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[29710] 【R15・原作変容】 始祖ブリミルの祝福を 【転生オリ×Cthulhu世界観】
Name: 義雄◆285086aa ID:b6606328
Date: 2012/06/19 21:32
【重要!】当SSは物語の進行に伴い原作キャラが亡くなります。

クセの強いお話です。
第一部はいわゆる神様転生に対する皮肉を含んでいるのでそういうキャラに愛を感じる方は読まない方が良いと思います。
用法・用量を守ってお読みください。
ジャンルはきっと“ニャル様転生”か“邪神様転生”
また、キャラクターどころかハルケギニアの魔改造を含んでます。

※当SSは小説家になろう様にも投稿しています。

序章 メアリー・スーに祝福を
[9/11]~[10/16]
第一章 Everything Fade to Gray
[11/04]動乱のはじまりを [11/08]誓約の口づけを[11/15]泡沫の正夢を
[11/20]公爵の杯を [11/25]烈風の調練を [12/02]開戦の狼煙火を、タイトルから第二部を取っ払う [12/05]一時更新停止
2012
第二章 Deathaura
[3/05]こっそり再開、「だから、今だけは」「焔雪舞う戦場で」 [3/06]「おやすみ、ヒーロー」[3/07]「おわりのはじまり」「中書きと人物&用語紹介」
第三章 Last Amazing Grace
[3/24]「始祖は座にいまし」[4/08]「少年は救いをもとめ」[4/15]「安らぎなき魂は悲鳴に濡れ」[5/05]「無貌の神は笛を吹き」[5/27]「意志の炎は再び燃え」[6/02]「外伝 ポワチエの手記」「ただ、陽は沈む」
第四章 Flag in the Ground
[6/13]「Recall of the Valkyrie」[--/--]「Stargazers」[--/--]「We don't need a Hero」[--/--]「DoF」[--/--]「NWM shouts in this DoV」
第五章 Breathing
最終章 Zeroes



[29710] ジョン・フェルトンに安息を
Name: 義雄◆285086aa ID:b6606328
Date: 2012/06/19 21:13
ジョン・フェルトンに安息を


A. D. 6088 ジョン・フェルトン・コンスタンス・ド・ロシュフォール

 この日記帳には我が娘のことのみを記す。
 今日は非常にめでたい日だ。
 我がロシュフォール家に初めての子供が生まれたのだ。可愛らしい女の子だ。
 名前はメアリー・スー。
 口元は私に似ており、目元が妻に似ている。
 妻も意識ははっきりしており、経過は順調だ。
 昨夜恐ろしい夢を見たが関係はなさそうだ。いや、あの冒涜的に聞こえたフルートは祝福だったのかもしれない。始祖ブリミル様と私では感覚も大きく異なるに違いない。
 祝福ならば我がロシュフォール家も安泰ということだろう。

**

 メアリーに髪が生えはじめた。
 アルビオンに連なる峰々、その頂上にかかる雪のように白い。ハルケギニアでは非常に珍しい髪の色だ。
 すでに目も開いており順調に育っている。
 ただ、赤い瞳と白い髪、そして異常と感じるまでの肌の白さ。親としては少し不安だ。
 それにメアリーは普通の赤子と比べてあまり泣かないようだ。
 手がかからないのは良いことだ、と妻は言っているが元気に育ってくれるか。
 定期的に医者に見せた方が良いかもしれない。

**

 メアリーが寝返りをうった。もうしばらくすればハイハイもできるようになる、とは乳母の言葉だ。
 それ自体はめでたいことだ。
 しかし私は奇妙なことに気付いた。
 寝返りをうったとき、メアリーの右目が青くなったような気がしたのだ。
 ひょっとしたらメアリーは月目なのかもしれない。
 少し注意して様子を見よう。

**

 間違いない、やはりメアリーは月目だ。
 ハイハイをした記念すべき日なのだが素直に喜ぶことはできない。メアリーは激しい動きをするとき右目が青くなるようだ。
 通常の月目は常に色が違うと聞く。これは異常なことではないだろうか。
 アカデミーの連中やロマリアの坊主どもに見つかってしまっては危険だ。
 後で妻に相談しなければならない。

**

 記念すべき日だ!
 メアリーがはじめて喋った!!
 たどたどしい言葉ではあったが確かに「パパ」「ママ」といった。
 この歓びは文章にあらわせない。
 使用人たちには特別に上等なワインを振舞ってやろう。
 メアリーがあまり泣かないものだから言葉に障害があるのかも、と一人悩んでいたのだ。
 今日はよく眠れそうだ。

**

 あの歓びは間違いだったのかもしれない。
 メアリーはよく喋る、喋るがまったく意味が分からない。
 この時期の言葉はそういうものだ、と乳母は言うが何か違うのだ。狂気じみた言語、というのが最も近いだろうか。ハルケギニアでは使われない言葉を話しているように感じるのだ。
 天使のような声色でおぞましき何かを口走る様を私は慄然たる思いで注視していた。
 個人的によくしている司祭に相談した方が良いかもしれない。

**

 メアリーが生まれて一年と少しがたった。すでに屋敷の中を歩き回れるようになり、運動面では問題ないようだ。
 しかしメアリーは言葉が遅れている。
 乳母の話ではすでに会話ができてもおかしくない、ということだ。
 相変わらずあの狂気じみた言語を使っているようだ。人がいないところではよく呟いている。
 司祭に相談すると「悪魔憑き」かもしれないという助言をくれた。
 確かにあの冒涜的な言葉は悪魔の言語というに相応しいのかもしれない。考えたくはないが、幽閉用の塔を用意する必要があるかもしれない。

**

 メアリーがマトモに喋れるようになった。
 喜ばしいことだ、と諸手をあげることはできない。
 唐突すぎるのだ。今までほとんど喋れなかったメアリーが大人のように理路整然と話す様は、とてもじゃないが幼児には見えない。

 正直なところを書こう。私は恐ろしい。
 天使のように可愛らしいメアリーに恐怖を覚えつつあるのだ。
 妻も同じ思いを抱いているらしい。

 いや、私たち夫婦はきっと疲れているのだ。
 メアリーの誕生以来子供ができる気配も一向にない。焦りもあるのだろう。
 きっと一年後にはこの日記を笑い飛ばせるようになる。
 今はただ見守るしかない。

**

 あれから一年がたった。
 やはり、メアリーは悪魔憑きなのかもしれない。
 流暢に喋るようにはなった。しかし男言葉を話すのだ。まるでメアリーの中に名状し難いものが潜んでいて、それが喋っているようだ。
 暗澹たる思いで幽閉塔の建造を指示する。
 一階に豪奢な聖堂を造るつもりだ。
 始祖ブリミル様、どうか貴方の御威光でメアリーを救ってください。
 妻と二人で日々祈っています、救いを賜るようお願いします。

**

 来るものが来たか、という思いだった。
 五歳の誕生日、メアリーが魔法の練習を願い出てきたのだ。
 予想をしていなかったわけではない。しかし悪魔憑きである可能性がある以上魔法を教えることはできない。
 言い含めると意外なまでに素直な様子だった。
 幽閉塔が完成した。錠前も枢機卿が祝福を施した聖なる銀を元に頑丈なモノを用意した。図書館もあるのでメアリーには当面そちらに移ってもらう。
 妻は限界が近い。
 ロマリアなどで息を抜いたほうがいいかもしれない。

**

 メアリーが幽閉塔に入って一年がたつ。
 六歳の誕生日、メアリーは再び魔法練習を願い出た。
 男言葉に変わりはない。またその表情も、目も依然と変化がなかった。もう少し様子を見た方がよさそうだ。
 引き続き勉強と、始祖ブリミル様へより祈りを捧げるよう指示しておく。白すぎる肌、白い髪、赤い瞳と神秘的な外見は今では悪魔のようにしか見えない。
 妻はもう限界だろう。
 ひと月ほどロマリアで休養してもらうことにする。

**

 七歳の誕生日、やはりメアリーは魔法練習を願い出た。
 これ以上引き延ばすのはおそらく得策ではない。勝負に出ることにする。
 聖堂にメアリーを呼び出し、始祖ブリミル様への祈りを命じた。念のため杖には手をかけておく。
 悪魔なら祈りの言葉を口にしただけで激しく苦しむはずだ、と司祭からは助言を受けている。
 私はラインメイジでしかないが、聖堂なら始祖様の祝福で大きな力を引き出せる気がした。
 しかし、結局は無駄なことだった。メアリーは始祖に唾するような、冒涜的な表情で聖句をそらんじたのだ。
 もう私ではどうすることもできない。
 妻と二人でその晩は泣いた。

**

 気が付けばメアリーが生まれて十四年がたつ。本来ならば魔法学院にいれなければならない。
 だが私は恐ろしい。
 メアリーはあっという間に親である私を抜いてトライアングルになったのだ。
 メイジの力量は血統によるところが大きい。私も妻もラインである以上、メアリーがこれほどまでに驚異的なスピードでランクをあげることはありえないのだ。

 妻は早く嫁にやれば、というがそんなことはできない。
 この世の物ならざる知識をもつメアリーを嫁に出してしまえば、最悪ロシュフォール家は異端として取り潰されるだろう。

 今私はオールド・オスマンに手紙を書いている。今までにあったことをすべて余さず記した。
 彼ほどのメイジでなんとかできなければ、それこそ教皇の力をお借りするしかないだろう。

 始祖ブリミル様、我らをお救いください。

 なにとぞお願い申し上げます。


*****


メアリー・スーに祝福を

 やあ、俺の名前はメアリー・スー・コンスタンス・ド・ロシュフォール。トリステイン王国のロシュフォール伯爵家長女だ。
 皆おなじみ「ゼロの使い魔」の世界に転生した元男、現女の子なんだ。

 前世の名前?
 ふっつーの名前だったよ、きわめて模範的な男子高校二年生と言ってもいいね。
 どうにも俺は神様の手違いでさっくり殺られちゃったらしい。現に転生前に神様っぽいヤツに会ったし。

 神様の容姿?
 んー全身が黒くて、足は三本だったかな、現代日本にはないフォルムだった。想像していたよりはグロテスクな感じがしたな、いや人間の感覚を神様に当てはめる方がおかしいんだろうけどさ。
 ただ圧倒的な存在感だけはあったな!
 すぐに人間形態、エジプト人っぽい感じになってくれたから話しやすかったけどね。

 どんな場所だったか?
 星の海、といってもいいくらい超宇宙的なところでBGMは素晴らしいフルートの音色だったよ。
 一般的なイメージと違う?
 いやいやあの神々しさというか名状し難さは会ってみないとわからないよ。
 正視に堪えない、ってよく言うだろ? アレ神様にも当てはまると思うぜ、存在の規模というか、なんか違いすぎてマトモに見たら発狂しそうなレベルなんだよ。
 いあ! いあ! って感じだな。



 まぁ神様の話はいいや。
 とかく俺は神様が望みを叶えてくれるっていうんでゼロの使い魔の世界に転生することを願ったんだ。
 勿論才能もつけてもらったぜ、そこそこの鍛錬をつめば風メイジのスクウェアになれるという話だ。

 他の能力はいらないのか、って?
 あんまり詳しくないし、ヒーローってのは苦戦してこそ輝くもんじゃないか。
 だから俺は圧倒的戦力で蹂躙・粉砕というのは良くないと思うんだ。
 ま、この世界からすれば風のスクウェアってだけでもチートに近いんだけどな。

 それに容姿も自由って話だったから、アルビノにしてもらったよ。本気を出せば右目だけが青くなる、限定的オッドアイ付きだ!!
 こんな姿前世だったらアニメの中にしかいなかったね。

 とりあえず原作知識をもってるから危険すぎる戦闘はなるべく避けて楽しく暮らすんだ。
 トリステイン、ここはなんだかんだ言って安全なはずだからのびのびと領地経営して穏やかな余生を目指すぜ!
 幸い俺が第二の生を受けたのは伯爵家、しかも長女だ。
 原作には程よくかかわって、安全に武勲をちょいちょいあげてやるぜ!

 と、武勲を挙げるためにはやっぱり魔法だ。
 マトモにやってればスクウェアになれるらしいけど、成長速度までは指定してなかったしな。何事も早いにこしたことはないだろう。
 言語習得は日本語のクセが残りすぎて苦戦したが、一人で特訓したおかげで話せるようになった。
 魔法はちょちょいのぱっぱとマスターしてやるっ!
 だが父上ことジョン・フェルトン・コンスタンス・ド・ロシュフォール(アルビオン系だ!)は過保護らしい。

「父上、俺もそろそろ魔法を習いたいのですが」
「メアリー、お前にはまだ早いだろう。立派な貴族には魔法以外にも学ぶべきことはたくさんあるんだ。今はそちらに集中しなさい」

 立派な金色の口髭(カイゼルだな!)をしごきながら穏やかに言い放つ。
 早い、と言っても俺はもう五歳だ。一般的な魔法の修練開始時期が六歳なので早すぎるということはない。

 ま、父上が過保護ということはそこまで悪いことじゃないだろう。
 実際前世の知識ってのはそこまでアテにならない。農地改革とかやろうとしてもそんな輪作とかノーフォークとか細かいところを覚えているはずがない。
 どんな肥料があるかもわからないくらいだ。
 それに下手なことをやらかしたらロマリアさんから一発異端認定だ。
 大人しく図書室にこもっていつものように勉強をすることにしよう。
 ハルケギニアにマッチした内政チートを目指してやるぜ!



 さて、光陰矢のごとしという言葉もあるようにあっという間に六歳だ。
 早速父上に魔法の指導をお願いしに行こう。

「父上、俺もそろそろ魔法を習いたいのですが」
「メアリー、お前にはまだ早い。確かに回りの貴族は魔法を学びだす頃だ。しかし魔法以外にも学ぶべきことはたくさんあるんだ。今はそちらに集中しなさい」

 まぁ父上はアルビオンからトリステインに婿入りしてきた変わり種だ。きっと世の酸いも甘いも十七歳までしか生きてない俺よりよっぽど詳しい。
 それにやっぱり父上は過保護だ。なんと、俺のために塔を建ててくれたのだ。

 一階には聖堂、二階には食堂と厨房と寝室、三階から五階はぶち抜きの図書館だ!
 錠前もかなり頑丈だから防犯はばっちりだ!
 おかげで去年の誕生日からほとんど俺は外に出ていない。
 父上も母上もわざわざ会いに来てくれるのが少し心苦しいな。母上はほとんど来ないけど。
 ま、しっかり勉強してハルケギニアの常識を身に着けるのは悪いことじゃないからいいさ。
 よーし、がんばるぞー!!



 勉強は実にスムーズに進んで俺は七歳になった。
 例によって父上にお願いだ。塔の一階、聖堂で父上は待っていた。

「父上、俺もそろそろ魔法を習いたいのですが」

 父上は穏やかな笑みを浮かべた。その手は杖にかかっている。
 やっと、しかも直々に教えてくれるんだな!

「メアリー、始祖ブリミル様への祈りをそらんじることはできるかい?」

 毎朝聖堂で祈りを捧げている俺に死角はない!
 父上の前ですらすらと、余裕の表情さえ浮かべて暗唱してみせた。

「仕方がない、お前にも魔法を教えようか」

 父上はえらく渋々とした様子で認めてくれた。
 過保護な親をもつと大変だなぁ。
 ま、杖さえもらってほっといてくれれば勝手に修行でもなんでもやってスクウェアになっちゃうんだけどね!



 さて、すくすく育って俺も十四歳だ。
 来年から魔法学院に入学して原作にちょいちょい顔出ししておかないとな。
 戦争で武勲挙げ放題だぜー!!
 あ、ちなみに今風のトライアングルです。かなりの成長速度らしいよ、神様ありがとう! ってなもんだよね。

「父上、そろそろ魔法学院入学の時期ではないですか?」
「む、そうか……」

 父上は最近疲れ果てている。俺が魔法を学び始めたころから疲れが目立つようになって、ゴージャスな金髪が今じゃ真っ白だ。
 安心してくれ、俺がスクウェアになって親孝行してやんよ!

 と言ってもハイパー過保護な父上だ。貴族のお決まり、舞踏会とかにも全然いかせてくれない。
 ずっと前の夜、母上に叫んでるの聞いちゃったしね。

「アイツを嫁にやるわけにはいかん!!」って。

 いや不覚にも涙腺に来たね。
 絶対内政チートで両親ともに幸せにしてやるぜ!
 弟も妹もいないから後継者問題も一切気にしなくていいしな!!

 婿は……心は男って感覚が残ってるから困るな。最悪養子をとって跡継ぎにしよう。



 さぁやってきました魔法学院。なんつーか、ド田舎ですな!
 まわりなーんにもないの、陸の孤島って感じ。
 ちょっと早くついたらなんとオスマン校長自ら出迎えてくれたんだよ。才能ある生徒はやっぱVIP待遇なんかね?

「噂は聞いているよミス・ロシュフォール。ま、お手柔らかに頼むわい」

 そのままフォッフォッフォッと去っていくオールド・オスマン。
 威圧感なかなかすごかった。ふっつーの女の子、下手したら男の子でもあんなオーラぶつけたら泣いちゃうぞ?
 俺は転生時の神様に会って耐性あったから余裕だったけどな!
 しかし、ここから俺ののんびりレジェンドがはじまるのか。
 ワクワクしてきたぜ!!



[29710] オスマン老に安らぎを
Name: 義雄◆285086aa ID:b6606328
Date: 2012/06/19 21:15
オスマン老に安らぎを


A. D. 6103 トリステイン王立魔法学院学院長オスマン

 万一を考えてこの手記を後世に残しておく。

 ロシュフォール伯より恐るべき手紙を受け取った。慄然たる思いで手紙を読み終えると儂は大きく息をついた。
 急ぎ書を認めねばならない。
 ミス・ロングビルに人払いを頼み机に向き合う。
 始祖ブリミルよ、我が教え子たちに祝福をお願い申し上げます。

**

 ロシュフォール家より長女が到着する。
 手紙に会った通り、この世ならざる容姿をしておった。
 病的なまでに白い肌は太陽の下でなお輝いている。まるで十年近くも外に出ていないような、それほどまでに青白い。白百合よりもなお白い狂気じみた髪の色がまた不気味さを強調している。
 さらに瞳が血のように赤い。
 漆黒の星空から生まれ落ちたような少女じゃった。
 しかし儂も伊達に百年生きておらん。ありったけの胆力で少女を威嚇した。

 魔法学院は儂が守る、貴様の思惑は容易ならざるものと思え、と。
 だが少女は涼しげに儂の威圧を受け流したのじゃ。並みの貴族なら腰を抜かし、下手をすれば気を失うほどの活を浴びても変化がない。
 ロシュフォール伯の危惧は的中している可能性が高そうじゃった。
 入学式のイベントは中止することにする。

**

 入学式、儂はありったけの思いを込めて演説を行った。
 普段のおちゃらけは一切出さん、そんなことをすればミス・ロシュフォールに追撃されるかもしれん。すべての生徒は話に聞き入っておる。

 しかしあの異形の子には無駄なことだったようじゃ。
 始祖ブリミルの偉業など知ったことか、と冒涜的な表情が内心を物語っておった。
 儂と目が合うと顔を伏せ、おぞましき忍び笑いを漏らしている。
 監視の目を強めねばならんかもしれん。

**

 今年の入学生にトライアングルは二人しかおらん。
 生贄にするようで悪いが、そのうちの一人、ミス・ツェルプストーにはミス・ロシュフォールと同じクラスになってもらう。
 ガリアからの使者、ミス・タバサも監視役として潜入してもらった。儂が手紙を出したオルレアン機関の中でも腕利きであり、鼻が利くという。
 常に監視できるわけではないので大助かりじゃ。
 学生に潜入してもおかしくはない工作員を要しているとは、ジョゼフ王はこういう事態を予測していたというのじゃろうか。

 いや、今は考えまい。
 モートソグニルにも申し訳ないが、ミス・ロシュフォールについてもらう。
 用心に用心を重ねたが、不安をまだ消えん。最近夢の中でも何かに追われている気がする。

**

 ミス・タバサから早速報告があった。彼女の正体に気付かれているかもしれない、ということじゃ。
 ありえない、とは言い切れないのが恐ろしいところじゃ。
 ミス・ロシュフォールはミス・タバサのことをよく目で追っている。
 まるで貴様の正体はわかっているが泳がせているんだ、と言わんばかりじゃ。

 それだけでなく、ミス・ツェルプストーにまで視線を送っている。
 単純に実力者を見ている感じはしない。どこか、身体を這いずり回るような視線じゃ。
 男ならまだしもそんな目をした女は見たことがない。

 また、身体中に混沌と背徳を集めたかのような、おぞましき三本脚の獣が月に吠える夢を見た。
 祈りの時間を増やすことにする。敬虔なブリミル教徒が膝を折るわけにはいかん。

**

 百年生きてきてこれほどまでに背筋が粟立ったときはない。

 ことのおこりはミス・タバサが披露したフライじゃ。ミス・ロシュフォールはあえて遅く詠唱し、わざと低く飛んだ。
 これは間違いない、長年教鞭をとるミスタ・ギトーも認めたことじゃ。
 どのような意図があって実力を低く偽ったのか、わからん。
 しかも薄気味悪い笑みを浮かべていたそうじゃ。

 彼女の本性を垣間見る瞬間は他にもあった。
 ミスタ・ロレーヌがミス・タバサに決闘を挑んで負けたとき、彼女は遠くから観察していたのだ。
 決着がついたときも、その顔には何の感慨も浮かんでいなかった。
 まるで決まりきった運命を知っていたかのように。
 彼女は運命を知っているのじゃろうか。
 だとしたらこれほど恐ろしいことはない。
 始祖ブリミル、我が生徒をお守りください。

**

 新入生歓迎の舞踏会、めでたい日であろうとも儂の心は晴れない。
 今日も今日とて問題が起きた。
 決闘に負けた腹いせにミスタ・ロレーヌがミス・タバサとミス・ツェルプストーの二人を嵌めたのじゃ。
 幸い二人は和解した、これからもいい友としてあるじゃろう。
 しかし、それを些事と済ませるにあたる問題が起きたのじゃ。
 やはりミス・ロシュフォールは未来を知っている。
 モートソグニルに監視させておいたが、彼女は壁際から最初動かなかった。しきりにミス・ツェルプストーを目で追っているのじゃ。
 普段はミス・ツェルプストーとミス・タバサ、両者を同じくらいの比率で追っていたのにも係わらず今日は一人だけを熱心に見ておった。
 そこにミスタ・ロレーヌが事件を起こした。
 その時彼女はミス・ツェルプストーを男のような情欲に満ちた目で眺めておったのじゃ。
 すぐその邪悪な表情を誤魔化すため手洗いに駆けて行ったが、おぞましき顔じゃった。
 さらに帰ってきてからも冒涜的な笑顔で視線がミス・ツェルプストーの体を舐め回しておった。
 モートソグニルの報告によれば、その時彼女の右目が青く染まったようじゃ。
 ロシュフォール伯の手紙にあった通りに。
 青と赤の月目など聞いたことがない。まして普段は両方とも同じ目なのに特定の時にだけ月目になるということはありえない。
 始祖ブリミル様、儂はいったいどうすればいいのでしょうか。
 百年生きた儂にも一切わかりません。
 お答えを賜りますようお願い申し上げます。

**

 ミス・ロシュフォールはとうとう二年生に進級した。
 明日は使い魔召喚の儀式だ。
 儂は恐れておる。
 彼女を、彼女が呼び出す使い魔に底知れぬ恐怖をおぼえておる。
 どのような使い魔を呼び出すのか。この世ならざる深淵に潜む怪物を呼び出すのではなかろうか。
 明日は授業のないすべての教師に使い魔召喚の儀式を監視するよう命じておく。
 いざとなれば何をおいても駆けつけ、生徒を守るようにと。
 念には念を入れ、マザリーニ枢機卿にも書を認めておく。
 始祖ブリミル様、無力な子羊たちをお導きください。



*****



メアリー・スーに寿ぎを



 やっほー、俺の名前はメアリー・スー・コンスタンス・ド・ロシュフォール。
 トリステイン王国のロシュフォール伯爵家長女だ。
 神様の力で皆おなじみ「ゼロの使い魔」の世界に転生した元男、現女の子なんだ。

 さて、とうとうトリステイン魔法学院に入学しちゃったよ。
 ここで地味~に友だちの輪を広げておかないとな。領地の繁栄も大事だけど青春は謳歌するためにあるっ!
 それに今の俺はオンナノコなのだ。
 つまり、つまりだ、もうみんなわかってるんだろ?

 堂々と覗きができるってことなんだよ!!

 ここらへんまだ俺には男の感覚が残ってるみたいだな。
 まぁいいじゃないか、跡継ぎなんて養子養子。
 キャッキャウフフな青春は少し望めそうにないのが残念なところ。

 いや待てよ。ふっ、そういうことか。
 あえて言おう、百合もまた良しッ!
 だけどルイズの同級生とそんな仲になっちゃうと原作の流れにどんな影響がでるかわかったもんじゃない。
 百合百合ターゲットは下級生ということで、来年まで我慢しよう。
 今はただ女の子を物色して、ウォッチングにとどめるだけ。
 ふっふっふっふっふ、ターゲットはキュルケあたりかな。
 ぺたん娘も悪くはないがやはり男たるものナイスバディには惹かれるのだよ。
 お前今女だろって?
 こまけぇこたぁいいんだよ!



 さて、入学式だ。
 原作通りならオールド・オスマンが飛び降りるんだが、今回はそんなことがなかった。なんでだろ、流石にアレは寒いと思ったのかな?

 まぁいいや。
 なんか始祖から賜った魔法がどーたらこーたら言ってるけど正直な話どーでもいい。
 それどころか話が長くって欠伸が出ちまったぜ。

 げ、校長と目があった。やっべ、顔伏せておこ。
 周りの貴族のお坊ちゃまお嬢さまはなんでこんな話をクッソマジメに聞けるんだろーね?
 やっぱ感覚の違いかな、トリステイン人は大仰なことが好きっていうし。
 日常会話で演劇みたいな言い回しが飛び交うって、元日本人としては恥ずかしいことこの上ないぜっ!



 これも神様のお導きなのかもしれない。
 なんと赤青キュルタバコンビと一緒のクラスになっちゃったのだ。トライアングルは一まとめにしておけ、ってことなんだろうなきっと。
 それにしてもタバサ可愛いなぁ。無口で近寄るなオーラ出しちゃってるけどそこがまた良し!
 食事もなんか一生懸命食べてる感があって、リス? みたいな。
 思わず目で追っちゃうのも仕方ないよね!

 キュルケもキュルケであのないすばでーは素晴らしい。トリステイン貴族は慎ましやかな体型が多いから余計にいい感じ。



 ザ・ギトーがなんか前で言ってる。
 てか父上俺がトライアングルって言ってなかったんかな?
 ドットとラインしかいない、とかのたまってるや。
 目立つのはイヤだからいいんだけどさ。
 というわけでレッツ・フライ!
 タバサが飛んで少ししてから、少し低めに飛んでみる。
 ほぼ同時に同じ高さまでいけたんだけどやっぱ原作キャラを立ててあげないとね。
 べ、別にスカートの中を覗きたいっていうんじゃないんだから!

 タバサは少しだけ驚いてた。
 いかん、その表情萌えますよおじょーちゃん、顔デレデレしちゃう。
 スカートは抑えてなかったからきっとバレてない、よね?
 あ、そういやヴィリエが原作通り挑んでボロ負けしてました。



 新入生歓迎舞踏会ーどんどんぱふぱふーー。
 なんと素晴らしい日だろう。この日はキュルケのエクセレント・ボディを拝むことができるのだ。

 これは俺の持論だが、マッパよりもエロいものはある!
 それは中途半端に肌蹴てたり破けてたりする服だ!!
 数々のエロ本を読み漁った俺がその結論に至のにそう時間はかからなかった。
 え? 前世でエロ本しか読んでなかったのかって?
 ……言うな、言うなよ。
 てかさ、高校二年でそんなぐっちょぐちょぬちゃぬちゃするヤツいないって。
 うんいない。
 いないんだよ……きっと。
 俺は断じて友達の体験談とか耳に挟んじゃいないね!!

 まぁそれはおいておこう。
 リアルでやったら犯罪な切り裂かれた服、今日はほっといても見れるんだ。
 この機会を逃すバカはいねぇ!
 舞踏会中ずっと壁際に突っ立ってキュルケをガン見しておく。
 ちょっち顔がにやけてるかもしんない。

 ぶっ!?

 破けたドレスがひらひら舞って……靴以外マッパだと!?
 これは、イイ!
 靴下だけというのも確かに乙なものだ、しかし舞踏会用の靴だけというのも、こう、クルものがあるね!
 もう心の中は狂喜乱舞、百花繚乱さっ!!
 多分今の俺すっげーニヤニヤしてる。ちょっと顔洗ってこないと。
 お、キュルケ上着羽織って……ヴィリエ。
 お前のこと誤解してたよ。
 お前も、紳士だ!
 素っ裸にタキシードの上だけ羽織るって、それもうイヤンバカンなヴィデオに出てきそうですよっ!
 ふーふー、鼻血出そうだわ、本気で抑えないと。
 うん本気で顔に力入れたらおさまった気がした。
 さ、交友関係もちっとは広げにいかないとな。
 視線はちらちらキュルケを追っちゃうんだけどね。



 キュルタバの決闘やらなんやらかんやらが終わり、俺は二年生に進級した。
 なんか初日以来タバサはちらっちらこっちを見てたりする。
 こっちもタバサを見つめてたりするからよく目が合うんだ。
 いやタバサ可愛いから目で追っちゃうんだってば。
 視線がかち合ったらにっこり笑って手を振ったりするんだけど、そうするとタバサは恥ずかしそうに顔を逸らすんだよ。
 ……萌える。
 ツンデレ=ルイズorモンモンと思ってた時期が俺にもありましたよ。子どもっぽいツンデレならタバサのが萌えるかもしんないね。

 そうそう、明日は使い魔召喚の日だ。
 三日ほど前に神様と夢であったんだよ、なんか神父っぽいカッコしてた。
 せっかくだから使い魔どんなのが良い? って親切にも聞いてくれたんだよ。
 俺は悩んだよ、星の海でうんうん唸ったよ。
 グリフォンとかドラゴン、マンティコアはまずアウトだろ。そんな強そうなヤツらを呼んだら否応なしに原作ルートへ行きそうだ。
 だからといってカエルとかネズミはちょっとなぁ……。

 そのとき外宇宙から電波がビビッと飛んできて、というわけで犬か猫がいいと思ったんだ。
 でも俺は気まぐれな猫よりかまってもらいたがりな犬のが好きだ。
 というわけで犬が良いって神様にお願いしといた。
 勿論、チワワとかプルプル系じゃなくってドーベルマン的な猟犬だ。戦闘も少しは考慮しないとな!
 神様は名状し難い表情で了承したと言ってくれたよ。
 ああ、明日が楽しみだ!




[29710] シャルロットに安心を
Name: 義雄◆285086aa ID:b6606328
Date: 2012/06/19 21:15
シャルロットに安心を



A. D. 6103 オルレアン機関七号 シャルロット・エレーヌ・オルレアン

 ジョゼフ王に対してトリステイン魔法学院のオールド・オスマンより書状が届いた。オルレアン機関に協力を求める内容だった。
 これよりトリステイン魔法学院へ留学生・タバサとして潜入任務に入る。
 なお記録・証拠として手記を残しておく。

 オールド・オスマンからの書状には簡潔にこうあった。

――本年の新入生であるロシュフォール家長女。
  かのおそるべき者らに連なる可能性高し――

 亡くなった、いや、人でなくなった父さまの手掛かりを今度こそ得られるかもしれない。

**

 魔法学院に来てひと月がたった。
 メアリー・スー・コンスタンス・ド・ロシュフォールに関しては限りなく黒に近い灰色である、と判断を下した。
 怪しすぎる点が次々に浮上したのだ。最悪わたしの正体も知られているかもしれない。
 彼女はわたしとゲルマニアからの留学生、キュルケ(友達になった)をよく目で追っている。

 以下に異常な点をまとめると。

・烈風カリンですらたじろいたオールド・オスマンの本気の威嚇にも涼しい顔をしていた。
・入学式では、感動的なオールド・オスマンの演説にすら冒涜的な笑いをこぼす。
・キュルケとわたしに対して身体を舐め回すような視線を送ってくる。
・授業でわたしのフライに対してわざと遅く、低く飛んだ。
・その際おぞましい笑顔をしていた。
・舞踏会のとき、キュルケを監視していた。
・キュルケは風魔法による襲撃を受け、そのあわれな姿を病的な嘲笑で見ていた。
・時折右目が青くなる。

 見れば見るほど怪しい。一周回って怪しくないかもしれない、と感じるほど露骨だ。
 だが気を抜いてはいけない。
 明日は使い魔召喚がある。彼女がかの邪知暴虐な輩に連なるのなら、必ず悪しき存在を召喚するだろう。
 ひょっとしたら父さまを、いややめておこう。
 万全の体調で明日を迎えるため早く寝る。

**

 使い魔召喚の日。天候は最悪、暑い雲が空を覆い雷が轟いていた。
 それでも儀式は執り行うようで、みんなそろって学院から少し離れた草原まで来ていた。
 監督官はミスタ・コルベール、ミスタ・ギトーなど戦闘に長けた教員が多かった。おそらくオールド・オスマンの配慮だろう。
 特にミスタ・コルベールは過去にトリステインで奴らと対抗したとの話も聞く。奴らと戦って正気を保っていられる人物は希少だ。今後も頼る機会があるかもしれない。

 さて、わたしは風韻竜を召喚した。イルククゥと名乗ったが韻竜は切り札ともなりうる存在なので、シルフィードと仮の名前を与え、風竜として振舞うようにいった。
 問題のロシュフォール家長女はなんとも奇怪な詠唱でサモン・サーヴァントを行った。
 召喚のゲートは出現したが、しばらく使い魔は現れなかった。

 すると何を思ったのか、彼女は土をゲートに盛り始めたのだ!

 始祖が与えられた運命に逆らおうというのか、彼女は。
 そのとき止めに入ろうと思えばできたかもしれない。だが、実際には誰も動くことはできなかった。
 それは彼女がぶつぶつとこの世ならざる言葉で何事かを呟いていたからなのか。それとも底知れぬ存在の気配を感じたからなのか。今となってはわからない。
 彼女は続いて折れた木の枝をゲートに突っ込んだ。

 ああ、思い出すのもおぞましい!
 木の枝の根元から、深淵から染み出したような煙が噴き出てきた。それが次第に凝集しだし、四足の獣のような形をとりだしたのだ。

 あの姿を正確に形容する術をわたしは知らない。
 太く曲がりくねって、先端が鋭くとがった舌を持ち、爬虫類のような背中というべきだろうか、この世のどんな生き物もそんなおぞましい姿はとらないだろう。大きさは子犬程度だったが、発する威圧感は並みの幻獣を凌駕していた。しかも体からはなにか青みがかった液体を垂れ流している。
 まるで地獄の深淵から引きずり出され、この空気に耐えられない獣のようだ。
 ロシュフォール家長女は恐怖など感じさせない表情で、むしろ歓喜さえあふれていた、コントラクト・サーヴァントを行った。
 その際のスペルがまた特有のもので、彼女が始祖ブリミル以外の何かに仕えていることはほぼ明らかだった。

 無事契約を終えた彼女は例の冒涜的な表情を浮かべていた。

**

 恐るべき事実を知ってしまった。
 やはり彼女はかの者らに奉仕している、確定だ。この情報を速やかに伝えねばならない。

 召喚の儀式が終わった後、外でロシュフォール家長女が唸っていた。口から出るのはあの名状し難い言葉だ。ひとしきり何かを呟いた後、いきなり手を叩いた。

 遠くからだったが彼女の口から「Doom Tsathoggua」という言葉が発せられたのがわかった。
 Doomとは古いアルビオン言葉で滅びを意味する。
 そしてTsathoggua、この言葉を知っているということは間違いなくこちら側の存在だ。
 あのおぞましい使い魔を召喚したということは、人類側ではなく向こう側だろう。
 ひょっとすると使い魔はユゴス由来のものなのかもしれない。父さまが連れ去られたと言われる遥か月よりも遠い暗黒の地の。
 そろそろこの報告書を書き上げてしまおう。

 なにか臭いがする、鼻につんと刺激を感じる臭いだ。
 思わず部屋中を見回す。
 何も異常はない。
 いや、そんな!
 あの煙はなんだ!

 角に! 角に!




*****


メアリー・スーに祝砲を



 おっす、俺の名前はメアリー・スー・コンスタンス・ド・ロシュフォール。
 トリステイン王国のロシュフォール伯爵家長女だ。
 神様の力で皆おなじみ「ゼロの使い魔」の世界に転生した元男、現女の子なんだ。
 そういや今腰くらいのさらっさらな長髪なんだけど髪切ろうかね?

 ま、いいや。
 いよいよ今日は使い魔召喚の儀式なんだ。原作じゃ抜けるような青空だったんだけど、なんかどんより曇ってる。たまにゴロゴロ雷の音も聞こえるしさ。
 まぁ天気くらい変わるだろ、俺っていう異分子が入って来てるんだから。
 っつーわけでレッツ召喚ですよ!
 天気以外は原作通り、キュルケはフレイムさん、タバサはシルフィードさんを召喚しちゃいました。

 さー神様、俺の望みを叶えてくれるのっかなー。
 お前は特にお気に入り、的なことを言ってたから大丈夫だとは思うんだけどねっ!
 召喚のスペルはルイズのやつをマネしてみるか。どんなのだっけ、流石にうろ覚えだぞ。
 確か……。
 
「外宇宙の果てのどこかにいる、俺の下僕よ! 強く、愛らしく、そして生命力に溢れた使い魔よ!
 俺は心より求め、訴える。我が導きに応えよワンちゃん!」

 さぁ来いワンちゃん!
 どんな子が来るのっかなー。

 ……。

 おかしいな、出てこないぞ。どうなってるんだ??
 む、神様からテレパシーが届いたぞ。
 なになに「鋭角がないと来れない子」だって? そんな犬聞いたことないんだけどな……。
 土でも盛ってみるか、ってダメか、盛った分だけゲートに吸い込まれていくぞ。
 うーん、仕方ないからそこらの木の枝でもゲートに突っ込んでみるか。

 えいっ!

 お、来た来た杖の根元からなんか出てきたぞ。なんかでろでろ青黒い煙だな、なんか臭いし。
 これもサモン・サーヴァントに……なるよね、うんなるなる、なるに決まってるさ!
 煙が集まってきたな……。おお、なんか見たことない犬種だけど超強そうだ!
 ハルケギニアは広いなぁ。

 まぁ原作で出てきてない種族なんかもたくさんいそうだし。
 ちっと見た目グロイ気がするけど、うん慣れればへーきへーき。
 さ、レッツコントラクト・サーヴァントッ!

「我が名はメアリー・スー・コンスタンス・ド・ロシュフォール。
 宇宙の力を司るトラペゾヘドロン。この者に祝福を与え、我の使い魔となせ」

 口にちゅっとね。
 これで夢にまで見たワンちゃんライフが俺の手にも……。ふふふ、今日はよく寝れそうだ。

 でもこの子獣臭いな、あとで洗ってやるか。なんか体も心なしかデロデロしてる気がするし。
 おっと、顔ぺろぺろするなぃ。やけに舌長いな、まーいいけどさ。
 あ、才人召喚されてら。



 ヴェストリの広場で俺は悩んでいた。
 コントラクト・サーヴァントの影響かワンちゃんは尻尾をぶんぶん振ってじゃれついてくる。
 そこらへんに生えていた猫じゃらしっぽい草で遊んでやりながら考え込む。
 このワンワンにどんな名前をつけてやるか、大きな問題だ。

 例えばだ、俺が父親になったとする。息子にどんな名前をつけてやるだろうか。
 うーむ、難問だ。

 強くあってほしいから獅生(しおん)というのはどうだろうか。
 それとも心なしか狼っぽく見えなくもないから銀狼(ぎんろう)とか。
 あいやここはハルケギニアだから西洋っぽい名前だな。
 勝都(びくと)というのがいいかもしれない。

 ……待てよ。
 キュルケのサラマンダーはフレイム、タバサの風竜はシルフィード。なら属性とか種族に対応した名前をつけるべきか。
 犬だから……パトラッシュ、ハチ公、カイくん。
 んーどれもイマイチパッとしないな。

 俺はそもそもこの子にどうあってほしいんだ。
 ……可愛く賢くあってほしいかなぁ、強さは二の次として。図書館にこもることが多い俺はあんまし友達いないし。
 このワンちゃんのラヴリーさで友達ゲット! みたいな感じに。いやいや、家族になる子を利用とかよくないよな。
 おっと脱線脱線、名前か。
 むぅ……そうだ!
 
「今日からお前はドン松五郎だ!」

 結局日本的なネーミングになってしまったが、ぴったりな気もする。そのうち新聞とかも読ませてみようかな。
 たまたま通りかかったタバサがぎょっとした顔をしてた。
 どーでもいいけどコイツ目がない気がするな。
 つぶらなおめめにも期待してたんだが、人懐っこいヤツだからいっか。



 さて、ドンは活発でお茶目なヤツだった。

 多分使い魔としての特殊能力だと思うけど、部屋の隅っこから自由自在に出入りできるのだ。
 ひょっとしたらすんごく小さな穴でも潜り抜けることができるのかも。だとしたらなかなか便利な能力だと思う。
 俺は現代っ子だからG様やネズミがあまり得意じゃない。そのうち駆除してもらおう。
 使い魔品評会でもこれでなんかできねーかな。

 話はそれたけどその能力を使って人様の部屋に不法侵入しているようだ。
 特にタバサがお気に入りらしい。コイツも大食いだからシンパシーでも感じてるのかな?
 いないなーと思えばタバサの部屋の方からトコトコ歩いてくる。
 まぁ、可愛い子犬だしタバサもイヤだったら俺に言いに来るだろ。
 それとも飼い主として先にあいさつしておくべきか?
 んー前世でも犬なんか飼ったことないからそこらへんのマナーがよくわからん。

 あ、でもそのうちマルトーさんには謝りに行った方がよさそうだな。
 どうもドンは常に腹ペコなようで厨房に忍び込んではいろいろ物色してくるらしい。
 というのはたまに部屋の隅っこで与えた覚えのない肉っぽいものをガツガツ食べているのだ。
 俺はもう慣れたけど、綺麗にしてもちょっと臭うから料理をする場にはふさわしくない。
 本音を言えば厨房には突入しないでほしいんだけど、ドンはこのことに関しては言うことを聞かない。
 生意気なお犬様め、俺が飼い主でなければペチンと叩いているところだ。
 マルトーさんにきちんと話して、できれば部屋の隅っことかを石膏で埋めて穴をふさがないと。
 さ、それはさておき魔法の練習練習。目指せスクウェアーー!!



[29710] サイト・ヒラガに祝福を
Name: 義雄◆285086aa ID:b6606328
Date: 2012/06/19 21:16
サイト・ヒラガに祝福を



2004年 A.D. 6104 平賀才人

 なんか異世界に来たし今日から日記つける。
 俺の名前は平賀才人、ここ風に言えばサイト・ヒラガ。元・東京在住の十七歳、高校三年生で青春真っ盛りのイケメンだ!
 ……ごめん嘘ついた、青春を楽しもうとがんばるフツメンだ!!
 なんか昔っから皆には「抜けてる」って言われてるけどそんなことないぜ?
 こんなよくわからないところには来たのは……事故だ。

 考えてもみてくれ。
 道路のど真ん中に身長くらいある銀色の楕円形がふわふわ浮いてたら。
 まず裏側確認して、それから色々したくなる、誰だってそーするに決まってる。
 唯一の誤算は月が二つあって魔法使いがいるファンタジー! と思わず叫びたくなる世界に召喚されちゃったことだ。
 ハルケギニアとかいう世界は魔法どころかエルフまでいるらしい。
 エルフと言えば森に棲んでてとんでもない美形ばっかり、ってイメージだけど砂漠に住んでるんだって。人間より魔法がすんごい強くて、でも性格は穏やかだとか。
 気は優しくて力持ちってヤツだな。

 あとドラゴンやらグリフォンやら動物園にいればパンダなんて目じゃないヤツらもいるんだ。実際青いドラゴン見たけどすごかった、でかい、怖い、食われそう。
 大丈夫かなぁ俺、ドラゴンころしが必要な場所だったら一ヶ月もしないうちに死ねちゃうぜ。

 そうそう、俺を召喚しちまった貴族のお嬢さまの紹介がまだだったな。
 名前はルイズ、ルイズ……ルイズなんとかかんとか!
 長すぎて忘れちまったよ、それにファーストネームで呼んでいいって言ってくれたし。女の子の下の名前呼ぶなんてはじめてだよ、声にするだけでドキドキだよ。

 そのルイズなんだけど、すっげー可愛いの!

 うまく説明できないんだけどさ、「天下無双、外宇宙に名をはせる、邪神も裸足で逃げ出す無敵無謬深淵の中を覗き込むほどの驚きを伴う美少女」って感じ?
 まぁ欠点は、日本語なんか誰も読めないし書いとくか、胸のサイズだな。お隣のキュルケって子くらいなら完璧というか、宇宙一の称号を授けてもいいくらい。
 というか、ピンクブロンドの髪なんてはじめて見たぜ、アレで染めてないとか遺伝子仕事してるの?

 性格も書いておくか。
 貴族のお嬢さまって言うからよくある「おーっほっほっほ!」とかを想像したワケですよ。

 全然違う、超優しい。
 この子俺に惚れてるの、ってレベル。他の貴族とはほとんどステレオタイプなヤツらだからルイズだけが違うの。

 こんな非の打ちどころのない美少女とキスしたなんて、俺幸せ者!

 残念ながら帰る魔法は今のところないらしいし、とにかく精いっぱいルイズのためにがんばろうと思う。
 出会い系に登録したばっかりだったんだけどな……ぐすん。

 今日はもう寝る!

**

 二日目にして色々ありまくりだった。
 いきなり三日間寝太郎状態だったらしい、ルイズ世話かけて心配させてごめん。

 とりあえず朝のことから。
 女の子とかを連れ帰った渋いおっさんって、その子をベッドに寝かして自分はソファーで寝るじゃん。
 アレ結構きついんだな。寝返りうてないから窮屈な感じするんだよ。
 まぁルイズがメイドさんたちに頼んだおかげで、石の床に寝るってのは防げたからよかったんだけどさ。

 さらに女の子と一つ屋根の下どころか同室で寝るなんてはじめてだったんだ。
 窮屈なのもあって「寝れるかな?」とは思ったけど心配なかった。一瞬で寝れたよ、俺の適応能力すごい、鈍いのかコレ?

 朝はメイドさんと使用人さんと一緒にご飯、かなり美味しかった。でもパンなんだよ、そのうち絶対ご飯が恋しくなるに違いない。
 あと変な臭いがするからそっち見たら変な獣が舌伸ばしてみてた。ロシュフォールさんって子の使い魔らしい。
 子犬くらいの大きさなのになんか怖い、威圧感というか圧迫感がある。同時に見ててムカついてくるのはなんでだったんだろ。
 しばらくこっち見てどっかいった。

**

 んでもって次は授業、教室がすごかった。海外映画でしか見たこと石造りの教室とか。
 さらにすごいのが使い魔、もう怖い。「俺こいつらと同列?」って少し悲しくもなった。

 そして、ルイズがいじめられてるのもわかった。

 魔法唱えたら爆発するだけだろ。
 なにがゼロのルイズだよ、お前らなんでがんばってるヤツをバカにできるんだよ。ふざけんなっての。

 そう叫ぼうとしたけどルイズに肩を抑えられた。
 わたしは大丈夫って目で言ってた、でも辛そうだった。
 優しくされたのもあるかもしれないけど、そん時俺は絶対ルイズの味方でいるって決めた。

 あとすごく印象に残ってるの。
 すごい背筋がぞわぞわする子がいた。いや、キモイとかそういうのんじゃないんだ。
 すごい美人だと思う、肌も髪も真っ白で目が赤い、日本じゃアニメにしかいないみたいな感じの子。
 見た瞬間「コイツはヤバイ!」って思った。
 ルイズが太っちょ貴族にバカにされたときとか凄い表情浮かべてた。なんていうか、表現できない顔、喜怒哀楽全部一緒に浮かべたらああなるのかも。
 そのあとも不気味にぶるぶる震えてた。
 ああもう、自分で何書いてるのかわかんね。とりあえず教室はピッカピカにしてやった。

**

 俺、実は剣の達人かも。
 ルイズがお金払ってるみたいだけどお手伝いしようと思ったんだ。
 ほら、一人だけゴロゴロしてると他の人が気分悪いし、バイトの予行演習にもなりそうだし。食堂でデザート配り手伝うことになったんだよ。
 この時シエスタ、って子に教えてもらって少し仲良くなった。

 んで、配ってるとき親切で香水みたいなの拾ってやったらなんか決闘することになった。
 相手は金髪フリフリキザ貴族、腹立つことにイケメン。しかも二股かけてそれが俺のせいでバレたとか。

 知るか!

 とにかく広場に行ったんだけどきったねぇの、魔法強いよ。
 ぼっこぼこに殴られてもう何がなんだかわからなかった。
 ルイズが泣いてた気もするし、キザイケメン貴族もちょっと引いてた気がする。

 でもなにより覚えているのは例の白い子。
 すごい怒ってるようにも楽しそうにも見えて、ほっといたら人殺しそうな勢いに見えた。メンヘラってヤツなのかもしれない。
 授業中見たときは「コイツはヤバイ!」だったけどその時は「コイツを何とかしろ!」って心が叫んでたような。
 流石に三日間寝っぱなしだから詳しくは思い出せないけど。

 まあ白い子が顔を伏せたからイケメンの方見て、そしたら剣が刺さってたんだよ。
 尻もちついてたから立ち上がるために握ったらすごい。世界が変わった。
 もうイケメンとか敵じゃなかった。あっという間に決着ついた、でも「コイツを何とかしろ!」って感情がすっげー強くなった、気がする。
 あんだけボコスカ殴られてるんだからそりゃ忘れるよな。
 で、とりあえずルイズのとこに行こうとして剣を手離したらぶっ倒れちゃったと。世の中不思議なことばっかりだ。

 それと起きてからルイズにすごく怒られた、泣かれた。
 泣いた女の子ってどうあやせばいいの? 誰か教えてよ!
 今からルイズに土下座してきます。



*****


メアリー・スーに歓びを



 ちーっす、俺の名前はメアリー・スー・コンスタンス・ド・ロシュフォール。
 トリステイン王国のロシュフォール伯爵家長女だ。
 神様の力で皆おなじみ「ゼロの使い魔」の世界に転生した元男、現女の子なんだ。
 本気出すと右目青くなるけど、冷静に考えれば俺の人生プランで必要になるときないよな。
 ま、いいや。

 前回も言ったけどサモン・サーヴァントしたんだ、ワンちゃんだぜワンちゃん。
 見た目はかなり強そうだから賢くなってほしいという意味を込めてドン松五郎って名前をつけたんだ。ハルケギニア風に言うと「ドゥンムァツグォルォ!」って感じ?
 一回噛んで「ドゥンムァツトゴァ」とか言っちゃった、それ以来普段はドンって呼んでる。
 強そうでいて可愛らしいけど、グルメで大食い。エサ代がかかるのが玉に瑕なヤツだ、なんで豚の頭とか牛の頭を好むかねぇ。



 さておき原作開始ですよ奥さん。
 めでたく才人が召喚されてごろごろ契約の痛みで転がってたり。

 今までクラス違うから知らなかったんだけどさ、ルイズめっちゃ良い子なんだよ。
 召喚翌日の朝ごはん、才人のことみんなかわいそうって思ったっしょ?
 違うんだよこれが原作とは。アルヴィーズの食堂には連れてこず使用人用の場所で食べさせてるんだよ。ドンの視界共有(どこに目があるかわからんけど)で確認したから間違いない。
 これにはびっくり!
 この様子だと昨夜もまっとうな寝床を与えてもらったのかも。魔法が使えないから自然平民には優しくするようになったのかもしんないな。
 ここらへんも原作とのギャップだ。

 でも魔法はボカンボカンやらかしてるみたいで同級生からは「ゼロのルイズ」呼ばわりされてる。
 正直な、マリコルヌの悪口とか「お前小学生かよ!」って突っ込みたくなるほどちんけなの。
 もー顔伏せて笑いこらえるのが精いっぱいで、きっと肩とか震えまくってるよ。

 おっと、ミセス・シュヴルーズが入ってきた。
 授業はきっちり聞くぜ、なんたって魔法の勉強は楽しいからね。物理法則なんか知ったこっちゃねぇよ! ってところが特に。
 感覚頼みなところが多すぎてぶっちゃけ座学できすぎても意味ないけど。



 決闘って何が楽しいんだろうね。
 ここは原作通りにイベント進行してくれて安心の限りだよホント。

 バタフライエフェクトだっけ?
 よくわからんけど風が吹けば桶屋が儲かる的なアレやコレで流れが変わりすぎても困るんです。ただでさえ俺って異分子がいるんだから極力原作キャラとは語らずにいきたいね。
 武勲挙げて領地に引っ込んで内政チート! それが俺の人生目標。

 うわ、才人フルボッコじゃんか。
 ラノベとかアニメだとわかんないと思うけど、これはひどい。もう見てるのが辛くなってくるレベル、よくこんなので立ち上がれるよな。
 あーイタイイタイちょっとホント無理見てらんない。
 でも剣握ってからを見守る必要はあるから動けねぇな。

 仕方ない、地面でも睨んでおくか。

 にしても貴族様ってのはかなりいいご趣味をお持ちだね。一対一とは言えリンチと変わんないじゃん。
 ボクシングとかみたいな試合とは違うんだぜ? なんで止めようとしないのさ、下手すりゃ死ぬぞ。
 こいつら全員痛い目見た方がいいんじゃないか、って思ってしまう。
 おかしいな、俺こんなこと思うキャラじゃなかったはずなのに。
 普段通りのスタンスなら「モブ貴族なんて知ったこっちゃねーや」に近いと思うんだがなぁ。
 ああ、アレだな。ドンを召喚したことで優しさに包まれちゃったんだな。今まで以上に優しくなるとか、人間国宝と呼ばれてもおかしくないレベルだろ。

 お、おバカなこと考えてたら才人剣握りやがった。
 すげえ、ありえねえ、速いとかそんな簡単に表現できるなもんじゃない。あなた人間ですかってくらい、人類規格ぶっちぎり。
 虚無の使い魔は伊達じゃないな……もうすぐスクウェアになれそうな俺でも接近戦は勝てそうにない。
 距離さえあればなんとでもできるんだろうけど、デルフリンガー持てばマジメイジ殺し。

 ……と、なんでこんな好戦的な考え方してるんだか。あほらし。
 さてと、タバサが住む図書館にでも行きますかね。



 もうね、力ががくんと抜けたよ。なんなんだよアレ。

 今アルビオンが原作通りヤバイらしいんだけどさーレコン・キスタじゃないの。
 聞きたい?
 そんな聞きたい? 脱力すんなよ?

 ……「ニャル様とホップを愛でる会」だ。

 ほんと「ハァ!?」って感じだよな。
 こんなんに滅ぼされそうになるってアルビオン大丈夫かよ。ホップってビールかよ、ゼロ魔はエールだっけ?

 どうでもいいか。
 なんか使用人の噂話を小耳にはさんだ程度だけど、なんだかなーって人生嘆きたくなるぜ。
 二回目の人生だけどな!

 さて謎な名前だがどういうことだろう。
 ニャル様って人とホップを品種改良して美味しいエールを造ろうって会なのか?
 それともニャル様って人とその弟子ホップの漫才を見てニヤニヤすればいいのか?
 まったく一切見当もつかん。

 ここにきて原作との乖離が進み始めたなー。物語なんだからその辺きっちりしてほしいぜ。
 大筋で考えれば別にいいんだけど、無能王ジョゼフの戯れってヤツか。
 まぁ名前なんて些細な問題でアルビオン占領されそうになってる事実だけが大事だよな。
 こりゃ俺もキュルタバに着いて現地行って確認すべきかもな。

 あ、そーいや今日フリッグの舞踏会なのにフーケさん来なかったぞ。
 ロケットランチャーを一度ナマで見たかったのに……。



[29710] 外伝 ダングルテールの影
Name: 義雄◆285086aa ID:b6606328
Date: 2012/06/19 21:16
外伝 ダングルテールの影


A. D. 6084 小隊隊長

 深夜、黒く分厚い雲が空を覆い隠し、いつもは冴え冴えと大地を照らし出す月明かりはない。
 上層部からの命令で疫病が蔓延している海辺の寒村ダングルテールを、住民も建物もすべてを跡形もなく焼き払う。
 命令書によると、特に教会と妖しげなロマリアの女を念入りに焼けとの指示だ。
 ロマリア人が疫病を持ち込んだのか、村人は偉大なる始祖ブリミルの威光で病気を癒そうとしているのだろうか。

 今回の任務は普段の化け物退治とは異なり、腑に落ちない点が多い。
 特にわからないのは妖しげなロマリアの女、特徴などは一切知らされていないのにどうやって特定しろというのだ。疫病などは嘘で本当は新教徒の焼き討ちではないだろうか。
 副長と協議した結果、まずは調査を行い真実疫病ならば跡形も残さず焼くことにした。

 村に潜入する。
 実験小隊は火メイジ十名、風メイジ五名、土メイジ三名、水メイジ二名の計二十名からなる。
 北は海、南は山に囲まれた村だ。西からわたしを含め五名、東から副長含め五名、八時の床入りの鐘を合図に進入する。
 他に墓場の様子を見て異常を探る犬と梟を使い魔にもつ二名、東西に四名ずつ待機要員を残し、疫病の発生を確認すればどこかで火を熾して追加要員二名ずつが外周部から村を燃やす。
 街道をあえて封鎖しなければ恐怖にかられた人々は疑問も覚えず東西どちらかに逃げるだろう。
 そこで待機要員が奇襲をかける。
 万一村人が山に逃げても追いかければ済むことだ。
 熟達した火のメイジにかかれば、暗闇の中でも体温を感知することなどたやすい。副長はそちらの才能にあふれているよう感じる。

 地の底から響いてくるような、不気味な鐘の音が響いた。
 念入りにマスクを確認する。焼き討ちを行う予定である以上、無用の灰や死体から立ち込める瘴気を吸い込まぬよう必要な処置だ。
 無言で杖を掲げ、その合図とともに全員が音も立てず駆けはじめた。

 目指すは村の中心にある教会、ロマリア女と並ぶもう一つの不自然な点を探る。
 闇夜とはいえ道の中央を進んだりはしない、極力姿を隠しながら足を進めるがどうもおかしい。
 床入りの鐘が鳴った直後だというのに人がいない。カキを拾うしかないような寒村だとしても幾人かは床入りの鐘直後に船の様子を見に行くはずだ。
 それに家から漏れるはずの灯りが見えない。村の中は全き暗闇に閉ざされていた。

 夏も近いというのに村は底知れない冷気に覆われている。
 唐突に霧が立ち込めはじめ、ただでさえ先のわからぬ漆黒の夜闇の中を行く私たちの視界をさらに妨げたのだった。
 素早く方陣を組み耳を澄ませ、蠢いているようにも見える闇を凝視する。
 特異的な温度変化はわからず、ぺちゃくちゃと奇怪な喋り声がどこからともなく聞こえる。ハルケギニアで広く使われているガリア語ではない、風メイジが教会の方角を指さした。

 一分ほど襲撃に備えたが動く気配はない、その間にも霧は地の底から湧き出ているかのように濃くなっていく。
 方陣を維持したままゆっくりと歩みを進める。村は狭い、五分もせずに教会へ着いた。
 反対側から霧に紛れて人がやってくる、五名だ。油断なく杖をかまえるが、現れたのは副長たちだった。

「隊長、この村と霧は妙です」
「承知している、教会からも何か聞こえる」

 声を潜めながらの会話よりも教会から聞こえる声の方が大きい。
 地獄の深淵から響くような大合唱だ、念のため一部を記録しておく。

――いあ! いあ! ないあ×××××××!――

 その時、私の隊の風メイジが猛烈に震えだす。
 白目をむきながら奇妙なひきつり笑いを浮かべ、歯の根がかみあっていない。
 いたるところから噴き出す汗は水たまりをつくりそうなほどの量で、明らかに正気を欠いた様子だった。
 わたしと二名が介抱のために残り、他の隊員で教会の周囲を探索した。

 おそらく樫で造られた教会の重厚な扉を睨みつける。
 遠目にはブリミル教の様式にのっとっているように見える、しかしそれはまやかしだった。
 双月を見上げる三本脚の奇妙な獣、奇妙な姿の人物に教えを賜う民衆、どことなく太った女性に見える何かが彫られ、まともな司祭が見れば怒り狂うだろう。元々あったブリミル教の教会を改造したものであるようだ。
 教会の主は新教徒ではない、彼らは実践的なだけであって始祖ブリミルに唾吐くような存在ではない。

 墓場の方から一度だけ犬の遠吠えが聞こえる。異常なしのサインだ。周囲を探索していた隊員も次々と戻り首を横に振った。
 ダングルテールで疫病など発生していない、これは確定した。
 しかし同時に新教徒の焼き討ちでもない。もっと狂気じみた何かだ。
 これを見逃せばハルケギニアの滅亡につながると、奇妙な確信をわたしはもった。
 不自然なまでに情報の少ない命令書も政治的判断などではなく、危険性が高すぎて最低限しか情報を確保できなかったに違いない。副長も同様の思いを抱いているのか、人相の悪い顔で病的な扉を睨みつけている。
 二人頷き合い、近接戦闘に長けたアルビオン系風のラインメイジのチャールズ・ウォード、魔法の威力はトライアングルに迫るゲルマニア生まれの火のラインであるエーリッヒ・ツァンを突入部隊として残し、他の隊員は恐怖のしみついた村の各地へ送る。
 調子の悪い隊員は一人だけつけて街道へ伏せるよう指示を出した。

 おぞましく形容しがたい儀式の声はいよいよ大きくなっていく。
 私は火球を生み出し空中で待機させる、副長も同じスペルを詠唱した。清浄なる始祖の火で祓われるかのように周囲を覆っていた霧は消え失せる。

 辺りを赤色で染める炎を教会の正面にある民家にぶつけた。
 光源としては十分だ、各地に散った隊員もこれを合図として村を焼きはじめるだろう。

 異変を察知したのか、教会内部から這いよるように染み出ていた声は止み、まっとうなガリア語が聞こえてくる。
 チャールズが素早くエア・ハンマーを詠唱し、エーリッヒも追随してフレイム・ボールを唱え出す。
 一拍早く完成した風の大槌が妖しい教会の扉をぶち抜いた。空気の塊は余勢を駆って教会内にまで吹き込み、黒づくめの人々を数人打ち砕く。
 開け放たれた正門から流れ出る空気は冷たさどころか纏わりつくような感触まであり、泥沼にひきずりこまれるような気持ち悪さがあった。

 礼拝でなくとも普通は蝋燭を灯すというのに、教会内部に明かりはない。そこにエーリッヒの強烈なフレイム・ボールが、光を伴いながらも教会内を飛び込んだ。
 真昼の太陽のような明るさで得体のしれない暗闇で満たされた室内を照らしだし、中にいた村人らしき黒づくめを慈悲のかけらもなく炎に包む。
 それを松明として教会に踏み込むと、おおよそ五十名近くの長椅子に座った人々がこちらを驚いた様子で振り返る。
 事前情報にあった村人の数と一致する、このダングルテールは邪教に染められていたのだ!

 そして祭壇らしき大きな台座、そこには金髪の幼子が寝かされており、すぐ傍には妖しい女が佇んでいた。
 なんというのだろうか、ハルケギニアにはない独特な顔立ちで遠くロバ・アル・カリイエのそのまた向こう、人の住めぬ東の果てから来たような印象を受けた。
 黒いフードをかぶってその髪型などはわからなかったが、凄まじい色香を放つ美女だった。
 しかしその本質は違う、この女は始祖の威光も届かぬ夜空の果てのさらに裏側から滴り落ちて形作られた存在だ。

 私は一瞬で確信を持つ、命令書にあるロマリア女だ。
 恐怖に責め立てられるように一瞬で炎を練り上げ、こちらへ奇怪なうめき声をあげながら襲い掛かってくる村人を無視して一条の炎を放った。
 この時私は極度の興奮状態にあり、どのような詠唱を行ったのか一切覚えていない。
 焔は確かにロマリア女を貫き黒い衣を聖なる炎で包んだ。焼かれながらもロマリア女は高々と狂笑をあげ、ついには床に倒れ伏した。

 その瞬間のことだ、凄まじい勢いで女から溢れ出た漆黒の闇が、炎の灯りすら塗りつぶして教会内を満たした。
 副長が素早く一歩前に進み出てフレイム・ウォールで村人と私たちとを遮断したが、暗黒はそれすらも食いつくすように襲い掛かる。
 この世ならざる光景に足がすくみ絶望を覚える。
 が、チャールズの“ウィンド・ブレイク”で四人は教会内からたたき出された。
 蠢く闇は教会からは出られない様子で、誰よりも早く立ち直ったエーリッヒが恐怖を振り払うかのように火球を幾度となく叩きつけた。
 私たちも様々な攻撃魔法を放ったが、闇はあらゆる魔法を吸い込み続け、やがて教会内へゆるゆると後退し、ついにはその姿を消した。

 全周囲への警戒も忘れ四人でじっと教会の暗闇を見つめる。
 しばらく様子を見たが、教会内からは人ひとり分の心音と呼吸音しか聞こえない、というチャールズの判断を元に私たち四人はそこいらの薪を松明がわりに教会内へ踏み込むことにした。
 まずは火をつけた薪を教会内に放り込むが、赤々とした光に照らされるだけで何も反応はない。
 注意深く踏み入ってはみたものの、残されたものは少なく石造りの教会はがらんとしていた。黒衣を纏った村人の姿はなく、まるで先の光景が夢であったかと錯覚しそうになる。

 ただ祭壇で眠る金髪の幼子がここであったことは現実だと教えてくれた。
 得体のしれない女が立っていたところには、腹部を貫かれ絶命した金髪のロマリア女が倒れていた。
 ありえないことに、私が見た女とは顔がまったく違う。副長たちに確認をとったところ彼らは顔を見ていないようで断固たる確証は得られなかった。

 さらに炎で焼かれたあとがない、腹部の傷も鋭利な刃物で貫かれるどころか、神の祝福を受けた一撃でなければこれほど綺麗な跡にはならない。
 その死に顔はようやく楽になれるという、死を待ち望んでいた人が浮かべるものだった。
 先のスペルを覚えていないこともあって、これは顔こそ違うものの不気味な女だったと判断した。

 その時、死体を検分していた私の後ろで突如叫び声があがった。
 瞬時に詠唱を終えるとともに振り返ると、例の漆黒が目元に纏わりつき狂ったような笑みを浮かべて副長が私に炎球を浴びせてきたのだ。
 隣で見ていたエーリッヒとチャールズが止める間もなかった。素早く身を投げ出しファイアー・ボールを回避するも、首筋に炎がかすめる。
 立ち上がると同時にごく小さな火球を容赦なく副長の目元に放った。
 副長は正気を失ったかのように凄まじい叫び声をあげ、力を失ったように膝をついて倒れた。私は油断なく大きな炎を生み出して教会の内部を隅々まで照らし出す。
 チャールズは手早く杖を奪って風のロープで副長を拘束し、秘薬で火傷の手当てにかかった。
 一方エーリッヒは杖を幼子に向け、ブレイドを唱えた。

「待つんだ」
「ですが隊長、危険すぎます」

 彼の制止を振り切って私は幼子に近づいた。
 邪教の祭壇に捧げられた三つほどにしかない女の子だ、むしろ私たちブリミル教側の存在ではないか、とその時の私は考えたのだ。
 服装は貧しい平民の子供そのもの、金髪も顔立ちも珍しいものではない。
 しかし決定的におかしな存在が目についた、指輪だ。

「これは……すごいルビーですな」

 私の後ろで身構えていたエーリッヒも思わず目をうばわれたほどだ。
 邪悪な気配は一切感じない、むしろこれほど聖浄な指輪がこの教会にあったのか、と驚きを覚えるほどだ。
 ロマリア由来の聖遺物に違いない、と二人で結論づけた。

「隊長、副長が目覚めます」

 チャールズの言葉に私は振り返る。
 エーリッヒは念のため幼子を警戒していた。

「面目ねえ」

 口から飛び出したのはいつもの皮肉気な声だった。
 だが油断はできない、杖を向けながら拘束はとかない。

「何があった、答えろ副長」
「オレにもわかりません。いきなり目の前が暗くなったと思えばいきなり隊長に焼かれた、ってとこですね」

 やれやれと肩を竦めながら答える姿は完全に副長そのものだ。
 しかしこの教会ではありえないことばかりが起きている、こうして喋っているのが副長であると断言はできない。

「悪いがまだ拘束を解けないな」
「それは承知してます、自分がふがいなすぎて死罪でもかまわんほどです」

 うっすらと笑みを浮かべながら副長は肩を落とした。
 彼は実力もさることながらプライドも高い。邪悪な存在に一瞬とはいえ乗っ取られた自分を情けなく思っているのだろう。
 副長の監視はチャールズに任せ幼子の処置をエーリッヒと二人で考える。
 私は幼子を連れて行くべきだと考えていたが、当然ながらエーリッヒは強く反発した。チャールズもこの場で殺すことに、もっと言えば命令書に従うことに賛成している。
 副長は何も語らず目をつむっていた。

 結局私が押し切る形で幼子を連れ帰ることにした。
 副長が拘束されたまま先頭を歩き、真ん中に幼子を背負った私とチャールズ、エーリッヒが殿を務め燃え盛る村から脱出する。
 村外れで合流した小隊は、正気を欠いた隊員も回復して、一人も欠くことなく揃った。
 皆は拘束された副長に驚きの表情を浮かべ、次いで隊員は一様に奇妙な現象を報告してきた。

「村には人っ子一人いませんでした」
「路地裏から奇妙な笑い声が響くこともありました」
「墓場の探査では烏の群れにじっと観察されていました」

 なんとも背筋が寒くなるような話だった。
 ともあれ天まで届くような炎に包まれたダングルテールを背後に、小隊は帰路へ着いた。
 ロマリア女の狂笑が耳元から離れなかった。


***


 この任務を最後に、私は小隊を離れトリステイン魔法学院に奉職することとなった。
 小隊隊長は副長メンヌヴィルが継ぐ、彼なら教訓を生かして狂気に耐え、困難もうまく切り抜けるだろう。
 金髪の幼子、アニエスを育てながら来たるべき日を待っている。


*****



「リッシュモン様」

 音もなく現れた小姓が白髪の老人の耳元でなにごとか囁く。
 老人の顔はみるみる内に歪み、苛立たしげに舌打ちをした。

「追加要員をすぐに見繕え、金は一切惜しむな」
「御意」

 用件を承った黒髪の小姓は再び音もなく部屋から出ていく。
 その様子を対面のソファーに腰掛けたマザリーニ枢機卿は無表情で観察していた。

「何かあったのですかな」
「失踪だ、小隊のチャールズ・ウォード。手練れの風メイジであるヤツならあるいはと思ったんだがな」

 リッシュモンはテーブルの上に赤ワインを注ぎ勢いよく飲み干した。それで激情を心の中に押しとどめたのか、マザリーニの正面にどっかと腰を下ろした。
 だが顔に表れる焦燥感を隠すことはできなかった。

「ここ十数年動きが活発すぎる、どういうことなのだ」
「ロシュフォール家長女の誕生と重なりますな」

 ロマリアとのパイプも太いマザリーニの諜報網は伊達ではない。が、そのマザリーニですらメアリーの誕生を最近まで知らなかった。
 ジョン・フェルトンが幽閉塔に隠したのもあるが、理由はそれだけではない。彼女の近辺を探ろうとしたものはことごとく失踪、あるいは発狂していくのだ。
 “ヤツら”から密かに民衆を守るため、幾度となく“ヤツら”と杖を交えた猛者であろうともそれに変わりはなかった。

「……王女にはいつ知らせるつもりだ」
「十七歳まではなりませぬな、王家の秘儀で精神を強くせねば、そうであってもシャルル殿の件があったのですぞ」

 マザリーニの冷静な言葉にリッシュモンは苦い表情を浮かべた。
 ガリア王家の失態はことを知る者にとって痛すぎる教訓だ。

「アルビオンもきな臭い、間者を潜りこませようにも発狂して終わりだ」
「その件には適任が、グリフォン隊隊長の『閃光』を差し向けようかと」

 何気なく放たれたその言葉にリッシュモンは耳を疑った。

「正気か、スクウェアを使い潰すなど」

 小馬鹿にしたような言葉にマザリーニは目を閉じて淡々と答える。

「彼はただのスクウェアではない、母君の意志を継いでおられる」
「彼女は、悔やんでも悔やみきれぬ。私の差配ミスだった」
「失敗を挽回してこそのリッシュモン殿でしょう」

 それだけ言うとマザリーニはゆっくりと立ち上がる。夜も更けたので帰宅するのだ。

「そういえば、金子の方は」
「馬鹿にするな。何のために拝金主義者と呼ばれてまで賄賂を受け取っているのだ」
「はて、何故でしたかな」

 マザリーニは苦労で老けきった顔を綻ばせる。数少ない事情を知る者、その中でも最も協力的なリッシュモンをからかうように。
 リッシュモンは苦々し気な表情で言い捨てた。

「このハルケギニアを守るためだ」

 マザリーニは満足そうに笑い、別れを告げた。
 アンリエッタ姫が十七になるまであと一年。全力でトリステインを支えるためにも気合を入れなおすことを決意し、自宅への帰路に着く。

 遥か遠くから、三本脚の獣がその後ろ姿を見つめていた。



[29710] 番外編 マルトーに沈黙を
Name: 義雄◆285086aa ID:b6606328
Date: 2012/06/19 21:16
マルトーに沈黙を

※完全なネタ番外編で本編とは一切関係がありません。



「待ちやがれこの野郎ッ!!」

 牛の頭をくわえた犬を若いコックが追いかける。
 日本のアニメでもありそうなシチュエーションだ。
 その犬がおぞましい姿でなく、若いコックが金髪青目でさえなければだが。

「くっそ、また逃げられた」

 厨房に戻った若いコックは悔しげに吐き捨てた。
 拳がぶるぶる震えるほどの怒りを覚えている。

「やっぱりミス・ロシュフォールに言ったほうがいいんじゃない?」
「言っても意味ないさ、あんな躾のなってない犬っころを放し飼いにするんだからな」

 見かねたメイドの言葉にも腹立ちまぎれの言葉を返す。
 ここ数日材料から仕上げた料理まで脳みそ系の食料は根こそぎ奪われていった。
 あのおぞましい犬っぽい何かに厨房の人々は隠しきれない闘志を燃やしている。

「なんか罠でも仕掛けてみるか?」
「お貴族様の使い魔を罠に? 首が飛んじまうぜ」
「つっても料理長の脳みそ料理を待ち望んでるお貴族様も多いしなあ」

 料理を続けながらああでもないこうでもない、と議論するコックたち。
 常人ならばまず子犬の名状しがたい外見に突っ込むが、彼らは気に素振りも見せない。
 メイジが召喚する使い魔はバグベアーなど奇天烈な生き物も多いから慣れている、という理由ではない。
 かといって正気を失われているわけでもない。
 突如投げやりな議論が飛び交う厨房の裏口が開く。

「お前ら料理に集中しやがれ」
「ウィ、料理長!」

 二メイル近い身長に、短い黒髪で如何にも強そうな精悍な顔立ち。
 トリステイン魔法学院の厨房を取り仕切るマルトー料理長だ。
 その右手にはさっきの恐ろしい子犬がにぎられている。
 子犬は暴れることなく、むしろ借りてきた猫のように大人しく尻尾を握られぶらさがっていた。

「やっぱ料理長にかかっちゃ形なしか」
「料理長なら仕方ない」

 ぼそぼそとした小声以外は調理の音しか聞こえなくなる厨房。
 作業に集中しだしたコックたちに満足したのか、マルトーは犬を振り回しながら厨房を去った。

「はー、あの人やっぱ半端ない」
「あの犬どうやって捕まえたんだ?」
「知らね、マルトーさんなら仕方ないさ」

 先ほどよりは静かに話しながら料理人たちは仕上げにかかる。
 メイドははーっと感心したようにため息をついた。

「マルトーさん、ほんとすごいね」
「あの人コックやるような人じゃないんだよ」

 若いコックがソースをつくりながらメイドに語りだした。
 周りの料理人もそれに追随してどんどん声が大きくなっていく。

「確かどっかの軍隊出だろ?」
「ああ、平民なのに教官してたって」
「なんか子爵ぶん殴ってやめたとか聞いたことある」
「マジで?」
「あ、それ俺も知ってる。んでオールド・オスマンが料理長として雇ったんだって」

 聞けば聞くほどありえない経歴にメイドはますます驚いた。

「でも、マルトーって確か料理の鉄人の称号名よね。本名なんて言うの?」
「確か……」

 若いコックは虚空を睨んで思い出そうとがんばった。
 そこに厨房で一番経験を積んだ老コックが口をはさんだ。

「ケイシー・ライバック、厨房じゃ負け知らずの、ただのコックさ」

*****

メアリー・スーは沈黙した


 あ、ありえねえ。
 マルトーさんって人のよさそうな固太りのおっさんだろ?なんであんな規格外の男がゼロ魔世界に!?
 やばいぞ、なんか怒ってそうだ。

 って、ドンがぶんぶん振り回されてる。
 いくら最強の男とはいえ許さんぞ、ドンの仇、ウォォォオオオオオ!!!!



――コキャ――






[29710] ルイズ・フランソワーズに栄光を
Name: 義雄◆285086aa ID:b6606328
Date: 2012/06/19 21:17

「ほんっとうにごめんなさい! 今度からルイズに心配かけるようなことはしないから!!」
「……ほんと?」
「うん、絶対しない。約束する」
「……じゃあ今回だけは許してあげる」

 泣いたルイズをなだめて笑わせようとして土下座して、才人はなんとかルイズの許しを得ることができた。
 彼女の頬には涙の筋がまだ残っており、じくじくと才人の良心を抉っていく。

――こんなちっちゃい子を泣かせるなんて。

 才人はルイズの年齢を聞いていなかった。
 彼は授業中のルイズに対する野次の子供っぽさから、ここトリステイン魔法学院を地球でいう中学校相当だと考えている。
 当然ルイズの年齢も十三歳から十五歳くらいだろうと思い込んでいた。一つしか違わないなんて夢にも思っていない。

「ほら、可愛い顔が台無しだぞ」

 ルイズから与えられたレースのハンカチで彼女の顔をやさしく拭ってやる。彼女はベッドに腰掛けたまま不平不満を言うでもなく、されるがままになっている。
 その様子は使い魔とご主人様というよりも、優しい兄と少し甘えたがりの妹のように見えた。

「よし、少し目が腫れてるけど一晩寝れば大丈夫だろ」

 うん、と才人は満足そうに頷く。

「……その、サイト」

 ルイズは上目使いに才人を見つめる。
 少し目元が腫れぼったかったが、その破壊力は才人のハートを打ち抜いた。

――こ、これが『萌え』というヤツか!!

 ずきゅーん、なんて音がリアルに才人の脳内で響いた。
 一瞬固まって、コホンと居住まいを正す。

「なにかな?」

 俺は紳士、英国紳士と頭の中で唱えながらできるだけ爽やかな笑みを浮かべてみる。
 才人の思惑通りとはいかず若干ぎこちない笑顔だった。

「……ごめんなさい」
「へ?」
「あなたを召喚して、ごめんなさい」

 ルイズはペコリと頭を下げた。
 才人は戸惑うしかない。
 なんでそんな話になるんだろうと頭をひねってみる。
 よくわからなかった。

 才人は現代日本の価値観ではかっていたが、これはとんでもないことだ。
 公爵家のご令嬢が平民に頭を下げるなど本来あってはならない。まかり間違って他の生徒に見られてしまえばその日からルイズに対するアタリはさらに厳しくなるだろう。
 学院ならまだ笑い話で済むが、これが一般社会に出てからという話になれば彼女のみならず、ヴァリエール家の権威の失墜につながる。
 例えまだ一介の学生に過ぎないとはいえ、自室とはいえ、やっていいことではない。

 勿論才人はそんな背景知ったこっちゃない。
 ただシンプルに、可愛い女の子が自分に謝っているだけだ。

「そんな気にしなくってもいいよ」
「でも」
「いいから、確かにボコボコにされて痛かったけどもうへっちゃらだし」

 実際三日間も眠りっぱなしだからどれほど痛かったか、すでに彼は忘れつつある。
 これは平賀才人の適応能力か、それとも別の理由があるのか。
 とりあえず心底申し訳なさそうな顔をしているルイズを慰めるため思いついたことを並べ立てる。

「それに帰る方法も探してくれてるんだろ? だったらルイズのためにちょっとくらい体張るさ」
「……」

 それに対してルイズは何も言わなかった。
 握り拳を膝の上に置いて、うなだれたままだ。

「ごめんなさい」
「だから! 謝らなくったっていいんだよ」

 才人はかがみこんでルイズと視線を合わせようとする。
 ルイズは俯いてその顔をのぞかせなかった。

「わたしには、サイトにあやまらなきゃ……いけな、い……ぅ」
「わー! 泣かないで泣かないで!!」

 とうとう彼女は泣き出してしまう。
 握り拳の上にはぽたぽたと彼女の涙が滴り落ちた。

――泣いた子が泣き止んでまた泣いて、どうすりゃいいんだよ!?

 才人は持てるだけの知識を漫画から引っ張り出してみる。

――あーもうどうとでもなれ!

 彼の知る漫画の主人公はあまりそういうことに強くなかった。
 とりあえず、後で怒られることを承知でルイズを抱きしめた。

――怒るかな、怒るだろうな。でも今は泣き止んでくれたらそれでいいや。

 ルイズは押しのけることもなく、ぐすぐすと才人の胸で泣き続けている。
 なんとなく才人は彼女の髪を撫でてみる。さらっさらで自分のものとは全然違う。
 左手で彼女の背中をトン、トン、と叩いてみる。
 きっとこうすれば安心する、と確証もない予感からの行為だ。
 しばらく続けていると、ルイズのしゃくりあげるような泣き声がおさまってくる。胸元は涙でぐっしょり濡れていたけど才人は文句を言わない、言えるはずもない。

「落ち着いた?」

 耳元で優しく囁く。ルイズは小さく頷いた。

「……もうちょっと、こうしてて」
「ん」

 才人はルイズの髪を撫でたまま、ルイズは才人の腰におずおずと手を伸ばしてかるく抱きつく。
 二人の間に会話はない。そのまま、優しい時間は過ぎていく。

 それを破ったのは無機質なノックの音だった。
 二人は慌てて跳ねるように距離をとる。

「ど、どうぞ」
「失礼しますミス・ヴァリエール。いつもの梟便です」

 部屋に入ってきたのは才人も知るシエスタだ。
 彼女はルイズの顔を見て、次に才人を見た。
 最初顔を見ていたのがすすすと視線が下がって胸あたりでとまる。

 あ、と才人は思い当たった。
 ぼんやりとした灯りの室内、黒い服ならまだ誤魔化せたかもしれない。
 でも彼が着ていたのはハルケギニアにやってきたときと同じ青いパーカーだ。
 濡れれば当然色が変わる。そしてそれは薄暗くても容易にわかるほどだった。
 シエスタはそのまま何も言わずルイズに封筒を手渡し、一礼してから部屋を出て行った。

―――きゃー! 御主人様と使用人の禁断の愛ですかアレ!?―――

『……』

 二人は互いの瞳を交差させ、溜息をついた。

「えっと、シエスタに明日説明しとくよ」
「ええ、そうして」

 ルイズは封筒の蜜蝋を、虫眼鏡まで使って確認してから開く。

「……そう」
「どうしたんだ?」
「貴族の事情っていうヤツよ。あなたにも関係しているけど」

 はしたなく寝巻の袖でぐしぐしと目元をこする。
 そうして、ルイズは貴族の顔になった。

「サイト。わたしはあなたにとてつもなく重い責務を負わせるわ」
「……」

 今度は才人が何も言えなかった。
 それはルイズが口にした重い責務という言葉に対してか。
 それともこのハルケギニアで成し遂げなければならないことがあると感じていた自分に対してか。

「許してくれ、なんて言わない。言えないわ」
「いいよ」

 軽い一言。

「きっとサイトは事の重大さをわかってないからそんな風に言えるの」
「いいんだよ」

 まるで自分が喋っているわけではない。
 自分の心がそのまま声になっているような奇妙さを才人は感じていた。

「……サイト」
「口にすると陳腐だけどさ、ルイズに召喚されたのも運命とか奇跡とか、そんなことだと思う」

 その言葉は紛れもない自分の本心だ。
 ただ彼自身が何よりも思っていたのは。

「だからさ、そんな自分を責めないでくれ」
「……ッ!」

 この少女にこれ以上辛い思いをさせたくない、というだけだった。
 ルイズの大きな眼から涙が零れ落ちる。
 才人はやさしく彼女を抱きしめ、鎧で覆われたその心を包み込んだ。


*****


A.D. 6104 ルイズ・フランソワーズ

 いよいよ明日は使い魔召喚の儀式だ。
 正直に書くと、わたしは怖い。
 どのような使い魔が召喚されるのか、ひょっとしてシャルル殿下が召喚したような極めて異様なモノが来るかも。
 だけど姫さまのご期待に応えるためにもがんばらなければ。
 今日はもう寝よう。

**

 結論から書こう、わたしは成功した。
 天候は最悪だったというのにわたしの気分は晴れ晴れとしていた。
 けれど、今では暗澹たる思いで日記を書いている。

 召喚されたのは奇妙な服装の平民だった。
 見たこともない衣装からは出身地がつかめない。ちょっとだけ警戒しながらコントラクト・サーヴァントを行う。
 熱さにのた打ち回る彼の左手には“ガンダールヴ”のルーンが浮かんできたの!

 思わず飛び跳ねそうになった。
 これでわたしが虚無であるという第二の確証ができた。
 来るべき日への備えができたともいえる。
 ミスタ・コルベールに言って彼を鍛えてもらわないと。

 でも浮かれていたのはそこまでだった。彼の話を聞けば聞くほど落ち込むしかない。
 わたしが召喚した平民、サイト・ヒラガは争いも何もないところから来たという。
 それどころか魔法を見たこともないというのだ。
 詳しく聞いてみると彼はそもそもハルケギニアではなく「チキュウ」という星に住んでいたらしい。
 そこではカガクが発展していて魔法を使わずとも色々できる、とか。
 半信半疑だったけどのーとぱそこんとかいうキカイを見て確信した。

 そして同時に後悔した。
 この哀れな異星の平民を、サイトを恐るべき輩との戦いに投じなければならない。
 本来ならハルケギニアに住む、もっと言えば始祖ブリミルの血をひく貴族の使命に彼を巻き込むなんて。
 わたしは召喚の儀式を軽く考えていたのだ。思わず涙がこぼれそうになった。
 わたしが泣きそうになっているというのに彼はのんきな顔で「大変なことになったなあ」なんてぼやいている。

 何も知らない彼が可哀そうで、そんな彼に戦いを強いなければならない自分が情けなくて。
 今思い返せば余計に辛くなってくる。
 それでもサイトが“ガンダールヴ”として召喚された以上、わたしたちはその力を利用するしかない。
 彼が気分を害さないよう最大限の、なおかつ周囲が不自然に思わない程度の配慮をしないと。
 朝食は使用人と一緒に、寝床はソファーを自室に運び入れさせた。
 とりあえずハルケギニアでの最低限のマナーを教えて今日は眠ろう。

**

 二日目にして我が使い魔は色々とやらかしてくれた。
 理性的かと思いきや何も考えていないのか、彼が全然わからない。
 ただ、少し彼の気遣いが嬉しくもあった。
 看病するから今日はこれでおしまい!

**

 サイトは目覚めない。
 怪我自体は治っているから心配ないみたいだけど……。
 心が拒否すれば戻ってこないこともありうる、なんてことを聞いたことがある。
 彼からすれば当然かもしれない。

**

 今日もサイトは目覚めない。
 本当に彼の心がハルケギニアを拒絶しているのかもしれない。
 看病しながら目覚めを待つしかない。

**

 今日もダメ。
 お願い、目覚めてよ。
 もう利用するだなんて考えないから、おねがい……。

**

 サイトが目を覚ました!
 こっちがあれだけ心配していたのにけろっとした顔で「おはよう」なんて。
 一瞬殴りたくなってしまった。
 けれど、嬉しくて嬉しくて彼の目の前でわんわん子どもみたいに泣いちゃった。
 そして彼の境遇を思って、また泣いてしまった。
 サイトは優しい。その優しさにもう一回泣かされたほどだ。
 そんな彼を残酷な戦いに導かなければならないなんて。
 始祖ブリミル様、彼をお導きください。

 願わくば、サイト・ヒラガに祝福を。



[29710] シエスタにお昼寝を
Name: 義雄◆285086aa ID:b6606328
Date: 2012/06/19 21:17
シエスタにお昼寝を



A.D. 6014 タルブ村のシエスタ


 春になったから日記帳を新調しちゃいました!
 今年は何かすごいことが起きそうな予感がするんです、しちゃうんです。
 だから日記も気合入れて書いちゃうんだから。
 でも今日は普段通りの一日でした。
 明日は使い魔召喚の日だから搬入が忙しそうだなあ。

**

 今日はいつもの使い魔召喚と違いました。
 なんと、魔法は使えないけど平民には優しいミス・ヴァリエールが平民の使い魔さんを召喚しちゃったんです!
 使用人仲間ではそのことで持ち切り。特にみんな不思議がっていたのが、ミス・ヴァリエールがむしろ嬉しそうにしていたこと。
 普通の貴族様だったら「平民の使い魔なんてー!!」って怒るのに。
 やっぱりミス・ヴァリエールはどこか変わってらっしゃります。

 あとは、ミス・ロシュフォールがすごいのを召喚したとも聞きました。
 すごいのってなんだろ。
 ドラゴンとかじゃないらしいですし、ひょっとして他の貴族様?
 謎です。

**

 もうびっくりです。
 ありえないです。
 ふぁんたすてぃっくです。

 ミス・ヴァリエールはなんて人を召喚したんでしょうか。
 サイトさん(ミス・ヴァリエールの使い魔さんの名前)はなんというか、奥ゆかしい人でした。
 どうにも一歩引いているところがあるような、笑顔でごまかすような、不思議な人。
 話を聞いていると魔法も知らなかったとか。
 貴族様が周りにいなかったんですかね、よくわかりません。
 少しひいおじいちゃんの話に似ているとは思いました。

 で、ですね。
 すごいんですよサイトさんは!
 なんと、貴族様と決闘して勝っちゃったんです!!
 え、ありえない。なにこれ。現実?
 メイジ殺しなんていう物騒な人がいるのは知ってましたけど、サイトさんはそんな人には見えないし。
 最初は見ているのが辛くなるくらい殴られていたのに、剣を握った瞬間動きががらりと変わっちゃいました。
 あっという間に青銅のゴーレムを、これまた青銅の剣でずんばらりんと切り倒しちゃいました。
 終わったらがっくり倒れて今はミス・ヴァリエールが必死に看病しています。
 ミス・ヴァリエールが嬉しそうにしていた理由が少しわかった気がしました。

 そういえばミス・ロシュフォールも決闘の現場にいたんですけど、あの人もすごいですね。
 魔性の美しさというのか、そんな感じ。
 明日もがんばるぞー!

**

 サイトさんはまだ眠ったままです。
 怪我自体は治っているらしいですけど、お寝坊さんなんでしょうか?
 それも気になるんですが、厨房で問題が起きちゃいました。
 ミス・ロシュフォールの使い魔さんが牛の頭や豚の頭を盗んでいくんです。新鮮なのを調達するのも大変なのに。
 でもあの使い魔さんがすごい、っていうのはわかりました。
 見たこともない生き物なんです。そりゃハルケギニアは広いから知らない生き物だってたくさんいるんでしょうけど。
 他の貴族様の使い魔とは一線を画するというか、なんていえばいいのかわかりません。
 不気味というか、奇怪というか。
 貴族様の使い魔にこんなことを思うのは不敬かもしれませんが、おぞましい存在であるようにも感じました。

 あと臭いです。
 こっそり厨房に入ってきているつもりだろうけどバレバレです。
 臭いが料理にうつるからやめてほしいなあ。

**

 サイトさんはまだ起きない。
 丸二日も眠りっぱなしなんて、大丈夫なんでしょうか?
 昨日あたりから、気のせいかもしれませんけど不快な視線を感じるような気がします。
 自意識過剰なのかな?

**

 ミス・ヴァリエールが懸命に看病してもサイトさんは目覚めません。
 見てていたたまれない気分になってしまいます。
 貴族様とかそういうのじゃなくて、ただの泣きそうな女の子に見えました。

 あと視線の正体もわかりました。ミス・ロシュフォールの使い魔さんです。
 悪臭に気付かれないよう風下からわたしのことを見てました。目があるのかわかんないですけど。
 何か用があるのかしら?

**

 ようやくサイトさんが目覚めました!
 もう何事もなかったかのようにけろっと目覚めて、ミス・ヴァリエールはかなりひきつった顔をしてました。

 ふふふ、そしてすごいのを見ちゃいました。
 いつも通りの梟便が来たからミス・ヴァリエールの部屋にいったときです。
 ミス・ヴァリエールの目元が腫れていました。
 さらにサイトさんの胸元がぐっしょり濡れてたんです、暗い室内だからってわたしは見逃したりしませんよ?
 ミス・ヴァリエールはサイトさんの胸を借りて泣いていたに決まってます。
 ノックしたあとの間もいつもより不自然に長かったし、これは間違いありません。
 普通貴族様はどんなことがあっても使用人相手にそんなことはしません。

 ということは……ご主人様と使用人の禁断の恋です!
 よくよく考えてみればサイトさんが強いだなんてミス・ヴァリエールも知らなかったみたいだし、きっと一目ぼれに違いありません。
 すごい。こんなのを現実に見れるなんてもうワクワクが止まらない。
 メイド仲間に話したいけどダメだろうな、ああでも話したい!

 でもダメ、知られちゃうとミス・ヴァリエールにもサイトさんにも迷惑をかけちゃう。
 しばらくニヤニヤしながら見守ることにしよう。
 今夜は興奮して寝れないかも。

**

 恐ろしい光景を見てしまいました。
 昨日のミス・ヴァリエールとサイトさんのやりとりが吹っ飛ぶくらい。
 相変わらずミス・ロシュフォールの使い魔さんは厨房に忍び込んでは頭部を持っていきます。
 ただ不思議なことに締め切っているはずの厨房にいつの間にか現れていつの間にか消えていくんです。

 ああ、こんなことを書いても大丈夫なのかしら!
 あの恐ろしい使い魔さんは、平民に思いもつかないような方法で厨房に忍び込んでいたんです。
 お昼の忙しさも過ぎ去った頃、部屋の隅っこから青黒い煙というか、形容できない何かが噴き出してきました。なんだろうと不思議に思いながら見てたら、どんどんあの使い魔さんのかたちになっていって……。

 あんな生き物がハルケギニアにいるはずがないわ!
 怖い、厨房のみんなに言っていいのかな。

**

 アレがなんで頭ばっかり盗んでいくのかわかった。
 脳みそをじゅるじゅると、あの太くて鋭い舌で吸い取っていたのです。
 見るもおぞましい、正直な話あんな光景見たくなかった。
 わたしもじっと観察されてる。
 たまらなく怖い。

**

 ひたひたと足音がする。振り向けば全身から気味の悪い液体を滴らせながらアレがいる。
 思わず学院の聖堂にかけこんだ。
 これからは毎日始祖ブリミル様にお祈りしよう。今まで不信心でごめんなさい。心の底から祈りを捧げます。

**

 どうやら聖堂の中にまでアレは入れないようだ。
 流石は始祖ブリミル様です。
 でも仕事をサボるわけにもいかないし、どうすればいいんだろう。
 同僚に聞いてもアレを頻繁に見ることはないらしい。
 わたしだけがつけ狙われてる、なんで?

**

 ひょっとしてアレは、牛や豚みたいにわたしの脳みそをずるずる啜る気なんじゃ……。
 どうしよう、どうしよう、どうしよう。
 ミス・ロシュフォールに言っても平民の命なんてきっと気にもしないだろうし。
 誰か助けてください。お願い、サイトさん、始祖ブリミル様。

**

 思い切ってサイトさんに相談してみました。
 彼ほど強い人ならなんとかしてくれるかもしれないって。
 そしたら、できる限り一緒にいてくれるらしいです。
 よかった。
 安心して涙が出ちゃいました。

**

 サイトさんが一緒にいててもアレはわたしの傍にいます。
 「追い払おうか?」なんてサイトさんが聞いてきましたけど貴族様の使い魔相手にそんなことすれば何が起きるかわかりません。
 使用人仲間に聞いてみればミス・ロシュフォールは他の貴族様とはどこか違う、違いすぎるらしいですし。
 伯爵家のご令嬢だから取り巻きの貴族様もいるらしいですけど、目つきがヤバいらしいです。

 だけど一緒にいてくれる人がいるだけでこんな心強いなんて思いませんでした。
 半端ない安心感です。
 男の人というか、サイトさんはすごく頼もしいです。

**

 明日はフリッグの舞踏会だから大忙しでした。
 食材の搬入とかで人の出入りが多かったせいか変な噂話も耳にしました。
 アルビオンが大変らしいです。
 「ニャルらとホップを愛でる会」だか「ニャル様とホップを崇める会」だか「ナイアルラトホテップ教団」だか知りませんけど色々やっているらしいです。
 どれが正式名称なんでしょう。

 あとわたしは重大な思い違いをしているのかもしれません。
 ミス・ヴァリエールはサイトさんにこれといった仕事を課していないらしく、色々と手伝ってくれました。
 ただその時、ミス・ロシュフォールがふらっと現れたんです。
 背筋が凍るかと思いました。ミス・ロシュフォールはわたしたちを見ると、ぞっとするような笑顔を浮かべたんです。

 何と言えばいいんでしょうか。
 邪悪な期待を秘めたような、見るものに恐怖を与えるような、そんな笑み。
 アレはわたしを食べようとしているんじゃなくって、ミス・ロシュフォールの下に連れ去ろうとしてたんじゃ……。
 彼女がわたしに何をしようかなんて、思いもつかない。想像するだけでも耐えがたい妖術の儀式の生贄にしようとしているんじゃないのか。
 サイトさんがいてくれたおかげで忘れかけていた恐怖が心の奥底から染み出してきました。

 その時、何を思ったのかサイトさんはミス・ロシュフォールの視線からわたしをかばうようにしてくれたんです。
 大きな背中でした。
 ミス・ロシュフォールは何をするでもなく立ち去ったんですけど、そのあとサイトさんが振り向いて「大丈夫?」なんて笑顔で聞いてくれて。
 だめ、これ以上はだめ。
 わたしは二人を応援しようと思ってたのに、サイトさんに惚れちゃいそう。

 あ、あと最後に一つ。
 ミスタ・コルベールの娘さん、アニエスさんが帰ってくるらしいです。サイトさんとどっちが強いか、なんて厨房内ではその話で持ち切り。
 きっとサイトさんの方が強いと思うけどなあ。



*****



メアリー・スーに恩恵を



 おっはー、俺の名前はメアリー・スー・コンスタンス・ド・ロシュフォール。
 トリステイン王国のロシュフォール伯爵家長女だ。
 神様の力で皆おなじみ「ゼロの使い魔」の世界に転生した元男、現女の子なんだ。
 そういや今の俺、ルイズとかなり体型近いんだ、身長と胸囲的な意味で……。
 ま、いいや。

 たまには俺の主人公らしい魔法学院ライフの様子でも紹介しようかな。
 え、んなもんいらないって?

 ……いけ、ドン松!!



 朝、目覚ましやらメイドやらの助けを得ずに俺は目覚める。
 ハルケギニアに来てから夜型になったのか、朝の日差しがちょっぴり辛いぜ。
 逆に月夜はすっげー調子がいい、犬みたいに遠吠えしたくなっちゃうくらいに。
 これもワンちゃんが飼いたい、っていう深層心理があったせいかもしんない。
 今の俺にはドンがいるからいいんだけどな!



 朝食を終えれば当然学生だから授業だ。

 意外なことに魔法の授業は面白い。
 なんかアレなんだよ、日本の授業みたいにかっちりしてないからかな。
 結局のところ「考えるな、感じろ」というところに落ち着くからかもしれない。

 面白いんだがよく路線もずれるんだよな。
 それがコルベール先生みたく面白い人もいれば自慢に終始する先生もいてさ。

 あ、も一つ意外なことにギトー先生の雑談超面白い。言いたいことは「風最強!」なんだけど擬音語使いまくりで。
 「その時私はずしゃーっと敵を切り裂いて」とか「もりもり精神力が湧き上がってぶるんぶるん杖を振るった」とか。
 聞いててニヤニヤできるわ。

 まあつまらん雑談の時はドンの視界共有で色々見て回ってる。
 臭いって苦情が来たから教室に入れられんのだよね……可愛いのに。

 最近のマイブームはシエスタの観察。
 メイドをじろじろ見てたら怪しまれる、と一年の時は自重してたんだが使い魔ならメイド見てもおかしくないよね!
 あの「脱いだらスゴイんです」の下を想像しながら、やっぱりメイド服は萌えるなあ、なんて考えながらドンと視覚共有。
 授業中だというのにハァハァしちゃうぜ。
 たまに鼻血を抑えるために本気で顔面に力を入れるのはお約束さ。



 昼食が終わればティータイムだ。
 魔法学院はゆとり教育の極みですごいゆったりしてる。
 現代人感覚からすれば学校というより遊びで勉強してるようなもんだ。

 まあティータイムは固定メンバーとお喋りに興じてるね。
 俺がいるチームは中々変わってるんだよ。
 このくらい歳の貴族連中は大体同性だったり、派閥みたいなので固まっているんだが、俺のとこだけ不思議とそんな垣根がない。
 すんごいバラバラで男も女も上級生も下級生も、実家の文献読む限り敵対してたんじゃ?ってヤツらまでいる。

 十名くらいでのんびり他愛もない話に興じている。
 月がどうたらこうたらとか星座がなんたらかんたらみたいな話とか、たまに政治的な話もするかな。
 最近は降臨祭の話もしたなあ、クリスマスに友だちとバカ騒ぎとか懐かしいぜ。
 こいつらは良いヤツみたいで、なんか目が純粋なんだよな。
 他の貴族みたいに濁ってない感じ、キラキラしてておじさんには眩しいよ。
 正直精神年齢は変わってないからおじさん言うには早い気がしなくもないけど。



 午後の授業が終わればあとは自由時間、何をしても許されるってもんさ。
 ごめん、ウソだ。さすがにそれはない。
 ドンと遊んだりチームで遊んだり図書館にこもったりかな。
 俺は普段クール系おらおら美少女(?)で通っている。
 そのせいかドンとじゃれていると周りの視線が痛いような気がするんだ……。
 いいじゃないか、こんな可愛いワンちゃんと遊んでたって。
 チームの奴らは例のごとくキラキラと少女マンガみたいな瞳で俺たちを見守ってくれる。
 触りたければ触っていいんだよ?
 一度言ってみたけど他人の使い魔に触るのはよくないのかな、やんわり断られちった。
 きっとコイツらも実家に帰れば犬を飼いたくなるに違いない。
 それまで精々羨ましそうに見ておくがいいさ!



 あっと、今日はそれと普段と違う光景を偶然この目で見た。
 シエスタと才人が和気藹々としながらお仕事に励んでいたんだ。
 もーなんか原作そのままな感じで思わず顔面崩壊しちまった。
 でもシエスタに気付かれて、雑談を怒られるとでも思ったのかな、すごい怯えた顔になった。
 そこからですよ更なるニヤニヤポイントは。
 才人が一歩出てシエスタをかばったんですよ。
 「悪いのは俺だ、怒ったり罰を与えるなら俺にしろ!」と言わんばかりの表情で。

 すごい、カッコいい。
 何この主人公っぷり、男なのに惚れちゃいそうだぜ。あ、今の俺女だった。

 ここだけの話、俺は才人をすごく高評価してる。
 考えてみてくれよ、惚れた女のために、好きだって言葉一つのために七万の軍勢に単騎駆けだぜ?
 そんな主人公ここ最近見かけねえよ、パネェよマジで。普段はスケベ犬だけど。

 とまあ熱血主人公の片鱗を見せてもらったから大満足。
 そのまま何事もなく通り過ぎた。
 その時耳に入った「大丈夫?」って声がすっげー優しくってさ。
 こりゃ才人モテテも仕方ねえわ、って思った。



 夜は聖堂で形だけのお祈りをする。
 なんつーか、昼間はちょこちょこ人がいるからあんま好きじゃないんだよね。
 ドンは基本的に聖堂の外でお留守番。
 あんまり雰囲気が好きじゃないのかな?
 まあドンはいくら洗っても汗っかきなのかぼたぼた汁を垂らしてるから、掃除の人も大変だろうしいいんだけど。
 それで俺の一日は大体おしまい。
 たまにヴェストリの広場で双月を見ながらワインを楽しんだり、自室に差し込む月明かりを愛でたり風流なこともするけどね。
 あーなんっちゅーかアレだよアレ。
 忙しい現代社会に比べるとすごく時間がゆったりしてていいねハルケギニア。
 君も一度転生してくればその良さがわかるよ。

 神様も親切だし、検討してみてくださいな。



[29710] アニエス・コルベールに静養を
Name: 義雄◆285086aa ID:b6606328
Date: 2012/06/19 21:17
アニエス・コルベールに静養を



A.D. 6104 アニエス・シュヴァリエ・ド・コルベール・ド・ダングルテール

 明後日で最後かと思えば一面の海にも感傷を覚えてしまう。
 私の生まれ故郷も海辺の寒村だから、潮風に何か呼び起されるものがあるのかもしれない。
 アディールでの三年間は確実に私を成長させてくれた。
 この力で父と並び立ち戦うことができるか、それはまだ未知数だ。学べば学ぶほどにおそるべき輩の強大さに慄き、鍛えれば鍛えるほどにその凄まじいまでの力量差を感じてしまう。
 今はただ牙を研ぐのみ。

**

 最後の夜、ルクシャナとアリィー、そして偶然帰郷していたビダーシャル殿が宴席を設けてくれた。
 ルクシャナは文句を言いながらも何かと私に話しかけてくれた得がたき友人だ。トリステインに戻っても手紙を書くと約束した。
 アリィーと私の仲は、まさに切磋琢磨というのがふさわしいだろう。お互い鍛錬を忘れぬよう誓い合った。
 この二人は婚約者で、見ていると少し寂しくなってしまう。

 だがいい。
 祝福の子たる私の使命は重い。家族に恵まれただけでも十分だ。うん……十分なんだ。
 ビダーシャル殿はアディールでも上等な店で奢ってくれた。「何があってもくじけぬよう」との助言を頂いた。
 三年間、辛く苦しいときもあったがアディールに来てよかった。

**

 早朝にも係わらずルクシャナ、アリィー、ビダーシャル殿が見送りに来てくれた。
 若干涙ぐんでしまう。

 しかし、いざ出立しようとしたとき一匹の鷹が降り立った。見覚えがある、というよりも父の鷹だ。脚にくくつりつけられた手紙に素早く目を通し、さっと体温が下がるのを感じた。
 無言でビダーシャル殿に手渡すが、彼も渋い顔だ。

 この特徴は間違いない、ティンダロスの猟犬だ。
 まさか地獄の深淵で常に飢えているような獣を召喚するとは。それどころか召喚者、ロシュフォールの娘は完全に支配下に置いているらしい。
 ありえない。
 手紙を読んだビダーシャル殿も顔を青ざめさせている。
 とにかく牛や豚の頭部の発注数を密かに増やすほか、犠牲者を出さない手段はない。取り急ぎその場で返事を書いた。
 他の使用人には知らせてはならないということも、普通の平民がはっきりと認識してしまえば狂気に陥ることも。

 鷹に託そうとして、もう一通の手紙に気付く。
 こちらは朗報だった。ミス・ヴァリエールが“ガンダールヴ”の召喚に成功したとのことだ。
 足場が崩れるような絶望感から多少持ち直した。例え猟犬が相手でも、多数のメイジと“ガンダールヴ”、それに父とオールド・オスマンがいれば撃退も可能だろう。

 だが、これは異常事態だ。今年確実に何かが起きる。
 ビダーシャル殿どころかルクシャナもアリィーも同じ意見で、早急に老評議会に報告するようだ。シャイターン対策委員会副委員長としてやらねばならぬことがこの瞬間一気に増えたのだろう。平素の表情が読みにくい顔ではなく、未来を案じる真剣な顔になっていた。
 私も馬車で帰還するつもりだったが取りやめだ。非常に高くつくが、竜籠で急ぎトリステインに戻る。
 今夜はリュティスで宿泊した。

**

 三年ぶりのトリスタニアだ、非常に懐かしい。
 エルフ領との違いから逆にとまどうこともあるくらいだ。人の多さに数年前まで通っていたリュティスを思い出した。あのワガママ姫は元気だろうか。
 一刻も早く学院に向かいたかったが、ここで万全の支度を整えることにした。サン・フォルサテ大聖堂で祝福を受けた剣、銀の銃弾、目の細かい頑丈なチェインベスト。鍛えた甲斐あってこの程度なら問題なく動ける。

 それらを装着したまま懐かしい場所を訪れた。魅惑の妖精亭だ。
 三年もたっていれば当然人も入れ替わる。特にスカロンさんの一人娘、ジェシカはよく気の利く愛されるべき少女になっていた。これはチップもとりたい放題だろう。
 時折立ち止まっては私とお喋りするジェシカ、そんな彼女の肩を大きな手が掴んだ。暴漢か、と思い剣を抜こうとした瞬間、顔を見て脱力した。
 メンヌヴィルおじさんだったのだ。この人は相変わらずだ。

 二階の個室に通してもらってお互いの近況と魔法学院について話し合う。
 どうやら姫殿下が虚無の主従を召喚したがっており、明日の舞踏会に乗じてそれを行うつもりらしい。
 明日の昼ごろ、鋭角をなくした丸い馬車で魔法学院へ向かう。途中でメンヌヴィルさんが降りて別ルートから様子を伺う。

 討てそうなら猟犬を討ち、無理ならばメンヌヴィルさんは即刻退避。舞踏会ならアディールで仕立てたドレスを着れば私も自然に溶け込めるだろう。
 ……少し自分の年齢に悲しくなった。
 明日に備えて寝る。

**

 トンでもない化け物だ、なんだアレは。

 まず私は父の研究室に向かった。再会の挨拶もそこそこに、耳や目がないことを確認してから手筈を話す。
 問題がないことを確かめ、次に厨房へ向かった。
 厨房の皆は三年間もトリステインを離れていた私を暖かく迎えてくれる。正気を失ったものはいないようで一安心だ。十五の頃から働いているシエスタも女らしくなったものだ。

 そんな中キョトンととぼけた見慣れない顔。話を聞けばミス・ヴァリエールの召喚した使い魔だという。
 なんとも頼りない顔の“ガンダールヴ”だ、とは思ったが何事も見た目で判断してはいけない。
 青銅の剣で七体の青銅ゴーレムをぶった切ったと聞いたときはたまげた。そんな芸当化け物じみた傭兵にもできない。腐っても“ガンダールヴ”ということか。

 厨房を離れて今度は猟犬を探す。風向きに注意しながら臭いをかげばすぐにわかる。
 見つけた。
 過去に猛威を振るった個体と比べてかなり小さい、アレらにそういう概念があるのかは不明だが、どうやら子犬だ。しかしその威圧感たるや並のものではない。

 慎重に機会を狙っている内に夜が近づいてきた。
 舞踏会も近いので仕方なくドレスに着替える。そろそろミス・ヴァリエールたちも手筈通り馬車に乗っていることだろう、と窓の外を眺めた。
 全身の血が流れ出て崩れ落ちるかのような感覚。猟犬が今まさに彼らが乗り込もうとしている馬車を見ているのだ。
 まるでお前たちの目論見など看過している、と言わんばかりに。
 考えすぎかもしれないが、これは危険すぎる。今は無理だ。
 メンヌヴィルさんに連絡する手段はない、彼が先走らないことを祈るしかできない。

 舞踏会がはじまる。
 私は壁の花に徹した。生徒も私のような部外者になど注目しないだろう。
 そう思っていたのだ。
 視線を感じた。ぞわり、と胸元を虫が這い回るような嫌悪感、気持ち悪さを感じた。
 気取られないよう会場を観察すると、私を見ている生徒がわかった。
 病的なほど透き通るような白さの肌に絹糸のような白い髪の毛、そして赤い瞳。手紙で聞いていた生徒、悪臭をまき散らす不浄な猟犬の飼い主、ミス・ロシュフォールだ。

 最初は部外者を見ているのかと思っていたが違う。
 明らかに観察している。私の心の奥底を見透かそうとする目が、体中をまさぐろうとする視線が例えようもなくおぞましい。そして私は見てしまった、彼女の右目が青く染まる瞬間を。
 息が詰まるかと思った。
 竜のような細く黒い瞳孔に恐怖した。
 その表情は名状しがたく、狂気じみた笑顔であるよう感じられた。それに気づいた父が私をかばうかのように、彼女にダンスを申し出た。この事態を予想していたのか、他の教員と違って父はタキシードを着ていたのだ。

 父の気遣いがありがたかった。かなり鍛えたと思っていたが未だ未熟。その父ですら長期間彼女と接することは難しいらしく、途中で極度の疲労感から崩れ落ちてしまった。
 ミス・ロシュフォールが手を差し出すが、それが冥界からの誘いのように感じられた。
 結局、父は手助けを得ることなく起き上がり私の下へ戻ってきた。

「大丈夫ですか?」
「ああ、なんとか……しかし凄まじい」

 父は汗でびっしょりだった。
 ちらりとミス・ロシュフォールを見れば違う相手と踊っている。
 彼女のダンス相手の瞳は遥か星海の彼方よりも昏く、なかば正気を失いつつあるように思えた。
 しかし今の私たちには力が足りない、彼らを助けることはできない。歯を食いしばって、父に肩を貸しながらダンスホールを後にするしかなかった。




*****



メアリー・スーに幸せを



 ちょりーっす、俺の名前はメアリー・スー・コンスタンス・ド・ロシュフォール。
 トリステイン王国のロシュフォール伯爵家長女だ。
 神様の力で皆おなじみ「ゼロの使い魔」の世界に転生した元男、現女の子なんだ。
 俺の今の体のチャームポイントはずばり、脚だね、すらっとした脚。べ、別に貧しい体型とかそんなんじゃないんだからっ!
 ま、いいや。

 前に忙しい現代社会に比べるとすごく時間がゆったりしてていいって言ったじゃない?
 やっぱアレ撤回するわ。
 貴族めんどくさい、なんか色々と事情があるんだねみんなの話を聞いてると。いや、俺は父上が親バカでよかった。



 さて、本日はフリッグの舞踏会。
 昨日フーケ来ると思ってたのに、どういうことなんだ? マチルダさん「ミス・ロングビルですから」なんて顔しちゃって!
 どんな顔だって?
 クール気味なドヤ顔だと思ってくれればいいよ。
 人によっては微笑にとれるかもしれんが、俺は騙されんぞ! 「これだからお子様体型は」なんて心の中で嘲笑っているに違いない、そうに決まっている!
 ドレス姿をじっくりねっとりなぶるように見つめてやるから覚悟しとけ!

 いや別に貧乳でいいんだけどね。だって男の感覚残ってるんだぜ?
 走るたびにぶるんぶるん揺れたら気持ち悪いじゃないか。今でも股間がスースーしてるのに慣れないというのに。

 おっと女性読者が見てたら悪かったな。ま、体は女、心は男ってことで許してくれ。
 あといつの時代だって男子高校生はエロいことばっか考えてるってこともな!
 それはさておきマチルダさんだよ。ダメだ、マチルダさんだとなんか違うキャラみたいに聞こえてしまう。やっぱりフーケさんだな。
 そう、フーケさんなんで泥棒しないの?
 あ、ああ! そっか!! ルイズの爆発でヒビいったからやろうと思ったんだっけ。
 確かそんな気がする。今の性格じゃルイズもやらかさないだろうしなあ、昨日なんて才人トリスタニアに行かずシエスタ手伝ってたし。
 てかお前使い魔だろ。ルイズは寂しがりだからもっとそばにいてやれよ! そして俺をニヤニヤさせてくれよ!!
 まったく、俺の親愛なる使い魔、ドン松五郎を見習ってほしいぜ。
 一応魔法学院の宝物庫見に来たけど、こりゃ無理だね。実はつい昨日スクウェアになった俺でも無理だ。

 え?
 スクウェアになれた理由?
 ……才人とシエスタのニヤニヤで感情が振り切れたせいかな。
 レモンちゃんとかこの目で見たらペンタゴンやらヘキサゴンまでいけそうだぜ。



 るんたったーるんたー
 るんたったーるんたー
 なーんてリズムで踊ってみたり。

 フリッグの舞踏会は新入生に配慮してか、少しお気楽なんだよね。
 別に女同士が踊っていようと問題なしっつーか。
 とりあえずこっちはいつも一緒にいるチームのヤツらと踊ったよ。いつもキラキラしてる眼がダンスの時はもーヤバいくらいになってて「大丈夫?」って思わず聞きそうになった。
 なんか、俺にカリスマでも感じてるのか? そんな素敵能力神様にお願いしてないんだがなあ。
 ひょっとして転生で俺の隠された能力がッ!
 ……んなこたねーか。

 意外なことは三つあったんだ。
 一つはコルベール先生にダンスを申し込まれたこと。
 いやびっくりした。ふつー教師が生徒に申し込むはずないんだよ。そんなこと許されたら毎年オスマン無双になっちまうぜ。
 でもほかの先生方は何にも言わない、いいのかそれで?
 俺伯爵家の長女だよ?
 ていうかキュルケ誘えよ。
 このころのキュルケはコルベール先生を臆病者ってバカにしてたか。
 アレかな、俺が魅力的過ぎたのか?
 いやー罪なオ・ン・ナ♪
 その魅力にやられたのか、コルベール先生はダンス中ころんじゃったんだけどな。よっぽど恥ずかしかったのか手を貸そうとしても断られたほどだ。
 汗で後頭部まで侵食した地肌がてらてら輝いてたし、ホールが暑かったのかもしれない。確かにあの人正装になれてなさそうだしなあ。
 タキシード姿カッコよくて、思わず「誰!?」って叫びそうになったけど。

 次の一つ。
 お前ら絶対驚くと思うよ。
 そう、アニエスさんがいたんだ!
 おいおいおい、原作どこ行ったよなんて思ったんだが、問題ない。
 あの人のドレス姿、超やっばい。鍛えてるからかスタイルも超絶いいし、背筋がしゃんとして凛々しい。
 男装の麗人なんて言葉はよくあるさ、ヅカって感じの。いやドレス姿であそこまでカッコいい人見たことないわ。
 さらに俺はつつましい、肌の露出があんまりない黒いドレスを着てたんだが、アニエスさんは違う。もう肩とか丸出し、胸もがんばったら見えるんじゃない? ってレベル。
 久々に眼福ですよこれは。思わず身を乗り出しちゃったね。
 鼻血出そうでヤバかった、まあ俺の顔面筋肉さえあれば鼻血なんて抑えられるけどな。
 てか平民ってこの舞踏会に参加していいのか?
 まあいいか、アニエスさんその内シュヴァリエもらうし、カッコいいし。

 三つ目、ルイズと才人いないの。
 ちょぉぉぉぉおおおおおお!! って感じ。
 舞踏会はじまる前にいないないないな、と思って探してドンの視界共有まで使ったら二人して馬車に乗り込んでるの。
 え、駆け落ち? 愛の逃避行ですか、そうですか。
 なんだよ才人め馬車に先に乗ってルイズに手を貸しちゃったりして。
 英国紳士気取りですかァ!?
 ニヤニヤできたからいいんだけど。まあ二人はその丸い馬車(シンデレラのかぼちゃの馬車みたいだった)に乗ってトリスタニアの方に行った。
 どこ行く気だったんだろ、てか公爵家三女が学校行事サボっていいのかよおい。
 まあ舞踏会はそんな感じで概ね楽しかったよ。

 ただ気になったのは、そうだなあ。
 去年食った子牛の脳みそ料理、ゲテモノだけど美味かったのに最近見ないの。マルトーさんに言ったら用意してくれるかなあ。




[29710] ミス・ロングビルに安全を
Name: 義雄◆285086aa ID:b6606328
Date: 2012/06/22 21:57
ミス・ロングビルに安全を


A.D. 6104 マチルダ・オブ・サウスゴーダ

 今年もまた新しい学生が入ってくる。
 瞳は希望に輝きこれからの三年間何が起きるかわくわくしているに違いない。
 彼ら彼女らを見るたび故郷アルビオンを、もっと言えばティファニア姫のことを思い出す。あの心優しい少女は元気にしているだろうか。
 トリステイン魔法学院でオールド・オスマン付きの秘書になってから三年、なかなかアルビオンに戻る機会は得られない。
 学院の仕事はやり甲斐もあるが、非常に忙しい。でもアルビオンの情勢もきな臭いから気を付けなければならない。
 いざとなればトリステイン王室とオールド・オスマンに救援要請を行わなければ。

 でも水キセルはダメです。
 あとセクハラもダメです。

**

 昨年からだが、オールド・オスマンはどこか疲弊されているように見える。
 私は現状一介の秘書に過ぎない。彼がこぼさない限り何故かを知る権利はないのだ。
 だが世の中が良くない方向に加速しているようにも思え、彼の疲労がいざというとき決定的なナニかを引き起こすのでは、という懸念もある。
 イヤイヤだけど肩もみをしてあげましょう。あとマルトー料理長に言って軽めの料理に。
 でもやっぱり水キセルとセクハラはダメです。

**

 いよいよアルビオンが危ない。
 ナイアルラトホテップ教団はどこまであの美しい大陸を蝕めば気が済むのだろうか。
 オールド・オスマンを通じて王室へ救援要請を出す。近いうちに私自身もアルビオンへ向かう必要があるだろう。
 仕事を済ませて、引き継ぎも行わねばならない。

**

 フリッグの舞踏会にあわせてミス・ヴァリエールが王城へ向かった。
 おそらくアルビオンの件だろう。そのくらい重要なことでなければ彼女の性格からして学校行事を欠席しないからだ。

 さて、その舞踏会だが奇妙で気味の悪い出来事があった。
 見られているのだ。
 私はトリステインとアルビオンとの密約により、公的には貴族の籍を捨てたものとされている。
 そんな女に目をやる物好きな貴族はあまりいない。

 だが見られているのだ。
 慎重に視線を探ると、いた。真っ白な髪に黒いドレス、ロシュフォール伯爵家の長女、ミス・ロシュフォールだ。
 彼女は不思議なことに私を見つめている。
 次の瞬間、全身に鳥肌が立つかと思った。
 視線の質が如実に変わった。何でこいつが、という訝しげな視線から女体を舐め回すような、下卑た視線。彼女以外に私を見ているものはいない。
 何故?
 なぶるようなその目つきに凄まじい悪寒が全身を襲い、座り込んでしまうかと思った。
 女性ができる眼ではない、もっと違う何かが、彼女の内に何かが潜んでいるような、そんな感じがした。

 そしてオールド・オスマンの険しい顔。
 じっとミス・ロシュフォールを観察しているようにも見えた。
 ミスタ・コルベールもあり得ないことに彼女にダンスを申し込んだのだ。
 しばらく踊っていると足をもつれさせてこけていたが、傍目からは緊張してというよりも疲労して、という印象を受けた。

**

 なんということだろうか!
 信じたくない、信じられない情報が入った。例のごとく虚無の曜日に城下で落ち合った人物から聞かされた。
 教団によってモード大公領が落ちた。
 さらに間一髪ニューカッスル城に落ちのびたらしいティファニアを除いて、モード大公の縁者は家臣も含めすべて討たれたということだ。

 なんてことだ、ありえない。

 父上、母上。私がその場にいればどうにかできたかもしれないのに。
 後悔しかできない。

**

 ミス・ヴァリエールから話が来た。
 来週アルビオンに向かう。旅支度と引き継ぎを終えねばならない。

 三年間、魔法学院にはお世話になった。
 最後の奉公と思いがんばろう。



*****



 静謐な王宮にはほとんど人の気配が感じられない。
 白亜の宮廷で働くメイドたちは物音一つたてず動くことができる、というのもあるが現実に人が少ないからだろう。
 そして最も警戒を密にすべき場所、王女の私室に才人とルイズは呼び出されていた。

「ルイズ・フランソワーズ。貴女にトリステイン王国王女として命令を下します」
「はっ」

 片膝をついたルイズの横で才人は混乱していた。
 先ほどまでこの二人はじゃれあっていた、ただの幼馴染に見えた。
 だというのに空気が一変して、ここにあるのは王女とその家臣になっている。
 とりあえず彼はルイズのマネをして片膝をついた。
 限界まで引き絞られた弓のように、場の雰囲気は張りつめていた。

「今から十日後、アルビオンに向かいティファニア公女、ウェールズ皇太子を亡命させなさい」
「謹んで拝命いたします」
「情勢は逼迫していますが急いで事を起こすと敵に気取られます。十日後の明朝、マザリーニとリッシュモンから信頼篤い衛士を護衛としてつけます。学院に潜伏しているロングビルと共に可能な限り早くアルビオンへ」

 なんだか大変そうなことになった。
 才人は誰に言うでもなく心の中でそう呟いた。



[29710] アルビオンに鎮魂を
Name: 義雄◆285086aa ID:b6606328
Date: 2012/06/19 21:18
メアリー・スーに讃美歌を



 よお、俺の名前はメアリー・スー・コンスタンス・ド・ロシュフォール。
 トリステイン王国のロシュフォール伯爵家長女だ。
 神様の力で皆おなじみ「ゼロの使い魔」の世界に転生した元男、現女の子なんだ。
 今の俺は見た目アルビノだから、黒い服を着るとキュッと引き締まるんだよ。
 白いローブとか身に纏えばマジ雪ん子。
 いや、その場合藁のかぶるヤツ、蓑だっけ? アレの方がそれっぽいな。
 日本の雪山に出てきそうな感じ。
 ま、いいや。

 最近“遍在”を習得したぜ。だけどもうこれが難しくて、一体維持するのでいっぱいいっぱい。
 それ考えるとワルドパネェ、髭ロリコンのくせに。
 カリン様なんてヤバすぎ、あの人たちホントは神様から能力もらってるんじゃね?

