聖杯が降りる地、冬木には、市街地から西へ外れた場所に手付かずの森がある。その樹海の中心にあるアインツベルンの城。主であるイリヤの私室で、その言葉は紡がれた。
「――――バーサーカー。私だけは、シロウの味方でいてあげたいの」
あの坂の一戦で死んだであろう少年は、なんと奇跡的に生きていた。バーサーカーのマスターであるイリヤとは、切っても切れぬ深い縁を持つ士郎という名の少年。彼は日常を知らない彼女へ数日に渡って多くを語らった。物言わぬ騎士にその日々を話した少女の姿は見た目相応で、また幸福に満ちていた顔は希望そのもの。
騎士は、その眩い笑顔を思い出す。報われない結末を目指しているイリヤを、この戦火の中で育んだであろう人の心を、どうにかして護れないかと。
イリヤの根本的なものは、何一つ変わっていない。そう理解していても、平穏を感受しそれを心地よいと尊ぶ心を、彼女から感じてしまったのだ。
騎士は真の意味で誰かを救い、それが希望へと進んで行く様を見たことがない。不確定の世界で救いの手を差し伸べた数は多くとも、繰り返しが始まった時にそれらの事実は拡散し、なかったこととされている。だからといって、何か、誰かを救ったという、確かな証を欲しているわけでもない。闘うことしか出来ない彼では、イリヤを救うことは叶わないのだ。
しかし、天使そのものである笑顔と、味方でいたいと悲痛に歪む顔を引き出した少年にならば、成し遂げられるのではないだろうか。自分の手で救えなくとも、せめて橋渡しならば……。
聖杯戦争がおかしいと、イリヤは言う。事態が収束した先に、自分はいないだろう、とも。彼の王と同じように、騎士の心は暗く悲しいものに苛まれていた。未だよくわからぬこの戦争が、あの世界と同じようにもとより悲劇だったのだとしても、それを良しと思えるほど、彼の心は死んでいない。
寧ろ逆に滾り始める。騎士の確かな経験と存在意義が、芯まで冷えた心を熱くしていく。誓う先から出鼻を挫かれるのは運の無さかと思いつつ、頭を上げて拳に力を入れ、イリヤを見やる。
「――――吉くないモノが、来たようね」
それから逃げるのは不可能で、不死たる彼にも抗いがたい終わりをもたらすだろう気配。騎士はイリヤへ逃げるようにと意を飛ばす。そして部屋から出て、広間へと向かう。
諦めてやるものか。殿を勤めようとする騎士が持つ本当の宝具は、剣でもなければ盾でもない。魂を縛りつける指環でもないし、魔法に近い体も違う。彼の強さは只一つ。折れない心。それだけである。
豪奢な広間の階段を悠然と降る。抜剣しつつ、盾を持つ左手に力を込めて音も無く。威厳に満ちた様を見せ付けるように歩む彼は、かつては弱い者だった。帯剣の儀を済ませ騎士になった時も、騎馬を駆り戦場へ至るまでになっても、決して強くはなかったのだ。彼が変わったのは、いつからだったのか。
意匠が細部にわたって施された、赤い絨毯が終わる最後の段を降った先、開け放たれる扉を気にも留めず騎士は追憶する。南領から飛び出した時ではない。最初の霧を潜って死に、招かれた時も違うだろう。そう。何人も通さぬ、槍群を破ったあの時だ。悪魔を殺した、その瞬間である。
ようやく意識を向けた騎士の眼前に、悪魔がいた。今はまだ完成に程遠く、ましてや産まれてすらいない。しかしサーヴァントを侵す一点に限って、それは完璧であった。不意にそれは蠢動し、確かな形を持ち始める。妖しい光沢を見せる黒々とした戦装束。紅の筋を走らせた死を体現する色合いは、汚れていると理解できても美しい。くすみを見せている金糸も、差し込む陽光を浴びれば白い環を浮かばせる。清廉さを損なわずにあるだろう相貌は、残念ながら簡素な覆いのために見て取れない。
「――――貴公には、ここで果ててもらう」
