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[29356] 灰色街のカンティレーナ(ハートフルボッコヒューマンドラマ)
Name: PON◆889e7382 ID:2f94b048
Date: 2011/08/20 15:05
 ジャンルを定めることが難しい。
 強いて言うなら、剣と魔法相手にサイボーグたちがドンパチやらかす話……を書こうとしたらまったく別の何かが生まれてしまった。そんな話。


 8/19 初投稿



[29356] 灰色街に来た少女
Name: PON◆889e7382 ID:2f94b048
Date: 2011/08/19 10:37


 御伽噺が現実をぶち壊して後釜に座ったのは、もう何十年も前の話だ。

 多世界への通行手段が確立してから人間の生活は一変している。
 ちゃんと金を持っている中流階級以上の奴らは挙って地球なんかよりももっと居心地のいい世界へと旅立ち、後に残ったのは社会の底辺に位置する者達ばかり。今の地球を有り体に表現するならば、掃き溜めだ。
 それでも多少人口が減ったからといって滅亡するほど人間社会は弱くなかったらしい。減ったら減ったでまたすぐ増えた。
 此処、チネラストロの街が擁する人口は約30万人。内訳は地球人3万、いちいち種別していくと切りのない雑多な異世界人27万。異世界人が多すぎることを除けば、どこにでもある中堅都市だろう。それなりに賑わってはいるが、立派な掃き溜めであることに変わりはない。
 元々いる地球人はクズばかりだし、他の異世界人もこんな地球(せかい)の方がマシだって逃げ出してきた奴らだ。まともである筈がない。それでも一定の治安が保たれているのは、クズの中でも少しは知恵のあるクズと力のあるクズが手を組んで管理しているからだった。
 国家は既に過去の産物だ。
 統括政府というものがあるらしいが、そいつの存在を認識したことはない。普通に暮らしていくなら関わり合いになることはまずないし、そいつらが何かしてくれることもない。
 都市にはその政府とやらから管理責任者が送られて来ているそうだ。と言っても大抵の市民は顔も知らなければ名前も知らないし、知ろうとも思わない。本当のボスが誰なのかは一月住んでいれば嫌でも身体に叩き込まれるからだ。
 
「――だからな、お前さんももう少し頭使って生きな。それが嫌ならこの街から出てった方がいい。どこもかしこも似たり寄ったりだが、少しは住み心地の良い掃き溜めが在るのかもしれないしな」

 怯え竦む哀れな女の行く手を塞ぐように路地裏の壁へと手をついて、男はそう忠告した。

「あ、あんたらは鬼よ! 悪魔よ! どんだけ人から毟り取っていけば気が済むの……!」

 道を照らす水銀灯の光も此処までは届かない。薄闇の向こうには金網で出来た扉。彼女にとって不幸なことに、きっちりと施錠されている。
 もう逃げることは無理だと悟ったのか、女はヒステリックに喚き出す。が、男にしてみれば心外なことだった。

「おいおい、家賃滞納を三ヶ月も待ってやった優しい俺達に対してそいつはないだろ」

「この詐欺師! あんなボロ宿の癖に一月九千クレジットも出せですって? 能無しの案山子野郎共は騙せても地球人(プレッツァ)のあたしは騙せないんだから!」

 酷い言い草だ、と嘆息する。
 女の言い分は全くの理不尽だった。提示した宿賃は一般水準からみても適正価格以下で、宿の立地や内装、サービスなど総合的に考えてむしろ安すぎるくらいだ。女がしている商売のことを考えれば払えない額ではない。しかし、今すぐ出せと言って出る額ではないのもまた事実だった。
 仕方ない、と頭を振って男は女の襟首を掴んで顔を近づけた。
 
「いいか、良く聞け。あと一週間だ。一週間だけ待ってやる。もっと正確に言うなら7日後のこの時間までだ。それまでに金が用意出来ないなら不幸なことになる。俺ではなく、あんたにとって。ガンビーノ・ファミリーの取り立て屋が俺みたいに優しいと思ったら大間違いだからな。奴らは揃いも揃って真性のろくでなしだが、人を金に換えることに関しちゃ優秀だ」

 女はその言葉を聞くやいなや態度を一変し、笑顔で男に抱きついた。

「ああ、ジャン! あたしは信じてたわ。あなたが血も涙も持ってる地球人(プレッツァ)だって。愛してるわ、ジャン。お酒の次くらいに!」

 香水とアルコールがカクテルされた微妙な匂いが鼻を突き、気づかれない程度に眉をしかめる。一応はまだ客だ。無駄に機嫌を損なって良いことは一つもない。

「ねえ……ついでにお金稼ぐの手伝ってよ」

 女の瞳に妖艶さが灯り、回された両手は背中を妖しく撫でる。上質なナイトガウンに包まれた豊満な胸を押し付けられ、しかし男――ジャンはやんわりと断った。

「やめとくよ。あんたは高そうだ」

 地球人(プレッツァ)の娼婦は大抵みな高級品と相場が決まっている。
 この街で金を持っている奴はそのほとんどが地球人で、そいつらは異世界人なんか抱かないからだ。

「いいじゃない。考えてみて、あなたが払うお金は結局またあたしからあなたへ戻る。つまりあなたは全く損しないのよ……?」

 そんな屁理屈じゃそこらのガキも騙せない。だが、敢えてそれを指摘してやることもなかった。

「あんたの金は俺の懐には入らない。全部エリザベッタのもんだ」

「あの女の名前を出すのはやめて」

 女の顔から微笑みが消え、ふいとふてくされたように横を向く。

「なによあたしが娼婦だからって見下して……娼婦やってて何が悪いのよ、あの性悪女!」

「エリザベッタは別にあんたもあんたが娼婦やってることも嫌いな訳じゃない。ただ、あんたが自分の客を部屋に連れ込むと両隣の部屋から苦情がくる。それが気に入らないだけなのさ」

「宿がボロくて壁が薄いのが悪いんじゃない」

「それには同感だ」

 肩に手をかけ未練がましく此方を見やる女を引き剥がすと、ジャンは路地の出口へと歩き出す。その背中を追うように女の声が投げかけられる。

「ねえ、ジャン。あなたの事好きってのは嘘じゃないのよ? だって、あの性悪女に我慢してまで宿を借りてるのは――」

 ジャンは振り返らず、歩みも止めず、軽く手を振って応えた。

「俺も好きさ。特に、ちゃんと家賃払ってくれる奴はな」



 ◇


 生きていくために必要なのは御伽噺じゃなくて金だ。

 駅前の広場で紫煙をくゆらせながらジャンは独りごちた。
 チネラストロの街には景観なんてものは存在しない。誰かが放り投げてとっくに野良犬の腹の中だ。しかし中央広場とこのエクラタンテ駅周辺だけは話が別で、寄せばいいのに異世界人を観に来る観光客の為にちょっとはマシな外観をしている。美意識を母親の胎に置き忘れてきたようなクズ共でも、金の為なら苦労を厭わない。
 ジャンにしてみれば小綺麗な石段の上に立っているとここが現実なのか怪しく思えてくるというのに、観光客達にとってはこれが普通なのだろう。暢気に時計台の周りに群がって曲芸劇なんかを観ている。
 こっちに来たばかりの異世界人(メテーコ)の中には剣と魔法を振り回せば生活出来ると本気で思い込んでいる馬鹿がいるが、そういう奴らもいずれ現実を知る。彼らに必要なのは上手な剣の振り方でも魔法の呪文の唱え方でもなく、家計簿の付け方と金を稼ぐことの出来る職だ。
 それでも意固地になって周囲に八つ当たりするどうしようもない奴も時たま見かけるが、そういう連中は同じ顔を二度見かけることはない。
 それに比べて駅前広場で観光客相手に芸を披露している彼らは賢い。
 剣や魔法はモンスターを倒すために使うんじゃなく、ああして使うべきだ。
 そうすれば化け物の死体なんかよりはよっぽどマシなお捻りが貰える。

「お兄さん、暇なんならわたしとイイコトしない?」

「生憎とこれでも仕事中だ」

 昼間だってのに寄ってくる猫みたいな耳をつけた異世界人(メテーコ)の客引きを追っ払って広場の中央にある時計を見やる。待ち合わせの時間が過ぎてから、そろそろ長針が半周しようとしていた。
 いつだって客はこっちの都合なんてさっぱり考えちゃくれない。

「クソ……いい加減早く来てくれよ」

 毎度毎度遅れる客の所為で、電車の切符を買うよりも駐禁切符を切られることの方が多くなってしまっている。ここらを取り仕切ってる保安員とはすっかり顔馴染みだった。
 保安員と言っても単にこの街のルールを決めている奴の手先なだけであって警察官という訳ではないのだが、まあ何にせよ切符を切ってくることに違いはない。出来ることなら、お礼にあの世への片道切符を手渡してやりたいものだった。
 太陽が天辺まで昇り、徐々に下ってくる。いつしか曲芸は終わり、観客は己の目的を思い出したのか、思い思いの方向へと散っていく。周りがゆっくりと時を刻む中、ジャンは変わらず立ち続ける。
 時々猫耳女が懲りずにしつこく声をかけてくること以外の変化と言えば、足元の吸い殻が増える程度だ。いつの日か、清掃しに来た太鼓腹の中年親父がそれを見咎めたこともあったが、ジャンは一向に直そうとはしなかった。今ではジャンが此処に来る度に清掃員達が顔をしかめる。

「あの~、お兄さん――」

「だから仕事中だって何遍言ったら分かる。誘うなら別の奴を誘え!」

「ひぅ!? さ、さささ誘ってなんかいませんよというかわたしにはそういうのはまだちょーっと早いかなーなんて思ったり思わなかったりしたりしたり」

「ん?」

 待たされた鬱憤から、背中越しの言葉につい語気を荒めてしまったが、どうやら客引きとは違うらしい。
 振り向いてみれば黒いトンガリ帽子を目深に被った小さな子供が尻餅をつきながら、ぶんぶんと慌てた調子で腕を振り回していた。
 傍らにはちっぽけな体に不釣り合いな大きいボストンバッグ。観光客にしては大仰だ。

「ああ、大丈夫かいお嬢ちゃん。すまない、ちょっと気が立ってたんだ」

「い、いえ大丈夫です。わたしの方こそ急に話しかけてごめんなさい……」

 詫びの言葉と共に手を差し伸べて華奢な身体を助け起こすと、少女はぺこりとお行儀良く頭を下げた。
 この街に住むガキの反応じゃない。あいつらが大人に寄ってくる時は大抵何か良からぬことを考えている時だ。
 ガキとすれ違ったら財布を確認すること。
 二、三回スリに遭えば嫌でも覚える教訓だった。

「で、何か用かな?」

「えっと……道を訊きたいんです。構いませんか?」

「ああ、構わないさ。俺に答えられる範囲なら、匂わない公衆トイレの場所から今晩の宿まで幾らでも。無駄に長く住んでるもんでね。この街のことに関しちゃ、結構自信があるんだ」

「本当ですか!? ありがとうございます!
 あ、でもお礼に差し上げられるものはあまり無いんですけれど……」

「お礼なんていらないさ。君みたいな良い子を助けるのは大人の義務って奴だ」

 ほっと息をつき安堵する少女の姿を見るだけで、待ちぼうけの苛立ちが癒されていくのを感じた。
 そのことが報酬といっても差し支えないだろう。

「それで、何処へ行きたいんだ?」

「宿屋です。ホテル・カンティレーナっていうところなんですけど――って、あれ、どうかされましたか……?」

 先程までの朗らかさが嘘のように憮然とした表情になったジャンに、少女は恐る恐る問いかけた。
 そんな彼女を余所に、ジャンは最後の煙草に火を点けて深く吸い、吐く。
 そしてようやく来た待ち人に、溜め息混じりの声で告げた。

「遅刻する悪い子には知ってても教えたくないな」



 ◇


 チネラストロを縦横無尽に走る道路には共通点がある。狭いことと、迷路のように入り組んでいるということだ。比較的見通しがよく分かり易い道は大抵混みあっている。空いているのは裏道だが、タクシードライバーでも下手を打てば迷いかねない。この街のタクシードライバーはそんな事情なんかなくても、わざと迷ってメーターを回すクズばかりなのだが。
 その点、ジャンの運転するオンボロ自動車はチネラストロで一番優秀なタクシーと言えるだろう。
 彼は迷ったりしない。
 駅からホテルまでの道のりは熟知しているし、迷っただけガソリンの無駄になると思っている。そして何より、どれだけ運転時間が長引いても彼の給金に変化は訪れないからだ。

「ごめんなさい……でも知らなかったんです、駅まで迎えに来てくれているなんて。えーっと、その……」

「言いたいことは素直に言った方がいい。確かにうちみたいな安宿がそんなサービスしてるなんて普通は誰も思わない」

 建物は古く壁も薄いボロホテルだが、サービスだけは一流。チップ次第じゃいくらだって手間をかける。
 それがホテル・カンティレーナのキャッチフレーズだ。
 
「だがな、そのことを知らなかったのは頂けない。俺にとってもだが、お嬢ちゃんにとっても。この街で宿を探すときの基本は、まず第一にどんな宿なのかよく調べること。特にそこが宿なのか宿を騙った別の何かなのかは重要だ」

 じゃなきゃ身包みはがされて路頭に迷うことになる。

「はい………」

 しゅんとうなだれる少女を見て、別に説教してるわけじゃない、と笑いかけた。

「まあ、何にしてもお嬢ちゃんは格別運がいいらしい。うちの客である間は、俺は訊かれれば何でも答えるし、訊かれなくても今みたいにこの街で暮らすためのアドバイスをしてやれる」

