<このWebサイトはアフィリエイト広告を使用しています。> SS投稿掲示板

SS投稿掲示板


[広告]


感想掲示板 作者メニュー サイトTOP 掲示板TOP 捜索掲示板 メイン掲示板

[29805] ハウリング【現代ファンタジー・ソロモン72柱・悪魔・同居・人外異能バトル】
Name: テツヲ◆c49d9b75 ID:366fa69a
Date: 2013/08/08 16:54

本作品は『小説家になろう』様にも投稿しています。


2011/09/18 零の章【消えない想い】開始
2011/09/24 零の章【消えない想い】完結

2011/09/26 壱の章【信じる者の幸福】開始
2011/10/22 壱の章【信じる者の幸福】完結

2011/11/02 弐の章【御影之石】開始
2012/03/12 弐の章【御影之石】完結

2012/05/04 参の章【それは大切な約束だから】開始
2013/03/04 参の章【それは大切な約束だから』完結

2013/08/08 肆の章【終わりの始まり】開始



[29805] 零の章【消えない想い】 0-1 邂逅の朝
Name: テツヲ◆c49d9b75 ID:366fa69a
Date: 2012/07/11 23:53
零の章 【消えない想い】



 夢を見ていた。ベッドの上で、綺麗な女の子と身体を触れ合わせる夢を。
 現実と夢境の境界線が曖昧となった意識に、膨大な情報が渦を巻いて流れ込んでくる。布擦れの音、艶かしい息遣い、シャンプーとリンスを混ぜ合わせたような甘い匂い、どこまでも滑らかな女性特有の柔肌。ぷりぷりとした乳房と、むちむちとした太もも。こんなリアルな夢を見たのは生まれて初めてだった。
 
「ぁ――ん」

 耳に心地いい、艶然とした吐息が漏れる。
 俺の腕のなかで眠る少女は、さすが夢の住人なだけあって神々しいまでの美貌だった。腰まで届く長い銀髪、まだ踏まれていない新雪のような白肌。しっとりと汗をかき、かたちのいい眉を歪める、その媚態。
 ……それにしても、女の子ってびっくりするぐらい柔らかいんだなぁ。とてもじゃないけど、同じ人間とは思えない。いや、もしかすると、この子が特別なのかもしれないけど。
 夢だから。これは夢だから。そんな免罪符を掲げて、少女の見事な肢体に手を這わせる。なかでもおっぱいは凄まじかった。もう人間離れした大きさだし、重力の法則に逆らうようにツンと上を向いてるし、特に先端部分は、熟れたチェリーなんか目じゃないぐらいのピンク色。
 さっそく彼女の胸に触れてみると、むにゅん、と音を立てそうな勢いで、指が真白い物体に沈んでいく。一瞬で男の脳を蕩けさせる、極上の柔らかさがそこにあった。中身がパンパンに詰まっていると表現すればいいのか、とにかく心地よい弾力と張りがあるのだ。それでいて煩わしい抵抗が一切ない。
 よく女性の胸を『マシュマロのような感触』と喩えているのを見るが、そんなのは嘘っぱちだと思った。マシュマロなんか、足元にも及ばない。あんな砂糖と卵白とゼラチンと水を混ぜただけで作れるような菓子と一緒にしちゃいけない。
 なんだか人間の神秘を目の当たりにした気分だった。

「んっ、んっ……」

 胸を揉みしだくたびに、少女の肌という肌があでやかな朱を帯びていく。快感に悶えるように身をよじる様は、なんとも言えない華があった。
 調子に乗った俺は、たわわに実った果実を両手で鷲づかみにして、コニュコニュと絞るように揉みしごいた。それは失敗だった。

「あっ……!」

 一際大きい嬌声。その悲鳴にも似た喘ぎ声に驚いた俺は、弾かれたように上半身を起こした。寝汗にまみれた身体が不快だった。

「……なにしてんだ、俺は」

 まったくもって締まらない。夢のなかに出てきた女の子にイタズラしたのはいいけど、ちょっと敏感に反応されてしまったことにビックリして目覚めてしまうなんて。
 軽く部屋を見回してみれば、案の定ここは俺の自室で、昨夜ベッドの中に入ったときと様子は変わっていない。壁時計を見ると、時刻は午前八時頃だった。今日が休日でよかった。これが平日だったら大学に遅刻してるところである。
 さて、じゃあ、まずは洗面所で顔を洗って――

「……あれ?」

 おかしいな。ベッドに手をついたはずなのに、どうしてこんなに柔らかい感触が返ってくるんだ。

「…………」

 最高に嫌な予感がした俺は、深呼吸を繰り返しながら、そろーりと真横に視線を移してみた。

「マジかよ……」

 そこにいたのは、ついさっきまで俺が夢のなかで抱きしめていたはずの少女だった。均整の取れた豊満な肉体と、シーツに広がる豪奢な銀髪。小さな唇を半開きにした寝顔は、なんとも愛らしい。
 完成された女性の美を目の当たりにしても、もはや興奮はしなかった。一周回って逆に怖くなってきたぐらいである。
 これは犯罪か? 詐欺か? バラエティ番組のドッキリか? それとも、俺はまだ夢を見ている最中なのか……?
 無駄に活性化した脳が、僅かな合間にいくつもの可能性を検索する。でも浮かび上がった答えは、そのどれもが現実味を帯びていない、机上の空論に過ぎなかった。

「とりあえず……け、警察に電話したほうがいいのか、これは?」

 わりと本気で恐怖だった。とりあえず携帯を取ろうと、ベッドから体を起こす。そのとき、少女の腕が伸びた。白くて細い、けれど適度に筋肉のついた腕が、俺の腹に巻きつく。

「……んん」

 少女は満足げに鼻を鳴らし、抱き枕を求めるかのごとく、俺に抱きついてきた。ちょうど耳元にある彼女の口から、生暖かい吐息が吹きかけられ、ゾクリと背筋に震えが走る。
 もしかしてこの子、起きてるのか? とも思ったが、呼吸の間隔や脈拍のリズムから察するに、目覚めてはいないようだ。つまり俺を手頃な抱き枕にするまでの一連の動きは、すべて寝相だったらしい。
 不思議と慌てることはなかった。すでに恐怖も混乱もなくなっていた。目の前にある少女の寝姿に、見蕩れることしか俺には許されていなかったから。
 
「……綺麗、だな」
 
 語彙の乏しさが露呈するようで恥ずかしいけれど、それでも彼女を形容する上で相応しい言葉は”天使”しかないと思った。一切の非がない人体の黄金比とも言うべき顔立ちは、相対する者の心をあっさりと奪ってしまう。ここにも一人、その被害者がいる。

「――ん」

 俺がよく分からない境地に至っていると、少女の身体が寝相では説明がつかないほど大きく動いた。呆気に取られる俺とは対照的に、寝惚けている人間特有のふらふらとした動きで、少女は身体を起こす。
 ベッドの上で、俺たちは向かい合った。視線が交錯する。髪とおなじ銀色の瞳に、ぽかんと大口を開ける俺の顔が映っていた。
 もちろん少女は一糸まとわぬ姿だったが、その白く眩しい肌や、大きく膨らんだ胸を見ても、もう劣情を催すことはなかった。
 言語を絶する、穢れのない幻想的な美しさ。いまの俺ならば、彼女の正体が妖精だったと明かされても、ああなるほどと納得するに違いない。法律や刑法が定められている現代だからこそ大丈夫なものの、これが太古の時代ならば、きっとこの少女を巡って戦争が起きていたと思う。

「えっと、おはよう……?」

 自分でも間抜けだとは思うが、今後の運命を左右しかねない第一声がそれだった。

「……ぁ」

 少女は、またもや無駄に艶っぽい声を出した。寝汗に濡れた肢体と、寝惚けた目が、情事を追えたあとのような性的な色気を醸し出している。

「ど、どうしたっ? 俺が悪いってのか? ちゃんとおはようの挨拶はしたぞ? あ、もしかして、おはようございます、じゃないと駄目派かおまえ?」

 意味不明なことを口走る萩原夕貴(はぎわらゆうき)、十九歳。今年から大学生になったばかりの青少年。父親はすでに他界、母親は実家に里帰り中。体力には自信があるという、いかにも男がバイトの面接で言いそうなことが取り柄の俺である。