 それにしても、なんか全く同じ顔の人間が存在するのは変な感じだな。
 いや、しかしアレだ。鏡なんかで見るより俺超絶美少女!
 ルイズにも勝てるんじゃねコレ?



 みんな、大変だ。
 すんごい大変なんだ。
 具体的に言うとアルビオン行きが決まった。
 むしろ決められたというか。

 そろそろ起きるか―って感じですぅっと意識が覚醒しそうな瞬間あるだろ?
 丁度その時ノックの音でぴくっと目が覚めたんだよ。
 誰だよこんな時間に、と思ったら髭ロリコンことワルドさん。
 え、姫さま来訪してないじゃん。
 それに俺ナニかしたっけ? と思ってたらとっとと旅支度を整えろとのこと。

 意味わかんないけど大急ぎで準備して外に出れば「いざ、アルビオン!」だって。
 なんでさ!?
 まあ原作に介入するかどうか悩んでたから丁度いいと言えばいいんだろうけど。
 不思議なことにギーシュがいなくてフーケさんがいる。
 そんなこんなで朝もやの中馬に乗って出発!

 でもルイズと髭ロリはグリフォンでした。
 くそぅ、見下しやがって。
 てか髭ロリだとロリっこに髭が生えてるみたいだな。
 髭コンだ、ワルドのことはこれから髭コンと呼んでやる。



 もう何匹目の馬だよ、って感じ。
 あんま俺動物に好かれないからそのたび大変なんだよね。
 しばらく乗っていれば大人しくなるからいいんだけど。

 で、がんばってラ・ロシェールまでやってきました。
 もう一日でこんな遠乗りしないぞ、俺はインドア派なんだ。ケツが痛くて痛くて。

 ……もう、お尻がいたくなっちゃったわ。

 うん、やっぱ俺は精神的には完全に男だな。無理無理。
 でも弓矢部隊の襲撃はなかった。
 楽だったからいいけど、対人戦の練習をしたかったんだけどなあ。



 才人カワイソス。
 原作じゃギーシュがいたけどこの一行にはいないんだよ。だから彼だけ一人部屋。
 あれ、むしろ気楽で喜んでるのか?
 でもワルドとルイズが同室になる時はすんごい複雑そうな顔してた。
 俺はフーケさんと同じ部屋さ。その綺麗な身体を舐め回すように観察してやるぜ!
 と思ったら早々に布団にくるまっちまった。

 ……俺は今、泣いていい!



 うーん、ここにきて原作通りの流れになったな。
 朝起きたらワルドvs才人のイベント。
 勿論才人は負けちまった。
 くっそ、髭コンめ。俺にもっと力があればてめーなんざぎったぎたにしてやるのに……。

 いや、これも更なるニヤニヤ展開のためだ。
 今は歯を食いしばって耐えるんだ、俺。
 この分だとワルドはレコン・キスタ? まー良くわからん組織確定だなー。
 やけに俺に優しくしてくるけど、珍しい風のスクウェアを引き込もうとしてるっぽいな。逆上して殺されないよう気をつけねば。
 フーケさんは一匹狼で探してもいませんでした。

 あ、そういえばドンを学院に置いてきたまんまだった。
 悪さしてないといいけど……。



 うむ、やっぱり原作通り。
 道中の襲撃はなかったけど傭兵部隊による夜襲が来たぜ。相手は人数が多い、しかし所詮平民。さらにフーケさんもこちらにはいるんだ。
 髭コンが陽動を提案する前に一人躍り出て魔法をお見舞いしまくってやったぜ。

 なんていうの?
 俺TSUEEEEEE!!
 ここにきて転生チート大活躍。

 まあ遍在は使わなかったけど、エア・ハンマー、ウィンド・ブレイクでぽっこぽこモグラたたきみたく近寄ってきた奴らをブッ飛ばす。
 あんまりうっとうしいヤツにはエア・カッターで片腕とおさらばしてもらったぜ。
 才人は時代補正のせいか、顔青ざめさせながら必死についてきてた。
 あー俺もなんかハルケギニアに染まっちまったのかね? 首チョンパは無理でも腕くらいならふつーに切断できるわ。
 ま、ちっとキツいんだがな。

 途中現れた白仮面こと髭コンも四人の協力プレイで一蹴さ!
 いかにスクウェアと言えどガンダとスクウェア二人、トライアングル一人の前では雑魚その一に過ぎないぜ。
 というわけで俺無双のおかげで無事に船到着。
 髭コンが風石かわりしてめでたしめでたしさ。



 うん、やっぱ原作だ。嬉しい限りだぜ。空賊の茶番劇はニヤニヤできるぜ。
 ルイズ強気だけど、若干涙目なのよ。
 少し違うな、と思ったのはウェールズ皇太子がワリとすぐ変装を解いたところかな。
 硫黄もちゃんとお金で買うって。
 そうだよな、滅びゆく王城に金あってもしゃーないしな。
 商人は王族相手だからうへぇ~って土下座してた。

 レコン・キスタじゃなくてアレ、なんだっけ?
 そうそう、「ニャル様とホップを愛でる会」だ、それになった影響かもしんないね。
 まー拘束されることもなく優雅な空の旅としゃれ込みますか。



 最後の晩餐ってのは夕焼けに通じる寂しさがあるもんだな。
 もう笑うしかない、みんな笑うしかないんだよ。それがカラ元気なのがありありとわかって、な。
 ルイズは早々に泣き出して才人と一緒に出ていっちゃった。
 俺も踊る気になんてなれないし、壁の花に徹する。
 すると髭コンが話しかけてきたんだ。明日の朝結婚式やるってさ。

 あーもう、こいつ完全クロだな。
 でもここで才人覚醒イベントをこなしておかないと後々ヤバい気がする。ここはスルーして陰ながら才人を手助けするくらいだな。
 とりあえず俺は朝一の船で脱出するから出ない、とは言っておいたさ。
 こっそり城内に潜んで何とかいい方向にもっていこう。
 その気になればフライでアルビオンから脱出! ……できるかなあ?


*****



アルビオンに鎮魂を



――なんか変だな……身体が引き寄せられるっていうか、奇妙な感じだ。

 城内に人の気配はほとんど感じられない。
 僅かに耳へ届く金属音は歩哨のものばかりで、ニューカッスル城は深い眠りについていた。

 そんな中メアリーは歩き続ける。
 何かに引き寄せられるように、芳香に誘われるように。

「あれ、ドン?」

 彼女を突き動かすのは得体のしれない勘だけではなかった。どこからか染み出るように現れた使い魔も、いつの間にやら彼女を先導するように歩いている。
 魔法学院に置いてきたはずなのに、という疑問はメアリーの脳裏によぎりもしなかった。
 相変わらずの悪臭、そしていつもより機嫌よさそうに揺れる尻尾。トコトコと微かな足音は地球の犬とほとんど変わらなかった。

――中庭か。

 ドンは廊下を歩き続け、ついにはある中庭にやってきた。
 メアリーは唐突に月を見上げたくなる。昨日はスヴェルの月夜、今日から徐々に双子の月が離れていくだろう。

 彼女は月見が好きだ。
 ロシュフォール領にいたときは、よく寝室へ差し込む月明かりを、見上げた月に映る影を、姿を変える夜の雲をワイン片手に楽しんだものだ。

――高いところだしさぞ月も大きく見えるだろうなあ。

 月光がさらさらと花壇を照らしている。
 どこか幻想的な中庭に、メアリーは足を踏み入れた。

「すご……」

 大きさは期待したほど変わらなかった。
 だが、明るさが違う。
 地表に届くまでの距離が違うせいか、夜だというのにかなりくっきりとした影が見える。
 今この瞬間妖精がワルツを踊っていても何の違和感もない、不思議な空間。
 メアリーはつい嬉しくなってその場でくるりと回ってみた。

――スカートの翻りまでばっちりだな。

 この月明かりに魅せられたのか、彼女は実に楽しげに歩き出す。
 両手は後ろ手に組んで、月の祝福を受けた花々の香を時折嗅いで庭をゆっくりと歩いて回る。
 月光を一身に浴びた白い少女を見守るのはおぞましい姿の忠実な使い魔だけ。
 この光景を絵画に閉じ込めたなら如何ほどの値がつくかわからない。
 ただこの世ならざる美しさと、儚さが混在した情景だった。

「あれ、ここ」

 メアリーは足を止める。
 目の前には大きな門、石造りの壁、やさしい夜の光に包まれてすらはっきりとわかる白い建物。

――ワルドが裏切る礼拝堂か。

 原作と今はまったく状況が違いすぎる。
 正直な話、メアリーはどうすればいいのかわからなかった。
 今までは原作には触れないよう動いてきた。しかし、自分の存在が大きく変化をもたらしているような気もして、積極的に介入したほうがいいのではないか、という疑問を抱くようになっている。

 今回のアルビオンだってワルドの行動に流されるまま従った結果に過ぎない。
 才人の手助けをしよう、とは思ったもののそれが正しいのかどうかもわからない。
 とりあえずの判断を彼女は下す。

――明日結婚式らしいし、一応下見しておくか。

 ワルド自身が言っていたことだ。
 ここはきっと原作通り戦場になるだろう。地形を把握するなり仕掛けを施すなりしておいた方が生存率は高くなる。

―――ぎぎぃぃぃいいいい―――

 古臭い教会の扉は、城内にまで響くほどの音を立てて開いた。
 あまりの大きさに彼女は少し冷や汗をかいたほどだ。

「こりゃまた……」

 ステンドグラスから差し込む月光がすべての祭具を柔らかく包んでいる。
 入り口から祭壇へ向かう赤い絨毯は明日の結婚式のため敷かれたものだろうか。教会のあちこちにかけられている銀鏡がその光を反射し、天井までもがはっきりと見える。夜のミサを行うとしても蝋燭一つ必要ないほどの、しかし昼間とは違う明るさだ。
 その神秘的な雰囲気にメアリーは息をのんだ。

 一歩一歩、石床を踏みしめながら長椅子の間を進んでいく。
 椅子の背を伝わらせている右手に埃が積もったような嫌な感触はないし、銀鏡の前で立ち止まってじっくりと眺めてみても曇りひとつ見当たらない。
 管理人が律儀で信仰心の篤い人なんだろうな、とメアリーは感じた。

――ロシュフォールに戻ったら聖堂をもっときっちりしようかな。

 現代日本の高校生らしい感覚が残っているため、敬虔なブリミル教徒とは言えない彼女ですらそう考えるほどだ。
 ここが戦火に包まれてしまうことが無性に惜しかった。

――隅々まで観察してパクれるところはパクってしまおう。

 トコトコとドンは祭壇に近づいていく。
 使い魔は好きにさせて、こっちもこっちで自由にやろうとメアリーは教会のあちらこちらを観察し始めた。
 ステンドグラスは最後に時間をかけて見よう、と決めてまずは壁画を眺める。

 白くレンガには始祖ブリミルらしき人物、そして三人の騎士がそれを守るように構えている。
 それぞれ額、右手、左手に輝きを示すかのような模様、さらに左手が輝く騎士は左胸にルーンらしきものが刻まれている。
 近づいて目を細めても何が書いているかはわからない、壁に元々あった傷のようにも見える。
 諦めて、少し距離をとって壁画を眺めると、三騎士の視線の先には黒く奇妙な模様があった。

――なんだこりゃ?

 メアリーは目を凝らして再び顔を近づける。




 瞬間、影が広がった。




「な!?」

 彼女は咄嗟に壁から距離をとった。すぐに懐からタクト状の杖を取り出す。
 唱えるスペルは“ブレイド”、室内で十分な距離はとれないと考え近接戦闘で挑む。

「ドン!」

 己の使い魔にも呼びかける。
 影は壁に張り付いたまま、白い紙に墨汁を垂らしたように広がっていく。
 メアリーを直接襲う気配はない。同時に、彼女の使い魔が動く気配もない。

「ドン松!!」

 再び叫ぶ。
 しかし動かない。
 彼女が呼べばいつだって駆け寄ってきた使い魔は、この時に限って言えば何の反応も示さなかった。

「どういう……!」

 思わず祭壇の方に目をやった。

「は……」

 メアリーは目を疑った。
 次に自分の正気を疑った。そこには人がいたのだ。
 それがただの人ならば、時間帯がおかしいとはいえここまで混乱することはなかった。

「く、クロムウェル……」
「おや、聖母様は我が名をご存知でしたか。光栄の極みですな」

 原作におけるレコン・キスタの盟主、この世界ではナイアルラトホテップ教団の大司祭、オリヴァー・クロムウェル。
 この場にいるはずもない人物の登場に、メアリーは思わず一歩後ずさった。
 思考がまったく追いつかない。頭を埋め尽くすのは「なぜ?」という疑問ばかりだ。

「実に良い使い魔ですな、聖母様にふさわしい」

 クロムウェルは片膝をついて猟犬の頭を撫でている。
 襲い掛かることもなく、彼女の使い魔はされるがままになっていた。むしろ尻尾さえ振って嬉しそうにしている。
 メアリーにとって、これはまさに悪夢だった。手からは力が抜けきり、音を立てて杖が石床に落ちた

「では、はじめましょうか」

 クロムウェルが立ち上がり、何かを宣言する。
 するとどこに潜んでいたのか、顔さえも見えない黒いローブを身にまとった者どもが教会の壁際に立ち並んだ。
 大きな扉はすでに閉ざされており、そこにも妖しい人物が佇んでいる。

――う、嘘だ。ありえねえ、音なんて何もしなかった!!

 風のスクウェアメイジであるメアリー・スーの聴覚をもってしても異変は感じ取れなかった。
 一介の司祭に過ぎなかったはずのクロムウェルの接近。五十人近い謎の黒衣の集団。
 一切感知できなかったことが信じられない。
 これらはすべて壁の黒い影から染み出してきた、それ以外彼女には思いつかなかった。

 さらに信じられないのはすでに扉が閉じていること。
 あれほどの軋みを立てて開いたものがどうして音もなく閉ざせようか。
 クロムウェルが右手をかかげたのと合図に、黒衣は一斉に声をあげた。


―――彼の日こそが目覚めの日―――


 奈落の果てから響いてきたような歌声。


―――永劫の闇へと帰せしめん―――


 およそ人間に出せるものではない、聞いているだけで正気が失われる。


―――告げる神やがて来りまして―――


 だというのになぜだろう。


―――あまねく生命は絶え果てん―――


 メアリーは狂気に落ちることもできない、むしろ心地よさすら感じている。


―――死を経た全てのものの上に―――


 一歩一歩近づいてくるクロムウェルを前にようやく気付く。


―――妙なるフルートの音色にて―――


 メアリーは、自分がとっくに狂っていたということを。


―――人みな暗黒へ落ち包まれん―――



「祭壇の前へ、聖母様」

 歌声は止み、メアリー・スーは歩き出す。
 微かに残っている意志に反して祭壇へと近づいていく。
 後ろを歩くクロムウェルを振り返ることもなく、待ち続ける使い魔にも目をくれず。

――いやだいやだいやだ、やめてくれ俺は近づきたくない!!

 全力で足をとめようとしても動かない。
 踵を返して駆けだそうとしても意味がない。
 彼女の体は、今や彼女の物ではなくなっていた。


―――歓びを―――


 あれだけの合唱にも城内から兵が駆けつけてくる様子はない。
 この教会内は、現世との繋がりが閉ざされていた。

――なんだって俺がこんな目に合わなきゃいけないんだよ!!?

 ヴァージンロードを音も立てず歩いていく。


―――寿ぎを―――


 やがて祭壇の前に着き、ゆっくりと教会内へ振り返る。
 クロムウェルは片膝をついた。


――助けて! 助けて神様!! 誰でもいいから助けてくれ!!!


 彼が懐から取り出したのは、金属製の小箱。
 なんとも表現し難い歪な形状のそれをメアリー・スーに差し出す。

「模造品にすぎませんが、輝くトラペゾヘドロンにございます」


――やめてくれぇぇえええええええ!!!!!


―――祝福を―――


 受け取った瞬間、世界が揺れた。





*****


―――神様ぁああアアア!!!! どうして、どうして!!

「え、むしろ人間の流儀に従ったんだけど」

―――なん、なんだよ! それ!!

「等価交換だっけ、そんなのはじめて聞いたからびっくりしたよ」

―――やめて! 消えたくない!!

「人間の寿命の半分くらいあげたんだし、別にいいじゃん。そんな辛いことでもないし」

―――死にた、くなぃ…………なん……で…………

「なんで、って。なんとなくかなあ」

―――…………。

「あ、もう聞こえないか」

 どこか神々しくも感じる、褐色の肌の子供はフルートを構え、一言。

「ていうかアレ誰だっけ」


*****


 空中大陸アルビオンを襲った大地震。
 あり得るはずもないその現象に、ニューカッスル城は蜂の巣をつついたような騒ぎになった。

「何が起きたってんだ!?」
「わかりません!!」

 かがり火が焚かれ城中を衛士が駆けまわる。
 厨房はじめ燭台が倒れて起きた小火を消して回るもの。上級士官や大使の無事を確認するもの。城壁の損害箇所を月明かりを頼りに修復するもの。
 上を下への大混乱だった。
 やがて、物見の兵がある事実に気付く。

「あれ、おかしくないですか」
「んだよこんな忙しいときに」

 新兵が指さしたのは城門前の大平原。ナイアルラトホテップ教団の軍勢が控えていた場所だ。ただの暗闇が広がっている。
 老兵はちらと眼をやり、すぐに顔を落として城壁の損害箇所を探す作業に戻る。

「夜だから暗いだけだろ、何言ってんだ」
「……暗いからおかしいんじゃないですか。それにさっきまで聞こえてた歌みたいなのも聞こえません」

 その言葉に老兵は一瞬考え、勢いよく顔をあげて目を見張った。
 暗い。暗闇しかそこにはない。
 先ほどまではかがり火が燃えていたにも係わらず、城壁が見えるほどの月明かりがあるにも係わらずだ。
 さらに耳を済ませても城内からの喧騒が聞こえるだけで虫の声一つ聞こえない。焚火を囲んで何か歌い踊っていたヤツらもいたはずだったのに。

「こりゃ、何が起きたんだ……!?」
「殿下に知らせてきます!」
「急げ! ヤバイ雰囲気がしやがる」

 新兵は矢のように駆けて行った。
 老兵が凝視しても一万の兵が野営していた場所には何も見えない。
 光のささない深淵を覗き込むような、あるいはアルビオンから大地を見下ろすような感覚だ。
 じっと目を凝らしていると、闇がざわざわと蠢いているような気にもなってきた。

「違う!」

 老兵は強い否定の言葉を自身に投げかけた。
 実際に闇が動いている。冥闇の中心部、そこにある何かへと収束するようにその姿を縮めていく。
 その時新兵がウェールズと衛兵を連れて戻ってきた。

「何があったセント・ジョン」
「殿下、蠢く闇でございます。闇が集まっていくのです」

 這いずりまわるように暗黒の絨毯はじわりじわりとまとまっていく。
 見張り台に立つ五人の男は固唾をのんで見守るしかない。
 月光すら吸い込みかねないその限りない黒さをもったナニかは時に盛り上がり、時に広がりながら中心部に収束していく。
 その動きはハルケギニアに存在するどのような生物にも該当しない、していいはずがない。全き光の届かぬ夜すらを超越した、人智の及ばぬ冥府からの使者のように彼らは感じた。
 この世に地獄があるとするなら、まさにあの幽々たる実体化している暗闇がそうなのだろう。

 五分ほど時間がたって、漆黒のあった場所に人ほどの大きさの影がポツンと佇んでいた。
 ウェールズは持参した望遠鏡に目を当てる。息をのんだ。

「なんてことだ……」
「殿下、いかがなされたのですか」

 老兵は目を細めて影を見つめ。

「ッ!? ぁぁああああああああ!!!」

 絶叫した。
 その表情は尋常のものではなく、底など計り知れぬ恐怖と狂気が混在している。
 頭を抱えながら星空を仰ぎ、意味をなさない単語の羅列を口から吐き出す。眼はぐるんと裏返り頭をかきむしる爪先には微かに赤黒い液体が付着していた。

「いかん!」

 ウェールズは腰に下げていた杖を一瞬で抜き放ち。

「ブレイド!」

 セント・ジョンの首をはねた。

「アレを見てはならん! 平民が見れば発狂するぞ! 鐘を鳴らしメイジのみ戦闘配置へ!」
「殿下!?」
「セント・ジョンを焼いてやれ」

 ウェールズは一人の火メイジを残して見張り台から降りた。
 新兵は何も言わずに鐘を鳴らしに走り、残る三名はウェールズに詰め寄った。

「急げ、発狂したものは残らず首をはね死体を焼け」
「アレはなんだというのです!!」

 ウェールズは一瞬足を止めた。

「ミス・ロシュフォールだ」

 白かった髪を夜闇に染め上げメアリー・スーが一人、ニューカッスル城へと歩み出した。


*****


―――カンカンカンカンカン!!―――

『メイジは正門で迎撃しろ!!』
『平民は衛兵含めて避難船に乗せろ! 急げ!!』

 急き立てるような鐘の音とともに飛び交う指令と怒声、静かだった城内はあっという間に緊張感あふれる戦場の最前線へと変わった。

「何があったのかしら」

 ルイズも叩き起こされ、身支度を整え終えたところだ。
 詳しい状況は未だ知らされていない、すぐにでも出立の準備を行うようおざなりに伝えられただけだ。
 ただ情勢が変わって急を要する、ということだけが分かった。


「ラ・ヴァリエール嬢!」
「殿下!?」

 ノックもなしにウェールズが飛び込んできた。後ろには旅装のティファニアとマチルダを伴っている。
 城中を駆け回ってきたのか、息が上がっていた。

「私は極力時間を稼いでから、可能ならばグリフォンかドラゴンでラ・ロシェールへ落ちのびる。テファを頼んだ!」
「何が起きたのですか!?」

 空賊姿の時も、最後の晩餐の時も、いつだって冷静さと優雅さを忘れなかったウェールズ。これほど焦っている姿をルイズが見たのははじめてだった。

「敵が攻めてきた。それだけだ」

 アルビオンの皇太子は踵を返して駆けて行った。本当に余裕がないということが仕草だけでわかる。
 ルイズは残されたマチルダとティファニアに目を向けた。

「避難船に向かいながら話すわ」
「わかったわ、サイトとワルド子爵は?」
「伝令が行っているはずよ」

 マチルダの表情は硬く、ティファニアに至っては恐怖までその美しい顔に浮かんでいる。

――あれじゃ死ににいくと公言しているようなものだわ。

 先ほどのウェールズの様子は尋常じゃなかった。きっと彼女たちもそれを気にしているのだろう。ティファニアはひどく怯えており、一方マチルダは唇を噛んで何か迸る激情をこらえているようにも見えた。
 すぐにマチルダが歩きだし、ティファニアもそれに追随する。
 ルイズは一晩もお世話にならなかった寝室を振り返り、二人の後を追いかけた。

 ハルケギニアにおいて、王族の血は貴く重い。
 貴族には遥か光すら届かない星の海より来る邪悪な化け物からこの惑星を守る義務があるのだ。
 当然その貴族を束ねる王はいついかなる時も生き残ることが優先される。本来ならばウェールズ皇太子が残るなど言語道断、拘束してでもトリステインに連れて行かねばならない。

 そう、ルイズには言うことができなかった。
 彼が亡命している猶予などもはやないということだろう。

「敵が攻めてきた、ってどういうこと? 鬨の声も何も聞こえなかったわ」
「わたくしも詳しくは知りません。夜襲の類ではない、ということしか」

――そもそもメイジだけを迎撃に回すって言うのがおかしいのよ。なんで平民を奥に引っ込めるような……。

 ぐるぐると思考を巡らせながらルイズたちは早足で隠し港に向かう。
 ぽつりと、ティファニアが呟いた。

「……混沌よ」
「え?」
「這いよる混沌が来たの」

 その言葉にルイズは思わず足を止めかけた。

「ティファニア様! ミス・ヴァリエール!」

 そこに老メイジのバリーが息せき切って現れる。
 彼は軍装束の懐から古びた木箱と指輪を取り出しティファニアに手渡した。

「風のルビーと始祖のオルゴールでございます。お急ぎくだされ!」
「これ、お兄さまが持っていくはずじゃ……」
「……お急ぎくだされ!!」

 血を吐くようにバリーは叫んだ。

「マチルダ、後を頼む」
「……バリー師匠、承りましたわ」

 それだけ言うとマントを翻してバリーは城門の方に走って行った。
 呆然としているティファニアを促しマチルダは歩き出す。
 その目じりには涙が浮かんでいた。


***


「……ここどこだよ」

 才人は迷っていた。
 途中何人もの兵士とすれ違ったからその時に隠し港への道を聞けばよかったのだが、皆鬼気迫る表情だったので声をかけづらかったのだ。
 なんとなく自分の勘を信じて、廊下を突き進んだり階段を上がったり下りたりした結果、ようやく自分が迷子であることを認めざるをえない状況にまで追い込まれた。

「しかもここ外じゃねーか」

 彼がたどり着いたのはメアリーが月見をしていた中庭だった。城中で月明かりを打ち消すほど多量のかがり火が焚かれているため、先ほどのような美しさは残っていない。
 才人は自分の方向音痴さにため息をついた。

――隠し港ってどこだよ……って、あれ?

 すっと中庭の礼拝堂へ入っていったのは見知った顔だった気がする。
 出会ってからずっと才人の心を悩ませるワルド子爵だ。

――迷子になった、なんて知られたらまたバカにされそうだな。

 才人のワルドに対するイメージはよろしくない、むしろ悪い。
 エリート特有の「俺偉いんだぜ?」オーラがぷんぷん出ている、と勝手に決めつけていた。

――あいつも港行くはずだから、こっそり着いていきゃいいか。

 抜き足差し足忍び足、と心の中で唱えながらこそこそ教会に近づいていく。さっと扉近くの壁に背中をつけて気分はスニーキングミッション。
 扉は開け放たれていて、中から微かな話声が聞こえた。
 一人は勿論ワルド、しかしもう一人は知らない声だった。
 声から受ける印象は少し年のいった男性、しかし底知れない何かをその平坦な調子の話し方から感じることができる。

「聖母様は降臨されたようですね、クロムウェル閣下」
「無事トラペゾヘドロンを捧げるという大役を果たすことができたよ」

 クロムウェル。
 その名前を才人は知っている。
 かの邪神を信仰するナイアルラトホテップ教団、その大司祭にあたる人物だ。間違いなくアルビオン王国の敵であり、もっと言えばハルケギニア全体の敵。
 それがどうしてワルドと話しているのか、ワルドがなぜ彼を閣下と呼ぶのか、トラペゾヘドロンとはなんなのか。
 才人の疑問は尽きない。
 が、例の“許せない気持ち”と“ここにいてはマズいという気持ち”が彼の思考力を奪うかのようにせめぎ合う。

――よ、よくわかんねえけどルイズに相談だ。

 色んな考えを一度破棄して行動指針を決定する。
 すっと身をかがめて壁から離れ城の中へと足を進めていく。無論足音をたてるようなヘマはしていない。
 していないはずだった。

「その前に、目障りな輩を始末させてもらいましょう」
「っ!?」

 ワルドの声とともに突然目の前に白仮面が降ってくる。才人にはそういう風にしか知覚できなかった。
 突如姿を現した男はゆっくりとその顔を覆う仮面に手をかけ、外した。

「し、子爵さん……?」

 仮面の下にあったのは、ワルドの顔だった。
 思わず逃げ出そうと振り向けばそこにもまたワルドと見知らぬ聖職者風の黒衣を身にまとった初老の男性。

「ど、どういうことだよ……それにクロムウェルって敵なんじゃ」
「つまり、そういうことさ。ガンダールヴ」

 答えたのは初老の男の隣にいたワルド。
 才人にはもう何が何だかわからない。ただ後ずさるしかできない。

「せめてもの情けだ。始祖ブリミルの雷で逝くがいい」

 バチンと空気の爆ぜる音がする。
 その刹那才人の視界は白光に閉ざされた。

「ッァァアアアアア!!!!!!」

――痛い、なんで、俺、るいず……。

 とりとめもない思考を最後に、彼の意識は途絶えた。
 膝をつき、前のめりに倒れ込み、それきりピクリとも動かなくなった。
 それを見ていたのは無機質な瞳のワルドとクロムウェル、それに中庭を照らす双月だけ。
 ワルドは何事もなかったかのようにクロムウェルへ一礼し、話を切り出す。

「では閣下、我らが聖母様の下へ参りましょう」
「とどめは?」
「風メイジたる我が身にとって心音の有無程度たやすく聞き分けられます」
「そうかね、では君を聖母様に引き合わせよう」

 ただそれだけの会話。
 彼らは無言のまま城門へと向かう。
 後には物言わぬ才人が残されるのみだった。



 次回序章最終話「メアリー・スーに祝福を」



[29710] メアリー・スーに祝福を
Name: 義雄◆285086aa ID:b6606328
Date: 2012/06/19 21:18

「避難船出港しました!」
「急げ、門に到達するぞ!」
「配置に着け!」

 一歩一歩、ゆっくりと大地を犯すかのように踏みしめ、黒髪のメアリーはニューカッスル城を目指す。
 彼女の傍には誰もいない。つい十分ほど前、城門前の大平原には一万にもなる黒衣の兵士が勝利を目前とした宴を行っていたはずだ。
 それが今では誰もいない、何もいない。人影どころか、野営用のテント、おざなりな馬守柵、糧食、一切合財存在しない。
 さらにはところどころに植わっていた樹木や、大地を覆う草までが消え、荒涼たる平原がそこには広がっていた。
 それらがどこにいったのか、ニューカッスル城にいる兵士たちは誰も知らない。考えることすらできない。彼らに残された時間はすべて、ただひたすらに城の防備を固めることにあてられた。
 ジェームズ一世は一人玉座の間に残っている。万一城門が破られ敵が入り込んだなら、仕掛けられた大量の火の秘薬をもって差し違える覚悟だ。

「火はすべて城壁から火砲に徹せよ! 土は城門内からゴーレムで平民とともに門を抑えろ!」
「水と風は城門内で待機、城門が破られたのち魔法の斉射を行え! 間違っても視線をあわせるな!」

 平民に退避令を出したが、一部の平民兵士は城内に残っていた。この命を費やしてもアルビオンという国を守りたい、と申し出たのだ。
 ウェールズは確実に死ぬであろう城門の抑えに彼らを配置した。平民兵は笑ってそれを受け入れた。

――相手がどんなものか、まったく得体がしれない。

 ウェールズは唇を噛む。
 姿形はトリステイン王国から来たメアリー・スーそのものだ。
 純白の髪は月の出ない夜闇よりもなお昏くなっていたが、王族という仕事柄彼は人の顔を見間違えるということを滅多にしない。

――たかがスクウェアメイジ一人、だといいのだが。

 ウェールズはワルドからメアリーの実力を聞いている。
 スクウェアではあるものの戦闘には慣れていないようだと。
 しかし、城外の始祖の所業とは思えぬおぞましい魔法のようなナニカを見ては楽観はできない。下手をすれば彼女は、一万の兵よりも強大なのかもしれない。
 とにかく城壁からの集中砲火で片が付けばそれでよし。いかに風のスクウェアと言えどトライアングルを五名、スクウェアを一名擁しているアルビオン王党軍の集中砲火には耐えられないだろう。

「距離五十! 詠唱開始!」
「フレイム・ボール放て!!」

 そう、ウェールズは見誤っていた。

「ば、バカな……」
「ありえん! もう一度だ!!」

 敵の強大さを。
 二十名の火メイジ集団の“フレイム・ボール”斉射は月明かりよりもかがり火よりも輝き、あたりは昼間のような明るさに包まれた。
 それを単一の目標に向けてぶつける。
 戦場でも攻城ゴーレムなどを破壊するときくらいしか行わない戦術だ。当然、得体の知れない相手だとしてもこれで終わりだ、と大半のメイジは確信していたのだ。

「距離三十、斉射!」

 再び“フレイム・ボール”が放たれる。
 轟音をあげて迫る炎を前にしてもメアリーは眉ひとつ動かさない。ただゆっくりと、着実に歩を進めるだけ。
 火メイジたちの魔法は城門前の平原を赤に染め上げ、彼女はどのような生き物であれ生存できない劫火に包まれた。特にスクウェアの“炎球”は大地すら融かし、ニューカッスル城前は火竜山脈のような溶岩地帯へと様変わりした。
 どろりと流れる大地だったものは、見るものによっては神聖さを感じさせるような強い光を放つ。あまりに眩い光源で常人ならば目が焼け失明するに違いない。
 だが、それでも。

「距離十、まだ近づいてきます!」

 それはもはや報告ではなく悲鳴だった。
 例え火竜であろうとも一撃で倒せるレベルの砲撃だ。しかも相手は、内実はどうあれ見た目はか弱い女性に過ぎない。
 城壁の火メイジたちは恐慌状態に陥りかけた。

「静まれ! 城壁から退避、門を破ったところで全メイジによる斉射だ!」

 それをウェールズの叱咤が抑えた。
 火メイジ隊は次々に城壁から飛び降り城門から十メイル、百名近くの全メイジが控える場所に陣取った。
 城門と城との距離は三十メイルほど、ここを抜かれれば後がない。

 ごくり、と誰かが生唾を飲む。
 見えていたものが見えなくなるというのは不安を伴う。ましてや敵はその強大さの片鱗を見せつけている。緊張しないはずがなかった。
 城外からはまだ溶岩が冷えて固まっていく音しかしない。

「来ます、近づいています」

 聴覚に優れた風メイジにしか敵の接近は感知できない。彼は敵の城門からの距離を指で示す。
 五、四、三、二、一。
 二秒ごとに折られていく指に皆杖を強く握る。

 城門は分厚く、攻城ゴーレムを使えない少女が突破するのに骨が折れるに違いない。スクウェアがブレイドを使おうと貫くことすらできない代物だ。
 風のスクウェアということだから、“ウィンド・ブレイク”と“エア・ハンマー”の併用で打ち抜こうとするだろう。
 だが内側から抑えられている城門をそう易々とは突破できない。
 “カッター・トルネード”を使うにも詠唱には時間がかかる。“フライ”や“レビテーション”で突破しようものならその瞬間撃ち落とせばいい。
 きっとあの環境下で生き延びれたのも未知の魔法によるものに違いない。だから魔法の併用が困難な飛行中ならば仕留められる。
 そう、大多数のメイジは信じたがっていた。

 とうとう風メイジの開かれていた掌が握り拳になる。
 一秒、二秒、三秒、嫌な緊張感を孕んだまま進む時間に誰かの汗が地面に落ちた。

「案外もう帰ったとか」
「はは、ガキだったしな」

 十秒ほどたって軽口をたたくメイジもいる。耳に全神経を集中させている風メイジがしっと指を立てた。
 それから三十秒ほどたっても何もない。全兵士の力が少し抜けた。
 ウェールズも相手の動いていない以上、次の手を打つべきかと考えを巡らせ始めた。

「……え?」
「どうした?」
「いや、あれ、少し待ってください」

 二十歳と若いながらもトライアングルに達しているメイジはそういって再び集中する。
 五秒ほどたって、さっと顔が青ざめた。

「いません、風の吹き抜け方が変わりました、城門前には敵がいません!」
「バカな!?」

 この若い貴族、ロバート・ハートはウェールズが信頼する親衛隊の一人だ。
 彼が全神経を集中させれば虫の足音すら聞き分ける、と誇張気味の噂が立つほどの男。それが敵を見失うはずがない。
 ざわ、と周囲のメイジたちも落ち着きを失う。

「落ち着け。ロバート、もう一度探れ」
「はっ」

 ウェールズにはカリスマがあった。
 彼さえいれば何とかなるという不思議な確信をもたせる、王になるべくして生まれた男だ。
 さらに頭も回る。ここで必要なことは何か、ということを瞬時に判断できる。
 しかし、それも相手のことを良く知っていてこそはじめて生きる。

「な」

 ぞぶりと、心臓が貫かれたかのような悪寒に襲われた。
 そして彼は見た。
 城門を抑えるゴーレムの間に立つ、全き暗黒を凝集した少女を。

「総員詠唱ー!!」

 ウェールズの叫びに、まずバリーが反応した。
 彼の生涯最高速度の詠唱、最強の魔法。
 烈風カリンの出現までは風メイジ最強とまで言われた彼は平民もゴーレムにも、自分たちにもかまわずその力を解き放つ。

「カッター・トルネード!」

 風のスクウェア・スペル、竜巻は城壁を巻き込みながら天を貫くほどに巨大化し、周囲の物までも切り裂く。
 城門を抑えていた平民は血煙となって天に昇り、ゴーレムを形作っていた岩石や城壁は轟く風の激流に巻き込まれ凄まじい破壊をもたらす。
 被害を裂けて城門から大きく距離をとったメイジたちは、全員各々の魔法を詠唱しはじめた。
 個人に対する攻撃力ではない、完全なオーバー・キルだ。

 真空を巻き込むそれすら時間稼ぎにもならないと判断した土のスクウェアメイジが巨大な鋼のゴーレムを生み出す。
 火のスクウェアは己の全精神力を込めた人の頭ほどの白炎を生み出し、“カッター・トルネード”が切れるのを待つ。
 水のトライアングルもいつでもアイス・ストームを発動できるよう詠唱を終えた。
 彼らに及ばないまでもライン、ドットなりに己が扱える最強の魔法を、生涯最高の集中力で詠唱する。
 ウェールズも杖が折れそうなほど強く握りしめながら、“ライトニング・クラウド”を詠唱した。
 始祖ブリミルの血を引くメイジとして、必ずここでコレを倒す。
 全員が断固たる決意に満ちていた。 

 やがて竜巻は勢いを弱め、完全に途切れた。
 城壁は荒廃した城を思わせるほど崩れ、城門もどこかへ飛んで行ったのか、しばらくすれば地に響くような音が数回響いた。
 だがしかし。
 メアリー・スーはそこにいた。
 傷一つ負わず、髪を黒く染めた姿でそこにいた。
 ぼんやりとした無気力そうな表情で、すべての人類に絶望を与えるために。
 彼女は再び歩き出す。

「放てッ!」

 炎、氷、雷、風、土、水。
 すべての魔法がこの世ならざる少女を絶命させんと襲い掛かる。連続した弾着で凄まじい土煙があがり、視界は完全に奪われた。
 そこにとどめと言わんばかりに二十メイルもの鋼のゴーレムが巨大な拳を叩きつける。
 一撃では物足りぬ、と続けざまに拳の乱打を見えない敵にあびせまくる。ニューカッスル城を揺るがすほどの勢いでアルビオンの怒りを喰らわせた。
 五十発も振り下ろしただろうか、土のスクウェアはようやくゴーレムの動きを止める。
 土煙が濃すぎて何も見えない。温度変化に敏感な火メイジにすらなにもわからなかった。
 みなじりじりと城の方へと後ずさる。
 
「……音、ありません」

 ロバートの報告におお、とメイジたちはどよめいた。
 ウェールズは恐怖を振り払うように“ウインド”を詠唱する。
 これで仕留められなければどうすればいいのか、彼には見当もつかない。

「ラナ・ウィンデ!」

 ざあっと天空大陸らしい爽やかな風が吹く。
 土煙が晴れた先には果たして、メアリーはいなかった。
 途轍もない安心感が貴族たちを包んだ。

「まだ油断するな!」

 だがウェールズは鋭く言い放つ。
 彼女が立っていた大地は原型をとどめていない。空から大岩が何発も落ちてきたかのようにボコボコだ。
 炎の魔法のせいで周囲は熱く、アルビオンに似つかわしくないほど皆汗をかいている。白炎の影響か、ガラス化している大地もあった。
 月明かりとかがり火を頼りに注意深く観察しても、闇の残滓は見当たらなかった。

 ふぅ、とため息をつく。
 強敵との対戦はありえないほどに精神力を削る。ましてや邪神に連なるであろうものの相手だ。
 ウェールズのため息とともに、皆張りつめていた肩を楽にした。

「アルビオン万歳!」
『アルビオン万歳! 始祖ブリミル万歳』

 バリー老の掛け声に皆歓喜の声をあげた。
 事の経緯は不明だが一万の敵兵も片付いたのだ。
 これから戦後処理がはじまる。
 今までナイアルラトホテップ教団に洗脳されていた貴族もこれで正気を取り戻すだろう。
 ウェールズの頭の中で様々な事柄が駆け巡る。
 
――まずは休もう、だがクロムウェルを捕らえるまでは油断ならんな。

 先走ったロバートが城の蔵から上等な白ワイン樽を持ち出してきた。
 だがウェールズに咎める気はない。あれらの相手は正気を削る。今はただこの安心感と勝利に酔っていたかった。

「ロバート、私にも頼む」
「はっ、殿下」
「陛下に知らせてきましょう」

 バリーは玉座の間に向かって飛んでいく。
 ナイアルラトホテップ教団の手にかかったものは少なくない。
 今夜だってバリーの渾身の“カッター・トルネード”で罪なき平民を巻き込んでしまった。

 だが勝利だ。
 勝ったことを祝わねば先に進めない、彼らに顔向けできない。彼らの献身には今後の治世をもってこたえる。それが王族の務めだ。
 ウェールズは“錬金”で造られた青銅のワイングラス片手に、地上を冴え冴えと照らす双月に誓った。


***


「陛下!」

 バリーは玉座の間に繋がる扉を勢いよく開いた。
 普段ならば衛兵もおり、格式通りにこの扉を通ったであろうが今は違う。アルビオンを襲っていた脅威は去ったのだ。これほどの慶びはない。一秒も早く己の主に伝えたかった。
 ジェームズ一世は玉座に最後にバリーが入ってきたとき同様に腰を下ろしたままだ。
 飛び込んできたバリーを見ても杖は下ろさない。

「殿下が勝利をおさめましたぞ!」
「知っておる。鬨の声がここまで聞こえたわ」

 ニヤリと親しい者にしか見せない笑みをジェームズはこぼした。

「だが気を緩めすぎではないか、バリーよ」
「ですが、凄まじい戦いでした。すぐ緩めねば兵に影響を与えるでしょう」
「そうであったか。凄まじい魔法の応酬だったように聞こえたが、如何な敵であった?」
「この世のものとは思えぬ敵、としか説明できませぬ」

 バリーは先ほどの少女を思い出す。
 最後の晩餐を楽しんでいた時は、幽玄なる雰囲気を醸し出していたものの、ただの少女にしか見えなかった。
 彼女に何が起きたのか、まったく予想もつかない。

「ただトリステイン大使に紛れていたミス・ロシュフォール、彼女でした」
「……一人に対してあのような大規模魔法をたたみかけたのか?」
「いえ、彼女は既に人ではありませんでした。もっと、名状し難い何かでしょうな」

 少なくとも、彼女はアルビオンの処女雪よりも白い髪の女性だった。
 それがどのような光をも吸い込む漆黒に染まろうとは、神でなくては不可能なようにも思えた。

「しかしニューカッスル城の前に駐屯していた不浄な輩はすべて消え去りました」
「おお、まことか」
「ええ、まるでミス・ロシュフォールがすべての邪悪の中心であったかのように」
「それはめでたい。明日は一日かけて勝利を祝わねばな」

 ふと、バリーは自分の言葉が気にかかった。

―――すべての邪悪の中心―――

 なにか心がざわめく。いや、久々にスクウェアスペルを行使したせいだろう、と思い込んだ。
 そうしたかった。

「おや、そんなめでたい話なら我々も加えていただきたいですな」

 物音ひとつしなかった。
 今宵は風メイジの耳を誤魔化すような事態が多すぎる、とバリーは内心舌打ちした。
 ついさっき彼が潜り抜けた扉の傍に、まるで影から染み出たように佇む二人の男。
 腰に下げた杖をバリーは瞬時に抜いた。すでに大技を使っているため精神力は心もとない。

「何奴!」
「ナイアルラトホテップ教団大司祭、オリヴァ―・クロムウェルですよ」
「同じく、『閃光』のワルド」

――“伝声”を使うべきか。

 だが相手はその隙を与えてくれないだろう。
 クロムウェルはおぞましい装飾品を多数身に着けているが、メイジではないただの人間であるようにも見える。
 一歩後ろに控える青年は違う。
 『閃光』のワルド。オールド・オスマン、『烈風』カリン、ド・ゼッサールなど強力なメイジを多数抱えるトリステイン王国でも五本の指に入る使い手。
 若い世代ではカリスマ性もあり、将来を熱望されていたメイジだった。

――洗脳されていたか。

 ワルドの瞳は昏い。
 思えば戦場で結婚式を、と言い出すあたり違和感を覚えてはいたのだ。バリーは決定的な確信をもてなかった自分を恥じた。

 ワルドが一歩前に出て、軍杖をすらりと抜き放った。
 その姿は堂々たるもので一分の隙も見当たらない。
 単純な魔法合戦ならバリーにも勝機は見いだせただろう。
 しかしワルドは体術にも秀でる麒麟児とも呼ぶべき逸材だ。後ろにジェームズ一世を庇った老メイジでは万に一つも勝ち目はない。

――どうすればいいのだ。

 バリーの苦悩をよそにクロムウェルは朗々と語りだす。

「あなたたちは聖母様を倒し、一安心と思っているでしょう」

 両手を広げて一歩踏み出す。ワルドもクロムウェルを人質に取られぬよう背中に庇いながら一歩踏み出す。
 城内の燭台は十分な灯りと言えなかったが、クロムウェルの嬉々とした表情がわかる程度には明るい。

「しかし、非常に残念です。私がいる限り教団は何度でも蘇ります」

 『閃光』が奔った。

「その一言が聴きたかった」

 ぼとりと、クロムウェルの首が落ちた。その眼は開き切り、自分の死を理解していないようだった。
 音もなく彼の背後から現れた白い仮面の男は変装を解く。

「ワルド子爵」
「陛下、無礼をお許しください」

 片膝をついた青年の瞳は、狂気になど染められていない。立ち振る舞いは洗練されており、貴族として如何に彼が努力を重ねてきたかが伺える。
 クロムウェルがこの上ないほど油断したところで遍在による暗殺。
 その早業はまさに『閃光』の二つ名に恥じないものだった。

「玉座の間を汚したことと陛下を欺いていたことを我が罪をお許しください。彼奴めが教団の核であることを確信するまで動くわけにはいかなかったのです」
「いいとも子爵、アルビオン国王として許そう」

 ジェームズは鷹揚に頷いたが、杖からは手を離さなかった。視線は猛禽類のように鋭くワルドを貫く。心中をはかることができたのか、ようやく玉座から腰を上げた。
 バリーも杖を構えながらクロムウェルの首に近づく。不思議なことに、胴体からも首からも赤黒い液体は流れ出ない。
 これはいよいよ人ではなかったか、とバリーは更に近づこうとした。

―――はははははははは――――

 玉座の間に冒涜めいた嘲笑が響き渡る。
 瞬時に三人は動いた。
 ワルドはクロムウェルの体へ、バリーはワルドへ、ジェームズはクロムウェルの首へ杖を向ける。そのままじりじりと互いの間を詰める。

 ワルドから殺気を感じられないことからバリーはクロムウェルの首に注視する。先ほどは開き切っていた瞳が穏やかなものに変わっている。
 あっと叫び声をあげそうになった。

「子爵、君は重大な勘違いをしている。そもそも私は君の裏切りに気づいていたのだよ」
「……っ」

 身体から分かたれたはずのクロムウェルの口が動いている。
 どのような手段をもってかはわからないが、確かに彼は喋っている。ワルドは喉元が詰まるような、言い知れないおぞましさを覚えていた。
 クロムウェルはなおも続ける。

「様々な証拠があった。特に決定的なのは君が正気を保っていたことだ」
「なぜ見逃した」
「意味がないからだよ。たとえ手心加えたライトニング・クラウドでガンダールヴを生き延びさせようとね」

 ごくりと男三人は生唾を飲む。
 首だけで無様にも生き続ける男を前に具体的行動にうつれない。

「確かに教団は私がいなければ終わりだ、皆解散してしまうだろう」
「……ならば、我々始祖の血統が勝利したということだな」

 ジェームズ一世はクロムウェルの目を睨んだ。

「ええ、そうでしょうね。ナイアルラトホテップ教団には勝利しました」

 背筋が凍るような、ぞわりと気味の悪い感触が三人を襲った。
 途轍もなく巨大な存在に、深淵から覗き込まれているような感覚。

「聖母様は別ですが」
「何を言うか!」
「母のペンダントは確かに貴様から最も強い邪神の気配を感じていた。ミス・ロシュフォールなど小娘にすぎん」

 くつくつと不気味な笑いをクロムウェルはこぼす。

「それは模造品の輝くトラペゾヘドロンのせいでしょうね。我らの望みは聖母様の降臨、その一点に尽きる」

 だがそのメアリーはすでに倒されたはずだ。
 バリーの耳は確かに魔法斉射が直撃したことを聞き取っていた。如何な魔物であろうともあれほどの攻撃を前に生き延びることは不可能。さらに土煙が晴れた後、あの大地に一かけらの闇も存在しないことを確認した。
 あの状態ではどうあっても……。

「偏在か!?」

 メアリーは元々風のスクウェアだ。
 始祖ブリミルの加護を受けているとは思えない相手が、まさか“偏在”という高位の風スペルを扱うとは予想もしなかった。
 だが、クロムウェルは首だけの姿でため息をついた。

「莫迦にしてくれるな」

 瞳には怒り。地獄の底で燃え盛るような黒々とした憤怒が浮かんでいる。
 その迫力に三人は一歩後ろにたじろいた。

「あの程度で我らが聖母様を討ち果たしたとは、猟犬に頭の中身を啜り取られたとしか思えませんな」

 城門から叫び声が聞こえる。
 それはさっきから変わらなかったが、違う。
 さっきまでは確かに笑い声が、歌声が聞こえていたのだ。
 それが明らかに悲鳴に変わっている。圧倒的な絶望と魂からの恐怖の絶叫に変質している。

「バリー殿!」
「陛下、この身は殿下の杖へ」
「うむ、この城が朕の墓標じゃ」

 バリーとジェームズ一世は視線で長い付き合いをの別れを惜しんだ。

「陛下、お達者で」
「ウェールズを頼む」
「陛下、失礼します」

 バリーとワルドは一礼すると窓から飛び降りて行った。

「さて……」

 亡国の王は玉座に腰掛ける。王杖を強く握りしめた。
 クロムウェルの首はそれを見てただ嘲り笑っていた。


***


 目覚めは決して心地よいものではなかった。

「つぁ……」

 才人は城を揺るがすような轟音で無理やり意識を覚醒させられた。続く地響き、起き抜けの頭には何が何やらわからない。
 ともあれ固い地面の上、お月様が見下ろす中庭で才人は目を覚ました。

「つぅ~、なにが……」

 その瞬間思い出した。得体のしれない聖職者風の男を、裏切ったルイズの婚約者を。そして自分を貫いたであろう雷撃の白い光を。

「あの髭野郎ッ!」

 同時に考える。

――あれ、俺なんで生きてるんだ?

 ワルドが本当に裏切り者なら才人を生かしておく理由はない。むしろ百害あって一利なしだ。
 熟達した風メイジは離れた相手の心音をも聞き取る、とはルイズの付き添いで出たギトー先生の魔法の授業で学んでいる。
 才人の主観で、ワルド子爵はいけすかない髭だったが風のスクウェアと言っていた。

――なら俺が生きていたことに気付いてたんじゃ?

 ぶるんぶるんと頭を振る。

――いや、あの髭のことだから慢心してたに違いない。アイツはきっと敵だ。

 とりあえず才人は先入観でそう決めつけた。ひどい損傷もないパーカーについた草を払ってから立ち上がる。
 さてどうするんだっけ、と悩んだときワッと鬨の声が上がった。

『アルビオン万歳! 始祖ブリミル万歳!』

――なんだかよくわかんないけどめでたそうだ。

 この時ようやく才人は避難港を目指す、という目標を思い出した。
 ワルドの裏切りに続き雷撃を受けて気絶と精神的ショックを受けることが多すぎてつい忘れてしまったのだ。

「とりあえず行けばいいか」

――歓声があがっているなら人もたくさんいるに違いない。
  それに喜んでそうだから危なくもないだろうし、誰かに髭野郎の裏切りを伝えないと。

 詳しい道順は解らないが、才人は歩き出した。
 未だニューカッスル城では多くのかがり火が灯されていたが、それが逆に強い陰影を生み出し不気味な印象を与える。月明かりだけならばいっそ神々しく感じられただろう。
 才人は柱の陰から幽霊でも出るのではないか、と若干身構えながら笑い声の方へ向かう。
 ここで剣の一本でもあればもう少し彼も堂々と歩けたかもしれない。

 ルイズは才人に武器を買い与えなかった。
 彼はアニエスやコルベールと理由も知らされず修行に励んでいるが、すべて木剣で行っている。

『その内あなたにしか扱えないものを授けるわ』

 なんてルイズの言葉に、それなら仕方ない、と深く考えずに頷いた。
 自分専用、なんと心に響く単語だろうか。どんな漫画だって専用というのは大体強い。
 才人はすごい装飾がついていて、一振りすれば風やら炎が飛び散るような剣を想像してみたが、ありえないなと否定した。
 何より使いにくそうだ。

 そんな彼女とのやり取りを思い返しながら心は明るく、実際には暗い城内をひたひたと歩く。
 才人は気づいていない。
 いくら笑い声を頼りにしているとはいえニューカッスル城は複雑だ。まっすぐ城門に出ることは、客人には難しい。だというのに迷うことなくぐんぐん城門へ近づいている。
 避難港を探して中庭に出てしまった時と同じように、自分の感覚を信じてひたすらに足を進めていく。

 角を曲がると長いトンネルの出口のように、外への通路が視界に入ってきた。
 笑い声はそこから聞こえる。やっとマトモな人に会えると安心感から先ほどまでの様子とは一転、スキップさえしそうなくらい上機嫌で才人は歩き出した。
 城内の燭台なんかよりもかなり強い光が外から差し込んでいる。踊るように外へ出た才人が見たのは、大きな焚火だった。

「おや、君はラ・ヴァリエール嬢の」
「何があったんですか?」

 最後の晩餐の時に見た悲壮感は誰の顔にも浮かんでいない。
 むしろ場末の居酒屋で喜んでいるようなおっさんばかりのようだ、と才人は感じた。
 それもそのはず、城の前にいた敵は軒並み消え失せて、新たにやってきた有り得ないほど強大な敵を仕留めることに成功した。一瞬でも気を抜けば正気を失いかねないほどの戦いを終え、今は生き延びた歓びを分かち合っていたのだ。
 そこかしこで笑い声が飛び、アルビオンを讃える歌声が聞こえる。

「来た、見た、勝ったというヤツさ異国の客人よ!」

 来たのは向こうからだったがな、と酒で顔を真っ赤にしたメイジは笑う。

――この人、確か晩飯の時今にも死にそうな顔してたよな。

 普段は気弱なロバート・ハートも白ワインをがぶがぶ飲んでひたすらに喚いている。現代日本でもこれほどたちの悪い酔っ払いは見たことがない。なるべくならお近づきになりたくない部類の人だ。
 そんな才人の顔色を悟ったのか、金属製のワイングラスを片手に持つウェールズが部下のフォローを入れた。

「彼は限界まで集中していたのだ、許してやってくれ」
「そんな、とんでもないです」

 慌てたように右手を顔の前で振ると、ウェールズはふっと笑った。サマになる笑顔だ。
 顔を見合わせているのも変だと思い才人は周囲に目をやった。
 焚火を中心に手をもにょもにょさせて踊っているものを筆頭に、みんなに笑顔が溢れている。

「アルビオンの危機は去ったということさ」

 才人が目を留めたのは、抉れに抉れた地面だった。
 何をすればこんな風になるのか、彼には分らない。一部の地面が焚火の灯りと月明かりでキラキラと光を反射し、土中のケイ素が溶融したことを示していた。
 そのすぐ傍には大きな大きなゴーレム。光沢と色合いから青銅ではなく鉄、もしくは鋼のようで、ギーシュの戦乙女とは桁が違う。高さだって二十メイル近くはありそうだ。

「すごい戦いだったんですね」
「ああ、だがこれからが本当の戦いだよ」

 ウェールズははぁ、とわざとらしくため息をついて見せたが表情は嬉しそうだ。
 心底安堵しているに違いない。
 ふと、ゴーレムを見上げていた才人の視界の端に何か映った。

――あれ?

 黒髪の少女だ。
 隕石が連続して落ちたかのようなクレーター地帯にいつのまにか佇んでいた。後ろを向いていてその表情はわからず、また身にまとっている真っ黒なローブも見たことがないものだ。
 身長はルイズと同じくらい、櫛を通しても抵抗一つなさそうな漆黒の髪は長く腰まである。服装と髪の色こそ違うが、才人は旅に同行した少女に似ていると思った。
 ぞわぞわと背筋がざわめく。
 例の“許せない気持ち”が湧き上がる。

「どうしたんだい?」

 ウェールズが才人の視線を追う。

「は……」

 爽やかな笑顔が凍った。
 持っていた杯は重力に従い、ワインは空の地へ還った。そこまで大きな音はしなかったが、宴に興じていたメイジはすべてウェールズに目を向けた。
 そしてその視線をたどり理解した。アレがいることを。

 才人は震えが止まらない。
 それは恐怖の震えだ。
 人間である以上アレを打倒すことはできない。雲の上よりなお高い場所から見下ろす窮極にして最悪の存在、その片鱗だ。
 それは激怒の震えだ。
 これ以上アレをハルケギニアに存在させてはならない。自らの命を投げ打ってでも倒さねばならない最悪にして窮極の存在、その片鱗だ。
 矛盾を抱えた心は、才人から瞬き以外の一切の行動を奪った。

 少女はゆっくりと振り返る。

「ロシュフォールさん……」

 力ない才人の無意識下での呟き。
 そこに込められていたのは絶望か、憐みか。

 振り向いた顔は間違いなく彼女のものだった。
 祝福を受けたかのように白い髪を、唾棄すべき常闇に染めた乙女だった。右目は奇怪な毒薬のように青く、左目は人体に流れる血のように赤い。

 誰も一言も発せない。
 アルビオンの空気が変わった。冷たさを伴いながらもどこか包み込むような優しさに溢れた風は、いまや体から熱を奪うためまとわりつき命を縮めようとしている。
 滅びの宴が、今まさにはじまる。

 不意に闇の少女が微笑んだ。
 才人にはそう認識できた。

「がっ!」
「ば、げふっ!」

 それだけで百名もいたメイジの三割が膝をつき、あるいは血を吐き倒れ伏した。白目を剥き痙攣するもの、口から泡を吹き気を失うものまでいる。
 尋常の事態ではない。尋常の相手では、ない。
 ここでウェールズははじめて自分の体が硬直していたことに気付いた。
 頭がくらくらする。それでも薄く息を吸い、生きるために強靭な意志を乗せて叫ぶ。

「総員退避!!」

 その声で咄嗟に動けた者はいなかった。
 一拍置いてようやく動けた者も才人を含め三十名いなかった。さらに五秒ほど立って残る者が四十名ほどが動き出そうとした。
 だが、遅すぎた。

 黒の聖母は腕を振る。
 蚊柱を払うように、力など一切込めた様子もなく右腕を振った。
 それだけで出遅れたすべての貴族が五十メイル近く離れた石造りの城に叩きつけられた。

「なんだと!」
「ありえんッ」

 杖も持たず、詠唱もなく七十名もの人間を吹き飛ばす。
 先住魔法を使っても優秀なエルフであろうとも不可能な業だ。邪神の所業というに相応しい。
 叩きつけられた人間は、全身から赤黒い液体をこぼし、城にめり込んだまま身動ぎひとつしない。
 派手な音はしなかった。大半の者は、信じられぬと眼を見開いていた。絶命しているのは傍目にも明らかだ。

 冥闇を纏う少女から一定の距離をとることに成功していたものは、幸いにして無傷だった。
 腕を振った瞬間感じたのは強い風、時折アルビオンを襲う嵐のように荒々しい風だ。
 対処する術などない。

「退避退避退避! 生き延びることだけを考えろ!」

 ウェールズが必死に飛ばした号令に、貴族は背を向けず退避をはじめる。
 そこに逆走する影があった。
 才人だ。

「おおッ!」

 彼は転がっていた杖剣を握り、左手のルーンを輝かせながら暗闇を従えた少女に突撃した。
 右腕に切りかかるも刃がその肌を傷つけることはない。
 一切の衝撃が吸収された、奇妙な感触。漆黒を凝縮したような衣が蠢いていた。

「ちぃっ!」

 全力で後ろに跳ぶ。
 ガンダールヴのルーンは身体能力向上をもたらす。才人は素早く十メイル近くの距離をとった。

「逃げろ!」
「無理です」
「なぜだ!」

 ウェールズの叱責にも才人は冷静に、短く答える。
 視線はメアリーから離さない。
 それだけでも並みのメイジには不可能な、虚無の使い魔である証左だ。
 才人がここに立っているのは完全な自分の意志ではない。ガンダールヴのルーンが間違いなく影響している。

「ここで何とかしなきゃ、この星が」

 彼女を包む漆黒の衣が内部で卵が産まれているかのように膨れ上がった。

「危ないじゃないですか!」

 間をおかず放たれた幾条もの闇を才人は杖剣で払いのける。物質面での干渉はできるようだ。
 黒の触手は数が多い、海底で蠢くグロテスクな魔物のように才人を捕らえんとする。
 小刻みに足を動かしながら、触れれば命を奪われるであろう漆黒の間を縫うように回避していく。

 平賀才人は深く考えない。
 ここで退いたら自分に良くしてくれた気高くあろうとした少女や、優しかった厨房の人たち、少しだけ話した避難船の人々がどうなるか。
 ただそれだけを考える。自分が逃げれば彼らがどうなるかだけを考える。
 退避命令が出ているにもかかわらず、すべての貴族はその姿から目を離すこともできず立ち尽くす。
 父王と同じく、ウェールズは杖が鳴るほど強く握りしめた。


***


 平賀才人は剣を振る。

――なにやってんだ俺。

 触手の動きは素早く、時にかわしきれないものもある。常人ならかすめただけでも狂気に触れかねないほどの瘴気を孕んでいる。

――異世界来て、ボコられて。

 だが才人は正気を保っていた。思考はこれ以上ないほどクリアだ。

――女の子泣かせて、厨房手伝って。

 鈍重な意識が研ぎ澄まされていく。

――城に呼ばれて、邪神のこと聞かされて。

 身体が軽く、不思議な力に溢れてくる。

――髭にボコられて、変な空飛ぶ大陸に来て。

 “ガンダールヴ”の力は今まさに羽化の時を迎えていた。

――一緒に旅した女の子と戦ってさ!

『ロシュフォール家の長女はかの邪神に連なる可能性が高いです。お気をつけて』

 才人はメアリーのことをほとんど知らない。
 だが彼は人の評価を、アンリエッタの言葉を鵜呑みにするような人間ではない。
 確かに自分の心が叫ぶ“許せない気持ち”はあった。

『彼女は風のスクウェアと聞く。その力は必ず役に立つ、是非同行してもらうべきだ』

 実際不気味な笑みを見せたときはシエスタを背にかばったこともある。ワルドが連れてきて「大丈夫か?」と疑いもした。
 でもこの旅路で少しだけ話をして、変人だけど悪人であるとは思えなかった。
 少なくとも、人の運命で遊ぶような輩に弄ばれる筋合いはないと感じた。

「ふざけんなぁぁあああ!!」

 その怒りは誰に向けたものか。
 始祖か、ルイズか、不条理な現実か。
 どれでもない。
 理由もなくハルケギニアを蹂躙しようとする、ただ一人の女の子を玩んだ邪神に対してだ。
 才人とガンダールヴの咆哮だ。

 左手のルーンがいよいよ輝きを増す。
 軌道を逸らすしかできなかったはずの杖剣は、光閉ざされた夜を煮詰めても及ばぬほどの闇を切り裂いた。
 暴れ狂う狂気の鞭に、一歩も引かぬと瞳をギラギラ輝かせて才人は杖剣を振るう。それどころかじりじりと歩を進め恐るべき存在を倒そうと近づいていく。
 彼我の距離はおおよそ五メイル、達人ならば一息に詰められる間合いだ。
 ウェールズは英雄譚となるべき戦闘をこの目にしていると感じた。
 しかし才人が鬼神の如き強さを発揮しても手数が違いすぎる。このままではいずれ斃れてしまうだろう。

「デル・ウィンデ!」

 その時、一閃の“エア・カッター”が闇を切り裂いた。
 ロバートが顔を青ざめさせながら、才人を狙う黒闇を狙い打ったのだ。

「アルビオン万歳!」

 若い貴族は叫ぶ。
 先ほどの歓びに満ちたものではない。それでも、その場にいたすべてのものに希望を、今なすべきことを思い起こさせる決定的な声だった。

「彼を援護しろ! あの怪物をアルビオンから出してはならん!」
『アイ・サー! アルビオン万歳!!』

 ウェールズの命令にすべての兵が声を張り上げる。

 城門での再現、数多くの魔法が放たれた。
 炎、氷、雷、風、土、水。
 密度は比べ物にならないほど薄かったが、今の彼らには圧倒的な恐怖ではなく、微かな希望が見えていた。
 一人の英雄がこの世を闇に閉ざそうとする邪神を打倒せんとしている。彼らはその補助に過ぎない。
 だが、ともに英雄譚を築き上げようとしているのだ。

 鼠の一歩のように小さく、亀の歩みのように遅く。
 それでも才人はメアリーに迫っていた。
 すでにその距離は三メイル程になっている。

「ッづあ!」

 才人の隙を突き一本の太ももを傷つける。それは均衡を崩す一撃であり、才人の退路を塞ぐ一撃でもあった。
 動きが鈍る。
 触手が殺到する。

――くそッ!

 口にする間もなく漆黒は才人を貫くだろう。
 ぐっと歯を食いしばって目をつぶる。

 予想していた痛みは来なかった。

「やれやれ、間一髪か」
「殿下、お待たせしました」

 マントを翻して伊達男が才人の前に立つ。
 『閃光』の二つ名を持つ風スクウェア、ジャン・ジャック・フランシス・ド・ワルド。

「てめ!」
「早く立て!」

 ワルドは“ブレイド”で迫る暗黒を払っていく。
 才人のように切断とまではいかない。

「ふっ」

 が、軽く息を吐いて集中すると邪悪の権化が切り落とされる。
 体勢を立て直した才人も痛みを忘れたように獅子奮迅の働きを見せる。傷つく前よりもその剣技は冴え、左手のルーンはより強く輝いていた。
 その光景をウェールズは信じられぬ思いで見つめていた。

――英雄が二人、勝てぬはずもない。

「たたみかけよ!」
『アルビオン万歳!』
 
 ウェールズ自身もあとのことを考えず、ありったけの精神力を注ぎ込む。民の怒りを、大地の怒りを、始祖の怒りを受けよと全力で魔法を放つ。

 才人は不思議な高揚感を覚えていた。
 相変わらず歩みは遅い。
 だというのに何も心配いらない。
 隣に立つこの嫌味ったらしい子爵がこの上なく頼もしい。
 二人揃えば何者にも負けない、そんな自信を得られるほどに。

 一方のワルドも心地よいリズムに酔っていた。
 ガンダールヴはラ・ロシェールで試したときなんかよりもよっぽど強くなっている。
 クロムウェルと対峙していたときの不気味さなぞなんのその。
 殿下を連れて逃走することも、一秒も早い退避も必要ない。
 雨のように降り注ぐ攻撃に一歩も引かず、すべて斬り捌いていく。
 二人揃えば恐れるものはない、そんな確信を得られるほどに。 

 そして演武は唐突に終わりを告げる。
 間合いを一メイルにおさめた才人の杖剣はメアリーの右腕を切り飛ばし、ワルドの杖剣は彼女の心臓を貫いた。

「ぁ……」

 か細い少女の声に、才人の胸は痛んだ。
 ワルドは心臓に突き立てた杖を右に振り切る。
 羽が落ちるように音もなく、黒髪の少女は大地に倒れた。

 熱狂に満ち満ちていた空間に、しんと静寂が落ちる。
 聞こえるのは英雄たちの激しい呼吸音だけ。

 一陣の風が吹き抜けた。

「は、はは」

 ロバートが笑う。生き残った皆は顔を見合わせた。
 ワルドはまだブレイドを解かない。じっと倒れた聖母を見つめている。
 才人は自分の手に残った、人の腕を斬った感触に震えていた。

 ウェールズが右手を夜空に突き上げた。

「アルビオン万歳! 始祖ブリミル万歳!!」

 誰もが答える。

『アルビオン万歳! 始祖ブリミル万歳!!』

 ようやくワルドも杖をしまう。
 才人はふらふらと歩き、ばったりと背中から倒れ込んだ。
 月明かりがヤケに眩しかった。

――右腕とは言え人斬っちまった。てか殺したも同然か……。

 自分がもう何か違う存在になってしまったのではないか。
 そんな思いが才人の涙腺を刺激した。
 仰向けに倒れた才人の隣にどかっとワルドが片膝を立てて座った。

「ライトニング・クラウドの件はすまないね」
「痛かったよ、ぜってーゆるさねぇ」
「杖を並べて戦った戦友だろう? 笑って許すのが礼儀さ」

 ははは、とワルドは笑う。
 ウェールズもそうだがどうしてこうハルケギニア貴族は軽い笑いが似合うのか、才人は考える。
 自分がそんな笑いをしても全然似合わないということしかわからなかった。

「死体を焼け、今度こそ影の一欠けらも残すな」
「はっ」

 三名のメイジが倒れた彼女に近づいた。
 人が火葬される。そんな光景を見たくなくて才人は隣のワルドを見た。

「あんた、裏切ってなかったんだな」
「密偵というヤツさ。それにアレらは母の仇だ」

 それも終わったが、と寂しげに呟く。新たに生まれた炎がその横顔を照らした。
 パチンと火が爆ぜる。

 身体を一刀両断にされたかのような、凄まじい悪寒が才人を襲った。

「逃げろッ!」

 何故、どこに、どうやって。
 そんな疑問お構いなしに才人は叫びながら杖剣を構える。新たに生まれた焚火、メアリーの体に向かってだ。
 ワルドも咄嗟に立ち上がり杖を構える。

 彼女を焼いていた三名は反応できなかった。
 悲鳴ひとつあげず、突如現れた浄化の炎すらかき消す冥闇に飲み込まれた。

「あ……」

 降臨したのは、三メイル程度の不可思議な獣だった。
 馬をはじめとし、地上に存在する尋常の生物は偶数本の足を持っている。幻獣や、虫の類であってもそれは例外ではない。
 だというのにそれは三本脚だった。
 二本の脚に肥大化した尻尾というわけではなく、直線でつなげば三角錐となるような真実三本脚だった。いずれの脚にも蹄らしきものがついている。
 大地をあまねく照らす始祖の恩恵をも犯さんとする名状し難い色の体。均質でなく、ありとあらゆる背徳がその肌にひしめいている。
 長い腕に指は三本、顔と思しきところは杳として知れず計り知れぬおぞましさのみが立つ。
 頭にはメアリーの長髪が固まったような、長い奇妙な生物の触手めいたものを一本ぶら下げていた。

「つ、月に……」

 ウェールズは端正な顔を真っ青にした。
 彼は知っている。この姿はかの邪神がとる姿だ。
 思えばあの少女は一度たりとも積極的攻勢には出なかった。迎撃に徹していた。

 つまり、この瞬間まで、彼らは遊ばれていたことになる。

 筆舌に尽くせぬ、この世ならざる雄叫びがアルビオンを揺るがした。


***


「おーがんばるなー」

 名もなき魂が消えた空間、褐色の肌を持つ少年は感心したようなため息をついた。

「影の影の影くらいだから、千那由多分の一くらい? もっと低いか」

 視線には歪んだ空間の先、そこからは激戦を終えたニューカッスル城が見える。

「でもなんであの程度で倒したなんて思えるんだろ」

 三本脚の獣が城のそばで生まれた。

「しかし、元人間のくせにブリミルとやらもがんばるなぁ。意味ないのに」

 あ、もともと意味なんていらないかと呟いて、再び少年はフルートを吹きはじめる。


***


「ミス・ヴァリエール。いかがなされました?」
「三人がいないの」

 避難船が出発してしばらくのこと、ピンクブロンドの髪をなびかせてルイズは早足で隅々まで見て回った。厨房から倉庫まで、何度も同じところを探しまわった。
 それでも彼女の求める人たちはいない。
 才人、ワルド、メアリーの三名はどこにもいない。

「私は見ていません」
「わ、わたしも知りません」

 表面上はいつも通りの顔をしたミス・ロングビルも、うっすらと恐怖しているようなティファニアも彼らを見かけていなかった。

――サイトどこ行ったのよ、まさか乗り遅れて今もニューカッスル城なんてことは……。

 グリフォンがいるワルドはまだしも、ガンダールヴとはいえ平民の彼には脱出手段がない。
 それに、そのワルドも様子がどこかおかしかった。
 さらに言えば、メアリー・スー。彼女の存在が重く影を落としている。

『ロシュフォール家の長女はかの邪神に連なる可能性が高いです。お気をつけて』

 どの深度までかかわっているか、という重要な情報がない以上判断しにくい。
 だが虚無の担い手見習いとして、ルイズは嫌な予感に包まれていた。

「ティファニア様! “伝声”によるとアルビオン軍が二度にわたり敵を撃破! ウェールズ殿下ジェームズ陛下御健在とのことです!」
「ぇ、よかった……」

 駆け寄ってきた伝令の報告にティファニアは安堵の涙をぽろぽろこぼしてしまう。
 マチルダはティファニアの肩を抱いて背中をさすってやる。
 喜ぶべき勝利の報告だ。だというのにルイズの不安感は消えない。むしろ大きくなっている。

 不意にルイズの視界が滲んだ。
 涙などではなく、左目の視界がぼやけている。

「あれ」
「ミス・ヴァリエール?」

 ルイズはハンカチで瞼をこすった。
 何度か瞬きしてみるも変わらない、だんだんはっきりとした視界になっていく。
 ワルドの姿が目に入った。ここにいないはずの姿に、ルイズはある意味納得した。感覚共有だ。
 同時に浮かぶ疑問、なぜ今なのか。

 その時だった。
 この世全ての生物を呪わんとする絶叫が轟いたのは。ばたばたと避難船の人々が倒れていく。意識を保っているのはメイジだけだ。
 さらにルイズは、信じられない光景を目にした。

「月に吼えるもの……」

 無理だ。勝てっこない。今の彼らではどうあがいてもアレを打破できない。

「“伝声”で伝えて、殿下たちに逃げてって伝えて!」

 ルイズの泣き叫ぶような声に兵たちは反応できない。
 何が起きたのかもわからないのだ。

「はやくして!」
「はっ!」

 船の上とはいえトリステイン大使、ましてや公爵家の三女だ。
 一瞬悩んだ兵はすぐに詠唱する。

「ダメです、通じません!」

 今度の悲鳴じみた声はその兵からだった。

「魔法は発動してます、まるで世界から切り離されたみたいに通じません!」
「なんてこと……」

 ぐらりと倒れかけたティファニアをマチルダが支える。

――どうすればいい。どうすればいいのよ!

 ルイズは必死に考える。
 勝機がない、それこそアリがマンティコアに挑むようなものだ。
 ウェールズ、才人、この二人はなんとしてでも救い出さなければならない。
 王家の血を色濃く継いだウェールズは、これからのハルケギニアを覆う闇に抗するためなくてはならない存在だ。
 それに、才人はルイズが無理やり異なる星から引っ張ってきた客人だ。
 巻き込んだ自分が死ぬのはいい。けれど彼が、涙すら包み込んで優しく抱きしめてくれた少年が死ぬのは、ルイズには耐えられない。

――始祖ブリミルよ、天啓を!

 果たして、祈りは届いた。
 唯一の解法をルイズは得る。

「ミス・モード、サモン・サーヴァントをお願いします」
「……え?」
「召喚のゲートなら、うまくすれば生き残りを脱出させられます!」

 黒髪の少年、平賀才人はガンダールヴだ。
 ならばその前に最後のゲートが現れるのは必然。
 一か八かの賭けになる。
 始祖が祈りに応えてくれることを願うしかない。

「早く! あなたが殿下を救うのです!」
「!」

 ティファニアの長い耳が揺れた。
 マチルダは何も言わない、ただ姉のような眼差しで彼女を見守る。
 ハーフエルフの少女は一度目を閉じ、深呼吸した。

「わかりました、やります」

 開かれた瞳に、もはや怯えはなかった。


***


「なんだよコイツは!」
「僕に、聞くなッ」

 双月への咆哮は、ギリギリのところでもちこたえていた人間の正気を軒並み刈り取った。
 死ねた者はまだマシで、今も地面の上を無様に悶えている者も多い。
 その瞳はもう何も映さない。昏い狂気しかない。

「これで、最後とッ! 願いたいね!」

 人知の及ばぬ狂敵と三連戦、すでにウェールズの精神力は限界だった。
 立ち上がり、相手に対峙しているのはもう十名しかいない。

 三本脚の生き物はメアリーと違い直接的な攻撃しか行わない。
 その長い腕を振り回すか、脚で踏み砕くか、はたまは蹴り飛ばすか。
 先ほどの常識はずれな手数の多さはなく、回避もまだ容易かった。
 にもかかわらず状況は絶望的だった。

「これ、効いてんのか!?」
「本人に、聞いてくれッ」

 幾度となく魔法を浴びせても反応ひとつ返さないのだ。
 それどころか才人とワルドが斬りかかっても容易く貫通する、だが切断はされない。
 相手の攻撃は確かに大地を砕いているのにこちらからは一切干渉できない。
 幽霊よりも底知れない相手だ。

――これは、勝てないな。逃がしてもくれなさそうだが。

 この場にいるものは、大体がそう考えていた。
 才人とワルドは接近戦から十メイル近く距離を取る。
 相手は何を思っているのか、顔らしき部分で月を見上げている。

「あのさ、顔っぽいの、あやしいよな」
「そこしか、あるまい」

 肩で息をしている二人の勇者はお互いの顔を見ることなく不敵に笑う。
 いざ、と踏み出して斬りかかるも手ごたえはない。
 この激しい剣舞の中で隙を見つけねばならない。高さ三メイルの的を攻撃できるくらいの刹那を。

 だが才人も疲労がたまっている。
 攻撃の余波で抉れ飛ぶ岩石にあたり、ごろごろと壁際まで転がってしまう。
 そして致命的な隙を、敵に背中を晒してしまう。

――ヤバい!

 その時のことだ。

「へ」

 音もなく銀のゲートが才人の前に現れた。
 表情もわからぬ獣が嘲笑った気がした。

 この鏡のような物体が何なのか、わからない程愚鈍なものはこの場に生きていない。
 誰かが使い魔を召喚しようとしている、それもガンダールヴを。今ハルケギニアでガンダールヴを召喚できるのは一人しかいない。
 最後の虚無、ティファニア・モードだ。

「ゲートを守れぇえええ!!!」

 ウェールズは絶叫した。
 それに呼応するかのように獣は進撃を開始する。銀のゲートを目指して、虚無の担い手を始末するために。

 次々と生き残りの貴族がブレイドを唱えて獣に斬りかかった。
 あるものは薙ぎ払われ、またあるものは踏みつぶされた。数合持ちこたえるものもいれば瞬時に蹂躙されるものもいた。
 だが誰もが奮い立ち挑みかかっていく。
 このゲートはまさにハルケギニアだ。これをくぐらせれば、世界は闇に包まれる。

 才人も向き直り杖剣を大上段に構える。
 アニエスとコルベールに教わったとは言え、彼は剣術に詳しくない。
 ただ大きな相手だからと剣を上に構えただけだ。

「君はそっちだ」
「え……」

 トン、と軽く腹を蹴られた。
 才人には見せたことのない優しげなワルドの微笑み。

「この星を頼む」
「そんな!」

 才人の体はずぶずぶとゲートに吸い込まれていく。
 ワルドは素早くペンダントを引きちぎり、ゲートに投げ込んだ。

「御無礼!」
「げはっ!?」

 ロバートも追随してウェールズにエア・ハンマーをぶつける。
 そして二人を飲み込み、銀のゲートは宙に溶けた。

 場に残されたのはロバートとバリー老、そしてワルド。
 いずれ劣らぬ風のメイジ、アルビオンの最期を飾るにはふさわしい。

「未来は殿下と少年に託した。逃げる精神力もない」
「往きましょうか」
「ええ、始祖ブリミル万歳!」

 三人は笑ってブレイドを唱える。
 敵に背を見せない、真の貴族の姿がそこにあった。


***


「さて、終わりが来たようですな」

「ああ、だがアルビオンは滅びぬ。ティファニアがまだいる」

「愚かな。聖母様がおられる限りハルケギニアに未来はない」

「そうでもないさ」

 クロムウェルに対して、ジェームズ一世は穏やかに笑う。

「六千年も我らが祖先は凌いできたのだ。これからもできる」

「……希望的観測はとめませんがね」

「では、お別れだ」

「我らが神のみもとで歓迎しましょう」

「断る、朕が向かうのは始祖ブリミルの下よ」

 杖を一振り、唱えるは「発火」。
 ニューカッスル城は白光に包まれ、轟音と共にこの世界から姿を消した。


***


 才人とウェールズは避難船の甲板に重なって倒れ込んだ。
 素早く立ち上がろうとしたが二人とも満身創痍で体が言うことを聞かない。特に才人は武器を手放しており、ガンダールヴのルーンが働いていない。
 激烈な痛みに絶叫しそうになった。

「お兄様!」
「殿下、ご無事で何よりです」
「ここは」
「避難船の上でございます」

 ティファニアがウェールズを助け起こし、ルイズは才人を壁にもたれさせた。

「サイト、ワルド様とメアリーは?」

 その言葉に才人は何も返せない。自分が倒れこんだ場所にあったペンダントが目に入る。

 その時爆音が轟いた。ニューカッスル城を赤々と炎が包んでいた。

「父上……」

 ウェールズの呟きが風にとけた。ティファニアは従兄弟の胸に飛び込み嗚咽を漏らした。
 すべてを察したのか、ルイズは唇を強く噛む。

「くっそ、ちくしょう……」

 怒りと悲しみと悔しさの入り混じった涙が、少年の頬を濡らした。



 この日より、ハルケギニアに月亡き夜よりも昏い時代が訪れる。






[29710] 後書き+If 編
Name: 義雄◆285086aa ID:b6606328
Date: 2012/06/19 21:28
後書き+If編

 というわけで第一部「メアリー・スーに祝福を」終了です。
 最後の二話が読んでて非常にきつかったと思います、お疲れ様です。
 ブラックとして書いたものをチラ裏に投稿して、自分で読み返して「後味悪すぎだろコレ」と思って前後逆転。
 すると一転コメディ調に、反響が大きくて驚きました。そして一発ネタのつもりを急遽続きものにしました。
 この第一部エンディングを思いついたのもゼロ魔板に移るとき、いきあたりばったりです。

 少し期間をおいて第二部「始祖ブリミルの祝福を」をはじめます。
 ラスボス化したメアリーとハルケギニアとの大戦です。
 今までのラヴコメディが好きだった人は、残念ですが全く作風が変わります。
 救いようがないほど絶望的シリアスです。またダーレス的にもなります。
 板はこのまま利用しますが、タイトルを「始祖ブリミルの祝福を」に変えるのでラヴコメを求める人はのぞかないことを推奨します。
 また世界観融合でオリ設定の大安売り、そういうのが無理な人も読まない方がいいかと思います。

 最終話で疲れたーという人はチラ裏の各種一発ネタや「空に挑む」「トリスタニア納涼祭」で心を休めてください。

 このままではあまりに救いがないので、If短編を下に載せておきます。
 触りだけですが、もしメアリーが邪神に弄ばれなければどうなったかという短編です。




ジョン・フェルトンに幸福を

A. D. 6088

 この日記帳には我が娘のことのみを記す。
 今日は非常にめでたい日だ。
 我がロシュフォール家に初めての子供が生まれたのだ。可愛らしい女の子だ。
 名前はメアリー・スー。
 口元は私に似ており、目元が妻に似ている。
 妻も意識ははっきりしており、経過は順調だ。
 それに昨夜夢の中で始祖ブリミルが現れた。
 この子は間違いなく素晴らしい子どもに成長する!

**

 メアリーに髪が生えはじめた。
 アルビオンに連なる峰々、その頂上にかかる雪のように白い。ハルケギニアでは非常に珍しい髪の色だ。
 すでに目も開いており順調に育っている。
 ただ、青い瞳と白い髪、そして異常と感じるまでの肌の白さ。親としては少し不安だ。
 それにメアリーは普通の赤子と比べてあまり泣かないようだ。
 手がかからないのは良いことだ、と妻は言っているが元気に育ってくれるか。
 定期的に医者に見せた方が良いかもしれない。

**

 メアリーが寝返りをうった。
 もうしばらくすればハイハイもできるようになる、とは乳母の言葉だ。
 それ自体はめでたいことだ。
 しかし私は奇妙なことに気付いた。
 寝返りをうったとき、メアリーの右目が赤くなったような気がしたのだ。
 ひょっとしたらメアリーは月目なのかもしれない。
 少し注意して様子を見よう。

**

 間違いない、やはりメアリーは月目だ。
 ハイハイをした記念すべき日なのだが素直に喜ぶことはできない。メアリーは激しい動きをするとき右目が青くなるようだ。
 通常の月目は常に色が違うと聞く。これは異常なことではないだろうか。
 アカデミーの連中やロマリアの坊主どもに見つかってしまっては危険だ。
 後で妻に相談しなければならない。

**

 記念すべき日だ!
 メアリーがはじめて喋った!!
 たどたどしい言葉ではあったが確かに「パパ」「ママ」といった。
 この歓びは文章にあらわせない。
 使用人たちには特別に上等なワインを振舞ってやろう。
 メアリーがあまり泣かないものだから言葉に障害があるのかも、と一人悩んでいたのだ。
 今日はよく眠れそうだ。

**

 メアリーの声は天使のようだ。
 素晴らしい、あの声を一日中だって聞いていたい。
 まだ意味の通ることはあまりしゃべらない。この時期の言葉はそういうものだ、と乳母は言うので心配ないだろう。
 私が笑いかければあの子は愛らしい笑顔を返してくれる。
 月目に関しては個人的によくしている司祭に相談した方が良いかもしれない。

**

 メアリーが生まれて一年と少しがたった。
 すでに屋敷の中を歩き回れるようになり、運動面では問題ないようだ。
 メアリーはよく喋る。人がいるところでも、いないところでもおかまいなしに喋っている。意味が通っていることも時折喋るようになってきた。
 司祭に相談すると「祝福の子」かもしれないという助言をくれた。ふとした拍子に月目と変じるのはその証左だというのだ。
 一度ロマリアに連れて行った方がいいかもしれない。

**

 メアリーがマトモに喋れるようになった。
 喜ばしいことだ、諸手をあげて喜んでしまう。メイドに見られた、誰にも言わないよう念押ししておく。
 私たち夫婦は始祖ブリミルの恩恵を一身に受けているに違いない。
 メアリーの誕生以来の子供を妻は授かった。
 きっと一年後にはこの日記もさらに歓びに満ちるだろう。

**

 あれから一年がたった。
 長男はゲイリー・スーと名付けた。姉弟で似た名をつけたのは仲良くあってほしいという願いからだ。
 メアリーは流暢に喋るようにはなった。女の子らしい控えめな言葉で、見ているだけで微笑んでしまう。
 メアリーは始祖が遣わした子に違いない。
 読書が好きな彼女のために大きな聖堂付きの図書室を建てよう。
 始祖ブリミル様、どうか我が娘をメアリーをお見守りください。
 妻と二人で日々祈っています、繁栄を賜るようお願いします。

**

 来るものが来たか、という思いだった。
 五歳の誕生日、メアリーが魔法の練習を願い出てきたのだ。
 予想をしていなかったわけではない。しかし、こういってはなんだがまだ早いような気がするのだ。
 メアリーは確かに賢い子だが、魔法というのは危険な一面もある。
 言い含めると意外なまでに素直な様子だった。
 図書館も完成した。聖像も枢機卿が祝福を施した聖なる銀を元に素晴らしいものを用意した。
 メアリーは大喜びだった。妻もその姿を嬉しそうに見守っていた。
 その内家族でロマリア旅行もいいかもしれない。

**

 メアリーは図書館にこもりっきりだ。
 これではいかん、と私も妻も積極的に遠乗りに連れて行っている。あまりに室内にこもりすぎるとよくない、と昔の本に書いてあったのだ。
 六歳の誕生日、メアリーは再び魔法練習を願い出た。
 正直な話、まだ教えたくはない。
 だがこの前妻に「貴方が過保護なだけです」と叱られたので今日から魔法を教えた。
 メアリーはその愛らしい瞳をキラキラ輝かせて楽しそうに学んでいる。妻の方が正しかったようだ。
 白すぎる肌、白い髪、青い瞳と神秘的な外見は今でも始祖が遣わされたようにしか見えない。
 来月知り合いの司祭のツテを訪ねるのと同時にロマリア観光にいこう。

**

 七歳の誕生日、メアリーはなんとラインに到達した。
 素晴らしい、まさに祝福の子だ。
 ロマリアでも「この子はまさに祝福を授かっている」と枢機卿のお墨付きを頂いた。
 ゲイリーも健やかに育っている。
 メアリーの代でロシュフォール家はこれ以上ない発展を遂げるだろう。

**

 気が付けばメアリーが生まれて十四年がたつ。本来ならば魔法学院にいれなければならない。
 だが私は入れたくない。
 メアリーはあっという間に親である私を抜いてトライアングルになったのだ。
 魔法学院の生徒は良くてライン、トライアングルなど数えるほどもいない。やっかみからイジメの対象にならないかと不安なのだ。
 するとまた妻が「貴方は過保護すぎます」と言ってきた。
 これくらい普通だと思うんだが。

 妻は嫁入り相手も探さねば、というがそんなことはできない。
 あんな可愛い娘を嫁になどやるものか!
 今私はオールド・オスマンに手紙を書いている。
 今までにあったことをすべて余さず記した。
 もしメアリーが虐められるようなことがあればどうなるか覚えておけ、という内容だ。いざとなれば学院まで怒鳴り込んでやろう。

 始祖ブリミル様、なにとぞメアリーのことをお願い申し上げます。

 我が娘、メアリー・スーに祝福を。





[29710] 動乱のはじまりを
Name: 義雄◆285086aa ID:b6606328
Date: 2011/11/05 01:21
 アルビオンの激戦から避難船、イーグル号は無事脱出してラ・ロシェールに漂着した。
 異形の咆哮は凄まじく、一人残らず平民の意識を刈り取っていた。
 メイジが全力で仕事に取り掛からなければ墜落していたに違いない。

 到着後すぐにルイズは竜籠を呼び寄せ、トリスタニアに直行した。
 乗せるのはウェールズ、ティファニア、才人と彼女の四人だけ。
 マチルダは残って平民の介抱やアルビオン亡命政府として何をすべきか、という方針をあらかじめウェールズに同行させる予定だった若き家臣団とたてている。
 馬車が確保できればすぐ王宮に向かうとだけ告げて彼女はフネに戻っていった。

 竜籠に乗って、才人にはそこから先の記憶がない。
 疲れ果てて深い眠りに落ちてしまったのだ。
 ルイズもウェールズもそんな彼を無理に起こそうとはしなかった。
 ウェールズは彼の活躍を目にしていたため、ルイズもティファニアも直接見たわけではないが、彼が人智を超えた戦いに身を置いていたことをわかっている。
 今はただ英雄に休息を、という思いで子どものように眠る彼を見守っていた。

 次に才人が気づいたのは魔法学院に着いてから。
 やわらかな日差し、近づく夏の薫を運ぶ風、楽しげな喧騒、のどかな日常の光景に才人はそれだけで涙がこぼれた。
 しかし、同時に激しい動揺にも襲われる。
 メアリーが、一人の女子生徒が行方知れずとなっているにもかかわらず、変わらない同級生たち。
 あたかも彼女が最初からいなかったように振舞っているそれはどこか作り物めいていて、彼がいなくなった高校のことを連想させ、とてもではないが平静を保てなくなった。

 それから、才人は鍛錬に励むでもなく、厨房を手伝うでもなく、ぼんやりと抜け殻のように時を過ごした。
 彼とよく喋っていたシエスタはじめ、誰が話しかけてもどこか気のない返事をかえすだけ。
 ルイズは彼にニューカッスル城で何があったかを決して聴こうとはしなかった。
 ウェールズからすべてを聴いていたこともあるし、目の前で戦友を失った彼の悲しみを慮ることがかなわないということもある。
 たまに小さな勇気をかき集めてルイズが話しかけても上の空でロクな返事もしない。
 ルイズもルイズで亡くした婚約者のことで整理がついていない。
 ワルドに対して抱いていたこの気持ちが憧れだったのか、恋心だったのか。
 それも今ではわからない。
 握りしめたワルドのペンダントは何も教えてくれない。
 死者に向けるべき心が、幼い彼女には想像できなかった。

 アルビオンに行く前は、二人で夜の会話をゆったりと楽しむこともできていた。
 それが今やほとんど沈黙を保った関係。
 そんな、同室にありながら他人のような距離感で、才人とルイズは時の流れに身をゆだねていた。
 互いに時間を必要としていた。





――動乱のはじまりを――





「諸国会議?」
「ええ、サイトにも出てもらわないといけないの。むしろあなたが来ないとはじまらないわ」

 三日間、才人がようやくマトモに動けるようになったのはそれからだ。
 疲労や肉体的な損傷のせいもあったが、精神的にやられていたせいで回復に時間がかかっていたのだ。

「それってトリスタニアで?」
「違う」

 彼の復活を待っていたように飛び込んできた会議の知らせは、入り口でじっと待っている青髪の少女、タバサがもってきたものだ。
 人形めいた、どこか無機質な瞳に射抜かれて才人はたじろいた。

「は、はじめまして」
「……はじめまして」

 ペコリと才人が一礼すればタバサも軽く頭を下げる。

「なにやってんのよ」
「いや、なにってあいさつかな?」
「挨拶」

 ルイズに視線をうつさずタバサは答える。
 すぐに沈んでしまったが、その眼に小さな好奇心と期待感、極々わずかな敵意が浮かんでいたのにルイズは気づいた。

「サイトに何か用?」
「別に」

 素っ気ない返事だが、視線はしっかり固定されている。
 ルイズからすれば何か用があるようにしか見えない。
 才人はなんとなくひらひらと手を振った。
 タバサも無表情のまま、杖を抱えていない左手でぱたぱた返した。
 ルイズは常の彼女をちょっとだけ知っている。
 こんな誰かの仕草を真似ることはしなかったはずだ。
 ためしにルイズも手を振ってみる。

「……」
「どうしたんだルイズ?」

 タバサは何も反応しない。
 じっと才人を見つめている。
 その視線に気づいた才人が人差し指で頬をかけば、彼女もそれにならった。
 まるで親の行動をなぞる子どもみたいだ、とルイズは思う。

「仲いいわねあんたら……」
「そ、そんなことないぞ?」
「そんなことない」

 才人が返せばタバサもすぐそれに追随する。
 ピクリとルイズの心がうずく。

「へぇ、そうなの、ふぅん、そう」
「ホントどうしたんだよルイズ」
「別に、ご主人さまそっちのけでずいぶんと仲が良いなぁって思っただけよ」
「やきもちやき」
「違うわよ!」

 ルイズは反論したが、タバサの指摘は正しかった。
 この三日間ほとんど会話をしていない使い魔と、初対面の少女が仲良さそうに見えたのが気に入らなかっただけだ。
 ほんのささやかな、才人を召喚したのは自分だという幼い独占心のあらわれにすぎない。

「サイトが変なことするから話がこじれたじゃない」
「俺かよ!?」

 ちくっと使い魔に文句を言う。
 才人から帰ってきた言葉がアルビオンに行く前のような生き生きとしたもので、ルイズはそれに少し安心した。

「それよりもその諸国会議だっけ、どこでやるの?」
「そうだわ、リュティスまでどうやって行くのよ。竜籠でも呼んでるの?」
「わたしの使い魔に乗っていく」

 タバサが窓を指させば、遠くで青い竜が気持ちよさそうに空を舞っている。
 イルカのような鳴き声が聞こえた。

「キュルケを連れてくるからそれまでに支度して」
「ツェルプストーを?」

 実家がお隣の、お世辞にも仲が良いとは言えない女子生徒の名前にルイズは眉をひそめた。

「なんでツェルプストーが諸国会議に出るのよ」
「諸国会議は関係ない」
「じゃあなんでよ」

 部屋から出て行こうとしたタバサはくるりとルイズに向きなおり、言った。

「ここは、彼女にとって危ない」
「なにそれ?」

 答えることなく、青髪の少女は退室する。

「つぇ、ツェルなんとかって?」
「ゲルマニアの留学生よ。派手でイヤな奴」
「はぁ」

 あれ、と才人は首をかしげた。
 ルイズは良い子だ、理由もなく他人を貶めるようなことは言わない。

「平民貴族は平時に効率的なのは認めるけど、ゲルマニアは先のことを考えてないわ。始祖ブリミルを軽んじるにもほどがある……!」

 ギリギリと歯ぎしりしてルイズはすごい形相だ。
 なにか事情があるのかしら、と考えていると当の本人がやってきた。

「ハァイ、邪魔するわよ」

 褐色の肌が健康的な長身の美女だ。
 胸元なんてルイズや隣に立つタバサとは比べ物にならない。

――確かに派手な感じはするけど。

 ルイズの同級生が放つバカにするような、嫌味な雰囲気を一切感じない。

「邪魔だから帰って」
「つれないわね、ヴァリエール」

 それどころか気安そうにルイズにしなだれかかってみたり。

「そんなツンケンしないの、部屋も領地もお隣じゃない」
「部屋がお隣だからこの程度ですませてやってるっていうのに!」

 ぎゃーぎゃーわーわーと騒ぎ出す始末だ。
 才人はこっそりタバサの傍に近寄って聞いてみる。

「……なんか、仲いいな」
「お互い照れ屋だから」

 なるほどと合点した瞬間、二人がばっと振り向いた。

『違うわよ!』

 重なった声にお互い顔を見合わせて、悔しいやら腹立ちやらごちゃごちゃとした感情を顔に浮かべた。

「なかよし」

 タバサは一人満足げ。

――この子は将来大物になりそうだ。

 見た目幼い彼女は二人の横を通り抜け、窓を開け放つ。
 甲高い口笛の音が響き渡り、遠くで遊ぶように飛んでいた風竜がやってきた。

「乗って」

 少し強制力を込めたその言葉に三人は大人しく従う。
 才人は手ぶら、大きな荷物は何もない。
 ルイズもキュルケも少し大きな革カバンにおさまるくらいしか持ってこなかった。

「荷物それだけ?」
「ええ、何日も向こうにはいないし、風竜で移動ってことは急ぐんでしょ?」

 タバサは振り返らずコクリと頷いた。

「ところで、なんであたしを呼んだのよ」
「友達だから、危険なところにはおいていけないわ」

 キュルケの問いかけに、彼女は少しだけ長めに返す。
 微熱の二つ名を持つ少女はきょとんとして、タバサの言葉が何を意味するのかまったく理解できない。

「シルフィード」

 使い魔に声をかけ、空の旅がはじまった。
 青い竜はすごい速度で空を進む。

――ジェットコースターみたいだ。

 流れていく景色に目をうばわれながら才人はそんなことを考えた。
 手はしっかりとシルフィードの背にある出っ張りをつかんだまま、ルイズとキュルケは比較的リラックスしているが彼にはマネできそうにない。
 シートベルトが欲しい、と思いながら無理やりあぐらをかいた。
 タバサの使い魔は才人が想像していたよりもずっと安定した飛行を見せ、馬車の方がよっぽど揺れを感じるほどだった。
 それに移動するときに必ず起きるはずの風は、かなりの速度と裏腹にあまり感じない。
 風防みたいな魔法があるのかな、と才人は一人考えた。
 しばらく飛べば遠くに輝く大きな湖が見えた。
 そんな中、キュルケはずりずりと膝立ちになって才人に近づく。

「あなた確かルイズの使い魔よね、名前は?」
「平賀才人。こっち風でいうとサイト・ヒラガなのかな。好きに呼んでくれ」
「へぇ。見ない髪の色と顔立ちだと思ったらハルケギニア出身じゃないのね。サイトって呼ばせてもらうわ。あたしはゲルマニアのキュルケ・アウグスタ・フレデリカ・フォン・アンハルツ・ツェルプストー。特別にキュルケって呼んでもいいわよ」

 大体の貴族がそうであるような、平民を見下した喋り方ではなかった。
 才人を観察する目も陰湿なものを感じない。
 三角座りをしたルイズがじとっと横目で釘を刺す。

「サイト、そんなヤツと喋っちゃダメよ」
「あら、心の狭い主人を持つと大変ね」

 口元に手をあててキュルケはころころと笑った。

「あんた男漁りはやめたんじゃなかったの?」
「自己紹介しただけで男漁り扱い? ヴァリエールはホントお高くとまってるわね」
「淑女は紹介されるまで待つものよ」
「そんなだからヴァリエールからは男が逃げていくのよ」
「あんたらが奪っていってるんでしょ!」
「奪った覚えはないわ、向こうから勝手に来るんだから」

――なんで俺を挟んで口論しだすんだ。

 才人は視線でタバサの背中に救助信号を送ってみた。
 彼女は背中に目がついているわけではないのでまったく気づく様子がない。
 黙々とページをめくっている。

「そもそも初対面の男に名前呼びを許すなんて、信じられないわ」
「実力を認めた殿方だもの、いいじゃないそれくらい」
「なによそれ」
「サイト、確かギーシュを倒したでしょ?」

 ルイズはようやくキュルケにまっすぐ顔を向けた。

「それがどうしたの」
「それがどうしたの、ですって! 平民でしょ? 平民がメイジを倒すってすごさをわからないっていうの!?」

 あ、とルイズは盲点を突かれた気がした。
 才人がガンダールヴである、と知る人物は少ない。
 魔法学院ではコルベール、アニエス、オスマン、タバサの四人だけだ。
 トリステイン中という話になっても両手の指で数えられる。
 ルイズの父親であるヴァリエール公爵すら知らない秘中の秘だ。
 それ以外はただの平民だとしか思っていない。

「サイト、こんなご主人様よりあたしに仕えない? 今なら恋人としてでもかまわないわよ」

――ああ、腕に! 腕に!

 右腕がキュルケのやわらかい二つの物体に挟まれている。
 思わず突起にしがみつく力がゆるんでしまう。

「あててるのよ」

 続いてふっと耳元に囁きかけられ、才人は耳まで赤くなった。

「ちょっと!」

 流石にルイズもこれ以上は黙っていられない。
 左腕を自分のほうに抱き寄せようとし、ついとキュルケと見比べてしまった。

「……」
「な、なによ」
「……いいわよ、まだ成長の余地があるに違いないんだから!」

 彼女はおっとりとした姉の姿を思い描いた。
 自分もああなるはず、という根拠のない自信に満ち溢れている。
 ルイズが胸に手をあてた瞬間、ワルドのペンダントが微かに震えているのに気づいた。

「来た」

 一行は湖の直上に差し掛かる。
 パタンと本を閉じ、タバサが硬さを感じさせる呟きを放ったのはその時だった。
 シルフィードがその声に合わせて大きく右に傾いだ。

「なッ」

 その動作に、三人は慌てて竜の背に抱き着く。
 続けざまの急降下で喋る余裕はない。
 視界の端を炎が過ぎ去っていくのが才人には見えた。
 必死にしがみつきながら後ろを見れば黒っぽい竜と、黒いローブで全身を包んだ二人が見えた。
 距離はおおよそ三十メイルほど。

――どこから沸いて出たんだ!

「魔法は!?」
「無理!」

 ラインスペルやドットスペルであろうと、魔法というものは直撃すれば大けがを負う。
 連続した魔法に大きな体のシルフィードは回避する他ない。
 純粋なスピード勝負なら青い風竜が圧勝しただろうが、荷物の量が違う。
 振り切るのも曲芸飛行で後ろを取るのも難しい。

「キュルケ!?」
「ムリ!」

 使い魔に指示を下しているタバサも、その背中に焦燥をまとわりつかせているように見える。
 上昇と下降を繰り返しながら徐々につめられるのが才人にもわかった。
 彼我の距離は十メイルほどに狭まっていた。
 間断なく放たれる魔法はいよいよ激しさを増していく。

――どうすりゃいいんだよ!

 才人の内心を意に介さず、敵は交互に炎と氷を放つ。
 
「来た」

 耳に入ったタバサの呟きは歓びに溢れていた。

「……鳥?」

 ぽつぽつと空を染めるのは黒い点、才人はそれを鳥の群れだと最初は思った。
 だがジグザグ飛行をやってのけるシルフィードの上で目を凝らしているとどうも違うように感じる。
 翼を広げても大きすぎる、人間の大人くらいはありそうだ。
 先行した一体が急ターンして青い風竜と並行する。

『シャルロット様。虫を払います』
「よろしく」

 果たして、それは翼をもつ石人形だった。
 続いて何十体もの黒い影がすれ違っていく。
 ここで不安定な飛び方をやめ、シルフィードはまっすぐに姿勢を戻した。

「ガーゴイル?」
「そう、もう大丈夫」

 後方についていた黒い竜はガーゴイルにたかられ、すっかり速度を落としている。
 才人が振り返ったとき、丁度湖の上に墜落していくのが見えた。

「ああもう、聴きたいことが多すぎて頭がこんがらがっちゃいそう」

 キュルケは首を一振りして言った。
 タバサは振り向いて彼女の瞳をじっと見ながら答えた。

「リュティスについたら全部説明する」





 それからは襲撃もなく、一行は無事リュティスに着いた。
 途中で幾度か休憩をはさんだせいで夕焼けの美しい時間になっていた。
 石造りの建物が立ち並ぶ街の様子は、トリスタニアとさして違わないように才人は感じる。
 強いて言うなら道幅が広く少し古びているくらいだった。

 タバサは一言も喋らず人の流れをぬって進む。
 小さな彼女を目印にするのは普通ならばしんどかったに違いない。
 だが特徴的な青い髪がちらちら人ごみの合間に見えるので道に迷う心配はなかった。

――どういうことからしね。

 キュルケは一人考える。
 タバサは、彼女の友だちはそもそも名前からしておかしい。
 人形やペットの類につけるような、ありふれすぎた名前なのだ。

 そして目印になるほど目立つ鮮やかな青髪。
 あれほどの髪色が出るのは、彼女がガリア王家に近しい存在だからではないかとキュルケは考察している。

――もう少し待ってあげる。

 友人の内心を知ってか知らずか、タバサは歩調をゆるめることなく街を歩く。
 やがて貴族街にさしかかり、それでもずんずん進んでいく。
 長い影を踏みながら振り返れば、才人の目に眩い夕日が突き刺さった。

「どこに行くんだ?」
「宿泊場所、会議は明日の朝から」

 才人の質問にもそっけなく答えた。
 ふむ、となんとなく彼は呟いて、考えても仕方ないから黙々と歩くことにした。
 ルイズもキュルケも喋る気配はない。

 周りの景色が建物一色から緑地や庭園が混じりだしてからしばらくたち、タバサは立ち止まった。
 目の前には威圧的な城壁と堀にかかった跳ね橋、門番をつとめる全身鎧を身に着けた衛士が四名長鉾を交差させている。
 タバサはゆうゆうと彼らに近づき、一言声をかけた。

「戻った」

 それだけで四人の衛士は微塵のぶれもなく鉾を引いた。
 その間をタバサは何事もなかったように歩き、三人もそれに続いた。

――え、ナニコレ。

 才人は信じられないものを見た気分だった。

――もしかして、タバサってめちゃくちゃ偉い人?

 気安く接してきたのを軽く後悔してしまう。
 だが彼のご主人さまも地位が高いということに気づいていない。

 城壁の内部はここが都市であると信じられないほど美しい庭園だった。
 芝生は綺麗に刈り込まれ、見事な花をつけた植え込みが等間隔に並んでいる。
 近くを歩けば香りが鼻に届いてなんともいえない穏やかな気分にさせてくれた。

――ま、それもあとちょっとで話してくれるだろ。

 十分も歩いただろうか、薄桃色の建物が目に入る。
 一流の建築家が設計したであろう嫌味のない華美さをもつ小宮殿で、いわゆる「屋敷」のようなもっと質実なものを想像していた才人はまたも驚いた。

「従姉妹のイザベラが、王女が待ってる」

 振り返ったタバサの平坦な瞳は才人だけを見つめていた。





「おまえがガンダールヴか」

――意地悪姫さま。

 才人の脳裏に浮かんだのはそんな単語だ。
 大国ガリアの王女、イザベラは確かに美しい少女だ。
 だが目つきがとんでもなく悪い、胸も薄ければデコも広いと才人の評価は散々だった。

「何考えてるのさ?」

 その上言葉づかいまで悪かった。
 タバサと全く同じ色あいの髪と冠、青いドレスがなければ街の居酒屋で働いていても違和感がない。

――いや、居酒屋の店員さんだってもっと愛想いいだろ。

 とにかく才人のイザベラに対する第一印象は最悪に近かった。
 なんせ彼女は攻撃的な態度を隠そうとしていない。
 隙あらばぶん殴ってやりたいという気持ちが、少し鈍いところのある才人にもわかるくらいだ。

 タバサからこの部屋の前に案内され、他の三人はどこかへ行ってしまった。
 残された才人は渋々ドアをノックし入るしかない。
 入った瞬間そんな敵意をぶつけられれば誰だって不機嫌になる。

「俺はガンダールヴなんて名前じゃない。平賀才人だ」
「平民の名前なんてどうだっていいさ」

 嘲るような言葉がさらにイライラを募らせる。

「それで、俺に何の用なんだ」
「王女相手にその言葉づかい、まったくこれだから平民は……」
「いい加減にしろよ」

 流石にカチンときた。

「呼んだのはそっちのくせになんだよ」
「わたしは王族よ。平民は呼ばれたら尻尾振って駆け寄ってくるもんでしょうが」
「それが王族らしい人ならそれらしい扱いしてやるさ」
「ハァ?」

 才人が思い出したのはトリスタニアの王宮と、風の国での一幕。

「ウェールズ皇太子や姫さまを見習えよ」

 思わず口に出た才人の言葉でイザベラはさっと表情を変えた。
 獰猛な笑みが消えてどこか冷めた目で才人を見ている。

「は、アルビオン王族を救ったからって英雄気取りか」

 これ以上ここにとどまる意味を才人は見いだせなかった。 

「待ちな」

 無言でドアに向かう才人をイザベラは制止した。
 だが彼はそれを無視してドアノブに手をかける。

「待ちなさい」

 びくっと肩が震えた。
 それは先ほどまでの声とは全く違う、威厳に満ちたものだった。

「話はまだ終わってないわ」

 才人がゆっくり振り返ると、イザベラは幾分か穏やかな、しかしどこか自嘲するような笑みを浮かべていた。
 そのとき、彼は初めてこの少女の姿を直視したように感じた。
 仮面をかぶっているのだ、それが誰に対してのものかはわからないが。

「あんだよ」

 ドアから少し離れ、話を聞く気があることを示す。
 イザベラは無言で背が低いテーブル前のソファーを指さして才人に座ることを促し、彼はそれに従った。
 彼女もその対面にある一人用の豪勢なソファーに腰掛ける。

「アンから聞いたけど、おまえ違う星から来たって本当?」
「ああ、俺がいた星じゃ月が二つもなかったし、大陸も空を飛ばない。そもそも魔法なんて空想上のお話だから間違いない」
「そう……星の名前は」
「地球」

 イザベラは五秒ほど口を閉ざした。

「ユゴスという星に聞き覚えはない?」
「ねーな」
「ちゃんと思い出せ、本当にないのか?」
「……やっぱりない」
「じゃあコレに見覚えは」

 イザベラがそういって机の下から持ち出したのは、金属製の円筒だった。
 高さは三十サント程度、直径はそれよりも少し小さい。
 つるんとした外観に三つの妙な穴が開いていた。

「缶詰?」
「知ってるのか!」

 机越しに身を乗り出したイザベラは、年相応の少女の顔をしている。
 必死な表情だった。
 才人はその心に応えようと、円筒を持ち上げ観察した。

「ごめん、やっぱり違う。大きすぎるし缶詰ならこんな穴いらない」
「……そうか」

 イザベラは力なくソファーに体を落とした。
 三角形をつくるよう配置された穴は、パソコンなど電子機器のソケットみたいだと才人は考える。
 しかし、これはそういったありふれたものではなく、もっと恐ろしい秘密を秘めているように感じられる。

「それは模造品よ。本物があればわかったかもしれないね」
「いや、多分無理だ。さっき言った缶詰と似てるけど違う。コレ何に使われてるんだ?」
「……わからないわ」

 唯一の希望が潰えたような落ち込んだ声だった。

「最後にこれを見て」

 再び机の下から取り出した一枚の羊皮紙には、奇妙なモノが描かれていた。

「なんだこれ」
「それを知りたいのよ」

 それを何と表現すればいいのか、才人にはわからなかった。
 ザリガニのような、あるいは他の水棲甲殻類じみた胴体とそこから生えている鉤爪のついた脚は三対、それも昆虫のようなものだ。
 背中と思しきところからは数対の広い背びれか、見る人によっては飛膜と判断する物体。
 既存の生命体ならば頭が存在するであろう場所には渦巻形の楕円体がのっていて、そこから多数の短い角か毛のようなモノが突き出ている。
 地球人ならば「アンテナのようだ」と感じる人もいるだろう。
 直立したその絵姿はなんとも名状しがたく、才人の心に気持ち悪い感触を残した。

「シャルロットとジョゼットの父、オルレアン公の使い魔で彼が失踪、いえ、死亡ね。その原因よ。手がかりはその絵とユゴスという星、そして模造品の円筒しかないの」

 公的には病死となっているけどね、とイザベラは言った。
 その声はこの場にいない少女たちを心底案じたものだった。

「なんで、俺に直接聴こうとしたんだ?」

 思考が口からそのまま漏れてしまう。
 そこが才人にはわからなかった。

 王女ということは目の前の少女は偉いはずだ。
 自分とは比べ物にならないくらい忙しいはずだ。
 こんな問答なんて誰かに押し付ければそれで情報は手に入る。
 それこそもっと聞き上手な人が王宮にはたくさんいるだろうし、そういった人物を使うこともできただろう。

「機密だからに決まってるじゃない」

 呆れたようなイザベラの声、しかしその表情に若干の恥じらいが混じっているのに才人は気づいた。

「そっか」

――コイツ、本当は優しいヤツなんだ。

 才人にはぼんやりとイザベラの内心がわかった。
 従姉妹のために、自分で何かせずにはいられないのだ。
 強気で傲慢でいけすかなくて、でも少しだけ彼女のことを好きになれそうな気がした。

「お前、いいヤツだな」
「ハァ? 当たり前でしょ」

 気のせいだった。

――ホントに優しいのかコイツ?

 わかったと思っていた内心はひょっとしたら全然違うのかもしれない。
 ただ自分をいじめたかっただけかも、と才人は考え直した。

「まぁ、聴きたいことは聴けたから一応お礼を言っておいてあげる」
「……全然感謝されてるような気がしない」
「気のせいよ、それと」

 イザベラは一拍ためて。

「アルビオンの件は感謝しておくわ」

 ツンとそっぽを向いて言った。
 視線だけがちらちら才人をうかがっている。

――やっぱいいヤツだ。

 最初は何故あれほど攻撃的だったのか、よくわからないがそれもどうでもよくなった。

「だから忠告しておいてあげる」

 だが、向き直ったイザベラの表情は最初感じた意地悪姫さまそのものだった。

「父上と叔母上は、ガリア王家はおまえのことを評価しているけど嫌っているわ。せいぜい明日は気をつけなさい」

――俺、嫌われるようなことしたっけ?

 才人は明日に不安を覚えた。




[29710] 誓約の口づけを
Name: 義雄◆285086aa ID:b6606328
Date: 2011/11/08 02:07
「ふ、ふつつかものですけどよろしくお願いしますっ!」

――え、マジでいいの?

 才人はそんな思いを口には出せなかった。

 目の前のちょっぴり耳のとんがった女の子はとんでもなく可愛い。
 彼のご主人様であるルイズ・フランソワーズとタメをはるか、人によっては彼女を勝者とみなすだろう。
 腰くらいまであるさらっさらの金髪にうるるんと濡れる瞳、艶やかな唇に才人は目をうばわれた。
 上目遣いの威力に彼は血反吐をはきそうなダメージを受ける。
 胸中では緊張しているに違いないのに、王族だからと少しがんばっている様子なんてもうたまらない。
 そしてなによりも、その胸。

『それは胸というにはあまりにも大きすぎた』

 そんなフレーズが才人の脳裏をよぎる。
 服で隠していてもわかるそのサイズ、圧倒的質量。
 ルイズが美少女であることは疑いの余地がない、しかし胸という評価を加えれば大差がついてしまう。
 世の中特殊な趣味の人もいるらしいが才人は巨乳派だ。
 知らず生唾を飲んでしまう。

――マジで、マジでいいんだよな? これはご褒美に違いない、きっとそうだ。

 ありがとう神様、なんて信じてもいない妄想上の人物に感謝してから、自然に手が伸びてしまっていることに気付いた。

――な、なんて魔力だ……!

