御伽噺が現実をぶち壊して後釜に座ったのは、もう何十年も前の話だ。
多世界への通行手段が確立してから人間の生活は一変している。
ちゃんと金を持っている中流階級以上の奴らは挙って地球なんかよりももっと居心地のいい世界へと旅立ち、後に残ったのは社会の底辺に位置する者達ばかり。今の地球を有り体に表現するならば、掃き溜めだ。
それでも多少人口が減ったからといって滅亡するほど人間社会は弱くなかったらしい。減ったら減ったでまたすぐ増えた。
此処、チネラストロの街が擁する人口は約30万人。内訳は地球人3万、いちいち種別していくと切りのない雑多な異世界人27万。異世界人が多すぎることを除けば、どこにでもある中堅都市だろう。それなりに賑わってはいるが、立派な掃き溜めであることに変わりはない。
元々いる地球人はクズばかりだし、他の異世界人もこんな地球(せかい)の方がマシだって逃げ出してきた奴らだ。まともである筈がない。それでも一定の治安が保たれているのは、クズの中でも少しは知恵のあるクズと力のあるクズが手を組んで管理しているからだった。
国家は既に過去の産物だ。
統括政府というものがあるらしいが、そいつの存在を認識したことはない。普通に暮らしていくなら関わり合いになることはまずないし、そいつらが何かしてくれることもない。
都市にはその政府とやらから管理責任者が送られて来ているそうだ。と言っても大抵の市民は顔も知らなければ名前も知らないし、知ろうとも思わない。本当のボスが誰なのかは一月住んでいれば嫌でも身体に叩き込まれるからだ。
「――だからな、お前さんももう少し頭使って生きな。それが嫌ならこの街から出てった方がいい。どこもかしこも似たり寄ったりだが、少しは住み心地の良い掃き溜めが在るのかもしれないしな」
怯え竦む哀れな女の行く手を塞ぐように路地裏の壁へと手をついて、男はそう忠告した。
「あ、あんたらは鬼よ! 悪魔よ! どんだけ人から毟り取っていけば気が済むの……!」
道を照らす水銀灯の光も此処までは届かない。薄闇の向こうには金網で出来た扉。彼女にとって不幸なことに、きっちりと施錠されている。
もう逃げることは無理だと悟ったのか、女はヒステリックに喚き出す。が、男にしてみれば心外なことだった。
「おいおい、家賃滞納を三ヶ月も待ってやった優しい俺達に対してそいつはないだろ」
「この詐欺師! あんなボロ宿の癖に一月九千クレジットも出せですって? 能無しの案山子野郎共は騙せても地球人(プレッツァ)のあたしは騙せないんだから!」
酷い言い草だ、と嘆息する。
女の言い分は全くの理不尽だった。提示した宿賃は一般水準からみても適正価格以下で、宿の立地や内装、サービスなど総合的に考えてむしろ安すぎるくらいだ。女がしている商売のことを考えれば払えない額ではない。しかし、今すぐ出せと言って出る額ではないのもまた事実だった。
仕方ない、と頭を振って男は女の襟首を掴んで顔を近づけた。
「いいか、良く聞け。あと一週間だ。一週間だけ待ってやる。もっと正確に言うなら7日後のこの時間までだ。それまでに金が用意出来ないなら不幸なことになる。俺ではなく、あんたにとって。ガンビーノ・ファミリーの取り立て屋が俺みたいに優しいと思ったら大間違いだからな。奴らは揃いも揃って真性のろくでなしだが、人を金に換えることに関しちゃ優秀だ」
女はその言葉を聞くやいなや態度を一変し、笑顔で男に抱きついた。
「ああ、ジャン! あたしは信じてたわ。あなたが血も涙も持ってる地球人(プレッツァ)だって。愛してるわ、ジャン。お酒の次くらいに!」
香水とアルコールがカクテルされた微妙な匂いが鼻を突き、気づかれない程度に眉をしかめる。一応はまだ客だ。無駄に機嫌を損なって良いことは一つもない。
