「僕の名前はキュゥべえ! 君の願いを何でも一つだけ叶えてあげる。だから僕と契約して、魔法少女になってよ!」
白いぬいぐるみのように愛らしい生き物が軽く小首を傾げながら人の言葉を口にして、一人の少女にそう囁いた。
それが悪魔の囁きであるとも知らず、なんでも願いが叶うという魔法そのものの言葉に胸躍らせた少女の名前をエイメという。
ただし彼女は一介の平凡な少女というわけでもなかった。欧州の片隅にある古い歴史を誇る小さな王国の、王太子の一人娘であり彼女自身も王女の身分を有していた。
王女ならば魔法の使者に頼らずともどんな願いでも叶いそうなものだが、それは決してそうでもない。むしろ王女の身分ゆえに叶わないことの方が多かった。
まず自由が無い。自由に遊ぶことも、遊び相手を好きに選ぶことも、気ままに遊びに行くことも叶わない。将来的にも結婚や就職など全てががんじがらめに制限を受けるだろうし、その心の赴くままに行動することは決して許されないだろう。
だからもし一国の王女が魔法の使者から『なんでも願いを叶えてあげる』と言われたら、おそらく望む事は平凡な一少女になることだろう。
しかしエイメの場合はそうでは無かった。確かに彼女は王女ゆえに、憂い多い日々を送っていた。だが彼女はその憂いを晴らすため必要な事は、自分が平凡な一少女になることではないと固く信じていた。
だからエイメは彼女がそう信じるままに、彼女と彼女を取り巻く状況を改善するために必要な事はこれしかないのだと信じて、心の底からの願い事を口にした。
「それなら、私が王太子になれるようにして。私が立派な王太子になれれば、きっとママだって元気になるわ!」
実はこの王国は王位継承にサリカ法典を採用しており、男児にしか王位継承権が発生しなかった。エイメは王太子の一人娘とはいえ女児ゆえに王位継承権は無く、いずれどこかに嫁ぐという形で王家から離れることが見込まれていた。
そしてエイメ以外に子供を持たない今の王太子パトリックが国王として即位した暁には、王太子位はその弟でありエイメの叔父にあたるエドワール第二王子に受け継がれていくのが今の王位継承法の決まりである。
しかしそれゆえにエイメは王女であり王太子の一人娘でありながら、王家での扱いは軽くならざるを得なかった。
結局、王家というのは続けていくことに意義があり、その継承に関われない者に大した意味は無いのである。
かつて、長らく子供に恵まれなかった今の王太子夫妻の間にエイメが授かった時、心中では男児を期待していた国民は表面上は祝福したものの、密かに肩を落としていたのがありありと分かるほど何とも言えない気まずい雰囲気が国中に漂ったという。
その事によって、エイメの母親であり王太子妃であるグレースの立場も終始微妙なもので有り続けた。
王家は続けていくことに意義があり、続けていくためには後継者が必要なのだ。だから今だ後継者を産んでいない王太子妃など、王太子と結婚していなければ元々はただの一般人にすぎないのだから、お妃様と尊重することさえ馬鹿馬鹿しいということになる。
徐々にグレースは王室での居場所を無くしていった。元々大企業の社長令嬢とは言え民間から嫁いできただけに、王室の旧弊さには馴染めないところがあったのかもしれない。
しだいにグレースは気鬱の色を濃くし、エイメが三歳になるかならないかの頃には、何やかやと理由をつけては公式行事から足を遠のかせ、今では完全に公の場から姿を消していた。
後継者を産まないどころか公務さえも満足に果たせない王太子妃に、最初は病気なのだからと同情的だった国民の視線も徐々に厳しさを帯び、さらには夫である王太子のパトリックも表面上は取り繕い妻を気遣う風を見せながらも、家の中では途端に豹変して役立たずになった妻を疎んじ、冷たい目で見下していた。
エイメの暮らす家であり父パトリックが王太子として与えられていた豪奢な離宮は、見かけばかりは立派でもその内実は冷え切り、冷たい氷の城と化していた。
そんな暮らしに少女のエイメはもう耐えられなかった。冷たい父も、陰鬱な母も、国民から落胆される自分も大嫌いだった。
自分は何一つ悪いことをしていないのに、ただ女児に生まれたというだけで落胆され、母は役立たずのように思われ、父はそんな自分達母子を内心では疎んじる。
だからエイメは思うのだ。もし自分が男児だったら。いや、男児で無くとも王国の次期後継者として認められれば、全ては好転するのではないかと。
だから目の前に現れた不思議な魔法の使者に、エイメは一も二も無く願いを告げ、奇跡を祈った。
そしてキュゥべえと名乗ったその魔法の使者は莞爾と微笑んで、エイメのその願いを受け入れる。
「それが君の願いだね。大丈夫、君の祈りは間違いなく遂げられる」