 才人は戦慄した。
 色々と張りつめていたものがガラガラと崩壊して彼を一人の高校生に戻す。
 いつものパーカーとジーンズではなく、着慣れないハルケギニアのカッターシャツとスラックス姿だが関係ない。
 今の彼は、ただの男だった。
 おっぱいによって、平賀才人はありとあらゆる葛藤を薙ぎ払われ、一介の男児に戻るのだ。

 一方彼のことを良く知らないハーフエルフの少女、ティファニアは「んっ」と唇を突き出した。
 彼女はただ一途に自分の使命を果たそうとしている。
 才人にキスをする、もっと言えばコントラクト・サーヴァントを完遂すること。
 それしか考えていないので彼の邪念を察知することは、残念ながらできなかった。

 しかし、彼女に感じ取れなくても他に人がいれば話は別だ。
 知らず手をわきわきさせていた才人は強大な威圧感に包まれた。
 思わず違う意味で生唾を飲んでしまう。

――だ、誰だ俺の野望を邪魔するのはっ!

 ばっと才人は部屋の中を見回す。
 まずティファニア越しに目についたのは、中性的な顔立ちをしていて最上位の法衣に身を包んだ男性、ブリミル教の頂点に立つ教皇、聖エイジス32世。
 彼は円卓についたままたおやかに微笑むばかりで、むしろ才人とティファニアの口づけを待ち望んでいるようにも見えた。
 その傍らに佇んでいる鮮やかな金髪に鳶色と碧色の月目、才人に言わせれば「イケメン」の一言で済むジュリオ・チェザーレも同じだ。
 彼は教皇ほど純粋な微笑みではなく、野次馬的なニヤリとした笑みを浮かべている。
 いかにも下町っ子といったその表情はキザったらしい笑顔を崩さないジュリオには意外なものだと才人は思った。

――違うな。

 視線を左にずらす。
 腕組みしながらむっつりと黙り込んでいるのは、青色の髪と髭がタバサそっくりな若々しく見える大国ガリアの王様だ。
 ふわふわの白いファーがド派手な武農王ジョゼフ一世は静寂、とかく才人をじっと観察している。
 だが害意を発しているわけではない、彼はシロだ。
 彼のそばを離れない黒いピッチリした服装の秘書風黒髪美女、シェフィールドもクールな素振りで感情の揺らぎを見せない。
 さらに左にはタバサを成長させればこうなるだろうという貴婦人、青いドレスのオルレアン公夫人が控えている。
 彼女は目を閉じて静かに座っていた。
 さらにはエルフと呼ばれる種族の、ビダーシャルという男も同様に腕組みをしていた。

――こっちも違う。

 才人はそれ以上視線を動かしたくなかった。
 でも見ないわけにはいかない。
 右へギギギと顔を向ければ視界に入ったひくひく震えている唇、多分色々な感情のせいだ。
 そのひきつった顔を戻せるのなら値千金の価値がある、と熱狂的なファンがつきそうな顔立ち。
 右眉は怒り、左眉は困り、と器用に顔面の左右で表情を使い分けている、外見どころか中身まで立派な皇太子、ウェールズ・テューダー。
 「彼は英雄だが、しかし従姉妹であるティファニアを、だが第四のルーンは……うぬぬ」なんてことを考えている。
 その感情は至極真っ当なもので威圧感を伴うはずがない。

――残るのは……。

 無意識下でスルーしたいと願っていたトリステイン勢とゲルマニア代表。
 アンリエッタ王女は瞳をキラキラ輝かせて見入っている。
 こちらはむしろ「早く早く!」と急き立てそうなほどだ。
 かなり老け込んで見えるマザリーニ枢機卿は無関心に近い、どちらかと言えば祝福しているのではないか。
 マリアンヌ太后は娘に任せるとし、今回の諸国会議には来ていない。
 いかにも面白くなさそうな顔で腕組みしながら指をトントン動かしているのは帝政ゲルマニアを統べるアルブレヒト三世だ。

 そして、彼のご主人であるルイズは……。

――笑ってる。

 綺麗な笑顔だった。
 彼女は笑わない、日常的に笑みを浮かべるタイプではない。
 だというのに才人とティファニアを見守りながら穏やかな笑顔を咲かせている。
 それがたまらなく奇妙で、才人の恐怖心をあおる。
 そんな平常でない彼女から放たれる威圧感が才人の手を止めた。

――動いたらやられる。

 何を、とかはわからない。
 とにかくヤバい、それだけが大事だ。
 才人はそろそろと手を下ろしてティファニアに向き直った。
 瑞々しい果実のような唇に再び目をうばわれる。

――合意も理由もあるから問題ない、よな?

 ゆっくりと顔を近づけていく。

――まつ毛長いんだな。

 どうでもいいことを考えながら唇を寄せていく。。
 ティファニアは動かない、ただ静かに才人の口づけを待っている。
 互いの吐息がかかりそうなくらいの距離、威圧感が大きくなった。

――またかよ!?

 今度は見なくてもわかる、ルイズだ。
 それでも密かに視線を向けて確認すると、笑顔のまま、額に青筋が走っているような気がした。
 うっすらと開かれた瞳は冷たい。

――笑ってるけど、わ、笑ってない。

 いわゆる『目が笑っていない』というヤツだ。
 思わずキスまで五サントというところでかたまってしまう。

「どうした、早くしないかガンダールヴ」

 それまで沈黙を保っていたジョゼフが平坦な声をかける。
 彼はルイズを見て。

「主人が見ていてはやりにくいと言うなら退室してもらうが」

 唇の端を釣り上げて挑発した。

――お、おっさん余計なコト言うな!

「サイトさん?」

 ゴホン、と才人は咳払いをしてティファニアに向き直った。
 できるだけ安心させるように彼より背の低い少女の肩に手を置く。
 威圧感は、今度は来なかった。
 不安げな瞳の少女はそれで察したのか再び目を閉じて、少しだけおとがいをあげた。

「スペルを忘れていますよ」

 欠片の嫌味も感じないヴィットーリオの涼やかな声に、二人はハッと距離をあけた。

「そ、そのすいません!」
「いえそんな」

 お互い頭を下げてしまう。
 アルブレヒト三世は忌々しげに舌打ちした。

「我が名はティファニア・モード、五つの力を司るペンタゴン。この者に祝福を与え、我の使い魔となせ」

 そうして、二人は若い恋人たちがファーストキスをするように、触れるだけの口づけを交わす。
 かすかな接触だが、触れ合っている時間は長かった。
 ルイズは胸の奥の小さな痛みを自覚し、これも使命のためだと蓋をした。

 ティファニアはそっと才人から離れる。
 才人は左胸に、彼の心臓に手を当てて。

「っ!」

 激しい痛みに意識を手放した。

 彼は暗闇で夢を見る。
 今日一日の夢を。





――誓約の口づけを――





 昨夜、イザベラの部屋から去った才人は、またしても迷った。
 はじめての場所で、知り合いもいない状況、さして方向音痴でなくとも仕方のないことだろう。
 さらに間の悪いことに夕食も近いので周囲にはメイドの一人もいなかったのだ。
 イザベラの部屋に戻って道を訊くのもはばかられたので、そのままうろうろして、結局使用人に声をかけて連れて行ってもらった。
 その際、怪訝な顔をされたのは言うまでもない。

 タバサの部屋についたのは、プチ・トロワについてから実に二時間近くがたっていた。
 当然彼女の話は終わっていて、遅れたからもう一回とも言えず、才人はタバサの謎を知ることなく夜を迎える。
 賓客用の広く豪華な部屋をあてがわれ、久々の一人部屋は寂しさすら覚えた。

――少し、怖いな。

 ニューカッスル城の夜以降、この時間帯になると色々な考えが才人の頭に浮かんでは消える。
 それは故郷のことであったり、ガンダールヴの秘密であったり、共に戦い今はもう会えぬ人々のことであったり。
 以前は寝つきの良かった彼が、眠りに落ちるのに少なくない時間を必要とする。
 孤独な暗闇は確実に才人の精神を蝕んでいく。
 才人にとって、朝の光は一日のはじまりだけでなく、深みに落ちていく心の救済を思わせるものになっていた。





「それで、諸国会議って何を話すんだ?」

 朝食後、若干の暇があったので才人はルイズの客室を訪れていた。

「そうね……」

 ルイズはじっと才人の顔を見る。
 そして大きなため息をついた。

「なんとなく釈然としないけど、仕方ないわよね……」
「?」

 才人には何のことやらわからない。

「議題のうち、二つは予想がつくわ」
「なにそれ?」

 渋い顔をしながらルイズは紅茶に口をつけた。
 その仕草は洗練されていて、彼女が大貴族のお嬢さまであることを才人に思い出させた。

「一つはサイトの処遇についてよ」
「俺の処遇……どうするかってことか」
「そう、良くも悪くもあなたは活躍しすぎたの」
「どういうこと?」

 音もなくティーカップをソーサーの上に置いた。

「アルビオン王家を救うため、各国はできる限りの努力をしたわ」

 外交、密偵、武力介入、始祖の血統を絶やさぬため合法非合法を問わずあらゆる手段がとられた。
 しかし、それらの行動は一切実を結ばなかった。
 アルビオンに跋扈するナイアルラトホテップ教団は、規模こそさして大きくなかったが、あやしげな術を使った。
 彼らの邪魔をする者は消され、あるいは内部にとりこまれたのだ。
 トリステインが秘密裏に送った小隊も、ガリアが公的に送った両用艦隊の一部ですら消息を絶った。
 さらにその異常なまでの侵攻速度が、教団の名が表面化してから二ヶ月もたたないうちにアルビオン王家を窮地へ追い込んだ。
 影のようにあらわれた五千の軍勢で、三万の兵を擁したモード大公軍を、陣を整える間もなく殲滅したのは記憶に新しい。
 他にも王家の血が濃く、裏切るはずもない侯爵をはじめ、諸侯の唐突な寝返りも多かった。
 そこまで話して、ルイズは肩を落とした。

「そのナイアルラトホテップってすげーやばいって皆知ってたんだろ?」
「ここ数百年比較的大人しかったから、その間にわたしたちも強くなったと思いあがっていたから、そして相手は人間だったから。この三つで油断していたのが敗因ね。最初から全力で潰していれば……」

 ルイズは少し悔しそうに言う。
 彼女の脳裏には燃え盛るニューカッスル城が映っていた。

「とにかく」

 その一言で彼女は落ち込んでいた気分を振り払う。

「サイトは滅びに瀕した王家を救った、いわば英雄なの。きっとあなたがいなかったらウェールズ皇太子は」
「やめてくれ」

 才人はルイズの口を遮った。
 その眼に浮かぶのは後悔の念。

「俺は英雄なんかじゃない」

 それは悲劇に酔った男の自嘲ではなく全くの本心だった。

――俺が英雄だったら。

 誰も死なせなかった。死なせたくなかった。
 その言葉は才人の心の中でだけ、静かにこだまする。

――アニエスさんやコルベール先生との鍛錬をもっと真面目にやっておけば。

 眠れぬ夜、いつも思い返したことまで浮かんでは沈む。
 少年らしい傲慢さと、才人がもつある程度の責任感が自身を締め付けた。

「……話を続けるわ」

 ルイズはその思いの一端を垣間見たが、やはり何も言えなかった。

「処遇に関してだけど、三つの予測がつくわ」
「……」
「一つ、ガリアでわたしごと受け入れる。トリステインは決して弱国ではない。とはいえ、このガリアには層の厚さで劣るわ。ここでわたしもサイトも保護という名の軟禁状態におきながら決戦までひたすら鍛え続ける」

 トリステインには強力なメイジが多い。
 しかし、その一方で弱いメイジが大半をしめる。
 そのためどうしても広範囲の警備網に穴が開いてしまう。
 それだけでなく、トリステインはアルビオンに近い。
 教団の残党がはびこる今、虚無の主従を護るには適していない国なのだ。

「二つ、現状維持。強い戦力で魔法学院の警備をひたすら固めて、わたしたちを囮に邪教を叩く」

 昨日の一件でもわかったが、ナイアルラトホテップ教団は完全には壊滅していない。
 どこに狂信者が潜んでいるのか今はまったくわからない状況である。
 虚無の主従を、特にアルビオンで一騎当千の活躍を見せた才人を餌にした消極的攻勢の策。
 相手が才人のことを知っているかは不鮮明だが、理解の外にある術を使う集団だ。
 なんらかの手段でその事実をつかんでいる可能性は高い。

「三つ……」

 ルイズは唐突に口をつぐんだ。

「なんだよ」
「想像はつくの。けど言いたくない」

 才人が見ると、ルイズの顔色は悪い。
 肩もかすかに震えていて、何か良くない予想がついているようだ。

「言ってくれ。その方が心の準備ができる」

 強く、こぶしを握りしめた。

「……サイトの処刑」

 すっと顔の血が引いたような感覚、才人は息をのんだ。

「なんで」
「あなたが違う星から来た、それが問題になるの。タバサの、シャルロットの父、オルレアン公のことはイザベラ殿下から聞いたかしら?」

 才人は無言で頷く。

「わたしたちにとって、この惑星以外のことはほとんどわからないわ。だからあの一件で異なる星から来た者はすべて排斥すべきだ、という意見もロマリアの一部からは出ているの」
「だからって」

 言い募ろうとしたが、ルイズの顔色を見て止まった。
 才人が見てすぐにわかるほど彼女の顔は青くなっていた。

――ルイズに言っても仕方ないだろ、落ち着けよ俺。

 ルイズがもし強気な少女だったら才人は噛みついただろう。
 だがここにいる桃髪の少女は、普通の女の子だ。
 虚無なんてものに選ばれてしまったから、その使命感に押しつぶされそうになっている女の子だ。

「ごめん」

 素っ気ない一言をかけて才人は自己に埋没する。

――なんで違う星から来ただけで処刑になるんだ。

 才人にはその思考がわからない。
 人の評価を鵜呑みにしない、己の見たままを信じる彼には理解できない。

 ゲルマニアはハルケギニアにおいて成り上がりの国とされている。
 それは事実だ、だがすべてではない。
 それでも詳細を知らない者が聞けばゲルマニアすべての印象が悪くなる。
 一部には貴族主義者もいれば、古くからの血統も存在することに気づかず。
 地球でも『日本人はこういう性格だ』と偏見を持たれている部分がある。

 つまり、才人が直面しているのはそういうことだった。
 悪しき存在が異なる星から来たものだから。
 きっと他の星に住むものはすべて危ないに違いない。
 そんなどこか硬直しているが、民衆を護るため少しでも危険を減らすという観点からは正しくもある、極一部の枢機卿たちの、しかし声の大きい意見だった。

 才人は答えを見つけることなく考えを打ち切った。

「それでもう一つの議題っていうのは?」

 その言葉は同時にルイズの震えを止めた。
 青かった顔色は、回復するどころか少し赤くなっているように見える。
 それも羞恥ではない、怒りのせいだ。

「知らないわよ」
「へ?」

 泣いた子が笑った、ではなく震えていた子が怒った。

「な、なんで怒ってるのか知らないけど教えてくれよ」
「やだ」
「そんなこと言わずにさ……」
「だって、やだもん」

――なんで唐突にまた。

 才人にはその思考がわからない。

「悪いこと、じゃないよな……」

 ルイズの様子から自分の命にかかわることはなさそうだ、と才人は判断した。

「むしろサイトは喜びそうね」

 ぶすっとむくれながら、そして彼を心配しながらルイズは言う。
 彼女は知っている。才人の処遇で三つ目の選択が消えれば、この会議は契約を行うことが主になることを。
 今後の対アルビオン、対邪神の方針検討はオマケに過ぎないことを。
 そしてその『コントラクト・サーヴァント』にはキスを伴うことも重々承知している。
 しかし彼女にも知らないことがある。最後のルーン、リーヴスラシルの効果だ。
 ロマリアが完全に秘匿しているため、彼女にもどのような効果があるか、想像できない。
 それが才人を心配する理由の一つにもなる。

 彼女は才人に恋心を抱いているわけではない。
 だが彼をこの星に呼んだのは自分だというかすかな誇りと、多大な罪悪感を覚えていた。
 ほのかな慕情とも呼べない、子どもじみた感情をルイズ自身もてあましている。

「喜びそうなことか……」

 なんだろう、と腕組みしたはいいものの全く思い当たらない。
 そうこうしている内に時間になり、才人は疑問をもちながら会議に挑むしかなかった。





 教皇ヴィットーリオが議長を務める会議は、まず『コントラクト・サーヴァント』について言及した。
 とかく、この場で契約を結べという満場一致の意見。
 ルイズの想像とは逆に、才人の処遇については一切話し合われなかった。

――どういうことかしら。

 考えを巡らすものの、彼女は沈黙を保っているジョゼフと、にこやかなヴィットーリオの胸裏をのぞくことはできない。
 当の才人は慌てふためいた。

「なんでしなきゃいけないんですか!?」

 彼にしてみれば嬉しい、嬉しいが恥ずかしがっているハーフエルフの少女と、彼のご主人を前に露骨な態度を出したくなかった。
 言葉だけの反論にヴィットーリオは穏やかに微笑んで返した。

「ガンダールヴ、いえ、サイト殿と呼ばせてもらっても?」
「あ、はい」
「ではサイト殿、あなたの星に始祖の教えはないのですね」
「ないです」
「わたくしからサイト殿に始祖の偉大さを説く時間を頂いてもよろしいでしょうか?」

 ヴィットーリオは涼やかな声で会議に集まった面々に問いかけた。
 反対の声はあがらなかった。

「ティファニア殿」
「は、はい!」
「エイジス聖歌、四の僕の章を覚えていますか」
「もちろんです」
「ここで披露してください」

 ティファニアは少し緊張した顔で立ち上がり、朗々と歌いはじめた。


―――神の左手ガンダールヴ。勇猛果敢な神の盾。左に握った大剣と、右に掴んだ長槍で、導きし我を守りきる―――

―――神の右手がヴィンダールヴ。心優しき神の笛。あらゆる獣を操りて、導きし我を運ぶは地海空―――

―――神の頭脳はミョズニトニルン。知恵のかたまり神の本。あらゆる知識を溜め込みて、導きし我に助言を呈す―――

―――そして最後にもう一つ。記すことさえはばかれる―――

―――三人の僕を従えて、我はこの地にやってきた―――


 美しく、感動すら誘う歌声だった。
 歌い終えたティファニアはほうと息を吐いて、腰を下ろした。

「素晴らしい」

 ガリア代表以外は心底から聞き入っていたようで、みな口々にため息をついた。

「どうでした?」
「いや、すごい綺麗でしたけど……」

――なんでいきなり歌?

 才人にはハルケギニアの感覚がわからない。
 ティファニアは、彼の率直な褒め言葉に顔を赤らめた。

「四の僕の章には重大な秘密が隠され、またある真実が伏せられています」

 皆の目を見ながら、どこかもったいぶるようなヴィットーリオの言葉に、才人の表情は硬くなる。

「始祖が創られた使い魔の順序が示され、四つ目のルーンについて記されていないのです」

――四つ目のルーン。

 きっとこれがキモになる、と才人は唾を飲み込む。

「神の心臓リーヴスラシル。心臓とはすなわち、勇気の象徴。そのルーンが持つ効果は……」

 ヴィットーリオは左胸に手を当て、才人の瞳を見据えた。

「周囲五リーグの狂気緩和。平民であろうと、正気を失うことなく邪神の眷属を直視できるでしょう」

 心臓が高鳴るのを感じた。

「そ、それは真か!?」

 アルブレヒトが信じられぬという形相で立ち上がった。
 ガリア勢は相変わらず黙り込んでいたが、それ以外の諸国代表は、マザリーニを除いて驚きに目を見開いていた。
 リーヴスラシルの効果を知らなかったルイズも例外ではない。
 これはロマリアが口を閉ざしていた秘中の秘だ。
 枢機卿にのみ口伝で教えられ、例えどれほどの金銀を積もうとこれを話す者はいなかった。
 このルーンはそれほど規格外で、この事実が外に知られれば人同士の醜い争いがはじまることを予期していたからだ。

 邪神は、直接相対していなくとも人の正気を削り取る。
 それは抵抗する術を持たない平民に限った話ではない。
 始祖の血をひくメイジも例外ではないのだ。
 ただの発狂ならばまだマシで、染められてしまえば家、領地、国の内部崩壊は避けられない。
 いつ闇が侵食するか、余人にははかりしれず、ことを知るものにとってその恐怖は耐えがたいものがある。
 たった一人の人間を配置するだけでそれが回避できるとなれば、戦争を起こしてでも欲しがる貴族は多い。
 邪神との戦いが終われば、この記憶を消すためだけにロマリアの虚無は各国を訪問するのだ。

 皇帝の言葉が耳に入らなかったかのように、ヴィットーリオは謳うように語る。

「まず始祖は一のルーン、ガンダールヴを創られました。初代ガンダールヴは聖者アヌビスとしても伝わっています。
 はじめ始祖は聖者アヌビスを連れて邪神に挑みました。しかし、いかに始祖の魔法が強力であろうと、邪神になんら痛苦を与えることができませんでした」

 ヴィットーリオは遠く、遥か過去に思いをはせながら言葉を紡ぐ。

「次に始祖は二のルーン、ヴィンダールヴを創られました。動物が邪神に対して有効であることを見つけられたのです。
 そして始祖は二人を連れて邪神に挑みました。しかし、ここでもまた邪神に対抗できなかったのです」

 その時の光景を想像しているのか、視線は虚空に定められている。
 ジュリオが右手のルーンを抑えた。

「さらに始祖は三のルーン、ミョズニトニルンを創られました。魔道具ならば狂気に犯されることがないと気づかれたのです。
 そして始祖は三人を連れて邪神に挑みました。それでも、始祖は邪神を打倒できなかったのです」

 ちらと才人はジョゼフの傍らに控える人物、シェフィールドを見た。
 彼女の額のルーンこそミョズニトニルンの証、昨日襲撃から救ってくれた人だとタバサから聞いている。
 微かに頭を下げると、彼女は薄い笑みで返した。

「最後に始祖は四のルーン、リーヴスラシルを創られました。狂気緩和によって人々をも戦えるようにしたのです。
 始祖はこのルーンを聖者アヌビスに刻みました。最前線に出る彼女にこそ必要だと考えられたのです。
 そして始祖は四人とたくさんの兵を連れて邪神に挑みました。とうとう邪神を破ることができたのです」

――え、じゃあそれでハッピーエンドなんじゃ。

 才人の疑問をあらかじめ知っていたかのようにヴィットーリオは言葉を連ねる。

「しかし、それは“はじまり”でしかなかったのです」

 若き教皇は、その中性的な顔立ちを歪めながらも語ることをやめない。

「始祖が死力を尽くして打ち破った邪神は、その一端にすぎなかったのです。
 それが打倒されたことで逆にこの星は目をつけられてしまった。
 本体が乗り込んでくることこそなかったものの、同じような一端を度々送り込むようになりました」
「ちょっといいですか」

 たまらず才人は口をはさんだ。
 理解できないことが多すぎる。

「その、邪神の一端っていうのはなんのためにハルケギニアに来るんですか?」
「ガンダールヴ」

 それまで一言も喋らなかったジョゼフが才人に声をかけた。

「お前は子どもの頃、アリの巣を潰したことがあるか?」
「……何度かはあります」
「明確な目的や意味をもって行ったことか?」
「いえ、確かなんとなくやっただけで」
「それと同じことだ」
 
――そんな。

「アリと人間とじゃ違いすぎる!」
「おれに怒鳴るな、では聞こう」

 ジョゼフは天井を、天上を指さし言った。

「お前に太陽が斬れるか?」

――何ほざいてんだこのおっさん。

「無理に決まってるじゃないですか」
「邪神には、ナイアルラトホテップには斬れる。それどころか消し飛ばすことすら可能だろう」
「は?」
「そんな存在規模からすれば、おれたちなど塵芥にすぎんだろうな」

 この世全てを嘲るような笑みに、才人は真実を感じた。

――そんなの神様にしか……。

 そこまで考えてからハッと気がついた。
 邪神とは、まさに邪悪な神なのだ。
 才人が日本にいたころ、ゲームに出てきたような倒せるボスじゃない。
 多神教における、時に英雄が打ち破る神でもない。
 一神教の絶対神、宇宙の創造を司るようなそれを相手にしているのだ。

 しかし、それは正しくもあり、間違ってもいる。
 邪悪な神とはあくまで人間からの視点であって、彼らはそのように定義づけられる存在ではないのだ。
 その事実は才人をはじめこの場にいる者は誰も知らない、知る由もない。

「よく御存じですね、ジョゼフ殿」
「隠しごとの得意なロマリアにはかなわんよ」

 ジョゼフ以外が気づかないほどの一瞬、ヴィットーリオの表情が凍りついた。

「とにかく、リーヴスラシルは我々の切り札となりうるのです」

 彼は刹那の硬直を感じさせず話を続けた。
 そして。

「このルーンさえあれば、アルビオンでの悲劇を防げたかもしれませんね」

――え……。

「それは我らアルビオン王家の対応を侮辱しているのか」
「いえ、もしもの話をしただけです」

 ヴィットーリオの刃は、才人の心臓を貫いた。
 ウェールズの言葉が、才人にはどこか遠くで話されているように感じられた。

「やります」
「リーヴスラシルのルーンが刻まれた瞬間から、あなたは国家を超越した人物に、ハルケギニアの存亡を担う存在になります。それでもかまわないですか?」
「いいです。正直大げさなことはよくわからないけど、あんなことが防げるなら」

 ガンダールヴのルーンがほのかに輝いていたことに気づく者はいない。
 才人は心中で誓いを立てる。この星のため命を賭けるという誓約を。
 どこまでが彼の本心なのか、知る者はこの場にいなかった。

 そうして、彼は口づけを交わす。
 疼くような胸の痛みが気持ち悪かった。



***



 倒れた才人の胸元をあらため、教皇はリーヴスラシルのルーンが刻まれたことを確認した。
 この瞬間をもって、平賀才人はハルケギニアの存亡を左右する男になった。

「ティファニア殿。彼をベッドに運んできてくれませんか? おそらく目が覚めるまで半日近くを要するでしょうから」

 それに、とヴィットーリオは続ける。

「ここからは少々、退屈な時間になるので」

 会議場の空気が小さな軋みを訴えた。
 ここまでは、必要であったものの予定調和だ。
 ここからが国主として最も気を引き締めねばならない時間になる。

「わかりました」

 ティファニアはうつ伏せに倒れた才人を持ち上げようとして、失敗した。
 虚無の担い手である彼女に風系統のフライやレビテーションは使えない。
 王族ということもあり、普段力仕事を行わない彼女にとって、才人を運ぶのは荷が重い。
 ルイズはそわそわと落ち着かない気持ちでそれを見ていた。

「ルイズ殿。できればあなたにもお願いします」
「わ、わかりました」

 教皇に言われたからには仕方ない、と大義名分を得てルイズは才人の左側に立つ。
 彼の今後に関して、処刑されないという確信が得られた以上彼女がここにいる意味も薄れた。 

『せーのっ』

 脇の下から腕を差し込んで、二人で息を合わせて才人を持ち上げる。
 そのまま足をずるずると引きずりながら会議室を後にした。

「やれやれ、力を保つためとはいえ虚無の担い手を追い出してよいのか?」
「今は仕方ありません。もう少し状況が進行してから語れば良いでしょう」
「虚無の魔法とは不便なものだな」

 アルブレヒトが呆れたように言った。

「か弱い少女たちも離れたので本番と参りましょうか」
「あら、それではわたくしもこの部屋から出ないと」
「ご冗談を。あなたには女傑という言葉こそふさわしい」

 ころころ笑うアンリエッタは、確かに王者の風格を備えている。
 軽いやり取りを終え、部屋の空気が大きく軋んだ。

「改めてウェールズ皇太子から詳細を伺いましょう。あの日、何があったかを」
「承知した」

 ウェールズは、己の知る限りを語る。
 手紙では情報伝達量に限度があったので、新たにもたらされた情報にアルブレヒトやヴィットーリオは頷き、また唸った。

「しかし、その一万の兵はどこへ消えたのだ」

 アルブレヒトの疑問に、誰も答えられるはずがない。
 神のみぞ知る、邪神のみが知ることだった。

「影がある限り教団を潰すことはできない、か」
「一網打尽にする必要があるでしょうね」

 腕組みしながら呟くビダーシャルにヴィットーリオは返す。
 そこでアンリエッタが凛とした声をあげた。

「教団に関しては手を打っています」
「ほう」
「いかような?」
「巫女の父、ロシュフォール伯を旗印に。家の存続を条件に彼は引き受けてくれましたわ」

 アンリエッタの笑顔は社交用のにこやかなものではなく、男性陣の背筋を凍らせるような壮絶な笑みだった。

「それはまた……」

 アルブレヒトなど言葉も出ない、一時は王家の血を入れるためアンリエッタを迎えようと目論んでいたが、この瞬間その気持ちは完全に消し飛んだ。

「彼が向こう側に着く可能性は?」
「それでもかまいません。まとめて叩き潰しましょう」
「影に対する対処法など確立できていないが」
「トリステインの虚無に土地ごと薙ぎ払わせます」

 会議室がしんと静まり返った。
 トリステイン王女、幼いころからアンリエッタをよく知るウェールズは彼女の変わり用に驚いた。
 例え世界がかかっていようと、犠牲を顧みないような苛烈な性格をしていなかったはずだ。

――これがトリステインに伝わる王家の秘術か。

 邪神に対抗するため、各王家には狂気緩和の秘術が伝わっている。
 だがそれはすべて違う術式が記録されていた。
 異なる魔法を用いることで、一挙に潰される危険を減らすためだ。
 アルビオンに伝わるものはウェールズに大きな変化をもたらしはしなかった。
 トリステインの秘奥はどのような、と彼は一瞬考えるがすぐにやめた。
 今この場に必要なことではない。

「くっくっく」

 ガリア王、ジョゼフがおかしそうに笑っている。
 誰もそれには触れず、続いてアルビオンの現状について各国の仕入れた情報をすり合わせる。
 状況は控えめに言っても、絶望的だった。

「あの巫女はアルビオンを散歩しているようだな。まったく気楽で羨ましくなる」
「散歩、ですか。我々からすればたまったものではありませんね」
「歩くだけで死をもたらす存在か、ゲルマニアには来ないだろうな」

 ニューカッスル城を吹き飛ばすほど強力な火の秘薬もメアリーには効果がなかった。
 彼女は魔法学院の生徒が見慣れた姿に戻り、そのままアルビオンをふらふらと歩き回って街々に恐怖と破壊をもたらしている。
 日が沈めば影から生まれ落ちたようにあらわれ、日が昇ると同時に影の中に溶け落ちる。
 彼女が歩いた跡は、草木一本存在しない。
 彼女が訪れた街は、ネズミの一匹も見当たらない。
 各国の密偵が見たアルビオンはこの世の地獄だった。
 ウェールズは強く唇を噛んだ。

「問題は」

 ここまでむっつりと黙り込んでいたオルレアン公夫人が円卓の面々を睨みつけた。

「どうすればあの巫女を倒せるか、いつ巫女が降りてくるかということでしょう」

 その瞳には劫火のような憎悪が燃えていた。

――この女傑たちは……。

 怖い、あとで愛人に癒してもらおうとアルブレヒトは思った。

「巫女が降りてくるのは、断言はできぬがスヴェルの月夜だろう。目的地はシャイターンの門」

 ビダーシャルの言葉に諸国代表の視線が集まる。

 双月が重なるスヴェルの月夜の翌朝は、アルビオンとトリステインが最も近くなる。
 この朝を狙ってフネで行き来するのが一般的だ。
 しかし相手は尋常のモノではない、常識に当てはめるのは危険だった。

「問題は倒し方、か」
「一切の攻撃を受け付けなかったというのが気にかかりますわね。何度か精鋭を差し向ける必要がありそうですわ」
「オルレアン機関からすでに腕利きを送り込みました」

 ウェールズとアンリエッタの会話に、オルレアン公夫人が口をはさんだ。

「元素の兄弟、彼らなら有益な情報を持ち帰ってくれるでしょう」



***



 才人は、プチ・トロワの彼にあてられた部屋で眠りについていた。
 その寝姿はルイズに嫌な想像を喚起させる。
 静かに上下する胸をじっと目で追うしかできず、会議室に戻る気にもなれなかった。

「あの、ルイズさん」
「ルイズでいいわよ、ティファニアさん」
「じゃあわたしも、ティファニアって呼んで」
「ええ、ティファニア」

 王家に連なる血筋という似たような境遇におかれ、虚無の担い手見習いという対等な立場で、平賀才人という同じ使い魔を得た。
 ルイズとティファニアは奇妙な縁を感じていた。

「聞いてもいいかな?」
「なに?」
「サイトさんって、どういう人なの?」

――サイトがどういう人か。

 ルイズは彼を召喚してから起きた出来事を思い出す。

 ガンダールヴのルーンが刻まれた。
 違う星から来たと聞いた。
 ギーシュと決闘した。
 泣いたわたしを抱きしめてくれた。
 ワルドとケンカしてた。
 メアリーと話をしてた。
 そして、ウェールズを救った。

「サイトは、無鉄砲で、だけど優しいの」

 言葉にすればたったそれだけ。
 それでもティファニアはそこにルイズの持つたくさんの思いを感じ取った。

「無鉄砲で、でも優しい人かあ」
「うん」
「わたしも、仲良くなれるかな」
「なれるわ、絶対になれる」

 二人はじっと才人を見つめる。
 その寝顔は、普通の男の子にしか見えなかった。

「これからどうなるんだろう」
「わかんない」
「怖いね」
「うん、でもサイトはもっと怖いと思う」
「そうだね、お兄様を助けてくれたときも」

 ティファニアのまぶたの裏には、赤々と燃えるニューカッスル城が映っていた。

「ティファニア」
「なに?」
「わたし、サイトを召喚したこと後悔してるの」
「……なんで?」
「サイトの星は、平和なんだって。戦ったことなんてなかったって。なのにわたしたちの都合に勝手に巻き込んで。死ぬかもしれない戦争に彼を……」
「ルイズ」

 ティファニアの声にルイズは彼女を見た。
 彼女の穏やかな微笑みは、これ以上ないほどの安心感を与えてくれた。

「悔いるよりも先を見ようよ。サイトさんのために何ができるか、とか」
「なにができるか……何ができるかな?」
「わかんない」
「わたしも」

 二人顔を見合わせ、くすりと笑った。

「ありがとう、少し心が軽くなったわ」
「どういたしまして」
「……サイト、いつ起きるかな」
「待とう、二人いっしょに」
「うん」






[29710] 泡沫の正夢を
Name: 義雄◆285086aa ID:b6606328
Date: 2011/11/15 22:36

 頬を撫でる風に才人は起こされた。
 不快ではない、新緑のにおいを感じさせる穏やかな風だ。
 起き上がってみると、そこは草原だった。

「はい?」

 目をしぱしぱさせて、ごしごしこすって、一度深呼吸をしてみても変わらない。
 かなり遠くに黒い山が見える、ひたすらに開けた草原だった。

――なんで?

 会議に出て、ハーフエルフの少女とキスをかわし、最後の記憶は心臓の痛み。
 あんな美人とキスしたんだな、とちょっぴり頬を赤らめながら立ち上がってみる。

――夢、かな。

 視点が少し高くなってもよくわからない。
 現代日本では絶対に見ることができないような、広々という言葉では足りないくらい大きな大草原。
 さほど出歩くことがなかったため、ハルケギニアでもこんな光景を目にしたことはなかった。
 心当たりがあるとすれば地球にいたころ、海外の写真やテレビで見たくらいだったが、そんな記憶も頭の中にない。

――モンゴルとか、それっぽい。

 相撲取りが馬に乗りながらドスコイドスコイやってそうだ、なんて変なことを想像しながら、ぐるっとあたりを見回す。
 ちょうど才人の後方十メイルほどに、大きな大きな樹があった。
 大人十人が手をつないでやっと囲めるくらいの大樹だ。
 何かをするアテもなかった才人は、とりあえずそこに歩いていく。

「でっかいな~」

 感心半分呆れ半分の呟きをこぼす。
 手を当ててみれば、生命の脈動が聞こえてきそうな気がする。
 木陰になっていて日差しの当たる草原よりは涼しかった。

 風が一際強く吹き抜ける。
 ざわざわ囁く木の葉が何枚か虚空に躍り出た。
 才人は大樹に背をあずけて、めいっぱい息を吸い込んだ。

――夢っぽくない。

 身体を撫でる風も、ざわめく木の葉も、今背にしている樹皮の感触も、すべてがリアルだ。
 ためしにほっぺをつねってみる。
 ちゃんと痛みがあった。
 はて、と少し頭をひねってみる。
 心当たりはまったくなかった。

――目覚めたら知らないところ、かぁ。

 異世界召喚などというトンデモない事態を経験した才人は、あっさりと納得した。
 服装が気絶する前にカッターシャツにスラックスということが、より現実感を与えてくれる。
 とはいえ、納得しても今後の方針がたてられるわけではない。

「どうすっかなー」

 樹に預けていた背中がずり落ちて、ぺたんとしりもちをついた。
 ほふぅと力のないため息を一つ、それから首をぐるっと回して、視界の端にナニかが映った。

「え?」

 気づけば、白いモノが隣にあった。
 才人との距離は約一メイル、今まで目に入らなかったのが不思議なくらい近い。
 真っ白なそれは、うずくまっている人間のように見えた。

――不思議なことがあるもんだな。

 才人は物事をあまり深く考えない。
 召喚された時も最初は「異世界なんて!」と思ったもののすぐに適応してしまった。
 今回も、目が覚めたら知らないところでも、どこからともなく現れた白いのに対しても、警戒することはなかった。
 観察すると、白いのは長い髪の毛と服のように見える。
 全体を十秒ほど眺めて、これは真っ白な子どもがうずくまっているのだと才人は気づいた。

 じくりと心臓が痛む。
 アルビオンで別れた少女を、人でなくなった彼女のことを思い出した。
 耳にこだまするあの時の咆哮が、彼女の慟哭のように聞こえたのは果たして才人だけだったのか。

 木の葉のさざめきは相変わらず優しい。
 これ以上ぼんやりしていてもらちが明かないので、才人は思い切って声をかけることにした。

「どうしたの?」

 返事はない。
 伏せられた顔があがることもなかった。
 ただ、才人は子どもの肩が震えて、嗚咽を漏らしているのに気付いた。

――泣いてる。

 泣く子をあやす術など彼は知らない。
 ルイズの時とは事情が違う。
 何もできず葉っぱ越しに晴れ空を見上げる。
 憎たらしいほどに、突き抜けるくらいに青かった。

 それから十分か、二十分ほどたっただろうか。
 ともすれば葉擦れにかき消されそうな泣き声は止んだ。
 才人が目をやると、ごしごしと目をこすっているところだった。

「だいじょうぶ?」

 出来る限り優しい声をかける。
 それに反応してか、白い子どもが顔を上げ、才人は心臓を鷲掴みにされたような錯覚に襲われた。

 長い、櫛を通しても抵抗一つなさそうな純白の髪。
 澄み切った晴れ空の下で輝く海を思わせる、青い眼。
 そしてその無垢な表情は、顔立ちは、才人が右腕を斬り飛ばした少女と鏡合わせのような、ありえないほど似通っていた。

――え。

 思考が、身体が、硬直する。
 このありえない出来事はなんだ、と才人は自身に投げかけるが、答えが返ってくるはずもない。
 彼をじっと見つめる瞳は、ともすれば吸い込まれそうなほど深く、その一点だけは血のように赤い眼をもつ少女と違っている。

「おにいちゃん、だれ?」

 声は、才人が聴いたことのあるものより幼く甘ったるかった。

「……?」

 才人の双眸は困惑と後悔、そして若干の恐怖に揺れていた。
 無反応の才人を不思議そうに見つめる白い少女から、目を離すことができない。

「だいじょうぶ?」

 才人がかけたように、優しい声だった。

「おにいちゃん、つらいことがあったの?」

――違う、ウソだ、夢だ、やめてくれ。斬り捨てた俺を、そんな目で……。

「めありーがきいてあげるよ」

 喉と胸を締め付けられるような感覚。
 悲鳴をあげることだけはしなかった。
 才人の胸中を暴風のように雑多な感情が吹き荒れる。
 気づけば、背中は脂汗でびっしょり濡れていた。

 メアリーと名乗った少女は興味を失ったのか、草原で駆け回っていた。
 走っては転んで、また立ち上がって無邪気に笑っている。
 見た目はルイズと変わらないくらいなのに、それはひどく幼く見えた。

 大樹にもたれかかったままぼんやりと空を眺める才人の視界を誰かが遮る。
 小柄な金髪の、まだ若いが悟りを開いたような、神秘的な雰囲気をもつ男だった。
 その瞳には悲痛の色が見てとれた。

 才人が声を出そうとする寸前、奇妙な浮遊感に襲われる。
 それはいつも夢で感じているような、目覚めの合図だった。




―――泡沫の正夢を―――





 刺すような夕日に目を焼かれながら才人は起き上がる。
 ヤケに仲良くなっていたルイズとティファニアのことが少し気になったが、それ以上に変な感触が彼を苛ませる。
 アレは本当に夢だったのか、そのことがおかしなくらい胸にひっかかっている。
 夢でなかったとしたら、あの少女は、あの若者はなんだったのか。
 どこか気持ち悪い思いを抱えたまま、二人を置いてふらふらと部屋を出た。
 昨日と同じような時間だからか、プチ・トロワの中をさまよっても誰もいない。

 なんとなく思い立って庭に歩み出る。
 植木に沿って気が向くまま散歩を続ければ、まるい広場の中央にある一つの石像に、そしてその前に佇む人影に足が止まる。
 法衣姿の男性がゆったりと振り返った。

「おや、もう大丈夫でしたか」
「おかげさまで」
「身体に差し支えないよう、無理は控えてください」

 茜色の日差しにキラリとルビーの指輪が輝く。
 ヴィットーリオは杖を持つ白い像を見上げる。
 その姿は何故か、親を想う子を才人に連想させた。

「この石像、顔がはっきりしてないんですね」
「ええ、始祖ブリミルは己の顔を残すことを禁じられました。自分に似た人間が崇拝されることや、迫害されることを恐れたのでしょう」

 へぇ、と才人が相槌を打って、二人は黙った。
 そのまま時間が過ぎていく。
 遠くでカラスの鳴き声が聞こえた。

「これも縁ということでしょうか」
「はい?」
「実は、あなたを訪ねようとプチ・トロワに向かう途中だったのです。こうして始祖ブリミルの御前で出会えたのも運命なのでしょう」
「はぁ……」

 ヴィットーリオが才人に向き直る。

「ジュリオ、人払いを」
「はっ」
「うわ! いたのか」

 音もなくジュリオが現れ、また去っていく。
 忍者みたいだなあ、と呑気に考えながら才人はその背を見送った。

「サイト殿は、夢を見ますか?」
「夢ですか。そりゃ見ますけど」

 才人の脳裏には先ほどの草原と少女がフラッシュバックした。
 だが、あれが夢だとはとても思えなかった。

「夢の中では様々な人があらわれ、また出来事があります。死者と出会うこともあるでしょう」
「そうですね」
「しかし、こう考えたことはありませんか? こうして我々が生きているのも、誰かの夢の中だと」
「……ない、です」
「それが真実だとすれば、あなたはどう思いますか」

 想像もできないことだった。
 こうして自分が息をしているのも誰かの夢だとしたら。
 あのニューカッスル城での夜も誰かの夢だとしたら。
 人が何かのために戦うのも、誰かの夢だとしたら。
 その誰かが目覚めたら泡沫のように消えてしまうとしたら。
 それは救いがあるようで、とてつもなく恐ろしいことだ。

「すごく、怖いと思います」

 ヴィットーリオは寂しげな微笑を見せた。

「わたくしもそう思います」

 才人には彼が内心何を考えているのか、さっぱりわからなかった。
 二十歳ほどにしては老成しているように感じる。
 夢のようなナニかで出会った男の人に似ていると、才人は思った。

 二人して石像を見上げ、場に沈黙が訪れる。
 気まずいものではなく、声を出すことなく語り合っているような、不思議な静けさだった。

「母は」

 教皇が再び言葉を紡いだのは、それから数分たってからのことだった。

「母は邪神に憑かれ、殺されました。そしてトリステインのダングルテールで始祖の炎に裁かれたのです」

 彼が目を向けているのは北の方、見たこともないダングルテールを睨んでいた。

「それを為した人物を憎いと思ったことはありません。わたくしの知る母はすでに死んでいたのですから」

 左手の中指に、そこにある指輪に目を落とした。

「ただ、愛する母の遺骸を玩んだ邪神が憎い。始祖の教えを広めることに腐心した母の遺骸を、邪教布教のため辱めた邪神が憎い。できることなら消し去ってやりたい。そう思うほどに」
「……」
「わたくしの持つ使命感、人類への愛は何よりも重いと思っていましたが、憎悪に身を焦がしてしまうとは……。教皇として、虚無の担い手として失格ですね」
「少しだけ、ほんの少しだけわかります」

 それがヴィットーリオの秘めた激情に及ぶとは到底思えないが、才人も邪神に対して怒りを覚えている。
 邪神さえかかわらなければ、世界はもっと平和だったはずだ。
 ちょっと変なだけの女の子が犠牲になることもなかったはずだ。
 才人の戦友が命を落とすことも、なかったはずだ。

 ジョゼフの語った通り、遥かに存在規模が違う相手だとしても一発殴ってやりたい。

「あなたに、伝えねばならないことがあります」

 澄んだ眼には憎悪と、人類への愛が秘められている。
 何か大事なことを言おうとしているのがわかった。

 ヴィットーリオは口を開き、しかし閉ざした。
 静謐な空間を裂く喋り声が聞こえたのだ。

「これはこれは教皇聖下! こんなところでどうしたというのだ! ああ、始祖ブリミルの前で祈りを捧げていたのか。まこと信心深いな、あなたは!」

 青髪の偉丈夫、ジョゼフ1世がシェフィールドを従えてやってきた。
 その少し後ろでジュリオが苦りきった顔をしている。

「ジョゼフ殿」

 対する中性的な教皇は、一切不快感をあらわにしなかった。

――すげぇ、俺なら露骨に舌打ちするのに。

 ものすごく大切なことを語ろうとしていたのを邪魔されて、不機嫌にならないほど才人は大人じゃない。
 会議の時はあまり喋らなかったのでわからなかったが、今ここで彼は理解する。

――コイツは、性格が悪い。

 昨日彼が話したイザベラはまだ優しさが、ほんのちょっぴり見えた。
 才人から見たジョゼフは性格の悪さしか目につかない。
 今だってジュリオがきっと足止めしていたのにそれを振り切って来たに違いない。
 何より、ジョゼフは才人の方を一切見ようとしていない。
 それが少年の心をひどく苛立たせた。
 ジョゼフは才人の目の前で、彼からすればどうでもいいことを教皇に語りかけている。

――やっぱ貴族は性格悪いヤツが多いな。

 話が終わる気配もないので、そんな失望感を抱いていい加減部屋に戻ろうとした矢先。

「ガンダールヴ」

 青い王様が話しかけてきた。

「俺はガンダールヴなんて名前じゃない。平賀才人だ」

 無視してもいいと才人は思っていたが、返事はした。
 彼の娘に対するのと同じだった。

「そのような些事はどうでもよい」

 深く、冷たい視線が才人を射抜く。
 平賀才人という人間の心底を暴くような、遠慮の欠片も感じられない視線。
 昨日のいじわる王女さまとは全く異質なそれは、ジョゼフという人間のいびつさを示しているようだった。

「おれはおまえが嫌いだ」
「俺だって、あんたみたいなヤツは嫌いだ」
「だろうな」

 不敬だとかそういうことにはかまわず、才人は食ってかかった。
 ジョゼフは口元を釣り上げて鼻で笑い、すぐに真面目な顔に戻る。

「だが、それとこれとは話が別だ。おまえに渡すものがある」
「ジョゼフ殿、それは」
「始祖ブリミルの御前で、教皇もこの場にいる。かまわんだろう」

 ティファニアとキスした時のルイズとは違う、凄まじい威圧感にと晒された才人は、腹に力を込めて耐えきった。

「ほう、始祖の血をひかぬなら膝をつくかと思ったが」
「……なめんな」
「それでこそ虚無の使い魔。癪だがこの剣を託す」

 ジョゼフはマントを翻し、その下から一振りの長剣を抜き払った。
 一メイル以上ある片刃は夕日を反射して黄金に煌めき、刀剣類に詳しくない才人の目からも素晴らしい逸品だということがわかる。
 護拳はなく鍔もハバキも至ってシンプル、絢爛な装飾は一切なく無骨な印象を与える。
 だというのに才人はこの剣に目を奪われ、魂が惹かれるような感覚を覚えた。

「神剣デルフリンガー、かつて聖者アヌビスの故郷で鍛えられ、始祖の血を啜り、歴代ガンダールヴとともに星を護る戦いに身を捧げた忌まわしくも聖なる剣」

 腰元から鞘を抜き、刃を納める。
 両手でジョゼフが差し出すそれを、才人は恐る恐る受け取った。

「使い手よ、よろしく頼む」
「喋った!?」
「デルフリンガーには六千年蓄積した知識がある。教えを乞い、来る日に備えよ」
「ちょっ、待てよ!」
「これ以上おまえと話すことはない。そうする気もない」

 来たとき同様、ガリアの武農王はシェフィールドを従えこの場を去る。

――な、なんて自分勝手なヤツなんだ。

 あんな大人にはなりたくない、と思いながら才人はデルフリンガーに目を落とす。
 鞘にも派手派手しい飾りはなく、刀身が見えていなければ一山いくらのカゴに放り込んであっても違和感がない。
 神剣という仰々しい肩書持ちのくせに、全体的に地味な印象を受けた。

「あの、教皇さま?」
「ヴィットーリオでかまいません」
「じゃあヴィットーリオさん。さっき言いかけてたのは……」

 才人の言葉に、ヴィットーリオは少し俯いて考え込み、やがて顔を上げた。

「やめておきましょう」
「へ?」
「ここにジョゼフ殿が現れたのも始祖の思し召しということでしょう。まだあなたが知るには早すぎる、と」
「……」
「また会うとき、その時に必ず話しましょう」

――き、気になる!

 ヴィットーリオは自己完結した様子で、ジュリオを従えてグラン・トロワの方に向かった。
 呆然とその後ろ姿を見送るしか才人にはできなかった。

「どうした使い手」
「いや……大人って勝手だなって」
「歳をとればとるほど人は若き日々を忘れ、傲慢な身勝手さを身に着けるものよ。某の六千年の人生、あいや、剣生で学んだことだ」
「はぁ」
「使い手も大人になればわかることだ。そなたは未だ齢十七、まだまだ人生はこれから、学ぶべきところはたくさんあるだろう。しかして、臆することはない。なぜなら若さとは……」

 いきなりこんこんと説教しだした神剣に、なんと返せばいいのか。
 しかも相手は悪気がない。純粋に自分のためを思って諭していると、才人は感じた。
 とりあえず最近よく言うセリフを吐いてみる。

「使い手じゃなくて平賀才人っす」
「ふむ、異星出身だけあってなかなか珍妙不可思議な名だな。相棒と呼ばせてもらおう」
「あーいや、まぁ、それでいいや」

 完全に毒気を抜かれた才人は、新たに得た相棒とともに部屋に戻った。
 これからは一人の夜も怖くないか、と気楽に考えながら。

 部屋に帰るとすぐ、ルイズが呼びに来てトリステインに舞い戻ることになる。
 嵐に翻弄される木の葉のように、平賀才人は戦場に身を投じる。



*****



「はぁっ、はぁ、っつ!」

 泥まみれになりながらジャネットは暗い森の中、倒れ込んでしまった。
 あたりには生物の気配がない、虫の声一つ聞こえなかった。
 ただ暗闇で彼女の吐息がこだまする。

――こんなはずじゃ、なかった。

 彼女の思考を占めるのはそれだけ。
 どうしてこうなったのか、彼女には一切わからなかった。
 ただ相手が強すぎた。否、そんな生易しい表現で済むものではない。
 今まで仕留めてきたどのようなメイジよりも、どのような化け物よりも得体のしれない相手。
 ヒトが原始的恐怖を抱く、夜の漆黒を相手にしているようだった。

『今回は少し危険だが、儲けは大きいぞ。情報収集だけで倒す必要もないそうだ』

 そう言って笑った元素の兄弟の長男、ダミアンも、もういない。
 標的の、メアリー・スーの纏う冥闇に呑まれ、この世を去ってしまった。
 他の兄、ジャックも、ドゥドゥーも、同じ末路を辿った。
 ジャネットは逃げた、この情報を持ち帰るため、強かった兄がまるで相手にならなかった敵が怖かったから。
 他の手段をとろうとは考え付かなかった。

 彼女は兄の死に際を思い返す。
 はじめに堕ちたのはドゥドゥーだった。
 好戦的な笑みを浮かべ、唱えたのはブレイド。
 ニューカッスル城での戦いで、ブレイドは一定の効果を上げていたことを彼らも聞いていた。
 彼らは、並みのメイジとは比べ物にならないほど魔力量が多い。
 それもそのはず、彼らの正体はハルケギニア六千年の歴史が造り上げた、対邪神用の戦闘特化メイジだ。
 最強の竜種、水竜を相手取ろうと四人でかかれば五分で片づけられるほどの腕前を持っている。
 マンティコアなど並みの怪物相手ならば群れで襲われても難なく対処するだろう。
 当然、彼らの扱うブレイドも通常の、杖を包むような形状ではない。
 巨木ほどの太さがあろうかという、青白い巨大な鞭になるのだ。
 見た目はか弱い少女にすぎないメアリーに声をかけることもせず、ドゥドゥーは一気に長さ二十メイルのブレイドを振り下ろした。

 次の瞬間に元素の兄弟が見たのは、夜であってもなおわかる名状しがたい黒い光、あるいは発光する闇だった。
 彼女の纏う闇の衣に触れた一瞬で、どこか神聖さすらあったブレイドの光を犯し、元々自分が扱っていたかのように振るう。
 ドゥドゥーは、青白いブレイドを振るっていたはずのメイジは、漆黒の閃光に呑まれた。

 それからは刹那の出来事だった。
 ジャックとダミアンが間合いをとる間もなく、闇色に輝く触腕は二人を絡め取り、喰らった。
 一人距離が遠かったジャネットは幸いにも、あるいは不幸にもそれを見ることになる。
 光の届かぬ深海に蠢く、見るもおぞましい生物のような動きに、彼女は生理的な嫌悪感とともに心底から湧き出す恐怖に包まれた。

――これは、違う。

 今まで殲滅してきた化け物とは何か、決定的に違う。
 兄の仇を取ろうという気も起きず、反転して最高速度で離脱した。
 早く、ここから一秒も早く離れなければという思いをもって、全力全開のフライで逃走した。
 数リーグは離れた森で今は一人、膝をついている。

 しばらくそのまま息を整え、立ち上がって白いフリルのついたドレスの裾を払った。
 その程度で汚れが落ち切るとは思えなかったが、精神的に立ち直るために必要な儀式だった。

――アレはなんだったのかしら。

 まず、それを考える。
 兄の死を悼むのは後でいい、あの光景を見て発狂しなかった幸運を噛み締めつつ、アレを打倒する手段を考察せねばならない。
 元素の兄弟は、虚無の使い魔を見本として調整されたメイジだ。
 長男ダミアンを中核たるリーヴスラシルと見立て、ジャックをヴィンダールヴ、ドゥドゥーをガンダールヴ、ジャネットをミョズニトニルンとして、それぞれの役割に近い特製を持っている。
 神の頭脳を模した彼女は、歩く図書館と言っても差し支えないほどの凄まじい知識量を誇る。
 だが、その彼女の優れた頭脳をもってしてもあの現象の説明はつかなかった。

――ありえない、と断じるのは危険ですわ。

 二十メイルも離れていれば大丈夫、と決めつけてかかって彼女の兄は死んだ。
 なら自分はその教訓を生かさねばならないと、懸命に記憶を探る。
 邪神と言えど、人の身体を憑代としてこのハルケギニアに存在する以上、この星の法則にある程度縛られる。
 過去に読んだ文献の記憶を片っ端から思い出しては破棄する。
 数百冊分の記憶を掘り起こしたところで一つだけ、たった一つだけ心当たりが見つかった。
 それに思い当たったと同時、ジャネットは顔を青ざめた。

「まさか、いえ、そんな……」

 狼狽しながら否定要素を探す。
 見つからない。
 一例だけほぼ同じ事象を引き起こせる魔法が存在する。

「スペル・ジャックなんて……」

 机上の空論でしかない、という言葉は声にならなかった。

 スペル・ジャック。
 魔法大国ガリアとエルフが共同研究を行い、対邪神用のスペルを考案していた時、それは偶然生まれた。
 簡単に言ってしまえば、相手が唱えた魔法をそのままそっくり自分が乗っ取るスペル。
 ゴーレムに使えばゴーレムの使用権は自分に、といった具合でありとあらゆる魔法のコントロールを奪うことのできる究極の魔法だ。
 しかしながら、満たさなければならない条件が多すぎ、実用化されることはなかった。
 莫大な精神力の消耗、長い詠唱時間、これらは序の口に過ぎない。
 先住魔法の反射(カウンター)が扱えること、そして同時に系統魔法が使えること。
 この二つの条件を併せ持つことは通常不可能だ。
 基本的に、先住魔法はメイジには使えない。カウンターほど強力な先住魔法ならエルフにしか扱えないだろう。
 そして精霊は系統魔法を嫌う、優れた行使手ならば系統魔法を学ぶなど間違ってもしない。
 スペル・ジャックは約千年前に変わり者のエルフ研究者が扱えたのみで、それ以来使い手のいない忘れられた魔法だった。
 そのはずだった。

――巫女は、邪神は精霊をねじ伏せてカウンターを使っているのかしら。

 詠唱の気配も感じられなかったことが気にかかる。
 この件に関して、今は明確な答えを出せないが、一つの情報は得られた。
 さらにもう一つ、考えるべきことがある。

――攻撃するまで一切の反応を示しませんでしたわ。

 遠くからとはいえ、進路上に立つ、石を軽く投げつけてみる、など反応を窺うためにも色々と試した。
 だがメアリーはそれらに関して一切興味すら示さなかった。
 現状、彼女に意志はなく自分の危機を察知して敵を排除しようとすることがわかった。

「まるでガーゴイルのようですわ」

 心中のモヤモヤ感を毒として口に出すことで、ジャネットは思考を切り替えた。
 考察は終わった、次にとるべき行動を何か。
 オルレアン機関へ連絡、さらに帰還しなければならない。

――どうやってアルビオンを出ればいいのかしらね?

 アルビオンに向かう際は、竜騎士でもあるジャックが操る風竜に乗ってきた。
 現在地はサウスゴーダの近く、精神力が完全にたまればギリギリフライで帰れる距離だ。
 異常なまでの魔力量をもつ元素の兄弟ならではの帰還手段だった。

 夜が明けるまではメアリーの進路から距離をとり、陽が出れば休む。
 夕方にはフライでトリステイン、もしくはガリアに降下しよう、とジャネットは決めた。

「兄さま、仇は必ず」

 身を翻して森を出るため一歩踏み出す。
 はたと気づくことがあった。

――臭いますわ……。

 ジャネットは鼻をつく刺激臭を感知した。
 森の外から差し込む月明かりを頼りにして周囲を見渡すと、ある一点に目が留まった。

「アレは」

 木々から伸びるいずれかの枝から滴るように煙が染み出している。
 暗い中ではっきりとはわからないが、白くはなく、また黒くもない。
 何か別の色で染められた不可思議な煙だった。
 それは意志があるかのように凝集していく。
 ごくりとジャネットは唾を飲み込んだ。

「ティンダロスの猟犬……」 

 彼女は無論、その冒涜的な獣を知っていた。
 ありとあらゆる時空を超越して獲物を追う存在。
 一度目をつけられれば逃れる術はない。
 遥か昔、アディールで猛威を振るったという記録が残っている。
 その時は確か、獲物の死でカタがついたはずだ。

――目をつけられるようなマネは。

 猟犬とは、あくまで執拗に獲物を追う様子を比喩した表現に過ぎない。
 彼らは臭いではなく、異なる何かを目印に獲物を狙い続けるのだ。

 ジャネットは覚悟を決め、右手に杖を、左手にナイフを持つ。
 具現化した獣はその長い舌をくねらせ、彼女に踊りかかった。



*****



愛するミレディーへ


何も言わずロマリアに君を置いて出なければならない私を許してくれ。

決して君が嫌になっただとか、そういう理由ではないのだ。

私にしかできぬことを為すため、アルビオンに向かわねばならない。

おそらく、二度と帰ることはないだろう。

何から説明すればいいのだろうか。

何が起きたのか、なぜ君をロマリアに匿わねばならなかったかを説明しよう。


ことの起こりは、私たちの娘に、メアリーに大いなる邪神が憑いたことだ。

私も詳しくは分からない、枢機卿からはじめて聞いたことだ。

この六千年なかった事態で、ハルケギニアが滅亡するかもしれないようだ。

隠された神話ですら起きなかった、とのことだ。

気弱な君はこの時点で失神したかもしれない。

だが、こらえてほしい。

ロシュフォール家からそのような者を出したとあっては、普通取り潰しにあうだろう。

だが幸いにして、姫殿下と枢機卿はロシュフォール家の存続を認めてくださった。

ラ・フェール家から養子をとる手続きも済ませた。

君には苦労をかけるが、ロシュフォール領のことを頼んだ。

執事のバザンは私が連れて行く。

後任にはトレヴィルを指名しておいた、彼ならばうまくやってくれるだろう。


君を置いていったわけは、私がアルビオンに向かう理由でもある。

メアリーを憑代にした邪神はナイアルラトホテップ、君も聞き覚えがあるだろう。

ヤツを崇める「ナイアルラトホテップ教団」というものが今のハルケギニアで暗躍している。

ひとところに固めねば対処できぬ、オーク鬼なんぞと比べ物にならないほど厄介な者たちらしい。

私はメアリーの父として、やつらをまとめねばならない。

トリステインのため、ハルケギニアのためにも教団をまとめて一網打尽にする一助とならねばならない。

それがメアリーの父としてできる最後の仕事で、ロシュフォール家を、君を守る唯一の選択肢だったのだ。

この任務は私の死をもって完遂されるだろう。

その知らせが来るまで、何があってもロマリアから出ないでくれ。


ああ、ミレディー。

愛する君を残して始祖の御座に向かう私を許してくれ。

そして、決して毒盃を煽るような真似はしないでくれ。

私は君の幸せだけを祈っている。

叶うならばもう一度、君とラグドリアン湖に行きたかった。

             君の愛したジョン・フェルトン






 全てを包み込むような優しい月明かりだった。
 ベッドに横たわる妻の頬を撫でる男の瞳は、それに勝る慈愛に満ち満ちていた。
 音もなくドアを潜り抜けた金髪の男が立ち止まり、白髪の男はゆっくりとベッドから離れる。

「旦那様、よろしいので」
「ああ、行こう」

 妻を見ていたときとは全く違う、眼に焔を宿した白髪の男は歩み出した。
 その後ろを金髪の男がついていく。

「すまんな」
「かまいません。旦那様と死出の旅に赴くなら至福の極みにございます」
「……感謝する」
「仰せつかったマントをこちらに」
「うむ」

 金髪の男、バザンが手渡したサファイヤとルビーをあしらった漆黒のマントを翻し、ジョン・フェルトンはアルビオンを目指す。



[29710] 公爵の杯を
Name: 義雄◆285086aa ID:b6606328
Date: 2011/11/20 18:57
「サイト殿。アルビオンの一件、改めてお礼を言わせてもらいますわ。ありがとうございます」
「え、はあ、どうも」

 リュティスからトリスタニアへ向かう竜篭の中、アンリエッタは才人にお礼を言った。
 これといった流れもなく、唐突なものだったので彼は呆けて、隣に座るルイズに肘でつつかれて気のない返事をしてしまう。

「えっと、恐悦至極に存じます?」
「なんで疑問形なのよ」

 ルイズは「もっと礼儀作法を教えておくべきだったわ」と後悔したものの、アンリエッタは気にする様子も見せなかった。
 楽しそうに、幸せそうに微笑む。

「そんなにかしこまらなくてもかまいません。あなたはハルケギニアで最も重要な存在なのですから」
「その通りです。本来なら教皇と対等の地位を設けるべきなのですが、時期尚早でしょうな」

 アンリエッタとマザリーニは、ルイズにとってとんでもないことを、才人にはよくわからないことをのたまった。
 ぽっと出の平民、それも出自のよくわからない異星人に与えていい地位ではない。
 しかし平賀才人はアルビオン王家を救った英雄であり、今やハルケギニアの対邪神最終兵器とも言える。
 彼なくしてハルケギニアの明日はない。
 と言っても、アンリエッタもマザリーニも才人に政治をやらせるつもりはこれっぽっちもなかった。
 あくまでお飾りの権力で、それを駆使して戦の準備を整えるのだ。

 教皇と対等の地位、これはハルケギニア最高の権力者であることを示す。
 邪神に対抗できるのは始祖ブリミル以外にありえない。
 ブリミル教から破門されるということは、すなわち狂気に怯えながら暮さねばならないことでもある。
 したがって、その教えを守り、伝えていくブリミル教の僧は大きな力を持っている。
 地球で言う、中世ヨーロッパはハインリヒ四世の時代と同等の力を有していると考えれば良いだろう。
 万一破門の憂き目に会えば、国家のため、人民のためガリア王ジョゼフですら教皇に膝をつかねばならない。
 だがロマリアは同時に、貴族の武力なくして邪神に抗えないことも知っている。
 緻密なバランスの上で貴族と僧は手を取り合っていた。

「ロシュフォール伯が上手くやればそこの問題は追々片付くでしょう。それより他の問題を考えないと、時間は有限なのだから」
「わたしは“爆発”と“解除”の習得、サイトは神剣に慣れながら引き続き鍛錬ですね」

 ルイズは始祖の祈祷書をきつく抱きしめた。
 トリステインの国宝である古びた本は、虚無の担い手にしか読むことができない。
 当初は担い手が各王家に伝わるルビーを嵌めねば文字が浮き上がらなかったが、制約が厳しすぎると判断した五千年前のロマリア教皇が“解除”によって魔法を部分的に改変したのだ。
 始祖の秘宝にかけられた魔法は非常に強力であるにも関わらず、そのような条件変更を行うことができた当時の教皇の凄まじさがうかがえる。
 それほどの使い手も邪神との戦いで命を落としてしまったのだが。

「サイト殿とルイズは魔法学院に配置します。巫女がいた場所ですから、邪教徒も潜んでいることでしょう」
「姫さま、アニエスは呼び戻されるのですか?」
「……トリスタニアの防備に不安が出るのは好ましくないわね。ロシュフォール領にヒポグリフ隊から人員を可能な限り配備、首都は銃士隊と……」
「軍事についてはグラモン元帥やポワチエ将軍に話してから決断するのはいかがでしょうか?」
「そう、そうね。人は道によって賢しという言葉もあるくらいですし」

 アンリエッタは先ほどとは違って、力ない笑みをルイズたちに見せた。

「予想外のことが起きすぎて困っちゃうわね」
「……邪神の行動など誰にも予測できませぬ」
「マザリーニは固いわ。もうやることが多すぎてイヤになっちゃう。去年の今頃に戻りたいわ!」
「去年の姫さまですか。王宮に行くたび「退屈退屈!」って叫んでたような気が……」
「そんな事実はないわ」

 ルイズの突っ込みにしれっとアンリエッタは返す。
 才人は友だちの友だちの家しかも女子に遊びに行ったときのような疎外感を味わっていた。
 アンリエッタの隣にマザリーニが座っているのが、なおさらその感覚を加速させる。
 あまり似ていないが、彼はアンリエッタの父親みたいだ。
 今は穏やかな表情をしているけれど、その内くわっと目を見開いて「どこの馬の骨とも知れん奴に私のアンはやらん!」とか叫びだしそうだった。

「各貴族にも正式な通知を送らないと。教皇聖下とジョゼフ陛下、ウェールズ様の書面もどっさり手にいれましたし」
「まず公爵家に布告、次いで侯爵、伯爵に、子爵と男爵は王宮に集めて一斉にといった次第ですかな」
「その順番が妥当でしょうね。ラ・ヴァリエールにはルイズが直接いけばすむことですし」
「え……それはちょっと」
「なんにしろ邪神についてわかりやすく、信頼できる文章をつくらねばなりませんな」
「なんだってご先祖様たちは邪神の記憶を消しちゃうのかしら。理由はわかるけど、めんどうだわ」

 よくわからない話が竜篭の中を飛び交って、すごいなぁと半ば放心していた才人は気になる言葉を拾った。
 このまま謎話を右から左に聞き流すよりもマシかと思いながら質問してみることにする。

「記憶を消すって、どういうことですか?」

 才人がわからないのはそこだ。
 邪神とやらがしばしばやってくるのなら記憶を消さずとも良いではないか。
 みんなで備えてえいやとやっつければいいと思った。
 忘れることで得することなんか、才人には考えつかない。

「サイトにも説明しておいたほうがいいみたいね」
「待たれよ」
「うぉっ!?」
「その疑問には某が答えようか」

 才人が背負っていた神剣が渋い声でしゃしゃり出てきた。
 いきなり耳元でおっさんボイスが響いた才人は飛び上がって驚き、三人の視線が突き刺さっていることが恥ずかしくなって腰を落とした。

「トリステインでは邪神戦役後“忘却”を用いているのだな」
「ええ神剣殿。消極的と言わざるを得ませんが」
「それが悪いとは言わぬ、選択肢の一つなのだから。それと、某のことはデルフリンガー、もしくはデル公でかまわん。四千年ほど前のガリア王に公爵位を授けられたのでな。ああ、相棒はデルフと呼んでくれ。歴代の使い手からはそう呼ばれていたのだ」

 とにかくこの剣、よく喋る。
 一つ口を開けばとにかく言葉が重なって出てくる。
 話をする機能が主で、斬るという剣本来の仕事はオマケなのかもしれないと思わせるほどだ。
 ルイズもアンリエッタも「うわぁ……」という顔で才人を、もっと言えば才人が背負っている柄を見ている。
 デルフリンガーは領地など持っていないが家格としては最高位、一振りの剣にすぎないくせ、ヴァリエール家と変わらない。
 その気になれば魔法学院のひよっ子を顎でこき使える身分だ。

「さて、記憶を消す手段と何故そうするかだったな」
「あ、うん」
「消す手段は虚無の魔法だ。“忘却”という、任意の記憶を消去する魔法がある。他にも使い方はあるのだが、今はいいだろう」
「ふむふむ」

 才人は分かった風に相槌を打ってみる。
 任意の記憶を消す魔法、この恐ろしさを彼は理解していない。
 戦闘中に魔法関連の記憶を消されたら、敵対者に不利な記憶を消されたら。
 応用の幅は非常に広いが、ルーン詠唱が長いという欠点を併せ持つ虚無のスペル。
 それが“忘却”だ。

「では何故記憶を消去する必要があるか。わかるか?」
「わかんねーから聞いてるんだろ」
「相棒はもう少し頭を鍛えるべきだな。邪神は狡猾で残虐な存在だ。流されるままに剣を振るっているだけでは決して勝てぬ。たゆまぬ鍛錬と常に冷静さを保ち、思考を続けることによってはじめて活路を見いだせるのであって」
「ああもう! 説教はあとで聞くから!!」
「これは説教ではない。あくまで相棒のためを思っての、いわば忠告だ。某自身、人に何かを教え導くほど立派な人生、あいや、剣生を歩んでおらぬ」
「いやわかったから」
「む、仕方あるまい。何故記憶を消去するか、だったな」
「そ」

――デルフと喋ってたら日が暮れても話が終わらない。

 これは青いおっさんの遠回しな嫌がらせでは、と才人は思ったが口には出さなかった。
 聞かれたら最後、再びマシンガントークがはじまりそうだったからだ。
 マザリーニは若干渋い表情、美少女二人は顔をひきつらせている。
 デルフリンガーはする必要もないのに咳払いを一つして、真実を語る。

「簡単だ。邪神の存在を知れば発狂する」
「は……?」
「名前、姿形、あるいは存在するという事実。どれでもかまわん。それが狂気の入り口となる。普通の者ならば一年と正気を保てぬ」
「嘘、だろ?」

 にわかには理解できぬ話だった。
 邪神を知覚するだけで狂ってしまうなんて、才人には信じられない。

――それがホントだとすれば、それは、どうしようもないじゃないか。

「事実です。十四年前、彼奴らの存在を知ったワルド子爵の母君はそれで亡くなられました」
「ワルドさまの……」
「彼女は地の底に眠る風石の研究を行っていたようです。その過程で、何かに気づいたと。アカデミーは閉鎖的なところもありまして、我々が気づいたときには手遅れでした」

 マザリーニは心底悔いているようで、その顔は暗く重かった。

「よっぽど精神的に強い者しか抗えぬ。例外は信仰に篤いロマリアの高僧か、色濃くブリミルの血をひいているもの、もしくは虚無の使い魔か」
「トリステインではデルフリンガー殿が仰ったように、極一部の者しか知りません。公爵家であっても邪神について知らいないでしょう。もっとも、具体的でない家伝にまでは手を出していませんが。アルビオンはどこからか、邪神の情報が洩れてしまったようですわね。クロムウェルが染められ、そこから一気に広まったと」

 程度の差こそあれど、各王家は邪神情報の機密保全に力を入れている。
 どこでクロムウェルが邪神のことを知ったのか、謎は尽きない。

「彼も、元は敬虔なブリミル教徒であったというのに……始祖の血をひいていなかったために、こんなことに」

 クロムウェルのことを、マザリーニはほんの少し知っていた。
 平民出身とは思えぬほどの教養を身に着けていた。
 聖職者だというのにワインが好きで、酔うといらぬことを喋ってしまう男だった。
 朝夕の礼拝以外にも、始祖ブリミルの像に祈っていることが多かった。
 彼が知っているのはたったそれだけ。
 たったそれだけでも、彼が本質的に善人であると、マザリーニはわかっていた。

「結局全部、ナイアルラトホテップってヤツが悪いってことだよな」

 その名を口にするだけで、才人の心臓が強く脈打つ。
 この地上から排除せねばならぬと咆哮している。

「倒さなきゃ……」
「その通りだ、あの存在にこれ以上この星を蹂躙させてはならぬ」

 才人の呟きに、デルフリンガーが力強く肯定した。
 それっきり、竜篭の中は静かになる。
 トリスタニアはもうすぐそこだった。





―――公爵の杯を―――





 翌日、ルイズは才人を連れてヴァリエール領に帰った。
 懐にはアンリエッタが認めた手紙を携え、これまでのことを、これからのことを報告するために。
 トリスタニアを早朝に発ち、朝食後のお茶の時間に滑り込むことができた。
 連絡を一切いれずの帰宅だったので、使用人一同は驚き、そして公爵たちの下にルイズを案内した。
 突如現れた娘に、公爵は相好を崩し、公爵夫人は眉をひそめた。

「ルイズ、学院はどうしたのです」
「オールド・オスマンには許可をとっていますわ。理由もきちんとあります」

 夫人は、ルイズのはきはきとした態度に疑問を覚えた。
 彼女が何より規律を重んじるということを、彼女の娘はよくよく承知しているはずだ。
 だというのに一切後ろ暗さは感じさせない。
 何か重大なことがあったというのだろうか、と心中で口にする。
 一方の公爵は、純粋に娘の帰郷を喜んでいた。

「おおルイズ、よく帰ってきた。何かあったのかね?」

 娘を抱き寄せ頬に口づける。
 父親の親愛の情に、ルイズは少しくすぐったそうにした。

「父さまと母さまにお話があります」
「いいとも、丁度昨日いい茶葉が入ったのだ。ルイズもかけなさい」

 進められるままにルイズは腰掛け、差し出された紅茶に口をつける。
 ほのかなマスカットの薫りが口中に残り、思わずため息をついてしまう。
 が、すぐに己の使命を思い返し、話を切りだした。

「父さま。アンリエッタ姫殿下から、いえ、教皇聖下、ジョゼフ陛下、ウェールズ皇太子の連名で書状を預かっています」
「……なに?」

 ルイズが並べた名前は、始祖ブリミルの代にはじまり、六千年もの間ハルケギニアを支配してきた四国の代表者だ。
 それらすべてが係わる書の重要性は計り知れない。
 娘が差し出した手紙を、公爵は無言で受け取り印璽を確認する。 
 彼ですら数えるほどしか見たことのない、教皇印だった。
 何事か、と思いながら開封して黙読する。
 四枚の紙を一通り読み、もう一度最初から終いまで読み返した。

「そうか……」

 ラ・ヴァリエール公爵は椅子に深くもたれかかった。

「にわかには信じられぬことだが……各国首脳が連名で認可しているならば、手の込んだ悪戯というわけでもないのだろう」

 その顔色は優れない。
 手紙の内容がよほど堪えたのか、半ば放心しているようにも見える。
 隣に座る公爵夫人に力なく、手紙を渡した。
 目を通した彼女もその内容に驚愕している。

「これは、確かに凄まじいことですわ」

 夫人もアルビオンの顛末、これから起きる内容に顔をしかめている。
 穏やかな太陽の下、親子三人でお茶をしているというのに空気は重い。

 手紙の内容は大きく三つ。
 一つ、邪神ナイアルラトホテップと教団について。
 一つ、それに付随して今後予測される事態について。
 そして最後に。

「いや、それよりもルイズ」

 虚偽を許さぬ射抜くような眼で彼の娘を見つめる。

「魔法が、使えるのだな」
「はい、父さま」
「……伝説の、虚無の系統だというのだな」
「……はい」

 老公爵は、厳めしい顔をほころばせた。

「おめでとう、私の小さいルイズ」

 娘に対する心からの祝福がこもったその言葉に、ルイズは思わずハンカチで口元を抑えた。
 堪えようと思っても涙が止まらない。

 彼女は、ずっとゼロだった。
 虚無の系統であると知られたのはおおよそ六年前、アンリエッタとの会話が枢機卿に伝わったとき。
 マザリーニは彼女に己の系統を、そして誰であろうとそれを教えてはならぬと固く約束させた。
 始祖の御前で誓約をさせたのだ。
 幼いながらも彼女はその誓いを、決して破らなかった。
 口さがない使用人が囁こうとも、家庭教師にさじを投げられても、父母から蔑みの目で見られているような錯覚を感じても。
 本当は叫びたかった。

『わたしはゼロじゃない! 魔法が使える! 虚無の系統なんだ!!』

 そう、みんなに言いたかった。誰よりも家族に言いたかった。
 だがそれは許されないことだった。
 虚無の系統は表面上、強力な魔法に過ぎない。
 もし好戦的な貴族に知られれば、人間同士の不毛な戦、その旗印にされただろう。
 そして情報というのはどこから漏れるかわからない。たとえ血のつながった家族であろうと、完全ではない。

 ルイズは両親にずっと伝えたかったことが言えた。
 今この瞬間、彼女は報われたのだ。
 歓びに満ちた涙は、静かに頬を流れていく。
 公爵は立ち上がり、我が子を優しく抱擁する。
 柔らかな日差しが穏やかな時間を包んでいた。

「そうだ、ルイズ。カトレアに顔を見せてきなさい。お前に会いたがっていたようだからな」
「はい、父さま」
「それと」

 ルイズは気づかなかったが、公爵の眼は鋭く光っていた。

「お前の使い魔を連れてきなさい。少し話をしたい」







 応接室のようなところに一人待たされた才人は、のんびりくつろいでいた。
 元来小市民なところのある彼は、普通ならこんなゆったりとは過ごせない。
 しかしハルケギニアに来てからご主人様の部屋をはじめ、ニューカッスル城やトリステインの王宮、果てはグラン・トロワまで様々なところを渡り歩いてきているので、流石にもう慣れてしまった。
 今も「紅茶って案外うめー」とぐだーとしていた。
 そこにルイズがやってきて、父親が呼んでいる旨を伝えた。
 粗相をしたら斬首かもね、といつもなら言わないような冗談を飛ばしてルイズは軽やかに去って行った。
 嫌な予感をひしひしと覚えつつも、行くという選択肢以外なかった。

「お前がルイズの使い魔か」
「はい、サイト・ヒラガです」

――も、モノクルだ。すげぇ。

 現代日本では、漫画の中でしかお目にかかれない紳士アイテムを目にして才人のテンションは一時的に急上昇した。
 白髪の目立ち始めたブロンドの髪が、髭が、服装が、なんとも彼のイメージする貴族とマッチする。
 これほどのダンディズムを体現した貴族がいるとは、と心中でちょっぴりはしゃいだ。
 そしてルイズパパの眼光が鋭すぎることに気づいてテンションは急降下した。
 なんというか、視線が殺る気に満ち溢れているような気がする。

「かけなさい」

 有無を言わせぬ強制力を孕んだ言葉に、才人は大人しく従った。
 ルイズパパの隣に座る、ルイズが性格的にきつくなって成長すればこうなるかな、という容姿のルイズママも厳しい気配をビシビシ送ってくる。
 これが普通の貴族相手なら喧嘩を売られていると思ったかもしれない。
 だが相手はルイズの両親だ。

――や、やっぱり「お前みたいな馬の骨が娘の唇をッ!」とか言われるのかな。

 古典になりつつあるドラマ的展開を妄想して内心ビクビクな才人だった。

「まあ、飲みなさい」
「い、いただきます」

 なぜか赤い液体が注がれたワイングラスを公爵は差し出した。

――固めの杯!?

 脳裏で上映されているのは、古いドラマから任侠ものになった。
 才人はじっとグラスに目を落とす。
 ぐびりと唾を飲み込んで、一息に飲み干した。
 味なんてわかったもんじゃなかった。

「ありがとうございます」

 なんと言えばいいのかわからず、とりあえずお礼を言う。

――学校じゃご主人様の親御さんへのあいさつの仕方なんて教えてくれなかったぞ!

 内心ではどうしようどうしようとテンパりながらも表面には出さない。
 そんな才人を後目に、公爵はワインクーラーから瓶を引き上げる。
 その瞳はラベルを読んでいるようで、どこか遠いところを見ているようだった。

「そのワインはジャン・ジャックが、ワルド子爵が好きだった銘柄だ」
「え……」
「あまり酒を好まぬと言っていたからな、浴びるほど飲ませたことがある」
「あら、そんな楽しいことをしていたのですか」
「一度だけだがな。普段は生真面目なジャン・ジャックもその時ばかりは前後不覚になっておった」

 もう手の届かないくらい遠くを、ラ・ヴァリエール公爵は見つめていた。

「婚約は奴の父と酒の席で出た話だった。冷静になると家格が違いすぎるから断ることも考えた。だが、あやつは家格の差を実力で詰めようとしていた。しばしば様子を見に行けば、よくルイズの話をねだられたものだ。そんな気になるなら自分で手紙を書けと言ったのに」
「彼は真面目でしたからね。気恥ずかしかったのでしょう」
「そこがいかん。男たるもの攻めるときは攻めねばならん!」

 目の前の会話がまるで異世界の言語であるかのように、耳に入っても意味が通じない。
 才人は自身が飲み干したワイングラスを、その底に少しだけ残った赤い液体を食い入るように見つめている。

「サイト・ヒラガと言ったな」
「は、はい!」

 公爵の声に、才人は現実に引き戻された。

「教えてくれ、ジャン・ジャックの最期を。手紙ではなく、実際に見届けた男から聞きたい」

 才人を見る公爵の瞳には、複雑な輝きがあった。

「子爵さんは……」

――何を言えばいいんだ。戦いの様子? 最期に何を言ったか? 何で、死んだか?

 からからになった喉からは掠れた声しか出ない。

「子爵さんは……」

――あれ、良く考えてみれば俺あの人のこと何にも知らない。あんなに勇敢で、命の恩人で。他の人のことも、あっけなく死んで。

 ぐるぐると心はマーブル模様を描いてまとまらない。

「落ち着きなさい」

 凛とした声が溢れだしそうになる心情を押し留める。
 才人は彼自身が気づかぬ間に自分を抱きしめるようにしていた。
 身体の震えが止まらなかった。
 夫人の鋭い眼光が才人の瞳を射抜く。

「あなた」
「うむ、患っておるようだな」
「な、なにがですか?」

 夫人は、カリーヌは『烈風』の二つ名を持つ、トリステイン最強の風メイジだ。
 マンティコア隊隊長として数多くの武勲を立て、それゆえ兵の精神状態についても一定の知識を有している。
 公爵も若かりし頃は魔法衛士隊に所属しており、さらに水メイジということもあって彼女以上に詳しい。
 その二人の見立てでは、 才人の状態は戦友を亡くした新兵と非常によく似ている。
 戦友を思い出すと途端に平静を失うが、平時は何事もなかったかのように過ごす。
 だが一般的に知られる症状はもっと軽く、才人の様子は二人から見ても重症だ。

「まさか、ニューカッスルが初陣か?」
「……」

 沈黙をもって才人は答える。
 同封されていたウェールズの手紙にアルビオンの惨状とジェームズ一世の最期は記されていた。
 アルビオンはお国柄、大仰な修飾語を好まない。
 直截的な表現が多く、それだけにどれだけ激しく、そして救いがない戦だったというのが生々しく伝わってきた。
 そのような戦場で初陣を飾り、真っ向から敵と斬り結ぶなどと、そのような真似ができる戦士を公爵は知らない。

 公爵は夫人と頷き合い、若き英雄に話しかける。

「アルビオンで何があった」

 安心感を誘う低い声だった。

「人が、人が死んだんです」

 ぽつりと、才人は胸中に溜め込んでいた言葉を吐き出した。

「そうだ、人が死んだんだ。いっぱい死んだ。なのに、なんで、なんで俺、何も感じなかったんだよ」

 一度噴き出した感情は逃げ場を求めて胸の中を暴れ狂う。
 ハルケギニアで生を受けた二人には、才人はまるで異質なものに見えた。

 この世界で人死には珍しくない。
 病気、オーク鬼、貴族の無礼討ち、寿命、事故。
 それだけにとどまらないが、平民の命などさほど高くない買い物だ。
 平民だろうが貴族だろうが死体を見ても強烈なショックを受けない。

 だが、才人は違う。
 平賀才人は地球の、さらに平和な日本で生まれ育った。
 親戚の不幸もなく、交通事故や殺人現場に出くわすこともなく、至って平穏無事に過ごしてきた。
 人の死など彼にとって仮想世界か、遠い場所での話にすぎない。
 そんな普通の少年が突然異世界に放り込まれ、さらにはこの世ならざる戦争に巻き込まれてしまう。
 ありえない体験の連続にルーンの精神強化も限度を迎えつつあった。

 脳裏にニューカッスルの夜が蘇る。
 一人二人ならいざ知らず、目の前で蹂躙された百もの命が暴れ狂う。
 壁に叩きつけられた貴族も、名状しがたい獣に踏みつぶされたメイジも、まぶたの裏で鮮明になる。
 最後に見たワルドの優しげな微笑みも。

「覚えてた。血を吐きながら死んだ人も闇に呑まれた人も覚えてたのに、おかしいよな。なんで、なんでなんで!?」
「いかん!」

 才人の身体は激しく痙攣していた。
 公爵は素早くスリープ・クラウドを唱え、彼を眠りに誘う。

 意識を失う寸前、才人は考える。



――俺、何になっちまったんだろ。





***





「というわけでちいねえさま、わたしは虚無の系統だったのです!」
「あらあら、すごいじゃない」

 ばんざーいとピンク姉妹が両手をあげれば周りの動物も追随してくれた。
 それから魔法学院で美味しい料理、ルイズの使い魔のこと、プチ・トロワの美しさなど、他愛もない話を彼女は姉にする。
 ルイズの姉、カトレアは妹の話を楽しそうに頷きながら聞く。
 夫人がルイズの苛烈な成長を遂げた姿ならば、カトレアは穏やかに、豊かに育った容姿の持ち主だった。
 カトレアは体が弱い。
 魔法を使えば大きな負担がかかるし、幼少のころからラ・ヴァリエール領から足を踏み出したことがない。
 そんな彼女を想って、ルイズは外で起きた様々な出来事を話すようにしていた。

 しかし、楽しい時間はすぐに終わる。
 どこか硬質な音が二人の会話を中断させた。

「どうぞ」
「失礼します。ルイズお嬢さま、旦那さまが部屋でお呼びです」

 背筋をしゃんと伸ばしたメイドが率直に用件を述べる。

「なにかしら。ちいねえさま、行ってまいりますわ」
「いってらっしゃい」

 折角いいところだったのに、とぼやきながらルイズは部屋を出た。
 メイドを従えヴァリエールの広い屋敷を急ぐでもなく歩く。
 久しぶりの帰宅だったが、花瓶の花や飾られた絵画が新調されているくらいで、大きな変化はない。
 ほんのちょっぴりの懐かしさを感じながら父親の執務室に着く。

「旦那さま、ルイズお嬢さまがお見えになりました」
「はいりなさい」

 メイドが開けたドアをくぐると、意外すぎるものが目に入った。

「サイト!?」

 来客用ソファーに彼女の使い魔が横たわっていたのだ。

「どういうことですか父さま!」

 それを見るなりルイズは公爵に突っかかった。
 彼は娘の様子に一瞬目を見開き、すぐに渋みのある声で諭す。

「精神面からくる発作に襲われたので眠らせた。ルイズ、話というのは他でもない彼のことだ」

 才人をよく見ると、顔色こそ悪いものの外傷はない。
 早とちりした自分を恥じたのかルイズは俯いてしまう。
 公爵は愛娘に空いているソファーに座るよう促した。

「彼は、何者だ?」
「何者というのはどういうことですか?」
「ワルドの話を聞こうとした。その時に発作を起こしたのだが、これほど酷い症状は聞いたこともない」

 困惑した様子が表情からうかがえた。
 これがただの平民なら公爵もここまで気遣わなかっただろう。
 だが、平賀才人は虚無の使い魔で、亡国の皇太子を救い、ロマリア教皇までもが認めた平民なのだ。
 感情面では折り合いのつかないところもあるが、今はそれを抜きにして考えねばならない。

 ルイズはこの一週間のことを思い返す。
 当然ながら才人がアルビオンの話題を出すことはなかった。
 最初の三日はふさぎ込んでいたように見えた。
 リュティスに行く直前からは元々の明るさを取り戻しつつあるようだと、ルイズは感じていた。
 そこで彼女は気づく。

「サイトは、サイトの星は平和だって、争いなんかなかったって」
「争いがない……? いや、彼の星とはどういう意味だね」
「違う星から、わたしは彼を召喚しました。魔法もない、貴族もいない、オーク鬼みたいな危険な生き物もいない星から」
「それは……」

 ハルケギニアで五十年も生きている公爵に、そんな星は空想すらできなかった。
 ロバ・アル・カリイエ以東に広がる不毛な大地を想像してしまう。

「人が死ぬことなんて滅多にないと、言っていました。サイトの国では大体八十歳までは生きられるとも」
「……始祖の御座のような世界だな」

 ルイズの言葉に、思わずこぼした。
 貴族という統治者がいないのに政治はどうしているのか。
 魔法もないのに何故人死にが少なく、齢八十まで生きられるのか。
 オーク鬼に苦しめられることがない人々はどれほど幸せなのか。
 公爵の疑問は尽きないが、話を聞いてわかったこともある。

「環境の差異から来るものかもしれん」

 身の回りが急激に変化すると、身体と精神の両方に失調をきたすことは、ハルケギニアでも知られている。
 そしてそれを解消するのは個人差もあるが、周りの人間であることが多いということも。

「ルイズ」
「はい」
「ニューカッスルの件はお前の使い魔の心をひどく蝕んでいるようだ。お前は主人として心の支えにならねばならん。それが彼のためであり、お前のためであり、またハルケギニアのためでもある」

 娘と目を合わせて公爵は説く。
 ルイズは真剣な表情で頷いてみせた。

「わかったなら良い。カトレアの部屋に戻りなさい」
「わかりましたわ」

 言うとルイズは才人に近寄り、お姫さまだっこのような格好で持ち上げようとした。
 これには公爵が仰天した。

「なにをやっているのだ!」
「だって、サイトも、ちいねえさまに、紹介しないと」

 公爵はこめかみをもみほぐしながら幼い娘を諭す。

「あとで使用人に運ばせよう。淑女がそんな真似をしてはならん!」
「……はい」

 父親のお叱りにちょっぴりむくれながらルイズは部屋を出て行った。
 同時に、カーテンの後ろに隠れていた夫人が姿を現す。

「カリーヌ、どう思う」
「あなたがルイズに厳しいのはいつも表面だけですね」
「そ、そっちじゃない!」

 公爵が少し慌てて弁明する。
 夫人は素っ気ない態度で話を元に戻した。 

「立場が違いすぎて推測すらできませんわね」
「そうか、そうだな。わしも同じだ。しかし、いかに武に長けていようと精神が弱ければ話にならん」
「王家に任せっぱなしというわけにはいかないでしょうね」
「その通りだ。平民というのが多少気に食わんが、公爵家として支援せねば」
「……彼を鍛える必要がありますわね」

 ぎらりと夫人の双眸が輝く。
 その煌めきは『烈風』として名をはせた時代のものだった。





*****





「急げ急げ食料と最低限の衣類以外は置いてけ」

 アルビオン南部、軍港ロサイスは慌ただしい喧騒に包まれていた。
 響き渡る声は活気よりも必死さを感じさせる。
 悲壮感を顔に張りつけた市民が列を作り軍艦にぞろぞろと乗り込んでいく。
 これからトリステインに亡命する大衆は、生まれ育った地に戻れるのかという不安をぬぐえない。

「スワロー号、出港準備整いました」
「よし、残るはピジョン号だけだな」

 白髭をたくわえたホーキンスは書状に目を通しながら部下の報告を聞いていた。
 整理された机の右側にウェールズからの手紙が置かれている。
 トリステインが避難民の生活を保障するという内容だった。

――平民の暮らしを気遣えるとは、トリステインも中々やるものだな。

 実際この知らせを聞いてから避難に踏み切る平民が増えた。
 それでも父祖の地を離れられん、と残る住民も少なくない。
 彼らにかまけている暇はなく、そういった手合いは放置されている。
 時間との勝負だった。
 得体の知れない輩はニューカッスルから徐々に南下し、ロンディニウムを超えて数日後にはサウスゴータに到達するだろう。
 今は一刻も早くこの大陸を離れなければならない。

 ホーキンスも荷物をまとめ、空軍司令部の施設を出た。
 その時、地面と空を交互に見つめている兵の姿が目についた。

「何をしている」
「こ、これは将軍閣下」

 ぎこちない敬礼で彼が新兵であるとホーキンスにはわかった。

「わたしは何をしていると聞いたのだ」
「はっ! 太陽と影を見ていました」
「太陽と影?」

 老将軍も思わず見たが、いつもと変わりないように感じる。
 いや、少しだけ違う。

「……何か違和感があるな」
「この時間帯にしては影が長いようです。それと、太陽の位置もおかしいかと」
「ふむ」

 空中大陸アルビオンは空を旅している。
 新兵の報告から、いつもより東にずれていると思われた。
 だが、それはおかしなことだ。

「いや、今は捨て置こう。お前も急げ」
「はっ」

 アルビオンは決まった軌道を描いて空を移動する。
 僅かなずれすらこの六千年ありえなかった。
 大陸は東へ下へ、トリステインに近づいていく。





*****





 才人が意識を取り戻すと、空を飛んでいた。

「おわぁっ!?」

 心臓が止まりそうになるほどびっくりした。
 轟々と唸る風の音がうるさい。

「ちょ、こ、これなんだよ!?」

 地面に足がついていないというのが恐怖心を誘う。
 ロープで何かにくくりつけられているのか、腕は動かせない。
 気分は安全装置のないジェットコースターだ。
 タバサの風竜の背に乗った時とは大違いだった。

「母さま! サイトが起きました!」
「魔法学院まであと一時間ほどです。そのままでも問題ないでしょう」

 轟音の中聞き覚えのある声がする。

――も、問題大有りじゃねぇかっ!

 ジェットコースターをはじめ、スピードや浮遊感を味わうアトラクションが楽しいのは何故か。
 非日常の体験というのもあるし、爽快感もあるだろう。
 だが、すべては短時間だからこそ楽しめるわけで。

「た、助けてぇぇえええ!!」

 アルビオンの英雄は過去に思いを馳せることもできず、情けない悲鳴をあげた。



「ひ、ひどいめにあった……」
「大丈夫?」

 一時間ぶりの地面は例えようもなく頼もしい。
 翼の生えたライオンのような、マンティコアという幻獣の尻尾に縛りつけられていた才人はふらふらと膝とついた。
 学院の北側、ノルズリの広場に降り立った立派なマンティコアに興味をひかれたのか、風の塔の窓から身を乗り出して観察する学生の姿が見える。
 しかし授業時間なのですぐに少年たちは引っ込んでしまう。
 夫人はその様子を厳しい目つきで睨んでいた。

「なんでルイズのお母さんが魔法学院に?」
「わたしも知らない」

 ルイズ聞いてよ、いやよサイトが聞いて、とお互い肘でつつきあいながら囁きあう。

「聞こえてます」
『すいませんでした』

 ひそひそ話をしても優秀すぎるほど優秀な風メイジである夫人には関係のない話だった。

「さて、ルイズの使い魔、サイト・ヒラガと言いましたね」
「はい」

 普段は心持無気力めなのが信じられないほど勢いよく、はきはきと返事をする才人。
 そうせざるを得ないオーラを夫人は放っている。

――例えるなら、ヤクザの親分とか。

 非常に失礼な感想を思い浮かべた。

「今日から私が鍛えます。以降私のことは隊長と呼ぶように」
「へ?」
「返事はきちんとなさい」
「は、はい!」
「声が小さい」
「はい!!」
「返事は「ウィ、マダム」!!」
「ウィ! マダム!!」

 魔法学院に『烈風』来たる。
 ルイズはあんぐりと口を開いていた。



[29710] 烈風の調練を
Name: 義雄◆285086aa ID:b6606328
Date: 2011/11/26 01:51

 平賀才人は今日も空に挑む。



――これで九回目か。今日もよく飛んでるなぁ。

 金髪のくせっ毛が特徴的なギーシュ・ド・グラモンは窓の外で空高く舞い上がる黒髪の少年を眺めていた。
 いつものパーカーではなく、アルビオン水兵用の、もっと言えばセーラー服と黒いスラックスは新緑に染まった大地でよく目立つ。

 二限目はギトー教諭が行う風の授業で、話は逸れまくっていたから聞く必要はないと思っている。
 相変わらず風系統の自慢話、擬音語が多すぎてワケのわからないそれは一部学生から人気を博している。
 が、ギーシュはその一部学生に入らないのであまり好きではなかった。
 自慢話はかなり長時間続いていて、もうすぐ二十分たちそうだ。

――あ、十回目。

 よくもまあポンポンと飛ぶものだ、と変に感心してしまう。
 昨日から強制的に空を飛ばされている少年、平賀才人のことをギーシュは少しだけ知っている。
 彼が決闘を吹っかけ、負けた相手だ。
 錬金した剣に手をかけた瞬間、ボロボロだった少年はメイジ殺しに変貌した。
 そこからはあっという間、成す術なくワルキューレを一刀両断され、降参を迫られた。
 その少年が今度はこてんぱんにやられ、二分に一回という驚異的なペースで吹っ飛ばされるとは。
 世の中の広さをギーシュは実感していた。

――おお、十一回目だ。

 魔法学院から少し離れた森の中に広場がある。
 切り株をベンチ代わりにできる、雰囲気のある樹木に包まれた休憩所だ。
 だが、きっとそこはもう使えないだろう。
 先ほどからその場所から土煙がもうもうと立ち込め少年が飛ばされているのだから。

――土煙が立つってことは、下草はもうないんだろうなぁ。

 幾度かデートに使ったこともある広場の惨状を想像して嘆息したギーシュの視界では、才人が十二回目の飛行に挑戦させられていた。
 森林の樹高は五メイルくらい、彼はその倍近くの高さまで飛翔している。
 一体どんな訓練をすればああなるのか。
 グラモン家の四男としてそれなりの鍛錬を積まされてきたギーシュにもわからない。

 ここ数日姿を見せず、昨日ノルズリの広場へ現れた巨大なマンティコアから降りてきた少女、ルイズに目をやる。
 彼女は窓の外を必死で気にしないようにしていた。
 心なしか冷や汗をかいているようにも見える。

――アレほど彼の世話を焼いていたのに、どうしたんだろう?

 ルイズの才人に対する態度は、平民へのそれとは明確に異なっていた。
 使い魔召喚で平民が召喚されたら、普通の貴族は絶望するしかない。
 ギーシュとの決闘で三日間も昏睡状態にあった彼を看病している様は見ていて激しく胸が痛んだ。

――喧嘩、とかかな。

 僕とモンモランシーみたいに、と肩を落とした。
 例の二股発覚があって約一ヶ月、まだ彼女に許してもらっていない。
 そしてそれに関連して、彼の心に重い影を落としている事件もある。

 嘆いているギーシュをよそに、聖堂の鐘が鳴り響いた。

「む、もうこんな時間か。今日の授業はこれまで。次週は風魔法を駆使した究極の体術『アルビオン落とし』について講義する」

 ギトーは風のように颯爽と教室を出て行った。
 学生たちは解放感から思い思いに動き出した。
 集まってのんびりと食堂に向かう者、机に集まりお喋りに興じる者、そそくさと教室を抜け出そうとする桃髪の少女を捕まえる者。

「ルイズ、あなたここ数日なんで休んでたのよ」
「も、モンモランシー。あとで話すから、あとで、今は急いでるの」
「今もあとも変わらないでしょ。ほら、聞きたがってる子もいるんだから」
「ちょ、いや、急がないとサイトが……」
「ひょっとして、アレ?」

 モンモランシーが指した先で、ボロ雑巾のような少年が十三回目の空中遊泳に勤しんでいた。
 遠くてよくわからないが、多分火の塔より高い。

「母さまやりすぎよぉーっ!!」
「あ、ちょっと!」

 はしたなくスカートを翻して走り出したルイズを、少女の群れは追いかけて行った。

「モンモランシー……」

 ため息しか出ない。
 そんな時、肩を叩かれた。

「……」

 マリコルヌがすごくいい顔で頷いている。
 その表情から内心を察するに「友よ!」といったところだろう。
 否定するのもめんどくさいのでため息で答えた。

「昼食に行こうかフレンド」

 ギーシュはもう一度わざとらしくため息をついた。
 風の塔から食堂へ向かう道すがら、二人はメイドに呼び止められた。

「ミスタ・グラモン、ミスタ・グランドプレ。お手紙を預かっております」
「ああ、ありがとう」

 例え平民であってもレディーとして扱う、それがギーシュなりの美学だ。
 如才なく礼を言って手紙を受け取った。

「珍しいな、父上からだ」
「ぼくもだ、何かあったのかな」
「ま、食事の後でじっくり読もう」
「そうだね。奇妙なことが続くよなまったく」

 ひらひらと手紙を揺らしてからマリコルヌは懐に仕舞った。

「……どうなっちゃうんだろうな」
「……わかんないや」

 マリコルヌが言う奇妙なこととは、二日前から魔法学院で二十名近くの学生が失踪していることだ。
 前触れもなく唐突に彼らは姿を消した。
 馬を使った形跡もなく、隣室の者が言うには争うような物音もなかったという。
 静かに、影に沈み込むかのように彼らはいなくなった。
 授業は午前中のみに短縮され、すべての教員が懸命に捜索している。
 オールド・オスマンも一切隠蔽せず、各学生の実家に梟を送った。
 留学生のタバサとキュルケもルイズと同じ日から見かけなくなり、そこからまだ帰ってきていない。
 さらに、ギーシュが一度ラ・ロシェールの森まで遠乗りに行った年下の少女も、ケティ・ド・ラ・ロッタも姿を消している。

 ニューカッスル陥落の知らせは魔法学院にも届いている。
 この世界が不吉な何かに覆われているような、不気味な雰囲気を二人は感じ取っていた。

 それはさておき若い二人はお腹もすく。
 アルヴィーズ食堂で始祖に祈りを捧げ、つつがなく昼食をとった。
 少し土埃で靴が汚れていたルイズはそわそわと終始落ちつかない様子だった。

 食事を終え、食堂を出た二人は意外な人物を見た。

「キュルケ! タバサ!」
「ハァイ、お久しぶりね」

 けろっとした様子のキュルケと相変わらず本を読んでいるタバサがいたのだ。

「……キュルケ、つかぬことを聞いていいかい?」
「あら、トリステインの男はレディーに無用な詮索をするの?」
「無用の詮索っていうか……」
「それ、なに?」

 キュルケの右でふよふよ浮いている青くて白くて黒くてやや赤い物体。

「サイトに決まってるじゃない。ああ、ルイズの使い魔ね」

 どこからどう見ても平賀才人だった。
 完全に気を失っているようで、身動ぎ一つしない。
 ボロ雑巾をさらに酷使してもこうはならないだろう。

「学院の正門近くに転がってたから連れてきたの。何があったのかしらね」
「何があったか、ね……」

 ギーシュとマリコルヌは顔を見合わせた。
 具体的に説明できる者はこの場にいない。

「さ、サイト! ツェルプストーあんたナニやってんのよ!!」

 ルイズが現れたのはその時だ。
 食堂の出入り口から一直線、猛牛みたいに才人へ走り寄る。

「サイトサイトサイト! 生きてる死んでる大丈夫!?」

 がくがく才人をゆすっているが、彼の口からは魂っぽいナニかが見えていた。

「何をやったらああなるんだろうね……」
「ああ、ぼくなら決して係わらないだろうな」

 戦慄しながら二人はひそひそ声をかわす。
 無論、積極的に係わりたくない出来事が向こうから近づいて来ているなどとは、想像もしていない。
 自分たちの中に湧きあがる何かを誤魔化すように、懐に手をやる。

「そ、そういえば、手紙を読んでなかったね」
「そ、そうそう、忘れちゃいけないよな」

 才人の惨状とキュルケとルイズのやり取りを遠い世界のこととして、蝋をぺりぺりとはがして中身をあらためる。
 ギーシュの父、ナルシスからの手紙は非常に簡素だった。

『すまん』

「……?」
「なんだこれ」

 隣のマリコルヌも首をひねっている。
 そっちはもっと意味がわからなかった。

『ご褒美だと思い込め』

 二人して首を傾げる。
 桃髪の貴婦人に肩を叩かれるまで、あと少し。





―――烈風の調練を―――





 ルイズはパタンと始祖の祈祷書を閉じた。
 若く頭脳明晰な彼女は必要とされる二つのスペル、“爆発”と“忘却”を覚えてしまっていた。
 今もなんとなく“瞬間移動”のルーンを眺めていただけ。

――虚無の系統は凄まじく強力ね。

 他の四系統と違って直接的に相手を攻撃する魔法は少ない。
 “忘却”も“加速”も“瞬間移動”もすべて補助的な作用を持つ。
 四系統の魔法を抜き出して、とことん尖らせたような印象を彼女は受けた。
 詠唱時間も長くイマイチ使い勝手が悪いというか、護り手がいることを前提としているようだ。

 実際に使ってみたいという欲求もあるが、それはできない。
 空撃ちして決戦の時に精神力が足りませんでした、ということは許されないのだ。
 アンリエッタからも「精神力の無駄遣いは一切しないでくださいねオホホホホ」と太い釘を王宮で刺されていた。

 頬杖をつきながらもう一度祈祷書を開く。
 一人で過ごす部屋は、今のルイズには少し広すぎた。


――コンコン――


「どうぞ」
「失礼します、ミス・ヴァリエール。ミスタ・コルベールとオールド・オスマンがお呼びです」 

 見覚えのある黒髪メイドを、シエスタを引き連れてルイズは廊下を歩いていく。
 始祖の祈祷書は手放さない。影はどこにでも存在する。
 風呂やトイレなどの時は才人かカリーヌに預け、睡眠中ですらしっかりと薄い胸に抱きかかえている。
 ふと、このメイドが才人と過ごしていたことを思い出した。

「あなた、確かサイトの知り合いよね」
「はい、サイトさ……いえ、ミス・ヴァリエールの従者の方には良くしてもらっています」

 思わず口にこぼした才人の名前をシエスタは訂正した。
 学院の一メイドと公爵家三女の使い魔兼従者、地位の差は明白だ。
 立場を弁えろと、普通の貴族相手なら叱責は免れない。
 その辺の感覚が多少ゆるいルイズであっても普段ならばたしなめたに違いない。

「いつも通りでいいわよ。あなた、名前は?」

 が、母親が魔法学院にやってきから三日。
 才人とあまり話せないどころか、自分までも厳しく見張られているようで気が休まらなかったルイズはあっさり許した。
 それどころかメイドの名前まで聞いた。

「タルブ村のシエスタです」
「シエスタ、ね。覚えておくわ」
「ありがとうございます」
「ところで、その黒髪サイトと似てるわね」

 はきはきと答えたシエスタは、続くルイズの言葉に少し照れを見せた。

「曾祖父から受け継いだものです」
「そうなの、どこ出身の人かしら」
「東の不毛地帯から飛んできたと聞きました……魔法がない国から来たとも」

 ピクリと階段を降りるルイズの肩が揺れる。
 平民には知らされていないが、ロバ・アル・カリイエ以東人が住める土地は存在しない。
 六千年前に起きた大戦ですべて何か邪悪な物で汚染されている。

「魔法がない国ね。どんな田舎なのかしら」

 ほんの少し声が掠れていたのにシエスタは気づかなかった。

「魔法どころか貴族様もおられない、月も一つしかないという話でした。王様みたいな人はいたらしいですけれども。変わり者としてタルブ村に伝わっています」

――そっくりだわ。

 シエスタの曾祖父は才人と同じ世界から来た可能性が高い、とルイズは判断した。
 夜空に瞬く星の中、どれほどの数に人が住んでいるか彼女は知らない。
 だが、平民と同じ姿で、魔法がなくて、月も一つしかなくて、貴族もいない。
 唯一、王がいるというところだけが一致しないが、国が違うのかもしれない。

「そう、どうやって来たんでしょうね」
「“竜の羽衣”というマジックアイテムに乗ってきたと言っていました。でも魔法じゃなくて“がそりん”っていう油が必要らしいです」

 ルイズの貴族にあるまじき気安い雰囲気につられてか、シエスタはどんどん言葉が崩れていく。
 そんな彼女を注意することなく、「竜の羽衣、がそりん」という言葉を心にしっかりと書きとめた。

「ここまででいいわ。あなたは仕事に戻りなさい」
「はい、では失礼します」

 五角形のど真ん中、本塔に入る直前でルイズはシエスタと別れた。
 夕陽が草原を照らし出していた。
 そのまま階段をずんずん駆け上る。
 学院長室に着くころにはうっすら汗をかいていた。
 ハンカチでこめかみを伝う雫を拭ってから立派な扉を叩いた。

「入りなさい」
「失礼します」

 滅多に入る機会がない学院長室には四人の人物がいた。
 一人は重厚な執務机にひじをついた、ハルケギニア最高のメイジと名高い白ひげをたくわえたオールド・オスマン。
 その左に控えるのは過酷な修練のせいで頭部が薄くなっている『炎蛇』ジャン・コルベール。
 義娘だからそんな父親とはまったく似ていない凛々しい女性アニエス・シュヴァリエ・ド・コルベール・ド・ダングルテール。
 そして最後の一人、獰猛な顔つきの、瞳に光を宿していない男。
 一瞬視線が留まり、それに気づかれて微笑み返された。
 獰猛な獣が牙を剥いたような笑顔だった。

「彼を知っているかね?」
「いえ、知りません」

 オスマンの質問に対してルイズは簡潔に答える。

「メンヌヴィル君、自己紹介を」
「はじめましてミス・ヴァリエール。アカデミー実験小隊隊長、メンルヴィルです。以降よろしく」

 にかっと笑う様は気のいい飲み屋の親父のようにも見える。
 しかし、その身から立ち込める戦場の気配は隠し切れるものではなかった。

「今日からミス・ヴァリエールとサイトくんの特別講師になる男です」
「……特別講師?」
「ええ、彼は二十年もの間ヤツらとの戦いに従事し、生き延びてきました」
「雑魚相手な上、一度乗っ取られたこともありますがね」
「そこも含め、メンヌヴィル君が適任だと判断したのじゃ。本の情報だけではどうしても楽観視してしまうからの」

 ほほ、とオスマンは笑い声をあげて背を向けた。
 学院長室の窓、そこからは敷地が一望できる。

「問題は、サイト君の体力がもつか、じゃな」

 オスマン老の視線は宙を舞う五人に向いている。
 この三日間、才人は空に挑み続けていた。
 最近ではギーシュとマリコルヌも昼過ぎ、授業終了後からその調練を受けている。
 今日はレイナール、ギムリの二名までも引き摺りこまれていた。

 これはカリーヌが虐待に歓びを覚えるから、というわけでは断じてない。
 一対一の訓練では、どれほど崇高な使命があろうと意欲がもたない。
 意欲が薄くなれば効果もだんだん落ちていく、最後には悪循環の螺旋となってしまうだろう。
 恐怖で抑えつけることもできるが、カリーヌはそれを選ばなかった。
 平賀才人の精神的失調が気にかかったのだ。

 代わりに魔法衛士隊に所属していた時、親交があったグラモン家とグランドプレ家の子息を、授業に差し障りのない範囲で調練に加えた。
 魔法の腕はあがるし、翌日にはギリギリ疲れがとれるけれど、二人は理不尽を嘆いた。
 そして興味深そうに訓練を覗き込んでいた二人を抱え込んだ。
 厳密には「彼らも隊長の教練を受けたいとのことです!」と同級生を売った。
 訓練の密度は何ら変わらなかったが、精神的には少しマシになったとか。

 意図があって加えたカリーヌと、子どもらしい考えで抱き込んだギーシュとマリコルヌ。
 温度差は非常に激しいものの、五人の鍛錬はおおむね成功している。

「今は何体じゃったかの?」
「神剣持ちで二体、なしではまだというところです」

 髭をしごきながら漏らしたオスマンに、アニエスが言う。
 何体か、というのは勿論偏在の数だ。
 最終的にはカリーヌを含めた、幻獣騎乗済み魔法衛士隊百名相手に勝つことが目的らしい。
 その道のりはロバ・アル・カリイエより遠そうだ。

「ま、とにかく今は顔合わせだけじゃ。夜にコルベール君の部屋で講義を行うので覚えておくように」
「はい」

 夜が近づいていた。



***



 息も絶え絶えな五人がお互い肩を貸しあって魔法学院の正門をくぐり抜けた。
 精も根も尽き果てたようで、ばたんと芝生の上に倒れ込む。
 どれほど疲れていようと石畳に崩れ落ちると痛いだけじゃすまなさそうなので、芝生まではなんとか耐えたようだ。

「も……無理……」

 セーラー服姿の才人はデルフリンガーを投げ出してごろんと仰向けになった。
 うっすらと宵闇が世界を染めはじめている。
 遠く山際には夕のオレンジと夜の群青がまじりあう白い領域が残っていた。
 昼と夜の境目、日本では逢魔が時と呼ぶ。

「今日は、きつかった」
「二人、道づ、れでも、かわらな、いか」

 土や草キレが全身に塗れていて、エレガントさの欠片も残っていないギーシュ。
 顔どころか服まで汗まみれ、カッターシャツを絞れば桶に溜めれそうなマリコルヌ。

「なんで、僕ら、まで」
「きい、てないぜ」

 一番きつそうなのがずり落ちかけたメガネをなおす気力もないレイナール。
 マシそうに見えて、それでも立ち上がることもできずに倒れたままのギムリ。

 五人して息を整えることに終始する。
 三分もたてば落ち着いて、それでも動く気にはまだなれなかった。

 カリーヌは五人をほったらかして湯あみに行ってしまった。
 だがそれは面倒だからだとか、そういう理由ではない。

「君はこんな訓練を毎日?」
「ああ、まぁ諸事情によりってヤツで三日前から。朝食前にアニエスさんと型の稽古して、あとはずっと隊長と実戦」
「いや、お前は本当に大したヤツだ。あれを朝からだろ? 貴族だとか平民だとかそんな区別がバカらしくなっちまう」
「なんたってサイトはぼくを倒した男だからね」
「ギーシュ、瞬殺されてただろ。そのサイトすら歯が立たない隊長って……」

 レイナールの質問を皮切りに五人は口々に喋り出す。
 それは才人が長い間飢えていた友だちとの会話で、隊長として締めるカリーヌがいる状態では絶対にできないことだった。
 訓練の時、仲間がいれば愚痴を言いあい、酒を飲みかわし、戦闘力以外の何かが育っていく。
 そして、その仲間を護るためという非常に身近な動機ができる。
 衛士隊で様々な経験を積んだ公爵夫人はこういったことまで織り込んで二人の生贄を求め、ここぞと献上された子羊も訓練に組み込んだのだ。
 地べたに寝転がったまま男たちは「アレがきつい」だとか「マジ無理」だとか好き勝手言い放っている。

――運動部に入ってたらこんな感じだったのかな。

 ちらと日本の生活が脳裏をよぎるが、不思議とそこまで気にならなかった。
 ちなみに『烈風』式訓練を日本の高校運動部に取り入れれば体罰で翌日には教育委員会まで話がいくだろう。

「とにかく、井戸まで行こうぜ」

 よっと体を起こして才人が言う。
 残る四人もやれやれといった感じで立ち上がった。
 みんな平等に汚れている。
 このままアルヴィーズの食堂や厨房に入るわけにはいかない。

「おっと、ぼくはタオルをとってくるよ」

 今日は一際激しい訓練だったので、身体を拭くタオルまでどろどろだ。

「んなもんマリコルヌが乾かせるだろ」
「今日はもう無理……」

 夏も近い。風ドットのマリコルヌが風を吹かせば充分事足りる、が、マリコルヌの精神力が尽きかけていた。

「じゃ、俺のも頼む」
「悪いギーシュ、俺にも貸してくれ……このままじゃルイズの部屋に入れない」
「はいはい」

 男子寮に向かうギーシュの後ろで、のんべりと四人がだべりながら井戸へ向かう。

「はぁ、明日もまたか」
「でもマリコルヌ、ちょっと痩せてきてないか?」
「おう、前風呂場で見たときより締まってきてる気がするぜ」
「本当!?」
「マジマジ、顔もほんの少しシュッとしたような」
「……マジってどこの言葉だい?」

 三日前までこんなことになるとは思いもしなかった。
 『烈風』式調練は厳しい。血反吐をぶちまけるとかそういうことはない。
 常にギリギリの線を見極めてカリーヌは鍛えていくのだ。
 訓練は苦しく、辛い。

――だけど、悪いことばかりじゃないか。

 確実に色々と鍛えられている。
 毎日極限までやるせいか、三日しかたっていないのに実感できる。
 それに知り合った平賀才人。
 彼は強く、常識知らずで、でも楽しい男だ。
 今まで平民に持っていた先入観が消し飛ばされてしまうほどに。

 ちょっぴりウキウキしながら寮塔に向かう。
 精神力は空っぽに近いくせ、気分はよかった。

「ギーシュさま」

 声をかけられたのは塔に入る直前。

「……ケティ?」

 本塔と寮塔の間、夕闇に紛れて一人の少女が佇んでいた。
 二日前に忽然と消えた魔法学院一年生の女子。
 『燠火』の二つ名を持つケティ・ド・ラ・ロッタ。 

「ケティ! 今までどこに行ってたんだ!」
「あら、ミス・モンモランシーと二股をかけていたギーシュさまがわたしの心配ですか?」

 ぞくりとギーシュの背筋が粟立つ。
 ケティは、彼が知る栗毛の少女はこんなことを言えるほど気が強くなかった。
 こんな、挑発的で妖艶な表情ができる女性ではなかった。
 意図せず右足が後ろに退いた。

「逃げるんですか」

――こ、この子は本当にケティなのか!?

