さわさわと体をくすぐる草の感触と、感じるはずのない乾いた風によってクロードは目を覚ました。
「…………どーいう事?」
クロードの記憶が確かなら前日は、夜半まで即席パーティによるモンスター討伐を行い、拠点としているプロンテラの安宿に戻って、湯浴みも食事もそこそこにベッドに倒れこみ、泥の様に眠ったはずだ。
野宿をした記憶も無ければ、それを忘れる様な悪い記憶力もしていないはず。
しかしクロードの目の前には、見渡す限りの草原が広がっていた。
理解の範疇を超える出来事に、クロードはしばし時を忘れた。
「なんでこんな所に……そもそもどこだろう、ここ。って荷物は!?」
茫然自失としながらも、自分の荷物の存在を思い出したクロードは周囲を探り、寝転がっていた頭の辺りに大きめの布袋が落ちているのに気付いて胸を撫で下ろした。寝ている内に宿から身包み剥がされて放り出された等という事でも無さそうだ。
それなら一体なぜこんな所で寝ているのかとクロードは頭を悩ませたが、やがて、ここで考えても答えは出ないだろうと諦めをつけ、自身の持つスキルによってプロンテラに帰る事を決める。
クロードはプリーストと呼ばれる職業であり、帰還魔法や転移魔法を操る事が出来るのだ。
「テレポート!」
荷物を肩にぶら下げて、本拠地として設定しているプロンテラに帰ろうと、帰還魔法であるテレポートを唱えたクロード。
しかし――――その姿が掻き消えた次の瞬間、クロードはその場にまた姿を現した。
「あれ? ……セーブがここになってる?」
これまたクロードにとって理解不能な出来事だった。
本拠地設定という物はカプラサービスという職の各街に存在する人間に頼むか、自身で術式を行なう事によって設定する魔法的処置であり、本人が変更しない限り変わる事のない物なのだ。
「ワープポータルッ! ……ってポタメモまで訳分からない事にッ!?」
それは自分で登録した場所へのワープポイントを出現させる転移魔法である、ワープポータルのスキルも同様だった。
クロードが出現させたワープポータルの魔方陣には、本来なら『プロンテラ』『アルデバラン』『ゲフェン』『アルベルタ』と、ルーンミッドガッツ王国の主要都市が記されているはずなのだが、しかしそこには『見知らぬ草原』という恐らくこの場所を記すルーン文字と、アンノウンと記された文字が三つあるだけ。
転移系スキルが両方とも機能しない事で、クロードはようやく事態の大きさに気付く。
見渡す限りに続く草原。いや、よくよく目を凝らせば遥か遠くには木々も見えるが、とにかくクロードにとって訳の分からない状況である事は確かだ。
クロードは再び繰り返した。
「どーいう事だ――――ッ!?」
………………
…………
……
じっとしていても仕方がない、と草原を当ても無く歩き始めて半刻程した辺りで、クロードは地面が剥き出しになった左右に続く道に、運良く辿り着いた。恐らく馬車の通り道であろうそれは、舗装と呼べる程の物ではないが、未開の地では無いという証明でもある。クロードはひとまず文明の存在する地である事に安堵した。
どちらに向かうかクロードは少し悩み、どちらに行ってもどの道知らない場所に着くであろう事にすぐに思い至って、向かって右側に足を進めた。幸いにして保存食も荷物に入っているので、もし相当に遠い場所だとしても数日は野宿で凌げる。
元々冒険者として根無し草に近い状況だったクロードは、自身の財産のほとんどが入った荷物が無事であった事もあって、思いの他早く立ち直っていた。
この先に待っているのが知性を持ったモンスターの集落等であった場合また慌てる事になるだろうが、流石にそこまで運の無い事態に陥ってるとは思いたくない。人間が居るのならプリーストとして手に職を持っているので、何かしらの仕事にはあり付けるだろうとクロードは気楽なものだ。
その後、どれ程歩いただろうか。少なくとも日が暮れる程ではないが、結構な距離を歩いたクロードの目に、それなりの規模がありそうな村が見えてきた。
一応は警戒しながら村に近づいていき、やがて村人と思わしき人間を見かけ、クロードは肩の力を抜く。肩に農具を担いだ平和そうなその姿は、人間の集落だという事を雄弁に示している。
「すいませーん!」
「あん、なんだぁ? ……ま、まさか貴族様!?」
特に何も考えずに声を掛けたクロードに返って来たのは、驚愕の表情だった。
村人の視線の先にあるのは、クロードが腰元に挿している木製の杖だ。何がそんなに珍しいのかと、クロードはその杖を抜いた。それがいけなかった。
「ひい!? ぶ、無礼な口を利いて申し訳ありません!」
「はい? ってとりあえず頭を上げて下さい!」
「お許しを――ッ!」