その言葉を合図に、やがてエイメの胸から光輝く宝石が浮かび上がってきた。
「受け取るといい。それが君の運命だ」
エイメはそれを希望と信じて、虚空に浮かぶ宝石をその手に取った。
次の日、奇跡は間違いなく起こった。
突如として、国民の間に王位継承法の改正を求める運動が巻き起こったのだ。
欧州の他の王家では既に男児女児を問わない継承法が採用されていることが多いのに、この国ではそれが認められないのはおかしいと、男女平等の今の世の中にそぐわないと、国民達は声高に主張した。
一部の識者などは、この国はすでに一千年以上の長きに渡り王統を父系で繋げており、むしろこれは他の欧州王家と比較して貴重な存在である。その貴重性を自ら投げ捨てて他の王家と同じ凡百の存在に成り下がるなど、王家の貴重性・神聖性を損ない存在意義を無くす愚かなことだと、男女平等にしたところでそもそも王家という存在自体が不平等によって成り立つものなのだから、その概念を王位継承に持ち込む方がおかしいと必死になって主張したのだが、熱病に浮かされたように暴走し続ける国民はその言葉に耳を貸す事は無く、やがて真っ当な反論の声はそれらに呑まれ、かき消されていった。
そして立憲君主制のこの国では、主権は国民にあり実際の政治は国民に選ばれた政治家が担う以上、王位継承法の改正も政治家の手に委ねられていた。
その政治家は選挙という枷があるために、大多数の国民が王位継承法の改正を望むのであればその声を無視することなどできなかった。
それは王家とて同じことである。国民あっての国であり、彼らがそれを望むのであれば王家もまた無視はできない。
もし伝統にこだわり女児継承を拒絶して旧弊な面を見せつけるようなことをすれば、王家はたちまち国民から軽蔑され見放され、場合によっては王制の廃止という事態さえ考えられた。
伝統と存続を秤にかければ、それは存続の方が優先されるだろう。王家は深く政治に関わりを持たないだけに積極的に賛成するような態度も見せなかったが、もちろん反対するような行動も起こさず、それが国民の意思ならばと王位継承法の改正を黙って受け入れた。
かくて王位継承法は男女を問わない長子相続に改正され、これに則り王太子の一人娘であるエイメは、父である王太子パトリックに続いて王位継承第二位が与えられることになった。これで彼女は王国の後継者に名を連ね、いずれ次々世代の女王となることがほぼ確定的となった。
「ありがとう! キュゥべえ! 本当に奇跡だわ!」
エイメは狂喜乱舞し、キュゥべえを抱きしめて最上級の感謝の意を示した。キュゥべえはと言うと、いつも通りの愛くるしさながらも常の通りの無表情で応じる。
「感謝するには及ばないよ、これは契約だからね。それに奇跡には代償があることも忘れないようにね」
「分かっているわ。私はこれから王女として、次々期女王として、そして魔法少女として、この国を守ってみせるから!」
今まで何の足しにもならない用無しの王女から大きな使命を帯びた存在になれたことは、その責任感に重圧を感じるどころかむしろやりがいを覚えることであり、エイメは歓喜の絶頂にあった。そして、この時が彼女の人生の絶頂とも言えた。
―――絶頂とはすなわち、そこから先は転落しか無いということでもある。
破滅の序曲はじょじょに、しかし確実にエイメの周りに不吉な旋律を奏で出す。
最初の悲劇は唐突に訪れた。
王位継承法の改正が行われエイメに王位継承権第二位が与えられて数日も経たないうちに、エイメの父であるパトリック王太子が突如としてこの世を去ったのだ。
まだ壮年であり若い方の部類に入る年齢だったが、国内企業の視察に赴いた折りに人々の前で突然胸を抑えたかと思うと床の上に崩れ落ち、そのまま意識を失って帰らぬ人になってしまった。
死因は心筋梗塞による心不全ということで決着し、大勢の国民と王族の涙に見送られて盛大な国葬が執り行われた。
王太子であり第一王位継承者の死によって、改正法に則った新しい順位に従い継承権は繰り上がり、エイメが第一王位継承者すなわち王太女に擬せられた。
だがせっかくの王太女の地位であったが、エイメの心は晴れなかった。
今まで用無しの王女として空気のような扱いだったが、継承法の改正を受けて王国の後継者の一人となりその地位に重さが加わって、これで自分を見る国民の目も、なによりも父パトリック自身に自分を認めてもらえると期待に胸を膨らませていたのに、それは当の父の死により、もう二度と永遠に自分を見て貰うこと自体が叶わなくなってしまったのだから。
なによりも突然の父の死を目の当たりにして、エイメの心に疑念がわき起こって来たのだ。
(パパの死は、本当に自然死だったの?)