「は、はい、ありがとうございます!」

「礼なんていらないさ。代わりにチップを弾んでくれれば、それでいい」

 冗談めかした本音を吐露しつつ、ジャンはミラーに映る少女を見た。
 窓の向こうに流れる町並みを、楽しそうに見ている。キラキラとした眩しい笑顔は、この街じゃ滅多にお目にかかれない稀少品だ。こんな薄汚れた街を見て何が楽しいのかはさっぱり理解出来なかったが。

「運転手さんはどのくらいこの街で運転を続けてるんですか?」

「忘れるぐらい長く、だな。少なくともお嬢ちゃんがよちよち歩きを始めた頃からこの仕事をしていたよ」

「何で運転手をやろうって思ったんですか?」

「べつに運転手ってわけじゃない。ホテルの中じゃボーイだし、たまにベッドメイクや掃除を手伝う。作れるのはパスタくらいだが、コックが風邪ひいて寝込んだ時には厨房に立つこともある。月末になって家賃を出し渋る客がいたら取り立て屋だ。あとは手間賃貰って客の使い走りくらいかな」

「へー、すごく大変そうなお仕事ですねー」

「そうでもないさ。もう慣れた」

 こうやって口先で人を煙に巻くのも、と内心で付け加える。
 慣れなければやっていけない。好きでもないこの仕事を続けている理由は、この街の職にしてはわりかしマトモな方だからだ。楽ではないが、少なくとも食べるパンには困っていない。そして、続けている理由がくだらないものならば、始めた切欠なんてもっとくだらないものに決まっている。

「ところで、何でまたこの街へ?」

 ふと思いついた疑問を投げかけて、一秒後にそれを後悔した。

「――――」

 バックミラーの中で少女の笑みの質が変わっている。年相応の向日葵のような笑顔から、どこか困ったような愛想笑いに。

(…………くそったれめ)

 ジャンは自分を罵った。
 こんな街にわざわざ来るのだ。それ相応の理由があって然るべきである。普段のジャンならまず有り得ない質問だった。少女の爛漫さにあてられて、そんな当たり前のことも忘れてしまっていたのか。

「――悪い、今のはナシだ。気に障ったなら謝る」

 こういう時はさっさと謝ってしまうに限る。まだジャンがこの街に来て間もなかった頃、物事の機微というものを理解するまで、こうした失敗はままあった。当時はそれが失敗だとすら気づいていなかったが、何故か減っていくチップの額が彼に学ばせてくれたのだった。

「い、いえ! 別に気に障ったとかそんなんではなくて! えっと、その……あうぅ~」

 少女は何やら身悶えしながらあれこれ思案しているようだったが、不意にぐっと拳を握ると視線を真っ直ぐジャンの後頭部に向けて口を開いた。

「…………」

 開いたまま、固まった。

(なんなんだ……?)

 訳が分からなかった。
 過去に様々な客を相手にしてきたが、こうした反応は未知のものだった。ジャンに出来たのはただ黙って待つことだけだ。
 
「…………」

「…………」


 二人分の奇妙な沈黙を載せて車は走る。
 行政の概念が無いこの街では道路を造るのはそれを必要とする人間だ。しかし造ったからといって、まめに整備修理まで行う酔狂な輩はいない。流石に通行不可能なまでに悪化すれば話は別というものだが。
 中の人間のことなど一顧だにしていないオンボロ車の車輪がそうした凹凸を踏んで大きく跳ね上がる。それは特に気にする事もない茶飯事だったが、少女の背を押す手助けにはなったらしい。

「あ、あの!」

 思い詰めた真剣な瞳が鏡の向こうで瞬いている。
 ジャンの経験上、進んで自分の事情を話そうとする人間は二種類に大別することが出来た。
 自嘲混じりの不幸自慢で自己陶酔する輩と、何らかの利を得る為に信用を得ようとする者だ。
 前者はただ共感した振りをして相槌を打ってやればいい。
 厄介なのは後者だった。
 彼らはジャンの――あるいはジャンを通して誰かの――力を利用したいと画策している連中だ。特に自らの境遇を話すことで同情を得ようとする輩は始末が難しい。
 強行な手段に訴える事こそ少ないが、断れば少なからずわだかまりが残る。酷い時は逆恨みを買うこともあるだろう。
 客商売をしているジャンとしては、どちらにせよ歓迎すべきことではない。他人の良心しか頼る物の無い人間は大抵懐事情が寒いものだからだ。

(ああ、クソ! 最近はずれクジばかり引きやがる)

 ジャンが内心毒づいたのも仕方の無いことだろう。ヒトは往々にして自らの経験から物事を予測するものだ。だから少女の顔が薄い朱に染まっていたことに気づかなかった。それが“羞恥”という感情であることもまた。
 
「わたし……魔法使いになりたいんですっ!」

 時計の秒針が半周ほど回った。

「――――――」

「――――――」

「――――そ、そうかい。
 そいつは何というか、その……素敵な夢、だな?」

 たっぷりと間を開けて考えたわりに、口について出たのは陳腐な台詞だった。
 内心、バックミラー越しの少女を得体の知れない未知の生物のように幻視してしまう。
 しかしながら少女は宇宙から飛来した謎生物でも何でもなく、至極まっとうな人間だったようで、自分の発言の奇天烈さを自覚していたらしい。
 頬を染めて目を俯かせ、小さな体を更に縮こめながら、か細い声で――機関銃の如く窓の向こうに高速でまくし立てていた。
 
「や、やっぱり変ですよね! 絵本読んでる童女じゃあるまいしこんな子供っぽいこと本気で言ってるとかあーもーメルヘンメルヘン! でも違うんですよ!? 知的遊戯の一環というかわたしはただ純粋に魔法という異境の技術体系に知的好奇心を抑えられないというか何というか、こう、ちょっと興味があるだけなんです! だから『あーこいつ頭ん中春だなーきっと年がら年中お花畑で蝶々追いかけてるんだろーなー』とか思わないでくださいよいやいやほんとうに!
 ……あれ、今運転手さんちょっと笑った? 笑いました? 笑いましたよね!? 言ったでしょう違うんですだから笑わないでくださ――――」

「笑わないさ」

「――――へ?」

 ジャンは延々と喋り続ける少女を制するように口を挟んだ。

「夢を持ってるってのは良いことだ。生きていく道標になるからな。どんなに小さいことでも、どんなにくだらないことだっていい。目標さえあれば、人は明日に向かって歩き続けられる。毎日をただ何となく過ごしてる奴らは死んでないだけで生きちゃいないのさ。
 だから、お嬢ちゃんを笑える奴なんざこの街にはいない。勿論、俺も笑わない」

 呆気に取られたように此方を見つめる少女に、ちょっとポエミーだったか?、と悪戯っぽく目配せしてジャンはブレーキを踏んだ。
 ガタンと一際大きく車体が揺れ、静止する。

「さ、着いたぞ。
 ――ようこそ、ホテル・カンティレーナへ。見ての通りのボロ宿だが、サービス精神だけは旺盛だ。気軽に声をかけてくれ」


 ◇


 出来れば運転手さんにホテルを案内して欲しい、と言う少女に、先にチェックインだけ済ませてきてくれ、と返したジャンは、ロビーへと向かう少女の背を見ながら新しいシガーケースの封を開けた。

「……笑わないさ」

 くたびれた上着のポケットからジッポーを取り出して火を灯す。
 ゆらゆらと燃える小さな炎は、役目を果たすと蓋を閉めるまでもなく風に吹かれて消えていった。

「笑えない、話だからな……」

 此処は灰色の街、チネラストロ。
 明日を夢見て今日生きることの難しい場所。
 やがて彼女も気づくだろう。
 此処はエメラルドで飾られた都なんかではなく、剥き出しのコンクリートで出来た灰色街なのだと――――
 
 吐き出した煙が宙に溶けていく。
 ジジ、と紙煙草の先端が音を立てる。
 そうしてまた一つ、街に白い灰が落ちた。





[29356] Noble or Butter?
Name: PON◆889e7382 ID:2f94b048
Date: 2011/08/23 15:14

 ――どうして、こんな事に。
 
 幾度となく繰り返された自問が室内を震わせた。
 簡素な備えつけの家具以外に何も無い、がらんとした部屋。数日に一度、従業員が掃除に来てくれるお陰で清潔さは保たれている。だが、今はその事すら部屋の空虚さを際立たせているようにしか思えなかった。

「…………」

 勿論、最初は違ったのだ。
 彼の故郷を思い出させてくれる、独特な模様の絨毯。壁に掛けられた煌びやかなタペストリー。
 机の上には豪奢な装飾縁に囲われた写真立てが置かれ、泣く泣く別れる他なかったかつての想い人の写真が飾られていた。
 ……今はもう無い。
 写真は壁にピンで無造作にとめられている。
 
「…………ッ!」

 発作的にその写真をずたずたに引き裂いてしまいたい衝動に駆られた。
 そうして意味も無く喚き散らしたい。
 しかし、彼の感性はその行動を無様と捉える。あまりにも醜い姿だと。
 彼の矜持に懸けて、そんな行いはけして出来ない。
 自分が、自分の精神までもがそのような醜悪なものに堕することを許せるはずがなかったのだ。
 男は伸ばしかけた両腕を力なく垂れ下げると、そのまま腰掛けたベッドに仰向けに倒れ込む。
 慣れ親しんだ天井が見えた。
 慣れ親しんで、しまった天井。
 今となっては、慣れ親しめたことが酷く幸福なことに思える。

 一人の青年の話をしよう。

 彼はとある貴族の三男坊として生まれた。
 皇族の力が弱く、地方分権化が進んでいた彼の国では、そうした地方の豪族達がこの世の春を満喫していたが、その過渡期にあったのは血に塗れた群雄割拠の政争である。
 政争と聞けば高度な知的活動に思えるが、その実態は酷く原始的な弱肉強食の摂理に基づいた争いでしかない。一皮向けば暗刃と毒杯が飛び交う戦場だった。
 そんな戦場に生まれついていながら、彼は至極まっとうに育っていった。
 三男ということもあり、彼自身が過度の待遇を望まなければさして狙われる立場には非ず、そして牧歌的な善人であった彼もそれを望まなかったのだ。
 貴族としては異例なほど温厚であり、故に領民からの評価も高かった。いずれは小さな領地を継いで平穏無事な人生を送る――彼も周りもそれを信じて疑わなかった。
 彼自身には何の罪もない。
 領民から過酷な重税を毟ることも、非礼と銘打って無辜の平民を殺したこともない。愚鈍な政策で領地を荒らしたこともなかった。
 平時であれば良君として名を馳せたのかも知れない。
 だが、現実はそうならなかった。
 強いて言うならば、彼の善性こそが政争という場において度し難い罪悪だったのだ。
 彼の不幸は、彼の家がそうした政争の一つに巻き込まれたことを発端とする。
 それがどのようなものだったのかは彼の知るところではない。
 ただ、日毎に焦燥の貌を強めていく父親と、些細なことで諍いを起こし語気を荒くする兄達、急激に白髪の増えていく母親の姿を見て、何か良くないことが起きているのだと薄々と感じていた。
 しかし所詮はその程度だったのだ。
 彼は何かをしたわけではない。
 彼は何もしようとはしなかっただけだ。
 自分の身の周りがどれだけ追い詰められているのか、気づく努力を怠った。
 ただ、それだけだ。
 何も知らず、気づけば彼は金品を持たされて単身で地球へと送られていた。
 
『政略結婚――』
『中央の皇族と――』
『根回しに一年必要――』
『謀殺の恐れが――』
『――暫く身を隠せ』

 父と兄達から長々と語られた言葉の全てを理解することは出来なかったが、それでも何とか要点だけは把握していた。
 つまりは自分の身が家にとって重要になり、それ故に危険であること。そして一年間異境の地に身を潜めねばならないという事実。
 しかし彼はそのことを嘆こうとはしなかった。むしろ喜んでいた。自分が家の役に立てることに。
 愛しい家族を、他ならぬ自らの手で窮地から救えるのだ。それならばたった一年間苦労することくらい何のことはない。
 彼は善人だった。
 家族愛に溢れた、普通の善人であった。
 そうして彼は地球へと旅立ち、一つの街へと流れ着いた。
 ――灰色の街、チネラストロ。
 異世界人が人口の九割を占めるこの街は、身を潜めるのに打ってつけだった。如何に地球への異世界人流入が加速されていたとはいえ、彼の種族特有のものである容姿は、他の都市では目立ち過ぎたのだ。
 加えて彼の持たされた金品――重量と価値の兼ね合いで宝石類が多かった――を換金するのにも適していた。
 当然のことだが、彼の世界の通貨は地球では鉄屑同然だ。例え金貨でさえ信用が置けない。純度の問題や、狡賢い地球の為替商人に買いたたかれる恐れもあった。
 だが、チネラストロは住民の大半は異世界人である。そうした全く価値観の違う異世界間の物資をやり取りするために、一定の規範や制度が整っている巨大なマーケットがあったのだ。
 そういった理由から彼はこの街に潜伏先を定め、数ある居住候補の中か一件の宿屋を選んで生活することに決めた。