「ねえ……ついでにお金稼ぐの手伝ってよ」
女の瞳に妖艶さが灯り、回された両手は背中を妖しく撫でる。上質なナイトガウンに包まれた豊満な胸を押し付けられ、しかし男――ジャンはやんわりと断った。
「やめとくよ。あんたは高そうだ」
地球人(プレッツァ)の娼婦は大抵みな高級品と相場が決まっている。
この街で金を持っている奴はそのほとんどが地球人で、そいつらは異世界人なんか抱かないからだ。
「いいじゃない。考えてみて、あなたが払うお金は結局またあたしからあなたへ戻る。つまりあなたは全く損しないのよ……?」
そんな屁理屈じゃそこらのガキも騙せない。だが、敢えてそれを指摘してやることもなかった。
「あんたの金は俺の懐には入らない。全部エリザベッタのもんだ」
「あの女の名前を出すのはやめて」
女の顔から微笑みが消え、ふいとふてくされたように横を向く。
「なによあたしが娼婦だからって見下して……娼婦やってて何が悪いのよ、あの性悪女!」
「エリザベッタは別にあんたもあんたが娼婦やってることも嫌いな訳じゃない。ただ、あんたが自分の客を部屋に連れ込むと両隣の部屋から苦情がくる。それが気に入らないだけなのさ」
「宿がボロくて壁が薄いのが悪いんじゃない」
「それには同感だ」
肩に手をかけ未練がましく此方を見やる女を引き剥がすと、ジャンは路地の出口へと歩き出す。その背中を追うように女の声が投げかけられる。
「ねえ、ジャン。あなたの事好きってのは嘘じゃないのよ? だって、あの性悪女に我慢してまで宿を借りてるのは――」
ジャンは振り返らず、歩みも止めず、軽く手を振って応えた。
「俺も好きさ。特に、ちゃんと家賃払ってくれる奴はな」
◇
生きていくために必要なのは御伽噺じゃなくて金だ。
駅前の広場で紫煙をくゆらせながらジャンは独りごちた。
チネラストロの街には景観なんてものは存在しない。誰かが放り投げてとっくに野良犬の腹の中だ。しかし中央広場とこのエクラタンテ駅周辺だけは話が別で、寄せばいいのに異世界人を観に来る観光客の為にちょっとはマシな外観をしている。美意識を母親の胎に置き忘れてきたようなクズ共でも、金の為なら苦労を厭わない。
ジャンにしてみれば小綺麗な石段の上に立っているとここが現実なのか怪しく思えてくるというのに、観光客達にとってはこれが普通なのだろう。暢気に時計台の周りに群がって曲芸劇なんかを観ている。
こっちに来たばかりの異世界人(メテーコ)の中には剣と魔法を振り回せば生活出来ると本気で思い込んでいる馬鹿がいるが、そういう奴らもいずれ現実を知る。彼らに必要なのは上手な剣の振り方でも魔法の呪文の唱え方でもなく、家計簿の付け方と金を稼ぐことの出来る職だ。
それでも意固地になって周囲に八つ当たりするどうしようもない奴も時たま見かけるが、そういう連中は同じ顔を二度見かけることはない。
それに比べて駅前広場で観光客相手に芸を披露している彼らは賢い。
剣や魔法はモンスターを倒すために使うんじゃなく、ああして使うべきだ。
そうすれば化け物の死体なんかよりはよっぽどマシなお捻りが貰える。
「お兄さん、暇なんならわたしとイイコトしない?」
「生憎とこれでも仕事中だ」
昼間だってのに寄ってくる猫みたいな耳をつけた異世界人(メテーコ)の客引きを追っ払って広場の中央にある時計を見やる。待ち合わせの時間が過ぎてから、そろそろ長針が半周しようとしていた。
いつだって客はこっちの都合なんてさっぱり考えちゃくれない。
「クソ……いい加減早く来てくれよ」
毎度毎度遅れる客の所為で、電車の切符を買うよりも駐禁切符を切られることの方が多くなってしまっている。ここらを取り仕切ってる保安員とはすっかり顔馴染みだった。