継承法改正から間を置かずして突如として訪れた凶事だっただけに、そのタイミングはあまりにも際どすぎた。
もしこれが継承法の改正以前に起こった出来事だったとすれば、旧継承法では男児にしか王位継承を認めていなかったため、そのままではエイメは王太女になれなかったのだ。
そしてその代わりに王太子になっていたのは、パトリックの弟でありエイメの叔父にあたるエドワールになっていただろう。
エドワールが王太子になった後で仮に継承法の改正が行われたとしても、その次の王位継承者はエイメでは無く、エドワールの長女でありエイメの従姉妹に当たるヴェロニクということになり、さらにその次はヴェロニクの妹のベルティーユということになるため、エイメの順番は後回しになってしまう。パトリックの死のタイミングは本当に際どすぎたのだ。
だから一部には、継承法の改正を急ぎすぎたのではないかという意見と共に、エイメがまるで叔父エドワールから正当な王位継承権を奪ったように見る向きさえあるのだ。もし改正がなされていなかったら、確かに今頃はエドワールこそが王太子だったのだから。
さらには、パトリックの死さえもエイメを推す人間の陰謀ではないかと影で噂する者さえ現れた。エイメに王位継承権が与えられることが決定したので、用済みになった前王太子パトリックは消されてしまったのではないかと言うのだ。
エイメを推す人間、すなわちエイメが王位を継ぐことになって得をする人間ということになるが、そんな人間は王国の中でも限られている。
その人物とはエイメの外祖父でありエイメの母・グレースの父でもある、国内有数企業の会長職にあるリシャール・シャノワーヌに他ならない。
だがエイメはその噂を馬鹿な事だと心の中で一蹴した。確かに王国の次期女王の祖父ともなれば、リシャールに取ってこれほど名誉なことは無いだろうが、それは別にパトリックが居ても変わりは無いのである。
むしろエイメはパトリックの死の背後に、叔父エドワールの影があるように思えてならなかった。
確かに王位継承法の改正が成った今、このタイミングでパトリックが死んでも叔父には何の得も無い。しかしこのタイミングが予期せぬものであったとしたらどうだろうか? パトリックの心筋梗塞は、それこそ薬か何かを常に盛られていて心臓が弱まらされていたということは無いだろうか? 本当ならパトリックを王位継承法の改正が成る前に暗殺したかった者がいたのではないかと、エイメは心の底の疑念を捨て切れずにいた。
そう、エイメは叔父エドワールを、王位を窺う者として以前から疑いの目を向けていたのだ。
そもそも王位継承法の改正が試みられたのは、何もごく最近の事ではない。キュゥべえに奇跡を願う前、エイメがまだ幼かった頃に継承法の改正が政治の俎上に上ったことがあるのだ。
その頃、現国王の孫世代にはエイメを含めエドワールの長女ヴェロニクと次女ベルティーユといった具合に王女しか生まれておらず、このままでは王朝の存続が危ぶまれるとして、女児しかいないのだから女性にも王位継承権を与えるのも仕方ないのではないかという雰囲気が醸成されつつあった。
そういった空気の中、新進気鋭のフォンテーヌ首相がその強力な指導力を発揮して継承法の改正に着手し、改正案を議会に提出する寸前にまでこぎつけていたのだが、そこに思わぬ事態が勃発した。
次女ベルティーユを産んだ後、長らく子に恵まれていなかったエドワールの妻、レジーヌ妃が突如懐妊したという知らせが議会に届いたのだ。
その突然の知らせに議会は継承法の改正審議を中断し、レジーヌ妃が産むであろう子の性別を見守ることにした。もし生まれる子が男児であれば『女児しかいないのだから仕方が無い』という理由で進められてきた改正法はその根拠を失ってしまうからだ。
そして王国中が固唾をのんで見守る中、レジーヌ妃は見事男児を出産した。
エドワールにとって第三子となるその男児はウジェーヌと名付けられ、現国王の孫世代唯一の男児として次世代の王位継承者と見なされ、そして継承法の改正は必要無しとして廃案になった。
後嗣の無い王家の救世主たらんとしていたフォンテーヌ首相は、この顛末に面目を失ったと感じたのかその後すぐに政界を引退し、その様子を見ていた他の政治家達も、王家に不用意に手をつける事は政治家生命を賭けるものだという認識を強くして、以来誰も継承法の改正を言い出さなくなっていた。エイメがキュゥべえに奇跡を願うまでは。
