「凛さん……これ、なんですか? 割れたビー玉……かな? みたいですけど」
「……昨日、わたしが使った宝石。その残骸よ」
のび太は衛宮邸の一室で凛と二人、サシで膝を突き合わせていた。
割に珍しい取り合わせであるが、いったいなぜこんな事になっているのか。
きっかけは、昼食前まで遡る。
のび太達が方針を決め終えた頃には、時計の針はちょうど十二時を指していた。
腹の虫も、士郎とセイバーを筆頭にいい感じに泣き始めていたので、流れが昼食へと傾いていったのもごく自然な事であった。
『じゃ、今から昼飯準備するから。三十分くらいかな? それまで奥で待っててくれ』
士郎のその言葉を合図にめいめい居間から発っていく中、さて何をしようかなと思ったのび太であったが、
『――――のび太、ちょっとわたしの部屋に来てくれる?』
『え?』
唐突に凛からお誘いの声がかかった事で、今の差し向かいの状況が作られたという訳である。
そして向かい合わせで鎮座する二人の膝の間にあるのは、傷だらけで三分の二ほどが砕けてしまっている宝石。
どうやらサファイアのようだが、知識のないのび太ではそれが何なのか解る筈もなかった。
「宝石……って確か凛さん、『宝石魔術』っていうのを使うんでしたっけ? それをバーサーカーにぶつけたんですか?」
「そ。結局効かなくて、無駄に終わっちゃった訳なんだけどね」
凛の使う魔術は『宝石魔術』と呼ばれる。
代々続く遠坂家のお家芸であり、『力の転換』によって己が魔力を長年かけて蓄積させた宝石を媒体とする魔術だ。
『宝石魔術』のメリットとしては宝石は魔力を籠め易く、時間が経てば気化してしまう魔力を封じ込めるのに都合がいいという事と、魔術をほぼ一工程(シングルアクション)で行使出来るという点にある。
なにしろ中の魔力を解放してやるだけでいいのだから手間が少なく、使い勝手が非常によい。
反面、一度封入した魔力は性質が固定されてしまうというデメリットもあるものの、総合的にはかなり強力で、しかも珍しい魔術体系である。
「はぁ。で、これをどうするんですか?」
「回りくどく言うのもアレだからはっきり言うけど……のび太、これ直せる?」
「へ?」
のび太の目が点になった。
なんだそんな事か、と拍子抜けしたような表情である。
その時、凛の片眉がピクリと吊り上った。
「なによその顔は?」
「い、いや。なんか、もうちょっとこう……すごく真面目な話なのかなぁって思ってて、思わず気が抜けちゃったというか……」
「……十分真面目な話よ。あのねのび太、これは宝石なのよ。『宝石魔術』の最大の特徴って何か、アナタ解る?」
「え? えっと……すごく強力な魔術、とか?」
「……ハァ。ま、それでも間違ってはいないわね。使う宝石によってピンキリだけど。結論は……ズバリ『お金がかかる』という事よ」
「……はい?」
のび太の目が再び点に。
如何にも高尚そうな『宝石魔術』の最大の特徴が『お金がかかる』という、あまりに即物的すぎるそれに思わず呆気に取られてしまう。
しかし凛の表情は至って深刻そのものである。
「再三言うけど、『宝石魔術』で使うのは宝石なのよ。しかも使い捨て同然でね。おかげで魔術を行使する度にウチの家計簿は火の車、見るのもウンザリするくらい。だからつい拾ってきちゃったのよ、これ。砕けてる上に魔力もなくなってるから、魔術的にはほとんどガラクタ同然なんだけど、もったいなくてね」
「…………そ、そうなんですか」
のび太としてはそう返すのが精一杯である。
そういえばママもよく家計簿見て溜息吐いてたなぁ、と頭の片隅で思いながら凛の言わんとしている事を読み取ろうと試みる。
「えーと、つまりこの宝石を元通りにして、上手く使い回したいって事ですか?」
「そう。これから戦いに挑むんだから、手持ちの宝石は一つでも多い方がいいのよ。バーサーカーを相手にするなら尚更ね。リサイクル出来るならそれに越した事はないわ。……それでね、実はこれと同じヤツがあと数個あるんだけど」
これ全部アナタの道具で何とかならないかしら、と凛はポケットから五個、二人の間にある宝石と同じような物を引っ張り出した。
どうやらこれらも現場から回収して来た物らしい。
アイデア自体は悪くないのだが、どこかしらみみっちく感じてしまうのは流石ビンボー貴族というこ「うっさい、黙れ!」……イエス・マム。
「う、うーん……多分、出来なくはないかも。確か……」