保安員と言っても単にこの街のルールを決めている奴の手先なだけであって警察官という訳ではないのだが、まあ何にせよ切符を切ってくることに違いはない。出来ることなら、お礼にあの世への片道切符を手渡してやりたいものだった。
太陽が天辺まで昇り、徐々に下ってくる。いつしか曲芸は終わり、観客は己の目的を思い出したのか、思い思いの方向へと散っていく。周りがゆっくりと時を刻む中、ジャンは変わらず立ち続ける。
時々猫耳女が懲りずにしつこく声をかけてくること以外の変化と言えば、足元の吸い殻が増える程度だ。いつの日か、清掃しに来た太鼓腹の中年親父がそれを見咎めたこともあったが、ジャンは一向に直そうとはしなかった。今ではジャンが此処に来る度に清掃員達が顔をしかめる。
「あの~、お兄さん――」
「だから仕事中だって何遍言ったら分かる。誘うなら別の奴を誘え!」
「ひぅ!? さ、さささ誘ってなんかいませんよというかわたしにはそういうのはまだちょーっと早いかなーなんて思ったり思わなかったりしたりしたり」
「ん?」
待たされた鬱憤から、背中越しの言葉につい語気を荒めてしまったが、どうやら客引きとは違うらしい。
振り向いてみれば黒いトンガリ帽子を目深に被った小さな子供が尻餅をつきながら、ぶんぶんと慌てた調子で腕を振り回していた。
傍らにはちっぽけな体に不釣り合いな大きいボストンバッグ。観光客にしては大仰だ。
「ああ、大丈夫かいお嬢ちゃん。すまない、ちょっと気が立ってたんだ」
「い、いえ大丈夫です。わたしの方こそ急に話しかけてごめんなさい……」
詫びの言葉と共に手を差し伸べて華奢な身体を助け起こすと、少女はぺこりとお行儀良く頭を下げた。
この街に住むガキの反応じゃない。あいつらが大人に寄ってくる時は大抵何か良からぬことを考えている時だ。
ガキとすれ違ったら財布を確認すること。
二、三回スリに遭えば嫌でも覚える教訓だった。
「で、何か用かな?」
「えっと……道を訊きたいんです。構いませんか?」
「ああ、構わないさ。俺に答えられる範囲なら、匂わない公衆トイレの場所から今晩の宿まで幾らでも。無駄に長く住んでるもんでね。この街のことに関しちゃ、結構自信があるんだ」
「本当ですか!? ありがとうございます!
あ、でもお礼に差し上げられるものはあまり無いんですけれど……」
「お礼なんていらないさ。君みたいな良い子を助けるのは大人の義務って奴だ」
ほっと息をつき安堵する少女の姿を見るだけで、待ちぼうけの苛立ちが癒されていくのを感じた。
そのことが報酬といっても差し支えないだろう。
「それで、何処へ行きたいんだ?」
「宿屋です。ホテル・カンティレーナっていうところなんですけど――って、あれ、どうかされましたか……?」
先程までの朗らかさが嘘のように憮然とした表情になったジャンに、少女は恐る恐る問いかけた。
そんな彼女を余所に、ジャンは最後の煙草に火を点けて深く吸い、吐く。
そしてようやく来た待ち人に、溜め息混じりの声で告げた。
「遅刻する悪い子には知ってても教えたくないな」
◇
チネラストロを縦横無尽に走る道路には共通点がある。狭いことと、迷路のように入り組んでいるということだ。比較的見通しがよく分かり易い道は大抵混みあっている。空いているのは裏道だが、タクシードライバーでも下手を打てば迷いかねない。この街のタクシードライバーはそんな事情なんかなくても、わざと迷ってメーターを回すクズばかりなのだが。
その点、ジャンの運転するオンボロ自動車はチネラストロで一番優秀なタクシーと言えるだろう。
彼は迷ったりしない。
駅からホテルまでの道のりは熟知しているし、迷っただけガソリンの無駄になると思っている。そして何より、どれだけ運転時間が長引いても彼の給金に変化は訪れないからだ。