以前の継承法の改正の時はエイメはまだ幼かったのでピンと来ていなかったが、今になって思い返せば、エドワールとその妻レジーヌ妃の意図は明らか過ぎるほどだ。
王位継承法改正論議の最中に王国の後継ぎになりうる可能性を持った子供を作るなんて、どう考えても継承法の改正を阻止したかったからとしか思えない。
そのあからさまな懐妊に、人工的な手段を用いたのではないかと周囲から囁かれていたこともあるが、これはいささか認識不足である。いかに科学が発達しても生命の領域はまだまだ人の及ぶところでは無い。
要するに人工授精と自然懐妊ならば、実は自然懐妊の方がまだ受胎確率は高いのだ。自然に懐妊することのできない確率0%の夫婦だけが、10~20%の確率に縋って人工授精を試みるものであり、自然懐妊が出来る夫婦ならば自然に任せた方がよほど妊娠しやすい。
エドワールとレジーヌは結婚後すぐに長女ヴェロニクを授かっており、どう見ても自然に任せた方が懐妊の確率の高い組み合わせの夫婦と言えた。
ただ、自然だろうがなんだろうがすることをしなければ子供は生まれない。エドワールとレジーヌは明らかに、このタイミングしかないという固い意志の下に子供を作ったのだけは間違いないのだ。それすなわち、エドワールには王位への野心があるという事ではないだろうか。
エドワールの改正法阻止の意図は一旦は成功したが、エイメがキュゥべえに奇跡を願ったことによりそれは覆った。
しかしそれでエドワールが野心を捨ててくれたとは、エイメには到底思えなかった。むしろその野心は歪に形を変え、パトリックへと牙を剥いたのではないだろうか。
そしてパトリックの死が意図的に仕組まれたものであったとすれば、次にその野心の牙の標的になるのはエイメと言うことになる。継承法が改正されたとはいえ、その改正された継承法に置いてもエドワールはエイメに次ぐ継承権を保持しているため、もしも今ここでエイメも亡くなってしまうことになれば、今度こそエドワールが王太子になれるのである。
父の死をただの自然死と思えず、陰謀の影があるのではないかという疑惑に取り憑かれた時、エイメはその陰謀が自分にも及ぶ可能性を思って我知らずその身体を震わせた。
そしてそう思ったのは何もエイメだけでは無かった。王族に関わることだけに大っぴらには言われなかったが、エドワールの真意を疑い、声を潜めてではあったが疑惑を囁く者は絶えなかった。
それは時の政府も感じるところがあったようで、パトリックの喪が明けきらないうちにとある発表が行われた。それは帝王教育と称してエイメをイギリスに留学させるという決定だった。
その留学には付き添いとしてエイメの母・グレース前王太子妃も付いてくるのだが、エイメは少し釈然としなかった。
叔父エドワールの野心を疑い、暗殺の恐怖に脅えていたが、だからと言って自分の方が外国に留学させられるのは何か違うような気がした。これではまるで自分達が不利を認めて逃げ出すようなものではないか。
それにキュゥべえとの契約によって人々を脅かす魔女を人知れず退治するという魔法少女としての使命を授かったのに、母国を離れてしまってはどれだけがんばっても直接自国の国民を守ることに繋がらないのも残念だった。
そうは言っても留学は政府の決定であり、王太女とは言えまだまだ未成年のエイメと、今だ気鬱の状態から脱しきっておらず強気の主張など出来るはずもないグレースでは、この決定に異議を唱えるだけの力も人脈も無く、ましてや政府の決定は自分達母子を思っての措置であるだけに結局は受け入れる以外無く、エイメはイギリスへと旅立っていった。
イギリスでの生活はまずまず順調だった。
母国では何かと落胆の眼差しで見られることが多くてそれゆえに引きこもっていたグレースも、娘が無位の身から王太女という重々しい身分になったことでそういった視線から解放され、なによりそういった視線で見る者さえいない他国に来られたことは良い気晴らしになったようで、私的な外出であったが出歩くことが多くなった。
ましてやイギリスのロンドンは高級デパートのハロッズに、連日連夜催される舞台劇やダービーなどの賑やかな催し物も多く、出歩く理由には事欠かない。
母が元気な兆しを見せてくれたことで、これも自分が王太女になれたからだと思い、キュゥべえに奇跡を願ったかいがあったとエイメも喜んだが、母が遊興に出歩くことは結果として未成年であるエイメは付いて行けずに取り残される事でもあり、それによる一抹の寂しさは拭えなかった。