平伏する村人。クロードはまたしても訳が分からない事態に陥った。考えられるのは貴族様という発言だが、クロードにはなぜ自分が貴族に間違えられているのか分からない。
しかしひとまずはそれを否定しなければこの現状は変わらないだろう。クロードは杖を腰に戻し、出来る限り相手を刺激しない様な声色で声を掛け直した。
「俺は貴族じゃありませんよ」
「…………へ? し、しかしメイジ様ですよね?」
「メイジ? ウィザードの事ですか?」
「うぃざーど?」
まるで話が通じていない。クロードは内心で頭を抱えた。
「ええっと、とりあえず俺はそんな偉そうな者じゃないです。声を掛けたのも、聞きたい事があったからなんで」
「は、はぁ……」
村人は困惑していた。杖を持っているのに貴族では無く、メイジという単語までイマイチ理解していないクロードは、村人からしても不審な人物だ。
しかし杖を持っている時点で魔法が使えるのは間違いなく、それは即ち間違っても無礼な態度で接してはいけない相手となる。この地においては。
「そう、ですね……疑問に思う事も多々あると思いますが、それを飲み込んで質問に答えてもらえませんか?」
「わ、分かりました」
相手の態度から偉い人間と勘違いされているのを感じたクロードは、自身と村人の認識の違いを正す為に、悪いと思いながらもそれを少し利用させて貰うのだった。
「メイジとはどの様な人物を指すのですか? そしてなぜ、俺を貴族だと思ったのですか?」
村人はなぜそんな当たり前の事を聞くのかと困惑したが、よほど腰元の杖が恐怖の対象なのだろう。たどたどしくもクロードの質問にはしっかりと答えた。
村人の説明の内容は、それまでの態度も含めると非常に分かり易い物だった。
つまりこの地において、『杖を持っている人物』『魔法を使える人物』『メイジ』『貴族』の四つの言葉が、全てイコールで結ばれる関係なのだ。
クロードが貴族、ひいてはメイジに勘違いされたのも、恐怖の対象の如く見られてしまったのも、腰に挿さった杖が全ての原因だ。
「……えぇー……そんな文化なのかよ、ここ…………ああ、俺は確かに魔法が使えますが、貴族ではありませんし貴方に危害も加えません。安心してくれると嬉しいです」
クロードの言葉に村人はあからさまに安堵の表情を見せた。
全てがイコールで結ばれているとはいえ、何事にも例外はある。貴族の地位を追われ野に下ったメイジの存在は誰もが知る所であり、村人はクロードがその様な存在だと自己完結したのだ。クロードの柔らかな物腰も安心を与える材料になったと言える。
「それで、メイジ様はどんなご用件であっしに声をお掛けになったので……?」
とは言っても、メイジが畏怖の対象である事は変わりないらしく、村人の態度は目上の人物に対するそれだ。クロードもそこについては文化の違いと諦める事にした。
「旅をしていたのですが道に迷ってしまいまして……この村の名前と、出来れば地図でも見せて頂けないかな、と」
「なるほど……分かりました。村長の家に地図があったはずなので、案内致します」
タルブ村へようこそメイジ様、と言葉を続けた村人に案内されながら、クロードは村長宅へ向かうのだった。
………………
…………
……
クロードがタルブ村に滞在したのは、三日間という短い期間だ。
その間にクロードが行なっていたのは、まずこの地――――ハルケギニアの基本的な常識を教わる事と、農作業で怪我をした村人達を治療をする、村医者の真似事の様な事だった。
始めは軽い怪我程度すら治療しようとするクロードに大慌てな村人達だったが、クロードが何度も一宿一飯の恩に対するお返しで治療費等取る気は無いと説き、最終的にそれならばと村人達も受け入れた。
本来魔法による治療という物は平民にとって法外な費用の掛かる物だと、村長から教わっていたクロードだったが、そこはやはり価値観の違いと言うべきか。クロードにとって治癒魔法『ヒール』はいくらでも乱発出来るスキルであり、大層な値段を付ける程の行為では無かった。
クロードの素性を特に詮索せずにハルケギニアの常識を教えたりと、理解ある人物である村長への恩義もあって、クロードは滞在期間中無料で村人達を治療しまくり、気が付けば村には、その日怪我をした者以外の怪我人が全く居ない程になっていた。それに掛かった期間が三日という日数だ。
その頃にはある程度の常識を身に付けたクロードは、いい区切りとしてその日の内に別の街へと旅立つ事にした。村人達はこのまま永住して欲しいとでも言いたげな勢いだったが、メイジだからと村で一番豪勢な村長の家で世話になっていたクロードは、いつまでも他人の家に居座るのに気が引けてそれをやんわりと断り、宿の豊富な大きな街に向かう事にしたのだ。
クロードが次に向かったのは、タルブから近い場所の中で一番栄えている街である、ラ・ロシェールだ。