 制服ではなく黒いローブを纏っているが見間違えるはずもない。
 外見は間違いなくケティ・ド・ラ・ロッタのものだ。
 お菓子作りの趣味を持った控えめな後輩だ。
 だが、ギーシュを嘲り笑う様は別の人物のようだった。

「な、何を言っているんだいぼくのケティ。蝶のように可憐な君が帰って来てくれて本当に嬉しいよ」

 最初はつっかえたけれど、あとは詰まることなく言い切れた。
 それも普段は「薔薇」しか使ってないことに気づいてから頭をひねって出した「蝶」という新しい褒め言葉だ。
 モンモランシーにもまだ言っていないのに、と自分に対する感心と失望が半々。
 ケティはどこか影のある笑顔をギーシュに向けた。

「ありがとうございますギーシュさま。ところで、お願いがあるんです」
「ああ、君のお願いならなんだって聞いてみせるさ」

 言ってから、口の中が干上がっているのに気づく。
 少女が一歩近づいた。

「一緒にアルビオンまで来てください」
「……アルビオン?」
「ええ、聖母様のおわす空中大陸です」

――聖母様ってなんのことだ。大体アルビオンは今……。

「どうしたんですか、ギーシュさま」
「あ、アルビオンに行って何をしようって言うんだい?」

 ギーシュにはわからないことだらけだった。
 とにかく、ケティが危険だということは直感が囁いている。

「何をするか、ですか。そんなこと決まってますわ」
「……」
「聖母様と、世界をあるべき姿に戻すんです。ギーシュさまはご存知ですか? この世界の成り立ちを!」

 無垢な子供のようにケティは笑う。
 月明かりが照らし出す時間だというのに、ギーシュにはそれがはっきりと見えた。
 そして同時に、それが例えようもなく恐ろしいことに感じられた。

「アルビオンにつけばバザン司教がすべて教えてくれますわ。ギーシュさま、はやくいきましょう」
「ぁ……」

 少女が手を伸ばす。
 冥府からの誘いのように、白い手を伸ばす。
 その誘惑から彼を護ったのは気の抜けた声だった。

「お~い、みんな待ってるぞギーシュ」
「さ、サイト!」
「あっと……お邪魔だったか、わりぃ」

 頭の後ろで手を組みながら歩いてきた才人は、ケティとギーシュの様子に勘違いした。
 ギーシュが否定しようとする寸前に空気が変わる。
 可憐な少女は、今や悪鬼のような顔をしていた。

「あなた……何者」
「ん?」
「違う、あなたはおかしいわ。消さないと」
「この感じ……」

 ケティは闇色のローブからタクト状の杖を抜き、才人も背中のデルフリンガーを抜き放った。

「サイト?」
「ギーシュ、隊長とルイズを」

 正眼に構え、才人はピクリとも動かない。
 さっきまでの疲労が嘘のようだった。

「まさか、きみはケティと」
「はやく!」
「しかし!」
「頼む!」
「……ああもう、後で説明してくれたまえよ!」

 才人の剣幕に押され、ギーシュは急いでこの場を離れる。
 その間ケティはずっと才人の隙をうかがっていた。
 だが、彼女は微塵の揺らぎも見出せない。
 この三日、生死の狭間を行き来していた才人は、アルビオンの時とは比べ物にならないほど、また一介の学生程度では相手にならないほど強くなっていた。

 一方の才人も攻め込めないでいた。
 彼女は敵だ、間違いなくそれは断言できる。
 しかし、薄い。ニューカッスルでのメアリーがドラゴンなら、目の前のケティは生まれたての子鹿のような存在だ。
 まだ人を保っていると言い換えてもいい。
 そして平賀才人は人殺しなんてしたくない。

「デルフ、どうすりゃいい」
「ふむ、相棒はどうしたい」
「殺したくない」
「甘いな」
「甘くていい」

 剣と少年が言葉の応酬をしている間も、ケティはじりじりと周囲を回るしかできなかった。
 染まり切っていたならば一も二もなく襲い掛かっていただろう。
 隙をうかがうなどということをしている時点で、彼女が狂気に落ち切っていないのは明白だ。

「まずは杖を奪うが良い。あとは某がやろう」
「わかった」

 頷いてデルフリンガーを右脇に引き寄せ、半身をもって刀身を隠した。
 それから息を一つ吐き、平賀才人は跳躍した。

「ッ! ブレイド!」

 ケティと才人の距離は五メイル以上も離れていた。
 それを一瞬で詰められ、彼女はブレイドで対抗するしかなかった。
 振り下ろされるデルフリンガーに、年ごろの少女としては素晴らしい速度で赤く輝いた杖を合わせにいく。
 しかし、それは誤りだ。

「うそッ!?」

 ブレイドを纏った杖は岩をも両断する。
 杖の硬化をはじめ、様々な効果を併せ持つスペルであり、通常の剣ならば打ち合わせてもなんら問題ない。
 だが才人が振るのは神剣デルフリンガー。
 邪神を祓うために鍛えられたというのに魔法を吸収するというどこか矛盾した力を持つ剣だ。
 学生のブレイド程度苦もなく斬り裂く。

 ケティが戦い慣れていれば、さらに才人がわかりやすく正眼か上段に構えていれば、デルフリガーが虚空を斬ることがわかっただろう。
 それも仮定の話だ。

「借りるぞ!」
「応!」

 神剣デルフリンガーの力は一つではない。
 吸収した魔法を燃料として、担い手を動かすことができるのだ。
 この力を利用してデルフリンガーは歴代の担い手の動きを才人に叩きこんでいた。
 今は目の前の少女を救うため、デルフリンガーは才人を動かす。

 振り切った姿勢もそのままに右手を自身から離し、ケティに肉薄する。
 そしてそのまま右腕で彼女を強く抱きしめた。

――はぁっ!?

 才人の疑問もなんのその、デルフリンガーは左胸をきつくケティに押しつける。
 少女の柔らかい体に才人はくらくらして、身体がひどく熱くなった。
 感覚自体は生きており、一瞬でカタがついたとはいえ、先ほどまで命のやり取りをしていたせいもある。

「む、思ったよりも……」

――って、そうじゃないだろ!

 今の才人にはデルフリンガーの言葉もアレな意味にしかとれなかった。
 ケティは抵抗しない。かなり苦しそうな表情で身をよじっている。
 見る人が見れば犯罪真っ最中だ。
 しかし、違う。
 神剣は至ってマジメだ。相棒の求めに応じて闇に堕ちかけた少女を救おうとしていた。

「人が来たか」

 仕方あるまい、と呟きデルフリンガーは才人の唇を噛み切る。
 ちくりとした痛みに抗議しようとしたが、黙った。
 正確には何も言えなくなった。
 デルフリンガーは人の身体を使って少女に口づけをしたのだ。
 しかも舌までいれるディープなヤツを。
 舌先に感じた鉄の味なんて気にもならなかった。
 人の身体を使っているのをいいことに、デルフリンガーは貪るように少女の口を吸う。
 その感覚は才人に伝わる。
 ぬろりとした熱い口中は未知のもので、凄まじい興奮を才人にもたらした。

――ちょ、これ、やばい。

 十秒ほどして、デルフリンガーはようやく少女を解放した。
 あわれな一年生は気を失って倒れ込んだ。
 神剣が才人に体の支配権を返した瞬間。

「なななナニやってんのよこのバカ犬ぅぅう!!」

 聞き覚えのありすぎる声とともに頭へ強い衝撃。

――俺、なんも、やってない……。

 疲労のせいもあってそのまま眠るように気絶した。



***



「起きたか相棒」

 寝起きの目覚ましは渋い声だった。

「ここ、どこ?」
「男子寮塔の前だ。みな薄情にも相棒を置いていったぞ。少女は無事だから安心せよ」

 才人は自分が男子寮塔の前に何故いるのか少し考え込んで、すべてを思い出した。

「デルフ! お前なぁっ!」
「どうした?」
「どうしたもこうしたも、なんでいきなりあんなことをっ」

 人生通算三回目のキス、しかも舌まで入れた。
 嬉しいやら恥ずかしいやら申し訳ないやら気持ちよかったやら様々な感情がぐつぐつ煮えたぎっている。
 が、そんな才人の心情を一切意に介さず、デルフリンガーは至って静かに声を落として言う。

「大事な話だ。今は魔法も人も邪神の気配すらない。落ち着いて聞くがいい」
「……どうした?」
「リーヴスラシルの効果の一つだ。これは誰にも教えてはならぬ」

 ただでさえ低い声のデルフリンガーが声をひそめると重々しい雰囲気がある。
 事実、彼は重大な話を才人にしようとしていた。

「誰にもって、ルイズにもか?」
「ああ。だが教皇は把握している。ガリア王もひょっとしたら……いや、可能性はいい。今は事実だけ伝えよう。リーヴスラシルのルーン効果を覚えているな」
「そりゃ勿論。狂気の緩和、だろ?」
「そうだ。距離は近ければ近いほどにいい。あの少女を最初抱き寄せたのはそのためだ。そして心臓は勇気の象徴、血液を司るものでもある。おそらくブリミルも予想していなかったのだろう。リーヴスラシルのルーンは、保持者の血液を狂気緩和薬に変える」
「……どういうこと?」
「相棒の血を飲ませれば、狂気に陥ったものもある程度は回復できるということだ。効果は飲ませた量に比例するがな」

――血が風邪薬とか、そういうものになったと考えればいいのか。

 才人は軽く想像したが、そんな彼の雰囲気を察してデルフリンガーが警告した。

「この情報を軽んじてはならぬ。五千五百年前にはリーヴスラシルを巡って四国で戦争が起きたこともある」
「え、でも今ある国って始祖ブリミルって人の子孫とか弟子とかなんだろ?」
「人の欲望は血統も教えも、世界の危機すらも時に超越する。例え何があっても、誰に対しても漏らしてはならぬ。ガンダールヴとリーヴスラシルのルーンが現れるのは、担い手を護るためブリミルが後に施した魔法なのだ。偶然の産物がこうなろうとは、この世はわからないものだ」

 老若男女関係なく、それも前触れなく発症する死病が存在すればどうなるか。
 それに対する特効薬があればどうなるか。
 その特効薬が人の血液であればどうなるか。
 さらに遺伝しないものであればどうなるか。
 想像するのは難しくない。

「本来ならあの少女を救うのも反対だったのだがな」
「んなこと言うなよ。殺したりとか死んだりとか、そんなの俺は嫌だ」
「それが甘いというのだ」

 やれやれとデルフリンガーはわざとらしく溜息をついた。

「でも、戦えるようになったんだな、俺」
「ああ、初日とは比べ物にならん」
「勝てるかな」
「今のままではどうあっても無理だ。歴代の担い手の中でも下の上というところか。戦力になるかならぬか際どい線だな」
「うわあ。じゃ、もっとがんばらないとな」
「ああ、応援しているぞ」

――今度こそ。

 才人の心は静かな興奮で満ちていた。

――まだ、言えぬな。

 対照的にデルフリンガーの心は重かった。
 この甘く優しい少年に伝えれば、きっと自滅してしまうだろうから。

 双月の光が一人と一振りを優しく包み込んでいた。




[29710] 開戦の狼煙火を
Name: 義雄◆285086aa ID:b6606328
Date: 2011/12/18 20:56
「罪人、サイト・ヒラガ。罪状はロッタ子爵家長女ケティ・ド・ラ・ロッタに対する強姦」
「ちょ、強姦って」

 才人の言葉は夫人の振るった鞭で打ち消された。

「罪人に発言は許されません。以降注意するように」
「……」

 カリーヌが借りている魔法学院一階の部屋は決して広いものではない。
 五人もいれば少し窮屈に感じられた。
 才人は石造りの床に正座させられ、本気で怯えている。
 井戸にかけられていたタオルで体を拭ったあと、厨房でもさもさと食事をとった才人は夫人にこの場へ連行されていた。
 ここは略式裁判所、才人のケティに対する行為についてカリーヌが公正な裁きを下さねばならない、ということで至急ひらかれた場だ。
 真犯人であるはずのデルフリンガーは一切声をあげない。
 しばらく傍観する腹積もりのようだった。

「裁判官は簡易裁判権を用いてわたくし、カリーヌ・デジレ・ド・マイヤールが務めます。目撃者ギーシュ・ド・グラモン、以上の点に間違いはありませんか」
「は、サイト、いえ罪人が被害者に無理やり抱きつき、口づけを迫ったように見えました。しかし罪人の日常を知るぼくとしては」
「見たままをこたえなさい。私見は必要ありません」
「……見たままというなら、以上です」
「目撃者ルイズ・ド・ラ・ヴァリエール、以上の点に間違いはありませんか」
「ありません。ですが彼は」
「弁護は結構です。彼が何をして、それに対してどう罰するか。王国法で決まっています」

 ギーシュ、ルイズが才人を弁護しようとするも、カリーヌは切って捨てた。
 鋼鉄の規律を擬人化したような、凄まじい圧力を才人は感じている。
 その視線は訓練の時よりもずっと厳しい。

「トリステイン王国法には『平民が貴族に対して暴行をはじめ肉体的、精神的損傷を伴う行為をとった際は死刑とする。罪状の程度によって引き回しの上、斬首、火刑、磔刑を行う』とあります。今回の件はこれに従う必要があります」
「母さま!」
「黙りなさい」

――し、死刑だって!?

 無理やりとは言え、のっぴきならない事情があったにも関わらずキスしただけで死刑。
 現代日本とは全く違う価値観に才人は目を剥いた。

 ハルケギニアにおいて平民の命は軽い、それと同時に貴族の命と血は重い。
 才人がしたように口づけだけならば鞭打ち百回か単純な死罪にとどまるが、実際に行為に及んだ場合は市中引き回しの上、一家もろとも磔刑に処される。
 貴族女性の平民との不義密通も、相手の男性は死罪、貴族女性は最低一年以上の幽閉刑に処される。

 貴族は血をもって尊しとなす。
 古くからガリアに伝わるこの言葉は、これは戦場で真っ先に血を流すのが貴族だという意味にとどまらない。
 限りなくブリミルに近い血を保たねば、この世界は滅びる。
 純血を護るためならば数十の平民など捨て置くべきだという考えが根底にあった。

「あの……いいでしょうか」

 青ざめる才人をちらちら横目でうかがいながら、ケティが小さく手をあげた。
 そして驚くべき発言をした。

「わたしは、その、無理やりだとは思ってません」
『え?』
「へ?」

 ほんのりと上気したかんばせをそっと伏せての言葉だった。

 室内は凍る。
 カリーヌは目をみはり、ギーシュは口をあんぐりと開け、ルイズは青筋を走らせた。
 才人もぽかんとしたままケティをじっと見る。

「そ、そんな見ないでください……」
「ぅ、あ、っとごめん」

 伏し目がちに視線を投げたままのケティが抗議した。
 嫌だからという空気は一切感じない、少女らしい恥じらいがあった。

「どういうことですか」

 いち早く立ち直ったカリーヌが額に手をやりながら、先ほどよりは明らかに弱々しい口調でケティに問う。

「わたし、真っ暗な中にいたんです。そこでうずくまっていて、どんどん沈んでいって。ああ、もうダメなんだなって」

 思い出してのことか、染まりかけていた頬は蒼白になり、少女は身震いする自身を抱きしめた。
 ギーシュは慰めの言葉をかけようとしたが、何も言えない。

「その時、誰かが、きっとこの人が、一サント先も見えない闇からひきずり上げてくれたんです」

 夢見がちな少女の表情はどこか遠くを見つめている。
 デルフリンガーがハバキをかちゃりと鳴らした。

「待てラ・ロッタ嬢、ひきずり上げられたと、そう言ったな」
「はい、闇の中でわたしを抱きしめてくれたのを覚えています。その……口づけの感触も。草原も」
「草原……まさか、いや、ルーンと直接触れ合ったせいか。もしそうならば」

 デルフリンガーは自分に言い聞かせるよう呟いた後、良く通る声で言った。

「この裁判、ガリア王国のデルフリンガー・トロワ公爵があずかる。良いな」
「しかし、規律は守らねば他の者に示しがつきません」

 静かにカリーヌは反論する。
 彼女とて才人を罰したいがために裁判を行ったのではなく、別の思惑があった。

「合意もあると言うのだ。これ以上は当人同士の問題で野暮というものだ。年月を重ねたものが若人の話に口をはさむのも問題を悪化させる一因と聞くぞ」
「……サイト・ヒラガとケティ・ド・ラ・ロッタに姦通罪が適用されます」
「既婚女性ならばいざ知らず、未婚女性と平民の接吻程度で姦通罪の適用など、この六千年された事例がないな。それに簡易裁判権を持つ夫人よりも天領である魔法学院一体を仕切るアンリエッタ王女に話を持っていくべきだ」
「……わかりました」
「ではこれにて閉廷とする。相棒とラ・ロッタ嬢にのみ話がある。夫人、すまぬがサイレントと人払いを頼めるか」

 彼女は杖を振りサイレントをかけてから部屋を出て行った。
 ギーシュも振り返りながらそのあとをついていく。
 ルイズは何か言いたげに口を開き、しかし何も言うことなく部屋を後にした。

「ルイズ」
「母さま」

 ドアをくぐってすぐ、彼女は夫人に止められた。
 その顔に少しだけ不信感があることをカリーヌは見抜いていた。

「彼は確かに、虚無の使い魔でしょう。あれほどの成長速度をもつ人物をわたくしも見たことがありません」
「では何故、死刑などと!」

 平賀才人なくしてハルケギニアに未来はない。
 そのことを理解しながら、カリーヌがあのような裁判を強行した理由が幼いルイズにはわからなかった。

「法は守らねばなりません。それが強大な力を持つ者ならばなおのことです」

 急に力を持った者、例えば魔法を習いはじめた貴族の子どもは尊大になることが知られている。
 それまで大人しかった子どもですら使用人に向けて魔法を放ったり、兄弟姉妹に対して強気に出たりと枚挙にいとまがない。
 そしてそれを抑えるのは親として、貴族として当然の仕事だ。
 ガンダールヴとリーヴスラシルなどという伝説の使い魔が同列に語れるか、カリーヌには判断しきれなかったが、万一の事態もある。
 いかに大きな力を持っていようと身勝手な振る舞いは許されないということを、彼女は自ら悪者になってまで才人に教えようとしたのだ。

 しかし、才人を死罪に処すことはどうあってもできない。
 そこでカリーヌは使い魔の行いは主人の責任ということでルイズにある程度の罰を科そうと考えていたのだ。
 才人には彼の行いが主人に類を及ぼすことを知らしめるため、ルイズには使い魔の手綱を握らねば彼の命が危ないということを教えるために。
 それもデルフリンガーの発言によってうやむやになってしまったが。

「それは、わかります……」

 ルイズは暗愚でも聞き分けのない子どもではない。
 母の意図を完全には読み切れなかったが、一応の納得を見せた。
 表情は不満たらたらではあったが。

「わかったなら部屋に戻りなさい」

 これ以上語ることはない、とカリーヌは我が子に帰室をうながす。
 ルイズはもう一度だけドアに目をやって、階段をのぼっていった。





―――開戦の狼煙火を―――





 一方、死罪を回避した才人は一息ついていた。

――これからはもうちょっと考えてから行動しよう。というかデルフに体はなるべく貸さないようにしないと。

 こいつは常識がない、と真犯人をじろっと睨む。
 デルフリンガーはケティの話を、剣だけに真剣に聞いていた。
 床に座ることを強制されていた才人もギーシュが腰掛けていた椅子にうつる。
 壁に立てかけられた剣を相手にする少年少女というのは、少し奇妙な格好だった。

「それでケティ嬢、草原で何を見た」
「確か……大きな樹と、金髪の、少し背の低い人」

 ひとつひとつ、思い出すようにして少女は神剣の問いにこたえる。
 同じだ、と才人は思った。

「やはりブリミルの座か。ルーンの力を借りたとしてもそこにたどり着くとは……何か異変が起きているのか。引き寄せやすくなっている、いや早計だな」

 六千年もの時を生きる剣は一人で完結しているように呟いている。
 ケティと才人は何を言っているのかまったくわからず、視線を交差させる。
 少女は恥ずかしがってすぐにうつむいて、もう一度顔をあげた。

「あの」
「ん?」
「お名前を、うかがってもよろしいですか?」

 胸元でこぶしをぎゅっと握って、少し懸命な感じがした。

「サイト、サイト・ヒラガ」
「サイトさま、ですね」
「さ、さまとかつけなくていいよ」 

 ケティの瞳はきらきら輝いている。
 尊敬を通り越して崇敬すら抱いてそうな、そんな眼差し。
 人からそんな目でみられることに慣れていない才人は、そっぽを向いてぶっきらぼうに言った。

「サイトさまはわたしの恩人ですから」

 それでも年下の少女は首を横に振って強く言い切った。

――そのうち幻滅して適当な呼び方になるか。

「えっと、君の名前は?」
「ケティ・ド・ラ・ロッタと申します。ケティとお呼びください」
「ケティね、まあ、その、なんというかよろしく」
「はい、末永くよろしくお願いします」

 才人が考えているのと違う意味合いだったように感じたが、気にしないことにした。
 うん、大丈夫と自分に言い聞かせてデルフリンガーに目をやる。
 神剣はいまだにぶつくさ呟いていた。
 頭をかきながら、何かをごまかすように才人は相棒に声をかける。

「あ~、デルフ。正直さっぱりなんだけど、俺もそこに行ったことあるんだよ」
「なに……? そんな大事なことを何故早く言わないのだ」

 普段は老人のようにしみじみと語る神剣が、思いもよらぬほど語勢を荒げた。

「いや、そんなこと言われても。デルフもらう前だったし」
「まあ良い。相棒はそこで何を見た」
「ケティと同じような風景と金髪の人。あと、ロシュフォールさんってわかるか?」
「ああ、話は聞いている。例の娘だな」
「そっか。その子を見た。目が青くなってたけど」
「わたしもロシュフォール先輩を見ました!」

 二人の会話に乗り遅れまいと、ケティが才人の言葉に乗った。
 そして、気になることを言った。

「それと、サイトさまみたいに黒髪の人を」
「黒髪の?」

 ハルケギニアにおいて黒髪は珍しい。
 桃、赤、金、青など色のバリエーションは多いくせ、日本人のような真っ黒な髪の毛をもつ人を才人はほとんど見たことがなかった。
 例外はシエスタやコルベールくらいで、他は色素が薄かったり、どこか違うのだ。

「俺の時はそんな人いなかったけどな……」
「膝を抱えて座ってました。それを見下ろすようにして金髪の男性がいて」

 そのまま、二人と一振りの間に沈黙が落ちる。
 座とはなんなのか、あの金髪の人は、メアリーそっくりの少女は、そして黒髪の人物とは。
 才人の頭にぐるぐるととりとめもない考えが浮かんでは沈み、ケティがいるこの場で聞いてもいいものかわからずデルフリンガーにたずねることもできなかった。

「うむ、これ以上考えても答えは出ないだろう。今日はこの程度にしておこうか。感謝するぞラ・ロッタ嬢」

 かなり長い時間考え込んでいたデルフリンガーが会話を、議題を打ち切った。
 謎はむしろ増えたように感じられる。
 だというのに才人は、なんとかなるか、と生来の気楽さで軽く考えることにした。
 デルフリンガーをきっちり鞘に納め、背中の定位置にひっさげる。

「じゃ、隊長に言って俺たちも戻ろう。部屋まで送るよ」
「あ、ありがとうございます」

 がちゃりとドアを開けると、そこには夫人の後ろ姿があった。
 才人は思わず後ずさる。
 振り向いて、そんな彼をじろりと睨んでから彼女は部屋に入っていった。

――ま、マジで調子のったら粛清されかねん。

 落としどころは違ったものの、カリーヌの意図通りに才人は意識したようだった。

 ケティを伴って女子寮の階段を上っていく。
 夫人からすれば、才人が女子寮に泊まることも許しがたい。止めさせるべきことである。
 そう思って実際に進言もした。
 しかしルイズと学院長をはじめ、邪神を知る者が強行に反対し、珍しいことに彼女は折れざるを得なかった。

「あ、わたし三階です。ところでサイトさま、クッキーはお好きですか?」

――さっきも末永くとか言ってたけど、ひょっとして俺フラグたてちゃった? やっちゃった? いやっほぅ!

 そんな内心をおくびにも出すまいと、才人はできる限り爽やかに言ってのける。

「美味しいものだったらなんでも好きダヨ」
「じゃあ、わたし今度作っていきますね」

 イマイチなり切れていなかったが、あまり恋愛経験を積んでいない少女には十分なようだった。
 やばいキタよコレきちゃった、とルンルンしながら、見た目はなるべくキリリとしながら才人は歩みを進める。

「ここです」

 二人はとある一室の前で立ち止まる。
 ペコリと一礼してケティは改めて感謝の言葉を口にした。

「今日は、本当にありがとうございました。サイトさまがいなければ、今頃わたしがどうなってたか。想像もできません」

 浮ついた感情はなく、心の底から染み出たような声は、才人の心をじんわりと暖かく染めた。
 誰かを救ったという実感が徐々にこみ上げ、知らず穏やかな笑みを浮かべていた。

「サイトさま?」
「ああいや、ごめん。次は気をつけて」
「はい!」

 どう気をつければいいかなんて二人ともわからない。
 ただ言葉の繋がりだけが大事だった。

「おやすみなさい」
「おやすみ」

 そう言って、パタンとケティはドアを閉じた。
 才人はしばらく閉められた扉を見てから踵を返してルイズの部屋に向かう。
 顔はかすかに緩んでいた。

「デルフ」
「なんだ相棒」
「俺、人を助けられたんだよな」
「そうだな。相棒がいなければあの娘はきっと闇の中だ」

 デルフリンガーも彼の言葉を否定しなかった。
 階段を上りながら、才人の心も少しだけ前進した。
 ニューカッスルの夜、生き残った罪悪感は薄れている。
 心が軽く、今なら空だって飛べそうだ。

「なあデルフ。ひょっとしてあの子、俺に惚れてたりする?」
「……相棒はもっと気にしなければならないことが多いと思うんだがな」
「でもさ、明らかに俺を見る目が熱っぽい気がするんだよ」

 自然、普段は言わないようなことも口をついて出る。
 神剣の苦言もなんのそのといった具合だ。

「フラグ……か。あえて言わせてもらおうか相棒」
「ん、そんな風に断りを入れるなんて珍しいな」

 ごほんとする必要もない咳払いをしてから、デルフリンガーは言い放った。

「莫迦め、恋愛フラグは死んだわ!」

 才人は思わず立ち止まった。

「……」
「……」

 長々と続いた重苦しい沈黙を破って一言。

「それは、なんか違うと思う」
「いや、すまない。何故か言っておかねばならない気がしてな」
「なんだろうな、世界は不思議でいっぱいだ」

 才人は遠く、どうあっても見れないはずの地球を思う。
 ハバキをかちゃりと鳴らしてデルフリンガーはとりとめもない話を続けた。

「そうだな、この戦が終わった後はトリステイン不思議観光の旅にでも連れて行ってもらうか」
「うわなんだそれ。俺も行きてーよ」
「何を言っている。相棒が某を運ぶのだ。知識は豊富にあるから解説も問題なくできるぞ」
「……うるさそうだな」
「何か言ったか?」
「んにゃ、なんでも」

 部屋に戻ったあと、ルイズから口づけについて糾弾されるまで、才人は幸せに浸っていた。





*****





 ここ、ガリア王国にはヴェルサルテイル宮殿に存在する花壇にちなんだ騎士団が存在する。
 そして、花壇がないはずの北にあてはめられた北花壇騎士団。
 南百合騎士団をはじめ、北を除く三つの方角にある花壇、そこに植えられた花の名を冠した騎士団はガリアの光ならば北花壇騎士団はガリアの闇だ。
 ここまでなら事情通の貴族で耳に挟んだことがある、という者を王宮でごくまれに見ることができる。
 しかし、光に明るさがあるように、闇にも深さがある。
 ガリアの闇のさらに深く、書類上は存在しないガリア王直属の部隊、オルレアン機関はそういうところだ。
 ただ父を、夫を、弟を取り戻すためにと新設された、人としての情に溢れた闇の機関だ。

 ヴェルサルテイル宮殿はグラン・トロワ、オルレアン機関にあてられた一室でシェフィールドは魔道具を整備していた。
 いずれも小さいものばかりなのでそこまで場所はとらず、部屋の一角を占めているだけではあったが、戦闘の補助に用いるアルヴィーをはじめ、“伝声”に近い魔法が込められた通信具であるコンヴェイ、トリッキーな使い方もできるスキルニルなど様々なものが雑多に並べられている。
 魔道具は簡単に壊れるものもあれば、非常に頑丈なものまでピンキリだ。
 彼女が扱うのは魔法大国ガリアの、それもジョゼフ直属の女官兼虚無の使い魔にと一流の魔道具職人が作った、さらにその中から選りすぐられた逸品である。
 ちょっとしたことで壊れるようなものではない。
 が、万一の事態に備えて整備するのは彼女が元々几帳面だから、というだけではなく、万一の事態が起きたときには彼女が敬愛するジョゼフ王までもが被害にあう可能性が高いからだろう。
 その眼は真剣そのものだった。

 すぐ近くの重厚な机ではオルレアン公夫人が執務についている。
 目を通しているのはアルビオンの件をはじめ、ハルケギニア各地で起こる変異についての上申書。
 些細なことすら見逃さず夫人は要確認、至急対応、問題なしと三つに分けて書類を整理していく。
 その山は問題なしが圧倒的に高く、要確認は十枚程度、至急確認に至っては二枚しかない。

 おおよその書類を分類し終えた夫人は、至急対応に分けられた一枚を手に取った。
 その手紙はアルビオン王国所属の将軍、ホーキンスから送られたものだ。
 軍港ロサイスで確認した太陽の位置の異変。
 書かれている内容が正しいとすれば、空中大陸アルビオンが東進、下降しトリステイン方面に近づいていることになる。
 この六千年一度もなかった現象が何故今起きるのか。
 答えは一つしかない。

「邪神め……」

 凄まじく低い声にシェフィールドは思わず肩を震わせた。復讐を型に入れて焼き固めたような、壮絶さを思わせる声だった。
 夫人の情念が漏れたのは一瞬ですぐ部屋の温度は戻る。
 ほっと肩の力を抜いたシェフィールドには目もくれず、夫人は残る一枚に目を移す。

『討滅予定:二週間後、ウルの月三十日。集結は二日前に。『五大』のオスマン出陣』

 簡素にそれだけが書かれていた。
 トリステインから来た、騎乗者がいない竜の宅急便はジョゼフ王宛とオルレアン機関宛の、たった二通の書状だけを携えていた。
 敵がどこにいるのかわからない以上、梟便は使いにくい。野生の竜に偽装させた苦肉の策だ。

 夫人は口元を隠しながら考えに耽る。
 オールド・オスマンをこの戦場に投入するとは、トリステインはこれ以上なく本気だ。
 それも後に続く邪神との戦に集中するためだろう。先に教団を潰して後顧の憂いを完全になくすつもりか、と彼女は軽く頷いた。
 彼が出陣する以上負けは考えにくい。
 だが考えにくいというだけで、絶対ではない。
 武農王むのうおうジョゼフも様々な考えを巡らせているだろうが、オルレアン機関としても方針を練らねばならない。

――いえ、教団はこの際捨て置きましょう。

 邪教に対して苛烈なアンリエッタのことだ、出し惜しみは一切ないはずだ。
 おそらく『五大』とあわせて『烈風』、『白炎』など名だたるメイジをぶつけるに違いない。
 流石に虚無は温存するだろうが、状況によってはアルビオン勢が使うかもしれない。
 いかに得体のしれない奴らと言えど、一度壊滅してしまった残党を、これも染まり切れているかもわからない伯爵がまとめあげているだけだ。
 本気になった彼らを、特に『五大』を相手にはできないだろう。
 ならばその二日後、スヴェルの月夜に降りてくるであろう巫女の対策をオルレアン機関はとるべきだ。
 彼女がなすべきは邪神の憑代となった巫女の討伐。

 二週間以内に何ができるか。
 それには何をおいても相手の情報が必要だ。

「シェフィールド、元素の兄弟から連絡は」
「まだありません」

 彼らがアルビオンに発ってからすでに一週間以上がたつ。
 これほど長期間連絡がないのは不自然だ。

――あるいは、すでに。

 夫人の脳裏をよぎる不穏な思考を打消し、決断を下す。

「コンヴェイを使いなさい」

 夫人の視線は両端の太さが違う長さ三十サントほどの、筒状の魔道具に固定されていた。

「あと二回しか使用できません」
「かまいません」

 シェフィールドの言葉を夫人は意に留めない。

 “伝声”の魔法は元々アルビオン艦隊が開発したスペルだ。
 その原理は至極明快で声を風にのせるだけ。指向性を持たせるという点が難しく、風のライン・スペルとして知られている。
 また、相手が“伝声”の到達点にいなければまったく意味がなく、速度差がある艦隊間の連絡を“伝声”で取り次げるようになって一人前とも言われる。
 その到達半径は距離に比例して拡大する。指向性をもたせるといっても限度があるのだ。そのため、あまりに長距離の“伝声”は通常不可能だ。
 さらに大きな問題点として、盗聴が容易であることが挙げられる。
 A地点からB地点の間の“伝声”を盗聴するには、その二点をつなぐ直線上に割り込めばいいだけだ。
 以上の理由から“伝声”は開けた場所限定で、しかも長距離には向かない魔法として軍などでは教わる。

 それら欠点の解消を目的としてエルフとガリア共同で開発されたのがコンヴェイだ。
 発想を変えて指向性を持たせず、波紋のように広がるに任せる。
 しかしその波を拾えるのは特殊な器具、コンヴェイだけにするという、一種の暗号発信機と受信解析機を兼ねた魔道具。
 エルフの共同研究者がいたため、系統魔法の力は一切使われていない風変わりな魔道具でもある。
 大地に眠る風石の力を利用しているので通話可能範囲は非常に広く、ハルケギニア全土をカバーする。
 屋敷一軒立てられるほど高価なくせに十回しか使えない。コンヴェイが発した波は全てのコンヴェイで拾える。扱いには魔道具に関する高度な知識が必要となる。
 この三つが解決されていればもっと広く普及していただろう。

「……わかりました」

 オルレアン機関に与えられた部屋にいるとき、シェフィールドは夫人の命令に従わねばならない。
 それがジョゼフから下された指令であった。
 彼女は太い方の端を口元に近づけ、もう一端を耳に近づける。
 額にルーンがほのかに光り、コンヴェイもかすかな震えを示した。

「……」

 夫人がじっと見ている中、シェフィールドはコンヴェイの操作に集中する。
 元素の兄弟で最も魔道具に詳しいのはジャネットだ。
 当然彼女がコンヴェイを持たされている。
 四人の中でも温和で雇い主を立てる性質の少女は、数少ないコンヴェイを使う事態にはすぐ応答していた。

 二人の息遣いすら聞こえそうな静けさ、シェフィールドは次第に焦りを覚えてきた。
 コンヴェイの受信が振動でしか伝わらないので気づいていないだけかもしれない。
 だが相手が相手だ、ひょっとすると戦闘中か、あるいは……。

「やられた、ようね」

 十分ほど待っても応答はない。手に持った筒を力なく下ろした。

――元素の兄弟が連絡をとる間もなくやられた、か。

 彼らは強い。
 四人合わせた戦闘力は、規格外のジョゼフを除けばガリア王国最強といっても過言ではない。
 ますますもって情報が必要だ。

 夫人が再び思考に埋没しようとした時、コンヴェイが震えた。
 シェフィールドが慌てて手に取り顔にあてる。ルーンが光る。

「こちらオルレアン機関、ジャネットね」
『……』

 雑音がひどかった。通常このような音は入らない。アルビオンに蔓延する何かが悪影響を及ぼしているのか。

「聞こえている? ジャネット、応答しなさい」
『……』

 木の葉の擦れるような音が聞こえていた。

『……ちらジャネット。こちらジャネット』
「拾えた!」

 思わずシェフィールドは夫人の顔を見た。
 彼女にも当然聞こえていて、無言で先を促す。

「こちらシェフィールドよ。状況を説明して」
『はっ、はい。今は一息ついていますが猟犬に追跡されています』
「猟犬……他の兄弟は」

 ティンダロスの猟犬、次元を超越する異形の化け物。
 メアリーの召喚したそれはまだ小さいと聞いている。
 元素の兄弟が四人で当たればなんとか撃退できたのではないかという疑問があった。

『元素の兄弟は全滅です。一瞬でした』
「全滅……」

 ある意味想像通りだったが、やはり彼女は息をのんでしまう。
 しかし悲嘆にくれている暇はない。
 今はとにかくどんな小さいものでも情報が必要だった。

「巫女に関する情報を報告して」
『……』

 再びざざっと雑音が奔る。

「ジャネット?」
『……全滅したと言わなかったか』

 アルビオン訛りの強い、低い男の声だった。

『莫迦め、ジャネットは死んだわ!』

 それきり、ぶつりとコンヴェイからの音は途絶えた。シェフィールドの額のルーンも輝きを失っていた。

 部屋の中に陰鬱な静けさが満ちる。
 夫人がぽつりと詠唱した。

「……フル・アンスール・デル・ウィンデ」

 唱えたルーンは“伝声”、その後ぼそぼそと呟き、立ち上がる。
 シェフィールドはただ黙ってそれを見上げていた。

「なんとしても『地下水』を回収しなければ」

 瞳の奥には強い意志の炎が燃えていた。





*****





「諸君、我々は信仰の自由を求め、世界のあるべき姿を望み、戦わねばならん!」

 壮年の男性の言葉に、寄せる波のようなざわめきが返ってきた。
 囁きは大半が好意的なもので形成されているにも関わらず、多種多様な言語を混ぜたような奇妙な感覚を聴く者に与える。
 その聴く者が正気を保っていたなら、という前提があればだが。

「我が娘、メアリーはその先駆けとなった。ナイアルラトホテップ様をその身に降ろしたのだ!」

 額を汗で濡らしながら白髪の男性、ジョン・フェルトンは叫ぶ。

「我々も続かねばならない。真実を隠された愚民どもに知らしめねばならない。それが奉仕者たる我々の務めである!」

 アルビオンの北部、スカボロー。行楽地として知られ、アルビオン中の商人が集う重要な交易場でもあった。
 トリステインからの船が着けば、慌ただしく水夫が働き積荷を運び出す。
 その積荷を商人が競り落としアルビオン各地に運び出すのだ。
 人が多く集まる都市だったので、聖堂もそれに相応しい立派なものが建てられた。
 しかし、それも今は見る影もない。
 美しい壁画装飾は打ち砕かれ、ブリミル教を冒涜するような内容の文句がいたるところに書きなぐられている。
 長椅子に座るのは黒いローブを纏った邪教の民、その数はおおよそ五百。時折のぞく双眸は昏く澱んでいる。

「よって、我がナイアルラトホテップ教団はハルケギニア全土に宣戦布告を行う!」

 今度は大きな反響が返ってきた。
 濁った表情の民衆が拍手喝采する様はとてもおぞましく、常人が見れば吐き気を催しかねない。
 フェルトンはそれを、子どもを見守るような表情で見下ろしていた。

「開戦日時はウルの月三十日、それまで一切の手出しは無用だ。訓練に励み、英気を養ってくれ! 以上!」

 拍手に包まれながら彼は壇上を降りた。そのまま教会の出口へまっすぐ向かい、大きな扉を開け放つ。
 辺りは薄暗くなっていた。

「素晴らしい演説でしたぞフェルトン殿」
「ボニファス司教か、いかがなされた」

 密かに教会を抜けていたのか、彼の後ろにぴったりと人影が張りついていた。
 ボニファスと呼ばれた背の低い男はゲルマニア人のように肌黒く、同じ人種には見えなかい。
 アルビオンで生まれ育ったフェルトンが聞いてもアルビオン訛りの強い男だった。

「いえ、何故全面衝突に拘るのかということが気になりましてな」

 フェルトンは呆れた顔をした。

「それは何度も説明したではないか」
「今一つ納得できませんでな」

 やれやれと大仰にフェルトンは首を振る。トリステイン人がするような仕種だった。

「ではもう一度。クロムウェル大司祭が率いた前・ナイアルラトホテップ教団がアルビオンを滅亡寸前にまで追い込み、我が娘メアリーがとどめを刺した」
「ええ、存じております」
「しかし、それはあくまで奇手によってでしかありませぬ。人は理解できぬものに恐怖を示す。なるほど確かに。ですが、それはもう果たされたのです。此度は正面からあたり、まっとうな強さをも示さねばより深い恐怖を与えることはできませぬ。我らが神を喜ばせるためにはこのような作戦をとらねばならんのです」
「……そうですか」

 ボニファスの碧眼が年老いたフェルトンの瞳を射抜いた。
 彼は心底を見透かれそうなそれを気にした素振りも見せない。

「もう一つよろしいですか」
「断る、と言ってもあなたは聞かないでしょうな」
「その通りです。何故、洗礼をお受けにならないのです」

 先ほどよりも強い疑念の視線であった。

「慶事はすべてが終わってからと決めておるのです。では私はこれにて」
「……ええ、ごきげんよう」

 背後から突き刺さる不快な視線を気にせずフェルトンは早足でその場を去った。
 ひたすらに歩く。目指すのは都市長舎。
 メアリーの父であるフェルトンはスカボローで最もいい部屋、都市長の寝室を宛がわれていた。
 門をくぐり、扉を開き、寝室へ一直線に向かう。
 ベッドのある部屋に入った瞬間、彼は床に倒れ込んだ。

「くっ……」

――これは、いかんな。

 フェルトンは、奇跡的にまだ正気を保っていた。同時にその正気が彼を苦しめていた。
 いっそ堕ちてしまえば楽になると何度思ったことか。
 だが、できない。ロマリアに残してきたミレディーのためにもそれだけはできない。
 彼は責務を全うしなければならないのだ。

「旦那さま、失礼します」

 立ち上がることもできず呻いていると、執事だったバザンがノックをした。
 しばらくして、返答がないことを不審に思ったのか静かにドアを開く。

「旦那さま!」

 倒れ込んだフェルトンに駆け寄り、助け起こした。
 そのままベッドに彼を横たえてからコップに水を注いで渡す。

「すまない、バザン」
「いえ、ですがご自愛ください」

 アルビオンからトリステインに婿入りする際ついてきた執事は、きっぱりと言う。

「なに、あと二週間だ」
「その通りですが……」

 フェルトンは手渡されたコップの水面をじっと見つめた。



次回、タルブ編



[29710] だから、今だけは
Name: 義雄◆285086aa ID:b6606328
Date: 2012/03/06 01:26
 夏の近づきを予期させる朝の強い日差しの下、才人はデルフリンガーを八双に構えた。
 強く踏み込み、大地を蹴る。彼我の距離は瞬く間に迫り、一閃。溢れだす液体が足元を赤く染める。渾身の力を込める必要はない。斬った後を、残身を考えながら立ち回る。残り六。
 鈍い金属光沢は、なるほど確かに硬そうだ。それも、神の左手の前には無力。どこに甲冑があるかなんて考えもせず、斬りつける。剣の重みを利用しつつ足を運ぶ。残り五。
 大きくその場を飛びずさる。鋭い投槍、畳みかけてくるフレイルと小剣。金属球を正面から跳ね返し、剣は身をかがめて回避、次いで摺り上げの一撃を横から叩きつけ破壊する。返す刃で首を跳ね飛ばす。残り四。
 戦士が一斉に殺到する。それぞれの手には鎖、槍、こん棒。いずれもさして問題にならない。かわし、あるいは弾き飛ばし、あるいは切り落とす。すれ違いに横薙ぎの斬撃をお見舞いすれば、それだけで胴体は両断される。残り一。
 最後の盾持ち騎士は、これまでの鈍重な輩と違って俊敏な動きを見せた。するすると距離をつめ、素早い剣撃を見舞ってくる。手ごわい。だが、それだけだ。一度大きく間合いを引き離し、上段に構え、次いで鋭く跳躍した。ガンダールヴの膂力は、並みではない。踏み込みが効かない空中であっても全身の筋肉を制御し、唐竹を割るように盾ごと騎士を斬り捨てた。
 大きく息を吸い、吐き出す。少し荒くなりかけていた呼吸はそれだけで静まった。パーカーのポケットに入れた懐紙で刀身を拭い、転がる甲冑に背を向け一言。

「またつまらぬものを斬ってしまった」
「このバカもの」

 ポカンとアニエスに叩かれ、才人は頭をおさえた。

「最後のはなんだ。フライも使えない平民が跳んで距離を詰めるなど、撃ち落としてくれと言っているようなものだぞ」
「いや……つい」
「そうだ、相棒は少々浅はかというか、頭が足りないところがある」
「うぐ……」

 深い考えがあってやったわけではない。そうすれば相手の意表をつけるかなと、むしろ考えなしの行動の結果だった。
 いつもは言い返すデルフリンガーの辛辣な言葉にも反論できなかった。

「まあいい。公爵夫人の鍛錬は身についているようだな。私が学院にいたころとは動きが違う。あの跳躍はともかく、多少は行動した後を考えているようだな」
「ありがとうございます」
「そのうち私とも本気でやりあってみないか? 祝福の力含め、全力でやりあう相手は少なくてな」
「……それはいいっす」

 つまらん奴だと言わんばかりにふんと鼻を鳴らし、マントを翻してアニエスは去って行った。向かう方角は寺院のある方、竜の羽衣の搬出が進んでいるか、確認にいくのだろう。
 入れ替わるようにギーシュが近づいてきて文句を言う。

「というか、ワルキューレをつまらないものとか言わないでくれよ」
「それは様式美だ」

 呆れ声のギーシュに才人はスパッと言い返した。表情は無駄に引き締まっていて、男前に見えなくもない。
 そこに、少し遠くから見守っていたルイズが、丈の低い草を踏み分けながら小走りで駆け寄ってくる。

「サイト、おつかれさま」

 そう言ってふんわりと微笑む。差し出された手ぬぐいのように白く、柔らかな笑みだった。

「や、まだいいよ。ギーシュもう一本いこう」
「ぁ……」

 が、才人はかなしげな表情には目もくれず、同級生に向き直った。少女の顔が少し翳る。

「またかい? 結構疲れるんだけど……」
「直接身体動かしてる俺の方が疲れるっつーの。いいからいいから」
「相棒は人使い、あいや、剣使いが粗い。某は剣が本体というわけではないが、宿っているものをぞんざいに扱うのはよくないな。一度使い終わったならきっちり布でふき、定期的に王宮御用達の研ぎ師に預けなくては……」
「デルフはうるさい。じゃあ木剣で、一対一でやろうぜ」
「それなら、まあいいか」

 承諾しておきながらも渋々とした様子を隠さないギーシュが再び青銅の戦乙女を造りだす。そして、首の隙間から赤ワインを注ぎ込んだ。

「これ、意味あんのかな?」
「さぁ、けどやらないよりはマシじゃないかい?」

 ワルキューレの体内に少し空洞を造り、そこに一本分の赤ワインをためておく。才人が斬ったとき、あるいはワルキューレが倒れたとき、血液代わりにそれが溢れだすという寸法だ。
 人を斬ることに慣れていない才人のため、アニエスが考えた修行法だった。

「安酒って言っても気がひけるんだけど……」
「いざというとき動けなければ話にならないだろ? 銀貨数枚で命が買えるなら安いもんさ」

 日本人らしい『もったいない』精神を発揮する才人、彼に対してさっぱりとした物言いで返すギーシュは、魔法学院で過ごしているときよりも遥かに大人びて見える。

「ま。命より高いもんはない、か」
「ヒトガタを斬ると忌避感が減るとは聞いたことがある。多少なりとも効果があるならやるべきだ。ただでさえ相棒は精神的に打たれ弱いところがあるのだからこのくらいしておかねば」
「あーはいはい」

 説教をはじめたデルフリンガーを鞘に納めて地面に置き、五メイルほどの距離を二人はとる。
 ワルキューレの武装は小さな丸型盾を腕に着け、二メイル以上はある木剣。筋力の関与しないゴーレムならではの武装だ。
 一方の才人はデルフリンガーと同じ長さの木剣を何度か振り、正眼に構えた。
 重心をどっしりと落とし、ギーシュから見て隙はない。揺さぶるためにワルキューレを動かしても釣られない。
 視野を狭めないよう注意しつつ、どう攻め込もうかとギーシュは考えを巡らせる。ふと、近くの地面を影がよぎった。

「?」

 空を見上げれば、ぽつんと何かが飛んでいる。

「あれ、なんだろ」

 才人も気づいたようで目を細めながらデルフリンガーに近寄った。
 とんびのように円を描きながらゆっくりと下降してきている。

「……グリフォン、かしら」
「こんな開けた場所に? 聞いたことがないよ」
「わたしだってないわよ」

 念のため二人に近づいてきたルイズがぽつりともらした。
 タルブのような場所にグリフォンが出たことなんて、滅多にある話ではない。強力な幻獣はもっと木々が生い茂ったところや、山中深くに生息しているものだ。
 不自然さを感じながら、万一に備えてデルフリンガーを抜き放った。ギーシュも投槍を錬金してワルキューレに持たせる。
 そんな地上の緊迫感を意に介さない様子で、グリフォンは二十メイルほどの間をあけて草原に降り立った。

「なんか、こっち見てない?」
「……見てるね」
「わたし、すごく見られてる気がする」

 グリフォンはワシの上半身とライオンの下半身、それに大きな翼をもつ幻獣だ。身体も相応に大きいうえ猛禽類の眼は鋭い。ひょっとしたら食料と思われているんじゃなかろうかと、ルイズはイヤな不安を覚えた。それを察した才人が前に出る形で視線を遮る。

「……見られているのはお嬢のようだな。敵意は感じられぬ。鞍もついているから野生のものではないな」

 グリフォンが覗き込むように首を大きく動かす。それからゆっくりゆっくり歩み寄ってきた。
 どうするよ、やっつけるか、と男二人が目で会話していると、ルイズが恐る恐る才人の背から顔を出した。まじまじと猛獣の姿を見て、小さく声をあげた。

「ヴェイヤンティフ?」
「ヴぇい……なに」

 その声にグリフォンは反応した。さきほどまで一歩一歩確かめるような動きだったのが駆け足になったのだ。
 ルイズも少し早足で歩み寄り、身体を撫でてやった。

「あなたは無事だったのね。良かったわ」

 グリフォンは暴れることなく目を細め、されるがままになっている。

「ルイズ。そいつは?」
「ワルド様のグリフォンよ。名前はヴェイヤンティフ」

 ほんの一瞬、息が止まった。

「なんでわかるんだい?」
「左目の下に傷があるのよ。特徴的な十字傷だからすぐにわかるわ」

 二人の会話がうす壁の向こうで聞こえてくるような、奇妙な非現実感。頭を振ればその感触はすぐにおさまった。ごまかすように、才人はギーシュに話しかけた。

「……ヴェイなんとかってなに?」
「サイト、きみはもう少し歴史を……と、ハルケギニア出身じゃなかったっけ?」
「おう」
「ヴェイヤンティフは今からおよそ千四百年前、ガリアのシャルルマーニュ王時代に実在した英傑ローランの愛騎だ。ローランは勇猛な騎士だった。神の盾という名に恥じぬ強さを誇る、歴代の担い手の中でも最強に近い男だったな。あいや、ローランの愛騎はヒポグリフだったな。おそらくあやかったのであろうな」

 ふむ、と才人は大きく頷いた。

「よくわかんないけどすごいってことか」
「いや……まあ、そうだけど。もっとこう、武勇とか……ま、きみはそれでいいか」

 やれやれと肩をすくめているギーシュより、今はあのグリフォンが気になっていた。
 じっと見つめる。イヤな感じ、邪な空気だとか、そういうものはない。才人が感じたのは以前討伐したオーク鬼のような、人と獣がまじりあったような気配。知能の高い獣特有のものだった。
 ルイズに身を任せていたグリフォンの顔が才人の方を向く。

―――この星を頼む―――

 その瞳に映る感情は、アルビオンで見覚えがあるようで、じくりと心の片隅がうずいた。





―――だから、今だけは―――





 タルブはトリステイン王国南西部、アストン領にあるぶどうの産地としてそこそこ名の知れた村だ。港湾ラ・ロシェール近辺では数少ない、大きく開けた草原があることでも知られている。外洋が近く、つまりアルビオン大陸から近く、遥か昔アルビオン―トリステイン合同軍事演習が行われたとき利用されたほどだ。
 今ここでは陣地構築が行われていた。ゴーレムが山岳地帯から切り出した石を運びだして出城を建て、アルビオンからの流民が塹壕を掘る。ニューカッスルから脱出した文官が地図を片手に走り回り、ロサイスで避難指示を出していた軍人も訓練に励んでいる。お国柄のせいか、それとも教団の脅威を目の当たりにしたせいか、作業をしている人々は文句を言うでもなく、必死に汗を流している。
 そんな姿を才人は少し小高い丘から見下ろしていた。石造りの墓石が立ち並ぶ村の共同墓地、その一角。少し古びた、日本にいたころは何度か目にしたことのある長方形、それには懐かしい文字の刻まれている。アリのように働く人たちに背を向け、和風の墓石の前で腰を下ろした。
 朝の鍛錬が終わり、メンヌヴィルの講義も聴き、才人にとって昼食前のちょっとした空き時間だ。数日前タルブに来てから毎日欠かさず墓参りに来ている。平賀家の墓にだって頻繁に顔を出さなかったのに、他人の墓石に日参するなんて、変な話だと才人自身も思う。

「佐々木さんは……」

 そこまで言って口をつぐんだ。答えは返ってくるはずもない。なら、これも無意味な感傷なのだろうと。
 トリステイン魔法学院に勤めるメイド、シエスタの曾祖父は佐々木武雄という。竜の羽衣と呼ばれる飛行機に乗ってハルケギニアにやってきた日本人だ。
 話がしたかったと、才人は思う。こんな知り合い一人いない世界でなにを思い、なにを感じたのか。ここに来てから、色々あった。ご主人様は優しかったし、少ないながら友だちもできた。今も背負っているデルフリンガーという相棒もできた。厳しく心強い師匠もいる。
 けれど、どこか違う。無性に日本が恋しかった。日本人と話したかった。年上でもいい、年下でもいい。ただ話を聴いてほしかった。

「サイトさん」

 振り向くと、息をはずませたシエスタがいた。学院で見慣れたメイド服じゃない、ブラウスにスカート姿。さっきまでの考えのせいで黒髪黒目に目をうばわれた。

「もうすぐお昼ですよ」

 シエスタの差し出した手をとって立ち上がる。彼女は寄り添うように隣に立った。

「この景色」

 ざあっと風が強く吹き抜ける。ところどころに残った草花が生き物のようにうねった。

「ちょっと前までは一面の綺麗な草原だったんですよ。春には色んな花のじゅうたんみたいになって、すごいんですよ。夏は草がのびるけどその合間から大きな花が顔をのぞかせるんです」

 シエスタの横顔は、少し哀しそうに見える。

「いつか、サイトさんにも見せてあげたいです」
「……うん、俺も見たい」

 えへへとはにかんでみせる仕種は、やっぱり日本人に似ていた。

「どうせならゼロ戦、アレで空から見ようぜ。操縦できるかわかんないけど」

 才人が思い浮かべたのはずっと昔のことに感じる地球での授業、中学生だったか小学生だったかのときのこと、飛行機で農薬をバラまく外国の風景。実際は全然違うことだろうけど、それはきっととても素敵なことだと思った。知らず薄い笑みを浮かべてしまう。
 けれどシエスタは少し疑わしげな眼だった。

「……こう言うのもなんですけど、アレって本当に飛ぶんですか?」
「飛ぶ飛ぶ! シュヴルーズ先生たちが今ガソリン造ってくれてるらしいし、このドタバタが終わってからコルベール先生に頼めば大丈夫」

 ルイズと何度か訪れたコルベールの私室は、ごちゃごちゃとよくわからないものがたくさんあった。なんでも別方面から『火』の利用ができないか、色々と研究しているらしい。
 元々はオールド・オスマンが『風』の研究を行った際、『水』よりも強力な氷魔法を開発したとか、そこらへんから着想を得たとか、ルイズはしきりに感心していたけれど才人にはイマイチよくわからない話だった。
 しかし、研究の成果はすごかった。中にはエンジンらしきものもあって、先生ならきっと竜の羽衣を飛べるようにしてくれるだろうと、ちょっとした確信があった。

「ミスタ・コルベールですか……確かに詳しそうです。じゃあ、楽しみにしてますね」
「そのためにも、こんな戦争はやく終わらせないとな」

 言って、才人は歩き出す。両手を頭の後ろに組んで、ぶらぶらと丘をおりはじめる。

「サイトさん!」
「ん?」

 高低差のせいでシエスタと才人の視線がまっ正面からぶつかった。

「サイトさんがなにをされているのか、よくわかりません。けど、がんばってくださいね!」

 きゅっと拳を握りながら、ちょっぴり顔を赤らめて、精いっぱいな表情だった。少し恥ずかしさすら覚える純朴さがあった。

――不安、なのかな。

 シエスタが以前ミス・ロングビルと呼んでいた女性、彼女はすでに魔法学院の秘書ではない。アルビオン王国のウェールズ皇太子の側近、マチルダ・オブ・サウスゴータだ。ついこの間まで雑談を交わしていた人間が、実は王族と直接会話できるほど身分が高いだなんて、三文小説のような内容だ。
 自分の知っていた世界がどこかずれていく、そんな気分を味わっているのかもしれない。

「ありがとう。俺、がんばるよ」

 才人は安心させるように笑みを浮かべた。
 話はこれで終わりと言わんばかりに、シエスタはパンと手を鳴らした。

「さ、いきましょう! お昼に遅れたらミス・サウスゴータが怒っちゃいます」
「あー確かに、遅刻とかしたらカンカンに怒られそう」
「直接怒鳴ったりはしないんですけどね。なんというか、態度に出ます。そして延々とお説教されます」

 こんな感じですと彼女は両手の人差し指を頭の上にやってみせる。
 わたし怒っていますという表情をがんばってつくっているシエスタに、才人は思わずぷっと噴き出した。

「それ、ひいおじいちゃんから?」
「らしいです。母が怒ってるときに父が黙って『怒ってるぞー!』ってわたしたちに伝えてくれたんです」

 シエスタも顔をほころばせる。貴族のように上品な笑みでなかったが、それがむしろ暖かい。
 二人して笑いながら丘を降りていく。

「でもそっか。マチルダさん怖いのか」
「怖いですよー。お説教も長いんですから」
「……誰が怖いんですか」

 ひきと笑いが凍った。

「遅いからと探しに来てみれば、人の悪口に精を出しているなんて、ねぇ」

 少し遠くでアニエスが「逃げろ! 逃げろ!」と手ぶりで示している。その姿すら目に入らない、恐ろしい形相だった。
 さっきまで話していたとおり、角が生えてそうな勢いのマチルダに二人は怒られた。カチャリと、呆れたようにデルフリンガーがハバキを鳴らした。

 無事に昼食をとったのち二人してお説教を受けて、シエスタは家族の下へ、才人はウェールズの待つ会議室に向かった。

「ひ、ひどい目にあいました……」
「マチルダは、ね」

 才人に返したウェールズの言葉には色んな意味が集約されているような、そんな重みがあった。その笑顔にそこはかとなく影がさしている。
 マチルダがルイズとティファニアを探しに行っているからこそできる、男同士の会話だった。

「皇太子さまもやっぱり」
「マチルダはテファの遊び相手として幼いころから知っているからね」

 げ、と呻き声が意図せずあがった。マチルダとウェールズ、ティファニアはさほど歳が離れているように見えない。

――ちっちゃいころからあんな説教されてたのかな。

 才人からすれば幼馴染という感覚だが、王族相手にこんこんと説き伏せることができるマチルダは間違いなく女傑だった。

「なんっつーか、すごい人ですよね」
「彼女はすごいよ」

 ウェールズの呟きは、才人のそれとは意味合いが違っていた。色んな思いが集約されているような、そんな声色。
 どういうことか聴こうとした瞬間、やわらかい笑みを皇太子は浮かべた。

「ははっ、昔から世話焼きだからね。モード領のだらしない男衆はよく怒鳴られていたものさ」

 あまり身分差を気にしなくて、よく彼女はサウスゴータ殿に怒られていたよとウェールズは言う。
 遠く在りし日を思う横顔だった。

「おっと、今はそんな郷愁に浸っている場合ではなかった。ロマリアからの贈り物を君に見せなければ」
「あ、はい」

 言ってウェールズは簡素な木椅子から腰を上げる。会議室を出て、廊下の窓からは西日が差しはじめていた。
 二人がいくのはここ二週間で急造された野戦砦群。宿舎、会議室、武器庫など、一階建ての石造建築物が密集しすぎない程度に集められている。土メイジによる固定化、硬化を施された地下壕を利用することも随所に点在している。馬防柵や石垣はない。地球の戦国時代とは違うんだろうなと思いながら、まだどこか完成されていない陣地の中、才人はウェールズの背を追いかける。
 工事が終わっていない箇所があるせいか、作業する人々が多く、その間を縫うようにして二人は移動した。皇太子が通るというのに作業をやめる者はいない。事前通達によって工事を最優先するよう伝えていたためであった。
 しばらく歩いて、とある地下壕の前で二人が立ち止まったとき、丁度反対側からアニエスがやってくるところだった。立ち止まり、最敬礼をするアニエスは才人にないある種の硬さをまとっている。

「ダングルテール殿は……確か今度設立される銃士隊の隊長だったかな?」
「はっ、その通りです」
「なら君も見ておいたほうが良いだろう。ついてきてくれ」

 アニエスを加え、一行はいくつもの魔法鍵で封じられた地下壕に足を踏み入れる。内部はきっちり石で舗装されており、居住性などは一切考慮されていない。湿った土のにおいがまだ残っていた。そこで才人は意外なものを目にした。

「……銃?」

 日常で目にすることなんてない武力の象徴、それが確かな現実としてここに存在している。
 才人にわかったのは、古い火縄銃や映画でよく見るベレッタとAK小銃、あとは手のひらにすっぽりおさまるデリンジャーくらいで、見たことのあるようなないようなものばかり。飾り気のない石台の上で無骨な金属のカタマリが、何丁も並べられていた。

「エルフの国、ネフテスから送られてきたものだ。ガンダールヴの“槍”の一部だとロマリアの僧たちは言っていた」

 恐る恐るベレッタを持ち上げてみれば、ずっしりとホンモノの質感が手に馴染んだ。魔法の灯りがほのかに照らす地下室の中、ルーンの輝きはいっそわかりやすい。どんな原理か、才人にはさっぱりわからないが、現代兵器であろうとガンダールヴの“槍”たりえるらしい。
 非日常的なファンタジー世界にあって、現代兵器はむしろ異質なものに思える。

「サイト、わかるか?」
「間違いなく俺の世界の銃です。アニエスさんたちが使ってるのよりずっと高性能な」

 あまりに率直な物言いだったが、アニエスは眉ひとつ動かさなかった。むしろ興味が沸いたようでまじまじと観察している。

「にわかには信じがたいな。こんな小さなものが我々の扱う銃より性能が良いとは」

 いくつか見せてもらうぞと断りをいれてアニエスは異世界の銃を、デリンジャーを手に取った。重さを確かめたり、表面を撫でたり、斜めから銃口をのぞいたりしてから次の銃に移る。どうにも納得いかないようで終始首を傾げていた。
 一方の才人はじっと拳銃に目を落としたまま黙り込んでいる。今手に持っているのはもっともコンパクトな殺傷兵器の一つだ。地球では毎日のように誰かの命を奪っている武器だ。銃弾一発で、ともすればドラゴンすら倒せるかもしれない。
 それでも才人は思う。

――こんなモノが邪神に通用するのか?

 ニューカッスル城の最期の時、思い出せば今でも胸がうずくあの光景。邪神に斬りかかったとき、一切手ごたえを感じなかった。魔法も通用しなかった。
 向こうにいたときは漠然とした憧れをもっていた銃も頼りなく見えてしまう。

「どうやって銃剣をつけるんだ……。できるなら実演してもらいたいものだが、サイト?」
「あ、はい」

 そんな考えに囚われていたせいでアニエスがかけた声にも反応が遅れてしまった。

「確かに、試し撃ちは必要だ」

 ウェールズもアニエスの意見に賛成のようだ。土壇場で使えないなんてことにあると目も当てられない。

「じゃあこいつとこいつで」

 手にしたのはAK小銃とSIG SAUER P226。深い理由はない、どちらも映画やアニメ、漫画で見覚えがあるとからというだけだ。P226にいたっては正式名称すら彼は知らない、なにかの漫画で信頼性が高いと言われていた覚えがかすかにあるから選んだ。
 スリングを肩に通してみると少し重く窮屈だ。デルフリンガーを背負いつつ銃も使うというのはきついかもしれないと才人は思う。

「某というものがありながら他の武器にうつつを抜かすとは……浮気はいかんぞ相棒」
「そんなんじゃねーっての」

 神剣の軽口に苦笑いしつつ才人たちは地下室を出る。

「じゃ、あの葉っぱない小枝見ててください」

 スライドを引き、安全装置を外す。映画で見たようにハンドガンを構え、十メイルほど離れた樹木の小枝を狙う。
 引くんじゃなくって絞るんだっけと、どこかで聞いたフレーズを思い浮かべながら引き金を絞った。
 乾いた銃声が響く。思っていたよりも音は大きかった。音速の鉛弾はあやまたず小枝を落とした。

「……かなり大きな音が出るようだね」
「弾速が段違いだな。それに命中精度も、威力に関してはわからんが」

 感心したような放心したような、気の抜けた声で二人は評価を下した。

「命中精度は違う気がします」
「ガンダールヴの力か」

 便利なものだなとアニエスは呟く。
 十メイルも離れた小さな的に素人がいきなり当てることはまずありえない。
 もう一発撃つことを二人に断ってから才人ははもう一度引き金を絞る。またも狙ったところに吸い込まれていった。

「すごいな」

 アニエスが驚いたのは才人の腕前よりも、こんな小さな銃で連射ができるところだ。射程距離はわからないが現在普及しているマスケット銃なんかより高性能だという言葉には納得できた。
 しかし、ウェールズは渋い顔をしている。

「幹に向けて撃ってくれないか」

 才人は黙って銃口を樹に向けた。三度目の銃声が鳴ったあと、ウェールズは樹に近づいて弾痕を確認した。その横顔は険しい。

「ヒラガ殿、他の形状の銃も威力は同程度かな?」
「学院から持ってきた『破壊の杖』は、うまくやればフネ一隻くらい沈めれます。他の銃は……大きいやつは強いだろうけど多分大体同じです」

 ふむとウェールズはそれきり黙ってしまう。アニエスにも才人にも、彼の懸念がわかってしまった。
 やはり威力が足りない。拳銃は人一人を殺すには十分すぎる力だ。しかし、邪神を相手にするときはその限りではない。その攻撃力はおそらくラインスペルにすら届かないだろう。

「どのくらい連射できる?」
「拳銃はそんなできないです。でもAK小銃は一分六百発のペースで撃てます」
「連射数は」
「一つのマガジンに三十」
「対人用、だな」

 ウェールズとアニエスはそう結論をくだした。
 命中率、威力、射程、熟練速度など本来ならば戦場の常識をひっくり返すほど地球の銃器は強い。狂信者の集団に敵するのでなければ大きな戦果を挙げることができただろう。
 だが、相手が相手だ。命の重さを知らないどころか正気を保っている保証も一切ない。味方が倒れているのを見ても平然と侵攻してくる可能性が高い。
 加えて言うと数の問題がある。ハルケギニアの工作精度ではこれら銃器を再現することはできず、面制圧ができない以上大きな価値を見出すことはできなかった。

「重心を崩すくらいなら携行しない方がいいかもしれませんな」
「あるいは、ヒラガ殿専用ではなく平民軍に流したほうが効果的な運用が可能になるか」
「教団相手ならある程度有効でしょう。ですが今は一般兵に習熟させる時間も数もありません」

 海路を利用してリュティスにはもっと大型のものが運び込まれているとのことだが、今回の戦には間に合わない。

「殿下、先ほど大きな音が聞こえましたが」
「気にしなくてもいいホーキンス将軍。アレはヒラガ殿の国の銃声だ。丁度いい。将軍にも相談がある」
「はっ!」

――はじまるんだな。

 銃声に駆け寄ってきた将軍と、銃の運用について話し合う二人を前にして、才人は戦争のはじまりをより強く実感した。
 もう時間がないということを痛いほどに理解したのだった。



*** 



 きらりきらりと月光の下、青銅の戦乙女が円舞を踊る。
 風は穏やか、舞台となる草原がところどころ剥げあがっているのが惜しいところ。女騎士は決まりきった動作を一つ一つ丁寧に、されど素早くこなしていく。
 パートナーがいれば、あるいはここが煌びやかなホールであったならこれ以上なく優美な光景として絵画に残されたかもしれない。ただこの場にいるのはたった一人の観客、ワルキューレの奏者たるギーシュ・ド・グラモンだけ。
 時間にして五分ほど、さして長くはなかったがそれでもギーシュの額には汗がじっとりとにじんでいた。
 一体だけに絞れば、ゴーレムはかなり精密に操ることができる。カリーヌに戦い方というものを教わり、ギーシュも色々と工夫を重ねてきた。才人と決闘したときの自分なら、半数のワルキューレでスマートに勝利できるだろう。

――おや。

 タルブにやってきてから三日ほど、いつも通りの後ろ姿が見えた
 墓地へと続く細道、平賀才人が神剣を背負ったまま音も立てずに歩いていく。最初見たときは目を疑ったが、月明かりにもわかる黒髪で彼だと気づくことができた。自分と同じく、秘密の特訓をしているに違いない。
 かつて敵であり、今は良き友になった黒髪の少年の後ろ姿にニヒルな笑みを投げかけておく。

――それでこそぼくのライバルにふさわしい。

 ギーシュでは才人には勝てない。どうあがいても勝てない。修行時間の差はあれど、それを超越したとてつもない速度で引き離されているように感じる。
 今はそれでもかまわない。諦めず、最終的に勝ちを拾うことさえできればそれでいいのだ。
 なんといっても彼はガンダールヴだ。己の前に立ちはだかる壁として、あるいは笑いあえる友としてこそふさわしい。
 そんな益体もないことを考えながら再びワルキューレの操作に集中する。ゴーレムの操作法は実家で、学院で十分学習した。それにカリーヌから学んだ戦場での作法を混ぜ合わせ昇華する。それこそ今のギーシュの目標だ。
 普通に考えれば親から、あるいは兄から教わったほうが断然早いだろう。それでも自分で戦術を練り上げることにこそ意義があると、ギーシュは努力を重ねていた。
 その結果、優美さを重視していたワルキューレの武装が投槍と丸型盾が主体になったり、変化は多かれ少なかれある。才人が召喚される以前の彼と比べて大きく変わったのはその生活習慣だ。授業も真剣に受けるようになった。才人がアルビオンから帰って来てからより真剣に授業と魔法の修練に励むようになった。
 けれど、それらはすべて些細なことだ。ギーシュ・ド・グラモンの根本は変わらない。効率のいい巨大ゴーレムの運用ではなく、少数でも見栄えのいい戦乙女を使役することや、相棒たるヴェルダンディーを愛でること、そして女性に対する態度。すべてが変わりない。

 ゴーレムは、一般的には造形を重視されない。戦場では攻撃を受けるのが当然のことであるうえ、余計な部分に注力するくらいならより大きく、より硬くすべきだからである。戦場以外では造形美が機能美より重視されることもあるが、日常的な雑用で外見にこだわるメイジは多くない。
 にもかかわらずギーシュが女性の外観を有するワルキューレにこだわる理由、それは十年以上前に彼が見た、フレスコ画が大きな一因となっている。
 聖者アヌビス、初代ガンダールヴにして始祖ブリミルの左手。偶像崇拝を懸念したブリミルと違い彼女の姿はしっかりと記録に残っている。その美しくも勇猛なフレスコ画にギーシュの魔法の原点はあった。
 そのフレスコ画はグラモン領のファルケンブルグはヘルラッハ教会に存在する。槍と剣を携え始祖の神託を胸に、大きな獣に挑みかかる聖者アヌビスの勇姿は幼心に強く刻み込まれた。それまで力強さの体現であると感じていた父や兄、他の土メイジが操るゴーレムが鈍重にしか見えなくなった。なんとしてもあのフレスコ画を再現したいと、願った。
 それが、ギーシュが普通のゴーレムを使役しない理由。非効率的と嘲笑われようと美しき戦乙女に自らの命を預ける理由。

 つまり、要約すればギーシュ・ド・グラモンは女好きでカッコつけたがり、けれど一本筋が通っているのだ。
 そんな彼がきょろきょろ辺りを見回すルイズを見逃すはずもなかった。あちこち走り回っていたのか、髪が乱れている。

「良い夜だね、ルイズ」
「ギーシュ、サイトを見なかった?」

 淑女らしからぬ返答にギーシュは軽くめまいを覚えた。

「ルイズ……友として忠告させてもらうけれど、今のきみにはいささか優雅さに欠けている部分が」
「お説教はデルフリンガー卿で慣れているからいいわ」

 すぱっと友人の言葉を遮った。涼しげな顔で、悪気の欠片も見えやしない。
 むむとギーシュは呻く。どうにも、ルイズ・フランソワーズは平賀才人が召喚されてからこっち、強かさが身についたように感じる。むしろ、以前が子どもっぽすぎたという取り方もできる。

「それよりも、サイトを見なかったかしら? 決戦も近いのに」

 そう呟くルイズの顔にはあまり余裕がない。

――人形をなくした幼子のようだ。

 いや、この場合は幼女の方が通りがいいか。それとも幼児か。少女と呼ぶには幼い雰囲気だと、自分の心の声をギーシュは吟味する。
 その気配を知ってか知らずか、それとも返事をしようとしないギーシュに見切りをつけたのかルイズは踵を返す。

「おっと、待ちたまえ。せっかちボーイはチップを得られず、という言葉もあるのだから」
「わたしはボーイじゃないの。それじゃ」
「ちょ」

 行動の端々から「お前のことなんてどうでもいい」という雰囲気を感じたが、そんなことでめげるギーシュではない。
 さっと杖を一振り、ワルキューレをルイズの前に立たせた。彼女は避けようという素振りは見せず、振り返った。

「モンモランシーもそういう結果を急ぐところがあるのは否めないがきみのそれは彼女を軽く上回るな」
「……通してよ」
「落ち着きたまえルイズ。今のきみは優雅さに欠けているよ」

 もう一度杖を振り、薔薇の花弁から小さな青銅の手鏡を錬金する。それと懐に常備している櫛をルイズに差し出した。

「髪がところどころ跳ねているよ。きみも年ごろのレディーなら身だしなみに気を配りたまえ」

 無視して行ってしまうかもしれないと思っていた。進級する前のルイズなら確実にそうしただろうと思い込んでいた。
 けれど彼女は素直に鏡と櫛を受け取り、身だしなみを整えはじめた。
 よかったよかったとギーシュは喜んで、落ち込んだ。女性にとって化粧や櫛梳きは戦闘準備のようなものだ。それをいともたやすくギーシュの前で行う。そこからわかるのは、ルイズは彼のことを男扱いしていないということだ。

「ありがとう。少し焦りすぎていてはしたなかったわね」
「いや……まあ、うん」

 感謝はされた、でも釈然としない。素直に喜ぶことができなかった。
 ごほんと咳払いをして気を取り直す。

「サイトがどこにいるか、という問いに対してぼくは答えることができる」
「あら、じゃあ早く教えてよ」
「でも少し待ってほしい」
「どういう意味?」

 ルイズは小首を傾げている。その仕草はやっぱり魔法学院の同年代の女子生徒のそれより幼い。

「ユニコーンのように森の奥で努力するのは女の子も同じことだろう?」
「……よくわからないわ」

 ギーシュの言い回しは一々回りくどい。それが少し不満であるかのようにルイズは頬を膨らませる。

「彼は特訓中なのさ。ま、もう少しここで時間を潰してくれたまえ。それが彼のためなのだから」
「けど、決戦も近いのだから身体を休めておくべきだわ」

 ルイズの言葉は間違っていない。そして才人の心情も推察できる。だからこそギーシュは頭をひねった。

「うん、肉体的に見ればルイズの言葉は正しい」
「でしょ?」
「でも精神的に見れば間違っていると、ぼくはそう思う」

 すでにニューカッスル城でなにがあったか、知らない貴族はほとんどいない。ギーシュも多分に漏れずそのことを把握していた。
 それを踏まえ、かつ兄や父から教わった事柄を交えて彼自身の考えを述べる。

「ニューカッスルでの一件はサイトに小さくない心の傷を負わせたはずだ。今の彼に必要なのはそれを吹っ切る、忘れる、なんでもいいから乗り越えることだ」
「だったらわたしも一緒にそばにいる。その傷を分かち合えるはずよ」
「きみはわかってないよ、ルイズ。それは男性一人が背負うものであり、レディーに見せるものじゃない」

 彼は、ギーシュは今までそういった大きな挫折を味わったことがない。だから今言った言葉も、教科書や実家で兄や父から教わった戦場の理、歴史書から汲み取ったものであり、憶測の域を出るものではない。
 それでも、同じ男だからわかるところもある。

「だから今だけは、そっとしておくべきだとぼくは思うんだ」

 まあ三十分もすれば鍛錬は終わるんじゃないかなと言いつつ、うん良いこと言った、と自分の言葉にギーシュは内心頷きながら、ふぁさっと大仰に髪をかきあげる。ルイズは白い眼で見ている。

「貴族の誇りとは別に、男の子には見栄ってものがあるんだよ。女性に弱いところを見せたくないってね」

 ルイズは手を口元にやり、じっと地面を睨みながら考え込む。やがて答えが出たのか、ギーシュの顔をまっすぐに見た。

「わかんないわ」

 うぐと情けなくうめき声をあげそうになった。
 続くルイズの言葉は、しかし意外にもギーシュの意見に肯定的だった。

「だから今だけは、あなたの言うことに従っておく」
「と、待ちたまえ」

 言って、彼女は草原に腰を落とそうとする。ギーシュは慌ててそれを制止し、豪華な装飾のついた背もたれ肘置きつき青銅製四脚椅子を錬金で生成して、座にハンカチを敷いてルイズに譲った。
 超特急で造り上げたせいでところどころ装飾が歪ではあったし、なによりこんな開けた場所に似合う椅子ではなかった。けれど彼女はその好意に対して、はっとするような笑みを返して腰掛けた。ギーシュも隣に、こちらは簡素なロッキングチェアーを錬金して座った。二人してぼんやりと月を見上げている。

「しかし、意外だ」
「なにが?」
「きみはぼくの言うことなんて無視して、サイトまっしぐらだと思っていたのさ」

 ギーシュが才人に決闘をふっかけたことについて、二人はまだ話していない。ルイズの中にわだかまりは残っていたが、当の才人が何事もなかったかのようにギーシュとバカやっているのだ。これからもきっと話すことはないだろう。

「そうね……」

 加えて言えば、ルイズの才人に対する、つまり使い魔への過保護っぷりは魔法学院の生徒の中でも群を抜いていた。
 基本的には一緒に行動して、離れるときは食事やトイレ、お風呂のときくらいでほとんどない。その食事もギーシュとの決闘が目を離した隙にあれよあれよと進行してしまったため、今では終わったらすぐ近くに来るか、ルイズが才人のところへ行っている。
 それから使い魔立ち入り厳禁であるフリッグの舞踏会(例年モート・ソグニルが暗躍していたため禁止になった)をサボって王都で使い魔を観光させたりと、何も知らない人から見ればすさまじく過保護だ。
 アルビオン陥落以降は一時落ち着いたものの、彼女が実家を経由して魔法学院に戻った頃にはむしろ悪化していた。カリーヌの修練があったからこそ目立ちはしなかったものの、ルイズは常に才人を視界におさめたがっていた。
 まるで実家のメイド長、それかモンモランシーみたいだと、ギーシュはその様子を見て思ったものだ。前者は幼いころやんちゃだったせいで、後者は色々と浮気していないか監視されている。
 他にもシエスタのように、大貴族の子女と平民とのイケない恋愛だと思っているものも一部には存在する。見目麗しい美少女にべたべたまとわりつかれていると憤慨しているものも極々一部に存在する。

「……わからなくなったの」

 ぽつり出た言葉はギーシュが思っていたものよりも重い。

「なにがだい?」
「わたしがどうすればいいのか、かしら」

 ふむと腕組みして考えてみる。彼女が何に悩んでいるのか、少しだけ心当たりはあった。

「確かに、サイトのきみに対する態度は少し変だね」

 以前はなんだかんだでルイズにデレデレだったように思える。少なくともギーシュをはじめ、他の少し知り合った仲のものたちはそう感じていた。けれど、ここ最近は違う。今朝の鍛錬のときも、ルイズが差し出したタオルには目もくれなかった。些細なことではあったけれど、何かおかしい。
 はたと気づくことがあった。

「ひょっとすると……」
「なに?」
「彼は、ある一定数の男子が陥る思春期特有の時期なのかもしれない」
「なにそれ」

 重々しく頷きながらギーシュは続ける。

「突然、自分は選ばれた者であると錯覚したり」
「うん」
「突然、女の子と一緒にいるのはカッコ悪いと感じたり」
「うん」
「突然、自分には他の者にない力があると思い込んだり、そういった時期があるらしい。ぼくにはなかったけれど」
「男の子って大変ね」

 繰り返すがぼくにはなかったと強調するギーシュに向かって、きょとんと、あまりよくわかってない風にルイズは言う。

「大体、それ全部サイトと正反対じゃない」
「……確かに」

 平賀才人は虚無の系統に、始祖ブリミルに選ばれた者である。
 平賀才人はルイズをはじめ、シエスタやキュルケ、ケティなど女の子と一緒にいることがむしろ多い。
 平賀才人はガンダールヴであり、余人にはない力を持っている。
 黒歴史製造病とはあまり縁のない男であると、きっと他の人も思うだろう。

「ま、彼はアルビオンの英雄だからね」

 椅子を揺らしながら何気なく口にした言葉は、思いの外ストンと二人の心におさまった。

「……そうかもしれないわね」
「うん、自分で言うのもなんだけど、そうかもしれない」

 平賀才人は虚無の使い魔、ガンダールヴとしてハルケギニアを救うべく異なる星から呼ばれた。そして、アルビオンでニューカッスル城の陥落を目にした、悲劇と直面してしまった。
 だからこそ彼は、次こそはという気持ちで、克己的であろうとしているのかもしれない。

「それにしても」
「うん?」
「ギーシュとこんなにしゃべるなんて、思いもしなかったわ」
「それはぼくもさ」

 二人顔を見合わせ、くすりと小さく相好を崩す。

「なんでタルブに来たの? あなたも実家で色々ありそうなのに」

 オルレアン公夫人が書簡を受け取った三日後、ナイアルラトホテップ教団はハルケギニア全土に対して宣戦布告を行った。
 これを受けてアルビオン王国は非常事態宣言を出し、教団に占領された領土回復および邪教の掃討を目標に北部ハルケギニア連合、レコン・キスタを結成する。この動きはトリステイン、ゲルマニアにも影響を与え、魔法学院は大分と早い夏休みを迎えることになっていた。
 在籍生徒はすべて実家へ戻ることになり、それは『烈風』組も例外ではなかった。ただ、ギーシュだけは軍編成中で忙しい実家に戻らない旨を手紙で伝え、父親に了承されて直接タルブに来ていた。

「色々あっただろうね。でもぼくがグラモンで出来ることははっきり言って何もない。むしろ足を引っぱるだけだろうね。だから、せめて友の役に立とうと決めたのさ」
「……意外、しっかり考えてたのね」
「なに、当然のことさ」
「女性関係でもそのくらいしっかり考えられたらいいのに」
「うっ……」

 なかなか鋭い一言に思わずつまってしまう。
 彼女の言葉には色々と思うことがある。ケティのこともあり、すべてが笑い飛ばせるものではない。
 それでも、さっき自分で言ったばかりの、男の子には見栄があるという言葉を実践すべく、つとめて明るくおどけて見せる。立ち上がって胸に手をあて、自分こそが正しいと言わんばかりに振舞って見せる。

「それは、ぼくが薔薇だからさ! そう、老若問わず女性を喜ばせるため、魔法学院に咲いた一輪の花! 花は近づいてくるものを選べないだろう? そういうことさ」

 ルイズはぽかんとあっけにとられたようだったが、違うところから反応は返ってきた。
 二人の後方、月明かりを閉じ込めたような流れる金髪と、全身を覆い隠すようなゆるやかな衣装でも隠しきれない豊かな母性の象徴をたくわえた少女がくすくすと笑っている。

「これは、ティファニア殿下。お見苦しいところを」
「かまいません。グラモン殿」

 どこか気弱そうに見えるところはあるものの、その美しさが翳ることはない。アルビオンから脱出するフネ、そしてリュティスでの諸国会議でルイズは話したことがあり、控えめながらも芯の強いところがあると感じたものだ。彼女も虚無の担い手の一人であり、ガンダールヴと、こちらは機密にされているがリーヴスラシルでもある才人のもう一人の主人。名をティファニア・モード。今は亡きモード大公とその愛妾、シャジャルの一人娘である。

「こんばんは、ティファニア」
「こんばんは、ルイズ」

 微笑む様もルイズと比べてなんら見劣りしない美少女でもあり、余人には甲乙つけがたい美貌だった。

「ちょっと前から見てたの。ごめんなさいね」

 そう言って少し申し訳なさそうに顔を伏せる。そんな曇った顔ですら美しく見えるから美人は得だと、ギーシュは思う。

「とんでもございません。ぼくとルイズの掛け合いが面白いのならいくらでもご観覧ください。ああそれにしても公女殿下は美しい。アルビオンの深き森に住まう妖精だと言われてもぼくは信じてしまうでしょう」
「……あなた、調子いいわね」

 じと眼のルイズも気にせずギーシュはティファニアを褒め称える。彼女はちょっと困った顔で、ルイズにちらちら視線を送った。きっと助けを求めているんだろうなあと大きなため息をつきながら、ルイズは口をはさむ。

「ティファニア、こんな時間に護衛もつけずどうしたの?」
「そうですとも。護衛役が全員寝こけて役に立たないというのならこのギーシュ・ド・グラモン、大公姫殿下の盾となりましょう」
「えっと……」
「あなたは黙ってて。話がややこしくなるから」

 珍しくルイズが強気でギーシュを制止し、ティファニアはすうはぁと大きく深呼吸した。それだけで胸がはずみ、一時両人の視線は胸元に釘付けになった。
 そして、ティファニアが意を決して言葉を発する。

「サイトさんは、どちらに?」



***



 基礎、型は反復してこそモノになるとアニエスは言っていた。才人は一般的平凡タイプな一高校生からいきなり虚無の使い魔兼アルビオンの英雄に格上げしたばかり。長年戦ってきた年長者の言うことを聴くのは当然のことだと変な増長はしなかった。だからこそ、教団との決戦を間近控えていてもこうしてデルフリンガーを振っている。
 右腕だけでデルフリンガーを引き上げ、まっすぐ振り下ろす。飽きるくらいやったら次は左手で。次は両手でしっかり持って、足さばきを意識しながら型の繰り返し。
 まったくもって地味な練習だが、それでも才人は一日たりとも欠かさずやっている。アルビオンの傷は、まだ癒えていない。
 いつも通りの行為を終えて神剣を大地に突き刺す。それからごろりと草の残る地面に寝転がった。

「なぁデルフ」
「どうした相棒?」
「ビームとかだせねぇ? 必殺技とか最終奥義とかそんな感じ」
「あるわけなかろう。そもそもビームとはなんだ」
「ビームは……漢の浪漫かな」

 鞘を枕にして草原に一人、月を見上げている。
 数の差はあってもその在り方だけは異世界に来ても変わらないと、少しだけ安らぎを覚えた。墓地がすぐそばにあるというのに、恐怖心はない。

「なんとなく相棒の考えはわかる。決定打に欠けると思っているのだろう?」

 心の中を言い当てられてドキリとした。

「よくわかったな」
「なに、若い時分考えるのは誰しも同じことだ。歴代の使い手も同じことで悩んでいた」

 もっとも歴代ガンダールヴはほとんどがメイジかエルフだったがな、とデルフリンガーは笑う。

「そして勘違いするな、ガンダールヴは神の盾なのだ。我らの使命は虚無の担い手を護ること。攻撃など二の次だ」
「……虚無の魔法がどんくらいすごいかわかんねーし。それにあの黒いのには魔法も剣も効かなかった」
「虚無は、使い手にも負担があるから乱用できるものではないのだ。それに巫女の情報はオルレアン公夫人がそのうち拾ってくるだろう。アレは復讐に燃えている上、芯が強くできている」

 それに対して才人は何も返さなかった。さらさらとかすかな風が流れる。

「色々心に積もっているようだな。某は六千年以上も人生、あいや、剣生の先輩であるぞ。大概の悩みに対する最適解を持ち合わせておる。話してみてはどうだ」
「どーだか」
「某の理論の基となったのは偉大なる種族と呼ばれるモノたちだ。偉大とまで言われるのだから間違えようはずもなかろうて。まあまったく別物と言っても過言ではないが」

 自分で別物って言ってるじゃないかと心中でぼやく。
 この神剣は信じてもいいけれど、ヒトと剣の感性の違いか、そういう人の微妙な機微に関してはトコトン当てにならない。そのことをケティの一件で学んでいた。友情だとか色恋に関してこいつに絶対頼らないと才人は決め込んでいた。
 普段は熱なんて感じないはずの月光はヤケに暖かく、懐かしい優しさで体を包みこんでくれる。

「あのさ」
「なんだ」
「邪神本体に勝てると思う?」
「無理だ」
「……ずいぶんはっきり言うんだな」
「ガリア王ジョゼフも言っていたではないか。存在規模が違う。どこに行けば会えるのか、どうすれば攻撃が届くのか、どうすれば殺せるのかすらわからん。火に弱いという説も聞いたことはあるが、それすら邪神の流した嘘やもしれぬ」
「……そっか」

 掘り起こされた土と青い草の薫りが鼻をくすぐる。熱帯夜にはまだまだ早い時期だからか、真夏の夜の匂いは感じられない。

「ブリミルですら真っ向からは叶わぬと諦めた相手だ。相棒では正対することすら不可能だ」
「したらどうなる?」
「死すら生ぬるいナニかに直面するだけだ」
「なるほど」

 いつもは長々と語り続ける神剣の口数が、あくまで平常時と比べて不思議と少ない。決戦間近、思うところがあるのかもしれない。

「なあ」
「なんだ」
「メアリーを殺さなきゃならない、ってのはわかった。メンヌヴィルさんもコルベール先生もアニエスさんも、姫さまや皇太子さま、ルイズだって同じこと言ってる。実際アルビオンでも……」
「そうか。理解だけでなく覚悟をかためることもできたか?」
「できねーよ。できるはず、ないだろ」

 虫の鳴き声がどこからともなく聞こえてくる。地球では聴き覚えがない、名前も知らない。東京の都心近くで生まれ育った才人にとって、初夏の虫の声にそもそもなじみが少ない。

「ふむ、やはり異世界の住民は感性が違うのだろうな」
「こちとらアニメと漫画とメシで世界征服してる日本人だぜ? それに人殺しちゃいけません、なんてどこでだって常識だろ」
「平民メイジ問わず追剥は殺す。人をやめたものならなおのこと。生きているかもわからん」

 少し、外に出たときよりも気温が落ちている。オスマンから融通してもらったスラックスとカッターシャツではいささか肌寒い。
 この世界で一着しかないパーカーとジーンズはコルベールに頼んで固定化をかけてきっちり畳んである。いつか地球に帰ったとき、ボロボロの服ではカッコつかないから大事にとっておいている。

「俺の、勝手な思い込みだけどさ」
「うむ」
「憑りつかれてるとか、そんな感じだと思うんだよ」
「つまり、原因となる邪神の影響を排してしまえば巫女は元通り、侵略してくることもなくまっとうな人格に戻る。それですべてはハッピーエンドと?」
「そそ、根拠もへったくれもないけど」

 にしてもデルフは理解力凄いなと才人は呟いた。
 神剣からすればもっとゴテゴテと修飾語を通り越して装飾語になったような言い回しにも対応できているため、多少の言葉足らずはむしろ推測しやすい部類だ。

「……相棒は意外に凄いのかもしれんな。今までにない着眼点だ」
「お、マジで?」
「不可能だということをのぞけば」
「へ?」
「邪神の影響下に置かれた時点で理性や意識など普通は消し飛ぶ。力に関しては消えるが、そのための試行錯誤をするくらいなら殺した方が早い。犠牲も少ない。人、土地ともにな」

 それよりもだとデルフリンガーは言う。

「今は三日後のことを考えよ。巫女との戦いはまだ先の話だ」
「決戦、ね。俺は突っ立ってるだけなんだろ?」
「ああ、相棒の大嫌いな殺し合いを否応なく見せつけられる」

 考えるだけで気が滅入る。ため息が一つどころか何十も出てきそうだ。

「なにか……別の方法があると思うんだよ」

 メアリーのことも、教団のことも。

「ここにいたのね」

 さくりとまだ残っている草を踏み分ける音と、鈴を転がすより甘い声。
 仰向けに寝たまま首だけ動かす。

――白、か……。

 ルイズのレースがあしらわれたパンツとティファニアの長いスカートが目に入った。
 先ほどまでなかった雲が出てきたおかげで月明かりがさして強くなく、才人のにやけた口元は気づかれなかったようだ。ルイズは欠片の警戒心もなく近づいてきてしゃがむ。

「起きてちょうだい。ティファニアがあなたに話があるって」
「へいへい」

 過分な甘さもなく、責めるような語勢もなく、はたから見ている分にはちょっと初々しい恋人みたいな会話だった。ティファニアはそんな二人の様子を見て無意識に微笑んでしまう。
 背中のバネを使って才人は寝転がった姿勢からぐっと飛び起き、背中の草をはらった。ルイズも手の届きにくい場所についた草をはらってやっている。
 くるっとティファニアに向き直ると彼女の背後、遠くに人影が見える。こちらに背中を向けているから誰かはわからない、ただ護衛だろうと才人は気にしないことにした。
 習った通り、片膝をついて恭しく口上を述べる。

「かような拝謁の名誉を賜りサイト・ヒラガ、感謝の言葉もございません」
「えっ」

 リュティスのヴェルサルテイユで出会った時はもっとこう、ちゃらんぽらんというか、年相応な平民だったはずだ。それがいきなりトリステイン貴族式のあいさつをされてティファニアは目を丸くした。

「違うわよサイト。それこっちから伺ったとき」
「げ、マジかよ……また隊長に怒られる」

 しかも間違えていた。バツの悪そうに、才人はそっぽを向きながら立ち上がった。
 才人が礼儀作法どころか文字の読み書きすらできないことは、メンヌヴィルの放課後邪神教室の場で発覚した。その後訓練メニューに新たな項目、文字と作法が加わったのは言うまでもない。

「えっと、礼儀作法とかはまだちゃんと覚えてないんで勘弁してください」

 ぺこっと日本式に頭を下げる。その動きにティファニアは目をしぱしぱさせた。

「サイトの国では気軽な挨拶でも頭を下げるらしいの」

 ルイズがハルケギニアに馴染みのない仕草に解説をいれる。
 あ、これ通じないんだったなと才人はぽりぽり頭をかいた。

「それで、ティファニア様はどうしてここに?」
「使い魔と主人が話すのに理由は必要かしら?」

 言って、顔をうつむかせる。

「サイトさんとはヴェルサルテイルでもあまり話す機会がなかったから。その、気持ちの整理が必要だったというか……」

 男の人と話すなんて滅多になかったしと、恥じらいの表情を見られないよう顔を伏せながらごにょごにょと続けるィファニアの姿に、才人はあっと声をあげそうになった。

――そう言えばこの子と俺、キスしたんだった!

 色々な出来事がって、そしてあまりにも『烈風』式調練が厳しすぎたせいで、以前の自分なら一週間は身もだえできることも記憶の彼方に追いやってしまっていた。
 よくよく思い返すと耳のとんがったハーフエルフの少女の隣に立つ才人の元祖ご主人様、ルイズだってとんでもない美少女だ。昔書いた日記の言葉を借りるなら「天下無双、外宇宙に名をはせる、邪神も裸足で逃げ出す無敵無謬深淵の中を覗き込むほどの驚きを伴う美少女」である。
 なんだか恥ずかしくなってきて、思わず二人に背を向けてしまった。

「サイト?」
「ちょい待って……こっちも色々と整理してるとこ」

 ぺちぺちと熱くなっている頬を叩いて平静さを取り戻そうとしてみたけれど、どうにも難しい。夜だし表情も顔色もわかんないかと心を決め、勢いよく振り返った。

「それでっと、なんかお喋りだったっけ?」
「ええ、いいかしら?」

 小首を傾げて聴いてくる姿はどこかのおとぎ話から抜け出してきたお姫さまのように可憐で美しい。勿論と勢いよく首を縦に振って、丁度いい大きさの石があったから二人に勧めて自分はすとんと腰を落とした。
 墓地の近くで座りながら語らう少年少女とは、少し不思議な雰囲気の漂うものだった。

「サイトさんはどちらの生まれ?」
「日本の東京生まれっす。どう説明すりゃいいのかな……ハルケギニアとは違う星で、貴族とか魔法とかもなくて、ビルとかいっぱい建ってて……」
「まずビルっていう言葉がわからないと思うわ。ビルっていうのは、すごく高い石造りの建物でステンドグラスみたいなガラス板がはめ込まれているそうよ」

 四苦八苦しながら才人は自分のことをティファニアに伝え、時にティファニアのことを聴いた。時折間にルイズが入って才人の言葉をルイズの知る限りフォローしたり、ティファニアの言うハルケギニア情報を才人がわかりやすく解説したり、通訳のように立ち振る舞っていた。
 月が少し傾くまで三人はおしゃべりを続けた。ティファニアの天然気味な発言に才人が笑いをこぼしたり、あまりに無礼な物言いをルイズにたしなめられたり、楽しい時間はあっという間に過ぎていく。

「そろそろ戻るか……」
「そうね、もう遅いわ」

 月の角度を見るに午後十時過ぎと言ったところだろう。腰を上げた二人を見ながら、ティファニアはもじもじとした様子で何か言いたがっている。才人は、本人はあくまでさりげないつもりで声をかけた。

「どしたの?」
「その……わたしのお友だちになってくれないかしら?」

 ティファニアの言葉に、二人はぽかんと呆気にとられた。

「あの、わたしずっとお友だちがいなくって、多分虚無だから……だから同い年でこんなお話したのはじめてで」

 ティファニアは幼少のころから会話する人間を限定されて育ってきた。天然発言が目立ったのもその反動で、彼女は世間知らずなところが多分にあると、ハルケギニア事情に詳しくない才人にもわかったほどだった。
 屋敷の中、閉じた世界で生まれ育ったその孤独はいかなるものだろう。そして教団のモード大公領襲撃ですべてを失った彼女の傷心は、ルイズには想像することすら叶わない。リュティスで出会った時は同じような境遇だと思っていたが、自分の方がよっぽど恵まれている。

「なに言ってんだ」
「え?」
「俺たち、もう友だちだろ?」

 そう言って、才人はにかっと歯をむき出しに笑った。笑ったけれどどんどんその顔が赤く染まっていって、やがて耐え切れなくなったのか「うわ恥っず! 漫画みたいなのとかムリムリ!!」とかのたまいながらごろごろと地面を転がりだした。
 才人の奇行をよそにルイズはたおやかに微笑んでティファニアに手を差し出した。

「サイトの言葉通り、わたしはもうあなたを友だちと思っているわ」
「ルイズ……」

 ぐすんと涙ぐんだティファニアの顔をルイズはそっとハンカチでぬぐってやった。

「ありがとう。あなたが良いなら、テファって呼んで」
「ええ、テファ」

 二人は美しい友情を育んでいたが、恥ずかしさに耐え切れず思わず転がった才人は一人蚊帳の外の空気を味わうこととなった。
 後に遠くから見守っていたギーシュにニヤニヤとつつかれる羽目になったのもまた別の話である。

 そして三日後、ウルの月三十日、トリステイン王国アストン領タルブ村。ナイアルラトホテップ教団五百とハルケギニア北部連合軍、レコン・キスタ五万が衝突する。




[29710] 焔雪舞う戦場で
Name: 義雄◆285086aa ID:b6606328
Date: 2012/03/06 01:55
平賀才人、後世に残したかった語録その二十八

『カタルシスとカタストロフィーって似てると思う。両方とも意味知らないけど。カタパルトの親戚?』





―――焔雪舞う戦場で―――





 ハルケギニアの初夏は日が早く、六時の鐘が鳴らないうちに太陽は遠く山間に顔を出しはじめる。決戦当日であっても朝焼けは変わりなく大地を染め上げ、広大なる大地は邪神になど負けないと、多くの兵に希望を与えるものだった。
 それからおおよそ四時間後、トリステイン軍が布陣するタルブ平原に差し込む陽光を遮るように西の空から現れたのは、五隻のフネだった。形は一般的なもので大きさもロイヤル・ソヴリン号のように大きくはない。ただ帆が黒いだけ。竜騎士をはじめとする飛行部隊を偵察に出すでもなくゆっくりと近づいてくる。この上なく不気味な軍勢が乗っているにも関わらず、その存在感は大したものではなかった。
 対する連合空軍は二十八隻。帆に大きな白百合があしらわれたトリステインの最新大型艦『フィリップ三世』をはじめとし、ゲルマニア、アルビオン、クルデンホルフの各国常備軍が戦列を並べている。武装よりも船足を重視して揃えられた艦隊間では油断なく旗で交信が行われており、急ごしらえの連合軍とは思えぬ錬度を垣間見ることができる。
 ホーキンスは単眼鏡をおろし、誰に言うでもなく呟く。

「来たか……」

 戦いは『当たらずに当てる』ということが基本となる。その基本にのっとれば、空の戦いは諸々付随するところはあれど、位置取りに集約される。単純に相手より高いところをとれば、発見を遅らせることができる。重力を味方につけることができる。他にも風向きや太陽の位置も関与してくるがこの二つの利点を無視することはできない。
 そう、普通はできない。ナイアルラトホテップ教団側の動きを見ていた兵が声をあげる。

「敵艦隊、着陸態勢をとります!」

 常軌を逸した行動だ。
 ハルケギニアにおいて、国家間戦争の初戦で開戦宣言が行われることは珍しくない。そう遥か昔に書かれた史料にはある。だがその宣言は艦上で風魔法の“拡声”を用いて行うか、地上に降りるとしても竜を使う。全ての艦隊を一度着陸させるなどまったく意味がない。風石の無駄だ。そもそもタルブ平原にはフネを収容する施設はない。着陸させればそのまま横倒しになり、もう一度空へ上がるためには多大な時間が必要となる。フネの規模、強度によっては損傷も免れない。
 まして現在教団を指揮しているのは、かつて空軍にも所属していた元アルビオン貴族、ジョン・フェルトンである。そんな当たり前のことがわからないはずもない。だというのに相手は悠々と、これから戦争を行うつもりなどないように高度を落としていく。もしホーキンスが何も知らされていなければ、首を傾げただろう。

「連合艦隊、対地隊形に移行!」
「アイサー! 高度落とせ!!」

 これはもし正気を保てているならば、極力教団の不利になるような戦況をつくるようにという、アルビオンへ赴く前にジョン・フェルトンとド・ポワチエ将軍が会談した結果の行動だった。

「フェルトン殿は今のところ上手くやっているようだ」
「ええ、わたくしたちも」

 本陣からその動きを見守っていたウェールズはかたわらで待機している風竜の背に上った。アンリエッタに手を貸してエスコートし、その後ろからアニエスがするすると上る。最後に才人が音も立てず飛び乗る。
 ここまでの行動は事前打ち合わせ通り、だがそれはフェルトンが狂気に落ちていないという保証にはならない。
 才人は首にかけられたペンダントを握りしめ、今まさに大地へ落ちようとしているフネを睨みつけた。邪神に連なる者と相対したときの感覚はなく、ワルドのペンダントにも反応はない。
 ワルドの母の肖像画がおさめられたロケットは、いかなる原理かはわからないが邪神の眷属に反応して振動する。コルベールが調べても精密にカットされた風石と様々な宝石が散りばめられていることしかわからなかった。

「今のところそれらしき感じはしません。これだけ離れてるからかもしれませんけど」

 才人のどこか頼りない言葉にウェールズは力強く頷いた。

「いざというときは援護を受けつつ戻ればいい。行こう」
「では、行ってきますわ」
「御武運を」

 ルイズとティファニアが見守る中、黒い風竜はその翼を大きくはためかせ、大空へと舞い上がった。それに合わせてタルブ平原各所からアンリエッタとウェールズを護衛するための魔法衛士隊のグリフォン、マンティコア、ヒポグリフが躍り上がる。
 教団のフネが地に着いたのは丁度そのときだった。絶命した蝶のような、あるいは垂らされた糸のように静かな墜落。抵抗することもなく落ちていく様子は一種不気味さが付きまとう。
 竜骨が地面にめり込んだ瞬間、どのように待機していたのか黒い影の群れがフネから飛び降りた。沈没する船から逃げ出すネズミのように無秩序に、けれど一定の幅以上に広がらないようにしながら続々とフネから湧き出てくる。
 フネが姿勢を保っていたのは五分もなかった。その短時間で五隻のフネから、ナイアルラトホテップ教団五百名が欠けることなく全員抜け出し、整然と列をなした。やがてフネは傾ぎ、土煙を伴いながら横倒しに倒れた。一拍の後、火薬か何かに引火したようで爆音とともに炎を噴き出す。
 青空を犯すように昇る黒々とした煙と、徐々に勢いを増す火炎を背後に、教団に動揺した様子は見られない。フネに未練がないだけでなく、人間らしい感情が抜けて落ちているかのように、東を向いたまま、隊列を正方に保ちながら黒の一団は粛々と行進する。服装は頭まで覆うようなローブで統一されており、鉾、槍、大鎌など雑多な長柄武器を持っている。長柄武器はその性質上両手がふさがるので好んで扱うメイジは少ない、平民がほとんどなのだろう。
 その一団から一人歩み出た人影があった。往年の輝きを失った白髪とやや濁った碧眼、他の者と違ってローブではなく、黒地に赤と青の宝石があしらわれた貴族らしいマントをつけている。ジョン・フェルトン、決戦の立役者であり、今は教団を率いる男であった。その後ろには未踏の地の原住民めいた肌の色を持つ司教、ボニファスとフェルトンに古くから仕えているバザン司教の二人が、三本脚の獣が描かれた巨大な教団旗を掲げついていく。
 ウェールズは単眼鏡でその姿を確認してから風竜の高度を旋回しながら徐々に落としていく。アニエスはアンリエッタに万一のことがないよう背後に控え、才人はペンダントを握りしめながら左胸に手を当てている。
 鈍痛は、かすかにある。けれどそれはケティと相対したときのように弱く、ニューカッスル城で覚えたあの痛みには及びもつかない。

「ちょっと痛むけど、いけます」

 その声でウェールズは決意をかため、風竜を着地させた。
 黒の一団は、近づいてみればその異様さが際立ち、百メイル近くの距離をとっているにもかかわらず名状しがたい圧迫感が一行を襲った。それに構わず才人たちは風竜から降り、風竜の脚にくくりつけられていた大きな国旗を手にする。アニエスは左側によせられた白十字が青地に栄えるトリステイン国旗を、才人の右手には白地に赤い十字のアルビオン国旗、左手に赤白青のレコン・キスタ旗を、それぞれ高々と掲げて王族二人の前に立つ。フェルトンたちがいる教団の五十メイルほど前まで、言葉一つ口にせず粛々と行進する。才人がジョン・フェルトンを目にしたのは、この時がはじめてだった。
 くたびれている。
 率直な感想はその一言に集約される。顔に生気がなく、白髪どころか髭まで真っ白になっていて、事前情報ではまだ四十にもならないというのに、マザリーニ枢機卿やひょっとしたらオスマン老に並ぶほど年をとっているように見えた。中学生のころに見たことのあるファンタジー大作映画、それに出てきた魔法使いに操られている王様みたいだと才人は思った。二つ、違う点があったすれば、口元には彼の娘たるメアリーの面影があったし、その瞳にはまだ力が残されている。

「久しいですな、アンリエッタ殿下、ウェールズ殿下」

 外見より遥かに若々しく、覇気に満ちた声。現ナイアルラトホテップ教団を率い、妻のため、娘の罪滅ぼしのため、命を賭した男は確かにそこに立っていた。

「久しいなフェルトン殿。ラグドリアン湖で会って以来だったかな」
「ええ、あの園遊会がはじめで最後でした」
「今投降すればまだ減刑はかないますよ、フェルトン殿。トリステイン王国王女として保証します」
「ご冗談を。私の後ろには我が娘を信仰する五百名の教団員がいるのです。今更投降などと、タニアリージュの劇ですらありえない展開でしょう」

 三人の話し口は軽やかで、才人は一瞬ここが戦場であることを忘れてしまった。そのくらいなんでもないことであるよう、三人は会話を交わす。
 だが、じくりと痛む胸と左手が思い出させてくれる。ここが戦場であることを、目の前には邪神の尖兵がいることを。

「宣戦布告はこちらから行った。つまり、慣例通り我々から大義を述べさせていただきましょう」

 フェルトンは軍杖でウェールズたちとの間に線を一本引き、十歩後ろに下がる。ウェールズも同じく線を一本引き、アンリエッタたちをうながして十歩、後ろに下がる。杖線と呼ばれる、ハルケギニアに古来より伝わる戦の儀礼の一つである。これよりはじまる開戦宣言において、いかに卑劣な挑発を行われたとしてもこのラインを越えてはならない。このラインを越えるものは、矢であれ魔法であれ両軍を率いるものが止めなければならず、そのような無作法を行ったものは末代まで卑怯者のそしりをまぬがれない。
 そして紡がれるスペル、“拡声”。個人の声を術者の力量に応じた距離にまで届かせることのできる、比較的用途の限定される『風』系統の魔法。

『諸君、私はナイアルラトホテップ教団大司祭のジョン・フェルトンだ』

 のびやかで張りのある声は遮るもののない平原に広がり、もしかすると遠くラ・ロシェールの山岳地帯にまで届いているかもしれなかった。とてもラインクラスの風メイジが使う“拡声”とは思えない。

『此度の戦、そもそもの非はアルビオン王国側、ひいては現在のハルケギニア国主たちにある。殉教されたクロムウェル大司祭はブリミル教の司祭という出自だ。そこで彼のお方はブリミル教の腐敗を目にし、それを浄化する必要があると考えられた。その考えが教皇庁に漏れ、ロマリアから遠ざけられアルビオンに来てもその意志は潰えることはなかった。我がフェルトンの領地で彼は古文書を読み解く日々を送っていた。そこで彼は見つけたのだ、我らが神の、ナイアルラトホテップの存在を』

 両腕を広げながら、朗々とジョン・フェルトンは言う。

『始祖ブリミルに虚無を、系統魔法を授けたのはナイアルラトホテップ様だったのだ!』

 才人にとって、こんな演説はどうだっていい。これは嘘だと知っているからであり、また日本人らしい神様なんて心底どうでもいいという思いもあったからこその余計な思考だった。両軍の兵士たちは静かに、おそらく隣の者とひそひそ話をする程度に聴いている。

『六千年もの間、それをあたかもブリミルが授けたかのようにロマリアは教え広めてきている。それは、ブリミルの血統と弟子フォルサテの血に王権の正統性を持たせるためであり、この事実が洩れれば彼らと貴族が不利益を被るからである。「我が神から生まれ落ちた生命は平等である。平民、貴族などの種族身分を問わず、我が身にとって大切な存在であり、我が神の祝福を受けたものである」。ナイアルラトホテップ様はブリミルにこう説かれたと古文書にある。我らが目指すはこの文書通り、平民、貴族、など身分出自に囚われない新しき世界だ。王族が自国民を見捨てて逃げるような真似をするならば、既存の勢力をすべて破壊しつくして新たな世を創出するしかあるまい!』

 その理想は非常に耳触りのよいもので、聴いていたいくらかの兵は心が揺れ動いたかもしれない。才人の背後から聞こえてくるざわめきが一瞬大きくなったような気がした。

『故に、ここに私は今一度宣言する。腐敗に満ちたハルケギニア諸国に対し、真実をもたらすための聖戦を行うと!!』

 その言葉が終わると同時、二人の司教は教団旗を大地に突き立てた。拍手や喝采は一切なく、フェルトンの後背に控えている黒の教団はしわぶき一つ漏らさない。沈黙を、静寂を保つのみである。
 ウェールズが一歩踏み出た。

『笑止』

 フェルトンの“拡声”と同じくらい、しかし込められた熱量は比べ物にならないほどその声は轟いた。

『アルビオン王国皇太子であり、レコン・キスタ盟主のウェールズ・テューダーだ』

 その表情は後ろの才人にはわからない。涼やかな顔なのか、憤怒に満ちているのか、声の様子からもそれを察することはかなわない。

『確かに、我らアルビオン王族は愛する臣民を見捨てトリステインへと亡命した。それは隠しようもない事実であり、恥ずべきことであり、否定できる材料はどこにもない。我が父、ジェームス一世が命と引き換えに貴様らの足止めをしたことも言い訳にならないだろう』

 この発言にレコン・キスタ兵は驚愕した。王族は絶対であり、その施策に間違いがあってはならない、あるはずもないのだ。しかし、ウェールズは真っ向から相手の主張を飲み込んだ。

『しかしながら、それは後の世のため必要な戦略的撤退である。貴様らのよりどころである邪神の巫女を確実に倒すため、そして虚無の血統を後世に残すための』

 その言い分は、確かに理解はできる。だが理屈として理解できるのと感情で納得するのはまた別の話だ。
 しかし、兵は大きなざわめきもなくウェールズの言葉を受け止めた。言葉の端々からウェールズの、王族の本意ではないという感情、悔しさ、無念さを感じ取ることができたほど、その声が生々しく響いたからである。

『ここにいるアルビオン王国軍人は目にした者もいるだろう。巫女が歩いた跡、我らに慈しみを与えてくれた天空の大地が黒く犯されていたのを。我らに安寧を与えてくれた穏やかな風が腐臭を帯びていたのを。夜ごとまた陽が昇るのを祈らなければならなかった幼子たちを』

 激情を秘めた声に、戦場は静まり返った。一拍の間を置いて、アルビオン軍人が右足を持ち上げ、一斉に踏み鳴らした。鼓動は規則的に、そしてうねりを帯びてトリステイン、ゲルマニアをはじめとする諸国に伝播していき、レコン・キスタは得も言われぬ熱情に包まれた。
 才人も、その一体感を味わっていた。
 無慈悲なまでに命が奪われていった光景を覚えている。弾け、燃え上がり、焼け落ちたニューカッスル城を覚えている。邪神に踏みにじられた少女を、覚えている。

『生命を奪い、大地を穢し、今また争いの引き金となろうとしている。そのような者が、そのような者が神の巫女であるはずがない!』

 ウェールズは、ハルケギニアの人々は邪神の前にはちっぽけな人間に過ぎない。だけど、だからこそ、心を一つにして立ち向かうことができる。

『失われし家々を、人を、大地を思え! 今こそ教団を滅ぼし、国土を復興するときである!!』

 ウェールズの大喝とともに、才人とアニエスは国旗を大地に突き立てた。その感触は、突き立てた音は腕に残り、山々から強い風が吹きおろして四つの旗を激しくなびかせ、墜落したフネから上がる黒煙を吹き散らした。
 フェルトンはウェールズの眼を見ながら頷き、何も言わずに背を向けた。ウェールズも、無言でフェルトン達に背を向け、アンリエッタたちを促した。
 四人が風竜で本陣に戻ったと同時、教団から一つの大きな火球が打ちあがった。準備は整ったとの知らせである。
 無言でアンリエッタはメンヌヴィルに目をやり、頷いた。盲目のはずの彼はその動きで悟ったのか、杖に大きな火球を宿らせ、空に打ち上げた。

突撃行進曲チャージド・マーチを打ち鳴らせ!!」

 ウェールズの指令に従い、軍属楽士のホルンがタルブ平原に鳴り響いた。その響きに応じて平原の各所から、さらにはフネの上からも伸びやかなホルンが十度、お互いの音に合わせるように調べを統一させていく。

「さて、ヒラガ殿。どう感じた?」

 戦場にふさわしい勇壮な音楽を流しながら、ウェールズは才人の眼を見た。口にこそしないものの本陣に控えている、この戦が始まる前から邪神知る面々は彼を注視している。

「たぶんだけど、あの人は染まり切ってません。でも後ろの二人のどっちかは、ヤバかったです」
「そうか……」

 フェルトンは、言ってしまえば普通の年寄りであると才人は感じた。問題は後ろに立っていた二人の司教だ。どちらかはわからなかったが、左手が、心臓が、ワルドの遺したロケットが激しく反応していた。メアリーと相対したときとは違ったものの、それでも危機を感じるレベルの邪悪さを才人は感じ取っていた。
 ウェールズは口元を手で覆い隠しながら十秒近く黙考し、言った。

「作戦はこのまま、長弓隊と一部艦隊で牽制しながら騎兵突撃。他のフネは広く布陣して索敵につとめる」

 ラ・ロシェールと太陽とを背にして連合軍は鶴翼の陣(緩やかなくの字型の陣形)を敷いており、本陣はその中心に、層を厚くして配置していた。ここ数日の土地改造によって教団が低位置をとるように、そしてレコン・キスタが高位置をとるように配置されている。加えて言えば反対側、西方にトリステイン王国の諸侯軍をもって形成される小さな鶴翼の陣が形成されていた。南北にはぽつぽつと諸侯軍の陸上戦力が布陣していた。
 教団の構成員を一人残らず討ち果たすためには脱出の困難な、人目の増えるような陣形を組む必要があったのでレコン・キスタはこの陣形を選んだのだ。
 さらに、ハルケギニアと地球の近世の戦術は等号で結ぶことができない。

「対地陣形のまま推移か。攻撃準備!」

 何より大きな違いは、航空戦力の有無だ。地球では、二十世紀に入るまで空を飛んで攻撃するという概念は存在しえない。精々小高い丘や切り立った崖を利用した戦術や、メリットとデメリットの差が激しいが、山上に陣するということが考えられる。
 その点ハルケギニアでは昔から大型の猛禽類にとどまらず、ヒポグリフやグリフォン、マンティコアに代表される幻獣類から、竜を利用したメイジ戦力、さらに風石を利用したフネが存在する。単純な話、フネから石を落としたとして、下にいる人間に命中すれば甲冑を装備していたとしても重傷を負い、下手をすれば死んでしまう。地球の物理法則を無視するメイジという存在がある以上、土メイジ一人をフネに乗せれば陸上戦力にとって大きな脅威となりうるのだ。
 他にも竜に限らず空を飛ぶことのできる大型の幻獣は、それ単体で平民メイジ問わず損傷を与えることができる。それにメイジが騎乗すれば遠距離からの一方的な攻撃まで可能になる。
 人と人との戦争に限定してしまえば、強大な航空戦力は単純な兵数差を覆してしまう。そしてアルビオンは竜騎士隊や各種のフネに代表される航空戦力を保有している。それが国土が限定されているにもかかわらず、アルビオンが強国として知られている理由である。

「長弓騎兵隊作戦行動開始!」

 空軍は結果としてアルビオン王国の武力の大半を担うこととなる。結果、平民貴族に変わる軍内部限定の階級という概念が広く知られるようになり、ことアルビオン軍に限って言えば平民貴族の境界線があいまいなものとなっていた。その空気は陸軍にも伝播していき、平民のみで構成された部隊が出来上がるのにさして時間は必要とされなかった。
 長射程を誇る長弓部隊も古くに設立され、徐々に規模を拡大しながらアルビオン陸軍において一大勢力を築き上げる。訓練を受けたメイジ部隊よりも、その機動力を活かして戦場を縦横無尽に駆け巡る長弓騎兵隊の方が活躍した戦場も数多い。騎馬は魔法に慣らされた馬のみにとどまらず、落下時のことを考慮して通常メイジしか扱わないヒポグリフをも部隊に取り入れ、アルビオン王国竜騎士隊と並んでアルビオンの象徴にまで至っている。

「胸甲騎兵隊、出るぞ」

 本陣を含む巨大な鶴翼の両端から駆けだした長弓騎兵隊とは別に、もう一つの小さな鶴翼も動きを見せていた。ゲルマニアの胸甲騎兵隊である。メイジに似つかわしくないキュイラス(頭を含め前半身を強力に保護する鎧)を身に着け、長大なランスを右手に、大きな丸型盾を左手に陣形を整えながら歩みを整えている。ハルケギニア六千年の歴史はありとあらゆる武器を杖とする技術を獲得するまでに至っている。無論、彼らが装備しているランスも突撃用杖槍という正式名称を持っていた。砲亀兵によって敵方のゴーレムを打倒した後、A字型の中央横列のメイジに防御を担わせながら杖槍にブレイドを纏わせ突撃する、圧力と突進力の凄まじいゲルマニア陸軍の得意とするスタイルだ。彼らは陣形を整え、ゆっくりと歩幅を揃えて突撃の時を待っている。

「士気は上々のようだな」
「“共感”を使った甲斐がありましたわ」

 士気を効果的に上げるため、先ほどの開戦宣言ではアンリエッタはトリステイン王家の秘伝水スペルの一つ、“共感”をウェールズにかけていた。かけられた者の言葉に共感しやすくなる、ただそれだけの水のトライアングルスペルである。しかし、使うべきところで使えばこの上なく効果的なスペルだった。
 単眼鏡ごしに兵たちの熱気が伝わってくるようだ。

「弓、引けぃ!」

 隊長の指揮に従い、教団と正面から対峙しながら馬上で長大な弓をきりきりと引く一団があった。黒い群れとの距離はおおよそ百メイル、精強で知られたアルビオン長弓騎兵隊にとって全く問題のない距離である。

「放て!!」

 この攻撃をもって、レコン・キスタとナイアルラトホテップ教団との戦がはじまった。
 放物線を描いた百の鏃が日光に煌めきながら敵を貫かんと殺到し、教団を率いるフェルトンの風魔法がその攻撃を薙ぎ払った。二手にわかれた騎兵隊は巧みに馬を操りながら教団の横手を走りつつ、水平射撃でもって連続的に攻撃を加えた。
 時に長柄武器を振り回しながら、時に数少ない大型盾を持った者が防ぎながら教団はまっすぐに東進する。
 長弓騎兵隊が教団の横を駆け抜け、後方で合流した直後にアルビオン小型快速艇とトリステインのヒポグリフ隊、マンティコア隊が空中攻撃を教団に仕掛けはじめた。一見こちらの攻撃に相手は防御しかできていないように見えるが、真相は少し異なる。

「……やはり、か」

 モード大公が敗れた理由は、教団が神出鬼没で進行速度、規模がまったく予想できなかったのと、今ウェールズが目にしている光景が関係している。

「通用していないな」

 染まり切った教団には、いかなる原理か攻撃が通じない。今も空中からの魔法攻撃を、ハエでもはらうように各々の不揃いな武器を振り回して応戦しているが、倒れ伏した黒ローブは一枚もない。その有り得ない光景を、ウェールズは冷静に分析している。
 才人はやることもなく、ここでじっと精神を研ぎ澄ませていた。
 リーヴスラシルの狂気緩和効果を存分に活用するため、布陣は才人のいる本陣を基準点として行われている。彼が移動してしまうと、若干の誤差が出るのでとにかく今は動かないことが仕事だった。
 ルイズとティファニアもすべきことなんて一つもない。いざというとき“爆発”を唱えるだけで、今は動く必要がない。
 天幕も張らず太陽の下にある本陣には矢継ぎ早に報告が舞い込んできているが、いずれも位置取りの変化ばかりで、被害を受けただとか、討ち取ったという話は全く聞こえてこない。長弓隊が後方から打ち込んだ矢が、陽光をきらきらと反射し教団に降り注いだが、フェルトンが唱えたと思わしき風魔法に吹き散らされた。