ポケットから“スペアポケット”を引っ張り出し、中を漁るのび太。
そして取り出したのは、
「――――あった! “復元光線”!!」
小型の懐中電灯のような形状のひみつ道具、“復元光線”であった。
「……名前からして何となく効果は解るけど、それで直せるの? 欠けてる部分はないんだけど」
「大丈夫です。じゃ、行きますよ!」
砕けた宝石群へ向け、のび太は“復元光線”のスイッチを入れる。
“復元光線”は壊れた物体に光を浴びせると、壊れる前の状態に戻してくれるという道具である。
それはパーツの破片が紛失していようとも関係なく、なくなったパーツごと纏めて復元してしまうという甚だ常識外れなシロモノだ。
そして光を照射された宝石は見る見るうちに元の形を取り戻していき、最終的に砕ける前の状態へと完璧に修復を果たしていた。
「はい、直りました」
「……うん。自分で頼んでおいてなんだけど、物理法則っていったいどうなってるのかしら? ……ともあれ、結局直ってるんだし、別に文句はないけど……ん?」
ブツブツ独り言を呟きながら元通りになった宝石をつまみ上げた凛であったが、何かに気づいたように眉根を寄せる。
確かに元通りに復元されている、されているのだが……。
「……魔力が込められてない。空っぽのまま」
封入されていた魔力だけは、復元されていなかった。
「……ハァ」
アテが外れた事に、凛はガックリと肩を落とす。
直った事自体は喜ばしいが、しかしこれでは片手落ちだ。
魔力の籠っていない宝石など、現段階では復元前の砕けていた状態の宝石と同じくらいの価値しかない。
すなわち、ガラクタ同然である。
聖杯戦争はあと二週間足らずで、結果がどう転ぼうが期間満了で終幕してしまう。
それまでに十分な量の魔力を封入する事は到底不可能である。
発動に必要な最小限度の魔力くらいならいけるかもしれないが、そんな物を新たに作り直したところでなんの意味があろう。
凛が求めるのはバーサーカーにぶつける前の、魔力が十分に込められていた状態の宝石である。
「あの、どうかしたんですか?」
「これね……魔力が入ってないのよ。これじゃなんの役にも立たないわ。言ってみれば“形だけ”直ってる状態で、中身がない……」
「……あ、そっか。“復元光線”じゃ、壊れた部分だけしか直せなかったのかぁ。宝石の中にある魔力まで元に戻した訳じゃないんだ……」
凛の不満に納得がいったのび太、じゃあどうしようかと腕組みする。
「うぅ~ん…………」
“復元光線”では凛の望むような元の状態には戻せない、ならばいったいどうすればいいのか。
他のひみつ道具で使えそうな物といえば……。
「……あ! あれなら!」
ピン、とのび太に天啓がひらめく。
“復元光線”でダメなら、残る手は一つ。
『復元』ではなく、『回帰』。
つまり、“形”を戻してやるのではなく――――“時間”を戻してやればいい。
「――――“タイムふろしき”だっ!」
“スペアポケット”に勢い込んで手を突っ込み、中からアナログ時計の文字盤の絵柄が散りばめられた風呂敷を引っ張り出す。
そして復元させた宝石の上にサッと風呂敷を被せ、適当な時間が経ったところで風呂敷をひっぺがした。
「どうですかっ、これで!?」
意気揚々と宝石を凛に手渡すのび太。
見た目はまったく変わった様子が見られない宝石だが、“タイムふろしき”で以て時間を巻き戻されているため確実に変化は起きている。
凛はしげしげと手の中の宝石を眺めていたが、やがて満足したようにうん、と一つ頷いた。
「上出来。完全に元に戻ってるわ……」
「やった! これでバーサーカーにも「無理ね」……えっ?」
対抗出来ますよね、と言おうとしたところで凛の一言によりそれは封殺された。
凛は元に戻った宝石を手の中でジャラジャラと弄びながら、言葉を続ける。
「バーサーカーにぶつけたのは六個、つまりこの宝石全部まとめて。それでかすり傷一つ付けられなかったのよ。完全に火力不足なの、あのバーサーカー相手じゃね」
「え、それなら……元に戻しても意味ないんじゃあ……」
「いえ、意味はあるわ。実は宝石を元に戻してもらったのは前置きみたいなものなのよ。本題はここから」
凛はそう言って居住まいを正すと、再び手の中の宝石をのび太の前に置く。
「バーサーカーは防御力は桁違いだけど、対魔力は高くない……つまりセイバーみたいに魔術が効きづらいという訳じゃない。だから、威力さえ十分ならわたしでもバーサーカーにダメージを与えられる」