『ホテル・カンティレーナ』

 ホテルと銘打ってはいるが、実質的にはアパートに近い。
 一晩限りの仮宿としても利用出来るが、顧客の多くは長期契約を結ぶ代わりに家賃を安くしてもらっている。
 安すぎず高すぎず特に目立つこともない、ありふれた宿屋だった。
 そのことも選択の理由の一つ。
 安宿の劣悪な環境に耐えられるとは思えなかったし、また高級宿にも泊まりたくない。
 所有する金品の総額は、軽く見積もってもゆうに三年間は遊んで暮らせる額だったが、彼はそれを浪費するつもりは毛頭なかった。不足の事態に備えて節制を怠らないつもりであったし、窮する家族の為に少しでも多く持ち帰りたかったからだ。
 彼はそういう善人で、節約することが出来る程度に賢しかった。
 ここまで彼の冒険は順調そのものだった。
 衣服がある。食う金にも困らない。住居も及第点。
 日々節制を怠らず、しかし禁欲的な生活によるストレスを溜め込まないように、たまにガス抜きとして遊ぶ。貴族としては有り得ざるほど慎ましやかな生活。
 彼のこのペース配分は天性のものと言える。理想的な生活であった。
 そうして彼は何のトラブルも無く、右も左も分からない異郷の地で一年間を暮らしぬいた。あるいは偉業といってもいいほどの快挙である。

 ――――しかし、肝心の迎えは来なかった。

 一年を過ぎ、数ヶ月が経っても彼は焦らなかった。
 きっとまだごたついているのだろう。思えば、それを見越したからこそ過分なほどの金品を持たされたのだ。これくらいの誤差はあって然るべき。
 たかが一年間と無駄に貯えを浪費していたら、と考えると肝が冷えるが、自分は上手くやれている。このペースなら、あと五年は大丈夫だ。
 彼は自分の賢明さを誇り、待ち続けた。

 ――――二年が経った。

 相変わらず迎えは来ない。
 真綿で首を締め上げられるような疑念が芽生えた。
 心胆を蝕む悪しき予感を振り払うように酒を飲んだ。
 思えば、この頃から急激に酒量が増えた気がする。
 たまに舐める程度だった酒は、いつしか常に買い置かれるようになった。

 ――――更に半年が経った。

 もしや自分の居場所が分からないのではないかと、危険は承知で繰り返し文を送った。
 無論、そんなことは有り得ない。チネラストロを潜伏地候補として奨めたのは、他ならぬ彼の父親だったからだ。

 ――――数ヶ月後。

 この地で暮らし始めてもうすぐ三年が経とうというある日、彼を訪ねる者がいた。
 待ちに待った迎えだ!
 長旅で疲れ切った様子の同胞を喜色満面で労い――――その伝える言葉に絶望した。

『もう、ありません』

 何が。

『ですから、貴方様の生家はもうありません』

 何で、

『取り潰されたのです。一年ほど前、王朝の貴族名簿から正式に抹消されました』

 嘘だ、
 嘘だ嘘だ嘘だ!

『わたくしは長年お仕えしてきた最後の務めとして、貴方様にこれをお渡しするために参りました』

 年老いた元執事がそう言って手渡した物は小さなバッジだった。
 ――――彼が家の家紋を象った貴族章。
 まるで場違いなほど燦然と輝くそれを残して、老人は去った。
 せめて故郷に骨を埋めたいと、去り際に呟いて。

 ……放心し、無為に時を過ごしたのは一週間ほど。
 握りしめた拳の中、手の平に食い込む鋭い痛みで彼は正気を取り戻した。
 ゆっくりと開いたそこには、小さく灯りを反射した貴族章。
 まるで彼を見つめるように、それはあった。

 ――しっかりしろッ!!

 自分に言い聞かせるように叫ぶ。
 人生に山と谷があるのなら、今は谷だった。
 深い、深い谷底であった。

 ――だから、何だと言うのだッ!!

 奮える手で、バッジを胸元にしまい込んだ。
 逆境である。
 人生の順風は途絶え、吹き荒ぶ嵐の真っ只中で孤立している。
 だが――それがなんだというのか。
 まだ自分がいる。
 五体満足で健在な自分がいる。
 立って歩ける手足があり、物を考える頭がある。
 そして、心に受け継いだ誇りがある。
 この程度の苦境を乗り越えられずに何が貴族(ノーブル)か!
 地に落ち汚泥にまみれようとも、胸に秘めた貴き意思は消えてはいない。絶やしてはいけない。
 帰る家が無くなった?
 先祖代々築き上げてきたものが崩れ去った?
 そんな俗物はオマケに過ぎない。
 後付けの、付属品に過ぎない。
 真に受け継ぐべきものは無くなっていない。
 此処に、この胸に確かに存在するのだから――――

 彼はそうして奮起した。

 悲しみも絶望も消え去ったわけではない。
 それらを纏めて臓腑へと喰らい込んで、冷静に身の周りを見渡せば、希望はそこかしこに存在した。
 手許には巨額とは言えないが、それなりに金があった。
 今までのたゆまぬ努力の結晶、本来ならとっくに食い潰していてもおかしくない。他ならぬ彼の財産が。
 そしてマーケットで金品を売りさばいてきた過程で生まれた人脈。役に立つのかは疑問だが、三年あまりの生活で築いた雑多な繋がりもある。
 その日暮らしをしている灰色街の住人達と比べて、遥かに恵まれていた。

 ――――新たに築こう。栄光を。

 それが貴き一族の末裔たる自分の使命であり、義務。

 そう誓って、彼は歩み始めた。

 久しぶりに街へ出た彼は驚いた。
 まるで世界が一変したように違う。
 実際に変わったわけではない。今まで気にも留めなかった様々なものが見えるようになっていた。
 通いなれた筈の市場は、彼にとっては小さな世界だった。金品を換金出来る店以外はどうでもいいものであり、様々な店で何が売られていてどんな値段なのか、など彼は知らなかった。
 今は違う。
 そういった情報は値千金、宝の山。
 一件一件、小さな露天商ですら興味を引いてやまない。視点を変えてみれば、そこには市場の巨大さが広がっていた。
 

 その後もマーケットに通い詰めてじっくりと観察し、彼はこの市場を使って金を稼ぐことに決めた。
 商人として店を構えるという意味ではなく、一種の資本投機を行うつもりであったのだ。
 金を稼ぐならば地道に肉体労働をするという道もあったが、彼はそういった労働者の仲間入りをする気は毛頭なかった。
 民とは搾取されるもの。
 貴族という支配層であった彼は、そのことを熟知していた。
 彼が金を稼ごうとした理由は、ただ生活の為ではなく、貴族足らんとする為である。被支配層に身を窶すことはプライドが許さなかったのだ。
 最初は様子を確かめるように慎重に。慣れるに従って徐々に投機する金額を増やしていった。
 彼が主にしていたのは、かねてからの人脈を利用した宝飾品の先物取引である。
 富裕層であった彼は宝飾品の目利きに優れていた。腕が良く、しかしあまりブランドとしての価値が無い工房の作品を見つけて買いたたき、それに『彼の卸す作品』として付加価値(ブランド)を付けて高額で売却していったのだ。
 勿論始めは『彼の卸す作品』という信用はまるでなく、損をすることはままあったが、彼の目利きは本物だ。続けていくに従って信用とそれに伴う付加価値は上がっていった。
 ――風が吹き始めていた。
 一度途切れた人生の順風。それが再び彼の背を押し始めていた。
 その流れを逃すまいと、彼は賭けに出た。
 今までの細々とした小取引とは違う、大口の取引である。
 流行の兆しを見せていたとあるブランドの工房長と私的に知り合い、大量の宝飾品を売りたいと持ちかけられたのだ。
 工房長はマーケットで名を上げている彼のお墨付きを得ることで、一気に工房の名を広めることが目的であり、彼にとっても悪い話ではない。
 契約が成立した晩、二人で祝杯を上げた。明るい未来を信じて疑わずにいられた、最後の晩であった。
 
 ――――不慮の事故だったと云う。

 その数日後、工房長が宝石の研磨機に巻き込まれ両手の指を潰してしまったのは。
 彼にとって更なる不幸だったのは、作品を売却する取引先と既に契約してしまっていたことだった。それがよりにもよって、街でもトップクラスの高級宝石店。本来簡単に契約を結べる相手ではなく、言うなれば彼自身の有能さが裏目にでてしまったのである。
 彼は既に二つの契約を結んでしまっていた。
 一つは、工房から作品を購入するという契約。
 もう一つは、作品をその高級宝石店に売却するという契約。
 先物取引の落とし穴だ。
 彼は工房長不在故の粗悪な商品を大量に購入せねばならず、また宝石店にそれを売らなければならないのである。
 誰も得をせず、誰もが損をした。
 彼も、工房も、宝石店も、皆被害を受けた。
 工房は作品の評価を地に落とし、宝石店は粗悪な作品をどう捌けば良いのかと頭を抱えた。
 彼だけは金を手にすることが出来たが、その代わりに詐欺師と後ろ指を指されてマーケットを追い出されることになった。
 投資家としての彼は死んだのだ。
 
 彼にとっての世界はどこまでも残酷で、冷たい手触りをしていた。

 残されたのは最早再起の見込めぬ絶望感と、多額の金。
 最初に希望が消えて、次に人脈が消えた。そしてその次に金庫の中身。
 金が底をついてからは、徐々に身の周りの物が消えていった。
 今では外出する時に鍵をかけることもしなくなった。
 盗られるものが、無くなってしまったからだ。


 ◇



 ぼんやりと天井を見続けていると、足音が聞こえてきた。それは徐々に近づいてきて、彼の部屋の前で止まった。
 ドアがノックされる。
 ベッドから身を起こし返事をすると、ゆっくりと扉が開いて既に見飽きた悪魔が姿を現した。
 くたびれたスーツを気怠げに着崩し、客の前だというのにくわえ煙草をやめようともしない。その態度を咎めたことは幾度もあったが、今はそんな気力すら起きない。

「よう、旦那。調子は……あまり良くなさそうだが。まあ、ご機嫌よう」

「…………」

「何だか疲れてるみたいだな。そんなところにお邪魔するのはちょいと心苦しいが、こっちも仕事なもんでね。勘弁してくれ」

「……何の用だ」

「何の用かって?」

 ジャンという名の招かれざる客は、大仰に肩を竦めた。

「そいつは旦那が一番良く知ってると思うがな。
 ――ああ、こういうのも旦那の十八番の駆け引きって奴かい? 悪いが、今日は商談するつもりで来たわけじゃない。俺はしがない使い走りでね。そんな高尚なことは出来ないのさ。
 それにこう見えて結構忙しい。今月は三人もいるんだ。一人は……とりあえず保留ってことになったんだが、まだ二人も残ってる。だからさっさと片付けて次に行きたいわけだ。分かってくれるかい? ――なあ、二人目(・・・)の旦那さんよう」

 人を食ったような挙動が酷く勘に障る。だが、それを怒りとして面に出すわけにはいかなかった。以前とは違い、既に両者の力関係は変わっているからだ。

「金は、無い……」

 喉の奥から絞り出した言葉に、しかし目の前の男は驚かなかった。

「そいつはもう先月末に聞いた台詞だぜ。だから俺はわざわざ重たい荷物担いで質屋まで行く羽目になったんだ。あのなぁ、旦那。手間賃どころか手間を増やされるだけだと、こっちも商売あがったりなんだがね」

 やれやれ、と彼に負けず劣らず湿気た表情をして、ジャンはこめかみを揉んだ。

「ああ、面倒だ。ったく、実に面倒なことだよ。報酬の無い労働って奴はな。でも仕方ない。どっかで誰かが損をしなけりゃ世間は回っていかないもんだ。今回はその番が俺に回ってきただけのこと。そう割り切るしかないな」

 それで、とジャンは部屋を見渡した。

「今月は何を持って行けばいいんだい?」

「……見て分からないか」

「分からないな。俺には何もありはしないようにしか見えないが……ひょっとして、馬鹿には見えない宝箱でもあるのかい? そんなら俺はお手上げだ」

 くだらない遣り取りの応酬は、一種の皮肉を帯びた通過儀礼であった。
 ジャンも本当は分かっている。分かっているのだった。

「何も無い――ああ、そうとも何も残っていない! 出せるものはもう何も無いんだ……!」

 押し殺した叫びが室内を巡った。
 破滅を告げる、言ってはならない――言わざるを得ない言葉だった。

「…………」

「…………」

 残響が宙に溶けると重苦しい沈黙が残った。
 人生という長い登山の落伍者を前にして、ジャンは目を伏せた。嘲るような真似は出来ない。明日は我が身であるからだ。

「……本当に、何も無いのかい?」

 沈黙を割って出た問いに、異世界人の青年はその痩躯を震わせた。
 そして酷く緩慢な、まるで腕に鉛を括られているかのような挙措で懐に手を差し入れると、何かを取り出しジャンに手渡した。
 手渡す一瞬の躊躇いは、力尽きたかのような溜め息と共に消え去った。

「私に出せるものは……もう、これくらいしか無い」

 ジャンは掌で輝く小さなバッジを眺めた。恐らくは、名のある職人が丹精を込めたであろう。見事な細工が施された逸品だった。売れば少しは金になるかもしれない。
 だが――