「きみは……」

 どこまでも透明感の溢れる声で、少女はつぶやく。
 晒された素肌を隠そうともせずにベッドから立ち上がった彼女は、騎士のごとく片膝をついた。彼女の紅い唇が動く。俺は、萩原夕貴は、このとき彼女が言った言葉を、きっと生涯忘れることはないと思う。

「ここに契約を完了とします。わたしは、ソロモン72柱が一柱にして、序列第二十四位の大悪魔ナベリウス。今このときを持って、我が身は貴方様の剣となり、盾となりましょう」



[29805] 0-2 男らしいはずの少年
Name: テツヲ◆c49d9b75 ID:366fa69a
Date: 2012/03/14 06:18

 目が覚めると、となりに裸の女が添い寝していた。そんな恐ろしい体験をしてしまった俺の悪夢は、むしろそこからが始まりだった。銀髪の少女は、俺を認めると同時に跪き、明らかに東京タワーを越える電波集約力を見せつけてきた。彼女の言い分はこうだ。

 わたしは悪魔です。あなたと契約しました。だから色々と命令してくださいね。

 とりあえず寝言は寝てから言えと思った。めちゃくちゃ綺麗な顔をしてるからって何でも許されるわけでないぞと思った。もう頭が痛くて仕方ない。電波を受信するのもいい加減にしてほしい。
 
「ねえ夕貴、卵は半熟のほうがいい?」

 第一声とは違った、どこかフランクな声。

「人の話、聞いてる? 男の子ならシャキッとしないと駄目じゃない」

 何かが焼けるような音と、香ばしい匂いがする。キッチンには、当然のように例の少女が立っていた。しかもエプロンまで身につけているという徹底振り。
 彼女は、ノースリーブタイプのシャツと、洒落っ気のない黒のパンツという服装。シンプルなファッションなのだが、だからこそ彼女自身の美しさが際立つというか、美人は何を着ても得だというか。
 いや待て騙されるな。勝手に人の家のキッチンを占領されてるんだぞ。

「……えーと」

 人間とは、想像を遥かに超えた珍事に遭遇すると、意外と冷静になってしまう生き物なのかもしれない。
 少なくとも俺は普通の大学生だ。母子家庭だけど金銭的な苦労はしていないし、いまの生活に不満もない。ただ他人と違うところがあるとすれば、それはルックスだろうか。あまり認めたくないが、どうも俺の顔は男らしいというよりは女らしいらしく、電車で痴漢に遭った経験が二度ほどある。とは言え、中性的な容姿の男なんて探せばいっぱいいる。どう考えても、これが自称悪魔をおびき寄せるファクターだとは思えない。

「なにボサっとしてるの? なんなら顔でも洗ってきなさいよ」

 フライパンの中身をひっくり返しながら、鷹揚とした笑みを浮かべる少女。おまえは俺の母親か、とツッコムのを我慢するのが大変だった。

「……いや、顔ならさっき洗ってきたんだけど」
「そう? じゃあ座って待ってなさい。すぐに朝食が出来上がるから。……あぁ、それと時間がなかったから、簡単なメニューになったんだけど、大丈夫よね?」
「はあ、まあ大丈夫ですけど」

 思わず敬語になってしまう。あの女の子が堂々とし過ぎてるせいで、こっちのほうが客なんじゃないかと錯覚してきた。

「ちなみにハムエッグのハムは二枚でいい?」
「……べつに何枚でもいいけど」
「そう。いい子ね」

 それで問答は終わりだと言わんばかりに、少女は料理に没頭した。
 とりあえず落ち着くためにも、俺は木製のダイニングテーブルに腰掛けた。よし、落ち着け。落ち着くんだ萩原夕貴。まずはあの女に、一発ガツンと言ってやろう。俺は男らしいんだ。思ったことはすべて言うんだ。

「はい、出来たわよ」

 テーブルの上に並べられていく料理。こんがりときつね色に焼けたトースト、上手く半熟に仕立て上げられたハムエッグ、レタスやプチトマトを使ったサラダ、温かな湯気を放つクラムチャウダー。誰でも作れそうなメニューではあるが、短時間で調理したにしては上出来すぎる。

「さあ、遠慮なく食べて」

 白いほっぺたを微かに紅潮させて、こちらを見つめる少女。

「……いただきます」

 これが驚くほど照れくさくて、俺は彼女から視線を外しながら、ボソボソと食前の挨拶をすることになった。ガツンと一発言ってやるつもりだったのに、あまりにも彼女の笑顔が綺麗すぎて毒気を抜かれてしまった。せめてこの飯を食うまでは追い出すのを勘弁してやろう、と思ってしまうほどに。

 俺の家は、はっきり言ってかなり大きい。それなりに広い庭はあるし、小さいが鯉が泳いでいる池もあるし、母さんの趣味によって作られた花壇もあるし、別棟の倉庫もあるし、家なんか三階建てだし。
 だからなのか、俺と親しくなった人間は、みんな例外なく泊まりに来たがる。なかでも玖凪託哉(くなぎたくや)という男が常連だ。
 でも、いくら俺の家が大きいからと言っても、やはり見知らぬ女の子が不法侵入していい理由にはならない。

「……なんだよ」

 ふと気付くと、女がテーブルに頬杖をついて俺を見ていた。とてもニコニコしている。

「ううん、べつになんでもあるよ」
「あんのかよ」
「まあね。ところで夕貴ってさ――お父様とお母様、どっちに似てるって言われる?」
「それ以前に、やたらと堂々としているおまえの態度が気になるけど――まあ母親似じゃないか? というより、俺は父さんの顔、見たことないから」

 俺の父親は、俺が生まれる以前に亡くなったと聞いている。だから会ったことはない。
 俺はよく母親似と言われる。性格はあまり似ていないのだが、雰囲気や顔立ちがソックリなのだそうだ。

「……ふうん、そうなんだ。まあ夕貴のお母様って美人だものね」
「えっ、おまえって、母さんのこと知ってるのか?」
「さあ、どうかなぁ?」

 はぐらかされてしまった。

「……まあ、いっか。さすがに母さんに危害を加えるようなことはしてないだろうし。それよりも一番気になるのは、おまえが俺のとなりで添い寝してたことだ。しかも裸で」
「あぁ、それなら今朝言ったでしょう? わたしは悪魔だし、夕貴はご主人様だし、わたしは奴隷だし、夕貴はご主人様だし」

 相変わらず意味不明な女だ。
 それからも俺は、看過できない疑問をいくつか尋ねてみたのだが、すべて似たような答えが帰ってきた。
 質問。どうして俺の元に来たんですか。
 ――答え。わたしが悪魔だからです。
 質問。どうして母さんのことを知ってるんですか。
 ――答え。さてさてどうしてでしょう?
 質問。どうして俺の名前を知ってるんですか?
 ――答え。いや表札に書いてあったでしょ。
 結論。ちっとも話が進まなかった。

「……押し問答だな。一向に話が進まないじゃねえか。そういやおまえ、俺が母親似と聞いて『まあ夕貴のお母様って美人だものね』って言ったよな。これ、なんか俺も美人みたいに聞こえるんだけど」
「うわぁ、すっごい細かいわね。そんなに女の子みたいって言われるの、いやなんだ?」
「当たり前だ! よーく俺を見てみろ! これが女に見えるか!?」

 ずいっ、と体を乗り出す。

「……ふむふむ」

 顎に手を当てて、意味ありげに頷く少女。……ていうかこの子、近くで見てもやっぱ可愛いな。なんだかドキドキしてきた。それにおっぱいも凄く大きいし。

「なるほどね」

 その声を聞いて我に返る。彼女に見蕩れていた自分を強く戒め、俺はそっぽを向いた。

「……ふん。分かったならいいんだよ」
「うん。やっぱり夕貴ちゃんって女の子みたいに可愛い顔してるわね」

 こいつは、とことん俺を侮辱したいらしかった。

「……おまえはいま、言ってはいけないことを言ったぞ。今後一切、俺のことを『可愛い』とか言うな。あとちゃん付けは絶対にすんな。まあ、おまえとの今後なんて一切ないんだけどな。だから、とっとと出て行ってくれ。この飯に免じて、警察だけは勘弁してやる」
「あれま、冷たいんだ、夕貴って。一晩を共にした仲なのに」

 少女はこれみよがしに溜息をつく。でも溜息をつきたいのは俺のほうだった。

「待て待て。さっきからおまえが相手にしてるのは、どこの夕貴さんだ。俺はおまえと一晩を共にした記憶はねえよ」
「よく言うわね。今朝、わたしの胸をこれでもかと揉んだくせに」

 こいつ、まさか起きてたのか!?