その寂しさを、エイメはイギリスでの魔女退治に励むことで忘れようと務めた。昼はイギリスでも有数のお嬢様学校に通って未来の女王としての研鑽を積み、夜は部屋をこっそり抜け出して、魔女を探し歩いては退治して回った。
命がけとは言え自分が何事かを成し遂げているという実感はエイメの人生にやりがいを与え、彼女のイギリスでの生活は充実していたが、それでもどうしようもない不安が影を落とさないわけでもなかった。
エイメ達がイギリスでの長期に渡る滞在を続けている間、自国では国民達の注目は自然と残された王族達に集まっていた。すなわちエドワールとレジーヌの間の娘と息子達、特に男児継承者としてのウジェーヌに人気が集中していた。
ウジェーヌは一番最近になって生まれた王族だけに、まだ小学校に入ったばかりと幼く、その愛くるしさで国民の人気を集めていた。
翻ってエイメは、生まれた直後は継承権の無い女児として国民から落胆を持って迎えられただけに注目も薄く、また母グレースの引きこもりに伴ってその娘であるエイメ自身もあまり公の席に出る機会が無く、気が付けばつい最近の王位継承法改正が成るまでは、エイメは国民から半ば忘れ去られたような状況になっていた。
そして今はと言えば、母国を離れて遠くイギリスにまで来ているため、やはり国民の目に触れる機会が無く、どちらかと言えば国民の関心は薄いままだった。
それでもこの状況はまだいい方だった。どれほど国民的関心が薄かろうとも、それでも今現在のエイメは改正法に保障された王国の次期後継者なのだ。その地位が揺らぐことなどまずありはしない。
それなのに、エイメが国民の前に姿を表わす機会が無いのをいいことに、信じがたい噂が国民の間に流布していると知った時、エイメの怒りは爆発した。
『エイメ王女には知的障害があるらしい』
『それを隠すために今まであまり公の場に出て来なかった』
『今もそれをひた隠しにし、海外留学と称して国から離れているのもそのためだ』
『ふざけている。国民を欺く行いだ』
『母親のグレース前王太子妃は、そうまでして次期女王の母妃としての地位を守りたいのか』
『パトリック前王太子も既に居ない以上、その配偶者として王妃にもなれなかったし、子供は女児のエイメ王女だけ。継承法改正前だったらエイメ王女が結婚して王家を離れると同時に、元王太子妃なんて名前だけは大層な何の役目も無い存在に成り下がる。本来は王家との繋がりなんて何も無い平民も同然の存在なんだから、それはエイメ王女を女王にしようとやっきにもなるさ』
『本国を離れて、遠くロンドンで俺達の税金を使って遊興三昧の放蕩未亡人ってだけじゃ飽き足らないってか』
『こんなのが次期女王の母妃として大きな顔をするのかと思うとぞっとする』
『それ以前に、エイメ王女が次期女王でいいものか』
『知的に障害があっては、女王は務まらないだろう』
『やはり王統はエドワール王子殿下、ひいてはウジェーヌ王子殿下の父系でいくべきだったんだ。それが今までの王国の伝統だったんだから何も問題無いじゃないか』
『本来なら王女殿下に王位継承権なんて無かった。しかも知的障害で王位継承が困難な人間を、わざわざ女王に担ぎ出してどうするんだよ。国民や側近の負担が増えるだけじゃないか』
『そんな負担なんか必要無い。男児の王位継承者がちゃんといるのにな』
そんな噂が、ネットの世界を中心に駆け巡っていることを、エイメはパソコンを通じて知った。
「ひどいわ…こんなの…あんまりよ…!」
ネットの世界は顔を見せずにできる遣り取りなだけに、王家への敬意や遠慮などもどこかに置き捨てて、皆下世話な好奇心をむき出しにし、電脳の架空空間で赤裸々な会話を弄んでいた。その容赦の無い言い様に、エイメの心は深く傷つけられる。
世の人々の知るところでは無いが、エイメは契約に従って魔女を狩り、人々をその脅威から守るために必死になって戦っているのに、誰もそれを知ろうとはせずにネットの世界ではこうやって呑気にエイメをあげつらい、馬鹿にし続けている。
それにしてもどうしてこんなひどい噂が立ったのだろう。いくらエイメが国民と触れ合う機会が少なかったとはいえ、これはあまりにひどすぎた。
(…もしかして、エドワール叔父様の差し金なの…?)
