことはほとんど覚えてなくて」
「ふーん」

「ところでこれからどうするの?」
「どうって、話した通りだよ。治療費借金抱えちゃったから、少しずつ返していくよ。
幸い、そのために最低限の仕事だけは斡旋してくれるらしいから」

「それで満足?」
「あいつに関してなら、ケリは着いたし納得してるよ」
歩きながら。

「危険にさらしたし心配かけた。無茶をしたはずなのになんでか生きてて治療もしてもらった。
不足どころか至れり尽くせりだ俺。
これから人生どう感じるかなんて、それこそ暮らしてみなきゃ分からない」
「……」

「あと起きてから時間の進みが速いんだよね。体感的に意外と早く死にそう」
「それは脳細胞死にまくってるからだ。年をとったら誰でもそうなるのに、自分から情報処理力落とし過ぎ」

「えー、じゃあ意外とほっといても残された時間少なかったのな……」
「だから馬鹿だと言った。体で覚えたかったんだろ?」

「まあね。なんかこう、戦ってる時感じたんだけど、意外と物事繋がってるんだよ。
だから他に何かやりたいことが見つかったとしても、今の境遇から関われる伝手を探すようになると思う。
泥縄式でもやってみるよ」

「ふーん。そう」
気のない様子で紬は応え、
「漠然と抽象的過ぎだし、つっこみたいところは山ほどあるけど、とりあえず吹っ切ったことだけは褒めてやる」



人は歩き、代を重ねる。
太陽は輝き、季節は巡る。
送迎用の帰りの車中で、互いにもたれかかって二人は微睡んだ。








[27535] 修正履歴他
Name: 三二一◆02c59522 ID:068f191e
Date: 2014/03/01 23:57
各話投稿日時/修正日時

プロローグ (2011/05/03 投稿) (2011/05/05 修正)(2014/02/17 修正)
第一話   (2011/05/03 投稿) (2011/05/05 修正)
第二話   (2011/05/04 投稿) (2011/11/18 修正)
第三話   (2011/05/05 投稿) (2011/11/18 修正)
第四話   (2011/11/18 投稿) (2011/11/19 修正)
第五話   (2011/11/19 投稿)
第六話   (2011/11/20 投稿)
第七話   (2011/11/21 投稿)
第八話   (2011/11/22 投稿)
第九話   (2011/11/23 投稿)(2014/02/17 修正)
第十話(一)(2014/02/17 投稿)
第十話(二)(2014/02/17 投稿)
第十一話  (2014/02/18 投稿)
第十二話  (2014/02/19 投稿)
第十三話  (2014/02/20 投稿)
第十四話(一)(2014/02/21 投稿)
第十四話(二)(2014/02/21 投稿)
第十五話(一)(2014/02/22 投稿)
第十五話(二)(2014/02/22 投稿)
第十六話   (2014/02/28 投稿)
第十七話   (2014/03/01 投稿)
エピローグ  (2014/03/01 投稿)



※感想ありがとうございます。励みになります。

お待たせしました。お待たせ過ぎだと思います。待って、読んで下さった方には感謝いたします。



プロローグ~第三話までと、第四話~第九話、第十話~エピローグでは書式が違います。
混乱させてしまったら申し訳ありません。

プロローグ~第三話

文頭空白あり。一段落多行。
一行 場面転換。
三行 大画面転換。

他強調箇所、数行。



第四話~第九話

文頭空白なし。一文三行を目安。

一行 同段落内の見やすさ用。
三行 段落替えや場面転換。
五行 視点人物変更や人称変更。場面転換。

他強調箇所、なし。



第十話~エピローグ

ほぼ第四話~第九話と同じ。
ただし一文三行が不徹底。

他強調箇所、数行。





修正箇所
基本的に、誤字、脱字のみ修正。

(2011/05/05)
プロローグ~第三話
改行数操作

(2011/11/18 修正)
第二話
修正
彼岸→お盆(作者の覚え違いです)

第三話
誤字
紬発言
「まるで、そうしても~」→「まるで、どうしても~」

(2011/11/19 修正)
第四話
誤字
地に濡れた→血に濡れた



(2014/2/17 修正)
プロローグ
誤字
青は喋った。
青→緑(青が盛口。緑が三斗)

第八話
誤字
八百万に神々→八百万の神々

第九話
誤字
『名』→[名]

動く死体は斜線上に
斜線→射線

修正
白衣→カーディガン (病院で医療関係者以外が白衣を着てはいけません)



(2014/2/17 修正)
プロローグ
題に【完結】を追加


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