「トライアングル……ですな」

 実験小隊から魔法学院に移ったジャン・コルベールは様々な戦場を渡り歩き、多種多様なバケモノを討伐し、今はたくさんの生徒を指導する身である。メイジの技は人一倍見てきたこともあって、行使された魔法がなんなのか、どのくらいの力量のメイジが使ったかは大体見当がつく。彼の持つ知識によれば使われたのは“ウィンド・シールド”、ドットから使える汎用性の高いスペルであり、『風』の系統を足し合わせるにつれ、大きな風の盾を生み出すことができる。最初にフェルトンが使ったのは目測で半径十メイルほど、おおよそ三つの『風』で発言する規模だ。付け加えれば、開戦宣言での“拡声”の規模もトライアングルクラスであった。

「この短期間にラインからトライアングルに成長したのか、それともなにかカラクリがあるか……」

 ジョン・フェルトンは平凡な男だ。得意とする系統はアルビオン人らしく『風』、大体の貴族がそうするようにロンディニウムの魔法学院に進み、卒業後は空軍に籍を置いた。一つだけ人と違ったのは、トリステインにわざわざ婿入りに行ったことぐらい。あとはほとんどのメイジがそうであるようにラインクラスのメイジであった。
 一般的にメイジのクラスは二十歳までに完成するとされている。フェルトンは四十近くで、その年齢でクラスが上がったというのはほとんど報告例がなかった。
 なんらかの魔法補助具を使っているか、それともクラスが上がる機会があったということになるが……コルベールの呟きに応じたオスマンにもこの場では判断しえなかった。
 学究の徒が議論を交わしている間にも戦況は推移していく。黒衣の一団は手にした長柄武器を振りかざしながら、しかし隊列を乱すことなく本陣めがけてまっすぐに侵攻していく。才人が見ている先でゲルマニアの胸甲騎兵隊が突撃していき、紙を裂くようにやすやすと教団を蹂躙していった。だが、彼らが通り過ぎた後、何事もなかったかのように起き上がり、再び歩みを進めていく。
 幾度矢が黒衣を貫こうと、空中から投下された炸薬が直撃しようと、杖槍に纏ったブレイドが引き裂こうと教団は五百の人員を減らすことなく、じりじりと本陣を、ラ・ロシェールを、その後背にあるトリスタニアを目指している。攻撃は時間稼ぎになっているものの、太陽が傾きはじめる頃には本陣に到る可能性が高い。

「皇太子殿下、このままではらちがあきやせん。いっちょ小隊が一当てしてきましょうか?」

 以前から邪神に連なる者を排除する任務に就いていたメンヌヴィルはウェールズに進言した。

「それはダメだ。戦場ときみたちの任務は環境が違いすぎる」

 リッシュモン子飼いの実験小隊を送り込めばなにか情報が得られるかもしれない。ただ、戦場は普段彼らが活躍する市街地戦や森林での遮蔽物を活かした戦闘や、情報収集の勝手がまったく違う。下手を打てば邪神に連なる者との戦闘経験をもつメイジを一気に失いかねない。ウェールズも当然、メンヌヴィルの言葉を否定した。

「ですが、このままだとよろしくありませんわね」

 ぽつりと、アンリエッタは遠くの一団を見ながら呟いた。
 こちら側に被害が出ていないとはいえ、不気味な集団が相手だ。高揚していた兵が徐々に冷めていくのが肌で感じられる。いつそれが恐怖に転化するか、本陣の人間にはわからない。
 戦端が開かれてからじきに一時間が立つ、だというのに損害報告はなく、また打撃を与えたという報告も入ってこない。通常の戦場とはまったく異質であり、なんと表現していいかこの場にいる者たちにはわからない。アルビオンの亡きバリー老がいたのなら「この世ならざる戦場」とでも評したかもしれない。

「ガリアから借り受けてきたミドガルズオルム隊を出してみては?」
「ミドガルズオルム隊の攻撃手段はさほど多くないらしい。もっと違う手段に頼るべきだ」
「ビーフィーターも攻撃手段という観点からすれば却下になりますね……」

 発言の少ない作戦参謀の提案も、一般的な相手なら採択したかもしれない。
 だが、今問題となっているのはこちらの攻撃が通らないということだ。ガリアの北花壇騎士団所属のミドガルズオルム隊の精強さはウェールズもジョゼフ王から聴いている。ただし、攻撃手段は物理的なものがほとんどだという話なので今ここに投入するべきではないと、ウェールズは考えた。アルビオンの王都、ロンディニウムを守護する隊として知られるビーフィーターも同様の理由で却下だ。
 考え悩むウェールズの視線はある一点で止まる。

「オールド・オスマン」

 総大将、ウェールズ・テューダーは一つの決断を下した。

「あなたの魔法を見せていただけませんか?」

 トリステインが誇るハルケギニア最高のメイジ、『五大』のオスマンを投入することだ。椅子に腰を下ろして、呑気に白ひげをしごいていた齢百を超える老人は、ほほ笑んで言った。

「喜んで。プリンス・オブ・ウェールズ」

 ウェールズの決断を受けて、本陣では情報伝達の鳩とメイジが飛び交っていた。“伝声”は混線がひどいため指令所では滅多に使われない。アルビオン、ゲルマニアの両騎兵隊は後方に下げられ、トリステインの遠距離攻撃を得意とするメイジ部隊が前方に出る。さらに反撃がないのをいいことに教団の真上を陣取っていた空中艦隊も南北に展開した。
 その間も足止めのために矢と、精神力を消耗しにくいドットスペルが空を覆い隠さんばかりに放たれ、五メイルくらいのゴーレムが行き交う黒衣を踏み散らし、教団はその進行速度を大きく落としていた。 
 もうしばらくで部隊の配置が終わろうかという頃、かくしゃくとした動きでオスマンが立ち上がった。

「さて、皆様方。この老いぼれの話にちと付き合っていただけませんかの」
「最高のメイジと名高い『五大』のオスマンの話なら、喜んで」

 オスマンは伝令の行きかう場からほんの少しだけ離れたところで足を止め、彼の背より少し短い杖を正面の大地に突き立てる。ところどころ節くれだっているが、オスマンとともに歩んできた歴史があるのか独特の風合いを持った杖であった。
 コツ、コツと一定のリズムを保ちながらオスマンは杖を突く。集中するためにある動作をとる、というのはよく知られた手法ではあり、杖を一定の間隔で打ち鳴らすというのも書を紐解けば載っていることが多い。ただ、詠唱のときにまでそのようなことをするメイジは数少ない。そのようなことをせずとも魔法を唱えることはできるからだ。

「ときに、ウェールズ殿下。北部ゲルマニアに行ったことはおありで?」
「ありませんね。一度だけ、ウィンドボナに」

 そのまま、オスマンは会話を続ける。その所作は何気なく、とても集中を高めているように見えない。

「わしがそれを見たのは、三十年ほど前じゃ。メンヌヴィルくんやコルベールくんは覚えているかもしれんが、寒さの厳しい冬じゃった」

 その時代を思い浮かべているのか、より深く心中に没するためか、オスマンは瞳を閉じる。

「当時ゲルマニア北部にある都市、オースロにわしは滞在していての。高級宿ではあったがあちこちから沁み込む冷気がつらかった」

 本陣自体は相変わらず伝令の怒号が飛び交っていたが、オスマンが支配するこの場は奇妙な静寂が訪れていた。

「本来は新魔法の創造を行うため色々見聞を広めなければならなかったのじゃが、あまりに寒く、吹雪も激しくて宿からでることすらできんかった」

 コツ、コツと一定の間隔で刻まれる杖の音とオスマンの低く、心地よい声に包まれながら、一同は戦場であることを忘れつつあった。

「やることもなし、ブランディを舐めながら暖炉の火を眺めていたわしに、店主は変わったものをもってきてくれた」

 才人も老人の珍しくも懐かしい感じのする話にすっかり心を捕らわれつつあった。まるでこのお話自体が魔法であるような、不思議な感覚に彼は揺られていた。

「皿の上に乗せられていたのは一見何の変哲もない、小さな四角い氷じゃった。店主はそれにくべられていた小枝を近づけての、普通に考えれば氷はとけるもんじゃろ?」

 オスマンの問いかけには誰も答えない。ただただ場の空気は老人の話の先を望んでいた。

「違ったんじゃよ。氷はじっくりと融けながら、燃えはじめたんじゃよ。小さいながらも確実に炎を宿しておった。周辺地域でとれる『燃える氷』と言ったらしい」

 誰もが目を閉じてその情景を想像している。想像させられている。老人の声がそうした方がいいと、彼らの心を動かしていた。

「それを見てわしは決めた。これを魔法で再現してやろうと」

 それがはじまり。『五大』のオスマンと呼ばれる五つの偉業の一つ、四番目の魔法。

「それから十年ほどじっくりと試行錯誤しての、当初考えていたものとはだいぶ違うカタチになったが、まあこれも始祖の思し召しじゃろうて」

 一際強く杖が打ち鳴らされた。

「名をつけるなら“フレイム・スノー”とでもすべきか。ま、わし以外誰も使えんし、普段は“焔雪”と呼んでおる」

 その音で目を開けた一同はオスマンに注目する。当の老人は魔法学院でいつもそうであるように、茶目っ気たっぷりにウィンクしてみせた。
 そして、もう一度目を閉じて今度こそ、ゆっくりと謳うように詠唱をはじめた。

「イス・アース・デル……」

 オスマンの周囲、直径にして約三メイルの地面がほのかに光りはじめる。“錬金”を行ったときと似た輝きではあったが、一同はもっと違う何かを感じ取ることができた。光は地面にとどまらず、陽光の下にあってすらわかる、どこか神々しさを感じる輝きをもってホタルのようにふわふわと中空を舞っている。

「ラグーズ・ウォータル・イス……」

 続くルーンで大地に変化が現れた。白い結晶質の物体が伸び出て、赤子の手ほどの大きさになると折れ落ち、下からせりあがるものに押し上げられ静かに堆積していく。雪が空から降って積もるものであるなら、オスマンの足元から生まれ出る物体はなんと呼べばいいのだろうか。

「イル・ウィンデ・ハガラース……」

 杖を中心に風がゆるやかな螺旋を巻き上げ、純白の結晶を空へ解き放っていく。一切の激しさもなく、ただしんしんと空に降り注ぐその光景はとても美しく、本陣から見下ろすことのできる黒衣の集団とはまた違った意味でこの世ならざる情景であった。結晶は空高く、フネのある高度にまで舞い上がり、重さを感じさせない動きで再び地に還ろうとちらつきつつあった。
 レコン・キスタの面々は真夏の雪ともいえる光景に束の間戦場を忘れ、誰もが天空を見上げた。結晶はやがて地面に落ち、融けることもなくその場に残る。ある兵士がそれを手に取ってみても、雪のような外観と冷たさを感じながらも水になることはない。神聖でありながら不可思議な物体だと、あるものは感じた。
 そして、最後のルーンが唱えられる。

「ウル・カーノ・マンナズ・ウンジュー」

 降り注ぐ結晶にぽつぽつと焔が宿りはじめた。その動きは炎に変わろうとも変わらず、風に揺られながらタルブの大地に降り積もる。地面に落ちた焔は燃え上がることなく、優しい光を放ちながらしばらく残り、跡形もなく消え去った。
 レコン・キスタ兵の肩や装備に乗ったものも同様に光を灯したが、周囲に火が移ることはなくその兵は熱を感じることすらなかった。騎兵が扱っていた馬やグリフォンなどの獣も、訓練されているとはいえ普通火を恐れる。だというのにこの結晶には怯えを見せず、燃え上がったとしても全く気に掛ける様子を見せなかった。
 大半の結晶は燃え上がることもなく、タルブ平原に降り積もっていく。土の露出した地面や草木も関係なしに、その白で平原を染め上げていく。

「アニエスくんのおかげで威力はいつもより高いじゃろうな。さてさて、どうなるかの」

 ただ一点、この神聖な光景にふさわしくない、そして周囲の穏やかさをかき消してしまうような集団がタルブ平原に存在した。
 ナイアルラトホテップ教団である。
 彼らは降りしきる結晶を目にも止めず、粛々と東進を続けていた。風魔法で薙ぎ払い、あるいは長柄武器を振り回して風を起こし、大地を踏みしめ本陣を、その背後に暮らす人々を狙って歩みを進める。
 だが降り続け、大地を埋めようとしている結晶すべてを避けることなど不可能だ。とうとうある者のローブに結晶が触れた。
 瞬間、その者に触れた結晶は烈しく燃え上がり、黒衣を大きな火柱の中に呑みこんでしまった。教団はこのときはじめてこの戦場で素早い動きをとった、燃える者から大きく距離をあけたのだ。それから動くこともなく、手を貸すこともなく火の様子を観察している。
 轟々と音を立て火は燃え続け、中にいる者は身じろぎ一つとれず地面に倒れ伏す。戦場のすべてが固唾をのんで注視する中、焔はその身体を黒衣もろとも、この世に最初から存在しなかったかのように消し去った。あとには灰すら残らなかった。

「やった!」

 どっと戦場の各所から歓声が沸きあがる。戦がはじまってようやく一人を倒すことができた、小さく、されど大きな戦果であった。
 雪はなおも降り続ける。密度こそ小さいものの、戦場を埋め尽くすのはもはや時間の問題であった。

「流石です。オールド・オスマン」

 ウェールズの言葉にオスマンはにっこり笑って返した。彼の周囲からまだまだ結晶が伸び落ち、空に舞い上がっている。
 オスマンの創造したスクウェアスペルの一つ“焔雪”。結晶の基となる物質を生み出し、氷とともに成長させ、風で空に舞い上げ、焔と化す。一つの魔法で四つの段階を踏む不可思議な魔法、ハルケギニア六千年の歴史にあってはじめて『土』『水』『風』『火』の系統を足し合わせた他に類を見ない系統魔法であった。その特性は虚無の“爆発”に類似したところがあり、攻撃対象を術者の任意で切り替えることができる。また多大な精神力を必要とするものの、持続時間は非常に長く、天候に左右されるが効果範囲も数リーグではすまない。オスマンがハルケギニア最高のメイジと謳われる理由の一つ、虚無に最も近付いた男の造り上げた最高位のスペル、二番目に虚無に近い魔法。
 雪はなおも舞い上がり、降り積もる。
 ここにきて教団は明確な反応を、意思を見せた。遠目からもわかるほど統率を失いはじめ、東進もままならないほどの混迷の極みにある。ひたすらに雪を避けようとして逆に倒れて焔に包まれる者も出はじめていた。

「ここが勝負どころだ! 一人残らず殲滅せよ!!」

 ウェールズの指令を待つまでもなく、功に逸った部隊が突出をはじめていた。元からろくな反撃もできない相手で、今は混乱状態にあり、この戦争の最終目標は敵を一人残らず倒すことだ。攻撃を仕掛けない理由はどこにも見当たらない。
 ブレイドを唱えて斬り込んでいく部隊もあれば、風魔法を唱えて降り積もった雪を誘導して効果的な援護をしていく部隊もあった。混戦を嫌ってゴーレムは下げられ、“フレイム・ボール”はじめ殺傷力の高いスペルは封じられている。
 教団は兵の斬り込みや風スペルに翻弄され、組織だった反撃をできずにいる。フェルトンと二人の司教がかろうじて統率を取り戻そうと声を張り上げてはいるが、それに応じることのできる教団員はいない。
 もはや戦の趨勢すうせいは雪が降りやむのを待たずとも見えていた。

「敵指揮官のジョン・フェルトンは生かして捕らえよとの旨を再度通達なさい。これは最優先命令であり、破ったものには罰を与えます」

 場の勢いを読んで捕獲も不可能ではないと判断し、アンリエッタは改めて指令を下した。戦場の各所、特に猛攻を仕掛けている最前線めがけて伝令役のメイジは飛び出していった。

「姫さま、彼は……」
「当初の予定通り、捕らえて斬首刑に処します」

 ジョン・フェルトンを生け捕りにして公開処刑にかけるのはアンリエッタのみならず、各国首脳陣すべての一致した考えであった。教団の影は深く、暗い。この場に現れた五百名がすべてであるとは限らないのだ。その燻りだしのため、フェルトンを利用しつくす。処刑の日程や収監場所を広く知らしめてネズミ捕りのエサにし、メンヌヴィルたちを配置して一人残らず殲滅する策だった。
 ひとつ、またひとつと黒いローブが燃え上がっていく。戦場の一角は野火のように激しい火炎が上がり、遠くに布陣している者はその光景をただただ見つめていた。

「これで次の段階に移行できる、か」

 レコン・キスタの方針は大きくわけて三つ。
 その一、ナイアルラトホテップ教団の殲滅。その二、邪神の巫女であるメアリー・スーの撃破。その三、壊滅状態にあるアルビオン市街の復興。
 これで第一段階は終わる。大事をとって百対一という圧倒的な戦力差をもってことにあたった。オスマンがいなければその戦力差すら覆されたかもしれない、溜めに溜めてきた“虚無”を解放する事態になっていたかもしれない。でも、それらは杞憂に終わった。
 集められた兵の大半は働くことなく帰ることができる。それでいいと、ウェールズは思う。戦争で無駄な命を落とす必要はない。無事是名馬という言葉もあるし、なによりアルビオン王国軍にはアルビオン市街の復興に力を振るってもらわねばならないのだ。
 あれほど苦戦していたのがウソのように燃え尽きていく教団、残るは目測で半数ほどか。この消耗の少なさなら終戦の訓示を行い、隊を組んでラ・ロシェール近郊に帰還、次の軍行動を早めに起こすことができると、ウェールズが次の段階に思いを馳せはじめた。
 才人も初の戦場が終わりつつあるのにほっとしていたし、ルイズとティファニアも指が白くなるほど握っていた杖から手を離すことができるほど緊張が解けていた。

「まだです」

 弛緩した空気に活を入れるかの如く、厳しい声でコルベールが言った。

「『そろそろ終わる』『もう大丈夫だ』。そう思った瞬間ヤツらは這い寄ってきます」
「俺が隊長に目をやられたときもそのタイミングでしたね」
「今はきみが隊長でしょう」

 コルベールの話をメンヌヴィルが自身の顔を指さしながらつないだ。
 邪神に連なる者を討伐してきた二人の言葉は重く、緊張を解いていた一同は気を張り直した。ウェールズもアンリエッタも、アディールで修練を積んだアニエスでさえも程度の大小はあれど気をぬいていたのだ。本陣の空気は兵にも伝わる。再度緊張感を取り戻した首脳陣に、伝令たちはより急いで各所の情報を伝達するようつとめた。
 残るはおおよそ二百。何事もなければこのまま終わる。
 焔の中戦うメイジを多数の将兵が見守る中、雪は密度を減らしながらも降り続ける。流石のオスマン老も色濃く疲労が顔に浮きはじめていたが、弱音を一つも漏らさず集中を続ける。
 残るはおおよそ百。
 “焔雪”は雪が止んでも翌日の朝日を浴びるまでは大地に残り続ける。オスマンが中断するか考えはじめたとき、変化があった。

「……なに?」

 地を照らしていたはずの日光が薄れている。コルベールは思わず空を見上げた。

「……バカな」

 日が陰っている。この現象を彼は知っている。知っているからこそありえないと、杖を落としそうになるほど愕然とした。

「今日この時日食が起きるなど、ありえない!」

 ハルケギニアの天文学は近世の地球と比してそん色ない、それどころか一部は凌駕しているほど発展している。日食という現象は高精度での予測が可能であり、それによれば少なくとも今年は日食が起きないはずであった。
 陰りはじめた陽光の下、一陣の強い風が吹き荒れた。空気には色などつかないはずだというのに、それは黒い風だったと後にどの将兵も口にした。
 そして、才人の眼には偶然、あるいは必然か、あるものが留まった。
 本陣の後方、石造りの建築物が建ち並ぶ場所に佇んでいる。かぶる者などほとんどいない羽根つき帽子。灰色の口髭と髪の毛、レイピアに近い形状の杖剣。
 その人物を、平賀才人は知っている。
 マントを翻し、その男は東の方に駆けて行った。
 才人は、追わずにはいられなかった。気づけば足が動き、眼にもとまらぬ速度で駆けだしていた。

「ヒラガ殿!」
「サイト!」

 呼び止める声はいくつも聞こえた。それでも止まらない。この目でもう一度確認するまで止まるわけにはいかない。
 人影はどんどん後方に走っていき、周囲に木々が残る開けた場所で立ち止まった。
 訓練の成果でさほど荒くなっていない息を整えてから才人は声を発しようとした。
 人影が振り返ったのはその瞬間。

「久しぶりだな」
「ぁ……」

 涼やかに、出会った時と変わらない様子で男は喋る。

「子爵さん……」

 あの夜優しい笑みを投げかけてくれた男が、ジャン・ジャック・フランシス・ド・ワルドがそこに立っていた。






[29710] おやすみ、ヒーロー
Name: 義雄◆285086aa ID:b6606328
Date: 2012/03/06 05:45
「大至急サイト殿を追いなさい!」

 才人が走って出て行った本陣ではアンリエッタが指示を下していた。
 今の平賀才人は虚無の使い魔、ガンダールヴで、かつリーヴスラシルだ。公的な身分こそ未だ与えられていないが、ハルケギニアの決戦兵器である事実に変わりはない。そのような立場にある人間が無断で本陣を出ていくなど言語道断であるとアンリエッタは憤りを隠せないでいた。
 その主人のルイズとティファニアもいきなり駆け出して行った才人の行動に困惑を隠せないでいた。ちらと見えたその横顔には幾分かの平静さが残っており、なにか理由があるような気がしたものの、本人がなにも言わず飛び出してしまったのでわからない。
 魔法の持続に努めるオスマン以外の四人、アニエスとコルベールとメンヌヴィル、そしてウェールズは明らかに変化した戦場の空気をかぎ取っていた。
 アニエスは祝福の子としての特性で雰囲気の変化を知り、アンリエッタの傍らで周囲に目を配った。コルベールとメンヌヴィルは職業柄体験してきた場の空気を察知し、オスマンと『虚無』二人の防御についた。ウェールズはニューカッスルの夜を思い浮かべ、矢継ぎ早に号令を下した。

「本陣方円防御! 各部隊に索敵防御を指示!!」

 出された指示に、本陣の兵は驚き戸惑いを見せた。それらの動きをウェールズは一喝し、本陣周りの防御を固めつつ伝令を各所へ送り出した。

――なにか、変わった。

 乾いた唇を舌で湿らせながら、素早く思索する。日が陰ってから空気が一変した、それを感覚的にとらえることのできた者はどれほどいるのか。
 思い過ごしならいいがと、ウェールズは次に打つべき手を考え続ける。

「ウェールズさま、サイト殿を追わなくては!」
「待つんだ、アン。この戦場は、さっきまでとはもう違う。それはわかるかい?」
「……なにをおっしゃっているのですか?」

 アンリエッタは強く成長した、それでも経験が足りない。

「近衛を一部隊使って捜索に出してはどうでしょう?」

 提案したコルベールの顔には強い緊張が見られる。彼も、アンリエッタとは違う意味で急がなくてはならないと感じているようであった。

「そのようにしよう、急がなくては」

 なにかよくないことが起きる。
 言葉は口に出さずとも皆に伝わり、その思念が結実したかのように戦場の急変を告げる伝令が飛び込んできた。

「報告! 南部クルデンホルフ軍にて所属不明部隊十名と交戦開始!!」
「伝令! 西部トリステイン所属ド・ポワチエ軍が正体不明の敵と交戦しているとのこと!」

 そして現れるのは伝令だけではなかった。

「お久しゅうございます、殿下」
「……何故、何故お前がここにいるのだ」
「聡明な殿下であればもう答えは自身の中にあるかと」

 コルベールとメンヌヴィルが杖を突きつけながら背後に他の者を庇った。
 大地に積もる結晶を巻き上げる風を纏い、音もなく現れた二人の男はぬらりと小さな物影から生まれ出たようにしか見えなかった。その二人はウェールズはその人物を幼少期から知っていた。よく、知っていた。

「邪神は……死の安息すら穢すというのか!」

 ニューカッスル最後の男たち、ロバート・ハートとバリー老が間近に佇んでいた。
 戦場の各地に出現したのはアルビオンの亡霊、あの夜ウェールズが最期を看取った者たちであった。





―――おやすみ、ヒーロー―――






 才人とワルドは三メイルの間合いをあけて対峙していた。手を伸ばせば届きそうで、足を返せばずっと届かない、そんな距離が二人の間に横たわっている。
 この付近にもオスマンの“焔雪”は降っており、二人の足跡を残す程度には積もっていた。

「子爵さん、無事脱出できたんですね。あのグリフォンも戻って来てたし、でもすぐトリスタニアに来てれば」

 矢継ぎ早に、久々に父が早く帰ってきた子どものように才人は質問を浴びせかける。心はぐちゃぐちゃでまとまらず、とにかく考え付いたことを必死に口にしている状況だった。
 それに対する返答は至ってシンプルな動作と言葉ひとつ。

「ガンダールヴ」

 トンと、ワルドは左の拳で自身の左胸を、心臓を叩いてみせる。
 わかっているのだろうという、無言の問いかけであった。

「……わかってた。ああわかってたさ!」

 邪神と誤魔化そうとしていた自身に対する抑えきれない憤怒が才人の口から迸った。左手が、心臓が、なによりワルド自身の託したロケットが教えてくれる。
 目の前に立つ男は敵であると。その身に流れる血は冷たいものであると。この大地を穢す邪神に連なる者であると。才人を諭すように、鈍痛と震えをもって教え示してくれていた。

「相棒、辛いのはわかるが」
「わかってるって言ってんだろ!!」

 叫びながら背中のデルフリンガーを抜き放った。曇りない刀身とは逆に才人の心は荒れ狂い、逃げ場を求めて激情が体内を駆け巡っている。
 ガンダールヴは心の震えを力とする。そういった意味では今の才人のコンディションは絶好のものだ。一振りすれば百の兵士を薙ぎ払い、その跳躍は雲突く高さにまで達するかもしれない。
 だが、このような精神状態で冷静な判断ができるか。万全の力を発揮できるかと問われれば否と返すしかない。
 ワルドもその様子を見抜いているのか、油断なく杖剣を構え今にも飛び出しそうな気配を漂わせている。その瞳にそれまで見えていた理知の光は消え、茫洋たる昏さのみが秘められており、もはや才人が知るワルドではないと強く突きつけられたようで、一際強く心臓が痛みを訴えた。
 鈍痛に負けぬよう、デルフリンガーをしっかり握りしめ、正眼に構えをとった。浅く速くなってしまう呼吸を無理やりに落ち着け、腹の底、丹田に力を込める。

「気を引き締めよ。理性は失われ死体が穢されようと技までは失っておらぬようだ」

――やらなきゃ、やられる。

 デルフリンガーの声を聴き流し、それだけを考え、まっすぐにワルドを見据える。いかなる手段をもってかオスマンの“焔雪”を回避し、相手はゆらゆらと重さを感じさせぬ不可思議な動きで前後左右に揺れ動き、才人に間合いをつかませないようにしているようで、知性の輝きはなくとも戦うことができるということをうかがわせた。
 じりと足先を動かし、重心をずらし、相手のつかみにくい挙動に対応する。鍛錬の時は軽々と動いた、躊躇ない跳躍もできた。だというのに、今この場では満足に動くことすらできない。体全体が緊張に満ち満ちて相手の虚を誘う動きにすら十全に対応できていない。

――動け!

 腹に力を込めて、それだけを念じる。相変わらず脚は自分のものじゃないみたいにじりじりとしか動かなかった。
 動く気配を見せない才人に焦れたのか、ワルドが音も立てず殺到した。

「くそっ!」

 振るわれる杖剣にはためらいがなく、また独特の軌跡を描いて回避、防御ともに難しい。才人はかろうじてその動きに合わせてデルフリンガーを振るい、切っ先が体に届く前に跳ね返すことができた。
 このままでは押し切られると踏んで勢いよく後方に跳躍し、距離を引き離した。ワルドはその動きに追随することはなく、ゆらゆらと身体を揺らしながらゆっくりと歩み寄ってくる。
 足は、動く。ただそれは攻撃のための動作ではなく回避を目的とした、負けないため、守るための動きであった。才人は踏み込むことができない、強烈な忌避感が襲っていた。
 ルーンが目の前の敵を倒せと、邪神を打ち滅ぼせとざわめている。だけどそれ以上に、自身の心は悲痛な叫び声をあげている。

「訓練を思い出せ!」
「んなこと言っても……!」

 心は千々に乱れ、構える剣先は震え、踏み込むことすらできない。
 技術の問題ではなく、才人の精神面から来る問題であった。

「子爵さんはッ!」
「防御だ相棒!!」

 その先は声にならなかった。
 ワルドの唱えた“ウィンド・ブレイク”が直撃して才人を吹っ飛ばしたからである。『風』系統の魔法の受け方は『烈風』式調練のおかげで慣れたもので、乱立する木々に直撃することなく上手く着地することができた。だが体勢を立て直す間もなく後方からの風槌が打ち付けられ、デルフリンガーを思わず手放してしまいそうになった。
 ガンダールヴの力は武器を持った状態でしか発揮されない。逆に言えば、武器を奪ってさえしまえば大した脅威でなくなるのだ。その特性を知ったカリーヌはとにかく武器を手放さないことを徹底させた。小さなナイフなどを常に携帯させ、神剣を握る時は意識を失っても手放さないよう、徹底的に痛めつけ体に刻み込んだ。デルフリンガーさえ握っていれば、使用者の身体を操れるので命の危機から脱することができる。才人が死なないよう、カリーヌは心を鬼にして鍛え上げた。
 調練の日々は確かに才人の中に息づいている。けれどそれが芽吹き、大きく成長することは、今はできない。ワルドに心を捕らわれすぎている才人にはできない。
 目視の困難な『風』を神剣で吸収し、杖剣の攻撃を跳ね返し、しかし反撃に出ることができないでいる。

「今だ斬りこめ! 反撃せねば相棒が死ぬことになるぞ!!」

 防戦一方の才人にデルフリンガーは幾度となく叱咤した。ワルドの攻撃は間断なく続けられ、わずかな隙しか見つけられない。それでも反撃の機会は何度も訪れているのだ。
 いつもは説教くさい神剣に軽口を返す才人だったが、今回ばかりは何も言わずにひたすらに致死の一撃を避け、受け続ける。その姿は罰を受ける子どものようにも見えた。

「残念だが子爵はすでに死人となっている。とどめを刺してやるのもまた騎士のつとめ。それに相棒はここで斃れてはならぬ、この星を護る使命を帯びているのだぞ!」

 大きく間合いを開け、ワルドがゆったりと近づいてくるのを前に、デルフリンガーは言った。その言葉にニューカッスルの夜がよみがえる。

―――この星を頼む―――

 目の前でゆらゆらと揺れる英雄は、最期にそう言った。他の誰でもない、才人に向かって託したのだ。

「わかってる……」

 つぅと、頬を伝う熱いものがあった。
 才人は神剣を下段に構え、勢いよく駆けだした。脚は動く。鍛えた通り動いている。敵を倒すために動いている。
 ガンダールヴの脚力で大地をしっかりと踏み抜き、雷光の素早さをもって、敵を打ち倒さんと奔りぬける。すれ違いざまに放った摺り上げる一撃は、生々しい手ごたえが残していた。
 振り返ると、ワルドの左腕がなかった。そのことで才人にショックはなかった。なにより悲しかったのは、そのような重傷を負いながらも腕を庇うような、痛みを感じさせるような動きを一切とらなかったことだ。
 何事もなかったように落ちた左腕を拾い、傷口に当てる。それから腕を一振り、問題なく動くようだ。色のない顔を才人に向け、静かに杖剣を掲げる。

――嗚呼。

 それを見て才人はどうしようもなく理解してしまった。目の前にいるのは気高い子爵じゃない、邪神に利用された一つの死体でしかないと。
 ワルドはゆっくりと、先ほどと変わらない様子で近づいてくる。あれほど手痛い反撃を受けたというのにゆらゆらと、くらげのように歩み寄ってくる。

「後ろだ!」

 身体は無意識に反応した。一歩踏み出し、重心を移し、振り向きつつ横薙ぎの一閃を放った。体重の十分乗り切っていない斬撃は、才人の背後に迫っていたワルドを吹き散らすように薙ぎ払い、手元に奇妙な感触を残していった。
 『風』のスクウェアスペル“偏在”による奇襲、カリーヌの教えで散々叩き込まれたこともあって、よく知っている。
 神剣の言葉がなければおそらく斬られていたと考えながらコマのように回転する。ワルドはもう目前に殺到していた。

「ッ!」

 咄嗟に上半身だけを後ろに倒れ込ませる。回避は間一髪間に合い、銀蛇の突きが才人の頬を浅く傷つけるのみですんだ。
 ワルドは深追いすることなく一度大きく距離を取り、杖剣に残った血を舐めとった。フィクションの小悪党がよくするような動作は、ワルドのような伊達男がやるとサマになる。しかし瞳に理知の輝きが灯されていない今は、狂人の行いにしか見えなかった。

「……先の再生能力を見るに、無力化は不可能だ。首を刎ねるのが最適だろう」

 緊張で呼吸が浅くなっている才人に、追い討ちをかけるようにデルフリンガーが言う。

――子爵さん……。

 才人の心の中にワルドとの思い出とも呼べない記憶がぽつりぽつりと浮かび上がった。
 最初はルイズと二人だけグリフォンに乗っていけすかないヤツだと思った。
 ラ・ロシェールでぼこぼこにされてその気持ちはさらに強くなった。
 ニューカッスル城で迷子になっていたら雷を浴びせられた。
 メアリーとの戦いでもうダメかと思ったときに助けてくれた、肩を並べて戦った。
 そして―――。

「おォッ!!」

 気合の声とともに才人は二度目の打ち込みを仕掛けた。
 剣戟の音が高く林に響き渡る。それまでと違って終始攻める才人の動きに、ワルドは防御にのみ専念している。二十合近く打ち合った後、ワルドが意外な動きを見せた。

「……後退した?」

 ここではじめて、ワルドは明確に距離をとるという意思を見せた。先ほどまでの揺れ動きとは何か違うと、才人は神剣を強く握りしめる。
 じっと睨んでいると、相手の口元がかすかに動いた。続いて陽炎が立つように出現した三体のワルド、“偏在”。扇型に位置取りしながらじりじりと才人に迫り寄る。

「相手の動きに気を取られすぎて時間を与えてしまったか、まずいぞ相棒」

 “偏在”で現れる分身は単純な戦力比で考えることができない。なぜなら相手は同一人物、思考や動き方も同じものになるのは必然であり、普通の集団よりも遥かに上手く連携がとれる。そもそも、増えるのは『風』のスクウェアを扱うメイジだ。ドットスペルなんかでは息切れしないし、断続的に『風』を浴びせ続けられるだけでも充分な脅威となる。そのことはカリーヌとの鍛錬で嫌になるほど叩き込まれてきた。

「いざというときは某が借りる。いいな?」
「いや、大丈夫」
「……うぬぼれるにはまだ早いぞ」
「違う」

 左端のワルドが“エア・ニードル”を杖剣に纏わせ、跳びかかった。
 杖剣はその形状からレイピアと同じく突き技が主体となる。だが“ブレイド”や“エア・ニードル”を行使しているときは刃のある剣と同様の扱いも可能で、斬り技も数は限られるものの存在する。ワルドは突きと斬りとを上手く組み立て、メイジらしからぬ剣技の冴えを見せた。
 対する才人はそれまでとは打って変わった落ち着きの中、どっしりと構え突き進んでくるワルドを迎えうった。時折挟まれる『風』魔法をも意に介さず、デルフリンガーの己が手足のように操り、一瞬の隙を見逃さずその首を跳ね飛ばした。“偏在”は残り二つ。

「どういう心境の変化だ。責めることではないが今の斬撃は一切の躊躇がなかったぞ」
「違うんだ」

 二人の会話を遮るように、今度は三人のワルドが疾風のように殺到した。
 『閃光』の二つ名をもつ強力なメイジの三連撃ともなると、防ぐことができる人物が片手で数えることができる。そして、才人はそのうちの一人になろうとしていた。
 “ライトニング・クラウド”は正眼に構えた神剣で防ぎ切り、白く染まった世界の中神速の突きを放った“偏在”は杖剣を巻き上げ、そのまま胴を薙ぐ。さらに遠方から『風』を断続的に撃ってくる“偏在”には腰のホルスターから抜いたP226の銃弾が喰らいつき、風に返した。
 最後に残された本体は、ふわりと自重を打ち消したような動きで才人の懐に潜りこんだ。さして速くなかったがその独特な動きに対応しきれず、才人は拳銃を投げ捨てながらデルフリンガーで応戦した。そのまま長剣の距離をとらせず、ワルドは触れんばかりの近距離で杖剣のナックルガードと蹴りを巧みに使い分けながら息つく暇を与えない。
 顔や体を容赦なく打たれている才人は、実のところそれほどダメージを受けてはいなかった。元来平賀才人の打たれ強さは異常なまでに高い。さらに速いが重くはない拳撃も徐々に目が慣れはじめ、反撃こそできないものの、短時間でかわせるようになっていた。
 左手はデルフリンガーを握っていて自由にならない。けれど右手と脚は空いている。
 回避と防御に専念していた才人は、ワルドの動きにあわせてカウンターを狙おうと決めた。魔法から剣術、果ては格闘術まで修めている『閃光』は稚拙な素人の動きを読んでいるのか、さらに手数を増やして反撃の糸口を与えない。

「クロスファイトに付き合うな、距離をとれ相棒!」

 デルフリンガーのまっとうな指摘も今は雑音にしか聞こえない。
 ただ相手の動きを見て、受け、いなして必殺の一撃を狙う。それだけに意識を研ぎ澄ませる。
 チャンスは来た。雪を舞い上げ大地を薙ぐ足払いの後、ほんの一瞬の隙間。何も考えず、ただ全力で右こぶしを顔面めがけて打ち出した。
 ガンダールヴのルーンは膂力にも恩恵をもたらす。振りぬかれた拳はワルドの頬を捕らえ、三メイルも吹っ飛ばし背後の痩せた樹に叩きつけた。
 叩きつけられたことなどなんでもないように、ワルドは再び動き出す。“ブレイド”を唱え身体は半身、杖剣をまっすぐ才人に突きつける。伝統的かつ最も合理的な構えであった。
 それを見て決着の時だと才人は悟る。構えは正眼、デルフリンガーはことここに至って口出しは無粋と判断して沈黙を保っている。

「いきます」

 誰に聴かせるでもなく、ただ呟いた。
 疾走し、大きく伸びあがった高速の降り下ろし、今できる最高の一撃。
 ワルドは、間一髪で避けた。傍目にはほとんどわからない程度、重心を横にずらし、才人の渾身の一撃を避けきった。髪がはらはらと宙を舞い、それでも身体には傷一つ受けていない。
 滑るように動いて才人の背後を位置取り、閃光の速さを秘めた突きを放つ。
 間に合わないと悟りつつ、才人も振り向きざまに突きを放った。届くはずは、なかった。

「それで……いい……」

 神剣は心臓を貫き、杖剣は頬をかすめた。本来ならありえなかった結末、ワルドに、正気が戻っていなければ。

「子爵さん、やっぱりあなたは」

 ワルドは、リーヴスラシルの血液を舐めた。それが彼の残された自我を喚起し、最期には才人の命を救った。
 才人はそれをガンダールヴでもリーヴスラシルでもない、自分の感覚で悟っていた。“偏在”の攻撃も、超接近格闘戦も、途中から鍛錬を課すカリーヌに似た空気を放っていたのだ。
 神剣は仮初の命を喰らい、ワルドの身体は力を失いつつあった。ずるりとデルフリンガーから抜け落ち、仰向けに倒れこんだ。
 血一つ刀身に残らなかったデルフリンガーが何か言い出す前に、強引に鞘に納める。膝をついて、最期の言葉を聞き逃さないよう顔を近づけた。

「強く、なったな」
「子爵さんが命を救ってくれたから」
「……名を、教えてくれないか」
「サイト、サイト・ヒラガです」
「サイトか……変わった名だ」

 ワルドの顔には全てが変わったあの夜と同じ微笑みがあった。 

「この……星を…………」

 最期の言葉も、ニューカッスルの夜と同じもの。少年に後を託し、語られぬ英雄が始祖の座へと旅立った。
 タルブの森に少年の悲しみに満ちた咆哮が響き渡った。



***



「安心して眠りな」

 心底そう願うような優しいメンヌヴィルの声とともに、白い“火球”がロバート・ハートの亡きがらを包み込んだ。
 二人の死者がもたらした被害は、『火』を得意とする三名の活躍で最小限に抑えられた。他の教団の輩とどのような違いがあるのか、『火』の系統魔法で葬り去ることができたのも大きい。

「全軍に『火』が有効であることを通達せよ! 損害報告急げ!」

 本陣機能が一時停止した事実は、ただでさえ正体不明の者たちに奇襲をかけられた全軍に動揺を与えていた。
 特にアルビオン軍の被害は大きい。知った顔が、ニューカッスルやモード大公領で逝ったはずの者がこちらを襲ってくるのだ、尋常の人間からすれば悪夢でしかない。
 さらに、教団に対して絶大な効果を発揮したオスマンの“焔雪”が効かなかったことも大きい。何も知らないトリステインやゲルマニア、クルデンホルフの兵はただの人間だと踏んでかかって、その驚異的再生力から討ち取られた者も少なくないようだ。
 戦場を染めようとしていた雪はすでに止み、空には蝕まれた奇妙な太陽、死者が跋扈する戦場は、こちらの正気を疑わねばならぬほどであり、事実幾人かのアルビオン将兵はこれが現実味を帯びた夢であると錯覚してかつての友を抱きしめようとし、命を奪われた。

「急ぎ部隊をとりまとめ教団への攻撃も再開せよ! 艦隊に被害は!?」
「現状被害は受けておりません。しかし距離をとっているので攻撃は精度の問題から難しいかと」
「長弓騎兵隊をもっと後方にさげておけ! 彼らの攻撃は一切通用せん」
「今こそ竜騎士隊を出すべきです。数こそ減らしたものの彼らのブレスで死者を一掃すれば立て直しも速くなります」
「一般兵を巻き込んでしまう! 今必要なのは早急な部隊編成です。土メイジによる“土壁”とゴーレムで牽制しつつ一度後退、その後竜騎士隊の出撃が最良かと」
「いかがなさいますか、殿下!」

 参謀と将軍の意見、指令が飛び交い、ウェールズは三秒ほど考える。こうしている間にも戦場の各所で命が奪われているだろう。各々が判断を下しているだろうが、大局を決めるべき決断はウェールズにゆだねられている。
 単眼鏡を教団に向け、そこで見た光景が彼の方針を決定した。

「全体規律を保ちつつ一段階東進せよ。艦隊はラ・ロシェール方面に対地展開、索敵につとめさせる」

 ジョン・フェルトンが風を纏い黒衣の集団を相手取っていたのだ。彼は完全にこちら側だとウェールズは信じた。常道からは間違っていようとも、ここはすでに普通という言葉が通用しない戦場だ。

「ガリアのミドガルズオルム隊に出撃要請、教団に向かいフェルトン以外を攻撃。トリステインの魔法衛士隊とクルデンホルフの空中装甲騎士団、アルビオンの竜騎士隊をもって各所に出没したアルビオンの亡霊を焼き払え!」

 ウェールズの決定を受けて慌ただしく伝令が駆けていく。あとは現場指揮官たちが上手くやることだろう。そしてもう一つ、彼は指示を出さねばならないことがある。

「コルベール殿、メンヌヴィル殿。ビーフィーターとともにサイト殿を追ってくれ」
「御意に。小隊も出しましょう」
「承りました」

 バリーとロバート、そして本陣を包囲していた死者が猛威を振るったのは時間にして三十分もない。
 しかし、日常ならなんてことはない三十分という長さはこと戦場において生死を分ける。

「殿下、わたしも参ります!」
「ルイズ、あなたが行く必要は、いえ、行ってはなりません」

 ルイズの言葉にアンリエッタはぴしゃりと言った。

「いえ、行かねばなりません。サイトは、わたしの使い魔です」
「その理屈で言うとテファも行かないといけないな……」

 ふむ、とウェールズは口元に手をあてた。威厳が必要な歳ではないので髭は伸ばしていないが、この戦が終われば揃える必要がありそうだ。

「許可しよう。ただし五人以上のビーフィーターと行動を共にすること」
「ウェールズさま!?」
「ありがとうございます」

 あっさりと許可を出したウェールズにアンリエッタは食って掛かる。

「『虚無』をもっとも防御の硬い本陣の外に出そうとは、何をお考えですか!」
「ヒラガ殿の傍の方が安全だ。それに、彼に打倒できぬバケモノでも“爆発”なら対処できる。友人であり、『虚無』であるラ・ヴァリエール嬢を心配するきみの気持ちはよくわかるが、これがベストだ」
「アンリエッタ殿下、私も随行しましょう」
「相手は『火』に弱いのだからダングルテール殿の祝福の力が惜しい。それに本陣も手薄になる」
「彼女の祝福は比較的広域に恩恵をもたらします。本陣防御にはわたしが残りましょう」

 その言葉をウェールズは取り合わなかった。指揮官にあるまじきことであったが、ウェールズは彼の直感から来る決断を信じていた。
 断固たる態度を見てか、アニエスがルイズの護衛をかって出た。アニエスの特殊な力を知っているウェールズは渋ったが、コルベールが残ることで決着した。

「小官が護衛を任されたウエイトです。ダングルテール殿、ラ・ヴァリエール殿。索敵を行いながら進むので時間がかかることを承知ください」
「わかったわ」

 ビーフィーターは王都ロンディニウムの守護を任された、ライン以上が最低条件となるものたちで構成された親衛隊だ。何の軌跡かメアリーはロンディニウムを直接通らなかったため陥落せず、大半は今も治安維持などの任についている。この場にいるビーフィーターはその中から選び抜かれたものであり、魔法と体術のバランスのとれたものたちだった。
 金髪碧眼で立派な体格のウエイトもどこか歴戦の兵を思わせる空気を放っており、しかし増長することのない軍人らしいきびきびとした態度でルイズたちにあいさつをした。
 捜索に動員されたビーフィーターは五十人、それに実験小隊が加わり七十人、最後のルイズたち三人で七十三名の捜索隊となった。
 各々十人前後の分隊編成を即座に行い、一斉に本陣後方へと歩みを進めた。
 石造りの倉庫などが建ち並ぶ区画は迅速に、そこから先の林にさしかかると進行速度は遅くなった。

――こんなにゆっくりで大丈夫かしら。

 焦る気持ちを抑えてルイズは安全を確保しながら進むビーフィーターに続く。アニエスは一言も喋ることなく彼らの後方を警戒している。
 底知れぬ悲痛を思わせる慟哭が聞こえたのはそのときだった。
 ルイズ以外の者にも当然その叫びは聞こえていて、顔を見合わせて警戒をおろそかにすることなく、しかしそれまで以上に速度をあげて声のした方角へと向かった。
 一番はじめに才人の下に着いたのはルイズたち七人、すべてが終わったあとだった。
 雪を踏む音に振り返った才人は、泣いていた。

「ルイズ……俺、俺っ……!」

 才人は、ガンダールヴとして異星から呼ばれ、アルビオンの英雄として祭り上げられ、神の心臓を宿した少年は、ただの男の子でしかなかった。
 膝をついて、くしゃくしゃに顔を歪めて、あふれる涙を抑えきれないでいる。こぼれた涙はワルドの穏やかな死に顔を濡らし、彼が少年に共感して涙しているかのような表情を造り上げていた。
 この光景を見て何があったか、察することは容易であった。本陣に急襲したロバート・ハートたちと同じく、才人はワルドと戦ったのだ。あの夜、ルイズの知らないところで共闘し、命の恩人である男をその手にかけなばならなかったのだ。
 瞬間、ルイズははじめて気が付いた。自分が目の前の少年を、ガンダールヴという伝説を通して見ていたことを。同い年の少年ではなく、おとぎ話に現れる勇者のような、そんな存在であると少なからず錯覚していた。そしてルイズの心にふわりと浮き上がったその事実は、取り返しもつかないほどの重圧を少年に与えていたのかもしれない。

「サイト……」

 ぼろぼろと涙をこぼす才人に駆け寄って、そうすることしかできない自分に愕然とした。傷心の少年を前にしてどうすればいいのか、彼女の少ない人生経験では咄嗟に思い当たる行為がない。
 ふと、才人を召喚して、ギーシュとの決闘で三日間眠りっぱなしだったときのことを思いだした。どうしようもなく辛いのは彼のはずだったのに、優しく抱きしめ髪を撫でてくれたあの夜、その温もりを思い出した。
 膝をついた才人に近づき、その顔をそっと胸に抱きしめる。温もりのせいか、それとも他に心を刺激することがあったのか才人は嗚咽をこらえようともせず、いっそう強く、激しくむせび泣いた。

「子爵、さん、笑ってた……俺が、俺が殺したのに!」
「だいじょうぶ、だいじょうぶだから」

 彼女がかつてそうされたように、才人の頭を優しく撫でる。ハルケギニアには珍しい黒髪はごわごわと硬く、ピンクブロンドで柔らかな髪の自分とは全然違う。けれど、人間だ。ルイズと同じ、ちっぽけな人間だ。平賀才人は英雄なんかじゃない。
 魔法学院の制服が遠目からでもわかるほど涙で濡れ、それでも才人は泣き続ける。
 込められた感情は海よりも深い悲しみ、そして弱かったあのころの彼自身への怒り。積もった激情を吐露するように、涙は尽き果てない。

「なん、でっ! なんでだよぉ!!」
「サイトはわるくない。だいじょうぶ」

 幼子をあやすように、ルイズは背中を叩きながら才人の髪に指を通す。
 不意に、ごぼりと水音が聞こえた。続けて感じるのは涙よりももっと熱い液体。
 ルイズが視線を落とすと、才人は赤黒い血を吐いていた。

「…………え?」

 理解できない。今こうして目にしている光景がうまく処理されない。

「なに、これ」

 そろそろと顔を上げると、少女が佇んでいた。
 闇色の巫女が、感情をにおわせない表情で、佇んでいた。

「うそ、やだ……こんなの」

 巫女の足元から伸びる暗黒の鞭が才人の左胸を貫いている。ならば当然、肺腑に満ちた血液は気管を逆流して吐き出されるだろう。
 緊急事態を告げる笛の音が、アニエスたちの叫び声が何故か遠く聞こえる。

「イヤ……やだ……いやぁぁああああああ!!!」

 天空では太陽が蝕まれ、薄明りが世界を染める中、少女の悲痛な叫びが木々にこだました。



***



 時間は多少前後する。オスマンの“焔雪”が戦場を支配し、戦況は完全にレコン・キスタ側に傾いていた。残る団員の数は五十も残っておらず、しかも結晶が触れれば燃え尽きるとあって教団は忘れていた恐怖心にとりつかれ、組織だった反撃を行えないでいた。
 そんな情勢で日食が起きた。亡者の軍団に襲われたレコン・キスタ軍は教団に攻撃を仕掛けるどころではなく、後退を余儀なくされていた。ナイアルラトホテップ教団にとって最後のチャンスが到来した。しかし、その機会を叩き潰す者がいた。

「イル・ウィンデ!」

 白くくたびれたメイジ、ジョン・フェルトンである。“ストーム”でオスマンの“焔雪”を舞い上げ、これまでは触れないよう防いできていたのを今度は黒衣に降り注がせるように『風』魔法を操っていた。

「乱心されたかフェルトン殿!」
「乱心? 我が心ははじめから始祖ブリミルとともにある!」

 彼の背後には教団の司教であり、執事でもあるバザンが二刀流のレイピアで押し寄せる団員の足止めを行っている。
 アルビオン訛りの強い黒い肌の持ち主、ボニファス司教の糾弾に力強い声で答え、今フェルトンは最期の戦いに出ていた。
 彼は今後どうあろうと死を免れない。その死をもって娘であるメアリーのロシュフォール家に対する罪を免じ、妻であるミレディーの助命がかなったのだから。このまま教団の長として過ごそうと、そのことに変わりはない。
 だが、彼はどこまでもブリミル教の信徒だった。得体のしれぬ輩との交流も、精神が削り摩耗されそうな夜も、始祖ブリミルに祈ることで正気を保つことができたのだ。その恩恵にささやかでも報いるため、この戦場を死に場所と定め、邪神に連なる者を一人でも多く討ち果たす所存であった。すでに精神力はかなり消耗していて、しかも相手には尋常の攻撃が通じない。彼にできるのは風を操り、ハルケギニアの敵を燃やす一助となることだけだ。

「聖女さまとともにあるのでは!?」
「娘は、メアリーは聖女などではない!」

 叫びながらルーン詠唱は止めない。“エア・ハンマー”また一人の教団員を雪原に叩き込み、燃え上がるのを見届けることなく別の者に攻撃する。
 結晶はフェルトンを攻撃対象と認めていないようで、彼が触れても痛みもなにも感じない。一度も面識のない、手紙を送っただけの間柄であるオスマンに心中で感謝の言葉を述べながらフェルトンはなおも戦い続ける。
 長柄武器の間合いは広いが、魔法と比べれば大したものではない。時折『水』系統のスペルを見舞ってくるボニファスにさえ気を付ければ恐れる必要はなかった。
 フェルトンとレコン・キスタの違い、それは敵を知っていることにある。彼は教団員がガーゴイルやゴーレムに近い性質をもっていることを知っている。だからこそ恐怖に乱され過剰に動くことなく、体力を温存しながら迎え撃つことができるのだ。
 必死に杖を振るうフェルトンに影が差した。

「な……!?」

 見上げれば大きな騎士が跳んでいる。フルプレートメイルを着込んだ高さ十メイルほどの騎士人形が、大地が震えるほどの轟音をあげてすぐそばに着地した。
 五回の地響きを立てて土砂を上げながら現れたのは五体の騎士人形。

『ジョン・フェルトン! 我らミドガルズオルム隊が援護する!!』

 ガリア王国東薔薇騎士団所属、鋼鉄の巨人部隊、ミドガルズオルム隊が現れた。
 一つだけ異なる兜を身に着けた隊長機と思われる巨人がぎしぎしと音を立てながら巨大なメイスを振り上げ、大地に打ち付けた。
 ナイアルラトホテップ教団の者は、攻撃が通じないことが問題になる。彼ら自身が保有するのはただの長柄武器にすぎない。突如現れた騎士人形に対抗する術など持ちようがなかった。

 ミドガルズオルム。エルフと共同研究を行っている魔法大国ガリアの生み出した究極の兵器である。
 その起源はヨルムンガントと呼ばれる巨大騎士人形にある。
 エルフの“反射”を装甲に備えどんな攻撃をも無効化し、高さ二十五メイルという巨体に相応しい巨大な武器を振り回す。さらに風石で自身を軽量化しているため俊敏な動作を可能としている。ガーゴイルの機能性とゴーレムの強大さを併せ持つ先住と系統魔法のハイブリッドの究極系、それがヨルムンガントだ。
 しかし、無敵の存在というわけではなく、欠点も存在した。使われる素材から一体造り上げるのに莫大なお金を使う必要があったし、運用には風石も湯水のように使わねばならない。最大の欠点は、『虚無』の使い魔ミョズニトニルンでないと操作できないことだ。
 約千年前に誕生したヨルムンガントの欠点を克服するため、研究機関は必死の努力を重ねた。莫大な金が素材に必要となるなら、可能な限り小型化してしまえばいい。風石の使用量を減らすため軽量化すればいい。メイジが使うため、ありとあらゆる魔改造をほどこしてしまえばいい。
 そうして完成した鋼の騎士人形の大きさは十メイル、防御力はヨルムンガントに劣るものの、“反射”は健在であるし、なにより動きが素早い。肝心の一般メイジが使えないという欠点は、これ自体を無理やり杖とすることで克服した。
 術者を装甲内に取り込み、文字通り一体化して戦う騎士人形。それがミドガルズオルムだ。
 隙間なく着込まれた甲冑と“反射”のおかげでどんなゴーレムよりも防御力が高く、さらに魔法も封じ込めている。防衛戦に、侵攻戦に、攻城戦に、ありとあらゆる戦場に対応可能な騎士人形は、この地獄じみた戦場でも力を発揮した。
 アリのようにたかる教団をかるくはらい、オスマンの“焔雪”に叩きつける。舞い上げて打ち付ける。教団側の攻撃が一切通じないため、どれほど不気味であろうと意に介さず、冷静な対処をミドガルズオルム隊は行っていた。

『ハッハァ! 楽な仕事だなこりゃ!!』
「凄まじいな……」

 その圧倒的な力にフェルトンはしばし言葉を失ったが、片づけねばならないことを思いだし、杖を構えた。

『一昨日着やがれオラァ!!』
「ぐはっ!?」

 その視線の先でボニファスがふっとばされていた。彼は雪を舞い上げながら地面に激突し、その身体を聖なる炎に焼かれ、やがて動かなくなった。
 本当に凄まじいと思いながら、フェルトンは振り返る。彼の忠実な僕、バザンが変わらぬ様子でそこにいた。

「どうやら、カタはつくようだな」
「ええ、喜ばしいことです」
「最後にやることがある」

 フェルトンの重々しい言葉に対し、バザンはロシュフォール領で過ごしていた時のような笑みを浮かべていた。

「お前は誰だ」

 ざっと、風が吹き渡った。

「バザンは、言っては何だが普通の男だ。あのような邪悪の巣窟で正気を保てるなど、とてもありえぬ」

 私が言えたことではないかもしれぬが、とフェルトンは言う。

「お前は、何者だ」

 濁っていた碧眼を細め、フェルトンはバザンを、彼の姿をした何者かを睨みつける。
 それに対する返答は、拍手だった。場違いな乾いた音は、ミドガルズオルムの足音に打ち消されながらもしばらく続けられた。

「素晴らしい。如何な手段をもってか正気を保ち、私の正体に気づこうとしていたとは」

 存外、人間もバカにできたものではありませんなと、顔を歪めてバザンは笑う。

「答えろ」
「おっと失礼。ニューカッスルでも無駄話が過ぎて首を斬られてしまったのだった」

 ニューカッスル、アルビオンで二番目に堕ちた城の名が何故出てくるのか、フェルトンにはわからない。

「不思議に思いませんでしたかな? いくら聖女の父と言えどナイアルラトホテップ様の祝福を受けていないものが大司祭と認められるなど」

 ボニファスやほかの教団員は、確かに初対面のときも大人しく従っていた。
 メアリーの父であるという事実がそれほど重いのだと、そのときは納得していたが言われてみればおかしい。

「答えは簡単、みな背後に私の気配を感じ取っていたからあなたを迎え入れたのですよ」
「何者かと聞いている!」

 長年仕えてくれた執事の顔で、執事のものではない笑みを浮かべる。

「ナイアルラトホテップ教団大司祭、オリヴァー・クロムウェルです。加えて言えばあなたの執事、バザン殿とは旧知の仲でした」
「……バカな」

 バザンの口から出た名前はフェルトンも知っている。宣戦布告文にも用いたし、ボニファスはよくその名を口にしていた。

「確かに私の死体はもうありませんが、神の祝福でなんとかなりました。日ごろの信仰心はやはり大切ですな」

 ニューカッスルで焼け死んだはずだと聞いていた、すべての元凶。

「今戦場で踊っている方々も私の演出です。モード領で水の先住が秘められた指輪を手に入れたので少し使ってみました。死んだ友との再会、いいものでしょう?」

 オールド・オスマンの“焔雪”に反応しなかったのは偶然でしたがね、と笑いながら言う。

「貴様が……!」
「おっと怒らないでいただきたい。ま、私の立場はご息女と同じものだとか」

 元が聖職者と思えないほどその態度は軽く、戦場の空気を微塵も感じさせない。すぐそばではミドガルズオルムが猛威を振るっているのに恐怖一つかぎとれない。
 だが、それがなんだというのだ。
 目の前にいる男を生かして返していいのか。今この場でアルビオンの怒りを知らしめず、一体いつ断罪しようというのか。

「クロムウェル、始祖に、アルビオンに変わって貴様を討つ!」
「……死など一つの状態にすぎませぬ」
「貴様がそれを言うか!」

 怒りにまかせてフェルトンは杖剣を振るう。愚直で、これ以上なく見切りやすいほど直線的な突き。
 先ほどまでレイピアを振るっていたことからわかるように、クロムウェルもある程度は剣術を遣える。身体を軽く横にずらして簡単に避けてしまった。

「怒るのはよくないですぞ。剣筋も見切りやすい」
「うるさい!!」

 フェルトンが振り回す杖剣を回避しながら、クロムウェルはやれやれとため息をついた。相手は完全に怒りに囚われ我を見失っている。
 だからブリミル信徒はダメだ。ナイアルラトホテップ様を神と仰ぐべきだと、ゆっくりと説いても問題ないほど回避が容易な攻撃ばかりであった。
 一度トンと離れて、バザンの笑顔で問いかける。

「怒りは醒めましたかな?」
「まだまだ!」

 諦めの悪い人だと苦笑いを浮かべる。
 もう一度避けようとした瞬間、クロムウェルの足が勝手にあがった。自身の意思が介在せぬ動きは、クロムウェルから一切の思考を奪った。
 フェルトンが殺到する。杖剣に“ブレイド”を纏わせ、先ほどとは全く違う研ぎ澄まされた斬撃でもって、長年苦労を掛けた執事の首を、微塵の躊躇もなく跳ね飛ばした。
 疲労のため荒い息をつきながら、フェルトンは“ブレイド”を解き、膝をついた。

「……これが、アルビオンの怒りだ」

 六千年もの間、アルビオンは天空にあり続けた。『アルビオンが落ちる』とはありえないことの代名詞になるほど、アルビオンが落ちるなどありえないというのがハルケギニアの人々の共通認識だ。
 その名を冠する『アルビオン落とし』と、そう呼ばれるいくつかの技法がある。フェルトンがクロムウェルに遣ったのは、通常身体全体を持ち上げてしまう“レビテーション”、それを相手の足一点のみにかけるという、メイジのクラスとは無関係のセンス、そして極度の集中力を要するが対人戦で絶大な威力を誇るものだった。この一瞬にすべてを賭けるため、憤怒に囚われていると見せかけるため、あえて容易に回避できるよう杖剣を振り回していたのだ。
 周りを見ると、ミドガルズオルムがすべて教団員を片づけてしまったようで、見慣れた黒衣の姿はもうない。
 いくつものクレーターが穿たれた平原で、フェルトンは食まれた陽を見上げる。丁度太陽が完全に隠され、美しい光の輪が見えるところだった。

「あとは、断頭台か」

 残る己の使命を思い出し、フェルトンは笑う。自分の命ひとつで最愛の妻が救えるのなら安いものだと、久しぶりに笑い声をあげた。

『フェルトン殿、貴殿の捕獲をもってこの戦は終わる』
「連れて行ってくれ。抵抗はしない」

 ずしんずしんと地響きを立てながら近づいてくるミドガルズオルムの方を見ることなく言う。
 気持ちいいほどの解放感を味わっていた。

「やれやれ、また首か」

 その気持ちに影を差すものがいた。
 首だけになったバザン、今はクロムウェルが、至って普通に声をあげる。これにはミドガルズオルム隊も動揺した。フェルトンは、何故か奇妙な呆れを覚えていた。

「まだ生きているのか」
「ええ、まあ身体はバザン殿のものなので首がついたりはしませんが」
「どういう意味だ」
「寄生虫のようなものです。言ったでしょう? あなたのご息女のようなものだと」
「……その寄生虫を払えばメアリーは元に戻るというのか?」
「いえ、ですからご息女の方です。聖女さまではありません」

 なんとかなるかもしれませんがと、クロムウェルは続ける。当の質問を投げかけたフェルトンには意味がわからなかった。

「まあそんなことより空を見た方がいいですよ」
「なに?」
「降臨される頃ですから」

 その言葉とともに、戦場の空気がまた変わった。クロムウェルの言葉を聴いていたフェルトンとミドガルズオルム隊は思わず空を見上げる。
 タルブ平原の中央、教団が今まで歩いてきたもっとも低い位置に、目を疑うようなものが現れた。
 肌は種々の原色が絡み合った黒とも呼べぬ暗き色、三本のひづめのついた脚を持ち、腰から頭にかけては人体に似ている。奇妙なほど長い腕の先には三本の指、頭部には馬の尻尾を思わせる長い鞭状にしなる触腕が踊っている。
 驚くべきはその大きさ、ミドガルズオルムの倍近くの高さをもっていた。
 先ほどまで存在を毛ほども感知できなかった、大きすぎる不可思議な獣の出現に、騎士人形たちはいっせいに隊列を整えメイスを構えた。
 その動きを気に留めた様子を見せず、獣は顔をぐるりと回し、消滅した。

「メアリー……?」
「おお、聖女さま……」

 獣が消えた空間、その頂点に闇色の少女はいた。
 メアリー・スー・コンスタンス・ド・ロシュフォール、ジョン・フェルトンの娘。だというのに、フェルトンは違った感想を抱いていた。その黒い姿に、伝承にある夜ごと幼子の命を奪っていく『夜の女王』を思い出していた。
 ゆっくりと、雪のようにハルケギニアへ降臨せんと、巫女はその高さを落としていく。
 フェルトンたちは見守ることしかできない。
 少女が水面に足を下ろすように、静かに大地へ降り立った瞬間、世界が悲鳴を上げた。

『地震だと!?』
『大きいぞ全員耐衝撃姿勢!!』

 凄まじい振動がタルブ平原を襲った。
 根付いていた木々は倒れ、大地の揺れる音が将兵の耳にはっきり知覚できるほど響き、各所で地の底まで続くほど大きな地割れが生まれ、石造りの建造物群は軒並み崩れ落ちた。
 彼らが立っていた地面がいかに不安定なものか、それを知らしめるほど大きくうねるような揺れは一分近くも続いた。
 地震がおさまってフェルトンがしっかと周囲を見回したとき、有り得ざる変化が訪れていた。

「……低くなった?」

 先ほどまでとは彼の立つ大地は高さが変わっていた。遠くに見えるラ・ロシェールの山々、それの見え方が明らかに違う。地面が沈んだと氏か思えなかった。
 はっと正気を取り戻し、彼の娘を見ようとした。そのとき、大風でもこうはなるまいと思うほどの強い風がタルブ平原に吹き込んだ。
 東西南北、すべての方角から豪風は吹き荒れ、中央に、巫女の下に収束していく。
 地面とは違い、上空ではまた違った変化が表れていた。

「くっそ、なんて風だ!」

 水夫の一人が毒づくほど現実離れした風が平原の中央からやってきたのだ。風は信じられぬほどの水気を含んでおり、空中艦隊はさながら豪雨の渦中へ放り込まれたようにその身を濡らしていく。風は水のみならず熱気をも孕み、フネの運用上『風』の防御が全体に施されているとはいえ、その護りをも通過して甲板に出ていた水夫たちにやけどを負わせた。
 急ぎ帆を畳んで本陣に“伝声”を送る。この風ではマトモな艦隊運用ができないという報告と、布陣変更の上申であった。しかし、“伝声”に答える声はない。現世と切り離されたかのように、地上への“伝声”は届かなかった。
 本陣では先の死者の襲撃に続き、突発的な大地震で混乱した戦線を立て直すため必死で伝令を飛ばしていた。
 死者は焼かれ、教団は灰に還った。敵がいなくなったと気を緩めた矢先の出来事で、しかも海抜高度が大きく下がり地面に呑まれたものも多く、その救助作業に今度は力を割かねばならなかった。
 そんな中、単眼鏡を覗いて戦場を観察していたビーフィーターの一人が声をあげる。

「中央、ジョン・フェルトンの近くに少女がいます!」

 ありえない報告だった。軍とはその性質上、女性貴族をほとんどいれない。この戦場における例外はアニエスとアンリエッタ、そして『虚無』二人くらいのものだ。
 それが突然戦場の中央に現れるはずもない。
 ウェールズが確認の言葉を発しようとしたとき、強風が吹き荒れた。ラ・ロシェールの山岳地帯を抜けて到来した風は奇妙な熱気を含み、平原の中央へと吸い込まれていく。風は止むことなく、風の強い天空のアルビオンでもありえぬほど長く、強くひたすらに吹いている。
 幸いにも追い風なので目が開けられないということはない。各種書類が飛び交う中、ウェールズは真偽を確かめるため単眼鏡を目にあてた。

「……あれは」

 さっと血の気が引いた。
 ごく小さい像であってもその姿を見間違えようがない。メアリー・スーが、ニューカッスル城を落とした闇の落とし子がそこにいる。
 アルビオンからの報告によれば、彼女は今サウスゴータ近辺にいるはずであった。それも移動は夜だけ、半月以上もそれは変わらなかった。この戦場に現れる可能性は低いと見越していた。ウェールズだけでなく、各将軍や参謀も同様の意見であった。
 楽観的と言うべきか、現実的と言うべきか、常識に即した部下の意見を聴きつつも、なんとなく現れるのではないかという漠然とした予感はウェールズも感じていた。それが的中してほしいと願ったことは一瞬たりともなかったが。
 しかし念には念を入れ、戦力差が大きすぎると苦言を呈されてでも大軍を率いてきた甲斐があった。

「平原中央に巫女が出現した! 各部隊一時救出作業を中断、遠距離から攻撃を仕掛けよ! 艦隊にも中央に急行、対地攻撃を行うよう“伝声”を送れ!」

 恐れおののき、打ちひしがれている暇はない。風音に負けぬよう力強く各方面に指示を下し、本陣に控える者たちを見た。
 ニューカッスルのときとは状況が違う。
 軍を展開しやすい大平原が戦場となるので大規模な攻撃が仕掛けやすい。それにアンリエッタがいる。コルベールがいる。オスマンがいる。なにより、『虚無』を習得した二人がいる。
 教皇の話によれば、歴代の邪神に連なる者はすべて神剣か、『虚無』の魔法によって滅ぼされてきたという。

――場合によってはこの戦場で討ち果たすことも。

 そこまで考えて首を振った。あまりにも無謀だ。四の使い魔、四の使い手があってこそ可能であろうと、そう考えを改めた。

「ヒラガ殿の捜索を急げ!」

 この場にいない才人とルイズが無事に撤退する鍵を握る。二人がいち早く本陣に戻るよう、ウェールズは残るビーフィーターも本陣後方に送った。
 状況に変化がないか、改めて巫女を見やる。

「あれは……水?」

 アンリエッタも同時に見ていたようで、疑問の声をあげる。
 透明な液体がメアリーの頭上に浮かんでいる。巫女との距離は二リーグ近く、それほど離れていてもわかったのは、彼女の後方の景色が大きく歪んでいたからであり、なによりその液体がフネのような巨大さを持っていたからでもあった。

「この現象は……いかん、“逃げ水”じゃ!」
「あの大きさの“逃げ水”ですと!?」

 オスマン老が声を張り上げたのはそのときであった。ウェールズの知識にないその言葉をコルベールは知っているのか、悲鳴に近い声を上げた。

「殿下、全軍にすぐ防御スペルを唱えるよう通達を!」
「どういうことだ」
「急がねば多くの兵が死にますぞ! すべての系統をもって全力で防ぐのです!」

 ウェールズにはこれほどまでに二人が慌てる理由がわからなかった。アンリエッタも、他の参謀も同様に疑問を顔に浮かべている。

「“逃げ水”とは凍れる水、如何な物体であろうと凍りつかせてしまう悪魔のような液体です!」
「詳細がないことには指示を出せない!」
「取り扱いが難しく研究が進んでおらん。わしも手の平ほどしかつくったことがない」
「それほど危険なら『虚無』の“解除”を使うのは?」
「アレは厳密には魔法ではない。おそらく無駄じゃろう。とにかく急いでくだされ!」
「わ、わかった」

 とかく、コルベールとオスマンの剣幕は尋常でない。“拡声”のスペルを唱え、その旨を平原中に知らせようとした。

「全軍緊急防御準備!」

 だが、声は届かない。本陣で小さく響くのみであった。

「バカな、何故」
「信号弾発射します!」
「あ、ああ。頼む」

 ウェールズの“拡声”は発動しなかった。その理由が理解できず、しばし思考を奪われた。参謀が発言しなければ今もそのことを考え続けたかもしれない。
 古くからの慣習で、緊急事態においては本陣に置かれた強力な閃光弾で全軍攻撃、防御、撤退の指示を下すことができる。
 全力防御を意味する信号弾が放たれ、戦場を赤い光で染め上げた。

「“ウィンド・シールド”でもなんでも唱えるのだ! 己の持つ最強の防御スペルを準備せよ!」

 ハルケギニア最高のメイジ、オスマンが声をからして叫ぶ。その必死な様子に、今とてつもない危機が訪れていると鈍いものでも気づくことができた。
 次々と唱えられるスペル、それでもオスマンの顔から緊張の色は消えない。

「一撃で済むか、それが問題じゃ……」

 タルブ中を照らした強烈な赤光は、林の奥にまで届いていた。アニエス、メンヌヴィル、ビーフィーターの小隊長は無論、その意味合いを知っている。

「緊急防御準備……巫女か!」
「“フライ”で本陣の様子を見ろ。『土』は“土壁”を構築、他総員は防御魔法詠唱準備!」
「了解、確認に向かいます」

 林にこだましたルイズの嘆きに、すべての捜索隊員は集結することができた。遅れて到着した彼らが見たのは、黒髪の少年の身体に縋り付いて泣く少女の姿であった。
 胸を抉るような泣き声に兵は心を痛めたが、ここは戦場だ。すぐに傍で警戒していたアニエスとウエイトに事情を聴いた。
 巫女が現れ、才人の心臓を貫き、姿を消したと、目にしたことを告げるしか二人にはできない。何故メアリーが姿を消したのか、それは誰にもわからない。残されたのは脈のない才人と、悲しみに濡れるルイズ、そして動けなかった役立たずだけ。
 その直後に木々を暴風が吹き抜け、赤い光が世界を満たした。七十名ほどの小隊、ビーフィーターは土と石からなる壁を構築しつつ本陣付近の様子を偵察しようとしていた。

「ラ・ヴァリエール嬢、悲しみはわかるが今はこらえてくだされ。アルビオンの英雄は必ず故郷へと」

 その亡骸を帰します、とは言わなかった。

「サイト、サイト……」

 しゃくりあげながら、それでもルイズは立ち上がる。
 ウエイトが降りてきたのはそのときだった。

「平原中央に城のように巨大な液体が浮遊しています!」
「液体?」
「はっ、おそらく水か、それに準ずるものかと」

 ただの水を相手に緊急防御など、ありえる話ではない。もっと違うなにかだとウエイトは確信していた。

「また、フネが帆を畳んでいます。あの動き方は、突発的な豪雨に対処するものかと。遠目にも濡れていることがわかりました」
「ふむ……」

 判断材料が少ない。才人を確保したことだし、急ぎ本陣に戻るかそれともここで防御を固めるか、隊長は決めあぐねていた。

「そりゃ“逃げ水”だな」

 ここでメンヌヴィルが声をあげる。

「“逃げ水”とは?」
「オールド・オスマンが発見したよくわかんねえ液体だ。『風』で限界まで空気を圧縮して、冷やしていくとできるらしい。何かに触れると逃げるように動くとか、突っ込んだものを何でもかんでも凍らせちまうと聞いたが……」

 そのでかさだと相当やべえだろうなと、どこか他人事のようにメンヌヴィルは言う。

「なら、メンヌヴィル殿はここで防御するのが良いと?」
「いや、俺の勘はすぐ本陣に戻るべきだと言ってる。こっちにゃアニエスがいるから“逃げ水”はなんとかなるだろう。いけるな?」
「話に聞く通りのものなら大丈夫でしょう」

 アニエスは問題ないと、力強い頷きを返す。
 ビーフィーターの小隊長は百戦錬磨のメンヌヴィル殿の判断を信じるべきだと考え、詠唱破棄を指示し、ウエイトに才人をかつぐよう言った。

「ラ・ヴァリエール殿、ヒラガ殿を」
「……ええ、わたしは大丈夫」

 気丈に振舞うルイズの姿に心が痛むが、ここでじっとしているわけにもいかない。ウエイトは断りを入れて才人の身体を肩に担ぎあげた。
 死後硬直ははじまっていないようで、ぐんにゃりと身体は曲がり、口内に溜まっていた血が地面を濡らした。

「待て」

 メンヌヴィルの声と同時、才人に触れていたウエイトは気づくことがあった。

「まだ温かい……?」

 それだけではない。急ぎ才人をもう一度地面におろし、首元、心臓に手を当てた。
 彼の突然の行動に、一同は困惑の色を隠せなかった。違うのはメンヌヴィルただ一人、彼はじっと杖を向けている。

「ウエイト、何をしている」
「……脈があります」
「なに?」
「ヒラガ殿は、生きています」
「バカな!?」

 彼が死んでいるのは、ルイズはじめ主だった人物はすべて確認していた。脈はなく、呼吸も消え、瞳孔も開いている。口からは内臓が傷ついた証ともいえる赤い血が溢れ、カッターシャツには貫通した跡があった。これが仮死状態であったというなら納得もできるが、心臓を貫かれて仮死で済む人間はいない。
 ウエイトの言葉に小隊長は目を見張るばかりであったが、ルイズはすぐに動いた。才人に近づきその胸に手をあて、口元に耳を寄せる。
 そこに確かな生命の脈動を感じ、ルイズはさっきまでとは違う涙を流した。

「嬢ちゃん、悪いが離れろ」
「私も同意見だ。ミス・ヴァリエール」

 その歓びに水を差す重く苦々しい声は、トリステインに属する二人から発せられた。

「さっきまで何があったか、忘れたわけじゃねえだろ」

 ついさっきまで、戦場ではアルビオンの亡霊が猛威を振るっていた。それと同じ現象が才人に起きたと、メンヌヴィルは指摘している。
 彼は邪神に連なる者と二十年以上戦っている、いわば対邪神のエキスパートだ。その意見を簡単に否定することはできない。
 それでもルイズは才人を信じたかった。彼がただ単に蘇ったのだと、子どものように甘い幻想に縋り付きたかった。

「心配は無用だ。相棒は邪神になど犯されておらぬ」
「デルフリンガー卿?」
「相棒が強引に押し込んでな、しばし鞘から抜け出せなかった。今は詳しく語る暇などないのだろう? 急ぎ本陣に戻らねばそれこそ取り返しのつかぬことが起きるやもしれぬ」

 救いは思いもよらぬところから来た。
 才人の背中に括りつけられていた鞘からその刃を見せた神剣、デルフリンガーが才人は問題ないと断じたのだ。神剣の言葉と言えど、さっきまで現実に死者が動いていたことから、それを容易く信じられるほどここにいる者たちは甘くない。
 だが、神剣の言葉ももっともだと頷き、ウエイトは才人を今度は背負った。

「ウエイト」
「杖を下ろさぬよう気をつけてください。いざというときは私ごと」

 ウエイトと才人の警戒に人員を割きつつ、一同は本陣へと向かう。足取りは早く、小柄なルイズには少しつらかった。

「……ありがとう」
「ヒラガ殿は殿下の命をお救いしたと聞きます。ならば、彼のために命を賭けるのも道理でしょう」

 ウェールズに取り立てられビーフィーターになったというウエイトは、ルイズの感謝にもはきはきと答えた。
 いつ“逃げ水”がはじけるか、それは誰も知らず、その重圧が部隊全体を覆っていた。残された時間は少ない、

 そしてメアリーの頭上に浮かぶ液体は、勿論ミドガルズオルム隊も視認していた。

『なんだ、あれは』

 『水』系統の初歩には“コンデンセイション”という空気中の水分を凝縮させるものが存在する。
 ミドガルズオルム隊の隊長も最初、この魔法に『水』を足し合わせたものかと考えた。だが、水をこんなところで造りだしても意味はない。もっと違うものだと考え、奇しくもその思考はフェルトンとまったく同一のものであった。
 彼の騎士人形を動かそうとし、いつもと比して遥かに鈍重であることに気づいた。軽々と動いた脚は地に縫い付けられたように、武器を振るう腕は鉛を縛られたように重い。

『隊長、風石の残量がありません!』
『こちらも消失している!』

 隊員の叫びに、風石量が表示される部位を見た隊長は目を大きく見開いた。全力機動で少なくともあと半日は行動できる量を積んでいた風石が根こそぎ消え去っている。
 今まで経験したこともなく、また研究機関からも報告されたことのない現象であった。
 前後に何が起きたのか、隊長は思い起こす。

『地震……まさか風石の力を吸い上げたというのか!?』

 隊長の出した答えが真実なら、それはとてつもなく恐ろしいことだ。
 ハルケギニアの地下には風石の大鉱脈が存在すると、一部の研究者が提唱していた。トリステインのアカデミーに所属している女性学者が、近年それは事実であると突き止め、ガリアの研究機関でも一時話題をさらったことがある。このまま放置すれば千年後には大隆起現象が起きるため、採掘作業を急がねばならないとガリアでも準備が進められていた。
 地下鉱脈までの距離は一リーグない程度、その距離まで力を吸い上げることができるなら、そもそも風石に代表される各系統の石の力を吸収できるなら、それは凄まじい破壊をもたらす可能性が高い。
 隊長はそこまでの思考をいったん破棄し、部下に指示を出した。

『とにかく退避だ! なんかアレはやべぇ気がする!!』
『こいつの甲冑を抜ける魔法なんてほとんどありませんよ?』
「ほとんど、だろうが! 俺も隊長に賛成っす!!』
『俺もヤバいと思いますけど甲冑から抜け出せません! 動きもにぶい!』
『そこらの駆動部にも風石が使われてたか、くそっ!』

 ミドガルズオルムが俊敏な動きを可能とするのは、風石の恩恵に他ならない。その風石が失われてしまえば、動くことができないのは自明の理であった。
 ぎちぎちといやな音を立てながら離脱しようとして、しかし通常のゴーレムよりも鈍重な動きしかとることができない。乗り込む際にはスライドする後背部の保護装甲が動くこともなく、今や最強の騎士人形は鋼の棺桶へと変じていた。
 一歩一歩、ゆっくりと後退している間にもメアリーの頭上にある液体はどんんどんその体積を増していく。すでにミドガルズオルムの十倍以上にはなっており、ただの水ならまだしも、相手は邪神の巫女であるからにはそのような希望的観測を抱くべきではない。無色透明な毒か、それとももっと違うなにかなら全軍に大損害を被る可能性があった。
 本陣からあげられた閃光弾が戦場を赤く照らす中、隊長の眼はある一点のみに留まった。
 ジョン・フェルトンである。
 ぼんやりと突っ立っているだけだった彼は、強く杖剣を握りしめて飛び上がった。

「メアリィィィイイイイイ!!!」

 その叫びには彼の娘に対する怒りが、悲しみが、愛が、すべての感情がきっとこもっていたのだろう。
 それらすべてを断ち切るように、杖剣に“ブレイド”をまとわりつかせ、フェルトンは疾駆する。
 ミドガルズオルム隊が静止の声をあげる中、彼はメアリーに駆け寄り、その胸を貫いた。
 フェルトンの表情は見えない、彼の背中しかミドガルズオルム隊には見えない。けれど、彼は背中で泣いていた。彼の感情を反映したかのように、赤と青の宝石が瞳のようにも見えるマントは一部が破れ、涙をこぼしているようにも見えていた。
 メアリーは胸を貫かれながら、はじめて表情を変える。ごく薄く、笑っているように見えた。
 “逃げ水”が、すべてを終わらせる液体が、タルブの平原に落ちた。





[29710] おわりのはじまり
Name: 義雄◆285086aa ID:b6606328
Date: 2012/03/07 22:36
 齢百を数えトリステイン魔法学院の学院長をも務めるオールド・オスマンは、ハルケギニア最高のメイジとしてもその名が知られている。今でこそ家名を捨て、オールドという敬称のみをもつ彼は、なにも木の股から生まれ出たわけもなく、ごく普通の貴族家庭に生を受けた。
 トリステイン生まれの彼は当然トリステイン魔法学院に進学し、その青春時代を過ごしている。好奇心の強かった若き日のオスマンは、ナンパに学業に精を出した。中でも彼が興味を示したのは『風』魔法の一つ、“エア・ハンマー”である。空気を圧縮し、相手に打ち付けるという『風』系統の基礎であるが、当時学院でまことしやかに流れていたうわさがある。
 曰く、“エア・ハンマー”は女性の胸と同じ柔らかさであると。
 それを信じ切ったオスマンは勿論試した。結果、全治数週間の骨折を追った。噂を鵜呑みにしてはならないという自戒の意味もこめ、彼はその骨折を水の秘薬なしに治した。
 そして、彼は歳をとり、齢五十を超えたころにふと思い出す機会があった。当時を懐かしみながら、格段に向上した魔法の腕をもって“エア・ハンマー”をできる限り圧縮し、打ち出すことなく静止させてみた。すると驚くことに、その“エア・ハンマー”は熱を帯びていた。
 この発見に、オスマンは新たな可能性を見出し、ひたすらに空気の圧縮率をあげる実験を繰り返した。いつか『風』で『火』を起こすことができるのではないかと実験に実験を重ねた。その過程で圧縮された空気を元に戻すと冷えるという現象も発見したが、当初の目論見である『火』の再現はできず、ひたすらに空気を圧縮するだけの日々が続いた。
 ある日、彼は気まぐれに空気を極限まで圧縮してから出来る限り冷やし、それから魔法を解除するという実験を行った。それまでとは違い、圧縮された空気は液体を生み出した。机に触れたその液体は滑るように移動し、やがて消えた。オスマンはこの液体に“逃げ水”という名を付けた、『五大』のオスマン第一の功績である。
 彼が観測した現象は、極端な温度差から一部が爆発的に気化し、生じた窒素ガスの上に乗って滑るように移動するというもの。熱したフライパンに水滴を落としたときと同じ原理、地球で言うライデンフロスト効果。
 大量の空気を圧縮し冷却して生成される“逃げ水”。その温度はマイナス196℃というハルケギニアでは考えられぬほどの極低温であり、ほとんどすべての物質を凍りつかせる悪魔のような液体である。地球での名を、『液体窒素』という。





―――おわりのはじまり―――





 タルブに落ちた直径二百メイルにも及ぶ巨大な液体窒素の塊は、白煙を上げながら爆発的な勢いで広がり、中央付近に展開していた軍のみならず、かなり後方に位置していた諸侯軍や本陣をも飲みこもうとしていた。

「な、なんだこれは!?」

 本陣からの信号弾に従い防御スペルを唱えていた部隊もそうでない部隊も、突如現れ迫りよせる液体に恐怖と困惑を隠せない。“逃げ水”は見た目だけなら水と変わりない。そんなものがいきなり出現して緩やかな坂道を凄まじい勢いで押し寄せるなど、並みの将兵では想像すらできなかった。
 戸惑いにも恐怖にも一切の容赦を見せず、液体窒素は兵たちを飲み込み無慈悲に凍りつかせていく。
 液体窒素の脅威はその極低温だけではない。気化した窒素は液体時のおおよそ二十倍以上にも膨れ上がり、空気を上空へと追い上げてる。その結果地表付近では限りなく無酸素状態に近い空気が形成され、多くの将兵の意識を奪いそのまま永遠の眠りにつかせていく。運よく『土』で直撃を免れたとしても窒息には対処のしようがなく、多くの人間が命を落としていった。
 爆心地近くで生き延びることができたメイジはごく少数、彼らの共通点は“逃げ水”の底知れなさを本能で感じ取り、全力で各系統によるドームを形成したこと。そうでなくとも塹壕や地下壕を飛び込んで密閉し液体窒素の蹂躙を避けた上、空気も奪われなかったことが生死を分けた。

『全員無事か?』
『……クレールに反応がありません』
『ちっ、ドームに入れなかったか』
『ミドガルズオルムの装甲を抜くなんて、ありえねえ』
『今は現状把握が先だ。アイツの亡骸を連れ帰るのはそれからでもできる』
『ったく、土壁が凍っちまってる。ここはいつから真冬になっちまったんだ』

 鋼鉄の騎士人形、ミドガルズオルムを操るガリアの東薔薇騎士団五名も無事だった。彼らの部隊はゴーレムの扱いに長けた優秀な『土』メイジで構成されている。フェルトンが“ブレイド”で斬りかかった直後でもなんとか『土』での防御が間に合ったのだ。いくら“反射”装甲を備えたミドガルズオルムと言えど、真っ向から得体のしれない液体とぶち当たる度胸はない。その慎重さが、一人の犠牲者を出しながらも男たちの命を救った。
 軽口をたたきながら、外の様子を聴覚だけでうかがう。轟々と強い風と土壁になにかがぶつかる音がした。

『目視せんことにははじまらんな。ぶち抜け』
『了解っと』

 ぎちぎちと鈍重なゴーレム以下の動きで腕を引き、土壁を拳で打つ。
 砕けた場所から除く景色は一変していた。

『こりゃ……』
『ありえねえ、今何月だ』

 急激な極低温が大気中の水分を氷結させたようで、降りしきる霰と氷の霧に周囲は包まれている。大地にはオスマンの“焔雪”も残っており、まるで半年後に飛ばされたような気分を隊員は味わっていた。
 そして一点、ただ一点だけ漆黒の闇がある。
 闇は、メアリーは無造作に体を震わせ、もたれかかるようにしていた氷像を砕いた。

『……ジョン・フェルトンの死亡を確認。これ以上用はねえ、とっととケツまくって逃げるぞ』

 彼は最期に何を思ったのだろうか。
 そんな感傷的な考えが隊長の脳裏をよぎったが、すぐに打ち消した。彼らは生きて帰らねばならない、ハルケギニアの未来を繋ぐため情報を持ちかえらねばならない。
 しかし、小さな人間の思いをあざ笑うかのように、悪魔めいた暴風が再びはじまった。

『あの規模のを連発だと!?』
『こいつはどうにもまずいっすね』
『呑気に言ってる場合か!』

 そうしている間にも風は強く、メアリーの頭上に凝縮していく。見る見るうちに“逃げ水”は育っていく。今ここで少女を殺したとしても“逃げ水”は平原に溢れかえり、一度目を防いだ兵たちをも飲み込むだろう。ミドガルズオルムの中にいてはわからない外気温、計器は初夏にありえぬ数値を示している。
 隊長は決断を下した。

『帰ったら研究者どもに伝えとけ後背部には風石使うなって』
『隊長、まさか』
『適宜魔法を使用しつつ全速離脱!』
『……了解、全速離脱します!』

 内部機構のメンテナンスなどのため、また滅多にない緊急事態に備え、甲冑を脱ぐシステムはすでに完成され、ミドガルズオルムに組み込まれている。“反射”をかけられた装甲を失うというのは、ミドガルズオルムの強みである防御力を放棄することであり、それは通常戦場で使われない機能であった。重厚な鋼の鎧を脱いでしまえばあとは風石を含むゴーレムと大差なく、使用メイジの脱出も容易である。また、この装甲排除と合わせてもう一つの機能が組み込まれていた。

「まさか俺が使うことになるなんてな……」

 ぼやきながら装甲を順次パージしていき、見た目には巨大な土のゴーレムにすぎない本体がさらされた。
 メイジが収容される椅子に座りながら、じっと赤いボタンに目を落とす。

「ったく、研究者どもの慧眼に感服すべきか」

 ミドガルズオルムの中、苦笑を浮かべる。一度押してみたいとは確かに思っていた。それがこんな機会になるとは、夢にも思わなかった。
 他の隊員がゆっくりと後退していくのを確認して、ゆっくりと地面を踏みしめながらメアリーに近づく。
 足元にいるのは、見た目はか弱い少女だ。ミドガルズオルムの巨体で殴れば一瞬で死んでしまいそうな、そんな女の子。これが軍を壊滅させるような液体を今も頭上で造っているとは、あまり考えたくない事実だった。
 大きく息を吸った。

「座にまします偉大なる始祖ブリミルよ、敬虔な信徒が今よりあなたの下へ向かいます。どうか祝福を賜りますよう」

 祈りの言葉を口にして、赤いボタンを力いっぱい殴りつけた。
 赤いボタンはとある研究者の開発した特殊なマジックアイテムだった。中に小さな火石を内包し、通常なら解放できないその力を一瞬で放出し、直径百メイルほどの火球になるという物騒極まりないアイテム。説明された時はバカにしたものだ。
 その存在に最期は感謝しながら、ミドガルズオルム隊隊長は劫火に飲み込まれた。
 日食で薄暗く、氷霧が大気を満たしていた平原に紅蓮の薔薇が咲く。命まで燃やし尽くしたようなそれは本陣からも見えていた。

「今の爆発はなんだ!?」
「損害報告はどうした何故誰も“伝声”に答えん!」
「さっきからやっていますが繋がりません! なんらかの魔法で阻害されています!!}
「とにかく『風』で霧を晴らせ!」
「伝令に急ぎ戻るよう伝えろ!」
「先の爆発は平原中央で起きたようです、それ以外は視界が悪くわかりません!」
「風が止んだ……いや、また来たか!」

 液体窒素の直撃を本陣はビーフィーターたちの『風』で巻き返して凌いだものの、各部隊との連絡は完全に破壊され、また不思議なことに使えない“伝声”と“拡声”のスペルがさらに混乱を助長している。霧越しに隊長の最期の一撃は見えたものの、それがなにを意味するのか、情報を入手することができないでいた。
 一度止んだ風は彼らの動きをあざ笑うかのように吹き荒れ、戦場全体を混乱に陥れていく。

「あの規模の攻撃をもう一度喰らえば、いや、もう遅いか……」
「オールド・オスマン! あれを防ぐ手立てはないのですか!?」
「考えられる手立てはいくつかある。“爆発”か火石か、それとも……」
「“爆発”では詠唱時間が足りない。火石も距離が遠すぎる」

 オスマンも“逃げ水”に対して深い知見を持ち合わせてはいない。ただそれでもあの液体の恐ろしさを知る者として、なによりハルケギニアに生きる一員として、できる限り考えた。対抗策は“爆発”か火石か、もしくはオスマンの奥の手しか存在しない。
 しかし、いずれも問題点があった。『虚無』の“爆発”は威力こそ大きいが詠唱に時間がかかりすぎる。火石では二リーグも離れたあの地点に攻撃を仕掛けることができず、また火石の力の解放は難しいので不可能。
 そこにアンリエッタが声をあげる。

「ヘクサゴン・スペルはいかがでしょうか?」
「無茶ですアンリエッタ殿下! 近づかなければならないではありませんか!」

 ヘクサゴン・スペル、王家のみに許された大魔法。
 メイジは系統を四つまでしか足し合わせることができない。そしてスクウェアが二人いればオクタゴン・スペルを可能とするわけでもない。二人のメイジが息を合わせ、魔法を合成させることはまずありえない話であり、力量の伯仲している双子や親子であっても不可能と言われる。しかし六千年もの間その血統を保ち、たゆまぬ研鑽を続けてきた王家にはそれができる。

「それならばあるいは、吹き散らせるかもしれません」
「オールド・オスマン!?」
「……やってみる価値はあるか。氷とはいえ水分も多い。アン、風竜へ!」
「ウェールズ殿下までなにを!?」
「ビーフィーターに護衛編成を急がせろ!」

 オスマンが可能性を示唆したのち、参謀が留める声など聴きもせずウェールズは一人のビーフィーターの乗る風竜にまたがった。アンリエッタもなにも言わず彼についていき、三人は視界のすぐれぬ空へ飛び立った。
 周りには勇敢な皇太子と王女を護るため命の危機をも顧みず、幾人ものビーフィーターが火竜や風竜にまたがって飛翔していく。もはや止めることもかなわず、参謀と将軍たちは祈ることしかできない。
 アンリエッタが詠唱をはじめる。澄んだ声にかぶせるよう、ウェールズもルーンを唱えはじめる。
 風竜は猛烈な速度で平原の中央、さきほどまでメアリーが確認された位置へ、今また“逃げ水”が育っている場所へと翔けていく。
 中央まで残すところ三百メイルというところで竜は首をかえし止まる。これ以上の接近は危険であると騎手が判断したためだ。ウェールズたちの乗る風竜の周りに次々と後続が現れ、彼らを護るよう立体陣を編成した。あれほどの猛威を振るった“逃げ水”を前に、恐怖を隠せる兵は少ない。それでも彼らは逃げ出さない。愛する大地のため、我が子のため、ハルケギニアの未来のため、逃げ出すわけにはいかない。
 兵の祈りが結実し、詠唱は完成する。
 『水』『水』『水』『風』『風』『風』、六つの系統が共鳴し、二人を中心に光が踊る。
 二人の前に現れた小さな水は、徐々に成長しながら渦を形作り、風をも巻き込んで巨大な竜巻を形成する。それが六つ、平原の中央めがけて殺到する。六つの竜巻は六芒星を描くように踊り、やがてそのすべてが結びつき、天突くよう巨大な竜巻に成長した。竜巻は水や氷を巻き込みながら、メアリーのいる場所を抉りその規模を増していく。
 スペルの完成を見届けた一隊は、祈るような気持ちでそれを見守りつつ、踵を返した。
 竜巻はなおも大きくなり、城すら飲み込み砕くような勢いで平原を蹂躙する。まさに始祖の怒りを体現したかのような天災。王家のみが可能とするヘクサゴン・スペルは、その威力を十全に発揮した。
 霧は既に竜巻にのまれ、霜の落ちた平原が食まれた太陽の薄明りを反射していた。
 本陣はこれを機に動きはじめる。

「今のうちに指揮系統を立て直すぞ!」
「“伝声”使えないなら手旗信号でもなんでも使え!」

 一丸となって遮断された通信の回復につとめるべく、伝令として働いていたものでなく、ビーフィーターまでも動員して各部隊の情報を集めはじめた。

「艦隊は被害なしとのことです!」
「不幸中の幸いか、フネに乗せた飛行部隊ありったけ呼びつけろ!」

 そんな中、一つの吉報が舞い込んでくる。

「捜索隊戻りました!」
「戻ったか! 損害は!?」
「部隊に損害はありません! しかしヒラガ殿が負傷されています!」

 才人の捜索にまわしていた人員が戻ってきたのだ。その数七十名、いずれも歴戦の兵であったため、この事態にあっては心強いことこの上ない。
 ただ、ウェールズが気にかかる報告が一つあった。才人が負傷したという話だ。

「アニエス戻りました」
「同じくメンヌヴィル戻りやした」

 そのときアニエスとメンヌヴィルの二人が指揮所に戻ってきた。ルイズがいないことに気づきながら、ウェールズは目で二人に報告を促した。

「“逃げ水”は到達せず部隊損害は一切ありません。しかしサイト・ヒラガが意識不明の重体です」
「なにがあった」
「巫女が現れ、胸を貫かれました。あとは、近くにワルド子爵の亡骸があったので火葬を」
「……そうか。急ぎラ・ヴァリエール嬢をここに連れてきてくれ。場合によってはテファとともに『虚無』を行使してもらう」

 おそらく平原中央に現れる直前、巫女は姿を見せたのだろう。そしてワルドの死体があったということ。
 それらを頭から追い出し、ウェールズは指示を下す。ヘクサゴン・スペルは持続時間が長く、今も中央にてその威容を示しているが、あれが消えたあと、メアリーが生きている可能性は高い。ニューカッスルの経験からそう判断し、とかく『虚無』が必要だと考えた。
 その考えは、通常の戦であれば相手の過大評価をしすぎだと窘められるものであった。しかしメアリーを、邪神に連なる者を相手にしているときは、むしろそれでも楽観的観測に過ぎる。

「……まさか、いや、ありえない」
「報告は正確にせよ!」
「竜巻が、ヘクサゴン・スペルがこちらに向かっています!」

 単眼鏡で戦場中央を見ていた兵が悲鳴を上げた。
 その報告に、単眼鏡を持つ者は急ぎ目をあてた。確認された竜巻は、確かに本陣へ近づいている。

「ありえません。ヘクサゴン・スペルは確かに位置を固定したはず……」
「間違いなく接近しています!」

 さっと顔を青ざめさせたアンリエッタが言う。ウェールズも同じことを考えていた。動くことなどありえないと。
 魔法を唱えた二人がありえぬと否定しても、現実には城をも吹き飛ばせる竜巻がこちらにじりじりと近づいてくる。あの勢いであれば、十分もかからず本陣に直撃するだろう。
 悩んでいるヒマはない。

「テファ、“解除”を」

 ティファニアは若干顔がこわばっていたものの、力強く頷いた。
 メイジの精神力は回復が難しい。『土』メイジが金の“錬金”をしたとする。その精神力回復には一週間から、長いものでは一ヶ月ほどかかる場合もある。消耗の大きい『虚無』ならなおのこと時間がかかる。この場で使いたくはないというのが本音だった。
 それでも、目の前に迫る脅威を払わぬわけにはいかない。本陣を動かして回避するという手もあるが、それは使えない。“逃げ水”の大打撃を受け情報網が復旧していない今、移動する本陣を見て撤退ととる部隊がほとんどだろう。なにがあってもここは耐えきらなければならない。
 ティファニアがタクト状の杖を構えルーンを唱える。その声は心地よく、ここが戦場でなければその調べに揺られていたいと願うほど。

「ミドガルズオルム隊が戻りました!」
「報告を回せ!」
「先に観測された爆発は火石の自爆によるもの。隊長を含む二名が死亡。教団の壊滅とジョン・フェルトンの死を確認。継戦能力を失ったのでラ・ロシェールへ帰還するとのことです」
「……了解、ガリア王国の協力に感謝すると伝えてくれ」

 しかしその調べに酔っているわけにはいかない。こうしている間にも竜巻は刻一刻と近づき、戦況は変化する。

「反対側のラ・ヴァリエール軍とグラモン軍から連絡がきました!」
「よくやった!」
「損害はあるものの継戦は可能とのことです!」
「ド・ポワチエ軍は壊滅的打撃を受けた模様!」
「ゲルマニア軍の一部が逃走中!」

 本陣には様々な報告が舞い込んできていた。普段は大声に囲まれる機会などないティファニアは、その声に心を揺さぶられながら詠唱を続ける。

「……いきます」

 行きかう叫びの中、呪文を完成させたティファニアの声は静かに溶けた。
 派手な光もなく、爆音を鳴らすでもなく、静かに“解除”は作用する。本陣へ近づいていたヘクサゴン・スペルは徐々にその勢いを失い、ゆるやかなつむじ風となって消えた。本陣前方五百メイルの地点に水が瀑布のように落ち、坂道を流れて中央へ向かう。

「やった、竜巻が消えた!」
「巫女の姿を確認しろ!」
「……います。巫女は健在です!」
「立て直しのできた諸侯軍に遠距離から攻撃を仕掛けるよう通達! “逃げ水”は『風』で巻き返せすか『土』で自陣ごと覆えば防げるということとあわせ、けして近づかぬよう厳命せよ!」
「了解!」

 竜巻が完全に溶けて消える寸前、一時的に水を打ったように静まり返っていた本陣はにわかに活気を取り戻した。

「テファ、よくやった」
「感謝しますわ」
「兄さま、アンリエッタ殿下」

 声をかけたウェールズたちに、ティファニアはふにゃっと笑った。その姿は弱々しく見え、本来戦場にいていいほど精神が強くないことがわかる。
 それでも王族として、明日のハルケギニアのため、ウェールズは心を鬼にして従姉妹に命じる。

「“爆発”はいけるか?」
「はい、やります」

 無理だ、とは言わない。この気弱な少女は従兄弟のことをよくわかっている。彼がどれほど心労を重ねているのかも、知っている。その一助となるため、自分もがんばるしかないと心に決めている。

「ラ・ヴァリエール嬢を急ぎここに。二人の『虚無』で巫女に打撃を与える!」

 ウェールズの叫びと同時、再び風が吹き荒れる。今度は今までのどの風よりも強く、吹き止む気配も一切ない。本陣後方に残された木々は地面から引き抜かれ、宙を舞い、平原中央へと収束していく。人間ですら、気を抜けば吹き飛ばされてしまうほどの大風、天空の大地で生まれ育った者ですら体感したことのない、この世の終わりすら感じさせる豪風であった。
 誰しも伏せるしかなく、ウェールズもティファニアとアンリエッタの二人をかばって地に倒れしがみついた。異常の察知が遅れ立ったままでいた者は、マントをはためかせ薄暗い空に吸い込まれていった。追い風であるというのに誰も顔を上げることができない。誰しも始祖に祈ることしかできなかった。
 そして風は唐突に止む。おそるおそる顔を上げた人々が見たものは、絶望の象徴。

「あ……」

 先ほどより巨大な“逃げ水”がメアリーの上にある。光を捻じ曲げるそれは白い煙を放ちながら、それでも透明であった。ウェールズが慌てて単眼鏡をのぞくと、メアリーは宙に浮きながら右手を空に掲げていた。手の平に乗った“逃げ水”の巨塊は音を立てず、ぱんと、軽く弾け飛んだ。

「総員防御ぉぉおおおお!!!」

 ウェールズの声は、悲痛な叫びは本陣にだけ空しく響いた。その指示を受けて、あるいは己で危険を察知して将兵は全速力で防御スペルを詠唱する。
 指揮を下したウェールズ自身も、かばっているアンリエッタとティファニアを護るため生涯で最も速く、“ウィンド・シールド”を完成させる。
 液体窒素の雨が、タルブに降り注いだ。
 さきの“逃げ水”が陸津波ならばこれは雨。畑を湿らせる恵みの雨と同じように大した激しさはなく、けれど間断なくゆっくりと戦場に降りしきる。
 『土』以外での防御を選択したメイジはいつ終わるともしれぬ時雨に恐怖しながら魔法を維持する。集団から離れ、交代での防御ができなかった兵はやがて蔓延する窒素にやられ、倒れていった。
 雨が止んだ後、戦場は再び霧に覆われていた。そろそろと魔法を解き、本陣は再び叫び声に包まれた。

「損害報告を!」
「伝令が行ったばかりで戻ってきていません!」
「この機会を待ってたってのか信じられん!」

 少しでも立て直そうと残る兵を動員してでも戦場の把握に努めようとそれぞれが己の職分を果たそうと奮起する。
 そのあがきをあざ笑うかのように、また風は吹く。

「精神力に底がないのか!?」
「なんってふざけたヤツだ!」
「始祖よ、座にいましすべてを見渡す全能のブリミルよ。我らは常に敬虔な信徒たろうとありました。我が祈りを……」

 先ほどのものよりは遥かにゆるやかではあったが、それでも呟きは消し去るほどの暴風。
 祈りすら混じる本陣では、王族の前だというのに逃亡しようという者もではじめた。しかし、それも強烈な向かい風でかなわない。なにをしようと、無駄でしかない。
 “逃げ水”は成長しながら、今度は薄く長く広がっていく。その速度は凄まじく、『水』の基礎である“コンデンセイション”であるかのごとくかさを増していく。あのまま成長すれば、今度こそ本陣を丸ごと飲み込んでしまうだろう。精神力を使い切ったメイジも多く、次の一撃をしのぐことはできない。
 絶望と混乱の中、ゆっくりと立ち上がる老人がいた。ハルケギニア最高のメイジ、オールド・オスマン。

「やれやれ、こればっかりは二度と使わんと思ったのじゃが……」
「オールド・オスマン?」
「コルベールくん、教師にはしばらく休暇と伝えておいてくれんかの」

 ただ一人、いつものように白髭をしごきながらひょうひょうと、日常であるようにオールド・オスマンは言う。ちょっと散歩に行ってくると、そういわんばかりの気軽さであった。

「あとは若いもんに任せるわい。みなによろしくの」
「まさか、あの魔法を!?」

 コルベールはオスマンの言葉を、言わずともすべて理解してしまった。いつも通り茶目っ気溢れたウィンクに隠された意志をも。
 老人は杖を両手にしっかと握り、四つのルーンを口にする。

「ウル・テイワズ・ソウイル・ウィアド」

 “焔雪”よりよっぽど単純で簡潔なスペルは、すぐに効果を表した。
 オスマンの周囲に光が舞い遊び、次第に収束して光球を形成する。ちっぽけな、ほんの手の平程度の大きさのそれは稲光よりも速く、平原中央に飛んで行った。
 直後、戦場を白光が包んだ。
 なにものにも犯されぬ気高き光は、見上げるほどに大きく膨らみ、雲に届くほど巨大な光の柱となってタルブを染め上げた。

「あれは、『虚無』……?」

 見ていた将兵が勘違いしてしまうほど神々しく、涙をこぼしてしまいそうなほど綺麗な光だった。光柱はぐんぐん伸び、太陽にも届きそうなほどの高さになって、やがて散った。
 その光景は絶望に打ちひしがれていた人々の心を打ち、再び立ち上がる気力を分け与え、希望という光を心に灯らせる。

「オールド・オスマン、今の光は……」

 思わずぽかんと口を開いて見上げていたウェールズは、ようやく気を取り直してオスマンに問う。
 返答は、なかった。コルベールが代わりに答えた。

「オールド・オスマンの五番目の魔法、“光”です」

 オスマンは五つの魔法を創造したことで『五大』の二つ名を前代の教皇から授けられた。
 その最後の魔法、“光”。“焔雪”と同じく『土』『水』『風』『火』の系統を足し合わせたスクウェア・スペルでありながらその詠唱はごく短い。“焔雪”のようにイメージを喚起させる昔語りをする必要もなく、一見強力な魔法だった。
 ぐらりと傾いだオスマンをコルベールが受け止めた。

「オールド・オスマンはしばし目を覚まさないでしょう。今のうちに軍の再編を」
「あ、ああ」

 その威力は絶大なものでありながら、この魔法を習得しようという者はいない。『虚無』に最も近い魔法は、使用者の精神をも蝕む。“光”は使用者の精神力をすべて奪い、その威力の代償としている。
 コルベールは口にしなかったが、オスマンはおそらく一ヶ月以上目覚めることはなく、運が悪ければ死ぬだろう。どれほどの覚悟をあの言葉に込めていたのか、老人の心を知るすべはない。
 “光”の呑まれたメアリーはしばらく動きを止めていた。時間にしておよそ十分ほど、短い時間ではあったが本陣付近のみを立て直すには十分な時間だった。
 しかし、動きはじめたメアリーは意外なことに、それ以上なにかをするでもなく溶けるように姿を消した。日食は終わり、あとには壊滅的打撃を受けた軍と凍りついた大地のみが残った。



 英雄は失われ、老魔法使いも眠りにつく。
 残されしものが巫女の強大さに恐怖し始祖に祈りを捧げていたころ、もう一人、動き出す者があった。

「おにいちゃん、おねぼうさんだね」
「ここは……」

 この世の理を超えた座にて、命を、名を、全てを邪神に奪われた黒髪の少年が、異世界の父の祈りに目を覚ます。





次章予告

 トリスタニアに雨が降る。タルブ開戦以降の重い空気を閉じ込めるように、しとしとと空が泣く。
 がむしゃらに、ひたすらに剣を振る才人を見かね、気楽さを失わないギーシュがとある酒場に彼を誘い出す。
 そして街にはある噂が流れていた。雨の中、フードもかぶらず黒髪の少女が佇んでいると。
 アニエス率いる銃士隊と、メンヌヴィルが率いる小隊は噂の真相を追うべく夜のトリスタニアを駆け回る。
 邪神の書いたシナリオに人々は踊らされ、平賀才人を更なる絶望が襲う。
 次章、Last Amazing Grace




[29710] 中書きと人物&用語紹介(4/08)
Name: 義雄◆285086aa ID:b6606328
Date: 2012/04/08 20:19
てきとーに書きつづった人物&用語紹介と筆者の中書きです。
読まなくても本編を楽しむにあたって支障は一切ありません。
デルフリンガーとマリコルヌを追加(4/08)


第二章終了時の中書き

 これにて第二部「始祖ブリミルに祝福を」の第二章Deathauraは終わりです。お疲れ様でした。
 本章は原作の三巻と四巻にあたる内容をミックスしてお送りしました。
 次章は原作五巻相当の場面が出てきます。スカロンやらリッシュモンはじめ、前作「トリスタニア納涼祭」のヒロインであるジェシカさんも出てきます。
 例によって絶望的で、なおかつ次章はニャル様の手が入るから超絶エグいです。鬱展開と言っていいでしょう。ニャル様の原典であるラヴクラフト御大の「ナイアルラトホテップ」を読めば内容がうっすら想像できるかと。
 三つほどエンディングを考えていますが、トゥルーエンドになれば次章の展開が物語の中で一番底にあたるでしょう。バッドともう一つはまだまだ底が見えません。
 章ごとに更新するというのは、整合性をあわせやすかったり、まあ一挙に更新した方が感想つきやすいかなという思い込みだったり、深い意味はありません。感想は、いただければ超喜びます。
 そういえばここの才人くんは重大なときに気絶してたり死んでたりが多すぎですね。主人公もっとがんばれよとツッコむ方も多いかもしれません。
 でも彼も大変なので応援してあげてください。特に次章は大変なので。
 名無しの彼も復活したので同時に応援してあげてください。




主要な登場人物

・メアリー・スー・コンスタンス・ド・ロシュフォール

本作の主人公、だったはず。それは今も変わらないと思う。
全身真っ白、肌も白けりゃ髪も白い。肩より少し長い程度のストレートロングヘアー。目だけ赤い、本気を出すと右目が青くなる。
『風』のスクウェアメイジでもある。性格は事なかれ主義、同じバカなら踊らにゃ損と言われても踊るバカを見ていたいタイプ。
その正体は転生したと思われる男の子でもある。前世は高校生だったとか。
原作知識持ってるしのんびり内政しちゃうぜ! と調子に乗っていたらクロムウェルが持っていた「輝くトラペゾヘドロン」でニャル様降臨の憑代にされちゃった可哀そうな子。
しかも前世もニャル様にぶっ殺されている。
名前の由来はご存知、メアリー・スー大尉と三銃士のロシュフォール伯爵とコンスタンス・ボナシューを組み合わせて。
現在の能力
・物理攻撃無効
・系統魔法反射
・変身
・風石吸収能力
・影を移動、何か黒い鞭みたいなのをつかえる
・微笑みで発狂、触れても発狂
・『風』系統の魔法とそれに付随する物理現象
メタ的に言えばニコポナデポ持ちの超人です、理性ないけど。
出現予測がまったくつかないのでもし次にウチに出たら、と大軍編成を躊躇させるという厄介さん。行動原理は現在不明。


・ジョン・フェルトン・コンスタンス・ド・ロシュフォール

主人公の父親、ミレディーという名の妻を持つ。
元は金髪碧眼、中々威厳のある姿であったものの、メアリーの一件から心労+呪いで見る見る歳をとっていく。まだ四十にもなっていなかった。
元はアルビオン貴族ジョン・フェルトンというフェルトン伯爵家の次男であったが、園遊会で出会った妻に一目ぼれしてすったもんだの末ロシュフォール伯爵となる。
『風』のラインメイジでお世辞にも優秀とは言えないが、空軍に所属していた頃は中々の兵であったとか。
ニャル様の憑代となったメアリーの父という立場から、アンリエッタに家の存続を代償に死ねと言われ、承諾する。
ギリギリの線で正気を保ちながらも教団のトップに収まり、最大限ハルケギニアが有利になるよう色々とりはからい、タルブ平原で散った。
本作でも屈指の漢ぶりを見せた渋いお人、必殺技に「アルビオン落とし」をもつ。
名前の由来はバッキンガム公を暗殺した兵。本作でもニャル様に一矢報いることができたか。


・平賀才人

おなじみゼロの使い魔の主人公であり、本作のメイン主人公でもある。
黒髪黒目の短髪気味男の子、青白パーカーとジーンズが正装だが、傷つけるとアレなので本作では水兵服や魔法学院の制服を着ている。
地球は秋葉原からルイズに呼び出され、ガンダールヴとして戦いの場に身を投じる羽目に。
性格はお気楽エロ犬でかつ熱血漢だったが、ハードな世界に適応せざるを得ない立場なのでどんどん歪んでいっている
ワリと重大な場面で倒れたり気絶したりしている。
また、ティファニアと契約してリーヴスラシルの能力ももっている。
ガンダールヴのルーンは原作通り+本人と周囲の狂気緩和(弱)。
リーヴスラシルのルーンは、今わかっているのは周囲五リーグの狂気緩和(弱~強)+血液が狂気緩和薬(強)、デルフリンガーの言葉によれば他にも存在しそう。
現在の肩書は「虚無の使い魔」「アルビオンの英雄」「ハルケギニア決戦兵器」。
筆者が原作で一番好きなキャラなのですごい勢いで試練がやってくる。がんばれ。


・ルイズ・フランソワーズ・ル・ブラン・ド・ラ・ヴァリエール

おなじみゼロの使い魔のヒロインであり、本作のヒロインでもある。
ピンクブロンドの、少しふわっとした長髪をもち、顔立ちは控えめに言っても美少女だとか。
原作ではツンツンデレなお方であったが、本作では何を思ったか素直で若干世間知らずかつ世話焼き。
性格のずれは幼いころ『虚無』が発覚していたのと、まだ他にも原因はあるようだ。
最近家族にゼロじゃないと報告できて嬉しい。才人のためにがんばっているけどイマイチすれ違っている様子。
タルブ編でようやくそのズレの原因に気づくことができたけれど……。
これからヒロイン力がめきめき上がっていく予定。


・ウェールズ・テューダー

ゼロの使い魔では退場したが本作では活躍中の、アルビオン王国の皇太子。王位継承はまだしないらしい。
金髪碧眼のイケメン、才人が一枚目なら文字通りの二枚目である。
『風』のトライアングルメイジであり、その腕前はなかなかのものらしい。しかし現在はもっぱら指揮官かつ王族として行動するのでその技を披露する機会はないだろう。
才人がメイン主人公というなら、彼は王族側の主人公である。
性格は謀略ひしめく王族に生まれたというにも関わらず実直。バリー老の教えが良かったからか人を信じるということを知る人物に育った。
アンアンことアンリエッタとは公表こそしていないものの恋仲であり、戦争中もうっかりアンと呼んじゃったり。
ヘクサゴン・スペルが本陣に来たとき、口にこそしなかったけどすんげー驚いていたり。


・ギーシュ・ド・グラモン

ゼロの使い魔でも才人の親友ポジであるグラモン家の四男坊。本作でもそのお気楽っぷりを存分に発揮してもらっている。
大体の貴族がそうであるよう金髪碧眼で、ちょっとくせっけ気味。本作における三枚目。
というか、才人がシリアス系統に走る以上、彼やマリコルヌを使って底上げしないとひたすら重くなるので彼を使ったシリアスはほとんどない!
『土』のドットメイジであり、七体の女性騎士型ゴーレム、ワルキューレの使役を得意とする。
まだ出てきていないが走る馬と同じ速度で土を掘るすごい使い魔、ヴェルダンディーを愛でていたり。
モンモランシーとは喧嘩して今は微妙な距離感を保っている。
筆者のお気に入りキャラでもあるので結構な幸運補正持ち。


・ジャン・ジャック・フランシス・ド・ワルド

ゼロの使い魔では二巻で才人と激突し、三巻ではあしらわれ、最近ひょっこり現れた。本作とは全然違う。
灰色の長髪で髭持ち、メアリーには散々な言われようだったが本作では優秀なスパイだった。
彼が変わった理由はやはりニャル様。母の死因に邪神が関わっており、かつ国は腐敗なんかしてたらもう滅びているのでそんなこともなく、まっとうに忠誠を尽くす。
原作のコルベールと対を為すポジションについていたとも言える。
クロスファイトですら強いのは原作の十年修行発言と要人護衛は近接格闘もこなせないといかんだろという筆者の思い込みから。
邪神というかクロムウェルによって死体を利用され、タルブで才人を誘い出し、襲う。
才人に多大な影響を与え、ハルケギニアの往く末を託し、そして逝った。最後はアニエスの祝福の火によって火葬される。


・めありー

才人が不思議な草原で出会った少女。自身を「めありー」と呼ぶ。
その容姿は闇色に染まる前のメアリー・スーそっくり、唯一違うのは目の色だけ。
まだまだ謎が多い。

・オールド・オスマン

ゼロの使い魔ではあまり出てこないトリステイン魔法学院の学院長、本作ではハルケギニア最高のメイジとして名をはせている。
指輪物語のガンダルフとハリーポッターのダンブルドアを足して二で割ったような容姿をしている。
扱う魔法も超強力。『五大』という二つ名は四系統+虚無ではなく、“逃げ水”“活性”“不死鳥”“焔雪”“光”の五魔法を創造したため。
“不死鳥”もタルブ編でぶっ放してもらおうと思ったけれど尺の都合上断念。きっとメンヌヴィルかコルベールが使ってくれます。
現在睡眠中、果たして本編中に目覚めることはあるのか。


・オリヴァー・クロムウェル

ゼロの使い魔では結局小物で終わった司祭さん。本作では第一部で消えたと見せかけてまさかの復活、そしてまた消滅。
モーツァルトから凛々しさが抜けたような風貌をしている。
そのマッドっぷりは本作屈指のもの。
一度死んで復活したのを「神の祝福でなんとかなりました。日ごろの信仰心はやはり大切ですな」とさらっと済ませた。
流石にもう登場しない、と思う。


・デルフリンガー

ゼロの使い魔では才人の相棒、魔剣デルフリンガーとしてがんばっている。結構刀身が長い。本作ではべらんめぇ口調がなくなりとっても年寄りくさくなってる。まあ六千年も生きてるし。
一人称がそれがし、貴族っぽいおじいさんっぽいそんなキャラを目指して、というか六千年きっちり宮廷に保管されていたらさらに説教くらくなったりするはずだという帰結。
クトゥルフクロスだから特殊能力を付加させようかと思ったが、やっぱりゼロ魔はゼロ魔だよねと原作以外の能力をすっぱり切られた人。人?
口癖は「某の六千年の人生、あいや、剣生」とか、そんな感じ。
役に立ったり立たなかったり。間違いなく色恋沙汰にはうとい御仁。


・マリコルヌ・ド・グランドプレ

原作ではコミカルな役をつとめることが多いぽっちゃり貴族。本作でも大体原作どおり。これ以上書くこともないのでおわり。



男しかいねえ!