「こいつは受け取れないな」

 暫く手の内で弄んだそれを、ジャンは無造作に放り投げた。
 からん、と小さな輝きが床を転がっていく。

「足りねえよ。そんなガラクタを寄越すよりも、あとひと月だけ待ってやるからさっさと金を工面してこい」

 青年は呆然とその行為を見ていたが、全身をわなわなと震わせ始める。

「き、貴様……何たる所業を……!
 自分が何をしたかわかっているのかぁッ!!」

 乾いた砂地のようだった心を割砕いて、煮えたぎる溶岩が身を焦がす。
 
 ――私がどのような思いでそれを差し出したか分からぬ訳ではあるまい。
 それを知った上で、この男は――!――

「価値が無いのさ。ま、精々が三千クレジットってとこか? そんなもんを寄越されても困るんだよ」

 気怠げに放られた声に、全身の血液が沸騰する。
 もう、限界だった。

「下民の分際で良くもォオオオオ!!」

 激昂する青年の周囲を燐光が舞う。
 有り得ざるその輝きは幻想の具現――魔法だ。
 激情を体現するかのような圧倒的な力のうねり。小波は波濤へ、波濤は怒涛へ。極まる臨界点。
 彼は魔術師としても一流だった。魔力の容量こそ平凡だが、その操作の精密さは凡百ならざるもの。
 見えざる力に名付けられた属性は、灼熱。
 それは一度放たれれば対象を骨の一片までも焼き尽くす。
 此処に命運は尽きた。ジャンの肉体は消し炭になり、己が非礼を詫びる時間さえ与えられず命魂は冥府へと旅立つ――――――――――ようなことにはならず。
 どこまでも冷たい、鋼鉄の形をした現実がその運命を許さなかった。

「――――――」

「――――――」

 いつからそこに在ったのか。
 まるで皮肉なことに、魔術めいた鮮やかさで己に突きつけられた銃口を、青年は夢見心地に見つめる他なかった。

「いいか、良く聞け色男。あんたが御自慢の火の玉芸を披露するまでに、俺が何回あんたを殺せると思う?
 ――五回だよ。なんで五回だか分かるか? それがマガジンに入ってる弾の数だからだ。弾倉が一発分重くなる度にあんたを殺せる回数も一回ずつ増えていくんだぜ?
 それでもあんたが呪文を唱え終えるのと俺が引き金を引くのと、どっちが早いか比べてみるかい? 私見だが、どう見てもあんたに勝ちの目があるようには思えないな」

 青年の肩から、ふっと力が抜けた。
 荒れ狂っていた空気が嘘のように凪いでいく。
 それを確認するとジャンはゆっくりと照準を外し――銃把を彼の横っ面に叩きつけた。
 
「――――が、ハッ」

 青年が床へ倒れ込む派手な音が響き渡った。
 それほど強い力を篭めたわけではない。きっと、殴らずとも押すだけで倒れたに違いないだろう。彼の四肢に宿る意思は、酷く弱々しかった。
 倒れたまま動く気配のない青年に、ポケットの中から一枚のメモを取り出しながら語りかける。

「そいつはローストビーフにされかけたお礼さ。別に文句なんて無いだろ? お互い様って奴だ。ほら、分かったらさっさと立てよ。
 “時は金なり”……あんたが滞納してる家賃分を稼ぐには、一秒だって無駄には出来ねえはずだろ? どんな手段で稼いで来るのかは知らないが、どうしても楽したいなら金持ちのマダムを紹介してやったっていい。幸いあんたは顔が良いからな。羨ましいね、色男。ご婦人方は金払いが良いぞ」

「誰が……そんなことを、するものか……」

「じゃあ、この紙に書いてある所に行きな。安心しろ、マダムの住所じゃない。真っ当な働き口さ。あんたが前にやってた商売より疲れるだろうし稼ぎも少ないけどな。
 ――あとは俺の伝えるべきことはないが、まあ頑張れ。最初は慣れない仕事だろうが、そいつは誰だって同じこった」

 ひらひらと顔の横に落とされた紙片を暫く見つめていた青年は、不意にぐいと口端に滲む血を拭うと、それを握り締めて荒々しく立ち上がった。
 そのままジャンに視線をくれることなく擦れ違い、一直線にドアへと向かう。
 乱暴な使われ方に蝶番が悲鳴を上げるのも一顧だにせず、彼は部屋を出て行った。

「いいね、その意気だ。この街で生きていくには、それくらいガッツがあった方がいい」

 擦れ違い様にぶつけられた肩をさすりながら、ジャンは呟く。
 窓の外に目を向けると、憎いくらい蒼い空が広がっていた。
 それに呼応するかの如く活気づいて見える街の中を、一人の青年が駆けていく。
 ジャンはその背が人混みに紛れるまで、見続けた。
 くわえた煙草は、いつの間にかフィルターギリギリまで灰に変わっていた。



 ◇



「運転手さん、何処行ってたんですか! 約束が違いますよー!」

 部屋を後にしたジャンの背に、元気な少女の声がかけられた。
 ああ、そういえばホテルを案内する約束をしていたか。
 すっかり頭から忘れ去っていた。
 ちらと腕時計を見ると、少女と別れてからもうすぐ二時間が経とうとしている。
 そんな内心の気まずさをおくびにも出さずに手を振った。

「悪いな、お嬢ちゃんの案内に専念するためにも先に片づけておきたい仕事あったのさ」

「へっ、あ、そうだったんですか? ていうかわざわざわたしの為に!?」

 勿論違う。

「そうとも。あと、さっきも言ったと思うが、俺は別に運転手ってわけじゃない」

「それならわたしだって『お嬢ちゃん』なんて名前じゃありませんもん」

 ぷくりと膨らませた頬を思いっきりつついてやりたい衝動に駆られながら、ふとお互いに呼ぶべき名前を知らないことに気づいた。

「俺はジャンだ。ジャンカルロ・スクーレ。お名前お聞かせ願いますか、お嬢ちゃん(レディ)?」

「むむ、何だか言葉が変わっただけで響きがおんなじだった気がしますが……まあいいでしょう。
 わたしはシェリー。シェリー・インダリオって言います。これからよろしくお願いします、運転手さん」

「…………」

 少女の中では既に確定されてしまったようだった。

「そういえば、さっき此処に来る途中すっごい綺麗な男の人と擦れ違ったんです! しかも見間違いでなければ耳が尖っていたような……もしやあれが噂に聞く長耳族(エルフ)!? すごいわたし初めて見ました! やっぱり本物は違いますねー。どことなく、こう……滲み出る気品を感じました」

「気品ねえ……」

 気品と言えば、この少女からも感じられる。口調こそフランクだが、ふとした仕草や物腰からは育ちの良さが窺えた。

「そうだ。お嬢ちゃんに一つ頼み事をしてもいいかい?」

「ええっ、わたしにですか?」

「ああ、案内のチップ代わりにね。
 ――おいおい、そんな不安そうな顔をしなくてもいいって。すごく簡単なことさ」

「は、はぁ……わたしで良ければ……。
 それで、その頼み事って何なんですか?」

「こいつをさっき擦れ違ったっていう奴に渡して欲しいんだ」

 そう言って、ポケットから出した物を少女に手渡した。

「バッジ……? いや、勲章みたいだけどちょっと違う……何ですか、これ?」

「無価値なガラクタさ。持ち主以外にはな」

「これを、さっきの人に渡せばいいんですね? わかりました。でも、何でわたしなんですか? わたし、あの人の部屋も知らないし、運転手さんが渡してあげた方が早いんじゃ……」

「こいつはお嬢ちゃんの為でもあるのさ。あいつとお嬢ちゃんが知り合う為の、ね」

 たくさんの疑問符を頭上に浮かべる少女に、ジャンは含みのある笑みを向けた。

「あいつはね、凄腕の魔法使いなのさ!」

「ひゃっ、え、ええっ!?」

 ばっ、と芝居がかった仕草で両手を広げると、意図した通り少女は混乱の渦中に放り込まれたようだった。
 ジャンは、少女が言葉の意味を呑み込むまでその慌てっぷりを堪能した。

「――本当なんですねっ! 嘘じゃないですよね!?」

「ああ、本当だとも。俺は危うくこんがり焼かれて今晩の食卓に上がるところだったんだからな」

「すごい!
 エルフの魔法使い、しかも凄腕! こんな、まだ街に着いたばかりなのに……わたしってばすごくラッキー!」

 ひゃっほーと変な歓声を上げる少女を愉快げに見ながら、ジャンは思った。
 願わくば青年と少女の出会いが、双方に益するものであれ、と。

「さっ、それはともかく早く案内してください。“時は金なり”なのです!」

 はしゃぐ少女に引き摺られ、ジャンは歩き出した。
 煙草をくわえる暇もなかった。


 ◇





[29356] 灰色街の危険な隣人
Name: PON◆889e7382 ID:2f94b048
Date: 2011/08/26 12:33


 ホテル・カンティレーナの客室には様々なランクがある。
 内装にそれほど違いはないが、部屋の位置などで人気不人気が決まるのだ。
 大抵は日当たりが良かったり、窓の外の風景なんかで人気が出るものだが、そこは灰色街の宿屋。日光を好まない異世界人や独特の趣向を持つ種族などが溢れていて、一概には言えない。
 しかし、それでも万民受けする部屋ってのは決まってくるもんだ。
 特に人気があるのは、食堂に近かったり、ロビーに近かったり、談話室に近かったりする部屋だ。
 そしてそれとは逆に不人気な部屋というのも出てくる。
 だがそれは人気のある部屋とは違って位置はあまり関係がなく、たとえ人気が出そうな位置取りでも凄まじく不人気だったりする。
 その原因は――――いったい何だと思う?



 ◇



「此処が食堂(トラットリーア)。味は保証出来ないが、その分外食するよりも値段は安い。開いてる時間は、朝の八時から夕方の八時まで。それと、お嬢ちゃんにはあまり関係無いかもしれないが、アルコールは置いてない。まあ、こんなボロ宿に住んでる連中は、大抵味を選り好み出来ない奴らだからな。結構賑わっちゃいる。住人同士の友好を温めるにはなかなか良い場所だ。誰だって腹が膨れれば機嫌が良くなるからな――」

「……………」

「それで、此処が談話室(ラッドット)。ちょっとした遊戯室みたいなもんだ。普段はあんまり人気がないが、冬場は暖炉があるおかげで寒さに弱い異世界人(メテーコ)達がたむろしてることが多い。……それと、あまり大きな声じゃ言えないんだが、真夜中に妙な連中が賽子転がしたり札遊びに精を出してるって噂がある。勿論、あくまで噂さ。善良な従業員である俺としちゃあ、そんな噂なんざ所詮噂だと思うがね――」

「…………あの、」

「お嬢ちゃんも、もう知ってると思うが、此処が玄関広間(イングレッソ)。うちみたいな三流ホテルでも、多少の見栄って奴がある。内装に一番金をかけてるのも此処だし、毎日念入りに掃除してるのも此処だけだ。その甲斐あってか、一見の客は良い具合に騙されてくれ――おっと、今のは無しだ。誰にも話すなよ? 此処が潰れちゃ沢山の人間が困ることになる。その筆頭が俺なんでね。ま、此処に関しちゃ、ただ住んでる限り通り過ぎる場所でしかないだろうが、暮らしていく上では結構重要だったりする。何故って? 此処はこの宿に泊まってる奴だけが利用している訳じゃないからさ――」

「あのっ!」

「――ん? どうした、お嬢ちゃん。ああ、トイレなら各階とも階段の近くにあるから、さっさと行ってくるといい。ちなみに、何で階段近くにあるかっていうと、先客がいるが出てくるまで待てないって時に、階段を登るか降るかすればすぐに別のトイレに辿り着けるようにしてるのさ。漏らされでもしたら掃除が大変だからな」

「へー、それはなかなか便利ですねー。わたしも我慢するのが苦手なんでそれは助かります――って、違いますよ! 別に催したわけじゃないです。まったく何言わせるんですかー!」

 盛大な自爆を披露した少女は、顔を赤らめながら両手を振り回した。

「そうじゃなくて、何ですかこれは!?」

「何って――」

 ジャンは心底不思議そうに辺りを見渡して誰も自分達を訝しんでいる様子がないことを確認すると、少女に視線を戻した。

「ホテルの案内をしているんだが?」

「案内ってロビーのソファーから一歩も動かず見取り図を指差しながらするものでしたっけ? 普通、歩いて実際にその場所を確認しません!?」

「何で俺がそんな面倒なことを」

「面倒!?
 今お客に対する従業員にあるまじき発言が聞こえたんですけど!」

 何が気に入らないのかは皆目見当がつかなかったが、えらくご不満らしい。ぎゃあぎゃあと怒った子猫のように喚き立てている。
 仕方ない、と嘆息して、ジャンは手のひらを上に向けて少女に差し出した。

「……? 何ですかその手は」

「チップくれ。先払いで頼む」

「どこの世界にチップを先払いさせるボーイがいるんですかー!?」

 地球(ここ)にいた。

「ていうか段々扱いがぞんざいになってきている気がするんですけど。最初は凄く親切そうだったのにこの落差はなんなんでしょう……」

「当たり前のこった。チェックインする前に客に帰られたら商売にならないからな」

「あーなるほど、先にチェックイン済ませて来てくれっていうのは、そういう意図があったんですねー……」

 世知辛いです、とまるで子供らしくないことを呟いて少女はがっくりとうなだれた。
 大人への階段を一つ登った瞬間だった。

「って、そう言えばわたしチップ代わりに頼み事をされたような……?」

「さっ、お嬢ちゃん早く部屋に行こう。特別にそこまでは俺も付き合うから。なんてったって俺はサービス精神満点と評判のボーイなんでね。“滅私奉公のジャン”なんて渾名を付けられるくらいなんだ」

「それ、絶対嘘ですよね?」

 少女のジト目を爽やかにスルーして、ジャンは未練がましくソファに座りたがっている重い腰を上げた。

「それで、お嬢ちゃんはどこの部屋を取ったんだい? 個人的には此処から一番近いところだと嬉しいんだが」

「どれだけ動きたくないんでしょうかこの人は……。
 そこそこ近いと思いますよ。二階の部屋ですから」

「二階か。なかなかいいね」

 ジャンは満足げに頷こうとしたが、ふとした疑問が浮かび首を傾げることになった。
 二階は比較的人気の高い階層である。ホテル内のどの施設にも遠すぎることがなく、階段を上り下りするのも楽だからだ。それ故に部屋が埋まっていることが多く、現在は空き部屋なんて無かったはずだが――?