「そ、それは悪かったと――!」
「えっ、本当に揉んだのっ? 揉みしだいたっていうのっ? ちゃっかり堪能したっていうの? あちゃあ、カマをかけてみたつもりだったんだけど、止めておいたほうがよかったかなぁ」
「ぐっ、しまった……」

 嘘でもいいから白を切りとおせばよかったものを――自分から罪を認めてしまうとは、なんて馬鹿なんだ俺は。

「まあ、べつにいいんだけどね。夕貴の好きにしても」
「本当か? じゃあ出て行ってくれ」
「あーあ、なんだか夕貴に揉まれた胸が痛くなってきたなぁ」
「そんな現金な胸はねえよ!」

 思わずツッコミを入れてしまった。

「でもね、本当に夕貴の好きにしてもいいのよ。わたしは夕貴の騎士……いや、配下……ううん、部下……でもなくて子分……そうそう、奴隷なんだから」
「なんで騎士から始まって奴隷に落ち着くんだよ。とりあえず奴隷は止めろ。なんか、いやらしい」
「ふーん、やっぱり夕貴も男の子なんだ。夜伽なら任せてよね」
「てめえに任せる夜はねえ!」

 やはり一向に話が進まない俺たちだった。
 無駄話をしているうちに、俺と少女は食事を終えてしまい、手持ち無沙汰となった。
 そろそろ本気で追い出そうと思ったのだが、食器を手際よく洗った彼女は、自分から外に――庭に向かった。
 ……こいつ、今度は何をやらかすつもりなんだ?
 俺は、彼女のあとを追って庭に出てみた。リビングと庭の中間に設置されているウッドデッキ(縁側みたいなもの)には、風になびく長髪を指で押さえる少女が腰掛けている。上品に足を揃え、とても穏やかな笑みを浮かべて。
 思わず目を奪われる。その現実離れした美貌に。何度見ても、何度自分に言い聞かせても、やはり胸の高鳴りは収まらない。
 見知らぬ人間のはずなのに、母さんとの思い出が詰まった家に不法侵入されたはずなのに、裸で添い寝されて驚いたはずなのに、どうして俺はこの女に不快感を抱かないんだ?
 なにより俺は、この少女をどこかで見たことがあるような気がする――

「……花、綺麗ね」

 柔らかな風に乗って、穏やかな声が聞こえてきた。その視線の先には、母さんが趣味で育てている花壇がある。

「綺麗だと思うんだったら、おまえが水遣りするか?」
「いいの?」
「ああ。べつに俺がやらなきゃいけないことでもないし、おまえがやりたいんだったら」
「ナベリウス」

 少女が俺のほうを向いた。

「わたしの名前よ。”おまえ”って呼ばれるのもなんだかゾクっとして捨てがたいんだけど、やっぱり本名で呼んでくれないと嫌かなーなんて」
「俺は『おまえって呼ばれてゾクっとする』というおまえの発言のほうが聞き捨てならねえよ」
「ほらまた。さっき言ったでしょう? わたしの名前は《ナベリウス》。ソロモン72柱が一柱にして、序列第二十四位の大悪魔。そして夕貴と主従の契約を結んだ者よ」
「……おまえ、前世は電波塔だったんじゃねえか?」
「違うわよ。れっきとした悪魔だし」
「言ったそばから電波受信してんじゃねえよ。誰が悪魔だよ、誰が」

 聞いていて呆れる。
 だから俺は、てきぱきと水遣りの準備を進めることにした。我が家はホースを使って水を撒くので、倉庫のほうから最近新調したばかりの耐圧性強化タイプのホースを取り出して水道に繋げる。

「夕貴ってさ――わたしが悪魔だってこと、信じてないでしょ?」
「ああ、信じてないね。むしろ信じる要素がないだろ。まあでも――」

 ただの人間だとは思えないのも確かである。完璧すぎる美貌。一種独特の雰囲気。白銀の長髪と、均整の取れた肢体と、抜けるように白い肌。まず日本人ではないだろうし、かといって彼女――ナベリウスのような身体的特徴を持った外国人もいないだろう。とは言え、こいつを悪魔だと決め付けるのも早計。世界中を探しに探せば、ナベリウスのような人間もいるかもしれないし。

「……まあ、いいでしょう。信じるも信じないも、夕貴の勝手なんだし。それに――」


 いずれ嫌でも信じるときが来るでしょうしね。
 

 そう独り言のように、ナベリウスは続けた。

「ほら、これが水遣り用のホースだから。あまり水を撒きすぎるなよ。もし花壇の花になんかあったりしたら、母さんに怒られるのは俺なんだからな」
「大丈夫よ。そのときは、わたしも一緒に怒られてあげるから」
「いや、それ以前に花を守ろうとしてくれよ……」

 枯らすのが前提みたいな言い草じゃないか。
 ナベリウスは嬉々とした笑みを浮かべながら、花壇に水を撒いていく。それはさきほどまでの問答が嘘であったかのように、丁寧で思いやりのある水遣りだった。
 花を大切にする人間に、悪いヤツはいない。
 そう母さんは言っていた。
 ナベリウスが人間なのか、もしくは本当に悪魔なのかは知らない。それでもあんな綺麗な笑顔を浮かべて花に水をやれるのなら、少なくとも悪いやつではないと思うのだ。もしかしたら希望的観測かもしれない。人生で初めて裸を拝んでしまった美少女に、ある種の幻想を抱いているのかもしれない。でも俺は、自分の直感を信じる。
 ナベリウスに悪意はないと、そう、馬鹿正直に信じてみたいのだ。

「さて、それじゃあナベリウスちゃんは、まだ寝足りないのでお昼寝タイムに入ります」

 やがて水遣りを終えたナベリウスは、うーん、と可愛らしく伸びをしながら、とことこと家のなかに入ろうとする。俺はその首根っこを掴んだ。

「待て。おまえはこっちだ」

 庭から玄関のほうに向かう。というかナベリウスを連行する。

「あれ、もしかして夕貴、出掛けるの?」
「違うわボケ。俺じゃなくて、おまえが出掛けるんだよ」
「えっ、わたしが? どうして?」
「どうしてもなにも、おまえの家はここじゃねえだろうが」
「夕貴こそ寝惚けてるんじゃないの? わたしの家は、間違いなくここよ」

 もはや何度目かは分からないが、俺はバカみたいに大口をあけて絶句した。

「あら、もしかして、こーんな美少女を追い出すつもり? 夕貴って意外と甲斐性ないのね」
「それとこれとは関係ないだろ」
「ふーん、そんな冷たいこと言うんだ。わたしのおっぱい揉んだくせに」
「……そ、それとこれとは関係ないだろっ」

 まずい、動揺してしまった。ここでナベリウスのペースに乗せられてはいけない。

「あーあ、夕貴にはガッカリしたなぁ。もっと男らしい人だと思ってたのに」
「……男らしいだと? え、なに、俺ってそんなに男らしいのか?」
「うん。わたしが今まで会った男性の中でも、夕貴が一番男らしいわ」

 やべえ。
 こいつって、実はすげえいいヤツなんじゃないか?
 俺という人間の本質を見抜くとは――ナベリウス、恐るべし。

「いやぁ、そうかなぁ? まあ、それほどでもないと思うけどなぁ。俺が男らしいのは当たり前だけど、一番とか言われると照れちゃうなぁ」
「けど、それだけに残念よ。夕貴は、困っている女の子を追い出そうとするんだもんね。あーあ、まさか夕貴がそんな女々しい行動を取るなんて思わなかったなぁ」
「……んだと? てめえ今、俺が女々しいって言ったのか?」
「そうよ。夕貴は女々しい。まったくもって男らしくない。困っている女の子がいたら、無条件で助けてあげるぐらい懐の広いところを見せないと、本当の男とは言えないわ」