「はあ。それで?」
「威力を底上げするための方法は概ね二つ。一つはもっと内在魔力の高い宝石を使う事。ただ、この場合だと長い目で見たらこっちの首を絞める事になりかねないから却下。バーサーカーを倒したら聖杯戦争は終わり、って訳じゃないからね。切り札は出来るだけ温存しておくのがベスト。そこでもう一つの手段」
凛はそこで一旦言葉を区切り、軽く息を整える。
のび太はただ黙って耳を傾けたまま、言葉の続きを待っている。
そしておよそ一呼吸分の間を置いて、凛の口から言葉が紡ぎだされた。
「――――単純にぶつける宝石の量を多くすればいいのよ」
「――――え、ええーっ!!? そ、そんな事でいいんですか!?」
物凄くアッサリした結論にのび太は面食らった。
質でなければ量、実に効果的かつ単純明快な論理である。
「という訳で、のび太にもう一つお願いがあるの。この六つの宝石、どうにかして増やす事って出来ない?」
ずいっと身を乗り出してくる凛。
「ふ、増やすって……えっと」
あまりに距離が近すぎたので、のび太は思わずたじろいでしまう。
目の前の凛からは異様な気配が漂ってきており、知らず全身が粟立ってくる。
さながらスーパーでタイムサービスの特売品を奪い合う主婦達の、あの妙にギラついた気迫に近い。
「簡単そうに言ったけど、実際はこっちの方がむしろ難しいのよ。主に籠める魔力の問題と経済的理由と金銭的事情と、マネー・サプライ上の問題で。だから手っ取り早く、それこそ乾燥ワカメみたいに宝石水に浸したら何倍にも増える、みたいな道具……あるかしら?」
凛の爛々と輝く双眸に圧し負け、のび太は、
「あ、と……い、一応ある事は……あり、ます」
不用意にも、ポロッとそんな事を漏らしてしまった。
「え、ホント!?」
更にずずいっと身を乗り出す凛。
もはや互いの距離は鼻先数ミリでほぼゼロ距離の密着状態、しかも眼光は五割増しと来ている。
見ようによっては、凛がのび太を押し倒しているようにさえ見えてしまう体勢である。
仮にこの相手が士郎ならば今の状態に頬を紅潮させ、慌てふためくのだろうが……生憎のび太では、単に言い知れぬ恐怖を感じるだけだ。
事実、その表情はヘビに睨まれたカエルの如く青ざめ、額には珠のような冷や汗が浮かんでいる。
「ええと……えと、こっ、これとか!」
背中に密着している壁が汗で湿っていく感触を感じつつ、これ以上耐えきれなくなったのび太は、“スペアポケット”の中を掻き回すように探ると中からプラスチック製っぽい見た目のアンプル容器を取り出した。
「……これが?」
「これ……えっと、これは、バ、“バイバイン”って言って……これを、一滴落とした物は五分経ったら倍……さらに五分経ったらそのまた倍、っていう風に……ご、五分毎に、増えていくん、ですっ!」
未だ衰えぬ凛の迫力に所々どもりながらも、のび太は説明する。
凛はのび太の身体の上に半ば跨ったような体勢のまま、のび太の手の中の“バイバイン”をジッと見つめていた。
「ど、どうぞ……使ってみて、ください。あと、近いので、ちょっと離れて欲しいかなぁ、なんて……ア、アハハハ、ハハ」
供物を捧げるように“バイバイン”を差し出すのび太。
「……じゃ、遠慮なく。一つにつき一滴でいいのね?」
凛はのび太から身体を離すと“バイバイン”を受け取り、蓋を開けて六個の宝石すべてに液体をポタリ、ポタリと落としていく。
その一方、やっとの事で自由の身となったのび太はというと、
「……はふうぅぅぅ~っ。こ、怖かったぁあ」
大きな安堵の吐息を漏らし、右手で額の汗を拭っていた。
ちなみに降ろした右手の袖は、まるで水を張ったバケツに落とした雑巾のようにグッショリと湿っていた……。
「…………」
まんじりともせず、ただ只管にまっすぐ宝石を見つめ続ける凛。
心なしか、瞳に『$』や『¥』のマークが浮かび上がっているような気がするのは、漲る異様な気迫の所為であろうか。
それとも……いや、何も言うまい。
やがてそのまま五分が経過。
「――――あっ!?」
六個の宝石が細胞分裂するかのようにパッと一つが二つにそれぞれ増殖し、合計で十二個の宝石が目の前に現れた。
増える瞬間を目の当たりにした凛は、その予想に違わぬ光景と成果に『ヨッシャ!』と小さくガッツポーズ。
グッと拳を強く握り締めた。
「この調子で増やしていけば、たとえバーサーカー相手でも闘り合える……! しかもタダ同然で!! のび太、いいモノを出してくれたわ! 褒めてあげる!」