「いやー、ラッキーでしたよ。つい数時間前まで二階は全部埋まっていたそうですから。三階だと階段上るの結構大変そうなんで助かりました」

 まさか、と内心で噴き出してきた嫌な予感を振り払うように煙草を取り出す。

「……そうかい。そいつは良かったじゃないか。で、肝心の部屋番号は?」

「212号室です――って、どうしたんですか? 煙草を取り落としたりして」

 様子のおかしくなったジャンを訝しんで顔を見上げた少女は、そこに引きつった笑みを見ることとなった。

「残念ながら、部屋に行く前にやることが出来たみたいだぞ。お嬢ちゃん」

「え、やることって何ですか?」

 ジャンは首を左右に振りながら告げた。

「挨拶さ」


 ◇


「いいかい、お嬢ちゃん。何事も最初が肝心ってもんだ。お嬢ちゃんのするべきことは、礼儀正しく挨拶すること。出来るだけ、にこやかに。幸いなことに、お嬢ちゃんはまだ子供だからな。多少ヘマしたって多目に見てもらえるだろうし、上手くやれば逆に好印象だ」

「は、はぁ……挨拶は礼儀正しくするのが当たり前だと思いますけど。何でそんなに念入りなんですか?」

 ホテル・カンティレーナ二階、廊下。
 ジャンと少女は、シェリー・インダリオの入居予定である212号室――ではなくその隣、211号室の扉の前に立っていた。

 ――――212号室は、ホテル・カンティレーナの中でもワースト一位、二位を争う不人気部屋だ。
 別に特別内装が酷いとか、位置が悪いといったわけではない。212号室自体には何の問題もないのだが、その両隣――211、213号室に問題があるのだった。

「……まあ、これはこれで良かったのかもしれないな。娼婦やってる奴らの隣になるよりは。少なくとも、教育上はまだマシってもんだ」

 と言っても、此処が教育上よろしいかと問われれば、ジャンは全力で首を振るだろう。
 横に。

「何でそんなに警戒してるんですか。ただこれからお隣さんになる方々にご挨拶するだけでしょう……?」

「そうさ。普通なら、わざわざ俺が付き添ったりしない。隣人同士仲良くするかどうかは、当人達で決めるべきだ。俺達ホテル側としちゃ良好な関係を築いてもらうに越したことはないが、世の中には水と油みたいにお互いどうしても駄目って人間がいるものなのさ」

 そう――211と213号室の彼らのように。

「一番良いのは、両方から好かれること。二番目に良いのはどちらかに気に入られること。
 どっちからも嫌われたら――お嬢ちゃん。長い付き合いだったが、お別れだ。お互い気に入らないこともあっただろうが、今まで楽しかったぜ」

「まだ会って一日も経ってませんよ!? というか何でそんなに悲観的なんですか! しかもさりげなく失敗すること前提にされてますし!?」

 寸劇じみたやり取りは少女の緊張を解すためのものだったが、当人の落ち着いた様子を見ているとそれが必要だったのか疑問に思えてくる。
 要らない世話だったか、という思考が頭の端を掠めていった。

「それじゃあ、ノックするぞ」

 扉の前で右手を掲げ、少女を振り返りながら言う。
 頷く少女の姿を確認してから正面に向き直り――――突然開かれたドアに顔面をしたたかにぶつけた。

「ぶッ――畜生! この、」

 思わず漏れかける悪態をよそに、扉の向こうから現れたのは妙齢の女性だった。
 独特で扇情的な民族衣装を見事に着こなし、両頬には虎を想起させるようなタトゥー。癖っ毛が四方八方に跳ねていなければ見栄えするだろう、見事な赤毛を揺らして211号室の住人は口を開いた。

「さっきっから人の部屋の前でごちゃごちゃ五月蝿いのよ! こちとら只でさえ“時期”が時期で気が立ってるのに。それとも何? アンタが相手してくれるってーの!? あん? 何とか言ってみなよこのヘタレ×××野郎!!」

 平素はおそらく可愛らしいと表現しても良い容貌だろうが、柳眉を逆立て鋭い犬歯を剥き出しにして怒り狂っている彼女の姿に、少女は猛獣を前にしたような印象しか抱けなかった。
 理不尽な罵倒に頬をひくつかせるジャンだったが、ここに来た目的を思い出して無理矢理に笑みを浮かべる。

「やあ、ご機嫌よう。ちょいと騒がしかったかな? すまない。あんたを怒らせるつもりは全く無かったんだ。だからどうか落ち着いて欲しい。何てったって、今日は我らが新しき友と出会う、おめでたい日なんだからな」

「はあ? 相変わらず気色悪い口調はともかくとして、いったいどういうことなの?」

 肥溜め底を覗き見るような心底不快そうな仕草に、頬の痙攣が加速する。
 それでも何とか耐えて、ジャンはこっそり逃げ出そうとしていた少女の後ろ襟を掴み上げた。

「(ちょ、運転手さんやめてください。わたしちょっとお花を詰みに行かなくっちゃ……!)」

「(つべこべ言うな。俺が誰の為にこんな目に遭ってると思ってんだ!)」

「(さっき言ったでしょう。我慢苦手なんです。早く行かないと漏る! 漏れちゃいます!)」

「(なら漏らせ! 掃除のことは心配するな……俺以外の誰かがきっとやってくれる!)」

「(鬼! 悪魔! 鬼畜外道! さっさと離してください、でないと運転手さんが年端もいかない少女にしか欲情しない特殊な性癖の持ち主だって言いふらしますよ!?)」

「(何を言おうが無駄だ! 諦めて大人しくしろ!)」

 バタバタと抵抗する少女を腕尽くで前面に押し出し、ついでに両肩に手を置き逃亡を阻止する。
 少女は観念したのか、おずおずと相手に目を向けた。

「は、は、はじめまして! ワたしシェリーです。たった今、隣に越してきました! コンゴトモヨロシクお願いしマす……」

 表面上はとても快活そうに、けれど唇からは所々おかしなイントネーションが混じった言葉が流れていた。ジャンの両手は少女の緊張がぷるぷるという震えとして伝わってきている。
 それを腰に手を当ててじっと見ていた女性は、唐突にぐいっと顔を近づけた。
 ちょっと動けば唇が触れ合ってしまいそうな近距離。彼女の喉の奥から微かに漏れる、低い獣のような唸り声すら聞き取れた。

 ――た、食べられる……わたし食べられちゃいます!?

 思わずぎゅっと目を瞑ってしまう。
 数分とも数秒ともしれない時間が経ち、何も起こらないことに恐る恐る目を開けた。
 開かれた少女の瞳に、猫のような縦長の瞳孔が映し出される。

 ――あれ、この人。ひょっとして異世界人……?

 地球人ではありえない特徴を捉え、一瞬だけ恐怖心を忘れた少女は、不思議な色合いをしたその瞳を真っ直ぐに見つめ返した。

「――――」

「…………」

 お互い無言で向き合ったまま動かない様子を見てジャンが冷や汗をかき始めた頃、漸く両者は変化を見せた。
 異世界人の女性が、すっと身を引いたのだ。

「勇敢な子ね。あたしが女だからと侮ってるわけじゃない。自棄っぱちに開き直ったわけでもない。
 ――良い、気に入った。あたしの名はリーリヤ・ハルィスチナ。歓迎するわ。“愛しき我が子よ”」

 そう言って独特な仕草でお辞儀をする彼女を唖然としていた少女は、ジャンの裾を引っ張って囁いた。

「(どうしましょう、なんか娘にされちゃいました!)」

「(落ち着け、ただの異世界人特有の言い回しだ。深く考えずにニュアンスだけ理解しとけばいい)」

 こういった表現の違いは、何となく察してやるのがチネラストロでの慣わしだ。少々オーバーな言い方でも軽く流すのが礼儀であったし、異世界人は異世界人で、深く誇りに関わるような大事な言葉はよっぽどのことが無い限り使わない。多文化の交じり合うこの街ならではの風習だった。

「まあ、何はともあれ無事顔合わせが済んで何よりだ。まだもう一人残っちゃいるが。リーリヤ、あんたが付いててくれるんだろ?」

「当然よ。あの薄汚い案山子野郎がこの子に手を出したら、奴の喉笛を食いちぎってやるわ」

「そいつは頼もしい。安心したよ。別の心配事が出来たが。俺としちゃ、次も万事穏便に済んでくれることを祈るがね。何せ血痕って奴は掃除したって落ちないからな。壁紙や床を貼り替えるようなことになったらエリザベッタが卒倒しかねない」

「あの女なら、それすら無関心に流すと思うけどね」

 軽く鼻を鳴らしてリーリヤは腕を組んだ。

「ジャン、あんたも大概だけど、あの女はまた格別(・・)ね。気味が悪いったらありゃしない。同じ生き物と向かい合ってる気がしないわ」

「おいおい、そいつは地球人と異世界人の違いって意味かい? そういう人種差別主義はこの街では御法度だろう」

「そういう意味じゃないわ」

 不快気な表情を隠そうともせず、リーリヤは身震いしてみせた。

「何か(・・)おかしいの。まるで幽霊みたい。違和感があるのよ。何かは分からないけど。それはジャン、あんたも同じ。あの女よりは遥かにマシだけれど」

「――――――」

 奇妙な雰囲気が彼らを包んだ。
 それはリーリヤの探るような視線の所為でもあり、普段のような軽口を叩こうとしないジャンの態度にも原因があった。

「あ、あのっ!」

 その張り詰めた空気を読み過ぎるくらい読まずに、少女の声が割って入った。

「えっと、次の……213号室の人ってどんな人なんですかね! 何だかリーリヤさんはあまり好きじゃないみたいですけど……」

「腹を空かせたハイエナみたいな奴よ。いつもこそこそと人様の事を嗅ぎ回っては裏で何かやってるの。全く女々しいったらありゃしないわ!」

「おいおい、そんな言い方したら失礼だろう。まだ会ってもいない相手なんだ。何もわざわざ悪印象を植えつけることはない」

 妙な空気は霧消していった。あるいは、鳴りを潜めただけかもしれなかったが。

「ま、百聞は一見に如かずだ。会いもしないで無駄口叩いてたって仕方がない。さっさと面倒な挨拶を終わらせてしまおうじゃないか。
 それと、リーリヤ。俺達は喧嘩を売りに行く訳じゃない。分かってるな? そういうわけなんで、あんたは極力口を挟まないでくれるかい。話がややっこしくなるんでね」

 そう言いながらジャンは213号室の前に立ち、ノックをしようと――――

『人の部屋の前でさっきからギャアギャアうるせぇんだよッ!!』

 罵声と共にドアが蹴り開けられ、ジャンはそれをすんでのところで回避した。

「ああん、何でったって床に這いつくばってんだぁ? ジャンよう。てめえがおかしな奴だってのは周知の事実だが、俺の記憶じゃあもうちょっとマシな奴だった筈だが。買いかぶり過ぎてたか?」

 現れた痩せぎすの男はからかうような仕草でジャンに声をかけた。
 背はジャンよりも少し低いが、反するように手足が長い。不健康に痩せたその姿は、針金細工の人形を思わせる。
 ジャンは服についた汚れを軽く払いつつ立ち上がると、嘆息しながら男を見つめた。

「ロジェ、あんたはいつも脚でドアを開けるのかい? そいつは少しいただけないな。蝶番が壊れたら修理に幾らかかると思ってるんだ。知らないなら調べた方がいいと思うね。あんただって、自分の財布から何枚紙幣が消えるのか事前に知っておいた方がいいだろう?」

「ああ、その心配は無用だぜ。普段はちゃんと手で開けてるからな。だが今回はこっちの方が面白そうだったんでねえ……」

 痩躯の男――ロジェは、ひひっと下品な笑い声を上げた。

「ま、何にせよ良かったじゃあねえか。日に二度も(・・・・・)ドアにぶつからなくて。
 なあ、ジャン」


 ジャンは自分のこめかみにくっきりと青筋が浮かぶのを自覚した。

「ハッ! 流石は他人のケツを嗅ぐのが趣味なだけあるわね。また盗み聞きしてたってわけ?」

「誰がてめえの小汚ぇ尻なんざ追うかよ、野蛮な雌猫が。二部屋隔てたって養豚場みてえな獣臭さが漂ってきやがらぁ!」

「まあ、二人とも待てって」

 ジャンは怯える少女を背に隠すように立ち位置を変えると、二人に両の手の平を向けた。

「今日はたまたま事故の多い日だ。そうだろ? ロジェ」

 その言外の意味を正確に汲み取ると、ロジェはにんまりと笑みを浮かべた。

「ああ、そうだな。事故(・・)だとも。全くツイてねえなあ、ジャンは。厄日か何かなんじゃねえのかい?」

「そうだな。教会へ行って御祓いでも試してみるさ」

「そいつはいい。
 ――おっと、さっきのは事故だったが、詫びを忘れてたな。その代わりと言っちゃあなんだが、一つだけ忠告しておいてやる。町外れの方の教会に行くときは気をつけた方がいい。最近物騒な連中が幅を利かせてるって話だぜ。まあ、しかし奴らはたまに湧いてくるいつもの馬鹿どもとは少し違うらしいけどよう。獲物を選ぶ知恵くらいはあるようだからな。
 全く、これだから異世界人(メテーコ)って奴は。どっかの駄猫もそれくらい頭があればいいんだがねえ……」