 馬鹿な。この俺が女々しいだと。
 子供のころから女顔とからかわれるのが嫌で、中学、高校では進んでスポーツ系の部活に入っただけではなく、隣街の空手道場にも通っていたというのに。不良系の漫画や、ヤクザさんたちが派閥争いをする映画なんかを見て、乱暴な言葉遣いの練習までしたっていうのに。
 それがすべて無駄? ……いや、そんなはずはない。俺は男らしいんだ。断じて女々しくなんてない。
 しかし、言い返せないのも事実である。
 母さんからは『困っている女の子がいたら、夕貴が助けてあげるのよ』と口を酸っぱくして言われてきたわけだし。

「はーあ、わたしの見込み違いだったかなぁ。まあ夕貴は、女の子みたいに可愛い顔してるから仕方ないわよね。男にしては髪も長めだし、肌なんか真っ白だし。背はそこそこ高いけど」

 ほっとけ。
 俺だって髪を短くしたいが、ただでさえ女みたいな顔をしてる俺がそれをすると、ありえないぐらい似合わないんだよ。もう笑われたくないんだよ。
 それに昔から黒い肌には憧れていたんだけど、俺は日焼けをしても赤くなるだけで、一向に黒くはならない体質なんだよ。もう酔っ払いとか、お猿さんみたいとか言われたくないんだよ。

「困っている美少女を家に泊めてあげる。そんな男らしい人、どこかにいないかなぁ」
「……なあ、おまえを家に泊めてやれば、男らしいのか?」
「そりゃあもう、最高に男らしいわよ。男の中の男といっても過言じゃないぐらい。まあでも、女の子みたいな顔をしてる夕貴には無理な話よね。よっ、この美人!」
「……てやる」
「え? いまなんて言ったの? ごめんね、聞こえなかった。それにしてもボソボソと喋るなんて、やっぱり夕貴は女々しいわね。男なら……」
「あぁ! うるさいな! 仕方がないから泊めてやるって言ってんだよ! この悪魔が! それに俺は女々しくなんてねえぞ! 男の中の男なんだぞ! 今度俺に女々しいとか言ったら、大変なことになるんだからな――!」

 叫んでやった。通りがかった近所の奥さんが、俺たちを不審な目で見つけていたけど、それを後悔するのは明日にしよう。
 どうしよう、さすがに考えなしだったかな――そう思い、俺が前言を撤回しようか迷い始めたとき、ナベリウスが小悪魔的な笑みを浮かべた。

「よろしい。これからは、お姉さんが夕貴の面倒を見てあげる」

 やられた。はめられた。胸中に暗澹とした想いが立ち込める。
 こうして俺とナベリウスの奇妙な共同生活が幕を開けることとなるのであった。




[29805] 0-3 風呂場の攻防
Name: テツヲ◆c49d9b75 ID:366fa69a
Date: 2012/03/12 22:24

 ナベリウスは、すでに母さん公認の同居人となっている。
 数日前に母さんから電話がかかってきたとき、その場の流れでナベリウスの存在がバレてしまったのだ。慌てふためく俺に母さんは言った。「ちょっと代わってもらっていい?」と。
 母さんとナベリウスはかなり長話をしていたようだが、二人のあいだにどんな関係があるのかは最後まで分からなかった。とにかくナベリウスが萩原邸に居候することを母さんはあっさりと許した。なにか、俺の知らない事情があるような気がする。母さんが帰ってきたら聞いてみようか。
 ただ、それとは別に、自分でも疑問に思うことがある。
 どうして俺は、こんなにも簡単にナベリウスを受け入れたのか。
 どうして俺は、この彼女を見て、こんなにも懐旧の情をかきたてられるのか。
 恐らくは錯覚であろう。
 俺がナベリウスと会ったのは、数日前が初めてのはずなんだ。ゆえに彼女を見て”懐かしい”と思うこと自体が、すでに気のせいなのである。
 意外と、と言えば語弊だと本人から怒られそうだが、ナベリウスは家事については万能だった。料理も、洗濯も、掃除も、買い物も、ありとあらゆる主婦スキルを彼女は身につけている。
 だからかもしれないが、ナベリウスからは強く母性を感じるのだ。
 いつも一歩引いて見守っていてくれるような、友人や恋人というよりは、歳の離れた姉や、もしくは若々しい母親のような。
 とにかく不思議な安心感を俺に抱かせるのが、ナベリウスだった。
 ただし、自分のことを悪魔だと称するのはいただけない。
 確かに俺も子供のころは、悪魔とか正義の味方に憧れたことはある。まあ成長するに従って現実を知り、限界を知り、やがては若気の至りへと変わったのだが。
 ナベリウスは大人っぽい美女だ。そんな彼女が「わたしって、実は悪魔なのよねー」とか「ソロモン72柱が一柱ですよー」とか「序列第二十四位の大悪魔ナベリウスちゃんですー」とか平然と口走る姿と言ったらもう……。
 俺は、決めたのだ。ナベリウスにはいたいけな夢を諦めてもらおうと。そうだ。俺が悪者になることによって、ナベリウスが大人になるのであれば、それは間違いじゃないはず。

「じゃあ俺、風呂入ってくるから」

 さっき夕食を終えた俺は、汗を流すためにシャワールームへと向かった。脱衣所で服を脱ぎ、それを洗濯機のなかに放り込んでから、湯気でくもる風呂場に入った。
 萩原邸の風呂は、土地の面積や建物の大きさに比例するように、かなり贅沢な作りとなっている。
 いわゆる檜風呂というやつで、しかも湯船は成人男性が三人一緒に入っても余裕があるほどで、銭湯のように足を伸ばして入浴することが可能。
 それなりに清潔好きな俺としては、我が家の風呂は他所様にも自慢できるぐらい好きで、自室に次ぐリラクゼーションスポットとなっている。
 頭、顔、身体という順で一通り洗い終わったあと、熱い湯が張られた湯船に浸かる。とても気持ちいい。
 意味もなく水面を波立たせてみたり、暢気に鼻唄を歌ったりしていた俺は――そのとき不審な物音を聞いた。
 がさごそ、という布擦れの音。

「ねえ夕貴ー?」

 脱衣所のほうから、ナベリウスの声がした。風呂場と脱衣所を隔てているのは、厚いすりガラス状の扉なので、シルエットのような形でならば反対側にいる人間の姿も確認できる。
 よく分からないが、ナベリウスは両腕を上げたり、片足を順に上げては下ろしたり、白銀の髪を後ろで団子のように纏めたりと、意味不明な動作を繰り返している。いったいどうしたんだろう?

「なんだよ? 風呂に入りたいのなら、あとにしてくれ」

 風呂場に反響する俺の声と、

「つれないこと言わないでよ。夕貴の面倒を見るのは、わたしなんだから」

 脱衣所にこだまするナベリウスの声。

「前から思ってたんだが、なんでおまえは俺の面倒を……」

 がらがら、と小気味よい音を立てて、扉が開いた。そこに立っていたのは、バスタオルをまとっただけのナベリウスだった。銀色の長髪を後ろで団子のように纏めてアップにしている。どこからどう見ても、むかつくほどに裸だった。

「もしかして、もう身体洗っちゃった? 背中を流してあげようかと思ったんだけど」

 ぶんぶん、と首を縦に振る俺。それは言外に「もうあとは湯船に浸かって出るだけだから、おまえの出番はない。出て行け」という意味も込めたつもりだった。
 しかし、ナベリウスは強敵だった。俺のアピールを無視した彼女は、ぺたぺたと素足のまま風呂場に乱入してくる。熱い湯気に当てられてしまったのか、ナベリウスの肌は桃色に染まっており、しかも微かに汗ばんでいて、うっとうしいぐらい色っぽい。

「うーん、そっかぁ。もう洗い終わっちゃったんだ。ちょっとタイミングが遅かったみたいね。ごめんなさい」
「ああ、いえいえ、とんでもないです、はい」
「夕貴の面倒を見る者として、これはミスったかなぁ。あとでオシオキされちゃっても文句は言えない失態よね。まあでも、このまま脱衣所に戻るのも間抜けだし、手間もかかるし」