鈴の転がるような声もそのままに、ただ在り方のみ反転した騎士王が口を開く。紡がれた言葉は冷淡で、後ろ暗さも喜悦もない平坦なものだ。言を返す程の理性を残されていない騎士は剣を水平に流すことで、大広間から先に行かせはしないと意を示す。最早言葉は必要ない。騎士王も剣を現界させて構える。風の結界から解き放たれている聖剣は、堕ちていても幻想を影らさずに冴え冴えと凶つ。
緊迫を打ち破ったのは、同時であった。その身一つで突撃する狂戦士。影を引きつれて疾駆する騎士王。持ち得る全てを使った両者の剣戟が、荘厳な間に響き渡る。双方繰り出す深い業は死の嵐と化し、床を、壁を、そして体を壊して行く。共に傷だらけとなっていくが、明確な差が生じ始める。急速な自然治癒、再生していく体と無尽蔵の魔力を持つ騎士王は衰えないが、不死身であるはずの狂戦士の肉体が崩れて行く。
動きの鈍った体を騎士が見やれば、影が満遍なく張り付いていた。それはただ動きを阻害する束縛ではない。こと死に関してならば、どうあっても願いを叶えようとする六十億の呪いの片鱗。本来、この地に存在出来ようはずもない騎士である。ならば世界の法則に従わせ、散逸させてしまえば良い。いくら悪魔の天敵たる彼でも、それは抗い難いものだ。
それでも彼は折れない心の下に剣を上げる。既に過半は影に侵されて、騎士王へ振り下ろそうとする右腕の感覚はもうない。
その飲まれ行く様を、騎士王は表情なく見守る。見事であったと心に秘めて。宝具を用いればすぐさま決した雌雄を捨て、剣戟だけで騎士を制したのは慈悲か、それとも必要がなかったからか。
騎士は、先を見出す道を付けることすら出来ねば、それ以前に舞台へ立つことも赦されなかった。視力をも失いつつある彼には、終わりしかない。
だが、その絶望の中、一つの命を愛しむ心が繋ぎとめていた意志は、希望を見た。声が聞こえる。少女の名前を叫ぶ少年の声が、確かに聞こえたのだ。
――――イ、リ……■ス、■ィ……■ヲ――――
魂の体として存在する騎士に、声を出すことは出来ない。誰にも聞こえない、託すような呟き。それを最後に、飲み込まれた。
●
あの壮絶でいて呆気ない城での攻防はバーサーカーに次いでアーチャーと、そして士郎の左腕を奪って収束。完全に崩壊した聖杯戦争へと発展し現在へ至る。
最後の闘いに赴いた戦士たちを、みんなで戻って来てと見送ったイリヤスフィール。彼女は今、ただ少年の味方としているためだけに、存在している。可笑しくなった聖杯のプログラムも説明したし、魔法の剣を製造する手伝いも成し遂げた。願わくは皆一緒に聖杯戦争という地獄から、脱すことが出来たなら。
「シロウはきっと、無茶をするから……」
このまま行けば、誰かを失う結末になるだろう。それが誰になるかはわからないし、もしかしたら全員戻って来ないかもしれない。イリヤには、もしもに備えて待つことしか出来ないかと思われた。しかし、一つだけ気にかかることがある。
バーサーカーを失ったあの闘いの後、イリヤは自らの意志で、終わりに向かって城へ行った。聖杯へと書き換えられた少女と、腐敗した翁らの手によるものが大きいが、アインツベルンの役割でもあったのだ。愚かにも、救うために士郎がやって来てそれは果たされず、今も生きているのだが。気にかかること、それはこの時から抱えているのだ。
普通ならばその時追っ手がきて、脱出は失敗しているはずなのである。だが翁もアサシンも、サクラもセイバーも現れずに、難なく帰ってくることが出来た。
「ねぇバーサーカー。――――あなたはどこにいるの?」
イリヤは考える。サーヴァントは消滅すれば、器であるこの身かサクラの方へと納められるのだ。しかし存在そのものが消えてしまったかのようなバーサーカー。何らかの不具合が生じたとしか考えられない不自然さである。思えば、召喚した時からあのサーヴァントはおかしかった。
バーサーカーは弱くはなかったが、強くもなかった。魔法のような体を持ってはいたものの、相手を倒せないのでは意味がない。けれど一つだけ、此度のどんなサーヴァントも、誰一人として持っていない希望を有している。それは、ギリシャの大英雄ヘラクレスですら関わりがないであろう、第六の……。