 嘲りを含んだ視線を向けられて、とうとう今まで辛うじて繋がっていたリーリヤの堪忍袋の尾が切れた。
 そもそも気が長い方でもなく、その上蛇蝎の如く嫌っている相手から嘲笑を受ければ当然の結果だった。

「ふざけんじゃないわよ! あたしが猫ならあんたは糞ったれの負け犬じゃない! ああ? どうしたのワンちゃんかかっておいで。女に馬鹿にされても尻尾丸めてハウスハウスするしか出来ない癖に!!」

「負け犬と呼びやがったかこのクソアマがぁッ! 良いだろう、表に出やがれ! 地べたへ這いつくばらせて俺の靴を舐めさせてやらァ!!」

 何とか話がまとまりかけたところで、最悪な展開になってしまったようだった。
 ジャンは頭を抱えてうずくまりたい衝動に駆られながらも、何とか仲裁しようと二人の間に割って入る。

「おい、だからちょっと待てって! 少しは落ち着いて話を――」

「てめぇはゴチャゴチャとうるせぇんだよ、さっきから! 怪我したくなかったらその小さいケツを捲ってさっさと失せやがれ!!」

「そうよ! 黙って見てればこんな奴に虚仮にされて情けなくないの!? 前々から思っていたけどね、コイツが負け犬ならあんたは飼い犬よ。立てる牙も無くしたんなら、飼い主の所へ泣いて戻って慰めてもらえば?」

「あんたの本当の仕事場はエリザベッタの寝室だって専らの噂だもんなぁ! はっ、いいねえ、羨ましいねえ、伊達男! 怪我でもしたら大変だ! ベッドの上でのお仕事が出来なくなっちまう!」

 ぶちん、と。
 ジャンは自分の頭から数本まとめて毛細血管が破裂する音を聞いた。
 ミイラ取りがミイラになった瞬間だった。

「てめえらは人が折角穏便にしようと努力してるってのに、毎度毎度踏みにじってくれやがって……!
 ああ、いいとも! そんなに荒事が好きなら、今日はとことん付き合ってやろうじゃねえか。
 ヘイ! そこの阿婆擦れ女と能無し案山子! 一緒に踊ってくれませんか(シャル・ウィ・ダンス)?」

「上等よ!!」

「二度とそのナメた態度が出来ねえようにしてやらぁ!!」

 足を踏み鳴らしながら、荒々しく去っていく彼らを呆然と見つめていた少女は、三人が窓を叩き割って中庭に飛び降りるのを見て、漸く再起動した。

「こっ、これってすごくマズいんじゃ……。
 っていうか、もしかして原因ってわたし!? 嘘っ、運転手さんまで行っちゃうし、ええっと、いったいどうすればいいのーッ!?」

 少女の悲痛な叫びに答える者はいなかった。
 そこでとりあえず彼女は御手洗いを探すことにした。
 ……ちょっと漏れていたからだ。
 だって怖かったんですもん、と少女は誰に言い訳するでもなく呟いて、目尻に浮かんだ涙を拭った。





[29356] 続・灰色街の危険な隣人
Name: PON◆889e7382 ID:6a828fcc
Date: 2011/09/06 02:18

 少女が中庭に辿り着いたのは、三人が出て行ってから既に二十分が経過していた。中庭に出る道が分からなかったからだ。
 ホテル・カンティレーナは上から見ると凹の字型をしていて、正面玄関は凹の底の部分にあたる。中庭はそれを真っ直ぐ突き抜け左右の東棟と西棟に挟まれた真ん中の地点なのだが、厄介なことに正面玄関のある南棟からは出ることが出来ないような構造をしていたのだ。
 当然だが、三人のように二階から飛び降りるわけにも行かず、中庭へと出るために大回りをせざるを得なかったのである。

「うわぁ……」

 少女がまず目の当たりにしたのは完膚なきまでぼこぼこに殴られ、大の字で地面に伸びている男の姿だった。

(一番怖くて喧嘩っ早かったのに……)

 213号室の住民――確か、ロジェと呼ばれていたか。
 少女の中では、一番筋者(すじもの)っぽいというか、有り体に言ってチンピラ風の悪党といった印象で強そうだったのだが。
 ジャンは彼より背は高かったが、一応は理性的であったし、普段の態度がアレなので喧嘩が強そうには見えない。リーリヤは迫力満点だったがやはり女性だ。
 だから、この結果はちょっと予想外の事態だった。
 少女の予想ではジャンが真っ先にやられていて、それでも何とか事態を収束させるために介抱するつもりだったのだが――
 中庭の向こう側を見ると、ジャンとリーリヤがまだ喧嘩していた。
 というか、あれは喧嘩の域を若干逸脱しているのではなかろうか。
 リーリヤは猛獣のような雄叫びを上げ、人間離れした跳躍でジャンを追い立てていたし、それを今に至るまで捌き続けているジャンもジャンだった。

(な、何だか運転手さんが運転手さんじゃないみたいです……不覚にも格好良く見えてきました……)

 ギャップ補正は凄かった。
 逆に言えば、会ったばかりなのに少女の中でのジャンの株価は既に最安値を記録していた。

(でも、どうしましょう……)

 ともかく、現場に到着したはいいが、少女には何も出来ることがなかった。
 あの二人の間に割って入る?
 ――いや、無理、死ぬ。
 少女は即座にその考えを頭から叩き出した。
 自分はまだ魔法使いではない。ただのか弱い女の子。あんな怪獣共と渡り合える筈もない。一瞬で挽き肉になって終わりだろう。
 少女は己の無力さを嘆いて天を仰いだ。
 ちょっとだけ、無力であることを感謝しつつ。

「――あー、糞。あの野郎共、遠慮も無しに好き勝手殴ってくれやがって。まだ視界が揺れてやがる」

 そんな風に油断していたからか、突然背後から響いてきた悪態に思わず飛び上がりそうになる。
 恐る恐る振り向いて見れば、大怪獣……と見せかけて意外と弱かった怪獣一号がふらつきながら上体を起こそうとしていた。
 剣呑極まっていた三白眼も、今は腫れ上がった目蓋で隠れている。戦意の欠片もありはしなさそうな様子も相俟って、先ほどまでのような恐怖を感じることはなかった。
 ――今ならわたしでも勝てそう。
 いや別に喧嘩して勝ちたい訳ではないが、自衛的な意味で。よしんば勝てなくとも余裕で逃げられるに違いない。なら、ちょっとお話出来るかも。
 何はともあれ事態解決には当事者と交渉することが不可欠だ。他に出来ることも無いことだし。
 そう自分に結論付けると、少女は口を開いた。

「あの、大丈夫ですか?」

「あ? ……ああ、てめえはさっきジャンが連れてたガキか」

 自分にかけられた声に驚いたのか、一瞬の沈黙を挟んで男は此方を見た。

「これが大丈夫そうに見えるなら、てめえの目は硝子玉で出来てるんだろうぜ」

 ふん、と不機嫌そうに鼻を鳴らして顔をしかめる。

「おい、ガキ。俺の上着を拾ってこい」

「へ? 上着……ですか?」

「そうだ。たぶん近くに落ちてんだろ」

 言われて周りを見渡すと、男を挟んでホテル側に少し行った辺りにボロボロになった布切れが落ちていた。
 まさか、あれがそうなのだろうか。
 てててっと小走りに駆け寄ると、最早原形を留めていないが、辛うじてボタンやらポケットやらそれらしきものがくっついているのが分かった。
 少女は砂まみれになったその上着を手で払いつつ――ついでにその真ん中にくっきりと残っている自分の足跡を消しながら――男の元へ戻る。

「これですか?」

「ああ、そうだ。ありがとよ」

 男は手渡された元上着をまさぐると、くしゃりと潰れた煙草の箱と、ヒンジが歪んで閉まらなくなったジッポーを取り出した。
 そして何とかまともに吸えそうな一本を選別して、火を点ける。

「ちっ……煙(モク)まで鉄の味がしやがらぁ」

 心底嫌そうな顔をしつつも煙草をふかしていると、ふとその様子をじっと見守っている少女に気づいた。

「何だよ、もうおめえに用はねえぞ」

「いえ、そうでしょうけれど……わたしの方に用があるというか」

「あん?」

 不思議そうな顔をする男を、縋るような目つきで見ながら少女は言った。

「あの二人を止めたいんですけど――」

「放っておけ」

 にべもなかった。
 言い終わる前に来た返答に、ですよねーと心の涙を流す。
 そんなしょぼくれた少女の様子に一抹の良心が痛んだのか、男は暫しの沈黙を舌打ちで破って言葉を重ねた。

「別に何の問題もねえ。あのまま放っておきゃ、ジャンの野郎がくたばるかクソアマが腹を空かせれば収まるこった」

「あ、やっぱり運転手さんに勝ち目は無いんですね」

 キング・オブ・大怪獣はリーリヤであったらしい。
 女の人なのに凄いです。わたしも見習わなくては、と余人が聞けば全力で止めそうなことを考える。

「って、やっぱりそれじゃ駄目ですよ! 途中から蚊帳の外だった気がしますが、やっぱり大本の元凶であるわたしとしては何とかしないとー!」



 顔を左右にぶんぶんと振って雑念を頭から追い出す。何とか己に出来ることはないだろうか。
 近づくのは論外だ怖い。なら遠くから制止してみる? 駄目だ聞いてくれる気がしない石でも投げてみようかいやいや不興を買うだけで終わる同時にわたしの人生も――

 あーだーこーだ云々と煩悶する少女を無視し続けていた男だったが、不意にがしがしと頭を乱暴に掻きながら再び口を開いた。

「だから放っとけつってんだろうが」

「駄目です!」

「いいからてめえは何もするんじゃねえ!」

「嫌です!」

「だぁー! この糞、糞ッタレめ!」

 悪態を吐きながら吸い終わった煙草を乱暴に吐き捨てると、呆れと諦めがブレンドされたような表情で少女に向き直った。

「……茶番なんだよ」

「え?」

 きょとんとした少女を苦々しく見やると、未だに殴り合いを続けている二人を指差す。

「あのクソアマ、何でか最初からぴりぴりしやがってただろ」

「あー、そういえばそんな気もします」

「奴は牙獣族って異世界人だ。そんでもって牙獣族の特徴はある一定の周期で激しい破壊衝動に駆られること。特に女は月のものの後辺りにそれがピークを迎えるらしい。元々気性の荒い種族だが、その時期を向かえると時には理性を吹っ飛ばして暴れまわることもある。普段は本人が抑えちゃいるが、なにぶん精神的な問題だからな。定期的にガス抜きしてやらないといけねえんだよ」

 まだ疑問符を浮かべている少女を嘲るように鼻を鳴らす。

「つまり全部承知の上(・・・・)ってこった。あのクソアマは自分が異世界人であることに誇りを持っていて、だから異世界人(メテーコ)呼ばわりされるとキレる。ジャンがエリザベッタとの仲をちゃかされるのを酷く嫌ってるのはこのホテルの古株ならみんな知ってることだ。俺が負け犬やら能無しやら言われるのに我慢ならねえってのも、勿論奴らだってとっくに気がついてる。
 おい、ガキ。てめえのその粗末な頭でも理解出来たか?」

「ええっと……要するに、全部嘘っぱちで本当はみんな仲良しってことですか?」

「んなわけあるかっ!」

 的を外した斜め向こう側の解釈をする少女に、ロジェは苛立ちを感じた。それを数度の深呼吸で抑え、続ける。

「俺はクソアマとクソボーイのことが心底気に入らねえし、あのアマも俺のことを倶に天を戴かずってくらいに嫌ってる。ジャンはジャンでエリザベッタ以外の人間に興味を示したためしがない。クソアマがジャンのことをどう思ってるのかは知らねえが、もしかしたら多少強く叩いたって壊れないお気に入りのサンドバックくらいには思ってるのかもな」

「へ? リーリヤさんのためにこんなことしたのに、リーリヤさんのことが嫌いってどういうことなんですか……?