 言ってから、ナベリウスは、なんと湯船に侵入――いや、侵略してきたのだった。

「お、おまっ、おまえっ!?」
「どうしたの? ……ああ、もしかしてタオルで身体を隠したまま湯船に浸かるな、とか? 確かに人間社会では、そういうマナーもあったかしら。というわけで、ポイ」

 まるで自分が人間じゃないような口振りで、ナベリウスはバスタオルを風呂場の端っこのほうに放り投げた。
 幸い、萩原邸の湯船は広い。だから身体と身体が接触する事態はそうそう起こらない。ナベリウスが肩まできちんと湯に浸かっているのと、霧みたいな湯気が視界を覆っているおかげで、なんとか俺は彼女の局部を見ることを回避していた。
 ちなみに俺は、隅っこのほうで三角座りをしていた。もちろん背中を向けたまま。すぐに風呂から上がってもよかったのだが、それもなんか逃げたような気がしてイヤだった。

「ねえ夕貴ぃ……どうしてわたしに背中を向けてるのかなぁ?」

 メイプルシロップのように甘い、猫撫で声。

「夕貴さえよければ、わたしが相手してあげよっか?」

 なにか柔らかい、それでいて細い棒状のものが俺の背中をなぞっていく。きっとナベリウスの指だろう。

「……相手だって?」
「ええ、そうよ。人間の男の子って、色々と溜まるんでしょう? それに夕貴って、まだ若いものね」
「……何が言いたいんだよ」
「つまりアレよ。夕貴ぐらいの男の子は、みんな性欲の塊って話」
「誤解を招くようなことを言ってんじゃねえ!」
「あれ、誤解なんだ。じゃあ夕貴は、女の子の胸とか見ても、なんとも思わないの?」
「……それとこれとは話が別だろ。俺も健全な男なんだから」

 ボソボソと呟くように反論すると、なぜか背後からは溜息の気配。

「夕貴、正直に答えなさい。わたしの裸を見て、ちょっとぐらい興奮したでしょう?」

 まるで悪いことをした子供を叱るような口調だった。なぜか、反論する気は起きず、ただただ申し訳ない気分になった。

「……まあ、興奮した」
「ムラムラした?」
「……まあ」
「メチャクチャにしたいと思ったんだ?」
「…………ま、まあ」

 なんだこの羞恥プレイは。それよりも、俺の口はどうしちまったんだ。馬鹿正直に本音を言ってどうする萩原夕貴!

「……お、おまえ、本当に何者なんだ?」
「え?」

 俺の口から飛び出したのは、ナベリウスの素性を探る一言。その場しのぎの適当な発言をしたつもりだったのに、頭のなかできちんと言葉を組み立てなかったせいか、わりと確信に迫る質問をしてしまった。楽しげだった彼女の顔に冷静さが戻る。もう後戻りはできない。

「……分からない。ずっと気になってたんだ。マジな話、おまえは何者なんだ? いきなり添い寝してくるし、ほとんど無理やり居候を決めやがるし、しかも今こうして男に抱きついてる。胸だって当たってる。……べつに、恋人同士でもないってのに」
「そうね、わたしは夕貴の恋人じゃないわ」

 あまりにも、あっさりとした断定。もちろん期待していたわけじゃない。それでもちょっとだけ落胆してしまった俺は、やはり健全な若い男子ということなのだろうか。

「でも、わたしは夕貴を護るから」
「……またそれかよ」

 壊れたテープレコーダーを拾った気分だった。この女は、本当に何なんだ? まさか本気で悪魔だとでもいうのか……?

「じゃあ、そろそろ上がるな」

 冷たく言って、俺は立ち上がった。なんだかナベリウスを否定した空気になってしまった。風呂場にたちこめる湯気がありがたい。俺の顔を見られなくて済むから。彼女の顔を見なくて済むから。
 俺が風呂場を出るまで、彼女はなにも言わなかった。すりガラスでできた横開きのスライドドアを閉める直前、横目に見えたナベリウスの顔は、見たことがないほど物憂げで、それがぞっとするほど美しかった。




[29805] 0-4 よき日が続きますように
Name: テツヲ◆c49d9b75 ID:366fa69a
Date: 2012/03/09 12:29

 ナベリウスが目覚めたのは夜明け前だった。カーテン越しに外を見てみると、空は瑠璃色に染まっている。日が昇るまでは時間がありそうだった。
 ぼんやりとした頭と、気だるい身体。間違いなく二時間は寝たりないなぁ、と彼女は思った。
 二度寝しようか、と考えつつ、ゴソゴソとベッドの中で身じろぎする。素肌とシーツが擦れあって、妙に気持ちがよかった。
 彼女が就寝用のパジャマとしているのは、ジャージやスウェットやキャミソールではない。彼女は下着さえ穿かず、ただ身体に見合わない大きさのワイシャツを羽織っているだけだった。ちなみに、どうして裸にワイシャツなのかと言うと、ただ夕貴をからかいたかっただけ。もちろん他意はあった。

「……おはよ、夕貴」

 目元を和らげながら、ナベリウスがつぶやいた。
 水を打ったように静まり返った部屋には、彼女の澄んだ声と、シーツの擦れる音と、そして萩原夕貴の寝息だけがあった。
 そもそも、ここは夕貴の部屋である。だからイレギュラーはナベリウスのほうだ。彼女には客間の一つが貸し与えられているのだから、そっちで眠るのが正解なのに。
 昨夜遅く、夕貴が寝静まったのを確認してから、ナベリウスはこの部屋に侵入した。夕貴は、頑なに一人で眠ると主張していた。だから少々強引な手段を取らせてもらったのだ。
 せっかく女性から誘っているというのに、夕貴はちっぽけな理性を総動員させて、ナベリウスを客間に押し込めた。バカだなぁと思う。どうせ眠るなら、一人よりも二人のほうが温かいのに。

 ナベリウスは仰向けだった身体をうつ伏せにして、両腕を立てた。そうやって上半身を起こし、かたわらで眠っている夕貴の顔を見つめた。
 本人に言うと怒るだろうが――夕貴という少年は、とても綺麗な顔立ちをしている。男性的な凛々しさと、女性的な美しさが絶妙に融合したような容姿。肌は抜けるように白いし、黒檀の髪は混じり気のない濡羽色。こんな綺麗な男子を放っておく女子なんて、まずいないだろう
 体つきは細いほうだが、決して華奢というわけでもなく、むしろ鍛え抜かれた筋肉が手足の下には眠っている。空手をしていたというのだから、その修練の賜物なのだろう。身長は170センチメートルほどで、男性として低くもないが高くもない。

「ほんと可愛いなぁ」

 夕貴の頬を人差し指でツンツンと突いてみる。雪みたいに滑らかな肌には、たしかな弾力があった。当の本人は安眠を邪魔されたせいか、不服そうに眉をしかめて寝息を乱していたが。

「……ふふ」

 自然と笑みがこぼれる。
 温かな少年の体に身を寄せ、ナベリウスは思った。
 この子が愛しい。
 この子を守ってあげたい。
 この子には幸せになってほしい。
 そのためならば、わたしは何だってしよう。
 あの人との約束も、あの女性との取り決めも、そんなものは関係ない。
 ただ夕貴を見守りたい。
 ずっとずっと見守っていたい。
 もう、遠くから傍観することしかできなかった自分とは違う。
 いまはこんなにも近くで、この子を見つめることができる。
 出来ることなら彼には、平和に暮らしてほしい。


 まあ、それもまた、決して叶わぬ願いなのだろうけど。


 心の中で小さく溜息をついたナベリウスは、夕貴の腕にちゃっかり頭を乗せたあと瞳を閉じた。
 まだ黎明には早い。
 目覚めるには早すぎるのだ。
 それから間もなく、彼女は小さな寝息を立て始めた。その寝顔は、彼女にしては珍しく、母親の胎内で眠る赤子のように安らいでいた。
 彼女が目を覚ますのは、それからぴったり一時間半後のこと。
 目覚ましは、まるで幽霊を目撃したかのような、萩原夕貴の悲鳴だった。