「そこにいたのね」
今になってようやく感じ取れたのは、心に余裕が出来たからか、それとも求めたからだろうか。
バーサーカーは感じ難いほど希薄になっていただけで、未だ死なずに名残として存在していた。あの泥に溶け合うことで、かろうじて。彼は悪魔を殺す者であると同時に、悪魔そのものである。森で襲われなかったのは、影の中で彼が抗いを見せたからだろう。サクラはさぞ苦労しただろうなとイリヤは思いつつ、いつの間にか胸の内に響き始めた詩に耳を傾ける。
流れるように、どこか不思議な言い回しで紡がれる古めかしい呪文。バーサーカーと過ごした二ヶ月の中、何度か夢で聞いたことがある。それは騎士を支え世界を繋ぎとめるまでに至らせた、古い悪魔の大禁呪。
「――――Souls of the mind, key to life's ether. Soul of the lost, withdrawn from it's vessel. Let strength be granted, so the world might be mended. So the world might be mended.」
丁寧になぞれば、確かな繫がりがイリヤの内に蘇る。天の衣を纏い歌いながら霊地への道を行く彼女は、女神のようであった。
「みんなをお願いするね」
――――自分も生を望んでいいのだろうか。隠された願いを聞き届けたように、辿りつくにはまだ幾ばくか掛かる約束の場所から、声なき咆哮が上がった。
「ありがとう。――――スレイヤー・オブ・デーモン」
この世界で確かな名を得た悪魔は今、繋いだ先を初めて手に入れようとしている。
●
悪魔とは、必ずしも悪しきものを指す要素ではない。人であるかぎり捨てることなどそう簡単には出来ぬ苦悩を理解し肯定する、場合によっては味方となり得るかもしれない幻想だ。実体化には人々が創造したカタチを必要とし、また自由になるためには名を与えられなければならない。
突如大空洞に顕れたソレは、不完全なカタチで、しかし絶大だった。かつて主従だった両名と騎兵は、世界へ這入りこんだその気配に体を硬直させる。矜持と愛憎の姉妹もまた、飲まれんばかりの濃厚な存在感に停止した。
心を傷つけあうように言を重ねていた姉妹より、少しばかり離れた場所に騎士が在る。影に飲まれた、闇の聖母に咀嚼されて封じられたはずの狂戦士。赤黒い影に染まった姿は、聖杯のそれと親和した影響か、はたまた彼の世界での一面か。
「――――バーサーカー」
自らの手で桜は殺しに来るだろう。凛はそう思っていて、その通りに戦いが始まろうとしていたのに、なぜ今になって顕れたのか。
「どうして……完全に消せなかったから、ボロボロにして封じ込めていたはずなのに――――」
怯えるように頬を引きつらせる桜の視線は、姉ではなく騎士をうつしている。彼の全身を覆っていた武装は原型を留めておらず、頭を上げるだけで損壊が増して行く。背筋を正せば胸甲板が崩れ落ち、左腕はもう盾を無くしている。折れた直剣を握る右腕はどうにかつながっている有り様で、地を踏みしめる両足も影だけではない赤黒さに滲んでいる。誰もが、いつ消えてもおかしくないと思うだろう凄惨な姿。
しかしその身から溢れる色のない魔力と、最早役割を果たさない、顔面をちらつかせるブレスから除く眼光は、確かな輝きに満ちていた。
おもむろに、桜へ向かって騎士が動き出す。彼が一歩踏みしめる毎に、甲冑が弾けて内装がさらされて行く。命を刈り取られる訳には行かぬと、彼女の影が蠢き出す。
「い、や。――――来ない、……で」
帯の群が幾筋も伸びていく。それを目に騎士は崩壊を鑑みず走り出す。救うためには必要のない剣を捨てて。長期戦はもう望めない。イリヤが起こした奇跡は、一度きりしかないのだから。崩れて消えるしか残されていない彼の体に突き刺さる帯。しかし止まらない。
「来ないで――――!」