「イタッ!? い、痛いですよ凛さん! もう……イタタ」
背中をバシバシと思い切り叩(はた)かれ、のび太は痛みに顔を顰める。
しかし上機嫌な凛に水を差すのも何だと思い、背中をさすりつつも涙を拭って唇をキュッと固く結び、それ以上の事は何も言わなかった。
小学生とはいえ、のび太だって男なのだ。
文句を堪えるくらいの“気概”はある……まあ、頭に『なけなしの』が付いてしまうというのが何とも悲しいところだが。
そうこうしているうちにさらに五分が経過。
今度は二つが四つに分裂し、『6×4』の合計二十四個の宝石が出現した。
「来た来た来たぁぁぁ!! もっとよ! もっと増えなさい!」
「…………」
もはや凛のテンションはウナギ登りの右肩上がり。
『ヒャッハー!』とか言い出しそうな勢いである。
そんな凛の姿に流石ののび太もやや引き気味だ。
と、その時。
『おーい、遠坂? メシ準備出来たぞ。居間に来てくれ』
ドアの向こう側からノックと共に士郎の声が聞こえてきた。
その瞬間、凛のテンションがレッドラインから正常値へと恐ろしい勢いで急変動する。
「……了解。すぐ行くわ」
玩具を買い与えられた子供のように大はしゃぎしていたのが嘘のように、ごくごく冷静に応対する凛に対して、のび太は目を丸くする。
まさに電光石火の猫かぶり。
いくらなんでも急に変わりすぎだろう、とのび太が訝しげに視線を送ると、凛はバツが悪そうにツツ、と視線を逸らしてコホンと一つ咳払い。
「さて、行くわよのび太。戻ってくる頃には十分な数になってる筈だしね」
「は、はあ……」
士郎が遠ざかっていく足音を聞きながら、のび太は呆けたように返答するのが精一杯であった。
そして二人は連れ立って部屋を発ち、居間へと向かう。
――――この後巻き起こる、惨劇と大混乱。
それを予見出来ぬまま、部屋を後にしてしまったのである。
「ふう……」
「はぁあ、お腹一杯……あふぅ、ちょっと眠いや」
昼食を終え、スタスタと廊下を歩く凛とのび太。
上質の食事に空腹と食欲が満たされ、気持ちが弛緩しているのか共に表情が緩んでおり、のび太など欠伸を噛み殺している。
士郎の料理の腕が標準以上なのは既に周知の事であるし、食卓の雰囲気も概ね穏やかであった。
まあ実際のところ、昼食の席でちょっとした悶着があったりしたのだが、それは既に述べた通りだ。
「さて、宝石はどうなってるかしらね?」
「大分時間が経ってるからもう十分……あれ? なんか、大事な事を忘れてるような気が……う~ん、なんだったっけ?」
そうこうしているうちに、二人は凛の私室の前へと辿り着く。
そして凛が内側開きのドアに手を掛けて……。
「……あら?」
開けようとしたが、どういう訳か開かなかった。
「凛さん、どうして開けないんですか?」
「いや、開けようとしたんだけど……開かないのよ」
「はい?」
疑問に思ったのび太は凛に近寄ると、代わりにドアを押してみる。
だが、やはり開かない。
「ホントだ、開かないや……なんでだろ? よし、なら……ぐうぅぅぅっ!!」
試しに身体をぶつけるようにして力を籠めて押してみるも、バリケードでも立てられているかのようにピクリとも動かなかった。
「「…………??」」
互いに視線を交わし、揃って首を傾げる。
一体全体どうなっているのか、と二人して考えていると、
「「……ん?」」
何やらヘンな音が耳に飛び込んできた。
『ギリギリ……』とか『ミキミキ……』とかいう、いわば普通の物音とは違う、異音である。
そしてそれはドアの蝶番辺りから聞こえてきており、よくよく観察してみると平面である筈のドアが微妙に外に向かって歪曲しているように感じられた。
「……ねえ、のび太」
「は、はい?」
「気のせいかしら……いや気のせいであって欲しいんだけど……物凄くイヤな予感がね、こう……するのよ」
「…………あぁああああ!!!??」
先程から頭の片隅で引っ掛かっていた事が氷解し、のび太は顔色は心底から『しまった!』と言わんばかりの深刻なものへと変貌した。
鬼気迫る表情の凛に気圧され、のび太は咄嗟に“バイバイン”を引っ張り出した訳だが、お陰で肝心な事をスポンと忘れてしまっていたのだ。
そう……“バイバイン”使用に際してのドラえもんの忠告と、それを無視したがための、あの“悲劇”を。
そして、その時が訪れた。
「「う―――――あああああぁぁぁぁぁ!!???」」
木っ端微塵に吹き飛ぶドア、そして濁流。
