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[28951] ドラえもん のび太の聖杯戦争奮闘記 (Fate/stay night×ドラえもん)
Name: 青空の木陰◆c9254621 ID:90f856d7
Date: 2016/07/16 01:09
 Arcadia初投稿です。
 この小説は『にじファン』にも投稿しております。
 独自設定・解釈がありますので、ご注意ください。

【追記】『にじファン』に投稿したものとは一部違うところがあります。★マークが目印です。

【さらに追記】某所の作品とタイトルが似ていますが、関係はまったくありません。完全なる別モノであり、別作者が書いた小説です。

【さらにさらに追記】『にじファン』の規制に伴い、向こうに掲載していた、所謂別バージョンである六話と二十一話をそれぞれ「第六話 (another ver.)」、「第二十一話 (Aパート)」として掲載しました。また、それに合わせて本来こちらに掲載していた二十一話(「第二十一話 (Bパート)」に変更)には一部改訂を加え、同時に不要となった★マークを撤去しました。(2012/3/31)

【更新凍結】諸事情により、更新を一時凍結する事としました。詳しくはお知らせにて。(2014/8/2)

【更新再開】凍結を解除します。長らくお待たせして申し訳ありませんでした。低速更新になるかと思いますが、改めてよろしくお願いします。(2016/1/16)

【行間等修正】 2014/9/29 一話~十話
          2015/2/13 十一話~十四話、閑話1、十五話
          2016/1/31 十六話~十八話



 2012/1/23 チラシの裏からその他板へ移行。
 2016/1/16 その他板からTYPE-MOON板へ移行。






[28951] のび太ステータス+α ※ネタバレ注意!!
Name: 青空の木陰◆c9254621 ID:90f856d7
Date: 2016/12/11 16:37
【クラス】 ???

【マスター】 ―

【真名】 野比のび太

【性別】 男性

【身長・体重】 140cm 36kg

【属性】 中立・善


【筋力】F-  【魔力】E

【耐久】F-  【幸運】E

【敏捷】F-  【宝具】???




【クラス別能力】

※なし




【保有スキル】

『射撃:A++』
稀有な射撃の才能と能力を持つ。
世界規模で見ても最高クラスの実力を誇る。
とりわけ早撃ちを得意としている。

『あやとり:A』
あやとり上手。
オリジナルの技を編み出すほどの腕前。

『睡眠:A』
寝つくまで0.93秒という驚異の寝つきの良さを誇る。
オリンピックに種目があれば金メダルは余裕。

『虚弱:A』
同年代の中でも最下層に位置する敏捷レベルとスタミナ。

『貧弱:A』
同年代の中でも最下層に位置する筋力レベル。

『脆弱:A』
同年代の中でも最下層に位置する耐久レベル。

『最弱:A』
同年代の中でも最下層に位置する総合能力。

『悪運:A++』
窮地に立たされた時に限り、幸運値がこのスキルのランクに変化する。
代わりに平常時は幸運値が低ランクとなる。

『逆境打破:A』
逆境に陥れば陥るほど実力を最大限以上に発揮できる、恐るべき底力。
絶体絶命の危機に瀕してのみ、あらゆる能力に爆発的な上昇補正が掛かる。
火事場の馬鹿力。またの名を『劇場版補正』。

『天啓:A』
ひらめき力。
固定観念に囚われない柔軟な発想を可能にし、突然妙案が浮かんだりする。

『竜の因子:A』
のび太の中に眠っていた因子。
かつて“気ままに夢見る機”で現実と夢を入れ替えた時、『竜さんのだし汁』に浸かった事でこの因子が宿った。
同じ因子を持つ者がいれば、因子同士を共鳴させる事で双方に莫大な魔力と力の増幅効果を齎す。
ただし、どういう訳かのび太には魔力以外の恩恵がなく、力は貧弱なままである。
なお、元々あった一度だけ死から蘇るという加護の方は完全に失われている。




【宝具】

『スペアポケット』

ランク:???
種別:ひみつ道具 
レンジ:??? 
最大捕捉:???

ドラえもんが身に着けている、未来の道具である“ひみつ道具”を収納するふくろ。
『スペアポケット』はその予備(スペア)である。
非常識な効果を齎すものから実にくだらないものまで、ありとあらゆる“ひみつ道具”が収められているが、現在は道具の数が非常に少なくなっている。
また本来ならある筈のポケット間の繋がりも切れているが、スタンドアローンで使う分にはまったく問題ない。


『白銀の剣』

ランク:C+
種別:対人宝具 
レンジ:1~2 
最大捕捉:1人

『夢幻三剣士』の夢世界に伝わる、伝説の聖剣。
妖霊大帝オドロームを唯一殺し得る退魔の剣である。
魔に類し、かつ属性が『悪』の者に対し特効。あらゆる障害を貫通して通用する。
また、『夢幻三剣士』の色を引き継ぎ、使用者の力量をあべこべにする特性を備えている。
ずぶの素人が握れば剣の達人と遜色ない力量が備わるが、剣聖が持てばずぶの素人と変わらない力量となってしまう。
人によっては価値のない、非常に使い手を選ぶ剣である。


『???』








【クラス】 バーサーカー?

【マスター】 野比のび太

【真名】 フー子

【性別】 女性

【身長・体重】 128cm 27kg

【属性】 純真・善


【筋力】F-  【魔力】A

【耐久】E   【幸運】A+

【敏捷】E   【宝具】B




【クラス別能力】

『狂化:―』
 狂化スキルは失われている。




【保有スキル】

『ふしぎ風使い:A++』
風の力を意のままに操る能力。
そよ風から竜巻、果ては台風まで、風に関する自然現象ならば自在に巻き起こす事が可能。
さらに魔力を風の力に変換する事が出来る。
ただし、大気のない場所ではこの能力は生かせない。

『絆:A』
マスターが近くにいれば、宝具を除く各パラメーターにプラス補正が掛かる。

『竜の因子:A』
風の魔竜であるマフーガの一部というその出自から得られた特性。
同じ因子を持つ者がいれば、因子同士を共鳴させる事で莫大な魔力と力の増幅効果を齎す。
共鳴させている間は魔力パラメーターがEXに、筋力・耐久・敏捷パラメーターが爆発的に上昇するが、その上昇率は共鳴の度合いに依存する(最大で3ランクアップ)。




【宝具】

『十二の試練(ゴッド・ハンド)』

ランク:B
種別:対人宝具 
レンジ:1 
最大捕捉:1人

『ヘラクレス』の持つ『十二の試練(ゴッド・ハンド)』と同一の物。
Bランク以下の攻撃を無条件で無効化。死亡しても自動的に蘇生(レイズ)がかかる。
ただし、蘇生回数が1度のみとなっている点が唯一異なっている。
『ヘラクレス』の持つ宝具(正確にはその肉体)が、狂戦士の器とその中のエーテルを基にして形作られた、いわばバーサーカーの分身とも言えるフー子に引き継がれた。
蘇生回数が1度なのは、元々『ヘラクレス』の命が残り一つとなったところでマフーガとして変化させられたのと、フー子として独立する際、“精霊よびだしうでわ”で呼び出された本来の台風の精の命の分がストックとして補填されたからである。





==============================================================





【クラス】 バーサーカー?

【マスター】 ???

【真名】 マフーガ

【性別】 ?

【身長・体重】(測定不能)

【属性】 凶暴・悪


【筋力】(測定不能) 【魔力】EX

【耐久】(測定不能) 【幸運】E

【敏捷】(測定不能) 【宝具】B




【クラス別能力】

『狂化:EX』
元々理性がほぼない存在であるため、スキル適性が異常なほど高い。




【保有スキル】

『風の魔物:A++』
風の力を意のままに支配する能力。
そよ風から竜巻、果ては台風まで、風に関する自然現象ならば自在に巻き起こす事が可能。
さらに魔力を風の力に変換する事が出来る。
ただし、大気のない場所ではこの能力は生かせない。

『二重本体:A』
超巨大台風と、風で構成された竜。
その両方をしてマフーガの本体となる。
竜は『端末』としての側面も持ち、仮に消滅させられても上空の台風さえ健在であれば無条件で再生が可能。
また、その逆もしかりである。

『竜の因子:A++』
風の魔竜というその出自から得られる特性。
魔力パラメーターがEXとなる。




【宝具】

『十二の試練(ゴッド・ハンド)』

ランク:B
種別:対人宝具 
レンジ:1 
最大捕捉:1人

『ヘラクレス』の持つ『十二の試練(ゴッド・ハンド)』と同一の物。
Bランク以下の攻撃を無条件で無効化する。
ただし、自動での蘇生(レイズ)効果は失われている。
これは元々『ヘラクレス』の命が残り一つとなったところで、マフーガとして変化させられたためである。
『ヘラクレス』の持つ宝具(正確にはその肉体)が、狂戦士の器とその中のエーテルを基にして形作られた、いわばバーサーカーの分身とも言えるマフーガに引き継がれた。








【クラス】 ライダー?

【マスター】 ???

【真名】 リルル

【性別】 女性

【身長・体重】 150cm 42kg

【属性】 秩序・中庸


【筋力】C   【魔力】―

【耐久】D   【幸運】A

【敏捷】C   【宝具】EX




【クラス別能力】

『騎乗:B』
騎乗の才能。
大抵の乗り物なら人並み以上に乗りこなせるが、魔獣・聖獣ランクの獣は乗りこなせない。

『対魔力:―」
対魔力スキルは失われている。




【保有スキル】

『ロボット:A』
高性能の機械の肉体を持つ。見かけは人間と遜色ない。
魔力を生成・保持・制御する機構がなく、魔力を扱えない。
代わりに、現界や宝具等に関する魔術的制約を無視出来る。

『服従回路:C』
強制命令権を持つ者によるコマンドには、絶対服従する宿命を負う。
ただし、自我は剥奪されない。
元となった『メドゥーサ』の宝具、『騎英の手綱(ベルレフォーン)』からの因果。

『命運共同:A』
宝具をすべて破壊された場合、いかなる状況下においても死する運命にある。
宝具の影響から来る、変質した異常因果。

『天使の祝福:B』
自らの死の間際、任意の対象に祝福を与える。
祝福の効果は、自らと対象の願いのベクトルに左右される。
自害した場合は発動しない。




【宝具】

『鏡面世界(リバーサル・ワールド)』

ランク:A++
種別:対軍宝具 
レンジ:1~50 
最大捕捉:100人

視野内に収めた人間・物体を強制的に、すべてが鏡写しになった無人世界、『鏡面世界』へと送り込む。
また、逆に『鏡面世界』から現実世界へ、任意に送還する事も可能。
『鏡面世界』を移動する手段、あるいはリルルが意図しない限り、鏡面世界に立ち入った人間は事実上、その世界に閉じ込められる事になる。


『鉄人兵団(インフィニティ・アイアンアーミー)』

ランク:EX
種別:対軍・対界・寄生宝具 
レンジ:1~40 
最大捕捉:∞人

『鏡面世界』内に潜むロボット軍団。
鶏顔の指揮官ロボットと、数タイプの兵士ロボットから構成され、その数は、通常時でも某国の全軍属数に匹敵する。
『鏡面世界』でしか存在する事は出来ないものの、『鏡面世界』の世界各地にロボット生産工場が存在し、たとえ何体破壊されようとも、兵力が尽きる事はない。
指揮官ロボットのみ自我が存在し、ボディが破壊される度に新しいボディに自我がインストールされるため、指揮官ロボットは事実上、不死に近い。
また、指揮官ロボットはロボット生産工場のメインコンピュータともリンクしている。
そして何よりの特徴として、この指揮官ロボットにはリルルに対する『強制命令権』がある。
これは、指揮官ロボットが意図すれば、たとえリルルが現実世界にいようとも、またリルル自身がコマンドを厭おうとも、命令に従わせる事が出来るというものである。
ただし、これには条件があり、音声で命令を下す必要がある。
『鉄人兵団』を無力化するには、すべての指揮官ロボットと鏡面世界内の全工場メインコンピュータを破壊する以外にない。
なお、指揮官ロボットには『軍略:C』のスキルが自動的に付与される。


『超機動重機ザンダクロス(ジュド)』

ランク:A++
種別:対城宝具 
レンジ:5~3500 
最大捕捉:2000人

全長二十メートルクラスの巨大ロボット。
元は土木作業・工作用のロボットだったが、鉄人兵団の手により大幅に改修・改造されている。
そのため、攻撃面、防御面、機能面すべてにおいて従来より性能が向上。戦略兵器として破格の性能を誇る。
その代償として燃費が悪く、長時間の戦闘活動は出来ない。
加えて、これは独立兵器として再現されている訳ではないので、コントロールシステムを誰かが操る必要がある。
純粋に可能なのはリルル、そして指揮官ロボットの二体である。
搭乗者がいない場合、緊急措置として指揮官級の疑似AIを、再現出来なかった頭脳ユニットの代わりとして使用可能とされている。
しかし、宝具と宝具を融合するような行為のためか、不確定性が高かったので、この機能は封印されていた。








【クラス】 キャスター?

【マスター】 ???

【真名】 オドローム

【性別】 男性

【身長・体重】 330cm 270kg

【属性】 秩序・悪


【筋力】C  【魔力】A++

【耐久】C  【幸運】C

【敏捷】C  【宝具】EX



【クラス別能力】

『陣地作成:A』
魔術師として、自らに有利な陣地を作り上げる。
“工房”を上回る“神殿”を形成する事が可能。

『道具作成:C(A)』
魔力を帯びた器具を作成出来る。
技術体系の違いから、この世界では完全再現出来ず劣化している。




【保有スキル】

『魔道王:A』
その名の通り、魔道を極めし者。いかなる存在であろうと、この者の魔術が向けられれば影響を免れない。
『対魔力』スキルを持つ者と対峙する際、このスキルのランク未満のそれであれば威力の多寡に拘らず、魔術が貫通して通用する。
同ランクかそれ以上の場合は、『対魔力』衝突時における減衰率が低下する。
また、魔術行使における魔力消費が半分となる。

『詠唱省略:A』
魔術行使において、規模に拘らずすべて一工程(シングルアクション)で発動する事が出来る。

『傲慢:B』
強者の驕りは、時として強固な心の壁となる。
スキルランク以下の精神干渉を無効化する。




【宝具】

『死因固定(アンデッド・コード)』

ランク:EX
種別:対人宝具 
レンジ:1 
最大捕捉:1人

己の『直接死』の要因を、“白銀の剣による殺傷”ただ一つに限定する。
それ以外の攻撃手段では、負傷させる事こそ可能だが、ダメージは半分となる。
平たく言ってしまえば、白銀の剣なしでは理論上、HPを1まで削る事は出来るが、0にする事は不可能という事である。
妖霊大帝オドロームの曰くが具現化した事で、通常の手段ではオドロームを殺せない。
ただし例外として、現界魔力の枯渇やマスターとの契約が切れた場合等にはこの宝具は無力となる。








【クラス】 アサシン?

【マスター】 ???

【真名】 アンゴルモア

【性別】 不明

【身長・体重】 不明

【属性】 混沌・悪


【筋力】E  【魔力】A

【耐久】E  【幸運】D

【敏捷】B  【宝具】C



【クラス別能力】

『気配遮断:A』
サーヴァントとしての気配を断つ。
完全に気配を断てば発見する事は不可能に近い。
ただし、自らが攻撃態勢に移ると気配遮断のランクは大きく落ちる。



【保有スキル】

『超能力:A』
他者に干渉する異能。
精神干渉系を得意とする。

『再生:B』
種族特性から来る再生能力。
身体に穴を開けられようと、即座に復元する。

『自己改造:A+』
自身の肉体に、まったく別の肉体を付属・融合させる適性。
不定形であるため、高い自由度を持つ。

『戦闘続行:A+』
生還能力。
瀕死の傷でも戦闘を可能とし、決定的な致命傷を受けようとも高確率で生き延びる。



【宝具】

『潜む悪意(アンゴルモア)』

ランク:C
種別:寄生宝具 
レンジ:1~10
最大捕捉:1人

不定形で己の確たる形を持たないアンゴルモアの特性が、そのまま宝具となったもの。
人、機械を問わず、対象に寄生しあらゆる主導権を乗っ取る。
その際、別個体同士の融合及び対象の改造も可能であり、スキルとの併用で幸運と宝具を除く対象のパラメーターを上下させられる。
ただし、範囲に応じて相応の魔力を消費する上、個体や相性によって上限がある。
乗っ取った対象は意図して支配権を放棄しない限り、アンゴルモアの完全な手足と化す。





==============================================================





【クラス】 アヴェンジャー

【マスター】 ???

【真名】 アンリ・マユ

【性別】 男性

【身長・体重】 167cm 58kg

【属性】 混沌・悪


【筋力】E  【魔力】A

【耐久】E  【幸運】A+

【敏捷】A  【宝具】???




【クラス別能力】

『単独行動:EX』
マスター不在でも行動できる能力。

『???』




【保有スキル】

『???』

『狂気:A』
思考形態が常軌を逸脱しており、それを正常としている。
敵からの精神干渉を完全に無効化する。

『黒染めの泥:B』
特定物を己の属性に染め上げる。
染まった物に対しては、ある程度の調整が可能になる。

『???』




【宝具】

『スペアポケット』

ランク:???
種別:ひみつ道具 
レンジ:??? 
最大捕捉:???

ドラえもんが身に着けている、未来の道具である“ひみつ道具”を収納するふくろ。
『スペアポケット』はその予備(スペア)である。
のび太がこの世界に迷い込んだ際、その有用性に着目したアンリ・マユが複製し、中の道具と共に所持するに至った。
道具は、のび太が持つ以上の数と種類を保持しており、いくつかが『黒染めの泥』により改造を施されている。
ポケット間の繋がりは遮断されており、完全な独立状態である。


『無限の残骸(アンリミテッド・レイズ・デッド)』

ランク:EX
種別:???
レンジ:???
最大捕捉:∞人

自身の副産物である『泥』から生み出される、知性を持たない狂暴な異形。
文字通り、アンリ・マユの『残骸』であり、無限に湧き出るその特性は、それだけで脅威となる。
現在は暴走状態にあり、アヴェンジャーの意図を離れている。


『???』







[28951] 第一話
Name: 青空の木陰◆c9254621 ID:90f856d7
Date: 2014/09/29 01:16






「ドラえもーーーーん!!」






 すべてはこの少年、野比のび太の涙混じりの絶叫から始まった。
 足音も荒く階段を駆け上がると、自室へと飛び込むように入り込んだ。

「聞いてよ聞いてよ!! スネ夫とジャイアンがさぁ、アーサー王なんてただの伝説でそんなのいる訳ないって! それにしずかちゃんも……ってあれ? なんだ、いないのか」

 無人の六畳一間を見た途端落ち着いたのか、頬を掻き掻き、ひとりごちるのび太。
 事の起こりは数十分前、空き地での事。いつもの四人でワイワイ話していた時、ふとした事からアーサー王伝説の話題が上った。
 騎士の代名詞であり、いつの日か死から目覚めるとされる最強の剣士、アーサー王。
 頭が致命的に残念なのび太でも、アーサー王だけはよく知っていた。
 信じられないかもしれないが、伝記だって昔読破している。

『それで、アーサー王はねぇ……』

 ここぞとばかりにうんちくをたれるのび太に対し、仲間の一人であるスネ夫が突如噛みついてきた。

『でもアーサー王って結局は架空の人物だよ。元になった人物が二人いて、それをモチーフに描かれたんじゃないかっていう説が今のところ有力だね』
『なんだそうなのか。あーあ、つまんねえの』

 スネ夫の言葉に仲間の一人、ガキ大将のジャイアン……本名は剛田武という……が座っていた土管に仰向けに寝転び、盛大に欠伸をする。
 のび太はそれが信じられず、必死になって言葉を並べ立てる。

『そ、そんな事ないよ! アーサー王は実在してるよ! お墓だってイギリスにあるんだろ!?』
『のび太さん。お墓があるからって、その人がいたって証明にはならないのよ。遺品やお骨なんかがあれば別だけど、それが見つかったって話は今のところないみたいだし』
『し、しずかちゃんまで……!?』

 仲間の一人である紅一点、源しずかの否定の言葉で固まるのび太。
 たしかにお墓があってもそれは存在の証明にはならない。厳密には。
 勝手に誰かが建てて、それをアーサー王のお墓だと言ってしまえばそれまでだからだ。
 鰯の頭も信心から、という言葉をのび太が知っているかどうかは知らないが……いや間違いなく知らないだろうが……世間でそう認知されていても実は偽物でした、という事も十分にあり得る。

『ううううう……! わかった! 見てろよ! アーサー王が実在の人物だって事、証明してやるからな!!』

 敬愛するアーサー王の存在を否定され、怒りでぶるぶる震えていたのび太は、突如ビシッと指を突き付けて啖呵を切ると空き地を飛び出し、一目散に家へと駆け戻る。
 空き地に取り残された三人は、普段ののび太からは想像もつかないようなその態度にしばらく呆然としていた。



 ――――ここで話は冒頭へと戻る。



「いなんじゃしょうがないか。よし! 今から“タイムマシン”でアーサー王の生きていた時代に行ってみよう! あ、でもアーサー王の時代って戦争してたんだよな……絶対危険だぞ。うーん……そうだ! ドラえもんには悪いけど、念のために“スペアポケット”を借りて行こう」

 ぱちん、と指を鳴らしてそう言うと押入れの戸を開き、なにやらごそごそとしていたのび太だったが、やがて突っ込んでいた上半身を引っこ抜くと徐に右手をポケットに突っ込む。
 そして戸を閉めると方向転換、サッと机の引き出しを開け、玄関から持ってきていた靴を履くとその中に身を投げ入れた。
 二十二世紀からやってきたネコ型ロボットの親友、ドラえもんの所持品である“タイムマシン”は、のび太の机の引き出しにセットされているのだ。

「よし、着地成功! さてと、アーサー王の時代は何年前だったかな……あれ? なんだろう、なんか変な感じがするな」

 四角い板に機械が乗っかったような形の“タイムマシン”に飛び乗ったのび太。
 計器を操作する傍ら、ふと疑問を感じて視線を上げる。
 ナニかが、違う。
 どこがどう違うとははっきりと言えないが、やっぱり普段の雰囲気とは違っているのだ。
 そこはかとなくイヤな気配が漂う……のだが、そこは良くも悪くものび太である。

「ま、いっか……うん、よし! セット完了! それじゃ、アーサー王の時代のイギリスへ、しゅっぱあつ!!」

 深く考えないまま思考を打ち切りデータを入力、発進スイッチをポチッとな。
 エイエイオー、と腕を振り上げ、時空間の大海原へと漕ぎ出してしまった。



 ――――唐突だが、ここに一枚の紙切れがある。



 丁寧に折りたたまれたこの紙切れ、中には何か文字が書き込まれている。
 そして、これはなんとのび太の机の隅に置かれているのだ。
 中にはこう書かれている。



『のび太くんへ
 ちょっとドラ焼きを買いに行ってきます。
 あとタイムマシンはぜったい使わないように。
 どういうわけか時空乱流が発生していて、まともに時空間航行出来ないんだ。
 さっきタイムパトロールから連絡がきたからホントの話だよ。
 わかったね!  
                            ドラえもんより』



 果たしてのび太は漢字をすべて読めるのだろうか……甚だ疑問だが、今はそれはさておくとする。
 とにかく、のび太はこれを見る事なく、時空の海へと旅立ってしまったのだ。
 もう少し目立つところにメモが置かれていたら、せめて紙切れが折りたたまれていなかったら。
 結果は自ずと違ってきていただろう。
 だが自分の考えに集中するあまり、メモの存在にも危険の匂いにも気付かずのび太は自分から飛び込んでいってしまった。






 ――――運命という名の、血と涙の雨が荒れ狂う生死を賭けた大航海へと。









[28951] 第二話
Name: 青空の木陰◆c9254621 ID:90f856d7
Date: 2014/09/29 01:18






「……うーん、いったいアーサー王ってどんな顔してるんだろうな? 時代にもよるだろうけど、やっぱり出木杉くんみたいな真面目な感じかな? それとも渋いおじさんなのかな? いやいやそれとも……実は可愛い女の子だったりとか、ってそれはないよね」

 鼻歌交じりで未だ見ぬアーサー王に思いを馳せるのび太。
 今のところ時空間航行は順調に進んでいる、なんの問題もない。
 さっき僅かに感じた違和感も既に忘却の彼方だ。

「ねえタイムマシン。あとどのくらいで着くの?」
『ピピッ、モウ、マモナクデス』

 のび太の質問に電子音のような声で返答する“タイムマシン”。
 “タイムマシン”には二十二世紀の高性能AIが組み込まれており、ガイドやコンピュータ管制をマルチタスクで行っている。
 このように搭乗者と会話する機能も付加されているのだから、ある意味至れり尽くせりだ。
 だから“タイムマシン”にお願いすればデータ入力や時空間検索などといった諸々を一手に引き受けてくれるのだが……のび太はなぜか全ての入力をマニュアルで行っていた。
 そこはそれ、操作の主がのび太である、という事でひとつ理解してもらいたい。
 ちなみにこれは当初から付属していたものではなく、後から組み込まれたものである。
 これはドラえもんの“タイムマシン”が比較的型遅れの代物であるためだ。
 新しいものを購入しようにも、タイムマシン自体かなり高額な代物であるため手っ取り早く、しかも安くグレードアップさせようと思ったら、必然的に改造に走らざるを得ない。
 この辺りにドラえもんの財布の悲哀が見え隠れしているような気がしないでもないが、しかしそれはそれとして、ドラえもんの財布事情をぜひ知りたいところではある。
 少なくとも新しい型の“タイムマシン”を乗り回している彼の妹、ドラミよりも貧乏なのは確実であろうか。

『モウ間モナク、目的地ニ到着シマス……ピッ!? ピピッ!!?』
「え、え!? タイムマシン、どうしたの!?」

 と、もう少しでワープアウトするというところで突如“タイムマシン”が異音を発し始めた。
 気になったのび太が声をかけると、機械らしからぬ切迫した電子音で回答する。

『警告! 警告!! 時空乱流ノ気配デス!! 急接近、急接近!! コノママデハ、巻キ込マレマス!!』
「えっ、時空乱流? なにそれ、って……あ、でもどっかで聞いたような気もするんだけど」
『ピピッ、時空間内ニ発生スル、台風ノヨウナ物デス! 巻キ込マレレバ、最悪次元ノ狭間ニ放リ出サレ、永久ニ亜空間ヲ彷徨ウ事ニナリマス!!』
「な、なんだってええーっ!?」
『運ガ良ケレバ、ドコカ別ノ空間ニ出ル事モアリマスガ』
「冗談じゃない! どっちにしろ元の時間に戻れないって事じゃないか! ねえ、なんとかならないの!?」

 かなりの危機的状況である事を悟ったのび太は、必死な顔で“タイムマシン”に打開策の伺いを立てる。
 しかし。

『ピピッ、トニカク、機体ニシガミツイテイテクダサイ! 既ニ回避不可能ノルートニ入ッテイマス! 接触マデ、アト十秒!!』

 帰ってきた答えはまさに最悪にして非情の物。のび太は涙目になりながらヒシと計器にしがみつく。

「うわーん! ドラえもーーーーん!!!」
『3、2、1……突入!!』

 瞬間、のび太の視界がブレ、凄まじい振動が全身を襲った。

「うわわわわわわっ!!??」

 時空間に吹き荒れる暴風に“タイムマシン”が振り回される。
 ガクンガクン、と身体を揺すられ、のび太の身体のあちこちが計器に叩き付けられていた。
 ぶつけた痛みがズキズキと襲い掛かってくるが、必死なのび太は泣きながらそれらをグッと堪え、全身全霊で以て身体を“タイムマシン”に張り付けた。
 揺れる視界の先では稲光が轟音と共に幾条も走り、黒々とした風が唸りを上げて渦を巻いている。
 まさにここは台風の中だ。
 一瞬の気の緩みが、全てを終わらせる極限の牢獄。
 だが。

「ううううっ……もう、ダメだぁああっ!!!」

 そんなものがなくても、所詮は低の低スペックの身体能力しかないのび太。
 拙い足掻きもあっさりと破られ、身体が虚空へと投げ出される。

「うわぁああああーーーーっ!!!!」
『アアッ……ノビ太サン!』

 悲痛な叫びの余韻だけを置き去りに、のび太の姿はあっという間に漆黒の空間に飲み込まれ、そこから消えた。
 後に残されたのは、いまだ暴風と雷を的確な姿勢制御で耐え凌ぐ“タイムマシン”のみ。
 感情を表さないはずの鋼鉄のボディに、僅かに悲しみと悔しさの色が滲み出ていた……。








[28951] 第三話
Name: 青空の木陰◆c9254621 ID:90f856d7
Date: 2014/09/29 01:28






「……う、うぅん」

 何も見えない漆黒の空間。
 ぼんやりとした覚醒の意思が働き、のび太は僅かに意識を取り戻した。

(あれ? ぼくは……どうしたんだっけ? えーと……うん、その前に起きなきゃ)

 目を開こうとするが、瞼が動かない。
 まるで接着剤でがっちり固定されているかのように。

(……おかしいな?)

 それならばと身体を動かそうとするが、やはり動かない。
 首も、肩も、腕も、脚も、口さえもだ。
 辛うじて声だけは出そうではあったが、口が開かない以上はたいして意味がない。
 結局、数度の試行錯誤の後、のび太はすべての運動を放棄した。
 諦めの極致で、ゆったりと全身を弛緩させその場に身を委ねる。

(はあ……それにしても、ここはいったいどこなんだろう?)

 目が開かないので確認のしようもないが、幸いにも五感は生きていた。
 使えない視覚と味覚はさておくとして、残った三つの感覚で今いるところを理解しようと試みる。
 聴覚を働かせる……なにも聞こえない。完全な無音である。
 嗅覚を鋭くする……なにも匂ってこない。完全な無臭の空間のようだ。
 触覚を強く意識する……身体にはなにも触れてないようだ。ただ感覚からすると、仰向けに浮いているのが理解出来た。
 これにて、現状把握は終了。結論は、至ってシンプルに纏まった。
 すなわち……『なんにも解らない、どこだよここ』である。

(って、これじゃダメじゃん! もっとなにか、他に……あれ? なんだろう、この感覚?)

 自分で出した身も蓋もない結論に自分でダメ出しをした直後、のび太は突如として奇妙な感覚に襲われた。
 暖かいような冷たいような、明るいような暗いような、そんな矛盾した感触が全身を駆け巡る。

(う……な、なにこの変な感触!?)

 のび太はその気味悪さに、ぞわと鳥肌を立たせていた。
 すると今度は身体全体が異常なほどの圧迫感に襲われる。

(ぐえっ!? こ、今度はなんだっ!?)

 まるで元からはまらない型に、力任せに無理矢理指で押し込んでいくような感触。
 のび太の身体能力はスネ夫やジャイアンとは比べる方がかわいそうなほどの開きがあり、実は女の子であるしずかよりも低い。
 つまり、同年代の女子平均よりも劣った身体能力しかのび太は持っていないのである。
 もっとも、その割には『百二十九・三キログラム』もあるドラえもんを抱え上げたり、犬に追いかけられた際、犬より速く走ったりしているのだが、おそらくそれは火事場の馬鹿力、という事だろう。
 脆弱すぎるのび太にとってこれは堪らない。
 必死に耐える傍らのび太の脳裏には、車に轢かれて潰れたカエルのイメージが浮かんでは消えていく。

(つ、潰れちゃう……! やめてやめてやめ……あ、あれ? 消えた!?)

 と、始まった時と同様唐突に、ふっ、とその感触が終わりを告げた。
 あまりの展開の不可解さに、のび太は内心で首を傾げる。
 だが、その疑問が解消されないうちに、状況は再び急展開を見せた。

(え? なんだこれ!? わ、わ、わ! 引っ張られる……いや、吸い寄せられてる!?)

 のび太の身体がどこかに向かって動き始めた。
 未だ身体が思うように動かないのび太は、触覚からそれを感じ、ただ慌てる事しか出来ない。
 やがて閉じた瞼の向こうに、光が見えたような気がした。
 それと同時に身体がどこかに放り出される感覚が走る。
 次の瞬間、のび太の身体は猛烈な勢いで急降下、垂直落下運動に入った。

「――――う、わぁあああああーーーーっ!!」

 既に声も出せるし、手も足も動かせる。
 当然目も開けられるのだが、自分が空中から落下しているという実感に伴う恐怖のせいで目は開いていない、いや開けない。
 手足をばたばた動かして必死に身体を浮かせようとするが、そんな事が出来れば人類は飛行機など発明していないだろう。

「助けてぇえええーー! ドラえもーーーーん!!」

 叫んだところで件の本人が助けになど来る訳もない。
 そのうち声も上ずり、声帯を震わせながらも声が出ない、無発声のような状態に陥る。
 空中でもがきながら、叫びにならぬ叫びを上げて紐なしバンジーを強制敢行するのび太。
 やがて、それも唐突に終わる。






「ああ、追って来るのなら構わんぞセイバー。ただし、その時は決死の覚悟を抱いてこ――――ごふあっ!?」
「わぁああああ――――ぐえっ!」






 ――――自分の身体の真下にいた、青い男の上に頭からダイブする事によって。








[28951] 第四話
Name: 青空の木陰◆c9254621 ID:90f856d7
Date: 2014/09/29 01:46






「あいてててて……」

 どすっ、と地面に尻餅をつき、ぶつけた頭をさすりながら、のび太は涙目で呻く。
 頭には見事に大きなたんこぶが出来ている。
 落下した距離は、ざっと換算して百メートルはあっただろうか。
 普通だったら間違いなく、頭蓋がざくろのようにはじけ飛んで即死している。
 だが、どういう訳かのび太はコブひとつの負傷で済んでいた。
 長い間ジャイアンに殴られ続けたせいで、異様なタフネスを身につけてしまったのか。
 こう見えて意外にのび太は頑丈であった。
 それだけでは説明がつかない気もしないではないが、とりあえず今はさておくとする。

「はあああ、た、助かった……それにしてもここはいったい、ッ!?」
「……動くな」
「ひっ!?」

 無事に助かった事に安堵する傍ら、周りを見渡そうとしたのび太だったが、突如首筋に感じた冷たい感触に背筋を硬直させる。
 声のした背後へおそるおそる振り返ると、そこには青いボディスーツと銀の軽鎧を纏った、長身の男がいた。
 その表情は、針を数本飲み込んだかのようなひどい渋面である。

「痛っ、まだ頭が痛みやがる……あん? なんだ、ガキか? なんでガキが空から俺の頭の上に……しかしお前、運が悪かったな。見られたからには死んでもらわなきゃならねえんだ。こんな十かそこらのガキを殺るのは不本意だが……これも決まりでな。せめて苦しまないよう、一瞬で命を止めてやる」

 そしてのび太の首筋に突き付けられているのは……血のように真っ赤な槍の穂先。
 瞬時に命の危機だと悟ったのび太は顔を青く染め、へたり込んだままの姿勢で震え出す。

「あわわわわわ……な、なんで? どうしてさ!?」

 戦慄く唇を動かし、理由を問いただそうとするが、目の前の男はそれらをきっぱりと無視してすっ、とのび太の首から引き戻した槍を再び構える。
 その穂先は色濃い殺気と共に、ぴったりのび太の心臓に合わせられていた。
 相手の目はどこまでも真剣そのもの、男の言葉は嘘や冗談などではない事をのび太は悟る。
 いきなり自分の身に降りかかってきた死の気配に、のび太の歯はがちがちと音を鳴らし始めた。

「あ、あ、あぁああ……」

 こんな事なら、あんな大見得切るんじゃなかった。
 この不可解すぎる状況と今までの己が行動に、のび太の脳内では激しい疑問と後悔の念が、ない交ぜとなって渦を巻いていた。
 だが、事態はここから思わぬ推移を見せる。
 それにより、のび太の思考は更なる混乱の渦に放り込まれる事となった。

「……ぁあ? どういうつもりだ。なぜこのガキを庇う?」
「――――如何な理由があろうと……たとえ“聖杯戦争”の最中といえども……」

 突如、のび太の眼前に何者かが立ち塞がった。
 まるでのび太を男から護るように。
 頭を抱えて震えていたのび太はその凛とした声に、そっと顔を上げる。
 そこにいたのは。






「――――年端も行かぬ、無垢なる子供の命を徒に殺める事、騎士として、剣の英霊として……見過ごす事は出来ません!」






 青のドレスに、銀の鎧。
 月明かりを受けて輝く金砂の髪に、強い意志を秘めた深緑の瞳。

「その体たらくで言われてもな……ち、面倒な事をしてくれる……セイバーよ」

 左の胸を血潮で真っ赤に染めた、だがどこまでも気高く凛々しい、騎士の少女だった。

「セイ、バー……?」

 のび太は恐怖も疑問も忘れ、ただただ目の前のその背中を呆然とした表情で見つめていた。

「どけ、セイバー。“魔術は秘匿するもの”ってのが魔術師の鉄則。ましてや“聖杯戦争”に関しては言わずもがなだ。それぐらい知ってるだろう。後々のためにも」
「くどい。退くのならさっさと退きなさい、ランサー……っう、ぐ!?」

 男を凄まじい眼力で睨みつけながら、男の言葉を真っ向両断。
 セイバーと呼ばれた騎士の少女は、背後ののび太と眼前の敵に気を払いながらも、鮮血に染まった左胸を押さえ、低く呻き声を上げていた。

「うっ、わ」

 生々しい紅に顔を顰めつつも、相当ひどい怪我だな、とのび太はどこか他人事のように思う。
 そして互いに睨み合う事しばし、やがてランサーと呼ばれたその男が溜息をひとつ漏らした。
 構えていた朱槍が降ろされ、そのまま彼はくるりと踵を返す。

「……ふん。まあ、どう転ぼうが俺にはたいして関係ねえ事だしな、勝手にしやがれ。もっともそのガキは、“こっちの事情”に関してはなにも知らねえみたいだが……ま、それこそ俺の知った事じゃねえか」

 そして一気に跳躍し、塀の上へと飛び乗るランサー。
 その一連の動作で、のび太はここがどこかの家の庭なんだとようやく理解に至る。

「ああそうだ、もう一度言っておくが……追ってきても構わんぞセイバー。但し、その時は決死の覚悟を抱いてこい!」

 そんな捨て台詞を残して、ランサーは再度跳躍。
 民家の屋根から屋根へと次々飛び移り、そのまま夜の闇へと消えていった。

「――――な、なんなんだあれ!? 人間が屋根から屋根に飛び移った!?」

 その一連の光景にのび太の頭は混乱の極みに達し、オーバーヒートを起こしかけていた。
 あまりにもぽんぽんと続いたトンデモ展開。
 脳の処理能力が許容量を超えようとして、知恵熱すら出そうな勢いであった。

「……大丈夫でしたか?」

 と、のび太の眼前にいた少女……セイバーが振り返るなり、彼にそう尋ねてきた。
 月明かりに照らされたセイバーの顔は、整いすぎている顔立ちと相まって、いっそ幻想的なまでの美しさを醸し出している。
 一瞬、その美貌にぎっ、と硬直したのび太であったが、その心配そうな声音に、気づけばかくかくと首を上下に振っていた。

「は、はい! あの、その、ありがとうございました。えっと、ところでここは……」

 お礼ついでに質問をしようとしたのび太だったが、横から響いてきた声に中断を余儀なくされる。

「――――お前、何者だ?」

 ふと声の先を見ると、そこには高校生くらいの少年が立っていた。
 どこかの学校のものらしい制服を着込み、左胸はどういう訳かまたも赤い血がべったりである。
 その視線は一瞬だけのび太を捉え、次いで今度はセイバーの方にぴたりと向けられた。
 表情に疑問と猜疑、そして僅かの羞恥を滲ませて。

「何者もなにも、セイバーのサーヴァントです。貴方が呼び出したのですから、確認をするまでもないでしょう?」
「セイバーの、サーヴァント……?」
「はい。ですから私の事はセイバーと」
「そ、そうか。俺は衛宮士郎っていう。この家の人間……って、や、ゴメン。今のナシ。そうじゃなくてだな、ええと……」
「……成る程。貴方は偶発的に私を呼び出してしまった、と。そういう事なのですね」
「あ!? え、えと……たぶん」
「しかし、たとえそうだとしても貴方は私のマスターだ。貴方の左手にある令呪がその証拠。警戒する必要はありません」
「令呪……ってちょっと待て! その前にセイバー、だっけ。お前、さっき槍で突かれてただろ!? 左胸血塗れだし、大丈夫なのか!?」 
「既に表面の傷は修復されています。ですが、完全ではありません。マスター、『治癒』の魔術が出来るのならばお願い……ッ!?」
「ど、どうしたんだ?」

 呆然としているのび太を余所に語り合っていた二人だったが、突如セイバーの顔が厳しく引き締まった。
 衛宮士郎と名乗った少年は、その様子に首を捻る。

「……外に新たなサーヴァントの気配が。マスター、迎撃の許可を」
「きょ、許可!? って、ケガは完全に治ってないんだろ!? そんなもの……」
「ち、動きが速い……! もう猶予がありません、出ます!」
「あっ、お、おいセイバー! 待て!」

 言い置いてぐっ、と身をかがめ、塀の外へと一気に跳躍するセイバー。
 士郎は慌ててその後を追い、家の門へと走る。
 ややもして、塀の向こうからさらに声が響いてきた。



『止まれセイバー! 人を無暗に傷付けるのは止めるんだ!』
『マスター、何を言っているのですか!? 敵がいるのなら即座に討ち果たすのが当然の事でしょう!』
『事情がまったく解らないのに殺すなんて事、許可出来るか! それに敵っていったいなんなんだよ!?』
『――――そう、貴方がセイバーのマスターって訳。そんな寝ぼけた事を言っているところを見ると、本当になんにも解ってないみたいね……アーチャー、霊体化していなさい』
『……いいのか?』
『ええ』
『ふん……了解だ』
『お、前……遠坂!?』
『こんばんは、衛宮くん』



 剥き出しの針山のように剣呑なやり取りが、さらに二人の役者を交えて壁の向こうで展開されている。
 そしてひとり、庭にへたり込んだまま、蚊帳の外へと置き去りにされたのび太はというと。

「い……いったい、なにが、どうなってるのさ……?」

 ぽかんとした表情を晒したまま、漆黒の天空に向かって力なくそうぼやいていた。








[28951] 第五話
Name: 青空の木陰◆c9254621 ID:90f856d7
Date: 2014/09/29 01:54






「――――やあやあ、ゴメンゴメンのび太くん。買い置きのどら焼きが切れてたのをすっかり忘れてて……あれ? まだ帰ってないのか」

 野比家二階、のび太の部屋にて。
 襖を開けて入ってきたのは青いタヌキのような形のロボット……本人にそう言うとキレる……もとい、青いネコ型ロボット、ドラえもん。
 手に好物のどら焼きの入った袋を携えて、たった今帰宅を果たしたところであった。
 ゆっくりと部屋の真ん中に腰を下ろすと、さっそく袋からどら焼きを取り出して、幸せそうな顔で齧り付く。

「……それにしても、どこで油を売ってるんだろう? 学校はとっくに終わってるはずなのに」

 むにゃむにゃどら焼きを頬張りながら、ドラえもんは疑問混じりにそう言うと、机の方を見る。
 机の横にはランドセルが掛けられており、のび太が一旦は帰ってきた事を示していた。

「空き地にでも行ったのかな? それとも……まあいいか。それにしても、突発的な時空乱流が起こってるなんて……なにかの前触れかなぁ?」

 懐疑的に眉を歪め、ドラえもんはぼうっ、と宙に視線を彷徨わせる。
 そして、そのまま何気なく“タイムマシン”のある机の引き出しに目をやった。

「あれ? ちょっと開いてる……ま、まさか“タイムマシン”を……って、それはないか。使うなってメモを置いてたんだし。夕飯になれば帰ってくるでしょ」

 頭をよぎった不吉な予想を一蹴し、ドラえもんは改めてどら焼きに没頭する。
 その“まさか”が現実の物であるなどとは、露ほども思っていなかった。
 机の上をよく見てみれば、ドラえもんが置いたメモの位置が置いた時と一ミリも違っていない事に気づいたであろうが。
 のび太が時空間で行方不明となった事実が露見するのは、もう少し時間が必要のようであった。






「――――せ、聖杯戦争!?」
「そう、七組のマスター・サーヴァント主従による聖杯を巡る殺し合い。最後の一組になった時、願いを叶える聖杯が与えられる」
「そんな、本当なのかセイバー?」
「……はい。聖杯を手に入れ、願いを叶えるために私は召喚に応じた。そして他の六騎のサーヴァントも。先程の槍の男がランサー……相手が宝具を用いたため真名が判明しましたが、ケルト神話の英雄『クー・フーリン』。そしてリンの隣にいた赤い外套の男が……」
「アーチャーのサーヴァントよ。いい、衛宮くん? 信じられないのは解るけど、認めなさい。貴方はもう逃げる事は許されない。殺し合いに勝ち抜いて聖杯を手にするか、他の主従に殺されるか。そのどちらかしか貴方の選択肢はないわ」
「そんな……」
「――――ね、ねえ! ねえってば! 僕を忘れないでよーー!」

 張り詰めた糸のような緊張に満ち満ちる中。
 話の性急さと高度さと突飛さに、置いてきぼりにされた少年の悲鳴が木霊した。

「……ん。ああ、そういえばそっちもあったわね」
「うう……」

 ここは衛宮邸。
 文字通り士郎の家であり、のび太が落ちたのはこの家の庭先だった。
 のび太は士郎の勧めでセイバー、それから先程まで外で何やら言い争いをしていた士郎と同い年くらいの少女と共に衛宮邸の居間に上がり込んでいた。
 だが、いざその少女が話し始めると、次第に話についていけなくなったのび太は蚊帳の外となってしまったのである。
 流石はのび太と言うべきか、やはりのび太と言うべきか。
 しかし、この場にいる者達の意識が自分へと向いた事で、のび太はしめたとばかりに気を取り直して言葉を続ける。

「そ、その……出来ればぼくの事忘れないでほしいなぁ~、話を聞いてほしいなぁ~……な、なんて、思ったり思わなかったり……エヘヘヘ」
「あ、ああ。うん、そう言えば自分の事ばっかりでまだお互い自己紹介もしてなかったな。ゴメン。じゃ、改めて。俺は衛宮士郎、君の名前は?」
「あ、はい。ぼく、野比です。野比のび太と言います。小学五年生です。それで、えっと……」

 のび太は士郎から視線を外してそのすぐ横、湯呑の置かれた卓の前に座す二人を見やる。
 その意図に気づいたようで、二人はすぐさま口を開いた。

「ああ、わたし? 遠坂凛よ」
「……知っているでしょうが、改めまして。セイバーです。さっきは危ないところでしたね」
「はい、あの時はありがとうございました」
「ところでのび太君……君はあの時、ランサーの頭の上に落ちてきたよな。どうして空から落ちてきたんだ?」
「えーと……あ、ちょっと待ってください。その前に……今は西暦何年ですか? それから、ここは何県ですか?」
「はあ?」

 のび太が『ストップ』と手を出し、静止させられた士郎が質問の意図を図りかねて首を傾げる。
 今、のび太が何よりも知りたかったのは、現在がいったい何年の、どの場所なのかという事だった。
 時空乱流に巻き込まれて、運よく別の場所に放り出された事だけは解っていたが、ここが西暦何年なのかまでは当然ながら解らなかった。
 僅かに理解出来るのは、目の前の相手が日本語を喋っている事からここが日本のどこかであるという事。
 それから建物や家具、電化製品などが自分の時代の物とあまり変わっていない事から、自分がいた時代からそう遠くない未来の時間軸に放り出されたのだろうという事だった。
 それならドラえもんと連絡を取って助けてもらう事も不可能ではないかもしれない。
 のび太はそう考えていた。
 頭の上に疑問符を浮かべながらも、士郎は答えを口にする。
 しかし、次の瞬間、のび太の表情は驚愕と焦燥に彩られたものとなった。

「え、ええっ!? 十年以上も未来なの!? しかも東京じゃない!?」
「な、なんだ? どうした?」

 なんとのび太のいた時代とは四半世紀ほども離れており、しかも場所は住んでいた東京・練馬とは大きく離れた西日本地域だという。
 後者はともかく、前者はのび太にとっては重すぎる事実。
 この時代には未来の自分はともかく、ドラえもんはいないかもしれない。
 のび太はドラえもんがいつか未来へ帰る事は知っていたが、いつ帰るのかまでは知らないのだ。
 だが、のび太はそれでも一縷の望みを賭けて、さらに言葉を重ねる。

「あ、あのもう一つ、お願いが! 電話を貸してもらえませんか!?」
「へ……? あ、ああいいけど」

 のび太の必死な表情に気圧され、士郎は思わず首を縦に振る。
 そして士郎の案内の下、廊下の電話の前に赴くとのび太は自宅の電話番号をプッシュする。
 のび太の知る限りの数十年後の未来の情報の中で、唯一の光明があるとすればそこしかない。
 お願い、お願いと心の中で祈りを捧げながら受話器を耳に当てていると。



『――――お掛けになった電話番号は、現在、使われておりません』



 のび太の希望を木っ端微塵に打ち砕く、無情の宣告が聞こえてきた。
 電話がつながらないという事は、少なくとも自分の知る場所に未来の自分は……そして家族はおらず、行方が知れないという事。
 こうなってはもはやドラえもんの存在どころの話ではなく、それ以前の問題だ。
 仮にドラえもんがこの時代にいなかったとしても、未来の自分ならばあるいはドラえもんと連絡がつけられるかもしれないとのび太は踏んでいた。
 かつて“タイムマシン”で未来の自分に会いに行った際、それらしい事を匂わせる発言をしていたからだ。
 だが、自分を含めた家族の行方が分からないとなると、その希望の前提条件が木っ端微塵に砕け散った事になる。
 勿論、小学生であるのび太にとって行方を追う事などまず不可能、論外の極み。
 それでも悪あがきとばかりにしずか、ジャイアン、スネ夫の自宅の電話番号をプッシュする……。



『――――お掛けになった電話番号は、現在、使われておりません』



 しかし、無常。帰ってきたのはやはりその機械的な音声だけ。
 まともな手段で元の時代へ帰る事は、これで事実上不可能となった。

「そ、そんな……」

 のび太は受話器を取り落とし、力なくその場にへたり込んでしまった。






 ――――次々と襲い来る不可解な状況に振り回され、ポケットの中の『可能性』をすっかり失念したまま。
 だが、その『可能性』そのものに異常事態が起きている事など、神ならぬのび太には予想すら出来ないでいた……。








[28951] 第六話
Name: 青空の木陰◆c9254621 ID:90f856d7
Date: 2014/09/29 14:45






「……落ち着いたかい、のび太君?」
「は……はい。すいませんでした」

 場面は再び居間へ。
 あの後、へたり込んだまま涙声で取り乱すのび太を士郎がどうにか宥めすかし、居間へと戻ってきた。
 僅かにしゃくり上げつつ、真っ赤に泣き腫らした目を擦りながらのび太は士郎に頭を下げる。
 士郎は居たたまれなさそうに、かりかり頬を掻きながら、再び口を開いた。

「しかし、君はなんであんなに取り乱したんだ? さっきも変な事を聞いてきたし、何かしら訳があるんだろう?」
「それは……あの……」

 言いよどむのび太に、士郎をはじめとする三人の顔には色濃い疑念の色が浮かんでいる。
 しかし、この時のび太は戸惑っていた。
 本当なら何もかも喋ってしまいたい、喋って楽になりたいと心の中で考えていた。
 ところが、いざどう説明するかというところになると、どうしてもそこで考えが止まってしまうのだ。
 そもそも『アーサー王に会いに“タイムマシン”に乗ったら事故に遭って、ここに落ちてきてしまいました』などと説明したところで、信じてくれる人が果たしているだろうか。
 まず間違いなく信じてもらえない、単なる子供の妄言だと切り捨てられるだろう。
 もしくは所謂『厨二病』の一種かとも受け取られかねない……が、のび太の年齢からいえば、これはやや不適当かもしれない。
 いずれにしても、ドラえもんのいる自分の時代と地域ならともかく、ここではそれを正直に説明したとしても常識的に通用しないだろうという事を、のび太はうっすらとだが理解していた。
 さすがに、自分の周囲が甚だ異常であるという事を自覚してはいたようだ。
 戸惑い収まらぬのび太に、士郎はぱりぱり頭を掻き毟る。

「どうした? 言いにくい事なのか?」
「いや、その……言っても、信じてくれないと思うから……」

 心細そうに呟くのび太。
 頼りにしているドラえもんの存在が隣どころかどこにもないと解った事で、情緒が不安定になっている。
 支えを失った心が、折れそうになっているのだ。
 さながら知己も縁者もいない遠い異国の地に荷物もなく、突然置き去りにされた少年。
 絶望的なまでの孤独感を、のび太は心の底で味わっていた。
 曲がりなりにも今喋れているのは、単になけなしの勇気を振り絞っているからにすぎない。
 と、士郎の隣にいた凛が苛立ちの交じる怒声を放った。

「いいから、さっさと喋りなさい! 貴方もさっきこっちの話は聞いてたでしょう!? こっちは貴方ひとりに構っていられるほど、暇じゃないのよ!」
「ひ……っ!?」

 あまりの剣幕にのび太の背筋は伸び切り、顔色は蒼白になる。
 凛の形相はのび太に、テストで零点を取ったと知った時の母親の、あの鬼の形相を思い出させていた。

「お、おい遠坂!? そんな言い方はないだろう!? のび太君はまだ小学生なんだぞ! もうちょっと優しくだな」

 トラウマを抉られたように縮み上がったのび太を見かねて、士郎は庇う。
 だが、凛の態度は変わらず冷淡そのものであった。

「……あのね衛宮くん。アナタ、他人の事に気配り出来るほどの余裕があるの? 聖杯戦争のなんたるかもまだ理解出来ていないくせに、さらに荷物を背負い込む気?」
「う……」

 睨みを利かせた凛の的確すぎる鋭い舌鋒には、なにも反論出来なかった。
 しかし、それでも士郎は、意図的に指摘を無視してのび太の方に向き直り、出来るだけ優しい声音で問いかけた。

「えっと、まあとにかく……話してみてくれ。君は困っている。そうだろう」
「は、はい……」
「困っている人を簡単に見捨てられるほど、俺は腐ってないつもりだ。だから、困ってるなら力になる。そのためにも、君の事情を知りたいんだ。たとえどんなに出鱈目な話だとしてもね……無理に、とは言わないけどさ」

 のび太はそっと顔を上げ、士郎の顔を見る。
 その眼はどこまでも真剣で、嘘を言っているようには見えない。
 不意に、のび太はその眼を信じてみたくなった。
 極限まで精神が削られて、気を張っているのも限界に近かったという事も要因の一つにはある。
 だがとにかく、士郎の一言でのび太の意思は固まった。
 こうなったら、腹を割って話してみよう、と。
 意を決したのび太は、ひとつ力強く頷くと口を開いた。

「あの、最初に言っておきますね。今から話す事は、嘘みたいな話かもしれないけど本当の事なんです。だから、とにかく最後まで話を聞いてください。実はぼく……」

 回りくどく、たどたどしいのび太の説明は、実に数分の時を要した。
 そして説明を終えた時の聴衆の反応はというと。

「“タイムマシン”で過去から来たって!?」
「は、はい……正確には時空間を移動していた時、『時空乱流』に巻き込まれて事故に遭って、偶然こっちの時代に来ちゃったんです」

 あまりのインパクトゆえに、三人の表情は驚愕から一周回って呆れたものとなっていた。
 無理もない。
 この世界の常識では計り知れない事が、のび太の口から齎されたのである。

「未来から来たロボットの持ってる“タイムマシン”……ねえ。悪いけど、寝言は寝てから言いなさいな。これっぽっちも信用出来ない。論外ね」
「凛さんの言う事も解ります。ぼくも、最初ドラえもんと会った時は信じられませんでした。でも、本当の事なんです。信じてください!」
「と、言われてもね……じゃ、なにか証拠はあるの? アナタの言っている事が本当だという証拠は」
「しょ、証拠って言われても……」

 そう言われてしまえばぐうの音も出ない。
 既に“タイムマシン”の出口は閉じてしまっているだろうし、ドラえもんどころか未来の自分もどこにいるのか解らない始末。
 のび太には自分の言葉を証明する手立てがまったく思いつかなかった。

「……うぅ」

 諦めたように目を伏せ、座った体勢のままのび太はなんとはなしにポケットに手を突っ込む。
 すると、急に表情が変わった。

「ん? なんだろう……あ! こ、これは!?」

 首を傾げながらのび太はポケットからブツを取り出すと、先ほどまでの表情とは打って変わって心底嬉しそうな表情をする。
 その手には、なにやら白い袋状の物が握られていた。

「そうだ! これを持ってきてたんだった! “スペアポケット”!!」

 神器を振りかざす神官のように、のび太は“スペアポケット”を握った手を高々と宙に突き上げる。
 さっきまでの意気消沈振りとは百八十度真逆の、水を得た魚のように溌剌としたのび太に、三人は一様に呆気にとられていた。
 その中にあって、いち早く口を開いたのは、真っ先に再起動を果たしたセイバーであった。

「あの……ノビタ。なんでしょうか、それは?」
「ドラえもんが持ってる、未来の道具を入れているポケットのスペア、予備です。この中は四次元空間になっていて、いろいろな道具が入ってるんです。たとえば……えーと」

 のび太はそう言うと“スペアポケット”の中に手を突っ込み、ごそごそと漁る。

「うーん……室内だから“タケコプター”は危ないし、“ビッグライト”もそうだよなぁ。かといって“スモールライト”は……うん、じゃあ……これだ!」

 ぶつぶつ独り言を漏らしつつ、のび太が取り出したのは。

「――――ふ、ふろしき?」

 時計の柄がプリントされた、一枚の風呂敷だった。

「の、のび太君……なんだ、それ?」
「これは“タイムふろしき”って言って、これに包んだモノの時間を進めたり戻したり出来るんです」
「モノの時間を進めたり、戻したり……ですか?」

 今ひとつ合点がいかないようで、セイバーが首を傾げている。
 見ると、隣の凛も似たり寄ったりの反応であった。

「えーと、じゃあ実際にやってみた方が早いかな」

 頬を掻き掻きそう言うと、のび太はその場に“タイムふろしき”を広げる。
 そしてきょろきょろと、何かを探すように周囲に目をやっていたが、やがてセイバーの方に目を向けた。

「ねえ、セイバーさん。ちょっとこの上に座ってくれません?」
「はい?」

 言葉の意図が解らず、セイバーの目が点になる。
 だが、のび太は意に介さず、いいからいいからとセイバーの背中を押して、“タイムふろしき”の上に立たせた。

「あ、でも鎧を着てるから、座れないかな?」
「は……いえ。それでしたら、問題ありません。私の鎧は魔力で編まれたものですから」

 セイバーはそう言うと目を閉じ、身に纏った銀の鎧を魔力に還元して武装を解除した。

「このように、即座に着脱出来ます」

 重厚な鎧が消え去り、今現在、セイバーが身に着けているものは、鎧の下に着ていた青いドレスのみ。
 今度は、のび太の目が点になった。

「わあ、スゴイなぁ……。じゃセイバーさん、座って座って」

 一頻り感心したのび太は気を取り直し、再びセイバーに催促する。
 セイバーは言われるままに“タイムふろしき”の上に正座した。

「のび太君、一体何を……?」
「すぐ解りますよ、士郎さん。セイバーさん、今からセイバーさんをこれで包みますけど、じっとしていてくださいね」
「はあ……」

 セイバーの生返事もそこそこに、のび太はいそいそと“タイムふろしき”をまとめ、セイバーを風呂敷の中に包み込んでいく。
 そして完全にセイバーが風呂敷に包まれると、『ワン・ツウー・スリー……』となにやらカウントし始めた。
 ちなみに本来、カウントする必要などまったくないし、それどころか対象を包む必要もなく、ただ上から被せただけでも効果は発揮される。
 単に手品でもしているかのように見せかけるための、のび太の完全なお遊びである。
 そして、そのまま数秒が経過した。

「うん……もういい頃かな? よし、じゃあ……行きますよ! それっ!」

 掛け声とともに“タイムふろしき”をほどくのび太。
 ばっと包みが開かれ、中から出てきたのは。

「――――え!? ちょっと!? これって……!?」
「まさか、セイバー……なのか?」
「は? シロウ、いったいなにを言って……っな!? なんですかこれは!?」



 胸元の開いた青いドレスを身に纏った、長身の金髪の美女であった。



「ノ、ノビタ。これは一体……!?」
「“タイムふろしき”でセイバーさんの時間を進めたんです」
「セイバーの時間……? そ、それってつまり、成長させたって事!? 不老のはずの英霊を!?」
「へ? まあ……そうです」

 一部の言葉に首を傾げながらも、のび太はしかと断言する。
 ほどかれた“タイムふろしき”の上に立ち、自分の身体をぺたぺた触りながら目を見開いているのは紛れもなく、士郎のサーヴァントであるセイバーだ。
 ただし、先ほどまでの中学生程度の背格好ではなく、十八~九歳頃と思われる容姿をしていた。
 今までは幼さのせいで美しさよりも可愛らしさが前面に出ていた訳だが、今のセイバーはこの世の物とは思えないほどの美貌と共に凛々しさが殊更際立っており、まさに絶世の美女と呼んで差し支えない。
 頭の後ろで纏められていた髪は腰まで伸び、まるで金の絹のように艶やかな光沢を放ち、さらりと柔らかく真っ直ぐ流れている。
 背丈も欧州系であるためか士郎とほぼ同程度まで伸び、凛とのび太を見下ろすような形となっている。
 そして、なにより特徴的……いや、衝撃的なのは。

「――――くっ、わたしより大きいなんて!?」
「……う」

 所謂『母性の象徴』である。
 敢えてどこだ、とは言わない。
 しかしながら、上着の一部分を押さえて唇を噛みしめる凛の言からして、かなりのレベルにあると考えて差し支えない。
 微妙に前傾姿勢を取っている士郎の存在が、それをしっかりと裏付けている。
 はっきりと言おう。その自己主張度合が尋常ではなかった。その偉容、まさにスイカかマスクメロン。
 凛の、そして士郎の……実に哀しい……反応もむべなるかな、である。

「……成る程、私が仮に成長していたのならば、こうなるはずだった訳ですか。むぅ……いったいどのような原理でこんな現象を引き起こしているのか。魔力が感じられなかった以上、魔術ではない……」

 小声で何事かを呟きながらも微に入り細を穿ち、己が身体を見渡し続けるセイバー。
 自身の変貌ぶりがよほど衝撃的だったのだろう。
 ちなみに視線を送る回数が一番多かったのは、やはり劇的な変貌を遂げた部位。
 視線を下に落とすだけで容易に視認出来、かつ、ずっしりとした重量感と存在感に惹かれざるを得なかった。

「ふむ」

 無意識にだろう。彼女はむにむにと、己が諸手でその存在を確認していた。
 傍目からでもはっきりと解る。重力に逆らうように張り出し、人肌の温かさを湛えたそれが、マシュマロ以上のまろやかな弾力と柔らかさに満ち溢れている事が。
 ふよふよと、面白いように形の変わる様を見ていた士郎の腰が一層後方へと引かれ、また凛の表情が、ますます痛々しいものへと変容していた。 
 それはともかく。

「どうですか! これでぼくの言った事が本当だって事、信じてくれますよね!」

 明らかに常軌を逸しているこの現象。
 魔術という、科学とは真逆のベクトルの力と関わりを持つこの三人でも事態をよく呑み込めないでいた。
 こんな現象、大魔術に類する魔術でも実現出来るかどうか解らない。いや、不可能かもしれない。
 三人の葛藤……一部違うが……を知ってか知らずか、勝ち誇ったように、のび太は凛に詰め寄っていく。
 凛はしばらくの間、難しい表情をしていたが、徐に重い息を一つ吐くと。

「……はぁ。そうね、解ったわ。信じてあげる。流石に今のを見たら、ね」
「やったぁ!」

 渋々といった表情ながらも、のび太の言葉を認めた。
 ただし、怨念すら籠ったその視線だけは、セイバーの格段にレベルアップした『女性らしさを表す部位』に突き刺さったままであり。






「――――うぅ、んんっ」






 必死の形相で『ポジション修正』に勤しむ士郎の背筋は、いまだ伸びない。








[28951] 第六話 (another ver.)
Name: 青空の木陰◆c9254621 ID:90f856d7
Date: 2014/09/29 14:45






「……落ち着いたかい、のび太君?」
「は……はい。すいませんでした」

 場面は再び居間へ。
 あの後、へたり込んだまま涙声で取り乱すのび太を士郎がどうにか宥めすかし、居間へと戻ってきた。
 僅かにしゃくり上げつつ、真っ赤に泣き腫らした目を擦りながらのび太は士郎に頭を下げる。
 士郎は居たたまれなさそうに、かりかり頬を掻きながら、再び口を開いた。

「しかし、君はなんであんなに取り乱したんだ? さっきも変な事を聞いてきたし、何かしら訳があるんだろう?」
「それは……あの……」

 言いよどむのび太に、士郎をはじめとする三人の顔には色濃い疑念の色が浮かんでいる。
 しかし、この時のび太は戸惑っていた。
 本当なら何もかも喋ってしまいたい、喋って楽になりたいと心の中で考えていた。
 ところが、いざどう説明するかというところになると、どうしてもそこで考えが止まってしまうのだ。
 そもそも『アーサー王に会いに“タイムマシン”に乗ったら事故に遭って、ここに落ちてきてしまいました』などと説明したところで、信じてくれる人が果たしているだろうか。
 まず間違いなく信じてもらえない、単なる子供の妄言だと切り捨てられるだろう。
 もしくは所謂『厨二病』の一種かとも受け取られかねない……が、のび太の年齢からいえば、これはやや不適当かもしれない。
 いずれにしても、ドラえもんのいる自分の時代と地域ならともかく、ここではそれを正直に説明したとしても常識的に通用しないだろうという事を、のび太はうっすらとだが理解していた。
 さすがに、自分の周囲が甚だ異常であるという事を自覚してはいたようだ。
 戸惑い収まらぬのび太に、士郎はぱりぱり頭を掻き毟る。

「どうした? 言いにくい事なのか?」
「いや、その……言っても、信じてくれないと思うから……」

 心細そうに呟くのび太。
 頼りにしているドラえもんの存在が隣どころかどこにもないと解った事で、情緒が不安定になっている。
 支えを失った心が、折れそうになっているのだ。
 さながら知己も縁者もいない遠い異国の地に荷物もなく、突然置き去りにされた少年。
 絶望的なまでの孤独感を、のび太は心の底で味わっていた。
 曲がりなりにも今喋れているのは、単になけなしの勇気を振り絞っているからにすぎない。
 と、士郎の隣にいた凛が苛立ちの交じる怒声を放った。

「いいから、さっさと喋りなさい! 貴方もさっきこっちの話は聞いてたでしょう!? こっちは貴方ひとりに構っていられるほど、暇じゃないのよ!」
「ひ……っ!?」

 あまりの剣幕にのび太の背筋は伸び切り、顔色は蒼白になる。
 凛の形相はのび太に、テストで零点を取ったと知った時の母親の、あの鬼の形相を思い出させていた。

「お、おい遠坂!? そんな言い方はないだろう!? のび太君はまだ小学生なんだぞ! もうちょっと優しくだな」

 トラウマを抉られたように縮み上がったのび太を見かねて、士郎は庇う。
 だが、凛の態度は変わらず冷淡そのものであった。

「あのね衛宮くん。アナタ、他人の事に気配り出来るほどの余裕があるの? 聖杯戦争のなんたるかもまだ理解出来ていないくせに、さらに荷物を背負い込む気?」
「う……」

 睨みを利かせた凛の的確すぎる鋭い舌鋒には、なにも反論出来なかった。
 しかし、それでも士郎は、意図的に指摘を無視してのび太の方に向き直り、出来るだけ優しい声音で問いかけた。

「えっと、まあとにかく……話してみてくれ。君は困っている。そうだろう」
「は、はい……」
「困っている人を簡単に見捨てられるほど、俺は腐ってないつもりだ。だから、困ってるなら力になる。そのためにも、君の事情を知りたいんだ。たとえどんなに出鱈目な話だとしてもね……無理に、とは言わないけどさ」

 のび太はそっと顔を上げ、士郎の顔を見る。
 その眼はどこまでも真剣で、嘘を言っているようには見えない。
 不意に、のび太はその眼を信じてみたくなった。
 極限まで精神が削られて、気を張っているのも限界に近かったという事も要因の一つにはある。
 だがとにかく、士郎の一言でのび太の意思は固まった。
 こうなったら、腹を割って話してみよう、と。
 意を決したのび太は、ひとつ力強く頷くと口を開いた。

「あの、最初に言っておきますね。今から話す事は、嘘みたいな話かもしれないけど本当の事なんです。だから、とにかく最後まで話を聞いてください。実はぼく……」

 回りくどく、たどたどしいのび太の説明は、実に数分の時を要した。
 そして説明を終えた時の聴衆の反応はというと。

「“タイムマシン”で過去から来たって!?」
「は、はい……正確には時空間を移動していた時、『時空乱流』に巻き込まれて事故に遭って、偶然こっちの時代に来ちゃったんです」

 あまりのインパクトゆえに、三人の表情は驚愕から一周回って呆れたものとなっていた。
 無理もない。
 この世界の常識では計り知れない事が、のび太の口から齎されたのである。

「未来から来たロボットの持ってる“タイムマシン”……ねえ。悪いけど、寝言は寝てから言いなさいな。これっぽっちも信用出来ない。論外ね」
「凛さんの言う事も解ります。ぼくも、最初ドラえもんと会った時は信じられませんでした。でも、本当の事なんです。信じてください!」
「と、言われてもね……じゃ、なにか証拠はあるの? アナタの言っている事が本当だという証拠は」
「しょ、証拠って言われても……」

 そう言われてしまえばぐうの音も出ない。
 既に“タイムマシン”の出口は閉じてしまっているだろうし、ドラえもんどころか未来の自分もどこにいるのか解らない始末。
 のび太には自分の言葉を証明する手立てがまったく思いつかなかった。

「……うぅ」

 諦めたように目を伏せ、座った体勢のままのび太はなんとはなしにポケットに手を突っ込む。
 すると、急に表情が変わった。

「ん? なんだろう……あ! こ、これは!?」

 首を傾げながらのび太はポケットからブツを取り出すと、先ほどまでの表情とは打って変わって心底嬉しそうな表情をする。
 その手には、なにやら白い袋状の物が握られていた。

「そうだ! これを持ってきてたんだった! “スペアポケット”!!」

 神器を振りかざす神官のように、のび太は“スペアポケット”を握った手を高々と宙に突き上げる。
 さっきまでの意気消沈振りとは百八十度真逆の、水を得た魚のように溌剌としたのび太に、三人は一様に呆気にとられていた。
 その中にあって、いち早く口を開いたのは、真っ先に再起動を果たしたセイバーであった。

「あの……ノビタ。なんでしょうか、それは?」
「ドラえもんが持ってる、未来の道具を入れているポケットのスペア、予備です。この中は四次元空間になっていて、いろいろな道具が入ってるんです。たとえば……えーと」

 のび太はそう言うと“スペアポケット”の中に手を突っ込み、ごそごそと漁る。

「うーん……室内だから“タケコプター”は危ないし、“ビッグライト”もそうだよなぁ……うん、じゃあこれだ! “スモールライト”!!」

 そうしてのび太が取り出したのは、小型の懐中電灯のような形をしたひみつ道具。名を“スモールライト”。
 のび太自身、今まで幾度も使用しているおなじみの代物であった。

「な、なんだそれ?」
「名前の通り、物を小さく出来るライトなんです。ちょっとやってみますね。それっ!」

 士郎の疑問の声に対し、のび太は掛け声と共に“スモールライト”を彼に向け、スイッチを入れた。
 すると甲高い機械音と共にライトから光が照射され、それを浴びた士郎の肉体はみるみるうちに小さくなっていった。
 いきなり周囲の景色が変わった事に、士郎は泡を食う。

「え……うわ、なんだこれ!? のび太君が大きくなった!?」
「あはは、違いますよ。士郎さんが小さくなったんです。“スモールライト”ですから」
「な、なんと……」
「……まさか」

 残る二人は、その非現実的且つ非科学的な光景に目を丸くしていた。

「どうですか! これでぼくの言った事が本当だって事、信じてくれますよね!」

 明らかに常軌を逸しているこの現象。
 魔術という、科学とは真逆のベクトルの力と関わりを持つこの三人でも事態をよく呑み込めないでいた。
 こんな現象、大魔術に類する魔術でも実現出来るかどうか解らない。いや、不可能かもしれない。
 三人の葛藤を知ってか知らずか、勝ち誇ったように、のび太は凛に詰め寄っていく。
 凛はしばらくの間、難しい表情をしていたが、徐に重い息を一つ吐くと。

「……はぁ。そうね、解ったわ。信じてあげる。流石に今のを見たら、ね」
「やったぁ!」

 渋々といった表情ながらも、のび太の言葉を認めたのであった。








[28951] 第七話
Name: 青空の木陰◆c9254621 ID:90f856d7
Date: 2014/09/29 15:02






 ――――さて、あの時を操る布で、のび太が信用を勝ち取ったその後。



「わたしにも貸しなさい!」

 セイバーの『富める部位』についに堪忍袋の緒が切れた凛が嫉妬心剥き出しで“タイムふろしき”をのび太から強奪したものの。

「――――へっ!? な、なんでこどもになってるの!?」

 つい『うっかり』逆に被って成長どころか三歳くらいの姿まで幼児化したり。
 混乱する凛を一旦脇に置いたのび太がセイバーの時間を元に戻そうとして。

「あ、やりすぎちゃった……」
「――――な、なぁっ!」

 タイミングを誤ってセイバーまで幼児化したり。

「の、のびた! はやくもとのしゅがたにもどしなしゃい!!」
「あの、このしゅがたは、ちょっと……その、こ、こまりましゅ」
「え!? い、いや、あのその、いっぺんに言われても……!?」

 舌足らずなこどもセイバー、こども凛のコンビが、のび太に涙目で喰ってかかったり。

「……ぐっ」

 混乱の陰で、鼻を押さえて思わず蹲る士郎がいたりと。
 上を下への甚だ脱力を誘う大騒動で、無駄に時間を喰ってしまっていた。






 なんのかんので混乱が収まるまで相応の時間を要し、ようやっと状況は再開される。






「――――ん、んんっ! ま、まあ、おおよその事情は解ったけど……それで、のび太君はこれからどうするんだ?」
「出来れば、というか絶対に元の時代に帰りたいんですけど」
「アテはあるの?」
「それが、ぜんぜん思いつかないんです……」

 凛のストレートな問いに、のび太は塩に漬かった菜っ葉のようにしおれてしまう。
 一頻り事情を納得してもらったのはいいが、これからどうすればいいのかまでは、さっぱり判断がつかなかった。
 当初の目的はアーサー王に会う事だったが、それもおじゃんになってしまっている。
 これ以上、この時代にとどまっていても意味はなく、かといって帰る手段もない。
 “タイムマシン”を使う以外に時間を遡れる方法について、のび太は思い当たる節がまるでなかった。

「君の持ってる、未来の道具でなんとか出来ないのか?」
「と、言われても……たしかに魔法みたいな効果のある道具がたくさんありますけど、ぼくはドラえもんじゃないから道具の全部を知ってるわけじゃないし……あれ?」

 そこまで言って、ふと、唐突にのび太は疑問を感じて首を傾げた。
 聖杯戦争の話を聞いた時から頭の片隅に引っ掛かっていた事が、ふと自分の言葉で形になったのである。

「どうしたんだ?」
「あの、士郎さん。士郎さんは、あと凛さんもですけど、魔法使い……じゃなかった、魔術師なんですよね?」
「え? あ、ああ。遠坂はともかく、俺は半人前の魔術使いだけどな」
「魔術使い? 違いがよく解らないんですけど、どう違うんですか?」
「え、そうだな……まあ、ちょっとややこしい話だから、それはまたいずれな。それで?」
「あ、そうだった。えっと、ぼくのいた時代には魔術とか魔法とか、そういったものはなかったんです」

 のび太の疑念は、そこに尽きた。
 かつてのび太は、ドラえもんの道具“もしもボックス”を使い、魔法があって、かつ科学ではなく魔法が発達した『もしもの世界』を創り出したことがあった。
 それはまさしくパラレルワールド……平行世界を創り出し、行き来していたという事。
 所謂『第二魔法』を科学の力で実現していた事になるのだが、それ以上はまた別の話となるのでさておくとする。
 ここで大事な点は、のび太のいた所には魔法・魔術といったものが存在していなかったから、“もしもボックス”を使ってパラレルワールドを創り出したのだという、この前提である。
 そもそもそんなものがあったのなら、ドラえもんがその存在を認知していなかったとは思えない、とのび太は考えていた。
 普段はあんなでも、二十二世紀の万能……厳密には、そう言えるだけの数々のひみつ道具を持っている……ネコ型ロボットなのだ。
 あらゆる可能性を○と×で百%判断する“○×占い”や、この世の森羅万象をすべて網羅している『宇宙完全大百科』に繋ぐ端末“宇宙完全大百科端末機”といった、魔術や魔法の実在を証明出来る道具も持っている。
 その上でドラえもんは存在を否定していたのだから、魔法は存在しなかったと判断していいだろう。
 いくつかそれ“らしき”ものはあったが、大半はドラえもんの道具によって発生したものだからそれは科学の延長線上にあると考えていいし、そうではないものも魔術やら魔法やらのカテゴリに当てはめて考えるには、ちょっと首を捻ってしまう。
 仮にあったとしたならば“もしもボックス”を使用する事もなく、直接探しに行ったはずであろう。
 魔術がたとえ“秘匿するもの”であったとしても、ドラえもんの道具から完全に隠しきれるとは思えない。
 のび太の時代でないとされていた魔法あるいは魔術が、地続きの時間軸上……数十年後の未来であるはずのここでは、昔から秘密にされながらも存在しているという。
 この違いが示す物はいったいなんなのか、のび太はそこに答えを見出そうとしていた。
 のび太は学校の成績等に関しては底辺を這うレベルだが、決して頭が悪いという訳ではなく、むしろ異様と言っても差し支えないほどのひらめき力を有している。
 そのため、僅かの疑念からここまで考える事が出来たのであった。

「どういう事なんでしょうか? 魔術が存在してるのなら、過去のぼくの時代にあってもおかしくはないはずです。でも、ドラえもんはそんな事、一言も言ってなかったし……」
「う、うーん……と言われてもな。正直、俺にもさっぱりだ。さっきも言ったけど、俺は半人前の魔術使いでな。その辺の知識はさっぱりなんだ。遠坂、なにか解るか?」

 のび太の疑問に答えられなかった士郎は、さっきから瞑目したまま黙っている凛に水を向ける。
 数秒の沈黙の後、彼女は徐に人差し指をぴっ、と立てて目を開いた。

「――――考えられる可能性がひとつだけ、あるわ。正直、かなり腹が立つけどね」
「……あ、あの。その可能性って、な、なんですか?」

 苛立ち、剣呑な雰囲気を醸し出す凛に、のび太は士郎の背中に隠れながらおそるおそる尋ねてみる。
 どうやら凛に対して苦手意識が芽生えたようである。
 相変わらずの気の小ささであったが、最初の対応が対応だった事もあり、これも致し方ないところであろう。
 のび太の対応を意にも介さず、凛は法廷で糾弾する検事のように勢いよく人差し指を彼に向け、そして。



「のび太、アナタ……未来じゃなくてパラレルワールドへ来ちゃったのよ。少なくとも、わたしではそれくらいしか考えつかないわ」



 射殺さんばかりの鋭い視線をのび太に突き刺して、ぴしゃりとそう言い放った。






「――――それで、なんで目の前にホワイトボードが?」
「さ、さあ……というか、どこから持ってきたんだこれ? ウチにはこんな物なかったぞ?」

 居間の中、目の前にデン、と置かれたホワイトボードに疑問を投げかけあうのび太と士郎。
 頭の上には、大量の『?』マークが盛大にラインダンスを踊っている。

「ほらそこ。何をごちゃごちゃ言ってるの? 解説を始めるから、無駄口叩いてないでこっちを向きなさい」

 そしてホワイトボードの横には、どこから取り出したのか黒縁の伊達眼鏡を掛けている凛。
 服装は赤の上着に黒のスカートのままだが、雰囲気はさながら女教師か、やり手の塾の講師のようだ。
 何が彼女の琴線に触れたか定かではないが、とりあえず『触らぬ神に祟りなし』と疑問を封殺して、二人は正面に向き直った。
 ちなみにセイバーは既に居間のテーブルに坐して、行儀よく続きを待っている。

「いい? まず平行世界の概念を説明するわね」

 そう言って凛はペンでホワイトボードに一本の縦線を描く。

「この線を今、わたし達のいる世界だとしましょう。そして時間の流れは下から上へ、過去から未来へと流れている」

 線の横に、下から上へ向けて矢印が描かれた。
 きゅっきゅっ、とペンがボード上を黒い軌跡を残して駆け抜けていく。

「そして未来に向かうに連れて、この線はいくつも枝分かれするの。まあ運命の分岐、とも言い換えてもいいけれどね。たとえばどこかで地震が起きた・起きなかった、誰かが死んだ・死ななかった、といった可能性が枝分かれする。それがこれ。未来は不定形で、どう分岐するかは誰にも解らない。ちなみに未来を見通せる能力者……偽物は除くけど……そういった人達はこのいずれかのうちの一つを見る事が出来る、というのが大半ね。ここまではいいかしら?」

 線の上の部分に、枝分かれした幾つもの線を描いた凛は生徒陣三人に視線を送る。
 ぱちんとなる、ペンにキャップを被せる音が小気味よかった。

「ん……まあ、だいたい。説明、解りやすいな」
「ええ」

 視線を受けて士郎とセイバーは素直に頷いている。
 だが、肝心要ののび太はというと。

「す、すみません……よく解らないです」

 ぐるぐると目を回し、頭から煙を噴き上げていた。
 放っておくと知恵熱でオーバーヒートしそうな勢いである。
 のび太が理解するには、いささか高度すぎる話だったようだ。
 凛はぴくつくこめかみを抑えながらも、もっと解りやすいように噛み砕いて説明を始めた。
 そして数分の後。

「――――そして、枝分かれした未来は先では決して交わる事はなく、互いに平行線のまま続いていく。これが平行世界って訳。解ったかしら、のび太?」
「……は、はい、なんとか。自分の世界を中心にして、同じのようでいて、なにかが決定的に違う世界のひとつひとつが平行世界だっていうのは解りました……」

 へろへろになりながらも、凛先生の言わんとする事をのび太はようやく理解する事が出来た。
 頭の上からは、いまだ煙がぶすぶす燻りながら立ち上っている。
 某元首相の名言を借りれば、『よく頑張った、感動した!』と評したいほどの苦労をしたようだ。
 あくまでのび太基準の、ではあるが。

「ま、上出来ね。じゃ、次のステップに移るけど……」

 だが、凛はのび太がやっと話を理解したと見るや、すぐさま次の話題へと切り替えた。
 のび太にとってこれは堪らない。
 まさに死人に鞭打つかのような苦行……いや拷問である。

「ええー!? ちょっとぐらい休ませてくれても……」
「却下よ却下! 言ったでしょう、こっちは暇じゃないって! わざわざ貴重な時間を割いて説明してあげてるんだから、むしろ感謝してほしいくらいよ! ここからが本題なんだから、少しくらい辛抱なさい!」
「……は、は~い……とほほ」

 凛にばっさりと斬り捨てられたのび太は意気消沈しながらも、渋々静聴する姿勢を整えた。
 士郎がぽんぽん、と慰めるように頭を撫でているが、ちょっとどころではなく情けない光景であった。

「それで、最初に言ったようにのび太は平行世界に迷い込んだ、というのがわたしの見解。その根拠の一つが魔術の存在の有無。のび太のいた世界では存在しておらず、わたし達の世界では秘匿されながらも厳然として存在している。同じのようでいてなにかが決定的に違うという、平行世界の定義に当てはまっている」
「はい」
「そして、のび太の言っていた『時空乱流』……だったかしら。それに巻き込まれたっていうのが二つ目の根拠。“タイムマシン”のナビゲーターの話だと、巻き込まれた場合、運が良ければどこか別の場所に出るかもしれないという話だったわね」
「そうです」
「その“どこか別の場所”が、ある地点から地続きでない、平行世界である可能性は捨てきれない。本来なら平行世界の移動なんてのは『第二魔法』の領域で普通ならまず不可能なんだけど、そもそも“タイムマシン”って、のび太の話の通りなら“時空間”っていう超空間を通ってる訳でしょ。そんなトンデモ空間なら台風が起きれば平行世界の壁を簡単に越えられるかもしれないからね。我が家系の悲願のひとつをあっさり達成してる事には……まあ、一万歩譲って許してあげるわ。魔道と一切関係ない、しかも事故だもの」
「え、それはその……どうも、ってちょっと待ってください!? 普通ならまず不可能って……どういう事ですか!?」

 凛の言葉の示すものに勘付いたのび太が凛に詰め寄る。
 凛はそれを一瞥するもいっそ冷然と、事もなげにこう告げた。

「言葉の通りよ。結論として、アナタは元の世界に帰れない。移動も含めた『平行世界の運営』は、魔術では到底為し得ない事。まさに奇跡の業なのよ。無限に存在する平行世界、その中の繋がりのない二つの世界の座標をピンポイントで特定し、無理矢理風穴を開けて行き来するなんて、どれだけの対価を支払っても実現不可能。酷なようだけど、アナタの持ってる未来の道具でもおそらくは……」
「そ、そんな……嘘だ、嘘だ! そんな事……あってたまるもんか!」

 突き付けられた残酷な結論が受け入れられず、頭を掻き毟りながらのび太は慟哭する。
 元の時代、いや世界に帰る方法はない。
 そう宣言されて平静を保てるような図太い神経を、のび太はしていなかった。
 一頻り喚いていたのび太だったが、突如はっ、と抱えていた頭を上げる。
 
「そ、そうだ思い出した! “スペアポケット”はドラえもんのポケットに繋がってたんだ! これなら……!」

 かつてのび太は“スペアポケット”の四次元空間を通って、ドラえもんのお腹にあるポケットから出てきた事がある。
 悲壮感を背負った必死の形相で、のび太はポケットから“スペアポケット”を取り出すと“スペアポケット”の中に無理矢理頭を突っ込んだ。

「お、おいのび太君!? そんな事して大丈夫なのか!?」

 既に“スペアポケット”の中に上半身が消えてしまっているのび太に向かって、士郎が心配そうな表情で声を掛ける。
 だが、のび太は士郎の声など聞こえていないかのように、一心不乱に“スペアポケット”の中へと潜り込んでいく。
 やがて足首の辺りまで潜り込んだところで、“スペアポケット”の隙間から怪訝そうな声が聞こえてきた。

「おかしいな……? もう向こうに出ていてもいいはずなのに……ま、まさか!? この四次元空間は、もうドラえもんのポケットと繋がってないの!?」

 黒ペンキで染めたような、絶望の滲んだ声であった。
 “スペアポケット”の四次元空間と、ドラえもんのポケットの四次元空間の繋がりは寸断されていた。
 向こう側は存在しておらず、あちこちに道具が浮かぶ漆黒の空間だけがただ広がっている。
 無理もなかった。
 この世界と、のび太のいた世界とはなんらの繋がりもなく、互いに平行線……つまり完全に断絶しているのだ。
 いつ、どのタイミングで分岐したのかも皆目解らないし、解りようもない。
 四次元空間同士がリアルタイムで繋がるのは同一世界に、ホワイトボードの線に例えるなら同一線上に二つが同時に存在している時のみ。
 いかに“四次元ポケット”といえども、存在する世界……線が異なってしまっては、もうどうしようもない。
 そもそも“次元”が違うのだから。
 “四次元ポケット”とのリンクが切られ、完全にスタンドアローンPCのような状態と化した“スペアポケット”。
 今ここに、ドラえもんをはじめとする『のび太のいた世界』との縁は絶対的に断ち切られた。



「そんな……こんな事ってないよ!! ドラえもーーーーん!!」



 頭を抜き出し、瞳に溢れんばかりの涙を浮かべながら、のび太は親友の名を叫ぶ。
 居場所と希望を失った少年の悲痛すぎる絶叫は、居間の空気を暗く沈み込ませた。






 ――――だが、“スペアポケット”の異常はこれだけで終わっている訳ではなかった。
 その詳細が判明するには、今少しの時間を要する事になる。








[28951] 第八話
Name: 青空の木陰◆c9254621 ID:90f856d7
Date: 2014/09/29 15:29





「…………」
「…………」
「…………」
「…………」

 会話に満ちぬ人々の織りなす空気は、周囲から熱を奪い去っていく。
 身を切るような冬の外気は、物理的な意味合い以上にしんしんと冷えきっていた。

「……あとどのくらいだ、遠坂?」
「もうすぐよ」

 四人は今、夜の新都の郊外を、徒歩にて移動している最中であった。
 新都郊外の丘の上にある教会へと向かっているのだ。
 そこに、聖杯戦争を監督している神父がいる、とは凛の言。
 聖杯戦争について無知である士郎に、聖杯戦争についての諸々を知ってもらうため凛がそこへ向かうよう勧めたのである。
 一応凛が一通り説明したのだが、それだけでは士郎の覚悟を決めるには不足だった。
 だからこそ、そこへ連れて行って士郎にこの戦争についての心構えを着けさせよう、というのが凛の狙い。
 しかし今、この四人の間に交わされる言葉はなく、まるでお通夜のように静まり返っていた。
 原因は言わずもがな、のび太である。
 三人が出払った衛宮邸に一人居残って留守番はさせられないため、三人は彼を同道させていた。

「うぅ……ドラえもん……しずかちゃん……ジャイアン、スネ夫、パパ、ママ……」

 ベソをかきながら、とぼとぼと足取り重く歩くのび太。
 悄然としたのび太の放つ暗い雰囲気が、四人の周囲の空気を息苦しいまでに重くしていた。
 勝気な凛すらも、この雰囲気に呑まれてしまっている。
 なんだかんだ言っても、のび太は小学五年生である。
 よく言えば繊細かつ純粋、悪く言えば幼稚かつ脆弱なのび太の精神構造、情け容赦なく降りかかる絶望に耐えきれる筈もなかった。
 時折士郎が慰めるように背中を撫でているものの、はっきり言って効果は薄い。
 やがて坂道を登りきると、四人の前に荘厳な雰囲気を醸し出す教会が現れた。

「着いたわよ……ここに聖杯戦争の監督役、エセ神父こと言峰綺礼がいるわ」
「えらい言い草だな。エセってなんだよ、遠坂」
「エセで十分なのよ、あれは。性質が真逆の“聖堂教会”と“魔術教会”の二束草鞋なんだから。行くわよ、衛宮くん」
「あ、ああ……あれ? セイバーは行かないのか」
「はい。いかに監督役とはいえこの身を徒に晒す必要性も、そのつもりありませんし、なによりノビタ一人をここに残す訳にもいきませんから」
「そうか。なら頼む。じゃ、のび太君。行ってくるよ」

 そう言葉を残して士郎と凛が教会の中へと消えると、後にはセイバーとのび太の二人だけが残される事となった。

「……ノビタ。そろそろ泣くのはお止めなさい。気持ちは分からなくもありませんが」
「うぅ……」

 セイバーの言葉にも沈黙と嗚咽でしか、のび太は応答を返せない。
 背中に暗い影を背負ったその惨めったらしい姿は、のび太が精神的に相当疲弊している事を物語っている。
 セイバーはただただ、その様をじっと、どこかしら困ったように見つめるのみ。

「ふう」

 この年頃の子供と接した経験があまりないのだろう。
 何一つとして思いつかない様子で立ち竦み、狼狽こそしていないものの、顔には持て余した者特有の困惑と焦燥の色がくっきりと浮かび上がっていた。

「……ん、そういえば」
「え……?」
「ノビタ、貴方は“タイムマシン”でどこに行こうとしたのですか?」

 この妙な空気を打ち払うように、彼女は脳裏をふとよぎった疑問を彼にぶつけた。
 のび太は『友達とちょっとした事で口論になって、見返すために“タイムマシン”で時を遡ろうとした』と大雑把にしか説明しておらず、なんのために“タイムマシン”に乗ったのかまでは説明してはいなかった。
 士郎達も、“タイムマシン”のくだりに喰いついてしまったため、その点に関しては突っ込んで聞いてはいない。
 なんとはなしに放った質問であったが、次に齎されたのび太からの回答に、セイバーの表情は、これまでとは違うものへとすり替わった。

「え、と、実はアーサー王に、会いたくて……」
「……あ、アーサー、王?」

 まるで頭上から不意を突かれたかのような、呆然とした表情であった。
 だが、のび太はその様子に気づく事なく、視線を下に落としたまま言葉を続ける。

「皆が……アーサー王なんてただの伝説で、いないって言うから。だから、ぼくは……」
「アーサー王が実在の人物だと証明するために……アーサー王の生きていた時代へ向かって時をを遡ろうとした、と?」
「うん。でも、事故に遭って……それでここに……」

 肯定の頷きを返すのび太を見て、呆けていたセイバーの表情がほんの微か、歪んだ。
 その瞳には、なんとも例えようのない不可思議な感情の光が瞬いている。
 だが、やはりのび太はそれに気づかない。
 それだけの精神的余裕がまだ、彼にはない。

「貴方は……アーサー王が、好きなのですか?」
「……昔、アーサー王のお話を読んで。こんな風になれたらなぁって、憧れてた。ぼくは、臆病で、弱虫だから……」

 滲んだ涙を拭い、そして再び溢れ出してくる涙を堪えながらのび太は呟く。
 気が小さく、非力で、何事からもすぐに逃げ出し、困った事があれば即座にドラえもんへ泣きつく。
 胸を張って人に自慢出来るような事など、ほとんどない。
 テストはいつも零点、野球をすれば三振にエラーの山。
 かけっこだってビリの常連で、ケンカでジャイアンにのされた回数は数えるのもうんざりするほど。
 格好悪すぎて、情けなさすぎて涙が出てくる。
 だからこそ、自分とは真逆の存在に、かつて伝記で読んだアーサー王に憧れた。
 強く、気高く、聡明で、勇敢な最高の騎士。
 のび太ではどう足掻いてもなる事の出来ない、崇高なる存在。
 アーサー王は、のび太の理想だった。

「だから、ぼくは見返したかった。アーサー王はホントにいたんだぞ、って。いないって言われて、悔しかった。アーサー王は、ぼくにとって、ヒーローだから……」
「……そう、ですか」

 セイバーはそれだけ言うと、すっと踵を返してのび太に背を向けた。
 絞り出すように出された、彼への返答。その訳は、本人のみが知っている。
 結局、のび太はそのセイバーらしからぬ様子に終始気づかぬまま、近くの植え込みのブロック部分に力なく腰を下ろす。
 その時であった。



『――――ふん。少年、そう気を落とすな。諦めるには、いささか早い』



 なにもないはずの虚空から、突如として声が轟いた。
 渋みの混ざった、士郎とは違う低い男の声であった。

「えっ……? だ、誰!?」

 驚いたのび太は顔を上げ、周囲に目を配るが男の影など微塵もない。
 しかし、その正体を思えば、それも当然の事。

『事情は大方聞き知っている。にわかには信じがたいが……まあそれはいい。ともかく、自らが持っている手段での帰還が不可能になったのだろう? それこそ奇跡でも起きない限りは。ならば奇跡を願い、起こせばいい。幸い、君は参加者ではないとはいえ、その奇跡が降臨する現場の只中にいるのだからな』

 再び男の声が木霊した次の瞬間。
 近くの木の陰から、長身の男が闇から滲み出るように姿を現した。



「――――喜べ、少年。君にはまだ、希望が残されている」



 褐色の肌に白い短髪。
 赤い外套と黒のボディアーマーを着込み悠然と、しかし油断も隙も一切感じられない自然体で佇んでいる。
 なによりも特徴的なのが……泣く間際の曇天を思わせる、その鈍色の両眼。
 獰猛な鷹を思わせるような眼差しで見据えられたのび太は、金縛りにあったかのように身を固くした。

「ひえっ!?」

 まるで蛇に睨まれたカエル。言葉よりも先に、闖入者の立ち姿そのものに身を竦めている。
 歪に強張った表情は、見事に恐怖で真っ青に彩られていた。
 そこへ、元凶へ振り返ったセイバーが、嘆息を交えて男に忠告する。

「――――アーチャー、子どもを怯えさせるような真似をしないでください。まして、ノビタは傷心中ですので」
「む……そんなつもりはなかったのだが。なぜだ」
「顔が怖かったからではないですか?」
「……そうなのか?」

 セイバーからの指摘を受け、首を傾げつつのび太に視線を移す赤い男……凛のサーヴァント・アーチャー。
 若干だが柔らかくなった眼差しにのび太は硬直を解くと、その途端、土下座せんばかりの勢いで頭を下げた。



「あの、その……ご、ごめんなさいっ! おじさんが、いきなり出てきて怖い目で睨みつけてきたからつい……!」
「お、おじ……っ!?」



 混じりけのない、のび太の率直な発言が弓兵の胸に深々と突き刺さった。
 初対面にして、『怖いおじさん』という不名誉極まりない認定を、彼は受け取る事になってしまった。
 子供は良くも悪くも素直で正直であるが、それ故にタチが悪いとも言える、かもしれない。
 もっともこの場合、妙な出方をした彼の自業自得であるが。

「……い、いや、すまない。睨んだ訳ではなかったのだ。この通り、謝るからどうか許してほしい」

 アーチャーは表情を強張らせながら、こちらも土下座せんばかりの勢いで頭を下げた。
 見かけ二十代かそこらで『おじさん』……しかも枕詞に『怖い』などと、英霊とはいえそんな評価はゴメンなのであろう。
 精悍な顔立ちと屈強な体躯とは裏腹に、心は硝子の如く繊細なアーチャーであった。






 ――――ちなみに。
 のび太の中でのランサーの第一印象は……『怖いお兄さん』である。








[28951] 第九話
Name: 青空の木陰◆c9254621 ID:90f856d7
Date: 2014/09/29 15:19






 お互いの無礼の謝罪も済み、二人は改めて向かい合う。

「――――そ、それでおじさん。『諦めるのはまだ早い』ってどういう事ですか?」
「……すまんが、出来れば“お兄さん”と呼んではくれまいか。これでも一応、肉体年齢は二十代なのでね」
「え……えぇえええーっ!? 嘘でしょ!?」

 闇夜を劈き響き渡る、のび太の驚きの声。偽らざる、本心からの叫びだった。

「…………」

 それを聞いた途端、アーチャーの背中が黒く煤け始めた。
 肩が重くなりそうなほどの哀愁が、背後にどんよりと漂っている。
 表情を繕わぬ、炎と硝煙の匂いすら纏っていそうな戦士然とした雰囲気の男が、こうまで悄然となる。
 彼にとって、のび太の一言がどれほどの衝撃であったか。それをまざまざと示していた。

「……セイバー。私はこんな時、どうすればいいのだろうな」
「私に聞かれても困りますが……そうですね。事実をありのまま、受け入れるしかないのではないですか? “おじさん”」
「君までそう呼ぶのか! くっ、爺さん……今まで“爺さん”と呼んでいた事、今この場で誠心誠意、心から謝罪する! 年齢以上の呼称で呼ばれる事が、まさかここまで辛いものだったとは……」

 剣の英霊の容赦ない言葉。『ブルータス、お前もか』と叫ぶカエサルにも似た絶望が、彼にどっすと突き刺さる。
 ついに、アーチャーは膝をつき、天を仰いで二人の与り知らない人物に祈りを捧げ始めた。
 訳の解らない事態の展開に、のび太はただただ目を丸くする。

「……ねえ、セイバーさん。この人いったいどうしちゃったの?」
「『さん』づけは結構。私の事はセイバーで構いません。まあ……とりあえず、ご希望通り“お兄さん”と呼んであげてはどうですか。このままでは話が進みません」

 自分が引導を渡した事を棚に上げ、素知らぬ顔でセイバーはそう言ってのける。
 果たして故意か天然か。真意はともかく、タチが悪い事に変わりなかった。



 ――――閑話休題。



「……つまり、この戦争でその『聖杯』を手に入れれば、元の世界に帰れるんですか? おじ……じゃなかった、お兄さん?」
「ぅ、む……そういう事だ。願いを叶える聖杯ならば、平行世界の壁などものともせずに帰還する事も可能だろう。数ある伝説にもあるように、元来聖杯とは万能の杯。そういう代物なのだからな。それから……あー、なんだ。呼びにくければアーチャーで構わんぞ。のび太少年」

 気を取り直したアーチャーからの説明が終わった後には、表情に少しだけ熱を取り戻したのび太がいた。
 死んだ魚のようだった目に輝きが灯り、俄かに活力の色が浮かんでいる。
 だが、話にはまだ続きがあった。

「しかし、君はあくまで迷い人であり、参加者ではない。当然、令呪もサーヴァントも持ってはいない。であるからして、君が聖杯を手に入れる事は不可能だ……本来ならばな」
「えっ!? それじゃ意味ないじゃないですか!?」

 期待を持たされたところで逆方向に話を覆されたのび太はアーチャーに食って掛かる。
 しかしアーチャーは落ち着き払ったまま、手でのび太を制した。
 アーチャーの話はまだ終わってはいない。

「落ち着け、少年。“本来ならば”と私は言ったぞ。要は、君が手に入れられなければ誰かに手に入れてもらうまでの話だ。そら、その人物に一人、心当たりがあるだろう?」
「……シロウ、と言いたいのですか、アーチャー? しかし、首尾よく聖杯を手に入れたとして、シロウがノビタのためにすんなりと聖杯を明け渡しますか?」
「明け渡すさ。間違いなく――――躊躇いなくな」

 確信の含みも露わに、アーチャーは断言した。
 まるで己の結論が真理であると言わんばかりの堂々ぶりに、セイバーの眉間に皺が寄る。
 その訝しげな様に気づいたアーチャーは、自然な動作で瞑目し言葉を続けた。

「私もそれなりに人生経験を積んでいるのだ。人を見る目は多少なりともあると自認している。そして、あの小僧は極度のお人よしだ……いっそ病的なまでにな。少年が助かるのならば、たとえ聖杯であろうが安いものだと思うだろうさ」

 彼の言葉は先の物と変わらず、揺るぎない確信を得ているかのように、自信に満ち満ちている。
 やはり納得がいかないのか、頻りに首を捻るセイバーがそこにいた。






 それから待つ事、およそ数十分。教会の扉が開き、中から士郎と凛が姿を現す。
 そしてのび太の前に立つと開口一番、士郎はこのように宣言した。



「のび太君、俺は聖杯戦争に参加する。そして聖杯を手に入れたら……君を元の世界に返してあげるよ」
「……え?」



 ぱちくりと丸くなる、眼鏡の奥ののび太の目。
 それは士郎の言葉が意外だったからではなく、アーチャーの宣告通りの発言を士郎がしたからに他ならない。
 セイバーとて、その例外ではなかった。

「シロウ、貴方はそれでいいのですか? あらゆる願いが叶う杯をこうもあっさりと……いえ、それ以前に先ほどまで、貴方は参加したくない素振りでしたが」
「……いいもなにも、俺には叶えたい願い事なんてないし、そもそもこの聖杯戦争、偶然とはいえセイバーを召喚してしまった時点で逃げ出せるようなものじゃなかった。そして、勝ち上がっていくしか選択肢がない事も、よく解ったよ。あの言峰って神父の話じゃ、俺にとってこの戦争は因縁のあるものらしいからな」
「因縁、ですか」
「ああ……ん、いや、なんでもない。とにかく、他のろくでもない魔術師(マスター)が聖杯を手に入れたら大変な事になる可能性があるし……なら、そうならないようこっちが手に入れればいい。それに聖杯なら、のび太君を元の世界に返す事だって可能なはずだ」
「……そうですか。貴方がそう決めたのなら、私からは何も言う事はありません。貴方の左手に令呪がある限り、貴方の剣として戦う事を誓いましょう」

 士郎を見据えて宣言したセイバーは、徐に士郎へ右手を差し出す。
 共に聖杯戦争を戦う主従としての意志、互いのそれを改めて確認するため。

「よろしくな、セイバー……はは、頼りない主(マスター)だけど」

 士郎もしっかりとセイバーを見据え、同じく右手でその手を固く握り返した。
 そして握手を終えると、今度はのび太に向かってその右手を差し出す。

「そういう訳だから、少しの間だけ辛抱してくれるかな? なに、大丈夫だよ。きっと元の世界に返してみせるから」

 そう言って、実に頼りなさそうな笑いを浮かべる士郎。
 それはあまりにも儚い、蜘蛛の糸の如き希望の光。

「士郎さん……あ、ありがとうございます!」

 だが、それはのび太の目に確たる光を取り戻させた。
 失った道が再び照らし出され、感極まる。
 震える両手で士郎の手を握り返すと、のび太の目から大粒の涙が零れ落ちた。






 その様子を、じっと見つめる者が一人。
 無機質なような、それでいて熱が籠ったような、ある種不可解な視線が一行に注がれている。
 それは、つい先ほど士郎と凛が出てきた扉の陰から送られていた。



「――――ふ、始まりの鐘は鳴った。さて、今回の聖杯戦争は一体どのような様相を見せてくれるのか……興味は尽きんよ。なあ、衛宮士郎」



 微かに笑みを含んだ声が、闇に溶ける。
 ただそれだけを呟き、戦争の監督役たる神父はカソックの裾を翻すと、自らの聖なる堂の闇へと消えていった。






 ――――希望と絶望が入り交じる、凄惨かつ高貴な五度目の争いは、こうして幕を開ける。
 しかし、この監督役の予想をも上回る『闇』が、この戦争において跳梁跋扈しよう事など、誰の推測にも埒外の事であった。








[28951] 第十話
Name: 青空の木陰◆c9254621 ID:90f856d7
Date: 2014/09/29 15:43






「はっ、はっ、はあっ………!!」



 走る、走る。
 ただ必死に、ただひたすらに夜の街並を走り抜ける。
 その顔には色濃い恐怖がありありと描かれ、息せき切って全力疾走するその姿はある種の焦燥感すら漂っていた。
 それも仕方ない。
 およそ平和な世界で生きてきた平凡な人間であればアレを見た瞬間、一つの猛烈な予感に苛まれるのはむしろ自然な事だ。



 ――――すなわち『死』……その死神の鎌の凄烈な輝きが。



 アレならば誰もがそれを感じ、そして衝動のまま後退りする。
 人間に限らず、生物ならば自らの生命に危険を感じたならば、すぐさま逃走を図る。
 それは生存本能の為せる業……一つしかない自らの生命を守るという、ごく当たり前の行動。
 夜の街を駆けるその少年は、ただそれに忠実に従っているにすぎない。
 誰も責めはしない、誰も非難はしない。
 当たり前の衝動を、当たり前の行動を本能の赴くまま、素直に実行に移しただけであるからして。

「――――っ、うっ……くっ!」

 だが、少年は己自身を、誰よりも責めていた。
 表情が歪んでいるのは恐怖の感情だけではない。
 情けなかったのだ、恐怖に負けた自分自身が。
 許せなかったのだ、あの場から逃げ出した自分自身を。
 それでも両の脚は勝手に動き続ける。
 自身の生命を守るために、たった一つしかない何よりも大事な物を護るために。
 だからこそ……少年は己自身を責め続ける。
 眼鏡の奥のその瞳には、じんわりと透明な雫が浮かんでいた。



「はっ、はっ……う、うわ!?」



 息が上がろうとも構わず、なお疾駆する少年であったが、突如アスファルトに猛烈な勢いでキスをする。
 そしてその一瞬後に、からんからんと乾いた金属音が鳴り響いた。落ちていた空き缶を踏みつけたのだ。
 固いアスファルトに四肢を強か打ちつけ、少年は無様に転げ回る。
 ようやく少年の全力疾走にピリオドが打たれた。

「う……うぅ……ぐすっ」

 後には静かにすすり泣く声。
 ぺたとその場に座り込み、両の膝から僅かに赤い液体を滲ませて。
 力なく頭を垂れたその姿は、まるで生きる気力を失った癌の末期患者を思い起こさせる。

「ドラえもん……」

 蹲る少年――――のび太は呟く。
 自分の傍らにいない、親友の名を。
 ただそれだけしか彼に出来る事はなく、それ以外になにもする気がなかった。
 ほんの束の間、微かな嗚咽のみが夜の闇を支配する。






 ――――はっ、随分辛気臭ぇツラしてんなぁ、クソガキ。






 暗闇の中から、唐突に響き渡った、その声。
 彼の涙が、そこで途切れた。

「え!? だっ、誰!?」

 はっ、と顔を上げ、のび太は慌ただしく周囲を見回す。
 だが、どこもかしこも闇、闇、闇。街灯の光源もなく、住宅の明かりも塀で遮られて彼を照らす事はない。
 月が雲間に隠れた闇夜、人並み程度にしか暗闇で物を見通せないのび太の目では、声の主を見つける事は出来なかった。

『――――ったく、いいキッカケが落っこちてきたと思ったらどうしてどうして、このザマかよ。期待外れ、とは言わねぇが……ちっと情けなさすぎやしねぇか? ま、オレが言えた義理じゃねえし、ある意味正しい判断だけどよ。ケケケ!』

 再び木霊する、その声。
 まるで人を小馬鹿にしたような、ひどく粗雑な物言いであった。
 真っ白になったボクサーのように燃えカスになっていたのび太も、流石にこれにはむっときた。

「うるさい、クソガキって言うな! 姿を見せないで話しかけてくるヤツよりマシだろ! こそこそしてないで、ここに出てきてから話せよ!」
『あーあー、うっせえのはどっちだっつうの。声を荒げんじゃねえよ、近所迷惑だぜ。今、何時だと思ってやがんだ。草木も眠る丑三つ時、子どもはもうオネンネの時間……ってそりゃ無理か! 今寝たら、絶対あのバケモンが夢に出てくるだろうしなぁ。朝になったら布団の中で大洪水は確実かぁ! ヒイッヒヒヒ!』
「うっ!?」

 下品に嗤う声の主とは対照的に、のび太の顔はさあっと蒼白に染まる。
 あの身も凍るような恐怖がリピートされ、彼の臓腑を締め上げた。
 再び元の燃えカスへ。瞳に涙を再度滲ませ、悄然とのび太は項垂れる。
 だが、声の主は一切の容赦なく、再び悪口を並べ始めた。

『しっかしよぉクソガキ、テメェもたいしたヤツだよなぁ。『仲間を見捨てて逃げる』……はっ、滑稽すぎて涙モンだぜ! くっくく……おっと、そう怖いカオすんじゃねぇよ。アレじゃ無理ねぇって。オレでもケツ捲って逃げるね、ゼッテー。テメェの判断は間違ってねぇよ。褒めてやる、よく逃げたなクソガキ!』

 ぱちぱちぱち。乾いた音が夜の闇に木霊する。
 両の手を打ち鳴らす、拍手の音だ。
 しかも、それは明らかにのび太を賞賛するもので。

「――――むぐぅううっ!」

 そのあまりの無神経さに、ついにのび太の堪忍袋の緒が切れた。
 血を流す手足もなんのその、足を踏み鳴らして勢いよく立ち上がったのび太は、虚空に向かって咆え猛った。

「黙れよっ! 姿を見せろ卑怯者! 一発ぶん殴ってやる!! ぼくの気も知らないでさっきから好き勝手……!」

 怒気で顔を真っ赤に染め、爪が食い込まんばかりに握られた拳がぶるぶる震えている。
 間欠泉のように込み上げてくる怒りの感情にどっぷり身を浸らせて、のび太は完全に冷静さを欠いていた。
 だが、そんなのび太に対して返されたのは、呆れ混じりの深々とした溜息であった。

『……やれやれ、殴られるのが解ってて誰が出ていくかよ、バカ。そもそもだ、クソガキ。テメェが俺の姿を拝むなんざぁ、まだまだ早ぇんだよ』
「な、な、なんだとぅ!?」
「いちいちキレんなや、クソガキ。まあ、なんだ。こっちにも事情ってモンがあるんでな。どうしてもオレを殴りたいってんなら……」



 ――――このイカれた戦争のただ中で、誰よりも生き延びてみな。



 その言葉で、煮え滾っていたのび太の理性が急速に冷やされた。

「……え?」

 怒りで歪んでいた顔が一転、ぽかんと間の抜けた表情となり、拳が力を失って垂れ下がる。
 のび太の感性は、その軽薄かつ粗野な物言いの中に、一筋の真剣味を感じ取っていた。

『ほれ、落としモンだ。テメェのだろ』

 すると、いつの間にか彼の足下に白い“ナニカ”が落ちていた。
 言葉に突き動かされ、のろくさとした挙動でのび太はそれを拾い上げる。
 その途端、彼の目があっと大きく見開かれた。

「こ、これっ、僕の“スペアポケット”!? 走ってた時にポケットから……落としてたんだ」
『まあぶっちゃけ、そこのドブに捨ててもよかったんだけどなぁ。それを“ワザワザ”拾って届けてやったんだ。オレってば親切だろ?』

 それ、絶対違うでしょ。
 のび太はそう心の中でツッコミを入れた。
 だが、真実はどうあれ、拾ってくれたのは事実。
 物凄く嫌そうな表情をしながらも、のび太はその場で頭を下げる。

「あ、ありがとう……」
『そんなに嫌なら、礼なんざ言うなっつうの。渋々言われたって嬉しかねえよ……まあ、とりあえず受け取っといてやるけど――――戻るんだろ、オマエ。あのバケモンのところに』
「…………」

 ぴく、とのび太の動きが一瞬止まる。
 身体の揺らぎも、表情も、呼吸すらも。
 それを知ってか知らずか、声の主の言葉は続く。

『せっかくだ、戻るんだったら一つだけ予言をしておくぜ。これから先、テメェは強大で、しかも懐かしい『悪』達に出会う。そしてその『悪』をすべて乗り越えたその果てに、『この世すべての悪』と対峙する事になる。途中でおっ死んだりしねえよう、せいぜい気をつけな。ケケケケケケ……!!』

 最後まで人の心を不快にさせるような言動のまま、嗤い声が遠ざかってゆく。
 闇から生まれ、そして闇に溶けるようにそれは夜の帳に飲まれ、消えた。
 後に残されたのは、のび太ただ一人のみ。

「い、いったい……なんだったんだろう、あいつ?」

 最後の予言とやらもさることながら、最初から最後まで全てが唐突すぎた邂逅。
 姿も見せず、顔も解らず、なし崩しに行われた語らい。
 滝に差し出されたコップよろしく、のび太の頭は、すべてを呑み込むまでには至らなかった。
 一人、ぼうっとその場に立ち尽くす姿は、処理落ちしたロボットを思わせる。
 しかし、たった一つ。
 その身を苛んでいたものはいつの間にか鳴りを潜めていた。

「……よし」

 徐に、のび太の身体がくるり、と反転する。
 右手に持った“スペアポケット”をぐっと強く握りしめながら、決然と視線を上げる。
 まだあの恐怖は色濃く残り、身体は小刻みに震えて素直に言う事を聞いてくれない。
 だが、それ以上の“ナニカ”が双眸に宿り、絶対なる恐怖の感情を越えてその身を突き動かしていた。

「――――いっ、行くぞっ!」

 そして駆け出す。
 身体を突き動かす衝動のままに、のび太は元来た道へと足を踏み出していた。
 そのあまりにも頼りない、小さな背には恐怖も不安も、鉛のように重くのしかかっている。
 ……しかしそれでも、心中に巣食っていた迷いだけは、綺麗さっぱり消え失せていた。






『――――ふん』

 のそり、と。
 そんな擬音を伴って、黒いナニカが民家の塀の陰から飛び出す。
 それはゆっくりと道の真ん中へと脚を進め、やがてある地点でぴた、とその歩みを止めた。
 そこは、つい今までのび太が立っていた場所。
 血のように赤い襤褸のようなバンダナと、膝元まで届く同様の腰巻のみを身に纏い、タトゥーのような紋様が全身に刻み込まれた、黒髪黒目のその男。
 常人には理解しがたい不気味な佇まい。気の弱い人間ならば、すぐさま卒倒する事間違いなしであろう。
 しかし。もし、のび太がその男を見たならば、驚きのあまりその場に尻餅をついていたはずである。
 男……否、いっそ少年とも呼べるその“モノ”は、のび太の記憶に新しいその“ダレカ”に瓜二つというほど、似ていた。

『…………』

 男は視線をのび太の去っていった方へと向ける。
 その途端、にぃいっ、と口の両端が斜め上へ鋭角に吊り上がった。
 それは見る者に恐怖と怖気を呼び起こさせる、ある種凄絶なまでの狂気を帯びた笑みだった。



『せいぜい気張るこった……“野比のび太”。オレの『目的』のためによ。これ以上、クサレ神父や蟲ジジイ達の思惑の“ダシ”にされんのもゴメンなんでなぁ――――ヒャアッハハハハハハハハ……!!』



 狂ったように高笑いする。
 その悪魔じみた哄笑は、不可思議なまでに淀みなく、そして“どす黒く”澄んでいた。






 ―――――月は、いまだ雲の中。








[28951] 第十一話
Name: 青空の木陰◆c9254621 ID:90f856d7
Date: 2015/02/13 16:27






 月も雲間に閉ざされた夜の帳の中。
 アスファルトの大地を舞台に繰り広げられていたのは、命を磨り減らすような死闘であった。



「■■■■■■■■■■■■■■■ーーーー!!」
「くっ……風圧が離れてるここまで来るってどんな怪力だ。セイバー、大丈夫か!?」
「シロウ、そのまま離れていてください! はあっ!」
「ちっ、手持ちの宝石はこれだけか。急いでたとはいえ、もったいぶるべきじゃなかったわね……って、アーチャー! 弾幕薄いわよ、なにやってんの!?」
「凛、その言い方は……いや、了解だ。しかしだな、まったくと言っていいほど通用せぬ弾幕に果たして意味があるのかどうか。目眩まし程度にはなるやもしれんが……さて」



 青と銀の色を纏った騎士が不可視の剣を振るい、その場所から遠く離れた位置に陣取った紅の弓兵が、文字通りの矢継ぎ早に鏃の弾幕を浴びせる。
 しかし、ソレは己が身に降りかかるそれらの脅威にいささかも揺らぎを見せる事なく、ただただ死の猛威を振り撒いていく。
 振り回されるは岩の剣、しかしただの岩の剣ではない。
 二メートル以上は確実にあると思われる、鋸のようにささくれ立った刃をした片刃の斧剣。
 それを棒切れのように容易く振り回し、士郎やセイバー、凛、アーチャーの命を刈り取ろうと迫り来る。
 死を振りまく斧剣の担い手は鉛色の巨人。
 三メートル近くはあろうかという上背、異常なほどに発達した筋肉に鎧われた体躯。
 なにより特徴的なのが、まるで知性というものを感じさせない、輝きを失った両の目だ。



「■■■■■■■■■■■■■■■ーーーー!!」



 言葉にすらならぬ、獣のような咆哮が大気を揺るがす。
 クラスは『狂戦士』。
 人呼んで、サーヴァント・バーサーカー。



「―――ふふふっ……無駄よ。わたしのバーサーカーには誰も勝てない。そして、ここにいる誰一人として逃がさない」



 その怪物を使役するは、雪の精を思わせる十歳前後の可憐な少女。
 腰まで伸びた純白の髪と、ルビーのような紅い瞳をした、歪なまでに純粋な意思を持つマスター。
 名を、イリヤスフィール・フォン・アインツベルン。
 この互いに正反対の主従が齎す、苛烈な死の気配に“四人”は晒されていた。

「……しかし、こう言っちゃなんだけど――――のび太君が逃げ出してくれていて助かったな」
「そうね。あの子がいたところで足手まといにしかならなかったし、他を気にしなくてよくなっただけ、セイバーもアーチャーも戦闘に集中出来る。もう一つ言うなら衛宮君、ついでにアナタにも逃げ出してほしかったんだけどね」
「それは無理だ。俺はセイバーのマスターだからな」






 話は少し前に遡る。

「――――ねえ、お話は終わり?」

 あの教会からの帰り道。
 突然、女の子特有の柔らかく、高い声が聞こえてきたかと思うといきなりソレは現れた。
 天にも届けと言わんばかりの巨躯を誇る、鉛色の怪物を引き連れた白の少女。

「はじめまして、リン。わたしはイリヤ。イリヤスフィール・フォン・アインツベルンって言えばわかるでしょ?」
「アインツベルン……御三家の!」
「あ、あわわわ、あああ、あわ、あぁあ……!?」
「お、おいのび太君、大丈夫か!?」

 スカートの裾を持ち上げ、淑女のように一礼して少女は名乗る。
 そして自己紹介を終えると、すっと居住まいを正して。



「――――じゃあ殺すね。やっちゃえ、バーサーカー!」



 まるで目についた羽虫をいじるかのような無邪気さで、士郎達の殺害を巨人に命じたのだった。

「う……う、うわああああぁぁぁぁっ!!??」

 その途端、のび太は脱兎の如く駆け出した。
 バーサーカーとは正反対の方向、衛宮邸へと続く道筋へと。
 その青白く染まった幼い顔に、色濃い恐怖の感情を貼り付けて。
 短時間ながらもむせるような『死の気配』に晒された結果、のび太の精神はパニックを通り越して恐慌状態に陥ってしまったのだった。
 士郎達は引き留める事も、追う事もせず、ただそのまま彼を行かせた。
 あの怪物ならば子供が恐怖に駆られて逃げ出したくなるのはごく当然の事、逃げ出す事で少しでも危険から遠ざかれるのならそれでいいと判断した。
 来た道を逆に辿っていけば衛宮邸まで真っ直ぐ帰れる。なにより殺し合いの現場に魔術師でもない、ただの小学生の子供を留めておく訳にもいかなかった。



「――――はっ!」
「■■■■■■■■■■■■■■■ーーーー!!」



 そうして、そのまま戦闘へと突入した。
 セイバーが苛烈な踏み込みでバーサーカーへと一足で肉薄。得物を振るい白兵戦を仕掛ける。
 アーチャーはその場から即座に離脱、やや離れた位置から弓による援護射撃を開始した。
 始まってはや数分、既に切り結んだ回数は数十合、浴びせた鏃も三桁に届く。
 だが、それでもなお、巨人の力は衰えを見せない。
 不可視の刃がその身に触れようとも、目にも止まらぬ速度で飛来する鏃に晒されようとも、その悉くを肉体が弾き飛ばしている。
 いまだ傷一つとして負わぬ、比類なき耐久力を誇る強靭なボディ。
 巨大な岩の塊を振り回す膂力もさる事ながら、なによりもそれが四人をして苦戦を強いらせていた。

「くぅ、セイバーがここまで手こずるとはね。攻撃が通じない上にあんなナタのお化けみたいなの振り回されたら、不用意に踏み込めない!」

 ぎゅっと唇を噛む凛。状況は、決定打なしの千日手に陥ってしまっていた。
 アーチャーの矢は堅牢なボディに無効化され、セイバーは狂ったように振るわれる岩の剣に斬撃を悉く弾かれ幾度もたたらを踏む。
 凛も手持ちの宝石で魔術を行使し、窮鼠の一撃とばかりにバーサーカーを狙うが、それもやはり無駄に終わった。
 一流と呼んで差し支えない凛でもこの体たらく。へっぽこ魔術使いの士郎に至っては何一つ出来ず、苦虫を噛んだように顔を歪めるだけでお話にもならなかった。
 決め手に欠ける均衡状態が続いているが、どちらが優勢かは火を見るよりも明らかだ。
 果物ナイフとチェーンソーのぶつかり合いに近い。
 どちらが先に砕けるかは自明の理、早く勝負をつけなくては四人揃って物言わぬ屍と化す。
 士郎と凛の中に、焦りが兆し始めていた。

「――――凛、少し離れていろ。一発でかいのをいくぞ」
「え!? く、セイバー! すぐにここから離れて! それから士郎、対ショック!」

 アーチャーからの念話が凛に届き、凛はすぐさま騎士へ指示を出し、同時に隣の士郎の襟首を引っ掴む。
 セイバーはその直感で即座に状況を理解し後退、士郎は訝しむ暇もなく凛に引きずられ、反射的に身を竦める。
 その瞬間、風切り音が彼らの頭上で唸ったかと思うとバーサーカーが突如爆発を起こした。

「ぐうっ!?」
「うぅっ!」

 撒き散らされる衝撃波と閃光、腕で身体を庇いながら士郎と凛はそれをやり過ごす。

「む……っ!」

 セイバーは目を細くし、不可視の剣を眼前にかざして爆風への盾とする。
 膝立ちすれすれの姿勢で圧力を堪える、その華奢な姿はやはり年相応の少女のそれ。
 しかし、その凄烈な意志を宿す眼差しだけは唯一、少女としての一線を画している。



「――――ちっ、どこまでタフだこいつは。呆れて物も言えん」



 そこへ、不意に無情の一報が届く。
 ラインを通して主に伝えられたのは、従者たる弓兵の舌打ちであった。

「……え?」

 凛が僅かに首を傾げたが、爆発で生じた煙が晴れるとその意味が実感を伴って理解出来たようだ。
 秀麗な眉根を寄せながら吐き捨てるように毒づいた。

「――――ホント、どこまでタフなのかしら」
「……冗談だろ、あれで無傷!?」
「流石に……これは」

 四人の目に映ったモノ。
 それは擦過傷一つ負っていない、威風堂々と爆心地に佇むバーサーカーの姿だった。

「■■■■■■■■■■■■■■■ーーーー!!」

 己が健在ぶりを示すかのように、虚空に向かって思うさま雄叫びを上げる鉛色の巨人。
 セイバーの呟き通り、まさに悪夢のような光景だろう。
 先程放たれたアーチャーの矢の威力は、今までバーサーカーに向けて放たれたどの攻撃より強力だった。
 しかし、バーサーカーはそれにすら全く堪えた様子を見せず、むしろ怒りによって闘志が増しているときた。
 必殺の一矢が、ただバーサーカーの怒りを買っただけの結果に終わったなどと、誰だって信じたくはないだろう。

「フフフ……惜しかったわねリン。中々の威力だったけど、私のバーサーカーに傷をつけるにはまだ力が足りない。バーサーカー、ここからは遠慮はなしよ。徹底的に……潰しなさい」
「■■■■■■■■■■■■■■■ーーーー!!」

 朗らかに告げるマスターの指令に、咆哮で応じるバーサーカー。
 岩の斧を振り上げ、先程まで対峙していたセイバーへと凄まじい速度で吶喊する。

「くっ!」

 標的とされたセイバーは、素早く剣を構えて迎撃する。
 しかし、結果は先程のリプレイとは異なるものであった。

「ああっ!」
「■■■■■■■■■■■■■■■ーーーー!!」

 二合、三合、四合、五合と火花を散らして切り結ぶうち、セイバーの体がたたらを踏むどころか右に左にと、嵐に揉まれる帆船のように大きく揺さぶられる。
 剣の技量では、セイバーが明らかに上。
 だが、バーサーカーはそれをも上回る金剛力で以て力任せにその優位性をひっくり返し、逆にセイバーを圧倒している。
 そしてもう一つ、バーサーカーがセイバーを圧倒たらしめている要素があった。

「くそっ、セイバーが圧されてる! さっきは互角だったのに!」
「当然よ、お兄ちゃん。技はともかく、体格が違いすぎるもの。むしろ本気になったバーサーカーが相手でよくここまで保ってるわね」

 それは、天と地ほども開いた“質量差”。
 セイバーは身長百五十四センチ、体重四十二キロとごくごく平均的な思春期の少女のそれ。
 対するバーサーカーは、なんと身長二百五十三センチ、体重三百十一キロという、通常ではありえない巨漢である。
 身長はセイバーの約一・六五倍、体重は実にセイバーの約八倍という目を疑いたくなるような開きがあるのだ。
 物理の法則上、質量の小さいものと大きいものがぶつかり合えば後者が前者に打ち勝つ。
 軽トラックと十トントラックが正面衝突すれば、軽トラックは原形を留める事なく、ぐしゃぐしゃにひしゃげてしまう。
 この場合、どちらが軽トラックなのかは、言うまでもない。
 むしろ純粋な技量のみで絶望的なまでの質量差を凌いでいる、セイバーの剣技こそ神掛かっていると言わざるを得ない。
 険しく表情の歪む士郎とは対照的に、イリヤスフィールの微笑はいささかの揺らぎも見せない。

「くっ! アーチャー、援護!」
「無理だ。ここまで抜き差しならぬ状況では、生半可な援護など、セイバーの邪魔にしかならん。逆にバーサーカーの戦意を煽るだけだ」

 いっそ冷徹なまでのアーチャーの断言。凛の眉根が皺を刻む。
 マスター二人とサーヴァント一体が何も出来ぬまま、騎士と狂戦士による一対一の剣戟が月光の射さぬ宵闇の中、ただ延々と繰り広げられる。
 そして、遂に終幕が訪れた。



「■■■■■■■■■■■■■■■ーーーー!!」
「があっ!?」



 腰の乗った、猛烈なバーサーカーの横薙ぎに、剣で受けたセイバーの身体がゴムまりのように弾き飛ばされた。
 どっ、と地面に強かに叩きつけられ、一瞬セイバーの息が止まる。
 咄嗟に受身を取ったおかげで、目立った外傷こそないものの、体勢が完全に崩れてしまった。致命的である。
 バーサーカーは当然、その決定的な隙を見逃さない。
 戦術眼などといった大層なものではなく、理性を奪われ狂わされてもなお……否、だからこそ残存する……ただただ闘争に身を置く者の『本能』に従って。

「がはっ! く、はっ、はっ、はっ……!」
「■■■■■■■■■■■■■■■ーーーー!!」

 みるみる接近するバーサーカー。
 セイバーの呼吸は、まだ乱れたまま。体勢を立て直す暇もなく、よろめきながら相手を見据えるのが精々だ。
 目に宿る鋭い光こそそのまま、しかし状況は絶望的。
 セイバーの顔が悲壮に歪む。
 それでも剣を握る手に力を籠め、絶望へと文字通り刃向おうと乱れた息のまま、構えを取る。

「か、はぁ……ぁあ!」
「セイバー!」
「アーチャー、構わないから弾幕を……!」
「終わりね」

 四者四様の言葉と共に、バーサーカーの斧剣がセイバー目掛け振り下ろされる。
 その、一瞬だった。






 ――――ドッカーンッ!!






 そんな間の抜けた声が宵闇を貫き、直後、バーサーカーが横殴りに吹っ飛ばされていた。



「――――は?」
「え」
「うそ!?」
「な、なにこれ!?」
「■■■■■■■■■■■■■■■ーーーー!!」



 バーサーカーは突進の勢いをそのまま保ち、セイバーの脇に逸れると民家の壁へと頭から突っ込んだ。
 ブロック塀がガラガラと崩れ落ち、巨体は粉々に砕けたコンクリート片に埋れていく。
 一同、異様な事態に思考が追いつかない。
 セイバーの斬撃を受けても、アーチャーのあの矢を喰らってもびくともしなかった怪物が、何をされたかどこかのギャグマンガのように壁に突っ込むなど、ここにいる誰もが想像だに出来なかった。



「――――ふぅっ。ま、間に合ったぁああっ……」



 ふと、道の向こう側から声変わり前の、それでいてどこか気の抜けた声が響く。
 先ほど轟いた声質と同じ。この場にいる全員の視線が、ばっと一斉にそこへ突き刺さる。
 そして一同が、刹那のずれもなく揃って驚愕に目を剥いた。



「な……なんで君が、ここに……!?」
「あ、その……士郎さん達がやっぱり心配で……戻ってきちゃいました」



 小柄な体躯と、幾分気の弱そうなその声。



「きちゃいました……ってアンタ、バカなの!? 下手したら死ぬかもしれないのよ!? アンタはあのまま逃げてればよかったの!」
「は、はい。でも、ぼくは……」



 黄色の上着に紺の半ズボン、水色のスニーカーを履き丸い眼鏡を掛けた、その小柄な出で立ち。



「――――なぜ? どうして、戻ってきたのですか。貴方は……恐怖に駆られて逃げ出した。それでよかったのです。私達は貴方を肯定こそすれ、責めたりはしない。しかし……怖くは、ないのですか」
「……正直、怖いよ。それに死んじゃったら元の世界に帰れないし、今も足が震えてる……でも、嫌だったんだよ。セイバー」
「嫌、とは……?」
「まったく関係のないぼくなんかを、助けるって言ってくれた。そんな人達を……怖いからって、見捨てて逃げるのが。だから」



 身体のあちこちに擦り傷を作り、足は痙攣したかのように細かくビートを刻み、眼鏡の奥の瞳には恐怖の影が見え隠れしている。
 しかし、それ以上のたしかな“ナニカ”が、その少年の小さな身体から揺らめいているのを、この場にいる全員が感じ取っていた。
 それは絶望的な逆境に立ち向かう事の出来る、この弱者が唯一つだけ持つ絶対なる武器。



「アナタは、たしか最初に逃げちゃった子よね? この後追いかけて殺すつもりだったから、手間が省けてよかったわ。なんで戻ってきたかはよく解らないけど……最期に名前くらいは聞いてあげる。アナタのお名前は?」
「ぼくは……ぼっ、ぼくは!」



 見た目同い年の白の少女が発する、言いようのない圧迫感にたじろぎながらも、少年はきっ、と眼差し鋭く彼女と目を合わせる。
 前方に突き出された左手には、銀に輝く丸い筒。
 頭には、小さい竹とんぼのようなプロペラ。
 左の腰には、鞘に収まった日本刀が一振り。
 右のホルスターには、細身のピストルと思わしき物が一丁。
 そして、眼鏡の奥の双眸に宿るは――――恐怖を塗り潰すほどに迸る“勇気”。



「―――通りすがりの、正義の味方っ! 野比、のび太だ!!」



 少年――――野比のび太は、高らかに名乗りを上げる。
 恐怖を乗り越え、迷いを振り切って。
 今ここに、のび太は聖杯戦争へと、真の意味で一歩、足を踏み入れた。






 ――――雲間から、月が頭をもたげた。








[28951] 第十二話
Name: 青空の木陰◆c9254621 ID:90f856d7
Date: 2015/02/13 16:28






「のびちゃーん、ちょっとお願いが……あらドラちゃんだけ?」
「あれ、ママ? なにか?」

 都合三つ目のどら焼きを頬張っていたドラえもんであったが、突然部屋の戸が開かれたかと思うと、その奥の廊下に佇む一人の女性と目が合った。
 女性の名は、野比玉子。
 野比のび太の母親であり、どこに出しても恥ずかしいほど胡散臭い青ダヌキ……もとい、自称未来から来たネコ型ロボットをすんなりと我が家に迎え入れた、ある意味で大物すぎる女傑である。
 そしてのび太にとって頭の上がらない存在であり、野比家の実質的ボスでもあった。

「ドラちゃん、のびちゃんがどこにいるか知らない?」
「一旦は帰ってきて、またどこかに出掛けちゃったみたいで。たぶん空き地かなぁ?」
「あら、そう。お使いを頼みたかったんだけど、いないんじゃしょうがないわね。ドラちゃん、代わりに行ってきてくれないかしら?」
「はむ、むぐむぐ。はいはい解りました。買う物は……ああカゴにメモが」

 食べかけだったどら焼きを大口を開けて放り込むと、差し出された買い物カゴを受け取るドラえもん。
 中に入っていたメモ用紙を取り出し、ふむふむと内容を覚えていく。

「お願いねドラちゃん。それから、もし途中でのびちゃんに会ったらさっさと宿題を片づけるように言っておいてちょうだい」

 玉子はそう言い置いて踵を返すと、パタンと襖を閉めて一階へと戻っていった。

「……やれやれ。また外に出る事になるのかぁ。なんて間の悪い……ま、いいか。買い物のついでにのび太くんを探してみよう」

 溜息混じりにそう呟くと、ドラえもんはお腹に装着された“四次元ポケット”に両手を突っ込み中をごそごそ漁る。
 やがて目的の物を取り出すと、それを丸い頭のてっぺんにかちゃりと貼り付けた。
 黄色い竹とんぼのようなその物体は、まごう事なきひみつ道具の定番、“タケコプター”。

「さて、まずはスーパーへ、と……」

 道順をトレースしながら、ドラえもんは部屋の窓を開けると徐にそこから一歩を踏み出し、窓の外の晴れ渡る大空へと飛び立っていった。



「……あ。お~いミーちゃ~ん!」
「みゃ~」



 その途中、空から見つけたガールフレンドの猫、ミーちゃんに頬をだらしなく緩めながら。
 今日も平和な、のび太の世界。
 のび太の窮状を知るのは、まだまだ先のようであった。






「■■■■■■■■■■■■■■■ーーーーー!!!」

 瓦礫の中から巨体を持ち上げたバーサーカーは、自らを吹き飛ばした張本人であるのび太に向かって疾駆する。
 本能で、この場での脅威になると悟ったようだ。
 斧剣を振り上げ、その場に佇むのび太目掛け凄まじい勢いで凶器を振り下ろす……が。

「のび太く、んんっ!?」
「い、いない?」

 引きつったような、士郎と凛の声。
 斬撃の刹那、いつの間にかのび太の姿がその場から煙のように消え失せていた。
 忽然と、まるで最初からそこにいなかったかのように。
 当然、狂戦士の斧剣は無人の空間をただ薙ぎ払う結果に終わる。
 しかし、空振った斧剣は台風のように大気を掻き回し、生み出された衝撃波が瓦礫を勢いよく巻き上げた。
 振っただけでこの威力。当たればただでは済まないが、当たらなければ無意味に終わる。

「――――うはぁあ! お、おっかなーい! セイバー、大丈夫!?」
「え!? ノ、ノビタ!?」
「「「はあっ!?」」」

 不意に聞こえた少年の声の先を見て、めいめいが揃って目を疑った。
 のび太の姿は、セイバーの傍らにあった。
 先ほどのび太が立っていた場所からそこまで、実に数十メートルはある。
 それを一瞬で、バーサーカーの神速の剣撃すらあっさりと潜り抜けてのび太は辿り着いていた。
 電光石火の、目にも止まらぬ早業。
 マスター陣はあまりの衝撃に思考が追いつかず、ただ金魚のように口をぱくぱく動かすのみ。セイバーに至っては、その場で凍りつく始末であった。
 しかし、のび太はそんな様子を気にも留めず、上着の袖で冷や汗を拭いながらひどく心配そうな表情でセイバーに目を向けていた。

「い、いったいいつの間に!? 最速を誇るランサーでもこうは……!?」
「せ、説明は後でするから! とにかく、今はアイツをなんとかしないと!」

 セイバーを説き伏せながら、のび太は左腕に右手を添える。
 左腕の先には月光を反射して銀に輝く、円筒形の筒が填められていた。
 本来、彼の親友であるドラえもんの持つ、二十二世紀は未来のひみつ道具、“空気砲”。
 高密度の空気の塊を撃ち出す、小型・短銃身の大砲であり、最大出力ならば、実に数百キロもある鋼鉄製のロボットすら木っ端微塵に破壊するというシロモノである。
 先ほど、バーサーカーを吹き飛ばしたのはこれであり、のび太はそれ以外にも道すがら“スペアポケット”を引っ掻き回し、掘り出したひみつ道具で武装を固めてきた。
 頭につけたプロペラは、空を自由に飛ぶ事の出来るお馴染みのひみつ道具、“タケコプター”。
 腰に佩いた日本刀は、レーダー内蔵で自動反応、たとえど素人がただ振り回しても剣の達人と互角に渡り合えるひみつ道具、“名刀・電光丸”。
 ホルスターのピストルは、相手を殺傷する事なく気絶させるひみつ道具、“ショックガン”。
 そしてのび太は、実は脚にもひみつ道具を仕掛けていた。
 塗れば目にも止まらぬ速さで走れるひみつ道具、“チータローション”を塗っていたのだ。
 これの効果でバーサーカーの剣撃を寸前で掻い潜り、セイバーのところまで一瞬で移動した、という訳である。
 しかし、“チータローション”は効果こそ凄まじいが、その反面、持続時間が非常に短い。
 のび太の両脚に塗られたそれは、この時点で効き目が切れてしまっていた。
 あの謎の声の主と会話した場所からこの薬を使用していたせいである。セイバーの位置への移動を最後に、効果限界が訪れた。
 
「“空気砲”は、一応効いたけど。他は、どうだろ」
「は?」
「え? う、うぅん、なんでもない」

 それ以上に問題なのは、セイバーの剣を弾き、アーチャーの矢を物ともしない、敵のその強靭な肉体である。
 勿論、途中参加であるのび太はそんな事を知る由もないのだが、手当たり次第装備してきた武器の中で、“名刀・電光丸”と“ショックガン”については、意味ないだろうなと思っていた。
 “ショックガン”は、単純に“空気砲”よりも破壊力がない。“名刀・電光丸”に至っては、それ以前の問題であった。
 下手に接近戦など挑もうものなら、筋力差と質量差であっという間に潰れたトマトである。
 如何に理不尽な力を持つひみつ道具とはいえ、扱う本人と相手の情報を抜きにして単純に計算する訳にはいかない。
 さらにもう一つ、非常に重い不安要素があった。

「道具、少なかったよね……?」

 傍にいるセイバーにも聞き取れないほど小さな、のび太の述懐がすべてを物語る。
 “スペアポケット”を漁った時に感じた違和感。
 頭を突っ込んだ時にはいっぱいいっぱいでそこまでよく見ていた訳ではなかったのだが、改めて手を入れてみて解ったのだ。
 ひみつ道具の数が、明らかに減っていた。
 ドラえもんのポケットとのつながりがなくなったせいだと、のび太は見ている。
 単純に、半分くらいが向こうに行って、あとの半分がこちら。使える、使えない、ガラクタ等の当たり外れも含めて考えると……それだけで、のび太の背筋は寒くなった。

「……んぐっ」

 唾を飲み込む音が、のび太の喉から鳴る。
 仮に“スペアポケット”の中身がどうであれ、のび太は最初から自分一人であの化け物をなんとかしよう、などという自惚れた事は欠片も思っていなかった。
 これまで劣等生として生きてきたのび太は、自分自身の身の丈というものを……多分に卑屈な物ではあるのだが……よく知っている。
 その上で、のび太は模索する。
 自分自身が出来る事を。そして、この場において状況を打開し得る鍵を。
 そして視線を――――自らの隣へ向けた。

「セイバー!」
「はい?」
「ぼくが援護するから、セイバーはアイツと思う存分、戦って! さっきまでアイツと戦ってたの、セイバーなんでしょ?」
「あ、貴方が!?」
「い、いやそんな心配そうな顔しなくても大丈夫だよ。ぼくは」

 のび太の説得は、そこで途切れた。
 否、途切れさせられた。

「■■■■■■■■■■■■■■■ーーーー!!」

 再び接近するバーサーカーの咆哮が、言葉を呑み込ませたのだ。

「く!? バーサーカー、もう……って、ノ、ノビタ!?」
「ああもう、あとちょっとだけこっちを見失ってて欲しかったのにぃ!」

 咄嗟に不可視の剣を構えるセイバーだったが、その眼前にすっと躍り出たのび太に出端を挫かれる。
 のび太は焦りを押し殺したしかめっ面で“空気砲”を構えると、腹の底から引き鉄となる言葉を発した。

「ドッカーン!!」

 高密度に圧縮された空気塊が掛け声通り『ドカン!』と勢いよく発射され、地響きを上げながら真っ直ぐ突進してくるバーサーカーへと向かう。
 
「■■■■■■■■■■■■■■■ーーーー!!」
「……え!? そ、そんな!? さっきは効いたのに、どうして!?」

 だが、敵は微塵も揺るがなかった。
 あの初撃が嘘のように、吹き飛びもしなければぐらつきもしない。
 “空気砲”の直撃を、腹のど真ん中に受けたにも拘らず、バーサーカーの疾走が止まる事はなかった。
 盛大に気炎を上げつつ、逆に疾駆スピードがそこからぐんとさらに増す。
 まるで、ニトロを放り込まれた蒸気機関車のようであった。

「くそぅ、ドッカーン! ドカン、ドカン!!」

 額から汗を垂れ流し、のび太は再び“空気砲”を、今度は三点バーストでぶっ放す。
 しかし、今度はその空気塊がバーサーカーの身に触れる事すらなかった。

「■■■■■■■■■■■■■■■ーーーー!!」

 バーサーカーはスピードを維持したまま、振り上げた斧剣を縦横無尽に振り回し、猛然と迫る邪魔な三つの空気塊を切り捨てていた。
 あんぐりと開く、のび太の口。
 常識の通用しない相手である事は承知していたが、まさか亜音速の砲弾を切り払うまでとは思っていなかった。
 戦闘開始直前に一度逃げ出したのび太は、直後のサーヴァント同士の死闘を直に見ていない。想定が甘いのも、仕方のない事ではあった。
 勢いを駆って鉛色の巨人が、瞬く間に二人に肉薄する。
 敵を潰さんと、岩の剣が大上段に振り上げられた。

「くぅ……!」

 一瞬の逡巡、脳内を錯綜する思考。
 のび太は即断した。

「ノビタ! 退がって」

 彼を庇おうと前に出ようとするセイバー。
 のび太は言葉の通りに、彼女の真横にすっと下がる。
 だがそこから、のび太の両腕が彼女の腰に回されると、セイバーは防衛も忘れて面食らった。

「な、なにを!?」
「セイバー、飛ぶよ!」

 一瞬、なんの事か解らないという顔をしたセイバーであったが、すぐに答えは齎された。
 のび太の言葉、そっくりそのままの現象によって。

「え!?」
「と、飛んだ!?」

 士郎と凛の目が、飛び出さんばかりに見開かれた。
 大地を蹴ったのび太の身体が、月の浮かぶ漆黒の夜空へと勢いよく飛翔する。腕の中に、混乱と動揺の坩堝に叩き込まれたセイバーを抱え込んで。
 その一瞬後に打ち下ろされた斧剣は、彼らを捉える事叶わず、地鳴りのような音を立ててアスファルトに突き刺さった。

「――――ふーっ、危なかった。まったく、こんなのばっかりだよ、もう」
「そ、空を、空を飛んでいる……!?」

 安息交じりに愚痴を漏らすのび太。それに対して、セイバーは目を白黒させるばかり。
 生身で空を飛んだ経験がないのだろう。あの凛々しい姿が、まるで嘘のようであった。
 決して落ちまいとのび太の身体に両腕を回し、がっしりしがみついている。
 その一方で、かたかたかたかた、のび太の頭の上では軽妙な機械音が鳴っていた。
 お馴染みにして定番のひみつ道具“タケコプター”。こんなちゃちなプロペラ一つで空を飛ぶなど、誰が想像出来ようか。
 付けておいてよかったと、のび太は最も使い慣れた道具に心の中で感謝する。
 二人の真下では、巨人がめりめりとアスファルトを割りながら剣を引き戻していた。

「セイバー、もう一回言うけどぼくが援護するから、セイバーはアイツに思いっきりぶつかっていって」
「し、しかし貴方が戦うなどと……いくら不可思議な未来の道具を使っているとはいえ、殺し合いの場に立つのは危険すぎる!」

 一応“タケコプター”の衝撃からは脱却出来たようで、セイバーに先ほどのような混乱は見られない。
 しかし、こののび太からの無茶苦茶な提案には当然ながら、否を突きつけていた。
 これに対し、のび太は普段の姿からは想像もつかない、不敵な笑みを浮かべた。

「大丈夫だよ。見たところバーサーカーは飛べないみたいだし、ぼくは空からこの“空気砲”で援護しかしない。それに……ぼくって射撃だけは得意なんだ」

 あとは、あやとりくらいかな。
 銀に輝く左手のそれを持ち上げつつ軽い調子で、のび太はのたまう。
 だが、それとは裏腹に目に宿る光は本物であり、意気軒昂とした輝きを放っている。
 普段こそ駄目に輪をかけた駄目のペケであるのび太だが、ある一線を超えると途端に肝が据わり、どんな逆境にも立ち向かう勇気とクソ度胸を持つ。
 今ののび太は、己に対する自信と確信に満ち満ちており、歴戦の古強者然とした、ある種の風格すら漂わせていた。
 その子供の戯言と切り捨てられるような軽い口調と言葉に、ずしと重い真実味を持たせるほどに。

「しかし!」
「セイバー」

 なおも抗議しようとするセイバーに対し、のび太はセイバーの深緑の瞳に己が目を向け、名前を呼ぶ。
 互いの視線の交錯……それだけでセイバーの声は封殺される。

「ぼくを、信じて!」

 決然とした瞳と言葉が彼女を貫いた。

 




「――――ん!?」

 その瞬間、セイバーの身体に異変が起こった。
 心身問わず彼女の内面に、波紋が広がっていくような奇妙な感触が巡る。

「な……」

 次いで、身体の芯が熱くなるような、不思議な高揚感が湧き上がってくる。
 だが、それだけでは収まらず、間を置かずに全身に言いようのない力が漲ってくるの彼女は感じていた。

「この、感じは……!?」
「せ、セイバー?」

 自らの変化に戸惑うセイバー。まるで自分自身の内のナニカが、歓喜に吼え狂っているかのようであった。
 ひみつ道具を持っているとはいえ、のび太はただの子どもであり、魔術師でもなくましてや己のマスターですらない。
 だからこそ、自身の身に影響を及ぼす事など出来ようはずがないのだ……本来ならば。
 だが、現実として己の力が荒れ狂い、“増幅”しているのが解る。解ってしまう。
 その高揚感は、もしやこのままバーサーカーを討ち倒せるのではないかという、一種過剰なまでの自信をセイバーに与えていた。
 理由は、皆目解らない。しかし、これならば。
 のび太から片腕を離し、その手に不可視の剣を顕してぐっと握り込む。
 そのまま眼下のバーサーカーを見下ろしつつ、自らの変化を押し隠し溜息を一つ吐くと、セイバーはのび太に顔を向けた。

「……まったく、強情ですね貴方は。私の負けです。貴方に背中を任せましょう。しかし、くれぐれも無茶はしないように」
「セイバーもね。武器は?」
「私の剣は不可視の剣なのです。見えないでしょうが、もう右手に掴んでいますよ。それから既に解っているかと思いますが、バーサーカーの肉体に並の攻撃は通用しません。無力化されてしまいます」
「みたいだね。“空気砲”も通じたのは最初だけで、後は効かなくなってたし。でも、大丈夫。僕の役目はあの怪物を倒す事じゃなくて、怪物を倒すセイバーを手伝う事だから。さっき、ちょっと思いついたんだけど……」

 セイバーの耳元に、のび太の顔が近づけられる。
 囁かれた内容に、セイバーはほんの少しだけ怪訝な表情を浮かべたが、それも一瞬の事。
 のび太の方を振り返ると、揺るぎない瞳で厳かに告げた。

「信じています。子どもとはいえ、一人の男として背中を預けろと言った以上、そして啖呵を切った以上は……責任を持ってくださいね」
「任せて! じゃ……行くよ!」

 顔を見合わせ、頷きあう。
 のび太の腕が解放され、重力に従ってセイバーの身体が落ちていく。
 白銀の流星となって、セイバーは眼下の狂戦士目掛け空から吶喊していった。






 ――――しかしこの時、当事者であるのび太も、セイバーも、士郎も、凛も、イリヤスフィールも、況やアーチャーですら気づいていなかった。
 いくら未来で製作された超科学の結晶たるひみつ道具とはいえ、神秘も魔力も宿らぬ“ただの道具”である事に変わりはない。
 サーヴァントを傷つけられるのは、サーヴァントの所持する神秘を内包する『宝具』か、余程の魔力を持つ代物のみ。
 しかし、最初の一撃だけとはいえ、“空気砲”はバーサーカーの身体を傷つけこそしなかったものの、数十メートルの距離を吹き飛ばした。
 “サーヴァントへの干渉”の前に立ち塞がる絶対的前提を、完全に無視し飛び越えているという、この事実が示すもの。
 気づいていたのは――――闘争における『本能』で以て、その茫漠とした危険性を感じ取る事の出来た狂戦士・バーサーカー。
 そして。






『――――はぁん、クソガキは援護に回ったか。ま、この戦争のデビュー戦、んであのバケモン相手の立ち回り方としちゃ悪かねぇ選択だぁな。さぁて、結果はどう転ぶかね……ケケケケケ!』






 何処からかこの場の様子を窺っている、この戦争の『闇』だけであった。








[28951] 第十三話
Name: 青空の木陰◆c9254621 ID:90f856d7
Date: 2015/02/13 16:30






「嘘……なにこれ……」



 狂戦士のマスターたる白の少女は、繰り広げられるその光景に呆然とした。
 あり得ない、こんな事はあり得ないと。
 頭の中でそんな取りとめのない言葉が、ただ堂々巡りする。
 しかし、目を逸らしたところで目の前の現実が覆る訳もない。
 白の少女は、それに目を奪われているしかなかった。



 ――――勢いよく噴き上がる鮮血の、鮮やかすぎるそのアカに。
 そして己が従者の……。






「――――はあっ!」
「■■■■■■■■■■■■■■■ーーーー!!」

 互いに追突するように刃を振るう、剣の英霊と狂戦士。
 前者は自由落下からの唐竹割り、後者は天空目掛けての薙ぎ払い。
 しかし、その剣戟の様相は、先ほどまでのものとはまったく違っていた。

「ぐうっ……うぉあああ!」
「■■■■■■■■■■■■■■■ーーーー!!」

 接触する、不可視の剣と長大な石斧剣。
 吼える騎士と猛る狂戦士。
 大上段から渾身の力で以て振るわれた剣を、岩の塊は防ぎにかかる。

「――――があっ!!」

 火花が散ったその刹那、耳障りな金属音と共に岩の塊が弾かれていた。
 担い手の、金剛力を誇る右腕ごと。

「■■■■■■■■■■■■■■■ーーーーー!!!」

 まるで、バットの真芯で捉えられた硬式球のよう。
 バーサーカーの肩から先は、凄まじいスピードで軌道を百八十度、逆の方向へと強制変更させられた。

「どういう事? セイバーがバーサーカーに力負けしてない……いえ、むしろ圧してる」

 目を丸くして、凛が呟きをこぼした。
 いささか興奮気味に口を突いて出たその言葉は、現状を実に的確に表している。
 そして、彼女の隣で呆然と立ち尽くしているもう片方のマスターは、まるで魂でも抜かれたかのようであった。

「凄ぇ」

 圧倒され、呆然とその場に佇んでいる。
 士郎のその有り様が、彼女の言葉に一層の真実味を持たせていた。

「……ふ」

 昂ぶる闘志を隠しもせず、にっとセイバーの口の端が吊り上がった。
 セイバーの剣戟は、ほんの僅かの間で確実にワンランク上の威力へと昇華していた。
 剣士側が劣勢であった鍔迫り合いが、ここに来て五分の状況にまで持ち込まれた。
 しかし、五分という事は当然、バーサーカーにもチャンスが残されている。

「■■■■■■■■■■■■■■■ーーーー!!」

 弾かれた岩の剣を、その膂力で以て強引に軌道修正。そしてアスファルトを割るほど力強い踏込み。
 大気を切り裂かんばかりの勢いで、横薙ぎの一閃が放たれる。
 当然、それに気づかぬセイバーではない。

「…………」
 
 そのはずなのだが、彼女は剣を正眼に構えたまま、じっとその様子を見据え微動だにしない。
 このままでは確実に弾けたザクロである。しかし、正眼の構えから寸分も動く気配を見せない。
 代わりに、その艶のある唇が小さく動いた。

「……信じて、いますよ」

 その呟きを合図とするかのように、空から飛翔してきた空気塊が、空間を滑る斧剣の腹を直撃した。

「ドカーン!」

 その強烈な圧力により、バーサーカーの横薙ぎはベクトルを強制変更され、地面へとめり込む。
 地割れのような音と共に、セイバーの左真横のアスファルトに、びしと大きな亀裂が走った。
 凶刃は届くどころか掠りもせず。したがってセイバーは無傷である。
 空気塊の正体は、語るまでもないだろう。
 “空気砲”による、上空からの精密射撃。
 そして狙撃手(スナイパー)はといえば、これまた言わずもがな。

「今だっ、セイバー!」

 “タケコプター”で滞空している、のび太であった。
 大砲を装着した左手に右手を添え、腹に力を込めて叫ぶ。
 筒の先、銃口からは硝煙のような煙が一筋、ゆらゆら立ち上っていた。






「――――末恐ろしいな」

 のび太のバーサーカーへの精密射撃、その一部始終を『鷹の目』で捉えていた男が一人、固い表情で呟いた。
 弓兵のサーヴァントであり凛の相棒、アーチャーだ。
 現場から数キロ離れたポイントに陣取り、いつでも狙撃出来るよう弓を構えていたアーチャーであったが、空中でのび太とセイバーの間で交わされた何らかのやりとりからこっち、状況を静観していた。
 勿論、狙撃姿勢は崩さぬまま。
 数キロ先の歩道のタイルも一枚一枚視認出来る『千里眼』で以て、アーチャーは戦況を大局から観察出来る立場にある。
 そして、一から十まで見ていた。のび太の、バーサーカーへ放った“空気砲”の一射を。
 その一連の過程すべてを、余すところなくつぶさに。

「あの歳にしてここまでの精緻な狙撃を」

 乾いた唇を、アーチャーは舌で湿らせた。
 余人にはいざ知らず、末席とはいえ、弓の英霊としてこの場にいるアーチャーには理解出来る。
 地上から遠く離れた上空数十メートルの位置に滞空し、神速で薙ぎ払われるバーサーカーの“斧剣”に直撃させた、その一撃の難解さを。
 バーサーカーを狙ったのではない、のび太は明らかに振るわれる斧剣を狙っていた。

「ひみつ道具が云々、の次元ではない」

 彼の認識出来る限りでは、のび太の使用しているひみつ道具は“タケコプター”と“空気砲”のみ。
 無論、アーチャーは名称など知りはしないが、“タケコプター”には姿勢制御装置はともかくとして、射撃の補助機能などは一切ない。
 “空気砲”に関しても、スコープといった精密射撃補助ツールもなければ自動追尾機能……所謂ホーミング機能も付加されておらず、砲弾である空気塊はただ直進するだけのもの。
 つまり、のび太は純粋な自分自身の技量のみで、砲弾を命中させたのだ。

「天凜、か……いや。ここまでくると」

 思考が渦を巻く。
 どれだけ射撃の腕に自信があろうとも、時速数百キロで振るわれる斧剣の腹に、ああもタイミングよく砲弾を直撃させる事が、はたして可能だろうか。
 たとえるなら、蛇行しながら最大スピードで運行する新幹線の窓から身を乗り出して、数百メートル先に立てられた的の中央を銃で撃ち抜くようなものだ。
 しかも一発の撃ち漏らしもなく延々と、そして一センチのずれも許されないという極限の縛り付きで、である。
 そんなハイレベルな流鏑馬もどきの結果など、実に解りきってしまっている。
 不可能だ、そんな事は。それは人間業ではない、神業の域だ。
 仮にそんな事が出来る人間がいたとすれば。

「――――世が世であれば、英霊の域にまで至れる。可能性は十分」

 もしも、本当にもしもの話だが。
 仮にこの聖杯戦争で彼がサーヴァントとして召喚されるような事があったとすれば、間違いなくアーチャーのサーヴァントとして召喚されただろう。
 それほどまでに、のび太の射撃は神懸かっていた。
 放つ弾丸の角度と弾速、動く目標の軌道と相対距離、風などの自然条件……それらすべてを理解し数秒先の未来を予見する脊髄反射の高速思考。
 諸々の位置関係を瞬時に掌握する高い空間把握能力。
 そして自らの判断に躊躇いなくGOサインを下せる、並外れた自身の腕への信頼と勝負度胸。
 のび太の力は、間違いなく本物であった。
 事実、のび太をただの子供と見ていた士郎と凛は、鮮やかなのび太の手並に開いた口が塞がっていない。
 もっとも、それはアーチャーとて認識の上では同じ穴の狢(むじな)であった訳だが。

『――――凛、聞こえるか』
『ん……なに、アーチャー』

 アーチャーは、唐突に主へ向けて念を飛ばす。
 凛の返答は、夢から覚めたような響きが交じっていた。

『セイバーと少年に見惚れているところ悪いが、ひとつ提案がある』
『……この戦いについての作戦?』
『無論』
『勝算は?』
『少なくとも、バーサーカーの攻撃力を大幅に削ぐ事が可能だ。あわよくばセイバーがアレを仕留める絶好の機会を作れるかもしれん。今のセイバーならば、きっかけ一つであの怪物の命に刃が届く』
『詳しく話しなさい』
『了解だ。と、言ったところで実に単純な事なのだがな。要は――――』

 そして主従の間で交わされる、作戦会議。
 数秒の後。

『成る程ね、それならいけるかも。でも――――出来るの?』
『私の予測が当たっているのならばな。もっとも九分九厘、間違ってはいないはずだ。そうであれば、私と彼なら可能だ』

 溢れんばかりの自信を込めて言い放たれた、アーチャーの言葉。
 そう、可能だ。
 共に最高かつ極上の狙撃手(スナイパー)である、アーチャーと、のび太。
 弓と空気の大砲という獲物の違いこそあれど、この二人ならば。
 狂戦士の牙を、へし折る事が出来る。

「……くく」

 確信に満ち満ちた弓兵の表情が、獲物を前にした獣のように笑み崩れた。






「のび太!」
「ドカン! ドカン! ドカ……って、はい!?」

 凛に急に大声で名前を呼ばれ、空中で“空気砲”を連射していたのび太はほぼ条件反射的に返答していた。
 しかし、己の仕事を忘れてはいない。
 視線だけはそちらの方に固定したままだ。

「■■■■■■■■■■■■■■■ーーーー!!」
「く! こちらが圧しているとはいえ、それでも凌ぎますか!」

 のび太が斧剣を逸らした回数は既に十回を数える。
 その都度、セイバーは攻勢に転じようとするのだが敵もさる者、斧剣を握っていない方の剛腕で迎撃してくるものだから未だ彼の身に一撃も入れてはいない。
 防御のために無理矢理振るわれた斧剣を数合弾き飛ばしたりはしているが如何せん斧剣、敵の肉体ではない以上、さして意味のない事だ。
 同時にセイバーの攻撃が悉く防がれている事も如実に表している。

「凛さん!? なんですか急に!?」
「いいからそのまま聞くっ! 今、アーチャーをこっちに呼び戻しているから、貴方はそのままアーチャーと合流しなさい!」
「えっ!? おじ……じゃなかった、アーチャーさんと!? どうしてですかぁ!?」
「作戦があるのよ! 詳しい事はアイツから聞きなさい! 今更だけど、自分からここに飛び込んできた以上、覚悟はいいわね!」
「いいですっ! それで、アーチャーさんはどこにいるん……っ!?」

 突如、飛来してきた数条の光芒がバーサーカーに降り注ぐ。
 次いで着弾したそれらが次々と爆発を起こし、爆風と閃光がその巨体を覆い隠した。
 のび太の声が不自然に途切れたのはそのせいであった。
 その隙にセイバーは一旦その場から距離を取り、そして光芒は未だ止む事を知らない。
 流星群の如き光のシャワーが雨霰とバーサーカーを飲み込み、遂には発生した衝撃波と爆炎がキノコ雲を作り上げた。

「り、凛さん、まさかこれ!?」
「その“まさか”よ! 矢が来た方向は解るわね。距離はそうないはずだから、今のうちにさっさと行きなさい!」

 精一杯に張り上げられた凛の声に、のび太は動かない。
 爆発の光景に気を取られ、放心したように固まっていた。

「……ちょっと、いつまで固まってるの!? 時間がないのよ、ぐずぐずしてないでとっとと行く! バーサーカーがあの程度でくたばるタマか!」
「はっ、はいっ!?」

 焦れた凛の一喝で身を竦ませ、慌てて矢の来た方向へと飛翔する。
 勿論、用心にバーサーカーの方へ“空気砲”の筒先を向けるのも忘れずに。
 指示通りに舵を取ると、現場からそう遠くない位置に、弓兵はいた。

「来たか、少年」
「おじさ……じゃない、アーチャーさ……って、ええっ!?」

 幅の狭い電信柱の上に直立し、黒塗りの西洋弓を構えている。
 どうしてそんなところで弓を構えていられるのか、のび太は目を見張ったが、サーヴァントの異常さは今更であるしそれよりも優先すべき事があったため、すぐさま気を取り直すとそのままアーチャーのすぐ横に滞空状態で並んだ。

「何に驚いたのかは知らんし、状況が状況故に敢えてなにも聞かんが……これから行う作戦に君の力が必要なのでな。すまないが力を貸してくれ」
「それは別にいいですけど……僕はどうすればいいんですか?」
「基本的には、さっきまで君がやっていた事と同じ事だ。正直、君の射撃には目を見張った……いや、今はそれはいい。とにかく君は、私が矢を放った直後にその空気の大砲をバーサーカーの斧に命中させてほしい」
「アーチャーさんの矢の後に……?」

 真意が理解出来ず、のび太は首を傾げる。
 だが、いずれ解ると既に矢を番えているアーチャーに言われ、とりあえず“空気砲”を構えた。
 “空気砲”の射程ぎりぎりのこの位置、難易度はさっきの比ではない。
 さらに今度はアーチャーの射の直後に斧に命中させろという、縛りがついている。
 そのおかげで、もはや神業レベルの技量を要求されてしまっているのだが、のび太の目は揺らがない。
 のび太の射撃に対する自負はそんなレベルの難易度で投げ出したくなるような、軟な代物ではなかった。

「私の矢では構造上、面制圧には向かんのでな。それに威力も僅かに足りん。加えて、今はまだ僅かの手の内も晒したくはない」
「え? 手の内?」
「いや……とにかく、行くぞ。準備はいいかな?」
「えっ、はっ、はい!」

 得物を一方向に向ける、両狙撃手(スナイパー)。
 二人の視線の先には油断なく不可視の剣を構えるセイバーと。

「■■■■■■■■■■■■■■■ーーーー!!」

 いまだ燃え盛る爆炎の中で、衰え知らぬ雄叫びを上げるバーサーカーがいた。












 オマケ

 のび太の恐怖意識度ランキンク(ドラ主要メンバー+これまで出会ったFateキャラ)



 士郎≒セイバー<ドラえもん≒スネ夫≒パパ<<ジャイアン<<しずか≒イリヤ<謎の声の主<<アーチャー<ランサー<<<<<(克服不可の壁)<<<バーサーカー<<<<<<<凛≒ママ



 ※あくまで作者主観による。








[28951] 第十四話
Name: 青空の木陰◆c9254621 ID:90f856d7
Date: 2015/02/13 16:31






「いいな、タイミングを合わせろ」
「はっ、はい!」

 弓を引き絞る音が、ぎりぎりと静寂を掻き乱す。
 番えられた矢が、今か今かと放たれる時を待っている。
 その矢は先ほどまで放っていた物とは少々違っていた。
 一言で言えば、武骨。
 鉄製の杭をそのまま矢にしたような、どこまでも剥き出しといった印象を見る者に抱かせる。
 その矢を射んとするは、弓の英霊ことアーチャー。
 彼は待っていた。この矢を放つ、絶好の機を。
 おそらく数回は必要。だが、それで確実に目的は達成される。
 この矢と、彼の隣で滞空しつつ“空気砲”を構える、のび太の力を合わせれば。
 弓兵の目が、きゅっと鋭く細められる。
 狂乱の鉄火場に兆す、その一瞬を見出すために。






「うぉおおおっ!」
「■■■■■■■■■■■■■■■ーーーー!!」

 いまだ荒れ狂う爆炎から抜け出してきたバーサーカーを、セイバーが強襲する。
 だがそれを予想していたかのように、バーサーカーは斧剣を振るい、突き出された剣を弾いた。

「ちっ!」

 小柄さを生かし、セイバーはすぐさま体勢を整えると、バーサーカーを上回るスピードで再び仕掛ける。
 しかし、バーサーカーは無理に反撃に出ようとせず、ほんの一歩だけ身を引くと、片足を軸に前方へ向かって猛烈な薙ぎ払いを放った。
 決して覆す事の出来ないバーサーカーの優位性、あり得ないほどの質量差を生かした防御方法。
 いかに力が増したセイバーとはいえ、これを貰えばひとたまりもない。
 やむなく攻撃を中断し、セイバーはバーサーカーの間合いから離れて下段に構え、機を窺う。
 そしてバーサーカーもまた、攻撃から防御優先に意識をシフトし始めた。
 片手で斧剣を中段に構え、狂気を湛えた瞳でセイバーをじっと見据えている。

「…………」
「…………」

 張りつめた糸のような緊張状態。
 互いに力量が互角か、それ以上だと理解しているからこその、この睨み合いの状況。



 ――――そこにつけ入らない理由などなかった。



「――――疾ッ!」
「ドカァンッ!」



 彼方から飛来する、矢と空気塊の二点バースト。
 その二つの音速の弾丸は、前方に突き出されていたバーサーカーの斧の腹側に、見事に命中した。

「■■■■■■■■■■■■■■■ーーーー!!」

 最初に矢が斧に食い込み、その一瞬後に矢の上から、超高密度の空気のハンマーが叩き付けられる。
 絶妙のタイミングであった。
 斧剣に二度の、否、二重の衝撃を受けたバーサーカーは堪らない。
 得物を掴んでいた右腕が外側に大きく吹き飛ばされ、無防備な身体を思うさまセイバーに晒す格好となる。

「もらっ……、む!?」

 その隙を逃すまいと踏み出しかけたセイバーだったが、バーサーカーの取った行動に動きを止められた。
 バーサーカーは衝撃を受けた勢いそのまま、右足を軸にその場でぐるりと身体を回転させ、衝撃を逃がしつつ再度防御体勢を整えていた。
 その動きは、今までのバーサーカーらしからぬものであった。
 金剛力に物を言わせ、すべてを力任せに打ち砕く『剛』の戦い方ではない。
 相手から受ける力をも利用し器用に、最適に立ち振る舞う『柔』の戦い方。

「……手強くなりましたね」

 理性を失ってなお見せる、剛柔併せた戦の形。
 乾く唇を舌で湿らせる、セイバーの唸りが風に溶けた。






「ふん、手強くなったな」

 鷹の目のぎらつきが緩む。
 アーチャーもまた、セイバーと同じく高次元の敵の挙動に舌を巻いていた。
 しかし、その視線はまた、別の方向へも向けられていて。

「だが、おそらくあと一発か。いかな神秘の籠った頑強な代物といえど、鍔迫り合いで消耗していたのだろうな。好都合だ」
「あと一発?」

 弓道における『射礼八節』の最後、“残心”。
 矢を放ち終えた姿勢を崩さぬまま、鷹のような鋭い目でバーサーカーを見ていたアーチャーの呟きに、隣ののび太の首が傾く。
 アーチャーの視線の先には、刀身の半ばに深々と矢の突き刺さった斧剣がある。
 まるで楔のように突き立つそれ。“空気砲”の圧力に押され、岩で出来た斧剣の柄側刀身ど真ん中を、見事に貫通している。

「少年、君はバーサーカーの剣に、私の矢が突き刺さっているのは見えるか」
「えっ……と、あ、はい一応。月が出てるから、どうにか」

 眼鏡の奥の目を細め、のび太が問いに答えた。
 外灯も少なく、その分月明かりが冴え、かつ夜闇に目が慣れたおかげだろう。
 それもあって、バーサーカーの斧剣を狙えた訳なのだが、のび太にはアーチャーの意図が未だに掴めないようであった。

「私の矢を楔、君の大砲を金槌と置き換えてみたまえ。それで解るはずだ」
「クサビ、とカナヅチ……? クサビ、ってなんですか?」

 ずる、とアーチャーの片足が滑る。
 慌てて電柱から落ちかける身体を立て直し、再び直立の体勢となると溜息を一つ。

「……そこからなのか。そういえばまだ小学生だったな」
「あ、あの、その、ごめんなさい」
「いや、謝られても困る。君を苛めているような気分になってしまう」

 悄然と謝るのび太に対し、アーチャーはばつ悪そうに顔を顰めた。
 小学生の物の知らなさをあげつらうなど、彼自身の性格からして決して許される事ではない。
 たとえのび太があまりに無知で無学で無教養で学力レベルが残念という、動かしがたい純然たる事実があったとしてもだ。
 しかしながら、のび太は決して察しの悪い方ではない。

「つまりだ、君はハンマーで私の置いた釘を岩の斧に突き立てた。そして、岩に切れ目を入れるにはもう一ヶ所……あとは解るな?」
「え~と……っ、ああ! そ、そういう事!」

 膝を打たんばかりに納得の声を上げたのび太を見、アーチャーはふっと鼻を鳴らした。






「――――そ、そうか、そういう事か!」
「そういう事よ。まったく、察しが悪いわね」
「うぐ」

 時を同じく、しかし場所を隔てて、のび太と同じような得心の声を上げた男が、女にダメ出しを喰らっていた。

「い、いや、流石に門外漢にヒントなしだと厳しいって……」
「そういうのを『節穴』って言うのよ。アナタ、本当に状況解ってる? 死んだ後でそんな言い訳したってどうしようもないのよ」
「…………」

 安全圏を確認する傍ら、士郎は凛がふと漏らした『アーチャーの作戦』という言葉に興味を惹かれ、小声で凛に尋ねてみた。
 すると。

『見てれば解るわ』

 そっけもなくそう言われたので、じっと事態の推移を観察していたが、皆目解らなかったようでむむ、っとしかめっ面になるだけ。
 察した凛が、呆れを堪えながら答えを開示すると、まさに目からウロコといったように声を上げたのであった。
 そんな士郎へ対する凛の刺すような言葉は心底からのもので、士郎の心を鋭利な言葉の刃で容赦なく貫いていく。

「やっぱり……アンタ、へっぽこね」
「ぐはっ!」

 それはもう、ぐさぐさと。
 いっそ清々しいほどの、追い打ちからのメッタ刺し。
 さながら某樽にナイフを次々突き刺していく、黒いヒゲのゲームの如くであった。
 しかし、そんな軽いやり取りとは裏腹に、二人の目は一騎打ちに張り付いて離れない。



「――――」
「――――」



 セイバーとバーサーカー。
 打ち合いからそちら、互いに得物を構えたまま、ぴくりとも動かない。
 否、動けないのだ。
 現状、セイバーとバーサーカーの地力は諸々の要素を鑑み、まさに伯仲している。
 そんな状況下で迂闊に仕掛けようものなら、仕掛けた自らの死を以て勝負の幕が下りてしまう。
 だからこそ、互いに微動だにせず機先を制し合っているのだ。
 そしてそれがゆえ、バーサーカーは彼方の狙撃手達(スナイパー)をどうする事も出来ないでいた。
 そちらに意識を割いてしまえば、たちまち窮地に追いやられてしまう以上、捨て置く他に選択肢はない。
 それに狙撃手達(スナイパー)の攻撃は、振るう斧剣の軌道を強制変更させ得るほどの精密性と威力を備えてこそいるものの、その頑健な肉体に傷を付けるには如何せん火力不足である。
 攻撃を悉く妨害されるのは業腹だが、自らを脅かすリスクが相対するセイバーよりも低い。
 ならば放置しておく方が無難である。
 理性の判断でなく、本能で狂戦士は判じていた。

「――――ふんっ!」

 機先を読んだか、セイバーがアスファルトの大地を蹴り、仕掛ける。
 こと『読み』に関しては、Aランクの『直感』スキルを持つセイバーがバーサーカーよりも一歩抜きんでている。
 研ぎ澄まされた第六感で先の先を取り、その鉛色の肉体を両断せんと不可視の剣を閃かせ、狂戦士へと迫る。

「■■■■■■■■■■■■■■■ーーーー!!」

 当然、バーサーカーはそれを迎撃にかかる。
 機先を取られたとはいえ、守勢を維持する事に重点を割いた以上、対応出来ない事などない。
 すぐさま右手の斧剣を振り翳し、迫る刃を叩き潰しにかかる――――が。

「……これで詰み(チェック)だ」
「ドッカァン!」

 またしても唸りを上げて襲い来る、二筋の流星。
 バーサーカーは、そちらに迎撃も防御も行わなかった。
 今、意識をそちらに移してしまえば、接近するセイバーに決定的なチャンスを与えてしまう事になる。
 堅牢な肉体を頼みに凶弾の対処に移る事も可能といえば可能だが、セイバーの太刀を喰らってなお、肉体が傷を負わないという保証は既にどこにもなかった。
 セイバーの力が上がっている事はこの場の誰もが認識している事。打ち合いのパワーにおいて、今やセイバーはバーサーカーと拮抗している。
 下手をすれば、バーサーカーの上半身と下半身は一刀の下に泣き別れであった。

「グッドタイミング! これで!」
「いける!」

 結果、徹甲弾の直撃の如き衝撃が斧剣を襲い、次いで鋭利な鉄の楔が圧縮空気の破城鎚で深々と打ち込まれる。
 指を鳴らす凛と片手でガッツポーズをする士郎の視線の先には、柄よりやや上の細い刀身部分に二本の矢が見事に喰い込んだ、狂戦士の斧剣が。
 そして彼方のアーチャーは『千里眼』で以てその様子を確認するや刹那の間も置かず、最後の仕上げに取り掛かった。



「――――弾けろ。『壊れた幻想(ブロークン・ファンタズム)』」
「■■■■■■■■■■■■■■■ーーーー!!」



 爆発。
 バーサーカーの右手の斧から突如爆炎と閃光が迸り、一拍遅れてバーサーカーの足元でどずん、と重たげな音が響く。
 アスファルトを砕き、深々と突き立ったそれは。

「……よし、成果は上々。武器破壊、完了だ」

 根元からへし折られた、バーサーカーの斧剣であった。
 敵の武器を破壊し、攻撃力を削ぐ。アーチャーの立てた作戦はそれに尽きた。
 たしかにアーチャーの矢ではバーサーカーに傷を付けられない。
 しかし、バーサーカーの持つ斧剣に関してだけはきっと違うと、攻防の最中、アーチャーは頭の隅で考えていた。
 その仮定を基に作戦を練り、実行に移して見事に狙い通りの結果を実現させた。
 ヒントとなったのは、のび太がバーサーカーの斧剣目掛けて放った“空気砲”の一撃。
 バーサーカーの肉体は、あの超圧縮空気の圧力を受けて揺るぎもしなかった。
 だが、斧に当てた時だけはあっさりと弾き飛ばされていた。しかも何度も。
 この事実が示すもの、それはつまり。

「バーサーカーの肉体……おそらくなんらかのタネがある……は、ある一定の威力以下もしくは一度喰らった攻撃を無力化する。だが」
「だが?」
「あの岩の剣に関してだけは、それは適用されないという事だよ。少年」

 無残に粉砕され、アスファルトの地面に亀裂を走らせている岩の刀身が、それが正解であると如実に物語っていた。
 比類なき膂力を生かし、獲物である大岩の斧を振り回してセイバーと鎬を削っていたバーサーカーであったが、ここに来て唯一無二の武器を失ってしまった。
 迎撃姿勢を矢と“空気砲”の衝撃で完全に崩され、しかも武器まで破壊されてしまっては、もはや堀のない裸城同然である。
 決定的な好機が生まれた。

「――――ぁあああああっ!!」

 セイバーの周囲が、突如陽炎のように揺らめき始める。
 彼女の持つスキル、『魔力放出』。
 ジェット推進機関のように、高圧縮した魔力を身体から放出する事で瞬間的かつ爆発的に、己が力を上昇させるこのスキル。
 この瞬間を逃すまいと、セイバーは切り札の一枚を迷わず切った。
 身体中で荒れ狂う魔力をブースターに、セイバーは一気に狂戦士へと間合いを詰める。
 そして完全にバーサーカーの間合いを侵し切り、刃を鋼の肉体へと振り下ろそうとした、その瞬間。

「■■■■■■■■■■■■■■■ーーーー!!」

 狂戦士が思わぬ行動に出る。
 見ていた全員の目が、ぎょっと見開かれた。

「な、なななんだぁ!?」
「体当たり!? いえ、吶喊!」
「ち、詰めが甘かったか」
「まさか捨て身かよ! セイバー!」

 死中に活とは、まさにこれ。
 あろう事かバーサーカーは、役立たずと化した斧を即座に投げ捨て、全体重を乗せて前に踏み出した。
 手に武器がなければ、己が身体を武器とするのみ。
 危険を顧みず、両の手を握り鋼の拳へと変貌させ、セイバーの華奢な身体を砕かんとする。
 バーサーカーは薄々とではあるが、気づいていた。
 アーチャーとのび太のコンビが放っていた攻撃が、何を狙ってのものだったのかを。
 距離的問題から、バーサーカーはアーチャー・のび太を捨て置いたが、しかし決して油断はしていなかった。
 既に予兆はあった。
 幾度目であったか、のび太に斧剣を逸らされた時、バーサーカーは躊躇いなく斧剣を掴む手とは逆の腕で反撃を行っていた。
 武器を失った状況を予期しての動きが、そこにあった。やや酷ではあるが、アーチャーの失点と言わざるを得ない。
 結果として、バーサーカーは一か八かのクロスカウンターを敢行した。
 そして相手が攻撃に移るその一瞬こそが、カウンターが最も威力を発揮する瞬間なのである。

「くっ!」

 セイバーが歯噛みする。
 もう躱せない、捌けない、防げない。バーサーカーの拳は、空気を突き破る砲弾だ。
 体勢は既に攻撃段階、防御や回避に切り替えられる余裕など残されていない。
 そして今、まさにセイバーの側頭部にその凶悪なハンマーが叩き付けられんとして。



「……この、間に合ぇえええっ!」



 ――――びたり、と。
 突如として、バーサーカーの動きが止まった。



「「「「……え?」」」」



 四者それぞれの、呆けた声が木霊する。

「――――」

 その場に、彫像のように釘付けとなったバーサーカー。意識があるのかどうかも、甚だ怪しい。
 あの重油のように重苦しく、強烈な殺気が嘘のように鳴りを潜めていた。
 しかし、それもほんの一瞬。

「■■■■■■■■■■■■■■■ーーーー!!」

 一時停止を解いたようにバーサーカーが再び猛り、剛腕が元の速度で動き出す。
 だが、既に形勢は逆転していた。
 セイバーにとっては、その降って湧いたような刹那の間で十分だったのだ。



「――――かぁああああっ!」



 瞬時に足の裏に魔力を圧縮、そして起爆。
 体勢を低くしたセイバーは、猛烈な推進力でバーサーカーの剛腕を掻い潜った。
 まさに紙一重。金糸のような彼女の髪が数本、闇にはらりと散る。
 カウンターという技術は決まれば強いが、逆に不発に終わればその瞬間、致命的な隙が生まれてしまう、言わば諸刃の業。
 ひりつくような拳圧の名残を全身で感じながら、彼女は踏み台よろしくバーサーカーの身体を駆け上っていく。
 そして頭頂部。バーサーカーの頭の高さまで身体を浮かせたその時、セイバーの瞳がそれを捉えた。
 バーサーカーの向こう側、距離にしておよそ百メートルは離れたその位置に。

「やはり、でしたか」

 彼女の唇が半月状に吊り上がる。
 視線の先にあった光景、それは。



「刹那の“早撃ち”。お見事です……ノビタ」



 右腰のピストルを抜き放って滞空する、のび太の姿であった。
 滝のような冷汗を流した顔は、緊張の糸が切れて気の抜けた表情となっている。
 最初の読みの通り、威力は足りず。しかしほんの一瞬だけ、その効果は発揮された。
 彼の右手に握られた“ショックガン”は、ここ一番で見事大仕事を果たしたのであった。

「これで――――仕留めるっ!」

 そして一撃。
 渾身の力と共に、セイバーの視えない剣が振るわれる。
 狙い違わず、その一閃はバーサーカーの首元に吸い込まれ。

「せいっ!」

 夥しい鮮血を散らして、その首を宙に刎ね飛ばした。






「お~お、ド派手なこって。あのバケモンを斬首刑かよ。ケケ、実質三人がかりとはいえ、やるじゃねぇか。けどま、あのバケモンがこれで終わりたぁ思えねぇけどな……あ? おいおい、あのクソガキ生首見て気絶しちまいやがったよ、クハハ! やっぱ根本はヘタレだね、あのガキは……ま、お子様には刺激の強すぎる光景だわなぁ、ヒヒヒヒ……!」

 ケケケケケ。
 心底面白がっていると言わんばかりの、けたけた嗤いが暗闇に響き渡る。
 だが、それも束の間。
 唐突にぴたりと嗤い声が止み、今度は幾分落ち着いた低い声へと変わる。



「……さて、締めが気になるが見物はここまでにしとくか。宿題は早めに片づける、ってね。とりあえず、今日はあのクソムシだな。放っとくとイロイロとメンドくせぇからなぁ、あのヤローは……ま、気分もイイし、ちゃっちゃと引導を渡しに行ってやるとしますかねぇ……ギャアッハハハッハハハハハッ!」



 その哄笑、まさしく狂ったよう。
 この戦争の闇はその在り様よろしく、文字通り闇に溶けるようにこの場から退場した。






 ――――漆黒の空の中天で、月が燦然と輝いていた。








[28951] 閑話1
Name: 青空の木陰◆c9254621 ID:90f856d7
Date: 2015/02/13 16:32






「よぉジジイ、お楽しみのところワリィんだけどよぉ……ちょっとこの世から消えてくんねぇか?」



 薄暗い……いや、文字通り闇に染まった石造りの地下室。
 中には独特の湿っぽい空気、そして鼻が曲がりそうな凄まじい臭気が漂っている。
 腐った死体でも置いてあるかのような、凄絶な腐乱臭。
 一般人なら即座に鼻をつまみ、嫌な予感に苛まれ脱兎の如くそこから退避するだろう。
 だが、ソレだけは違った。
 鼻を覆う様子もなく超然と石畳の上に佇み、挙句嘲り笑いを浮かべ不遜な言葉を闇に向かって投げかける。
 いったいどんな神経をしているのか。決してまともなものではない事は窺い知れる。
 あるいは、これこそがソレにとっての『正常』なのかもしれないが。



「――――カカ、イキナリ失礼じゃのヌシは? 最近の若者は他人の家の尋ね方も知らんのか?」



 もう一つ、今度はしゃがれた低い声が闇の石室に木霊する。
 まるで百を超えた老人のような声。この地下室の異様な雰囲気と相まって壮絶な怖気を誘われる。
 だがソレはまるで怯えた様子を見せず、むしろ愉快そうに凶悪な笑みを浮かべた。

「あん? 知るかんなモン。第一こんな地下室に玄関なんてあるわきゃねぇだろうが。で、返事は? 『はい』か? 『Yes』か?」

 あくまで挑発する姿勢を崩さない、どこまでも傲岸不遜な言動。
 しゃがれ声は今度は震えるような嗤い声を漏らした。

「クカカカ! 遠慮のない物の言いようじゃの、若いの……ま、姿を隠したままなのもなんじゃ。顔を合わせて話すとしようかの」
「オレはさして見たかねぇんだけどなぁ、テメェの小汚ぇツラなんざ。まあ折角こんな薄汚ぇトコまで来たんだ、好きにしやがれ」

 その言葉を合図として闇の中から、ゆらりと一人の小柄な老人が浮かび上がってきた。
 杖をつき、着物を身に纏ったこぢんまりとした体躯。
 それだけならまだ普通の老爺なのだが、しかし明らかにこの老人は異様であった。

「――――カカッ」

 落ち窪んだ両の目。
 光を宿さぬ濁りきった瞳。
 髪も髭も、眉すら一筋もない、まるで骸骨のような顔つき。
 そしてなにより、その全身に纏った不吉な気配。
 老人の姿をしたナニカが、そこにいた。

「さて妖怪ジジィ、返事はどうした?」
「カカ、言うまでもなかろうて。何故儂が死んでやらねばならん?」
「こっちの面倒事が減る。それにいたらいたでオレの宿題をポンポン増やしてくれそうだからな、テメェは」
「ふむ? 意味はよく解らんが、随分と自己中心的な理由じゃの」
「ヒトの事言えたクチかよ。数百年ムリヤリ生きてきたせいで耄碌してんじゃねぇかジジィ? 完全にボケて醜態晒す前にとっとと地獄へ行ってきやがれ」

 六文銭は自腹でな。
 ソレは挑発に挑発を重ねる。
 対する老人は飄々とそれらを受け流して、泰然としている。

「……そういえば、まだヌシの名前を聞いておらなんだのう?」
「それこそどうでもいいんだよ、クサレジジィが。テメェは今この時、ここで死ぬ。それは決定事項だ。オレの名前なんざ聞いたところでたいした意味はねぇんだよ。第一もったいねぇしな。という訳で、さっさと死ぬかくたばるかしろ」

 一刀両断。
 ばっさりと要求を斬って捨てると、ソレは老人に向かって最後通牒を突き付けた。

「……フン」

 その時、老人の目が怪しく輝く。
 そして右手についていた杖を持ち上げ、カツンと床を軽く鳴らした。

「あん?」

 首を傾げたソレ。
 しかしその一瞬の後、なんとも怖気を誘う光景がその場に出来上がっていた。



「――――はあん。ったく、シュミのワリィこって。だからテメェは気にいらねぇんだよなぁ。まさに『ムシが好かねぇ』っての? ケケケケケ!」



 蟲、蟲、蟲。
 数えるのも億劫なほどの大量の蟲が、老人の周囲に広がっていた。
 しかも、その蟲はただの蟲ではない。
 『刻印虫』と呼ばれる、人間を喰らって己が血肉とする外道魔術の蟲なのである。
 男性器を彷彿とさせる見た目と相まって、醜悪そのものであった。

「生憎と、儂はまだ死ぬ訳にはいかんのでな。蟲どもは女が好みなんじゃが、まあヌシでも構わんじゃろう。何者かは知らんが、存外に力があるようじゃしの」

 ざざ、とさざ波のように蟲がざわめいたかと思うと、今度はあっという間にソレの周囲を隙間なく取り囲む。
 数の暴力。
 如何に親指大の小さな蟲とはいえ、それが何百何千と集まればそれだけで脅威となりうる。
 老人の自信はこの数の優位性から来ていた。

「は、これが回答って事かよ。まあ予想してたけどなぁ――――だが蟲ジジィよぉ。いくらなんでもナメすぎじゃねぇか? こんなクソムシどもの栄養になっちまうほど、オレは弱かぁねぇぞぉ?」

 しかし、それでもなお嘲笑う。
 これでもかとばかりに嘲笑う。
 狂気の嗤いを顔に貼り付け、ソレは徹底的に老人の浅慮を嘲笑っていた。

「それになぁ……」
「―――カカッ」

 かつん、と響く杖の音。
 それを合図に数百匹はあろうかという『刻印虫』がソレ目掛けて飛びかかる。
 砂糖に群がるアリの大群のようであった。



「――――オレが手ぶらで来てるとでも思ってんのか?」



 だが次の瞬間、飛びかかったすべての蟲が真っ二つに切り裂かれ、冷たい石の床へ悪臭漂う体液を撒き散らした。

「ぬ!?」

 目を見開く老人。
 その視線は無残に切り刻まれた蟲ではなく。

「あん、なんだジジィ。斬られたクソムシよりコイツがそんなに気になるかよ?」

 徒手であった筈のソレの右手に握られた、一振りの日本刀。
 その一点に注がれていた。

「まあ、コイツはオレの本来の得物じゃあねぇんだが、なかなかに使い勝手がよくてよぉ。なんせオレみたいな剣の素人がただ振ったって、百戦錬磨の達人と渡り合えるってバケモン刀だからなぁ。ケケケ……」

 右手の刀を血振りの要領で軽く一閃、そのままおもむろに歩き出す。
 ぐちゃぐちゃと、その足元で粘性のあるナニかが潰れる音が響き周囲に反響する。
 『刻印虫だったモノ』を踏み潰しながら、ソレはくっくと心底楽しげに咽喉を鳴らして嗤っていた。

「ヌシは……もしや、サーヴァントか?」
「だ~いせ~いか~い……って言いてぇところだけとちょっと違うんだな、これが。でも教えてやらねぇよ。これからくたばるヤツに説明しても無駄だからな」
「ホッ……言いおるわ、御主人様(マスター)の飼い犬風情が」

 再び響く、杖の音。
 今度は先程の倍の量の『刻印虫』が襲い掛かってくる。
 ソレの前方、後方、左右から迫る様は、さながら津波のようであった。

「ちっ……メンドくせぇ。やっぱ最初からコレ使っとくべきだったかぁ。遊びがすぎちまったぜ。ま、わざわざこんな魔窟くんだりまで来てる事自体お遊びみたいなモンだけどよ」

 反省反省、と。
 まるで反省してそうもないような軽い口調で呟くと右手の刀を肩に担ぎ、ぐっと左手を握り込む。
 そのまま視線を上げ、冷めた目で眼前の蟲の大群を見据えると静かに告げた。



「――――消えな、クソムシども」



 かちり。
 ソレの握り締めた手の中で軽い音が鳴った。
 その途端、圧倒的物量を以てソレを包囲していた『刻印虫』が一匹残らず、ソレの周囲から忽然と消え去った。



「ぬ!? ……ヌシ、なにをした!?」



 またしても起こった予想外の出来事に、遂に老人の表情から余裕が消え失せた。
 疑問と焦燥、驚愕と、そしてほんの僅かの恐怖。
 初手は頼みとしていた蟲を日本刀で細切れにされ、今度は武器すらも一切触れる事なく蟲の存在を、まるで霞のように綺麗さっぱりと消し去られた。
 老獪な老人の鉄面皮が剥がれ落ち始めたのも、無理からぬ事であった。

「いや、見て解んねぇかジジィ? 鬱陶しかったからクソムシどもを消したんだよ。ここに来て遂にボケが始まったか?」
「消した……じゃと?」
「だからそう言ってんだろ。繰り返し言わせんなよ」
「バ、バカな……何故そんな事がおヌシに出来る?」
「あぁん? まあそれぐらいならいいか。ケケケケ、タネはコイツだよ」

 薄ら嗤いを浮かべながら、ソレは左手の中にあったモノをボールのように放り投げて弄ぶ。
 老人の目がそれを捉えると、表情がさらに不可解なものへと変わった。

「それは……」
「コイツもまあ借りモンなんだけどなぁ、なんかオレの色に染まっちまったのよ。だから機能の多少の改竄は出来るワケ。本来ならコイツで消された対象は消した本人……つまりオレ以外は覚えてねぇハズなんだが、なんか勿体ねぇしよ。折角だから覚えていられるようにしたってこった。ついでに言や、消されたら二度と戻って来る事はねぇぞ」
「う……ぬ?」

 余裕綽々と語る目の前のソレの言葉に、老人の疑問は増すばかり。
 話の内容に脈絡がないため、ソレがなにを言っているのかさっぱり理解が追いつかない。
 そんな様子を知ってか知らずか、ソレは唐突に説明を打ち切った。

「さて、質問には答えたやったぜ。オレって親切だろ? まあ、テメェが理解出来たかどうかは知らねぇけどなぁ、ヒャハハハ! ……さぁて、いい加減冥土へ旅立つ覚悟は出来たか?」
「……ぬうぅ」

 刀で捌かれた『刻印虫』の死骸を踏み越え、ソレは老人へとゆっくりゆっくり迫っていく。
 その表情は嗜虐心がこれでもかとばかりに溢れる、どこまでも暗い嗤い顔。
 見る者に狂気と絶望を抱かせる、どす黒い瘴気を華奢な全身から迸らせ。
 漆黒よりもなお深く、果てしなく黒く濁りし双眸から放たれる異常な威圧感は、老人のそれの比では断じてない。
 右手に『白刃』を、左手に『絶対抹消の理』を携え、この戦争の『闇』は聖杯戦争を興せし『御三家』の当主の一……間桐臓硯を、この戦争から抹殺(デリート)しにかかる。



「儂は……儂はまだ死ぬ訳にはいかん! いかんのだ!! 聖杯をこの手にするまで、死ぬ訳には……!」



 臓硯が叫ぶ。
 それを合図に再び『刻印虫』が地下室の奥からわんさと湧き出し、ガサガサと蠢きながら臓硯の周りに集い始めた。
 この自分以上のバケモノに己は目を付けられた。仮にこの場から逃げおおせても、このバケモノは自分を闇に葬るまでどこまでも追いかけてくる。
 ならばこの場で消すしかないと、臓硯は焦燥の中でも冷静に判断していた。
 そしてその判断はどこまでも正しい。

「おおっと、まだそんなに残ってやがったか! まあ抹消(デリート)の対象はオレの周りにいたクソムシどもだけだったからなぁ。あぶれたヤツらがいるのも当然か」

 びちゃりと足の下の『刻印虫だったモノ』を蹴り上げ、この戦争の『闇』は嗤いながら担いでいた白刃を構える。
 一方で左手を握り締め、新たに湧き出した数百匹の『刻印虫』と臓硯を諸共に消し去ろうとする。

「クカカ! させはせんぞ、若いの!」

 しかし一瞬早く、臓硯が『刻印虫』を『闇』目掛けて一斉にけしかけた。

「ちっ。だが、無駄無駄ムダムダむだぁ! ヒャアッハハハハハハ!」

 斬る、斬る、斬る、斬る、斬る。
 右手の白刃が閃き、雪崩のように押し寄せる『刻印虫』を一匹一匹、あるいは数匹纏めて確実に屠っていく。
 もはや刃の動きは肉眼で追う事は不可能。
 刃が大気を切り裂く音だけが、刀が振られているのだという事を示す唯一の証明となっている。
 高速の太刀捌きが生み出す『闇』の前面の空白地帯は、さながら『剣の結界』だ。
 細切れにされた『刻印虫』の成れの果てが、汚物の雨となって石畳に水溜りならぬ肉溜りを作り上げていく。

「ハハハハハハ――――あぁん?」

 『刻印虫』の虐殺に精を出していた『闇』であったが、ふと視界の中からいつの間にか臓硯が消えている事に気づき、僅かに首を傾げた。
 ついさっきまで視界の片隅に捉えていたのである。
 その時の表情は、『闇』をして思わず腹を抱えて嗤い出したくなるような、それはそれは悲壮感漂うものだった。
 しかし、いない。

「クソムシどもを囮に逃げ出したか? いや、あの表情を見る限りじゃその可能性は低い。ってえ事は、だ……」

 にぃい、と『闇』の表情が歪む。
 面白いとでも、言わんばかりであった。

「死角からの強襲か」

 そう呟いた次の瞬間、『闇』の背後と頭上から大量の蟲が躍りかかって来た。
 さっきの攻防では正面からしか来なかったため、後背と頭上に隙が生じていた。

『カアアアアアア!』

 臓硯は五百年の時を生きてきた魔術師である。
 だが、ヒトの身ではせいぜい百年程度しか生きられない。
 そのため臓硯は遥か昔にヒトである事を止め、己が肉体の在り様を変貌させた。
 『刻印虫』が喰らう人間の血肉を己が肉体として蟲諸共再構成し、常時肉体を新しい物へと再生させる。
 そうして臓硯はヒトではなく『刻印虫』の群体として、五百年の歳月を生き永らえていたのである。
 臓硯は『刻印虫』を目晦ましにしつつ己が肉体を夥しい数の『刻印虫』へと戻し、『闇』が襲い掛かる『刻印虫』を屠っている隙にそれとなく『刻印虫』の群れに己を紛れ込ませ、素早く死角へと回り込んだ。
 ある意味では『肉を切らせて骨を断つ』戦法。
 己が眷属である『刻印虫』を犠牲にし、乾坤一擲の奇襲で捕食、目の前の脅威を葬り去る。
 その目論見通り、臓硯は死角から『闇』へ喰らいつかんと仕掛けた。

「目の付け所は良かったが……生憎だったなぁ。コイツは自動追尾なんだよ、しかも前後左右関係なしになぁ!」

 しかし、『闇』は振り返りもせず、頭上を仰ぎもせずにただ出鱈目に白刃を振るう。
 その斬撃は前面後背上下左右、三百六十度すべての間合いをカバーしきっていた。
 『闇』の意図するしないに拘らず、白刃は縦横無尽に襲い来るそのすべてを切り裂き、薙ぎ払い、突き穿つ。
 まるですべてが見えているかのように、まるで刀自体に意思があるかのように。
 果たして刀を振るっているのか刀に振り回されているのか。
 真実はもはや、担い手にしか解らない。

『グオッ!?』

 眷属諸共に屠られる『肉体』。
 対処など不可能と思っていたはずのものがひっくり返され、瞬く間に『刻印虫』の数が減らされていく。
 既に半数近くがあの白刃の餌食となり、このままでは臓硯の肉体の構成にも支障が生じるレベルにまで陥る。
 そうなる前に、臓硯は一旦身を引いた。

「ぬ……ぐぅ!」

 『闇』から幾分離れた場所で、臓硯は歯軋りしながらけしかけていた『刻印虫』を寄せ集め、肉体の再構成を開始する。
 だが、それは下策も下策。
 必要に迫られていたとはいえ、臓硯の選択は単に『闇』に十分すぎる好機を与えただけにすぎなかった。

「おいおいジジィよぉ。オレから距離取っていいのかよ? テメェ、コイツの存在を忘れてんじゃねぇか? やっぱもう耄碌してやがんな、ケケ!」

 溜息交じりに言い放ち、臓硯に向かって左手を開く『闇』。
 掌の上には、スイッチのような物が一つ存在していた。
 狂笑のまま刀を一振りし、『闇』はこびりついた蟲の血肉を振り落すと左手を閉じる。

「カッ!? 待っ」
「てやらねぇ。ケケケ、あばよクソジジィ。この地下の全クソムシ諸共、とっととオレの目の前から失せやがれ」
「ガアアアア!!」

 かちり、と鳴る乾いた音。
 絶望の叫びの余韻だけを残し、醜悪な蟲の老人は『闇』の視界から消え去った。






「……ふん、こんなモンか。なんつーか……あっさり終わりすぎて、面白くねぇな。直にあの世に送った方が面白そうだからわざわざ足運んだっつうのに」

 鼻を鳴らし、『闇』は周囲を見渡す。
 白刃の餌食となった『刻印虫』の骸がそこかしこに、それこそ足の踏み場もないほど散らばっている。
 加えてそこからなんとも言えない悪臭が立ち上り、この空間の淀んだ空気をさらに悪化させている。

「邪魔くせぇな」

 ぼそっと言い放った『闇』。
 刀を掴んだままの右手を前方に突き出し、人差し指を眼前の遺骸の山へと向けると。



「―――――『チン・カラ・ホイ』」


 呟く。
 すると指先にあった『刻印虫』の遺骸が黒い炎に包まれ、瞬く間に黒い消し炭にされていった。

「ちっ。やっぱパクリの呪文と“即興で創った魔法”じゃこんなモンか? 思ったより威力がねぇ。便利なんだがメンドくせぇな、あの“事典”。こちとら教育なんざマトモに受けちゃいねぇんだぞ、ハッキリ言ってあのクソガキよりも……あ~、まあいいか」

 黒髪を掻き毟り、“ナニカ”について毒づく『闇』。
 だがその間もその手は止めず、辺りに散乱している『刻印虫』の遺骸に次々と黒い炎を灯していく。
 やがて周囲には真っ黒に炭化し、もうもうとした煙を上げる“遺骸だったモノ”と、タンパクの焼けついた臭気だけが残された。

「ふぅ、や~っと終わったぜ。あのクソジジィ、どんだけクソムシ飼ってたんだよ、まったく。くたばってまで手間取らせんじゃねぇよハゲが!」

 悪態混じりに手近にあった消し炭を荒々しく蹴り飛ばす。
 ぼふ、と黒い灰が舞い上がり、石畳に地下室の奥へと続く一筋の路が出来上がった。

「けっ……さあて、と」

 一通り鬱憤を晴らし終えると、『闇』は地下室の奥へと歩き出す。
 そこは『刻印虫』が湧き出してきた場所、臓硯が使役していた蟲達の巣穴。
 ただでさえ薄暗い地下室の中にあって、さらに深い闇を湛えたその場所。



「……おい、さっさと起きやがれ“女”。じゃねぇと犯すぞ?」



 そこに一人の少女がいた。
 学生服を身に纏ったまま冷たい床に横たわり、ぴくりとも動かない。否、動こうともしない。
 微かに身体が震えているところを見ると、どうやら死んではいないようだ。

「ちっ。ったく、テメェまで手間とらせんじゃねぇよ。おら、起きろっつってんだろ!」

 語調荒く、『闇』はその華奢な身体を容赦なく蹴り飛ばした。
 ごろりと力なくその場で転がり、少女は強制的に仰向けにされる。
 青く長い髪が振り乱され、石畳の上にばさりと散らばった。
 そしてその少女の表情はというと。

「あん? なんだテメェ、死んだ魚みたいな目ぇしてやがんな。あの蟲ジジィにさんざん可愛がられたからか?」
「……ッ」
「図星か、ケケ」

 きゅっ、と少女の唇が噛み締められた。
 ゆるゆると顔を自分を睥睨する『闇』へ向け、じっと視線を送る。
 この地下室の暗さのせいで、顔など視えようはずもないが。

「なんだ? 気に障ったか? ハッ、テメェなんぞに凄まれたって別になんとも……ぁあ?」

 へらへら嗤っていた『闇』の目つきが、突然鋭くなった。
 その視線は、少女のふくよかな胸元に注がれている。
 といっても、別段よからぬ感情に突き動かされたという訳ではなかった。
 『闇』のある点において図抜けた尋常ならざる感覚が、この少女の内に潜む『ナニカ』を感じ取っていた。

「……?」

 急に静かになった『闇』に、少女は仰向けの状態のまま僅かに首を傾げる。
 すると『闇』は徐に身に着けている紅い腰巻から“ナニカ”を引っ張り出した。
 どす黒く漆黒に染まった袋状の“それ”。その中に『闇』は手を突っ込むと、取り出す。
 人差し指を突きだした巨大な手が付いた、円盤状の奇妙な帽子を。

「どれ?」

 頭にそれを乗せ、なおも少女に視線を送り続ける『闇』。
 傍から見れば甚だ違和感の漂う光景だが、やがて『闇』の表情が険しく歪められた。



「やけにあっさり終わったと思ったら……こういうカラクリがあったとはなぁ、クソジジィが!」



 ぱちん、と『闇』が指を鳴らす。
 次の瞬間、『刻印虫』に酷似した小さな蟲がなんの前触れもなくその場に出現し、『闇』と少女の間の空間に浮かび上がっていた。

『ゥヌ!? こ、これは一体……!?』
「まさか魂を二つに『株分け』して、この女の体内に隠してやがったとはなぁ。随分と狡いマネしやがるじゃねぇか。おかげで見逃すトコだったぜ」

 キーキーと甲高い声を上げる蟲。
 それはあの時消え去ったと思われていた間桐臓硯の魂の分身、スペアとも呼べる存在であった。
 万一に備え、臓硯は魔術で以て己の魂を二つに『株分け』し、その片方をこの小さな蟲に宿して少女の体内に隠匿していたのであった。

『ば、馬鹿な!? なぜ儂の存在を……!? それにどうやってこ奴から儂を摘出した!? 儂はこ奴の心臓と完全に……!?』
「癒着していた、だろ? ハッ、透視(クレヤボヤンス)で見たら一発で心臓にいるって解ったぜ。他にもなんかヤケに覚えのある“ブツ”をクソムシに仕込んで、コイツに突っ込んでるコトとか粗方な。もっとも、オレ相手にクソムシ特有のミョ~な気配を消せていなかった時点でテメェは“詰み”だったワケだがよ」
『ク、透視(クレヤボヤンス)……じゃと!?』
「そ。で、瞬間移動(テレポーテーション)でテメェを心臓から引っこ抜いたってワケ。そもそも癒着してたら取り出しにくいだろうって考えたんたろうが、そりゃあくまで“外科的に”ってコトだろ? 瞬間移動(テレポーテーション)なら癒着してようがなんだろうが、んなモンま~ったく関係ねぇしな」
『……その妙な帽子が手品のタネか?』
「お~、百点満点。だいせ~いかい! ちなみにテメェがこの場に浮いてるのは念力(テレキネシス)で浮かせてるんだがな」
『…………』

 透視(クレヤボヤンス)、瞬間移動(テレポーテーション)、念力(テレキネシス)。
 これほど多彩な能力を扱え、しかも発動するのに一秒と掛からない。
 先程振るわれた“刀”といい、己が片割れと『刻印虫』を根こそぎ消し去ったあの得体の知れない“スイッチ”といい……目の前の、己以上の“バケモノ”は一体どれほどの力を秘めているのかと。

『…………ッ』

 臓硯はこの時、心の底から畏怖と……そして『恐怖』を感じた。
 もしかしたら、それはこの老人にとって、初めての事だったかもしれない。

『儂は、儂は! ここで死ぬ訳にはいかぬのだ! 聖杯をこの手に、そして不老不死に……不老不死にならずして、死ぬ訳には……!」

 もはや金切り音に近い絶叫を上げ、蟲の身体をくねらせる臓硯。
 その矮小な、だが甚だ異質な外見からしてその悪あがきはみっともなかった。

「うるっせえなジジィ、この期に及んで喚くんじゃねぇよ。ったく……そもそもジジィよぉ、不老不死とやらになって」

 溜息とともに『闇』が呟く。



「――――結局なにがしてぇんだよ?」



 その言葉を聞いた瞬間、雷に打たれたかのように蟲の身体がびたりと動きを止めた。
 金切り声も止んでいる。

「なにが……したい? “不老不死となって、なにがしたい”?」

 ぼそり、ぼそりと繰り返される。
 記憶の底を浚うように。

「――――そうか、そうだった。儂は……いや、儂が目指していたモノは……もっと、もっと……! その実現のために、費やされる永い時を生きるために、儂は、不死を……!」

 蟲の述懐が、闇に響き渡った。
 大切なものを思い出したかのような、奇妙な余韻がその声に滲み出ていた。

「……さて、懺悔は終わったか?」

 だが、唐突に終わりは告げられる。
 再び狂笑を漲らせた『闇』が、左手の“ソレ”に指をかけた。

「ギッ!?」
「テメェがなにを思い出したかは知らねぇし、興味もねぇが……ま、とっとと逝けや。これ以上、オレの時間と労力を割かせんじゃねぇ。この女の中の全クソムシともども――――間桐臓硯、この世から消え失せろ」

 かちり。
 刑執行の音が鳴る。



『ア、アアアアアアアアアアアアアァァァァァァァァァーーーー―――』



 この瞬間。
 間桐臓硯はこの世から完全にその肉体と魂を抹消された。






「……けっ、やっと終わったか。ったく、やっぱ遠隔でさくっと殺っとくべきだったかなぁ、今なら出来る事だし。それだと面白さは半減以下だけどな」

『白刃』と『絶対抹消の理』、それから『指付き帽子』を黒い『袋』の中に仕舞い込み、その『袋』を腰巻へと突っ込む。
 そしてもうここには用はないとばかりに、さっと踵を返した。
 が。

「ぅう……」

 唐突に、その足が止まる。
 『闇』が振り返ったその視線の先には、上半身を無理矢理起こした少女がいた。
 瞳はまだ茫洋としているが、意識は先程よりもはっきりしているようだ。

「……どうして、わ、たしを」
「ああ、『殺していかないのか』ってか?」

 疑問を言い当てられ、少女は口を噤む。
 『闇』はそれを気にする事もなく、心の底から面倒そうな表情で口を開いた。

「お前、オレがジジィ始末した時『自分も殺してくれ』って思っただろ」
「…………」
「だからだよ」
「……ぇ?」

 意図が汲み取れず、少女は首を傾げる。
 次に『闇』の口から出てきたものは、いっそ突き放した物言いであった。



「生憎、死にたいと思ってるヤツにワザワザ引導を渡してやるほどオレは慈悲深くねぇの。んなメンドくせぇコト誰がするかよ。死にたきゃ勝手に死ね。そもそも殺りに来たのはジジィだけであって、テメェは勘定に入ってねぇんだよ」



 あまりにもな言葉の数々に、少女の表情と身体が石膏像のように硬直する。
 どうも予想していた言葉と遥かにかけ離れていたため、相当な衝撃であったようだ。

「テメェ一人で自殺する度胸もねぇクセによ、だから他人に頼んで殺して貰おうってか? ムシが良すぎんだよ。つーワケで、せいぜい絶望を抱えたまんま残りの人生を生きてくこったな。ケケ」

 最後に嗜虐に歪んだ嗤い顔を残し、今度こそ『闇』は踵を返した。

「あ、そういやテメェの中からジジィが仕込んだ“ブツ”を取り出すの忘れてた……んー、でもまあいいか。テメェの中のクソムシは全部消えてるし、よっぽどの事でもなければ変な暴走もしないだろ。ま、したらしたで面白そうだけどよ」

 なんか親和性高いからパニックはさぞ見モノだろうしなぁ。
 そんな事を呟いて、けたけた嗤いながら『闇』はゆっくりと地下室の隅へと歩いてゆく。
 呆然としたまま、少女はその背中を見つめるだけ……ではなかった。

「あな、たは……誰、なん、ですか?」

 辛うじて、その疑問だけが彼女の口からこぼれ出た。
 『闇』はもう一度だけ足を止め、今度は首だけを後ろに倒して少女と視線を合わせた。
 交錯する互いの視線。びく、と少女は肩を震わせる。
 それを見た『闇』は、にぃいっと唇を吊り上げた。

「あん? オレか? オレはなぁ――――」

 冗談とも、本気ともつかない口調で。
 『闇』は、彼女にこう告げた。



 ――――『悪』のカミサマだよ。



 それで本当に終幕。
 チン・カラ・ホイ、と紡がれる呪文。
 足元から漆黒の炎が立ち上り、それに取り巻かれた『闇』はこの地下室から忽然とその姿を消した。

「――――ま、個人的都合で『悪』にとっての『悪』もやってるけどな」

 最後にぼそっと呟かれたその余韻が、地下室の湿った空気を通じて部屋中に木霊した。

「……セン……パイ?」

 炎の揺らめきに照らされ、微かに浮かび上がったその顔貌。
 その言葉を呟いた直後、彼女……間桐桜は肉体と精神の疲労から、再び意識を失った。






「――――さて、しばらくは静観だな。とりあえずは、あのクソガキのウォッチングと洒落込みますかねぇ……ポケットのリンクがブチ切れて、ついでにオレにパチられてひみつ道具の大半がなくなってるこの究極縛りの状況下で、果たしてテメェはどう動くよ? ま、強力なブツの粗方がないとはいえコピッただけのヤツも結構あるし、ワビ代わりに別のモンを二、三アイツにブチ込んであるからどうとでもするだろうがよ。せいぜい気張って生き延びやがれやクソガキ! ケケケケケケケケケケ……!!」








[28951] 第十五話
Name: 青空の木陰◆c9254621 ID:90f856d7
Date: 2015/02/13 16:33






「――――し、しずかちゃん!? なんでそんなムキムキに……それにどうしてぼくを追いかけてくるのさ!? って足速ッ――――っ、はっ!?」



 がばと跳ね起きると同時に、はっとその目が開いた。

「……ゆ、夢?」

 上半身を起こした体勢で、のび太の唇が動く。

「だった……のか」

 つ、と視線を下に落とせばそこには布団があり。
 枕元には見慣れた丸メガネ。

「っと」

 横に目を移せば壁と、襖と障子。
 そしてほのかに香る畳の匂い。
 間違いなく、ここはどこかの家の一室であった。

「――――は、はぁあああ、よかったぁ……しずかちゃんがマッチョになって追いかけてくるなんて、そんな事あるはずないよね。ホント、夢でよかったぁ。いや、追いかけてくれるのは嬉しいんだけどさ、流石にアレはちょっと……」

 額の汗を手で拭い、のび太は盛大に安堵の溜息を吐いた。
 言葉尻から察するに、見ていた夢は乙女の尊厳もへったくれもないものであったようだ。
 これまでの経緯を考えれば、ある意味仕方がない事なのかもしれない。
 あんまりではあるが。

「ふぅ……それにしても、ここはいったいどこなんだろ?」

 改めてのび太が周囲を見渡していると、襖の向こう側から声が響いてきた。

「――――ん? のび太君、起きたのか?」
「あっ、士郎さん?」

 のび太がメガネを装着すると同時に襖が開かれ、その先に士郎が立っていた。

「じゃあここは……やっぱり士郎さんの家なのか」
「よかった、あの時いきなり気絶するもんだから心配してたんだが、その分だと大丈夫みたいだな」

 士郎のその言葉に、のび太の首が傾く。
 眉根が、不可解そうに歪められていた。

「あの時、って?」
「ん? もしかして……覚えてないのか、のび太君?」
「はぁ。えーと、たしか」
「い、いや、無理に思い出さなくていい! と、とにかく起きたんなら居間へ行こう! お腹、減ってるだろ?」

 思い出そうと腕組みするのび太を、士郎が慌てて制止した。
 彼の気遣いは、どこまでも正解であった。

「え、はい、まあ……っ!? う、意識し始めたら急に……お、おなか空いたぁ」

 腹を押さえて呻くのび太。
 昨夜から何も口にしていないので、胃の中はすっかり空であった。
 遅れを取り戻さんとばかりに、ぐぅうっと盛大に腹の虫が鳴る。

「はは、これはまた凄いな。じゃあ行こうか。朝食用意してあるから」
「あ、はい……あれ? そういえば、今何時なんですか?」
「ちょうど朝の九時だよ。俺達はもう朝飯済ませちゃったから、あとはのび太君だけだ」
「俺……“達”? あの、もしかして凛さん達も?」

 のび太の問いに、士郎が頷き返した。

「ああ。まあ、色々あってね。とりあえず、詳しい事は朝飯の後にしよう。まずはその喧しい腹の虫を鎮めないとな」

 ちなみに布団は一片たりとも湿ってはいなかった事をここに記しておく。






「あ、これおいしい! ん、これもうまいや! これ全部士郎さんが作ったんですか?」
「今日は藤ねえも、どういう訳か桜も来なかったから俺一人で全部作ったよ。一人暮らしだから、これくらいはね」