止まるわけには行かない。騎士は何度も取り返しのつかない過ちを犯してきたし、諦めてもきた。だがこの世界は、あの霧に覆われた世界ではないのだ。それに、繋ぎとめることが出来るだろう機会を棒に振るなど考えられない。
影に刺されていない部位など騎士にはなく、だが前進を止めることは許されず。
まだ距離がある。このまま慈悲のない暴虐に曝され続けられれば、とてもではないが耐えられない。
「妹が迷惑をかけるわね。――――道は付けるわ」
その言葉は心強かった。敵であった存在をいかなる理由で信じたのかは、騎士にはわからない。だが今は、そんなことはどうでもいい。行く手を阻む黒い帯を、迫る先から最高の幻想に匹敵する光が打ち消していく。これならば届くだろう。もうすぐそこだ。そう思われた。
「どうやら、貴公とは奇縁があるらしい。――――今度こそ果てよ」
再三立ちはだかる騎士王。因果なものだと、騎士は己の運の無さを呪いつつ、それでも前進を止めない。彼は声を聞いたのだ。今も、イリヤが止まるなと言っている。
底知れぬ恐怖に苛まれている桜は、セイバーへ宝具の解放を命じる。それは必殺の最強の幻想。
「“約束された――――」
闇色が空間を支配する。
「――――勝利の剣”」
光が伸びる。
なおも止まるなと響く、白い少女の言葉。それは正しかった。騎士の眼前に桃色の花が咲く。しかし拮抗は数瞬で、清廉な四枚羽は聖剣の光度を落としたが決壊。回避するには足りないが、被る傷を抑えるには十分な間。漏れ出たそれは、彼の右腕を消し飛ばして終わる。
止まらない。後ずさろうとする黒い少女まで、あと少し。通さぬと騎士王が聖剣で斬り上げる。剣身は胴の半ばまで食い込んで止まった。
「な、――――抜けない。なんという――――!」
自身を裂く剣をそのままに、奥歯を鳴らし嗚咽する彼女を目前に捉え、騎士は残っていた左手に古木のお守りを現界させた。神と獣は同じであり、あの世界は初めから終わっていたのだと証明する真理。
「――――――――」
騎士の残り少ない魔力を使ってなされるは、最も真摯だった第六聖女の神業。その御業を込められた拳が、怯える少女へ当てられる。
「あ――――、え――――」
大空洞が光に満ちた。それは全てを暖かく包み込む、救済の輝き――――――――
●
あの戦争から二年。深い傷を刻まれたアインツベルンの城は綺麗に修復され、庭を彩る樹木たちも綿密な配置のもと美しい景観を作り出している。木漏れ日が優しく降り注ぐ場所に、それを一身に受け銀糸を輝かせる麗人がいた。
何をするわけでもなく、ただ追想するように目蓋を閉じて黙している。柳眉を下げたどこか物憂げな相貌は、男女を問わず惹きつけて止まないだろう。その色香に満ちた女へ声がかけられた。
「お嬢様、お客様が見えられました」
女は白く清楚な侍女服に身を包むセラの声を聞き、ただ一言行くわと答え歩を城へ向ける。翻る紫色のドレスはあの頃と同じで、靡く豊かな銀髪も同様に輝く。年増もいかぬ少女の姿のみ変わった女が、侍女が開いて促す扉の先へ行く。
頭を揺らし、たおやかな手を細い腰の後ろに組んで回廊を進む。足取りは軽やかで、響く靴音は小気味良く、それはうら若き時を刻んでいるかのようだ。大人びた容姿に少女らしい仕草。彼女にとっては矛盾でなく同居である。
姿形は変われど、何ら変化していない女は、それでも確かに命を紡いでいた。
客間に入ると同時、声が掛けられる。
「久しぶりね」
救いなど、始まった時から欠片も残されていなかった聖杯戦争。その争いを乗り越え、今ではイギリスにある魔術協会の一角時計塔にて根源を目指している者、遠坂凛が至極真面目な顔色で椅子に腰を掛けていた。
「ええ、久しぶり、リン。変わりないようね」
艶やかな黒髪はもう二房に束ねられていないが、強気な目と雰囲気は彼女そのものだ。凛は、二年ではそうそう変わらないと返しながら、頬にかかった髪を払い後ろに流す。その様は大層絵になっていて、いかにも遠坂の当主然としている。