用語紹介

・ミドガルズオルム
本作ではエルフと普通に国交があるので当然共同研究も盛んに行われています。
原作のヨルムンガントなんて千年前に通過してしまい、そうなると次はどう改良していけばいいかと考えた末出てきた騎士人形。
高さ十メイル、重さはすごく重い。機動性は空飛ぶグリフォンくらい。防御力はタイガー戦車の主砲でなんとかなるくらい。
兵器として使うなら製作費用+燃費+汎用性の向上が課題かなあと思いこんな設定に。
名前の由来はヨルムンガンドの別名。

・“焔雪”
オスマンが創造した四つ目の魔法。燃える雪。
四系統を足し合わせた魔法が筆者の知る限り原作では出てきていないので、どういうのなら四系統っぽいか考えた末に生まれた魔法。
核を生成し、それを水分で内包、風で巻き上げて広域に降り注ぐ結晶とし、最後に炎上する。
“カッタートルネード”やらヘクサゴン・スペルなんかと比べて威力は劣るものの、敵味方認識と効果範囲、持続時間が反則じみている。
習得するのに各系統に対する深い知識と経験が必要となるため、オスマン以外は使えない。
元ネタは燃える氷こと地球で言うメタンハイドレート。日本近海に埋蔵しているので掘削技術の発展が待たれる。

順次増えていきます。



[29710] 始祖は座にいまし
Name: 義雄◆285086aa ID:b6606328
Date: 2012/03/24 08:55

 夢を、夢を見ていた。
 パソコンの修理に秋葉原へ行って、変な鏡をくぐって、呼び出された先はよくわからない異世界で。自称ご主人さまがつんつんしながらも面倒見てくれて、自身もそれに反発しながらもうまくやって。そんな、幸せな夢を見ていた。
 けれど、夢は夢でしかない。いつか醒めるときがくる。
 目覚めは、地面を打つ雨音とともにやってきた。

「……ここは?」

 見覚えのない部屋に、ぼんやりと眺めるだけだった。
 しばらくして、魔法学院のルイズの部屋に似ていることに気づく。大きさやこまごまとした家具は違うけれど調度品のセンスが似ていると。
 ずきりと頭が痛む。
 自分が寝る前、何をしていたのか思い出すことができない。ぽっかりと、記憶に空いた落とし穴は気持ち悪く、才人は必死に頭の中を整理するがうまくいかない。
 がちゃりと、ドアを開けて誰かが入ってくる。その音に気づくことができないほど、才人はなくした記憶を探るのに集中していた。

「サイトさん、目が覚めたんですね」
「シエスタ」

 学院のものとは少し意匠の違うメイド服に身を包んだシエスタが、洗面器とタオルを持っている。

「ここ、どこ?」
「トリスタニアにあるラ・ヴァリエールのお屋敷です。サイトさんが運ばれてからもう二日ほどたつそうです」

 つまり丸二日間才人は眠りっぱなしだったことになる。それは記憶も簡単に出てこないはずだと変に納得することができた。

「ルイズは?」
「ミス・ヴァリエールは王宮の方に呼び出されているとか。忙しいみたいで、どうやってか親戚の店で働いてたわたしを探し出して、サイトさんのお世話を任せてほとんどお屋敷に戻ってません」

 服、こちらに置きますねと、シエスタはベッドサイドに魔法学院の制服を置いた。。
 戦後処理をはじめ、虚無としてもルイズは王宮ですべきことがある。いつもべったりと一緒にいたルイズがいないのは、才人にとって非日常で、変な違和感を覚えてしまいそうだった。

「俺ってなんでそんな寝てたの?」
「ミス・ヴァリエールが言うには大けがをしたって」

 質問ばかりの才人にシエスタはタオルを絞りながら答える。どうやら才人の身体を拭くためのものらしかった。
 けがをしていたと言われ、ぐっと体を伸ばしあちこち身体に痛みがないか才人は確かめる。特に変わりない。

「大けがって言われても……」

 ハルケギニアに来たときからお世話になっているガンダールヴのルーンもあるし、最近刻まれたリーヴスラシルのルーンも健在だ。
 他におかしなところがないかぺたぺたと目に見えないところを触って、頬にかさぶたがあることに気づく。
 かさぶたに触れながら、なんでこんなけがをしたのか考えて、すべてを思い出した。
 タルブであったこと、ワルドと戦ったこと、そして胸を貫かれ血を吐いたこと、あの日あったことを思いだしてしまった。

「タルブは、タルブはどうなったんだ!?」

 気を失ってからあの戦場がどうなったのか、才人は知るはずもない。
 だけど、シエスタの曇った顔でわかってしまった。否応なしに理解させられてしまった。

「……タルブは、しばらく立ち入れません。箝口令が敷かれているけど特別にって、今どんな風になってるのかミス・ヴァリエールに教わりました」

 レコン・キスタは、ハルケギニアを護る五万の軍勢は、たった一人の邪神の巫女に敗れたのだ。
 行き場のない罪悪感が身体中を暴れまわり、今はもうどうしようもない過去を悔やむしかできない。

「ごめん、シエスタの故郷を」
「サイトさん?」
「俺があのとき油断しなけりゃ、きっと」

 相棒は精神が弱いと、デルフリンガーには何度も指摘されていた。しかし心は技、体を鍛えるのと比して遥かに難しく、時間がかかる。それを放置していた自分の責だと、才人はぐっとシーツを握る。

「なんでサイトさんが悪いんですか?」

 平民には才人が虚無の使い魔であると知られてはならない。これはマザリーニが教えたことだった。
 言えば否応なしに巻き込まれると、ナイアルラトホテップのもたらす狂気に触れざるを得なくなると、老いて見える枢機卿は静かに言っていた。

「大事な、大事な仕事があったんだ……けど、できなかった。肝心な時に俺は気絶してた」

 口にすればするほど激情は体内を駆け巡り、できることなら才人はシエスタにすべてを話してしまいたかった。
 けれど、そうすればシエスタも巻き込まれる。こんな普通で、優しくしてくれる女の子が過酷な運命に踊らされるなんて、才人には許すことができない。
 だから何も言えない。ぼやかして言うことしかできない。
 そんな才人に、シエスタは何気なく言う。

「サイトさんは悪くないですよ」
「え?」
「数えきれないくらいの貴族さまが戦ったって聞いています。それでもやっつけられない敵なのに、なんでサイトさん一人の責任になるんですか」

 違う、俺はガンダールヴだから、リーヴスラシルだから。選ばれてしまって、子爵さんに託されたから。
 吐き出してしまいたい、けれど言ってはならない。
 シエスタの優しさが今の才人にはむしろ辛かった。





―――始祖は座にいまし―――





 ウルの月三十二日、トリスタニアは冷たい雨に包まれている。
 メアリーの放った液体窒素は地表を急速に冷却し、そのことから大気の流れが不安定化、この時期には珍しいほど雲は多く、この雨は長引きそうだとトリスタニア市民は感じていた。じっとりと、乾燥した気候のハルケギニアには珍しいほどの湿度が覆い、しかも底冷えするとあって外を往く人々の足は自然と速くなる。
 王宮でも速足どころか駆け足で文官武官が行きかい、雨を憂う暇もないほどの慌ただしさに満ち満ちていた。原因は無論、二日前のタルブでの戦、そこに現れたメアリーであった。

 アルビオンが最も接近するスヴェルの月夜に巫女は降り立つという予測は見事に外れ、今までの行動傾向から日中現れることはないという判断も覆され、大規模な攻撃手段はないという希望的観測は破壊された。大きな被害を出して手に入れた教訓はすぐさま諸国に通達され、トリステインは勿論、ハルケギニアの諸国はその対応に頭を抱えている。

 まず、出現予測が立てられない。巫女はその気になれば、何百リーグどころか遥か天空の大地からトリステインのタルブに移動することができる。昨日はどこそこに現れた、なら次はここに来るはずだという考え方ができない。これは大軍での攻略を困難にするどころか、虚無の主従を集結させての殲滅をも不可能にしていた。どの国も亡びたくはない、自国の保有する対抗戦力をみすみす手放すはずもなかった。

 次に大規模な攻撃手段。メアリーはニューカッスル陥落をはじめ、アルビオンの様々な都市に現れてきたが、いずれも大した反撃を行ってこなかった。その点を、防御力だけは高いバケモノだと考えていたメイジたちはその楽観を完膚無きまでに破砕された。半径四リーグ強、面積にして二十アルパン(約六十平方km、山手線の内側面積ほど)もの土地を覆う“逃げ水”と派生した気体窒素の連続爆撃は、レコン・キスタの将兵を逃げる間もなく殺し、今わかっているだけでも全軍の二割、人数にして一万もの命を奪い去った。それぞれの被害報告はまだまだ続いており、もしかすると二万に届くかもしれないと、ある文官は報告している。二万という数字が正しければ、軍編成は陸軍戦力四万と空軍戦力一万からなっていたので陸上戦力の五割が被害を受けたことになる。アルビオンの平民義勇軍をはじめ、諸侯やゲルマニアが錬度の低い傭兵部隊や、ひどいところは領民を動員してきているところもあったのでここまで凄まじい被害人数になったと各将軍は考察している。また二日の内に脱走兵も数多く出て、部隊再編はいずれの隊も遅々として進まない。

 さらには日蝕がある。あの日、どうやっても日蝕は起きるはずがなかった。そのことから「巫女は天体すら操るのでは」と密かに囁く者もいる。
 ミドガルズオルム隊の正確な報告を受けて、レコン・キスタ盟主のウェールズは珍しくため息をついた。

「風石を吸収、か」
「それならばあの大地震も説明がつきますわね」
「……なるほど、ワルド子爵の母君の研究結果、その意味がようやくわかりました」

 彼女の研究成果は多く、どこで狂気に触れたか今まで不明であったが、これでようやく理解できた。彼女の遺した手記に純度と予測埋蔵量をびっしり書かれたものがある。それを地図に起こせば、ロシュフォール領を中心に歪な円形が描かれ、メアリーが幼少のころより風石の力を吸収していたことがうかがわれる。おそらく確認のためロシュフォール領に向かい、そこで呑まれたのだろうとマザリーニは故人をしのんだ。

「邪神がもれた経路も判明した。クロムウェルは復活したがあの状況では」
「いかに不死身と言えど逃れられぬでしょうな」

 しかし謎が解けたとゆっくりしている暇はない。トリステインの抱える問題はメアリーのことに留まらないのだ。
 虚無の使い魔、平賀才人の件である。

「わたくしはなんらかの罰則を加える必要があると」
「ですが姫さま、あの攻撃はサイトがいても防げたとは思えません」
「それは結果論です」
「なら、サイトがいなければ巫女が本陣を急襲して被害が増大した可能性を」
「本陣にいればそもそもサイト殿が気を抜くこともなく、虚無の主従の力をもって撃破できた可能性の方が高いでしょう。これが虚無の使い魔でなければ敵前逃亡で死罪とするところです」

 ルイズの言葉にアンリエッタはぴしゃりと返した。アニエスは二人の会話に口をはさむことなく、ウェールズは口に手を当ててじっと考え込んでいる。
 アルビオンとトリステインの影の首脳部とも言っていい人々が一堂に会したのはタルブ以降ではこれがはじめてであった。みななにがしかの職責をおっており、そのせいで今まで忙しすぎたのだ。

「それは予測でしかありません!」
「ならルイズの言葉も予測でしかないでしょう。大体が本陣を出る前にワルド子爵を見かけたと一言誰かに言えば、もっと良い結果を得られたに違いありません!」

 ルイズもアンリエッタも互いに感情的になっている。予測の上にさらに予測をたてた未来を見て、客観的な事実が見えていない。
 そこに今まで黙っていたマザリーニ枢機卿が口をはさんだ。

「お二人とも、この場ではかまいませんが他の貴族の前でそのようなことは言ってはなりませんぞ。特に殿下は感情に踊らされやすいのですから」
「言われずともわかっています、マザリーニ」

 口ではそう言ったアンリエッタだが、幼少から面倒を見てくれた枢機卿の言葉もあり、一度深呼吸をしてからルイズの眼をまっすぐ見た。

「ルイズ、あなたがサイト殿のことを大事に思っているのは知っています。ですが国を担う者として、彼を大事にするあまり大局を見過ごすことは許せません」
「姫さま……」

 ゆっくりとした口調にルイズも落ち着きを取り戻した。
 アンリエッタの言うことは正しい、間違えれば罰を与えなければいけないのは当然の話だ。母親が厳格なカリーヌであったルイズはよその貴族よりもよっぽどそのことを知っていた。
 けれど、同時にルイズは才人の慟哭を聴いている。あの悲痛な叫びを、胸で泣いた才人の小ささを知っている。そんなに辛い目にあった彼をもっと追い込むなんて、そんなことは許したくない。
 理解はしたけれど納得はできない、それが彼女の正直な気持ちだった。

「しかし彼は異星の人でしたからな。罰則を与えて後に響かねばよいのですが」

 マザリーニはルイズと違った角度で才人のことを案じている。
 彼自身ロマリアからトリステインに移り、そこで国が変われば様々なことが変わると身を以て経験している。才人に至っては国どころか星が違う。その気苦労はじめ、慣習、価値観の違いは、下手をすれば小さな英雄を押しつぶすのではないかという危惧を持っていた。

「罰則はどの程度のことをお考えで?」
「敵前逃亡にワルド子爵の撃破を加味して、今は地位がないから……どのくらいかしらアニエス」
「敵前逃亡は死罪、子爵の撃破は『閃光』ということを考えれば勲章もの、平民一般兵に対するなら罪を減じて鞭叩き五程度でしょう」
「無断行動の線で処分できませぬか?」
「そうね、鞭叩きは死人もよく出るそうだし……」
「無断行動ならば功罪相殺といったところか、むしろ少し功績が上回るかと」
「あの……」

 才人の処分について話し合っていたトリステインの三人は、今まで黙っていたティファニアが喋ったことを意外に思いながら振り返り、視線を集中させた。
 いきなり注目されたことにティファニアは怯み、それでも気丈に声を出す。

「サイト、はわたしの使い魔でもあります。アルビオンから褒章を与えてそれでなんとか……」

 話はおさまりませんかと、小さく呟いた。
 ウェールズがティファニアの肩に手を置き、安心させるように笑顔を投げかけ、それからアルビオン王国の代表として発言する。

「アルビオンおよびレコン・キスタはニューカッスルで国主、ウェールズ・テューダーを救った件でまだ論功を行っていない。それに信賞必罰も大事だが、今はそれより手を打たねばならないことがある」
「と、言いますと?」
「再発防止だ。子爵はおそらくもう出ないだろうが、また同じような攻め方をしてくる可能性は高い。ヒラガ殿に直属部隊をつける必要がある」
「……首輪をつけるということですかな?」
「言い方は悪いがそうなるね。もっと言えば彼の足りない部分を補助させたい」

 マザリーニの確かめるような言葉にウェールズは頷いて返す。
 今回の件は何故起きたのか。
 才人が何も言わず行ってしまった。次に、すぐ彼を追いかけることができなかった。最後に隙を突かれてやられた。
 一つ目は才人本人をなんとかするしかないが、二つ目三つ目はウェールズたちに対処することができる。いついかなるときも才人の行動に付き従う集団がいればよい。本陣の指令よりも才人自身を最優先として行動できる隊を設立すればよいと、ウェールズは言う。

「問題は名目と選抜方法、規模でしょうか」
「銃士隊を回すのは?」
「戦力不足です。サイトの、ガンダールヴの直属ともなれば真っ向から邪神に立ち向かう部隊、精鋭と言わずともメイジでなければ話になりません」
「難しい問題ですぞこれは。各国を自由に動き回れて、邪神に対しては最前線に立ち、しかもヒラガ殿に従うとあっては……」
「従う必要はありません。任務だと割り切ることができれば」
「ビーフィーターから数名回せるだろうが、国籍も問題になってくるな」
「いっそグリフォン隊の隊長に回すのはどうでしょう? 今現在は隊長不在なのですし」
「それでは現隊員の反発が出るでしょう。ガンダールヴと言えど平民で、しかも今はまだ機密なのです。魔法を使えない者が衛士隊に入るなどと言われれば」
「それに衛士隊隊長となると広く平民にも知られます。不審に思われるかと」

 アニエスはそこまで言って、うむぅと唸ってしまう。

「我々がここで議論しても埒があきません。情報開示して広く募ってみるのは?」
「……危険ね」

 平賀才人がガンダールヴであると知る者は、実はさほど多くない。各国首脳をはじめ、トリステインに属する大貴族の当主や軍のトップ、一部特殊な機関に属する部隊に限られ、本来ギーシュたちも知ることができなかったのを才人がうっかり漏らしてしまったという。
 彼がガンダールヴであると知られれば、その主人が誰であるか、魔法学院の使用人に金を握らせれば知ることは容易だ。情報が教団に伝わってしまえば暗殺者を幾人も送り込まれる可能性が高く、タルブ戦以前は公布することができなかった。

 本来の予定であれば、アルビオンでウェールズの命を救い、またタルブの戦場でウェールズの付き人をした才人を、論功の場で一堂に会した貴族を前に、平民かつ異星人であるという事実に対して是非を唱える間もなく知らしめ、相互監視を行わせるはずであった。ダメ押しに教皇直々に騎士位を与えるという権威づけをする予定でもあったが、あの大敗北とメアリーの情報でヴィットーリオはロマリアから身動きがとれず、レコン・キスタも論功の場を設けられるはずもない。
 さらにタルブ戦で才人が意識を失うほどの重傷を負ったのも問題で、虚無の使い魔ですら巫女に勝てないという悲観論を招きかねず、彼が目覚めるまではお披露目することができない。
 完全に機を逸していた。

「このことに関してはグラモン元帥やド・ゼッサール殿ともよく話し合いましょう。信仰心の篤く強い者を集めることも、場合によってはできるでしょう」
「いや、急ぐべきだ。小規模でもいいから今ここで決めてしまいたい」

 マザリーニの慎重案に対し、ウェールズは即断を求める。
 メアリーはあれからどこにも現れていない。次に出没するのがどこか、いつか、それは誰にも知ることができないため、一刻も早く部隊編成を行い、連携を試すべきだと自身の知識と経験から述べていた。
 しかし条件は中々シビアで一向に決まる気配はない。
 まず絶対条件にメイジであること。これは狂気に犯されにくいというのと戦術の幅とを考慮すれば当然の話であった。
 第二に才人と行動を共にすること。才人の直属部隊をつけるという話の経緯からも当然であり、できることなら戦地でなくとも一緒に行動してほしい。そうなるとプライドの高い貴族は難しくなる。

「おとう、失礼。我が父であるジャン・コルベールはいかがでしょう」

 日頃のくせで、お父さんと言いかけたアニエスは慌てて咳払いしてごまかし、彼女の養父を推した。

「彼か……経験も豊富であるし、言うことはない」
「本音を言えば大部隊を指揮していただきたいのだけれど……この世ならざるものとの戦いに慣れた人材は貴重ですし」
「そういう意味ではメンヌヴィル殿をそろそろ表に出す機会でしょうか、リッシュモン殿に話を通しておきましょう」
「ビーフィーターからウエイト分隊長を回そう。ラインだが判断力に優れていて、ヒラガ殿の補助にはぴったりだろう。他にも何人か探さなければな……」
「戦後のことを考えるとロマリア、ガリア、ゲルマニアからも受け入れねばなりませんな」
「気が早いけれど、そうね。そのことは追々考えるとして、三人で部隊を名乗るわけにもいきませんわね」

 『炎蛇』ことコルベールと『流水』の二つ名をもつウエイト、共に強力なメイジではあったが、部隊の目的が才人の護衛、補助という性質なので数と質両方が求められる。

「部隊長をサイトにするのは反対です。軍内でのやっかみもありそうですし、隊長は貴族の血統にした方がいいと思います」
「なら名目上は副隊長にしよう。問題はない」
「しかし、コルベール殿やウエイト殿を隊長に据えてしまっては部隊内で派閥ができるかもしれませんな」

 マザリーニはコルベールが有能な男だと知っていて、ウェールズの推薦する男が優秀でないはずがないと理解している。そんな男を頭にしてしまっては彼に隊員の信頼は集まり、才人のための部隊が最も彼を排斥することになるのではという思いがあったのだ。
 その意見ももっともだと同意したみなは、隊長をどうすればいいか悩みこむ。

「となると、若くてサイトと仲が良いというのが条件ですか」

 しかもメイジでなければならない。そんな都合のいい人間がいるだろうかとアニエスは考える。

「あ」

 はっと、ルイズは気が付いた。

「どうしたのルイズ?」
「心当たりがあります。サイトと仲良くて、しかもメイジ」



「で、何の用だい?」

 タルブの戦で倒れたオスマンは今トリスタニアの屋敷で眠りについている。家名を捨てた賢者の世話になったものはトリステイン国内に数多く、老若男女問わずみな忙しい間を縫って見舞いに来ていた。
 ルイズはオスマン邸とグラモンの屋敷が近いから先に見舞いに行こうとして、運よくかちあった形になる。三人はオスマン老の屋敷の庭園、雨のせいもあってあまり人の来ない一画、パラソルの下でマリコルヌが“サイレント”をかけて話していた。

「あなたたちとギムリとレイナールってサイトと一緒に訓練してたわよね?」
「訓練……うん、まあそうだね」

 果たしてあれを訓練と呼んでいいのかとギーシュは首をひねる。マリコルヌは当時を思い出しているのか、喜悦とも悲壮ともわかりにくいような、なんとも名状しがたい表情をしていた。

「いや、それよりもきみには珍しくサイトを連れていないじゃないか」
「そうだ、サイトはどうしたんだい? 今からきみの屋敷に行って、噂で聴いた店へ飲みに誘おうと思ってたんだが」

 壮絶な記憶を思い出したくないという風に、二人は露骨に話題を変える。奇しくもそれは平民である才人を気にかけて、さらには飲みに誘うというものだった。

――自分で推薦しておいてなんだけど、だいじょうぶかしら。

 二人のお気楽な様子を不安に思いながらもルイズは話を続ける。

「後で話すわ。それより姫さまが、ギーシュに今度新設する近衛隊の隊長をどうかって」
「あ、アンリエッタ姫殿下の!?」
「冗談だろ!?」
「冗談じゃないわよ。まだできること以外ほとんど決まってないけどね」

 ルイズの言葉にギーシュは溢れ出る嬉しさを隠す様子もなく「これはまさか姫さまとのいけない恋……いけません、姫には国が!」と脳内で小芝居を繰り広げている。マリコルヌはマリコルヌでぽかんと口を開き、ルイズから聴いた話を信じられないでいた。

「部隊規模は?」
「部隊規模は小隊から中隊。ミスタ・コルベールと、ウェールズ殿下のご厚意でビーフィーターから数名、あなたの下につくそうよ」
「ビーフィーターだって!? ロンディニウム守護の精鋭じゃないか!」
「それにミスタ・コルベールか、こりゃぼくらにかかってる期待もホンモノだぞ!」

 アルビオンの軍において、攻を担うのがアルビオン竜騎士団と長弓騎兵隊とするなら、守を担うのがビーフィーターだ。そのことは勿論二人とも知っている。
 さらにコルベールは学院で、オスマンを抜いての話だが、ギトー教諭と一、二を争うほど強く、彼こそが最強だと主張する生徒も数多い。彼の『火』の授業は実戦的であり、しかも他系統がいかに『火』に対処するか、『火』はさらにどう打ち破ればいいかなどかなり高度な内容をも取り扱い、卒業後軍属を目指す生徒に人気がある。
 そんな人材がサポートに回ってくれると聴いて、これはますます喜ばしいことだと二人してひゃっほーいと歓声をあげる。
 “サイレント”をかけているとは言え、見舞いに来た先で不謹慎この上なかった。

「名前は、名前はなんになるんだ!?」
「それも未定。今はとにかく急いで編成して連携を鍛えるのが急務ですって」
「ひょ、ひょっとしたら命名権がぼくらに与えられるなんてことも」
「あるかもしれないわ」

 すげーやったーと叫びながら二人は抱き合った。
 男二人の抱擁をルイズは冷めた目で見守っているが、二人の歓びも無理はない。自分の名づけた部隊名が近衛隊としてトリステインの歴史に残るのだ。普通の貴族ならまずありえない奇跡だった。

「め、命名権がきたらどうしよう。どうするギーシュ?」
「やはり飛び切りカッコいいのじゃないと。星光薔薇騎士団とか漆黒薔薇騎士団とか竜王薔薇騎士団とか」
「……ぜんぶ薔薇じゃない。しかもカッコ悪い」
「嘘ぉ!? 薔薇はぼくの象徴だし、全部カッコいいじゃないか!」
「いやないわギーシュ」
「ぼくもそれはひくぜギーシュ」

 なおも食い下がるギーシュに二人はぱたぱた手を振りながら否定する。

「な、なら……星光漆黒竜王騎士団とか」
「さっきのぜんぶつなげただけでしょ」
「なんて言うか、まあいきなりは難しいよな!」

 マリコルヌの視線に込められていたのは同情や励まし。ギーシュにはそれが痛いほどわかってしまって、むしろ気遣われた方がきついということを才人とは違った角度から体感していた。ルイズの容赦ない言葉のほうがまだありがたい。ギーシュは濡れた芝生にがっくりと膝をついて、るるるーと涙を流していた。
 さっきの不安がむくむくと大きくなって、やっぱり断ろうかと思いはじめる。
 そんな彼女の内心をよそに、気を取り直して立ち上がったギーシュが言った。

「しかし光栄な話だが、いいのかい?」
「いいって、なに?」
「だってぼくは実戦経験があるわけじゃない。タルブでだって指揮をとっていないし」

 タルブでの戦いで、ギーシュはグラモンの陣で飛び交う報告を見守っていただけだ。この年頃なら当然の話だが、戦功も武功もあげたことがない。
 うんうんとマリコルヌも腕組みしながらギーシュの言葉にうなずく。

「そうだ、ギーシュは確かにそこそこやるけどもっといろんな人が軍にいるだろ」
「……色々と事情があるの。サイトがここにいないことも関係あるんだけど」
「どういうことだい?」

 マジメなときは思いの外頭が回る二人を見て、ルイズはなにから話すか頭の中で素早くまとめ、とつとつと語りだした。

「サイトは意識がないの」
「へ?」
「そ、そりゃほんとかい!?」
「ええ、タルブで少しあって。だから今回の話も本当はサイトの護衛隊の結成が目的よ」

 ギーシュはいかにもわからないといった顔で首を傾げている。

「……なんだってそういう話になるんだ?」
「そりゃサイトがアレだからだろ」
「アレって?」
「アレだよ、アレ」
「だからアレってなんだい?」
「ガ、からはじまるアレだよ」
「ガ?」

 一方のマリコルヌはガンダールヴの重要性、機密保持の大切さを理解しているようで、“サイレント”をかけているとは言え言葉を濁した。
 いい加減ボケボケなギーシュにじれたルイズは耳に口を寄せて、傍から見ればルイズが頬にキスしようと見える体勢で、「ガンダールヴ」とだけ囁く。

「あ、ああそういえばそうだった。なんだか彼といると忘れてしまってね」

 ギーシュはうろたえるように後退して、少しあわてた表情で取り繕うように言った。それがまずかった。

「……へぇ、そう。そうなのギーシュ」
「というか、ヴァリエール先輩もそうだったんですね」
「え?」
「あ」

 マリコルヌはやれやれと、多大な嫉妬をその身にこめつつ“サイレント”を解いた。
 いつの間にかすぐ近くに顔をうつむかせてわなわなと肩を震わせる金髪の乙女と、面白いものを見たとちょっぴり腹黒さを感じさせる笑みを浮かべる栗毛の少女が佇んでいる。
 さらにその後ろには――。

「おちび、よそ様のお庭でえらく愉快なことをしてるじゃない」
「え、エレオノール姉さま……」
「ちびルイズゥ……!」

 これ以上ないほど男らしく、仁王立ちした金髪の女性がいる。ロングヘアーに眼鏡をかけた女性の名はエレオノール・アルベルティーヌ・ル・ブラン・ド・ラ・ブロワ・ド・ラ・ヴァリエール。アカデミーに勤める才媛であり、ラ・ヴァリエール家の長女、つまりはルイズの姉である。
 オスマンの庭先にルイズとギーシュの情けない声が響いた。

 窓の外で若者が騒いでいることを場違いだと憤りつつ、リッシュモンはオスマンのベッド傍にある椅子に腰かけ、マザリーニもそれに倣い腰を下ろした。枢機卿と高等法院長の来訪とあって、余人が立ち入れないよう二人の連れてきた護衛が“サイレント”と人払いをしている。
 密談にはこの上ない環境で、二人の老人の顔は暗い。意識もないオスマンを含めた三人は、邪神との戦いを長年支えてきたトリステインの三巨頭であった。弱きものに知られては余計な事件のもととなるとあって、他の者に知られることなく、密やかにトリステインを護ってきた老人たちであった。

「まさかオールド・オスマンがこうなるとは」

 見た目相応の歳であり、男性用の化粧をして見栄えを整えているリッシュモンはじっと、オスマンの顔に視線を落とした。重々しい口ぶりの裏には惜しむ色合いが込められている。
 正確な歳を外見からあてられたことのないマザリーニは、同じようにオスマンの寝顔を見つめた。日常を感じさせる安らかさは老人がまとっていた常のものであり、今にもウィンクをして飛び起きそうなほどだった。
 忙殺されることには慣れているマザリーニは一瞬の隙を見出して王宮を抜け出し、リッシュモンは不穏な噂が立っていないか高等法院長としての役割を果たすため貴族街の屋敷を回っていた。この場をもったのは面会の時間が偶然かぶったからであった。
 病室は初夏に見合わぬ寒さから部屋を暖めるマジックアイテムが使われている。厚着をしていたマザリーニには少し暑いくらいで、ハンカチで浮いた汗を拭いてからリッシュモンに手紙を渡した。

「オルレアン公夫人からの書簡、その写しです」
「ふむ」

 素早く数枚の紙に目を通し、リッシュモンは唸る。

「……スペル・ジャックとは古いものを持ち出してきたものだ」

 オルレアン機関を統べる女傑、オルレアン公夫人が機関のものと共にアルビオンへ潜入し、見事『地下水』という工作員との接触に成功した。
 その結果わかった事実、メアリーは系統魔法を反射ないし乗っ取ることができるという情報は、伝わるのがあと少し早ければ犠牲者を減らせたに違いない。

「あと三日、せめて二日早くわかっていればよかったのですが」
「結果はかわらなかったでしょうな。ヘクサゴン・スペルが乗っ取られるなど誰しも信じたがらん」

 ハルケギニア六千年の歴史の中でもヘクサゴン・スペルは謎が多く、まだまだ研究が進んでいない。それだけに神聖視する者も多く、あの場では強行せねば士気が保てなかっただろう。

「それで、流言飛語の類は」
「今のところないようだ。だがポワチエや取り巻きのウィンプフェンはかなり不満をため込んでいると見える」
「平民層への浸透は」
「商人はタルブの立ち入り禁止令を真実だと思っている者が多い。タルブの一件は邪教殲滅のためであり、大勝利に終わったとしている。額面通りに取ったものは少ないであろうが、巫女の存在までは知られていない。しかし一部大商人はわかったものじゃない」

 現在タルブ村に続く主要な街道をはじめ、細い山道までもが完全に封鎖されている。破壊しつくされた塹壕、建造物や始祖の恩恵が存在せぬかのように生物の絶え果てた大地、不自然なまでに濡れて沼地のようになっている平原を見せぬためであった。
 もともとタルブに住んでいたものは同じアストン領でなく、真実の暴露を懸念して遠くグランドプレ領に引き取られることになっており、もしくはトリスタニアや他の地方都市の親戚を頼る者も多い。
 それもこれも巫女が現れたからだと憎々しげにリッシュモンは舌打ちする。
 タルブで教団を殲滅して、それで終わっていればなにもかもが違っていた。ガンダールヴは英雄として迎えられ、情報統制も今よりはずっと楽になっていた。

「高等法院で今しばらく貴族を抑えていただきたい。平民の方は衛士隊であたりましょう」
「銃士隊はまだか?」
「晴れの場を設けるにはまだ情勢が安定していません。来月の上旬、中旬程度になるでしょうか」
「後手にまわっているな。生き残った兵の口もずっと閉ざしているわけではあるまい」
「ええ、あの場で巫女が現れてからすべてが狂っております」

 苦さすら通り越して無表情で二人は淡々と情報を交換する。箝口令を敷いていても、それを厳守することは難しい。酒の席で、家族との会話で、そういったものが街中に拡散するのに、さして時間はかからぬかもしれない。
 リッシュモンは立ち上がり、窓に近づいてしとしとと泣く空を見上げた。

「ガンダールヴは?」
「まだ寝ているようです。信頼できるメイドを一人つけておいたから問題ないと」

 後ろ手を組みながら、マザリーニの言葉をリッシュモンは吟味する。

「大丈夫なのか。今回の重症と言い、ハルケギニアの未来を託すに足る存在なのか?」
「……なんとも言えませぬ」 

 その言葉に、むぅとリッシュモンは黙り込んでしまった。
 じっと窓の外を見ていても、そわそわと浮足立った様子で、腕組みをしたり後ろ手を組んだりといつもの落ち着きがない。
 ここまであからさまな焦燥感を漂わせていては、寝不足で注意力の落ちているマザリーニにすら気づくことができる。

「どうされました?」

 その言葉にリッシュモンは振り返り、彼には珍しく微笑みながら言う。

「私も長くないそうだ」
「それは……」
「医者によると、あと一月ももたないと」
「急すぎる。その医者は信頼できるのですか」
「ウィレットという医師の見立てだ。名医として聞いたことはあるだろう」

 それに、と雨のしずくを眺めながらリッシュモンは続けた。

「私自身長くないことは予期していた。まさかこんな急だとは思わなかったが、日ごろの摂生に努めなかったツケがまわったな」

 軽い語り口には万感の思いが込められており、マザリーニもかける言葉を失った。化粧で誤魔化しているが、顔色も本来相当悪いのだろう。
 知覚すれば堕ちる可能性があるとあって、邪神の存在は並みの者に教えることはできない。枢機卿がロマリアから来た当初、トリステインでナイアルラトホテップを知っているのはオスマンとリッシュモンと子飼いのものたち、それと昨年末に亡くなった前元帥のみであった。
 王族の側近である魔法衛士隊にも教えられず、国の中枢に近い四人だけで秘密を共有した。政務と軍部と学生と人心、この四つを四人だけで統制するのは並々ならぬ苦労があった。特にリッシュモンは実動部隊として小隊を率いていたのだ、その仕事量たるやマザリーニに引けをとるものではない。
 表面上は見せていなかったが、身体の中身はボロボロになっている。我が身にも当てはまることだと思い、マザリーニはため息をついた。

「もっと早く教えていただければ」
「医者にかかる暇もなかったのだ。先週倒れて、そこで発覚した」

 その情報は初耳だと言わんばかりに、枢機卿はじろりと高等法院長を睨んだ。背中でその気配を感じ取っているのか、リッシュモンは何も言わない。

「リッシュモン殿が逝くとすれば、私一人になってしまいますな」
「そうなる前に先を託すに足る若者を見つけたいものだ」

 自分の命脈尽きるときが近づいているというのに、表面上は変わらぬ声音であった。
 だが長年の付き合いがあるマザリーニにはわかる。彼は確かに焦っている。後進の育成は邪神関連において非常に難しく、昨年亡くなった元帥の後釜を見つけられないでいたのだ。
 ここでリッシュモンが倒れれば、残るはオスマンとマザリーニだけ。しかもオスマンはいつ目覚めるともしれない。
 これから星を護る戦いがはじまるにも関わらず、深い知識を有しているのがアンリエッタを含め二人だけとは、頼りないどころか絶望的ですらある。

「ガンダールヴの少年が英雄足れば、それで良いのだが」
「私の見たところ、彼には時間が必要でしょう」

 マザリーニの見立てでは、平賀才人は精神的に魔法学院の生徒となんら変わりない。むしろそれよりも幼いところがある。
 あの年頃の平民が同年代の貴族よりも幼いとは、本来あるはずもないことだが、才人はハルケギニアの人間ではない。理性ではわかっていても、中々不思議なものだと傍目には老いて見える枢機卿は思う。

「追い込みをかけたほうがいいだろうか」
「……潰れる危険性を考慮せねば」
「新たに召喚すればよい。それに別れが良い方向にもたらすこともある」
「逆もまた然りでしょう」

 リッシュモンは生来正義感の強い男だ。
 オスマンの下で学んだ魔法学院時代も、王宮に上がってからもそれは変わりない。しかし邪神との戦いを任されるにあたり、与えられる予算では対応が不可能になって、賄賂を受け取ってから彼は変質した。
 トリステインを護るためならば多少の犠牲もやむなしと、頑なになってしまった。
 そういった彼の変化を知り、またリッシュモンの言葉にも一理あるからこそ、マザリーニは強く言えない。

「くれぐれも早まった真似はされぬよう」
「ああ、わかっているとも」

 静かな雨はまだ止む気配を見せない。



「で、おちびはなんであんなところであんなことをしてたの。そもそもあの金髪は何? あなたの恋人って言うのならわたくし、あなたを殴る覚悟があってよ」
「エレオノール姉さま怖いです」

 ブルドンネ街の大通りを望む喫茶店、『カッフェ』と呼ばれる店にルイズとエレオノールは来ていた。
 マジックアイテムのランプがこういった店としては珍しいほど多用されており、白くて清潔な店内は雨の日でも十分に明るかった。客層は立地条件もあってか身なりの良い平民層から、たまに貴族も混じっており、それぞれが最近製法の確立されたという『お茶』を楽しんでいるようだ。

 ついでに言えばマリコルヌたち四人まで一緒についてきており、席こそ別ではあるものの、モンモランシーへ必死に弁明をしているギーシュをよそに聞き耳を立てている。
 エレオノールは自身を落ち着けるように深緑のお茶に口をつけ、その変わった風味に少し驚いた様子を見せた。
 彼女の怒気がおさまったのを見て、ルイズはひとまず事情を説明することにした。

「あの男子はギーシュ・ド・グラモンっていう名前で」
「グラモン? あなた遊ばれてるんじゃないそれ」
「いえ、だから恋人とかそんなんじゃないです」

 ぱたぱたと手を振りながらルイズは否定した。
 どうにも目の前のエレオノールは、ルイズが進学する前と比べてやさぐれたように見える。

「まあいいわ、覚えておきなさいおちび。男なんて所詮男よ」
「……はい、エレオノール姉さま」

 なにが言いたいのか、意味がわからない。
 以前はもっとこう、ヒステリックなところはあったものの、理路整然とした話し口で、子どもながらに姉さまは頭がすごく良いのだと思っていた。
 でも今はなんだかやさぐれている。
 ぐびぐびとお茶を飲み干したエレオノールは、まだ弁解しているギーシュをキッと睨みつけた。

――姉さまマジで怖い。

 思わず才人の喋り方がうつってしまうくらい、今の彼女はアレだった。
 睨まれたギーシュも、結構遠くに座っているはずなのに威圧感を察知してビビりにビビって口をつぐんでいる。

「まったく、ヴァレリーも男にうつつをぬかしているようだし……」

 嘆かわしいことこの上ないわとのたまいつつ、エレオノールはお茶を飲み干して、外の人ごみに目を向けた。
 所作の一つ一つがいちいち男らしい、憂いを帯びた表情も女性的というより男性貴族の見せるそれに近い。実家にいたときはもっと淑女然としていたはずだったのにと、ルイズは思う。
 そこではたと気づくことがあった。

――そういえば、姉さまはバーガンディ伯爵と……。

 つい二週間ほど前、実家に戻って次女のカトレアと会話していたことを思いだす。目の前のやさぐれ姉貴は、確か婚約破棄されたという話だった。
 当年とって二十七歳、ハルケギニアでは婚期遅れというレベルじゃない姉は今度の結婚を非常に楽しみにしていたはず。なのに……。
 思わずルイズはだばーっと泣きそうになってしまう。

「エレオノール姉さま、わたしは何があっても姉さまの味方です」
「おちび、あなたとんでもなく失礼なこと想像してるわね」
「いひゃいいひゃいいひゃいでふぅ」

 ぎゅむうとルイズはほっぺをつねられる。
 手を離してから、エレオノールは大きなため息をついた。

「最近いいことがないわね……アカデミーもなんだかおかしな雰囲気だし」
「アカデミーが?」

 赤くなった頬をさすりながら、姉が何気なくこぼした言葉をルイズは拾う。
 アカデミーはトリスタニア西部にある研究者が集う塔、機関の名称である。研究内容は一般的に知られておらず、口さがない者は兵器を開発しているともただの貴族の道楽とも言う。
 一部貴族のみが知る彼らの研究は、実はその両方である。神学として深く始祖の御心を知るための研究と、邪神に抗するためという名目を伏せられての新規魔法の開発が行われている。
 これからの戦にも関わりかねない話の内容に、ルイズは先ほどよりも話に集中した。

「ええ、アルビオンの一件が知れ渡ってから評議会の連中がこそこそなにかやっているみたいね。余計なことして高等法院に目をつけられて予算を削られなければいいんだけど」
「アルビオンから……」
「悪いわね。ただの愚痴よ」

 より詳しく聞こうとした矢先、エレオノールは話を切った。
 メイド服を装飾したような制服に身を包むウェイトレスを呼び止め、お茶のお代わりを頼み、再び人ごみに目をやる。
 先ほどより憂いの濃くなった顔は何を思っているか、ルイズにはわからない。
 その内心を推測することしかできない。

――結婚がダメで、職場の空気も悪かったら……。

 ひょっとしたら、将来的に姉は実家に戻ってくるかもしれない、一人身で。
 毎日毎日顔を合わせた親に結婚のことをぐちぐち言われ、それで部屋に引きこもるようになってしまったら。そんな不穏な考えがルイズの中に立ち込めてくる。

――ダメよエレオノール姉さま! 戦わなきゃ現実と!

「そういえばルイズ」
「ひゃ、はい!」

 心の中で非常に不名誉な妄想のネタにされ、なおかつ同情されていたとバレては、おそらくほっぺたを思いっきりつねられる。さっきとは比にならないぐらい。
 ドキドキしながらルイズは、ぼんやりと外を眺める姉の言葉を待つ。言葉を選んでいるのか、エレオノールはしばらく何も言わなかった。
 肩の力が抜けてきたルイズに、彼女は向き直り、淑女然とした微笑を投げかける。

「おめでとう」
「え?」
「魔法、使えるんでしょ」

 ぽかんと、意外すぎる言葉が来てルイズはちょっとの間放心してしまった。

「父さまから手紙が来たわ。本当に嬉しそうで、だからわたしも直接会って言おうと思っていたの」
「え、ね、ぇ……」

 目の前で微笑む姉は、いつもルイズに厳しかった。できるはずもない魔法をいつまでもやらされた。屋敷のすぐ近く、池の小舟に逃げ込んだのも数回では済まない。ほっぺたをつねられたことも数えきれない。
 それはエレオノールがルイズを嫌いだからだと思っていた。嫌いだからこんなに辛く当たるんだと思い込んでいた。

「おめでとう、ルイズ。わたしのかわいい妹」

 だけど違う。そんなのは自分の勘違いだと、優しい微笑みが教えてくれる。エレオノールは、ルイズの姉は心底彼女のためを思ってしていてくれたのだと。
 すっと雫が頬をつたう。父親の前で認められたときと同質のうれし涙が零れ落ちる。

「ほらほら、レディーがこんなところで泣かないの」
「だっで、だっでねぇざまが」
「ほら、これで涙を拭きなさい」

 手渡されたハンカチでルイズはずびーっと鼻をかむ。それを苦笑いしながら見守る姉には、確かな愛情があった。

「良いお姉さんですね」
「そうね……わたしも少し、姉がいたらと思ったわ」

 遠くで聞き耳を立てる野次馬の耳にも話の内容はきっちり入っていて、背景こそわからないものの麗しい姉妹愛に二人の乙女はため息をついた。

「うぅぅ、良い話だなー」
「ぼくも感動したよ……」

 だばだばとギーシュが滝のような涙を流している。この男、涙腺が極度に弱いらしい。
 だが隣のマリコルヌも若干涙ぐんでいて、トリステインの男どもは情に弱いことがうかがえる。

「こんなところで泣かないでよ」
「だっで、良い話じゃないがー」
「もう、仕方ないわね」

 情けない奴めという顔をしながらモンモランシーがギーシュの涙と鼻水をぬぐってやる。
 ぬぐわれた本人はきょとんと、目を白黒させている。

「も、モンモランシー?」
「言っておくけど、まだあなたのこと許したわけじゃないから」

 言って、ツンとそっぽを向いた。

「ああ、なんてきみは優しいんだ。こんなふがいない僕に情けを与えてくれるなんて」
「ちょっと、許してないって言ってるでしょ」
「それでもいい。ほんの少しでもきみが心をむけてくれるならぼくはそれで満足さ」
「ギーシュ……」

 マリコルヌはいらっと来て、それから何かを期待する目でケティの方を見る。

「ないですから」
「そう言わず」
「ありえませんから」
「ちょっとだけ、ちょっとだけだから」
「サイトさま以外の男性に触れたくありません」
「……くそっ!」

 マリコルヌは違う意味で泣いた。



***



 雨のやまぬトリスタニアで少年が嘆いている頃、ネフテスの首都アディールに存在する図書館で頭を抱える者がいた。
 さらさらとした金髪をなびかせながら本の海を彷徨う男の名はビダーシャル。ハルケギニアの虚無会議にも出席し、シャイターン対策委員会の副委員長も務めるエルフであった。
 彼が悩んでいるのはトリステインから来た書簡、その内容のせいだ。

「巫女が出たとは……」

 想定外に過ぎると呟きながら、長机に片っ端から積み上げた本に目を通す。過去の史料にはじまり、異界の書物まで、その種類は多岐にわたる。
 他の種族とエルフとの英知の結集とも言える書物群は、ハルケギニア以外の言語で書かれたものも多く、ビダーシャルにはすべてを理解することができない。それでもニューカッスル以来、かすかな手がかりを求め、寝る間も惜しんで情報を得ようと図書館に日参している。
 しかし努力の甲斐なく、メアリーに対する有効な手立ては見つけられないでいた。

「根を詰めているようだな」

 本棚の間から老いたエルフが彼に声をかけた。歳月を閉じ込めた白髪にゆるやかなエルフの民族衣装をまとっている。

「館長」

 ビダーシャルは立ち上がり敬意を示した。図書館長である老エルフは長命のエルフの中でもさらに長生きで、また博識であることからビダーシャルも尊敬している。
 彼のあいさつに手で答えながら正面に座り、館長は積み上げられた本から一冊を抜き取った。

「ずいぶんと古い書を漁っている」

 一枚一枚、慈しむように老エルフはページをめくる。過ぎた年月を懐かしむような表情であった。 

「シャイターンが現れたのです」

 端的にビダーシャルは言う。館長はさして驚いた様子も見せない。

「……わたしが子どもの頃にも現れたと聞く。また来たのか、かの邪神は」
「此度はある少女としてハルケギニアをおびやかしています」
「ふむ」

 ぱたんと閉じた本をそっと置き、館長はまっすぐにビダーシャルを見つめる。

「詳しく聞こうか」

 その力強い視線に、ビダーシャルはこれまでの経緯を説明した。
 ティンダロスの猟犬が呼ばれたこと、ニューカッスルが落ちたこと、そしてタルブでの戦のこと。言葉にすればかなりの時間がかかり、話が終わるころにはビダーシャルの喉はからからになっていた。館長のこだわりで図書館は飲食禁止となっており、乾きも我慢するしかなかった。

「猟犬に巫女、つきつめればこの二者をどうにかすれば良い」
「ええ、ですが猟犬を殺す手段はなく、巫女の攻撃を防ぐ手立てもなく、立ちいかぬ状態です」
「物事は一つずつ解決するべきだ。まず猟犬」

 そう言って、本の山から歴史を感じさせる装丁の書を取り出し、よどみなくページをめくり、ビダーシャルに手渡した。

「この章によれば、あれらは万物溶解液というもので撃退できるらしい」
「それは」
「しかし万物溶解液はハルケギニアで生成することができない。単純に原料が手に入らないのだ」

 新たな情報にビダーシャルは食いついたが、続く言葉に気を落とした。
 そもそも遥か昔にアディールは猟犬の襲撃を受けており、そのとき大損害が与えられ、結局は標的を殺されて猟犬は帰っていった。倒す手段があるのならそのときに撃退している。
 気落ちしているビダーシャルには目もくれず、老エルフは続ける。

「本来、あれらはこの時空にいつまでも存在できない。猟犬を繋ぎ止める存在を倒し、縁を断ち切ってやればいいのだ」
「つまり巫女を倒せば」
「ああ、おそらく元いた空間に帰っていくだろう」

 しかしそれこそが難しいと、二人は口にせずとも理解していた。

「次に巫女の攻撃、“逃げ水”への対処だが、これは難しくない。オスマンの研究によれば、“逃げ水”は『風』で極限まで空気を圧縮して、なおかつ冷やしたときでなければ形成されない。非常に危ういものだから、形作る前に場を乱してやれば良い」
「形成される前に……しかし遠距離に現れては攻撃も届きますまい」
「そこのところは若者の発想に期待しよう。“逃げ水”でなく単純な力押しで来られると打つ手がないのが困り者だがな。スペル・ジャックに関しては、原理は“反射”と系統魔法との混合だから、先に土地の精霊をこちら側にひっぱりこめば何の問題もない」
「戦場を選ばせるなと」
「自分の都合に相手を付き合わせる。戦いの基本にすぎんよ」

 ひとつひとつ、答え合わせをするように館長は淡々と口にする。

「最後に、攻撃が通じないということだが……わからない」
「館長の知識をもってしても不明ですか」
「歴代の災厄はおしなべて攻撃が通じにくかったとあるが、原理はわたしも知らないのだ。ましてや剣撃や系統魔法がすり抜けるくせ相手の攻撃は届くなど、史料にもないし想像もつかない。どうすれば倒せるだろうか……」

 お手上げだと言わんばかりに館長は肩をすくめた。

「しかし助かりました。攻撃への対処がわかっただけでも僥倖ぎょうこうでしょう」
「なに、ハルケギニアが滅んでは読書もできなくなる」
「感謝を」

 ひょうひょうとなんでもないことのように振舞う老エルフに、ビダーシャルは今一度感謝の意を示した。

「早速マギたちに伝えなければ」
「ああ、がんばりたまえ。本はわたしが片づけておこう」

 帽子をかぶり、さっそうと駆けていくビダーシャルを、図書館長ことアーミティッジは目を細めて見送った。




[29710] 少年は救いを求め
Name: 義雄◆285086aa ID:ec65c40e
Date: 2012/04/08 19:45


「『土』のギーシュ」

 薔薇をくわえた少年が髪をかき上げながら言う。

「『風』のマリコルヌ」

 小太りの少年がマントを翻して言う。

「『水』のレイナール」

 理知的な少年が眼鏡に手をかけて言う。

「『火』のギムリ」

 背の高い少年が筋肉を誇示するように言う。

『我ら』

 ばばっと四人は思い思いのポーズをとりつつ叫ぶ。

青銅薔薇騎士隊ブロンズローディアン!」
疾風怒濤騎士隊しっぷうどとうきしたい!」
水精霊騎士隊オンディーヌ!」
剛腕紅蓮騎士隊マッシブイフリート!」

 一見統制がとれていたのに、口から飛び出た言葉は全然違っていた。

「……いや、ぼくが隊長だから青銅薔薇騎士隊にしようって決めたじゃないか」
「モンモランシーとよりを戻しそうな奴は黙っててくれ。略称は嫉妬騎士隊で頼む」
「いやいや、ここは歴史ある部隊名をつけることで注目度をあげるべきだと言ったはずだ」
「強そうな名前にした方が名前負けしないようがんばるからいいだろ?」

 口々に自分の考えた部隊名を押し付けあう少年たち。小雨で薄暗い街中だというのに、そんな雰囲気は意に介さない明るさがあった。
 あーでもないこーでもないと場所すら気にせず大声で議論をかわす。

「は、恥ずかしい……」
「とても上級生と思えません」

 一行から少し距離をとって、モンモランシーとケティがついてきている。
 モンモランシーは身内というか同級生の恥に頬を染め、ケティはワリと辛辣なことを口にする。
 ここはトリスタニアの貴族街、屋敷が建ち並んで人通りが少ないとはいえ男どもの声はそこそこ大きい。傘をさす習慣があまりないハルケギニア、女性二人はフードをかぶって顔は見えにくいものの、万一のことがありうる。屋敷の中から見られていたら、しかもそれが縁戚のものだったら。モンモランシーはそう思うといっそきびすを返してしまいたかった。

「しかし、雨がやまないね」
「話をそらすなよギーシュ、部隊名は嫉妬騎士隊だからな」
「いやいやいや、そんな名を歴史に残すとか正気の沙汰じゃないぞ」
「レイナール、ぼくは後世でなんと言われても今を生きる」
「なに良いこと言った風になってやがる。ま、雲の感じから雨は続くらしいぜ。見舞いで会ったミスタ・ギトーが言ってた」

 ギムリが言うとおり雲は分厚く広く、空にあるはずの太陽はうっすらとしか見えなかった。
 オスマンの見舞いのあと、ルイズは王宮に一度戻り、ギーシュたちは才人を見舞うためラ・ヴァリエールの屋敷に向かっている。
 レイナールとギムリを途中で迎え入れ、ぐだぐだ駄弁りながら濡れるのも気にせずはしゃぎまわる男たち。
 そんな若さ爆発の一団に声をかけるものがいた。

「あの……」
『なんだい?』
「こんなところでなにをしてらっしゃるんですか?」

 メイド服をいたって普通に着こなす黒髪の少女、シエスタだった。

「えぇっと、きみは確か、シエスタだったかな。サイトのお見舞いに来たのさ」
「……メイドの名前は憶えてるのね」
「モンモランシー先輩、嫉妬ですか?」
「違うわよ!」

 ギーシュの言葉にシエスタはパッと花咲く笑顔を見せた。

「やっぱりそうだったんですね! 窓からミスタ・グラモンたちの姿が見えたので迎えにあがりました。サイトさんもついさっき目覚めたところですよ」
「お、そいつはちょうどよかった。家からちょっぱってきたワインが無駄にならずに済む」
「ギムリ、きみも貴族ならもっとらしい言葉づかいをだな」
「細かいこと気にしてるとハゲるぜ? レイナール」
「ぼくはハゲない!」

 しかし男たち三人は知っている。レイナールの家系、コルナス男爵家は代々ハゲることを。
 ちょっぴり気の毒そうな顔になりながら、スルーしてあげることにした。

「ミスタ・プロヴァンス。お荷物を」
「良い良い。そんなことしたらギーシュに怒られちまう」
「当然だね。平民貴族問わずレディーには優しく接するものだよ」
「だってさ」

 にかっと、あまり貴族らしくない笑みを浮かべて、ギムリは後方についてくる二人に目をやった。

「なによ、デレデレしちゃって……」
「先輩、今時そういう態度は流行りませんよ。モノにしたいなら押して押す。ツェルプストー先輩からそう教わりました」
「だからそんなんじゃないって言ってるでしょ!」

 声をひそめているせいで、しとしと降る雨音に消されてよく聞こえない。けれどその内容は容易に予測がついて、彼は肩をすくめた。
 ヴァリエールの屋敷の門前でシエスタが合流してからは流石に男たちも騒がず、距離を取っていた女性も近づいて立派な門をくぐる。玄関に続く石畳、植え込みは新緑に濡れまだ花をつけていない。
 屋敷の中は主不在の静けさがあって、出迎えのメイドや執事たちがいたもののどこか空虚なにおいを感じ取ることができた。
 シエスタに先導されて才人の部屋に向かった一行が見たのは、空っぽのベッドだった。

「……え?」
「サイトいないじゃないか」
「そんな、わたしがみなさんを見てから時間がたってないのに。それにデルフリンガー卿も」

 ベッドは誰かが使っていたようにシーツがめくられていて、けれどそこにいるべき人物は消えている。
 すぐそばに立てかけられていた神剣の姿もなく、部屋は底冷えする湿気に覆われていた。

「窓が開いてる。ここから出たんだろうな」

 窓に近づいたレイナールがかすかな風に揺らめくカーテンを指し示した。
 二階ではあったが、さして高くはない。才人ほどの身体能力があれば飛び降りるのに苦労はしないだろう。

「どうしよう、わたしミス・ヴァリエールに任されたのに」
「急いで探そう。二日間眠りっぱなしの身体にこの冷気は応えるぞ」
「早まった真似をするなよサイト……!」





―――少年は救いを求め―――





 冷たい雨にさらされる市民の足は早い。

「相棒、戻らねば身体を冷やすぞ」

 なんの考えもなくラ・ヴァリエールの屋敷を抜け出し、人通りの少ない貴族街を進み、最も広いブルドンネ通りへと出た。
 誰もが王都という都会の中、無関心ですれ違いながらそれぞれの目的を目指す。無論フードをかぶっていない才人に目を向けるものもなく、こういうところはどこも変わらないのだと、少し不思議な感じがする。

「メイドの娘にも心配をかけているだろう」

 雨のせいなのか、タルブでのことがあったせいか。平時は人が溢れ身動きをとりにくい通りに、いつものような活気はなく、さして労なく進むことができた。
 普段なら雑音に包まれている街は、雨の音しか聞こえない。店の呼び込みを行う者もおらず、時折馬蹄の石畳を叩く音が通り抜けていく。

「見舞いに来た友人に顔を合わせぬというのも不義理であるぞ」

 なにかに導かれるように、あるいはなにかから逃げ出すように、才人は無言で足を進める。
 背中のデルフリンガーにも反応を見せず、街並みが切れてもただただ死者のように歩き続け、開けた練兵場についた。晴れていたなら訓練に勤しむ兵がいるであろう場所に、人の気配はない。人型を模した鋼の前で、才人はようやく足を止めた。
 デルフリンガーを抜き払い、横薙ぎの一撃を見舞う。
 メイジの“ブレイド”であってもたやすく両断できぬ鋼を、才人は神剣の一振りで斬り捨て、ずれ落ちた人型は重たい音をたて、ぬかるんだ地面にめり込んだ。

「なぁデルフ」
「なんだ相棒」

 うつむきながら、全身ずぶ濡れで才人はこぼしはじめた。

「俺って、なんだ」
「人であり、ガンダールヴにしてリーヴスラシル。アルビオンの英雄という肩書もあったな」
「俺、子爵さんを刺したんだよな」
「ああ、某をもって子爵の心臓を貫いた」
「俺が、子爵さんを殺したんだよな」
「厳密には違う。ワルド子爵はすでに死んでいた」
「俺がやられてなきゃ、タルブはなんとかなったんだよな」

 ぽつりぽつりと、雨音にかき消されそうなほど弱々しい言葉は、すべてが彼自身を責めるものだった。
 力なく握っていた握りもすべり、手からずるりとデルフリンガーが抜け落ちて力なく地面に横たわった。

「ガンダールヴなのに、リーヴスラシルなのに肝心なときに気絶してた! 隊長が訓練してくれて、ケティを救えて、それで調子に乗って! 俺が油断してなけりゃ全部全部、ずっとよかったはずなのに……」
「それは違う! 虚無の使い魔とはいえ、一人で戦況を変えられるものは数少ない」

 慟哭は雨音に溶け、両手で顔を覆ってもなおこぼれ落ちる雫は雨に混じって地面に滲みこんでいく。

「相棒はちっぽけな人間にすぎない。虚無が二人、使い魔が一人。初代の邪神に比べればこそあの巫女は弱いが、それでも歴代のものより遥かに強い。容易に倒せると思うな」
「だけどっ、だけど……!」
「誰しも同じことを言っていた。誰しも後悔に塗れ、それでも立ち上がってきた。己の過ちと弱さとを認め、勇気を奮い、そうやって立ち向かって六千年という歴史を積み重ねてきたのだ」

 淡々と、少年の激情を飲み込むかのように神剣は言葉を連ねる。
 遥かなるときを往くデルフリンガーの言葉には、人もエルフも持ちえない重みがあり、けれど才人には届かない。

「それでも、俺は、まかされたんだ」

 あの焼け落ちる城を憶えている。

「子爵さんに、星を頼むって、まかされたんだ」

 貫いた刃の感触を憶えている。

「強く、強くなったはずなのに」

 まとわりついた後悔のにおいは雨をもってしても消えず、ぬかるみに膝をついた才人はただただ濡れていく。助言者たるデルフリンガーもなにも言わず、なにも言えず。
 泣き止まぬ天を仰いだ瞳にも雫は満ち、いっそこの感情ごと溶けだしてしまえばと少年は願う。涙は上澄みのみを含んで零れ落ち、悔恨は心に堆積していく。
 雨の地面をたたく音だけが支配する練兵場で、才人の耳は偶然違う物音をとらえた。試合用に整えられた石畳をブーツが叩く音であった。

「少年、そこでなにをしている」

 デルフリンガーのものとは違う低い声。
 ゆるりと顔だけ振り向いた才人の視界には、ワルドと同じく羽根つき帽子をかぶった壮年の男が佇んでいる。貴族であることを示すマントを羽織り、不思議なことに周囲は雨が避けていく、歴戦の戦士がもつ空気を漂わせる男であった。
 ブラウンの短髪に威厳ある髭、マントで全体的な輪郭はわかりづらいものの、鍛え上げた肉体は隠し切れていない。

「その鋼はお前が斬ったのか?」

 ブーツが濡れるのを気にも留めず、ゆっくりと才人に近づいていく。
 丁度才人の間合いである五メイルの地点で彼は足を止め、それから少し驚きを見せた。

「……ガンダールヴの少年、サイト・ヒラガと言ったか」
「そこな貴族殿、何故それを知っている。あいや、申し遅れたが某、名をデルフリンガーと言う」
「ガリアの知恵袋である神剣殿、デルフリンガー卿のお噂はかねてより聞いております。名乗り遅れました、マンティコア隊隊長、トレヴィル・ド・ゼッサールと申します。職務上耳にする機会があったと言っておきましょう」

 緩やかに、そこが宮廷であるかのように一礼をする。
 ド・ゼッサールはトリステインに三つある魔法衛士隊のうち一つ、マンティコア隊の隊長を務めており、マザリーニやリッシュモンの信頼篤く、新たに王宮内で邪神に対抗する人材として目されている人物でもある。
 トリステイン王国内での地位は高く、タルブ開戦の前に才人がガンダールヴであることを知らされていた。
 
「もう一度聞く。その鋼を斬ったのはお前か」
「……そうです」

 いかにも武人然とした態度でゼッサールは問う。それまでじっと押し黙っていた才人はぽつりと、一言だけで返した。

「そうか」

 言って、ゼッサールはゆるやかに左手の手袋を外し、叩きつけた。

「落ち込んでいるところ悪いが、決闘を挑む」

 腰に帯びた杖剣をすらりと抜いてかまえる。いつの間にか避けていたはずの雨は彼を打ち、見る見る内にそのマントを濡らしていく。
 才人は、ただぼうっと彼を生気のない眼で見ているだけで、立ち上がりもしなかった。

「ド・ゼッサール殿、トリステイン王国法で衛士隊に属する者の決闘は禁じられている。鋼鉄の規律をもって統率されているマンティコア隊隊長ならば、知らないはずもあるまい。」
「無論、弁えております。先代の隊長から身体に叩き込まれましたからな。ただそれでも」

 ゼッサールの顔に冗談めいた色は見えず真剣そのもの。彼は今、本気で才人と戦うつもりなのだと、全身から立ち込める気迫が証明していた。

「先達として、男として、戦わねばならぬときはある!」

 叫びながら、ゼッサールは疾駆した。魔法もなにもなく、単純な身体能力で一直線に走り、鋭い打突の一撃を放った。
 それに対して地面に放り出していたデルフリンガーを瞬時に抜き払い、立ち上がると同時、地面からの摺り上げる一閃を才人は見舞う。
 空中で噛みあった刃が甲高い音を上げる。

「あ……」
「それでいい」

 しまったという顔をした。
 応戦するつもりはなかった。今はなにもかもがどうでもよかった。なのに、身体が勝手に動いた。
 驚いている才人に対し、ゼッサールは再び畳みかける。無心で、戦う理由も見つけられぬまま応じる才人は、ひたすらに護りを固める。

――上手い。

 才人が感じたままを表現すればその一言に尽きる。
 攻撃が重いわけではない。むしろガンダールヴの膂力をもって繰り出される才人のどんな攻撃よりも軽い。
 かと言って速いわけでもない。筋力がなければ素早い剣撃が出せるはずもなく、これもまた才人に劣るものばかり。

 だというのに才人はペースをつかめないでいた。
 相手の突きに対し、強烈な袈裟がけで杖剣を斬ろうとすればそれはフェイントで、すぐさま本命の二撃目が襲い掛かり、じりじりと後退を余儀なくされる。
 大きく引き離してデルフリンガーの刀身の長さを生かそうとしても、ゼッサールはいつの間にか間合いを取り戻し、激しく攻め込んでくる。
 牽制しようとしても思惑が読まれている如く、ゼッサールは距離をつめ攻撃を連ねる。
 強いのではなく上手い。年季の差というものが如実に感じられる戦いであった。

「強い、な」

 しかし、とゼッサールは呟く。

「圧倒するほどではない」

 すれ違いざまの一撃を才人はなんとかはじき返し、次の攻撃に備えたが、ゼッサールは一度大きく距離を取った。
 最初のときと同じ、約五メイルの間合い。

「膂力は強く、剣速も疾風のようだ。基本に忠実であり、眼もいいから咄嗟のことにも対処できている」

 ゼッサールは静かに、言葉にして確認しながら語りかけてくる。

「だがそれだけだ。この程度では私を破ることはできん」

 杖を振るい雨露を弾き飛ばす。ひじを曲げて剣柄を胸に、天突くかまえをとった。

「魔法を使う」

 どこか独り言めいた宣言、直後に才人の後方から圧縮された空気が襲い掛かった。
 『風』系統のスペルは不可視の攻撃が多い。カリーヌとの訓練ではそのことを存分に叩き込まれ、音と肌の感触で察知するよう鍛えあげられている。咄嗟に右へ跳んで回避することはできた。
 だが、ゼッサールは才人の行動があらかじめわかっていたように距離をつめる。襲い来る剣撃を跳ね返せたのは幸運であった。

 才人の背筋に冷や汗が伝う。
 アニエスは強かった。しかし鍛錬を重ねるうち、頭角を示した才人は勝てるようになり、これ以上はあまり役に立たぬと基礎訓練に終始するよう指示された。
 カリーヌはアニエス以上に強かった。彼女に対し、今もって才人は勝率五割を超えていない。しかしそれは魔法ありきのもの、単純な剣術なら才人が負けることはほとんどなく、九割以上の勝ち星をつけていた。

――強いなんてもんじゃない!

 剣技のみでも伯仲、もしくは相手に分がある。そこに魔法を使われれば、結果は言うまでもない。

「あァッ!!」

 ここではじめて、才人は吼えた。踏み込みに気合を乗せて、ゼッサールへ殺到した。
 ゼッサールは魔法衛士隊に伝わる特有の詠唱技法、相手にスペルを悟らせないため口内でルーンを反響させ、魔法を発現させる。閃光のごとき早業であった。

 ふっと、才人の身体が宙に浮いた。
 しっかと大地を踏みしめていたにも関らず、足は硬い感触を伝えない。次の瞬間には視線が空を向き、強かに地面へと打ちつけられた。
 前後左右ではなく、下方からの“ウィンド・ブレイク”による奇襲。カリーヌからも教わっていないそれは、才人の意識の埒外にあり、彼から一切の行動を奪う。

 ゼッサールはなおも詠唱を重ねる。
 倒れた相手に対する中距離からの魔法乱打、本来ならば二人でことにあたり、一人が相手を倒し一人がその間に詠唱を済ませる、教本にすら載っている基本戦術は、ゼッサールほどの使い手にかかれば一人でもたやすく決行できる。
 ひたすらに『風』のドットスペルを打ち放ち、才人は防戦一方で立ち上がることもできずひたすらにデルフリンガーでさばいていく。

「戦いの組み立てが甘い。攻め気が足りない。勝とうと言う意志が見えん」

 ゼッサールは語りかける。仮にも決闘相手にかける言葉ではなく、どこか指導めいた話であった。
 喋っている間には魔法も止み、才人は立ち上がりつつ大きく距離をとった。そんな彼に、ゼッサールは失望の視線とともにため息をつく。

「ガンダールヴがこの程度とは、ワルド子爵も無駄死にか」
「あんたになにがッ!!」

 その言葉に才人はかっと血が上った。ガンダールヴは心の震えを力とする。先ほどとは打って変わった強烈な打ち込みを見せ、激しく攻め立てた。
 それに大きな動揺も見せず、ゼッサールは冷静に対処していく。一つ一つの反撃は小さくとも確実にリズムを崩し、攻めていたはずの才人はいつの間にか守勢に立たされている。

――勝てない。

 心に忍び寄る敗北の気配。それを振り切れるほど今の才人は強くない。
 押し切られるままにもう一度大きく後方へと跳躍する。息は絶え絶えで、だというのに敵対しているメイジはまだ余裕さえ感じさせる。

 ゼッサールは追撃することもなく、それまでの攻防が嘘であったように杖剣を収めた。

「ニューカッスルで生き延びたのが子爵であったなら、おそらく再召喚でガンダールヴになっていたことだろう」

 羽根付き帽子を目深に被りなおし、彼は背中を向ける。

「ワルド子爵の意志、無駄にせぬよう頼む」

――子爵さん、か。

 言って、ゼッサールはマントを翻して練兵場を立ち去る。
 後には雨に打たれる才人とデルフリンガーだけが残された。

「相棒、気を落とすな。あ奴は強い。魔法の威力を度外視すればおそらく公爵夫人をも凌駕するだろう」
「……っく」

 才人はがむしゃらに剣を振り回す。そこにアニエスから教わった型はなく、カリーヌが指導した後を考えることもなく、ただひたすらに剣を振るう。
 無心になろうとしてもへばりついた思考は拭えず、かんしゃくを起こした子どもじみた動きであった。

「強くならなきゃ」
「だが今は身体を休めよ。人間はそこまで強靭にできておらん」
「強く、ならなきゃ……!」

 神剣の声は届かず、ただ強く強く自分に言い聞かせ、剣を振るう。
 雨は降り止まない。才人の髪を、顔をぬらし、瞳からも幾筋かの水滴がこぼれ落ちた。

 市街地からやってきた一羽のフクロウが一人と一振りを見下ろし、元来た方角へと帰っていく。ギーシュたち六人がやってきたのはそれから数分後のことであった。

「サイト、大丈夫か」
「身体が冷え切ってるぞおい」
「サイト様、なんでこんな……」

 口々に声をかけるけれど、才人はただただ緩慢に剣を振るうだけ。

「強く……ならなきゃ……」

 ぎょっとした顔で男四人は才人を見つめた。

「相当参っているみたいだな」
「らしくないぞサイト」

 ギムリが手早く腕をおさえ、神剣をとりあげた。抵抗はされなかった。
 使い魔のフクロウを肩に乗せながら、マリコルヌは見たことがないほど弱っている才人の頭にタオルをかぶせる。
 ケティは貴族の証ともいえるマントをためらうことなく外し、才人の肩にかけた。
 それから、いつか彼がしたように、彼女は濡れるのもかまわず才人を強く抱きしめる。それに対しても彼は反応を示さず、冷たさしか返ってこなかった。

「とにかく火にあたれる場所を探さないと」

 レイナールは口にしながらも、ここから貴族街が遠いことを思い出していた。ヴァリエールの屋敷、もしくは彼らの屋敷であればよいのだが、ここから歩いて二十分近くはかかる。
 夜も近づいてきていて気温はさきほどより下がっている。早いところ身体を温めなければ彼らも風邪をひいてしまいそうだった。
 そこに、ギーシュはとびきりいいことを思いついたようで、自信満々な顔を見せた。

「よし、ぼくにいい考えがある」



 その頃、ルイズは王宮の廊下を歩いていた。
 人の行き来が激しい行政区画と違って、賓客用の部屋が集まっているところは警邏の兵以外に人影は少ない。ルイズにとって幼少期に歩き回った場所であり、勝手知ったる様子で物怖じもせず歩みを進める。
 やがてとある一室の前で足を止め、衛兵に取り次いでもらって中に踏み入った。

「テファ、いいかしら」
「どうしたの?」

 ニューカッスルではじめて出会い、グラン・トロワで使い魔を共にし、タルブでは月夜に語り合った友、ティファニア・モードの下をルイズは訪れている。
 ハーフエルフの少女は机に向かっていて筆を走らせていたようだった。なにをしているんだろうというルイズの視線に気づいたのか、少し恥ずかしげにティファニアは呟く。

「わたしは兄さまたちと比べて、できることが少ないから。せめて手紙を書いているの」

 ティファニアは手紙を隠すように紙の山へと押しやる。一瞬目についた文面は、アルビオンの都市を治める貴族へのもので、部下を気遣うものであった。
 優しい彼女らしいと、ルイズは微笑を隠せない。

「わたしのことより、ルイズはどうしたの?」
「少し相談があって」

 その言葉に今悩んでいることを思い出して、笑顔はかき消えてしまった。
 そんなルイズに対して、今度はティファニアが微笑みを見せる。

「わたしで力になれるなら、なんでも言って」
「ありがとう。その、サイトのことなの」
「サイトの?」
「うん。なんというか、顔を合わせづらいの」

 これは意外なことを聞いたとティファニアは目をまるくした。
 タルブでの彼女らのやり取りは、とても出会って数ヶ月の知り合いではなくて、長年連れ添ったような雰囲気が漂っていた。だというのに、今のルイズは顔を合わせづらいという。

 ルイズはこのことを、彼女の姉であるエレオノールにも相談していた。けれど、返ってきたのはあまりに頼りない言葉ばかりで、しまいにエレオノールはこんなことを言った。

『まあ、確かにわたしは頼りにならない可能性が高いことがなきにしもあらずなことを認めるわ。そういうときは年頃の近い子に聞く者よ』
『姉さま、婚期過ぎてますものね』

 ほっぺがつねられたのは言うまでもない。
 とかく、長女の助言に従ってルイズは年頃の近く、しかも使い魔を共有しているティファニアの意見を求めにきたのであった。

 そんな背景を彼女が知るはずもなくとりあえず疑問に思ったことを口にする。

「なんでそうなったの?」
「……わたしが悪いの」

 しょんぼりした様子でルイズはとつとつと語りだす。

「サイトのこと、わたしは勝手に英雄視してたから。サイトはただの男の子だっていうのに」
「英雄視……」
「前にも言ったけど、サイトはわたしが無理やり『チキュウ』から呼び出したの。戦いなんて身近にないところから、こんな戦場にいきなり投げ出された。サイトは優しいからわたしのことを責めたりしなかった。むしろなぐさめてくれたわ。きっとこれも運命なんだって。わたしはそんな彼に甘えてたの。召喚のゲートをくぐったときから、彼を英雄だって思って」

 それは懺悔であった。彼女の罪を、彼女が罪だと信じ込んでいる事実をルイズは語る。

「けれど、タルブで気づいた。ワルドを倒したサイトは泣いてた。子どもみたいに泣きじゃくってた。わたしは勝手にサイトを英雄だって決めつけてた。歳もほとんど変わりないのに、貴族ですらないのに、そう思い込んでた。きっとそれは辛いことだわ」

 期待は時に重い。『虚無』であることを隠して生きてきたルイズは誰よりもそのことを知っている。
 ルイズの眼差しがどれほど才人に負担を与えてきたのか、彼女には想像するしかできない。だからこそ、きっと自分ならと置き換えて、余計に落ち込んでしまう。

「だから、今はどんな顔してサイトに会えばいいのかわからないの」

 そう締めくくって、ルイズは肩をよりいっそう落とした。口にすればするほどに自戒するところがあったらしく、どんよりとしたオーラを放っている。
 ティファニアは少し困った顔で、思ったことをとにかく声にしていた。

「ルイズ、前にサイトのことをどう言ってたか、覚えてる?」
「前に……」
「ヴェルサルテイユで、無鉄砲で優しいって言ってた」

 あのときのことを、ティファニアはよく覚えている。
 家族以外に対するはじめてのキスだった。はじめて得た使い魔だった。はじめて、友だちかもしれない人ができた。

「わたしも、タルブで少しだけ話してそう思った。サイトは優しい人だって」

 タルブで、月明かりの下語り合ったこともしっかり覚えている。
 仲がいい二人だと思って、そんな二人に少しでも近づきたくて、気づけば友だちになってほしいと言っていた。才人は、もう友だちだと言ってくれた。そんな彼が優しくないはずがないと、ティファニアは信じている。

「だから、ルイズのこともきっと許してくれる」

 ううん、とティファニアは首を振った。

「許すとかじゃなくて、気にもしていないって、そう思う」
「そうかな……」

 なおも不安そうな顔でルイズはティファニアに聞く。それに対する返答は少し違っていた。

「けど、サイトは今すごく辛いと思う」
「やっぱり」
「だからルイズはいっぱいおしゃべりして、サイトの心を軽くしてあげないと」

 それが一番だと言わんばかりの眩い笑顔。じんわりとその意味が心の中にしみこんでいき、ルイズはうんと頷いた。

「そうする。サイトが眼を覚ましたら絶対にそうするわ」
「うん、わたしもお邪魔して、三人でおしゃべりしましょ?」
「ええ、きっと素敵だわ」

 そのときの光景を二人して想像してみる。才人を中心に二人が座って、お茶なんかを飲みながら陽の当たるテラスで、時間も気にせずにおしゃべりに興じる。
 きっとそれは素敵なことだ。だから。こんな戦いはすぐに終わらせないといけない。
 そう考えていたとき、外の衛兵が声をかけてきた。入室を促して入ってきたのは、ウェールズだった。
 ルイズは王族に対する礼儀として立ち上がり迎えた。それに対してウェールズは手で制し、ドアのすぐそばで立ち止まる。

「ウェールズ殿下」
「こんにちは、ラ・ヴァリエール嬢、テファ。顔を見に来ただけなんだ。ラ・ヴァリエール嬢が来てくれているとは思わなかった」

 あまり時間がない様子であった。どうやら本当にテファの顔を見に来ただけらしく、ルイズは推移を見守ることにした。

「兄さま、なにかあったのですか?」
「数日だけロンディニウムに戻らねばならない。代行も立てる必要があるし、戦力も抽出してきたい」
「いつ帰られるのですか?」
「今日、すぐにだ。風石が惜しいとは言ってられない。正直、私がいない間になにかあるのではと不安ではある。だが国主が一度も戻らぬ大陸に戻りたがる民はいない」

 ウェールズはニューカッスル陥落以来アルビオンに戻っていない。このあたりで一度帰り、王族が健在であることをアピールしなければ無責任な噂がアルビオンにはびこってしまうだろう。
 そうなる前に民心を安定させるため、また来るべき次の戦いに向けて戦力の再分配を行うため、ロンディニウムに戻らねばならない。邪神との戦いだけでなく、その後のことも見据えなければならない国主は、なすべきことが多かった。

「いない間のことはマチルダにも話してある。テファ、無理をしないようにな」

 しかし、ウェールズは激務を感じさせない顔でティファニアをいたわる。それが彼女にとって嬉しくもあり、どこか寂しくもあった。
 言うだけのことは言って、ウェールズは素早く去っていく。風のような人だとルイズは思った。

 入れ替わるように衛兵が声をかけ、今度はメイドがやってきた。彼女が持ってきたのは、どこかルイズが待ち望んでいた報せでもあった。

「ミス・ヴァリエール。お屋敷から使いの者が来ています」
「わかったわ、すぐ行くから待たせておいてちょうだい」

 用をすませてささっと部屋を出て行くメイドを見送ってから、ルイズはティファニアに向き直る。

「サイトが起きたみたい。一度お屋敷に戻るわ」

 その顔には、やってきたときとは比べ物にならないほどの笑顔があった。

「ルイズ、がんばって!」
「うん!」

 きりりとした顔つきでティファニアはこぶしを握って、脇をしめたままぐっとひじを曲げて両手を掲げた。ガッツポーズの変形、タルブ前夜に才人が教えたものだった。
 すごく胸が強調されるポーズをとっているティファニアに見送られ、ルイズは屋敷へと急いだ。



「というわけで、ここなら暖まれるはずさ!」
「なんでやねん」

 意気揚々と狭い道を往くギーシュはある店の前で止まり、ばっとマントを翻す。モンモランシーは反射的に田舎なまりの強い言葉でツッコんでいた。

「とにかく入ろう」

 二人のやり取りをそっけなくスルーして、五人は店の中に足を踏み入れる。看板にはこう書いてあった、『魅惑の妖精亭』と。

 トリスタニアの表の顔がブルドンネ街というなら、裏の顔はチクトンネ街である。飲み屋をはじめ、どこかアングラめいた雰囲気が漂い初心者にはオススメできない通りだ。
 七人が足を運んだのは、チクトンネ街が練兵場から近かったからであり、またここで暖まってついでにアルコールを入れれば才人の気分も持ち直すのではないかという、ギーシュのかるい考え故であった。

 店内は半分近くの席が空いているものの、酔っ払いの熱気に包まれていて、かるいアルビオンなまりの混じった声や、トリスタニア市民特有の早口おしゃべりなんかも店をにぎやかしていた。案内に現れた給仕の制服にレイナールは面食らいながらも暖炉近くの席に陣取ることができた。
 七人分のヴァン・ショーと適当なツマミを頼み、とにかく才人を暖炉に当てることにした。隣にはぴったりとケティが貼りついてしきりに背中や腕をさすっている。そんな甲斐甲斐しい姿にも才人は反応を返さず、顔色は青白いままであった。

 ほどなくして木製のコップになみなみと注がれたヴァン・ショーが運ばれてきた。才人も受け取りはしたが口にすることはなくじっと手に持ち、当然彼の世話をしているケティも飲もうとはしなかった。
 ギーシュたちは彼らを横目にヴァン・ショーを口にする。雨で冷えた身体にじんわりと熱が染み込み、また香辛料も温かみを与えてくれる。そこそこいいワインを使っているのか、味も悪くはなかった。

「ま、コルナスのワインほどではないね」
「プロヴァンスのワインにはかなわないな」

 領地がワインの産地として知られるレイナールとギムリはなにやら対抗心を燃やしているようだが、そんなことはどうでもいいやとマリコルヌは思った。
 今気にするべきは一つだけ、彼らの友である平賀才人の様子だった。

「デルフリンガー卿、なにがあったのですか?」
「戦い、負けた。それだけの話だ」

 ギーシュの疑問にデルフリンガーは答えを濁す。表情は剣なのでわからないが、なにから説明すればいいのかわからない困惑が声音から感じられた。
 六千年の時を往く神剣殿にも判断のつかないことがあるのかと、ギーシュはそこが不思議だった。

 才人に目をやる。店員に言って毛布を借り、それをかぶせてはいるが一向に顔色はよくならない。 肉体面ではなく、精神面でなにか問題があるのかもしれない。
 不安げな眼差しのケティにも答えようとせず、ただぼうっと暖炉の灯りを見つめている。いや、見つめているのかも定かではない。揺れる炎を通してもっと遠く、昔の出来事に思いをはせているように、あるいはすべての思考を放棄して夢と現の狭間を漂っているようにも見えた。

「服を乾かしたほうがいいんじゃないだろうか?」
「そういえば、兄上から濡れた服を着続けていると意味がないと聞いたことがある。きみ、ちょっといいかい?」

 レイナールの指摘にもっともだと頷いたギーシュは一人の給仕を呼び止めた。腰まである長い黒髪で、愛嬌がある顔立ちの少女だった。年のころはギーシュたちとおそらく大差ない。

「ご注文でしょうか」
「いや、部屋を借りたい」
「少々お待ちください。ミ・マドモワゼルをお呼びします」

 ほぼ全員が貴族のマントを羽織っているせいか、少々固い態度だった。ちらと才人に目をとめて、それからそそくさと店の奥へと引っ込んでいく。
 マリコルヌはまたかまたなのかコノヤロウとひきっと顔がひきつる。ギーシュは大きく開かれた胸元に目を奪われ、それがモンモランシーに気づかれて思いっきり耳をつねられた。

 少したって、やってきたのはなんとも表現しにくい黒髪の男性。
 顔立ちは悪くない、余計な口紅を落としてヒゲを整えれば男前で通るだろう。ただし服装が壊滅的にアレだった。地球で言うタンクトップ、ハルケギニアではめったに見かけない類の服で、しかもピッチピチでヘソチラだった。もっじゃもじゃな黒い密林が隙間から垣間見えて、しかも筋骨隆々だからなおのこと気色悪い。
 なんでこんなのがミ・マドモワゼルと呼ばれているんだと、一同はざっと座っている椅子ごとドン引きした。知らぬは暖炉をぼんやり眺めている才人と、彼の世話を焼いているケティだけだった。

「本日は魅惑の妖精亭をご利用くださいありがとうございます。店長のスカロンと申します」
「あ、ああ」

 仕草はなよっとしているのに声は野太い。勘弁してくれとギーシュは天井を仰ぎたくなった。一瞬でもモンモランシー以外の娘に瞳を奪われた罰がコレだというなら、始祖はなんと残酷なのだと教会に駆け込みたくなるほど気落ちする。

「その、まことに申し訳ありませんが、当魅惑の妖精亭では妖精さんによる過度なサービスや、ご休憩の提供は行っておりません」

 心底申し訳なさそうに、緊張すら感じさせる声色でスカロンは言う。
 ギムリはそれでピンと来た。

「彼の服を乾かしたいだけだ。そちらの店員をどうこうしようというわけではないし、ぼくらが使うわけでもない。ほんの少し融通を利かせてくれないか」
「そういうことなら、承知しました」

 スカロンは目に見えてほっとした様子だった。けれど、ギムリを除く一行はまったく理解した風ではない。なにを言っているんだろうこいつらはと、顔中に疑問符が貼りついていた。

「貴族の権威と力ってやつを傘に来てやりたい放題するやつがたまにいるらしいぜ? 例えば健全な店の女性を手篭めにしたりな」
「な、な、そんな腐ったような」
「事実さレイナール。じゃなきゃ店長さんもこんなにビビってなかっただろうよ」

 レイナールがスカロンに目を向けると困った顔をされた。つまりはそういうことかと、ため息をつくしかない。

「では、お連れ様をご案内しますね。平民のものでよければ服も貸しますが」
「ああ、いや買うよ。これで頼む」

 すっとマリコルヌは一エキュー金貨をスカロンに手渡した。平民の服なんて銀貨数枚で買えるものがほとんどで、金勘定に長けたレイナールは彼をひじで小突いたが、マリコルヌはそしらぬ顔であった。

「貴族さま、これほどの服はウチにありません」
「いいんだ。それより早く彼を頼む」

 最初スカロンは困惑して返そうとしたけれど、マリコルヌは頑として受け取らない。腕組みまでして頑固親父然とした態度をかもし出していた。

「こいつは言い出したら聞かないから、早いとこ部屋へ連れて行ってくれ」
「じゃ、ぼくが付き添うか」
「わたしが行きます。ギーシュさまはいらないです」
「い、いらな……」

 かつて仲の良かった少女のあんまりな扱いにガーンとショックを受け、うなだれるギーシュの背中をよしよしとモンモランシーが叩く。ケティはふっと金髪の少女と目をあわし、邪悪な笑みを送った。

『先輩、せいぜいギーシュさまとお幸せに』

 目は口ほどにものを言う、との言葉があるが、実際にそれを実感できたのは彼女の十七年の人生の中はじめてであった。

――ケティ、おそろしい子!

 ちょっと前までは純真だった栗毛の少女になにがあったのか、モンモランシーはわなわな震えるしかできない。

 そんな乙女たちのやり取りを聞き流しつつ、マリコルヌの説得をあきらめたスカロンは才人に目をやった。
 そこで、ぴくりと震え、確認するように声をかけた。

「あら、ひょっとしてあなたサイトくん?」
「え?」

 それまで踊る火を見ていた才人が明白な反応を示した。振り向いて、スカロンの黒髪に目が留まる。

「シエスタちゃんから話は聞いたわよ。武雄おじいちゃんと同郷なんですってね」
「あ……」
「はじめまして。シエスタの叔父のスカロンよ」

 とりあえず部屋に案内するわと、スカロンはフロアをやけに女性的な歩みで進んでいく。

「サイトさま、いきましょう」

 ケティが才人の手をとって立ち上がらせ、そのまま手をつないだまま行ってしまった。
 かつては奥手だった面影がまったくない。

――今のケティとギーシュの取り合いになってたら。

 きっと勝ち目はない。まだ落ち込んでいるギーシュの背中をさすりながら、良かったなあとなんとなく思って、そんなんじゃないと腹が立ってきてパシンと背を叩いた。

「マリコルヌ、お金は大事にしたほうがいいぞ」
「昔サイトが言ってたんだ。『釣りはいらねぇ、とっとけ』っていうのがカッコよくてきっとモテるって」
「それ、確か渋い人限定って言ってたよね?」
「そうだっけ」
「確かそう」
「……くそっ!!」

 マリコルヌはどこまでも平常運転であった。


 一方店の奥、二階に通された才人たちは狭いベッドルームでスカロンを待っていた。
 清掃は行き届いているのかホコリは見当たらないけれど、ボロさは隠し切れていない。ベッドがでんと壁に寄せてあって、他にはロウソクと小さなカゴしか置いてなかった。平民の居酒屋なんてこんなものかとため息をついて、ケティはベッドに、才人の隣に腰を下ろす。

「なんだかベッドしかない部屋に二人っきりってドキドキしませんか?」

 ケティのジャブにも顔色ひとつ変えない。
 タルブ以前、魔法学院で少しだけ時間をともにしていた頃なら、あたふたと慌てて流されると思っていた。けれど今は違う。

――これだけ反応されないと、ツェルプストー先輩から教わったことも試せない。

 優秀な『火』のメイジであり、情熱をその身にもてあましているキュルケとケティは、元々親交がなかった。はじめて喋ったのは才人と出会ってから。それ以来、実は面倒見のいい先輩をケティは慕っていた。ついでに見習わなくていいところまで積極的に取り入れている。

「サイトさま」

 少しだけ空けていた距離をつめ、ぴったりと寄り添う。彼の顔を見ても、視線の先はようとして知れない。どうすればいつもの彼に戻ってくれるだろうかと、ケティは思い悩む。

――いっそ押し倒すくらいしたらいいのかな。

 男女の仲における究極手段としてキュルケから教わっている。
 ケティも子どもじゃない。貴族の務めとして子をなすことはお家の大事である。そういった行為の末、ああなってこうなってゴニョゴニョなるのはもちろん百も承知であった。
 身をささげてもいいくらいには才人のことを好いている、いや、狂信しているケティは、そういう思考しつつも実際に行動にうつすことはない。
 こんなところでことを起こしてもすぐに邪魔が入るだろうし、なにより先走って才人に嫌われたくはなかった。今は雌伏のときだと自分を抑え、じっくりと、ときに激しくアプローチをかける計画が頭の中にはすでにある。

――まだ慌てるような時間じゃない。

 才人が何度か口にしていたフレーズがすっと頭に思い浮かぶ。そのときの彼は、腰を落としてみなをなだめるように手を突き出していたけれど、さすがにそこまでまねする気にはなれなかった。恋する乙女は複雑怪奇なのだ。

 かるく才人のほうによりかかる。服が濡れてもかまわなかった。

――今はこれだけでいいや。

 負担にならないほどそっと体重をかける。それだけで不思議なほど心のうちからこみ上げてくるものがあって、落ち込んでいる才人には悪いが満足した。

 ふわふわした気分のケティはノック音を聞いた。またあのオカマっぽいおっさんかと身構えてから入室を促し、拍子抜けした。
 入ってきたのはギーシュが声をかけた黒髪の給仕だったのだ。

「服をお持ちしました」

 よくよく見ると彼女はスタイルがいい。キュルケほどではないにしろ、ケティよりは遥かに強そうだ。違う意味で身構えてしまいそうになる。
 そんなケティの内心など当然知るはずもなく、給仕は服を置いて、それからケティのほうを見た。
 ケティもなんとなく彼女と目を合わせる。それきり、なぜか声を出すことも泣く二人は互いにじっと見つめあう。変な沈黙がその場にはあった。

「あの」
「なに?」
「出られないのですか?」
「わたしにはサイトさまのお着替えを手伝うという崇高な使命があります」

 給仕の娘は崇高の意味が知らない間に変わったのかと一瞬きょとんとしてしまう。それから、ああと納得した風でそそくさと部屋を出て行った。

「というわけでサイトさま、お着替えしましょうっ!」
「……」

 なにが嬉しいのかケティはムダに滑らかな動きで手をわきわきさせ、才人に迫ってくる。表情はゆるみっぱなしで年頃のレディーがするのにふさわしいものではない。
 才人は立ち上がり、ケティの肩をつかんで、そっと背中を押し部屋の外へと追いやった。

――慌てる時間じゃないって思ってたのにッ!

 廊下ではケティががっくり膝をついていた。

 黒髪の少女が持ってきた服を見て、のろのろと才人は服を脱いだ。肌に貼りついていた生地の感触が消え、ひどい寒気を感じた。
 麻のシャツを着ると幾分和らいだが、部屋から出て行く気にはなれなかった。手放すなとは言われていたデルフリンガーも今はそばにいない、ギーシュたちが預かっている。
 バネもなにもない木のベッドに腰を落とす。階下からは陽気な声が聞こえる。とてもそれに耳を傾けられるような気分ではなかった。

「ゼッサールさん、か……」

 時をおいたせいか、着替えたせいか、気持ちは幾分持ち直し、さきほどのことを思い出した。剣を交えた壮年の貴族の名を口の中でころがす。

 あれを決闘と呼ぶにはお粗末すぎた。殺意はみじんもなかった、彼は才人を殺す気なんて最初からなかったのだ。弱者をいたぶろうという下種な人物でもないように見えた。
 魔法学院でのカリーヌや、タルブでのワルドと同じく、あれは調練だったのだろう。

――なんでだ。

 才人にはそれがわからない。
 あんな雨の中わざわざひと気のない練兵場に来て、戦って。ゼッサールはなにがしたかったのか。

 続いて頭の隅から沸いて出たのはワルドのこと。
 タルブでの戦い、途中から彼に意思が戻りつつあるのを才人は気づいていた。でも止まることはできなかった、ルーンの咆哮と死にたくないという思いで剣をとめることは。
 そのことは才人とデルフリンガーしか知らない。
 いつか言おうと言葉を胸にしまい、両手で顔を覆う。こうしてゆっくり呼吸しているだけでマシにはなりそうだ。

――人を殺した。

 それも命の恩人であった人物を。
 デルフリンガーはすでに死体であったというが、彼にはかすかながらも意思が残っていた。血は出なくとも人の形をしていた。訓練ではありえない肉を裂いた感触はいまだにこの両手にこびりついている。
 なら、それは人間だと才人は思う。
 異世界に来て、戦って、挙句の果てには人を殺して。運命というのは残酷に過ぎる。いや――。

「運命とは地獄の機械である、だっけか」

 口にしたのはとあるマンガのフレーズ、元はフランスの詩人の言葉。目にしたのはだいぶ前のこと、それでも不可思議に頭へ刻み込まれたものであった。

――あの人は、なにを思ってそう言ったんだろ。

 マンガの登場人物の内心を、すべて推し量るなど平賀才人にはできない。
 けれど、そう口にしたくなるのはわかった。

――運命なんてロクなもんじゃない。

 どさっとベッドに身体を投げ出す。木造の天井越しに雨の音が響いて、通りを行く人々の声は消されている。
 雨のにおいを胸いっぱいに吸い込んで、吐き出そうとした。

「やっほー!」
「どぅぇぃ!?」
「驚かせちゃったかなー。ま、いいけど」

 ノックもなし、バタンと勢いよくドアを開け、黒髪の少女が飛び込んできた。

「ふむ」
「……なに?」
「ふつうね」

 飛び起きた才人をじろじろと眺め、少女はすぱっと断言した。

「シエスタから聞いてたもんでもーちょっといい男かなあと思ってたのよ。恋は盲目って言うしこんなもんかあ」

 ものすごく失礼なことを言われている気がする。
 ちょっぴりむかっときた才人は、なんだこいつこのやろうと思いながら、少女に向き直った。

「あたしジェシカ、シエスタの母方の従妹よ。よろしくね」
「シエスタの……あ、俺は平賀才人」

 言われて見れば似ている。ジェシカは黒髪黒目だし、顔立ちも鼻が低くてどこか日本人の特徴を残していた。
 それと魅惑の妖精亭の制服のせいで胸元が開いている。胸の大きさまで似ているとは、と変なところに感心した。

「とりあえずこれサービスね。お連れさんはなんだかんだ楽しくやってるからここで食べちゃいなさいよ」

 ベッドに腰掛けて自分の膝の上にジェシカはお盆を置く。そこには深い器に色んな食材が切られたものと、平皿にのせられ黒い液体がかかった白い直方体、最後に房付きの豆が載っていた。

「ひいおじいちゃんと出身地同じなんでしょ? 普段は店に出さないけどパパが特別にって」
「あ、ああ」
「はい、あーん」
「って、それは恥ずかしい!」

 店ならこれでチップとれるのになーとぼやきながら、ジェシカは深皿とスプーンを手渡した。
 勧められるままに才人は口をつける。懐かしい味がした。

「これって」
「タルブ名物ヨシェナベよ。ウチの冬場の主力料理なんだから」

 日本で、自宅で口にしたのとは違って味が薄い。入っている食材も多くないし、肉もない。それでもじんわり心にしみる暖かさだった。

「おいしい」
「でしょ? ジェシカさんお手製の目玉商品だからね」

 カラカラと笑いながら才人の背中を叩く。
 そっちもいいけどと器をひったくられ、平皿を渡された。同じく木のスプーンですくい、口に入れた。

「ひいおじいちゃん、それ作るのにだいぶ苦労したって聞いたわ。よくわかんないけど海に水汲みに行って、豆を色々蒸したりとかして。十年くらいかけてできたんだって。かかってるのは魚醤ガルムね。名前はヤッコ」

 ジェシカの解説を聞きながらスプーンが止まらない。
 魚醤は才人の知る醤油と味わいが違っていた。でも懐かしい。一息に平らげて、ヨシェナベのほうもすぐ器を空にしてしまった。
 残されたのは房付きの豆。

「枝豆……」
「やっぱり知ってるんだ。豆なんてあんま食べるものじゃないのに」

 ハルケギニアで豆といえば家畜用の飼料として使われることが多い。食べるにしてもポタージュをはじめ、加工してしまうことがほとんどだ。
 若い大豆をとって、塩ゆでにするだけのシンプルな調理法。美味しいとは最初誰も思わなかった。口にすると案外いけることがわかって、今では魅惑の妖精亭で愛されている。

「やっぱおなか空いてたんでしょーって、なんで泣いてるの?」

 口にしたものすべてが懐かしく、気づかぬうちに才人は涙をこぼしていた。ジェシカに言われて気がついて、ぬぐってもぬぐっても止まらない。
 仕方ないなあと弟に対するような態度で、ジェシカはハンカチを目元に当てる。それでも涙は止まらなかった。

「なんか辛いことあったんでしょ? そういうときは思いっきり泣くのがいいのよ」

 よしよしとジェシカは頭をなでて、才人を自分の胸へと導いた。傷ついた才人には、人のぬくもりがこれ以上ないほど気持ちよかった。

 やがて泣き止んだ才人は、ゆっくりとジェシカから離れる。

「その、ありがと」

 恥ずかしそうにお礼を言う彼に、ジェシカはにっこり笑った。

「十エキューになります」
「金とるの!?」
「うそうそ、盛大に飲み食いしてお店の売り上げに貢献してくれるとお姉さん助かっちゃうかなー」

 そういってジェシカはけらけら明るく笑い飛ばす。
 見ているだけで元気を分けてもらえそうな、そんな快活な笑いだった。才人もぐしぐしと袖でこすって、勢いよく立ち上がった。

「あーもう、最近泣いてばっかりだ」
「いいじゃんいいじゃん、泣けるうちに泣いとけば。大人になるとできなくって酒に逃げはじめるんだからさ。ま、シエスタもいるし優しいご主人さまとやらもいるらしいじゃない。色々と話せばもっと楽になるわよ」

 そんでウチを使ってくれると嬉しいなーと、どこまでもジェシカはマイペースに笑う。

「ジェシカ、ありがとう」
「どういたしまして」

 気分も持ち直したので才人は部屋を出て、階段を下りた。フロアに戻った才人を待っていたのは奇妙な面子と空気であった。

「お、元気になったみたいだな」

 ケティがどんより落ち込んでいる。五杯ほど空のジョッキが並べられた机にべちゃっと突っ伏し、「ツェルプストー先輩、ダメじゃないですか」とか「もっと清純さを前面に」だとかをぶつぶつ呟いて、対面に座っているモンモランシーも微妙な表情をしている。
 声をかけてきたギムリと他三人は見慣れない青年たちと席をともにしていた。

「ヒラガ殿、お久しぶりであります」

 いきなりアルビオン空軍式の敬礼をされた才人は、なにが起きているのかわからなかった。
 目の前の人物にも、その後ろに立つ二人の軍人も、才人は見覚えなんてない。金髪碧眼で、才人よりもだいぶ背が高い。察するに軍属の人物、それもなかなかの使い手であるように見えた。

「あの、どこでお会いしましたっけ?」
「あのときは確か気を失っておられましたな。数日後、ヒラガ殿の部隊に配属されるクラーク・ウエイト。元ビーフィーター第四十四分隊隊長であります」

 握手を求められたので返す。見た目にたがわずごつごつした大きな手だった。

「タルブで相棒を運んでくれたのはなにを隠そうウエイト殿だ。しっかりと礼を言うように。礼節を欠いては人の世はとんと渡りづらいもので、あれは今から三千二百年ほど前のことであったが……」
「ありがとうございます、ウエイトさん」
「いえ、当然のことをしたまでです」

 デルフリンガーがいつもどおり長話をしはじめたのを聞き流しつつ、才人も席に着いた。

「たまたま騎士隊の名づけ議論が聞こえて席をうつってきたというわけさ」
「小官としては天空聖盾騎士隊スカイシールズというのが良いかと」
「いやいや、アルビオンっぽすぎるじゃないですか。トリステインの近衛隊ですよ水精霊騎士隊は」
「嫉妬隊と言っておろうに!」

 順調にお酒も進んでいるようで、この場で酔っ払っていないものはいないようだ。なんだかんだ楽しくやってるってこういう意味かと、いまさらながらジェシカの言っていた言葉がわかった。

 ギーシュたちが手にしているのはワインのコップで、ウエイトたちアルビオン軍人はビールのジョッキを何杯も空けている。
 ウエイトもジョッキを口にし、そのまま飲み干してしまった。金色の口ひげにはさらにビールの白ヒゲがついている。それに気づかず彼はウィンナーを口に運び、旨そうに咀嚼した。

「うん、トリスタニアは飯が旨くていい」
「ロンディニウムではこうはいきませんからね」
「そこだけがアルビオンの欠点だなあ」

 アルビオンは飯がまずい。それは万国共通の認識であった。
 まず天空にあるから物資の輸送がしにくい。次に標高がありすぎて育成する作物が限定される。最後にアルビオン人の舌はお世辞にも優れているとはいえない。
 この三つの要素のせいでメシマズのレッテルを長年貼り続けられ、しかも全部事実だから反論の仕様がない。貴族に限って言えばそんなこともないが、平民がロンディニウムで美味い飯を食いたければ自炊か外国人の店で食えとまで言われている。

 ウィンナーにそんな味の差があるとは思えない才人だったが、あえては口にしなかった。本人たちもまずいまずいとむしろ嬉しそうに文句を言っているから、一種ジョークみたいなもんだろうと。
 自分もビールを頼んで、一気に飲み干す。

「にが」
「まだまだヒラガ殿には早いでしょう。アルビオンのビールは大人の嗜みですからな!」

 才人にとってあまり美味しくないビールを、アルビオンの大人は喉を鳴らして実に幸せそうな顔で飲み干していく。
 向き不向きかと諦めてギーシュたちの飲むワインに手を伸ばした。渋みも少なく、甘くないブドウジュースみたいだった。

「俺はこのくらいのワインでいいや」
「けっこう若いワインだな、悪くない」
「げ、これグランドプレのじゃないか」
「ここ数年ではじめたのさ」

 だがプロヴァンスのワインが一番だ、いやコルナスのワインだと議論しあうレイナールとギムリ。
 その光景はどこか懐かしくて、魔法学院での時間を思い出す。

「しかし、落ち込んでいたと聞きましたが、持ち直したようでよかった」
「ヒラガ殿、あなたはウェールズ殿下の命を救いました。殿下に多大な恩のある我らにとっても命の恩人同然」
「アルビオン軍人の誰もが望み、それでもできなかったことをあなたは成し遂げたのです。そのことをもっと誇っていただきたい」

 ウエイトと二人のアルビオン人はじっと才人の瞳を見ながら言う。そこに暗い感情はなく、真に感謝の気持ちと才人への思いやりがあった。
 じわりと心のうちが暖かくなってくる。さっきの料理も故郷の味がして嬉しかった、けれど、真っ向から感謝されるのも嬉しいものだと、才人はまた泣きそうになってしまった。
 こみあげそうな涙をこらえながら、力強く頷いた。
 ウエイトはにやっと笑う。

「それにあなたが謙虚でいると、下につく我々が威張れませんからな」
「そりゃ言えてるや!」
「偉そうにするのは隊長たるぼくにまかせて、きみは謙虚に生きてもいいんだぜ?」
「きみは偉そうにしててもマヌケに見えそうだな」
「失礼だなギムリ!」

 どっと笑い声があがる。レイナールがコップをかかげる。

「では改めて、騎士隊の結成を祝って。乾杯!」
『乾杯!』

 互いのコップ、ジョッキをぶつけ合い、高らかに宴の再開を告げる。
 それから色んなことを語り合った。アルビオン、トリステイン名物、故郷の祭り、それぞれの家族。話題は尽きない。途中からはケティとモンモランシーも合流して楽しいひとときを過ごした。

「小官にも五歳になる娘がいますからな。ここらで武勇伝をつくっておかねば」
「ウエイト分隊長の娘さんはかわいい盛りですからね。尊敬される父上として武功の一つも立てないと」
「娘さんをぼくにください!」
「……マリコルヌ」

 みんなが笑う。釣られて才人も笑う。
 こんな幸せな時間がずっと続けばいいと、心の底からそう思う。


 だというのに――――


 ――どうしてこんなときに心臓が痛むのだろう。


「相棒!」

 デルフリンガーが叫ぶ。間髪いれず抜き払う。

 店の中央へ振り返ると、そこには彼女がたたずんでいる。

「サイ、なっ!?」

 注意の言葉をレイナールは声にできなかった。
 店中の視線が才人に突き刺さり、次いで黒の少女のもとへと集まる。
 ウエイトたちアルビオン人は、魔法学院の生徒を背にかばい、静かに杖を抜いた。
 才人は踏み出さない。ここには数十人の平民がいる。そんなところで争いになれば、何人死ぬかわからない。だから斬り込むことができない。

 異様な冷気がフロアを覆う。
 赤々と燃えていた暖炉の火は消え、マジックランプも次々と明かりを落としていく。
 誰もが喋れない、誰もが動けない。指一本でも動かしてしまえば殺される、そんな錯覚すら抱いてしまうほどに空気は重い。

 最後のマジックランプの明かりがかき消え店内を漆黒が支配する。
 隣人の息遣いさえ聞こえてきそうな暗闇は、それほど長くは続かなかった。
 一斉にランプが火を灯す。消えていたはずの暖炉までもがめらめらと燃えている。

 店の中央にいた少女は影すら残さず姿を消していた。
 心臓にも左手にも痛みはない。止まっていた息を大きく吐き出す。

「あ、あの子まさか……」
「だいじょうぶだよ、ぼくのモンモランシー」

 ギーシュは震えるモンモランシーを抱きしめながら、ギムリに目を送る。

「まだ近くにいるかもしれねえ。三人一組で探そう」
「小官らはこの三人で裏を見てくる」
「サイト、ギムリ、ぼくらは表だ。レイナールはギーシュたちを見ててくれ」
「わたしも行きます!」
「ダメだケティ。これは危険すぎる。いこうみんな」

 才人の言葉にみな頷き、魅惑の妖精亭を飛び出す。

 後に宵闇を纏う少女が、メアリー・スーがトリスタニアに狂気と混乱を導く最初の出来事であった。



[29710] 安らぎなき魂は悲鳴に濡れ
Name: 義雄◆285086aa ID:ec65c40e
Date: 2012/04/15 15:16
 巫女の出没、その報せは雷光より速くトリスタニア中を駆け巡る。王宮に仕える貴族は元より、軍の編成を急ぐ大貴族やタルブ戦に参加していた末端の兵、邪神との戦いに身をおくすべての者が耳にしていた。
 また人の口を閉ざすことはできず、目撃者がそれなりの数いたこともあって情報は平民にまで広がっている。邪教の巫女であることや、ロシュフォール伯の長女であるといった具体的な情報こそないものの、魅惑の妖精亭という中堅の飲み屋に現れた不気味な少女と、それに付随した現象のことは噂好きなタニアっ子の口にのぼり、昨夜のことだというのに挨拶代わりの話となるほど広まっている。

 王宮の一室ではアンリエッタとマザリーニが頭を抱えていた。原因は言うまでもなくメアリーのことである。
 メイジはまだいい、問題は平民に知られてしまったことだ。
 今はトリスタニアに平賀才人が、周囲五リーグの狂気を緩和するリーヴスラシルがいるから問題はない。ただ、彼が今後王都を離れた際、どれほどの平民が狂気に陥るか、まったく予想がつかない。

 そもそもどれほど邪神に関れば向こう側に足を踏み入れたことになるのか、それを試したものはこの六千年の間に存在しない。闇を覗き込むとき、その者もまた闇に見られている。始祖ブリミルの教えによってそういった手段は禁忌とされていた。
 不明瞭な境界線を好き勝手に予想すれば必ず希望的観測が含まれ、最悪の事態を引き起こすだろう。

「平民対策はどうすればいいかしら、マザリーニ」
「私のもつ知識では予測がつきませぬ。教皇聖下におたずねするのがよろしいかと」
「時間がないわ。邪神は待ってくれない」
「……王は時として非情な判断を下さねばなりません」
「わたくしはまだ女王ではありません」
「いずれそうなります」

 マザリーニは目撃者の処分を暗に勧める。
 魅惑の妖精亭で働くものをはじめ、昨夜その場に居合わせた平民をすべて殺す。そうすることで狂気の拡散を防ぐことができると、聖職者らしからぬ言葉だった。そうまでしなければ勝ち得ない戦いだと知っているからこその言葉でもあった。

 アンリエッタには到底それを受け入れられない。
 彼女は、トリステイン王族に伝わる秘術で変わりはしたが、生来優しい性格の少女だ。ルイズの前でこそ、親友の前だからこそ王族然とした態度で才人の罪を罰さねばならないと言ったけれど、それすらも辛くはあった。罪もない平民を巫女を目撃しただけという、彼らからすればほとんど言いがかりに近い理由で処理するなど、許容したくはない。
 たとえ大局を見ればそれが正しいと理解していてもだ。

「巫女への対策は?」
「先ほど来たヒラガ殿直属部隊と魔法衛士隊の一部、それと実験小隊に銃士隊も試験的に導入しています」

 大型の幻獣に騎乗し、格闘から魔法まで王国を護るためあらゆる技術を修めた精鋭中の精鋭である魔法衛士隊は、トリステインの王家が直接的に統率する最強の部隊である。
 そしてメンヌヴィルが隊長をつとめるリッシュモン子飼いの通称実験小隊は、魔法の力量こそ魔法衛士隊に劣るが対邪神のエキスパートであり、その経験を基にした任務遂行能力はこの事態にあってなによりも重要なもので、ある種切り札めいた存在でもあった。
 最後に、アニエス率いる平民女性専門部隊である銃士隊。名目上平民部隊となっているが、誰もがかすかにメイジの血を引いていて、さらに隊長のアニエスは『炎蛇』のジャン・コルベールが二十年近くも鍛え上げた祝福の子であり、その力は並みの魔法衛士を退ける。

 魔法衛士隊が貴族街周辺を監視し、まだお披露目されていない銃士隊は平民にまぎれて噂を制御し、実験小隊が暗がりに潜む巫女を探り当てる。
 各々が職分を果たせば上手く機能するはずだと、差配をにぎったマザリーニは確信している。たとえ邪神が想像の上を往く存在だろうと人類は負けぬと。

「そう、成果が出ればいいのだけれど」
「成果は出すものです。各国への書簡は?」
「ついさっき出したわ。手紙一つ送るのに風竜と衛士三人も使って」
「情報の伝達は重要ですぞ。特にアレらを相手にするときは」
「わかっています。ただ愚痴を言いたかっただけ」

 あまり納得のいっていない様子のアンリエッタを見て、マザリーニはため息をつきそうになった。彼とて貴重な戦力をよそに回したくはないのだ。
 しかし、情報を甘く見ることはできない。太古より情報を制したものこそが戦の勝者となるのだ。
 邪神はそれを弄ぶ。出したはずの書簡は届かず、内容をすりかえられていることすらあった。
 苦杯を舐めさせられたハルケギニア諸国はそのことを学習し、重要なことは“伝声”を使うことなく複数人の精鋭が運ぶ手紙か、直接会って交換することにしていた。

 思わずついて出るため息をすんでのところでマザリーニはこらえた。上に立つものが弱っている姿を見せるわけにはいかない。平時なら良くても、今は非常事態だ。臣下の心を安定させるためにも歯を食いしばって耐えねばならない。
 タルブでの大敗、先の短いリッシュモン、トリスタニアに出没した巫女、頭痛の種はいくらでもある。
 これ以上増えてほしくはなかった。その願いも始祖には通じない。

「ド・ゼッサール様ご来訪!」

 衛兵がドアの外から声を張り上げる。
 マザリーニと国防機密について話し合うということでアンリエッタの執務室は人払いをしていた。衛兵にも、非常時以外には誰も通すなと通知しておいた。
 それをおしてまでの用件をマンティコア隊隊長は持ってきたということだろう。二人は目配せして、それから入室をうながす。

 入室したゼッサールは丁寧に一礼して挨拶もそこそこに、話を切り出した。

「殿下、枢機卿、私は許可なくガンダールヴ殿と決闘を行い、敗れました。罰をお与えください」

 寝耳に水な報告にアンリエッタは一見平静さを保っている。それも長年仕えたマザリーニには、動揺を無理やり推しとどめているのがわかった。

「ゼッサール殿、あなたは理由もなくこのような暴挙を行う御仁ではなかったと記憶しています」

 戦闘力だけを見れば、マンティコア隊は魔法衛士隊の中でも最強の部隊である。生半可な人物ではその隊長職どころか、隊員になることすら困難だ。
 その訓練だけでなく隊則も厳しく、鋼鉄の規律としてトリステイン王国中に知られている。ゼッサールは二十年以上もそこで隊長を務めたのだ。そんな人物が長年守ってきた規律に背いてまで決闘を行うなど、なにかあったと思わぬほうが難しい。

 静かな王女の言葉に、壮年の貴族は目を見てはっきりと言い放つ。

「魔法学院で異星から呼ばれたガンダールヴ殿、彼が我が弟子にして元グリフォン隊隊長でもあったワルド子爵の後を託すにふさわしい人物か、自らの手で試したかったのです。私的な怨恨が含まれていることは否定できません」

 これまでの働きぶり、それと理知の光が灯る瞳は、そのような理由で決闘に挑む人物であるはずがないとアンリエッタに確信させる。

「凡百の貴族ならいざ知らず、その程度の嘘で王女を欺こうとは。ゼッサール殿も歳をとりましたね」
「嘘は申しておりません」

 王族に対する虚偽は死罪である。そうでなくともゼッサールはこれまでに鋼鉄の規律を守ってきた矜持があるはずだ。
 アンリエッタの揺さぶりにも一切の焦りを示さずただ毅然とたたずんでいる。彼は嘘をついているのではなく真実を隠していると、アンリエッタはそうとらえた。

 同時に浮かぶ疑問は、何故直截的に言わないのかということ。そこまで思考が進み、あることに気づいてマザリーニに目をやった。彼も思い当たったのか無言で頷く。

「わかりました、処分は追って下します。今は職務に戻りなさい」

 来たとき同様、ゼッサールは一礼して退室する。

「マザリーニ、この後の予定は?」
「軍の再編についてグラモン元帥たちとの会議が入っています」
「動かなければ考えが詰まってしまうわ。会議室に行きます」

 彼が去った数分後、アンリエッタとマザリーニも部屋を出た。
 平時の淑やかさは欠片もなく、彼女は大またで廊下を歩く。横顔には苛立ちが見てとれた。

「なめたマネをしてくれるわね」
「見られていたか聞かれていたか、あるいは両方か。そのような魔法の使い手は限られるでしょう。すぐに手配を」
「ええ、こんなときに余計な仕事を増やして……!」

 盗聴や透視の類は動いている対象には使いづらい。官吏が行き来しているとはいえ、筒抜けの部屋で話しているよりはマシだという判断のもと、二人は歩きながら 互いにギリギリ聞き取れる程度の声でささやきあう。

 ゼッサールはおそらく異なる件の報告に来たのだろう。そしてアンリエッタの執務室になんらかの仕掛けが施されていることに気づいた。このまま話しては目に見えぬ敵に気取られると察知し、遠まわしに危機を伝えたのだ。
 決闘を行ったかどうかもわからない。もし事実行っていたとしても他の意図があったに違いないと彼女は考える。
 いまや国を牽引する王女は忠臣に心の中で感謝し、なおも思考を重ねていく。

 ガンダールヴ、決闘、敗北、罰、魔法学院、異星出身、グリフォン隊、ワルド子爵、私的な怨恨。ゼッサールの言葉を今一度整理する。
 才人に関連するものと戦いや王宮にまつわる言葉が多い。おそらく彼に関することがらなのだろうとアタリをつける。

 決闘、ガンダールヴと決闘を行ったのはグラモン家四男とワルド子爵、それとゼッサール隊長の三人。いずれも軍に近い人間だということしか共通点がない。

 敗北、ガンダールヴだけでなく、ハルケギニアは負け続けている。大きな敗北はニューカッスルとタルブ、それ以外もアルビオンでは数え切れないだろうが一度そこで留め置く。

 罰、アンリエッタは才人に罰を与えようとしていた。それは規律を守るため、なにより彼の暴走を防ぐために必要なことである。公表していない件がもれたのかもしれない。

 魔法学院、ルイズたちが在籍していた。ここ最近耳に入ったのは、教団による生徒の失踪事件。ラ・ロッタの長女しか帰ったものはいない。それとタルブで倒れたオールド・オスマン、いずれも邪神につながる。

 異星出身、才人に関するものだ。これ以上はわからない。

 グリフォン隊、ワルド子爵、二つとも魔法衛士隊に関連している。ワルド子爵は教団に対する潜入工作を行っていた。

 私的な怨恨、最後につけたされたこの言葉はおそらく重要だ。しかし才人に恨みを抱くような人物に心当たりはない。

 そこまで考えて、二人は会議室についた。
 中にはすでにグラモン元帥はじめ、ポワチエ将軍やゲルマニアから参戦しているハルデンベルグ侯爵が座っている。
 とりあえずは目の前にある問題を処理しようとアンリエッタは頭を切り替えた。





―――安らぎなき魂は悲鳴に濡れ―――





 アンリエッタが王宮で損害報告に頭を痛めているころ、ラ・ヴァリエールの屋敷の一室ではまったく違った空気が醸成されていた。
 大きな窓からはしとしと降る雨が見える。そのすぐそば、白いテーブルクロスをかぶせた丸いテーブルに二つのイス。湯気の立つティーカップには琥珀色の薫り高い液体が入っていて、四角い平皿にはお茶請けのクッキーも並べられている。
 まだ昼食前なのでティータイムという時間ではない。なのにこうして才人が紅茶を前にしているのは、普段よりももじもじとした桃髪の少女のせいだ。ティーセットを配膳して、彼女に向けてやけにいい笑顔でぐっと親指を立てて出て行ったシエスタの行動の意味がよくわからない。

 昨晩、ルイズは才人を待っていた。魅惑の妖精亭周囲の探索をしていたため、そこそこ遅い時間だというのに待ってくれていた。無駄な明かりを落とされた薄暗い部屋で座っていたのは怪談じみていて、若干才人は恐怖を覚えたのは余談である。
 とかく夜も遅いので寝るべきだと言った彼に、明日の朝時間をとってほしいという旨を伝えて、しょぼしょぼ目をこすりながら自室に帰っていった。

 明けて今、こうして二人は向き合っているけれど会話はない。ルイズは紅茶に手をつけようとせず、なんとなく才人もそれにならって、膝の上に握りこぶしを置いたりなんかして、ちょっぴり緊張気味だ。
 互いに動けないでいる空間、なんでこんなことになってるんだろうと才人は思う。

 ルイズとしては昨日のティファニアのアドバイスどおり才人と話す機会をもとうと努力したのだ。でもそれだけ、そこから先なにを話すかなんてまったく決めてなくて、だからこそなにも言い出せない。

 二人してじっとティーカップに目を落としている。なんとも微笑ましい光景だった。
 部屋の外では貴族と平民の色恋沙汰を必死に聞こうとして、ドアに耳をあてていたシエスタがお屋敷のメイドに追い払われていたことも知らず、二人は黙ったまま。

 しばらく時間がたって、二人ともじれてきたのか顔を上げた。
 その瞬間に視線が交差して、口を開きかけてまた閉じてしまう。何度かそんなやり取りを繰り返して、どちらともなく笑い声をあげた。

 才人は久々にルイズの笑顔を見たように思う。ルイズも才人が元気なようで安堵する。

「良かった。サイトが無事で」

 本心からの言葉がこぼれ落ちる。一度口にしてしまえば、あとは流れるように声になった。

「サイト、ありがとう。わたしの召喚に答えてくれて。無理やり契約したのに戦ってくれて。本当に感謝してる、あなたが来てくれてよかった」

 思い出すのは抜けるような青空。銀のゲートをくぐってきたのは黒髪の、どこの誰とも知れない平民だった。彼女の頭にはガンダールヴのルーンが刻まれるかということしかなく、素性など気にもとめなかった。契約した。
 冷静になって、自身の罪深さに涙が出た。その涙すら少年はぬぐってくれた。
 それでも魔法学院で、ニューカッスルで、タルブで、平賀才人は打ちのめされながらもこうして前に進んでいる。
 彼女の使い魔は、いや、隣に立つべき少年はもう彼以外に想像できなかった。

 純粋な感謝の意思に、才人は恥ずかしげに頬をかいている。

 そこまではしゃべって、ルイズは肩を落とした。明らかに落ち込んだ顔で紅茶に口をつける。

「どうした?」
「わたし、サイトになにもしてあげてないから」

 才人は召喚に応えた。そしてこの世ならざる戦いに身を投じている。

 それに対してルイズはなにも返していない。衣食住の保障とお小遣いくらいは渡しているけれど、言ってしまえばそれだけだ。
 才人の現在に至るまでの功績といえば、ニューカッスルで次期アルビオン王のウェールズ皇太子を救出し、タルブでは『閃光』の二つ名を持つトリステイン五指に入るメイジ、ワルド子爵の亡者を討伐した。
 虚無の使い魔の恩恵こそあるものの、ゲルマニアなら貴族に叙せられるだろう勲功だ。トリステインであってもシュヴァリエ、もしくは一代特別位を授けられてもおかしくないのに、褒賞や土地の類をルイズは与えることができない。
 使い魔の功は主人の功といえど、才人には一個人としての意思がある。それに報いることができないのはルイズにとってつらいことだった。

 ルイズはそう言うが、才人の考えは違う。

「そんな気にしなくていいよ」
「でも……」
「なんていうかさ。運命とか奇跡だとか、すごいこと言ってたのに全然役に立ててないし」

 頭の後ろで腕組みしながらのんきにのたまう。自分の成したことがどれほど偉大なのかわかっていないのか、それともわかっていてやっているのか、ルイズにはわからない。

「ダメ、サイトはもっと欲ばらないと」

 それでもルイズは食い下がる。欲ばれなんて言われたのは生まれてこの方なかったと才人は苦笑するしかない。

「じゃあさ。この戦いが終わったらデルフと旅に出るつもりなんだ。悪いけどそのお金出してくれない?」
「旅?」
「そ、気ままな観光旅行。六千年も生きてるから色々知ってるし、ガイドにはぴったりだろ?」

 神剣を観光ガイドにするだなんて、ルイズは聞いたことがない。そのありようがどうしようもなく才人らしくて、思わず笑みがこぼれた。

「いいわ。けどわたしもついていくから」
「あーだったらギーシュたちも自腹切らして連れて行くか。大所帯でわいわいやるのも楽しそうだ」

 今はまだ見えない光景がルイズのまぶたの裏に映る。暖かな陽光の下、大きな馬車が街道を走る。
 御者はシエスタに任せて、自分の馬車には才人と二人で、もう一台の馬車に男たちをつめこんで。時には星降る夜空を眺めながら寝るのもいいだろう。町の安い酒場で飲むのもいいかもしれない。
 時間があえばティファニアやアンリエッタ、ウェールズも来てほしい。シャルロットにも少しお世話になったから声をかけて、キュルケはどっちでもいい。
 想像するだけで楽しくなる、素敵な未来が広がっている。

「そうね、きっと楽しいわ」

 言って、儚げに微笑むルイズ。その笑顔に才人は見とれてしまった。
 彼女は総じて子どもっぽい。それは身長やスタイルの問題もあったが、ところどころの仕草が幼いせいだと才人は思っていた。
 いつもの笑みは十歳くらいの少女が浮かべるような、そんな単純明快なものばかり。

 ルイズが女性らしく笑ったのを、才人はこの瞬間はじめて目にした。
 そして魔法学院で部屋をともにしていた少女は、自分の想像よりも年上なんじゃないかと、そんな考えが浮かんでくる。

「ルイズ、今何歳?」
「十六だけど、どうしたの?」

 天井を仰いだ。

――俺と一つしか変わらない。ってかこっちの世界は一年が三百八十四日で、十六年生きてきたら差が……。

 手のひらに数字を書いて掛け算してみる。十九×十六で三百四日余分に生きているから、才人とほとんど歳の差がない。

――十三歳とか十四歳だと思ってたのに!