****


 人間には誰だって弱みというものがある。
 事の始まりは、俺がまだ小学校低学年の頃だった。
 小学生と言えば、男女の間に身体的な差がほとんどない時期だ。だから当時の俺は、いまよりもさらに女子に見えたという。間違いなく『夕貴くん』よりも『夕貴ちゃん』と呼ばれる回数のほうが多かったぐらい。
 それだけならばギリギリ笑い話で済むのだが、ここで冗談にならないのが俺の母親である。
 男の子だけでなく、女の子も欲しかった。
 出来れば夕貴にお姉ちゃんか妹を作ってあげたかった。
 そう口惜しそうにぼやくだけあって、母さんは『女の子供』という存在に憧れを抱いていた。そして、そのとばっちりをモロに食らったのが俺だった。
 昔から可愛らしい洋服を買ってきては、嬉々として俺に着せてくる母さん。家でも外でも『夕貴くん』ではなく『夕貴ちゃん』と呼んでくる母さん。
 言ってしまえば、俺は女装させられていたのである。
 もちろん文句を言いたくなるときもあった。
 でも母さんの楽しそうな、嬉しそうな、そんな笑顔を見ていると、なぜか怒る気にもなれなかった。
 まあ恥ずかしくはあったけど、母さんと一緒に遊ぶ――といったら大いに語弊はあるが――のは俺も楽しかったし。
 死んだ父親が財産を残してくれたとは言え、母さんは女手一つで俺を育ててくれた。
 再婚してはどうか、と提案したこともある。
 すると母さんは、

「夕貴がいれば、母さんは大丈夫。だから、心配しないでね」

 と、のほほんとした口調で返してくる始末。その言葉を聞いて俺は泣きそうになったんだけど、母さんが優しげな笑みを浮かべて頭を撫でてきたもんだから、我慢さぜるをえなくなった。
 俺は――母さんのことが大好きだ。
 誰よりも幸せになって欲しいと思ってるし、将来は絶対に楽をさせて、そして安心させてあげたいと思っている。
 はっきり言って、母さんは俺の宝物なのだが、一つだけ看過できない点がある。
 それは俺の女装姿が、写真やホームビデオとなって記録されていることである。
 これは本当に由々しき問題。
 かつて母さんとエビフライは尻尾まで食べるか否かで喧嘩したときなんか、母さんは泣きながら「ご近所さんに、夕貴ちゃんの可愛い姿、教えてくるもん……!」とか言いつつ、それを本当に実行しそうになったのだから始末が悪い。
 結論として、他者に弱みを握られるということは、その後の人生を円滑に進めようとする上で、非常に厄介な障害となってしまう。
 例えば。

「ちょっと夕貴ー、ごめんって言ってるんだから許してよー。人のおっぱい揉んだんだから、これであおいこでしょ?」

 こんな具合に。
 まったく反省の色が見えない声で俺の弱みをつつきながら、ナベリウスは苦笑した。

「黙れ、この自称悪魔が! 謝罪するつもりがあるなら、せめて申し訳なさそうな顔をしろや!」
「はいはい、ごめんね夕貴」

 満面の笑顔を浮かべ、ナベリウスは可愛らしくウインクをした。
 俺たちはいま、萩原邸の一階に位置するリビングにて朝食を摂っているところだった。献立は白米、味噌汁、焼き魚、きんぴらごぼう、納豆、漬物という実に日本的なもの。ちなみに、この朝食を作ったのはナベリウスだ。

「ほら夕貴。おかわり、いるでしょ?」

 そんな言葉を口にする彼女は、どこまでも甲斐甲斐しい。
 考えてみれば――ナベリウスが萩原邸に居候するようになってから、俺は何もしてないような気がする。
 母さんが不在のいま、俺が炊事、洗濯、買物、花の水遣りなどを代わってこなしていたはずだ。
 でも、ここ最近は違う。
 ほとんど全部、ナベリウスがやってくれてる。
 確かにナベリウスは、いくら母さんに許可を取ったとはいえ、俺の家に居候している身分だ。だから彼女が家事を一手に担うのは、対価を払うという意味では当然なのかもしれない。
 だがナベリウスの態度は、これっぽっちも作業的じゃない。
 彼女は、賃金のために営業スマイルを浮かべて労働するアルバイターとは違う。
 むしろ母親のごとき無償の愛を俺に注いでくれている……ような気がする。


 ――夕貴の面倒を見るのは、わたしなんだから。


 そんな言葉を思い出す。
 いつもナベリウスが口癖のように言っている言葉だ。
 確かにナベリウスは、女神と形容するに相応しい美貌の持ち主だし、悪魔的な胸の大きさと柔らかさだし、人間とは違った雰囲気と身体的特徴を持っているかもしれない。
 だからこそ俺は――ナベリウスの正体を知りたくなってしまう。
 口では何とでも言える。
 俺はまだ証拠を見せてもらっていない。
 ゆえに一度ちゃんと時間を作って、話し合いの場を設けようと思うのだ。
 まあ、とかなんとか偉そうなことを言いまくってる俺だが――きっと彼女が悪いやつじゃないということだけは、ちゃっかり確信してたりするのだが。

「わーおっ、これは朝から過激なニュースだ」

 思考に耽っていた俺は、その大げさに驚く声を聞いて顔を上げた。
 どこにでもある平凡な朝食の席、テーブルの上に並べられた食事、開けた窓から入りこむ柔らかな風、一時の安らぎをもたらす観葉植物、リビングの目立つところに置かれた五十二インチの液晶テレビ。
 それは日本では珍しくない平均的な光景。
 しかし、一つだけ異常なものがあった。テレビ番組のニュースだ。

「……これは」

 思わず食事の手が止まる。
 ニュースとは、極論で言えば『他人の不幸』だ。
 誰かが誰かに殺された、強盗があった、誘拐が起こった、交通事故が起こった、テロが発生した――とにかく日本中、あるいは世界中で起きた事件や被害を拡散するのがニュース番組。
 それを子供のころから見ている俺は、例えば連続殺人事件が起こったとしても物珍しいとは感じない。だって慣れてるから。警察がいるから。そして何より――これは極論だが――遠くのほうで起こった事件は俺とは関係ないから。
 でも、それは時と場合によるよな、やっぱり。

「この街で誰かが殺されたんだってね。……ふむふむ、なるほど。被害者は市内の高校に通う女子高生で? 遺体発見場所は繁華街の外れの路地裏で? そんで第一発見者は近所の飲食店を営む男性、と」

 ニュースキャスターの言った言葉を、ナベリウスはそのまま復唱する。
 遺体には鋭い刃物で傷つけられたような損傷が見られるが、現場に凶器の類は見つからず。また『被害者は生前誰かに恨まれるような子ではなかった』という家族や友人の証言もあり、犯人の目処は立たず、動機も不明瞭。場合によれば、通り魔殺人という線も出てくるらしい。
 ニュースを流し聞いていたので、頭に入ってきた情報はそれぐらいだ。
 それから俺たちが箸を進めていると、来客を告げるベルが鳴った。

「夕貴、誰か来たみたいだけど。……まったく、こんな朝早くから人様の家に来るなんて」
「言っとくけど、おまえの家じゃないからな? 俺と母さんの家だからな?」

 不機嫌を隠そうともしないナベリウスに釘を刺して、俺は立ち上がった。

「まあ、誰が訪ねてきたのかは想像がついてるけど」

 そう言い残して、玄関のほうに向かう。
 このとき、すでに俺は、あの凄惨なニュースを忘れていた。
 いくら自分達の街で起こったとは言え、俺に関わりのある事件じゃない。だから気に病むだけ無駄だと。
 そう、このときの俺は楽観していた。



[29805] 0-5 友人
Name: テツヲ◆c49d9b75 ID:366fa69a
Date: 2012/03/09 02:11
 ――私たちはずっと一緒だよね。
 そう少女は言いました。


 ****


 来客があったのは、俺とナベリウスが朝食を摂っていたときのことだった。
 俺はフローリング張りの廊下を小走りで玄関まで向かう

「はい、萩原ですけど」

 そう言い終えるのと、開錠を済ませて扉を開くのは同時だった。
 朝特有の眩い日差しが目に染みる。まだ早朝ということもあるが、それを踏まえても気温は低い方で、風は肌寒かった。
 萩原邸の敷地と道路を隔てているのは、およそ一メートルほどの高さの煉瓦壁と、その上に建てられたロートアイアン製のフェンス。自然石を敷き詰めたアプローチが、萩原邸の玄関と門扉を繋いでいる。
 俺が玄関に立っていて、お客さんが門扉の向こう側に立っていた。