「そういうあんたはますます変わったわ。……ま、見た目だけ、ね」
冷静な表情で、儚いものを見るようにして発せられた言葉。軽い口調で述べようとも、滲み出る哀愁を消すことは出来なかった。変わったもの、変わらないもの、凛の中で色々なものが思い起こされる。
あの戦争の後、気苦労は絶えず。しかし今、幸福に浸る妹と、左腕を失いつつも日常を歩む彼がいるのだ。その苦労は決して無駄ではなかったし、これからも後悔をすることはないだろう。だがサーヴァントが二体も現界したままという爆弾を抱えてもいるし、いくら宝石剣の設計図を手に入れていたとしても、時間の掛かる命題もあるのだ。
物思いに耽り出し、顔を憂愁に、背は憐憫に染め始めた凛に対し、銀髪の女は頬を引き攣らせつつもようやく椅子へ腰をおろした。魔術師だというのに、あまりにも多くを抱え過ぎているなと思いつつ、女は口を開く。
「それで、ただの挨拶ではないでしょう?」
流れるように発せられる言葉に、拙さはない。しかし、わずかばかり口角を上げ楽しげに発せられたそれには、しっかりと面影がある。
「ええ……。そろそろ頃合でしょう。面倒だから、さっさと済ませて士郎の家に行くわよ」
二年という歳月。それは凛を若くも、一流といえよう風格へ至るまでにした。先ほどまでの憐れさは鳴りを潜め、冷徹な魔術師としての顔が表に出る。
「あんたの存在を秘匿し続けるのと引き換えに、あのサーヴァントについて教えなさい」
放たれた言は鋭く無駄がない。そして拒否や譲歩も認めず、嫌が応にも聞かせてもらうという凄みが見て取れる。凛は二年も考え続けたが、バーサーカーについて何一つわからなかったのである。16世紀の初めから見受けられるようになった、マクシミリアン式の西洋甲冑。それに酷似した形状の甲冑を纏い、第三魔法と密接な関わり合いを持つ騎士など、見つけることが出来なかったのだ。
魔術とは秘されるものだが、魔法に近い体を持っていたのである。それに騎士なのだから、武勲や功績を称えられ伝説となっていてもおかしくはない。それこそ、オルレアンの乙女のように歴史に名を刻んでいるはずなのだ。フランスを勝利に導いたそれのように、神聖ローマには不死身の騎士がいたという事実がなければならない。まさかエミヤのように、未来の英雄というわけでもあるまいに。
別段わからなくとも問題はないし、凛自身に返る利益もない。しかし、最後の最後に全てを救って消えていったあの騎士を知ろうとするのは、おかしなことではないだろう。凄みは見せているものの、どうしても拒絶するなら潔く切り上げてもいいかと、彼女は内心思いつつ強く問いかける。
「バーサーカーは一体何者だったの? イリヤスフィール・フォン・アインツベルン」
刻まれていた令呪、膨大な魔力、聖杯としての機能。それらホムンクルスとしての在り方を書き換えられ、人間の営みを与えられた姿は魔法の成果そのものである。
イリヤスフィール・フォン・アインツベルン。彼女は幼さを少しばかり残し、止まっていた成長を取り戻したかのような年齢相応の女となっていた。
だがいくら魔法といえども、半分とはいえホムンクルスとして産まれたイリヤの魂の書き換えは、容易いものではなかった。桜という、人間でありながら聖杯の機能を有し、寿命まで生きながらえる彼女との繋がりがなければ、起こりえなかった奇跡である。
また膨大な魔力と、絶対的な機能にものを言わせて成し遂げたといわざるを得ない。
「リンが得することはないと思うのだけれど、いいのかしら?」
愚問と首肯する凛を横目に、イリヤはついに話しはじめる。拡散の世界からやってきた、あの騎士を。
「まずバーサーカーであった彼は、この世界の存在ではないわ」
この世界の者ではなく、また別の魔法と関わる、しかもそれを遠坂の前で言うイリヤの言を、凛はどうにか飲み込んで先を促す。
「もう世界の過半が霧散してしまった終わり行く世界。そんな絶望の中心で闘い続けた、ただの騎士」