 外国人は見た目よりも年上なことが多いと聞いていた。実際、外国映画の子役なんかもかなり大人びて見えて、才人もその通りだと信じていた。
 その法則をあてはめて、雰囲気も子どもっぽかったからルイズのことをてっきり中学生くらいだと、今の今まで思い込んでいたのだ。
 才人は今年で十八歳になる高校三年生だ。さすがに中学生はアウトだよなというブレーキがどこかに働いていた。
 それが違った。どこかでガコンとレールが切り替わったような音がした。

 見れば見るほどルイズは美少女で、なんとも表現しがたい気持ちがわいてくる。
 年齢=彼女いない暦な才人にとって、優しくしてくれる同年代の女の子はそれだけでストライクゾーンだ。なおかつ超絶美少女なら三秒でほれてもおかしくない。

 いけないいけないと頭をふる。

――タバサも十二歳くらいだと思い込んでたけど、違うのかもしれない。

 次に浮かんできたのはほとんど親交のない、無口だけど仕草に感情の出てくる青髪の少女。

――てことは、下手したらキュルケなんて二十歳超え!? アニエスさんと同い年くらいに見えなくもないし……。

 この思考が本人に知られたら燃やされかねない。

 頭をかかえて身もだえする才人を不思議そうに眺めながらルイズは紅茶に口をつける。
 才人が帰ってこないからクッキーにも手を伸ばす。

「あ、おいし」

 シエスタの焼いたクッキーは意外なほど風味が良かった。さすが魔法学院のメイドとして働くだけあって多芸なようだ。
 そのまま二枚、三枚ともさもさ小動物じみた動きでたいらげていく。こんな仕草が子どもっぽくて、だから才人が勘違いしてしまったということにルイズは気づいていない。

 バターの風味をさわやかな紅茶で緩和する。少年はまだ頭を抱えている。
 才人はたくさん戦った。自分なら耐えきれなかったと、彼女はそう思う。
 だからこそ、こうしたなんでもない時間を大切にしてほしい。自分と過ごす時間を増やしてほしい。
 そこまで考えて、胸のうちが暖かくなっているのに気づいた。彼のことを思うと少し幸せになれる。

「よしっ! なんとか折り合いつけた。キュルケは未成年だ!」
「そうだけど……」
「やっぱそう? いやー良かった良かった」

 俺もクッキー食べよーなんて、どこまでも明るく才人は笑う。
 昨日目覚めたときはひどく落ち込んでいたとシエスタに聞いた。そのあと抜け出して、この世の終わりみたいな顔をしていたともギーシュたちは言っていた。

「おいしいなコレ、さすがシエスタ」

 それが魅惑の妖精亭という酒場である程度元気を取り戻したらしく、今はにこにこしながらクッキーをぱくついている。

「いいことあったの?」
「ん、いいことっていうか。故郷の味と戦友って感じ」
「意味がわからないわ」

 ものすごくざっくりした才人の言葉を理解しろというほうが無茶だった。

「昨日ギーシュたちにつれてかれた酒場で日本の料理が出てさ。あとウエイトさんとかスカロンさん、ジェシカとも話して楽しかった」

 ウエイトという名をルイズは憶えている。タルブで才人が死んだと思われていたとき、迷わず彼をかつぎあげようとしてくれた。
 死体に触れたがる人なんていないのに、ウェールズの恩人だからという理由で、敬意をもって敵になったかもしれない才人を運んでくれた。
 彼には五歳の娘がいるとか、ロンディニウムの食事事情だとか、昨夜聞いたばかりの話を才人は嬉しそうに語る。

 スカロンという名前は知らないが、きっと酒場の店員なのだろう。お礼を言わないと、と心の中にチェックする。
 だがジェシカという名前は気になった。明らかに女性の名前だ。ひょっとしてだまされてるんじゃなんて考えてしまって、あまり良い気分ではない。

「そういえば、俺今夜から見回りに出るよ」
「ならわたしも」
「それは絶対ダメ。なにがあるかわかんないし」

 昨夜のメアリーの件もあって、ウエイトやギーシュたちと巡回へいくと才人は言う。その瞳には強い意志がこもっている。
 才人はやる気になっているけれど、ルイズの本音としては止めたい。いやな予感がする。そのことを伝えようとした。

「子爵さんにもまかされたんだ。しっかりやらないと」

 彼が取り乱さずにその名を口にしたのはずいぶん久しぶりだとルイズは感じる。
 どれほどワルドが才人に影響を与えたのか、おそらく彼女以上に、きっとハルケギニアの誰よりも才人に影響を与えていることを、ルイズは知っている。
 だからそう言われてしまえば彼女には止める術がない。黙って見送るしかできない。

 ふるふると首を振る。
 黙って見送って、そうしてタルブで才人は倒れた。
 彼は一人じゃない、そう強く刻み付けないとダメだと、そう思った。

「サイト、立って」

 言われるままに立ち上がる才人。ルイズは近寄り、ぽふっと抱きついた。

「る、ルイズ?」

 これがつい先日までなら、甘えたい盛りなんだろうなあと兄的な暖かい気持ちで接することができただろう。
 でも今の才人はルイズが十六歳だと知っている、自分と変わりない年頃だと知ってしまっている。
 ふわっと女の子らしい良いにおいが鼻に届いて、経験したことがないほど胸がどぎまぎする。メアリーと会ったときとは別の意味で心臓が痛い。

――ど、どうしよう。抱きしめ返すべき? ていうかいまさらだけど昨日のケティは超もったいなかった気がする! いやでもルイズのやわらかさとうわぁぁああああ!!

 腕をあげて、やっぱり下げて、もう一度あげて。
 ご主人のつむじが見える。二人の身長差はおおよそ二十サント、ちょうど胸に顔をうずめる形になっていた。

 才人のドキドキは、もちろん抱きついているルイズにも聞こえている。
 薄いシャツごしに自分のより早い鼓動と、少し高い体温が伝わってくる。そのぬくもりは彼女に安心感を与えた。

 教団と戦い、メアリーが蹂躙したタルブの戦場。そこで才人は確かに心臓が止まっていた。そのことはルイズも確かめた。
 だけど彼は今こうして生きている。暖かい血が流れ、心臓は力強く脈動している。
 ならもうそれだけでいい。彼が生きているだけで幸せだと、ルイズは思う。

 しばらくしてルイズはパッと才人から離れた。

「む、無理はしないでね。倒れたら元も子もないんだから」

 ぼうっと才人はルイズを見つめている。ルイズも才人を見つめている。
 少したって、互いのほっぺがリンゴみたいに紅潮しているのに気づいて、一緒のタイミングで背を向けた。

 がりがり頭をかく才人と両手で頬をおさえるルイズ。
 邪神なんて関係のない、歳相応の風景だった。

 やがて二人は席につき、今度は才人から話を切り出した。

「さっきの話の続きだけどさ、スカロン店長が……」

 知らない人とのことを楽しそうに話されると少し胸が痛む。ルイズはその感情に気づかないまま、才人の笑顔に向き直った。二人の間に流れる穏やかな時間を邪魔する者はおらず、つかの間の安息を味わっていた。

 才人がもっぱら話題にしている魅惑の妖精亭、看板に踊る屋号を見て、フードをかぶった男性が足を止めた。

「む、ここか」

 時刻は少し進んで昼下がり、本格的な飲み屋はまだ開いていない時間だ。夕暮れが近づけば人ごみができるチクトンネ街も人通りが少ない。男性は二度三度周囲を見回し、店の中に足を踏み入れた。

「ミスタ・ギトー、ご足労いただきありがとうございます」
「まったく、教師を呼び出すとはきみたちもずいぶん偉くなったものだ」

 開口一番のいやみにギーシュたち四人は顔をひきつらせる。
 それでもなんとか我慢して男性をイスへと導いた。入り口付近にマリコルヌ、店の奥近くにレイナールが陣取り、余人が聞かないよう警戒している。“サイレント”をかけた上で、人目までも気にしているようだった。
 対する男の名はギトーという。もうじき三十になろうというのにヒゲを生やしていないことや、『風』のスクウェアという破格の実力を持ちながら軍から追放され、魔法学院の一教師におさまっているという、奇妙な来歴をもつ黒髪のどこか陰鬱な雰囲気を放っている男であった。

「ミスタをお呼びしたのは他でもありません。魔法学院の休校中このギーシュ・ド・グラモンが隊長を務める騎士隊に参加してほしいのです」
「寝言を聞くために来たのではない。きみが騎士隊隊長になるはずが……」
「こちらにアンリエッタ殿下とマザリーニ枢機卿の仮任命証があります」

 今朝受け取ったばかりの羊皮紙をギーシュは机に広げた。

 昨夜のメアリー出現をうけ、今夜にでもギーシュたちは街の巡回に出ることを決めていた。しかし人員はウエイトたちやコルベールを含めて九人、広い王都をカバーするには少なすぎる。
 そのため人員の補充が必要だという結論に至り、今朝アンリエッタにも確認してギーシュは隊員の仮任命権を得ていた。通常ならば近衛隊は厳密な入隊審査が必要だが、平賀才人直属部隊に限ってその制限も外されている。近衛隊の任命権という、魔法学院在学中の貴族としてはありえないほどの権利をギーシュは持っていた。
 権利は有効的に活用しなければならない。レイナールの助言に従い、今はお休みの魔法学院講師陣に助力を願おうと決めて、まずは学院トップツーと言われるギトーに声をかけた。
 魅惑の妖精亭を利用したのはギムリの意見からだった。ギーシュは若い、一般軍人からすればヒヨっこどころかタマゴレベルである。それが近衛隊隊長になるなんて、どんな嫉妬をかうかわかったものじゃない。だからわざわざ貴族とは関連性の薄い魅惑の妖精亭を借り、講師陣には用件を伏せて呼び出していたのだ。

 そんな若者なりのない知恵を絞った苦慮を知ってか知らずか、ギトーはあくまでも尊大だった。

「枢機卿も歳か」
「この件に関しては殿下も関与しています」
「殿下はまだ若い。判断を誤ることもあるだろう」

 書面に目を通してからギトーはこれ見よがしなため息をついた。出てくる言葉も不遜そのもので、高い実力をもちながら軍を追放された理由がうかがえる。

「何の用かと思えばくだらない。返答はノンだ」
「今このハルケギニアには未曾有の危機が訪れているのです。ミスタも栄えある貴族の一員としてその責務を果たさねば」
「きみたちの成績はよく憶えている」

 食い下がるギムリを、じろりとギトーは睨めつける。

「ミスタ・プロヴァンス。『火』を得意とするドットで、魔法の威力はそこそこあるとミスタ・コルベールから聞いている」
「きょ、恐縮です」
「だが制御が甘い。時として味方すら焼いてしまう『火』系統は威力よりもコントロールが重要だ。今後の戦乱で矢面に立つ部隊にはとても向いていない」

 見た目が陰気な教師からほめられ、ギムリは少し浮かれたけれど、続く言葉に消沈した。

「ミスタ・グラモン。きみはゴーレム操作には類稀なるセンスを持っている。ラ・ヴァリエール公爵夫人から手ほどきを受けてその戦術にも磨きがかかったとも」
「はい、それこそがぼくを隊長に選んだ理由かと」
「しかしきみの“ワルキューレ”はある程度距離が近くなければならぬはずだ。ゴーレム使いが距離をつめてどうする」
「その点は投げ槍などを使って改善しています」
「きみらが挑む相手は投げ槍の通じる輩かね?」

 ぐ、とギーシュは言葉に詰まった。
 彼自身、直接杖を交えていないとはいえタルブの戦に参加している。そこで不死身の教団を、そして彼女を、メアリー・スーを目にしている。
 人一人を殺すには十分すぎるほどの威力をもつ青銅製の投げ槍も、邪悪な存在にはとても通じる気がしない。

 ギトーの言っていることは正しく、反論の余地がない。しかし才人直属部隊としての意義を知る二人は、ここで引き下がるわけにはいかない。なんとしても戦力が必要なのだ。

「……ぼくたちが力不足であることは重々承知しています」
「だからこそミスタ・ギトーの力が必要なのです。お願いします」
「くどい。私から枢機卿に進言しておく。きみたちに近衛隊を任せるなどバカげていると」
「お待ちください!」
「殿下のお遊びにつきあっているヒマがあるならもっと勉学に励みたまえ」

 すげなく言ってギトーは立ち上がった。止めるギーシュとギムリには目もくれずきびすを返す。

 そのとき、入り口に立っていたマリコルヌに動きがあった。明らかに人を通すまいと扉の前に仁王立ちしている。
 最初ギトーは自分を通さぬためだと思った。しかし店内の声は“サイレント”で聞こえないうえ、彼は外を見ていたのでこちらの様子がわからないはずだ。
 ギーシュとギムリも彼の違和感に気づく。どうも扉の外でなにごとか言いあっているようで、それでもマリコルヌは一歩も引く様子を見せない。仕入れや行商を相手にするには奇妙だ。場所を借りる前、平民事情にある程度通じているギムリは、スカロンに仕入れなどが来ないことを、来るとしても表口は使わないということも確認した。明らかにおかしいとギムリは密かに杖を抜く。

 ギーシュが表に行こうとしたとき、マリコルヌは大きな衝撃を受けて店の中へと吹っ飛ばされた。
 彼を排除して入ってきたのは五人の男。それぞれ水の滴る黒いフードを目深にかぶって顔を隠している。

「何者だ」

 ギトーの誰何の声にも応じず男たちは杖を見せびらかす。
 ほぼ同時にギーシュは距離をとりつつ各々の杖を抜いた。店の奥を見張っていたレイナールも遠くからいざというときに備えて小声でスペルを詠唱していた。

 一歩ギトーが踏み出す。先頭に立つ男との距離は一メイルもない。
 なのに欠片も緊張をにおわせず、彼はこれみよがしに一つため息をつく。

「諸君、実習の時間だ」

 奇妙なほど場違いな言葉に、男たちが動いた。

 一人が“ブレイド”をまとわせた杖剣を疾風のごとき素早さで突き出す。ギトーは反応できないかのように見えた。

「『風』は最強」

 生徒四人はその瞬間を見ていた、と彼ら自身は思っていた。しかし瞳に映るのはすでに相手の懐にもぐりこんだギトーの姿、握られた右手からは黒い棒状のものがはみ出している。
 ブーツと濡れた床とがこすれる形容しがたい音を立て、ギトーは反転する。その直後に繰り出される高速の肘打ちを、男はかわせるはずもなかった。

「それは」

 入ってきた扉を壊しながら男が店の外へと吹き飛ばされる。残された男たちは詠唱を行っていたが、動揺の気配をも漏らした。

「速さに起因する」

 その揺らぎをギトーは見逃さない。
 力強い踏み込みと空気の爆ぜる音が響き、そこからは一瞬だった。独楽のように回るギトーの動きを生徒たちは追いきれず、気づけば男たちは地に伏していた。

 寸鉄のごとき短い杖を手に、唱えられたスペルは“ウィンド・ブレイク”。相手ではなく己の身体の各所に小規模なそれを当て、爆発的な加速を得るギトーが編み出した高速体術だった。

 『疾風』のギトー。不遜な性格と、クロスファイトを追求しすぎるあまり軍から追い出された男は、その強さを生徒たちの前で示したのだった。

「他愛もない」

 きみも『風』ならしゃんとしたまえと言って、彼はマリコルヌに手を貸す。
 強いとは思っていたけれど予想以上の動きを見せたギトーに、一同はあごが外れそうになるほど驚いた。

――授業中のアレはホンキじゃなかったのか!

 コルベールとタメを張るほど強いなんて噂も上級生から流れてきたもので、正直半信半疑だった。
 彼は学者肌の多い魔法学院教師陣において、実践を重視するタイプである。授業中も幾度かその強さを垣間見る機会はあったが、手を抜いていたとは、ギーシュたちはまったく知らなかった。

 短い鉄製の杖をしまい、ギトーは男たちのフードをはぐ。
 短い茶髪に整えられたヒゲ、どこにでもいそうな青年だった。血色もよく、邪教に傾倒しているようには見えない。

「見たところ軍人か。ミスタ・コルナス、急ぎ衛士隊を呼びたまえ」

 指名されたレイナールは大急ぎで外へ駆けていく。
 ギーシュは近づいて、青年の脈をとる。身体は暖かい、血流も感じる。タルブで襲い掛かってきた亡者たちとは違うようだ。

「なにか縛るものがいるな……」
「店長に聞いてきます」

 あれだけ音を立てていたのに“サイレント”の効果で奥には音は届かず、スカロンたち住人が出てくることはない。
 それでも襲撃らしきものがあったということは念のため知らせておいたほうがいいだろうと、ギムリは居住スペースへと引っ込んでいった。マリコルンは吹っ飛ばされたときに怪我を負っていないか、身体をすりながら確認している。

「……しまった」

 ぽつりとこぼしたギトーに、ギーシュは注目した。

「次回講義で“アルビオン落とし”を教えるというのを忘れていた」
「……それは、課外授業だから問題ないのでは?」
「そうか、そうだな。いや、もう一つある」
「次はなんですか」
「実習と言っていたのに私一人で倒してしまった。きみたちにも残しておくべきだったな」

 正体不明の相手と戦ったというのに、ギトーはどこまでもマイペースであった。

 ほどなくして現れた衛士たちが拘束された青年たちを連れ去っていく。それを見送ってからギトーは生徒たちに声もかけずさっさと帰ってしまった。後に残されたのは途方にくれたギーシュたちと、不安げな顔を隠せないスカロン店長。
 襲撃の理由も知れず、ギトーの協力も得られず、今日もまた夜が来る。

 あのあとシュヴルーズをはじめ、何人かの魔法学院教師を勧誘したギーシュたちは、色よい返事をもらうことはできなかった。それもそのはず、彼らはおしなべてトライアングル以上の優秀なメイジで、魔法の扱いこそ長けているものの、戦闘を得意としているわけではない。ギーシュたちがいくら仮任命証を見せ、コルベールの参加がすでに決まっていることをアピールしても、首をたてに振るものはいなかった。
 雨雲で黄昏の茜色が見えない王都を、四人は肩を落として一時屋敷に戻り、夕食をとってから再び魅惑の妖精亭に集合した。
 昨夜メアリーが出没したここを起点にチクトンネ街周囲を警戒する予定だ。雨に打たれていたときよりもはるかに持ち直した様子の才人も合流して、今日だけは小隊についているコルベールを除いた八人は街に出る。
 噂のせいか雨のせいか、普段は猥雑な人混みにあふれている狭い通りに人影は少ない。これでは聞き込みは捗らないだろうと、レイナールはため息をついた。

「でも、聞き込みってどのくらい言ってもいいんだろうな」
「どのくらいって、どういうことだい?」
「前にマザリーニ枢機卿から聞いたんだけど」

 平民が邪神のことを知ると混沌が這い寄ってくる。
 それもどの程度知ればという指標はない。優秀なメイジであったワルドの母ですら、研究の成果で得られた結果を基に背後に潜む巨大な存在を感じ取り、後に正気を失った。
 その経緯を才人は話し、いよいよもって手の打ちようがないことを一同は悟った。

「本来なら似顔絵を見せたりすればいいんだろうけど」
「そういったことがありうるなら避けるべきでしょう。デルフリンガー卿、なにか知恵を授けていただけませんか?」
「すまぬ。その境界を探る研究は禁忌であって某も知らぬのだ。だがぼやかせばぼやかすほど真相からは離れていく。いっそ聞き込みをしないほうがいいかもしれん」
「……どうすればいいんだ」

 マリコルヌがあごに手を当てながら考え込むも、ウエイトが即座に否定して、デルフリンガーも詳しくは知らないようだ。隊長であるギーシュは頭を抱えるしかなく、情報源である才人もいいアイディアを出すことができない。

「とりあえず、兵隊らしく足で稼ぎましょう」

 ウエイトが言って、部隊はアルビオン人三名とトリステイン勢五人に分かれる。広くない通りでは八人の大所帯で身動きが取りにくいのと、連携訓練を行っていないので互いに足を引っ張り合うのを防ぐ目的であった。
 一時間後に魅惑の妖精亭で落ち合うことを決めて、八人は夜の都会に足を踏み出した。
 トリスタニアの路地裏は狭く入り組んでいる。敵が王都に攻め込んできたとき、容易に王宮へと侵入できないようにするためであった。大人三人が横に並べばいっぱいになってしまうくらいの細道を、マリコルヌとギムリを先頭に五人は進む。真ん中にギーシュとレイナール、最後尾に才人がついていた。
 これは昼にギトーの指摘を受けた四人が話し合って決めた隊列だ。魔法の威力は高くてもコントロールの甘いギムリを最前列において、制御に意識を裂かせず一気に放たせてからカリーヌの手ほどきで近距離から中距離をこなせるようになったマリコルヌが斬りこむ。二人が時間を稼いでいる間に中列のギーシュは“ワルキューレ”をつくり、回復のできるレイナールは戦闘の推移を見守る。最後に目となるデルフリンガーを携えた才人が後方を警戒しながら進む。

 全員が一様に緊張感を持ち、マントの中の杖に手をかけている。ギーシュとレイナールが持つカンテラの灯りはトリスタニアの暗がりに光をもたらし、月明かりなき夜の雨粒を、ときに吐瀉物やゴミ、軒先で寝転がる浮浪者など見たくないものを照らしながら、雨の音に閉ざされた路地裏をひたすらに歩く。
 小雨といっていいほどの強さの雨は、それでも小さな音を奪っていく。雨どいから落ちる水の音、水溜りを歩く音、夜の喧騒はそれらにかき消え、五人はまるで違う世界に落とし込まれたような気持ち悪い感覚を味わっていた。

――晴れていれば、いやせめて曇り空だったなら。

 現代日本と違ってこの世界に街灯なんてものはない。雲が空を閉ざしていれば星や月も姿を見せず、当然それらが地上を照らし出すこともない。満月の夜なんかはかなりの明るさがあるのに、今は二つのカンテラだけが暗黒の世界を導く頼りだ。
 視覚と聴覚が制限され、いやおうなしに奇妙な想像が膨らんでくる。
 あのゴミ箱の陰になにかが潜んでいるのではないか、あの角を曲がれば襲われるのではないか、平時であれば笑い飛ばせることも、メアリーの現れたトリスタニアでは起きてもおかしくない。いつしか一行の足は恐怖にとらわれ鈍り、極力音を立てず移動するようになっていた。

 そんな中、路地の奥から複数の足音が響いてくる。妄想の産物が生れ落ちたのでは、あるいは闇から覗き込むものが姿を見せるのでは、そんな疑心にとらわれ、杖を強く握り締めて、じっと息を潜めて目を凝らす。
 角を曲がって、ゆらゆらと揺れる火が近づいてくる。全員が杖を抜こうとしたとき、聞き覚えのある声がした。

「坊主たちも見回りか」
「め、メンヌヴィルさん」

 闇に溶け込む黒いローブをまとった一隊、メンヌヴィル率いる実験小隊の一部だった。
 彼らは極力音を立てないよう努力していたギーシュたちとは逆に、遠慮もなにもなくばしゃばしゃと水溜りを踏み分けて近づき、マジックアイテムのランプをかざす。かなり強烈な光が路地を照らし出し、若い五人は人心地つくことができた。

「これ、めちゃくちゃ緊張しますね」
「最初のころはそんなもんだろ。でもお前はルーンの力で接近を感じ取れるはずだろ?」
「あ……」

 才人の心底安堵したような言葉に、メンヌヴィルはなにを言っているんだこいつという顔で返す。暗黒に心を飲まれていた才人はその指摘に気づき、同時にギーシュたちも一気に力が抜けた。

「なんでサイトが気づかないんだよ」
「いや、ちょっと緊張しててさ」

 やいのやいのと明るさを取り戻した生徒たちを前に、メンヌヴィルはこめかみを押さえた。後ろに控える隊員三名も苦笑いを浮かべている。

「もうちょい表側を警戒してくれ。ここらへんは治安も悪いし視界もよくない。俺たち向けの場所だ」
「隊長の言うとおり、適材適所という言葉もある。銃士隊も出回っているからそこまで警戒を密にしなくてもいい」
「きみたちは若い。今は実力をつけることを優先すべきだ」

 自分の目を指差しながら言うメンヌヴィルと、実戦経験を積んだ実験小隊の言葉に、ギーシュたちはむっとした。
 事情が事情とはいえ、彼らにも近衛隊に任命されたという矜持がある。それを子ども扱いされるのは、経験と力量の差から仕方のないことであったとしても、素直に納得できるものではない。

 それでも邪神に関しては彼らほど詳しいものはこのトリステインにいない。納得はできずとも、ギーシュたちはその提案を受け入れ、巡回経路を変えることに決めた。
 去り際にメンヌヴィルは才人に声をかけた。

「気をつけろよ。噂の拡散がやけに早い」
「噂?」
「魅惑の妖精亭に巫女が出たって話な、もうトリスタニア中に知られてる。早すぎるんだよ」

 昨夜魅惑の妖精亭に黒の少女が現れた。その噂は街を駆け巡り、いまや知らないものはいないほど広まっていることはアニエスたち銃士隊の調査でわかった。
 しかし、それはおかしいとメンヌヴィルは指摘する。

「たかだかチクトンネ街の一酒場に不気味なヤツが出たからって、こんなに広がるはずねえ。誰かが糸引いてやがる」

 これほどまでに知られていることこそがおかしい。背景に人為的なものか、あるいは超常的な現象が働いているのは想像に難くない。
 小隊の他の者も同じ意見のようで、口々に少年たちに注意を呼びかける。その言葉は心底から若者を案じる気持ちに満ちていて、先ほど不快さを感じたギーシュたちも少し恥ずかしさを覚えたほどだった。

「……わかりました。ありがとうございます」
「アニエスがそこらへん回ってるはずだ。会って話を聞いといたほうがいいぞ」

 言って、メンヌヴィルたちは再び闇夜に溶け込むように路地裏へ消えていった。
 一同は互いの顔を見合わせ、平常心のままにチクトンネ街を目指す。
 雨の音にまぎれて、ものがなしい銃声が響いたのはそのときだった。

「今の音……」
「平民の使う銃みたいだったな。少し違う感じがしたけど」
「急ごう、こっちだ」

 水溜りにもかまわず仮近衛騎士隊は路地裏を駆け抜ける。
 反響した音は正確な位置をつかませず、五人が迷っている間にもいくつもの場所から同様の銃声が上がり、焦りを抱きつつも奔るしかない。
 やがて五人はとある場所に出る。
 そこにいたのはアニエスと三人の銃士隊、そして――。

「え……」

 カンテラに照らされた紺色の、ハルケギニアではまず見かけない形の服に、平たい帽子に黒いベルト、それらを身に着けた倒れ伏す男性。

「うそだ」

 よろめきながらうめくような声をもらす。アニエスが振り返る。その手には、タルブでアニエスに託したデリンジャーが握られていて。

「なんで」

 才人は知っている。その服装が意味することを、日本で何度も見かけたその制服を。日常でも、フィクションでも数え切れないほど目にしたことがある。
 めまいがする。
 タルブで墓参りをしたとき、魅惑の妖精亭で舌鼓をうったとき、会いたいと思っていた。日本人に、故郷を同じくする同胞に。
 声にならない絶叫と、哀れな警官の魂を誘う銃声が、雨に閉ざされたトリスタニアにこだました。



[29710] 無貌の神は笛を吹き
Name: 義雄◆285086aa ID:ec65c40e
Date: 2012/05/05 18:36
 空は雨雲におおわれ、いつもは道を照らす月と星の優しい光も今宵のトリスタニアには届かない。ただ闇を裂くのはカンテラやマジックランプなど、人の生み出した灯りだけで、それすらも気をつけねばしとど降る雨にかき消されそうなくらいだ。
 普段は酔漢でごったがえすチクトンネ街もゆうゆうと歩けるほど人が少なく、ブーツで水たまりを踏み抜く音すらも大きく聞こえる。
 あまり見かけぬ軽鎧姿の女性が数人道端に集まっているのは、常ならば気に掛ける者もいただろうがこの冷たい雨では物好きな連中も酒場か家に引っ込んでいるようだった。

「チクトンネ五番異常ありません」
「ブルドンネ二番問題なし」
「打ち合わせ通り次の鐘が鳴るまで警戒を続けろ」
『了解』

 短い会話で再び彼女らは夜のトリスタニアに溶けていく。夜の巡回を行っている銃士隊の面々であった。
 最後まで残っていたアニエスもちらと通りを見渡し、路地裏に待たせていた隊員と合流して歩きはじめた。
 爆発的に広がった噂の情報をそれとなく聞き取るもの、あれは酔っ払いの証言ばかりで信憑性が非常に低いと広めるもの、アニエスたちのように直接見回るもの、容姿や戦闘力で三つの役割を銃士隊内で割り振り、総勢二百名のうち百名あまりが雨の中をうろついている。

――まだあれから一日だぞ。

 メアリーが現れてたった一日しかたっていない。だというのに街中が奇怪な黒い少女を知っているのはどういうことだと、アニエスは唇を噛む。

 トリスタニアは人口百五十万を擁するトリステイン王国の王都であり、さらに最近アルビオンからの避難民が流入したこともあって、十万近くもの人々が暮らしている。住んでいるのが平民だけならいざ知らず、貴族の屋敷や広場に練兵場など空間を大きくとるものも数多いため、その面積はおおよそ五キロ四方にも及ぶ。
 平民の識字率がそれなりに高く、魔法という技術が存在していても、それをラジオやテレビのように大衆向けに情報を拡散する術はほとんどなく、それだけ広い土地を、人が多いとはいえ一日、厳密にいえば翌朝にはもう東西南北同じ噂がいきかっているなど、考えられないことだった。

 その考えられないことが現実のものとなっている以上、なんらかの作為が働いている。
 アニエスがメンヌヴィルやコルベールに相談したところ同じ結論に至り、とかく警戒を密にする必要があると銃士隊は噂の制御に努めている。
 それでも効果はかんばしくなく、事態の奇妙さをより強く実感するだけであった。

 貴族街はヒポグリフ隊が見回っているということを聞いている。ついでに噂は貴族にまで拡散しているということも。
 そこがまたおかしなところで、貴族と平民との間で同時期に同一の噂が広がることは、出入りの商人たちが話を持ち込むことはあっても、平民と同じ話題で盛り上がるなどと言う貴族もそれなりの数がいて、これまでにほとんどなかったことだ。

――タルブの敗戦が響いているのか。

 世間すべてが悪い方向に向かっている。漠然とした不安感を噂というヴェールで包み、みなで言い知れない感覚を共有しようということだろうか。
 アディールで邪神にかかわることは学んでも、人の心の動向までは教わらなかった。今にしておもえばそれこそを学ぶべきだったという後悔もある。しかし今は手持ちのコマを回すしかないと、アニエスは周囲に目をくばった。

 彼女が暮らしていたのは三歳から五歳までのおおよそ二年ほど。それからも父コルベールとともに、メンヌヴィルをたずねたり、市を見にいく機会はあった。完全に離れたのはエルフの国ネフテスへと留学したとき三年間だけだ。
 その三年で首都は大きく姿を変えることなく、知り合いの経営する酒場の娘も成長して、懐かしさと嬉しさとをおぼえたものだったが、今や夜雨で視界と音とを奪われ、彼女の知るトリスタニアよりはるかに暗い影に包まれている。

 このじっとりと重く冷たい空気を彼女はどこか心の奥底に記憶している。三歳まで過ごした忌まわしき海沿いの街、過去のダングルテールに酷似しているのだ。
 シュヴァリエの爵位とダングルテールの土地を授かった際、一度だけたずねたことがある。コルベールとともに訪れたかつての寒村は、ただの廃墟になっていた。どこにもあの夜の空気を残さぬ、海鳥と野犬の住みつくあばら家のみがあって、邪教の中枢と思われた教会は聖なる火で完膚なきまでに焼け落ちていた。
 あの夜あの場でなにがあったか、アニエスはそのときコルベールからすべてを聴いている。

――このままではいかん。

 きっと誰もが胸に秘めていることをアニエスも強く意識する。しかし対処法を思いつくこともできず、己の無力さに歯噛みするばかりだ。
 首を一振りし、今一度夜の町並みに集中する。

 雨の音にまぎれてアニエスの耳にかすかな音が届いたのはそのときだった。荒々しい獣じみた呼吸音だ。
 風メイジほど耳のよくないアニエスにも聞き取れたそれは、しかし他の隊員たちは気づいていない。そのまま十字路をまっすぐ進もうとしていた隊員を彼女は手で制した。
 ハンドシグナルで右の道になにかが潜んでいることを示す。三人の隊員は、二人はバックラーを改めてから小剣を抜いて、一人は背中に隠した短弓の弦を張り矢をつがえた。長剣は狭い路地で振り回しにくく、銃は装填に時間がかかるためであった。右に投擲用のナイフを、左にマジックランプを手に、アニエスもじりじりと十字路に近づく。
 四人は目を見合わせ、次の瞬間アニエスはマジックランプを投げ込んだ。水の撥ねる音と同時、閃光があたりを照らす。灯りが数段弱くなってから、四人は一斉に路地裏へ飛び込んだ。

 果たして、そこにもがいていたのは一人の男であった。マジックランプの強烈な発光が目を焼いたのか、手でまぶたを抑えている。
 暗い中でわかりにくい濃紺の服に身を包んでおり、その顔立ちはハルケギニアのいずれの国家に属するものとも違って、鼻は低く肌の色も浅黒い。かといってゲルマニア人ほどの濃さでもなく、銃士隊の三人はよりいっそう警戒心を高める。
 ただ一人、アニエスだけは違った。その顔立ちにどこか見覚えがあったのだ。数秒もない逡巡で思い当たったのはガンダールヴの少年、平賀才人のことだった。そっくりとまではいかないけれど似た雰囲気を感じると、そう思った。

 平時のことならば酔っ払いだろうと放置しただろう。だが今は邪神の巫女が跋扈するときである。
 小剣をかまえた一人が素早く近づく。もう一人は後方を警戒し、弓と投げナイフは男を狙っている。強い語調で誰何の声をあげた。

 男の答えを、四人は聞き取れなかった。
 言葉を聞くだけでなにか気持ちが悪くなる。始祖を穢す言葉を早口で聞かされたような、そんな気分に陥る。
 目を抑えながら男は言葉を連ねる。聞くにたえがたいその言語、声は銃士隊ならずとも苛立たせる成分を含んでいる。例えるなら邪教徒が互いに識別しあうための、そんな冒涜的な言葉であるように感じる。
 再度誰何の声をあげても、男は似たような言葉を繰り返すのみで、それがまた四人の気分を害する。不快感をもよおすだけでなく、言い知れない憎悪が背筋を這い回る。

 やがて視力が戻ったのか、手をどけた男の瞳は黒かった。ハルケギニアではほとんどみない黒髪黒目の男。
 彼は最初周囲を見渡し、次いでアニエスたちに目をとめ、明白な絶望と耐えがたい恐怖に顔をゆがませた。しりもちをついたままずりずりと後ずさり、すぐに木壁にぶつかりさらに顔をゆがませた。

 なにか懸命にしゃべっているものの、名状しがたい邪神を呼ぶ儀式のようにしか聞こえない。
 その中で、アニエスに聞き取れた単語があった。刹那に間合いを詰め、胸ぐらをつかんだ。

「……今なんと言った?」

 相変わらずわけのわからないことをわめいているが、もう一度聞こえたその言葉はアニエスの勘違いではなかった。
 ナイアルラトホテップと、確かにこの男は言った。この男は邪神を知っている。なんらかの繋がりがある
 嫌悪感とは別に腹の中から沸き立つ感情が、怒りが立ち込めつつあった。

 埒が明かぬと一度突き飛ばし、後方の隊員に拘束して詰所に連行するよう目配せする。合図を受けて隊員たちは男に近づき、それに彼はいっそうひどく怯え、腰に手をやった。
 ナイフでも抜くのかと身構えた四人は、引き抜かれた男の手に光る物体を見て硬直した。
 三人は見たことのないフォルムのそれを、新種のマジックアイテムだと考え、重心を後ろにずらす。だがアニエスだけは、形こそ違うが似たような威圧感を発するものをタルブで見ている。
 平賀才人の故郷の武器、人類の持つ最小の兵器、ちょうど腰元のポーチにもいれていた。
 その銃が牙を向けている。

 アニエスはすかさずデリンジャーを抜いた。男の持つ銃は、おそらく引き金をしぼるだけで凶弾を放ちアニエスたちの命を一つ奪うだろう。間に合わないという確信はあった、それでも最後まであきらめてはならぬと、手が動いた。

 しかし、その思考はまったく的外れだった。
 男は自分のこめかみに銃口をあてると、ためらうことなく撃鉄をあげ引き金を引く。雨の中、乾いた銃声と崩れ落ちる音が路地に反響した。

 四人は絶句したままで、動きすら奪われていた。
 しばらくたって、ようやく一人が男に近づく。首と顔とに手をあて、無言のまま振り返った。目をつむり、アニエスは死者の安息を祈った。

「台車を持ってきてくれ。調べねばならないし、なにより野ざらしでは……」

 そこまで言って、水を踏み分ける音に気づいた。ここまで接近を許すほど動揺しているなんてと、アニエスは心中で舌打ちする。

「うそだ」

 振り返ると、五人の少年がいた。
 先頭に立つ黒髪の少年がぽつりと漏らす。ぐらりとその体が傾ぐ。
 響かぬ絶叫は、しかしアニエスの心を抉るほどに悲痛であった。





―――無貌の神は笛を吹き―――





 才人はよろよろと血を流して倒れる男に近づき、特徴的な帽子を外せば、ジェシカやシエスタよりもよっぽど親近感の沸く顔が見える。ころがるマジックランプの灯りだけでも日本人だとわかる顔立ちと髪の色。
 いくら仲間が心配する声をかけてもろくな反応を示さない。彼の頭はぐるぐると、日本人らしき男に対する疑問にとらわれていた。

――なんでこんなところに。どうしてこんなときに。なんだってこんなことに。

 子どもの落書きめいた思考は、ぐちゃぐちゃとまとまることを知らず、かけられる言葉に応ずることすら忘れて内面に閉じこもる。
 隊員が場を離れたことも、ギーシュたちが声をかけていることも知らず、ひたすらに思考は螺旋を駆け巡る。

 ひどく混乱している才人を現実に引き戻したのは、肩を強くつかんだアニエスであった。

「しっかりしろ」
「あ、アニエスさん……」
「警戒しておけ」

 言って、アニエスは倒れる男に近づき、その服装をあらためはじめた。

「なにを、してるんですか」
「少しでも手がかりがいる」
「隊長、一度隊員を招集すべきでは」
「厳戒態勢用の信号弾を上げろ。こういうときに『風』が使えればいいんだがな」

 死者の安寧を妨げる墓荒らしめいた冒涜的行為に、才人は乾いた喉でせいいっぱいの声を出す。対するアニエスの言葉は簡潔で、次々とポケットやポーチの中身をあらわにしていく。
 軽い砲声と空を照らす赤い光の弾が上がる。

「サイト、ここはアニエス隊長に任せよう」

 レイナールの言葉もどこかうつろに聞こえる。他の三人と銃士隊の隊員はトリスタニア市民を抑えていた。路地がチクトンネ通りに近かったせいで、高くこだました銃声を聞きつけたのと、信号弾という目立つものをあげてしまったせいで人が集まりはじめている。
 再び遠くから響いた銃声に誰もが不安をあおられ、ここでなにがあったのかを知る者は苦い顔をした。

「……これは、勲章か? いや、身分を証明するものか。読めんな」

 アニエスが取り出したのは、金色の日章が輝くこげ茶色の物体だった。マジックランプの灯りを頼りに調べるも、よくわからないようで顔をしかめた。
 しかし、彼女にはわからずとも、この場には知っている人物がいた。

「それは」
「……わかるのか?」
「俺の国の、警察の」

 つぶやいた才人へ無造作に手渡す。なかば反射的に受け取り、開いた。もちろん読める。数年ぶりに読むような感覚の、だけど数ヶ月しかたっていない言葉、日本の文字がそこにある。
 懐かしすぎて涙がこぼれそうだった。こんなかたちで出会いたくはなかった。才人は勿論、おそらく大多数の日本人もなんらかの形で見たことがあるだろう、警察手帳だった。
 倒れた男の上半身がうつった写真と、日本語と英語が併記された氏名。いたってマジメそうな顔と特に珍しくもない名前で、日本でならすれ違ったとしても気にとめないであろう人物は、ここハルケギニアにおいてはありえない存在で、しかも無残な死体を雨にさらしている。

――この人は、こんな……。

 死にたかったわけがない。きっと生きていたかったに違いない。
 やるせない気持ちと共に、言い知れぬ感情が湧き上がる。

「どうして……どうして撃ったんだよアニエスさん!!」

 逃げ場を求めるほど黒々と渦巻く激情はアニエスに矛先を向けた。短絡的な思考が傍にいたアニエスを、デリンジャーを手放していなかった彼女を犯人であると決めつけていた。

「私は撃っていない。あいつは自分で撃った、それだけだ」

 対するアニエスはどこまでも冷静であった。

「なんでそんな」
「わからん。脅したあと、引き金をひいた」
「脅したって……」
「ヤツの口からあの名が出た。尋問する必要があったのだが、詰を誤ったな」

 自戒が込められているものの、どこまでも味気なく淡々とただ事実だけを述べた。

「……して」
「なんだ?」
「どうしてそんな冷静なんだよ! 人が、人が死んでるのになんで!」
「よせサイト!」
「この人は日本人で、警察だからって、死んでいいはずないじゃないか!」

 才人の叫びにアニエスは眉をひそめる。
 羽交い絞めにしたマリコルヌの静止も聞かず、小さな人だかりができているのもかまわずアニエスに食って掛かろうとした才人は、明らかに平静さを欠いていた。
 雨は容赦なく人々を打つ。しばらく才人は荒い息を吐きながら、なおもなにか言葉を吐き出そうとしたが、うまくできなかった。心にうずまく形容しがたい感情を表現する術を彼は持っていなかったのだ。

 また、音が聞こえる。雨に打ち消されないほど大きく、乾いた銃声がとどろく。
 アニエスはなにも言わず、ただじっと彼を見つめていた。その瞳に責める色はなく、慰めの気遣いもなく、ただ見つめている。
 やがて才人は力を抜いて、一言すいませんとつぶやいた。アニエスは、やはりなにも言わなかった。

 そこに集まった市民をかきわけて台車をひいた隊員がやってくる。一枚の古びた毛布をもって、哀れな警官に近づいていく。

「俺が、やります」

 その前に才人が立った。

「サイト、不浄の仕事は……」
「いいから」

 レイナールのいさめる言葉も跳ね返し、どこか危うさすら感じる硬い表情で才人は立ちはだかる。こんな異世界に無理やり連れて来られて、なぜか自ら命を絶つまでに追い詰められて、そんな人だからせめて同じ日本人の手でという思いがあった。
 隊員は一瞬面食らった顔をして、次にアニエスに目をやった。頷く彼女を見て問題ないと判断し、大きな毛布を渡した。
 ついさっきまで動いていて、血が流れていて、暖かかったはずの身体は雨ですっかり冷えかたまっている。毛布ですっぽりと彼を包み、台車に載せた。引く仕事も才人がかってでた、誰にもゆずるつもりはなかった。

「いこう」

 遠巻きに死体を載せているとわかっていたのか、才人が近づくと群衆はさっと距離をとり道を空ける。常ならば気にかけたかもしれないその行動は、かえって通りやすくなったとしか思えなかった。

 一行は誰一人喋らず黙々と衛士の詰所に向かう。
 台車は頑丈な木製で、それ単体でもかなりの重さがあるようだったが、才人には気にならなかった。ごとごと音を立てて夜のトリスタニアを歩く。途中ギムリが気をつかって“レビテーション”をかけるかたずねたけれど、それも断った。

 ひたすらに無心で重い台車をひく。考えてしまえば一度取り戻した冷静さが再び失われそうだった。
 しばらく歩いて詰所に到着した。銃士隊は結成式などを行っておらず、まだ公的な立場を得るには至っていない。そのため詰所も用意できておらず、普段トリスタニアを警護する魔法衛士隊の施設を間借りしていた。
 かがり火を焚いてかなり明るくしてある石造りの詰所は、かなり多くの人々があわただしく行きかっている。見ると軽装鎧の多かった隊員が胸甲を身につけ、兜をかぶり、大型の盾をもってまた街に出て行っているようだった。
 台車を入り口において、才人は男をかついでアニエスの後に続く。数名の隊員が控える部屋につくと、気づいた者たちが敬礼して出迎えた。

「ミシェル、状況を」
「街の各所に不審な人物が現れ、いずれも交戦状態になっています。未知の武器を使用してくるため負傷者多数、すでに殉職者も出ています」
「……もう出てしまったのか」
「残念ながら。敵勢力の捕縛を試みた者もいるようですが失敗に終わっています。ある程度接近すると自ら命を絶ってしまうようです」

 青髪の隊員、ミシェルが目をやった先には才人が運んできた男と同じように、毛布にくるまれたなにかが五つほど転がっている。石畳の上に直接おいてあるわけではないので、一応の死者に対する礼儀をとっているのだろう。
 才人も、先ほどの男をその場に横たえた。近くの毛布をめくって中身をあらためると血と臓物のにおいがあたりに広がる。
 出てきたのは血に濡れた短い金髪の頭だった。口の中に銃を突っ込んで撃ったらしく、顔は原型をとどめていない。吐き気がこみあげてくるも、つばを飲み込み耐えた。足のほうをめくるとジーンズをはいていて、おそらく欧米系の人だろうと才人はあたりをつけた。
 アニエスたちが話している間に残る四つの毛布も調べてみる。そのうち二つは銃士隊員の遺体で、残る二つは自衛隊のような雰囲気の男と、日本人警官だった。

「あんまりだ……」

 力が抜けてその場にへたりこんでしまう。
 銃士隊員もそうだったが、この人たちがなにをしたというのだ。おそらくなにごともなく、ただ流れる日々を平和に過ごしてきたのではないか。なのに、その末路が知人一人いない異世界でしかも自殺をするなんて、あんまりだと才人は思う。
 へたりこんでいる才人にアニエスが近づき、手を差し伸べる。反射的に握って、ぐっと立たされた。

「私も装備を整えてまた街に出る、お前たちはもう帰れ。今夜は私たちに任せておけ」

 それは実質の戦力外通知だった。気遣いを含んでいたのかも知れない。
 才人はぼんやりその言葉を聞いていた。どこか悔しげなギーシュたちの顔も目に入らず、促されるまま外へつながる通路をいく。

 最後にアニエスは五人の背に声をかけた。

「およそ二万人だ」

 底冷えのする、魔法学院にいたころは出さなかった低い声であった。

「タルブでそれだけの数が死んでいる」
「二万……」
「壊滅じゃないか。そんなに死んでいたなんて」

 その数字はつい昨日算出されたばかりで、まだ名前もない新騎士隊の誰も知らないことだった。

「事態はすでにそこまで来ている。同郷の者がああなったのは残念だろうが、気を引き締めてかかれ」

 慰めとも激励ともつかない声は、おそらく才人に向けられたものだ。

「良ければしっかり弔ってあげてください」

 才人はそれだけ言って、とぼとぼ詰所を出ていってしまった。彼らを見送ってからアニエスはため息をついた。

「どうされました?」
「いや、同郷の者というのがな」

 アニエスが思い出したのはダングルテールだ。もし彼女の故郷にあの女性が漂着していなければ、もし焼かれることがなければ。今頃自分はどういう人生を送っていたのだろうと、考えても答えの出そうにない「もしも」を彼女は少し想像して、思考を打ち切った。今すべきことではないし、考えても仕方のないことだからだ。

「メンヌヴィル殿たちと連絡はついているか」
「ええ、ですが向こうはまだ遭遇していないと言っています。どうも通りに近い場所、人目につきやすいところへ現れやすいようです。魔法衛士隊は一名遭遇、交戦後殺害したと」

 おかしなことばかり起きる。
 アニエスは一度天井を仰いで、それから装備を整えはじめた。

 一方詰所を出た才人たちは今後の行動を話し合うため一度立ち止まった。
 ウエイトたちのこともあるので一度魅惑の妖精亭にいかねばならない。結論は簡単に出て、雨の中再びチクトンネ街を通っていく。昨夜も雨のせいで人通りは少なかった。今夜はそれ以上に少ない。
 常の喧騒に沸くチクトンネを知るギムリからすれば奇妙さしか感じない。ひっそりと、まるでなにかに怯え息を潜めるような暗さが通りに蔓延していた。

 魅惑の妖精亭もその例外ではなかった。明らかに昨夜よりも客数が減っている。平時ならひっきりなしに声がかかる妖精さんたちもどこか暇をもてあまして気味で、普段は店内に目を光らせているスカロンも奥にいるのか姿が見えない。
 酒を飲むことなく待っていたウエイトたちが手を上げて才人たちに声をかけ、一同は席に着いた。

「どうやら街が騒がしいようですが、こちらは特になにもありませんでした」
「ウエイト殿は遭遇しませんでしたか。正体不明勢力が浸透しているようで……」

 ウエイトの報告にギーシュが答え、才人を気遣うように目をやって、それでも言う必要があるかと声を落としてはっきり口にした。

「サイトの同郷らしく、見たこともない飛び道具を使ってきます」
「見たこともない飛び道具……マジックアイテムですかな?」

 遠慮もなにもなく、ただ必要だからウエイトは聞く。その瞳にこめられているのは憐憫や憤りでもなく、純粋に職務に忠実たらんとする軍人らしい強い意志であった。

「いえ、マジックアイテムじゃありません。ただの銃です」

 言って、腰元のホルスターにおさめらたSIGを机の上に置いた。アルビオン軍人三名と、それとレイナールにギムリも興味深そうに弄り回している。

「さっぱりわからないな。ミスタ・コルベールならこういうのに詳しそうだけど」
「今は機構のことを考える必要はないでしょう。重要なのは殺傷能力です」
「平民の使う銃というのはそこまで強くないと聞いていましたが」
「地球の銃はずっと高性能です。弾丸一発で、当たり所が悪ければ人は殺せます。銃にもよるけど、それが十発前後、連射もできます」
「それはまた……大きな脅威ですな」

 時折才人の解説をはさみながら、一同は銃を取り回して一通り観察した。最後に“ディテクト・マジック”をウエイトがかけて、才人に手渡した。

「ヒラガ殿」

 手を組んで、じっと才人の目を見ながらウエイトは言う。

「同郷の者がこうなったのは残念なことでしょう。私も同じアルビオン軍人が無法行為に走ったと聞けば、ましてやその現場に直面したとあれば平静を保てる自信がありません」

 副官が上官に提言するような、それでいて大人が子どもを諭すようにウエイトは淡々と告げる。

「しかし、歩みを止めてはなりません。我々の背にはハルケギニアの民がいるのですから」

 それはきっと、ウエイトのもつ軍人としてのプライドなのだろう。一心に弱気を助けるために自らが杖を振るう。ただそれだけで他はいらない。

「すごい、素晴らしい。あなたこそ真の貴族だ!」

 彼の言葉に感じ入った様子のギーシュは感嘆の声をあげ、ウエイトの手を取ってぶんぶん上下に振り回した。

――この人は、けれど。

 だけど、才人の心にはさほど響かない。犠牲になったのは軍人だけじゃない。まっとうに勤め上げればそのまま天寿をまっとうできたはずの警察官だ。それも日本で殉職したのではなく、わけもわからず異世界に来て混乱と失意と絶望の中死んだのだ。
 価値観の些細な違い、かみ合わない異世界観の常識は、小さく見えない棘として才人の心に潜む。

「すいません。ちょっとだけ一人にさせてください」

 それだけ言って、才人は店員の許可もとらず昨日と同じく二階に上がっていった。今はとにかく一人になりたかった。
 残されたウエイトたちは冷えた身体を温めるためグリューワインとシチューを注文して才人を待つことにした。ウエイトは一人かすかな憂いを帯びた顔をしていた。

――少し、説教がましかったか。

 平賀才人の重要性はウェールズからよく聞かされている。おそらく彼こそがこの絶望的な戦いの趨勢を決定するということを。だが彼は同時にちっぽけな男の子でしかないということを、ティファニアから聞かされている。
 才人にはウェールズを救われたという恩義がある。そのため打算や軍人の矜持を取り払い、極力ガンダールヴとしてではなく、少年として扱おうと決めていた。落ち込んでいるときは一人の人間として導こうと決意していた。

――なかなか難しいものだ。

 ワインを口に含んで、巡回中の注意点を議論する若いトリステイン人の輪に加わった。

 昨日と同じ部屋で、才人はベッドに腰を下ろした。
 一人の部屋はどうしようもないくらいに静かで、自然と考えないようにしていたことが波間をたゆたう泡沫のように浮き上がっては消えていく。
 先ほども一瞬よぎった何故という疑問。
 なんでこんなところに日本人がいるのか。どうしてこんなときに現れたのか。なんだってこんなことになってしまったのか。
 一つだけすべてつながる理由がある。

――きっと、邪神だ。

 ハルケギニアにおいて名を言うことすらはばかられる、その姿唾棄すべき獣のごとくおぞましい、直視した者を狂気に陥れる邪神は、ガリアのジョゼフ王が言うには宇宙規模の存在である。ならば、地球にまでその影響を及ぼしても不思議なことはなにもない。

――どこまでもふざけてやがる。

 ぎりっと歯を強く食いしばる。ふつふつと煮えたぎる怒りは降りしきる雨の音をもってしても冷ますことができない。
 その雨音に混じって部屋に響いたのはノック音、才人は深く考えず入室をうながした。

「やっほー、ジェシカさんからのお届けものよん」

 入ってきたのは相変わらず露出の多い妖精姿のジェシカだった。
 才人は深く息を吸って、大きく吐き出して心を落ち着ける。彼女に八つ当たりするわけにはいかないと理性が働いた。

「なによ、人が入ってくるなりため息ついて」
「ちげーよ」

 なにが楽しいのかジェシカはにやにや笑いながら才人の隣に腰掛けた。膝の上のお盆には薄く切られた黒パンと湯気をあげるシチューと二人分のグリューワインが載っている。

「連れの軍人さんがサイトにも持っていってくれって。あとでお礼言っておきなさいよ」
「あちゃぁ……そっか」

 ウエイトにはとことん迷惑をかけているなと才人は額を押さえた。

「店のほうはいいのか?」
「ガラガラなの見てたでしょ? 雨だし昨日のアレが噂になってるから余計によ」

 つまらなさそうに言ってジェシカはワインに口をつける。見習って才人も飲めば、ぴりとスパイスの香りが口に残った。

「ま、シチューも冷める前に食べちゃいなさいな。パパお手製のホワイトシチューは美味しいわよ?」

 勧められるままホワイトシチューにも手をつける。魔法学院で味わったものよりずっと薄味だったけれど、冷えた身体にはなによりしみて、同時に空腹を強く自覚する。
 固いパンをシチューにひたして黙々と食べる。さほど量は多くなかったので皿はあっという間に空になった。

「ごちそうさま」
「はいおそまつさま。と客商売でこんなこと言っちゃダメなんだけどね」

 最後にワインを飲み干して人心地ついた。食べ終わってもう用もないだろうに、ジェシカは腰をあげるそぶりを見せない。木のコップを両手で持ちながら、ちびちびワインに口をつけている。その視線はぼうっと壁に固定されていて、なにを考えているのか才人にはわからない。

「なんかさ」

 コップをお盆に載せて、お盆もベッドにおろして、ジェシカは才人の顔をじぃっと見つめた。

「シエスタに聞いてたのとは違っていっつも元気ないわよね」
「そう、かな」

 そんなの理由は決まっている。タルブからこっち、まだ一週間もたっていないのに辛いことが多すぎた。常の明るく深く物事を考えない性格は表に出そうにない。
 
「なんかあったんでしょ、ジェシカさんに言ってみ?」

 うりうりと遠慮なくひじで才人を突っつく。

――そんな、優しくしないでくれ。

 その強引な優しさに、才人はすがりたくなってしまう。恥も外聞もなく助けてくれと叫びたくなる。
 そんな内心を見透かしているのか、ジェシカはからから快活に笑ってみせる。

「酒場の娘なめんじゃないわよー。客の愚痴なんて慣れっこなんだから」

 ジェシカは飛びっきりの美人というわけではない。ルイズやアンリエッタ、ティファニアと比べればだいぶ見劣りするのは才人から見ても明らかだ。
 それでも彼女には、才人にだけ有効な圧倒的アドバンテージが存在する。黒髪黒目、日本人の面影を残した顔立ち、それらはこれ以上なく郷愁を刺激して、才人の心を解きほぐしていく。
 加えて才人の周囲にはない独特の距離感を持っていた。ルイズやシエスタほど遠慮しているわけでもなく、ケティほどガンガン飛び込んでくるでもなく、客商売で鍛えた距離のとり方はひどく心地いい。

「だから、吐き出してしまいなさいよ」

 その慈愛の微笑に、その優しさに、才人は落ちた。

「今日さ、俺の国の人と会ったんだ」
「サイトの国っていうと、ひいおじいちゃんと同郷の人? すっごい偶然ね」

 ぽつぽつと、頭の中を整理しながら口に出しはじめる。

「俺の国はさ、詳しいことは言えないけどここからじゃ絶対にいけないんだ」

 声にすればするほどに故郷の遠さを実感して辛さがこみ上げてくる。
 思い出すのは日本での日々、なにごともない日常とふざけあえた友人、暖かかった父と母。

「ここからいけないって、サイトは実際ここにいるじゃない」
「一方通行みたいなもんみたい」
「ふぅん、まあよかったじゃない。今度紹介してよ」

 何気ないジェシカの言葉に、落ち着いていたはずの激情が溢れた。

「できない」

 ふたをしていたはずの記憶は、つい一時間ほど前のことでしかなく、心の奥底に封印しておくことなどできるはずがなかった。
 雨に打たれて、はじけた頭からは血と脳漿が流れていて、臨時の遺体置き場になっていた詰め所には臓物の悪臭に満ちていて、これが神の書いたシナリオならあまりにも残酷に過ぎ、あるいは邪神の筋書きであったとしても、才人には到底許すことができない。

「その人、もう死んじまった」

 ジェシカが絶句する。顔を見ていなくとも、きっと表情がこわばっているのがわかる。

「なあ、なんでだろうな。なんでこんなところに呼び出されて、わけもわからず戦って、最後には自殺して。あんまりだよ、ホントに」

 手で目を覆ってしまう。あんまりだ。ひどすぎる。嘆く言葉はいくらでも出てくる。
 それは異世界にて壮絶な最期を遂げた男たちに対してだけではない。才人は無意識のうちに、彼らに自分の未来を見ていた。ニューカッスルで戦った。タルブでも戦った。敵は、邪神はあまりに強大すぎる。どれだけあがいても勝てないような、心に絶望感が帳を落としつつある。 

「サイト」

 ジェシカは無理やり彼の顔を彼女に向けさせた。先ほどまでの微笑みは消えていて、だけど怯えも嫌悪もない。
 そのままがしっと彼の後頭部に手を回すとそのまま自分の胸に突っ込ませた。

「よーしよしよし。辛かったのね」

 かっと顔に血がのぼる。
 混乱してされるがまま、胸に顔をうずめる才人の頭をジェシカは乱暴に撫でてやる。恋人にするような、あるいは慰めるような気配は一切なく、むしろ動物相手にするそれが近かった。

「口ぶりからすると家族もこっちにいない。友だちも故郷に残したまま」

 恥ずかしくなってきて、それでも気持ちいいから跳ね除ける気にもなれない。

「なのにあの貴族様たちもサイトを中心にしてるみたい、きっと頼られてる」

 乱暴だった手つきが少し柔らかくなって、ごわごわした黒髪を梳いていく。
 才人はじっとかたまったままジェシカの言葉に耳を傾けていた。

「周りの人が頼ってくるとそうなるわよね。弱音をはけなくて、どうしようもなく行き詰って、苦しくて」

――嗚呼。

 胸中でため息をつくしかない。なんでジェシカは、こんなにも的確に自分のことをわかってくれるのだろうか。

「今日は胸を貸したげるからとことん泣きなさい」

 一筋、雫がこぼれる。
 あますことなく理解してくれている人がいる。それだけでこんなに心が楽になるなんて知らなかった。
 涙はさほど出なかった。かわりに暖かな気持ちが才人の中に芽生えている。
 すっと撫でられていた手をほどいて、才人はジェシカに向き直る。

「ごめん」
「言うなら『ありがとう』でしょ。って前来た旅芸人が言ってたわ」

 にかっと年頃の少女というより、少年っぽい笑みをジェシカは浮かべた。

「ありがとう」

 自然、才人も笑みを浮かべた。
 二人どちらともなく立ち上がって、ドアに向かう。

「ジェシカさんの胸で泣いた男なんてあんたが初よ。ホントなら十エキューくらいチップとるけど出世払いでいいわ」

 お盆片手にジェシカはドアを開けた。

「はいお会計百二十エキューの五十年分で六千エキューになります!」
「す、スカロンさん!?」

 扉を開くとそこには仁王立ちしたオカマがいた。
 暖かい気持ちがものすごい勢いでしぼんでいく。ジェシカはなんてことない顔だったけれど、才人はじりじりと後ずさる。

「女の子の胸借りておいて、責任取らないっていうのかしら?」
「え、あ、いや、その」

 ミ・マドモワゼルなにするかわからないわよ、なんてくねくねとスカロンは才人に詰め寄る。ある意味凄まじい迫力であった。壁際に追い詰められ、才人は生まれたての小鹿みたいに震えるしかない。

「もーパパったら、そんなんじゃないわよ。ほら、サイトも連れ待たせてるんだし、とっとと戻りなさい」
「りょ、りょーかい」

 呆れ顔のジェシカはやれやれと肩をすくめながら助け舟を出した。
 その言葉に従って、才人はあっという間に部屋を出て行く。残された親子二人は、目をあわせて部屋を出た。

「ジェシカ、ずいぶんサイトくんに入れ込んでるじゃない」
「そお? まーそうかもしれないわね」
「惚れたの?」
「まさか。カッコいいところ一つも見てないし、むしろ情けないとこしか見てないし」

 ストレートな物言いのスカロンに、ため息交じりの答えしか出ない。
 
「なんていうかね、弟みたいな感じよ。会ってすぐでこんなこと言うのもへんだけど」
「う~ん、そうかしら」

 娘の言葉に半信半疑といった様子で首をかしげる。階段にさしかかるころ、まあ本人がいいならそれでいいかと思った。



***



 翌日、才人たちは再び夜のトリスタニアに身を投じた。雨はまだやむ気配を見せない。ギトーが予見したとおり、この季節にはありえないほど長い雨になるようだった。
 王宮で昨夜の事件を聞いていたルイズは、今度こそ才人を止めようとした。けれど彼は聞き入れない。仮に今夜も同じようなことがおきるなら、自分なら助けられるような、そんな気がしていたからこそ止まれない。
 地球人の出現位置はまったくのランダムで法則性をつかめない。強いて言うなら大通りに近いところに出やすい程度で、城門の外に現れたものもいたそうだ。すでに八名、もの言わぬ死体になっている。
 合流する予定であったコルベールは別件に時間をとられ今夜も別行動になると伝達がきた。ウエイトとアルビオン人二人、それとギーシュたち四人と最後に才人、昨夜と同じメンバーで街を探索する。
 例によって魅惑の妖精亭で合流して、フードをきっちりかぶってから街に出る。気休めくらいの銃対策に、ギーシュの“錬金”した胸甲を身に着けていて、昨日よりもその足取りは重かった。
 銃士隊も魔法衛士隊も動員数を増やしている。なんとか諸悪の根源を絶って被害を抑えたいというアンリエッタたちの考えがあった。

「あそこからいこうか」

 目に付いた路地をくぐり、あてもなく街をさまよう。すれ違う人々もみなフードをかぶっていて、通りはどうしようもなく重苦しい。
 時折聞こえる酒場の喧騒は安心感すら与えてくれて、家から差す灯りはここが人の住む世界であることを教えてくれる。

 神経を削りながら巡回する彼らは、一度大通りに戻ることを決める。狭く曲がりくねった路地を進み、もう少しいけばブルドンネ街に出るというところで、突如男が転がりだした。

「警戒!」

 即座に声をあげるマリコルヌと“ワルキューレ”を作り出すギーシュ。ギムリは身体を半身にして“火球”のルーンを唱え、レイナールはカンテラを素早く壁際に転がした。
 石畳に倒れる男は彼らと同じくフードをかぶっていて昨日出現した者とは明らかに違う。
 続けざまに一人、二人と路地の曲がり角から吹っ飛ばされてくる。遠くから見る限り気を失ってはいたものの怪我をしている様子はない。最後の一人はフードがめくれていて、おそらくハルケギニアの住民であろうということがわかった。

「ぼくのワルキューレを先行させる。ギムリは“火球”をそのまま待機、マリコルヌは“ウィンド・ブレイク”を」

 ギーシュの指示に従い、そろそろとワルキューレの後をついていく。先行させた女騎士に攻撃が加えられないのを確認してから、マリコルヌが杖を構えつつ曲がり角に飛び込み、再び驚きの声をあげた。

「ミスタ・ギトー!」
「……夜遊びとは感心しないな」

 黒髪をしっとり雨にぬらし、幽鬼のような男が佇んでいる。昨日勧誘したばかりの魔法学院教師、『疾風』のギトーであった。
 敵ではないことを確認し五人は彼に駆け寄った。傍目には外傷もなく、体力を消耗していることもない。
 生徒が心配する目にもかまわず“ウィンド・シールド”を詠唱する。雨が風の膜を流れていき、その身体をぬらすことはない。

「言ったはずだ。騎士隊遊びはやめておけと」
「ですが、ぼくたちにも職務があります」
「平民の衛士も魔法衛士隊も動き回っている。諸君の出る幕ではない」

 レイナールの言葉もろくにとりあわず倒れる男たちに向かう。全員のフードをはがすと、やはり三人ともハルケギニア人の顔をしている。

「酔漢というわけではなさそうか……また軍人か」
「ミスタ・ギトーは何故ここに?」
「雨をうまくよける“ウィンド・シールド”の練習だ。教師だからこそ日ごろの研鑽を怠ってはならない」

 こんな時間にやる必要ないんじゃ、という視線を無視してギトーは男たちから杖をとりあげ、懐から取り出したロープを使ってふんじばっていく。元軍属だけあってその手つきは手馴れたものだった。

「その、もっと練習に向いたところがあるのでは?」
「元軍属の身として練兵場には行きづらい。なに、歩きながらやれば難易度があがって丁度いい」
「なんでこんな遅くに」
「思い立ったが吉日という言葉もある。それともなにか、きみたちが困ることでも?」
「いえ、ありません……」

 こんな場所でこんな時間にうろつきまわっているなんて、普通はありえない。言い訳にしたって無理がありすぎた。

――この人、ひょっとしてギーシュたちが心配で巡回してたんじゃ。

 だとしたらなんていい教師なんだろうと才人は感心する。
 そんな彼の視線を感じ取ったのか、じろりとギトーは才人をにらみつけた。

「なにか勘違いしているようだが、私は私の事情を優先しているだけだ」

――こ、これはアレか。「勘違いしないでよね、別にあんたのためにやってるわけじゃないんだから!」ってヤツか……。

 おっさんのツンデレなんて誰も得しない。
 なんだか毒気を抜かれて、ついでに肩の力もぐっと抜けた。

「しかし、トリスタニアも治安が悪くなった。スリならいざ知らず貴族相手の強盗なんぞめったに出なかったというのに」
「ミスタ・ギトー。どういう状況だったかお聞きしてもよろしいですか?」
「私が歩いていたらすれ違いざまに無言で襲い掛かってきた。つい昨日の連中と同じ雰囲気がしていたな」
「奇妙な話ですね」

 魅惑の妖精亭に押し入ってきた男たちのことは才人も聞いている。銃士隊に身柄を引き渡し、男たちが下級貴族であったのでそこからさらに魔法衛士隊の担当にうつり、尋問には黙秘しているらしく、新しい情報は入ってきていない。

「サイト、彼らは」
「人間だ。間違いなく、ただの人だ」

 ギーシュの懸念を才人は否定する。リーヴスラシルのルーンもガンダールヴのルーンも反応が一切ない。ケティからですら微弱な邪神の気配を感じ取ることができたのだ。どこかで接触があったのなら、おそらくわかるはずだ。

「デルフ、どう思う?」
「軍人がこの時期に追いはぎを行うとは考えにくい。なにか彼らは密命を帯びているのではなかろうか。ギトー殿、そなた仇持ちではあるまいな」
「いや、そのような覚えはない。そうであればこんな夜には出歩かない」

 これまでずっと黙っていたデルフリンガーに意見を求め、一つの可能性が出てきたが、あっさりギトーに否定される。

「とにかく、諸君は帰りたまえ。この男は私が衛士に突き出しておく」

 “レビテーション”で三人の男を持ち上げ、雨に打たれながら悠々とギトーは去っていく。
 その軽やかさ、まさに疾風の如くであった。

「レビテーションの複数がけとか、器用だな」
「うぅむ、やはりミスタ・ギトーは強い。騎士隊に欲しい」
「ま、ミスタ・ギトーの言葉じゃないがそろそろ合流時間だ。一旦妖精亭に戻ろうぜ」

 ギムリの声に感心するマリコルヌも隊の勢力拡大に執心しているレイナールも振り返る。ギーシュ一人だけが腕組みして考えていた。

「どうしたギーシュ?」
「お腹でも痛いのか?」
「いや……なんでミスタ・ギトーだけ襲われたんだろうって」
「言われてみれば、不思議だね」

 彼らはすでにかなりの距離を歩いている。すれ違った人間なんて数え切れない。だけど襲われることは勿論なかった。

「俺たちは五人だからじゃ?」
「巡回中は一人歩きしている人もいた。露見していないだけかもしれないけど」
「とにかく、ミスタ・ギトーが昨日今日で二回も襲われたのは事実だ。戻ってからウエイトさんたちにも確認をとろう」

 話し合っても答えの出ない議論を打ち切って、五人は細い道をたどってチクトンネ街を目指す。
 昨夜のような銃声は聞こえない。そのことに才人は少しだけ安堵する。もうあんな無残なことは起きない。罪もない人が死ぬことなんてない。
 そんな幻想を欠片でも抱いてしまった。
 混沌は闇夜に這い寄るということを、忘れてしまっていた。

 ある十字路にさしかかる。このまままっすぐいけば魅惑の妖精亭まで五分もかからない。
 なのに、才人はそこで足を止めた。誰かが呼んでいるような奇妙な違和感をおぼえる。

「サイト?」
「あ、いや。なんかこっちが気になってさ」

 右を指差しながら頭をかく。なぜ気にかかるのか、彼にも説明はできない。

「こういうのは放置しておくと後々まで尾を引くものだ。さして時間もとるまい、いくべきだと某は思うぞ」
「まあ、デルフリンガー卿がそういうなら」

 路地は細く、長く続いている。道なりにしばらく進んでも折れ曲がったりはしているものの、分岐路などはない。
 やがて家の裏口が密集しており、建物の間に何本もロープが張られている少しだけ広い空間に出た。

「は……」
「え、なん、で」

 雨が降る。染み出す血の河を洗い流すようにしとどなく街を打つ。
 レイナールが落としたカンテラは割れることなく地面をころがり、赤を照らし上げる。

「抜け相棒!」
「円陣防御!!」

 デルフリンガーが叫ぶ。ギーシュが吼える。
 右手は腰の銃に、左手は神剣をそれぞれ刹那の間に抜き払う。一瞬で各々が背中を託しあい、周囲に目を配った。

「ぎ、ギーシュ、ワルキューレを!」
「もうやってる! 防壁作れマリコルヌ!」
「了解!」

 三体のワルキューレが石畳から生み出され、マリコルヌは精神力の消費を気にせず大規模な“ウィンド・シールド”を作り上げる。
 全力で走ったわけでもないのに息が荒くなる。極度の緊張に五人は置かれ、ともすれば膝をついてしまいそうだった。

「レイナール、念のため……」
「あ、ああ、わかっている」

 円陣を維持したまま五人はじりじり移動する。広間の隅へ、血の流れる根元へ。

「こんなの、なんで、くそっ!」
「気配はどうだサイト!?」
「なにもない。ぜんっぜん感じねぇよ!」

 雨とは違う脂汗がしたたりはじめ、こんな夜中に悲鳴じみた大声を出しているのに民家からは誰一人出てこない。そもそも明かりがついていない。

「二人とも、いや、三人とも、死んでる」

 倒れ伏す三人の遺体と、そこから少し離れた木棚に安置された一つの頭。
 つい一時間前に話したばかりだった。これからもずっとともに戦うはずだった。アルビオンの誇り高い軍人、クラーク・ウエイトは凄惨な死に顔を雨にさらしている。
 他の二人も首こそ落とされていないが、身体中に傷がついていて絶命は明らかだった。

「ど、どうするんだギーシュ」
「どうするもこうするも。どうすればいい、どうすればいいんだ」
「落ち着け、いいから落ち着けよ!」

 ウエイトは言わずもがな、他の二人もギーシュたちからすれば遥かに強いメイジだ。その三人がここまで無残に殺されている。この三人を虐殺できる存在が近くに潜んでいる。
 カリーヌの教えすら忘れ五人はパニックに陥っていた。豪放に見えて普段もっとも冷静なギムリですら自分に言い聞かせるように言葉を繰り返すしかできない。ここで襲撃を受ければどうなるか、いやな想像ばかりがふくらみ五人を圧迫していく。

「相棒は周囲を警戒しておけ。ウィンド・シールドを解いてはならぬ。ワルキューレを急いで大通りに向かわせよ。あとはライトで少しでも光源を確保。残るは検死だ、傷跡をあらためるのだ」

 ただ唯一、デルフリンガーだけは一切の動揺を見せなかった。威厳ある低い声に才人たちはほんの少し平静を取り戻し、各々指示されたことに取り掛かる。
 ギーシュは新たに四体のワルキューレを作り、それぞれ別のルートを経由して大通りに、衛士の詰所に走らせる。ギムリが“ライト”で強い光を生み出し、その明かりを頼りにレイナールはおっかなびっくり死体の服を裂いていく。

「火傷があります。それと風魔法らしき鋭利な傷に、土魔法を受けたと思しきアザも」
「下手人はメイジである可能性が高い、か」
「それと専門知識はないので、断定はできませんが」
「些細な手がかりでもかまわん。わかったことがあればどんどん言ってくれ」
「多分、拷問を受けています」

 レイナールが調べた遺体にはおそるべき所業が刻まれていた。
 彼らにそれを吟味する暇を与えず、トリスタニア中に鐘が響き渡る。何度も何度も打ち鳴らされる鐘の音は路地に反響し、五人から容赦なく余裕を奪っていく。

「これ、なんなんだ」
「火事だ。こんなときに……」
「すごく気持ち悪いな。場所が悪いせいでこだましてる」

 才人の疑問にギムリがすぐ答える。“ウィンド・シールド”の維持に努めているマリコルヌは、風メイジの聴覚のよさもあって顔が青ざめている。

「この場を離れるぞ。今宵はもはや尋常ではない。一刻も早く安全地帯に行くべきだ」
「デルフ、でもウエイトさんたちが」
「今生きている者がすべてだ。とにかく走れ!」

 デルフリンガーの大喝を受け、五人ははじかれたように走り出した。走りながら隊列を組みなおし狭い路地を駆け抜ける。
 常ならば眉をひそめるような道に散らばる汚物も、通りをふさいでいる家具類も気にせずひたすら生きるために足を動かす。普段はどうしても遅れがちなマリコルヌですら四人と同じくらいの速さで走ることができた。
 時間にして五分もなかっただろう。チクトンネ街に出た頃には五人とも息絶え絶えだった。

「これから、どうすれば」
「まず息を整えて、それから詰所に向かうべきだ。そこで事情を説明し魔法衛士の分隊を送るべきであろう」

 デルフリンガーはあくまで冷静に指示を下す。
 いつかの魔法学院で、カリーヌの調練を受けたあとも五人はこうして疲れ果てていた。それはむしろ心地よい疲労感だった。今は違う。わけもわからぬ恐怖から逃げ、心身ともに衰弱しきっている。

「しかし、さっきよりずいぶん人通りが多いな」
「火事の、せいだろ。チクトンネ街のどこかみたいだな」

 いち早く呼吸を落ち着けた才人に、まだ少しきつそうなギムリが答える。火事に野次馬が集まるのはハルケギニアでも変わらないようだ。

 全員が息を落ち着けたあと、昨夜訪れた詰所目指し歩き出す。人の流れの向きは一致しているようで、苦もなく進むことができた。
 暗い夜空に黒い煙がたなびいている。雨に消えないほど火の勢いは強いらしい。

「なあ……」
「ああ、まさか。まさかな」

 口では否定しておきながら五人の足は速くなる。人混みをかきわけつつ進むほどに速まり、そして新たな絶望を目にした。

 魅惑の妖精亭が轟々と燃えている。




[29710] 意志の炎は再び燃え
Name: 義雄◆285086aa ID:b6606328
Date: 2012/05/27 22:46

 ウエイトから諭された。スカロンの料理に力を与えられた。ジェシカに心を救われた。
 まだ二日しか関わっていないのに、魅惑の妖精亭にはたくさんの思い出が詰まっている。平賀才人にとってはハルケギニアで初めての夜を過ごした魔法学院のように、きっとこれからもずっとお世話になるだろうと思っていた場所だった。
 だというのに焔は人の情すら飲み込みながら建物を焼いている。遠目にもわかるほど炎は激しく、冷たい雨に打たれながらも天をも染め上げんと踊り、闇夜の如き黒い煙を吐き出し続けている。
 五人は走った。人波をかきわけ、時に叫び、杖を振り回しながら建物の前に駆けていく。鐘の音が鳴り始めてからおおよそ十分、才人たちは魅惑の妖精亭を前にした。
 チクトンネ街は狭い。隣家の者のみならず、近くに店をかまえる人々がなんとか建物を打ち壊して延焼を阻止しようと試みており、それを遠巻きに眺める群衆との必死さが水と油のように雑じりあわず奇妙な光景を造り上げている。メイジはいないようで、消火もなにも進んでいない。裏手を流れる細い川から水を汲んでくる住民もいたものの、まさに焼け石に水といった具合で一助にすらなっていない。
 少し離れたところに、雨に打たれたまま不安げな眼差しを燃える酒場に送る一団がいる。妖精亭の制服に身を包み、または簡素な平民服に袖を通して、彼女らの内幾人かは店に飛び込もうと暴れる店員を羽交い絞めにして止めている。
 近づいたギーシュたちに気づいたのか、栗毛の少女が叫ぶ。

「貴族さま! スカロン店長とジェシカが、助けてください!!」

 髪を振り乱して少女はギーシュにすがりついた。レイナールたちも彼女のことを少しだけ知っている。酒場であんな服装で働くくせ引っ込み思案で、そこがいいとチップをよくもらっていた。そんな彼女が平時の余裕も平静さもすべてをかなぐり捨てている。
 言葉足らずではあったが、中にスカロンとジェシカがいることは全員がすぐに理解した。次の瞬間に才人は燃える建物に突っ込もうと走り、ギーシュに首根っこを引っ掴まれて止まった。

「なにすんだ!」
「少し待ちたまえ!」

 食って掛かる才人に怒鳴ってから、ギーシュはワルキューレを造り上げる。いつもの派手派手しい装飾はなかった。

「焼け落ちた建材もあるはずだ。ワルキューレに先行させる」
「大丈夫かギーシュ。今日はもう……」
「今はそんなこと言ってる場合じゃない」

 すでに彼は一日の限界錬成数である七体のワルキューレを生み出している。限界に近い魔法の行使に、崩れかけた膝をぐっとこらえて歯を食いしばる。マリコルヌの心配する声にもとりあわなかった。
 続いてレイナールは“コンデンセイション”で大気中の水を集め、五人のマントだけでなく衣服の隅々にまで滲みこませた。マリコルヌは一度解除していた“ウィンド・シールド”を小規模で発生させる。
 才人の背中のデルフリンガーは店員たちにスカロンのいた場所、火元と思しき場所の確認を、いつもの長々しい喋りもなく聞き出していた。

「ギムリは」
「わかってる。『火』以外は苦手だけどなんとかやるさ」

 以心伝心といった具合でギーシュの言葉を遮ったギムリは周辺家屋で木槌を振り上げる平民の一団に向かう。常の『火』のような威力はないものの、“石弾”で着実に壁を打ち砕いていく。

「いこうサイト。先走るなよ」
「店長は事務室にいたそうだ」

 そして四人はワルキューレを先頭に、炎が支配する魅惑の妖精亭に足を踏み入れた。
 店の中はひどい荒れようだった。客も店員も先を競って逃げ出したのか、床の上にはジョッキや皿、食べ物が散乱し、椅子は蹴倒され机すらいつもの場所にない。ただそのおかげで水や酒がばらまかれたようで、床は思いのほか歩ける部分が多かった。
 熱気に身を焼かれながら四人は足を進める。ワルキューレは青銅製だけあって人よりずっと重く、先行させれば床が抜けるかどうかを容易に確認できた。煙にまかれないようにと作ったマリコルヌの風は、結果として炎の勢いを一部強め、それでなくとも激しい火はより鮮烈に躍り上がる。レイナールもこまめに水を凝集させては帰りの妨げになりそうなところにかけていく。
 狭い店内が異次元のごとき広がりを見せているように、炎は不思議な錯覚を一行に抱かせる。

「後退せよ!」

 突如デルフリンガーが叫ぶ。反応できたのは才人一人、彼は咄嗟にマリコルヌを突き飛ばし、レイナールとギムリを抱えて後方に跳ぶ。
 刹那の後に梁が四人の立っていた場所に焼け落ち、ワルキューレが巻き込まれて床にめり込んだ。

「あちっ、あっちっ!!」
「ごめんマリコルヌ!」
「イル・ウォータル。助かったよ」

 ころがったマリコルヌが火に突っ込み、レイナールがそれを消火する。

「よし、動く」

 声も出さなかったギーシュはワルキューレに集中していたようで、重い木材がゆっくりと持ちあがっていく。やがて自重で梁がへし折れ、再び道は開けた。
 ギーシュは息を荒げ、炎に囲まれているのに心なしか顔が青い。普段彼はワルキューレを自律制御させており、精神力が空っぽに近い状態で動かしたことがめったにない。限界が近かった。

「急ごう」

 時間がないことを察したレイナールが皆を促した。
 天井にも目をやりながら、それでもさっきより足を速めて厨房に入る。フロアよりも燃え広がっていたものの、そこまで大差はない。ここが火元だという確証は得られなかった。
 その奥、事務室の扉をワルキューレが押し破り、火が噴き出てこないことを確認してから四人も戸枠をくぐった。

「ジェシカ! スカロン店長!」

 長い黒髪を床に投げ出している少女と、折り重なるように筋骨隆々とした男性が床に倒れている。才人は一切の躊躇を見せず駆け寄り、上に重なっているスカロンを抱き起こす。
 べったりと粘ついた赤黒い液体が手についた。

「レイナール!」
「イル・ウォータル・デル!」

 スカロンの介抱はレイナールに任せ、今度は下になっていたジェシカを抱き起こす。息はある。脈もある。すぐ判断できる範囲では気を失っているだけだった。

「くそっ! 血が止まらない、秘薬がないとこんなの無理だ!」

 ドットに過ぎないレイナールでは治せる傷に限界があり、悔しさから唇を噛む。しかし自分にできないことには素早く見切りをつけ、今度はジェシカの具合を見る。魔法による探査で傷がないことはわかった。
 こうしている内にもじりじりと火の舌は近づき、炎の轟音とともに建物がきしむ音すら聞こえてくる。

「とにかく脱出が先だ、行こう」
「でも怪我人を動かすのは」
「ここだっていつ火にまかれるかわからぬし、外に出れば秘薬やライン以上の『水』がいるかもしれん。相棒、店長を担げるか?」
「いける、やる」

 右肩にスカロン、左肩にジェシカを担ぎ、右手にはデルフリンガーを握る。ガンダールヴの膂力をもってすれば大人二人さして重くはない。

「少年、ワルキューレで丁寧に道を拓くのだ。力任せにやれば崩落しかねん」
「了解です」

 どのような事態にあっても冷静さを失わない神剣の言葉にギーシュが頷く。
 来るときは燃えていなかった床も今や炎が蹂躙し、ワルキューレが火を踏みけし、またレイナールが水で消火しながら進んでいく。
 危惧していた崩壊にはまだ時間があったようで、皆は無事通りに出ることができた。

「無事か!」
「スカロン店長がまずい、秘薬か『水』メイジが必要だ!」

 飛び出した才人たちにギムリと店員たちが駆け寄る。隣二軒はかなり大きく崩れており、そこから家財木材など燃え広がりやすいものを住人が回収していた。

「ピエモンの! ありったけもってきてくれ!」
「あいよ!」

 常連らしき親父がだみ声をあげ、それを受けた老人が人ごみにするすると吸い込まれていく。

「あいつの店は遠い。間に合えばいいんだが……」

 不安そうな皆の前で、黒髪の親子を横たえる。傷を負っていないジェシカの看護は栗毛の少女、ジャンヌに任せ、才人はナイフを振るう。血と汗とでスカロンの肌に張りついた服を斬り剥がすと、想像していたよりずっと広く深い一文字の傷口が背中に残されていた。火事場で負うはずもない怪我に人々が息をのむ。
 先ほど試して無駄とはわかっていた。それでもレイナールは“ヒーリング”を唱える。普通ならば見る見るうちに傷をふさいでいくスペルは、けれどこぼれおちる命をつなぎとめることができない。

「誰かライン以上の『水』メイジはいないのか!」

 無力さを噛み締めたレイナールの悲痛な叫びは群衆に届かない。人の群れから歩み出る者はおらず、あまりの悔しさに拳を地に打ちつける。

「こうなったら包帯止血だ、清潔な布がいる」

 ハルケギニアにおいて包帯を用いた応急処置は水スペルよりも劣ったものとされている。なぜなら水魔法を使えば傷口を瞬時にふさぎ、失われた血をも増やすことができ、さらに鎧や服の上からでも問題なく行えるからだ。
 だがこの期に及んでそんなことは言っていられない。レイナールの“ヒーリング”では十分な治療を行えない以上、一秒でも早く血を止めなければならなかった。

 才人はいの一番に自らの服を裂こうとしたが、ギーシュに止められた。煤や灰が付着してとても清潔とはいえない布を傷口にあてがうわけにはいかない。
 近くに店をかまえる猫肉屋が予備用のシーツをもってきて、武器屋の親父は火事に飛び出たとき、そのまま持っていたウィスキーの瓶を消毒に使う。みなが一丸となってスカロンの命を救おうとしている一方、まだ炎の輝きに目をとられるばかりで彼には見向きもしない大衆もうごめいている。
 あたかも魅惑の妖精亭を焼く神聖な火炎をあがめるように、それは一種宗教画めいた光景でもあった。
 マリコルヌが底をつきそうな精神力で風の傘を作り上げ、その下でグラモンの一員として並みの平民や貴族よりも応急処置に詳しいギーシュが奮闘する。ウィスキーをかけて血を流し、裂いたシーツを強く体に巻きつける。彼が傷ついてからどれほどの時間がたったのかはわからない。ただ流れた血の量が多いと言うことだけが明白で、今もこうして呼吸をたもっているのが奇跡のようにしか思えない。

 手当のさなか、スカロンがうっすらと目を開いた。

「スカロンさん!」
「ジェシカ、は」
「大丈夫です。気を失ってるけど怪我ひとつありません」

 才人の言葉に、安心したような柔らかな笑みを浮かべる。

「サイトくん、あの子を……」

 最期の言葉は雨音に吸い込まれていった。
 それっきり、スカロンの身体は冷たくなっていく。

「レイナールッ!!」

 才人の叫びにレイナールは何度も“ヒーリング”のルーンを繰り返す。けれど、一度失われた生命が戻ることはなくて。

「ぼくは、無力だ……!」

 ついには杖を取り落としてしまう。メガネのレンズに一粒、二粒の水滴が零れ落ちる。

「くそっ、ちくしょう、なんでだよ……なんでだよ!!」

 しとしと空は泣き続ける。その涙をもってしても、少年たちの心を洗い流すことはできない。





―――意志の炎は再び燃え―――





 火事の鐘が鳴ってから二十分ほどがたち、幻獣がトリスタニアの夜空に舞い上がる。ヒポグリフに乗った衛士は次々に強力な水魔法を魅惑の妖精亭に浴びせ、間もなく炎は勢いを完全に失い、後には黒く炭化した建材と石造りの構造だけが残った。
 遅れて現れた彼らに悪態をつくのは少数ではなく、付近の住民はほとんど不満を押し隠せない顔をしている。衛士がもっと早く来ていればスカロンは、あるいは助かったのかもしれない。
 しかし居を遠くに構える市民は、見世物が終わったと言わんばかり、つまらなさそうな表情で家路についていく。この温度差がどこからくるものなのか、当事者たちにはわからない。家が焼け、人命が失われたというのにそれが遠い世界の出来事であるように、それぞれの日常へ帰っていく。死者のように、ゆるゆると雨に打たれ足を引きづる姿は、言い知れない薄気味の悪さがあった。
 そして魔法衛士隊もチクトンネ街に降り立つことなく、消火を遠目に確認して再び王宮の方へと戻っていく。平時なら現場の確認にやってくるはずなのに、それがなかったのはギーシュたちに違和感をもたらす。だが今はそれよりも、気を失ったままのジェシカと亡くなったスカロンのことが重く心にのしかかり、さらに巡回後に火事場へ飛び込んだことの疲労も大きく、気にかけねばならないはずのこともすぐに忘れてしまった。

 あたりに人の流れがまばらになりはじめたころ、人々はざっと壁際によって道を開ける。姿を現したのは完全装備の衛士たちを引き連れた、ギーシュだけでなく他の三人も知る美髯の軍人であった。
 こんな街中に姿を現す人物ではない。人々はその名を囁き合う、ド・ポワチエ将軍と。

「サイト・ヒラガだな」

 ギーシュにもマリコルヌにも、レイナールとギムリにすら声をかけず、将軍はまっすぐに才人を見る。無機質な瞳、感情の色はうかがいしれない。
 無言で頷くと、ざっと衛士が才人を取り囲む。

「ついてきてもらおう。殿下がお前をお呼びだ」

 尊大ではなくひたすら事務的に、ド・ポワチエは言葉を発する。それはどこか機械めいているようにも思え、血の流れる同じ人間とは思えない。
 今ここで火事があったのに、ここにスカロンの遺体があるというのに、そんなことはまるで些細なことだと、気に留める様子も見せない。それどころか、衛士からはかすかな苛立ちすら感じられる。

「サイト、この場はいいから行ってきてくれ」
「ああ、殿下の命を優先すべきだ」

 これ以上ぐずぐずして心証が悪くなることを危惧し、ギーシュとギムリが才人を促す。
 才人は一瞬行こうと足を浮かしたが、ふみとどまった。

「でも、ジェシカが」

 スカロンは最期に言った。才人にジェシカを託すと言った。今彼女の目覚めを待っていてもなんにもならないなんてこと、才人にだってわかっている。
 それでも素直に行くことなんてできなかった。

「……ここの店主の娘か。雨に打たせておくのも忍びない。特別に連れて行くことを許可しよう」

 許可しようとは言うが、その言葉には強制力が秘められていた。ただしお前が背負うのだと、ポワチエは才人を促す。眼差しから温かみを感じなかった将軍からそんな言葉がでようとは、才人は少し意外な感じがした。
 少し迷って、魅惑の妖精亭の店員たちに背中を押され、才人はデルフリンガーを腰に無理やり帯びてジェシカを背負う。先ほどまで火事場にいたせいで煙のにおいが染みついている。

「スカロンさんを、頼む」
「ああ、任せてくれ」

 才人の言葉にマリコルヌが力強くうなずく。そして、彼はド・ポワチエ将軍たちに連れられ魅惑の妖精亭前を去って行った。
 あとに残された者たちはまずスカロンの遺体を葬儀までどこにあずかってもらうかを話し合い、その間に比較的元気なギムリと力のある男たちが残り火の有無と無事な荷物の搬出を手伝いはじめる。限界まで精神力を絞り出したレイナールは、店員と一緒に屋根のある場所で休ませている。
 ギーシュとマリコルヌは、ウエイトの件を先ほど将軍に伝えられなかったことを悔やみながら衛士の詰所に向かった。
 その途中、道をいく二十人ほどの集団にかち合って、その先頭をいく意外な人物に二人は目を丸くする。

「ルイズ、なんでここに」

 見るとルイズだけではない。銃士隊隊長のアニエスや、意外なことにルイズの姉エレオノールも道を同じくしていた。

「捕り物よ。サイトは?」

 その言葉にギーシュはきょとんとした。今現在ルイズはアンリエッタの側近として働いている。グラモン元帥が殿下が呼んでいると言ったのだから、当然ルイズにもそれは伝わっていると思っていたのだ。

「姫殿下が呼んでるって、ド・ポワチエ将軍が連れてったよ」

 足は止まらなかった。だがルイズの表情は誰から見てもわかるほど強張った。

「姫さまはそんなこと言ってない」
「殿下は我々と合流するよう命を下された。サイトを呼び出すなどありえん」

 アニエスも彼女と同意見のようで、先ほどまで消えていたはずの違和感が鎌首をもたげるのをギーシュは悟った。

「まさか、ド・ポワチエ将軍までアカデミーについたのか……」
「ギーシュ、将軍は何人くらい連れてたの?」
「確か、五人くらいかな。全員腕が立ちそうに見えたよ」
「五人か、手練れならガンダールヴの力があってもわからんぞ」
「サイトが危ないわ」

 二人にはルイズやアニエスの意図するところがわからない。ただわかるのは今才人が危険だと言うことだけ。

「ルイズ、なにが起きてるんだい?」
「姫さまの部屋に対して遠見の鏡が使われたの。アカデミーのゴンドラン評議会議長に拘束令が出たわ」

 王族の居室、執務室を遠見の鏡で覗き見るのは不敬、国家機密漏えいから重罪で、ガリアにおいては罪人は市中引き回しの上ギロチン刑、お家取り潰しの上親族郎党皆殺しに処され、トリステインでも拷問の末ギロチンにかけられるのが常である。そしてトリステイン国内でこのマジックアイテムが保管されているのは魔法学院の学院長室か、王宮の宝物庫か、アカデミーの研究施設の三か所である。
 王宮の宝物庫は厳重に警備されており、侵入してもその場で使うなどできるはずもない。さらにことが発覚してから使用された痕跡がないことを確認されている。
 魔法学院のものはオールド・オスマンが管理しており、彼以外の誰にも使用できないよう魔法でロックがかけられている。彼が眠り続けている以上、誰にも使うことができない。
 様々な事象を研究するアカデミーでは、申請さえすれば誰にでも使うことができる。エレオノールを経由して調査したところ、最後の使用者はゴンドラン評議会議長。一週間ほど前から彼が遠見の鏡を預かっていることになっている。

 平時ならばもう少し時間をとって調査を進めるが、今は些細なことでも芽をつぶさねばならない。彼が邪神につながっている可能性を考慮し、銃士隊と虚無、そして魔法衛士隊による強襲を行う予定であると、ルイズは言う。
 火事のときに衛士隊の動きが鈍かったのと現場に降りてこなかった理由をギーシュたちは悟り、同時に噴き出てくるウエイトの死への不審。なにかとんでもないことがトリスタニアで起きようとしている予感があり、衛士の詰所にいくよりもここでルイズたちに同道したほうがいいような気がして、マリコルヌと顔を見合わせる。

「関連しているかはわからないですけど、アニエス隊長。ウエイト殿の分隊が殺された。レイナールの見立てでは拷問のあともあるって」
「なに」

 マリコルヌの言葉にアニエスはピタリと立ち止まる。

「いつ、どこでだ。遺体は、状況は」
「およそ一時間半以内、場所はチクトンネそばの路地広場、遺体はそのまま」

 トリステイン貴族らしからぬ簡潔な言葉がむしろ逼迫した事態を克明にしていた。
 腕組みしながらアニエスは唸り声をあげる。最適解がわからない。今どう動けばいいのか、もし父がこの場にいたのならどのように指示を下すのか、それだけをじっと考える。
 十秒ほどしかたっていないのに、彼女の言葉を待つギーシュたちは数分もたっているような錯覚を抱いた。

「アカデミーを最優先すべきだな……地図を描いてくれ」

 覚えている限りの地形をアニエスから手渡された紙に書きこむ。アニエスはそれに目を通し、部下の一人に渡してリッシュモンの元へ向かわせた。

「将軍は敵に回っていると考えるべきか。となると強襲用に抑えている衛士隊にも内通者がいる可能性も……」
「アニエス、サイトの無事を確保しないと」
「わかっている。わかっているが……」
「ド・ゼッサール隊長を頼りましょう。母さまが後任に据えたあの人ならきっと」
「ダメだ。彼はおそらく見張られている。こちらの動きがバレる可能性が高い」

 暗闇で落ちた針を探るように、誰が敵で誰が味方かわからない。下手に手を伸ばせば刺されそうで、うかつに動くことができない。
 味方だとわかっている人物にすら容易に頼ることができない。どうにも八方ふさがりだとアニエスは唇を噛む。
 そこに声をかける男がいた。

「通行の邪魔だ。道を開けたまえ」

 尊大な物言いに反して声音はじっとりと重く粘ついている。ギーシュたちはその男を知っていた。

「ミスタ・ギトー!」
「ケティにモンモランシーまで、なんでこんなところに」
「わたしはなんでこの子の名前が先に出るのか聞きたいんだけれど」

 ついさっき別れた頼もしい教師と、魔法学院の女子生徒が二人。

「この二人はこんな時間にチクトンネ街を歩いていてな。まったく、昨今の風紀は乱れている」
「サイトさまにお会いできれば、って思ってたのに」
「夜も遅いのに男と逢引とは、けしからん」
「わたし無理やり連れだされただけなのに……」

 モンモランシーはどうやらアグレッシブになったケティが屋敷に侵入、女子生徒の夜会があると家の者に嘘をついて引っ張り出されてきたようだ。
 その理由も「サイトさまが怪我してたら治してもらわないと」という先輩への敬意もへったくれもないものだった。

「ミスタ・ギトー、ぼくたちに力を貸してください!」
「サイトが危ないんです、お願いします!!」

 がばっとギーシュとマリコルヌが頭を下げる。昨日頼んだときはまだ騎士隊の体面や、他の教師もいるという余裕があった。
 それが今は欠片もない。この暗雲うずまくトリスタニアで今はただ一人の戦力でも無駄にできない。友のため、貴族の誇りを捨ててでも救いを求める純粋さが今の二人にはあった。
 対するギトーはたじろいた。真っ向から力強く、純粋に求められた。
 コホンとわざとらしい咳払いをして、渋々と言った声を作りながら了承する。

「わかった、そこまで言うならきみたちに手を貸そう。だが私の指示には従うように、危険だからな」

 救われたようにギーシュたちはパッと顔を明るくした。

「先輩、勿論わたしたちもお手伝いします」
「ちょ、勝手に数に加えないでよ」
「ありがとう。ケティ、ぼくのモンモランシー」
「……ああもう! ここで断ったらわたしが悪者じゃないの! いいわよ、やってやろうじゃないの」

 さらに、漆黒の空から青い竜が舞い降りる。六メイルもあるその背中から飛び降りてきた二人も、魔法学院に所属する少年少女は全員が知っていた。

「ハァイ、こんなところでパーティーかしら?」
「キュルケ、あんたなにしにきたのよ!」
「オールド・オスマンのお見舞いよ。ちょっと遅くなったからどこかに宿をとるつもりだけどね」

 燃えるような赤い髪を雨にしっとり濡らして、魔法学院の制服に身を包んだ少女、キュルケが現れる。

「シャルロットもそうなの?」

 当然、その隣には目の覚めるような青い髪の少女、タバサことシャルロットがちょこんと佇んでいる。いつもと違うところといえば、本を持っていないことだけだった。こくりとルイズの言葉に小さくうなずく姿は非常に幼く見える。
 事情を知らないギーシュたちはルイズの言葉に疑問しかないが、今はそうしている時ではなかった。

「なんかよくわからないけど今大変なんでしょ? 手伝うわ、わたし強くってよ?」

 パチンとウィンクして見せるキュルケ。タバサもじっとルイズを見つめながら無言でうなずく。ルイズは少し迷った、けれど決意するほかなかった。



 その頃才人たちはチクトンネ街を離れ、ブルドンネ街にさしかかるところだった。
 一言も喋らないまま黙々と歩みを進める。雨の音がいやに大きく聞こえる。
 背負っているジェシカの重みを感じて、馬車で来てくれればよかったのにと才人は思う。それなら彼女を雨に打たせたままにしておかなくてもよかった。いや、そもそももっと早く将軍が来ていれば――。

 そこまで考えて首を振る。
 世界に「もしも」なんて存在しない。スカロンは死んだ。それは変えようのない事実だ。

「ん……」

 かすかに感じる身動ぎ、それからより背中に密着してくる。体勢を整え終えて満足したのか、ジェシカはゆっくりと顔を上げる。

「ジェシカ、大丈夫か」
「ここは……?」
「ブルドンネ街」

 きょろきょろと顔を動かす気配があって、降りるという一言に才人は立ち止まった。二本の足で大地に立ったジェシカは少しふらついて、ぼんやりとした目で才人を見つめる。

「お店は? なんで、こんなところに?」
「……今は王宮に向かってるんだ」

 スカロンの死を言い出せなくて、才人は若干ぼやかして言う。

「話は歩きながらでもできるだろう。時間がないから急いでくれ」

 ド・ポワチエの声に再び一行は歩き出す。
 ふと、デルフリンガーに目を留めた一人の衛士が才人に話しかける。

「王宮で刀剣類を帯びるのは禁じられている。預かっておこう」
「む、そうであったか。以前は問題なかったのだが」
「非常事態ですから警戒を密にしているのです、神剣殿」

 なんてことのないやりとりにちくりと違和感が刺さる。その正体に才人は気づけないまま、隣を歩くジェシカに目をやった。

「あれ……?」
「どうした」
「王宮ってこっちじゃないのに」

 才人にも見覚えがある。つい一昨日、雨の中さまよい歩いた道だ。ド・ゼッサールと戦った練兵場に続く細道だった。
 一昨日はしなかった悪臭が鼻についたけれど、そんなことよりもなぜこの道を通るのかがわからない。

「こっちは練兵場じゃないんですか?」
「ああ、非常線が張られているから通常の道は使えない。練兵場には非常時のために抜け道が存在するからそれを使う」

 言って、衛士はにこりと笑う。その笑顔に才人の背筋が粟立った。
 口元はゆるやかな曲線を描いていて、遠くからみれば穏やかな微笑に見えるだろう。だが、その瞳は絶対零度のごとき冷たさを纏い、欠片も友好的な色をたたえていない。
 思わずデルフリンガーに手をかけようとして、今は違う衛士が持っていることを思いだす。
 ジェシカは一人分ほどの間隔が空いていたのを大きく詰めて、きゅっと服の裾をつかむ。衛士の冷たさを察知したらしく、不安げな眼差しをしていた。
 才人の中で先ほどおぼえた違和感がくすぶっている。しかし言葉にしてしまえば致命的な決壊を迎えてしまいそうで、一縷の望みにかけてポワチエたちについていく。

 やがて威圧するように建ち並ぶ民家を抜け、ひらけた練兵場に出た。一昨日と変わらぬ静けさに包まれ、さらに今は闇夜ということもあって不気味さが際立つ。才人が斬った鋼の人型もそのままにされていた。

「そういえば」

 ド・ポワチエが唐突に立ち止まり、思い出したようにつぶやく。他の衛士もそれに倣い才人とジェシカを取り囲むように位置どった。

「魔法学院でしばらく過ごしていたな」
「……そうです」
「ディアーヌという名に聞き覚えはあるか?」
「ありません」

 将軍が大げさについたため息に混じっていたのは怒り。取り囲む衛士からもはや隠す気のない敵意が湧き出ていた。
 ジェシカを背にかばいながら才人は自分の装備を思い返す。腰のホルスターに拳銃と、懐に呑んだナイフが一つ。

「そうか」

 ポワチエが、五人の衛士が杖を抜く。
 デルフリンガーを預かっていた衛士は杖を振るい、土の山に神剣を覆い隠してしまった。膝ほどまである土は、掘り返すのに多少の手間がかかりそうだ。
 さらに五人の衛士が闇からにじみ出て、半円陣で才人たちを包囲する。己の心臓に聞いても邪神の気配はない。彼らは純然たる人間だ。混沌に染まっていない人類だ。
 だというに今こうして才人とジェシカに殺意を、杖を向けている。

――どうなってんだ。

 平賀才人の認識では、メイジは仲間であったはずだ。こうして敵対する理由なんてこれっぽっちも見当たらない。
 誰も配置されていない後方に意識を集中させる。かすかな人の息遣いを感じて、この場が完全に包囲されていることを悟った。

「ガンダールヴ、いや、サイト・ヒラガ。ここがお前の処刑場だ」

 じりじりとメイジたちが距離を詰める。才人はまったく動けないでいた。
 デルフリンガーがいなくとも一人ならなんとかなる。最悪ガンダールヴの脚力に任せた全力疾走で逃げ出してしまえばいいだけだ。でも、今彼の背中にはジェシカがいる。恐怖に身を小さくした、魔法も使えないただの少女がいるのだ。

「意味わかんねえよおっさん。俺がなにしたって言うんだ」
「白々しいにもほどがあるな」

 もはや丁寧に応対する必要はない。歯をむき出しに挑発する才人にもド・ポワチエは一切の動揺を見せず、ただわざとらしいため息をつく。しかし握られた杖はかすかに震えており、緊張か、あるいは内心の激情が漏れ出ていた。

「ならば聞こう。お前はなぜ生きている」
「……どういう意味だよ」
「タルブで巫女に心臓を貫かれたはずだ。何故今こうしてお前は動いている」

 どくんと心臓がひときわ高鳴る。
 タルブでの出来事は全部思い出したと思っていた。メアリーから受けた傷は、その実大したことがないものだと勝手に納得していた。
 ポワチエの言葉にあのときの記憶が溢れだす。ワルドを殺した。ルイズに泣いてすがりついた。そして、確かに心臓を貫かれた。
 あの瞬間、才人の身体を支配していたのは喪失感。激痛はなく、ただ命が零れ落ちていく寒々しさだけがあった。

「それは……」

 記憶は取り戻した。けれど、自分が生きていることに対して説明なんてできない、できるはずもない。才人自身理解できていないのだ。
 鼓動はただ速く、呼吸はひたすらに荒く。死の恐怖を思い出した才人の身体は、雨の冷たさもあって硬直しつつあった。

「さらにお前がいた魅惑の妖精亭に巫女は現れた。そして害することなくただ立ち去った」

 そこに答えがあると言わんばかりの態度でポワチエは言う。左手をかかげ、

「それこそお前が邪神の配下である証左。そうでないというならば証明してみせよ!」

 喉がひりついていく。ジェシカはなにもわからない上、十人ものメイジに杖を向けられるという状況に、裾をつかんだまま声も出ない。
 才人が絞り出した声はなんとも頼りなかった。

「俺はガンダールヴだ。虚無の使い魔だ」
「だからなんだと言うのだ。二十年前、教皇聖下の母は邪神に死後の安寧を穢されダングルテールを滅ぼした。三年前、ガリアのシャルル公はおぞましい獣を呼び出し命を奪われた。虚無であろうと、そんなものは気休めにしかならん!」

 ポワチエは吼える。助言者たる神剣は口をふさがれ、彼を擁護する仲間もいない。

「それにお前の故郷から来たという者に銃士隊の者たちが殺されている。これでどう信じればいいと言うのだ!」

 孤独の淵に立たされ、背中にはスカロンから託されたジェシカがいる。かすかな温もりが服越しに伝わってくる。
 だが同時にそれは才人の動きを大きく制限する重石でもあった。

「そもそも、異星から来たというお前を信じるのが無理な話だ。お前ではなく、ワルド子爵がガンダールヴであればタルブでの大敗も、魔法学院の拉致事件もなかっただろう」

 たとえば地球人が遥か星雲の彼方から侵略してきた強大に過ぎる敵と戦っていたとして、別の星系から来た者が味方になると言って、それをどこまで信じられるだろうか。果たして素直に力を借りることができるだろうか。
 敵の敵は味方と言うが、それを鵜呑みにできるようであれば、おそらく人はもっと早く滅びている。
 技術提供の類ならまだしも、直接兵として戦うというなら軍内部の崩壊の可能性が跳ね上がる。ましてや、平賀才人は魔法もなにも使えない平民であり、しかも一人ぼっちの人間だ。リスクとリターンを天秤にかければ、彼を殺して新たなガンダールヴをハルケギニアの民から選出したほうが遥かにいい。

 才人が思い返すのはガリアのプチ・トロワでの会話。ルイズは言っていた、自分を処刑すべきだと主張する者がいると。
 そのときは無茶苦茶だと思った。そんな人はほとんどいないと、なんとかなると思い込んでいた。
 けれど現実はいつだって無情で、こうして正義の敵意をもつ相手と直面している。相手は牙を隠したままデルフリンガーを封じ、強い殺意をもち杖を構え、しかもジェシカをあえて同行させて行動の幅を狭めている。

 一段と殺意の霧が濃くなっていく。ルーン詠唱が雨音にまじってかすかに聞こえてくる。才人はもはや思考を一度捨て置き、懐のナイフを抜き放った。

「ジェシカ、つかまって」
「え?」
「いいから、おんぶ」

 おずおずと、衛士たちに目をやりながらもジェシカは才人の背中にしがみつく。その様子を、ポワチエたちは特に止めようとはしなかった。むしろ錘ができて丁度いいと思っているのかもしれない。

――とにかく逃げよう。

 才人からすれば意味の解らない言いがかりをつけてきただけ、相手にする必要はない。それにこうして人目のつかない練兵場にまで来たのは、きっと彼らが少数派でまっとうな手段で自分を糾弾することができないからだ。埋まっているデルフリンガーには悪いけれど一度距離をとって、ウェールズやアンリエッタに報告すれば話はすむだろうと思っていた。
 他にも考えないといけないことがある。自分は何故生きているのか。哲学的な意味なんてこれっぽっちもない、純然たる意味で考えないといけない。確かにあのとき才人は心臓を貫かれた。それでも生きているだなんて、それはまるで邪神の――。

 首を振って否定する。
 背後にも一人メイジが潜んでいる。それに背中を見せて逃げればジェシカが危ない。ここは後方に逃げると見せかけて反転、正面突破だと頭の中で逃げる算段を立てた。
 一定の距離を保っているポワチエたちを睨みながらぐっと足に力をこめる。

「その娘もすぐ同じところに送ってやる。あの店にいたものは店主同様、すべて殺さねばならん」

 まさに跳躍しようとした瞬間、ポワチエの発した言葉に意識は完全に奪われた。
 その隙を歴戦の衛士たちが見逃すはずもなく、いくつもの水弾、石弾が才人めがけて殺到する。人を背負いながらという今まで経験しようはずもない状態で、ナイフを縦横無尽に振るい、最小限の足さばきで回避する。セオリーである波状攻撃は来なかった。

「サイト、今の……」
「どういうことだよ、それ」

 背中のジェシカが息をのむ気配を気にも留めず、才人はポワチエを問い質す。

「言葉通りだ。あの店主、スカロンと言ったか。あれは我らが殺した」

 返答はすっぽりと感情が抜け落ちたように無機質な声。
 膝がかすかに震える、荒くなっていた呼吸はより激しく浅く、肺が酸素を吸収できているかもわからない。背中のジェシカがひときわ強く才人にしがみついた。

「なんで、冗談にしちゃ笑えねぇぞおっさん」
「巫女を直視したのだ、いずれ堕ちるなら早々に処分すべきだろう。それに聞けばタルブにはお前の同郷の者がいたようだ。穢れた血をひいている可能性がある」
「ふざけんなァッ!!」

 リスクを摘み取ることに躊躇のない施政者としての視点は、あまりに独善的に感じられ、ジェシカを背負っていることもかまわず才人は疾駆する。
 しかしポワチエはその動きを見越していたようで、するすると後退しながら魔法を放ってくる。周囲の衛士たちも才人を中心にした包囲を崩さないまま、足音ひとつ立てずに移動した。

「がなるな。最期の時ぐらい静かにしておけ。そういうところはあのアルビオン人たちと変わらんな」
「アルビオン人……お前ら、まさか」
「邪神の配下と接触を持っていたのだ。危険の芽は摘み取るにこしたことはない」

 心当たりは、ある。アルビオン人で才人が知る人物と言えば、ウエイトたちでしかありえない。
 ついさっき、火事のこともあって頭の片隅に追いやっていた事実。ウエイトたちは、勇敢なアルビオン人たちに拷問の跡があるとレイナールは言った。死体は雨ざらしにされ、ウエイトにいたっては首をさらされていた。

――ならあの惨状はこいつらが!