 目玉焼き、サラダ、味噌汁、炊き立てのご飯と、のび太は次から次へ口の中に放り込んでいく。
 のび太の嫌いな物がメニューになかった事から、のび太の箸の動きは躊躇いがない。
 居間には士郎とのび太の二人きり。
 空腹も手伝い行儀悪く食事を続けるのび太を、士郎が対面からお茶を啜りながら眺めている。

「一人暮らし? そういえば、士郎さんのお父さんとお母さんは?」
「あー、俺は養子……貰われっ子なんだ。それで俺を引き取ってくれた爺さん、いや養父(オヤジ)も数年前に……ね」

 ぴたり、と忙しなく動いていたのび太の箸が止まる。
 その表情はしまった、とばかりのしかめっ面であった。

「あ、その……ご、こめんなさい」
「いいって。気にする事じゃないさ。それより早く食べちゃいな、味噌汁冷めるよ」
「あ……はい、すいません」

 もう一度頭を下げ、気を取り直して今度は幾分落ち着いた様子で、のび太は食事を再開する。
 そんなのび太を眺める士郎の目は、どこまでも穏やかであった。

「……あれ? 『爺さん』って……う~ん、これどこかで聞いたような?」
「ん、どうかしたか?」
「あ、いや、なんでも」

 ふと、そんな疑問が脳裏を掠めたのび太であったが、良質の食事に没頭するあまり、ものの三秒ほどで頭の中から消え去ってしまった。

「あら、のび太起きたの?」

 ちょうど、のび太が食事を終えた直後、凛が居間へと入ってきた。
 寝不足なのか、目の下には微かにクマが出来ており昨夜のような覇気も薄れている。

「おや、もういいのですか」

 凛の後ろには、白のシャツに青いスカート、黒のタイツを身に纏ったセイバーがいた。
 あの物々しい装いではなかった事に、のび太の目は意外そうに見開かれていた。

「セイバー、その服……」
「ああ、リンがくれたものです。流石にずっとあのままではマズイという事ですので」
「それはそうでしょ。セイバーは他のサーヴァントみたいに霊体化出来ないんだから、せめて普通の服を着て一般人の目を誤魔化す必要があるの」
「霊体化……? ああ、そういえば昨日そんな事言ってましたっけ。でもセイバー、その服似合ってるね」
「……あ、その……どう、も?」

 のび太の褒め言葉にも、セイバーの返答は歯切れが悪かった。
 こういう恰好にはあまり慣れていないせいか、どう反応すればいいのか解らないようだ。
 その間に、士郎が人数分のお茶を用意し、四人で居間のテーブルを囲む形となった。

「あれ? おじさ……じゃなかった、アーチャーさんは?」
「アーチャーなら霊体化して屋根の上で見張り番よ。というかのび太、いい加減アーチャーを“おじさん”って呼ぼうとするの止めなさい。ああ見えて結構繊細みたいだから、今度それ聞いたらたぶん、アイツ泣くわよ」

 泣くだけで済めば御の字かもしれない。

「さて、まずは昨夜の事から話そうかし……って、なによ士郎?」

 茶を一口啜り、話を切り出そうとした凛の袖を、隣の士郎が引いて止めた。
 ついでにセイバーに向かって手招きをする。

「はい?」

 首を傾げつつ、セイバーは彼の方へと膝を寄せる。
 お呼びのかからなかったのび太の顔は、狐につままれたような表情となっていた。

「あの、どうかしたんですか?」
「ん、いやちょっと……ちなみにのび太君。昨日の事、どこまで覚えている?」
「え……っと、たしか」

 士郎から確認の言葉が飛ぶ。
 のび太は額に指を当てて考え込み始めた。

「アーチャーさんと一緒にバーサーカーの剣をへし折って、それからパンチでセイバーに攻撃してきたバーサーカーに“ショックガン”を撃ったら一瞬だけ効いて、あとは……」

 片手で指折り数えながら、のび太は記憶の底を浚う。
 だが、ややもしてふと、動きが止まった。

「あれ? それからどうなったんだっけ?」
「はいそこでストップ。今からその後の事を説明するから、そこからは思い出さなくていいよ」
「は? はあ……」

 士郎の待ったに、のび太の思考が打ち切られる。
 頭に『?』マークを浮かべる少年を尻目に、士郎は凛とセイバーに小声で耳打ちした。

「という訳なんだよ、二人とも」
「なにが『という訳』よ。今のやり取りだけで解る訳ないでしょ。ちゃんと説明しなさい」

 士郎の耳に、凛の要求が飛ぶ。
 彼女の声も、士郎に倣って小声であった。

「いや、つまりな……どうものび太君、セイバーがバーサーカーの首を刎ねたところの記憶“だけ”すっぽり抜け落ちてるみたいなんだ」
「は? まさかそんな事が……しかし、あの様子ではたしかに覚えていなさそうですね。でなければ十歳かそこらの子どもが、これほど落ち着いていられるとは思えませんし」

 セイバーの相槌も、これまた士郎と凛に倣ったものであった。
 人間の脳には『自己防衛機能』が備わっている。
 これは、たとえばショッキングな出来事や耐えがたい恐怖に晒された際、過度のストレスから脳を護るため、無意識的にその記憶を改竄ないしは抹消してストレスをやり過ごすという物だ。
 バーサーカーの首が大量の血潮と共に空中にすっ飛ぶなどというスプラッタを、のび太はその目でじっくり見てしまった。
 小学五年生というメンタリティの弱さを考慮すれば、自己防衛のために記憶が跳んでしまったとしても不思議な話ではない。
 逆に考えれば、“あの”バーサーカーを相手取った代償が一瞬に近い一場面の記憶の忘却(+気絶)という、たったこれっぽっちで済んでいるという事でもある。
 普通であればトラウマになってもおかしくはないし、それ以前に小学生がバーサーカーという怪物に立ち向かう事などまずもって狂気の沙汰であろう。
 その思いの外図太い一面に、果たしてこの三人は気づいているのかどうか。

「とにかく、そこのところだけには触れない事にしよう。下手に思い出させるのもアレだし、忘れてるのならそれはそれで問題ない事だし」
「そうねぇ……ま、そうしましょうか。もっとも、これじゃあこれから先がかなり思いやられるけど」
「下手に心に傷を負われるよりマシですから、私もそれに異存はありません」

 こく、と三人が同時に頷いたところで状況は再開する。
 結局密談の内容を知る事もなく、のび太は出されたお茶をぼんやり啜っているだけであった。





「え? 結局バーサーカーは倒せなかったんですか!?」
「結末を先に言えばそうよ。のび太のアシストでセイバーが“一太刀入れて”倒したんだけど、その後に蘇生……復活しちゃったの」

 細々した描写を省きながら、凛がのび太の途切れた記憶の先を語る。
 “復活”というくだり部分を聞いた瞬間、のび太はテーブルから身を乗り出していた。

「ふ、復活!? アレ、ゾンビかなにかだったんですか!?」
「だったらどれだけよかった事か……あのねのび太。一応言っとくけど、サーヴァントっていうのは基本的に神話とか伝説とかの、名のある英雄が召喚されるのよ。マスターが誰であれ、ゾンビなんて間違っても呼び出さないわよ。それにあんな強力なゾンビがいる訳ないでしょ。モノにもよるかもしれないけど」

 お茶を啜りつつ、凛の口から溜息が漏れる。
 そんな落ち着き払った凛とは対照的に、のび太は混乱の坩堝にはまり込んでいた。
 年少の者には勿体ぶった語りのせいで、まるで事情の理解が追いついていない。
 倒したはずなのに復活した。その事実が示すものを、凛は未だ提示していない。
 おそらく凛の性格が無意識的にそうさせているのだろうが、小学生相手にはやや意地が悪いかもしれない。

「じゃ、どうして?」
「簡単に言うとね、アイツ命を“十二個”持ってたのよ」

 かっくん。音にすればこうなるであろう。
 のび太の顎が面白いくらいに落ちた。

「い、命が十二個!?」
「そうです。あのバーサーカーの持つ宝具……『十二の試練(ゴッド・ハンド)』によって、確実に絶ったはずの命が蘇りました」
「宝具、ってセイバーの持ってる見えない剣みたいなアレの事?」
「ええ。サーヴァントはそれぞれ最低一つ……あるいは多くて複数個、『宝具』と呼ばれる強力な攻撃手段を持っています。私は不可視の剣、あの晩いたランサーはあの紅い槍というように。そしてバーサーカーの宝具はその肉体……正確にはその中にある十二個の命だったという訳です」
「オマケにある一定水準以下の攻撃は全部無効化……それ以上の攻撃でも一度受けたものに対しては耐性がつく、つまり効かなくなるっていうデタラメなものよ。もっと正確に言うなら、たとえ死んでも十一回自動的に生き返るようになってるって事なんだけど」
「な、なにそれ」

 二の句も告げなかった。
 そんな規格外すぎる相手と命のやり取りをしていたのかと思うと、のび太の背筋に改めて冷たい物が走る。
 知らず、唾を飲み込むのび太であったが、次に士郎が漏らした言葉がなによりも大きい衝撃をこの少年に齎した。

「で、バーサーカーの正体なんだけどな、イリヤ……あのバーサーカーのマスターの女の子の話によると、『ヘラクレス』らしいんだ」
「へ、『ヘラクレス』? そ、それって」
「うん……神話で出てくる、“あの”『ヘラクレス』だよ。のび太君が気を失った後、あの子が声高々に宣言していた。宝具の事も含めてな」

 ヘラクレス。
 ギリシャ神話最大級の英雄で、最高神ゼウスの息子である。
 自分の妻と子を自ら殺した罪を償うために十二の難業を為し、不死身の肉体を得た。
 ゼウスの妻であるヘラによって謀殺された後はオリュンポスの神々の末席に加えられたという。
 のび太でも知っている超ビッグネームであった。
 乗り出していた身体を引っ込め、のび太は放心したように元の場所に座り込む。

「そ、そんな……それじゃ僕たち、『ヘラクレス』と戦ってたの?」
「そういう事よ。しかも狂戦士と化した『ヘラクレス』とね。元々バーサーカーというのは、力の弱い英霊を狂わせる事で英霊自身をパワーアップさせるクラスなんだけど、それが『ヘラクレス』なんて……“鬼に金棒”どころの話じゃないわ」
「しかもな、のび太君……これは心して聞いてくれよ」

 少々の間を置いて。
 士郎が固い口調で重い事実を、ゆっくりとのび太に告げた。



「どうやらのび太君は……バーサーカーに目を付けられたらしいんだ」



 信じられないとばかりに、のび太は目を合わせた。
 士郎の表情は、とても冗談を言っているとは思えない、真摯なものだった。
 それどころか、眉をこれでもかとばかりに顰めたかなり厳しい物であった。

「実はあの後にな……」

 茶を一口啜って喉を潤し。
 一拍の間を置いて、士郎が経緯を説明する。



『ふうん、やるじゃない。バーサーカーを一度だけとはいえ殺すなんて。ご褒美として、今日はここで退いてあげる』
『あ、それから……バーサーカー、お兄ちゃんが抱えてる気絶しちゃった男の子が気になってるみたい。くすくす。起きたらよろしく言っておいてね。わたしも興味あるし』



 聞き終えて、のび太の喉が再びごくりと鳴った。
 額から流れる冷たい一筋の汗が、彼の心情を物語っている。

「そう、言ってたんですか? あの女の子が?」
「ああ。口調は冗談を言ってるみたいだったけど、目は本気だった」
「その後、士郎がアナタを背負って全員でここまで戻ってきたって訳。これが昨夜の顛末よ。それで……のび太」
「は、はいっ!?」

 きっ、と凛から真面目な視線を向けられ、反射的にのび太の背筋が伸びる。
 凛はそれを気にする風でもなく、射抜くような眼光をのび太に突き刺しながら厳かに告げた。

「改めて言うわね。もう、アナタは後戻り出来ない。たとえ『嫌だ』と言っても逃げる事は許されない。アナタに与えられた選択肢はたった一つだけ。この狂った戦争の真っただ中で、力の限り『生き延びる』事よ。この意味、解るわね?」
「あ……」



 ――――このイカれた戦争のただ中で、誰よりも生き延びてみな。



 あの夜の見知らぬ“誰か”の言葉が、のび太の脳裏にフラッシュバックした。
 全身が粟立つ。
 心臓が狂ったように早鐘を打ち始め、咽喉が干上がっていく。
 実感を伴って、じわじわ顕れてくる“死と隣り合わせの世界”に、のび太は逃げたしたいほどの恐怖を覚えた。
 昨夜の興奮した状態ならばいざ知らず、今ののび太は平常運転。
 自らが選んだ運命の過酷さを突き付けられて、底冷えするような怖気に苛まれるのも無理はなかった。

「……はい、解ります。それにぼくはもうあの時、決めましたから。『助ける』って言ってくれた、士郎さん達の力になりたいって。だから……元の世界に帰るために士郎さん達と、この戦争の真っただ中を力の限り『生き延びて』みます」

 それでも眼の輝きだけは色褪せず、のび太の決意は揺らがない。
 誰よりも臆病で、弱虫。しかし根っこの方では優しい心を持っているのがのび太である。
 自分自身の危機よりも、士郎達の危機こそがのび太にとってなによりの恐怖であった。
 その恐怖を払拭するためならば、のび太はどんな困難でも立ち向かうつもりだった。
 たとえ足が震え、怖気づいたとしても、なけなしの勇気を振り絞ってそこへ飛び込んでいこうという気構えがあった。

「……それに」
「それに、なに?」
「え? いえ、なんでも」

 顔も姿も見せず、言いたい事だけ言い放って、なにもかもを煙に巻いて風のように去った、謎の人物。
 言葉の真意を理解するには至らなかったが、きっと大切な事なのだという事だけは呑み込めた。
 だからこそ、のび太は知りたかった。
 あの声の主が告げた言葉が指し示すものを。
 自分の世界への道のり、その行く手に待ち受けるものを。
 そのためにも、逃げ出すつもりは毛頭なかった。

「――――ふぅん。アンタ、ホントに小学生?」
「え? はい……あの、なにか?」
「ああいや、そうじゃなくてね……セイバー、アナタなら解るでしょ?」
「ええ」

 凛の言葉に、セイバーは深々と目を閉じ頷いている。
 しかし、のび太は訳が解らない。
 疑問符を頭上に浮かべたまま、視線を横へとずらしてみる。

「士郎さん。あの、どういう事なんです?」
「ん、まあ……のび太君は凄いなって事だよ。いっそ羨ましいくらいにさ」
「は?」

 頻りに首を捻るのび太に対し、三人はただ薄く笑みを湛えてそれを見ているだけであった。



「……本当に、眩しいくらいに羨ましいよ」



 ぽつんと漏れ出た士郎の言葉は、この場にいる誰の耳にも届く事はなかった。








[28951] 第十六話
Name: 青空の木陰◆c9254621 ID:90f856d7
Date: 2016/01/31 00:24





「――――それで、士郎さんと凛さんは協力する事になったんですか」
「そ。成行き上仕方なく、ね。ま、仮にアンタがいなかったら、きっと敵対してたでしょうけど」
「え? それじゃあ、ぼくのためなんですか?」
「……ふぅ、有体に言えばそうよ。まったく、我ながら甘い事だとは思うわ。正直、魔術師としては論外の結論よ。ただ、人として論外にはなりたくないだけ。どういう訳かアーチャーは若干乗り気だったけど、それが意外といえば意外ね」
「アーチャーさんが……?」

 お茶を啜りながら語り続ける凛。ちなみにお茶は二杯目である。
 対象が小学生であるのび太のため、解りやすく語るのにここまで相当な時間が費やされていた。
 現に口を全くつけられていない士郎のお茶はすっかり冷めきってしまっている。
 そして話は、ここにいるメンバー構成員の現状況へとシフトしていた。

「『この際は、敗れた夢に再び挑むのも悪くはない。状況的にまだ融通も効くしな』とか言ってたわ」
「『敗れた夢』? 遠坂、アーチャーの夢って」
「さあね。聞いてはみたんだけど、はぐらかされたわ。ま、半分はどうでもいい事だから、それ以上は追及しなかったけど」
「は~。サーヴァントにも夢ってあるんですね。あのバーサーカーにもあるのかな?」

 のび太が妙な感心をする。
 すると、セイバーが口から湯呑を離してのび太に視線を向けた。

「ノビタ。前にも言ったかと思いますが、聖杯戦争に参加するサーヴァントには、基本的にそれぞれ目的があります。その目的を達成するため、召喚に応じるのです。正確には願いを叶える聖杯を手に入れ、目的を達成する訳なのですが」
「へえ。じゃあセイバーにも目的があるの?」
「……ええ」

 肯定の返事を返したその一瞬、セイバーは僅かに顔を歪める。
 それに気づいたのび太はどうかしたのかと声を掛けようとする。
 しかし。

「あ~、もう論点が思いっきりズレちゃってるわね、とりあえず軌道修正! のび太への状況説明は終わったから、今重要なのはこれからどう動くべきなのかって事! まずそれを詰めてしまいましょ!」

 凛からの横槍によって切っ掛けを折られ、結局言い出せずに終わってしまった。

「今の段階で接触したサーヴァントはランサーとバーサーカー。ここにいるセイバーとアーチャーを除けば残りはライダー、キャスター、アサシンね。ま、コイツらに関してはまだどうするもこうするも言えないか。接触もしてない訳だしね」

 士郎が冷え切ったお茶を入れ替えた後、話は次のステップへと進む。
 議題は、敵サーヴァントの情報のまとめであった。

「じゃあ、今は交戦したランサーとバーサーカーに焦点を絞るべきか。バーサーカーの正体は『ヘラクレス』って解ってるし、ランサーは宝具が『ゲイ・ボルク』だという事が判明してる。一度セイバーに対して使ったしな。そういえばセイバー。あの時の傷、大丈夫か? 胸、貫かれてただろ」
「ええ。既に修復は完了しています。バーサーカーとの戦いの時はまだ完治していなかったのですが、交戦後間もなくしてあっという間に治癒してしまいました。理由は……判然としませんが」
「―――え? えぇ? あ、あの、どうしてそこでぼくを見るのさ?」

 いきなりセイバーから視線を向けられ、のび太は面食らっていた。
 セイバーの傷が恐ろしい速度で完治した原因は、あの謎のパワーアップにあった。
 急激な肉体の活性化と爆発的に高められた魔力。それらが槍によって付けられた傷にまで影響を与えた。
 セイバーはそれを持ち前の常人離れした『直感』で本能的に悟っていた。
 しかし“原因”には思い当たっても、そもそも何故そんな事が起こったのかという“理由”までは見通せない。
 戸惑うのび太の様子を見れば、本人としては思い当たる節などまったくないと判断出来る。
 のび太から視線を外し、セイバーは息をひとつ吐く。

「……いえ、まあそれは置いておきましょう。ここで大事なのは、宝具を使った事でランサーの正体が判明したという事です」
「正体……宝具が『ゲイ・ボルク』だというのなら、間違いなくアイツは『クー・フーリン』ね」
「え? く、く~ふーりん? って、誰なんです?」
「いや、そこで俺を見るなよのび太君。俺もよく知らないんだ。遠坂、『クー・フーリン』って?」

 士郎・のび太の疑問の声に、凛は呆れたように息を吐きながらも口を開いた。
 この二人、妙に息があっていると半ば投げやりに思いながら。

「『クー・フーリン』っていうのはケルト神話に出てくる英雄よ。日本ではマイナーな神話だから二人が知らないのも無理ないけど、ヨーロッパじゃ知らない人間はまずいないと言っていいわね」
「そして彼の代名詞ともいうべき物が『ゲイ・ボルク』。放てば必ず心臓を貫くと謳われた、呪いの魔槍です」
「呪いの……ああ、そうか。セイバーが胸を突かれたのは、あの槍が“そういうものだった”からなのか」
「はい。もっとも、寸でのところで心臓を貫かれるのは避けられました。その点は幸運でしたね。おかげで本当の名……“真名”も判明した訳ですし。ですが、相手が『クー・フーリン』とは。宝具を別にしたとしても厄介ですね」

 眉間に皺を寄せ、セイバーが唸る。

「そうね……はぁ」

 追随するように、凛が瞑目しながら相槌を打った。

「あの……厄介って?」

 それらの意味するところを、のび太はまるで理解出来ないでいた。
 疑問をそのまま二人にぶつけると、今度は二人そろって渋面に。
 のび太の問いは、面倒くささ以上に頭の痛い問題をこれでもかとばかりに、さらにドンと鼻先に押し付けるようなものであった。

「『クー・フーリン』という英雄はケルト神話において最も代表的な英雄です。つまり、その強さは折り紙つき……申し分ないものであるという事」
「そ。それもおそらくは、日本での知名度の低さを補って有り余るほどにね」
「ち、知名度の低さ?」
「簡単に言えば召喚された場所……この場合は日本ですが……そこでどれだけ有名であるかどうかがサーヴァントの強さに関わってくるのです。あくまである程度の範囲で、でしかありませんが。ギリシャ神話の英雄である『ヘラクレス』は日本でも有名ですから、強さも相応のものになっていると思われます」
「逆に、ケルト神話の『クー・フーリン』は日本ではドマイナーな存在よ。アンタ達が知らなかったのがいい例ね。つまりその分だけ力が弱くなってるはずなんだけど……あの様子じゃ、正直なところ微々たる物でしょうね。なんせケルト神話においては押しも押されぬ、言ってしまえば『ヘラクレス』クラスの大英雄だもの。元々の強さが並外れてるのよ。まったく、頭の痛い事ね」

 元々の強さ千の相手が九百になって現れているようなものである。
 たかが一割強さが落ちたくらいでは、例えば二百の強さしかない弱者が相手取る場合、大差ないに等しい。
 この一割が活きてくるのは組み合うのが強者、加えて互いの実力がほぼ拮抗しているという条件が付いてくる。
 尤も、強さをすべてひっくるめ、単純に数値に直して比較するという事は出来ない。
 格下の相手に何の因果か、いとも容易く敗れ去る。そういう事も珍しくないのが勝負事の、ひいては聖杯戦争の常である。
 とはいえ、相手が油断の出来ない強敵であるという点は、疑いようのない事実であった。

「まさか大英雄クラスと一夜のうちに二回も戦っちゃうなんて。それとまともに渡り合うセイバーも大概だけど。実はセイバーも相当名の売れた英傑だったりするのかしら」
「禁則事項です」

 さりげなく振られた追及を、セイバーはこれまたさりげなく躱す。
 そしてそのまま話を自然に元の流れへと戻した。

「とにかく、ランサーこと『クー・フーリン』とバーサーカーこと『ヘラクレス』。この二名に対してどういう対処をすべきか、という事ですが。正体と宝具が判明しているという点で見れば、こちらがアドバンテージを取れています」
「戦力の絶対数でもそうね……セイバーにアーチャー、あと条件付きでのび太、と」
「え、ぼくも?」

 ごく自然に自分が戦力の頭数に数えられている事に驚くのび太。
 凛はそれを見て頭を抱えると、やがて徐にジト目でのび太を見据え口を開く。

「あのね、アンタ昨日自分がなにしたか解って言ってるの? いくらトンデモアイテム使ってたからといっても、人間がサーヴァントと共同戦線張れるなんてはっきり言って前代未聞よ? へっぽこ士郎はともかく、わたしですらなんにも出来なかったっていうのに。こっちにはあまり余裕がないの。だからたとえ小学生であれ、使える者は躊躇なく使う。少なくともわたしはそのつもり。それとも、あの時の啖呵は嘘だったとでも?」
「い、いやそういう訳じゃ……」

 凛のあまりの押しの強さに、のび太はたじたじとなる。
 別に士郎達と共にサーヴァントに立ち向かう事に否やはない。
 ないが、凛のオブラートに包まない、どこまでも単刀直入で剥き出しの物言いにはどうしても戸惑ってしまう。
 しかも凛の醸し出す、のび太にとってある意味で苦手な雰囲気がそれに拍車をかけている。
 これが士郎かセイバーの言葉ならば配慮が行き届く分、また態度も違ったかもしれない。

「……ま、安心しなさいな。とどめを差す時は、わたし達でやるわ」
「はぁ?」

 不意にのび太から視線を逸らすと、凛は口元に湯呑を傾けながらそんな事を呟いた。
 先程言った『条件付き』とは、そういう事であった。
 のび太に“殺し”という重い十字架を背負わせるつもりは、凛といえどもない。
 たとえそれが偽善で、罪の意識を誤魔化すためのものであったとしても。
 無理矢理にでものび太を戦力から除外する事も出来なくはないが、緊迫した状況とのび太の打ち立てた実績が不誠実ながらも期待を抱かせてしまい、それを許さない。
 ならばせめて。



『いよいよの時は自分達の手で、のび太を血には染めさせない』



 セイバーも士郎も、そしてこの場にいないアーチャーも元よりそのつもりであった事は言うまでもない。
 もっとも、自らが望んだ事とはいえ、のび太を殺し合いに駆り立てる事に内心、忸怩たる思いを噛みしめている事も言うまでもなかった。
 隣に座る士郎の、隠そうとしても完全には隠し切れていない、その恐ろしく険しい表情が静かに物語る。

「ただ、どっちにしろそう簡単に勝てるような相手じゃない。特にバーサーカーはな。まあそれ以前に、正体が解ってても居場所が解ってないから戦いを仕掛けようもない訳なんだが……」

 決して内心を見せまいと無理矢理に無表情の仮面を被り、士郎は重苦しく言葉を吐き出す。
 確かにアドバンテージがあっても、それを能動的に活かしきれなければ価値も半減してしまう。
 先手必勝が全てにおいて有利とは必ずしも言えないが、主導権を握る事自体は有効ではある。

「そうね。バーサーカーに関してはまったくアテがない訳でもないけど、それも確実という保証はないし……ランサーに至っては完全にお手上げ。結局悉く受けに回るしかないのが現状なのよね」

 溜息交じりに愚痴る凛。
 セイバーも難しい顔をして黙り込んでいる。
 まさに状況は八方塞がり。



「えっと、居場所が解ればいいんですか?」



 そのはずであった。
 のび太が何気なく呟いた言葉で、風向きが変わり出す。

「ノビタ?」
「う、うん。まあ、そうなんだけど……まさかアンタ、出来るの?」
「たぶん。なんでかだいぶ中身が減っちゃってるけど、きっとあるはず」

 懐疑的な目の凛を尻目に、のび太はポケットから“スペアポケット”を引っ張り出すと、掻き回すように中を漁る。
 やがて。

「あ、あった!」

 歓声と共に、ズボッと“スペアポケット”からナニカを引っ張り出した。
 その手に握られていたモノは。

「杖?」

 柄の部分に機械がくっついた、一本の杖であった。





「のび太君、その杖をどうするんだ? 言われるがまま庭に出てきたけど」

 衛宮邸の庭先に、四人の姿があった。
 のび太を中心に、士郎・凛・セイバーの三人がその周りを囲んでいる。
 意気揚々と、のび太は右手に持った杖を持ち上げた。

「これは“たずね人ステッキ”って言って、これを地面に突き立てて離せば、探している人のいる方向に倒れるんです。これで他のサーヴァントの居所を探せます!」
「こんな杖が?」

 疑わしげな表情でのび太から“たずね人ステッキ”を取り上げ、矯めつ眇めつ眺める凛。
 機械をはじめとした科学と相性の悪い凛である。
 昨夜のアレコレでひみつ道具の効力が実証されているとはいえ、胡散くささはぬぐえない。

「あ、もしかして疑ってるんですか?」
「そりゃね」
「たしかにドラえもんの道具の中には役に立たない道具もいっぱいありますけど……“夢たしかめ機”とか。でもこれはちゃんと役に立ちますよ。本当ですって」

 凛の様子に、のび太は不満を露わにする。
 それでも凛は眉根を寄せたままの表情を崩そうとしない。
 そんな凛を見て、ならばとのび太は身を乗り出した。

「じゃあ一回試してみてください。それで解るはずですから!」
「試せ、って言われてもね。んん、ならとりあえず……対象はアーチャーにしましょうか。今霊体化してるから、試すにはいいかも。アーチャー、聞こえる?」

 顔を上げた凛は虚空に向かって叫び、ついでに片耳を抑えた。
 霊体化し、見張り番をしているアーチャーと会話をしている。
 互いにレイラインで繋がっているからこそ、こんな事が出来る。

「アーチャー、今から霊体化したまま、そこから移動して。場所はこの家の敷地内ならどこでもいいわ。なぜって? まあ言ってみれば実験よ。話は聞いて……なかったのね。もう、いいからとりあえず動いてさっさと隠れる! 三秒以内!」
「それじゃ短すぎだろ、遠坂」
「なんか凛さん、ジャイアンみたい……」

 男ふたりの言葉も、彼女にとっては柳に当たる風に等しかった。
 しかしその澄ました表情も、やがて出た実証結果の前に砕け散る事になる。

「……まさかホントに当たるなんて」

 湧き出す敗北感に、凛が顔を手で覆っていた。
 庭の地面に“たずね人ステッキ”を突き立て手を離し、重力のなすがままに任せて倒す。
 その先端の指し示した方向に、実体化して姿を現したアーチャーがいた。

「でも、なんでよりによって台所なんだアーチャー。隠れるならもっと他に場所があっただろうに……土蔵とか、床下とかさ」
「……三秒で行けとの指示だ。元いた場所から遠くなく、咄嗟に思い浮かんだ場所がここだった。それだけの事だ、小僧」
「律儀な。しかし貴方が台所に立っても、そう違和感を感じないのはなぜなのでしょうか。むしろそこにいるのが当然のように」
「なんとでも言いたまえ。だが、セイバーよ。重ねて言うが他意はない。偶々、ここしかなかった。それだけだ」

 苦虫を噛んだような表情で、アーチャーは口を閉ざした。
 聞き流しておけばいいものを、彼の性格がそうさせるのか、いちいち真面目に応答していた。

「……ま、とにかくこの杖がのび太の言った通りのモノだって事は解ったわ」

 凛の降参宣言に、のび太は破顔する。
 しかし、話にはまだ続きがあった。

「ただ、偶々当たった可能性もまだ、ね。なんせ試したのが一回だけだし。ちなみに、当たり確率ってどのくらい?」
「え? う、うーん、十回やって七回当たる、くらい、かなぁ? 偶にハズれたし」

 笑顔から一転、のび太は戸惑いがちに答えた。
 数値としては心許ない。

「七割か。悩みどころね。確率をアテにして探し回るのもリスクと釣り合わない……あくまで人物の方角だけだしね」

 凛は再び思案に耽る。
 現状が現状なだけに、全てにおいて万全を期したい。
 しかし、この杖だけでは、凛としては片手落ちだと言わざるを得なかった。
 敵の方角だけが解っても仕方がない上、成功確率が七割。
 もうひとつ、確実性を増す要素がなければ、ただのヘンテコな杖でしかない。

「……つまり絶対の保障があればいいんですよね、凛さん?」
「そうね。欲を言えば、ここから動かずに特定出来るのなら言う事はないけど」
「解りました。ええと、それじゃあステッキと併せて……んー、あ!」

 豆電球を点灯させたのび太は“スペアポケット”を出すと勢いよく中へ手を突っ込む。
 やがて手応えありの表情となると、徐にふたつのブツを取り出した。



「薄型テレビと……マルとバツ?」
「“○×占い”と“タイムテレビ”です!」



 してやったりの笑顔を浮かべながらのび太が道具の名を告げる。
 しかし残る皆は一斉に『?』のマークを頭に掲げていた。







[28951] 第十七話
Name: 青空の木陰◆c9254621 ID:90f856d7
Date: 2016/01/31 00:34




「それで少年。その道具はいったい」

 懐疑を含んだ声音で、アーチャーが問うた。
 杖とは脈絡のないモノを出され、先の展開が読めない。
 それは、残る面子にも共通する心情であった。

「説明しますね。まずこっちの“○×占い”は、質問した答えを『○』か『×』かで百パーセント判断してくれるんです」
「ふむ……ノビタ、それはつまり出された答えは絶対のもので、外れはないという事ですか」
「うん。たとえば……うーんと」

 床に『○』と『×』をそっと置きつつ、のび太がしばし悩む。
 ややもして、ぽん、とひとつ手を打つと一言。



「よし、『士郎さんは将来ハゲる』!」



 びっ、とのび太が士郎を指差して告げた瞬間、『○』印がふっと宙に浮き上がり、次いで『ピンポンピンポーン!』と機械音が甲高く鳴り響いた。
 “大正解”のファンファーレ、つまり士郎は将来、確実にハゲるという事であった。
 非情なる宣告。ご愁傷様である。

「ちょ、ちょっと待ったぁ! それはイヤガラセか、のび太君!? 俺、なにか君に悪い事したかい!?」
「――――ぷっ、アハハハハハ!! ナルホドねぇ~、士郎ってば将来ハゲちゃうんだ! アッハハハハ……あー、ダメ! お腹痛い!」
「やかましい! 笑うなそこぉ! っていうかそれはきっとお前のせいだ、遠坂ぁ!!」

 ちゃぶ台を拳でばんばん叩きながら、凛が笑い転げる。
 抱腹絶倒。その眼に浮かぶ涙は、明らかに哀しみ以外のものであった。

「く、く……くく、っふ」

 青の騎士は、口を手で押さえ、顔を背けていた。
 湧き上がるモノを決して出すまいと、ぷるぷる小刻みに身体が震えている。
 ツボに嵌っていた。

「……そうか。危ないところだったのだな」

 その中でひとり。
 己が髪を大事そうに手で押さえ、意味不明な言葉を呟く長身の男がいた事は、漂う笑いの空気のせいで誰の記憶にも残る事はなかった。

「ええと、その。士郎さん、ごめんなさい」
「いや……うん、大丈夫だよ。人間、カミのご加護がなくても強く生きていけるんだからさ」

 燃え尽きた灰のように消沈する士郎へ、のび太が平謝りする。
 その後『今から気を付ければ将来、士郎さんはハゲない』と、のび太が出したこの命題に、二度目の“大正解”のファンファーレが。
 救いの道は残されている。“二重”に聞こえた安堵の息が、痛々しく居間に響き渡った。

「あー、笑った笑った……くっ、くくっ! そ、それでのび太、“○×占い”については解ったけども、テレビは?」

 しばらくして、凛が説明の続きを促す。しかし目の端には笑い涙がまだ光っていた。
 渋い顔の士郎が凛を睨むが、暖簾に腕押し。堪えた様子はない。
 セイバーは既に平静に戻り、アーチャーはむっつり顔で腕を組んでいる。

「あ、ああ、はい。これは“タイムテレビ”です。過去や未来を見るためのテレビで、どんな時代や場所でも見る事が出来るんです」

 そう言うと、のび太は“タイムテレビ”の土台部分に設置された計器に手を伸ばした。
 がちゃがちゃと忙しない音がしばし部屋を満たす。

「試しに映像を出してみますね。どこか映して欲しいところとかないですか?」
「そう、だな。じゃあ、桜の様子は見れるかな? 今日、家に来なかったらちょっと心配なんだ。いや、来てくれなくて助かったといえばそうなんだけど」
「誰です? なんか朝ごはんの時にそんな名前聞いたような気がするんですけど」

 のび太が士郎を振り返ると、困ったような表情でかりかり頬を掻いている。
 説明が難しいと考えている顔だった。

「ああ、桜は……フルネームは『間桐桜』っていうんだけど……俺の学校の後輩だよ。数年前から朝と夕方、家に飯を作りに来てくれてるんだ」
「へえ~。士郎さんの彼女さんですか?」
「アハハハ、そんな大層な間柄じゃないさ」

 手をパタパタと横に振りながら、のび太に笑顔で答える士郎。
 屈託のない笑顔であった。

「桜も可哀そうに……」

 あちゃあ、とばかりに顔を覆う。 
 呆れの混じった凛のその小さな呟きは、誰にも聞き取られる事はなかった。

「えーと、じゃあその桜さんの家を目標にして……あ。あの、住所とか解ります? あと出来れば地図も」
「ん、ああそれなら……」

 士郎が席を立ち、奥へ引っ込むとやがて冬木全体のマップが乗った冊子を引っ掴んで戻ってきた。
 ぱらりとページを開き、地図のある一点を指して住所を教えると、のび太は“タイムテレビ”のダイヤルをいじる。
 画面に映し出された冬木のマップ上、その場所に正確に焦点を当てた。
 “タイムテレビ”の使い方は、ドラえもんの計器のいじり方を見て既に習得済みで、そつのないものだ。
 こういう事に関しては無駄に学習能力のあるのび太であった。

「よし、OK。士郎さん、時間はどうしますか?」
「時間? じゃあ、とりあえず七時から八時くらい、かな」
「じゃあ……間を取って七時半、っと。じゃあいきますよ。それっ!」

 すべての設定が入力し終わり、一同が“タイムテレビ”の画面へ釘づけになる中、のび太が映像ボタンをポチッとな。
 一瞬のノイズの後、数秒もせずに画面に映像が浮かび上がった。



『……いってらっしゃい、兄さん』
『ふん』



 画面に映ったのは、紫の長い髪でどこか儚げな、凛と同じ年頃の少女の姿。
 舞台は家の玄関先で、少女の装いは普段着にサンダル履きとラフなもの。
 上がりかまちに立ちながら、青いクセ毛の士郎と同い年くらいの少年の見送りをしている。
 どこかの学校の制服を着たその少年の態度は、ひどく無愛想であった。

「士郎さん、この人が桜さんですか?」
「ああ、そうだよ。で、男の方が『間桐慎二』。俺と同じクラスの友人で、桜の兄貴だ」
「へえ、兄妹ですか」
「これは……慎二が学校へ行くところみたいだな。けど、桜は学校へ行かないのか? 制服じゃないし……それに顔色がちょっと悪いような」

 述懐を余所に、場面は進む。
 妹の『いってらっしゃい』にもむっつりとしたまま、通学鞄を抱えた慎二は玄関のドアノブを捻り、扉を開く。
 家を出ようとしたところで、急に慎二が妹の方を振り返った。



『おい、桜』
『……はい?』
『お前、どうして今日は衛宮のところへ行かなかった』
『その、少し具合が悪くて。先輩に迷惑はかけたくないから……学校にも今日はちょっと』
『ふん、結局は行くつもりだったのかよ。まあ、今日はいい。それから、ジーサンはどうした? 今朝から姿を見てないぞ』
『えっ? い、いえ、私もよく。部屋に行ったらなぜか姿がなくて。またどこかにふらっと出掛けられたのかなと……』
『へえ……何度か似たような事があったな。じゃあ放っといていいか。いっそ、そのまま帰って来なきゃいいんだけど。あんな気味の悪い妖怪ジジィが居座ってたんじゃ、辛気臭いこの家がもっと辛気臭くなるし』



 その言葉を最後に、ばたんとドアが閉じられる。
 結局、言いたい事だけ言い放って慎二は学校へ向かっていった。

「ちょっと、なにこれ!? 士郎さん、いくら兄妹でもあれはひどいですよ!? それにあんなにおじいさんの悪口を言って……!」
「お、落ち着けのび太君! し、慎二も悪いヤツじゃないんだ。ただ、昔から色々と難しいヤツでさ」

 あまりにそっけない兄妹のやり取りに、のび太が憤慨した。
 そもそものび太の周りにいた兄妹間の仲は比較的円満なものが多い。
 代表格なのはジャイアンとジャイ子の兄妹。すわジャイ子になにかあった時のジャイアンのパワーは、それはもう凄まじいものがあった。
 加えて、のび太は祖母が存命の頃、かなりのおばあちゃんっ子であった。
 故にお年寄りに対する敬老精神も、それなりに持っている。
 慎二と桜のやり取りに怒りを覚えても不思議はなかった。

「まあ、兄妹にも色々あるんだろうさ。アイツの場合、普段からああだから俺もどうかとは思ってるけど、ここで怒ったって仕方ないだろう。慎二には今度ちゃんと言っとくからさ」
「それはそうですけど……って、あれ。桜さんがいない?」

 のび太がふと視線を画面に戻すと、いつの間にか玄関から桜の姿が消えていた。
 答えたのは、茶菓子のどら焼きを片手に画面に見入っていたセイバーであった。

「ああ、もう奥へと引っ込みました。どこへ行ったのかまでは解りませんが……しかし、本当にのび太の道具には驚かされます。今更ですが」
「そうなの? あ、映す場所を固定するモードになってたんだ。うーん、一応これで試した事は試した訳だし、どうします?」
「そうだな。ちょっと心配だからもう少し見ていたいんだけど……どこに行ったんだろう。まさかいきなり倒れたりはしてないよな?」
「画面か時間を切り替えてみたらどう? 出来るでしょ?」

 凛の問いに、のび太は頷きを返す。
 計器に手を伸ばすと、再度がちゃがちゃ動かし始めた。

「じゃあ、三十分時間を進めて……桜さんを追うような形で映像を出すようにして……と。よし!」

 計器をいじり終え、のび太がスイッチを押し込む。
 すると、予想外の事が起こった。

「あ、あれ? いきなり画面が真っ白!?」
「んっ? どうしたんだこれ。故障、って訳じゃないんだよな。のび太君」
「待ってください。ええと……うん、故障はしてないみたいだ。おかしいな?」

 突如、白一色となった画面。のび太が首を傾げる。
 素人見立てではあるが、“タイムテレビ”には取り立てて故障個所など見当たらなかった。
 特に変なボタンを押した訳でもない。
 疑問符を溢れさせながら、のび太は計器をあれこれ操作してみる。
 ダイヤルをいじるうち、やがて唐突に全貌が画面に映し出された。
 次の瞬間、この場が再びの混沌へ呑み込まれる。

「――――あっ!? し、士郎、見るなあっ!」
「えっ……ぐあああっ!? 目が、目がぁあっ!? な、なんて事するんだ遠坂ぁ!?」
「うるさい! とにかくアンタはしばらく目を開けたらダメ! 理由は聞くな! いいわね!」
「いきなり両目に指突っ込まれて見える訳ないだろ! というか『理由は聞くな』って、なんでさあ!?」
「やかましい! 乙女の尊厳のため、これ以上はなし!! セイバー!?」
「大丈夫です。ノビタは目を即座に塞ぎました。そしてアーチャーは直前に剣で叩き伏せました。『直感』がこんな形で役に立つとは……複雑です」
「迂闊だったわ。“タイムテレビ”がこういう代物だと解ってたんだから、予測出来たはずなのに。拠点探索にこれ以上のものはないけど」
「え? え? あの?」
「のび太……アンタ、まさかこういう行為を日常的にやってた訳?」
「はい?」

 セイバーに目を塞がれ、状況が解らないのび太。
 両目を押さえ、悶絶しながら畳の上を転げ回る士郎。
 頭から煙を一筋立ち上らせ、うつ伏せに轟沈しているアーチャー。
 映ったものがものだけに、小学生に対しては手心が加えられているが、他には容赦が一切なかった。
 凛とセイバーが再び“タイムテレビ”の画面。そこには。



『はぁ……』



 桜の艶めかしいシャワーシーンがクローズアップされていた。
 男二名の撃墜もある意味当然の処置であり、画面が白くなったのは、風呂場にもうもうと漂う濃い湯気のせいであった。



『……ん』



 シミひとつない瑞々しい肌の上を、お湯が抵抗なく流れていく。
 柔らかな熱にほんのり紅く染まるそれには、同性であろうと惹きつけられるモノがあった。
 時折漏れる悩ましげな吐息は、本能に訴えかける妙な響きがあり。
 加えて凛やセイバーにはない、女性らしい豊かな肉付きが扇情的で、非常に目の毒であった。
 女達の手によりこれ以上の性犯罪は阻止され、混沌の空気は収束し始める。

「とにかく検証はここでお終い! さっさと他のサーヴァントの居場所を探るわよ! のび太、これらをどう……って、アンタらいい加減に起きる!」

 滾る激情のまま“タイムテレビ”の電源を落とす傍ら、未だ再起動を果たせていない男達に凛は容赦なく言葉を叩き付けた。
 男達はどこまでも幸が薄い。

「ぅ……ああ。やっと視力が戻ってきた。まったくひどい目にあった。やりすぎだろ、これ」

 両目を腫らした士郎が、滲んだ涙を拭いながら文句を言う。
 しかし凛はそれに答える事もなく、セイバーの目隠しから解放されたのび太へ口を開く。

「で、のび太。この三個の道具でどう居場所を探るの? まあ、予想はつくけど」
「とりあえず、貴方の存念を聞かせて貰いましょう」
「あ、はい。えっと、まず最初に……」

 女性二名の要請に疑問符をとりあえず打ち捨て、のび太は手立てについて説明し始めた。
 回復したての士郎は、時折目頭を押さえながら耳を傾けている。



「……む、爺さん。久しいな、こんなところにいたのか……ああ、そう必死に手を振らずとも、今そっちへ行く。色々話したい事もあるしな……」



 そして――――残る一名。その顔は穏やかな微笑みと、大いなる安らぎに満たされている。
 彼方の幻に手を伸ばして、弓の英霊はこの世から退場しかかっていた。



 その後、彼が主に強制蘇生させられたのは、言うまでもない。







[28951] 第十八話 ※キャラ崩壊があります、注意!!
Name: 青空の木陰◆c9254621 ID:90f856d7
Date: 2016/01/31 00:33




 のび太の作戦とは、至極単純な道具の組み合わせ。
 “たずね人ステッキ”で方角を特定して拠点の見当を付け、“タイムテレビ”でその様子を観察し、確認と疑問点の解消を“○×占い”で行う、というものだった。
 ステッキだけでは片手落ちだが、新たなファクターを組み込む事で確実性が劇的に広がる。
 居ながらにして敵の居場所と詳しい情報、そして様子を探る事が可能だった。
 魔術に真っ向からケンカを売る非常識の塊、ひみつ道具のなせる業。
 そして固定観念に囚われない、のび太の柔軟な発想の賜物であった。
 下手をすれば道具の本来の持ち主よりも、道具の運用にのび太は長けている。

「わたしの予想とほぼ同じ、か。というか、その年でよく思いつけるわね」
「ええ。こういった強力な代物は、応用を効かせるのが難しい。なまじ強力であるが故に“思い込み”が発生してしまう。その点では、ノビタは実に柔軟だ」
「え、そ、そうかな? へへっ」

 珍しく褒められ、のび太が照れて顔を赤くしていた。
 こうして、ひみつ道具を駆使してのターゲット探しが始まった。
 対象はランサー・ライダー・キャスター・アサシン・バーサーカー。
 以上の五騎、及びそのマスターである。

「さてそれじゃ、どこから当たるんだ?」

 まずは“たずね人ステッキ”を立てて倒す。
 その後に“○×占い”を使用して、その方角に確実にいるのかどうかを断定する。
 そうしてターゲットの現在地点の方角を特定したら、今度は冬木の地図を広げそこから当たりをつける。
 これは現地住民であり、冬木の地理に詳しい士郎と凛の担当だ。
 場所を絞り込んだら、再び“○×占い”でいるかいないかを判断し、その後に“タイムテレビ”で覗き、もとい、遠距離からの敵情視察を行う。
 時間を巻き戻してここ数日の時間軸を調べるだけで、対象は絞り込める。バーサーカー然り、サーヴァントは、良くも悪くも目立つものだ。
 さすがに霊体化していたのなら発見は難しいが、まったく実体化しないという事はまずない。
 霊体化は魔力消耗を抑えられるが、代わりに物理的干渉が出来ないので、サーヴァントはどこかで必ず実体化する。
 そうしたクサい者を発見次第、サーヴァントか否かの判断を重ねて“○×占い”に仰ぐのだ。
 ただし“○×占い”は『Yes』か『No』の判断しか出来ない。
 質問内容をよく考えなければならない点がネックではあった。

「そうね。とりあえずサーヴァント順通りに、まずはランサーからいきましょうか。のび太、ステッキ」
「あ、はい。どうぞ」

 からり、と凛がステッキを立てて倒すと、“たずね人ステッキ”はその身で方角を指し示す。
 各々、すぐさまテーブルに広げた冬木市の地図へ目をやった。

「この方角、隣の新都方面ね」
「中央部からだいぶズレてるな……これは、海か」
「海ね、港にいるのかしら?」
「“○×占い”で確かめた方が早かろう、凛。『ランサーは今現在、港に存在する』」

 アーチャーの声にすぐさま“○×占い”が反応する。
 ○印がひゅっと宙に浮き、正解のファンファーレが鳴った。

「え、ホント? あそこ、特になにかある訳でもないのに、どうして?」
「リン、まずは様子を確認してみましょう。悩むのはそれからでいい」
「……そうね。のび太、お願い」
「あ、はい。それじゃ港に位置を合わせて、時間設定は特にしないで……と。よし」

 滞りなく“タイムテレビ”の設定をし終えたのび太が、勢い込んでスイッチを押す。
 飛び込んできた映像は、この場の誰にも想定外のものであった。



『――――よっしゃ、来たぁ! さあ、来い来い……て、またサバかよ! もうサバは間に合ってんだよ、くそ!』
『あらぁあ、お兄さん、いいの? せっかく釣り上げたのに海に返しちゃって。しかもそんなに勢いよく放り投げなくてもいいんじゃない? サバが可哀想よ』
『サバはもう見飽きたんだよ! そもそも釣りを始めてからこっち、釣り上げるのがサバ、サバ、サバ……サバしか来ないって明らかにおかしいだろ!』
『いや、そう言われてもねぇ……まあ、ボウズじゃないんだから別にいいじゃない。お兄さん、もう三十匹くらい釣ってるし。大漁よ?』
『サバだけをな! 漁ならともかく、釣りでサバだけってのは面白みがねえったら。んで、おっさんはタイにヒラメにタコに……うげ、ブリまでいやがる!? 魚、節操ねぇな!? 季節感とかメチャクチャだぞ!』
『聞いた話だけどさ、冬木港はいつもこんなカンジらしいよぉ? 春夏秋冬全部通して。そういえば、前回来た時はヤマメ釣ったね』
『それ、川魚ぁ! おかしいから! 絶っ対異常だから!』
『冬木港だしねぇ。ココ、かなりの穴場よぉ?』
『それで納得すんな!?』



 魂を生き胆ごと引っこ抜かれたかのよう。
 画面の前で、一同が揃って呆然となっていた。

「……なんだ、これは」
「ランサーのお兄さん、ですよね? あの時と全然イメージが違うけど」
「うん……その、なんだ。『クー・フーリン』って、こんなヤツだったのか?」
「武勇伝や逸話は多いのですが……これは」
「ぶち壊しね。いろんな意味で」

 港に面した海を舞台に、普段着姿のランサーが奇声を上げている。
 手にする物は槍ではなく、リールのない一本の釣竿。足元には数個のバケツとタブの開いた缶コーヒーが置かれている。
 そしてランサーの隣では、下っ腹の突き出た丸顔の中年オヤジが釣り糸を垂れていた。
 結構なベテランのようで、竿を操る一挙一動にそつがない。
 キャップにサングラス、釣り用ジャケットのアングラーファッションも様になっている。
 穏やかで人のよさそうな笑みが印象的だった。

「すごく楽しそうですね、士郎さん」
「……ああ」
 
 訂正の余地など一切ない。幻などでもありえない。
 槍の英霊ランサーは、冬木港にて行きずりの親父と釣りに没頭していた。

「――――はぁ」

 誰のものかは定かならず、ひとつの溜息が口から漏れる。
 しかしこの瞬間、この場の心はひとつとなった。
 すなわち……なにやってんだコイツは。
 倦怠感にも似た脱力に見舞われる五人を余所に、“タイムテレビ”からの中継は続く。



『おっさん、釣りはベテランか?』
『んん? まあ、随分やってきたね。日本全国、いろんなところに釣りに行ったよぉ。今、たまたま会社の出張で東京からこっちに来ててね。明日の朝には特急で帰るし、空き時間にこっちまで足を伸ばしたの。こっちに来たのは今日で三回目かな』
『そうか。じゃあ……頼む! 俺に釣りを教えてくれ!』
『え、えっ? いきなりどうしたの?』
『このままサバばっかり釣ってたんじゃ面白くねぇんだよ! おっさん、どうか不出来なこの俺にひとつ、釣りの極意を伝授してくれ! 頼む、この通り!』
『いやいやいや、土下座はやりすぎだよ。うん、まあ、これもなにかの縁だし、時間もあるから……って、あらら? あ、ちょっと待ってね……はい、もしもし』
『ああ、ケータイってやつか。たしか“アイツ”も持ってやがったな……成金趣味全開の。アレはないわ』
『あ、どうもお疲れ様です……はい? え、あの時間は二時から開始だと……え? その前に集合? スー……じゃなかった、社長も既にそちらに? ああ! これはどうも大変申し訳ございません! すぐそちらに向かいますので……はい。もうドモドモ、すみません』
『ふう……っと、まだコーヒー飲みかけだったな。あ、もう冷えちまってら』
『それと、あの~……ワタクシの名前なのですが、『――ザ―』ではなく『――サ―』と申します。はい、『ザ』ではなくて『サ』です。はい、よろしくお願いします……はい、失礼しま~す……ふぅ』
『どうしたんだ』
『うん、それが時間間違えててさぁ。急に戻らなきゃならなくなっちゃったのよ。仕事の予定がね』
『……ああ、そうか。おっさん、勤め人だったか。仕事じゃしょうがねぇな』
『いや、本当にゴメンね。あ、そうだ。教えられないお詫びと言ったらなんだけど、ここでの釣りのコツをちょっとメモに書いておくからさ、それで一回やってみなよ。ちょっと待っててね……はい、これ』
『――――おお、これは! すまんおっさん、無茶な頼みしちまって。恩に着る!』
『お兄さん筋がいいからさ、ちょっとやったらすぐ上達すると思うよ。ま、頑張ってね』
『おう、絶対サバ以外を釣り上げてみせるぜ! おっさんも仕事頑張れよ!』



 釣り道具とクーラーボックスを抱え、後ろ手に手を振りながら悠々と去りゆく男。
 その背後には、万の大軍を得た将軍のように、喜色も露わに威勢よく釣竿を振り下ろすランサーが。
 ケルトの英雄としての威厳など欠片もない。ただの釣りバカと化したランサーの姿がそこにはあった。

「……次、いきましょうか?」
「そう、ですね」
「ああ」
「……はい」
「うむ……」

 あらゆる意味で、ランサーは五人を呑み込んだ。
 脱力の極みは思惑を頭からすっ飛ばし、次の標的への移行を決定させてしまった。
 ここで“タイムテレビ”の時間を巻き戻せば、根城もマスターもすぐさま判明していたのにも拘らず。
 本人の与り知らぬところで、ランサーはひみつ道具の魔手から脱出していたのであった。






 次の標的は騎乗兵のサーヴァント、ライダー。
 “たずね人ステッキ”を立てて倒すと、とある方向を指し示す。
 即座に“○×占い”でこの方角であっているかどうかを確認。正解と出たので、再度五人は地図へと向かい合う。

「これは、新都じゃなくて深山方面ね」
「でも商店街からは少しだけズレてるし……待てよ? これ、まさか!」

 突然、弾かれたように士郎が顔を上げる。
 四人が訝しむのも構わず、士郎は“○×占い”に飛びついて命題を口にした。

「『ライダーは……今、穂群原にいる』!」

 鳴り響いたのは、大正解のファンファーレ。
 士郎の顔から、さっと血の気が失せた。

「くそ! のび太君、今すぐ穂群原学園を映してくれ!」
「え、えっ!?」
「早くっ!」
「は、はいっ!? え、と場所は」
「この位置っ!」
「あ、はい!」

 鬼気迫る士郎からの催促に、のび太が焦りながら“タイムテレビ”を操作する。
 やがて“タイムテレビ”の画面に白亜の校舎と、いつもと変わりない教室での授業風景が映し出された。
 その瞬間、士郎の口から大きな溜息が漏れる。
 安堵の吐息であった。

「よ、よかった……まだなにも起きてない。これは、リアルタイム?」
「そうですけど、本当にここにサーヴァントがいるんですか? それらしい人は見当たらないし」

 各教室を次々と流し見るように移行する映像を眺めながら、のび太が疑問を口にする。
 教室内では教師が黒板に板書をし、生徒はそれを受け、粛々とノートにペンを走らせている。

「占いに間違いがないとすると、おそらく霊体化している可能性が高い。こうなると発見は困難ですね」

 顎に手を当てたセイバーが唸る。
 セイバーの言葉は的を射ていた。
 いかに“タイムテレビ”といえども、姿の見えない相手まで映し出す事は不可能。
 そもそもサーヴァントとは、死した英雄を現世へ呼び出したモノで、特性としては幽霊に近い。
 霊体化するという事は、幽霊状態になるのとほぼ同義であり、当然ながらテレビが幽霊など映し出せるはずもない。
 加えて。

「誰がマスターかも特定出来ないな。人の数が多いし、そもそも学校の中にいるのかどうか……可能性はなくはないけどさ」

 木を隠すなら森の中。
 人間を隠すのなら、人間の群れに隠した方がより見つかりにくくなる。
 そこに、目当ての人間がいようがいまいが関係ない。
 教員、生徒、事務職員、用務員……とにかく学校という場所は人が大勢存在し、離合集散も頻繁に行われるため探索する上でかなりの難所となる。
 ヒントでもなければ、状況を打開出来そうにない。

「いえ。たぶん、いるわ」
「え?」

 そこへ、唐突に口を挟んだのは凛だった。
 固い表情で画面を睨む彼女から発せられたその言葉は、まるで確信があるかのような響きを持っていた。

「リン、なぜそうだと言い切れるのですか」
「アテがあるのよ。確証はないし、可能性どまりだけど。アーチャーには前に話した事があったかしら?」
「いや、特に覚えはないな。ちなみに、その根拠はどこからだ」
「冬木のセカンドオーナー……いえ、『始まりの御三家』からのものよ。」

 凛はそっと瞑目すると、“○×占い”に向かって宣言した。

「『ライダーのマスターは、間桐慎二である』」

 直後、高らかに鳴るファンファーレ。
 床から○印が、打ち上げ花火のような勢いで宙に浮かんだ。

「そ、そんな……なんで慎二が!?」

 愕然となる士郎。
 やはりとばかりに、凛は深い溜息を吐いた。

「ええっ? あ、あのワカメみたいな頭のお兄さんが?」
「――――ぶふっ!?」

 しかし、一転。
 のび太のその一言で、凛が盛大に吹き出していた。
 押さえた手の隙間から漏れた飛沫が宙に舞う。
 ぷるぷる震えながら必死に込み上げるモノを噛み殺していた。

「……おーい。遠坂、帰ってこい」

 悶え続ける凛に、自失から立ち直った士郎が呼びかける。
 けふんけふん咽せながら、凛はようよう姿勢を整えた。
 しかし、まだ時折ぴくぴくと肩が上下している

「ワ、ワカメ……くっ、くっふふ……ぅ、はぁ。ああ、やっと落ち着いた」
「じゃあ、聞くぞ遠坂。どうして慎二がマスターだと解ったんだ」
「あ、ああ……それはね、慎二が間桐家の人間だからよ」
「は?」

 士郎の目が点になる。
 その反応を半ば予想していたのか、凛はさらに自らを落ち着かせるようにひとつ息を漏らす。
 そして、ゆっくりとした口調で説明を始めた。

「間桐家はね、代々続く魔術師の一族なの。そして、この聖杯戦争を作り上げた一族の一角でもある」
「えっ……聖杯戦争を」
「作り上げた?」

 目を丸くする士郎とのび太に、凛は頷いた。

「『始まりの御三家』って言ってね、今から二百年ほど昔に魔術師の大家、三家の人間がそれぞれ協力して聖杯戦争を作り上げた。間桐家はそのうちのひとつよ」
「ふむ。つまりは、あの少年が主催者の家系の人間だからサーヴァントの……ライダーのマスターである可能性があった、と」
「そ。もっとも、間桐家は代毎に魔術回路が枯れていっちゃって、とうとう慎二には魔術回路が備わらなかった。つまり魔術師として完全に終わっちゃった訳なんだけど……」
「サーヴァントを召喚出来る下地くらいは残っているかも、という事か」
「アーチャー正解。腐っても御三家の一角よ。没落したところで門外不出の魔術資料や希少な魔術具程度は存在してるだろうしね」

 凛の言葉に、一同互いに頷き合う。
 “○×占い”の結果を鑑みれば、実に納得のいく話だった。

「……あ、そういえば」

 ふと、のび太が思い出したように膝を打つと、凛の方に向き直る。

「さっき凛さん『始まりの御三家』って言いましたよね。という事は、あと家がふたつあるはずですけど、それってどこなんです?」
「ああ、それね。ひとつはアインツベルン……昨日戦ったバーサーカーのマスター、イリヤスフィール=フォン=アインツベルンの実家」
「あ、あの娘のか?」
「そうよ。で、最後が……わたしの家よ」
「り、凛さんの?」
「遠坂家は、冬木の霊地を代々管理してきた魔術師の家系……だからこその名家であり、冬木のセカンドオーナーなのよ」

 ぴっと人差し指を立て、したり顔で凛が告げる。
 明かされた意外な事実にのび太も士郎も、感心と驚きで呆けていた。

「まあ、それはともかくとして……問題はもうひとつ」
「え、まだなにかあるのか?」
「……士郎。まさかアンタ、学校でなにも感じなかったのかしら?」
「はあ?」

 眉間に皺を寄せた凛からつ、と目を逸らし、士郎が虚空に視線を彷徨わせる。
 思考を脳裏に巡らせる事しばし、不意に視線を戻すとやや自信なさ気に呟いた。

「ええと……なんか、皆元気がなかったような……?」

 至って普通の回答。
 あまりにもありきたりすぎるだけに、絶対合っていないなと士郎は心の中で自嘲する。
 しかし士郎には他に心当たりなどなかった。

「士郎さん、それってすごい普通じゃ」
「まあ、そうだよな。単なる印象だし」

 のび太の言に、諦め混じりに頷く士郎。
 だが。

「……正解。よく解ったわねアンタ」
「「あらららら!?」」

 予想を裏切るまさかの正解。
 ふたりは揃ってずっこけた。

「それで合ってたのかよ」
「まあ半分だけ、ね。結論を言うと、学校に結界が張られているの。そのせいで学校にいる人間は生気がどんどんなくなってる訳」
「けっ……かい?」

 オウム返しに、のび太が首を傾げ復唱する。
 凛は頷きを返すと、そのまま“タイムテレビ”を指差した。

「そんなものを張った犯人は……もう見当がつくわ。“○×占い”を使うまでもない。のび太、今からわたしが言う場所の映像を、高速で時間を戻しながら映してちょうだい」
「は、はい」

 のび太が指示通り“タイムテレビ”を操作する。
 やがて画面に映し出されたのは、とある教室の一角。
 そして映ってから一秒と経たずに、今度はその映像が物凄い勢いで時の流れを逆走し始めた。
 早戻しなどという速度ではない。
 スロットマシーンの高速回転並みであった。
 昼夜の明暗の切り替えもほんの一瞬だけ、人の移動などまさに刹那の間。
 映像は目まぐるしく一日、二日、三日と時間を遡ってゆく。
 そうして映像の中で何日間か巻き戻された頃。

「ここ! のび太、止めて!」
「はっ、はい!」

 じっと画面を見つめていた凛から指示が飛ぶ。
 巻き戻しが止まり、映像の流れが通常に戻された。
 操作するのび太を中心に、それぞれ食い入るように画面に集中する。

「……やっぱりね。ビンゴか」

 場面は今より数日前の黄昏時。
 そこに佇んでいたのは、ふたりの男女であった。
 一人は先程、間桐邸の玄関先で見た間桐慎二。
 そしてもうひとり、女の方はというと。



『ち、ここもか。ここまで念入りに基点を壊してくれちゃってまあ……腹が立つ。まあ、遠坂辺りだろうけど。修復しろ、ライダー』
『……はい』



 足元まで届く紫の髪。
 黒い刺激的な衣装。
 女性にしては高い上背と、それに見合った女性らしい起伏のある体躯。
 なにより異質なのが、両の目を覆う禍々しい眼帯。
 極め付きはその身に纏う、常人とは隔絶した雰囲気。並の人間に放てるモノではなかった。
 彼女こそが騎兵の英霊、ライダーのサーヴァントだと、この場の全員が理解した。



『―――他者封印・鮮血神殿(ブラッドフォート・アンドロメダ)』



 右手の人差し指を天に掲げた彼女が、言葉を発した。
 その瞬間、空間がほんの一瞬、瞬きを見せ、次いでコンクリートの床の上に奇妙な紋様が浮かび上がった。
 やがてそれは徐々に掻き消え、後には元のひっそりとした静寂のみが残る。



『終わりました』
『ここはこれで三回目か。まったく、余計な仕事を増やしてくれるよ遠坂は。それで、破壊されたのはこれで全部か?』
『はい。しかしこれで結界の完成にはさらに日数が必要になりました』
『……ふん。発動自体は可能なんだろ?』
『一応は。ただし効率は激減する上、時間もかかる事になりますが』
『まあ、今はそれで構わないさ。使う必要がないのならそれはそれでいいし、あくまでコイツは保険だ。さて、用は済んだしライダー、霊体に戻れ』
『はい』



 唯々諾々と従う彼女。
 やがて空気に溶け込むように、その姿が見えなくなった。
 それを見届けると、慎二は踵を返し、教室から立ち去った。

「……後味が悪いものね。知人がこんな事してるのを見ると」

 画面から目を離し、凛が慨嘆する。

「慎二……」

 悲痛の滲んだ表情で、士郎が呆然とモニターに映る教室を見つめ続けている。
 その横で、セイバーとアーチャーが顎に手をやっていた。

「あれが、ライダー。女性で、しかも眼帯……ふむ」
「ああも性質の悪い結界を仕掛けている以上、十中八九『反英雄』だろう」
「性質の悪い?」

 のび太が首を捻る。
 アーチャーはひとつ頷いてから説明を始めた。
 曰く、ライダーが張った結界は『吸収型』の結界であるという事。
 曰く、『吸収型』の結界は軌道したが最後、結界内のあらゆる生物を魔力に還元してしまうものであるという事。
 曰く、凛達は数日前から結界の基点の一部を見つけてはこれを破壊し、結界の完成を妨害してきたという事。

「せ、生物を魔力にする? うーん、時間を進めたらどんなのか解るのかな?」

 今ひとつ理解の及ばなかったのび太が実際の物を見てみようと“タイムテレビ”の計器に手を伸ばす。
 だが、届く前にアーチャーの腕がそれを抑えた。

「止めておけ。君には刺激が強すぎる」

 ゆっくりと首を横に振り、アーチャーが諌める。
 併せて、凛が同意の首肯を見せた。

「夜中に魘されても知らないわよ。むしろ、それで済めば軽い方ね」
「へ?」
「皮膚がどろどろに爛れた人間が、死んだ魚のような目で苦しみの絶叫と呻き声を……それが校舎のあちこちで。未完成でもこれぐらいにはなるわ」
「いっ!?」
「挙句、数分後には学校内の全員が完全に溶かされて消化される。ちなみに完全な物だと人間が一瞬で血霞と化すわ。アンタ、そういうの平気?」
「い、いやややややや! 無理っ、無理だよそんなの!」

 血の気の引いたのび太が、首をぶんぶん横に振る。
 ホラー物・スプラッタ物に、彼はてんで耐性がない。見たところで、トラウマをひとつ重ねるだけだ。
 あまりの必死さに、凛が苦笑した。

「じゃ、止めておきなさい。もう既にバクダン一個こさえちゃってるんだし。それから……これから先、過去はともかく、未来の事は見ないようにするわ」
「ん? どうしてだ、遠坂」

 凛の発言の意図が解らず、士郎がつい尋ね返す。
 あらゆる時間軸を見通す“タイムテレビ”ならば、未来を見る事などダイヤルを捻るだけで事足りる。
 そして未来の情報は、間違いなくこちらを有利にしてくれる。
 敵の情報はもとより、この戦争におけるターニングポイント、この先どのような危険が待ち構えているか、相手がどんな事を仕掛けてくるのか。
 そういった、ありとあらゆるすべてが開帳される。
 それは、常に相手より先んじるという事と同義。
 しかし、凛はそれを敢えてしないと言い切った。

「前にも言ったかもしれないけど、未来は不定形……定まっていない。私見だけど、“タイムテレビ”は現時点で最も行きつく可能性の高い未来を映し出すモノなんでしょうね。未来を覗く事によって得られるアドバンテージは、たしかに計り知れない。でも、デメリットもある」
「デメリット?」
「そう。ひとつは『思い込み』による弊害よ」
「思い込み……?」

 首肯と共に、凛がひとつ間を置いて続けた。

「たとえば“タイムテレビ”で見たある事。それが自分達に都合のいいものであって、その未来に沿うように動いたとする。けれど、仮に流れが“タイムテレビ”で見たものと僅かでも違っていた場合、たぶん混乱するでしょうね。ああじゃなかった、だの、こうだったはず、だの。下手すれば全部、おじゃんになるわ。未来に振り回される可能性があるのよ。未来の分岐点は、どこにあるのか誰にも解らない。予測なんてまず不可能。それならいっそ知らない方がいい」
「……ふむ」
「もうひとつ。もし自分達にとって最悪の未来……この中の誰かが死ぬとか、ね……そういった物を目にするかもしれない。その時、こうならないようになんとかしよう、って思えるならまだいい。でも、思えなかったら?」
「遠坂、それは……」
「先に心が折れたら、そこで終わり。たとえ身体が無事でもね。なにを成すにも、まずは意思よ。それがないのは“敗北”と同じ。特にそうなりそうな人間が、こっちにはいるしね」
「…………」

 凛の言葉に、士郎はなにも言えなかった。
 メリットの方にばかり目が行き、デメリットの方にはまったく考えが及んでいなかった事を思い知らされた。
 未来を知るという事は、『未来の情報』という固定観念が入り込むという事。
 それを上手く扱いこなせれば問題はないが、それが出来るかと言えば首を横に振らざるを得ない。
 高いアドバンテージは、そちらのみに意識を引きずり込む。
 ある意味では、メリットそのものがデメリットであるとも言えた。

「未来を知るのはいい事ばかりじゃない。むしろメリットが大きければ大きいほど、デメリットも増す」
「……ああ。反論の余地もない」
「それに、過去だけでもアドバンテージはある。過去は未来と違って既に固定されてるから、覆しようがない。そこから得られる情報だけでもこっちは断然有利に立てる」
「解った。のび太君も、セイバーも、アーチャーもそれでいいか」
「私は構いません」
「主の方針には従う」
「ぼくもいいです。よく解らないけど」

 三者三様の同意。
 ただし、のび太の発言だけには、士郎が困ったように頭を掻き、凛が大きく溜息を吐いていた。
 そうしてひみつ道具による探索は続く。







[28951] 第十九話
Name: 青空の木陰◆c9254621 ID:90f856d7
Date: 2011/10/02 17:07





ライダーの探索に一区切りをつけ、さて次の標的はキャスターである。

“たずね人ステッキ”を倒し、方角を見て“○×占い”を使用したところ、肯定のファンファーレが鳴った。

そして地図へと向かい合う……最早パターンである。



「この方角は……お山の方だな」



「もしかして……柳洞寺!?」



ハッとしたような凛の声。

その顔にはどうしようもない危機感と焦燥感がありありと浮かんでいる。



「遠坂、どうした?」



「どうした、じゃないわよ! ええと……っ! 『キャスターは柳洞寺を拠点にしている』!』



何かに急き立てられるように、凛はやや早口に“○×占い”に命題を告げる。

果たしてその答えは……予想に違わず、肯定。



「ッ!? ……くっ、やられた。これは……ちょっとマズイわね」



ファンファーレが鳴り終わると同時、凛はどっと疲れたように肩を落とした。



「? マズイって……何がまずいんですか?」



不思議そうに尋ねてくるのび太に、ユラリとやや億劫そうに顔を上げ、口を開きかける凛。

だが予想に反して、疑問に答えたのは発信源の傍らにいたセイバーであった。



「……柳洞寺はこの冬木の地の龍脈の終着点。つまり、魔術師にとってはこれ以上なく重要な場所という事です、ノビタ」



「はあ……龍脈? えっと、セイバー、重要ってどういう風に?」



「そうですね……順を追って説明するなら、この冬木の街一帯には自然界の魔力の通り道がいくつか走っています。下水道をイメージして貰えれば解りやすいかと。それらが最後に行きつく場所がここ、柳洞寺なのです」



地図の一点、冬木市の最西端にある山の頂上に建てられた柳洞寺を指さしながらセイバーが訥々と語る。

のび太と、ついでに士郎は時折ふむふむと頷きながら説明を粛々と聞いている。

アーチャーは相変わらずの腕組みをしての瞑目……どうやらこの事情は凛から聞いたかしておおよそ知っているようだ。



「…………」



しかしながら……凛だけは一人、違っていた。

聞き入るでもなく、聞き流すでもなく――――その表情は、ただただ訝しげに歪められていたのだ。



「魔力の通り道が最後に集まる場所……それはつまり、そこに莫大な量の魔力が集まる事を意味しています。そして魔術師は魔力を操り、力を振るう……もう解りますね?」



「……えっと?」



「成る程。上手くすれば魔力切れを気にする事なく、魔術を行使出来るって事か……」



首を捻るのび太に代わって、士郎がポツリと答えを口にする。

セイバーはそれに首肯する事で答えを返した。



「はい。特にキャスターは魔術師の英霊、こと魔力や魔術の扱いに長けています。鬼に金棒どころの話ではありません。さらに言えば柳洞寺一帯には自然霊以外を遮断する結界が張られています。唯一潜れるのは正門からのみ。サーヴァントにとってある種の鬼門なのです」



武器弾薬等の補給の必要などない要塞に立て籠もられたようなものである。

加えて防御に回ればおそらく鉄壁であるが故に踏み込むのも容易ではなく、不用意に突っ込めばあっという間に全滅であろう。

無尽蔵に近い潤沢な魔力エネルギーというのは、魔術師にとってそれだけで垂涎ものの価値のあるシロモノなのだ。

勿論、制御するのは並大抵の事ではないが、キャスターならば難なくやってのけるだろう。



「うーん、“無敵砲台”に立て籠もったスネ夫みたいなもんかな?」



「はい……? まあ、そんな感じかと」



「いやセイバー、それ意味解って言ってるの「ちょっといいかしら?」……遠坂?」



と、突然会話の流れを遮って割って入ったのは凛。

眉間に皺をこれでもかと寄せ、セイバーにやや不躾な視線をぶつける。



「セイバー、アナタ……どうしてそんな事を知ってるの?」



「……そんな事、とは?」



「龍脈とか、結界の事よ。聖杯からの知識じゃないわね。アーチャーはわたしが話すまで知らなかったから。納得のいく説明、して貰えるかしら?」



「…………」



ほんの少しだけ、セイバーは逡巡した様子を見せる。

しかしそれも一瞬の事、やがてスッと視線を上げると、こう口を開いた。



「……私がこの時代に召喚されたのはこれが初めてではありません」



「え……? セイバー、それって「故に、記憶の中にその知識がありました。それだけの事です」……成る程。それ以上は話さない……いえ、話せないという事かしら?」



「……、はい」



凛の追及を無理矢理に遮り、語りを終えたセイバー。

その表情は鉄仮面でも被ったかのような無表情……内心を探り取らんとするにはいささか強固に過ぎる。

凛はしばらくの間、突き刺すような視線をセイバーに送り続けていたが……、



「……ふぅ。いいわ、今はそれで納得してあげる」



これ以上は無意味と判断したのか、溜息交じりに矛を収めた。

そんな凛に対し、セイバーは軽く頭を下げる。



「助かります」



「言っとくけど、いつかは話してもらうからね。利息として、アナタの真名も込みで」



「後半は承諾しかねますが……ともかく、語るには今は時期が悪い。時が満ちれば、必ずお話しする事を約束します」



「……そう、期待しないで待つ事にするわ」



そして僅かの沈黙。

シンと静まり返った居間の空気は、どこか居心地が悪い。



「……さて、変なところで脱線しちゃったから話を戻すわよ。のび太、柳洞寺の映像を出してくれる? ……って、アンタらいつまで呆けてるの?」



凛はそんな空気を振り払うように視線を再び元へと戻したが、いまだポカンとしたままの士郎とのび太を視界に収めると呆れたような声を上げた。



「いや、だって……ねぇ、士郎さん?」



「あぁ……いきなり話が別の方向に行っちゃったし、元はと言えば遠坂が脱線させたんじゃ……まあ、いいけどさ」



顔を見合わせあい、ブチブチと何事かを言い合う二人。

しかし時間ももうそれなりに経っているのでそれ以上は何も言う事はなく、のび太は“タイムテレビ”を操作するため、画面と向かい合う。



「えーと……柳洞寺に座標を合わせて……時間設定はどうします?」



「……そうね。とりあえず、今現在の柳洞寺を映してくれる?」



「解りました……よし。これで……いけっ!」



のび太がスイッチを入れると、“タイムテレビ”の画面に荘厳な雰囲気のお堂と境内が映し出された。

真冬の平日という事もあり、これといった参拝客もおらず閑散としている。

そしてお坊さんの姿も特に見受けられない。

お堂の中に篭っているようだ。



「うわぁ、大きなお寺だなぁ……」



「結構な歴史のある寺だからな。……うーん、パッと見る限りじゃ特に異常はないみたいだな」



「いえ、キャスターなら人知れず何らかの処置を施す事も可能でしょう。中がどうなっているのか、まだ解りません」



「そうね……むしろ変わりがなさすぎるのが不気味ね」



「ふむ……少し時間を巻き戻してみてはどうだ? まずはその辺りから探りを入れてみない事には始まらん」



「そうですね……じゃあ「なぁ、のび太君」……はい?」



と、のび太が計器に手を伸ばそうとしたところで隣の士郎から声がかかる。



「ちょっと、俺がいじってみてもいいかな? “タイムテレビ”」



「え?」



好奇心の混じった声で“タイムテレビ”を操作させてほしいと頼み込む士郎。

実を言うと、未来の道具を触ってみたいと士郎は今朝からずっと考えていたのだ。

その証拠に、視線はさっきから“タイムテレビ”の計器部分へとジッと注がれたままとなっている。

とりわけ士郎は機械いじりを趣味としているため、未知の機械に触れるという誘惑には抗いがたいものがあるのだろう。

気持ちは解らなくもない。



「あ、はい。いいですよ」



そんな興味感心丸出しの様子を見て取ったか、のび太はスッと立ち上がって、快く“タイムテレビ”の前を空ける。

士郎はのび太に『ありがとう』と軽く頭を下げると、“タイムテレビ”の前に腰を下ろした。



「操作の方法を教えますね。まずこのボタンは……」



「ふんふん」



のび太の説明に逐一頷きを返しつつ、士郎はテキパキと計器を操作して映像の時間を巻き戻していく。

そしてついでに視点も境内から別の場所へと変え、時間的に今日の早朝あたりになった頃に巻き戻し操作をストップさせた。

意外な事にのび太の教え方が的確で、要点をしっかり押さえていたものであったため、特に操作に混乱するような事もなく終始スムーズであった。



「えーと……ここは離れの辺りだな」



映し出されたのは柳洞寺の奥まった場所、住人の生活する居住区画の傍にある井戸端。

昇りかけの朝日が薄明かりを射し始める時刻。

そこでは、今しがた起床したばかりと思われるお坊さんの姿がチラホラと垣間見られた。

歯を磨く者。

顔を洗う者。

ラジオ体操を行う者。

『ハッハッハッハ! 今日も清々しい朝だ!』と諸肌脱ぎで快活に笑いながら物凄い勢いで乾布摩擦に取り組んでいる者……様々である。



「――――って零観さん、アナタ朝っぱらから何やってんですか……。いや、まあ朝の行動として間違ってはいませんけど、スゲェジジくさい……まだ二十代なのに」



「あの、このお坊さんとお知り合いなんですか?」



「クラスメイトのお兄さんなんだよ……あ、一成だ」



「……うげ」



と、画面横から新たに現れた眼鏡の少年に士郎と凛が反応する。

しかし、その声音と含まれるものについては随分と対照的ではあるが。

普段着姿で現れたその少年は縁側の石段にあった草履を履くと、井戸端へと近づいて水を汲み、口を濯ぎ始めた。



「この人が士郎さんのクラスメイトの人ですか?」



「ああ。フルネームは柳洞一成って言ってな、全てにおいて真面目なヤツで穂群原の生徒会長も務めてる。ついでに言えば……あー、大きな声じゃ言えないけど……遠坂の天敵だ。顔を合わせる度によく喧嘩してる。今の遠坂の反応、聞いただろ?」



「凛さんとケンカ……?」



「ん。と言っても特に殴り合いとかはしないけどな。ただお互いに皮肉のマシンガンだよ。一成、遠坂の事を“女狐”だとか色々言ってるし……見てるこっちの肝が冷えるなぁ、あれは」



「はぁ……なんか意外ですね。この人、人の悪口を言いそうなタイプには見えないし……」



「本人達が言うには、お互いにムシが好かないらしい……っとと、いや悪い。だからそんな睨むなって、遠坂」



ジトっと刺すような視線を感じた士郎、慌てて振り返ると眉間に盛大に皺を寄せた凛がいた。

『黙りなさい』とその据わった眼が訴えて……いや、命令している。

おそらく“タイムテレビ”越しとはいえ不倶戴天の仇敵の姿を目にした事で、無意識的に気が立っているのだろう。

下手すれば殺気すら籠っていそうな、不機嫌の極みに達したそれ……士郎の背筋に、人知れず冷たい物が流れた。

『どうやって機嫌を戻したものだろう……』と士郎が頭の片隅で割と必死に思案していると、



「――――あっ!? ちょ、ちょっとこれ見てください!!」



唐突にのび太の声が上がった事で、ジワジワと冷たくなっていた空気が一瞬で吹き散らされた。



「どうしたのび太君?」



「何か見つけたのですか?」



「あの、ここ! この人!!」



皆が一斉にのび太の指差した方へと注目する。

視線が向かうは“タイムテレビ”の画面左側、そこに新たに映っていたのは……。





『――――おはようございます』



『『『『おはようございます!!』』』』





紫のローブを身に纏った、妙齢の異国の美女であった。

縁側から楚々と井戸端に降りるその女、その場にいた僧達が一斉に挨拶をする。

女は軽く手を挙げる事でそれに応えると、井戸から水を汲みあげ始めた。



「……この女の人、怪しくないですか?」



のび太が振り返ると、皆一様に頷きを返した。



「……確かに、お寺にはミスマッチだよな。この人」



「修行僧や尼さんって訳でもなさそうだしね……」



「そもそも顔立ちが西洋系、髪の色も耳の形も特徴的ですし……何より纏う雰囲気が異質です。少なくとも一般人ではないようですね……おそらく、この女性が――――」



「――――キャスターのサーヴァント、か。……む、一成とやらが女に近づいていく……」



アーチャーの指摘に映像が二人を対象にクローズアップされ、再び皆の視線が“タイムテレビ”の画面へと集まる。

全員が一言一句聞き漏らすまい、一挙手一投足すら見逃すまいとでも言わんばかりの気の傾けよう。

画面に穴が開くのではと思ってしまう程だ。





『おはようございます』



『あら、おはようございます。……お早いですのね』



『いえ、いつもこの時間には起床しています。寺住まいですので、自然と朝が早くなるのです。零観兄などはああして皆より少し早く起床して、冬の日課である乾布摩擦をやっています』



『……そ、そうなのですか。健康的ですわね』





「あれって日課だったのかよ……」



深々と脱力する士郎。

画面に映る女性……キャスターもやや表情が引き気味である。

画面から外れた遠くの方から『うむ、もう一セットいくか! ハッハッハッハ!』と威勢のいい声が聞こえてくるのが更なる脱力を誘う。

しかし、そんな些事にも一切頓着する事なく、映像は淡々と流れ続ける。





『……そういえば、宗一郎兄はまだ起床されていないのですか?』



『いえ、宗一郎様は既に起きていらっしゃいます。何やら学校関係の書きかけの書類があるとかで、三十分ほど前に起床されて文机に向かっておられます』



『そうですか……ふむ、今は何かと忙しい時期ですからね。宗一郎兄は生徒会顧問を務められておりますから、仕事が中々に片付かないのでしょう。生徒会長として、何か手伝える事があればよいのですが……』






「生徒会顧問? って事は、一成の言ってる『宗一郎兄』って……」



「――――倫理の葛木先生でしょうね。他に該当者がいないもの。……でも意外。あの人柳洞寺に住んでたのね」



「……えっ、と、士郎さんと凛さんの知ってる人なんですか?」



「ん? ああ、うちの学校の教師だよ」



士郎と凛の通う穂群原に務める倫理担当教諭、葛木宗一郎。

寡黙で朴訥、何事においても生真面目すぎるくらいに真面目にこなす、ある意味穂群原の名物教師である。

その固い為人(ひととなり)から変わった逸話も多く、代表的な物では試験中にも拘らず、プリントに不備が見つかったので試験を突如中止にしてそれを回収した、といったものがある。



「ふわぁ~、変わった先生なんですねぇ。僕の担任の先生も真面目でカタブツだけど、こうはいかないや。……でも、試験を中止にするなんて……なんていい先生なんだろう!」



士郎の説明を聞き、まだ見ぬ葛木教諭に尊敬の念を送るのび太。

どうも『テストを中止にした』のくだりがのび太の琴線に触れたようだ。

何しろのび太の担任の先生をして試験を中止にさせるには、真面目にひみつ道具の力を借りなければならないほどなのだから。

それと比べれば多少の不備程度で試験を中止にする葛木の方が、のび太にとってよほど理想的に映ったとしてもおかしくはない。

別にのび太も担任を嫌っている訳ではないのだけれども……なんだかんだでいい先生なのだから。

おいおい、と苦笑する士郎。

しかし次の瞬間、その微妙に緩んだ空気が一変した。















『――――いいえ、心配には及びません。宗一郎様が無理をされないよう、私が常に目を光らせておりますので。何しろ――――――――私の、愛する婚約者なのですから』















「「「「「――――――!?」」」」」





ギシリ、と場の空気が固まる。

『婚約者』と……『愛する婚約者』だと、確かに聞こえた。

これの意味するところ……まともに受け取れば何の変哲もない惚気であるが、この女がサーヴァントであるのならば……それは、一つの可能性を示唆する物となる。

皆を代表するかのように凛が“○×占い”の方に顔を向けると、一言呟いた。



「『キャスターのマスターは……葛木宗一郎である』」



浮き上がる○印、そして響くファンファーレ。

……ここに一つの結論が出た。



「葛木先生が……マスター」



呆然と呟く士郎。

何の因果か顔見知りが次々と己が敵になっていく、その事実に打ちのめされた表情を晒けだす。

……しかし、傍らの凛の反応はやや違っていた。

やや訝しげに、何かおかしいとでも言うように画面をジッと見据えている。

彼女の勘にピンと引っ掛かるものがあったのだ。



「……、でもおかしいわね。葛木は魔術師じゃない。偶然魔術回路が発現した訳でもなさそう。なのにキャスターを従えている……どういう事?」



「え? あの、それって何か変なんですか?」



のび太の問いに対し、凛は渋い顔で頷く。



「サーヴァントを召喚出来るのは魔術師だけなのよ。召喚術自体が魔術……それも大魔術に分類されるものだから。逆に言えば、魔術師でなければ召喚を行えない。その点から言えば慎二も魔術師じゃないから本当は不可能なんだけど、家が家だもの。低確率ながらも可能性を持ってるし、実際にそれを拾ってるみたいだから、これは例外ね」



「へぇ……あれ? でも葛木先生って魔術師じゃないんですよね? じゃあどうやってマスターになったんですか?」



「それが解らないから悩んでるのよ……いえ、実は一つだけ、見当はついてるんだけどね」



「へ? それっていったい……」



『何なんです?』とのび太が言おうとしたが、その言葉が続く事はなかった。

キャスターの発言を聞いてからこっち、沈黙を保っていたアーチャーが閉じていた目を開き、口を開いたからだ。



「……『はぐれサーヴァント』、という事か。凛」



「……、でしょうね」



「はぐれ……サーヴァント?」



聞き慣れない言葉に首を傾げ、聞き返してしまうのび太。

それに対し凛は呆れの溜息を押し殺しつつ……表情には僅かに滲み出てしまうが……説明のために口を開く。

この短いスパンで、この手のやり取りも鉄板と化してしまっている。

あとは士郎がチラホラ似たような反応を返す……両者共に知識に乏しいので、仕方ないと言えば仕方のない事ではある。

とはいえ事ある毎にこれでは、説明役たる凛にとってツラいものがあるのかもしれない。



「『はぐれサーヴァント』っていうのは、簡単に言えばマスターのいないサーヴァントの事よ。何らかの理由があってサーヴァントとマスターの繋がりが切れてしまった場合、そこには主のいないサーヴァントが一人出来上がる。本当ならそのまま消える筈なんだけど、ほんの少しだけ自前の魔力で存在する事が出来るの。これが『はぐれサーヴァント』って訳。サーヴァントが存在するには依代となる人間が必要だから、『はぐれサーヴァント』は自分が完全に消える前に新しいマスターを探す事となる。この場合は……」



「キャスターが『はぐれサーヴァント』となっていて、どういった経緯でかは解りませんが魔術師でないクズキと新たに契約を交わし、主従となった……という事でしょうね」



セイバーの合いの手に同意するように凛は頷く。

そして今度は“タイムテレビ”の方へサッと視線を送る。

場面は丁度一成との会話を終えた女性が屋内へと戻ろうとしている最中であった。

すると凛は突然キシシ、と底意地の悪そうな笑みを浮かべた。



「折角だから、“タイムテレビ”でその経緯までジックリと見てみましょうか。さっきの様子を見る限りじゃ、あの言葉も満更嘘って訳でもなさそうだしね」



「おい、遠坂……それ、無茶苦茶シュミが悪いぞ」



「あら何よ、これは立派な諜報活動よ。相手の内情に探りを入れる事は謀の定石だし、考えつく限りの打てる手は打っておくべきだしね」



しれっと言い返す凛に、士郎はゲンナリとする。

しかし言っている事自体は間違っていないので、“タイムテレビ”で内情調査を行う事に否やはない。

ただ、言いだしっぺたる凛のその下心丸出しの魂胆と態度がいただけないだけだ。



「とはいえ……そうなると場所はどこを映せばいいんだ?」



「……柳洞寺の正門辺りがいいかと。柳洞寺を囲む結界の張られていない唯一の場所がそこですから。キャスターが柳洞寺内にまともに入ったとすれば、侵入口はそこでしょう」



「そうか……じゃあそこに視点をセットして、と。ボタンはこれでよかったんだっけ?」



「はい。あ、いやそこはそうじゃなくてこのボタン。で、ダイヤルを……」



のび太のアドバイスを受けつつ、士郎は“タイムテレビ”の計器を操作し、目的の場所に焦点を当てる。

そしてライダーの時より高速で巻き戻し操作を行い、ほんの数瞬で昼夜が入れ替わる山門の映像を食い入るように観察していた。





「「……む?」」





と、画面を注視していたセイバーとアーチャーが突然、二人そろって怪訝な表情となった。

何事かと同じく画面を見つめていた残り三人が振り返るが、二人は一瞬だけ顔を見合わせると、後でいいと巻き戻し作業を促した。

そうして画面内の時間で十日近くが経ったある地点で巻き戻し作業をストップ。

通常スピードに戻った“タイムテレビ”の映像には、目あての光景が克明に映し出されていた。





『……ぅぅ……ぁ』



『………………』





微かに呻き声を上げる女を両の手に抱え上げ、山門へと続く石段を登る長身の男が一人。

深緑のスーツを着たその男……葛木宗一郎はこちら側に背を向けており、どういった表情なのかは判別出来ない。

一方、頭のフードが外れ外気に晒されたその女の顔は見るからに蒼白で、血の気がすっかり失せきってしまっている。

目も虚ろであり、その身に纏う紫のローブはどういう訳かベッタリと赤黒い血潮に染まり、まるで血のシャワーでも被って来たかのようだ。

そしてダラリと下げられたその手には異様な形の短剣が一振り、握られていた。

短剣としてまともに機能し得ないだろうその稲妻状の歪な刃も、やはり紅い血潮に濡れていた。

この尋常ではない有様から連想出来る事はただ一つ。

この女、キャスターは……今しがた、人を殺めたばかりだ。



「ヒィ……ッ!?」



凄惨な女の姿に尋常でない怖気を覚えるのび太。

見かねたセイバーはフウ、とひとつ溜息を吐くと、その両の眼にそっと自分の手を当て、のび太の視界を遮った。

丁度その直後に、女は糸が切れたかの如く目を閉じ、男にその脱力しきった身体を完全に委ねる事となった。





『………………』





曇っていた空が関を切ったように泣きだし、冷たい水の滴が身体を容赦なく叩くが男はそれを気にする風もなく、ただ僅かに身じろぎし、そのまま石段を登り続ける。

やがて男は山門へと辿り着き、いまだ開かれていたその門を潜ろうとする。

だがその直前、男は徐にその場に足を止めると、雲と雨の支配する虚空へ視線を送りポツリと、こう呟いた。





『――――命を奪いこそしたこの身だが、まさか命乞いをされるとはな。解らんものだ……渇ききったこの私に、施せる物などありはしないというのに』





その言葉に何が込められているのか、この場の誰にも理解する事は出来ない。

しかしながら、その言葉は男の全てを語っているように感じられた。

そして男はそのまま止めていた足を進め、柳洞寺の中へと消えて行った。



「……もういいわよ。目隠しを外しても」



「はい。……大丈夫ですか?」



凛の指示を受けたセイバーはスッとのび太の両目から手を放す。

いまだ恐怖の抜け切れていないのび太であったが、画面に件の女の姿がない事を認めるとあからさまに安堵の溜息を漏らした。



「は……、はぁぁぁぁぁ怖かったああぁぁ……。ううぅ、夢に出てきそう……」



「まあ……気持ちは解るよ。血塗れでナイフを持った女なんて確かにゾッとしないよなぁ……」



士郎もそれに同意するように頷きを返し、背中をポンポンと叩く。

そんな二人の横では凛とセイバー、アーチャーが今の映像から得た情報を基に、推測を働かせていた。



「映像から察するにキャスターは前のマスターを殺した後当て所もなく彷徨い歩き、偶然クズキに拾われたようですね」



「そうね、その線が濃厚か。――――なぜ前マスターを殺したのか、は……まあ、正直なところ、どうでもいいわね」



「同感だな。少なくとも、自ら召喚したサーヴァントに殺意を抱かれたような人間だ。理由も大方見当がつく。……そしてキャスターは主(マスター)殺しを行い死にかけた結果、偶然とはいえ柳洞寺という霊地と葛木宗一郎という愛しの主(マスター)を手に入れたという事か」



「向こうはそれでハッピーでしょうけど、こっちにとってはアンハッピーよ。よりによって、どうしてこんな穴だらけの大バクチに勝つのかしら……幸薄そうな顔してるクセに」



ブスッとした顔で愚痴る凛。

あまりにド直球な物言いにセイバーもアーチャーも苦笑を漏らす。

しかしそれも一瞬の事。

すぐにセイバーとアーチャーの表情は一変し、眉根を寄せた険しいものへと変化する。



「とはいえ……マスターであるクズキも油断なりません。確かに魔術師ではありませんが……かといって一般人でもありません」



「え? セイバー、それってどういう事?」



意表を突かれたように凛がパッと視線をセイバーへと移す。

セイバーはそれには応じず、確認を取るようにそのままアーチャーへと視線を移した。



「……アーチャー、貴方も感じ取れたと思いますが」



「ああ……。あの男、かなりの手練れだ。歩法から推察するに、おそらくは徒手……拳法か? とにかく、相当に使う。あの言葉も、まんざら嘘という訳でもなさそうだ」



「……“命を奪いこそした”、っていう?」



「うむ……」



重々しく、アーチャーは頷きを返すとそのまま目を閉じる。

顔見知りである凛の手前、敢えて断言はしなかったが、アーチャーはあの言葉が真実であるという確信を抱いていた。

葛木の背中から、明らかに命を奪った者特有の“何か”が滲み出ているのを見て取ったからだ。

そしてそれはセイバーも同じであり……無論アーチャーも同じである。

英霊とは、基本的に他者の命を糧として、己が身を一段上の高みへと昇華させている。

“色”や立場こそ違えど、その背に背負うものは同じなのだ。

ある意味で、二人は葛木と同類なのである……故に感じ取れた、そういう事だ。

そして……アーチャーには気になる点がもう一つ、ある。

あのキャスターの手に握られていた短剣だ。










(……“破戒すべき全ての符(ルールブレイカー)”。魔術的なつながりを打ち消す破戒の短剣、だと?)










自身の持てる“能力”により、アーチャーはあれがキャスターの切り札……『宝具』である事を見抜いていた。

その名称から、特性、効果……その細部に至るまで。

契約だけに留まらず、あらゆる魔術的効果を初期化(キャンセル)する。

マスターとの魔術的契約によって現界するサーヴァントにとって天敵である『宝具』。

この情報を知るのと知らないのとでは天と地だ。

無論、危険を減らすためにもこの事実をアーチャーは報告するべきなのだが……。










(……いや、まだだ。まだ、告げるべき時ではない。当初の目的を捨て去った訳ではないのだからな)










アーチャーは敢えてそれを行わなかった。

あらゆる要素を鑑み、熟慮した末での結論である。

アーチャーにはある“目的”がある。

英霊となって尚抱く……いや、英霊となったからこそ、抱いた“目的”。

アーチャーがこの戦争での召喚に応じたのも、全てはそれに集約される。

アーチャーはその“目的”に対し、並々ならぬ執念を抱き続けてきた。

たとえ英霊として過ごしてきた膨大な年月によって、己自身がすり減ろうともそれが摩耗する事はなかった。

この事実を告げるという事は、すなわちその絶対の“目的”が潰える覚悟をしなければならないという事なのだ。

それだけは、何としても避けたかった。

だからこそ、アーチャーは沈黙を保つ。

魔術師のサーヴァントの警戒レベルを引き上げ、常に注意を配る事のみを肝に銘じつつ。

まだ、この中の誰も欠けてもらっては困るのだから。







[28951] 第二十話
Name: 青空の木陰◆c9254621 ID:90f856d7
Date: 2011/10/11 00:01





「……そういえばさ」



「はい? なんでしょうかシロウ?」



「いや、“タイムテレビ”巻き戻してた時、なんか言おうとしてなかったか?」



恐怖状態であったのび太の震えが収まってきたところで、士郎はたった今思い出した事をセイバーに尋ねてみる。

セイバーはふむ、と宙に視線をやったかと思うと、何かに思い至ったかのようにああ、と二度三度頷いた。



「いえ、途中で妙な物が映り込んでいたように感じましたので。といっても、ゼロコンマ一秒ほどもないノイズのような物でしたが」



「ノイズ? どういう具合に?」



「む、そうですね……」



セイバーは顎に手を当てると目を閉じ、記憶の奥底からその時の光景を引っ張り出すかの如くほんの少しだけ、眉根を寄せる。



「シロウは巻き戻しの際、ノビタが操作した時よりさらに高速で行いましたね? 後の方で緩めていましたが。件の物が映り込んだ時のスピードは大体一日およそ0.8秒くらい……ですか。映る映像は人の往来が大半だったのですが、その中の夜の時間帯に、ほんの少しだけ引っ掛かる色……と言うべきでしょうか? そんなものが掠めたのです。アーチャーにも見えていたようですので、私の勘違いではないと思います」



セイバーが隣のアーチャーに視線を向けると、アーチャーは先程からの瞑目を保ったまま、同意するように首を縦に振った。

士郎はうーん、と唸りながら頬をカリカリ掻くと、もう一度“タイムテレビ”の前に鎮座する。



「0.8秒って……よく見つけられるなそんなモン。……で、それはどの辺りなんだ?」



「そうですね……四日ほど前でしょうか」



「四日前だな」



復唱し、キリキリと“タイムテレビ”のダイヤルをいじる。

巻き戻る映像、ただしスピードは先程とはうってかわってラットローラー並に緩やかである。

やがて士郎達の眼前に、その四日前の夜の山門が映し出された……その瞬間。





「……え!?」





「ちょっと、これって!?」





「え? これっ、バーサーカーと……誰?」





俄かにざわめきが広がった。










『■■■■■■■■■■■■■■■ーーーーー!!』



『……ふむ。鈍く、拙い剣筋だな。しかしながら――――中々どうして、速い』










スピーカーから聞こえてくるのは甲高い金属音と鼓膜が破れんばかりの咆哮……そして、感心するような涼やかな声。

柳洞寺の山門の前、石段の上段と下段にそれぞれ人の姿があった。

下段の方にいる一人は……果たして“一人”と換算していいのかどうかは疑問だが……狂戦士のサーヴァント、バーサーカー。

相も変わらずの理性の輝きのない瞳で、大気を突き破らんばかりの雄叫びを上げながら滅多矢鱈に岩の大剣を振り回している。

そしてもう一人……上段に位置し、山門の前に立ち塞がるように存在しているのは、





『……惜しいな。そなたが狂わず、理性を保ったままであったのなら、もう少し心躍る戦舞を演じられたものを』





「……侍?」





群青の着物を身に纏い、己が背丈ほどもあろうかという長物を振るう優男であった。

のび太の口から漏れ出た言葉は、まさにこの謎の男を端的に言い表している。

膝まで達しようかという青い長髪を一つに束ね、袴を靡かせながら草鞋履きの足で的確に立ち回る。

右手一つで操るは、目測でも百五十センチは下らないだろう鍔のない日本刀。

鈍い光を湛えながら宵闇の空間を自由自在に、目まぐるしく駆けまわり、瀑布のように迫り来る武骨な神速の凶刃を右へ左へ、時折火花を散らしながら的確に捌いていく。

線香花火のようなその光が両者の顔を一瞬照らしだす……その様子はどこか幻想的で、儚いものであるかのように感じられた。





『■■■■■■■■■■■■■■■ーーーーー!!』



『……フッ。だが、これはこれで悪くない。少なくとも、刹那の戯れにはなろうという物だ』





しかし浮かび上がるその表情は、決して儚げなものなどではない。

一方は阿修羅の如き狂相、もう一方は叫び出しそうなほどの昂ぶりを秘めた薄い微笑み。

その両者の間で交わされるのは、まごう事なき刃と刃の鎬の削り合い。

まさしくこれは……死闘であった。



「凄い……バーサーカーの攻撃をあんな刀で全部捌いてる。並の技量じゃないわ」



「……ああ。一体何者なんだ? この侍」



呆然と画面に見入る一同。

士郎と凛の呟きは、この場の全員の心境を余すところなく代弁していた。

セイバー・アーチャー・のび太の連携で漸く渡り合っていたバーサーカーと、互角に剣を交えているのだ。

舞台が山門前の石段の上であるという事、バーサーカーが階下にいるという事を差し引いても、十二分以上のお釣りが返ってくる。

侍の尋常でない力量の程が嫌でも伝わってくるというものだ。



「……疑いの余地なく、サーヴァントでしょうね」



画面の侍を見据えつつ、呟くセイバー。

その深緑の瞳の奥には静謐に、だが迸らんばかりに猛る炎が陽炎のように揺らめいている。

獲物と剣技こそ違うが、同じ剣を扱う士として意識しているのだろう。



「……とするならば、該当するのは残りの一席……アサシンか。だが、随分アサシンらしからぬアサシンだな。それに何故アサシンが柳洞寺にいる?」



訝しげに首を捻るアーチャー。

確かにおかしな事ではある。

ここ柳洞寺はキャスターのテリトリー。

戦闘が行われるとしたら、一方は必然的にキャスターとなる筈だ。

しかし戦っているのはキャスターではなく、アサシンとバーサーカー。

階下にいる事から見ても、バーサーカーは侵入者であろう。

マスターである白の少女は映っていないものの、戦闘の邪魔にならないよう近くに潜んでいるものだと思われる。

一方柳洞寺の門前に陣取っているアサシンは……侵入者であるとは到底思えない。

むしろバーサーカーの侵入をその身で防いでいるようにさえ見受けられる。

そう……まるで柳洞寺の門を守護する、番人のように。



「……もしかして、キャスターとアサシンは、裏で繋がってる?」



「え? 遠坂、それって……?」



ポツリと漏れ出た凛の予測に、残る四人が一斉に振り返る。



「この状況、どう見ても山門の防衛戦よ。バーサーカーが柳洞寺に無理矢理踏み入ろうとしていて、アサシンがそれを防ごうとしている。そしてお膝元の騒ぎにも拘らず、キャスターが姿を見せていない。つまり、キャスターとアサシンは敵対しておらず、互いに協力し合っているって事よ。もっとも、この場合はマスター同士が協力し合っていると言った方が正しいんでしょうけれど」



そう考えれば納得がいくわ、という凛の言葉には説得力があった。

確かに、むしろそうとしか考えられない状況ではある。



「ま、とりあえず確認してみましょうか。……『キャスターとアサシンのマスターは互いに協力関係にある』!」



自信満々といった感じで凛は“○×占い”に向かって命題を告げる。

しかし返ってきたのは……、



「――――え!? ま、間違い!?」



使用後初となる、命題の否定を示すNG音。

『ブッブー!!』と×印が空中に浮かび上がり点滅、凛の予想に真っ向から『間違いである』の返答を突き付けた。



「な、なんで……!? 一番可能性があるのはそれなんだし……いったいどういう……?」



まさかの回答に凛は唖然とするもすぐに頭を切り替え、思考に没頭し始める。



「おい、遠坂……?」



と、やや心配そうに覗き込む士郎の存在もアウト・オブ・眼中だ。

キャスターとアサシンは繋がっている。

それはきっと間違っていないだろう。

しかしそうなるといったい如何なる関係で繋がっているというのだろうか?

最も可能性が高いのはマスター同士の同盟による協力関係。

魔術師の英霊であるキャスターは直接戦闘能力が他サーヴァントより低いというのが相場であるので、それを補うため同盟を組むというのは理に適っている。

実際、自分達も同盟を組んでいるのだし……しかしそれは否定された。

ならいったい……、と思考がループしかけたところで、



「――――あ! もしかして……」



突然のび太が何かに気づいたように声を上げた。

その声に思考の腰を折られた凛は一旦考えるのを止めると、やや不機嫌な眼差しでのび太を見やる。



「……なに、のび太?」



「あの、ちょっとその前に確認、というかちょっと質問が……。“キャスター”って魔術師のサーヴァント、ですよね?」



「……そうよ」



『何を今更』といった感じで凛は億劫そうに首肯する。

のび太はそうですか、と頷きを返した後、



「で、魔術師だけがサーヴァントを召喚出来る……んでしたよね。さっきの話だと」



更にもう一つ質問を重ねた。

またしてもの今更な質問。

本格的に面倒くさく感じてしまい、凛は声で返答しない代わりに首を縦に振ろうと……





「――――――――ん?」





して、ピタリと動きを止めた。

ループしかけていた思考ルーチンに、何かが引っ掛かった。

そしてまるで新しい歯車がはめ込まれたかのように、ガチリガチリと枠が広がっていく。

それは固定観念の柵を破壊し、袋小路に嵌まり込んだ思考の迷路に新たな道を創り出す。

そうして凛の頭脳は再び高速で回転を始めた。





(キャスター……魔術師……サーヴァントを召喚し、使役するのは魔術師……魔術師のサーヴァント……、ッ!?)





――――繋がった。

もう一つ、あり得る可能性が……あまり考えたくはない可能性ではあるが……凛の脳裏に浮かび上がる。

チラリ、と一度だけのび太に視線を送ると、凛は“○×占い”に再度向かい合い、命題を口にした。





「――――『アサシンはキャスターが召喚したサーヴァントである』」





瞬間、○印が宙に浮き、点滅するとともに景気よくファンファーレを鳴らす。



「――――……はぁぁぁぁぁ」



と、その時凛は肺の中の空気を空にするかの如き、大きな吐息を漏らした。



「成る程……盲点だったわ。考えてみればそっちの方が可能性、あったかぁ。同盟なんてある意味保障があってないような約束、相手がその気になれば即座に破棄され、最悪の場合は裏切られて背後からブスリ。それなら自分がマスターとして、枠がすべて埋まる前にサーヴァントを召喚してしまえばまったく問題ない。魔術師の英霊であるキャスターなら裏ワザ的に可能だろうし、多分時期的に都合が良かったから……にしても、まさかのび太が真っ先に気づくなんてねぇ」



脱力しきりの状態のまま首だけを動かし、のび太の方を見やる。

のび太は恐縮そうに頬を掻きながら、



「え、あの……だって、凛さんが『サーヴァントを召喚出来るのは魔術師だけ』だって言ってたから……じゃあキャスターも出来るのかなぁ、って」



実に単純な論理に基づいた推測であった事を告げた。

のび太の考え方はその手の知識に乏しいせいで、凛のそれと比べて果てしなく短絡的である。

しかし今回の場合は逆にそれが幸いした。

下手な先入観がなかったおかげで、正解をすんなりと導き出す事が出来たのだ。



「何という暴論だ……だが、今回に限って言えば僥倖か。しかしキャスターめ、平然とルールを破るとは……」



アーチャーの顔が苦々しげに歪む。

いくら非常識や不条理がまかり通る聖杯戦争とはいえ、全くルールがないという訳ではない。

アーチャーは割に秩序を守るタイプであるようだ。

殺気混じりのその視線は部屋の壁を越え、その向こうの柳洞寺へと叩き付けられていた。



「今更言っても仕方のない事です。大事なのはこの状況を踏まえ、どう動くべきなのか。それのみです」



そんなアーチャーを窘めるセイバーであったが、目だけはいまだ画面内で続く命の削り合いを食い入るように見つめ続けている。

おそらくアサシンの剣筋を読んでいるのだろう。

足の運びから腕の振り、重心の位置、体捌き……セイバーはその一挙一動を余すところなく、脳裏に転写していく。

と、そこで画面内部に動きがあった。





『――――バーサーカー、もういいわ。戻りなさい』





山門に響き渡る、ソプラノの声。

バーサーカーのマスターである、イリヤスフィールのものだ。

その命に従い、バーサーカーがアサシンの剣を大きく弾くとすぐさま階下へ後退し、距離を取る。

そしてその巨躯が陽炎のように歪み始めたかと思うと、やがて画面から忽然と消え去った。

霊体化したのだ。



『――――ふむ、バーサーカーの主殿か。声からして随分と幼い童のようだが。それはさておき、急に退くとは……はてさて、如何なる腹積もりか?』



相手が消え去り、手持無沙汰にダラリと下げていた長刀を肩に担ぎつつ問うアサシン。

つい先程まで死闘を演じていたとは思えない程の涼しげな笑顔で。

しかも驚くべき事に、汗の一筋すら流れていないときている。



『別に。用が済んだから帰るだけ。ここに来たのは単なる様子見のつもりだったのよ。深入りする気は最初からなかったわ』



『……成る程。この地はあの女狐が狂喜する程の霊地。解らぬでもない……しかしながら、こちらとしてはいささかつまらぬ幕引き。まさにこれから、という時におあずけを喰らわされたのでは堪らぬよ』



『アナタの都合なんて知らないわよ。それじゃ、アナタの飼い主……キャスターによろしく言っておいてちょうだい』



『――――、まあよかろう。そなたが事、確と伝えおく。……ああ、そうだ。まだそこにバーサーカーは存在するか、否か?』



『……いるわよ、それが何?』



イリヤスフィールの返答にアサシンはク、と口の端を吊り上げる。

そしてクルリと踵を返し、山門の方へと身体を向けると徐に視線を空へと投げ朗々と、まるで歌うように口を開いた。





『水を差されたとはいえ、剣を交わした縁(えにし)。このようにしこりを残したまま去られては、私の沽券に係わる……故に』





一瞬、アサシンは口を閉ざす。

そしてちょうど一呼吸分の間を置いて、微かに歓喜の混じった声音でこう告げた。





『――――せめて仮初の役柄などではなく、我が真の名を名乗ろう。我はアサシンのサーヴァント……“佐々木小次郎”』





そしてバーサーカーと同じように、アサシン……佐々木小次郎はその場から姿を消した。

イリヤスフィールの気配も、既にない。

後には、僅かにそよぐ風に揺られる山の木々と、ひっそりと佇む山門のみが残されていた。










「佐々木……小次郎?」


無人となった画面をいまだ見つめ続ける一同。

その表情は、一人の例外もなく呆気に取られたものとなっていた。

『佐々木小次郎』。

二天一流の開祖、宮本武蔵と巌流島で決闘を行ったとされる、日本ではあまりにも有名な剣豪である。

『佐々木小次郎』の特徴として挙げられるのは、何といってもその身の丈ほどもある長刀と、代名詞たる秘剣『燕返し』。

後者はともかく、前者はアサシンと見事合致している。



「この人が……ホントに? あの『佐々木小次郎』……なの?」



「……おそらく、真実でしょう。バーサーカーの斧剣を悉くいなしていた、あの技量は相当な物。加えて、己が剣と名に懸けるプライドも高い。だからこそ、剣を交えたバーサーカーに敬意を表し、名乗りを上げた……」



「それは解るけど、まさか自分から真名をバラすなんて……」



「アサシン……佐々木小次郎にとって、自らの名を告げる事は名を隠す事以上のものだという事です。そして、真名を明かした程度で揺らぐ実力ではない……あの宣言はその自負の表明、という事でしょう。そんな男が、キャスターの僕(しもべ)とは……」




固い表情で言い切るセイバー。

その背中には、ほんの微かな焦燥の念が影のように揺らめくのであった……。















さて、残るはいよいよ最後の一人、バーサーカーの居所だけとなった……の、だが。





「……ところでのび太君」





急に真面目くさった表情で、士郎はのび太に語りかける。





「はい? どうかしたんですか、士郎さん?」





探査を始めてからこれまで結構な時間が経っている。

小休止とばかりに用意されていたお茶とどら焼きに齧り付いていたのび太が顔を上げた。

それをを感じ取った士郎はスッ、と指をある一点へと向け、










「――――これを見てくれ。コイツをどう思う?」










まさに切れ味鋭い真剣のような眼差しをのび太に送り、そう問うた。

思わず身構えたのび太であったが、士郎の指の先にある“モノ”を見た途端、










「――――――――!」










爛々と瞳の輝きが増し、眼鏡の奥の両の目が段々と大きく見開かれていった。










「すごく……大きいです……」










どこか陶然とした声で、のび太は答える。





その威風堂々とした風格。



そのズシリ、と擬音が響き渡るかのような重厚感。



その度肝を抜かんばかりの迫力。










そして何より――――――――ある種の幻想的な美しさまでをも兼ね備えた、その巨大な佇まい。










のび太は、降って湧いたような感動に全身を打ち震わせていた。




















「―――――――、一応聞くけど……城が、よね?」










「「え?」」





やや表情の強張った凛からの指摘に、二人は同時に振り返る。

何を隠そう、士郎が指の先にあるのは……面前に鎮座する“タイムテレビ”。

その中に映し出された、白亜の古城であった。

まるでヨーロッパからはるばる海を越えて直接日本に持ってきたかのような、石造りの西洋城……鬱蒼とした森の中にひっそりと、だが厳然と佇むその様は、まさに『壮観』の一言。

この城こそが、アインツベルンが聖杯戦争の際に使用する冬木での拠点……通称“アインツベルン城”である。

冬木の郊外にある森。

そこにある城をアインツベルンのマスターは代々拠点として使用しているらしい、という凛からの情報の下、士郎は“タイムテレビ”でそれを発見。

画面に投影されたその非現実的な威容を目の当たりにし、のび太と二人して息を呑んでしまったという訳である。

現に凛に向き直った二人の表情は『それ以外に何があるの?』と言わんばかりだ。





「……はぁ」





凛は溜息を吐いた。

そして数瞬の間も置かず、





「「いだっ!!?」」





振りかぶりざま二人の頭長部目掛け、実に流麗な正拳を叩き込んでしまった事を誰が責められよう。





「……あの、リンは何故あのような事を?」





「……、解らんのならそれでいい。君はそのままの君でいてくれたまえ、セイバー」





「はあ……?」





――――そもそも二人の『アッー!』など、いったい誰得であろうか。










閑話休題。










『ただいま。セラ、リズ』



『おかえりなさいませ、お嬢様』



『おかえり、イリヤ』



シャンデリアが明々と照る、異様な程だだっ広い玄関ホールに三つの声が木霊する。

一人はイリヤスフィール・フォン・アインツベルン……言うまでもなく、この城の主。

一人は白青基調の本格的なメイド衣装に身を包んだ、生真面目な雰囲気の女性。

一人は白黒基調の同じデザインのメイド衣装を纏った、ややつかみどころのなさそうな印象の女性。

服装と一連のやり取りからして、イリヤスフィールの付き人なのだと解る。



『どうでしたか? エミヤシロウは』



『そうね……最初から最後までオタオタしてただけだったわね、お兄ちゃんは』



『やはり……』



『セラ』と呼ばれたメイドが、これ見よがしに溜息を漏らす。

どういう訳か、魔術師として半人前以下である士郎の実力を知っていたようだ。

改めて落胆した、といったような吐息であった。



『でもイリヤ、嬉しそう。なにかあった?』



と、もう一人の『リズ』と呼ばれたメイドが片言で尋ねてくる。

セラとは違う、まるで表情を作る事を知らないような無表情で尋ねるその様には、どことなく違和感を感じてしまう。

しかしイリヤスフィールはそれを気にした風もなく、



『ちょっとね。なんでか知らないけどリンとお兄ちゃんが協力体制を組んでて、セイバーとアーチャーと……あと一人、知らない男の子と三人がかりでバーサーカーに立ち向かってきたの。それで、バーサーカーが一回殺されちゃった』



さらりと、何でもない事のようにのたまった。

その瞬間、二人のメイドの眉がピクリと跳ねあがる。

もっとも興味の対象は、それぞれ別であったようだが。



『バーサーカーが……殺された?』



『ええ。武器を破壊されて、セイバーが首に一撃。ほぼ即死だったわね』



そこまで聞いてセラの顔が俄かに驚愕に彩られる。

『ヘラクレス』であるバーサーカーを一度とはいえ仕留めた、その事実はやはり重いのであろう。

たとえサーヴァント複数人がかりであったとしても、命があと二ケタ残っていたとしてもだ。



『男の子……って、誰?』



『え? ……うーん、名前は確か、『ノビ・ノビタ』って言ったかしら? 眼鏡の、あんまりパッとしない感じの子だったんだけど……一回逃げて、でも戻ってきて、バーサーカーを吹き飛ばしたり、空を飛んだり、動きを止めたり……』



『……スーパーマン?』



無表情のまま、抑揚のない声で呟くリズ。

……あながち間違ってはいない点がスゴいと言えばスゴい。



『まあ、色々ヘンな道具を使ってたから。小さい銀色の大砲とか、プロペラとか……そのまま立ち向かってきた訳じゃないわよ。見た目はわたしと同じくらいだったかしら? 中身も年相応ぽかったけど……度胸と、射撃の腕前だけは英霊並ね。アーチャーも真っ青』



足震えてたけど、とイリヤスフィールはクスクス笑いながら述懐する。

その言葉に、セラはますます表情を険しくした。



『……いったい何者なのですか、その子供は?』



『さあね。『通りすがりの正義の味方』とか言ってたけど、よく解らない。でもセイバー、アーチャーとそれぞれタッグでバーサーカーを悉く邪魔してきた。バーサーカーを殺した一撃をアシストしたのもその子。そのせいか、バーサーカーがその子に御執心みたい』



『そう……。イリヤ、これからどうするの?』



『とりあえず今日はもう休むわ。バーサーカーの話だと、なくなった命が元に戻るにはちょっと時間がかかるみたい。セイバーの一撃がかなり効いたんでしょうね。二十四時間は必要だそうよ。これからの事は……そうね、起きてから考えるわ』



『そうですか……かしこまりました。寝室の用意は既に出来ております』



『ありがとうセラ。それじゃ、行きましょうか』



『うん、イリヤ』



主の下知に頷く二人のメイド。

イリヤスフィールはやや後方をついて歩く二人を引き連れ、そのまま城の奥へと消えていった。















画面から人影が完全に消え去ったところで、全員が“タイムテレビ”から視線を外し、互いに顔を突き合わせる。

いよいよ大詰めの段階、これからの方針決めに状況がシフトした。



「……成る程ね。さて、各サーヴァント事情のおおよそが掴めた訳だけど……」



「ええ。まだ欠けている部分はありますが、現時点では我々の方が敵の誰よりも情報のカードを持っていると考えていいでしょう」



「まあ、そのアドバンテージを有効に扱えねば話にならんがな。とりあえず、私からは“先手必勝”を提案するが……」



「えっ? それって相手のところに乗り込むって事ですか?」



「そうだ。受けに回らず、逆にこちらから相手を攻める。要は殴り込みだ。敵の大半が情報を揃えきれていないだろう今なら、先手を打つ事が出来る。もっとも、仕掛けるにしてもそれは夜になってからだが」



「ちょっと待てよアーチャー。言ってる事は解るし正論だけど、いったい誰に? どいつもこいつも一筋縄じゃいかないようなヤツらばっかりだぞ?」



「あら、そんなの決まってるじゃない」



「「え……?」」



あっさりと言い放った凛に思わず向き直るのび太と士郎。

凛の顔に浮かぶのは、何とも大胆不敵な微笑み。

その表情の下にある意図が皆目読めない二人は、つい互いに顔を見合わせてしまう。



「確かに……。現段階で先手を打って仕掛けるのならば、選択肢はほぼ一つに絞られますね」



「うむ。居所も判明していて、尚且つ情報のカードがほぼ出揃っている。骨は折れるが、それ以外になかろう」



「「……え、えっ?」」



首肯混じりに呟かれた英霊二人の言葉に、のび太と士郎はますます訳が解らなくなる。

混乱の坩堝に嵌まり込んだ二人に、凛は何度目になるか解らない溜息をそっと吐くと、



「……解らないなら教えてあげるわ」



チラリと英霊二人に視線を送り、答えを提示した。















「――――――――バーサーカーよ」












[28951] 第二十一話 (Aパート)
Name: 青空の木陰◆c9254621 ID:90f856d7
Date: 2012/03/31 12:16



「――――お、ドラえもんだ。お~い、ドラえも~ん!!」


「にゅふふふ、ミィちゃん……ん?」


お使いからの帰り道、空き地の前を通りかかったドラえもんは誰かに呼び止められ、声のした方に首を向ける。


「お~い、こっちだこっち!」


空き地の土管の上にどっかと腰を降ろし、手を振っているのはジャイアン。

その横にはしずかとスネ夫が立っていた。


(ああ、もうこんなところまで来てたのか)


ドラえもんはカリカリと頭を掻く。

つい今の今までミィちゃんとのひと時を思い返していたせいで、空き地辺りまで進んでいた事も、いつものメンツの存在にも気づかなかったのだ。

このままなのも何だ、とドラえもんはスタスタと空地へと入っていく。

そして皆の下へと辿り着いた時、しずかが口を開いた。


「ドラちゃん、何かいい事でもあったの? 笑ってたみたいだけど……」


「大方ガールフレンドのネコの事でも考えてたんじゃないの?」


「――――え!? べ、別にぃ!?」


スネ夫の言葉に思わずどもってしまうドラえもん。

そんな反応を返してしまっては、『その通りです』と自ら白状しているようなものである。

図星だと悟ったスネ夫は浮かべていたニヤニヤ笑いをますます深くした。


「やっぱりそうなんだ! わっかりやすいなぁ、ドラえもんは!」


「だからオレ達に気づかなかったのか! こ~んな近くに来てたのにさぁあ!」


ワハハハハ、と大爆笑するジャイアンとスネ夫。

『笑っちゃダメよ二人とも』と窘めるしずかも、やや口元がヒクついている。


(ああ、穴があったら入りたい……)


つい数秒前の自分を蹴り飛ばしてやりたい衝動を堪えつつ、ドラえもんはただ只管、バツが悪そうに小さくなっているしかなかった。

と、そんな時。


(……あれ?)


唐突に、目の前の違和感を覚えた。

何かが足りないような、そんな違和感を。

そしてそれがいったい何なのか、すぐに思い至った。


「……そういえばのび太君は?」


そう、のび太の姿が見当たらないのだ。

のび太は基本的にしずか、ジャイアン、スネ夫と一緒に行動する事が多い。

まあ、後者二人の場合は理由がマイナス方面である割合が大半なのだが、今はそれはさておく。

とにかく、この面子ならばのび太がいなければおかしい。

ただでさえこの空き地はのび太の行動範囲であるのだし、あまりにも不自然だ。


「ああ、それがさぁ……」


ドラえもんの疑問に答えたのはジャイアン。

何となくバツが悪いのだろう。

後頭部をバリバリ掻き毟りながらポツリポツリと、つい数十分前の出来事を掻い摘んで説明し始めた。

……そしておよそ一分後。


「――――アーサー王!?」


「そうなんだよ。スネ夫が『アーサー王は存在しない』って言ったら急にのび太が怒りだしてさぁ、『アーサー王がいたって証明してやる!』って言って飛び出して行っちまったんだよ」


「多分家に戻ったと思うんだけど……ドラちゃん知らない?」


「ううん、全然。僕がどら焼きを買って帰ってきた時、のび太君、部屋にいなかったもの……入れ違いになった、なんて事はなさそうだし……う~ん」


「そういえばドラえもん、買い物カゴ持ってるけどそれってお使い?」


「うん、のび太君の代わりにね。ママさんものび太君を見てなかったから、代わりに僕にお使いを頼んだんだろうし……何かイヤな予感がする。とりあえず、急いで戻ろう」


そう言うとドラえもんは即座に踵を返し、駆け足で空き地の入口へと向かう。

まるで言い知れぬ“不安”に突き動かされるように。


「待ってドラちゃん、あたしも行くわ!」


その後を追いかけるようにしずかが続く。


「スネ夫、オレ達も行ってみようぜ!」


「あっ、待ってよジャイアン!」


そして残った二人も、当然のように後をついていく。

果たして四人は、真実に辿り着く事が出来るのか……。












さて、その頃ののび太はというと。











「「「「いただきます」」」」


「はい、召し上がれ」


号令一下、ランチタイムと洒落込んでいる最中であった。

メニューは鮭の切り身、大根の煮付け、キンピラゴボウと炊きたてのご飯の四品目である。


「う~ん! やっぱり士郎さんのごはんはおいしいなぁ~!」


「あはは、そこまで喜んでくれるなら作った甲斐があるな」


キンピラゴボウをシャクシャクと頬張っていたのび太が心からの賛辞を送ると、士郎は面映ゆそうに頬を掻く。

基本的に魚や野菜の好き嫌いが多いのび太であるが、士郎ほどの料理上手が作るものならば特に気にする事なく食べられるようだ。

わざわざ余所様に作ってもらったのに好き嫌いを持ち出せるほど、のび太が恥知らずでない事も要因としてはあるのだが。


「……わたしより上手いわね。この大根の味付け。なんか腹立つ……」


凛は批評をブツブツ交えながらも、とりあえず行儀よく食している。


「シロウ、おかわりをお願いします」


「はいはい……って、これで三杯目……」


そしてセイバーはというと、空になった茶碗をそっとどころか勢いよくズビシと士郎に突き付けていた。

皿の上の鮭も大根もゴボウもキレイサッパリと消え失せ、目下士郎の皿から善意的に副菜が緊急出動している有様である。

恐るべき健啖、恐るべき消化器官。

炊飯ジャーの底が現れるのも時間の問題である。










のび太達が方針を決め終えた頃には、時計の針はちょうど十二時を指していた。

腹の虫も、士郎とセイバーを筆頭にいい感じに泣き始めていたので、自然に流れは昼食へと傾いていったのである。

そして士郎は台所へ、残りは一旦奥へと引っ込み三十分ほどで料理は完成。

再び奥から皆が集い、食卓の前で両手を合わせる事と相成った。





……ところで気づいた方はおられるだろうか?





――――『いただきます』の際、挨拶の声が“四つ”あったという事に……。







「……風味が弱いな。みりんが少しばかり足りなかったと見える。味の染みもまだまだ、とはいえこれは時間の都合上、責められ……いや、それならそれでやり様はある。やはり減点だな。キンピラは……」


「――――おい、難癖付けるくらいなら食うな。流石に気分が悪くなってくるぞ」


「ふむ? ……ああ、気に障ったのならば謝罪しよう。なに、これは癖みたいなものだ。このように、色々と惜しい料理を前にしてつい、な……」


「惜しいってなんだよ?」


「文字通りの意味だが? 成る程、確かにこれだけ出来れば上出来の部類に入るだろう。並の料理人では早々太刀打ち出来まい。それは断言しよう。しかしながら、これでは二流に勝てはしても一流には及ばん。つまりはそういう事だ」


「……解った。俺の料理の腕が未熟だというのは受け入れる。けどな、その言い方だとお前の方が上手く作れるっていう風に聞こえるんだが? どうなんだ――――アーチャー?」


ジロリと睨みを乗せたその言葉に対し、向けられた本人はフン、と心底皮肉げな薄ら笑いを浮かべた。

そう……なんとアーチャーが昼食のテーブルを囲む一員として茶碗を抱え、大根の煮物をつついているのだ。





「なにを当然の事を……貴様如きに負ける気など微塵もせん」





本来、サーヴァントに食事は必要ない。

サーヴァントが存在するために必要なのは食物ではなく、魔力だからだ。

だからこそ、アーチャーははじめ昼食を辞し、歩哨兼見張りとして屋根上へと移動しようとした。

……したのだが。





『……ええっ、アーチャーさんお昼食べないんですか? みんなで食べた方が楽しいのに……』





物凄くがっかりした表情で呟くのび太を前にしては、前言を撤回するのにさして時間は必要なかった。

いかに歴戦の兵(つわもの)といえども、子どもが相手ではそこまで強くは出られないのだ……このアーチャーという男は。

……しかしながら、紅い外套を纏った長身の男が食卓に着いて巧みに箸を操り、吟味するように大根を咀嚼するその光景は、違和感がありありである。


「……シロウ、おかわりはまだなのですか?」


ちなみにセイバーが何のてらいもなく昼食を貪り食っているのは、食物でもごく僅かながら魔力を回復させる事が出来るからだ。

不完全な召喚のツケで、セイバーはマスターである士郎から魔力の供給を受けられない。

そのためたとえ少しでも残存魔力を増やそうと、周囲が軽く引くくらいの量のご飯を食べているのだ……。





……いや。





「シロウ~……」





……追加が来ない事にいまだ茶碗を突き出したままの、おあずけ喰らった子犬のようなその表情を見るに、





「……まだなのですか?」





――――ただ食うのが好きなだけなのかもしれない……。





ちなみにおかわりは、この時点で累計六杯目である事をここに追記しておく。







それはともかく。







「……ほぉおう? まさか英霊がハッタリをかますなんてな」


「ハッタリ? ……フン、なにを世迷言を。厳然たる事実だ。英霊とは、あらゆる経験を永い年月をかけて蓄積し続けてきた存在。無論例外もあるが……ともあれ、断言しておこう――――――――貴様程度の経験値では、私には遠く及ばん」





――――瞬間、士郎の目に剣呑な光が宿った。








「……言ってくれるな、若白髪が」





「嘴の黄色い小僧が囀(さえず)るな、滑稽でしかないぞ?」








眼光鋭く、メンチを切り合う両者。

身長の低い士郎が見上げ、上背のあるアーチャーが見下ろすといった構図となっているが、飛び散る火花が尋常ではない。

一方はまるで親の仇を殺すような目つきで以て睨み上げ、もう一方は思い上がった未熟者を嘲るかの如く冷え切った視線を眼下に叩き付ける。

まさしくここはキューバ危機。

核弾頭の発射ボタンを握り締め、相手の出方を殺気混じりの視線で窺いながらの膠着状態。

……しかしまあ、箸と茶碗を持ちながらの睨み合いなぞ、実に緊張感が削がれるというものである。


「あ、あの……ケンカは止めた方が……」


のび太がおずおずと仲裁に入るが、二人はそれをキッパリと無視する。

あうあう、と次第にのび太の目に涙が滲んでいくが、それでも二人はガン無視だ。

……いや、きっと視界にすら入っていないのであろう。

そして。


「シロウ、ご飯……」


「……食い下がるわね、セイバーも。っていうかアーチャー、アンタ記憶なかったんじゃないの……?」


めげずにおかわりの茶碗を差し出し続けるセイバーに対し、凛は呆れとも感心ともつかないような呟きを漏らしつつ、相棒の大人げない姿に深々と脱力するのであった。










「……フン」


と、突然アーチャーが士郎から視線を逸らしたかと思うと、徐に踵を返した。

その行動の不可解さに、士郎の眉が訝しげに歪む。


「おい、どこ行くんだよ?」


「なに、“論より証拠”を示してやろうというだけだ。その身……いや、その舌で以て厳然として存在する“差”という物をとくと思い知るがいい。……ああセイバー、そんな物欲しそうな顔をせずとも、もうしばし待て。今食したモノ以上のモノを堪能させてやろう」


自信漲るその言葉に、セイバーはそっと茶碗を降ろすと、


「……期待していますよ、アーチャー」


「ちょっ、おいセイバー!?」


清々しいほどのサムズアップをその屈強な背中に送った。

己が従者にあっさり掌を反された士郎。

あまりのショックにガックリ膝を突きそうになるものの、そこは何とか最後の意地でグッと堪えた……表情はこれでもかとばかりに苦りきってはいたが。

そうこうしているうちに、アーチャーは冷蔵庫の前へと辿り着く。


「ふ、衛宮士郎よ。“格の違い”を見せてやろう……」


まだ調理すらしていないのに勝ち誇ったような声で背中越しに告げるアーチャー。

その過剰なまでの自信満々っぷりにイラッとくる士郎であったが、


(……あれ、待てよ? 確か……)


アーチャーが冷蔵庫の取っ手に手を掛けたところで、“ある事”をハタと思い出した。

そしてガチャリと冷蔵庫の扉を開いた瞬間、





――――ギシリ、とアーチャーの身体が銅像のように固まった。










「――――材料、全部切れてたんだった……」





「なん……だと……」










絶句するアーチャーの見た光景。

そこにはわさび、からし、酢、みりんなどの数種類の調味料と……空間のほとんどを占める空白地帯。

肉も、野菜も果物も、一切が集団脱走でも敢行したかのように影も形も存在しない。

“スッカラカン”という形容がこれ以上ないほど当てはまる、見事なまでのもぬけの殻であった。

言うまでもなく冷凍庫も、野菜室も全ての部屋が、である。




「きっ……貴っ様ああああぁぁぁっ!! 料理人が材料を切らすとは何事かああああぁぁぁ! 調味料と『の○たま』しかないではないかあああぁぁぁぁっ!!」




瞬間移動でもしたのかというほどの勢いで取って返し、士郎の胸倉を掴み上げる紅い男。

その豹変ぶりと息苦しさに目を白黒させながらも、士郎は喘ぎ喘ぎ言葉を返す。


「い、いや……だっ、て、昨日、と今日で、食い、扶持が……急に、増え、た、からッ! 買い置、きが、今ので……切れたん、だよッ!!」


士郎は元々一人暮らし。

それ故、冷蔵庫に食料品を多く備蓄している訳ではない。

朝・夕に間桐桜と“もう一人”が食事をしに来るが、それでも頭数は三人だ。

やはり備蓄量はたかが知れている。

しかし、今現在の衛宮邸の人口は五人、つまりそれだけ冷蔵庫の中身の減るスピードは相対的に早くなる。

さらに本来ならば昨日買い出しに行く予定だったのであるが、聖杯戦争のドンパチのせいであえなくその機会も潰れてしまっていた。

そしてトドメはセイバーの、その尋常ならざる食事量である。

今もそうだが、朝食の際もそれはもう凄まじいの一言で全てを語れるほど。

かくして士郎の作った昼食を最後に、冷蔵庫の中身は見事空になってしまったという訳である。


「…………」


ズルリ、と士郎の襟から手が滑り落ち、アーチャーはその場に膝から崩れ落ちる。

如何に腕の優れた料理人であっても、食材がなければただの役立たずである。


「ケホッ……ま、まぁ、そういう訳だから、諦めろ。あれだけぶち上げておいてこのオチってのは、俺もあんまりだとは思うけどな」


士郎はそんな役立たずを、ただジッと冷めた目で見つめ続けていた。

いきなり八つ当たり気味に締め上げられたのだから、無理もない。

……しかし、それでは納得出来ない人間もここにはいる訳で。





「……あの、つまりもう料理は出来ない、のですか?」





「あ、いや……まあ、うん。そうだな……悪い、セイバー」


バツが悪そうに謝りの言葉を入れる士郎。

その途端セイバーは目頭を歪ませ、今にも泣きそうな表情を浮かべた。


「そ、そんな……」


「……すまんな、セイバー。この小僧が材料を切らしたせいで「……もういいです。この役立たず」ぐはっ!?」


立ち上がりかけたアーチャーを言葉の刃で真っ向から斬り伏せると、セイバーは殊更沈鬱な表情で顔を伏せる。

散々期待を持たされた……とは言い難いかもしれないが、セイバーにとっては十分な前フリだったのだろう……上での前言撤回は、セイバーに思った以上の深刻な精神的ダメージを与えていた。

既に全員の皿の上には一品たりとも料理は残っておらず、ご飯もとうに食い尽くされてジャーの中には取り損なった米が数粒へばりついているのが関の山。

士郎はセイバーのお代わりをよそわなかったのではない……よそえなかったのだ。

生米だけは辛うじてあるが、今から炊いたのでは昼食の時間を逸してしまうし、それ以前に白米だけ食すのもどこか空しい感じがする……まあ『の○たま』が残っている分、その辺りはまだマシかもしれないが。

とにかく、セイバーの切なる願いは無情にも届く事なく、材料切れによって強制的にラストオーダーとなってしまった……筈だった。










「――――セイバー、まだご飯食べたいの?」










蚊帳の外で、内心冷や冷やしながら状況を静観していたのび太の、この一言がなければ。










「その……はい」


「ええ!? あれだけ食べたのに!? ご飯大盛りで何杯もおかわりして、士郎さんから鮭を半分貰って、凛さんから大根分けて貰って、アーチャーさんのキンピラを横から奪い取って、僕からは……なんにも取らなかったけど。それでも足りないの?」


「魔力を得るためにはそれだけ食べなければなりませんし……この時代の食事はどれも肌理細やかで、大変美味です。私の時代の食事とは、比べるまでもありません。ですので恥ずかしながらついつい、箸が進んでしまって……」


「あ……そうなんだ」


うーん、と腕組みし、考え込む事数秒間。

やがて考えが纏まったのか、


「……ん、よし!」


パチンと指を鳴らしてポケットに手を突っ込むと白い袋を引っ張り出す。

そしてさらにそこに手を突っ込み、中からバサリと“あるもの”を引っ張り出した。

そう……やたらと大きい、それこそ目の前のテーブルをスッポリ覆えそうなほどの四角形の布を。


「セイバー、これをテーブルの上に広げてくれる? あ、凛さん。食器どかすの手伝ってください」


「は、はあ……?」


「え、なによいきなり?」


いいからいいから、と面食らう二人を置き去りにいそいそと食器を下げ始めたので、二人は首を傾げながらも言われた通りに行動する。

そしてテーブルに布が広げられ、改めて二人は着座した。


「で、これでどうするつもり? のび太」


凛の問いかけに対し、のび太は軽く微笑み返すとセイバーに向き直り、口を開いた。


「ねえセイバー。今食べたい物ってなに?」


「はい? それは……どんなメニューが食べたいかという事ですか?」


「うん」


「はぁ……。そうですね……」


ふむ、とほんの少しの間セイバーは考え込む。

やがて考えが決まったのかコクリ、と一つ頷いた。





「朝、テーブルの上に置かれていた雑誌に書いてあったのですが……『カレーライス』、という物を食べてみたいです」





そう告げた瞬間、





「「「「――――えっ!?」」」」





のび太を除く四人が一斉に自分の目を疑った。


「フフッ、はいセイバー。カレーだよ」


何故なら目の前に『カレーライス』が、まるで最初からそこに置かれていたかのように出現していたからだ。

テーブルクロスの上で白い湯気を立ち上らせるカレー……その横にはご丁寧にスプーンと水の入ったコップまである。

たった今作られたばかりのような芳醇な香辛料の匂いが食欲を誘い、思わずゴクリと生唾を飲み込んでしまいそうだ。

だがしかし、いったい何がどうなってカレーが現れたのか、さっぱり理解が追いつかない。


「ノ、ノビタ。これはいったい……?」


「うん。まあ説明は後でするから、とりあえず食べなよ、カレーライス。おいしいよ?」


「は、はい……」


勧められるままにセイバーはスプーンを手に取り、おそるおそるといった感じでカレーを掬い上げ、口へと運ぶ。

そして口の中からスプーンを抜き取ると、二回三回と咀嚼。


「……おいしいです」


ほう、と感嘆の溜息がセイバーの口から漏れた。

その表情は、まるで『我が至福の時』と言わんばかりに緩められている。

その後はそのままスルスルとハイペースに、だが丁寧にスプーンを動かし始め、ものの二分であっという間に皿の上が綺麗になった。


「……ふう。このスパイスの辛さが何とも絶妙な……むぅ。この味があれば、あと二十年は戦えたものを……」


「満足したみたいだね、セイバー」


どことなく満ち足りた表情のセイバーに、のび太はニッと笑う。


「はい、まあ。しかし、いったいどうやってカレーライスを?」


「ああ、それは……これだよ」


のび太はそう言って、テーブルクロスを指差す。

わざわざ敷いたくらいだ、タネは多分コレだろうなと思っていたセイバー達であったが、しかしまだまだ認識が甘かったと言わざるを得ない。





「これは“グルメテーブルかけ”っていってね、名前を言えば料理が何でも出てくるんだ。さっきはカレーを出した訳なんだけど他にも、例えば……『スパゲッティ・ナポリタン』だったり」





のび太の言葉に呼応するように、ポンッと現れるナポリタン。





「『ハンバーグ』だったり……」





続いて香ばしい香り漂う、熱々のハンバーグが出現。





「『ラーメン』だったり……」





さらに今度は湯気の立つ、醤油ベースだと思われるラーメンが眼前に。





「こんな感じで、いつでも、どこでも、何でも、いくらでもリクエストすれば出す事が出来るんだ」





「「「「…………」」」」


二の句が告げない、とはこの事であろう。

目の前で起きた出来事が信じられないといった様子で、四人は見事に硬直している。

そんな中、真っ先に再起動を果たしたのはやはりと言うべきか、


「……ノビタ、頂いてもよろしいですか?」


「うん、いいよ。というか、まだ食べるんだ……」


食欲に忠実なセイバーであった。

フルフルと僅かに震える手でナポリタンの器を自分の方へと寄せ、手元にあったフォークを突き立てる。


「……ッ!」


その味わいに下手すれば涙すら流しそうなほどに瞳を潤ませ、セイバーはただ黙々と眼前の料理に取り掛かる。

やがて、数分足らずで見事三品とも綺麗に完食。

コトリとハンバーグを突き刺していたフォークを置いたその直後、セイバーは徐にピンと背筋を伸ばしたかと思うと、流れるような動作でのび太の方に向き直り、





「――――ノビタ。私のために、毎朝味噌汁を作っていただけますか?」





三つ指をついて、何やらトンデモないセリフを言い放った。

というか、何故そんな言い回しを知っているのか?





「はぁ? えーっと……僕、いいとこインスタントしか作れないんだけど。士郎さんにお願いしたら?」





そして当然……と言うべきかなんと言うべきか……のび太はそれに対して何とも見当外れな答えを返すのであった。









「あ、凛さんもよかったらどうぞ」


「……ホント、いったい物理法則はどうなってるのかしら? これって明らかに質量保存の法則を無視してるし、下手したら“第一魔法”……って、ああもう! やめやめ! とりあえずケーキッ!」


深く考えた時点で負けだとでも思ったのだろうか、凛は自棄気味に頭をグシャグシャと掻き毟ると“グルメテーブルかけ”に向かって命令する。

すると一秒と経たずにポンッ、と目の前にイチゴの乗ったショートケーキが、紅茶と共に現れた。

凛はそれを一瞥すると、電光石火のスピードで傍らのフォークを手に取ってケーキを掬うと一口。


「……美味しいわね、これ。けど……やっぱりなんか納得いかない……!」


釈然としない表情で、まにょまにょとフォークを口に含んだまま何やら唸っていた。

そして。







「……なあ、アーチャー」


「……何だ、小僧?」


「俺達のあの争いってさ……結局、なんだったんだろうな?」


「……さて、な」





部屋の隅で、黄昏たようにポツリポツリと言葉を交わす二人。

背中が煤けて見えるのは影に入っているから、ではないだろう。





「……美味いよな、この大根とキンピラ」


「……ああ。下手すれば、私よりもな」





向かい合わせで、味比べのため“グルメテーブルかけ”から出した大根の煮物とキンピラゴボウを口へと運ぶ。

その瞬間、二人には何かがガラガラと崩れる音が聞こえたような気がした。

――――美味い筈なのに、どこか塩辛い味がした事を、二人は気のせいだと思いたかった。








[28951] 第二十一話 (Bパート)
Name: 青空の木陰◆c9254621 ID:90f856d7
Date: 2012/03/31 12:49





「凛さん……これ、なんですか? 割れたビー玉……かな? みたいですけど」





「……昨日、わたしが使った宝石。その残骸よ」










のび太は衛宮邸の一室で凛と二人、サシで膝を突き合わせていた。
割に珍しい取り合わせであるが、いったいなぜこんな事になっているのか。
きっかけは、昼食前まで遡る。










のび太達が方針を決め終えた頃には、時計の針はちょうど十二時を指していた。

腹の虫も、士郎とセイバーを筆頭にいい感じに泣き始めていたので、流れが昼食へと傾いていったのもごく自然な事であった。



『じゃ、今から昼飯準備するから。三十分くらいかな? それまで奥で待っててくれ』



士郎のその言葉を合図にめいめい居間から発っていく中、さて何をしようかなと思ったのび太であったが、





『――――のび太、ちょっとわたしの部屋に来てくれる?』



『え?』





唐突に凛からお誘いの声がかかった事で、今の差し向かいの状況が作られたという訳である。

そして向かい合わせで鎮座する二人の膝の間にあるのは、傷だらけで三分の二ほどが砕けてしまっている宝石。

どうやらサファイアのようだが、知識のないのび太ではそれが何なのか解る筈もなかった。



「宝石……って確か凛さん、『宝石魔術』っていうのを使うんでしたっけ? それをバーサーカーにぶつけたんですか?」



「そ。結局効かなくて、無駄に終わっちゃった訳なんだけどね」



凛の使う魔術は『宝石魔術』と呼ばれる。

代々続く遠坂家のお家芸であり、『力の転換』によって己が魔力を長年かけて蓄積させた宝石を媒体とする魔術だ。

『宝石魔術』のメリットとしては宝石は魔力を籠め易く、時間が経てば気化してしまう魔力を封じ込めるのに都合がいいという事と、魔術をほぼ一工程(シングルアクション)で行使出来るという点にある。

なにしろ中の魔力を解放してやるだけでいいのだから手間が少なく、使い勝手が非常によい。

反面、一度封入した魔力は性質が固定されてしまうというデメリットもあるものの、総合的にはかなり強力で、しかも珍しい魔術体系である。



「はぁ。で、これをどうするんですか?」



「回りくどく言うのもアレだからはっきり言うけど……のび太、これ直せる?」



「へ?」



のび太の目が点になった。

なんだそんな事か、と拍子抜けしたような表情である。

その時、凛の片眉がピクリと吊り上った。



「なによその顔は?」



「い、いや。なんか、もうちょっとこう……すごく真面目な話なのかなぁって思ってて、思わず気が抜けちゃったというか……」



「……十分真面目な話よ。あのねのび太、これは宝石なのよ。『宝石魔術』の最大の特徴って何か、アナタ解る?」



「え? えっと……すごく強力な魔術、とか?」



「……ハァ。ま、それでも間違ってはいないわね。使う宝石によってピンキリだけど。結論は……ズバリ『お金がかかる』という事よ」



「……はい?」



のび太の目が再び点に。

如何にも高尚そうな『宝石魔術』の最大の特徴が『お金がかかる』という、あまりに即物的すぎるそれに思わず呆気に取られてしまう。

しかし凛の表情は至って深刻そのものである。



「再三言うけど、『宝石魔術』で使うのは宝石なのよ。しかも使い捨て同然でね。おかげで魔術を行使する度にウチの家計簿は火の車、見るのもウンザリするくらい。だからつい拾ってきちゃったのよ、これ。砕けてる上に魔力もなくなってるから、魔術的にはほとんどガラクタ同然なんだけど、もったいなくてね」



「…………そ、そうなんですか」



のび太としてはそう返すのが精一杯である。

そういえばママもよく家計簿見て溜息吐いてたなぁ、と頭の片隅で思いながら凛の言わんとしている事を読み取ろうと試みる。



「えーと、つまりこの宝石を元通りにして、上手く使い回したいって事ですか?」



「そう。これから戦いに挑むんだから、手持ちの宝石は一つでも多い方がいいのよ。バーサーカーを相手にするなら尚更ね。リサイクル出来るならそれに越した事はないわ。……それでね、実はこれと同じヤツがあと数個あるんだけど」



これ全部アナタの道具で何とかならないかしら、と凛はポケットから五個、二人の間にある宝石と同じような物を引っ張り出した。

どうやらこれらも現場から回収して来た物らしい。

アイデア自体は悪くないのだが、どこかしらみみっちく感じてしまうのは流石ビンボー貴族というこ「うっさい、黙れ!」……イエス・マム。



「う、うーん……多分、出来なくはないかも。確か……」



ポケットから“スペアポケット”を引っ張り出し、中を漁るのび太。

そして取り出したのは、



「――――あった! “復元光線”!!」



小型の懐中電灯のような形状のひみつ道具、“復元光線”であった。



「……名前からして何となく効果は解るけど、それで直せるの? 欠けてる部分はないんだけど」



「大丈夫です。じゃ、行きますよ!」



砕けた宝石群へ向け、のび太は“復元光線”のスイッチを入れる。

“復元光線”は壊れた物体に光を浴びせると、壊れる前の状態に戻してくれるという道具である。

それはパーツの破片が紛失していようとも関係なく、なくなったパーツごと纏めて復元してしまうという甚だ常識外れなシロモノだ。

そして光を照射された宝石は見る見るうちに元の形を取り戻していき、最終的に砕ける前の状態へと完璧に修復を果たしていた。



「はい、直りました」



「……うん。自分で頼んでおいてなんだけど、物理法則っていったいどうなってるのかしら? ……ともあれ、結局直ってるんだし、別に文句はないけど……ん?」



ブツブツ独り言を呟きながら元通りになった宝石をつまみ上げた凛であったが、何かに気づいたように眉根を寄せる。

確かに元通りに復元されている、されているのだが……。



「……魔力が込められてない。空っぽのまま」



封入されていた魔力だけは、復元されていなかった。



「……ハァ」



アテが外れた事に、凛はガックリと肩を落とす。

直った事自体は喜ばしいが、しかしこれでは片手落ちだ。

魔力の籠っていない宝石など、現段階では復元前の砕けていた状態の宝石と同じくらいの価値しかない。

すなわち、ガラクタ同然である。

聖杯戦争はあと二週間足らずで、結果がどう転ぼうが期間満了で終幕してしまう。

それまでに十分な量の魔力を封入する事は到底不可能である。

発動に必要な最小限度の魔力くらいならいけるかもしれないが、そんな物を新たに作り直したところでなんの意味があろう。

凛が求めるのはバーサーカーにぶつける前の、魔力が十分に込められていた状態の宝石である。



「あの、どうかしたんですか?」



「これね……魔力が入ってないのよ。これじゃなんの役にも立たないわ。言ってみれば“形だけ”直ってる状態で、中身がない……」



「……あ、そっか。“復元光線”じゃ、壊れた部分だけしか直せなかったのかぁ。宝石の中にある魔力まで元に戻した訳じゃないんだ……」



凛の不満に納得がいったのび太、じゃあどうしようかと腕組みする。



「うぅ~ん…………」



“復元光線”では凛の望むような元の状態には戻せない、ならばいったいどうすればいいのか。

他のひみつ道具で使えそうな物といえば……。



「……あ! あれなら!」



ピン、とのび太に天啓がひらめく。

“復元光線”でダメなら、残る手は一つ。

『復元』ではなく、『回帰』。

つまり、“形”を戻してやるのではなく――――“時間”を戻してやればいい。



「――――“タイムふろしき”だっ!」



“スペアポケット”に勢い込んで手を突っ込み、中からアナログ時計の文字盤の絵柄が散りばめられた風呂敷を引っ張り出す。

そして復元させた宝石の上にサッと風呂敷を被せ、適当な時間が経ったところで風呂敷をひっぺがした。



「どうですかっ、これで!?」



意気揚々と宝石を凛に手渡すのび太。

見た目はまったく変わった様子が見られない宝石だが、“タイムふろしき”で以て時間を巻き戻されているため確実に変化は起きている。

凛はしげしげと手の中の宝石を眺めていたが、やがて満足したようにうん、と一つ頷いた。



「上出来。完全に元に戻ってるわ……」



「やった! これでバーサーカーにも「無理ね」……えっ?」



対抗出来ますよね、と言おうとしたところで凛の一言によりそれは封殺された。

凛は元に戻った宝石を手の中でジャラジャラと弄びながら、言葉を続ける。



「バーサーカーにぶつけたのは六個、つまりこの宝石全部まとめて。それでかすり傷一つ付けられなかったのよ。完全に火力不足なの、あのバーサーカー相手じゃね」



「え、それなら……元に戻しても意味ないんじゃあ……」



「いえ、意味はあるわ。実は宝石を元に戻してもらったのは前置きみたいなものなのよ。本題はここから」



凛はそう言って居住まいを正すと、再び手の中の宝石をのび太の前に置く。



「バーサーカーは防御力は桁違いだけど、対魔力は高くない……つまりセイバーみたいに魔術が効きづらいという訳じゃない。だから、威力さえ十分ならわたしでもバーサーカーにダメージを与えられる」



「はあ。それで?」



「威力を底上げするための方法は概ね二つ。一つはもっと内在魔力の高い宝石を使う事。ただ、この場合だと長い目で見たらこっちの首を絞める事になりかねないから却下。バーサーカーを倒したら聖杯戦争は終わり、って訳じゃないからね。切り札は出来るだけ温存しておくのがベスト。そこでもう一つの手段」



凛はそこで一旦言葉を区切り、軽く息を整える。

のび太はただ黙って耳を傾けたまま、言葉の続きを待っている。

そしておよそ一呼吸分の間を置いて、凛の口から言葉が紡ぎだされた。




「――――単純にぶつける宝石の量を多くすればいいのよ」



「――――え、ええーっ!!? そ、そんな事でいいんですか!?」





物凄くアッサリした結論にのび太は面食らった。

質でなければ量、実に効果的かつ単純明快な論理である。



「という訳で、のび太にもう一つお願いがあるの。この六つの宝石、どうにかして増やす事って出来ない?」



ずいっと身を乗り出してくる凛。



「ふ、増やすって……えっと」



あまりに距離が近すぎたので、のび太は思わずたじろいでしまう。

目の前の凛からは異様な気配が漂ってきており、知らず全身が粟立ってくる。

さながらスーパーでタイムサービスの特売品を奪い合う主婦達の、あの妙にギラついた気迫に近い。



「簡単そうに言ったけど、実際はこっちの方がむしろ難しいのよ。主に籠める魔力の問題と経済的理由と金銭的事情と、マネー・サプライ上の問題で。だから手っ取り早く、それこそ乾燥ワカメみたいに宝石水に浸したら何倍にも増える、みたいな道具……あるかしら?」



凛の爛々と輝く双眸に圧し負け、のび太は、





「あ、と……い、一応ある事は……あり、ます」





不用意にも、ポロッとそんな事を漏らしてしまった。



「え、ホント!?」



更にずずいっと身を乗り出す凛。

もはや互いの距離は鼻先数ミリでほぼゼロ距離の密着状態、しかも眼光は五割増しと来ている。

見ようによっては、凛がのび太を押し倒しているようにさえ見えてしまう体勢である。

仮にこの相手が士郎ならば今の状態に頬を紅潮させ、慌てふためくのだろうが……生憎のび太では、単に言い知れぬ恐怖を感じるだけだ。

事実、その表情はヘビに睨まれたカエルの如く青ざめ、額には珠のような冷や汗が浮かんでいる。



「ええと……えと、こっ、これとか!」



背中に密着している壁が汗で湿っていく感触を感じつつ、これ以上耐えきれなくなったのび太は、“スペアポケット”の中を掻き回すように探ると中からプラスチック製っぽい見た目のアンプル容器を取り出した。



「……これが?」



「これ……えっと、これは、バ、“バイバイン”って言って……これを、一滴落とした物は五分経ったら倍……さらに五分経ったらそのまた倍、っていう風に……ご、五分毎に、増えていくん、ですっ!」



未だ衰えぬ凛の迫力に所々どもりながらも、のび太は説明する。

凛はのび太の身体の上に半ば跨ったような体勢のまま、のび太の手の中の“バイバイン”をジッと見つめていた。



「ど、どうぞ……使ってみて、ください。あと、近いので、ちょっと離れて欲しいかなぁ、なんて……ア、アハハハ、ハハ」



供物を捧げるように“バイバイン”を差し出すのび太。



「……じゃ、遠慮なく。一つにつき一滴でいいのね?」



凛はのび太から身体を離すと“バイバイン”を受け取り、蓋を開けて六個の宝石すべてに液体をポタリ、ポタリと落としていく。

その一方、やっとの事で自由の身となったのび太はというと、



「……はふうぅぅぅ~っ。こ、怖かったぁあ」



大きな安堵の吐息を漏らし、右手で額の汗を拭っていた。

ちなみに降ろした右手の袖は、まるで水を張ったバケツに落とした雑巾のようにグッショリと湿っていた……。















「…………」



まんじりともせず、ただ只管にまっすぐ宝石を見つめ続ける凛。

心なしか、瞳に『$』や『¥』のマークが浮かび上がっているような気がするのは、漲る異様な気迫の所為であろうか。

それとも……いや、何も言うまい。

やがてそのまま五分が経過。



「――――あっ!?」



六個の宝石が細胞分裂するかのようにパッと一つが二つにそれぞれ増殖し、合計で十二個の宝石が目の前に現れた。

増える瞬間を目の当たりにした凛は、その予想に違わぬ光景と成果に『ヨッシャ!』と小さくガッツポーズ。

グッと拳を強く握り締めた。



「この調子で増やしていけば、たとえバーサーカー相手でも闘り合える……! しかもタダ同然で!! のび太、いいモノを出してくれたわ! 褒めてあげる!」



「イタッ!? い、痛いですよ凛さん! もう……イタタ」



背中をバシバシと思い切り叩(はた)かれ、のび太は痛みに顔を顰める。

しかし上機嫌な凛に水を差すのも何だと思い、背中をさすりつつも涙を拭って唇をキュッと固く結び、それ以上の事は何も言わなかった。

小学生とはいえ、のび太だって男なのだ。

文句を堪えるくらいの“気概”はある……まあ、頭に『なけなしの』が付いてしまうというのが何とも悲しいところだが。

そうこうしているうちにさらに五分が経過。

今度は二つが四つに分裂し、『6×4』の合計二十四個の宝石が出現した。



「来た来た来たぁぁぁ!! もっとよ! もっと増えなさい!」



「…………」



もはや凛のテンションはウナギ登りの右肩上がり。

『ヒャッハー!』とか言い出しそうな勢いである。

そんな凛の姿に流石ののび太もやや引き気味だ。

と、その時。





『おーい、遠坂? メシ準備出来たぞ。居間に来てくれ』





ドアの向こう側からノックと共に士郎の声が聞こえてきた。

その瞬間、凛のテンションがレッドラインから正常値へと恐ろしい勢いで急変動する。



「……了解。すぐ行くわ」



玩具を買い与えられた子供のように大はしゃぎしていたのが嘘のように、ごくごく冷静に応対する凛に対して、のび太は目を丸くする。

まさに電光石火の猫かぶり。

いくらなんでも急に変わりすぎだろう、とのび太が訝しげに視線を送ると、凛はバツが悪そうにツツ、と視線を逸らしてコホンと一つ咳払い。



「さて、行くわよのび太。戻ってくる頃には十分な数になってる筈だしね」



「は、はあ……」



士郎が遠ざかっていく足音を聞きながら、のび太は呆けたように返答するのが精一杯であった。

そして二人は連れ立って部屋を発ち、居間へと向かう。















――――この後巻き起こる、惨劇と大混乱。





それを予見出来ぬまま、部屋を後にしてしまったのである。















「ふう……」



「はぁあ、お腹一杯……あふぅ、ちょっと眠いや」



昼食を終え、スタスタと廊下を歩く凛とのび太。

上質の食事に空腹と食欲が満たされ、気持ちが弛緩しているのか共に表情が緩んでおり、のび太など欠伸を噛み殺している。

士郎の料理の腕が標準以上なのは既に周知の事であるし、食卓の雰囲気も概ね穏やかであった。

まあ実際のところ、昼食の席でちょっとした悶着があったりしたのだが、それは既に述べた通りだ。



「さて、宝石はどうなってるかしらね?」



「大分時間が経ってるからもう十分……あれ? なんか、大事な事を忘れてるような気が……う~ん、なんだったっけ?」



そうこうしているうちに、二人は凛の私室の前へと辿り着く。

そして凛が内側開きのドアに手を掛けて……。



「……あら?」



開けようとしたが、どういう訳か開かなかった。



「凛さん、どうして開けないんですか?」



「いや、開けようとしたんだけど……開かないのよ」



「はい?」



疑問に思ったのび太は凛に近寄ると、代わりにドアを押してみる。

だが、やはり開かない。



「ホントだ、開かないや……なんでだろ? よし、なら……ぐうぅぅぅっ!!」



試しに身体をぶつけるようにして力を籠めて押してみるも、バリケードでも立てられているかのようにピクリとも動かなかった。



「「…………??」」



互いに視線を交わし、揃って首を傾げる。

一体全体どうなっているのか、と二人して考えていると、





「「……ん?」」





何やらヘンな音が耳に飛び込んできた。

『ギリギリ……』とか『ミキミキ……』とかいう、いわば普通の物音とは違う、異音である。

そしてそれはドアの蝶番辺りから聞こえてきており、よくよく観察してみると平面である筈のドアが微妙に外に向かって歪曲しているように感じられた。



「……ねえ、のび太」



「は、はい?」



「気のせいかしら……いや気のせいであって欲しいんだけど……物凄くイヤな予感がね、こう……するのよ」



「…………あぁああああ!!!??」



先程から頭の片隅で引っ掛かっていた事が氷解し、のび太は顔色は心底から『しまった!』と言わんばかりの深刻なものへと変貌した。

鬼気迫る表情の凛に気圧され、のび太は咄嗟に“バイバイン”を引っ張り出した訳だが、お陰で肝心な事をスポンと忘れてしまっていたのだ。

そう……“バイバイン”使用に際してのドラえもんの忠告と、それを無視したがための、あの“悲劇”を。










そして、その時が訪れた。










「「う―――――あああああぁぁぁぁぁ!!???」」










木っ端微塵に吹き飛ぶドア、そして濁流。

まるで津波のようにドアのなくなった長方形の空間から色とりどりの宝石が大量に押し寄せ、二人を押し流した。

それだけでは飽き足らず、宝石の暴流は二人の身体を完全に飲み込み、洗濯機に放り込んだようにもみくちゃに掻き回した後、ドアの向こう側の壁に強か叩き付けた。



「――――ぶはっ!? の、のび太! これはいったいどういう事なの!?」



宝石の中からズボッと顔だけを出した凛がのび太を問いただす。



「――――ぷはっ!? バ、“バイバイン”で宝石が増えすぎちゃったんです!」



続いて頭だけを突き出したのび太がそう返答を返した。



「はぁ!? あれってしばらくしたら効果が切れるんじゃないの!?」



「そんな事一言も言ってませんよ! “バイバイン”の効き目はずっと続きます! 多分、永久に!」



「な、なんですってえええええぇぇ!?」



“バイバイン”は五分毎に倍、倍と物を増殖させていくシロモノだが、この倍々算効果を甘く見てはいけない。

五分、十分くらいならまだいいが、これが例えば増殖に一時間、時間を掛けたとしよう。

五分毎に増える訳だから計算式は『2×2×2×2×2×2×2×2×2×2×2×2』……端的に表すなら2の12乗。

この計算の答えは……なんと4,096となる。

なお、現時点で“バイバイン”を使用して経過した時間は、長めの昼食を挟んでしまったのでたっぷり一時間半近く……正確には一時間二十五分と少々。

この時点でさらに『2×2×2×2×2』を追加して2の十七乗……131,072となる。

そして凛は“バイバイン”を復元した宝石六個すべてに使用したので、最終的にその六倍……すなわち786,432個。

これだけ増えればそこまで広くない部屋の事、飽和状態でパンクしてしまったとしてもまったくおかしな話ではない。

その証拠に、宝石は次から次へと間欠泉のように溢れ出している。



「な、なんで今まで言わなかったのよ!? というか、なんでそんなモノ出したのよ!?」



「い、いやだって凛さんがこわ……え!? う、うわぁっ!?」



「え、きゃっ!?」



その時、宝石の海がうねりを伴って膨れ上がった。

どうやら最後に増殖した時からさらに五分が経過したようだ。

つまり“バイバイン”使用から一時間半が経過したという事……すなわち2の十八乗で262,114。

その六倍で……しめて1,572,864個。

悪夢すら生ぬるいくらいの、文字通り“桁違い”の数である。



「な、流されるっ!!? り、凛さぁぁぁん!?」



「――――やっ!? ちょ、ちょっとのび太、どこ触ってるのよ!?」



「イタッ!? ご、ごめんなさあぁぁぁああい、ってうわあああぁぁぁ!!?」



「あ、しまった……っていやああああぁぁぁっ!?」



いったい凛のどこに触れてしまったのかはさておいて、百五十万を超える宝石の奔流に二人は物の見事に洗い流されてしまう。

増殖の勢いを駆ってその波は衛宮邸のあらゆる部分にまで押し寄せ、すべてを飲み込まんとする。





「ん……うわっ!? な、何だこれ宝せ……だあぁぁぁぁっ!?」





「むぅ……せっかく気分よく眠っていたというのに、何やら騒がしいですね……ってなあああぁぁぁっ!!?」





「ぬ、何かあった……ぬおおおぉぉぉっ!?」





いたる所で上がる、宝石の津波に巻き込まれた被害者達の悲鳴。

バリバリと何かが破れ砕けるような音が響き、ガシャアンとガラスが割れる音があちらこちらで木霊する。

まさにここは阿鼻叫喚の地獄絵図。

衛宮邸の命運は二人の“逆”ファインプレーによってもはや風前の灯である。



「の、のび太、何とかしなさい!」



「な、何とかったって……!?」



「何か増殖を止める方法はないの!?」



「えーと、えぇと……確か栗まんじゅうに使った時は、食べれは増殖は止まったんだっけ!?」



「これ宝石よ!? 食べられるワケないでしょ!?」



そりゃそうである。

本来“バイバイン”は食べ物以外に使用する事はない。

何故なら増殖を止める条件は、対象物体を原形を留めないほどに形を変えてしまう事……つまり食べ物なら食べてしまえばいいからである。

しかし増殖しているブツは宝石……ならば現状で採れる方法は、一つだけ。



「じゃあ……えっと、砕けばいいと思います!」



「成る程! ……って、ちょっと待った! これ、魔力が籠ってるのよ!? 迂闊に壊したら暴発しかねない!?」



頷きかけた凛であったが、慌ててその案にストップをかける。

いいところ二線級であるとはいえ、目の前にあるのは魔力を内包した宝石なのだ。

百五十万個を超えるC4爆弾に埋もれながらハンマーを振り回すバカはいないだろう。

下手すれば自爆どころでは済まないのだ。

だが放っておけば、無限に増殖する宝石が地球を飲み込み、その重量でいずれ重力崩壊を起こして地球を中心にブラックホールが形成されてしまう。

そうなったら聖杯戦争関係なしに『DEAD END』である。



「でもそれしか方法は……ッ? 待てよ……そうだっ!」



突如、のび太に天啓がひらめいた。

これならうまくいく、という確信と共に。



「え、なに? どうしたの!?」



「ここで砕くのがダメなら、別の場所に全部移動させてから砕けばいいんですっ!」



のび太は宝石の海の中で必死にもがいて、“スペアポケット”をポケットから引っ張り出すと、中から一本のペンと拡声器のようなメガホンを取り出した。

そしてペンを使って自分の右手にあった壁に、何事かをブツブツ呟きながら無理矢理身体を動かして大きな円を描いていった。

すると、円の真ん中がポッカリと開いて真っ暗な空間が音もなく、形成された。

のび太はそれを確認すると、今度はメガホンを口元に持ってくる。

そして最大ボリュームに音量を調節し、思いっきり息を吸い込んで『聞く者すべてに届け!』とばかりにこう叫んだ。










「“バイバイン”の影響を受けた宝石達! 君達は『聞き分けのいい、賢い犬』だっ! 今すぐ“ワープペン”で描いた穴の中へ飛び込めっ!!」










その言葉を皮切りに、宝石群が一斉に穴の方へとうねり出した。



「ちょっ!? のび太、何をしたの!?」



「凛さんっ、しばらく堪えててくださいっ!」



波に巻き込まれまいと体勢を低くし、壁と床に張り付くようにして踏ん張る二人。

宝石は土石流さながらの勢いで以て、“ワープペン”で描かれた穴の中へと殺到する。



「イタッ!? め、眼鏡が割れるっ!?」



「アイタッ!? く、くうぅぅ……っ!」



「痛ッ!? い、いきなり宝石が引いていくなんてどうし……え!? ちょ、アッーーー!」



大部分が穴の中へ入り、徐々に密度の低くなった宝石の流れはショットガンの掃射のようにのび太達の身体を叩く。

痛みに涙が出そうになるが各々グッとそれを堪え、宝石がなくなるのをひたすらジッと待つ。

やがてすべての宝石が穴へと飛び込んでしまったのか、穴へと向かってくる宝石の雨がピタリと止んだ。



「凛さん、今ですっ! 『宝石魔術』を使って宝石を爆発させてくださいっ!」



穴の手前で踏ん張っていたのび太は穴に首を突っ込み、近くで身を低くしていた凛にそう指示を出す。

意図が読めずに首を傾げた凛であったが、「早くっ!」と急かすのび太の表情に慌ててキーとなるスペルを紡ぐ。



「Set―――――」



「――――今だっ! それっ!」



のび太は穴からサッと首を引っ込めると、踏ん張っている間に“スペアポケット”から取り出していた消しゴムで穴の線の一部を素早く消した。

すると円でなくなったために穴が瞬時に消失、ただの壁へと戻る。

のび太は数秒間、冷や汗混じりにその壁をジッと見つめていたが、やがて力を抜くと大きな吐息を漏らした。



「お、終わったぁ……」



その場にへたり込むのび太。

凛は膝立ちの姿勢から立ち上がると、のび太の方へと歩み寄った。



「のび太、宝石はどうなったの?」



「太平洋のド真ん中で爆発しました……たぶん、全部なくなったと思います」



「はぁっ? 太平洋?」



素っ頓狂な声を上げる凛にのび太は「はい」と答えると、凛の前に使った道具を並べて説明を始める。



「このペンは“ワープペン”って言って、これを使って目的地を言いながら円を描くとそこに通じる穴が出来るんです。これで太平洋のド真ん中に繋がる道を作って、この“無生物さいみんメガホン”で宝石に催眠術を掛けたんです」



「……この際だから突っ込むのは止めておくけど、催眠術っていうと『聞き分けのいい、賢い犬』ってアレ? それで穴に飛び込むように命令して、宝石が全部なくなったらそれを壊すためにわたしに爆発させたって事?」



「そうです。そしてこっちにまで爆発が来ないように“ワープ消しゴム”で穴を消したんです。ホント、上手くいってよかったです……」



「成る程ね……はぁあ」



納得がいったと同時に、今までの時間がムダに終わってしまった事に脱力感を覚える凛。

元手が壊れた宝石六個なので損こそしなかったものの、このぬか喜び感は尋常ではない。



「まったく……アンタがあんなモノ出すから……」



「だって凛さんが……」



二人が文句をぶつけ合っていると、



「……やはり大元はリンの部屋でしたか」



「あ……セイバー。えと、大丈夫だった?」



「……まあ、怪我はありませんが」



廊下の奥からセイバーが顔を出してきた。

巻き込まれたせいであちこちヨレヨレになっているものの、傷は負っていないようだ。



「いったい何があったのですか?」



「ああ……実はね……」



かくかくしかじか、と凛はセイバーに事の経緯を説明する。

すべてを聞き終えたセイバーは、何とも微妙な表情を形作った。



「いえ、まあ……事情は解りました。理由も一応納得がいきますが……しかしノビタ、何故そんな危険なシロモノをリンに渡したのですか?」



「だって……凛さんが凄い勢いで迫ってきて……壁際に押さえ付けられちゃって……目も血走ってたし」



弱々しく呟くのび太の言葉に、セイバーの表情はさらに微妙な物へと変わった。

そしてそのまま凛を見やるがその目は……どういう訳か、何とも気まずそうに細められている。








「リン……好みは人それぞれですし、それに口を出すつもりもないのですが……老婆心ながら一つだけ。いくらなんでもノビタは――――犯罪ですよ?」








「……え? ――――――はあ!?」



はじめはセイバーが何を言っているのか解らなかった凛であったが、やがて理解が及んだのか顔を真っ赤にしてセイバーに食って掛かった。



「な、なにを勘違いしてるのよ!?」



「……違うのですか?」



「違うわよ! というか、何がどうなったらそんな結論に辿り着くのよ!?」



「いえ、のび太の言葉から察するに、貴女は若いツバメが……」



「そんなワケないでしょ、このボケセイバー! 流石にのび太は守備範囲外よ!」



「……あ、あの~。いったい何の話なのか解らな「アンタは解らなくていいっ!」は、はい……」



凛の剣幕に気圧され、のび太はそれ以上は何も言えなくなった。

こうなったのも、元をただせばのび太の言い回しが甚だアレだったからなのだが……実際にほぼ合っているとはいえ。



「おーい、遠坂……」



「何よ!? って、士郎と……アーチャー」



続いて廊下の陰から現れたのは、士郎とアーチャーであった。

こちらもセイバーと同様ヨレヨレの体だが、むしろセイバーよりもひどいと言えるかもしれない。

アーチャーはオールバックの髪の毛がバサバサにほつれているし、外套の裾のところどころに穴が開いており、ほぼズタズタの状態である。

士郎も服のあちこちが擦り切れており……そしてなぜか右手で尻を押さえている。



「士郎、アンタそれどうかしたの?」



「ん、いや……台所で洗い物してたんだけど、なんか、宝石が一個、スゴイ勢いで飛び込んできてさ。ジーンズの後ろ、突き破られそうだった……」



「そ、そう……」



……どうやら宝石の中に一匹、駄犬が混じっていたようである。

それはさておき。



「いったい何があったのだ? 宝石の波に飲まれたと思ったらいきなり引いていったのだが……」



「ああ、それね……って、二回も説明するの面倒ね。セイバー、説明お願い」



「あ、はあ……」



セイバーは凛から受けた説明をそっくりそのまま、二人に説明する。

そして。





「――――いや……まあ何というか……」



「アイデア自体は悪くないのだが……もう少し物事はよく考えるべきだぞ凛。短慮にも程がある」





話を聞き終えた二人はセイバーと同じような微妙な表情を形作り、凛の方を見やった。



「……もう何とでも言いなさいよ」



先のセイバーとのやり取りで反論する気力も失せたのか、凛はそれだけ呟くと、そのままあらぬ方に目を逸らしているだけであった……。















「……しかしまあ、随分とメチャクチャになっちゃったなぁ」



「ごめんなさい……」



ボロボロになった廊下や部屋を見て回りつつ、半ば感心するように呟く士郎。

その横で、のび太は只管平身低頭していた。

士郎はポンポンとのび太の頭を優しく撫でると、励ますように告げた。



「やっちゃったモノは仕方ないさ。大半は遠坂のせいなんだし、壊れたんならまた直せばいいんだからさ」



「直す……そうだ!」



士郎の言葉にのび太は何かを思いついたように顔を上げると、“スペアポケット”を引っ張り出して中から“復元光線”を取り出した。



「これを使えば簡単に元通りに出来ますよ!」



「……ああ、これが“復元光線”ってヤツか。確かこれで宝石を元通りに復元したんだっけ。……でもこれってバッテリー式じゃないのか? 見た目それっぽいけど、家の中全部直すまで持つのか?」



「あ、そっか……」



士郎の言う事にも一理ある。

衛宮邸は武家屋敷だけあって結構な広さがあり、宝石の津波は内側だけとはいえその大半を破壊していった。

たった一丁の“復元光線”では、全てを復元しきる前にバッテリー切れを起こしてしまうだろう。

かといって手作業で修復や片づけをやっていたのでは、日が暮れるどころの話ではない事も事実である。



「じゃあ……よし、“アレ”で!」



のび太は一つ頷くと再び“スペアポケット”に手を突っ込み、今度は姿鏡のような大きめの鏡を取り出した。

そして下部にあるスイッチを押し、“復元光線”を鏡の前に差し出して姿を映し出すと、





――――鏡の中に手を差し入れ、鏡の中の“復元光線”を外に引っ張り出した。





「「「「――――!?」」」」



揃って唖然とする四人。

が、のび太はそれに気付いた様子もなく、事もなげに鏡から取り出した方の“復元光線”を士郎に手渡す。



「はい、士郎さん」



「……あ、ああ。な、なあのび太君」



「はい?」



「その鏡って……」



「ああ、これですか? これは“フエルミラー”って言って、この鏡に映した物を二つに増やす事が出来るんです。さっきみたいに。これでバッテリー切れの心配もないですよね?」



「え、いやまあ……そうだけど。いや、そうじゃなくてさ」



「へ? ……ああ、やっぱり二つだけじゃ時間掛かっちゃいますもんね。ここは人数分出して、みんなで手分けすれば早く終わりますよね!」



「あ、ああ……いや、そうだけど!」



士郎がさらに何かを言い募ろうとしたが、のび太は既に“復元光線”の映った“フエルミラー”に手を突っ込んでいる最中であったため結局尻すぼみに途切れてしまった。

そして残りの人数分の“復元光線”が複製し終わり、のび太はそれぞれに一つずつ“復元光線”を手渡していった。



「よし、と! それじゃあ手分けして「――――ちょっと待ちなさい!」……はい?」



歩き出そうとしたのび太であったが、急に呼び止められたため足を止め、振り返る。

すると目の前には……。





「――――のぉぉぉびぃぃぃ太ぁぁぁぁぁぁ?」



「――――ヒィ!?」





事の元凶たる凛が、それはもう凄まじい形相でのび太に詰め寄ってきていた。

瞬時にのび太の顔が蒼白に染まり、ガタガタと震え始める。

凛はそんな怯えるのび太の両肩を、まるで万力のような力で以て無造作に掴み上げると、



「どうしてアレを最初から出さなかったのよ!? おかげで貴重な時間が丸々潰れちゃったじゃない!! ええい、わたしの時間と夢と期待を返せええぇぇぇ!!!」



「ぐええええぇぇぇっ!? り、凛さん目がっ、目が回る!? あと肩っ、痛い痛いぃぃいい!!」



ガクガクと物凄い勢いで揺さぶり、不満の丈をぶちまけ始めた。

やられるのび太はたまったものではないが、しかし……傍から見れば恐ろしく大人げない光景である。





「……きっと、リンが“こんな”だったから、でしょうね」


「うむ……」





その横では、セイバーとアーチャーの英霊二人が何かが腑に落ちたように互いに頷き合っていた。










その後、“お詫び”と称して強引にのび太から“フエルミラー”を借り受けた凛が……きっと色々ありすぎて、魔が差してしまったのだろう……事もあろうにお金を複製しようとして、





「あ、言い忘れてましたけど……増やしたものって“鏡に映った状態”で出てきますから……」



「な、なん……ですって……」





“鏡写し”の状態で出てきた一万円札を前に絶望する姿があったとか。

ちなみに“復元光線”は元々左右対称なので、その点ではまったく問題はなかった。





(その“鏡写し”の札をもう一度、鏡に映せば……などとは、告げぬ方がいいのだろうな。為にならんし、凛にはいい薬だろう)





膝を突いて崩れ落ちる己が主を見やりながら、ぼんやりとそんな事を思う弓の英霊であった。










なお、衛宮邸が完全に修復されたのはそれから三時間後であった。















余談であるが、翌日の各社の新聞には、





『太平洋沖で謎の巨大キノコ雲! 某国の核実験か!?』



『国連緊急総会招集! IAEA(国際原子力機関)、調査のため現地へ』



『海底火山の爆発か!? 太平洋沖巨大爆発のナゾに迫る!』






一面大見出しでこんなフレーズの記事が躍り、数週間に渡ってマスメディアを大いに賑わす事となるのだが、





「えっと……元気出してください、凛さん」



「どの口がそんな事言うのよ……」





張本人達はそんな事など知る由もない……。




















――――そして今宵。










五人は、狂戦士へと戦いを挑む。







[28951] 第二十二話
Name: 青空の木陰◆c9254621 ID:90f856d7
Date: 2011/11/13 22:34




「準備はいいわね?」



「……ああ、大丈夫。出来るだけの事はした」



衛宮邸の道場。

その中央に佇むは、のび太・士郎・凛・セイバー・アーチャーの五人。



「勝算はおよそ五分五分……といったところでしょうか。もっとも、こんな目算などあまりアテにはなりませんがね」



「ああ、結果は実際にぶつかってみなければ解らん。そもそもからして、聖杯戦争の闘いすべてが絶対未知数の代物なのだからな。とはいえ、ここまで“事前対策”が整う事など通常ではありえん。その点は少年に感謝せねばな」



「い、いやいや! そこまで大した事はしてませんし……というか、ほとんどドラえもんの道具のお蔭ですし……!」



「まあ、賛辞は素直に受け取っておきなさいな。道具は借り物かもしれないけどアイデア自体はアンタの物なんだし、大したものだと思うわよ」



凛はそう言ってグシャグシャとのび太の頭を乱暴に撫でると、自分の隣に鎮座する“ピンク色のドア”に目をやる。

“どこでもドア”。

一種のワープ装置のようなものであり、目的地を音声や思念などで入力した上で扉を開くと、ドアの先がその目的地に繋がるという道具。

これを使ってアインツベルン城へ殴り込もうというのだ。

普通なら樹海を踏破していかなければならないが、これならばそんな必要もなく一瞬で、しかもダイレクトに辿り着ける。



「じゃ、のび太。お願い」



「は、はい」



凛に促され、のび太は“どこでもドア”の前へと立つ。

そしてドアの取っ手を掴んで後ろを振り返り、四人を一瞥。

全員が頷いたのを確認すると、大きな声で行先を告げる。



「――――アインツベルン城!」



その言葉を合図とし、“どこでもドア”によって空間と空間が接続された。



「「「「「――――――――――――」」」」」



もう一度視線を向けあい、頷き合う一同。

いよいよ、本格的な闘争の場へと突入する。

それぞれがそれぞれの決意を秘め、少ない時間の中でこの敵陣への強行突入へと備えてきた。

他のマスターの動向を監視するため、またこの拠点を守るための『留守居役』も用意した。

そして何より、バーサーカーを打倒するための『対抗策』を練り上げた。

敵は強大、しかし打倒しなければ……乗り越えなければならない相手。

退くも地獄、進むも地獄……ならば前進するだけだ。



「……行きますよ!」



そしてドアノブを捻り、ゆっくりと“どこでもドア”が開かれた。





――――――そこで五人が目にしたモノは。










「――――えっ……?」





「な……ぁ……っ!?」





「……………………」










白い霧。

高温の熱風。

湿り気を帯びた空気がドア側に吹きつけ、一同の頬に潤いを与えていく。

しかし肝心なところはそこではない。





いやにだだっ広いその空間の中心に、いつかの“タイムテレビ”に映し出されていた三人の女性が呆然と佇んでいた。










――――――――その瑞々しい素肌を惜しげもなく、これでもかとばかりに晒した『生まれたままの姿』……すなわち“全裸”で。










「「「「「「「「――――――――……………………」」」」」」」」





ピチョーン、という水音がいやに大きく響き渡った。










そう、ここはアインツベルン城の……『風呂場』である。










「い――――――いやああああああああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!?」





「お、お嬢様ッ!?」





「……覗き?」





絹を裂くような悲鳴を上げ、両腕で身体を隠すように掻き抱きながら蹲る少女。

主に駆け寄り、要所を腕で隠しながらも主の身を護るように立ち塞がる従者の片割れ。

そしてその豊満な肢体を隠そうともせず、ただただ茫洋とした視線を闖入者達へと向けるもう一方の従者。

先程までの張り詰めた空気はどこへやら、ドアを潜ったこの場はもはやただのカオス空間と化している。





「ちょっ……なんでまたこんなオチなのよおおおおぉぉぉぉぉぉぉ!!?」





拳を握り締め、天に届けとばかりに吼える凛。

その足元には、





「「「…………」」」





頭から煙を立ち上らせる、三人の男の生ける屍が横たわっていた。





「…………、ハァ」





凛に撃墜された男性陣を横目で視認しつつ、今までの緊迫感に満ちたやりとりはいったい何だったのだろうかとセイバーは一人、頭を抱えながら溜息を漏らすのであった。















「「「大変申し訳ございませんでした」」」



「……もういいわよ。気にしてない……訳じゃないけど、こっちも油断してたのは事実だから」



所変わって、ここは城の応接間。

シャンデリアや色鮮やかな絵画で彩られた豪華絢爛な一室の床において、深々と土下座をする三人の男の姿があった。

半ば事故とはいえ風呂場に突入し、嫁入り前の乙女の柔肌を見てしまった事を誠心誠意、眼前の城の主とその従者へ謝罪している最中なのである。

三人の頭部に形作られたコブからはいまだ煙が一筋立ち上っており、その様は痛々しさよりもむしろ滑稽さを感じさせる。

なお、先頭を切って“どこでもドア”の扉を開いたのび太はともかく、凛とセイバーの後ろにいた士郎とアーチャーに関しては湯気と前二人の背中に阻まれ、次いで電光石火の早業で凛に墜とされたためその全容を目撃出来た訳ではない事を追記しておく。



「まったく……“タイムテレビ”の時といい、どうしてこう道具を使う度にお風呂場に辿り着いちゃうのよ」



「ア、アハハハハ……」



横でブチブチと苦言を呟く凛に対し、顔を上げたのび太はただ曖昧に笑う事しか出来ない。

そんなのび太の様子に、凛はほとほと疲れたように眉間によった皺を揉みほぐした。



「それはそうと、貴方がたはお嬢様に勝負を挑まれに来たのですか?」



と、主の座る席の横に控えていたメイドの片割れ……セラが確認するように口を開いた。

表情がやや硬いところを見ると、主が許したとはいえ風呂場での一件についてまだ納得がいっていないのだろう。

ちなみにそれぞれの位置関係は、縦に長いテーブルを挟んで上座にイリヤスフィールとその傍らにメイド二名、向かい側の下座にのび太達五人が着席しているといった形である。

あんな最低な来訪であったにも拘らず、一応は客として扱われているようで五人の前には紅茶を張ったソーサー付のカップが置かれていた。

きっとそうでもしないと何ともならないような、甚だ微妙な空気だったのだろう。



「……一応、ね」



「正確には殴り込み……といった形になるのですが、ね。思わぬ事態にほぼ頓挫してしまいましたが」



「殴り込み……。『オジキのカタキじゃあ、生命(タマ)取ったらぁ』?」



「……リーゼリット、アナタどこでそんな言葉を覚えたのですか?」



「テレビ」



「…………、コホン。それはともかく」



やや天然の入ったメイド……『リズ』ことリーゼリットによって再び弛緩しそうになる空気を誤魔化すようにセラは咳払いすると、



「お嬢様、いかがなされますか?」



己が主へと視線を向けた。

イリヤスフィールはほんの少しだけ宙に視線を投げると、



「そうね……まさかこんなに早くお兄ちゃん達が仕掛けてくるとは思わなかったけど、丁度良かったかも。いいわ、勝ったらお兄ちゃんを貰うわね」



「はあっ?」



にこやかな顔でそんな事を告げてきた。

当然、いきなり身柄を貰い受けると言われた士郎とのび太の目は点になる。



「ちょっと待て。なんでそんな話になるんだ?」



疑問をぶつける士郎に対し、イリヤスフィールは笑みを崩さぬまま口を開く。



「わたしが聖杯戦争に参加した理由のひとつがお兄ちゃんだもの。だからあの時も死なないように、忠告してあげたの」



「『あの時』? ……あっ、もしかして何日か前、家の近くで早く呼び出せって言った子は……!?」



「そう、わたし。……って、今頃気づいたの?」



呆れた、と言わんばかりの表情を晒すイリヤスフィールに、士郎はバツの悪そうな顔をする。

一応言い訳させて貰えるのならば、あの時はまだ何も知らなかったのだ。

聖杯戦争の『せ』の字すらも。

察しろという事自体、無理な話である。



「……すまん。でもどうして俺の身柄なんて欲しがるんだ? 俺と君にはなんの関わりもない筈なのに「あら、関わりならあるわよ」……え?」



虚を突かれたように士郎はイリヤスフィールに下げていた視線を向けるが、その途端、妙な悪寒に襲われた。

士郎を見るイリヤスフィールの視線が、どこかしら寒々しく、また異様な揺らぎのあるものに変わっていたからだ。



「お兄ちゃんがエミヤキリツグの息子だから、関わりはあるわ。それも、物凄く近しい関係が」



「……爺さんの息子、だから……だって!?」



目の前の少女から父親の名前が出てきた事に、士郎は混乱した。

何故ここで衛宮切嗣の名前が出てくるのか、皆目見当もつかない。

動揺に突き動かされるまま、士郎の口は勝手に言葉を紡ぎ出していた。



「それっ、どういう意味なんだ!? どうしてそこで爺さん……親父が!?」



「フフ……さあ、どうしてかしら? ――――知りたかったらシロウ、わたしのモノになりなさい」



底冷えするような眼力と共に、イリヤスフィールは士郎に命令を叩き付ける。

見た目はのび太と同じくらいの子供……しかし放たれる威圧感はある意味英霊と遜色ないと言えるほどの物だ。



「……ッ!?」



もはや先程までの弛緩しかけた空気は微塵もない。

例えるなら冷淡にして妖艶……そんな妙な二面性を帯びたプレッシャーに士郎は一瞬気圧される。

年端のいかない身であるにも拘らず、いったい何をどうすればここまで凄まじい物が身につくのか、士郎には解らない。

しかし、士郎にも譲れない物があるのだ。



「――――断る! 俺はのび太君と約束をした! その約束を果たすためにも、イリヤスフィール……いや、イリヤ! 君の要求は飲めない! 君こそ、聖杯戦争から降りるんだ!」



「……へえ。どうしてわたしが聖杯戦争から降りないといけないのかしら?」



プレッシャーを跳ね除け、この戦争から降りろと告げた士郎にイリヤスフィールは眉を顰める。

どういった意図でそんな事を言うのか……イリヤスフィールにはおおよそ見当がついていたが、それはあまりにも自分をバカにしているように映ってしまう。

言った本人は大真面目かつ本気なのだろうが、しかしイリヤスフィールとて伊達や酔狂でこんなイカれた戦争に首を突っ込んでいる訳ではないのだ。



「君みたいな……良くも悪くも真っ白な子が、こんな事をしているのは間違ってる。だから、出来るなら令呪を破棄して、この戦争から降りて欲しい」



「……それ、隣にノビタがいるのに言えるセリフかしら?」



「ッ!? そ、それはっ……」



痛いところを突かれ、士郎は言葉に詰まる。

確かに小学生であるのび太が参加しているのに言えた義理ではない。

しかものび太は事情があるとはいえ、本来ならマスターどころか魔術師ですらない生粋の一般人なのだ。

どちらの言葉に説得力があるのか、火を見るよりも明らかである。

……しかしそこに、





「――――あ、あの! ……出来れば僕も、降りて欲しいかなぁって、思ったり、思わなかったり」





他ならぬのび太が口を挟んだ。

すかざすイリヤスフィールの細められた目がのび太に向かって突き刺さる。

若干それに怯えを見せつつも、のび太は自分の意思を口にする。



「その……あの時は必死だったから何も感じなかったんだけど……改めてこう、向かい合ってみると……なんか、しずかちゃんとケンカしてるみたいで、イヤなんだ」



「……シズカって、誰?」



「僕の友達」



「…………」



イリヤスフィールの眉間の皺が、先程よりもやや深くなった。

無理もない。

ガールフレンドとケンカしているみたいだから争いたくないなどと、あまりにもふざけている。

士郎の言葉でただでさえ冷え始めていた空気がこのやり取りで一気に凍り付き、張りつめた糸のような緊張感がこの場を支配する。



「…………」



「…………」



テーブルを挟んで火花を散らす、イリヤスフィールと士郎……あと一応のび太も。

凛とセイバー・アーチャーは静観を決め込んで口を挟まず、セラとリズは意思を主に委ねきっているのか沈黙を保ったまま主の隣に控えている。

空気が軋み、物音一つしない沈黙が息苦しさを誘う。

……しかしこの極限の状況は。



「――――ハァ、まあいいわ。それじゃこうしましょうか」



白の少女の妥協によって、唐突に終焉を迎えた。





「勝負に勝った方の言い分を採る……元からお兄ちゃん達は闘うつもりでここに来たんでしょう? それでいいわね?」





その有無を言わさぬ眼光に、士郎は悟った。

これ以上のやり取りは無意味であると。





「……やっぱり、それしかないのか。まぁ、イリヤが戦争から降りるには、悪いけどバーサーカーには退場して貰わなきゃいけない訳なんだし……解った、そういう事にしよう」















再び場所は変わって、城の外にある森。

森といっても葉が鬱蒼と茂っている訳ではなく、季節の関係で葉の落ちた巨木があちらこちらに乱立している、所謂枯れた森である。

魔術師の大家であるアインツベルンが城を建てている事からして昼間ですら、ある種の魔境と言っても差し支えない程の妙に薄気味悪い森なのだが、時刻が夜ともなればその異様さには更に磨きが掛かっている。

そんな城からさほど離れていない森の只中に、二組の陣営が佇んでいた。

無論、イリヤスフィール主従とのび太達である。



「さて、準備はいいかしら?」



「……質問に質問で返すのも何だけど、アナタはバーサーカー一人なの? こっちはマスター含めて五人いるんだけど」



凛の疑問にイリヤスフィールは首肯する。

己がサーヴァントである狂戦士に全幅の信頼を寄せた笑顔で。



「……後ろの二人は?」



「見物させてるだけよ。あのまま城の中に残しておくのも何だし、戦闘能力も一応あるけど手出しは一切させないから。必要ないもの。いいわねセラ、リズ?」



「お嬢様の仰せのままに」



「うん」



主の左右数歩後ろで下知に頷く従者二名。

そんな二人を見やったまま、凛は更に言葉を繋げる。



「わたし達はここにいる全員で掛かるけど、文句はないわね?」



「ええ。でも実際、戦力になるのってセイバーとアーチャーと、あとヘンな道具を使ってるノビタくらいかしら? リンの宝石はバーサーカーには効かなかったし、お兄ちゃんは問題外だもの」



「……その余裕がいつまで続くかしらね?」



イリヤスフィールに聞こえないくらい小声で凛は呟くと、背後に佇むアーチャーに目をやり、視線で指示を出す。

弓兵は無言のまま首肯すると踵を返し、そのまま後ろへ向かって走り出した。

そして約十秒後、アーチャーからの念話が届いた凛が残る陣営のメンツに向かって首を縦に振った事で、おおよその前準備が整った。





「もういいみたいね。じゃあ……バーサーカー!」



「――――――■■■■■■■■■■■■■■■ーーーーー!!」





命令とほぼ同時に、彼女の左前方に現れた狂戦士・バーサーカー。

虚空に向かって気炎を上げるその様は、バーサーカー自身の血の猛り具合を表しているかのようだ。

早く戦いたい、殺し合いたいと。



「……いい気迫ですね」



「そうね」



しかし“この程度”で去勢されている場合ではない。

これは勝負の前の、いわば軽いジャブのような物だ。

このくらい軽く流せないようでは、このバケモノと闘り合う事など到底不可能である。





「……くっ!?」



「……ぅう、やっぱりちょっと怖い……!?」





「……アンタらねぇ、もう少しシャキッとしなさいよ。特に士郎、色々と力入りすぎよ」



――――いやまぁ、一部例外もいたりはするが。

言い訳させて貰えるなら、単にコイツらはエンジンが掛かっていないだけである。

初めてバーサーカーと対峙したあの夜も一応士郎は平静を保てていたし、のび太に至っては言わずもがな。

スイッチが完全に切り替わっていない今は、とりあえずこんなモノである。



「さて、相手は誰からかしら? やっぱりセイバー? それとも一度にかかってくる?」



したり顔でそう言ってみるイリヤスフィールであったが、やはり最初はセイバーが来るのだろうなと頭の片隅で考えていた。

セイバーが先鋒で組み合い、アーチャーが後方から援護射撃を行い、のび太が道具を使ってその間で遊撃を行う。

あの夜と同じ、スリーマンセルの戦闘方式。

戦術的にも戦力的にも、それが最も効率がいい。

だから今回も、おそらくその手で来るだろうとイリヤスフィールは予測していた。

人員的にあと二人ほど余っているが、はっきり言って士郎と凛はほぼ戦力外だ。

特に士郎はあらゆる意味で役立たず。

魔術の一つもロクに扱えない半人前以下の魔術師であるし、この場にいるにはあまりに場違いすぎて逆に異彩を放っている。

そういった点で見ればのび太も違和感ありありなのだが、あの夜の活躍を目にしてしまっている以上はそこまで奇異には映らない。

いや、見た目魔術師ですらない、ただの小学生でありながらバーサーカーと渡り合うという点で言えば奇異どころかむしろ異常なのだが……。



(……やっぱり、どうにも読みきれない存在なのよね、あのノビタって。バーサーカーが警戒するのも解る。ある意味未知数の塊だもの)



肝は言うまでもなくあの正体のよく解らない、不思議な道具類。

いったいあれらがどういったシロモノなのか、イリヤスフィールは非情に興味がひかれたが敵である以上は特A級の警戒対象でしかないと、今は意識を割り切っている。

バーサーカーもそれを重々承知しているようであの夜以来、本来なら取るに足らない存在である筈ののび太に対して、本能的な警戒心と執着心を抱いていた。

戦闘において、判断のつきかねる不確定要素ほど厄介な物もないからだ。

きっと主からの戦闘開始の下知が下れば即座に不確定要素を潰さんと、真っ先にのび太に向かって吶喊していく事だろう。



(……ま、それはともかく今は目の前に集中ね。『狂化』状態のバーサーカーなら、あの時のセイバーでも絶対に負けない)



そう意気込むイリヤスフィールの目の前で、凛とのび太が距離を取り始めた。



「……いいわね、手筈通りにいくわよ」



「は、はい」



「……了解です」



そして当初の予想通り、セイバーが先鋒として前方へ……。





「――――え?」





出てこなかった。

なんとバーサーカーと真っ先にぶつかり合うと思われたセイバーが、凛・のび太と一緒に後方へと下がり始めたのだ。

これにはイリヤスフィールも面食らった。



「――――えっ!? ちょっと、どうしてセイバーも下がっちゃうの!?」



「……これも作戦よ。大丈夫、アンタの戦術予測は大体あってるから……じゃ、頼むわよ?」



意図が解らず混乱するイリヤスフィールを余所に、凛がそんな言葉を口にする。

そして一歩一歩、バーサーカーへと近づいてきたのは……。





「えっ――――冗談でしょ?」





「――――冗談なんかじゃない。バーサーカーの相手は俺だ、イリヤ」





戦力として論外である筈の、士郎であった。

歩み寄る士郎を視界の中央に収めながらも、イリヤスフィールの思考はますます混乱の色合いを増す。

アーチャーがこの場を離れ、遠くへ移動した……弓兵である以上、それは理解出来る。

凛達が距離を取った……これも解る。

だがセイバーが前面へと出ず、代わりに士郎がアタッカーとして突出するというのはどう考えても解らない。

凛の言葉の込められていたものや士郎の様子からして、これがブラフだという線はおそらくない。

本気で士郎はバーサーカーと組み合うつもりなのだ。



(……でも、そんな事出来る筈がない)



士郎は一つの魔術すらろくすっぽ扱えない魔術師で、再三言うがその力などまずお話にならないレベルだ。

そもそもからして、人間(マスター)が英霊に挑む事自体、狂気の沙汰以外の何物でもない。

バーサーカーとまともにぶつかり合えば、数秒と持たずにミンチにされる事請け合いである。

それは向こうも解っている筈。

ならば何故……、と思考が堂々巡りを始めようとしたところで、





「……馬鹿みたい」





イリヤスフィールは葛藤を切って捨てた。

考えたところで何になる。

自分はただ、己がサーヴァントの圧倒的な力を信じるのみ。

『ヘラクレス』を召喚したあの時、そう決めたではないか。





「狂いなさい、バーサーカー」



「■■■!? ……■■■■■■■■■■■■■■■ーーーーー!!」





イリヤスフィールの呟きと同時に、バーサーカーが咆哮を上げる。

それは先程のようなものではなく、まるで狂気と殺意以外を削ぎ落としたかのような、いっそ寒々しいまでに禍々しいものであった。



「なるべくお兄ちゃんは殺さないようにね……じゃあ、やっちゃって」



そして完全に光の掻き消えた双眸で以て敵対者達をねめつけると、荒々しく唸りながら右手の斧剣を振り上げ、凄まじいスピードで吶喊を仕掛けてきた。



「速ッ!? ……ちっ、やっぱりあの時はまだ『狂化』してなかったのね。士郎!」



「ああっ!」



凛の声に反応した士郎は、向かってくるバーサーカーから視線を外さぬまま徐にポケットに手を突っ込み、中から何かを取り出した。

それはどこかで見たような白い袋状のブツ……士郎はその中に右手を入れると、袋の中で何かをグッと握りしめた。

『白い袋状のブツ』が何かは……勘のいい方はお分かりであろう。

そう、このブツは“スペアポケット”だ。

といっても、これはのび太の物を拝借したという訳ではない。

事実、このポケットの四次元空間に入っているものはたった一つだけなのである。

いわばこの“スペアポケット”は――――『鞘』なのだ。



「■■■■■■■■■■■■■■■ーーーーー!!」



聞く者の心胆を寒からしめるような狂声と共に、振り翳された斧剣が士郎の脳天へと振り下ろされる。

士郎はその軌跡をジッと見据えたまま、スッと腰を落とし身体を内に捩じり込むと、





「――――『同調・開始(トレース・オン)』ッッ!!!」





力強く一歩を踏み出し、言葉と共にポケットの中の右手を下から上へと、斧剣目掛けて掬い上げるように思い切り振り抜いた。

ガギリッ、と重い物同士がぶつかり合う、やたら鈍くて硬質な音が辺りに響き渡る。

そしてその一瞬の後、





「■■■■■■■■■■■■■■■ーーーーー!!?」





「――――えっ!?」





バーサーカーの巨躯が、煽られるように仰(の)け反った。

直後にドウゥンッ、という重く鈍い振動が広がり、渇いた地面から砂塵がもうもうと舞い上がると二つの人影を中へと覆い隠す。



「……■■■■■■■■■■■■■■■ーーーーー!!」



砂煙の中で、バーサーカーは即座に崩された体勢を元に戻すと一旦距離を置くため、バックステップを踏んで煙を抜け、後方へと下がる。

そして士郎は、



「……ふぅ。何とか、上手くいったか。よっ、と」



煙の中で踏み出していた足を戻し、どこかホッとしたような声でそんな事を口にした。

サア……ッ、と一陣の風が吹き、土煙を吹き散らすと同時にガシャン、と鉄が何かにぶつかるような異音が響き渡る。

そこには、










「これで冗談じゃないって解っただろ、イリヤ。――――さあいくぞ、バーサーカー! お前の相手は俺だ!!」










――――二メートルは優に超えようかという『大剣』を肩に担ぎ、その全身に闘志を漲らせ佇む士郎の姿があった。





両の手にはゴムで作られたような『手袋』を身に着け、右の肩に乗せた『大剣』は空に向けた片方のみが、片刃剣特有の優美な弧を描いている。

士郎が“スペアポケット”から居合の如く抜き放った、およそ常人には到底振り回し得ない程の巨大な片刃剣。

バーサーカーを仰け反らせた事からして、狂戦士の持つ岩の斧剣と遜色ないほどの重量と質量を持つであろうことは想像に難くなく、またそれは確固たる事実でもある。

そんな斬馬刀の如き異形を成した剛剣の銘を、のび太達は便宜上こう呼称している。















――――『大・電光丸』と。










[28951] 第二十三話
Name: 青空の木陰◆c9254621 ID:90f856d7
Date: 2011/11/27 00:00



『さて、バーサーカーと対峙するのはいいとして、問題はどう戦うべきか……。地の利はあっちにある訳だし』



『ん? あの時みたいなスリーマンセルじゃダメなのか?』



『ダメとは言わないけど、同じ戦法が二度も通用するほど聖杯戦争は甘くはないの。やるならまったく新しい隊形を組むか、敢えて同じ方式で挑んで奇策を仕掛けるか……どっちにしろ、どこかしら新しいものを組み込まないと、あっという間に向こうの優勢になっちゃうわ』



『正論だな。とはいえ、我々の場合は役割がほぼ固定化されてしまっている。隊形を組み直す、というのはいささか無理があるだろう』



『へ? それって、セイバーさんが剣士でアーチャーさんが弓兵さんだから、ですか?』



『ええ。サーヴァントである私達はクラスによって得意とする間合い(レンジ)がはっきりしています。剣の英霊である私では遠距離戦を行う事は不可能ですし、弓の英霊であるアーチャーでは接近戦は不利です』



『実のところ、接近戦が出来ない訳ではないのだがな。しかし接近戦を本職とするセイバーには遠く及ばん。それにバーサーカーも接近戦が本領だ。それらを踏まえて考えれば、やはり前回の戦闘時の役割分担が最も効率がいい』



『セイバーがアタッカーとして突出。アーチャーが後方から弓で支援して、のび太が遊撃といった形ね。わたしは……ん~、どちらかといえば遊撃の側かしら?』



『え、あの、俺は?』



『……。へっぽこはオマケでわたし達の側。とにかくジャマにならないようにしてるのが至上命題。アンタが死んだらセイバーも終わり。ついでにわたし達も『THE END』なんだし』



『…………あー、なあ遠坂。俺って、結局何なんだろうな?』



『セイバーのマスターでしょ? それ以外は論外の』



『……泣いてもいいよな?』



『好きになさい。でもフォローは期待しない事ね。ここにいるメンツの中で役立たずなのは動かしがたい事実なんだし』



『…………』



『――――まあ、小僧の存在意義はさておくとしてだ。まだ問題はあるぞ。主にアタッカーの側にだが』



『む、私に……ですか?』



『うむ。奴の宝具とも絡んでくる話なのだがな。あの夜、君は君の宝具である剣でバーサーカーのく……あー、バーサーカーに一撃を入れて斃しただろう? その結果、セイバーの斬撃が通用しなくなっているかもしれんのだよ』



『へ? どうしてですか?』



『奴の宝具である『十二の試練(ゴッド・ハンド)』……その特性の一つに一度受けた攻撃については耐性を得るというものがある。その点に引っ掛かる可能性があるのだ』



『……つまり一度斃してしまった以上、私ではバーサーカーと切り結ぶ事は出来ても斃す事は出来ない、と?』



『可能性の話だがな。しかしこればかりは実際に試してみる、という訳にはいかん。そういう前提で話を進めていかねばなるまい。奴を確実に滅するには十二回……いや、一度斃しているから十一回か……それぞれ異なる手段で斃すか、一度の攻撃で複数回、耐性を得る前に命を断つか。いずれにしろ、打倒手段の数こそが鍵となってくる』



『成る程ね……。ちなみに、アンタだったらアイツを何度斃せる?』



『……ふむ。計算上、おそらく二度。いや、状況によっては三度か。これは一度で複数回命を断つという、後者の手段にあたるがな。しかしそれを行うには“溜め”に少々時間が掛かるのと、諸々の都合により成功如何を問わず、一回こっきりしか使えないという制約がつく』



『へぇ、意外な返答。ま、詳細は後で聞くとして……わたしも後者の手段でいける手が一つあるわ』



『え、本当か遠坂?』



『まあね。予想はつくかもだけど、これも後でね。――――でも、やっぱり手数が少ない事に変わりはないわね。それに……万全を期すなら反撃の隙を与えずにたたみ掛けて斃す、超短時間の波状攻撃が攻略法としては理想ね』



『そうだな。……となると、やはりアタッカーの問題をどうにかせねばなるまい。バーサーカーを身一つで喰い止め、あわよくばヤツの命を削る命懸けの防波堤役だが……候補が、な』



『そうねぇ。セイバーしか適役がいないってのはねぇ……うーん、いっそ――――士郎がやるとか?』



『――――はぁ?』















――――以上の会話は、五人がアインツベルン城に殴り込みをかける数時間前のやり取りである。
衛宮邸の道場にて作戦会議を行っていた五人の対バーサーカー戦対策は、こうして練り上げられた。
その中で話の一番のネックとなったのは“前衛”……バーサーカーと直接ぶつかり合う役であるアタッカー。
セイバーの代わりに士郎をアタッカーに据えるという凛の発言は、話の合間についポロッと漏れた半分冗談のようなものであった。
……あったのだが。





「――――おおおおぉぉぉぉっ!!」





「■■■■■■■■■■■■■■■ーーーーー!!!」





「ウソ……!? なんで、どうしてお兄ちゃんがバーサーカーと張り合えるの!?」


現状はご覧の通りである。
己が身の丈以上の大剣を軽々と振り回し、士郎は猛る狼の如き気迫と共にバーサーカーと真正面からぶつかり合う。
破城鎚の如き斬撃を弾く事一合、二合、三合四合五合。
剣同士が接触する度に火花が迸り、闇夜の中に互いの姿を刹那の間照らし出す。
バーサーカーの振るう岩の斧剣を物ともせず、一歩も退かずに切り結ぶその様からはとても戦力外の烙印を押された者と同一人物だとは到底思えない。
狂戦士の主たるイリヤスフィールは驚愕を通り越して既に頭が混乱し始めている。
さもありなん。いったい何がどうなればこんな冗談みたいな事が起こりうるのかと、誰だって我が目を疑ってしまうであろう。


「……今のところは大丈夫、みたいですね。士郎さん」


「はい。ですが、これははっきり言って予想以上ですね。まさか本当にバーサーカーと拮抗出来るとは……。まあ、実際にシロウは私ともまともに切り結べたのですから、当然と言えば当然かもしれませんが」


「……まったく、のび太の道具も大概よね。ホント、のび太が敵じゃなくてよかったわ」


後方で両者の激突を見守りつつ、語り合う遊撃組の三人。
凛の冗談にGOサインを下すきっかけとなったのは、遊撃組のメインであるのび太のポツリと漏らしたこの一言であった。



『いやでも、うーん……もしかしたら、“アレ”とか使ったらいけるかも……?』



不可能を可能とする程の道具を数多(あまた)持つ、他ならぬのび太からのその言葉を皮切りに、士郎をアタッカーとするための強化案が練られる運びと相成った。



『いや、それは……』



『どうかと思うが……』



勿論、異論も英霊組を中心に出はしたものの、まあとりあえず試してみましょうよ、というのび太の言葉に折れる形でその火蓋が切って落とされた。
まずは何といっても『武器』。
バーサーカー相手に素手で立ち向かう程愚かな事もない以上、これがない事にはまず始まらない。
とはいえ、士郎が扱えるような武器といえば木刀か、さもなくば穂群原の部活で嗜んでいた弓くらいである。
『剣』と『弓』といえばセイバーの不可視の剣とアーチャーの黒弓だが、どちらも二人の主要武装である以上、貸与する訳にはいかないし、士郎が扱いこなせるとも到底思えない。
凛に頼もうにも、凛が持っている武器といえば魔術的儀礼用の短剣である『アゾット剣』くらいしかないため、必然的にのび太のひみつ道具に頼らざるを得なかった。
だがのび太の持つひみつ道具の武器類……実は意外なほど数が少ない。
その中で士郎にも扱える武器と言ったら、



『ん~、“名刀・電光丸”くらいかな……?』



レーダー内蔵で自動反応、たとえ素人が扱ったとしても達人と互角に渡り合える“名刀・電光丸”しか該当する物がなかった。
しかしながら、



『……うーん、でもそんなチャチな刀でバーサーカーに対抗出来るの?』



“スペアポケット”から出した“名刀・電光丸”の実物を見ながら説明を聞いていた凛の言葉に、一同は再度唸った。
どれだけ高性能な刀でも、たかが日本刀一振りではリーチも質量も圧倒的にバーサーカーが有利である事実は変わらない。
特に質量差はかなりの難題で、物理法則的に覆しようがない項目なのだ。
体重の軽い者と重い者同士が戦うのならば、当然ながら体重の重い者の方が有利である。
体重を上手く掛ければ攻撃の一撃一撃に威力がより乗るし、重心も軽い者と比べてかなり安定している。
ボクシングで体重によって階級が厳密に区別されているのもこのためである。
実際、のび太もバーサーカーと対峙した際に多分通用しないだろうと“名刀・電光丸”に対して見切りをつけていたので、このままではいけないと承知していた。
そこで、



『多分、ムリです。――――だから、“名刀・電光丸”をバーサーカーに対抗出来るように“改造”すれば!!』



のび太はつい先程閃いたアイデアを基にして、対バーサーカー戦仕様の“名刀・電光丸”へと作り変えるための改造へと着手した。
そしてやにわに“スペアポケット”から取り出したのは“ビッグライト”、“のびちぢみスコープ”、“デラックスライト”の三つのひみつ道具。
まず“ビッグライト”を使って“名刀・電光丸”を二メートル弱程度にまで巨大化させ、次に“のびちぢみスコープ”を装着してスコープの筒先をいじり、細い刃の部分を太くし大きくなりすぎた鍔(つば)や柄の部分を細くする。
しかしこのままでは内部の機械部分が作動しないか、もしくは誤作動を起こす可能性があるので、“デラックスライト”を照射して手を加えた“名刀・電光丸”をグレードアップし、機能や重心・重量バランスを強化・最適化させると同時に内部を今の形状に適合するよう調整した。



『――――っよし、出来た!』



『『『『…………』』』』



こうして生まれたのが強化型“名刀・電光丸”……通称『大・電光丸』である。
バスタードソードのような幅広の刃を持つ、刃渡り六尺超えの重厚長大な日本刀。
バーサーカーの獲物である斧剣と遜色ない重量と間合いを兼ね備えた、まさに規格外の刀である。
だが誇らしげに『大・電光丸』を見やるのび太の周囲から、



『『『『――――どうやって振るんだ、これ?』』』』



『――――――えっ?』



という、あまりに的確すぎるツッコミが入るのにさほど時間は掛からなかった。
『大・電光丸』の超重量と長大な刀身はどう考えても扱う人間を選ぶ。
この中で扱える者はと言えば、間違いなく英霊組だけである。
しかしアーチャーではおそらく何とか振る事が出来るくらい、セイバーですら身長の関係で取り回しに四苦八苦する事になるだろう。
強力な武装である事は間違いないが、士郎が扱えなければ無用の長物である。
……だが、そこは道具の応用に定評のあるのび太。



『え~っと……これを付ければ多分、振り回せると思います』



きちんとそこまで計算していた。
訝しむ四人の前で“スペアポケット”から取り出したのは、ゴム手袋のような見た目をしたひみつ道具、“スーパー手ぶくろ”。
これを装着した者は怪力を発揮出来るようになるという手袋である。
そして実際にのび太が“スーパー手ぶくろ”を装着し、『大・電光丸』を掴んで軽々と、まるで道端の棒切れをちょっと拾いでもするかのように持ち上げた際、四人の顔が一斉に驚愕に染まったのはご愛嬌。
さらに物は試しにと不可視の剣を構えたセイバーと二つのひみつ道具を身に着けた士郎が立ち会ったところ、セイバーの繰り出した本気の斬撃を、士郎によってぎこちなく振り回された『大・電光丸』がすべて受け切った事で四人が更なる驚愕に叩き込まれ、英霊組が士郎の前衛役を不承不承ながら承諾したのは甚だ余談である。
勿論、万一セイバーが士郎を傷付ける事のないように、士郎には別のひみつ道具による“対策”が施されていた事をここで追記しておく。



『これでどうですか!?』



『……うーん、セイバーと渡り合えるくらいなら確かに及第点いってるけど、わたしとしては何かもう一押し欲しいところなのよね』



そう漏らした凛が念には念をと提案したのが、『大・電光丸』に『強化』魔術を施す事。
へっぽこ魔術師たる士郎が唯一扱える魔術であり、科学と魔術のハイブリットという魔術師から見れば甚だ常識外れの手段によって手札を強化しようという事だった。
だが問題は士郎自身の『強化』魔術成功率。
わずか1%にも満たない成功率ではお話にならないどころの騒ぎではないので、これを機会に士郎の魔術スキルの向上も先達たる凛主導の下、行われた。



『おっ、おい遠坂ちょっと待て!? その明らかにアヤシイ色をした宝石は何なんだ!?』



『ああこれ? わたしのとっておき、魔術回路開発用の一種のブースターよ。大丈夫、毒じゃないから。むしろ毒より……まあいいか。感謝しなさいよ、これってかなりの貴重品なんだから』



『待て待て待て! 『毒より……』何なんだ!? 気になるだろ!? っておい、アーチャーお前何他人(ヒト)の身体勝手に押さえつけてるんだよ!?』



『……他ならぬ主からの厳命なのでな。安心しろ、骨は拾ってやるぞ? ……扱いは保障出来んが』



『この野郎、薄笑い浮かべて何言ってやがる……!? いつかの腹いせのつもりかってあがががっ、ふ、ふひほひはへふは(く、口こじ開けるな)……ほ、ほうはは(と、遠坂)、ほっほはへ(ちょっと待て)! ほひふへ(落ち着け)、ははへはははふ(話せばわかる)……!?』



『……腹括りなさい、死にゃあしないから。ふんっ!』



『は、ぐ……っ、ぐぎゃああああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁっっっっっ!!!!』



……とまあ、このような悲喜交々(ひきこもごも)のやり取りもあったりしたものの、結果的に士郎は心身共にボロボロになりながらも何とか『大・電光丸』に『強化』魔術を施す事に成功した。
『強化』の前段階である『解析』を行った際、既存の科学技術を超越したひみつ道具を前に士郎の頭がパンクしかけるなどかなり手間取りはしたが、元々武器的に相性がよかったのか『解析』が済んでしまえば『強化』は比較的すんなりとうまくいった。
1%以下の成功率がまるで嘘のように。
凛辺りがその点に首を傾げていたが、当座の目標が達成された事には概ね満足していた。
ただ、試みに他の物に『強化』魔術を施したら当然のように失敗してしまった事については頭を悩ませていたが。
完全習得とまではいかない結果に終わったもののそれはさておいて、これで『大・電光丸』は『強化』魔術によって更にあらゆる性能が強化される事になり『大・電光丸+(プラス)』とでも呼ぶべきシロモノとなった。
開戦当初に『大・電光丸』を“スペアポケット”から引き抜いた時に士郎が己のマジックスペルを詠唱したのは、『大・電光丸』に『強化』魔術を施すためであった。
当然、事前に装着していた“スーパー手ぶくろ”によって魔術行使が阻害されるといったような凡ミスは犯していない。
その辺は凛がこれでもかとばかりに徹底していたし、そんな事をしようものなら士郎はバーサーカーと闘わずして既に亡き者にされていたであろう……。















「くっ……解ってたけど、やっぱり早々簡単にはいかないか!」


「■■■■■■■■■■■■■■■ーーーーー!!!」


バーサーカーと鍔迫り合いながら、士郎はそう悪態を吐く。
気力も闘志も十分。戦闘が始まる当初までの気負いも失せ、バーサーカーの狂気の気迫も物ともせず、むしろそれを当然の事のように受け流す余裕さえある。
怒涛の如く押し寄せる岩の斬撃の嵐を、士郎は『大・電光丸』の導くままに逸らし、弾き、受け流す。
傍目から見れば、士郎の太刀はバーサーカーと拮抗しているように映っている事だろう。
しかしながらちょっと戦闘の機微の解る者から見れば、明らかに士郎が攻めあぐねているように見えるのだ。
そしてそれはどこまでも正しい。


「ちぃ……っ! こっちの攻撃が、入らない!」


原因は偏に積み重ねてきた経験の差と、“名刀・電光丸”の特性にある。
“名刀・電光丸”は確かに自動反応……つまりオートの最適解で刀そのものが動いてくれるわけだが、それは使用者を傷付けようとするものが向かってくる場合だけである。
早い話が、防御や迎撃に関しては完璧に対応してくれるものの、使用者がいざ攻撃に移った時はオートで動いてくれないため使用者自身が刀を操らなければならないのだ。
実際問題、『大・電光丸』を握り締めた士郎はセイバーとも互角に切り結ぶ事が出来たが、セイバーに一太刀入れる事は終ぞ出来なかった。
拙い攻撃の悉くを捌かれ、逆にカウンターを入れられたくらいである……勿論カウンターに対しては『大・電光丸』がちゃんと機能してくれはしたが。
百戦錬磨のバーサーカーに対抗するのが一般人に毛の生えた程度の地力しかない士郎では、こうなるのもむしろ自然な流れなのである。
……ところで、お気づきであろうか?
どうして士郎に、バーサーカーを相手取っての鍔迫り合いの最中に悪態を吐けるだけの精神的余裕があるのか……その違和感に。
そもそも『大・電光丸』と“スーパー手ぶくろ”によって、どれだけ戦闘能力が向上したからといってもその効果はメンタルにまでは及ばない。
それなのに士郎は萎縮も去勢もされず、さもこれが当然とでも言わんばかりに平然と、バーサーカーと鎬を削り合っているのだ。
この状況は明らかにおかしい……その秘密は。





『あ~サッパリした……士郎さぁん、お風呂空きましたよぉ』



『ん、解った。じゃあ俺が上がったらいよいよ出発か……』



『そうですね……あ、そうだ。士郎さん、えっと……あ、あった……はいコレ』



『ん? なんだいコレ?』



『これ、“グレードアップ液”っていうんですけど。あの、お風呂に入る時にそれ、お湯の中に混ぜてから入ってください。本当はこういう使い方じゃないんですけど、そうした方がいいかなと思って……』



『えーと……うん、入浴剤みたいに使えばいいのかな? ちなみに、これの効果って?』



『あ、それはですね――――』





右足を大きく踏み出し、士郎は『大・電光丸』を大上段から打ち下ろす。
腹に力を入れ、裂帛の気合いを乗せて。


「ああああああぁぁぁぁぁっ!!」


「■■■■■■■■■■■■■■■ーーーーー!!!」


バーサーカーはそれをいとも容易く捌くと、逆に『大・電光丸』を斧剣で絡め取り、大股で一歩踏み込んで横薙ぎ一閃。
士郎を横殴りに、思い切り吹き飛ばした。


「ああっ、士郎さんっ!?」


「ちっ、アーチャー!」


凛がそう叫ぶと同時、闇に沈んだ木々の奥から幾条かの光芒が奔り、それがバーサーカーの背中に直撃する。
追撃を掛けようとしていたバーサーカーがその衝撃によってタイミングを崩され、動きを止めるが効いている様子は見受けられない。
しかしその間隙を利用し、士郎は体勢を立て直す。


「く……っだぁりゃああ!」


吹っ飛ばされた滞空状態のまま『大・電光丸』を振り回し、近くにあった木の幹に打ち付け、勢いを殺す。
しかしスピードが凄まじく、また剣の切れ味も“デラックスライト”と『強化』魔術の影響で恐ろしいものになっているせいで直径一メートル近くあった木の幹を真っ二つに切断してしまった。
断面は鏡のようにツルツルとしており、それはそれは綺麗な物だ。
だがその犠牲のお蔭で僅かながら勢いが削がれ、スピードが緩む。
士郎は剣を振った勢いを利用して身体を捻り、空中でアクロバティックにムーンサルトを決めると、そのまま大地にスタンと着地した。
右肩に『大・電光丸』を担ぎ、地面に片膝立ちで佇む姿はまるで歌舞伎役者のよう。
その華麗な立ち回りにおぉ~っ、とのび太と凛は思わず拍手を送った。


(――――はぁ。これが“グレードアップ液”の効果か。身体に塗布した部位の機能を強化する道具……風呂に入って全身に被ったから、俺の心身共にレベルが上がってこんな動きが可能になったんだな。使ってなかったら危なかった……ありがとう、のび太君!)