エイメを貶める噂を流し、彼女に王位継承が困難だと国民に思わせる事で、彼女を王国の継承者の座から引きずり降ろそうとする手の込んだ陰謀なのではないかと、またしてもエイメは叔父エドワールを疑った。
(そうまでして、王位が欲しいの!? パパを殺して、ママを困らせて、私の悪い噂をばらまいてまで自分が国王になって、ウジェーヌを王太子にしたいのね!)
そんな証拠など何一つ無いというのに、エイメは叔父エドワールを完全に疑ってかかり、見えぬ脅威に神経を尖らせる。そして、この無遠慮な噂を放置しておく気も全く無かった。
エイメの英国留学に伴って付き添いとして付いてきたのは母グレースだけではなく、宮内省からの職員や侍従が何人かいたため、彼らにこの不名誉な噂をマスコミを通じて否定するように王太女として命令したのだ。しかし、彼らの返答は芳しいものでは無かった。
「所詮はただの噂です」
「それに噂の大元がネットでは、雑誌やTV番組のような明確な責任者が存在する媒体ではありませんから訂正させようがありません」
「むきになって否定し、こちらが火消しにやっきになるような所を見せれば、かえって噂が図星だったからに違いないと国民に間違った確信を与えてしまいます」
「噂など所詮、噂。王女が本国にご帰国あそばして、知的障害など微塵も感じさせない振る舞いを国民の前でただ一度見せるだけで、あっという間に霧散する程度のものですよ」
現状では打つ手が無いと言われて、エイメももどかしい思いをしたものの、それでも『国民の前に姿を見せさえすれば噂などかき消える』と言われたことで、それもそうだと思い直し、早く本国に戻れる事を切望するようになった。
だが、エイメの帰国の機会はなかなか訪れなかった。
学校の長期休暇だってあるというのに、本国政府はエイメの帰国を認めなかったし、促してくることも無かった。仕送りだけはたっぷり送ってくるがそれだけで、留学と称して厄介払いさせられているような気さえしていた。
なにしろフォンテーヌ元首相の引退の件以来、王家に不用意に手を触れることは政治家生命を危うくする事だという共通認識が政治家達の間にあるようで、王国初の女性王位継承者であり王太女のエイメは何かと議論を呼びやすく、面倒事を嫌う政治家や政府は、エイメが留学課程を終えるか即位寸前になるまで本国に戻す気が無いのかもしれなかった。
「…どうして、何もかもすっきり解決というわけにはいかないのかしら」
そう言って、エイメは自室で深く溜め息を吐いた。
キュゥべえに『王太子になりたい』と奇跡を願った時は、自分が王太子になりさえすれば何かもかもがうまくいき全てが解決すると思っていた。
でも実際には、自分が無意味な存在では無いと見せたかった父パトリックは既に亡く、自分が王太子になっても国民の間で議論は絶えず、そして分裂した世論はエドワールやウジェーヌに心を寄せてエイメを必要以上に貶めて、厄介事を恐れる政治家は自分達母子を相変わらず遠巻きにして距離を取ろうとする。
結局エイメを取り巻く状況は、彼女が奇跡を願う前とさして変わりが無いように思われた。
「それでも…留学が終わりさえすれば、帰国さえすれば、きっと何もかもうまくいくはずなのよ…!」
それだけを心の支えに、エイメはままならない今の状況を耐え忍ぶのだった。
だが時と共に解決するはずだと信じて忍従を続けていても、エイメを取り巻く状況の悪化は止まらなかった。
あともう一、二年でエイメの英国留学も終わろうかという頃に、その凶報は届いた。
「リシャールお祖父様が亡くなった!?」
エイメの祖父であり、エイメの母・グレースの父でもある大企業会長のリシャールが突然の事故で亡くなったという知らせが英国に届いたのだ。
「それじゃ一刻も早く国に戻って、せめてお葬式でお別れを…」
突然の事故は痛ましいことだったし、死に目に会えなかったのは残念だが、それでもお葬式くらいには当然出席すべきだろうと思ってのエイメの発言であったのに、それは侍従からの意外な言葉で遮られた。
「いえ、その必要はありません」
「え? なぜなの!?」
エイメの外祖父であり、母グレースに取っては実の父でもあるというのに、その近親者の葬式に列席できないというのは明らかに異常な事態だった。