「だから別に俺はクソアマを満足させるために殴られた訳じゃねえっつってんだよ。俺はただムカついたから喧嘩を売って、それを奴らが受けた。ただそれだけだ。俺はわざと殴られる気なんざ毛頭なかったし、本気であのアマをぶっ潰してやるつもりだった。だが負けて逆に殴られた。そういうこった」

(よく分からないんですけど……)

 少女は内心で呟いた。
 リーリヤの“ガス抜き”の為に喧嘩しているのに、そうじゃない……?
 ロジェの話はどこか歪で矛盾している。それが理解出来なかった。

「大体こんだけ騒いでるってのに野次馬一人いねえのはおかしいと思わなかったのか?
 いつものことなんだよ。このホテルに泊まってる他の連中にとっちゃ、今更興味を示すほどもねえんだ」

 男の言葉は相変わらず分からない。
 分からなかったが。

「じゃあ、あの二人は放っておいていいんですね?」

「ふん、ようやく理解しやがったか。まったく、最近のガキはおつむの出来が悪くて疲れさせやがらぁ……」

 大きく鼻を鳴らして、ロジェは再び煙草を取り出した。
 少女から目を離し、糞ったれた奴らの姿を見る。
 ジャンの右頬とリーリヤの顎には打撲の痕があった。
 ロジェの付けた傷だ。

 ――ざまぁみやがれ。

 殴られ過ぎて腫れ上がった顔を歪めて、ロジェは小さく笑った。
 ジッポーを擦って火を点けようとする。が、風が吹いて上手く点かない。何度か試すものの、虚しく火花を散らすだけだった。

「ちっ……」

 ささやかな満足感はもう消えている。
 苛々と無駄な努力を続ける手元に、横から小さな手が差し伸べられた。
 その手は風から守るように壁になり、ようやく煙草から煙が出始める。
 ロジェは肺の奥底までそれを満たすと、ゆっくりと吐き出した。
 紫煙はすぐに風に巻かれて散ってゆく。
 暫く無言で煙草を吹かしていたロジェは、ぽつりと呟いた。

「……ロジェ・ブランケットだ」

「え?」

「名前だよ。てめえは?」

 視線すら寄越さない唐突さに、少女は戸惑いながら答える。

「わ、わたしはシェリー・インダリオっていいます。シェリーって呼んでください」

「けっ、てめえみたいなクソガキにゃ勿体無いくらい良い名前じゃねえか」

 視線の先では、尻尾を生やした美女の拳が綺麗に入り、倒れ込む不良従業員の姿があった。
 少女は男の横顔にお辞儀を一つして、倒れたジャンの元へと駆け寄っていく。
 それを確認したロジェは、ふらつきながら中庭を立ち去った。

「……気が向いたら覚えといてやらぁ」

 後には、そんな誰の物ともしれない言葉が残された。


 ◇


「悪かったな、お嬢ちゃん。こんなことになっちまって」

 氷を詰めた袋で腫れた頬を冷やしながら、ジャンは少女に謝った。

「エリザベッタには俺から話をつけとくから、好きな部屋を選び直してくれ。俺のおすすめだと、ちょいと入り口からは遠くて不便になるが三階に良い部屋がある。両隣も結構気の良い奴らさ。比較的、だが。
 どうだい?」

「んーと、せっかく見繕ってもらったのに申し訳ないんですけど……」

 少女は微笑みながら言った。

「わたし、あの部屋のままでいいです」

 ジャンは少女の予想外の答えに驚いた。部屋を変えることを要求されると思っていたし、実際今までの客はそうだった。だから先回りして良さげな部屋がないか探しておいたのだ。

「本当に良いのかい?
 俺個人としては、やめておいた方がいいと思うんだが……」

「大丈夫ですよー」

 確かに二人とも怖かったが、上手く付き合っていける。
 不思議と少女はそう信じていた。

「……まあ、お嬢ちゃんが良いって言うなら別に構わないが」

 ジャンは随分能天気な奴だ、肩を竦める他なかった。


 少女と荷物を部屋に送り届けると、ジャンはやれやれと溜め息をついた。
 今日は本当に骨折り損のくたびれもうけばかりだった。
 明日はもう少しマシな一日になってくれ。
 ささやかな願いは虚しく、自らが叩き割った窓を通り抜けて夕闇の空へと飛んでいく。
 暫くぼんやりと一服して、ジャンは用具室に向かって歩きだした。
 窓の応急処置をしなければならないからだ。





[29356] One Dog
Name: PON◆889e7382 ID:6a828fcc
Date: 2011/10/12 02:35


 ホテル・カンティレーナの従業員は少ない。
 正直に言って、普通のホテルなら営業出来ないくらいだ。
 それでも何とかやっていけているのは、勿論スタッフがみな優秀――という訳ではなく、家賃を安くしてもらう代わりにホテルの雑用を手伝う客がいるからだ。それが高じて、そのまま従業員になってしまった者もいる。
 とはいえ、一人当たりの仕事はやはり多い。カンティレーナの従業員達はいつも忙しく動き回っている。
 そんな中でマイペースにのんべんたらりと歩いているけしからん奴が一人いる。
 ジャンだ。
 しかし、それを咎めようとする者は一人もいない。
 みんな知っているのだ。
 ジャンはエリザベッタ(オーナー)のお気に入りだと。
 だから誰も文句は言わず、黙々と己の仕事を消化していく。
 不公平だと不満を抱く者もいるが、表立って非難はしない。精々が本人達のいないところで陰口を叩く程度だ。大家に睨まれたら生活出来なくなってしまう。
 ホテル・カンティレーナの雇用契約は、チネラストロの街ではかなりまともで待遇が良い。この程度の理不尽は我慢しても十分釣り合いが取れている。
 それにジャンだって全く仕事をしていないわけでもない。
 誰もやりたがらない家賃の取り立てや、街を牛耳っているシティ・マフィアとの交渉役は殆どジャンが受け持っている。
 人の恨みを買いかねない危険な仕事だが、誰かがやらねばならないのだ。
 そんな仕事をまた一つ片付けたジャンは、報告をするためにエリザベッタのいる執務室へと向かっていた。

「入るぜ?」

 数度のノックに返答はなかったが、それはいつものことなので気にしない。
 躊躇うことなくドアノブを回し、扉を開ける。
 簡素な部屋だった。
 半ばエリザベッタの私室と化している執務室だったが、それにしてはあまりにも飾りっ気がない。
 ソファーが二つと、黒檀で出来た大きな執務机がぽつんと置かれている。
 唯一の調度品と言えば、壁に掛けられた奇妙な物体だけだった。
 それは暗褐色で所々不思議な輝きを放っている継ぎ目の無い滑らかな素材で出来ていて、抽象芸術のように複雑な形をしている。
 あるいはシューレアリズムに目覚めた芸術家が、作品を心向くまま適当に作り上げたらこんな物が出来上がるのかもしれない。少なくとも、何をモチーフに創られているのか誰も明言出来ないだろう。
 しいて何かの形状に似ているか考えてみるならば、それは――――巨大な斧のようにも見えた。
 私室に飾っておくには悪趣味過ぎるそれをちらりと一瞥して、ジャンは部屋の主に呼びかけた。

「エリザ、三人目も駄目だったよ。とりあえず、一週間待ってやることにしたんだが、構わないか?」

「そう……。あなたがそう判断したのならそれで良いわ」

 机に積み上げられた書類の向こうから、滴り落ちる朝露のような声が響いた。
 絹のようなシルバーブロンドの髪を無造作に伸ばし、前髪の隙間から透き通った泉を思わせる瞳が覗いている。
 妙齢、と呼ぶには少し若く見えるが、漂わせる風格は成熟した女性を通り越して乾ききった老婆を彷彿とさせた。
 ジャンも大概だが、それを遥かに上回るほど気怠げな口調からは強い厭世感がにじみ出ている。
 羽織っているのが純白のイブニング・ケープではなく真っ黒なローブだったとしたら、きっと御伽噺の魔女のように見えるに違いない。

「……ジャン。そこに座られたら仕事が出来ないわ」

 小さな沈黙を破ってエリザベッタが声を上げた。
 対面から回り込み机の上へと腰掛けたジャンに、非難がましいジト目を送る。

「一昨日からずっと働き詰めだろう。仕事熱心なのは結構だが、適度な休憩も必要ってもんさ」

 そんな視線を全く意に介さず飄々としているジャンを呆れ含みながら窘める。

「あのねぇ、ジャン。貴方の仕事は別に貴方がしなくとも他の誰かがするでしょうけれど、私の仕事は私以外の誰かに任せられないの。
 ……分かるでしょ?」

「だからこそさ。君に倒れられでもしたらそれこそ一大事だ」

「大丈夫よ。私は体調なんて崩さないもの」

 素っ気なく言い放ち視線を書面へと走らせる。
 ジャンはその無頓着さに、やれやれと苦笑して机を降りた。どうやらあまり機嫌が良くないらしい。
 指摘すれば否定されるだろうが、彼女は酷く負けず嫌いだ。辛ければ辛いほど平然を装うし、目の前の物事が厄介なら厄介なだけ、やっきになって奮闘する。ただの悪癖と呼ぶには賛否があるだろうが、少なくとも今は悪い面が出ていた。

「ち、ちょっと何するの!」

 両脚が地面に着くと同時、素早く真横の彼女を抱きかかえた。
 腕の中の抵抗を諸ともせず、歩を進めていく。

「降ろして!」

「また少し軽くなったんじゃないか? ちゃんと食べてるのか?」

「人の話をちゃんと聞きなさい!」

「そいつはこっちの台詞さ」

 ゆっくりとソファーの上へと降ろして自分もその横へと座り込む。勿論、彼女と机を遮るような位置だ。

「…………」

 無言の抗議をするエリザベッタの視線を左頬に感じながら、背もたれに身を任せる。

「…………」

「…………」

「…………ふぅ、分かったわよ」

 諦めたようにため息を一つして、エリザベッタは目を閉じて肩の力を抜いた。

「聞き分けの良い子は好きさ」

「聞き分けの悪い子がよく言うわね」

 その会話を最後に、室内に長い静寂が訪れた。
 ガラス窓の向こうからは陽光と共に遠く微かな喧騒が降り注いでいる。
 並んだ二人の傍らを、ゆったりと時が流れていく。次第にその感覚も失われ、まるでこの部屋だけ時が停滞しているように思えてくる。

 ……どのくらいそうしていたのか。

 いつの間にか寝てしまっていたようだった。
 ジャンは身を起こそうとして、ふと右肩に感じる重みに微笑む。
 幼い童女のように無垢な寝顔を壊さないよう、慎重に横たえさせるとジャンは部屋を後にした。
 既に日は暮れかかっている。
 昼寝をしてしまった分だけ、長い夜が始まろうとしていた。


 ◇


 自室に戻ったジャンは、数枚しかない上着の中から比較的綻びの少ないものを選んで身につけた。
 一番マシな一張羅は、エリザベッタの毛布の役目を果たしている。
 薄い財布を後ろポケットに差し、ショルダーホルスターを吊せば、それだけで外出の準備は整う。
 ジャンは手の中で鈍い輝きを放つ代物を見つめた。

 ――――スタームルガーKP85。

 この重さ一キロ弱の鉄塊に、幾度となく命を救われている。
 かつて地球人口の殆どを失った《大異動》は、事実上文明の崩壊を意味していた。あらゆる技術は失われ、人々の生活水準は何世紀も前に逆戻りしたという。それも当然の事だろう。ラジオの電源をつけて番組を聴くことは誰にでも出来るが、ラジオを作ることの出来る人間は極僅かだ。高度な文明社会は分野の専門化を軸にしている。それ故の弊害とも言えた。
 とはいえ、流石に石器時代まで逆戻りするなんてことはなかった。積み重ねられた発展と発見と発明の歴史は、そのままそっくり遺されている。地球人は残った文献や実物から、様々な技術復元(リヴェニメント・テクノロジーア)を行ってきた。
 この銃はそういった中でも最も初期の段階でサルベージされたものの一つである。
 《大異動》直後から徐々に始まっていた異世界人の流入に、地球人達は真っ先に自衛の手段を得なければならなかったからだ。
 ジャンは銃に刻印された銘を軽く撫でると脇のホルスターへと仕舞う。
 特別な思い入れはなかったが、気に入ってはいた。頑丈な上に安いからだ。


 ◇


 ホテルを出ると、微かな夜気が感じられた。
 チネラストロの秋は夏の延長のようなもので、日中はとても暖かく過ごしやすいが朝晩の冷え込みは急激だ。
 その温度差に軽く身震いして車庫へと向かった。
 相変わらずのオンボロは中々素直にエンジンを動かしてはくれなかったが、どうにかこうにか黄昏の街へと繰り出していく。
 そろそろ帰宅の頃合いなのだろう。町の中心部へと向かう道すがら、大勢の人間とすれ違う。途中、ただでさえ寒い懐事情をシベリアに送ろうとする当たり屋の魔の手を回避した事を除けば、何事もなく平穏な道中だった。
 街の中央部は大きく分けて四つの区域がある。
 巨大な市場。
 観光客の多い公園。
 一部の金持ちが住む住宅地。
 そして――この街を支配するマフィアの本拠地。
 まるで場違いのように聳え立つ灰色の摩天楼を見上げる。
 チネラストロで唯一存在する高層ビル(・・・・)が、夕日の赤光を反射してぎらついていた。

「…………」

 見た目の物々しさに負けず劣らず地上の周囲も剣呑だ。近くを歩くだけで、警備の黒服がサングラス越しに熱烈な視線を送ってくる。
 こんな所に長居するのは御免だった。
 心持ちアクセルを深く踏み込んで通り過ぎる。
 数分も走らせればそんな雰囲気も消え、長閑な街並みが戻ってきた。
 知らずの内に入っていた肩の力が抜ける。一つ深く息を吐いて、煙草をくわえた。
 ふと腕時計に目をやると、約束の時間まであと二十分少々。
 どうにか遅刻せずに済みそうだった。
 寝坊しました、で済む相手ではない。今後はもう少し気をつけることにしよう。

 ジャンが車を停めたのは古びた教会の前だった。
 大量の蔓の巻きついた鉄柵と、罅の入った外壁がみすぼらしさを際立たせている。町外れに位置しているからか、辺りに人影は殆ど無い。駅前とは違い、流石にここで駐禁切符を切られたことはない。適当に道路の脇へ駐車すると、ジャンは教会の入口へと向かっていった。