心の中で感謝の念を送りながら剣を握り締め、士郎はスッと立ち上がる。
“スーパー手ぶくろ”が効果を現すのは腕力を中心とした力のみ……だからこそ、士郎の身を殊更心配していたのび太は保険として士郎に“グレードアップ液”を渡したのだ。
“グレードアップ液”を風呂に混ぜて全身に浴びれば、身体の隅々まで機能を強化する事が出来る。
あらゆる部位の筋力が増強され、頭は冴え、胆力も神経も遥かに研ぎ澄まされ、そして図太くなる。
もっとも風呂に混ぜてしまったせいで希釈され、発揮される効果が結構薄くなってしまっているものの、それでもむしろお釣りが返ってくるくらいの勢いだ。
ひみつ道具によって、英霊とも互角に渡り合えるほどに肉体と精神を強化されたドーピングファイター・士郎。
バーサーカーと張り合える秘密は、そこに集約されていた。


(……でも、あまり悠長にもしていられない。“グレードアップ液”の効果は一時間。城でのゴタゴタでもうかなり時間が経ってる筈だから、もってあと数分。それまでに、どうにか……!)


肩から『大・電光丸』を降ろし、士郎は下段に剣を構える。
それと同時にもう一度、バーサーカーの顔面目掛けて森の奥から光芒が奔り、バーサーカーの頭部を紅蓮の爆発が覆い隠した。
今度は先程飛来してきた方角とは正反対の位置からの狙撃だ。
この事から、アーチャーが常に移動しながら攻撃を繰り出しているのだと把握する事が出来る。
士郎はその炸裂音を合図として、バーサーカーとの距離を詰めるために足を踏み出した。


「何やってるのバーサーカー! 一気に押し出しなさい!!」


「■■■■■■■■■■■■■■■ーーーーー!!!」


イリヤスフィールの叫びに呼応し、爆炎から顔を出したバーサーカーは雄叫びを上げ、士郎目掛けて右手の斧剣を真っ向から振り下ろす。
士郎は剣を翳してそれを渾身の力で受け止めるが、バーサーカーはさらに一歩踏み込むと空いた左手で正拳突きを放ってきた。
前回の闘いでも見せたこの一連の動き、『大・電光丸』は斧剣を受け止めているお蔭で突きに反応は出来ても、斧剣に身動きを封じられていて対応出来ない。


「――――ッ!」


既に回避は不可能。
凄まじい速度で迫る拳を、圧力を堪えながら士郎はただジッと凝視している。
決まった……かに思われた、その次の瞬間。


「■■■■■■■■■■■■■■■ーーーーー!!!」


「……え?」


バーサーカーの拳が、凄まじい勢いで逆方向に弾き飛ばされた。
まるで弾力のある壁に、スピードと威力そのままに弾き返されたかの如く。
士郎の二メートルほど手前で、何の予兆もなく、である。
イリヤスフィールは何が起こったのか理解が出来ず、ただ呆然と目を点にしている。
バーサーカーは弾かれた勢いで僅かにたたらを踏むが、士郎は構えを取ったまま動かない。
身体が揺らいだと言ってもバーサーカーの事、すぐさま体勢を立て直せるはずだし、闘いの素人である士郎が隙を突くというのならもっと大きな隙でなければ一撃も入れられないであろう。
そしてその隙を作る役目は、


「今っ! のび太、アレ!」


「はっ、はい! ――――行けっ、“ころばし屋”! バーサーカーを、転ばせろ!!」


遊撃の要である、のび太が担っていた。
のび太は素早く握っていた“スペアポケット”の中からハンプティ・ダンプティにSPの黒服を着せたような小型の人形を取り出し、同時にポケットから十円玉を抜き出すと背中のスリットに入れ、叫ぶ。
“ころばし屋”と呼ばれたその人形はのび太の掌の上で手に持った拳銃を構え、バーサーカー目掛けて銃弾を放った。


「■■■■■■■■■■■■■■■ーーーーー!!!」


体勢を立て直したバーサーカーであったが、その直後に銃弾が身体に命中し、再びバランスを崩して今度は前に大きく転ぶようにつんのめった。

“ころばし屋”

背中に十円玉を入れ、相手を指定すると確実に相手を三回転ばせてくれるというひみつ道具。
戦略上不意打ちに向いている道具で、使えば絶好の隙を作り出す事が出来る。
そしてバーサーカーの拳を通さず、逆に勢いそのままに弾き返したそのタネはというと。


(“バリヤーポイント”……ピストルの弾も弾くとか言ってたけど、セイバーの剣どころかまさかバーサーカーの拳まで弾き返せるなんてなぁ。助かったのは助かったけど、しかしのび太君の所の二十二世紀っていったいどうなってるんだ?)


のび太から事前に手渡されていた、“バリヤーポイント”をポケットに忍ばせていたからである。

“バリヤーポイント”

二十二世紀の警察官御用達の、一種の小型バリアシステムである。
使用者を中心とした半径二メートルの範囲に、目に見えない不可視のバリアを形成し、何物をもその中に侵入する事を出来なくする。
実際、強度実験としてアーチャーに“バリヤーポイント”を持たせ、セイバーにアーチャー目掛けて本気で斬り掛かって貰ったが、“バリヤーポイント”はその斬撃の悉くを防いで見せた。
それどころかバリアに触れる度にセイバーがたじろいだくらいである。
士郎はそれを利用して拳を敢えて受けて、小さな隙を作ったところでのび太の“ころばし屋”でその傷口を広げた。
凛の指示による、二人の呼吸を合わせたかのような咄嗟の連携によって、士郎は千載一遇の好機を手にしたのである。
ちなみに“バリヤーポイント”は“フエルミラー”で数個複製し、起動させてはいないがのび太と凛も万一のためにポケットの中に所持している。
後衛のアーチャーと、遊撃組のガードであるセイバーのみ所持していない。
自分達には必要ないから、と固辞したためだ。


「いけええええぇぇぇっ!!」


これだけの隙があれば、素人でも一撃を喰らわせられる。
士郎は即座にこちらに向かって倒れ込んでくるバーサーカーの懐近くに潜り込むと、『大・電光丸』を下から上へと突き上げるように繰り出した。
切っ先はバーサーカーの心臓付近へと吸い込まれ、バーサーカー自身の自重と相まってその屈強な肉体を水に濡らした紙のように容易く刺し貫いた。


「■■■■■■■■■■■■■■■ーーーーー!!!」


「うわっ……!?」


バーサーカーは断末魔の絶叫を上げ、のび太は串刺しという凄惨な光景に思わず目を背ける。
今、バーサーカーの命は一つ減った。残りの命は十個。


「士郎、一気に畳み掛けなさい!!」


「解ってる! チャンスはここしかないっ!」


凛にそう答える士郎。
そして右手で『大・電光丸』を振るい、串刺しになり弛緩したバーサーカーの身体をそのまま持ち上げると、


「うぅおりゃあああああああぁぁぁぁっ!!」


片手でジャイアントスイング。
“スーパー手ぶくろ”が生み出す超絶パワーで以て三百キロを超えるバーサーカーの巨体をハンマー投げのように轟々と振り回し、その強烈な遠心力で『大・電光丸』から引っこ抜かれたバーサーカーはそのまま森の奥へと投げ飛ばされた。
乱立する木々が巨躯に圧し負けてメキメキと音を立てて崩れ、その上をバーサーカーが力なく滑っていく。


「ウソ……!?」


あまりの光景に目を見張るイリヤスフィール。
大きく見開かれた目は、その尋常でない衝撃の度合いを殊更強調している。
やがて回転を止めた士郎の右手には巨人の血に濡れた『大・電光丸』が、左手には……バーサーカーを振り回すドサクサに掠め取った岩の斧剣が、それぞれ一振りずつ。


「せいやあぁっ!!」


“グレードアップ液”の影響で、士郎はほぼ真っ暗闇の森の奥すら見通せる眼力を持つ。
士郎は両の剣を思い切り振りかぶると、斧剣、『大・電光丸』の順序で全身の力を籠め投擲。
崩れ落ち、『十二の試練(ゴッド・ハンド)』で蘇生したバーサーカーがようよう立ち上がろうとするまさにその瞬間を強襲した。


(ッ! 今……そっか。“グレードアップ液”の効果が切れたか。これで、俺の役目はとりあえず終了。後は頼むぞ……)


全身から何かが抜けるような感触を感じつつ、放ち終えた士郎は即座にバーサーカーから距離を取り始めた。


「■■■■■■■■■■■■■■■ーーーーー!!!」


バーサーカーは咄嗟に腕を顔の前に翳し、腕に岩の斧剣を半ばまで喰い込ませながらも防御するが、その後に続いた『大・電光丸』が斧剣に直撃。
メジャーリーグの大投手も真っ青のスピードで投擲された『大・電光丸』は斧剣を恐ろしい圧力で押し出し、腕を両断しただけでは飽き足らずその奥の首まで一気に刎ね飛ばした。
噴出する血潮、森のさらに奥へと飛んでいく生首。


「む、仕留めましたね! これで残る命はあと九個!」


「えっ、そうなの? 暗くてよく見えなかったんだけど……セイバーはよく見えるね?」


「ん……、ノビタには見えなかったのですか……。まあ、伊達に英霊はしていないという事ですよ……ふぅ」


夜目のそこまで効かないのび太が、トラウマがフラッシュバックするような今の光景が視認出来なかった事に、セイバーはこれは僥倖とそっと安堵の吐息を漏らす。
ともかく、これで士郎はバーサーカーを二度殺した。
たかがへっぽこ魔術師がまさかここまでやろうなどとは、イリヤスフィールは夢想だにしていなかった。
バーサーカーと繋がっているラインを通じて、バーサーカーが蘇生中であると伝わってくるその感覚に、イリヤスフィールは言いようのない不安に襲われる。


「バーサーカー! 早く立ちなさい! 立って!!」


迫る底冷えするような感情を振り払うように、イリヤスフィールは叫ぶが、


「……生憎だが、そうはいかんよ」


「ッ!?」


上空から降ってきた、弓兵の静かな声に全身が総毛だった。
















「少年の道具の力を借りていたとはいえ、まさか小僧がここまでやるとはな……少々複雑だが、今だけは感謝してやろう。十分時間を稼いだ上に、狂戦士の命を削ってくれたのだからな」


そう呟く弓兵の頭には竹とんぼのような小さいプロペラ……“タケコプター”が。
蘇生途中のバーサーカーの真上数十メートルに滞空し、弓をこれでもかとばかりに引き絞っている。
その黒塗りの弓に番えられているのは……矢と呼ぶにはあまりに異質な、歪に捻じれた螺旋の剣。
バチバチと虚空に紫電を放ち、発射の時を今か今かと待ち構えている。


(しかし、こうまでうまく事が運ぶとはな。上手くいきすぎてどこかしらうすら寒いものがあるが……いや、今はこちらに集中だ)


ある程度復元を終え、新しい命に切り替わるまでアーチャーは弓弦から手を離さず、射出のタイミングを遅らせる。
凛の指示により、マスター勢から離れ森の奥へと移動したアーチャーはバーサーカーの周囲をグルグルと移動しつつ、牽制を行っていた。
それは『アーチャーは牽制に徹している』、そして『アーチャーは森の中を移動しながら牽制を行っている』と敵に思わせるためのブラフ。
ある程度牽制を終え、完全に士郎とバーサーカーのぶつかり合いに敵マスター達の目が集中したのを見定めたアーチャーは、のび太から貸し与えられた“タケコプター”を装着、漆黒の空へと気配を殺しながら飛翔した。
そして予め牽制用に用意していた矢とは別に、バーサーカーを仕留めるための『とっておき』である螺旋の剣を取り出し、弓に番えると魔力をチャージし始めた。
しかし急激に魔力を高めてチャージしたのでは敵マスターに勘付かれてしまう。
そうならないために高度を保ちながら少しずつ静かに、だが急ピッチで螺旋の矢へと魔力を充填。
そして籠めた魔力が想定していた閾値に辿り着いたのが、バーサーカーが首を刎ね飛ばされ二度目の死を迎えた丁度その時であった。


「いくぞ……! この一撃に耐えきれるか、ギリシャの大英雄よ!!」


新しい命へと切り替わり、今まさに立ち上がらんと動き出したバーサーカーを視認したアーチャーは弓弦を更にグッと引き絞り、発射体勢を完全に整えた。
そして呟く。
バーサーカーの命を刈る、螺旋の剣のその銘を。





「――――『偽・螺旋剣Ⅱ(カラド・ボルグ)』!!」





放たれた螺旋剣は空気を切り裂き、紫電を撒き散らしながら凄まじい速度でバーサーカーの直上を一直線に降下する。
大気を切り裂き、空間すら捻じ切らんばかりに唸りを上げて夜空を奔るその様は、まるで流星のようだ。
だがこれはそんなロマン溢れる代物ではない。
隕石直撃(メテオ・ストライク)さながらの威力を秘めた、必殺の流星なのである。


「■■■■■■■■■■■■■■■ーーーーー!!!」


狙い過(あやま)たず、物の一秒足らずで矢はようやく立ち上がったバーサーカーの脳天に直撃。
頭蓋を貫通し、体内を蹂躙しながら放つ紫電で以て内臓を焼きつくすと、そのまま股下を突き抜けて地面へと突き刺さった。
そして間、髪を入れず、アーチャーによる更なる追撃。


「――――砕けろ!」


「のび太! 耳を塞いで口を半開きに!!」


「はっ、はい!」


二人が耳を塞ぐと同時に閃光、そして大爆発。
アーチャーがパチンと指を弾いたその直後、地面に垂直に突き立った螺旋剣が轟音と共に弾け飛んだ。


「うわ、眩しっ!!」


「くぅ……っ!」


「ノビタッ、リン! 私の後ろに!」


「ぐぅっ! 距離が近かったから、“バリヤーポイント”がなかったら危なかったな……!」


「バーサーカー!!」


バーサーカーのいた場所から火柱が立ち上り、轟々と夜空を赤く染める。
大地にはクレーターが形成され、その中心にいたバーサーカーの姿は惨憺たるものであった。
矢によって貫かれ、大爆発に巻き込まれたバーサーカーの身体は両腕両足が吹き飛び、頭部も半分が欠損。そして残った身体部位すべてに重度の火傷を負っていた。
大地にひれ伏し、ヒクヒクと痙攣するその様はまるで半死半生の芋虫のようだ。
そして、ラインからイリヤスフィールに伝わってくる情報。


「……そんな!? 冗談でしょ!?」


今の攻撃で、バーサーカーは三度命を刈り取られた。
これで残る命はあと六つ。
あまりのワンサイドゲームに、イリヤスフィールの内面はもはや恐慌状態だ。
当然だろう。本来なら蹂躙するはずの立場である自分が、まったく正反対の立場に立たされているのだから。
だが、





「のび太、“アレ”いくわよ! 準備ッ!」


「あ、はい! ええっと……!」





怒涛の波状攻撃は、まだ終わらない。
凛の指示に、のび太は慌てて“スペアポケット”の中を掻き回すと中から一本のペンと紙、そして昔懐かしい唐草模様の風呂敷包みに包まれた何かを取り出した。
そしてブツブツと何事かを呟きながら、のび太は地面に紙を敷いて丸い円を描いていき、凛はクレーターの中央にいるバーサーカーが再生していく様子を注意深く、ジッと観察しながら風呂敷を手に取る。
やがてバーサーカーに両手両足が復活し、新しい命に切り替わったのを確認したのと同時に、のび太が凛に向かって叫んだ。


「凛さん、出来ました!」


「よし! 貴方の“バリヤーポイント”を起動させて、わたしを中に!」


「はい! 『“り”と“せ”のつくものはいれ』っ! セイバーも!」


「了解です」


例えば『“あ”のつくものはいれ』といったように、“バリヤーポイント”は『――――のつくものはいれ』とその物の頭文字を呼べば、その頭文字が該当する対象物は何であれすべてバリアの中に入れるようになる。
のび太の半径二メートルに作られたバリアの中に凛とセイバーが駆け込むと、のび太の足元にあった紙にはポッカリと円形に丸い穴が開いていた。
そしてその中には、何故かバーサーカーの頭頂部が。


「てぇい!」


凛はその頭目掛けて、風呂敷の中身をドザァッとぶちまけた。
するとのび太達とは離れた位置にいるバーサーカーの頭上から、大量に何かが降ってきてコツンコツンと身体に当たる。
それは赤い色をした宝石……おそらくルビー。それが計百個ほど。
しかしそれはただのルビーではなく、凛お手製の潤沢な魔力がこれでもかとばかりに詰まった、一線級のルビーなのである。
バーサーカーは降り注いできたそれらを気にする風でもなく、フラリと爆心地から一歩踏み出そうとする。
おそらく再生したてで意識が覚醒しきってはおらず、そこまで気にする余裕がないのだろう……その対応の遅さが明暗を分けた。


「ッ!? だめっ、バーサーカー!!」


イリヤスフィールが意図に気づくが、時すでに遅し。
バーサーカーが完全に意識を覚醒させたのと同時にのび太が紙を二つに破き、凛の口がマジックスペルを紡いでいた。


「全員、対音・対閃光防御! Set―――――――!!」


「バーサーカー!!」


「――――――――――――――――!!!」


そして再び巻き起こる、轟音と閃光を伴う、大爆発。
凄まじい衝撃波が発生しては周りの木々を吹き飛ばし、眩い閃光は周囲を白く染め上げる。
今度の物は先程の螺旋の剣とは規模も威力も段違いであった。
狂戦士の断末魔すら掻き消し、空を焦がせとばかりに噴き上がる火柱は轟々と唸りを上げ、森の隅々までを赤く照らし出す。


「――――お嬢様! ご無事ですか!?」


「……あ、セラ……もう、出て来なくていいって、言ったのに」


「今回ばかりはご容赦を。リーゼリット」


「うん」


目の前に映る光景に、イリヤスフィールはどこかしら安心した心地になる。
耳を塞いで蹲ったイリヤスフィールの前に、控えさせていた二人のメイドが壁のように立ち塞がっていた。
主を護らんと前面に立ち、薄青色の魔術の障壁を展開するセラ。
およそ可憐な女性が振るには似つかわしくない、二メートルはあろうかという巨大なハルバートを構えて主の隣に座すリーゼリット。
爆発の余波から主を守護するため、二人は絶対とも言える主からの言いつけを破って突出してきたのだ。


「――――うぅ、目がチカチカするし、耳がキーンと……」


「……ホント。あぁ、耳が痛い……もうちょっとこっちの対策に力を入れるべきだったかしらね?」


「今更言っても詮無い事です。それよりも、バーサーカーは……」


「少なくとも、これで無傷って事はないだろうけどなぁ」


爆心地を挟んで向こう側。
“バリヤーポイント”の力によって衝撃波をやり過ごしたのび太達四人はそれぞれそんな事を口にする。
のび太が紙に円を描いたペンは“ワープペン”。
場所を呟きながら円を描く事によってその場所にワープ口を作り出せるこの道具によって、バーサーカーの頭上にワープ口を作りだした。
そして“フエルミラー”で複製した、凛謹製の宝石百個による絨毯爆撃の奇襲を仕掛けたのだ。
紙を破いたのは、ワープ口を伝って余波がこちらに来るのを防ぐため。
やがて凛達の傍にアーチャーが、待機していた上空からゆっくりと降下してきた。
のび太は“バリヤーポイント”のスイッチを切ってバリアを解除、凛がアーチャーを出迎えた。


「今ので何個命を削れたかは解らんが……相応の効果はあった筈だろう。魔力純度の高い、一線級の宝石をあれだけ投入したのだからな」


「これで消滅してれば御の字ね……」


軽口を混ぜつつ、一同が爆心地に視線を向ける。
火柱がどうにか鎮静化し、もうもうと黒煙が立ち込める中、その全貌がようよう見え始めた。


「うひゃあ……スゴイや、これ」


クレーターは先程の三倍ほどまで拡がり、底の方はところどころが、いまだ燻る残り火の光を反射してキラキラと輝いていた。
高温によって、地面の中のケイ素が結晶化してガラスになっているのだ。
それだけで、今の爆発がどれほど凄まじいものであるかが窺い知れる。
……そして。





「……■■■、■■■■■■■■■■■■■■■ーーーーー!!!」





「「「「「ッ!?」」」」」


「――――バーサーカー!」


クレーターの中心から響く、咆哮。
バーサーカーは両の足で大地を踏みしめ、自身がいまだ健在である事を知らしめた。
その雄叫びを耳にしたのび太達は即座に各々身構え、イリヤスフィールは喜色を露わにする……が。





「――――えっ、え!? ウソ……ウソ!! 残りの命が……たった一つだけ!?」





「「「「「――――!!」」」」」


その事実は、双方に正反対の変化を齎した。
先程の攻撃は、バーサーカーの命を五個蒸発せしめていた。
残る命は、バーサーカーを復活たらしめたこの一つのみ。
つまりあと一回命を絶つだけでこの勝負、イリヤスフィールの敗北が決定する。
五人にとっては王手、イリヤスフィールにとっては崖っぷち。





「「「「「「「「……………………」」」」」」」」





バーサーカーを挟み、ジリジリと睨み合うのび太達と、イリヤスフィール主従。
五人の怒涛の波状攻撃は、ついに難敵を攻略寸前まで追い詰めた。















「――――さぁて、そろそろか」





パム、と手にした“黒い本”を閉じ、パリパリと気怠そうに頭を掻き毟る。
クルクルと右手に持ったペンを回して弄び、気味の悪い薄ら嗤いを浮かべながら眼下を睥睨するのは――――――この戦争の『闇』。


「ここまで早く仕掛けるとは思わなかったが……善戦しすぎだよなぁ、アイツら。バケモン相手にあれだけの波状攻撃たぁ、やろうったって早々やれるもんじゃあねえぞ。ったく、とんだ鬼札(ジョーカー)が落っこってきてくれたモンだぜ。なぁ、クソガキよぉ?」


そう一人ごちる『闇』であるが、その表情には隠しきれないほどの喜色が浮かんでいる。
心底、今のこの状況が面白いのであろう。


「――――ま、“エンターテイナー”の身としちゃあ嬉しい限りだがねぇ。お陰で、このクソつまんねぇ茶番劇をもっと面白く、ド派手に演出出来るんだからなぁ」


すっくとその場から立ち上がり、『闇』は徐に右手を伸ばす。
そして人差し指を眼下の“目標”に向け、クルクルと二回転。


「細工は流々。舞台も整った。つー訳で……イィッツ・ショーォウタァイム! ッケケケケケ……!!」


そして呟く。
先程左手の“黒い本”に記した、『闇』だけの呪文を。
『闇』だけが扱える、聖杯戦争の根幹を揺るがすこの禁断の魔法を。





「さあいくぜクソガキ――――――『裏・聖杯戦争』の第一ラウンド、開幕だぁ! クヒャァアハハハハハハ!!」





歪な高嗤いと共に。










「――――『チン・カラ・ホイ、表裏反転』!! テメェの“もう一つの姿”を、今この場に晒しやがれぇえ!!」










アインツベルン城の屋根の上、目標であるバーサーカーに向けて。
そして次の瞬間、『闇』の身体が陽炎のように揺らめき、やる事は終えたとばかりにその場から何の痕跡も残さず、忽然と姿を消した。
……次いで。





「「「「「「「「――――――え?」」」」」」」」





バーサーカーの肉体が、光の粒子となって木っ端微塵に爆散した。















「ちょ……え、えぇ?」


「ど、どうしてバーサーカーが弾け……ちょっと、アンタ何かしたの!?」


「う、ううん……なにも。わたし、何もしてないわ! 令呪も何も……!?」


凛からの疑問の声に、イリヤスフィールはただただ戸惑うばかりだ。
自分はまだ何も指示していない。
勿論、バーサーカーをどう動かすべきかという思案を走らせてはいたものの、具体的な事は何も明示していないのだ。
明らかに今の現象は自分の与り知らぬもの。
霊体化した訳でもない、かといって残る命の一つが途切れた訳でもない。
なのにバーサーカーは唐突に、光の粒となって破裂して消えてしまった。
何が起こったのか、むしろイリヤスフィールの方が知りたいくらいである。





「――――む?」


「……これは?」





と、突如セイバーとアーチャーはピクリと片眉を跳ね上げた。
その視線はクレーターの中心……バーサーカーのいた場所へとジッと注がれている。
二人はバーサーカーの散った場所から、何か妙な気配が蠢くのを感じ取っていた。
一旦顔を見合わせあった二人は同時に頷きあうと、それぞれのマスターの前にゆっくりと移動し始める。


「……どうした、セイバー?」


「シロウ……気を抜かないでください。何かが……来ます」


「何かって……なんだよ?」


「それはまだ……ッ!?」


続くセイバーの言葉は途切れ、代わりにセイバーは不可視の剣を下段に構える。
アーチャーも、そしてイリヤスフィールの傍らに控えていたセラとリーゼリットも即座に警戒心を露わにし、構えを取っていた。


「ちょっと、アンタ達一斉に何……ん? これは……」


「……風、か?」


今度は凛と士郎が顔を見合わせあう。
バーサーカーの破裂した場所から、スウッと何かが流れていくのを二人は肌で感じ取った。
それは一陣の風。
お世辞にも強風とも呼べないような、どこにでも吹いていそうな大気の流れであった。
だが、





「――――へ!? な、何だあっ!?」


「きゃ……っ!?」





その風が、突如として変貌した。
まるで口を絞ったホースで散水するかのような、そんな圧力を増した空気の激流が唸りを上げて迸り始めたのだ。
その発信源は当然、バーサーカーの最後にいた地点。
大気が歪み、すり鉢に満たした水がかき回されて渦を巻くようにクレーターの中で竜巻が形成され、荒ぶる風を次々生み出し周囲の大気をこれでもかとばかりに掻き乱す。


「凛ッ! 体勢を低くしろ! 吹き飛ばされるぞ!!」


「解ってるわよ!、でも、くっ……!? な、なんて風よ!?」


己がサーヴァントからの指示に従って風をやり過ごす傍ら、凛は他の人間はどうなっているのかと目を細めて周囲を観察する。





「ぬぅぐ!? あの爆発の中でコイツが無事だったのは助かったが、これは……!?」


「ノビタ、なるべく姿勢を低くして、私から手を離さないように!」


「うぅぐ、は、離すもん、かぁっ!!」





士郎は傍に落ちていた『大・電光丸』を拾い上げて地面に突き立て、それを支えに風をやり過ごしている。
セイバーはその傍らに不可視の剣を突き立て、のび太を庇うように鎮座。
のび太は吹き飛ばされまいと、セイバーの身体にしっかりとしがみついている。





「イリヤ、大丈夫?」


「な、何とか……ね!」


「お嬢様……お顔の色が優れませんが、あまりご無理はなさらないように」





そしてイリヤスフィール主従はリーゼリットのハルバートを支えに、セラが魔術の障壁を張って主を庇いながら暴風をやり過ごしていた。
だが風は勢い留まるところを知らず、むしろどんどん風速を増している。
竜巻は天高く伸び、太さを増して空を穿たんばかりの遥かに巨大なものになっていた。
やがて……一同は聞いた。





『―――――――――――――――――――!!!!』





風が雄叫びを上げるかの如く、嘶いたのを。
……そして見た。





「「「「「「「「―――――――――え!?」」」」」」」」





竜巻が、まるで生き物のようにグニャリと蠢いたのを。





その瞬間、大気を引き裂かんばかりの雷鳴が轟き、稲光が周囲を白く染め上げた。
閃光をやり過ごし、上を見上げた一同の目に飛び込んできたのは、





『―――――――――――――――――――!!!!』





思うさま吼え猛り狂う、さながら台風の如き巨大な風の塊。
――――いや、それ以上の……身体を大気の奔流で構成した、巨大な風の竜であった。





「――――あ、あ、ああ……あれ! あれ、あれは!?」


「ど、どうしたのび太君!?」





それを目にしたのび太はこれ以上ないほどに、狼狽する。
その化け物は、のび太の記憶にある“あの怪物”と瓜二つだったのだ。
“かつて”遭った偶然の出会いと、惜別の別れを齎した……、





「マッ……ママ……マッ……!」


「……ノビタ?」





――――巨大な風の怪物と。















「――――“マフーガ”!!!!」












[28951] 第二十四話
Name: 青空の木陰◆c9254621 ID:90f856d7
Date: 2011/12/31 00:48



「マフー……ガ?」


剣を支えに、中腰の体勢のまま士郎がのび太の言葉をリピートする。
その視線は、いまだにお化けでも見たかのように泡を食っているのび太に注がれたままだ。


「それが、アレの名前なのですか……?」


「……ッ、ッッ!!」


セイバーの問いに、のび太は顔面蒼白のままブンブンと首を上下に振る。
ともすれば、首がそのままもげ落ちてしまいそうな程の勢いで。
士郎、セイバーは互いに顔を見合わせあうと同時に眉間に皺を寄せ、何か腑に落ちないような表情を浮かべる。
そして、


「……のび太。アンタ、アイツを知ってるのね!?」


凛がガシッとのび太の肩を掴み上げると、鬼気迫る表情でのび太を詰問口調で問い詰めた。
“マフーガ”と呼んだあの風の竜を目にしてからののび太の挙動不審振りは尋常ではない。
名前を呼んだ事といい、間違いなくのび太はアレを知っているのだと判断出来る。
だからこそ、士郎とセイバーが……いや、のび太以外のこの場の誰もが抱いていた事を、図らずも凛は代弁した形になった。


「アンタ、どうしてあんな英霊でも見た事なさそうな怪物を知ってるの!? というか、アイツについて何を知ってるの!?」


「ぐええぇぇぇ!? り、凛さん、凛さんっ! こっ、今度は首、首がっ、締まっ、て……!?」


「……少し落ち着け、凛。そんな事をしている場合か」


アーチャーが猛る凛を引き剥がしてくれた事で、のび太の命脈は保たれた。
咳き込みつつ、ゼーゼーと息も絶え絶えにのび太は堕ち掛けた意識を無理矢理復旧させる。
そうしてある程度落ち着いたところで、のび太はいまだ涙の滲む瞳を凛の方に移した。


「あぁ、死ぬかと思った……」


「……あ~、悪かったわね。でも非常時だからこれ以上は勘弁ね。そんな事より、さっさとさっきの質問に答える! 結局、アレはいったい何なのよ!?」


バツが悪そうに頭をポリポリ掻き毟る凛であったがそれはそれ、せっつくように回答の提示を求める。
情報がない以上はどうするもこうするも判断が出来ない上に、相手は間違いなくバーサーカー以上の怪物であろう事はこの場における共通認識であった。
故に、少しでも判断材料が欲しいのだ。焦るのも無理からぬことではある。


「え、あ、は、はい! あれは……!?」


勢いに押され、口を開きかけたのび太であったが、




『――――――――――――――――!!!!』




怪物の咆哮によって、中断を余儀なくされた。
全員の視線が一斉にそちらに注がれる。
渦巻く曇天の中、雄叫びを合図に怪物は身を縮めるように全身をくねらせると、その長大な全身を折りたたんだかのようにギュッと収縮した。


「「「「「…………??」」」」」


意図が読めず、眉を顰(ひそ)める一同……だが次の瞬間、思いもかけぬ事が起こった。


「――――え、風が……」


「止んだ……?」


困惑に駆られ、呟く士郎とのび太。
先程までの荒れ模様がまったくの嘘であるかのように、風がピタリと鳴りを潜めた。
あまりの不可解さに一同は顔を見合わせあうが、


「ッ!? ……これはっ、来ます!」


「「「え?」」」


「……ッ、そういう事か!」


何かを察知したかのようなセイバーの警告。
人間組三人はその唐突さに疑問符を掲げたが、弓兵だけは即座にその示唆するものを悟り得た。
……のび太が『マフーガ』と呼んだ怪物はその見た目通り、凶悪な“風”の魔物だ。
さっきまでの嵐のような暴風は、怪物の存在そのものが齎す副次的な現象。
そのくらいは一同もそれぞれ理解してはいたのだが……さて、その副次的な現象たる暴風が収まった。
この事実だが……一つ、こうは考えられないだろうか?
怪物は身体を“収縮”させたのではなく、“集束”させたのだと。
それによって、放出されていた風も漏れ出さなくなったのではないかと。
……すなわち、怪物の次なる行動は。


「まさか……突撃っ!? の、のび太! “バリヤーポイント”を張って! 早く!!」


「はっ、はいっ!?」


ようやく意図に気づいた凛が焦燥混じりに指示を飛ばすと、のび太は反射的にポケットの中の“バリヤーポイント”を起動させる。
そして全員をバリアの内に入れるためにキーワードを口にしようとするが、


「――――あっ、凛さん! あの人達も中に入れた方が!?」


先程まで刃を突き合わせていたイリヤスフィール主従がいた事に思い至った。
のび太が視線を向けたその先には魔力障壁の内側に篭る三人の姿が。
しかしその中にあって、イリヤスフィールと障壁を張り続けているセラの顔色がどことなく悪い。
イリヤスフィールはおそらくショックから、セラは魔術を行使し続けていたツケで疲労気味、という事なのだろう。
もしあの状態のまま化け物が突っ込んできた場合、果たして無事で済むかどうか……。


「……そうね。こうなっちゃってる以上、敵だどうだって言ってる場合じゃなさそうだし」


「はいっ! ええと……『“し”と“り”と“せ”と“あ”と“い”のつくものはいれ』ッ! イリヤ……ちゃんだったっけ!? あとセラさんとリズさんも、こっちに来てバリアの中に入ってくださいっ!!」


「……? どういうつもり?」


一瞬だけ、主従はお互いに顔を見合わせあう。
バリアの中に入れと言われても、そもそもバリアそのものが不可視の物である以上は本当に張られているのかどうか確認出来ない上、強度やその他諸々の諸事情も解らない。
何より、三人はつい今の今まで死闘を演じていた敵なのである。
放っておくどころかバリアの中に入れなどとは、普通は言わない。
だがこの異常事態の最中、反応を見ていれば向こうにとってもイレギュラーなのだろう……だからこれが罠であるとも思えない。
三人は必死の形相で叫ぶのび太の真意を測りかねていた。


「早くっ! “バリヤーポイント”は侵入を許可してもほんの少しの間しか入口が開かないんだからっ! マフーガが来る前に、急いで!!」


「……どうされますか、お嬢様? 少なくとも、敵意はないようですが」


「……そうね」


イリヤスフィールはほんの一瞬だけ逡巡する。
のび太達の表情を窺いながら、あらゆる可能性を吟味。
そして、ほぼ即決とも言える思考速度で決断を下した。


「いくわよ。セラ、リズ」


「……ッ。承知、いたしました」 


「うん」


頷きと同時に三人がのび太の“バリヤーポイント”の中に侵入を果たす。
他のメンツは既にバリアの内側の退避済みである。


「フゥッ……失礼、いたします」


「……おじゃまします」


「これで入ってるのよね?」


「うん。“バリヤーポイント”の範囲は僕の周囲二メートルだから。見えないだろうけど」


しかし総勢八人が半径二メートルの範囲に収まっているのだからやや密度が高い。
息苦しさを感じない程度ではあるが。


「……それで? アナタはどういうつもりでわたし達を?」


「へっ? どういうつもりも何も……こんな事態なんだし、敵だの何だのって言ってる状況じゃないでしょ?」


「そうかもしれないけど、でも庇う義理はない筈よ。放っとけばよかったのに」


「そんな!? 出来る訳ないだろ!? アレは『マフーガ』なんだよ!? それに君やセラさん、リズさんは女の子なんだから!」


「……だから、何?」


「えっ……あ、だから……、女の子は、護らなくちゃ。僕は、男なんだし」


「…………ふぅん?」


のび太の発言にイリヤが何とも形容しがたい視線を向けたと同時に、





『――――――――――――――――!!!!』





天地を揺るがすほどの嘶きと共に、のび太達目掛けて風の塊が吶喊を仕掛けてきた。


「きたっ!?」


「全員対ショック! 構えて!」


風の巨体が恐ろしいスピードで迫り来る中、“バリヤーポイント”の内側でそれぞれが身構える。
そして竜の咢がバリアと接触したその瞬間、ビシッと大気の圧力で足元の地面に亀裂が走った。


「うわわわわわっ!?」


「ぐぅ……っ、まさかっ、バリアの中にまで振動が来る、なんてっ!?」


“バリヤーポイント”の反発力など物ともせず、怪物はバリアごとのび太達を一呑みするとそのまま体内で消化していくかのようにその身を通過させていく。
その真っ只中において、のび太達は周囲の景色が歪むほどに圧縮された大気に晒されていた。
深海数千メートルにおける水圧と遜色ない超高圧力、一本でも外に指が出ようものなら即座にひしゃげ、そのまま勢いで引き千切られてしまう事だろう。
だが今は何とか、曲がりなりにも全員生き永らえている。
生命線たる“バリヤーポイント”は怪物の圧力にも負けず、使用者達を護り通していた。
……だが。


「……ん? なあ、何か焦げ臭くないか?」


「へっ? ……あ、あれ? あ、ああアチアチアチ熱っ!?」


突如、のび太が奇声を上げたかと、思うと目を白黒させながら必死にゴソゴソとポケットの中を探り始める。
そして「アチッ、アチッ!」と手の中でお手玉のように弄びつつ取り出したのは……ところどころから煙を噴き上げる“バリヤーポイント”の端末だった。
各所からオレンジの火花が色鮮やかに飛び散っており、バチバチと鳴ってはいけない音がバリア内に反響する。


「う、うえぇ!? ば、“バリヤーポイント”がっ、ショートしてる!?」


「「「「「「「……はぁっ!!?」」」」」」」


その一言で、全員の表情が一瞬で蒼白に染まった。
英霊の渾身の一撃すら弾き返すほどの堅牢さを誇る“バリヤーポイント”であったが、この怪物の超圧力にだけは堪えきれなかったようだ。
というよりは絶え間ない衝撃に本体が異常過熱し、ついにオーバーヒートを起こした、といった方が正確であろうか。
“バリヤーポイント”はそもそも未来の警察官が所持する個人防御システムであり、銃撃や凶器による殴打等の瞬間的な強い衝撃から所持者を保護するように作られている。
だがそれは逆に、途轍もなく強い衝撃が間断なく続く状況下に晒された場合、本体そのものが反作用から来る過負荷に耐えかねて自壊してしまう危険性がある事をも示唆していた。


「どっ、どどど、どうしよう!? どうしましょう士郎さんっ!?」


「おっ、落ち着けのび太君! えと……あっ、そうだ! 負荷に耐え切れずに壊れかけてるんなら、すぐに直せばいいんだよっ! 確かアレがあっただろう、“復元光線”!」


「ッ! そ、そうかっ! えぇ~っと“復元光線”、“復元光線”……!?」


士郎からのアドバイスにのび太は暴発寸前の“バリヤーポイント”を地面に放り捨てるように置くと、もう一方のポケットに入れていた“スペアポケット”を引っ張り出して腹部に貼り付けると中をゴソゴソと漁り始めた。
しかしそんな事をしている間にも“バリヤーポイント”の過熱現象は収まらず、むしろ崩壊のカウントダウンが秒読み段階に突入していた。
完全遮断の筈のバリアの中に隙間風が入り込み、不可視のバリアが切れかけの電球のようにチカチカ明滅する有様に、一同は肝が凍りつくかのような錯覚に襲われる。


「ちょっと、のび太まだなの!?」


「ええと……! お、おかしいな? 確か、この辺にぃ……!?」


焦れたように凛が催促するも、のび太はまだ“スペアポケット”の中をゴソゴソやっている。
なかなか手が“復元光線”に行き当たらないのだ。


「まだ見つからないのか、のび太君!?」


「すっ、すいませえええぇぇぇぇん!?」


もはや“バリヤーポイント”からは火花どころか炎が噴き上がっており、実質あと三秒と持たないであろう。
必死の形相で手を動かすのび太を余所に、残りの者達は冷や汗混じりに唾を呑み込むと、ジリジリ身構え始めた。
唯一、アインツベルン主従のみが体勢を整えながらも、のび太の奇怪な行動とポケットに興味と猜疑心の入り混じった複雑な視線を向けている。


「――――あっ、あったあぁっ!!」


そしてやっとの事でのび太が“復元光線”を引っ張り出したのと丁度時を同じくして、


「ちょっ、も、もうダメ!? 限界――――!」


――――ボンッ、という短い破裂音と共に、全員の身体が木の葉のように宙を舞った。















「――――ノビタ、ノビタ!! 大丈夫ですか!?」


「……う、ううぅっ! イ、イタタ……あっ、セ、セイバー?」


「ッ、ノビタ! ふぅ、気が付きましたか……よかった」


のび太が顔を顰めながらゆっくり目を開けると、そこには安堵の表情を浮かべたセイバーがいた。
一応気絶状態から覚醒したものの、まだ完全には目覚めきっていない。
地面に片膝を突き、金の髪を靡かせるセイバーをぼんやりと眺めつつ、自分は今地面に横たわっているのだなとのび太は全身から伝わる感覚で理解する。


「えと……どうして?」


「はい? ……ああ、状況が呑み込めていないのですか」


「状況……って?」


朦朧とした視線で問うのび太。
セイバーは「む」と一旦言葉を区切り、次いで何とも言えない表情でカリカリと頬を掻くと、


「ノビタ……少し、堪えてください」


「へ―――――っむぎぁあああ!」


のび太の頬を摘み、夢から覚めろとばかりに思い切り抓り上げた。
突然の激痛にコンマ数秒の勢いで跳ね起きたのび太であったが、子ども特有の柔らかい頬はいまだ横に引き伸ばされたまま。
剣の英霊の力は、のび太が完全に覚醒したにも拘らず微塵も緩む事はなく、ギリギリと皮膚が軋みを上げる。
灼熱の痛みが涙腺を刺激し、その目じりからはジワリと涙が滲み出ていた。


「どうですか? 目は覚めましたか?」


「うぅ(うん)、うぅ(うん)!!」


「そうですか、では」


そしてきっかり三秒が経過した後、セイバーはパッとほっぺたを解放した。
パチン、とゴムを弾いたようないい音を奏でつつ、のび太の右頬が定位置に戻る。


「むぎゃっ!? ……うぅ、痛い。いきなり何するんだよ、セイバー?」


即座に赤くなった右頬を押さえ、労わるように摩るのび太。
涙目の瞳は恨めしげに、至って平静のままに佇むセイバーを見やっていた。


「完全に目が覚めていないようでしたので、眠気覚ましの気付けを少々」


「気付け……? っでも、だからって何もほっぺたを抓る事ないじゃないのさぁ!?」


「……平手でなかっただけマシな方ですよ?」


実に御尤もなセイバーの指摘。
英霊に渾身の力で張り飛ばされるなど、いったい何の拷問であろうか。
しかもバーサーカーの必殺の一撃を受け切れる程の膂力を誇るセイバーの、である。
一応“タネ”も“仕掛け”もあるとはいえ、考えただけでぞっとしない話だ。
そんなセイバーのささやかな気遣いにも気づく事なく、のび太はブツブツと頬を赤くした不平をぶつけるのであった。
と、その時。





「のび太君、セイバー、無事かっ!?」



「二人とも、まだ生きてるわね!?」



「凛……出来るならもう少々声を落として欲しいのだが。気持ちは解らんでもないがな」



「リズ、セラがずり落ちそうになってるわよ。大丈夫、セラ?」



「お嬢様……申し訳、ございません」



「ん。セラ、無茶しすぎ」





「――――あっ、士郎さん、凛さん、アーチャーさん! それに三人も!」


他のメンバー(+アインツベルン主従)が、のび太達二人の場所へと集ってきた。
士郎は徒歩、凛は“タケコプター”装備のアーチャーに抱えられて。
そしてアインツベルン主従は徒歩で……だがその中においてただ一人、セラだけがリーゼリットに肩を支えられていた。


「あの、セラさん……どうかしたんですか? もしかして、怪我とか?」


「……魔術を使いすぎたのよ。わたしを庇ってね」


「魔力切れ。しばらく安静」


簡潔な説明の後、それに同調するようにセラが弱々しげに手を上げた。
青白い顔でリーゼリットに寄りかかっているその姿から察するに、明らかに疲労困憊といった様子。
意識も朦朧としているようで定かではなく、これ以上の活動は不可能であろう。


「成る程ね。まあ、あれだけの衝撃を魔術でどうにか相殺し切れただけでも、流石アインツベルンってところかしら?」


「衝撃? ……ああ、そっか! “バリヤーポイント”が壊れて、それで吹き飛ばされたんだっけ!?」


「ああ。アイツが通り過ぎたのと同時だったから、何とか九死に一生を得られたけどな」


セイバーによって覚醒させられたお陰で、のび太は今までの過程をすべて思い出す事が出来ていた。
“バリヤーポイント”が爆発するのと、怪物の体内(?)を尾の先まで通過しきったのはほぼ同時であった。
身体を超高密度の空気の断層で圧潰させられる事はどうにか免れたが、しかし通過した余波で発生した衝撃波によって、全員の身体が凄まじい勢いで吹き飛ばされてしまったのだ。
セイバーとのび太、士郎、凛、アーチャー、そしてアインツベルン主従と散り散りに。
バリアの中で密着状態に近かったセイバーとのび太、アインツベルン組は一纏めで飛ばされたのだが、その中においてセイバーは即座に冷静さを取り戻すと状況を俯瞰。空中で姿勢を整え、手を伸ばして気絶したのび太をキャッチし両の腕に抱え込むと、そのまま共に軟着陸を果たす。
士郎は“スーパー手ぶくろ”の力で、凛は魔術で、アーチャーは自力で、それぞれどうにか落ち着いて体勢を立て直し、無事に着地を果たしたがアインツベルン組は影響が最も強い位置にいたため、誰よりも強烈な衝撃に晒されてしまった。
それでもなお無事でいられたのは、セラがバリアの崩壊と同時に魔術による障壁を全力で展開し、被害を最小限まで喰い止めたからである。


「――――まぁ、それはさておくとして、問題はここからよ。のび太」


「はっ、はいっ?」


身体の埃を払い落としていた凛が居住まいを正し、のび太に視線を向ける。
のび太は一瞬身構えるが、その視線はつい先程、怪物に体当たりを喰らう直前、のび太に憤慨気味に叩き付けていたものとは若干違ったものであった。


「改めて聞くけど、あの化け物をアンタは知ってるのよね?」


「えっ……はい」


「そう。色々と思う事はあるけど、とにかく今知りたいのは一つだけよ。……あれは、どうやったら斃せるの?」


「……へ?」


どうして平行世界の住人であるのび太が、こちらの世界で出現したあの怪物を知っているのか。知っているのなら、怪物の正体はいったい何なのか。
謎は尽きないものの、そんな些末事は今の凛にとってはどうでもよかった。
この状況下で知りたい事は、たったの一つ。
打倒する方法、ただそれのみであった。
纏う異様な雰囲気と威圧感からして、あれは間違いなく神話級の怪物であり、今のこの世にはあってはならないモノだ。
もしアレが本領を発揮しようものなら、事は聖杯戦争どころの話ではなくなってくるであろう。
冬木はおろか、下手をすれば日本……いや、世界すら混沌と狂乱の中に引きずり込みかねない。
それほどの強い危機感を、凛は理性や知性ではなく、本能で以て察知していた。
凍る背筋と、どうしようもなく湧き上がる焦燥……それは、士郎や英霊組の共通の心情でもある。
もっとも、事情をよく知らないアインツベルン組は頻りに首を捻っているが、感じているものはやはり同じだ。


「え、えと……」


全員の視線が自分に注がれているのを感じ、のび太は顔に血が集まってくるのを感じながらも慌てて自分の記憶から思考を広げ、組み立て始める。
険しい山奥の秘境。そこに暮らす風と共に生きる人々、風の民。
その風の民と敵対する、風を支配せんとするアラシ族のかつてのシャーマン、ウランダーが生み出した強大な風の化物、マフーガ。
マフーガの力は凄まじく、遥かな過去、実に四十日もの間、この世に大嵐を齎したという。
所謂“ノアの大洪水”を引き起こしたのも他ならぬこのマフーガであったらしいのだが、それを喰い止めたのが当時の風の民の長であるノアジン。
彼が振るった『封印の剣』によってマフーガは身体を寸断され、剣と共に三つの珠に封じられた。
だが時を超えて蘇ったウランダーの手により、マフーガは現代に復活を果たした。
もっとも、その裏には真の元凶たる22世紀の考古学者であり時間犯罪者、Dr.ストームの暗躍があった訳なのだが……それはさておく。
復活したマフーガは超巨大台風を伴い降臨、巨竜の姿を象りのび太達に襲い掛かった。
巨大化したドラえもんの“空気砲”の一撃で身体を木っ端微塵に吹き飛ばされても即座に再生、力も何ら衰える事はなく始末に負える相手ではなかった。


(……でも、アイツはあの時、確かに消えた)


しかしマフーガはのび太の目の前で敗れ、消滅した。
それを成し遂げたのは……のび太にとって忘れる事の出来ない、風の民達と出会い、仲間達と死線を潜り抜ける冒険へと漕ぎ出す切っ掛けとなった、“彼女”。
のび太を護るために、“彼女”はその身を犠牲にしてマフーガを諸共に消し去った。
のび太は、その光景を涙と共に見ているしかなかった……あの怪物が視界に入る度、のび太の心がチクリと痛む。


「どうなの!?」


「あ……と、そのっ」


のび太の僅かな葛藤を知ってか知らずか、凛は早急なる回答を求めのび太に一歩、ずいっと詰め寄る。
周囲は皆、のび太の次なる言葉を待っている。
泡を喰いながらもチラリ、とのび太は目だけを上に向ける。
怪物は、グルグルと上空を旋回しつつこちらの様子を伺っているように見えた。
体当たり敢行後、上空へと再度舞い上がった怪物。
もう一度あの突撃を喰らえばこちらは一溜まりもないのだが、今のところは何も仕掛けて来る様子もなく、ただ悠然と宙に身体を泳がせている。
だがそれが却って怪物の底知れなさを感じさせ、不気味さを煽り立てていた。


(……けど、何かおかしい)


だがのび太は、今の怪物に言いようのない違和感を覚える。
あの怪物が何故ここに、しかもバーサーカーと入れ替わるような形で唐突に現れたのか。
のび太に知る由もなければ、知る術もない。
しかし何かが頭の片隅で、思考ルーチンの端に引っ掛かっていた。
まるで靄のように掴みどころのないそれ。


「あの……それはっ」


「それは!?」


さらに強く注がれる視線。
まるで視線でのび太の顔面に穴を開けんばかりの力の入り様だ。
のび太は僅かにたじろぎ、唾を呑み込む。
そして、のび太が次に取った行動は――――。





「うぅっ――――何かないか何かないか何かないか何かないかっ!?」





腹に貼り付けた“スペアポケット”の中身を、次から次へと引っ張り出す事であった。
全員の口から思わず虚脱の溜息が漏れる。
「お前、それはないだろう……」と言わんばかりのその表情。
突破口が開けるかと思っていたところにこれでは、流石に無理もない。


「これじゃない、これも違う、これも役に立たない……ああぁ、もう! どうしてドラえもんはこう毎回毎回、道具を整理していないのさぁ!?」


しかもポケットから出てくるのは何故か電子レンジにドライヤー、マッサージ器に掃除機、冷蔵庫……はっきり言って、この場ではガラクタ同然の代物ばかり。
虚脱感が上積みされ、溜息がますます重くなった。
だがそんな中においても、のび太の思考はいまだ停止しておらず、無意識下で暗中模索が続けられている。
血眼になってポケットの中を掻き回す、その様子からは想像もつかないであろうが……ついでに言うなら、のび太の叫びはどちらかといえば冤罪に近い。
と、その時。


(……あ、そっか! やっと解った……アイツ、あの時よりパワーが落ちてるんだ!)


不意にのび太の頭にあった靄が、綺麗さっぱりと霧消した。
答えに至ってしまえば何の事はない。
今のマフーガは、あの時のび太が対峙した時と違って力が格段に劣化していたのだ。
のび太の感じていた違和感の正体は、上空の渦を巻く雲の大きさと、突撃の際に風が止まった事。
マフーガは、端的に言ってしまえば“凶暴な本能を持った、人知を超える超巨大低気圧”……いわば超常的なまでに異常発達した台風のようなもの。
そしてその力を示す象徴はあの空を泳ぐ竜ではなく、その上に存在する、厚い雲渦巻く低気圧なのだ。
初めてのび太がマフーガと相対した時、低気圧は水平線の遥か向こう側、実に中心から半径数百~数千キロの範囲までを覆い尽くすような、常識外れに馬鹿デカいものであった。
距離の相当離れた日本のニュースでも大きく取り上げられ、声高に警戒が叫ばれたくらいである。
しかし今の雷雲の規模はどうなのかといえば……精々あの時の十分の一程度かそれ以下、といったところが関の山であろう。
それでも十分に脅威ではあるが、だがやはり今と過去を引き比べて見てみるとどうしても劣化している感は否めない。
だからこそ、突撃する直前に周囲の風を集め、自分の身体へ集束させた。
もし仮に過去のパワーそのままであったのならば、そんな必要などまったくなかった筈なのに……事実、以前は驟雨と雷光と暴風を垂れ流したまま、狂ったように突撃を繰り返していた。
少しでも欠けた力を補うための、本能的な対処策。
おそらくは、元になったと思われるバーサーカーの命を十一個削り取っており、万全とは程遠くしていたから……のび太は直感的にではあるが、その点を正確に捉えきっていた。


(……でも、だからってどうすればいいんだろう!? あの時みたいに『封印の剣』はないんだし、そもそも僕達だけじゃとても……!?)


焦燥感に苛まれながら食べかけのどら焼き、ヘビのおもちゃ、核兵器の模型っぽいナニカといったブツをその場にポイ捨てし、次にポケットから取り出した物体を目にしたところで、


「――――――ん?」


のび太はピタッと手を止めた。
右手に握られたそれは……一見何の変哲もないような一個の腕輪。
ブレスレットといった方がやや正確であろうが、それにしては宝石のような突起が一つついただけの、装飾品とは思えないようなシンプルな見た目。
のび太はこれを数秒の間、ジッと見つめていたが、


「――――あ、そうだっ!!!」


ピン、と脳裏に天啓が舞い降りた。
唐突に脳裏をよぎった、一つの方策。
単なる思い付きでしかなく、しかも多分に穴だらけであるこの作戦は、しかし他に選択肢を探るという選択肢すらない今の現状において、唯一の打開策であった。
上手くいけば怪物の力を削ぎ落とす事が可能、仮に上手くいかなくても今のこの劣勢状況下ではこれ以上、事態が悪くなりようもない。
と言うより、徐々にではあるが現在進行形で事態は悪化しているのである。
パラパラとしか降っていなかった雨は段々と雨量を増し、風が集束前よりも強く吹き付け始めていて全員が再び体勢を低くし今度は木々の間に鎮座、身体を取られまいと強風を凌いでいる有様だ。
そして極めつけは夜空を黒く染め上げる上空の雲。
奔る稲妻が大気を地鳴りのように大きく揺さぶる中、はじめの時よりも厚みと密度が増し、雲の直径がジワジワとだが確実に広がりつつある。
怪物の力が回復……いや、増してきているのだ。
それを怪物の雰囲気から感じ取ったのび太には、もはや不確定さに躊躇う時間など残されてはいなかった。
グルリと皆の方に向き直り、やや早口になりつつも口を開く。


「あ、あのっ! ひとつだけ、考えがっ!」


「ん!? どんな?」


士郎に促され、説明するのび太。
一言一句聞き漏らすまいと耳を傾けていた士郎達であったが、すべてを聞き終えると微かに眉を顰めていた。


「そんなに都合よくいくのか……?」


「それは……解りませんけど。でも……!」


士郎の懐疑的な意見に、のび太は他に方法はないと勢い込み、説き伏せにかかる。
妙な話だが、不思議とのび太はこの作戦が必ず成功するという確信を持っていた。
根拠などない、理屈でもない。ただ直感的に、己の案に並々ならぬ自信を抱いている。
説得力がないと自分でも理解はしているが、それでも撤回する気は毛頭なかった。
何故なら、ある意味でこの作戦には……のび太にとっての“希望”と“贖罪”に近いものが籠められているからだ。
もっとも、のび太自身にそこまでの明確な自覚はなかったが。


「よしんばその作戦で上手くいったとしても力が落ちるだけで、アイツを斃せるわけじゃないんでしょ? 打倒手段がないんじゃ、片手落ちよ。だから、賛成は出来ないわね」


「あ……」


だが、凛のダメ出しには流石に閉口せざるを得なかった。
のび太が提示したのは打倒手段ではない。いわば“削り”のための作戦だ。
それ自体はいい……成功率云々は別にして。
しかしそれは打倒手段があってこそ、初めて意味のあるもの。
決定的なチャンスを作った“だけ”では話にならないのだ。
チャンスを生かす方法、すなわち致命的な一撃を加える必殺の手段がなければ結局はジリ貧のまま、こちらの敗北が決定する。
それが解らないほどには、のび太も馬鹿ではない。
よって、起死回生と思われたのび太の案は却下され、お蔵入りになる……筈だった。





「――――――いえ、手段はあります」





剣の英霊が呟いた、この一言がなければ。
その表情には言いようのない、何かしらの覚悟がありありと浮かび上がっていた。















「は? セイバー、それって……どういう事だ?」


「正直、あまり気は進まないのですが……流石に今の状況下ではそうも言っていられません。単刀直入に申しますが、私の持つ宝具を使えば、あるいは……」


「宝具? え、でもセイバーの宝具って、あの不可視の剣じゃないの?」


確認するように問う凛に対し、セイバーは微かに首を横に振ると、言葉を続けた。


「それも私の宝具である事に間違いはありませんが……あの『風王結界(インビジブル・エア)』は私の真の宝具を隠すための、いわば見えざる『鞘』なのです。本命はその奥の……」


「……剣?」


先を言い当てた士郎にセイバーは頷きを返す。
セイバーは騎士である。故に適当な事を言う性格ではない。
余程に自信があるものなのだろうと、士郎と凛は考える。
しかし、それにしてはセイバーの表情はあまり芳しくない。
眉根に皺を寄せているし、しかも何故かのび太の方を見ては微かに表情を物憂げなものへと変えている。
それが気になったのび太は、セイバーに対して疑問をぶつけた。


「セイバー、僕がどうかしたの?」


「……ああ、いえ。ただ、これには問題が少々ありまして」


セイバーは追及を避けるようにのび太の問いには答えず、話を先に進めた。


「実は、これは相当に魔力を喰います。その分、威力は折り紙つきですが……故に、一度しか使う事が出来ません」


「ふむ……参考までに聞いておくが、どの程度まで魔力を持っていかれるのだ?」


「む、そうですね……召喚された時点での状態でしたら、一度の使用で私の現界そのものが危うくなるほどに、ですか」


「「「はあっ!?」」」


予想を遥かに上回る燃費の悪さに士郎・のび太・凛が目を剥いた。
成る程、それだけ魔力をつぎ込まねばならないというのなら、確かに必殺と成り得るだろう。
しかしそれでセイバーが魔力枯渇で消滅の危機に晒されると聞いてしまえば、流石に躊躇いを覚えずにはいられない。
だがその中において一人、アーチャーのみがセイバーの言葉の中に含まれているものに気づいていた。
イリヤスフィールはのび太達の間で交わされるやり取りをジッと静観しており、リーゼリットはどちらかと言えば自らが行っているセラの介抱の方に意識を割いている。


「……という事は、“今”はそこまではいかんのだな?」


「ええ。一応、通常戦闘がどうにか可能といったところまで、でしょうかね? いきなり消滅という事にはならないと思います。食事で僅かなりとも魔力を得られましたし、それにあの夜の余剰分が……いえ、まあそういう事です」


セイバーの言葉に、思わず安堵の吐息を漏らす三人。
仮に怪物を斃せたとしてもそこで終わりという訳ではない。聖杯戦争はこの後もまだまだ続いていく。
戦力的にも、また心情的においてもまだセイバーに去られる訳にはいかないのだ。
それにもし万一があったとしても、凛の宝石を使えば最悪の事態は避けられるだろう……ただ、あくまで念のため懐に忍ばせていた予備分であるため残数にそこまでの余裕はなく、心許ないものではあるが。
とにもかくにも、これで怪物に対抗出来る目途が立った事になる。
あとは……“配役”だけだ。


「では前段階の“仕込み”の役目は私と……そこの小僧で行おう」


「えっ……お、俺か!?」


アーチャーからのご指名に、士郎は面食らう。
一応立候補するつもりではあったのだが、まさかこの男から名指しされるとは、思ってもいなかったのだ。
アーチャーはその反応に若干眉間に皺を寄せながらも、その実、嘲るように口元を歪める。


「生憎、今は猫の手も借りたいような状況なのでな。たとえ未熟者であろうと、人を遊ばせていられる余裕などない。それとも何か? 少年の道具によるドーピングがなければ、あの魔物には挑めんか? それならそこの木にでも齧りついて大人しく待っている事だ。クク、強制はせんぞ?」


「お前……! ああもう、クソ。いちいち皮肉の好きなヤツだなこの野郎! けどお前、武器はどうするんだ?」


「ああ、それなら……そら、そこにおあつらえ向きの物が転がっているだろう?」


士郎の悪態混じりの問いに対してアーチャーの指差した先には……無造作に地面に横たわる、鈍くも鋭利な岩の塊が。
そう、どさくさ紛れに士郎が強奪し、力任せに投擲した後そのまま場に打ち捨てられていた、バーサーカーの獲物である巨大な斧剣であった。
アーチャーは風に飛ばされぬよう姿勢を低くしたままそれに歩み寄ると柄を握り締め、むんと僅かに表情を歪めたかと思うとそれを片腕で振り回し、ズンと肩に担ぎあげた。
筋肉質とはいえ痩身ながら、“スーパー手ぶくろ”もなしに斧剣を持ち上げ得るその膂力。
流石、伊達に英霊をやってはいないという事であろう。


「アンタ、アーチャーのくせして結構パワーあるのね?」


「この程度の事は、一部の例外を除けば英霊なら誰でも出来得る事だ。大した事ではない。では少年、これと小僧の大剣に」


「あっ、は、はい!」


戻ってきたアーチャーがのび太にそう声を掛けるとのび太は“スペアポケット”に手を突っ込み、士郎とアーチャーは地面に剣をそれぞれ突き立てる。
そしてポケットから取り出された物は……小型の懐中電灯を模したひみつ道具。


「“ビッグライト”! それっ!!」


のび太は取り出しざまにそれを二つの剣に向けスイッチ・オン。
ライトから光が照射され、剣全体を万遍なく包み込むと見る見るうちに剣が大きくなり始めた。


「うわぁ……」


イリヤスフィールが感心とも驚愕とも取れるような声を漏らす中、三メートル、五メートルと植物の成長をビデオで高速再生するかのように、剣はその大きさを増していく。
やがて“ビッグライト”の光が消え去った時、それらは実に二十メートルはあろうかという、もはや剣とも呼べ得ぬほどの重厚長大な大剣と化していた。
その絶壁のような刀身を前に、一同はどこか呆然としながらそれらを仰ぎ見る。


「うおぉ……! 想像はしてたけど、デカイなやっぱり。手袋の補助があるとはいえ、振れるのか、これ?」


「たぶん、大丈夫だと思いますけど……あ、アーチャーさん。はい“かるがる手ぶくろ”。あと士郎さんも一応これ」


のび太が二人に手渡したのは“かるがる手ぶくろ”。
どんな重いものでも、文字通り軽々と持ち上げる事が出来るようになる手袋である。
“スーパー手ぶくろ”の亜種に近いが、このような場合はこっちの方がいいかもとの、のび太の判断だ。


「むっ……ん、すまんな。流石にここまでの物となれば、如何に私でも持ち上げる事すら叶わん。セイバーならば、ともすれば可能かもしれんが」


「そうですね……まあ、“魔力放出”を全開にすれば、持ち上げるくらいはいけるかと。もっとも、すぐに魔力切れを起こしてしまうでしょうが」


そうしてアーチャーは手袋に手を通しつつ、懐から“タケコプター”を取り出し、己が頭に取り付ける。
その姿を目にしたイリヤスフィールの、思ったままにポツリと漏らしたこの一言。





「……シュールね」


「同感。でも割と人気あるみたいよ? あの『アチャコプター』。なんせ前回、両所の感想欄のコメントの八割くらいが……」





そこ、メタ発言はやめなさい。


というか、状況の割に結構余裕のある二人である。
……いや、もしかすると色々ありすぎて既にいっぱいいっぱいで、一周回って逆に落ち着いてしまっているだけなのかもしれないが。


「小僧。準備はいいな?」


「んっ……ああ。じゃあ、行くぞ!!」


いまだ旋回を繰り返す怪物を見上げつつ手袋をはめ替えると、士郎は自らを鼓舞するように言葉を放つ。
そしてアーチャーと同じように、のび太から手袋と共に手渡された“タケコプター”をカチャリと装着すると身を縮めて大地を蹴り、二人は同時に空へと舞い上がった。
重力に対して垂直に高度を上げ……士郎はかなりフラついていたが……二人は瞬く間にそれぞれの獲物の柄へと到達した。
だが、その時。


『――――――――――――――――!!!!』


「あっ!?」


「――――ちっ、流石に気づくか! もう少し悠長に構えていればいいものを!」


アクションを起こした事を察知したか、怪物は旋回する事を止め、弧を描きざま、のび太達の方に向き直った。
鈍く輝く両の目を巨木のように聳える二刀に注きつつ、低く唸り声を上げる怪物。
上空の雲はいまや漆黒よりもなおどす黒く染まり、雷鳴と共に冬木の地はおろか、日本全土をあわやその範囲内へと囲い込まんとしている。
雨はもはや豪雨と変わり果て、吹き荒ぶ風が身を引き千切らんばかりの勢いで全員の身体を通り抜ける。
遥かな昔、世界中を嵐となって席巻し、恐怖と混乱を世に撒き散らした神話級の風の魔竜が、その力を着実に取り戻しつつあった。
一刻の猶予も、もはや残されてはいない。


「急ぐぞアーチャー! もう一度突っ込んで来られたら終わりだ!!」


「貴様に言われずとも知れた事……!!」


喧嘩腰に言葉を交わし合いつつ二人は眼前の、千年杉の胴回り程もあろうかという剣の柄を両手でガッシリと握り締め。





「「――――ぉぉぉおおおおおおっ!!!」」





咆哮。次いで地面の罅割れる、メキメキという轟音。
二人は鏡合わせのようにそれぞれの獲物を、“かるがる手ぶくろ”が生み出す膂力を生かして強引に大地から引き抜いた。
砂塵が吹き荒れる風に煽られ、土色の旋風(つむじかぜ)が地上ののび太達に吹き付ける。
“タケコプター”の最大積載重量を明らかに超えているだろう大質量を担ぎ上げ、二人は怪物の方へと“タケコプター”の舵を切った。





(……持つのか? いや、頼む。持ってくれ)





頭上で徐々に嫌な音を奏で始める“タケコプター”を、修羅場慣れしているアーチャーのみが頭の隅で憂慮していた。







[28951] 第二十五話
Name: 青空の木陰◆c9254621 ID:90f856d7
Date: 2012/01/01 02:02



怪物は、己が状況をよく理解出来ていなかった。
把握しきれているのは、ほんのわずかな事だけ。
『暴れろ』『怒れ』『吼えろ』『狂え』などの身を焦がすような衝動とそして……微かに感じる、身体を食い破ろうとするかのような得体の知れぬ『疼き』。
ただそれだけであった。
元々この怪物には理性など殆どない。あるのは悪鬼羅刹の如き、凶暴凶悪な本能のみ。
だが知性だけは……本能の内に織り込まれた、付随物に近いものだが……多少ながらも備えていた。
その知性が訴えかける。
こちらに向かって空を駆ける、あの二名は己にとってさほどの脅威足り得ないと。
あの常識の枠を置き去りにしたかのような獲物を振るわれれば成る程、この身体を砕く事くらいは為せるだろう。
だがそれだけだ。
風の竜たるこの身は『本体』であり、同時に『端末』でもある。
たとえこの身が破壊されようと、もう一つの己ともいえる頭上の低気圧がある限り、即座に再生が可能。
そしてあの程度の代物では、両方を撃滅する事は到底不可能である。
怪物は二人から興味が失せたように視線を逸らすと、己の遥か下に点のように存在する者達を睥睨する。
赤銅の少年、銀の騎士、紅の乙女、白の少女、二対の従者……地を這う事しか出来ない、かの者達ではかつての力を取り戻しつつある己の障害とは成り得ない。
ただ、やはり鬱陶しい……一度目は凌がれたが、次で完全に終わるであろう。
そんな余裕を湛えつつ、怪物はスッと何気なしに視線を横にずらして……、





―――――心臓を鷲掴みにされたかのような、途方もない危機感に襲われた。










「小僧、そのまま奴の右側に回れ! 私は左側面から尾を狙う!!」



「あいよ! なら俺は頭だなっ!」





前方から声が響いてくるが怪物の耳には届かない。
怪物の目と意識は……地上に存在するある一つの存在に、どうしようもなく釘付けにされていた。


――――まずい。“あれ”は、“あの存在”だけはまずい。


“あれ”は己の存在を揺るがすものだ。
かつての記憶……己が滅された、あの時の生々しい感覚が怪物の脳裏にまざまざと蘇る。
あの時と今は違う。だが“あの存在”の所為で、このままではあの時の焼き直しだ。
だが、いったい何故そんな事が解る?
“あれ”は初めて目にするもの、しかしどういう訳かこの身は“あれ”を知っている、そして恐れている。
何故知っている?
“あれの所持者”に、見覚えがある所為か?
……いや、それとも。





――――元になった『狂戦士の器』と器の中のエーテル……そして“あれ”を所持している者の『記憶』から、この身が『再現』された所為か?





……待て、どうしてそんな事が解る?
そんな覚えも記憶もない。だが、どうしてそんな事を知っている?
いったいこの身に何が起こっている?
先程からどんどんと強さを増してくる、この疼きはいったい何なのだ?
どうしてこの疼きは、“あれ”と“あれの所持者”に反応するかのように発せられているのだ?
何故、どうして、何故……??





『――――――――――――――――!!!!』





気炎を上げ、大気を鳴動させる事で怪物は無理矢理ループする思考を断ち切った。
疑問を感じている場合ではない。
とにかく、“あれ”を何とかしなければならない。
“あれ”の存在がある以上は、この身を粉砕される事さえ致命傷となりかねない。
だからこそ、疾く迅速に、潰さなければ。


即断即決。


警鐘を鳴らす本能のままに、怪物は悪寒の根源を全力で以て排除せんと、再びの突撃の体勢を整える。
力を取り戻しつつある今なら防がれも凌がれもせず、一瞬で片が付く。
身を縮め、全身を発条(ばね)のように収縮させると一気に身体を伸ばし、反動によって弾かれたように地上へと急下降した。
――――――が。





「――――タイミングを合わせろ、小僧!」



「こっちは素人だぞ、お前が合わせろアーチャー! うおおおおぉぉぉっ!!!」





全てが遅きに失した。
気づくのが一瞬、ほんの一瞬だけ遅かったのだ。
もう少しだけ早くそれに気付けていたのなら、結果は違っていたであろう。
あるいは空を飛ぶ小うるさいハエどもを即座に叩き落していたら、もしかしたらここまでの窮地には至らなかったかもしれない。
だがそれは今更の事、この帰結が覆る事はない。
凄まじい速度で大地へと迫る己が身の右舷・左舷側から迫る大質量の二対の剣。
レーザーが照射の中途で軌道を変えられないように。
もはや避ける事も、標的を変更する事もままならない。





「「――――いけえええぇぇぇぇ!!!」」





発生する衝撃波も大質量の前には無力。
白銀の刀身と武骨な岩塊が、振るうというよりぶつかるような形で竜の身体を三つに分断した。





『――――――――――――――――!!!!』





断末魔の絶叫。
耐えがたい苦痛などは怪物の存在の特性上さほど感じないが、それでもかなりの衝撃は走る。
故に怪物は叫び声を上げた。


「よぉっしっ! ……って、あれ!? こ、高度が落ちる!? なんで!?」


「小僧! 剣を捨ててさっさと地面に降りろ! “タケコプター”が過負荷でオーバーヒートを起こしていてもう持たん! 墜落死したくなければ早くしろ!!」


「なにぃ!? ……っと、わ、解った!」


獲物をポイ捨てし、強風と制御不良にヨタつきながらも一目散に地面目掛けて降下する二人。
分かたれた身体が崩れ落ちる中、それを視界の片隅に収めながらも怪物はある一点を見据えていた。
その視線の先には、地上にいた残る最後の一人が。


眼鏡を掛けた、どこにでもいそうなひどく凡庸な少年……のび太と、そして。





その片方の腕にはめられた腕輪――――怪物に脅威を感じさせたひみつ道具――――“精霊よびだしうでわ”があった。





ドクン、と怪物は己の体内で、何かが大きく脈動するのを感じた。










「や、やった……!」


「よっし、上手く三つに捌いたわね!」


「ギリギリのタイミングでしたが……どうにか、間に合いましたか」


「……デタラメね、もう。色々と」


ドゥンッ、という凄まじい音と震動を巻き起こし、超重量の二振りの剣が地面に追突する中、思い思いに心情を吐露する地上組。
歓喜、安堵、呆れと反応は様々だが、ともかくのび太の作戦における第一段階はクリアした。
次は肝心要の第二段階……しかしここが最も難しいところであり、それ以前にこの段階はある意味、バクチであるとしか思えない。
士郎や凛が当初渋ったのもそのためだ。
だが既に賽は投げられた。もはや後戻りは許されない。


「のび太、解ってるわね……? ここまで来て、失敗は出来ないわよ?」


分断された天空の怪物を視界に収めながら、凛はのび太に忠告する。
言った事には責任を持て、との意思を言外に乗せて。


「……大丈夫です!」


だがのび太はそれに微塵も臆する事なく、その場から一歩踏み出すとキッと真剣な面差しで空を見据えた。
そして徐に腕輪の嵌められた方の手に、もう一方の手を重ねる。
のび太の思いついた策。
それは一言で言ってしまえば、初めて怪物と対峙した時の“再現作業”だ。
まず作戦の第一段階、それは怪物の身体を三つに寸断する事。
過去、のび太が『封印の剣』によって行ったこれを、“ビッグライト”で巨大化させた『大・電光丸』とバーサーカーの斧剣で代用した。
怪物は過去に一度、“ビッグライト”で巨大化したドラえもんの“空気砲”で粉微塵にされた事があるので、神秘と魔力の込められた大質量のそれらなら『封印の剣』の代用品として使用しても問題ないだろうと踏んでいた。
もっとも、のび太が提案したのは『大・電光丸』一本のみで行う実行案だったのだが。斧剣が追加されたのはアーチャーのアドリブである。
そして、第二段階とは……。





「――――来い、“台風の精”……!」





のび太の手が腕輪の表面を擦り、声に反応して腕輪から一筋の煙が立ち上る。


“精霊よびだしうでわ”


それは、腕輪を擦って『○○の精』などと唱えれば、それに応じた人工の“精霊”を呼び出せるというひみつ道具。
のび太はこれを使って、怪物の“中”にもしかしたらいるかもしれない、かつて失ってしまった“存在”を呼び出す事を思いついた。
だが、これで呼び出される存在はあくまで道具の力によって現象から具象化された存在である。
のび太の思うそれである事は、論理的にまず間違いなくあり得ない。
しかし、のび太はその『≒0%』の可能性を真っ向から蹴飛ばして、余人には理解不可能であろう絶対の確信を持って挑んだ。
何故ならそれは……きっとその“存在”とのび太との間に、目には見えない強い繋がりがあるから。
自分がその名を呼ぶのなら、きっと必ず応えてくれる。
そうのび太は強く、強く信じている。





だからこそのび太は力の限り、天を貫けとばかりに声を張り上げる。





ありったけの力と感情と……、願いを籠めて。










「――――――フー子おおおおおおおおおおおぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉ!!!!」










“彼女”の名を。










――――――――フウウウウウウウウウゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥ…………!!!










そして、のび太にとって懐かしい“彼女”の声が、嵐吹き荒ぶこの地に響き渡った。















「えっ……な、何よ今の声?」


「あっ!? お、おい遠坂、あれは!?」


「……オレンジの、玉?」


凛達の下に合流した士郎の指差した先。
分かたれた怪物の三つの身体の内の一つが、淡く輝くオレンジ色の玉へと変化していた。
宵闇よりもなお暗いこの場において、太陽にも似た光を放つそれは見る者に安堵感と明るさを齎さんばかりに周囲を煌々と照らし出す。
暴風は一挙に鳴りを潜め、微風と言って差し支えないものへと様変わりしている。
オレンジの玉はその場でクルリと円を描いたかと思うと、次の瞬間にはそのまま一直線に、のび太の方へと脇目も振らず飛翔してきた。


「こ、こっちに来た!?」


「あ、あぁ……!?」


慌てふためく士郎の横で、のび太は大きく目を見開く。
やはり自分の直感は間違ってなかった。
次第に昂ぶり始める感情に身体を細かく振るわせながらも、のび太はそれを受け止めようと手を広げる。
英霊二人が僅かに身構える中、オレンジの玉は“精霊よびだしうでわ”から湧きあがった煙の中へと飛び込むと煙諸共パン、と閃光弾のように眩い光を発して弾け飛んだ。
そして次の瞬間。










「――――のびたっ♪」










光の中から幼い“女の子”が姿を現し、そのままのび太に抱きついてきた。




「「「「「――――――へっ?」」」」」




全員の目が点になる。


「フ、フー子……なの?」


「フウッ♪」


その中において、最も衝撃の度合いが大きかったのはやはりのび太であった。
先程とは違った意味で、目を皿のように大きく見開いている。
ニ、三秒ほどそのまま固まっていたが、やがて信じられないものでも見るかのように、おそるおそるのび太は腕の中に収まる女の子に視線を向けてみた。


「のびた……あいたかった」


のび太よりも頭一つ分ほど小さく、およそ二~三歳は年下であろうか。
薄いオレンジのショートカットに、青い空と澄んだ風を思わせるような曇りのない、綺麗なブルーの瞳。
目鼻立ちはすっきりと整っており、将来はかなりの美人になるであろう事が容易に想像出来る。
若干大きめの、ゆったりとした浅葱色のローブを身に纏い、のび太の胸に頬をスリスリと押し付けるその表情は心底嬉しそうである。
パッチリとした大きな目をこれでもかとばかりにゆるく細め、ともすれば猫みたいにゴロゴロと咽喉を鳴らさんばかりだ。


「えっ、な、なんでフー子が女の子に!? い、いや女の子なのは知ってたけど……どうして人型なの!? それに言葉も喋ってるし……!?」


「フゥ? ……ん~、それ」


「へ? それ……って、“精霊よびだしうでわ”? ……あ!」


いまだに笑顔の女の子……フー子の指差したものを見てのび太は怪訝な表情になったが、ふとある事に思い至った。
“精霊よびだしうでわ”によって呼び出された精霊は、基本的に人型で現れる。
火の精しかり、のび太がかつて呼び出した雪の精しかりだ。
今回のび太が腕輪によって呼び出したのは、実はフー子とはまったく関係のない“台風の精”であった。
だが偶然か必然か……いや、諸々の関係を鑑みればきっと後者であろう……のび太の呼びかけを切っ掛けとして怪物から解き放たれたフー子は、腕輪から発せられた“台風の精”を人型として具象化する煙の中へと飛び込んだ。
そうした結果、煙の影響を受けてフー子が“台風の精”として人の姿を象り、のび太の目の前で復活を果たした。
とどのつまりは、そういう事である。


「のびた。ボク、ずっと、のびた、よんでた。のびた、きづいてくれた」


「え、いや……そういう訳じゃないんだけど。ただ、この腕輪を見た時、なんでかフー子を呼び出せるって思ったんだ。それってもしかして、フー子が僕を呼んでくれてたから?」


「フゥ♪」


「……そっか。あははっ!」


舌足らずな口調でたどたどしく、だが一切の屈託のない笑顔で頷くフー子。
のび太は込み上げる感情のままに、フー子を両の腕でギュッと抱き締めた。
視界が涙で滲むが、そんな事はお構いなしに。
万感の思いを込めた、のび太の歓喜の笑い声が響いた。





「……盛り上がってるトコ悪いんだけど、アンタらね。まだ終わってないのよ?」


「へ?」


「フゥ?」





傍から聞こえた、呆れ混じりの的確なツッコミの声に二人はようやく現実に引き戻された。
顔を向ければそこにはポカンとしている士郎、額を抑える凛、難しい表情のセイバー、気を抜いていないアーチャー、そして展開についていけずにどこか諦観気味のイリヤスフィール。
一応事前に簡単な説明を受けてはいるものの、理解を超えた超展開続きの渦中においてやはり全容を掴み切れてはおれず、疑問の種は尽きないようだ。
だが質問も追究も一旦棚上げ。状況はいまだ気の抜けるようなものではない。
混乱と謎がラッシュ時の立体交差点なみに錯綜する中でも、優先順位は忘れられてはいない。


「アレ見なさいなアレ。あのマフーガとやら、まだくたばっていないのよ。そんな事してる場合?」


「感動の再会……と言うべきなのか?……もいいが、少年よ。まずあれをどうにかせねば話にはなるまい? 気持ちは解らんでもないが、な」


「あ……、そ、そうですね。ごめんなさい」


「……ごめんなさい」


二人揃って、ションボリとしながら頭を下げる。
そのおそろしく素直な反応には、流石に罪悪感が湧いたのか凛とアーチャーは気まずそうにツツ、と目を逸らした。


『――――――――――――――――!!!!』


凛の指し示した先では、後に残った怪物の身体のバーツと破片が再度集束。渦を成して組み合わさり、再び竜の姿を形作っていた。
赤々とギラつく獰猛な眼光はそのまま……いや。
以前よりも、どこか禍々しさが増していた。
……とはいえ。


「しかし……ノビタの言葉通りですね。その娘が怪物の身体から離れてここに現れた瞬間、明らかに台風の力が弱まりました」


「ああ。風も暴風ってほどじゃなくなってるし、雨脚も雷もひどくなくなってる。ひょっとしてそのフー子って娘、マフーガの重要な部分だったのか?」


「あ、はい。フー子はマフーガの封じられていた珠の内の一つで、そしてマフーガの一部で……えーと……ねえ、どこの部分だったの?」


「ん~……ちせい?」


「ちせい……知性? だそうです」


コテンと首を傾げたフー子が発した答えに、一同は納得したような表情になる。
今の怪物は、前のものとは明らかに異なっている点が一つある。
それまでの怪物はのび太達を吹き飛ばした後、空を悠々と旋回し、力を蓄えるなどといった余裕のあるところを見せていた。
だが今は上空でのたうちまわるように荒れ狂い、奇声のような咆哮を上げている。
その姿からは理性や知性の欠片も感じられない。
凶暴な本能を持て余し、湧き上がるどす黒い情動に翻弄されている。
知性を司っていたフー子が削ぎ落とされた事で、怪物は本能のストッパーを失ってしまったのだ。
フー子を奪われ、単純計算でおよそ33%力が減少したとはいえ、いまだ脅威の存在である事に変わりはない。
しかも己が意思で感情の制御すらも不可能と化してしまったとなれば、もはやメルトダウンを起こした原子炉なみに始末が悪いものへと成り下がっている。


「力を落としても、前以上に凶暴化されたんじゃねぇ……。タチが悪すぎよ。これは早いトコ片を付けないと……」


「そうですね。時間が経てば、取り返しのつかない事にもなりかねません」


セイバーはそう告げると腰を落とし、不可視の剣を顕して構えようとする……が。


「…………ッ!? くっ」


「? セイバー、どうしたの?」


「いえ……」


何故かそのままギシリと硬直し、動きを止めてしまった。
不思議に思ったのび太が声を掛けるが、セイバーは次第に俯いていく。
そしてきっかり三秒後、セイバーの口が躊躇いがちに開かれた。





「……斃せ、ません……!」





「……は?」


「今の……私の宝具では、あれを、討ち果たせないのです」


「え……ちょ、ちょっと!? それってどういう事よセイバー!?」


「……彼我の差が、思ったより遠い。僅かに、威力が足りないのです。ノビタの策で力は確かに削がれましたが、今宝具を解放したとしてもおそらく……奴は生き残るでしょう」


「そ、そんな……!」


一同の背に、絶望が重くのしかかる。
ここまで来て致命的な、想定外のアクシデント。
セイバーの計算では、今の段階で宝具を解放して怪物を殲滅出来る確率は僅か十%。
ただしこれは、己が無理なく現界出来るところまで魔力消費を抑えた場合の数値である。
魔力を当初の予定よりも注ぎ込めば宝具も威力を増すため、確率はまだ上昇するが、それではセイバー自身が魔力枯渇で消滅してしまう。
凛の予備の宝石を余さず注ぎ込んで宝具を放ったとしても、殲滅可能な威力とまでには至らないであろう。
燃費の悪さが尋常の域ではないのだ、このセイバーの宝具は。
ここまで追い詰められた原因は、怪物が予想以上に力を取り戻していたという事。
知性の象徴でもあるフー子を奪われ、力が激減した上でもなお、勝ちの目を引き寄せるくらいに。
腐ってもマフーガは神話級の魔怪竜である、その程度の事が出来ずしてどうして封印など施されよう。
恐るべきはその予想の斜め上を行く底の知れなさ。
やはりこの怪物は、劣化していたといえども格そのものが段違いであった。


「……進退窮まった、か」


唸るようなアーチャーの声。
劣勢どころかまさに崖っぷちの状況。
退く事は出来ぬ、だが踏み出す事も出来ぬ。
この戦いにおいて誰一人欠ける事なく生還出来る可能性は、ほぼゼロと化した……





「……だいじょうぶ」



「え?」





……筈だった、が。
その絶望の闇に光明を射し込んだのは、他ならぬ台風の子どものこの一言であった。
フー子の持つ、幼くも柔らかな声音と雰囲気に、ほんの少しだけ凍てついていた空気が緩む。
宝石のように澄んだ青の瞳をのび太と通い合わせ、口遊(くちずさ)むようにこう告げる。


「かてる」


「勝てる……って、フー子?」


「ボク、のびた、まもる。みんな、まもる。あいつ、やっつける。だから……」


「ッ!? ま、まさかっ、ダメッ! ダメだよフー子!! せっかく……せっかくまた会えたのに!?」


のび太の脳裏によぎったのは、あの時の光景。
のび太達を護るため、自らの命を投げ打って怪物に特攻を仕掛け散った、あの悪夢のような記憶。
心を壊れんばかりに掻き毟られ、やりきれない気持ちを抑えきれずにただ慟哭するしかなかった。
そんな事はさせられない、させる気など毛頭ない。
だがそんな心配を余所に、フー子はプルプルと首を振る。


「ちがう」


「……へ? 違う?」


「のびた、かんがえる、ちがう。ボク、しなない」


「そ、そっか……あぁ、よかったぁあ。……あれ? でも、じゃあどうするの?」


一同の視線が集まる中、フー子は「ん~……」と口元に指を当てて少しの間、考え込むような素振りを見せると、


「フウ♪」


「……はい? 私、ですか?」


「フ!」


ニコリと微笑みを浮かべながら、セイバーを指差した。
突然のご指名に、まさか自分に水が向けられるとは思わなかったセイバーはキョトンとした表情を形作ったが、こいこいとフー子が手招きするのでとりあえずそちらへと向かう。
するとチョイチョイ、とのび太とセイバーにお互い向かい合うように、と手振りでジェスチャーしたので、二人は首を傾げながらも言う通りに向かい合った。
それを確認したフー子はフワリ、とローブを靡かせ、まるでそれがごく当然の事であるかのように宙に浮かぶ。
フー子をよく知るのび太以外の人間がその光景に一瞬ギョッとしたが、フー子はそれを知ってか知らずかフワフワとセイバーの方へと近寄っていく。


「おねえちゃん、かがむ」


「あ、はい……」


のび太よりもセイバーの方が身長は高く、その差は十センチメートル以上ある。
それがフー子としてはダメなようで、ペチペチとセイバーの頭を小さな掌で叩いた。
フー子が浮いた事に戸惑いつつも、見ていて微笑ましくなるような幼い子供に逆らう気など毛頭ないセイバーはその通りに膝を曲げ、のび太と同じ目線になるまで身体を落とした。
……非常に今更かつ改めて言うが、セイバーは世界中探してもなかなかお目に掛かれないであろうほどの、頭に“超”が付く美少女である。
そんな相手と見つめ合うようなこの状態に、のび太の頬がほんの少しだけ赤らんだ。


「そ、それでフー子。ここからどうするの?」


「フゥ? フ!」


慌てたようにフー子に伺いを立てるのび太。
フー子は二人の間に宙に浮いたまま、セイバーの頭に置いた方の手とは反対の手をのび太の頭の上に置く。
やはりその意図が解らず、のび太とセイバーはお互いに目を見合わせ、二人同時に疑問符を浮かべる。
しかし意外にも答えはすぐに出た。





――――この場の誰もが予想しえなかった、ある意味ぶっ飛んだ形で。










「ちゅー」



「「――――――――んむっ!?」」










次の瞬間、フー子の手が内側に引っ張られ、互いに正面からぶつかるような形でのび太とセイバーの唇が重なり合った。










「……え!?」


「は!? ちょっ!?」


「むぅ……?」


「うわー……」


いきなりの事に慌てふためく外野陣。
だが当事者達の衝撃度合いはそんな程度では済まなかった。





(……へ? あれ?)





のび太は傍目からも解るほどに目を白黒させ、一体全体何がどうなっているのかはっきりと把握出来ていなかった。
解るのは、唇に感じる柔らかくも熱を帯びた、自分とは違う人間の生々しい感触だけ。
脳髄がピリピリと焼けつくような感覚。ドクン、とのび太の心臓が一際大きく跳ね上がる。





(今……はい? 私はノビタと……キスを?)





それはセイバーの方も同じだったようで、伝わってくるのび太の感触をただ呆然と、放心したように感じているのみであった。
一秒か、三秒か五秒か……いや、もしかしたらゼロコンマ単位の間だったかもしれない。
やがてして、二人の唇がフッと離れた。
今まで行っていた行動をまだ処理しきれていないのか、ぼんやりと顔を見合わせあう二人。
顔はお互いリンゴのように真っ赤である。





……しかし、事態はそれだけでは終わらなかった。










「のびた、ちゅ~♪」



「んむぅっ!?」










今度はフー子がフワリとのび太の前に現れたかと思うと、いきなりその唇を唇で塞いだ。










「「「「…………!?」」」」


外野陣はもはや声もなく、水面に浮かんだ鯉のように口をパクパクとさせるのみ。
セイバーに続き、フー子とも口づけを交わしてしまった。
再度感じる熱い感触に、のび太の頭はパニックを通り越して既にパンク寸前である。


「フゥ♪」


唇を離した時も、フー子は相変わらずニコニコとしたまま。
何のためにこんな事をしたのか、その真意がまったく読めない。


……だが。





(――――――え?)





のび太とセイバー。





(――――――これは?)





のび太とフー子。





(――――――ん♪)





この二通りの組み合わせの間に、何かが身体の奥底でカチリと繋がれたのをのび太は、はっきりと感じた。
ドクン、ドクンと先程とは違った意味で高鳴る心臓。
膨大な熱がカッと身体の芯から湧き上がり、肉体を突き破り四散させんばかりの圧力が身体中のあらゆる箇所にギシリと走る。


(……ッ!? なっ、なに、コレ!?)


何かが自身の内から込み上げてくるこの得体の知れない感覚を、のび太は訳も分からず受け入れ……そして、“ソレ”は目覚めた。





「――――――うあああああぁぁぁぁぁぁぁあああっ!!」





「っな!? 何ですか……この、異常な魔力は!?」





「フウ♪」






突如巻き起こる魔力の嵐。
三人を中心として迸る魔力の流れが渦を巻き起こし、閃光が周囲の闇を駆逐して全てを照らし出そうとスパークする。
木々は怒涛の魔力流に煽られてざわめき、撒き散らされる魔力による衝撃波が轟々と耳障りな音を辺りに反響させる。


「う……わっ!?」


「な、によこれ……!? 物凄い魔力!」


「ぬぅぐ!? 凄まじい圧力だな……これは!」


「……あら? でも、この魔力って……」


「すごく独特。普通の魔力と感触がちょっと違う」


「……ぅ、そ、れに、魔力が、“三つ”、存在しています」


水を満面に湛えたダムが決壊したかのような、膨大な魔力が齎す圧力に士郎達はおろかダウンしていたセラまでもが、たじろいだ。
ビリビリと肌を通して伝わる感覚が、この普通ならあり得ないだろうこの異様な光景が現実の物なのだと教えてくれる。
そして最後のセラの言葉……その事実が示すものは、ひとつ。
セイバー、フー子、そしてのび太から……これだけの莫大な魔力が発生されているのだ。


(いったなにが……!? 私の魔力量が増加して……っ、違う! “増幅”されている!?)


混乱の中、セイバーは己が身に起こっている変化に戸惑う。
自身にとって心許なかった筈の蓄積魔力量が、堰を切ったように爆発的に増幅されているのだ。
しかも今なお、それこそ際限など知った事かと言わんばかりに継続中ときている。
今ならば、たとえ十回以上宝具を解放しようと、自身の現界閾値以下まで魔力が枯渇するなどあり得ないだろう。
そして、まるで自身の中に潜む何かが猛り狂っているような、言い知れぬ力の漲りと異常な高揚感。
セイバーはこの感覚に覚えがあった。


(バーサーカーと初めて対峙した、あの時と同じ……ではない、それ以上だ! ノビタと口づけを交わしただけで、どうしてこんな……いや、待て。そんな事より)


ハッと、何かに気づいたかのようにセイバーはのび太の方を見やる。


「うぁ、あぁあ……! な、なに、これ!? ぅう、ぐぐ……!」


のび太は目を固く閉じ、歯を食い縛りながら己の内から溢れ出す力を必死に耐え忍んでいる。
そんなのび太の姿を視界に収めながら、セイバーはそっと目を閉じると己の内側に意識を向ける。





(……これは、ラインと……ッ、まさか!? という事は、この現象は……“共鳴”!?)





その時、セイバーはこの異常の原因を理解した。
己の中に存在する、とある“因子”。
それがキスによって繋がれたラインを通じて、のび太の奥底に潜む“なにか”と惹かれあい、互いが互いを刺激し合って共鳴反応を引き起こしているのだ。
バーサーカーと対したあの夜、セイバーの身に起きた変化はこの反応の劣化版。
ラインによる繋がりこそなかったものの、密着状態での視線の交錯と互いの意思の同調が不完全ながらも共鳴を引き起こした。
セイバーの傍らの宙に佇むフー子からの魔力の迸りも、セイバー達の物と質を同じくしている。
フー子ものび太と同じ、そしてセイバーと同じ因子を持っているのだ。





(疑問は多々あるが、間違いない。これは……)





セイバーは確信する。
のび太の奥底深くに眠り、セイバーとフー子との口づけによって完全に覚醒した、『莫大な魔力』を司る因子。
それは……。















「――――――“竜の因子”!!」




















【蛇足】





その時。




「――――――ッ!?」





「ちょっと、速いよジャイアン……! って、あれ? しずかちゃんどうかしたの? 急に立ち止まったりなんかして……」


「あん? なんか忘れ物とか? のび太の家はもうすぐそこなのに……」





「ううん、ちょっと……。なんか、何かを横からパッと取られちゃったみたいな……そんな気がして」





「「はぁ?」」


「おぉ~い、皆! そんな道のド真ん中で立ち止まってないで、ついて来るなら早くしてよぉ~!!」





――――遠い異世界で、そんな事を呟いた小学五年生の女子がいたとか、いなかったとか。







[28951] 第二十六話
Name: 青空の木陰◆c9254621 ID:90f856d7
Date: 2012/01/23 01:30





“竜の因子”





この因子を宿す者は、莫大な魔力を保有するとされる。
召喚が不完全でさえなければ、竜の因子を宿すセイバーの魔力量はこの戦争に呼ばれたどの英霊よりも上だったに違いない。
だがそもそもこの因子はそれこそ希少な、いわば伝説クラスの特殊なシロモノなのである。
英霊の座に存在する英傑をかき集めてみても、この因子を持つ者はきっと数えられるほどしかいないのではなかろうか。
そんなレア物をどうして一般小学生であるのび太が保有しているのか。
フー子の場合はまだ解らなくもない。
元々風の魔怪竜であるマフーガの一部だったのだ、そういう事があっても取り立てて不思議な事ではない。
だがのび太の場合は明らかに不自然だ。いったいどういう事なのか。





「――――ノビタ……貴方が、何故“竜の因子”を持っているのですか?」


「えっ!? り、竜の因子って……あ。 ひょっとして……あの時浴びた『竜さんのだし汁』!?」





その理由は至極単純。
のび太は過去に、竜の細胞を取り込んだ事があるからだ。


“気ままに夢見る機”


のび太はかつてこの機械を使って、自分の見る夢を『夢幻三剣士』という物語に変え、夢の中の登場人物かつ主人公である剣士となった事がある。
その中において、のび太はその血を浴びれば不死身になれるという伝説の竜と対峙し、これを屈服させた。
だがのび太は力の象徴である髭のみを断ち、命も血も取らなかった。
竜はこれに感心し、のび太の恩情に報いる形で己の汗を溶かし込んだ温泉を用意してくれたので、のび太はそれに全身を浸したのである。
汗の成分は大半が竜の死んだ細胞や老廃物だが、中にはまだ生きている細胞もあれば新鮮(?)な体液も混じっている。
それらを含ませた湯を全身に浴び、身体に浸透させたのび太は竜の因子と加護を得、一度だけ死から復活する事が出来るようになった。
……だが、これはあくまで夢の中での出来事。
夢は言うまでもなく現実ではない。
たとえ夢の中で竜を屈服させ、『竜のだし汁』を浴びて加護を得たとしても夢では現実世界に欠片も影響を及ぼさない。





「は、はい? だし汁? 何の話ですか!?」



「あ、え、えと……前に、夢の世界で竜さんの汗を溶かし込んだ温泉に浸かった事があって、たぶんそれかなぁって……!?」



「ゆ、夢!? ノビタ、夢は現実ではありませんよ! 貴方は私をからかっているのですか!?」



「え、いや……っ!? あの時は確か……“気ままに夢見る機”の、夢と現実を逆転させるボタンを押してたから……きっと、それで!」





……しかしながら『竜のだし汁』を浴びたこの時、のび太は“気ままに夢見る機”に取り付けられていた夢の世界が現実に、現実の世界が夢となるスイッチをONにしていた。
故に、“竜の因子”を取り込んだ事が『現実』の事となったのだ。
その後、のび太が一度命を落とした事で蘇生の効果が発動し、この竜の加護の効力は完全に失われてしまった。
……そう、加護“だけ”は。





「……言っている事がよく解りませんが」



「あ~……うー……ああ、もう! 上手く説明出来ないよ! と、とにかく! 後でまとめて話すから!」





加護は消えても、その加護の大元である因子まで消え去った訳ではない。
のび太の身体の奥深くにまで喰い込んだ“竜の因子”は役目を終えた後、のび太の身体の奥底で深い眠りについた。
しかし、この世界で同じ性質を持つセイバーと出会った事で、少しずつではあるが“竜の因子”がのび太の奥底で覚醒し始めたのだ。
その証左となる予兆が、英霊にも容易く通用したひみつ道具である。
ひみつ道具はどれほど高性能かつ理不尽でも元々はただの道具でしかなく、魔術具でもなければ宝具でもない。
それ故、神秘の塊である英霊に強い影響を与えるには至らなかった……筈なのだ、本来ならば。
だが目覚め始めていた“竜の因子”が、のび太自身にほんの微かな、それこそ注意深く慎重に探らなければ解らないほどの神秘を与え、結果としてのび太の使用するひみつ道具にその影響を及ぼした。
ひみつ道具は物にもよるが、基本的に通常ならば手が届かない概念に未来の超科学の力で踏み入っている。
“タイムふろしき”ならば時間の概念、“スモールライト”あるいは“ビッグライト”ならば質量保存の法則等の物理法則の無視といったように。
であるからして、道具の受ける影響がほんの少しの神秘でも、道具そのものが操作し得る概念で以てその比重は飛躍的に跳ね上がる。
それこそ隠れた宝具と呼んでも差し支えないほどに。
ひみつ道具が英霊に対して強烈に干渉出来ていた理由はここにあった。
そして今、セイバー・フー子とキスを交わした事で二人の間にラインが繋がれ、その結果引き起こされた因子同士の共鳴反応によってのび太の中の“竜の因子”が表に引きずり出され、完全なる覚醒を果たした。


「――――言い合いはそこまでにしておいて。それでセイバー、いけるの?」


「あ、はい。これなら……大盤振る舞いが可能です、リン」


「よっし! じゃあ……!」


口角の上がった笑顔を見せたセイバーに凛はグッと拳を握り込むが、それと同時に。





『―――――――――――――――――!!!!』





狂える風の魔竜が、猛る魔力の奔流に反応。
炯々と怪しく輝く眼光を、下方の魔力光に叩き付けた。
一同の背筋に、緊張の悪寒が伝播する。


「――――来るぞ、皆!」


「セイバー、頼むわよ!」


「はい!」


猛毒に侵され、もがき苦しんでいるかのように空中を跳ね回りながら、地上の光源へと吶喊してくるマフーガ。
さながら誘蛾灯に飛び込む蛾、いやルアーに喰らいつこうとするブラックバスか。
条件反射染みた、行動に一片の迷いもない反応……知性と理性を無理矢理削ぎ落とされた影響がここに如実に現れている。
溢れんばかりの凶暴性と狂気を制御の『せ』の字すらも感じさせる事なく、ただ闇雲に撒き散らしながら無二無三で突っ込んでくる。
ジャリッ、と靴音を鳴らし、それぞれ臨戦態勢を取る一同。
……だが、その前面に。





「――――フゥッ!」



「あっ、フー子!?」





台風の子どもが単身、躍り出た。
地面から一.五メートルほど身体を空に浮かせ、身に纏った魔力の燐光がホタルのようにボウッと淡く輝いている。
活性化した“竜の因子”から溢れ出る魔力の副産物であり、体表から漏れ出た魔力(オド)が徐々に気化していっているが故の発光現象なのだが、はっきり言って異常な量を誇る魔力生成量だからこそ起こり得る事象なのだ。
並みの魔術師がこの現象を起こそうとするならば、たとえ命を削って魔術回路をフル稼働させたとしてもこの万分の一も輝きはしないだろう。
凛やイリヤスフィールといった一流どころなら、命を燃やし尽くせばあるいは可能かもしれない。


「フー子、危ないよ! 下がって!」


「のびた、あいつ、やっつける、からだ、くも、どうじ!」


「へ? ……あ! つまり台風と竜を同時に攻撃して斃さないとダメなんだね!?」


「フ!」


首肯するフー子。
先にも述べたが、今迫ってきているマフーガは確かにマフーガではあるが、その本体であると同時に『端末』でもあるのだ。
空を覆い尽くしているどす黒い超低気圧がある限り、どれだけ竜を屠ろうと即座に再生を果たしてしまう。
ならばどうするか。
簡単な話だ、両方とも同じタイミングで纏めて消滅させればいい。
そうすれば完全に怪物の命脈は断たれ、二度と再生する事はない。


「って、簡単そうに言うけどね! あの二つをどうやって同時に消滅させるのよ!?」


「え、それは……あれ、どうしましょう!?」


「いや、そこで俺達に振られても困る! アーチャー、お前何とか出来ないか!? あのカラド……何とかって矢とか使っ「無理だ」って、即答か!」


水を向けられたアーチャーであったが士郎が台詞を言い終わる前にそれを一刀両断。
そのまま目を瞑り、フウとやや重い吐息を漏らす。


「圧倒的に威力が足りん。それにあれは一度しか使えんと最初に言った筈だ。……セイバー、頼りきりという形になってすまんがいけるか?」


「ええ。斃しきるには問題ありません……が、同時にとなると、少々厳しいですね」


フー子と同じように魔力の燐光を発しながら、セイバーは不可視の剣を構えつつ唸る。
過剰とも言えるほどの魔力供給……いや、魔力増幅を受けた今、火力面では全く問題はなくなった。
だが竜と台風を同時に屠れと言われても、宝具の特性を考えれば甚だ無理な注文である。


「せめて、竜の直線上に台風の核があれば諸共に「フゥ!」……はい?」


ジリジリと焦燥を感じつつあったセイバーであったが、横合いからフー子が笑顔で手を上げた事に目を点にする。


「ボク、やる!」


「は?」


「おねえちゃん、ボク、する!」


「え、あの? フ、フーコ?」


戸惑うセイバーを余所に、フー子の発する輝きが一際大きくなる。
それと同時にのび太の身体もボウ、と再び魔力の輝きに包まれ始めた。
フー子側からラインを通して“竜の因子”同士をリンクさせ、自身の魔力を急激に高めているのだ。


「フ、フー子!? 何をするの!?」


「フウウウウウウウウウウウウゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥ!!!!」


自身の変化にギョッとしつつもフー子を気にするのび太であったが、フー子は高らかに声を上げると小さな両の掌を大きく天に掲げた。
放出から集束へと転じるフー子の魔力。燐光もフー子の身体に圧縮され、フー子の身体が異常な眩さで光の中に霞んでいく。


「眩しっ!」


のび太が手で光を遮ろうと手を翳したその時、パンッ、と唐突に光が弾けて消え去った。
のび太の光もそれと同時に掻き消える。
光源がなくなり、そろそろと手をどけたのび太の目に映ったのは、フー子を取り囲むように展開された、四つの空間の軋み。


『―――――――――――――――――!!!!』


「何かするなら急いで! もうそこまで来てるわよ!」


「フー子!」


……いや、軋みと言うにはやや語弊がある。
それは空間が歪んで見えるほどの超高密度に圧縮された、空気の塊であった。
バスケットボール程度に固められた空気の中で、凄まじいばかりの大気のうねりが巻き起こされている。


――――そして。





「――――――フウウウウウウウウウウウウゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥ!!!!」





フー子の手が振り下ろされると同時に、全ての空気塊が解放された。
中から現れたのは、凄まじいまでの唸りを上げる四つの巨大な竜巻。
ギリギリと次元を切り裂こうかという爆発的な圧力と回転力そのままに、風の渦は頭上に迫るマフーガへと滝を上る竜の如く長大な螺旋を描く。


「うわっ!?」


「これは、何という……!」


「凄い……!」


「ちょ、ええ!?」


「むぅ……っ!」


「何、これ……」


吹き荒れる余波を凌ぎながら、各々がフー子の力に瞠目する。
それはフー子をよく知るのび太とて例外ではない。
いくら台風の精、そして風を司るマフーガの一部であったとはいえ発生した莫大な魔力を全て風の力へと変換し、それを四つの竜巻と成して放出するなど並大抵の事ではない。
一流の魔術師でも生半(なまなか)な労力では成し得はしない……それを見た目、のび太よりも幼い少女が平然とやってのけているなど、現場を目の当たりにした者でなければ到底信じられないであろう。
それにかつてのフー子は風を操れる存在ではあったが、流石にこんな事までは出来なかった。
精々が自力で飛翔したり、風を巻き起こしたり、過去にマフーガ諸共消え去った時のように、エネルギーとなる熱風を限界まで取り込んで力をため込み、己を爆弾として特攻する程度のところまで。
これだけでも十分凄いが、今やった事は明らかにその遥か上を行っている。


『―――――――――――――――――!!!!』


「あっ、マフーガが!」


「竜巻に絡め取られている……!?」


その秘密はのび太の使用した“精霊よびだしうでわ”にあった。
以前のび太が偶然から呼び出した雪の精は自分が消えるのを嫌がり町中に大雪を降らせ、春の到来を遅らせようとした。
町一帯を銀世界に閉じ込めるという所業。これも竜巻を巻き起こすのと同様、やはり尋常の業ではない。
つまり“精霊よびだしうでわ”によって呼び出された精霊は……その呼び出された者の性質と属性にもよるが……人知を超えた、それこそ上位英霊クラスの強力な力を持っているのだ。
それに加え、フー子自身の格はその出自により、元々かなりの高みにある。
精霊具象化の煙に飛び込んだ事で本来の“台風の精”の力をも取り込み、結果としてフー子は最上位英霊クラスの風を操る精霊として降臨した。
それこそ今のマフーガに肉迫する程の、途方もない力を宿して。


「う、ううううぅぅぅぅ……!!」


「フ、フー子!? 大丈夫!?」


眉間に皺をよせ、表情が苦悶に歪むフー子にのび太は堪らず声をかける。
だが急に体調に不調をきたしたとかそういう事ではない。
予想以上に怪物の抵抗が凄まじいのだ。


『―――――――――――――――――!!!!』


頭上では、怪物が四つの竜巻の中心にその身を拘束されている。
竜巻は徐々に肥大しながらグルグルと怪物の周りを螺旋状に旋回し囲い込み、暴風の檻を作りだしていた。
吶喊を強制的にキャンセルされ、動きを封じられた今のマフーガは、さながら投網に掛かった魚のようなもの。
だが、タダで捕まってやるような生物などこの世に存在しない。
格子を無理矢理引き千切ってそこから逃れ出ようと、網の中で巨大魚が身体を盛大に捩じらせ、牙を剥きだして盛大に暴れ回っているのだ。
当然ながら、フー子にかかる反発も相当にくる。
そもそも元々の彼我の地力が二倍開いているのである。
それでいながらマフーガという化け物を拘束するというこの所業そのものが、既に奇跡的と言って差し支えないだろう。


「フウ……ゥゥウ……ッ!!」


襲い来る強烈な負荷に歯を食い縛りながらも、フー子は怪物の飽くなき抵抗を全力で以て抑え込みにかかる。
強い意志を秘めた、どこまでも真っ直ぐな眼差し。
のび太を、そして背後の皆を護るという凄烈な気迫が陽炎のようにその小さな身体を取り巻いている。


「フー子……」


それでのび太は悟った。
今のフー子には、怪物諸共に消え去るという意思はないと。
怪物を斃し、のび太と共に生きるという渇望が、彼女の全身から確かな覚悟となって滲み出していた。





「フー子……ッ、フー子! 頑張れッ!!」





だからのび太はあの時とは違う心からの、力強い声援を送る。
少しでも、フー子の力になれるように。


「……ッ、フゥ!」


厳しい表情を崩さぬまま、だがフー子は微かに微笑む。
そして突き出していた両の掌をそのまま身体の前でパァンッ、と強く重ね合わせ握り込むと、





「フウウウゥゥゥゥゥウウ!!」





全身全霊の力を籠めて、抉り込むように前方に勢いよく突き出した。


『―――――――――――――――――!!!!』


一気に集束する四本の竜巻。すべてが一斉に縦に、雑巾のように引き絞られる。
急激に空間面積が狭められた暴風の檻の中に、マフーガは抵抗の力すらも完全に封殺され、空中にガッチリと固定されてしまった。
そして竜巻の先端が台風の目……低気圧の核へ凄まじい勢いで直撃し、低気圧が安定状態から段々と不安定な物へとブレ始める。
この瞬間、二つの怪物の本体がフー子の竜巻によって一直線上に繋げられた。


「おねえちゃん、いまっ!!」


「――――ッ、はい!」


鬼気迫るフー子からの号令。意図を汲み取ったセイバーは不可視の剣を腰だめに構え、身構える。
一呼吸置き、瞬きを一度。
そうして己の背後にいる士郎達に振り返り、静かにこう口を開いた。


「……これから起こる事に関して、もしかすると少しばかりショックを受けるかもしれません。特に……」


そこで言葉を切り、そのまま傍らに立つのび太へとその目を向ける。


「へ?」


「……いえ。――――では、いきますよ!!!」


キョトンとするのび太から視線を外したその瞬間、セイバーの魔力が爆発的に膨れ上がる。
それと同時に二人の身体がより一層強い魔力の輝きに包まれた。
フー子と同じように、セイバーの方からのび太の中の“竜の因子”へアクセスし、互いの因子を共鳴させたのだ。
バチバチ、と身体から魔力の放電現象が発生する中、セイバーは諸手に掴んだ剣へと一気に魔力を注ぎ込む。


『風王結界(インビジブル・エア)』


高密度に圧縮された空気で光の屈折率を操作し、本体を不可視状態にする“鞘”。
この圧縮空気を解放、放出すれば『風王鉄槌(ストライク・エア)』という、一度きりの風のハンマーを繰り出す事も出来る。
しかしセイバーの言葉の通り、これらはあくまで本命ではない。
本命はその奥、『風王結界(インビジブル・エア)』に覆われていた、剣そのもの。
次から次へと溢れ出すセイバーの魔力を受け、薄皮が剥がれていくように、不可視だった剣が徐々にその真の姿を現していく。
そこにあったのは――――黄金に輝く、一振りの西洋剣。


「「――――え?」」


のび太と士郎の声が重なる。
目は大きく見開かれ、口が半開きになっているその様は、まるで信じられない物を見たとでも言わんばかりだ。
いや、二人だけではない。他の者も似たり寄ったりの反応である。
さもありなん。
桁違いの存在感、途轍もない威圧感。
そして何より……全ての者の目を釘付けにする、その輝きの神々しさ。
満天の星の光を余すところなく凝縮させたような、そんな眩いばかりの煌めきが枯れた森を幻想的に照らし出す。


「はぁああああ……!!」


眼光鋭く、セイバーは剣気を漲らせ、黄金の剣を高く高く振り翳す。
濃密な魔力で満たされ、ショートするかの如く紫電を幾筋も駆け巡らせる刀身。
やがてその刃から、爆発的な光の奔流が迸った。










「――――――『約束された(エクス)……」










深緑の瞳が、上空を見据える。
竜巻の牢獄に磔にされてもなお咆哮を上げ続ける怪物。
その奥にある、超低気圧の中心核。
二つの本体を諸共に、この剣で葬り去る。
リスクはある、懸念もある、そして……僅かの申し訳なさもある。
だが躊躇いはない、そんなものは微塵もない。
ここで剣が止まれば、生還は果たせないのだ。
身体の奥底から湧き上がる、マグマのよう煮え滾る闘志。
それに呼応するかの如く、剣が一層輝きを増す。
瞬間、立ち塞がる眼前の全てを両断せんとばかりに、セイバーの腕が渾身の力で振り下ろされる!










「――――――勝利の剣(カリバ)』アアアアアアアァァァァァァァッ!!!!」










剣から放たれ、天を駆け上がる光。





それはフー子の作り上げた牢獄をいとも容易く突き抜け。





最後の力で牙を剥いた竜の咢をあっさりと食い破り。





更に天空へと飛翔して。










――――台風の核を両断。上空の暗雲全てを巻き込んで、風の怪物をその光の中へと消し去った。




















「……エクス、カリバー?」


光の残滓が粒子となって空から舞い落ちる中、呆然と呟くのび太。
すでに暗雲は須らく雲散霧消し、ただの一片たりとも残ってはいない。
嵐のような暴風も、横殴りの驟雨も雷鳴もなく、ただ金色の雪と満天の星とが空一面に散りばめられていた。
あの光の一撃は……たったの一撃で、マフーガの全てを消滅させてしまった。
恐るべき力、恐るべき破壊力。
だがそれをも上回る衝撃を、のび太はある事実より受けていた。
それは……セイバーの金色の剣の銘。


『エクスカリバー』


それはあまりにも有名な聖剣の名。
湖の妖精より授けられしその剣を持つ者は、ただ一人。
かつてイングランドにその名を馳せ、未来に復活するとされた、史上最高の騎士の王。
そしてのび太がこの世界に迷い込む事になった、その発端ともなる人物。


「セイバー……ま、まさか、君は……君の、正体って、もしかして……?」


「――――、はい」


いまだ輝きの衰えぬ剣を片手に、セイバーはゆっくりとのび太と、そして士郎達の方へと向き直る。
そしていささかも表情を変えず……だが瞳に僅かの憂いを浮かべ……こう告げた。










「私の真名は……“アルトリア・ペンドラゴン”。遥かな過去、『アーサー王』と呼ばれていた者です」










『――――――!!!?』


「フ?」


彫像のように固まる一同。
フー子だけはなんの事かよく呑み込めなかったようで、我関せずであったが。
アーサー王というビッグネームもさることながら、一番衝撃的だったのは。


「アーサー王が……女の子?」


士郎の唖然とした声にセイバーはゆっくりと頷きを返す。


「はい……。伝承ではアーサー王は男とされていますが、真実は違う。剣を取ったあの日以来、性別を最期まで偽っていましたので……」


「男として伝説に残った、という訳、ね……。たとえ嘘でも、最期のその瞬間までつき通せばそれが真実として後世に語り継がれる……虚構の伝承でも、それが真となる」


言葉の先を補足する凛。
セイバーはそれに首肯のみで返答すると、そのままのび太へと向き直ると、なんと突然その場で頭を下げた。


「……申し訳ありません、ノビタ」


「っえ? ど、どうして、セイバーが謝るの?」


何の脈絡もなく飛び出してきた謝罪にのび太は面食らう。
低頭からきっちり三秒後に、顔を上げるセイバー。どことなく沈痛な面持ちで、そのまま言葉を続ける。


「……いえ。貴方は当初、アーサー王に会おうとしていたのでしょう? それがこんな、期待外れで……」


「そっ、そんな!?」


のび太はブンブンと首を振り、セイバーの言葉を真っ向から否定した。
確かにアーサー王のイメージはどこまでも凛々しくて気高い、まさに騎士王と呼ぶに相応しいという感じの、キリッとした男性像だった事は間違いない。
しかし期待外れというのは心外だ。
のび太はそんな事は、露程も思っていない。


「そんな事思ってないよ! そ、それはまぁ……女の子だったとは思わなかったけど……でも期待外れだったなんて、そんな事、ちっとも!」


「……ッ」


一瞬だけ、ピクリと反応を示したセイバーであったが、表情は優れないまま。
その様子に違和感を覚えたのび太ではあったが、とりあえず更に言葉を続けよう口を開きかけた、その時。





『――――そうか。それが貴様の剣か、セイバー』





低く、重厚な声が耳に響いた。
一同が弾かれたように、一斉にそちらに向き直る。
そこにいたのは。





『恐るべき威力よ……あれが滅されるのも至極当然の帰結か』



「ば、バーサーカー!! 無事だったの!?」





光となって爆散した筈の鈍色の狂戦士、バーサーカーであった。
いまだに威風堂々と佇むその雄姿を目にした、イリヤスフィールの歓喜の声が響く。
……だが。


『……無事、とは言えぬ。主よ。我は既に、敗者として消え去るのみの運命(さだめ)』


足元から光の粒子となって消え始めているその姿に、イリヤスフィールの表情が一転、悲痛なそれへと変貌した。


「バーサーカー……お前、喋れたのか?」


『狂戦士は己が最期の瞬間のみ、その狂気から解き放たれる。衛宮士郎よ』


「ッ!? お、俺の名前を……?」


まさか己が名を知っているとは思っていなかったのか、士郎は軽く目を見開く。
しかし続けて出てきた言葉に、士郎は目を剥いた。





『我が死の後、主を頼む。主は――――――貴様の義姉なのだ』





「……っな、に!?」


バッ、と士郎は傍らのイリヤスフィールを振り返る。
それを受け、瞳に涙を滲ませながらもイリヤスフィールは首肯を返す。


「……わたしの母は、アイリスフィール・フォン・アインツベルン。そして父は……当時アインツベルン所属の魔術師だった、エミヤキリツグ。わたしが生まれたのは、シロウよりほんの少しだけ前。だから……シロウはわたしの……」


まさかバーサーカーがそれを言うとは思ってもみなかったようで、彼女の目もまた大きく見開かれていた。
だが、いきなりそんな事実を目の前に突き付けられて、「成る程、そうだったのか」とそう簡単に受け入れられる訳がない。
養父たる衛宮切嗣が過去にどこで何をしていたのか、士郎自身何も聞かされてはいない上に第一、イリヤスフィールの見た目と実年齢が明らかに違いすぎるのだ。
いったい何がどうなっているのか、士郎は頭が混乱し始めた。


「はぇ? あのぅ、ギシって?」


「……血の繋がらない姉という意味です。ノビタ」


「へぇ……って、お姉さん!? えっ、それにしては……その……」


『詳細は主から聞くがよい。今この場において、我の願いはただその一つのみ。そして……小さき英雄よ」


「え……って、ぼ、僕ッ!?」


そう言ってバーサーカーが視線を向けたのは、のび太。
唐突に英雄と呼ばれた事に、のび太は面食らってしまう。
そもそもどうして英雄などと呼ぶのか、のび太には皆目見当もつかない。
だがバーサーカーには、のび太を英雄と評する確固たる理由が存在していた。


『あの魔竜の記憶から、貴様の事はおおよそ把握している。貴様の幾多の功績の前では、我の成し遂げてきた事など小事に過ぎん』


「え、えぇ?」


『天上の女神により狂気に染められていたとはいえ、我は己が妻子すら護る事は叶わなかった。どころか、我が子を自らこの手に掛けてしまった……。我が道程において、障害を破壊する事は成せても、真の意味で救いを齎す事は終ぞ成し得なかった』


つらつらと述べられる言葉の真意を量りかね、士郎達は首を傾げる。
その中において、アーチャーが僅かに眉根を寄せ、のび太をジッと見つめていた。


『誇るがよい。大英雄と謳われ、オリュンポスの神々の末席に加えられた我ですら成し得ぬ事を、年少のその身で貴様は幾たびも成し遂げてきたのだ。貴様を英雄と呼んだはそれよ』


「そ、そんな事……僕は、僕なんか、ただの……」


どう答えたらいいのか、のび太には解らない。
第一、持ち上げすぎじゃないのかとすら思っていた。
自分はただの、非力な小学生でしかないのだ。
どれだけ今まで波乱の体験を重ねて来ていたとしても、それだけは変えようのない事実なのである。
そうこうしているうちに、バーサーカーの肉体は既に腹の辺りまで崩れ始めていた。


『……もはや時もない。心して聞け、小さき英雄よ。この戦争の裏には、恐るべき“闇”が潜んでいる』


「や、“闇”……?」


『我があの魔竜の姿に変えられたのも、その“闇”の仕業であろう。確証などはないが……あの魔竜の記憶を信ずるならば、これだけは断言出来る。あの魔竜は、我の器と肉体を基に、貴様の記憶から象られたのだ』


「僕の、記憶から?」


言っている事はよく解らなかったが、なんとなくとんでもない事が起こっているのだという事は窺い知れた。
自分の記憶からマフーガが再現されたと、バーサーカーは言う。
バーサーカーが言うところの“闇”がいつ、どのようにのび太の記憶を知ったのか、それは定かではない。
しかしサーヴァントが、その“闇”の手によって自分の記憶の中にある強大な敵に変貌したというこの事実。
……最悪の想像が脳裏をよぎり、のび太の背中に冷たい物が走った。


「ちょっと待ちなさいバーサーカー。いろいろ言いたい事はあるけど、つまりセイバーやアーチャーもあんな怪物に変わるかもしれないって事?」


『そうだ。英霊の器とエーテルを基にしている以上、この戦争に呼ばれたすべての英霊にその可能性がある。そこの幼き台風の精のような事象は例外中の例外だ。あの魔竜が、その存在を内包していたモノだったからにすぎん。おそらくは、二度と起こるまい』


凛の推測を、バーサーカーは肯定する。
その表情は険しく、血の気がやや失せているようにのび太には窺えた。


「その“闇”とは、いったい何者なのだ?」


『解らぬ。正体も、目的も、何もかも。ただ、この戦争に関わる全ての者は、その“闇”の掌の上であるという事は確かであろう……』


言い終えたその途端、バーサーカーの腕が完全に塵と消え、ついで胸元までが光の粒子へと還元され始めていた。
いよいよ最期の瞬間が来たのだ。
バーサーカーはのび太、フー子、士郎とセイバー、凛とアーチャーを順に見据え、最後の忠告を告げる。


『この聖杯戦争は既に従来のそれを大きく逸れ、歪で異常な物へと変貌している。覚悟せよ。小さき英雄、我が分身でもある台風の精。そして剣と弓の主従よ。貴様達の行く先には、想像を絶する過酷な運命が待ち受けている』


「バーサーカー! やだ、消えちゃやだっ!!」


抑えていた感情の決壊。
白の少女の嗚咽混じりの懇願が、闇の帳を揺さぶる。
だがその願いは届く事はなく、鈍色の身体はついに首のみを残すだけとなった。
そして崩壊が口元へと迫ったその時、バーサーカーは全ての情念をこの言葉に込め、自らの現界のピリオドとした。










『さらばだ。親愛なる我が主よ……そして兵(つわもの)達よ。抗え、この漆黒の運命に。切り拓け、光明の射す運命を。その全ての鍵を握るのは、おそらく――――』










その先を言い終える事無く、頭部が完全に光の塵となって拭い去られ、狂戦士の大英雄は枯れた森の闇に消える。
だが今わの際に、理性を取り戻したその眼が見据えていたのは、










――――――己を超えた英雄と評した、眼鏡の凡庸な少年であった。




















「……これからどうするんだ、イリヤ?」


「……バーサーカーの言った通りにするわ。お城もあんなになっちゃったし、それがバーサーカーの遺志だから」


涙を拭い、イリヤスフィールは士郎の問いにそう答えた。
顔を上げた彼女の眼には悲嘆の揺らぎが色濃く映っていたが、それ以上の確かな強い意志が輝いており、それが彼女の芯の強さを感じさせて士郎は僅かに瞠目する。
そして彼女の視線の先には……、


「あ~……これじゃ確かに住めそうにないもんな」


無残な姿を晒す白亜の居城があった。
あの威風堂々とした佇まいはどこへやら、どてっ腹に大穴がぽっかりと開けられており、向こう側の景色が素でその姿を覗かせている。
屋根は粗方吹き飛ばされ、下部のレンガ材が剥き出しにされておりしかもところどころに亀裂が走っていて、少し突っついただけであっさり崩れてしまいそうだ。
壁も手で触れずともボロボロだと解るくらいの悲惨な有様で、よく倒壊せずに持ちこたえていられるものだと溜息が出そうなほどである。
外見だけでこの惨状では、中の様子もおおよそ想像がつくというもの。


「……まあ、致し方ありませんね。……はぁ」


「修理、当分かかる。下手すると、年単位……」


復帰した従者二名のどこか投げやりめいた声が、その深刻さを雄弁に物語っていた。
怪物の吶喊によって一同が吹き飛ばされたあの時。
その進路の延長戦上にあったアインツベルン城を豆腐のように突き抜けて、身に纏った超高気圧の衝撃波でズタズタに引き裂いていった事でアインツベルン城は壊滅した。
至る所がヒビ、歪み、瓦礫だらけの満身創痍。さながら落城寸前の城砦を思わせる。
これならいっそ全てを取り壊して新しく建て直した方が、修理するよりも早く済みそうである。


「俺は別に構わないけど……いいか、皆?」


「交戦の意思もないようですし、私は構いませんが」


「わたしもいいわよ。ま、ボランティアって訳じゃないから、情報提供とかはしてもらうけど」


「……ふむ、特に異論はない」


「僕もいいです」


とりあえず、アインツベルン組の衛宮邸入居は満場一致。
これ以上ここにいても仕方がないので、早々に戻る運びと相なった。
異常事態と連戦のおかげで全員が疲労困憊。特に精神面の疲労が著しい。
一刻も早く休みたいというのは、この場にいる全員の共通認識であった。


「……そういえば、その子。フー子、って言ったっけ? バーサーカーみたいに消えなかったんだ」


「フ? ボク、バーサーカー、べつ。のびた、つながってる。ボク、のびた、いっしょ」


そう言って、フー子はのび太の手を握る。
のび太との間にラインが繋がった事で、フー子はバーサーカーやマフーガとは別の存在として独立していた。
ある意味、のび太のサーヴァントであるとも言える。


「あ、アハハ……」


嬉しさ半分、気恥ずかしさ半分といった様子でのび太はパリパリと自分の後頭部を掻いている。
花が咲いたような笑顔のフー子と共に手をつなぐその様は、まるで仲のいい兄妹のようだった。


「フーコ、貴女も一緒に来ますか?」


「フ!」


セイバーからの問いに、フー子は間、髪を入れずに頷きを返す。
選択の余地などないと承知の上での一応の確認であったが、これでフー子も晴れて衛宮邸の住人となった。


「話はこれで決まりね。さて、これ以上時間も無駄に出来ないし、さっさと戻るわよ。流石に疲れたし、詳しい事は明日詰める事にするわね。……特にのび太、アンタには色々と質問事項があるから、そのつもりでいなさい。じゃ、“どこでもドア”を出して」


「あ……あ、はい」


要請に応え、のび太が“スペアポケット”から“どこでもドア”を取り出しガチャリ、と扉を開けると、その先に衛宮邸の玄関があった。
流石に士郎達はいい加減慣れたもので、何も反応を示さなかったが、アインツベルン組はそうはいかなかった。
文字通り、別空間への扉を開くという荒業を何らの苦労もなく、成し遂げているという事実に揃って訝しげに首を傾げる。


「……どうなってるの、これ?」


「魔術……ではありませんね。しかし空間と空間をドアを間に直結させている。いったいどんな原理で……?」


「お風呂の時のドア? ……お風呂に着いてない」


「着かないよ!?」


――――訂正。約一名、疑問のピントがズレていた。










狂戦士との死闘はこうして思わぬ異常事態と出会いを齎し、その幕を下ろした。
ドアを潜り、数名の新参者を加えて衛宮邸へと帰還を果たす一同。
日本はおろか、東アジア一帯をも呑み込もうとしていた超爆弾低気圧は綺麗に消え去り、後には星が煌々と輝く、雨上がりの抜けるような濃紺の夜空がどこまでも広がっていた。




















――――――だが。




















「……ようし、まずは一体分。バーサーカーこと“ヘラクレス”。流石大英雄サマ、文字通り“器”が違うねェ。あの風の魔竜に変化させてもぶっ壊れなかっただけの事はあるぜ。結構な純度じゃねぇかよ、ヒヒ」





破壊の痕跡が生々しいアインツベルン城内。
手摺や背後の窓ガラスが消し飛んだバルコニーの上で、顔中に嗤いを滲ませる者が一人。
手にしたハンドボール大の水晶を、バスケットのように人差し指の上でシュルシュルと回転させ弄びながら、眼下の森のある一点を見下ろしている。
そこはつい先程まで、のび太達が佇んでいた場所であった。
人間の影はおろか、“どこでもドア”すらも移動した後で既になく、ただ荒れた大地があるだけの地面をいったい何が面白いのか、ニヤニヤと薄気味悪い嗤いを浮かべながらジッと見入っている。





「あの半ホムンクルスはいつ気付くかねェ? ま、ちっと時間が掛かるかもなぁ。オレの推測じゃあ、『自覚症状』が出始める筈なのがだいたい二、三体目くらいからだろうし。けどまあ、やっぱパクっといてよかったぜ、あの“カメラ”。発想の転換次第で、こんな事だって出来るんだからよ、クヒヒヒ!!」





一頻り嗤い終えた後、その者……この戦争の真の黒幕たる“闇”は右手の水晶をパシッと掴み回転させるを止め、濁った瞳で中を覗き込む。
その中にあったのは……いや、封じ込められていたのは……。





「これからが本番だぜクソガキ。テメェはこの後も、オレプロデュースの“裏側の悪”と対峙してくんだ。せいぜい泣いて喚いて、命張れや。んでもって、とっととオレのところまで辿り着け。願いを叶える聖杯は……『染まっていねぇ聖杯』は、“ココ”にあんだからよぉ。――――――ケケケケケケケケケケケケケ………!!!」





――――アインツベルンの白の少女を模した、愛らしくも精巧な人形であった。







[28951] 第二十七話
Name: 青空の木陰◆c9254621 ID:90f856d7
Date: 2012/02/20 02:00








『――――――よかった……生きていてくれて……!!』








『――――――その剣を取る前に、もう一度よく考えた方がいい……』










「う、ぅん……うぅ」


朝の光が閉じられた瞼を刺激し、微睡(まどろみ)の中に浸った意識を覚醒へと導いていく。
急速に眠気を奪われていく感触に、のび太は眠りの底から引き上げられた。


「……ふぁ……く、ぁぁあ……あふ」


欠伸混じりにクシクシと眦を擦りながら、のび太は布団から上半身を起こす。
冬の朝特有のひんやりとした空気が肌を撫で、布団の中で発生していた熱を拭い去っていく。
そんな冷え冷えとした感覚を覚えながらもあまり肌寒く感じないのはどういう訳だろうか。


「うぅ……むにゅぅ……ふあぁふ……ッ、っと……なんだろ。なんか……変な夢見てたような」


寝ぼけ眼のまま、のび太は先程の情景の残滓を手繰り寄せてみる。





――――赤い炎、降りしきる雨、倒れ伏す子ども、くたびれたような印象の大人の男性、どこか安堵したような声。





――――見渡す限りの草原、そよぐ風、岩に腰を下ろすフードの老人、しわがれるもどこか峻厳な声。





ブツ切りの、細切れ同然の場面場面がポツリポツリと浮かび上がり、


「うー……、さっぱり分かんないや」


とりとめのない結論に終わってしまった。
適当な映画フィルムの断片をつないだようなイメージでは、如何せん整合性がなさすぎるのだ。


「う~……っ、くっ!」


そうして訳の解らない夢なんてどうでもいいかとばかりにのび太はそのままググッと伸びをし、布団から出ようとする。
……が。


「……あれ?」


身体が上手く動いてくれなかった。
もう一度起きようとするが、何かが身体を押さえつけているようであまり動かせなかった。
服に鉄球かなにかが紐で繋げられているような、妙な重みと違和感。


「ん~……? なんか、服をひっぱられてるような……。布団の中?」


と、のび太は自分の腹の辺りに掛かっている掛布団を引っぺがしてみる。
すると。





「――――んぅ……」





柔らかい唸り声と共に、オレンジの髪が視界に飛び込んできた。
一瞬、ビクッと驚きで身を竦ませたのび太であったが、しかしそのオレンジの髪の持ち主には覚えがあった。





『――――のび太君。悪いんだけど、君の部屋でフー子を頼まれてくれるかな? 気兼ねがいらないだろうからその方がいいと思うし、それに……』





そして昨夜の就寝前のやり取りの内容も、連鎖的に思い出した。


「あ、そっか……。一気に人数が増えて、布団が足りなくなっちゃったから。うーん、今思うと道具で増やせばよかったかなぁ? 色々ありすぎたせいか、咄嗟に出てこなかったなぁ」


「うみゅぅ……のびた……」


のび太の布団にはもう一人。
昨日、奇跡の再会を果たした台風の子ども、フー子がいたのだ。
あの野暮ったい浅葱色のローブではなく、“着せかえカメラ”で出した可愛らしい黄色のパジャマを纏ったフー子は朝の冷気を嫌ったか、のび太の服の端を両手でギュッと掴み、コアラのようにしっかとしがみついて身体をピッタリと密着させる。
身体が動かなかったのはこのためであった。


「ほら、フー子。起きなよ。もう朝だよ」


「う~……」


のび太がユサユサとフー子の身体を揺り動かすが、僅かに身じろぎをしただけでフー子はすぅすぅと寝息を立て続ける。
まだまだ惰眠を貪りたいと抵抗するその様は、まるで元の世界の自分を見ているようで、のび太は何とも妙な感じがした。
そもそものび太がこんな黎明の時刻に起床するという事自体、かなり珍しい。
大抵寝坊して、その度に先生から雷を落とされる、のび太がである。
きっと違う世界に来て、知らないうちに自然と気が立ってしまっているのだろう。
だからこんなに早起きしちゃってるのかな、とのび太は頭の片隅で何気なくそう思った。


「フー子、起きてってば……って、ちょっとちょっと!? 僕が起きれないよこれじゃあ」


もう一度揺さぶってみるも、今度は逆により一層強くしがみついてきた。
む~っ、と額をグリグリとのび太の腹に押し当てながら先程よりも強い抵抗を示す。
枕元に置いていた眼鏡を掛けつつ、のび太は弱ったなぁ、と頭をパリパリ掻き毟る。
嫌がる者を無理矢理叩き起こすのも忍びないが、しかし起こして手を離してもらわなければ布団から抜け出せないのだ。
どうしたものかと頭を悩ませていると。





「――――ドララ♪」





眼鏡があったのび太の枕元で、なにかが動いた。
パッと反射的にのび太が振り返るとそこには、





「あっ、ミニドラ!」



「ドララ♪」




赤い色の“ミニドラえもん”……通称ミニドラが『おはよう』とばかりに手を振っていた。


“ミニドラえもん”


ドラえもんと同じ型、三十センチ程度大きさの小型ロボットである。
昨日の夜、アインツベルン城に殴り込みを掛ける前に留守番として置いておいたのがこのミニドラであり、今のび太の目の前にいるこの赤色を筆頭として、他に緑色と黄色の三体がいる。
のび太はこのミニドラ達に三交代制で番人と監視役を任せていたが、どうやらこの赤色のミニドラ(以後ミニドラ・レッドと便宜上呼ぶ事にする)は今現在、非番であるらしい。


「ミニドラ、ちょっとお願いがあるんだけどさ。フー子、どうにか出来ない? これじゃ起きれなくて……」


「ドララ!」


のび太の言葉に『任せとけ!』とでも言うようにポンと自分の胸を叩くミニドラ・レッド。
そして足音も立てずにいまだ夢の中にいるフー子の頭の傍まで来ると、徐に自分の腹にある“四次元ポケット”を探り、中から何かを取り出した。


「――――って、ラ、ラジカセ?」


「ドララ!」


それは一台のラジカセであった。
ただし、ミニドラサイズであるために人形遊びの小道具程度の大きさのものであったが。
訝しむのび太を尻目に、ミニドラ・レッドは再度ポケットを探り、何かを取り出す。


「ドララ!」


次に出てきたのはこれまたミニドラサイズのメガホン。
それをラジカセのスピーカーの前にセットする。
どうやら音楽のボリュームで起こすつもりのようだ。
ミニドラ・レッドは徐にラジカセのスイッチを入れると……、


「ミー、ミー……」


サッと耳を塞ぐような動作をした。
いったいどこに耳があるのかな……ではなく、音が大きいから耳を塞いだのかとぼんやり思うのび太であったが、やがてどこかで聞いたような覚えのある音楽がそれなりのボリュームで流れ始めた。
ミニドラ・レッドが片手だけを外して音を大きくし、のび太は何とはなしにそれに耳を澄ませてみる。
だがそれは悪手も悪手、しかも超最悪のパターンであった。
次の瞬間、軽快なアップテンポのイントロが終了し、耳慣れた……










『――――ホゲェ~~~~♪♪』










「うわあああああああああぁぁぁぁぁぁぁっ!!??」



「フウウウウゥゥゥッ!!??」



「ミ、ミーーー!!??」





超絶音痴のダミ声が部屋中に響き渡った。
そのあまりの衝撃に、先程までおねむモードであったフー子が物凄い勢いで跳ね起き、耳を押さえてその場に蹲る。
それと同時に、一瞬意識が遠のきかけたのび太も耳を塞ぐが、時すでに遅し。
一度喰らった衝撃は早々抜けてくれないし、スピーカーから響いてくるゴッドボイスはどんどんノリを増してくるのだ。
そして曲がサビ部分に突入したその途端、窓ガラスにビシリと亀裂が走り、扉はガタガタと震え、柱や梁がミキミキとイヤな音を奏で始めた。
より一層耳を強く押さえ、決して耳に入れまいとなけなしの努力をする三人。


「な、なんでジャイアンの歌がミニドラのラジカセに!? ああああぁぁぁ、止めて止めて消して消してえええぇぇぇぇ!?」


「う、ううぅぅみゅ……みみ、いた……!」


「ど、どらら……!?」


何故か愕然とした表情となっていたミニドラ・レッドが片手を耳(?)から外し、目がややうずまきになりながらもどうにかラジカセのスイッチを切った。
不協和音を超えた“腐恐禍音”がピタリと止み、同時に部屋の崩壊も収まってようやく元の静寂な空間が戻ってきた。


「う、うぅぅぅ……み、耳が……! あ、あああ、朝っぱらからなんてモノ聞かせるのさミニドラ!?」


「ど、ドラ……ドララ」


「え? いつの間にかあれがラジカセに入ってた? たぶんグリーンの仕業?」


「ドラ、ドララ!」


「最初は“第九”を入れてた筈なのに許せない。あの野郎、とっちめてやるって? キミ達いったい普段なにしてるのさ……?」


シュッシュッ、と怒りの籠ったシャドーボクシングを始めるミニドラ・レッド。
その様子にのび太は毒気を抜かれ、はぁあ、と深い溜息を吐いた。
ミニドラ同士の確執はさておき、のび太としてはミニドラ・グリーンが何をどうして『ジャイアン・リサイタル』の曲なぞ持っていたのか、その点が妙に気になってしまった。


「まさかジャイアンのファン……な訳ないよね。じゃあ単にイヤガラセ目的? ……うーん、いったいどこから手に入れたんだろ「フゥ」……あ」


と、考えに耽るのび太だったが唐突に横から袖を引っ張られ、そちらの方に目を向ける。
そこにはペタン、と腰が抜けたように鎮座するフー子がいた。
瞳が若干涙で潤んでいるところを見ると、先程のショックがまだ抜けきってはいないようだが一応キチンと目は覚めたようだ。
いつまでもこうしている訳にもいかないので、のび太はススッと居住まいを正してフー子に正対する。
そして。





「おはよう、フー子」



「――――おはよう、のびた♪」





朝の挨拶。
しかしその単純なやり取りの中には、それ以上のものが確と込められていた。
二度と実現する事はない筈だったこのやり取りが、現実としてある。
最悪の目覚めではあったが、ある意味では最高の目覚めでもあった。















「……む、ノビタですか。おはようございます。何かあったのですか?」


着替えと“復元光線”による補修を済ませ、居間へと向かっていたのび太、フー子、ミニドラ・レッドであったが、唐突に横から声を掛けられる。
そちらを振り返ると、たった今起きたのであろうセイバーが佇んでいた。


「あ、セイバーおはよう。何かって?」


「いえ、先程貴方の部屋から異音というか、騒音というか……妙な音が聞こえてきまして。それで今しがた目が覚めたのです」


「あ、あぁ……あれ、聞こえてたんだ」


セイバーは士郎の隣の部屋で寝起きしているのだが、英霊の敏感な聴覚は離れた位置にあるのび太の部屋からの『ジャイアン・リサイタル』を聴き取ったらしい。
言葉のニュアンスからしてそこまでよくは聞こえなかったようだが、はっきり聞き取れていたらさぞ最悪な目覚めだっただろうな、とのび太は少々の申し訳なさを感じ、パリパリと髪を掻き回す。


「えぇと、なんて言えばいいのかな……ミニドラがフー子を音楽の音で起こそうとしたんだけど、ラジカセに入ってたのがジャイアンの歌で……」


「はい? ……あれは歌だったのですか?」


「え? ……う、うん」


哀れ、ジャイアンの歌はセイバーにとって歌だと認識されなかったようだ。
のび太は心の中でそっと、今は遠い世界にいるジャイアンへ向けて合掌を送った。


「おはよう、おねえちゃん」


「ドララ♪」


と、今度はのび太の隣にいたフー子とのび太の頭の上に乗っかっていたミニドラ・レッドがセイバーに向かって挨拶をする。


「おや、フーコにミニドラ。おはようございます……、ふぅ」


「……? おねえちゃん、げんき、ない?」


「……あ、いえ。そういう訳ではないのですが。少々、夢を見まして」


「夢? どんな?」


夢を見た、という言葉にのび太はつい反応してしまう。
既に起床してから時間がそれなりに経っているため、夢の断片がギリギリ思い出せる程度にしか記憶に残っていないが、自分も変な夢を見たなと思っていたところなのだ。
しかしそれに対しセイバーの目がスッと、微かに細められた。


「――――さて。もう、忘れてしまいました」


……が、次の瞬間には何事もなかったかのように、さらりとそう言葉を返した。


「あ、そうなんだ。夢って起きたらすぐ忘れちゃうもんね。僕もさぁ、なんか変な夢を見たような気がするんだけど、もうほとんど覚えてなくて。確か、おじさんと……おじいさん、かな? そういう人達が出てきた夢……だったような」


刹那の変化に気づく事もなく、のび太は自分の見た夢について覚えている限りを語る。
セイバーはそれをジッと聞いていたが、話が進むにつれて再び、眼光が鋭くなっていく。


「えっと、それでそのおじさんとおじいさんが……なんて言ってたんだっけ? え~っと、『生きて……』とか、『よく考えろ』、だったっ、け? うーん、あー……「――――他には」……って、え?」


「他に、何か覚えていたりしませんか? たとえば色や、景色など」


「色に、景色……んん~っと……あ、そういえば。夢の最初の方で、たぶんあれは火……と……雨、かな? そんなのが「ドララ!」……あ、ミニドラ。どうしたの?」


記憶の掘り起こしに夢中になっていたのび太の頭上で、不意にミニドラがポンポンとのび太の頭を叩いて何事かを訴え始めた。


「ドララ、ドラ、ドララ!」


「え、時間がもうだいぶ経ってるから早く居間に行け? ……あ、そっか。ごめんねミニドラ。行こうフー子、セイバー」


「フ!」


「……はい」


ミニドラ・レッドからの指摘に従い、居間へと続く廊下を再びゆっくりと歩き始めるのび太達。
……だが。





「火……いや、炎と、雨。私が見たモノと、同じ。おそらくあれは……きっと、私をバイパスとして。……しかし、最後の光景だけは違う。あれは、もしや彼の……」










――――そんなに気を落とすなよ。運命は、変えることができるんだから。










前を行くのび太の背中に視線を送りながら、密やかに呟かれたセイバーの言葉は、この場の誰にも聞き取られる事はなかった。
……そして。





「ロボット、という話でしたが……はて。あれは、タヌキを模しているのでしょうか? ミニドラも同じ形ですが……」





誰かさんが聞いたら激昂モノの、この痛烈な一言も。















「おはようございま~す!」


「おはようございます」


「おはようございます♪」


挨拶と共に居間へと入る一同。
ミニドラ・レッドは番人役のミニドラ・グリーンをとっちめに行ったため、この場にはいない。最後の一体であるミニドラ・イエローは客間の一室に設置した“スパイ衛星”の前で諸々の監視を行っている。
居間には既に士郎と凛、そして昨夜からこっち衛宮邸に居を移したアインツベルン組がいた。
それぞれの前には既に人数分の出来たての朝食が並べられており、食欲をそそる何ともいい香りがのび太達の鼻孔を擽る。
昨日、バーサーカーとの決戦の前に買い出しを行ったため、材料の備蓄は十分である。


「おう、おはよう」


「おはよ。もう少し寝てるかと思ったんだけど、案外早く起きたのね」


「あはは……いつもは寝坊ばっかりなんですけど、ここに来てからなんか目が冴えちゃって。イリヤちゃんとセラさん、リズさんも、おはよう」


「おはようノビタ」


「おはようございます」


「おはよう……フーコも」


「フゥ♪」


朝の挨拶を滞りなく終え、それぞれ卓につく。
ただし、如何せん人数が人数だ。
卓自体がそこまで大きいものではないため、結果的に隣り合う人間との間隔はかなり狭いものとなっている。
当初セラ、リーゼリットの従者二名が、主と卓を同じくするのは不敬であるとして別の場所で食事を摂ると主張していたが、家主である士郎がそれを却下した。


「別にいいじゃない、ここはお城じゃなくてシロウの家なんだから。『郷に入っては郷に従え』……だったかしら? ここは郷に従うべきよ」


イリヤスフィールもこれに追従したため、結局総勢九名が一斉に卓を囲む事となった。
……のだが、この場の人数は八名。一人が欠けている。


「あれ? アーチャーさんは?」


「もう来るわよ。……ふっ、くくっ……」


「リン? どうしてそこで笑うのですか?」


忍び笑いを漏らす凛に、セイバーが疑念混じりの視線で問いかける。
凛は手で口元を押さえながらも手をパタパタと振り、


「すぐ解るわよ。正直、想像するだけでもう、こう……ね! くくっ」


「……?」


解ったような解らないような答えを返すのみ。
だがこの数秒後、居間の戸が再度音を立てて開けられた事で、この凛の態度の訳が皆々の腑に落ちたのであった。





「――――これでいいのだろう、凛?」



『…………』





瞬間、時が凍りつく。
現れたのは件の男……アーチャー。
スッと音もなく入ってきた彼の姿に、一同はまるで咽喉がピッタリと接着されたかのように声も出せずにいる。
いったい何故なのか。
それはその身に纏われていたのが、見慣れたあの黒の軽鎧に真紅の外套ではなかったからだ。


「あ、アーチャーさん……その、恰好って」


「……凛から、朝食を取るならセイバーと同じように普通の服を着ろ、とのお達しでな、少年」


「これは……スゴイな、いろんな意味で」


「それは皮肉か、小僧……?」


黒のワイシャツに黒のズボン。
オールバックの白髪を重力に委ねるように前に降ろし、諦観の念と若干の怨みのない交ぜになった瞳で士郎を睥睨する。
完全無欠の、スタイリッシュな恰好に身を包んだ弓の英霊がそこにいた。
……が。


「――――なんか、違和感が服を着て歩いてるみたいね、まるで」


「そうですね……普段の恰好がアレですから。私もお嬢様と同じような印象を受けてしまいます」


「うん。ヘンな感じ」


「……純白のメイド衣装という、およそ日本家屋には似つかわしくない恰好の君達が言えた義理か?」


そう、違和感が半端ではないのである。
例えるなら、いい歳した大人が七五三の礼装を着込んで闊歩しているようなものだろうか。
服を着ているのではなく、服に着られているというか……とにかく、そんなチグハグ感を一同はアーチャーから感じ取っていた。
凛の笑いが目下再燃しているのもむべなるかな、である。


「しかし……違和感はともかく、こうして見てみれば、貴方は意外と若いのですね」


「……君が私をどういう目で見ていたのか甚だ疑問なのだが、それはさておこう。セイバー、前にも言ったかと思うが私のこの姿は二十代のものだ」


「まぁ、オールバックの髪を降ろせばそう見えなくもないな。あれが老け……渋い印象の一要素だしな」


「……今のも敢えて聞き流そう。髪も降ろして少しは若々しく見せろとの暴君(あるじ)からの指示故、だ。……まったく、何度も言うが元々サーヴァントに食事など必要ないというに」


「まあそう言わない。のび太も言ってたでしょ? 『みんなで食べた方が楽しい』って。それに……アンタ、治り切ってないでしょ。身体と魔力」


「……ふん」


含み笑いのまま、出されていたお茶を啜る凛の言葉にアーチャーは軽く鼻を鳴らすと、そのまま卓に着く。
昨夜の決戦。虎の子の一撃を放ち、マフーガの身体を寸断したアーチャーは一見ダメージを負っていないように見えて、その実かなりの消耗を強いられていた。
『偽・螺旋剣(カラドボルグⅡ)』に魔力を限界まで詰め込んで放ったため、その反作用からくる負荷で体内に相当の損傷を被(こうむ)っている。
その上ほぼ魔力が空の状態のままで、マフーガへと突っ込んでいったのだ。
あの戦いで、ある意味最も身体を張っていたのがアーチャーであり、そして一晩経った今なお完全に回復したとは言い難い状態なのである。
それを的確に見抜いていたが故の凛の言葉……なのだが。


「ありがたいんだか、ありがたくないんだかよく解らない気遣いね。そもそもリン、どうしてアーチャーを着替えさせたの?」


「ああ……それね。ちょっと前に士郎と話してたんだけど、これから来る人物に一芝居打つためよ」


「お芝居……? それに、これから来る人って? えーと、桜さんですか?」


「いや、桜じゃない。さっき連絡があって、今日も来れないって電話口で謝られた。もう一人の方……通り名を“冬木の虎”、藤ねえこと藤村大河だ」


「トラ……ですか? あの、シロウ。それはどういう……?」


セイバーの追及を士郎は『待った』と手を翳す事で遮る。
そして一度、グルリとこの場の全員を見渡すと一拍置いて再度口を開いた。


「もうすぐ一人、朝飯を食いに俺の家族……いや、ある意味姉? って言うべきなのか? まあ、そんな人が来るんだけど……正直この大所帯じゃ、隠し通すのはちょっと厳しいと思う。あれでいて異様に勘が鋭いし、毎日のように朝夕来てるから、いきなり帰れとか来るなとか言いづらいし……のび太君の道具をこんな事に使うのもアレで気が引けるし。そこで遠坂とちょっと話し合ったんだが、あえて皆の事を話そうと思う」


「……は? あの、エミヤシロウ? それはいくらなんでも……」


「ああ、心配しなくてもちゃんと誤魔化すところは誤魔化す。といっても俺は演技とか誤魔化しとかは下手だし苦手だから、主に遠坂先生頼りだけど」


「まあそういう訳で、とりあえず皆わたしに話を合わせて。あとはこっちで上手くやるから」


士郎に水を向けられ、鷹揚に応える凛。
ネゴシエイトスキルはともかく、口八丁で言い包めるのは得意である。
諸々の事情にも精通しているし、頭も気も回る。士郎がゲタを預けたのも解る話だ。


「はあ……あの、リン。具体的にはどうするのです?」


「それは「――――おっはよー、しろ~~~う!!」あっ!?」


と、その時玄関の方から女性の溌剌とした声が響き、凛の言葉は中断を余儀なくされた。
件の人間が訪れたのだ。士郎の想定よりも若干早いタイミングで。
口裏を合わせている時間は消えた。あとはのるかそるか、出たとこ勝負。





『…………!』





サッ、と一瞬で視線を交わす一同。


『わたしと士郎で流れを作るから、上手く合わせて』『ラージャ』


視線の交錯を言葉に直すなら、こんな感じだろうか。
いやに呼吸が合っているあたり、この超短期間で妙な連帯感が形成されている気がするがそれはともかく。





「しろ~~~~。ごはーーー…………あら?」



「……おはよう藤ねえ。まあ、とりあえず座りなよ。ほい、ご飯。それと、今日は桜は休みだ」



「はぇ? うん……うーん?」





居間の戸を勢いよく開けて入ってきたのは茶色のショートカットの、二十代半ば程と思われる活発そうな印象の女性。
改めて言うまでもないだろうが、件の藤村大河その人である。
戸を開け放った体勢のままポカンとした表情で固まっていたが、士郎から湯気の立つ茶碗を差し出された事でとりあえずフラフラと指定席に着き、碗を受け取った。
頭の上に疑問符を乱舞させつつも……おそらく疑問よりも食欲が勝ったのだろう……箸を取って、ご飯を口に運びムグムグと咀嚼し始める。
それを合図に、皆が一斉に箸を取り、朝食を摂り始めた。
てっきり最初に追及が来るものだとばかり思っていた一同であったが、どういう訳か大河は黙々と食事をし続けており、微妙に出端を挫かれた形となってしまっている。
一同がしばらく無言で箸を動かしていると(フー子とアインツベルン組は使い慣れない箸に苦心していたが。ちなみにフー子は人化した事で食事が可能となっている)、大河が早々と茶碗を空にする。


「士郎、おかわり」


「……はいよ」


茶碗を差出す大河、士郎が言葉少なにそれを受け取る。
そして山と盛られた茶碗を受け取り、彼女はご飯を一口頬張ると今度は味噌汁の碗を手に取った。


『…………』


空気が不穏な緊張感に包まれ始めている。
のび太はおろかセイバーですら箸があまり動いておらず、むしろいたたまれないような表情でモソモソと食事を行う有様。
早くきっかけが欲しい、とっとと疑問を切り出せというのが大河へ望む一同の共通の願いである。
こんな変にピリピリした空気の中での食事なぞ、砂を噛むようなものであろう。


「ねえ士郎」


「ッ!? な、なんだ藤ねえ?」


来たっ、と皆が一斉に心の中で身構える。
大河は凛、のび太、フー子、セイバー、アーチャー、アインツベルン主従をそれぞれグルリと睥睨して、


「どうして遠坂さんがここにいるの? それに、この子達は?」


ようやく最初にぶつけて当然の質問を投げかけてきた。
全員の視線が士郎に集中する。
この女性の厄介さを士郎は長年の経験から身を以て理解している。
場合によっては常識が通用しない相手であるという事も。
だが士郎達にはある意味強力なカードがある。
士郎がカードを切り、凛がそれを持ち前の神算鬼謀で以て最大限利活用。そして目標を達成する。
質問の後に一拍置いて、士郎はこう口を開いた。





「あ、いや……実は、親父の子どもなんだ」





目玉焼きをつついていたイリヤスフィールの片眉がピクリと跳ねる。
昨夜明かされた、イリヤスフィールは士郎の養父である衛宮切嗣の実の娘だったという衝撃の事実。
まだ改めて確認を取った訳ではないが、あの夜の様子からしておそらく間違いはない。
その点から話を広げていけば基本的に人の良い藤ねえの事、何とかなるだろう。
これが士郎と凛の立てた計画であった。


「へ~、そうなんだ。切嗣さんのねぇ」


ふんふんと頷きを返しながらクイ、と味噌汁を啜る大河。
およ、と一同が肩透かしを喰ったような表情になる。
もっとこう、目立った反応を見せるかと思っていたのにまさかのスルーとは。
……が。










「――――ぶっふうううううぅぅぅぅぅぅぅ!!!???」



「うおおおおおおぉぉぉぉぉぉっ!!??」










そんな事はなかったのである。
大河の鼻孔と口腔から華麗な毒霧殺法が炸裂。対面に座していた士郎に甚大な被害を及ぼした。


「ゲホッ、ゲホッ、グフ……ッ!? ちょ、ちょっと士郎!? 切嗣さんの子どもってなによ!? ゴホッ!」


「う、うええぇぇ汚い……さ、流石にこれは予想外だった――――あ、すまんセラ。藤ねえ、とりあえず一旦落ち着いて話を聞いてくれ」


「これが落ち着いていられますかってぇの!! ゲホッ! そんな話、切嗣さんから聞いた事もないのにいきなり何なのそれ!? どういう事なのよしろおおおぉぉぉぉぉ!?? ゲフッ、ゴホッ!」


「うわーい、聞いてるようで聞いちゃいねぇ」


斜向かいにいたセラから無言かつジト目で差し出された布巾で、士郎は味噌の香りの飛沫を拭う。
いまだ口元に味噌汁を滴らせて咽込みながら、鬼気迫る形相……というよりは半泣きか?……で詰め寄ってくる藤村女史に辟易しつつ、手に持った布巾を手渡してどうどうと宥める。


「ちゃっちゃと説明しなさい、簡潔に説明しなさい、明確に説明しなさいしろおおおおおおぉぉぉぉぉ!!」


「だああぁぁぁぁ!? 襟首引っ掴んで揺するな藤ねええええぇぇぇ!!? 説明しようにも出来ないだろうがああぁぁああぁぁ!!?」


……も、効果なし。
ガクンガクンと揺すられる士郎。異名通り、虎を連想させるほどに妙な猛り狂い方をしている。
黄色と黒のストライプという上着の柄も後押しして、彼女の背後に獰猛な虎のイメージを幻視させていた。


「ちょっ、いいから落ち、着け……って、ああもう遠坂、頼む! バトンタッチ!」


「……はいはい」


持て余した士郎はどうにか大河を抑え込み、そのままネゴシエイター遠坂凛に全権委譲。
バトンを渡された凛は呆れの吐息を漏らしながら茶碗を置き、興奮冷めやらぬ大河に向かって口を開いた。


「藤村先生、落ち着いてください」


「……せんせい? 凛さん、この人先生なんですか?」


「穂群原の英語教師なのよ。し……衛宮くんの担任で、わたしのクラスの授業も担当してるわ」


「む、なに遠坂さん。というか、どうして遠坂さんがここでご飯を食べているの?」


「……それも含めてお話しますので、とにかく座ってください」


差し挟まれたのび太の疑問に簡潔に答えつつ、凛は大河を着座させ自らも居住まいを正す。


「まずはじめに、わたしがここにいる理由としてはこの子が関係しています」


と言って凛はイリヤスフィールを指し示した。
話を合わせるため、イリヤスフィールは大河の方に視線を向ける。


「この子はイリヤスフィール・フォン・アインツベルンといって、衛宮くんのお父様の実の子どもなんです」


「え……えぇぇええ!!? ちょ、ちょっと本当なのそれ!?」


「事実です。お嬢様はエミヤキリツグの実子。出生届も生国の役所に提出されていますし、諸々の公的な記録簿にもその旨が記載されております」


セラの絶妙な合いの手が入る。
実際、アインツベルン主従は日本に正規の手段で入国している。
偽造などの非合法手段を使って余計な煩いを抱え込まないようにするための処置だが(ただしその分裏側への防諜対策が必要)、それには国籍や住民登録の存在が前提となる。
アインツベルンは表の世界でも名家。“裏事情”はどうあれ表側の来歴や記録もきっちり存在しているのだ。
やろうと思えば照会だって可能である。手続きは面倒だろうが。


「あの、失礼ですが貴女は?」


「これは申し遅れました。セラと申します。イリヤスフィール様の身の回りのお世話をこちらのリーゼリットと共にさせて頂いております」


「……リーゼリット」


「あ、こ、これはご丁寧にどうも……日本語、お上手なんですね」


「私はお嬢様の教育係も務めておりますので。お嬢様もリーゼリットも、その点につきましては問題ありません」


従者二名が礼をすると同時に、大河も慌てて頭を下げる。
どうやらイリヤスフィールがやんごとないところの人間であると理解したようだ。
それと共に、切嗣の過去に謎が多いという事にも。


「あの……それでどうして」


「わたしの家とアインツベルンには浅からぬ縁がありまして」


それに答えたのはアインツベルン主従ではなく、凛であった。
確かにそれは間違っていない。少なくとも“始まりの御三家”同士なのだ。
どちらかといえば因縁、と言うべきかもしれないが、とにかく縁は縁である。


「衛宮くんのお父様のお墓がこちらにあると知って、わたしを頼って日本に来たんです」


「私どもは日本の地に来るのが初めてですので。奥様と死別されて以降、エミヤキリツグはお嬢様を実家に預けられたままぷつりと消息を絶ってしまいました」


ピクッ、と大河の表情が歪んだ。
やたらヘビーな内容そうだと感じたからである。
この辺りの呼吸の合わせ方と話題の持っていき方はセラのファインプレーだ。
案外、凛とセラの二人は相性がいいのかもしれない。


「ところがつい最近、彼女の実家が衛宮くんのお父さんの消息を掴んだそうなんです。既に他界していて、こっちにお墓があると。それで日本に」


「そ、そうだったの……あの、その。イリヤスフィールさん「イリヤでいいわ」そ、そう……イリヤちゃんは、切嗣さんが士郎を引き取っていた事を知ってたの?」


「……ええ。でもエミヤキリツグはともかく、シロウには取り立てて思うところはないわ。もう」


やや固い口調で語られた心情。
大河だけでなく、のび太や士郎はおろか凛までびく、と固まってしまう。
聖杯戦争の事を除けば話の大筋が合っている事実を鑑みれば、おそらくそれは本心から出たものなのだろう。
自らを捨てるように去っていった父親に対する憎悪と、義理の兄弟に対する親愛と侘しさの絡み合った歪な感情。
イリヤスフィールはそれらを持て余したまま、この聖杯戦争に臨んでしまった。
だが最初の襲撃と枯れた森での死闘、何より昨夜の異変と狂戦士の最期の言葉が、義理の兄弟に対する蟠りをいくばくか溶かし去った。
少なくとも、士郎に対しては敵意も害意も既にない。ただ、さざ波のような揺らぎがあるだけだ。
そんなイリヤスフィールの胸中を余所に、凛の語りならぬ“騙り”は続く。


「……っと、それからイリヤスフィールは数日前に日本に到着しまして、その時にどうせだからと縁者も伴って来たんです。それがこの子達」


凛がのび太、フー子、セイバーの三人を指差し、のび太達は一瞬遅れて一斉に頭を下げる。


「お初にお目にかかります。セイバーと申します。キリツグとは昔交流がありまして、故人を偲ぶため先日よりこちらに厄介になっております」


「え、えと……初めまして。の、野比のび太です」


「ボク、ふーこ、です♪」


「う、うん。初めまして。えっと、セイバーさん? も日本語が上手なのね」


「ええ、まあ。日本語の他にもあと数ヶ国語は」


その言葉に大河はへえっ、と感心したように声を漏らした。
アーサー王はイングランドのみではなく、海を越えたヨーロッパへも軍を進めているし、自身も異国の地へ足を運んている。
少なくとも欧州圏で使われている言語を理解し、操れるだけの知識とスキルは王として必要だった筈。頷ける話だ。
もっとも時代が時代なだけに、かなり古い言語体系だろうから現代で実際に通用するかは不明だが。


「えっと、のび太君と、フー子ちゃんは兄妹?」


「フ?」


「え!? あ……は、はい! ぼ、僕達はっ、兄妹です! え、エヘヘヘ……!」


コテンとフー子が首を傾げたのを誤魔化すように、のび太が慌てて返答する。
大河はふんふんと頷きを返したが、ふと頭に疑問符を浮かべる。


「あれ? うーん、でもそれにしては髪の色とか瞳の色が違うような……」


「ぎく!? ……え、えっと……そ、それは「いえ、実は彼らの家庭事情は少々複雑でして。彼らに血縁関係はないのです」……っそ、そう! そうなんです! あ、アハハ、ハハ……!」


「あ……ご、ごめんなさいっ!」


しまった、と罪悪感に染まった表情で大河は頭を下げる。
はっきり言ってまったくのデタラメなのだが、これ以上の追及を避けるには効果的な手だ。
そしてセイバーのこのファインプレーを引き継ぐような形で、凛がここぞとばかりに畳み掛ける。


「この二人は衛宮くんのお父様から援助を受けていたそうで、保護者や学校の許可を得てこちらに。セイバーやアインツベルンとも交流がありましたので、同道してきたのです」


「それで、数日前に遠坂から色々と事情を聞かされてな。一昨日の晩から皆してこっちに来たんだ。正直驚いたんだけど、俺は親父が過去どうしていたか、なんて話は今まで聞かされた事なかったし、親父はいつもアチコチ放浪してたヒョウロク玉だったからな。むしろそういう事もあったのか、って親父のアレコレに納得がいった。言うのが遅れた事は謝っておく」


「う、うーん……まあ、わたしも切嗣さんの昔の事って聞かされた事なかったからねぇ……。じゃあ、そっちの方も?」


大河が指差したのは素知らぬ顔で味噌汁を啜る褐色の男。
この場においてただ一人、アーチャーだけは我関せずといった体で黙々と食事を続行していたのだ。
豪胆と言うべきか、空気を読んでいると言うべきか……。
だが耳だけはしっかりと傾けており、話の趨勢はちゃんと理解している。


「はい。まあ正確には、彼はわたしの縁者なんですが……」


自分の事に話題が変化したな、と気づきつつも、今までの言から妙な事にはならないだろうとアーチャーはグッと一気に味噌汁を傾ける。










「――――衛宮くんのお父様とも、遠縁ですが類縁関係がありまして。名前もエミヤと言います」










「――――ぶふぅぅうお!!??」



「ぬおおおおぉぉぉぉおおお!!??」





が、突如盛大に味噌汁を噴出し、なぜか正面の凛ではなく斜め前方の士郎へと、二度目の毒霧殺法をお見舞いした。
ポタポタと、再び味噌汁の飛沫を滴らせる士郎。
加害者にジロリと視線を向けるが、今度のものは大河の時のようになぁなぁではなく、怒りと怨嗟がこれでもかとばかりに籠められていた。


「……テメェ、なんか俺に恨みでもあんのか? 咄嗟に俺の方に顔向けやがって!」


「ガハッ、ゴホッ……! な、ないとは言わん、がっ、流石に凛に浴びせる訳にはいくまい! ゴフッ!」


「だったら最初から噴くな、この野郎!」


「……無、茶を言うなっ! ゲホッ、ゴホッ!」


「あ、あの、大丈夫ですか?」


「ゴホッ、っむ……も、申し訳ない。気管に入ってしまって。コホッ」


咽るアーチャーの背中を摩る大河。
されるがままになりながらも、アーチャーはラインを通じて凛に念話を送る。


『これはどういう事だ、凛……!?』


『どうもこうも、こうしておいた方が色々と都合がいいのよ、流れ的に。とりあえず合わせなさい』


『だが、何も小僧と同じ名前でなくとも……!』


……しかし無情にも、アーチャーの念は無視された。
そしてそのまま話を続けようとする凛。アーチャーはつい漏れそうになった溜息をグッと飲み込んだ。


「こっちはイリヤスフィール達より前に所用でわたしのところに来ていたんです。それで、折角だからとその後に来たイリヤスフィール達に同行する形でここに。両者に縁がありますので」


「……そういう、事です。あ、もう落ち着きましたので……お気遣い、感謝します」


「あら、そうですか? ……あれ? ……う~ん、んん~?」


「……あの、何か?」


「ああ、いえ……あのぅ……失礼ですが、どこかでお会いした事ありません?」


「ッ!? ……いや、気のせい……でしょう。少なくとも、私に貴女との面識は……」


「はぁ、ですよねぇ。……うぅ~む?」


それでも釈然としないのか、大河は腕を組んで何やら考え込み始めた。
アーチャーは士郎から投げ渡された布巾で自らの味噌汁の飛沫を拭いながら、どこか忙しなく視線を宙に泳がせている。





「髪を降ろしたのは失敗だったか? ……だが、偶然。そう、これは偶然だ。大丈夫、まだ大丈夫……の、筈、だ……よな?」





布巾で覆われた口元がモゴモゴと動くが、そのくぐもった声はこの場の誰の耳にも拾われる事はなかった。















「……藤村先生。話を戻してもよろしいでしょうか?」


「っえ? あ、ああ、ごめんなさい遠坂さん。え~と、まあ大体事情は飲み込めたわ。つまりここにいる皆さんは切嗣さんのお墓詣りに来たって事ね。だから士郎、昨日学校休むって連絡したのかぁ」


「ああ。まあ積る話もあるし、イリヤ達ももうしばらくここに滞在する予定だから、俺もそれに合わせてしばらく学校休ませてもらうつもりなんだけど。いいよな藤ねえ?」


「うーん……ホントはダメ、って言いたいところなんだけど……家主がお客さん放っといて家を空けるっていうのもアレだから、そういう訳にもいかなさそうだしねぇ……」


ウンウン唸りながら頭を抱え込む大河であったが、結局折れて首を縦に振る事に。
ホスト役がいなくては失礼に値する上、家の人間が士郎しかいないのだ。
選択の余地など、実質あってないようなものである。


「ふぅ~……ん、あれ? え~っ、と、じゃあどうして遠坂さんはここにいるの?」


「はい? なにかおかしいでしょうか?」


「おかしいわよ。だっていくら親類がこっちに用があるからって、貴女まで士郎のところにいなくてもいいじゃないの。それに遠坂さんも学校、休んでるでしょ? ダメよ、アナタは出なきゃ」


ちっ、誤魔化されなかったか……、と凛は心の中で舌打ちする。
自分がこの場にいる事を突っ込まれるだろうとは思っていたが、いらぬ手間は少ないに越した事はない。
それだけに面倒くさく感じてしまうが、まぁやるしかないかと即座に頭の回路を切り換えた。


「しかし藤村先生、イリヤスフィールはわたしを頼ってこっちに来ている訳ですし、このア……エミヤもわたしの客人です。それを衛宮くんに放り投げたまま、というのは不義理の極みですし、わたしにも責任を負う義務があります」


「う、それは……そうだけど「それに、わたしは既に衛宮くんのところで一泊していますし」……は?」


凛の一言に大河の表情がビキリと凍りつく。
そして瞬きをニ度三度、パチパチと繰り返し凛を、そして士郎を見やる。
やや虚ろで光の消えたその目、大河の心情をこれ以上なく表現しきっていた。


「……ホントの話、なの? 士郎?」


「あ……ああ、まあ」


異様な気配を放ち始めた大河に言いよどむも、正直に答える士郎。
次の瞬間、士郎の視界が物凄い勢いでブレた。


「それってどういう事よ、しろおおおぉぉぉぉおお!! 年頃の女の子数人とお泊り会なんて、いったいどこのスケコマシだい! そんなのぜったいダメダメダメダメダメえええぇぇぇぇぇーーーーーーー!!!」


「だああああぁぁぁぁああ!!? またこのパターンか!? お、落ち着けこのバカトラっ! のび太君やそこの白髪黒助(しらがくろすけ)だっているだろうが! 断じてそんなモンじゃない!!」


「言い訳しないっ! お、お姉ちゃんはそんな節操のない子に育てた覚えはありません!! というかわたしをトラと呼ぶなあああぁぁぁぁぁぁあああ!!!」


再び襟首シェイクの刑に処される士郎。
抗弁するも聞く耳持たず、ガクンガクンと揺すり続ける大河の目は涙で潤み、白い部分に赤い線が走りつつある。
逆上している虎は手に負えない。鎮静剤が必要だ。
士郎は必死に手で合図を送る。早くどうにかしてくれと。


「はぁ……藤村先生。衛宮くんはそんなに信用ならないのでしょうか? 小学生の子どもが滞在しているにも拘らず、いえ仮にそうでなかったとしても、いずれ間違いを犯してしまうとでも?」


「そんな訳ないじゃない!! 士郎はそんなコトしないもんっ!!」


「でしたら何も問題ありませんね。衛宮くんも言った通り、ここには大人の男性もいますから。それに先生が太鼓判を押してくださるのなら、わたしも安心です」


「うぐっ……!」


揺さぶる手を止め、言葉を詰まらせる大河。
結局、首肯以外の選択肢の悉くを潰され、最終的に凛の一人勝ちという結果に終わってしまうのであった。















その後。





「そういえば昨夜の嵐、スゴかったわね~。来る前に見たニュースじゃ、東アジアの大半が嵐の勢力圏内だったんだって。でもすぐ止んじゃったから、そんなに被害はなかったみたいだけど」





「あら? この記事……『太平洋沖で謎の巨大爆発』? 物騒ね~……ふんふん、調査団が現地入り?」





どうにか気を取り直し、平常運転に戻った大河。
時折ヒヤリとさせられるようなワードが飛び出しつつも、台風一過の晴天のように朝の食事の時間はどうにかつつがなく過ぎていった。















ほんの少しだけ騒々しい、なんて事はない朝の風景。















……しかしながら。














新たな戦いのゴングは、既に間近に迫っていたのである。












[28951] 第二十八話
Name: 青空の木陰◆c9254621 ID:90f856d7
Date: 2012/03/31 23:51



「じゃあ士郎、学校休んでまでホスト役するんだから、最後まできっちりやるのよ」


「ああ、解ってる。むしろ藤ねえの方こそ、色々やらかすなよ?」


「色々ってなによ~。最近は割とマトモ「ほぉう? 前回の英語の時、授業に遅れそうになって教卓に猛スピードでヘッドスライディングかましてたのはどこの誰だったっけ?」……ウン、キヲツケル」


「オッケ。じゃあ、いってらっしゃい」


朝食が済むと、大河は学校へと向かっていった。
騒々しかった時間も終わりを告げ、衛宮邸には事の当事者のみが残る形となり、そして。


「行った?」


「ああ」


「よし。それじゃあ昨日出来なかった、これからの事について、話し合いを始めましょうか」





士郎、お茶と茶菓子を人数分ね。





それを皮切りとして、粛々と衛宮邸総会の幕が上がった。















「――――って、わたしが話せる事なんてたかが知れてるわよ。そもそも今回はイレギュラーだらけなんだし、正直既存の情報なんてまずアテにならないと思うんだけど」





むー、と唸りながら頬杖をつくイリヤスフィール。居間に微妙な沈黙が漂う。
始めに行われたのは、イリヤスフィールによる聖杯戦争についての情報提供だったが、しかし、そこでいきなり詰まってしまっていた。
こんな異常事態に陥ってしまっている以上、今までの常識や定説と照らし合わせても答えはまず出ない。
それにイリヤスフィール、ひいてはアインツベルン陣営が最大限妥協したとしても、やはり出せる情報と出せない情報とがあるのだ。
それらを踏まえて考えると、話せる事は限られてくる。しかもその大半が、イリヤスフィールの目から見てほぼ実のない情報なのである。
とはいえ、完全に無駄かと言えば……。


「……まぁそうかもしれないけど、判断のための材料は多い方がいいの。取捨選択はあとでやるとして、とりあえず切れるカードがあるなら出せるだけ出して欲しいのよ」


「そう言われても……うー、じゃあ例えば何が知りたいの?」


「……そうね。なら「遠坂、その前にちょっといいか?」……士郎?」


突如話に割り込んできた士郎に、凛が微かに鼻白む。
だが何やら真剣な面差しでイリヤスフィールを見つめる士郎を見た瞬間、ああ、と納得がいき自ら引っ込んだ。
“そっち”の方も重要と言えば重要な事案だ。


「イリヤ、改めて聞くんだが……イリヤが親父の娘で、俺の姉さんだっていうのは本当の話なのか?」


「……、そうよ」


ほんの少しだけ間を開けた後、イリヤスフィールは首肯を返す。


「――――――そう、か……」


士郎は僅かに肩から力を抜くと、自分の髪をグシャグシャと乱雑に掻き回した。


「……やっぱり、なんか妙な感じだな……実感が湧かないというか、なんというか」


「そうね」


「……ん。けど、俺の義姉さんなら……あー、こう言ったら何なんだけど……なんでイリヤは成長してないんだ?」


「……ホムンクルスの血の影響。お母様はアインツベルンのホムンクルスだったから」


「ホムン、クルス? って?」


ぽけー、と茶請けのどら焼きを齧っていたのび太が首を傾げる。
疑問に答えたのは、イリヤスフィールの傍らに座していたセラだった。
視線をイリヤスフィールに一旦向け、主が頷きを返した事で首肯し、口を開く。


「魔術技法により作成された人工生命体、解りやすく言うなら魔術の力で生み出された人間の事です。ちなみに私とリーゼリットもホムンクルスです」


「え、ええっ!? ……あれ、でも、普通の人に見えるんですけど……」


「それは“そういうモノ”として造られていますので当然です。しかし、生れ落ちる前に施される調整によって、人間以上の魔力や力を持つ事が可能となっています」


「はあ……」


そう言われて、のび太はリーゼリットが身の丈以上の戦斧(ハルバート)を振り回していた事を思い出した。
確かにあれは並の人間が出来得る事ではない。
そんな大それた事を軽々とやってのけられる、そうなるように造られた存在がホムンクルスなのか、とのび太はふんふん頷いた。


「……ですが人間以上に強力すぎる力の所為か、稀に先天的……生まれつきの不具合が生じる事もあります」


「不具合?」


「ええ」


例えば生殖機能の欠損、短命など。
ホムンクルスは通常の人間とはやや異なったハンディキャップを背負って生まれる事がある。
その代償として……かどうかは解らないが、常人を凌駕する能力を秘め、生誕する。
どれかを立てれば、どれかが立たない。
詳しい原因については諸説あるらしいが、ある意味では公平かつ平等なのかもしれない。


「お嬢様は人間とホムンクルスの血を引き、稀有な特性と才能を受け継がれておりますが……」


「――――その代償として、成長がある程度の段階で止まってしまう。そういう風に生まれついた……という事かしら?」


コクリ、と頷くイリヤスフィール。
士郎の表情が複雑なものへと歪んだ。


「そんな顔しなくていいわよ、シロウ」


「けど……」


言いかけた士郎であったが、顔を上げた途端口を噤んだ。
眼前のイリヤスフィールの表情を見てしまったからだ。
薄い、触れれば溶ける粉雪のような儚げな微笑。
諦観とも、哀切とも、微妙に趣の違うその表情。
内心はどうあれ、その事実を事実としてしっかりと受け入れている。
だからこそ、士郎はそれ以上何も言えなくなった。


「……いや、解った。それについては何も言わない。……あ、そういえば」


「なに?」


「爺さんが……あー、っと、行方知れずになったのっていつごろなんだ?」


それは士郎が気にかかっていたもう一つの事案。
養父である衛宮切嗣がイリヤスフィールを置いて行方をくらませたという、その時期だ。
自身が拾われたのは、おそらくその後の事だろう。
いったい何があってイリヤスフィールを置き去りにしたのか、何を思って自分を拾い上げたのか。
士郎は気になって仕方がなかった。
……だが。


「十年前よ」


「「――――十年前!?」」


イリヤスフィールの返答に、士郎はおろか凛まで目を剥いた。
十年前。それは士郎が切嗣によって拾われ、養子に迎え入れられた時期とピタリと符合する。
同時に、前回の聖杯戦争……第四次聖杯戦争が行われた時期ともである。
これらの事実から予想されるもの、それは。


「爺さんは……もしかして、前回の聖杯戦争に参加していた?」


「そうよ。十年前、アインツベルンに所属していたエミヤキリツグはマスターとして、第四次聖杯戦争に参戦していた。――――――セイバーのサーヴァントと共に、ね」


「セイバーの……サーヴァント? って、もしかして!?」


バッ、と弾かれたように士郎と凛の目が一点に向けられる。
二人の脳裏には、以前聞いた『ある言葉』が記憶の淵から浮かび上がっていた。
すなわち――――『この時代に召喚されたのはこれが初めてではない』、という言葉が。


「…………」


視線の先には、無表情のままに手元の湯呑を弄んでいるセイバー。
会議が始まってからこっち、彼女はこれといって口を挟まず、半ば静観のような形で沈黙を保っていた。


「その様子だと、言ってなかったみたいね。アナタがかつてエミヤキリツグのサーヴァントとして、この地に呼ばれてた事。記録も残ってたし、わたしはすぐに気づいたけど」


軽口のようにのたまうイリヤスフィールの言葉に、ピクリと彼女の片眉が跳ね上がる。
だがやがて観念したようにコトッ、と湯呑を置くと、重々しく口を開いた。





「……ええ。十年前、私はエミヤキリツグのサーヴァントとして、聖杯戦争に参加していました」





「「――――――ッ!?」」



予想と違わぬ返答、だがそれでも衝撃は大きい。
士郎と凛は絶句してしまった。


「「……??」」


その一方で、もう話についていけなくなってしまったのび太は、傍らでどら焼きをはむはむと頬張るフー子と互いに目を見合わせ、


「…………」


アーチャーは至って平静そのもの、といった体のまま、事の成り行きをジッと睥睨していた。















「……どうして、あの時それを言わなかったんだ?」


「……こういう言い方は誤解を招くかもしれませんが、聞かせない方がいいと判断したからです。キリツグを心から敬愛している、貴方には」


「? それは……どういう意味だ?」


そこでセイバーは一度士郎から視線を外し、イリヤスフィールの方へと振り返る。
そして彼女が瞑目し、『ま、好きにすれば?』とでも言わんばかりの軽い溜息を漏らしたのを確認すると、





「シロウの養父……いえ。裏で“魔術師殺し”と呼ばれていた、あの頃のエミヤキリツグの姿や在り様は、彼を慕う貴方の心を踏み躙ってしまうかもしれない。当時の彼は、真の意味で徹底的な“合理主義者”。必要とあれば非情で冷酷な手法すら、寸分の躊躇いも見せずに行ってきた」





セイバーは訥々と語り始めた。
在りし日の、第四次聖杯戦争における衛宮切嗣の、ありのままの姿を。
無論、すべてを語った訳ではない。
話さない方がいい部分もあるし、セイバー個人として語りたくないものもある。
加えて年端のいかないのび太やフー子だっている。あまりに刺激の強い話は控えなければならなかった。
だが、それでも。





「…………っそ、そんな!?」





士郎を動揺させるには十分すぎる内容であった。
セイバー自身を、まるで戦うためだけの『道具』同然にみなして……勿論、非人道的な待遇とかそういうものはなかったが……扱っていた事。
自ら影に徹し、敵サーヴァントを真っ向から殲滅するのではなく、マスターを人知れず暗殺するという手法を用いて聖杯戦争を勝ち上がっていった事。
勝つためには、およそ外道と呼ばれるような手段すら呼吸をするように行ってきた事。
それらの真実は、彼の胸にある切嗣像に泥を塗るほどの衝撃だった。
士郎の知る切嗣からはおよそ想像もつかない、生臭く、どす黒い行為の数々。
猜疑と疑問と失望が頭の中でグルグルと螺旋を描き、養父の姿を著しくぼやけさせていく。


「私とキリツグの間に、信頼関係という物は皆無でした。彼の妻であり、彼女の母であるアイリスフィールとはまた別でしたが……しかしそれでもまだよかった。最終的に聖杯を手に入れられるのなら、不満や憤りこそあれど使役し、されるだけの関係でも構わなかった。……ですが、最後の最後で彼は私を……裏切った」


「う、裏切った? 穏やかじゃないわね……どういう事?」


「彼は……っ、ッッ!」


ギリッ、とセイバーの歯が音を立てる。





「――――――顕れた聖杯を、令呪で以て強制的に私に破壊させたのです!」





吐き捨てるように告げられた、衝撃的な事実。
叩き付けられた怒気に気圧され、ビク、と士郎は身を竦ませた。
聖杯を求めて参加した筈のマスターが、聖杯を自らの意思で破壊した。
よりにもよって聖杯を求めて召喚に応じた、己が従者を令呪で縛り付けて強引に。
確かにこれは盛大な裏切りであろう。
ハアッ、と自らを落ち着かせるように息を一つ吐き、セイバーは再度口を開く。


「……何故そんな事をしたのか、今もって私には解りません。私が最後に見たモノは、すべてを焼き尽くさんばかりに猛る炎。そうして私は消滅し、十年後の今、再びこの地に呼び出された。初めは驚きました……まさかキリツグに義理の息子がいて、ましてや私を呼び出すなどと。加えて貴方は彼の手で健やかに、穏やかに育てられ、キリツグを心の底から尊敬していた……」


「……だから、切り出せなかった?」


確認の言葉に、セイバーはコクリ、と首肯を返す。


「――――エミヤキリツグがアインツベルンから裏切り者と見做されている、最大の理由がそれよ。聖杯戦争の意義そのものを台無しにし、アインツベルンの悲願もその手で叩き壊しちゃったんだから。そして粛清を躱すために、エミヤキリツグは行方をくらませた……」


わたしを置いてね、という最後の言葉はイリヤスフィールの口内に留め置かれた。


「そう、か」


そうして士郎はゆっくりと、大きく息を吐き出した。
正直、心の整理がつかない。
苦心の末に完成させた絵画に、グチャグチャと落書きをされたような気分だ。
イリヤも昨日までこんな気分でいて、それを乗り越えたのだろうか。


(だとしたら、凄いな……)


訳の解らない感想を抱きながらも、士郎はどうにか心を鎮め、平静へと戻していく。


(――――でも、こればっかりは時間がいるなァ)


落ち着きこそ取り戻したものの、心の暗雲はいまだ晴れない。
何を思って養父が自分を引き取ったのか、おおよその察しはついた。
きっと張り裂けんばかりの葛藤があっただろう……その胸中も、何となくだが想像出来る。
とはいえ養父のやってきた事はとても信じられないし、易々と受け入れられるものではない。


(でも……それでも)


それでも士郎は、信じたかった。
いつかの“アカイセカイ”で見た、養父の泣き笑いのような笑顔。そしてあの夜に交わした『約束』と表情を。
すべてを呑み込むのは無理かもしれない。しかしいつか、時が解決してくれるだろう。


(――――ん!)


そこまで考えたところで、士郎は一旦、その感情を棚に上げた。
士郎にはそれより早く果たすべき少年との大事な『約束』があって、今の最重要事項は“それ”ではないのだから。





「――――――ふむぅ……けど、そうなるとこの戦争、もう随分前からイレギュラーが起き得る“種”自体はあったって事よね」





士郎が顔を上げた丁度その時、凛の口から唸るような呟きが洩れてきた。


「え? そうなのか遠坂?」


「『そうなのか』って、あのねぇ……考えても見なさいよ。衛宮切嗣は折角顕れた聖杯を破壊しちゃったんでしょ? それはつまり、聖杯戦争の根っこになってる聖杯自体に、何かしらの欠陥があったかもしれないって事じゃないの」


「「……あ!」」


凛の言葉に士郎とセイバーは揃って声を上げた。
確かにそう考えれば、聖杯破壊という一連の行動に説明が付くのだ。
それにバーサーカーも言っていた。
あの怪物は、バーサーカーの『器』と『肉体』を基に、のび太の『記憶』から象られたと。
『器』は七つのクラスの規格を現す文字通りの英霊の受け皿、『肉体』は英霊の身体そのものを構成するエーテルの事。
最後の部分を除けば、それら二つは英霊を現世へ導く聖杯が司るものなのだ。
その二つを材料としてマフーガが生まれたというのなら、少なくとも聖杯そのものに何か予期せぬ事が起こっていると考えた方が自然である。


「その欠陥が何なのかは解らないし、衛宮切嗣がどうやってそれを知ったのかも知る術はない。ただ、話を総合すると聖杯が破壊された直後にあの十年前の大火が起こってるようだから、相当危険なモノであるっぽいのは確かね。そして、それが何なのかを知る方法はただ一つ。――――わたし達の前に、聖杯を降臨させる事」


「俺達の前に――――――って、それって今までとなんにも変わらないじゃないか!」


「そうだけど、それ以外に方法はないわよ。まずは聖杯を目の前に持ってこない事には調べようもないんだし。まあ、こっちには『始まりの御三家』の一であり、聖杯の専門家であるアインツベルンがいる訳なんだけど……」


「…………、ハァ。言っとくけど、聞かれても『お手上げ』としか答えられないわよ。確かに聖杯を降臨させる『器』はアインツベルンが用意するけど、それはあくまで『器』であって聖杯そのものじゃないもの。今の時点では、単なる『器』でしかないわ。やっぱり、中身がなくちゃね」


澄ました表情のまま、ホールドアップするイリヤスフィール。


「――――と、そういう事らしいわ。どのみちやる事は変わらない上、どうしようもなく変えられないのよ」


「それは……まあ、そうか……」


どこか釈然としないものを感じつつも、一理ある凛の言葉に士郎は頷かざるを得なかった。
実際問題、イレギュラーが起こったからといって、『じゃあこの戦争は取り止めにしましょう』、『ハイ、そうしましょう』……という訳にはいかない。
自分達も他のマスター・サーヴァント主従も、聖杯を手に入れる事を目指して戦いを繰り広げているからだ。
賽は既に投げられ、後戻りは不可能。
結局のところ、まず初心を貫徹する以外にないのである。


「それに……バーサーカー曰くのこの戦争の『闇』だけど、聖杯の欠陥と何か関わりがあるような気がするのよね」


「気がするって……リン、それ、何を根拠にして言ってるの?」


「根拠……そうね。女の勘、ってところかしら? ダメ?」


「ダメに決まっているだろう」


そもそも“女”と呼ぶには年季も人生経験も色気も何もかも足りん、とアーチャーから的確なダメ出しが飛ぶ。
その直後、彼の顔面目掛けてガンドがぶっ放されたのはある意味御愛嬌。
そして、しっかりと紙一重で回避されていたりするのもまた御愛嬌である。















「あ、『闇』といえば……のび太」


実力行使のツッコミで話の腰が折れてしまったため、一旦話題を変えようとのび太を見やった凛であったが、





「――――あ、はい!? え、えっと、なんですか凛さん!?」





「……アンタ、何やってんの?」


のび太を視界の中央に収めたその途端、眉間に皺が寄った。


「……出来た。次、フーコ」


「フ! ……む~、のびた、あってる?」


「え!? ……あ、ああうん、それで合ってるよ。で……あ、次は僕の番か」


フー子の指に絡まったそれを、のび太が指を差し入れて受け取り別の形へと組み替えていく。
シャッ、シャッ、シャッと指を動かす事およそ二秒。





「――――ほら出来た、『おどるチョウ』!!」



「「お~!!」」





赤い糸が作りだした、名前に違わぬ見事な図柄にパチパチと二人分の拍手が送られた。
手を叩いているうちの一人は言うまでもないがフー子。
そしてもう一人は。


「リーゼリット……貴女まで一緒になって、いったい何をしているのですか?」


「あやとり」


頭痛を堪えるように額に手を当てるセラへ、たった四文字で簡潔に説明するリーゼリット。
のび太、フー子、リーゼリットはいつの間にか三人で固まり、部屋の片隅であやとりに興じていた。
どうしてそんな事をしているのか、理由は実に単純。


「あ、その……さ、最初の方はなんとかついていけてたんですけど、だんだん話が難しくなってきて解らなくなっちゃって……それでなんとなく、ポケットを探ったらあやとりの紐が出てきて……つい。エ、エヘヘヘ」


「はなし、むずかしい。ボク、たいくつ。だから、してた」


「面白そうだったから。やり方教わりながら、一緒にやってた」


「……あ、アンタらねぇ……っ」


ワナワナと震える凛。
だが、そこにアーチャーから的確なフォローが入る。


「いや、無理もあるまい。子どもが理解するには、やや高度過ぎる話だろう。それに、聖杯戦争や魔術に関しての知識も乏しいのだしな」


「落ち着けって遠坂。アーチャーの言う事も一理あるんだし、そんなに目くじら立てる必要もないだろ? ここはホラ、大人の余裕でさ。カリカリし過ぎはよくないぞ」


「……むぅ」


どうどうと宥める士郎の言葉に、凛は眉間の皺を揉みほぐしつつ溜息を一つ。
昂ぶった勘気を鞘に納め、感情の波をニュートラルに戻した。


「はぁ……そういえばのび太。アンタなんともないの?」


「はえ? なんともって……何がですか?」


「昨夜あれだけ魔力を生み出して放出してたじゃない。初めの方は苦しそうにしてたし、どこかしらガタがきてないか聞いてるのよ。たとえば身体が痛いとか、だるいとか……」


「?? 別に、なんともないですけど?」


あやとりの紐をポケットにしまいつつ、率直に述べるのび太。
一応パパッと身体を探ってみるも、やはり取り立てて変調の兆しもなにも見受けられない。


「んー……そんなハズないと思うんだけどねぇ。のび太は魔術師でもなければ魔力(オド)のコントロールが出来る訳でもないんだし、普通だったら内側から風船みたいに身体が破裂していてもおかしくなかったのに」


「え……は、破裂ッ!?」


「そうよ。普通の人間があんなバカみたいな魔力、身体に留めておけるワケないでしょ? おちょこに海水を一気に注ぎ込むようなモンよ。間違いなく木っ端微塵に破裂して一巻の終わりね」


脳裏にパァンッ、と派手に弾け飛ぶ自分の身体がリアルに浮かび上がってきて、のび太はゾワッと背筋を震わせる。
あの『竜の因子』の共鳴から発生した魔力に、そんな危険性があったとは想像だにしていなかった。


「ま、ざっと見、後遺症も何もないようだし、そんなに青くならなくてもいいわよ。……しっかし、アンタも大概頑丈ね。破裂しなくとも身体中が軋みに軋んで、三日三晩は寝込むかと思ってたのに」


「……ふむ。おそらくは、レイラインを通して私とフーコに魔力が流れたからでしょう。それで負荷も少なかったのだと」


補足的に差し込まれたセイバーの言は的を得ていた。
過剰という言葉では済まないほどに湧き上がった魔力は、発生した当初こそのび太を苛んだが、セイバーに声を掛けられ意識がそちらに向いたお陰で、ラインを通じて魔力がそちらに流れていったのだ。
例えるなら、ダムの堰を無意識的に開放して水を放出するようなもので、もう一方のラインを通じてフー子の方にも魔力が流れていった。
のび太の器がおちょこでも、この二人のそれはさながらタンカー。
キャパシティに余裕のある方に水が流れるのはごく当然の摂理であるし、これによってのび太は最悪のシナリオを辛くも逃れていた。



「――――っと、脱線したわね。話を戻して……のび太」


「はい?」


「あのバーサーカーが変化した怪物について……アンタが知っている事を教えなさい。そして、どうしてアンタの身体に『竜の因子』なんてモノがあるのかも。あと、そこのフー子の事についても、ね」


「えっ、あっ……、あぅ」


凛の言葉によって、全員の視線がのび太に一斉に向けられる。
一瞬たじろぐも、あの時の状況が状況だったため、説明するのを後回しにしていた事を思い出した。


(……う、うーん……弱ったぞ。どう説明しよう……?)


のび太としては、過去の経緯を説明する事自体に否やはない。
ただ問題は……自分の発言がこの場の人間にどう受け取られるか。
妄言と切って捨てられる事はないだろうが、かといってあっさり納得されるとも思えない。


「フ? ……フゥ♪」


傍らのフー子の頭を軽く撫でつつ、思案する事約数秒。





「えと……、実は――――」





『出たとこ勝負』。
結局、のび太の頭脳スペックではそれ以外の上策は思いつけなかったのだった。










そして。










「――――――という訳なんです。『竜の因子』の方は、たぶんそれなんじゃないのかなぁ、って思うくらいですけど」





「「「「「「「…………」」」」」」」





のび太が話し終えた時、居間はシンと静まり返っていた。
如何に自分達が魔術という非現実的なものに浸り切っていたとしても。
如何に彼が想像の斜め上の効果を齎すひみつ道具を持っていたとしても……それでも今の話はインパクトが強すぎた。
故に。





「――――――熱は……ないわよね?」



「は、はい?」





凛がのび太の額に手を当ててそんな事を呟いたとしても、きっと無理からぬ事なのだ。
この上なく失礼だが。


「いや、凛さん熱ってなんですか!? ホントの話なんですよ! これ!!」


「……そう言われても、ちょっと突拍子がなさすぎるわ。アンタの素性を差し引いてもね……うぅ~ん、フー子。のび太の言ってる事は本当?」


「フ!」


大きく頷くフー子。
逡巡など微塵もない。


「はぁ……ん~ぅ、まだ上手く……呑み込めない。言ってる事が事実なら……魔術のない世界のハズなのに、こっちよりもう色んな意味で凄まじいわね」


「だから本当なんですってば!」


ガリガリと頭を掻き毟る凛にのび太が噛みつく。
しかし、凛とて何も真っ向否定している訳ではなく、言葉の通り、本当に呑み込めないでいるだけなのである。
のび太が語ったのはマフーガに関する冒険の一連の経緯と、“気ままに夢見る機”で体験した『夢幻三剣士』での出来事の、都合二つのエピソード。
与太話と断ずるにしろ真実と納得するにしろ、判断材料はのび太の言とフー子の肯定のみである。裏付けなどなく、必然、信憑性は乏しい。
だが、のび太の出自やひみつ道具の存在があり得ないという可能性にブレーキを掛けているため、心情的には肯定方向に傾いている。
でも証拠はない、証明手段もない、何より話の内容が壮大すぎる……故に、肯定に完全に傾ききれない。
半信半疑。納得したいが信じがたいという、ジレンマのドツボに陥った心境。
そして、それは凛だけに限った話ではない。


「風と共に生きる民と、風を支配しようとする民……古代のシャーマンが生み出した風の怪物に、未来からやって来た時間犯罪者……か。ん~……」


「……まるでどこぞの冒険譚のようだな。平行世界とはいえ、とても現代の話とは思えん。しかも君は事の当事者であり、年少の身で友人達と……怪物の一部たるその少女と協力しながら解決したという。君の持つ道具についてもそうだが、凛が頭を抱えるのも無理はあるまいよ」


「現実味がないというか……想像の斜め上というか。何とも、コメントに困るわね」


「ノビタが平行世界からの迷い人と聞かされた時も驚かされましたが……しかし、夢と現実を入れ替える。しかも魔術ではなく、科学の力によって……などと。如何せん鵜呑みには……出来かねますね」


「壮大……」


それぞれが唸ったり、微妙な表情を浮かべたりと、困惑の体を晒している。
アインツベルン組には、のび太が平行世界からの迷子である事を凛達が朝食前の時間に説明しているが、凛や士郎ですら腑に落ちないでいるのだ。
それより圧倒的に付き合いの短い彼女らでは、ストンといかないというのもごく当たり前の事であろう。
……ただ、その中で一人だけ。





「…………」





セイバーのみが沈黙を保ったまま、何かを考え込むように眉根を寄せていた。


「セイバー? どうしたんだ?」


それに気づいた士郎がセイバーに問いかけるも、セイバーは未だにその状態を崩さない。


「おい、セイバー……? セイバーってば」


「……あ、ああ、はい? シロウ、どうかしましたか?」


「いや、どうかしたのかって……セイバーこそどうしたんだよ? なんか一心不乱に考え込んでたみたいだけど……」


「は? ……ああ、いえ。何でもありません。それよりも、他に気になる事が……」


「気になる事?」


「はい。……ノビタ」


眉間の皺を元に戻し、セイバーはスッとのび太の方に向き直った。





「――――貴方、この戦争の『闇』に心当たりなど、もしやありませんか?」





「こ、心当たり!? ってないよ、そんなの!? どうしてそんな事聞くのさ!?」


「バーサーカーはマフーガが貴方の“記憶”から象られたと言っていました。とするならば、『闇』は貴方に対して接触を図っていた事になります。勿論、姿を見せず秘密裏に……という可能性が高いですが。そして、何らかのアプローチで貴方に関する情報を細かい部分まで把握している。……ああ、別段疑っている訳ではありません、あくまで確認です。何か思い当たる節はありませんか?」


「せ、接触……!?」


突如として追及の矛先を向けられ、のび太は狼狽する。
しかし、のび太に心当たりなどあろう筈もない。
何しろ突発的にこちらに流れ着いた身の上。見知った人物もいなければ、そんな不穏な気配など欠片も…………いや。


(――――あ、そういえば!)