 憤怒が心中で轟々と燃え上がり、今までにないほど強く、アルビオンでメアリーと相対したときよりも強く武器を握る。
 二日前ド・ゼッサールと戦ったときとは違う。彼とは戦う理由がなかった、意味も見いだせなかった。今は違う。ポワチエたちは才人が慕っていたスカロンを、ウエイトたちを殺したのだ。ルーンですら才人の激情に呼応してぎらついた輝きを放っていた。

「あんたらがウエイトさんを、店長を!」
「お前が潔白だと言うなら始祖が見分けたもう。だから今ここで死ね!」

 ポワチエの声とともに再び魔法が飛び交う。ジェシカがしがみついているのにもかまわず、才人はそのすべてをかいくぐって衛士たちに肉薄する。銃を抜かなかったのは殺傷能力が高すぎるためであり、また切り札を伏せておくという意味もあった。
 刃渡り二十サントほどのナイフとて殺傷能力は十分だ。それに“固定化”までかけられていてガンダールヴが操るのなら、並みの衛士は相手にならない。
 されどポワチエの揃えた兵も凡百の者ではなかった。詠唱の短いドットスペルを続けざま才人に浴びせ、容易にその距離を詰めさせず、もう少しで間合いに入るというところで跳躍し、あるいは“フライ”や“レビテーション”を使って攻撃の届かぬ場所へ逃げていく。
 迫られれば逃げ一人を多人数で圧殺する、貴族の誇りもなにもない戦闘方法に強い殺意が見え隠れしている。
 それでも才人は立ち向かう。今はただハルケギニアのためなんて名目は消えて、ただ自分のために戦っていた。

 練兵場は広い。才人が縦横に駆けまわってもなお、衛士たちが間合いをとることができる。
 半円陣を敷くメイジの魔法はとどまることを知らず才人を狙い続ける。直線状に味方がいないがために遠慮の欠片もなくひたすらに魔法を放つことが可能であった。
 しかしそのどれもが才人に当たらない。普段ならばデルフリンガーを使って撃ち落としていただろうが、今は純粋な体さばきだけで連続的に襲い掛かる魔法を回避していく。人を背負ったままで出来る所業ではない。
 これはいよいよ邪神の配下であったかとポワチエたちは杖を強く握りしめる。
 だが、真実そうであるならば回避の必要すらなく、平賀才人はどこまでも人間であった。人間であるからこそ、学んだことを忘れてはいなかった。

――わかる。

 怒りに任せていたはずの動きはこれ以上なく鋭く洗練されていく。メイジの魔法にも個々人の癖はある。そういった癖も魔法衛士隊に所属しているものならば矯正されていき、より実戦的に研ぎ澄まされていく。
 それこそが、才人がこれまでかわし続けられている理由であった。

――これは隊長が教えてくれた。

 魔法学院でカリーヌに鍛えられた日々が蘇る。

――これは子爵さんが。

 タルブのとき、ワルドは邪神に操られながらも才人を導いてくれた。その経験は今も息づいている。

――ゼッサールさん、あんた不器用すぎるぜ。

 つい二日前ド・ゼッサールが無理やりに仕掛けてきたことですら意味があった。
 彼はきっとこの陰謀に気づいていたのだろう。だが自分から動くには都合が悪かった。だから才人と無理やり戦って、今の衛士隊の動きを学習させたのだ。

 怒りに燃えていた頭が雨のせいでなく、冷たく鎮静化していく。
 ポワチエの連れてきた衛士は確かに精鋭だ。それでもこれら三人には遠く及ばない。彼らの動きを劣化したものでしかないのなら、才人が負ける道理はなかった。

 わずかに才人の背後からの雨が強くなる。その変化を見逃さず、右足を軸に勢いよく反転、直後抜いた拳銃を暗闇めがけて撃ち放った。
 不可視と言われる風魔法には「起こり」がある。最も威力のある部位が到達する前に微風が対象へ届くのだ。それをカリーヌとの鍛錬で覚えさせられた才人に、後方から来る風魔法などなんの問題もない。それどころか魔法の方角を見定め、かすかにランタンの灯りに輝いた指輪をもとに隠れていた術者の位置を割り出し、その杖と太ももを撃ち抜く。痛みに耐えきれず建物の陰に隠れていたメイジが倒れた。

 ありえざる動きを見て衛士たちに刹那の動揺が走る。
 その浮ついた気配を今度は才人が見逃さず、次々に銃弾をもって杖を撃ち落としていく。自身の頼るべき杖を取り落した衛士は硬直し、素早く接近した才人になすすべなく殴り飛ばされ昏倒した。

 背後に潜んでいたものと合わせて六人、瞬く間に才人は戦闘不能に持ちこんだ。そこで立ち止まり、大きく息を吸って吐き出す。それにあわせたように衛士たちもただ立ち止まっていた。

「なぜだ、なぜそのような動きができる!」

 わめきたてるポワチエに才人は平坦な声で言う。

「カリーヌ隊長が、子爵さんが、ゼッサールさんが教えてくれた」
「ド・ゼッサール……奴めそのようなことをしていたとは!」

 忌々しげに吐き捨てながらポワチエはなおも杖を振り上げる。マズルフラッシュが闇を切り裂く。腕を撃たれたポワチエは杖を取り落とし、うずくまって痛みに呻いた。
 だが、旗印となったポワチエが負傷したというのに衛士にさらなる動揺はなかった。爛々と憎悪に眼を輝かせながらじりじりと距離を詰めていく。ただ上官に命じられただけでこうはならない。

 遠距離ではらちが明かぬと見たのか、衛士たちは“ブレイド”や“エア・ニードル”を唱えた。瞳には憎悪をたたえ、必殺の意志をもって次々と才人に殺到する。
 それはまったくの悪手であった。ブレイドやエア・ニードルはかすかな魔法光を放ち、闇夜にあっても視認は容易である。対して才人のもつナイフも拳銃も発光などしようはずがない。武器の間合いに大きく差があったとしても、暗闇の中武器が目視できるかどうかの差は大きい。

「異星の者めが!」
「我らの怒りを知れ!!」

 激怒に任せた攻撃の軌道は読みやすい。 
 銃弾は残らず吐き出して今や鈍器となったSIGと大振りのナイフを振り回し、才人は残る五人の腕を、攻撃する意思を砕いていった。
 いかに衛士と言えど骨を砕かれ、肉を大きく裂かれる痛みには耐えがたい。次々と崩れ落ち、やがて立っているのは才人だけになった。もう一度大きく息をついて、銃をホルスターに仕舞う。ナイフだけはまだ手放さなかった。

「殺せ……」
「知るか、勝手にくたばれ」

 うめくようにポワチエは言う。だが才人にそんなことをする気はない。タルブではワルドとあんなことになったけれど、それでも人を殺す気なんてない。

「おっさん、なんでこんなことしたんだよ」

 途中から気づいたのは、彼らの目に宿るのが使命感ではなく憎しみだということ。きっとポワチエの言っていたことは一部そういった心情はあったとしても、それがすべてではなかったのだと。

「そのような力がありながらなぜディアーヌは、我が娘は……」

 ぽつりと、正義を振りかざしていたポワチエの本音が漏れる。うめき声をあげながら他の衛士も怨嗟の声と、才人の知らない名を呼んでいる。
 ディアーヌという名前を才人は知らない。けれど戦う前、ポワチエは聞いていた。魔法学院で過ごしたことと、ディアーヌという名前を知っているかということを。

 そのときはっと才人は思い出す。カリーヌとの鍛錬の合間にギーシュたちは言っていた。二十名近くが失踪したと。さらにケティがやってきたときのことが頭をよぎる。
 きっとディアーヌという娘は教団にかどわかされ、帰らぬ人となったのだろう。
 呟くポワチエの姿は先ほどの形相からは想像もつかないほど弱々しくて、少しだけ、ほんの少しだけ才人は同情してしまった。
 その理屈は先ほど言っていた異星だからなんだのというよりもよっぽどわかりやすい。才人だって、力のある人がそばにいながら肉親が失われたのなら、その人物を責めたかもしれない。

 だけど彼を許すことはできない。私怨を正当な建前で覆い隠そうとし、自分だけを狙うならまだしもポワチエたちはウエイトとスカロンを殺害し、魅惑の妖精亭に火を放った。
 ジェシカには母がいないと聞いている。もう一人ぼっちだ。自分と同じだと才人は思った。

「もう、終わった……?」
「うん、全部終わった」

 あれほど激しく動く人間にしがみついているのは非常に体力を消耗する。弱々しくジェシカは才人の背から降りて、ぐらりと傾いだ。 
 思わず才人はナイフを手放してジェシカを支える。カンテラの薄明りに照らされた顔色はお世辞にも良いとは言えない。触れた肌は死体のように冷たくなっていた。

「どっか火に当たれる場所、ブルドンネとかそっちらへん……いやルイズの家にいった方がいいか」

 周囲を見回すと雨宿りくらいならできそうでも、火にあたれる建物なんて見当たらない。焦りを帯びた才人に、ジェシカはゆるゆると首を振る。

「だいじょうぶ、それよりサイト。教えて、パパはどうなったの」
「……スカロンさんは」

 口にしたくはなかった。それでも、伝えなければならない。

「スカロンさんは死んだ。俺と魅惑の妖精亭のみんなで看取った。最期に、俺にジェシカを頼むって」
「そう……」

 ジェシカは取り乱したりしなかった。ただうつむいて、そしてきっと顔を上げた。

「こうしちゃいられないわ。最期には会えなかったけど、早くパパに元気な姿を見せてあげないと」

 そう言って精いっぱいの笑顔を才人に向ける。今までにない美しさがあった。

――ああ、ジェシカは強いな。

 今は実感がないだけなのかもしれない。虚勢をはっているだけかもしれない。それでも、才人に心配させまいと笑顔を作ることのできるジェシカは、自分なんかよりよっぽど強いと才人は思う。
 もうこの練兵場に用はない。チクトンネの方に足を向けたそのとき、背後から“マジック・アロー”が才人めがけて飛んでくる。杖を直前までマントで隠していたためか、かすかな魔法光も知覚できなかった。
 完全に不意を突かれた。手元に武器はない、ガンダールヴの恩恵を受けることはできない。足元に落ちているナイフを拾ったとして、それでも完全な回避はできないだろう。
 だがそれでも、才人は自分にできるベストを尽くす。まずジェシカを突き飛ばして最速でナイフを拾い、そのあと自分も回避、あるいは“マジック・アロー”を斬り落とす。

 そう決めてジェシカを突き飛ばそうとして、けれど手は虚空を泳いだ。

――え?

 いたはずの場所にジェシカはいない。なぜなら彼女は、才人の前に歩み出ていたから。
 ふらっと軽やかに躍り出たジェシカは、くるりと回って才人に微笑みを投げかける。その光景に目をうばわれ、思考を麻痺させられ、才人は動けないまま“マジック・アロー”は彼女を打ち抜いた。

「ジェシカ!!」

 才人の胸の中に倒れ込んだジェシカは二度三度大きくせき込み、力なく身体を預けた。ただの平民が魔法の衝撃を逃せるわけもない、背中からは血液が流れ出ていた。才人の声にも応じず、胸が上下しているから生きていることだけはわかる。
 だけど、このまま時間をおけばスカロンの二の舞だ。知り合いがこれ以上死ぬだなんて、そんなのはまっぴらごめんだ。
 魔弾の射手は最後の力を振り絞ったように薄く笑みを浮かべ、倒れた。悔しげに才人は歯ぎしりして、それからジェシカを背負って踵を返す。
 くぐもった声が届いたのは偶然だった。すぐに土の山へ駆けより、助言者を掘り起こす。

「すまん相棒、油断した!」
「それよりジェシカの具合を!」

 デルフリンガーは歴代のガンダールヴの相棒としてその身を預けてきた。その特性にガンダールヴの状況を把握するというものを元々持ち合わせており、六千年もの歳月があればそれは他者への適用も可能となり、水メイジほどではないが怪我の具合を診ることができる。ジェシカに触れさせた神剣の診立てはあまり良くなかった。

「威力はドットか、致命傷ではない。しかしこの雨で身体が冷え切っているうえ血が流れ続けている。急ぎ屋根のあるところへ行き止血をし、身体を暖めねば命にかかわる。この際包帯が清潔だのなんだの言っている場合ではないぞ」
「屋根、屋根か」

 幸い場所は練兵場で、武器や糧食を貯蔵している倉庫も近くには多数あり、扉さえ斬り破ってしまえばなんとでもなりそうだ。
 もっとも近い建物に才人が身を寄せようと一歩踏み出す。そのとき、練兵場の外側からカンテラの明かりが向かってきたのが目についた。ゆらゆら揺れる灯は近づき、歩きはじめていた才人の前で立ち止まる。
 果たして、それは一人の老人と二人の付き人であった。豪奢な装束に身を包んだおそらく身分の高いであろう人間、才人の知る限りマザリーニと同じくらいの年齢に見えた。彼は濡れるのもかまわず、才人の前に立ちはだかって動こうとしない。

「どいてくれよ」

 才人には余裕がない。常ならば様子を見ることができても、今は相手を慮ることができない。
 対する老人は冷静だった。先ほどのポワチエたちとは違って怒りも憎しみもなく、ただ静かに才人に視線を留め、そして倒れる衛士たちの上をさまよう。胸のルーンが痛みを訴えることはない。

「間に合わなかったか……その平民を見せよ」

 その言葉に才人は静かに重心を落とす。ついさっき、メイジは味方だと信じていた。けれどそれは才人の願望に過ぎなくて、スカロンもウエイトも、ジェシカまでこうして傷ついている。
 先ほど小道をいっていたときの悪臭が流れてきていたが、周囲に人の潜んでいる気配はない。誰も杖に手をかけてはいない。

「相棒、リッシュモン高等法院長は長年トリステインで邪神に抗すべく暗躍してきた信頼できる人物だ。手当をしてもらうべきであろう」
「デルフ、でも正直俺には信じられねえ」
「彼が仕掛けるつもりならもうとっくにはじまっておる。不覚をとったばかりだが、某を信じてくれ」

 才人はじっとリッシュモンを睨みながら考える。
 もしリッシュモンたちが先ほどのポワチエ同様敵なら、今この場で背を向ければ攻撃を受けるだろう。
 倒してから進もうとしても、今度はジェシカに意識がない。それに才人が全力で動けばジェシカの身体はきっともたないだろう。
 選択肢はない。ここでリッシュモンたちを信じるしかない。

「……変なことしたらすぐぶっ飛ばすからな」
「案ずるな。小娘に心動かす歳でもない」

 適当な倉庫の戸を斬り破る。リッシュモンの付き人が先行して内部をあらため、もう一人は外から“ライト”を維持している。
 ジェシカを冷たい石床の上に横たえ、リッシュモンは杖を振ろうとした。

「……この臭い」

 じくりと心臓が痛み出す。不快感どころか、人体に害すら及ぼしそうな刺激臭が漂いはじめる。
 倉庫の奥、死角となっている部分から青い煙が染み出している。のた打ち回るミミズのごとく蠢き、不可思議なそれはやがて凝集していく。
 さらに気づけば一人の男性が佇んでいる。付き人は蒼白な顔色を隠せず杖を向けた。

「リッシュモン高等法院長にガンダルールヴ殿ではありませんか。こんなところで奇遇ですな」
「ゴンドラン、貴様なぜここに」

 初老の紳士というに相応しい風貌の人物だった。シルクハットにおさめた銀色の髪に、どこか生気の薄い顔立ち。

「そういえば、ガンダールヴ殿と直接の面識はなかったですな」

 口ひげをしごきながら、まるでここが平穏な場であるかのように男の口調は軽やかだった。剣をかまえ、警戒している才人にも注視することなく、ひょうひょうとした態度を崩していない。
 それは表面上のことでしかないことに、才人は気づいている。ガンダールヴのルーンが、リーヴスラシルのルーンが教えてくれる。目の前の男は敵であると、今討たねばならぬ邪神の手先であると。

「私の名はルイ・アンリ・ド・パルダヤン・ド・ゴンドラン。アカデミーの評議会議長です。そしてまたの名を」

 ばさっと黒いマントをひるがえし、次の瞬間には男の顔が変化していた。シルクハットを外し彼は優雅に一礼する。

「オリヴァー・クロムウェル。以後お見知りおきを」





[29710] 外伝 ポワチエの手記
Name: 義雄◆285086aa ID:ec65c40e
Date: 2012/06/02 00:44


 娘が生まれた。跡取りのことを考えれば男児のほうが良かったのだがそれもこの歓びの前には些細なことだ。
 ジャンヌの経過も安定している。父親になった実感がじわじわと湧いてきて、なんとも身が引き締まる思いだ。
 実りある人生をおくれるよう、ディアーヌと名付ける。



 デムリ卿から祝いのブランデーが贈られ、ウィンプフェンの奴が出産祝いだと言って上等なワインを持参してきたので昨夜は久々に酔いつぶれた。
 下級貴族から杖一つでのし上がってきた奴はいい年をして婚約者もいないそうだ。今度縁談をもってきてやろう。あ奴の腕と頭なら上級貴族でも婿入りの口があるだろう。



 ディアーヌはすくすくと成長している。ふわふわの金髪にラピスラズリのような瞳が愛らしい。美姫と名高いアンリエッタ殿下と並び立つのではなかろうか。
 そう言うと妻は親のひいき目だと笑う。私は本気なのだが、彼女から見れば親ばかなのだろう。
 それも致し方あるまい。なにせはじめての娘なのだ。ジャンヌが社交界で仕入れた情報によるとコルカス男爵家が婿入りの口を探しているらしい。ウィンプフェンに紹介してやろう。



 ウィンプフェンがコルカス男爵家の長女と婚約した。しかし婿入りではなくコルカスの家を継ぐ気はないそうだ。
 ハゲるのがイヤだったのかと聞けば、長男が生まれたそうなので家督はそちらに、ただ愛した女性を受け入れられればいいとのことだ。
 若造がぬかしおる。愉快だ。



 励んでいても子ができるとは限らない。妻はなかなか身ごもらないことを悩んでいるようだ。
 焦る必要はない。ディアーヌがいればそれだけでいい、とまでは貴族の血統からは言い切れないがまだまだ時間はある。
 と呑気に考えているとジャンヌが水の秘薬を勧めてきた。
 ……昨夜は燃えた。



 ジャンヌが第二子を妊娠した。あの薬が効いたのだろう。
 効果があったことを認めるが、腰を痛めたのでアレはもう二度と使わん。
 ……妻が薦めてくればまた使うのもやぶさかではないが。



 おなかが膨らんでいくジャンヌをディアーヌが不思議そうに見ている。
 今度あなたは姉になるのよという言葉も深くは理解していないようだ。まだ四歳なのだからそのようなものか。
 ただ家族が増えるということはわかったようで、いつ増えるのとはしゃいでいる。



 なんということだ。今日ほど始祖を恨んだ日はない。
 流産だった。



 ジャンヌが日ごと痩せ衰えていく。流産のことをまだ引き摺っているのだろうか。
 ディアーヌも不安げな瞳をしている。なんとか忘れさせればいいのだが。



 始祖よ、私たちが何をしたというのでしょう。
 ジャンヌが床に伏して起き上がれなくなった。ウィレットという腕の立つ医師をデムリ卿から紹介してもらい診てもらう。
 心因性というのもあるが、悪性腫瘍が身体中を犯しているらしい。
 ここまで転移したものを治すことは生半なことではなく、妻本人の体力も相まって持ち直す可能性は三割、完治は不可能ということだ。
 私がもっと妻としっかり向き合っていれば。後悔しかない。



 治療の甲斐なく妻は死んだ。無理を言ってスクウェアスペルまで使わせたというのにそれも無意味だった。
 落ち込んでいる暇はない。なにより私が沈んでいてはディアーヌが心配する。
 葬儀には親類のみでなく妻の友人も多数参列した。私が愛した女性は想像していたよりもずっと人々に慕われていたようだ。



 ディアーヌは日ごと亡くなった妻に似てくる。今年でもう十歳、社交界に出る年頃だ。
 魔法の腕はおぼつかなくとも礼儀作法はしっかりしている。これなら引っ張りだこだろう。
 第二夫人をとる気はない。婿の縁談もそろそろ考えなくては。



 来年から娘も魔法学院で学ぶことになる。縁談は上は伯爵次男から下は準男爵まで多数来た。
 娘の幸せを願うなら家柄、実力、性格すべてがしっかりした年上の貴族を見繕うべきだ。条件に見合う男性も何人か見つかった。
 それでも私は決断できなかった。私とジャンヌがそうであったように、恋愛結婚でもいいだろうと思ったのだ。
 魔法学院を卒業して、そのときに思いを寄せる男がいなければ縁談を受ければいいだろう。
 ただし、しっかりした男でなければ烈風式調練を受けてもらう。



 ニューカッスルが陥落した。
 突如現れたナイアルラトホテップ教団という戦力はこの世の軍勢とは思えぬ速度でアルビオンを侵食し、王族をも追い落とした。
 ウェールズ皇太子は無事脱出できたとのことだ。始祖の血統を保つことができて一安心というところか。
 王宮でも戦争の準備が慌ただしくはじまっている。
 そういえばディアーヌに送った手紙の返事が来ない。もしや好きな男ができてそのことを書くか、悩んでいるのかもしれない。



 オールド・オスマンとガンダールヴがいながら、何故。



 王家からの通達によればガンダールヴは異星の者らしい。邪神も星の果てから来た者らしいが、そのような者が信じられるものか。
 あえて教団の暗躍を見逃し学院に邪教の芽を撒いた可能性すらあり得る。



 ラ・ロッタの娘が奇跡的に帰還を果たしたらしい。ディアーヌは帰らない。
 ラ・ロッタの娘はそれ以来ガンダールヴを狂信しているようでべったり張りついていると聞く。
 洗脳か、あるいはガンダールヴこそが邪神の手先ではないのだろうか。



 タルブで甚大な損害を被った。
 教団は壊滅した。おそらく我が娘もあそこに。



 アカデミーの評議会議員から不穏な噂を聞く。ガンダールヴは一度死に、蘇ったそうだ。
 それが事実であるなら、邪神の手先と同じではないだろうか。



 ゴンドランから話を聞く。
 どこから情報を仕入れたか口を閉ざしていたが、ガンダールヴの周囲は魔法学院の生徒とタルブでともに戦ったアルビオン人で固めるつもりらしい。話を聞く必要がある、場合によっては強行手段で。
 また、ガンダールヴの再召喚は六千年もの間何度か行われてきたことらしい。ならば、いっそ奴を始末したほうがハルケギニアのためになるに違いない。



 巫女が魅惑の妖精亭という酒場に出た。
 不浄の地を遺しておくわけにはいかない。跡形もなく焼かねば。
 タルブにはガンダールヴに連なる血が流れているとも聞く。店主やその娘も消す必要があるだろう。
 部下の中から魔法学院で失踪した者の身内を集める。皆復讐心に燃えていた、頼もしいことだ。



 思わぬ邪魔が入った。ギトーめ、かつての恩を忘れたか。。
 そもそも魔法学院の教師と言うなら、ディアーヌの危機を見過ごしたことにも責任がある。
 今夜すべてを決行する。
 邪魔するものは全て排除する。



[29710] ただ、陽は沈む
Name: 義雄◆285086aa ID:ec65c40e
Date: 2012/06/02 01:07
 自らをクロムウェルだと名乗った紳士が悠然とたたずんでいる。
 狭い倉庫の中、外からは“ライト”の強烈な光がさしている。隠れられる場所などなかった。あったとしてもリッシュモンの付き人がすでに確認していた。才人たちの知らないことだが、ニューカッスルの夜のように彼は影から生まれ落ちたのだ。
 濃密な邪神の気配に心臓と左手が痛みを訴えている。ジェシカたちを背にかばいながら、抜身のデルフリンガーを構え才人は睨みつけた。
 常人なら威圧感をおぼえるであろう状況であっても、あくまでクロムウェルはリラックスした風である。彼の足もとには青くねじりまがった舌を突きだし、悪臭をふりまき体組織らしきものをしたたらせる四足の化け物がいる。

――ティンダロスの猟犬。

 魔法学院にいたときも何度か目にしたことはある。そのたび左手のルーンが痛んで、普通の使い魔とはどう違うのかそのときはわからなくて、けれどこうして相対した今、この世の摂理を超えた奇怪さが理解できる。
 メンヌヴィルの講義でどのような存在かは聞いている。

 曰く、鋭角を起点に時空を超えどこまでも獲物を狙う常に飢えた存在である。

 その侵入を防ぐことはできない。その襲撃から逃れることはできない。その存在を殺すことはできない。
 おおよそ二千年ほど前、エルフの国ネフテスの首都アディールにて、その実在が確認された。虚無の研究を行う術者が誤って次元と時間の壁を超越してしまい、この恐るべきものに目をつけられてしまったのだ。
 対処法はただ一つ、標的の死。それすらも当時は判明しておらず、生物とも呼べない猟犬をエルフの精鋭、ガリアから出向していた軍勢で討伐しようと試みたが、いずれも壊滅規模の損害を受け、さらに術者は脳髄を啜りとられ死んでいる。

 根拠のない最新の学説だが、とメンヌヴィルは前置きして、これを“偏在”のようなものであると言っていた。
 ここに姿を見せている生命としてあまりにおぞましい物体は、ただの末端であり、本体にあたるものはおそらくメイジの手に届かぬところにいる。そのためいくら目に見える脅威を討ったとしても、再び鋭角を経由して現れるだけであると。
 祝福の力を有するアニエスならば、あるいは討てるかもしれないと魔法学院にいたときは考えていた。しかし、実行する機会はあれど一歩踏み出せず見送るしかなかった。

 さらにアディールにいるビダーシャルからの情報によれば、この個体とハルケギニアの間に『縁』をつくっているものがある。それがメアリーである可能性が高い。
 つまり、邪神の巫女であるメアリーを討てば猟犬は自然といなくなる。同時に彼女をなんとかしなければ、猟犬になにをしようとも意味がない。
 不死身の巫女にその使い魔であるティンダロスの猟犬。これ以上なく噛みあった存在だった。

 じりと才人の足が動く。切っ先はまっすぐクロムウェルに向かったまま。
 それでも黒いマントを羽織った彼は気にした様子を見せず、じゃれついているようにも見える猟犬をあしらって遊んでいる。

――そもそも何故こやつがここにいる。何故猟犬を従えている。

 リッシュモンの頭の中はそれに占められている。
 ナイアルラトホテップ教団大司祭オリヴァー・クロムウェルはニューカッスルで、『閃光』のワルドがその二つ名にたがわぬ早業で首を落とした。そうウェールズはバリー老に最後の報告を受けたと言っていた。
 そしてニューカッスル城はジェームズ一世が火の秘薬をもって影すら残らぬ爆発でこの世から消えた。あの爆発で生き残れるはずがないと、避難船のメイジは証言している。

 だがしかし、彼は死んでいなかった。ガリアのミドガルズオルム部隊の報告によれば、ジョン・フェルトンの執事であるバザンに化けていた。あるいはもっと別のおぞましい儀式によって永らえ、彼の身体を奪っていたという。
 首だけになっても喋り続ける姿に人間らしさはなく、彼がもはや邪神の配下としてもっと違う存在になったのだと目撃者は言った。

 そして今、こうしてクロムウェルはここにいる。
 アカデミーの評議会議長、毒にも薬にもならぬ男と思っていたゴンドランの身体を奪って生きて、いや、存在している。

――何故ゴンドランが……。

 彼はここ十数年トリステインから出たことがない。よってクロムウェルと接触するはずもなく、その経路がわからない。
 アカデミーでも邪神の研究はさほど活発に行われておらず、彼が教団に染まることなどないと思っていた。

――まさか、ワルド子爵夫人の。

 風石の埋蔵量分布について、ゴンドランが報告を受けた可能性は高い。そこからゴンドランは狂った子爵夫人に疑問をおぼえ独自に調査したのだろう。

「早く手当をされてはどうです? あまり放っておくと死んでしまいますよ」

 リッシュモンの考えを遮り、ティンダロスの猟犬を撫でながらクロムウェルは言う。
 その言葉を受け入れられるはずがない。今この場で戦える者はリッシュモンを含めて四名、しかも一人は“ライト”の維持で他の魔法の詠唱が困難だ。加えてリッシュモンは戦いに耐えうる健康状態ではない。今晩街に出たのもポワチエの件をウィンプフェンから漏れ聞き、それを制止するためであった。戦闘は想定していない。
 ティンダロスの猟犬とスクウェアメイジであるゴンドランの身体を奪ったクロムウェルがどれほど強いのか、わからない以上動くことができない。

 理性ではそうとわかっていても、才人は動じてしまった。
 スカロンから託されたジェシカが死ぬかもしれない。イヤな考えがどんどん噴き出してくる。
 その揺らぎを見計らったようにクロムウェルは再び口を開く。

「ガンダールヴ殿、その少女はあなたにとって大事な人なのでしょう。リッシュモン殿が治療してくれない以上外に連れ出した方が良いのでは」
「相棒、わかっているだろうが背中を見せればやられるぞ」

 露骨な揺さ振りをかけてくるクロムウェルを才人は睨みつける。

「私は一介の聖職者に過ぎないので、そう睨まれると恐怖で死んでしまいます」
「ほざけ……ガンダールヴ、目を離すな」

 そんな視線もどこ吹く風といった具合で彼はおどけてみせる。
 リッシュモンは後ろ手にハンドサインで外にいる付き人に合図を送る。わずかに影の形が変わる。外を見ればわかることだが、球形の“ライト”が細長く伸び、それが雨のしずくに反射して光の柱を形作り五百メイルほど先からも視認できるようになっていた。

「そういえば紹介が遅れました。彼は聖母様の使い魔、ティンダロスの猟犬のドン松五郎です。長い付き合いになるかもしれないのでよろしくしてやってください」

 外での動きを知ってか知らずか、楽しげに語りかけるクロムウェルのマントの裾をくいくいと引っ張り、猟犬が注意をひいた。

「ふむ、ふむふむ。それは参りましたな」

 耳に手を当てて、きしむ音とも風の通る音ともつかない唸り声をあげる猟犬に顔を近づける。
 彼はまったく猟犬に恐怖を抱いていないどころか、むしろ親しげにすら見える。

「どうやらこのドン松五郎、困ったことに空腹らしいのです。まあティンダロスの猟犬は常に飢えているのですが」

 どこかに餌があればいいのですがと言って、クロムウェルはわざとらしく倉庫をきょろきょろ見渡す。
 そしてああ思いついたとばかりに手を叩いた。

「おっと、そういえば外で眠っている衛士がいましたね。あそこで寝かせておいて風邪をひいてもなんですから、有効活用させてもらいましょう」
「待て!」
「相棒、我らも外へ!」

 とぷんと、水面に小石が落ちるようにクロムウェルは影に溶け込んで消えた。あとには猟犬も残されていない、妙に広々と感じる倉庫があるだけ。
 リッシュモンと付き人は外に駆けだした。才人はまだ手当のされていないジェシカをどうするか数秒逡巡し、ここに残しておくよりはマシだと判断して再び背負った。さっきとは違って彼女はしがみつこうとしない。右手がふさがっていて戦闘行為は難しい。

 練兵場に出ると、雨ですらかき消せない血と臓腑の臭いが周囲を満たしていた。じっとりと肌にねばつくようなそれに吐き気をもよおされながら、才人はなるべくジェシカを揺らさないように歩みを進める。
 リッシュモンたちが相対しているクロムウェルと、その足元にいるティンダロスの猟犬。散乱している血液と肉片、それと腸を踏みつけながら彼らはそこにいる。
 さっきまで彼らとは戦っていた。ワケのわからない難癖つけられて、ウエイトやスカロンまで殺して。それでもこんな目にあっていいはずがない。
 ぎりと才人は強く歯を食いしばる。心臓が激しく脈動する。敵を討つのだと左手が吼える。

「いやはや、アルビオンでは自制していたようで空腹も空腹なのですよ彼は。行儀が悪いのは許してやってください」
「ぬかすな、邪神の使いが!」
「それは褒め言葉でしかありません」

 まったく悪びれた様子のないクロムウェルはちちちと指を振って、茶目っ気たっぷりにウィンクまでしてみせる。リッシュモンが叫んだのにも肩をすくめて返すばかり。
 そしてちらと才人に目をやった。

「先ほども言いましたが、早く手当をしないと死んでしまいますよ」
「あんたがいる限り行けないだろ」

 大仰に驚いた素振りをして、敵意など見えない眼を細くして大司祭は言う。

「これは異なことを。別に私はガンダールヴ殿を引き留めたりしません。その背に攻撃しないことをナイアルラトホテップ様に誓ってもいいでしょう。勿論、ドン松五郎もこの場に留めておきます」
「虚構をよしとする神に誓うなど、笑わせるな大司祭」
「ふむ、私が示せる精いっぱいの誠意だったのですが」

 まあいいでしょうと前置きしてクロムウェルは続ける。

「ですが、どんな生物……生物でよかったのですかあなたは?」

 ふむと腕組みして、猟犬に問いかける。きょとんと小首をかしげるばかりで明確な返答が返ってくるはずもなかった。

「まあ空腹は満たさねばなりません。いかに猟犬が飢えた存在であろうと、トリスタニアの半分も喰らい尽くせば満足するかもしれまんしね」

 トリスタニアの半分、五万人以上を食い殺すと言っているのだ。そこには何の感情もない。夕飯は何にしようか、そんなありきたりな話題をしているように瞳の色が揺らがない。

「なに、恩義を感じる人物の一人娘とたかだか五万人。どちらが重いかは明白ではありませんか?」
「わかっているなガンダールヴ。ここでこやつを逃せばタルブよりも甚大な被害が出るぞ」

 マザリーニが才人に一抹の不安を感じていたことをリッシュモンは知っている。今ここで彼が再び逃げ出す可能性を考慮し、釘をさす。
 だが言われずとも才人に逃げるつもりなんてない。それでもジェシカのことが気にかかる。彼女を背負っていては全力で動けないし、近くに置いても戦いの余波がいく。なにより血が流れ続けているのが不安を誘った。

「案ずるな相棒。合図で皆急行しているはずだ。お嬢たちを信じよ」

 デルフリンガーが才人にしか聞こえないよう囁きかける。左手で強く握りしめることでそれに答えた。
 助けが来ればジェシカを安全地帯へ避難させることも、治療することもできる。それまで戦端を開いてはいけない。戦えば彼女はほぼ確実に死んでしまう。
 ルーンが戦うよう叫んでいるが、それすらも抑え込んでしまう。

「たとえばの話ですが、ここで負傷しているのが虚無の娘なら、あなたは一度逃走するでしょう? 命に優先順位をつけるのはよくありませんなぁ」

 わかりやすい挑発だった。あまりにわかりやすすぎてむしろ毒気をぬかれる。
 わずかに肩の力を抜いた才人を見てクロムウェルはやれやれとため息をついた。

「いやはや、やはり私にこういう挑発は向いていないようですな。元が聖職者なので仕方のないことでしょうが」
「ほざいてろよ、おっさん」
「では違う話をしましょう。そうですね……何故急に同郷の方がやってきたか、なんていうのはどうです」

 リッシュモンも付き人も黙って杖を構えている。才人は降ってわいた真実を知る機会により強くデルフリンガーの柄を握りしめた。

「と言っても複雑な話ではありません。我が神がやったことです」

 皆が無言であることを催促であると受け取ったのかクロムウェルは雨に打たれながら、それすらも楽しそうに語りはじめる。

「人間の価値観に当てはめるのはアレなのですが、我が神は子どもっぽいところがありましてね。以前……ジコケイハツセミナーでしたっけ? そういうのをあめりかとやらで開催して力の一端を示して見せたとき、観客がペテンだと叫んだことがあるのです」

 自己啓発セミナー、アメリカ。どちらも地球で聞いたことのある言葉だ。そしてハルケギニアには存在しない言葉だ。
 クロムウェルはどうやってか地球のことを知っている、それもかなり詳しく。アメリカはまだしも、自己啓発セミナーだなんて、よっぽど地球に精通していなければ出てこない単語だ。
 そしてもっと重要なことは、才人がいた地球にナイアルラトホテップがいるということ。

「慈悲深くも己の力量をギリギリまで絞って披露していた我が神はそれに気を悪くされまして、会場にいた人間全員を別世界に送ってしまわれたのです」

 懐かしい出来事を話すようにクロムウェルは遠くを見ながら、ティンダロスの猟犬を撫でながら話を続ける。

「今回もさして変わりありません。歩いていたら声をかけられたので飛ばしただけのこと。その過程で人間が化け物に見えるようになったそうですが、まあ些細なことでしょう」
「なんだよ……それ……」

 理由があれば許せたかと問われると、そんなはずはない。
 それでも、それでももっと違う意味のあることだと思っていた。そんなくだらない理由であるだなんて考えもしなかった。
 蘇るのはジョゼフがグラン・トロワで語ったこと。

――存在規模が違いすぎる。

 かの邪神からすれば人間を異世界に飛ばすことなんて、気まぐれにカタツムリを百メイル先の生け垣に移すような、そんなことでしかないのだろう。
 左手の、心臓のルーンが白熱する。頭に血がのぼったどころではない、噴火の如く激怒が心臓を支配する。ジェシカのことすら投げ出して、クロムウェルに斬りかかろうとした。

「抑えろ相棒。もう少し、もう少し待て」

 デルフリンガーの囁きが耳に届く。歯を食いしばって荒くなる呼吸を抑えた。

「おや、頼れるお仲間がやってきましたか」

 雨音に混じって水の跳ねる音とブーツが石畳を叩く音が近づいてくる。
 クロムウェルの背後から回り込むよう現れた一団には才人も見たことのある顔が混じっていた。
 同時に才人たちの背後からも黒衣の一団が現れる。振り返ったリッシュモンはかすかに顔を安堵にゆるめた。リッシュモンの知る小隊の者たちだった。

「リッシュモン様、遅れました」
「形勢逆転だな。増援はまだ来るぞクロムウェル。光を満たした部屋に閉じ込めればいかに貴様とて抜け出せんだろう!」

 構えよというリッシュモンの言葉に一団は一斉に杖を向ける。ニューカッスルの夜を彷彿させる光景に才人は息をのんだ。
 しかし、二十以上の杖を向けられた大司祭は怯えをはじめとする負の感情は一切なく、むしろくつくつと薄く笑いはじめ、仕舞いには体を折って笑い声をあげるに至った。

「形勢逆転!? これはこれは、高等法院長ともなれば冗談も上手いですな!」

 いかにクロムウェルが余裕の態度であろうとこの形勢はきっと崩せない。あの夜とは違う。ルイズもじきにつくだろうし、数多の邪神の手先を討ってきたデルフリンガーが手元にある。魔法で弱らせたところに斬りかかれば勝負は決まる。
 これで終わる。人の死に過ぎた悪夢もいつかは醒める。そう思っているはずなのに、やけに心臓がうずいた。ヴェイヤンティフも猛禽類の唸り声をあげている。
 クロムウェルとティンダロスの猟犬、二つの巨大な存在はガンダールヴとリーヴスラシル双方のルーンをひどく刺激する。

――なにかおかしい。

 違和感がある。心臓だけでなく首筋にちりちり感じている。
 間もなく詠唱が完成する。才人が違和感の正体に気づいたのはそのときだった。

 クロムウェルの背後にいる集団の瞳に生気がない。死人の眼をしている。一人二人ならまだしも、全員が同じような腐った眼で才人たちを見ている。
 ルーンのうずきの意味をようやく理解した。濃密な気配を放つクロムウェルと猟犬だけではない、包囲している一団からもうっすらと邪神のにおいを感じるのだ。
 声をあげる暇なんてない。咄嗟に近くのリッシュモンだけでも突き飛ばそうとする。右手はジェシカの支えに、左手はデルフリンガーを握り、それでも届けと必死に左手を伸ばす。
 これに驚いたのはリッシュモンだった。彼から見れば神剣で斬りかかってくるようにしか見えない。乱心したかと目を見開き、身体をよじって体勢を崩す。膝から崩れ落ちただけで、魔法の的にはまだ十分大きい。

 魔法光が周囲を満たす。様々な魔法が標的すら定めずに四方八方飛び交った。
 才人は身を投げ出してジェシカを背で庇う。いくつかかすっても声をあげずひたすらに歯を食いしばる。 
 付き人とリッシュモンの絶叫が聞こえる。仕組まれた謀略に気づき、最後の抵抗に応戦しようとしているのか、悲鳴とも雄叫びともつかない声であった。

 しばらくして魔法が完全に止み、才人は素早く起き上がり再びジェシカを背負う。雨に濡れた地面のせいで土煙はあがっていない。
 それがより鮮明に付き人の死体と血まみれになって倒れ伏すリッシュモンの身体を照らし上げる。
 彼に傷のないところはなかった。肉は裂け筋繊維と白骨までもが見えており、右足は膝から下がなくなっている。高齢と病による体力低下、そしていま負ったばかりの大けがにもかかわらずリッシュモンは立ち上がろうと力を込める。内臓が傷ついているようで血を吐いて、クロムウェルを睨みながら崩れ落ちた。

「まさか、内通……」
「いえいえ、魔法ですよ。“フェイス・チェンジ”とは便利なものですな。精神力さえあれば信者たちもほらこの通り」

 さっと杖を振れば小隊隊員だと思っていた者の顔、驚くべきことに全員のそれが豹変した。才人もリッシュモンもまったく見知らぬ男たちの顔だ。
 対象の顔を変化させるスクウェアスペル、“フェイス・チェンジ”は個人を対象とする。二十人の顔を変えるには二十回もの魔法詠唱が必要であり、その精神力消費たるやオールド・オスマンですら耐えられないだろう。それをクロムウェルはやってのけた。おそるべき精神力量だ。

 リッシュモンは這いつくばって才人に近寄り裾をつかむ。命を燃やし尽くしたような色の瞳が輝いていた。

「頼、む……トリステインを、たの……」

 それっきり、リッシュモンは動かなくなった。
 人が死んだ。目の前であっけなく死んだ。なんの感慨も抱かない敵に殺された。すっと自身の血が冷めたのがわかった。

「惜しい人を亡くしました」

 シルクハットを胸に当ててクロムウェルはしみじみと言う。口元はうっすら歪んでいて、口にした通りのことを思っていないのは明白だった。

「それとこれはペナルティです。折角の好意を無碍にするとこういうこともあり得ると、覚えていたほうがよいですよ」

 パチンと指を鳴らすと同時、ティンダロスの猟犬が跳躍した。鈍重な動きで才人の頭上三メイルほど、かなりの高度にのびあがった。
 そして、才人の見間違えでなければ猟犬は虚空を蹴った。なにもない空間を後ろ足で蹴り、凄まじい加速を見せた。
 事前の鈍い動きからは想像もつかぬほど素早い動きに才人は対処できない。狙いは彼の背中、そこにいるジェシカしかいない。

「使うぞ相棒!」

 瞬時にデルフリンガーが身体の使用権を奪った。神剣は六千年もの間ガンダールヴに使われ、その動きを憶えている。左手だけとはいえ、摺り上げの一撃は重く速かった。
 神速に近い斬撃は、尋常の相手ならば両断してなお余る一刀であった。しかしそれも捉えられねば意味のないこと。猟犬は再度宙を蹴って回避した。

「このっ!」

 デルフリンガーが身体を動かせる時間は長くない。すぐに才人は動きはじめる。
 猟犬の相手は非常に困難だった。翼を持つ者なら方向転換する前に挙動が変わる。メイジであっても減速は必要だ。
 ティンダロスの猟犬はそのような行動を必要としない。慣性の法則を無視した急加速と停止、獲物をなぶる動きはまさに猟犬そのものだった。
 加えて才人の背にはジェシカがいる。クロムウェルの言葉を信じるなら獣の狙いはこの少女だ。地面に置けば変幻自在な動きに翻弄されるばかりの才人では護り切れない。
 意識のない少女を背負い続けるのは生半なことではない。現状維持に努めてもいつかは破綻が訪れる。

「まずい!」

 そして、それは遠くない未来のことだった。
 疲れの見えた才人の隙を縫って猟犬が肉薄する。彼我の間合いはないも同然、ここからデルフリンガーによる巻き返しものぞめない。

 終わりだ。スカロンから託されたジェシカが死ぬ。そんなこと認めたくなくて、最期の瞬間まで神剣を操る。
 だが届かない。人の情を邪神が顧みるはずもなく、猟犬は背中のジェシカに迫る。

 牙が突きたてられるまさにそのときだった。
 空から才人の背後に巨大な影が飛び込んでくる。普通の生物がやるような減速もせず猟犬と激突し、影は泥をまき散らしながらしっかと大地に降り立った。
 左目の下に十字傷の残る、才人が知る生物であった。

「ヴェイヤンティフ……」

 ワルドの愛騎たるグリフォン、ヴェイヤンティフ。かつてのガンダールヴ、ローランのヒポグリフにあやかった名を持つ精強な空の狩人。
 獅子の身体に鷲の頭をもつグリフォンは夜目が効きにくい。加えてこんな雨の中を飛んでくるのはよっぽどのことでなければありえない。
 ぎろりと才人を睨みつけたその瞳には人間じみた意思が宿っている。つんざく嘶きはなんとも頼りがいのあるものに感じられた。

「ワルド子爵のグリフォンですか。なかなか慕われているようで結構なことです」

 その声音は本当に嬉しそうで、そこだけ抜き出せば好人物にしか聞こえない。

 ヴェイヤンティフはかぎづめでそっとジェシカをつかみ、再び空に舞い上がった。そして天に届けと高く鳴き声をあげる。
 才人は両手をデルフリンガーを握る。背中の温もりは消えたけれど、身体はこれ以上なく軽い。今なら二十人や三十人、ものの数ではないような気がした。

「ああ、残念です」
「残念だろうな。こっからは全力でやらせてもらうぜ」
「本当に残念です」

 どしゃりと重たい音が響いた。空を飛んでいたはずのヴェイヤンティフの姿はない。
 やれやれとクロムウェルは肩をすくめた。

「あの怪我であの高さ、確認するまでもなく死んでいるでしょう」

 何の感慨もなく、淡々と事実だけを述べる。
 才人はおそらく生涯ではじめて、全力で咆哮した。

「て、めぇぇええええ!!」

 構えは大上段。踏込は雷速。
 それもクロムウェルには届かない。彼の背後に、メアリーが立っていたから。

「がはっ」

 タルブのときと同じ、心臓を貫かれている。不思議と痛みはない。喪失感がはじめにあって、生命が身体から零れ落ちていく。

「一介の大司祭風情に手助けしてくださるとは、ありがとうございます聖母様」

 左胸のルーンが輝く。闇色の鞭がずるりと抜け落ちる。身体が動く。死んでなんかいない。
 生きている。それこそがおかしいのに、まだ生きている。

「ほほう、これがリーヴスラシルの能力ですか。神剣殿はきちんと説明してあげたのですか?」
「黙れ大司祭!」
「説明していないと。ならば教えてさしあげましょう。リーヴスラシルのもう一つの能力を」

 嬉々とした表情でクロムウェルは叫ぶ。

「黙れぇぇええええ!!」
「心臓は生命の象徴。その能力は単純、死者蘇生ですよ!」

 身振り手振りを交えて、壇上で観客を相手取るように、高らかに謳う。神剣の心の底からの叫びを、才人はこのときはじめて聞いた。
 デルフリンガーが才人の身体を使って斬りかかる。しかしメアリーの闇に防がれ、クロムウェルに刃は届かない。
 幾度振ろうとも漆黒の触手が行く手を阻み、神剣はその身に届かない。

「己の命ならば対価は五年の寿命。他者の命ならば、リーヴスラシルの命でしたか」

 デルフリンガーがガンダールヴの身体を動かせるのは蓄えられている魔力の分だけ、それが尽きてしまえば彼は魔法を吸収する剣でしかない。

「ああ、そういえばガンダールヴ殿はタルブでワルド子爵と出会ったそうですな。あのときルーンを発動させていれば彼は蘇ったのですよ。子爵相手ならタルブでの聖母様も危うかったかもしれませんね」
「黙れ黙れ黙れぇええ!!」

 才人は呆と突っ立っているだけ、先ほどまでみなぎっていた闘志は欠片もない。 
 心臓に冥闇が突きたてられる。命の雫は赤く、とめどなく流れ落ちていく。腕に足に、無数の闇が突き刺さる。

「なんだよ、それ」

 聞けば何でも教えてくれた。弱音を吐いたときは叱咤し、慰めてくれた。
 隠しごとがあっただなんて、裏切られた気分だった。それも自身の往く末にかかわることを隠されていた。 
 急速に心が冷えていく。貫かれた触手から人間らしい感情が抜け落ちていく。左手のルーンは輝きを失っていた。

「なんで、黙ってたんだよ」
「言えば相棒は命を投げ捨てるだろうが! 優しく、それが故に死者に引き摺られる若者を死なせたいと某は思わぬ!!」

 デルフリンガーがリーヴスラシルの効果を説明していたとすれば、才人はきっとタルブでルーンを発動させていただろう。
 そうであったなら二万人もの犠牲が出ることはなかった。ウエイトが惨殺されることも、スカロンとジェシカが死ぬこともなかった。
 悲劇のヒーローを気取るつもりはなくて、死ぬのは当然すごく怖いけれど、自分一人の命を差し出すだけでそれだけの人が生きていられるなら、きっとそうしただろう。

「そっか」

 平賀才人の生い立ちに特別なところはなにもない。つい二か月前まで当たり前に目覚めて、学校に行って授業を受けて、帰りは友人と話しながら家路につく。普通の高校生だった。
 彼がハルケギニアに呼ばれて、まずルイズに泣かれた。それまでの日常が壊れて召喚される。勇者になった気分だった。ルイズが可愛いのも手伝って深く考えず引き受けた。
 白の国アルビオンの斜陽を目撃した。このときはじめて自身の使命の重さに気づかされた。ワルドに命を救われ、この星を頼むと言われた。
 カリーヌという厳しく強い女性に師事した。最初はただ辛かった。途中からギーシュたちが加わって、元の世界ではしていなかった部活動みたいだと思った。訓練は相変わらず厳しかったけれど、終わったあとの友人との会話は楽しかった。
 ケティを救った。メアリーという強大すぎる敵を前に、大丈夫なのかという不安があった。それすら消し飛んでしまうほど、はじめて人を救った感慨は深かった。後でカリーヌに色々言われたのも気にならなかった。
 タルブでワルドを殺した。ニューカッスルで迫る触手を防ぎ、ゲートへ才人を蹴り込んだ命の恩人を自らの手で殺めた。そのとき、もう一度星を託された。

 死者の念は重い。
 特に才人は目の前で恩人を失い、意志を遺されている。一度目のワルドの死からは一月、二度目の死からは一週間とたっていない。心に深く刻まれた遺言がその短期間で風化することはありえない。
 それ故走り続けることができた。くじけそうになっても立ち上がることができた。

 ウエイトは無残に殺されていた。残す言葉もなく路地裏に打ち捨てられていた。彼には妻と五歳になる娘がいるのに、もう家に帰ることはできない。

 目の前でスカロンが死んだ。一人娘を託された。そのジェシカももういない。

 リッシュモンはトリステインを頼むと言った。才人がもっとうまくやっていればきっと生き延びることができたのに、恨み言一つ残さなかった。かわりにトリステインを頼むと言われた。

 死者の念は重い。
 平賀才人は一介の高校生に過ぎない。
 何人もの思いはその若い体に辛すぎて、心を縛りやがては歩むことすらかなわなくなる。

 支えてくれる人がいたなら、まだ進み続けることができたかもしれない。
 だけど今はいない。信頼していた神剣にも隠し事をされていて、彼は孤独の淵に立たされていた。心が冷え切っている。
 諦念が心身を覆っていた。

「サイト殿、あなたは悪くありませんよ」

 悪魔の囁きだった。

「異星から無理やり引っ張ってきた虚無こそすべての元凶。誰も責める者などいません」

 低音でひたすら心地いい調べが才人の耳に届く。大地を打つ雨の音も、相棒たる神剣の声も、今の彼には届かなかった。

「今はただ、聖母様に抱かれて眠りなさい」

 死者の温もりに包まれて、才人の意識はすとんと落ちた。



 アニエスたちの考えではゴンドラン評議会議長とド・ポワチエ将軍は共謀している。
 将軍がガンダールヴである才人をおびき出すのなら、戦力を一極集中させる効率の観点からアカデミーに連れ出すだろう。そこで多数のメイジをもって圧殺し、続く虚無を攻撃するつもりだろうと。
 アンリエッタたちの詰めた案は、市内からの銃士隊の攻撃、市外からは実験小隊を向かわせて包囲、投降を呼びかけると同時魔法衛士隊による空からの急襲によって制圧を行うとのものであった。
 才人が戦っている可能性を考慮し、そこに少し変更を加えた。隠密性の高い実験小隊をあらかじめ先行させ、可能であるならアカデミーの塔へ侵入させる。内部で魔法を乱射して陽動を行い、攻撃力の高い衛士を釘付けにしてから魔法衛士隊の攻撃を行う。
 近接戦闘に長けた隊員とコルベールが闇夜に紛れてアカデミーに近づいている間に、ポワチエ将軍がついている可能性を各部隊に通達し、陽動を待ってアニエスたちは突撃した。

 しかし彼女らの想定していた事態はまったく見当違いであった。
 アカデミーの研究員は夜ということもあってほとんどおらず、ポワチエどころかゴンドランの姿もなかった。彼の秘書は、ゴンドランは自室にこもっていたはずで出てきたなら自分が気づかないはずだと言う。ポワチエにいたってはアカデミーを訪れたことすらないと証言した。
 ゴンドランの屋敷に向かっていたマンティコア隊からも彼が見つからなかったと連絡が来る。街中に浸透していた他の銃士隊も、ヒポグリフ隊も彼の影すら見つけることができない。

 全戦力を捜索に費やすわけにはいかない。トリスタニアではメアリーが目撃されているのだ。一極集中させて違う場所に彼女が現れ、またタルブのような攻撃をされては対処のしようがない。
 しかし才人およびゴンドランを早期に発見せねばならない。アニエスたちは過剰戦力の大部分を中央と東西南北の五か所に集中させることを決定した。空は比較的小柄で羽音の小さいヒポグリフを中心に、銃士隊がポワチエの行方を聞き込み小隊が路地裏を駆け回るという編成で捜索を再開する。
 成果が出るのは早かった。北部練兵場にて“ライト”の柱が目撃され、ルイズたちはシャルロットのシルフィードと少数の幻獣、地上部隊に別れて現場へ急行した。

「状況は?」
「周囲が闇に閉ざされていて目視は困難。『風』メイジの聴覚も効果なし。上空も封鎖され、数名突入を試みたところ帰還せず。闇は実体をもっているようで魔法を撃っても破ることができない」
「アニエス隊長、付近でグリフォンと少女を発見しました。いずれも重傷でしたが治療を施し命に別状ありません」

 アニエスの問いかけに小隊隊員と銃士隊隊員が答える。
 漆黒のヴェールが練兵場の周囲を覆い尽くし、中の様子が一切わからない。雨だけが闇を透過していく。豪胆なギトーも流石に初手から突撃しようとは思わず、“エア・ハンマー”をぶつけて遠目にその反応を確認していた。
 この闇が邪神由来のものであるなら『虚無』をもって祓うことができるだろう。しかし貴重な精神力を浪費させるわけにもいかない。

「少し『借りる』」

 言って、アニエスは剣を構え瞳を閉じる。己の内面に集中して心の炎を呼び起こす。
 アニエス・コルベールは祝福の子である。その特性は『火』、彼女を中心に五リーグの『火』スペルの効果を増幅させる。同時に、『火』の系統を扱うことのできるメイジの力を集積し、放つことが可能だ。
 その力は多数のメイジが集う戦場や都市でより強くなる。トリスタニアは一万以上のメイジが生活する大都市だ、彼女の祝福の力を生かすにはこれ以上ない土地だった。

「はァッ!」

 眼を見開くと同時に気合を込める。彼女の剣にはらせん状の炎が渦巻いていた。その色は白と青、彼女が幼少のころより触れ合ってきた父と叔父の放つ炎の色だった。
 そのまま上段に突き上げ、蠢く闇めがけて一閃。始祖の祝福を受けた炎は烈しく燃え上がり、闇のヴェールを一掃した。

「せ、先住!?」
「祝福の力だ。いくぞ」

 詠唱もなく生まれ出たトライアングル以上の炎にギーシュは驚きの声をあげたが、アニエスはそれにすげなく返して道をいく。
 途中突入したメイジの死体が散乱していた。頭蓋に太い穴が開いていて、そこから流れ落ちるはずの中身はない。猟犬の仕業であることは明白だった。

「ラ・ヴァリエール殿は私の前に出ないように。グラモン殿たちは身命を賭して彼女を護ってくれ。女性陣は挟撃を受けないよう後方警戒をお願いする」
「杖に誓うよ」
「ウィ、マドモワゼルってね。フレイムもいるし退路は焼き払ってあげるわ」

 瘴気が濃くなっている。この先に邪神の手先がいる。そのことを祝福の力で感知したアニエスは念を押した。
 銃士隊隊員十名、小隊隊員五名、それに周囲を魔法衛士隊が警戒している。この戦力でルイズが『虚無』を放つまでの時間を稼ぎ、全力をもって邪神の手先を討つ。
 問題はガンダールヴが、才人が今も戦っているかという点だ。彼がポワチエに連れ去られてからかなりの時間が立っている。ことを起こすには十分すぎる時間があった。

 練兵場は血に穢れていた。原型を残している死体などない。戦場よりも凄惨な光景が広がっていた。
 そこに佇んでいるのはゴンドランではない。だが、小隊隊員ならば誰もが顔を覚えている人物だった。

「オリヴァー・クロムウェル……!」
「おや、おやおや。随分遅い御到着ですな。やはり異星の者などどうでもいいと見える」

 黒衣の集団をはべらせて彼は大げさにため息をつく。
 その傍らには少女がいる。闇を広げた黒の巫女が。
 彼女は少年を抱いていた。少女たちのよく知る少年だった。

「サイ、ト……?」
「哀れな少年です。異星から無理やり引き摺りこまれ、不条理な怒りをぶつけられ、頼るべき仲間はいつまでたっても来ず、託された少女は護れず、信頼していた神剣は彼に真実を教えていなかった」

 舞台役者のように左手を胸に、右手を天に掲げながら、悲劇の英雄を讃えてクロムウェルは謳う。
 才人は、血色のよかった顔は死人のように白く、血を吐いた後が口元に残っている。蠢く闇に囚われ、傷ついた身体は見えない。
 ついてきていたギーシュたちが膝をつく。巫女を直視することに耐え切れずレイナールは意識を落とした。銃士隊の中にもダメージを受けている者がいる。アニエスは一つの可能性に思い当たった。
 リーヴスラシルの能力が失われている。あるいは、巫女がその身に才人を取り込むことで無効化している。
 
「しかし安心してください。聖母様は、我が神はどのような者でも受け入れます。たとえあなた方が必要としない少年であっても」
「サイトを返せ……」
「彼は疲れているのです。主人ならば休ませてあげようと気遣うべきでは?」

 朗々と語るクロムウェルに、ルイズがキレた。 

「か、え、せぇぇぇえええええ!!!」

 顔を憤怒に染め、杖を抜き、ルーンを唱える。
 彼女はその性格とは裏腹に四国の虚無の中で最も攻撃的な性質を持っている。唱える魔法がすべて爆発するのだ。
 その攻撃性を生まれてはじめて、自らの意志で解き放った。

「うる・かぁのおっ!!」

 紡ぐルーンは“発火”。四系統において破壊力の秀でた『火』の系統、その基礎スペルだ。この魔法を選択した理由はない。ただ怒りのままに覚えているルーンを唱えただけだ。
 ルイズの放った魔法は大爆発を引き起こし、メアリー、クロムウェルだけでなく黒の一団をも飲み込んだ。
 『虚無』によって周囲の瘴気がわずかに晴れる。その隙にアニエスは戦闘不可能な人員をキュルケたちが待機する練兵場の外へ運び出すよう指示し、緊急事態を示す信号弾をありったけ空に打ち上げた。
 すぐに煙は風に流され、服が煤まみれになったクロムウェルと無傷のメアリーが姿を現した。

「けほ、『虚無』とは乱暴なものですね。使い魔ごとやるとは思いませんでした」
「とっとと返せって言ってるでしょ……ウル・カーノ、ウル・カーノ、ウル・カーノォ!!」

 連続した爆発にかなわぬとクロムウェルは身を翻して逃げ出す。メアリーは相変わらず不気味に佇んでいるだけで、顔面や体に爆発を受けてようやく才人を介抱した。
 アニエスが炎を剣に纏わせメアリーに殺到する。湧き出た触手が彼女を捕らえんと蠢いても気合の声とともに斬り払い、一歩一歩近づいていく。そうして彼女に触手が集中した瞬間を狙い、ギトーが疾風のごとき素早さで才人を奪い返し距離をとった。それを間近にいた銃士隊隊員に渡し、再び彼女に立ち向かう。

「闇に触れれば正気を犯されます。ギトー殿はサイトを王宮へ!」
「む、しかし私も戦わねば」
「急いで!」
「わ、わかった!」
「銃士隊はギトー殿とサイトの護衛だ、いけ!」

 格闘に特化しすぎて遠距離はあまり強くないギトーとまだ動ける隊員を才人たちにつけ、アニエスは再び巫女へ挑みかかる。虚無の担い手の乱行に言葉を失っていた小隊隊員たちも一斉に動きはじめた。
 威力の低いドットスペルを連発して牽制し、アニエスの通り道をつくる。彼女が退避すればその隙にライン・スペルを打ち込み着実に体力を奪っていく。彼らの魔法では決定打にならないことを知っているからこその働き、始祖の力を宿した祝福の火こそが邪神を焼き払うと信じてひたすらに魔法を放ち続ける。
 信号弾を見た他の小隊隊員も続々と戦列に加わりアニエスを援護する。ここで巫女を逃せばトリスタニアは壊滅的打撃を受ける。全員が必死だった。

「よくも、わたしのサイトをあんな目にあわせてくれたわね……」

 そこに息を整えたルイズが合流する。彼女はこれまで魔法を使ったことがほとんどない。虚無候補であることが発覚して六年、精神力をため続けることに終始してきた。
 それを今日連続して解放したのだ。身体に負担がかからないわけがない。それでも、そんなこと知ったこっちゃないと彼女は杖を振る。
 才人を呼んだのは自分だ。だから才人を護るのは自分だ。劫火のような感情をもって己が力を、『虚無』をメアリーに向ける。

 何度か爆発を浴びたメアリーが腕を振る。烈風を巻き起こすその動作をアニエスはウェールズに聞いていた。

「伏せろ!」

 無論聞いていたのは彼女だけではない。あのようなのっそりした動きに対応できないようならば、実験小隊はつとまらない。戦闘慣れした者は身を投げ出しながらも詠唱を続け、闇の鞭を撃ち落とす。ギーシュたちもカリーヌの調練のおかげで咄嗟に伏せることができた。
 しかしここには反応できない少女もいる。虚無の担い手であるルイズだ。まともに暴風をその身に受けて凄まじい勢いで宙に巻き上げられ、マリコルヌの“レビテーション”でふわふわと舞い降りる。
 その間にもメアリーの攻撃は止むことがない。小隊の援護を受けながらもアニエスは歩みを進めることができない。いかに彼女が修練に明け暮れていたとしても、無数の鞭を相手取ることなど想定していなかった。

 漆黒の帯が一人の隊員を捕らえる。彼は蒼白に顔を染め、そして息絶えた。
 ギーシュたちは自分たちが身を置いている戦場、それが想像を絶する場であることを理解した。タルブは所詮距離をとった出来事でしかない。今この瞬間こそが地獄に近いと悟ったのだ。
 幾度となく魔法を行使して精神力はもう空っぽ。それがなくともライン・スペルですら痛苦を与えられない敵に、彼らでは戦力になりえない。レイナールにいたって気絶していてむしろ足を引っ張っている。ルイズを護れとアニエスには言われたが、そんなことできそうにない。
 浮かれすぎていた。甘く見ていた。後悔ばかりが押し寄せてくる。

 彼らが己の身の程知らずさを噛み締めていようと、メアリーが顧みることはない。
 漆黒の鞭は慈悲も容赦もなく、動けずにいたギムリを狙って唸りをあげる。アニエスは間に合わない。ルイズも止めることができない。
 ギムリは最期の瞬間をぼんやりと、どこかひとごとのように眺めていた。

「ウル・カーノ・ティール! 燃えちゃえ!」
「フレイム!」

 躍り出たケティが放つ“フレイム・ボール”とキュルケの使い魔、フレイムの放った炎はギムリを狙っていた触手を撃ち落とした。
 駆け寄ったギーシュとマリコルヌがギムリの腕をつかみ、みなが奮戦している場所から大きく場所をとる。ほっと一息ついたところではっとなにかに気づく。

「きみ、ドットじゃなかったっけ?」
「昨日ラインになりました。恋する乙女は無敵ナノデス!」
「うそん!?」

 彼女の使った“フレイム・ボール”はラインスペルである。魔法学院入学当時、彼女はドットメイジであり、それ以降も変わることはなかったはずだった。
 ケティの言うところを信じるならば恋が彼女を強くしたらしい。

「モンモランシーは?」
「サイトさまについています。質問は後にしてください。わたしはサイトさまをあんなにしたロシュフォール先輩をぎったんぎったんにしてやらなくっちゃいけないので」

 そう言ってのっしのっしとケティは戦場へ向かう。その背中に恐怖は欠片もなくて、ただただマリコルヌはため息をついた。

「あいつらは半端じゃないから意気消沈するのもわかるわ。あたしもアルビオンで自信なくしちゃったし」
「……キュルケ」
「それでも立ち向かうのが良い男よ。ま、今日は精神力空っぽだろうから任せときなさい」

 そしてキュルケまでもが邪神の巫女へ立ち向かっていく。
 自分たちの情けなさを噛み締めるギーシュたちの頭上を一匹の青い風竜が翔けていく。メアリーの直上を通ったとき青と白の炎が交差しながら唸りをあげ迫る。続いて飛び降りてきたのは彼らの知る頼もしい教師と、人相の悪い男。

「やっぱ風竜は速ぇな。一匹どっかで捕まえてくるか」
「久々の共闘です。鈍ったとは言わせませんよ?」
「隊長が言えることかよ」
「今の隊長はあなたです」

 『炎蛇』のコルベールと『白炎』のメンヌヴィル。いずれ劣らぬ『火』の使い手であった。

「コルベール殿! メンヌヴィル殿! 全力でお願いします!!」
「おぅおぅ、いつもどおりおじさんでいいんだぜ?」
「いきます」

 必死に切り結ぶアニエスに軽口をたたきながらメンヌヴィルは詠唱する。

「ウル・カーノ・エオー・フェイヒュー・エオロー・ジュラ!」
「ウル・カーノ・ジエーラ・ティール・ギョーフ!」

 顕現したのは白い虎と青い蛇。炎で身体を構成されたそれがメアリーめがけて突進する。
 蛇は宙を変幻自在に泳ぎ巫女の周囲を炎に包み、虎は一歩一歩大地を融かしながら駆けて喰らいつく。二匹の獣は凄まじい高温を帯び、雨を瞬時に蒸発させて気化熱すらも無視して攻撃を繰り返す。
 後退したアニエスは呼吸を整えじっと二匹の獣を睨んだ。見つめていれば眼が焼けてしまいそうなほどの輝きをもった猛獣は相手の命を燃やし尽くせと踊り続ける。

 肉を貫く嫌な音がした。

「こいつ、周りの温度と変わりねぇだと……」

 メンヌヴィルは視力を失っている。そのことを感じさせない動きで平時は過ごしていても決定的な瞬間に判断が遅れる。腕を犠牲に頭蓋を護れたのは幸運であった。
 ずるりと青く太い舌が抜け落ちる。今まで感知できなかった悪臭が周囲に広がっていく。

「猟犬……!」

 それまで姿を見せなかったティンダロスの猟犬が虚空を舞う。蛇よりもしなやかな舌をもって、強者であるコルベールたちではなく疲労の色が強い隊員を狙い跳躍する。
 メンヌヴィルが“炎球”を詠唱する。並みのメイジでは魔法の並列使用は決してできない、一部の限界を超えた者のみがそれを可能とする。それでも一つの魔法を維持しながら詠唱を行うと言うのは極度に集中力を必要とする。
 常ならばこともなく行えた動作であっても、邪神との戦いにおいては決定的な隙であった。

「ぐっ!」
「おじさん!!」

 地獄の業火を再現したような炎から闇が伸びている。うっすらと黒い影が透けて見えている。
 メンヌヴィルの腹部を貫いた漆黒は生物のように蠢いていた。

「ここまで、か」

 ごぶりと黒い液体を吐く。きっと血液ではない。腹の内側で得体のしれぬものが暴れ回っている。

「隊長。あと、頼んだぜ」

 メンヌヴィルは口内でルーンを呟く。誰にも教えていない、誰にも知られてはいけないラスト・スペル。
 そして彼は、真実『白炎』となった。神々しさすら感じる白炎の巨漢がメアリー向けて走り出す。行き掛けの駄賃とばかり、超人的な跳躍力をもって宙高く跳んでいた猟犬の首根っこをひっつかみ、幾百の触手がその身を貫こうと意に介さず、肩から彼女にぶち当たり、この戦闘がはじまってはじめて彼女に打撃を与えた。そのまま燃え盛る両手で何発も何発も巫女を殴り、天まで届く火柱と化してなお殴り続けた。
 最期にメンヌヴィルは暗闇を裂く渦巻く白い炎となって集束し、爆ぜた。ルイズの『虚無』ですら再現できないほどの大爆発は尋常の炎ではありえぬ指向性をもっており、ルイズたちの頬には熱風が届くばかりであった。

 メンヌヴィルの生命ごと燃やし尽くした火炎は練兵場の大地を融かし、そのあとには白く輝く流動する大地があるばかりで何も残っていない。

「副長、きみは人のまま逝ったか……」

 実験小隊の任務はこの世の地獄としか言いようがないほど過酷だ。正気を保ったまま死ねるなど幸運な方で、大概は狂気に触れて消えてしまう。
 最期に人の意地を見せたメンヌヴィルは紛れもなく幸運であっただろう。

 寂しさをおぼえながらも警戒は解かない。ニューカッスルでも戦術ゴーレムすら焼き尽くす炎を浴びてメアリーは無事だったのだ。
 アニエスとコルベールは周囲の気配を探る。
 そして気づいた。ルイズの隣に、闇がある。

「あ」

 眼を見開いたアニエスの様子でルイズも気がついた。彼女はメアリーの攻撃が届かない場所にいた。だから最前線に立っていたアニエスからもコルベールからも致命的に遠い。
 遅れて小隊の面々も状況を悟る。アニエスたちよりは近く、それでもまだ絶望的に遠い。
 最も近くにいたケティとキュルケが杖を向ける。彼女たちがルーンを唱えるよりも闇がルイズを捕らえる方がずっと早い。

 間に合わない。この場にいるものでルイズの重要性をわからぬものはいない。
 彼女は現在四名しか確認されていない『虚無』の担い手なのだ。彼女が欠ければそれだけで邪神に抗する戦力は四分の一削られると言っても過言ではない。そうなればきっと勝てない。蹂躙されてハルケギニアは終わってしまう。
 だからこそ皆必死に手を伸ばす。届かないとわかっていても、一縷の望みを託して

 瞬間、雷鳴と共に稲妻が走る。あやまたずメアリーに命中したそれは数秒彼女から行動を奪う。その数秒があれば十分だった。キュルケはルイズを抱え上げ素早く後退する。
 上空から青い影が、シルフィードが舞い降りる。影は分離し、その内小さなものがメアリーの前に立ちはだかった。

 トリステインで彼を知らぬ者はいない。この場で彼を知らぬ者はいない。およそ二十年もの間マンティコア隊を率いるトリステイン最強の魔法衛士。
 『雷刃』ゼッサール。

「ド・ゼッサール殿!」
「遅ればせながら参上仕った」

 トリステインで五指に入るメイジをあげよと問えば、『閃光』『鉄槌』『氷山』『白炎』人によって様々な答えが出てくる。が、誰もが挙げる三人のメイジがいる。まず『五大』のオスマン。次に『烈風』カリン。そして最後に『雷刃』ゼッサール。
 オスマンが新魔法の創出並びに戦略級魔法による大規模破壊を可能とし、カリンが機動力をもつ戦術級魔法の行使手である。
 この二人のようにゼッサールは大規模魔法を使うことはできない。ならば何が彼をトリステインで五指に入るメイジたらしめているのか。対人戦である。
 マンティコア隊隊長に就いてからおおよそ二十年、彼が天覧試合で負けたことはない。他国との軍事演習では必ず隊長職同士の一騎打ちがあり、そこでも全戦勝利をおさめている。
 一対一の戦闘において無敗の魔法衛士、それが『雷刃』ゼッサールである。 

 襲い掛かる触手の中で後方に届きかねぬもののみを叩き落とし、残りは純粋な体裁きのみで回避していく。
 鷹の眼と鋼の精神力をもってはじめて成し得る業だった。才人と戦ったときよりもなお速く、息つく間もない応酬の中で彼はさらにルーンを唱える。

「ウォータル・イル・ウィンデ・スリサズ」

 霧が急速に立ち込め足元を濡らしていく。詠唱の完成と同時、ゼッサールは攻撃に転じる。彼の持つ杖剣は特別な素材でない。だというのに微塵の恐れも抱かず、鉄すら両断するメアリーの闇を巧みに受け流し、徐々に前進していく。
 素早い足運びで距離を詰める彼の足もとで変化があった。一度、二度光が奔る。そしてゼッサールの意志に呼応したかのように、霧の中を泳ぐ雷の蛇が一斉にメアリーへ殺到した。

 『水』の基礎に“ミスト”というスペルがある。単純に周囲を霧で覆う、それだけの魔法だ。ゼッサールはそれと“ライトニング”という指向性のない強力な雷撃を見舞魔法を組み合わせ、恐るべき効果を持つトライアングル・スペルを編み出した。この魔法こそ“ライトニング・ミスト”、詠唱こそ簡素だが非凡なセンスがなければ己を討つ諸刃の剣、ド・ゼッサールにしか使えぬ必殺魔法であった。
 霧はおよそ膝までの高さを隠し、視界になんら影響を及ぼさない。相手がとるに足らぬ魔法と侮れば愚か者の足に雷撃が喰らいつく。霧を晴らそうと『風』を使えばその隙に距離を詰められ、高い格闘技能を有するゼッサールに打倒される。
 出せば負けなし、数多のメイジが打ち破ろうと研究を重ね、ことごとく返り討ちにあったという、現状最強に近い対個人魔法であった。

 間断なく雷はメアリーを打ち続ける。無論攻撃はそれだけに留まらない。“エア・ニードル”をその杖に纏わせたゼッサールがとうとう彼女を間合いに捕らえ、素早く連撃を喰らわせる。蠢く触手の動きが鈍れば上空から遅れて現れた彼の使い魔、マンティコアが巨大な爪を見舞った。
 目撃したことのある者などほとんど存在しないド・ゼッサールの全力、偽ることなく本気の猛攻であった。

 はじめて見る圧倒的な強さにギーシュたちは希望を取り戻す。命を賭したメンヌヴィルの攻撃、最強と謳われるゼッサール圧倒的攻勢、これほどの攻撃を受けて無事ですむなどありえない。
 さらなる打撃を与えるため冷静さを取り戻したルイズは“爆発”の詠唱をはじめ、アニエスも祝福の火をその剣に宿す。生き残ったメイジも各々が使える最強の魔法を待機させる。

「退け!」

 皆がメアリーを討つべく高揚していた。だというのにゼッサールの声は切迫している。

「副長が与えたダメージが残っているはず、今こそ押すべきです!」
「違う。まるで効いていない」

 幾度刃が届こうと、幾度雷撃がその身を撃とうとメアリーの動きが鈍ることはない。
 このまま状況が推移すれば遠からず体力が尽きる。そうなればこの場にいる者だけで対処はできない。

「トレヴィルを呼べ、それまではもたせる」

 ヒポグリフ隊隊長を呼べとゼッサールは言う。口にしながらも杖と足は止まらず、彼の額には汗がにじんでいる。
 彼の要請を聞き届けたシャルロットがもう精神力のほとんど残っていない小隊隊員を二人、“ウィンド・ブレイク”でシルフィードの上に吹き飛ばし王宮へ派遣する。
 それを視界の端に捕らえていたゼッサールは一度大きく距離をとり、呟く。

「……攻め手を変えるか」

 言って、唱えるルーンは“偏在”。ゼッサールの姿が五人に増える。そして各々が役目を確認することなく、まったく同じルーンを口にした。
 元来『雷刃』の二つ名をゼッサールが授かったのはまだ若かりしころ、“ライトニング・ミスト”を生み出していない時代である。彼を『雷刃』たらしめているスペルは一つ、すなわち“ライトニング・ブレイド”である。

「イス・フル・ウィンデ・スリサズ」

 ルーン詠唱とともに杖が雷光を帯びる。先の“ライトニング・ミスト”が対人戦を考慮したものだとすれば、この“ライトニング・ブレイド”は威力のみを追求した若さの発露であった。とにかく攻撃力の高さこそ至上と信じていたころに編み出した魔法で、それゆえにゼッサールがもつ魔法の中でも抜群に強い。
 ゼッサールが疾走する。メアリーの触手が迎え撃つ。次の瞬間アニエスたちが目にしたのは雷の輝きであった。目も眩むような雷光はゼッサールの杖と闇色の鞭が接触した刹那に弾け、すぐに消える。五方向からの進撃は、あの触手の数と素早さをもってしても防ぐことができない。
 やがてメアリーに接近した偏在が杖を突き立てる。雷鳴とともに凄まじい光が周囲に溢れた。人に向ければ死は免れないほどの威力がその杖に秘められていた。
 その尋常ならざる攻撃力ですらメアリーを止めることはかなわない。放物線上の軌道を描く魔法をコルベールが放ち、それすらも効いた様子がない。

 ルイズは必死に頭を回転させる。系統魔法は効果がない。アニエスの祝福の火も打撃を与えた気配がない。虚無を帯びた爆発ですら倒すことができない。
 しかし、倒せないバケモノは存在しない。英雄譚であれ現実であれ、なんらかの手段がまだ残されているはずだ。
 一つ思い当たったのは神剣。数多のバケモノを屠ってきたデルフリンガーならば、あるいは。
 だがここに今彼はいない。その使い手たるガンダールヴも、今はいない。

 邪神もこの星にいる以上、法則に縛られるのではないか。それが新たに生まれた疑念。奇しくも元素の兄弟のジャネットが生きていたころ考察していたのと同じことを考えつく。
 ならばあの不死性は魔法に起因するもので、それを打破することができれば、もしかすると。
 一縷の望みをかけて詠唱をはじめる。

 これでムリだったら、なんてことは考えない。
 才人をひどい目にあわせたヤツをとっちめる。それだけで十分だ。
 詠唱が完成すればこの雨と雷と炎に満ちた世界は終わるだろう。他でもない自分が終わらせるのだ。

「“解除”、いきます」

 高らかに宣言する。ゼッサールが大きく後方へ跳躍する。
 光もなく、音もない。それでも周囲の人間は魔法が発動したことを悟った。祝福の子たるアニエスは場の空気が変わったことを誰よりも強く実感していた。理屈ではうまく説明できない、直感でのみ表現できる変化があったのだ。

 だがしかし、メアリーはまだそこにいる。“解除”なんて意に介した様子もなく、杳として知れぬ表情でその場に佇んでいる。
 ゼッサールが再び杖をかまえる。“解除”で“偏在”は消えてしまっても彼自身はまだ戦える。静かな闘志をみなぎらせ、飛び掛ろうとしたそのときだった。

「ふむ。ふむふむ。虚無殿は“解除”を使いましたか」

 姿を消していたクロムウェルがぬらりとメアリーの横に現れる。そのかたわらに猟犬の姿はなく、黒の一団も引き連れていなかった。

「ですがかなしいかな。聖母様にはそのような魔法、意味がないのですよ」

 いやあまったく残念だと、これっぽっちもそう思っていないことを隠そうとしない。

「それよりも『白炎』殿の最期の一撃が痛かった。ドン松五郎も泣いていましたよ。きっと明日まではこの世界に来る気が起きないでしょうね。ま、夜ももう遅いことです。今宵はこれまでとしておきましょう」

 それとこれは敢闘賞ですといって、地面にデルフリンガーを突き立てた。

「ではみなさんごきげんよう。ああ、我が神の意向でこれから先一週間近くゲルマニアをまわるつもりですので、よく眠ってください」

 睡眠不足はお肌の敵ですから、なんてのたまいながらクロムウェルは影にずぶずぶ沈んでいく。

「それとサイト殿に。こちらはいつでも受け入れるということ、お伝えください」

 それではと、シルクハットを胸に当てて一礼し、完全に姿を消した。すでにメアリーもこの場にいない。

「アニエス」
「言葉通り付近にはいません」

 邪神の気配に誰より敏感なアニエスの言葉に、みな一斉に肩の力を抜いた。
 雨はまだ降り続けている。





次章予告

 始祖は座にて名もなき少年に見せる。世界の真実を、六千年前の事件を、そして己が犯した罪を。
 平賀才人は目覚めない。かつて少女が危惧したように、ただひたすらに眠り続ける。
 舞台はリュティスへ。グラン・トロワに再び集結した虚無たち、六千年の歴史を深く知る者たちが暗躍する。
 そして昼と夜の境目、逢魔が刻に現れた漆黒の巫女は宵闇の軍勢と大司祭を従え蹂躙がはじまった。
 リュティスで最も長い夜に王と教皇は杖をとり、少女も戦う決意を秘めて闇夜に染まる街を往く。
 銀色の雨が止んだ後、群衆は暁に黒い影を見る。黄金の夜明けに吼えるのは邪神か、人間か。
 次章、Flag in the Ground









第三章終了時の後書き

 これにて第二部「始祖ブリミルに祝福を」の第三章Last Amazing Graceは終わりです。お疲れ様でした。
 本章は原作の五巻にあたる内容を、「疑心暗鬼」というテーマを添えてかなり脱線しつつお送りしました。第一部のアイドルドン松五郎も大活躍しましたね。
 次章はリュティス編、もう原作なんて知ったこっちゃねえってところに来てしまいました。ジョゼフやシェフィ、教皇にジュリオやビダーシャルが出てきます。あとある意味元凶ともいえる二人、ブリミルさんと名無しの少年も話にからんできます。
 さて、第二章で超絶エグいと書きましたが、どうだったでしょうか。あまりにやりすぎると才人がどうがんばっても立ち直れなくあるので大分加減しました。こんなのへっちゃらだぜという人も多いかと思います。
 初期プロットでは警官のかわりに呼ばれるのは才人の両親、しかもアニエスが直接手にかける。加えてマザリーニコルベールジェシカゼッサールカリーヌあたりも死んでました。もうトリステイン全滅レベルです。それに比べればかなりマイルドかと。
 作中でニャル様が異星送りにしたのはラヴクラフト御大の短編「ナイアルラトホテップ」の描写を見て考えた妄想能力です。まあこれくらいできてもおかしくないよ、だってニャル様だもの。
 またジョン・フェルトンには強い父親を演じてもらいましたが、ポワチエは逆にダメ親父です。敵討ちの矛先を間違えて、それすらもハルケギニアのためという正当化を前に出さないとできない、なんとも中間管理職の悲哀を感じるキャラでした。
 あとケティ。恋する乙女なんて自称してるけど彼女は狂信者です。ぶっちゃけクロムウェルの対抗馬です。最終的にスクウェアまでいきます。ウソかもしれません。
 いよいよ物語も核心に近づきます。のんびりだんらりお待ちください。
 最後に、どんな些細な感想でもいただければ励みになります。「面白かった」「つまらん」「鬱になった」「ケティが狂信者すぎる」「次回に期待」「才人がんばれ」などどんな簡素なことでもお気軽にお書きください。
 ではまた第四章でお会いしましょう。



[29710] Recall of Valkyrie
Name: 義雄◆285086aa ID:ec65c40e
Date: 2012/06/13 23:16
ニューイの月四日

 久しぶりに日記をつけることにする。
 長い長い一夜が明けた。まだ分厚い雲が空を覆っていて日中も薄暗い。常の色彩あふれるトリスタニアはどこかにいってしまったようだ。
 昨夜の事変はまだまだわからないことが多い。
 ゴンドラン評議会議長がいつクロムウェルになってしまったのか。ポワチエ将軍の乱心の原因はなんだったのか。どうすれば巫女に打撃を与えることができるのか。
 前二つはわたし以外の誰かができることだろう。けれど最後の一つはわたしにしかできないことだ。姫さまに言って王宮の図書室で資料を漁る。収穫はなかった。
 雨はやまない。サイトは目覚めない。

ニューイの月五日
 昼過ぎ、ウェールズ殿下がアルビオンから戻ってこられた。
 一昨日のできごとを書いた手紙を読んで、返事を書くこともなく引き継ぎを終わらせてすぐさま飛んでこられたそうだ。サイトのお見舞いにもいらっしゃった。
 ミスタ・ウエイトの最期を家族に伝えるため、同じくサイトの見舞いに来ていたギーシュたちに話を聞かれていた。
 ポワチエ将軍付きの参謀だったミスタ・ウィンプフェンも様子を見に来る。自分がもっと早く気付けば、止められていたらとひどく後悔していた。悔やんでいるのはわたしも同じだ。
 彼の推測したポワチエ将軍の動機は、わたしにはとても許すことができそうにない。よそう、相手は死人だ。文句を言っても答えてくれない。空しくなるだけだ。
 クロムウェルが言った通り、ゲルマニアの地方都市に巫女が現れたそうだ。しかしタルブで見せたような邪神の圧倒的な破壊力を見せることなく、数十人の平民の正気を刈り取っていった
 雨はやんだ。サイトは目覚めない。

ニューイの月六日
 サイトが魅惑の妖精亭という酒場で懇意にしていた娘、ジェシカが目を覚ます。怪我がひどく、治療が遅れたため半年近く手足にしびれが残るそうだ。
 この子は父親を亡くして、しかも帰る家までポワチエ将軍に燃やされている。タルブで畑仕事でもして暮らすと言っていたけれど、あそこはまだ立ち入り制限が解かれていない。
 いつまで続くかわからないこの戦いが終わって、虚無の力を別に割いても問題なくなって“解除”をやってからのことになるだろう。親族は王都から馬でも三日以上かかるほど遠く離れたグランドプレ領に避難している。あの体では着くまですごく苦労するだろう。
 ここで見捨てるのも人情のない話だと思うので、わたし付きのメイドになってもらうことにする。とりあえずメイド長に言って教育を行わせる。シエスタも教育係に抜擢、これで問題ないはず。
 平民に対してここまでするのはほぼありえないことだけど、彼女にはサイトが世話になっている。周りに女性が増えすぎるのはよくないけれど、サイトも喜ぶはずだしガマンする。
 久しぶりの快晴。サイトは目覚めない。

ニューイの月七日
 サイトを召喚してから二ヶ月がたつ。本当に色々なことがあった。それは彼がもたらしたのではなくて、時代の流れと言うべきか、エルフ風に言うなら大いなる意志の導きと言うべきか、そういったものだ。
 その潮流に抗うためわたしたち虚無の担い手がいるというのに、わたし一人の身ではないというのに、あの夜いたずらに精神力を消費してしまった。
 なんでかはわからない。あのとき、サイトが巫女に囚われているのを見て、今までに感じたことがなかったほど頭に血が上った。自分でもあの感情のうねりがわからない。
 さておき、トリステイン一の名医、ウィレット医師によるとサイトのけがはもう完治しているらしい。長年医者として働いてきて、出会ったことがないほどサイトの回復力は凄まじいと言っていた。
 目覚めないのは精神の面で問題があると断言される。
 思い出したのはギーシュとの決闘のことだ。あのとき彼は丸三日目を覚まさなかった。心が拒否すれば戻ってこないこともありうると、あのときも思った。
 今度はもう四日になる。今度こそそうなのかもしれない。サイトが悪いわけじゃないのに、ポワチエ将軍に陥れられて、同郷の者をはじめミスタ・ウエイトやスカロンという行きつけの店の店長まで殺されて、絶望してしまっているのかもしれない。
 水の秘薬で栄養を補給させているけれど、はやく目を覚ましてほしい。
 はやく、目を覚ましてよ……。





―――Recall of Valkyrie―――





 ウエイトが殺され、スカロンが死に、ポワチエが啜り取られ、リッシュモンが託し、メンヌヴィルが命を燃やし尽くした夜から五日がたっていた。
 空には太陽が戻っていたが、街の様子は変わらず暗い。それが何に由来するものか、平民は知らずにただただ重い空気を甘受したまま日々を過ごし、貴族は語れぬ重圧を背負いながら対応に奔走する。事情を知らぬ商人などは両者の纏う雰囲気の差を如実に感じ取りながらもその溝を埋めることはない。
 かみあわない歯車のような、ぎくしゃくとした空気が王都に蔓延していた。
 ルイズは相変わらず王宮付き図書室、日によっては魔法学院のフェニアのライブラリーを訪れては本を読み漁り、収穫のないまま一日を終える。本音を言えばルイズはずっと才人についていたかった。しかし状況はそれを許さない。巫女を打破する手段が得られなければ世界は闇に閉ざされる。彼女の愛する家族も、トリステインも、ハルケギニアまでもが終わってしまう。
 だからこそ彼女は才人についていたいという感情を押し殺して古書を調べつくす。巫女を打倒する手段は見つからない。そうして一日、また一日と時間が過ぎていき、焦りだけが募っていく。
 ルイズが、アンリエッタが、ウェールズが邪神を打破するための手掛かりを探している間にも、クロムウェルが宣言した通りゲルマニアの地方都市にメアリーは現れ、なにもしないまま去っていく。彼女が訪れた都市はアルビオンと違って破滅を迎えることなく、されど見たものを狂気に誘い去っていく。一つ、異なる点があるとするなら彼女の現れた場所は海抜高度が下がっていることが判明している。地中深くに眠る風石を吸い上げている証左であった。
 トリステインもレコン・キスタの一員としてグラモン元帥率いる兵力をゲルマニア派遣したものの、出現予測がつかない上現れるのは夜の間だけという索敵不可能な相手の対処など、できるはずもなかった。

 図書館にこもるルイズの下に、アンリエッタからの使いがきたのはそんなときのことであった。
 ミシェルという銃士隊副隊長の案内に従い彼女の執務室に向かう。そこにはティファニア、アンリエッタ、ウェールズ、マザリーニと虚無に携わる者たちが集っていた。

「ルイズ、教皇聖下から招集要請が来ています」
「教皇聖下から? この時期にですか?」
「ええ、なんでも虚無を一堂に会して検討する事案があると。詳しくは行動が活発化してきた巫女による奪取を懸念して書いてありませんが」

 ヴィットーリオからの書状を手渡され、ルイズはざっと目を通す。確かに彼の筆跡、封蝋の印璽も間違いはない。内容はというと、アンリエッタが述べた通りリュティスにすべての虚無とその使い魔を集結させたいと書いてあった。すでに聖堂騎士団を派遣しているとあるので防衛に関しては数日ほどの時間稼ぎは可能だろうと。
 疑問に感じるのは、なぜこのタイミングなのかということ。
 メアリーがトリスタニアに現れ、今なおゲルマニアの各地に出没している状況でリュティスに戦力を集結させる意味がわからない。数少ない邪神に対抗できる戦力を他国へ放出させたがる国はない。そのことがわからぬ教皇でもないのに、聖堂騎士団に護衛させた使者を各国に派遣して知らせるという手段をとらぬ理由がわからない。
 クロムウェルが一週間ほどゲルマニアにいくという、今のところは真実であった言葉を信じているのだろうかと思い、ルイズは首を振った。
 ブリミル教の総本山、そのトップであるヴィットーリオがそんな楽観主義であるはずがない。

「……教皇聖下の意図が読めないな」
「ウェールズ殿下もそう思われますか」

 アルビオンから急遽舞い戻ってきたウェールズも腕組みしながら考えている。

「この手紙はヒラガ殿が負傷したという報告の返事としてきたはずだ。つまり聖下はガンダールヴの負傷を知っている。なのにリュティスへ連れて来いと言っている。あるいは一気にカタをつけるため戦力の集中運営を狙っているのかもしれないが、それもまた考えにくい」
「サイトを確実に回復させる手段を保持しているのかもしれません」
「これは直感なのだが、どうにもそういう気がしない。そうであるなら文面でにおわせる程度やってのけるはずだ」

 アニエスの指摘にもウェールズは渋い顔のまま、その空気はみなが共有しているのかアンリエッタもマザリーニも首を傾げている。
 ウェールズは自ら“ディテクト・マジック”をかけて確認する。

「直筆、インクもロマリアが使っているもので間違いないか」
「偽書でないことも確認できています。意図はわからずとも乗るしかありませんな」

 疑問に思うことは多々あれど教皇の招集を無視することはできない。
 ロマリアの要請によって圧力がかかるというのもあるが、ブリミルの弟子フォルサテの興した国は他国の知らぬ情報も多数抱えているのだ。中には今ルイズたちが求めてやまない邪神を倒す手段があるのかもしれない。

 その可能性に一縷の望みをかけ、眠ったままの才人を連れてルイズたちは竜篭で魔法大国ガリア、その王都リュティスに向かう。

 グラン・トロワの一室、これまで数々の会議を執り行ってきたであろう会議室でルイズたちを迎えたのはジョゼフ王ではなく、教皇その人であった。傍らにはヴィンダールヴたるジュリオ・チェザーレを控え、薄い笑みをたたえている。真意は笑みに隠れ幼いルイズや経験浅いアンリエッタたちに見透かすことはできない。
 いや、とルイズは頭を振った。同じ人を、虚無の担い手を疑うことなどあってはならない。人類が一丸となって協力しないとこの事態は打破できないのだとわかっている。
 それでも、心の隅でかすかに湧き起こる不信感。それはポワチエの遺した毒針だった。
 才人はハルケギニアのためにがんばってきた。鍛えて、全力で戦って、なのに手酷く裏切られた。そのことがじわりと影をさしている。

「ジョゼフ王は少し席を外しています。アルブレヒト殿は今国を離れることはできないとのことで」

 彼女の内心を知ってか知らずか、主のいない部屋の椅子を教皇は勧める。ちりりんとベルを鳴らしてメイドを呼んで、人数分の紅茶を淹れさせた。
 今この場にいるのは六名。ヴィットーリオ・セレヴァレ、ジュリオ・チェザーレ、ルイズ・フランソワーズ、アンリエッタ・ド・トリステイン、ウェールズ・テューダー、ティファニア・モード。
 各国の虚無と支配者がここに集結していた。万一この場が襲われ、全員が命を失うようなことがあればハルケギニアに先はない。同時に、ここにいる者たちは邪神に抗する最強戦力でもあった。

「さて、この場を設けたのは他でもありません。今後の対邪神戦略についてです」

 そしてヴィットーリオは朗々と語りだす。エルフとの協力体制、兵糧の輸送ルート、各国の軍隊の集結場所、戦役が終わるまでの国境の事実上撤廃。
 確かに重要な内容だ。そのことはルイズにも、他の誰にもわかっていることだろう。
 だがそれだけだ。
 邪神を討つ決定的な情報が与えられたわけではなく、また才人を目覚めさせる手段を述べるでもない。手紙でことたりる情報をヴィットーリオは喋っている。そのことがどうしようもなく不信感を書きたてる。
 思わず椅子の肘掛を撫でて、ルイズは飛び上がった。

「いたっ!」

 ささくれがあった。さして深い傷ではないが、ぷっくりと血滴が指にできている。その様子を見ていた教皇はすぐにメイドを呼んでルイズの手当てをさせた。
 多少大げさだとは思ったけれど好意を無碍にはできない。メイドはルイズの血をハンカチで拭い、“ヒーリング”をかけて退室する。
 ふと、ルイズは疑問に思うことがあった。

――なんで、ささくれなんてあったのかしら。

 グラン・トロワの調度品はすべてが最高級品で、その手入れは熟練の使用人たちが毎日行っている。本来ささくれなどあるはずもないのだ。

「話を続けてもよろしいですか?」
「はい、お願いします」

 しかしその疑問も再び喋りはじめたヴィットーリオの話を聞こうと集中し、忘れ去ってしまう。
 この会議にて、ガリア王ジョゼフは姿を見せず、教皇はついにはルイズが期待していたことに触れず話を終わらせてしまった。



「なんでぼくたちここにいるんだろ……」
「さぁ……」

 ところかわってプチ・トロワの一室、身を縮こませた場違いな集団が待たされていた。
 窓からはさんさんと陽光がさし、そよ風が真っ白なカーテンを揺らしている。だというのに部屋の空気はぎこちない。みながみなカチコチに固まっていた。

「なんだか胃が痛いような気がする……」
「耐えろレイナール、ハゲるぞ」
「ぼくはハゲない!」

 そのとき樫の扉を叩く音が部屋に響く。全員がびくんと肩を震わせて、それからギーシュが恐る恐る入室を促す。
 台車を押して入ってきたのはメイドだった。手際よくティーセットを並べ、一礼してまた退室していく。
 ただのメイド相手なのに息を止めていた四人は一斉に大きく息を吐いた。

「な、なにビビってるんだよギーシュ」
「マリコルヌだってカチコチに固まってたじゃないか!」
「まったく、二人とも落ち着きがないね」
「いや、お前が一番緊張してたぞレイナ―ル」

 思い思いにやいのやいの言い合って、ようやく顔を見あわせて笑った。

「いくらプチ・トロワだとて恐れることはないんだ!」
「思いっきり恐れてるぞギーシュ」

 ぐっと握りこぶしをつくったものの、ギーシュはいまいち顔色が優れていない。それはギーシュだけではなく、ツッコミをいれたマリコルヌも、他の二人もどこか青白い顔で笑っている。
 なんたって今、彼らはプチ・トロワにいるのだ。プチ・トロワと言えばハルケギニア最強の大国、ガリアの王都にある宮殿である。王女イザベラがおわし、またガリアの来賓を迎える建物で、そんな格式高いところにみな訪れた経験がなかったのだ。

「だ、だってちょっと前にはじめてトリスタニアの王宮行ったばっかりだよ!? それが一足とびにプチ・トロワなんてありえないじゃないか!」
「ありえなくても今ぼくらはここにいるんだよ」

 まだ彼らは学生に過ぎない。王宮にあがる機会なんて滅多になくて、この中ではギーシュが唯一訪れたことがあるのだ。それも新設近衛隊の仮任命証を受け取ってすぐに帰ったので空気を味わうどころではなかった。
 ギーシュが一人テンパっているおかげで他の三人は幾分冷静さを取り戻すことができた。

「トリステイン貴族でもプチ・トロワに泊まった人なんてほとんどいないぞ」
「魔法学院で自慢できるな」

 へへっとレイナールとギムリが笑いあう。
 そして大きくため息をついた。

「なんでこんなところにいるのか全然わからん」

 ギムリの言葉にギーシュとマリコルヌの二人はうんうんうなずいた。

「それはぼくたちサイト直属部隊だし」
「だからといってこんなところにまで」
「それに成果もあげてない。肝心のサイトは眠ったままだぜ?」

 レイナールの言い訳じみた言葉に、マリコルヌとギムリが現実的な意見を返す。ギーシュはというと、一人むっつり黙ったままだった。

「考えてもみろよ。俺たちが今までなにをやったかっていうと、サイトと一緒に夜回りしただけだ。巫女に手傷を負わせたわけでも、身体を張ってサイトを護ったわけでもない」
「肝心なときにぼくらは動けなかった……」

 雨の日、炎の夜、彼らは闇を直視した。
 想像していたよりもずっと闇は深く、おぞましく。人間は信じていたよりもはるかに愚かで、どうしようもなく。成長していたと思っていた自分たちは、無力だった。
 彼らの思いはまだあの夜に囚われている。
 もしあのときウエイトと別れていなければ。もしもう少しはやく魅惑の妖精亭についていれば。もし、才人がポワチエに連れて行かれるのを止めていれば。
 考えても仕方のないことだとは分かっていても、どうしても考えてしまう。自分たちにもっと力があれば、と。

「俺がアンリエッタ殿下かウェールズ殿下、それかマザリーニ枢機卿の立場なら間違いなくクビにしてるな」
「クビにしてなくてもここまで連れてくる必要がまるでないよ。ミスタ・コルベールが一人いればぼくら四人よりもよっぽど役に立つ」
「だろうね。あの夜ぼくらはなにもできなかった」

 ギムリの考えにレイナールも賛同した。楽天的なマリコルヌですら自嘲気味に笑う。

「ぼくらがリュティスに呼ばれたのは、なんでだろうな」

 ぽつりと、ギーシュがこぼした言葉に答えなんて出るはずもなかった。
 紅茶に口をつけると、かすかにマスカット・フレーバーが残る。実家でも魔法学院でも味わったことのないほど上物の紅茶は、だけどなぜか味気なかった。

 部屋に再びノック音がこだまする。
 またメイドかと思い、先ほどよりも気楽に入室を促すと、入ってきたのは意外な人物だった。

「くつろいでいるか」
「アニエス隊長」

 銃士隊隊長のアニエス、彼女は祝福の子として、またアンリエッタの護衛としてリュティスを訪れていた。
 護衛の仕事があるのにここにいていいのだろうかと、みんな不思議そうに彼女を見ている。
 ギーシュたちの視線に気づいたアニエスは肩をすくめて言った。

「仕事がないんだ。護衛のためと出しゃばっては向こうの面子を潰すことになる」

 嘘だった。アニエスはあの夜以来元気のない一団の様子を見に来たのだ。アンリエッタたちの護衛はウェールズの親衛隊がついている。
 しかしギーシュたちがそんな嘘を見抜けるはずもなく、どっしり腰をすえたアニエスをぼんやり眺めている。
 彼女はベルでメイドを呼んで紅茶と、自分好みの茶菓子を頼む。ギーシュたちとは違ってプチ・トロワの空気に呑まれた素振りは一切ない。

「その、緊張しないんですか?」
「なにをだ?」

 レイナールが思わず問いかけても、アニエスはむしろそれが不思議だと言わんばかりの表情だ。
 アニエス・コルベールがエルフの国、ネフテスに留学していたことを知る人物は少ない。首都アディールにて彼女は度々パーティーなどに誘われ、それですっかり耐性を得てしまっているのだ。さらに、それでなくとも彼女は幼少のころプチ・トロワに週一で通っていたことがあった。
 そんなこともつゆ知らず、やはりアンリエッタ殿下が隊長職に抜擢した人物は豪胆だとみな感心するばかりであった。

 ぽつと、レイナールがアニエスに話しかける。

「祝福、とはなんですか?」
「文字通りだ。ハルケギニアには四人、祝福の子がいる。始祖ブリミルの祝福を宿した子どもは、それぞれ四系統の力を増幅させ、また集束することができる」

 見せたほうが早いだろうと、アニエスは人差し指をあげてみせる。
 詠唱もなにもなく、ギーシュたちが見ている前で火がついた。

「詠唱なしで……」
「ああ、祝福の力に詠唱は必要ない。その身がメイジである必要もない。この場でお前たちが『火』の魔法を使えば威力や精度は上がっているはずだ」

 そして、さらりととんでもないことを言ってのける。

「威力、精度の向上……どんなマジックアイテムにもできないことを」
「無詠唱の魔法なんて先住にも無理だ」
「そういいことばかりではない。ほら」

 言ってアニエスは躊躇なくレイナールの頬に燃える指を押しつける。

「あつっ!?」
「本当か?」
「え……あ、熱くない」

 反射的に叫んだレイナールだが、その実感じるのはアニエスの指先の感触だけだった。
 不思議そうに肌をさすってみても火傷の跡は見つからない。

「人には一切効果がない。エルフの反射も通過する、系統魔法や精霊魔法とはまた違ったものなんだ。『虚無』以上に対邪神特化した力だよ」

 やれやれと肩をすくめて言う。エルフの友人にも教えたこの仕種は彼女の癖みたいなものだった。

「ロマリアに『土』、ガリアに『水』がいる。いずれも攻撃に類する魔法を増幅するだけ、使いにくいことこの上ない」
「各国の象徴とは違うんですね」
「どこかで入り混じってしまったらしい。『風』は不明だ。おそらくアルビオンだろうが……」

 と、ここでメイドがやってきたため話を中断した。メイドは新たなティーセットを二つ、たっぷりのお茶菓子とともに配膳する。
 彼女たちが去ってもアニエスは口を閉ざしたまま、どうやらこれ以上祝福について話す気はないようだ。
 ギーシュはずっと思っていたこと、自分たちだけでは結論の出ない疑問を投げかける。

「アニエス隊長、ぼくたちは何故ここに呼ばれたんですか?」

 メイドが新たに入れた紅茶を口にして、ティーカップを置いてからアニエスは答えた。

「知らん」

 あまり期待はしていなかったけれど、それでも少しがっくりきた。
 ギーシュの様子を気にもせずアニエスは話を続ける。

「お前たちがここにいるのはウェールズ殿下のお考えだ。アンリエッタ殿下はむしろ反対していたくらいだからな」

 戦力にもならない若者を連れて行くのはまったくの無駄である。それよりも彼らには生き延びた経験を生かして次代の中核をなすべきだと、そうアンリエッタは主張した。
 しかし、ウェールズは考えの読めない表情でギーシュたちの同行を推した。

「なんで殿下はぼくらを」
「知らん。私に聞かないでくれ」

 素っ気なくアニエスは返す。好物のアップルパイを口にしてご満悦気味の顔で、お前たちの苦悩なんて知ったこっちゃないという風な顔をしているようにギーシュたちには見えた。
 空腹だったのかそのままアニエスはもっきゅもっきゅとアップルパイを頬張っている。とても姫殿下直属部隊の隊長には見えなかった。
 やがて食べ終わると紅茶を一口、そしてギーシュたちに向き直った。

「ただ言えるのは、ウェールズ殿下はお前たちになにか期待している」
「期待?」
「それだけは間違いない。でなければ竜篭に魔法衛士隊やビーフィーターの小隊を乗せてきたほうがよっぽど戦力になる」

 彼女の言うことはもっともだ。彼らは戦力として数えるにはあまりにも心もとない。

「ま、自分たちのできることをすることだ。殿下もドット四人に戦いを期待しているわけではないだろう」
「自分たちのできること……」
「ちなみに、父はリュティス魔法学院の図書館の使用許可を得て本を読み漁っている。少しでも手がかりがないかと探っているようだ」

 アニエスはパチンとウィンクして見せた。お堅い年上が見せた思わぬ茶目っ気にレイナールの胸が高鳴る。
 後押しされればあとは進むだけだ。みな一斉に立ち上がる。

「ぼくはサイトの様子を見てくる」
「ぼくも、ひょっとしたら起きてるかもしれないしな」

 うなずきあうギーシュとマリコルヌ。

「ミスタ・コルベールを手伝ってくる」
「俺も行こう。本の出し入れくらい手伝えるだろ」

 レイナールとギムリもまた新たな目標を見出し、みな部屋から出て行った。
 残されたアニエスは一人ソファーに深く背をあずけ、背後に声をかけた。

「イザベラ殿下、良いご趣味をお持ちのようで」
「プチ・トロワを移動するのにあんたの許可がいるのかい? それに王女相手になんて口のきき方だ」
「同じ祝福の子相手、遠慮は無用でしょう」

 イザベラはにやりと底意地の悪い笑みを浮かべる。対するアニエスはまたしても肩をすくめるだけ。

「ま、平民出身のあんたに礼儀作法を期待するほうが無理ってものか。なんだいその男みたいな髪型は」
「カーテンの影で盗み聞きをするなんて、まったく子どもじみていますな。おっと、体型も子どもっぽかったか。これは失礼」

 プチ・トロワには非常時のため隠し通路がいくつも存在している。イザベラはその内ひとつを利用してギーシュたちの様子をうかがっていたのだ。
 イザベラは蔑むように、アニエスはマザリーニの真似をして、お互いの欠点をあげつらう。
 軽口の応酬は両者の信頼の証であった。二人とも額に青筋はしらせて、ちっとも怒った様子がない。

「それにしてもあっついねぇ。どっかの嫁ぎ遅れが年下いびってたし、そのせいかもしれないね」
「いや、いい天気だ。大平原に昇る太陽が眩しい……おっと、殿下のデコでした。失敬失敬」

 ぐぬぬと悔しげな表情になって、二人同時にため息をついた。

「やめだやめ。あんた本当に不敬罪で首跳ねちまうよ」
「対邪神の戦力を削れるならどうぞ。ところでジュリオは?」
「さあ? また魚のフンよろしく引っついてるんじゃないかい?」

 アニエスの前にぼすんと腰を下ろし、イザベラはパイプを取り出す。

「火」
「つきません」
「つっかえないねぇ」
「お互い様でしょう」

 悪態をつきながらイザベラはパイプをしまう。ただアニエスに対するあてつけのために出したようだ。
 常の王女らしい物言いがすっかり鳴りを潜めたイザベラは、アニエスと長年の付き合いがあった。彼女が祝福の子であると発覚した際、誰よりも早くその存在が知られていたアニエスが教育係として週に一回プチ・トロワに通っていたのだ。
 腐っていたイザベラは、それはもうアニエスに厳しくあたった。しかし元平民で、養父となったコルベールも厳格な貴族ではなかったので王族の貴さなんて知ったことじゃなかったアニエスはやり返した。それはもうド派手にやりかえした。
 その結果、夕焼けの川岸で殴りあった若者のように二人は理解しあった。こいつとは友人になれないということを理解した。
 傍目には仲良しにしか見えなくとも、本人たちはそう思い込んでいた。

「で、どうだい」
「どうとは?」
「ガンダールヴだよ。サイト、って言ったか。あのガキ起きそうなのかい?」
「なんとも、言えません」

 アニエスの言うとおり、才人の容体はなんとも言えないものであった。
 身体の傷は完治している。それでも目を覚まさない。心の問題であると診断され、トリステインの誇る幾人もの水メイジに診せたが、回復することはなかった。
 まるで本人が目を覚ますことを拒絶しているようだと、口をそろえてそう言われた。

「そう。あいつには少し期待してたんだけどね」

 さして残念でもなさそうに、さっき来たメイドが置いていったティーカップに口をつける。

「しかし、珍しいですね。殿下が平民の名を覚えるなど」
「そうかい? まあ、そうだね」
「惚れました?」
「まさか」

 鼻で笑ったイザベラはずいと身を乗り出す。

「わたしを惚れさせたかったらイーヴァルディみたいに劇的に救ってみせることだね」
「……はぁ、相変わらず夢見がちですね」
「あの子がうつっちまったんだよ」
「そうやっていると婚期を逃しますよ」
「あんたみたいに?」

 瞬間、アニエスはものすごい顔になった。怒りと情けなさと後悔と哀しみをごちゃまぜにしたような表情は、イザベラのツボにはいった。
 睨みつけられるのもかまわず、心底楽しそうにけらけら笑い飛ばす。

「邪神をぶちのめしたら結婚します。そしてパン屋を開きます」
「祝福の子で銃士隊隊長が? ムリムリ、アンが手放すはずないわ。あんた一生独身だよ」
「そ、そんなことないもん! 殿下もわかってくれるしお父さんもアニエスは良いお嫁さんになれるって」
「これだからファザコンは」

 やれやれとアニエスがよくやるようにイザベラは肩をすくめた。
 色々と打ちのめされたようで、アニエスはどんより落ち込んでいた。

「……それで、殿下は嫁ぎ遅れをいぢめに来たんですか?」
「違うよ。そんな暇じゃないんだ。あんたの顔を見に来たっていうのと、タルブとトリスタニアの詳細を聞きにね」

 その言葉とともに、イザベラはがらりと雰囲気を変えた。それまでの悪戯っぽい笑みは消え、大国ガリアの王女の顔になっていた。
 アニエスも顔を引き締める。旧交を温める時間は終わり、ここからは先行き見えない絶望的な戦争の話がはじまる。

 イザベラとアニエスが星をめぐるお話をしている頃、ギーシュとマリコルヌは才人の部屋を訪ねていた。
 礼儀としてドアベルを叩く。返ってきたのは意外なことに男性の声だった。

「……ミスタ・ギトー?」
「諸君も来ていたか」

 才人のベッドサイド、部屋を動きまわっていたのは黒髪の陰気な教師だった。『疾風』のギトー、魔法学院で一、二を争う強さを誇る殴りあい風メイジである。
 思わずドアノブを握ったまま立ち止まってしまう。それくらい、彼がここにいるのは意外なことだったからだ。

「なぜここに?」
「……私が知るものか」

 ギーシュたちと同じく、彼もなぜここにいるのかわかっていないようだった。
 あたかもここにいるのが本意ではないと言う風に不満げな顔をしている。

「私が家でくつろいでいるとド・ゼッサール殿がやってきてな。とにかく来いと言う話だったのでついていってみれば竜篭に突っ込まれて気づけばここだ」
「それはまた……」

 意味が解らない展開だ。
 彼らは知る由もなかったことであるが、マザリーニによってギトーは騎士隊の一員として頭数にいれられていた。ゼッサールはその指示通りに動いただけなのだ。

「もっと風通しを考えるべきだ。こんな部屋にいては治る怪我も治らん」

 窓を開いたり部屋の調度品を勝手に動かしたり、ギトーはやりたい放題やっている。
 ぶつくさと呟きながらやっているのは、よく考えてみれば今も眠り続ける才人のためであって、なんだかんだでこの教師は良い人なのだろうとギーシュたちは微妙な気持ちになった。
 そのとき、さらに見知った人物が入ってくる。

「あら、ギーシュ?」
「先輩がたもいらしてたんですか」
「え、いや……なんできみたちがいるのさ?」

 マリコルヌの疑問ももっともだ。この場には全然関係ないと思われる女性二名、くるくる金髪ロールのモンモランシーと栗毛のケティが部屋に入ってきたのだ。
 清潔なタオルや洗面器をもって、いかにも看病をするというスタイルだった。魔法学院の制服に、ケティは白いエプロンまでつけてやる気に満ちあふれている。

「そりゃサイトさまのいるところにケティ・ド・ラ・ロッタありですから」

 胸をはって、ふんすと自慢げな顔でケティは腰に手を当てている。
 非常に堂々としているけれど、まるで答えになっていない。ギーシュはモンモランシーに視線をやる。彼女はまったく正反対に、どんよりした顔だった。

「気づいたら、ここにいたの……」

 声には苦労がにじみ出ていた。
 彼女はこの日、トリスタニアの屋敷を離れて実家に戻るつもりだった。だというのに目覚めてみればプチ・トロワ。しかも傍らには悪気のない笑顔で後輩が笑っていた。

「わたし『水』苦手ですから。それに気心知れたモンモランシー先輩なら色々と安心ですし」

 ちゃんとご家族には話してあるので安心してくださいと、全然これっぽっちも安心できる要素のないことをケティが言う。
 彼女はすっかり変わってしまった。それが邪神のせいなのか、それとも友人平賀才人のせいなのか。あるいは両方なのかもしれない。

「さて、妖精亭では失敗したけど今のサイトさまには意識がない……」

――ああ、どっちかっていうと邪神のせいっぽい。

 才人ににじり寄るケティの表情は邪まそのもので、なぜかかかげられた両手はわきわきと昆虫めいた動きをしている。
 十人いれば十人が「彼女の属性は邪悪です」と答えてくれそうなほど、今の彼女はアレだった。

「け、ケティ? 冗談だよね?」
「当然です」

 ギトーですら口をはさめない雰囲気に、見かねたギーシュが声をかける。
 するとあっさりケティは表情を常のものに戻して、タオルをしぼって才人の額に当てた。そうしている顔は慈愛に満ちていて、けれどさっきの笑みが印象的過ぎてうさんくさく思えてしまう。

「それにはじめてはやっぱりサイトさまから……」

 いやんいやんと身体をくねりはじめたケティは放置しよう、そうしよう。
 無言で意思を統一させた四人はやることがないことに気づいた。しかしここで部屋をでるのもはばかられる。そんなことをしてしまってはケティがどう動くかわからない。場合によってはルイズやラ・ロッタ子爵が激怒する結果になってしまうだろう。
 どうしようどうしようと悩んでいると、またもやノックの音が飛び込んでくる。
 そっと開いた扉から顔をのぞかせたのは、これまた意外な人物だった。

「キュルケ?」
「あら……サイトはまだ寝てるかしら」

 褐色肌の陽気なゲルマニア女性、キュルケが開いたドアの隙間から部屋の様子をうかがっている。
 いつもならすぱーんとドアを開いて堂々と歩いてくるはずなのに、彼女はなぜかきょろきょろ落ち着きがない。着崩している制服だって今はきっちりボタンをとめていて窮屈そうだ。

「早くはいって」
「ギーシュたちがいるけど、いいの?」
「いい。彼らは騎士隊だから」

 そんなキュルケをぐいぐい押しやって現れたのは青髪の小さな女の子、タバサである。普段通りのメガネに魔法学院の制服。いつも通りすぎる姿だった。
 そして彼女の後ろにもう一つ影がくっついている。同じ青髪、同じ体型、同じ顔立ち。二人並べばそっくりで、彼女がドレスを纏っていることとメガネをかけていないことしか違いがマリコルヌにはわからなかった。

「……あれ、きみの妹?」
「紹介する。双子のジョゼット」
「は、はじめまして」

 なんて、はにかみながらぎこちなく微笑む。
 タバサという少女と同じ顔で、彼女がしないような表情をつくった少女を、みな不思議そうに見つめていた。

「私は魔法学院の教師、『疾風』のギトーだ。きみの姉上は成績優秀で教師としても鼻が高い」
「ひっ……す、すみません! いつもシャルロットがお世話になっています!」

 先陣を切ったのは人生経験豊富なギトーだった。学院では滅多にしない微笑を浮かべ、彼女に一歩近づく。
 しかし、ギトーは控えめにいっても不気味な顔をしている。一瞬ひるんだ少女は、失礼だと思ったのかぺこぺこ頭を下げて、若干涙目である。
 ぐっとギトーはのけぞり、しかし何事もなかったかのように数歩下がった。傍目にはわかりにくくとも落ち込んでいるのがなんとなくマリコルヌにはわかった。

「シャルロット……?」
「わたしのこと」

 ふと、モンモランシーが口にした疑問にタバサが答える。
 あまりにこともなく言ったので、そういうものかとみな納得してしまった。大体がタバサという名前は適当すぎる。犬猫につけるような名前で、だから偽名だと言われても「やっぱりか」としか思わなかった。

 ジョゼットという少女はついと歩み出し、ベッドに眠る才人の頬をそっと触れる。
 ケティがふしゃーと暴れ狂っているのをモンモランシーが羽交い絞めにしていることにも気づかず、慈しむように撫で、ほぅとため息をついた。

「この人が、そうなのね」
「ええ、今は眠りこくってるけどなかなかいい男よ」
「そっかぁ……」

 才人の寝顔を見る少女は、どこか違う遠い彼方を見ていた。まるでおとぎ話の勇者にはじめて会ったような、その小ささに驚いているような、そんな顔だとモンモランシーはケティを抑えながら思った。
 シャルロットはなにも言わずそれを見守っている。
 ギーシュはこそこそとキュルケに近づき、話しかけた。

「この子はいったい?」
「シャルロットの妹よ」
「いや、それはわかってるさ。そうじゃなくって」
「関係者よ、とびっきりのね。心配いらないわ」
「きみが連れてきたからその心配はしてないんだけど……痛ッ!」

 ひそひそキュルケに話しかけるギーシュの足をモンモランシーが思いっきり踏み抜いていた。
 つんとそっぽを向いて彼女は知らんぷり。すごく気になるけれどこれ以上機嫌を損ねるのはよくないと判断したギーシュは渋々キュルケのそばを離れた。

「満足した?」
「ええ。ありがとう、お姉さま」

 眠る才人から離れ、ジョゼットはドアへ向かう。そしてみなに一礼し、部屋を去って行った。シャルロットとキュルケも後に続き、残されたのは最初にいた五人だけになった。

「……結局なんだったのかしら」
「さぁ? ただ、タバサは相当高貴な出自だってことしかわからないね」
「どういうこと?」
「ここ、プチ・トロワだよ。普通の貴族がいるはずない。案外ジョゼフ王の縁戚なのかもしれない。目の覚めるような青髪だしね」

 そこそこ納得のいくマリコルヌの推理にモンモランシーは感心した。普段はアレで非常時もアレだと思っていた男だが、かの『烈風』にしごかれて成長したのだろうと伝説の偉大さを思い知る。
 気づけばケティはまったく落ち着きを取り戻していて、するりとモンモランシーの拘束を抜けて才人の枕元に歩み寄っている。
 そしてつい今しがたいた少女のにおいをかきけすように絞った濡れタオルで顔を拭いて、さすさすと今度は自ら頬を撫でた。

「う~ん、気のせいでしたか」
「なにが?」
「最初はサイトさまにすり寄る泥棒ネコかと思ったんですが、違います。他に思い人がいる感じがしました」

 乙女の勘は当たるんですよとのたまうケティ。
 なにを思ったかそのままごそごそと才人の眠る布団にもぐりこんでいく。

「ちょ、あなたなにをしてるの!?」
「添い寝は男のロマンだって本に書いてました。だから実践ナノデス。サイトさまもわたしのラヴで目を覚まします!」
「はいはい。そういうのは良いから」
「やーーだーーー」

 モンモランシーはずるずるケティを引きずって外に出て行った。
 ギーシュとマリコルヌも顔を見合わせて、図書室に向かおうと口にする。

「あの、ミスタ・ギトー?」
「……私の顔はそんなに怖いかね?」
「……いえ、そんなことはないです」

 その前にショックを受けているめんどくさい大人を回収しないといけなかった。

 才人一人が残され、窓からのそよ風がカーテンを揺らす音だけがあった。陽光がじゅうたんを染め、一羽の小鳥が部屋に飛び込んでくる。
 それは囀り一つあげるでもなく枕元に降り立ち、くちばしでかるく才人の頬をつついた。そして反応がないのを確認したように、窓から飛び去っていく。

 間をおいて、窓からぬらりと黒いローブが忍び寄る。懐から取り出したのは黒刃のナイフ、滴る液体は毒のようであった。
 影は慈悲なく容赦なく、凶刃をまっすぐに振り下ろした。



「で、ここどこよ?」
「しらない」

 目の前では少女がせっせと花の冠を作っている。完成した―とかかげたそれは真っ白な花ばかりでただでさえ白髪に白い肌、着ているものまで白いワンピースの少女をより真っ白けにしてしまうものだった。
 しかし思いもよらず、少女は白い花の冠を少年にかぶせる。なるほど黒髪の自分にはちょうどいいかもしれないと、少し感心してしまった。
 だが感心しても状況が変わるわけではない。少年が見知らぬ場所にいて、ここに至るまでの経緯を憶えていなくて、自分のことすら思い出せないという現実は覆らないのだ。

「またむつかしいかおしてる」
「大人は色々考えることがあるんだよ」
「ふぅん、へんなの」

 興味を失ったのかぱたぱたと走り去っていく。その後ろ姿を見送りながら、背後の巨木に目をうつした。
 大人十人が手をつないでやっと囲めるくらいの大樹にそっと手をあてる。表面はごつごつしていていかにも古木と言った風合いだ。上を見ると枝葉が生い茂っていて、しかしその一部が黒く枯れている。
 ぐるっと少女が走る草原に視線を戻す。広い。果てしない大地とはこのことを指すのかと感嘆のため息をついてしまうほど大きい。何リーグも先に黒い山が天突くようにそびえていた。

 陽のあたる草原で腰をおろす。
 少女はなにが楽しいのか、一面の草原に倒れ込んでなにも考えていないような笑い声をあげていた。

「ここはどこ、わたしは誰ってか」

 顔に手をあててじっと考え込む。答えは出そうにない。なんせ手がかりが一切ないのだ。どんな名探偵でも解答を導き出すことはできないだろう。

 一つ一つ情報を整理する。
 自分は黒髪だ。前髪をつまんで上目づかいに見ればそれがわかる。
 自分は赤眼だ。めありーと名乗った少女によるとそうらしい。彼女は対照的に深い青をその瞳にたたえていた。
 自分はおそらく男性だ。歳のころはおそらく成人していないくらい。声の感じと身長、ヒゲが生えていないことから判断した。それが正しいかはわからない。
 白いカッターシャツに黒いスラックス、身に着けているのはそれだけで他にはなにもない。身分を証明するものは持っていなかった。

 自分に関することが終われば、次はここにどうやって来たのか。
 ここは広大すぎて、めありーと自分以外人っ子一人見当たらない。ただ草花が風に揺れて陽光を一身に浴びていて、少し遠くに小川が流れているだけだ。

「わけわかんねぇや」

 どさっと草をなぎたおして横になる。感触がリアルで、これは現実であることを教えてくれる。
 太陽は憎たらしいくらい眩しくて、消えるはずもないのに突き上げた手でぐっと握ってみた。なんにも変わらない。

 しばらく風を頬に感じたまま目を閉じる。枝葉のざわめきとめありーのはしゃぐ声だけが聞こえる。まぶた越しに太陽光が目に突き刺さる。
 その日差しが弱まった。雲でも出たのかと薄目を開けて確認すると、小柄な青年が立っていた。
 金髪は光にきらめき、純白のローブをまとっていた。まだ若いと言うのに、その顔には苦渋が満ちている。

「目覚めたようだね」

 確認するような声音に思わず少年は頷いた。なんとも表現しがたいが、青年は神々しい光を発しているように思える。かしずくことが当然であると相手に思わせる威厳をもつ男性であった。
 思わず寝転がった体勢から跳ね起き、正座で相対する。

「あなたは……」
「ブリミル。きみたちが始祖と呼ぶ罪人だよ」

 まず口をついて出たのは、相手の存在を問うものだった。
 答えは簡潔。でもその単語が意味するところを少年は思い出すことができない。どこか引っかかるものがあっても、それをひっぱりだそうとすると頭痛がはしるのだ。

「無理もないか。本来なら魂が消し飛んでいた」

 ブリミルは少年の額に指をあてる。燐光がかすかに灯ったあと、少年はすべてを思い出した。

「ぼくに似ているきみが来たのは運命なんだろうね」

 自嘲する青年の表情はまるで人間のものだった。始祖という名の超存在であるようには感じない、そこらで歩いていてもおかしくないくらい普通の男に見えた。

「だからきみに聞いてほしい。六千年前、なにが起きたのかを」



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