「リシャール・シャノワーヌ氏は莫大な借金を残して亡くなられました。国の内外にはその返済を求める債権者が大勢います。そういった者達は当然、王族ながらもシャノワーヌ氏の親族でもある両殿下にも返済を求めるでしょう。しかし固有の財産を持たない王族が借金返済をするには、税金を使うしかありません。それでは国民の理解は得られず、王家への反発を生むだけです。ですから今回の事態に際し、政府はグレース妃殿下にシャノワーヌ氏の相続を放棄して貰うことで決着することにしました」
「それとお葬式に出られないことと一体何の関係が…」
「相続放棄をして借金返済の義務から逃れたとしても、債権者はそれで納得はしないでしょう。葬儀のために帰国した両殿下に詰め寄ってでも金を払えと迫るかもしれません。金銭が絡んでいるだけに彼らも切実なのですから。しかしそういった醜態を晒す事は国家の体面に関わります。それを避けるためにも、事態が沈静化するまで両殿下方には葬儀への参列はもちろんのこと、当面のご帰国も控えていただかねばなりません」
当面の帰国も何も、エイメ達は英国に来てから一度も母国に帰らせて貰えた事が無い。この上、祖父が亡くなってさえも帰ることが叶わないなんてひどすぎた。
「こんな事が許されていいの? ママも何とか言って! お祖父様はママのお父様でもあるんだから、お葬式に出られなくてもいいの?」
エイメはそう言って母グレースの方を振り返ったのだが、彼女は気まずそうに顔を反らし、思うような返事を返してはくれない。
「…仕方ないわ、事情が事情ですもの。お父様の冥福を祈るならここでだって出来るでしょう? それでいいじゃない」
「でも、ママ!」
「お願いだから、エイメ。我儘言わないでちょうだい。…少し、気分が悪くなったわ。部屋で休ませてもらいます」
そう言って、グレースは面倒事から逃げ出すようにして自室に下がってしまった。パタンと音を立てて閉ざされた扉を見つめながら、エイメは悔しそうに唇を噛む。
いつも、そうだ。
グレースは少しでも面倒な事態に遭遇すると、すぐに気分が悪くなったと言いだして自室に籠るのだ。それはエイメが小さい頃からずっと変わっていなかった。
幼いエイメが母に甘えたくてその側に近付こうとしても、彼女は部屋に籠り切りになっているか、体調が悪いと言っては女官に命じてエイメを別室へやったりして、エイメとまともに向き合ってくれたことなど殆ど無かった。
『お母様は御気分がすぐれないのですから、いい子にしていましょうね、エイメ様』
女官達は決まり文句のようにそう言って、エイメに我慢することを要求し、良い子であることを義務付けさせた。
そしてエイメは母が辛い思いをしているのなら仕方無いと、自分がいい子でいればいつかきっとそのうちに母は自分と遊んでくれると信じて、いい子である事を、グレースに振り向いてもらえるような娘になることを目指して頑張り続けてきた。
それでもその頃は、王位継承者を産めずに王太子妃としての役目を果たせない人間だと周囲から侮られていて、それに苦しんでいたからだろうと思って我慢してきたのに、エイメが王太女になって問題が解消されたはずの今になっても、事態は少しも変わらないのである。
「…いつまで…こんな事が続くの…?」
キュゥべえに奇跡を願った時には、きっとこれからは幸せな日々が始まるに違いないと確信していられたのに、未来は彼女の思い描いたようには全くならず、夢と希望はいつになっても叶うことが無い。
ままならない気持ちを抱え、エイメは悄然として自分の部屋に戻った。そうしてパソコンを立ち上げて、今回の事態に際してのネットの世論を垣間見てみる。
ネット世論は、エイメが見た事を後悔するほどに相変わらず赤裸々で先鋭的で攻撃的に過ぎた。
『借金踏み倒しかよ』
『借金を踏み倒した人間が次代女王なんて大変な汚点だ』
『じゃあ、税金を投入しろと?』
『そうは言ってない。エイメ王女はこれを理由に王太女の地位を辞退すべきなんだよ』
『母親のグレースともども平民になって、自分で働いて借金返済すればいい』
『実の祖父が作った借金なんだからな』
『しかしシャノワーヌも王家の外戚なのを笠に着て、調子に乗ってくれたよな』
『国がケツ拭いてくれると高を括っていたんだろうな』
『ふざけんなよ。グレース妃といい、国の税金はシャノワーヌ家の私物じゃねえ』