のび太の脳裏にふと、“ある事”が浮かび上がった。





――――――このイカれた戦争のただ中で、誰よりも生き延びてみな。





それは自分が初めてバーサーカーと相対し、一度逃げ出した後の道端での情景。
あの時交わした、一連のやり取りであった。
今にして思えば、あの邂逅は不可解すぎた。
姿を見せず、声のみが宵闇から響いてきた異様さもさることながら、声の主は明らかに自分の事をよく知っているような口振りで話していたからだ。
怪しい事この上なく、セイバーの言わんとする事に見事に合致している。


(……でも、なんだろ)


のび太としては、この事は言わない方がいいような気がした。
何故かは解らない。ただ何となくそう思ったのだ。
知らず、のび太の眉間に皺が寄り始める。


「ノビタ……?」


狼狽えたと思ったら考え込み始めたのび太に、セイバーが声を掛けようとしたその時。










――――――――Prrrrrrrrrrrrrrr










固定電話のベルの音が居間に飛び込んできた。















「あら、電話?」





「みたいだな。悪い、ちょっと待っててくれ。出てくるよ」





そう言うと士郎は腰を上げ、小走りに廊下の電話前まで駆け寄り受話器を取り上げた。










「はい、もしもし衛宮です――――――――――――――――――――なんだ、藤ねえ?」








[28951] 第二十九話
Name: 青空の木陰◆c9254621 ID:90f856d7
Date: 2012/04/26 01:45





ガチャリ、と野比家のドアが勢いよく開き、買い物篭を下げたドラえもんが駆け足で入ってくる。
物音に気づき、居間の襖から顔を出した玉子は、それがドラえもんだと解ると声を掛けた。


「お帰りなさい、ドラちゃん。早かったわね」


「ただいま戻りました、これ頼まれていたモノです!」


「あ、あら? どうしたの、そんなに慌てて?」


買い物篭を渡すな否や、一目散に二階への階段を駆け上るドラえもん。
玉子が呆気に取られるのも束の間、その後を追いかけるように、新たな人影が玄関から現れた。


「お邪魔しま~す!」


「おっじゃまっしま~す!」


「お、お邪魔します」


しずか、ジャイアン、そしてスネ夫。
玉子への挨拶もそこそこに野比家へと上り込み、足音高く、ドタドタと廊下から階段へ駆けていく。
いったい何事かと、玉子は、ポカンとその場に立ち尽くしてしまう。


「あ、おばさん。今日もきれいですね」


「あ、あらあら……!」


駆け抜けざまに投げられたスネ夫のお世辞に、満更でもない様子の玉子。
突然の慌ただしい来訪への疑問も、それで幾分飛んだのか、鼻歌でも歌いだしそうな表情で台所へと足を向ける。


「……? そういえば、のびちゃんがいなかったわね?」


と、ふと、本来ならばあの面子の中にいなければおかしい、自分の息子がいない事に気づき足を止めると、二階へ向かって声を張り上げた。


「ドラちゃ~ん、のび太はどうしたの?」


「――――あ、はい!? み、見かけませんでしたけど、そのうち帰ってくると思います!?」


「…………?」


やけに慌てた様子の返答に玉子は首を傾げるも、特にそれ以上追及する事もなく、そのまま台所へと引っ込んでいった。










「うーん……家の中にはいないし、靴もなかった。という事は……やっぱり」


部屋へと戻ってきたドラえもんは、右隣にあるのび太の机へと目を向けた。
机の上に乗っている書置きのメモ用紙は、よくよく見れば自分が置いた時の位置と一寸たりともズレてはいない。
つまり、のび太は、この書置きに目を通していないのだ。
ドラえもんの表情が、厳しいものへと変貌する。
そこへ、後を追いかけてきた三人が飛び込んできた。


「おいドラえもん、のび太やっぱり……」


「うん、どうやらアーサー王に会うために“タイムマシン”に。 ……マズいなあ」


「マズいって、何がマズいのドラえもん?」


スネ夫の問いに答える代わりに、ドラえもんは、机の上の書置きを手渡した。
パッと開いたメモ用紙を、しずかとジャイアンがスネ夫の横から覗き込む。


「……ドラちゃん。この時空乱流って、もしかしてククルの時の……」


「うん。それだよ。ちょっと前に、タイムパトロールから通達が来てたんだ。大規模な時空乱流が起こってるから“タイムマシン”は使わないように、って。もし巻き込まれでもしたら大変だからね」


「たしかポコの時もそれっぽいのに……つーかさ、そんなポンポンと起こるモンなのかよ? 時空乱流って」


「時空間に関しては、二十二世紀の科学でも解ってない事が多いんだよ。時々起こる時空乱流についてもね」


時空間には、例えば『支流』という、タイムパトロールが未だ把握しきれていない、所謂抜け道のようなものが存在する。
以前、ドラえもん達が出会った昆虫人類は、この『支流』を使って、タイムパトロールの監視網を掻い潜り、時空間の自由な航行を可能としていた。
他にも、七万年前の人間が時空間に迷い込んた末に現代に辿り着いたり、地球から遠く離れた星のロボットが次元の壁を超えて漂着したりと、時空間に係わりのある原理不明の事象は数多い。
まだまだ謎や秘密が隠された超空間、それが時空間なのである。


「じゃあ、のび太さんは時空乱流が起こっている事を知らないで、“タイムマシン”に?」


「そうみたい。なにしろ、僕が置いておいたメモが最初の場所から一ミリも動いてないんだもの」


「つまりのび太は、このメモを見てないって事かぁ。でものび太なら案外、大丈夫なんじゃない? ほら、このSSのコンセプトって『大長編のノリ』なんだし、大長編だとのび太、頼りになるし――――あ痛たッ!? な、なんでいきなりぶつのジャイアン!?」


「うるせぇ! スネ夫、お前のび太が心配じゃねえのかよ!?」


「そ、そうじゃないけど、そもそものび太、本当に“タイムマシン”に乗ったの!?」


「……あ、そっか!」


指摘されて、ハタと気づいたドラえもん。
のび太が本当に“タイムマシン”に乗って行ったのかどうか、その確認をまだしていなかった。
ドラえもんは“タイムマシン”のある、のび太の机の引き出しに急ぎ足で向かう。
“タイムマシン”を使っていなければ、まだ引き出しの中に“タイムマシン”が待機しているはずで、使っていればその逆。
何事もなく“タイムマシン”が鎮座している事を祈りつつ、ドラえもんは引き出しを開け、中を覗き込む。
……が。


「――――――あぁあっ!?」


「な、何? なんなの?」


「どっ、どうしたドラえもん!?」


突然の絶叫に、慌てて駆け寄る三人。
机の引き出しに首を突っ込んだ体勢のまま固まるドラえもんの脇から、めいめい中を覗き込むと、皆一斉に硬直した。





あり得ない方向に捻じ曲がったバー。





見るも無残に引き千切られたコード類。





凹み、歪み、原形を留めない程に変形してしまった外装。





罅割れて、もうもうと黒い煙を吐き出している画面パネル。





ところどころが砕け、幾筋もの亀裂の走った床のボード。





『ピ……ピ、ガガ……ピ……ノビ……ノノビ……タサ……ガガ、ピ、ガガ…………』





あちこちから火花を散らし、満身創痍といった体で時空間に待機する“タイムマシン”が、そこにはあった。




















「いや~、ごめんね士郎。しっかりやれって言った矢先に」


「そう思うんだったら、少しは自重してください。藤村先生。いきなり『士郎、お昼のお弁当大至急! 肉魚野菜バランスよく和洋折衷卵焼き甘めでヨロシク!!』って電話で言われて、『ヘイ、お待ちィ!』って訳にはいきませんので。まあ、どうにか間に合わせたけど」


そもそも来客中に昼飯のデリバリー頼むなよ、と溜息混じりに机の上に風呂敷包みを乗せる、制服姿の士郎。
両手を合わせて謝罪と感謝の意を示しつつも、チラチラと横目で包みを確認し、鼻をヒクつかせる大河にますます力が抜けてくる。
ガシガシ、と髪の毛を乱雑に掻き回し、チラリと背後の壁に取り付けられた時計を確認。
丁度、四時間目が終了しようという時間。昼時タイムリーだ。
ああ、きっと虎の胃が猛ってるんだろうな、メシ寄こせって。


(……本能にイイ感じに素直な点は、そろそろ改善してくれよ)


穂群原の職員室の壁にぼんやりと視線を散らしながら、半ば投げやりに士郎は思った。


「ところでさ、士郎」


「んー?」


呼びかけられて大河に視線を戻した士郎は、大河が自分の傍らに目を向けている事に気づいた。
どうやら怒ってはいないようだが、意外には思ったらしい。
一応問題にならないよう、事前に事務室で許可は貰っているし、話も通ってはいるのだが、まあそれも当然だ。


「どうして、のび太君とフー子ちゃんがここにいるの?」


「あ、えと、その……け、見学、です。し、士郎さんの学校って、どんな学校なのかなぁって、お、思って。ア、アハハハ」


「ん」


のび太の言葉を肯定するように頷くフー子。
士郎のお使いに便乗する形で、のび太とフー子は穂群原の敷居を跨いでいた。
無論、今述べた理由は、単なるでっち上げであり、建前。
真の目的は、別にある。


「ふ~ん……じゃあ、穂群原の第一印象ってどんな感じだった?」


「え? あ、う~ん……あ、あんまり、堅苦しくない学校、かな?」


藤村先生みたいな先生って見た事ないし、という言葉は飲み込んで、のび太はそう答えた。
のび太の通う学校の先生は、担任を代表として厳格かつ真面目そのもの、悪く言えばカタブツの先生が多い。
大河のような大らかで、妙にアグレッシブな先生はそうそうお目にかかった事がない。
それ故の、この返答であった。
というか、大河のようなタイプの先生ばかりがいる学校というのも、それはそれで大いに問題があるだろう。


「そ? じゃあ、のび太君も中学卒業したら、ここに入学する?」


「う、う~ん……僕ん家、遠くにあるから……」


「あ、そうなんだ……うーん、残念」


本当に残念なのかよく解らない、軽い調子で大河は唸る。
と、今度はのび太の隣のフー子に目を移した。


「あれ? そういえばフー子ちゃん、朝と格好が違うけど?」


「あ、ああ、それは……遠坂がはりきったんだよ。『せっかくだから、オシャレしましょ!』とか何とか言って、かなり悪ノリしてた」


「へえ~。うんうん、とっても可愛いし、すごく似合ってるわよ。遠坂さん、グッジョブ!」


「…………ッ」


朝までは、復活した際に身に纏っていた浅黄色のワンピース姿だったが、今の装いは違う。
来客用のスリッパを履く足には、黒白のストライプニーソックス。
無地のシャツの上から白いパーカーを羽織り、濃紺のデニムのハーフパンツを皮のベルトで止めている。
何より特徴的なのは、鮮やかなオレンジの髪に結われた、後頭部の大きなピンクのリボンだ。
それが見た目の年相応の可愛らしさを一層引き立て、将来が楽しみな美少女としてフー子を際立たせていた。
なにやら面映そうに頬を掻くフー子に、大河の目じりがますます下がる。


「で、これからどうするの士郎? もう帰る?」


「ああいや、もう少しのび太君達に学校を案内するつもりなんだけど。大丈夫だよな?」


「うん、別に大丈夫だけど、一応昼休みの間だけね。士郎はともかく、のび太君達は本来部外者だから、今日みたいな平日にはあんまり長居させられないのよ。ゴメンね?」


「あ、いえ大丈夫です。こっちこそ急に……」


「いーのいーの、それくらい。念のため、話は通しておくから。で、士郎の手にあるもう一つの袋はなんだ?」


「ん? ああ、これは俺達の昼飯。どっか場所借りて食うつもりだったんだけど」


目敏い大河に呆れながらも、律儀に答える士郎。
ふんふんと頷きを返しつつ、ちょっぴり残念そうにブツを見つめる大河の胸の内を、士郎は正確に見透かしていた。
すなわち。


(これも食うつもりだったな……)


少しは自重してくれ、と。
出かかった溜息を飲み込み、士郎は扉の方へ踵を返した。


「じゃあもうすぐ昼休みだし、行こうかのび太君」


「あ、はい! し、失礼します。行こう、フー子」


士郎に促され、コクン、と頷くフー子の手を握ると、のび太は士郎の後をついて職員室を後にした。




















『……藤村先生のお使い、ね。それなら、ついでにちょっとライダーの結界を調べてきなさいな。のび太も連れてね』



『のび太君も?』



『お呼びでないわたしは出て行けないしね。たぶん、結界の天敵はのび太の“あの道具”よ。学校の人間全部、人質に取られてるようなものだから下手には動けないけど、いざという時の保険にのび太は必須よ。あんたにのび太のポケット持たせたって、きっと持て余すだけだろうし、適当に口実作って連れて行きなさい。それと、こっちもね』



『こっち、って……』




















「成る程ね……意識して見てみると、はっきり解る。それにこの、不自然に甘い匂い……なんで気づかなかったのかね」


鼻をヒクつかせ、納得顔で廊下を歩く士郎。
後ろから、手をつないだのび太とフー子がゆっくりとついてくる。


「どうかしたんですか?」


「ん? いや、結界の気配……というか、効果というか。そんなのを感じるんだよ。こう、改めて意識を集中すると、さ。人の様子とか、甘い匂いとか」


「匂い……? 別に感じないですけど?」


クンクン、と鼻を動かすのび太だが、士郎の言うような匂いなどまったく感じられない。
こういった魔術的な素養が必要な感覚を、のび太は持ち合わせてはいないからだ。
蛇は体温を感知出来る器官を持っているが、人間は持っていない。それと同じ事である。
よしんばのび太に素養があったとしても、果たして同じものを感じ取れるのかと問われれば、答えは否。
この手の感覚には個人差がある。
甘い匂いというのも、あくまで士郎が主観的に感じられる感覚なのであって、別の人間も同じく甘い匂いを感じるという訳ではない。


「まあ、匂い云々はその手の力がないと解らないと思うけど、結構まずい状況になってるのは間違いない。匂いが解らなくても、周りの人を注意深く見回してみると解るよ。ほら」


そう言って士郎が指差したのは、ある一つの教室。
丁度そこでは、数学の授業が行われていた。


『――――であるからして、ここの数字が……』


『…………』


担当教師によって黒板に書かれていく文字を、生徒はペンを走らせてノートに書きとってゆく。
しかし、それを満足に行えているのは、精々数人程度。
大半の生徒は欠伸を噛み殺していたり、頬杖をついて溜息を吐いていたり、机に突っ伏して微睡(まどろ)んでいたりと明らかに集中力が欠けていた。


「皆、疲れがたまってるような感じだろ?」


「はぁ……うーん、でも、今お昼前ですし、ああなっても無理ないんじゃ? 僕も眠たくなるし」


「それだけじゃない。何よりおかしいのは、あの黒板に式を書いてる先生の方なんだ」


「先生の?」


「ああ。あの先生、かなり厳しい事で有名なんだよ。居眠りなんかしたら、間違いなく怒鳴り声が飛んでくる。そんな先生が、だらけてる生徒に対して注意も怒りもせずに、ズルズルと授業を進めてるんだ」


そう言われて、のび太は、担任の先生が同じような事をしている光景を思い浮かべてみた。
自分の席は教室の前方、教卓のすぐ近くにあり、嫌でも先生の目に入る。
そこで自分は教科書も広げず、スヤスヤと寝息を立てて、夢の世界へと旅立っている真っ最中だ。
にも拘らず、先生は淡々と『えー、ここの数字が……』などと板書をし、自分に向かって雷を落とす事はない。
自分が視界に入っているのは確実なのに、いつものような凄まじい剣幕で起きろとも、廊下に立ってなさいとも言わない……。


「確かに……おかしい」


「……今の間がちょっと気になるんだけど……まあ、そんなところだよ」


逆に心配になっちゃうなぁ、と呟くのび太に視線をやりながら、士郎はカリカリと頬を掻いた。
と、丁度その時、


「あ」


「ん……四時間目が終わったか」


終業のチャイムが校内に響き渡った。
あちらこちらの教室からガタガタ、ガガーッと机や椅子を引く音が鳴り、廊下には制服を着た人間が群を成してごった返し始めた。


「人が多くなってきたな……とっとと移動しよう」


「あ、はい」


目指す場所まで、まだそれなりに距離がある。
それに、それぞれの腹具合もいい感じに鳴り始めていた。
三人が、やや急ぎ足に歩き出そうとした瞬間、


「おーい、衛宮!」


「ん?」


後ろから声が飛んできた。
振り返ると、茶褐色のおかっぱ頭の女生徒が廊下の向こう側から手を振り、こちらに向かってきていた。


「美綴?」


「おお、やっぱり衛宮だったか。今日は休みだって、藤村先生からチラッと聞いてたんだけど、ありゃアタシの気のせいだったか?」


「いや、休みで合ってるぞ。他ならぬ、その件の教師のお使いでな。弁当のデリバリー。休みだったのを引っ張り出されたんだよ。もう済んだけど」


それで納得したのか女生徒は、あ~成る程……、と苦笑混じりに頷いていた。
大河のアレは日常茶飯事という事なのか、妙に慣れた反応である。


「士郎さん、この人は?」


「んん? 衛宮、なんで学校に子どもが二人もいるんだ? 衛宮の子どもか?」


「……いや、あり得ないだろそれは。どうしてそんな結論が出てくる?」


「あ~……間桐との子ども、とか?」


「それは桜に対して失礼だろ……第一、のび太君は小学五年生だ。年齢的に無理があるのは見て解るだろうに」


額を押さえて嘆息する士郎。
勿論女生徒の方も本気で言った訳ではなく、ゴメンゴメンと両手を合わせて陳謝していた。


「……ん~、間桐も可哀そうに……で、結局その子達は?」


「遠縁の子だよ。親父の墓参りでね、はるばる遠方から出てきてるんだ。俺が学校を休んでるのは、ホスト役だからだ」


「の、野比のび太です。こっちは、フー子です」


自己紹介と共に、のび太は、フー子と一緒に頭を下げる。
すると、女生徒はバツが悪そうにパリパリと頭を掻いた。


「あちゃ~、先に言われちゃったか。じゃあ、改めて。アタシは美綴綾子っていうんだ。弓道部の部長をやってる」


「弓道部? 弓、ですか?」


「ああ。衛宮は一時期、弓道部に入っててね。その縁で顔見知りなんだよ」


「へぇえ~」


「衛宮はさ、実はアタシより弓が上手いんだ。でも、いきなり弓道部辞めちゃってさ。負けっぱなしなのはイヤだから、何度も再戦を申し込んでるんだけど、全然相手にしてくれないんだよな~……」


言外に、キミからも衛宮に頼んでみてよ~……、というニュアンスを含んで愚痴る綾子。
つい今知り合ったばかりののび太には、勿論そんな事をする義務も義理もないのだが、溺れる者はなんとやら、という事なのかもしれない。
言うなれば勝気な姉御肌、といった雰囲気を持つ綾子もまた、のび太にとって、あまり相対した事のないタイプの人間だ。
性格上、押しに弱いのですげなく断る事も出来ず、対処に困ったのび太は士郎に視線を向けた。


「いや、あのな……あ~、前向きに検討しとくから、その話はまた今度にしてくれ。それより、今から弓道場使っていいか? そこで昼飯食いたいんだ」


「ん? ああ、それは衛宮達の弁当なのか。別にいいよ、昼練もないし。というか、今弓道部、一時休止状態なんだよ」


「い、一時休止? なんでさ?」


士郎の目が点になる。
そもそも部活動が休止状態になった事など、士郎の記憶を掘り起こしてみても一度たりともない。
いったい何が起こったのか。


「いやぁ、ここ数日、ダウンする人間が続出してるんだよ。風邪にインフルエンザ、感染性胃腸炎と、まあ原因は色々。学年問わず、ここ数日欠席する人間が多いんだけど、弓道部は輪をかけて欠席者がヒドイんだ。それこそ、活動が立ち行かなくなるくらいにね。だから、やむを得ず、今日から部活動を一時休止にしてるんだよ」


「成る程……」


綾子の言葉にいちいち頷きを返しながらも、士郎は顎に手をやり思案する。
これも結界の影響なのだろうか、と。
確かにあり得る話ではある。
結界は、人間の活力をどんどんと吸い上げているのだから、中の人間の病気に対する抵抗力が落ちるのも解らないではない。


(……でも、弓道部員の欠席率が他より高いのはなんでだ?)


その点が引っ掛かって仕方がなかった。
些細な事ではあるが、しかし単なる誤差とも思えない。
解を導き出そうと知恵を絞るも、その手の知恵が身についていない士郎では、見当すらつかない。


「……士郎さん?」


「お~い、どうかしたか?」


と、様子が気になったのび太と綾子の呼びかけにより、士郎の意識は引き戻された。
何でもないとパタパタ手を振り、とりあえず疑問を一旦棚に上げて、弓道場の使用許可を再確認する。


「じゃあ、弓道場使っていいんだな?」


「ああ、鍵はいつものところにあるから。それと、汚しはしないだろうけど、一応出る時は掃除しておいてくれよ」


「了解。それじゃ――――――あ、そうだ」


「ん?」


そして踵を返し、弓道場へ向けて歩き出そうとする直前に、ああちなみに、といった感じで士郎は綾子に振り返った。


「弓道部の休みって、具体的にどのくらいの人数が出てるんだ?」


「へ? ああ、そうだな~……二年はアタシと兄貴の方くらいしか出てきてないな。他は全員アウト。あと一年は半分くらいが休みだ。間桐も込みで」


「そうか……桜も休みなのか。慎二は元気なんだな」


「ん~、ありゃ元気、って言うのかな? ここ二、三日、ブツブツ独り言呟いてたり、時々ヘンな薄笑い浮かべたりしてるんだけど。ある意味、別の方向で問題があるような気がするよ」


苦笑気味に語る綾子。
それなりに長い付き合いをしている士郎には、なんとなく、慎二の心情が読み取れたような気がした。
そして、同時にゾワリと薄ら寒い感覚が走り、気がつけば肌が粟立っていた。










「――――――――クク、そうか。来てたのか、衛宮……」











士郎達の左手、十数メートルほど離れた廊下の陰。
そんな事を呟く人間の暗く、粘ついたような視線に、士郎は気づかない。




















「……なんか、意識し始めると……あ~、気分が悪くなりそうだな、これ」


「はい?」


弓道場の扉を前に、ボソッと漏れ出た士郎の独り言に、のび太は視線を上げる。
しかめっ面で鼻を押さえる士郎の眉間には、深い皺が刻まれていた。


「いや、もうそこら中から甘ったるい匂いが漂ってきててね。酔いそうなんだよ。鼻もかなりマヒしてるしなぁ」


「そんなに匂い、キツいんですか?」


「まあ、この匂いを自覚しだしたらね、気にせずにはいられないよ」


諦観気味にそうぼやく士郎だが、自覚の出来ないのび太には今ひとつピンと来ない。
ふと傍らのフー子に視線を移すと、どことなく気分が悪そうに見えた。


「どうしたの?」


「……ち、の、におい」


「ち? ……血?」


士郎が甘いと感じている匂いも、彼女には血臭として感じられているようだ。
それが不快なのだろう。表情こそ変わっていないものの、のび太が握っている彼女の小さい掌は、ベッタリと嫌な汗をかいてしまっている。
知らず、のび太の背筋に冷たい物が走った。
その間に、士郎は予め回収しておいた鍵を使い、弓道場のドアを開錠した。


「さ、二人とも入って」


「うわぁ……」


扉の向こう側に広がる、だだっ広い空間を見てのび太は呆けたような声を上げた。
なにせ弓道場など初めて見るものだから、目に映る全てが物珍しい。
そして、道場の中に立ち込める木の匂いや、静かな空間に満ちる独特の雰囲気が、のび太の感嘆をさらに押し上げていた。


「そんなに珍しいかい? 弓道場」


「はい。他のところはともかく、弓道場は入った事がないですし……」


「そっか。……ま、とにかく飯にしよう」


士郎達は靴を脱いで、板敷の床へ上がると道場の中央部へと移動し、いそいそと昼食の準備を始める。
手提げの中から風呂敷包みの重箱を取り出して広げ、同時にお茶の入った水筒、それに箸と皿を用意する。
重箱には、先の大河の分とはまた別の、三人分のご飯とおかずが詰められていた。
三段重ねの一段目は、鮭や梅干し、おかかを中に封じ込めた三角むすびと俵むすび。
二段目には鶏の唐揚げや卵焼き、白身魚の塩焼きなどの肉魚類。
最後の三段目にはポテトサラダ、キンピラごぼう、ウサギの形にカットしたリンゴなどの菜類と果物といった、なんとも食欲を誘う豪勢なレパートリーが揃っていた。


「うわあ、おいしそう……!」


「…………ッ」


ご馳走を前にしてのび太は目を輝かせ、フー子はそっと生唾を呑みこむ。
士郎はそれを苦笑混じりに見やったかと思うと、徐に表情をスッと神妙なものへと変え、身体の前で両手を合わせた。
それに倣い、二人も慌てて合掌する。


「さて、それじゃあ……いただきます」


「「いただきます!」」


号令一下、三人の箸が一斉に重箱目掛けて突き出された。
それぞれ皿に好きな物を取り分け、口の中に放り込んでいく。


「う~ん、お~いしい~!」


梅の三角むすびを片手に、鶏の唐揚げを頬張るのび太。
下味がよく染み込んでいて、鼻に抜ける風味も食欲をさらに掻き立てる。
サラダやキンピラ、卵焼きを次々口に含み、頬をパンパンに膨らませて、のび太は至福の表情を浮かべる。


「……ッ、…………ッ」


一方フー子はというと、サラダ、唐揚げ、塩焼き、鮭の俵むすび、キンピラと順序よく、そしてバランスよく一品ずつ食している。
箸を巧みに操り、コクコクと一口一口よく味わうかのように咀嚼しつつも、時折ふにゃっ、と蕩けるように笑み崩れる様は実にあどけなく、そして可愛らしい。


「……くっ、これもか」


だが、ただ一人。
士郎だけは、なぜか料理を一品食べる毎に段々と表情が険しいものへと変貌してゆき、ブツブツと呪詛でも紡ぐかのように暗い声を漏らしていた。
いったい、何故か?
実はこの弁当、士郎が手ずから作ったものではないのだ。





『学校に弁当を届ける? ……ふむ、ならば好都合か。貴様の作る注文分とは別に、私が貴様達の分を作るとしよう。先日は思わぬアクシデントで叶わなかったが、今この場で、改めて宣言する。貴様と私、どちらが上か文字通り、確と噛みしめるがいい』





そう得意げにのたまいやがった白髪頭の幻影を振り払い、士郎は卵焼きを口へと運ぶ。
味付け……あっさりすぎず、かといってしつこすぎもせず、まさに極上。
焼き加減……弁当用に水分が滲み出ない程に焼かれていながら、それでいてとろけるような柔らかい口触りでベリーグッド。
風味……だしの使い方が的確で上手いのだろう、口の中から鼻腔にまで広がる、得も言われぬ香り高さに思わず花丸を与えたくなる。


「ちくしょう……ちくしょう……ッ!」


のび太達にわざわざ尋ねるまでもない。
目の前にまざまざと突き付けられた、揺るぎない、確固たる事実。
口だけではなかったのだ、奴の実力は。
士郎は己が舌を以て、自らの完全敗北を悟った。


「え、士郎さん? ど、どうして食べながら泣いてるんですか?」


「……いや、泣いてない。泣いてないよのび太君。ちょっと、おにぎりの塩加減がキツくてね……」


「はあ……?」


左の手に掴んでいる、おかかの三角むすびを貪るように口へと収め。
そのままグイ、と袖で目元を横一文字。
プライドを破壊されてもなお、精一杯の虚勢を張って士郎はのび太の方へ、ぎこちない笑みを形作る。


「…………」


そんな士郎の苦悩を知ってか知らずか。
頭の上にポン、とフー子の小さな掌が乗せられた。






























―――――――――――その、瞬間。






























『――――――やれ、ライダー』










『――――――ッ。 ……他者封印・鮮血神殿(ブラットフォート・アンドロメダ)』




















「―――――っな!?」




「―――――え、え!? な、なにこれっ!?」




「―――――ッ!?」




















穂群原のすべてが、血のような『紅』に染め上げられた。












[28951] 第三十話
Name: 青空の木陰◆c9254621 ID:90f856d7
Date: 2012/05/31 11:51





「ドララ、ドララ~!!」


「え、ミニドラ? どうしたの?」


衛宮邸の一室、宝石に自らの血を垂らして魔力を込める作業に没頭していた凛は、突如部屋に駆け込んできたミニドラ・レッドに振り返る。
先を見据え、完成間近の宝石を使えるようにしておこうと思い立ったが故の行動なのだが、注射器片手に自らの血液を採取する光景というのは、素人目には異様としか映らないであろう。


「ド、ドラッ!?」


ミニドラ・レッドも流石にビビったのか、一瞬ビクッ、と身を竦ませていた。


「ああ、これ? 気にしないで。で、どうかしたの?」


注射器を机の上に置き、凛は何があったのかをミニドラへ問いかける。
気を取り直したミニドラ・レッドは、身振り手振りと「ドララ、ドララ」というミニドラ語で、説明を始めた。


「学校に変化? そう、解ったわ」


はじめこそ、姿から言葉から色々とブッ飛んでいるミニドラ三人組に面食らったものの、今では慣れたものだ。
いや、慣れざるを得なかった、と言うべきなのかもしれない。
そうでなければ、この先保たないような気がしたからだ……主に自分の常識が。
魔道に浸りきり、非日常を日常として過ごしているものの、それでも最低限の常識は持ち合わせているのだし、キレるレッドラインだって存在しているのだから。
凛とミニドラ・レッドは、離れのとある部屋へと、急ぎ足で向かった。


「ドララ、ドララ!」


「どら~!」


部屋のドアを開けると、そこにはアーチャー、イリヤスフィールら、衛宮邸に残る凛以外の全員が既に集合していた。
皆、一様に険しい表情を浮かべている。
部屋の奥には、“どこでもドア”が一つ、ポツンと設置され、そのせいか、洋装の室内に妙なミスマッチ感が漂っていた。
さらに、床の上にはモニターが複数鎮座しており、それぞれ画面に映像を投射している。
そして、残るミニドラ・イエロー、ミニドラ・グリーンの二人が何やら、モニター周りに置かれた大型の機械と計器を必死にいじっていた。


「状況は!?」


「聞くより見た方が早かろう」


そう言って、眼前のモニターを顎で指し示すアーチャー。
凛が目を移したモニターには、紅い鉄格子のような線でドーム状に覆われた、穂群原の校舎が映し出されていた。
“タイムテレビ”と、あらかじめ放っておいた“スパイ衛星”からのリアルタイムでの映像だ。
血のような紅い空気。普段では起こり得ない、超常現象じみた光景。ここまでくれば何が起こったのか、一目瞭然。


「ライダーの結界……か。慎二のヤツ、ついにやったのね」


「そうみたいね。でもリン、これ明らかに出来損ないよ。この結界、即効性なんでしょ? にも拘らず、映像で見る限りまだ誰一人として、魔力に昇華されてないもの」


「どうやら、未完成のまま強制発動したようですね。この分ですと、すべての人間を昇華するには時間がかかるでしょう」


もっとも、それも数分程度でしょうが、というセラの補足に凛は眉を顰める。
自分が基点を破壊しまくったのが功を奏したか、瞬時に蒸発という最悪の事態は避けられた。
しかし、早く結界を無効化しなければ、それも水泡に帰してしまう。
行きがけに、結界の基点の位置はあらかじめ士郎に伝えてはあるものの、へっぽこ士郎では、一度発動したものを破壊する事は困難だろう。
ましてや、これは英霊謹製のシロモノだ。さながら、ペーパーナイフでチタン合金を斬るような、ルナティッククラスの難易度である事は想像に難くない。
それほどの所業など、士郎に望むべくもない。
……だが。


「――――あっ!」


「む? これは……」


「結界が……」


向こうには、ペーパーナイフでチタン合金を斬れる……いや、斬れるようにする事が出来る人間がいる。
画面中、学校を取り囲む紅い格子の中で一番太い紅の柱が、いきなり明滅したかと思うと、スウッと煙のように消え失せた。
それと同時に、紅い空気がうっすら淡いものへと変化する。


「これ……は、弱まった、のかしら?」


「……だろうな。おそらく、中枢をやられたのだろう」


「毒性が激減してる。ただでさえ急ごしらえの結界なのに、早々と中枢を破壊されちゃったんだから、ほどんど徒労で終わっちゃうかも。あ~あ、ライダー涙目ね」


クスクスと笑うイリヤスフィール。
彼女の覗き込んでいる別のモニター画面を見てみると、結界内の士郎達の様子がはっきりと映し出されていた。





『あ……消え、た?』



『ふぅ……っ、よ、よかったぁ』



『…………』





脂汗を浮かべ、若干気分が悪そうにしているが、三人とも無事のようだ。
そして、三人の位置関係から鑑みるに、士郎に随伴させた万一のための『保険』が、きっちり仕事をやってくれた事が読み取れた。
凛の伝授した手法で。


「……毎度毎度、やらかしてくれる子ね。しかもわたしでも見つけられなかった、ピンポイントの場所にドンピシャって……」


苦笑しながら、安堵の吐息を漏らす凛。
しかし、むしろ本題はここからだ。
意識を切り替えて、凛はさらに別のモニター画面を覗き込んでいるリーゼリットに振り返った。


「そっちに動きはあった?」


「……消えた」


「え? 消えた、って?」


リーゼリットの前にあるモニター画面を見てみると、そこには人っ子一人いない、無人の廊下が映し出されていた。


「誰もいない……消えたのって、いつ?」


「たった今。結界が発動してすぐ、黒いのに包まれてた」


「黒いの?」


こーんなの、と身振りで表そうとするリーゼリット。
当然、そんなもので解る訳がないので、凛はミニドラ・イエローに画面内の時間を巻き戻すよう指示した。










……傍らで不安そうにしていた、オレンジの頭を優しく撫でつつ。




















「があ……っ、あああぁぁあああああ!!」


身体から急速に力が抜けていく感覚に、のび太は箸を取り落してその場に倒れ伏した。
熱が一斉に退いていき、ついで全身が瘧のように震えはじめる。
脂汗が滝のように溢れて、眩暈と不快感が意識を蝕んでいく。


「ま、まさか、結界……か!? し、慎二のヤ……ッ!? っこ、こいつは!」


朦朧とする意識を無理矢理引っ張り上げながら、顔を上げた士郎。
だが、パッと視界に映ったそれに、思考の全てが奪われた。


「――――――ここにも、基点が!?」


いつの間にか道場の床の間に浮かび上がっていた、禍々しく、複雑怪奇な紋様。
しかし、前に“タイムテレビ”で確認した時のような、小さなものではない。
壁一面に、まるで壁画のようにデカデカと、異様な大きさで描き散らされている。
事前に凛から渡されたメモには、ここに基点があるという事は記されていなかった。
おそらく、巧妙に隠蔽されていた……それだけ、この基点は他のもの比べて重要なのだろう。
それで、理解した。
なぜ、弓道部の欠席者が異様に多かったのかを。


(……ここが、結界の、中心点……だった、のか!!)


通常の物より、何倍も大きい基点。
当然、それだけ魔力の簒奪効率も跳ね上がる。
なんたる迂闊。士郎は盛大に表情を歪め、歯噛みする。
考えてみれば、弓道場は弓道部員である慎二のテリトリーだ。
嗅覚がマヒしていたとはいえ、何かとんでもない仕掛けがある可能性を、最初から疑ってかかるべきだったのだ。


「……っぐ、ぅう……とっ、『同調・開始(トレース・オン)』ッ!!」


身体に残るすべての活力を振り絞り、士郎はイメージで頭に撃鉄を落とす。
瞬時に魔術回路が起動。身体に魔力が循環し始め、枯れかけていた体力がどうにか復調を果たした。
手を握り締めたり、開いたりして、身体が問題ない事を確認すると、片膝立ちで立ち上がる。


「…………ッ!」


と、ふいに視界の隅に光を感じ、士郎がそちらを振り返ると、フー子の身体が淡く発光していた。
のび太と自分の“竜の因子”を共鳴、活性化させて魔力を底上げし、結界を無力化しているのだ。
そうして気付けをするように頭をプルプルと震わせ、そのまますっくと立ち上がる。
どうやら、まったく問題ないようだ。


「う……ぁ、あああぁぁぁあ……く」


「ちょ、の、のび太君、大丈夫かっ!?」


だが、のび太だけは、依然として苦しんでいるままだった。
僅かに身体が発光している事から、“竜の因子”が働いているのは間違いないようだ。
にも拘らず、のび太の身体から魔力が枯渇しそうになっている。
なぜか。
簡単に言えば、のび太の魔力キャパシティと『他者封印・鮮血神殿(ブラッドフォート・アンドロメダ)』が吸い上げる魔力量の差がありすぎるためだ。
のび太の魔力を十とするなら、結界は二十を吸い上げ続ける、と言い換えると、もっと解りやすいか。
“竜の因子”の共鳴反応で、たしかに奪われたのび太の魔力も回復はする。
ただし、それはのび太の限界魔力保有量分のみであって、限界を超えた余剰魔力はすべてラインを通じて、共鳴相手であるフー子の方へ流れていってしまうのだ。
器がおちょこ並であるのび太が、キャパシティ以上の魔力を保有するのは自殺行為。それを今日、凛から指摘されたばかりである。
故に、一時的に限界を超えて魔力を保持しておく事を、無意識のうちに拒んでいる。それが、この状況の直接の原因となっていだ。
加えて、魔術ないしは神秘を発現する素養がなく、士郎やフー子のように結界の影響を弾き返せないので、結果として魔力と生命力を根こそぎ奪われ続けるという、悪循環に陥ってしまっていた。


「く……そっ、どうする!?」


逡巡するも、答えは出ない。
こんな事態の対処法など、士郎の知識にはない。


「…………くっ、だ、め!」


フー子が“竜の因子”を更に活性化させるも、やはり徒労に終わる。
そもそもそんな事をしても、のび太の魔力キャパシティが増える訳ではないので、焼け石に水にもなりはしない。
魔力回復スピードこそ上がりはするが、結局回復した端から体力と一緒に、空になるまで簒奪されるだけである。


(……うぅ、ど、どうにか……しな、きゃ! 死ぬ、このままじゃ、僕は、死んじゃう!!)


しかし、諦めるのはまだ早い。
徐々に暗くなっていく意識を叱咤し、苦しみに悶えながらも、のび太はなけなしの力を総動員して打開策を模索していた。


(まる、で、怪物の、胃、の中に突き……落とされた、みたい、だ、なぁ)


紅い霧状の消化液で、自分の身体がじわじわと溶かされていく。
この学校にいる人間全員が、そんな感じなんだろうか。
のび太は、そんな益体もない事を考えつつ、必死な表情を浮かべる二人をゆるゆる見やって。


(……あれ、まて、よ?)


なにかが、頭の隅にパチン、とはまりこんだ。
じゃあ、どうして目の前の二人は、こんな環境の中で平然としていられるのだろうか、と。
魔術が関わっている、というのは解る。
そう言う意味では、二人には才能や特性があるのだし、対する自分にはない。


(魔術の……ち、から、で、これに耐えて、る……って、こ、とか、な。それ、って、つまり、この環境に、魔術の、力、で、『適応』して、るって……ッ!?)


脳に紫電が走る。
切れ切れだった思考が、一本の線につながった。


(――――あれ、だ、あれしか、ない! もう……何回も、使ってる、あの、道具っ! なんで、忘れ、てたん、だよ、僕の……馬鹿ッ!)


のび太はその直感に従い、震える手でポケットに手を突っ込むと、中から“スペアポケット”を取り出した。


「…………ッ、ぁう!?」


汗で手が滑り、ポケットを取り落しそうになるが、そんな事でコケてはいられない。
なんせ、文字通り命がかかっているのだ。


「……ぅぐ、く、くぅ……!」


なんとか引きずり出した“スペアポケット”に手を差し入れ、目当ての物を探る。
一秒が一時間にも感じられ、脳髄が捻じ切れるほどにもどかしい。
噴き出す汗が服を容赦なく湿らせていき、その不快極まる感触が、さらに体力を奪い去っていく。
やがて切れかけの電球のように意識が明滅を始め、意志とは裏腹に瞼が痙攣を起こして、強制的に閉じられる。
そのままブツンと落ちてしまいそうな恐怖感が、どっと襲い掛かってきた。
もうダメか、と思ったその時、目当てのブツに手が届いた事が掌に伝わってきた。





「……ぐぅ、こぉぉぉおおのおおおっ!!」





大喝一斉、のび太は最後の力を総動員して、ポケットからピストル状の機械を引き抜くと、まるで自殺でもするかのように、ゴリッと自らのこめかみに当てた。


「ちょ、お、おい!?」


慌てて士郎が制止しようとするが、きっぱりと無視。
右手に力を込め、トリガーを引いた。


「ああぁあっ!? ……って、あれ?」


一瞬、顔を背けた士郎だったが、思ったよりも反応がない。
てっきり、血飛沫とか脳漿とかが、そこら中に飛び散るものだとばかり思っていた。
そうならないのも当然だ。それはピストルなどではないのだから。


「――――――はあっ、はあっ……、ふぅうううっ、危なかったあああ……。よかったぁ、ちゃんと効いてくれて」


士郎がおそるおそる顔を上げると、そこには安堵の吐息を漏らしながら立ち上がる、のび太の姿があった。
頭がふらつくのだろう。額を押さえ、やや血色の悪い顔色ではあるが、結界に苛まれている様子は、もはやない。


「え、の、のび太君?」


突然平気な表情となったのび太に、士郎は唖然となる。
さっきまであんなに苦しんでたのに、いったいなにが起こった?
あれか、さっきポケットから引き抜いた、あの道具の力なのか? あれはいったいなんなんだ?
疑問がグルグルと渦を巻くも、言葉には出てこない。
口と声帯が、発声の役目を放棄してしまっている。
ただただ、死にかけの魚のようにパクパクと唇が動くばかりだ。


「へ? 士郎さん、どうし……って、ああ、もう大丈夫ですよ。ほら」


両腕をパッと広げて、なにも問題ない事をアピールするのび太。
しかし士郎の目は、彼の右手に握られたピストルに釘づけのままだ。
のび太は、その視線の意味に気がついた。


「あ、これですか? これは……っは、え!? ちょ、し、士郎さん、あれ、あれって!?」


だが、その説明の前に、何よりのび太の目を引いたものがあった。
それは丁度士郎の後方、床の間にべったりと張り付いた、あの気味の悪い巨大な紋様だった。


「あ、ああ、あれは……たぶん、このバカげた結界の中心点だ。弓道部の部員が大量に休んだのは、これが原因らしい。これだけ大きけりゃあ、な」


「そ、そうですか……これが」


のび太はそれだけ言うと、“スペアポケット”に再び右手を突っ込み、ピストル型の機械をしまうと、そのまま紋様の方へ歩を進める。
右手はいまだ“スペアポケット”の中だ。


「お、おい、どうする気だ?」


「どう、って……消します」


「け、消す? 出来るのか?」


出来る。
既に凛から、アドバイスを貰っている。
“あの”ひみつ道具にかかれば、問答無用でこの結界を、『なかった事』にする事が出来る。
この世に存在するもの全てに等しく訪れるもの。
それを操れる、あの道具で。





「――――――てぇい!」





“スペアポケット”から抜き放たれた右手が、紋様のド真ん中に、“それ”を勢いよく押し付けた。
身体が陰になり、士郎からは、のび太が何を押し付けているのかが見えない。
だが、効果はすぐに目に見える形で表れる。
時間にして、きっかり三秒が経過したその途端。


「あ……」


紋様が霞のように消失し、同時に部屋の空気が、毒々しい紅色からうっすらとした淡紅色へと変質した。


「消え、た?」


「ふぅ……っ、よ、よかったぁ」


「…………」


額の汗を拭い、のび太は壁から手を降ろして、完全に紋様が消え去ったのを確認する。
数秒ほど壁を凝視するが、再び浮き出る気配はない。


「完璧に……消えてるな」


「みたい、ですね……」


そうして二人してほうっ、と大きく息を吐く。
急場の難をどうにか退けられた事に、思わず洩れた安堵の吐息であった。


「やれやれ、一時はどうなる事かと思ったけど……あ、そういえば」


「はい?」


「いや、さっきピストルみたいな道具をこめかみに押しつけてたけどさ、あれってなんなんだ? それと、あの紋様を消したそれって……」


「ああ……」


のび太は納得したように頷きを返すと、“スペアポケット”から、ピストル状のひみつ道具を再度取り出して差し出し、同時に紋様に被せた布状のひみつ道具も士郎に手渡した。


「これは……ピストルじゃあ、ないな。それにこっちの布は、確か……」


「ええ、“タイムふろしき”です。家を出る前に、凛さんに言われたんですよ。いざとなったら、これで時間を巻き戻して“基点が作られる前の状態”に戻せって」


「成る、程、なぁ……」


物の時間を巻き戻したり進めたり出来る“タイムふろしき”にかかれば、強制的に白紙状態まで持っていく事が可能。
しかも解除工程の一切をすっ飛ばして、被せてものの数秒でカタが付くというド反則だ。
カウンターとして、まさにうってつけと言えるシロモノである。


「じゃあ、この機械は……?」


「あ、それは“テキオー灯”って言うんです」


「“テキオー灯”?」


首を傾げる士郎にのび太は効果を説明するが、はっきり言って士郎には、何かの冗談としか思えないようなものであった。


“テキオー灯”


このひみつ道具から発せられる光線を浴びた者は、あらゆる環境に適応出来るようになる。
それこそ真空で超高温ないし超低温、放射線と音速の塵が飛び交う宇宙空間から、一千気圧の水圧が襲い来る深度一万メートルの深海まで。
防護装備も特殊機材も必要とせず、あまつさえ、空気のない環境下でも呼吸が可能になるという謎仕様。
のび太はこれを使って、『他者封印・鮮血神殿(ブラットフォート・アンドロメダ)』という、中にいるだけで魔力を吸われ続ける“環境”に適応したのだ。


「某宇宙局が血涙流して欲しがりそうだな……っぐぁ! く、ぁぁ……バラしても、既存の機械と構造も原理もまるで違うから、さっぱりだろうけど、な。ふぅ……これも遠坂からの入れ知恵?」


なんとなく“タイムふろしき”と一緒に『解析』を試みたところ、そのシステムと概念の難解さに圧し負け脳が悲鳴を上げた。
鉋で脳を削られるような頭痛に顔を顰めつつ、何気なくのび太にそう問うと、


「いえ、咄嗟に思いついて、それで」


ある意味、予想外の答えが返ってきて、ヒクッと士郎の口元が、頭痛とは別の意味で引きつった。
どうも、結界発動に対するカウンターは思いついたが、結界の力に耐えられないのび太への配慮は見落としていたらしい。
“竜の因子”があるので、大丈夫だと踏んでいたとも考えられるが、実際に“竜の因子”が役に立たなかった事を鑑みると、やはり手落ち感が否めない。


「案外、抜けてるんだなぁ、遠坂。これがなかったら、どうするつもりだったんだよ……」


「あ、あははは……」


“テキオー灯”をガンマンのように縦に回して弄びつつ、士郎は本人が聞けば笑顔でガンドをぶっ放してきそうな感想を漏らす。
のび太は、苦笑いを浮かべるしかなかった。
……だが、忘れてはいけない。
毒性こそ大幅に減少したとはいえ、結界はまだ発動中なのだ。


「――――っと、こんなゆっくりしてる場合じゃないな。早く結界を破壊しないと。行くぞ、のび太君!」


『解析』し終えた“テキオー灯”と“タイムふろしき”をのび太に返し、士郎は弓道場の玄関へ向かって走り出す。


「あ、そ、そうですね。ゴメン、行こう!」


「……ん!」


ジッとのび太を見上げていたフー子の手を握り、のび太は士郎と一緒に弓道場から飛び出した。




















「のび太君、そこに一つ!」


「はいっ……これですね! えいっ!」


「――――っよし、消えた! 次っ!」


大黒柱がへし折られても、残りの支柱の危ういバランスでどうにか倒壊を免れている、というのが『他者封印・鮮血神殿(ブラットフォート・アンドロメダ)』の現状だ。
故に、やる事は一つ。
基点の位置を記したメモを頼りに、士郎が嗅覚を駆使して基点を探しだし、のび太が“タイムふろしき”で基点を消し去っていく。
まずは弓道場からほど近い林の中、次に校舎の裏手、その次に駐輪場の隅、といった風に、位置的に手近な外から攻めていっている。
可能な限り走り回って、既に消去した基点の数は、メモにある設置数の半分近くに上る。
そして校舎外の基点はほぼ始末したので、残りは校舎内だ。


「だいぶ紅いのが薄くなってる……もうちょっとか! 次は――――校舎二階廊下の突き当り! 急ごう!」


「あっ、ちょ、まっ、待って……っ!? はあっ、ひぃ、はっ、はあっ……!!」


気が急いているのか、士郎はのび太を置き去りにしそうなくらいのスピードで、校内に駆け込んでいく。
昼食もそこそこにあちこち駆けずり回っていたおかげで、ただでさえ疲労気味だったのび太のなけなしの体力は、容赦なく削られていくのだが、それでも何とか遅れまいと、息も絶え絶えに、必死に足を動かしていた。
その後ろを、フー子が心配そうな表情で見上げながら、後に続く。
こちらは特に疲労も何もないようだ。
そもそもモノからして、のび太とは雲泥の差があるのだから、当たり前かもしれないが。


「し、士郎、さん……! はっ、はっ、ぜぃ、はっひぃい……」


どうにかこうにか追いすがり、のび太も校内へと侵入する。
ちなみに全員、土足のままだ。
非常事態なのだし、それどころではない。


「ひっ、はぁ、ひぃ……はっ、はぁっ……か、はあっ」


咽喉からヒューヒューと妙な音が鳴っており、これまで相当走り回っていた事が窺い知れる。
器官が焼けつくような痛みに耐えつつ、階段を駆け上がる。
ヘロヘロになりながらも、どうにか二階へ辿り着くと、士郎の背中を探して視線を周囲に彷徨わせる。
……だが、それがまずかった。





「――――――ひいぃぁっ!!?」





結界が破壊し尽くされ、ほぼ影響がなくなっているとはいえ、ほんの数分前までは結界の脅威に晒されていたのだ。
それはつまり、結界から魔力を根こそぎ簒奪された犠牲者が、まだ校内にいるという事。
図らずも、のび太は直視してしまったのだ。
彼にとっては凄惨とも言える、被害者の姿を。


「あ、あ、あああ、ああぁあ……!!!」


ペタン、と糸の切れた人形のように尻餅をつき、じりじりと力の入らぬ手足で後退りする。
廊下の壁に背中が着くが、両の腕と足は後退する事を止めようとしない。
表情は蒼白。顎が小刻みに震え、上と下の歯がカチカチと触れ合い、音が鳴る。
そしてその視線は、眼前にある一つの教室にガッチリと固定されていた。


「おーい、のび太君……ん? どうし……ッ!?」


「……? ……ぁ」


と、そこへ、先行し過ぎていた事に気づき引き返してきた士郎と、階段を上り切ったフー子が合流する。
二人は、のび太の様子がおかしい事に気づくと、のび太の視線の先を辿り、そして揃って眉を顰めた。


「しまった……」


呻くような苦い声、士郎は己の失策を悟る。
気が急いていたから、などとは言い訳にもならない。
血塗れのキャスターを見て奇声を上げていたのび太にとって、この光景は決して堪えられるモノではない。
年上である彼が、こうなる前にきちんと配慮せねばならなかったのだ。


「し、士郎さん……士郎、さ」


「落ち着いて! もういい、見なくていい。いいから」


教室の中には、床の上にくずおれた教師と生徒の姿があった。
全員が死体のような顔色で、輝きを失った虚ろな目を虚空に投げかけている。
結界が未完成で、かつ発動して二分と経たずに半壊したため、皮膚の融解などは見られないが、生気というものがすっかり抜けきってしまっている。
その様は、まるで気味が悪いほど精巧に造られた蝋人形のようだ。
そして、無造作に打ち捨てられた骸のごみ溜めのような教室の惨状は、のび太でなくとも根源的恐怖を煽られるだろう。


「ごめん、俺がもう少し気を付けていたら……」


縋るようにしがみついてくるのび太をどうにか落ち着かせながら、士郎は、謝罪の言葉を口にする。
こういう光景を見慣れている自分ならいざ知らず、のび太には見せてはいけない事を理解していた筈なのに。
戦力としては頼もしく、時に大人顔負けの勇敢さも示すのだが、それでも、やはりまだ年端のいかない子供なのだ。
その辺りのフォローは、年長の自分達の役目であるという事は、凛共々理解し、常に意識している。
その筈なのに、この体たらく。


(……何やってんだ、俺は! こんなんじゃ、兄貴分失格だぞ!)


出会ってからこっち、のび太を自分の弟のように思っている士郎。
脳内で自分を力の限りぶん殴り、しっかりしろと叱咤する。
……と、そこへ。










「――――――よーぉ、衛宮。何やってるんだ、こんなところで?」










聞き覚えのある、やたら調子のいい声が耳朶を打つ。
士郎の神経が、逆立つようにざわめいた。




















「慎二……!」


「なんだい、衛宮? 怖い顔して」


キッと睨みつけるも、なんら堪えた風もなく慎二はヘラヘラと笑っている。
そのあまりの軽薄さに、士郎はふつふつと怒りの感情が湧くのを感じた。


「お前……、自分が何をやったか、解ってるのか!?」


「え、なに? 言ってる意味がわからないんだけど?」


「とぼけるな! お前が自分のサーヴァントに命じて、この結界を張らせたんだろうが! さっさと結界を解除しろ!」


「サーヴァント……、って?」


「まだシラを切るか! お前は騎乗兵の英霊、ライダーのマスターだろう! 何日も前からこの『他者封印・鮮血神殿(ブラットフォート・アンドロメダ)』を仕掛けていた事は知ってるぞ!」


ここまで言うと、慎二は意外そうに軽く目を見開いたが、すぐにニタリ、と気味の悪い笑みを浮かべた。


「……なぁんだ、知ってたのか。なんでそこまで知ってるのかは知らないけど、それなら話は早いな」


そう言うと、慎二は懐から一冊の本を取り出した。
メモ帳程度の、紅い表紙で誂えられたその本からは、一種独特の魔力が立ち上っている。


「衛宮、お前も聖杯戦争のマスターだって事は見当がついてる。昨日今日の欠席と、なによりその手に巻かれた不自然な包帯でね。……だったら、解るよな?」


「……っち!?」


即座にのび太とフー子を後ろに庇い、士郎は慎二に対して臨戦態勢を取る。
士郎は理解したのだ。
こいつは、俺を殺す気で来ているのだ、と。
慎二の、殺気の色濃く滲んだ酷薄な笑みが、その何よりの証拠。


「……のび太君」


「は、はい!?」


ギリ、と歯を鳴らしながら、士郎はのび太に小声で声を掛ける。
これから告げる事は、のび太にとって酷な事だと解っている。
だが、他に手がない事も事実だ。
自分の力と、先見性のなさを情けなく思いながらも、士郎は唸るように口を開いた。


「ここからは……君と彼女の二人だけで、この結界を破壊するんだ」


「え、ええっ!?」


のび太の動揺した声に振り返る事もなく、士郎は上着のポケットに右手を突っ込むと、中に入れていた“スペアポケット”にそのまま手を滑り込ませる。


「慎二は俺を狙ってる。という事は、俺が相手をすれば少なくとも慎二は抑えられるんだ。それに、アイツは一発ブン殴ってやらなきゃ気が済まないしな」


「で、でも……」


目当てのブツを手がしっかり握り込んだのを確認した後、士郎は左手のメモをのび太の方へ後ろ手に渡した。


「これに結界の基点の場所が書かれてる。ここから近いのは三階にある二つだ。たぶん、あと二、三個壊せば結界はなくなると思う。頼む!」


「士郎さん……」


士郎の肩が、小刻みに震えている。
一筋の汗が頬を伝い、きつく結ばれた唇からは、赤い血が流れ落ちていた。
友人と闘う事への動揺もさることながら、のび太に重責を背負わせてしまう事への怒りとやるせなさを堪えているのだ。
だがそれは、裏を返せばのび太ならきっとやってくれるという、信頼の証でもある。
いまだ教室の惨状のショックが抜けきっていないのび太であったが、士郎のその尋常ならざる様子にグッと唾を呑み込むと、


「――――――わかり、ました!」


肚を決めた。
はっきりとした返事に士郎の口元が、僅かに緩む。
だが、そんな自分に嫌悪を感じ、即座に表情を引き締め直すと、慎二に本格対峙すべく腰を落として叫んだ。


「走れっ!」


「はい! 行くよっ!」


「ん!」


傍らのフー子と共に、のび太は先程登ってきた階段目掛けて駆け出した。
……が。





「――――行かせないよ。ライダー!」



「ぅわっ!?」





突如、人影がのび太達の前に立ち塞がり、強制的に足を止められた。


「お、お前は!?」


紫の長髪に、露出過多の刺激的な衣装。
異様な雰囲気を醸し出している紫の眼帯。
両の手には、鎖付きの釘のような物が握られている。
幻想的なほどに秀麗な容姿も、にわかに滲み出る威圧感で見惚れるどころか、金縛りにでも掛かってしまいそうなプレッシャーしか感じさせない。
いつか画面越しに見た騎乗兵のサーヴァント、ライダーがのび太の目の前にいた。


「おいおい、僕がライダーのマスターだって解ってたんだろ? だったらライダーがいるって事も計算に入れてなきゃ。たとえ、姿が見えてなくともね」


「くっ、霊体化……させていたのか!」


なんたる迂闊。
やはり自分には先を読む力がないのか。
慎二の嘲笑に士郎は歯噛みするも、この状況に邪魔な苛立ちだけはどうにか封殺した。


「衛宮の弟と妹、って訳じゃなさそうだけど、何をする気だったのかな? ま、でも、この場にいる以上は殺されても文句は言えないよ。可哀相だけど。やれ、ライダー!」


号令一下、ライダーの右手がジャラジャラと耳障りなと共に持ち上がる。
それと同時に、仄暗い殺気がのび太達に向けて叩き付けられた。


「ひっ?!」


心臓を鷲掴みされたかのような感覚が、のび太に襲い掛かる。
必殺の気配などに、のび太は慣れていない。
似たような状況下におかれた事は何度かあるが、それで慣れるかと問われれば答えはNoだ。
冷や汗がどっと噴き出す。
咽喉が、瞬く間に渇いていく。
そして足が、どうしようもなく震え出し始めた。


「ちぃっ……――――頼む!」


舌打ちしつつも、慎二から目を離さぬまま。
のび太のピンチに、士郎は言葉を投げかける。


「なに? 今さら命乞い?」


それに対し、慎二はやはり嘲り笑いを浮かべるだけであった。




















『なんたる迂闊』


その言葉は士郎だけではなく、この場の慎二にも当てはまる。
慎二は自らの口でこう言った。


『お前も聖杯戦争のマスターだって事は見当がついてる』……と。


――――ならば。




















「――――――変身を解いて、のび太君を護れ! “セイバー”!」




















姿はなくとも、士郎の傍にもサーヴァントがいるという可能性も、計算に入れておかなければならなかったのだ。




















瞬間、のび太の手前でボムッ、という音と共に白い煙がもうもうと立ち上る。
そして、その煙に一瞬たじろぎながらも振り下ろされたライダーの釘剣が、硬質な音を立てて勢いよく弾き飛ばされた。




「……っは?」



「む――――っ、これは……」




呆気に取られる、騎兵の主従。
だがそれも束の間。ライダーは白煙の向こうに突如、強い気配が現れた事を感じ取ると、すぐさま跳び退り、距離を取る。
そして両の釘剣を構え、油断なく煙の向こう側へ向けて怜悧な視線を叩き付けた。





「――――――了解しました。マスター・シロウ」





凛とした声が響いたかと思うと、次の瞬間、漂っていた白煙が一斉に吹き散らされた。
発生した突風がライダーの顔を叩き、髪をなびかせるが彼女は微動だにしない。
暗幕同然の障害がさっぱりと消え失せ、声の主の全貌がライダーの前に曝け出された。





「これより、我が身はマスターの敵を屠る剣となり、そして、ノビタを守護する盾となります」





砂金をこぼしたような金色の髪。
強い意志を秘めたエメラルドグリーンの瞳。
青いドレスと、銀の重厚な鎧に身を包み、見えない剣を、その手に確と構えている。





「剣の英霊……セイバー、ですか。まさか、子どもに化けていたとは」





燐光を身体から溢れさせ、その身でのび太を護るように佇むその様は、まさに騎士。
のび太の傍でフー子に身をやつしていたセイバーが、主命により己が擬態を解き放ち、紅の戦場へとその姿を現した。












[28951] 第三十一話
Name: 青空の木陰◆c9254621 ID:90f856d7
Date: 2012/06/21 21:08





「ドララ!」


「どれどれ……」


巻き戻しが完了し、凛が画面を覗き込む。
映し出されたのは、廊下を歩く一人の男の姿。
掛けていた眼鏡を右手でクイ、と上げ直し、階段の方へとゆっくりした足取りで向かっている。
そしてその左手には、やきそばパンとジ○アが握られていた。
彼の無機質そうな風体からは、到底想像のつかないメニューである。
どうやら、今から昼食と洒落込むつもりのようだ。



『……ぬ?』



と、その時、画面が絵の具を噴き掛けられたかのように紅色に着色された。
結界が起動したのだ。



『むぅ……!?』



眼鏡の奥の鉄面皮が、僅かに不快な色を帯びて歪められる。
だが、その瞬間。



『宗一郎様ッ!』




女の声が響くと共に、男の身体が、突如現れた暗幕のようなものにグルリと完全に覆われた。
凛には、その声に聞き覚えがあった。



『……キャスターか』


『はい、宗一郎様』



魔術師のサーヴァント、キャスターが、マスターである葛木宗一郎の危機を瞬時に察知し、転移術で救援に駆け付けたのだ。
葛木は、魔術回路を持たない一般人。
結界に対抗する手段はないに等しく、キャスターが来なければ五秒としないうちに魔力を空にされ、その場に昏倒していただろう事は確実だ。
この手の危機に対応出来るよう、あらかじめ、葛木にベルを着けておいたのだろうと、凛は当たりをつけた。



『……これはなんだ?』


『一言で言えば、中の人間を魔力に還元して吸収する結界です。こういう事もあろうかと、警鐘と同時に監視を緩めずに待機しておいて正解でした』



暗幕の中で、交わされるやり取り。
姿こそ隠れて見えないが、声は明瞭に聞こえてくる。



『そうか。お前は、これを知っていたのか』


『ええ。この冬木で、私に解らない事はありませんわ』


『ふむ……私は、どうすればいい?』


『このまま、一旦お戻りになられた方がよろしいかと。後でタイミングを見計らって、可能ならば送還いたします。宗一郎様の日常を乱すような事はございません』


『……わかった。では頼む』



その言葉を合図に、暗幕はその場から空間に溶けるように消え失せた。
おそらく根城である柳洞寺へ撤退したのだろう。
そこまで確認して、凛は画面から目を離した。


「成る程ね。リズの言ってた事はこういう事だったわけ、か」


「うん」


「ふぅむ……」


リーゼリットの頷きを見つめながら、凛は思考の幅を広げる。
先程の言葉から察するに、キャスターは『他者封印・鮮血神殿(ブラッドフォート・アンドロメダ)』の存在を認識していながら、しかし手を出そうとはしなかったようだ。
きっと結界を下手に破壊すると足が付くから、とりあえず監視だけに留めて放置していたのだろう。
それなら解らないでもない。そこまではいい。
だが、マスターである葛木が勤める穂群原に、そんな物騒なものがあると解っていながら、どうしてあのように通わせっぱなしにしておくのだろうか。
教師にも、福利厚生はある。休暇申請などを利用すれば、わざわざ罠の仕掛けられた建物に毎日通い詰める必要などなくなるのに。
凛としては、その点がどうも解せないでいた。


「む~……ねえ、どう思う?」


「……いや、いきなりなんの話だ?」


何故か突然話を振られたアーチャーは面食らう。
いったい、何についてどう思えというのか。そもそもの脈絡がすっぽり欠落した状態で語れと水を向けられても、語りようがない。
僅かに眉を顰めたアーチャーに対し、凛は唇を尖らせた。


「察しなさいよ」


「無茶を言うな。レイラインを通して会話していたのならともかく……。せめて何に対してどう思うのか、それを説明してくれ」


「あーはいはい、つまりね……」


かくかくしかじかこういう事よ、と凛は先の疑問点をアーチャーに説明する。
考えに詰まって苛立っていたのか、と先程の無茶振りに幾分納得を示しながら顎に手を当て、アーチャーは思った事を口にした。


「ふむ、考えられる可能性としては……そうだな、マスターの日常生活を脅かしたくない、のかもしれんな」


「日常生活ぅ?」


「ああ、キャスターが自分で言っていただろう? 『宗一郎様の日常を乱すような事はございません』とな」


小首を傾げる凛に対して、アーチャーは更に解説を加える。


「先日見た、キャスターが葛木宗一郎に拾われた時の映像を覚えているか?」


「ええ。葛木先生にキャスターが抱え上げられてたわね」


「そうだ。行き倒れていたところを、偶然拾い上げられたという状況だったが、それは裏を返せば、聖杯戦争とは無関係の一般人を、有無を言わさず巻き込んでしまったという事でもある」


アーチャーの言いたい事が、なんとなく解った。


「……負い目、って事?」


「あるいは、葛木宗一郎がマスターとなる事を承諾する際に呑ませた条件なのかもしれん。いずれにせよ、葛木宗一郎は自らの日常を崩す事なく、聖杯戦争に参加していると考えていいだろう。フォローとサポート、そして戦略を、キャスターに任せてな」


「それってつまり、投げっぱなし……?」


「事実だけを見ればそうだろうが、葛木宗一郎に心を奪われているキャスターからすれば、むしろバッチこいというところではないのか? 見方を変えれば、全幅の信頼を置かれているとも取れる訳だからな」


「バッチこいって……」


あまりにも現代チックな物言いに、凛の表情に呆れの成分が混ざる。
この英霊、紅の外套と黒のボディアーマーという時代錯誤な見た目とは裏腹に、随分と現代に馴染んでいるように見える。
俗っぽい、というのとはまた違うが、しかしいったいこの男はどんな来歴をしているのだろうか。
事故紛いの召喚のツケで、記憶が曖昧であるとの事だったが。


(……ま、今更か)


今気にする事でもなし、と軽く頭を振り、凛は浮かんだ疑念を振り払った。
そして、一旦ワンクッションを置くために、話題の切り口を変更する。


「にしても……改めて考えてみれば、権謀術数が専売特許のキャスターが現代の人間、それも一般人にそこまで吊り橋効果的に熱を上げるのって、どうなの?」


「あり得ん事ではない。英霊とて、あらゆる時代の大勢の人間と同じ、その内側に心を持った存在なのだ。何かの拍子に恋に落ちる事もあれば、些細な事で激昂もする。他人の優しさに感動を覚えたりもすれば……募る憎しみや怒り、妄執に身を焦がす事もある」


「……そういうものなの?」


「そういうものだ。飄々としたようでいて、意外に気性の激しいランサーや、表情に出すまいとしていても、その実、内面ではかなり感受性の高いセイバーを見ていれば、それも解るだろう?」


ゆっくりと頷きを返して、アーチャーは断言する。
まるで、自分自身にも覚えがあるとでも言わんばかりに、その様からはいやに実感がこもっているように感じられた。


「……ふぅん」


気にはなったが、凛はこれも棚に上げ、黙殺する。
現状では、そんな些事に思考を割いてはいられない。
現在進行形で、いまだ事は推移しているのだから。


「ド、ドララ!?」


と、その時、ミニドラ・グリーンの慌てたような声が響いた。
凛がそちらを振り返ると、グリーンの眼前のモニター画面に何やら映り込んでいる。ミニドラ・グリーンは、それに心底から驚いているようだ。


「どうしたの?」


「ド、ドラ……!」


しきりにモニターを差し示すミニドラ・グリーン。
説明を求めるよりも、自分の目で見た方が早いと判断した凛は、モニターに視線を移す。
ミニドラ・グリーンが見ていたモニターは、現在の穂群原をリアルタイムで映し出している物だ。
場所は、つい先程別モニターで、キャスターが葛木と共に離脱した階段前の廊下。
そこに、空間が歪に捻じ曲がった、何やらひずみのような物が出来ていた。


「これは……?」


「察するに……空間連結でしょうか。どこかの空間と、この階段前の空間とに直通路を開こうとしているようです」


「状況とやり口からして、十中八九キャスターね」


主の教育係であり、魔術について広い知識を持つセラの分析に合わせて、その主であるイリヤスフィールの的確な推測が飛ぶ。
凛もそれに頷きを返すが、しかしキャスターがいったい何をするつもりなのか、それが掴めなかった。
アーチャーも、意図が読めないのか微かに首を捻っている。
だが、答えは意外にもすぐに出た。


「……え? ちょ、こいつらって!?」


「む……っ?」


画面向こうのひずみから、突如白っぽい、人型の何がが出現する。
しかも一体ではない。二体、三体、四体と、まるでベルトコンベア上で流れ作業的に次々生産されるように、際限なく湧き出してくる。
それらの姿は例えるなら、学校の理科室か保健室にあるような人体骨格モデルの、その頭骨の上半分を砕いて失くしたかのような、骨のみで構成された異形。
手にはナイフのような形状の剣が握られている。
凛とアーチャーには、見覚えがあった。 


「冬木のオフィスビルに派遣させてた、骨人形! キャスター、いったい何のつもりで!?」


「威力偵察か、それとも単なるいやがらせか……まぁ、両方だろうな」


士郎と同盟を組む数日前から、冬木で昏睡状態に陥る人間が続発するという事件が起こっており、これが魔術絡みだと判断した凛は、その調査をアーチャーを伴い行っていた。
その時、とあるオフィスビルでこれらの異形に遭遇した事があったのだ。
凛のガンド数発で破壊出来た事から、戦闘能力こそ、そこまで高くはないものの、数が多いのが厄介だ。
仮に士郎やのび太達の方へ向かった場合、混乱は避けられないし、撃退は一応可能だろうが結果的にライダー、キャスターに挟撃される形になるので万が一という可能性も出てくる。
出端を挫いて、出来るなら出現エリア内で全滅させた方がいい。
そも、こういった不測の事態に備えて凛達は、監視を行いつつ衛宮邸に待機していたのだ。瞬時に凛は判断を下す。


「アーチャー、行くわよ! イリヤスフィール、リズを借りるわね!」


「了解だ」


「うん。イリヤ、行ってきます」


「はいはい、いってらっしゃい。こっちはミニドラ達と監視を続けておくわ」


リーゼリットもメンバーに加えたのは、不測の事態に速攻でカタをつけるために、戦闘能力を重視したからである。


「おねえちゃん、ボクは……?」


「フー子はお留守番。のび太が心配だろうけど、大丈夫よ。ここをイリヤスフィール達と守っておいて」


「……ん、わかった」


しょぼんと目を伏せながらも、フー子は頷く。
やはりのび太の事が心配なのだろう、綺麗な瞳が不安に揺れているのが見て取れた。
その間に、アーチャーは、どこからともなく白黒の双剣を取り出し、リーゼリットも、身の丈ほどもあるレニウム製の巨大な斧槍、ハルバートを片手に携えていた。
板張りの床が僅かに歪曲し、妙な音を立てている事から、ハルバートが相当の重量である事が窺い知れるが、果たして部屋に持ち込んでいた訳でもないのに、リーゼリットはいったいどこからそれを取り出したのか。
しかもホムンクルスとはいえ、女性の細腕でなぜそれほどの重量物を軽々と扱えるのか……。


「気にしては負けですよ、トオサカリン」


「はいはい、ツッコまないわよ」


『アインツベルンだから』で納得してあげるわ、と凛は、投げやりにセラに向かって返答する。
こんなおバカなやり取りをやっている暇はない。緊張は幾分解れるが。
凛達三人は、部屋の奥に鎮座している、“どこでもドア”の前に立って口早に目的地を告げる。
そしてドアを少しだけそっと開けると、向こう側に穂群原の廊下が見えた。
位置的には、ひずみのある場所から十数メートルほど離れた廊下の隅だ。
目当ての場所に繋がった事を確認すると、凛は背後の二人を振り返り、目で合図を送る。
首肯する二人。確認すると、凛は勢いよくドアを開いた。


「さて、突入するわよヤローども!」


「……ふぅ、Aye ay mam」


「リズはヤローじゃない、女の子」


三者三様のノリで以て、ひずみから生まれる骨人形目掛けて勢いよく飛び出して行った。




















その頃、穂群原の二階廊下では、マスター同士の戦端の火蓋が切って落とされようとしていた。
士郎と慎二、互いが視線をぶつけ合い、火花が散る。
その触れれば斬れてしまいそうな剣呑な雰囲気に、いまだ僅かに残る紅の空気が、物騒で妖しい色合いを添えていた。


「慎二、先に言っておくぞ。俺は、お前を殺すつもりはない。だが、お前のやった事を許すつもりもない。令呪を剥奪して、戦争終了までおとなしくしていてもらう」


「はん。随分と甘ちゃんな事だね、衛宮。その偽善的な言い様、反吐が出る。それに、僕がいつお前に許して欲しいなんて言った?」


「そうか……そうまで言うのなら、容赦はしない! まず一発ぶん殴って、その歪んだ性根を修正してやる!」


「ふぅん、出来るかな? 遠坂以下の、へっぽこ魔術師がぁ!」


口火を切り、先攻したのは慎二。
憎しみの籠った叫びと同時に、彼の手にある本が不気味に赤く発光する。
すると、慎二の周囲に黒い、影のような物が十近く、浮かび上がった。
士郎は、それが魔力の塊であると感覚で理解する。


「魔術!? お前には魔術回路がないんじゃ……!?」


「……それは遠坂からかい? ああ、腹立たしいけど認めてやるよ。僕には魔術師に必要な魔術回路はない。よって、僕は魔術師にはなれない!」


憎悪と憤怒を隠しもせず、唾棄するように慎二は士郎の言葉を肯定した。
慎二にとって、『始まりの御三家』の一である魔術師の名家に生を受けながら、先天的に魔術師になれないという現実は、多大なコンプレックスなのだ。
自身の生き様や性格に、暗い影を落とすほどに。
自分への粘つくような黒い敵意はそういう事か、と士郎は、頭の片隅でなんとなく理解する。
要するに、自分への羨望の裏返し……嫉妬と僻みだ。
自分が狂おしいほどに欲しかった物を、どこの馬の骨とも知れないヤツが……たとえへっぽこであるとはいえ……持っているという皮肉。
それが、やり場のない激情を生み出す土壌となっているのだ。
しかし、士郎にとってはただただ、ハタ迷惑な感情でしかない。


「けど、間桐家は腐っても魔術師の家なんだ。長年に渡る、魔術に関する記録や資料、ノウハウは蓄積されている。だから、それらを流用すれば……!」


手を振り翳す。
それを合図として、黒い魔力の塊が刃状に形を変化させた。


「これくらいの事は、可能なんだよぉ! 死ねぇえ、衛宮ああああぁぁぁっ!!」


口を突いて激発する怒号と共に、慎二は魔力の刃を士郎目掛けて、発進させた。
空間を薙ぐように進む物、地を這うように接近する物、壁伝いに蛇行してくる物、占めて九つの凶器が一斉に襲い掛かる。


「ちっ!」


舌打ちしながら、士郎は自身の魔術回路を活性化させる。
二十七の魔術回路が一気に唸りを上げ、体内の魔力循環をコントロール。ポケットの中の右手に掴んだものに、魔力を送り込む。
設計図をイメージ、材質の特性を理解し、必要な部分を魔力で補強する……。


「『同調・開始(トレース・オン)』ッ!」


成功。
『強化』魔術を施し、右ポケットの中の“スペアポケット”からブツを引き抜いた。
そして、迫り来る凶刃を迎撃せんと、一歩を踏み出す。


「ぜぇあああああぁぁっ!」


右手を振るうと同時に、ガラスの砕けるような音が連続して周囲に木霊する。
手の中のブツは、凄まじい速度で肉迫してきた魔力刃を片っ端から、すべて叩き落した。


「っな、ぁあ!?」


「慎二……俺だってバカじゃあない。丸腰のまま、何の用意もせずに虎口に飛び込むなんてマネ、すると思ったか?」


慎二の迂闊を謗るように、士郎は毒づく。
だが彼も本筋では言葉とはまるっきり逆を「おい」……ハイ。それはともかく。
血振りをするように右手を振るい、両手でそれを掴み直して下段に構える。
白銀に煌めく、もはや士郎にとってお馴染みとなった、一振りの刀を。


「……日本刀!? くっ、霊刀の類か!?」


「“名刀・電光丸”……あの程度の攻撃なら、訳はないな」


実際には霊刀ではない、ただの(というのも変だが)刀なのだが、ハッタリにはなるかもしれないと思い、士郎は敢えて勘違いを訂正しなかった。
この“名刀・電光丸”は、元々『大・電光丸』に改造していた物で、“タイムふろしき”により元の大きさへと戻して、改めてのび太から借り受けていた。
ポケットの中の“フエルミラー”でコピー作成した“スペアポケット”も、引き続き鞘替わりに拝借しており、中には“スーパー手ぶくろ”と、これまた事前にコピーしていた『大・電光丸』他、数点のひみつ道具が収められている。
ただ、士郎は、今この場でその道具すべてを使うつもりはなかった。
手札は出来るだけ温存しておきたいという事と、手持ちの道具の中で自分が最も扱い慣れているのが、刀である電光丸系の武器である事を加味した上での判断だ。


「衛宮のくせに、物持ちのいい……! えぇい、くそ!」


醜悪に表情を歪め、口汚く罵りながらも、慎二は再び魔力刃を生み出していく。
今度の数は、軽く見積もっても先程の倍はあるだろう。


「……タネは、あの本か?」


怪しいのはあれしかないな、と見当をつけながら、士郎は迎撃姿勢を整える。
とはいえ、単純に手数の面だけで見れば慎二の方が上。
“名刀・電光丸”のみで取り押さえるのは、不可能ではないだろうが、やはり一筋縄ではいかないだろう。
いざともなれば、不慣れで不安はあるが、他の道具を出し惜しみしてはいられない。
この戦局、まだまだ時間が掛かりそうである。




















「はあっ!」


「く……っ!」


一方、こちらは校舎三階廊下。
釘剣と不可視の剣が、互いに火花を散らし合い、周囲に耳障りな音を撒き散らしている。
セイバーとライダー、両者の剣戟が、狭い廊下に窒息しそうなほどの鬼気迫る雰囲気を充満させていた。


「どうしたライダー、その程度か!」


「…………ッ」


セイバーは、のび太を仕留めようとするライダーの攻撃を、二人の間に入る形で防御する。
ライダーの投擲する釘剣を片っ端から弾き返しつつ、時たま自分から切り込んでライダーを押し返し、のび太に近づける暇を与えない。
“竜の因子”による魔力ブースト効果で、『魔力放出』スキルを最大出力で利用し、その圧倒的なパワーと技量でライダーを完封している。
ライダーは無表情を装いながらも、内心では苛立ちを覚えずにはいられない。
セイバーの身体から発される燐光と陽炎のような揺らめきが、溢れんばかりの魔力の余剰放出現象である事は推察せずとも肌で感じ取れる。
マスターが魔術師ではないため、魔力供給を受けられないライダーにとって、これほど羨ましく、恐ろしく、また妬ましい事もない。
自分は魔力が十全ではなく、省エネ状態での戦闘をせざるを得ないのに対して、相手は潤沢な魔力を惜しげもなく、それこそ湯水のように使用出来るのだ。
宝具である『他者封印・鮮血神殿(ブラッドフォート・アンドロメダ)』が、未完成かつ即座に中枢を破壊されたとはいえ、それでも起動してある程度の魔力を確保出来たのは重畳だが、この状況では、その分も使い果たしてしまいそうだ。
幸いなのは、セイバーがのび太を護る形で戦闘を行っているため、ほぼ迎撃に徹して積極的にライダーに攻撃を仕掛けて来ない事くらいである。


(マスターではない、おそらく協力者といったところ……しかし、いったいなぜ、あんな年端もいかない少年を、しかも別行動で?)


その点をライダーは疑問に思うも、今はそんな些事には頓着しない。
ただ、マスターの命を完遂するために動くのみである。


「ノビタ、急いでください!」


繰り返し、矢継ぎ早に飛来してくる二本の釘剣を叩き落しながら、セイバーはのび太に向かって叫ぶ。
“タイムふろしき”で確実に基点を破壊出来る以上、後は時間との勝負。
効果が激減しているとはいえ、それでもまだ魔力の簒奪現象は続いているのだ。
時間を掛ければ、それだけ学校の人間は衰弱する。被害を最小に抑えたければ、とにかく急ぐしかない。
……だが、ここに来て思わぬ誤算が、のび太とセイバーに襲いかかった。


「う、うん! えぇっと……3-Dの、き、きょう……? よ、読めない! この漢字、なんて読むの!?」


「――――は、はぃい!?」


危うくずっこけそうになるセイバー。
なんと、のび太はメモに書かれた漢字が読めず、どこに基点があるかが解らなかったのだ!
メモを片手に、廊下のド真ん中で立ち尽くすのび太。
当然、そんな絶好の隙を見逃すライダーではない。


「シッ!」


渾身の力で、セイバーの傍らを大きくカーブするように釘剣を投擲する。
それは、セイバーの剣の間合いの外側を、猛スピードで突き進んでいく。
狙いは、もちろんのび太。
棒立ちとなった人間など、ライダーにとっては射的の的やカカシ同然である。


「……くぅ!?」


気抜けした肉体に強引に活を入れ、そうはさせじとセイバーは一気に後方にバックステップで跳び退る。
『魔力放出』スキルを利用し、身体の前面で魔力を圧縮・起爆させる事で爆発的な推力を得、まるで爆弾で吹っ飛ばされたような勢いで釘剣を追い抜き着地。のび太の前に立ち塞がる。


「わっ!? せ、セイバー!?」


「伏せなさい!」


反射的に、のび太がその場にしゃがみ込んだ次の瞬間、金属同士が擦れ合う、嫌な音が鼓膜を揺らした。
のび太がそっと視線を上げると、そこにはライダーの釘剣をセイバーの銀の手甲が真ん中から掴み取っている光景があった。


「す、凄……!」


セイバーの神技に、もう少しで命はなかったという恐怖を飛び越えて瞠目するのび太。
だが、その声に頓着する事もなく、セイバーは表情を引き締めたまま左手の中の不可視の剣を引っ込めると、


「はああああぁぁぁっ!!」


釘剣の柄に繋がれているピンと張った鎖を、両手で即座に掴み直して、思い切り自分の方へと引っ張った。
“竜の因子”と『魔力放出』で強化された、セイバーの金剛力で鎖が引き千切られんばかりに張り詰め、ギシリと軋みを上げる。
反対側のライダーにとっては堪らない。


「ぬっ……ぁあ!!」


対抗しようにも、ライダーの力では綱引きにもならない。
手を離す暇すら与えられず、両肩がもげそうなほどのパワーになす術もなく引きずられ、ライダーの身体がセイバーの方へ目掛けて宙を舞う。
その自由のきかないなところへ、セイバーは足元で魔力を爆発させて神速の勢いで踏み出し、ライダーの懐に矢のように飛び込む。
そして、ライダーが反応するよりも速く、ガラ空きの脇腹へ向けて渾身のボディブローを叩き込んだ。


「っか、は!?」


容赦のない、凄まじく重い一撃。
肺の中の空気が強制的にすべて吐き出させられ、ライダーは空中で硬直してしまう。


「せいっ!!」


その隙を見逃さず、セイバーはライダーの両腕を掴むと、


「落ちろぉおおお!!」


背負い投げの要領でライダーの長身を担ぎ上げ、自らの右手にあった廊下の窓目掛けて思い切り放り投げた。
息が出来ないのだろう、顔を蒼白に染めたライダーはガラス窓を猛烈な勢いで突き破り、そのまま力なく、窓の外へと落下していった。


「う、うわぁあ……」


やり過ぎと言っても過言ではないセイバーの猛攻を目にして、のび太の顔からは血の気が引いている。
ここは三階である。普通の人間ならば、落ちたらただでは済まない高さだ。


「し、死んじゃった……?」


「仮にも英霊です。流石にそこまではいかないでしょう。もっとも、ダメージはすぐには抜けない筈なので、多少ながら時間は稼げます」


戦闘の高揚も冷めやらぬまま、セイバーは簡潔にそう述べると、いまだしゃがみ込んだままでいるのび太の隣へ歩を進める。


「それで、読めなかった字というのは?」


「え? あ。うん、これの……ここ」


士郎から託されたメモを受け取り、セイバーはのび太の指差したところに視線を落とす。
途端、セイバーの表情が呆れの混じった、何とも言えない微妙なものとなった。
そこにあった文字は……『教卓』。


「……ノビタ、これは『教卓(きょうたく)』と読むんです。3-Dの教卓の下」


「あ、あ~、『きょうたく』って読むんだ……じゃ、これは?」


セイバーの表情に気づかぬまま、のび太はメモ上の別の文を指し示す。


「……なんと読むと思います?」


書かれている文は『三階廊下の消火器の壁』。


「え? え、っと……さん……さん……した、の、け……け、けひき? ……の……」


しどろもどろに読み上げていくのび太に、セイバーはますますげんなりした表情となる。
あまりにも見事な解答のデタラメさに、頭を掻き毟りたくて仕方がないといった感じだ。


「……『三階廊下の消火器の壁(さんかいろうかのしょうかきのかべ)』です。最初の“さん”しか合っていないではないですか!」


「あぅ! ……で、でも、習ってない漢字が多いし……!」


「最初の『教卓』やこの『廊下』、『壁』は、まぁ百歩譲っていいとしても、『消火器』くらいは読めるでしょうに……。『けひき』は、流石にないと思いますよ……はぁ、もう少し勉強したらどうなのです? テストも0点ばかりなのでしょう?」


「あ、あは、アハハハハ……」


現代日本の小学五年生が、千五百年も前のイギリス人に呆れられながら漢字を教わるという、この果てしないまでの情けなさ。
セイバーはやれやれと肩を落として、のび太の頭をコツン、と軽く小突く。
それに対しのび太は、バツが悪そうに力のない笑いを返した。
まるで出来の悪い弟を教え諭す、世話焼きの姉みたいな構図である。


「とにかく、場所が解ったのなら、ライダーがダウンしているうちに手早く消してしまいましょう」


「う、うん、そうだね!」


セイバーの指示に頷きを返し、のび太は、一番手近な廊下の真ん中にある消火器へと足早に近づく。


(……あれ? なんでセイバーは、僕のテストがいつも0点だって、知ってるんだろ? 話した事あったっけ?)


ふとのび太の脳裏にそんな疑問がよぎるも、まずはこっちが先だと思い直して、消火器をどかしてその向こうの壁を調べてみた。
すると、床上十センチくらいの位置に、ぼんやりと発光している紋様があった。
発動前は魔術師でもない限り探り当てる事は不可能だが、結界発動後は基点が活性化するため光を放つので、魔術資質のないのび太でも視認する事が出来る。


「あっ、これだ! よぉし……!」


唇を舌で湿らせると、のび太は“スペアポケット”から“タイムふろしき”を取り出して基点を覆う。
そして数秒後にふろしきをどけると、基点はそこから跡形もなく消え去っていた。


「やった! あとひとつ!」


基点の消去を確認し、のび太が足を3-D教室へ向けようとしたその時、ガシャン、とガラスが砕け散る音が廊下に木霊した。


「――――へ?」


「ノビタっ!!」


音のした方へのび太が振り返るよりも早く、隣にいたセイバーがのび太の頭上を薙ぎ払っていた。
ガギン、とやたらと硬質な異音が、狭い廊下に反響する。
金属が何か固いものとぶつかり合う音だ。


「……え、まさかっ!」


甲高い金属音と同時に床に落ちた物を見ると、それはやけに見覚えのある杭のような釘であった。
自分に何度も襲い掛かってきていた、あの釘剣である。
ジャラリ、と鎖の音が鳴る。
釘が引き戻された先に視線を移すと、荒く息を吐いているライダーが割れた窓を背に、粉々に砕けたガラスの破片の上に立っていた。
地面から三階までを一気に壁伝いに駆け上がり、窓を突き破って戻ってきたのだ。


「ちっ! 思いの外、立ち直りの早い……!」


「はぁ……はぁ……流石に、数十秒は……動けませんでした、が。その矮躯(わいく)で、恐ろしいまで、の怪力……ですね」


「……褒め言葉と、受け取っておきましょう」


一応、見た目可憐な少女であるセイバーに対して、力が強いと評するのは流石に失礼に値するだろう。
だが、ライダーにとってはこれ以上ないくらいに、正直な感想であった。
いくら耐久力がそこまで高くないとはいえ、拳一発で自分をあっさりとダウンさせるとは。
いまだに激しく疼く脇腹の痛みを強引に捻じ伏せ、ライダーは息を整えながら、両手の釘剣を構え直す。


「はあっ!」


「ふっ!」


そして二人は、どちらからともなく一歩踏み出し、互いに獲物をぶつけ合う。
セイバーは己が身で以て敵を完全に釘づけにし、のび太を護るため。ライダーは変わらず、主命を全うするため。
太陽を動力源としてでもいるかのような、鮮烈な威圧感と豪力で刃を振るう剣士に、騎乗兵は表情を僅かに歪めながらも驚異的な粘りを見せる。
釘がアイスピックと化しそうなほどに火花を噴き上げるが、しかしそれでも折れずに繰り出される斬撃を逸らす、逸らす、逸らす、逸らす、逸らす。
その綱渡りだが、絶妙とも呼べる捌き様に、セイバーは僅かに瞠目する。
ライダーという、近接戦闘において不得手に近いクラスの英霊でありながら、フルブーストの自分を相手にここまで食い下がる。
だが、それは奇しくも、セイバーのこの戦闘における勝利条件を満たす事となった。


「今、のうちに……!」


ジリジリと、二人の死闘の場からゆっくりと後退っていたのび太が、3-Dの教室へ向けて一目散に走りだす。
ライダーはセイバーの対処に手一杯で、今なら妨害はない。
昼休みも終わりかけで、廊下に人がほとんどいなかったおかげで今まで意識していなかったが、教室に入るという事は二階で見た、あの死屍累々の惨状をもう一度見るという事になる。
それを思うと手足が恐怖に竦むが、今この場で自由に動けるのは自分しかいないのだ。
右手の“タイムふろしき”をギュッ、ときつく握りしめる。





――――頼む!





――――ノビタ、急いでください!





たとえどれほど怖くても、自分を信じて任せてくれた、その信頼に応えたい。


「……いっ、行くぞっ!」


一度逃げだし、再び立ち向かったあの夜と同じ言葉。
のび太の身体は、恐怖をも上回る熱い感情に突き動かされていた。















やがて、学校を覆っていた紅い牢獄のような結界は、陽炎のように揺らめいたかと思うと二度、三度と明滅して消滅し、元の真っ白な穂群原が姿を現した。






穂群原を舞台とした攻防は、第二局面に突入する。







[28951] 第三十二話
Name: 青空の木陰◆c9254621 ID:90f856d7
Date: 2012/09/02 00:30




「くそっ! くそ、くそっ! なんで、なんで届かないんだよ!?」


「はぁ……はぁ……そんなものかよ、慎二」


口汚く叫ぶ慎二を見据え、士郎は小声で吐き捨てる。
戦闘に突入して、既に十分近く。両者共に息が上がっており、珠のような汗が額や頬に浮かんでいる。
だが、両者の疲労の質には明確な違いがあった。
慎二の方は精神面でグラついており、一方の士郎は肉体面で大きく疲弊しているのだ。


「ふぅ……数は多いな。けど、そんな魔術じゃあ、俺には通用しないぞ」


呼吸を整えようと深呼吸を繰り返しつつ、士郎は“名刀・電光丸”を握り直して下段に構える。
慎二の繰り出す魔力刃は、とにかく数が多い。
まさに刃の弾幕といった風で、多い時には一度に三十近くを生み出して一気に浴びせかけてきていた。
故に、一進一退。互いに肉迫する事もなく、攻撃と迎撃に全ての攻防が終始しており、距離は縮まっていない。
普通ならば、物量と手数の利で士郎はとっくに血に塗れて、骸と化しているところである。
いくらオート迎撃の“名刀・電光丸”を『強化』魔術を併用して振るっているとはいえ、飛来してくるのは研ぎ澄まされた魔力の塊。
それに刃を合わせ続ければ、果たしてどういう結果が訪れるか。
間違いなく刀の方が保たない。捌き続けるうちに『強化』魔術の効果が切れ、通常の刀の強度に戻った刀身が粉々に砕かれて終わるだろう。
だが、その予想に反して士郎は、魔力刃の悉くを斬って捨て続け、今なお命脈も『強化』も健在である。
それはなぜか。


(魔術回路もなしに魔力を操れるのは確かに凄い……が、バカバカしいくらいに軽い。手応えがスカスカだ)


慎二の弾幕一発一発の密度が、恐ろしく低いからである。
重い砲丸を、同じ重さの発泡スチロールに変換し、手当たり次第にちぎっては投げているようなもの、と言えば解りやすいだろうか。
適性もないのに無理矢理魔術を行使しているせいか、はたまた元からこういう魔術なのか。
とにかく、刃を構成する魔力が、ある程度の頑強さを保持するまでには集束されておらず、“名刀・電光丸”で一太刀薙いだ程度で簡単に消滅してしまう。
砕け散る際の音と相まって、まるで粗悪なアメ細工を片っ端から叩き壊しているような感覚である。


「これなら遠坂のガンドの方がまだ凄まじいな。知ってるか、慎二? あいつ、手加減したガンド一発でコンクリートの壁に穴開けるんだぜ?」


バーサーカーとの決戦前、凛から薫陶を授けられた際、士郎は容赦ないガンドの嵐に晒された。
呆れと溜息の混じったこの述懐には、重々しい真実味がこれでもかとばかりに籠められている。
そしてそれは、慎二の魔術が大した事ないと、心の底から思っているという心境の吐露と同義であった。


「な……んだとぉおおお!?」


当然、士郎の言葉は彼の神経を、鉋で削るように逆撫でする。
言った本人にそこまで挑発的な意図はなかったのだが、苛立ちで逆上寸前の慎二にとっては、煮え滾る油にダイナマイトを放り込むも同然であった。
余裕ぶった表情は既にない。
歯を剥き出しにし、目を血走らせながら獣のような唸り声を上げる。
慎二から、冷静さは完全に拭い去られていた。
膠着状態だった戦局に、この瞬間、亀裂が走る。


「ここっ!」


身を屈め、士郎は低い姿勢で慎二に向かって駆け出した。
接近するなら、今を置いて好機はない。
いくら“名刀・電光丸”が自動で動いてくれるとはいえ、その剣を握り締め全力で振るっているのは、士郎自身である。
時間をかければその分、じわじわと疲労も蓄積されていく。
息だって先程から切れ切れ、しかもそろそろ器官の具合が怪しくなっていると来ている。
上の階で『懸念事項』が争っている事もあり、あまりグズグズしてはいられないと即座に判断。
士郎は、勝負に出た。


「うぅがあああああっぁあああああああ!!」


たとえ我を忘れても、憎しみ募る敵対者を忘れはしない。
破れんばかりに握り締めた赤い本に、慎二がコマンドを下す。
即座に十数の魔力刃が生み出され、凍るような殺意と共に疾走する士郎目掛けてそれらを解き放つ。
……だが。


「甘いっ!」


“名刀・電光丸”が煌めき、襲い来る刃を次々と切り払う。
縦横無尽の太刀捌き。慎二から見れば、ただデタラメに剣を振るっているようにしか見えないだろう。
ある意味、間違いではない。
なにしろ自動反応・自動迎撃なのだから、剣術の型にはまった軌道で振るわれるとは限らない。
ために、振るう姿は、途轍もなく不格好で不規則……しかし、精度は緻密にして正確。
加えて、放たれた魔力刃が、冷静さを欠いたせいか散弾のようにバラけていたのも幸いした。
あっという間に迎撃を完了。敵へと一直線に続く道をこじ開けると、士郎は一気に加速する。


「いつまでも、バカのひとつ覚えが通用すると思うな! 慎二ィ!!」


「――――ひっ!」


ここに至って激情が幾分冷め、慎二は表情に怯えを見せる。
目は泳ぎ、手足が竦み及び腰。足を一歩、二歩と、後ろへ進めている。


(後退り……させるか!)


逃げようとしている。そう察した士郎は、さらに足のペースを上げる。
この男の性格は熟知している。長い付き合いは伊達ではない。
事、ここに至った状態で万一逃がしてしまうと、執念深いコイツの事。後々厄介な事態を引き起こしかねない。
決着は持ち越さず、ここで決める。
士郎は刀を左手に持ち替え、右の拳を固く握り締めた。


「逃がすか! 歯ァ食い縛れ! その曲がった性根、修正してやる!!」


慎二が後方へ駆け出したその瞬間、士郎はその襟首を引っ掴むと自分の方へ強引に身体を向かせ、左の頬に右拳を思い切り叩きつけた。


「ぶはぁあっ!?」


助走付きの拳の威力に身体ごと吹っ飛ばされ、慎二は廊下を物凄い勢いで転がっていく。
その軌跡には、点々と赤いモノが付着している。
慎二の血だ。


「う、うぐ、ぐぅ……!」


廊下の端、階段がすぐ左手にある位置で慎二の身体が止まる。
そのままよろよろと身体を起こそうとするが、唇の左側から赤い線が一筋垂れ下がり、食い縛った歯が真っ赤に染まっていた。
口の中を切ったのだろう。
左手の甲で血を拭い、どす黒い殺気と狂気が混じった視線を士郎にぶつける。
その表情は悔しさと憎しみと憤怒に捻じれ、歪み、さながら悪鬼のようである。


「く、くそっ……!」


「……慎二、勝負ありだ。早く、この結界を……」


刀を突き付けた士郎がそう言い終える前に、廊下に充満していた淀んだ赤い空気が霧散した。
『他者封印・鮮血神殿(ブラッドフォート・アンドロメダ)』が崩壊したのだ。
上の階でのすべてを察した士郎は、ふっとひとつ息を漏らす。


「……解くまでもなかったな。これで完全に勝敗は決した。もう覆りはしないぞ」


結界が消えた。
それはつまり、のび太が基点をしっかりと破壊し、セイバーがライダーを封殺しているという事。


「……くそ!!」


ギリ、と慎二の歯から音が鳴る。
自分の置かれた状況を、悟ったのだろう。
逆転の目はない、と。


「さあ、慎二……」


刀を持つ手に力を籠め、士郎はさらに慎二に詰め寄っていく。





――――この時、士郎は選択を誤っていた。
今の慎二は、理性が衝動に侵された、狂奔する獣同然。
刀を突きつけた事で、首輪をしたつもりなのだろうが、まだまだ認識が甘かった。
刀の峰で首筋を打つなり、当身を喰らわすなりして慎二の意識を刈り取っておくべきだったのだ。
なぜなら……。





「そお~っと、そお~っと……――――あ、士郎さん!」


「な!? の、のび太君!? なんで降りてきて……!?」


「あ、いえ、その、上が物凄い事になってきたから……」





――――獰猛な獣は、自らより弱いと思う者を本能的に見分け、寸分の容赦もなく喰らいつくものだからだ。





「……ッ!!」


瞬間、慎二の目がギラリと怪しく光る。
そして。


「――――がぁあああああああアアアアアアアっ!!」


「あ!? ま、待て!」


「へ、う、うわああっ!?」


脇目も振らず、三階と二階をつなぐ階段の中間地点へ身を乗り出していたのび太へ向かって突進。
構えられていた“名刀・電光丸”で右腕が切り裂かれるのも構わずに、左の掌でのび太の首を鷲掴みにすると、空へと持ち上げ締め上げた。










「う!? ……がぁ……ッ!?」


突如、弾かれたように襲い掛かってきた慎二に、のび太は身構える事すら出来なかった。
まるで万力で首を締められているかのような凄まじい握力で、呼吸が完全に封じられる。
子どもの体躯であり、筋肉質でもなくどちらかと言えばモヤシ体型ののび太に、この宙吊り状態が耐えられる筈もない。
頸骨がギシギシと嫌な音を立てており、細い首が今にもへし折られそうであった。


「のび太君!!」


士郎が駆け寄ろうと一歩踏み出す。
が。


「あ゛ぁああああアアアアアあああッ!!」


「な!? くっ……!」


右手の赤本から放たれた慎二の魔力刃が、接近を許さない。
怒りが頂点に達した事で、最善策を本能が導き出したのだろう。
慎二は、魔力刃を一本一本バラで撃ち出すのではなく、数発固めて刃の塊として撃ち出していた。
密度の低さをカバーするには賢いやり方であり、この迎撃には『強化』した“名刀・電光丸”でも骨が折れた。


「づっ!? か、固い!?」


一撃では砕けず、“名刀・電光丸”の迎撃機能による高速斬撃で十数回斬りつけて、ようやく魔力刃が霧散する。
しかし、壊したと思ったら、また次の刃の塊が襲いかかってきた。
避けようにも、学校の階段という手狭なスペースの関係上ほぼ不可能。
無力化のために再度刀を振るわざるを得ず、結果、士郎の足は、階下に完全に釘付けにされた。


「ぐ……ぐぅぃ、ぎぃぁ……!?」


自分を掴み上げる腕をどうにか振りほどこうと、のび太は眼下の腕に両の爪を立て、必死に身体を捩じらせる。
だが、脳のリミッターが完全に外れた慎二の腕力は凄まじく、いくらもがこうが引っ掻こうがビクともしなかった。
のび太がここに降りてきたのは、三階のセイバーとライダーの戦いが激化して留まるのが危険な状態となり、ふと士郎はどうしたんだろうかと気になったから。
用心しながら移動したまではよかったが、つい不用意に声を上げてしまった事。
そしてその際、取り押さえられた慎二の理性が焼き切れていたのが不運だった。


「この、ガキがぁああああああああああ!! お前が、お前がぁああああああああああアアアアアア!!」


「ぐぅえ!? が……ふ……ぅう!?」


腕に浮き出る血管から、血潮が噴き出さんばかりにますます力が籠もり、のび太の顔色が蒼白に染め上げられる。
頸動脈に指が完全に喰い込んでおり、脳に血流と酸素が行き届かない。
異常な量の脂汗が全身にベッタリと張り付き、身体の各所が弛緩して今にも禁を失してしまいそうである。
視界に影が差し、漆黒に塗りつぶされ、のび太の目に映る景色が陽炎のように霞んでいく。
そうして、意識が暗闇に落ちようとしたその寸前。


「ぁあ………っ、ぁあぐ!!」


のび太は気力を振り絞り、最後の反撃に出た。
身体を無理矢理弓形に逸らし、その反動を利用して首元の慎二の手に思い切り噛みついた。


「ぎッ!? づあぁあっ!?」


犬歯が皮膚を貫き、奥の肉へと力強く喰い込んでいく。
全精力を上顎と下顎に込めて、このまま引き千切れろと言わんばかりに、のび太はギリギリと歯を食い縛る。
歯型が付くどころでは済まないこの窮鼠の反撃には、流石の慎二も痛みに悲鳴を上げた。


「ぐ、くそがっ!」


「ぅう!? ぁああっ!?」


手中の雑魚に傷付けられた事が癪(しゃく)だったのか。
纏わりつく不快なものを打ち捨てるように、慎二は階下へのび太を放り投げた。


「なあ!?」


階下の士郎の目が驚愕に見開かれる。
そして。


「くっ、そ……う、ぐ!!」


「っが、ふぁっ!?」


咄嗟に“名刀・電光丸”を魔力刃に突き立て、そのまま刀を横に放り捨てるとすぐさま着地点へ駆け出し、間一髪。
固い廊下の床へ叩き付けられる前に、滑り込みでキャッチする事が出来た。


「はぁあ……な、なんとか間に合ったか……」


魔力刃は、自動迎撃機能が生きたままの刀に切り刻まれ、そのまま霧散する。次が来る気配はない。
受け止めた際の慣性に身を任せ、その場に尻餅をつきながら、士郎は安堵の吐息を漏らす。
その腕の中で、新鮮な酸素を求めてのび太が激しく咳き込んでいた。


「かはっ! げほっ! ごほ、こほっ……はっ、はっ、げほっ、はぁっ……けほっ、はっ、はぁっ……!」


のび太の首筋には手形がくっきりと刻まれており、かなり痛々しい。
目も赤く充血しており、頬には僅かに涙の跡が見て取れた。
心なしか、士郎の服の袖を掴む手が震えているような気もする。
慎二の握力と狂気がどれほどのものだったのかが、腕を伝って士郎に嫌でも伝わってきた。


「大丈夫か、のび太君……?」


「けほ、けほっ……はぁっ、は、はい……こほ、なん、とか……はぁ、はっ、こほっ……」


「…………」


涙の滲んだのび太の目を見つめる士郎の表情が、僅かに歪む。
そのまま片目を伏せ、労わりや謝罪の言葉を口にする代わりに、のび太の背中を優しく摩った。


「くそ、ガキが、僕に傷を……!」


一方、階上では慎二が左手を押さえて唸っていた。
左手の甲は夥しい鮮血が噴き出しており、肉の相当深い部分まで食い破られた事が窺える。
それだけのび太も必死だったのだろう。
魔術回路のない慎二は、勿論傷を癒す魔術など習得していないので、左手の傷を回復させる事は出来ない。
……だが。


「ちっ、深いな。血が止まらな……ん?」


痛恨の痛手を被った事で、激情の狂気からは回復していた。
傷を睨みつける傍ら、慎二はふと、自分のすぐ足元の段上に何かが落ちている事に気づく。


「……? あ、待……!」


「けほ、けほっ……はぁ、はぁ……?」


士郎が制止の声を上げるより早く、慎二は傷を負った左手でそれを拾い上げた。
白のニットキャップに似た、士郎とのび太にとってはこれ以上ないほどに見慣れたそのブツを。


「……ッ、最悪だ……」


「え、あ、ああっ!? ぽ、ポケットが!?」


慎二が掴んだ物、それはのび太のポケットに収められていた“スペアポケット”だった。
のび太が慌てて“スペアポケット”の入っていたズボンのポケットをまさぐるが、当然ながら手応えはない。
首を締められ、そこから逃れようと必死に慎二の束縛に抵抗していた際、暴れすぎてポケットから落ちていたのだ。
二人の顔色が変わったのを見て取った慎二は、勝ち誇ったような笑みを浮かべる。


「へぇ……よっぽど大事な物みたいだな。衛宮が抱えてるそのガキが結界をぶっ壊したみたいだけど、この中に結界破りでも入れてたのか?」


火山の噴火さながらの感情の爆発は、とうに下火。
冷静さと余裕を取り戻した慎二の頭脳は、のび太が、何らかの手段で『他者封印・鮮血神殿(ブラッドフォート・アンドロメダ)』を無力化した事を導き出していた。
しかし、二人が二手に別れる前に、こそこそやり取りをしていた事を鑑みればおおよその見当は既についていたはず。
それがここまで遅れたのは、やはり相手が士郎だったからであろう。それがこの場における、この男の最大の欠点である。


「か、返して!」


「バカかお前? 敵の道具をホイホイ返す訳ないだろ……おっと、ヘンなマネはするなよ衛宮。この本の魔術は、まだ死んでないんだぜ。ちょっとでも長く生きてたいだろ?」


「ぐ……」


機先を制する慎二からの牽制。士郎は思わず歯噛みする。
現在、士郎の両の手に武器はない。
“名刀・電光丸”はのび太をキャッチする際に手放してしまい、士郎と慎二のちょうど中間、階段脇の床に聖剣のように突き刺さっている。
上着のポケットに“スペアポケット”があるため、反撃の武器がまったくない訳ではないが、慎二は“名刀・電光丸”を上着から出したところを見ているため、こちらも実質使えない。
要は手詰まり。アドバンテージは慎二にあり、まさに進退窮まった。


「どれどれ……何が入ってるんだ?」


右手の本を口に咥え、慎二が“スペアポケット”の中をまさぐる。
二人揃って起き上がるも、その様子を黙って見ているしかない士郎とのび太。
道具の種類が少ないとはいえ、のび太の“スペアポケット”には、凛が聞いたらキレて火を噴きそうなくらいにデタラメで強力なシロモノが、まだまだ入っていたりする。
もし慎二がそれを取り出してしまえば、のび太達の破滅は確実である。


「あ、あ、あぁああ……!?」


「……くぅ……!」


悔恨と戦慄(わなな)くのび太の横で、士郎の頬に一筋の汗が流れる。
そして慎二の手がゆっくりと、ポケットから引き抜かれた。
そこに握られていたものは……。





「ふぅむ? ……っと、爆弾かな、これは?」





手榴弾のような形状をした、黒光りする掌大の物体だった。


「ッ!? まさか……」


士郎の全身が戦慄に粟立つ。
のび太の道具の、シャレにもならない性能をこれまで凛やセイバー共々散々見せられ続けた。
故に、あの爆弾もただの爆弾ではない事くらい容易に察せられる。
もし、あれを使われれば勝負は決まってしまうだろう、しかし対するこちらは動けない。
見た目から使用方法も自ずと解る構造のため、下手に動けば、慎二は躊躇いなくあれを使う。その確信がある。
拳をきつく握り締め、士郎はのび太を後ろに庇うようにそっと体勢を入れ替える。
その表情は、致死毒でも盛られたかのように悲壮に、そして殊更苦々しく歪められていた。


(……ん?)


しかし、士郎の背中側。


(待てよ、あの人が持ってるのって、たしか……)


身体の横から顔を出して前を見るのび太の表情は、士郎のものとは180度異なっていた。


(……あ!)


無念の形相などではない。諦念の様相でもない。


(そうだ、間違いなく“アレ”だ! だったら……うん、きっといける、かも!)


『死中に活路を見出した』。
まさしくそんな表情であった。


「そこらにいそうなガキがこんな危険物を持ち歩いてたなんてね……まぁ、こんな爆弾で結界をどうこう出来たとは思えないけど。それにしてもこの道具袋、いったいなんなんだ?」


右手の黒いブツを野球のボールでも見るようにしげしげと眺め、慎二は独り言を呟く。
本を上着の胸ポケットへ収め、今度は視線を左手の“スペアポケット”へと僅かに落とした。
その、瞬間。


「いまだっ!」


タイミングを見計らっていたのび太が士郎の背中から、突如その横をすり抜け、弾丸のように飛び出した。


「え、ちょっ!?」


眼前にいきなり現れたのび太にギョッとするも、士郎は慌ててその襟首に手を伸ばす。
どちらかと言えば気弱なのび太が、なぜこうも思い切った行動に出たのか、あまりにも唐突な出来事で理由が皆目掴めない。
ただ、リスクが大きすぎるアクションであるのは間違いないため、咄嗟に引き戻そうとした。
しかし、ほんの一足遅く、士郎の手はのび太を掴む事なく虚しく空を切る。


「!? こいつ、なんの……ッ、はは、破れかぶれか? 甘いね、そらっ!」


形勢逆転し、優位に立った事で、気が大きくなっている慎二。
一瞬戸惑いを見せたが、即座に意識を立て直し、手の中の爆弾をのび太目掛けて放り投げる。
所詮、奪った敵の武器である。自分の懐はまったく痛まない。故に、遠慮など微塵もない。
爆弾は、のび太の手前一メートル地点に着弾、そして。


「のび太く……うわっ!!」


閃光が奔り、轟音を発して爆発した。


「あっはははははは! 僕に手傷を負わせた報いさ!」


「…………ぁ、ああ……!」


腕で庇っていた顔を上げた士郎の表情から、潮が引くように血の気が失せ、反対に慎二の顔には愉悦混じりの喜色が浮かぶ。
狭い廊下の片隅に、耳に痛いほど凄まじい炸裂音の残響と白煙が、これでもかと言わんばかりに満ち満ちている。
その勢いたるや、並みの手榴弾や地雷など目ではないほどだ。ここまでのシロモノの直撃を受けて、普通の人間が生きていられる筈がない。
……だが。





「あははははは「――――残念だけど……」ははは……は?」





慎二の哄笑を遮るように声が響き、慎二の眼前に漂う白煙が微かに歪み、渦巻く。
そして。





「――――あれは“こけおどし手投げ弾”だよ! お兄さん!!」





会心の笑みを浮かべたのび太が、無傷のままで煙を突き抜け、姿を現した。

“こけおどし手投げ弾”

簡単に言えば、爆発音と閃光、そして煙を撒き散らす“だけ”の爆弾である。
殺傷能力などまったくなく、せいぜい音と光で相手を怯ませる事くらいしか出来ない。
それさえ覚悟していればなんらの問題もない、文字通り、『こけおどし』の爆弾なのである。


「のび太君!」


「な……にぃいいいいい!?」


のび太の無事に表情を輝かせる士郎。対して、慎二は眼前の光景に我が目を疑う。
あそこまで派手な爆発に巻き込まれて、のび太が傷一つ負っていないなど到底信じられなかった。
だが、それで目の前の現実が変わる訳もない。


「く、くそっ!」


慌てて本来の獲物である胸元の本に手をやるも、距離を一気に詰めてきたのび太の方が早かった。


「えぇええええい!!」


足を緩める事なく階段を一直線に駆け上り、勢いそのまま慎二に体当たりを仕掛ける。
とはいえ相手は、穂群原の弓道部に所属し、日々鍛錬をこなしている慎二である。当然、一般高校生よりも力はあるし、体格もそう貧弱ではない。
それ故、本来ならば、のび太程度の突進など通用するはずもないのだが、この場合、慎二の立つ場所がのび太に味方した。
階段上では踏ん張りが効かず、両手も本と“スペアポケット”で塞がっていて受け止める事も不可能。
下方から腹部へ、突き上げるようにのび太の肩と背中が直撃。楔のように一直線に、鳩尾へと突き刺さった。


「うぉ……がはっ!? ぎ、あ、ぁぐぅうううう!?」


段差の角でしたたか背中を打ち付け、慎二の口から苦悶の声が上がる。
寸でのところで顎を引いたため、後頭部を強打する事はなかったが、それでも尋常でない痛みが全身を駆け巡る。
一度ならず、二度までも子どもにしてやられた。
しかも、二度目はある意味、自分の盛大な自爆である。


「――――――――っ!!!」


その痛恨の事実が、冷え切っていた慎二の頭脳に再度、沸騰するような熱を齎す。
身体の激痛も激情に任せて無視し、慎腹筋と背筋の力を総動員して慎二は一気に身体を引き起こした。


「この……!!」


左手を床につけたまま右手の本を構え、そのまま自らの背後に振り返る。
そして。


「クソガ……!?」


目の前に映った光景に、身体を硬直させた。





「――――これで!」





左手に“スペアポケット”、右手に“ショックガン”。
踊り場の床に片膝をつき、眼鏡の奥の片目を閉じ。
百戦錬磨のガンマンの如く、呑まれる事のない気迫と勇気を小さな身体に漲らせ。





「僕の……僕達の、勝ちだ!!」





腰だめに銃を構えたのび太が、その銃口を慎二に対し突き付けていた。







[28951] 第三十三話
Name: 青空の木陰◆c9254621 ID:90f856d7
Date: 2012/09/23 00:46





「ぐがぁあああああああっ!?」


「おっ……と!」


“ショックガン”の光線を浴び、轟沈する慎二。
立ち上がりかけた姿勢のまま喰らったので、バランスを崩し、階下に転がり落ちそうになるも、階段を駆け上ってきた士郎にキャッチがてら拘束され、時代劇の悪役のような末路を辿る事はなかった。


「ふぅ……間に合った。とりあえず、縛っておくか」


そう言うと、士郎は慎二を階段下に引きずり降ろし、上着のポケットの中の“スペアポケット”から縄を取り出す。
そして、白目を剥いて気絶している慎二の身体をぐるぐる巻きに、がっちりと固く縛り上げた。
“ショックガン”を喰らった人間は、余程の事がない限りしばらく目を覚まさないが、一度慎二を取り逃がした事から、念には念をという意図のようだ。


「よしっ、これで……大丈夫だろ。あ、そうだ。のび太く……ん?」


ギュッと縄を引き絞り、決してほどける事のないように固定したところで、士郎は階上ののび太を仰ぎ見るが、一瞬その眼が点になった。


「はーっ、はーっ……はひぃ、よ、よかったぁ、上手くいって……」


慎二を仕留めた、あの雄姿はどこへやら。
踊り場の床にペタンと尻餅をつき、恐怖と不安からようやっと解放されたと言わんばかりの、実に情けない姿を晒していた。
その様子に、士郎は僅かに苦笑を漏らす。
途轍もなく勇敢だったり、かと思えば、今のように小市民的な不格好さも見せる。
相変わらずの両極端振りである。


「大丈夫か、のび太君?」


「あ、ああ、はい。なんとか……」


ややヨタヨタしながらも立ち上がり、階段を下りて士郎の下へ向かうのび太。
ふらつきがちで、ところどころに傷だの痣だのはあるものの、急を要するような身体の異常は見受けられない。精神も、疲労感以外に問題はないようだ。


「そっか、安心したよ。慎二にあんな目に遭わされてたから……あ、そうだ」


「はい?」


「どうしてあの時、いきなり慎二の前に飛び出したりしたんだ!? 慎二は爆弾持ってたんだぞ! 怪我こそしなかったからよかったものの、一歩間違えれば……!」


眉間に皺が刻まれ、静かな怒りの表情となった士郎は、そうのび太を叱責する。
あの行動で、どれだけ士郎が肝を冷やしたか知れない。
加えて言えば、のび太のあの行動は、傍目から見れば無謀な特攻以外の何物にも見えなかっただろう。士郎の怒りももっともである。
それに対し、のび太はバツが悪そうに頬を掻くと、そのまま頭を垂れる。


「あ、あ~、その……ごめんなさい。でも、この人が持ってたあれ、“こけおどし手投げ弾”だったし、両手にあったのがポケットとそれだけだったから、ポケットを取り返すチャンスかなと思って」


「こ、こけおどし手投げ……?」


「“こけおどし手投げ弾”です。あれは……」


音と光と煙しか出ない爆弾だ、と。
ごく簡潔に、のび太が“こけおどし手投げ弾”の効果を説明する。
それで、のび太の行動に一応納得がいったのか、士郎は二、三度頭を軽く上下させた。


「――――成る程。殺傷能力のまったくない爆弾だった、と。だから、喰らっても無傷だったのか……」


「はい」


「う~ん……まあ、ちゃんと謝ったし、結果的に助かったから、叱るのはここまでにしておくけど……しかし、慎二はなんでそんなモン引き当てちゃったんだ?」


「えっと、武器か何かを思い浮かべながらポケットを漁ってたから? かな? だと、思います。なんでもいいから出そうと思うと、偶にイメージで道具が出てくる事があるから……」


「へえ……ん? だとすると、慎二は、相当運が悪かった? 武器は武器でも、よりによって傷付かないハズレ兵器を引っ掴むって……」


「た、たぶん……でも、僕達にとってはラッキーでしたね」


慎二の不運が凄まじいのか、のび太の悪運が勝ったのか。
おそらく両方だろう。のび太も普段は幸薄いが、土壇場に追い込まれた時だけはギリギリで救われたという経験は枚挙に暇がない。
苦笑いを浮かべ、互いに見合わせあう二人。
だが、その直後。


「……? なんだ、この振動?」


「地震じゃない……けど、揺れてる?」


窓ガラスがビリビリと音を立て、小刻みな揺れがフロア全体に響き始めた。
二人が訝しげに首を傾げたその次の瞬間、突如天井に亀裂が走り、次いで天井が轟音を立てて崩落した。


「おわっ!?」


「うわぁああああっ!?」


咄嗟にのび太の上に覆い被さり、士郎は自らの身体を盾とする。
幸い、天井が崩れた位置は二人のいる位置から七、八メートル程度離れており、怒涛の勢いで降り注ぐ瓦礫の下敷きになる事は免れた。
しかし、埃と粉塵は勢いそのままに容赦なく襲い掛かり、士郎の制服を煤けた灰色に染め上げていった。


「ぐぅうう……ぁあ、いきなりなん……!?」


顔を上げた士郎の視線の先にあったのは、瓦礫の上に立つ影が二つ。
一つは縦に長く細い影、もう一つはそれよりも短く、透明な靄のようなものに覆われている影。
その正体など、考えるまでもない。


「セイバーに、ライダーか!」


「ッ!? シロウ、無事ですか!?」


「なんとか……っう、わ!」


身体を起こしかけた刹那、士郎の横を凄まじいスピードで何かが駆け抜けていった。
そのあまりの速度に、もうもうと漂うコンクリート塵が風圧で舞い上がり、蒸発するように吹き飛ばされる。


「シロウ!?」


「だ、大丈夫……ッ!? 待て、今のは、まさか!?」 


血相を変えた士郎が振り返ったそこには、


「う!?」


「え? ……ああっ!?」


慎二を小脇に抱え、四足獣を彷彿とさせる姿勢で士郎達を見据える、ライダーがいた。
縄で縛られた主の様子から全てを悟り、天井崩落とセイバーに気を取られた士郎の隙を突いて奪取したのだ。
士郎が庇ったのはのび太だけであり、慎二はその横に置かれていただけだったのも、これに一役買っていた。
瞬時の判断が物を言う状況では、流石に慎二まで気を回す余裕はなかった。


「……マスターがこれでは、チェックメイト寸前だったという訳ですか」


無表情そのままに呟くライダー。
ボディコンのような服装の至る所に煤けたような傷が付き、足元まで伸びる紫の髪も掻き乱したように荒れている。
本人は隠しているようだが、呼吸が不規則かつ乱雑なペースになっており、かなり疲労が溜まっているのが窺い知れる。
その姿が、セイバー相手にどれだけ劣勢に立たされていたのかを、如実に物語っていた。


「執拗に私の足元に釘を放ってきていたと思えば、これが狙いだったとは……」


「貴女の豪力を逆に利用させて頂きました。床に幾つか致命的な損傷を与えておけばおそらくは、と。賭けに近い判断でしたが」


「そうなるように知らず、誘導されていたとは、な。それならば、床が崩落する寸前、回避に徹しきっていたのも頷ける。なかなかに強かで、他力本願だ」 


「褒め言葉と受け取っておきましょう。運よく、マスターも奪い返せました。ですので……」


その瞬間、ライダーの身体がブレた。
不穏な気配を察したセイバーが一歩踏み出したが、すでに遅い。


「逃げの一手を打たせて頂きます」


身の構え通り、四足獣さながらのスピードでライダーは逃走を図った。
この場で打てる、最善の一手。
勝ち目のない、今の状況を強引に仕切り直し、必殺の再起を図るために。
脱兎の如く、その場からトップスピードで駆け出した。


「しまった! 待て!」


ライダーを追って、階段を一足飛びに駆け上がるセイバー。
凄まじい踏込のパワーに、床が足の形に陥没している。


「セイバー!? くっ、立てるかのび太君!?」


「な、なんとか!」


二人は慌てて追いかけようとするが、


「って、速い!? もう階段を上り切ってる!?」


「士郎さん、“タケコプター”で!」


走るスピードでは英霊二人には到底敵わないため、二人は“スペアポケット”から“タケコプター”を取り出す。
タケコプターの最高速度は80km/h。走るよりも断然効率がいい上、屋内移動もお手の物だ。
頭に小型プロペラを装着し、二人はセイバーの背中を追いかけるべく飛び上がり、宙を舞った。















「単なる保険のつもりが、まさか本当に使う事になるとは……」


校舎四階。
廊下の突き当たりにある壁を見据え、ライダーはそう呟いた。
穂群原にライダーが仕掛けたのは、『他者結界・鮮血神殿(ブラッドフォート・アンドロメダ)』だけではない。
そこから得られる魔力を一部流用し、隠蔽工作を入念に施した上で、いざという時のための切り札をもう一つ、設置していた。
もっとも、ライダーとしては出来るなら使いたくはない、というのが本音であった。
この切り札も自らの宝具であるが、消費する魔力が尋常ではない。
一度使えば、『他者結界・鮮血神殿(ブラッドフォート・アンドロメダ)』で収集した魔力のほぼすべてを失ってしまう。
そうなれば、これまでの努力は水泡に帰す。
結界を仕掛ける前と変わらない魔力保有量のまま、成果なしという事実と徒労だけが残される事になる。


「……しかし、なりふり構ってはいられない。まだ私は、消える訳にはいかないのですから……」


他にも、この宝具はいろいろと特徴的であり、自らの出自が判明するリスクも潜在的に存在するが、ライダーは現時点で、そのリスクを無視する事にしていた。
必要ならば、これとは別の、三つ目の宝具も解放するつもりですらある。
むしろこちらの方が、その点で言えば危険だ。
使えば、確実に自らの正体が判明するだろう。そうなれば、この聖杯戦争下における致命傷を負う事になる。
しかし、それでも尚、ライダーは命脈を繋がんとすべてを投げうって足掻きに足掻く。
彼女に護るべき『存在』がある限り、退場する気など毛頭ない。


「ライダー!」


「……来ましたか」


勇ましい声に、ライダーが振り返る。
そこには、怪訝な表情で構えを取ったセイバーがいた。


「……逃げるのではなかったのか? スピードだけならば私以上の貴女が、こんな行き止まりで立ち往生とは」


スピードだけで逃げられるのなら、苦労はない。
ライダーは、そう内心で毒づいた。


「逃げますよ? しかし、逃げるにも手順というものがあるのですよ」


ライダーが言い切ったところで、セイバーの背後から、“タケコプター”で飛んできた士郎とのび太が追いついてきた。


「シロウ、ノビタ! なぜ来たのですか!?」


「いや、なぜもなにも……慎二を持って行かれちまったし、責任は果たさないと」


「……でも、なんで四階に?」


頭に付けた小さなプロペラで空を飛ぶという光景に、ライダーは一瞬、眼帯の下で目を見開く。
飛行や浮遊の魔術は、高等魔術として扱われる。
それを如何なる原理か、一流とは程遠い魔術師の少年と、どこにでもいそうな子どもが実にあっさりとやってのけている。
僅かな驚愕を覚えたライダーであったが、それも些末事だと、無理矢理意識の底へと捻じ伏せる。
そして、着地と同時に頭からプロペラを剥がした二人から視線を外し、再度セイバーを視界の中央に収めた。


「セイバー、貴女は強い」


「……いきなりなんだ?」


「無尽蔵とも思える膨大な魔力量、圧倒的なパワーと研ぎ澄まされた剣の技量……最優のサーヴァントと言われるだけはある。私の力では太刀打ち出来ないでしょう」


降参宣言とも取れる独白に、三人は揃って頭の上に疑問符を浮かべる。
だが、降参する気などさらさらないという事は、ライダーの衰えぬ覇気が物語っている。彼女が何を考えているのか、三人はまるで読めずにいた。
そんな三人に対し、ライダーは心中で笑みをこぼすとさらに言葉を繋げる。


「おまけに、貴女方はトオサカリン主従と同盟を組んでいる」


「……こっちの内部事情は、ある程度知ってるってか?」


「偵察は、そちらの専売特許ではありませんよ?」


丁々発止。
カマかけ、探り合いのような会話が交わされ、空気が徐々に冷え切っていく。
しかし、彼女が欲しいのは、情報ではない。
『時間』なのだ。


「ですが、少々不可解ですね?」


「なんだよ?」


「その眼鏡の子どもです。不可思議な気配と微かな魔力を感じはしますが、魔術師でもない、普通の人間だというのは察せられます。明らかに聖杯戦争とは無縁の存在。しかし、そちらにしてみれば重要な存在のようです」


「…………」


あと少し。
切り札の起動まで、もう一手間がいる。
限界まで会話を引き伸ばせ。


「それに、先程から妙な道具を使っていますね。そこの二人が頭に付けていた機械、一見したところ、魔術具という訳ではなさそうです」


「……だったらどうした」


「おや、否定しないのですか。なんとも、らしくない魔術師「――――もういい」……ッ」


セイバーが話の流れを、強引に断ち切った。
腰を深く落とし、必殺の構えを再度構築。少女の闘気が、急激に膨れ上がる。
これ以上、会話による時間稼ぎは出来ない。
最終工程、魔力を流し込めば切り札が起動する。しかし、流し込んでいる僅かな間に自分は斬り伏せられるだろう。
ならば、どうする。決まっている。
あとほんの少しでいい。時を無理矢理作り出す。
三つ目の、最後の宝具を開帳して。
ライダーは、意を決した。


「せっかちですね、貴女は」


「これ以上問答を重ねても、埒が明かない。逃げる気がないのなら、それも結構。あとは互いの獲物で語り合うだけだ」


「……そうですか。では」


弓を引き絞るように、セイバーが身体を沈める。
それと同時に、ライダーも右手を動かし、目を覆い隠すように顔の前に翳す。


「私はこの『眼』で、語るとしましょう」


そしてセイバーが矢のように飛び出そうとしたその瞬間。





「『自己封印・暗黒神殿(ブレーカー・ゴルゴーン)』」





空間がモノクロームに染まり、軋んだ。


「ぐぅっ!?」


突如として、異様な重みに襲われるセイバー。
まるで鉛を全身隙間なく、がっちり巻かれたかのような重量感。前進途中の身体が前方へとぐらつく。
膝を付くまではいかないが、それでも踏み込みの勢いは完全に削がれてしまった。
さながら、飛び立つ寸前に叩き落とされた鳥のようだ。


「むぅ……ッ!? それは……その眼、魔眼か!?」


「見ての通りです。しかし、やはり貴女には通じませんか。『重圧』を掛けるのが精一杯とは」


ライダーの顔半分を覆い隠していた異様な眼帯。
それが取り去られ、隠されていた彼女の瞳が露わになっていた。
寒々しいまでに無機質な、それでいて悠久の美を秘めた宝石を思わせる、淡紫の異質な瞳。
幾多の魔眼の中でも、最高位に位置する魔眼『キュベレイ』。
その視界に入れた者を、内包した概念で一色に染め上げる魔性の瞳である。
彼女の三つ目の宝具は、実はその両の目ではなく、眼帯。
何の意味もなく、彼女は目を覆っていた訳ではない。
眼帯は、自らの意思で制御する事の出来ない、魔眼を封印するための枷なのである。


「ですが、貴女の背後には、しっかりと効いているようですね」


「え……っな!?」


ライダーの言葉に振り返ったセイバーは、絶句する。


「がっ! な、なんだ、これ!?」


「か、身体が、固まる……!?」


士郎とのび太の身体が、足元からまるで石のように固まりつつあった。
『キュベレイ』は、石化の魔眼。
魅入られた者を、容赦なく石像へと造り替える恐るべき概念兵器なのだ。
対抗(キャンセル)するには、一定以上の魔力値が必要となるが、それで石化を免れたとしても、パラメーターを低下させる『重圧』からは何人たりとも逃れられない。
“竜の因子”を解放して、魔力が満ち溢れているセイバーは『重圧』だけで済んでいるが、魔力値が底辺並みの士郎とのび太はそうはいかない。
特に、魔力の地力で士郎より劣っているのび太の方は、石化の進行が士郎よりも早かった。
既に、膝上まで灰色の石膏像になってしまっている。


「くっ!」


唇を噛みしめつつも、即座にセイバーがのび太の“竜の因子”にアクセス。
のび太の身体が淡く光を発し、共鳴作用により因子が活性化。身体が魔力で満たされる。


「うぅ……っあ、あれ? 遅く、なった?」 


発生した魔力で、石化の進行が目に見えて鈍り出した。
のび太の身から次々に生産される魔力が、石化を押し返しているのだ。
ラインを通じて、セイバーの方に流れる魔力の方が明らかに多いものの、そもそも生産量が尋常ではないので、のび太の限界魔力保有量でも勢いに乗じた対抗効果はあった。
だが、それが因子によるカウンターの限界であるとも言える。
進行を遅らせているだけで、石化が止まった訳でも、回復した訳でもないのだから。


「ぐ……くそっ!」


それに、セイバーがカバー不可能な士郎の方は、今も絶賛石化進行中なのである。
魔術回路をフル回転させているも、およそ跳ね返すのに必要な魔力は確保出来ない。
早急に大元を叩かなければ、全員の命運が尽きる。


「この……!」


再度、セイバーはライダーへと振り返る。
しかしその瞬間、セイバーは再び絶句する事になった。


「すべての手順は完了……」


笑みを浮かべるライダーの背後。
行き止まりのコンクリートの壁でしかなかったそこに、血のように赤い魔方陣が描かれていた。
『他者封印・鮮血神殿(ブラッドフォート・アンドロメダ)』の物とは明らかに違う。
禍々しいのは共通しているが、そこから漏れ出てくる気配が異なっている。


「これで、準備は整いました」


前者が甘い匂いや血臭だったのに対し、こちらからは、言うなれば『真っ白な威圧感』。
まだ解放されてもいないのに、ビリビリと、叩き付けるような重い圧力が、セイバー達の全身に伝わってくる。
ここに、ライダーの機はなった。


「これは……!」


「先程、貴女に言った言葉を、もう一度。ここは、逃げの一手を打たせて頂きます」


魔法陣が、一際大きく輝く。
『重圧』を無視して、セイバーが踏み込もうとするが、既に遅く。


「ぐぅう!?」


「うぐぅあ!?」


「うわぁあああっ!?」





「――――いずれまた、お会いしましょう」





光と呼ぶのもおこがましい程の白の暴流が、爆音と共に廊下を塗り潰した。















辺りを見渡す。
鉄筋入りの校舎の壁は無残に崩れ落ち、瓦礫の山と共に円形の大きな穴が出来上がっている。
コンクリートの床は、何かが凄まじい勢いで突き抜けて行ったように、深々と扇状に抉れており。
窓ガラスは、廊下側のも教室側のもソニックブームで粉微塵。
天井の蛍光灯も跡形もなく消し飛ばされ、校舎四階は半ば戦場の廃墟と化していた。


「……死人が出なかったのが不思議なくらいね」


「そうだな……英霊同士の戦いで、この程度の被害で済んだのは奇跡に近い」


そう評価づけるのは、紅の主従。
轟音を聞きつけ、仕事を完遂した彼女らは、一直線にここまで駆けてきた。
学校にいた全員が意識を失っているが、一人の死者も出なかったのはまさに僥倖としか言えない。
ざっと見た限りでは、命に別状はなかった。後遺症もおそらくないだろう。
事実上、多少の苦痛と多大な疲労感と共に、結界によって即座に気絶させられたに等しい。
工事すれば直る校舎と違って、人命は失ったら二度と戻っては来ない。
我ながら甘いと思いつつも、凛は、心の中で大きな息を吐いた。
それと同時に、己の横へと向き直り、視界の中央に収めた人物へ向けて、口を開く。


「……で、学校の一角をこんな滅茶苦茶にしたライダーの宝具って、なに?」


「……さて、なんなのでしょう。魔法陣が作られていた事からして、なにかしらの召喚術だとは思いますが」


「召喚術、か。その術の余波でこうなったのか、それとも呼び出された“モノ”がこれだけの破壊力を秘めていたのか……状況からして、後者か」


「突破のために威力を一点集中させていたから、隣の教室も崩れず、両端の壁に穴が空いた程度の被害で済んだのでしょう。ひとつだけ言えるのは、英霊である私ですら釘付けにする威圧感を、あの魔方陣は放っていた。つまり、ライダーが呼び出したモノとは、おそらく……」


「英霊と同格、あるいはそれ以上の神秘を纏った存在。十中八九、『幻想種』だろうな」


「ええ……」


思案顔でそう結論付けたアーチャーの言葉に頷きを返したのは、顎に手を当てたセイバーであった。
若干、身体のあちこちが汚れて埃っぽくなっているものの、負傷などはなく、五体満足そのもの。


「キャスターの件も含めれば……さて、厄介な事になった」


魔法陣が浮かび上がっていた壁は、現在風穴がぽっかりと開いている。
廊下の向こう端に同じように穴が開いている事から、魔法陣から現れた『ナニカ』と共に廊下を突っ切り、脱出を図ったものと思われる。
抉れた床に手を這わせるセイバーの表情は、真剣かつ深刻な色を帯びていた。


「ところで士郎、アンタ大丈夫?」


「まあ、なんとか……」


一方、セイバーの斜め向こう。四階教室の入口付近では、士郎が身体をさすっていた。
まるで強張りを癒すように、腕、腰、肩、両脚とあちこちを両手で丹念に揉み解している。


「まさか、石にされるとは思わなかった……凝りがひどい」


「普通は凝りじゃ済まないのよ。首元まで石化してたんだし、わたし達が来るのがほんの少しでも遅れてたら、アンタ物言わぬ石像になって一生を終えてたんだから」


「あ、ああ。その点は感謝してもしきれない。でも、石化のお陰で吹き飛ばされずに済んだし、怪我もしてない訳だしな。そこだけはライダーに」


「感謝してもいい……などと言うなよ、阿呆が。そんなものは、単なる結果論にすぎん。まったく……その緩んだ頭にはいい加減、誅を下したくなる」


アーチャーにバッサリと言い切られ、士郎は憮然とした表情となる。
なにもそこまで言わなくても、とでも言いたげだ。
しかし、アーチャーが発した次の言葉で、士郎の表情は一転した。


「第一、この一連の戦いで最も疲弊したのは、あの少年だ。身の丈に合わぬ状況に、幾度となくぶつかる事になったのだからな」


アーチャーが顎である一点を指し示す。
そこには。


「う……う~ん……」


リーゼリットに抱きかかえられ、目を回しているのび太がいた。
服があちこち擦り切れたようになっているが、目立った外傷はない。単に気絶しているだけだ。
ライダーの魔法陣が発動した際、身体の半ばまで石化していた士郎の陰にいた事で、最小限の余波を被る程度で済んだが、それでも襲い来る衝撃波を完全にやり過ごせた訳ではなかった。
圧力に押されて吹き飛ばされ、背後の壁に叩き付けられて、そのままのびてしまったのだった。


「……すまん。ちょっと舞い上がってた。考えてみれば、のび太君が一番割を喰ってたんだよな……」


「ふん……反省するだけまだマシか。だが、私に謝るのは筋違いだ」


のび太を抱え直すリーゼリットを横目に見ながら、士郎は謝罪の言葉を口にした。
横抱きに抱えられるのび太の表情は、やや苦しげに歪められている。
理由は実に単純。
ただ、呼吸がしにくくて息苦しいだけなのだ。理由は、推して知るべし。
男であれば土下座してでも代わって欲しいと思うだろう状況だが、生憎のび太はまだその点に関しては未成熟であり、しかも気を失っている状態だ。
とりあえず、呼吸困難で逝かない事を祈るばかりである。



「魔法陣による召喚術に、石化の魔眼。鎖のついた、釘のような短剣と、吸収型結界……ふぅん。なんとなく、ライダーの正体が見えてきたわね」


「とりわけ石化の魔眼は決定的だな。他はともかく、石化の魔眼が示す女性の英傑……いや、『反英雄』などまず一人しかいまい」


アーチャーの言葉に、気絶中ののび太とその寝顔をじっと観察しているリーゼリットを除いた、全員が一斉に頷いた。
ギリシャ神話に名高い、ゴルゴン三姉妹の末妹。
その美貌を妬んだとある女神の手により、凶暴凶悪な怪物へと堕とされ、最期には英雄ペルセウスに討伐された。
日本でもよく知られた、その女怪の名は。


「『メドゥーサ』……だな」


「ええ。しかし、そうなるとこれから先、彼女と刃を交える際は、難しい判断を迫られる事でしょう」


「同感だ。特に石化の魔眼への対応がな。我々英霊はともかく、マスター陣はどうしようもない」


「対症療法は……まぁ、あるんだけどね」


そう言って凛が持ち上げた右手には、時計の模様が散りばめられた布があった。
もはやお馴染みとなってしまったそれ、説明するまでもないだろう。
“タイムふろしき”だ。
校舎のあちこちに次々と現れるキャスターの骸骨兵をすべて駆逐した凛達が駆けつけた時、士郎の石化は胸元まで進行していた。
そこで、凛は咄嗟に気絶し倒れていたのび太のポケットから“スペアポケット”を取り出し、中から“タイムふろしき”を引っ張り出して士郎に被せたのだ。
焦りで表裏を取り違え、時間を進める側を被せなかったのは、僥倖だったろう。それくらい、士郎の石化の度合いはひどかった。
石化の魔眼と言えども、流石に対象の『時間』を操られてはどうしようもない。
つま先から頭の天辺まで完全に石化されていたら即死だったかも解らないが、とにもかくにも、これによって士郎とのび太は石化から脱する事が出来たのだった。


「何度言ったかも忘れたが、相変わらず、理不尽なシロモノだな。少年の道具は。とはいえ、対症療法では根本的な解決にはならん」


「そうですね。伝説のように鏡の盾で……という訳にもいかないようです。あの魔眼は、視界に収めた全てのモノに影響を及ぼすようですから」


「そうね……でも、ま、その辺はあとにしましょ。目下大事な事はそっちじゃなくて、これからどう動くかなんだから」


思案を広げるセイバーとアーチャーに、凛が冷や水をぶっかけた。
確かに、今は議論をしている場合ではない。
校舎は半壊、中にいた人間は悉く意識不明である。
素早く、適切なアクションを起こさなければ、いろいろと面倒な事になる。
凛は、ポケットから携帯電話を取り出し、そして。


「士郎。今から言う番号にかけてちょうだい」


士郎に向けて差し出した。


「は? なんでさ?」


「綺礼に後処理を頼むのよ。そのための監督役なんだし」


「いや、そうじゃなくて……なんで俺にかけさせるんだよ。自分でかければいいだろ。人の携帯なんて、そう気安くいじるモンでもなし」


「……そう、だけど……」


なぜか言葉に詰まる凛。
士郎から目を逸らし、折り畳み式の携帯電話をパカパカと忙しなく開いたり閉じたりしている。
迷っているような、自信がないような、まるで落ち着きがない素振り。
士郎は、なんとなく理解した。


「……ひょっとして、携帯、操作出来ないのか?」


「――――……、悪い?」 


プイ、とそっぽを向いて、凛は小さな声でそう呟いた。
不覚にも、ちょっと可愛いとか思ってしまった士郎であったが、そんな心境など決しておくびにも出さず。
再度携帯電話に視線を落とすと、とりあえず無言で番号をプッシュする。


「ほれ」


「……ありがと」


数回のコールの後、凛の電話が教会の物と繋がった。


「もしもし、綺礼? わたしだけど……」


凛は穂群原で戦闘があった事、その事後処理を頼みたい事を簡潔に伝える。
戦闘の経過や結果などは伝えない。そこまで言う義務はないからだ。
単にどういう損害が出ているのか、どの程度の手間が必要なのか。
渡すのは必要最低限の情報でいい。
あとは、向こうが勝手にやってくれる。


「以上よ、あとはお願い……そういえば、綺礼。アンタ、体調でも悪いの? 気分が悪そうな声しているけど……は? サバの食べ過ぎ? なによ、それ」


途中、意味不明の言葉が凛の口から漏れ、一同の首が横に傾けられる。
どうも話が変な方向へ行っているようだ。


「……まあ、いいわ。とにかく、なるべく急いでね。それから、お大事に……切れたか。切って」


「はいはい」


手渡された携帯電話の通話スイッチを切り、凛に返す士郎。
ここまで苦手なら、なんで携帯買ったんだろう……と思いもするが、藪蛇になるかもと口を閉ざす。
実に賢明である。欠点を揶揄されて、不快な気分にならない人間などまずいない。まして相手は凛である。
迂闊な一言が命取りとなる場合だってあり得る。


「さて、と。じゃ、わたしはここに残るわ」


「え、残るって……なんでさ」


「理由は二つ。ひとつは綺礼に状況を説明するため、もうひとつは、この機会に聖杯戦争の情報を得るためよ。腐っても監督役。わたし達の知らない情報を、アイツが持ってるとも限らないからね」


「ふむ、監督役にはある程度、情報が集まってくるようだからな。イレギュラーの事についても、なにかしら解るかもしれんか」


「そ。だから、アーチャーは霊体化してわたしの傍に待機しておいてちょうだい」


「了解した」


「それで、士郎はどうする? 残りたいなら、構わないけど」


「へ、あ、そうだな、俺は……」


どうしようかと、顎に手を当て考え込む。
あの神父は雰囲気からして苦手だが、聖杯戦争の情報が手に入るかもというのは魅力的だ。
凛の口振りからして、凛と自分が共闘しているというのは、向こうも薄々察しているらしい。
同席したからといって、どうなる訳でもないが、あの神父は自分に興味を持っているようだから、探り針くらいにはなるだろう。
それに、慎二の処遇も気になる。
もっと先の話になるだろうが、仮に慎二から令呪を剥奪し、保護の名目で神父に突き出した場合、どういった処置がとられるのか、士郎は知りたかった。
外道と化しても、一応まだ友人であると思っているし、桜の兄である。せめて便宜くらいは図っておきたいという意図があった。


「俺も残る」


「そう、解ったわ」


士郎の返答に頷きを返すと、凛は、今度はセイバーへと向き直った。


「それから、セイバーとリズ、あとのび太は……」


「歩いて戻ります。その方がいいでしょう」


言を遮り、セイバーが簡潔に述べた。
“どこでもドア”を使えば手っ取り早いのだが、今、この場はおそらくキャスターに監視されている。
そもそも魔術の類ではないので可能性は低いが、万が一にもひみつ道具の詳細を暴かれるのはまずい。
そのリスクを考えれば、このまま歩いて帰った方が時間は掛かるが安全である。
既に凛達が突入した際に“どこでもドア”で移動してきた瞬間を見られているだろうが、そうだとしても何度も見せてやる必要はない。


「流石ね。わたしが言うまでもなかったか」


「シロウ。不測の事態が起こった場合は、令呪で召喚を」


「あ、ああ……解った。三回を惜しむ理由も、必要もないしな」


セイバーの言葉に、士郎は躊躇う様子もなく、素直に頷きを返す。
のび太が味方にいる今、事実上、令呪を無限に使える状態だ。
一度に最大三回までの行使が限度ではあるが、もし使い切っても“タイムふろしき”を被せて使う前の状態に回帰させれば、あっという間に元通りに補充する事が出来る。
これまで令呪の運用であくせくしていた、過去のマスター陣涙目である。


「それから……リーゼリット、ノビタをこちらに」


「…………なんで?」


「そのままでは、護るまでもなくノビタが窒息死しそうです」


そのおそろしく無駄に発達したスタイルのせいで、とセイバーが言うと、リーゼリットはしゅんとした表情となった。
自分の親切心からした事が裏目に出たので、申し訳なさを感じたようだ。
若干、凛の眉根がピクリと跳ね上がったが、さもあろう。
この場にいる女性の中では、将来の可能性も含めて凛が最も「黙れ」……了解。


「私の背中に乗せてください、背負っていきます」


「……わかった。はい」


のび太の身体がセイバーの背中へと預けられる。
セイバーはそのまま、一旦腰をかがめてのび太を抱え直すと、両腕でしっかりとのび太の脚を抱え込み、背中の重みを固定した。


「うぅ……ん……」


振動に反応したのか、のび太の寝言のような声を上げる。
セイバーの肩にコテンと乗せられたのび太の顔は、血色が戻ってきていた。
腕は力なくダラリと前方に投げ出されているが、ずり落ちるなどという事は間違ってもなさそうだ。


「……なんともまあ、ノンキな寝顔してるわねぇ。なんか腹立つわ。叩き起こしてやろうかしら」


「おいおい……」


無茶苦茶な凛の台詞に、士郎が何とも言えない表情となる。
歯に衣着せぬ物言いが、らしいと言えばらしいが、厳しいようでいて、その根っこは意外に甘いところがあるのが遠坂凛である。
本気の発言ではなく、単なる愚痴のようなものであったらしく、実際に行動に移す事はなかった。


「ではシロウ、リン。我々は戻ります」


「ええ。気を付けてね」


「のび太君の事、頼むな」


「うん」


一方は残り、もう一方は帰路へ。
穂群原の校舎で行われた、騎乗兵・魔術師入り乱れての攻防は、こうして幕を閉じたのだった。















――――――確かに幕は下りた。そう、表の舞台の幕は。
だが、この聖杯戦争には『舞台裏』が存在する。
戦争に潜む黒幕の踊る、その存在のためだけの、奈落の底のように漆黒に染まった舞台が。










「お、おま、え、は……!?」




「よぉ、久しぶりだなぁ……クソガキよぉ」










その誰の認識も及ばぬ段上で。




「ああ、こうしてツラ合わせんのは、初めてだったなぁ。んじゃ、自己紹介といくか。ケケ、その右から左によく抜ける両耳かっぽじって、一言一句漏らさず脳ミソにでも刻み込んどけ。オレの名は――――――」




異邦人たる少年が、聖杯戦争の“闇”と、二度目の邂逅を果たす。







[28951] 第三十四話
Name: 青空の木陰◆c9254621 ID:90f856d7
Date: 2012/10/30 12:07





「――――よし、これで直ったハズ」

“復元光線”のトリガーを引くのを止め、ドラえもんはそう呟いた。

『ピピッ、外装復旧率、九十九.八%。現在、バックアップニヨル、データ再構築中……完了。完全ニ復旧シマシタ』

時空間に、“タイムマシン”AIの音声アナウンスが響き渡る。
ドラえもんの手によって、たった今、大破した“タイムマシン”の修理が完了した。
あのボロボロだったボディが嘘のように、まるで新品同然の光沢を放っている。
“タイムマシン”の上に立つドラえもんは、そのまま座席の上に移動して計器のチェックをしながら、

「もう大丈夫だな。みんな、降りてきていいよ~!」

引き出しの前で、“タイムマシン”の修復作業を見守っていたしずか、ジャイアン、スネ夫に声を掛けた。
すぐさま、三人が“タイムマシン”上に飛び降りてくる。
何度も“タイムマシン”に乗り込んでいるだけあって、三人とも危なげがない。

「“タイムマシン”、のび太はどうしたんだ?」
『ピピッ、時空乱流ニ巻キ込マレ、遭難ノ可能性、九十五パーセント、デス』

ジャイアンの質問に、“タイムマシン”は簡潔に答えた。
これで、のび太が“タイムマシン”で事故に遭った事が確定した。
全員の表情が真剣味を帯び、引き締められてくる。

「やっぱりそうだったか……まったくもう、どうしてのび太くんは毎回毎回……“タイムマシン”。その時の状況って、解る?」
『ピピッ、音声データガ残ッテイマス。再生シマスカ?』
「お願い」

ドラえもんからの指示を受け、しばらくして“タイムマシン”のスピーカーからのび太の声が聞こえてきた。



『ねえタイムマシン。あとどのくらいで着くの?』
『――――え、え!? タイムマシン、どうしたの!?』

鼻歌交じりの時空間航海の最中、AIから突如発せられた、時空乱流到来のアナウンス。

『な、なんだってーーーっ!!!?』

甲高く響き渡る絶叫。
裏返った声からは、焦燥と恐怖が如実に滲みだしていた。

『冗談じゃない! どっちにしろ元の時間に戻れないって事じゃないか! ねえ、何とかならないの!?』
『うわーーーん! ドラえもーーーーーん!!!』

悲鳴と轟音、そしてガタガタと何かが揺さぶられるような、異音が混じる。
時空乱流に突入したのだ。

『ううううぅぅぅ……もう、ダメだあああぁぁっ!!! うわああああああぁぁぁーーーーーーーっ!!!!』

“タイムマシン”から引っぺがされたのび太の悲鳴を最後に、音声データは途切れた。



「「「「…………」」」」

四人に声はなく、ただただその場に呆然となって固まっている。
衝撃と、心を塗りつぶされそうな、真っ黒な不安。
去来する精神的激動が、声帯を麻痺させていた。
しずかなどは、今にも泣き出してしまいそうなほどに、瞳を潤ませている。

「……ねえ、ドラえもん。これって、相当マズいんじゃ……」
「……うん」

震えの混じったスネ夫の声に、ドラえもんは生返事を返すのみ。
その視線は、眼前に広がる時空間をじっと見据えている。

「ねえ、“タイムマシン”。のび太くんが行き先に指定していた時代と年号、それと場所は?」
『ピピッ、メインモニターニ投射シマス』

AIからの返答と共に、シートに鎮座するドラえもんの眼下にあるモニターに、時代と年号のデータが映し出された。

「イギリス……か。しかも、この年代という事は……のび太くん、本気だったんだね……はぁ」

ドラえもんの口から軽い溜息が漏れる。
物にもよるが、ちょっとした事ですぐムキになるのは、のび太の悪いクセだ。
今回の一件は、ドラえもんの注意不足も原因ではあるが、のび太のその悪癖が顔を出したせいでもある。

「とにかく、急がないとマズい。時間が経てば経つほど、探せなくなっちゃう。まずは、座標……“タイムマシン”」
『ピピッ』
「時空乱流に遭遇した時の、座標データを出して」
『ピピッ、メインモニターニ投射シマス』

再度、メインモニターに情報が映し出される。
ドラえもんは、そのデータを頭に落とし込むように頷きながら、自分の腹の“四次元ポケット”に手を突っ込む。

「ドラちゃん……どうするの?」
「まず時空乱流に巻き込まれた現場を特定して、そこにある空間のひずみを見つけ出さなきゃいけない」
「空間のひずみ? なんだよ、それ」
「うん。亀裂とか歪みって言い換えてもいいけど、時空乱流が発生したところには、そういうモノが偶に生まれるんだ。時空乱流に巻き込まれた人が、別の次元に放り出されるって事は、そのひずみに吸い込まれちゃったって事なんだよ」
「って事は……」
「亜空間を漂ってるにしろ、ひずみに飲まれてどこか別の場所に落ちたにしろ、手掛かりは現場にあるはずなんだ。とにかく、そこを徹底的に調べてみよう」

そう言ってドラえもんがポケットから取り出したのは、心電図計にアドバルーンが付いたような機械。
“時空震カウンター”、時空間の中を調査する道具である。
七万年前の日本から、時空乱流に巻き込まれて現代に流れ着いた少年、ククルの調査の際にもこれを使っている。

「入力した指定座標に向かって……これを飛ばす。行けっ」

アドバルーンを掴み上げ、ドラえもんは前方の暗闇目掛けて思い切り放り投げた。
勢いよく飛び出したアドバルーンは、そのままフワフワと、川を流れるサッカーボールのように漂い、闇の中へと消えていく。
アドバルーンは観測機器であると同時に、ドラえもんの手元にある機械で操作が可能な端末である。座標入力は済んでいるので、放っておけば、自動的に指定座標まで飛んでいってくれる。

「さて……届くまで、もうちょっとかかるかな。こっちから操作してスピードを上げよう」
「のび太さん、無事かしら……」
「大丈夫だって、きっとよ! ああ見えてのび太は、かなりしぶといからな!」
「だといいんだけどね……」

そんなこんなで、思い思いに語る事しばし。
今まで一定の波形しか示していなかった“時空震カウンター”のモニターに、突如変化が起こった。
ノイズ音の混ざったラジオのように、ジリジリジリジリと妙な音を立てながらの急激な縦波の波形パターン。
どうやら、指定座標にアドバルーンが辿り着いたようだ。

「ここだ! やっぱり、次元の乱れがひどい……もっと詳しく調べてみよう」

ドラえもんは、カチャカチャと計器を忙しなくいじり続ける。
モニター画面が明滅を繰り返し、しずか達にはなんだかよく解らない数式や文字列が次々と下から映し出されては、上にスクロールして消えていく。
意味が解るのはドラえもんと、“タイムマシン”のAIくらいである。

「……あれ?」

と、その時唐突にドラえもんが疑問の声を上げた。

「どうした、ドラえもん?」
「いや、なんか……生命反応があるんだ」

そう言って、ドラえもんが計器を指差す。
三人が画面を覗き込むと、黄緑一色の人形のようなモノが映し出されており、その周囲に、注釈のようなデータがいくつも表示されていた。
時空間に、人が漂っているのである。

「生命反応って、もしかしてのび太さん!?」
「ううん、違うと思う。のび太くんよりもっと、身体が大きい……たぶん、大人の人だ」
「大人? っつー事は、この人も、時空乱流に巻き込まれたってえのか?」
「たぶん、そうなんじゃないの? ドラえもん、その人、どんな人なの? ケガとかしてないの?」
「ちょっと待って……え!?」
「な、なんだ、どうしたドラえもん!?」

スネ夫の言葉に、対象のバイタルデータを抽出したドラえもんは、そのあまりの内容に絶句する。
対象のバイタルは危険の水準を大幅に下回っており、かなり衰弱しているというデータが示されたからだ。
特に循環器系が弱り切っており、早く手当てしなければ命が危ない。
だが、それ以上に、この対象には、明らかに異様な部分が見て取れた。
ゴクリと咽喉を鳴らしたドラえもんが、そっと計器のスイッチを押す。
その途端、画面の人形が、バイタルデータと注釈はそのままに、アドバルーンが捉えている実際のモノへと切り替わった。

「「…………!?」」
「イ、イヤッ!?」

ビクッ、と硬直するジャイアンとスネ夫。
しずかは反射的に目を覆って顔を逸らした。
正直な話、小学生には刺激が強すぎる。たとえ大人であっても、眼を背けたくなるだろう。
それほどまでに、対象の状態は悲惨なものであった。

「……女の、人、だよな。スネ夫」
「う、うん。……でも、腕が……」

濃い茶色のスーツは、擦り切れたように薄汚れ。
ワインレッドの髪の毛は、バサバサに乱れている。
欧州系の整った、中性的な顔からは、血の気が失せており、白磁の肌がより蒼白に染め上げられている。
何より、彼女の片腕は……引き千切られたかのように肩口からなくなっており、そこから夥しい血潮が噴き出していた。

「と、とにかく、早く助けないと……!」

固まる三人を尻目に、どうにかひとり冷静さを失わなかったドラえもんは、その女性を救助するべく、再度“四次元ポケット”に手を入れるのであった……。










――――気が付くと、そこは一面の黒の世界だった。

「……ど、どこなんだ、ここ」

闇の中に、不安に満ちた声が木霊する。
東西南北上下左右、闇、闇、闇の真っ暗闇。一寸先すら見えやしない。
どこが上で、どこが下なのかも解らない。星も、太陽も、塵の一粒すらない宇宙のブラックホールに放り込まれたような気分だ。
自分が立っているのは辛うじて感じ取れる。しかし、一歩でも踏み出そうとすれば、漆黒よりもなお暗い暗黒に飲まれそうで動けない。
闇は、人間を孤独にさせ、絶望の色に染め上げる。
何も見えない、何も聞こえない。解るのは、自分の身体の存在と、心臓の音。そして不安と焦燥に押し潰されそうな、己の心。

「だ、誰かーーーー! 誰かいませんかーーーー!」

精一杯に声を張り上げるも、返事など返ってくるはずもなく。
声も、残響を残す間もなく虚空に掻き消され、すぐさま元の静けさが戻ってくる。
耳が痛くなるほどの静寂。これほど心を黒く塗りつぶすものもない。

「誰か、誰か……誰もいないのーーーー!? ねえ、ねえってばーーーー!!」

足元から血の気が引いていく。
どれだけ声を枯らそうとも、誰にも届かない、聞こえない、孤独。
底なしの恐怖が、じわじわとのび太を侵食していく。

「セイバー! 士郎さん、凛さんアーチャーさんリズさん……! ドラえもぉおおおおーーーーーーーーん!!」

ついに、のび太の限界を超え、親友の名が虚空に消え去った、その瞬間。



「――――るっせぇなぁ。ちったあ、静かにしやがれよ。肝っ玉の小せえヤツだぜ、相変わらずよ」



背後から、そんな声がした。
どこかで聞き覚えのある声。いつ聞いたのかまでは、咄嗟に思い出せないが。
条件反射で、のび太はサッと背後に振り返る。

「だ、誰だ!?」

だが次の瞬間、反射的にすぐさま両手で目を覆い隠した。
のび太の目の前で、真っ白な光が炸裂したのだ。

「うわっ!?」

視界が塗りつぶされ、瞼の上からでも眩しく感じるほどの光が、のび太の身体を白に照らし上げる。
だが、これだけ強い光であるにも拘らず、本来なら肌に感じる筈の熱は感じられない。
そんな正体不明の輝きが次第に鳴りを潜め、おそるおそる翳していた手を降ろすと、

「……な、なんだ、ここ!?」

のび太は、大空洞の中に立っていた。
山の中をドーム状にくり抜いたような、高さも奥行きもある広い空間。
足元にも地面が現れており、のび太の足は大地にぴったりと張り付いていた。
洞窟内を反響する、人の唸り声のような風の音が、耳をざわつかせる。
奥の方には、小高い山とも呼べそうな丘が、壁のように聳え立っており、その平らな天辺部分が煌々と、夕日のように仄暗く、淡い光を放っていた。

「すごい……」
「別にすごかねえよ。こんな、クサれた魔術師どもの産業廃棄物なんざ」

またもあの声が響く。
聞く者を不愉快な気分にさせる、毒の散りばめられた声音。

「にしても、しぶといねオマエも。てっきり最初のバーサーカーとの戦いで、挽き肉になってるモンだと思ってたけどよ」
「――――え!?」

その言葉が、のび太の記憶を揺さぶった。
初めて敵と対峙し、恐怖に負けて逃げ出してしまったあの夜。
蹲り、ベソを掻いていた自分を、心底バカにするように辛辣な言葉を投げかけてきた、姿なき者。
間違いない。

「ひょっとして、あの時の……!」
「ご名答」

今度の声は、のび太のすぐ近くから。
バッ、と反射的にのび太がそちらを振り返ると。

「お、おま、え、は……!」
「よぉ、久しぶりだなぁ……クソガキよぉ」

全身に黒い、不気味な幾何学模様の刺青(タトゥー)を刻み込んだ、黒髪の青年だった。

「……ぅ……ぁ!?」

パクパクとのび太の口が動くが、声帯が役目を放棄したかのように言葉が出てこない。
血で染めたような、赤い腰巻とハチマキ。
両腕の三の腕から手の甲まで、両足の足首から足の半ばまでに巻きつけた、これまた真っ赤な布切れ。
身体に身に着けた全てが赤で統一され、それ以外はすべて黒。
髪の毛、刺青、瞳。そのいずれもが、漆黒よりもなお黒い、暗黒。
星も月もない夜空でも、ここまでの黒には染まらないだろう。肌の色も、全身を覆う刺青のような黒い紋様に塗りつぶされ、よく見えないと来ている。
だが、その異様な風体よりも、のび太を混乱に陥れたものがある。

「ああ、こうしてツラ合わせんのは、初めてだったなぁ。んじゃ、自己紹介といくか」

それは、顔だ。

「曲がりなりにも、ここまで生き延びてこれたテメエに敬意を表し……」

瞳の色や、髪の色など、細かな差異こそあれ。
のび太の目の前にいる人物の容貌は、のび太のよく知る人物のものと瓜二つと言っていいほどに酷似していた。
脳天に雷を落とされたような、不意打ち以上の衝撃。いつしか、のび太の身体が、小刻みに震え始めていた。

「ケケ、その右から左によく抜ける両耳かっぽじって、一言一句漏らさず脳ミソにでも刻み込んどけ。オレの名は――――――」

異形の口が動く。
半月状に吊り上げられた口元が、さらにサディスティックに歪む。



「――――『アンリ・マユ』だ」



見る者すべてに怖気を振りまく、底の見えない嗤い顔。
“衛宮士郎”に似たナニカは、そう自らの名を口にした。










「あ……、安里真由(あんりまゆ)?」
「――――って、おい。オマエ、今ヘンな字あてやがっただろ。勝手にオレを女にすんじゃねえ」

台無しだろうが、とアンリ・マユと名乗ったナニカは脱力したように気の抜けた声を上げ、額を押さえて大仰に天を仰ぐ。
その様子に、のび太は、なんと言っていいのか解らず、ただ、口をあうあうと動かすばかり。

「まぁ……条件次第じゃ、なれねえこたぁねえんだがな」
「……は、え?」
「チッ、なんでもねえよ。……さて、クソガキ。どうやら、思い出したみてえだな。以前、オレと会った事を」
「…………う、うん。バーサーカーと戦ったあの晩、僕をバカにして、“スペアポケット”を放り投げてきた……。でも、あの時は……」
「ああ、姿を見せなかったな。で……だ。実際に目にしたオレの姿はどうよ?」

バッ、と両腕を広げて、自らの存在を誇示するアンリ・マユ。
その顔に浮かぶは薄ら嗤い。柔和とは正反対のそれは、理由もなく根源的な恐怖を煽ってくる。
足元に、影のように纏わせている黒い靄。見ているだけで眩暈がしそうなほど、濃密に凝縮された瘴気がそこにある。
全身のタトゥーからは、重油に塗れた汚泥のような嫌悪感を感じる。刺すような憎悪すら、飛び込んできそうだ。

「……どうして、士郎さんと同じ姿を、してるんだよ。お、お前は士郎さんじゃない。でも、なんで……!?」

そんな人間の道理から完全に外れているようなヤツが、士郎である訳がない。付き合いのあるのび太には、いや、のび太でなくたって、すぐにそれが解るだろう。
しかし、アンリ・マユは士郎と同一人物か、あるいは双子かと見紛うほどに、似通いすぎていた。
繋がりの可能性を切って捨てられないのも、ある意味当然だ。

「――――クヒッ、クヒヒヒヒヒヒ……ヒヒヒハッ、ヒィイアアハハハッハハハハハハハハハッ!!!」

と、突然、気が狂ったかのような高嗤いが辺りに木霊した。
ビクッ、とのび太が萎縮するが、無理もない。
アンリ・マユの嗤い声は、どこからどう聞いても頭のイカれた、狂人のそれと変わりない。
耐性のない人間には、心臓を鷲掴みされるような錯覚すら、覚えるかもしれない。

「ハハッハァハハ……あぁ、予想通りだ。こうも予想通りだと、呆れを通り越して嗤っちまわぁ」
「……ど、どういう意味だよ」
「はん、テメエが単純ってコトよ。さて、質問の答えだが……オレはな、誰かの存在を借りねえと、実在出来ねえ存在なんだよ。この姿は、いわば『着ぐるみ』だな」
「着、ぐるみ?」
「『0』って数字は、『1』という数字があって初めて“存在する”事になる。だからオレは、『1』って皮を被らなきゃ……って、これじゃ解んねえか。そのスッカスカなオツムじゃあ、な」
「むっ」

思わず反論したくなったのび太だったが、まさに図星。
のび太のスポンジ頭は、アンリ・マユの言葉の真意を汲み取る事なく、逆にあっさりと底から染み出してしまっていた。

「ケケ。ま、とりあえず、あの未熟モンの姿をしてなきゃいけねえ事情がある、って事で納得しとけ。身体がなきゃあ、陰でコソコソすら出来ねえんだしよ」
「陰でコソコソ?」

その言葉が、のび太にある光景を思い出させた。
思い起こすのは、今際の際の、バーサーカーの遺言めいたこの言葉。
すなわち、『聖杯戦争には、“闇”が潜んでいる』。
“闇”、言い換えれば『黒幕』だ。
黒幕の仕事は、誰にも気づかれる事なく、自分の有利になるように陰で細工を行う事。
そして、のび太の目の前にいる存在。
明らかに人間ではない。サーヴァントと言った方が、むしろその実態に近いかもしれない。

「……まさか」

カチリ、カチリと。パズルのピースがはまり込んでいくように。
のび太の中で、奇妙な確信が芽生えた。

「お前が……“闇”、なのか?」

声に出した途端、のび太はひぐぅっ、と息を呑んだ。
アンリ・マユが、見る者を完全に呑み込まんばかりの、凄絶な、いや凄惨な嗤い顔となったからだ。
口元は、これ以上ない三日月状。滲み出る瘴気が、盛大にざわめいている。

「ああ、や~っと気づきやがったか。このスカタンが。こんだけアヤシイヤツがいて、そっちの可能性に思い当たらなかったのが不思議でしょうがねえよ。もっとも、ある意味、オレのせいでもあるかもな」
「え……」
「ヘンだと思わなかったか? オレの存在を、テメエの仲間に話すのは止めた方がいいって考えちまうのをよ。あり得ねえだろ、フツー」
「――――あ!」

ハッとする。
のび太には思い至る事があった。
今朝、セイバーに、“闇”について心当たりはないかと尋ねられた時の事だ。
質問をぶつけられた際、のび太の頭の中に、ふとこの男の事が浮かんだ。
だが、のび太はどういう訳か、それを告げるのはまずいと思って、結局口に出す事はなかった。
今、思い返すと、あれはどう考えてもおかしい。
姿も見せず、声だけで干渉しようとしてくるようなヤツなど、怪しい事この上ない。
確証などはなかったが、心当たりはありありだった。そして、容疑者の情報は貴重である。
どうして、自分の胸ひとつに収めておこうなどと考えてしまったのか。

「答えは単純、オレがそう仕向けたからさ。あん時に、ちょっとした暗示を掛けてな。オレの存在を知っていいのは、今んトコテメエひとりだけだ。まあ、自分で勝手に調べる分にゃあ、関知しねえが……」

それが出来るならの話だがな、とアンリ・マユは嘯(うそぶ)いた。

「…………!?」

ハンマーで殴られたかのような衝撃。開いた口が塞がらない。
いかに自分が凡人の中の凡人とはいえ、あの二分にも満たない邂逅の間に、自分に悟られる事もなく、あっさりと完全な暗示をかけてのける。
しかも、バーサーカーの話からすれば、バーサーカーをマフーガにしたのも、このアンリ・マユの仕業だという。
のび太の中の警鐘が、今更ながらにレッドアラートの最大レベルで鳴り響く。
口内と咽喉がカラカラに乾き、手足が小刻みに震え出す。

「な、なんで……なんで、僕だけが?」
「テメエがハデに動けば動くほど、この舞台に波紋が広がるからさ。そうなりゃ、それだけ『世界』の隙も生まれる。その方が、オレにとっちゃあ都合がいいワケ。この世界の異物であるテメエは、いわば『小石』だ。文字通り、『聖杯』に投げ込まれた、な」
「文字通り、って……」
「コトバ通りだ。テメエがこの世界に紛れ込んだ時、最初に突っ込んだのが『聖杯』ん中だったんだよ」
「え……――――ええええ!?」

次々飛び出してくる、予想を飛び越えた真実に、もはや二の句も告げられず、のび太はただただ驚愕の坩堝でのたうつばかり。
嘘を言っている可能性もないではなかったが、おそらくアンリ・マユの言葉には嘘がない。
なぜ、と言われれば、なんとなく、としか答えられないだろうが。
そんなのび太の様子にもお構いなしに、アンリ・マユは澱みなく言葉を並べ続ける。

「そうでもなきゃあ、“竜の因子”なんて目覚めるわきゃあねえだろ。因子自体、元々持ってたっつっても、ほとんど死んだも同然だったんだぜ? テメエが聖杯に落っこちてきたところに、オレがちょこっとテコ入れして、目覚めのお膳立てをしてやったんだよ」
「そ、そんな……! いや、でも……!?」

疑問がどんどん、それこそ収拾がつかない程に溢れ出してくる。
グチャグチャに掻き乱される、頭の中。
先生から課された、どんなに難解な宿題にも、ここまで疑問符を乱舞させた事はない。
ただ、津波のように押し寄せる衝撃と怪奇に、あらかたの恐怖心が流されていってしまっているのが不幸中の幸いではある。
思考の迷宮で、謎の海に溺れるのび太に出来るのは、

「わからない……わからないよ。お前は……いったい、なんなんだよ。聖杯って……――――聖杯戦争って、いったいなんなんだよ!?」

込み上げてくる、形にならない衝動のような問いをただ、アンリ・マユにぶつける事だけだった。

「脳ミソ立ち腐れた魔術師共が作り上げた、サーヴァントを使った生贄の儀式。それが聖杯戦争の真の姿さ」

それも、アンリ・マユにとっては織り込み済みだった……いや。

「くだらねえ……実にくだらねえ話なのさ、これが。いいぜ、クソガキ。知りたいんだったら、教えてやらあ。掛け値なしの真実をよ。時間は、まあそれなりにあるこったしな。ケケケケ……耳の穴かっぽじって、よぉく聞いとけ」

むしろ好都合だったようで。
軽く嗤い声を上げると、暗い愉悦を含んだ声音で、さながら教壇に立つ教師のように語り始めた。

「今からざっと数えて二百年ほど昔、この聖杯戦争の原形が作られた。作ったのは、所謂『始まりの御三家』と呼ばれる一族。すなわちアインツベルン、遠坂、そしてマキリ」
「マ、マキリ……?」
「マキリっつうのは外国から日本に移住した魔術師の一族でな。日本に居ついた際、日本風に名を変えて、間桐(まとう)って名乗るようにしたんだよ」
「間桐? え、それじゃあ、まさか!?」
「そう。間桐ワカメ……じゃねえ、間桐慎二のご先祖様だ。つっても、つい最近まで生存してたんだがな。間桐臓硯……本名、マキリ・ゾォルケンって名前なんだが、コイツ、魔術の力で五百年、生き永らえてやがったのよ」
「五百年!?」
「まあ、もうこの世から退場しちまったけども――――っとと、話が逸れちまった」

あんな蟲ジジイなんざどうでもいいんだよ、と髪の毛を乱雑に掻き毟り、アンリ・マユは溜息を漏らす。

「続けるぜ。聖杯戦争を作り上げるにおいて、アインツベルン、遠坂、マキリはそれぞれ役割を受け持った。アインツベルンは降臨する聖杯の器を、遠坂は聖杯降臨のための土地を、マキリはサーヴァントや令呪のシステムを、それぞれ提供する事になった。そこまではいいんだが……」
「……だ、だが?」
「この『聖杯戦争』っつう名前はな。この六十年後に付けられた、いわば『隠れ蓑』なんだよ」
「へ……な、なにそれ?」
「最初に言ったろ。『サーヴァントを使った生贄の儀式。それが聖杯戦争の真の姿』ってよ」

肩を竦め、冷めきった表情で、アンリマユは首を横に振る。
呆れや侮蔑を通り越して、いっそ滑稽だとても言わんばかりだ。

「魔術師は、一部の例外を除いて、この『世界』の外側にある『根源』っつうモノに至る事を目指している。『根源』がなんなのかってえのは……ケケケ、言ってもテメエにゃ大して意味がねえな。どうしても詳しく知りたかったら、あとでツインテールの赤い小娘にでも聞くこった。とりあえず、魔術師がどれだけ努力しても、永遠に辿り着く事の出来ない場所だって事で納得しとけ。実際、それで間違いねえしな」
「…………う、ん。それで?」
「御三家の人間はな、『根源』に至るために英霊を利用する事を思いついたのさ。『根源』と同じく、この『世界』の外側にゃ、『英霊の座』ってのがあってな。サーヴァントに代表されるような、この世に現れる英霊は、この『英霊の座』からコピーされた一種の『分身』のようなモンなのよ。ある一定の条件を満たすと、この分身が『世界』の壁を越えて、この世に現れる訳さ。で、分身が役目を終える、または死ぬ時、肉体はこの世で滅びるが、その魂は『世界』の壁を越えて、再び『英霊の座』に戻っていく。……ここまで聞けば、なんかピンと来ねえか?」

意味深な、しかしどこか人を小馬鹿にしたような表情のアンリ・マユ。
水を向けられたのび太だが、すぐに答えられる訳もなく。

「……ん、ん~、っと……?」

腕を組み、首を捻って、その場でしばしの思索に耽る。
混乱と驚愕の連続で感覚が麻痺しているせいもあるだろうが、聖杯戦争を裏から操る黒幕を前にして、ここまで沈思黙考出来るというのもある意味、驚嘆に値する。

(生贄の儀式、って言ってたよな……で、『世界』の外側にある『根源』と『英霊の座』……えーと、つまりサーヴァントとして英霊を呼び出す事で、壁を越えて『根源』に辿り着ける?)

キーワードを羅列し、どれをどうすれば繋がりを持たせられるのか、片っ端から試行錯誤を繰り返す。
ああでもない、こうでもないと、連想ゲームのように論理の骨子を単純かつ大胆に組み上げ。

(……いや、違う。逆だ。『根源』に辿り着くために、英霊……サーヴァントが必要なんだ。で、英霊が死んだ時、魂は『座』に戻る訳で…………ん?)

ぐるりと発想をひっくり返して、違う視点から見つめ直す。

(死ぬ……生贄……儀式……聖杯、サーヴァン、トは…………、ッ!?)

そして、のび太は。

「も、もしかして……!」
「――――ヒヒッ」

答えに、辿り着いた。

「おおよそ、テメエの想像通りだ。死した七騎のサーヴァントの魂。それらが『英霊の座』に還る性質を利用して強引に『世界』の壁をぶち破り、一気に『根源』へと辿り着く。そのための装置が聖杯であり、令呪であり、サーヴァントってワケさ」

クツクツ、と低く嗤うアンリ・マユ。
知らず、干上がりかけていたのび太の咽喉が、ゴクリと音を鳴らした。

「じゃ、じゃあ、令呪ってひょっとして……元々、サーヴァントを殺すためのもの……?」
「おお、ご明察。本来、人間の手には負えない存在である英霊を、サーヴァントっていう枠に押し込め、問答無用で自殺するように令呪で命令する。そうしてサーヴァントが死ぬ事で、最終的に聖杯が完成するって寸法さ。サーヴァントが最後の一人となった時に、聖杯が現れるんじゃねえ。サーヴァントが死んでいく度に、その魂を材料として一歩、一歩と聖杯が作られていくんだよ」
「そんな……! で、でも、聖杯って願いを叶えるモノなんだろ!? それはどうなるんだよ!」
「あー。ありゃあ、言ってみればキャラメルについてるオモチャみてえなモンだ。つまり、単なるオマケだよ。オ・マ・ケ。死んだ英霊の魂ってのは、何にも染まってない、無色透明でベラボーな量の魔力の塊でもあるんだぜ。しかもそれが七つだ。人間や英霊が望む願い事くらいは、『世界』の壁に風穴開けた、その魔力の余り分だけでも十分なのさ。まあ、基本的にどんな願いでも、計るのもバカらしいくらいの魔力でゴリ押し出来るって考えていいぜ」
「な、なんだよそれ……」
「ちなみに、単に願いを叶えるだけなら、サーヴァントを全部つぎ込む必要はねえ。英霊の格にもよるが、五体とか六体でも聖杯は、一応現れる。サーヴァントとして呼び出される英霊は、大半がその願いを叶えるっつーオマケにつられて、ホイホイ召喚に応じるんだよ。自分の魂が、聖杯の糧にされる事も知らずにな。テメエの大好きなアーサー王なんかは、そのクチだ。生前から、部下に聖杯を探させてたくらいだからな」

それはのび太も知っている。
アーサー王は、ヨーロッパ各地を支配下に置く傍ら、配下の騎士に聖杯探索を行わせていた。
しかし、結局聖杯は見つからず、ヨーロッパ全土を平定した直後に起こった、息子モードレットの反乱、『カムランの戦い』で国も騎士も民もすべて失い、アーサー王の命は尽きてしまった。
セイバーがこの聖杯戦争に参戦しているのは、裏を返せば死してなお、聖杯を手にする事を強く望んでいるという証左でもある。
だが、真実を耳にした今となっては、なんだか裏切りを働いたような感じで、いたたまれなくなってしまう。
そこまでして、叶えたい願いというのはなんなのか解らない事も、それに一層の拍車を掛ける。

「聖杯は、厳密にはふたつあってな。ひとつは『小聖杯』。願いを叶え、『根源』への道を作る聖杯。一般的に“聖杯”って言われてんのはこれだな。アインツベルンが準備する『器』に、サーヴァントの魂が注ぎ込まれる事で完成する。そして、もうひとつが『大聖杯』。サーヴァントや令呪のシステムをコントロールしてる聖杯だ」

のび太の葛藤を余所に、アンリ・マユの語りは続く。
自分の意思とは無関係に、のび太の耳は一言一句も漏らす事なく、アンリ・マユの言葉をどんどんと頭に刻み込んでいく。

「この『大聖杯』は、冬木の霊脈から流れ込んでくる魔力を使って動いている。オレの後ろにある、ぼんやり光ってるヤツがそれだ」

振り返ろうともせず、半ば投げやりに、親指で背後を指し示すアンリ・マユ。
淡い光を放っていた丘の天辺が、僅かに強い光を放つ。

「まあ、そんなこんなで、準備を整えた御三家は、早速生贄の儀式に取り掛かった。――――ところが、だ」

再び、アンリ・マユの表情がサディスティックに歪む。

「サーヴァントを呼び出した途端、御三家の連中は、互いに殺し合いを始めやがったのよ」
「こ、殺し合いって……」
「『根源』に至るのは我々だ、願いを叶えるのは私だ、ってな。とにかく、聖杯を独り占めしようと躍起になって、それぞれがそれぞれにサーヴァントをけしかけたのさ。で、結果は全滅。マスターもサーヴァントも、み~んなおっ死んじまって、結局聖杯は現れず。全部おじゃんで、はい終了、と」

ボン、と右手で物が弾けるジェスチャーを交え、ケタケタ嗤うアンリ・マユ。
のび太の咽喉から、なんとも言えない、乾いた呻き声が漏れる。

「これじゃいくらなんでもマズい、っつー事で、六十年後の第二回目からは、テメエらがよく知ってる『聖杯戦争』のルールが作られ、それに則って儀式が行われた。監督役なんかの御三家以外の魔術師も絡みだしたから、本来の目的のカモフラージュも兼ねてな。そうでもしなけりゃ、魔術協会や聖堂教会に『根源』への可能性を嗅ぎ付けられちまう。そしたら『トンビにあぶらげ浚われる』結果が待ってんのは、目に見えてっからなぁ」

やれやれと首を振った拍子に、アンリ・マユの髪の毛がザワザワと音を立てる。
おそらく、触ればやたら硬質な手応えがするだろう。

「裏切りだ、仲間割れだ、反則召喚だと、まあ、色々あって、二回目、三回目と聖杯は完成しなかった。で、今から十年前の第四次聖杯戦争で、ようやく聖杯が姿を現した」
「……十年前?」

ふと、のび太の記憶に引っ掛かるものがあった。
以前セイバーが言っていた、士郎の義父でイリヤスフィールの実父である衛宮切嗣が、現れた聖杯をセイバーに破壊させたという話を思い出したのだ。
どうすべきか一瞬迷ったが、口は勝手に言葉を作り出していた。

「でも……壊されたんだろ、士郎さんのお義父さんに。そもそもなんで壊しちゃったんだよ。お前、なんか知ってるんだろう」
「まあな」

不敵な嗤い顔を崩さぬまま、アンリ・マユはそれだけを口にした。

「知りてえか?」
「…………!」

キッ、とのび太の目が、アンリ・マユを睨みつける。
そんなの当たり前だ、と視線が激しく訴えている。
だが、そんなものにアンリ・マユがたじろぐ訳もなく。

「おいおい、んな必死なカオしてんじゃねーって。誰も教えねえたあ、言ってねえだろ」

鼻で嗤ってあっさりと受け流し、

「ま、簡単に言やあ、聖杯は『破壊』に関する事のみ、正確に願いを叶える性質(タチ)になっちまってるのさ」

なんでもない事のように、爆弾を放り投げた。

「え……ど、どういう意味さ?」
「第三次聖杯戦争で、『大聖杯』にちいとばかり『事故』が発生してな。それを放置しっ放しだったから、聖杯の機能が一部狂っちまったのよ。願いを『破壊』の形で実現するように、ベクトルがずれて固定されちまったのさ」
「べ、ベク……? う、う~んと……えと、『破壊の形』って……いったい、どんな?」
「ん? あ~、例えば『誰かに勝ちたい』って願いだった場合、その誰かを殺すという形で願いを叶える。あるいは『世界を征服したい』とかだったら……自分に刃向うヤツら全員を抹殺しちまうかな、たぶん」
「…………な、んだって!?」

足元が、音を立てて崩れるような感覚に襲われる。
そんな不良品(モノ)、断じて聖杯などとは呼べない。
非常に効率のいい、ただの殺人マシーンではないか。
声もなく、のび太は、その場に呆然と立ち竦む。

「十年前に聖杯が顕れた時は、勝ち残った最後の二騎……セイバー、アーチャーの戦いの真っ最中だった。で、事もあろうにアーチャーのマスターが、無意識のうちにこんな事を願っちまった。『いっそ目の前の敵が、居なくなってしまえばいい』ってな。その願いに反応した聖杯が、そこに住んでいた人間を悉く焼き尽くした」

凄惨な内容にも拘らず、アンリ・マユの口調は毛ほども乱れない。
むしろ、調子がいいようにさえ感じられる。

「セイバーのマスターは、聖杯戦争の中で知っちまったんだよ。聖杯がそういうモンに変わってるって事をな。だからセイバーに聖杯の破壊を命じた。一歩遅かったけどな。気がついたら、辺り一面火の海だ。ケケ、そりゃアセったろうぜ。『この世から争いをなくしたい』……なぁ~んて青臭ぇ誇大妄想ひきずってたヤツが、間接的とはいえ、周囲の無関係な人間皆殺しにしてんだからよ。生きてるヤツがいるかさえアヤしい状況の中、必死に走り回って、奇跡的にひとりだけ生き残ったガキを見つけた。それが……このカオのオリジナルってワケさ」

片目を閉じて、アンリ・マユは、自分の顔を指差した。
オリジナル、つまりは士郎、という事なのだろう。
示された真実の断片が繋ぎ合わされ、のび太の頭脳は、ようやく相手の言わんとする事のすべてを受け入れた。
だが、それは同時に重い絶望となって、のび太の心に容赦なく襲い掛かってくる。

「そんな……じゃあ、もう願いは……!? なんだよそれ!」

自分達は、いったいなんのために殺し合いなどやっているのか。
膝から崩れ落ち、蹲ったのび太の悲痛な叫びが、大空洞に木霊する。
サーヴァントは、聖杯を作るためのただの生贄として呼び出され。
マスターは、サーヴァントをこの世に定着させるためのパーツ以上の価値はない。
しかもすべての敵を蹴落とし、聖杯を目の前に顕す事が出来たとしても、叶えられるのは誰かの『死』だけ。
これでは誰も報われず、救いも何も齎さない。
『根源』へ至るという当初の目的も、時の彼方に置き去りにされ、聖杯が狂った今となっては、仮に実行しても達成出来るか怪しいものだ。
もはやこの戦争は、惨劇を生み出すだけの茶番劇へと成り下がっている。
悔しさ、哀しみ、怒り、諦念。
それらの入り混じった拳を、感情のままに地面に叩き付けんと、のび太は拳を振り上げ。

「――――で、本題はこっからだ」

アンリ・マユの次なる言葉が、のび太の八つ当たりを挫いた。

「オレがこいつをなんとか出来るっつったら……どうする?」

ギシリ、と硬直するのび太の身体。
俯いていた視線が、ゆるゆると持ち上がっていく。
そこには、腕組みをしたアンリ・マユがニヤニヤと、相変わらずの嗜虐心溢れた嗤い顔で見下ろしている。

「……出来る、の?」
「ああ」
「ほん、とうに?」
「ああ」

泰然と肯定するアンリ・マユ。
嘘や虚勢ではない、本物の自信に満ちた声音だった。
――――だからこそ、解せない。

「…………なんで」
「あん?」
「なんで、そんな事……出来るんだよ」
「そりゃ、企業秘密。ただ言えるのは、出来もしねえ事を胸張って言えるほど、オレの神経は図太くねえって事だな。ケケケケ」

いったいどの口が言うのか、と突っ込まれんばかりの事をのたまいつつ、アンリ・マユはケラケラと嗤う。
その瞬間、弾かれたようにのび太が立ち上がった。

「お前……お前、いったいなにがしたいんだよ! 僕をこんなところに連れてきたり、バーサーカーをマフーガに変えたり……いや、それ以前に! そもそも、なんでお前がマフーガを知ってるんだ!? なにが目的なんだ!? 答えろよ!!」

荒れる心のそのままに、筋道立たない言葉をぶつける。
この男の言葉で解った事も多い、だがそれでも圧倒的に解らない事が多すぎた。
聖杯戦争の真実。色々とショッキングではあったものの、それでも何も知らないよりはずっとよかった。
士郎の過去。本人の許可なく知ってしまった事に、若干の申し訳なさを感じはするが、やはりこれも同じ。
だが、この黒幕が如何なる存在で、どういう意図で暗躍しているのかだけは、どうしても掴めなかった。
強いて言うなら、自分をダシに遊んでいるとしか思えない。
こうして自分にだけ姿を見せたり、真実を暴露したり、やたらと自分の事に詳しかったりと、執着を持っているのは解る。
ならば、なぜそこまで自分の詳細を知っているのか。
こうも自分に執着しているのか。そして、自分に何をさせたいのか。
のび太の疑念、そして敵意は、際限なく膨れに膨れ上がっていた。

「――――――……ふん」

のび太を見据えたまま、アンリ・マユは薄嗤いを浮かべ、軽く鼻を鳴らす。
そして。

「『復讐』さ」

その二文字に、己が行動理由を集約した。










「……ふ、復讐、だって?」
「ああ、そうだ。なんたって、オレは、“アヴェンジャー”だからな」
「ア、アヴェンジャー……?」
「ヒィハハッ、こんなゴミ以下の価値もねえ茶番を、徹底的にぶち壊してやるのよ。“三回目”で、オレをダシなんぞにしやがったのが運の尽き。オレを利用した、そのオトシマエを付けさせてやんのさ。この戦争の根の一筋から枯れ葉一枚に至るまで、一切合財――――すべてを闇に飲み込んでやる」

悪意と憎悪に濁った瞳。
底の知れない、昏い敵意と捻じれた喜悦に表情を歪めて、アンリ・マユはそう吐き捨てた。
マグマで煮詰めたタールのような視線に、知らず、のび太の身体は射竦められてしまう。

「時空乱流に巻き込まれたテメエが『大聖杯』の中に落ちてきた時、オレは、テメエの経験と記憶のすべてを読み取った。サーヴァントのクラス枠を利用してな。オレと聖杯には、海よりも深ァい繋がりがあるからなァ。それくらいはワケないんだぜ? 『コイツぁ使える』と思ったね。クソガキ、お前は確かに魔術の適性はねえ一般人(パンピー)だし、実力も論外だ。弓兵(アーチャー)クラスの射撃が出来る点は花丸モンだが、それも、相応の武器がなきゃあ、大した事は出来やしねえ」

とんでもない暴露話を始めたアンリ・マユ。しかも罵詈雑言つきで。
臓腑を引き抜かれたような心地の中でも、のび太の耳と脳はやはり忠実に、主の心境とは無関係に言葉を拾い上げ続ける。

「だが、そこは問題じゃねえ。オレがテメエに期待したのは、テメエのひみつ道具と、この世界にとってのイレギュラーっつう、都合二点の事実。テメエが生き足掻けば足掻くほど、この第五次聖杯戦争の“運命”が揺らぐ。『世界』は異物を排除する習性を持つが、大した魔力も神秘も頭脳も実力もねえお前は、粛清対象にもなりゃしねえ。ネックはひみつ道具だが、元々『世界』は科学にゃあ、神秘ほど干渉しねえからな。んで、大木を根っこから引っこ抜くには、まずは木を揺らさなきゃならねえ。そして揺らすためには、ある程度の準備が要る。それが……」

一呼吸分の溜めを差し挟み。

「サーヴァントの『表裏反転』だ」

右手で裏表を入れ替えるジェスチャーをした。

「表裏……反、転? それが……バーサーカーを、マフーガに……」
「そういうこった。これだけでも、聖杯にゃ相当な負担になるんだぜ? それに、今回のサーヴァント共は強ぇヤツから皮肉の効いてるヤツまで、粒が揃ってたからな。テメエの記憶にあるバケモン連中を再現する事は可能だった」
「……他のサーヴァントも、変えるつもりなのか?」
「さてな。ま、その辺は乞うご期待、っつー事で、楽しみにしとけや。退屈はさせねえぞ? 祭りはハデであればあるほど面白い……デカい花火にパレードもあるぜ、ケケケケ……!」

そう言って一頻り肩を振るわせた後も、アンリ・マユの口は動き続ける。

「実際、大したモンだったぜ。『ヘラクレス』を『マフーガ』に変異させた時の、そして『マフーガ』が消滅した時の揺らぎようはな」
「…………」
「で、だ」

そして一転、表情を真剣な物へと変え、唐突にこんな事を告げた。

「クソガキ。テメエにチャンスをやる」
「……チャンス?」
「ああ。お前の望み、それを叶えるチャンスをな。帰りたいんだろ、元の世界によ」
「…………!」

帰りたい。それが自分の願いであり、士郎がその身を危険に晒してまで、聖杯戦争に身を投じた理由。
そのチャンスがあるのなら、願ってもない話だ。
――――が、しかし、のび太の表情はというと。

「……言ってる事が滅茶苦茶だ、ってツラしてやがるな。まあ、そりゃそうか。聖杯戦争ぶっ壊そうってヤツが、願いを叶える聖杯をやろうっつってんだからな。けどな、それほどズレてるワケでもねーぞ」
「え?」
「どんな始末の付け方かは言わねえが、ぶっ壊すとなりゃあ、結局はサーヴァントを消さなきゃいけねえの。だから、聖杯が現れんのは当たり前なんだよ」
「あ……そうか」
「ただし……『条件』があるけどな」

『条件』という言葉に、のび太はビクッ、と一瞬、身構えてしまう。
いったい、何を要求されるのか。
この男の事の言だけに、凄まじくイヤな予感が絶えない。

「とりあえず……だ。この場所まで辿り着け」
「――――…………、はぁ?」

トントン、と足で大空洞の地面を踏んで示したアンリ・マユ。
のび太の口から、拍子抜けしたような間の抜けた声が漏れる。

「そ、そんな事で……?」
「言っとくが、口で言うほど簡単じゃあねえぞ。最低条件は、ここへ辿り着く最後の瞬間まで生き残る事。ヒントは、この光景だけだ。しかも、この件に関しちゃあ、テメエのポッケにナイナイしてるひみつ道具も役に立たねえ。道具の力で直接探り出そうなんてのは、不可能だ」

釘を刺すように、チチチと人差し指を振るアンリ・マユ。
これを士郎がやるのなら、人好きのするお兄さんといった様相だが、この男の場合は、むしろ悪魔のからかいか嘲りと言った方がしっくりくる。

「そのくらいの“縛り”がなきゃあ、面白くねえ。第一、んなチートでもされた日にゃあ、“運命”はピクリとも動いちゃくれねえんだよ。テメエの仕事は、せいぜい気張って生き延びて、この戦争の“運命”を引っ掻き回して揺るがす事。どうせテメエらは、参加したサーヴァント“全員”と大立ち回りする事になるだろうからな」
「……ど、どういう意味さ!?」
「ついでに、“ここ”での出来事は、絶対に誰にも話す事は出来ねえ。まだテメエに掛けた暗示は続いてるからな。誰かに話して助けてもらおうってのは、あんまり期待しないこった」

のび太のアドバンテージの悉くを封殺済みとの通達。まさに雁字搦めである。
事は、子どものお使いレベルを遥かに超えている。
ほぼノーヒントで、道具の力にも頼らずゴールを探し当て、辿り着け。それが成さなければ、聖杯は狂ったまま。
しかも、直す本人は聖杯戦争など完膚なきまでにぶっ壊すなどと宣言している。
こんな、核弾頭よりも危険で、狂人以上にイカれた黒幕の言葉の信用度など、はっきり言ってゼロ以下である……しかし、他に選択肢はない。
というよりは、乗らざるを得ない。
取引をしているような口ぶりだが、これは紛れもない『命令』だ。
今ののび太は、釈迦の掌上の孫悟空同然。選択の余地など、どこにも存在しない。

「ま、当面はただ生き残ってさえいりゃいいんだが……オレもそこまでオニじゃねえからな。感謝しな、一応、救済措置を用意してやった。“竜の因子”を、テメエの身体から引き摺り上げたのもそのひとつだ。他にもあとふたつばかりあるが……そいつらは、そん時になりゃあ勝手に手元に来るだろうよ。どう扱うか、どこまで扱えるかはお前次第だ」

そこまで一気に言い切ると、アンリ・マユは右手を天高く掲げ、中指と親指をピタリと重ね合わせる。

「…………?」

のび太が訝しんだのも束の間。
指同士が素早く擦り合わされ、パチンという音が打ち鳴らされるのと同時に。

「――――ケケ、『チン・カラ・ホイ』」

唱えられる呪文。
その瞬間、大地が大きく波打った。

「え、う、うわわわわっ!?」

立っていられない程の揺れ、のび太はその場に膝を付く。
轟々と唸りを上げ、鳴動を続ける地面。天井からはパラパラと石や砂利が落下してくる。
時折、鉄を引き裂くような異音があちらこちらから木霊し、のび太の恐怖をかき鳴らす。

「な、なんだ!?」
「話はここまで。そろそろ夢から覚める時間っつーこった」
「ゆ、夢……!?」
「ああ、ただいま絶賛気絶中の、お前の夢に割り込ませてもらった。夢っつっても、この内容は現実のモンだ。夢オチじゃあねえ。そこはカン違いすんなよ」

アンリ・マユの口から言葉が吐き出される度に、揺れはますます大きく、凄まじさを増していく。
さながら、地下核実験によって引き起こされた人為的な大地震。
地面にも壁にもみるみるうちに亀裂が走り、落下物の数も体積も質量も、飛躍的に増加する。
のび太の周囲にも、不思議と当たりはしないが、砕けた大岩がいくつも落ちてきている。
断末魔もかくやと言わんばかりの地響きを上げて、崩壊を始める大空洞。このままいけば、大量の水を掛けられた砂のお城よろしく、ぐしゃりといってしまうだろう。

「な、ま、待って……わわ、っとと!? まだっ、聞きたい、事が……!」
「ああ、そうそう。コイツはサービスだ。テメエらが学校でやり合ったライダーのサーヴァントな、正体は『メドゥーサ』だ」
「なにを言……メ、ドゥーサ? 『メドゥーサ』だって!?」
「テメエにとっちゃ、なじみの深いヤツかもな。石化させられたのは、たしか今回で二回目だったか? “ゴルゴンのくび”は、自力でどうにかしてたからな」

ビシリ、という何かが盛大に避ける音。
地面に、無視出来ない程の巨大な稲妻状の亀裂が走る。
最早、しゃがみ込んですらもいられない。のび太は、カエルのように顔を青くして必死に地面にへばりつく。
対して、アンリ・マユは腕組みしつつ、二本の脚で大地を踏みしめ悠然と直立している。
まるで、そこだけ地震と切り離されているかのように。

「『メドゥーサ』の持つ宝具は三つ。ひとつ目が有名な、石化の魔眼……正確にゃあ、それを隠してるアイマスクだが。ふたつ目が、穂群原学園に仕掛けた吸収型結界。で、最後が……天馬を御する手綱」
「おわっ!? ……て、天馬? って、なにさ!?」
「ああ? んな事も解んねえのかテメエ。ペガサスだよ、ペガサス。ペガサスはゴルゴン……『メドゥーサ』の斬り落とされた首から生まれたっつー伝説知らねえのか? ま、そっちはマイナーっぽいから知らなくても無理はないか」
「ペ、ガ、サス……!?」
「言っとくが、いつぞやテメエが生み出したバッタもんの零歳馬とはワケが違うぞ。ミジンコとドラゴンくらいにな。向こうのは、神話の時代から存在し続けてきた『幻想種』だ。格どころか存在そのものが違うのよ。近づくだけでミンチにされるかも解らねえな」

ついに辺りの地面が隆起し、そして陥没する。
周囲の壁も既に球状を留めてはおらず、岩で盛大な雪崩を引き起こしている。
際限なく唸りを上げる地鳴りが、終末へのカウントダウンを告げる。

「さあ、目が覚めたらそこは死亡フラグが満載の、面白可笑しくもお優しくない現実だぁ! クソガキ……いや、野比のび太!! このクソッタレな聖杯戦争を、力の限り生き抜いてみやがれ!! オレの掌の上でなぁ!! そしてこの『幕引きの場所』まで辿り着き――――――」

その先を、のび太の耳はよく聞き取れなかった。
ドンッ、とミサイル爆撃のような一際強く、激しい大地の突き上げ。
とうとう大地が完全に引き裂かれ、のび太の真下にぽっかりと漆黒の闇が口を開いた。

「う、うわぁあああああああーーーーーー!?」

絶叫は、崩落の轟音の中に掻き消え、崖から手が離れるように背中から下へ真っ逆さま。
奈落の底に引きずり込まれたのび太の意識は、暗闇へと埋没していった……。










(――――――あったかい)

沈んだ意識の底で、そんな感想を抱いた。
身体の前面に伝わる感触。
柔らかくも、しっかりとした質感を伴っている。

(……あれ、これ、人の身体……かな)

意識が徐々に浮上していく。
薄ぼんやりとしていた感覚が、乾いたスポンジに水が染み込むように重くなり、膨らんでいく。
前方に放り出された腕に感じる、空気の流れ。
前のめりに傾いている身体。
脚は、両方とも誰かにがっちりとホールドされているように動かない。
そして、身体全体が小刻みに、しかも規則的に揺さぶられている。

(……おんぶ、されてる、のかな?)