まるで津波のようにドアのなくなった長方形の空間から色とりどりの宝石が大量に押し寄せ、二人を押し流した。
それだけでは飽き足らず、宝石の暴流は二人の身体を完全に飲み込み、洗濯機に放り込んだようにもみくちゃに掻き回した後、ドアの向こう側の壁に強か叩き付けた。
「――――ぶはっ!? の、のび太! これはいったいどういう事なの!?」
宝石の中からズボッと顔だけを出した凛がのび太を問いただす。
「――――ぷはっ!? バ、“バイバイン”で宝石が増えすぎちゃったんです!」
続いて頭だけを突き出したのび太がそう返答を返した。
「はぁ!? あれってしばらくしたら効果が切れるんじゃないの!?」
「そんな事一言も言ってませんよ! “バイバイン”の効き目はずっと続きます! 多分、永久に!」
「な、なんですってえええええぇぇ!?」
“バイバイン”は五分毎に倍、倍と物を増殖させていくシロモノだが、この倍々算効果を甘く見てはいけない。
五分、十分くらいならまだいいが、これが例えば増殖に一時間、時間を掛けたとしよう。
五分毎に増える訳だから計算式は『2×2×2×2×2×2×2×2×2×2×2×2』……端的に表すなら2の12乗。
この計算の答えは……なんと4,096となる。
なお、現時点で“バイバイン”を使用して経過した時間は、長めの昼食を挟んでしまったのでたっぷり一時間半近く……正確には一時間二十五分と少々。
この時点でさらに『2×2×2×2×2』を追加して2の十七乗……131,072となる。
そして凛は“バイバイン”を復元した宝石六個すべてに使用したので、最終的にその六倍……すなわち786,432個。
これだけ増えればそこまで広くない部屋の事、飽和状態でパンクしてしまったとしてもまったくおかしな話ではない。
その証拠に、宝石は次から次へと間欠泉のように溢れ出している。
「な、なんで今まで言わなかったのよ!? というか、なんでそんなモノ出したのよ!?」
「い、いやだって凛さんがこわ……え!? う、うわぁっ!?」
「え、きゃっ!?」
その時、宝石の海がうねりを伴って膨れ上がった。
どうやら最後に増殖した時からさらに五分が経過したようだ。
つまり“バイバイン”使用から一時間半が経過したという事……すなわち2の十八乗で262,114。
その六倍で……しめて1,572,864個。
悪夢すら生ぬるいくらいの、文字通り“桁違い”の数である。
「な、流されるっ!!? り、凛さぁぁぁん!?」
「――――やっ!? ちょ、ちょっとのび太、どこ触ってるのよ!?」
「イタッ!? ご、ごめんなさあぁぁぁああい、ってうわあああぁぁぁ!!?」
「あ、しまった……っていやああああぁぁぁっ!?」
いったい凛のどこに触れてしまったのかはさておいて、百五十万を超える宝石の奔流に二人は物の見事に洗い流されてしまう。
増殖の勢いを駆ってその波は衛宮邸のあらゆる部分にまで押し寄せ、すべてを飲み込まんとする。
「ん……うわっ!? な、何だこれ宝せ……だあぁぁぁぁっ!?」
「むぅ……せっかく気分よく眠っていたというのに、何やら騒がしいですね……ってなあああぁぁぁっ!!?」
「ぬ、何かあった……ぬおおおぉぉぉっ!?」
いたる所で上がる、宝石の津波に巻き込まれた被害者達の悲鳴。
バリバリと何かが破れ砕けるような音が響き、ガシャアンとガラスが割れる音があちらこちらで木霊する。
まさにここは阿鼻叫喚の地獄絵図。
衛宮邸の命運は二人の“逆”ファインプレーによってもはや風前の灯である。
「の、のび太、何とかしなさい!」
「な、何とかったって……!?」
「何か増殖を止める方法はないの!?」
「えーと、えぇと……確か栗まんじゅうに使った時は、食べれは増殖は止まったんだっけ!?」
「これ宝石よ!? 食べられるワケないでしょ!?」
そりゃそうである。
本来“バイバイン”は食べ物以外に使用する事はない。
何故なら増殖を止める条件は、対象物体を原形を留めないほどに形を変えてしまう事……つまり食べ物なら食べてしまえばいいからである。
しかし増殖しているブツは宝石……ならば現状で採れる方法は、一つだけ。
「じゃあ……えっと、砕けばいいと思います!」
「成る程! ……って、ちょっと待った! これ、魔力が籠ってるのよ!? 迂闊に壊したら暴発しかねない!?」
頷きかけた凛であったが、慌ててその案にストップをかける。