「ごめんなさい……でも知らなかったんです、駅まで迎えに来てくれているなんて。えーっと、その……」
「言いたいことは素直に言った方がいい。確かにうちみたいな安宿がそんなサービスしてるなんて普通は誰も思わない」
建物は古く壁も薄いボロホテルだが、サービスだけは一流。チップ次第じゃいくらだって手間をかける。
それがホテル・カンティレーナのキャッチフレーズだ。
「だがな、そのことを知らなかったのは頂けない。俺にとってもだが、お嬢ちゃんにとっても。この街で宿を探すときの基本は、まず第一にどんな宿なのかよく調べること。特にそこが宿なのか宿を騙った別の何かなのかは重要だ」
じゃなきゃ身包みはがされて路頭に迷うことになる。
「はい………」
しゅんとうなだれる少女を見て、別に説教してるわけじゃない、と笑いかけた。
「まあ、何にしてもお嬢ちゃんは格別運がいいらしい。うちの客である間は、俺は訊かれれば何でも答えるし、訊かれなくても今みたいにこの街で暮らすためのアドバイスをしてやれる」
「は、はい、ありがとうございます!」
「礼なんていらないさ。代わりにチップを弾んでくれれば、それでいい」
冗談めかした本音を吐露しつつ、ジャンはミラーに映る少女を見た。
窓の向こうに流れる町並みを、楽しそうに見ている。キラキラとした眩しい笑顔は、この街じゃ滅多にお目にかかれない稀少品だ。こんな薄汚れた街を見て何が楽しいのかはさっぱり理解出来なかったが。
「運転手さんはどのくらいこの街で運転を続けてるんですか?」
「忘れるぐらい長く、だな。少なくともお嬢ちゃんがよちよち歩きを始めた頃からこの仕事をしていたよ」
「何で運転手をやろうって思ったんですか?」
「べつに運転手ってわけじゃない。ホテルの中じゃボーイだし、たまにベッドメイクや掃除を手伝う。作れるのはパスタくらいだが、コックが風邪ひいて寝込んだ時には厨房に立つこともある。月末になって家賃を出し渋る客がいたら取り立て屋だ。あとは手間賃貰って客の使い走りくらいかな」
「へー、すごく大変そうなお仕事ですねー」
「そうでもないさ。もう慣れた」
こうやって口先で人を煙に巻くのも、と内心で付け加える。
慣れなければやっていけない。好きでもないこの仕事を続けている理由は、この街の職にしてはわりかしマトモな方だからだ。楽ではないが、少なくとも食べるパンには困っていない。そして、続けている理由がくだらないものならば、始めた切欠なんてもっとくだらないものに決まっている。
「ところで、何でまたこの街へ?」
ふと思いついた疑問を投げかけて、一秒後にそれを後悔した。
「――――」
バックミラーの中で少女の笑みの質が変わっている。年相応の向日葵のような笑顔から、どこか困ったような愛想笑いに。
(…………くそったれめ)
ジャンは自分を罵った。
こんな街にわざわざ来るのだ。それ相応の理由があって然るべきである。普段のジャンならまず有り得ない質問だった。少女の爛漫さにあてられて、そんな当たり前のことも忘れてしまっていたのか。
「――悪い、今のはナシだ。気に障ったなら謝る」
こういう時はさっさと謝ってしまうに限る。まだジャンがこの街に来て間もなかった頃、物事の機微というものを理解するまで、こうした失敗はままあった。当時はそれが失敗だとすら気づいていなかったが、何故か減っていくチップの額が彼に学ばせてくれたのだった。
「い、いえ! 別に気に障ったとかそんなんではなくて! えっと、その……あうぅ~」
少女は何やら身悶えしながらあれこれ思案しているようだったが、不意にぐっと拳を握ると視線を真っ直ぐジャンの後頭部に向けて口を開いた。
「…………」
開いたまま、固まった。
(なんなんだ……?)