飛行船の港町であるラ・ロシェールは、港という名の通り平民貴族問わず人の多い賑わった街であり、それ故にクロードにとって都合が良い土地と言える。
クロードの目的は、まず衣食住の確保。人が多いというのはそれだけでプリーストの需要は上がり、衣食住の確保が容易になる。
そして次に、ミッドガルドに戻る手立てが無いか探す事である。とは言ってもこれは、そこまで真剣に取り組むつもりの無い目的だ。クロードは衣食住が確保出来て、普通に生きて行ければそれでいいと考えており、戻れなくとも特に不都合は発生しないのだ。
クロードが冒険者をしていたのは、あくまでも生きていく為だった。プリーストと言う職業は、ミッドガルドにおいてはメジャーな職であり、ハルケギニアの様に治療師が貴重だなんて事は無い。つまり危険な物以外の仕事は引く手数多であり、クロードは仕方なく冒険者をしていたに過ぎないのだ。
その点を考えればむしろ、ハルケギニアの方がクロードとしては良い環境とも言える。怪我の治療を水メイジや高価な水の秘薬に頼らなければならないハルケギニアには、クロードの様にその日暮らしの治療師等ほとんど存在せず、富を望まなければ仕事に困らないのだから。
それでも戻る手立てを探すのは、微かに感じる望郷の念による物だ。
タルブの村長からせめてものお礼と渡されたいくらかの報酬を元に、クロードは安宿の一室を借りた。このままだと一週間程で追い出される事になるが、その心配は無用だろう。
それはけして皮算用ではなく、『ラ・ロシェールの街医者クロード』は平民の間でちょっとした有名人となって行くのだった。
クロードに誤算があったとすれば、水の秘薬も使わずにどの様な怪我でも治すクロードはとてつもない凄腕の水メイジだと勘違いされて行く事となり、その噂が平民だけに留まらなかった事だろう。
………………
…………
……
ラ・ロシェールに居を構えて一月も経つ頃には、クロードは平民に対する治療師としての立場を確立していた。
平民の稼ぎでも気軽に利用出来る値段で魔法による治療を施す事に、数々の流言――――道楽貴族の戯れと言う物から聖人の生まれ変わりと言った物まで――――も流れたが、便利である事には違いないといつしかそれも落ち着いて行き、未だに宿暮らしの身ではあったがラ・ロシェールの一住民となっている。
宿側からしても、ラ・ロシェールに来た目的がクロードであると言う平民まで現れ出した最近では、客が増えると喜びこそすれ何の不都合も無い住人だ。それどころか出来るだけ長く滞在させ様と色々と便宜を図る程である。
例えばクロードの好みを把握して夕食にそれを出したり、文字の習得を望んでいると知れば、宿の娘として読み書きを修めている跡取り娘にその手解きをさせたりと、ちょっとした事から明らかな優遇まで多岐に渡る。クロードにとってもそれらはありがたい事であり、申し訳ないと思いながらもその好意に甘えていた。
「クロード先生、今日の予定は?」
「うーん、ここまで来た人は診るけど、それ以外の時間は文字の勉強かな」
「うん、分かった。今日はどんな本がいい?」
「水の秘薬について少しでも触れてる物がこの前のとは別にあったら、それを買ってきてくれる? 無かったら……いつも通り君に任せるよ」
「はーい」
跡取り娘と言ってもまだ年若く十代前半のその娘は、クロードの注文に合う本を求め本屋へと出かけて行く。使い走りの様な事までさせるのもクロードは申し訳ないのだが、一度自分で買いに行って全く見当違いな本を高額で買って帰った過去があるので、それも致し方ないのだった。
ラ・ロシェールにひとまず腰を落ち着ける事に成功したクロードは、意欲的にハルケギニアについて学んでいた。言葉は通じるのに読めない文字、二つの地で共通するルーン言語、メイジと貴族の成り立ち、宗教観念、クロードの魔法とハルケギニアの魔法の相違点……クロードがハルケギニアで生きて行くには、知らなければならない事が山の様にあった。それらを学ぶ為の方法として宿の娘が提案したのが、本を読み聞かせて貰うと言う方法だ。
文字を指で追いながら内容を朗読して貰うこのやり方は、本の内容によっては文字の習得と共に様々な知識を身に付けられる。平民が買う事の出来る本では魔法等について詳しく書かれた物は早々無いが、それでも触り程度は書かれている物もあり、現状ではこれ以上望めないだろうと、クロードはそれなりの満足を得ていた。
そんな風に着々とハルケギニアに馴染んで行くクロード。彼に一つの転機が訪れたのは、その日の午後だった。本を読む二人の下に、宿の主人が貴族の使者が現れたと大慌てで知らせに来たのだ。
宿の主人はこう言った。ラ・ヴァリエール公爵様の使いの方がクロードさんに是非依頼したい事があるらしいと。