『税金投入断固拒否を貫いたアルベール首相GJ』
『でもシャノワーヌ家の血を引く王女が次世代女王なのは厳然たる事実だぞ』
『頭痛いよな…』
『国の恥だ』
ネットの世論をそのまま全体の意見であると鵜呑みにするのは危険だが、それでも例え一部であってもそう見られているかもしれないと思う事は、エイメの心を深く抉る。
「どうして…どうしてなのよ…!」
どうして自分の周りには悪いことしか起こらないのか。それともこれもまた誰かの仕組んだ事なのだろうかと、エイメは疑心暗鬼に囚われる。
そもそも、大企業の会長職にあったリシャールに莫大な借金があるのもおかしな話だ。
侍従の話では、高利率だがかなり危ない証券に手を出して、それがつい先程の世界的金融危機を受けて一瞬にして紙切れと化し、その穴埋めのために借金が借金を呼んで収拾がつかなくなったと言う事だが、その発端である、危ない証券に手を出さなければならないほどの事情がリシャールにあったというのだろうか。
祖父は何か悪辣な罠にかかり、嵌められた挙句に死に追いやられたのではないかとまでエイメは思い始めた。
リシャールの死に方からして不審な点があった。
彼は川で溺死して浮かんでいるところを発見されたのだという。莫大な借金があった事が死後明らかになり、そこから推測して借金返済のための心労が重なって足元が疎かになっていたか、あるいは思いあまっての自殺か、もっと極端な話ではリシャールに借金返済が不可能と判断した債権者の中の強硬派が、彼を殺してその借金をグレースかエイメに被せる事で国に払わせようとしていたのではないかとまで囁かれていた。
どちらにせよこんな非業の死を遂げて、それなのに死体に鞭打たれるか如き有様で噂話で揶揄され続け、近親者は葬儀にも参列できない。
そしてこの顛末はエイメ自身の汚点として、いつか彼女が女王として即位する日が来てもいつまでも影で囁かれ続けることだろう。『借金を踏み倒した女王』『自分の身可愛さに外祖父の葬儀にも出なかった冷血女』と。
それをエイメだけの不名誉のみならず国の恥として、彼女の女王即位を断固として阻止すべきだとの過激な意見までネットでは散見された。
以前から厳然として存在し続けた彼女の知的障害の噂と相まって、彼女の即位に難色を示す動きがさらに加速していることに、またしてもエイメはそこに意図的な匂いを感じ取らずにはいられなかった。
(…これも…何もかも…私を女王にさせまいとする陰謀なんじゃないかしら…)
リシャールはエイメの外祖父であると同時に、国内有数の大企業の会長であり政財界に強い影響力を持っていた。そんな人物を祖父に持っていることで、エイメは下劣な噂から次期女王としての資質を疑われながらも、それでも表立っては何も言われてこなかった。リシャールの強い影響力によってエイメは守られていたのだ。しかしその心強い盾は無惨にも失われた。
死んでしまったからと言うだけでなく、莫大な借金を残して亡くなったというスキャンダルに塗れてしまった事で、リシャールが政財界に持っていた人脈や影響力は木端微塵に消滅してしまった。
かつてリシャールによって引きたてて貰った事のある者さえ、もう彼との繋がりを好んで口にしたがるものなどいない。政治家も財界人も亡きリシャールの傘の下から凄まじい勢いで離れ始め、引いてはエイメからも距離を取り始める。
リシャールの存在は死した事により国内では禁忌となり、エイメの王位継承に疑問符をつける更なる汚点へと変わり果ててしまった。
王太子であった父を無くし、母は相変わらず頼りなく、政財界からエイメを支えてくれていた祖父はもういない。
エイメの王太女としての地位はいよいよ不安定なものになりつつあった。今や彼女の身分を保障してくれるのは、数年前に改正された王位継承法だけとなってしまったのだ。
(…それでも…法律だけとなっても…法律を守ることこそが文明国の証なのだから、誰が何を言おうともこれを侵すことだけは出来はしない。どんな陰謀が張り巡らされようとも、それでも私は王太女で有り続ける。負けるものですか!)
『王太子になりたい』
それが彼女のたった一つの願いであり、祈りだった。その祈りのために彼女は戦い続け、そして諦めるまいと歯を食いしばり続けるのだ。それが幸せに繋がると信じているから。