「いい天気だな、夕貴」
「おまえは近所の主婦かよ。井戸端会議なら向こうでやってろ」
「えー。そんなつれないこと言うなよ夕貴ちゃん」
「夕貴ちゃん言うなっ!」

 反射的に突っ込んでしまった。
 この人様にちゃん付けした失礼な男は、玖凪託哉(くなぎたくや)と言う。
 わりと明るめに脱色された髪と、世間一般の基準と照らし合わせても十分に整っていると言える顔立ち。なにより身長が高いのが羨ましい。俺より五センチ近くも上なのだ、こいつは。

 いまにして思えば、俺たちの付き合いもしぶとく続いてるものだ。
 託哉と出会ったのは、高校二年生のときだった。
 学年が変わると、馴染んだクラスも変わる。本来ならば期待と不安に満ちたクラス替えは、それなりに楽しみなイベントに分類されるだろう。
 親しんだ友達と離れるのは思うところがあるけれど、友好の輪が広がるのは素晴らしいことだ。
 でもちょっとだけ人見知りの気がある俺にとって、クラス替えは学校側が仕組んだ試練のようにも思えた。
 昔から、俺はどこに行っても目立った。女っぽい顔立ちが物珍しかったのだろう。好奇の視線は、本当に気が滅入る。
 そういえば――クラスが変わったり、何かの行事で他学年と交流する機会が出来ると、やたらと女の子が喋りかけてきたりする。
 まあ『女みたいな萩原夕貴に一言だけ喋りかけてくる』という罰ゲームでも科せられたんだろう、と決め付けていた俺は、無愛想に返事しまくっていたんだけど。
 とにかく高校二年生のクラス替えのときも、俺は自席に腰掛けて、さりげなく周囲を威嚇していた。その成果もあったのか、クラスの連中は遠巻きに視線をよこすだけで誰も喋りかけてこなかった。
 でも何事にも例外はあるように、あのときの萩原夕貴にとっても例外はいたのだ。

 ――おまえ女みたいな顔してんだな。
 それが託哉の第一声。
 ――うるせえよ。おまえこそ玖凪とか変な名前してるくせに。
 俺の声は、かなり苛立っていたように思える。

 出会ってから、二年が経った。
 初対面では一触即発っぽい感じだったのに、気付けば託哉とつるむ時間は次第に増えていった。
 他人から顔見知りに。
 顔見知りからクラスメイトに。
 クラスメイトから友達に。
 基本的に、人付き合いには多少の気遣いが要求される。誰だって自我を押し通すことは不可能なのだ。当然だろう。ワガママが許されるのは、赤ん坊か王様だけなのだから。
 あらゆる打算的なものが必要になるのが人間関係だ。対人関係を円滑に進めていく上で、それが活醤油として機能するのなら”嘘”だって是とされる。
 でも不思議と――託哉には、うざったらしい気遣いは無用だった。一緒にいても疲れないし、何より楽しい。
 まあいわゆる、馬が合った、というやつだろうか。

「それで? 何しに来たんだ、おまえは」

 いつナベリウスという爆弾が炸裂するのか気が気でなかった俺は、託哉に早く帰ってもらうために、わざと素っ気無い声で言った。

「何しに来たとは他人行儀だなオイ。夕貴ちゃんが昨日も一昨日も学校休んでたから、わざわざ早めの時間に迎えに来たんだぜ? それに水曜(きょう)は一限目に同じ講義を取ってあるだろ?」
「夕貴ちゃん言うな!」

 とりあえずツッコミを入れておく。こればかりは見過ごせない。
 ……あれ、でもそういや俺って、今週始まってから学校行ってないよな。まあ先週の土曜日にナベリウスがやってきたせいで、大学に行くヒマがなかったんだけど。
 うーん、さすがに今日も続けて休んだらまずいか?
 正味なところ、今年入学したばかりの俺にとって大学は未知数なのだ。だから早いうちに慣れておきたい。それにせっかく母さんがお金を出してくれているんだし。
 ただ、ナベリウスをどうするべきか、だよなぁ。
 留守番を任せるのも一抹の不安が残るし、かといって大学に連れて行くのも自殺行為だし。

「なあ夕貴。立ち話もなんだから、とりあえず上がってもいいか?」
「ん? ああ――」

 いいよ、と言おうとして違和感が先に出た。
 この玖凪託哉という男は、萩原家とびっくりするぐらい付き合いが深い。その深度は、俺の母さんが託哉に家の合鍵を渡そうとしたぐらいだ。
 まあ母さんは天然入ってるというか、正直ちょっとだけバカだからな――まあそこが可愛いところでもあるんだけどって言ったらマザコンだが――とにかく俺の友達ならば、問答無用で悪いやつじゃないと信じて疑わない。
 とまあ話が逸れたけれど。
 普段の託哉は、呼び鈴も鳴らさず勝手に家に入ってくることが多い。それは俺も母さんも許可している。萩原邸に泊り込むことが多い託哉だから、いちいち来客用のベルを鳴らすのも面倒がかさむだけだ。
 つまり託哉が、こうして改まって萩原邸を訪ねてくるのは珍しいのだ。

「ダメか?」

 痺れを切らしたのか、託哉は言葉を重ねる。
 ……気のせいか。
 ほんの一瞬、託哉の瞳が鋭く細められたような気がした。ぞっとするほど冷たい瞳。ありあまる感情が、すべて抜け落ちたみたいだった。

「ああ、ダメだ」

 思わず許可しそうになったが、寸前で拒否した。
 だって家の中にはナベリウスがいるのだ。この女好きの託哉と、あの子悪魔染みたナベリウスを引き合わせたら、どんなビックバンが起こるか分からない。

「ふうん――そっか。ダメなのか」

 意味深に頷く託哉。
 そういえば――こいつは昔から、風邪も引かない健康体なくせに、脈絡もなく学校を数日続けて休んだりする男だった。ちなみに理由を問いただしても、託哉ははぐらかすばかりで一向に答えを教えてくれない。
 まあ、だからなんだという話だけど。

「もしかして、家の中に誰かいるのか? 小百合(さゆり)さんはいないんだろ?」
「ああ。母さんは実家のほうに行ってるけど……いや、それよりも」

 こいつ、どうして。

「どうして家の中に、誰かがいるって思ったんだ?」

 母さんがいないって分かっているのなら、いまの質問は出ないはずだ。
 もちろん邪推だろうけど、俺には託哉が『ナベリウスが萩原家に滞在していることを知っている』ような口振りに思えたのだ。
 こんなときに、こんなときだからこそ、あの自称悪魔の台詞が脳裏を掠める。


 ――だってわたし、悪魔だし。


 その悪を代表するような存在が仮にも実在するのなら、それを排除しようとするような連中がいてもおかしくない。
 もしかして、託哉は――!

「いやいや、だって夕貴――さっきから、おまえの後ろに誰かいるじゃん」
「へ?」

 その怪談のオチを飾るような一言を聞いて、背筋に冷たいモノが這い上がった。
 次の瞬間、がしっと肩を掴まれた。思わず悲鳴を上げかけた俺は、背中に誰かがしなだれかかってくるのを感じた。

「ちょっと夕貴ぃ? わたしを放って、一体なにをしてるのかなぁ?」

 俺の耳元に、彼女は囁く。生暖かい息がこそばゆくて、無意識のうちに肌が粟立った。
 あぁ、また面倒なやつが出てきやがった。

「……ナベリウスか」
「そうそう。あなたの愛しいナベリウスちゃんです。あまりにも夕貴の帰りが遅いので、ちょっと心配になって来ちゃいました」
「おまえが来たせいで俺は心配になったぞ……」

 ぶつくさと文句を言ってみるも、事態の悪化は止まらなかった。
 俺の肩越しにひょいと顔を覗かせたナベリウスは、門扉の向こうに立つ託哉を認めた。

「あら、夕貴のお友達?」

 まるで俺の姉みたいな親しさと気安さだった。
 反対に、託哉は驚きに目を見開いて、全身をぷるぷると震わせている。
 どこからどう見ても衝撃を受けていた。もちろんナベリウスという、絶世の美女を目の当たりにして。