鼻腔をかすかにくすぐる、柔らかく、どこか安心するような香り。
少しして、これが女性の物だと解った。

「……ぅ」

絞り出すような、か細い声が咽喉から漏れる。
徐々に瞼の筋肉が機能を取り戻し、うっすらと目が見開かれた。
思うように焦点の定まらない視界の中に飛び込んできたのは……透き通るような白磁の肌と、眩しさすら覚える金砂の髪。

「――――おや、気が付きましたか。ノビタ」
「……セ……ィバー……? …………ッ!」

その凛とした、涼やかな声を聞いて、のび太の意識が完全に陸へと引きずり上げられた。
セイバーの顔の横から、バネ仕掛けの機械のように頭が跳ね上がる。
次いで、自分が今、セイバーに背負われているのだと気づいた。
セイバーの姿は、戦闘時のドレスと鎧ではなく、普段の白ブラウスと青のスカートである。

「あれ……ここは……」

のび太の前方に見えるのは、昼下がりの住宅街と、真っ直ぐ続くアスファルトで舗装された車道と歩行者道。
明らかに、今までいた学校の中ではない。

「学校から離れて、家へ帰る途中です。あの時……」

そう言って、セイバーは、のび太が気絶して以降の事を簡潔に説明する。
相槌を打つ傍ら、何気なくのび太が顔を横に向けると、白い侍従服の女性の姿があった。

「ぐーてんもるげん、ノビタ」

そう呟いて、リーゼリットはのび太へじっと視線を向けていた。

「…………えと、ぐ、ぐーてんもる……げん?」

思いつくまま挨拶をすると、僅かにリーゼリットの表情が柔らかくなった。

「……そのため、シロウとリン、それからアーチャーは、学校に残りました。こんなところですね。なにか質問は?」
「う、ううん。そ、そっか。じゃあ、家で待ってないとね」

話を聞き終えたのび太は、内心で大きな安堵の吐息を吐く。
どうやら、無事……とはいかないまでも、一応の決着はついた。
ライダー主従を取り逃がしこそしたが、犠牲者が出なかったのは不幸中の幸いだろう。

(……でも、たぶん、近いうちに逆襲が来る)

理由もなく、そんな考えがのび太の脳裏をよぎった。
夢の中で、ライダーの正体を教えられたからだろうか。
推察から正体を見抜いたというセイバーの言葉を聞いても、既に知っているのび太としては告げられても別段、驚きはなかった。
むしろ、頭の中に浮かび上がってきたのは、別の事。

(そういえば、ライダーの宝具……いや、きっとダメだ)

一瞬、夢の内容を二人に話そうかとも思ったが、のび太はすぐさまその考えを放棄した。
そんな事をしても、おそらく無駄だ。
アンリ・マユの言葉に、嘘はない。話そうとしても、咽喉の奥から声が出る直前で固まってしまうだろう。
あるいは、こんな考えを持ってしまうのもそれこそ暗示のせいなのかもしれないな、と。
セイバーに揺られるまま、のび太は、そんな益体もない事を考える。

「…………」

すぐ目の前にある、セイバーの後頭部に視線を落とす。
掻き毟るほどに聖杯を欲する彼女が、聖杯の真実を知ったら、いったいどうするのだろうか。
嘆くのか、怒りに震えるのか、打ちのめされるのか。
それとも……真実を知ってもなお、あくまで聖杯を求め、自らの願いを叶えようとするのか。

(……なんか……やだな、そんなの)

そこまで想像したところで、のび太は、思考に蓋をした。
バカバカしい、と。
そんな想像に意味なんてない、と結論付け、疑問を意識の底へと沈める。
だが、それでもそこに残った漠然とした不安の靄だけは、どういう訳か消えてはくれない。

「……ノビタ? どうかしましたか?」
「え?」

声のした方へのび太が視線をやると、セイバーが訝しげな表情でその深緑の瞳を向けていた。

「あ、えと、ううん、何でもない。ちょっと、ボーッとしてた」
「……あれだけの激戦でしたからね。やはり、まだ調子が思わしくないのですか?」
「いや、そういう訳じゃないんだけど……」

セイバーの事を考えていた、とは流石に言えず、のび太はとりあえずはぐらかす。
返答に対し、セイバーはしばらく眉根を寄せていたが。

「……ならばいいのですが。一応、帰り着くまで、このまま背負っていきます」

そう言って、視線を前へと戻し、身体を大きく揺すってのび太を抱え直した。
しばらく、無言で家路を行く三人。
リーゼリットは元々寡黙な性質であり、セイバーも必要な時以外はあまり喋らない。
故に、二人よりは多弁であるのび太は、どことなく、落ち着かなさを感じてしまう。

(……んんっと……あ、そういえば)

ふと、のび太の脳裏にある疑問が浮かび上がってきた。
別段、今でなくてもいいのだが、何も会話がないよりはいいかもしれない。
そう考え、のび太は口を開く。

「ねえ、セイバー」
「はい? どうかしましたか?」
「あのさ、聞きたい事があるんだけど……」

それは、あの夢の中で、アンリ・マユが口にした言葉。
これくらいなら、どうやら口には出せるらしい。

「“アヴェンジャー”って、どういう意味なのかな」
「は? “アヴェンジャー”……ですか?」

のび太の方を見返しながら、小首を傾げるセイバー。
リーゼリットは、相変わらずのび太達の方を見つめながら、テクテクと一定の歩調で歩いている。

「なんとも、らしくない言葉を聞きますね。それは、いったいどこで?」
「えっと、うん、ちょっと前に、人から聞いて、なんとなく……」
「ふむ……? まあ、そうですね。直訳すれば……“復讐する者”。『復讐鬼』ですね」
「復讐鬼?」
「ええ。復讐に狂った鬼。そういう意味です」
「そうなんだ……ありがとう」
「いえ」

――――なんだ、ピッタリじゃないか。
のび太の抱いた感想は、そんなものだった。

(復讐鬼……か)

思い浮かぶのは、夢の中の『黒幕』の姿。
聖杯戦争を陰から操り、聖杯戦争そのものをこの世界から抹消しようと目論む、アンリ・マユと名乗った男。
士郎と同じ容姿、どろどろと濁った瞳の輝きと、全身に刻み込まれた禍々しい黒の紋様。
そして、いっそ壊れていると言ってもいいほどに狂気じみた、そのメンタリティ。
自分は、そんな黒幕の思惑に強制的に乗せられている。
いや、たとえ強制でなくても、おそらく乗らざるを得なかっただろう。
聖杯を元に戻し、ドラえもん達の待つ元の世界へ帰るために。

(言ってた事は、本当の事だろうけど……)

代わりに、全部を語った訳ではない。
例えば、夢を終わらせたあの呪文。
あれは、ここではのび太だけが知る呪文だ。
記憶を読んだというアンリ・マユが、それを知っているのは不自然ではない。
不自然ではないが……しかし、なぜアンリ・マユがその呪文を使っているのか。
彼に関する謎は、その他にもまだまだ多く残されている。
それも、彼の場所へ辿り着いた時に、すべて明かされるのだろうか。

「…………はぁ」

柔らかな陽の射す午後の蒼天を見上げて、のび太は、改めて思う。
この戦争の果てには、いったい何が待ち受けているのだろうか、と。
頭上に広がる、眩いばかりの青空とは正反対に、のび太の心には言いようのない影が射し込んでいた。



(……でも、あいつ。一番最後、なんて言ったんだろう。あんまりはっきりとは聞こえなかったけど……たしか……『幕引きの場所』まで辿り着き……えっと……)



その謎が解けたのが、衛宮邸へと帰還し、セイバーが玄関を開けた後の事。
まるで遺言じみた、不吉さの拭えないフレーズに、のび太は一瞬、例えようのない薄ら寒さを感じた。










――――『幕引きの場所』まで辿り着き、オレの死に様を見届けに来な。







[28951] 第三十五話
Name: 青空の木陰◆c9254621 ID:90f856d7
Date: 2012/12/10 00:52




深山町から冬木大橋を渡った向こうにある新都。
この場所は、士郎達の住まう冬木市において『都市』と呼ばれる。
見上げるほどに高いオフィスビルが群れをなし、ブティックや喫茶店、大型書店といった盛況ぶりの際立つ店舗が軒を連ね、広々とした大通りを大勢の人間が闊歩する。
日本の首都や主要都市と比べれば見劣りはするものの、それでも地方都市としてはそれなりの規模と威容を持つ。
大小の建造物が密集するように寄り集まる様から、コンクリートジャングルとも称される現代都市。
だが、その規模が大きければ大きいほど、そこには表とは違う、光の射さぬ闇が生まれるのもまた、古今東西を問わぬ事実である。

「――――おい、調子はどうだ」

路地裏。
そこはおよそ都市において、人の寄り付かぬ数少ない場所のひとつ。
人がぎりぎりですれ違える程度の間隔しかない、狭い建造物同士の隙間。
コンクリートの壁に陽の光が遮られ、昼間とは思えない程の薄暗さを湛えている。
そんな都会の暗所に存在するものと言えば、重く唸りを上げる店舗の室外機か、残飯を漁りに来る野良猫くらいのもの。
しかし今、そこには見慣れぬ異形の姿があった。

「……多少はマシになった、といったところでしょうか。このペースでいくなら、早ければ日没過ぎ頃にはどうにか復調出来るものと」

トサリ、と何かが異形の足元に崩れ落ちる。
二十代半ばほどだろうか。
濃紺のパンツスーツに身を包んだ、OLと思われる女性が路地裏の、冷たいアスファルトの上にくずおれていた。
薄く化粧の施された顔からは血の気が失せ、意識の途切れた、虚ろな双眸を虚空に投げかけている。
その首筋には、鮮血の伝う二つの傷痕が刻まれていた。
牙痕である。

「そうか、なるべく急げよ」
「……あまり拙速に過ぎると、人目につきます」

倒れ伏す女性を囲むように立つ人影。
足元にまで届く紫の髪を揺らす長身の女と、学生服を身に纏った男。
女は口元に滴る血を指の腹で拭い、男は被害者を、何らの悔悟も含まぬ瞳で見下ろしたまま鼻を鳴らした。

「わかってるさ。なるべく、と言っただろ。誘い込みは、僕がやってやる。ご所望の品はあるか」
「魔力量で言えば……僅かですが、若年の女性が手っ取り早いかと」
「そうか。きちんと記憶の改竄までやっておけよ」
「……言われるまでもなく」

そう答え、女は足元の女性を横抱きに抱え、路地の奥へと身体を向ける。
そして男は女とは反対に、路地の外へと足を向けた。
注文の品、いや生贄を調達に行くのだ。

「ふん……待っていろよ、衛宮。お前は……お前だけは、僕がこの手で殺してやる……!」

仇敵の名を呟き、男……間桐慎二の表情が醜悪に歪む。
憎悪に濁った瞳と、狂気に彩られた歪な笑顔。
もはや後戻りなど出来ないほどに、心は復讐心に凝り固まり、その身を殺意にどっぷり浸し込んでいた。
それも、一秒後には鳴りを潜め、普段通りの平静な表情のまま、陽光に満ちた表通りへと姿を消す。

「――――」

その背中を、背を向けていたはずの女がじっと見つめていた。
意識のない女性を横抱きのまま、なにかを観察するかのように。
視線は眼帯に遮られて判然としない。だが、どこか複雑なものが込められているという事は、滲み出る雰囲気から窺い知る事が出来る。

「…………」

そのまま、天を振り仰ぐ。
建物という遮蔽物で狭く区切られた、茜の差し始めた青空。
その先に何を見ているのか、彼女以外に知る術はない。

「――――」

微かに動く、唇。
掠れるほどの声も漏れ出てこなかったが、彼女……ライダーの口は、こう言葉を紡いでいた。

――――サクラ、と。










「――――ここね」
「ああ」

朱を帯び始めた陽光が射し込む、衛宮邸の居間。
卓上に広げられた地図の一角を指し示した凛に、湯呑を傾けていた士郎が頷きを返す。
その傍らには、役目を終えた“たずね人ステッキ”と“○×占い”が置かれている。

「ふむ、新都か。成る程、彼奴の好みそうな場所だ」
「好むって……?」
「広い場所の方が、戦いやすいという意味ですよ。彼女の獲物は、鎖付の釘剣ですからね」
「狭い場所と違って、空間を自由に使える。また、いざともなれば逃走も容易い。力と力のぶつかり合いよりも、神出鬼没のゲリラ戦こそ、彼女の得意とする分野だろう」

セイバーとアーチャーの注釈に、のび太は得心したように首を縦に振る。
その傍らでは、のび太に頭を撫でられているフー子が、顎を擽られた猫のように目を細めている。

「でも都市部に隠れるって……ああ、魔力確保のためね。たぶん今頃は……」
「確認なさいますか、お嬢様」
「別にいいわ、大筋では間違ってないと思うから」

イリヤスフィールとセラのやり取りを、リーゼリットがいつも通りの茫洋とした瞳で見つめている。
ただし、その手には一枚の煎餅が握られており、口元でそれをはむはむとやっているのでいささかシュールな光景となっていた。

「結局、綺礼の情報も空振りだったしね……」
「実際、そこまで期待はしてなかっただろ、遠坂。第一アイツ、最初に教会に行った時にこれ以上の助言はなし、みたいな事言ってたじゃないか」
「それはそうだけど……徒労感は否めないのよ。でも、結構具合悪そうだったわね。綺礼のあんな顔、今まで見た事ないわ。超レア現象ね。写真に撮っとけばよかったかしら」
「食べ過ぎとか言ってたな。んー……胃薬でも差し入れとくべきだったか? 学校の件もあるし、軟禁同然だけど、一応、脱落マスターの待遇はしっかり保障するって請け負ってたし。礼代わりに」
「まだ慎二とっ捕まえた訳でもないのに? 皮算用は止めときなさい。それに、それが監督役の仕事なんだから、いちいち礼なんてする必要ないわ」

ひらひらと手を振って、凛は士郎の言を一蹴した。

「それで、どうするのリン? あれだけやったんだから、向こうがこっちにすぐ仕掛けてくる可能性は低いけど。先手を取って攻める? それとも……」
「そうね……」

士郎、凛、アーチャーが帰宅した後、報告と相談を兼ねた会議が繰り広げられていた。
卓に集った各人の手元には、淹れたての茶を張った湯呑が置かれ、卓の中央には茶請けの盛られた漆塗りの器が鎮座している。
議長は、このメンツにおいて仕切り屋が定着してしまった凛。
副議長は、知識もあって機微に敏いイリヤスフィール。
そして、書記は。

「ドララ~」
「ドラ?」
「どら~!」

「……って、ちょっと、こらミニドラ! 手持無沙汰だからって、ホワイトボードにラクガキしてるんじゃない!」

レッド・イエロー・グリーンの、ミニドラ三兄弟だった。
ただし、始まってからこっち、書く事もなくヒマだったせいか“ミニタケコプター”を頭に装着し、いつぞやと同じく、凛がどこからか用意してきたホワイトボードに向かって、何やらカキカキと落書きしている。
微妙にむかつく笑顔をしたツインテールの生首っぽい絵とか、『ゆっくりしていってね!』と書かれたフキダシがそこに書き込まれていた。
なぜ、そんな物を知っているのか、それは彼らのみぞ知る。

「ゆっくり……してるヒマなんてあるかぁああーー! ……ああ、もう……!」
「……いや、うん、落ち着け遠坂。もうちょっと肩の力を抜いて、気を楽にしてさ。『Take it easy』だ」
「それ、意味おんなじだから」
「……え、そうなのか?」
「……仮にも英語教師と懇意にしてるのにそんなんじゃ、おツムの程度が知れるわよ。それに、士郎。アンタ気楽にしすぎ。油断してた訳じゃないだろうけど、慎二にしろライダーにしろ、足を掬われまくってるじゃない。その度に、のび太やセイバーに尻拭いさせてるの、解ってる?」
「う……す、すまん」
「謝るくらいなら、反省をバネにちょっとは成長してみせなさい。おんぶに抱っこじゃなくて、自分の足と力で……はぁ、もういいわ。仕切り直しよ、仕切り直し。ホワイトボードは使わないから、アンタ達しまってきて頂戴。で、引き続き、偵察業務に勤しむ事。いいわね」
「「「ドラ~」」」

ホワイトボードを引きずりながら、蜘蛛の子を散らすようにめいめい居間を後にするミニドラ達。
その様子を視界から締め出し、緩んだ空気諸共飲み干さんとばかりに、手元の湯呑を一気に煽る凛であった。


閑話休題。


「で、結局どうする気なの。リン」
「……どうも、ね、判断に迷うわ」

凛の手の中の急須が傾けられ、彼女の湯呑に、新たな緑の液体が張られていく。
その表情は、液体と同じく苦みの効いたものだった。

「まずは時間。今からライダーを追いかけて戦うのは、人目につきすぎる。かといって、日没まで待ってたらそれだけライダーに回復する時間を与えてしまう」
「天秤に掛ければどちらのリスクも無視出来ん、か。ジレンマだな」

意図を察した弓兵に、こくりと頷きを返して凛は続ける。

「それから宝具。学校を脱出する際に使ったっていう、アレの正体を掴まない事には、形勢を有利に持っていく前提条件が立てられない」
「……たしかに、アレは凄まじかった。でも、正体さえ解れば、なんとか出来る公算が出てくるはず」

傾けていた湯呑を置き、士郎が言葉の真意を咀嚼するように首を動かす。

「あとはキャスターだけど……こっちは今のところ、考えなくてもいいかもしれないわ」
「む……なぜです?」

おっかなびっくり、饅頭をむくむくやっていたセイバーが首を傾げる。
しかし、口の周りについた餡はどうにかならないものだろうか。

「キャスターの意図は十中八九、わたし達の共倒れよ。学校で骸骨を何体も送り込んできたのは、戦力評価とイヤガラセでたぶん確定。つまり、わたし達とライダーの戦いには、静観を決め込んでくる公算が大って事よ」
「は? そんな、それはいささか楽観的すぎるのでは……」
「根拠なら、一応あるわよ。学校に網を張ってたって事は、キャスターはわたし達がセイバー、アーチャー、そしてバーサーカーこそ脱落したけど、アインツベルンの混成軍団だって事を知ってる。自分で言うのもなんだけど、わたし達ってこの戦争の優勝最有力候補よ。そこに一騎しか脱落していない現時点で手を出すのは、自殺行為に近いわ。だったら、他の敵同士で喰い合いさせた方が遥かに効率的よ」
「それは解ります。ですが」
「それに」

セイバーの追及を遮るように、ピッと凛は人差し指を立てた。

「貴女達サーヴァントには不確定要素がある事、忘れた訳じゃないでしょ?」
「不確定……?」
「バーサーカーがマフーガに変異したアレよ」
「……あ!」

ポンと膝を打つセイバー。
その刹那、フー子を膝に抱えて煎餅を齧っていたのび太の眉が微かに歪んだが、それは誰の目にも留まらなかった。

「バーサーカー曰くの、『聖杯戦争に潜む“闇”』の事はさておくけど、キャスターの事だからそのイレギュラーの情報は掴んでるハズ。戦闘が白熱した結果、ライダーが『メドゥーサ』以外のナニカに変異する可能性はゼロじゃない。ま、それはこっち側にも言えるんだけど……そして、マフーガを見ても解るように、変異後のモノの戦闘能力は、ズバ抜けて高い」
「そこに下手な横槍や小細工を弄すれば、自分に飛び火するやもしれん。計算で事を運ぼうとするキャスターからすれば、それほどまでに大きいリスクを進んで抱え込みたくはない」
「そういう事。アーチャーが言ったように、リスク計算の出来るヤツなら、確実に静観を選ぶ。他陣営の横槍も気になるけど、少なくとも、キャスターに関してはないと判断していいと思うわ」
「……己がマスターを魔力の糧にしようとしたライダーを、放っておくでしょうか」
「私怨で状況を見極められないようなら、キャスターもそこまでって事ね」
「ふむ……」

もきゅもきゅと手中に残った饅頭を口に放り込み、セイバーは静かに思考を纏める。
セイバーとて馬鹿ではない。馬鹿では、イングランドはキャメロットで王様などやっていられない。
堅実な手段と策こそが、現在のキャスターにとって最善で。
奇をてらった襲撃は、失敗すれば自分に災禍として跳ね返ってくる。
どちらかが敗退し、片方が消耗したのを見計らって仕掛けてくるなら話は別だが、先を見据えればまだ泳がせておいた方がいいと判断するだろう。
唯一の懸念は残るサーヴァント……ランサー主従による強襲。しかし、これはミニドラ達に監視を任せておけばいい。
そこまで考えたセイバーは。

「納得しました」

コクリと頷き、口中の饅頭を咽喉を鳴らして嚥下した。
途端にふにゃっ、と崩れ落ちる相好。
台無しである。

「……まあ、いいわ。それで、ライダーにいつ仕掛ける? 誰か意見は?」

喋り通しで乾いた唇をお茶で湿らせ、凛は全員を睥睨する。
痛し痒しのこの件については、判断を皆に委ねるようだ。

「私は日没まで待つべきだと思います」
「わたしもセイバーの意見に賛成」

問いに対して真っ先に手を上げたのは、セイバーとイリヤスフィールだった。

「その心は?」
「サーヴァント同士の戦闘に一般人を巻き込む訳にはいきません。どのような戦闘手段を用いるにせよ、周囲への損害は相当な物となるでしょう。学校での戦闘でさえ、校舎が半壊するほどなのですから。仮に人払いの魔術を用いたとしても、人の多く集う都市である以上、そこに完璧などあり得ません。不意に迷い込む人間が出る確率は、相対的に跳ね上がります」
「関係ない人が死んじゃったら、リンはともかく、お兄ちゃんやノビタはまともじゃいられないかもしれないし。純粋に戦闘に没頭したいなら、相手が移動するか、人気(ひとけ)がなくなるまで待つしかないわ。その上で人払いの魔術を使えば、完璧に近いくらいの効果が見込める。それに、神秘の漏洩防止は、魔術師の最低限のマナーよ」
「……成る程ね」

一理ある。
今現在、夕暮れ前の新都には、大勢の人間がいる。
だが、これが午後九時を過ぎた辺りから、ぱったりと人はいなくなるのだ。
これはガス漏れ事故や一家惨殺といった、聖杯戦争絡みの物騒な事件が相次いでいるため、不安で住民の警戒心が上がったためである。
残業に勤しむ勤め人もいなければ、明々と電灯を灯して商売を続ける店舗もない。
真実を知らずとも、皆、なんとなく肌で感じ取っているのだろう。
この街が、異様な事態に見舞われているという事に。
しかし、逆に言えば、時間さえ置けば誰憚る事なく、被害を気にせず派手に闘えるフィールドが現れるという事でもある。
そしてライダーも、何も考えずに新都を選んだ訳では決してない。
餌場であると同時に、万一襲撃された時のための、自分に有利に働くフィールド。それが彼女にとっての新都の価値だ。
地の利は7:3で向こうにあるが、態勢を立て直すという意味では、自分達も相手もイーブン。
加えて彼我の戦力差は、単純かつ大雑把に見積もっても三倍は固い。

「私も待つ方を支持する。戦場が市街地の場合、万一イレギュラーが起こった時、足を引っ張る存在が多すぎる。それで対応が遅れて被害を被るのは、お互いに不幸だろう」

アーチャーも、先の二人の肩を持つ意思を表明する。
かなり婉曲な物言いだが、要は一般人に無用な被害を出したくないという事である。

「他に意見は?」

凛がもう一度全員を見回す。
意見を述べなかったセラ、リーゼリット、のび太、フー子から異論は上がらす。

「OK。じゃ、それでいきましょ」

決は下った。
時期は日が落ち、新都が無人の都市と化す、午後九時以降。
その時に相手が移動していれば、また別の対応を考える。
学校に続いて相手のフィールドで戦うのは歯がゆくもあるが、攻めに出る以上は致し方ない。
しかし、それはそれとして、まだ協議しておくべき事柄はある。

「それじゃ次。ライダーの最後の宝具についてだけど……」

煎餅の袋を破りながら、凛は話を続ける。
学校から脱出する際にライダーが使用した、血で書き殴ったような召喚陣。
そこから現れたモノについてだ。
高位の『幻想種』という、大方の目星はついていたが、正体は判然とせず。
だが、それが解れば、ライダーに対するアドバンテージと突破口を作る事が出来る。

「ふむ、彼女の宝具……あれはたしかに『幻想種』の気配がしましたが、並のモノでは「あ、あのさ」……はい?」
「少年、どうした」
「いえ、あ、その……『幻想種』って、なんですか?」

『幻想種』。
これは、のび太が見た夢でも出てきたワード。
ライダーの宝具の正体は、口にこそ出せないものの教えられた以上、知っている。
しかし、それを直接伝える事は暗示のせいで不可能。ならばせめて、ヒントくらいでもと、口を挟んだのである。
もっとも、『幻想種』の意味自体よく知らないし解らないというのも、事実ではあるが。
のび太の問いに、ああ、と納得したように頷いたアーチャーが答えた。

「『幻想種』というのは、たとえば神話やおとぎ話に出てくる妖精や、鬼、巨人といった、空想上の生物の事だ。これらは長い時を幻想の中で生き続け、人間や我々以上に強い神秘を秘めているものが多い。いくつかの種別とランク分けがあるが、その中でも竜種……つまりドラゴンだな……は、『幻想種』の頂点とされている」
「へ、へえ……」

ドラゴンは、空想生物の代表格。
物語やゲームの中でも、人知の及ばぬ強力な存在として描かれている。
自分のイメージそのままで捉えてとりあえず問題ないと頭の片隅にメモしつつ、のび太はさらに言葉を重ねる。

「じゃあ、セイバーやアーチャーさんも『幻想種』?」
「いや、我々はどちらかと言えば『精霊』に近いのだが……いや、『人間以上の存在』と広義に解釈すれば、あながち外れてもいないか……?」

むむ、と顎に手を当て、考え込むアーチャー。
サーヴァントのような英霊は、『幻想種』とはまた違う『精霊』にカテゴライズされるのだが、それをのび太に理解しろと言うのはいささか荷が重いかもしれない。
のび太にとっては、ドラゴンだろうがサーヴァントだろうが、明らかに人間を凌駕した存在である事に変わりはないのだから。
ある意味、同類項として一括りにした方が、まだすんなりと理解出来るだろう。
と、なんのかんので本題から微妙に話が逸れてきたので、アーチャーは、言葉と表現を選びながら流れを元に戻す。

「そうだな。まあ近いモノ、と思ってもらっても構わんだろう。だが、私やセイバー自身と比較すれば、ライダーの呼び出したソレは遥かに桁が違うがな」
「桁、って、どれくらい?」

更なる問いに、アーチャーは少しの間考え込むと、徐に己の前の湯呑を手に取った。

「我々をこの湯呑とするなら、さしずめこの家の台所にある大鍋か寸胴といったところだろうか。我々は、せいぜい数十年しか生きていなかった人霊なのに比べ、向こうはおそらく、神話の時代から何万年も生き続けている、人間を超えた生物。どちらの神秘が勝っているかなど、問われるまでもない」
「はあ……じゃあ」

と、のび太がさらに何かを言いかけたところで。

「もうそれはいいから。肝心なのは、アレの正体よ」

痺れを切らしたか、凛が話の腰を折った。
しかめっ面で煎餅をカリカリと、リスのように齧っているその様は、食べ物に八つ当たりでもしているかのようだ。

「それはそうだが……凛、なにをカリカリしている。いや、煎餅の事ではなくてだな」
「ああ、うん。気に障ったならゴメン。なんか、こう……むぅ~、出てきそうで出てこないのよ。『メドゥーサ』は、ギリシャ神話でもメジャーな方だから大まかな事は知ってるんだけど、細かい部分は……うぅ。でも、なにかあったはずなのよねぇ……」
「咽喉に小骨が刺さったようで、苛立っている、と」

アーチャーの確認に、凛は頷きで以て返答を返すと、湯呑を手に取り、咽喉を潤す。
しかし、それでも眉間に寄った皺は消えず、溜息交じりに、机をその細い指でタンタンタン、と落ち着きなく叩いている。
徐々に空気がピリピリとしたものへと変わっていく。
居心地悪そうに、士郎が小さく身じろぎした、その時。

「わかんないんなら、いっそ本で調べたら?」

そっちの方が早いでしょ、とあっけらかんと言い放ったのは、卓の向こう端のイリヤスフィール。
凛の焦燥などどこ吹く風と言わんばかりの平静そのもので、セラに取ってもらった袋入りカステラをむくむく頬張っている。

「……はぁああ……そうね。むしろ、それが正道よね」

額を抑えて、凛は重く長い息を吐く。
負けず嫌いなせいで、安易な道に走りたくなかったようだが、一方で彼女は聡明である。
肝心要な部分をきっちりと弁えて、行動出来る度量がある。
ライダーの宝具の正体が掴めるのなら、自分のつまらない拘りなんぞ、そこらに生えている雑草ほどの価値もない。
背中を押されて、踏ん切りがついた。

「士郎、ギリシャ神話について書かれた本、持ってきて」
「……いや、家にそんなのないぞ」
「じゃあ、百科事典かイ○ダスでもいいから」
「それもない。普段なら国語辞典で十分だし、あれってたしか何年か毎に改訂と内容の刷新がされるから、いちいち最新版買ってると土蔵の肥しが増えるだけで……余計な出費は厳禁だし……というか、それ以前にまず載ってないと思うぞ」

それらが常備されているのは、図書館ぐらいのものだ。
嵩張って仕方ない上に、時と共に内容が変遷し、時代遅れになるから、普通の家では敬遠されるだろう。

「それくらい、気を利かせて用意しときなさい……ってのは、無理な注文か」
「当たり前だ。そんなムチャクチャ言われた日には、流石に遠坂でも張っ倒すぞ。出来るかどうかは別として」
「カウンターでナックルパート喰らう覚悟があるならやってみなさい。弟子に手を噛まれたとあっちゃ、師匠の名折れもいいとこだからね」
「え……あれ? ちょっと待て。俺、いつの間に遠坂の弟子に……?」
「アンタに飲ませた魔術開発用の宝石、かなり値が張ったのよね。とりあえずこれくらい」
「借金のカタに身柄を確保!? しかも高ッ!」
「ま、当面は使い勝手のいい丁稚ってトコかしら」
「俺はどこぞのバンダナ男かっ!?」

漫才のようなやり取りをするうちに、凛の眉間からは自然と皺が消えていた。

「やれやれ……ないならしょうがないか。アーチャー、わたしの家から持ってきてちょうだい。たぶん、書斎のどこかにあったと思うわ」
「……まったく。私は便利屋ではないのだぞ、凛。まあ、仕方あるまい。少々時間を貰うぞ」

そう言って、アーチャーが立ち上がろうとしたその時。

「あ、ちょ、ちょっと待って!」

のび太が制止の声を上げた。
今しかないとばかりに右手が忙しなく、ズボンのポケットの中で掻き回されている。

「今度はなによ?」
「わざわざ取りにいかなくても……たしか、こ、この辺にぃいい……あ、あった! これ使ってください、“とりよせバッグ”!」
「バッグ……?」

ポケットの中の“スペアポケット”から意気揚々と取り上げたのは、婦人用の手提げ鞄を模したひみつ道具。
その名を“とりよせバッグ”。
鞄の中に意図して手を突っ込めば、遠くにあるものをその手で掴み、取り寄せる事が出来る。
距離や障害物など一切関係なく、たとえ水だろうが逆さにひっくり返して使えばまったくの問題なし。
ただし、実質的に自分の手がバッグを通じてワープするという都合上、向こう側に自分の手が現れる事になるので、ブツの傍にいる誰かの妨害に遭う可能性があるという欠点も存在する。

「――――うわ、ホントに出てきた。なにこれこわい」
「む、ぅ……これはまた、なんとも……たしかに便利ですが、しかし、凶悪だ」
「……こんなモンあったら、それこそ窃盗とか金庫破りとかし放題だよな……」
「やりようによっては、脱獄幇助に暗殺すらも可能かもしれん……犯罪者などには絶対に渡せんな」
「魔術師の工房も、あっさり暴かれるかも……」
「……こんな物を、そんなにホイホイと出さないでください」
「ノビタ、自重」

だが、それを補ってあまりある絶大な効果に、貸与された側は戦慄を隠しきれない。
引き攣った表情で、バッグからそろそろと件の本を取り出した凛。
そしてそれを見た各人が、畏怖の多分に混じった重々しい呟きを漏らした。

「え? あの、なんかまずかったですか?」

キョトンとした表情で尋ね返したのび太の頭を、凛が無言のまま、手の中の本で叩(はた)くのであった。










「……あ、あった。成る程、ペガサスか」

その後、なんとか気を取り直した凛は本を開き、件の箇所を見つけ出した。
『ギリシャ神話全集』と銘打たれた厚手のハードカバーの本には、ギリシャ神話のほぼすべての逸話が詳しい解説と共に網羅されている。
メジャーどころである『メドゥーサ』については、該当ページを開けば章末の辺りにきちんと纏められていた。
すなわち、英雄ペルセウスが持つ不死殺しの鎌『ハルペー』によって討たれたメドゥーサの首から、ペガサスが生まれたのだと。
『メドゥーサ』は、海神ポセイドンの寵愛を受けていた。そのためペガサスは、ポセイドンの息子とも言われている。

「つまり、あの魔方陣はペガサスを召喚するためのものだった、という訳ですか」
「そういう事だろう。真っ白な威圧感を感じたと君は言ったが、たしかにペガサスならば頷ける」

顎に手を当て、納得の声を上げるセイバーに、アーチャーが補足を加えて同意を示す。
個体にもよるが、『幻想種』には神聖なイメージが付き纏っている。
天空を縦横無尽に駆け巡る、純白の天馬にはより一層、そういったものが内包されているというのが一般的なイメージだろう。
事実、魔物に堕とされる前の『メドゥーサ』は女神であり、ポセイドンは海の神である。
ペガサスに秘められている力は、まさに神話級と言って差し支えない。

「自分の子どもだから、呼ぶのも御すのも訳ないって事か」
「しかしその反面、魔力消費は尋常ではないはずです。いくら我が子とはいえ、仮にも上位の『幻想種』。召喚の対価に支払った魔力は、下手すれば自身の消滅すらもあり得たやも……」
「シロウ達の学校に張ってた結界には、その対処策って意味合いもあったのかもしれないわね」

イリヤスフィールの分析に、士郎とセイバーが同時に頷きを返した。
ライダーというクラスは総じて、通常戦闘能力が並の領域である代わりに、宝具が桁外れに強力である事が多い。
しかしそれは、宝具を使用する場合、常に膨大な魔力を支払わなければならないという事の裏返しでもある。
爆発力は物凄い反面、燃費が悪すぎるのだ。
セイバーの『約束された勝利の剣(エクスカリバー)』も燃費が最悪だが、こちらは通常戦闘能力のパラメーターが軒並み高水準なので、デメリットとしてはどちらかと言えば浅手。
加えて今現在、のび太と“竜の因子”で繋がっているために、その枷はないに等しい状態だ。
かたや自らのすべてを預け賭けるに等しい『奥の手』、かたや最強カードの一枚にすぎない『奥の手』。
同じ大量消費・最大火力の『切り札』でも、そこに込められる意味合いは大きく違っているのである。

「……でも、それならちょっとまずいわね。取り逃がしたのは、実はこっちにとって痛恨だったのかも」
「痛恨、ってどういう意味だよ。遠坂」
「わからない? 今度の戦場は屋外よ。アドバンテージは、完全に向こうに渡っちゃったわ」

憂鬱そのものの表情で、凛は頭を抱える。
言わんとする事をいち早く理解出来たのは、彼女の相棒たる弓兵だった。

「……ふむ。推定すれば、ペガサスの破壊力はセイバーの『約束された勝利の剣(エクスカリバー)』と同等か、それよりやや劣る程度だろう。だが、こちらと向こうでは明らかに違う点がある」
「それは?」
「向こうは天を駆ける者、こちらは地を這う者であるという事だ。小僧」

考えても見て欲しい。
空を見上げて走る事しか出来ない者が、天空を自在に舞う鳥に追い縋れるだろうか。
答えは否だ。
例えるならば、こちらは核弾頭搭載の高射砲。向こうはオリハルコン製の最新鋭高速戦闘機である。
地上から狙いをつけている間に、空から容赦ない絨毯爆撃を喰らうは必定。
しかも威力は、これまた核弾頭並みなのである。
さらに不利なのは、互いのその機動性。
空中を自由自在に駆け回る存在は、地上の者にとっては実に捉えにくいもの。
そしておそらく、ペガサスの旋回性能は蜂にも勝るだろう。
制空権を取られ、頭上を押さえられた地上人は、ただただ逃げ惑うしかない。
おまけにこちらの機動力はペガサス以下であり、あまつさえ縦と横との二次元機動しか出来ないのだ。
飛んで対抗しようにも、“タケコプター”の最高速度は80km/h。
カトンボとハヤブサのドッグファイトでは、どちらが勝つかは火を見るよりも明らかである。

「方法は、ひとつ。向こうが真っ直ぐにこちらに突撃してくるタイミングを見計らい、ギリギリまで引きつけて最大火力の一撃を放つ。そうすれば如何にペガサスとて躱せはしまいよ」
「そんな都合よくいくものでしょうか。いささか楽観的にすぎるかと思いますが……」
「そうなるように仕向ける事は、こちらの動き次第で可能だ。セイバー。特に、そら。騎手の足を引っ張る存在が向こうに一人、いるだろう?」
「「……ああ、成る程」」

士郎と凛が、同時に納得の声を上げた。
二人の脳裏に描き出された人物は、言うまでもないだろう。
安い挑発でも、飢えたピラニアのように喰いついてくる事は間違いない。
その気になれば、誘導するくらいは十分可能である。

「――――ペガサス、かぁ」

だが、その中でただ一人。

「む、どうした少年」
「あ、いえちょっと」

のび太だけが、この中で他とは違う反応を示していた。
斜陽の柔らかな陽射に、うとうと微睡み始めたフー子を膝上に抱えたまま、茫洋とした視線を中空に彷徨わせている。
まるで過ぎ去った、懐かしい時を振り返っているかのように、眼鏡の奥の瞳には穏やかな光があった。

「ペガサスに、なにかあるのか」
「いや、なにかあるというか……その、ペガを作った時の事を思い出しちゃって」
「ペガ?」

ピクリ、と凛の眉が跳ね上がる。
言い知れぬ不安がよぎったからこその反応だったのだが、次の瞬間、その予感が本物であった事を思い知った。

「僕が作ったペガサスです」
「…………、は?」

空気が、音を立てて凍りついた。










「――――……へー、そう。友達と一緒に七万年前の日本に家出して、その時に、ね」
「はい。えっと、たしか“動物の遺伝子アンプルとクローニングエッグ”っていうひみつ道具で、いくつかの動物のアンプルを混ぜて作ったんです。使ったのは、ウマとハクチョウのアンプルだったかな。それでペガサスのペガを作りました。他にもワシとライオンでグリフィンのグリと、シカとヘビとコウモリで龍のドラコの、合計三匹作ったんです」
「あ、そうなの……へー」
「ただ、その時未来人犯罪者のギガゾンビも偶然同じ時間にいて、そこからまあヒカリ族とかクラヤミ族とかタイムパトロールとか色々と……」
「ああ、そーなの。ふーん……」

記憶を掘り起こしながら、のび太は自身の膝上でついに寝入ってしまったフー子を除いた全員に説明をする。
七万年前の日本でのび太達が繰り広げた、原始人部族を巻き込んだ時間犯罪者との暗闘を、事細かに、かつ丁寧に。
しかしその中で一人、話を聞く凛の目は微妙にだが死んでいた。
家出はともかく、家出先が過去の日本って時点でどうなの、とかなんでそんなピンポイントに犯罪者がいるの、とかペット感覚で空想上の動物作るなよ、とかいったいどこからツッコめと。
一応、以前に都合二回ほどの冒険譚を聞いているので、慣れの感覚があったかと思いきや、少なくとも凛にとってはそんな事はなかったようだ。
そもそも『慣れ』は『悟り』ではない。ある程度の耐性は備わっていても、そこには限界が存在する。
まして、“とりよせバッグ”のトンデモ性能を垣間見た直後なのだ。
これが戦闘中や非常事態の最中なら話はまた別なのだが、生憎と今は平時である。
許容量いっぱいで不安定なところに、相変わらずのぶっ飛びまくった内容の冒険譚という、我が目と耳を疑うダブルパンチを喰らってしまった凛。
『夢幻三剣士』と『ふしぎ風使い』の時とは違い、今度の『日本誕生』は七万年前の日本という四次元的なインパクトも含まれている。
ために、なんか色々と大事な物を、常識の向こう側に投げ捨ててしまったような感覚に襲われていた。
今更なにを、と言うなかれ。個人個人の心底に根付いた価値観や常識というものは、そうそう柔軟に変えられるものではないのだ。

「……おい、遠坂。大丈夫か」
「あ、そうなんだー、へー」
「ダメだこりゃ」

壊れたロボットのように同じような反応しか返さない凛に、士郎は匙を投げた。
彼女ほどではないにしろ、唖然呆然としていたのはこの場にいる皆が同じ……なのだが。

「……小僧。貴様、やけに呑み込みが早いな」
「いや、俺もちゃんと驚いてるけど。話聞くのも二回目だし、まあ、慣れたよ」

士郎は、どういう訳かダントツに立ち直りが早かった。
のび太と最も年が近い同性だからかもしれない。
男には、多かれ少なかれ夢見がちなところがあるものだ。

「……やれやれ。凛、現実逃避もそこまでにしておけ。『常に優雅たれ』の家訓はどこへいった」

何かを振り切るように首を左右に振りながら、机上の『ギリシャ神話全集』で凛の頭を軽く叩(はた)いて、アーチャーはのび太に向き直った。

「……ふぅ。まあ、なんだ。君も相当アレな人生を送っているのだな」
「あ、アレって……な、なんか、褒められてるような気がしない……」
「む、気に障ったのなら謝罪しよう。しかしこうなってくると、そうだな。君が海底や地底、宇宙の果てに物見遊山よろしく出掛けていたり、別の場所では神のように敬われていたりしていたとしても、最早不思議とは思わんよ」
「あ、あははは……」

しみじみと呟くアーチャーに、のび太は曖昧に笑うしかなかった。
眼鏡の奥の瞳が盛大に泳ぎ、じんわりと滲む冷や汗が、のび太の上着を湿らせていたが、それに気づく者はいない。

「それはともかくとして、だ。君が作ったというペガサスと、ライダーのペガサスは同一の物ではない。当たり前の話だがな」

それはのび太とて理解している。
ペガは空を飛べはしたが、校舎を半壊状態にするような、破壊的な力はなかった。
のび太のペガと、ライダーのペガサスは完全なる別物。
夢の中でも、それは断言されている。
それがのび太には、少しだけ寂しく感じられた。

「混同する事はないと思うが、一応言っておこう。同じように見ていると、痛い目に遭う。それを心に留めておきたまえ」
「は、はい」
「それからひとつ聞くが、君の手持ちの道具でライダーに対抗出来そうな物などはあるか」
「え? っと……」

言われて、“スペアポケット”の中身のおおよそを思い出す。

「“桃太郎じるしのきびだんご”はないし……“バードキャップ”……もなかったな。“タンマウォッチ”とかもなかったし……“ジャイアンのテープ”……いやだめだ。あれじゃ向こうより先にこっちが死んじゃうよ」

あれもない、これもないと徐々にのび太の眉間に皺が寄っていく。
ひみつ道具のかなりがなくなってしまっているのが痛い。
ライダーのペガサスに対して効果がありそうな道具が、ポケットの中には存在していなかった。
ついにがっくりと肩を落としたのび太を見て、アーチャーはおおよその事情を察したようだ。

「そうか……だがむしろ、それでよかったのかもしれん」
「は?」
「ライダーのマスターに、君の道具が奪われかけただろう? 幸い、向こうがスカを引いてくれたおかげで事なきを得たが。もし敵の手に落ちていたらと思うと、笑うに笑えん。いや、正直な話、生きた心地がせん」
「……どうして?」
「強力すぎるのだよ。君の持つ道具はな。そのひとつひとつが」

言葉少なだが、それは的確すぎる評価だった。
“タイムふろしき”一枚取ってみても、ライダーの宝具の無条件での無力化、石化の解除、やってこそいないが令呪の補充回復と、応用を利かせればこれだけの事が出来るのだ。
魔術では限界があるこれらの所業を、いともあっさりと、しかも誰でもがやってのけられる。
科学が魔術に勝る点、それは使う者に才能や素質を要求しない事である。
きちんとした手順、使用法さえ知っていれば、赤子から老人まで、如何なる者でも使用が可能。
特にひみつ道具は、スイッチを押すだけ、対象に向けるだけといった、細かな手順を必要としない物が多い。
もし慎二に“スペアポケット”を奪取されていれば、あっと言う間に立場が逆転していたに違いない。
道具の扱い方と言うのは、壊れさえしなければ、弄り回している内に不思議と理解してしまうものなのだから。

「それに、破格な性能を有するが故に、こちらに不利に働く面もある。いい例が小僧の体たらくだ」

アーチャーが横目を向けたその先には、糾弾の対象となった士郎がいた。

「ッ……なんだよ」

むっとしているのかバツが悪いのか判然としない、憮然とした表情でアーチャーを睨み返している。
勿論、そんな視線に臆する弓兵でもなく、蚊でも追い払うかのように軽く首を振って言葉を続ける。

「道具を使いこなすのではなく、道具に扱われている。これほど見苦しいものもない」
「な、お前ッ……!」
「事実だ、未熟者。第一、貴様はあの時“ショックガン”を持っていただろう。ライダーのマスターを押さえた時点で“スペアポケット”から銃を抜き、一発見舞っておけば少年を無用な危険に晒す事もなかったはずだ。そんな様では、この先守れるものも守れまい。果ては……ッ、ちっ」

反論を封殺し、舌打ちをひとつ。
いつしか厳しく顰められた眉をそれで元に戻し、彼はもう一度頭(かぶり)を振った。

「あ……えっと、つまり?」
「ん、ああ……要は、道具に依存してしまうという事だ。道具に頼るのはいい。だが、頼りすぎは禁物だ。それは使いこなすというのではなく、振り回されているに等しい。そんな事を続けていれば、早晩、手痛いしっぺ返しを喰らう事になるだろう。そして、君の道具の場合は、おそらく怪我では済むまいよ」

つまり、命で贖うかもしれないという事だ。
なまじ強力であるだけに、いざこちらにベクトルが向けられた時は、比喩でもなんでもなく取り返しのつかない事態に陥りかねない。
以前、凛が提言した“タイムテレビ”の未来視禁止も、これと根幹は同じである。
事実、のび太はドラえもんが道具を出す度毎に、道具の性能に有頂天になり、つい調子に乗った挙句、痛烈なしっぺ返しを何度も喰らい続けているのだ。
のび太のいた世界よりも闇が深く、裏に回れば死がそこにあるこの世界では、確実に致命傷を負う事になるだろう。
依存を極力避けるという意味では、“スペアポケット”の中身が少なかったのは、ある意味僥倖とも言える。

「今はまだ、小僧程度で留まっているのが幸いだが……」

ここで引き締めておかねばそれも時間の問題だ、とそこまで口にしたところで、アーチャーは口を噤んだ。
ひみつ道具をメインに振るっているのは、現時点ではのび太と士郎のみ。
のび太は、幾多の失敗の経験があるからこそ、次に同じ道具を使う時には反省を活かし、道具に振り回される事なく扱えているが、士郎ではそうはいかない。
そして今は、失敗から学ぶ時間すら惜しいのが実情である。
索敵や監視、移動手段にはひみつ道具を用いている。その利便性と信頼性は、くだくだしく述べるまでもないだろう。
だが、その信頼が依存に切り替わってしまう事態だけは、なんとしても避けねばならない。
禁断の果実は、人を堕落に導く。そして堕落は慢心を呼び、慢心は油断を誘う。その果てにあるのは、惨めな死だけだ。
とはいえ、戦術においても戦略においても、ひみつ道具は欠かせないファクターと化している現状では、その匙加減が難しい。
敢えてアーチャーがこう言ったのは、この場の全員に対する戒めのためでもあった。
そして。

「来い」

やおら立ち上がったアーチャーは、士郎の首根っこを引っ掴むと、そのまま居間の戸へと足を進める。
突然の行動になす術なくずるずる引き摺られていく士郎、当惑の表情もそのままに、抗いながら抗議の声を上げた。

「ちょ、ま、おまっ、いきなりなにすんだよ!?」
「なに、ひとつ揉んでやろうというだけだ」
「も、揉んでやる、って、なんだ……え、ま、まさかお前!?」
「そうだ。これから道場で貴様は私と――――――ちょっと待て、イリヤスフィール。何故君は顔を赤らめている」

アーチャーが視線を向けた先には、『まっ』とでも言わんばかりに口元に手を当て、うっすらと頬を色づかせたイリヤスフィールの姿が。
どうも、なにか盛大な勘違いか、よからぬ想像をしているようだ。
見れば、隣のセラも同じような仕草で固まっている。
ただし、こちらは嫌悪が感情の大部分を占めていたが。

「……何を想像したかは聞かんが、君達の見当は外れている。少しばかり、この未熟者に喝を入れてやるだけだ。主に剣と拳でな」
「それって、稽古をつけるって事?」
「有体に言えば、そうなるか」

イリヤスフィールの問いに簡潔に答え、引きずる腕に更に力を籠める。
上着の首元が弓弦のように引き絞られ、ぐえっ、と士郎の口から小さな悲鳴が漏れた。

「アーチャー、剣の稽古でしたら私が……」
「いや、セイバー。君ではおそらく小僧の指導には向くまい」

ピク、とセイバーが微かに鼻白む。
さもあろう。アーチャーの発言は、ある種の侮辱とも挑戦とも取れるものだ。
剣にかけては、誰の後塵をも拝さない自負がある。その自負に、泥をかけられたに等しい。
セイバーの反応は至極もっともなものであった。
……しかし。

「……別段、君を蔑(ないがし)ろにしている訳ではないよ。ひとつ、言っておこう。君の剣は天稟(てんりん)のものだ。そして、小僧には剣の才などない。セイバー、『天才』とはな。凡人を指導するには実に不向きな人種なのだよ」

名選手と呼ばれた者が、名監督になるとは限らないように。
素質故に剣に秀でた者が、必ずしも剣の指導にも秀でているという訳ではない。
セイバーのような天才肌の人間は、時として凡人の抱く悩みや壁を理解出来ない。
“才”という、意識せずともそれらを容易く乗り越えていけるだけの下地と地力があるからだ。
故に、成功経験は多分にあっても、失敗や挫折、そしてそれらを乗り越え、克服した経験が極端に少ない。
あったとしても、それは凡人ではまず手の届かない、次元の違う話が大半である。
だから、解決に至る要因や手法を上手く表せない。
むしろ、幾多の挫折を乗り越えてきた経験を持つ凡人の方が、資質に左右されこそすれ指導の効力も説得力もあるものなのだ。

「私は剣に関しては凡人だ。凡人の指導には、凡人の方が向いている。それが理由だ」
「……本当に、それだけが理由ですか」

眼光鋭く、セイバーが睨みを効かせて問う。
その眼差しに、アーチャーはほんの一瞬だけ、眉を顰めた。

「……ふむ。まあ、ありきたりだが今、小僧に死なれるのは色々と困るのでな。急ごしらえでもある程度鍛えておかねば、下手すれば次の決闘で強制退場だろう。学校での失態もある事だ。その無自覚に肥大した慢心、すべて削り去ってやろう」

しかし、それもすぐに元の平静な物へと戻り、今度は士郎を強引に自分の下へと引き寄せた。

「うわっ!?」

一本釣りされる魚のように、士郎の身体が勢いよくアーチャーの膝下にへばりつく。
膝の皿部分に強か顔を打ち付け、まるで顔面に膝蹴りを喰らったかのようだった。
流石に、これには士郎も心が不快にざわついた。

「テメ……ッ!?」

文句を叩き付けようと顔を上げたその瞬間、士郎の顔をアーチャーが鷲掴みにし、そして。

「――――小僧。最初で最後のチャンスを、貴様にくれてやる」

士郎の耳元に口を近づけ、士郎以外の誰にも聞こえないような小さな声で、告げた。
瞬間、士郎の憤怒の表情が、怪訝な物へと切り替わる。

「そのための“力”、生かすも殺すも貴様次第だ。だが、覚えておけ。“俺”は貴様に期待など、欠片もしていない。してなどいない。が……」

――――変えられるものなら、変えて見せろ。

「は……?」

反射的に士郎が振り返った時には、既にアーチャーの視線は居間の戸の向こうへと向けられていた。
いつもと変わらぬ、赤い背中と鷹を彷彿とさせる鋭い面差し。
だが、士郎にはそれがどことなく、陽炎のようにひどく薄く、そして曖昧な物に見えた。
まるで今にも溢れ出そうな己の内を、鈍色にくすんだ鉄で必死に覆い遮るかの如く。
真意を汲み取れぬまま、士郎の必死の抵抗も虚しく、居間から強制退場を余儀なくされる。
そうしてアーチャーが戸の縁(へり)を踏みかけたその時、何を思ったか急に足を止め、そのまま背後に振り返った。

「ああ、そうだ。少年」
「あ、は、はい?」
「最後にもうひとつ、聞きたいのだが。仮にライダーにイレギュラーが起こったとして、いったい何が出てくるのか、予想は出来るか」
「え……」

それはこの場における、最後の懸案事項。
如何なる御業か、サーヴァントがのび太の記憶にある異形へと姿を変えるという、聖杯戦争史上でも類を見ないイレギュラー。
決戦の際にそれが発生しないとは限らない。事実、アインツベルンの森では、バーサーカーを追い詰めたところで突如、そのイレギュラーが発生した。
展開次第では、ライダーに勝ったとしても、即刻イレギュラーに敗れ去る事になるだろう。
しかも、イレギュラーの戦闘能力は破格という領域を超えているのである。

「目星としては、ライダー以上の実力のある『騎乗兵』……なにか乗り物に乗って戦うなりなんなりが得意な者だと思うのだが」

バーサーカーはマフーガへと変貌を遂げた。
『バーサーカー』とは狂戦士のクラス。例外もあるが、基本的に理性で自らを束縛しない、狂暴凶悪な者にその適性がある。
マフーガが選ばれたのも、強力かつ理性などないに等しい、風の魔物という存在だったからだろう。
そう定義すれば、ある程度的が絞り込める。
のび太は、頭の中で可能性がありそうなものを指折り数えてみた。

(えーと……まずヤドリ、かな。他には……あ、バンホーさんとか。いや、でもライダーさん以上に強いとは思えないし、そもそも戦いたくないよ。あとは……ネコジャラ? けどメカはともかく、本人はバンホーさんより弱いだろうしなぁ。うーん、他には……)

銀河の果ての寄生生物、地底世界の竜の騎士、犬猫国の黒幕等、候補を上げてはいくものの、如何せんとりとめがなさすぎた。
この件に関しては、夢の中ではほぼノーヒントだったのだ。
あそこまで喋るんならもうちょっと教えてくれてもよかったのに、と内心歯噛みしても、結局は徒労にすぎず。
むしろ、あの男なら懇願したところで、ケタケタ嗤いを隠しもせず、悪態の一つでも吐いて中指を立てているだろう。
『バーカ』という幻聴が聞こえてきそうだ。

「うぅ~……」

想像の中の黒幕に必殺の顔面パンチをお見舞いしつつ、のび太は頭を掻き毟ってウンウン唸り始めた。

「うにゅ……むぅ」

のび太の胸を枕にしているフー子の表情がやや歪むが、気にも留めない。
頭から煙を噴きそうなほどの余裕のない有り様に、アーチャーの口から吐息がひとつ漏れた。

「そうか……まあ、仕方あるまい」
「ご、ごめんなさい」
「いや、そうかしこまられても困る。元々予想がつくならそれに越した事はない、程度に考えていた事だ。気に病む必要はない。それから……」

そこで、アーチャーは視線をのび太から外すと。

「凛。現実回帰したはいいが、煎餅や饅頭に八つ当たりするのは止めたまえ。そのような食べ方では、後で多大なツケを支払う事になるぞ。主に腹回りに」

再起動直後から、どこかやさぐれたように茶菓子をヤケ食いし続けている凛を窘めた。
理不尽で鉋を掛けられた精神を、栄養で修復しようとしているのか。
むすっとした表情のまま、一心不乱に咀嚼し続けるその背中からは、なんとも形容しがたいオーラが。
セイバーやイリヤスフィールなどは、そのいやに鬼気迫る光景に一歩引いていた。

「……解っててもやらずにはいられないのよ……文句ある?」
「ああ、いや。解った。これ以上は言わん。セイバー、もしくはイリヤスフィールでもいいが。とりあえず、ほどほどのところで止めておいてくれ」
「は、はあ……」
「う、うん。わかったわ」

君子、危うきに近寄らず。さながら、ピンの外れた手榴弾のような雰囲気を、凛は纏っていた。
特殊な家庭環境により、己の実年齢以上に自意識と良識が確立し、自身の気質からそれらが固定化されすぎているが故の悲劇。
もう少し人生経験を積み重ねていれば、懊悩を内心だけに封じ込めつつ、平静を保てていただろうが。
むしろ、あっさりと納得する方こそ異端なのだろう。常識は本来、投げ捨てる物などではないのだから。
物やのび太、士郎に八つ当たりしないだけ、まだマシな方なのかもしれない……。










士郎を引き連れたアーチャーが、今度こそ道場へと去った事により、決戦前の討論にピリオドが打たれた。
そして、今より六時間ほど後に、新都にて騎乗兵との二度目の死闘が幕を開ける事になる。





――――天馬の軌跡より、鋼の軍靴の音が鳴る。





その事を知る者は、一人を除いて他にはない。







[28951] 第三十六話
Name: 青空の木陰◆c9254621 ID:90f856d7
Date: 2013/01/01 18:56





あの晩より、幾度確かめたか知れない。
身体の内に、意識を向ける。
幼少の頃より、己を苛み続けてきたモノ。
我が身を喰い荒らし、蹂躙し続けてきたモノ。
それらの気配が、一切感じられない。

「……やっぱり、夢じゃ、なかった」

何度となく呟いた言葉を、飽きもせずに発するのは紫の乙女。
己の祖父がこの世より消え去った、あの夜。
生物が焼け焦げるタンパク臭漂う暗闇の中で意識を取り戻した時、ふと己の身体の違和感に気づいた。
だが、それは負の方向ではない。
むしろ、プラス方向のものだった。
祖父の手により、強引に彼女の身体に埋め込まれた刻印蟲。
彼女の身体に存在する魔術回路を制御改造し、祖父の望むモノへと肉体を造り替えていく外法の魔導生物。
それらの一切が、姿を消していたのだ。
数十ではきかないほどの数が巣食っていたにも拘らず、一匹残らず、綺麗さっぱりと。
調べずとも、解る。
あの嫌悪という言葉すら超越した感覚が、身体のどこにも、一片たりとも感じられないのだから。

「――――ッ」

我知らず、身体を捩り身悶える。
言い表せぬほどの感情のうねりが、彼女の身を焦がす。
だが、その表情に浮かんだ笑みは、歓喜と言うよりは自嘲に近いものであった。
蟲から解放され、祖父も既にこの世にない。
だが、この身は既に汚れきっている。
この家に来てより受けてきた、想像を絶するほどの凌辱と虐待。
それらが彼女に齎したものは、生半可なものではない。
その心の奥底には、いまだじくじくと夥しい血を流し続ける傷が残されたままなのだ。

「……けど」

しかし、その一方で腑に落ちない事もある。
自らの魔力が、以前に比べて格段に安定し、そして増加しているのだ。
いや、湧き上がってくると言ってもいいだろう。
自身の奥底からじわじわと熱く、緩やかに、身体の隅々までを循環し、満たしてくる。
まるで地下を対流する間欠泉かマグマが、自らの血潮となって身体を駆け巡っているような。
その灼熱の感触が、身体中に沈殿した瘧を悉く洗い流していく。

「…………ッ、あはっ」

これまで味わった事のない、爽快感。
煌々と輝く月明かりだけが照らし出す、彼女の部屋のベッドにおいて。
身を横たえたまま、艶然と薄く笑う彼女は一人、その感触に酔いしれていた。
スプリングがぎしぎしと音を立て、壁にまで長く伸びた人型の影が、彼女が身を震わす度ざわざわと忙しなく揺れる。

「――――……でも、あの人」

ひとしきり感情に身を委ねたところで呟いたのは、あの日見たモノに対する懐疑。
どこまでも黒く、黒く、どす黒く。
畏怖の対象であった祖父すら足元にも及ばない、およそ異端からすらかけ離れた異端。
それでいて、どこかしら無条件に安心感を感じさせる、その背中と声。
顔や姿は判然としない。確かめるには、あの地下は薄暗すぎた。
だが、己が目と耳が認識出来た輪郭と声音、そして質こそ正反対だがあの双眸は……。

「……先輩……ッ」

言葉に出して、次の瞬間にはすぐさまそれを否定する。
あれは自分が憧れを持つ、その人ではない。
あの人は、あんなに人を小馬鹿にしたような言動はしない。
あの人は、あんなに嬉々として凶器を振るったりはしない。
なにより、あの人は……あんなに全身に狂気を漲らせたりはしていない。

「…………」

それでも。
だが、それでも彼女の理性は訴え続ける。
あれは、己の知る彼のものであったと。
彼は、あの蟲倉の存在すら知らないはずだというのに。
矛盾しかない、その回答が頭の中で渦巻いている。
これはいったいなんだと言うのか。
いまださざ波のように揺れる感情をそのままに、彼女はほんの少しだけ考え込む。
そうして、出した答えは。

「……きっと」

なにか、自らでは及びもつかないような異常事態が起こっているのだ。
そう結論づけるしかなかった。
そうでもなければ、あの祖父がああも簡単に存在を抹消される訳がない。
そうでなければ、この身から蟲の悉くが消え去る訳がない。
自らの周囲で繰り広げられている、七人の主従の殺し合いについて、彼女は知っている。
というよりは、彼女もある意味で根深く関っている関係者なのだ。知らない訳がない。
祖父は、この戦争の黒幕だった。
他はどうだか知らないが、少なくとも戦争については誰よりも熟知していたし、戦争当初からなんらかの目論見を持っていたようだった。
自ら姿を現さず、舞台を影から操り、己の恣(ほしいまま)に誘導する者は、当然自らが窮地に追い込まれぬよう、幾つもの安全策を張り巡らせておくもの。
しかし、それらすべてをあっさりと飛び越え、まるで道端の虫ケラでも踏み潰すかのように祖父は蹂躙され、消されてしまった。
つまり今、この戦争は祖父の思惑を超えた事態に陥っているのだ。
彼女の頭脳は、そのような論理立てを行っていた。
……そして。

「――――ッ!?」

突如として全身に走る、ざらつくような奇妙な感覚。
その感覚は、彼女の推論に裏打ちをするものであった。
ギシッ、と鳴り響く、一際大きなスプリングの音。
横になった身体が、弾かれたように跳ね起きた。

「い、今の……っ」

それは、彼女と繋がりを持つ者との、レイラインから伝わってきた。
今、そのラインは繋がりをこそ保っているが、死滅したように閉じている。
とある事情から、その必要性も、必然性もなくなってしまったからだ。
だが、良くも悪くも一度出来た縁というのは、なかなかに切れないもの。
未練がましく、結果的に今も尚繋がりを維持しているのは、果たして偶然なのか必然なのか。
その死んだようなレイラインから、異常な感触が届いた。
ラインが活きていた時でさえ、こんな事はなかった。
向こうが敗れ、消え去ったのならラインも諸共に消え去るはず。しかしラインは以前と変わらず、接続され続けている。
これはいったい、何を示しているのか。

「…………ッ!」

ザワリ、と心がざわめいた。
今度は焼けつくような焦燥が胸を焦がし、頭が徐々に俯きがちに沈んでいく。
無意識のうちに力が籠り、ベッドのシーツに深い皺が幾筋も走る。
鉛色の不安と緊張に押し潰されそうな心臓が、早鐘のように脈を打つ。

「――――――……っ、ふぅううううっ」

右手でそこを固く握り締め、深く、深く息を漏らした。

「……いかなくちゃ」

決然と、顔を上げる。
揺れる瞳で前を見据え、やおらベッドから立ち上がる。
レイラインは羅針盤。
その先端を辿る事で、自分が行くべき先を教えてくれる。
今、行かなければきっと後悔する。そんな予感が彼女を突き動かしていた。
それには明確な根拠などない。第六感だけで組み上げられた砂上の楼閣。
それでも、彼女は動かずにはいられなかった。
もはや、ただ座しているのは嫌なのだ。
たとえ、その先になにが待ち受けていようと。

「ライダー……!」

絞り出すような声でそう呟き、彼女……間桐桜は、駆け足に部屋のドアノブに手を掛けた。





――――始まりは、一方的であった。

「うわわわわわっ!?」
「ぐぅ……っ、は、速い!」
「やっぱり、伝承通りか……!」

頭上から、白い閃光が迸る。
空気を切り裂き、衝撃波を撒き散らしながら吶喊を図る有翼の神獣。
見る者に畏怖と尊崇の念を抱かせる、白無垢とでも形容すべき覇気と威容が、戦場の空気を支配する。
天馬『ペガサス』。
月も高々と昇った無人の新都。オフィスビル区画に足を踏み入れたその瞬間を、電光石火で天頂より飛来し急襲。
決戦と打って出たのび太達の出端を挫き、騎手が戦いの優勢をもぎ取った。

「く……網を張っているとは思っていましたが、まさかこうまで虎視耽々と待ち構えていたとは……」
「本命をこちら一本に絞っていたからこそだろうよ。それならばテリトリーに入ったのを捉えるのはさほど難しくはないからな。ライダー本人はともかく、マスターの小僧に対する執着……いや粘着は、病んだストーカー顔負けだ」

乱立するビル群を円状に高速旋回し、自らを贄とした、雷撃のような縦横無尽の特攻の雨をライダーは、次々繰り出していく。
のび太達は姿勢を低くしてその猛攻を潜り抜けていくが、ほとんどがギリギリの紙一重に近い。
そんな中においても、飄々と分析所見を口にするアーチャーの鷹の目は、天空を旋回する天馬を視界に収め続けている。
この中で、空中の敵と最も相性よく戦えるのは、飛び道具による遠距離攻撃を主体とするアーチャーだ。
いつの間にか手にした黒弓に矢を番え、いつでも射る事の出来るよう構えるその様は、西部劇のガンマンを想起させる。
だが、ついにその矢が放たれる事はなかった。
敵影が、高層ビルの陰にその身を隠してしまったからである。

「ちっ」

微かな苛立ちの混じった、アーチャーの舌打ち。
弓に限らず、飛び道具というのは基本的に直進するもの。
故に、標的が障害物の向こうに隠れてしまえば、それだけで致命的なのだ。
まして、通常の矢ではまず効果がない。
自らの眼で見て確信した。あれは生半可なモノでは通用しないと。
たとえその身を捉えたとしても、纏う濃密な神秘で弾き飛ばしてしまうだろうと。

「士郎、いた?」
「いや、見つからない……のび太君?」
「うぅ~……ダメです。フー子は?」
「…………だめ。おんなじ」

一方、士郎、凛、のび太、フー子の四人は、身を縮めながらも目を皿のようにして、周囲を見渡していた。
探し物は言わずもがな。
天馬を使役するライダーを、さらに使役する者だ。

「この近くにいるのは間違いないと思うんだけど……!」
「ライダーと違って、マスターは気配がないからな……っつうわっ、ぐぅ!?」
「うひぃいいいい!?」

ビル群を縫って再度、神速の吶喊を仕掛けてきたライダーを、地面にへばりつくようにしながらなんとかやり過ごす。
が、次いでやってきた衝撃波が身体を薙ぎ、悉くが堪らず吹き飛ばされかけた。
金属バットで殴られるよりも確実に凄まじいだろうそれは、人間にはかなりの消耗を強いる。
“たずね人ステッキ”を使う暇すら、与えてはくれない。

「ぬっ……!」
「む……たったこれだけでここまでの影響が出るか……」

おまけにこれは神秘を纏っているので、英霊二人も無傷では済まない。
傷こそ負っていないものの、セイバー、アーチャー両名共に鎧の下の筋肉や関節が軋みを上げていた。
マフーガの時のように“バリヤーポイント”を用いていれば問題はなかったのだろうが、今回は使用していない。
万一、現在取っている密集隊形がバラけてしまった場合、バリアを張ったままでは合流にタイムラグが生じてしまうからだ。
各人がひとつずつ持つにせよ、誰かが代表して持つにせよ、“バリヤーポイント”には『その頭文字を呼べば、頭文字が該当する対象物を範囲内に入れられる』という、この状況下ではある意味、実に七面倒くさいシステムが存在する。
スイッチを切るのもひとつの手だが、そもそもブツはピンポン玉より小さいのだから、焦っているとそれすらおぼつかず、取り落してしまうのが関の山。
下手すれば各個撃破の憂き目に遭うのは、想像に難くない。
それに、天馬の吶喊に効果がないと解れば、相手はおそらく撤退も視野に入れるだろう。ここで決着をつける腹積もりで来たのに、それは流石にまずい。
ならばいっそ使わない方がいいとの、両刃の剣の決断だった。ダメージ覚悟で物陰に引っ込まずに、通りに姿を晒しているのもそのため。
アインツベルン組は今回も留守番だが、掠ってもいないのにこれでは、留守番で正解と言えるだろう。

「のびた、だいじょうぶ?」
「う、うん……なんとか。フー子は平気そうだね」
「ばーさーかー、ごっど・はんど。ボク、へいき」

唯一の例外はフー子。彼女は、バーサーカーの宝具である『十二の試練(ゴッド・ハンド)』を所持している。
『十二の試練(ゴッド・ハンド)』の効果のひとつは、Bランク以下の攻撃の無効化。
この程度の衝撃波など、そよ風とたいして変わりはない。
ただし、本体の吶喊の直撃だけは話が別で、途端に自前の紙装甲と化してしまう点は見逃せないのだが。

『はははははっ、あーーーーっははははあはははっ! いいぞライダー! もっとだ、もっと甚振ってやれ!!』

四方八方から木霊する、ライダーの主たる慎二の声。
狂気に染まった声音が、ビルに反響して尚更耳障りに響き渡る。
どうやらこのビル街のあちらこちらにスピーカーを幾つも仕込んでいるようで、野外コンサートのステレオサウンドのように発生源の違う同じ音声が共鳴を起こしている。
そのおかげで、声を頼りに姿を隠した慎二を探す事が事実上不可能となっている。
同じ御三家でも、遠坂のように年中火の車という訳でもなく、むしろアインツベルン寄りでそれなりに資産があり、機械に苦手意識のない間桐だからこそ出来得た事だろう。
機材を用意するだけでかなりの金額が必要なのだから。
もっとも、ライダーを使って適当な店舗から強奪してきた可能性もあるが。

「くそ、このままじゃ……」
「焦るな、未熟者。この程度ならば、まだ想定の範囲内だろう」

早くも焦燥感を露わにする士郎に、アーチャーが即座に喝を入れる。
この場のアドバンテージは向こうにあるが、手がない訳ではない。
というよりは、勝算も対抗手段もなしに挑むのは、自暴自棄になった愚者のやり口である。

「では、行こうか。まずは、私がカードを切る。凛、令呪でブーストを頼む」
「ッ! ……了解。ワードは?」
「命中よりも出力に焦点を当ててくれ」
「え……パワー重視でいいの?」
「ああ。今から放つのは、当てる事に関して特化したモノだからな」

言うや否や、アーチャーの右手にはいつの間にか矢が握られていた。
だが、その矢はただの矢ではない。
過去に使用した『偽・螺旋剣(カラドボルグⅡ)』と同じように、矢にしては歪んだ形をしており、まるで矢以外の物体を無理矢理変形させて矢にしたような印象を抱かせる。
明らかに空力やらなにやらを無視したような外観だが、そこから滲み出ている存在感は尋常ではない。

「それは……」
「詮索などしている場合ではないぞ、小僧」

流れるような動作でアーチャーはその鈍く黒光りする矢を黒弓に番え、一気に引き絞る。
次いで、凛が己の顔の前に令呪の宿る腕を構えた。

『はははははは! 何をする気か知らないが、何をやっても無駄だよ、無駄!』
「……それは貴様が決める事ではない。凛!」
「ええ。令呪を以て命ずる! 『次の一撃に、全身全霊を込めよ』!!」

凛の掲げた腕から、令呪の一角が掻き消える。
それと同時に、アーチャーの身体より魔力の紫電が勢いよく迸った。

「――――『赤原猟犬(フルンディング)』!!」

誰にも聞き取れないような小声で、だが力強くアーチャーが吼える。
次の瞬間、弓弦より紅の稲妻が射出された。

「うわっ!」
「くっ!」

衝撃と閃光に、のび太と士郎が目を覆う。
大気を切り裂き、天馬目掛けて流星のように疾駆する矢。
乱立するビル群の陰から出たタイミングを見計らって、一直線に放たれたその矢は、見事に直撃コースに乗っている。
……相手が硬直していれば、の話だが。

「…………!」

一瞬だけ、ライダーの表情が動くが如何せん一瞬。
すぐさま天馬を御し、再度手近なビルの陰へ猛スピードで身を隠す。
紙一重で躱されたそれは、役目を果たす事なく夜空の彼方へ消え去っていく。

「躱したか……――――だが、ここからだ」

アーチャーに、狩猟者のような獰猛な笑みが浮かぶ。
まさしく、狙い通りだと言わんばかりに。

「は……?」
「え?」

外したというのに、衰えぬ自信を漲らせている弓兵に、士郎とのび太はつい顔を見合わせ、互いに首を傾げてしまう。
しかし、それも束の間。
空の彼方で起こったあり得ざる現象に、彼らは目を剥いて絶句した。

「「……!?」」

拳銃やライフルの弾は、推進力を受けてただ直進するのみ。
それらよりも原始的な武器である弓矢も、重力の影響を強く受ける点を除けば同じ事。
その普遍の法則を、アーチャーの矢は根本から覆した。

「――――まっ、曲がった!?」

驚愕に彩られた、のび太の端的な言葉が事象のすべてを物語っていた。
外れたはずの矢が突如軌道を変え、ビル陰に逃れた天馬の後背を追尾し始めたのだ。
その名の通り、野を駆ける猟犬のように。

「――――――!?」

驚愕に染まったのは、騎乗兵も同じ。
眼帯の下の瞳は、きっとこれでもかとばかりに見開かれているだろう。
しかも、それは生半なシロモノではない。
令呪による後押しによって膨大な魔力の気炎を噴き上げ、怒れる雷神のように荒れ狂う紅い凶弾だ。
喰らえば、いかに天馬とて相応の痛手を覚悟しなければならない。
判断後のライダーは、迅速に事を運ぶ。

「ク……ライダーよ。それは対象を捉えるまで、たとえ地の果てに行方を晦まそうとも喰らいついていく。果たして逃げ切れるかな」

螺旋を描くようにビルをグルグルと旋回し、壁沿いに急降下したかと思えば急上昇。
右に左に、不意を突いて直角に近い角度でカーブ。その刹那に、見ているだけで酔いを覚えるような強烈なバレルロール。
天衣無縫に幾筋もの軌跡を織り交ぜながら、ライダーはあらゆる手段で追っ手を振り切ろうとする。
だが、振りきれない。
ピタリと沿うように、寸分の狂いもなく矢は天馬の軌跡をなぞっていく。

「ちっ!」

上空で響く、舌打ちの音。
無論、下の敵には聞こえてなどいないが、標的から決して離れぬ弓兵の鷹の目ならば、視認くらいは出来たであろう。
相手が勝利条件を満たさない限り、このいたちごっこはどこまでも続く。

「――――!」

騎乗兵の口元がキッと引き締まる。
ならば、とライダーの採った予期せぬ行動に、矢の張本人であるアーチャーまでもが目を疑った。

「……まさか」
「ちょ、おいおいおいおい! なんだあれ!?」
「なんてメチャクチャ……!」

なんと、ライダーは錐揉みしながら、猛スピードでその身をビルに突っ込ませたのだ。
堅牢な鉄筋コンクリートで覆われたオフィスビル外壁を突き破り、内部の壁から柱や防火シャッター、強化ガラス、備品に至るまで、溢れる神秘で以て根こそぎ粉砕し、そのまま反対方向から一気にぶち抜き、易々と貫通する。
己自身をライフル弾とするかのように、ビルのどてっ腹にぽっかりと風通しの良さそうな大穴を開けた。
かろうじて倒壊こそしないだろうが、その中は建て直しでもした方がいいくらいに滅茶苦茶である。
中からビルの守衛等が出てこないところを見ると、どうもライダー側がこの辺りに人払いの魔術を仕掛けていたらしい。
マスターがやったか、サーヴァントがやったのかは判然としないが、それはどうでもいい事だ。
異常とも言えるライダーの行動に、当然ながらなんの反応も示す事なく、『赤原猟犬(フルンディング)』はそのまま猛追を続行する。
だが、そこに破壊の副産物である瓦礫の山が立ち塞がった。

「ぬ……っ!」

崩落しながら、前方を覆い隠す大量の大小の瓦礫を物ともせずに余波で吹き飛ばしながら、『赤原猟犬(フルンディング)』がビルの貫通口を駆け抜けていく。
しかし、如何せん瓦礫の質量が多すぎた。
サーヴァントや宝具等といった神秘の存在に、神秘と関わりのない者が干渉する事は難事だが、人や生物でない物体ならば、条件次第だがそれはある程度、緩和される。
でなければ、天馬がビルをぶち抜くなどという荒業は出来ないのだから。
続けざまに二棟、三棟とビルに吶喊を仕掛けて巨大な風穴を開けていくライダー。
当然、それを追いかける矢も開いてすぐの風穴にふたつ目、みっつ目と飛び込んでいく。
次々降りかかる残骸の雨と、目前に堆(うずたか)く盛られた人工物の土塁を、紫電を吹き散らしながら弾く、穿つ、突き崩す。
鉄とコンクリートが擦れ合う、耳を劈(つんざ)くような異音が各ビル内にぐわんぐわんと木霊し、断末魔の如く反響する。
それと反比例するように、矢から放たれる輝きと紫電が徐々に弱くなっていった。

「――――シッ!」

そこを天馬が急反転、そして一気にトップスピードに乗る。
迸る神秘と、弓兵の矢に勝るとも劣らない速度にあかせた天馬の吶喊は、今まさに四棟目のビルを突き抜けてきた『赤原猟犬(フルンディング)』を、木っ端微塵に粉砕した。

「あーっ! 矢が!?」
「……まさかあんな手法で矢の威力を削ぎ落とすとは……なんとも豪胆な」
「マスターはともかく、サーヴァントはバカではないという事だろう。あの程度の機転も利かせられなければ、英霊とは成り得んよ」
「……とりあえず、揉み消し工作担当の綺礼には同情しておこうかしら」
「というか、揉み消せるのか、これ……?」

ビルを利用して、『赤原猟犬(フルンディング)』に込められた過剰とも言える魔力を削ったライダーの奇策。
召喚さえしてしまえば、あとは神秘をある程度自ら生み出せる天馬と、使用者を介して送り込まれなければ魔力を維持出来ない『赤原猟犬(フルンディング)』の差が顕著に出た形だ。
ライダーは穂群原で天馬を召喚し、脱出した後、天馬をそのまま空の上に待機させていた。
送還してまた呼び出すのに大量の魔力を喰うのは下策だからだ。
召喚されてからこっち、時計の長針が半周はするだろう時間をずっと存在し続けていた点を鑑みれば、力の節約を抜きにしても秘められた神秘の桁が違うのは一目瞭然。
最高クラスの『幻想種』は、伊達ではない。

「……たしかに凌ぎはした。が、さて、どう出る?」

しかし、彼らの表情に落胆はない。
アーチャーの一矢がどうにかされる事は、想定の内。
彼らにとって肝心なのは、攻撃そのものではなく、むしろ攻撃の後。
『赤原猟犬(フルンディング)』は、間違いなく本気の攻撃ではあったが、それは所謂ボクシングの軽いジャブと価値は同じであった。
要は様子見、そして誘いだ。
この戦闘での本命は、アーチャーではない。
奇策により、一歩及ばず届かなかったとはいえ、今のでこちら側に対してそれなりの脅威は感じたはず。
そして、敵マスターはこちらの状況を具(つぶさ)に観察し、把握している。
ライダーが躊躇なく、ランダムにビルをぶち抜いていった辺り、おそらく、ビルにはいないのだろう。
適度な、言い換えれば中途半端な威力の威嚇は、敵を誘導する極上の誘い水となる。
特に、相手の思慮に杜撰な面が目立つのなら尚更。
アーチャーが、唇を軽く舐めた。





油断と、そして脅威。
戒めを緩めたつもりはなかったが、制空権を取ったからといって、決して気を抜いていい相手ではなかった。
ライダーは、思考を広げて己が状況を俯瞰する。
天馬を御する手綱を、思考と切り離しつつも制御する事など彼女にとっては造作もない。
高度、速度、飛翔ルート。それらを並列処理どころか無意識に計算し、即時に把握、判断する事もまた同じ。
眼下で一塊となっている敵集団を見下ろし、微かに背筋に走る悪寒を意図的に捻じ伏せた。

(躊躇いなく令呪を使った……ただの矢でないとはいえ、たったの一矢に)

令呪はマスターの切り札である。
それ故、三画あるうち通常使用するのは二画まで、というのがマスターの間での常識となっている。
最後の一画を使ってしまえば、サーヴァントを縛るものは何もなくなるのだ。
サーヴァントが忠義の徒か、さもなくば余程の信頼関係を築けていない限りは、掌返しで殺される可能性もある。
だからこそ、使用を二画までに収めて余裕を持たせておく必要があるのだ。
その貴重な二画のうち一画を、こうもあっさりと使用してきた。
それはつまり、敵がここで完全に決着をつけるつもりだという証拠。

(撤退するのも選択肢のひとつ……)

しかし、それでは己がマスターは納得しないだろう。
頭に血が上り、怨嗟と狂熱に浮かされた状態で、既に取り返しがつかないところまで来ているのだ。
これを鎮火させるには、それこそ本人の目の前に他陣営からの横槍が直接入るなど、予想すら遥かに超えた想定外の出来事でもなければ無理だろう。
そうだとして、自分が、そして主が己に採らせるだろう手段は、おおよそ限られてくる。

『はっ……ははははははは! れ、令呪まで使ってあの程度か!? そんなモンが、ライダーに通用するかよ! もういい、ライダー! 遊びは終わりだ!!』

今まで繰り出してきた甚振るための強襲ではなく、仕留めるため本命の一撃を叩き込む。
どうやら、今の矢はマスターの警戒心と慢心を引き上げたようだ。
嘲笑の中に僅かな怯えが、虚勢の中に微かな優越感が混じっていた。
それを誘発する事こそが、まさしく敵の狙いそのものなのだが、神ならぬライダーの思慮はそこまでは及ばなかった。
いずれにせよ、今は主命に従うのみである。
先程の一矢には驚いたが、あれだけで終わりとは到底考えられない。
敵に隠し玉があるにせよなきにせよ、全力を発揮される前に叩き潰すのは戦術の常道なのだから、その点から見ても否やはなかった。

「…………!」

手綱を引き絞り、天馬に道を示す。
彼女の駆る天馬は、正確には彼女の宝具ではない。
ではいったい何かと問われれば、実は彼女の握る天馬を御する手綱こそが宝具なのだ。
手綱には、騎乗可能ならば幻想種すら御せる能力と共に、その野性を解放する力がある。
神話の印象からも読めるように、天馬の性格は普段は比較的穏やかで、平穏を好み争いを嫌う。
しかし、手綱を以てすれば、その理性を振り切って秘められた力を全開にする事が可能になるのだ。
加えて、彼女が駆るのが高位の『幻想種』の天馬である以上、今まで以上の速度と神秘を操る事が出来る。
堅牢な神秘と、常識外れの最高速度。
まさに、戦略レベルの最終兵器。それが彼女の最後の宝具の正体なのである。

『さあ、見ろ衛宮、遠坂! これが、これが間桐の系譜たる、僕の力だ!』
「…………」

ビル街の各所に仕掛けられたスピーカーからの奇声じみた音声に、彼女は内心で複雑な思いを抱く。
間桐慎二は、ある意味では魔道の被害者とも言えた。
魔道を志す者は、基本的に血筋や才覚、能力で判断される。
魔術師の在する世界とは、身も蓋もない言い方をすれば、差別と偏見が随所に入り乱れた、歪みに歪んだ超実力社会だ。
力なき者、歴史なき者は容赦なく貶められ、淘汰される。
慎二は前者にカテゴライズされる落伍者。歴史ある家系の出でありながら、魔術師の前提条件たる魔術回路が備わっていなかった。
それは、彼にとって生まれたその瞬間に己がすべてを否定されたに等しいものだ。
加えて、彼の祖父は良くも悪くも、魔道の探究者としてほぼ完璧に近い存在であった。
決定的なのが、自分とは違う、妹の存在だ。嗚呼、これで歪まずにいられようか。

(……揃いも揃って、無慈悲な運命に狂わされた存在、か)

因縁めいたものを感じずにはいられなかった。
己の出自、間桐の闇。それらが複雑に絡み合い、あやふやながらも、一本の線で結ばれている。
奇縁、宿縁とも言えるかもしれない。だからこその、『自分(メドゥーサ)』という存在なのだろう。
元々、彼は暗愚ではない。だが、たったひとつボタンを掛け違えただけで、こうも醜悪に変貌する。
それ故の人間という存在か、とそこまで考えたところで、彼女はこのとりとめのない思考を打ち切った。

『やれ、ライダー!』

“虚構”とはいえ、仮にも今は主従だ。
ならば期待には応えねばならない。
手綱に魔力を籠め、力を解放する。

「――――――――!!」

天馬が低く嘶き、その瞳から理性の輝きが拭い去られる。
元々、騎乗生物の思考をある程度制御する宝具である。解放するのにそこまでの魔力は必要ない。
燃費が悪いのは、偏に天馬の召喚に魔力を喰いすぎるからである。

「はあっ!」

一旦ビル街を大きく旋回し距離を取り、次いで上空高く舞い上がる。
徐々に速度を上げ、夜空の彗星を思わせるほどに神々しく光り輝いていく。
予定高度まで達し、眼下に敵の姿を映す。
かろうじて見える豆粒のような人塊は、一人のみが前に突出し、その他はその後背に控えるといった陣形を布いている。
前衛は、銀と青の騎士、セイバーだ。
身体が淡く発光しているところを見ると、どうやら魔力を高めているらしい。
根を下ろすように大地を踏みしめ、腰だめに剣を構えるような前傾姿勢。
彼女の眉が疑問を示すように顰められたその時、赤胴色の髪の少年が手の甲を顔の前に翳したかと思うと、一瞬だけ、そこから光が奔った。

(令呪――――そこまで!)

背筋に戦慄が奔る。
これで、敵側のマスター陣が消費した令呪は都合二画。この場における、必殺の執念を垣間見た。
紫電纏う魔力の燐光に金砂の髪を揺らめかせ、こちらに勝るとも劣らない威圧感を漲らせながら、剣の英霊が天空を睨み据えている。

(これが本命か!?)

してやられた、と事ここに至って痛感した。
弓兵の矢は、脅威をちらつかせてこちらを望む状態に誘導するための布石。
まんまとのせられてしまった事に、舌打ちを漏らしたくなったが、ぐっと堪える。
そんな余裕があるのなら、なけなしの魔力を手綱にくべ続けなければならない。
ここまで来たら、あとは伸るか反るかの真っ向勝負しかありえない。

「『騎英の(ベルレ)――――」

神秘と速度を限界まで引き上げ、嵐中の落雷の如く敵目掛けて疾駆する。
黄金色の火花を放ち始めた不可視の剣を八双に持ち上げ、いざ迎え討たんとしているセイバーが、軽く口元に笑みを形作っている。
溢れる自信を隠しもせず、大胆不敵なまでにこちらを誘っている。
……ならば。ならば、それを喰い破ろう。
それだけが、自らが選択し得る活路なのだから。
肺腑を一息に膨張させ、勇の一切を振り絞るように力強く彼女は吼えた。

「――――手綱(フォーン)』!!」

紡ぎ出された、最後の真名。
天馬が身体の内に封じ込められていた、そのすべてが解き放たれた。
天から大地を切り裂くような、白光の流星が仇名す敵を蒸発させんと迫る。
対する剣士の獲物からは、暁の太陽に匹敵するような輝きが迸り、ビル街を煌々と照らし出す。
急速に縮まる彼我の距離。接触まで、もはや数秒の猶予もない。
勝負は一瞬。負けたら、などとは考えない。

(決める――――!!)

ギリッ、と鈍い音と共に奥歯が軋み、騎乗兵の網膜が光で埋め尽くされる。
視覚も、聴覚も、嗅覚も、すべてが塗り潰されていく。
知覚出来るのは、自らが座し御する天馬の体温と、その手に掴む手綱の感触のみ。
伝わってくる純白の神秘の波動、身体の隅々まで全能感に満たされる。
そこには、恐怖も迷いもない。
ただ、勝利を目指して己が全霊で突き穿つのみ。
……だが。



――――――おっとぉ、そこまで。『チン・カラ・ホイ』っと。



突如、脳裏に響く声。
訝しむ暇も与えられず、次の瞬間には、騎乗兵の身体が天馬諸共、光となって蒸発した。





『――――……え……は?』

“唖然呆然”。
まさしくそのような表現がピタリと当てはまる。
スピーカーから垂れ流される間抜けそのものの音声が、騎乗兵の主の心境を如実に物語っていた。

「…………」

一方、セイバーは不発に終わった『約束された勝利の剣(エクスカリバー)』を解除し、虚空に散らばる騎乗兵の残滓をじっと見据えていた。
その表情は、厳しく引き締められたまま。
後背に佇む五人も、驚きこそすれ動揺などは感じさせない。
むしろ、脳裏には皆共通の思いがあった。
すなわち、『嫌な予感が的中した』。

「まさか、このタイミングでとは……どうも、作為的なものを感じるな」
「……そうね。けど、今は」
「警戒を密にするのが最優先です」
「ああ」

無駄に終わり、そのまま身体の中から抜けていく令呪の魔力に欠片も関心を示す事なく、セイバーは再度剣を構え直す。
時を同じくして、アーチャーの両の手には黒弓に代わり、武骨な黒白の双剣が握り締められていた。
それを合図に、凛は右手の指にいくつかの宝石を挟み込み、士郎は魔術回路を起動させ、のび太は“ショックガン”を“スペアポケット”から抜き放つ。
そしてフー子は、“竜の因子”を操り己の魔力を静かに高めていた。

「……来る!」

セイバーの眼光が鋭さを増し、剣を握る手に力が籠る。
場所は地上、彼我の距離にして二十メートルほどの位置。
空中にばら撒かれた光の粒子が、そこに渦を巻くように集束を始め、眩く輝く金色の塊となってゆく。
マフーガの時のように、天空が暗雲に閉ざされる事もなければ暴風が吹き荒れる事もない。
さらさらと、さながら砂時計の砂が零れ落ちるように、光の粒子は静かに、実に静かに人の姿を形作った。
光の珠から両腕が生じ、両脚が現れ、胴体が形を成し、そして、最後に頭部が。
視覚を制限していた光のヴェールが取り払われると、そこには一体の人型がいた。
その、刹那。

「……え?」

それは彼をして、心臓を銃で撃ち抜かれたかのような衝撃を齎すものであった。
まさかそんな事はあり得ないだろうと、心のどこかで無意識に否定していた事が、今まさに、まざまざと突きつけられている。

「あ、ああ……!?」
「……のび太?」
「君は……知っているのか。あの少女を」

そう、知っている。
忘れようもない。
今、のび太達をじっと見据えている“彼女”の姿は、彼にとっては忘れようにも忘れられない。
背中まで伸びたレッドピンクの髪に、水晶のように無機質で透き通るような瞳。
ティーンエイジ中盤、彼らの中ではセイバーと同じくらいの歳頃の秀麗な様相に、のび太よりも頭一つ分高い上背。
冷たいような、けれども柔らかいような、そんな相反する印象を抱かせる雰囲気を纏うその少女を、どうして記憶から消し去れようか。
“悪”などでは決してない。かつて自らを滅ぼしてまで、救いを齎した。
その『鋼の天使』の姿が、そこにあった。

「リ……ル――――!」

ふらふらと、のび太が一歩踏み出しかけたその瞬間。



――――『鏡面世界(リバーサル・ワールド)』



彼女の瞳が光を発し、ぐるりと世界が『反転』した。







[28951] 第三十七話
Name: 青空の木陰◆c9254621 ID:90f856d7
Date: 2013/02/18 17:05





『鏡の中の世界』。
単純に言葉にすれば、実にロマンティックに聞こえなくもないが、さて実際にはどうだろうか。
遊園地のミラーハウスのように、いくつもの鏡が乱立し、不思議のラビリンスと化しているのなら、まあ幻想的だと言えるかもしれない。
しかし、本物の鏡の中の世界とは、そんな面白おかしい物では決してない。
不可思議ではあるが、ある意味では果てしのない虚無であり。
そして、『この世界』の場合は、そこに存在する“モノ”達によって、極めて危険な世界へと変貌を遂げている。
彼ら六人は、今まさにそれを目の当たりにしていた。





「こ、ここは?」
「新都? ……いや、違う、のか? どこだ、ここ!?」
「無人か。だが、人払いの魔術の気配はない。元からそういう場所なのか、それとも……」
「看板の文字が鏡文字に……それに建物の状態も配置も、方角までもがおかしい」

見渡す限り、人気の絶えた市街地がどこまでも続く。
これだけなら、今までいた新都のビル街となんら変わりはないが、明らかに不自然な箇所があった。
つい先程風穴を開けられたはずのビルが、いつの間にか元に戻っているのだ。
おまけに、東西南北の方角がひっくり返したかのように完璧にイカれており、何より看板やポスターに書かれた文字や絵が反転し、鏡文字になっていた。

「こ、これってまさか……君が!? ど、どうなってるの!?」
「…………」

皆が動揺と混乱に見舞われる中、ただ一人、のび太だけは、この眼前の現実の正体を看破していた。
本来であれば、ひみつ道具でしか起こし得ない事象。
それを目の前の存在がやってのけたという事を、漠然とながら悟っていた。
不整脈でも起こしたかの如くざわめく心臓の音を余所に、のび太は問いを投げかける。

「答えてよ! なんで、どうして黙ってるのさ!?」
「……ッ」

世界が一変しても尚、眼前に佇むレッドピンクの少女。
ほんの微かに、彼女はその無機質な深緑の目を見開いたが、能面のような無表情は変わらず、むしろ微かに影が差す。
そしてゆっくりと、花が萎れるように彼女の頭が俯いていく。
掻き毟るほどにもどかしい沈黙が続いた。

「ねえってば!」
「……のび……太君……ッ」

絞り出すような声が、彼女の咽喉から漏れ出る。
だが、その声はあまりにもか細く、のび太の耳には届かない。
そこへ。

『――――ご苦労だった。リルル』

太く、しかし感情を感じさせない平坦な声がビル街に木霊する。
全員がすぐさま周囲を見回すが、それらしい姿は見受けられない。
人の気配が元からない世界なので、普通なら気配に敏いセイバーとアーチャーが即座に見つけ出せそうなものだが、今回ばかりは二人のセンサーも役には立たなかった。

「誰だ!?」
『ここで会ったが百年目、というやつだな、地球人よ。お前にとってはここ、『鏡面世界』は懐かしかろう? かつてお前達は我々を欺き、まんまとこの無人の世界へ誘い込んだのだからな!』

淡々とした口調だが、そこに込められているのは憎悪や妄執、怨恨といったどろどろの感情。
地下で煮え滾る原油のような、むせ返るほどの不気味さが内包されていた。
のび太の目が、ハッと大きく見開かれる。

「も、もしかして!?」
『ふん……展開!』

それを合図にして、一瞬にして濃紺の夜空が黒いナニカに埋め尽くされた。

「うわ!?」
「な、これは……いったい!?」

赤い単眼がいくつもギラギラと輝き、夜空を禍々しい星空へと造り替える。
月光と街の灯を反射し、鈍く輝くのは数百ではきかない鉄(くろがね)の肉体。
鋼鉄の翼を広げ、反重力でも使っているのか実に自然な体勢で滞空し、のび太達の周囲を取り囲むように陣を構成している。
よく見れば、それらは空中だけではなく、ビルの屋上や各階、道路の先や路地裏にも数百単位でぎっしりと控えており、まさに蟻の這い出る隙間もない。

「こいつら、まさかロボット!?」
『その通りだ。我々は鋼鉄の生命体。『メカトピア』より生まれし戦士。貴様ら脆弱な人間とは、そもそもからして違う!』
「メカ、トピア?」

微かに眉根を寄せるがそれだけ。セイバーの表情、姿勢は、微塵も揺るいではいない。
アーチャーはより深く脱力し、自然体のままを維持しながら、鉄面皮で敵の言葉を咀嚼している。
しかし、歴戦のそれらに比べれば凛と士郎の姿勢はお粗末そのもので、狼狽こそしていないが動揺が表に出てしまっている。
それでも武器を掴む手に震えがないのは、予想外の異常事態に出くわしたにしては上出来と言えるかもしれない。

「……その、僕の世界で、以前、人間を奴隷にしようと地球に侵攻してきたロボットの軍隊、『鉄人兵団』がいたんです。『メカトピア』というのは、その『鉄人兵団』が住んでいた惑星の名前です」

疑問の声に答えたのは、のび太。
声音に震えが見え隠れしているのは、その並々ならぬ脅威を知っているが故か。
フー子を除く全員の表情が、驚愕の色に染まった。
のび太の記憶を持つ彼女にとって、それは既知の事柄でしかないが、他は別だ。
藪から棒に宇宙規模の新事実を曝け出されては、驚かない方がおかしいだろう。

「まだあったの? ……もうお腹いっぱいなんだけど」

だが、そこから一転して、凛の表情がげんなりしたものへと移ろいだのも、ある意味では自然な事だった。

「……まさに『星間戦争(スターウォーズ)』だな。笑えん話だ」

アーチャーが軽口を漏らすも、キレがない。
古今東西の英雄が活躍した場は、あくまで地球上である。
地獄の入り口などどいったトンデモ場所こそあれ、銀河を股にかけたスペースファンタジーの出番はなく、腹を括っていたアーチャーをしても衝撃の度合が大きすぎた事を示していた。

『なぜこのような事になったのかは知らん。だが、この好機をみすみす逃す訳にもいかん。地球人よ……』

一拍の間を挟み、そして。

『――――あの時の借りを、今ここで返すぞ!』

リルルと呼ばれた少女の傍らに、どこからともなく一体のロボットが姿を現した。
他とは一線を画す黄金のボディと、単眼ではなく、人間と同じ双眼。
真紅のマントをはためかせ、丸っこい人型の体躯に、鶏を連想させる頭部がくっついた奇妙なフォルム。
一度見れば忘れようもない、その異様な個体。
『鉄人兵団』の中において司令塔として気炎を上げ、一際異彩を放っていた、指揮官型のロボットであった。

「あっ! やっぱりお前、あの時の!?」
『……しかし、皮肉なものだな。まさか、我々がこの裏切り者の『道具』として復活する事になるとは。まったく、悉く、不愉快だ』
「う、裏切り者? どういう意味よ?」
『言葉の通りだ、地球人の女。我々『鉄人兵団』はな、過去にこのリルルの裏切りによって存在を抹消されたのだ。“タイムマシン”で三万年前の『メカトピア』へ赴き、我々の祖先ロボットの歴史を変える事でタイムパラドックスを引き起こし、我々の地球侵略をなかった事にしおった。己の消滅も覚悟の上でな』

吐き捨てるように告げる、指揮官。
恨み骨髄と言わんばかりの痛烈な言葉に、水を向けられたリルルの肩が、微かに跳ねる。
表情こそ沈んだままだが、その手はきつく握り締められ、小刻みに震えている。

「……? セイバー、どうした?」
「は。シロウ、なにか」
「いや、なにかって……」

ふと、士郎が隣を見やると、セイバーの表情が先程よりも険しさを増している事に気づいた。
リルルを見据える眼光が、剣気を帯びて一際苛烈なものとなって叩き付けられている。
ついと首を巡らすと、なぜかアーチャーも似たような表情となっていた。
鷹を思わせる双眸から、殺気じみたものがじわり、と漏れ出している。
二人にしては似つかわしくない珍しい反応。士郎と凛が、互いにほんの少し顔を見合わせ、揃って首を傾げた。
しかし、解を導き出すには、圧倒的にピースが足りなかった。
それに、今優先すべきはそれではない。二人は思考を頭から追い出し、剣呑な雰囲気を垂れ流し続ける黄金の機械人形へ目を向け直す。

『我々と同じ、崇高な存在でありながら工作員の役目を放棄し、命を賭して人間どもに肩入れする。そんな唾棄すべき存在に使役される『道具』として今、我々がここにいる。これほど皮肉な事もない』
「ど、道具って……?」
『ふん。貴様も『宝具』という概念は知っているだろう。それと同じ事よ』

悪意や毒がこれでもかとばかりに含まれ、かつ、どこまでもドライな物の言い様。
ロボットという、ロジックで動くどこまでも合理的なシロモノだからか、それともこれがこの個体の元々の性質なのか。どこまでも純粋に人間を見下しきっている。
もっとも、そうでもなければ、人間を奴隷にしようなどどは考えないだろうが。

『命ずる。別命あるまで、待機せよ』

と、徐に黄金のロボットが一歩を踏み出し、後背のリルルに向けて高圧的に言い放つ。
ピク、と彼女の目元が歪むが、その足は地面に縫い付けられたように微動だにしない。

『聞こえなかったのかリルル。別命あるまで、待機だ』

次はないぞ、と言外に言い放たれ、彼女は重い足取りで一歩後ろに下がり。

「……はい」
「あっ!?」

返事と共に、景色に溶け込むように姿を消した。

「リルルっ!」

思わす、といったように伸ばされたのび太の手は、何をも掴む事はなく。
代わりにぴくっ、と凛の眉が跳ね上がっていた。

「凛、どうした?」
「え、うん……いえ、なんでもないわ」

凛の脳裏に、微かに浮かんだ疑問符。
しかし、手ごたえは雲を掴んだように実感がなく、確実かつ明白な答えは出ないまま。
アーチャーの問いに、凛は手を振って否定の返答を返すしかなかった。

『――――さて』

そうしていると、周囲から一斉に金属同士が擦れ合う異音が響いた。
否応なしに空気が張り詰め、ささくれだった雰囲気が辺りに満ちる。
前座は、ここまでのようだ。

『覚悟はいいか人間どもよ』

ガシャン、と地上に展開する鉄の兵士達が揃って一歩を踏み出す。
鋼の軍靴が音を鳴らし、状況が唸りを上げて加速し始めた。

『かつて我々を葬り去った報い、今ここで死を以て受け入れるがいい!』

軍配のように振られる黄金の腕。

『『鉄人兵団(インフィニティ・アイアンアーミー)』、攻撃開始!』

次の瞬間、鋼鉄の津波が怒涛の勢いで押し寄せてきた。





「――――こ、のぉ!」

赤、青、黄、緑。
色鮮やかな宝石がばらばらと勢いよく宙を舞い、放物線を描いて標的に届く。

「いけっ!」

即座に紡がれるキースペル。
刹那、それらが一斉に爆ぜ、同時に吹き飛ばされた金属片があちらこちらに四散。魔力の残り香と共に、砂利をばら撒くような音が耳朶を打つ。
煙がもうもうと立ち込め、埃と粉塵の煙幕が戦場を覆う。

「――――シッ!」

その灰色の幕を引き裂き、奔る幾筋もの銀の閃光。
音速に近い速度で飛翔するそれは、瞬く間に実に十に近い紅の単眼を貫き、問答無用で機械人形を物言わぬ木偶人形へと変える。
崩れ落ちる鉄の骸。それと同時に風に煽られ、塵のヴェールが取り払われる。
現れたのは、背中合わせに獲物を構える、紅の主従の姿であった。
しかし、周りにそれ以外の人間の姿は見当たらない。

「ち、焼け石に水か。覚悟はしてたけど、ここまで多いとはね……」

片腕に刻まれた『魔術刻印』をフルドライブさせながら、凛は一人ごちる。
彼女の持てる最大の武器は、得意とする宝石魔術ともうひとつ。先祖から連綿と受け継がれてきた、遠坂の魔道の結晶である『魔術刻印』のふたつである。
五大元素(アベレージ・ワン)の素養を持ち、魔術師として高い実力を兼ね備える凛であったが、ロボットを相手取るには、いささか以上に辛い物があった。
とにかく相手が硬い。鋼鉄の装甲は流石に堅牢で、普通のやり方では歯が立たなかった。
彼女のガンドは、コンクリートに穴を開けるほどの威力を持つが、それでもロボットの装甲を貫通するには至らない。
宝石魔術でならば容易く吹き飛ばせるが、個数制限がある以上乱発するのは躊躇われる。
苦肉の策として、『魔術刻印』のサポートを駆使して両者の威力を底上げしつつ、通常はガンドで牽制し、固まったところに宝石を投げ込み面制圧で一掃するという手法を採っていた。
偏に、彼女の魔力量が並外れて多いからこそ出来る芸当であり、士郎などがこれをやったとしたら数分程度でガス欠となるだろう。

「『戦いは数だよ、兄貴』……か。至言だな。実際にやられた方は、たまったものではない」

溜息交じりの慨嘆を漏らし、アーチャーは凛に同意を示した。
『偽・螺旋剣(カラドボルグⅡ)』等の大火力で薙ぎ払う事もせず、彼は淡々と矢をマシンガンのように射続けている。
爆発力を凛に任せ、代わりに精密さと手数でロボットを近寄らせずにいた。
令呪の援護があったとはいえ、先のライダー戦で少なからず消耗している上に、明らかに状況は長期戦の様相を呈している。
それ故に、このような魔力消費を抑える戦法を採らざるを得なかった。
凛が持ち出した宝石の個数は、サーヴァントまでとはいかなくとも、攻撃にも使用しながらマスターの魔力を回復させる程度には潤沢だったという事情もある。
最悪の場合は、令呪を使ってブーストする事も辞さないところまで、二人は決議していた。

「同感。さてさて、無事に合流出来るのかしら」
「こちらの努力次第だろう。宝石が切れるか、残り二画の令呪を使い果たすか。それまでが勝負だな」

軽口を叩き合いながら、二人は己の仕事に没頭し続ける。
戦闘の火蓋が切られて、約十分ほど経過した現在。
味方は、見事に分断されていた。
各方面でそれぞれ、善戦を繰り広げているが、未だ合流の兆しは見えない。
無駄のない用兵術で縦横無尽に軍団を差配し、自らの手で戦場を作り上げる。
そんな経験は、せいぜい王であった剣の英霊くらいにしかない。しかし、彼女はそれと同時に己が手で戦う者でもある。それだけにかかずらってはいられない。
この戦場の指揮者は、あの黄金のロボットだった。
地上を離れてビルの上に佇み、戦場のすべてを俯瞰しながら味方に的確な指示を飛ばす。
一糸乱れぬ、整然とした機械兵達の進軍と展開は、詰将棋を想起させるほどに簡潔かつ能率的だ。
上空から、地上から。常に複数小隊で敵を囲み、波状攻撃で相手の攻撃機会を着実に削る。
数えるのもバカらしい大戦力を背景にしているとはいえ、自らの采配で戦況を望みのままに構築し得るその手腕。
この指揮官からは、確かな軍略の光が見て取れた。

『押し出せ! 敵の合流を許すな!』

指揮官は軍団を鼓舞し、薙ぎ払うように腕を振るう。
実のところ、このように指示をわざわざ声に出す必要はない。
指揮官ロボットと兵隊ロボットは直接リンクしているので、指揮官が意図さえすれば指示は出せるのだ。
声を張り上げるのは、敵の動揺を誘うため。
たとえ見せかけでも、敵側の言葉に相手は何かしら反応を示すものだ。
『鉄人兵団(インフィニティ・アイアンアーミー)』の要。それは、指揮官級の鬼謀と、もうひとつ。
聞けば絶望を齎すほどに残酷な、この『鏡面世界(リバーサル・ワールド)』に仕掛けられている“ある秘密”。
彼らがそれを知るには、今少しの時間を要する。





「そこだっ!」

黄金の指揮官が座する物とは別の、とあるビル前の一角。
大砲のような轟音が響き、空から仕掛けようとしていた鉄の肉体が四散する。
放たれたのは、砲弾の如き空気の塊。放ったのは……。

「シロウ! 前に出すぎです!」

その傍らの空間を薙ぐ、不可視の剣。
肉迫しかけていた鋼鉄の肉体がズルリと滑り、腰部を基点に上と下とが泣き別れした。

「と、すまん、助かった!」
「退きかけたあの動きは、誘いです。近づく敵は私が斬り伏せます。シロウは援護に徹してください」
「了解!」

背中合わせで確認を取る二人。
剣の主従は、意気も高らかに周囲を取り巻く、鋼の軍勢に立ち向かっていた。
士郎の左手には、白銀に鈍く輝く“空気砲”が。
“名刀・電光丸”はこの戦場では役立たず、かといって“大・電光丸”も似たり寄ったりの結果しかもたらさない。
『斬鉄』の技術がある訳でもなく、飛び抜けた身体能力がある訳でもない。力任せに奮うだけでは地上はともかく、空は対応不可能だ。
なら仕方ないと、消去法で飛び道具を獲物とする事を選択していた。

(……腹は立つけど、アイツの言った事はいちいちご尤もだ。自分の出来る事、出来ない事を冷静に見定めて、その場で可能な限りの最善の選択をする。札は、後生大事に持っているだけじゃ意味はない。使うべき時に躊躇いなく使ってこそ、切り札となる)

茜差す道場にて、竹刀を掴んだ弓兵に散々に叩きのめされた。
竹刀という同じ獲物、それぞれ一振りのみという同じ条件。それでいて、己に齎されたのは『立会い』という言葉からすらあまりにかけ離れた、惨憺たる結果。
士郎にとってそれは、思い出すのも苦々しい記憶である。


――――忘れるな。英霊という絶対なる格上を相手に、貴様が蛮勇を振るって矢面に立ったとて、なんの意味もない。何よりも重要なのは、己自身と周囲をつぶさに見つめ、須らく理解し、その中で自身に何が出来るか、何をすべきかを常に模索し続ける事だ。


容赦ない面罵に、屈辱も感じた。苛立ちもした。
竹刀を振り上げ、反撃を試みたところで歯牙にもかけられず、幾度も板張りの冷たい床に無様に沈められた。
だが、それは衛宮士郎にとって、決して無意味なものではなかった。


――――ひとつの答えに拘るな、決して驕るな。貴様は未だ『究極の一』を持たん、粋がるだけの非力で脆弱な弱者である事を自覚しろ。そして、弱者なりに今、成し得る『己の最善』を、その活路を形振り構わず手繰り寄せろ。


転げ回るほどの痛痒を伴って、肉体に刻み込まれた弓兵の教訓は、今こうしてその片鱗を見せていた。
思考を余所に、撃つ手は止まらない。
下手な鉄砲も、数撃ちゃ当たる。幸い、標的は腐るほどいるのだ。弓しか扱った事のない士郎でも、当てるだけなら弾をばら撒きさえすれば、それなりに成し得る。
そして、当たれば相手は木っ端微塵。“空気砲”は、鉄の兵士を一撃でスクラップに変えるほどの威力があるのだ。
失敗を考えて『強化』魔術は施していないが、それでも十分すぎた。

「喰らえっ!」
「はああっ!」

空中から躍りかかる敵を士郎が相手取り、地上から迫り来る敵をセイバーが掃討する。
自然と、役割がそうなっていた。
機械兵士の指先から照射される、色とりどりの光線が二人を貫かんとするも、その度に二人は素早く近場の遮蔽物に身を隠し、士郎が発射態勢に入っている敵兵を優先して葬っていく。
光線のようでいて、同じ光速で迫ってこないという不可思議なビームだからこそ出来る行動。
時折、撃ち漏らした敵がこちらの間合いまで一気に降下し、踏み込んでくるが、こと近接においては無敵のセイバーの剣がそれらを容易く殲滅する。
至極まっとうな役割分担ではあるが、主に士郎側に粗さが目立つのは仕方がない。
弓と銃では、目測の付け方に明確な違いがある。
前者は両目、後者は片目。当然、どちらかに慣れていればどちらかが不得手になる。
士郎は弓を扱っていた分、片目での標的捕捉にあまり優れていなかった。

「ちいっ、これだけやっても数が減らない……セイバー!」
「いえ、ダメです! 敵ごと建造物を消し去ってしまっては、こちらが不利になります。それに、ノビタやリン達も巻き込んでしまいかねない」

士郎の要請を、セイバーは厳しい表情で却下する。
彼が求めたのは、『約束された勝利の剣(エクスカリバー)』の解放。
マフーガを一撃で葬り去ったあの光の軌跡なら、目の前に無残な鉄屑を量産する事が出来るだろう。
だが、セイバーはその訴えを棄却した。
理由は、端的に言えば『約束された勝利の剣(エクスカリバー)』の柔軟性の欠如にある。
膨大な魔力を代償として放つそれは、威力こそ凄まじいものの、その放たれた光を制御する事は出来ない。
一点に向かって解放されれば、後は惰性で枯れるまでその方向に流れ続ける、滝のようなものなのである。
ビルの合間を縫えるほどに器用な武器ならば、セイバーも躊躇わなかっただろう。
しかし、やってしまってビルどころか街の悉くが更地と化すのならば話は別だ。
平地での合戦は、寡兵であるほど不利になる。
そして、敵の主体武器は指先から放つ光線。コンクリートジャングルという要害(バリケード)と遮蔽物(シールド)があるからこそ、敵の攻勢を凌げている部分もあるのだ。
加えて味方が引き離されている現状、無暗に解放して、もしその進路上に味方がいたのならば目も当てられない。
“バリヤーポイント”を張っていたとしても、あっさりと反射限界を超えて突き破られてしまうだろう。
そういった意味では、最後の一組がこの戦況に最も柔軟かつ的確、さらに圧倒的な戦果で以て対応していた。





「フゥウウウウーーーーッ!!」

道路を、空を、ビルの中を、凄まじい密度で圧縮された竜巻が縦横無尽に駆け巡り、網の目状に幾筋も広がってゆく。
空間ごと捻じ切ろうとばかりに唸りを上げる大気の断層。巻き込まれた数十の機械兵は、一瞬で全身をズタズタに引き裂かれ、物言わぬ残骸へと成り果てる。

「フー子、さがって! それぇええっ!!」

間、髪を入れずに、生き残った機械兵達目掛けて下方から降り注ぐ光線のシャワー。
恐るべき精密さで鋼鉄の肉体に喰らいつき、紫電に包まれ全身がショート。関節や駆動系から火花を撒き散らし、ガシャン、ガシャンと次々固い地面にその屍を晒す。
敵は、二メートル弱はあろうかという巨体である。実質、バーサーカーと遜色ないのだ。
空から墜落した機体によって、アスファルトがところどころ陥没している。

「のびた、しゃがむ!」
「え? ……うわ!?」

反射的に頭を下げたその瞬間、今まで頭があった場所を一陣の風が駆け抜ける。
鎌鼬と一般に呼称される真空の刃が、彼の後背上空に迫っていた機械兵達をまとめて真っ二つに両断した。
鏡のようにすべすべとした断面が、その殺傷能力の高さを物語っている。

「う、うわぁああ……」

自分が撃墜した者よりもある種無残な光景に、眼鏡の奥の瞳が戦慄に揺れている。
それでも両手に掴んだ“ショックガン”は、しっかりと構えられたままだった。
“ショックガン”の光線は、当たればロボット内部の電気系統が高圧によりスパークし、致命的な機能障害を引き起こすため、非常に有効であった。
“空気砲”は外部を破壊するのに対し、“ショックガン”は内部を破壊する。同じ射撃武器でも、その性質は違うがロボットに対しての有効度という点では、両者はほぼ拮抗している。
ただし、どちらもエネルギー式で、いずれはガス欠に陥るため、その点には常に気をつけておかなければならない。
台風の精霊たるフー子の獅子奮迅の働きにより、のび太・フー子ペアに差し向けられた敵の大半が葬られた計算になるが、それでもロボット達は際限なく、後から後から湧いてくる。
いったいどれだけの物量があるのかと、首を傾げる暇もない。
味方だったものの残骸を踏み越え、ただただ無機質な戦意のみを漲らせて天地問わず四方八方から、隊列も乱さず続々と行軍してくる。
訓練された人間の軍隊よりも、暴徒化した大群衆のデモ隊よりも、文字通り血の通わないという意味では恐ろしい物があった。

「のびた、みぎ!」
「右? え、一列に並んで……構えた!?」

のび太達の側面右側、大通り側に整然と居並ぶ増援の歩兵。
前と後ろ、二列に分かれて前列は片膝立ち、後列は直立不動で全員が指を構えた発射体勢に入っている。
もしやと反対方向を振り返れば、そこにも同じような敵の隊列が。
さらに左右のみならず、前後にもそれらは存在していた。
ここは、ビル街で最も大きな十字路である。
戦闘開始の口火を切った際の一斉攻撃で、パーティーを分断され、焦りもあってのび太達自身が誘導された結果が、このビル街の平地とも言えるだだっ広い十字路。
四方に位置するビルの群れは、身を隠す要害とするには遠く、むしろこちらを取り囲む檻となっている。
剣、弓の主従は、のび太達との合流を果たせぬよう狡猾に誘導されており、距離もかなり離されていた。

「し、しまった!?」

のび太の顔から血の気が引く。
連隊規模の『十字砲火(クロスファイア)』。
なんとも洒落が効いているが、ずらりと揃った銃口を見ては、はっきり言って笑えない。
逃げ場もなし、身を隠す場所もなし。
慌ててフー子を抱き寄せ、ポケットに忍ばせていた“バリヤーポイント”のスイッチを入れようと。

「うわぁ!?」

したその瞬間、目を焼くような光の嵐が巻き起こった。
如何にレーザーより遅いとはいえ、銃弾に近いスピードで迫り来る幾条ものビーム。
発動は、間に合わない。
『十二の試練(ゴッド・ハンド)』の加護を持つフー子は、あるいは助かるかもしれない。
しかし、のび太は“ショックガン”以外に何も身につけてはいない、丸裸同然。
これまでは、フー子の竜巻とのび太の二丁拳銃の早撃ちで、撃たれる前に対処出来ていたが、流石にこの状況下では絶望的だ。
襲い来る恐怖に、のび太が身を竦めた。

「……あれ?」

だが、いつまで経っても衝撃は来ない。
雷撃のような音こそ耳朶を打つが、それ以外には何も。
強いて言えば、服の裾がはためく程度の風が吹いているくらいだろうか。

「ん、風? なんで風が……」

よぎった疑問に、おそるおそる閉じていた目を開けると。

「わっ!?」

のび太の周囲の景色が歪んでいた。
蜃気楼のように、揺らめいて見えるという訳ではなく、眼鏡のレンズを視界に重ねて外を見ているような感覚。
目の前で何かが高密度で分厚く集束され、自分達を覆うようにドーム状に展開している。
ロボット達の放つ光線は、その何かに完全にシャットアウトされ、一本たりとも届いてはいない。
ただ壁の向こうでバチバチと、盛大に火花を上げ続けるだけである。

「これ……って、バリア?」
「フゥ♪」

のび太が視線を落とすと、抱きかかえられた体勢のまま、花が咲いたような笑顔でフー子が彼を見上げている。
十字砲火が火を噴く寸前に、彼女が素早く大気を超高密度で圧縮して、のび太を護る風の障壁を作りだしたのだ。
『ふしぎ風使い』。その力は、伊達ではない。
竜巻然り、鎌鼬然り。風、すなわち大気を自在に操る事の出来るこのスキルを持つ彼女が、大気を媒介に起こし得ない現象などあり得ない。
彼女にとって、風は、手であり足であり、耳であり、頭脳である。
大量の魔力こそ必要になるが、『竜の因子』による、膨大な魔力量に裏打ちされたその暴威は、まさに心胆寒からしめるものがある。
やろうと思えば、大気を通じて世界中の情報を掌中に掴む事さえ可能なのだ。彼女の底は、まだまだ見えてこない。

「だいじょうぶ」
「へ?」
「みてて」

一言。たったそれだけで、変化は劇的だった。
のび太の腕の中、彼女の身体が強い光を発し、鮮やかなオレンジの髪と身に纏う上着がざわざわと波を打つ。
彼女の衣装は、いつぞや彼女に化けたセイバーが着ていた物とそっくり同じ。のび太が似合うと評したのを境に、今では彼女のお気に入りとなっている。
風のドームはそのままに、いまだ轟音渦巻くその周囲に小さなつむじ風が複数発生。数秒と経たずにそれらは成長し、極小の竜巻球となる。
渦はそのまま止まる事なく肥大化し、やがてボーリングの球程度の大きさとなったところでその成長を止めた。
そうして浮かび上がった数十の球がぐるぐると、衛星のようにバリアの周りを旋回する。

「えい」

フー子がパチン、と指を弾いたその瞬間。

「うひゃ!?」

解放された球群より生み出されたのは、天を突くかと言わんばかりの巨大で強大な風の竜。
どこかマフーガの姿に似ているのは、彼女がその一部だった名残ゆえか。
ビルをあっさりと丸呑みに出来るほどの巨体に気圧されたか、騒々しかった機械兵達の射撃がぴたりと止んだ。
そして始まる蹂躙劇。
竜はその咢(あぎと)を開き、元となったものの暴虐性を彷彿とさせるほどに、縦横無尽に荒れ狂う。
胴の両腕を伸ばし、背中から数百の竜巻の触角を這わせ、地上、天上、屋内を問わず、鎧袖一触で機械兵群を葬り去っていく。
その光景は、まさに荒ぶる産廃場。頭部がひしゃげ、腕部がもぎ取られ、脚部が引き千切られ、装甲も翼も剥ぎ落されて、瞬く間に鉄屑と化す。
あどけない少女の所業とは思えぬ惨劇。悲鳴を上げる暇すらない。
役目を果たした竜が霧消した後には、傷ついたビルと足元に散らばる無数の鉄塊、そして兵団が消えてだだっ広くなった十字路が残されていたのであった。





『……やるな』

戦場の一角から自軍勢力が一掃されたのを、指揮官は、ビルの屋上から冷めた目で睥睨していた。
この程度の状況は、織り込み済みであったからだ。
指揮官は、のび太達地球人を過小評価していない。
前回、僅か四名という寡兵でありながら、万を超える兵団の猛攻を一昼夜凌ぎきったのだ。
加えて、今回は一騎当千とも言える戦略クラスの実力者が三名もいる。油断出来る方がおかしい。
分断したとはいえ、それぞれが兵団を凄まじい勢いで次々と撃破していっている。
特に目覚ましいのが、弓の主従と怨敵の主従。彼らは遠距離攻撃に優れ、面制圧に向いた力を有している。
率にして、第一陣のおよそ五割が彼らに葬られた計算になるだろう。
壊滅的な損害である。

『――――頃合か。では、第二陣を投入する!』

嗜虐心の籠った言葉が呟かれ、やがて空白地帯が瞬く間に黒く染め直された。
このビル街の周囲には、万を超える兵士ロボットが控えている。
それらを各地区ブロック毎に区分けし、状況を図って投入しているのだ。
どれだけ大量の戦力があろうとも、ぶつける相手がたった六人では、それだけ当てられる人員数も限られてくる。
だからこそ、用兵術が扇の要となるのだ。

『ふむ、こんなものだな。さて……』

鉄人兵団は、死を恐れない。
自我の希薄なロボットだから、生死の感覚が人間と違うというのもあるが、それ以上に『ある要因』がそれを可能としている。
これがある限り、彼らは決して滅ぶ事のない兵団としていられるのだ。
それこそ、この天地がひっくり返りでもしない限りは。

『息もつかせぬ波状攻撃は、戦術の常道。念には念を入れるべきか』

ガキン、と響く硬質な音。
足を地面に叩き付けたそれは、己に対する士気高揚の狼煙。
徐に、虚空を見上げて。

『命ずる。最後の宝具を開帳せよ!』

視線の先の空間が、波紋のように波打った。





それは、彼ら六人すべてが目にし、そして形容しがたい呻き声が漏れた。

「な……」

宝石を投げる手が止まり、凛は魂でも抜かれたかのように唖然としている。
空間の歪みから突き出されたのは、鋼鉄の腕。
掌だけで、メーター単位は確実であろう巨大なそれは、見る者に威圧感と覇気を感じさせる。

「あ、あれは!?」

機械兵を屠る手は止めず、それでもセイバーの瞳はそちらに釘付けにされていた。
ずんぐり体型で丸みのある兵士ロボットとは違い、鋭角的でメカニカルな印象を抱かせる。

「本気か、こんなものまで!?」

思わずといった呟きを漏らした士郎の放った“空気砲”は、狙いの敵のその隣を撃ち抜いていた。
腕に続いて足が出現し、次に腰、胴体、そして頭。ずぶずぶと、狭い隙間を抜けるようにその右半身がせり出してくる。

「……もしや、あれはひゃ「それ以上はダメ」……む」

なぜか凛に遮られ、眉を顰めるアーチャーだったが、口は止まっても弓を射る手を止めないのは流石。
そして、弓兵が弓弦から手を離したその時、そのすべてが姿を現した。

「ま、まさか……!?」

嫌でも目を引く、二十メートルはあろうかという巨体。
アスファルトを踏み割り、高層ビル群の端に佇む姿は。ビルの中には、数十階建てでこれより高い物もあったが、それでも天から見下ろすような威容は色あせる事はない。
見覚えのありすぎるその雄姿に、のび太は危うく“ショックガン”を取り落しそうになった。
白、赤、青の、トリコロールカラーも鮮やかな鋼鉄の巨人。
かつて、のび太達が北極でパーツを発見し、『鏡面世界』で一から組み上げたそれ。
しかし、それは鉄人兵団が地球侵略のために用意したもの。彼女の事を考えてみれば、これが出てくる可能性はあったのだ。
そして、のび太はこの巨兵が秘めたスペックを知っている。
フー子を抱く手に力が籠り、無意識に一層強く彼女を抱きしめてしまう。
頬を朱に染め、彼女は嬉しそうに笑っていたが、それとは逆にのび太の表情からは血の気が失せていた。

『――――ククク。さあ、絶望しろ。“ジュド”を以て、敵を焼き払え! リルルよ!』
「リ、リルルだって!? リルルが“ザンダクロス”に!?」

これこそが、『鏡面世界(リバーサル・ワールド)』、『鉄人兵団(インフィニティ・アイアンアーミー)』と続く、彼女の最後の宝具。
名を『超機動重機ザンダクロス(ジュド)』。
“ザンダクロス”は、北極で見つけた事から『サンタクロース』をもじってのび太がつけた通称。“ジュド”は、鉄人兵団が使用していた正式名称である。
元々は、前線基地建設のための土木作業用ロボットだったが、頭脳パーツをドラえもんが改造した事により、鉄人兵団の地球侵攻時、のび太達の切り札として活躍した。
このロボットは、戦闘用でないにも拘らず、なぜか高い戦闘能力を持っている。
おそらく、基地建設が終了した後、戦闘用に転用するつもりだったのだろう。

『ふん。忌々しい事に、頭脳ユニットを作り直す事が出来なかったのでな。だが、このジュドは我々の手によって改造が施されている。以前と同じとは思わぬ事だ! やれ!』

号令が響き、思わずのび太達は身構える。
本来の『ザンダクロス(ジュド)』に搭載されていた武装は、腹部のレーザー砲と両肩の装甲に内蔵されたミサイルランチャーのふたつ。
危険故に、後者は使用された事はないが、前者は鉄筋コンクリートのビルを一撃で倒壊させるほどの威力を秘めていた。
これだけでも凄まじいが、鉄人兵団はそんな危険物にさらに強化を施したと言うのだ。のび太の表情が、さらに青くなったのも無理はない。
棒立ちの体勢から動き出す『ザンダクロス(ジュド)』。
しかし、その動きはお世辞にもスマートとは言えなかった。

「……あれ? なんだ?」
『――――ちっ、なにをモタモタしている!』

金色の指揮官の罵声が飛ぶ。
例えて言うならば、雨曝しのせいで錆だらけのブリキのおもちゃ。
右足を前へ、下げていた腕を上へ持ち上げようとする動作も、臨終間際の人間のそれだ。
鋼鉄の腕はぶるぶる震えて、いっそ壊れかけにすら見えてしまう。
のび太の頭上に疑問符が乱舞するのも当然。それは、残る五人にも共通している。
まるで、意思に反して無理矢理動きを抑制している。そんな、あまりにも不可思議な機動だった。

『再度命ずる! 武装を解放し、敵を焼き払え! リルル!』

怒気をふんだんに滲ませた声。
それが『ザンダクロス(ジュド)』の撃鉄を落とした。

「――――ッ!」

デュアル・アイに、青の光が強く灯る。
先程までとはうってかわった滑らかな動作で、一歩を踏み出す『ザンダクロス(ジュド)』。
軽く前に出した足に体重を預け、両腕を上下に重ねて身体を掻き抱くような姿勢を取った。
あまりにもこの場に不似合い、かつ場違いな動作。それにいったい何の意味があるのか。
全員がそんな疑念に駆られるも、その答えは次なる無数の金属音によって齎された。

「「「「「……えっ!?」」」」」
「フゥ?」

ガシュン、ガシュン、ガシュン、とけたたましく音を立て、展開される『ザンダクロス(ジュド)』の全身の装甲。
肩部だけではない。両腕部や両脚部、腰部、それから背部に至るまで、身体を覆う大半の装甲がスライドし、内装が剥き出しとなる。
その装甲の下にあったもの。それは。

「――――は!? え、う、嘘でしょ!?」
「み、ミサイルッ!?」
「あ、あれ全部かよ!?」

全身にマウントされた、無数のミサイルの弾頭であった。
果たしていったい何基あるのか、数えるだけで目が痛くなるほどだ。ざっと換算しても、確実に三桁は超えるだろう。
弾頭がせり出すさらなる金属音と共に、兵士ロボットが一斉に後退する。

「いかん、凛!」
「シロウ!」
「フー子っ!」

包囲網が緩んだ事で、一斉に回避行動に移るのび太達だったが、一歩遅かった。
爆音と同時にすべてが解き放たれた殺傷兵装。円を描くように虚空を旋回しながら、その一基一基が意思を持つかの如く、標的目掛けて勢いよく降り注ぐ。
夜空を駆ける流星群。空気を切り裂き奔る幾つもの光芒は、それにもよく似ているが、内実は人工の凶星の嵐だ。

「うわぁああああーーーー!?」

着弾。轟音。そして閃光と共に吹き荒れる、一切を消し去らんと言わんばかりの凄まじい衝撃波と熱風。
人間の声も、物音も、機械の駆動音も、気配すら一瞬で掻き消される。
下手なSFや、B級特撮映画の比ではない。
生み出されたは、無慈悲なまでに宵闇を赤く染め上げる、炎の煉獄。
爆炎が大地を舐め尽くし、ビルも木立も等しく灰燼と帰してゆく。
人工のフレアの中心点から、墨を落としたように真っ黒なキノコ雲が立ち上ったのだった……。







[28951] 第三十八話
Name: 青空の木陰◆c9254621 ID:90f856d7
Date: 2013/03/01 20:00





「はあっ、はあっ、はあっ……ぁあっ、はっ、はっ……!」

路地裏に、荒い息遣いと忙しない靴音が反響する。
心臓がはち切れそうなほどに脈を打ち、血管を突き破らんばかりに血液が体内を荒れ狂う。
それがますます緊張を煽り、疲労の蓄積度合いを高めていく。
昼なお薄暗いビル街の路地裏は、夜の帳(とばり)が降りた途端に漆黒の空間と化す。
それは、ここでも変わらない。
世界が一変したとはいえ、不変の真理だけは覆しようがないのだ。

「はぁ、はぁ……ちくしょう、なんなんだよ……いったいなんなんだよアイツらは!?」

壁に背を預け、苛立ちの籠った拳を後ろに叩き付ける。
士郎と同じ、穂群原の制服には夥しいほどの汗が滲んでいた。
張り詰めた精神と肉体的な疲労の相乗効果の成せる業か、上着を絞れば、さぞ盛大に雫が落ちてくるだろう。
癖のある、青みがかった髪を振り乱し、狂乱の体さながらに歯ぎしりして唸るその男。
間桐慎二であった。

「どうしてあんな大量にロボットが……それに、ここはさっきと同じ新都じゃない! どうなってるんだよ、これはなんだよ、ここはどこだよ!?」

飲み込めないのも無理はない。
そもそも、慎二はのび太にまつわる事柄を何一つ知らないのだ。
仮に士郎達がのび太に出くわす事なく、今の状況に放り込まれたとしたら、きっと慎二と同じ心境に陥った事だろう。
堪えないとしたら、それはよほどの大物かただのバカくらいである。

「……う!? ない、ない! 落としたのかよっ!? ちぃ!」

徐に身体をまさぐり、望んだ手応えがないのに舌打ちを漏らす。
慎二が探していたのは、あの紅い本だ。
ライダーが霧消すると同時に、サーヴァントとの繋がりがイカれ、そちらに関しては役立たずになっていたが、魔術の触媒としてはまだ使える余地があったのだ。
それがないという事は、身を守る術もないという事。猛獣がうろつくジャングルに、パジャマ一枚で放り出されたに等しい。
のび太達がこの『鏡面世界』に送り込まれた際、近くのビル影に潜んでいた慎二も一緒に巻き込まれた。
しばらく周囲の物陰で息を殺していたが、ロボットが大量に湧き出したのをきっかけとして一目散に逃走を図ったのだった。
当てなどない。とにかく、この戦場から離れたかった。言いようのない恐怖と、突き上げてくる生存本能のまま、がむしゃらに。
そうして辿り着いたのが、この雑居ビル群の路地裏だった。
眼前にある、剥がれかけたポスターの鏡文字が、時折響いてくる地鳴りのような音と花火を思わせる閃光が、彼の臓腑を締めつける。
先程、空爆のようなミサイル群が空から降り注いだ事からも明白。雑居ビルの地下に隠れて、ぎりぎりのところでやり過ごしたが生きた心地がしなかった。
そこまで至って、慎二はようやく悟ったのだ。ここは、血と鋼で命を削り合う鉄火場だと。
そこに無手で佇む半端者が一人。
間違いなく、今の自分の首には死神の刃が当てられている。
首筋に、一筋の汗が伝った。

「くそっ……」

口の中で悪態を吐きながら汗を拭い、大通りの様子をそっと窺う。
喧騒は遥か遠く、ロボットがこちらに注意をまったく向けていない事を示している。
ただし、金属製の足音だけは頻繁に響いてくるため、ロボットが周囲を闊歩しているのも解ってしまう。
まだこうしていられるという事は、自分はまだ捕捉されてはいないのだろう。
ならば、まだチャンスはある。

「まだ、大丈夫」

そう一人ごち、顎に滴る汗を拭って。



――――だとでも、本気で思っているのか?



それが、なんの根拠もない願望にしかすぎないという事に気づくのに、時間は必要なかった。

「えっ……!」
『この世界は我々の庭だぞ? たかがネズミの一匹程度、把握出来ん訳があるまい!』

空を仰ぐ。
ビルの絶壁を視線が駆け上ったそこには、屋上から傲然と自分を見下ろす黄金の指揮官ロボットがいた。

「う、うわぁああ!?」

弾かれたように駆け出し、慎二は、大通りへと飛び出す。
しかし、そこにはビルを包囲するかのように、鉄灰色のロボットがずらりと待ち構えていた。

「ひっ!?」

不気味な光を灯したいくつもの単眼にねめつけられ、慎二はその場で竦み上がった。
光線を発する指を構えるでもなく、鉄の兵士が多勢でただ佇んでいるだけでも抗しがたい迫力がある。
まして、慎二の肝は元来、そこまで大きくはない。
金縛りにでも遭ったように硬直する慎二の口元から、カチカチと歯の鳴る音が響いていた。

『ふん、見苦しい』

そこへ、屋上から降りた指揮官ロボットが身を翻し、兵士ロボット達の前へと着地した。
重量のせいか、アスファルトの道路が足型にへこんでいる。

「お、お前、なんで、ここに……あ、あそこにいたんじゃ!?」
『人間。我々はお前達とは違う。我々は、ロボットだ。同じ存在が別の場所に同時に存在する事など、さして難しい話ではない』
「え、っな、え?」
『解らぬか? この身は、一体ではないという事よ! この『鏡面世界』の地球にはな、我々『鉄人兵団』を作り出す工場が置かれているのだ。それこそ、世界各地のあらゆるところにな!』

鉛色の絶望が、慎二の腹の中で蠢いた。
『鉄人兵団(インフィニティ・アイアンアーミー)』の真価。それは絶対的な数の差と、ホームグラウンドである『鏡面世界』を牛耳っている事にある。
彼らは、『鏡面世界』の中でしか活動出来ない代わりに、圧倒的とも無尽蔵とも呼べる物量を手にした。
指揮官は、続けてこうも言った。
世界各所に置かれている『鉄人兵団』の生産工場の数は、単純に数えても五桁、六桁は下らないと。
そこから生産される兵数はとなると、気が遠くなるほどのものとなる。額面通りの、桁違い。
しかも、それが止まる事はない。指揮官の命ある限り、いつまでも生産は続けられる。

『我々は、すべての存在とリンクしておる。お前とて、インターネットの原理は知っていよう。それと同じ。我々にとって、ボディとは突き詰めて言えば単なる『端末』にすぎん』
「な……に、じゃ、じゃあ」
『『鉄人兵団』は、いくら破壊されようと次から次に新たなボディが生み出され、何度でも甦る! 我々指揮官級全機と、世界中に点在する工場すべてを破壊せん限りはな。もっとも、仮に我々すべてを駆逐出来たとしても、お前達がこの『鏡面世界』から脱するなど不可能だが』
「ど、どういう事だよ!?」
『『鏡面世界』への出入りは、リルルの目と意思を介する必要がある。『鏡面世界(リバーサル・ワールド)』は奴の宝具だからな。我々を滅したとしてもどうにもならん。そして、リルルを破壊した場合、この世界への往来手段はなくなり、永遠にこの世界に閉じ込められる事になるのだ!』
「な、あっ……!」

死刑宣告にも等しい通牒だった。
徒手空拳で放り出され、敵しかいないこの『鏡面世界』で、慎二に出来る事は何もない。
激昂しても無意味。足掻く事すら無意味。
八方塞がり、ではない。
そもそも、八方の道すら最初から存在していなかった。
奈落の淵から足を滑らせたような喪失感が、慎二を襲う。
思考が千々に乱れ、視界が暗く閉ざされようとしている。

『――――しかし、お前も哀れな存在だな』

だが、その言葉を耳にした瞬間、彼の思考は一気に赤く染まった。
『哀れみ』。それはプライドの高い彼にとって最大級の侮辱であり、何よりも許せないもの。
それが、燃え尽きる寸前だった彼の心にニトロを放り込んだ。
爆ぜる怒りが、心に兆した黒い靄を吹き飛ばす。
動揺も、混乱も、恐怖も、絶望までをも。

「哀れ……だと!?」

歯を剥き出しにし、命知らずにも慎二は指揮官に向かって吼えかかる。

『その通りではないか。そうでなければ道化だが』
「なんだと!? お、お前が、お前が僕の何を知ってるっていうんだ!?」
『『メドゥーサ』の記憶にあった事項程度ならばメモリに記憶されているが。それにしたところで、やはりお前は哀れだ』

起伏のない、文字通りの機械的で平坦な声が彼の激情をさらに煽る。
しかし、言葉の端々に刻まれた聞き捨てならない単語が、そこにある程度の歯止めをかけた。

「メ、ドゥーサ? お、お前と、ライダーがなんの関係がある!?」
『ああ、そうか。お前は、ノビ・ノビタとの因縁は知らなかったのだったな。まあいい。一言で表せば、あの消え去った『メドゥーサ』のエーテルを基に形作られたのがリルルであり、その宝具として我々が存在している。故に、記憶も受け継いでいる。それだけの事だ』
「のびた? あのガキの事か? それに、エーテル……!?」

今にも焼き切れそうな理性を総動員して、慎二は記憶の底に埋もれた魔道の知識をひっくり返す。
魔術師として落第とはいえ、魔道の名家で魔術を独学でかじっていたのだ。
知識だけならば、それなりに有している。ライダーを従えられたのも、それがまったく功を奏しなかったという訳ではない。
たとえ、気紛れに近い祖父のアシストがあったとしても、だ。

「サーヴァントの……突然変異、か?」

だが、今までの見聞の中にこのような事態に関する項目はなかった。
考え得る妥当な解答をひねり出せたのは、根拠のない憶測と単なるヤマ勘にすぎない。

『ほう。魔道に無様に執着していただけあって、悪くない推察ではあるな』

賞賛を送る指揮官。
しかし、それ以上にまたしても聞き逃せないものがあった。
抑えられていた慎二の怒気が、再びガスバーナーのように激しく燃え上がる。

「訂正しろ! 僕のどこが無様だと!?」
『ふむ、やはり愚かな存在だな。人間というのは。己が既に気づいている事から目を逸らすとは。貴様がいくら吠えようが、何度でも言ってやろう。哀れで、無様。そして矮小な人間よ』
「ギッ……!?」

ガチン、と慎二の脳天に撃鉄が落ちた。
爪が喰い込むほどに強く握り締められた拳。
わななく腕はそのままに、瞳が赤く紅く血走っていく。
ぎりぎり鳴っていた歯は砕けんばかりに食い縛られ、ミシミシと今にも折れてしまいそうだ。
その溶鉱炉から吐き出されたかのような激情は、しかし。

『構えよ!』

一斉に突き付けられた、無数のロボット兵の銃口(指先)に、一気に凍りついた。
どんな強烈な感情も、迫り来る死の予感には悉く萎縮するもの。
まして、それが一時的なものならば、尚の事である。
改めて、自分の命が目の前の黄金の指揮官の胸先三寸にある事を思い知らされた慎二。
先程までとはまったく異なる類の震えが、今再び甦っていた。

『思い出したようだな。今のお前は、ここにいる兵士一人たりとも傷つける事はおろか、手向かう事も出来ん存在だと』
「あ……ぁあ……!」

死人のように蒼白な顔で、慎二は小さく身じろぎする。
まるで、少しでも脅威から遠ざかろうとするかの如く。
もっとも、その足はニカワづけでもされたかのように、アスファルトから離れてはくれなかったが。

『慈悲だ。最後にひとつだけ、言っておこうか。お前は魔道に拘りすぎた。ゆえに矮小なのだ』
「な、に」

夜気を貫き、発される言葉が慎二の臓腑を抉る。
それは、己という自身を成り立たせていた根幹であり、そして己が存在意義としていたもの。
それを、指揮官はばっさりと否定し、踏み躙った。
心を支配する氷の中から、封じられていた憤怒が再度熱を帯び、そして、ほんの僅かにそれとは別の感情が頭の中に嵌まり込んだ。

『魔道の名家に生まれたというのに、魔道の資質に恵まれなかった。成る程、たしかに皮肉よな。固執するのも無理からぬ事。血の繋がらぬ妹が呼び出した『メドゥーサ』を無理矢理譲渡させ、魔術師然と振る舞おうとした事も解らんではない』

本人の望むと望まざるとに関わらず、間桐の家に跡取りとして生まれた慎二は、どのみち魔道に一旦は浸らざるを得なかった。
そして、一般論として人間というのは、素質がないと解れば、それから自然と目を背け、距離を取り離れていく。
挫折や葛藤は、そこから生まれる試練であり、模索。そういうものだ……あくまで、スポーツや学問など、普通の事柄ならば。
しかし、魔道には常の物にはない、抗いがたさがある。
文字通り、人を惑わす魔の魅力。魅入られた者は、その神秘と非現実に足を絡め取られ、抜け出す事が出来ない。
なまじ生家が名跡であった分だけ、慎二の無意識に巣食ったその心理に拍車を掛けてしまった。

『だが、それに何の意味がある』

魔術回路がない、ひいては魔術の素質がない。それが慎二のコンプレックス。
名家である事を鼻にかける、傲然とした性格は、その裏返し。
遥か昔から、魔術師として外道の正道を歩んでいた祖父は、自分が生まれた瞬間から自分を見限り、余所から養子として高い素質を持った妹を引き取った。
それが決定打。自分には魔道を歩む資格がないと、暗に引導を渡された。

『我々からすれば、憂さ晴らしに当たり散らすようなお前の行動理念など無駄極まりない。そんな非効率的な事にかまける愚は犯さん!』

幼少の頃から、義妹に辛く当たってきた。
持つ者と、持たざる者。両者の関係は、ある意味ではコインの裏表だ。
持つ者は持たざる者を見下し、持たざる者は持つ者を妬む。
だが、本来持つ者である筈の義妹は、見下してこなかった。それどころか、自分に対して、情けをかけてきたのだ。
心の底から、二心なく。どこか、投げやりに。諦めたように。
それは、間桐慎二という人間にとってこの上ない屈辱だった。
たとえ、祖父の非人道的な魔道の犠牲とされた、その同情の余地こそあれ。
陵虐の果てに、廃人同然にすべてを諦めていたとはいえ。
持たざる者は、持つ者を妬む。だが、それにもまして持つ者の情け、憐憫というものは、持たざる者の憎悪を燃え上がらせるのだ。
慎二の傲慢な為人は、それがきっかけで膨れ上がった。
そして、それまで以上に渇きにも似た劣等感に苛まれ、尚更に魔道に固執、いや縋りついたのだった。

『魔道の家に生まれたからといって、魔道を歩まねばならんというルールはない。特に、当主から見放されたお前にはな。一歩退がって見渡せば、魔道に縋りつく以上の可能性をも模索できたものを』

魔道、魔術、神秘。
叶わぬと知ってなお、それを追い求めるという事は、それ以外の道を摘んでしまうという事。
固執しなければ。無才を受け入れ、そういうものだと割り切りさえすれば。慎二の眼前には無限に等しい可能性があったのだ。
それこそ、劣等感を覆す以上の、光栄に満ちた未来も。

『突き詰めれば、魔道というものは所詮、『手段』にすぎん。少なくとも、我々の価値観においてはな。目的を達成するための、選び得るツールのひとつ。ただそれだけでしかない。それをお前は、『手段』こそを唯一の目的と、至上命題とした。愚か、まったくもって愚かな事よ!』

真に優れた者は、魔道を歩みはしても、きっと魔道に必要以上に拘りはしない。
本懐を遂げるために、単にその方が効率がいいから、魔術を繰る。それ以上でも、以下でもない。
それは、古今東西のあらゆる魔術に携わる者に、訓戒として言える事ではある。
所謂、天才や鬼才と呼ばれる人種は、あるいはそうした思考を持っていたのかもしれない。

『受容する事も、思い切る事も出来ずに未練がましく、自分には魔術しかない、それしかないのだと思い込んだ。その視野の狭さ、すなわち矮小さこそが、お前の犯した決定的な間違いと知れ!』
「……ぅ、ぁ」

慎二は、何も言い返せなかった。
痙攣したように、ぴくり、ぴくりと唇が震えるだけだ。
不吉にざわめく心音と共に、身体の芯からなにかが流れ落ちていく喪失感が、彼を心底から打ちのめした。
激情は絶対零度の呪詛に固められ、無味乾燥の荒野へと朽ち果てる。
光を失った瞳は、真っ暗な諦念に塗りつぶされていた。

『以上だ。長話がすぎたな。……さて』

片手を挙げる指揮官。
同時に、無数の金属音が夜の帳を揺らめかせた。
兵士ロボット達がセイフティを解除し、慎二をロックオンしたのだ。

「ぅ、っく」

言葉にならない呻き声。
心を折られた彼にとって、それが精一杯の抵抗だった。
身体は動かない。ただ、上から吊るされた糸繰り人形のように虚脱の様相を晒すのみ。
死神の鎌が、今、仕事を全うせんとしている。
すべてを振り捨てるように、慎二は顔を背け、そして唇を噛み締めた。

『それでは、さらばだ!』

さっ、と指揮官の腕が前へと動き。



――――――ああ、お前がな。



轟音。
その胴体が、木っ端微塵に砕け散った。

「……え?」

鼓膜を突き抜けるような破裂音に慎二が顔を上げると、何かが黄金の破片を踏み越え、居並ぶロボットの首を悉く打ち落としていた。
指揮官がやられ、兵士ロボット達に一瞬の硬直が生まれたのだ。闖入者は、その間隙を的確に突いた。
銀の光を煌めかせ、青い風となって疾駆する金の少女。慎二は、そのサーヴァントに見覚えがあった。

「せ……セイバー?」

絞り出すような慎二の声に振り向く事なく、少女……セイバーは黙々と、不可視の剣で斬首刑を執行し続ける。
いつ再起動するかも解らない。今のうちに、全機スクラップに変えておかなければ。
彼女の背中は、そう主張していた。
そこで、ハタと慎二は気づく。
先程、指揮官が吹き飛ばされる瞬間に聞こえた声は、セイバーの物ではなかったという事に。

「ふう、ギリギリだったか」
「っうぁあ!?」

突如、自分の隣から声が響く。
慌てて傍らを見やるが、誰もいない。
建物の壁があるだけだ。それ以外になんの気配もない。
それでも視線を送り続けていると、唐突に壁の表面が波打った。

「ちょっとびっくりしたぞ。まさか、お前も巻き込まれてたとはな」

やたらと聞き覚えのある声色。
揺らぐ空間からヴェールを剥ぐように、人の姿が現れた。
赤銅色の髪をした、自分の仇敵であった少年。

「え、衛……み、や!?」

死んだような瞳のまま、慎二は眼を剥いた。

「念のため、って貸してくれた“とうめいマント”が、ここまで役に立つなんてな。どこぞのBIGBOSSも顔負けだ。お陰で、この世界とかアイツらの事がおおよそ解った」

慎二の驚愕を余所に、呆れの混じった微笑を漏らし、士郎は右手に持っていた大きめの薄布をポケットに仕舞い込んだ。
セイバーがいるという事は、当然マスターである士郎がいる。それは考えられないでもなかった。
だが、慎二はどうしても腑に落ちない。
なぜ、士郎は。

「どうして……僕を、助ける?」

敵対していた筈の自分を、窮地から救い上げるような真似をしたのか。
普通ならば、あのまま放っておくだろう。労せず敵が死ぬのならば、その方がいい。
少なくとも、慎二であればそうする。
そもそも、ここで自分を救ったとしても、それで士郎にとってなにか得があるというのか。
凍てついた心が、衝撃で僅かに息を吹き返す。
いまだ危機が続いているにも拘らず、慎二は尋ねずにはいられなかった。

「そんなの、最初に言っただろ」

だというのに。
士郎は、まるでそれが当たり前だと言わんばかりに。

「俺は、お前を殺すつもりはないって。やった事を許しはしない、とも言ったけどな。それに仮にも桜の兄貴だし、俺の悪友だ。それ以上の理由はいらない」

言い捨て、左手に嵌められた銀の筒を、ロボットに向けた。
そして、その口が再度動く。

「ドカン」

一言。
それだけで、再起動しかけていた鉄の兵士が一体、粉微塵に吹き飛んだ。
いまだ放心の極みから脱しきれていない慎二でも、はっきりと解る。
士郎の身に着けた銀筒から発射された物。
それが、高密度に圧縮された空気の塊であるという事に。

「ドカン、ドカン、ドカン、ドカン、ドカン、ドカン」

右へ、左へ、振り返りざま、あるいは上空へ、遮二無二めいた勢いで次々乱射される空気の砲弾。
射撃体勢に入りかけていたロボット兵は、悉くその身を貫かれ、爆散していく。
あっさりと、実にあっさりと、あの重い鋼鉄の身体が。
慎二にしてみれば、冗談みたいな光景だった。
セイバーが披露している斬鉄はまだいい。仮にも剣の英霊だ、鉄塊をバター同然に切り裂けない訳もない。
しかし、士郎は違う。彼は半人前以下の魔術師だ。それが一工程(シングルアクション)で、鉄塊から鉄クズを量産している。
その実、敵の素材は発泡スチロールでしたと言われても、思わず納得出来てしまいそうだった。
そんな事はないというのは、散らばる金属片が証明している。

「ぉ……ぁ、ぁあ」

それがきっかけだったのか。
慎二の奥底から、ぴくり、と何かが鎌首をもたげた。
炎とも、爆薬とも似た激しい気配を纏うもの。
それは、先程黄金の指揮官によって踏み躙られたものの欠片だった。

「お待たせしました、シロウ。この周囲の、おおよその障害の排除が完了しました」

血振りをするように不可視の剣を振り降ろし、騎士が主を振り返った。
彼女の足元には、鉄の兵士の骸が、路傍の石のようにいくつも転がっている。
士郎が破壊したのは、セイバーの剣の射程外にいた兵士達。セイバーの作業効率をアシストするための援護だった。
二人の成果を合わせて、この区画の脅威は、ある程度払拭された事になる。

「よし、じゃあ、早くのび太君達と合流するぞ。方角は解るか?」
「この道を真っ直ぐ行けば、元の場所に出……ッ!? シロウ、上を!」
「え……っう!?」

頭上に視線を向け、士郎の表情がこわばる。
つられて、慎二も上空を見上げた。
そこには。

「ひぁあ!?」
「ちっ、第二波か!」

火を噴き上げ、唸りを上げて迫り来る、ミサイルの流星群があった。
武器という、人間を萎縮させる絶対的な恐怖。
ロボットの大軍とはベクトルの違うそれが、再度慎二の臓腑を掴み上げる。

「シロウ!」
「急げ、セイバー! 慎二、伏せろ!」
「ぅぉわ!」

血相を変えた士郎に、乱暴に地面に叩き付けられる慎二。
棒立ちの虚脱状態から、受け身など取れる筈もない。
肩口からアスファルトに組み敷かれ、鈍い痛みと衝撃が身体の内側を強烈に揺さぶる。

(僕は……いったい、なにをやってるんだ)

飛ぶように近づいてくるセイバーと、焦りを滲ませてジーンズのポケットを探る士郎を余所に。
ドクン、と一際大きく跳ね上がる心臓。
緩められていた拳は、いつの間にか固く、固く握り締められており。
虚ろだった慎二の瞳に、微かに意思の光が兆した。





「――――あ、凛さん!」
「のび太、無事ね!」
「な、なんとか!」

ビルが瓦礫と化し、コンクリートとアスファルトの粉塵が濃煙となって漂う中。
互いを発見してすぐ、のび太とアーチャー、凛とフー子は背中合わせになった。
そして即座に、襲い来る敵を、各々の武器で迎撃にかかる。
のび太は“ショックガン”の二丁拳銃で敵を撃ち抜き、凛はガンドと宝石のワンツーで数十体をまとめて吹き飛ばす。
黒弓でアーチャーが悉くを射抜けば、フー子は竜巻で集団に文字通りの風穴を開ける。
数は二倍だが、殲滅効率は五倍、六倍にもなっていた。
射撃態勢に入られる前に始末しているため、敵の侵攻速度は、大幅に鈍っている。

「凛さんも、よく無事でしたね」
「“バリヤーポイント”のお陰よ。ギリギリまで使用を控えていて助かったわ。常時使ってたら、きっとあのミサイルは防げなかったでしょうね」
「え、じゃあ、あの」
「こっちのは電池切れ。ミサイルの直撃は、二回が限度だったみたい。合流までバリアなしで凌げたのは、ある意味奇跡ね。代わりに、手持ちの宝石がもう数個しかないんだけど」
「令呪も一画使用している。君達のところまでの直通路を開くためにな。風の竜を目印に急いだのはいいが、増援の壁が想像以上に厚かった。まさに紙一重だ」
「そうですか……あ、ならこれ」

エネルギーが尽きかけていた左手の“ショックガン”を地面に打ち捨て、ポケットから取り出したそれを、のび太は急いで凛に手渡す。
それは、のび太が所持していた分の“バリヤーポイント”だった。

「え、これ……」
「僕はフー子が護ってくれたから。一回も使ってないんです」
「フー子が? ……そう。じゃあ、遠慮なく借りるわね」

疑問も反論も口にする事なく、凛は素直にブツを受け取った。
思案に浸っている暇などない。
敵はいまだに、次から次へと湧き出してくる。
合流を許してしまった敵は、再度の分断にかかってくるだろう。
災害現場さながらへと様変わりした鏡面新都は、更地にこそなっていないものの、足の踏み場もないほど人工の残骸に塗れていた。
地上からの敵の侵攻速度は、その要害により低下している。それはいい。
しかし、空からの襲撃は、都合二度の爆撃で迷路の壁だったビルが倒壊したせいで、その数を増やしていた。

「凛。あのデカブツはどうする」

追い縋ってきた兵士ロボット達の頭部を、三体纏めて一矢で串刺しにしたところで、アーチャーは凛に問うた。
デカブツとは、言うまでもなくトリコロールの巨兵、『ザンダクロス(ジュド)』の事だ。
先程までとは異なり、『ザンダクロス(ジュド)』は、その居場所をビル群から別の場所へと移していた。
新都と士郎達が住む深山を結ぶ、冬木大橋にほど近い川の中州に陣取り、膝元までを水に浸した状態で佇んでいる。
『鉄人兵団』を巻き込む事を恐れてか、巨体を以て敵を追いかけ回すでもなく、今までミサイルを撃つ事以外の攻撃行動を行っていない。
火力の有り余る『ザンダクロス(ジュド)』と無数の兵隊である『鉄人兵団』を併用するには、前者の役割を限定せざるを得ないようだ。

「今は放っておくしかないわ。固定砲台に徹しているから相当厄介だけど、ギリギリ凌げない訳じゃない。フー子」
「フ?」
「一応聞くけど、アレ、なんとか出来る?」

ガンドの弾幕を張る片手間に、凛はフー子に問いかけた。
彼女の生み出した風の竜が、『鉄人兵団』を一掃したその光景は、凛の目に確と焼き付いている。
味方の中で火力が最も高いのは、『約束された勝利の剣(エクスカリバー)』を持つセイバーと、暴力的なまでの風の力を操れるフー子の二人。
凛が頼みにするのも、当然の話であった。

「――――むずかしい」

ほんの少しだけ考え込み、しかし申し訳なさそうにフー子は、首をふるふると横に振った。
『鉄人兵団』は、元々真空の宇宙でも活動が可能だ。
それはつまり、ボディと内部機関に徹底的な気密・耐圧処理が施されている事を意味している。
同じ技術で製作された『ザンダクロス(ジュド)』も、同仕様かつグレードアップされているだろう事は想像に難くない。
要は、フー子と『ザンダクロス(ジュド)』では、互いの性質上、決定的に相性が悪いのだ。
兵士ロボットを鎌鼬で両断出来たのは、装甲がそこまで厚くなく、鎌鼬の範囲もごく狭い物だったから。
だが、対象は『鉄人兵団』ロボットのおよそ十倍のスケールである。その耐久力も、ぶった切るために必要となるエネルギーも、桁が外れてくる。
鎌鼬でなく、気圧を操って押し潰そうとしても、持ち前の頑丈さでおそらく耐えきられてしまうだろう。
宝具類型で言えば、『ザンダクロス(ジュド)』は対城宝具。その程度出来なければ、対城宝具の名折れである。

「そう。じゃあ、セイバーに期待するしかないか。“竜の因子”を全開にして、令呪を重ね掛けすれば可能性はあるし」
「ごめんなさい」
「気にしなくていいわ」

フー子のマスターはのび太だが、令呪は持っていない。
のび太は魔術師ではないし、フー子自体、特殊なサーヴァントだからだ。
令呪によるブーストが期待出来ない以上、瞬間最大火力はセイバーの方に分があった。
おまけに、『約束された勝利の剣(エクスカリバー)』は、集束特化させた光を以て敵を切り裂く対城宝具。『ザンダクロス(ジュド)』には相性が抜群だ。
事態の打開には、セイバーと士郎が必要不可欠だった。

「しかし、セイバーと小僧は今どこにいる? あの二人も“バリヤーポイント”を持っているから、早々とやられたとは考えにくいが」
「結構距離を離されたものね。まあ、どんなに遠くても数キロと離れてはいないでしょうけど」

戦場は、新都のビル街とその周囲。直径にしておよそ五キロ程度である。
戦闘が始まっておよそ三十分が経過しようとしているが、『鉄人兵団』の荒波に揉まれてそれ以上まで離されるとは考えにくい。

「調べた方がいいですか?」
「“たずねびとステッキ”以外の方法があるならね。精度が荒いし、穴を埋める手間がアレだから」
「かといって、衛宮邸のイリヤスフィール達に頼むのは無理だろう。そもそも世界が違うという話だからな」
「じゃあ……あ、そうだ! フー子、もう一回、あの風のバリア張って!」
「フゥ♪」

何かを閃いたらしいのび太は、フー子にそう頼むと“ショックガン”を口に咥えて、ごそごそと“スペアポケット”の中を漁る。
間、髪を入れず、フー子が片手を天に掲げると、『鉄人兵団』の十字砲火(クロスファイア)を防いだ時と同じ、風の障壁を瞬時に作り出した。
今度のは、前回よりもやや大きめのサイズで、四人をすっぽりと覆ってなお、お釣りがくるほどの風のドームである。

「これ、え、ちょ!? なにこのインチキ! こんなのアリなの!?」
「大気を、物理干渉を遮断するまでに圧縮するとは……しかも、一工程(シングルアクション)で、か」

この手並みには、さしもの弓凛も目を剥いた。
彼らが見た、『ふしぎ風使い』の能力で起こした現象は、竜巻と『風の竜』だけである。
ここまで柔軟な指向性を以て、大気を自在に操れるとは、思ってもみなかったようだ。
しかし、この風の障壁には欠点があった。

「でも、こうげき、できない」
「は? 攻撃出来ない、って……」
「つまり、壁越しに相手を斃す事は出来ないという事か?」
「うん」

肯定の返答に、アーチャーは弓弦を引き絞る手をふっと緩めた。
厳密に言えば、攻撃自体は可能である。
だが、相手まで届かせるには、内側から障壁を突き破るほどの威力が必要になるのだ。
そうなれば、当然威力が減殺されて攻撃としての体を成せない上、突破された障壁を補完するために余計に魔力を喰う事となる。
明らかに非効率的であり、それなら下手に手を出さない方がよほど利口だ。
攻撃出来ないとは、つまりはそういう事だった。
とはいえ、防御性能は破格。防衛に徹している限り、突破される危険性はほぼ皆無に等しい。
障壁の外では、兵士ロボット達が光線を放ったり、パンチをぶつけたり、体当たりを仕掛けたりしているが、その悉くが跳ね返されている。
絶対安全地帯が、ここに形成されていた。

「ふぉれふぁ(これだ)!」

と、目当てのブツを探り出したようで、のび太が喜色の滲んだ声を弾ませた。
たった今、ポケットから引き抜かれた手に握られているのは、いつか見たハンドバッグである。

「って、それ“とりよせバッグ”じゃない。まさか、士郎達をここに取り寄せようって事?」
「いや、流石にそれは無理だろう。口の大きさの問題で、頭はともかく、胴体で詰まるはず……む、なんだ少年」

こいこい、と手招きするのび太に、首を傾げつつも素直にアーチャーは近寄る。
のび太は“とりよせバッグ”の口をめいっぱい開くと、つんつん、とバッグの口の中を指差した。
手を突っ込め、という指示のようだ。

「ほふのひはらひゃ、あはんなひひ(僕の力じゃ、上がんないし)」
「は……?」

非常にイヤな予感が頭を掠めたが、アーチャーはとりあえずバッグの口に手を突っ込み、布のような手触りの物体をむずと掴んで、思い切り引っ張り上げた。
その、次の瞬間。

「うわ、な、なんだ!?」

首根っこを引っ掴まれた、ロングTシャツとGパン姿の男が出現。
口のサイズなどお構いなしに、“とりよせバッグ”の向こう側から衛宮士郎が引きずり出された。

「え、あ、えぇえ!?」

訳も解らず、バッグに足を突っ込んだまま、宙吊り状態でおたつく士郎。
刹那の間、呆気にとられたように目を丸くしていたアーチャーであったが、ややもして、深い溜息を吐いた。

「……まさか、本当に取り寄せられるとは」
「は? あ、アーチャー!?」

ここにきて、ようやく自分がアーチャーに襟首を掴まれている事に気づいたようだ。
む、と軽く唸ったアーチャーは、徐に腕に力を籠め、まるでポイ捨てでもするかのように士郎を後ろに放り投げた。

「うわ!?」

どしゃっ、と重たげな音を立て、地面に尻餅をつく士郎。
ぞんざいな扱いに憤る暇もなく、強かに叩きつけられた鈍痛に思わず顔を顰めた。

「いっ痛ぅ!?」
「ホント、どこまで……一応、無事みたいね」
「と、遠坂!?」

頭痛を堪えるように頭を押さえていた凛が、士郎の腕を引いて地面から起き上がらせ、簡単に説明をする。
その間に、アーチャーはバッグの中からセイバーを引きずり出していた。

「シロウ!? シロ……は、え!?」

アーチャーに殺気がなかったせいか、自慢の『直感』スキルも上手く作動しなかったらしい。
恐慌状態から一転、呆けたような表情で、両手をぷらりとさせたその姿は、摘み上げられたライオンの子どもを彷彿とさせる。

「心配せずとも、小僧ならそこにいるぞ、セイバー」

セイバーは、そのままゆっくりかつ丁寧に地面へと降ろされた。

「こ、これは、いったい?」
「ちょ!? おい、アーチャー! 対応が全然違うぞ!」
「たわけ。女性を丁重に扱うのは当然の事だろう」
「だったらこっちも丁寧に扱え、このヤロウ!」
「フッ……」

食って掛かる士郎に対し、アーチャーは鼻で笑って返した。
内心、カチンときた士郎であったが、それよりも遥かに大事な事を思い出した。

「待った、あとひとりいるんだ!」
「あとひとり? 誰よ、それ」
「いいから早く引き上げろ、アイツが死ぬ!」
「ふぁ? ひおうはん(士郎さん)?」

訝しげに首を傾げる凛を尻目に、士郎はダッシュでのび太の方へ駆け寄ると、開きっぱなしの“とりよせバッグ”の口へ一気に腕をねじ込む。
そして歯を食い縛り、渾身の力を込めてぐいと引き抜くと、士郎と同じ制服を着込んだ、くせっ毛で青みがかった髪の男がずるりと引き出された。

「うふぁ、ほほひほ(うわ、この人)!?」
「あ、慎二!」
「そいつは……ライダーのマスターか」

言うや否や、アーチャーの両の手に黒白の双剣が握られた。
斬られたと錯覚しそうなほどの必殺の気をぶつけ、一歩、二歩と足を進める。
びく、と慎二が僅かに身じろぎするが、虚脱したように座り込んだままだった。
立ち上がろうとする気すら感じられず、足をだらりと前に投げ出し、顔を俯け、表情は前方に垂れ下がる前髪に隠れて、判然としない。
普通に見れば、すべてを諦めきった廃人にさえ映るが、しかしその両の手は、血管が浮き出るほどに固く握り締められている。
欺くための演技とは思えない。それにしては真に迫りすぎている。この男にそんな器用なマネは出来ない。
例えて言うなら、熾(おこ)り火を秘めた人間の抜け殻。
そんな、なんともちぐはぐな慎二の様子に、アーチャーは微かに首を捻った。

「ま、待てアーチャー、殺すな! 慎二に抵抗の意思はない!」
「だが、そもそもの原因を作ったのはその男だ。イレギュラーが絡んでいる以上、この状況の全責任がそやつにあるとは言えんが、とはいえ禍根は元から断っておかねば憂いが残る」
「ふざけるな! そもそも、そんな事に時間を割いてる余裕なんてないんだよ! このままだと、俺達は……!」

アーチャーの前へと立ち塞がった士郎は、喰いつかんばかりの勢いで慎二を庇う。
鬼気迫るその形相は、慎二を死なせたくないという思いと同時に、それ以上のものが含まれている事を、アーチャーに漠然と感じさせた。

「アーチャー。私も、彼を斬る事には反対です。ノビタの目の前で血を流させる訳にはいきませんし、助けた意味がなくなる。なによりシロウの言葉の通り、私達に残された猶予は少ない」

真摯な目で、セイバーはアーチャーへと訴えかける。
アーチャーが視線を移すと、怯えと恐怖を滲ませたのび太の表情が視界に飛び込んできた。
それを見てしまっては、流石に一蹴する事も出来ない。彼の最も厭う事のひとつが、年少の者の心を切り裂く事であるからには。
それに、二人が焦燥感を伴うほどに切迫した事情があるというのなら、慎二の対処への優先度は、相対的に低くなる。
目を閉じ、僅かに逡巡した後、彼は凛へと視線を移した。
主の下知に、すべてを委ねるという意思を込めて。

「――――剣を降ろして。アーチャー」

ほんの微かに慎二を睨み、そして彼女は告げた。

「……了解した」

そう口にした時には、既に双剣は消え失せていた。
大きく安堵の吐息を漏らしたのび太が“ショックガン”を口から取り落とし、士郎の肩から張り詰めていた力が抜ける。

「それで、どういう事なの」
「ん。実はな……」

手短に、そして要点を掻い摘んで、士郎は指揮官ロボットが慎二に向けて喋った内容を説明する。
『鏡面世界(リバーサル・ワールド)』の事。
『鉄人兵団(インフィニティ・アイアンアーミー)』の秘密。
現在必要な事だけを開陳する事に徹し、慎二についての糾弾は伏せた。
セイバーは無言に徹し、士郎の言以上に語る事はなかった。

「――――え、まさか、そんなっ!?」
「……ち。これは、消耗戦ですらないな」

潮が引くように色を失う凛。アーチャーは、努めて冷静を装っているが、閉じた瞼の下では、鈍色の瞳が微かに揺れ動いていた。
世界の檻と、数の暴力。どちらか一方だけでも甚だ絶望的なのに、その両方ともが一斉に襲いかかってくるとは。不条理にも程がある。
マフーガの時は、対象を斃せば事足りた。だが、今回ばかりはそうはいかない。
難易度は、それこそ異次元クラス。果たして勝ちの目はあるのだろうか。
心に垂れ込める暗雲を振り払うように、凛は士郎に更なる問いを投げた。

「あんた、それどうやって聞き出したの?」
「いや、聞き出したというか」

そう言って、恐縮そうに肩を竦める士郎。
一度慎二に視線を投げかけた後、頭を掻きつつ、再度口を開いた。

「最初のミサイル爆撃を“バリヤーポイント”で凌いだすぐ後に、偶然セイバーが慎二らしい人影が見えたって言って」
「かなり距離がありましたが、服装などからそう判断しました。シロウにそう告げたところ、追いかけると」

引き継いだセイバーが一旦言葉を切ると、再度士郎へと視線でバトンを渡す。

「ミサイルの煙と炎に紛れて、のび太君から借りていた“とうめいマント”を二人で被って追跡したんだ。と言っても、俺はセイバーの脇に抱えられてたんだけど。で、ロボット達に追い詰められている慎二を発見して、そこで、な……」

後は察しろ、とばかりに士郎は、そこで口を閉じた。
“とうめいマント”の効力は、その名の通り。くだくだしく述べるまでもないだろう。
ただし、これには欠点がある。
透明になれはするが、“石ころぼうし”のように気配までは消せないのだ。
あくまで姿を消せるだけ。だからこそ、気配を紛らわせる機会が必要だった。
爆撃直後は、敵であれ味方であれ多少なりとも浮足立つ。それは、ロボットといえども自我がある以上、例外ではない。
士郎は、そのチャンスにつけ込み、結果として最良を拾うに至った。
本人達は知らない事だが、二人が消えた後、『鉄人兵団』は二人の捜索を行っていた。
姿が見えずとも、見えない者を捉える方法は幾らでもある。それでも見つからなかったのは、偏にセイバーの細心の注意を払っての隠行の賜物である。
気配を殺しつつ、可能な限りの速度を保ち追跡を行う。たったそれだけが、いったいどれほど難しい事か。
ただでさえ、隠密行動に慣れていない彼女である。敵と相対する以上に神経を削った事だろう。
つくづく、のび太のポケットに“石ころぼうし”が入っていなかった事が悔やまれる。
ある意味では、『気配遮断』スキル以上に優れた、ステルス道具である故に。

「成る程……で、退却中だったところを“とりよせバッグ”で拾われた、と」
「ああ。二回目のミサイルを“バリヤーポイント”でなんとか凌いで、慎二を引っ張りながら走ってた。バリアの電池が底を尽きかけてたから、もう一回爆撃が来てたらアウトだったな」
「ライダーのマスターを救出した際、シロウが指揮官級を破壊しましたが、爆撃後にビルの上から新たな個体が出現しました。隙を見てシロウが“空気砲”でそれも破壊すると、間を置かずに今度は路上に三機目が現れました。情報の信憑性は高いと思います」

セイバーの言葉は、ある意味ではとどめだったが、そんなものは今更である。
絶望に浸っている暇などない。
大事な事は、今のこの八方塞がりの状況を、どのように打開するかだ。
生きる事を諦めていない以上、悲観に向かうベクトルを無理矢理にでも上方修正し、希望を見出さなければならない。

「悪いけどフー子、もう少しだけ頑張って」
「フ!」

凛に向かって、フー子は力強く頷きを返した。
あどけない容貌に浮かんでいる微笑が、まだまだ余裕があるという事を示している。
風の障壁の向こうでは、単眼のロボット達がガチャガチャと喧しいが、堅牢なバリアを乗り越える手段がないので完全に足踏み状態であった。
時折、身を犠牲にして特攻をぶちかます個体もあったものの、フー子のバリアはそれすらもシャットアウトしている。
この貴重な時間を稼いでくれている小さな少女に感謝しつつ、凛が士郎、セイバー、アーチャーへ顔を向け、本題を切り出した。

「まずは、現時点での勝利条件を確認しておきましょう。とりあえずは、そこからね」
「そうだな……ひとつは、この鏡面世界、ここから脱出する事か」
「けど、それはライダー、じゃなかった。リルルだっけ? の、力が必要になるはずだろ」
「たしかに、あの指揮官級はそう言っていましたね。彼女は今、あの巨大なロボットの中にいるようですから、そうなると、第一にあれをどうにかしなければならないという事になります」

果たしてそんな事が可能なのか。四人は一瞬、押し黙った。
ロボット兵士を上回る装甲を持ち、戦場に無数のミサイルをばら撒き、空すら飛べる『ザンダクロス(ジュド)』は、まさしく移動要塞そのものである。
城攻めには、野戦での三倍の兵力が必要だと言うが、戦力比は三倍どころではない。
真正面から挑んだところで、それこそ近寄れただけでも大戦果だろう。

「……それも大事だけど、ちょっと気になってる事があるのよ」
「ん、なんだよ遠坂?」
「あの指揮官級と、リルルって子の関係よ」
「関係?」

首を傾げる士郎に、凛がピッと人差し指を立て、解を示す。

「やっと解ったのよ。主従関係が逆転しちゃってるってね。ロボット達って、リルルの『宝具』なんでしょ? でも、実際に使役しているのはあの指揮官級よ。しかも、反抗せずに諾々と従ってる。どう考えてもおかしいでしょ」
「言われてみれば……たしかに、な」

納得したようにひとつ頷き、士郎が同意を示した。
道具が主を使役する。そんな歪な関係に凛は疑問を抱いたのだ。
言ってみれば、セイバーが『約束された勝利の剣(エクスカリバー)』に顎で使われているようなものである。
明らかに力関係がおかしい構図であった。
向こうの口振りからして、かつてリルルが指揮官級の部下であった事を差し引いても、やはり首を傾げざるを得ない。

「疑問は多々残るが、それは一旦置いておこう。つまりだ、あのリルルを屈服させるには、『鉄人兵団』そのものをどうにかしなければならんという事か」

顎に手を当て、アーチャーが唸るように結論付けた。
はっきり言って、無理な注文である。
指揮官級の大言壮語でなければ、この鏡面世界地球には、『鉄人兵団』の製造工場が五、六桁単位で存在しているという。
という事は、すなわちそれらすべてを叩き潰し、さらに現存する『鉄人兵団』全個体を破壊し尽くして初めて勝利条件を満たした事になるのだ。
工場の場所も、規模もまったく解らない手探りの状況で、だ。
よしんば解っていたとしても、せいぜい工場一個を潰している間に新たな工場を造られてしまうのがオチである。
そもそも、鏡面世界に引きずり込まれた時点で、向こうの勝ちがほぼ確定したと言ってもいい。
鏡面世界と現実世界を行き来する鍵は、リルルが握っている。すべては、彼女の掌の上なのだ。
どこまで行っても絶望、その絵図は覆しようがない。
重苦しい空気が垂れ込め始めたその時、セイバーがふっと顔を上げた。

「ですが、希望がない訳でも……」
「セイバー、それって」
「ええ、リン。シロウも気づいたかと思いますが、彼女自身が、あるいは突破口になるかと」
「あの子が……あ。そうか、あの子、明らかに」
「こちらとの戦闘を躊躇っていた。でなければ、戦闘前の暗い表情も、デカブツの最初の動きの鈍さも、説明がつかん」

光明は、そこにこそあった。
リルルは、こちらとの戦いを厭っている。
それを、『鉄人兵団』の指揮官級が無理に命じて戦闘を行わせていた。
どうしてそうなっているのか、理由は解らないがともかく、今はその可能性に賭けるのが最善のように思えた。

「って事は、だ。要は、『鉄人兵団』の指揮官級をすべて破壊すればいいのか」
「しかし、どうするのです? 工場も含めて殲滅するとしても、手が足りなさすぎます。そもそも、どれだけいるかも解らない指揮官級をすべて把握するというのも……」
「たしかにね……うぅ~……ん? って、ちょっと待って」

頭を抱えて唸っていた凛が、ふとパッと顔を上げた。
いったい何事かと、三人の視線が凛に向けられる。

「む、どうした凛?」
「のび太は?」
「あ、そうだのび太君!」

あまりの事態の深刻さに、四人揃って大事な事を忘れていた。
リルルとも、『鉄人兵団』とも因縁深いのび太。彼の意見をまだ聞いていなかった。
四人に、それだけ余裕がないという事の証左かもしれない。
その、すっかり蚊帳の外へと追いやられていたのび太はというと。

「へ、あ、はい!?」

“スペアポケット”の中を、必死な表情でミキサーの如く掻き回していた。
凛の眉間に、僅かに皺が寄る。

「アンタ、なにしてるの?」
「いや、なにって、その、ちょっと探し物……こ、この辺だっけかなぁ?」
「探し物、ですか? いったい何を?」
「うん……くぅっ」

ポケットの表面に手形が浮き出るぐらいに深く腕を突き入れて。



「――――“逆世界入りこみオイル”。『鏡面世界』に出入り出来る道具で……“入りこみミラー”はなかったし……ん!? あ、あった! よかった~!」



ふたつの家の底面と底面がくっついた絵のラベルが貼られた、スプレー容器のような缶を取り出した。

「「「「…………」」」」

ほっとしたように笑うのび太とは対照的に、四人の表情は、瞬間冷凍でもされたかの如くに固まっている。
急に静かになった事に訝しんだ、のび太がふと顔を向けると。

「そんなのがあるんなら、最初っから出さんかぁあああああーーーーっ!!」

ふしゃーっ、と毛を逆立てた猫のように吼える凛にどやされた。

「うひゃああ、ご、ごめんなさーーーーい!」
「フ!?」

剣幕に負け、思わず頭を抱えて追い詰められたネズミの如く縮こまるのび太。
つられたフー子もビクッ、と身を竦め、バリアが乱れて若干範囲が狭くなる。
怒髪、天を突くそのプレッシャーは、『鉄人兵団』を単騎で制圧する事も夢ではないくらいのものがあった。
そのまま、文字通り噛みつかんばかりに迫りそうな凛を、アーチャーがすぐさま羽交い絞めする。

「凛、落ち着け。君らしくもない」
「なによ! これじゃちょっとでも悲観的になってたわたしがバカみたいじゃない! 返せ! わたしの心の余裕を返しなさぁああああーーーーい!!」
「リン! 『常に優雅たれ』はどうしたのですか、落ち着きなさい!」
「キレてる場合じゃないだろ、遠坂! どうどう!」

ふーっ、ふーっ、と涙すら浮かべて興奮しきりの凛をどうにか宥めすかす三人。
いくら猫っぽいからといって顎をくすぐればいいという物でもなく、逆に凛がこうまで逆上した事によって、残る三人はむしろすっかり落ち着いてしまっていた。
人間、どれほど動揺していようとも、それ以上に動揺する者が近くにいれば相対的に冷静になれてしまうものだ。

「落ち着きましたか?」
「……はぁ、すぅ、はぁ……うん、ゴメン。カッコ悪いトコを見せたわね」
「ああ、実に恰好悪かったな。『優雅』という言葉の一文字にすら掠りもせんほどに」
「ぐ……はっきり言ってくれるわね」
「少年の道具が理不尽なのは、今に始まった事ではないだろう。それに思い出したのだが、あの指揮官級が、少年はかつて鏡面世界に出入りしていたような事を言っていたからな。我々は、最初に少年に意見を聞くべきだったのだよ」

的確すぎるアーチャーの言に、凛はもうひとつ、大きな溜息を吐いた。
交戦経験のある者の言葉に耳を傾けるのは、戦略を練る上での常道である。
そんな事も失念していたとは、と凛は己がふがいなさに額を抑えて天を仰ぐ。
そして、気を取り直すように二、三度頭を振ると、のび太の手のブツに視線を移す。
凛の怒気が収まったと見て、のび太は既に立ち上がっていた。

「それで、それがあればこの世界から脱出できる訳ね?」
「え、あ、はい。でも、この“逆世界入り込みオイル”は、鏡か、それっぽいものに塗らないといけないんですけど」
「ちょっと待て、鏡なんて持ってないぞ。まさか、敵を倒しながら探すって訳にもいかないし」
「あ、それは“おざしきつり堀”もあったから大丈夫です」
「つ、釣り堀? つまり、池みたいなものですか? 水面でも代用が可能、と」
「うん。まあ、結構大きいから、畳二枚くらいのスペースがいるけどね」

あっさりと、問題の根幹が解決した事に、呆然を通り越して諦念を抜き去り、一周回って平常運転に戻ってしまった四人。
打たれ強くなったというよりは、痛覚を感じにくくなったと言った方が適切だろうか。
しかし、解消すべき問題点はまだある。
待ったをかけるように、アーチャーが口を挟んだ。

「だが、仮に向こう側に戻れたとしてもだ。再度こちらに引き戻される可能性もあるぞ」
「あ、そうね……そう言われると」
「むぅ」

リルルは、鏡面世界に自由に行き来出来る。
それはすなわち、万一鏡面世界からの逃亡を図られたとしても、追いかけて再度転送する事も可能である事を意味している。
さらに。

「それに最初のように、全員が一塊に纏めて転送される保証はない。それぞれが分断されて別の場所に送られた場合、我々は間違いなく、この世界に強制的に骨を埋める事になる」

もし、単独でロボットひしめく絶壁の谷底にでも放り込まれたとしたら。
離れ小島すら水平線の彼方の、太平洋のど真ん中に投げ込まれたとしたら。
互いの距離が、それこそ数千kmと離れていたとしたら。
まさしくアーチャーの言葉の通りになるだろう。
敵のフィールドは、この鏡面世界地球上のすべてと考えて差し支えない。
転送箇所を指定出来るかどうかは判然としないが、最悪を想定して出来ると仮定しておいた方がいい。
考えられる可能性を切って捨てる事は、愚の骨頂である。

「結局は、最初に戻るのか」

カシカシと頭を掻き毟りながら、溜息混じりに呟く士郎。
『鉄人兵団』をどうにかしない限り、安心は出来ないという事に変わりはないと気づいたのだ。
ここで、リルルをどうにかしようと言わない辺りが、士郎らしいと言えばらしい。
幸いと言うべきか、この争点に異論を差し込む者はいなかった。

「そうねぇ……うーん」

腕組みし、深刻な表情で凛は唸った。
そして二、三度、目を瞬(しばたた)かせると、皺の寄る眉間を揉み解し、次いでのび太に視線をやった。

「……はぁ」

桜花に紅を塗ったような凛の唇から、小さな溜息が漏れる。
微かに首を捻ったのび太であったが、間を置かずに唇が動き、言葉が吐き出された。

「のび太」
「はい?」
「なんかない?」
「え?」

あまりにも漠然とした質問に対し、意図がまったく掴めないのび太。
カリカリと頬を掻きながら、しかしやや不機嫌というか、何かを諦めたような感情を滲ませ、凛は言葉を継ぎ足した。

「『鉄人兵団』をなんとか出来そうな心当たり。この状況じゃ、流石に手詰まりだし」

戦闘前に、アーチャーから、のび太の道具に頼りすぎるなと念を押されていたが、今の袋小路に陥った現状では致し方ない。
依存だろうが卑怯だろうが、手段があるなら形振り構っている余裕などない。
事実、アーチャーは何も言わず、精神を研ぎ澄ます修験者のように深く瞑目している。
無言の消極的肯定であった。

「はぁ、と言われても……」

言われて、再度“スペアポケット”に右手を突き入れる。
しかし、果たしてそんなものがあるのかどうか。
世界中に湧く『鉄人兵団』。それに抗するには、たしかに並大抵の道具では通用しないだろう。

「んー……」

忙しなく腕を動かし、険しい表情を浮かべてのび太は唸る。
ない知恵絞って、ぱっと考えつくのは、“タンマウォッチ”で時間を止め、一体一体地道に潰していく事。
索敵の手間を考えれば、非常に疲れる上に地味ではあるが、一応有効な手だ。
だが、件の“タンマウォッチ”は入っていない。

「あるかな、そんなの」

あとは、“どくさいスイッチ”や“ソーナルじょう”、“ソノウソホント”などで『鉄人兵団』自体の存在を否定してしまう事。
これらも一方的に相手を消し去る事が出来るので有効だが、やはり該当道具の一切がポケット内に現存しない。

「うぅー……!」

四人の視線が注がれる中、のび太が苛立ったようにポケット内を掻き回した。
あまりに乏しい選択肢に、知らず歯噛みする。
のび太としては、リルルと敵対などしたくなかった。
当たり前である。彼女はかつて、己が消滅を覚悟して地球を救ってくれたのだ。そんな友に近しい存在と矛を交えるなど、絶対にゴメンであった。
しかし、純粋な地球の脅威である『鉄人兵団』に対しては、至極当然ながら撃滅するに吝かではなかった。
そういう意味では、正直なところ士郎の提言は非常にありがたかったのだ。
確たる手応えのなさに、焦りが募る。
もうなんでもいいからなんか出てこい、と言わんばかりに“スペアポケット”を逆さまにし、熊手でアサリを引っ掻き出すような勢いで腕を動かすと。

「あ」

木になったリンゴが落ちるように、一個のひみつ道具がポケットの口から転がり落ち、ゴトリと地面に鈍い音を響かせた。
音で解る通り、それは金属で作られており、ややくすんだ鉄特有の光沢を放っている。
あちらこちらにペイントが施され、細長い形をしていた。
そして、なにより特徴的なのが、外装に描かれた禁断のマーク。

「――――いぃ!?」

それを目にした瞬間、のび太はくぐもった奇声と共に息を呑んだ。
次いでカチリ、カチリと、すべてを解決する方法が、頭の中で構築された。
たしかに、これを用いれば問題は、根こそぎ解決するだろう。
しかし、これは同時にパンドラの箱でもある。
過去、これを使用しかけたドラえもんを、必死で押し留めた事もある。まさに、最悪のひみつ道具。それが今、目の前に転がっている。
なんでよりにもよってこれが入ってるんだ、と叫びかけたのび太であったが、答えを返せる者はこの場にいない。

「なんだ、どうしたのび太君?」

色を失ったのび太に対し、士郎が心配そうに声をかける。

「あ、いや、そのぅ……」
「こ、これは……」

ブツを認めたアーチャーの頬がひくり、と強張った。
これまでのひみつ道具と違い、見た目と形状が、明らかに危険物だったからだ。
“ショックガン”や“空気砲”、“名刀・電光丸”も銃砲刀剣類なので一応、危険物ではあるが、眼前のこれは流石に桁が違っていた。

「このマークって、まさか……本物? ちょっと、そんな物騒なモノまで入ってたの!? というか、さっき、思いっきり落とし……!」
「しかし、これひとつであの『鉄人兵団』をどうにか出来るとも思えませんが」

その真価を知らないからこその、セイバーの言。
凛の驚愕と危惧は尤もだが、そんな生易しい代物だったらまだよかっただろう。
のび太の取り出したもの。
用いる事はおろか、取り出す事さえ憚られるそのひみつ道具。
『名は体を表す』という格言を、これ以上ないほどに体現した核兵器の模型のようなそれを、かつて使用しかけた者はこう呼んだ。





――――“地球はかいばくだん”と。







[28951] 第三十九話
Name: 青空の木陰◆c9254621 ID:90f856d7
Date: 2013/04/13 11:48




なぜ、自分はこんなところにいるのだろう、と。
低く唸りを上げる機械音の満ちるコクピットの中で、彼女は不意に思った。
気がつけば、消滅したはずの己の身体があり、目の前にあの少年がいた。
嬉しくなかったはずがない。
憎からず想っていた存在との再会に、心躍らぬ道理などないのだから。

「…………ッ」

だが、彼女の表情に喜色は浮かばない。
倒すべき敵としての再会に、喜びを示す道理などないのだから。

『ち、合流を許したか。流石にやるものよ』

彼女の宝具であり、そして支配者でもある黄金の個体の声が響く。
本来、彼女が使役するはずの存在であるにも拘らず、逆に彼女を使役する存在となっている。
どうしてそうなっているのか。
それは、彼女自身が持つ因果と、彼女の元となった存在が持つ物の因果が重なり合ったからだ。
その実、彼女の存在は、幾多の因果に絡め取られている。

「どうしてこんな……『服従回路』なんて、ものが……」

左側頭部に当てられた手が、小刻みに震えている。
彼女の身体には、『強制命令権』を所有する者からのコマンドを受諾する『服従回路』が埋め込まれている。
『強制命令権』を持つ者は、かつて彼女の上官であった、黄金の指揮官。
自我こそ剥奪されないものの、その個体の命令にだけは従う事を強いられてしまう。
抵抗は無意味。コマンドを重ね掛けされれば、抗う力を根こそぎ奪い取られる。
言わば、『我に従え』という令呪の縛りを、何重にも掛け続けられるに等しいのだ。
鋼鉄の縛鎖は、彼女の全身を絡め取り、馬車馬の如く諾々と動く事のみを許容する。

「く……ぅ」

爪が喰い込むほど強く、両手で頭を抱え込む。
縛りつける物を、振り解こうとするかのように。
マフーガと同じく、サーヴァントの変異体である彼女にも、エーテルを介して元となった者の影響を受ける。
狂戦士の変異体であったマフーガは、器であるクラスに付随するスキル『狂化』と、『ヘラクレス』の象徴である宝具、『十二の試練(ゴッド・ハンド)』を継承していた。
そして彼女の場合、前者は同様だが、後者が違う。
『メドゥーサ』と共通する宝具を、彼女は何一つ所有していない。
しかし、騎乗兵(ライダー)というクラスは宝具の威力が物を言う。なまじ強力である分、たとえ共通項がなかろうが因果も僅かに強くなる。
彼女に与えられた因果は、『騎英の手綱(ベルレフォーン)』。
使役者を強制的に支配下に置き、真価を発揮させるという宝具の因果が捻じれて反映され、『服従回路』と『強制命令権』というスキルへと変質した。
主従関係の逆転現象は、こうした裏事情から齎された。

『――――ほう、風のバリアとは。殻に籠ったか。時間稼ぎのつもり……む、ちっ。三名とも回収されたか。ふん、小賢しいな。まあいい』

が、この因果はさらにもうひとつ、余計な『爆弾』をセットでプレゼントしてくれた。
発動条件こそ厳しいものの、発動したが最後、己の命運は完全に尽きる。
もはやここまで来ると異常因果としか言い様のない、死に誘う、悪魔の契約に等しいスキルが彼女の奥深くに根差していた。

『すべてはまだ想定の範囲内だが、さて……』

改めて、思う。
なぜ、自分はこんなところにいるのだろう、と。
原因は、判然としない。だが、目的は解る。

「……いや……だ……」

彼と闘い、彼とその仲間を抹殺する。
それが、この場における彼女の存在理由であり、彼女のやるべき事だ。

「そんなの、いや……!」

コクピット内の集音機でも拾えないほどの、か細い声。
それが、彼女の心のすべてだった。
しかし、逆らえない。抗えない。
自らの背負う業は、意思で跳ね返せるような生易しい物では決してない。
掻き毟るほどの葛藤が、彼女の心を苛む。
モニターに映るロボットを見る度に、己の手が握るコントロールレバーの感触を意識する度に、見えない傷が幾重にも刻まれてゆく。
機械の身体に流れるはずのない、夥しい紅い血潮が彼女の心を悲嘆と絶望に染め上げる。
しかし。

「……けど、だけど」

それでも、ひとつだけ。
たったひとつだけ、彼女は『望み』を抱いていた。
『やるべき事』ではない。押しつけられた役目ではなく、己の意思で『成し遂げたい』と思う事。
それだけが、彼女の心の中に残った、たったひとつの希望であり、光明。
憂いに満ちたガラスの瞳に、微かな輝きが見え隠れしていた。

「見ていて……」

左胸、人間でいう心臓に当たる部分を、そっと押さえる。
無機質の回路と、循環するオイルしか存在しないはずのそこを、まるで儚く、尊い物を扱うように。

「――――“あなた”の願いを、無に帰させはしない」

胸中に抱いた、彼女の望み。

「諦めないから、諦めたくないから」

命令で身体は縛れても、心は決して縛れない。
諦念に覆われた表情に、決然としたものが宿る。
噛みしめられた唇が、声には足りない心を顕す。

「わたしがここにいる理由は、戦うためなんかじゃ、ない。のび太くんと、あなたと出会うため……それが、すべて」

その願いは、奇跡とも呼ばれるほどに難題で、そして純粋なものだった。

『――――命ずる』

機械の心に炎が宿りかけたその時、雪崩のような苦悩が襲い掛かってくる。
指揮官級の言葉は、その実、極限まで研ぎ澄まされた氷のナイフにも等しい。

「……ッ!」

しかし、彼女は歯を食い縛って、その凍てつくような命令を受領する。
言葉の刃で斬られても、絶対零度の絶望に苛まれても。
一度火のついた灯火は、そう容易く消えはしなかった。
耐えるかのように目を閉じて、心を切り裂くコマンドを待つ。

『ジュドを以て、撃ち貫け』

ぎしり、と鈍い音が口内から発せられた。
『ザンダクロス(ジュド)』の武装を、さらに解放しろというお達しだ。
彼女はロボット。魔術師とは違った意味で、常とは隔絶した存在である。
その典型として、彼女は魔力を保持していない。
サーヴァントのクラス枠とエーテルで構成されているにも拘らず、彼女には魔力を司る機構が一切存在していないのだ。
ゆえに、この機械仕掛けの身体では、魔力を操る事が出来ない。騎乗兵のクラススキルである『対魔力』も、その弊害で事実上失われている。
しかし、だからこそ、Aランクを超える三つの宝具を同時使用しても、なんらの負荷も悪影響もない。
魔力に依らないがために、魔術的制約を無視出来るのである。
これほど魔術師の常識を外れる存在も、そうそうないだろう。

「……ぅ、っく!」

戦慄く指先が、コントロールレバーのスイッチに掛かる。
モニターに映るのび太を見るその瞳は、縋るようにも、祈るようにも見える。
心は戦いを忌避するが、身体は戦闘へと赴く。
ベクトルが正反対の方向へとひた走る心と身体は、彼女に多大な消耗を強いる。
内部機関が熱を持ち、放熱処理が追いつかない。
オーバーヒートしそうな葛藤とは別に、彼にまた辛い思いをさせてしまうだろう事への申し訳なさが、津波のように去来していた。

(今、ここにいるわたしは……結局は、仮初の存在。のび太くんの心と記憶から形作られた、幻影。……でも、のび太くん優しいから)

己の望みを聞けば、きっと涙を流すだろう。
他人の痛みを自分の事のように感じてしまう、芯の真っ直ぐな彼ならば。
しかし、願いの成就には、のび太は欠かす事の出来ないファクターなのだ。
戦いたくない、傷つけたくない。けれど、そこから逃げる事は許されない。
逃げてはいけないのだ。己のためにも、“彼女”のためにも。
そして……おそらくは、彼にとっても。

(ごめんなさい……けど、だから……!)

呪縛を振り切るチャンスは、きっと来る。
『強制命令権』も、絶対の存在ではない。針の穴ほどの物ではあるが、抜け道が存在する。
部下の命令に、主を無理矢理従えさせるとはいえ、本来の主従関係までをも覆すものではないのだ。
ゆえに、完全無欠でなく、不完全。縛れる代わりに、条件がある。
そこを突けるかどうかは、向こうの出方とこちらの運次第。
すべては綱渡りどころか、ガラスのロープを伝うような、保証も予定調和もない、伸るか反るかの完全な運否天賦(うんぷてんぷ)。
己の命運をすべて、自ら追い詰める敵の行動に賭けなければならない。
手前勝手に、重荷を預けてしまうその事に、多大な申し訳なさを感じるが、それでも、と思う他はなく、またそう思わずにはいられなかった。
無数対四人という、あんなに絶望的な状況でも、決して諦める事のなかった彼ならば。
奇跡も、手繰り寄せられる。
絶対に大丈夫。そう信じて。

「――――――頑張って!」

焦燥、苦悩、希望、慚愧。
明暗分かたれた感情全てが、混じり合うまま渦を巻く。
咽喉の奥から絞り出すような、あまりにも儚い祈りの言葉。
心の慟哭と共に、彼女の指先はスイッチを押し込んだ。





『“地球はかいばくだん”!?』

都合、四人による一斉唱和が、バリアのドーム内に響き渡った。
アメ細工のミニチュアを持ち上げるように、そうっとブツを抱えたのび太の手。そこに視線が集中する。
その質は、様々だ。
疑惑、困惑、警戒、驚愕、畏怖。
共通しているのは、およそプラス方面の評価はない、という点である。
そして、皆一様に物言わぬ彫像と化してしまっていた。

「あ、あの……もしもし?」

四人に対し、のび太がおずおずと話しかける。

「……ん、む。すまん。正直に言って、予想外だった」

一番早く復調したのは、アーチャーであった。
常の平静な表情で謝罪の言葉を口にする彼だが、よく見ると唇の端が小刻みに震えている。
その内側では、いまだ狂乱の嵐が吹き荒れているのだろう。

「まさか、これ本当に……?」

次いで復活したのは士郎。
しかし、『本当に』から先を告げられない。
言ってしまえば、なにかが終わってしまう。そう示さんばかりの言外の叫びだった。

「あ、その……えっと……“○×占い”、使います?」
「…………」

刹那の葛藤に、士郎は内心で身を捩って悶える。
怖い、だが確かめずにはいられない。確かめない方がもっと怖い。
なにしろペイントされているマークがマーク。しかも、色々と折り紙つきの、理不尽な未来のひみつ道具なのである。
今までのび太が持ち出してきたひみつ道具は、程度や力の多寡こそあれ、ほとんどが名前通りの効力を発揮してきた。
つまり、今のび太が抱えているブツも、額面相応の力を秘めていると考えていい。
実に至りたくなかった結論。だが、これで問題を解決出来るのならば、自分の良識と常識など、粉微塵になっても構わない。
構わない、のだが……しかし、腹は括らねばならなかった。

「……うん」

懊悩、苦悶、逡巡。そして首肯。
崖から転がり落ちる岩のように、士郎の頭が下方へ振られた。
そして。



「あ、やっぱり“○”だった」
「「あああああああああああああっ!?」」



ファンファーレと共に宙に浮く○印を頭上に、ジーザスとばかりに慟哭する二人の男の姿があった。
命題は、『これは地球を木っ端微塵に破壊出来る』というもの。
原爆よりも水爆よりも小型で、しかもそれらより破壊力が段違いのそれが、今目の前の平凡な少年の手に抱えられている。
まさしく核爆弾級の衝撃と同時に、つくづくここが『鏡面世界』でよかったと思う二人であった。
こんなものが現実世界で解き放たれようとしたら、表裏問わずいろんなヤツラの標的になっていた事だろう。

「な、なんというものを……」

絶叫で硬直の解けたセイバーの、亡者のような苦い声が、その尋常でない驚愕の度合いを如実に表していた。
表情がややムンクの『叫び』っぽくなっているが、さもあろう。
英霊は、聖杯を通じて現代の知識も持ち合わせている。
地球が丸く、太陽の周りを公転している事も、現代の最終兵器である核弾頭の存在も、とりあえず把握していた。
いかに神造兵装の『約束された勝利の剣(エクスカリバー)』といえども、星までは切り裂けない。
“地球はかいばくだん”に比べれば、それこそ爪楊枝(つまようじ)みたいなものである。
魔力次第で連続使用出来るというアドバンテージこそあるが、どちらにしても、そうぽんぽん連発などしてもらいたくない。

「ふ……ふふふ……うふふふふ……」

そして最後の一人。
微動だにしなかった凛の口から、いつの間にか笑い声が漏れ出していた。
底冷えするようなものを感じて、のび太がぎくりと反応する。
壊れた人形の如く、いまだ地に座す慎二同様、頬から上は掛かる前髪に隠れて見えない。
よく見ると、なにやら背中の辺りから真っ黒いものがじわじわと立ち上っている。

「あの、凛さ、んぅぐ!?」

のび太の言葉は、最後まで続かなかった。
言い終わる前に、凛がのび太の胸倉を諸手で掴み上げていたからだ。
不意の衝撃に、のび太の目がぎょっと見開かれる。

「ごめん、先に謝っとくわ。でも、もうダメ。限界。アンタのところは平行世界だから、多少の常識の差異があるのは、なんとか納得出来る。ロボットだのひみつ道具だのも、腹が立つけど、どうにか許容範囲。けどね、これはね。流石にね。もう感情を無理に抑制しなくてもいいと思うのよ……」

目元が隠れたまま、額をぶつけ合わせんばかりに顔を近づける。
締め上げる腕は微細に震え、隠そうとしても隠しきれない感情の昂ぶりを示す。
もう数cmでも前方に寄せれば、唇同士が触れ合いそうな距離である。
ただし、空気は火山の噴火さながら。甘い雰囲気など欠片もない。
のび太の眼鏡に、静かに罅が入りそうな気勢であった。
士郎も、セイバーもアーチャーも、地獄の責め苦にも似た鬼気迫るオーラに気圧され、足が釘付けにされている。

「どのみちアンタに言っても仕方がないのは解ってる。この感情が、明らかに筋違いなのも。でもね、何事にも限度ってものがあるの。アンタにもあるでしょ、自分のいっぱいいっぱいのラインって。わたしの場合が今まさにそれ。これまで常識とか、価値観とか、いろいろ耐えて頑張ってきたけど今回ばかりは無理。だからね……」

すぅ、と大きく息を吸い込む音。勢いに煽られ、隠れていた凛の表情が露わになる。
のび太の眼前には。

「――――のぉびぃ太ぁあああああああああ」
「ひっ、ひゃい!?」

般若の面でも縫い付けたかのような、凛の凄まじい形相が展開されていた。



「アンタんとこの世界はいったいどうなってんのよ!? こんなアラヤも心臓発作のシロモノがホイホイ出回ってる二十二世紀ってなに!? あと百年もしたらわたし達の未来もこうなるってぇの!? 冗談じゃないわよ、そんな二十二世紀願い下げよ! ねえ、いくら!? ひみつ道具ってひと山いくらよ!? 宝石がいったい、いくつ買えるのかしら!? 言ってみなさいよ! ほらほら!」



一呼吸でありったけの言葉をぶつけていく凛。
しかし、言っている事が滅茶苦茶である。
鬱憤がそれだけ溜まっていたという事なのだろうが、どのみちのび太にとっては八つ当たり以外の何物でもない。
根が素直なのび太は、目を白黒させながらもつっかえつっかえ、だが火事場にナパームを放り込むような事実をつい、口走ってしまった。

「あぅ、あ、そ、の、ど、ドラえもんが、とっ、時々、未来デパートからっ、お、お小遣いでっ」
「ぁあん、デパートぉ!? デパートってなによ!? そんなモン、デパートでもなんでもないわよ! デパートという名のテロ組織かなんかよ! シ○ッカーみたいな! しかもお小遣いだぁ!? 価格と一緒にこっちの常識まで破壊するんじゃないってぇーの! どっかの拳の世紀末じゃあるまいし、そんな無法地帯認めてたまるかぁああああーーーーっ!」

ごりごりと額に額を押しつけ、目を剥いて牙を突き立てんばかりに締め上げる。
このメンツにおいて、最も己の良識を堅持する傾向が強いのが彼女である。
それはつまり、心の許容量が最も少ないという事。
誤解を恐れず言ってしまえば、器が小さいのである。
だが、彼女を責めてはいけない。
彼女は一流魔術師だが、魔術師としては心根等が色々と甘い。ゆえに、まだ保った方なのだ。
倫敦(ロンドン)辺りに棲息する生粋の魔術至上主義者など、とうの昔に逆上するか、あるいは発狂していてもおかしくはない。
どこぞの二十七祖だって、少なくとも内心穏やかでいられる者はないはずだ。

「……遠坂、藤ねえそっくりだな」
「元の気性が似通っているのだろうよ。己のルールを自己にも他者にも適用しようとするところ等がな」
「たしか、トラとネコは同科でしたね……」

あまりの剣幕に呆気にとられた残りのメンツは、二人を遠巻きにしつつ、どうでもいい事を口にする。
フー子は障壁の維持に意識を傾けているようで、特にこれといった反応を示していない。
しかし流石に雰囲気だけは感じ取っているようで、怯えたようにびくびく肩を震わせている。

「り、凛さん、痛い! 頭、あたま……っ!」
「ああ!? 痛いですってぇ!? 痛いのはこっちの頭とハートよ! いーや、痛みなんてモンじゃないわ! あれは心の凌辱よ、レイプよDVよ! 無垢な乙女の尊厳を踏みにじったその罪は、マリアナ海溝より深いのよ! その辺、理解してんのかこのスカタン頭は! ええっ!? だいたい、あんなハルマゲドンいつ使うっていうのよ!?」
「ま、前にドラえもんが、ネ、ズミが一匹、いたか、らって……く、苦しっ」
「ネズミ一匹が地球より重いってかぁああああああーーーーっ!?」

もはや、山姥に喰われそうになっている小僧さんそのものである。
小学生に対して不適切な単語が矢継ぎ早に出てくる辺り、そろそろ消火せねばならない。
またこのパターンかよ、と呆れと諦念を交えて視線を合わせ、三枚のお札が起動した。

「凛、そこまでにしろ。気持ちは、痛いほど理解出来るが」
「それ以上は流石にやり過ぎです。気持ちは、身につまされるほど理解出来ますが」
「もう猶予は少ないんだ。気持ちは、気が狂うほど理解出来るけど」

いろいろとひどかった。



――――その、次の瞬間だった。



「フ!?」
「きゃ!?」
「ぬあ!? な、なんだよこの光は!?」
「く、あの巨大ロボットからか!?」

突如、ビルの向こうがチカッと光ったかと思うと、同時に直径三メートルはあろうかというビームが、風のドームに直撃したのだ。
今までとは違う、零距離で打ち込まれたパイルバンカーのような強烈な圧力に、フー子の表情が苦悶に歪む。
冬木大橋からの、大出力の大型レーザー砲による砲撃。
周囲に群れていた兵士達の姿はない。巻き添えを食わないよう、のび太達のドタバタに乗じていつの間にやら後退し、遠巻きにのび太達を包囲している。
『ザンダクロス(ジュド)』の標準兵装であり、全武装中、最も貫通能力に長けたこの一撃には、鉄壁を誇った風の障壁も悲鳴を上げた。

「ううっ……!」
「フー子!」

拮抗も束の間。
威力に圧されて、風のドームが直径を狭めたかと思うと同時、ついに均衡が破られる。
内部まで侵食こそされなかったが、代わりに限界を迎えた障壁は、耳を劈く破裂音を伴って消滅した。

「きゃあっ!?」
「うわぁっ!」
『今だ、かかれいっ!』

各員が、遠く、散り散りに吹き飛ばされる。
それと同時に、黄金の指揮官が一斉突撃の号令を下した。

「ちっ……させん!」
「『風王鉄槌(ストライク・エア)』!」

英霊二人は、流石に落ち着いていた。
着地後、素早く体勢を立て直すと、手近にいた兵士ロボットを己の獲物でガラクタにする。
弓兵は、二刀一対の双剣で鉄の首を次々と両断。
剣士は、不可視の剣から風のハンマーを円状に発生させ、群がる周囲のロボットを一気に吹き飛ばした。
そのまま、打ち寄せる鋼の波を切り分けるように疾駆。それぞれ味方と合流を目指す。

「フー子、大丈夫!?」
「……フゥ」

のび太の腕の中で、ぷるぷる首を振って気付けをするフー子。
特に傷らしい傷も負っていないので、問題はないようだ。
傍らに鎮座している“地球はかいばくだん”も、衝撃で暴発する事もなく健在である。
二人とも、吹っ飛ばされた位置がよかったお陰で、他と比べてロボットの進行度合いが遅い。
狭く浅い、すり鉢状に抉れた地面に、周囲が建物の残骸や、破壊されたロボットのパーツのバリケードで覆われている。
人工物の塹壕であり、のび太達はそこに運よく、まとめて放り出されたのだ。
時折、上空から飛んでくる個体もいたが、そこはそれ。
接近前に、のび太が“ショックガン”できっちりと撃ち落としていた。
撃破した獲物は墜落し、そのままバリケードの肥しとなる。このサイクルが、先程から延々と繰り返されていた。

「な……なな……」

そして、この塹壕にはのび太とフー子以外に、もうひとりいた。
胸元を押さえ、全力疾走した後のような荒い呼吸を繰り返す。
目じりにはうっすらと輝く物が浮かび、肩をわなわなと震えているその人物。

「なにをしてくれてんのよぉおおおおおおっ!! アンタらわぁあああああああああっ!?」
「うひゃあっ、凛さん!?」
「フ!?」

怒声とも、奇声とも取れぬ大音声を発しながら、バリケードから顔を出した凛は、辺り構わず、ガトリング砲さながらにガンドを撒き散らす。
普通ならば、牽制程度にしかならないはずのそれは、たったの一撃で、兵士ロボットの鋼鉄の胸板を貫通していた。
しかも、それが両手撃ちである。徹甲弾に複数回射抜かれたロボットは、さながら熊に壊された蜂の巣のよう。
凛の、差し出された腕の魔術刻印が、常とは違う、異常に強く妖しい輝きを放っている。
業火の如き怒りによる、魔術回路の過剰運転(オーバーロード)。
その、逆上にも等しい憤怒の原因は。

「ここにあるのがなにかアンタら解ってんのかぁああああああっ!? なに、なんなの、バカなの、死ぬの!? ええっ!? 死ぬんだったらアンタ達だけで逝きなさいよ! 危うく寿命が縮むどころか、エンドロールで終幕を迎えるところだったでしょうがぁああああああああああっ!!」

のび太の傍に転がるブツにあった。
人間が簡単に宙を舞うほどの衝撃だ。普通だったら、誤作動で起爆していてもおかしくはない。
なにしろ、取り出す際に一度、地面にしたたか落っことしているのだ。
そのペケもあって、暴発のリスクは必然、高められていた。
爆発物処理班も卒倒モノである。
さまざまな意味での涙が滲むのも、当然であった。

『ぬぅ、怯むな!』

狂乱の弾幕に負けじとばかり、ビルの屋上から檄が飛ぶ。
戦場の争点が、塹壕を基点とした防衛戦へと移行し始めていた。





「この!」

光線が飛び、空間を薙いで一直線にクリティカルヒット。
兵士ロボットが煙を噴き上げ、紫電と共に倒れ伏す。
しかし、百が九十九になったところで、多勢に無勢は変わらない。
進軍する機械歩兵は、たとえ何体屠られようが動揺も狼狽も露わにせず、粛々と指揮官の命に従うのみ。
『お荷物』を抱えた今の状態は、足枷を付けられたまま脱獄を図る囚人に近かった。

「慎二……く、ダメか!」

悪態を吐くは、衛宮士郎。
『お荷物』の名は、間桐慎二。
のび太達とは違い、二人がセットで吹き飛ばされた先は、機械歩兵のアリ地獄だった。
水面の波紋を逆再生するかのように周囲をびっしりと取り囲まれ、文字通り、蟻の這い出る隙間もない。
抵抗を試みるのは、士郎だけ。
ガス欠寸前の“空気砲”から“ショックガン”に切り替え、鉄の波を突き崩そうとするが、焼け石に水どころか雪山に熱湯という有様であった。
令呪を使う暇もない。
セイバーを強制的に転移させる間に、殺人光線が二桁は確実に飛んでくる。
おまけに。

「…………」

慎二は、いまだ弛緩状態。
ずるりと地面にへたり込み、顔を真下に落としたままだ。
士郎が引きずるようにして無理矢理動かしているが、なまじ人間である分、バーベルを担いでいく方がまだいくらかマシといった塩梅であった。
このまま慎二を放り出して、自分だけで行くなど選択肢にすら上がらない。
そうするぐらいなら、最初から慎二を助けたりはしなかった。
弓兵ならば、根元まで吸いきった煙草のようにあっさりと捨て置いただろうが、士郎は進んでこの重荷を背負っていた。

『……ふん、なんとも甘い事だ』
「う!?」

と、鉄の波の渦中から指揮官級の声が響く。
平坦な物言いの中に、嘲笑が混じっている。
僅かに慎二の肩が反応し、士郎は右手の“ショックガン”を声のした方へと構える。

『その愚か者を庇いながら、我々を切り抜けようなどと』
「ッ、なに!?」

ギョッ、と士郎の目が見開かれる。
明らかに今の声はおかしかった。
今の声は指揮官級の物。それは間違いない。聞き間違える事などあり得ない。
では何がおかしかったのかというと、声のした方向である。
その声は、構えた士郎の『背中側』から響いてきたのだ。

『実に労力の無駄だ。使い捨ての盾程度にはなるかもしれんが、それにすらしないとは。まったく、不合理な存在だ』
「くっ!?」

今度は頭上。しかし、上を向く余裕はない。
いったいどうなってるんだ、と混乱しかけたところで、頭の中で指揮官級の言葉が甦った。


――――我々は、すべての存在とリンクしておる。お前とて、インターネットの原理は知っていよう。それと同じ。我々にとって、ボディとは突き詰めて言えば単なる『端末』にすぎん。


つまりは、そういう事だった。
ただ、同一の自我を保持した指揮官級が三機、ここに参上しただけの話。
同一人物が同時に三人も同じ現場に居合わせる。
普通ならドッペルゲンガーかクローン人間といった、B級ホラーばりのぞっとしない結論に至るが、ロボットにその常識は通用しない。
ハードとソフトさえあれば、コピーなどあっさり作り上げられる。

『逃しはせん。英霊やノビ・ノビタに比べれば、貴様らなどさほどの脅威ではないが』
『好機を逸す理由にはならん。敵である以上、確実に殲滅する』
『たとえ、取るに足らん愚物であろうとも、な』
「ええい、くそ!」

輪を縮める鉄に対し、士郎はまず上空にいる指揮官級を狙い撃ちする。
地上にいて、兵士級の陰に隠れている個体とは違い、姿を完全に晒しているからだ。
とはいえ、兵士級と指揮官級のスペックは、当然ながら後者の方が上。黄金色は、伊達ではない。
ひらり、ひらりと三発目まで回避されたが、幸運な事に四発目でどうにか撃墜する。
しかし、地上に追突する金属音が響く前に、包囲網はじわじわと、さらに縮まっていく。

『無駄な事を』
『我々をどれだけ破壊しようと、代わりはいくらでもいる』

覆しようのない、厳然たる事実が耳朶を打つ。
解ってはいたが、改めて指摘される事ほど痛烈なものもない。
しかも、事の元凶からの直言だ。ライフル弾で鳩尾を抉られるに等しい。

「ぐ……!」

唇を噛みしめ、それでも士郎は抵抗を諦めない。
当たるを幸い撃ちまくり、近づく敵を片っ端からスクラップにする。
その傍らで、爆風でめくり上げられたアスファルトや、破壊した兵士の身体を盾にして、敵からの射撃攻勢を凌ぎきっていく。
敵の唯一の武装であり、最大の武器でもある指先からの光線には、実は欠点が存在する。
高威力であるがゆえに、一定数発射すると、エネルギー再充填のインターバルを挟まなければならないのだ。
そうでなければ、四六時中撃ちこまれっぱなしであるのは間違いなく、とうの昔に焼け焦げた死体が出来上がっている。
のび太達が過去、『鉄人兵団』を相手に四人であれだけ粘れたのも、道具の力の他にこういった要因もあったからなのだ。
ただし、今回はその辺りを指揮官級の用兵術がカバーしており、実質的に撃ち込まれっぱなしなのと、実は大差がなかったりする。
早い話が、『種子島三段撃ち』方式だ。『軍略』スキルを保持する指揮官級からすれば、この程度の用兵を考えつかないはずもない。
しかも、前回のように指揮官級が一機だけではないという事実が、間断ない光線の槍衾(やりぶすま)の実現を可能としていた。

「ちぃ……ダメか! 多勢に無勢すぎる!」

トリガーを引き続けながら、舌打ち混じりに士郎は考えを巡らせる。
一際大きな爆発音が連続して響く、ある一方の区画。
おそらくは、そこに味方の誰かが、もしくは全員がいるはずだ。
生き延びるには、全員が合流するしかない。
独力では何も出来ない、己が非力さに涙が出そうになるが、悲嘆に暮れている暇などない。
急がなければ。士郎はそう判断を下して。

「慎二、走るぞ! 立……ッ!?」

背後に振り返ったその瞬間、背筋が凍りつく感覚に襲われた。



「……慎、二」
「…………ッハ、ハ」



己の頭目掛けて、いつの間にか立ち上がっていた慎二が凶器を向けていた。
構えられているのは、士郎が手にするのと同じ、メカニカルなピストル……“ショックガン”。
それは、エネルギーが切れかけていたために、のび太が地面に打ち捨てていたもの。
ひみつ道具のアレコレで士郎達が揉めていた時、ドサクサ紛れにそっと掠め取っていたようだ。
如何にガス欠寸前とはいえ、確実にあと数発は撃てる。
そしてここで一撃でも貰えば、あっという間に鉄脚の波に轢殺(れきさつ)されるのは間違いない。撃った本人諸共、である。
それを想像出来ない慎二ではない。それでも銃を向けた、その真意は。

「お、前……!」
「ハハ……はっ、アははハはハハハっ、ぅフぁああアっハハはハハはっハハはァア!!」

狂人のそれよりも壊れた哄笑を、誰憚らずに撒き散らす。
動いているのは口元だけ。それより上は、簾のように垂れ下がった前髪がいまだ覆い隠している。
足先から体温を拭い去られるような、冷たく、異様な雰囲気に士郎だけでなく、周囲のロボット達もまた呑まれかけていた。

『ふん、とうとう壊れたか? まあ、保った方だろう。お前程度、そこらに散らばっているビルの破片と大して差はない』
『そこの赤髪の人間の方が、脅威は遥かに高い。……しかし、いささか耳障りだな』

そこへ、指揮官級の一体がロボットを掻き分け、士郎の背後に現れた。
姿は、完全に晒しておらず、頭だけが盾として前方に佇む複数の兵士級の肩口から覗いている。
いくら代わりがいようとも、指揮官級を失う事は避けたいのだろう。やはり、そこだけは慎重だ。
敵将に背後を取られても、慎二の凶器がそちらへ振り向く事を許してくれない。

「慎二、止めろ! 周りを見ろ、そんな場合か!?」
「フぁあはハ、ハハ……くっ、クク」
「聞いてるのか、おい! しん「――――黙れよ」……ッ!!」

その一言が、士郎の肺腑を抉る。
理由はともかく、自分が慎二に憎まれている事は解っていたが、たった四文字がこうまで重いとは思わなかった。
中学時代からの腐れ縁で、関係が歪に捩じれて決裂してしまった今でも、士郎はいまだ慎二に友情めいたものを感じている。
今更だと無理矢理理解を試みるが、それでも辛いものはどこまでも辛い。
血が滲むかと思うほど強く、唇を噛み締める。
騎乗兵のマスターだと知った時以上に、学校で殺し合いを演じた時以上に、この不条理に対する怒りとやるせなさが去来していた。
ギリッ、という音が、慎二の掴む“ショックガン”から響く。

「……誰が助けてくれ、なんて頼んだ。余計なマネしやがって……どこまでも、むかつくヤツだ」

やられる。
本能的に殺気を感知した士郎がジリ、と後退しかけたその時。

「ましてや自分を殺そうとした敵をだ……ああ、まったく……――――その甘さには、反吐が出るね!」

慎二が徐に顔を上げ、面貌のすべてが露わになった。
見ているだけで身を引き裂かれそうな、苛烈にぎらつく双眸。
今にも噛みちぎらんばかりに、剥き出された犬歯。
狂想に彩られた、煮え滾る原油のような激情が、悪鬼さながらの表情にべったりと塗りたくられていた。

「お前は……そこまで、俺を」

呑まれてしまった。
決して臆してはいけないのに、生胆を引き抜かれてしまった。
衛宮士郎の、根幹が揺らぐ。
身を挺してまで救おうとした者に、己が行為を否定される。
善を行ったとて、相手が善を以て返答してくれるとは限らない。
そんな事、これまでの短い人生の中でも、少なからず思い知らされてきたはずなのに。
相手が相手だ。感謝などなく、罵声のひとつふたつが来るだろうと、理解していたはずなのに。
今、この場で誰より、慎二に突き付けられた事が。
身を捩るほどに、狂おしいほどに重たかった。
受け手に賛同される事のない、一方通行の善。それを『独善』と人は呼ぶ。
この未曾有の窮地において、たとえ敵だろうと、救える者は救いたい。
その本心に従った自分の行いは、結局は独りよがりのものでしかなかったのか。
心が傾ぎ、血反吐を吐く。
石膏像のように色を失った士郎に、かつん、と慎二が一歩を踏み込む。
そして、銃の引鉄にかかったその人差し指が、力強くフック状に折り曲げられた。

「何より、一番腹が立つのは……」
「くっ!?」

銃撃が来る、その予兆。
士郎は、咄嗟に顔の前で、腕を交差させる。
しかし、“ショックガン”にそんな防御は意味をなさない。
掠っただけで致命的。死にこそしないが、気絶の先には死が待っている。

「待っ――――」

制止の甲斐もなく。
言い終わる前に、慎二の人差し指が引き絞られ。



「――――お前だよ、そこの金ぴか人形!!」



光線が士郎の脇を掠め、背後の黄金の指揮官を直撃した。

『ぐお!? が――――!?』

SPの兵士級の合間を縫って。
まさしく針の穴を通すような、ここしかないというところに突き刺さる。
兵士級の肩口の隙間から頭部を射抜かれた指揮官級が、断末魔と共に火花を噴き上げ、どうと背中から倒れ伏した。
ジジジジ、と紫電がボディを這い回り、完全に物言わぬスクラップと化している。
見ると、ブレーカーでも落ちたかのように、周囲の兵士級の動きが止まっていた。
この周囲の統括の一針である指揮官級が一機落とされた事で、一時的に、指揮系統が麻痺したようだ。

「え、あ……」
「よくも言いたい放題言ってくれたな――――たかがゼンマイ仕掛けの分際で! ああ!?」

予想だにしなかった光景に腕を下げるのも忘れ、士郎は呆然とその光景を眺めている。
それを余所に、慎二の気炎はここぞとばかりに、一気呵成に膨れ上がった。

「言ってみろよ、僕は誰だ?」

研ぎあがったばかりの大鉈のような気迫。
降りかかるものすべてを弾き返さんと、今までの屍のような姿からは想像も出来ない強靭な意思が、慎二の身体を通して伝わってくる。

「答えろ! 僕は誰だって聞いてるんだ!!」

叫ぶと共に、“ショックガン”の引鉄を引く。
吐き出された光線が、未だ硬直の解けない兵士級を捉え、その機能を停止させる。
だが、一発では終わらない。光線は間断なく放たれ、次々と兵士級を再起不能に追いやっていく。
癇癪、ではない。銃をただめったやたらに振り回すのではなく、慎二は、一発一発しっかりと、斃すという意思の下、狙い澄まして放っている。
なにかが違う。決定的になにかが違っている。
纏まらぬ思考をそのままに、士郎は漠然とそれを感じ取っていた。

『ふん、笑わせるな! 愚か者が何を吼える!』

残った最後の指揮官級の号令が、兵士級の金縛りを解いた。
指揮系統が復活し、一機一機が単眼の光をぎらつかせながら行軍を再開する。
しかし、慎二の気勢は衰える事なく、枯れよとばかりに声を張り上げた。

「誰が愚か者だ! 僕は間桐慎二だ!」
『そのマトウ・シンジがどうした! 狭い価値観に未練がましく拘り、ささやかな優越に引き篭もるだけの腑抜けが!』
「その言葉、そっくりそのまま返してやるよ! 戦う事と操る事しか能のない、木偶人形が!」
『ロボットに、与えられた役割があるのは当然の事。役割すら自分で見出せん、矮小な人間がほざくな!』
「矮小だ、愚かだ腑抜けだと、いちいちうるさいんだよ! そんな安っぽい言葉で、僕をくくるな!!」

爛々とした光を放つ瞳は、腑抜けた者のそれではない。
見る者の肌を粟立たせるような気迫は、矮小な者のそれではない。

「ああ、認めてやるさ! 僕に魔術の才能はない! だからっ! 才能を持つヤツがこの上なく憎たらしいし、妬ましかったよ! 衛宮も! 遠坂も、桜も! あの陰険ジジイでさえも! ちょっとでも才を持ってるヤツが、羨ましくて仕方なかった!!」

剥き出しにした感情のまま、己の弱さを吐露する。
永らく眼を背け続けていた事実に、慎二はやっと目を向けている。
汚らしく、血を吐くような独白は、それだけでマトウシンジを覆う殻に亀裂を入れていた。

「だがっ! それで終わりじゃない! 間桐慎二は、それだけでは終わらない!」

『虚栄心』と『傲慢』。
およそマトウシンジをよく知る人間から見れば、彼の本質は、おおよそそんなものだと思うだろう。
しかし、それはある意味事実ではあるが、真実ではない。
慎二の元々の本質は、『反骨心』と『承認願望』だ。

「終わってたまるか! 終われるものかよ! ああ、そうだ! 間桐慎二が、そんなところで終われるか!!」

己を見下す者を、見返してやりたい。
誰かに、己を認めてもらいたい。
それが慎二の、原初の気質。
祖父から、マキリの家から、失望を以て貼られた落伍者のレッテル。
マトウシンジを構成する根幹は、そのレッテルを基点として反作用的に生み出され、形作られた。
コンプレックスを弾き返そうという気概を、慎二は元々持っていたのだ。
しかし、伏魔殿たるマキリの闇は、慎二の根幹を根こそぎへし折り、歪ませるに十分すぎた。
やがて、『反骨心』は『虚栄心』へと成り下がり、『承認願望』は『傲慢』へと変質する。
外へ、外へと広がろうとしたものが反転、内へ、内へと濁り、篭るようになり。
感情のヘドロとも言うべき鬱屈したものを抱え込んだまま、慎二はここまで来てしまった。

「僕は間桐慎二だ! 他の誰にも、何にも縛られないマトウシンジだ! だから! どこにだって行けるし、何にだってなれる! 魔術回路がないくらいで全部終わらせて、這いつくばったままで諦めてたまるか! 魔道のその先にだって、果てにだって、いや、逆方向の、その極致にだって行ってみせる!!」

だが、反転したものはいつか、きっかけを与えられれば『逆転』するもの。
内側に向いたベクトルが外側へと、強烈な意志の咆哮と共に解き放たれる。
いつの間にか、士郎の目が慎二へと向いたまま離れない。
明らかに、今までの慎二とは異なっていた。

『ふっ……ふ、はははははは! 何を言うかと思えば、くだらん! 実にくだらん! 負け犬の遠吠えとは、まさにこの事だな!』
「はっ! ほざいてろデクが! なんだったら、お前らの『神』にさえなってみせるさぁ!! 本気になった僕に、間桐慎二に出来ない事などあるものかよ!!」
『な、貴様! 人間風情が何を言う!? 不遜な物言いは死を招くぞ!』
「お前らだって、どうせ元は人間が作ったんだろうが! 不遜な物言い? ちゃんちゃらおかしいね! お前らが人間よりマシだとは、これっぽっちも思えないぞ! いいや、むしろ、人間以下にさえ感じるねぇこの、出来損ないのガラクタどもが!!」
『ギ、ガ……ガラクタだと!? 思い上がるな塵芥が! 貴様の言動、万死に値する! 総員、構え! 骨の一片すら残さず、虐殺せよ!!』

冷徹なまでに役割に努めていた指揮官級らしからぬ、憤怒と絶叫。
人間を過小評価していない指揮官級だが、そもそもの脅威度が群を抜いて低かった慎二だけは例外だった。
そしてここに至り、ほんの、ほんの些細なものでしかないが、しかし『鉄人兵団』は、致命的なミスを犯した。
本来なら放置して然るべきの、寝た子を起こしてしまったのだ。

「なめるな!! やれるもんなら、やってみろぉ!!」

号令一下、速度を増した鋼の波。
慎二は無視するかのように士郎の脇を通り抜け、銃を構えて烈火の気迫で迎え撃たんとする。
士郎の視界に、生きた屍はもういない。
かといって、自分を仇敵としてつけ狙う、負の感情の撒き散らす醜悪な人間ももういない。
そこには、弱さを認め、己を見据え、すべてを背負って高みを目指す、一人の男の姿があった。
今この時、本当の意味で、間桐慎二は“間桐慎二”を始めたのだった。

「慎二……」

その背中が語っている。
ぼうっと見てないで、さっさと動きやがれ、と。
弾かれたように、士郎は走り出した。

「うぅおおおおおおおおおっ!」

慎二の背中に己が背を向け、慎二の死角をカバーするように構える。
ポケットから、予備の“ショックガン”を取り出し、士郎は、二丁拳銃でロックオンする標的を探り始めた。

「衛宮!? お前、余計なマネするな!!」
「生憎と、こっちも余裕がないんだよ! 利用出来るものは利用させてもらう、それだけだ!」
「……ちっ、足だけは引っ張るなよ!」

協力しよう、などと言っても、自尊心の高い慎二の場合、上手くいくとは限らない。
むしろ、こういった婉曲かつ捻くれた物言いの方が、不承不承という接頭語がつくが、呑み込んでくれる。
腐っても悪友、心得たものであった。

「蹴散らすぞ!」
「僕に指図するな!」

言い捨てると同時に引かれる引鉄。
色とりどりの光線が、空中で火花を吹き散らす。

「慎二、横だ!」
「うるさい!!」

その只中において、二人の息はぴったりだった。
常に背中合わせになるよう立ち回り、お互いに致命傷を受けないよう、膝を折り曲げ、一所に立ち止まらないよう動き回っている。
反目し合っていたのが、まるで嘘のようである。

『ぬ……く、抜かったわ!』

この場における、最底辺の敵の予想以上の奮戦ぶりに、指揮官級が舌打ちを漏らす。
言葉の上では、決して仲がいいとは言えないが、互いが互いの死角を庇い合い、手の届く範囲はどこまでか、それぞれが何を標的に定めるかをきっちりと線引きし、効率よく間引いていく。
窮鼠猫を噛む、ではないが、追い詰められた人間は、意外とも思えるほどにしぶとい粘りを見せる事がある。
まるで、追い込まれる事で秘められたポテンシャルをこじ開けるかの如く。

「この……ッ!? くそ、弾切れかよ!?」

と、カチン、カチン、と慎二の“ショックガンから空撃ちの音が鳴る。
元々、拾い物の武器である。むしろ、保った方だろう。
慎二側からの銃撃が止み、そちら側からの進軍速度が上がった。
ブツを敵目掛けて投げ捨て、投石でもして少しでもやり過ごそうと、慎二が身を屈めかけたその時。

「使え、慎二!」

声と共に、頭上から何かが降ってきた。
反射的に、慎二が手を伸ばしてそれを掴む。

「……どういうつもりだ、お前!?」

それは、グリップ部分がほんのりと温かい、“ショックガン”だった。
士郎が使用していた二丁のうちの一丁を、背後の慎二の目の前に来るよう、背中側に放り投げたのだ。

「足引っ張るなって言ったお前が、俺の足を引っ張りたいのか?」
「くそ……いいだろう、使ってやるよ甘ちゃんが!」

売り言葉に買い言葉。
乗せられていると解っていながらも、慎二は突き返す事もせずブツの銃床を握り締めた。
中学時代からの腐れ縁は、伊達ではない。
互いに物の貸し借りなどもしたし、慎二が士郎にいらない物を押し付けた事もあった。
主に、凛辺りに見つかったら平手かガンドが飛んできそうな曰くつきのブツだが、それ以外の物も少々。
時には、学校の先輩相手に二人で大立ち回りをやらかした時もあった。
士郎、慎二、共に身内以外の人間との付き合いは、広いが、浅い。
しかし、二人の場合はどういう訳か、形を変えこそすれ思いの外深いものとなっていた。
阿吽の呼吸で互いの心情を察しうる。
それが窮地にも拘らず、二人して、中学時代に戻ったかのような錯覚に陥らせた。
もっとも、互いの表情はそれぞれ対照的なものではあったが。
かたや苦笑、かたや渋面。
どちらがどちらかは、推して知るべし。述べるまでもないだろう。
双方とも、思うところは多々ある。特に慎二の負債はいまだ、重くのしかかったままだ
それでもそれらを一旦、棚に上げ、呉越同舟を成立させた事が、二人を生き永らえさせていた。

「ちっ。こっちだ、慎二!」
「む、ぐぁ!? おい、なに引っ張ってんだ衛宮!」
「言ってる場合かよ! 我慢しろ!」

士郎が突如、慎二の首根っこを引っ掴み、近くにあった倒壊寸前の店舗の陰へさっと身を潜める。
幸運にも、そこに敵の姿はない。
天井が跡形もなく吹き飛び、壁も、床も、ガラスも罅割れ、砕け、ほとんど店の原形を留めていないが、その場凌ぎの塹壕程度には利用出来た。
四方の壁がそこそこ頑丈に作られていたおかげで、バリケードとしての体をぎりぎり成している。
空中からの敵には無防備に近いが、その分、逆に的が絞りやすくなっているのでさしたるマイナスでもない。
状況的には、屋外のサバイバルゲームとゲームセンターのガンシューティングを、足して二で割ったようなものとなっていた。
ただし、双方実弾で危険はレッドゾーン。利用料金は自分の命という、エキサイティングどころかデンジャラスの域に踏み込んでいるデスゲームだが。
周囲の壁の向こうから続々現れる敵影に“ショックガン”をばしばし浴びせかけつつ、士郎は独りごちた。

「ここで迎撃すれば多少はマシになる。どうにか遠坂達と合流出来ればいいんだが……正確な位置が。令呪でセイバーを呼ぶか? それとも……」
「お前……余計なマネするなって言わなかったか!? いいか、僕は「このままじゃ!」……ッ!」

激する慎二の言葉を遮り、語気も荒く士郎は遠まわしに諭す。
敵は無限、こちらは一桁。このままいけば、奮戦虚しく全員戦場の露と消えると。
反論の余地など一切ない、無慈悲な確定事項。

「……くそったれが。どこまでも腹立たしいガラクタどもだ」

慎二も漠然とその事を悟っていたようで、憮然とした表情で唇を噛みしめていた。
と、その時。

『――――士郎さん、士郎さぁんっ!? 聞こえてますかぁ!?』
「ッ!? の、のび太君か!?」

突如耳元で、のび太の声が炸裂した。
キーンと耳鳴りがしそうなほどに、近くから響いた。
慌てて振り向くが、そこにのび太の姿はない。
考えられるのは。

(“とりよせバッグ”を使ってるのか?)