いいところ二線級であるとはいえ、目の前にあるのは魔力を内包した宝石なのだ。
百五十万個を超えるC4爆弾に埋もれながらハンマーを振り回すバカはいないだろう。
下手すれば自爆どころでは済まないのだ。
だが放っておけば、無限に増殖する宝石が地球を飲み込み、その重量でいずれ重力崩壊を起こして地球を中心にブラックホールが形成されてしまう。
そうなったら聖杯戦争関係なしに『DEAD END』である。
「でもそれしか方法は……ッ? 待てよ……そうだっ!」
突如、のび太に天啓がひらめいた。
これならうまくいく、という確信と共に。
「え、なに? どうしたの!?」
「ここで砕くのがダメなら、別の場所に全部移動させてから砕けばいいんですっ!」
のび太は宝石の海の中で必死にもがいて、“スペアポケット”をポケットから引っ張り出すと、中から一本のペンと拡声器のようなメガホンを取り出した。
そしてペンを使って自分の右手にあった壁に、何事かをブツブツ呟きながら無理矢理身体を動かして大きな円を描いていった。
すると、円の真ん中がポッカリと開いて真っ暗な空間が音もなく、形成された。
のび太はそれを確認すると、今度はメガホンを口元に持ってくる。
そして最大ボリュームに音量を調節し、思いっきり息を吸い込んで『聞く者すべてに届け!』とばかりにこう叫んだ。
「“バイバイン”の影響を受けた宝石達! 君達は『聞き分けのいい、賢い犬』だっ! 今すぐ“ワープペン”で描いた穴の中へ飛び込めっ!!」
その言葉を皮切りに、宝石群が一斉に穴の方へとうねり出した。
「ちょっ!? のび太、何をしたの!?」
「凛さんっ、しばらく堪えててくださいっ!」
波に巻き込まれまいと体勢を低くし、壁と床に張り付くようにして踏ん張る二人。
宝石は土石流さながらの勢いで以て、“ワープペン”で描かれた穴の中へと殺到する。
「イタッ!? め、眼鏡が割れるっ!?」
「アイタッ!? く、くうぅぅ……っ!」
「痛ッ!? い、いきなり宝石が引いていくなんてどうし……え!? ちょ、アッーーー!」
大部分が穴の中へ入り、徐々に密度の低くなった宝石の流れはショットガンの掃射のようにのび太達の身体を叩く。
痛みに涙が出そうになるが各々グッとそれを堪え、宝石がなくなるのをひたすらジッと待つ。
やがてすべての宝石が穴へと飛び込んでしまったのか、穴へと向かってくる宝石の雨がピタリと止んだ。
「凛さん、今ですっ! 『宝石魔術』を使って宝石を爆発させてくださいっ!」
穴の手前で踏ん張っていたのび太は穴に首を突っ込み、近くで身を低くしていた凛にそう指示を出す。
意図が読めずに首を傾げた凛であったが、「早くっ!」と急かすのび太の表情に慌ててキーとなるスペルを紡ぐ。
「Set―――――」
「――――今だっ! それっ!」
のび太は穴からサッと首を引っ込めると、踏ん張っている間に“スペアポケット”から取り出していた消しゴムで穴の線の一部を素早く消した。
すると円でなくなったために穴が瞬時に消失、ただの壁へと戻る。
のび太は数秒間、冷や汗混じりにその壁をジッと見つめていたが、やがて力を抜くと大きな吐息を漏らした。
「お、終わったぁ……」
その場にへたり込むのび太。
凛は膝立ちの姿勢から立ち上がると、のび太の方へと歩み寄った。
「のび太、宝石はどうなったの?」
「太平洋のド真ん中で爆発しました……たぶん、全部なくなったと思います」
「はぁっ? 太平洋?」
素っ頓狂な声を上げる凛にのび太は「はい」と答えると、凛の前に使った道具を並べて説明を始める。
「このペンは“ワープペン”って言って、これを使って目的地を言いながら円を描くとそこに通じる穴が出来るんです。これで太平洋のド真ん中に繋がる道を作って、この“無生物さいみんメガホン”で宝石に催眠術を掛けたんです」
「……この際だから突っ込むのは止めておくけど、催眠術っていうと『聞き分けのいい、賢い犬』ってアレ? それで穴に飛び込むように命令して、宝石が全部なくなったらそれを壊すためにわたしに爆発させたって事?」
「そうです。そしてこっちにまで爆発が来ないように“ワープ消しゴム”で穴を消したんです。ホント、上手くいってよかったです……」
「成る程ね……はぁあ」
納得がいったと同時に、今までの時間がムダに終わってしまった事に脱力感を覚える凛。
元手が壊れた宝石六個なので損こそしなかったものの、このぬか喜び感は尋常ではない。
「まったく……アンタがあんなモノ出すから……」