「ようこそ神の家へ、ジャンカルロ・スクーレ君。お待ち合わせの相手はまだ来てはおりませんぞ」

 柔和な笑みを浮かべた初老の男が彼を出迎えた。

「歓迎ありがとう、ニコロ神父。二度と会いたくなかったよ」

 一見してただの人の良さそうな人間に見えるこの男を、ジャンは全く信用していなかった。
 それもこの教会の裏の顔を知っているならば無理からぬことだ。

「ほっほ、相変わらず年長者に対する礼儀がなっておりませんなぁ。しかしながら我が教会の門戸は誰にでも平等に開かれていますのでご安心を」

「例えそれがならず者の親玉でも、ってかい?」

 皮肉を込めた鋭い言葉にも男はまるで動じる様子がなかった。ただただ、変わらぬ笑みを浮かべている。

「いつも思うんだがね。神聖な教会がこんな事をしても許してくれるほど、神様って奴は心が広いのかい?」

「我らが主は定時退社なのですよ。夕暮れの鐘が鳴る頃には、とっくにご就寝なされている」

「なるほどね。あんたに一番似合わない言葉が分かったよ。
 ――“敬虔”だ」

 これ以上の問答は無用だった。
 電話帳のように厚い面の皮に見送られて、ジャンは説教壇のある奥へと進んだ。
 聖餐卓を囲むように無数に置かれている長椅子の中で、あまり埃っぽくないものを選んで腰掛ける。
 礼拝堂の癖にジャン以外に参拝者は見当たらない。尤も、ジャンだって祈りを捧げるためにこんな所までわざわざ来たわけではないのだが。
 そもそも真面目に参拝する気があるのなら、中央にあるチャペルの方がよっぽど良い。少なくとも胡散臭い神父はおらず、変わりにそこそこ美人なシスターがいる。それだけでも雲泥の差だ。
 曇りすぎて最早光を透そうとしないステンドグラスをぼんやりと見上げること数分。
 ギィ、と背後で死にかけの蝶番が軋む音と共に数人の足音が聞こえた。
 ――足音が多すぎる。

(クソッタレめ……)

 厄介事の気配がした。
 舌打ちを一つして、懐の重みへと手を伸ばす。
 そして何かあればすぐに行動出来るよう身を強ばらせ、

「――珍しいじゃねえか。俺より先に来てるのは」

 待ち合わせの相手の声に、少しだけ緊張を解いた。
 立ち上がって振り返ると、白いスーツを着崩した逆髪の男。そしてその背後にも数人。
 不敵な笑みを浮かべる男はさておいて、その背後から此方を睨む男達はどう見ても堅気には見えない。手にした物騒な代物達を見ても、十中八九マフィアの兵隊だ。

「たまたま道が空いてたのさ。それにいつもいつもあんたを待たせるのも忍びなかったんでね」

「フ、心にも無い事を平気で言いやがる」

 ジャンの待ち人――ガンビーノ・ファミリーの構成員、サルヴァトーレ・グレコは、ゆっくりと此方に向かって進んでくる。
 コツ、コツ、と靴底が床の木目を叩く。

「ところで、こいつは一体どういう事だい? みかじめ料を受け取るだけにしちゃ随分と大仰じゃないか」

「落ち着けよ。そんなに身構えなくてもいい。こいつらを連れて来たのは別件だ」

 サルヴァトーレは隣まで来ると、腕をジャンの肩に回して軽く叩いた。

(“まあ、座れ”、か)

 敢えてそれに逆らう理由は無かった。
 大人しく長椅子へと腰を下ろすと、それに倣うようにサルヴァトーレも隣に座る。
 
「そうだ。聞き分けの良い奴は好きだぜ、ジャン」

「昼間は聞き分けが悪いって言われたよ」

「それはお前が聞き分ける相手を選ぶ頭を持ってるって証だ。なかなかどうして世の中にはその重要性に気づかねえ馬鹿が多い」

「そりゃどーも。褒められついでに後ろの物騒な連中を下げてくれると嬉しいんだがね。俺は火薬の匂いを嗅ぐと背中に蕁麻疹が出るんだ」

「安心しろって言ってんだろ? 教会内でドンパチするほど俺は罰当たり者じゃねえさ」

「泣く子も黙るギャングスタでも天罰は怖いかい?」

「ああ、怖いね」

 台詞と真反対な態度でサルヴァトーレは言った。

「馬鹿がこじらせた病気には鉛玉を1ポンドも処方してやればきっちりかっきり片が付く。だが神様って奴は風邪をひかないからな。処方のしようがない」

「……おっかない薬屋も居たもんだ」

 とりあえず自分の身は安全らしい。
 
 今度こそ本当に肩を撫で下ろすと、シガーケースを取り出して目線で問う。
 サルヴァトーレが軽く首肯するのを確認してから火を点ける。
 吐き出した煙りは薄暗い礼拝堂から逃げ出すように、開けっ放しの扉へと流れていった。

「――ほら、今月の分だ。いつものとこにある」

 小さなコインロッカーの鍵を差し出しす。
 これをサルヴァトーレが受け取れば仕事は完了。辛気臭い場所からおさらば出来る。
 いつも通り。数えるのも嫌になるほど繰り返した流れ。
 だが、今日のサルヴァトーレはいつもと違ってそれを受け取ろうとはしなかった。
 それを訝しんで横顔を覗くと、何時の間にか彼の笑みが消えていた。どこか遠くを見るように聖母の像を見上げている。

「なあ、ジャン。少し話に付き合ってくれねえか?」

「そいつは命令かい? 俺としちゃ、さっさと帰って夕飯にありつきたいんだが」

「そんなつれねえ事言うなって。
 これで最後なんだからよ」

「……どういう意味だ?」

 その問いには答えず、サルヴァトーレは手を伸ばしてジャンの胸ポケットから煙草を一本抜き出す。
 それをくわえると、ジャンに向かって火をつけろと催促した。
 内心で溜め息を吐くとジャンは何も持たない右手を差し出す。
 パチ、と小さく火花の弾ける音がすると、紫煙が立ち上り始めた。

「俺達が出会ってからもう五年になるな」

「……ああ」

「てめえはあの頃からまるで変わってねえな。いつまで経っても湿気たホテルの雑用係だ」

「そう悪いもんでもないさ。慎ましやかな暮らしってのも」

「俺にはその良さは分からねえがな、全く。
 そういや、あの雌虎は最近どうなんだ? 少しは大人しくなったのか?」

「リーリヤか? あいつも変わってないな。ついこの間も殴り飛ばされたよ」

「相変わらずよく絡まれる奴だ。それともアレか? 殴られんのが好きなのか?」

「いいや、ただ他の客に手を出されるよかマシだからなぁ……」

 大方殴られた時の痛みを思い出しているのだろう。憂鬱そうな顔のジャンを見て、サルヴァトーレは呆れたように鼻を鳴らした。

「ふん、とことん客に甘い野郎だ。庇われた俺が言うことじゃないがな」

 かつてまだこのサルヴァトーレという男が、短い間ではあったがホテル・カンティレーナに住んでいた頃、そんなこともあった気がする。今では落ち着いているようだが、昔のサルヴァトーレは後ろで立ちんぼになっている彼らと似たようなごろつきだった。
 当然、リーリヤと馬が合うわけはなく、諍いを起こす比率の高い客でもあった。

「礼なんていらないさ。マフィアになると分かってたら助けてなかった」

「言ってくれるぜ」

 歯に布を着せない物言いに、しかし気を悪くした様子はなかった。何が面白いのかくつくつと含み笑いをしている。
 ジャンにはこの男が持つ独特な好悪感情の基準がいまいち理解出来ない。
 何が男の琴線に触れたのだろうか、と頬を掻きながら考える。

「――幹部連(カポ・レジーム)への昇格が決まった」

 そんなことをしていた所為か、ぴたりと笑いを止めたサルヴァトーレの言葉を理解するのに数秒を要した。

「まだ確定しちゃいないが、余程のヘマをしなけりゃ席は用意されてる。これから後ろの連中と一緒に最後の詰めをしにいくところよ。首尾良く行きゃあ俺は晴れて幹部様だ。こうやって集金に来ることも無くなる」

「……そいつは――――」

 何と応えれば良いのか、咄嗟に言葉が出ずに喉がつかえた。
 そんなジャンを尻目にサルヴァトーレは背後の部下に合図を送ると、その一人が此方に駆け寄り何かを差し出す。

「ジャン、率直に言うぜ。
 俺の下につけ」

 受け取ったのは一本のワインと杯だった。
 封を切り、とくとくと杯を満たしながらサルヴァトーレの言葉は続く。

「俺は必ず幹部になる。たとえどんなことをしてでもだ。そしてそのまま終わるつもりはねえ。上を目指す。失敗して地獄へ落ちようが、血反吐を吐いてのた打ち回ろうが、いつか必ず、頂点を穫る」

 深紅の酒に満たされたそれを、まるで聖杯のように掲げ上げて、サルヴァトーレは宣言した。

「だがその道には障害が多い。周りは敵で溢れかえってやがる。どいつもこいつも一筋縄じゃいかねえ厄介な奴らだ。だから、俺には信頼出来る味方が要る」

 杯が目の前に差し出される。
 ジャンは黙して、その水面に映り込んだ自分の顔をじっと見つめた。

「もう一度言うぜ? これが最後だ。
 俺と来る気があるならこいつを受け取れ。そしたらこれから俺とお前は仲間だ。祝儀代わりにその鍵もくれてやる」

 この男は本気なのだろう。
 本気で、この街のトップとなる気なのだ。
 下っ端の下っ端、準構成員になってからたったの数年で幹部まで上り詰めたこの男なら、あるいはその覇業を成し遂げるのかもしれない。
 その修羅道の相棒に何故自分が選ばれたのかは分からない。だが、もしこの杯を受け取ったのならば、この男はけして裏切ったりはしない。何の根拠も無いが、間違ってはいないだろう。
 想像する。
 信頼出来るパートナーと二人、度重なる苦難を乗り越えて掴む栄光を。
 ジャンは杯から目を離すと、深く深く煙草を吸った。
 肺に煙りが満たされ、呼吸と共に喉を通って吐き出される。杯の中身が揺れ、水面の像が乱れて消えた。

「――――悪いな、俺は下戸なんだ。
 他を当たってくれ」

 その言葉が宙に舞った瞬間、殺気が膨れ上がった。

「止めねえかッ!!」

 サルヴァトーレの一喝が周囲の時を凍らせる。
 取り巻く銃口の真ん中で、ジャンは静かに立ち上がった。

「鍵、置いとくぞ」

 そのまま他には目もくれず、銃口を押しのけると扉だけを見据えて歩き出す。

「待て」

 サルヴァトーレはゆっくりと杯を置きながら制止した。

「何故だ。理由を聞かせろ」

 背中越しに有無を言わせぬ迫力を感じ取り、ジャンは足を止めた。

「まさか、あの女の為か?
 だとしたらそいつはねえ話だぜ、ジャン。女は侍らすもんだ。入れ込むもんじゃあねえ。それは男なら誰だって知ってる事だ――」

「サルヴァトーレ」

 初めて話の途中でジャンの声が割り込んだ。

「狼と犬は似ていても別の生き物だ。同じようには群れられない」

 その言葉を最後に、長い沈黙の帳が落ちた。
 いつの間に太陽が地平に飲まれたのか、外に見える街灯が明滅を繰り返しながら一斉に灯りだす。

「――糞不味い煙草だ」

 サルヴァトーレがぽつりと呟いた。
 口から吐いた吸いかけの煙草が、弧を描いて杯へと落ちる。
 火の消える微かな音が辺りに響いた。

「もうこんな安物を吸うことなんざねえだろうな……」

 そう言って懐から取り出したのは、葉巻とカッターだった。
 ジャキン、とギロチンが鳴る。
 部下の一人が駆け寄りマッチを擦るのよりも早く、何も持っていない手が差し出された。
 小さな火花が葉巻の先端を照らす。

「相変わらず面白え手品だ。いつになったら種を教えてくれるんだ?」

「そうだな……あんたがガンビーノの首領になった時、かな」

 暫くの間、葉巻をふかす息遣いのみが聞こえていた。
 そして唐突に、慌ただしく鍵を掴み上げ、サルヴァトーレは部下達に怒鳴り声を浴びせた。

「おら! てめえらぐずぐずしねえで行くぞ!
 俺達にはこんなしみったれた教会に長居する理由なんざねえんだからな! 分かったらさっさとマスケラ被って仮装大会開いてる馬鹿共の首持って来やがれ!」

 急かされ尻を蹴られながら男達が外へと駆けていく。
 男達の荒々しい動きにボロ教会の床が悲鳴を上げて軋み上げた。

「それと、そこのアホ面下げた大馬鹿野郎! 駄賃代わりにその酒はくれてやる。下戸の自分を恨むんだな。じゃあな、あばよ!」

 台風一過。まるで嵐のように蹴倒された長椅子が並ぶ礼拝堂に、ジャンと静寂だけが残された。
 床に横倒しになって中身を垂れ流し続けているワインボトルを拾い上げ、直接口をつける。

「――美味いな、これ」

 騒音を聞きつけて飛んできた破戒神父の悲鳴を肴に、ジャンは空になるまで酒を楽しんだ。



 ◇




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