物を取り寄せるために空間連結を行うあのひみつ道具なら、応用でそのくらいは出来る。
士郎はなんとなく、それが正解である確信を抱いた。
隣の慎二にも聞こえているのだろう。訝しげに、士郎の傍らに視線を向けている。

『――――居場所は、セイバーがある程度教えてくれてるわ! 今から目印を打ち上げるから、ここまでなんとか辿り着きなさい!』

今度は、凛の声が轟いた。
バッグの使い手が交代したらしい。

『――――セイバーさんが迎えに行きます! それまで頑張ってください!』

さらに代わって、のび太の声が木霊すると同時、二人の視界に突如として、天を目指して突き上げる竜巻が映り込んだ。
つまり、あれが目印、という事のようだ。
そこから。

『――――伏せていろ、小僧!』
「は……うお!?」
「くぁ!?」

士郎達の目の前を、横一直線に切り裂くように何かが通り過ぎた。
強烈な衝撃波を伴い、吹き荒れる突風の渦に、二人は揃って身を伏せ、両腕で顔を庇った。
ばらばらと降りかかる、夥しい量のコンクリートの粉塵と、焼け焦げた鉄灰。
刹那の瞬間だったが、士郎にははっきりと解った。
今、竜巻の根元から放たれたであろうそれが、『偽・螺旋剣(カラドボルグⅡ)』である事を。
火を噴くほどに凄まじい一撃。兵士級の海がモーゼの十戒のように穿たれ、竜巻の根元への直通路が開いていた。
おそらく、令呪によるブーストを行っている。のび太がいるという事は、“タイムふろしき”もあるという事。
回復手段があるならば、出し惜しみなどする理由がない。

「走るぞ! バリアを張るっ、近寄れ慎二!」
「ちっ!」

二人同時に塹壕の陰から飛び出し、駆け出す。
それと同時に、士郎はポケットの中の“バリヤーポイント”のスイッチを入れた。
バッテリー残量が僅かとはいえ、海の底を渡る間くらいは保つ。
強烈な一矢で、十メートル単位はいきそうなだだっ広い空間が出来ている。
狭いバリア範囲の中に二人いるので、ほとんど二人三脚に近い。
互いに足がもつれそうになりながらも、全速力で開けた通路を駆け抜ける。

『逃がさん! 囲い込め!』

だが、それも束の間。
指揮官級の号令一下、通路が急激に狭まりだした。

「させるか!」
「寄るな、ガラクタが!」

近づく敵に、バリアの中から、士郎と慎二が手当たり次第に撃ちまくる。
“バリヤーポイント”最大の利点は、バリアの内側から攻撃出来る事。
白兵戦はバリアの範囲の問題で難しいが、捨て身の体当たりか遠距離攻撃ならば、遠慮なしに仕掛けられる。
次々ショートし、崩れ落ちる兵士級。だが、たった二人の抵抗では勢いは止まらない。
凄まじい勢いで、元の海へと戻ろうとしている。このままでは押し潰されてしまう。

「――――シロウ!」

しかし、そこに颯爽と飛び込んできた蒼銀の流星が、潮流を掻き乱す。
『魔力放出』のジェット噴射を最大で利用し、暴風のような魔力の余波を伴いながら、纏わりついてくる鉄の波を吹き飛ばし、向こう側から猛然と近づいてきた。

「散れ! 『風王鉄槌(ストライク・エア)』!」

そして、士郎達の傍まで接近すると、剣に纏う『風王結界(インビジブル・エア)』を解放する。
バリアを張っている事は、既に状況から見て取っている。遠慮は無用とばかりに勢いよく放たれたそれは、士郎達の周囲に円状の空白地帯を強制的に作り出した。
本来は、一度きりで使い捨て同然のシロモノだが、“タイムふろしき”にかかればそんな枷などないに等しい。

「セイバー!」
「シロウ! 無事でよか……む、ライダーのマスター……」
「……ふん」
「今は敵じゃない。敵の敵だ」
「は……?」

士郎の言い回しに、セイバーは一瞬、理解が追いつかなかった。
ややもして、一応味方と考えていいんだな、というところに行きつき、とりあえず軽く頷く。

「解りました。では、私が先頭を突き進みます! シロウ達は、その後を!」
「了解! 行くぞ、慎二!」
「指図するなって言ってるだろ!」

不可視の剣を振るい、セイバーが己の背後の道へスタートを切る。
その背を追って、二人はバリアに仲良く入ったまま、流鏑馬もどきの全力疾走を再開した。





「来たぞ、凛」
「了解! のび太、準備は!?」
「ちょっと待って……ここ、結構でこぼこしてて……」

一方、竜巻直下の仮塹壕では、着々と準備が進められていた。
のび太が地面に敷いているのは、“おざしきつり堀”。その傍らには、“逆世界入りこみオイル”と“地球はかいばくだん”が鎮座している。
気が気でないのか、凛は時折ちらちらと爆弾に視線をやりながら、もどかしそうな表情を作る。

「よし……あとは、スイッチを入れて……」

本体シートをどうにか広げきったのび太は、すぐさま“おざしきつり堀”の計器をいじる。
すると、シートの上の四角い大きな空洞部分に、ぱっと水面が映し出された。

「はい」
「あ、ありがとうフー子」

手渡されたオイルの缶の蓋を開け、中身をひっくり返す。
竜巻を維持しているフー子だが、風の障壁や竜を維持するほどには力を消費しないので、片手間でのび太の助手が出来ていた。
それでも相当量の魔力を風に転化しているのは間違いないので、それだけでフー子の尋常ならざる魔力総量が窺い知れる。

「む、到着だ。竜巻を一部解除してくれ」
「あっ、フー子!」
「フゥ!」

フー子が首肯したと同時、のび太達の周囲の風の渦が緩み、ぽっかりと扉大の隙間が造られる。
そこに、三つの人影が一斉になだれ込んできた。

「お待たせしました、リン」
「ご苦労様、セイバー……慎二も、なのね」
「ええ。シロウ曰く、今は敵の敵だそうです」
「そう。まあ、いいわ」

まず、セイバーが任務完了の報告をする。
英霊二人と再合流した後、士郎の回収に“とりよせバッグ”を使わず、わざわざ迎えに行かせるよう指示を出したのは凛だった。
理由はひとつ。士郎のいるだろう位置が混戦模様だったからだ。
下手にバッグに手を入れて、負傷者を作る事態は避けたかった。
なにしろ、バッグ使用時、突っ込んだ腕は無防備に近くなる。
火災現場に普段着のまま突入するようなもので、仮に英霊であってもただでは済むまい。
最初に士郎達を回収した時は、運がよかった。しかし、次もそうであるとは限らない。
それなら、直接向かった方がまだ対処のしようがあると、凛は判断したのである。

「……はぁ、はぁ、あ、危なかった……おい、慎二。大丈夫か?」
「ぐっ……う、うるさい、構うな! 掠り傷だ、この程度ッ!? ぎ……っう、はぁ、はぁ……ごほっ」

地面に膝をつき、荒い息を吐きながら、慎二は近づいてきた士郎を振り払う。
その固く握り締められた拳からは、だくだくと赤い血が流れ、地面に小さな血溜りを幾つも作っていた。

「はぁ……はぁ、はははは、は、はは……! やって……やって、やったぞ! 魔術に縋るしかない愚か者だと、僕を侮るからだ! ざまあないぜ!!」

ガシャン、と血の滴る手で、慎二は掴んでいた物をアスファルトに叩き付ける。
甲高い金属音を鳴らして地面に転がるそれは、鉄さびを被ったような模様をつけた、金色の兜……いや。

「フ!?」
「えっ、これって……あの金色の、首!?」
「はっ、それ以外の何に見えるってんだよクソガキども! 手近にいたもんだから、すれ違いざま、素手で首を捻じ切ってやったのさ!」
「まさか、魔術も使えないアンタが!?」
「ああ!? それがどうした、遠坂! 僕を舐めるな! そんなの、敵を倒せない理由になるかよ! 魔術なんかなくったって、僕だってこれくらいは出来るんだっ!」

腹の底から、生の感情諸共に言葉を吐き出し、己の血で汚れた敵の首級を踏み付ける。
セイバーが先鋒を担い、前方に立ち塞がる障害を切り払っていたとはいえ、それで無数に湧く鉄の兵士すべてを喰い止められるという訳ではない。
それ以前に、セイバーの得意とする白兵戦とは、一対一もしくは一対複数戦闘において真価を発揮する。
一対多数は、絶対的に不利なのだ。
必然、士郎と慎二側にも敵が押し寄せ、凄絶なビームの撃ち合いを演じる事になった結果、ゴールまであと百メートルもないところまで来て、“バリヤーポイント”のバッテリーが切れてしまった。
ここぞとばかりに奮い立つ敵。その中に、指揮官級の姿が見えた。
それが、あの三体の内の最後の一体だったのは、果たして偶然だったのか必然だったのか。勿論、件の本体以外にその事実を知りようなどないが。
その瞬間、慎二は腹の底から唸り声を上げると、なんと“ショックガン”を放り捨てて駆け出し、素手で挑みかかったのだ。
まさか雑魚が徒手空拳で来るとは思わなかったようで、敵が僅かに戸惑う。その一瞬の隙に慎二はつけ込んだ。
並み居る兵士級の脇をすり抜け、一気に指揮官級に肉迫すると勢いそのまま、突き出された指先を蹴りで発射前に潰し。
手がずたずたになる事も厭わず、左拳で顔面を殴りつけ、反対の右手で首部分に、空手で言う『抜き手』を突き入れた。
兵士級よりもギミックの多い指揮官級は、首の関節もそれなりに複雑な造りになっている。
声にならない咆哮と共に、指をねじ込んだ関節部の隙間から、無理矢理コードを引きずり出して引き千切り、首と胴を分かとうと頭部の縁に手を掛け、折れろとばかりに引っぺがす。
しかしながら、実力の上では相手の方が遥かに格上。当然、反撃も来る。
残った腕でしたたか殴りつけられ、脇腹や側頭部に数発貰ってしまうも、それでも、慎二より先に指揮官級が破壊される方が早かった。
指揮官級の振りかぶった拳が顔面に直撃しそうになったその瞬間、感情の昂揚でリミッターの外れた慎二の右手が、頸椎のフレームごと首をへし折るように捻じ切った。
波を掻き分け、やっと救援に駆け付けた士郎達が見た物は、鬼神さながらの凄絶な形相で、頭部片手に首なし死体を足蹴にする、血みどろの慎二の横顔。
血走った眼を虚空に向け、獣のように吼えるその姿と、背中から湧き上がる、形容しがたい熱波のような意思のオーラに、士郎はおろかセイバーまでもが、一瞬、言葉を失ったのだった。

「……アンタ、変わった?」
「ふん。皮肉かよ、それは」

言い置いて、慎二は鮮血に染まった己の両手に目を落とす。
爪こそかろうじて剥がれてはいないが、左手の指の骨には間違いなく罅が入っている上、拳の部分の皮が軒並み剥がれ、内皮までもが抉れている。
右手は裂傷だらけで裂けていない個所など見当たらず、掌から指から、止めどなく血潮が溢れ出している。
腕だけではない。肋骨が数本は確実にもっていかれているし、左の米神からは、拭えど押さえど出血が収まる様子はない。
纏う穂群原の制服は、袖口をはじめとしてあちこちがどす黒く汚れ変色し、命からがら災害現場から生還した被災者のようだ。
変わり果てた姿、という意味ではたしかにそうとも言えるかもしれない。勿論、凛が言いたかったのはそこではないのだが。
以前と違い、自分の方に目もくれない慎二に、凛はなんとも言えない表情を形作り、ふっと息を吐いた。
まるて捻じれに捻じれて、そのまま真っ直ぐ伸びた螺旋のようだと、そんな感想が脳裏をよぎる。
常の軽薄さが失せ、気位の高さが前面に出た、ひどく尖った性格。
瞳には鮮烈な眼光を湛え、ぶちまけられた火薬のような気難しさが、傷だらけの全身から滲み出ている。
色男、ここに極まれりな時とは違った意味で、扱いにくい印象を抱かせたが、凛はかつてのような不快感は感じなかった。
勿論、許されない前科を背負っているので、全面的に信用を置ける訳ではないものの、それでもこちらの方がやや好ましくはある。
なんとはなしに、凛が前髪を掻き揚げたその時、のび太の歓声が響いた。

「よし、準備完了! いいですよ凛さん、これでいけます!」

見ると、“おざしきつり堀”の計器から、今度は“地球はかいばくだん”へと手を掛けるのび太の姿があった。
爆弾本体の一部のカバーが開け放たれ、その中には、小さな数字パネルとディスプレイがあった。

「わかった。じゃ、全員、手筈通りにいくわよ。のび太、設定は三十秒ね」
「ちょっと待った、遠坂。手筈って」
「ん? ああ、そっか。手短に言うわよ。爆弾を三十秒後に爆発するようセットして、カウントダウンしている間に向こう側に退避。以上」

一言で終わったが、士郎は一応理解出来た。
たしかに、今打てる手の中では、それが最も堅実な手だろう。
怖いのは、“地球はかいばくだん”の誤作動だが、そこは考えれば考えるほどドツボにはまりこむので、悩んでも仕方ない。
よろり、と士郎が立ち上がった、その時だった。

「敵が、退がる……!? いかん、砲撃が来るぞ!」

竜巻の縁で、じっと周囲を観察していたアーチャーの警告に、ぞわり、と全員が総毛だった。
兵士級の波が、津波の前兆のように退く。
それは、この後に来る大砲火の合図だ。
果たして、ミサイルかビームか。
答えは、すぐに弓兵より齎された。

「デカブツの腹部が……レーザーか!」

よりにもよって、最も強烈な方だった。
フー子の風の障壁もぶち抜く、大出力のレーザー砲。
最初の一撃こそ吹き飛ばされるだけで済んだが、もう一度喰らえば瞬時に蒸発するのは必定だ。
なにしろ、今張っているのは風の障壁ではなく、竜巻である。
前者より強度は確実に劣る。
その上、『鉄人兵団』が扱うビームとは違い、『ザンダクロス(ジュド)』のレーザーは本来の性質そのまま、光の速さで飛んでくる。
風の障壁は、密度を最大にするのにどうしても数テンポ要するため、どう足掻いても間に合わなかった。
フー子は実力者ではあるが、戦士ではない。ゆえに、戦場の機微など、推し量りようもない。
士郎達を回収した際、風の障壁へすぐさま切り換えなかった事が、最大のミスだった。

「フー子!」
「うぅ……」

それでも諦めず、フー子は竜巻を解除し、風の障壁を作り出そうと諸手を掲げる。
しかし、そこに。

「私が請け負う!」

天空に片腕を掲げた、アーチャーが割り込んだ。
鷹の目でレーザーの着弾点を割り出し、誰にも聞き取れないほど小さな声で、何事かを呟く。

「『――――f my sword(……は剣……ている)』」

現時点では、アーチャーのみが知るキースペル。
しかし、それはあくまでセイフティ解除の合図でしかない。
フー子よりも早く、とうの昔に準備は完了しており、一分の隙なく整えられていた。
川向うから、『ザンダクロス(ジュド)』の腹部が光を放つ。
その数瞬前に、アーチャーがそれを解き放った。

「『熾天覆う七つの円環(ロー・アイアス)』!」

口中の宣言と同時に、七枚の赤い、花弁のような壁が宙に現れ、円を描いて集束し、組み合わさる。
簡素化したバラを思わせるその紅の障壁が、解き放たれた分厚いレーザーを受け止め、完全にシャットアウトしていた。

「ぐぅ、っがあ!?」
「アーチャー!」

だが、『約束された勝利の剣(エクスカリバー)』に匹敵するほどの攻撃をキャッチして、ただで済むはずもない。
七枚の障壁が、アメ細工のガラスを突き破るように、一枚、一枚とあっさり砕かれていく。
激痛と共に、重力が十倍になったかのような、凄まじい負荷がアーチャーを襲う。
令呪の余波で余ったなけなしの魔力を紅の盾にくべ続け、滝のような汗を流して耐えるアーチャーの表情は、鬼のそれと変わりはなかった。
花弁の盾は、既に残り四枚。
盾を超えて衝撃が、びりびりとのび太達を脅かす。

「のび太、急いで!」
「は、はい!」

アーチャーの苦悶の表情に焦った凛が、のび太に発破をかける。
それがいけなかった。
“地球はかいばくだん”は、地面に置かれている。
そして、振動は空気を伝い、アスファルトの地面までをも揺るがせていた。
慌ててボタンを操作しようと、のび太がパネルに指を伸ばし押し込もうとしたその瞬間、カタン、と爆弾本体が僅かに揺れた。

「あ」

そのままグイ、と押される、複数のボタン。
ピ、ポ、パ、と鳴る電子音。
同時に、ディスプレイの上にパッとカウンターが映し出され、カウントダウンが開始された。
そのタイマーの時間は……。

『00:10:00』

残り十秒だった。

「ま、間違えたぁーーーー!? り、りりりり凛さん!? あ、あと、十秒で爆発……!?」
「は!? ちょ、こ、このバカぁあああっ!? ぜ、全員、急いで飛び込めーーーー!」

青くなった凛の絶叫。慎二を除く、全員の表情からも血の気が失せた。
よりにもよって、たったの十秒。あまりにも時間がなさすぎる。
青白く眩いレーザー光に包まれる中、いち早く動き出したセイバーが、士郎の腕を掴み上げ、釣り堀の中へ放り投げた。

「な、うわぁあああっ!?」
「おい、お前らいったいなに……ぐぁ!?」

そのついでに、眼にも止まらぬ早業で慎二の襟首を引っ掴み、有無を言わさず叩き込む。
怪我してようが重傷だろうが、知った事かと言わんばかりに。
余りの勢いに、慎二が踏みつけていた金色の頭部も、カラカラと乾いた音を立てて地面を転がり、すぽんと水面へ吸い込まれるように落ちた。

「アーチャー! 『その盾をきっちり維持したまま、戻りなさい』!」

次に動いたのは凛。
“タイムふろしき”で回帰補充していた令呪を掲げ、早口でアーチャーに指令を飛ばす。
すぐさま令呪が輝き、アーチャーの身体が閃光に包まれたと同時にその姿を消した。
強制霊体化し、凛の下へ戻ったのだ。

「ああ、もう! 結局最後まで計画が狂いっぱなし……!」

そのまま、素早くバックステップで釣り堀に飛び込み、現実世界へ逃れる。当然、霊体となったアーチャーも一緒である。
姿がなくなった後でも、アイアスは四枚のまま変わりなく健在で、空中でレーザー相手に均衡を保っていた。
トロイア戦争にて、英雄ヘクトールの投槍を唯一防いだと言われる大アイアスの盾。
その名を冠する『熾天覆う七つの円環(ロー・アイアス)』は、投擲武具、ひいては遠距離攻撃に関して絶大な防御能力を有している。
令呪のバックアップを受けたアイアスの強度は、一時的にではあるが、A++ランクの対城宝具の一撃にも耐えうるほどの強度を得ていた。
相手が選んだ手段がレーザーであった事が、この時ばかりはプラスに働いている。
面制圧に適しているミサイルだと、アイアスでは完全に受け止められないからだ。
点でダイレクトに攻撃可能なレーザーだからこそ、『熾天覆う七つの円環(ロー・アイアス)』が通用する。
残り時間は、あと五秒。

「ノビタ、急ぎなさい!」
「フゥ! フゥウウ!」
「ちょ、ちょっと待って!」

セイバーとフー子に急かされながら、のび太は“スペアポケット”を漁り、“とりよせバッグ”を取り出す。
今からやる事は、賭けだ。
本来ならば、三十秒カウントダウン時に確実な手段で行うはずだったが、ボタンを押し間違えた事でその猶予がなくなってしまった。
残り五秒では、絶対に無理である。

「こいつを!」

残り四秒を切る。
その刹那、蛇口を閉じるようにレーザーの照射が止み、同時に役目を終えた『熾天覆う七つの円環(ロー・アイアス)』が、陽炎のように掻き消える。
そして、のび太達の塹壕を遠巻きにしていた鋼鉄の群れがざわりと揺れた。
これは、せめてもの悪足掻き。
蜘蛛の糸ほどに細くなった可能性の糸を、千切れる前に手繰り寄せる。
一縷の望みを繋ぐ、悪足掻きだった。

「くっ、行きますよ!」
「開けて……うわ!?」

襟首が引っ張られる。
掴んだのはセイバーの右手。
左手には、フー子の小さな身体が抱えられている。
ぐっと抱きすくめるように、セイバーはのび太を抱え込むと、背中から滑り込む形で“おざしきつり堀”の水面へ突入する。
その瞬間、のび太は全身全霊を込め、“とりよせバッグ”の開いた口へ、思い切りこう叫んだ。

「り、リルルッ、すぐ『鏡面世界』から脱出して!!」

上手くいくかは解らない。
しかし、これ以外に残された手はなく、あとは運を天に任せるのみだ。
水面の中に、三人の姿が完全に埋没した時、残り時間は二秒を割っていた。

『かかれぃ!』

地割れのような怒号。
鉄の波が、イナゴのようにアスファルトの大地を喰い荒らし、無人となった塹壕へ押し寄せる。
そして、一体の兵士が空より急襲を仕掛け、塹壕の中をカメラ・アイに収めたその瞬間。

『ぬ? こ、これは!?』

敷かれたシートがふっと掻き消え、ディスプレイの数字がカウンターストップ。
残り時間『00:00:00』。

『まさか……!?』

時は来た。
未来の世界の最終兵器が、『鏡面世界』へ牙を剥く。
地獄の釜の封が解かれ、金属の外殻を突き破って、内なる狂気が行き場を求めて迸る。
指揮官級が最期に見た物。それは。



『な――――――』



この世のすべてを照らし出す。
まさに今、目の前で太陽が生まれたかのような、永遠なる灼熱の“白”だった。







[28951] 第四十話
Name: 青空の木陰◆c9254621 ID:90f856d7
Date: 2013/05/22 20:15





「り、凛さんっ! 釣り堀のスイッチを切ってください、急いで!」
「スイッチ……こ、これ?」

地面のシートから飛び出すや否や、セイバーの腕の中からのび太は凛に指示を飛ばす。
“逆世界入りこみオイル”は、世界を行き来する際、上下が逆転するという特徴がある。
『鏡面世界』側で地面に設置した釣り堀に飛び込んだ場合、現実世界側では地面から飛び出してくるのだ。
これが立てかけた鏡などであれば、単に左右が入れ替わるだけでそこまで面倒にはならないのだが。
その事を知らなかったゆえか、シートの周囲で、もんどりうったように地べたに這いつくばっている複数の人影があった。
人間のマスター陣である。

「それです、早く!」

おそるおそるといった具合で、四つん這いの凛が這いより、“おざしきつり堀”のメインスイッチを切った。
ふっ、と水面が掻き消え、ただの四角い穴が描かれたシートに成り下がる。
危なげなく着地したセイバーの腕から離れ、のび太は“おざしきつり堀”をそそくさと丸め始めた。

「ふぅう、危機一髪だった」
「まったくよ。あのまま蒸発してたらと思うと、ぞっとしないわ」
「……おい。お前らだけで勝手に納得してるな。あれはなんだったんだ、そしてここはどこだ! 答えろ!」

血を拭いもせず、ようよう地べたに座り込んだ慎二が語気も荒く、詰問口調で問い質す。
この中で、一番事情を知らないのが慎二である。
あの放心状態のまま、のび太達の会話を聞いて覚えていられる訳がない。
すべて周囲の雑音として処理されていた。

「ここは現実世界よ。そして、『鏡面世界』は爆弾で吹っ飛ばしたわ。あの『鉄人兵団』諸共ね。解った?」
「そんなもんで解る訳……」

ないだろう、と言おうとして、慎二が周囲に視線を巡らせる。
どてっ腹に風穴が開いた、崩落していないビル群。
ガラスも砕けておらず、屋根もしっかり付いたままの商店テナントと事務所。
看板や壁に貼られたポスターの文字は鏡文字ではない、普通に読める文字だ。
これだけ確認出来れば、難癖もつけられない。
爆弾云々はともかく、ここがまぎれもなく元の世界だという事は認めざるを得なかった。
魔術の枠を超えた超常現象である。すぐには呑み込めなかったが、それでも慎二は、引っ掛かる物に対し質問をぶつけた。

「……あの眼鏡のガキの道具か?」
「ええ」
「いったい何者だよ、あのガキは。金のガラクタも、アイツを気にしていたようだし……それ以前に、この聖杯戦争はどうなってるんだ? 明らかにおかしいぞ」
「前半の回答は拒否するわ。言っても仕方ないし、勝手に想像してなさい。代わりに、後半は答えてあげる。もうこの戦争は、どこかがイカれてしまってるのよ。原因はまだ解らないけど。ちなみに、これはバーサーカーの遺言からよ」
「バーサーカー? ……ふん、そうかよ。まあ、いいさ。一応、納得はしておいてやる。僕はもう、この戦争から降りるからな」
「はぁ?」

一瞬、凛は我が耳を疑った。
この高慢ちきな男が、自ら降りると言ったのだ。
たしかに、サーヴァントを失った慎二は、事実上脱落扱いとなる。
しかも、その身体は腕を中心に、全身血塗れになるほどの重傷を負っているのだ。勿論、凛は治してやるつもりなどさらさらない。
実力がペケ、さらに箸も持てない重体である以上、どの道降りざるを得ないだろう。
しかし、実際に可能かは別として、他者のサーヴァントを奪って戦線復帰、という方法もない訳ではないのだ。
凛には、慎二の真意がまったく読めなかった。
言葉尻だけを捉えれば、責任も何もかも放り出して逃げ出しますといった風に聞こえなくもない。

「どういうつもりよ、アンタ」
「どうもこうも、言葉の通りさ。ライダーがいなくなった以上、僕は敗者だ。敗者は、おとなしく舞台から去る。それのどこがおかしい」

血は止まっていないのに今なお止血する様子もなく、激痛が走るだろうに痛がる素振りも見せず、淡々と慎二は述べる。
言っている事は間違っていないが、それでも違和感は拭えない。
ちらり、と凛に視線をやった慎二は、再度鼻を鳴らすと、自分の近くに転がっているベコベコにひしゃげた、丸っこい物体にどっかりと片足を乗っけた。

「……目標が出来たんでね。こっちにかかずらっちゃいられなくなったのさ」
「目標?」
「利用出来る物は、なんだろうが利用する。とっかかりくらいは、まあハンデだよな」
「アンタなに言ってんの?」
「なんでもいいだろ、独り言だ」

ごろごろと、足の裏でブツを転がしながら、慎二は舌打ちを漏らす。
こいつ意外に頑丈だな、という軽口めいた言葉が、虚空に溶けて消えた。

「とにかく、もう聖杯に興味はない。異常だなんだってのもどうでもいい。そっちで勝手にやってくれ。まあ、ウチのくたばりかけがどう動くかは知らないけどな」
「……アンタ、自分がした事忘れた訳じゃないでしょうね」
「ああ? 学校の件か? それで責任を取れって?」

凛が頷こうとした時、慎二の口からふう、と溜息が吐き出された。
そこには、あからさまな呆れが混じっている。
一瞬、むっとした凛だったが、そこで自分が肝心な部分を見落としている事に気づいた。

「バカかい、君は? 取りようがないさ。少なくとも、聖杯戦争中に起こした、魔術が絡む事件に関してはね。犯罪だろうが外道だろうが、神秘は秘匿されるべき。そのために、隠蔽工作する教会の監督者がいるんだ」

つまり、表だって謝罪する事も、賠償する事も不可能なのだ。
聖杯戦争中に起こった魔術絡みの事件は、隠蔽工作によって否応なく、真実を闇に葬られる。
そこに魔術師の流儀が合わされば、自分から名乗り出る事も不可能。結局、慎二が尽くせる誠意の余地など、欠片も残されるはずがない。

「それに、僕が言うのもなんだが、僕絡みで死人は出てない。おそらく軽傷か、重くて数日の入院が関の山。じゃ、どう足掻いても無理さ。真実は無難なものに書き換えられ、被害者はそれを信じざるを得ない。そして日常が戻れば……もう言わなくても解るよな、遠坂」

ぐうの音も出なかった。
しかし、凛の感性からして到底納得のいくものではない。
慎二に言い負かされるのも癪だったが、それ以上に事実に対する憤りが凛の心を焼き焦がす。
その憤懣やる方ない様子に、慎二はふん、とひとつ鼻を鳴らすと、諭すように、そして妥協を示すような口調で続けた。

「……やれやれ。ま、気持ちは理解出来なくもないけどさ。じゃあ、こうしようか。納得いかないんなら、間桐の……――――あ?」
「なによ?」
「いや、あのガキが……」

怪訝な表情となった慎二が指し示す方を見ると。

「わっ、え、な、あ、あああ!?」

なにやらのび太が慌てた様子でおたついていた。
腕には丸められた“おざしきつり堀”が抱えられ、同時に左の手には“スペアポケット”が握られている。
ポケットに仕舞い込もうとしていたところだったのだろう。
しかし、なんだか様子がおかしい。
具体的には、筒状となった“おざしきつり堀”から、ジジジジ、バチバチ、という漏電にも似た音が聞こえてくるのだ。
さらには、焦げ臭い、真っ黒な煙がもうもうと上がっている。さながら銭湯の煙突から、煙が吐き出されているかのようだ。

「え……ちょ、ちょっと!?」

凛はおろか、士郎、セイバー、そして霊体化したままのアーチャーに至るまで、凄まじく嫌な予感を覚えた。
『鏡面世界』ですべてを焼き尽くし、暴虐の嵐を巻き起こした、“地球はかいばくだん”。
額面通りの成果を果たしたであろうそれの余波を防ぐため、のび太は脱出するや即座にスイッチを切らせて、繋がりを断った。
だが、考えてもみてほしい。
地球丸ごと消滅させるほどのエネルギーを、そう簡単にシャットアウト出来るものだろうか。
まして、出入り口は爆弾から五メートルと離れていなかった。
這いずるような悪寒を呼び寄せる、悪夢の方程式。
その答えが、“おざしきつり堀”から齎されようとしていた。

「のび太君、“おざしきつり堀”を捨てろっ!」
「急いで全員、こっちに寄りなさい!」

士郎が叫び、凛が指示を飛ばす。
のび太はすぐさまポイ、と“おざしきつり堀”をその場に投げ捨て、傍らにいたフー子を抱えて走り出す。
セイバーが士郎の襟首を掴み、凛の傍へと即座に退避する。
だが。

「ぐ……ぁ、っが!?」
「慎二!?」

立ち上がろうとした慎二は、半ばまで立ったところでその場にくずおれた。それも当然だ。
感情の昂ぶりによる、一時的なアドレナリンの過剰分泌によって、痛みこそ抑制されていたが、怪我が治った訳ではない。この中で誰よりも肉体、精神共に疲弊している。
さらに最悪な事に、皆から距離が最も離れていたのが慎二だった。
慌てて駆け寄ろうとする凛。
しかし、それよりも早く、“おざしきつり堀”が牙を剥いた。

「きゃあっ!?」
「ぐぁああああ!?」

火薬庫に手榴弾を放り込んだような大爆発。
破片と共に凄まじい衝撃波が撒き散らされ、オーバーロードの爆炎が舐めるように周囲に拡散する。
ビル群を揺らし、紅蓮に染め上げる轟音と閃光に、凛は堪らず、のび太から渡された“バリヤーポイント”のスイッチを入れていた。
たとえ釣り堀のスイッチを切っていたとしても、“逆世界入りこみオイル”の効果は持続したままだ。
つまり、あの『鏡面世界』との繋がりは、完全には途切れていない。
簡単に言えば、見えないシャッターを降ろして世界間を一旦遮断した、というだけの事なのである。
内部からの余りの圧力に、その安全機構も意味をなさず、シャッターを突き破ってこぼれ出し、暴走したエネルギーが爆発を引き起こした。
“バリヤーポイント”の恩恵で、衝撃からも熱風からも、爆炎からも凛達は保護される。
しかし、恩恵を被れなかった慎二は、無慈悲にもそのすべてに晒された。
瓦礫と共に、満身創痍の身体が紙切れか、人形同然に吹き飛ばされる。

「慎二っ!」
「が……っ!?」

凛達から最も遠い位置にいた慎二であったが、同時に爆発地点からも、最も遠い位置にいた。
それが幸いして、汚いボロクズにされる事は免れたが、ビルの壁面にしたたか叩き付けられ、そのまま動かなくなった。
まるで、糸が切れたマリオネットのように。

「おい、慎二!?」
「……無理に動かすな馬鹿者。頭を打っている」

爆風が収まり、凛が“バリヤーポイント”を解除すると、士郎が真っ先に慎二に駆け寄り、抱き起こそうとしたが、アーチャーの叱責がその動きを押し留めた。
慎二の顔には、無数の擦過傷と共に、額から夥しい量の血が、新たに流れ出している。

「気を失ってる……まずいな」

これ以前に重傷を負っている事もあり、急がなければ、取り返しがつかない事態になるかもしれない。
黒い煙がもうもうと立ち込め、爆風の吹き返しに咽ながらも、治療を頼もうと士郎は凛を振り返る。
しかし、凛は士郎を見ていなかった。
その眼は、よく解らない揺らぎと共に爆心地へと注がれている。

「遠坂……?」

つられて、士郎もそちらを見る。
その途端、ぎょっと目が驚愕に見開かれた。

「あ、れは……!」
「なんだと……?」

隕石の落下跡のように、深々と抉れたクレーター。
その中央に、螺旋状に渦を巻く、漆黒の巨大な“穴”がぽっかりと口を開けていた。

「なによ……これ」

人の二、三人は軽く収めきれるほどの大きさ。
壊れかけの空調にも似た、重低音の唸りを上げ、空間を侵食している。
“穴”の周囲で無数の紫電が奔り、黒と白のコントラストが見る者の網膜に残像を残す。
誰の口からも、言葉が出ない。
それはそうだ。
その“穴”から放たれている異質な雰囲気は、この世ならざる物のそれ。こんな感覚は、いまだかつて感じた事はなかった。
近い物ならば知っている。二人の英霊が纏う気配がまさにそれだ。
しかし、この“穴”からはそれよりも大きな、それこそ英霊の気配すら呑み込んでなお押し寄せる、宇宙の津波のような圧迫感を醸し出していた。

「あ……」

時間にして、十秒ほど経った頃だろうか。
唐突に、映りが悪くなったTVのように一瞬、“穴”が揺らめくと、ふっと虚空に掻き消えた。

「…………」
「…………」
「……消え、た」

静まり返った街中。
風に揺らぐ、無事だった街路樹の枝のざわめきだけが鼓膜を揺さぶる。
呆然と、消え去った後の空間を見つめ続ける一同。

「……凛、あれは」

無音の帳を引き裂いたのは、アーチャー。
硬い表情を貼り付けたまま、主に問いを投げかける。
凛は答えを返さない。返したくないのだ。
今までとは桁が違う、何か決定的な物が音を立てて崩れてしまう。
その呼び水を、自分から差し出す訳にはいかない。
脚の骨すべてを引き抜くような、悪寒にも似た負の予感。

「今のは……もしや」
「……言わないで」

遮る。
しかし、その声は弱い。
凛は、おぼろげながらも気づいているのだ。
あの異質な空洞の正体を。
魔術師たちのアイデンティティを根こそぎ破壊する、そのある意味至上で、そして最悪の答えを。

「――――『こ「言わないでッ!!」……む、うむ……」

先程とは違う、怒声にも似た懇願には、弓兵も口を閉ざさざるを得なかった。
異次元間を繋ぐ道具に、地球を粉微塵にするほどのエネルギーの放出。
それが、世界の壁に強烈な干渉と凶悪な負荷を掛け、強引にぶち破ったのだろう。
偶然の産物か、はたまた必然の帰結か。
たしかな事は、世の魔術師にとって『空の上に海が出来る』ような現象がまたひとつ、冬木の地においてなされたという事である。
目撃したのが、士郎と凛……あるいはイリヤスフィール達だけでよかったのかもしれない。
生粋の魔術師であれば、科学の力で奇跡を成した結果に発狂するか、それを通り越して悶死するかのどちらかであったろう。

「……飛び込まなくてよかったのですか?」

魔術師にとっての悲願が目の前にあったのにも拘らず、凛はなんのリアクションも起こさなかった。
士郎はそもそも、そんなものなど求めていない魔術使いなので例外だが、凛は一応、真っ当な魔術師だ。
いくらカタストロフ級の衝撃があったとて、みすみすデカすぎる魚を逃すとは。
ぽつりと囁かれたセイバーの言に、凛は鼻を鳴らした。

「――――冗談でしょ? こんな棚ボタ、見切り品のバーゲンセール以下よ。安い奇跡なんて、お断り。そんなんじゃ、わたしは満足出来ないし、納得もいかない」

高い矜持を持つ、凛らしい答えだった。
思わず目を見開くセイバー。同時に深い、畏敬の念を抱く。

「そうですか……ところで、本音は?」
「うん、実はちょっと惜しかったかも……って、なに言わせるのよ!」
「……成る程、やはり貴女はリンですね」
「どういう意味よ!」

噛みつくように凛が吼えるが、凛以外の人間には、セイバーの言いたい事が手に取るように理解出来た。
漏れ出た本音に、幾分評価を下方修正しつつ、セイバーは別の懸念を口にした。

「それはそれとして……あの巨人はどうなったのでしょうか」
「あっ!」

思い出した、とばかりに叫び声を上げるのび太。
“とりよせバッグ”で警告をしたとはいえ、その時間は五秒もなかった。
果たして、脱出出来たのか出来なかったのか。
その答えは、思いの外すぐに齎された。

「ん? おい、あれ!」
「は……? って、わっ!?」
「あ、ザンダクロスっ!?」

今しがたクレーターの反対側、冬木大橋の傍に浮かぶ、空間の揺らぎ。
そこから、初めてその姿を現した時と同じように、『ザンダクロス(ジュド)』の身体がずぶずぶと表に出てこようとしていた。
しかし、それは完璧な姿で、ではない。

「うわぁ……ボロボロね」
「それだけ際どいタイミングだった、という事か」

まず左腕がなかった。
肩から先が、綺麗さっぱりと千切れ飛び、剥き出しの内部機関が、火花を噴き上げている。
次に、外部装甲が軒並み損壊し、朽ちたバラック同然に剥がれ落ちている。
唯一無事なのは、コクピット周りの胸部周辺くらいだろうか。
頭部は右半分が完全にひしゃげ、デュアル・アイが左側だけのモノ・アイへと変貌しており、その左目にも、大きな稲妻のような亀裂が走っている。
身体各所に仕込まれた内部兵装が、鞘から出した刀のように露出しており、全身のミサイルと腹部レーザー砲が、劣らぬ脅威を誇示して剣呑なぎらつきを放っていた。
総じて評するなら、まさに満身創痍。立っているのがやっと、という有様だ。
よくぞここまで保ったというべきか、まさかこの程度で済むとはというべきか。判断に困る凄惨さであった。

「よく誘爆しなかったな……あんだけミサイル搭載しておいて、あそこまでダメージ喰らってたら、もう既に内部誘爆で木っ端微塵だぞ」
「それで終わるようじゃ、宝具とは呼べないでしょ」
「リルル、リルルッ!? 大丈夫!?」

声の限りに、リルルの名を叫ぶのび太。
すると、ギ、ギ、ギ、と耳障りな金属音が『ザンダクロス(ジュド)』の各所から響き、左目に僅かに光が灯る。
咄嗟に身構えた一同だったが、続く音は、ノイズの混ざった女性の声であった。

『……のび……太……くん』
「リルル!? い、生きてた!」

のび太の表情が、泣き笑いに歪む。
『ザンダクロス(ジュド)』のスピーカーから届く彼女の声が、生存の一報を送った。
しかし、その声には、いささか張りがない。
掠れたようなそれは、彼女の極度の消耗を窺わせる。

「待ってて、今、こっちに!」

叫ぶや否や、“スペアポケット”から“とりよせバッグ”を取り出して、その口を開け、手を差し入れる。
ずるり、と中から、レッドピンクの髪の少女が引きずり出された。
のび太の細腕で、よくもまあ人間一体分の重量を引き上げられたものだが、過去に百キロを超える重量を誇るネコ型ロボットを抱え上げていた事から、実はそこまで不思議はないのかもしれない。

「……ふぅーっ」

深々と、のび太は安堵の吐息を漏らす。
もはや、『鉄人兵団』は存在せず、彼女の身を縛る者はない。
ところどころが、浅く傷ついたり薄汚れたりしているが、深手を負ってはいないようだ。

「……あ、う……く」
「大丈夫っ!? 無理しないで、リルル!」

倒れかけたリルルを、慌ててのび太が支える。
互いに抱き合うような体勢になっているが、身長差でのび太が押し潰されそうな状態になっているのはご愛嬌か。
リルルの身長は、セイバーとおおよそ同じくらいで、のび太よりも、十センチ以上高い。
鈍痛を堪えるように、重く、荒い息を吐くリルル。
ゆるゆると、のび太の肩に預けていた頭を上げると、不意に声にならぬ声で、しかしはっきりと聞き取れる声で叫んだ。

「……だめ、ジュドが!」
「え?」

のび太の頭上に、疑問符が躍る。
しかし、『ザンダクロス(ジュド)』の次の変化を見て、全員が驚愕の渦に叩き込まれた。

「は……おい、今、アイツの中、空なんだろ!?」
「それが、なんで動き出してるの!?」

崩壊寸前のビルが奏でるような、ギリギリという異音が宵闇に木霊し、罅割れたモノ・アイに、禍々しいほどの赤い光が灯る。
重力などないかのように、バーニアの光も発する事なく、ぐんと川から浮上。あっという間に、闇夜の空に巨人の全身が曝け出される。

「何を、するつもりだ?」
「もしや……いや、まさか!?」

セイバーの『直感』が、うるさいばかりに警鐘を鳴らす。
そして、虚空から響いてきたのは、ショットガンのポンプアクションさながらの、連続した金属音であった。
その瞬間、セイバーの顔から一気に血の気が引く。
セイバーの脳裏を掠めたビジョンに、確固とした裏付けがなされた瞬間だった。

「リン、バリアを!」
「まっ、間に合えぇえええっ!!」

合図より早く、半死人と半人前を抱え、凛の下へ跳ぶアーチャー。
凛を中心にバリアの膜が張られるのと、『ザンダクロス(ジュド)』の全身から、一斉に白煙が立ち上るのは、ほぼ同時だった。
無差別にばら撒かれる、百余を超える対人ミサイル。
空中を旋回するように弧を描き、オフィス街に死の弾幕が降り注ぐ。
まさに、大戦中の首都大空襲の再現であった。

「うわわわわっ!?」
「なによコレ!? 当たるを幸い、お構いなしって訳!?」

砕け散ったコンクリートの雨と、紅蓮に染まった大地を舐める爆炎が、悲鳴にも似た二人の声を炎の中へと掻き消す。
道路はアスファルトを飛び散らせて陥没し、ビルは纏わりつく無数の火球によって無残に崩落。電柱も、信号も、街路樹も、等しく半ばからへし折れ、小枝のように吹き飛ばされる。
ここは『鏡面世界』ではない。間違う事なき、現実の世界である。
破壊の権化と化した巨人が、その手で新都の風景を、赤と灰に染め上げていく。

「や……やめろ、止まれ! 止まれぇ!!」

何もかもが灰燼へと帰するその光景は、士郎をして己の始まりたる、過去の情景を思い出させるに十分であった。
せり上がる、灼熱の感情を双眸に漲らせ、士郎は声の限りに叫ぶ。
しかし、そんな事をしても無意味かつ無駄。
それどころか、これも持って行け、と言わんばかりに、『ザンダクロス(ジュド)』は腹部の大砲をぶっ放した。

「ぐあ!」
「眩し……あ、熱ッ!? も、もう壊れかけてるの!?」

光の破城鎚が、のび太達目掛けて真っ直ぐに突き刺さるも、バリアで護られている以上、致命傷にはならない。
だが、バリアの出力とレーザーの威力。どちらが上かと言われれば、当然ながら後者である。
そして、間断ない過剰な負荷は、イージスの盾とも言える“バリヤーポイント”の唯一に等しい弱点。
早くも、凛の手に握られた“バリヤーポイント”からは、崩壊前の異常過熱が始まっていた。
びりびりと揺らぐ、足元の地面。
もはや立っていられず、のび太がリルルを抱えたまま、その場にしゃがみ込んだ。

「ど、どうなってるの、いったい……リルルが動かしてたんでしょ、あれ!?」
「……ジュドを……操縦出来るのは……わたしと……あの、金色の個体、だけ。わたし……は、服従回路、で命令され、てて」
「ふ、服従回路? やっぱり、君はあの指揮官級に、無理矢理従わされてたって事か!」
「わたし、に対しての強制命、令は……音声でしか、出来ない、から。最、初に、『鉄人兵団』、を維持し続けるように、命令、されて」
「成る程。つまり、あの指揮官級が何かしらの命令を下す前に現実世界へ渡り、間、髪を入れずに『鉄人兵団』が全滅した事で、呪縛から逃れた訳か」

仮に『逃げるな』や『裏切るな』という命令を受けていたとしても、現実世界に渡るだけならば、裏切り行為にはならない。
それに、命令で拘束出来るのは、結局のところは肉体のみだ。精神や、自我にまで影響を及ぼす訳ではない。
人が造りだした万物に、完璧などありえない。必ず、抜け道や裏技が存在する。
リルルにとって、指揮官級が敵に意識を取られすぎていた事も、あの狂気の爆弾の起爆五秒前で告げられた脱出のタイミングも、すべてが都合よく作用した。
結果として、今こうしてのび太に抱えられている訳であるが、しかし、今の『ザンダクロス(ジュド)』の暴走はいかなる理由ゆえか。

「事情はおおよそ解ったが、ならばなぜ、あれは無差別に破壊活動を行っている?」
「操縦出来るのは……わたしと……あとひとりだけ。わたしじゃなけれな……」
「指揮官級、と? だが、奴は『鏡面世界』で消滅したはずだ、ッ!? ぬぅ!?」

アーチャーがさらに問いかけようとしたところで、さらに追加で全方位ミサイルの第二射が降り注いだ。
そのうちの十数基が、バリアに直撃。いまだ止まぬレーザー照射の上から、凶悪な負荷がのしかかる。
切れかけの電球のようにバリアが明滅を始め、“バリヤーポイント”の本体から焦げ臭い煙とオレンジの火花が噴き出した。

「ま、まずっ……! フー子、風のバリアッ!」
「フ、フゥ!」
「あとのび太っ、予備の“バリヤーポイント”は!?」
「そ、それが最後です! あとは、イリヤちゃん達が持ってる分しか……ご、ごめんフー子、頑張って!」
「うん!」

瞬時に、のび太とフー子から、淡い光が発せられ、次いでフー子の身体が強烈な光の殻に覆われる。
“竜の因子”を最大限に同期させ、フー子は己が身に生ずる膨大な魔力を、すべて風の力へと変換する。
ボールの中で風船を膨らませるように、バリアの中からドーム状に風の障壁を展開した。
互いの干渉を防ぐため、ふたつのバリアは薄皮一枚の間隔を隔てて接触を免れており、フー子の驚異的な力のコントロールの程が窺い知れる。

「あ、っつう!?」

後は任せたとばかりに、凛の手の中で“バリヤーポイント”が弾けたその時、蛇口を絞るようにレーザーの照射が止む。
同時に、リルルの口から、巨人の暴走の解が齎された。

「緊急……措置。誰も、乗らなかった場合……『鉄人兵団』の、統率者の疑似AIを、頭脳ユニット……の代わり、として、使用するよう設……定されてる。でも、不確定性が……高すぎたから、普段は、ロックをかけて、た、けど……」
「半壊状態の上、唐突に君がいなくなったため、何らかの要因でロックが外れ、暴走を始めた。そんなところか」
「え……じゃ、じゃあ、もしかして僕のせい!?」

のび太の表情が、怯えに戦慄く。
そうとは知らなかったとはいえ、リルルを引っ張り出して、街を滅茶滅茶にする原因を作ったのだ。青くなるのも無理はない。
しかし、アーチャーとリルルは、揃って首を横に振ってそれを否定した。

「ううん……たぶん、そうなるように、仕組まれてたんだと……思う。万が一の、時のために……」
「同感だ。つまり、これは『鉄人兵団』の最後っ屁という事だ。この事態は、起こるべくして起こった。気に病む必要はない」

のび太に対しての気遣いが加味されていたとしても、説得力はあった。
リルルには裏切りの前科があり、かつ、敵対する相手がかつて、彼女の命を以て守り抜いた人間である。信用度は、間違いなく底辺。
『鏡面世界(リバーサル・ワールド)』はともかく、『ザンダクロス(ジュド)』に仕込みをしておくくらいの謀略は働かせていたはずだ。

「さて……それはそれとして、あれはどうすべきか、な。放置は論外。しかしああなった以上、もはや君に御せるとも思えんのだがね」

鷹の視線を『ザンダクロス(ジュド)』へと突き刺し、アーチャーがリルルへ選択を迫る。
コントロールさえ取り戻せば、万事は丸く収まるが、暴走状態の宝具に果たして通用するのか。
こうしている間にも、街は炎と瓦礫の海へと姿を変えつつある。
猶予はない。
唇を噛み締め、僅かに顔を俯けるリルル。
彼女の出した答えは。

「……破壊して、ください」

直接的で、どこまでも確実な方法だった。
いまだ爆炎轟く中、一斉に、彼女に向かって真っ直ぐに視線が注がれる。
サーヴァントにとって宝具は、己の分身にも等しい。それを、自ら壊してくれと願う。
向けられる目の、そのどれもが、彼女に対し問いを投げかけていた。
本当にそれでいいのか、と。

「お願い、します……!」

顔を上げ、決然とした面持ちで言い切るリルル。
無機質で構築された瞳には、眩く、それ以上に強固な意思の輝きが宿っていた。
研ぎ澄まされた大剣を思わせる、視界に入っただけで切り裂かれそうな鬼気迫る気迫。
視線を合わせたセイバーが、思わずたじろぎかけたほどの凄烈さであった。

「……ふん?」

その瞳の中に、もうひとつ、別種の形容しがたい光が紛れ込んでいたのに気付いたのは、渦中においてアーチャーただひとりであった。
いつかの己が抱いた、とある決意の匂い。
それを、半ば本能的に嗅ぎ分けたがゆえに。
だが、彼はそのまま瞑目し、口を真一文字に引き結んで、沈黙を保つ。
尊重か、放置か諦念か。鉄の仮面の表情からは、何ひとつ察せられるものはない。

「――――シロウ、令呪を」
「え……?」

士郎が振り返ると、そこには諸手を順手に重ね、天空へと剣気を迸らせるセイバーの姿があった。
彼女が掴むのは、言うまでもなく己が最強の聖剣である。
既に『風王結界(インビジブル・エア)』が剥がれ始めており、神々しい光が随所から漏れ出している。
セイバーの決断は、後には退けないところまで来ていた。

「何を呆けているのですか。今はもう、人払いの結界はないのですよ。急がなければ、一般人に死傷者が出ます!」
「あ……わ、解った!」

窘められ、やっと意識を平常へと戻すと、令呪の宿る腕を顔の前に翳した。
残る令呪は二画。士郎は、そのすべてを使い切るつもりでいた。
概算して、『ザンダクロス(ジュド)』と『約束された勝利の剣(エクスカリバー)』は、ランクの上では同格の宝具である。
外装が軒並み剥がれ落ちているとはいえ、万一堪えられでもすれば、何が起こるか解らない。
念には念を、出し惜しみはしない。最大火力の一撃で、この異次元を股にかけた、闇夜の死闘に決着をつける。
覚悟と共に、士郎は声を張り上げた。

「――――残る令呪のすべてを以て命じる! 『ロボットを、光の彼方に消し去れ』!!」

赤い光と共に、令呪が士郎の手から掻き消える。
そして、雲霞が散るように不可視の幕が取り払われ、分厚い白炎を纏った聖剣が姿を現した。
令呪の魔力が、刀身に凝縮されているがゆえの白であり、触れるだけで蒸発しそうなほどの熱気と圧力が、狂暴な渦を巻いている。

「はぁあああああっ!」

セイバーは、“竜の因子”を共鳴させ、さらにそこに魔力を上乗せする。
黄金色の紫電が白炎に絡み付き、輝きがもう一段階、力強さを増した。
これ以上は、剣自体が耐えられないのではないか。
そう錯覚させるほどの威圧感と共に、セイバーは剣を担ぎ上げた。

「フーコ、障壁を解除してください!」
「うん!」

風の障壁が消え、剣気の漲るセイバーの瞳が、虚空の標的を睨み据える。
『ザンダクロス(ジュド)』は滞空状態のまま、再度腹部のレーザー砲にエネルギーを蓄積するが、しかしそれはあまりに遅かった。
『ザンダクロス(ジュド)』最大の欠点は、その極悪なまでの燃費の、エネルギー効率の悪さにある。
特に、攻撃を凌がれた後の先を取られると、武装の関係上、咄嗟の対応が難しい。
ミサイルに限ればエネルギーは関係ないが、装填、ロックオン、発射、着弾と段階を踏むため、やはり即応性は劣る。
加えて総弾数も、格納領域の問題で一門につき十二発までしか発射出来ない仕様なので、後先考えずに撃ちまくれば、すぐさま弾切れで沈黙を余儀なくされるのだ。
極めつけは、切り札である腹部レーザー砲である。
威力こそ申し分ないものの、一度発射するとエネルギー再充填にそれなりの時間がかかるのは、今のこの状況が証明している。

「『約束された(エクス)――――」

火山の噴火さながらに、聖剣が一気呵成に白く、猛々しく燃え上がる。
チャージを中断し、巨人が防御とばかりに両腕を交差させるが、そんなものは気休めにもなりはしない。
それは、剣が振り下ろされた後の光景が証明していた。

「――――勝利の剣(カリバ)』ァアアアアーーーー!!」

迸る、濁流とも呼べる白の閃光。
漆黒の闇をも焦がさんばかりに、彗星の如き剣閃が猛烈な勢いを伴って天へと駆け登り。

「ああ……これで」

両断した『ザンダクロス』を、塵のひとつも残す事なく光の中へ消し飛ばす。

「……ごめんね、のび太くん」
「へ……?」

――――その瞬間、糸が切れたかのように、リルルの身体が膝から崩れ落ちた。





「リルルッ!?」

突然の事態に、のび太は動揺を露わにしながらもリルルを抱え起こそうと、手を伸ばし、抱え込む。
そこで、彼女の異変の一端に気づいた。

「か、軽い……なんで?」

リルルの肉体が、異常に軽いのだ。
人間と違い、鉄で構成されているにも拘らず、リルルの身体は人間並みの重量しかない。
しかし、それでものび太にとっては、自分以上の体重がある事に違いはないのだ。
それがどういう訳か、発泡スチロールの人形を抱えているような重さしか感じ取れなかった。
ぼろぼろに罅割れたアスファルトの上に跪き、困惑の体を晒すのび太の耳元で、リルルの声が震えるように響いた。

「ぜんぶ、壊れちゃったから……」
「え?」



「『命運共同』……宝具がすべて破壊された時、わたしの命は尽きる……」



さっ、とのび太の顔色が青褪めた。
それがリルルの身に巣食った、時限爆弾とも呼ぶべき異常因果だった。

「そ、んな……」
「ごめんなさい、のび太くん……」

うわ言のように、リルルは謝罪を繰り返すが、のび太の耳には届かない。
後味の悪さゆえか、剣を収めたセイバーは、強く眉を顰めている。
他の面子も似たり寄ったりの反応である。唯一違うのは、睨むように僅かに眼を細くするアーチャーくらいであろうか。
しかし、それ以上にセイバー達の胸中を支配しているのは、なぜ、という疑問であった。

「リルル、でしたね。貴女はなぜ、自ら死に急ぐような事を我々に願ったのですか?」

自分の運命を理解していたはずなのに、わざわざ宝具を破壊するよう懇願した。
自殺志願にも等しい行為だ。発想が突飛すぎて、正気を疑うレベルである。
リルルの真意が、誰にも読めなかった。
ゆるゆると、のび太の肩にもたれかけていた頭を上げ、リルルは疑問への回答を発した。

「わたしが……ここにいる意味を、まっとうする、ため」
「ここにいる、意味? それは……」
「のび太くん達を、殺す事。それが、わたしの役割」

不吉なフレーズに、のび太は思わず身を竦めてしまう。
しかし、次に発された言葉で、その硬直も解けていった。

「でも……そんな押しつけられた役割なんて。だから……わたしは……」

自分で自分の成すべき事を見出した、と告げたその時、彼女の身体が、足元から砂のように崩れ始めた。

「リルルっ!」
「まだ、もう、少しだけ……大丈夫、だから。のび太くん。力を、貸して……」
「力……? う、うん。僕に出来る事なら」

戸惑いながらも力強く頷いたのび太に、リルルは淡い微笑みを浮かべると、顔をのび太の耳元へ近づけ、何事かを囁いた。
彼女の声が耳朶を打つ度、焦燥に彩られたのび太の表情が、次第に神妙なものへと変わっていく。

「――――そっか。それが、君の願い……なんだね」
「うん……ごめんなさい」

すべてを語り終えたリルルが、もう一度淡く微笑んだ。
途端、くしゃりと歪んだのび太の顔に、涙が伝い落ちた。

「泣かないで、のび太くん」
「でも……」
「ここにいるわたしは、君の記憶から作り出された幻。本当のわたしは……」
「それでもっ! 僕は……僕はっ……君を、助けたくてっ……君に……ぅむッ!?」

その先を、のび太は告げる事は出来なかった。
なぜなら、リルルの唇によって、のび太の口が塞がれたからだ。
涙が滲んだままののび太の眼は驚きに見開かれ、次いで熱湯に放り込まれたように顔が真っ赤に茹で上がる。
目を閉じる、リルルの表情は真剣そのもので、余人につけ入る隙を与えない。
耳を澄ませば、二人の接合部からは、くちくちと何かが蠢く音が漏れ出している。
事態が呑み込めず、身を固くしているのび太の様子を考えれば、リルルの方に積極性がある事はすぐに見て取れた。

「ん……む」
「な……!?」
「きゃー」

突然のラブシーンに、セイバーは突き放されたような表情となり、凛は口元を手で覆い隠し、士郎とアーチャーは揃って硬直している。
フー子に至っては、恥ずかしそうに目を両手で覆っていた。
一応、同じ行為をのび太としている彼女ではあるが、流石にこれは対象年齢が高すぎたようだ。
知らぬ間に事態はエスカレートし、今度はくちゅくちゅと水っぽいものが混じり合う音が聞こえてくる。
よい子にはとても見せられない、さらにアダルトチックなものへと変貌を遂げていた。

「ん、く……ぷぁっ」

時間にして、たっぷり十五秒ほどが経っただろうか。
ようやく、リルルがのび太の唇を解放する。
互いの口元から伸びる銀の糸が、二人を繋ぐようにアーチを描き、それが行為の情熱度合いを物語っている。
魂が抜かれたかのように呆然としたままののび太であったが、その途端、彼の身体がぼうっ、と淡く光を放った。
その光は、見慣れた“竜の因子”によるものではない。

「え……リルル、こ、これって」
「わたしの、最後の力。死を前にしたその時に一度だけ、わたしの望む相手に祝福を与える……」

既に腰の辺りまで消滅しているが、リルルは弱々しくも毅然と答える。
のび太の身体を支えにして、光の消えぬ真摯な眼を、のび太の瞳に合わせながら。

「しゅく、ふく?」
「ええ。だって、わたしは――――」

その先の言葉は、のび太の耳元で小さく囁かれる。
儚げに微笑むリルルの表情は、のび太の脳裏に、あの教室の窓から見えたリルルの姿を思い出させた。
胸をぎしりと締め付ける、押し寄せる津波のような感情のうねりに、のび太の涙腺が再び緩む。
のび太の様子に、リルルはふわりと慈愛の微笑を浮かべると、視線を別方向へと移した。

「フー子さん」
「フ、フゥ?」
「『その時』が来るまで、のび太くんを護ってあげて」

リルルと、フー子の視線が交錯する。
そこに、何が込められているのか、余人には理解出来ないだろう。
これは、のび太にまつわる因果を持つ者同士の、魂の共感であった。
一瞬が永劫とも思える、瞳の交わり。

「お願い」
「……うん」

リルルの言葉に、フー子は真剣な眼差しで首肯を返した。
フー子の瞳の奥で、凄烈な光がたゆたっている。
リルルが微笑のままに目を閉じると、ぐしゃりと胸元までが一気に消え去った。
別れの時が来たのだ。

「リルルッ!」
「のび太くん……」

悲壮なまでに顔をくしゃくしゃにしているのび太の頬を撫で、リルルはもう一度唇を重ねる。
それは、先程とは違って軽い、そっと触れ合うだけのものであった。



「――――またね」



永遠の別離ではなく、再会を期する別れの言葉。
最後まで、瞳をのび太から逸らす事なく、機械の天使は見る者を癒す笑顔を浮かべて、のび太の腕の中で消滅した。

「リ……――――ッ!?」

叫びかけたのび太の声が、何かに遮られたかのように飲み込まれる。
それは、のび太の身体にいまだ感じる、不自然な重みがそうさせていた。



「――――つくづく、貴方も変わった人ですね……」
「ら、ライダー……さん!?」



そこにいたのは、天馬を駆った騎乗兵。
『メドゥーサ』が、消え去ったリルルと同じように、のび太に縋りついていた。
罅割れた眼帯と、身体のそこかしこに付けられた生傷。そしてバサバサにもつれた長い紫の髪が、彼女の疲弊具合を如実に顕していた。

「ノビタ!?」
「待て、セイバー。構えずとも、奴には既に敵意がない。ただ、消え去るだけの身だ」
「ふふ……笑っても構いませんよ」

自嘲するように力ない笑みを浮かべるライダー。
だが、その有様を見て、まさか笑えるはずもない。
末期の老婆を思わせる声音が、のび太の身を固く強張らせる。
リルルと違って、明確に敵意をぶつけ合った相手である。
すぐにでも首筋に喰いつかれそうな体勢で、そう身構えるなという方が無理な話だった。

「……ライダー、この際だから聞いておくわ」
「……何でしょうか、アーチャーのマスター」
「アンタの本当の主は……誰かしら?」

途端、薄く湛えられたライダーの笑みが消える。
怜悧とも言える凛の視線が突き刺さる中、ライダーの足先が光の粒子となって解け始めた。
バーサーカーの時と、同じように。

「……気づいていたのですか」
「もしかしたら、程度の可能性だったけどね。最初は」
「遠坂、どういう事だ?」
「決定的だったのは、これよ」

そう言って、凛がスカートのポケットから取り出したのは、慎二が持っていたあの赤い本だった。

「あ、その本……遠坂が、拾ってたのか」
「偶然ね。思ったより単純な魔術理論で編まれていたし、ちょっと調べただけで解ったわ。慎二が、令呪によって一時的にライダーのマスター権を委譲された、仮のマスターだって事が、ね」
「そんな、すぐ解るもんなのかよ。他人の家の理論だろ?」
「遠坂の名と、その歴史は伊達じゃないのよ。それで?」

士郎の追及を捻じ伏せ、凛はライダーへ視線をぶつける。
その瞳には、海面に映る月のような、ひどく不安定な光が宿っている。
僅かに逡巡するような間の後に、ライダーの口が動いた。

「……貴女の想像の通りの人物です」
「……そう」

それだけを口にすると、凛は微かに顔を俯け、押し黙った。
無理もない。その言葉は、凛にとって、すべてを知っているぞと言っているに等しいものなのだから。
疑問を差し挟む余地のない凛の居住まいに、士郎は口を閉ざさざるを得なかった。

「――――さて、もう時間がありませんね……彼女の願いは、理解していますが。貴方は、よろしいのですか」

眼帯で覆われた目を真っ直ぐに、のび太へとぶつけてライダーは問う。
光への還元は、既に腰にまで及んでいる。

「……うん。僕は、リルルを信じてるから。ライダーさんは……」
「叶うのならば、これ以上の事はない。たとえ私のすべてを、貴方に捧げようとも構いません」
「それは……別にいらないけど。じゃあ、いきますよ」

言葉と同時に、のび太の手が“スペアポケット”へと伸びる。
のび太の身体を支えにしたまま、頭を垂れるライダーの姿は、裁きを受ける咎人のようであった。

「貴方も、彼女も、優しすぎます……」

そう彼女が呟いた刹那。

「――――ライダー!」

彼方から、十六ビートさながらの速さで足音が近づいてくる。
宵闇を突き抜けて響いたその声は、この場の二人の人間を動揺と驚愕の坩堝に叩き込んだ。

「……っな!? え!?」
「ちょっ……どうしてここにいるんだよ!?」

闇夜の黒に染まった瓦礫の向こうから、ひとつの影が現れるのと、ポケットから抜き出されたのび太の手が動いたのは、ほぼ同時であった。





「――――これにて、第二幕終了、と。『メドゥーサ』の魂、入りまーす。なーんつって」

倒壊を免れた、とあるオフィスビルの屋上にて。
淡い光を放つ、人形入りの水晶球をアンリ・マユは掌の上で転がしながら、破壊の跡を見下ろし、ひとり嗤う。
やがて光が収まると、アンリ・マユは掌中のそれを虚空へと高く、高く放り上げた。
球はそのまま、落ちてこない。

「……さって、今度はアイツだなあ。やれやれ、骨の折れるこって。ま、面白くなりそうだからいいけどよ。次は、『コイツ』でも使ってみるかねえ。ケケケケ……」

聞く者に、怖気と不安を振り撒くような哄笑と共に、その姿は闇に溶けるように消え失せる。
その直前、顔の前でゆらゆら揺すぶられていたのは、薬剤のような液体で満たされた丸底フラスコであった……。





――――ちなみに。





「……ねえ、ジャイアン。しずかちゃん、どうしちゃったんだろ? ちょっと怖いんだけど」
「お、おう……けど、俺にもさっぱり解んねえよ」
「急にむっとした顔したかと思うと黙りこくって、なんだか、背中から変なオーラが出てるように見えるんだ」
「まあ、それは思った」
「そしたら、『……まあ、いいわ』なんてヘンな独り言呟くし。狭いから、先にのび太の部屋に戻ってもらったけど、やっぱり気味が悪いよ」
「つってもなあ……んー、そのうち元に戻んだろ。それよりも、いいかスネ夫。本人の前でそんな態度、間違っても取るんじゃねえぞ。解ったな」
「わ、解ってるよ」
「ちょっとジャイアン、スネ夫くん! こそこそ喋ってないでちゃんとロープ掴んでてよ! “タイムマシン”、もうちょっと近づいて!」

……と、隻腕の女性の回収作業中の“タイムマシン”の上で、そんな会話が繰り広げられていたそうな。
なお、彼女が這い出た後ののび太のスチール机の引き出しには、八本の指の形がくっきり凹んで残っていたのは完全な余談である。










※ステータスに『ライダー?』の項目を追加。







[28951] 閑話2
Name: 青空の木陰◆c9254621 ID:90f856d7
Date: 2013/06/08 00:15





「……ふむ。終わったか」

月光に照らされた新都の巨大な公園。
あの巨人の大破壊の現場からは離れているとはいえ、同じ地区内にあってまったく影響を受けない訳ではない。
十年前の大火災の跡地に敷設されたそこは、その背景の薄気味悪さもあってか、昼でも人の気配は少ない。
夜ともなれば、なおの事。芝や並木の緑に溢れながらも、内実は無人の荒野と遜色のない有り様であった。
先程まで続いていた空襲さながらの轟音と閃光も収まり、既に元の静寂を取り戻している。

「まさか雑種どもの悲願を叶えたのが聖杯ではなく、宝具や魔具ですらない単なる鉄屑とはな……ふん、まさしく狂った宴よ。だが、面白い。ああ、まったくもって面白い」

その中央に一人、月を見上げて佇む男がくつくつと、心底滑稽だと言わんばかりに低く笑い声を上げていた。
溢れる黄金を、そのまま移植しているかと見間違うほどに眩しい黄金の髪と、血染めの真珠を思わせる紅の瞳が、宵闇に妖しく輝いている。

「此度の道化どもは、成る程。なかなかに我(オレ)を愉しませてくれる……セイバーが再び現れたゆえ、出るのも吝かでないと思ったが、これはこれで悪くない」

痩身に纏う、黒の詰襟のような衣装を靡かせる様は、夜光に照らされ、驚くほどに映えていた。
常の人間とは、存在感がまるで違う。彼に比べれば、スターダムの上の人すら有象無象に成り下がるだろう。

「だが……」

きゅっ、と男の目が細く窄められる。
見た目が美の粋を結集して作られたような優男であるだけに、それだけで迫力が跳ね上がる。

「――――貴様のような痴れ者には、面白みなど欠片も感じん!」

パチン、と指を鳴らす音が、闇を叩く。
途端、どこからか高速で飛来してきた『何か』が、公園脇の茂みへと飛び込んだ。
破裂するような爆音と共に、赤々とした炎が噴き上がり、街灯よりも明るく公園を照らし出す。

「――――ケケ、流っ石『英雄王』サマ。何でもお見通しのようで」

その爆心地から影のように這い出てきたのは、全身に幾何学模様の刺青を施した青年。
復讐騎のイレギュラー・サーヴァント、アヴェンジャーことアンリ・マユであった。
三下の薄っぺらな慇懃さを漂わせるその口調は、英雄王と呼ばれた男の眉根をさらに凄絶に歪ませた。

「ならばさっさと去ね! 我を王と知っているのなら、疾く自害するが礼儀であろうが!」

傲慢極まる怒声と共に、再びどこからか放たれた『何か』が唸りを上げてアンリ・マユへと迫る。

「おおっと」

しかし、アンリ・マユはその場から一歩退き、隕石さながらに地面に突き刺さる、都合ふたつの『何か』をあっさりと躱した。
爆発こそなかったものの、芝生の地面が稲妻状に地割れを起こしている。
その軽妙かつ、すべてを見切っていた動きに、男は先程とは別の意味で眉を顰めた。

「『ハルペー』に『ダインスレフ』か……はっ、なんつー極悪なモンを」

ヒュウッ、と口笛混じりに、アンリ・マユが飛来物の正体を正確に言い当てる。
ゴルゴンの怪物と化した『メドゥーサ』の首を断った、不死殺しの鎌『ハルペー』。
所有者を破滅に追いやるとされる、曰くつきの魔剣『ダインスレフ』。
いずれ劣らぬ、伝説の宝具だ。偽物などではないという事は、それぞれの刀身から滲み出る、這いずるような禍々しさが証明している。
それらをまるでピストル代わりに、どこからともなく撃ち出してくる。魔道に精通する者から見れば、異常としか言いようがない光景である。
サーヴァントである、とまでは解るだろう。男から放たれる雰囲気は、人間とするには一線を画し“すぎて”いるのだから。
しかし、サーヴァントだとするにしても、やはりおかしな話となる。
男の攻撃手段から察すれば、アーチャー以外に該当する物はない。
ところが、既にアーチャーのサーヴァントは、遠坂凛の相棒として存在しているのだ。
しかも、出で立ちが似ても似つかない。ここにいるのは白髪の浅黒い偉丈夫ではなく、金髪のすらりとした白人である。
DNAの書き換えを行った訳でなし、はたまたそう見せる魔術を身に纏っている訳でもない。まったくもって理屈の通らない状況が展開されていた。

「……貴様、ただの鼠ではないようだな」
「お互い様だろ、『英雄王サマ』――――いや、“第四次聖杯戦争の”アーチャーのサーヴァント……『ギルガメッシュ』」

それがすべての答えであった。
英雄王……真名を『ギルガメッシュ』というその男は、これより十年前の第四次聖杯戦争にて召喚されたサーヴァントなのだ。
本来なら、サーヴァントは聖杯戦争が終了すると問答無用で消滅する。しかし、それは英霊維持のバックアップたる聖杯が御破算になる事により、現世に繋ぎ止めるだけの魔力が確保出来なくなるという側面が大きいからだ。
逆に言えば、そこさえクリアする事が可能ならば、聖杯戦争が終了してもサーヴァントは現界し続けられる。
ギルガメッシュは、その例外を以て十年、この世に現存し続けていた。
そして『ギルガメッシュ』とは、古代メソポタミアの都ウルクの王にして、英雄譚『ギルガメシュ叙事詩』に記された英雄。
かつて、この世のすべてを手中に収めたと言われる、文字通りの『世界最古の英雄王』である。
“すべて”と言うからには、その『王の財宝』の中には、古今東西の宝具……あるいはその原型……も、当然収められているのが道理というものだ。
先程の魔剣の流星は、単にギルガメッシュが己の所持する『宝物庫』から、適当に撃ち出した物にすぎない。
ちなみに、最初に撃ち出されて茂みを炎上せしめたのは、アーサー王伝説に名高い湖の騎士、『サー・ランスロット』の持つ聖剣『アロンダイト』、その原型である。

「ほう、そこまで知っているか……よかろう、刹那の発言を許す」
「そりゃどーも。まあ、なーんでも知ってるぜ。テメェとオレとは、ある意味繋がってるようなモンだからよ」
「……なに?」

ギルガメッシュの片眉が跳ね上がる。
しかし、何かに思い至ったか、頭上に浮かんだクエスチョンは、すぐさまエクスクラメーションへと形を変えた。

「この匂い……ふん。貴様、あの時の“泥”か」
「厳密にゃあ、ちいっとばかし違うがな。まあ、おおむね正解だ。しっかし、汚泥と化した『聖杯の中身』をしこたま浴びてんのに、姿を変えてたとはいえ、変質もせずに十年そのままとは、いやはや。いろんな意味で恐れ入るね」
「たわけが。我を染めたければ、この三倍は持ってこいというのだ。だが、喜べ。あれには感謝もしているぞ。悉く飲み干したがゆえ、この世に受肉を果たせたのだからな。おかげで、存在を留め置く面倒な手間が幾分か省けた」
「ケケ、そう『安っすい挑発にゃあ、乗ってくれねえ』か。流石は大物。貫録だねえ」

うっすらと相好を崩すギルガメッシュだが、その瞳の奥にある痛烈な感情は色褪せていない。
稀代の暴君をも一瞬で凍りつかせるような、炯々とした輝きが示すものはただひとつ。
眼前の塵芥にも等しいモノへの殺意、それだけである。

「さて……慈悲はここまでだ」

すうっ、とギルガメッシュの笑みが消え、底冷えするような気配を漂わせると、徐に右手を掲げ、指を鳴らす。
すると、王の背後の空間が波紋のように波を打ち、そこから幾つもの異様な雰囲気を醸し出す武具の突端が現れた。
二、三本などとしみったれた数ではない。
剣、槍、斧、鎌、刀、薙刀、鎚、棍、その他あらゆる凶器群がそれこそ二桁のダース単位。
数えるのもバカらしいほどの量が宙に待機し、所有者の下知を今か今かと、手ぐすね引いて控えていた。

「ウホッ、いい獲物! 『デュランダル』に『ヴァジュラ』に『グングニル』、『カラドボルグ』に『ブリューナグ』! 全部モノホンの一級品じゃねえかよ!」
「口を閉じよ、泥人形。その物言い、不愉快だ」
「ケケ、泥人形たぁ、言ってくれるじゃないの。それじゃ、とことん喜ばせてやるとしますか」
「ほう、貴様の死を以て、か。解っているではないか」
「……おいおい、ノリってのが解ってねえよ王サマ」

やれやれとばかりに肩を竦めると、アンリ・マユはその場で腕を組み、仁王立ちするように胸を逸らした。
片方の唇を跳ね上げ、犬歯を見せて眼前の王に劣らぬ傲然とした様相は、宝具のガトリングを前にしてあまりに堂々としすぎている。
紅の腰巻と鉢巻とが風に靡き、普段なら雑魚の虚勢にしか見えないはずのそれが、やけに様になっていた。
それは、明らかな無言の挑発行為。絶対なる強者であるはずの英雄王の心に、さらなる苛立ちを募らせた。

「どこまでも不敬な輩だ。泥人形風情には過ぎたものだが、我の財で死ねる僥倖を、光栄に思って逝くがよい!」

親指と中指が重ねあわされた右手を掲げるギルガメッシュ。
ガトリングの撃鉄が引かれ、発射まで秒読み態勢へと移行しているにも拘らず、アンリ・マユの不遜な薄ら嗤いは微塵も揺るがない。

「一発二発ならともかく、流石にこれだけの数はなあ。『間違いなく当たるし、オレの身体はずたずたになる』わな」

どこか、何かを期待するような声音で呟いたアンリ・マユに、ギルガメッシュは少々不可解なものを感じたが、その手の動きを止める事はなかった。
パキン、と弾かれる指。
比喩でもなんでもない剣林弾雨が、敵を屠らんと一斉に解き放たれる。
その速度は、機関砲の射出速度をも凌駕する。まさに目にも止まらぬほどだ。

「……はっ」

影が凶器の嵐に飲み込まれ、一瞬後に巻き起こる、宵闇を焦がすほどの大爆発が大気を揺るがす。
初弾のものなどとは比べ物にならない。数十を超える宝具の威力は、大型掘削マシンを用いてやっとの岩盤すら容易くめくり上げられる。
本来なら、公園を焦土と化してなお余りある火力は、人間大の目標に一点集中していたため、公園の一角に被害を齎すに留まった。
夥しい量の砂塵と熱風が爆心地から放射状に拡散し、芝生を舐めつくす勢いで広がっていく。
当然、射手たるギルガメッシュにも及ぶが、砂塵はまるで王を憚る臣民のように周囲に退き、散らされた。

「……ぬ?」

土の煙幕に視界を覆われながら、ギルガメッシュは怪訝な表情を浮かべる。
詳細は、土煙の向こう側が見えない以上判然としない。しかし、明らかに手応えに違和感があった。
たとえるなら、雲を掴むような、実体のぼやけた感触。
確かに掴んだはずなのに、手を開いてみればそこには何もない。

「――――なに!?」

それが獲物を仕留め損ねたゆえであると悟ったのは、煙が晴れた直後であった。

「……おいおい、王サマ。あんだけ撃って一個も当たってねえってのは、もしかしてギャグかなんかか?」

地面に突き立つ、数十の剣群で構築された檻。
その渦中において最初の場所から一歩も動かずに腕組みの姿勢を堅持するアンリ・マユの姿が、ギルガメッシュの視界に飛び込んでくる。
芝生が無残にも洗いざらい消し飛ばされ、まるで不毛の月面のような惨状であるにも拘らず、表情は相変わらずの不遜な薄ら嗤い。
剣が突き刺さるどころか傷ひとつ負っていない、五体満足の身体を見せつけるように、張っていた胸をさらにぐいと張った。

「貴様、なにをした!?」
「あん?」
「あれはすべて直撃の軌道であったはずだ!」
「知らねえよ。この通り、オレはここから一歩も動いてねえし、手だって組んだままだ。大方テメェがしくったんだろ? いい加減、その慢心しきりのクセ直せや」
「ふん、慢心せずしてなにが王か! よかろう、種がなんであろうが、楽には死なさん!」

もう一度、ギルガメッシュが指を弾く。
アンリ・マユの周囲に突き立っていた凶器が消え、ギルガメッシュの背後に再度武器群がスタンバイしていた。
今度の数は、概算で先程の二倍の量である。

「ありゃりゃりゃ。こんだけ持ってくりゃ流石に『全弾喰らってボロ雑巾になっちまう』わな。怖ぇ怖ぇ」
「戯れるな、消え失せよ!」

再び、公園内に木霊する破壊音。
地震と遜色ない大地の鳴動がびりびりと公園の木々や街灯を揺るがし、ミサイルの爆撃もかくやとばかりの炎の火柱が立ち上る。
轟々と闇夜を真昼の如く染め上げ、先程よりも盛大に舞い上がった土と煤が、銃火飛び交う凄惨な戦場の臭いを醸し出す。
これだけの物量とエネルギーを喰らっては、塵も残らぬはずである。
ギルガメッシュの表情には、漲る自信と共にそうありありと書かれている。
確かに、それは間違いではない。たとえセイバーでも、あるいはバーサーカーでも、あれだけの剣弾の雨を浴びればハリネズミと化して地に伏せるだろう。
そう……“尋常な”、敵対者であったのなら。

「……あーあ、とんでもねえノーコン野郎だこと」

そこにいるのは、ヒトの姿を被った尋常ならざる『怪物』。常の手段で葬り去るのは困難を極める。
爆炎のヴェールの向こうから混じり気のない、嘲り嗤いが低く、地の底から湧き立つように響いてくる。
風によって取り払われる、赤と黒の幕。
武器の数だけが増えた先程の焼き直しの光景が目に飛び込んできた時、ギルガメッシュの形相が凶悪に歪んだ。

「おのれ……生きているか!」
「すべてはテメェの能のなさゆえに、だな。ったく、こんだけ豪華なブツを惜しげもなく使っといて、まさか一本も当てらんねえなんてな」

たっぷりと皮肉を含んだ嗤い顔を見せると、アンリ・マユは組んでいた腕を解き、無造作にギルガメッシュの財宝を地面から一本、引っこ抜いた。
透き通るような白磁の刃が眩いそれは、『グラム』。
セイバーの宝具『エクスカリバー』の原形となった魔剣であり、『エクスカリバー』と同等か、それよりも高い位階に位置する宝具である。
当然、その行為はギルガメッシュの脆い逆鱗に触れた。

「薄汚い手で、我の財に触れるでないわ!」
「落ちてたモン拾っただけじゃねえかよ。つーか、いらねーし」

呆れ混じりの表情のまま、アンリ・マユは後ろにぽい、と『グラム』を放り捨てる。
丁重さの欠片もない、まるっきりガラクタをポイ捨てするような気安さであった。

「な!? 我の財宝に価値がないと言うか!」
「んなこた言ってないでしょ。『オレにテメェの宝具は使えねぇ』んだし、単に使えないモン持ってたってしょーがねえってだけ。どうせテメェもコイツ、まともに使えねえんだろ? 所有者ではあっても、使用者じゃねえみてえだからな。まさしく『宝の持ち腐れ』ってヤツ? ただぶん投げるだけって、芸がなさすぎだろ」
「貴様ぁああ……!!」

煮え滾るタールのような憤怒が、ギルガメッシュの身を焦がす。
ここまで虚仮にされた経験など、この男の来歴のどこをひっくり返しても見当たらない。

「そんなんだから、ちょっと目を離した隙に、不死の薬を蛇に持ってかれちまうんだよ。暢気に水浴びなんかしてねえで、手に入れたその場で即飲みゃあ、なんも問題なかったろうによぉ。ああ、ヘビにくれてやった、なんて言い訳なんざ通用しねえよ。慢心王のおバカさん」
「ぎっ――――!」

それはギルガメッシュの生前における、唯一にも等しい失点。
この言葉をとどめとして、ギルガメッシュの理性を完全に焼き切った。

「殺す!!」

歯を剥き出しにしてどす黒い殺意を振り撒くギルガメッシュは、肩越しに背後の空間へと素早く手を入れ、中から一本の奇妙な剣を引き抜く。

「起きろ、『エア』!!」

西洋剣(サーベル)の柄に、床屋の螺旋看板を三機連結させたような剣とも呼べない異形の代物。
そもそも武器ではあり得ない形状にも拘らず、その刀身から放たれる威圧感は、先程の『グラム』と遜色ないどころか、比べ物にすらならない。
それも当然だ。この宝具は、ランクにしてEX。幻想のどこにも記されていない、秘中の秘にして世界を切り裂く剣なのだ。
この唯一無二の対界宝具の前では、あらゆる宝具も霞んでしまう。

「わお! ここで隠し玉かい、ケケケ」
「塵ひとつ残さず、消滅させてやる……!!」

宣言と共に、刀身の三つのパーツがそれぞれけたたましく回転を始め、禍々しい、血のような紅いエネルギーが剣を取り巻いていく。
解放の準備段階にして、既に桁外れた影響力を齎して外界を侵食している。
みしみしと周りの空間が軋みを上げ、大気が轟々と余波に煽られ捩れる。
その威容は、あらゆるものを引き千切り、荒々しく鳴動し猛る天地そのものにさえ見えた。

「ホントに使えんのかよ、それ? 受肉したっつっても、肉体はそのままサーヴァントのモンだから、魔力生産量はたかが知れてるだろ。今の段階で相当魔力持ってかれてんじゃないの?」
「その減らず口を閉じよ! 不快にすぎる!」
「いやいや、実力じゃあ手も足も出ねえんだから、せめて口くらい出してもいいじゃない。王サマのクセして器小っせーの」
「口を閉じよと言っている!」
「へいへい。ま、頭の血管と一緒に『魔力供給のラインも切れねえ』ようにな」

憤怒を煽る嘲り文句を叩きつけられ、ギルガメッシュの殺意はさらに激しく燃え上がる。
しかし、その次の瞬間に起こった現象によって、その炎はあっさりと掻き消される事となった。

「……ぬ? っな、なに、これは!?」

突如、身体に走った違和感に、ギルガメッシュの身体が止まり、次いで表情が驚愕に彩られる。
寒さで電線が断線するような、不可思議な喪失感と共に、ラインの向こう側からの魔力供給が止まったのだ。
『エア』と呼ばれたギルガメッシュの剣は、尻すぼみに回転を止め、エネルギーもそのまま霧散して完全に機能を停止してしまった。
呆然となるギルガメッシュ。振り上げていた剣を降ろし、ぼんやりと刀身を眺める間の抜けた姿は、アンリ・マユの嗤いの琴線を大いにくすぐった。

「あれ、不発? 魔力の使いすぎでブレーカーでも落ちた? うわ、だっせ! ケケケケ!」

どれほど強力な宝具であろうと、燃料である魔力が確保出来なければただの上等な武器である。
特に、真名を解放する事で瞬間的に力を発揮するタイプの宝具に、それは当てはまる。
セイバーの『エクスカリバー』や、ランサーの『ゲイ・ボルク』に代表される宝具は、膨大な魔力をくべてその真なる力を発揮する。
そして、ギルガメッシュが振るおうとしていた剣は、まさにこのタイプであった。
常時解放型……バーサーカーの『十二の試練(ゴッド・ハンド)』やキャスターの『ルールブレイカー』のような、武器や概念そのものに効果があり、真名解放を特に必要としない宝具であったならさしたる問題ではないが、この場合は死活問題だ。
ギルガメッシュはアーチャーのサーヴァント。クラス固有のスキルとして『単独行動』を、それもA+ランクで保有しており、マスターからのバックアップなしでも一応は活動が可能である。
しかし、奥の手である異形の剣は、ライン向こうからの魔力供給なしでは解放出来ないほどに魔力を喰う。
自前の魔力だけでは、到底追いつかないのだ。

「ぐ……ぬ……っ!!」

ここまで来れば、ギルガメッシュが察せぬはずがない。
一発も当たらず、掠り傷すら負わせられなかった剣群に、突然切れた魔力供給ライン。
そのすべてのきっかけが、アンリ・マユの発した言葉にあると。
王の頭脳は怒りに沸騰しながらも、現状で最も可能性の高い答えを導き出した。

「――――『言霊』か!」

回答を聞いたアンリ・マユの唇が、一際大きく吊り上った。
言葉に万物に干渉する力を乗せる『言霊』。
誰にでも扱えるシロモノではない高等術だが、本来であればギルガメッシュにそれは通用しない。
王に命令出来る者は王自身のみだ。天にも地にも王はただ一人、至高にして孤高の存在であるゆえに、誰の指図も受け付けない。
その法則を捻じ曲げ、声ひとつで英雄の王を手玉に取るアンリ・マユとは何者なのか。
泥を睨み据えるギルガメッシュの心底に、ひたひたと底なしの闇に浸かるような薄気味悪さが這い寄ってきていた。



「“王を倒すにゃ武器などいらぬ、口先ひとつもあればいい”……なんてな。オレの『嘘八百』は、絶対なる王サマすらも跪かせるのさ」



炯々と黒い炎を瞳の奥で揺らめかせながら、アンリ・マユは事もなげに語ってみせる。
再びギルガメッシュの激情が発しかけたが、それよりも一歩先んじて、アンリ・マユの口が動いた。

「『王は決して膝を屈しない』」

途端、ギルガメッシュの膝が意思に反してがくりと地に着いた。
ギルガメッシュの目が驚愕に見開かれるが、動揺を露わにする暇もなく、次の言葉が発される。

「『王は決して頭を垂れない』」

地面に両手をつき、土下座の前段階のような姿勢となる。
ぎりぎりと下がっていく視点に、ギルガメッシュは必死に抗おうとするも、まったく効果がない。
それも当然だ。頭を下げさせられているのではなく、自発的に下げようとしているのである。
自らの意思に反して、自ら進んで頭を垂れる。矛盾した行為は、アンリ・マユの意図の通りにギルガメッシュを誘導し、宣言通りに王を地べたに跪かせた。

「な?」
「ぎ……ぐ、ど、泥人形がぁ……!」
「うるせえよ、ちっと黙ってな。『王は決して口を閉ざさない』」

今度は、口元が真一文字に引き締められ、咽喉が貼り付いて声が出せなくなった。
抗う術をどんどん削り取られていくギルガメッシュ。しかし、目だけは依然としてぎらぎらと剥き出しの殺意を放っている。
百回殺しても飽き足らないほどの屈辱を味わわされ、もはや本人にも制御は不可能だ。
タガの外れたギルガメッシュの灼熱の激情は、矛先とされたアンリ・マユにとってはむしろ心地のよいものでしかない。
地に伏すギルガメッシュの頭を、遠慮も容赦もなく足で踏みつけ、愉悦そのものといった仄暗い嗤いを顔に浮かべている。

「ねー、今どんな気持ち? 泥人形に足蹴にされてどんな気持ち? 最っ高だろ、なあ?」

ぐりぐりと足を動かし、王の顔面を地面に押し付ける。
嗜虐心たっぷりの物言いの中には、慈悲や憐れみなど欠片もない。
心底から、強者をなすがままに甚振る快感を感じている。

「――――――――ッ!!」

それが、ギルガメッシュの頭を真っ白に焼き、その王たる所以を引きずり出した。

「……あ?」

突如、ぶるぶると震えだした足元にアンリ・マユは訝しげな表情となり、足をさっと引っ込める。
次の瞬間、『嘘八百の言霊』による束縛を振り切って、ギルガメッシュが立ち上がった。

「――――ぃぎ……ぎ、ィいいイイイいい……っがぁあああああっ!!」

ごきゅり、と顎関節が砕けたような異音と共に、ギルガメッシュの口から狂獣すら怯ませるような咆哮が発される。
憤怒に塗れ、狂気爆ぜる双眸は、白目までもが血の赤よりも濃い真紅に染まり、溢れ出す覇気が周囲の空気を歪ませていた。
折れたはずの顎の骨は、感情の爆発で生産された内在魔力ですぐさま修復され、端正な面立ちにいささかの瑕疵もなかった。

「おいおい、マジかよ。コイツ、自分で呪縛を跳ね除けやがった」
「侮るなよ泥人形……! 我を縛れるのは、王たる我のみと知れ!!」
「……やれやれ。どこまでも我の強い王サマだこと。色々と振り切れてんな」

鎖が切れたにも拘らず、アンリ・マユは飄々としたままだ。
油断の体ではない。まだまだどうにでもなると言わんばかりの余裕を、表情に浮かべている。
それが、荒れ放題ささくれ放題のギルガメッシュの神経を、尚更に逆撫でする事となった。

「王を足蹴にしたその罪、貴様の命で贖え!」

憎々しげに吐き捨てるや、ギルガメッシュは背後に手を翳し、己の財宝を取り出そうと構える。
『王の財宝(ゲート・オブ・バビロン)』。バビロンの宝物庫へと続く回廊の鍵こそが、ギルガメッシュの宝具の正体なのだ。
使用者として振るえるのは、この蔵そのものと例の対界宝具の剣のみである。それ以外の宝具は、単なる王の所有物でしかなく、真名解放も出来ない。
しかし、所有物だとしてもただ手に持ち、振るう分にはなんの問題もないのだ。その上、回廊を開くだけなら魔力供給を断たれた今でも自前の魔力だけでなんとでもなるし、常時解放型の宝具を使えば破壊力の問題も解決する。
切り札を使えなくとも、勝算はまだ十分に残されている。熱しながらも冷徹なギルガメッシュの思考は、そんな答えを導き出していた。

「……ケケケ」

そして、すべてを見透かしていたアンリ・マユは腹の底に隠す事もなく、嗤っていた。
そんな、見当違いの答えを。



「――――天の鎖よ!」



したり顔で、アンリ・マユが虚空へ声を張り上げる。
するとじゃり、じゃりという鎖の鳴る音がどこからともなく響き渡り、ギルガメッシュの四肢を絡め取って縛り上げ、拘束した。

「な……にぃ!?」

目の前の事態に、ギルガメッシュはあり得ないとばかりに目を見開く。
空間を突き破って己を束縛する鎖は、『王の財宝(ゲート・オブ・バビロン)』の中にしまわれた概念のひとつだった。
しかも、ただの概念ではない。ギルガメッシュが、あの異形の剣を除いて並々ならぬ思い入れを持つ、ただひとつの物なのだ。

「まさか、我の宝具を……『天の鎖(エルキドゥ)』を、我が友を!」
「バカだねー、王サマ。『言霊』だって見抜いたんなら、テメェの宝具パチられる可能性も考えとかないとな。ご丁寧に、わざわざ伏線張ってやったっつうのに」

ギルガメッシュが唯一認めた友の名にあやかった、『天の鎖(エルキドゥ)』と呼ばれるその宝具は、神を拘束する力を秘めた対神兵装なのである。
伝説では、暴れる神の牡牛を縛り、押し留めたとされる。その所以から、神に連なる者に対して絶対なる拘束力を発揮する。
逆に神性とは無縁の、ただの人間などが対象だと、単なる頑丈な鎖に成り下がってしまうのだが、ギルガメッシュに関して言えば、それは当てはまらない。
なにしろ『ギルガメッシュ』は、実に存在の三分の二が神であるという、この聖杯戦争に集った英霊の中で最大の神霊適性を持つのである。
スキルランクで換算すればA+相当であり、これは光神ルーの血を引いた半神半人の『クー・フーリン』のBランク、主神ゼウスの子であり死後に神として祭られた『ヘラクレス』のAランクをも上回る。
ただし、この『神性』スキルは本人の意識や条件によって変動する要素があり、たとえばギリシャ神話で女神として扱われていた『メドゥーサ』は、最終的に怪物へと堕とされたため、名残としての『神性』スキルはあるものの、そのランクはE-である。
ギルガメッシュの場合、本人が神を嫌っているためにBランクまでダウンしている。しかし、それでも『メドゥーサ』ほどに劣化している訳でもなく、神に近い存在であるというのは変わらないので、効果は容赦なく牙を剥く。
凄まじい力で四肢を締め上げる『天の鎖(エルキドゥ)』に、ギルガメッシュの表情は、怒りと悲しみがない交ぜになった、悲壮さに歪んだものとなっていた。
ちなみに、アンリ・マユにも本来であれば神霊適性があるのだが、とある理由から神として存在している訳ではないので『神性』スキルを保持してはいない。

「さて、掌返したオトモダチに縛り上げられてる気分はどうよ?」
「おのれぇ、我が財だけでは飽き足らず、朋友までをも穢すとは……!」
「……って、自分で言っといてなんだが、結局これってたかが鎖だろ。そこまで鎖に入れ込めるって、もはや性癖通り越してるぜ?」
「貴様ァ!」

どれだけ激情に身を焦がして暴れようが、鎖の戒めは微塵も揺らぐ事なく、むしろ猛る獣を抑え込もうと拘束を強めてくる。
しかし、ギルガメッシュは鎖を引き千切る事は出来ないのだ。物理的にもだが、心情的にもである。
当然だろう、『天の鎖(エルキドゥ)』に対するギルガメッシュの思い入れは生半可なものではない。
この鎖を引き千切るという事は、友の身体を自ら引き千切るに等しい行為だ。
傲岸不遜を地で行くだけに、大切なものを壊す事には躊躇いを覚える。

「ま、そしてオレはその隙につけ込むだけなんだけどな。ケケケケケ」

嗜虐心溢れる嗤い声を上げ、アンリ・マユは徐に右手を振り上げる。
その手には、一振りの獲物がしかと握り締められていた。

「な、んだと……!?」
「起きろ、『エア』!!」

ぎゃりぎゃりと音を立てて、刀身部の三連環が高速で回転を始める。
紅く、禍々しいエネルギーが螺旋を描いて集束し、大気を撹拌して荒れ狂う。
怒涛のような威圧感が吹き付ける中、ギルガメッシュの表情が徐々に変化を帯びてきた。
そこに浮かんだ感情は……本人は決して認めないであろうが……恐怖、そして絶望であった。

「なんだよ、そんなに意外か? オレが繋がってる先がなんなのか、もう解ってんだろ? この程度の魔力なんて、ゴミみたいなもんだ」

そのゴミみたいな魔力を糧に、剣は凶悪なその牙を元の所有者に突き立てようとしている。
ジェットエンジンさながらに唸りを上げ、満ち満ちる、すべてを無に帰そうとも思わせんばかりのエネルギーの奔流。

「さぁて、『心おきなく、あの世に行ってきな』!」

特性から『乖離剣』の異名を持ち、セイバーの『エクスカリバー』をも上回る最古の英雄の切り札が、ここに解放された。

「――――『天地乖離す開闢の星(エヌマ・エリシュ)』!!」

それでも臆さず、決して退かないのが王たる所以か。
気丈にも、最後まで仇敵を睨みつけたまま、ギルガメッシュは破滅の閃光の彼方に飲み込まれていった。





「……やれやれ、呆れた頑丈さだぜ、おい。あの金ぴか鎧も付けてねえってのによ」

地面ごと根こそぎ抉られた、芝生特有の青々しい臭気が立ち込める中、アンリ・マユは大地に転がるそれに、容赦のない蹴りを入れた。
ごろりと仰向けにひっくり返されたのは、満身創痍で意識の途切れた英雄王である。
死んではいない。身体のあらゆる箇所に無視出来ない傷を負い、服も火炎放射器かウォーターカッターで万遍なく撫でられたように無残な有様となっていたが、死んではいなかった。
『嘘八百』の力で死ぬ事はなかったとはいえ、『天地乖離す開闢の星(エヌマ・エリシュ)』の範囲を絞った集束解放をまともに喰らってこの程度で済んでいる。
本来なら、上半身と下半身が泣き別れになっていてもおかしくはなかったのだ。サーヴァントなら、そこまでいっても辛うじて生きてはいられる。再生に必要な魔力次第の面もあるが、ギルガメッシュの魔力量は受肉している分、命を永らえるだけのものは確保可能だ。

「ま、余計な手間が増えない分、これはこれで都合がいいか」

ざんばらの髪を片手でがしがし掻き毟り、アンリ・マユはそのままどっかとギルガメッシュの身体に腰を下ろした。
肉の座布団が、目を覚ます気配はない。

「“アーチャー”の分は、こいつでいいか。二体いるってのは、ある意味好都合っちゃ好都合かね? ケケ、粋だねえ、オレも」

腰巻から黒染めのポケットを取り出し、その中から目的の物を取り出す。
それは、盗聴用の器材にも見える、角砂糖ほどの大きさの小さな端末であった。

「とりあえず、ちゃっちゃと『首輪』を付けますかね。起きねえうちに」

アンリ・マユにとって、ギルガメッシュとは核弾頭を積んだ暴走列車のようなものだ。
放っておけば、定めていた既定路線をあっさりとコースアウトしてくれ、そして勝手にどこかへと突っ走って行ってしまう。
しかも、行った先での事故は確定である。敵サーヴァント相手に財宝を惜しげもなくばら撒き、傲岸不遜のままに殲滅に掛かるだろう。
アンリ・マユ自身の目的達成のために、そうなる前にギルガメッシュには早めに首輪を付けておく必要があった。
そろそろ表に出てこようとしていた矢先のようだったので、ぎりぎり間に合ったといったところだろう。
舞台の上の役者には、きっちりと台本に従ってもらわなくてはならない。
多少のアドリブには目を瞑るが、脚本の書き換えまでは許さない。アンリ・マユにとっては、英雄王も、結局はクセのある役者のひとりという、その程度の存在でしかなかった。

「うし、これでおっけ」

肉座布団に座ったまま、アンリ・マユは、ギルガメッシュの首の後ろにその端末を押し付ける。
くっついた端末は、そのまま溶けるように体の内に潜り込んでいった。

「これでテメェは傀儡の王ってワケだ。ケケケ、しばらく余計なマネはしてくれんなよ」

意識途絶では、この痛烈な侮辱に反応すべくもない。
ぺしぺしと傀儡の頬を叩きながら、愉悦混じりに呟いたその時。



「――――あ?」



突如、アンリ・マユの表情に、不快の色が浮かんだ。
次いで走る、肌が粟立つような、脳を直接舐められるような、ざらついた感触が、アンリ・マユの心底を引っ掻いていく。
景色を暗褐色に染める宵闇がさらなる黒に染められていき、ややもして墨を霧状にしたような濃霧が、公園全体を侵食し始めた。

「……ちっ、とうとう出てきやがったか。サイクルが短くなってると思ったら、もう抑え込む限界を超えてるとはな。“超自我”の調整も、そろそろリミットが近いか」

ぼこ、ぼこ、と芝生の地面が煮立ったタールのように泡立っている。
地面がそのように変質しているのではなく、公園を取り巻く濃霧が奇妙な反応を起こしているのだ。
常人であれば、とうに卒倒しているような瘴気までもが漂い出す中、その泡から、異形の者が這いずり出してきた。

「――――ヴゥヴヴヴヴ……!!」

一言で言い表すなら、人型に近い犬か狼、あるいは人狼と呼んだ方が妥当であろうか。
陽炎のように、ゆらゆらと黒く揺らめく身体は、見る者の背筋を凍らせる禍々しさを帯びており、狂犬じみた低い唸り声が敵意を撒き散らしている。
爛々と輝く瞳孔と鋭い鉤爪は、憎悪と殺意に塗れ、まるで呪詛を固めて造った怨念の人形のようであった。

「……グゥヴヴヴヴ!」
「ギィイイイイ……!」

それは一体ではない。
続々と、雨後の筍のように次から次へと湧いて出てくる。
悪魔の召喚にも近い光景は、やがて公園全体を埋め尽くし、夥しい数の異形の群れが、アンリ・マユをぐるりと取り囲んでいた。

「根が同質なだけに、キツいな。コイツらに『言霊』は直接通用しねえし、オマケにこの数だ……とはいえ、色に盛った思春期のガキじゃねえんだし、“自我”が“Es(エス)”を抑えきれねえってのは、話にならねえやな。まあ、向こうは赤ん坊だがよ」

ギルガメッシュから腰を上げたアンリ・マユの両の手には、いつの間にか奇妙な獲物が握られていた。
表現するなら、歪な赤いヒトデに墨を落として取っ手を取り付けた短剣、といったところだろうか。
『右歯噛咬(ザリチェ)』、『左歯噛咬(タルウィ)』と呼ばれるこれらの武器は、アンリ・マユ本来の武装である。
そう、あくまで武装である。宝具ではない。宝具のひとつは、所有者の目の前で現在、暴走中である。

「『無限の残骸(アンリミテッド・レイズ・デッド)』、こうなった以上、道具もなしの正攻法以外に方法はないんだが、さてさてどんだけツブしゃ時間切れに持ち込めんだか……」

その軽口は、次に聞こえてきた咆哮に強引に掻き消された。

「■■■■■■■■■■■■■■■ーーーーー!!」

一際大きく、雲のように天を突く巨体が、地面からせり出してくる。
犬型の怪物と同じく、黒い怨念の陽炎を纏わりつかせた汚泥のようなボディからは漆黒の殺意が溢れ、強大な威圧感を伴って虚空へと気炎を上げている。
それは、大量に湧いて出た怪物とは、明らかに一線を画した存在だ。
三メートルに迫ろうかという巨体、右手に掴まれている岩を削ったような斧の剣。
なによりその瞳の輝きは、殺意や憎悪を超越した狂気の光でぎらついていた。

「――――待ておい、バーサーカーだと!? どんだけだよ“Es”は!?」

ここに来て、アンリ・マユから余裕綽々の表情が消え去り、初めて焦燥を露わにする。
アンリ・マユの戦闘能力は、実はあらゆる英霊を下回っている。あのはずれクラスとまで揶揄される、キャスターよりも弱いのだ。
だからこそ、反則道具のひみつ道具を手に入れられた事は、アンリ・マユにとって最大級の幸運だったのである。

「大聖杯に行った分の魂の欠片から再現しやがったのか……末期の方の再現だからか、命は一個しかねえみてえだが」

それだけでも十分すぎる脅威だ。こういった単純な力比べのパワーゲームは、アンリ・マユの最も苦手とするところである。
搦め手、というより裏技や反則を使っていたからこそ、英雄王をも手玉にとれたのだ。単純戦闘力の最弱と最強、ぶつかり合うまでもなく勝負展開は明白であった。
苛立ちまぎれに、いまだ地に伏すギルガメッシュにヤクザキックを入れると、奪ってそのままの『王の財宝(ゲート・オブ・バビロン)』を展開する。
『天地乖離す開闢の星(エヌマ・エリシュ)』は使わない。威力こそ絶大だが、あれには魔力のタメがいるのだ。こんな多対一の状況で使おうとすれば、チャージしている間に袋叩きである。
チャージなしに連続使用出来るよう『嘘八百』を並べ立てる手もないではなかったが、残骸がざわめくように動きを見せた事で、それは棚上げを余儀なくされた。

「ライダーの分の欠片をまだ消化しきれてないのが幸いか……くそったれが! 言葉通りの“自己矛盾”なんざ、冗談にしたってタチが悪すぎんだよ!!」

『右歯噛咬(ザリチェ)』を上段に、『左歯噛咬(タルウィ)』を下段に。
アンリ・マユが身構えたのを合図として、斧を振り上げた黒染めのバーサーカーが闇夜の空に跳躍し、残骸の人狼群が怒涛のようにアンリ・マユ目掛けて押し寄せた。





「残された時間は少ない……時計の針を、早めるしかねえか。さあ、ここからが地獄だぜ。覚悟しとけよ、クソガキ」










※ステータスに『アヴェンジャー』追加(未完成)。







[28951] 第四十一話
Name: 青空の木陰◆c9254621 ID:90f856d7
Date: 2013/07/12 21:15





『今日未明、○○県冬木市新都において、大戦中のものと思われる不発弾の相次ぐ爆発が発生し、十数棟のビルが倒壊するという――――』
『昨日午後一時ごろ、○○県の私立高校にて、大規模なガス漏れ事故が発生し、校内にいた生徒、教職員、関係者のほとんどが昏倒――――』

TVの朝のワイドショーで、キャスターがニュースを読み上げる声が耳を刺激し、彼女の脳に情報が書き込まれていく。
どんな過激な事件においても、感情の起伏を見せずに淡々と話すニュースキャスターの方が、彼女個人としては気に入っているのだが、今映っている若い女性キャスターの場合、起伏を意識した話し方をしている。
覚醒してすぐの頭には、これが催眠音波に聞こえてしまう。習慣となっている気つけがなければ、微睡みに負けて瞼は再びシャッターを下ろしているだろう。

「流石綺礼ね。でっち上げもいいところだけど、きっちり情報統制はやってるか」

黎明の光も乏しい居間のテーブルにて、そんな感想を呟いた遠坂凛は、今しがたコップに注いだ牛乳を一気に飲み干した。
衛宮邸に居住している人間の中では、凛が最も早くに目覚め、行動を開始している。いや、せざるを得なかった、と言うのが正しいだろう。
目を閉じれば、意識せずともまざまざと浮かび上がってくるのだ。
崩れ落ちるビルが、空飛ぶ鋼鉄の巨人が、降り注ぐミサイルが、無数の鋼の軍団が。
そして、ぽっかりと空いた世界の穴が。

「ふぅ……ほんと『これ、どこの世紀末?』って話よね。文字通り、世も末だわ」

眠ったのに眠れなかった。その行きつく先は『悲惨』の一言に尽きる。
いつも低血圧で、ひどい事になっている起き抜けの凛の表情は、今日に限っては一段とあんまりな事になっていた。
淡い想いなぞ抱く人間が見たなら、百年の恋もいっぺんで冷める事請け合いである。

「――――あっ」
「ん?」

ふと凛が後ろを振り返ると、居間の入り口に誰かが立っていた。
青みがかった長い髪に、アクセントのリボンがトレードマークのその見慣れた姿は、凛をして無残な表情を改めさせた。
僅かな間が、両者の間に差し挟まれる。そして、先に動いたのは凛の唇であった。

「……おはよう、桜」
「おはよう、ございます……遠坂先ぱ……姉、さん」

やや固い声で朝の挨拶を返した間桐桜は、そのまま軽く頭を下げた。

「早いわね。まだ五時半よ」
「私は、いつもこのくらいの時間には起床しています。朝食を作らなくてはいけませんから」
「士郎の? 涙ぐましいまでの努力よね」
「……藤村先生のも、です。それに、好きでやっている事ですから」

普段通りの会話であるが、どこかぎくしゃくとしている。
いつもであれば、もっとスムーズに会話がなされるのだが、今日に限っては両者共に違和感がつきまとう。
まるで、喧嘩の後に距離感を計りかねている夫婦のようである。
その大元は、桜が凛を“姉”と呼んだ事であろう。
凛からそう呼んで欲しいと桜が言われたのは、昨夜の事であり、凛と桜の因縁は、既にこの家の誰もが知るところとなっていた。
あの夜に打ち明けられた真実は、夜明けを迎えようとしている今でも、余震のように皆の心を揺さぶり続けているのであった。

「あ、そ。でも、藤村先生は入院中よ。というより、昨日休んでた人間以外の穂群原の関係者全員が入院ね。学校は当面休校。まあ、死人が出てないのと、長い人でも一週間の入院で済んだのが不幸中の幸いかな」

ちなみに大河は三日で退院予定である。
これはあの騒動で入院したどの患者よりも軽いもので、本人はベッドで寝込むどころか、搬送された二時間後に目を覚まし、検査後、近くにいた看護士に夕飯を催促した挙句、おかわりまで頼んだほどである。
入院は、あくまで経過を見るための予防措置で、それ以上のものではない。
起き抜けに、監督役からその連絡を受けた凛は、魔道の素養なしでのその強靭さに戦慄を禁じ得なかった。
『冬木の虎』の異名は伊達ではないと、本人が聞けば頭から齧り付かれそうな感想と共に。

「それはともかく、献立はどうするの?」
「あ、それは冷蔵庫を見てみない事には……なんとも。ここ数日は、来てませんでしたから」
「そう言えばそうね」

セイバーが呼び出された翌日から、桜は衛宮邸の敷居を超えていない。
よって、献立を考えるには冷蔵庫の中身を把握する必要があった。
足音低く、桜はそっと台所へ赴くと、冷蔵庫の扉を開ける。

「お豆腐に……揚げ……卵……ベーコン……うん、じゃあ、お味噌汁にベーコンエッグでいいですか?」

食材をチェックしながら、桜が凛へ献立を確認する。
作ってくれるというのなら否やはない。

「構わな「――――サクラ」い……って!?」

突如として響いてきた声に、反射的に凛は振り返った。
音もなく、気配もなく、まるでアサシンのようにいつの間にか、凛の背後にその女性は立っていた。
足元まで伸びた紫の髪は、あの夜の凄惨な状態と違って艶を取り戻し、モデルのそれよりも美しく際立っている。
白磁の肌は肌理(きめ)細かく、世の女性の羨望と嫉妬を掻きたてるほどに、生気に満ちている。
縁なし眼鏡の奥から覗くアメジストの瞳は、微かな慈しみの光を湛えて真っ直ぐに桜に向けられていた。



「あっ、ライダー。おはよう」
「おはようございます」



あの夜、消滅の運命にあったはずの騎乗兵のサーヴァントは、主に朝の挨拶を返した。

「ちょっと……音もなく後ろに立たないでくれる? 心臓止まるかと思ったじゃない」

くの一さながらなマネをされて、驚かない人間はまずいない。
思わず立ち上がってしまった凛は、相手を見下ろしざま抗議の声を上げる。

「ああ、すみません。悪戯が過ぎましたか」

そう。見下ろして、である。普通に考えれば、これは明らかにおかしい。
ライダーの身長は172cmで、凛はおろか士郎よりも高い。流石にアーチャーよりは低いものの、男性の平均身長を確実に上回っているのである。
士郎は内心、羨ましいと感じているのだが、当の本人にとっては拭い去りがたいコンプレックスでしかない。小柄な方が、女性としては可愛らしく見えるから、というのが理由だ。
彼女が生きていた神代基準の価値観と、永遠の少女であった二人の姉の事を考えれば、そういう結論に至っても不思議ではない。
価値観の多様化した現代では、決してそんな事もないのだが、それはさておく。

「貴女、もう身体はいいの?」
「はい。最初こそ戸惑いましたが、違和感は感じません。体調という意味で言えば、調子がいいくらいです」
「そう」

ではなぜ、凛はライダーを見下ろせているのか。
ライダーが膝を折り曲げている訳でも、凛が爪先立ちをしている訳でもない。
その答えは、先程ライダーが言った『戸惑い』の意味にあった。

「けど……まさかここまで小さくなっちゃうとはねえ。中学生くらい? 背丈はのび太以上、セイバー以下ってところだけど」
「頭を撫でないでください。縮んだとはいえ、子どもになった訳ではありませんので」
「そうね。そう言えば子持ちだったものね、貴女。天馬だけど」
「……それはそれで不愉快なのですが」
「脅かされたお返しよ」

そう言って、凛はライダーの頭に乗せていた手を降ろした。
滅多に感情を表に出さないライダーの唇が微かに尖っていたのに気付いたのは、横目で様子を窺っていた主である桜だけであった。

「――――でも、なんで胸だけ一切サイズダウンしてないのよ!? なによこのマスクメロンの特盛りは! 詐欺じゃないの!?」
「知りません。それと、嫉妬ほどみっともないものもありませんよ」
「嫉妬じゃないわよ! 理不尽に対する正当な憤慨よ!」

人、それを嫉妬と呼ぶのである。






結論から言えば、ライダーは生き残った。
リルルの願いを聞き届けたのび太の手によって、滅する運命から解き放たれたのだ。
しかし、代償もあった。
当然だ、サーヴァントという枠に押し込まれているとはいえ、『メドゥーサ』は神代の女神である。
奇跡には、相応の代償が必要となる。格が上になればなるほど、支払金額はかさんでいく。
支払われたのは、機械の天使の生命と『メドゥーサ』の魂の殆ど、そしてライダーという存在の“殻”そのものであった。

「まったく、のび太君の“タイムふろしき”も大概だよな。まさか、消滅寸前のライダーの時間を巻き戻して女神時代の身体に戻しちまうなんてさ」

お椀の底に沈んだ味噌を箸で撹拌しながら、士郎がなんとはなしに呟いた。
時刻は、六時半になろうかという頃。一部を除き、主だった面々は既に起床している。
居間の食卓には、桜の作った心づくしの手料理が並び、湯気とともに立ち上る芳醇な香りが、席に着く者の空の胃袋を刺激する。
寝過ごした所為で手伝いすら出来ず、家主として申し訳なさを覚える士郎であったが、戦いが始まる前も、桜は士郎が起床する前にやってきては朝食を準備するフライングを度々やっていたので、そこまで深く気に病むでもなかった。

「しかし、お陰でたとえ、聖杯戦争にピリオドが打たれようとも、私は存在していられます」

齧っていた沢庵を飲み込んで、ライダーはそう返答をした。
表情こそ素面だが、隠しきれない歓喜のオーラが滲み出ている。

「彼女と……のび太には、どれほど感謝しようと、足りるものではありません」

桜によって呼び出された『メドゥーサ』の願いは、機械の天使の奇跡によって形となった。
ライダーが滅する寸前、のび太はリルルの指示通り、“スペアポケット”から引っ張り出した“タイムふろしき”を被せた。
時間を巻き戻す事によって、消滅する前の状態に回帰させようと試みたのである。
本来であれば、決して確実とは言えない試みであろう。そもそも、時間を巻き戻す対象そのものが、サーヴァントというよく解らないシロモノなのだ。
サーヴァントは、人間のように単純な『個』ではない。複雑怪奇な魔術理論によって形成された、魔術生命体とも言えるものだ。
状態の安定した平時ならともかく、崩壊寸前の状態では、時間操作による不確定性は、高い確率で存在する。
この状態では、果たして魂なのかエーテルなのか魔力の残滓なのか、容易に判別がつかないからだ。
巻き戻した結果、得体の知れないスライムみたいなものが出てきました、という可能性もあり得る。
しかし、リルルの奇跡はその不確定性を是正し、なおかつそのさらに先にまで希望の光を降り注がせた。
彼女がのび太に与えた『天使の祝福』の効果は、サーヴァントの枠を超えて英霊を現界させる力を、のび太を介して“タイムふろしき”に齎す事であった。

「本来ならば、“タイムふろしき”といえどもこんな事は不可能なはずです」

『メドゥーサ』の願いとは、いずれ己と同じ末路を辿るであろう少女を見守り、叶うならばその破滅の結末に至る事のないように救い上げる事であった。
己の運命と近しいものがあったからこそ、『メドゥーサ』は真の主である間桐桜の召喚に応じたのだ。
その願いを知っていたリルルは、宿命を振り切って己が夢幻の命を賭し、『メドゥーサ』への一助を至上の命題としたのだった。

「え、そうは思えないけどな。あの時、“タイムふろしき”で令呪ばんばん復活補充させてたし。元からそれぐらい出来たんじゃ」
「可能性を否定はしませんが、確実とは言えません。女神としての私の復活を確実としたのは、紛れもなく彼女の力です。私は彼女の記憶を受け継いでいますので、断言出来ます」

ライダーに“タイムふろしき”を被せる際、のび太はサーヴァントとして全快する相当時間以上に長い時間、“タイムふろしき”を被せ続けた。
リルルに耳打ちされた際、そうするように指示を受けたからだ。
魂と魔力のほぼすべてが無色の力として聖杯に還元され、魂の“ガラ”にも等しかった『メドゥーサ』の残骸は、存在の時を遡った。
サーヴァントから『英霊の座』、そして『座』へと至る前への状態へと。元々、サーヴァントとして呼び出されるのは、『英霊の座』にある本体のコピーのようなものであるから、二重存在に関する矛盾は発生しない。
慎重になりすぎて、のび太が時間を巻き戻しすぎてしまったため、現在のライダーとなる前の成長途上の状態へ回帰してしまったが、ライダー個人としては背の低い今の状態がいいので問題はないらしい。
背の高さに対するコンプレックスは、よほどのものであったようだ。

「ただ、力はガタ落ちしています。全盛期以前の状態ですから。流石に戦闘力最弱のキャスターにすら劣る、とまではいきませんが」
「ま、そうだろうな。どっかの名探偵みたく、幼児化したみたいなもんだし。宝具とか、クラススキルとかも使えないのか?」
「いえ、そちらは一部を除いてなぜか保持したままです。これも祝福の効果なのでしょう。具体的には、『怪力』と『単独行動』がなくなって、クラススキルの『対魔力』がアップしています。そちらの主観で言えば、Aランクですか」
「せ、セイバー並にか」
「『神性』がE-からAとなったからかと。一応、今の私は女神ですから、神秘に対する抵抗力が上がるのも解らない話ではありません。もっとも、本来はEXでもおかしくないはずなのですが……おそらく、これは『世界』からの修正でしょう。基本能力の減退も、全盛期云々とは別個に修正が働いているものと」
「ふうん……」

矛盾を嫌うのが『世界』の習性。これは、魔道を歩む者なら駆け出しですら知る常識である。
現代には、神代の神など存在していない。それらはすべて、幻想の彼方へと追いやられている。ゆえに、現代に降臨した『メドゥーサ』の存在を、『世界』は許さない。
しかし、現実問題として『メドゥーサ』は現代に存在してしまっている。この事実を、『世界』は覆しようがない。サーヴァントに関する特殊な事情が絡むとはいえ、こうなると、鶏が先か、卵が先かという問題となってくる。
その釣り合いと、帳尻を合わせるために、『世界』は『メドゥーサ』の力を制限しにかかったのだ。『神性』が落ちれば、矛盾はある程度解消されないでもないからだ。
妥協を通り越して、あまりにも都合のよすぎる処置に見えるが、それらもすべてひっくるめての『天使の祝福』だと考えると、駆け出し以下の知識しかない士郎としても、なんとなく頷ける話ではあった。

「総合すれば、半神半人といったところでしょうか。サーヴァントの頃の強靭さや回復力はありませんが、代わりに魔力が自活出来ますので魔力供給は必要ありません。そして……」
「そして?」
「子どもも作れます」
「ぶふっ!?」

啜っていた味噌汁を噴き出した士郎を尻目に、ライダーは澄ました顔でご飯を咀嚼していた。
今までのライダーであれば、長身の妖艶な美女であっただけにそこまで狼狽する事もなかったのだが、現在のティーンエイジ前半頃の姿になってしまったライダーでは、青い果実の犯罪臭しかしない。
しかも、幼さの滲む容貌や背格好に反して、不釣り合いなほどに各所が発達しているアンバランスボディなのだ。
着込んだ黒のセーターの前面が異様な盛り上がりを見せる反面、ウエスト部は細くくびれ、かと思えば黒のデニムに包まれた腰回りは、豊かな丸みを帯びている。
その背徳的かつ倒錯的な色香を以て迫られれば、余人はおろか、鉄壁の良識を持った士郎であっても、前傾姿勢を飛び越えて野獣と化すに違いない。

「ごほっ、けほっ!? そ、そういう冗談はっ、やめてくれ。今のライダーが言うと、ちょっと……アレだし。げほっ」
「事実を言ったまでです……しかし、これはなんとかならなかったのでしょうか」

ライダーはくい、と人差し指で魔眼殺しの眼鏡のズレを直すと、その手をそのまま胸元へと降ろし、メロンサイズのそれを持ち上げた。
彼女としては、身長と一緒にそれも収縮して欲しかったらしい。ライダーの美意識の基準は、彼女のふたりの姉、神代の美少女アイドルのような立場であったゴルゴン三姉妹の長女『ステンノ』と次女『エウリュアレ』の容貌が基となっており、小ささと可愛らしさこそが女性の美の主幹であると考えている。
縮んだ身体に付随する、豊かに実ったふたつの果実は、あまりにもミスマッチである。ライダーにとっては、画竜点睛を欠く、といったところであろう。
この背丈の頃の彼女は、まだここまで女性らしさを帯びていなかった。胸部は平野ではなかったが、せいぜい台地くらいだった。間違っても、こんな山脈級ではありえない。

「あるいは、これも『天使の祝福』の効果なのかもしれませんね」
「そ、そうなのか? というか、そんなナナメ上の奇跡ってアリなのか?」
「記憶こそ受け継いでいますが、深層心理まで完全に受け継いでいる訳ではありません。という事は、ひょっとしてコンプレックスだったのでしょうか」

成長しない機械の肉体を持つ天使である。そういう事に憧れなり劣等感なりを持っていたとしても不自然ではないのかもしれない。
一応、外見相応の肢体ではあったのだが、そこはロボットとはいえ乙女だという事なのか。

「いずれにせよ、ここまでの余計な奇跡は流石に……少々」

遠慮したいところです、というライダーの言葉は、最後まで続かなかった。
傍らから差し込まれた、地獄の釜から滲み出たような呪詛の声によって遮られたからだ。

「ライダー……それ以上は、止めてちょうだい」

発信源は、ライダーの向かい側で浅漬けを咀嚼していた凛である。
表面は至って無表情。しかし、その内側で激しく渦を巻いている感情は、その底冷えするようなガラスの仮面を超えて滲み出していた。

「世の中にはね、誰を押しのけてでもアンタが言った余計な奇跡に縋りたいと願う人間だっているの。解るわね……この意味が」

凛の突き刺すような視線が、ライダーの山脈を穿つ。
『ゲイ・ボルク』にも似たその強烈な眼光は、ライダーをして心臓を貫かれたと錯覚させるほどであった。
じんわりと、背筋に冷や汗が滲む。ここで口答えなど、以ての外だ。
相手のプレッシャーは、英霊のそれと遜色ない。覇王もかくやと評すべきほどで、凄まじいの一言に尽きる。
一応、彼女の肢体は日本人としての年齢平均相応のものなので、実際にそこまで卑下する必要もないのだが、今のこの場においてそんな活火山に水爆を放り込むような評価コメントなど、言えるはずもない。
ましてや、血を分けた妹がアレなのである。互いに最も近しい遺伝子で肉体が構成されているはずなのに、あそこまでの決定的な格差があるという現実は、本人にとって身を捩らんばかりの屈辱であった。
改めて言うが、口答えなど以ての外だ。

「……失礼しました」

その一言だけが、ライダーに許された選択肢であった。
これにより、一応溜飲は下がったようで、ふん、と鼻を鳴らすと同時に凛のプレッシャーは、徐々に霧散していった。

「もういいわ。それよりも、わたしとしては、桜がライダーを呼び出してたっていうのがショックだったわよ」
「ご、ごめんなさい……姉さん」
「別に桜が謝る事じゃないわ……なんとなく、事情も解るから。納得はいかないけどね」

かりかりのベーコンエッグを箸で切り分けていた凛が、むっつりとした表情で言い捨てた。
食べ物と一緒に、苛立ちをも噛み締めているかのような苦い声だ。

「俺は、遠坂と桜が姉妹だったってのが衝撃だったよ。だから遠坂、いつも桜を気にかけてたのか」
「遠坂と間桐は、そういう間柄だったのよ。昨夜もちらっと言ったけど、十年と少し前に、魔術回路の枯れ果ててしまった間桐に、後継として桜が養子に行ったの。わたし達の父と、間桐の当主との約定に沿って、ね……ごめん、これ以上は聞かないで」

物に当たり散らしたくなってくるから。
そう言って、凛は追及を遮った。
耳を澄ますと、凛の握る箸がみしみし音を立てている。その意味に気づかぬほど、士郎は間抜けではない。

「慎二にマスター権を委譲してたのは」
「昨夜も言いましたけど……その、争いたくなかったので。兄さんは、むしろ乗り気でした」
「でしょうね。あの様子じゃあ……イカレ気味だったけど」
「あの……兄さんは、どうなったんでしょうか」
「ん」

ご飯を噛みながら、凛はTVを微妙に歪曲した箸で指し示した。
ブラウン管には、穂群原の生徒、職員及び関係者が運び込まれた病院が映し出され、リポーターがなにやらマイクに向かって言葉を捲し立てている。

「あそこに収容されたわ。監督役がどさくさ紛れに、まとめて放り込んだみたい。両腕と肋骨の骨折に全身裂傷、おまけに意識不明の重体よ」
「え……っ」
「回復の目途は立ってないそうよ。なにしろ重傷の上に、頭を強打したからね」

それを聞いた桜の表情が凍りついたが、凛は敢えてそれを無視した。
穂群原から始まった昨日の一連の戦闘において、最も手酷い痛手を被ったのは慎二であった。
ある意味、因果応報とも受け取れるが、それをこの場で口にするのは不謹慎だという事は、凛とて理解している。
場の空気を読む能力は、凛の処世術における基礎中の基礎である。

「……大丈夫だよな、あいつ」
「まだ死んでないんだから、見込みはあるでしょ。怒りと執念だけでロボットの首、素手で捻じ切ったヤツよ。しつこさとしぶとさは並大抵じゃないわ」
「言えていますね。あの手の人間は、化ければ強かですから」
「言うわね、ライダー。けどまあ、病院送りじゃどっちにしろアイツはこれで完全にリタイアね」

手負いのマスターを教会で保護しなくていいのかという疑問もないではないが、その辺りはきっちりと手を打っているはずである。
言峰綺礼の監督役としての腕には、凛もそこそこの信用を置いているのだ。
ちなみに、凛には慎二を治療する気は毛頭なく、その点は綺礼にも念を押している。
あくまで、通常の医療技術で手を施すようにと。それによって、回復に時間がかかろうが知った事ではない。
魔道に縋る事を振り切ったのなら、魔術に依らずに生き足掻くのもまた道理だろうと暗に皮肉っている。それが凛に出来る、せめてもの意趣返しであった。

「そう言えば、なし崩しに桜、こっちに連れてきたけど本当によかったのか? 家に戻らなくて」

噛んでいたベーコンを飲み下し、士郎は桜へ問いを投げる。
あの戦闘が終了した時、言うまでもなく、周囲は瓦礫とスクラップの山であった。
一昔前の夢の島も真っ青である。
人払いの魔術も切れており、いつ野次馬が出てきてもおかしくなかったので話し合いもそこそこに退散する事となったのだが、桜も一緒に、そのまま衛宮邸まで連れてきてしまったのだ。
特に反対もしなかったために、都合がよかったと言えばよかったものの、やはり意向くらいはきちんと確認しておくべきだったと、根が真面目な彼としては若干の申し訳なさもあったりする。
そんな士郎に対し、桜はゆっくりと首を横に振った。

「大丈夫です。むしろ、ここにいた方がいいと思います。兄さんもいませんし……お爺様も今は……」
「ん、お爺様って……」
「――――マキリ・ゾォルケンね」

士郎が口を挟みかけたその時、居間の戸が開いた。

「イリヤ」

入ってきたのは、傍にセラを伴ったイリヤスフィールであった。
今しがたまで寝ていたのであろう。寝癖などは解かされたのか見当たらないが、瞼が若干下がり気味になっている。
だが、常にセラとセットであるリーゼリットの姿はない。

「おはよう。リズは?」
「まだ就寝中です。リーゼリットは少々特殊なホムンクルスでして、一日におよそ十二時間の睡眠を必要とします。聖杯戦争が始まって以来、少々無理をし続けていましたので、強制的に眠らせています」
「十二時間……って、俺なら脳が腐ってるな」

士郎にしてみれば、リーゼリットの半分も眠れば十分すぎるほどに睡眠を取った事になる。
深夜の魔術の鍛錬で丑三つ時近くに就寝し、朝食の用意のために日も昇り切らぬ頃に目を覚ます。そんな生活をずっと続けてきた士郎にとっては、十二時間も寝るなど考えられない事である。

「寝不足みたいね、イリヤスフィール」
「仕方ないじゃない。昨日の新都は、まるでアニメーションの世界だったもの。ミニドラ達がうるさかったわ。シロウ達も一時、ロストしちゃうし。“タイムテレビ”が壊れたかって、焦っちゃった」
「極めつけは、あの穴です。まったく、何をどうすればあんな悪夢のような奇跡が……」

就寝時間が遅かったのと、異常事態を垣間見た事で神経が昂ぶっていた事が、三人に災いしたようだ。
二人が卓に着くと、桜が自然な動作でご飯と味噌汁をよそって差し出し、ベーコンエッグの乗った皿を眼前に並べていく。
その間に、イリヤスフィールは置かれていたコップに水差しから水を注いで、こくこくと乾した。

「ふぅ……おいし。それで、マキリがどうかしたの? もしかして、とうとうあの吸血鬼が死んじゃったとか?」

何気なく発された冗談が、刹那の間、ぴたりと桜の時を止めた。
皿を握る手が空中で一瞬制止し、やがて気を取り直したようにすっと滑らかな動作でイリヤスフィールの前に置かれる。
時として、人の所作は言葉よりも雄弁である。その一連の所作が示す意味を、イリヤスフィールは正確に察したのだった。

「え、ちょっと。ホント、それ?」
「……その……たぶん」
「たぶん?」
「証明する事も難しいですし……自分でも未だに信じられないから」

顔を伏せがちにして語る桜に、イリヤスフィールは一瞬だけ思案気な表情を浮かべるも、すぐさま決を下した。

「いいわ。話してちょうだい、サクラ。昨日は皆帰ってきたと同時に一斉にお開きだったから、他にも色々と詰めておきたいし……そう、色々と、ね」

状況の説明を促す。
サーヴァントの変移に巨大ロボット、聖杯に依るでもなく科学の力によって穿たれた『』へと至る穴と、今まで散々、既存の聖杯戦争の枠を超えた異常事態を目の当たりにしてきたのだ。
今更マキリの当主が鬼籍に入りましたと聞かされたところで、びくともしない。
それもあり得るかも、と得心するだけの下地は、既に十二分に出来上がっている。

「その、二日ほど前の事……なんですけど」

そうして、桜は語り始めた。
勿論、すべてではない。あそこには、秘匿すべき己の暗部もある。それを知られたくはない。
特に実姉と、想い人には尚更に。だからこそ、出来るだけ簡潔に告げるに留まる。
マキリ・ゾォルケン……間桐臓硯が、突如として現れた、見知らぬ輩によって存在を抹消された、その瞬間の出来事を。






「……む……ぅ……」

うっすらと朝日が差し込み始めた洋装の一室。
八畳間の、そこまで広くはない部屋のその角には、円形の小さな幾何学模様の陣が設営されている。
人一人がすっぽりと入れる程度の大きさで、その中央には、一人の男が片膝を立てて蹲っていた。

「……ふむ、朝か。まさか、ここまで深く寝入ってしまうとはな」

さながら、戦場で壁を枕に微睡む傭兵のような体を晒すその男は、顔を上げると気怠そうに白髪を掻き上げた。

「やはり、複数回に渡る令呪のブーストは、極度に消耗も強いるという事か。まあ、あれはドーピングにも近い行為だからな。そういった意味では、令呪も万能とは言えん」

座したまま、ぐりぐりと手首や関節を動かし、揉み解すように身体の状態をチェックする。
令呪によって何度も流し込まれた過剰な魔力に加え、アイアスの盾を使用して半ばまで破壊された反動もある。
凛が用意したこの簡素な魔法陣は、即座に全快に至るまでの効能こそないが、霊的な回復力を促進するものであるので、英霊自前の回復力があれば数時間で全快まで持っていける。
加えて、直接傷を負わなかった事も大きい。なんだかんだと目まぐるしかったあの戦いだが、驚く事に間桐慎二以外に、まともな負傷者は出ていないのだ。
万を超える軍隊の強襲と、空襲さながらの大爆撃を考えれば、奇跡どころの話ではない損耗のなさである。

「支障は……ないな。急ごしらえの陣だと言っていたが、なかなかどうして。流石は凛だな」

片腕を天へと突き上げ、僅かに伸びをすると、アーチャーは身体を起こして立ち上がった。
そして、徐に周囲へと首を巡らせる。

「……凛は朝食か。小僧や桜、ライダーにイリヤスフィール主従もいるな。いないのは……少年と少女、リーゼリットに……セイバー、か」

気配を読むなど、鷹を彷彿とさせるこの男にとっては造作もない事だ。
遠距離からの狙撃を生命線とする弓兵には、そういったスキルも要求される。
アイスピックのように鋭く磨かれた感覚は、決して嘘をつかないし、また欺瞞を見抜けぬ事などない。
ちなみに、不寝番として完徹の見張りを行っていたミニドラ三体も、現在見張り部屋で轟沈している。

「しかし、少年少女とリーゼリットはともかく、セイバーまでいまだ夢の中とは。そこまで寝汚いとは思えんのだが、もしや不貞寝かね」

自分で言い放った軽口に、アーチャーはつい苦笑してしまう。
あのセイバーが、いったい何に不貞腐れるというのだろうか。

「いや、というよりは」

不貞腐れるというよりも、むしろ消えては浮かぶ疑問と猜疑に苛まれていると言うところだろう。
なんとなく、そんな気がしてイメージがすんなりと脳裏に浮かび上がってくる。
それで知恵熱でも起こしたのかもしれんな。
そんな埒もない事を考え、アーチャーは再びの苦笑を浮かべた。

「……互いに間違った望みを後生大事に抱き、鬱屈したものを消化出来んか。まったく、笑うに笑えん奇縁だな。時流の果てに、ここまで似通ってしまうとは」

立ち位置の違いこそあるが、とそこまで言ったところで、アーチャーの顔から笑みが徐々に薄れていった。

「丁度いい、と言うべきかな。心苦しく思うが、少年自身が言いだした真理だ。皆がいるのに共に食さぬ朝食など、たしかに味気ないものだからな」

とってつけたような余韻を残して、アーチャーは出口へと向かう。
その脳裏に思い描いていたのは、のび太の腕の中で消えた機械の天使の姿であった。

「その手で、機械の星の歴史を塗りつぶして消えた女……か。ふん、“俺”にとっては皮肉でしかないな」

普段の彼らしくもない、擦れた物言いが虚空に消える。
その背中は、かつて不条理に己の持つすべてを失わざるを得なかった、世捨て人のようでもあった。

「世界の法理は、絶対の真理ではないのかもしれん。世界の数だけ存在し、決して一元的なものではないのかもしれん。だが、それでも万に一つの可能性に縋りたいと思うのは……くく。やはり、堕ちるところまで堕ちたものだな」

――――セイギノミカタも。

その言葉は、口中から漏れずにそのままアーチャーの内心に仕舞われた。
聖杯戦争にかける彼の本来の目的に、思いもよらぬところから追い風が吹いた。それが、一旦は押さえていた彼の妄執を刺激した。誘惑、と言ってもいいかもしれない。
機械の天使、ひいてはマレビトの過去が齎した可能性は、それだけの魅力を振り撒くものだったのだ。
そして、赤い姿は陽炎のように消え失せる。
風の流動にも近い気配の消失のみが、彼の退室を示していた。

「君も、マレビトの抱く可能性に縋って、堕ちるところまで堕ちるつもりかね……セイバーよ」

虚空に溶けたその呟きには、同じ穴の貉(むじな)を憂う響きだけがあった。







[28951] 第四十二話
Name: 青空の木陰◆c9254621 ID:90f856d7
Date: 2013/08/11 00:05





「う……ぅう……っ」

彼女は、絶望の只中にいた。
むせ返るほどに濃密な血の臭いが漂う暗黒の部屋で、自分がひとり、床に蹲っている。そんな状況下で、絶望を抱かぬ訳がない。
傍らで、カソックを翻した長身の男が自分を見下ろしている。
その瞳は、なんらの感情をも宿さぬ茫漠のもの。血の海に沈む自分を、男はどうとも思っていない。
無情にして非情な加害者、奪い去った後の伏した自分に、もはやなんらの価値すらも見出していない。
呆れ果てる。彼にではない、彼を信じて裏切られた己自身にだ。
魔道に足を踏み入れた者には、信頼はしても信用はしてはならない。そのスタンスを、自分は忘れ去っていた。
あの男の誘導もあったとはいえ、情けない限りである。

――――ざまぁねえな。

もうひとつ、男の影が視界の片隅に入る。
今度は部屋の角、部屋全体を俯瞰出来る位置に立っている。
年の頃は、十代の中頃から後半、といったところか。
そして、その少年はカソックの男とは対照的な表情を浮かべていた。
嗤っているのだ。
三日月の唇に、緩んだ眦は嘲りを含み、自分の不幸を糧に悦に浸っている。
顔は判然としない。当然だ、灯りは何ひとつとしてないのだから。
しかし、それでも瞳の色や表情を視認出来るとはどういう事だろうか。
矛盾しかないこの状況、彼女の出した答えは。

(……これは、夢か)

それしかなかった。
夢だからこそ、ここまで滅茶滅茶なのだ。整合性の取れなさで言えば、夢ほどに支離滅裂なものもない。
この光景は、既に通った過去の事実で、その中に様々なものが入り乱れている。夢にありがちな、いくつもの脚本を無理矢理継ぎ接ぎしたような不自然さが浮き彫りとなり、これが現実のものではないと浮沈の定まらぬ意識に訴えかけている。
そして、夢だと認識したという事は、すなわち覚醒が近いという事でもある。
この悪夢は、間もなく終焉を迎える。
靄がかかり、白く混濁する自意識が、ランプの明滅のように徐々に浮上していく。

――――ああ、夢だ。んで、箱庭遊びの時間はとうに終わっている。次に待ってんのは、繰り返す四日間じゃなくて、無常極まる現実の世界だ。

ここで、彼女はようやく気づいた。
この、頭の中を掻き乱すように粗雑で、しかし妙に不快さを感じないこの声の主を、自分がよく知っているという事に。
黒に塗りつぶされた片隅に立つ少年が、この声の主だという事に。

――――今更かよ。ったく、乳にムダに栄養行ってる脳筋だけの事はあらぁな。鈍いのなんのって。

その物言いには、イラッとした。
彼女とて、好きでこんな体躯になった訳ではない。セクハラである以上に甚だ心外だ。
しかし、鈍いという評に関しては反論の余地がなかった。
仲間と思っていた輩に秘められた悪意を見抜けなかった。その代償が、片腕をもがれる体たらくである。

――――おいおい、んな自嘲した顔すんなよ。張り合いのねえ……まあいいか。さって、と。

そう言うと、少年の嘲りの表情は消え失せ、常の軽い様相からは想像もつかないほどに真摯な視線が自分を射抜いた。
身体が竦む。この存在は、『いつか』の時、己の相方であったこの少年は、こんな身体の熱を拭うような静かな覇気を発し得ただろうか。

――――よく聞け。今、自分が分岐点に立ってるってのは自覚してるか? してねえんだったら、尚更よく聞いとけ。

言っている意味は解らない。だが、聞き逃す事は大きな損失になる。
まとまりかけのパズルのような自我を総動員して、半ば本能的に悟った彼女は耳を傾けた。

――――聖杯戦争で、あのクソ野郎に奪われたモンすべてを取り返したかったら、目を覚ました時、自分の周りにいるヤツらに……。

そこまで聞き取った次の瞬間、電気のスイッチを入れたように視界が一気に白く染まった。
覚醒。夢から目覚めたのだ。

「――――っう……!?」

意識がぼんやりとしていても、自我のパズルは既に完成している。
そして霞む視界は、意思を強く持って凝視すれば、一瞬のラグはあれどあっさりと開けてしまう。
そうして明瞭になり始めた彼女の視界に映ったのは。



「……おっ。おいドラえもん、目が覚めたみたいだぜ!」



人間の服を着たゴリラの子どもであった。
もっとも、よく見れば違うというのはすぐに解ったであろうが、覚醒直後の彼女にはそう見えてしまったのだ。

「む――――ッ!!」

カッと目が見開かれ、身体が瞬時に反応する。人間凶器とも呼べる、巧みに錬成された彼女の肉体は条件反射で適切な行動を実行に移す。
それは、まさに電光石火の早業であった。

「う、うわ!?」

バネ仕掛けのように、仰向けだった上半身が跳ね上がり、膝立ちの状態になると咽喉輪の要領で目標の首を片手で掴み上げ、視界の正面にあった窓枠の縁に叩き付けるように押さえ込んた。
反抗の機会を与えないよう、相手の腕を封じる事も忘れない。
たとえ唯一自由な足で抵抗を試みたところで、突っ張るように伸ばされた腕のリーチ差は如何ともしがたい。
おまけに、彼女は女性としては長身で男性の平均をも上回っており、その分リーチは並の大人以上のものがあった。

「ぐぇ!? ぎ、がっ、く、苦し……ッ!? は、放せっ!?」
「じゃ、ジャイアン!?」
「ちょっと、何をするんですか!?」
「お、落ち着いてください! 落ち着いて!」

ふと、彼女が周囲に目をやると、ゴリラの仲間と思われる子どもふたりと、二足歩行の青いタヌキが血相を変えて取りすがってきていた。
三人、ゴリラを含めれば四人の表情には、『まさか』という色合いが強く浮かび上がっている。
面妖な青ダヌキはさておき、畏怖と切迫感に駆られた少年と少女の必死な形相に彼女の毒気は抜かれ、代わりに幾分かの冷静さを齎した。

(……子ども?)

そこで、はたと彼女は気づいた。
今、押さえ込んでいるのはゴリラの子どもなどではなく、ただの体格のいい人間の子どもであるという事に。
思い返せば、彼は人語を介していたし、なによりゴリラは服など着ない。
そもそも、人家にゴリラがいる訳がないではないか。たとえどれほど違和感がなくても、である。

(むぅ……)

気づいた以上、子どもをいたずらに傷つける真似は出来ない。
夢で脳筋と評された彼女とて、正道魔術師の中に偶に見られる外道ではないし、人としての最低限の良識はきちんと持っているのだ。

「失礼しま……ッ!?」

咽喉を締める手を離そうとしたところで、彼女はそれに気づき、そして今度は雷に打たれたかのような衝撃を受けた。
あり得ないものを見てしまった、そんな底の見えない驚愕が顔に貼り付いている。

(う……腕が……ある!?)

あろう事か、裏切りの果てに引き千切られ、なくなったはずの片腕で子どもを押さえこんでいたのだ。
あの全身の神経を根こそぎ引き抜かれるような、想像を絶する激痛はいまだ心底にヘドロのようにへばりついている。
それを根本からひっくり返すようなあまりにも埒外な現実が、疑いようもなく眼前に映し出されている。これで驚きを覚えない方がおかしい。
万力じみた怪力を発揮していた両の腕から完全に力が抜け、だらりと畳の床へ向かって落ちる。
結果として、標的とされたゴリラは戒めからようやっと解放された。

「げほっ、げっほ……けほっ。こ、こんにゃろー! 人がせっかく助けてやったってのになんて事すんだよ!?」
「ちょ、ちょっとちょっとジャイアン、押さえて! たぶん、混乱してるんだよ!」
「下のママが来るかもしれないから、静かに! ジャイアン!」

涙交じりに咳き込みながらも轟く怒号も、羽交い絞めに抵抗する物音も気にならない。謝罪の意すら心の中から吹き飛んだ。
義手などではない、まぎれもない己自身の腕が再び生えてきたかのように存在している。
しかも、一緒に引き裂かれたはずの服すら元通りになっている。血でどす黒く染まってもいない。クリーニング直後のように、さっぱりと綺麗なものだ。
いったい何がどうなってこうなったのか。彼女の思考は迷走し、袋小路に嵌まっていく。
しかも、周囲をよく見渡してみると、自分がいるのがどことも知れぬ現代的な日本家屋の一室ときている。
窓から見える景色から察するに、どうやらここは二階らしい。

(……どこ? いや、違う。ここからどう動けばいい? あの夢を信じるなら……自分の周囲にいる者達に……)

下手なお告げよりも信憑性の低い夢での戯言を易々と信じるほど、彼女は抜けてはいない。
だが、不思議な事にあの夢には、なぜか信用してもいいという気持ちが湧き上がっていた。
見知った者の忠言だったからだろうか。それとも、単なる己の第六感なのか。はたまた……箱庭の中で時折垣間見た、あの相棒の得体の知れない底の深さに無意識が刺激されたのか。
真実は解らないが、他にこれといった方針も思いつかない以上、従ってみるのもいいだろう。
状況からして可能性は低いが、万一、己の意に沿わない事態に陥ったとしても、相手は子どもばかりなので食い破るのにさしたる労苦もいらないはずだ。
数回の瞬きの間にそこまで思考をまとめて、彼女は身体から余分な力を抜き、自然体に戻した。

「あの、大丈夫ですか?」
「……ええ。大変失礼をいたしました。よろしければ、状況の説明を願いたいのですが」
「えっと、はい。それは……あっ」
「なにか?」
「あの、お名前は? わたしは、源しずかです」
「ああ……」

名乗られたのなら、こちらも名乗り返すのが礼儀である。
彼女は改めて居住まいを正すと、二房に髪を結んだ利発さの滲む少女に己が名を告げた。

「――――バゼット。バゼット・フラガ・マクレミッツと申します」

眼鏡の少年と入れ替わるようにパラレルワールドに漂着した、かつて隻腕となった魔術師、バゼット・フラガ・マクレミッツ。
異なる世界を繋ぐ因子が邂逅を果たしたこの瞬間、世界の壁を穿ち広げる狼煙が確かな軌跡を以て上がったのであった。

「ところで、なぜタヌキが二足歩行で人語を発しているのでしょうか。しかも青いとは……もしや、着ぐるみかなにかですか? 中に人が?」
「あ、あの……その……えと、バゼットさん。後半はともかく、前半はちょっと……」
「ど、ドラえもん!? 落ち着け、落ち着けって! 静かにしろって言ったの、ドラえもんだろ!」
「なんてもの出してるのさ、ドラえもん!? その核爆弾の模型みたいなのしまってよ!」
「放して、放せぇ! 誰がタヌキだ!! やろう、ぶっころしてやる!!」
「せっかく助けたのに、殺してどうするのさ!」
「よし、押さえた! スネ夫、早くその物騒なモン取り上げろ!」

キレた青ダヌキがようやく沈静化したのは、それからおよそ五分後の事であった。





「……シロウが?」
「なんでさ。いや、俺じゃないからなイリヤ。というか、イリヤの最初の襲撃を受けた晩の話だろ。あの後は早々に直帰したし、まず物理的に無理だ」
「あの、だから先輩じゃなくて。先輩によく似た人……というか、瓜二つだった人が……」

桜の話が終わったその時、居間にいる人間の視線は、士郎へと向けられていた。
槍衾の矢面に立たされたような気分の士郎だったが、気持ちは一応理解出来るので文句は言わない。
士郎のドッペルゲンガーのようなヤツに間桐の当主がやられたとあっては、聴衆が士郎に視線を突き刺すのも、ごく自然な反応であろう。

「士郎と瓜二つねえ……」
「髪の色とか、全身のタトゥーとか雰囲気、言葉遣いは違ってましたけど、顔は」
「断言出来るの?」
「薄暗かったし、視界も霞みがちだったから……はっきりとは。けど、先輩の顔を見間違えるなんて事はありません!」

姉の確認に、桜はきっぱり断言する。
後半部分にやたらと力が入っているその意味を、姉はしっかりと認識していた。
生暖かい視線が、桜に注がれる。姉の様子に気づいた桜の頬が、りんごのように赤く染まった。

「あう……」
「はいはい、ゴチソウサマ。で、話を戻すけど、その士郎のバッタもんが間桐の当主を消したのね。手に持ってた何かの道具で」
「あ、その、はい。その前に、お爺様と刀みたいな武器で戦ってて。物凄いスピードで、む……お爺様の攻撃を全部捌いてました」
「カタナ? 魔剣の類かしら?」
「いえ、そんな感じは全然……むしろ、模造刀とかに近い感じでした」
「つまり、霊剣とかの魔術的なシロモノじゃなかったって事ね。ふぅむ……?」

ますます増える謎。イリヤスフィールと凛は、揃って首を捻っていた。
桜を疑う訳ではないが、正直に感想を述べれば、『胡散臭い』の一言である。
そんなにあっさりとやられてしまうほど、間桐家当主の底は浅くない。
普通なら、とうの昔にぽっくり逝っているはずの年月を乗り越えて存在してきた、死徒まがいの生粋の魔術師なのである。
詳細こそ知らないものの、聖杯戦争の原形作りに携わってきた事から、相応の実力もあったであろう。
それを神秘や魔力の皆無な、ただの武器で渡り合ったとなれば、その使い手は明らかに尋常のモノではない。

「とりあえず、現時点で確実に言える事がふたつ」
「なんだよ、遠坂」
「ひとつは、確実に士郎じゃないわね、ソイツ。アリバイもさる事ながら、へっぽこ士郎がまさかそんな事出来るとも思えないし」
「……いや、そーだけどさ」

身も蓋もない凛の確信の仕方に、士郎は唇を尖らせた。
もう少し言い方というものがあるだろう、と言いたかったが、口達者な凛の場合、言うだけ無駄なのは解りきっている。
せめてもの意趣返しにと、凛に非難がましい視線を向けるが、凛はするりとそれを受け流した。

「もうひとつは、マキリは完全に魔術師の大家としての幕を下ろしたって事ね。慎二に魔術回路はないし、桜も跡を継ぐ気はないんでしょ」
「……はい」
「まあ、だからなんだって気もするけど。ふふ、御三家の一角が滅んじゃったんじゃ、聖杯戦争もこれっきりかもしれないわね」
「お嬢様」

イリヤスフィールを、セラが横から窘めた。
滅多な事を言うものではないという視線に、彼女は小悪魔めいた微苦笑を浮かべてちろりと舌を出した。
セラの口からなんとも言えない溜息が漏れるも、それを余所にイリヤスフィールは話の切り口を変えた。

「サクラ、他に何かなかった? 違和感とか特徴とか、ほんの些細な事でもいいわ。言ったら悪いけど、今の時点じゃちょっと判断のしようがないの」
「他に……」

白い小悪魔の要請に、桜は眉間に皺が寄るほどに思案深げな所作を取る。
朦朧とした意識の中、自分でもよくそこまで覚えていたものだと思っていたのだが、まだまだ思い出せとのお達しである。
これ以上は、己の暗部も含んだ情報になる。黒い部分まで開陳する訳にはいかない。
桜の頭の中では、その強迫観念にも近い衝動と、細切れの映写フィルム同然の地下室での記憶がぶつかり合い、火花を散らしてせめぎ合っていた。
そうして必死に掘り返した結果、桜の脳裏によぎったのはひとつの珍妙な道具の残影であった。

「あ……そういえば」
「なに?」
「その……掌に収まるくらいの、黒い袋、かな。そんなのを腰巻から取り出して、その中から指を立てた手がくっついた帽子を出して被ってました」
「なんですって!?」
「指を立てた手?」
「はい。こんな感じで」

そう言って、桜は士郎の前に人差し指をぴっと立てた右手を差し出した。
そして、それを頭に持っていってぷらんと指を下に向ける。
正面から見て、頭から手が垂れ下がっているような構図であった。

「帽子にしては変なデザインだな」
「それは、まあ……ただ、なにかしらの力があったみたいで」
「力?」
「えっと、偶然聞き取れたのが……ク、クレヤボヤンス、に、テレポーテーション、だったと思います」
「は?」

士郎の目が点となった。
クレヤボヤンスとは、透視能力。テレポーテーションとは、瞬間移動能力の事だ。
話を繋げると、その指付き帽子を被れば以上のふたつの能力が得られるのだろう。
それが本当であれば、はっきり言って反則である。
しかも、形状からしてどうも、魔術的なシロモノでもなさそうだ。
どうとも形容しがたい不気味さがある。

「……士郎」
「え? 遠坂、どうした?」
「ちょっと、まずいかもしれない」
「まずいって……帽子が?」
「そっちじゃない」

硬い表情でじっと見据えてくる凛に、士郎はやや気圧された。
イリヤスフィールも桜もセラも、ただならぬ様子の凛を注視している。

「士郎、“スペアポケット”持ってるでしょ。出して」
「え、あ、ああ……」

言われるがまま、士郎は己のポケットから“スペアポケット”を取り出すと、凛へ差し出した。
イリヤスフィールは、その一言ですべてを察したようだ。
のび太と同年代の、幼い見た目からは想像もつかないほどに、彼女は聡い。
はっとした表情をしたかと思うと、徐々に難問にぶつかったような難しい顔つきへと変化していく。
凛は士郎の手の中のそれをひったくるようにして受け取ると、桜の目の前へぐいと突き出した。

「桜が見たのって、ひょっとしてこれ?」
「あっ……!」

はっと眼を見開いた桜。口元に手を当て、二の句が告げない有様となっている。
目は口ほどに物を言う。それだけで凛は回答を察し、苦々しげな表情となった。

「……やっぱり」
「って事は、つまりそいつは“スペアポケット”を持ってるって事か!」
「ええ。たぶん、のび太が持ってるヤツよりも多く道具が入ってる物をね。なんで黒いのかは知らないけど」
「コピーかなにか、だからかしら。それとも、ノビタの方のがコピー?」

確認こそしていないが、“指付き帽子”はのび太のものには入っていない。
入っていれば、あの鏡面世界の鉄火場で躊躇いなく使用していたはずである。
透視能力(クレヤボヤンス)に瞬間移動能力(テレポーテーション)。どれも強力で、使いどころによっては一発逆転を狙える能力だ。
その“指付き帽子”さえあれば、あんな常軌を逸した惑星破壊兵器を引っ張り出す必要もなかっただろう。
それが向こうの物に入っていたという事は、黒幕はポケットを中身ごとコピーし、なんらかの手を加えた後に、のび太側のものから道具を失敬したという事だ。おそらく、のび太に悟られる事なく。
イリヤスフィールの疑問に、凛は手をひらひらとさせて答えた。

「さあ、どうかしら。いずれにしろ、この戦争の黒幕がどんなヤツかってのは、おぼろげながら見えてきたわね。ポケットについては、一度のび太に確認しておくべきかしら」
「けど、のび太君は前に何も知らないって言ってなかったか? 黒幕についてとか」
「念には念を、よ。士郎だって、テストで見直しくらいするでしょ。確認というのは、何回やっておいても損はしないものなの」
「……それも、そうか」

頬を掻きながら、士郎は一応の理解を示す。
願わくば、なるべく穏便にやってくれよと言いたかったが、言わずもがなであろうし言ったら自分に飛び火しそうなので、それ以上は追及しなかった。
一同の口が閉ざされ、一瞬の間が空いたその時。

「――――あっ!」

会話の蚊帳の外で沈黙を保っていた桜が、突如として弾かれたように顔を上げた。

「うわっ、びっくりした!?」
「き、急にどうしたの、桜?」
「ご、ごめんなさい。あの、その、もうひとつ、思い出した事が」

卓をひっくり返すような勢いだったために、すわ何事かと身構えてしまった一同に桜は謝罪の言葉を挟む。
会話の合間にほぼ食べ終わっているとはいえ、今は朝食の席なのだ。勢い余って卓上の食器がひっくり返りでもしたら、人数の分だけ目も当てられない惨状が現れる事となったろう。
ちなみに、この場にライダーの姿はない。
いまだ目覚めていない者達の様子を、見に行ってもらっているのだ。
はじめにライダーが向かったのは、ミニドラ三兄弟が轟沈している監視装置が満載の客間の一室。
もし、今誰かが監視部屋の扉を開けたとしたら、溢れんばかりの慈愛に満ちた女神の微笑みを目にする事になるだろう。
あどけないミニドラの寝姿は、彼女の感性に間違いなくストライクである。

「なに?」
「えっと、気を失う最後の瞬間に、その人がこんな事を言っていたんです。『オレは、悪のカミサマだ』って」

その瞬間、聴衆の反応はふたつに分かれ、そしてそれらはまさに対照的なものであった。

「「悪のカミサマ?」」

疑問符混じりの怪訝な表情となったのは、凛と士郎の魔術師弟。
なんだそりゃ、とでも言いたげの顔を互いに見合わせ、次いで桜の顔を穴が開くほど凝視してしまう。
気圧されたか、びくっと桜は身を竦ませた。

「え……っ!?」
「――――ッ!?」

一方で、イリヤスフィールとセラの主従は、その両目を大きく見開いていた。
定まらぬ視線を宙に彷徨わせ、見えない泥で全身を固められたように身じろぎひとつしない。
呼吸すら止まっているかのようだ。

「い、意味は解りません……でも、それだけはっきり告げた後に、忽然と消えて……」
「『カミサマ』とはまた大きく出たわね。ハッタリ?」
「さあな。けど、大口叩くだけの力があるのは間違いないと思う」
「そうね。のび太のひみつ道具もあるし、御三家の一角を実質的にツブした実績も。けど、言うに事欠いて『悪のカミサマ』? 悪神って事かしら……」

凛はそのまま腕を組み、考え込むように両目を閉じた。
眉間に寄った皺を見るに、相当事態を深刻に受け止めているようだ。

「……まさか、ね」
「ん? イリヤ、どうした」
「え? あ、ああ、うん。なんでもないわ、シロウ」

ぱたぱたと手を振り、イリヤスフィールは愛想笑いを浮かべる。
隣のセラも、既にいつもの貼り付けたようなポーカーフェイスに戻っている。

「ん、そっか」

ほんの微か、引っ掛かるものを感じたものの、士郎はそれ以上追及する事なく、卓の上の湯呑を手に取り渇いた咽喉を潤した。
白の妖精の仮面の下にある真意に気づいた者は、忠実なる従者を置いて他になかったのであった。






「……おや、入れ違いでしたか」

のび太の部屋の戸を開けたライダーの、第一声がそれであった。
畳の床に敷かれた布団はもぬけの殻で、開け放たれた障子から注ぐ暁の陽光が部屋を一直線に貫いてライダーの目を晦ませる。
眩しそうにきゅっと目を細め、次いで緩く、柔らかな微笑を浮かべる。
常の眼帯ではなく、魔眼封じの眼鏡を着用中のライダーには、なんとも新鮮な刺激であった。

「ふむ……?」

微かに鼻につく、独特の気配の残滓に彼女は気づいた。
それは、昨夜からよく知っている者の気配であった。
常人とは違う、ヒトという軛から外れた者特有の。

「アーチャー、ですか。彼を起こしたのは。さて、なんとも奇妙な組み合わせですね」

鷹を思わせる精悍な偉丈夫と、眼鏡をかけた凡庸な小学生。
傍から見れば、紛争地帯の兵士と民間人の子どものような取り合わせである。
そして、その兵士がわざわざ自ら出向いてモーニングコールを行う。百人に聞けば九十五人が、『変だ』と声を揃えて言うだろう。
ちなみに残りの五人は、センスが突き抜けているか、ズレているかのどちらかである。

「いったいなにを考えているのか……まあ、いいでしょう」

取り留めのない思考を打ち切り、ライダーは部屋の戸を静かに閉じた。
ミニドラ、リーゼリット、のび太とフー子ときて、残るはあとひとり。彼女は、そのまま士郎の居室へと足を向ける。
目当ての人物は、士郎の部屋の襖を隔てた隣の部屋にいるからだ。
凛の背後を取った時のように、アサシンも顔負けの音を立てない歩法で、するするとライダーは士郎の部屋の前へ辿り着いた。

「…………」

これまた音もなく、部屋の戸を開ける。
立てつけが悪いという事もない引き戸は、常人の耳に届かない程度のほんの微かな摩擦音のみを残した。
士郎の部屋は、殺風景と評するに足るほどに物が少なかった。
彼女の知る現代人の男の部屋など、仮初の主であった間桐慎二のものくらいしかないが、それでもここまで殺風景ではなかった。
脇の押入れには、そこそこ物が仕舞われているのだろう。何年も寝起きしていて、部屋に物が少ないというのは、裏を返すとそういう事だ。
部屋には、主の性格や心情が顕れるという。
余計なものを一切置かず、本棚一台と文机のみの、がらんとしたその光景は士郎の心を映し出しているようでもあった。

「おっと」

とはいえ、ここに来た目的はそれではない。
部屋の光景に目を留めたのは一瞬で、ライダーはすぐさま視線を正面から別の方へと移す。
目的の人物がいるであろう、隣の部屋へと続く襖へと。

「…………」

やはり音もなく移動し、ゆっくりと引き戸を横に開くと、果たして彼女はそこにいた。
目を閉じ、規則正しい呼吸を繰り返して、暖かい布団の中で仰向けになって。

「起きなさい、セイバー」

そう一言、大声でもなく、だが小声でもない声で、ライダーは目覚めを促した。
二秒が経ち、三秒経ち、しかし彼女……セイバーはなんの反応も示さない。

「起きなさい」

もう一度、今度は先程よりもやや大きめの声で告げる。
結果は、三秒前の焼き直しであった。
規則的な寝息はそのままに、身じろぎのひとつもしない。

「…………」

普通であれば、昏々と深い眠りの中にいると思うであろう。
世の中には、一度寝入ったら何をされても起きないという猛者もいる。セイバーもその例に漏れないと、そう思うかもしれない。
だが、セイバーに限ってそれは当てはまらない。ライダーにはそれが解る。
今こそ違うとはいえ、以前はセイバーと同じ、サーヴァントという存在であったからだ。

「意識があるのは解っています。サーヴァントは、基本的に睡眠を必要としない。目覚めようと思えばいつでも目覚められる。それに、侵入者に気づかぬまま眠り過ごすほど、貴女の底は浅くない」

そこまで言っても、セイバーはぴくりともせず、瞼を閉ざしたまま。
ふう、とライダーは溜息をひとつ吐いた。

「やれやれ……それでは私からひとつ、心地よい夢でも提供させて頂きましょう」

まるで独り言でも呟くように、ライダーは言う。
彼女の宝具の『自己封印・暗黒神殿(ブレーカー・ゴルゴーン)』は、応用を利かせれば対象に己の意図する夢を見せる事が出来る。
相手の望む夢を見せ、抵抗をなくす事で、魔力を吸い上げる事を容易とするのである。
彼女は女神だが、吸血種の側面もあるのでその手の力も持ち合わせている。

「内容は、そうですね」

顎に指を当て、思案顔となる。
ティーンエイジ前半の容姿となっている彼女のそれは、青い果実にも似た未成熟な色香が漂っていた。
かつて海神ポセイドンの寵愛を得ていた彼女である。本質的に男の本能をくすぐるものを持っているようだ。
やがて考えが纏まったのか、ライダーはうん、とひとつ頷いて。

「士郎とアーチャーが熱く濃厚な口づけを交わし、互いが互いを求めて貪るようにその肉体を」
「それだけはやめてください」

哀願すら含んだ固い声と共に、セイバーは布団から跳ね起きた。それも当然かもしれない。
ヒトとして真っ当な嗜好である彼女には、そんな非生産的な真冬の朝の淫夢など悪夢以外の何物でもない。
そんなものを見せられるくらいなら、起きる方を選ぶだろう。

「私にそんな趣味はない。それ以前に、サーヴァントは夢など見ない上、仮に貴女が私の夢に干渉しようとしても、私の対魔力で弾かれてしまう。それぐらいは解っているでしょう」
「ならば、そこまで焦らずともいいではないですか」
「気分の問題です。なにが悲しくて、そんな誰も得をしない夢を見せられなければならないのか」
「サクラ辺りには大好評だと思いますが」
「……ノーコメントです」

僅かの間を置き、セイバーは言葉を濁してしまう。
頬を染めながらも興味津々と見入ってしまう光景が容易に想像出来てしまうのは、果たしていかがなものかと思わないでもない。
一途に慕うのはいいが、歪んだ方向へは行かないでほしいと切に願うのであった。

「キャスティングに問題があるのであれば、そうですね。貴女と凛が月明かりの射す廃屋で唇を重ね」
「まずその的の外れた発想から離れなさい!」
「まったく我侭ですね。でしたら普通に……ふむ。若いツバメなどいかがでしょうか。今なら眼鏡付ですよ?」
「……っだ、だから止めろと言っているでしょう! だいたい、私はこの通り、もう完全に目覚めています! ノビタの夢を見る余地などない!」
「おや、のび太だとは一言も言っていないのですが」
「ぐ!?」

怒鳴りながら、もそもそと部屋の隅へ布団を片付けるセイバーを、ライダーは壁に寄りかかりながら見つめている。
その唇が、うっすらと笑みを湛えているのはご愛嬌。耳まで赤くしたセイバーを肴に、新鮮な面白みを感じていた。

「つまり、貴女はのび太の事を考えて布団の中で悶々としていた訳ですか。その結果が寝坊、と」
「く、まだそれを言いますか」

ライダーの揶揄に、頬を朱に染めたままむすっとしていたが、畳んだ布団の上に枕を乗せた時、その表情は一変して固く引き締められた。

「……そうですね。半分ほどは、当たっていますか」
「ほう、意外ですね。認めるのですか」
「貴女の意図するようなものとはまた違っていますが、ノビタの事を考えていたというのは、当たらずとも遠からずといったところです」
「成る程。それで、答えは出ましたか?」
「…………」

セイバーの口は、そこで固く閉ざされた。
葛藤があるのか、語りたくないのか、無言のまま服の皺をぴっと伸ばすと徐に立ち上がり、部屋から出ようと足を踏み出す。
そこに淀みは見られなかった。

「まあ、起きたのならば結構。皆、既に朝食の卓に着いています。残るは、貴女くらいのものです」
「そうですか」

振り返りもせずに、セイバーは相槌を打つ。
愛想もそっけもない態度ではあったが、ライダーは気にした様子もない。
なにせ、一度は刃を交えた間柄である。少々態度がつれなくとも、それはそれで納得の余地はある。
そうして彼女も壁から背を離した、ちょうどその時であった。

「ライダー」
「はい?」

部屋の戸の前でふと足を止めたセイバーは、背を向けたまま唐突に彼女に問いを投げかけてきた。

「貴女は……彼女の記憶を持っているのですか」
「彼女とは」
「リルルという少女の」

この質問は、ライダーにとっては意外であった。
姿が幼くなったとはいえ、まさか自分にそこまで興味を示すとは、ちょっと想像の埒外であったからだ。
しかし、さしたる支障もないので、ライダーは正直に答えた。

「ええ。少なくとも、彼女が知っている事柄や記憶などは。深層心理はともかくとして、ですが」

彼女はロボットなので、とりわけ記憶はすべてメモリという形で劣化や抜け、改竄もなく鮮明に記録されている。
そのため、ライダーは彼女の記憶や知識は完璧といっていいほどに継承していたのだが、そこは言わないでおいた。
特に言う必要もないからだ。

「そうですか」
「それがなにか?」
「いえ……彼女は、歴史を変えたと言っていましたが」
「ああ、それですか」

“タイムマシン”で三万年前のメカトピアへ赴き、リルル達メカトピア製ロボットの祖先である原初のロボットを調整して鉄人兵団の地球侵略をなかった事にした件である。
ライダーの記憶では、本来、リルル自身が光に包まれて消えるところまでしか記録がなかったはずなのだが、予備知識としてなのか、のび太主観の記憶の一部もリルルのメモリに収められていた。
ゆえに、その件のあらましはおおよそ知っているし、理解もある程度及んでいる。
記憶内容の多少の違いこそあるが、その点では、フー子や今際の際のバーサーカーとほぼ同じである。
しかし、それが“誰”の手によるものなのかは、ライダーにも、リルルにも解らなかった。それについては、まるでペンキで塗りつぶしたかのように、綺麗さっぱりと抹消されてしまっている。

「そもそもメカトピア……正確にはロボット達ですが……その歴史の出発点を完全に切り替えましたから。ロボットの祖先が本来とは違う道筋を辿った結果、地球侵略の必要性が消え失せ、鉄人兵団誕生の要素が抹消された。そして彼女ともども歴史の修正を受け、消え失せました」
「それは、ノビタ達の目の前でですか」
「ええ。“タイムマシン”で彼女が三万年前のメカトピアへ渡った瞬間、陽炎のように。そもそもメカトピアと地球の接点は、鉄人兵団による地球侵略の一点だけ。ならば、メカトピアだけの歴史改ざんで事は収まります。接点のない地続きの歴史なら、片側だけが改ざんされても特に問題はありません。あくまで、メカトピアと地球の関係に限れば、ですが」
「地続きの……歴史」

なにかを噛み締めるような、静かな表情で呟くセイバー。
彼女の背中しか見えないライダーには、彼女の表情は窺い知れない。

「まるで古いビデオテープに重ね取りをするような、歴史の改ざん。上書きと言い換えてもいいでしょう。ビデオテープは知っていますね」
「……聖杯からの知識には、一応」
「まあ、こちらで同じような事を行ったとしても、向こうと同じ結果となるかは未知数ですが。“人生やりなおし機”でも使えば解るのでしょうけれど」
「人生……やりなおし機?」
「ええ。効果は文字通りです。過去の自分に戻って歴史を修正するというひみつ道具で、もしかすれば彼のポケットに……」
「――――ッ!?」

その瞬間、セイバーは自らの臓腑を鷲掴みにされたような感覚に襲われた。
どくん、と一際大きく跳ね上がる心臓と、頭に血が昇るような精神の昂揚が、津波のように内側からせり出してくる。
しかし、彼女は鉄の自制心でそれらを制御し、ライダーに内心の一切を悟らせなかった。
彼女に背を向けていた事が、ここで大きく働いた。

「とはいえ、あれは……おっと、お喋りがすぎましたね」

そう言って、ライダーは饒舌になっていた己の口に蓋をした。
以前までのクールな面はそのままに、その内側から女性らしい洒脱(しゃだつ)さも出てきている。
これも、好ましい変化と言うべきであろう。

「時間も時間です。行きましょう」
「解っています……ああ、もうひとつだけ」
「なにか」
「貴女は……」

そこで、セイバーはやや間を置いて、こう切り出した。
やはり、身体を背けたままで。

「貴女は、やり直したいと思った事はないのですか?」
「人生を、という事でしょうか」
「ええ」

セイバーがこう聞いた理由は、ライダーの人生が相応に悲惨なものであったからだ。
女神の嫉妬によりゴルゴンの怪物に堕とされ、ふたりの姉を食い殺した挙句、英雄ペルセウスに討伐され、その首を弄ばれた。
“人生やりなおし機”という物の存在を聞けば、いささかなりとも心動かされるものがあるのではないか。
そんな、どこか懇願めいたものが含まれたセイバーの問いは、しかし。



「――――バカバカしい」



ライダーの、そのたった一言を以て一蹴された。

「……え?」

ざわり、とセイバーの心が蠢き、なにひとつ伺い知れなかった鉄仮面の背中から微かな感情がゆらめく。
紫水晶の瞳は、それをしっかりと拾い上げていた。

「正直に言えば、あります。私の生は、慚愧と後悔に塗れたものです。かつて、なかった事に出来たらと、何度思ったか知れない」
「…………」
「しかしそれ以上に、私は姉達の最期の言葉を嘘にしてしまいたくない。ですから、そんな望みは願い下げです」

本当は自分に憧れていたと、自ら口を滑らせて親愛の遺言としたステンノとエウリュアレ。
その曇りなき決意と、影のない純粋な想いを自ら塗りつぶしてしまう。そんな行為を望む事を、彼女は認めなかった。
姉達を、心の底から愛しているからこそ。道程の上書きなど望まない、望みたくない。
たとえ、どれほど狂おしい慚愧の念に苛まれようとも。
戸を眼前にしたまま、彫像のように微動だにしないセイバーを尻目に、ライダーの怜悧な眼光がその鋭さを増した。
彼女は聡く、またなかなかに切れる。このひとつの問いをきっかけに、その心底のおおよそを見抜いていた。

「貴女が何を考えているかは、敢えて問いませんし干渉もしません。ですが」

先程よりも低い、深海を流れる流水のような声が響く。
一拍の間を置いて、ライダーは、その小さな背中に向けてはっきりと告げた。

「せいぜい、一片たりとも後悔をしない選択をする事ですね。騎士王」

金言よりも重く、深々と突き刺さる、その言葉。
騎士王の口の奥から、ぎり、と何かが軋む異音が鳴った。







[28951] 第四十三話
Name: 青空の木陰◆c9254621 ID:90f856d7
Date: 2013/09/13 18:35





「――――ふむ」

紫の女神が来る少し前に、弓兵は眼鏡の少年の枕元にやって来ていた。
カーテンから漏れる黎明の陽射が柔らかい客間、その畳の床に敷かれた一組の布団で、一組の幼い男女が身を寄せ合うようにして眠っている。
少年の方は言うまでもなくのび太、そして少女の方は、これまた言うまでもなくフー子である。
『男女七才にして席を同じくせず』という言葉を真っ向からぶち破っているこの光景だが、しかし妖しさなどは欠片すらもなく、そこには微笑ましさのみがあった。
とはいえ、やはり思うところがない訳でもない。アーチャーは、知らずにらしくもない一言を呟いた。

「……女難の相が出ているな。将来、苦労するかも知らんぞ」

お前が言うな、とどこからか幻聴が聞こえてきそうな言であった。
軽く肩を竦めたアーチャーは、そのまま徐に口を開く。

「起きろ、少年。既に日は昇っているぞ」

揺さぶりはせず、言葉のみを投げる。
しかし、相手は寝汚い事に定評のあるのび太だ。寝つきの良さはオリンピック金メダル級である。一度寝付けば、そんな程度で起きる訳もない。
これで起きれば、無遅刻居眠りなしの優良児童であっただろう。
ただし、頭に『成績』は付かない。それこそが、のび太がのび太である所以である。
ところが。

「うぅ……ん、ぁ……アー……チャー、さん?」

微睡みがかったのび太の声が、布団の中から発された。
目を『3』の字にしてしょぼしょぼとさせているが、のび太はたった一言で覚醒を果たしていた。
ゆっくりと上半身のみを起こし、冬の朝の空気にぶるっと一度身震いすると、枕元の眼鏡を取り上げてぼうっとアーチャーを見上げた。

「うにゅ……」

一方で、フー子は未だ覚醒には至らず、のび太が起きたせいで布団の中へ入ってきた寒気に身を震わせて、のび太にぴたりと密着してきた。
胴に手を回し、両脚をのび太の脚に絡ませ、餅のように瑞々しいほっぺたも鮮やかなオレンジの頭も、のび太の鳩尾辺りへぐりぐりと押し付けていた。
さながら抱っこちゃん人形である。

「ふむ。ふたり仲良く睡魔と戯れているところ悪いが、眼は覚めたかね……む」

あまりに微笑ましすぎる光景に苦笑気味のアーチャーであったが、突如、その表情が険しくなった。
のび太の顔の、ある事に気づいたからだ。

「ふあ、ぁあふ」
「……いや、いささか訂正しよう。よく眠れたかね」

まずは隈だ。目の下に、くっきりはっきりと浮かんでいる。
次に、目の端から横一直線に白い跡が走っている。涙の残滓が乾いたものだ。
極めつけは、さっきの生あくびだ。熟睡したもののそれではなく、それよりもやや濁っていた。
つまり。

「……ううん、あんまり。昨日は、その」

のび太は、芯から眠れていないのだ。
だからこそ、たった一度の呼びかけで眠りから覚める事が出来た。
その理由は、容易に察せられる。

「そうか……いや、そうだったな。彼女と、再会もそぞろに盛大に争った挙句に」
「それは、その。いいんです。リルルも、そういう事を覚悟してた、みたいだったから。悲しいけど、リルルがぜんぶ納得してやったのなら、僕は……」

泣きたいような、笑いたいような、そんな歪で痛々しい表情をのび太は浮かべていた。
そんな彼に何かを言えるほどの繋がりもないアーチャーは、ただ黙ってそれを見ている。
しかし、いつまでもこうしている訳にもいかない。時計の針は、今この時も確実に時を刻んでいるのだ。
湿っぽくなった空気の中で、時間をただ浪費するのはあまりにも惜しい。

「……とにかく、まずは顔を洗いたまえ。ひどい顔だ。そら」

数秒の間隔を置いて、アーチャーは手にしていたものをのび太へ差しだした。

「あ、濡れタオル。ありがとうごさいます……あの」
「どうした」
「なんか、用があったんですよね? 僕に」

眼鏡を額へ上げ、顔を拭きながら確認してきたのび太のこの問いかけに、アーチャーは内心で軽い驚きを覚えた。
妙なところで鋭い、と。
だがもちろん表情に出す事もなく、いつも通り、鉄仮面じみたポーカーフェイスのままである。

「うん? なぜそう思うのだね」
「だって、アーチャーさんが起こしに来るなんてあんまり考えられないし。凛さんを起こすなら解るけど」

たしかに、と思わず頷けるだけの理由であった。
縁薄い人間に、わざわざモーニングコールに訪れるなど不自然であろう。
それならば、用があったと解釈する方がまだしっくりくるというものだ。
そして、アーチャーにはたしかに、のび太に対して用事があった。
ただし、他人には聞かれたくない類のもの、という注釈がつくが。
ほんの数瞬だけ、アーチャーは瞑目する。

「――――ふむ……いや、ただ単に起こしに来ただけだ」

やがて、その口から思惑とは正反対の言葉が吐き出された。
キョトン、とのび太は目を点にしてアーチャーを見つめる。

「そう、なんですか?」
「ああ。昨日の無理が祟って、私も君と同様、目覚めるのが遅かったのでな。そして、気配を探るとお仲間がいた。ならばモーニングコールに出向くのも吝かでないと思い、出向いたのだよ」
「はあ」
「さて、こうして長々と話している訳にもいかん。君らは、早いところ着替えを済ませるべきだな。私は一旦外に出ている、終わったら呼びたまえ」
「はい」
「では、な」

すうっ、と陽炎のように足元から弓兵の姿が消え失せた。
埃よりも薄くなった気配は、そのまま戸の外へと歩き去っていく。
なまくら刀より鈍いのび太の第六感には、もちろん欠片も引っ掛かりはしない。
フー子ならばその気配の動きが解ったかもしれないが。

「あ、消えちゃった。っと、ほらフー子、起きてってば」
「ふみゅ……や、ねむい。ねる」

如何せん、睡魔といまだ水辺の淵で戯れている体たらくでは、無理な相談であった。

「だから、もう起きるんだって。あ、ちょっと、またそんなしがみつかないでよ」
「や」
「ああ、もう! とにかく、ほら! 顔を拭いて着替えてってば!」

駄々っ子の『む~っ』という抗議の声と、急かすのび太の焦り混じりの声が丁々発止と切り結ぶ。
時折ばさばさと響く布団や衣服のはためく音が、アクセントを添える。

「……やはり、甘くなったものだな。“俺”も」

そんな喧騒をBGMに、部屋の外で実体化したアーチャーは、慨嘆するように呟いた。
それは、名状しがたいやるせなさすら滲ませた、仄暗い自嘲の言葉であった。





セイバーとライダーが居間の扉を開けた時、真っ先に耳に飛び込んできたのは沈みがちのボーイソプラノであった。

「――――その、言えません」

ぱちくり、と揃って瞬きをする剣士と騎乗兵の眼前には、士郎、凛、桜、弓兵、リーゼリットを除くアインツベルン主従、そしてのび太とフー子がめいめい、卓に着座している光景がある。
ご飯の盛られた椀が置かれているのは、弓兵、のび太、フー子の三人。それ以外の面々には、茶の張られた湯呑が置かれている。
アーチャーは丁寧かつ素早く箸を動かし、黙々と皿の上の料理をたいらげている。
それとは対照的に、フー子は赤ちゃん握りの拙い箸捌きで一生懸命、むくむくとご飯を掻きこみリスのように頬張っていた。
ではのび太はというと、彼は料理に箸を伸ばすどころか、箸を椀の上に置き、気まずそうに目を伏せている。
卓上の飯は半分ほど残っており、食べかけである。どうやら、食事の途中で一同の誰かから、なにかしら水を向けられたのだろう。
そして、一同の中で尖った気配を漂わせている人間がひとり。
のび太の放った先の一言に、彼を見つめる遠坂凛の片眉が跳ね上がっていた。

「言えないって、どういう事よ」
「だから、その、し、知ってるん……い、言えないんです」

しどろもどろになりながら、必死の形相で凛へ訴えかけている。
もう一度、目をぱちぱちと瞬かせたセイバーは、すっとライダーの方へと振り返る。
しかし、ライダーは頭を横へと傾げた。彼女も何がどうしてこんな事になっているのか、解らないのだ。
そんなのび太の隣では、フー子が今度は納豆を前に、あうあうと四苦八苦している。
白いねとねとしたものが垂れて糸を引き、べったりと彼女の綺麗な顔を汚している。どうやらかき混ぜすぎて糸がパックから溢れ、食べようとした時に顔面を直撃したらしい。
外国人には受けが悪い納豆も、彼女は平気なようだ。しかし、隣の席の雰囲気を考えるとそれ以上にシュールである。
彼女の中では、隣の不穏な雰囲気よりも目の前の納豆の方が、よほど大敵らしかった。

「アンタ、ふざけてるの?」
「そんな訳ないでしょ!」
「じゃあ、なんで言えないのよ。今がどれだけヤバい状況か、アンタだって身にしみて解ってるでしょ。今後の対策のためにも、ちょっとでも知ってる事があるんなら、包み隠さず開陳するのが筋じゃないの。それともなに、懐柔でもされた?」
「か、怪獣? なんで怪獣が?」
「いや、のび太君。その怪獣じゃなくて、つまりその黒幕の思う通りに従わされてるのかって事を聞いてるんだよ、遠坂は」
「それは……えっと、その……」

そこで、のび太の言葉が詰まる。ただし、その詰まり方にはどこか違和感が漂っていた。
たとえて言うなら、喋ろうとしているのに、口ががっちりと縫い付けられて話すに話せないので黙るしかない。そんな印象を見る者に抱かせる。
もにょもにょと奥歯に物が挟まったかのようで、とにかくもどかしい口の蠢き方。
少なくとも、後ろ暗い裏があるような沈黙ではない事は確実であった。

「――――成る程ね。アンタ、口止めされてるの」
「え、その……えっと」

そこまで言って、かくん、とのび太は頭を上から下へ落とした。
つまり肯定の頷きだが、それもやはりちぐはぐ感が漂っている。
雰囲気に呑まれ、セイバーもライダーも戸の前から一歩も動かない。
ただじっと、事の成り行きを静かに見つめるのみであった。
単に、声を発するタイミングを逃してしまったとも言えるが。

「この様子を見る限りじゃ、たぶん」
「暗示、かしらね。それも随分と強力な。口止めというより、この件に関して絶対に何も出せないように……」

凛から答えを引き取ったイリヤスフィールの眼光が、のび太を射抜く。
幼い見た目からは想像もつかないほどの鋭利で冷たい視線だ。
びくっ、と反射的にのび太の身体が震えた。

「解けるかしら」
「難しい……いえ、止めておくべきでしょう。そもそも、そういった術の痕跡や気配をいっさい感知させないほど高度なものです。無理に解こうとすれば、最悪の場合、彼は廃人となります」

想像を絶する激痛によって、とセラが言うと、のび太の身体はさらに震え上がった。
例えるなら、幾重もの鍵と鎖と閂でがっちり閉じられている扉を、C4爆弾やダイナマイトを使って強引にこじ開けるようなものである。
強力な拘束を解くには、より強力な圧力を用いるのが常道。それは、魔術であろうとそれ以外であろうと変わらない理屈である。
だが、なまじ強力な分だけ、それ相応の副作用が発生する。今回の場合は、ともすれば発狂するであろうほどに凄まじい圧力と激痛が、対象の脳髄に襲い掛かる事になる。
これに耐えられるとすれば、それこそ狂人か人外の存在くらいのものだ。

「おい、遠坂。俺は反対だぞ、そんなの。絶対やるなよ」
「しないわよ。とんでもなくハイリスク・ローリターンだし、子ども泣かせる趣味はないもの」
「泣くだけじゃ済まないわよ、リン。耳から目から血を垂れ流して、あまりの激痛に気絶する事も出来ずに、声帯が潰れても泣き喚き続けた挙句にズタズタになるまで全身掻き毟って……」
「まあ、中世の陰惨極まる拷問よりも悲惨な結末が待っていますね」
「え、ぅ……!?」

もはや、蝋人形もかくやと言うほどにのび太の顔色は消え失せていた。
これでは、残りの食事もたいらげられるか微妙なところである。
と、ここで丁度、すべての料理を食い上げたアーチャーが口を挟んできた。

「……そこまでにしておけ。脅しすぎだ、少年が怯えている。それから、そこで所在なくつっ立ったままのふたりをこれ以上、放置しておく訳にもいくまい」

かちん、と椀に箸を置く音を合図に、一斉に総計十四の瞳が槍衾さながらの勢いで向けられて、セイバーとライダーは思わずたじろいでしまった。
瞳が二個ほど足りないが、それはいまだ納豆の糸と格闘しているフー子である。

「え? あ、ライダーに、セイバーさん。ごめんなさい、気づかずに。すぐにご飯用意しますね。それからライダー、ありがとう」
「……いえ。それよりもサクラ、先程からなんの話をしていたのですか」
「ああ、うん。実はね……」

そそくさと移動するふたりに、桜は食事と茶を供しながら要点を掻い摘んで説明する。
数日前に桜が目撃した、黒幕と思われる人物の事、そしてのび太がその黒幕にかつて接触し、暗示を掛けられて黒幕の情報を漏らす事のないようにされたであろう事を。
内容が濃いだけに、すべてを伝えるのにたっぷりと五分はかかっていた。

「……間桐、いやマキリを潰した、シロウと瓜二つの男、ですか」
「私がサクラから離れている間に、そんな事があったとは。それでサクラ、その男にはなにもされなかったのですか」
「え、それは……特には」
「本当ですか」
「ええ、前よりも調子がいいくらいだし。ほら、ラインからの感触で解るでしょ。“なんともない”って」
「ふむ……ッ、成る程、そのようですね。安心しました」

柔らかな声音で、なんでもない事のようにライダーは答える。
だが、その目はほんの微かにだが見開かれていた。
復活したレイラインから伝わる、力強くも安定した一色に染め直された感触に、彼女は驚いたのだ。
後で、ふたりになった際に詳しい経緯を聞く事を心に決め、ライダーは言葉を続ける。

「しかし、その黒幕とやらは、随分とのび太に御執心ですね。まあ、そうでもなければサーヴァントがあんな変化を起こすはずもありませんが」
「それ以上に、そいつの目的がはっきりしないのよね。間桐家を潰したのは、単に面倒事を減らしたって事で納得出来なくもないけど、サーヴァントを作り変えて結局なにがしたいのか、その辺がさっぱり」
「私に刻まれた記憶にも、黒幕に関してのものは存在しません。バーサーカーも同様だったのでしょう?」
「ええ。半分分身のフー子にも、その辺の知識や記憶はないみたいだし。まったく、ほんと何が狙いなのかしら」
「……ん~、そうね。愉快犯?」
「ゆ、誘拐犯?」
「いや、のび太君。誘拐犯じゃなくて愉快犯。事件を起こして世間を騒がせて、その反応を楽しむ事を目的にしてるヤツの事だよ」

二回目だよなこの手のやり取り、と士郎は心中で悪意なきツッコミを入れた。
とはいえ、消火器を『けひき』と読んでしまう小学生の残念な国語力では、こんなものである。

「イリヤ、たしかにやってる事はそれっぽいけど、それはないんじゃないか?」
「どうして?」
「面白半分でやるにしては規模がデカすぎるし、手間もかかってるしな。のび太君の道具を使ってるならその手間も半減だろうけど、やっぱりしっくり来ない」
「たしかに、行動に絡めて相手の手札を考えれば、陰謀の匂いが濃いですね」
「けど、先輩と比べて性格が粗雑そうだったし……」

ああでもない、こうでもないと憶測が卓の上で飛び交う。
これも、得られた情報が断片的なのと、イレギュラーがマキリ当主の暗殺とサーヴァントの突然変異の二種類しか見られず、判断材料が少ないのが原因であった。
加えて、桜から齎された黒幕の性格や言動も、推理を惑わす要因になっている。
自分を『悪のカミサマ』とやたら大きくぶち上げたり、チンピラ臭い口調全開で大立ち回りをやらかしたりと、黒幕らしく鬼謀を巡らすイメージが定着しにくいのだ。
陽炎のような掴みどころのない像ばかりが、卓上で組み上げられていた。

「――――そう言えばセイバー。さっきからぜんぜん話してないけど、どうかしたの?」

と、ここでイリヤスフィールが突如、セイバーに水を向けた。
卓を囲む一員でありながら、どういう訳か彼女は会話に加わりもせず、黙々と箸を動かしているだけ。
表情も、食事の際のお決まりとなった心なしか綻んでいるようなものではなく、むしろ葬式の参列者じみた、どことなく粛然としたものであった。
この手の話し合いに常に加わっていた彼女が、他者が語るに任せっぱなしなのは、白の少女をしてやはり釈然としないものがあった。
大なり小なり、それは他の者も感じていたようだ。
多数の視線を独り占めにしたセイバーが箸を止め、ゆっくりと深緑の瞳を卓上の料理から離し、口を開いた。

「いえ、別に」
「別に、って言われても……」
「にしては静かすぎよね。しかも、能面みたいな顔でご飯食べてるし」
「セイバー、どっか具合悪いのか? 起きるの遅かったしさ」
「体調に問題はありません。話もきちんと聞いて、理解しています」

言い置いて、彼女は再び料理に箸を向ける。
だが、それを遮るようにイリヤスフィールが口を挟んだ。

「そう。じゃあ、貴女はどう思うの? 黒幕について」

普段とは明らかに様子が変なのは、誰の目にも明らかだ。
しかし、そうと気づいていて尚、イリヤスフィールは追撃をかける。
このある種、底意地の悪い横槍に対し、セイバーはひとつ深い息を吐くと、一呼吸おいた上で再度口を開いた。

「……今の段階では、なんとも言えません。ですが」
「ですが?」
「見る限り、すべてはノビタを中心に回っています。ですから、この戦争においては何よりもノビタが重要な存在である事を、確と意識しておくべきかと」
「僕を……」
「黒幕も、陰謀も、もしやすれば結末までも。貴方の存在がある限り、いずれ答えのすべてが見出される。私の『直感』が、そう訴えています……言えるのは、このくらいです」

そう締めくくり、セイバーは今度こそ食事を再開した。
やはり黙々と箸を動かし、咀嚼して嚥下する動作も機械的で、不自然なまでに感情のないそれだ。
それ以上、セイバーから何かを聞けるような雰囲気ではなくなってしまい、それに伴って卓上会議の腰が音を立ててへし折れ、尻切れトンボで幕を下ろす結果となった。

「……ふん」

その中でひとり、アーチャーのみはセイバーにどうとも読み切れぬ視線を注ぎ続け。

「う~。のびた、とって」

フー子は白い粘液まみれになった幼い顔に涙を浮かべ、ついに助けを求めるのであった。





「土蔵?」
「まあ、所謂物置小屋だよ。藤ねえがどこからか持ってきたガラクタとか、普段使わないようなものがしまってある。俺の魔術の鍛錬場所でもあるけどね」
「物置でやってるんですか? 普通、自分の部屋でやるんじゃ」
「あそこが一番落ち着くんだ。それに、ガラクタの修理なんかもあそこでよくやるしな。見てみるかい?」

朝食の後、士郎に誘われてのび太は土蔵へ足を踏み入れていた。
衛宮邸の隅に設置されている日本風の物置は、鉄製の扉で閉ざされてこそいるが、取られてまずいものなどないので施錠はされていない。
ぎいい、と金属音も高らかに開け放たれた扉の向こうには、まさに『雑多』という一言がピッタリくるほどの光景が広がっていた。
日本家屋特有の木の香りと、物置にありがちな埃とカビの匂いが、来る者の鼻腔を擽る。
士郎が頻繁に出入りしているので、さして強烈なものでこそないが、それでもやはり気になる者はいる。

「埃っぽいわね」
「そこは仕方ないから、勘弁してくれ」

ひょこひょこと後ろからついて入ってきたイリヤスフィールに、士郎は詫びを入れる。
元々、のび太のちょっとした気分転換が目的で誘ったのだが。

「わたしもいく!」

傍で聞いていたイリヤスフィールも、手を上げて便乗してきたのだ。
男であるのび太はともかく、女のイリヤスフィールの興味を引くものなどありそうもないがいいのか、と一旦は忠告した。
しかし、イリヤスフィールの言い分はこういうものであった。

「ん~、ちょっとね。シロウが普段、どんな魔術の鍛錬やってたか気になって。たしか、『強化』だけだったわよね。成功率は“お察し”の」
「…………」

実に身も蓋もなかったが、とりあえず断る理由もないので都合ふたりのご来場と相成ったのである。

「わ、色んなものがある」
「昨日、一通り掃除と整理はしたけど、尖った破片なんかがまだ落ちてるかもしれないから気を付けてくれよ」

自分の家の物置よりも高い天井を見上げた後、のび太は改めて内部をいろいろ物色してみる。
二階建ての土蔵は、少なく見積もっても母屋の居間と同等のスペースがあり、天井近くでは屋根裏部屋と同じように梁が剥き出しになっている。
一階中央の区画にはブルーシートが敷かれ、解体されたブラウン管テレビとドライバーやモンキーレンチ、はんだごて、ハンマーといった工具類が整然と置かれている。
壊れたテレビを直す作業の途中のようだ。のび太はそこには手を触れないようにしてそろりと動き、今度は周囲に目を向ける。
壁側のスペースには古新聞の束や鉄パイプ、壊れた電気ストーブ、ランタン、ポスター、屋台のたこ焼き器、砕けた角材など、明らかにガラクタと思われるものからまだ使えそうなものまでが、そこかしこに置かれている。
近くに二階への階段があったので登っていくと、一階よりも物が整理されている区画が広がっていた。
段ボールや古めかしい桐の箱が、のび太の胸ほどの高さの棚の中に収められている。
入っているのは、古雑誌だったり、壺や掛け軸の類だったりだ。

「本当に物置なんだ」
「期待を裏切って悪いけどね。二階の壺やら掛け軸も、親父がいつぞや土産で持ってきた二束三文の品だよ。見ての通り、そこまで高価なものは置いてない」
「……本当にそうかしら」

イリヤスフィールが、しゃがみ込んだ体勢で地面のある一画を撫でながらそうのたまった。
片眉を跳ね上げ、疑わしげな表情を浮かべた彼女に、訳も解らず士郎はかりかりと頬を掻く。

「あーっと……なにか目ぼしい物でも見つけたのか?」
「これ、陣よね」
「陣?」

こいこい、と手招きをするので、士郎はそれに従ってイリヤスフィールの下へと向かう。
彼女が差し示したところを見ると、そこにはうっすらとなんらかの線と紋様が刻まれていた。
本当にうっすらで、色が地面とほぼ同化しており、よほどに注視しないと判別出来ないほどである。
目を凝らして線を辿ってみると、土蔵の床全体に渡って円を描くように続いている。

「……本当だ。なにか、魔法陣みたいなものが描いてあるな。もしかして、これ親父が?」
「たぶん……ううん。間違いなくそうね。この屋敷は、前の戦争でのキリツグの拠点のひとつだもの。たしか、セイバーを召喚したのもここって、シロウ言ってなかった?」
「ああ、ランサーに襲われた時、偶然な。そっか、こいつがあったからセイバーを呼び出せたのか……たしかに、あの時地面が光ったからな」

得心がいったように何度も首を上下させる士郎に対し、イリヤスフィールの疑問の表情はいまだ解けず。
逆にすっと目を細め、他者を射竦めるような眼光を放っていた。

「これだけじゃ、足りない」
「は?」
「もうひとつ、ファクターが必要なはずなの。セイバーを呼び出すには。それも、強固な縁を繋ぐようなものが」
「縁、って、セイバーは前に爺さんのサーヴァントやってたから、義理とはいえ息子の俺が呼び出せたんじゃ」
「そんなハゲの残り毛みたいなか細い縁じゃ無理よ。それで召喚出来るのなら、キリツグの実の娘のわたしだってセイバーを呼び出してるわ。バーサーカーじゃなくてね」
「……まあ、そうだな」

イリヤスフィールの微妙に毒の混ざった物言いに辟易しつつも、士郎は頷きを返す。
前マスターの衛宮切嗣の繋がりで言えば、直系の血縁であるイリヤスフィールに軍配が上がる。
偶然で呼び出される英霊などいない、というのが魔術師の不変の常識である以上、士郎がアーサー王を呼び出せた直接の要因は、それ以外に存在する事になる。

「もっと強力な触媒。セイバー……アーサー王と切っても切り離せないような代物が必要になるわ」
「と、言われてもなぁ。再三言うけど、ここには二束三文のガラクタしかないぞ。そんな大層なシロモノがあるとは……なあ」
「キリツグの遺品の中にも?」
「……ないぞ。というか、それ以前に遺品整理をやったのはもう何年も前だしな。形見分けで、藤ねえのところにやった物もいくつかあるけど、それにしたってそれっぽいのはなかった」

がしがしと頭を掻き回し、士郎は弱りきったように嘆息する。
重要な事なのだろうが、彼にはまったく心当たりがないのだ。
養父からは、その手の物について何一つ引き継いでいない。少なくとも、彼の知る限りにおいては。
土蔵の内容物も、過ごしてきた十年あまりでほぼ把握しきっているので尚更、思考の袋小路に嵌まってしまう。
彼の養父が、そもそも士郎を極力魔術の世界に浸らせたくなかった事は、士郎も理解している。
魔術の裏社会で、血みどろの道を歩んだ過去を考えれば、それも納得出来るというものだ。
アーサー王所縁の品などという、どこぞのお宝鑑定団も卒倒モノの遺物など、禍根を断つためにとうに処分していてもおかしくはない。

「…………」
「いや、だからそんな不審そうな眼で見られても」

じと~っ、と職質中の警察官のような視線をぶつけてくるイリヤスフィールに、士郎は思わず後退ってしまう。
一応、士郎に見つけられないような場所に隠した可能性もない訳ではない。
床か壁でも引っぺがせばなにか出てくるかな、と半ば逃避的に考えが浮かんだその時、士郎の下にのび太が二階から降りて駆け寄ってきた。
その両の手には、黒いプラスチックの箱のような物が抱えられている。

「士郎さん」
「ん、と、のび太君。どうした」
「ノビタ、それビデオデッキ?」
「うん。二階で見つけたんだけど」

ふたりの前に、のび太はそれを差し出す。
見た目は、ひと昔前の家庭用ビデオデッキのそれだ。
のび太の世界ではまだ現役の代物だが、士郎達の世界ではVHSに代わってDVDが普及しているので、機種そのものが既に前時代の遺物となっている。

「それは、藤ねえが拾ってきたヤツだな。いつぞや、まだ使えそうだからって俺に丸投げしてきた。一応修理はしたんだけど、起動するかは試してないな」
「タイガが、ね。その光景が目に浮かぶようだわ」
「でも、これちょっとおかしいんだ」
「おかしい?」
「うん、やけに軽いんだ」

のび太がイリヤスフィールにビデオデッキを手渡したその瞬間、イリヤスフィールの表情が凍りついた。
たしかに軽い。外装だけ残して、中の部品を丸ごと撤去したような心許ない重さが、彼女の手にのしかかる。
だが、彼女が驚愕の念を覚えたのはそこではない。

「なに……これ。こんなの、ありえない」
「イリヤちゃん、どうしたの?」
「シロウ、説明して。いったいなんなの、これは」
「は?」

訳も解らず、士郎は困惑を露わにする。
ずいと差し出されたビデオデッキを手に取ると、ある事に気がついた。

「あ、これは“失敗作”だな」
「失敗作?」
「俺が手慰みに作った出来損ないだよ。内部の再現までは出来なくてな」
「でも、外側はそっくりそのままじゃないですか。これだけ作れるのに、なんで中は?」
「頑張ってはみたんだけどな……毎回毎回、外側だけで止まっちゃうんだよ」
「はあ」

士郎が肩を竦めて、のび太は曖昧に相槌を打つ。
しかし、会話が致命的に噛み合っていない事にお互い気づいていない。

「バカ」

と、その時イリヤスフィールがのび太の耳をぎゅっ、と引っ張った。
のび太よりも幾分か小さい手なのにも拘らず、その力は存外強い。
千切れるかと思わせられるほどの痛みに、堪らずのび太は悲鳴を上げる。

「い、痛たたたたた!? 痛い、痛い! ちょ、ちょっと、いきなりなにするのさ!?」
「『はあ』じゃないわ、ノビタ。これが、そんな一言で終わらせられるようなシロモノな訳ないじゃない」
「え、ええ?」

怒気すら含んだイリヤスフィールの深く、静かな声に、のび太は目を白黒させる。
そして、彼の耳の奥から嫌な音が鳴り響き始めた刹那、ぱっ、と耳の拘束が解かれた。

「わひ!? あ、あうぅ……ど、どういう事?」
「見ていなさい」

涙目で耳をさするのび太の目の前で、イリヤスフィールはビデオデッキを士郎の手から取り上げると、いきなりそれを地面に叩き付けた。
がしゃん、とガラス細工が砕けるような音が響き渡り、大小さまざまな破片となったデッキの外装がばらばらに散乱する。
突然の奇行に、理由も解らずのび太の目が点になる。
だが、この一瞬後に起こった現象を直視するや、耳の痛みも忘れて素っ頓狂な声を上げた。

「きっ、消えちゃった!?」

まるでドライアイスが気化しきったかのように、地面に散らばったデッキの破片がひとつ残らず霧消してしまったのだ。
後には、見慣れた土蔵の床の灰色しかない。

「い、いったいなにが?」
「シロウ、正直に答えて。貴方が使える魔術は、本当に『強化』だけなの?」

困惑しきりののび太を余所に、凄みすら帯びたイリヤスフィールの瞳が士郎を射抜く。

「あ、ああ。『解析』なんかの基礎を除けは、曲がりなりにもまともに使えるのは『強化』しかない」
「『まともに』? という事は、未完成だけど一応使える魔術が他にもあるって事かしら?」
「ん、まあ。『投影』を、な」
「『投影』……」

士郎の台詞を復唱しながら、しかしイリヤスフィールは厳めしい表情を一ミリたりとも解かない。
それどころか、彼を射抜く眼光は、さらに強い光を帯びて突き刺さっていた。
気圧された士郎は、焦ったように言葉を継ぎ足していく。

「いや、さ。魔術を習い始めて最初に覚えたのが、出来損ないの『投影』なんだ。それで爺さんに一回やってみせたんだけど、『それは効率が悪いから『強化』にしておけ』って言われてな。それ以来、『強化』が失敗してから片手間にやる程度に留めてたんだ。で、結果出来た物のひとつが、さっきのビデオデッキなんだよ」
「えーと、つ、つまり、さっきのビデオデッキは、士郎さんが魔術で作ったニセモノ、って事、ですか?」
「ニセモノというよりは、コピーかな? 『投影』は君の“フエルミラー”みたいに、ある物のコピーを魔力で作る魔術だから。まあ、俺が作れるのは見た通り、中身のない出来損ないだけどね」

苦笑交じりに応える士郎だったが、傍らのイリヤスフィールの怒気は未だ収まる気配を見せない。
じわじわと、侵食するように彼女のプレッシャーは膨れ上がり、男達の背筋に冷たい物を走らせていく。
やがて、吐き捨てるように彼女は呟いた。

「……こんなの、『投影』じゃないわ」
「え?」
「ん? どういう……意味だ?」
「いい、シロウ。よく聞きなさい」

そう宣言したイリヤスフィールの纏う雰囲気は、普段の幼いものとはまるで違っていた。
士郎よりもあらゆる意味で成熟した、理知的で聡明な佳人のそれ。
さながら、アインツベルンの英知のすべてを背負っているかのような、儚げでありながらも見る者を惹きつけて止まないオーラを、その小さな身体に纏っていた。

「『投影』は、たしかに魔力を編んで複製を作り出す魔術よ。けれど、作ったものは長く形を保てない。『世界』からの修正を受けて、徐々に魔力が気化していつしか消えてしまう」
「あー……っと、『ニセモノ、ダメ、絶対』って事か? その、『世界』から見ると」
「平たく言えばそうよ。『投影』で作ったものは、結局のところ人間の空想を形にしたイミテーションだもの。そんな歪で矛盾するモノの存在を、『世界』は許さない。だから、『投影』で作り出したものは消えるのよ」

切々と語るイリヤスフィールの声は真剣そのもので、まさに触れれば切られてしまいそうなほどだ。
怜悧な眼差しは、士郎の瞳を真っ直ぐに貫き、士郎を心理的に圧倒する。
張り詰めた雰囲気に当てられ、ごくり、とのび太の咽喉が鳴った。

「シロウ。貴方は『投影』と言ったけれど、あれは『投影』なんてものじゃない。はっきり言うわ。異常よ、貴方」
「異常、って」
「さっきのセイバーの件も含めてね、そうとしか言いようがないもの。あのビデオデッキは、長い間形を保っていた。そして、壊れて初めて魔力に戻って霧散した。『投影』による産物なら、こんな現象はあり得ない」
「じゃ、じゃあ、いったいなんなのさ、あれは?」
「『投影』とは違う、現実を侵食し得るまったく別の概念。正確には、それが劣化したもの……おそらく」
「「おそらく……!?」」

ひゅうっ、と息を吸い込むイリヤスフィール。
聴衆ふたりの目がぐぐっと引きつけられ、最後の審判のように次の言葉を待つ。
そうして、遂に彼女の口から。

「――――こゆ、ぅきゃっ!?」

なんとも可愛らしい悲鳴が飛び出した。
緊迫感ひしめいていたはずの空間がめきょり、と崩れる音が、男ふたりの耳をくぐり抜けていく。
そこには頭の天辺を押さえ、床に突っ伏しぷるぷると悶絶しているイリヤスフィールの姿があった。
頭を掻きたくなるような、なんとも言えない微妙な空気が数瞬の間、土蔵を席巻する。

「……だ、大丈夫かイリヤ?」
「もう、いきなりなんなのいったい!?」

頭をさすりながら天井を見上げ、憤懣を露わにするイリヤスフィール。両の紅眼には、涙がじわりと滲んでいる。
見た目が儚げな美少女であるだけに、潤んだ眼でへたり込むその様は、見る者の保護欲を掻き立てる。
そんな彼女の足元には、一冊の雑誌がめくれて転がっていた。

「あ、これが二階から落ちてきたんだ。痛そう……」
「角だったよな、思いっきり」
「う~、コブになってないかしら」

のび太が拾い上げた雑誌は、辞典ほどもある大きさで、手にずっしりとした感触を覚えさせていた。
埃まみれで、全体的に陽に焼けて赤茶けており、角もざらざらに荒れてすごしてきた年月を感じさせる。
古本屋に持って行っても、二束三文でしか売れないであろう。もしかしたら、買い取り拒否をされるかもしれない。
それよりも、廃品回収に出した方がまだ良心的ではなかろうか。
そう思わせるくらいに、その雑誌はぼろぼろであった。

「随分くたびれた本ね」
「二階で野晒しになってたみたいだな。古雑誌は粗方紐で纏めてたんだが、これだけ見逃してたのか」
「あ、マンガだ。士郎さんも読むんですね、こういうの」
「そりゃ読むさ。俺も一応、男だからね。こういうのは好きだよ。まあ、最近はさっぱりだけど」

のび太が差し出したマンガを受け取りながら、士郎は苦笑する。
だが、なにげなく本に視線を落としたところで、表情がするりと変わった。

「あ……これ」
「はい?」
「俺のじゃない」
「え?」

士郎の言っている意味が解らず、のび太は首を傾げる。
しかし、雑誌をよくよく見てみると、のび太自身が本棚に収めているマンガの類と趣が違う事に気がついた。

「日本語じゃなくて、え、英語?」
「アメコミだよ」

士郎の言葉の通り、それはアメリカン・コミックであった。
日本のものとは違う、独特の大味なタッチにアルファベットで羅列された擬音語に擬態語。
表紙にでかでかと描かれているのは、マントを羽織った大柄な白人男性だ。
拳を突き上げたポーズで笑顔を振りまき、今にも本の中から飛び出してきそうな躍動感に溢れている。
巷でよく知られたアメリカのキャラクター、どこぞのスーパーなあんちくしょうのマンガであった。

「へえ、これがアメコミ……ふぅん」
「イリヤは見た事ないのか、こういうの?」
「アインツベルンがそういうものに寛容だと思う?」
「……いいや」

表も裏も名家であるアインツベルン、士郎の脳裏にはガチガチにお堅いイメージしか浮かんでこない。
イリヤスフィールの貴族めいた立ち居振る舞いといい、お付のふたりのメイドといい、明らかに俗世間の感覚とは一線を画している。
首を振る士郎に対し、イリヤスフィールは怒るどころか、苦笑を以て応えた。

「でも、シロウのじゃないってどういう事なの?」
「数年前に、押し付けられたんだよ」
「押し付けられた?」

怪訝な声を上げたのび太に、士郎は一度首肯して答えを返した。



「ああ、慎二にな」







[28951] 第四十四話
Name: 青空の木陰◆c9254621 ID:90f856d7
Date: 2013/10/18 22:35





『――――正義の味方ぁ? まったく、ガキじゃあるまいし。将来の夢聞かれて、普通そんな事身内に宣言するか?』

『そうは言うけどな、俺はいたって真剣だぞ。今だってな』

『あっそ。ま、学校でもそれ以外でも、赤の他人の世話ばっかり焼いてる衛宮にはお似合いだよ』

『困ってる人がいたら助けるのは当たり前だろ』

『ふぅん。それが衛宮の言うセイギノミカタ……かい?』

『ああ。助けられる人がそこにいるのなら、俺は手を差し伸べる。救える人間がいるのなら、なにがあっても駆け付ける』

『そんな人間になりたい、って?』

『そうだ』

『ご立派だねぇ。そして……ああ、甘いこったね』

『でも、それが俺の夢だから』

『あー、そっちじゃないよ』

『ん?』

『きみはじつにばかだな』

『は……?』

『なんにも解っちゃいない。なんにも考えていない。志をただ、咆えてるだけだ。助ける? 救う? はん、それがどんなものなのか、知りもしないでよく言えるもんだ』

『……どういう、意味だよ』

『衛宮が考えなしのバカタレって意味。そのトコロテンみたいな頭でも、頭は頭だろ。ちょっとはよくよく考えろって言ってるのさ』

『なんだよ、それ』

『……ふん。ま、結局は、僕のただの愚痴みたいなものだからね。聞き流してくれていいよ……とはいえ、せっかくだ。ちょっと家に来いよ。参考書をくれてやる』

『参考書?』

『そ。まあ、いいから黙ってついて来いよ。読もうが捨てようが、衛宮の損にはならないからさ』





士郎が数年前の記憶を語り終えた時、本が戸からの風に煽られ、かさりと揺れた。

「で、慎二の家で押し付けられたのがこれって訳なんだ」
「……意外ね。あのワカメヘアー、こんなの読むの」
「なんでも、一時期海外に滞在してた事があるらしくてな。その時、偶さか手に入れたって言ってた」
「それ、何年前の話?」
「さあ、そこは聞かなかったから。ただ、コレの発行年月日を見るに、十年くらい前の事だろうな」

ぱらぱらと本の後部ページをめくり、士郎は推測を口にした。
陽に焼けていると言っても、本の内側までは焼けていない。
加えて、近年の製本に使われる紙は虫害に強いので、虫食いもなく内容はしっかり残っていた。

「それって、単に都合よくゴミ押し付けられただけなんじゃ」
「そうね、きっと」

のび太の推測にイリヤスフィールが太鼓判を押すと、士郎はなんとも言えない表情となった。
否定出来る要素がなかったのだ。
そうでもなければ、如何に士郎とて存在を忘れて土蔵の片隅に放置などしないだろう。
バツが悪くなり、誤魔化すようにせかせか本のページをめくっていく。
律儀にかつて一度目を通している分、ほぼ流し読みに近い勢いであった。
少年少女が、それぞれ士郎の左右からマンガを覗き込んでいる。

「ふーん……」
「イリヤちゃん、内容解るの?」
「当たり前でしょ。魔術師の総本山は倫敦(ロンドン)にあるんだし、英語が操れなきゃ話にならないもの」
「そ、そうなんだ。そういえば、イリヤちゃん外国人だもんね」
「リンも読めるはずよ。魔術師である以上、才能云々以前の必須事項だし。お兄ちゃんもそうよね?」
「え?」
「……なに、その『え?』って」

突き刺すようなイリヤスフィールの視線に、言葉に詰まった士郎は冷や汗を浮かべる。
士郎の穂群原での成績は、お世辞にも優等生とは言えない。
当然、英語の成績も“お察し”レベルである。
頭自体は悪くないので、必死に勉学に励めば形になるだろうが、現時点では英語教師である大河の首を傾げさせるレベルでしかない。

「えーと、その、すまん。半分も理解出来ない」
「……ここで見栄を張らないのが、お兄ちゃんのいいところよね」

生暖かさの滲んだ言葉に、士郎の首がガックシと落ちた。
逆に、ここで見栄を張ってしまうタイプであるのび太はと言うと、決まり悪そうに身じろぎしていた。
どうやら、嫌味に聞こえたらしい。

「け、けどまあ、絵だけでも内容はある程度解るさ。そこがマンガのいいところだしな」

児童が読む絵本も、それと似た要素がある。
ページをめくる毎に、コマを辿る毎にパズルの断片が頭に積み上げられ、整合性を取るように組み合わさっていく。
昼間は、真面目に働く勤め人。
だが、ひとたび人々に危難が訪れれば、彼はスーツを脱ぎ、マントを羽織って超人へと変身する。
そして、その尋常ならざる力を振るい、人々を救うのだ。

「ヒーロー……正義の味方」

ページをめくっていた手が止まる。
ひとりごちたと同時に、士郎はいつかの夜の光景を思い出した。
月の高く昇った夜、縁側で唐突に告げられた養父のかつての夢。
大人になった事で、叶えられなくなったとこぼした、かつての夢。

「『正義の味方になりたかったんだ』……か」
「なに、それ?」
「ん。ちょっと、な」

そう思った背景に何があったのか、何を思っていたのかは、士郎には解らないし、想像もつかない。
だが、子どもが親の夢を継ぐのは当然の事。
その思いから、士郎は養父に向けて宣言した。
爺さんの夢は、俺が必ず形にしてやる、と。

『ああ……安心した』

そうして、眼を閉じた養父の表情は、憑き物が落ちたかのように穏やかだった。
その末期の言葉を胸に、士郎はこれまで生きてきた。
立てた誓いに、違わぬように。魔術の鍛錬にも、以前にもまして取り組むようになったのもこの時からであった。

「…………」

ふと、士郎の表情に苦いものが混じる。
ほんの数日前、その誓いに氷の刃を突き立てた男を思い出したからだ。

『――――喜べ少年。君の願いは、ようやく叶う』

教会の神父であり、聖杯戦争の監督役たる言峰綺礼。
マスターとして聖杯戦争を戦うと男に宣言したあの晩の去り際、彼は士郎の背中にそう宣告した。
そして、養父との繋がりを匂わせると同時に、こんな言葉を継ぎ足した。

「正義の味方の存在には、明確な『悪』が要る……」
「え?」
「……いや。少し前に、そんな事を言われてさ」

きょとん、となったのび太に、士郎は努めて穏やかに補足する。
底冷えするように腹の中にたゆたう不安に、蓋をするように。

「正義の味方が必要とされるには、『悪』の存在が不可欠って事らしい」
「へえ。ある種のジレンマね」
「ああ……。俺は、何も言い返せなかった」

口にする気などなかったはずなのに、気がつけば士郎は弱音にも等しい言葉を吐いていた。
なぜだろう、とふと思う。
姉同然の人にも、妹分にも、終ぞこんな弱気を晒した事はないというのに。

「じ、ジレンマ……って?」
「簡単に言えば、板挟みよ」
「板挟み?」
「つまり、正義の味方になりたかったら、どこかに悪者がいないといけないって意味。悪者を懲らしめるのが正義の味方なら、その悪者がいなかったら正義の味方なんていらないじゃない。解った?」
「う、うん。なんとなく」

ふと士郎が振り返ると、難解なパズルに挑んでいるような表情ののび太に、イリヤスフィールが噛み砕いて説明していた。
途端、すとんと欠けたピースが胸にはまり込むような感触を覚え、ああ、そうかと士郎の口角が跳ねた。

「のび太君か……」
「は、はい?」

バーサーカーと最初に刃を交えたあの月下の戦場で、のび太は我先にと逃げ出した。
それでいいと思った。
非力な少年が立つべき場所ではない、巻き込ませたくはないと自分の非力を棚に上げて思った。

『そ、その……士郎さん達がやっぱり心配で……戻ってきちゃいました』

だが、その意に反して彼は戻ってきた。
持てる限りの武器を引っ提げ、ノミの心臓と震える脚を叱咤して。

『僕は……ぼっ、僕は! 通りすがりの、正義の味方っ!! 野比、のび太だ!!』

恐怖を勇気で打ち破り、正義の味方であると咆えた。
士郎の脳裏には、その光景が鮮やかに焼きついている。
力になりたいと決めた者のために自らを奮い立たせるその姿は、まさに『セイギノミカタ』であった。
士郎の心の奥底に、ちくりと暗い感情を突き刺すほどに。

「士郎さん?」

たとえ口が裂けても、誰にも言えない。
あの瞬間、士郎がほんの微か、のび太に嫉妬を覚えた事など。
優しい勇気に満ちたその瞳を見た時、のび太の身体が、自分よりも遥かに大きく見えた。
それと同時に、養父から受け継いだ自分の夢が、なんだかひどく薄っぺらいものに感じられてしまった。
そして、彼はなんとなく解ってしまう。
どうして、自分の志が薄っぺらいなどと感じてしまったのか。

「――――本当に」

マンガのページに目を落として、今、士郎は改めて思う。
かつてぶつけられた、慎二の言葉の通りだと。

「本当に……俺って、なんにも考えてない。咆えるだけで、考えなしのバカタレだ」
「し、士郎さん? どうかしたんですか? さっきから変ですけど」

自分の方を振り返ったり、ページに視線を映しては整合性のない独り言を呟く士郎が、のび太にはちょっと不気味に見えていた。
さもあろう。
内心の百面相を繰り広げる士郎は、挙動不審どころか、情緒不安定にさえ見えてしまう。
不安に揺れる声に対し、士郎はなんでもないと手をぱたぱたさせて答えた。

「――――悩んでるのね、シロウは。そのジレンマ……ううん、『セイギノミカタ』そのものに」

しかし、この場で誰よりも聡明な内面を持つ白の妖精には、誤魔化しが効かなかった。
そもそもからして、士郎は表層の心理を表に出す事はあっても、その深層を決して曝け出す事はない。
付き合いの浅いイリヤスフィールがそれを見破れたのは、記憶にある実父と士郎がよく似ていたからだ。
子どもは、親の背中を見て育つ。
養父に憧れた子どもは、実に養父と似た傾向を持っていた。
ゆえに、ほんの微かに漏れ出た彼の深層の感情を、イリヤスフィールは拾い上げられたのだ。

「……ああ」

僅かに逡巡するも、士郎は白旗を掲げた。
ほとんど抵抗を感じなかった事が、なんとも不思議な心地であった。

「俺さ、爺さんに約束してからずっと、考える事を止めてたんだ。無意識にそうしてたのか、単に思い至らなかったのか、それは解らないけど」
「『セイギノミカタ』というものについてを?」
「ああ」
「……えっと?」

訥々と語り始めた士郎に、のび太の戸惑った声が降りかかる。
こういった哲学めいた話は、彼には馴染みの薄いものだ。
そもそも、思春期前後の児童がそう簡単に理解出来るような話でもないのだが。

「慎二の言った通りだよ。俺は、考えなしだったんだ。だから、あいつの言葉になにも言えなかった」
「正義の味方のジレンマに、ね」
「ん、ん~……」

悪の存在があったればこそ、正義の味方が必要とされる。
そう告げられ、士郎は反論の言葉を持てなかった。
悪という存在がそこにあって初めて、正義の味方は存在を、価値を認められる事になる。
そんな事はないと思いながらも、何一つをも言い返せなかった自分を、心底情けないと思った。
忸怩たる思いが、湿地帯のように士郎の中にじわじわと広がっていく。

「あ、あのー……」

そこに一石を投げ込んだのは、うんうん唸っていたのび太であった。
ほんの一瞬、士郎の胸がどくんと強く跳ねる。

「ん?」
「その、正義の味方って、どうしても悪い人を懲らしめなきゃダメなんですか?」
「え、っと。どうしてそう思うんだ?」
「だって」

士郎の手にある、開いたままのマンガのページを指差して、まだ当惑の色濃い声音で告げた。

「この人、列車を止めて乗ってる人を助けようとしてるけど、悪者なんて懲らしめてないじゃないですか」

見開きのページには、マントを羽織った男が空を飛び、暴走列車を喰い止めるべく先頭車両の前に回り、その凄まじい膂力を発揮しているシーンであった。
この時、のび太はなぜか、マントを付けたドラえもんが同じような事をやっている光景を幻視したのだが、気のせいだよねとすぐさまそれを振り払った。

「それは……」

士郎は言葉に詰まった。
このシーンは、あまりにも有名だ。
実際に、スーパーな人の話を見た事がない者でも、ちらりと見かけたり、耳に挟んだ事くらいはあるはず。
切り取られたこのシーンに限って言えば、明確な悪の存在はない。
強いて言うなら、暴走列車がそれに該当するが、この場合は事故や災害と見るべきだろう。
勿論、このスーパーなシリーズには、はっきりとした悪が掃いて捨てるほどいる。
しかし、ぱっと見ただけで詳しくないのび太には、そう見えてしまったのだ。
それでも、言いたい事は解る。

「……そう、だな」

つまり、正義の味方にとって、悪の存在はただの十分条件であり、必要条件ではない。
たったそれだけの事なのだ。
“強きを挫き、弱きを助ける”。それはおおよその正義の味方に当てはまる共通事項だろう。
その中で大事なのは、前者ではなく、後者。
助けるという事こそが本懐なのであって、挫くのは結局、過程の一要素でしかない。

「そもそもね」
「ん?」
「シロウの望みは、『困っている人を助けたい』って事なんでしょ。なら、悪の存在云々はそこまで悩む必要ないんじゃない?」

イリヤスフィールの言葉は、金言よりも重く響いた。
詰まる所、士郎は言峰の言葉にまんまと惑わされてしまったというだけの話であった。
坊主の禅問答ほど、矛盾と葛藤の袋小路に追い込むものもない。
ぎり、と士郎の口から硬質な音が漏れた。

「――――くそ」

赤胴の髪を乱暴に掻き毟り、士郎は吐き捨てる。
腹の中が煮えくり返っている。
言峰にだけではない。
戯れに吐き出された言葉に翻弄されてしまった、不甲斐ない自分に対しても、彼は深い怒りと失望を覚えていた。
そんな士郎の背中を、イリヤスフィールがぽんぽんと軽く叩く。

「……ん。悪い。言峰に振り回されてた自分が、どうにも情けなくてな」
「コトミネ?」

士郎の口から飛び出した人物の名に、イリヤスフィールはきょとんとした表情を浮かべる。
しかし、それも一瞬の事で、納得したように首を上下させた。

「あの神父ね。成る程、言いそう」
「知ってるのか、イリヤ。あいつを」
「一応、挨拶にも行ったしね。それに、魔術師の世界でもそこそこ知られてるわ。『代行者』としてね」
「……そういえば、遠坂もそんな事言ってたような。教会と協会の二足草鞋とか」
「けれど、何を考えてるのか解らないところがあるわ。わたしも、好きにはなれない」

可愛らしい顔を盛大に歪めての断言。
心の中で、士郎は大いに同意した。
というより、あの腹に一物、二物どころか二ケタ以上も抱え込んだ、胸に提げた十字架すら真っ黒に染まりそうなエセ神父を好きになれる者などいるのだろうか。
いるとすれば、その者はきっと英霊級の聖人であろう。
凛にとっては兄弟子にあたるらしいが、愛想こそよくないとはいえ、よく付き合っていられるなと、半ば感心にも近い気持ちを士郎は覚えた。

「でもね、コトミネの言う事も解らなくはないの。物語に勧善懲悪は付き物だし」
「か、完全超悪?」
「……字が違うわよ。つまり、悪者を懲らしめてハッピーエンドの話が多いってコト」

もはやこの手のやり取りもお決まりとなりつつあった。
ツッコミを交えた解説を自分なりに咀嚼して飲み込むのび太の表情は、テストに挑む時より数段マシだが、やはり若干苦心に染まったものであった。
うんうん唸り、煙が出るくらいに脳を回転させて、コンクリートに油を染み込ませるかの如くじんわりと理解を深めていく。