「だって凛さんが……」
二人が文句をぶつけ合っていると、
「……やはり大元はリンの部屋でしたか」
「あ……セイバー。えと、大丈夫だった?」
「……まあ、怪我はありませんが」
廊下の奥からセイバーが顔を出してきた。
巻き込まれたせいであちこちヨレヨレになっているものの、傷は負っていないようだ。
「いったい何があったのですか?」
「ああ……実はね……」
かくかくしかじか、と凛はセイバーに事の経緯を説明する。
すべてを聞き終えたセイバーは、何とも微妙な表情を形作った。
「いえ、まあ……事情は解りました。理由も一応納得がいきますが……しかしノビタ、何故そんな危険なシロモノをリンに渡したのですか?」
「だって……凛さんが凄い勢いで迫ってきて……壁際に押さえ付けられちゃって……目も血走ってたし」
弱々しく呟くのび太の言葉に、セイバーの表情はさらに微妙な物へと変わった。
そしてそのまま凛を見やるがその目は……どういう訳か、何とも気まずそうに細められている。
「リン……好みは人それぞれですし、それに口を出すつもりもないのですが……老婆心ながら一つだけ。いくらなんでもノビタは――――犯罪ですよ?」
「……え? ――――――はあ!?」
はじめはセイバーが何を言っているのか解らなかった凛であったが、やがて理解が及んだのか顔を真っ赤にしてセイバーに食って掛かった。
「な、なにを勘違いしてるのよ!?」
「……違うのですか?」
「違うわよ! というか、何がどうなったらそんな結論に辿り着くのよ!?」
「いえ、のび太の言葉から察するに、貴女は若いツバメが……」
「そんなワケないでしょ、このボケセイバー! 流石にのび太は守備範囲外よ!」
「……あ、あの~。いったい何の話なのか解らな「アンタは解らなくていいっ!」は、はい……」
凛の剣幕に気圧され、のび太はそれ以上は何も言えなくなった。
こうなったのも、元をただせばのび太の言い回しが甚だアレだったからなのだが……実際にほぼ合っているとはいえ。
「おーい、遠坂……」
「何よ!? って、士郎と……アーチャー」
続いて廊下の陰から現れたのは、士郎とアーチャーであった。
こちらもセイバーと同様ヨレヨレの体だが、むしろセイバーよりもひどいと言えるかもしれない。
アーチャーはオールバックの髪の毛がバサバサにほつれているし、外套の裾のところどころに穴が開いており、ほぼズタズタの状態である。
士郎も服のあちこちが擦り切れており……そしてなぜか右手で尻を押さえている。
「士郎、アンタそれどうかしたの?」
「ん、いや……台所で洗い物してたんだけど、なんか、宝石が一個、スゴイ勢いで飛び込んできてさ。ジーンズの後ろ、突き破られそうだった……」
「そ、そう……」
……どうやら宝石の中に一匹、駄犬が混じっていたようである。
それはさておき。
「いったい何があったのだ? 宝石の波に飲まれたと思ったらいきなり引いていったのだが……」
「ああ、それね……って、二回も説明するの面倒ね。セイバー、説明お願い」
「あ、はあ……」
セイバーは凛から受けた説明をそっくりそのまま、二人に説明する。
そして。
「――――いや……まあ何というか……」
「アイデア自体は悪くないのだが……もう少し物事はよく考えるべきだぞ凛。短慮にも程がある」
話を聞き終えた二人はセイバーと同じような微妙な表情を形作り、凛の方を見やった。
「……もう何とでも言いなさいよ」
先のセイバーとのやり取りで反論する気力も失せたのか、凛はそれだけ呟くと、そのままあらぬ方に目を逸らしているだけであった……。
「……しかしまあ、随分とメチャクチャになっちゃったなぁ」
「ごめんなさい……」
ボロボロになった廊下や部屋を見て回りつつ、半ば感心するように呟く士郎。
その横で、のび太は只管平身低頭していた。
士郎はポンポンとのび太の頭を優しく撫でると、励ますように告げた。
「やっちゃったモノは仕方ないさ。大半は遠坂のせいなんだし、壊れたんならまた直せばいいんだからさ」
「直す……そうだ!」
士郎の言葉にのび太は何かを思いついたように顔を上げると、“スペアポケット”を引っ張り出して中から“復元光線”を取り出した。
「これを使えば簡単に元通りに出来ますよ!」
「……ああ、これが“復元光線”ってヤツか。確かこれで宝石を元通りに復元したんだっけ。……でもこれってバッテリー式じゃないのか? 見た目それっぽいけど、家の中全部直すまで持つのか?」