訳が分からなかった。
過去に様々な客を相手にしてきたが、こうした反応は未知のものだった。ジャンに出来たのはただ黙って待つことだけだ。
「…………」
「…………」
二人分の奇妙な沈黙を載せて車は走る。
行政の概念が無いこの街では道路を造るのはそれを必要とする人間だ。しかし造ったからといって、まめに整備修理まで行う酔狂な輩はいない。流石に通行不可能なまでに悪化すれば話は別というものだが。
中の人間のことなど一顧だにしていないオンボロ車の車輪がそうした凹凸を踏んで大きく跳ね上がる。それは特に気にする事もない茶飯事だったが、少女の背を押す手助けにはなったらしい。
「あ、あの!」
思い詰めた真剣な瞳が鏡の向こうで瞬いている。
ジャンの経験上、進んで自分の事情を話そうとする人間は二種類に大別することが出来た。
自嘲混じりの不幸自慢で自己陶酔する輩と、何らかの利を得る為に信用を得ようとする者だ。
前者はただ共感した振りをして相槌を打ってやればいい。
厄介なのは後者だった。
彼らはジャンの――あるいはジャンを通して誰かの――力を利用したいと画策している連中だ。特に自らの境遇を話すことで同情を得ようとする輩は始末が難しい。
強行な手段に訴える事こそ少ないが、断れば少なからずわだかまりが残る。酷い時は逆恨みを買うこともあるだろう。
客商売をしているジャンとしては、どちらにせよ歓迎すべきことではない。他人の良心しか頼る物の無い人間は大抵懐事情が寒いものだからだ。
(ああ、クソ! 最近はずれクジばかり引きやがる)
ジャンが内心毒づいたのも仕方の無いことだろう。ヒトは往々にして自らの経験から物事を予測するものだ。だから少女の顔が薄い朱に染まっていたことに気づかなかった。それが“羞恥”という感情であることもまた。
「わたし……魔法使いになりたいんですっ!」
時計の秒針が半周ほど回った。
「――――――」
「――――――」
「――――そ、そうかい。
そいつは何というか、その……素敵な夢、だな?」
たっぷりと間を開けて考えたわりに、口について出たのは陳腐な台詞だった。
内心、バックミラー越しの少女を得体の知れない未知の生物のように幻視してしまう。
しかしながら少女は宇宙から飛来した謎生物でも何でもなく、至極まっとうな人間だったようで、自分の発言の奇天烈さを自覚していたらしい。
頬を染めて目を俯かせ、小さな体を更に縮こめながら、か細い声で――機関銃の如く窓の向こうに高速でまくし立てていた。
「や、やっぱり変ですよね! 絵本読んでる童女じゃあるまいしこんな子供っぽいこと本気で言ってるとかあーもーメルヘンメルヘン! でも違うんですよ!? 知的遊戯の一環というかわたしはただ純粋に魔法という異境の技術体系に知的好奇心を抑えられないというか何というか、こう、ちょっと興味があるだけなんです! だから『あーこいつ頭ん中春だなーきっと年がら年中お花畑で蝶々追いかけてるんだろーなー』とか思わないでくださいよいやいやほんとうに!
……あれ、今運転手さんちょっと笑った? 笑いました? 笑いましたよね!? 言ったでしょう違うんですだから笑わないでくださ――――」
「笑わないさ」
「――――へ?」
ジャンは延々と喋り続ける少女を制するように口を挟んだ。
「夢を持ってるってのは良いことだ。生きていく道標になるからな。どんなに小さいことでも、どんなにくだらないことだっていい。目標さえあれば、人は明日に向かって歩き続けられる。毎日をただ何となく過ごしてる奴らは死んでないだけで生きちゃいないのさ。
だから、お嬢ちゃんを笑える奴なんざこの街にはいない。勿論、俺も笑わない」
呆気に取られたように此方を見つめる少女に、ちょっとポエミーだったか?、と悪戯っぽく目配せしてジャンはブレーキを踏んだ。
ガタンと一際大きく車体が揺れ、静止する。
「さ、着いたぞ。
――ようこそ、ホテル・カンティレーナへ。見ての通りのボロ宿だが、サービス精神だけは旺盛だ。気軽に声をかけてくれ」
◇
出来れば運転手さんにホテルを案内して欲しい、と言う少女に、先にチェックインだけ済ませてきてくれ、と返したジャンは、ロビーへと向かう少女の背を見ながら新しいシガーケースの封を開けた。
「……笑わないさ」
くたびれた上着のポケットからジッポーを取り出して火を灯す。
ゆらゆらと燃える小さな炎は、役目を果たすと蓋を閉めるまでもなく風に吹かれて消えていった。
「笑えない、話だからな……」
此処は灰色の街、チネラストロ。
明日を夢見て今日生きることの難しい場所。
やがて彼女も気づくだろう。
此処はエメラルドで飾られた都なんかではなく、剥き出しのコンクリートで出来た灰色街なのだと――――
吐き出した煙が宙に溶けていく。
ジジ、と紙煙草の先端が音を立てる。
そうしてまた一つ、街に白い灰が落ちた。