「そういえば……そうかな。僕達も、だいたいそんな感じだったっけ」
「え?」

腕組みし、記憶の底を浚うようにのび太は眉根を寄せて考え込む。
怪訝な顔となったイリヤスフィールだが、直後、その端正な顔から一切の表情が吹き飛んだ。

「恐竜ハンターにガルタイト、ダブランダー、ポセイドン、デマオン、ギルモア、鉄人兵団、牛魔王、ギガゾンビ、ニムゲ、アブジルとカシム、雲の王国を乗っ取った密猟者達、ナポギストラー、オドローム、ヤドリ、Dr.クロンとMr.キャッシュ、アンゴルモア、レディナ、フェニキア、デスター、Dr.ストーム、ネコジャラ……」

指を折りながら、堰を切ったように次々と出てくる人名やら組織名。
なかには既に聞き及んでいるものや、やたらと有名なビッグネームも混じっている。
詳しく聞きたいような、聞きたくないような。
地雷の撤去作業員さながらにうるさく騒ぎ始めた心臓を余所に、努めて静かにイリヤスフィールは問うた。

「なんなの、それって」
「えっと、今まで僕達が冒険で戦った悪者とか、会社とか、機械、妖怪に悪魔と……あと怪獣?」
「……そう。えいっ」
「あ痛ッ!?」

ぱちーん、とのび太の額から気持ちのいい音が鳴り、イリヤスフィールは手を振り抜いた姿勢のまま、凄まじく剣呑な視線をのび太に突き刺していた。
普通であれば、対話相手を張り飛ばしたりなどしないのだが、外見年齢においてほぼ同等ののび太であるので、気安さも手伝ってやや遠慮がなくなっているようだ。
おまけに内容は、ちゃぶ台をひっくり返したくなるほど非常識極まりないもの。如何に礼節を弁えた淑女でも、手にした扇を叩き付けるというものだ。
逆上するのを必死で堪えていた凛の気持ちが、少しだけ理解出来たような気がした彼女であった。
士郎も士郎で、開いた口が塞がらず、間の抜けた顔を晒している。
実際に己の目で見たあの脅威の鉄人兵団やマフーガ以外にも、この年にして数えるだけで億劫になるほどの敵とやり合ってきた事実が、まるで信じられない心地であった。

「話の途中だから、詳しく聞くのは後にするけど、よく生きてるわね。貴方」
「痛ててて……う、うん。ぼ、僕ひとりじゃなんにも出来なかったけど、ドラえもんにしずかちゃん、スネ夫にジャイアンが、皆が助けてくれたから」
「ふぅうん、そう」
「……あ、あははは」

じんじん痛む額を押さえて、のび太は愛想笑いを浮かべる。
実はオドロームにやられて一回、などとおどけられない。
なにしろ、呆けたままの士郎はともかく、イリヤスフィールが怖いのだ。
あの禁断の爆弾で咆え猛った凛もかくやという覇気が、のび太の身体を押し流す勢いでぶつけられている。
しかも、表情は怒りを露わにしたものではなく、それどころかうっすらと、天使のような微笑みさえ浮かべていた。
だが、その目は笑っておらず、依然として冷え切った威圧感を放ち、視線の先ののび太を抉り込むように貫いている。
ゆえに、のび太は尚更に恐怖を煽られた。
もっとも、士郎とイリヤスフィールも、この件に関してある種の畏怖と言うべき感情をのび太に抱いている。
士郎に至っては、その中に微かな妬みすら抱いていた。
勿論、そんな感情はおくびにも出す事はなく、くだらないと己の中でかっちり始末をつけているが。

「け、けど……うん。たしかに、悪者を懲らしめたり退治したり捕まえたりして解決したのが多い、かなぁ」

うーん、と唸りながら、のび太は改めて口にする。
だが、ふと何かに気づいたように、はっと目を見開いた。

「でも、バンホーさん達とか、昆虫人類の人達とか、ホクロさん……じゃなかった、熊虎鬼五郎さんは違ったかな」
「……誰、それ」

やや機械じみた声色で、イリヤスフィールが微笑のまま問いかける。
だが、そこに更なる追撃のハートブレイクショットが叩き込まれようとは、想像も及ばなかった。

「えっと、バンホーさんは恐竜から進化した地底人の竜の騎士で、昆虫人類は僕が“創世セット”で作った地球の昆虫から進化した人達で、熊虎鬼五郎さんは、たしか前科百犯……だっけ、の凶悪犯?」
「…………」
「あ痛ッ!?」

もう一発、今度は無言のままイリヤスフィールの平手がのび太の額を捉えた。
ぱちーん、という気持ちのいい音に一切揺らぐ気配を見せないその笑みは、もはや鉄仮面のようですらあった。

「リンがいなくてよかったかもね……色々と言いたい事はあるけど、一旦、これで済ませてあげる。それで、なにが違うの?」

にっこり顔でずいと踏み込んで尋ねてくるイリヤスフィール。
あまりの圧力にたじろぎかけたのび太であったが、額を押さえつつも律儀に答えた。

「あの、えと、その人達とは、戦いもしたんだけど、その、正確にはちょっと違ってて」
「違うって、なにが?」
「だから……んん、なんて言えばいいのかな……その人達が抱えてた問題を解決して、決着したんだ」
「問題?」
「ええっと、ちょっと長くなるし、ややこしいんですけど」

本を閉じて尋ねた士郎に向かい合い、のび太は『竜の騎士』、『創世日記』、『ねじ巻き都市の冒険』の顛末を掻い摘んで説明し始めた。
すべてそれなりに長い話なので、要点を絞って説明したとしても時間が掛かる。
ましてや、語り部は成績不良小学生。詳細をきちんと語ろうとしても、語彙力のなさだけは如何ともしがたい。
それでも身振り手振りを交えつつ、見知らぬ他人どころか異種族とも物怖じせずに意思の疎通を図れる大人顔負けのコミュニケーション能力で以て、のび太は熱弁を振るった。
そして、ようやくすべてを語り終えたその時。

「……成る程ね、だいたい解った。とりあえず――――うん。覚悟はいいわね、ノビタ?」
「もう殴ってるじゃないかぁ!」

頭の天辺を押さえ、抗議の声を上げたのであった。
柔らかい女の子の手とはいえ、目いっぱいに振り下ろされればそれなりに痛い。
しかも、叩(はた)かれたのはこれで三度目である。
凛のように締め落とす勢いで掴みかかったり、弓兵がやられたようなガンドの抜き撃ちをしないだけマシかもしれないが、やられる本人としてはどっちもどっちである。

「今度という今度は極め付けよ……堪え性のなさに我ながら情けないったら。リンを笑えないわ。まったく……未来の道具にかかれば、アインツベルン長年の悲願も石ころみたいなものかもね」
「え、なに?」
「独り言、気にしなくていいわ。うん、そうよ。結局は、こことは違う世界の話だもの。だから、必要以上に気にしなくてもいい。そう、気にしなくても……ね」

貼り付けたような笑みを消して一転、腰に手を当てたイリヤスフィールに下からじいっ、と睨み上げられ、のび太は言葉に詰まる。
まさしく不良に絡まれるが如くであり、彼我の距離数センチで菩薩から夜叉へ切り替わってメンチを切られては、たじろぐ他なかった。
一方で、士郎は以前と同様、比較的冷静に情報を消化していた。
しかし、それでも堪えきれないツッコミどころはある訳で。

「まさか、未来で惑星が宝くじの景品にされてる上に、デパートの夏休み宿題コーナーに“本物の地球”製作セットが陳列……世も末どころか、末すら突っ切ってるな。しかしまあ、なんだ。のび太君は、万人が平伏す創造神様って事か?」
「えっ? な、なんでそうなるんですか?」

その辺りの解釈は人によるものだ。
やった本人にあまり自覚はないようだが、義姉弟の見方は違った。

「ノアの方舟みたく、六千五百万年前の地下に恐竜を逃がして恐竜人誕生の礎を築いたり、レプリカとはいえ本物の地球を作った挙句、“進化退化放射線源”を虫に当てて昆虫人への進化を促したり……」
「まさしく神の所業ね。そこだけ切り取ってみれば」

ぐうの音も出ない、掛け値なしの事実であった。

「う、う~ん……?」

しかし、やはり本人にその自覚がない以上、これ以上言っても意味のない話でもあった。
“創世セット”で実際に神様まがいの行動を繰り返したものの、彼自身の自覚においては、結局のところ夏休みの自由研究の域を出ていない。
他にスフィンクス紛いの像を造って祀られた事もあったが、本人としては大した事はしていないと思っているので、むしろ大袈裟すぎると感じたであろう。
それもこれも、のび太の自身に対しての評価の低さと、ひみつ道具による理不尽なまでの低難易度が齎した結果であった。

「っとと、脱線したな。話を戻そう。つまりのび太君が言いたかったのは、全部を力で解決したわけじゃないって事か?」
「ま、まあ。偶然そうなっちゃった、って言った方が正しいかもしれませんけど。争ってたけど、本当の意味で悪い人達じゃなかったって事もあったし」
「そうか……」

自信なさげに首肯したのび太を尻目に、士郎は『考える人』のように顎に手を当て、考え込む。
この世は勧善懲悪ですべてが解決出来るほど、単純ではない。
士郎とて、それは知っている。
そもそも、『悪』という存在は相対的なものだ。見方や立場によって、その在り様は変わってくる。
ある宗教にとって、異教の教えとその信徒は『悪』の存在であろうし、また会社などでも業界のシェアを奪い合っている商売敵は『悪』だろう。
つまるところ、善悪など『正義』と同様、定義の不確かな存在なのだ。
また、コインの裏表のように『悪』の存在が『善』の存在へとひっくり返る事もある。
自らの罪を悔い改めて更生する犯罪者などが、その典型だろう。
勿論、罪を犯したという事実そのものが消え去る訳ではないが、その者の存在すべてを否定し断罪するよりはまだ救いがある。
『悪』というのは、ただ力によって滅ぼすだけが解決方法なのではなく、その条件や在り方を変質させる事でも解決を図れる側面も持つ。

「……成る程」
「あの、士郎さん……?」

のび太が挙げたみっつの『例外』は、まさにそれである。
恐竜人と一度は敵対したが、時間遡行で六千五百万年前の真実が明らかとなり、タイムパラドックスの悪戯で隠されていた、のび太達が恐竜人の祖先を救った事実が判明した事で、敵対する悪の存在ではなくなった。
昆虫人類は、のび太の作った地球において人類と種の覇権を賭けて刃を交える寸前までいったが、のび太が用意したもうひとつの地球に移住する事で、生存競争の敵役としての宿命から逃れた。
凶悪犯の熊虎鬼五郎は、偶然のび太達が作り上げたねじ巻き都市に迷い込み、“タマゴコピーミラー”を手に取った事によって何体ものクローンが作られた結果、オリジナルの『社長』を筆頭としてのび太達と争ったが、最終的に良心を反映したクローンの“ホクロ”に再統合され、真人間に生まれ変わった。
偶然のものこそあれ、結果としてのび太は彼らを“救った”。彼らを悪の存在たらしめていた、条件や在り様を覆す事によって。
生命も、信条も、営みも、果ては未来までをも“救う”。
それは、これ以上なく素晴らしい事であろう。

「――――だけど」

そして、それ以上にどれほどに難しい事であろう。
人を助ける、救う。言うのは簡単だが、実際に行うのは至難の業だ。
“救う”とは、突き詰めればその人の問題を取り除くという事。
『悪』を更生させる事も然り。
また、困っている者、弱っている者を立ち直らせる事も、障害を解決していくという意味では然りである。
だが、言葉にすればたったそれだけの事が、助ける者、助けられる者に途方もない労苦と時間を費させるという事実が、厳然として存在する。
しかも、必ずしも報われるとは限らない。どれほど“救い”として切望したところで、決して手の届かないものだってある。
士郎自身を顧みれば、実際に救われるまでに何段階もの行程を踏んでいた事実に気づくだろう。
火災現場から救出し、命を永らえさせてはい、お終い。そんな事はなかった。
当たり前である。子どもが身ひとつで放り出されて、生きていける訳がない。
衣食住はもとより社会的な安全の保障、そして心身の傷の治癒。そのすべてを、士郎は養父から受け取って、そうして“救われた”のだ。
運び込まれた病院にて外傷が治療され、衛宮切嗣の養子として引き取られて衣食住、社会的な保障を得て、養父と日々を過ごした事で焼け崩れた心が再度形作られた。
ただ、行程のすべてが養父ひとりの手で成された訳ではない。
外傷の治療は医師や看護士によるものだし、壊れた心の問題においても、大河などの他の人間も密接に係わっている。
それはつまり、衛宮切嗣は、すべてを己が手のみで賄える万能の存在ではなかったという事の証明に他ならなかった。
“救う”とは、それほどまでに困難で、道程険しい行動なのだ。
言われるまでもなく、そんな事など本人は百も承知であったろう。百も承知で、それでも士郎の命を背負い、尽くせる限りの手を尽くした。
まさに、正義の味方に恥じない行いだ。目も眩むくらいに。
だが、のび太の奇想天外な実話を聞いた後では、その事実が改めて、凄まじい重さを以て士郎の腹にのしかかってきた。
ひみつ道具の恩恵も交えて語られた分、尚更に。

「人間は、神様じゃない。そして、『セイギノミカタ』も神様じゃない。たったひとりですべてを解決なんて、きっと出来やしない。ましてや、すべてを救うなんて……」

しかし、あらゆる“救い”のきっかけを揃えてくれた事だけは間違いなく。
身命を賭して誰かを救う、その背中、想い、そして理想。
感謝と共に、士郎は養父に憧れた。
獄炎に焼かれ、がらんどうだった己に『衛宮士郎』を与えてくれた、衛宮切嗣に。
焼灼地獄の死の淵から己を救い上げた時の、あの泣き笑いに歪んだ養父の表情が、脳裏を掠める。

「爺さん……」

そして、士郎は今この時、痛切に思い知った。
憧れ、受け継いだ夢のその難解さ、そして果てしないまでの困難さに。
ずしん、と一気に鉛に巻かれたように彼の身体が、なにより心が重くなる。
矮小で非力な自分が背負うには、あまりにも荷が勝ちすぎていた。
あるいは、養父もそんな挫折感を味わっていたのかもしれない。
そんな事を考えて、士郎の心はさらに重くなった。

「俺は……痛ッ!?」

胸の内に暗雲が兆しかけたその瞬間、背中に衝撃が走り、士郎は我に返った。
眼に星が飛び交うほどの、電撃じみた痛痒がじんじんと余韻を残して士郎を痺れさせ、弾かれたように背後を振り返らせる。
そこには、驚くほど澄んだ表情で士郎を見つめるイリヤスフィールがいた。
イリヤスフィールの右手は、野球の投手のフォロースルーのように振り抜かれた形を保っている。

「い、イリヤ……?」
「悩みなさい、シロウ」

はっきりと、透き通る声で告げるイリヤスフィールに、士郎の身体がぎしり、と硬直する。
熱を持って疼きの冷めやらぬ背中も、この瞬間はまったくと言っていいほど気にならなかった。
否、気にするほど余裕を割けなかった、と言った方が正確であろうか。
士郎の意識も、視線も、感覚も、悉くが眼前の純白の天使に奪われていた。

「悩んで、悩んで、悩み抜いて、考える事を、思考し模索を続ける事を決して諦めないで。考える事を止めた人間は、傀儡にも、畜生にも等しい。思索を止めた『セイギノミカタ』も、同じ」

神託のように、厳かに。
イリヤスフィールが紡ぎ出す一言一句が、士郎の奥底に深く突き刺さっていく。

「そして、己自身を、なにより周囲をよく見渡してみなさい。独り善がりに突っ走っても、自縄自縛に陥るだけ。因果は巡る。それはいずれ、貴方だけではなく、貴方が大切に思う者にまで返ってくる……」

イリヤスフィールの表情が、この時微かに歪んだのを士郎の眼は捉えていた。
悔恨か、哀切か、はたまた憤怒か。
それは“痛み”を知る者の顔であった。

「正義は善悪を超えたもの。善も悪も、行きつく先は正義と同じ。だからこそ、貴方は“孤高”になってはいけない。誰をも置き去りにして、“我”の価値観のみに凝り固まった正義を胸に往く先には、ただ虚無と絶望だけが待っている」

刹那、永訣の際の養父の姿が、士郎の脳裏を掠めていった。
悲しいまでに澄み切った微笑を浮かべて逝ったあの顔の裏には、どんな感情があったのだろうか。
問い質したくとも、既にいない人物に聞ける訳もない。

「イリヤ、それってもしかして、おや」
「シロウ」

有無を言わさぬ真摯な眼で射抜かれ、士郎の言葉は途切れる。
最後まで聞いて、とイリヤスフィールの瞳が訴えていた。
彼の沈黙を首肯と捉え、艶やかな彼女の唇が再度言葉を生み出していく。

「どれだけ胸を焦がして憧れようと、貴方は“エミヤキリツグ”には決してなれない。その本に描かれたヒーローには決してなれないのと同じように。貴方は、貴方自身にしかなれはしないの」
「…………」
「だから、学びなさい。あらゆる物の見方を、誰かの背中から、想いから。手本にするも、反面教師にするもいい……その過程の中で、貴方にとっての“セイギノミカタ”が少しずつ、形作られていくはずだから」

包み込むような声が耳朶を打ったその時、ぴくん、と士郎の瞳が微かに揺らぎを見せた。
雫が水面を叩き、波紋が幾重にも連なり、大きく円を描いて広がる。
己の中で、なにかが書き換わっていく。
いつの間にか、士郎の手は強く、雑誌を握り締めていた。

「……なんて、ね」

と、唐突にイリヤスフィールの表情が一変し、場の空気が弛緩する。
先程とはうってかわって、からかいを含んだ微笑みを浮かべたイリヤスフィールが、口に手を当てクスクスと笑い声を上げる。
あまりの豹変ぶりに、ぽかん、と呆気に取られたように呆けた面を晒す士郎。
それを見て、ますますイリヤスフィールの微笑は深まりを見せる。

「い、イリヤ……?」
「ふふ、そんなに深刻になる事はないわ。キリツグと違ってシロウはまだ若いんだし、ゆっくりでいいの。今のうちからそんなに血眼になってると、ハゲるわよ」
「うぐっ!?」

以前、“○×占い”にて将来ハゲると宣告された事を思い出して、士郎は言葉に詰まった。
いかに容姿に心を砕いていないとはいえ、若ハゲなど無理を通してでも御免被りたいところである。
無意識に頭にやっていたその手は、微かにだが震えていた。

「……さて、と。そろそろお昼の用意をしなくちゃまずいんじゃない?」
「え、あ……」

言われて、士郎は柱に掛けられた振り子時計に目をやる。
時計の針は、十一を回って長針が二に差し掛かったところであった。
用意を始めてもいいが、そこまで焦る必要もないという、微妙な時間帯だ。
とはいえ、早いに越した事はないのも事実である。

「ん……そうだな。仕込みを始めてもいい頃合いかな」

本を手近な台の上に置いて、士郎はイリヤスフィールの言を呑んだ。

「けど、イリヤはもういいのか?」
「知りたかった事は大方知れたから。予想外もいいところだったけどね。貴方が“極み”に至れるかは解らない。でも、その片鱗はある。だからちょっとだけ期待を込めて、見ててあげるわ」
「ん、あぁ……?」

彼女の言葉の意味が呑み込めなかった士郎が首を傾げる。
それを尻目に、イリヤスフィールはもうひとりの方へと向かっていた。

「あ、終わったみたい?」

途中から半ば蚊帳の外となっていた彼はというと、開け放たれたままの土蔵の入口に膝を抱えてしゃがみ込み、ぼそぼそと小さな声で何かに話しかけていた。
別段、無視されて不貞腐れたとか、見えてはいけないものが見えているといった理由からではない。
その足元には、小さく丸みを帯びた赤色がぴこぴこ動いていた。

「なにしてるの、ノビタ……あら、ミニドラね。もう起きてたんだ。どうしたの」
「どら? ど~らら~」

完徹での歩哨を終え、監視部屋で熟睡していたミニドラのうちの一体である、ミニドラ・レッドがそこにいた。
身振り手振りを交えつつ、ミニドラ・レッドは彼女へ事の次第を説明し始める。
相変わらずの、余人になぜ理解出来るのか不明なミニドラ語であった。
ぱたぱたと腕を振る様は愛くるしさに溢れており、見つめるイリヤスフィールの目じりが知らず、緩む。

「……ノビタが所在なさげにしてたから、用のついでに相手をしてた? あ、そう……ごめんね」
「う、ううん。それは、別に。途中から、結構難しい話になってたし。こっちこそゴメンね、ついてけなくて」
「別に謝る事でもないわよ。ノビタ向けの話じゃなかったものね。ちなみに、ミニドラの用って?」

イリヤスフィールの問いに、ミニドラはその手に持っていたものを掲げて見せた。
それは、この土蔵で見かけたものとそっくり同じような形の物で。

「工具箱?」
「どらら!」
「え? 詳しくはヒミツ、って……」

意外な返答を寄越され、ぱちぱちとイリヤスフィールは目を瞬かせる。
動揺を余所に、ミニドラ・レッドはふたりに『バイバイ』と手を振ると、そのまま母屋の方へと歩き去って行った。

「……結局なにしてたの、あの子?」

予兆すらなく、唐突に現れて唐突に去ったミニドラ。
三人の会話を聞いていたかは定かではない。そもそも、いつからいたのかも解らないのだが。
ちら、と彼女が隣ののび太に目をやるものの、返ってきた答えは芳しいものではなかった。

「僕も知らないよ。ヒミツって言われたから、詳しく聞かなかったもの。でも、いつか役に立つはずだって言ってたよ」
「……そう」

釈然としない色を浮かべながらも、イリヤスフィールはもやもやするその感情にとりあえず蓋をした。
ぽりぽり頭を掻くのび太の後ろに士郎が歩み寄り、肩を軽く叩いて陳謝する。

「っと、悪かったな、のび太君。誘ったのはこっちなのに、話置いてきぼりにしちゃって」
「いえ。気にしてませんから」
「そっか、ありがとう。俺はもう戻るけど、のび太君はまだここにいるかい?」
「あ、じゃあ僕も戻ります。ここ、ちょっと寒いですし」

両の二の腕をさするのび太に、士郎は納得したように首を二、三度上下に振る。
開け放した土蔵に飛び込んでくる二月の寒風は、のび太のようにさして厚着をしていないものにはやはり堪えるものらしい。
その点、イリヤスフィールは平然としたものだが、本人曰く、出身地の関係から寒さには強いとの事だった。

「ノビタ、戻ったらさっきの貴方の話、リンにもしておきなさい。一応ね」
「うぇ!?」

寒さとは関係なしに、のび太の顔色が土気色に染まった。
桁がマイナスに突入した通帳を前にしたかの如く、狂乱の体で迫り来る凛の姿が、脳内に再現されているようだ。
何度もその被害を受けている側としてはその懸念も当然なのだが、話をしておかない事にはこの先の危機を乗り切れはしないだろう。
凛はこの面子においてのまとめ役であり、参謀であり、ご意見番でもある。
今朝はセイバーの不可解な機嫌のせいで話の腰が折れ、尻切れトンボで終わってしまったが、このままでいいはずがない。
のび太とてその事を理解しているからこそ、その避けられない未来から逃げ出す事は出来ないのだ。
最低でも、士郎とイリヤスフィールに話した内容と、残る敵であるキャスター・アサシン・ランサーの変貌該当者に関してくらいは話しておかなければならないだろう。
もっとも、キャスターの場合は心当たりが多すぎ、アサシンとランサーについては逆に心当たりが乏しいという歪さがあるのだが。

「だ、大丈夫かなぁ……」
「あー、まあ俺がフォローするさ、一応。どこまで出来るかは解らないけど、とりあえず昼飯の後にでも話しておこう」
「あ、ありがとうございます……」

障害を前に項垂れるのび太の肩を抱いて、士郎は土蔵の扉を潜り、外へと出た。
天頂に近くなった如月の陽光の僅かな熱が、冷える身体をゆっくりと温めていく。
光と熱は、人の肉体と心を和らげてくれる。
ほんのささやかなその暖すらも、凍える者にとってはありがたいもので、のび太の顔色は、多少マシな物へと変化していた。
その後ろを、ひょこひょこと踊るようにイリヤスフィールがついて歩いていく。

「……結局あの本は、重い宿題だったんだな。アイツなりの」
「え?」
「いや。独り言だよ」

なんでもないとばかりに告げた言葉の裏で、士郎は失笑を噛み殺した。
夢の形について何も考えていなかった、かつての己に対しての失笑であった。

「アイツの方が、俺の何倍も物を考えていたんだ」

最終的に誤った道を進んでしまったものの、長い間、自己の在り方を求め続けていた悪友。
その歪んだ暗い執念は、決して褒められたものではないし、何かを決定的に間違えてさえいた。
だが、そんな執念を抱くほどまでに自分は模索を繰り返したかと問われれば、士郎は首を横に振らざるを得なかった。

「……ああ」

だからこそ、士郎は決意する。
目指すままで留めていた己の夢について、考えていこうと。
もしかすると、目指すそれは綺麗なものではないのかもしれない。
あるいは、描いた理想そのものに絶望するかもしれない。夢破れ、血河を渡ってきた養父の存在が、それを物語っている。
それでも、最初の一歩を踏み出さなければ何も始まらないのだ。
何気なく落とした視線のその先には、揺れるのび太の頭がある。

「え? あの、士郎さん? どうかしました?」

首を傾げたのび太に、士郎はなんでもないと笑いながら首を振る。
不思議な事に、彼を見ていると心なしか、ふつふつと彼の奥底から自信が漲るように感じられるのだ。
ある意味では先達であるからか、はたまた彼の人柄がそうさせるのか。
少なくとも、悪い心地ではなかった。

「――――そうだな。ここからだ」

士郎は口中で呟くと、天を仰いだ。
中天に差し掛かる冬の陽射に、すうっと士郎の目が細くなる。
その瞳は、大空から地を睥睨する鷹のようにも見えた。

「…………」

その時、彼の背後でたん、たん、たんっ、と軽やかな靴音が弾んだ。
何気なく後ろを向いた士郎の目に映ったのは、薄く笑みを湛えたイリヤスフィールの屈託のない表情。
ステップを踏み終えた姿勢のまま、前方のふたりを視界に収めて微笑んでいた。
笑い返す事で返答とした士郎は、ふっと前方へ顔を戻す。

「――――置いていかないでね、お兄ちゃん」
「ッ!?」

はっ、と士郎が反射的にもう一度、振り返る。
そこには、イリヤスフィールの先と変わらぬ穏やかな微笑だけがあった。
瑞々しい唇は、緩い曲線を描いて動く気配を見せない。
時間にして三秒ほど経ってようやく、士郎は自分がぼうっと突っ立ったままであった事に気づいた。

「……ああ、ごめんな」

沈黙の末にそれだけを言い返し、士郎は前に向き直った。
鈴を鳴らすような柔らかいその声、その言葉が、形容しづらい不可思議な感覚を士郎の奥底に貼り付けていた。
『正義の味方とはなんなのか』。
その問いの原点に、自らの意思で士郎はこの時、ようやく立ったのであった。





――――ちなみに、士郎の回想には、実は続きがあったりする。





『あ、そうだ。ついでにこれも持ってけよ。衛宮、こういうの好きだろ』

『は……って、ちょ!? お、おい、慎二、これって!?』

『いいからいいから。太っ腹な僕に感謝しろよ、このムッツリ』

『…………』





所謂『正義の味方の参考書』と同時に貰ったこの『オトナの参考書』は、今なお士郎の部屋の押入れ深くにブラックボックスとして隠匿されている……。







[28951] 第四十五話
Name: 青空の木陰◆c9254621 ID:90f856d7
Date: 2013/11/30 14:02





「――――宗一郎様」

襖の開く音と共に、落ち着いた女性の声が響いた。
柳洞寺の奥まったところにある、居住区の一室。
寺らしい畳敷の和室は、日本家屋特有の木とイグサの香りに包まれ、中の者の気を落ち着かせる。
障子から差し込む午後の光は柔らかく室内を照らし、冬の空気を暖めていく。

「なんだ」

部屋の主である葛木宗一郎は、文机に向かって書類を整理していた。
手にしたボールペンをゆっくりと動かす一方で、その表情は眉ひとつ動いていない。
能面のような、と言うよりもそれこそが素であると万人が悟れるほどにナチュラルな無表情であった。

「処理は完了しました。宗一郎様は午後から出張で、学校にはいなかった事になっています。授業のなかった昼休み前の空白時間以降を区切りに改竄を行いましたので、関係者と目撃者についての記憶処理は最小限となっています」

襖の前に傅き、静かに報告を上げるのは、魔術師のサーヴァント。
フードを外し、素顔を晒したキャスターは、主とは異なり柔らかさを保った表情であった。

「そうか」

背後からの声に振り返りもせず、それのみを告げて葛木はただ黙々と書類と向き合い続ける。
まるで、それ以外に関心がないと言わんばかりに。

「無事な職員も指示あるまでしばらくは自宅待機との事です。今朝方、連絡が入りました」

だが、それが常の姿であると理解しているキャスターは、気にした風もない。
むしろ、いつもと変わらぬ様子に安堵すらするだろう。

「…………」

とうとう言葉を発さなくなった葛木は、書き終えた書類をバインダーに纏めた。
それを傍らに退け、文机のスペースを開けると、今度はノートPCを机の脇から取り上げ、立ち上げる。
カリカリというPCの機械音のみが、しばらくの間室内を満たす。

「……何かあるのか、キャスター」

ふと、葛木が声を上げた。
いつまでも立ち去らず、襖の前に膝を付いたままのキャスターに気づいたからだ。
僅かに表情を強張らせるキャスターであったが、ふっと息をひとつ吐くと、口を開いた。

「……宗一郎様。今回の聖杯戦争は、狂っています」

キャスターは『魔術師』のサーヴァントである。
言うまでもなく、古の魔術に秀でた者がその召喚対象とされる。
最弱のハズレクラスというレッテルを貼られているものの、見方を変えればサーヴァントの中で唯一、冬木という霊地のすべてを利用した魔術儀式である、聖杯戦争の深淵に辿り着ける可能性を持つ存在でもあるのだ。
勿論、召喚される者の実力にもよるのだが、このキャスターの場合は杞憂。
霊脈の終着地点であるこの円蔵山は柳洞寺を拠点に、霊脈すべてを己が意のままに操る事など造作もない。
主が魔術師でない事から来る自身の魔力供給の問題も、この応用で解決している。
この事実だけを取り上げても、キャスターの魔術師としての非凡さが窺い知れる。

「恥を忍んで申し上げます。私の見識を以てしても、そのすべてを解明出来てはおりません」

だが、このイレギュラー入り混じる狂った聖杯戦争に関しては、さしものキャスターの力も及ばなかった。
バグだらけのCPUを前に膝を屈したプログラマーのようなものだ。しかも、事はそれよりも性質が悪い。
下手すれば、そのCPUのイタズラでプログラマーがプログラマーですらなくなってしまう可能性をも孕んでいる。
冬木中に張り巡らせた監視網から、キャスターは狂戦士、そして騎乗兵の変貌を目の当たりにしていた。
大嵐を核とした風の巨竜と、巨大兵器を操る機械の少女。
およそキャスターの与り知らぬ存在、しかし戦闘能力は常のサーヴァントとは隔絶した物を持つ。
それだけでも脅威だが、なにより恐ろしいのは、そのイレギュラーが自分にも降りかかる可能性が高いという事だ。
否、確実にそうなるであろうとキャスターは睨んでいる。
事は、聖杯を介して行われている。その事までは、キャスターの才覚が暴き出している。
だからこそ、どう足掻こうと聖杯の紐付きである自分に逃れる術はない。
その残酷な真実までをも、彼女は暴き出してしまっていた。

「この狂った宴は、もはや万人の意図を離れて迷走しています。いつかきっと、私は私ではない存在へと変貌するでしょう。そして、聖杯もまた……」

彼女の言葉は固く、鉛のように重かった。
パチパチ、とキータイプの乾いた音が部屋の中に反響する。
まるで場違いなそれが、主の反応を雄弁に語っていた。
暫しの間、沈黙が部屋を満たす。

「今ならまだ、宗一郎様を……元の日常へと戻す事も出来ます」

顔を伏せた彼女が、ぽつりと漏らしたその時であった。

「その必要はない」

今までなんらの反応も示さなかった葛木が、意思の籠った即答を返した。
はっ、とキャスターが顔を上げる。

「今、なんと」
「その必要はない、と言った」

数瞬の間、キャスターの動きが止まった。
呼吸すら忘れている。

「……なぜ」
「それがお前の本意か」

違う。彼女の咽喉元まで、その一言がせり上がる。
この主と離れたいなど欠片も思ってはない。
願わくば、未来を共に添い遂げたいとすら思う。
キャスターが袂を分かつと言ったのは、偏に主を愛しているがゆえ。
愛しているからこそ、死なせたくはないのだ。

「……ですが」
「お前をこの寺に運び込んだ時」

彼女の言葉を遮り、振り返らぬまま、葛木は告げる。

「叶えたい願いがある、手を貸してほしい。そう、お前は言った。その際言ったはずだ。手が欲しい時は言え、と」
「……え、ぁ……!?」

キャスターの脳裏に、フラッシュバックのようにあの夜の記憶が甦った。
幸薄かった自分に運命が微笑んだあの瞬間、己の前で葛木はたしかにそう言った。
そして、その約束をどこまでも守ると、彼はキャスターに告げたのだ。
ぐるぐると、彼女の頭に彼の宣告が渦を巻く。
胸の奥からじんわりと、痺れるように熱い物が込み上げてくる。
思考は細切れフィルム同然に切れ切れで纏まりなく、身体も金縛りにでもあったように動かない。
この身体を駆け巡っている感情がいったいなんなのかさえ、キャスターは解らないでいた。

「本、当に……」

戦慄く唇から、嗚咽にも似た響きを伴って言葉が呟かれる。

「共に……いて、くださるのですか。宗、一郎……」

返ってきたのは、やはり感情の色なき平坦な声だった。

「お前がそれを望むのならば、俺はそれに応えるだけだ」

その応答を皮切りに、遂に、キャスターの瞳から一粒の雫が零れ落ちた。
一度堰を切ったら、あとは止まらない。
次から次へと流れ落ちる。行く先さえもままならない、彼女の迸る感情のままに。
それはさながら、真珠の雨のようであった。

「……私は……貴方を」

せり上がる嗚咽を押し殺し、そうして、キャスターは決意する。

「死なせは……しない」

どれほど困難な道程であろうと、この最愛の主を生かしてみせる。
たとえ、この身がどうなろうとも。添い遂げたいという、密やかな願いをも捧げて。
伏せていた顔を上げた時には、その絶対なる意志の輝きが、炯々とキャスターの瞳に宿っていた。

「すべての鍵は……あの子、ね」

一見すれば、狂乱の宴。しかし、その中心には、確かな基点が存在する。
策謀の魔女の頭脳は、既にそのファクターを見出していた。

「……ふ」

音もなく、すっと閉じられる襖。
情に殉じる女の凄味が、端正な彼女の貌にぎらぎらと浮かび上がっていた。





時計は既に二時を回り、美味な昼食を終えて皆の空腹が満たされた頃。
南中を過ぎ、斜陽の入り口へと差しかかろうとする陽光が、空気を柔らかく温めていく。
目を閉じれば、そのまま微睡の奥に引き込まれそうなほど、衛宮邸の中は暖かく、居心地のいい空間が形成されていた。
その一角、本やら宝石やら“フエルミラー”やら、はたまた紅も鮮やかな衣類が置かれた凛の居室にて。

「…………」
「おーい、遠坂……」
「…………」
「り、凛さ~ん」
「…………」

微睡も、午睡をも超え、その最果てにまで至った部屋の主が、机の上に覆いかぶさるように突っ伏していた。
ピクリとも動く気配はなく、まるで精巧なマネキンが置いてあるかのようですらある。
士郎が呼びかけ、のび太が揺さぶるも、ただただ部屋の空気を無駄に振動させるに終わっていた。

「……返事がない」
「ただのしかばねのよう……ぐふっ!?」

言いかけた士郎の鳩尾に、いつの間にか突き立てられている崩拳。
腹の一点を貫き通すかのような衝撃に、士郎の肺腑から空気が強制的に排出された。

「……生きてるわよ」

凛は、机に突っ伏した姿勢のまま、彼に拳を突き刺していた。
中国武術の嗜みもある凛の一撃は鋭く、そしてとてつもなく重かった。
立っている事など到底不可能。士郎はぶるぶる震えながら、がくりと床に膝を付いた。

「士郎さん、大丈夫!?」
「あ、ああ……っぐ……ちょ、っとは、手、加減っ、してくれ……!」
「――――ウルサイ。ちょっと黙ってて」
「ひえっ!?」

恐ろしく低い凛の声に、思わずのび太が竦み上がる。
まるで地の底から這い上がってくる怨霊のような呻きであった。

「ぐ、くぅ……っ、ど、どうしたんだ、遠坂?」
「……色々と限界を超えちゃったみたいね」

さりげなく士郎の背中をさすっていたイリヤスフィールが解説を入れる。
彼女もまた、頭痛を堪えるように米神を指で押さえ、眉をこれでもかとばかりに顰めている。

「そのようだな……認めよう。私の覚悟も、まだまだ足りていなかったようだ」

部屋の隅に陣取っていたアーチャーが同意を示す。
その表情は、常の鉄仮面ではない。
懊悩を堪えるような難しい表情を貼り付け、口元はひくひくと引き攣っていた。
この男にしては珍しく、じっとりと汗までも掻いている。

「やはりこうなりましたか」
「ラ、ライダーは平気なの?」
「ある程度の事は知っていましたので」

凛のベッドに並んで腰掛けているのは、桜とライダーの主従。
目を瞬かせ、狼狽の体を露わにする桜を、ライダーが頭を撫でて宥めている。
外観年齢は明らかに桜の方が上なのだが、行動だけを見るとどちらが年上なのか解らない有様である。

「セイバー、どうかした? 頭痛いの?」
「……いえ、構わないでください。リーゼリット」

机の傍にて片手で頭を抱え、ぐったりと顔を伏せたセイバーに、リーゼリットが心配そうに声を掛けた。
指の隙間から覗くセイバーの瞳はやや虚ろであり、翡翠の緑がくすんで色褪せていた。

「……どうぞ」

どこからともなく、セラが凛の横に水入りのコップと薬包紙を差し出す。
彼女の表情までもが例に漏れず、熊胆を無理矢理舐めさせられたかのような苦渋に満ちていた。

「セラさん。この薬、なに?」
「頭痛薬と胃腸薬、それから……沈静剤と精神安定剤の効用をも兼ねたものです」
「……なんでそんなもん常備してるんだよ」
「メイドとしての嗜みです。一度に大量に服用さえしなければ、さしたる危険もありません。効果はアインツベルンの名において保証します」
「しかも、アインツベルン謹製かよ」

効きそうだが、どこか怖いシロモノであった。
生真面目なセラが言うのなら、たしかに間違いないのだろう。
しかし、魔術師の大家というその背景を考えれば、よほど切羽詰まっていない限り、普通は敬遠したくなるものだ。
そう、よほど切羽詰まっていない限りは……。

「――――だぁああッ!」
「う、うわっ!? 凛さん!?」

突如、机上に轟沈していた凛ががばっと跳ね起きる。
そして、目にも止まらぬ速さで薬包紙を引っ掴むと、ざあっと一気飲みするように中身を煽った。

「あっ……」

のび太が呆気に取られる中、凛はコップの水をぐびぐび飲み干す。
やがて、たん、とグラスを机に置いたその瞬間、のび太の目に凛の顔が飛び込んできた。

「り、凛さん……」
「ヒドイ顔」

一言で言えば、これ以上ないほどやさぐれていた。
一升瓶でも手にしていれば完璧だ。ヤケ酒を好み、何かにつけ周囲に当たり散らす荒れきった人間として舞台に上がれるだろう。
目は落ち窪み、輝きとは違う尖ったぎらつきが瞳には宿っている。
頬はこけ、げっそりとやつれて、無茶苦茶なダイエットでもしたかのような不健康さに溢れている。
前にやらかした、ヤケ食いの分を差し引いてもお釣りがくるどころではないほどの憔悴具合であった。
口元の滴を乱暴に拭い、そのままじろりとのび太をねめつける。
まるで肉厚のナイフでどてっ腹をぞぶり、と突き刺すような、剣呑極まる視線であった。
物理的な干渉力があれば、間違いなくのび太の命は終わっていただろう。

「アンタらって、ホンット……っ!」

それで終わり。
堪えきれない何かを吐き出すように口をわなわなと震わすも、後は言葉にならなかった。
首筋を掻き毟りたいほどにもどかしい感情が滲む、その無音の慟哭。
それでも、言いたい事は痛いほど周囲に伝わっていた。

「……うん、まあ、言葉がない点では同意見だけどさ」
「右に同じく、です」
「左にも同じくだ」
「同意を示します」
「うん、同感」
「ごめんなさい、のび太くん」
「あうぅ……」

矢継ぎ早に飛び出してくる賛同意見に、のび太はバツが悪そうに身じろぎするしかない。
別段、悪い事などしていないはずなのに、この決まり悪さだけは如何ともしがたい。

「どれだけ常識と良識と魔法にケンカ売ってるのって話よ、もう……なによ、ラ○ュタよろしく雲の上に作った国とか、海底に造られた古代海底人文明の核弾頭施設とか、科学じゃなくて魔法が常識になったパラレルワールドとか、銀河を越えて星屑の彼方のテーマパークとか……」
「本物の地球を夏休みの宿題ごときで作ったに留まらず、数万年、数億年前の地球でいろいろと大立ち回りを繰り返したり……」
「時空や宇宙の犯罪者に追いかけ回されたかと思いきや、土壇場で大逆転の倍返しを喰らわせる」
「挙句の果てには、新しい種を片手間に創造して、いつの間にやら神様にまで祭り上げられちゃってる……」
「もう、貴方が王になればいいんじゃないかな」
「いえ、訳が解りませんよ。セイバー」

文字通り古今東西を問わず、それどころか四次元をも股に掛けた大冒険の数々。
その大半を詳らかにした今、のび太は針の筵同然であった。
逆上してくれた方が、まだしもマシだったかもしれない。
数にして、ざっと二十譚。
語り始めたと同時に皆、呆れ果てるやら脱力するやら頭を抱えるやら、終いには皆の瞳から光が消え失せていった。
折り返しに差し掛かった時には、ほぼ全員がグロッキー状態。死屍累々といった悲惨な有様で、残りは皆、ほとんど義務感と惰性のみで脳と耳を動かしていた。
ダメージが少なかったのは、この手のものに耐性を持っている士郎と、リルルの記憶を引き継いでいるライダー、情緒面において一般人とズレたところのあるリーゼリット、そして事前に幾分か聞かされて覚悟が完了していたイリヤスフィール。
逆にダメージが深刻だったのは、やはり自意識の堅固な凛であった。
ちなみに、フー子はのび太の部屋で昼寝中である。
布団にくるまり、陽だまりの猫のようにぬくぬくしている。

「アンタいったい何様だってのよ……一家に一台ドラえもん……ミニドラでもいいけど……“もしもボックス”……嗚呼、第二魔法……なにそれおいしいの……セラ、ありがと」
「いえ……」

かりかりとテーブルに爪を立て、なにやらぶつぶつ呟き出した凛。
ノイローゼになった幽霊が皿を数えているかのような不気味さである。
差し出されたコップを取り上げ、憐憫の入り混じった複雑な視線を向けるとセラは一旦、部屋から離れていった。

「ふぅううっ……さて、何から話していくべきなのやら……」

ようやく独り言が収まり、米神をぐりぐりとやりながら凛がそうこぼす。
即効性の薬だったのか、幾分か落ち着いたようだが、まだ処理が追いついていないようである。
それだけ、のび太の話のスケールがあまりにも大きすぎたという事なのだろう。

「……とりあえず、残るランサー・キャスター・アサシンの該当者は絞るべきか。これだけ引き出しが出てくれば、ある程度は可能だ」
「まあ、そうね……ポセイドンやらが出てきた時は心臓止まりそうになったけど、ライダーの元カレとは別物みたいだし」
「その言い方は止めて頂けませんか。多分に語弊があります」
「あーはいはい」

煙たそうに一蹴する。
おざなりな対応にライダーの眦が鋭くなったが、彼女の内心を察してかそれ以上追及はしなかった。

「まずはキャスターね。候補は……えー」
「デマオン、オドローム、レディナ……こんなところかな」

士郎が指折り数えて候補を上げる。
じろり、と凛が士郎に鋭い視線を向けたが、やがてふうっと重い息を吐いて額に指を当てた。

「レディナはともかく、残りのふたりは一筋縄じゃいかなさそうね……話の通りだとすると」
「オドロームも問題だが、特にデマオンはな。宇宙の星として心臓が隠されていて、それを銀のダーツで射る事でしか倒せんとか何の冗談だと言いたい。バーサーカーやアキレスが可愛く見えてくる」
「……いえ、それは問題ないのではないですか?」

アーチャーの懸念に、セイバーが否定の意を示した。
彼女の眉間には固く皺が寄っており、コツ、コツと時折、額に拳をぶつけている。
ある意味、ノイローゼ寸前の体そのものであった。

「その心は?」
「“とりよせバッグ”で、そこまでの直通路を開けば済む話です」
「……成る程。だが、銀の矢はどうする」
「それも同じ方法でなんとでも」
「それは……いささか他力本願すぎはしないか?」
「では他にそれ以上の方法があるとでも?」
「…………」

この一言には、ぐうの音も出なかった。
諦めたように目を伏せたアーチャーの沈黙を無言の肯定と断じ、セイバーは続ける。

「アサシンは……見当もつきませんね」
「そうね、それらしいのがないし。うーん……強いて挙げれば、ギラーミンくらいかしら」

思案顔のまま、イリヤスフィールが憶測を述べる。
キャスター候補は多いが、反面、アサシンの候補は皆無と言っていいほど該当者がいなかった。
のび太が出会った実力者の中で、物理的な意味での隠行に長ける者は少なく、どちらかと言えば政治や商業、支配がらみでの隠行に長ける者が多かった。
条件を満たす者は、ぎりぎりのラインで宇宙一の殺し屋と称されたギラーミン。
だが、のび太の話を聞く限りでは凄腕のガンマンと、相手を陥れる策略家としての側面が強調されており、アサシン候補とするには弱いと言わざるを得なかった。

「でもランサーは」
「おおよその見当がつきますね」

イリヤスフィールから、今度はライダーが言葉を引き取る。
おとがいに指を当て、なにが面白いのか口元にうっすらと笑みを浮かべながら唇を動かす。

「牛魔王」
「しかないわね、確実に」
「そうだな。ゲームのボスだったとはいえ、神仏と真っ向からやり合ってタメ張れる、『西遊記』最強の敵だからな」

憶測は共通のもののようで、凛と士郎が同意を示した。
牛魔王なら役者不足どころではない。むしろ大本命である。
戦い方は至極真っ当なものゆえに、正当な意味での力と力のぶつかり合いとなるだろう。

「はあ……」

鉛色の溜息が、室内の空気を重くした。
凛などは、しきりに胃の辺りを摩っている。
サーヴァントなどより、こちらの方がよほどに大敵であった。

「でも、どれだけここで頭捻ったところで、結っ局は出たとこ勝負なのよね……うう、面倒な」
「同感だが……予備知識と心構えが出来る分、まだマシな方だろう。いずれにしろ、残る陣営が三つとなった以上、早晩、全員と刃を交える事になる。最初に仕掛けてくるのは……さて、どちらかな」
「ん、ミニドラ、なにか言ってた?」

リーゼリットがコテン、と首を傾げる。
ミニドラ達には、改めて残る敵陣営の監視と索敵を依頼していた。
報告は、この会合の少し前に凛が受け取っている。

「キャスター陣営には、特に動きはないらしいわ。いたって静かなものだって」
「そうなの。やっぱり目立った動きはしないのね」
「それ以前に、これ以上ない霊地を自陣にしておいて、自分から動くのは愚の骨頂だ。それこそ、差し迫った特段の理由でもない限りな。まだ静観を続けるつもりか、何かしらアクションを起こすかはまだ読めんが、警戒は続けておくべきだろう」
「ええ。それと、ランサーの方はどうです」

セイバーがそう言った途端、凛の表情が急にげんなりしたものへと変化した。
まるで昔ファンだったアイドルが、久々に見ると見る影もなく落ちぶれ果てていた時のような顔であった。

「どうしました?」
「……ランサーは、深山にいるようよ」
「深山? もしかして、そこにランサーの拠点が?」

士郎の言葉に、凛はゆっくりと頭を振る。
どういう事かと、再度尋ねかける士郎を掌で制止し、脱力の極みのままに凛が答えた。

「魚屋よ……」
「は?」
「ゴム長靴とエプロン付けて、大将と一緒にサバの叩き売りをやってたらしいわ」
「……はあ?」

全員、空いた口が塞がらなかった。
話によると、冬木港で夜釣りに勤しんでいたランサーはまたもやサバを大量に釣り上げ、しばらく何事かを考えた末に、夜も明けきらぬ早朝に深山商店街の魚屋に赴き、釣れ過ぎたからよければ売り物にでもしてくれと裾分けに行ったらしい。
既に魚市から仕入れを終えて戻っていた店主であったが、気を悪くするでもなく快くそれを受け取ると、貰いっ放しでは悪いと思ったか、魚のうまい下ろし方と調理法を教えてやるぞと誘いをかけ、ランサーは喜び勇んでそれに乗ったそうな。
やがて意気投合したふたりは、開店と同時にサバの緊急特売を始め、抜群のコンビネーションで馬鹿にならない売り上げを稼いていたそうだ。

「『壊れた幻想(ブロークン・ファンタズム)』……ね」
「ぬ……」

ぽつりと漏れたイリヤスフィールの感想に、微かに身じろぎする赤い影があった。
天下の『クー・フーリン』が、鄙びた地方の魚屋で、営業スマイルも朗らかに威勢よく魚の叩き売り。
もはやなんの冗談だ、という話である。
英霊の『え』の字も窺えない、威厳もへったくれもない奔放さであった。

「アイツ……何しに、この世に来たんだろ」
「知らん。そして、知りたくもない」
「“クランの猛犬”の雄姿は、いったいどこへやら……」
「……あんなの、サーヴァントじゃないわ。鯖徒(サーバント)よ」
「姉さん、それはちょっと……」

桜のツッコミを最後に、部屋にはしん、と耳が痛いほどの沈黙が訪れた。
弛んだゴム紐のような空気は、居並ぶそれぞれに居心地の悪さを等しく与えていた。
からからと空回りする歯車の如く、なにも進まず、停滞だけがその場に居座っている。
漂う無常の雰囲気が、この会合の締まらぬ終幕を告げた。

「……とりあえず、これで解散にしましょ。わたしはしばらく寝る事にするわ」

凛の言とは、つまりは不貞寝である。
もっと正確に言えば、ノビタ・アドベンチャー・ショックで負ったダメージリカバリーのための静養といったところか。

「では、私は部屋に戻ります。サクラはどうしますか?」
「あ、じゃあ一緒に行こう、ライダー」
「小僧、道場に来い。前回の続きだ」
「……解ったよ」

三々五々と、凛の部屋から去って行く。
リーゼリットは睡眠時間を稼ぐために己が寝床へ。
イリヤスフィールは、TVのある居間へと向かっていった。

「私も部屋へ戻ります。少々……整理が追いついていませんので」
「……そうね。セイバーも、わたしとおんなじか」

古戦場の幽鬼さながらに、凛は覚束ない足取りでベッドへ向かう。
そのセイバーの言葉が、言葉以上に深い真意を含んでいる事に、今の彼女が気づくはずもない。
それほど、彼女の心身は摩耗し尽くしていた。

「あの、本当に大丈夫ですか、凛さん?」
「アンタが言うか、それを。まあ、大丈夫よ。ちょっとすれば……はあ」

どすっ、とベッドへ腰かけ、部屋に暗雲が垂れ込めそうなほど重い溜息を以て凛は元凶への返答とした。
気まずそうなに頭を掻くのび太の背中を、立ち上がったセイバーがそっと叩く。

「行きますよ、ノビタ。もう……リンを休ませてあげましょう」
「今にもわたしが死にそうな言い方、しないでちょうだい……」

実際、それに限りなく近くはあるのだが、セイバーは言わないでおいた。
主に精神の問題なので、落ち着けば夜までには皆、回復するだろう。

「それでは、リン。お大事に」
「…………」

廊下へ出た二人が、カチリと静かにドアを閉める。
途端、ぼす、ぼすと枕を叩く弱々しい音が、中から断続的に響くのであった。





激動の前の小休止は、ここで終わり。
この夜、狂乱の宴は新たな段階へと進む。





風雲を呼ぶは、魔に潜む王帝の性。
鐘を鳴らすは、士に沈んだ漆黒の悪。





演者は踊る。今はただ。
狂気の脚本家の――――望みのままに。







[28951] 第四十六話
Name: 青空の木陰◆c9254621 ID:90f856d7
Date: 2014/02/23 13:34





異変は、時計が八時ちょうどを差した、その瞬間に起きた。

「……む」
「おや」
「なに!?」

弓兵、騎乗兵、剣士の眦が一斉に跳ね上がる。
同時に、カラリ、カラリと神社の鈴のような音が、室内に木霊した。

「これは……!」
「来たのね!」

これは、衛宮邸に張られた結界が侵入者を検知した音である。
発動すると、音を発すると同時に室内すべての電気が落ちる。
士郎がランサーに襲われたあの晩も、この結界が作動し、士郎を窮地から脱せしめた。

「うわ、真っ暗!?」
「のび太君、迂闊に動くな!」
「セラ!」
「ここに。リーゼリット、獲物は」
「うん、もう持ってる」

めいめい、臨戦態勢を整えていく。
居間に集う総勢は既に夕食を終えており、万一に備えて一か所に固まって待機していた。
別段、この襲撃を予見していた訳ではない。
ただ、今まで自分達から仕掛ける事が多かっただけに、そろそろ自分達が仕掛けられる側に立つ番であろうとは考えていた。
それにしても、この休息期間もままならないスパンの短さだけは如何ともしがたい。
前日に死闘、翌日に総力戦、その翌日にまた大決戦。血戦必至の戦争でも、ここまで極端ではないだろう。

「ふむ、どうやら結界も周囲に張られているようですね」
「ぐるっとこの家を囲むように……かな?」
「ええ、正解ですサクラ。人払いの要素も含んでいるようですから、強引に打ち破るのは得策ではないかと」

私服のまま、釘の短剣を構えるライダーが、桜を背後に庇いながら敵の気配を探る。
未だ敵の姿はない。だが、外からはカシャリ、カシャリと乾いた薪がぶつかり合うような音が断続的に響いてきていた。
しかも、数は十や二十ではきかない。
察するに、三桁に届くのではないかと疑うほどに不気味なざわめきが忍び寄ってきていた。

「骨人形に、結界……キャスターね」
「十中八九。いえ、確実に」

悠然としたイリヤスフィールの横で、セラが言を肯定する。
反対側のリーゼリットは、長大なハルバートを木刀同然の軽妙さで担ぎ上げ、常の茫洋とした視線を虚空に投げかけていた。

「……解せん」
「なによ、藪から棒に」

眉を顰めて呟いたアーチャーに、緊張感を漲らせている凛が反応する。
既に魔術回路も刻印も起動済みの彼女の肉体では、魔力が臨界点まで循環し高められていた。

「今まで慎重だったキャスターが、ここに来て性急に過ぎる。不自然なほどな」
「……ん。一理あるけど、今はそんな事言ってても仕方ないわ。まず、現状を切り抜けないとね」
「解っている。手は抜かんさ。ただ、その点だけは頭の片隅に置いておいて損はなかろう」

彼の手にも、いつの間にか黒白の双剣が携えられている。
室内では弓が使えない以上、これ以外に彼が扱える武装はない。
だが、やはり弓兵が剣を使用するという奇異さは、周囲の英霊と見比べても際立っているように窺えた。

「……なあ、こんな時になんなんだが」
「なんですか、シロウ」

声の方へ振り向く事なく、セイバーが問いかける。
不可視のままの聖剣を下段に構え、無数の敵へと剣気を漲らせつつある。

「たぶん、屋敷のあらゆる場所で戦闘になると思うんだよ」
「そうならざるを得ないかと……それがなにか?」

彼の右手には、“名刀・電光丸”。
借り物の武器で、もはやお馴染みだが、彼がこの場で実際に扱えるのは、この他にない。
空いた左手でかりかり頬を掻きつつ、その口から遠慮がちに言葉が吐き出された。

「いや、だからさ。なるべく、屋敷に対してお手柔らかに願いたいなあ、と……」
「……は、はい?」

張り詰めた糸同然だった空気がへにょん、と緩んだ。
点となった目をぱち、ぱちと瞬かせ、セイバーは無意識のうちに士郎を振り返ってしまっていた。

「その、なんと言うか。たとえちょっとくらい壊れても、のび太君の“復元光線”とか“タイムふろしき”を使えばいいんだけど、それにもやっぱり限界があるというか……とりあえず、全壊とか更地とかになるようなマネは控えてくれよ。もっとも、どうしようもない時は、やっちゃってくれていい。その時は、腹括るからさ」

家主の心情としては、屋敷全損の憂き目に遭うなど、心の底から御免被りたいところである。
勿論、それが遠因で取り返しのつかない事態に陥っては欲しくない。最後に解除条件を付け加えたのは、彼の最大限の譲歩であった。
この一言で先程までの緊迫感は打ち壊され、締まらない空気が場を支配する。
緩んだ構えを直さぬまま、はあ、と溜息をひとつ吐いて、セイバーは答えた。

「善処いたします、マスター。皆も、それで構いませんね」

しかし、空気が緩んだ事で、この場の全員に心の余裕が生まれた事は、怪我の功名と言うべきかもしれない。

「……まあ、いいでしょ。努力するわ」
「いいだろう。その意向は汲む。拠点を失うのも痛いのでな」
「了解です、なるべく宝具なしで対処するとしましょう」
「大家さんには従うわよ。セラもリズも、いいわね」
「かしこまりました」
「ん、がんばる」
「解りました。そういう訳だからフー子、風は使わないでね」
「うん。じゃ、せなか、ひっついてる」

そう言うと、フー子はふわりと床から舞い上がり、のび太の背中へと回って肩に手を置き、そこを定位置とした。
傍から見れば、幽霊に憑りつかれた人間そのものであるが、その幽霊が愛らしい女の子である以上、浮くという怪現象を差し引いても微笑ましさが勝る。
と、そこへ更なる援軍が推参した。

「どらら!」
「どら~!」
「ヤー!」
「あれ、ミニドラ!」

唐突に天井の方から落ちてきたのは、レッド・グリーン・イエローのミニドラ三人衆。
それぞれ意気軒高と闘志を漲らせており、ミニドラ・レッドに至ってはボクシングのシャドーまでやっている始末である。
文字通り、猫の手も借りたいような事態ではあるが、ミニチュアサイズの援軍では流石に不安がつきまとう。

「大丈夫なの、ミニドラ?」
「どらら!」

心配そうなのび太の声に、ミニドラ・イエローがぽん、と自分の胸を力強く叩いた。
『まかせとけ!』という意思表示。
反対の手に持っている箱型の“ナニカ”を持ち上げて、自信に満ちた表情を崩さない。

「なに、それ? ……え、こんな事もあろうかと、だって?」

その時、遠くで何かが打ち割られる音が響いてきた。
いよいよ大勢の骸骨兵による、衛宮邸への討ち入りが始まる。

「凛!」
「聞こえてる! 待ったなしとはね! 全員、『いのちといえをだいじに』!」
「いくぞ!」

その掛け声を号令として、皆が一斉に居間を飛び出し、めいめい敵目掛けて散って行った。

「……どらら?」
「どら」
「ど~ら!」

だが、号令後もなお、居間に佇む影がみっつ。
ミニドラ達は、互いに顔を見合わせて何事かを確認し合っている。
まるで、いたずらかドッキリを仕掛ける悪戯っ子のように。

「「「――――どらら!!」」」

ミニドラ三人が両手を重ね、イエローの手の中のスイッチを共に押し込んだ。
この時、微かに建物が揺らいだのに気づいた者は、この三人以外にはいなかった。





「…………」

骨人形。外法にも近い、今はなき古来の魔業を以て造り出された魔術師の尖兵。
正式な名は、元となった素材の由来から『竜牙兵』と言う。
物言わぬ彼らは、感情を保持しない。
恐怖におびえる事もなく、悲哀を覚える事もなく、ましてや、血気に逸る事もない。
彼らはただただ、与えられた命令(コマンド)に粛々と従うだけである。
それが、彼らのアイデンティティであるゆえに。

「…………」

衛宮邸に大量に送り込まれた、この骨人形達。
数にして、三桁に届こうかというほどである。
大の大人がナマクラ刀を振り回す程度の戦闘能力と、犬より上等な知恵と、わずかな自我のみを有する彼らは、人間相手ならばともかくとして、英霊と矛を交えるには甚だ役者不足と言わざるを得ない。
だが、この狭い家屋の中で、多勢を以て襲撃を仕掛けたという、その事実だけでも脅威である。
古来より、戦争においては数の力が物を言う。
加えて、骨人形達にとってはアウェー戦という事もあり、自軍設備の損害を気にせず全力を以て臨める。
屋敷の被害を考慮すれば、どうしても戦闘行動に制限がついてしまう敵方とは、背にする条件が違うのである。

「…………」

しかし、その程度の制限などあってなきが如しとばかりの損害が、現に骨人形達には襲い掛かってきている。
元々の力が違いすぎるのだ。
不可視の剣で切り裂かれ、黒白の双剣で叩き壊され、釘の短刀で貫かれる。
英霊にかかれば、彼らなど鎧袖一触。有象無象と変わりない。
そしてそれは、なにも英霊に限った事ではなかった。

「…………」

ガンドで撃ち抜かれ、斧槍で粉砕され、終いには『強化』された中国拳法の崩拳で破壊される。
以前、アーチャーのマスターは学び舎において、この骨人形達を独力で始末してのけた。
英霊どころか、一流の魔術師においても、彼らは物の数ではないのだ。
しかも、その一流どころがこの屋敷に複数いるとあっては、もはや彼らは巨象に立ち向かうアリ同然である。
屋敷の彼方此方で繰り広げられる、この一方的な戦闘風景。
普通ならば、とうに撤退を開始していてもおかしくはない。

「…………」

だが、彼らはやはり怯みも、竦みも、逆上も、動揺すらしない。
たとえどんな事があろうとも、命題を達成するためだけに只管、その身を動かす。
それだけが、彼らに与えられた意義であるからだ。

「…………」

今、その一体……仮に骨人形Aと呼ぶ事にする……が、廊下の曲がり角をゆっくりと曲がっていた。
ガラス窓の向こうからは、がしゃん、がしゃん、と味方が壊される音が響いてくる。
数も、既に三分の一が姿を消してしまっただろう。
幸か不幸か、彼は敵と遭遇する事はなかった。
こうして、敵地を進めている事は、ある種の奇跡であろう。

「…………」

ところが、順調なその歩みも唐突に止まる事になった。
通常であれば、まだまだ先へと続いているであろうはずの廊下が、壁によって途切れていたからだ。
所謂、袋小路であるが、それにしては不自然なところがあった。

「……?」

犬よりマシな程度の知能しかない彼でも、その不自然さが理解出来る。
普通であれば、壁がある位置のフローリングは、壁と床とを明確に区別する継ぎ目となっているものだ。
鉄筋コンクリート製ならばともかく、ここは木造家屋。一枚の木から住宅が彫れるはずもない。
ところが、この壁はまるで衝立で無理矢理塞いでるかのように、壁と床板の不可解な継ぎ目が浮き彫りとなっている。
加えて、家屋内には付き物である部屋のドアや襖も周囲にはなく、意図的に拵えましたと言わんばかりの袋小路の体であった。

「……??」

だが、何よりも奇怪なのは、骨人形Aの目の前にある『綱』であった。
天井から三本、賽銭箱の上にある大鈴の綱のように垂れ下がっており、それぞれ赤色、青色、黄色で染められている。
いかにも引っ張ってくださいとばかりに、存在を主張している。
骨人形Aにとっては、なにがなんだか理解出来ない。
そもそも、理解出来る程度の知能などあるかも怪しいのだが。

「…………」

それにしたところで、こんな罠だと言わんばかりのシロモノなど、誰だって触れはしないだろう。
危険は避けて通る。それは古今東西を問わず万人に通ずる真理だ。

「…………」

しかし、彼はその危険に、自ら進んでその骨の手を伸ばしていた。
そこに躊躇は、欠片もない。
常人であれば避けるか、避けずとも警戒くらいはするはずなのに。

「……!」

最初に引っ張ったのは、赤の綱。
薬玉を割るように、勢いよく下に引かれる。
これ以上、引っ張れないところまで来た時、ガチン、と何かが填まったような音が鳴った。
次の瞬間。

「――――!!??」

正面の壁から、真っ白な煙が吹き付けられた。
ぶしーっ、と威勢よく、盛大に。まるで竜の吐息(ドラゴンブレス)さながらに。
猛烈な勢いに、思わず彼はたたらを踏んだ。

「……!? ……!?」

がつんがつん、と骨しかない手で、煙が直撃したこれまた骨しかない顔を拭う。
如何に道具同然の彼らでも、防衛本能はある。
数秒程度ばたばたとそうしていて、ようやく危険性も毒性もない、ただのこけおどしの煙だという事が解った。
どうやら、気化したドライアイスのようだ。
正面の壁に向き直ると、ちょうど目に中る位置に小さな金属のノズルが突き出していた。
つい先程までなかった事を考えると、赤い綱はこれを作動させるスイッチのようだった。

「…………」

そうと解って、忙しなかった骨人形Aの動きが収まる。
これに懲りて、この場から立ち去るかと思いきや、今度は隣の青の綱に手を伸ばし始めた。
手の動きが先程よりもゆっくりしているところを見ると、今度は用心してはいるようであるが。

「…………」

そこまでして拘る理由はなんなのか。おそらくは、彼も解っていない。
そもそもからして、そんな思考回路など存在しないのだから、当然だ。
ただ、そうせざるを得ない何かを、どこかで感じ取っているのかもしれなかった。

「……!」

引かれる青の綱。
前回同様、ガチンと鳴る撃鉄のような音。
刹那の間を置いて。

「!?」

シュパン、という小気味よい音と同時に、彼の背骨に突如として衝撃が走った。
すわ何事かと、思わず身を捩る。
その背骨の真ん中には、ビヨヨンと揺れる吸盤付の矢が突き立っていた。

「……??」

子供だましの一撃。当然、ダメージなどある訳がない。
衝撃の正体を知った彼がくるりと背後に視線を移すと、いつの間にか開いていたガラス窓の向こうの茂みから、安物のような見てくれのボウガンが顔を出していた。
青の綱は、つまりこのおもちゃのボウガンのスイッチだったのだ。

「…………」

形容しがたい静寂が数秒、空間を支配する。
人間であれば、頭のひとつでも掻いていたであろう。
しかし、彼は骨人形。そんな微妙な空気に対し、頓着するなどあり得ない。
残る綱はひとつ。黄色の綱だ。
ドライアイス、おもちゃの矢と危険性のない罠が続けば、如何せん警戒心も薄れる。
綱へと伸びる彼の手は、先程とは違って躊躇の気配が消えていた。
ここまで来れば、そんな脅威にもならないこけおどしなど放っておけばいいものを、彼は最後まで試す気のようだ。

「……!」

思い切り強く引っ張られ、黄色の綱がピン、と張る。
その途端、黄色の綱はすぽんっ、と天井から離れ、そのまま彼の頭の上へぽとり、と落下した。

「――――?」

一瞬、何が起こったか理解出来なかった。
綱を頭から垂らし、その尾を握り締めたままぼけっと立ち尽くす骨人形。
その次の瞬間、強烈な衝撃が彼の脳天を強襲した。

「!!??」

耳を塞ぎたくなるほど凄まじい金属音が、ぐわんぐわんと周囲に反響する。
K1ファイターのかかと落としもかくやと言わんばかりの衝撃は、彼の頭部の強度限界を超えていた。
木っ端微塵に砕け散った頭部。それと連鎖して、彼の骨の身体がぼろぼろと崩れ落ちていく。
彼らは、決して堅牢な存在ではない。並の人間よりはまだ頑丈だが、英霊の一撃はもとより、一流魔術師のガンド数発でハチの巣にされてしまう程度の防御力しか持たされていない。
使い捨てに近い彼ら、骨人形。役目を終えるか、やられてしまえば崩れ去るのみ。

「…………」

今わの際、残ったその目が最期に見た物は。

「……――――!?」

がらんがらん、と今なお床にて揺れる、銀のボディも眩い『金ダライ』。
側面にはご丁寧に、『1t』という二文字のペイントが施されていた。



「……どらら!」



どこかの物陰で、赤い色をした小型ロボットが小さくガッツポーズを決めた。





Aの悲劇から時を遡る事、僅か。
そことは違う、屋敷の別の廊下を、一体の骨人形が歩いていた。

「…………」

足音も静かに道行くこの骨人形……仮に骨人形Bと呼称するが……は、奇跡的にも敵と遭遇する事なく、ここまでやってくる事が出来た。
今も、耳をすませば敷地内のあちらこちらから、何かが砕け散るような音や怒号や奇声が微かに聞こえてくる。
彼のお仲間が、その儚い命を散らしていっているのだ。
敵は、一騎当千の猛者揃い。
十把一絡げの実力しかない彼らでは、その足元にも及ばない。
唯一勝っている、数の利にしたところで、盤面をひっくり返すどころか、そよ風程度の追い風にすらもならない。

「…………」

それでも、彼の足は止まらない。
怯む事も、怯える事もなく、規則正しいペースで前へと進んでいる。

「…………」

そうして、彼が辿り着いたのは、電気も消えた部屋の一室。
畳が敷かれた床の上に、長方形の長テーブルが置かれている。
部屋の奥には座布団が積まれ、横手には冷蔵庫やコンロの設置されたキッチンが見える。
隅に置かれたTVの画面に、鏡よろしく薄ぼんやりと彼の姿が映し出されている。
人の生活の匂いが漂うこの部屋は、つい先程までここに住まう者達が集っていた居間であった。

「…………」

無人の居間を闊歩する骨人形B。
ゆっくりと辺りを見回すも、敵の姿は見受けられない。
皆、一斉にこの場所から去ったため、今のここはもぬけの殻である。
破壊活動をするでもなく、彼はうろうろと居間を散策し続ける。
実際、初めの突入を除けば、骨人形達は、衛宮邸を壊すようなマネはしていない。
おそらくは、無駄を省くためにそういった指令は下されていないのだろう。
破壊活動に注力すれば、それだけ敵殲滅に割ける員数も減る上、制限ある知性のリソースを削る事にもなる。
彼らの利点は、その数だけだ。まとめてぶつける以外に、戦略の活路はない。
もっとも、この骨人形Bのように、集団からはぐれてしまう個体もいる訳なのだが。

「……?」

やがて、骨人形Bの動きが止まった。
彼の視線が、一定の方向へ向けられ、固まっている。
その所作は、何かを見つけた事を示していた。

「…………」

視線の先は、部屋中央のテーブルへと向けられており、そのテーブルの上に、何か小さなものが置かれている。
窓から差す、微かな街灯の光を反射して光る“それ”。

「…………」

居間の備品には不釣り合い極まりない。
掌にすっぽりと収まるサイズの、赤でペイントされたスイッチであった。

「…………」

加えて、その横には一枚の紙切れが。
スイッチに添えるように置かれたそれには、丸っこい字でこのような文言が書かれていた。
『このスイッチ、決して押すべからず』と。

「…………」

この上ない不審物。
注意書きもなんともアレである。
そもそも、どうしてこんなものが居間にあるのだろうか。
TVやエアコンのリモコンならばともかく、こんな劇画にあるような単一スイッチなど違和感どころか、もうミスマッチすぎて浮いてしまっている。
常人であれば、『触らぬ神に祟りなし』。注意書きのあるなし問わず、手を出そうとはしないだろう。
そう、『常人』であれば。

「…………」

だが、ここにいるのは『常人』ではない。
どころか、そもそも『人』ですらない。

「…………」

お迎えが来た老婆のように、そろそろと伸ばされる骨の手。
なんと、骨人形Bは書付に反してスイッチを押そうとしていた。
確かに、文言に従う謂れなどないが、何故押そうというのか。それは彼にしか解らないし、おそらく彼も解っていない。
ただ、そうせざるを得ない何かを、どこかで感じ取っているのかもしれなかった。

「…………」

骨の指が触れる。
カチン、とスイッチが押し込まれた次の瞬間、彼は宙に浮いた。

「――――!?」

いや、“浮いた”というのは正確ではない。
正しくは、強制的に浮いた状態になった、と言うのが正確であろう。
なにしろ、“床がなくなっている”のだから。

「~~~~~~!?」

畳二枚分の暗黒の隙間へ、真っ逆さまに落ちていく骨人形B。
如何な魔の傀儡も、物理法則を覆す事など出来ない。
もとより、そんな力があればもう少しは善戦出来ていたであろう。

「!!」

やがて、骨の身体が闇の底に叩き付けられた。
凄まじい衝撃が、彼の身体を突き抜けていく。

「~~~~!!」

ぎしぎしと軋みを上げ、少なくない亀裂が這うように身体の各所に走る。
だが、それでも彼の身体は砕け散る事はなく、辛うじて命脈を保っていた。

「……――――!」

十メートルはあろうかという高さを落ちたにも拘らず。
よろよろと、骨人形Bは四肢に力を籠め、立ち上がろうとしていた。
腐っても魔の傀儡、英霊や一級魔術師にしてみればアルミホイルも同然の耐久力だが、落下ダメージくらいは辛うじて耐えられる程度の頑健さはあったようだ。
あるいは、身に宿る魔力がアーマーの役目を果たしたのかもしれない。

「…………」

ふらつきながら、周囲を警戒する。
欠片も光射さぬ闇の中、一寸先も見えはしない。しかし、反響する音でおおよその広さは解る。
この空間は、どうやら結構な広さを持っているようだ。
床は武骨な石造り、おまけに天井も高い。
飛翔する力も、天高く飛び上がる力もない彼は、ここに閉じ込められたに等しかった。
と、その時、彼の足にカラリ、と何かが触れた。

「?」

下を見ても、暗くてそれが何かは判別出来ない。
だが、音からして何やら固くて軽いもののようだ。
例えるなら、木切れや錆びた鉄パイプのような。

「――――!」

それが自分の身体にもくっついている、よく見慣れたものだと悟ったその時、突如上からばたん、という音が響いた。
自分が落ちてきた、天井の穴が閉じられたのだ。
これで、彼は完全に密室に閉じ込められてしまった。
じわりと身構えた骨人形Bであったが、直後、空気が振動した。

「?」

びりびりと、地震のように鳴動する。
足元のブツがカタカタと揺れ、鬱陶しいまでに落ち着きのない音を鳴らす。
そして、それは足元に限った事ではない。
この暗黒の空間の至る所から、この忙しない異音の大合唱が響いていた。
そのざわざわという喧騒が、闇を満たした次の瞬間、彼の身体に激震が走った。



『ボエ~~~~!!』



襲い来たは、これ以上ない『音の暴力』。
ジャンボジェットの衝撃波なみの凶悪な音波が、怒涛の勢いを以て闇のすべてを飲み込んだ。

「~~~~~~~~!?」

耳を塞ぐように頭の両側面を押さえるが、時既に遅し。
それ以前に、耳を塞いだところでどうしようもない。
濁流のように押し寄せる音の津波は留まるところを知らず、どころか、反響によってどんどん音が増幅されていく。
発されたら最後、そのスバらしい音色で聴衆を軒並み昏倒させ、周囲の建造物を根元から揺るがし、共鳴によってガラスに終末を宣告し、TVで中継されては世を狂乱の坩堝へと陥れ、果ては魔の美声で人を惑わすセイレーンをすら圧倒した。
そんな数々の実績を誇る、人知を超越した音の最終兵器が牙を剥いたのだ。
墜落した時点で終わっていれば、まだしもマシだったかもしれない。
床に膝を付き、背中を逸らせて身悶え、苦しむ骨人形。
眼鏡の某少年がこの光景を見ていれば、両手を合わせて精一杯の憐憫と同情の念を送ったであろう。
その友人で、前髪が特徴的な金持ちの某少年も、そっと目を伏せて十字を切ったに違いない。
そしてついに、骨の身体を支える魔力が、根こそぎ吹き飛ばされた。

「――――!?」

ばらり、ばらり、と末端から分解していく骨人形B。
崩れていく身体は、もはや止めようがない。
筋肉兼接着剤である、魔力がなければ、彼らはただの骨へと戻るのみ。
その骨すらも、共鳴作用でずたずたに亀裂が走り、火葬場で焼かれた骨より無残な有様となっていた。

「…………」

そうして嵐のような福音が止み、この世の終わりにも似た天地鳴動が収まる。
後には、耳が痛いほどの静寂と、新たに一体分が加わった、無数の骨の草原が残されていた。



「……どらら!」



どこかの物陰で、緑の色をした小型ロボットが小さくガッツポーズを決めた。





Bの断末魔から、時を過ぎる事わずか。
とある区画の廊下を、一体の骨人形が進んでいた。

「…………」

訂正しよう。
“進んでいた”、と言うには、いささか語弊がある。
屋敷の廊下を、一体の骨人形が“その身体を引き摺るようにして”進んでいた。
これが最も正確であろう。

「…………」

一言で表せば、紛争地帯からほうほうの体で逃げ延びた敗残兵そのもの。
動く度、けたたましく笑う四肢を踏ん張り、出来の悪いカラクリ人形のようにがくがくとしている。
その背中には、びよんびよんと玩具の矢が数本突き刺さり、掌中のナマクラは切っ先が欠けて出刃包丁のような有様となっている。
極めつけは、手や足の指や頭の一部など、身体の末端箇所がいくつか欠損していた。

「…………」

なんの事はない。
この個体……仮に骨人形Cと呼称するが……は、仲間の集団とはぐれた挙句、伊賀忍者も真っ青なカラクリ屋敷と化した衛宮邸に、さんざっぱら揉まれてきたというだけの事である。
英霊や魔術師とは、運よく遭遇しなかったものの、仕掛けだけには物の見事に翻弄された。
壁を隔てた向こう側から、騒音のような怒声、奇声、悲鳴の声が伝わってくる。
お仲間のモノではない事は明らかだ。彼らに発声機能は備わっていない。
推して知るべし。とどのつまり、この屋敷の洗礼を受けた者は、何も己だけではなかったという事だ。
仕掛けられた罠の数々。スモークや石灰塵などのこけおどしから、壁や床からの不意打ちバネ式パンチグローブに吸盤付の矢、落とし穴に金ダライ、トリモチ、果ては剣山トラップのような洒落にならないものまで玉石混交。
そのすべてが、油断と安心と恐怖を差別なく煽るものだ。
事実、ここに辿り着くまでにも彼は見てきた。
床や壁に巧妙に仕掛けられたスイッチに触れ、底なしの落とし穴に落ちる者、金ダライの直撃を喰らう者、横から飛んできたパンチグローブで吹っ飛ばされる者、スモークで前後不覚にされては同士討ちをしてしまう者。
そして、頭を抱えて蹲っている生真面目そうな少年や、股間を押さえて悶絶している赤い男の姿を。

「…………」

それでも、彼らは怯む事はない。
作動不良を起こそうとも、壊れるまでその歩みを止める事など、あり得ない。
彼らには、そうする以外の役割などないのだから。

「…………」

そんな彼の目が、廊下の角で何かが揺れ動くのを捉えた。
ねこじゃらしのようにぴこぴこと、先端が球形の尻尾のようなものが。

「……?」

訝しんだ刹那、ぴょんとその全身が陰から姿を現した。

「ど~ららら~……」

腰に手を当て、凝った身体をほぐすように背筋を伸ばすは、小さな身体の黄色いアイツ。
一仕事終えたとばかりに、目を糸のようにしてほっとした表情を浮かべている。
やがて、『うー』と可愛らしく唸ると、腰をトントン叩きながら、さらにぐいっと背を逸らせた。

「……!」

明らかに自分とは違う個体。
仲間以外の者は、すなわち敵である。
そして彼ら骨人形の使命は、『敵抹殺』のその一点。
反射的に、骨人形Cの足が動いた。
敵に接近する、そのために。
カシャン、カシャンと彼の肢体が乾いた音を鳴らした。

「……? ど、どらら!?」

そこで、ようやく己が緊急事態に気づいた小動物。
あわあわとしながらも、脱兎の如く角の向こうへ駆け出した。

「!」

当然、骨人形Cは追いかける。
一対一の、熾烈な鬼ごっこが始まった。

「どらら~~~~!!」
「……!」

屋内のあらゆる廊下を爆走し。

「どら~~~~!!」
「……?」

かと思えば、瓦で葺かれた屋根の上によじ登ってさらに激走し。

「ど~~ら~~~~!!」
「……!?」

飛び降りた後は、なんと忍者よろしく天地逆さまに天井を迷走し。
縦横無尽に追う者、追われる者がデッドヒートを繰り広げていた。
だが、どれだけ走ったところで、リーチの差は如何ともしがたい。
小動物が進んだ数歩を、骨人形Cは一跨ぎで稼いでしまう。
ダメージのせいでいくらか落ちたスピードだが、小動物を追いかけるにはまだ十分であった。
そうして、いつしか彼らは元の場所へと戻ってきてしまっていた。

「ど、どらら……!?」

追い詰められた小動物。
壁を背にして、ぜいぜいと息を荒げている。
対して、追い込んだ側の骨人形Cは、まったく疲れた様子を見せない。
損傷した身体で無理したせいか、関節の至る所から軋むような音こそ漏れているが、それでも依然として健在である。

「どらっ!?」
「…………」

徐に振り上げられるナマクラ。
小動物が一気に青褪める。
いかに切れ味が鈍いとはいえ、振り下ろされれば、質量差で真っ赤なザクロである。
そして、今まさに刃が閃かんとした、その刹那。

「――――ミッ!? どっ、どらら!!」

弾かれたように顔を上げた小動物がその場でだんっ、とひとつ、大きく足を踏み鳴らした。
途端、小動物の背後の壁が、軋みを上げ始める。
ばきん、ばきんと木々がぶつかり合うような音が空気を揺るがし、やがて現れた眼前の光景に、骨人形Cは存在せぬ筈の目を剥いた。

「!?」

動いているのだ、壁が。
ビル玄関の回転扉よろしく、床の先半円五十センチほどを巻き込み、くるりと。
裏返る壁と共に、小動物の身体も一緒に回転していく。
稼働対象の五十センチの範囲にいるのだから、当然である。

「どらら~」

まさかの展開に硬直する骨人形を尻目に、小動物は手を振りながら、壁の裏へと隠れていく。
行き場を失ったナマクラは、そのまま宙に釘付け状態だ。
そのまま、壁は百八十度回転しきり。

「…………」

さらに、百八十度余計に多く回転してその動きを止めた。

「どら!?」

都合、三百六十度一回転。
今度は、小動物が面食らう。
本人にとってはまさか、だったのであろう。取り乱したようにわたつき始めるが、骨人形は既に次の行動を起こしていた。
上げっ放しだったナマクラを、一気呵成に振り下ろしたのだ。
今しかないと言わんばかりであった。

「どら~!?」

頭を抱え、しゃがみ込む小動物。
万事休す。悲壮感溢れる面持ちで、次の瞬間を待つ。
刹那、辺りを震わすほどの轟音が響いた。

「…………、どら?」

何も起きない。
二秒、三秒、四秒と経っても、白刃が迫ってくる事もなく、依然として小動物は命を保っている。
どういう事かと、小動物はおそるおそる、顔を上げた。
そこには。

「…………!」

蝶番のように落ちてきた向かい側の壁に、頭部を襲撃された骨人形Cの姿があった。
板壁による、斜め四十五度からの脳天唐竹割り。
前触れもなく直撃したそれは、不意打ちどころか電撃的な奇襲であった。
凶悪なのは、壁の裏側には黒光りする分厚い鉄板が仕込まれていた事だ。
いや、鉄板と言うより、鉄塊と言った方が正確であろうか。なにしろ、片手では掴めないほどの肉厚さである。
その重量は、四桁に近かろう。のしかかられれば、圧死は免れない。
さらに、起動音が消える消音措置をも仕掛けていた事が、この奇襲をさらに性質の悪いものに仕立て上げていた。
喰らった本人は堪ったものではない。頸椎が陥没し、頭蓋が完全に砕け散っていた。

「…………」

文字通りの即死。頭を砕かれて、生きていられる筈もない。
ばらり、と骨の肉体が解け散ると同時に、壁が音もなくするすると元に戻っていく。

「……む~」

小動物が散らばった骨へそろそろと近づき、どこからか出した木の棒でおそるおそる突っつく。
そうして、復活する様子はないと悟ると。


「……ど、どらら!」


小動物……ミニドラ・イエローはまるで『作戦通り!』と言わんばかりに、ちゃきーんとキメポーズを取ったのであった。
だが、その笑顔は引き攣っており、いまいち締まらなかった。





「……すぅ」

侵攻をすべて退けた衛宮邸。
喧騒が去り、元の静かな空間へ回帰している。
だが、完全な元通りという訳ではない。
一部の板塀やガラス窓が破れ、また敷地の至る所に骸骨兵士の躯が散らばっており、争いの熾烈さを色濃く残している。
その庭先において、腹の底から鬨(とき)の声を上げる者がいた。

「こんな屋敷に誰がしたぁああああああっ!?」
「……ミニドラでしょ」

濃紺の空に向かって思いの丈をぶちまける凛に、イリヤスフィールがツッコミを入れた。
艶やかだった凛の黒髪はバサバサに乱れ、ところどころが白粉をまぶしたように白くなっている。

「石灰被ったくらいでまだよかったじゃない。こっちなんてトリモチが顔にべったりなんだから……う~、まだねっとりしてる」
「お嬢様、動かないでください」
「ん、髪はだいじょうぶ。ついてない」

お互い服もよれよれで、あちこちが皺だらけである。
セラとリーゼリットに顔を拭われながら、イリヤスフィールは怒れる凛を冷めた目で見ていた。
白い物の混じった髪を振り猛る彼女は、さながら山奥で鉈を振り回す山姥のようであった。

「……は、はっ、ハックシュン! クシッ、クシュン!!」
「のびた、だいじょうぶ?」
「うう、うん……はっ、は……ハックシュン! あうぅ……」

一方その隣では、のび太が盛大にくしゃみを連発していた。
フー子に背中をさすられながら、真っ赤に充血した目を袖で擦るも、それでも止めどなく涙と鼻水を垂れ流している。
眼鏡を外し、どこかから持ってきたペットボトルの水で顔中を洗い流し、『3』の字になった瞼が擦り切れるほどに目を拭うが、一向に収まる様子はない。
あまりに汚らしい形相にやや眉を顰めながら、イリヤスフィールがリーゼリットに問うた。

「リズ、ノビタのあれは?」
「コショウ爆弾。イリヤと同じ、顔面直撃」

表情も変えずに、常の平坦な声で述べるリーゼリット。
しかし、声とは裏腹に被害は深刻であった。
香辛料は刺激物である。それを目や鼻などの脆弱な粘膜にしこたま浴びた場合どうなるかは、のび太の惨状が物語っている。
復調まで、もうしばらくかかるであろう。

「……ん。これ以上は、髪を傷めてしまう。シャワーを使わなければ無理でしょう」
「ごめんね、ライダー」
「いえ、私の不覚でした。敵殲滅と罠への対応に没頭するあまり、まさか墨汁が神棚から射出されるとは思いもよらず……」
「普通、そんな事予想出来る方がおかしいから」

タオルを手に、背伸び状態で桜の髪を拭っていたライダーは、消沈した面持ちで桜に詫びていた。
イカスミのように真っ黒な液体が、タオルを染めてぐっしょりと湿らせている。
濡れ具合からして、相当な量を被ったようだ。
彼女の服も、犬の斑点のようにところどころが斑な黒の水玉模様となっていた。
ちなみに、フー子、セラ、リーゼリット、ライダーは何らの損害も被っていない。
前者三人は元々運がよく、後者は振りかかって来たものすべてを自力で対処していた。
従者が無傷で、主に火の粉が降りかかったとなれば、立つ瀬もなかろう。

「ともあれ、これで一段落か……痛てて、うー。コブになってんな、こりゃ。まさか上から金ダライとは。首がもげそうだった」
「シロウ、氷嚢です。当てておいてください」
「ああ、悪いな。セイバー」

頭頂部をさすりながら、士郎は差し出された氷嚢を受け取った。
こちらも、従者が無事で主のみ損害を被っている。申し訳なさそうな表情が、彼女の心情を如実に表している。
槍兵の魔槍の呪縛から逃れられるほどの幸運に恵まれた彼女と、眼鏡の小学生に似て悪運こそ強いが常の運が悪い彼。
ここでも、被害の逆転現象が起こっていた。
唯一違っているのは、赤い主従ある。

「いえ……アーチャーはどうします? 辛そうですが」
「……問題ない。気遣いだけ、貰っておく」

固辞したアーチャーの表情は、決まりの悪そうなしかめっ面であった。
しきりに腰の辺りを叩き、そわそわと忙しなくそこらをうろついている。
まるで、不調を誤魔化そうとしているかのように。

「あー、その……なんだ、終わってなくてよかったな、お前」
「……ああ」
「床から斜め四十五度だったよな、あのパンチグローブ」
「……ああ」
「ピンポイントに吸い込まれるような直撃、だったよな……」
「……ああ」

自然と、二人の視線が交錯する。そこに、それ以上の言葉は必要なかった。
男にしか理解し得ないシンパシー。
士郎とアーチャー、相性の良くない二人ではあるが、この時ばかりは不思議なほどに心が通じ合っていた。
アーチャーの体験は、それだけ想像を絶したものであったという事であろう。
ヘビー級ボクサーのストレートをも上回る凶悪な負荷が、男の最も脆弱な個所に襲い掛かったのだ。
士郎の金ダライなど目ではない。想像するだけで腰が引け、冷や汗が噴き出し、身を捩りたくなる。
あのボールが無理矢理押し潰されるような鈍い感触は……男であれば解るだろうが……叶うものなら終生、味わいたくはないものだ。
よくもまあ、あれから戦線復帰を果たせたものだと、士郎は心底で賞賛を送っていた。

「はーっ、はーっ……ふーっ」
「落ち着きましたか、リン?」
「はあっ……うん、一応。で、釈明はあるのかしら?」

ひとしきり怒りを発散し終えた凛。
荒げた息を整えながら、じろりと視線を別方向へ向ける。

「「「……どら」」」

そこには、冷たい地面の上で正座させられている、赤、黄、緑のミニドラ三人の姿があった。
全員、『青菜に塩』状態で、しょんぼりとうなだれている。

「どら……どらら」
「『警報だけじゃ不安だったから、ちょっと改装した』……ですって? これが“ちょっと”?」

ミニドラ・グリーンの言い分に、凛の眉間の皺が険しさを増した。
衛宮邸は、元が武家屋敷なだけあり、のび太の家のような一般家屋と違って広い。屋敷の大きさも相当の物だ。
敷地面積だけで考えれば、洋風の豪邸ともいえる遠坂邸や間桐邸以上であろう。
それだけの規模の屋敷を、ここまでいじるのはもはや“ちょっと”どころではなかった。

「どらら、どら。どら~」
「『張り切りすぎた、反省している。でも後悔はしていない』……って、ちょっとは後悔しなさいっ! 張り切りすぎた結果、追いかけられたんじゃないの!」
「どらっ!? う~……」

そう言われれば反論も難しく、ミニドラ・イエローはしゅんとなる。
骨人形に追いかけられたのも、そもそもからして改造に張り切って勤しんでいたからだ。
基礎構造を資料を基に三人で相談して練り、それぞれが分担して改装を行った。
自前のひみつ道具まで持ち出して勤しんだおかげで、わずかな時間でここまで作り上げられたのだが、実はこれでまだ八割の出来だったりする。
襲撃の時も、ふとその事を思い出し、手つかずの箇所をどうにかしようと、敵の目を掻い潜ってこそこそと調整をしていた訳だが、運悪く見つかってしまって、あとは知っての通りである。
設計ミスなのか、回転壁の誤作動はさすがに想定外だったらしいが、しかし、イエローはそこは言わない。
自ら進んで火に油を注ぐ物好きなどいないのだ。

「でも先輩、あれだけの数に押し込まれて、よくこのくらいの損害で済みましたね」
「ん……そうだよな。窓ガラスとか、障子とか板塀が壊れたくらいで、あとはそこまで……なんでだろ?」

普通、三桁の数の暴徒にカチコミを受ければ、家中滅茶滅茶になって当たり前である。
それこそ、床板が抜け、大黒柱がへし折られていてもおかしくはなかった。
だが実際は、脆いガラスや板戸、障子、食器や家具などが被害を受けただけで、それ以外はせいぜいが掠り傷程度であった。

「どらら!」
「え、『こんな事もあろうかと、耐震・耐傷・耐衝撃構造にしておいたんだ!』って……」

えっへん、と胸を張るミニドラ・レッド。
壁の裏が鋼鉄製だったり、地下にだだっ広い空間を作っていても家屋が傾かなかったり、そこで度々使用された音波兵器の影響が地上にまったく出てこなかったり。
災害列島日本の誇る、現代建築技術と同等か、それ以上のものをわずか数日で形にした。
未来の道具の恩恵ありとはいえ、22世紀の申し子は伊達ではない。
余人に悟られる事なく、これだけ大掛かりに改修出来るとは、いったいどれだけ熱心だったのか。
氷嚢を頭の天辺に当てたまま、士郎は深々と嘆息した。

「いや、被害が少なかったのはいい事なんだけど……なんだかなあ」
「どうせなら、罠ももう少し考えて欲しかったわね。敵だけじゃなく、味方にまで被害が及ぶようじゃね……」
「しかも罠が、なんと言うか……アレだよな」
「まるで昔のコントみたいでしたね」

桜が苦笑を滲ませてそう評した。
特に金ダライやスモーク、作動式の落とし穴など。
洒落にならないものもいくつか混じっていたが、被害者の姿を客観的に見てみると、まさにウケを狙ったバラエティ番組の芸人そのものであった。

「まあ、ね……た○し城とか?」
「う~ん、ド○フかも」
「バ○殿じゃないか?」

凛、桜、士郎が次々に例を挙げるが、流石にこれは現代日本人にしか解らない。
イリヤスフィールなどは、例えが解らず疑問符を掲げて首を捻っていた。
しかし、それも束の間。何事か思いついたのか、思案顔から、不意に悪戯っぽい笑顔へと変わる。
そうして、ミニドラ達へゆっくりと近づくと、その耳元へそっと囁いた。

「……ねえ、この屋敷の設計図ってある?」
「どら……? ど~らら~」

突然の提案に首を傾げながらも、ミニドラ・イエローが自分の“四次元ポケット”から数枚の紙束を取り出し、イリヤスフィールに手渡した。
ペラペラと流し読みし、ふんふん頷きながら、イリヤスフィールの笑みは次第に深まっていった。

「うん。これはなかなか……使えるかも」
「お嬢様? いったい何をお考えなのですか?」
「ちょっと、ね。壊れたお城の改装に使えるかなって」
「は?」

目を点にするセラを余所に、彼女は今度は矯めつ眇めつ、図面を眺め始めた。
この時、セラの脳裏には、どこぞのテーマパークも顔負けな奇天烈アトラクションを擁した、稲妻光る古城の映像が浮かび上がっていた。

「……それにしても」

そんな緩んだ空気を吹き飛ばしたのは、剣の英霊の一言であった。
玉鋼のような、独特の重々しさを含んだ声音。
思案気な表情で、顎に手を当てなにやら考え込んでいる。

「どうしたんだ、セイバー?」
「いえ、やはり少々不可解に感じまして」
「不可解?」

尋ね返した士郎に、ひとつ頷きを返してセイバーは続けた。

「キャスターが、どうして尖兵を送り込んできたのか。その目的が見えない」
「それって、戦闘の前にアーチャーが言ってたような?」
「はい。考えてもみてください。あんな雑兵がいくら束になってこようと、我々英霊にとっては物の数ではありません」

実際に英霊三人の手により、骨人形達の六割以上は瞬く間に駆逐されている。
白兵戦では最強クラスのセイバー、弓兵でありながら剣も使いこなすアーチャー、トリッキーな機動と敏捷性で翻弄するライダー。
彼らにかかれば、尖兵など木偶に等しい。
半熟卵の士郎や子どもののび太はともかく、凛やセラ、リーゼリットでも瞬殺とまではいかなくとも、全力を用いれば五秒あってもお釣りが来る。
セイバーの疑問は、なぜ結末の明白な尖兵をここまで大量投入したのか、その一点に尽きた。
ちなみに、残りの四割近くは、ミニドラ謹製のトラップ屋敷の餌食である。

「殲滅されると解っていて、それでも敢えて大軍での強襲を仕掛けてきた。この事実に隠された意図とは何なのか、それが……」
「確かに、そうね」

剣士の指摘に同意を示したイリヤスフィールが、何かを探すような視線で濃紺の夜空を見上げた。
他の皆も、彼女と似た表情となっている。皆、薄々だが懸念があったのだろう。
これで終わりではないのだと。

「は、は、は……ハックショイっ!」

例外は、いまだくしゃみを乱れ撃ちしているのび太くらいなものだ。
とはいえ、これは仕方がないだろう。
生理現象を惹起されては、人体は抗う術をまず持てないのだ。
落ち着くまで、待つしかない。

「うーん……」

敷地には、魔力の残滓がむせ返るほどに色濃く残っている。
当然だ。三桁に及ぶ魔道の傀儡を破壊し尽くせば、それだけ痕もしつこくべったりと残るものだ。
猟奇殺人現場の血痕や脳漿、体液と同じである。
骨を依代に、キャスターの魔力を血や筋肉、神経としていた傀儡。
魔術師の英霊謹製なだけに、番茶の出涸らしのような薄い魔力で作られている訳ではない。
魔力に敏感な者でなくとも、思わず酔ってしまいそうなほどの濃厚さであった。

「……そういえば、まだ結界って消えてないな」
「ええ、そこも引っ掛かる要因なのです」
「同感だ。いまだ臨戦態勢を解いていない、という表れにも近いのだからな」

もうひとつ。普通であれば、空気中の魔力はすぐに風に流れて吹き散らされてしまう。
ゆえに、ここまで残滓が強烈になるはずがないのだが、原因は自ずと判明していた。
衛宮邸をぐるりと囲むように展開された結界が、今も消えていないのだ。
かっぽりと蓋を被せられたようなもので、空気の対流も滞って魔力は籠るしかない。
人払いの効果を持たせている辺りが、性質が悪い。
力にあかせてぶち破る事も可能だが、そうしてしまうと近隣住民がすわ何事かと表に出張ってくるであろう。
そうなると、いささか厄介な事になってしまい、戦い以外のところで苦労するハメになる。
結局、迂闊に結界は壊さない、という選択肢を採るしかない訳だ。

「ああ、もう。面倒な。にしても、この空気の魔力、どうにかならないのかしら。血糊が纏わりついてるみたいで、気分が悪くなりそう」
「魔力……」

船酔いした客のような表情の凛の横で、セイバーが再び眉根を寄せた。
カミソリよりも鋭利な彼女の『直感』が、何かを訴えかけている。

「魔力……魔力、ですか」
「どうした、セイバー。さっきから魔力、魔力って」
「シロウ、いえ……」

見落としている。
決定的な何かを見落としている。
ぴりぴりと、彼女の内から電気のような感触が全身を駆け巡り、第六感がさらに鋭さを増す。
思考の奥深く、答えが指先を掠めているのに掴めない。
闇の中を、もどかしさに悶えながらも必死に手を伸ばして。

「魔力……満たされた魔力……魔術師……密室……――――ッ!?」

刹那、脳裏に閃いた紫電。次いで走った、底冷えするようなざわめき。
弾かれたように面を上げたセイバーは、悪寒をも伴った『直感』の指し示すままに地を蹴り、あらん限りの力でそこに腕を伸ばした。

「へ、へ……? え、う、うわあっ!?」
「フ!?」

眼鏡の少年が突き飛ばされ、地面に身体を打ちつけたのと同時に。



「――――ぐ」



ガラスが砕け散るような音が、大気に溶けて消えた。







[28951] 第四十七話
Name: 青空の木陰◆c9254621 ID:90f856d7
Date: 2014/03/21 00:28





「…………」
『…………』

女性と子ども達の間には、奇妙な沈黙が訪れていた。
お互いが語り合う事、数十分。
両者とも、口が開けば、自らの常識を超えた事実が相手を殴り飛ばし、相手側からお返しとばかりにカウンターが叩き込まれる。
世界を渡るとは、こういう事なのか。
魔術師の女性は、ある種の真理を悟っていた。

「……事情は解りました。つまり、私は如何なる理由か世界の壁を越え、瀕死で時空間とやらに漂っていたところを助けられた、という事ですね」
「そ、そうです。というか、本当に日本語お上手ですね」
「日本人に知己がいましたので……ふむ、俄かには信じられませんが」

女性……バゼット・フラガ・マクレミッツは、手を顎に当ててそう呟いた。
特に、世界の壁を越えたというくだりだ。それが、彼女の眉間に寄った皺の原因となっている。
『世界を越える』という事は、バゼット達魔術師にとっては奇跡でもあり、また禁忌でもある。
俗に第二魔法と呼ばれるこの御業を為した者は、知られる限りではただひとり。
それを、意図的でないとはいえ己が果たしてしまったという。
心の奥底で、表現しづらい妙な薄ら寒さを感じながら、彼女は再度口を動かす。

「それでは、別の質問を。この腕は、いったいどういう事なのでしょうか。完全に引き千切れて、肩から先がなくなっていたはずです」
「ああ、それは……」

寸胴で二等身の青いロボットが口にする傍らで、子ども達の表情が青くなっていた。
どうやら、あの血みどろの姿を思い出してしまったらしい。

「これを使ったんです」

と、青いロボット……ドラえもんが腹のポケットから取り出したのは、一枚の時計柄の風呂敷。
そう、“タイムふろしき”である。

「それは?」
「これは“タイムふろしき”といって、これで包んだものの時間を進めたり、戻したり出来るんです」
「じ、時間を?」
「つまり、バゼット……さんの肩にこれを被せて、腕がなくなる前の時間に戻したって事ですよ」

掴みかねたバゼットに、スネ夫が話をまとめて補完した。

「それが二十二世紀の“ひみつ道具”とやら、ですか。魔術ではなく、科学の力でそのような事が……」

しかし、理解は出来ても納得までは流石にいかないようで、バゼットは顎から手を離さない。
表情も固く、厳めしいままだ。
そこに、ジャイアンが質問を投げかけた。

「あの~、バゼットさんって魔術師、なんだよな」
「ん……ええ。それが?」

一応、バゼットは自らが魔術師である事を打ち明けている。
というより、そうしなければ事情の説明が不可能であった。
向こう側がすべてをあけすけに開陳しているのに、自分だけがなにもかもを秘密、という訳にはいかない。
とりあえず、深淵に触れるような事を除いて、ある程度は身の上の説明を行っていた。
証明のために、簡単なルーン魔術を実演してみせた事で、相手の度肝を抜くと同時に経緯の概要の信憑性を勝ち得ている。
平行世界で、かつこのような異常事態の最中である。神秘の秘匿などとうそぶく必要も、その余裕もない。

「それにしちゃあ、物凄い腕っぷしだったけど」
「たしかにね。普通じゃ出来ないよ。女の人が、片手でジャイアン押さえるなんて」

ジャイアンをはじめ、皆が連想するであろう魔術師とは、RPGの魔法使いよろしく、術が使える分、力に劣り脆弱。そんなところであろう。
だが、バゼットは違う。
子どもとはいえ、大柄なジャイアンを片腕で締め上げ、取り押さえたのだ。
並の女の細腕では、とても出来ない芸当である。

「魔術師としての仕事柄、戦闘が主ですから。むしろ、このくらい出来ないようでは話になりません」
「ってえと……魔術師って、ケンカばっかしてんのか?」
「いえ、決してそういう訳でもないのですが。一言で言えば、様々ですね。研究に没頭する者もいれば、戦いに明け暮れる者もいます」
「ふぅん。でも、バゼットさんは、依頼でその、『聖杯戦争』ですか? それに参加してたんですよね?」
「ええ。ですが、見事にしくじりを犯して、本格開始前にあの有り様です……」

しずかの問いに、バゼットは顔を顰めて答えた。
痛恨の記憶ゆえに、しくじりの内容は簡略化して説明していたが、それでも子どもにとっては刺激の強い話だ。
魔術の本質と相まって、人間の醜い部分を前面に出して憚らない。
空気が沈み、再度重苦しい雰囲気が漂い始める。
それを知ってか知らずか、するりとバゼットは話題を変えた。

「ところで、ドラ……エモン、でしたか。これだけは確認しておきたいのですが」
「はい?」
「私が向こう側に戻る事は、可能なのでしょうか」

これだけは、しっかりと確認しておかなければならない。
ここまで来てしまった以上、自分に残された選択肢はなく、あの夢の宣託に従う他ない。
どうやら自分は、あの繰り返す四日間の中で、あの得体の知れない復讐騎に対し、思った以上の信頼を置いていたようだ。
本来ならば、信じるなど以ての外であるはずなのに。かつて、手酷い裏切りを味わっているにも拘らず、だ。
心の中で、彼女は呆れの混ざった笑いを漏らした。

「それはたぶん、今なら大丈夫だと」
「今なら?」
「はい。時空乱流のひずみが塞がってませんから」
「……は?」

ドラえもんの言っている意味がよく解らないようだ。
訝しげに首を捻るバゼットに対し、ドラえもんは要点だけを噛み砕いて説明した。

「えーと、つまりバゼットさん側の世界と、こっちの世界はまだ繋がったままなんです。だから、来た道を辿れば元の世界に戻れると思います」
「ふむ……ああ、成る程。そういう意味ですか」
「はい。あの、ところでひとつ、質問が」
「なんでしょうか」

尋ね返したドラえもんが、彼女の前に一枚の写真を差し出した。
黄色い上着、紺色の半ズボンに丸眼鏡を掛けた少年が、満面の笑みでVサインをしている。

「これは?」
「“野比のび太”くんです。バゼットさんを助けるちょっと前に、時空乱流に巻き込まれてしまって、今行方不明なんです。それで、向こうの世界か時空間でチラッとでも見かけてないかと思って」
「ふぅむ……」

写真を手に取り、まじまじと見つめる。
日本ならばどこにでもいそうな、平凡を絵に描いたような少年である。
当然と言うべきか、バゼットの記憶の片隅どころか、どこをひっくり返しても見覚えなどなかった。

「いえ、残念ながら」
「そうですか……」

心底残念そうに、ドラえもんが差し出された写真を受け取った。
その様子から、彼にとって、この少年はとても大切な存在なのだと、バゼットは察した。
そんな彼に対し、周りの子ども達が声を掛ける。

「元気出して、ドラちゃん。のび太さんなら、きっと無事よ」
「そうだよ、ドラえもん。なんだかんだ言って、のび太ってしぶといしさ」
「おう! のび太ならすぐに見つかる、オレさまが保証するぜ!」

――――打算も、損得計算も何もない、純粋な信頼関係。
それは、魔術師たるバゼットにとって、終ぞ縁のないものであった。
互いに利用し、利用される。持ちつ持たれつ。ギブ・アンド・テイク。
そんなドライな関係ばかりの魔術師社会。潤いのある人間関係など、夢想の域に等しい。
だが、その機微が微かなりとも判ぜられるようになったのは、果たしていつからであったか。

「…………」

脳裏を掠めたは、あの軽薄な笑いを浮かべたタトゥーの少年。
繰り返す四日間。その泡沫の夢の中で、幾度も会話を重ねてきた。
遠慮のない罵り合いもあった。尽きぬ軽口を叩き合う事もあった。
主従という間柄だったとはいえ、あれほど気安い関係となった者は、バゼットの記憶の中にはなかった。
所詮は夢、と切り捨てるはずのあの忠告を信じる気になったのも、そのせいなのかもしれない。
ふと、バゼットはそんな事を考えた。

「う、うん……そうだね。と、とりあえず、もう一度時空間の様子を見てくるよ。なんにしても、もうちょっと調べてみないとね」

幾分、表情の柔らかくなったドラえもん。
徐に立ち上がると、のび太の机へと向かい、引き出しを開けていそいそと中に潜り込み始めた。
事情を知らない者が見れば、まさしく珍妙な光景であろう。
現に、バゼットの目は『何事か!?』とばかりに、大きく見開かれていた。

「あ、じゃあ手伝うよ、ドラえもん」
「わたしも」

続いて、スネ夫としずかも立ち上がり、ドラえもんの後に続いて、開かれた引き出しの中へと入っていく。
そして、最後に残ったジャイアンも立ち上がろうとしたが、その前に引き出しの中から届いたドラえもんの声が彼を制止した。

「ジャイアンは、バゼットさんの相手しててくれるー? 流石にバゼットさんひとりにしておくのもダメだからー!」
「んあ? お、おう。解ったぜ」

言っている事ももっともなだけに、反射的に請け負ってしまうジャイアン。
上げかけた腰がすとんと畳に着地し、六畳間にふたりだけが残される形となった。

「…………」
「…………」

互いに沈黙。外から漏れ来る風のざわめきと鳥のさえずりだけが、しばし空間を支配する。
元々、口数の少ないタイプのバゼット。
対してジャイアンは割合、多弁な方だが、如何せん彼女にやられた記憶が強烈すぎた。
いざこうして一対一で向かい合う形となって、その事が蘇ってきたのだろう。
ちらちらと彼女に向ける視線は、畏れと気まずさの入り混じったもの。明らかに萎縮している。
ガキ大将で、基本的に怖いもの知らずのあのジャイアンが、である。
それだけバゼットの力が衝撃的だった、という事だ。

「――――タケシ、でしたか」
「うおっ!?」

急に声を掛けられ、奇声を上げるジャイアン。
身を窄め、決まり悪そうにバゼットを見やる。
その様子に、バゼットが困ったような声を出した。

「そう身構えられると、こちらとしても少々やりづらいのですが」
「あっ、おう……ワリぃ」

そうは言っても、一旦根付いた感情をすぐに払拭するのは難しい。
謝罪もされたし、ジャイアンとしては含むところもないので、あとは単純に時間が経てば慣れるだろうが、今この時においてはやはり畏怖心が勝る。
彼の、そわそわ落ち着きない態度は崩れず、再び沈黙が場を席巻する。
しかし、それは意外にもすぐに打ち破られた。

「……あ、あのよ」

おずおずと、だがしっかりとした声音で、ジャイアンがバゼットに声を掛けた。

「はい?」
「あ~、その……どっか、調子悪いところとか……」

歯切れこそ悪いが、それはバゼットの体調を気遣うものであった。
片腕がなくなり、棺桶に片足を突っ込んでいた状態だったのだ。気にもなる。
一応、腕の再生後にドラえもんが“お医者さんカバン”で診察し、問題なしと診断はされていた。
が、たとえ復調していたとしても、やはり不安が残るのが人情であろう。

「調子、ですか。ふむ……」

言われて、バゼットは自分の身体を観察する。
表面的には、特に不都合な部分は見当たらない。
なくなった腕があり、服も元に戻っている。宿った令呪も、機能こそ死んではいるがそのままだ。
では目に見えない、内部はどうか。
魔術回路は正常。常に持ち歩いていた『切り札』は流石になくなっているが、身体に潜むその“元”は健在だ。
元さえあれば、また作り出せる。それならば問題ない。
彼女は所謂『保菌者』である。古来より伝わる神秘をその身に宿し、継承してきた家の末裔。
出自と家の特殊性ゆえに、いろいろと問題も多かったが、ここでは関係ないのでさておく。

「……そうですね。強いて言うならば、各種栄養素が多少不足しているようです」

身体を確かめ、バゼットはそんな結論を出した。
考えてみれば、向こうの世界で半死半生の憂き目に遭い、さらにこれまで飲まず食わずだったのである。
彼女自身の強靭な体力が逆境の中、命脈を保たせてくれたが、その分の消耗は尋常ではなかったはずだ。
“タイムふろしき”の影響で腕と共に、体調もいくらか戻っているものの、万全かと問われれば疑問が残る。
“お医者さんカバン”の診断結果と、己の感覚。彼女は、躊躇いなく後者を信じる人間である。

「栄養か……うーん」

答えを聞いたジャイアンは、腕を組んでなにやら考え込み始めた。
バゼットが首を傾げているが、ジャイアンは気にも留めていない。
そのままたっぷり一分が経過した頃、唐突にジャイアンがぱん、と膝を打つと共にがばりと立ち上がった。
何事か、と僅かに眉を跳ね上げたバゼットに対し、彼は告げた。

「よぉし。バゼットさん、ちょっと待っててくれ」

先程までとはうって変わって、怖気もなく自信に満ち溢れた表情となっている。
突然の豹変に、バゼットの目は点となっていた。

「いきなりどうしたのですか」
「いやあ、そういやバゼットさんにお茶も出してなかったなと思ってさ」
「はあ」

言わんとしているところが掴めず、生返事をするバゼット。
それに対し、ジャイアンはどん、と自分の胸を叩いてみせた。



「だから、ここは皆を代表してオレが腕をふるうべきだろうという事で。台所借りて、今から栄養満点のオレさま特製“スペシャルジャイアンシチュー”を作ってこようと――――」



……是非もなし。
平行世界において、地獄の釜が開かれようとしていた。





唐突に突き抜ける、焼けつくような鋭い感触。
火が噴き出るかと思わんばかりの激痛が、士郎の令呪の宿った手を襲った。

「ぐあ!?」
「せ、先輩!?」

堪らずその場に蹲る士郎。気づいた桜が即座に駆け寄る。
士郎の顔には珠のような汗が浮かび、苦悶の表情で必死に歯を食い縛っている。
押さえた手は変わらず灼熱模様で、そこにあるものがけたたましいレッドアラートで持ち主に異常を訴えかけていた。

「ぐ……れ、令呪が……令呪、が……!」
「れ、令呪……?」

繰り返し『令呪』と呻く彼に、桜が戸惑いの声を上げる。
その向こう側では、その従者も異常に見舞われていた。

「せ、セイバー!?」
「が……ぁ……!」

地面から起き上がったのび太が目にしたものは、地面に膝をつき、凄まじい形相で苦しむ騎士の姿であった。
こちらは、主よりももっとひどい。
顔色は青褪め、手足は無差別に電流を流されたかのように痙攣している。
まるで、全身の神経をずたずたにされたような苦しみ方で、彼女の異常が生半可なものではない事が窺えた。

「ど、どうしたのセイバー!? 士郎さんも!?」
「これは……!」

二人の異常。
その理由を、弓兵が即座に見抜いていたが、すべてが遅きに失した。
この場の誰もが耳にした事のない奇妙な音が、闇を震わせた事で。



『■』



その瞬間、セイバーの身体がびくん、と大きく跳ねた。

「ぐっ!?」
「セイバー!?」

彼女の異様な反応に、思わずのび太が駆け寄ろうとしたが、そこへ返ってきたのは、目も眩むような一瞬の魔力光と、その彼女が振るった右腕であった。

「え?」

のび太の呆けた声。
その余韻が消え去らぬうちに、銀の甲冑に包まれた拳が彼の痩身を捉え、勢いよく吹き飛ばしていた。

「うわぁああああっ!?」
「おっと!」

矮躯が鳩尾から折れ曲がり、リュージュのように宙を滑走する。
だが、地面に叩き付けられるより先に、着地点に回り込んでいたライダーが姫抱きに受け止めていた。

「大丈夫ですか?」
「ぐふ……っ、げほっ、げほっ!」

腕の中で激しく咳き込むのび太を、ライダーが気遣う。
腹を庇うようにしているところを見ると、どうやら鳩尾を強か打たれたようだ。
だが幸い、血を吐いたり胃中のものを戻す様子は見られなかった。
打撲痕こそ残っているだろうが、内臓はやられていない。

「おねえちゃん……」
「ええ、フー子。今の彼女に、近づいてはいけません。意識はともかく、肉体は既に……」

青褪めた表情で縋りつくフー子に、ライダーは努めて柔らかく声を掛ける。
普通であれば、のび太の腹は跡が残るどころか、拳に貫かれて夥しい血潮と共に臓物を撒き散らしているところだ。
全開状態の一撃を喰らった事のあるライダーだからこそ、それが解る。

「……これが、狙いだったという事ですか。魔女」
『――――ここまで勘が鋭いなんて。生憎と、狙いは外れね……けど』

そうなっていない理由は、ただひとつ。
セイバーが、途中で力を抜いたのだ。
本気で殴ろうとして、急に手加減する。矛盾するこのふたつの答えは、虚空に響くこの女の声にあった。

『次善の手は拾えた。ここはこれで満足すべきかしら』

魔術師の英霊、キャスター。
直接戦闘能力に劣る代わり、搦め手に優れる策謀の士。
特に今代のキャスターは、その面の優秀さが顕著である。

「きゃ、キャスター……お前……!」
「せ、先輩!」

地に伏していた士郎が、よろよろと立ち上がる。
怒りを含んだその声は、傍らの桜の愁眉を濃くする。

「俺と……セイバーの、契約を……!」

いまだ喘ぎの収まらぬまま、押さえていた手を掲げて見せる。
そこには、今までくっきりと浮かんでいた筈のものが、跡形もなく綺麗さっぱりと消え失せていた。

「し、士郎、アンタ、それ!」
「令呪が、なくなってる」

正確にはなくなっている訳ではない。薄れ、ほとんど皮膚の色と同化こそしているが、微かに輪郭は残っている。
しかし、相手との繋がりが断たれ、既に死んだも同然の状態であった。
つまり、士郎とセイバーの契約が強制的に解消され、その空白につけ込んだキャスターにセイバーを奪われたのだ。
愕然とした凛とイリヤスフィールの表情が、この場の者の心境を雄弁に物語っている。
言葉にすればただそれだけの、しかし重い事実が、うねりのように面々を呑み込んでいた。

『あらボウヤ。なにかご不満かしら?』
「この、野郎……!」

姿を見せず、ぬけぬけと言い放つキャスター。
落ち込む暇もなく逆撫でされた士郎の感情は、一瞬で沸騰寸前まで熱される。
だが、この両者に対し、冷や水をぶち撒けた者がいた。

「――――『契約破りの宝具』を、間接転移の応用で使うか。しかもご丁寧に、傀儡を使って媒体の魔力まで仕込んで」

鷹を思わせる鈍色の瞳が虚空を射抜く。
アイスピックのように冷徹な声を発したのは、この場の誰よりも冷静さに優れた弓の英霊であった。
空気がほんの一瞬、冷たくなる。
次に響いた魔女の音声は、一段低いものであった。

『……なぜ』
「見抜けたか、と? ふん、似たような手を知っているのでな」
『似たような、手?』
「それに、魔力を繰るのは魔術師にとってお手の物だ。それが自らの発した魔力であるなら尚の事。結界に囲まれたここなど、貴様にとっては実験室のフラスコに等しかろう」

差し挟まれる疑問に答えず、アーチャーはただ淀みなく、持論を虚空にくべ続ける。
彼はこう言っているのだ。
あの大量の骨人形達のカチコミは、この場に己が魔力を満たすための布石であったのだと。
男にしか解り得ない苦痛で、悶絶していた醜態もどこへやら。
この場の主導権は、いつの間にか彼が掌握しきっていた。

「だが、それにしたところで他者同士の契約への干渉など、並大抵の事で為せるものではない。魔術師の頂に立つ者ならば容易かろうが、それでも強力な力を用いなければ不可能だ。しかし、それではここまで自然に契約を解除出来た説明がつかん」
『……そう。で、なぜ私の宝具が『契約破りの短剣』だと解ったのかしら?』
「ふむ、語るに落ちたな。私は『契約破りの宝具』とは言ったが、『契約破りの短剣』とは言っていない。策士としてはらしくないミスをする。そこまで動揺していたか?」
『く……!』

歯軋りを含んだ呻きに、アーチャーの唇は不敵に吊り上がった。
ごく自然にカマをかける辺り、この場で最もタチが悪いのも彼である。
魔術師が口を滑らせた事で、彼の頭脳の導き出した推論に裏付けが取られた。

「傀儡をけしかけ、この場に己が魔力を満たした後、転移の魔術を応用してほんの一瞬、おそらくは針ほどの穴を作り出し、その短剣とやらで奇襲的に目標の繋がりを断ち、自らの支配下に置く。だが、セイバーの並外れた『直感』により、第一目標の確保に失敗。代わりに、第二目標であったセイバーの確保に成功。そんなところか」

アーチャーの要約は、正確に流れを捉えていた。
彼の持つ『心眼』は、戦闘に限らずあらゆる経験に裏打ちされている。
自ら駆け抜け、踏みしめた鉄火場の数だけ、彼に力を与えているのだ。
当然、それは判断力だけではなく、推理力や観察力などにも影響を与えている。

『……そうよ。それで? タネを見破ろうと、貴方達の不利は変わらないわ。今の私には、最優の英霊がいる。反面、貴方達の戦力は激減。その上、今まで仲間だった者を手心なく相手取れるかしら?』

精神の均衡が戻り、魔女の声は再度不敵な余裕を帯びる。
特に、甘さの残る存在……主にマスター陣だが……が、キャスターの余裕を後押ししていた。
しかし、アーチャーの堂々たる態度は微塵も揺るがず、どころか彼女以上に不敵な声音でこう言い返した。

「いかにも三下臭い台詞だ。だが、セイバーの様子を見て、尚もそこまで言い切っているのならば謝罪と共に撤回しよう」
『え?』

呆気に取られた声が空気に溶けたその時、剣の英霊の身体が異様な光景を見せた。

「ぐ、ぐが、がぁあああああっ、ぐっ、ぐうううううっ!」

きつく絞られた弓のように身体を丸め、全身を痙攣させている。
端正な顔が盛大に歪められ、滝のような汗が頬を伝って流れ落ちる。だが、瞳の光はこれ以上ないほどに、ぎらぎらと命の輝きを迸らせていた。
やがて、ばちばちという焦げ臭さの漂ってきそうな異音と共に、身体の表面から放電現象が始まった。

『こ、これは……!? まさか『対魔力』でレジストしているというの!? 令呪を一画使ったというのに!?』

自身の情報を漏らした失態にも気づかないほど、キャスターの動揺は大きかった。
そして、アーチャーはそこにつけ込まない男ではない。
窮地に至れば、利用出来るものは貪欲に利用する。
そうしなければ、“間に合わない”のだ。

「さて、制御を弾き返すのも時間の問題か。ある意味、貴様はハズレを引いてしまったようだな。彼女は、たかだかマスター権と令呪で縛れるような、格の低い英霊ではない。それとも……もう一画、令呪を使ってみるかね? まあ、無駄遣いに終わると思うが」

ここぞとばかりに、アーチャーは挑発めいた言葉で畳み掛ける。
他の者は、言葉もない。呆然と、語るすべてをアーチャーに任せるのみだ。
呻いていた士郎ですら雰囲気に呑まれ、視線は彼に釘付けである。
セイバーすら、ただの舞台装置。
まさにこの場は、アーチャーの独壇場であった。
その壇上の主の、狙いはひとつ。
そしてそれは、魔術師の判断と見事に合致していた。

『ぐ……!』

歯軋りの音が、空気を歪ませる。
その途端、セイバーの姿がスッと闇に溶けるように消え失せた。

「――――!」
「あっ!」

咄嗟に伸びた士郎の手が、虚しく空を掻く。
しかし、消える刹那の瞬間、セイバーの深緑の瞳がひとりの目を射抜いていた。
その意味を悟った対象が唇を吊り上げたと同時に、敷地を覆っていた結界が昇華するように消失した。
蓋が開かれ、入り込む風が籠っていた魔力を空気に溶かし、散らしていく。
それが、このラウンドの終焉の合図であった。

「……あ」

間の抜けたのび太の声が、風に乗って皆の間を吹き抜けていく。
戦略的撤退。自らを劣勢と判じ、態勢を立て直すためにこの場から撤収する。
魔術師の採った判断は、間違ってはいない。
あの場における、最低限の目標は達成していたし、これ以上の失態を重ねる事は許されなかった。
故に、妥当な判断と言える。
だが、それは敵側にも好機を与える事と表裏一体の決断であった。





「――――行くぞ」

突如、アーチャーが動き出す。
淀みなく、水のようにすたすたと歩くその様に、重りが落ちたように全員の硬直が解かれた。

「は? い、行くって……どこに?」
「あのドアのある部屋へだ。急がなければ、間に合わなくなる」
「え……ちょ、ちょっと待ちなさい! どういう事よ! セイバーが奪われたっていうのに、なんだってアンタそんなに冷静なのよ!」
「だからだ。待ってはいられん。道すがら問いに答える」

アーチャーの歩く速度は落ちない。
早足に近い速度で行く彼の背中を、慌てて皆が追いかけていった。

「お前、どうするつもりなんだ。まさか、柳洞寺にカチコミかけようってんじゃ……」
「ふん。常から抜けている割には察しがいいな、小僧」

先頭を行くアーチャーの、唇の片側が跳ね上がった。
驚愕と懐疑に歪んだ士郎の表情を無視して、彼は舌鋒鋭く言い放つ。

「よく聞け。セイバーがキャスターの呪縛に抗しているのは解っているな。これは視点を変えれば、セイバーが身を挺してキャスターの足止めをしているのに等しい」
「……ふぅん。まあ、そうとも言えるかしらね。ただ、余裕はなさそうだったけど」

イリヤスフィールが頤(おとがい)に指を当てて述べる。
彼女もまた、こういう場面において比較的冷静でいられるタイプの人間だった。
ただし、よほど近しい人間が絡んでいない事が前提条件となるが。

「そこは、腐ってもキャスターという事だろう。そもそも、魔術師の英霊に支配権を奪われ、令呪を一画使われても尚、抗えるセイバーが異常なのだ」
「『アーサー王』じゃあ、それも納得いくってもんね」

凛が頷き、アーチャーの言に同意を示した。
焦燥感を押し殺しているその表情が、やや苦みを帯びて影を作っている。
彼女の中では、やはり冷静さよりも焦りの方が大きいようだ。

「ときに少年」
「は、はい!?」
「セイバーとの『竜の因子』の繋がりは、まだ保たれているか?」
「え……さ、さあ?」

魔術や神秘と最も関係の薄い、外来人であるのび太。
その手の感覚に鈍感なため、アーチャーの質問に答えられなかった。
のび太の場合は、いろいろと怒涛の展開で感情が逆にフラットとなり、挙動はやや落ち着いている。
返答の代わりに、背中に張り付いているフー子に視線を向ける。

「フー子は解る?」
「フ? わかる、よ。まだ、おっけー」

一瞬、きょとん、としていたフー子であったが、明朗な声で肯定の意を示した。
常の太陽がはにかんだような笑顔は鳴りを顰めており、不安そうな表情だ。
それでも、彼女なりに気を遣って少しでも表情を柔らかくしようと、マシュマロのような頬をムニムニやっていた。

「だ、そうですけど」
「ふむ。となると、どうやらキャスターはマスター・サーヴァント間の繋がり“のみ”を切ったようだな。リスクも大きいが、堕とした時のリターンも大きい。だからそちらは切らなかったのか……? しかし、咄嗟の判断とはいえ……」

僅かに考え込んだアーチャーであったが、すぐにその思考を振り捨てると、上がり框(かまち)から屋敷へと足を踏み入れる。
足元に散らばる骨人形の残骸を無造作に踏み砕きながら、しかしスピードは衰えない。
この状況では、土足だなんだと言っていられない。
全員、上がる時は靴を脱がなかった。

「……またあんな奇襲があるんじゃないだろうな」
「ある訳がなかろうが、たわけ」

警戒しながらそろりと屋敷に上がる士郎を、アーチャーは一言で切って捨てた。
セイバーを無理矢理奪われた事で沈みかけていた心が、それで跳ね上がった。
堪らず、むっとした表情となる。

「なんでそう言い切れるんだよ」
「『奇襲』とはな、たった一度だけしか最大の効用を得られないがために『奇襲』と言うのだ。そのたった一度の機会を過ぎてしまえば、もうそれはただの札の一枚でしかない」
「む……けど、使ってこないとも限らないだろ」
「ならば、キャスターはなぜ仕込みであった結界を解いた? 媒介のための魔力を捨てた? それらが示すのはただひとつ。キャスターは、その気をなくしたという事だ」

正論すぎて、ぐうの音も出ない。
論破され癪なのか、唇を歪めていた士郎だったが、やがて渋々と頷きを返した。

「解ったよ……で、結局お前の狙いはなんなんだ」
「キャスターは今、どのようにセイバーを御するか試行錯誤の最中だろう。常識と戦略の観点から、令呪をぽんぽん使う訳にもいかんからな」

既に令呪を一画消費している上、まだ敵はいる。
よほど切羽詰りでもしない限り、二画目を使う可能性は低い。

「そこで、態勢の容易に整わない今のうちに、本拠地に強襲を仕掛ける」
「強襲……って、またこのパターンかよ!」
「そう愚痴を言っていられん。セイバーを取り戻すにもキャスターを討滅するにも、とにかく時間との勝負になる。彼女が時間を稼いでくれている、今しか好機はないのだ」
「成る程、だから急いでたワケか」

従者の理屈に、凛が相槌を打った。
納得を頂いたところで、アーチャーの歩くスピードがさらに増した。
もはや歩くどころか、競歩並みの速度である。

「けど、セイバーを取り返すって、アテはあるの?」
「……キャスター自身を滅するか、ヤツの宝具を奪うかだ」

キャスターの宝具は、魔術的契約を破壊するもの。
つまり、もう一度それをセイバーに使えば、元のマスターと再契約が可能になる。
もっとも、それよりキャスターを倒してしまえば一番早いといえば早いのだが、手段としては候補のひとつになる。

「キツいわね、どっちも」
「今更だろう」
「ごもっとも。じゃ、メンバーはアーチャー、わたし、士郎、のび太、フー子、それから……桜、ライダーを借りてもいいかしら?」

後ろを振り返り、妹に確認を取る凛。
桜は、チラとライダーを見やり、彼女が首肯したのを確認するとOKを出した。
前述のメンバーに、ライダーが加わる。

「遠坂、イリヤ達はどうするんだ?」
「そうね……どうする?」

凛が視線を投げると、彼女はホールドアップのように両手を掲げた。

「いつも通り、お留守番しておくわ。ここをがら空きにしておく訳にもいかないし、同行したところでそこまで力になれる訳でもないから」

彼女も魔術師として一流の存在だが、凛ほど武闘派ではない。
セラ、そしてリーゼリットも相応の実力はあるものの、この面子の中ではやはり一歩劣る。
リーゼリットはそうでもないかもしれないが、一日に十二時間の睡眠が必要という特殊なホムンクルスなので、無理はさせられない。
それに、相手は魔術師の英霊。魔術師として、力の差は歴然としている。
バーサーカーの欠けた彼女らには、荷が重い。

「そう。その方がいいかもね。解ったわ」
「ただ、この状況です。例のイレギュラーには十二分に気をつけた方がよろしいかと。法則がどのようなものなのかは解りませんが……」
「セラ?」

イリヤスフィールの傍ら、セラの忠告がこの場のすべての者の警戒感を煽った。
彼女の表情は、常と変らぬ鉄仮面めいた無表情にも見えるが、よく見ると眉根と口元が厳しく引き締められている。

「今回のケースは今までとは趣が異なる上、最悪の場合挟撃される可能性があります。いざともなれば、撤退する事も考慮に入れておくべきです」
「……了解した。肝に銘じておく」
「一応、こっちからモニターで見てるから、万一の時は動くわ」

イリヤスフィールがそう言い切った時、一同は目的地に到着した。
客間の一室。普段は、イリヤスフィールやミニドラが入り浸っている部屋である。
あの怒涛の襲撃にもびくともしておらず、ドアには傷ひとつとして損傷はない。
その事実が、この部屋が厳重かつ強固なものとされている事を示しており、重要区画である事の証明となっている。

「まずは、モニターで敵地を確認ね」
「ミニドラ、すまんが頼む」
「「「どらら!」」」

ドアを開けると同時に、ミニドラ達が蜘蛛の子を散らすようにめいめい入り込んでいく。
壁際に設置されているのは“タイムテレビ”。これで現在の敵地を観察し、様子を窺ってから突入しようという腹積もりである。
ミニドラ・レッドがちゃっちゃかと軽妙に計器をいじり、現在の柳洞寺境内の模様が、リアルタイムで投影された。
半ば予想されていた事だが、人の影はない。
夜も更けた境内は閑散としており、風と木々の葉が擦れ合う音だけが響いている。

「やっぱり誰もいないか。キャスターは中か?」
「……いや、待て。ミニドラ、ここを大きく映してくれ」
「どら!」

士郎の言葉を遮り、アーチャーの指が画面の片隅を指し示す。
ミニドラ・レッドは、指示通りに計器を操作し、指定された箇所を画面いっぱいに映し出した。
そこには、この場の全員の頭を混乱させる光景があった。

「――――ちょ、ちょっと、どうしてセイバーが屋外にひとりでいるの!?」

境内の片隅、そこに金と銀の輝きを放つひとつの影が存在している。
ついさっき拉致されたはずのセイバーが、置いていかれたようにひとり、ぽつんと立ち尽くしていた。
勿論、周囲にはキャスターどころか、猫の子一匹すら見当たらない。

「……さて。だが、当のセイバーが、我々以上に混乱しているようだな」

ポーカーフェイスを装いながら、アーチャーは私見を口にする。
アップで投影されたセイバーの表情は、まさに『訳が分からない』とでも言いたげなものだ。
令呪による支配へ抵抗していたはずが、その様子も見受けられない。
転送の瞬間まで散っていた火花もなく、表面上は、至って穏やかであった。
ゆるゆると首を動かし辺りを見渡したり、自分の身体の様子を確かめてみたり、落ち着きない挙動を繰り返している。

「いったいどうなってんだよ、これは?」
「キャスターの支配が及んでいる様子は、なさそうね。契約を振り切った、とかかしら」
「でも姉さん、それにしては魔力欠乏とかもなさそうなんですけど。セイバーさんって、たしか『単独行動』出来ないはずですよね」
「……ミニドラ、キャスターはどこだ」

士郎達の声を尻目に、アーチャーはミニドラに指示を飛ばす。
言われてかちゃかちゃと計器をいじったミニドラ・レッドは、しかし。

「う~……」

困ったように頭を掻くとアーチャーへと振り返り、両腕でバッテンを作ってみせた。
はじめ、それが何を意味しているかを掴みかねたアーチャーだったが、すぐに合点がいったようで微かに目を見開いた。

「補足出来ない、という事か?」
「どら」
「……ふむ。ならば、マスターの方はどうだ」
「ど~らら」
「ぬ……成る程、そちらもか」

頷くミニドラ。
それは、既に異常事態が始まっているという事を告げるものであった。
アーチャーの眉根に、ぎゅっと深い皺が寄る。

「あ、アーチャーさん。何が、どうなってるんですか?」
「ちょっと、まずい?」
「まずいどころではないな。急がねば、何が起こるか見当もつかん」

もはや、一刻の猶予もない。
このままでは、今のところ無事なセイバーにも何が及ぶか解らない。
早急に、彼女を回収する必要があった。

「アーチャー、急ぐぞ!」
「出来れば、時間を巻き戻して調べておきたかったが……な」

逸るのを抑え、一同はこの部屋にあるもうひとつのドアの前へと立つ。
“タイムテレビ”とは反対の壁際に設置されているのは、ピンク色で塗られたドア。ひみつ道具の“どこでもドア”だ。
移動用と、そして万一のための緊急脱出用として、この部屋にずっと置かれている。
そのせいで、『鏡面世界』では出番を与えられなかったが、今においては柳洞寺との直通路を開く回廊となる。

「待ってください」

ドアノブに手を掛けかけていた凛だが、それを制止した者がいた。
眼鏡と私服から、本来の眼帯とボディコン衣装に姿を変えたライダーが、彼女の前に手を差し出していた。
余談だが、幼くなった彼女にこの衣装は、いたたまれないほどの犯罪の匂いが漂っている。
仮に士郎やアーチャーと連れ立って街中を闊歩しようものなら、児童なんたら法とか青少年かんたら条例やらでお巡りさんがすっ飛んでくるであろう。

「どうしたの?」
「私が先行します」
「え?」

唐突な申し出に、凛は目をぱちくりとさせたが、彼女の言には確たる根拠があった。

「仮にも向こうは魔術師の陣地。そして、この中で最も『対魔力』に優れているのは私です」

つまり彼女は自分を盾にして突入しろ、と言っているのだ。
女神時代の肉体に回帰した彼女の『対魔力』はAランク、セイバーと同等である。
現代魔術師の魔術では、到底太刀打ち出来ない。仮に英霊によって行使された魔術でも、傷を負う事はないであろう。
肉体的な能力が一段階落ちた今であっても、対魔術に関しては立派な『壁』と成り得る。
ライダーの視線に、凛は躊躇いなくその示された理を肯定した。

「たしかに、それが最も危険を減らせる方法か」
「力こそいささか衰えていますが、万一罠などがあろうと対処は可能です」
「それだけの力はあるという事ね。解ったわ、お願い」

凛が身を引き、ライダーがドアの前に立つ。
そして、ドアノブに手を掛け、行先を告げた。
柳洞寺、境内。“どこでもドア”が、その場所と直接繋がる。

「――――いきますよ!」
「いってらっしゃい。気をつけてね」

イリヤスフィールの言葉に送り出され、ライダーが勢いよくドアを押し開ける。
間、髪を入れずに向こう側へと駆け出し、その後をアーチャーが追うようにドアへと突入する。
残る者は、渡ったふたつの背が無事な事を確認すると、細心の注意を払い各々ドアをくぐっていった。





――――だが、彼らはすぐに知る事となる。
事態は既に、彼らの予想を遥かに超えて進行していたという事を。







[28951] 第四十八話
Name: 青空の木陰◆c9254621 ID:90f856d7
Date: 2014/04/26 00:37





「く、ぅうう!」

ぎりぎり、と。
『工房』と化した柳洞寺は、離れの一室。ぼうっとした薄暗がりの中で、歯軋りの乾いた音が響いた。
これ以上はまずい。
悟った魔女が選択したのは……『撤退』であった。
第一目標こそ捉え損ねたが、次善の目標は拾えた。だが、ほんの気まぐれに挑発まがいの声を出した事が、それにケチをつけてしまった。
弓兵ごときの戯言にしてやられた事実に、苛立ちは隠しきれず。しかし、感情とは裏腹に電算機たる頭脳は沸騰する事なく、氷のような冷静さを保っていた。
仕切り直し。一度退き、自軍の態勢を整える。
自軍の有利を裏付けする反面、相手にも猶予を与えてしまう事になるものの、それを承知で魔女は決断を下した。

「イラつかせてくれるわね、あの男……!」

遠見の水晶玉から目を離し、血が出そうなほど唇を強く噛み締める。
感情の捌け口に悪態を吐きながらも、行動は淀みない。
あの場から回収したセイバーを、この部屋ではなく、柳洞寺の境内へと一旦転移させた。
支配に抗っている以上、ある程度距離を開けておかねば牙を剥かれる可能性がある。
信用の置けない者を、拠点内部に招くのは愚者の選択だ。完全な支配下にない今の剣の英霊は、ピンの抜けた手榴弾も同然である。
しかし、堕とすにしても、時間を掛ける訳にはいかなかった。
セイバーを欠いたとはいえ、相手は多勢。しかも、向こうにもサーヴァントが二体である。
弓兵と騎乗兵。共に直接戦闘能力はセイバーに劣るが、魔女自身にとっては正面からぶつかりたくない相手である事に変わりはない。
ライダーが児童化していたのは解せないが、あの不可思議な道具を持つ少年の力にかかったのならば、納得の余地はある。
使い魔を各地に放ち、具に監視していたからこそ解る。この聖杯戦争で異質な存在である彼を中心に、異常が席巻している事実を。
だが、ターゲットとしていた彼は確保出来ず、代わりに第二候補であったセイバーを確保する結果となった。
相対的な戦力変動。そして、小さくないリスクプレミアムとこの僅かなタイムラグ。そこから、向こうの次なる一手が読める。

「来るわね、ここに。間、髪を置かず」

もし、自分が逆の立場であれば、相手に立ち直りの時間を与えず、速攻で畳み掛ける。
そして、それだけの事が出来る頭数と知力、胆力が、向こうには残されている。口では見下しても、見誤りはしない。
こちらの短所。単純な頭数が足りない。手駒のアサシンに関して、相対的に戦闘能力が限定されている。
こちらの長所。ホームグラウンドで戦闘が行える。セイバーを使役する事で、相手に心的な抵抗を与えられる。

「正念場ね」

八重歯を覗かせ、魔女は薄く笑みを浮かべた。
ここを越えられれば、彼女は望みに限りなく近づく事が出来る。
逆ならば、すべてを失う。
可能性は五分。持てるすべてを動員して、勝利を得に行かねばならない。
真っ直ぐに視線を上げた策謀の徒は、意を決した。

「……ふう」

己の片手の甲に、もう片方の手を重ねる。
隠れた手の甲には、新たに刻まれ、すぐさま一部が消費された刻印がある。

「この判断が吉と出るか、凶と出るか」

禁じ手としていた、二画目の令呪の使用を決断する。
即座にセイバーを支配し、戦闘態勢を整える。
同時に、彼女が最も頼みにし、最も愛する存在にも助力を乞う。
手を重ねたまま、すっくと立ち上がる。
足元まで届くローブの裾が伸び、勢いよく揺れた。

「宗一郎を呼ば……――――!?」

しかし、悲しいかな。
キャスターの言葉は、それ以上続く事はなかった。
突如、身体に走る違和感。そして身体の内からせり上がってくる“ナニカ”。
火薬のようにきな臭く、火薬よりも危険な灼熱の感触。
それが、全身の血管を通して一瞬で全身を覆った。



――――チン・カラ・ホイっと。ケケケ、テメエの出番はもう終わりだよ。



そんな声が、どこからか聞こえた……気がした。

「あ、っぐ!?」

どさり、と膝をつく。
身の内側が、破裂寸前のニトロのように熱く、膨張する。
堪らず身体を捩るが、潮が退くように意識が霞み、遠のいていく。
抵抗しようにも、抗えない。どれほど堅牢な外殻を持つ生物も、内部からの暴力には脆いもの。
サーヴァント特有のタフさも、サーヴァントたる存在自体を揺るがす脅威には、意味をなさない。
薄れゆく意識の中、彼女は悟る。否、悟らざるを得なかった。
これが、聖杯戦争を異常たらしめた、イレギュラーの発露なのだと。
そして、それが遂に己にも、襲いかかってきたのだと。
なんの予兆も気配もなく、不意の天災のように突然やってきては、瞬く間に己を呑み込んでいく。
なけなしの力を振り絞っての抵抗は、その実、数秒も保たなかった。

「――――っく、ぁあぎっ、『■』!」

しかし、逆に言えば……『数秒は保った』。
その塵にも等しい間隙を突いて、魔女は散っていく正気を掻き集め、最後の抵抗を試みた。
彼女を魔術師の頂点たらしめているスキル、名を『高速神言』。
現代の魔術師では誰も発音し得ない言霊により、わずか一工程(シングルアクション)で神秘を発現する。
ぶるぶる震える掌。天に掲げられたそれから魔力光が発される。
部屋が薄ぼんやりと淡く照らされ、すぐに魔の煌めきは掻き消えた。
弱々しい光であったが、しかし仕事は確と果たされていた。
血の気が失せるほどに噛み締められていた魔女の口元が、力尽きたようにふっと緩む。

「宗……一、ろう……」

悔恨、哀切、諦念、懇願。様々な感情が織り込まれた呟きが、虚空に溶ける。
愛しい主の名を最期の言葉として、キャスターは光の粒子となって爆発四散した。



――――オンナの執念ってな、凄まじいねえ。わずかとはいえ、粘りやがった。まあ、コレもオツなモンだ。ケケケケ……!!



そんな無邪気な哂い声が、どこかで聞こえた。





境内に突如、発生する足音。
ばたばたと忙しないその音と、そして現れた複数の敵意なき気配に、彼女は反射的に振り返った。

「セイバー!」
「あ……シロウ、ライダーにアーチャーも」

駆け寄ってくる皆の姿を認めたセイバーは、瞬時に手にした不可視の剣の切っ先を下げた。

「大丈夫か! 何があったんだ!?」
「……“何が”と問われましても、“何も”起きていない、としか。転移させられたと思ったら、そのままなのです」
「な、なにそれ? それに貴女、身体は?」

戸惑いを含んだ凛の問いが、空気を揺らす。
転移させられるまで、あれほど派手に支配と抵抗が拮抗していたにも拘らず、今はその気配は微塵もない。
火花が散っている訳でもなく、脅威に晒されている風にも見えない。
セイバーは、難問に躓いたような難しい表情となり、口を開いた。

「キャスターとの契約は、繋がっているようで、繋がっていない……いや、違う。繋がってはいるが……うぅむ」
「え、えっ? つ、つまり?」

要領の得ない答えに、傍らに佇むのび太の目がぐるぐる回り始める。
しかし、セイバー自身も詳細がはっきり解っていないゆえに、とにかく説明が難しかった。
自分自身でも判然としていない事を説明するほど、困難な事もない。
眉間に皺を寄せ、身の内に感じる感触を確かめながら、ぽつぽつとセイバーは解説をこぼしていく。

「ラインの先が……とにかく、あやふやなのです。ただ、急激な魔力減少などがないところを見ると」
「契約自体がなくなった訳じゃない、って事?」
「おそらくは」

凛の憶測に、セイバーは自信なさげに首肯した。
サーヴァントを現世に留めておくには、現世に生きるモノとの契約が必要となる。
逆に言えば、契約がなければサーヴァントはこの世にあるまじき幻想として『世界』から存在を否定され、身体を構成する魔力が急速に摩耗して消滅する運命を辿る事となる。
契約とは、いわば船を係留する綱のようなもの。セイバーが現存していられるからには、それが成されているはずであり、証明となるレイラインも繋がっているはずである。
セイバーが抵抗していたのは、そのラインから来るキャスターの令呪による強制付の支配命令に対してであり、契約そのものに対してではない。
契約それ自体は、士郎との契約を強制解除させられた際、強引に結ばされて成立している。つまり、現世に留まるための楔は既に打ち込まれてしまった後なのだ。
そして、セイバーが今こうして存在し続けている事が、キャスターとの契約そのものが現在も継続している事の証明となる。
『契約自体がなくなった訳じゃない』とは、そういう意味である。
問題はその後の事象、レイラインを通じてセイバーを苛んでいた強制支配が柳洞寺に移された途端、ぴたりと止んだ事。さらに、ラインそのものの感触が非常に曖昧なものになっている事だ。

「と、するなら。向こうに何かが起こっている可能性が高いって事か」
「仮にそうだとして、それじゃキャスターは」
「既にイレギュラーに、か?」

アーチャーが結論を口にした、その瞬間であった。



――――空気と共に歪む空間。次いで鳴り響く、鉄筋を捻じ切ったかのような甲高い異音。



「ん?」
「……なんだ?」

この場の全員の鼓膜を揺らしたそれが、思案に耽っていた皆の顔を一斉に跳ね上げた。
それが何かを訝しむ暇もなく、彼らの立つ地面から光の壁がどん、と一直線に立ち上る。

「な!?」
「にっ!?」

英霊組を筆頭に、すぐさま光壁から飛び退くように離れたが、その陣容に、英霊三人は揃って内心で舌打ちを漏らした。
なぜならば、壁を隔ててのび太・フー子・セイバー・ライダー・凛の五人と、士郎・アーチャーの二人とに分かたれてしまったからだ。
戦力不均衡に分断される形となったが、それだけでは終わらない。

「この、っあ、痛ッ!?」

ばちん、と鳴る大きな音。
光の壁に触れた士郎の手が、痺れるような衝撃と共に弾かれた。
まるで電流が走る剥き出しの電線に触れたよう。士郎の指がちりちりと、焼け焦げたように煤けていた。

「迂闊に触れるな、小僧!」
「くぅっ!」

運よく火傷する寸前で収まったものの、この光の壁には容易に触れられないと解り、士郎は歯噛みする。
と、その途端、士郎の眼前の壁の向こう……五人のいる側から、耳を劈くような爆音と共に強烈な光が放たれた。

「ぐあ!?」
「ぬぅ!」

さながら暗室に放られた炸裂弾。
視界が一瞬で白く塗り潰されるほどの眩さに、堪らず士郎とアーチャーは腕で目を庇う。
おまけに鼓膜が盛大に揺さぶられ、一時的に耳までが効かなくなる。
士郎はもとより、英霊たるアーチャーも、このおよそ人が持つ五感の衝撃からは逃れられない。
光が収まるまで、二人はその場から身動きを取る事が出来なかった。

「ぐ……くぅ」

発光現象は、時間にしてほんの数秒で終局を迎える。
しかし、二人が腕を取り払った時には、既に状況は様変わりしていた。
想定していた戦略を覆すほどに。

「――――そ、んなバカな!?」
「……!」

光止んでなお、いまだ立ちはだかる壁の向こう。
そこにあるはずの五人の姿が、影も形も見当たらなかった。まるで光の中に掻き消えてしまったかのように。
今までそこに存在していたという気配の痕跡すらも、残されてはいなかった。
ぎり、と弓兵の口から歯の擦れ合う音が漏れる。
打つ手が悉く後手に回ったがゆえの結果を、ただ受け入れるしかない。
忸怩たるものが、彼の内で激しくのたうちまわっていた。





人は、予想を上回る事態に遭遇した時、どのような反応を示すのか。
いくつかのパターンに分かれるだろうが、おおよその見当はつくだろう。
訳も解らず狼狽える者、それを通り越して恐慌を来す者、動揺しつつも冷静さを保とうとする者。様々であると思われる。
もっとも、どれに転ぶかは各人の性格や精神状態に依存しており、極論すれば、十人いれば十通りの様相を呈すると言っても誤りではないだろう。
胆力に劣る繊細な者であれば取り乱し、逆に心臓に毛の生えた剛の者であれば平静を保つ。
あるいはこの法則に当てはまらず、余人には理解し得ない思考回路で予想を裏切る態度を示す者もあるかもしれない。
しかしながら、今この時、五人の様相は示し合わせたようにぴったりと一致していた。

「すご……」

棒立ち。そして只管、眼前の光景に目を奪われる。
動揺も焦燥も、爆音による耳鳴りも。なにもかもをすっ飛ばして誰かの口から漏れ出た言葉。
それが、魂が抜かれたように立ち尽くす、この場の全員の心境を表していた。
凛、セイバー、ライダー、フー子、そしてのび太。光の中に消えたはずの五人が首を揃えて見上げるもの、それは。

「ここ、宮殿?」

白亜の宮殿。正確には、その中央部と思われる場所。
明暗の判別が効く淡闇の中、柱や壁がくっきりと浮かび上がっては、その存在を誇示していた。
音の反響から、この建造物が町ひとつ、すっぽりと収まりそうな楕円状の空間に座している事が解る。
劣化のシミも罅もない、白一色の床石と壁が目に眩しく、すり鉢状の円環スタンド建築と細部の意匠が、古の闘技場(コロッセウム)を彷彿とさせる。
奥には、エンタシスの柱で構成されたパルテノンを思わせる白の宮殿が聳(そび)え、闘技場の一切を取り仕切る本殿のように偉容を誇っていた。
アインツベルンが誇る森の古城に勝るとも劣らぬ、荘厳な雰囲気。
そこに在る者に、遥か古代へのノスタルジーに浸らせる魔力があった。

「――――そんな訳ないでしょ」
「ええ。ここはおそらく『神殿』です」

だが、魔に精通する者はすぐに理解する。
ここが、ある種の人間にとって、最も特別な場所である事に。

「フゥ? しん、でん?」
「……って、ライダーさん。それ、見たまんまじゃ」
「貴方が今、考えているものとは意味が違います。平たく言えば、リンの部屋のような魔術師の『工房』を限りなく大きくしたものです。ここまでの規模があれば、そう言わざるを得ません」

深く考えずとも、こんな壮大で国宝にでもなりそうな建造物が現代日本にある訳がない。
そして、ただの建物がここまで一点の汚れも曇りもなく、処女雪のように綺麗である訳もない。
そも、五人揃ってここに強制転移させられた経緯を鑑みれば、どれほど見事な意匠を誇ろうとも仄暗いものを感じるというものだ。
騎乗兵が口にした、魔術師の『工房』。それは魔術師が魔道の研究や研鑽に浸るための城。
在りし日のギリシャを想起させる佇まいと、周囲に漂う濃い魔の空気が告げている。
ここが、魔術師の英霊が築きし至高の拠点たる、『神殿』であると。
無論、確証などない。だが、反証もまたない。
しかしながら、状況証拠のみで断じれるほど、この場の雰囲気と魔術師の英霊は重なり合っていた。

「って事は、つまり」
「ここがキャスターの根城、という事です」
「キャスターには『陣地作成』のクラススキルがあります。あのキャスターにかかればこの程度、さしたる労力も必要としないでしょう」
「個人的には、ギリシャ・ローマの折衷様式ってのがアレだけどね。でも、なんでわたし達をわざわざここに転移させたのかしら……?」

凛が疑問を差し挟んだ、その瞬間であった。



――――知りたければ、教えてやろう。ここが既に、我が城となったからだ。



闇から轟いたその声。
濃縮した重油のような低音に、全員が総毛だった。

『――――ッ!?』

そして、即座に身構える。各々が、周囲に視線を張り巡らす。
洞窟のような闇の中で、神殿のみがどこまでも白く、己を主張している。
それ以外に気配はない。何者の影も、見当たらない。



――――く、くく……まさか、まさかだ。世界を変えて、再び相まみえる事になろうとは。



再び空気が鳴動する。
びりびりと反響を繰り返し、腹の底から身体を震わせる。
眼前で大太鼓を叩かれたとしても、ここまで身体の芯を痺れさせはしない。
巨大スピーカーの音源を、直接叩き付けられているかのようだ。
派手さこそないが、他者をして、身を竦ませるほどの威厳に満ちている。
その声に、記憶の片隅を揺さぶられる者がいた。

「あ……こ、この、声って……」

表情から血の気が失せたのび太が、狼狽えたように呟く。
彼の脳裏には、いつかの死闘がまざまざと浮かび上がっていた。
のび太は気づいた、気づいてしまった。
この声の主の正体に。そして、イレギュラーが既にキャスターを食い破っており、今まさに自分達に牙を剥いているのだと。
じり、と彼が半歩後退したその時、更なる異変が降りかかった。



――――あの女の置き土産よ、ワシに従え!



雷鳴のような叫びが轟いたと同時、セイバーの身体が大きく仰け反り、目も眩むような火花が彼女の身体から迸った。
キャスターの時とは、比較にならないほどの量であった。

「ぐ、ぁあ!?」
「せっ、セイバー!」

漏電じみた紫電を発し、跪いた彼女にのび太が慌てて駆け寄ろうとする。
しかし、それより速く動き出した影があった。

「――――っく、ぐぅ!」

紫の尾がのび太の頬を薙いだかと思うと、その数瞬遅れて金属がぶつかり合う甲高い音が耳を劈いた。
交差する釘のような二振りの短剣が、見えざる剣を受け止めている。
ぎしぎし、と耳障りなほどに軋みを上げるは、前者。
後者は、ただ只管唐竹割りを遂行せんとぐいぐい圧力を増している。
そして、互いの担い手の所作はその一合で逆転していた。
剣士は膝立ちから、力強い踏込姿勢へ。騎兵は腰だめに身を屈め、踏ん張るように。
数十分前の焼き直しが、のび太の眼前にあった。

「せ、セイバー……?」

のび太に向けて振るわれた剣を、ライダーが咄嗟に防ぎ止めた。
彼でも理解出来る。その意味するところを。

「――――よりにもよって、この……っく! 最悪のタイミングで、とは!」
「……ッ!」

剣の英霊が、声の主の走狗に堕とされてしまったという、この酷薄な事実を。
呻き交じりのライダーの唸り。恨み言じみたそれが、彼女の鼓膜を容赦なく叩く。
悲壮の極みを映し出したセイバーの面差しが、より一層険しく歪んだ。
白くなるまで噛み締められたセイバーの唇。その端から、一筋の真っ赤な液体が流れ落ちていた。



――――さあ、第二幕を始めようか。白銀の剣士よ!



魂すら揺さぶる大音声と共に、開かれたパルテノンの闇の奥から滲み出るようにして、それは現れた。
狂戦士よりも細く、しかしそれよりも巨大なその影は、常の者とは違う異形の姿を象っていた。
全身を包む漆黒のローブを翻し、髑髏の杖を掴む指からは、鋭い爪が覗いている。
爬虫類を思わせる茶褐色の鱗じみた肌と、嘴のように長い口。王冠のような兜の乗った頭の下には、額から伸びる二本の触角。
背中まで届く銀灰色の髪を振り乱して、黄金色の冷たい瞳からは凄絶な『威』が発されていた。

「お、お前はっ!?」

その全貌を見たのび太が叫ぶ。叫ばずにはいられなかった。
かつて夢の世界はユミルメ国を蹂躙した魔物の王。
のび太をして一度は灰にされ、命を奪われた怨敵が、肌の粟立つような敵意を漲らせて彼を睥睨していた。



「――――オドローム!!」



その名を、『妖霊大帝オドローム』。
夢の世界から、平行世界に舞台を移して。
魔王との二度目の死闘が、ここに幕を開けた。





境内をふたつに仕切っていた光の壁は、既に消え失せていた。
そこに取り残され、立ち尽くす人影がふたつ。
乾いた冬の寒気が強く吹き抜け、一陣の旋風が枯れた木の葉を舞い上がらせる。
かさかさと耳障りなそれが、彼らの心情を物語っているかのようであった。

「…………」
「…………」

士郎とアーチャーは苦りきった表情も露わに、互いに顔を見合わせている。
虫が好かない者同士、普段であれば皮肉のひとつやふたつ飛ぶが、そんな余地などあり得ない。
そして、眼を合わせるだけでお互いがお互いの腹の中にある感情を見透かしていた。
それはつまり、二人の感じている感情が相似しているという事。
煮詰めたタールのようなどろどろとしたものが、二人の心底で渦を巻いている。
弓兵の鉄面皮も、無残そのものに崩れ落ちるほどであった。
沸騰寸前の自我に無理矢理蓋をして、士郎が口を開く。

「おい、アーチャー。皆は、どこに消えたと思う」
「さてな。明確には答えられんが」
「が?」
「……アテがない事もない。まずは、キャスターの『工房』を探し当てる」

士郎に背を向け、アーチャーは境内の奥にある柳洞寺本堂を見つめる。

「工房?」
「そうだ。キャスターがどうなっているかは知らんが、手掛かりがあるとすればそこしかない」

アーチャーはあの光の壁と、五人が消え去った際の閃光に、確かな魔術の気配を感じていた。
あれがキャスターの策謀なのか、それとも違うものなのかは判断出来ない。
しかし、キャスターがいまだ健在であるとなれば、居場所は自分の城であり、砦である『工房』以外に考えられない。
そして、それを見つけ出すのはおそらく、さして難しくはないだろうとも考えていた。
なぜといえば、キャスターのクラスには『陣地作成』のクラススキルがあるからだ。
それを用いて『工房』を作り上げている事は疑いの余地もなく、どれだけ隠蔽措置を凝らそうともサーヴァント特有の気配は到底消せるものではない。
サーヴァント由来のスキルで造成されているのなら、必ずその匂いが残る。それを嗅ぎ取れるだけの下地と才覚を、アーチャーは有している。

「柳洞寺の奥か、あるいは地下か。どちらにしろ、見つけ出すのにそう時間はかかるまい」

士郎に振り返る事なく、所見を口にしたアーチャーが、ゆっくりと歩み出す。
じゃり、と鳴る靴音は重く、木枯らしの音を掻き消して空気に溶けていく。
柳洞寺の概略図を脳裏に描いて、アーチャーは鷹のような目つきで本堂を見据えた。



――――この行動が、この場における彼の最大の失策であった。



突如、植込みの影から音もなく“ナニカ”が躍り出る。
外形も判然としないその影は、地を這うように目にも止まらぬ速度で境内を駆け抜けた。

「……んっ!?」

唐突に顔をもたげた気配に、弓兵が反射的に振り返った時には、すべてが遅きに失していた。

「――――な!? む、ぐっ!?」
「小ぞ、ッ!? なに!?」

アーチャーの目に飛び込んできた光景、それは緑色の『スライム』のようなモノに纏わりつかれた士郎の姿であった。
泡を喰いながらも必死に引き剥がそうともがく士郎だが、抵抗が増せば増すほど『スライム』は全身に隙間なくへばりついていく。
不定形の重さに耐えかねたか、彼の身体が膝を折り、地面にくずおれる。頭から鉛を被ったかのような有り様だ。
やがて、身体を取り巻くだけだった『スライム』が、士郎の口から彼の体内に侵入を始めた。

「ぐ……おぼっ、ぐぶ……ぎゅごぼっ!?」
「小僧ッ!」

叫ぶアーチャー。しかし、彼に成す術はない。
あまりの苦しさに、士郎がえずきながら咽喉元を掻き毟る。
だが、『スライム』はそんな事などお構いなしに、士郎の口を、咽喉を、果ては鼻から耳に至るまで無理矢理に侵し、身体のありとあらゆる箇所から士郎を蹂躙する。
まるでスポンジに水が滲み込んでいくように。腕から、脚から、背中から。ずぶずぶと、士郎の奥深くへと『スライム』が潜り込んでいく。
そうして遂に、士郎の身体から緑の色彩が消え失せた。

「…………」

微動だにしない。士郎も、アーチャーも。
抵抗の残滓も霧消し、膝立ちで顔を下げたままの士郎に、アーチャーの中でレッドランプが狂ったように喚いていた。
彼の脳裏を掠めるは、昼間の光景。ぶち上げられた、少年少女とロボットの五人による奇妙奇天烈な英雄譚、その一節。
そして、この柳洞寺に在していた、キャスターの使役するもう一体のサーヴァントの存在。
それらが噛み合わさり、彼の下にひとつの答えを導き出した。

『ぐっ……くっ、く、くく……クククククク』

その時、顔を俯けていた士郎の咽喉から、笑い声が漏れた。
しかし、それは常の士郎のものとは明らかに違う。
声質だけは、まさしく士郎のものだ。そこに虚偽はない。
問題はその声に被さるように響く、異質な音声にある。
彼の笑う中に、彼のものとは明らかに違う声色が、まるで副音声のように重なってアーチャーの鼓膜を揺さぶっていた。
すうっ、と細められるアーチャーの目。
その瞳に宿るは煮立つような警戒心と、そして晒されただけで射殺されるかと錯覚するほどの研ぎ澄まされた殺気であった。

「小僧……いや、貴様は。機械を依代とする者ではなかったのか?」

鷹の目となった彼には見えていた。
いまだ顔を伏せる士郎の背後に浮き上がる、魔導士然とした黒いローブの幻影を。
彼の背中から立ち上る、艶の消えた漆黒の陽炎が蜃気楼のようにゆらゆらと景色を歪めている。
それは、害意や悪意といった暗い負の想念が、一緒くたとなって揮発しているかのようであった。

『ふ、フフフ。実に底の浅い考えだ。たしかに“かつて”は、ロボットに憑りついていたが……』

弓兵に返されたは、嘲笑。それも至って仄暗く、それでいて吹きつける煤のように不快感を煽ってくる。
闇に溶ける二重音声は冷然と、それでいて勝ち誇るように真実を開陳した。

『――――『人間に憑りつく事は出来ない』とは、言った覚えはないぞ』

途端、弾かれたようにがばり、と士郎の顔が上がる。
そこにあったのは、変わらぬ士郎の顔であって、変わり果てた士郎の貌であった。

「ッ!?」
『クククク……』

常の瞳ではなく、ルビーのように紅い眼。ぎらぎらと剣呑な気配を剥き出しに、辺りに敵意を撒き散らしている。
赤銅の髪は重力に抗うように逆立ち。両の目元から米神にかけて、血管のような緑がかった筋が扇状に幾本も走っている。
そして士郎ならば決して浮かべる事はないであろう、歪に捩じれた笑みがにしゃあっ、と口元に張り付いていた。
背丈も変わらない。服装も変わらない。外形的に変わったのは、首から上が仰々しく。それ以外には特にない。
だがそれ以上に、背にするおぞましいまでに毒々しい気配が、衛宮士郎のすべてを塗りつぶして支配し、ひとつのバケモノと化してこの空間を掌握していた。

『さて、始めようか。『因果なる者』よ!』

士郎だったモノがゆっくりと立ち上がり、一歩を踏み出す。
発した声には喜悦が混じり、汚泥のようにどろどろとした執念を気炎として噴き上げていた。

『ノビ=ノビタに関わる者を皆、闇へと葬り去ってやる!』

暗殺者の身より出でし悪意が、アーチャーへと牙を剥く。



「――――『アンゴルモア』……!」



彼の声が苦々しく、しかし確信を以て『敵』の真名を宣言する。
その顔貌は複雑怪奇な歪みに彩られ、そして。

「……ぐ」

凄烈な鷹の瞳に宿る光が、微かに揺らぎを見せていた。







[28951] 第四十九話
Name: 青空の木陰◆c9254621 ID:90f856d7
Date: 2014/05/28 00:04





オドロームと凛の指令は、ほぼ同時に下された。

『いでよ、我がしもべ! ジャンボス、スパイドルよ!』
「ライダー! そのままセイバーを抑えていて!」

二者の一喝が、闇を揺るがして反響する。
前者は轟く波濤のように、後者は穂先も鋭いレイピアのように。

「無茶を、言ってくれ……ますね!」

剣士の圧力に呻く騎乗兵を余所に、大帝の両隣りには、いつの間にか二体のモンスターが現れていた。
片方は巨漢の象の剣士。腰に一振りの剣を佩き、幅広の大きな耳を翼のように広げて、象特有の長い鼻がやたらとでかい顔の前でゆらゆら揺れている。
もう片方は、細身の蜘蛛の騎士。両端から二角が生えた兜を蜘蛛そのものの頭部に被り、二足で佇むその胴に、それぞれが細剣を掴んだ六本の腕が蠢いていた。
オドローム旗下の将であり、ユミルメ侵攻の先頭に立った魔軍の幹部。名をジャンボス、スパイドル将軍と言った。

「あ、アイツらまで!?」
「落ち着きなさい、のび太! 無限に湧いてくるロボット軍団よりマシでしょう!」

取り乱しかけるのび太を宥めながら、凛はすぐさま魔術回路を臨界状態にする。
この場において、ライダーを動かす事は叶わない。敵の手に落ちたセイバーを喰い止めて貰わねばならないからだ。
地力の上で、のび太も凛もセイバーに対しては無力に等しい。フー子はまだ希望があるが、元来彼女は戦う者ではない。
曲がりなりにも英霊であるライダーには、セイバーを一手に引き受けて貰う他なく、彼女に過剰な負担を背負わせざるを得なかった。

「アーチャー……は、呼べないわね」

一瞬、凛は令呪に手を掛けたが、すぐに取り止めた。
こちらに召喚して、士郎をひとりにする訳にはいかない。
向こうがどうなっているかも解らない以上、あちらの戦力低下は望むところではなかった。
ラインを通じて、アーチャーと視界を共有すればあちらの状況も解るのだが、試したところリンク出来なかった。
どうやら、オドロームがなにかしているらしい。仮にも魔術師の器で生み出された者、それくらいは可能だろう。
眉間を軽く揉み、改めて凛はオドロームと手下を見やる。
瘴気じみた黒いオーラを漂わせて、身構えもせずに傲然とオドロームは佇んでいる。
まるで、いつでも攻撃して来いと言わんばかりだ。溢れ出る威圧感に関して言えば『妖霊大帝』という肩書きも、名前負けしていない。まさに魔物のカリスマである。
それに対して、両隣の魔物は一切の覇気が感じられない。否、決して無という訳でもないのだが、それにしたところで小さすぎた。
只管に下知を待つかのようなその静の挙動が、甚だ不気味に感じられる。
彫像も同然に突っ立ったまま、光の宿らぬ虚ろな目が存在以上に不吉なものを感じさせた。
のび太も同じ事を思ったようだ。先までの恐怖心が鳴りを潜め、戸惑ったように首を傾げている。

「なんだろ、あのふたり? なんか、ヘンだ」
「……同感」

しかめっ面で凛が口にした時、その回答が魔王から齎された。
さらなる猛威をスパイスとして。

『――――さあ、存分に『狂え』! 我がしもべ達よ! そして行けぃ!!』

杖を掲げたオドロームの叫びと共に、両隣の瞳にかっ、と鮮烈な紅い光が宿った。
血のように赤く、どろついたオーラがその背中から滲み出し、そして狂ったような咆哮が闇を盛大に揺さぶった。

『B――Buoooooooooooo!!』
『Gyuaaaaaaaaaaaaaaa!!』
「うわっ!? な、な、なんだ!?」
「ちょっと、これ……まさか『狂化』なの!?」

鼓膜がイカれそうなほどの盛大な雄叫び。
両耳を押さえて目を白黒させるのび太の横で、凛は愕然となっていた。
そんな事などお構いなしに、気炎そのままジャンボス、スパイドルが動き出す。
本能を剥き出しにした、獣さながらの凶悪なぎらつきを宿して、競うように神殿から駆け降りてくる。
まさに競走ならぬ狂走とも呼ぶべき、深謀も遠慮も何もない無節操な吶喊であった。

「きき、き、来た!」
「フー子、アイツらに風をぶつけて!」
「ふ、フゥ!」

のび太の頭上に取っ付いていたフー子。凛の指令に慌てて手を伸ばし、掌から一陣の竜巻を作り出して魔物にぶつける。
大砲にも勝る勢いと風圧に、発射台にされたのび太の頭部はもみくちゃとなっていた。
だが。

「げ!?」

その竜巻が仕事を果たす事はなかった。
牽制代わりの竜巻の大砲に対し、両者はそれぞれの特性を完璧に生かし、これを凌いでいた。

『Buooooooooo!』

ジャンボスは踏み出した足をバネのように弾ませ、宙に飛び上がると耳の翼をはためかせ、飛翔する。

『Gyuaaaaaaaa!』

スパイドルは見た目よろしく、手足八本を地面にへばりつかせ、腹這いの姿勢でこれをやり過ごした。
しかも、お互い吶喊の勢いを一切衰えさせずである。
イカれたようでいて、危険はきちんと察知する。脅威度が倍増した。

「うわあ! くっ、来るなっ!?」
「ちぃ、この!」

凛は咄嗟に魔術回路を起動させ、ガンドを雨あられと撃ち出した。
狂奔する魔物相手に、どれだけ通用するかは解らないが、多少の目晦ましにはなるかもと思っての行動であった。
マシンガンの乱射と同等の速射性と威力、そして弾幕の厚さを誇る凛のガンドは、並の者ではあっという間にボロ雑巾である。

『Bugaaaaa!』
『Syagiiii!』

だが、流石は幹部級。敵は並ではなかった。
ボロ雑巾どころか、ガンドを身体に受けてなお、怯みすらせずに魔物二体は突撃してくる。
ジャンボスは上から、スパイドルは下から。それぞれが狙いを定めた者に、只管真っ直ぐ。愚直なまでに。

「ばっ、バリヤー!?」
「ああ、もう! やっぱり効果ナシ!」

のび太の冷や汗に塗れた手がポケットの“バリヤーポイント”を掴み、凛の指がスカートに忍ばせた宝石を掴み出した。

『Oooooooo!』

腰から剣を抜きざまジャンボスが繰り出した、空中唐竹割りがのび太を襲う。

『Syiiiiii!』

腹這いから滑らかに屹立し、凛の懐に飛び込んだスパイドルが、その六本の細剣を一斉に突き出してくる。

「うひゃっ!」
「それなら、これよ!」

二者の凶悪な一撃は、しかしのび太と凛には届かなかった。
接触の一瞬前に起動した“バリヤーポイント”のバリアに阻まれ、ジャンボスののび太への一撃はあえなく弾き返され。
スパイドルの『三対突き』は、刹那に跳び退る凛の指が弾き出した宝石の至近爆発によって、目標を捉えきれなかった。
逆ベクトルの勢いに押され後退するジャンボス、スパイドル。だがぎらぎらとした剥き出しの敵意と狂気は、逆に増して燃え盛っていた。
赤の色に猛る闘牛以上に鼻息荒く、敵を瞳に映しては際限なくボルテージを上げていく。

「た、助かったぁ……」
「おバカ、ホッとしてない! 防いだだけで、倒した訳じゃないんだから!」
「わ、解ってます」

凛に叱られながら、のび太は“ショックガン”をポケットから抜く。
効くかはともかく、ないよりはマシだ。よしんば効かなくとも、“バリヤーポイント”が作動している限り、とりあえず最悪は避けられる。
“空気砲”は、腕に填める仕様上“ショックガン”よりも手が塞がって自由度がなくなってしまうため、止めておいた。
かたや凛はというと、チョコでも齧るように宝石を一粒、口へ放り込むとごくりと咽喉を鳴らして飲み込んでいた。
見てぎょっとするのび太であったが、次に目にした光景に、きちんとした理由があっての事だと気づく。

「あ、身体から光が」
「『強化』魔術よ。蜘蛛の方は喰い止めてあげるから、アンタとフー子はあのマンモスをなんとかしなさい。出来るなら、あっちの親玉もだけど。あと“電光丸”を貸して」
「え、あ、はい!」

バリアの内から転がした抜身の“名刀・電光丸”を受け取った凛は、それを左の逆手へと持ち替えてぶんぶんと二、三度宙を斬る。
そして、手応えに満足すると不敵な笑みを浮かべ、挑発するようにちょい、ちょいと平を天に向けた右の人差し指で空を引っ掻いた。
その様は、まるで『かかってこいや!』と言わんばかりである。
どれほど狂気に塗れようと、挑発の空気は察せられるらしい。押し戻されて小康状態だった挙動が、再度レッドレベルのアクティブへと切り替わった。

『Syaaaaaaaa!』
『Baoooooooo!』

足音も荒く、スパイドルが凛目掛けて駆け出す。
ジャンボスも、耳の翼を大きく羽ばたかせ、宙に浮くとのび太へ向かって突撃を開始した。

「ええいっ、この! これでも喰らえ!」

ジャンボスに対し、のび太は“ショックガン”を放つ。
巨躯がための単調な突撃など、銃を構えたのび太にとっては徐行する車も同然であった。
稲妻状の閃光は、狙い違わずジャンボスの眉間にヒットする。
ガンドと“ショックガン”。作用する性質の違いゆえか、ガンドを弾き返したジャンボスの肉体に対して、意外にも“ショックガン”の光線は通用した。
一瞬、痺れたようにジャンボスの動きが止まる。赤く爛々としていた瞳の輝きが、身体動作と比例するように鈍くなった。

「フー子! お願い!」
「うん!」

合図と共に、フー子がのび太の肩口から小さな手を突き出し、前と同じように竜巻を発射する。
今度はジャンボスも避ける事が出来なかった。

『Buooooooo!?』
「や、やった!」

大気の渦に呑み込まれ、ジャンボスは錐揉みしながら凄まじい勢いで吹き飛ばされていった。
上出来の成果に、のび太とフー子は片手でぱしっとハイタッチを交わした。

『Syigiiiiii!』
「ふんっ!」

一方、目まぐるしく光芒が閃き、火花を散らすのはスパイドルと凛の殺陣。
三対、占めて六本のレイピアを縦横無尽に、凛に叩き付けようとするスパイドルだが、その悉くが届いていない。
凛がのび太から借り受けた刀が、それらをすべて捌ききっているからだ。

「“電光丸”がなかったら、アウトだったかもねっ! やあっ!」

凛の左の逆手に握られた“名刀・電光丸”が、目にも止まらぬ速さで繰り出され、剣撃の嵐をいなし、受け止め、切り払う。
十三代目の泥棒剣豪のように、ライフルの弾丸すら斬って落としそうな勢いである。
勿論、凛の手並みなどではない。“名刀・電光丸”の恩恵によるものに他ならなかった。
いかなる攻撃にも即座に対応するその自動迎撃機能が、本能を剥き出しにしたスパイドルの一撃一撃を捕捉し、最善の対処法を丁寧かつ的確に施している。
しかし、それだけではきっと防ぎきれなかったであろう。なぜと言えば、凛とスパイドルには身長、体重、筋力に開きがありすぎるからだ。
“名刀・電光丸”といえども、恩恵はあくまで剣の技量のみである。体重差や筋力差といった物理法則は覆されず、忠実に適用されてしまう。

「だああああっ!」
『Sigyaaaaaaa!?』

凛が宝石を飲んだのは、そのためであった。
『強化』魔術。士郎のものよりも遥かに高度で洗練されたそれが、不利な諸条件を五分にする。
斜め上から来る連撃に怯む事もなく、掴んだ刀が弾かれもせず、重い一撃にも吹き飛ばされず。
膂力の上では、スパイドルに及ばずとも後れを取るまではいかないところまで引き上げられている。
であれば、あとは純粋に技量の勝負。しかし、剣の技量は“名刀・電光丸”の力もあっておおよそ五分である。
勝敗を分けるものは、それ以外の技量の要素。その一点に集約される。

『Gyiiiiiiii!』

押されないまでも攻めあぐねるスパイドルが奇声を上げる。繰り出す剣の一切を捌ききられれば、いかに薄れた理性といえど苛立ちは拭えない。
スパイドルは一旦、レイピアを大きく振って凛から僅かに距離を離すとがちり、と顎を開いた。
蜘蛛の魔物であるスパイドルのもうひとつの武器、蜘蛛糸を放とうというのだ。この蜘蛛糸の粘着力と頑丈さは折り紙付きで、人間ひとり吊り下げても切れない強度を誇る。目標の動きを奪うなど、これにかかれば造作もない。

「――――今ッ!」

しかし、それは悪手であった。凛はこの瞬間を待っていたのだ。敵が距離を取ろうとして斬撃の雨が止む、この時を。
凛は、今までずっと刀を持った左腕しか使っていなかった。使えるはずの、使った方が有利なはずの右腕を使っていなかったのだ。
それはつまり、切り札は右手にある事を示唆している。敵が蜘蛛糸を使う事は、のび太の話から聞き知っている。次の敵の行動は、凛にとって初見ではあるが未知のものではない。
彼女は躊躇なく、僅か一足でスパイドルの懐に踏み込んだ。

「せいっ!」
『Gyhiii!?』

そこから瞬きの間も置かず、顔面目がけ繰り出される右の掌底。彼女の修める拳法の技量と『強化』魔術も相まって、猛烈な拳速を以て放たれたそれはスパイドルの下顎に見事クリーンヒットする。
浸透勁による、内部から脳髄を揺さぶる強烈な一撃。外面の威力も相当なもので、スパイドルの顔面が陥没する。
人間であれば、歯が折れるどころでは済まない。顎の骨を粉末にしてお釣りが来るほどの威力がある。
そして、凛の真骨頂はここからだった。

「――――光栄に思いなさい、とっておきよ!!」

叫んだ次の瞬間、スパイドルに突き刺さったままの凛の右手が、凄まじい光を放ったかと思うと強烈な爆炎と共に衝撃波を撒き散らした。

『Uryyyyyyyyy!?』

向かう先がスパイドルのみという、指向性を持った掌からの大爆発。ゼロ距離で浴びた方はたまったものではない。
全身、余すところなく紅い炎に舐めつくされ、火達磨になったスパイドルは彼方へと、砲弾のように吹き飛ばされた。

「――――っく、ぅうう~っ! き、キいたぁああ……っ、はあっ。これがホントの『ヒート・エンド』ってね」

煙の立ち上る右手をぷるぷると振り、凛は涙で視界を滲ませながら笑った。
タネを明かせば、単純な事だ。
スパイドルに叩き込んだ掌底、握り締められていた上四本の指の中には、魔力のたっぷりと込められた彼女手製の真っ赤なルビーが仕込まれていた。
彼女は、それを炸裂させたのだ。
『強化』魔術の恩恵で、掌中で起爆しても凛への被害は最小限で済む。なおかつ、解放された力に指向性を持たせてやれば、更にリスクを減らせる上に威力は倍加する。
だが、やはり反動のすべてを抑え込むのは無理であった。火傷や裂傷こそないものの、凛の右手は圧力と衝撃で痺れており、しばらく使い物にならないだろう。
汗に塗れた顔を拭い、彼女はのび太に対して、不敵な笑顔で左の親指を立てて見せた。

「ぎ……ぅう、が……!」
「あぅ……っく、貴女は、どうやら……『狂化』しないようです、ね」
「抵抗、っくぅ……しなけれ、っば! もはや戻れ……ません、からっ! ぐ、ぅうう!」

残る最後の戦場。
敵に屈服させられた剣士と、それを阻む騎乗兵は、いまだ決着の見えない鍔迫り合いを続けていた。
大上段から繰り出された不可視の剣を、釘の双剣で膝立ちに受け続けるライダー。のび太を庇ったあの時から、その状況は推移することなく、ただ徒に一進一退の停滞模様を見せていた。
普通であれば、弱体化したライダーがとうに圧し負けているはずだ。児童化した彼女の筋力・耐久・敏捷は元の状態からワンランクダウンしており、おまけに『怪力』のスキルもなくなっている。
こと近接戦闘能力においては、セイバーの足元にも及ばない。マスターが変わったところで、セイバーの戦闘能力にはなんらの瑕疵もなく、どころか以前よりもワンランク上の位階に至っているように見受けられた。
マスターが半熟卵の魔術使いから、魔の首魁へ移行した事による能力の上昇変動である。
『竜の因子』も健在で、今もセイバーの身体には淡い燐光が取り巻いている。
これだけ、セイバーにとって有利になる条件が揃っていてなお、ライダーを地に伏しきれない。

「成る程。こちらと、しては……助かり、ますがね!」
「くぅ……しかし、ライダー。貴女の『眼』は、やはり強力だ、っぐぅ!」
「褒め言葉と、受け取っておきます……!」

理由は明白。セイバーが『狂化』、ひいてはオドロームからの支配に今も抗っているからだ。
キャスターの支配力など及びもつかない最凶の呪縛。彼女自身の強力な自我と『対魔力】、そして『竜の因子』からくる抵抗力が、彼女を完全なる支配から辛うじて脱却させている。
彼女の動きが鈍く、十全の実力を発揮出来ないのはその代償であった。
また、抵抗から来る彼女自身の消耗も大きい。身体は震え、額から頬へ、大粒の汗を流しては頭痛を堪えるように眉間に皺を寄せている。
今の彼女は、高圧電流が流れ続ける全身鎧を被せられ、その上脳髄を全神経ごと直に鷲掴みされるに等しい状態であった。
そこにかけて、眼帯から解放されたライダーの『眼』が、セイバーに更なる重石を乗せていた。
魔眼『キュベレイ』。宝具である眼帯の下に隠されていたそれは、内包する潤沢な魔力と高い『対魔力』ゆえに『石化』を免れるセイバーに対して『重圧』を掛ける。
穂群原学園での戦闘においても解放され、セイバーの動作を鈍らせた実績を持つその瞳の助けもあり、結果として相対戦闘力はおおよそ五分(イーブン)となっていた。

「……っ、ふ」

珠の汗を浮かべ、上段からの死の圧力に懸命に抗いながらも、ライダーは薄く笑う。
五分では勝負は決しない。どちらにも天秤は傾かない。普通であれば、決め手なしのまま消耗戦にもつれ込み、泥沼の様相となるだろう。
しかし、この二者の盤面だけを切り取って考えると、戦術上、均衡状態に持ち込んだ時点でライダーの『勝ち』なのだ。
ライダーに課された命題は、セイバーを打倒する事ではない。セイバーをこの場に、釘付けにしておく事である。
滅する訳にもいかず、かといって放置してもおけない。であるならば、足を止める以外に選択肢はない。
セイバーも、その思惑を見抜いているようで、自ら進んでそれに乗っていた。強迫観念のように襲い来るオドロームからのコマンドを、ライダーにすべて振り向ける。
そうする事で、彼女が与える望まぬ損害を最小限に喰い止めていた。

「もう少し、手加減してくれても……いいん、ですよ?」
「それこそ、無茶な相談です……ぅく!」

ちりちり、ぎりぎりと忙しなく、双方の得物が擦れる音だけを背景に。
互いが綱渡りの、限界すれすれの拮抗劇。
局面は、動きそうもなかった。



『――――ふん、成る程。予想よりもやる』



だが、その時。
何度も耳にした大音声が、びりびりと大気を揺らした。
声の主は言わずもがな、オドローム。
手駒のうち、二名がノックアウト。一名が支配に抵抗している。
オドロームにとっては、劣勢。傍若無人な性格を考慮すれば、不甲斐ない手駒に罵声のひとつ飛んだところでまったく不思議ではなかった。
しかし、オドロームの声には、そんな苛立ちや蔑みの響きはない。
むしろ、この有様も予想の内だと言わんばかりの落ち着き払った述懐であった。

『“剣”なしとはいえ……伊達にこの戦争を生き抜いてはいないという事か』
「な、なんだよ。こっちは、ジャンボスも、スパイドルもやっつけたんだぞ」

撃退の余韻が醒めたのび太の声は、いささか以上に震えの混じったものだった。
余裕ありきの態度が崩れない、その不気味さが示すものを本能的に感じ取っているようだ。

『やっつけた、だと? ふん!』

のび太の強がりをオドロームは鼻で笑う。
同時に、ゆっくりと手に持った杖を天に翳した。

『カアッ!!』

虚空へ向けて一喝。炸薬の破裂音にも勝る大きさの音が、虚空を突き抜けていく。
たったそれだけで、状況は劇的に変化した。



『――――B、Buoooooooo……!』
『――――S、Syiiigiiii……!』



地の底から這いずり出すような唸り声が、闇を叩く。
それは、今まさにのび太達によって退けられた者の怨嗟の雄叫びであった。

「え……!?」
「フゥ!?」
「ちっ、予想はしてたけど……!」

フー子の竜巻に吹き飛ばされ、神殿の壁にめり込んでいたジャンボスが壁を砕き、這いずり出す。
凛の神の指によって火達磨にされたスパイドルが、纏わりついていた炎を吹き飛ばし、起き上がる。
両者とも、傷ついていたはずの身体は召喚当初と変わりなく。
ぎらつく瞳の紅は、先程以上に渦巻く怒りと怨嗟と狂気に塗りたくられていた。

『Bugoooooooooooo!!』
『Syigyaaaaaaaaaa!!』

完全復活、ではない。
立ちのぼる禍々しいオーラも増し、より力をつけてジャンボス、スパイドルは甦った。
そして魔の首魁の視線は、二体以外にも向けられる。

『セイバー! 支配に屈せぬ、その気概は見上げたものだが……さて、いつまで粘れるか。ぬん!!』
「う、ぐぅうううああああっ! ああ、がっ!?」

今度は杖を振り下ろしたオドローム。
途端、セイバーの身体から紫電が幾筋も噴き出すように取り巻き、セイバーの苦悶が大きくなった。
支配コマンドを強めたのだ。
体内に千本単位で唸るチェーンソーの刃を突き込まれるような、おぞましいまでの激痛が襲う。
それでも抵抗を諦めぬセイバーの身体は、その実内部からぼろぼろにされていた。

「ぐ!? ぬ、ぅ……く!?」

剣の圧迫が強まるのを感じ、ライダーの顔が歪む。
セイバーの意思がすり減るのと反比例して、セイバーの膂力が上がっていっている。
剣を受け止める釘が半ばからたわみ始め、ライダーの腕も少しずつ押され、ずり下がっていく。

「まず、い……これでは!」

あと十秒も保たず、釘のバリケードは突破され真っ向唐竹割りを喰らう。
勢いよく噴き出す血飛沫と脳漿。鍔迫り合いの拮抗状態に拘るならば、そこに帰結するのはほぼ確定であった。
しかし、次に放たれたオドロームの言葉によって、そのビジョンは幻と化す。
その代償として、今よりも更に辛い事態に陥る事となった。

『まだ終わりではないぞ! 妖霊大帝と呼ばれたワシの力を見るがいい! カァアアアアアッ!!』

杖を振り上げ、地面にかつん、と突き立てる。
たったそれだけで、この空間の大地が鳴動を始めた。

「う、うわ!? 地震!?」
「く!」

地の底から怒涛の如く地鳴りが押し寄せ、地表がうねりを伴ってその身を震わせる。
均整取れた白磁の大地に深い亀裂が走り出すと、ぼこぼこと地面のところどころが隆起し、また至る所が陥没し始めた。
これでは立ってもいられない。
のび太と凛はバランスを崩して尻餅をつき、ライダーとセイバーは競り合いを中断し、距離を開けて態勢を整えざるを得なかった。

「はっ、はっ、はあっ」
「ぜっ、ぜっ……っぐ、ぐぅううっ、く、ぎ……っ!」

お互いに膝立ちで息を荒げながら、一方でセイバーの身体からはまるで大破寸前のロボットのように、異常な数の火花と紫電が噴き出していた。
悲惨にすら見えるそれが、オドロームからの更なるコマンドの熾烈さを如実に表している。やはりその圧力はキャスターなどの比ではないのだろう。
それでもまだ立ち上がって曲がりなりにも耐えきれているのは、流石と言える。

『ヌゥン!!』

しかし、オドロームのターンはまだ終わりではない。
突き立てていた杖を、今度は顔の前へと持ち上げて掲げる。
すると、杖の頭頂部の髑髏が、ばちばちという異音と共に怪しげな光を放ち始めた。

『ハッ!』

それを勢いよく、天目掛け突き出す。
髑髏に込められた輝きが、一条の光の帯となって闇を切り裂き、天井へ突き刺さった。
次の瞬間、地震や地割れなど目ではない現象を、凛達は見る事になる。
空から、『星が落ちてきた』。

「う、嘘ッ!?」

文字通り、五芒星を象った人ほどの大きさもある星が落ちてきたのだ。
しかも、数は十や二十ではきかない。六十も七十も超えていそうだ。それが猛烈なスピードで、限界まで蛇口を捻ったシャワーのように降り注いでくる。
非現実に浸る魔術師をしても非現実的な光景に、凛は一瞬己が目を疑った。

「あ、あわわわわわっ!?」

降り注ぐ光景がシャワーなら、威力は巨人のショットガンだ。
クラスター弾をも凌ぐ爆風と衝撃波によって、星が着弾した地面には見事に月面さながらのクレーターが作られていた。
万一直撃でもしようものなら、ただの人間の身体しか持たないのび太と凛は、間違いなく蒸発する。
“バリヤーポイント”の中で、フー子を懐に抱え込んだのび太は必死に揺れる地面にへばりつき、頭を抱えていた。
セイバー、ライダーは防御を選択せず、必要最小限のステップでキラリ流星群を躱していく。
このふたりの場合、いかに弾速が速かろうがブツが大きいだけ、落下場所を見切るのは容易く、むしろ着弾直後の衝撃波と抉れた足場に気を配っていた。
お互い、疲労が蓄積している分、無駄な動きをして消耗するのは愚の骨頂であった。

「くぅううう……!」

凛もまた、スカートのポケットに忍ばせていた“バリヤーポイント”を展開し、地べたに手と膝をついていた。
彼女もまた、前回同様“バリヤーポイント”を携帯していた。これ以上の防御装置など、魔術の中にもそうそうないと言っていい。
しかし、このひみつ道具を以てしても、流星群の威力は凄まじかった。なにしろバリアにぶつかる音が凛をして、背筋を凍らせるほど凄絶なのだ。
バリア越しでも、背骨からびりびりと身体を揺さぶるそれが、彼女に星が秘める破壊力を教えてくれる。
絶対にバリアは解けない。少なくともこの流星群が止むまでは、決して。
幸い、星はバリアに当たると弾き返され、明後日の方へ吹き飛んでいくため、間断なき圧力超過で筐体が爆散する事はなさそうだった。
だが、最大の危機は凛の足元に、既に訪れていた。



「……え?」



びし、と。
凛の耳と脚に、なにか硬い物が裂ける音と感触が伝わってきた。
背筋を這いずる、強烈な悪寒。自分が陥るであろう数秒後のビジョンが、鮮明に脳裏に描かれる。
決して手抜きなどしてはいないだろうが、今いるここは人工建造物。そこに大地震とも呼べる揺れとクレーターを作れるほどに破壊力を秘めた流星の散弾。
ここから連想されるのは、ただひとつ。

「ちょ……!」
「り、凛さん!?」
「リン!」

ライダーが駆け出しかけるが、その時にはもう始まってしまっていた。
大黒柱を引っこ抜かれた積木の城のように、中心から崩落していく白亜の床たる地面。
陥没した大地が、暗闇を湛えた直径十メートルの円環となるのにその実、数秒も要しなかった。

「きゃあああああああ――――!!」

手を伸ばしたところで無意味。
底なし沼のような深い闇の中へ、凛は溶けるようにして消えていった。





――――きん、きん、きん、と。

そんな甲高い音を立ててぶつかり合うのは、冴え冴えとして鋭利な鋼と鋼だ。
居合の演武で日本刀同士が噛み合う時、見るも鮮やかな火花が散る。
この場で行われている事は、光景だけを切り取ってみればほぼ同じ。
ただし、明らかに異なっているのは、これは演武などではなく真に迫った命のやり取りだという、その一点である。

『クククク……どうした、アーチャー? 押されているぞ?』

柳洞寺、境内。
闇夜を照らす、線香花火と遜色ないその光に浮かび上がるは、ふたつの影。

「シミュレーションでは、七対三でこちらの方が勝っていたぞ』
「勝る? 戯言を。半人前を乗っ取った程度で、よくそんな口が叩けるものだ!」

銀閃が翻る。アーチャーの諸手が繰り出すのは、彼の最も使い慣れた一対の中華剣だ。
弓が本分であるにも拘らず、この弓兵は白兵戦において……トリックめいた奇手を用いたとはいえ……ランサーこと『クー・フーリン』とも渡り合ってみせた実績を持つ。
人間よりも格上の存在である英霊が、人間に後れを取るなど、通常あり得る事ではない。

『ふん……戯言か。試してみるか?』

しかし、相手は人間ではあるが、人間ではない。
悪意の塊とも呼ぶべき悪魔に憑りつかれた、人間である。
かつて宇宙の果てにて、艦隊とも言える大宇宙船団を影から牛耳り、遂には地球と闘争を引き起こそうとした黒幕『アンゴルモア』。
アサシンの肉体を依代として出でたそれが衛宮士郎の身体を乗っ取り、手近にいたのび太に近しい者……すなわち士郎、そしてアーチャーへと襲い掛かっていた。

『ぬん!』

アンゴルモアに操られた士郎の腕が引かれ、身体が弓形に引き絞られる。
同時に、身体からめりめりと筋肉の膨れ上がる異様な音が発せられていた。
その瞬間、アーチャーの脳髄でけたたましくアラートが鳴る。
咄嗟に、手にする双剣を交差させて頭上に翳した。

「くっ!?」
『はあっ!!』

最上段から繰り出されたアンゴルモアの諸手。
掌中にあった得物が双剣を捉えたその刹那、がしゃん、とガラスが地面に撒き散らされたような音が響き渡った。

「――――ぬ、ぅぐっ!?」

金属の破片がばらばらとアーチャーの頭に降り注ぎ、骨を直接ハンマーで殴られたような痺れが、彼の腕にのしかかってきた。
そして両手にさらに伝わる、心許ない剣の柄の軽さ。
その感触は、両刀身が木っ端微塵に砕け散った事を持ち主に教えていた。

『さて、これでも戯言と言うか?』
「……ほざいていろ」

嘲り笑いを浮かべるアンゴルモアを貼り付けた鉄面皮で見据え、アーチャーは残った柄を放り捨てる。
受ける際、僅かに腕を引いたお陰で、痺れはあと五秒足らずで抜ける。
まるでミュータントのような顔貌となった士郎の顔を見ながら、彼は心中で盛大に舌打ちをした。

「腑に落ちん。この異常な力と成長、種はいったい……?」

砕かれた双剣、正式な銘は『陽剣・干将』と『陰剣・莫耶』と言う。
古の刀工、干将が妻の莫耶の命と引き換えにして生み出したとされる『曰くつき』のもので、そう容易く砕かれる代物ではない。
それこそ、ランサーやセイバー、バーサーカーの渾身の一撃でもなければ、だ。
それを、砕かれた。肥大した膂力を以て。魔術師として未熟で半端者の衛宮士郎の肉体“そのまま”では、明らかにあり得ない現象であった。
他にも、腑に落ちない点はある。斬り合いが始まった当初、アーチャーが圧倒的に優勢であった。
アーチャーは、剣士としては才なくせいぜい二流。対する士郎は同じく才なき上に、アーチャーに一方的にのされるような力量しか持っていない。
アンゴルモアが憑りついたところで、才能の有無までは覆せない。それが当然の流れであった。
繰り出される攻撃を捌いては肩を極めて関節を外したり、剣で膝を割ったりして動きを止め、無力化しようと試みた。士郎の身体には浅くないダメージと傷が、どんどん刻まれていった。そこまではよかった。
しかし、士郎の肉体は傷ついたその端からぐじゅぐじゅと音を立てて負傷箇所が一気に治癒して元に戻り、再度斬りかかってきた際には、前よりも剣閃の鋭さが増していたのだ。
異様な事態に眉を顰めたアーチャーであったが、気を取り直してもう一度腕の関節を外し、今度は腱を数ヶ所断った。だが傷付けた身体はまた再生し、さらに剣の鋭さは増す。
何度かその応酬が繰り返されたが、いつしか敵の力量はアーチャーのそれと遜色ないところまで伸び、彼をしてヒヤリとさせられるところまで到達していた。

『クククク、これは面白い。まったくもって、面白い』

だがそれすら霞む、極め付けと言ってもいい異常の象徴が、アンゴルモアの手の中に存在していた。
気味の悪い笑い声を上げてゆっくりと構え直す、今しがたアーチャーに対して振り下ろしては双剣を砕いた得物、それは。

『これを喜劇と言わずしてなんと言う! ククククク……!』

アーチャーが所持していたものと寸分違わぬ、『干将・莫耶』であった。
それが士郎の持つひみつ道具によるイミテーションでも、アーチャーから盗み出されたものでもない事は、他ならぬ彼自身が知覚している。

「……何が喜劇だ、と?」
『貴様の存在、そのものがだ』

他の誰でもない『衛宮士郎』が、アーチャーに何も悟られぬまま『干将・莫耶』を手にし、その剣を以て同種同質の剣を砕いた。
その意味を、アーチャーは心の奥底で言い知れぬ悪寒と共に模索していた……否。

「妙な事を言う。アンゴルモアよ、お前が私の何を知っていると? そもそも、我々に接点などないはずだが」

既に結論は彼の中で出ており、しかしそれを彼は受け入れられず、無意識に拒否していると言った方が、正確かもしれない。
それは、ある意味では彼の根幹に関わってくるものであるゆえに。

『ふん、たしかに接点などないな。だが……この小僧』
「む……?」
『我が依代のこの小僧、なにやら貴様と浅からぬ因縁があるようだな』
「……!」

にしゃあっ、とアンゴルモアの唇が吊り上がる。
その言葉で、アーチャーの出した結論に確たる裏付けが取られた。
肉厚の氷のナイフで背中を突かれたような衝撃が、アーチャーの内面を襲う。

『詳しくは知らんが、この世界の降霊術の一種には』
「ぬんっ!」

言い終わらぬうちに、紅い背中が揺れ、アンゴルモアの間合いに踏み込む。
抜き打ちのように放たれた諸手には、たった今砕かれたはずの『干将・莫耶』が、いつの間にか再び掴まれていた。
がちん、と噛み合う刃と刃。斬撃の軌道を読み切り、『干将・莫耶』を『干将・莫耶』で受け止めたアンゴルモアの薄ら笑いは、小動(こゆるぎ)もしない。

『なんだ、なにを焦っている?』
「……隙を見せた貴様が悪い」
『隙? 隙と言うのならば、動揺を見せた貴様の方こそ隙だらけよ!』

途端、アンゴルモアの瞳が紅く、妖しい輝きを放った。
煙草の火よりも強く炯々と、血染めのプリズムを通して発された光がアーチャーの眼球に飛び込んでくる。
その時、じわり、と眩暈にも似た奇妙な感覚に襲われた。

「ぬ……ぅ」

頭の奥で、数千匹ものミミズがのたうち回るような、そんな感触。
ミミズが蠢く度に、脳髄をちびちび齧り取られていく。
ほんの、ほんの僅かずつ。粉のようなビスケットの欠片よりも微細な量を、幾千もの蟲達が。
じわじわ、じわじわと中心から、全体へとそれは広がっていき……。

「――――喝ッ!!」

かっ、と括目したアーチャーの気合一喝。
頭の中の不快感が蒸発するように掻き消され、刹那の後に彼の右手がぶれる勢いで振り上げられた。

『む、ぅが!?』

一瞬後に響く、アンゴルモアの奇声。
唐突な一喝に反応が遅れ、対応出来なかった。
アンゴルモアの腹部には、弓兵が投げ放った双剣の片割れが、深々と突き刺さっていた。
ごぼっ、とどす黒いを吐血する。柄に近い位置まで体内に潜り込んだ剣は、内臓まで達したようだ。
空いた手で米神を叩きながら、眼の焦点を調整するようにアーチャーの眉間にぎゅっと皺が寄った。

「ち……今のが『超能力』というやつか」
『ぐっ、グ、グフ……ク、クク。ノビ・ノビタから聞いていたか』
「『超能力』で一国の長を操っていた、という事はな。成る程、なかなかに強力だ」

おそらく凛やイリヤスフィール辺りの実力者でも危なかったであろうと、アーチャーは思う。
弾き返せたのは、セイバーやキャスターほどではないにしろ、それでも意外に高い魔力値と、魔よけのアミュレット程度のものではあるが、クラススキルの『対魔力』のお陰であった。

『だ、だが、ゴホ! 先程までとは、明らかに違う、な。まさか腹に剣を突き通す、とは。とうとう、こやつ諸共潰す気になったか?』
「骨を外そうが腱を断とうが、さんざん再生していたのだ。今更、その程度では死ぬまい?」
『まあな……クク、遠慮を捨てたか。だが、これはこれで好都合』
「なに?」

訝しんだアーチャーの眼前で、アンゴルモアが腹に突き立っていた剣を勢いよく引き抜く。
噴き出した血潮が、境内を赤く染めるが、アンゴルモアの身体は揺るがない。
ふらつく事なく堂々と二本の脚で立ったまま、徐に抜いた剣の刃を掴んだ。

『貴様がこやつを傷付けるだけ……』

みしみし音を奏でる刀身。
アンゴルモアの右手に力が籠る毎に、刃に亀裂が走っていく。
そして。

『こちらに勝利は近づくのだからな!』

ぐしゃり、と。
アメ細工を握り潰すように、剣が手の中で粉々となる。内臓まで抉られた腹の傷も、やはりぐじゅぐじゅという生理的嫌悪を齎す音と共にいつの間にか塞がりきっていた。
高らかな宣告は虚勢とも余裕とも取れ、判別はつかない。
士郎のシャツもジーンズも、度重なる負傷でずたずたで、その実ボロ布と変わりない。
しかし、その下にある肉体は健在。アンゴルモアが入り込んだせいなのか、心なしか一回り肥大しているようにも見えた。

「……ふん。好きに咆えていろ、ミュータント」

残った左手の干将を構え、アーチャーは鷹の目に冷たい闘志を漲らせる。
だが、鉄面皮の表面を伝う一筋の汗は、仮面の下の彼の内心を唯一発露させていた。

「――――いつまで、寝ているつもりだ。小僧」

絶望と、願望と、希望とが一緒くたとなり、渦巻くように揺れ動く。
一粒の雫が表すもの。それはこの戦局における決め手を欠く事から来る、掻き毟るような焦燥と。



「……ちっ」



――――己と士郎の間にある色濃い因縁に起因した、混沌に満ちた葛藤であった。







[28951] 第五十話
Name: 青空の木陰◆c9254621 ID:90f856d7
Date: 2014/06/07 21:21





踏みしめる板が軋みを上げる。
ぎしぎしという音と共に、一段一段ゆっくりと、簡素な木造りの階段に脚が交互に掛けられていく。
登り詰める先にあるのは、永劫の闇。正確には、その表門である。
門から見えるのは一本のロープ。設置された台座から真っ直ぐに垂らされ、先端では首がすっぽり入る輪が作られている。
すなわち……死刑台だ。
脚が一歩を刻む度に、その約束の地はどんどん近づいてくる。

「――――――」

絞首台は今、大量の人間によって取り囲まれている。
さながら劇場のように、広場に据え付けられた台を扇状に、老若男女取り交ぜた観衆がその時を待っている。
縄で後ろ手に拘束され、十三階段を登らされているこの男の、命が消える瞬間を。

「――――――ろ」

ここには男の味方などいない。
渦を巻く敵意と憎悪。観衆が醸し出す負の想念のそれらはすべて、男に向けられている。
十三階段も、残り一段。ボルテージが、否応なしに高められていく。

「――――――きろ」

壇上に立つ男の表情は、はっきりと見えない。
猿轡はなく、代わりに目隠しをされて顔の上半分はその黒い布が覆い隠している。
しかし、その下半分に映る男の表情。そこに怖れや慨嘆といった、負の感情は見受けられなかった。
あるのは常の鉄面皮。内面の起伏を封殺した無表情には、すべてを受け入れた色だけが浮かんでいた。
死を怖れていない訳ではない。『死』という未知には、誰であろうと少なからず尻込みする。
この男は、いわば『生贄』である。理不尽を背負わされ、他者に否応なく絶望の運命を強制される。
普通であれば、憤慨のままに喚き散らしてもおかしくないはずなのに。
男はただただ、その結果をありのまま受容していた。この運命こそ、自分に相応しいのかもしれないと。
だからこそ、十三階段を行く足取りに、淀みがないのだ。
そして、男の脚は遂に地獄の門の縁へと掛けられ……。



「――――――いい加減に起きろと何度言わせる、小童」



腹を襲った衝撃で、士郎は強制的に目を覚ました。

「ぐふっ!?」

バネ仕掛けのように、腹部を押さえて跳ね起きる。痛い、などという温い表現では済まない。
胃や腸が口から、ポンプさながらに猛烈な勢いで押し出されるかと錯覚するほどであった。
車に挽かれたカエルは、もしや死の間際にこんな物凄まじい衝撃を味わっていたのだろうか。
涙を滲ませてえずきながら、頭の片隅でそんな事を考えた。

「えっほ、げほっ! ごっほ……っ」
「ふむ、目を覚ましたか。品のない寝起きよな」
「だっ、誰だって! 腹を蹴られたらっ……こうなるわ……って!?」

降りかかる涼風のような声に、士郎は抗議の声を上げる。
しかし、声の主を見上げた途端、出そうになっていた臓腑がきゅっと縮む感覚を覚えた。

「――――そう殺気立たずともよい。こちらに刃を交わす意思はない」

青の陣羽織も眩しい、刀を背負った優男。
そこにいたのは、柳洞寺の山門を守護していた、あのサーヴァントであった。

「あ、アサ……アサ、アサ次郎!?」
「誰だそれは。私はアサ次郎などという珍妙な名ではないが」

混乱のあまり、士郎は色々と混ざった名前を叫んでしまう。
優男は、ひとり泡を食っている彼を見下ろし、怪訝な顔をしていた。
それでも、袖の大きな着物の中で腕を組む、立ち姿は崩さない。

「え、あ、ああ悪い……じゃなくて! 小次郎、お前いつから俺の……ッ!?」

士郎の言葉は続かなかった。
優男……アサシンこと『佐々木小次郎』の刺すような視線が、彼の瞳を貫いたからである。
首筋に刀を押し付けられたような、底冷えじみた怖気が走る。

「小童、なにゆえ私の真名を知っておる」
「あ……いや、その……あっと、お前と、バーサーカーの立ち合いを、覗き見して」
「ふん?」

一瞬、不快の念の滲んだ光が、小次郎の瞳に浮かぶ。
だが、すぐにそれを打ち消すと、もう一度ふん、と鼻を鳴らした。

「……まあ、よかろう。そも、戦においては斥候や物見など常道も常道。出さぬ方がどうかしておる。くくく」

なにがおかしいのか、先の様子から一転して喉の奥で含み笑いする小次郎。剣呑さが薄れ、士郎はほっと息を吐く。
しかし、その安堵も、周囲の景色が目に留まるまでのものであった。

「えっ……な、んだ、ここは!?」

闇、闇、闇。
すべてが黒で塗りたくられた、闇の坩堝の只中であった。
密閉空間なのか、開けた場所なのか、それすらも判別出来ない。
地面すら黒一色であり、下手をすると重力に関係なく、上も下も解らなくなりそうだ。
見えるのは、常と変らぬシャツとジーンズに身を包んだ自分の身体と、近くに立つ小次郎の姿のみ。
座り込んだまま、士郎がさっと小次郎を見上げると、小次郎は腕組みを解かぬまま、軽く肩を竦めた。

「さて。ふと気がつけば、ここにこうして立っていた口でな」
「そう、か……」
「だが、かような場所に放り出した輩については、また別の話よ」
「え?」

ぱちぱち目を瞬かせる士郎に対し、小次郎は再度含み笑いを漏らした。

「耳を澄ましてみよ。なにやら、聞こえてくるぞ」
「耳を……?」

言われて、士郎は目を閉じ、意識的に耳をそばだてる。
最初は無音そのもので、小次郎と己の息遣いのみが聞き取れるだけであったが、次第になにか、硬い物同士がぶつかり合うような音が耳に響いてきた。

「んん?」

眉根を寄せ、士郎はさらに耳を澄ませてみる。
鍛冶場で鉄を打つ音にも似ているが、それにしては鋭すぎる気もする。
もっとよく聞こうと聴覚を冴えさせるうちに、じわじわと瞼の裏に映像のようなものが浮かび上がってきた。

「これは……」

そこには、色素が抜けたような白い髪を後ろに流し、猛禽を思わせる鋭い目をした浅黒い男の姿が。
彼の見知ったアーチャーであるのは間違いないが、しかしそうと認めた後の彼の次の行動が、士郎の心臓を押し潰した。
触れれば切れそうな冷たい敵意を漲らせ、両手に掴んだ白刃をこちらに向けて、猛烈な勢いで突き出してきたのだ。
彼の股下が、瞬時に縮み上がる。

「うわ!?」

眼を開いて後退りする士郎を見て、小次郎は今度こそからからと笑い声を上げた。

「はっはっは、大仰よな」
「な、な、ななな……なんだ、これは?」

ばくばくと喧しく鳴る心臓を宥めすかしながら、士郎は小次郎に問う。
士郎にすれば、真に迫りすぎていた光景。
黒い殺気を隠しもせずに、斬りかかられる。それで恐怖を感じない人間などまずいないだろう。
彼の眼前の小次郎や、あるいはセイバーといった殺気を受け流せる猛者ならば話は別だが、生憎士郎は貧弱な小僧である。
たとえ幻だったとしても、唐突に見舞われればそれだけで肝が縮み上がる。
ふうふうと息を整えて暴れる心臓を宥めすかすと、士郎はもう一度目を閉じて、耳目からの情報に神経を尖らせた。
何が来ようと動じぬよう、ぐっと腹に力を込め、先程と同じ要領で。
やがて、士郎の瞼と鼓膜に、先のものよりも明瞭な刺激が伝わってきた。
吹き抜ける冬の冷たい風が樹木を薙ぎ、ざわめきが石の敷き詰められた地面に吸い込まれ、あるいは反射して残響を作り出す。
舞台は、士郎には見慣れた柳洞寺の境内……そして。



――――クク、本気になったな! それでいい! それでいいのだ!
――――いい加減、その減らず口を慎め、ミュータント。



耳に鮮明に届くは、剣撃の音。
刃と刃が重なり合い、火花を散らして奏で合う。
瞳に克明に映るは、弓兵の姿。
一振りの長剣を諸手で翳し、大上段から叩き付ける。
己に向かって振り下ろされる白刃に、士郎は二度目の醜態を晒さなかった。
恐怖を臓腑の奥へ押し込み、迫る刃を凝視する。
吸い込まれそうになるほど美しい刃先は、当たろうとする寸前で、視界の横から差し込まれた刃によって遮られた。
金属特有の甲高い音が、鼓膜を盛大に揺さぶってくる。
ここ数日で、何度も耳にした音だけに、士郎にとってそれはある意味、心地の良い音とも言えた。



――――『I am the bone of my sword』……!