語りは続く。
「彼の世界を、拡散と言う名の滅びへ誘う存在がいたの。それはたくさんの悪魔たち。そうね……悪魔たちは皆名を持っていて、絶大な力を有していたわ。人々の畏怖がカタチになったものや、嵐といった自然の権化のようなものもいた――――」
たんたんとしたイリヤの口調に、凛はアンリマユについて話された時を思い出しつつ聞く。どこかの夢物語みたいな、一人の戦士が悪魔たちを倒して伝説になる英雄譚。だが話の終わりは全く王道とは程遠い、虚脱するには十分な幕引き。そして、始まりでもあった。終わらない世界で、彼は一体何度絶望しただろうか。
「法則の異なる所から私に喚ばれてやってきた彼だけれど、一応サーヴァントとしての枠に収まったわ。わかっているでしょうけど、彼にはバーサーカー以外の適正は無かった」
しかもバーサーカーの平均値に多少色をつけた程度の能力値で、肝心の狂化ランクも低い。ブリキの騎士もいいところである。
「でも、宝具だけは規格外だった。彼には、彼という存在を縛り続ける指環があったの。楔……私がいる限り何度でも蘇えらせる呪いの縛環。それと実体を持たず、霊質的な存在でありながら現世へ干渉する体ね。その二つは、ほんとに魔法のような宝具」
今回の聖杯戦争はイレギュラーの塊だったのかと凛は呆れ果て、しかしそれだけでは大空洞での復活と、桜や聖杯、セイバーまで浄化したあの輝きに説明がつかない。その求めに応じ、イリヤは重く口を開いた。
「バーサーカーは聖杯の影に飲まれたけど、完全に消えることはなかった。彼は、悪魔を殺す者であり、また悪魔そのものでもあったの。当然よね。彼を強くした協力者は、実は悪魔だったんだから……。ねぇリン。あのアンリマユは、悪魔たる存在だというのは覚えているわよね?」
頷き一つで答えるリンを見つつイリヤは続ける。
「似て非なる存在同士だったからか、それとも法則が違うものだからなのか私にもおよびがつかないけどね。それで、影に飲まれつつも彼が蘇ったのは……彼は、カタチはサーヴァントの枠として得たけれど、名は得ていなかったの。そう、自由になるためにはとても大事なものを」
「まさかイリヤ――――」
「名を与えたわ。第六架空要素の塊であった彼は自由を得て、影の束縛から逃れ一度きりだけど蘇生したの。最後のは……彼が起こせる、最も真摯な奇跡の魔術よ」
「ほんと……滅茶苦茶ね……知りたくないことばっかりだったわ」
精彩を欠きに欠いた凛の顔色をイリヤは無視し、声を弾ませて言った。
「さあ、もうシロウの家に行きましょう。早くしないとセイバーにお菓子を全部食べられちゃうじゃない」
いたずらに成功したように顔を綻ばせるイリヤの顔は、輝きに満ちている。あの戦争で得たものは少ない。だが掛け替えないのないものを彼女はもらったのだ。
何気なく続いていく、人としての日々を――――
●
寄せては引く波。それは優しげに、白い瓦礫の楽園に響く。その夢幻のような景観を引き立てている崩れた石柱に、朽ち果てた騎士が背を預けて腰を下ろしている。甲冑は最早役割を果たさないほど壊れており、剣を振るう為の右腕は無い。二度と闘うことが出来ぬであろう身体。
その傍らに、形を損なっていない何かがある。冠だ。白銀色を基調に、縁を美しい金で煌びやかにされた神々しい冠。彼は、朽ち果てながらも役目を終え、自分の世界へ還ってきたのだ。得たものは、触れてはいけない禁断の礼装だけ。
要人として在れるかどうかも疑わしい身体で、騎士は息を吐く。痛みはない。感覚などとうに失っていた。また、始まるのだろうか。最後にそう思いつつ、彼は目を瞑った。
しかし、意識はどこか冴えており、閉じたはずの目蓋の内で騎士は何かを見る。それはきっと試練を乗り越えた強い魂を持つ彼への、少女からの報い。たとえ夢だったとしても、間違いなく彼は報われた。
騎士は見る。全てを失って、それでも希望に向かい進んで行く、大国の姿を……。