「あ、そっか……」
士郎の言う事にも一理ある。
衛宮邸は武家屋敷だけあって結構な広さがあり、宝石の津波は内側だけとはいえその大半を破壊していった。
たった一丁の“復元光線”では、全てを復元しきる前にバッテリー切れを起こしてしまうだろう。
かといって手作業で修復や片づけをやっていたのでは、日が暮れるどころの話ではない事も事実である。
「じゃあ……よし、“アレ”で!」
のび太は一つ頷くと再び“スペアポケット”に手を突っ込み、今度は姿鏡のような大きめの鏡を取り出した。
そして下部にあるスイッチを押し、“復元光線”を鏡の前に差し出して姿を映し出すと、
――――鏡の中に手を差し入れ、鏡の中の“復元光線”を外に引っ張り出した。
「「「「――――!?」」」」
揃って唖然とする四人。
が、のび太はそれに気付いた様子もなく、事もなげに鏡から取り出した方の“復元光線”を士郎に手渡す。
「はい、士郎さん」
「……あ、ああ。な、なあのび太君」
「はい?」
「その鏡って……」
「ああ、これですか? これは“フエルミラー”って言って、この鏡に映した物を二つに増やす事が出来るんです。さっきみたいに。これでバッテリー切れの心配もないですよね?」
「え、いやまあ……そうだけど。いや、そうじゃなくてさ」
「へ? ……ああ、やっぱり二つだけじゃ時間掛かっちゃいますもんね。ここは人数分出して、みんなで手分けすれば早く終わりますよね!」
「あ、ああ……いや、そうだけど!」
士郎がさらに何かを言い募ろうとしたが、のび太は既に“復元光線”の映った“フエルミラー”に手を突っ込んでいる最中であったため結局尻すぼみに途切れてしまった。
そして残りの人数分の“復元光線”が複製し終わり、のび太はそれぞれに一つずつ“復元光線”を手渡していった。
「よし、と! それじゃあ手分けして「――――ちょっと待ちなさい!」……はい?」
歩き出そうとしたのび太であったが、急に呼び止められたため足を止め、振り返る。
すると目の前には……。
「――――のぉぉぉびぃぃぃ太ぁぁぁぁぁぁ?」
「――――ヒィ!?」
事の元凶たる凛が、それはもう凄まじい形相でのび太に詰め寄ってきていた。
瞬時にのび太の顔が蒼白に染まり、ガタガタと震え始める。
凛はそんな怯えるのび太の両肩を、まるで万力のような力で以て無造作に掴み上げると、
「どうしてアレを最初から出さなかったのよ!? おかげで貴重な時間が丸々潰れちゃったじゃない!! ええい、わたしの時間と夢と期待を返せええぇぇぇ!!!」
「ぐええええぇぇぇっ!? り、凛さん目がっ、目が回る!? あと肩っ、痛い痛いぃぃいい!!」
ガクガクと物凄い勢いで揺さぶり、不満の丈をぶちまけ始めた。
やられるのび太はたまったものではないが、しかし……傍から見れば恐ろしく大人げない光景である。
「……きっと、リンが“こんな”だったから、でしょうね」
「うむ……」
その横では、セイバーとアーチャーの英霊二人が何かが腑に落ちたように互いに頷き合っていた。
その後、“お詫び”と称して強引にのび太から“フエルミラー”を借り受けた凛が……きっと色々ありすぎて、魔が差してしまったのだろう……事もあろうにお金を複製しようとして、
「あ、言い忘れてましたけど……増やしたものって“鏡に映った状態”で出てきますから……」
「な、なん……ですって……」
“鏡写し”の状態で出てきた一万円札を前に絶望する姿があったとか。
ちなみに“復元光線”は元々左右対称なので、その点ではまったく問題はなかった。
(その“鏡写し”の札をもう一度、鏡に映せば……などとは、告げぬ方がいいのだろうな。為にならんし、凛にはいい薬だろう)
膝を突いて崩れ落ちる己が主を見やりながら、ぼんやりとそんな事を思う弓の英霊であった。
なお、衛宮邸が完全に修復されたのはそれから三時間後であった。
余談であるが、翌日の各社の新聞には、
『太平洋沖で謎の巨大キノコ雲! 某国の核実験か!?』
『国連緊急総会招集! IAEA(国際原子力機関)、調査のため現地へ』
『海底火山の爆発か!? 太平洋沖巨大爆発のナゾに迫る!』
一面大見出しでこんなフレーズの記事が躍り、数週間に渡ってマスメディアを大いに賑わす事となるのだが、
「えっと……元気出してください、凛さん」
「どの口がそんな事言うのよ……」
張本人達はそんな事など知る由もない……。
――――そして今宵。
五人は、狂戦士へと戦いを挑む。