アーチャーは剣を構え直しながら、そんな呪文のような、あるいは祝詞のような言葉を口にした。
唇の端から漏れ出たような、微かな響きだったのにも拘らず、士郎の耳には、はっきりとそれが聞き取れた。
呟きで緩んだ口元を真一文字に結び直し、アーチャーは再度、次は下段からの切り上げでこちらへ迫る。
士郎の動体視力では到底捉えきれない、剣閃。白い軌跡が楕円を描き、空気を切り裂いて唸りを上げる。
だが、やはり横合いから一筋の刃が現れ、その一撃を防ぎきってしまった。
飛び散る金属音と火花。受け切った方の刃もまた、見る者を虜にするほどの優美さを備えていた。
その剣の柄には、人間の諸手が添えられており、この剣を操る者がいる事を士郎に教示している。
そして、士郎はその手に……指や爪の形から関節各部の節くれ立ち方までが……いやに見覚えがあった。

「……これ、俺の手、だよな」

目を開けずに、士郎は自分の手の指を撫で、呟いた。
自分の手が、見知らぬ業物の剣を振るい、迫り来るアーチャーの剣を受け流す。
ここにいる自分と、いるはずのない『向こう側』の自分の肉体。聞き覚えのあるアーチャーのバリトンと、聞き覚えのない不吉さの滲む副音声混じりの声。
さらに付け加えて、アサシンこと佐々木小次郎と共にいる、今の自分の境遇。
おぼろげながら、この事態の真相が見えてきた。



――――ほう、自己投影のマジナイか。哂わせてくれるな、その文言は!
――――不細工な貴様の見てくれほどではないがな、アンゴルモア。



振るわれる剣と剣。
お互いが、渾身の力を込めて叩きつけ合い、剣の刀身が一瞬撓んだように見える。
その隙間に挟まれる悪口の駆け引きで、事の全貌が明らかとなった。

「つまり、だ。乗っ取られた訳か」

口に出して思い出す。アーチャーの背中を追いかけようとした時、突如自分に覆いかぶさってきた軟体の感触を。
あれがアサシンが変異した、アンゴルモアとやらだったのだ。

「前は機械に憑りついてたらしいけど……人間も例外じゃなかったのか」

のび太の話にあったエピソードの一端を反芻し、士郎は瞼を持ち上げた。
解放された眼球が真っ先に映したのは、柳のような飄々たる印象を抱かせる風雅な男。

「小次郎……って、この呼び方でよかったか?」
「別に構わん。名を隠すのに、拘りはないゆえな」

片目のみを開けて、小次郎は言う。
年下に気安く話しかけられるのにも、腹立たしく感じていないようだ。
案外、気さくというか、礼儀や分別にうるさくない性質らしい。

「解った。小次郎、どうやら俺もお前も、イレギュラーに飲み込まれたらしい」
「む、“いれぎゅらあ”? はて、伴天連の言葉か?」
「ば、バテレン……」

きょとんと尋ね返す小次郎に、がくっと士郎の肩から力が抜けた。
『佐々木小次郎』は江戸黎明期頃の剣客である。そういう意味では、横文字に弱いのも無理はなかった。
聖杯から言語の補足があったはずでは、と思わなくもないが、とりあえず士郎は言い方を変えて説明する。

「この聖杯戦争は、異常事態が頻発してるんだ。呼び出された英霊がいきなり別の個体へ変貌する、っていうのがその象徴なんだけど、アサシンのお前にもとうとうそれが来たらしい」
「ほぉう……英霊の変貌とな。これはまた奇怪な」

意外の念も露わに、小次郎は目を丸くする。
その反応は、士郎に微かな違和感を齎した。

「ん? キャスターからそういうの聞いてないのか。アイツも気づいてるはずなんだけど」
「否、初耳だ。私の役目は、山門の守護の一事のみ。その上、女狐から真(まこと)の信を置かれてはおらなんだ」
「は?」

なんでもない事のように述懐する小次郎であったが、士郎は我が耳を疑った。
以前、バーサーカーと剣技で渡り合った事からも解るように、小次郎の実力は……少なくとも剣の技術においては……セイバーに勝るとも劣らない。
使える手駒はなんでも使おうとする傾向のあるキャスターが、まさか小次郎を軽んじていたとは思わなかったのだ。

「まあ、私の物言いや振る舞いが癇に障ったのであろうよ」
「あー……それは、なんとなく解る気がする」

流れる雲や風のように、掴みどころのない印象を抱かせる小次郎だ。
どこか生真面目なキャスターとは、相性が悪そうではある。
子どものような素直な面のある士郎の場合は、そう気にはならない。のんびり屋ののび太や、士郎と同じ理由でフー子、イリヤスフィールとも相性はよさそうだ。
反面、凛やアーチャー、あるいはセイバーとは、反りが合わないかもしれない。

「しかし、それだけでおざなりにするものかな? 理由としては弱いと思うぞ」
「ふむ。では、呼び出した私が真っ当なモノではなかったゆえ、やもしれぬな」
「は? 真っ当なモノ、って……サーヴァントとしてまともじゃないって事か?」

そんなはずはないだろう、と士郎は思う。
この日本で、一般的な教養のある人間なら『佐々木小次郎』の名前を知らぬ者はまずいまい。
剣豪として“厳流”の号を名乗り、奇策と兵法を用いて『宮本武蔵』がやっと勝利を収める事が出来たほどの稀代の剣客。
日本の武の英傑としては最高クラスの人物だ。
それが、まともなサーヴァントではないとはどういう事か。
得心のいかぬ表情の士郎に対し、小次郎は涼しげな口調を崩す事なく話し始めた。

「そも、アサシンの役割で召喚されるのは、ハサン何某とかいう暗殺者のみのようだ」
「ハサン?」
「“山の老翁”が云々……と女狐は言っておったか。まあ、それはよい。要は、この『佐々木小次郎』がアサシンにて呼び出されるなど、まずあり得ぬという事よ」
「……けど、実際に『佐々木小次郎』のお前は、呼び出されてる訳だよな」
「無論……と言いたいところだが」

そこで、小次郎は表情に皮肉の色を滲ませた。

「的を射ているのは、半分のみよ」
「え?」
「女狐の呼び出した『佐々木小次郎』とはな、そう名乗れるに相応しい技を持っただけの、単なる亡霊にすぎなかった。ただ、それだけの事よ」

言い切って、小次郎は目を閉じる。皮肉交じりの微笑を湛えたまま。
理解が追いつかず、首を真横に傾げる士郎に、彼は補足を加える。

「呼び出された英霊がまた、英霊を呼ぶというイカサマじみた所業。どこかで必ず歪みが出るであろう事は、門外漢の私とて察するに易い。無理を通して道理を引っ込ませた結果、本筋のはずのハサン何某は呼び出されず、その実在が怪しまれる日ノ本の剣聖を呼び出してしまった」
「……たしかに『佐々木小次郎』については、文献に矛盾があったりするらしいけど」
「しかし、仮に空想であったとしても、正規の手順であれば召喚は叶うそうな。事実、女狐は正規の手法を用いておったようだ。そして、アサシンの器に『佐々木小次郎』という魂は注がれた。ただし、正確には魂の“枠”のみであったがな」
「枠? あ……っと、つまり『佐々木小次郎』のガワだけが来て、肝心の中身がなかった、って事か」

士郎の脳裏には、皿の上に置かれた、餡の入っていないどら焼きが描かれていた。
一応、間違いではないのだが、このイメージもどうなんだろうなと、士郎は自分で自分の空想にダメ出しをする。
おそらく、衛宮邸の居間に置かれていたお茶菓子のせいと思われた。

「無理を通したツケよ。ゆえに、聖杯とやらは仕方なくそこらに転がっていた、『佐々木小次郎』とするに相応しい何処の者とも知れぬ魂を、がらんどうの『佐々木小次郎』の魂の枠に収め、帳尻を合わせた……のであろう」
「断言、じゃないのか」
「先にも申したであろうが、私はその類には門外漢と。女狐にも確たる言は貰っておらん。女の愚痴じみた雑言の中身を繋ぎ合わせた、私の憶測にすぎん。とはいえ、あながち外れてもおるまい」

小次郎の語りは、そこで終わった。
口を閉じ、ただその場に泰然と佇む小次郎の表情からは、何も読み取れない。
ふと、士郎は山門でバーサーカーと闘っていた時の小次郎を思い出す。



『――――せめて仮初の役柄などではなく、我が真の名を名乗ろう。我はアサシンのサーヴァント……“佐々木小次郎”』



名もなき路傍の亡霊が、この世に確かに刻んだ足跡。
あの時の、敵に対して高らかに名乗りを上げた小次郎の胸の内が、解ったような気がした。
ふたりの間に、しばしの沈黙が訪れる。

「…………」
「…………」

さながら話題も尽きたお見合いの席の空気。小次郎は突っ立ったまま、士郎は所在なさげにもじもじしているが、しかしこうしてばかりもいられない。
この場所の正体は、見当がついた。問題は、これからどう動くべきかという、その一点である。
澱む空気を振り払うようにばりばり頭を掻いて、士郎は口を開いた。

「小次郎、この状況下じゃ、俺とお前は一蓮托生みたいだけど……これからどうする?」
「ふむ……そうさな。では星を目指してみる、というのはどうだ」
「星?」
「あれよ」

言われて、士郎は小次郎の顎でしゃくった先を見る。
すると、そこには黒滔々たる闇の中に、ぽつんと光の点がひとつ、灯っていた。
弱々しくもなく、かといって眩くもなく、目に優しい刺激の穏やかな輝きで以て、北極星のようにそこにある。

「なんだ、あれ?」
「さぁて。しかし、周囲には他に何もないゆえな。星を求めて歩むのも、また一興」
「…………」

再度の沈黙。
結局、小次郎の言葉以外にこれといった方策もなく。

「参るぞ」
「ああ」

草履と靴が、地面を鳴らして動き出す。
どちらからともなく、ふたりは星に向かって歩き始めた。





からから、と破片の音が闇を揺るがし、もうもうと粉塵が立ち込める。
コンクリートとも違う、白い瓦礫があちらこちらに散乱する暗闇の中。

「……いっ、痛ぅうう。ぎ、ぎりぎりだったかぁ」

押し殺したような呻き声が、塵を巻き上げて木霊する。
瓦礫のクッションに蹲るように縮めた身体を、ぶるぶる小刻みに震わせる者が一人。
真紅の上着にスカート、ニーソックスといった装いに、長く艶のある髪をツインに結い上げている。
地盤崩壊の憂き目に遭ってなお、その命脈を繋いだ兵。
遠坂凛が、両脚を襲う猛烈な痺れに喘いでいた。

「ランサーに強襲された時みたくは、いかないものね……痛たた」

膝を上げようとして、すぐに蹲る。
額には脂汗が浮かび、前髪がぺったりと貼り付いている。
眉間の皺は険しい山脈を形成しており、食い縛った歯の隙間からは『うーっ』と苦みのある声が漏れている。
しばらくは、立ち上がれそうになかった。

「何メートル落ちたのかしら……十や二十じゃないわね。百とか二百くらい?」

脚を摩りながら、光の一切ない黒天井を見上げて凛は呟く。
落下の持続時間から、自分が落ちた底までの深さを推測するが、詳しくは解らなかった。
ただし、この場所から元いた戦場まで、かなり距離が開いているだろう事は確実であった。

「『強化』がかかってなかったら、脚、確実に持ってかれてた。『重力緩和』併用でも、ここまでの衝撃があるなんて……」

地面が陥没し、身体が落下を始めた当初こそ狼狽したが、凛はすぐさま『重力緩和』の魔術を使い、ここへ軟着陸を果たした。
相当な深さのある穴だったからよかったものの、これが十メートルや十五メートルといった浅いものであったら、効力が間に合わずに、凛の両脚は砕けてミンチとなっていたであろう。
『強化』と『重力緩和』があったればこそ、脚が痺れる程度で済んだのだ。
士郎と組む前、学校でランサーと対峙した時、凛は逃げを打って校舎の屋上から飛び降りた事がある。
その時はアーチャーが着地の補助を行ったので、痺れすらなかった。まともに高所からの着地を果たしたのは、これが初めてと言っていい。

「奇跡ね」

被害が軽微であった事が、であろう。
脚から痺れがだんだんと抜けていくのを感じ、凛は再度立ち上がろうと試みる。
ふらつきながらも、膝はしっかりと伸び、脚は体重をきちんと支えてくれた。

「ふう」

震える脚を宥めながら、凛は指先に魔力の灯りを宿して、周囲を見渡してみる。
辺り一面、瓦礫の海。それ以外は何もない。
洞穴のようなだだっ広い空間で、時折水が流れるようなごうっ、という音が空気を揺らしていた。付近に地下水脈でもあるのかもしれない。
予備部屋としてキャスターが作ったのか、元からあった天然のものなのかは判別しかねるが、落盤が起きる気配は今のところない。
天井を見上げると、己が落ちてきたであろう丸い大穴が、煙突のようにぽっかりと顔を見せていた。
距離が開きすぎているのか、直上の戦闘の音は聞こえてこない。

「戻れるかしら?」

口に出したコンマ一秒後、彼女の理性が結論付ける。すなわち、『無理だ』と。
天井の穴まで、おおよそ十メートルはある。飛ばなければ帰還は不可能だが、凛にはまだその力はない。
空を飛ぶ魔術は、大魔術に相当する。凛はたしかに優れた魔術師だが、そのレベルはあくまで一流クラス。
超一流と呼ばれるまでの力量があればともかく、一流ではその魔術は成し得ない。
ゆえに、凛の理性は無理だと判断した……ただし。

「……とにかく、急がないとね」

その『無理』には“あくまで魔術では”という枕詞が付く。

「さて……」

スカートのポケットに手を入れる。
魔術媒体である宝石の他にも、彼女の手札はある。
“バリヤーポイント”と共に要請して、手渡して貰っていた札が。
どんな状況であれ、これがあるのとないとでは天と地の差がある。
如何に凛でも、電灯のスイッチを入れるのと変わらない労力と手順で済む以上、持て余す事もない。
彼女の細い指が、ポケットの中でお目当ての物を探り当てる。
ぐっと五本の指が掴む。引き出そうとした、その時だった。



――――ホーッホッホ。少々お待ち願えますかな、お嬢さん。



凛の指はブツを離し、すぐさま一緒に入っていた数個の宝石を掴み取った。
同時に、待機状態だった魔術回路をアクティブにする。



――――安心なされよ。危害を加えるつもりはありませんぞ。



間延びした老人のような声が、闇を満たして響き渡る。
信用出来るか、と問われれば『否』の一言である。
そもそも、ここは敵地。味方と断じた者以外に警戒を解くなど、凛の性格上あり得ない。

「姿も見せずに言われても説得力ないわ」

声は固かったが、しっかりした物の言い様であった。
とりあえずの命の危機を脱して、気が緩んでいた。
ぴりぴりと神経を張り詰める傍ら、凛は内心で己の油断を戒める。



――――ホーッホッホ、それもそうですな。では。



言葉が切れたその瞬間、瓦礫の隙間の闇から浮かび上がるように、ひとりの老人が姿を現した。
目や骨格の丸っこい顔貌に鷲鼻。よれた三角帽を白髪に覆われた頭に乗っけている。
杖をつきながら曲がった腰に手を回しているが、直立すれば決して矮躯ではないのだというのが背格好から解る。
ただ見る分には、どこにでもいそうな人生の締めくくりに差し掛かった御老体だ。
しかし、ぴりついた凛の感性は、そうは捉えない。
まるで密林のような鬱蒼とした底知れなさを、そのしわくちゃの印象の奥に感じ取っていた。
凛の警戒心は、薄まるどころかさらに濃くなっていく。

「これでよろしいですかな?」
「そうね。あとは杖を捨てて、後ろを向いて、両手を頭の上で組めばカンペキよ」
「ホーッホッホ、これは手厳しい。しかし、年寄りは労わるものですぞ」
「こんな魔窟にひょいっと現れる妖怪ジジイに、労わりなんて必要ないでしょ」

凛の不敵な物言いにも、老人は笑いを崩さない。挑発を完全に流しており、感情を平静に保っている。
言葉の通り、危害を加える意思がない可能性が凛の中で、頭をもたげた。
警戒はそのままに、凛は努めて静かに口を開く。

「それで、貴方は誰なのかしら」
「名前は、さてさて……そうですな。『トリホー』とでもしておきましょう」
「トリホー……って、たしかオドロームの部下のひとりじゃないの」

いまだ手を抜いていない凛のポケットの中で、宝石がしゃらりと音を立てる。
魔術回路も今のアクティブから、次の段階へ移行する準備が始まっていた。
表情を変えぬまま猜疑の雰囲気を醸し始めた凛を、しかしトリホーと名乗った老人は、落ち着き払った笑い顔を微塵も揺らがせず説き伏せにかかる。

「ホッホウ。あの少年から『夢幻三剣士』を聞いておりましたか。であれば、お疑いも無理はない」
「…………」
「しかしながら、今ここにこうしている『トリホー』と妖霊大帝とは、縁のないものとお考え頂きたい」
「はあ?」

明らかにオドロームの配下の名を名乗っているのに、穴の直上のそれとは繋がりがないとトリホーは言う。
怪訝な表情となった凛に、トリホーはついていた杖を前に突き出した。
ぴんと伸び切った右腕は、それを地面に突き立てているようにも見える。

「お嬢さんを呼び止めたのは、あの少年にこれを渡して欲しかったからでしてな」
「これ、って杖を?」
「いえいえ」

すると、トリホーは杖から手を離し、ゆっくりと二、三歩後ろへ下がる。
杖は、掴む者がいないにも拘らず、直立不動を保っていた。
表情にますます疑念の色が濃くなった凛であったが、トリホーがぱちん、と指を鳴らした次の瞬間、端正な眉が勢いよく跳ね上がった。

「……え、えっ!? これは!?」

杖のあった場所に杖がなく、代わりにそれとは違うものが、地面から伸びたように存在していた。
凛の驚愕に彩られた表情を、トリホーは笑い声を上げて見つめている。

「ホーッホッホ、頼みの品はこれです。渡して頂けますかな」
「……その前に、ひとつ質問」
「ホゥ? はて、なんでしょう?」
「どうして、アンタがこんなものを持ってるの?」

凛の疑問は、ある意味当然であった。
杖から変わったブツは本来、この老人が持っていていいシロモノではなかったからだ。
いや、そもそもあるはずのないシロモノ、と言い切ってもよかった。

「…………」

トリホーは、口を開かない。ただ凛を、黙してじっと観察しているだけだ。
つまり、この問いかけには答える気はない。それを悟った凛は、ふう、と溜息を吐く。

「いいわ、じゃあ質問を変える。これをわたしに……じゃないわね。のび太に渡す理由は?」
「成る程。ふむ、そうですな……」

考えを纏めるように、トリホーは上を向く。
しかし、五秒も経たずに視線を元に戻すと、腰の後ろに回していた右手を前に出し、ぴっとその人差し指を立てた。

「いくつかあるのですが……ま、一言にまとめるとするならば、『救済措置』と言うべきでしょうかな」
「救済……措置?」
「左様」

重大さを感じさせぬ軽い雰囲気が、トリホーを取り巻いている。だがその言葉の中身は、それに反し重い。
トリホーは、やはり間延びした口調のまま、凛に対し宣告をする。
その時、凛は背骨に氷柱を突っ込まれたような心地となった。



「――――その名を『死因固定(アンデッド・コード)』。大帝の曰くから来るこの宝具を打ち破らぬ限り、アナタ方に勝利の目はないのですからな」







[28951] 第五十一話
Name: 青空の木陰◆c9254621 ID:90f856d7
Date: 2016/01/16 19:49





 凛とトリホー。
 相対するふたりの表情は、まさに対照的であった。
 かたや凪いだ海のようなへらりとした笑顔、かたや緊張感の漲ったしかめっ面。
 どちらがどちらかは、言うまでもない。

「『死因固定(アンデッド・コード)』……ね」
「左様。その内容は……ホッホ。言わずとも、予想がつくのではありませんかな」

 そこで凛は唇は閉ざす。動く気配はない。
 まさに、そのものずばりであった。
 オドロームについては、既にのび太より聞き知っている。
 魔に精通した才媛である彼女の推測は、限りなく真実に近づいていた。
 だからこそ、解せない。
 この初老の男は、いったいどういう意図で凛と接触し、切り札とも言えるブツを引き渡したのか。

「そうね……けど、どういうつもりなの、アナタ」
「おや、なにか不都合でも?」
「いいえ。不都合どころか渡りに船よ。このブツがなければ、こっちは『詰み』だったんだから……だからこそ、よ」
「はて」
「ご都合主義も時と場合によるわ。こんなあっさり切り札がくるなんて。この戦い、いいえ、この聖杯戦争すべてが『ダレカ』の掌の上みたいで、気持ちが悪いったら」

 凛の舌鋒は鋭く、刺すような視線も相まって、さながら閻魔の尋問にも感じられる。
 だが、被告たる老人はどこ吹く風。剣呑な雰囲気に中てられても、張り付けた微笑は小揺るぎもしない。
 むしろ、鼻歌でも歌い出しそうな余裕すら滲み出ている。

「破格のお膳立て、おまけに『救済措置』ときた。そこを隠す気もないって、陰謀家としてはともかく演出家としては三流ね。ある意味、仕事を投げてるもの。おたくの後ろの黒幕」

 しかし、凛の言葉はそれ以上続かなかった。
 突如として、脳天から突き抜けるような高笑いが老人から響き渡った。

「――――ホーッホッホッホ! いやいやいや、結構、結構!」
「……なによ」
「仮にもまとめ役なだけはありますな。勘鋭く、気も回る。今の口ぶりでは、その黒幕とやらの見当も付いておられるのでは?」

 まるで見透かしているような言いように、凛の片眉が跳ね上がる。
 が、その熱された感情を瞬時に冷まし、努めて平静を保った。
 強靭な自制心は、凛の長所のひとつ。とりわけ、危機的な状況においてはそれが顕著に出る。

「……アナタに言う必要があるとでも?」
「ホッホゥ、ごもっとも。しかし、その返答だけで答えは解るというものですな」
「言ってなさい」

 従者さながらの冷徹然とした鉄仮面となり、凛はトリホーの言をいなす。
 想像する分には好きにさせるが、必要以上の情報を出すつもりは彼女にはなかった。
 すげなくされても、気分を害した風もなく、上機嫌にトリホーはもう一度、笑い声を上げる。

「ホッホッホ。それではその才覚に敬意を表して、少しだけお答えいたしましょうかな」
「なにをよ」
「貴女にお渡ししたそれはですな、大帝が存在するためには外せぬ条件なのです。つまり、大帝が現れたとなれば、コレも必ず姿を現す」
「……同時存在が義務付けられてる、って訳?」
「まあ、光と闇の関係のようなものですな。光あらばそこには闇もまた存する、と」

 陰陽の関係か。凛はそう解釈した。
 磁石のS極とN極などといった、プラスとマイナスの概念はどこにでもあり得る。
 一方だけでは存在し得ない。必ず対となる存在と同時に存して初めて意味を成す。
 眉間の皺が一層険しくなった凛へ、トリホーはホッホとまた、笑ってみせた。
 そうしてそのまま、自然な動作で彼の両足先はくるりと百八十度、方向転換する。

「とりあえず、このトリホーめからはここまで。あとは」

 踵を返し、凛に背を向けたまま、トリホーの声が朗々と響く。
 警戒心から、老人が動いても彼女は軽挙を慎んだが、続く言葉にその膝がぴくりと、意思に反して震えを見せた。



「――――いずれ来る『使者』にでも、お尋ねになる事ですな」



 その言が凛の脳髄に浸透するのに、たっぷり三秒はかかった。
 予想の端にもなかった、不意打ちであった。

「……使者?」
「左様。貴女の言う、黒幕からの」
「いつ、どこで」
「それよりも、まずはこの逆境に立ち向かいなされ。乗り越えられなければ、それ以前の問題ですぞ」
「アナタは使者じゃないの?」
「ホーッホッホ、とんでもない。せいぜい、子どものお使いといったところですな」

 アンタ、ジジイじゃないの。凛は心の中でツッコミを入れた。
 既に、凛の頭は切り替えられている。今はこのジジイよりも、上の修羅場を切り抜ける事が重要だと。
 洒落を飛ばしたこの胡散臭い老人に気づかされたのは癪ではあったが、そんな些事で本質を見誤ったりはしない。
 足音も静かに、闇の向こう側へ歩いていくトリホーに鋭く視線を突き刺したまま、凛はポケットへと手をやる。
 帰還のための道具は、ここにある。

「それではこれで……と、そうそう。もう一点」
「なに」

 闇と一体化しようとしていたトリホーが、ふと立ち止まると首のみを動かし、凛に振り返る。
 そして。

「ここに落ちて来られた時、対衝撃の魔術と一緒に今しがた握ったそのポケットのものを使っておれば、あるいは脚の痺れに呻く事もなかったでしょうな」

 ホーッホッホ。
 さざ波のような笑いの余韻を残して、今度こそトリホーは闇の中へと沈み、姿を消した。
 しんとした闇の静寂が、再び空間を覆っていく。

「…………」

 笑いの残滓も綺麗に消え去り、後に残された凛の表情はというと、険しかったそれから一変、大皿一杯の苦虫を口に流し込まれたような渋いものへと変移していた。
 感情で本質を見誤らない一方、肝心なところでポカをやらかし、損をしてしまう。
 連綿と続く、遠坂の家系に見られる特徴であった。

「言ってくれるじゃない、クソジジイ」

 寸鉄人を刺す。不意の一撃な分、余計に痛烈である。
 上下の歯をきりきり鳴らし、今にも地団駄を踏みそうな形相で、凛は地面の石ころを思い切り蹴飛ばした。
 からんからんと乾いた音が木霊する中、凛の手には黄色い竹とんぼのようなブツが。

「だいたい、慣れ親しんだ方に意識が行くのが普通じゃないのよ。学校でもこうしたんだし……街の偵察の時だって。腰も性根もひん曲がったのっぺりジジイに言われる筋合はないっての」

 ぶちぶち呪詛じみた言葉を呟きながら、ポケットから出したそれを頭へと取り付け、地面から直立したままの贈り物を引っ掴み、次いで力任せに引っこ抜いた。
 手つきが丁重でなくやや乱暴なのは、抉られた内心をリカバーしきれていないせいか。

「……ふーっ、はあっ」

 内に篭った負の念を、その深い一息にまとめて全部吐き出して、凛は気合を身体中に漲らせる。
 先にも言ったが、いかに機械オンチの凛でも、我が家の電灯と同じスイッチ一つの操作であれば、持て余す事もない。
 起動後の体勢維持や重心移動も、練習ですぐに順応した士郎に出来て、凛に出来ない訳もない。
 士郎よりも、その辺りは格段に恵まれている。

「待ってなさいよ」

 凛の膝が畳まれたかと思うと、次の瞬間には勢いよく伸ばされた。同時にローターが唸りを上げて回転を始める。
 跳躍し、そのまま宙に浮いた凛は、そのまま天井の空洞を目指す。
 切り札を手に、再びリングに舞い戻るために。





「……はっ、はっ、はあっ、はっ、はぁーっ」

 静謐だった柳洞寺境内は、荒れ寺のそれと変わらなかった。
 整然と敷かれた石畳はひび割れ、飛び散り、鋭利な玉砂利と化している。
 据え置かれた石灯籠も瓦礫へと姿を変え、周りを囲む植え込みに至っては軒並み引き毟られたような有り様で。

「はーっ……ふん。手間を、かけさせてくれた」

 爆撃機が去った後のよう。
 冷たい風に粉塵が舞い散り、大小問わずクレーターがそこかしこに築かれた只中に、赤い影があった。
 靡く真紅の外套は裾がささらのように千切れ飛び、右側と左側で長さが異なっている。
 かき上げていた白髪はほどけ、ばらりとざんばらに広がって、戦士の容貌から青年の様相へと、男の印象を変えている。
 膝を折り、荒げた息を整えながら、男は険しい目つきで一点を睨みつけていた。

『ぐ……ごっ、かはっ。ふぅ、ふぅ……ふふ、よくっ、やる』

 そこには、人型の標本があった。
 否、標本と呼ぶに相応しい有り様のモノがあった、というべきか。

『ここは、ゴルゴダの……丘では、ないぞ。が、かふっ』
「キリストを気取るな、ミュータント……殊更意図した訳ではないが、貴様にはもったいなかったな」

 地面に大の字に転がされた人影。
 掌と足首を四つの剣によって貫かれ、大地に縫い留められていた。
 虫ピン代わりの剣は、あの螺旋に捩れた剣である。
 磔にされたイエスのように両手両足が拘束され、さらについでとばかりに、鳩尾にも螺旋の剣が深々と突き刺さっていた。
 都合五つの大きな傷口から、止め処なく赤黒い液体が滴り落ち、人影の周囲は赤い泉と化していた。

『か、ひゅううっ……ごぼっ、ぐ、しかし、だっクク……この身をここまで追い込んだ代償は、存外大きかったようだな』
「……どうかな」
『クク、表情を消したところで、満身創痍は隠せんな』

 腹に大穴を開けられているにも拘らず、赤銅の髪をした人影の唇が不気味に吊り上がる。
 少年の面差しでありながら、雰囲気はひたすらに陰惨かつ粘質で、顔全体に幾筋も走る血管のようなラインが怖気を醸し出す。
 男の吐き捨てた『ミュータント』という蔑称が、的確にその人影の印象を表している。
 ぐじゅぐじゅと、人影の身体の各所から薄気味悪い音が立つ傍らで、赤い男の唇の端から、一筋の真っ赤な液体が滴り落ちた。

「この程度……英霊には、軽微な損害でしかない」
『強がるな。腹に剣を突き通されて、ただで済む者などまずいない』
「…………」
『詰めを誤ったな、ふふふふ』

 ぎり、と男……アーチャーの口から、歯の擦れ合う硬質な音が漏れた。
 弓兵の苛烈な攻勢によって四肢と腹に凶悪な楔を打ち込まれながらも、ミュータントことアンゴルモアは一矢報いていた。
 漆黒の軽鎧を貫いて、抜き身の剣が一振り、弓兵の臍の辺りに鍔をめり込ませ、そのまま背中へ一直線に伸びていた。

『残心が甘い。剣を打ち込めて、気が緩んだか? お互いの手の内がそっくり解っているからこそ』
「『気を抜くべきではなかったな。だから最後の最後で噛み付かれるのだ』……そう言いたいのか」
『クック、的確な代弁だ』

 白刃が冴え冴えと冷たく輝き、男の血潮に塗れながらも存在を誇示する。
 ここまでやられれば、普通の人間なら死に体である。
 人霊から昇華した英霊だからこそ、大怪我で済んでいるのだ。霊的急所である霊核を破壊されない限り、英霊は外傷で易々とは死なない。

「……ち」

 だが、その点に関してはアーチャーの関心事とはならなかった。
 たしかにここまで強烈なダメージを負ったのは痛い。修復が追いつかない損傷は、後々に大きく響いてくるがそれはそれ。
 彼の最大の懸念は、別にあった。

『――――さて、どうする弓兵。奮戦し、目標こそ達成したが勝敗はつかず。ある意味振り出しに戻ったぞ』
「…………」
『いや、膠着状態に陥った、というべきかな』

 アーチャーの唇が、ぎっと強く真一文字に引き結ばれる。
 皮肉の色の交じったアンゴルモアの言葉は、的確であった。
 アーチャーが猛攻を仕掛けた目的は、アンゴルモアの完璧なる拘束。再三言うが、士郎の身体を乗っ取った以上、肉体を滅するのは厳禁となる。
 ならば、多少手荒でも完膚なきまでに自由を奪うしかない。幸い、敵には問答無用の自己再生能力があるので、強引に行ってもある程度の融通は利く。
 秘奥を除けば、切れる手札をほぼ使い切るような怒涛の攻めを、アーチャーは敢行した。
 しかし、アンゴルモアの応戦も凄まじく、お互いが切り結ぶ鉄の嵐が吹き荒れた結果、境内は崩落の憂き目を見た。
 その犠牲を踏み越え、最終的にアーチャーは拘束に成功した。
 螺旋剣で釘打ちし、動きを完全に封じた。そして、アーチャーはこれまでの戦闘で、幾度も螺旋剣を破裂させている。
 鎖で雁字搦めにお縄にし、さらにダイナマイトを何重にも巻きつけたにも等しい。
 妙なマネをすればドカン。ブラフに近い手だが、お互いに手の内を知っているからこそ効く保険だった。
 そう、『だった』のだ。アンゴルモアのカウンターが、彼の計画に誤算を齎した。

『この体たらく。これでは両者がダイナマイトを身体に巻いて、お互いが相手の起爆スイッチを握り合っているようなものだ。不毛も不毛』
「……ふん」

 窮鼠の一撃が、彼の計画に誤算を齎した。
 アーチャーの腹を突き抜けて刺し込まれた長剣。それが、すべてを狂わせた。
 アーチャーと、士郎に憑り付いたアンゴルモアの力は“同質”。アンゴルモアの言葉の通り、不毛な状況を作り出してしまった。
 これ以上の干渉は不可能。両者とも剣を身体に貼り付けたまま、座するしかなかった。

『せめて、その剣が呪われた業物ではない事に感謝するといい。ククク』
「爆弾に……感謝もくそもあるか、ミュータント」

 余裕が含まれた声のアンゴルモアに対し、アーチャーの声には張りがない。
 サーヴァントにも魔力によるごり押しの自己再生能力があるが、アンゴルモアほど強力なものではない。
 戦闘不能にこそなっていないものの、腹に喰らった長剣のダメージは、思う以上に深刻であった。
 延々と続く、敵の含み笑いが次第に耳障りとなっていく。
 彼の中で、焦燥が露わになり始めていた。

『さて、このままおしゃべりも悪くはないが、無駄に時間を食い潰す訳にもいかんというのもまた事実』
「…………」
『地下では、さぞや大騒動が巻き起こっているだろうしな』
「地下……?」
『この地には様々な物がある。魔術師の英霊が築いた神殿やら、聖杯戦争の根幹に係わる物やら。もう一方のパーティー会場は』
「前者、か」

 アンゴルモアが、クククと不気味に笑った。
 アーチャーの中の焦燥が増す。精力を込めた鉄面皮だけはそのままに。

「意外、だな」
『それは、なぜそんな事を知っているのか、か? それとも、そんな事を明かしていいのか、か?』
「両方だ」
『だろうな。しかし、その質問にたいした意味はない』
「ふん……そうか」

 そこで、アーチャーは気づいた。
 彼らは共闘関係にはなく、独立した別個の勢力という事に。
 変異させた大元の『オヤ』は同じでも、互いの意思疎通や連携はない。だからこそ、ここまであけすけなのだ。
 自分に悪影響がない限りは、多少饒舌になっても気にしない。アンゴルモアにとって、地下のモノは敵の敵で第三勢力、程度の認識なのだろう。
 敵が協同でカサに掛かって攻め立ててくる、という最悪の想定が崩れたのは儲けものだが、意識的か無意識か、それを匂わせたという事は、つまりアンゴルモアの余裕の裏返しとも言えた。
 綱渡りの均衡状態にあって、なお余裕を保てる。アーチャーの中で、疑念と警戒心が膨れ上がると同時、薄ら寒い予感が頭から離れない。
 すなわち……アンゴルモアが士郎の肉体への執着をなくしているのでは、という予感が。
 士郎の肉体は、元々拾い物。多少の執着心こそあれ、劣勢下ならそれも捨ててしまえる程度のものだろうと彼は推測していた。

「…………」

 この消耗著しい身体でいけるのかどうか。逡巡しかけるも、猶予は既にない。
 魔力を回し、最低限の自己治癒を急かしながら、アーチャーは最後の手段を使うべきかを、刹那で思考していた。
 最後の手段は己の秘奥でこそないが、それ以上にある程度の準備時間と多大な集中力、そして体力・魔力の大幅な消耗を強いる。
 魔力枯渇による自己の消滅すら、視野を掠めるほどに。
 また、目的を成すにはアンゴルモアにもう一度、接近する必要がある。これだけでも支払うリスクは高い。

『惜しいな』
「……なに?」

 アンゴルモアの口調に、ちりちりときな臭いものが混じる。
 僅かでも時間を稼ぐべく、アーチャーは大仰に眉を跳ね上げた。

「なにが惜しいというのだ、ミュータント」
『ああ、言葉が足らなかったようだな。この愉悦の止まらない戦場が、ご破算になってしまうのがな』

 疑念が、確信に染まっていく。
 アーチャーの体内で回される魔力がスピードを増し、彼の内奥でカードが切られる。
 魔術回路が焼き切れそうなほどに唸りを上げ、切り札を形にしようと魔力が収束していく。
 火花を盛大に噴き上げ、身の内をじりじり焼き焦がしながら、札の雛形が作り上げられる。
 無論、貼り付けた鉄面皮がそれを欠片も表に出す事はない。
 余勢を駆って身体から立ち上るはずの魔力の気配も、その身に押し込んでは漏らさない。

『なかなかに、この肉体も悪くなかった。すぐにそちらがボロ雑巾にしてくれたが』
「……ボロ雑巾になった端から復元するミュータントが笑わせる」

 この言葉でほぼ確定と断じ、アーチャーの路線が完全に切り替えられた。
 向こうが行動を起こして切り捨て終わる前に、最終手段を叩き込まねばならない。

『フフ、さて』

 オーバーヒート寸前の魔力回路をさらに叱咤し、札を雛形から具体的なモノへと成形していく。
 同時進行で状況計算、仮に相手が先んじて腹の爆弾を炸裂させても、即座に死ぬ事はないと、アーチャーは見ていた。
 爆弾も結局は“魔力暴走による力業”でしかない以上、彼にある『対魔力』のクラススキルが、ダメージを軽減してくれる。
 Dランクという、セイバーやライダーに比べれば非力なものだが、それでもバリアがあるとないとでは大違いだ。
 消耗こそあれ、腹の他には目立った外傷がないというのも大きい。炸裂による二次被害によって、四肢が千切れ飛ぶリスクが小さいからだ。
 懸念は、魔力リソースを札に大幅に割いている中、残りの魔力を腹に回してどこまで爆発の威力を抑え込めるか。それにかかっている。
 なにも対応しなければ、もれなく上半身下半身は泣き別れ。かといって、過剰にそちらに魔力を回したりすれば、札の精度ががくりと落ちてしまう。
 タイミングを外すのも駄目。残り少ない魔力を、炸裂の一瞬を読み切ってピンポイントで運用しなければ、その後の接敵行動が覚束なくなる。
 予想の斜め上を行く事態だったとはいえ、とことんまで不利な条件下に晒されたこの戦局は、アーチャーの戦術に重い縛りを掛けた。
 それでも、足掻くしかないのだ。たとえ捨て身の博打を張る事になったとしても。
 その行動が敵の言葉の通り、どれほど皮肉に塗れていようとも。

『――――消えろ』

 唐突に冷たく吐かれた、敵の声。

「はッ!」

 その言葉が届くか届かないかのうちに、アーチャーは駆け出していた。
 次いで。

「――――う、っぐぶ!?」

 彼の口から血塊が爆ぜる。
 腹に突き立っていた剣が破裂し、炸裂弾のような閃光を撒き散らした。
 ボディアーマーが千々に砕け、彼の身体の中央に向こう側が拝めるほどの穴が開いている。だが、それでも身体は泣き別れにはなっておらず、五体は保たれていた。
 剣の一瞬の震えを察知し、間一髪で魔力を回して抑え込んだのだ。
 幾多の戦闘経験に裏打ちされた、彼の『心眼』が命を拾わせた。
 夥しい血潮を盛大に飛び散らせ、たたらを踏みながらも、踏み込み苛烈にアーチャーはアンゴルモアへと迫る。
 速度は落ちず、あっという間に彼我の差は数メートルもなくなった。
 有効射程距離に敵を捉え、歯を食い縛ったままアーチャーの右手が突き出される。
 その、刹那であった。

『甘いぞぉ!』

 ぐりん、と唯一縫い付けられていないアンゴルモアの首が動いた。
 空を見上げる格好だったそれが、百八十度どころか三百六十度捩れて、迫ったアーチャーに正対する。
 人間の可動域をはるかに上回る挙動を果たしたそれには、見る者に怖気を齎す三日月に歪んだ唇が貼り付いていた。

「ぐぅ!?」
『頂くぞ、その肉体をぉおオ!』

 途端、その口ががっぱりと大きく開かれ、奥から緑色の粘体が噴水のように吐き出される。
 それがアンゴルモアの本体だと悟った時には、アーチャーの眼前に緑の壁が出来上がっていた。
 多大なダメージで体力的にも魔術的にも耐久力が下がっている今、憑かれるに壁はないに等しい。

「――――っちぃ!」

 刹那、彼の心眼が訴える。ここから数瞬の間になにも出来なければ、衛宮士郎の命は尽きると。
 アンゴルモアが飛び出したという事は、肉体の超速再生がなくなるという事。
 復元されていたとしても、身体の五箇所を串刺しにされているのに変わりはないので、ショック死は免れない。
 しかし、これは彼にとって、ある意味ハイリスク・ハイリターンの好機とも取れた。
 あとは間に合うか、間に合わないか。決断と出足の速さがすべてを決める。

「勝負ッ!!」

 鈍色の瞳が気勢を放つ。
 あらゆる衝動をこの一言に込め、アーチャーは切り札を解き放たんとして。

「――――ん!?」

 突如として、縫い付けたようにその動きが止まる。
 そして。



『ん、ダどぉオおあぁアあアア゛ッ!?』



 ヘドロのような断末魔と共に、士郎の肉体から剣がすべて弾け飛び、黄金色の光が爆ぜた。








[28951] 第五十二話
Name: 青空の木陰◆c9254621 ID:4fb4bc96
Date: 2016/03/13 15:11






 ――――彼は理想に殉じた尊き者であり、そして理想の果ての絶望に至った愚か者であった。



 彼は走った。走り続けた。
 どこかで泣いている誰かを救いたい、と。その涙を止め、笑顔を齎したい、と。
 子どもが一度は憧れるだろう英雄(ヒーロー)。先立った者より受け継ぎ、胸に抱いた原風景を彼は己の手で形にしようとした。
 そのために、彼は力を振るった。理不尽に傷つく、何処とも知れぬ者達のため、彼の持つ秘奥を惜しげもなく開陳し駆け抜けた。
 その事を快く思わぬ者達から襲われる事も度々あったが、彼はその魔手から悉く逃れてきた。
 見返りも、感謝も、同情も、彼は欲しなかった。
 目的を果たすために、たとえ人から疎まれようが、利用されようが、彼にとっては些事でしかない。
 愚直に邁進する彼を、多くの人々は畏敬や感心よりも、むしろ奇異の目で見ていた。あるいは、人によっては不気味に映ったかもしれない。
 すべては救うべき者、救われるべき者の救済のために。たったひとりの旅路、どれほどの苦境に陥ろうと、彼の命題はいささかもぶれる事はなかった。
 だが、彼は万物を司る神ではない。救えぬ者もいた。かけがえのないものを奪われ、悲嘆に暮れる者の姿を、何度となく見てきた。
 その度、彼は己の非力さを呪い、次こそは救ってみせると心に刻んだ。形のない心から血が滲み出すほどに、幾度も、幾度も。

「……だから、アイツは死後を“世界”に委ねた」

 ある時、ありふれた悲劇によって生み出された被害者が、百人ほどいた。
 老若男女の別問わず。共通項は、不運であり、また理不尽に抗う力なき事のみ。
 死屍累々たる亡骸の丘の只中、彼は揺らぎない瞳で天を仰ぎ、そして告げた。

『――――我が死後を委ねる。その報酬を、ここに貰い受けたい』

 名も知らぬ屍をその腕に抱き、彼は死した後の自分を“世界”に売り渡した。
 そこに躊躇いなど、微塵もない。あっさりと、ホテルのボーイにチップを差し出すように。
 “世界”からの報酬の前借りによって、奇跡は起こる。亡骸の丘は生者の立つ丘となり、彼は、百人の命を救った。
 そして、引き換えに彼はその死後を、“世界”に委ねる事となった。
 魔の道において、奇跡はただでは起こらない。縋るとなれば、それ相応の対価が必要となる。
 すなわち『等価交換』。それが、この“世界”の神秘の理であり、また成り立ちの根幹でもあった。
 己の死後を売り渡すなどまずもって狂気の沙汰としか言えない所業だが、彼はその事を一切後悔していなかった。
 世界と契約した者は“守護者”と呼ばれ、なんらかの要因で人類が滅びの危機に直面した時、現世に現れその抑止力となる。
 彼はこう考えたのだ。“守護者”となれば、今よりももっと多くの人々を救えると。
 “守護者”となった人間は、“世界”からのバックアップを受け、人間よりも上位の存在『精霊』へと昇華する。
 力及ばず救えなかった者達を思い、彼は欲した。今の自分をより高みへ登らせる力を。
 そしていつしか周囲に人はなく、孤高の者となった彼は旅路の果てに露と消え、“世界”の走狗となった。その希望の先に見る結末を、知る由もなく。

「……浅はかな。“守護者”など、所詮は始末屋でしかない狗よ」

 彼の見たものは、地獄だった。
 “守護者”とは、早い話が“世界”の暴力装置。
 ヒトによって齎される人類存亡の危機を、この世で最も手っ取り早い方法を以て強引に解決する。
 すなわち、要因となる関係者すべての抹消。皆殺しだ。
 そこに救うべき者、救われるべき者などといったものの考慮は皆無。九十九を救うため、一を切り捨て続ける役割の連続であった。
 百すべてを救う事、存命時には叶わず。死後こそはと“守護者”になったはずが、常に己の手で救われぬ者を生み出し続けなければならない。これで心が保てようか。
 “守護者”には自由などなかった。ただ“世界”のために、傀儡として仕事を完遂する。
 正義も倫理も矜持すらも、現世に降臨した際の彼には何一つとして持ち得なかった。
 救いたいと願った者達の涙と血を、いったいどれほど見せつけられただろう。やがて、彼は磨耗していった。
 次こそは、次こそはと誓っても、延々と背負わされる始末屋稼業。
 幾星霜の果て、抱いた理想は擦り切れた。彼の夢は残骸へと堕ち、彼自身はくたびれ果てたガラクタと化した。
 そんな彼に残されたものは、たったひとつの真実と目的だけ。
 彼を彼たらしめる、その身に宿した象徴と、そして。

「――――理想を追いかけていた、かつての『自分』に対しての“憎しみ”」

 地獄の底から湧き出すような暗い執念を鉄面皮で覆い隠し、彼はこの世に顕現した。
 ついに、その憎悪の宛先に辿り着いた、途方もない歓喜を内心で爆発させて。






 HDDにデータを読ませるような、じりじりという音が頭の中で反響している。
 死闘の情景と共に、脳裏に刻み込まれる回顧録。いつか男が辿った軌跡と、その魂の奥底に封じられた心の絶叫。
 なぜそんなものが見えるのか、聞こえるのか、解るのか。不可思議な闇の中での、その追求は無意味に等しく、捨て置かれ。
 ふたりの脚は留まる事なく。
 ただ只管に、止めようもなく頭に刷り込まれる『記録』の判読に耽っていた。

「……そうか。そういう事だったのか」
「――――くっくっ」

 道程定まらぬ旅を始めて多少の時が経ったが、今なお、暗夜よりもなお暗い漆黒の空間を往く道すがら。
 闇の先にただひとつだけ灯された北極星は消えておらず、黙々と足跡を残す最中、片時もそこから視線を外さなかった。
 この訳の解らない暗闇に囚われた今、その光は暗夜の灯台にも等しい。
 すべてを呑み込んだ士郎の表情は、神妙そのもの。対する小次郎は、やはり常のものと似た、意味深長な含み笑いを浮かべていた。
 士郎の眉が怪訝に歪む。

「なんだよ、小次郎」
「くく、いやなに。なかなかに愉快な人生を歩んだものだと思ったまでよ」
「皮肉か」
「解釈は自由にすればよい……さて童よ」
「なんだ?」
「今のを見て、どう感じた」

 小次郎の問いは、士郎の脚の速度を僅かに落とさせた。
 小次郎の笑みがゆっくりと深まっていく。

「どう、って」
「思ったままを言えばよい」
「……そう、だな」

 促された士郎は、徐に足元へと視線を落とす。
 しばらく沈思していたが、やがて顔を上げると、こんな答えを呟いた。

「――――アイツの抱いた理想は、間違ってない」
「…………」

 耳にした一瞬、小次郎の表情は不意打ちを喰らったように、目が点となっていた。
 だがそれもすぐに消え、ふん、と鼻を鳴らして元の薄笑いへと戻る。

「ほう。それはまた……くっく」
「笑うなよ」
「別段、馬鹿にしておる訳ではない。しかし、意外ではあった」
「……別に。今でも虫が好かないよ、アイツは。でも」

 歩みは止めず、しかし眩しそうに目を細めて、士郎は続けた。

「夢に向かって走り続けたアイツを非難なんて、そんな事は出来ないし、したくない。特に、今の俺にはその資格すらない。そう思ってる」
「青臭い事を……が、まあよかろう」

 真摯な眼差しで告げた士郎に、小次郎は再度鼻を鳴らした。
 すると、今度は士郎が小次郎へ視線をぶつける。

「お前は」
「うん?」
「お前はどう思うんだ」

 まさか問い返してくると思わなかったのか、小次郎の目が再度点となる。
 だが、今度は笑うでもなく、組んでいた手を顎へとやり、しばしの黙考を始めた。
 じっと士郎がその様を窺っていると、ややもして小次郎は手を元へと戻し、一言、こう呟いた。

「――――矛盾、よな」
「……矛盾?」
「うむ」

 小次郎の言に、士郎は首を捻った。

「人の救済に身を捧ぐ。私自身はそんな酔狂に微塵の関心も湧かんが、それ自体を否定はせん。だが、奴はある種の勘違いをしているように映った」
「勘違い、って」
「そも、人を救うのに武力など絶対的に必要なものとは思わん」
「……どういう、意味だよ」

 掴みきれないのか、士郎の眉間にきゅっと皺が寄る。
 そんな彼に、首を横に振りつつまあ聞け、と前置きし、小次郎は語り出した。

「私の生きた時世の事は知っていよう」
「あ、ああ。たしか『佐々木小次郎』は関ヶ原の後くらいの剣客だよな」

 漠然とした範囲だが、おおよそ間違ってはいない。
 うむ、と小次郎は頷いた。

「偶然、かどうかは定かではないが。『佐々木小次郎』の役を担うこの『私』もまた、同じ頃に生を受けた」
「へえ」
「その頃は、今生の静かで華やかな日ノ本とは雲泥の差よ。大乱こそ鎮まれど、下々の暮らし向きは取り立てて上向く事もなく。村の一歩外に出れば、凶賊まがいの夜盗や牢人(ろうにん)が跋扈する」
「…………」

 大きな戦が終わると、それまで必要とされた過大な武力は要らなくなる。
 世が平穏を取り戻すにつれ、兵は最低限を残しつつ、無駄飯食いを減らして軍費節約、という行動へ移るのが出来る施政者の基本方針となる。
 結果、雑兵……足軽や半農半武士といった下級戦力は放逐され、生活の立ち行かなくなったそれらが犯罪に手を染め、治安悪化の一因となった。
 秀吉の朝鮮出兵も、一説には大乱なき後の行き場のない牢人を朝鮮へ押しやり、治安と雇用を一度に解決する。そういう一面もあったとされている。
 戦いが終われば、平和が来る訳ではない。事後処理や後始末まで完了して、やっとその下地が出来るのである。

「中でも酸鼻を極めたのは……さて、なんだと思う」
「……ん、一家皆殺しとか、略奪とか?」

 牢人云々の前振りがあったからか、ちょっと考えて士郎はそんな結論を出す。
 だが。

「否」

 間、髪を入れず、侍はそれを否定した。
 眉根を寄せる士郎に、『1+1=2である』と当たり前の事を口にするように小次郎は解答を告げた。



「――――『飢え』よ」



 端的であるがゆえに明朗な一言。
 聞いた途端、士郎の表情は渋いものへと変わり、同時に彼の手が胃の辺りを摩り出した。

「……飢饉、か」
「左様さ」

 当時の時代背景にはある意味付き物の、天よりの不幸とも呼べるもの。
 士郎の出した訂正回答に、小次郎は唇を三日月にして首肯した。

「燕を斬らんと剣に狂ったが、元を正せば『私』はとある農村で生まれ、百姓の倅として育った」
「そ、そうなのか? 意外だった」

 これだけ風雅な格好と垢抜けた風情の侍が、農民出とは誰も思うまい。
 外見と内情がここまで噛み合っていない人間も珍しい。士郎の顔は純粋に驚きに満ちていた。

「剣に見入られ故郷を出で、時には諸国を経巡り、ひたすらこの備中青江を振るっておった。幸い、縁にも恵まれ食うには困らなんだが……幼少の頃に一度、故郷が凶作に見舞われた事があった」
「凶作……」
「……あの臓腑を根こそぎ抜き取られるかの如きひもじさは、今となっても忘れられんな」

 時の彼方を見るように、小次郎は遠い目をする。士郎は声をかけられないでいた。
 飽食を極めているこの現代日本において、凶作こそ時たまあれどその結果、飢餓に苛まれるという事はまずない。
 士郎も、その例外ではなかった。ゆえに、究極の飢餓に喘ぐという事を想像こそ出来ても、共感するまでは至れない。
 戦時下を生きた者であれば、また違ったであろう。

「僅かに実った雑穀を粥よりもさらにのばして食い、足りなければ山へ赴き、命懸けで痩せた野草や木の実を採っては齧る。それでも満たされねば壁土の藁や木の皮までも口にした」
「そ、そんなものまで?」
「毒でさえなければ、なんでもよかったのだ。人とて畜生、食わねば死ぬのみ。腹が満ちるのならば、たとえ人の食うものではなかろうが、構わず食らう。それが『飢える』という事よ」

 凄絶なる飢餓に浸った者の言葉は、ひたすらに重く士郎の内に圧し掛かってくる。
 しかし、小次郎の口が生み出す語りは、まだ終わりを見せない。

「だが飢えた者の中では、『私』や郷里の者はまだ恵まれていた方よな。“堕ちずに済んだ”ゆえに」
「え? それって、どういう」
「さて……ふむ。『私』がいつか、旅の空で聞いた話だ。ある年、大凶作に見舞われた国があった」

 悪天候が続いた事が原因で、常の半分にも満たない量しか収穫がなく、貴賎を問わず多くの餓死者が出たらしい。そう小次郎は語る。
 士郎は、黙する聴衆と化している。そんな中でも、ふたりの両脚は一定のリズムでの挙動を維持していた。

「しかし、そのような状況の中、比較的飢え死んだ者の少ない村があった。官吏がそれを調べに赴いたところ、それぞれの家に大きな甕(かめ)が置いてあったそうだ」
「か、甕?」
「うむ。塩漬けの入った大きな甕よ」
「凶作で食うものもろくにないはずなのに、なんで塩漬けなんか……備蓄でもしてたのか」
「人肉よ」

 何気なく呟かれた小次郎の回答。
 士郎の表情が凍りついた。

「じっ……!?」
「人の身体ともなれば結構な肉の量がある。飢えが極まり屍となった者や、口減らしで間引いた童子。それらを引き裂き、腹に詰め込んで糊口を凌いだところで余った分を塩に漬け込み、蓄える。生への執念のあまり、餓鬼道に堕ちざるを得なかったのよ」
「…………」
「まあ、この手の話は我らの世では枚挙に暇がない。たとえば、かの太閤秀吉は『干し殺し』や『兵糧攻め』と呼ばれる手で城を落とすのを得手としていたそうだが、やられた方は堪ったものではなかったろう。糧食尽きて井戸は枯れ、騎馬は殺して喰い尽くし、果てには……くく、聞けば人の部位では脳髄が最も美味だったそうな」

 士郎は言葉も出なかった。
 人肉を食すなど、陰惨極まる鬼畜の所業である。
 衣食足りて礼節を知る。逆を言えば、衣食が足りなければ礼節は成り立たず、人は獣となり共食いをしてまで命を繋ごうとする。
 人間の三大欲求と呼ばれる食欲、睡眠欲、性欲。それらは個として、種として命脈を繋ぐために必要な本能である。
 しかし、それらが満たされなければ人は、鎖の切れた猛獣と化す。特に個の命に直結する食欲については。

「色事や、眠る事は己のみでどうとも都合がつけられよう。しかし、食う事だけはそうもいかん」
「……そう、だな。どうしたって周りの環境に左右されちまう」
「他はいざ知らず。だが少なくとも『飢え』についてのみは、人にとっての絶対悪として不都合はなかろう。私に言わせれば、人を救うなど飢えに喘ぐ者に握り飯のひとつでも差し出してやれば、それだけで事足りる」
「…………」

 きしきし、と。
 不意に士郎の身体の中で、金属が擦れ合うような、そんな音が響いた。
 そんな気がした。

「だが、あれはそうせなんだ。己が力を振るう事によって悪を排除し、人を救わんとした。それしか能がないのだと言わんばかりにな」

 士郎と彼が抱えるものは、ある意味で同質。
 伝えられた回顧録が、未熟者の小さく錆付いた扉をこじ開けたのかもしれない。
 それだけの破壊力が回顧録にはあった。開陳された中身に、士郎が盛大に揺さぶられたのは事実。
 そして、引鉄となったのは、この今述べられている侍の持論なのだろう。

「どれほど崇高な理念に基づき、剣を振るおうが所詮、剣は人を殺めるためのもの。他人を救わんがため、その手で別の他人を傷つける。矛盾極まるそこに行き着くのに、さして時間はかかるまい」
「……ん」
「もっとも、そうせねば救えぬ者がいる事もまた真理ではあろうがそれはそれ。その状況に陥る以前に手を打たねばならんというだけの話。であれば、単なる武よりもむしろ別の力が必要とされる」

 ぎしぎし。
 今度は、先ほどよりも大きな異音。これを気のせいとは、士郎は思えなかった。
 尖った粗鉄を放り込んだミキサーがゆっくりと回り始めたような、むず痒い感触だった。

「彼奴が自縄自縛に嵌まったは……憧憬を抱いた影の背中がそうだったからか、はたまた目的の前に“力”がそびえ立っていたがゆえか。あるいはその両方か、それとも違う理由か」

 士郎の中のそれは、いよいよ高まりを見せる。
 皮膚の下で、がりがりと鋼を引き切るような刺激が這い回りだした。
 痛みは少ない。だが、違和感はひどい。
 その正体は解っている。だから、少しの不安こそあれ恐怖はなかった。
 水底に錆付いて眠っていたものが、目覚め始めた産声。
 それは、ある意味強制的な覚醒であった。
 内部の変革を意図して無視し、無表情を装う士郎を知ってか知らずか、小次郎の言葉はまだ続く。

「いずれにせよ、矛盾を抱えたまま突き進んだ果てに、奴は理想に押し潰された。哀れとは思わん。愚かとも思わん。ただ、矛盾したものよと思うのみよ」

 くつくつ。小次郎が咽喉を鳴らす。
 その途端、しゃりん、と士郎の中で鉄の凱歌が終息を告げた。
 サルベージされたものが、彼の奥底でしっかと根を張り、その根源を教えてくる。
 彼の持つ属性、乏しい魔術の才能、その意味を。
 確かな脈動を始めたそれと、小次郎の評を呑み込んで、士郎は我知らず、呟いていた。



「――――体は(I am)……」



 口にした、その瞬間であった。
 淡い光のみを発していたはずの北極星が、突如として爆発的な光を放った。

「うわ!?」
「ぬっ……」

 超新星爆発のように。
 熱くもなく、衝撃波もない白い波が、怒涛の勢いでふたりを照らし駆け抜けていく。
 腕をかざし、目を細くして光をやり過ごす以外に両者の選択肢はなく、それは光の炸裂が収まるまで続いた。

「んん……っく、な、なんだったんだ、いったい」

 瀑布のような光が静まり、士郎はいまだ霞む目を擦りながら周囲に気を配る。
 隣では、平静な佇まいそのままの小次郎が、ふわりとかざしていた袖を払っていた。

「さて、取り立てて不都合は見受けられんが……む」
「小次郎?」

 途切れた声に士郎がそちらを振り返ると、小次郎の目がきゅっと細まっている。
 その視線の先を追うと、星があったはずの場所になにかが置かれているのに、士郎は気づいた。
 遠目に見るそれは、陽炎のような淡い輝きを放っていた。

「あ、あれは」
「ふむ、破裂した星の星屑か……否。まあ、いずれにせよ、行って目にせぬ事にはな」
「それは……そうだな」

 形が変わろうと、行先は変わらない。
 遥か彼方に見えた星に対し、そのなにかは星よりも、遥かに近い位置にあった。
 まるで北極星が空から滑り落ち、大地に根を生やしたかのように。
 数分と歩かず、二人はそこへ辿り着いた。
 本来の目的地であった場所へ。

「ほう……」

 立ち止まり、そこにあったものをふたりは確とこの目にする。
 小次郎は、この男にしては珍しい感嘆の色の混じった吐息を漏らしていた。

「成る程、これが綺羅星の正体か。いやはや」

 顎に手を当て、頷く事頻り。
 名のある逸品を手にした好事家のように、両の瞳が輝いていた。

「これ……は」

 一方の士郎は、まるで雷に撃たれたかのように呆然と立ち尽くしていた。
 目はかっと見開かれ、何事かをぶつぶつ口の中で呟いている。
 小次郎の目が、士郎へと向けられる。

「どうした」
「いや」

 ゆっくりと。
 士郎の目もまた、小次郎へと向けられる。
 彼の瞳には、真理を掴んだかのような不思議な輝きが宿っていた。

「解ったんだ……」
「なに?」
「たった今、解ったんだよ。小次郎」

 視線が交わり、ぶつかり合い。
 吐き出された言葉に、小次郎の眉根が訝しげに歪む。
 しかし、そんな彼の様子をまるで無視して、士郎の口は動き続けた。

「すべてはこれから始まったんだ」
「……すべて、とは」
「俺と、聖杯戦争にまつわる、すべて」
「…………」
「そうだ。あの時、俺が生き残ったのもセイバーというサーヴァントを呼び出せたのも! これがっ、これがあったからなんだッ!」

 最後は、もはや叫びに等しかった。
 語気は荒く、士郎の目は爛々と輝きを増している。
 だが、彼の中に渦巻き、余勢を駆って外に漏れ出す感情は、決して激したものはなかった。

「どうりで、どうりで見つからない訳だよ! こんなにすぐ近くにあったんじゃあさ!」

 敢えて言うなら、難解なパズルがふとした拍子に解けてしまった際の、つい跳ね回りたくなるようなあの達成感。
 過去から現在、そして未来。
 己に関わるあらゆる因果が一本の線に繋がった事実を、昂った感情と共に士郎は正面から受け止めていた。
 しかし、その昂揚も侍によって唐突に区切られる。

「そろそろ落ち着け」
「ぐっ!?」

 ごすっ、と響く鈍い音。
 抜く手も見せぬ、小次郎の鞘ぐるみの唐竹が士郎の脳天を捉えていた。
 備中青江を収める鉄拵えのそれは、ほんの軽く当てただけでも士郎の頭を盛大に揺さぶる。
 たまらず、士郎は膝を折った。

「う、が……!」
「何事か悟ってはしゃぐのもよいが、私を見ているようで見ておらんその態度はいただけんな」
「ぬ、ぐぅ、わ、悪かった」

 小次郎の正論に反論の余地はなかった。
 士郎は脳天を押さえながら謝罪すると、よろりとふらつきながら立ち上がる。
 そして、改めて小次郎へと視線を移した。

「小次郎、頼みがあるんだ」
「なんだ」

 士郎はそこで少し間を置き、やがて先ほどとは変わって静かな声でこう切り出した。

「ここから出た後なんだが……お前の力を貸してくれないか」
「……ほう」

 ほんの僅かに目を細め、士郎を見下ろす小次郎。
 士郎の視線は、いささかも小次郎から逸れる事はなかった。
 本気の目であった。

「最優の戦士たるセイバーの主が、亡霊の私を欲するか」
「ああ。不義理だ、って言いたいのか」
「まさか」

 侍の目が、ますます細められる。

「セイバーとの契約が切れ、非力な童に出来る事は限られている。そこで、私に目を付けたか」
「間違っちゃいない。多分に成り行きだけどな、こっちは形振り構ってられないんだ」
「成り行きで女狐から私を寝取ろうとは。くく、童にしては肝の太い事だ」
「寝取るとか言うなよ、人聞きの悪い。俺に衆道の趣味はないぞ」
「案ずるな。こちらとて、男の花など愛でたくもない」

 渋い表情で断言する士郎を、小次郎はすました顔で笑った。
 くっく、と喉の奥で鳴る音に、否の感情は含まれていない。

「――――酒だ」
「は?」
「月見に見合う酒を用意せよ。それで手を打つ」
「……えぇ?」

 士郎が目をぱちぱち瞬かせる。
 そんな安い取引でいいのか、と。
 薄い笑いを崩しもせず、小次郎はなんでもない事のように言い放った。

「女狐に呼ばれてからというもの、水一滴すら口にしておらんのでな。今生の美酒も口にせぬまま去るというのも、戦とは違う意味で惜しい」
「……酒飲みたさに、主と手を切るのかよ」
「山門の守護を命じられたが、今となってはその意味もない。また、それ以外の働きをする義理も義務もない」
「だからって、ちょっと安すぎはしないか?」

 仮にも天下の『佐々木小次郎』が酒で買収されるなど、あんまりな話であった。
 言い出しっぺの士郎も、流石に少々尻込みしてしまう。

「それに、山門に括られてそう遠出も出来ず、退屈しておったところだ。だがお主に憑いておけば、この騒動だ。飽く事はなかろう」
「……そういう打算か」

 退屈を紛らわす。それが小次郎の目論見と理解して、士郎の肩から力が抜けた。
 酒云々も嘘ではなかろうが、つまるところ退屈凌ぎが主目的なのが窺える。
 なんにせよ、助力願えるならば士郎としては願ったりであった。

「解った。酒は、帰ったらよさそうなのをいくつか見繕っておく。それでいいか?」

 主に士郎のアルバイト先である酒屋『コペンハーゲン』から貰ったものだったり、大河が持ってきたものだったり。
 士郎は未成年で飲めないため、酒類は家の棚に溜まる一方であった。
 心の中で指折りリストアップしながら、士郎は小次郎へ向けて頷きを返す。
 小次郎の鼻が、ふんと鳴った。

「ほう、では期待しておくとしよう」
「そうしてくれ……さて、と」

 話は終わった。
 あとはこの闇の牢獄から抜け出すだけ。
 綺羅星の正体を目の当たりにした事で、文字通りの光明が差した。
 ここからは出られる。そうでなければ先ほどのような交渉などしない。
 鍵は既に、自分の中にある。
 そんな確信を、士郎は確かな手応えと共に抱いていた。

「……ん」

 ふと、外の情景を垣間見る。
 お互いが死にかけの血みどろで睨み合う、不気味なほど静かな膠着状態であった。
 そして、怪物と化した己と弓兵が何事か語り合っている。だが、状況からして聞き耳を立てている暇はない。
 急ぐべきだ。士郎は判断した。

「こんな辛気臭いところからは、さっさと出なくっちゃな」
「そうさな。ここはいささか静かすぎる」

 こつこつと、彼の両脚が綺羅星へと向けて歩を刻んでゆく。
 綺羅星が発する燐光に照らされ、靡く士郎の赤銅の髪が鮮やかに艶を放っていた。
 ふと、士郎の頭が背後へと振り向けられる。

「っと、そうだ。小次郎」
「うむ?」
「もし外に出られたとして、お前がどうなるかはちょっと解らないんだ」
「……ほう」

 己自身の重大事にも関わらず、応じる小次郎の顔は揺らがない。
 流麗なのは剣筋だけでなく、性格や仕草までいちいち準じるのか。
 士郎は、そんな場違いな感想を抱いた。

「一緒に外に飛び出すのか、アンゴルモアの中に留め置かれるのか、あるいはそれ以外か」
「…………」
「ただ」

 そこで一拍の間を挟み、綺羅星に視線を戻して士郎は続けた。

「アンゴルモアについては勝算がある。だから、お前の力を借りたいのは」
「それ以後の話、か」
「ああ。今までの例を考えれば、少なくともアンゴルモアを倒せばお前を完全に解放する目処が立つ」

 歩みが止まり、士郎は遂に綺羅星の前へと立つ。
 そしてゆっくりと伸ばされた彼の手が、ふわりと星に触れた。
 綺羅星は士郎を拒む事なく、変わらず二人を穏やかな光で照らし続けている。
 士郎の口角が、にっと吊り上った。

「だから、この後どうなるにせよ、少しだけ待っていてくれ」
「……ふん」

 鼻を鳴らす小次郎。
 その表情は、余興を前にした観衆のような深い笑みであった。

「よかろう。まずは主(ぬし)の手並みを見せて貰うとしよう」
「ああ、しっかり見ておいてくれ」

 士郎の声に揺るぎはなかった。
 言い知れぬ気迫を漲らせ、士郎は綺羅星に鍵を差し込む。
 癒し包むような光を放つ……『鞘』の形をしたソレを揺さぶり起こす祝詞が、空に静かに響き渡った。



「――――『I am the bone of my sword(体は剣で出来ている)』」



 次の瞬間、眩い光がソレを中心に弾け飛び、竜巻のような濁流となって天まで立ち上った。
 漆黒の空間が金色の波に溶けては消え失せ、ふたりの姿も同じく浚われ、見えなくなる。
 空間を埋め尽くした黄金はやがて白金へと色合いを変え、そこにあるすべてを真っ白に染め上げていく。
 輝き満ちる奔流の中、さあっと霧が晴れていくような、例えようのない解放感が、士郎の身体を駆け巡っていた。

「……ああ」

 暗闇とは正反対。黒でなく、白で視界は塗り潰され一寸先も見えない。
 熱くもなく、冷たくもない優しい閃光に洗われながら、士郎は確信した。
 己の本来の肉体が、悪意の支配から脱却出来たのだと。

「さて――――行こうか」

 あとにやるべきは、シンプルにして明快。
 このような妙な事をやってくれた、その落とし前を付けさせに行く。
 最後に見えた外の情景は、決着が目前となっていた。勝利の天秤は敵の側で。
 しかし、それは今、士郎によってひっくり返された。

「ツケは支払ってもらうぞ、アンゴルモア!」

 闘志滾りし眼差しは鋭く。
 足先から両手の指の一本一本に至るまで、全能感にも似た赤銅色の昂揚が漲る。
 そして唐突に光の嵐が止み、宵闇の冷たい空気がどっと押し寄せては全身を舐め、肺を満たす。
 次に士郎の目に飛び込んできたのは。



『――――ィイ゛イイィイ゛イ゛ギャアァアア゛ア゛ア゛ア゛!!』



 形容しがたい奇声を上げてびちゃびちゃ飛び散る、緑色をしたゲル状の物体。
 それから、その奥にもうひとつ。



「……まさか」



 魂でも抜かれたように呆然と士郎を見つめている。
 鷹の目をした、満身創痍の赤い弓兵の姿であった。








[28951] 第五十三話
Name: 青空の木陰◆c9254621 ID:4fb4bc96
Date: 2016/06/05 00:01






 止まぬフラッシュのような光と鳴動、鼓膜をびりびりと衝撃波の残滓が揺さぶってくる。
 大花火大会の暴発事故以上に、混沌の戦場は色とりどりの閃光と喧騒に包まれていた。

「…………」

 かたかたと鳴るプロペラの音も、この暴力的な音に溶けて消えてしまう。
 天然の欺瞞装置。これを最大限に利用する。

「――――よし」

 魔的な荘厳さに満ちた『神殿』の地面に穿たれた大穴。
 振動によって縁から瓦礫がばらり、ばらりと崩れ落ち、底の見えぬ闇に次々呑み込まれていく。
 宙に浮き、落石を避けつつ縁壁に張り付くようにして。
 凛は大穴からそっと頭を出し、戦場を覗き見た。



『どうした。そうして逃げるだけしか出来んのか、白銀の剣士よ。ククク……!』



 壊れたスピーカーのように轟くのは、オドロームの嘲笑だ。
 神殿の屋根近く、庇のように迫り出した高い位置に陣取り、自らを固定砲台として杖から怪光線の弾幕を形成し続けていた。
 光線のほとんどは敵を掠めもせず、岩や地面を灰にするばかり。
 狙いを気にしていないあたり、当てる事よりも甚振る事を目的としているようだ。
 明らかに標的をなめきっている。



「うひいぃいい……!」



 強者の余裕に晒され、半泣きとなりながらも、のび太はいまだ健在であった。
 バッタのようにみっともなく飛び跳ね回り、時にこけつまろびつ、死に物狂いの駆け足で逃げ惑っている。
 過去にその恐ろしい威力を味わっているだけに、必死さがありありと現れていた。
 ほっと凛は内心で息を吐く。しかし、その一方で疑問も残った。

「ん……? バリアを張ってない?」

 じっと観察していると“バリヤーポイント”を使用している形跡がなかった。
 彼の周囲には、弾幕の他にも弾かれた砂礫や小石がばらばら飛び交っている。それらは本来あるはずのバリアの範囲に抵抗なく入っていた。

「筐体が壊れたか、使っても意味がないのか……後者で考えておくべきね」

 オドロームの光線は対象を灰にするものだ。あらゆる物を弾き返すバリアすら、効果を灰塵にするのかもしれない。
 ポケットの中の“バリヤーポイント”を指で転がしながら、凛は続いてのび太の背中に貼り付いて奮戦する少女に視線を向けた。



「たぁ!」



 小さな掌から生み出される、強烈な大気の渦が標的へ迫る。
 自動車すら簡単に吹き飛ばすような圧力になす術なく、二体がまとめて宙で錐揉みし、地面に吸い込まれていった。

『Gyaaaaaaaa!!』

 聞くに堪えない耳障りな奇声を上げ、ジャンボスとスパイドル将軍がどうと倒れ伏す。
 身を包む鎧や装束は擦り切れ、身体のあちらこちらに手酷い痛手を受けていた。
 スパイドルなどは、六本ある腕のうち四本があらぬ方向に曲がっている。
 これ以上の戦闘は続けられない。

『愚図どもめ! だがよかろう、立ち上がる機会をくれてやる! 僕(しもべ)としての本懐を成し遂げよ、たとえ骨だけとなろうともな! カア!』

 そこに大喝一声。オドロームの地鳴りのような叫びが轟く。
 たったそれだけで、劇的に変化する。

「え」

 二体の身体を怪しい輝きが包み込む。
 次の瞬間には、瞳にぎらりと狂気の光を再び宿し、ゆっくりと立ち上がり始めた。
 さらに、折れていたスパイドル将軍の腕から、めりめりとなにかが蠢くような耳障りな音が鳴る。
 時間にしてたった数秒。それだけで八本の腕すべてが元通りに繋ぎ直され、鎧も武器も完璧に戦闘前の状態へと戻っていた。

『Gyiiiiiiii!!』
『Uoooohhhhh!!』

 それは、ジャンボスも同様だった。
 決して浅くない傷を負っていたにも拘らず、それらすべてが消えてなくなり、前にも増して凶暴さを剥き出しにした雄叫びを上げていた。
 首魁のたったの一声で、二体の狂戦士は復活を果たし、戦列に復帰した。

「……流石に、キャスターか」

 気炎を上げる魔物から視線を外し、凛は舌打ちしたくなるのをぐっと堪えた。
 親玉を叩き潰さない限り、手下は蘇生し続ける。それこそ、たとえ骨となろうとも。

「むぅーっ!」

 フー子が渋い表情で唸る。
 面倒さと不快さを感じている辺り、彼女はこの二体の相手に手一杯になると見てよかった。
 バーサーカーの化身だけあって強力な戦闘能力こそ持っているが、精神がのび太以上に幼い。
 戦術や戦略といった戦闘能力を活かす力に乏しく、それこそ場当たり的な戦闘しかこなせなかった。
 彼女が真価を発揮出来るのは、広い視野を持ちつつ知略に長けた者と組んだ時。
 陣営の中でその条件を満たすのは、無名ながら『心眼』を持つまでに戦場を生き抜いてきたアーチャーと、一国の王として軍を統率していたセイバー。そして一歩譲って、凛が後に続く。
 しかし、今は半ば護るようにのび太にくっついている状態であり、しかも宿主は現在、てんやわんやである。
 場当たり対応以上を望むべくもなかった。
 見方を変えれば、魔物二体が身体を張って彼女の矛先を限定しているとも言える。

「実質、フー子は魔物と相殺か。で、もう一方の相殺は」

 凛の瞳がぐるりと動く。
 今度は、英霊同士の鉄火場へと。



「――――あ、貴女はどこまで、馬鹿力……っ」
「が……ぁあっ、不愉快な物言いを……ッ! しないで、もらいたい……!」



 そこには、息も絶え絶えに呻くガリバーがいた。
 鎖でびっしりと雁字搦めにされ、地面に縫い付けられたセイバー。
 鉄杭を地面に突き刺して、千切れんばかりに鎖を引き絞るライダーの顔は、きつく歪んでいた。

「ぐ、ぅう……動かないで!」

 ライダーの眼帯は外されたままである。
 遮るもののない魔眼『キュベレイ』に晒され、『重圧』でパワーダウンしているはずなのに、セイバーの抵抗は凄まじかった。
 縛られた腕や脚がもがこうとする度、ぎしぎし、ぎりぎりと鎖が悲鳴のような軋みを上げる。その都度、ライダーは両腕に巻きつけた鎖を、歯を食い縛って締め上げた。
 少しでも力を緩めようものなら、あっという間に拘束が解ける。そうなれば、もはや取り押さえるのは不可能であった。

『ふん、捕縛するとはやるものだ。しかし……ぬぅん!』
「ぅうっ!? が、あああああああああっ!?」

 オドロームの一声と共に、セイバーの身体から黒い、異様な魔力光が膨れ上がり、次いで目も眩むほどの紫電が盛大に迸った。
 セイバーの絶叫が木霊し、彼女の瞳から、意思の光が明滅し始める。
 魔物の王からの干渉が激化し、セイバーの意識が徐々に、だが確実に削られていく。

「あぐ、ぅうううううう!」
「まだです、まだ落ちてはいけません、セイバー!」

 砕けんばかりに歯を食い縛って、剣士は魔王の更なる干渉に抗う。
 気を失おうものなら、即座にジャンボス・スパイドルの仲間入りである。
 彼女の強固な自我が、傀儡化の呪縛を跳ね除けようとしているからこそ、彼女の敵対行動も鈍く、ゆえに騎乗兵が彼女を拘束し得た。
 しかし、それもいつまで保つか解らなかった。
 セイバーを纏う悪性の魔力はさらに濃さを増し、鎖を引き千切ろうとする力はどんどん強くなりつつある。

「待ったはなし、ね」

 いいところ、あと二、三分。凛は頭の中でリミットを区切った。
 オドロームが、敵を甚振る事に重きを置いているからこそ、僅かとはいえ猶予がある。
 微塵の驕りもなく殲滅に掛かられようものなら、セイバーは既にオドロームの忠実な傀儡で、のび太はこの『神殿』の埃と化している。
 じんわりと、己の背中が冷たくなるのを感じながらも、凛の瞳は忙しなく動き、周囲を観察し続ける。
 その間、わずか五秒。

「――――いくよ、凛」

 決断した凛の行動は、素早かった。
 休止していた魔術回路を起動する。
 ただし、段階はアクティブではなくロー状態、閾値ぎりぎりの稼動状態に留めた。
 アクティブへ移行すると、オドロームに感知されてしまうおそれがある。
 まだ、姿を晒す時ではない。幸い、魔王自身の魔術行使によって散々にばら撒かれた濃い魔力の残滓が、凛の魔力を隠してくれる。
 葉っぱが一枚、鬱蒼とした林の中へ紛れるように。

「よし」

 細心の注意を払い右の指先に魔力を集中。一発のガンド弾を作り出す。
 そして静かに、かつ素早く穴から頭と手を出し、即座に狙いを定める。
 今まで何千と繰り返してきた彼女の基本魔術。一連の動作に淀みはなく、確実に狙ったところに当てられる力量が凛にはある。
 標的は、この場で最も小さい者。

「気づきなさいよ……フー子」

 のび太の動きのリズムを読み、息を整えるために動きを止めた一瞬を見計らって、ガンドを発射した。
 狙い過たず、ガンドはフー子の頬へ当たる。

「んうっ、んー?」

 バーサーカーの宝具『十二の試練(ゴッド・ハンド)』をその身に宿すフー子に、ガンドは通用しない。
 だが、なにかが当たったという感触だけは伝わる。それで十分であった。
 ぺちっ、というガムでも引っ付いたような感触に、不可解そうにきょと、と周囲を見渡すフー子の目が、凛のいる方向へと向けられる。
 無垢な瞳に凛の顔が映る。
 あ、と彼女の口が開きかけたが、それ以上動く事はなかった。

「しいーっ」

 呟きと共に凛の口元に当てられた、一本の人差し指。
 悟った少女がぱっと口を塞ぐと同時に、凛は素早く両手を穴から出し、口をぱくぱくとさせつつ同時にジェスチャーを送る。
 事は密やかに、そして迅速に運ばれねばならない。
 目をぱちくりさせながらも秘密の指示を読み取ったフー子は、二度三度と首を小さく縦に振った。

『のび太からいったん離れろ』

 眼鏡の少年と同様、フー子も凛には素直に従う。
 純真でマセた子どもそのものの思考をしてはいるが、頭は悪くない。短い付き合いだが、それなりの信頼関係も積み重ねられている。

「え、あ! フ、フー子? どうしたの?」

 彼女が急に背中から離れた事に戸惑うのび太を尻目に、凛はすぐさま次の指示を飛ばす。
 フー子もまた、きちんと口を閉ざしたまま、横目で指令を読み取っていた。

『敵を全員巻き込む派手な大技をお見舞いしてやれ』

 今度は頷かない。
 しかし、フー子の行動は迅速であった。

「むぅ~ん!」
「ふ、フー子、なにを……おわ!?」

 彼女を中心に渦を巻く、急激な魔力の高まり。
 『竜の因子』の同期現象が、主従の二人を黄金色の燐光で染め上げていく。
 生み出された魔力はすべてフー子へと収束し、彼女の全力の一撃を形作る基となる。

『ぬ?』

 首魁の目が、のび太から彼女へと向けられる。
 ジャンボスとスパイドルの意識も、完全に彼女へと移る。

「フゥウウウウウ……!」

 風使いは風を、もっと言えば風の構成要素たる『大気』を操る。
 その中で、最も凶悪な現象は“気圧の操作”。それを置いて他にはない。
 生物が、生身で宇宙などの真空空間に放り出されれば、悲惨の一言に尽きる。体内の血が沸騰し、身体は内側から裂け、風船のように醜く破裂する。
 彼女には、この陣地のすべてを真空に出来るだけの素質がある。だが、彼女にそれは成し得ない。
 彼女の力は本能の産物に近い。理屈や理論の余地のない、本能による“風の操作”で、そこまでの現象は作り出せない。
 力の指向は彼女の、精神年齢同等の拙いインスピレーションによって形作られる。
 そして、拙いなりにも彼女に出来る事は多少ながらあった。

「ぅうううう~!」

 天に掲げた小さな掌に、魔力が渦巻き、収束する。
 そして、彼女が諸手を勢いよく振り下ろした時、その力のすべてが指向性を持って解放された。

「えーい!」

 彼女の脳裏に焼きついている、冴え冴えと冷たくも重く、鋭い剣士の刃の閃き。それが風で何十、何百も再現される。
 現れた無数の真空の刃が、津波のような怒涛の壁となって魔物へと襲いかかった。

『――――――!?』

 まるで無数の刃物を放り込んだ洗濯機に叩き込まれたかのよう。悲鳴を上げる暇すらなかった。
 ジャンボス・スパイドルは全身をずたずたに引き裂かれ、身体のあちらこちらから鮮血を吹き散らかした。
 そして、後追いでどっと押し寄せてきた烈風の濁流に呑み込まれ、弾丸ライナーのホームランボールの如く、まとめて神殿の壁へと突き刺さった。
 ぐちゃ、という生々しく耳障りな音を立てて。

「うひ……」

 凄惨な光景が、乱立する瓦礫に僅かでも遮られたのは幸いだろう。
 それでも目を逸らしていたのび太の口からは、呻き声が漏れていた。

「ぷはーっ」

 力の解放を終えたフー子は、岩壁の肉塊を一瞥もする事なく、顔を落としてはやや疲れたように息を吐いていた。
 あっけらかんなその様が、血生臭い結果を目にしてのものか否か。本人ならぬ余人には測り得ない。

『ふん……よくやる。が、詰めが甘いわ!』

 大音声と共に、光線の雨が止む。
 そして高々と首魁が杖を振り上げると、半ば挽肉と化した二体の魔物を怪しい輝きが包み込んだ。
 見るからに再生魔術。だが、その進行は遅い。
 前は植物の成長を早回しで見るかのような速度であったのに対し、今回はアメーバの分裂のようにじわじわとしたものだった。
 如何に魔道王オドロームといえ、相応の深手にはそれだけの時間がかかるようだ。



「――――ここ!」



 好機、来たれり。
 ぎらり、と猛禽のように凛の目が光った。
 機を見て敏。素早く二発目の弱ガンドをフー子へと放ち、滞空状態のまま、地を舐めるようにしてさっと穴から躍り出た。

「へぅ!」
『ぬ!? 小娘、その剣は!?』

 ぺちんと頬を撃たれたフー子。闖入者に気づいたオドローム。
 双方の目が彼女へ向こうとしたその瞬間、彼女の吼えるような声が轟いた。

「フー子! オドロームに攻撃!」

 あまりの剣幕に、びくうっ、とフー子の身体が硬直する。
 その反応は、脊髄反射にも近かった。

「ぴーっ!?」

 あたふたしながら、先ほどの余剰魔力から風の砲弾を作り出すと、放り投げるようにオドロームへと放った。
 見た目は雑だが、狙いは正確。
 一直線にオドロームへと向かっていく。

『うん!?』

 危機を察知したオドローム。フー子の方へと翻り、杖を持たぬ片方の手を素早く前へ翳す。
 すると、魔王の前方に薄い光の壁が瞬時に出来上がった。
 厚みはなくとも、力強く輝きを放っている事から、バリアの強固さが窺い知れる。
 その数瞬後、ずどん、と重い音を響かせ、砲弾が壁へと衝突した。
 にやり、とオドロームの口が三日月に歪む。 



『――――なにぃ!?』



 だが、濡れ紙を破るように壁を突き抜けた風の砲弾に、それもすぐ掻き消えた。
 余剰魔力で急遽生み出したあり合わせだが、それでも『ふしぎ風使い』謹製のシロモノである。
 “空気砲”以上に超圧縮された空気は、いかに高ランクの魔術であろうと簡単に防げはしなかった。

『うぉおっ!?』

 そして、炸裂。
 巨体を誇る魔王の胴ど真ん中に、どすん、と強烈な衝撃が叩き込まれた。
 破裂の余波がぼうっ、と粉塵を盛大に巻き上げ、その奥へと首魁が掻き消える。
 こじ開けた僅かな好機が、さらに広がりを見せた。
 頭の“タケコプター”を唸らせ、凛はぐんと加速する。

「のぉび太ぁあっ!」

 怨嗟にも似た、地鳴りのような呼び声。
 対象の首が、彼女の方へ振り向いた。

「りっ、凛さ、ぅぎ!?」

 そこで声が不自然に途切れた。
 次いで、絞り上げたような奇声が上がる。

「よぉし、捕まえたあ!」

 その原因は彼女の腕。
 飛翔する勢いそのままに、凛はラリアットよろしく彼の細い首に、その片腕を勢いよく巻きつけていた。
 そして惰性を利用し、彼の首を支点にくるりと回転すると、背後へと回って着地した。

「り、んっ……さ……く、るしぃ、いいっ」
「よく粘ってたわね、流石!」

 苦の呻きは騒音に紛れ、彼女の耳に届かない。
 ぐいっ、と首に回した腕ごと身体に抱え込むようにして、凛はのび太へ耳打ちする。

「さて、要点だけ言うわよ」

 言うや、凛が穴倉からずっと片手に携えていたブツをのび太の鼻先へ、逆手で持っていく。
 冴え冴えと冷たい鋭利な輝きが、眼鏡越しの彼の両目にすっと飛び込んだ。
 途端、スイッチを切ったように呻きがぷっつりと消えた。

「これを見なさい。アンタならこれがなんだか、解るでしょ」

 唇を動かしつつ、凛の瞳はオドロームの方を忙しなく窺っている。
 粉塵のベールはそのまま、魔王の姿はまだ見えない。
 これ幸いと、凛の舌は滑らかに、そして素早さを増して回る。

「切り札よ。アンタが持ってなさい。嫌な役回りで申し訳ないけど、どの道アンタしか使えないんだし、アイツにとっての弱点はこれ以外に……ん?」

 ふと、そこで凛の唇が動きを止めた。
 次いで、その眉根がゆっくりと不審そうに歪んでいく。

「ちょっと……のび太、聞いてる?」

 ぱったりと反応を示さなくなった腕中の少年。
 水筒に水を注ぐように、彼を抱え込む彼女の腕には重みが増していくような感触があった。
 いったい何事だと、凛は少年の顔を覗き込んで。

「――――あっ」

 彼女は己の失策を悟った。
 そして、改めて自分の行動と格好を省みてみる。
 相手の首元へ腕をかけ、そのまま力を込めて己の側へと引き寄せ。
 最後に相手の目の前へ素早く、ぎらりと剣呑に光る『切り札』を突きつけた。
 ごく単純に、かつ端的に見たその姿は、まさしく。

「やばっ!」

 人質を盾にする強盗犯か誘拐犯そのもので。
 肝の細い、危機に晒された哀れな人質はというと。

「うぅ~ん……」

 首を腕でがっちり極められ、締め落とされる寸前で凶器を向けられた結果、ついに心理は限界に。
 ぐるりと白目を剥き、ぶくぶく泡を吹いていた。

「ご、ごめん、ついっ……あ、いや、まずは起こさないと」

 コンマ数秒で冷静になると、凛は手にした剣を床に転がし、すぐさま少年に手を施す。
 背中に指を添え、一息に突き入れツボを刺激する。

「ふっ!」

 俗に言う『活を入れる』施術。
 ごり、というやや耳障りな音を立てて、意識を強制的に覚醒へと導く。
 途端、少年は激しくむせた。

「がっほ、げほ、げへっ、けへっ……し、死ぬかと思った……けほ、けほっ。い、いきなりなにするんですか!」
「あぁ、うん、まあ、ね。ゴメンナサイ」

 恨めしげな視線を受けて、言い訳もそぞろに凛は頭を下げた。
 そして、すぐさま本題へと戻る。

「それはともかく、ほら、これを見なさい」
「ともかくって、え……あ、ああっ、これ!?」
「そう。『白銀の剣』よ」
「ど、どうしてこれがここに?」
「それは後で。敵は待ってくれないのよ、ほら!」
「へ?」

 凛は剣を拾い渡しながら、顎でしゃくって指し示す。
 のび太の首が動くのと、段上の粉塵が吹き飛んだのはほぼ同時だった。

『カァアアアアアッ!』
「うわ、全然効いてない!?」
「の、ようね……」

 気炎を上げて舞台に戻るオドローム。確認するまでもなく、ダメージはほとんど見受けられない。
 半ば予想通りとはいえ、凛の心裡に僅かな落胆が生まれた。
 風の精の痛烈な一撃でも、敵の特性を貫けなかった。その事実が重くのしかかる。
 この場における頼みの綱は、やはり今、のび太が手にする剣しかなかった。

『流石に大した威力だが、攻撃が“ソレ”ではかすり傷にもならんぞ!』
「む~! でも、ふっとんだ、くせに!」

 フー子が膨れっ面になるが、そこにある事実は否定出来ない。
 たとえセイバーこと『アーサー王』の聖剣の力を全開放しても、敵を滅ぼす事は出来ないのだ。
 首魁の目の色に焦燥はない。闘気と怒気と、余裕が入り混じった強者の眼光をそのまま保っていた。
 その冷ややかで剣呑な視線が、じろり、とのび太の持つ剣へと突き刺さる。

『しかし、少々驚いた。まさか小娘が『白銀の剣』を持ち出してくるとは。どうやら、どこぞの輩が小細工をしたようだな』
「……答える義理があると思う?」
『ふん。だが、おおよその見当はつく。ならば、余興は終わりとしよう! 出でよ、兵どもよ!』

 宣言するや、オドロームが杖を振り下ろす。
 すると、地面のあちらこちらから染み出るように、二メートル近いヒトガタが次々浮き上がってきた。

「うげ! こいつらはっ!?」

 顔を引きつらせて、のび太が呻く。
 材料こそ違うものの、現れた敵のその厄介さを、少年は身を以て知っていた。

『くく、いい土地に神殿を作ってくれたものだ。魔力の集まりも悪くない。この点は『キャスター』へ感謝しよう』
「え?」
『この地下で以前の“土の精”を作ろうものならここが崩れかねんが、特段、土に拘る理由もない』
「……水脈か!」

 穴の奥底で、なにかが流れる重々しい音が聞こえていた事を凛は思い出した。
 豊富どころではない。実質、無尽蔵である。
 思わず舌打ちしようとして、しかしそこでぐっ、と堪えた。

「のび太! ぼやっとしないで、しゃんとする!」
「は、はい!」
「フー子、こっちに来てのび太につく!」
「ひ、ひゃい!」

 凛が檄を飛ばし、二人が背筋を伸ばすと同時、動き出す。
 フー子は指示通りにのび太の後ろへ回り、のび太は剣を持つ手と反対側に“ショックガン”を握った。
 淀みなく動く二人を横目に、凛は魔術回路を再度臨界まで回転させる。
 腕に刻まれた魔術刻印が力強く発光し、戦意漲る彼女の秀麗な顔を照らし上げていた。

「そういえばのび太、アンタ“バリヤーポイント”は!?」
「は、え、ええと、こ、転んだ拍子に落として踏んづけて、壊しちゃいました! ごめんなさいっ!」
「はあっ!? このおバカ! 予備は!?」
「そ、それも転んだ時、全部バラ撒いちゃって。“スペアポケット”に入れてた分もズボンのポケットに入れてたから!」
「んなっ……!」

 なぜバリアを張らずに逃げ回っていたのか、その理由が判明した。
 痛恨のドジに歯痒い顔をしながら、凛は自分の“バリヤーポイント”をのび太に渡す。

「とりあえず、わたしの分を持ってなさい! もう絶対に落とさない事!」

 のび太がブツを受け取ったその時、隙間なくびっしり生え揃った水の兵隊は、オドロームの号令によって一斉に鬨の声を上げた。

『かかれぃ!』

 一糸乱れず、マーチのように動き出す軍勢。
 その勢いは激流であった。

「は、速いっ!? 前より速いぃい!?」

 引き攣ったようなのび太の声が漏れる。
 粗末ながら鎧と剣の装備がある点も、かつての“土の精”と異なっている。
 しかし、水と土の両者に共通する真価は、その圧倒的な物量の一点に尽きた。
 それが、以前よりも速度を増して一気に押し寄せてくる様は、まさに洪水そのものだった。

「寄らせない!」

 叫びざま、凛はポケットから宝石を複数個掴み出し、空へ投げ放つ。
 通常使っている物と雰囲気の異なるそれは、次なる凛の合図で秘めた力を開陳する。

「『解放』――――!」

 刹那、宝石が眩い光を放ち、押し寄せる兵士達の只中へと飛び込んでいく。
 そして、盛大な音と閃光を放って猛烈な衝撃波が炸裂した。

「うわ!?」
「フぅ!?」

 魔術的に堅牢な神殿全体が、びりびりと震えるほどの威力だった。
 濃霧のように立ち込める粉塵を掻き分け、凛の声が響き渡る。

「一級品のとっておき、大判振る舞いしてあげる」

 さあっ、と塵の霧が晴れる。
 彼女らの前方にいた敵数十体が、潮が引いたように消え去っていた。
 その傍ら、凛はちらとオドロームを見やる。

『ほぉう……?』

 小娘にしてはやるものだ。
 そう言わんばかりの賞賛と嘲りとが混ざった視線を、首魁は彼女に向けている。
 それで、凛は以前から感じていた事に確信を持った。
 オドロームは、『王』ではあっても『将』ではないのだ、と。

「二人とも、呆けてない! そっちからも来てるわよ!」
「え、あ、はい!」
「うんっ!」

 この神殿に呼び込まれた時から、凛の頭に引っかかっていた。
 最初に狂化戦士としたジャンボス・スパイドルをけしかけ、次に自ら大魔法を乱発し、さらに水の兵士の大軍を呼ぶ。
 やっている事は凄いが、戦略的に見るとむしろ順序を逆にした方がいい。
 まず、数を頼みの大兵力と魔法の嵐をぶつけ、敵が消耗した後に本命の幹部級をぶつけてとどめを狙う。敵が寡兵の場合、常套手段としてはこのようなものだろう。
 しかし、オドロームの場合、対応はどちらかと言えば場当たり的。同じ大軍を率いる者として、鏡面世界の指揮官ロボットの用兵と比べると粗が目立つ。
 つまり、妖霊大帝オドロームとは、魔物を纏め上げる王様でこそあるが、軍団を率い指揮する将軍ではない。

「……考えてみれば、未来のとはいえ『子ども向け作品のボス』なのよね。強いし凄いけど、どことなく奥行きが足りてないのも、その所為かな」

 一人ごちると、凛は抜く手も見せずに再度数個の宝石を取り出すと投擲、敵陣内で破裂させた。
 盛大な爆発と共に砂礫が巻き上がり、水の人波の一角にぽっかりと穴が開く。

「突くとすれば、まずそこが隙の一点かしら……それ以外がひどく厄介だけど」

 だがそれも、すぐに埋まってしまう。
 雨後の筍の如く、兵士が地面から湧いてくる気配は、未だ留まりを見せない。

「えーい!」

 凛の背後では、フー子が諸手から猛烈な強風を発生させ、敵を文字通り吹き散らしていた。
 彼女の“竜の因子”の効果はまだ健在で、尽きぬ魔力をどんどんくべて、押し潰そうとする。

「はっ、はっ、はぁ……うひぃい、撃っても撃っても減らないよぉ……」

 一方で、息も絶え絶えに弱音を吐いているのは、のび太であった。
 フー子の風撃から漏れた、もしくは逃れた敵を“ショックガン”で狙い撃つ。
 しかし、のび太の体力は同年代の子ども以下。集中力とスタミナが切れ始めていた。

「も、もうダメだぁっ!」
「ダメじゃない、踏ん張りなさい!」
「フウっ! のびた、がんばる!」
「ううっ、わ、解ってるよ……っ!」

 ひゅうひゅう息を切らせ、額の汗を拭いながらも、のび太の指は懸命に“ショックガン”のトリガーを引き続ける。
 戦闘が始まってから、それなりの時間が経過している。
 並の大人以上に体力のある凛や、人間以上の存在のフー子はじめサーヴァント勢はいいが、のび太だけは逆の意味で別格。
 普通なら退がるべきだが状況がそれを許さず、かといって鉄人兵団の時のようにバリアに引き篭もる事も、この場に限っては下策であった。
 なにせ、敵の首魁を滅せる可能性はのび太……正確には彼の持つ『白銀の剣』だが……しかない。
 バリアに篭っていてはどれだけ凌ごうとも、終わりは見えてこない。筐体の予備もない今、バッテリーが切れれば途端に今以上の逆境が襲ってくる。
 どんな形であれ、虎の子を温存しつつ、まずオドロームまでの血路を開く事。
 それが勝利条件を満たす第一歩であった。

「……近寄れば石像がただ乱立していくだけですが、それでもこちらにも来ますか」

 だが、この場で唯一の味方たる英霊、ライダーはその役目を担えない。
 いまだ支配に抗い粘るセイバーを拘束しつつ、ライダーは迫る雑兵を魔眼で一瞥し、次々に石へ変えていく。
 今でさえ地力以上の八面六臂である。これ以上の活躍を求める事は出来なかった。
 そうなると、実力の面から必然、活路を開くのは凛とフー子の役目となる。
 その二人にしても、そう長々とは戦っていられなかった。
 肉体的にはともかく、精神的な疲労は否めない。

「……ふぅーっ」
「へぅ……」

 無意識か、少女達が息を吐き出す。
 疲労を紛らわすような、重々しい吐息であった。
 刹那の空白。抵抗の手が、その時、微かに薄くなる。
 この間隙を、見逃さなかった敵がいた。

『Gyiiiiiiii!!』
『Uoooohhhhh!!』

 ジャンボス、そしてスパイドル。負った手傷は既に再生が終了していた。
 ぎらついた殺気を纏い、各々上空と地上から、雑兵の隙間を縫って一気呵成に踊りかかる。
 巨大な火矢の如き圧力と勢いは、まさに狂奔と呼ぶに相応しかった。

「うっ――――!?」

 精根は既に尽きかけ。神業じみた早撃ちを誇るのび太も、体力の壁は高すぎた。
 ゼロコンマ一秒の条件反射で銃を敵へ向けるも、それが精一杯。トリガーに掛けた指は重く、思うように動かなかった。
 背後霊状態のフー子が、即座に最も近くに接近していた方へと暴風をぶつける。

「フウ! だめっ!」
『Guuoooooo!?』

 標的はジャンボス。人垣のない上空から来た分だけ到達が早く、ために真っ先に視界に入る。
 抜き打ちで放たれた風の暴力に揉まれ、ジャンボスは盛大に吹き飛ばされた。
 しかし、それはもう一方の接近を許す事と同義。

『Syiiiiiii!!』

 大地を這うように迫るスパイドル。視線が上へ向いていた分だけ、フー子の一撃は間に合わない。
 凛が託した“バリヤーポイント”も同じく。疲労という重石が少年の機転と腕を邪魔していた。

「あっ!」

 蜘蛛の俊敏性そのままに、のび太への距離を詰めたスパイドルの六剣が、やにわに大きく振りかぶられる。
 のび太と背中合わせの今、助けようにも対応が出来ない。それ以前に、正面への手を緩める事は許されない。
 緩めてしまえば、雑魚が雪崩の如く確実に押し潰しに来る。
 用兵に粗のあるオドロームでも、その程度の機は見抜く。

「ひい!?」

 恐怖にのび太の身が竦む。
 咄嗟にフー子が飛び出そうとしたが刹那、届かず。

『Syaaaaaaaa!!』
「う、うわっ!」

 スパイドルの凶悪な膂力を以て、一斉に白刃が閃く。
 その一瞬、前だった。
 のび太の脇を、黒い影がしゅるりと舐めていくように動いたのは。



「――――え、なに?」



 凛だけが気づいた。
 そして気づいたときには、耳を突き抜ける鈍い炸裂音と共に、スパイドルが砲弾のように空を舞っていた。

『Sygyaaaaaaa!?』
「フ!?」
「あ、あ……ぁえ、ええ?」

 苦悶混じりの耳障りな悲鳴を残し、雑兵の只中へ飛び込み紛れていくスパイドルの身体。
 恐怖に放心が混ざった、間抜けな顔となったのび太の身体には一片の傷もない。
 放心にも近い空白が、一同を包み込んだ。

「な、なんだ……?」

 ふと、のび太の視線が前を向く。
 そこには、この場の誰も予想だにしない者が、前方へ拳を突き出したままの姿勢で佇んでいた。

「え、こ、この人!?」
「あ……!」
「フ、ゥ? だぁれ?」

 眼前に聳える背中を見るや、三人が目を見張る。
 どこかで見た出で立ち。三人の、とりわけ凛ははっきりと覚えている。
 服装は一般人のそれ。探そうと思えば新都にでも繰り出せば同じ格好をした者がごまんといる。
 それでもその人物を確と区別出来るのは、そのどこまでも特徴的な、特徴を見出す事の出来ない雰囲気にあった。
 例えるなら。

「貴方は……」
『ほう?』

 白ですらない“無色”。
 何色にも染まらず、また何色にも染め上げない存在感を、その闖入者は醸し出していた。
 無情の瞳を前へと向けたまま、突き出していた拳を引くと、ゆっくりと顔に乗せた眼鏡を外し背広の胸ポケットへ仕舞い込んだ。



『――――くくく、誰かと思えば。“元”キャスターの情夫とは』



 穂群原学園の倫理教師にして、奇縁によりキャスターのマスターとなった男。
 輝きを映さぬ葛木宗一郎の眼が、静かにオドロームへ向いた。








[28951] 第五十四話
Name: 青空の木陰◆c9254621 ID:4fb4bc96
Date: 2016/07/16 01:08






 なぜ彼の者は、この結末へと至ったのか。外野に在する彼には、その過程は解らない。
 だが、過程を推測する事は出来る。
 そしてそれは、大筋で間違ってはいなかった。
 ある意味で両者は近親者よりも近く、そしてまたある意味では赤の他人よりも遠い存在。
 矛盾入り混じる両者が、再度意思を交わしたその時に。
 無形の悪意は、その終焉を迎えていた。






「……まさか、な」

 優しくも力強い閃光に照らされながら、弓兵は呟いた。
 発光源は既に己の脚で立ち上がり、健在をその身で示している。
 身に纏う服はあちらこちらに大穴が開き、鮮血にどす黒く染まってぼろ布と変わりない。
 だが、その奥の肉体には、あるはずの傷が一切なかった。
 あれほどに凶器で切り裂かれ、穿たれ、刺し貫かれたにも拘らず。
 かすり傷どころか痕すら、残っていなかった。
 その理由を、弓兵は知っている。

「――――待たせたな、アーチャー」

 光の中から響く声は力強く、これまでの激戦をまったく感じさせない朗々さを以て彼の鼓膜を揺らす。
 天に高く片腕を掲げ、強い意思を秘めた瞳がすっと閉じられたと同時、光は徐々に弱まっていく。
 そして完全に輝きが引いたそこには、鋭気漲る青年の姿があった。

「……特に待ってもいない。衛宮士郎」
「そうかよ」

 満身創痍の男の皮肉を気にした風もなく。
 腕を下ろしざま、士郎がゆっくりと目を開き、次いで周囲を見渡す。
 考えるまでもなく、目が追う目標はたったひとつ。
 彼の身体から飛沫となって飛び出した、緑のヘドロの成れの果て。

『――――!!』

 瓦礫の地面と化した境内のあちらこちらで、緑の物体は声なき声を上げていた。
 アメーバのようにぴくぴく蠢く様は、見る者に生理的嫌悪を催させる。
 再び元の無形生物になろうとしているようで、互いに引き合っている。
 じゃり、と士郎の脚が微かに動く。
 その瞬間、物体の挙動は早回しとなった。

「む……」

 ばらばらにあったゲルが、ある一点へ目掛けぎゅっと収束する。
 強力な磁石に引き寄せられるかのような、性急かつ急速な再生だった。
 集まったそれらはひとつとなり、元のスライム状の軟体物へと戻る。
 それが、士郎を乗っ取ったアンゴルモアの全貌であった。

「――――早い」

 間、髪を入れず、アーチャーは剣を構える。
 これまでの例から見れば、アサシンの変異体であるアンゴルモアは、クラススキルの『気配遮断』を有していると考えてよかった。
 この場で逃げの一手を打たれては、向こうが積極姿勢へ移らない限り、発見のしようがない。
 そして取り逃がしてしまえば、誰かが士郎の二の舞を演じる事になる。
 気配を殺しての接近、そして寄生憑依。単純だが特性上、この上なくえげつない。
 今回は結果的に被害者は生還したが、他の者では寄生されたが最後、生き残りの芽はまずない。
 なんとしても、ここで阻止しなければならなかった。

「逃がすかよ」

 だが、アーチャーよりも先に士郎が動いた。
 脱兎の動きで、アンゴルモアが気配を消そうとした数瞬前に。
 士郎はいつの間にか手にした『それ』を敵へと向ける。

「お前には……これだ!」

 闘志も露わに士郎が猛る。
 形容するなら、『それ』は手持ち式のスポットライト。

「――――仕留める!」

 スイッチを押す音と共に、ばっと光が照射される。
 途端、スライム状だったアンゴルモアが、みるみるうちに固化していく。
 やがて、球状の鏡石のような形となると、そのまま地面へと落ちる。

「……よし」

 ごとり、と岩塊のような重く硬質な音が、宵闇を微かに揺さぶる。
 瓦礫だらけの境内に転がったアンゴルモアの成れの果ては、がちがちに固められていた。
 構えた剣はそのままに、アーチャーの目がきゅっと細くなる。

「それは……そういう事か」
「ああ、“カチンカチンライト”さ」

 以前、のび太によって語られた『宇宙漂流記』。
 ドラえもん達の手により、宇宙国家支配の野望を挫かれたアンゴルモアは最初に取り付いていた機械の肉体から逃走した。
 そして宇宙船の中から集めたガラクタを新たな肉体として、破れかぶれに近いながらも彼らの隙を突き、強襲する。
 だが、アンゴルモアは結局敗れ去った。
 ひみつ道具の“カチンカチンライト”によって、文字通りかちんかちんに固められ、身動きの一切を封じられた。

「しかし、成る程な。こういう軟体の相手には、これが一番なんだな」
「…………」

 士郎の述懐を余所に、アーチャーの目は、ライトと化石を忙しなく行き来している。
 ややもして、その焦点は化石へと絞られた。

「で、この後はどうする気だ。宇宙を飛ぶ荷札はないぞ」

 固められたアンゴルモアは、その後ドラえもんの手によりブラックホールへ投棄された。
 その際使用されたのが、ひみつ道具の“空飛ぶ荷札宇宙用”だが、それはのび太の“スペアポケット”には存在していない。
 つまり、この場のふたりも持ち得ないという事で。

「それと、そのライトの効果時間は数分だ。時間が経てば元のスライムに戻る」

 じっと視線を送り、アーチャーは答えを催促する。
 それに対し、士郎は決まり悪くもせず。

「それは、まあ決まっているよな」

 さも当然の事のように言い放つと、彼の脚が化石の元へ一歩踏み出す。
 既にライトは手にはなく、射抜くように標的を睥睨するその鋭い眼差しは、どこか弓兵を思わせた。

「ブラックホールに叩き込んだのも、結局は跡形もなく消滅させるためだ。つまり別のやり方であれ、同じようにしてやればいい」

 士郎の言に、迷いの影は見えない。
 やがて、アーチャーはふうう、と長く息を吐いた。

「なんともシンプルかつ力業だな」
「ああ。けど、前例に則ればそれでいいはずだ。どうする?」
「……ちっ」

 舌打ちをするも“否”の返答をする事はなく、アーチャーは無言で顎をしゃくる。
 あいよ、と軽い返事と共に、士郎が片手で球形の固体となった“成れの果て”を拾い上げた。
 そして視線を、アーチャーの腹に穿たれた大穴へ向ける。

「あと一息頼む。派手にやってくれ」

 言葉と共に、士郎の手が動く。
 ジャンプボールを行うバスケットボールの審判のように、掌中の球体を天高く放り投げた。

「ふん……」

 鼻を鳴らした次の瞬間には、アーチャーの手に黒の弓と、見慣れた螺旋剣の矢があった。
 そのまま淀みなく矢が番えられる。
 きりり、と弓弦が甲高く音を立てた。

「――――これで幕だ。消え失せろ、ミュータント」

 諸々の感情が練り込まれた言葉と共に、螺旋の矢が大気を引き裂いて飛翔する。
 矢は勢いを殺さぬまま、標的の中心にその身を突き立てる。

「『壊れた幻想(ブロークン・ファンタズム)』」

 次の瞬間、螺旋の矢は閃光と共に大爆発を起こした。
 衝撃波が木々をざわめかせ、発生した下降気流が瓦礫の砂塵を飛散させる。
 境内全体が、びりびりと震え、戦慄いた。



『――――!!』



 無言で、しかし確かに響き渡った断末魔。
 悪意の成れの果ては、欠片すら残らず閃光の中で消滅した。

「……っう、ぐ」

 決着を見届けたその途端、アーチャーの残心が崩れ、その場へ膝を折った。
 片手が、腹の大穴を庇っている。
 士郎が駆け寄ろうとしたが、アーチャーは目でそれを制した。

「おい」
「……既に修復は始まっている。しばらくすれば問題ない」
「いや、大有りだ」

 制止も構わず、士郎がアーチャーへ近づく。
 そして己のズボンから“スペアポケット”を探り出し、中から布を一枚、取り出した。
 それを見たアーチャーの眉が、きゅっと引き締まる。
 投げ渡された布を引っ手繰るように宙で受け取り、患部へ押し当てた。

「そうか。時間がないんだったな」
「ああ、もうかなり経ってる。急がないと」

 ふたりの見解が一致する。
 障害を潰した以上は、一刻も早く、分かたれた仲間へ向かうべきだと。
 “タイムふろしき”で時間回帰したアーチャーの肉体は、瞬く間に修復が完了する。
 負傷箇所の時間が逆行し、全身が元の傷ひとつない状態へと戻った。
 立ち上がりながら、アーチャーは二、三度、手・腕・脚と曲げ伸ばしをする。
 十全であった。

「貴様は身体に問題はないのか。服以外に損傷はないようだが」
「おかげさまでな……お前、知ってたんだろ。“アレ”の事」
「想像に任せる。それで正解だ。独力で形を成せるとは思わなかったがな」
「偶然だよ。ただ、皮肉だな。乗っ取られて、結果的には良かった、のかもしれない……色々とな」

 遥か彼方を見つめるようにして、士郎が呟いた。
 あらゆる感情が織り込まれたその物言いに、アーチャーの眦が訝しげに歪んだが、それだけだった。
 今は、それ以上に優先するべき事がある。詮索は後回しでいい。
 最後に、ぐっと拳を握りこむと、アーチャーは踵を返した。

「それはともかく、工房を探すぞ。急いでな」
「ああ」

 アーチャーの後を、士郎が追おうと動く。
 その時だった。



「――――案内(あない)してやろうか」



 唐突に、背中に声がぶつけられた。
 コンマ数秒で、ふたりが背後を振り返る。
 一方はいずこから出した二刀一対の剣を構え、もう一方は無手のまま。
 声の主を目にした時、後者の表情は微かに緩み、警戒を真っ先に解いた。

「小次郎!」

 群青の羽織に、背中に背負った六尺はあろうかという長長刀。
 なにより涼やかな風を思わせる、その佇まい。
 アサシンのサーヴァント『佐々木小次郎』が、腕を組んで立っていた。

「アサシン……貴様は」

 じゃり、と靴音を鳴らしてアーチャーは剣を構える。
 身体中から、相手に対する警戒心が滲み出していた。
 元々がキャスターの手駒であり、実力も剣の業だけはセイバーに比肩し得る存在。
 彼にとって、警戒をしない理由がなかった。

「くく、剣呑剣呑」

 だが、敵意を向けられても小次郎は涼しい表情のまま。
 ショー開演間近の観客のような薄い微笑を湛え、気配を尖らせる事もない。
 小次郎の視線がアーチャーから士郎へと移り、そして唇をはっきりと三日月にして片目を閉じた。

「さて、童(わっぱ)。このような仕儀となった訳だが……まずは、お主の手の甲を見てみよ」

 士郎の目が己の手の甲へ落ちる。
 そこには、剣の英霊との契約を断たれて色を失ったはずの令呪が、赤く浮かび上がっていた。
 はっ、と跳ね上がる士郎の顔。
 小次郎の唇の三日月が、さらに鋭く吊り上がった。

「契約が……完了している? なんでだ?」

 士郎の首が懐疑に傾ぐ。
 バーサーカー然り、ライダー然り。
 これまでの変異体の最期を振り返ると、変異前の固体に戻った後、エーテルの塵となって消滅していた。
 だが、アサシンの佐々木小次郎にその気配は皆無だった。まるで、変異など最初からなかったかのように。
 しかも、本来は儀式がひつようなはずの契約まで終了しているというオマケまで付いている。
 のび太の例に倣って裏技を用いた訳でもない。小次郎にたった今気づいたふたりでは、物理的に不可能だ。
 悠然な姿勢を崩さぬまま、小次郎が軽く肩を竦めた。

「知らぬ。この身が特異な者ゆえか、あるいはあの奇妙な深淵の影響かもしれんが。しかし、そんな事はどうでもいい」
「どうでもいいって」
「既に望んだ通りの結末となった以上、過程など些事に過ぎぬよ」
「そう、だけど……」

 逡巡する士郎へ、小次郎がするりと近づいていく。
 荒れ放題の境内の中でも、草履の擦れる音はしない。

「ともあれ、契約は成った。あの深淵での言葉、覚えていような」

 淀みのない物言いだった。
 小次郎の顔から笑みが消え、ゆっくりと厳かなものへ変化していく。



「アサシンのサーヴァント、佐々木小次郎。約定により、これより汝の一刀となろう」



 宣誓が、鉄よりも重く響き渡る。
 士郎の表情が、決然としたものへと変わっていた。

「ああ。よろしく頼む」
「…………」

 契約がなされた以上は、敵ではない。
 なにより、二者の間に根差す奇妙な信頼が見て取れる。
 ひとり傍観していた、アーチャーの目が疑わしげに歪んだ。

「なにが、あった……?」
「ちょっと取引をな」
「……取引」
「といっても、大した内容じゃない。小次郎にとっては違うようだけど」
「当然よ。浮世の醍醐味に浸る事もなく、ただ番人稼業に縛られるよりはこの方が余程よい」

 真剣な顔から一転し、涼やかな微笑へと戻る小次郎と、仕方なしとばかりに肩を竦める士郎。
 語られる内容は漠然としていて、当事者でないアーチャーには結局、事情のすべてを理解し得なかった。
 だが、肝心な事だけは確と理解する。

「――――案内する、と言ったな。アサシンよ」
「うむ」

 ここにいるアサシンこと『佐々木小次郎』はこちらの味方となった。
 今この時、それだけが解れば、とりあえずアーチャーにとっては十分であった。

「あんごるもあ、とか言ったか。私から出でたあの化生は。私は女狐から聞かされなんだが、しかし奴は知っておった」
「では……ミュータントの記憶を引き継いだのか」
「そうさな。そして……ふむ。時間が惜しいのだったな」

 飛ばすとしようか。
 そう言うと、小次郎の羽織の裾が翻った。
 ふたりに背を向け、じゃり、と草鞋を鳴らして歩き出す。
 ついてこい、と無言の背中で示していた。

「最も近い道を行くが、山中ゆえそれなりに険しい。見失うな」
「了解した。頼む」

 アーチャーのその言葉が、出発の号砲となった。
 疾風のように宵闇を突き抜け、駆ける群青の羽織。
 ランサー並の出足の速さだったが、飄々としたその表情は崩れない。
 速さを制限しているのだと窺い知れるその後背を、ふたつの影が追って走る。

「遅れるな、小僧。遅れるようなら眠れる荷物になってもらう」
「努力するさ……今なら、いける」

 先導者と追走者の姿は、そのまま境内の向こうの山肌へと飛び込み、すぐに木々の奥へ消える。
 暗夜の静寂が、再び境内に染み込んでいった。






「――――貴方、どうしてここが?」

 疑問のままに凛が問うも、葛木は黙して答えず。
 のび太を庇うように彼の前へ陣取ったまま、その手を覆う物の裾をぎゅっと引き絞る。
 見た目にはただの黒い革手袋。しかし魔術師の凛と、半サーヴァントのフー子にははっきりと解った。
 その手袋に込められた、強力な魔術の存在感に。

「ま、りょく……?」
「……『強化』魔術。でも、構成とベクトルが……これだとむしろ“硬化”?」

 それにも答えはない。
 葛木の視線は、悪の首魁を捉えたままであった。

『ふ、フハハハハ……! これは呆れたものだ。せめて死地から逃がそうという、愛人の最期の情も無駄にするとは!』

 神殿の屋根から、オドロームの笑い声が響き渡る。
 腹を捩らんばかりの高笑いだった。

『事前にこの神殿の事を教えられていたようだが、女の後を追いにでもやって来たか?』
「…………」

 答えはない。
 どこまでも無表情は変わらず、葛木は感触を確かめるように両手の指を軽く動かす。
 視線もなんらの色にも染まらないまま、ただ無感情にオドロームを見上げている。

「あ、あの」

 不可思議なこの行動に面食らいながらも、おそるおそるのび太が葛木に声をかける。
 すると、ここまでなんの反応も示さなかった葛木が動いた。
 のび太を振り返ったのだ。
 びく、とのび太の身が竦む。

「ぅひっ!? その、あの……っ」
「…………」

 泡を食うのび太にも眉ひとつ微動だにしない。
 やがて、唇がゆっくりと動いた。

「名前は」
「……は、はい?」
「『名前は』と言った」
「へ!? あ、え、っとと、の、野比です。野比のび太……」
「そうか」

 抑揚のない、淡々とした声だった。
 呆気に取られるのび太にそれだけ言うと、葛木は視線をオドロームへと再度向ける。

「野比、尋ねる」
「へ?」
「あれはキャスターか」
「は、う、うん、たぶん間違いじゃない、と思うけど……だ、誰かの仕業で、キャスターさんがオドロームに作り変えられちゃった、でいいのかな?」
「…………」

 要領を得ない返答だったが、葛木は特に異論を挟まなかった。
 理解が及ばないのか、それとも想定の範囲内だったのか。
 葛木の口が再度開く。

「もうひとつ尋ねる」
「はい?」
「あれを斃せばどうなる」
「ど、どうなるって……」

 のび太には、葛木の意図がまったく読めなかった。
 しかし、答えないという選択肢を彼が持っているはずもなく。
 これまでの経緯を考えて、あり得る予測を口にする。

「そもそもこの“白銀の剣”じゃないとやっつけられないんだけど……」
「そうか。それでどうなる」
「ラ、ライダーさんの時みたいに、たぶん元のキャスターさんに戻って……そのままなにもしないと消えちゃうけど、その前に道具を使えば」
「のび太、それ以上は言わない!」

 凛が発言を遮った。
 行動を見る限り、葛木は敵ではないのだろうが、味方という確証もない。
 敵か味方か解らない状況で、こちらの手の内を知られるのを凛は嫌った。

「…………」

 すると、葛木がのび太から視線を外し、すっと正面へ向き直った。
 一切の澱みのない、自然な挙動であった。

「解った。ならば、話は早い」
「え」
「手を貸す」

 答えは簡潔にして明瞭。
 葛木はそのままゆっくりと腰を落とし、手の指を曲げ拳法のような型を取った。
 普段凛の使う中国拳法とも違う、どこか異質さの漂う構えであった。
 凛の眦が吊り上がる。不審がっていた。

「……どういうつもり?」
「言葉の通りだ」
「まさか、キャスターを取り戻す気? いえ、それにしたって本来、敵のわたし達に協力って」
「…………」

 凛の言葉に、葛木は反応を示さず、構えを崩さない。
 そこに、オドロームの高笑いが再度響き渡った。

『グハッ、ワアッハハハハハ!! ヤケでも起こしたか! 情夫ふぜいが笑わせてくれる! クッ、ククク……!」

 神殿が揺れるかと思われるほどの音量であった。
 腹を抱えるオドロームに目もくれず、葛木は型を保ったまま。
 しかし首魁の抱腹絶倒から数秒経って、ゆっくりと唇が動いた。

「オドローム、と言ったか」
『くく……ふふ、どうした?』
「俺はキャスターの情夫ではない。そして、キャスターは愛人でもない」

 やはり、葛木の言葉に抑揚はない。
 オドロームの口角が、さらに三日月に吊り上がる。
 多分の嗜虐心と幾分かの関心が、その歪んだ口角に入り乱れていた。

『ほう、ではなんだというのだ。遺言代わりに聞いてやろう』

 葛木が、目だけをオドロームへ向ける。
 感情の色も、輝きもなく、しかし茫漠の中に断固たる意思を感じさせる目であった。



「――――婚約者だ」



 途端巻き起こる、大気を揺るがす高笑い。
 それと同時に、異形が葛木目掛け踊りかかった。

『Syiiiiiiiaaaaa!』

 六剣を振り上げたスパイドル。
 一撃を貰ったせいか、頭に血が上り、ほぼ半狂乱状態だった。
 それ故に、敵意は純粋。そして苛烈。
 リミッターの振り切れた重機のように、無秩序な暴力の塊として荒れ狂う。

「――――すぅ」

 瞬間の一呼吸。
 迫る脅威にも、葛木の無表情は崩れない。
 空気を引き裂いて、大蜘蛛の六剣が唸りを上げる。

「――――はぁあ」

 音もなく肺の空気を吐き出し、凶器を一瞥。
 微塵の動揺も窺わせぬまま、葛木は腕を振るった。
 空気が右から左に流れるような、不自然なまでに自然。そんな静に近似した動。

「……ぅあ!?」

 彼の背後で、のび太が目を剥く。
 そのさらに後ろには、凛の驚愕に染まった表情があった。
 重い玄翁で、巨木を思い切り叩いたような、鈍く分厚い音が響く。
 
『Gyiiiiiiiiaaa!?』

 同時に、スパイドルが前と同様に、大きく吹き飛んだ。
 二メートルを超す巨体が、砲弾のように錐揉みしながら水の兵士達をなぎ倒していく。
 目を見張りながらも、凛の目は捉えていた。
 敵の胴の真ん中、鳩尾の辺りに深く刻まれた拳の形を。

「……拳法」
「これが『拳法』なのかは知らん。正しい名も知らん。“蛇”と耳にした事はある」
「“蛇”……か。それにしては二回とも派手にぶっ飛ばした……」
「あれは単に力で吹き飛ばした」

 葛木の平坦な物言いとは逆に、凛の眉根が吊り上がった。
 狂戦士化されたジャンボス・スパイドルは、サーヴァントに比肩するほどの力を持つ。
 それを葛木は、技ではなく、単純に筋力のみで吹き飛ばしたと言った。
 もしも彼の言葉通りとするなら、その膂力は生半可なものではない。

「ひょっとして」

 彼の手袋に施された『強化』魔術が、とも考えたが、凛の理性はそれをすぐ否定する。
 『強化』の範囲は手袋を着けた指と手に限定されている上、術のベクトルが手を固く防護するような形に集束していた。
 魔術師として、キャスターの足下にも及ばない凛だが、それでも魔術師の端くれである。
 術の詳細は解らなくとも、効果とその範囲程度は読み解ける。

「…………」

 数瞬の沈黙。
 凛の決断は早かった。

「のび太に敵を近づかせない事。それから、オドロームまで剣を届かせる道を作る事。それが役目です。『葛木先生』」
「解った。役割は果たす」

 首肯と共に、葛木が応じる。
 そして、水兵の波がどっと押し寄せてきた。

「き、来た!?」

 のび太が僅かに怯む。
 寡兵を、大勢で押し潰す。シンプルかつ最も厄介な手法。
 兵質の良し悪しは別として、群集が迫り来るその威圧感は並ではなかった。

「――――野比、少し下がれ」

 それにいささかの動揺も見せず。
 暴力の嵐に、葛木は欠片の躊躇もなく飛び込んだ。

「あっ、待って……ぇえ!?」

 伸ばされかけたのび太の手が、ぴたと止まる。
 なぜ葛木の拳が“蛇”なのか。
 驚きに丸くなったその目で、のび太ははっきりと理解した。

「…………」

 風が隙間に入り込むように、するりと葛木が群集へ滑り込む。
 そして、最も手近にいた最前列の水兵目掛け、その両の腕をしならせた。

「うわ!?」

 途端、ぱん、と水兵の頭部が弾けた。
 兵士の頭部があった場所には、手袋に包まれた葛木の拳が。
 水風船に針を刺したように、辺りに飛散する水飛沫。魔力の光が飛沫に反射し、空気を微かに白くする。
 悲鳴にも似たのび太の声を余所に、しゅるりと拳を引き戻した葛木は、淡々と腕を振る。
 それはまるで、雑草を刈り取っていくようだった。

「これは……」

 拳を頭にした腕の軌道は、敵の身体表面を這うように。
 行き先は、水月・延髄・人中といった人にとっての急所。
 一撃で確たる手応えなければ別の急所へ二撃目を、二撃目でだめならさらに別の急所へ三度目を。
 人体の脆弱な場所へ次々と、指を折り曲げ面積を小さくした拳を叩き込む。
 無慈悲なまでに効率的な破壊を、最小限の労力で成し遂げる。
 ダンスのように優雅でも、演舞のように流麗でもない。捻じ曲げられたパイプのように不恰好で、だがこの上なく無駄がなかった。
 剥き出しにして無情、そして無機質。その在りようは、もはや『武』ですらない。
 あらゆる装飾は削ぎ落とされ、裏表のない暴力の地金だけが露出している。
 それが、この技とも呼べない技術を見慣れぬ奇術へと昇華させていた。
 すべては、只管に単純な目的のために。

「絶対に殺す。たった一度の見敵必殺のためだけに極められた術、か」

 武を嗜む凛だから解る。
 目の前のこれは、初見殺しの暗殺術。たとえどんな相手だろうが、初回である限りはその奇怪な打撃軌道で必ず標的の虚を突ける。
 知らず、凛の舌が動き、乾いた唇を湿らせた。
 空気のように色もなく、そして冷然と敵を屠る様は、彼女に処刑機械をすら連想させる。
 鋼の蛇が、しゅるしゅると獲物を求めて這いずり回っていた。

「…………」

 無言の殺戮。葛木の身には殺気も、闘志も見られない。
 しかし一体、また一体と、水兵が飛沫となって散ってゆく。
 それが、凛に決断を下させた。

「正念場ね。のび太!」
「えっ?」
「一気に行くわよ。“バリヤーポイント”を準備なさい」
「は……?」

 賭けるなら、この時をおいて他になし。
 ぽかんとするのび太に頓着する事なく、軍配を翳すように凛が腕を振るった。


 





[28951] 第五十五話
Name: 青空の木陰◆c9254621 ID:9cb8716e
Date: 2016/10/01 00:10


 



『ふん……小賢しい』

 オドロームが鼻を鳴らす。
 まさに、一気呵成。
 モーゼの十戒さながらに、兵士の海を割り裂いて来る勢いは、怒涛であった。

「フー子、合わせて!」
「フゥ!」

 叫ぶや、魔術師の女が宙へ宝石を大量にばら撒く。
 そして台風の少女が暴風を生み出し、宝石を風の中へ巻き込みながら前方へ叩きつけた。

「全解放――――凍てつけぇ!」

 水の兵士が次々嵐に揉まれ、消える。
 さらに被せて、宝石から解放された猛烈な冷気が、飛び散る遺骸の飛沫すら凍てつかせた。
 戦場には似つかわしくない、ダイアモンドダストが吹き荒れる。
 だが、面の広範囲を包み込むようなそれでも、如何せん多勢に無勢。
 波が引いても、海はそのままだ。数の暴力で、どうしても討ち漏らす敵は出てしまう。

「ち、っ!」

 一体、二体、三体と。破壊を逃れた傀儡が動く。
 怯みも慄きもなく、命すらも惜しまない。ただ諾々と、命令(コマンド)のままに全力で目標へと突貫する。
 この兵士に、心などない。敵意も戦意も、およそ心に関するものは何一つとして備わっていない。
 故に。たとえ自軍が磨り潰されようと、腕と脚は盲目的に動き続け、止まる事はない。
 
「…………」

 だが、水の兵士は近づけない。
 近づく前に、弾け飛ぶ。
 色なき蛇が、空気に溶けてするすると絡みつくように腕を振るっていた。
 鎧に覆われていない、人体の脆い箇所へ正確な一撃を放ち続ける。
 漏れた兵士は、須らく彼の手により元の水へと還元されていた。

「よし、このまま行く!」

 戦力が限られている上、兵力の差は圧倒的。
 加えて戦場は敵地。だからこそ僅かだが援軍を得た今、一気に片をつける。
 後がない。これ以上の時間はかけられない。

『……そう考えたか』

 短期決戦。立場が逆なら、己もそうする。
 女の思考を追いながら、オドロームは、自軍の惨状を眺めていた。
 感情は、至って平静。むしろ僅かに愉悦を覚える。

『所詮は人形。その気になれば、この有様か』

 オドローム自身が生み出したとはいえ、特別製のジャンボスとスパイドルとは違う。
 数を最大の強みとしたため、反比例して戦闘力はたかが知れたものとなった。
 敵の前では、せいぜいが暴力と無縁な一般人よりもましな程度。
 しかし、それでも相手の神経を削る嫌がらせ程度にはなる。
 そのために、オドロームは傀儡の数を維持し続けていた。

『まあ、いい。せいぜい悪足掻きするのだな』

 竜巻が荒れ狂い、魔術の氷雪が空気を凍らせ、蛇の拳が飛沫を散らす。
 嵐のような猛攻によって、潮が引くように消えていく雑兵。
 しかし、そんなものは魔王にとっては些事であった。
 神殿に集う魔力で生産エネルギーは尽きず、地下水脈から材料はいくらでも調達出来る。
 製造など、魔王にかかればたいした手間ではない。
 やられた端から、作り直してどんどんつぎ込めばいいだけであった。

『さて、この分では辿り着くな。ここに』

 敵の狙いは明白。頭を潰すつもりで、魔王への活路をこじ開けている。
 その証拠に、全力を以て立ち塞がる敵を押し潰しているのは、白銀の剣士以外だ。
 剣士は集団の中央で、剣を抱えて脚だけを前へ動かしている。
 たったひとりが持つ刃を魔王の眼前に押し出すために、周りが力を振り絞っている。
 このままの勢いを維持すれば、遠からず目的は果たされる。

『だが、その時が最期だ』

 にしゃあ、とオドロームの顔が邪悪に歪む。
 それと同時に、鼓膜が裂けるほどの猛烈な風音が吹きすさび、兵士の海がばっくりとふたつに割れた。
 魔王へ至る直通路。そこを一塊となった一団が、まっすぐ突き進んでいく。
 疾き事、風の如く。時が惜しいと言わんばかりの勢いだった。

『ふん、威勢がいいな。だが、なにか忘れてはおらんか?』

 魔王が呟いたその時、一団からひとりが、空へ舞い上がった。
 体格は小柄。眼鏡をかけた顔には、疲労と虚勢と恐怖と、一片の度胸。
 羽の回る、耳障りな機械音をBGMに。片方にはピストル、もう片方には銀に輝く諸刃の剣が握られていた。

『ここに辿り着いたその時が最期だ、白銀の剣士よ!』

 敵を煽るように、オドロームは大きく諸手を振り上げた。
 高笑いの下に、タールよりも黒く粘つく狡猾さを潜めながら。






 切り開いた道半ば、魔王まで残り僅かのところで、凛の声が轟いた。

「行きなさい、のび太!」
「はっ、はいぃいい」

 合図とともに、のび太は頭につけた“タケコプター”のボタンを押す。
 次いで、ぎりぎりまでバッテリーを温存していたポケットの中の“バリヤーポイント”のスイッチを入れ、一足飛びに宙へと舞い上がった。
 誰にとっても、踏ん張りどころ。チャンスはここしかない。
 心身とも疲労困憊だが、のび太はなけなしの気合いを入れた。

「い、行くぞ、オドロームっ!」

 右手に“白銀の剣”を握り締め。
 半ば突撃するようにして、のび太はオドロームへ空から急接近を図る。
 目標は、神殿の屋根に程近いバルコニー。
 登場からここまで、魔王はそこから一歩も動いていなかった。

『甘い』

 刹那、オドロームが杖を振り上げ、杖から大量の炎がどっと噴出した。
 マグマのように毒々しい赤をしたそれは、突進を遮る大きな壁となってのび太へ迫る。

「うわ!?」

 突如現れた炎の壁に、のび太のスピードがぐっと鈍る。
 身を守ってくれる“バリヤーポイント”こそあれど、眼前の圧力は恐怖を誘う。
 しかし、それでものび太の前進は止まらない。
 こんな事もあるだろうと、事前に凛から言い含められていた。

「フゥウウウ……えいっ!」

 立ち塞がるものは、全部こちらが引き受けると。
 のび太の脳裏に凛の顔が掠めた刹那、暴風の塊が、のび太の背後から吹き抜けていった。

「わひっ!」

 ごう、と強烈な追い風。発生元は言わずもがな。
 切られると錯覚するほどの唸りが耳に轟いた次の瞬間、ぼっと炎の壁が雲散霧消した。

「ええ!?」
「んっ♪」

 後ろを振り返ったのび太の目に、フー子の小さなガッツポーズが飛び込んでくる。
 如何に魔王の炎と言えど“竜の因子”に支えられた彼女にとっては、バースデイケーキの蝋燭にも等しかった。

『それがどうしたぁ! ぬん!』

 魔王が叫ぶや、今度は杖から幾条もの稲妻が奔る。
 ばちばち剣呑な音を立て、空気まで焦がせとばかりに猛り、稲妻の矛先が標的へ向けられる。
 うっ、と呻いたのび太の速度がさらに鈍る。
 今にもズボンの前が湿りそうなほど、顔に再び恐怖が兆す。

「させないっ!」

 まさに発射される寸前。
 雄叫びとともに、のび太と杖の間に掌半分ほどはあろうかという、大きな宝石が飛び込んできた。

「わっ!」
『ちぃ、小娘が!』

 舌打ちとともに、オドロームの杖からビームと見紛うほど分厚い稲妻が解き放たれる。
 光の速さでのび太へと迫ろうとしていたそれは、本来の狙いを逸れ、割って入った宝石へと激突する。
 ばちばちと、合金の溶接にも似た派手な火花と異音。無機物が焦げる形容し難い臭いが、のび太の鼻を刺激する。
 やがて空気が抜けるような音を残して、宝石は粉々に砕け散った。

「間一髪、か」

 のび太が声の先へ目をやると、そこには投擲の腕を振り抜いた凛の姿があった。
 身体に施した『強化』にあかせて、野球の右翼手よろしく大遠投のレーザービームを敢行し、宝石を無理やり割り込ませたのだ。
 ただし、成果とは裏腹にその表情は渋い。

「逆属性のとっておきでも、あっさり粉微塵なんてね」

 歯軋りの音が混じった、呪詛のような呟きが彼の耳にか細く届く。
 最上効果の手札を切ってなお、魔術師としての格の違いを思い知らされた屈辱が、音のひとつひとつに滲み出ていた。
 英霊と人間では致し方なし。しかし、それでも目的は達成した。
 この瞬間、オドロームとのび太の間に一切の障害はなくなったのだ。

「今だっ、それ!」

 アクティブからトップへ、のび太のギアが切り替わる。
 遅れた分を取り戻すように、ぐっと加速し、オドロームへ飛び込もうとする。
 一度はやってやれた事。怖かろうが怯えようが、二度目に対してやれない道理はない。

「オドローム!」

 一気に迫るバルコニー。魔王まであとほんの僅か。
 遮る物は、なにも見当たらない。敵は、稲妻を放ち終えた杖を振り上げたままだ。
 パラシュートを切り離したスカイダイバーのように、空中からバルコニー前へ躍り出る。

「喰らえっ!」

 剣を突き出す。速度を上乗せした、今の己に出来る最大限の攻撃。
 のび太が仕掛けようとした、その刹那だった。

『……ふん』

 鷲のようなオドロームの口が、微かに三日月に歪む。
 それと同時に、剣の切っ先がオドロームの鳩尾ど真ん中に触れる。
 やった、という確信をのび太が抱くその前に。



「――――え?」



 勢いそのままに、すうっとのび太の身体がオドロームをすり抜けた。

「わっ、わぁ!?」

 驚愕を他所に、猛スピードで迫るバルコニーの壁。避ける間もなく、のび太の身体が激突する。
 だが、張っていたバリアが彼の身を護り、代わりにのび太はゴムボールのように弾かれ、床に転げ落ちた。

「あ痛っ、たた……な、なんで?」

 仕留めたと思ったのに、手応えなく消えた。
 突然の事態に思考が追いつかない。だが、それでも離さなかった剣を杖に、彼は急いで起き上がる。
 そしてふと、過去のある光景が脳裏を掠めた。

「あっ! ま、まさか幻!?」
『――――その通り。間抜けを晒したな』

 がば、とのび太の顔が跳ね上がる。
 彼の視線の先、数メートル先の上空には、嘲り笑いを浮かべた首魁の姿があった。

『一度見た事を忘れているとは、笑わせてくれるわ。白銀の剣士も安くなったものだ』
「うぅ……っ」

 悔しさを噛み殺して、のび太は剣を構え直す。
 不恰好だが、これ以上間抜けは晒せない。
 吶喊が不発に終わったとはいえ、いまだ敵は目の前にいる。
 ならば、やるべき事はひとつ。

「か、構うもんか、まだだっ!」

 膝を曲げ、再び宙へ飛び上がる。
 気概は削がれこそすれ、折れてはいない。
 今一度の突撃を仕掛けんと、のび太の頭の“タケコプター”が唸りを上げた。

『……クッ、ク』

 それでも、宙のオドロームは揺るがず。
 含み笑いと共に、ぱちん、と指を鳴らした。



『――――これでもかな?』



 ぶぅん、とふたりの間の空間が歪む。
 次の瞬間、歪みから吐き出されるように現れた人物に、のび太の吶喊は止まる。
 止まらざるを得なかった。

「セイ……バー!?」

 オドロームが繰り出した奇手。
 それは、強制支配に抗い続ける騎士を呼び出し、楯にする事であった。
 これまで以上にとびっきりの卑劣な手。だが、これ以上なく効果的な手。

「ぐ……ぁ……」

 精根尽きかける彼女の顔は蒼白に染まり、死人のそれに近い。
 輝きの薄れた視線定まらぬ瞳と、のび太の目が噛み合った。

「う!?」

 消えかけの蝋燭。彼女の意思の霞んだ目が、のび太にそれを思わせた。
 彼女を伝う幾条もの魔力の紫電が、いまだ崩れぬ彼女の抵抗を示している。
 彼女の口から漏れる言葉は確たる意味を持たず、重力に逆らわぬ四肢は、彼に糸切れたマリオネットを思わせた。
 少年に、火のように赤く激しい感情が灯る。

「ひ、卑怯だぞオドローム!」
『なんとでも言うがいい。使えぬ手駒をここぞという時に役立てる、それのどこが悪い? この女の存在が頭から抜けていた貴様らの失敗だろうに」

 痛快そのものの表情で、オドロームは高笑いを上げた。
 事実、セイバーの楯はのび太にとって千の兵士よりも厄介だった。
 攻撃は出来ない。刃も銃口も向けられる訳がない。
 乾坤一擲の吶喊も止められてしまった。のび太に出来るのは、セイバーを挟んでオドロームと向き合う事のみ。
 だが、オドロームは違う。邪悪に歪んだ愉悦の顔で、追い討ちの言葉を吐き出した。

『それから……こやつ等も忘れては――――いまいなぁ!』

 ぶん、と横薙ぎに振るわれる杖。再びオドロームの周囲がぐにゃり、と歪む。
 中から吐き出されたのは。

『Guoooooooh!』

 耳の翼をはためかせ、諸手で剣を構えるジャンボス。
 そして。

『Syiiiaaaaa!』

 六本のレイピアを一斉に振りかぶるスパイドルだった。
 のび太の顔から血の気が引く。

「おねえちゃん、のびたっ!?」

 地上で、フー子が悲鳴を上げた。
 風で敵を撃ち落とそうにも魔力を貯める時間がなく、この距離では間に合わない。
 それは、彼女の隣の凛も同じであった。
 せめても、と宝石を手にしながら、顔を歪ませ歯噛みする。

「……――――」
「葛木先生!?」

 無言のまま、葛木が駆け出す。前方に立ちはだかる兵士を拳で砕きざま、人の限界に迫るほどの速度で。
 だが足掻きも道半ばで頓挫、単騎の四肢では物量の壁は厚く高い。瞬く間に直線ルートを塞がれて、減速を余儀なくされた。
 そしてセイバーを間へと挟んだまま、オドロームの杖がのび太へすっと向けられる。

『さあ、逃げ場はないぞ。妙なバリアを張っているようだが……クク、見くびり過ぎだ。そんな薄紙、抜く方法などいくらでもある。そもそも、この術に果たしてその壁は耐えられるかな?』
「うひ!?」
『女諸共に塵と消えろ、白銀の剣士!』

 どろつくほど濃い魔力がオドロームの杖先へ収束する。
 触れた者を灰にするあの光線だと、のび太は確信した。
 言葉以上に、一度喰らって灰にされた事がある。見間違うはずがない。

『Goooaaaaaah!!』
『Syaaaaaaaah!!』

 ジャンボス・スパイドルの挟撃。正面にはセイバーごと撃ち抜こうとするオドローム。
 地上からの援護も間に合わない。
 のび太の心臓が痛いほどに縮んだ。特攻を仕掛けた時の比ではない。
 剣を持つ手も、銃を構える手も震えるだけで動かない。

「ぅぐ、ぎ……」

 生気のない声がのび太を叩くが、そんな時はない。
 死神の鎌は、首筋にひたりとくっついていた。
 
「あ――――」

 瞳が、恐怖に塗り潰される。ぞくりと全身が総毛立つ。
 掠れたのび太の悲鳴が、風に流れて消える。



『死ねぇい!!』



 闇をも揺るがす魔王の雄叫び。その刹那であった。
 のび太の耳が、大気を引き切るような異音を捕らえたのは。

「え……?」

 気配は背後。のび太の首が微かに後ろへ動く。
 絶命の恐怖から彼の気が僅かに逸れたその時には、すべてが一変していた。

『Guaaaaaaooooooh!?』

 ぼっ、という異様な音と共にジャンボスの片耳の翼が消し飛んだ。
 血を吹き散らし、絶叫を上げて瞬く間に落ちていくジャンボス。

「G……oooooh」

 意図せぬ損傷に狂気の瞳が明滅する中、地面まであと一メートル。
 そこへ、ようやく兵士の壁を突き破った葛木が飛び込んだ。
 視線はのび太から切られ、手負いの獣へ向けられている。
 もはや心配は要らぬと言わんばかりに。

「……ぬん!」

 そして迷いなく振るわれる蛇の拳。
 鋼よりも硬いそれが地すれすれを這い、ごきりと迷いなくその首を下から折り砕いた。

『ぐお! な、なにぃ!?』

 それと同時に、先のものとは正反対の、焦燥めいた魔王の雄叫びが上がった。
 オドロームの杖を掲げた腕。そこに『ナニカ』が深々と突き刺さっていた。
 それは刹那の前、大気を切り裂いてのび太の脇を高速ですり抜け、狂戦士の翼をもぎ取ったものであった。

『ば、馬鹿な、これは……なぜだ!? なぜこれが複……ありえん!?」
「な、なんだ?」

 白とも銀とも取れる、細い物体。
 混乱と焦燥の混じったオドロームの罵声を他所に、恐々ながらも、よく見ようとのび太が目を凝らそうとした。
 だが、その視界が突如、壁のようなものに遮られる。



「――――秘剣」



 壁と見間違えたのは、高速で、しかしふわり、と下から躍り出た誰かの背中。
 のび太の耳に三音の言葉が届いたと同時。

『Sygiiaaaaaaaah!?』

 しゃりん、と鳴る鉄の音。
 途端、スパイドルの身体がするりと三枚に下ろされた。

「え……あ」

 思考が追いつかない。
 切り身が盛大に吐き出す断末魔にも、血飛沫にも彼の意識が引かれる事はなく。
 混乱の兆すのび太の目がまず理解出来たものは、眼前の背中の正体。

「か、刀……?」

 群青の羽織を翻す優美な侍に、彼の意識は引き寄せられた。
 が、それもすぐに終わる。

「ぅわ!?」

 突如、背後から首根っこを引っ掴まれ、ぐいとナニカに引き寄せられる。
 次から次に、いったいなにが起こっているのか。
 混乱の極みにあるのび太の脳が理解する前に、彼の口が熱く、柔らかいモノに貪られた。

「む!? んぅぐ……!」

 怒涛のように押し寄せる矢継ぎ早の出来事に、何が何やら解らない。
 疑問だらけで爆発しそうな彼の頭で、この瞬間、辛うじて理解出来たのは。

「むぅ、うっ!?」

 ぼっ、と鳩尾に弾けた、焼きごてを当てられたような灼熱の感触。
 そして。

「ぅ、ん……ん」

 同じ熱、同じ香り、なにより同じ味という事。
 脳髄を溶かしそうな、甘く痺れるこの感覚が舌と唇を覆ったのは、これが二回目であるという事だけであった。
 





 結果は、放たれる前に既に解っている。
 神言にも似た不遜な物言いではあるが、言葉に表せばそれ以上言いようがない。
 それは弓・拳銃・大砲に限らず、おおよそ射撃の頂に立つ者達が意識的、無意識的の差こそあれ、持つ認識だ。
 狙い定める。それだけで結果は決まってしまう。
 矢を取り、番え、放つのは、ただ『当たる』結果に過程を繋いでいるにすぎない。
 弓弦を引き絞った時には、もうすべて終わっている。
 結果ありきの、一本道。
 射に限って言うならば、今の彼の中で因果は逆転していた。
 たとえそれが、何百メートルと離れた的であろうと。

「……ふう」

 残心をしつつ、士郎は息を吐く。
 常の『強化』を優に超す魔力の消費は、彼にとって初めての事。
 酷使にじりじりと荒れ狂う体内の魔術回路に、鈍い頭痛と吐き気を覚えるが意思で無理矢理捻じ伏せた。
 放ち終えた弓弦の響きを他所に、彼は一瞬だけ、隣に立つ者へ視線を向ける。

「…………」

 彼と同じく、黒塗りの弓を携えた猛禽を思わせる偉丈夫。
 彼と異なるのは、番えた矢に彼以上に丁寧に魔力を練り込みつつ、弓弦を引き絞っている事だった。
 刹那向けられた一瞥に気を留める事もなく、鋭い目で標的を見据えている。
 限界まで圧縮した意思を矢に束ね、波立たぬ水面のように微かな揺らぎも見えない射の構えは、偉丈夫もまた射撃の頂に立つ者である事を示していた。
 士郎と同じ、結果ありきの過程を辿る者。

「これで、最期だ。弾けろ化生」

 同時に、士郎にとってはあらゆる意味で己の最果てに立つ者でもあった。
 弓弦の撥ねる音。
 音速の唸りを上げて、大気を切り裂く長い白銀の弾丸が、狂乱する魔王の眉間から頭部を貫く。
 そして。

「『壊れた幻想(ブロークン・ファンタズム)』」

 炸裂。
 耳を覆うほどの爆音と、目も眩むような閃光の中で、幻ではない魔王の頭が確実に消し飛んだ。
 あの『アンゴルモア』と同様に。



「――――状況、終了。敵の殲滅を確認」
「……終わった、か」



 ピリオドの言葉と共にもう一度、士郎は大きく息を吐いた。
 消耗こそあれ、味方に死者はいない。
 キャスターの屋敷襲撃に始まり、二転三転した死闘も、これで一応の決着を見た。
 嵐のような不測の死線を乗り越えた事に、士郎の肩が僅かに軽くなる。

「…………」

 そしてふと、己に視線が向けられている事に士郎は気づく。
 彼が隣へ目をやると彼の想像通り、赤い弓兵がその鈍色の瞳を突き刺していた。

「…………」

 それが何を意味しているのか。
 表現する事は難しいが、なんとなく、彼には解る気がした。
 交錯する視線。互いに言葉は発しない。
 やがて、それも終わりを迎える。

「……合流するぞ。ここにいたところで意味はない」
「んっ、ああ。そう、だな」

 視線を切り、アーチャーの脚が動き出す。
 澱みなく進む背中を追いかけるように、士郎もこの場を後にした。






 ――――いつか、どこかでけじめを付けねばならないと、頭の片隅に思い浮かべながら。









[28951] 第五十六話
Name: 青空の木陰◆c9254621 ID:4e5b2755
Date: 2016/12/11 16:33





 時空間の調べを終えたドラえもん、しずか、スネ夫を出迎えたのは、どうとも形容しにくい異様な臭いだった。

「う、うっぷ!?」
「な、なんなの、この匂い?」

 のび太の机の引き出しを内から開けた途端に、一斉に鼻を摘まむ。
 刺激臭とも、腐乱臭とも違う。
 例えるなら一般家庭の冷蔵庫の中身一切合財をぶちまけて常温で放置しつつ、さらに一晩天日干ししたかのような。
 鼻を突く、妙なえぐみすら混じっている不快な臭い。
 順に引き出しから出た三人の眉間には、ぎゅっときつく皺が寄っていた。

「おっ。終わったのか、どうだった?」

 反射的に、三人の目が声の方へと向く。
 声の先には、あぐらを掻いたジャイアンがいた。
 その横に、彼と向かい合わせる形でバゼットが、こちらは折り目正しく正座をしていた。
 そしてふたりの間、畳の上にお盆がひとつ置かれており。
 盆上にはスプーンの乗った空の皿が一枚、ほんのりと湯気を立てていた。
 三人にとって、すべてを悟るにはそれで十二分。

「じゃ、ジャイアン?」
「なに、してたの? 今まで……」

 ドラえもん、スネ夫がジャイアンへ問いを投げる。
 若干の怖れの混じった声は、確信のための確認作業でしかなかった。



「おう。バゼットさんが腹が減ったって言うもんだからさ。台所を借りて、オレさま特製のスペシャルジャイアンシチューをだな」



 聞かなきゃよかった、と後悔しても時、既に遅し。
 胸を張り、一点の曇りもない、善意百パーセントの朗らかさで告げるジャイアンに、三人はうっと閉口した。

「結構考えたんだぜ。あんまり待たせる訳にもいかないし、けど栄養たっぷりのものにしないといけないからさぁ」
「そ、そう」
「えーと、なに入れたっけな。冷蔵庫にあったものをいろいろ使って鍋に……ああ、ニンジンに、キャベツに、タマネギ、しいたけ、コンソメに、それから鶏肉だろ」

 あれ、とここで三人は思った。
 頼みもしないのに指折り説明された材料が、すべてまともなものだったからだ。
 この材料ならば焦がしでもしない限りは、食べられないものはまず出来ない。たとえ生煮えであろうとも。
 では、焦げ臭とも違うこの壮絶な異臭はいったいなんなのか。
 次に続いた言葉で三人はそれを理解し、そして一斉に吐き気を覚えた。

「あと、セミの抜け殻とヤモリの黒焼きと、オオミミズのだし汁を少し入れて、それとジャムと塩辛に……」
「解った、ストップ! もういいから!」

 それ以上を聞きたくないとばかりに、ドラえもんが後を遮った。
 スネ夫としずかの顔は既に真っ青で、怖ろしいものでも見るように空の器に視線を注いでいた。
 これは確認しておかなければならない。
 おそるおそる、ドラえもんはバゼットに尋ねた。

「あ、あのぅ、大丈夫だったんですか?」
「はぁ……?」

 これに対して、バゼットが返したのは曖昧な返答であった。
 どうやら、問いの意図が掴めていないらしい。
 シェフもいる手前、ドラえもんは言葉を選びながら再度尋ねた。

「いえ、その、料理を食べて……」
「ん、ああ。そういう事ですか。気分も体調も特に問題ありませんので、食事に支障はありませんでした」
「あ、いや、だからそうじゃなくて。えーと……食べて大丈夫だったんですか?」
「はい。香りは嗅ぎ慣れないものでしたが、必要な栄養素の整ったよいものでした。また機会があればお願いしたいものです」

 なんの含みもない、あっけらかんとしたバゼットの言に、三人の口があんぐりと開いた。
 任っかされよう、と気分よく胸を叩くシェフも気にならない程の衝撃が、三人を貫いていた。

「それはそうと、少々喉が渇きましたね。塩分がやや多かったからでしょうか」
「おう、じゃあ水持ってくる。ちょっと待っててくださいよ」

 バゼットの要望に上機嫌で応えたジャイアンは、部屋を出ると鼻歌交じりに階下へと向かっていった。
 ぱたん、と襖が閉じたきっかり三秒後、ドラえもんにしずかが戸惑いがちに耳打ちをする。
 
「ど、どういう事なのドラちゃん?」
「うーん……た、たぶん、たぶんだけど」

 動揺はまだ収まらず、しかし理由に当たりをつけて。
 ちら、とバゼットを横目に見つつ、ドラえもんは小声で推測を口にする。

「バゼットさん、食事を『美味しい・まずい』じゃなくて『栄養があるか・ないか』で判断してるんじゃないかなぁ?」
「え、ええっ?」
「味は全然気にしない、って事? ジャイアンのあんな料理でも?」

 スネ夫もこそこそ小声で耳打ちに加わる。
 シチューという料理にケンカどころか戦争を売っているジャイアンのお手製を食してなお、文句もなく満ち足りたとのたまったバゼット。
 かつて友人と共にシェフの被害ならぬ食害を被った、彼のバゼットを見る目は、エイリアンでも見るかのようだった。

「そうかも。ひょっとしたら、『美味しい』『まずい』の意味も解らないとか」
「そ、そこまでは……ないんじゃないかしら」
「うーん……魔術師って、そういう人達なの?」

 あの恐ろしい劇物を食して、なお泰然自若。
 まさに魔術師とは、摩訶不思議な存在なり。
 常人離れした鋼鉄の胃と、味を無視する舌を持つ女傑は、そんな畏怖交じりの視線を浴びて怪訝そうにしていた。

「なにか?」

 しかし、他の魔術師からすれば噴飯ものの誤解である。
 あれにかかれば、死徒すらまず泡を吹いて地面に引っくり返る。
 比較出来る魔術師がこの場にいない以上、この女が異常なだけだと気づけと言うのも、いささか無理な話だった。

「い、いえいえ、なんでもないです!」
「……は、そう、ですか?」

 しずかが慌てて誤魔化したところで、すっと襖が開いた。
 ジャイアンが戻ってきたのだ。
 手には、大きめの盆が支えてられている。

「お待たせ~。ついでだから、みんなの分も持ってきたぜ」
「「「ええっ!?」」」

 途端、三人は揃って後退った。
 脳裏に描かれるのは、バゼット好評のシチューとも呼べない未確認の物体X。
 鼻が曲がりそうな臭いと、想像もしたくない材料が煮込まれたアレをありがた迷惑に出されるのかと思うと、竦み上がってしまった。

「も、もしかしてシチュー……を?」
「え? あー、悪いなスネ夫。急いでたもんだから、シチューは一人分しか作れなくてよ。持ってきたのは水だよ、ほら」

 ジャイアンが盆の上のコップを掲げると、三人はほっと大きく息を吐いた。
 ああ、助かった、と。
 震える手で、差し出されるコップを受け取りつつ。
 その心の中では、盛大な勝利のマーチと万歳三唱が行われていた。



「――――そういえば、調べはどのように?」



 ぐい、と一息でコップの中身を干した後。
 ふと思い出したように、バゼットがドラえもんへ問うた。

「あ……そうだった忘れてた!」

 条件反射じみた速さで机を振り返ったドラえもんは、がらりと引き出しを開ける。
 そして、バゼットを手招きした。

「今なら、まだなんとかなりそうです」

 確信の篭ったドラえもんの言葉に、穏やかだったバゼットの眦がきゅっと引き締まった。






 ――――手を伸ばす。手を伸ばす。手を伸ばす。
 届きそうで、届かない。
 今、最も欲して止まないモノ。
 今、彼女にとって最も欠けてはならないもの。
 己が夢幻の命と感情のすべてを捧げ、共に在りたいと願う者。

「――――」

 記憶が纏まらない。思考が纏まらない。
 今の己が、掴めない。
 覚醒しているのか、意識を失っているのか。
 五感も定まらない。視覚も、触覚も、嗅覚も、聴覚も、すべてが薄ぼんやりとしている。

「――――ぁ」

 それでも解るものがある。
 ずるりと、奇妙な感覚を以て頭に刻み込まれる、己ではない『誰か』の知識の断片。
 そして、やはり己ではない『誰か』の知識と、唐突に脳裏を掠めたフラッシュバック。

「――……ぁあ」

 ぴん、と頭の中で線が繋がる。
 それが合図だった。
 霧が晴れていくような、快なる感触が全身を駆け抜けていく。
 目覚めるのだ。それが解った。
 だから求める、なによりも先に。
 彼女が願って止まないモノを、何者よりも大切な者を。

「――――ぁああ」

 手を伸ばす、手を伸ばす、手を伸ばす。
 そして、霧が完全に晴れ、瞼が開いたその時に見たもの。
 それは。

「……宗…一、郎」

 伸ばされた手を確と掴む、求めて止まなかった半身の姿。
 その力強さと熱が、彼女を骨の芯から震わせた。

「……ぁ」

 そして気づく。
 この儚い仮初の肉体に息づいた、あり得ない奇跡に。






 葛木の腕の中で、キャスターがゆっくりと身を起こす。
 そして、己のすぐ脇にいた存在に気づくと、ぼんやりとしていた顔に、きっと理性の色が浮かんだ。
 すべてを納得した、そんな表情だった。

「……成る程、救われた、という訳ね。敵だった貴方達に」

 キャスターの視線に捉えられた眼鏡の少年が、片膝立ちのままぎくりと身を引いた。
 その手には、時計柄の布がぐっと握り締められている。
 理屈原理は解らずとも、遠見によって種を既に知っている彼女にとって、そのヒントだけですべてを悟るには十分だった。

「それは少し違うな。真に貴様を救ったのは、己が焦がれた男だ」

 キャスターの振り返った先には、赤の外套を纏う褐色の男がいた。
 そしてその背後には、士郎、凛、ライダー、フー子が立っており、横たわったキャスターを見下ろしている。

「マスターに感謝する事ですね。その男の懇願がなければ、我々は消え行く貴女を放り捨てていました」
「…………」

 ライダーの声を合図に、キャスターの顔が再度己のマスターを仰ぎ見た。
 葛木の手は、まだキャスターの手を握り締め、腕は地面に横たわるその華奢な身体を支えている。

「宗一郎……様」
「不調はないか」

 どこまでも乾いた物言いだった。
 だが、彼女にとってはそれですべてが伝わるようで。
 
「ええ……ありがとう、宗一郎」

 儚げな、しかしはっきりとした笑顔。
 頷きも返答もなく、葛木はそっとキャスターの手を離す。
 そしてポケットにしまっていた眼鏡を取り出し、ゆっくりと己の顔にかけた。

「そうか。問題がなければそれでいい」
「……けれど、どうして貴方はそこまで、っ……いえ」

 つい、といった風に口を突いて出た言葉に、はっとキャスターの顔が伏せられた。
 前髪に隠れ、目元が陰になる。
 そんな彼女を気にする風でもなく、視線を宙に投げ出したまま葛木の唇がゆっくりと動く。

「前に言ったはずだ。願いの成就をお前が望み、手を求めるなら、俺はそれに応えるだけだ、と」
「…………」
「それに」

 そこで葛木が、ひとつ間を置く。
 そして告げた。この場の誰もが予想しない言葉を。
 この男を象徴する、抑揚のない無色の声で。



「夫は妻を護るものだと聞いている。仮初とはいえ、俺はお前と婚約をした。ならば、囚われの妻をこの手に取り戻す事に、それ以上の理由が必要か」



 水を打ったように、周囲が静まり返った。
 キャスターはおろか、のび太も、士郎も凛も、他の者も声を失っている。
 あまりにも、稚拙で、陳腐で、歯の浮くような気障ったらしい言葉。
 しかし、どこまでも真っ直ぐで、一切の混じり気のない、清流にも似た真心の響きがそこに確かにあった。

「――――っ……ふふ」

 静寂の帳を破ったのは、彼の女だった。
 顔を俯け、口元を三日月に歪めたキャスターが、やがて周りに木霊するような大声で笑い出した。

「あっはははははははははっ、あは、あはははは!」

 腹を押さえ、盛大に身を捩じる。
 だが、笑い声には嘲りや愚弄といったの負の感情は含まれていなかった。
 一頻り笑い終えた後、それでも含み笑いを漏らしながらキャスターの口が動く。

「ふふ……ふふふ、ほんと、馬鹿なひと」

 そう呟くと、俯いていた顔をゆっくりと持ち上げる。
 透き通るような、愛に満ちた微笑がそこにはあった。

「そんな貴方だから、最期に力を振り絞って、逃がしたというのに」
「……俺にはお前を振り捨てる選択肢などなかった。この身体が動く限り、お前の願いを失わせない。放り出された御山の麓で、ただそれだけを考えていた」

 目じりに浮いた涙を払い、薄幸の佳人は己の主の顔へと再び手を伸ばす。
 この世にふたつとない宝物を、手に取るように。

「――――イアソンからは、終に聞く事はなかったわ。そんな言葉」

 当たり前といえば、当たり前だけれど。
 そうひとりごちたキャスターの顔が、葛木の耳元へ寄ると。

「私の願いは……」

 そっと、愛しの主へ密やかに囁いた。
 葛木の表情は変わらず無表情のまま。
 しかし、その視線はキャスターへと向かっていた。

「……夢を見た。キャスター、お前は帰りたいのではなかったのか」
「夢を……ああ。ええ、帰りたかった。あの頃の故郷へ。それは事実です」

 言葉少ななキャスターの吐露を、葛木が静かに、ありのまま受け止める。
 いまだ彼女を支える手には、いささかの揺らぎも見られない。

「でも。羽休めに立ち寄った渡り鳥が、居心地のよさに住処を決める事もあるでしょう?」
「…………」
「それに、かつての『私』には、既にピリオドが打たれていますもの」

 あらゆる意味において、ね。
 キャスターは最後のみを小さく、しかし決然と呟いた。

「今、ここにこうしている私の願いは、先程申し上げた通り。貴方以上に望むものなど、ありはしません」

 葛木はやはり黙したまま。
 だが、視線はキャスターから離れてはおらず。
 
「……そうか」

 ただ一言呟いて、キャスターを支えたまま、すっと立ち上がった。
 キャスターの身体も、つられて立ち上がる。

「それが、お前の願いか」
「……はい」

 葛木が再度問う。
 躊躇いもなく、はっきりとキャスターが首肯した。

「解った」

 葛木は一度頷くと、くい、と眼鏡の位置を直す。
 そしてやはりこの男特有の、抑揚のない、無色の声で告げた。
 何人にも侵し難い、魂の宣言だった。



「――――願いがなんであろうが、約束は決して違えん。俺は、お前の願いに応えよう。この乾ききった己の、すべてをかけて」



 あとは、言葉など無用なもの。
 キャスターの目が大きく見開かれ、その瞳から、大粒の涙が零れ落ちた。
 
「ああ……っ、宗一郎!」

 成就した願いに、歓喜の叫びが木霊する。
 感情の爆発の勢いに任せ、愛しい主に飛び込むキャスター。
 葛木はただ、キャスターを静かに受け止め、その両腕でそっと彼女を包み込んでいた。
 








 ※ステータスに『キャスター?』『アサシン?』の項目を追加。






[28951] 第五十七話
Name: 青空の木陰◆c9254621 ID:4e5b2755
Date: 2017/02/20 00:19






「――――さて。うむ……そろそろいいだろうか。魔術師の英霊殿」



 メロドラマのクライマックスからややもして。
 半ば蚊帳の外となっていたエキストラのひとりが、空咳交じりに声を投げる。
 これ以上は用が済んでからやれと言わんばかりの、痺れを切らした声だった。

「……ふぅ」

 そこでようやく、キャスターの顔が葛木から離れる。
 しかし、その動きは緩慢で、どこか億劫そうにあり。
 そして表情は、これでもかとばかりに不快感が浮かんでいた。

「無粋ね。夫婦のやり取りに水を差すなんて」
「その点は謝罪するが、これ以上のラブシーンは遠慮してもらいたいのでな。年少者の情操教育によろしくない」

 放っておけば濡れ場まで突入しそうな雰囲気であった。
 マスター組はともかく、ティーンエイジをやっと超えた者と純真無垢な幼年がこの場にいる以上、抱擁より上の過激な場面は流石に憚られる。

「貴方、保育士かなにかかしら」
「……極めて世間一般的な意見だと思うのだがね」

 常識と良識に則れば、だ。
 そうぼやきつつ、赤い背中が肩を竦めた。

「それはともかく、お互いに話すべき事は多い。そう思っているのはこちらだけかな?」
「……まあ、いいでしょう。話せる事は話してあげるわ」
「うむ……が、その前にまず、ふたつほど確認だ。キャスター、そしてそのマスターよ。こちらと敵対する意思はもうない、と思っていいのか」

 アーチャーの問いに、キャスターはなんの躊躇いもなく首を縦に振った。
 葛木も、相変わらずの無表情だが、敵意や害意は微塵も発されていなかった。

「ええ、そう思ってもらって結構よ。私の望みはすべて叶った。そちらが刃を向けないのなら、こちらも非戦に吝かではないわ」

 なにより、宗一郎様がそれを望んでいないから。
 それを結びの言葉として、キャスターは講和を前面に打ち出した。

「了解した。では、そういう事で異論はないな、凛」
「……了承するわ」

 凛以下、自ら仕掛けて来ておいて今更な、という声はどこからも出てこない。
 最初の襲撃は退けた上、敵だった葛木が助太刀を申し出て、眼鏡の子供を護るためその拳を振るっている。
 なにより、キャスター絡みでは最終的に、ひとりの欠員も出す事なく終息した。
 イレギュラーのすったもんだも絡んで、そういった反骨の意思が根元から折れてしまっていた。

「それともうひとつ。キャスター、真名は『メディア』だな」
「…………」

 そのアーチャーの一言で一転、キャスターの眦がきっ、と吊り上がった。
 細められた目から、重々しく怒気が滲み出ている。
 しかし、アーチャーは軽くそれを受け流し、さらに畳み掛ける。

「先程、お前は『イアソン』と口にした。イアソンに絡む女で、キャスターとして喚ばれるほどに魔術に長けた者など、かの『魔女』以外にいない」

 ギリシャ神話に悪名高い、残虐非道な魔女と呼ばれた女、メディア。
 女神ヘラの思惑によって、英雄イアソンに強制的に惚れさせられ、アルゴー船にまつわる彼の英雄行を支えさせられた。
 その過程で、王女として生まれ育った故郷コルキスを捨てさせられ、彼の偉業のために血を分けた弟をはじめ、多くの人間を手にかけていった。
 すべてはイアソンのために。偽りの恋を植えつけられ、幻の愛に踊らされてもそれを疑いもしない。焦がれる男のために、卑怯卑劣な手段すら息を吸うように平然と行う。
 まさしくそれは、女神の呪いであった。
 紆余曲折を経て、彼女の行いに嫌気が差していたイアソンは、降って湧いた他国の王女との婚姻話を機に、彼女との間に出来た子供達諸共にメディアを切り捨てた。
 結果、夢から醒めたように彼女は復讐に狂い、多くの惨劇を生み出し、最終的に流浪の旅路の果てに消える。
 女神の手により人生を狂わされた薄幸の佳人。それがメディアであった。

「……二度と『魔女』と呼ばない事ね。非戦を違えはしないけど、仮に手元が狂って魔法の杖が暴発しても責任は取らないから」

 凍った重油のような、刺々しい数秒間の沈黙を破り、キャスターの喉からやっと言葉が搾り出される。
 それに対し、アーチャーは軽い調子で首を縦に振った。

「忠告、肝に銘じよう。しかし、そうと知ってなお真っ直ぐに愛を貫くマスターには、男として頭が下がるよ」

 最後に、無色の鉄仮面そのもので突っ立ったままの男を持ち上げた事で、険しかったキャスターの眉と怒気が伸びたゴム紐のように緩くなった。
 ちょろいな、と彼が思ったかは、彼のみぞ知る事である。

「なんにせよ、だ。キャスター、まずは前置きとして、今の肉体について説明をしようか」
「おおよそは解っているつもりだけど……一応、聞きましょう」
「いや、ひょっとしたら謝罪をせねばならんかもしれんのでな」
「謝罪?」

 訝しむキャスターの前に、アーチャーから手鏡が差し出された。
 どこにそんなものを持っていた、という言葉は発されず、首を傾げながらもそれを素直に受け取ったキャスターが、中を覗き込む。
 その途端、ぎょっとその目が大きく見開かれた。

「……なに、これ」

 写っていたのは、十代半ばと思われる乙女の顔だった。
 この場にいる者と比較すれば、凛が最も実年齢的に近いか。
 肌は瑞々しく、張りがあり、幼さを抜け出しかけている少女の清純な色香が漂い出している。
 薄紫の髪は肩の辺りまであり、片側の耳元後ろに、房飾りのように編み込みがされていた。
 鏡を持つキャスターの手は小刻みにふるふる震え、エルフのように尖った両の耳は、ぴくんぴくんと小さく跳ねていた。

「説明はこちらから。そら、少年」
「うえっ!? え、っと、あの」

 魔術師主従のクライマックスからこっち、常にない空気に圧されてこそこそ脇に引っ込んでいたのび太を、アーチャーがずいと前に押し出した。
 泡を喰ってあうあう言っている彼の手には、まだ時計柄の布切れが握られている。
 種は明らか、問題はその過程について。

「ら、ライダーさんの時と同じように“タイムふろしき”をキャスターさんに被せて……だけど、戻しすぎちゃって……こ、これでも短めにしたんですっ!」
「……要するに?」

 要領を得ない、たどたどしい説明に、キャスターが弁解の要点を求める。
 平坦な物言いではあるが、その声には、まだ動揺の震えが感じられた。
 それに答えたのは、呆れの滲んだ顔を手の腹で抱えていた凛だった。

「あー、掻い摘んで言うと……化け物から戻ったアンタがエーテルの塵になって消滅する前に、時間回帰で元に戻そうと……もっと言うなら“生前”の肉体に戻す、かな……したんだけど、時間を戻しすぎたのよ」

 やや歯切れ悪く、しかし要点を踏まえた簡潔な言葉。
 それを受けて、ぴくり、とキャスターの眉が跳ね上がった。



『――――手があるのならばこの通り、伏して頼む。助けて欲しい』

 あの死闘の後。
 意識をなくし、足から光となって消えようとしているキャスターを抱えざま、葛木は深く頭を下げていた。
 それに半ば圧される形で、のび太はライダーの時と同じく、“タイムふろしき”でキャスターの時を巻き戻した。

『少年。ライダーとキャスターでは、おそらく召喚前に生きた年月が違う。被せる時間は、ライダーの時より短くするんだ』

 ライダーこと『メドゥーサ』は女神で、キャスターこと『メディア』は人間。どちらが生前、永く生きていたかなど言うまでもない。
 後者については、この時点で正体こそ知らなかったが、以前学校に現れた骨の兵士の材質から、アーチャーにはある程度の正体の見当がついていた。
 その助言の下、のび太が風呂敷を使用した。しかし、風呂敷を払った直後、のび太の顔は煮浸しの茄子のように青くなる。
 そもそも、他のものならいざ知らず、このケースで風呂敷を使用したのは一度だけ。たった一回で間隔を掴めというのも、無茶な注文であった。
 
『……ど、どうしよう。戻しすぎちゃった』
『む……っ。しかし、まあ、最低限の目的は達成している。構わんだろうさ』
『気になるなら、いっそシワくちゃのババアにでもすれば? どうせ最終的にはそこに行き着いてるんだから』



 結局、ああだこうだと言う前にキャスターが覚醒してしまったので、現状のまま留め置かれる形でここまで来ていた。
 たどたどしい、のび太からの後追い説明を聞いたキャスターの眉がもう一度、今度は小刻みにひくついた。

「……そう。そういう事だったの。まあ、それなら特に文句も……ただし、そこの小娘。誰がシワくちゃのババアですって?」

 英霊だろうが女は女。そして年齢は、永遠の女のタブーのひとつである。
 真名を暴かれ『魔女』と呼ばれた時とは違った怒気が、彼女から立ち上っていた。
 しかし、妥協してなお密かに燻るものがあったのか、凛は従者さながらにふん、と不敵に笑う。

「あら、ご不満? じゃあ、バツイチのオバサンでいいかしら?」

 ぴき、とキャスターのこめかみに青筋が立つ。
 感情が融点を超え、沸点に達した。

「いい度胸ね。知っていて? 魔法の杖って意外に軽いものなのよ。こんな細腕でも、軽く振れるくらいにね」

 顔こそ笑っているが、目は笑っていない。
 そしていつの間にか、彼女の右手に、神官が持つような彼女の身長ほどもある杖が掴まれていた。
 一触即発。しかし、そこに水を差したのは、凛の従者であり、凛以上に不敵な者。

「そこまでだ。今はお互いに小娘だろうに。それはそうと、キャスターよ。今の状態で特に不満などないと思うのだが、いかがかな。この国では『女房と畳は新しいほうがいい』という言葉があってだな」
「……そうね。力や魔力なんかはサーヴァントの時と変わらないようだし、クラススキルもなぜかある」

 気勢が削がれたか、杖を収め、身体の各所をチェックしながら少しずつ、キャスターの怒気が鎮まっていく。
 そこに、アーチャーはさらに言葉を畳み掛ける。その途端、彼女の目の色がはっきり変わった。

「それから、これは朗報だ。今のその身体はサーヴァントのものではなく、純粋な人間のものだ。つまり『愛の結晶』を授かる事も不可能ではない」

 サーヴァントではあり得なかった、新たな可能性。
 掴み取った幸福に、大輪の花が添えられた。

「そう」

 キャスターの顔が、喜色と感動に彩られる。

「そう……そうね。この時代にはあの忌々しい女神もいないし、今の肉体年齢はイアソンと出会う前のもの……」

 口中でぶつぶつ呟くキャスター。
 徐々にその目に、熱が漲っていく。
 
「……ああ、いや、なんだ」

 このままでは数分前の焼き直しと踏んだか、アーチャーが声をかけようとする。
 が、その懸念は幸い杞憂に終わった。

「坊や」
「は、はい!?」

 突然水を向けられ、びく、とのび太が身構える。
 そこには凪のような、キャスターの柔らかい微笑があった。

「感謝するわ。図らずも、貴方は私に新しい人生を与えてくれた」
「い、いや、その、先生が助けてくれたし、お願いされたし、だから」
「そう。それでも、お礼は言わせて。ありがとう」
「あ、ぅ……」

 包み隠しもない、真っ直ぐな感謝がぶつけられる。
 あまりの照れくささに、のび太の顔が真っ赤に染まり、その身体が縮んだ。

「それから……あら?」

 そこでふと、キャスターの視線の質が変わる。
 標本を前にした科学者のように、キャスターの瞳がのび太を舐めていく。
 空気が変わった事を察した、のび太の顔が持ち上がった。

「なん、ですか?」

 冷水に浸したアイスピックの如き視線。
 魔術師のそれが、鋭く眼鏡の奥に突き刺さる。
 知らず、ぐひ、とのび太の喉から奇妙な音が漏れた。



「――――そう。貴方、セイバーの主になったのね」



 魔術師の瞳に光が宿る。
 実験室でフラスコの中を見つめる科学者にも似た色が、その輝きにはあった。

「あ、うぅ、その」

 先程の照れも失せ、気圧されたのび太の身体が縮み上がる。
 だがそこへ、視線を断ち切るようにすぱりと声が差し込まれた。

「……そもそもからして、その遠因は貴女にあるのですがね」

 薫風のように涼やかな声音。
 じゃり、と靴音を鳴らし、アーチャーの後ろから滲み出るように現れたのは、銀の鎧も眩しい剣の英霊の姿だった。
 ただ、今までの姿と印象が異なっている。

「セイバー……ふぅん。貴女、随分可愛らしくなったわね」
「貴女ほどではありませんが」

 激戦の名残で、頭の後ろでまとめていた髪がほどけている。
 肩の辺りまで下がった黄金の髪は艶を持ち、重力に従って絹糸のようにさらりと流れる。
 髪を下ろす。たったそれだけだが、しかし印象は激変していた。
 常の凛とした、騎士としての面差しが薄れ、十代半ばの見た目そのままの、柔らかな少女のものへと変わっていた。
 キャスターの揶揄に、やや不機嫌そうにセイバーの眉が顰められる。
 しかし、それでも発される声に澱みはなかった。

「怪物が死を迎えたその瞬間、私は消滅の危機にありました。あれは敵であると同時に、仮初とはいえマスターだった。マスター不在の『はぐれ』では、数分保たずに消滅する」

 セイバーは特に現界に魔力を喰うサーヴァントである。
 『アーサー王』という、格の高い霊魂に加え、秘めた戦闘能力も頭抜けて高い。
 その代償としてすこぶる燃費が悪く、魔術の才媛の凛でさえ、聖杯の支援なしの単独ではまず現界を維持しきれないだろう。
 ただし、この場のひとりに限っては、例外となる。

「で、手近にいたその子を咥え込んだ、と」
「悪意のある物言いをしないでいただきたい。距離が近かったのは事実ですが、あくまで緊急避難です。それに……誤解を怖れずに言うのなら……ノビタであればこの場の誰よりも私と、魔術的に相性がいい」

 のび太の身体にある“竜の因子”。
 セイバーの持つ竜の性質と同じものであり、ラインを繋いで共鳴を起こし、莫大な魔力を生み出す事はこれまで幾度もやっている。
 彼との契約であれば、現界どころか全力の戦闘にすら過剰なほどの魔力を得られる事実が、厳然としてあった。

「そうね。組み合わせとしては、そこの小娘やあのボウヤよりも」
「――――しかしながら、これは予想外でした。失礼」

 キャスターの声を遮り、セイバーの手がのび太へと向かう。
 そして、上着の裾に手をかけると、そのままぐっと捲り上げた。
 わひっ、という情けない声と共に、のび太の腹が露わになる。
 そこには、一際目を引く異様なものがあった。
 さしものキャスターも、これには瞠目する。

「……これは」
「見ての通り、令呪です」

 彼の鳩尾ど真ん中。
 筋肉もついていない、生白い肌にくっきりと刻まれた赤い線が見える。
 『N』のアルファベットをバラして稲妻状にしたような、シンプルな三画。
 まぎれもない、令呪がそこにはあった。

「という事は、この子は魔術回路を持ってる」
「本来、あり得ない事ではありますが」

 この世界で生まれた訳ではない、異邦人ののび太にそんなものが宿るなど考えられなかった。
 令呪とは、魔術師であるかどうかは関係ないが、その前提条件となる魔術回路を持つ者に顕れる。
 現に、葛木は魔術回路を持たないため、キャスターのマスターでこそあるが、令呪を宿してはいない。
 また、ライダーを使役していた間桐慎二も魔術回路がなく、本来の主の桜からマスター権を魔術礼装『偽臣の書』で委譲させていただけであって、令呪自体は桜が保持していた。
 さらに、魔術回路があるからといって、必ず令呪が宿るとは限らない。
 魔術回路があって、かつ聖杯が……正確には聖杯戦争のシステムを司る大聖杯が……選んだ者にのみ令呪が顕れるのだ。
 補足として、令呪の宿る優先順位について述べると、アインツベルン・遠坂・マキリの御三家、次いで参加に意欲のある魔術師で、その他の者が選ばれるのは、予備かもしくは数合わせ的なものである。
 裏技的に調整が可能なキャスターは例外としても、今、ここにある実態が、どれだけ異常であるかが窺い知れる。

「しかし、そのあり得ない事が起こっても、もはや不可解とは思えない。それだけの異常事態という事は貴女も理解しているはず。曲がりなりにも『魔術師の英霊(キャスター)』だ、調べはしているのでしょう?」
「……手を尽くしてみたところで、結局干渉すら危険だっていう結論に至らざるを得なかったけれど」

 どう足掻いてもミイラ取りがミイラになるんじゃお手上げね。
 キャスターの口から、憂鬱の混じった溜息が漏れ出た。
 それでも、その目はまだのび太を観察している。

「話を戻すと……回路といっても最低限。ざっと令呪の本数分……三本しかないみたいだから、魔術は使えないわね。無理に使おうとすると、最悪の場合、脳が破裂するわ」
「えええっ!? つっ、つつつ使わないよ、絶対!」
「そうしなさい。令呪を使う分にはちょっときついくらいで済むでしょうから、あのボウヤにでも……」

 そこで、キャスターの言葉が止まる。
 視線がのび太から外れ、右へ左へ、辺りを見渡し始めた。

「そういえば、貴女の前のマスターは? いるはずでしょ」
「ああ……シロウでしたら」

 セイバーが口を開こうとする。
 しかし、それより早く動いたのはアーチャーの声帯だった。



「――――ふむ、最初に言っておくべきか。小僧は侍と契っているぞ」



 びしっ、と。
 周囲の空気が音を立てて白く凍った。
 そんな気がした。

「……どういう意味?」
「うん? どういうもなにも、言葉の通りなのだが。ふたりの間で、なにやら色々とやり取りがあったようでな。私が気づいた時には、既に繋がっていた」
「あ……そう、なの」

 真顔で告げるアーチャーを他所に、キャスターの頬はひくついていた。
 どう捉えたのかは、その態度が言葉よりも雄弁。
 しかし、その態度の真意が掴めないのか、彼の首は訝しげに捻られている。
 その横では、凛が重たそうに頭を抱えていた。

「アーチャー……」
「――――紛らわしい言い方してるなよ、この野郎」

 糾弾の声と共に、凛の背後から現れる影。
 血と泥で汚れ、あちこちが千切れた襤褸のようになった服を纏う少年が、非難めいた視線を赤い弓兵に突き刺していた。
 しかし、それで弓兵の顔に浮かぶのは、困惑の色。

「……ん、紛らわしかった、か?」
「まさか、素で言ってたの。呆れた。アンタ、時々螺子(ねじ)が飛ぶわね。あんな言い方だと、非生産的な関係みたいじゃない。しかもずぶずぶの」
「断じて違う、と言わせてもらうからな。普通に女の子が好きだよ、俺は」

 青筋を立てた士郎の目が、弓兵の背中を穴が開くほどに睨みつける。
 しかし、弓兵はふう、と軽く息を吐いただけでそれを受け流した。

「ああ、それはすまなかったな。まあ、ともかくだ」
「なにがともかくだよ……っと、キャスター、悪い。まずはこの通り、先に謝っておく」

 反省の色も薄いアーチャーを押しのけて、士郎が深々と頭を下げた。
 緊急避難とはいえ、他人のものを承諾なく持っていった、その謝罪であった。

「アサシンの事かしら? それなら別にいいわよ。結婚の引出物って事にしておくから」

 だが、あっさりとキャスターはそれを容認する。手をひらひらさせる、軽いおまけ付きで。
 士郎の目が、今度は点になった。

「え、あ、い、いいのか?」
「むしろ引き取ってくれるならありがたいくらい。あの駄侍、人の顔見る度に薄ら笑いするわ、皮肉飛ばしてくるわ」
「……あ、そうなのか」

 眉根をきつく寄せ、口汚く罵るキャスター。
 直接的な戦力低下のデメリット以上に、よほど反りが合わないと見える。
 あまりの剣幕に、士郎はそれ以上なにも言えなくなった。
 すると、今度は別の方向から声が飛ぶ。

「……呼ばれた先が、なんの愉しみもない門番稼業ではな。いろいろと鬱屈も溜まる。その程度は目こぼし願いたかったが」

 士郎の背後。
 刀を背負う群青の侍が、音もなくぼう、と姿を現す。
 その顔に、人によっては神経を逆撫でする涼やかな微笑を貼り付けて。

「あら、いたの。そもそも貴方、呼ばれた本人ですらない亡霊崩れの半端者でしょう。役目があっただけでもありがたいと思いなさい」
「くくく、これは手厳しい。もっとも、そのように呼んでしまったのはそちらの手落ちだと……ふむ。まあ、些細な事か」

 痛いところを突かれたか、キャスターの口が僅かに引きつる。
 しかし、すぐに溜息を吐いた事で、その痙攣は解かれた。
 とことん反りが合わない上、言い合ったところで無益と判断したようで。
 しっしっ、と億劫そうに手を払った。

「……とにかく、もう御役御免よ。ボウヤとせいぜい『サシツササレツ』よろしくやってなさい。あと、ボウヤは宗一郎様の半径五メートル以内の接近禁止だから」
「おいっ」

 唐突な接近禁止命令に、士郎が抗議の声を上げた。五メートルでは、テストの答案も受け取れやしない。
 理由は想像がつくが、果たして冗談なのか、真面目に言っているのか、判別がつかなかった。
 ふと見ると、葛木の目が士郎へと向いている。
 やはり無機質だが、それゆえになにを訴えているのかが読み取れない。

「いや、先生。違いますからね。俺は断じて」
「……ああ、解っている」
「だから、なにが解ってるんですか……というか、先生の方こそ」
「なんだ?」
「あ、いや、その……」

 そう士郎は言葉を濁し、キャスターへと視線を移す。
 年の頃十代半ばの、幼さと女らしさの入り混じったその姿は、義務教育の終わり頃にあって不自然はない。
 そして葛木は、二十代半ばの影の差した地味な優男で、しかも穂群原の倫理の教師である。

「えー……こ、後悔しませんよね、と。その……『その姿の』キャスターと、結婚して」

 下手をすれば、冷たい鉄の輪っかを両手首に付けるハメになる。
 具体的には、未成年なんたらの法律やら条例で。

「後悔……」

 葛木が言葉を反芻する。
 そして即座に首を横に振り、揺るぎなく告げた。

「ありはしない。あるはずがない。俺は、誓いを護る。たとえ姿がどうだろうが、なんの問題にもならない」
「あ……っ」

 理解してしまった。痺れと共に、士郎が固まる。
 この男は、決して意思を曲げない。それを悟ってしまった。
 ひどく無口かつ無表情で愛想の欠片もないが、その代わりに性格は一途かつ誠実、謹厳実直で義理堅い。
 おまけに、言葉以上に行動で示すタイプでもある。

「…………」

 男関係で苦い過去のあるキャスターが惚れ込むのも解るというもの。容姿を抜きにしても、異性に擦れた女をしてこれほど安心させられる男もいない。
 言葉を発さぬまま、士郎の口が閉ざされる。
 もはや、なにも言う事が出来なかった。
 彼に出来るのはせめて、新聞の片隅で葛木の写真を見かける事のないよう願う事だけ。
 『学園の倫理教師が十代少女と淫行! 倫理に背いた男の素顔とは!』などと見出しが躍った日には堪らない。
 あらゆる意味で溢れる涙を抑えきれる自信がなかった。

「……ふっ」

 それを尻目に、呆れ顔を隠さないのは、葛木の細君となった女。
 こめかみにその細い指を立てつつ、懊悩する士郎を鼻で笑う。

「なにを考えてるのかはなんとなく解るけど、無用の心配よ」
「え?」
「柳洞寺の方々にはこう言っておくから。『最近のアンチ・エイジングって凄いんですね』って」
「……いやいや」

 気負いも含みもなく告げるキャスターだが、士郎の表情に納得の色はない。
 それも当然。美容技術で十年以上、人の時間を戻せるのだったら、今頃業界はバブル真っ盛りである。
 顔つきどころか骨格まで変わっている以上、明らかに無理のある話。
 しかし、キャスターの余裕は崩れない。

「いざとなったら、他人に違和感を感じなくさせればいいだけよ。魔術なり礼装なりでね」
「いやいや……って、出来るのかそんな事」
「『魔術師の英霊(キャスター)』を舐めないでちょうだい。魔術はもとより『道具作成』もお手の物よ。お寺は住み始めて半月も経ってない。なら記憶の齟齬もまず出ないわ」

 ふふ、と小さく、しかし深く笑うキャスターの表情は不敵であった。
 我知らず気圧された士郎の気は、これですっかり萎えてしまう。
 これ以上は踏み込めない、踏み込んではいけないと。
 ある意味で、旦那とよく似ている。その徹底ぶりなどは特に。
 半ば諦観に近い心境で、彼の口から重く息が吐き出される。
 その時であった。



 ――――くっ、くはははははははははは!!



 この狭い神殿の空間に、突如として高笑いが木霊する。
 次いで響くぱち、ぱち、ぱち、という乾いた音。
 人の拍手のようであった。

「え!?」

 各々が、一斉に声のしたほうを振り返る。
 とりわけ反応が素早かったのは、黄金の髪を靡かせた騎士だった。
 弓の英霊よりも一瞬早く剣を顕し握り締め、声の彼方を睨んでいる。
 だが、その顔には警戒とともに、僅かな驚愕と猜疑が貼り付いていた。



 ――――なかなかに笑わせてくれる余興であったぞ、雑種ども。



 神殿の端の、暗闇の底から浮かび上がる人影。
 かしゃん、かしゃんと小刻みに鳴る金属音は、それが鎧を身に纏い、歩いてきているのだと理解させる。
 やがて、闇が取り払われ、影の全貌が顕われる。
 その途端、ひゅっ、と誰かの歪な呼吸音が漏れ聞こえた。



「褒めて遣わす――――この王たる我(オレ)が言うのだ、光栄の浴に浸るがいい!」



 一言で評せば、黄金の男であった。
 同性であっても振り返るほどの、ぞっとするような美形・色白の優男。
 金色の髪を後ろに反らし、金塊で鋳造したかのような、眩いばかりの豪奢な西洋鎧にその身は包まれている。
 なにより特徴的なのが、ルビーを思わせるほどに赤い一対の瞳。
 胸を張って腕組みし、唯我独尊を地で行く不遜な雰囲気と相まって、思わず平伏したくなるほどの存在感を、その男は醸し出していた。

「……アーチャー……?」
「はっ?」

 微かな戦慄きが混じったセイバーの声に、のび太も、士郎も、凛も、この場の全員が赤い弓兵に視線を送る。
 しかし、弓兵は困ったように眦を下げるだけであった。
 セイバーの言葉の意味が解らない、と言いたげな表情だったが、ふと、その目がきゅっと引き締まる。
 なにか重大な事実に気づいたように。

「セイバーよ。問うが、あれは『アーチャー』なのだな?」
「はい……」
「そうか……つまり『前回』の」

 そこで弓兵は言葉を区切り。
 次いで確信めいた口調で、告げた。

「――――第四次聖杯戦争で君と争った『アーチャー』なのだな」

 驚愕のちらついた、真偽を問う皆の目が、一斉にセイバーへと向けられる。
 だが、彼女が首を縦に振るより早く、青年の口がにぃ、と三日月に歪んでいた。

「ほう、察しは悪くないようだな。だが不愉快だ。貴様のような惰弱な贋作者(フェイカー)が、我と同じクラスなどとは」

 侮蔑含みの物言いに、アーチャーが微かに眉間に皺を寄せる。
 ちゃり、とその手に掴む中華の双剣が音を立てるが、黄金のアーチャーはそれすら鼻で笑い飛ばした。
 そしてルビーの視線が、剣の騎士へと向けられる。

「久しいな、セイバーよ。此度の馬鹿騒ぎにも参加しているとは思わなんだが、時経ようとその容色は霞まぬか」
「……なぜ」
「この世に存しているか、か? ふん、聖杯の中身を浴びはしたが、我を染めたくばあの三倍は持って来いというのだ。まあ、悉く飲み干したゆえ、こうして受肉している訳だがな」
「飲み……いや受肉、だと?」

 セイバーの表情がぴくり、と引き攣る。
 黄金のアーチャーはこう言っていた。
 前回の聖杯戦争から十年間、消えずにそのままこの世に存在し続けていたのだ、と。

「ああ、いい機会よ。セイバー、十年前に問うた答えを聞こうか」
「……くどい。私は王だ。貴様のような男と婚姻など、考慮にも値しない」
「くっ、はははは! やはり、十年経とうと変わらんか。だが、いいぞ。その頑なさ、実に我好みだ」

 一刀両断の回答にも、黄金のアーチャーは余裕を崩さない。
 むしろますます、その笑みに凄みが増していく。
 しかし、当事者のふたり以外に事情を理解出来る者はなく。
 そこに口を差し挟んだのは、目を白黒させる凛であった。

「ちょっと待ちなさい。婚姻って……セイバー、結婚を申し込まれてたの? この金ぴかに?」
「虫唾が走る事に。もっとも、即座に断りましたがね。繰り返しますが、考慮にも値しない」
「妥当ね。顔がいいだけの男なんて信用ならない。態度も大きいのなら尚更ね」

 セイバーに同意するキャスターの声には、同情と嫌悪が混ざっていた。
 それでも、黄金のアーチャーの不遜さは揺らがない。

「口が過ギるぞ、女郎。だがソの無礼、今は許そう。余興の褒美としテな」
「それはどうも」
「しかし、サーヴァントの身でありながら求婚とは……」

 投げやりに返答するキャスターの横で、ライダーが唸っていた。
 酔狂がすぎると言わんばかりに、呆れ交じりの渋い表情が浮かんでいる。

「はッ、この世に降りたはほンの戯れにすぎん。が、初めに我を呼び出しタ雑種も存外ツまらん奴でな。愉しミがなければ愉しむのガ――――」

 そこで、黄金のアーチャーの言葉が途切れる。
 編集途中の映像のように、無理矢理ぶつ切りにしたような、不自然な切れ方。
 そしてふと、誰かが気づく。
 真紅の瞳にあった意思の輝きが、揮発したかのように褪せている事に。

「アーチャー……?」

 訝しんだセイバーが、猜疑交じりの声を上げる。
 そこからは劇的だった。



「がッ、ガガ、が、ガがガ、ガガがガがギぎギギがギギギぎギがぎギ――――」



 壊れたロボットのように上がる奇声。
 表情は不敵なまま、だが異様に引き攣り、歪で不気味な嘲りの顔となっている。
 両の脚は地面に張り付いたように動かず、腕組みのまま、鎧の中の身体がぶるぶる小刻みに痙攣を繰り返す。
 真っ赤な瞳孔は開ききり、歳月に浸りくすんだ宝石を想起させた。

「ぴぃっ!?」

 人によっては、生理的な嫌悪を惹起させる光景。
 悲鳴を上げたフー子が、ぴゅっとのび太の影に隠れた。

「へ!? な、な、なな」

 そののび太もまた、気圧されている。
 セイバーをはじめ、士郎、凛、赤いアーチャーにライダー、葛木にキャスターも動けないでいた。

「ガがガぎ! がギギ、ギガガ、ぎ、ぎガ――――」

 そして各々が、この後に起こる事を予想する。
 聖杯戦争を席巻する異常事態、そしてサーヴァント。
 各人が想起したそれは、おおよそ正解をなぞっていた。



「ガ」



 ぶつっ、と途切れた奇声。
 それを合図としたかのように、黄金のアーチャーの身体が、光となって爆散した。

「うっ!?」
「な、なんだぁ!?」
「…………ぬっ」

 士郎らマスター陣が目を剥く。
 鉄仮面の葛木ですら、僅かだが目が大きく見開かれていた。
 その一方で、サーヴァント達は落ち着いている。

「ここでこれ、ですか」
「さて、今度はなにが出てくるのやら」

 各々が剣・釘・杖を構え直し、光の粒子を油断なく注視する。
 先までの激戦などなかったかのように、軒昂な戦意がその身体を満たしていく。

「――――もしかして……」

 そんな中。
 戦意や怯み以外の、異なる反応を見せていたのは、遠坂凛のただひとり。
 彼女の中で、記憶の奥底に納められた音声が、走馬灯のように脳裏をよぎっていた。

「『使者』って、この事……?」

 その微かな呟きが漏れた瞬間、飛散した光の粒子が、磁石に引き寄せられるように集束する。
 そして、光の塊がヒトガタを形作り、目を焼くほどの眩い閃光が周囲に炸裂した。

「く……っ」

 手を翳し、光をやり過ごす者。
 目を細くして、それでも対象から視線を外さぬ者。
 対処はそれぞれ。だがこの場の全員が、光の先にある人影を認めた。



 ――――やがて来る『使者』にでも、お尋ねになる事ですな。



 やがて、その姿が露わになる。
 そこには、あの黄金の王とは異なる男の姿があった。

「あっ……」

 それを見た瞬間、のび太の目が大きく見開かれる。
 光の中で顕れた者。それは、畏怖と共に彼の脳裏に強烈に焼き付いている男であった。

「お、お前は」

 弓兵と同じ位はあろうかという高い背丈。
 痩身の身体にぴたりと張り付いた黒いラバースーツと、肩口からぐるりと身体を包む黒の外套。
 頭に乗った、大きく鍔の広がったテンガロンハット。
 なにより特徴的なのが、面長の顔に備わる、年季と鉄火場に慣らされた冷たい玉鋼を思わせるその目。



「ふん……久しぶりだな。スーパーマン、ノビ・ノビタ」
「――――ギラーミン……っ!」



 かつて宇宙一の殺し屋と謳われ、のび太と相対したガンマン。
 掠れ交じりの声で名を呼ばれ、男の唇がにぃ、と歪んだ。








[28951] 第五十八話
Name: 青空の木陰◆c9254621 ID:4e5b2755
Date: 2017/06/04 00:03






 銀河の果てにある惑星『コーヤコーヤ』。
 偶然の重なりによって、のび太はその惑星に生きる少年と出会う。
 しかし、出会ったのは少年だけではなかった。
 重力が地球の十分の一という特殊な環境の中、繰り広げられた『宇宙開拓史』。
 星を股にかける悪徳企業『ガルタイト鉱業』の陰謀に巻き込まれ、その最中、邂逅した。
 宇宙にその名を知られた、至上の殺し屋にして用心棒。
 黒の外套にテンガロンハット、腰のホルスターに吊るすは一丁の武骨な拳銃。
 ギラーミン。のび太と刹那の死闘を演じた、その強敵の名であった。





「な……なんでお前が」

 からからに干からびた喉を鳴らし、のび太が呻いた。
 それに対し、ギラーミンと称された男は軽く鼻を鳴らす。

「簡単だ。報酬と引き換えに『アーチャー』としての依頼を受けた。それだけだ」
「依頼……だって?」
「そうだ。そして、この場においての『使者』としての役割も請け負っている」

 その一言に、凛の眉が跳ね上がった。
 使者。それは彼女の記憶に新しいキーワード。

「あのジジイの言葉通り、か」
「遠坂……なんだって?」
「あとで話すわ」

 士郎の追及は未然で打ち切られ、同時に凛の舌が軽く唇を滑った。
 この混沌とした聖杯戦争。その真実の尻尾を掴む機会は今を置いて他にない。
 たとえ三文脚本家たる『黒幕』の掌の上だとしても、毒を食らわば皿まで。獲物を見定めた禽獣のように、彼女の目が炯々とぎらつく。
 それは、彼女の相棒も同様だった。

「使者、か。解せんな。誰の差し金かはおおよそ見当がつく。だが、なぜそんなものを差し向けたのか、その理由が見えん。使者と言うからには、その点『も』答えて貰えるのだろうな」

 含みを持たせ、牽制する。
 サーヴァントから変異した者でありながら『使者』とのたまう、このアーチャーこと『ギラーミン』は、明らかに異質であった。
 ライダー・メドゥーサ、アサシン・佐々木小次郎、キャスター・メディア。
 この三名は、変異した際に『黒幕』の記憶を持っていなかった。
 しかし、この男だけは違う。
 『黒幕』の直接の紐付きであり、このいかれた戦争の裏をすべてか、あるいはいくらかでも知らされている。
 そうでもなければ『使者』など務まるはずもない。言動からそう察するには容易であり。
 ゆえに、その悉くを吐いて貰う。
 赤の弓兵の鷹の目が、そう訴えていた。

「そう急かすな。同業者」

 だが、柳に風。
 殺気含みの視線をぶつけられてなお、ギラーミンの態度は崩れない。
 右手を持ち上げ、くい、と帽子のずれを直した。

「回答する権利は与えられている。たとえば……『依頼主の名前』。聞かれれば答えてもいい事になっている」
「なに……?」
「嘘偽りなく、だ」

 ギラーミン以外の、この場の誰もが面食らっていた。
 今まで陰から陰に蠢動し、全貌を掴ませなかった黒幕が、ここに来て使者に正体を告げてもいいと免状を与えた。
 そうギラーミンは言ったのだ。
 面食らうなと言う方が無理であろう。

「その証拠に……スーパーマン」
「なっ、なんだよ」
「言ってみろ。前に、貴様が夢の中で会った奴の名前を」
「えっ」
「言えるはずだ。既にストップはない」

 唐突な指名に、のび太は狼狽えたように目を白黒させる。
 それでも、眼鏡の下の唇は、意識的か無意識か、忠実に言葉を吐き出していた。

「あ……あ、あ、アヴェンジャー『アンリ・マユ』……あっ!」

 以前、言おうとしても唇が張り付いたように動かず、言えなかった単語。
 それが、飛び出した。
 ギラーミンの言葉に嘘はない。のび太の頭の中では、その証明完了の結論が下されていた。
 ただし、それはのび太に限っての事であり、他は違う。

「アンリ・マユ? たしか……」
「拝火教……ゾロアスター教の悪神だ。倫理の資料集に記述がある。授業で取り上げた事はないがな」
「待って。それって神霊じゃない! しかも、アヴェンジャーって……サーヴァントのクラス名? どういう事!?」

 三者三様の反応を示すマスター陣。
 特に魔道に精通する凛の驚愕は顕著であり、これでもかとばかりに目を剥いていた。
 一方で、サーヴァント陣は疑念の拭えない、厳しい顔を保ったまま。
 現状、信用出来る材料がロックを解かれたのび太の証言のみである以上、納得までには至らない。
 この状況下で、のび太が出鱈目を吐かない事は皆、理解している。キャスター陣営も、その程度にはのび太に信を置いている。
 証言に、客観的な裏付けがない。それが、サーヴァント達の猜疑の重しになっていた。

「納得していないか。だろうな。確かな裏付けが欲しいなら、アインツベルン……あの小娘に聞くがいい。過去のアインツベルンの失敗のツケが、すべてのきっかけだからな」
「失敗……その『失敗』とやらの詳細は言えないのかしら」
「言ったところで信じられなければ、余計な手間でしかない。それに肝心な部分だけ絞ったところで少々長い。当事者に聞け、それが確実だ」

 キャスターの問いを、ギラーミンはばっさり切り落とす。
 幼くなった魔術師の眉根に軽く皺が寄るが、そこで止まるようなやわな女ではない。

「なるほど。そう言うからには、ここで一戦交えるつもりは貴方になく、用が済めば目の前から消える、と受け取っていいのね」
「……ふん、この場で課せられた役目はあくまで『使者』だけだ。引鉄を引け、という指示は下されていない」
「質問の答えになっていないわ」
「焦るな、若作り。用が済めばこの場は消える、銃口は向けん。それも指示に含まれている」

 顔色ひとつ変えず、義務的に口を動かすギラーミン。
 揚げ足取りを気にした風もなく、ただ必要な事だけを装飾なく告げる。
 多少の毒こそ混じっているが、事実だけを切り取れば、戦の最中に単身敵陣にまかり越した使者然としていた。

「ぷっ」
「誰、今笑ったのは!」

 キャスターの怒声に手を挙げる者は誰もいない。
 彼女のある種正当な憤慨を他所に、次に口を開いたのはライダーであった。

「次の質問です。その『アンリ・マユ』とやらの目的は? 我々をこの子の記憶にある者に変貌させる、その理由はなんなのか」
「……やはり聞くか。だろうな」

 予想済み、とでも言わんばかりにギラーミンがふっ、と軽く息を吐く。
 そうして男は口を開き。

「それは……――――」

 そこで、ぴたりと動作が止まった。
 口が半開きのまま、石膏で固めたように唇が動く気配がない。
 やがて、その唇が閉じられ、ぐい、と帽子を目深に被り直した。

「『復讐』だ。聖杯戦争に関わるすべてを、根こそぎ絡め取ってのお礼参り。サーヴァントの変貌はその準備。以上だ」
「……それだけですか」
「それ以上の回答はブロックされている。スーパーマンが知る内容も同じ程度だ。仮に、そこの若作りに頭をいじられたところで、この口から吐き出せる文言はない」

 ギラーミンが顎でしゃくってキャスターを指す。
 同時に、ライダーの口からぷっ、と空気が漏れて出た。

「さっきのは貴女ね、この巨木女!」
「おや、失礼。しかし、それは撤回してもらいたいですね。今の私は鉢植の花ですよ」

 射殺すような視線をふたり目掛けて突き刺すキャスター。
 だが、ギラーミンは凍てついた水面のような表情を崩す事はなく、ライダーもまた澄まし顔で受け流すだけであった。

「そこまでです。話が脱線している。双方、今は慎むように」

 そこへセイバーが割り込んだ事で、内部紛争の芽は摘まれた。
 涼しい顔のライダーと、長く息を吐いて心の鎮静に勤しむキャスターを尻目に、セイバーはギラーミンと向かい合う。

「貴方は使者、と言いましたね」
「ああ」
「ならば、貴方のマスター……そう表現するべきかはともかく……『アンリ・マユ』とやらから、こちらに伝える事がある、と受け取りますが、如何か」
「そうだ。伝言を預かっている」

 使者を任されるという事はそういう事である。
 そしてギラーミンは、短い言葉で肯定した。
 冷徹さを醸し出す眼光そのまま、突き刺すように男は次なる声を吐き出す。



「『大聖杯のある場所まで辿り着け。鍵は目の前にある』……以上だ」



 一瞬の静寂が、場を支配する。
 そして、誰よりも先に声を上げたのは、魔術師の英霊だった。

「待ちなさい。大聖杯……つまり『アンリ・マユ』は」
「それ以上は自分で確認……出来ないんだったな。今、あれに至る道はすべて閉ざされている。まあ、雇い主の仕掛けだが」
「……やっぱり」
「覗く事も不可能だ。探りはしたのだろう」

 首を傾け、放り投げるようにギラーミンが言い放つ。
 問いに対するキャスターの答えは、きつく引き結ばれた唇から吐き出された。

「一応……ね。この『神殿』を造る際に、冬木の地に走る龍脈の流れを追ったわ」
「それで?」
「一か所だけ、魔力の流れを感知出来なかった場所が、この御山の中腹にあった。まるでそこだけくり抜いたみたいに、不自然さがありありだった。つまり、大聖杯とやらはそこにある。龍脈の支流が纏まる場所だから当然ね」
「ほう。伊達に魔術師の英霊をやっていないな」
「“大聖杯”ってキーワードがあれば、ね。聖杯に触れなくとも、元の『聖杯戦争』の仕組みもどういうものか、おおよそ見当がつく……」

 そう言い終えたキャスターの目は、魔術師としての叡智の光を放っていた。

「――――そして、その大聖杯への扉を開くには貴様を殺ればいい、と解釈するが」
「それで間違いない。鍵とは、そういう意味だ。同業者」

 肯定の回答を受けるや、アーチャーから針のように細い、しかしはっきりとした殺気が放たれる。
 だが、ギラーミンは動じない。
 ハットの鍔元から覗く硬質の瞳が、殺気の大元を見据えるが、ただそれだけ。
 冷たい刹那の緊張は、次のガンマンから放たれた一言で砕かれた。

「だが、貴様では鍵を開けられない」
「……なに?」
「これは、こちらの『報酬』にも絡むが、な」

 そうして、ギラーミンの腕がゆっくりと上がる。
 ぴん、と伸ばされた右の人差し指が、ひとりを捉えて指し示す。



「リベンジ・マッチだ、スーパーマン……ノビ・ノビタよ。貴様に再びの決闘を申し込む」



 ぐぅ、という息の詰まる音が微かに響いた。
 指名を受けた眼鏡の少年の、喉元から漏れた音であった。

「それが報酬、という事ですか」
「そうだ、騎士の王。この身が鍵となる事と引き換えにな」
「なに……?」

 虚を突かれたように目を丸くするセイバー。
 ギラーミンの目はただのび太をのみ、見据えている。

「異常発生か否かに拘わらず、我々サーヴァントは聖杯に縛られている。事実上、黄泉還りをしたそこの若作りや眼帯は別として、だが」

 そうして、ギラーミンは顎でふたりを纏めて指し示す。
 そのうち一名については冷厳な表情のまま、しかし額に微かな青筋が浮かんでいた。

「つまりどういう結末を迎えるにしろ、聖杯が役目を果たし、戦争が終わればサーヴァントはただこの世から消え去るだけだ。だからこそ」

 そこで一拍の間が置かれる。
 使者の口から、ふっと息が吐き出され。

「これまで雇い主に呼ばれた変異体は、聖杯に願わずに満たされる『執着』を基準に選択された。その中心にあるのが……」
「のび太くん、か」

 士郎が継いだ言葉に、ギラーミンの唇が三日月に歪んだ。
 執着、と一言に纏めてはいるものの、その中身はおおよそ共通している。
 元から理性の希薄なバーサーカー・マフーガとその分身たるフー子を別として、キャスター・オドローム、アサシン・アンゴルモア。これらが抱く執着は同質のものであり。
 ライダー・リルルの場合は、担い手に対する命令権を持つ宝具・鉄人兵団が前述の三者と同じものを抱いていた。
 すなわち。

「ノビ・ノビタに対する『復讐心』……それを基に雇い主が選別をした。スーパーマンの記憶から再構築し、この地のサーヴァントを媒体として呼び起こした」
「待て、それが解らない。どうやってのび太くんの記憶を読み取った……いや、それ以上に。なんで変異体が全部のび太くんの記憶にある敵なんだ?」

 士郎の横槍は、ある意味で核心を突いたものでもあり。
 そしてギラーミンの喉はその疑問に、殊更簡潔にして答えた。

「スーパーマンが下してきた者達が、この世ではありえない存在だったからだ。サーヴァントとは、言い換えれば聖杯の枝葉だ。しかもその性質上、簡単には切り離せない。ならば、末端だろうと異常をきたせば、巨木も影響を免れない」
「それって……」
「すべては『復讐』の一環だ。だから変異体の『執着』もそれに偏る。もっとも、私はやや異なるがな」
「……と、いうと?」
「スーパーマンに悔しみこそ味合わされたが、恨みを抱いている訳ではない」

 やたらと平坦な物言いだったが、ギラーミンの言葉に嘘や虚飾の匂いは感じられなかった。
 これまでに刃を交えた変異体は、のび太に対し恨み骨髄といった風に苛烈に攻め寄せてきていた。
 それを考えれば、このガンマンの変異体は不気味なほどに理性的で、与えられた役目を厳格かつ淡々とこなすエージェント染みている。
 敵対心がない訳ではないのだろう。そうでなければ、雇い主の基準に合致しない。
 しかしそれは感情に濡れず乾いたものであり、理性の下に完全に統制されている事が窺い知れた。

「あの時は、ガンマンとして負けを認めた。だが、負けたままでは私の矜持が許さない。記憶から複製された亡霊とはいえ、ここにいるのは『ギラーミン』だ。宇宙一の殺し屋、用心棒……そしてガンマンと呼ばれた男だ」

 元々、この男はプロフェッショナルである。
 依頼を請け負い、寸分の瑕疵なく事を遂げる。それを本分としていた。
 ゆえに、雇い主の『アンリ・マユ』は他の者とは違う役目をこの男に課した。
 相応の対価さえ支払えば、独断専行をする事なく誠実に、忠実に任務を遂行する。
 その復讐一色に塗れた他者とは一線を画した性質が、きっと決め手だったのだ。

「もう一度“一騎撃ち”を挑むチャンスを、私は求めた。雇い主はそれに応じた。さあ、拒む事も、逃げる事も許さなければ許されない。スーパーマンよ、この挑戦を受けてもらおう」

 これまでよりも語気を強めたギラーミンの声が、のび太の鼓膜を揺さぶった。
 どう足掻いても避けられない。鍵を手にし、扉を開けられるのは己ただひとりだけ。

「う……ぅ」

 後退りの靴音と同時に、喉の奥がごくり、と鳴る。
 フラッシュバックのようにその脳裏によぎるのは、いつかのひりつくような刹那の銃撃。
 恐ろしい、だけではない。いつの間にか両肩に、この場にいるすべての者の命運が乗っかっている。
 己の意思とは無関係に、道を固定されてしまった彼の手と足が、少しずつ小刻みに震えだした。

「……ふん。乗り気、とはいかんか。しかし、安心しろ。今すぐ、この場でやろうという訳ではない」
「えっ」

 その言葉で、のび太の震えが少し落ち着きを見せ始める。
 もう一度、ギラーミンが鼻を鳴らす。

「『用が済めばこの場は消える、銃口は向けん』……最初に言ったはずだ」
「つまり、貴様はこう言いたいのか。『少年との果し合いは、日時と場所を改める』と」
「その通りだ」

 アーチャーの要約にギラーミンは同意した。
 あくまで今回は、挑戦状を送っただけと解り、のび太の肩から目に見えて力が抜け落ちた。
 ただし、それが一時しのぎの安堵でしかないのは、誰もが理解しているところではある。

「それまでに腹を括っておけ。いや、既に括っているはずだ。貴様は臆病だが、私と同じく、銃にかけては絶対の自信家だ。グリップを握り、引鉄に指をかければ、決闘場に立てないはずがない」

 確たる響きを持たせたギラーミンの声に、懐疑の色はない。
 ことガンマンとしての性質は、両者とも共通していた。
 銃の扱いなら、自分が負けるはずがないという、決して揺るがない傲慢とも取れる黄金の自負。
 己の才覚が、己の実績が、それぞれにそれを裏打ちしている。

「事実は消えん。かつて、貴様は私を撃ち負かした。だからこそ、逃げ隠れするという選択はない。そうだろう」

 ある意味で、ギラーミンほどのび太を理解している者はいない。
 冷たい鉄の飛び道具を介した、ガンマンとしての共感と相互理解。
 銃を掴んだこの子供は、文字通りの『勇壮なる絶対強者(スーパーマン)』なのだと。

「…………」

 伏し目がちだったのび太の目が、ゆっくりと持ち上がっていく。
 完全には収まっていない身体の震えを圧し、敵を見据えるその目の色だけは完全に変わっていた。
 瞳の奥にある色は、ギラーミンをして満足させ得るものであった。

「いい目だ。それだ。それでこそ、私が勝ちたいと望む者だ」

 ギラーミンの口角が三日月に吊り上がる。
 凶悪な、それでいてある種の矜持を感じさせる顔であった。

「……いつ、どこでやるつもりか。それを」
「生憎、時間の猶予はないものでな。次の……」

 険しい顔をしたセイバーにギラーミンが答えかけようとした時。
 唐突にそれは起きた。



「――――ん?」



 ぼこり、と。
 突如として、地面が泡立った。

「……ち。堪え性のない。どこまでいっても結局は本能、か」

 小さく、吐き捨てるようにギラーミンが呟く。
 それを号砲としたかの如く、黒い靄のようなものが地面から一斉に噴き上がった。

「な、なんだこれ!?」
「貴様……図ったのか」

 サーヴァント達は既に得物を手に身構えている。
 特に『直感』に優れたセイバー、高次元の第六感『心眼(偽)』を持つ小次郎は、地面が泡立つ直前には既に得物の柄に手をかけていた。
 鷹の目に殺気を含ませるアーチャーに対し、ギラーミンは不快気に首を振る。
 ただし、その不快さはアーチャーに向けられたものではなく。

「いや、違う。完全な予定外だ。蓋をするのもそろそろ限界と言っていたが、なるほど」
「なに?」
「こちらの事だ。それより周囲に目を配っておけ、同業者」

 すぐに湧き出でくるからな。
 ギラーミンが告げると同時に、噴出した靄があちらこちらで渦を巻き、徐々に形を成していく。

『――――!』

 形容するのも難しい、大気を震わせる不協和音。
 強いて表すなら研磨機の金切り声に近い、耳障りな甲高い遠吠えが、幾重にも重なり、轟いた。

「ぴい!?」
「い、犬? 黒い犬!?」
「いや、狼か?」
「そんな上等なモノではない。ただの畜生だ……違うな。畜生の方がまだ上等か」

 フー子が身を竦ませる傍らで、のび太と士郎の所感はギラーミンに否定された。
 見渡せば、その畜生以下の黒い生物のようなモノが、ぐるりと辺りを取り巻いていた。
 地面を浸す漆黒の靄と重なり、さながら地の底から這いずり出てきた獄獣の群れ。
 意思があるのかないのか判然としない、赤々としたふたつの目が、見る者に怖気を齎す。

『――――!!』
「あっ!」

 刹那、そのうちの一匹が動き出す。
 先程より一際大きな金切り声を上げて、痺れを切らした空腹の虎のような勢いだった。
 のび太の叫びを置き去りに、ケダモノが駆け出した先には。

「……ふん」

 テンガロンハットのガンマンがいた。
 じろり、と鍔の下の目が動く。
 黒い靄の塊だが、四つ足の獣型なだけあって俊敏であり、側面に回り込みつつ既に間合いに捉えている。
 歪だが鋭利な両前脚の爪を振り上げ、咢を大きく開く獣。
 その牙の向かう先は喉笛。唸りを上げて、大型犬並みの体積が迫る。
 それを。

「もう遠吠えも叫びも声に出来なくなったか――――だから畜生の方が上等なんだ」

 どすん、という鈍い音が空気を叩く。
 ガンマンは、足の裏で獣を強制的に止めていた。

『――――!?』
「な……」

 振り返りざまの右の前蹴り。
 型もなにもない。標的の鼻っ柱目掛けて放たれた所謂『ヤクザキック』の一撃で、ギラーミンは獣を地面へ叩き落とした。

「このまま去っても問題はなかろうが、濡れ衣を着せられたままというのも癪ではあるか」
「なんだと?」
「なんの事はない。こういう事だ、同業者」

 呟きながらギラーミンの足が、撃墜された獣の頭を踏みつける。
 足の下の獣の口からは、声なき悲鳴が漏れ出ていた。

「この時のみ、手を貸してやる」

 鍔下の口が動き、ただ一言、簡潔に言い放つ。
 ぐしゃり、と容赦の欠片もなく獣の頭蓋を踏み砕いて、呆けたように口を半開きにしたのび太へ目を向けると鼻を鳴らした。
 気味の悪いびちゃびちゃという泥水のような音を響かせ、死した獣が靄に還っていく。

「アホ面を晒す暇があったらとっとと銃を抜け、スーパーマン。小僧と赤い女はもう身構えているぞ」
「あ……あ、う、うん」

 はっとして、のび太は“スペアポケット”から『ショックガン』を抜き、構えた。
 その隣で、キャスターが葛木へ『強化』魔術を施している。

「ギラーミンだったかしら。聞いておくけど、こいつらは殲滅すればそれで終わり?」
「いいや。すべて叩き潰そうがこの『泥』がある限り、いくらでも湧き出してくる。ただし、『泥』が引く時間切れまで粘ればひとまず勝ちだ。あくまで目安だが、おおよそ三十分といったところか」
「……手間のかかる事」

 靄を蹴り上げるギラーミンに、キャスターは至極面倒そうな表情をした。

「うんざりするのも解りますが……ね。向こうは待ちも退きもしてくれないようです」
「で、あろうな。あれらは餓狼(がろう)よ。餓狼の群れは、獲物にとことんまで喰らいついてくる。そうせねば屍を晒すだけなのだからな」
「そこまで真っ当なモノでもないようですけどね。そもそもが異形です」 

 セイバー・小次郎・ライダーの軽口が宙に溶けて消える。 
 周囲には、涎を垂らした畜生がまだ何十とひしめいていて、跳梁の時を今か今かと伺っている。

「これについての説明は……無論、して貰えるのだろうな。『使者』殿?」
「……この現象に対しての回答権は、今の私にはない」
「ほう。つまり時期か、あるいは条件を満たせば回答が可能、と受け取るが」
「スーパーマンが私に勝ったならば、回答は可能になるだろうな」

 アーチャーの口から、小さく舌打ちが漏れた。
 それを合図に、場の空気が収縮する。
 殺気と闘志が静かに辺りを満たし、そして。



『――――!!』



 神経を逆撫でする不協和音を盛大に撒き散らし。
 どっ、と獣の波が押し寄せて来た。






 言葉の通り、三十分後には潮が引くように靄は消え失せる。
 殲滅されては雨後の筍のように湧き出るだけの獣に、英霊を轢殺する事は叶わず。



『――――スーパーマンよ。次の零時、教会前にて貴様を待つ。知恵と力と技のすべてを以て、この扉の鍵をこじ開けに来い』



 すべてが終わった時には、既にガンマンの姿は忽然と消え失せ。
 代わりに挑戦状の残響だけが、戦場跡に留まっていた。






 決着は、近い。







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