[29805] 0-6 本日も晴天なり
Name: テツヲ◆c49d9b75 ID:366fa69a
Date: 2012/03/09 12:45
 ――お母さん、いつもありがとう。
 そう少女はお礼を言いました。


 ****


「へい! そこの美しいお嬢さん! いまからオレと楽園を探しに行かないかい!?」

 萩原家の門扉の前、つまり公共道路上で片膝をつき、託哉は大げさな身振り手振りを交えて、早速ナベリウスを口説きにかかっていた。

「ねえ。もしかしなくても美人って、わたしのこと?」
「当然だろう!? ここに美人は一人しかいないじゃないか! はっきり言って、オレはいままで君と出会わなかった自分を呪ったね! というわけで、これからオレとランデブーしよう!」

 警察呼んだほうがいいかな……と俺が現実逃避のために空を仰ぐと、苛立ったナベリウスの声が聞こえてきた。

「待って、いまのは聞き捨てならないわ。ねえあなた」
「あなたじゃなくて、託哉と呼んでくれ! むしろ君の好きなように呼んでくれて構わないぜ!」
「そう。じゃあ……」

 ナベリウスが一歩前に出る。
 このとき、俺は猛烈に期待していた。もしかしたら彼女は、俺に代わって託哉を叱ってくれるつもりなのではないか、と。
 思わず涙が出そうになる。
 なんだかんだ言っても、ナベリウスは俺のことを考えてくれているんだ……。

「あのね、託哉。美人は一人しかいない、とか言ったらだめでしょうが。夕貴ちゃんを忘れるとか、あなた本当に引くんだけど」
「やっぱり期待した俺がバカだったよなぁ! おまえはそういう女だもんなー!」
「なるほど。それは確かに申し訳なかった。ごめんな、夕貴ちゃん」
「おまえも謝んな! 俺が本当に美人みたいになるだろ!」

 まったく、こいつらときたら。
 一度、精神科か眼科に連れて行ってやったほうがいいかもしれないな。俺のどこをどう見たら美人に見えるんだ。

「そういえば夕貴。この美の女神ヴィーナス様が顕現なさったような美少女は、いったいなんだよ? 明らかに親戚とかじゃないよな」
「あぁ、こいつは――」

 そこまで言いかけて、口を噤んだ。
 まずい。
 俺のなかには、この自称悪魔を説明し、うまく紹介するだけのボキャブラリーはないぞ。
 俺が言葉に詰まっていると、なぜだかナベリウスが腕を組んできた。
 託哉の悲鳴が聞こえた。

「ねえ夕貴ぃ? なんで秘密にしちゃうのかなぁ?」

 男の心を蕩けさせる、甘ったるい声。

「いや、べつに秘密にしてないだろ。ただ説明に困ってただけで」
「せ、説明に困るだと……? おい夕貴、おまえオレの女神に何をした!? まさか……く、口にするのも憚られるようなことをしてたんじゃないだろうな!?」
「鋭い!」
「鋭くねえよ! なに『惜しい!』みたいなニュアンスで言ってんだ、おまえは!」
「えー、だってわたしと夕貴はぁ……ねえ?」

 豊満な胸を押し付けながら、上目遣いをかましてくる。

「まさか……あの萩原夕貴が……いくら女に言い寄られてもなびかなかった夕貴が……」

 公共道路に両手をついて、託哉は四つん這いの体勢で打ちひしがれていた。

「へえ、夕貴って女の子に興味なかったんだ。じゃあ夕貴の初めては、わたしが貰ったってことになるのね」
「ならねえよ! 虚言も大概にしろアホ!」
「……え? もしかして、忘れたの? ……責任、取るって言ってくれたのに」

 ナベリウスは鼻を鳴らしながら、涙を拭う仕草をした。明らかに嘘泣きである。
 だが門扉の向こうにいる託哉、その隔たれた数メートルほどの距離が、どうやら真実を曇らせるフィルターとなったらしい。

「……くそったれめ。なあ夕貴、正直に話せよ。おまえ、この子に何をした?」
「何もしてねえよ」
「そうね。あんなアブノーマルな場所と体位で無理やりなんて――あっ、ごめん。いまのは忘れて」
「夕貴ぃぃぃぃっ! もはや勘弁ならねえー! 罰として、女装させて大学まで引っ張ってやらぁ……!」

 口は災いの元とはよく言ったものだ。
 まあ結局のところ、託哉には、ナベリウスは俺の母さんの古い知り合いなのだと、そう説明することで落ち着いた。
 それからしばらくの間、自己紹介や世間話に興じていたが、あまりゆっくりもしていられなかった。
 体感的な話になるが、朝の一分は、夜の十分に相当すると思う。
 もちろん例外はあるが、少なくとも学生である俺にとって、朝の一分は宝石のごとく貴重だった。どのみち今日は学校に行く予定なんだ。さすがに遊んでいるのも限界だろう。
 そうと決まれば話は早い。俺は、通学する旨をナベリウスに伝えた。すると意外にも、彼女は「じゃあ留守番してるね」と物分りがよかった。……おかしい。普段の言動から察するに、一緒に大学へ行きたがるかと思ってたんだけど。

「ちょっと用が出来たのよね」

 理由を尋ねてみると、ナベリウスはどこか憂鬱そうに銀髪をかき上げてみせた。
 ここ数日、この自称悪魔に私用があったところは見たことがないけど、まあ人間生きてるかぎり周囲と摩擦を続けるものだし、ナベリウスにも用事の一つや二つがあってもおかしくはない。

「ねえ託哉」

 通学の準備を済ませて、そろそろ学校に向かおうとした俺たちを、彼女は呼び止めた。

「そうそう、君の愛しい託哉くんだよ。ところで、オレになんか用かい?」
「あの、さ――夕貴って学校ではどうなの? 上手くやれてる?」

 まるで俺の母親か姉みたいな言い草だった。

「そりゃあね。なにせ夕貴は、気持ち悪いぐらい頭がいいからな。高校のときも三年間ずっと主席だったし。こいつが学校に馴染めてなかったら、一体だれがって話になる」
「へえ、そうなんだ。夕貴ってば頭いいのね」

 誇らしげな笑みを浮かべて、ナベリウスは自分のことのように喜んだ。
 確かに俺は、優秀な学生であったとは思う。でもべつに自分の頭がいいなんて自惚れたことは一度もなかった。
 ただ……ガキのころの俺は、テストで満点を取るたびに母さんが頭を撫でてくれるのが好きで、それを楽しみに努力していただけだった。
 母さんに喜んで欲しかった。安心させてあげたかった。いつか母さんを護ってあげられる男になりたかった。
 だから、愚直なまでに勉学に取り組んだ。その結果、なんとか学年首位の成績を三年間キープできたのだ。
 いままで読んだ書物の数や、頭に叩き込んだ知識の量は、自分でも立派だと胸を張れる。母さんの息子として、堂々と前を向ける。
 もちろん頭脳だけじゃなくて、体のほうも鍛えた。その一環として、小学校のころから隣町にある空手道場に通っていた。こう見えても、俺って有段者だったりするのだ。
 子供のころ、母さんに「どうして、うちにはお父さんがいないの?」と無神経な質問をして泣かせたこともあったけど。
 いまは父さんがいなくても、俺が母さんを護ってあげられる。それだけの能力は何とか身に着けたつもりだから。

「じゃあ行ってくるけど。留守番しっかり頼むな」

 さすがに時間が圧迫していた。
 振り返り様に「留守番」と釘を刺しておく。間違ってもナベリウスを大学に入れてはならない。きっと騒ぎどころじゃ済まないだろうし。

「はいはい、大人しく家にいるから。だから、しっかり勉強して来るのよ?」
「……分かってるよ」

 ナベリウスは腰に手を当ててお姉ちゃん風を吹かしつつ、釘を刺し返してきた。
 なんだか照れくさい。
 母さんとは違うけれど、それでも家族に見送られるのと同等の安心感があった。

「あっ、そうだ。ちょっと待ってて」

 何事を想起したのかは分からないが、パタパタと小気味よい音を立てながら、ナベリウスは家の中に引っ込んだ。
 正直、本当に一限目の講義に遅れそうなんだけど。
 それから時間にして、たぶん二分ぐらいだろうか。玄関が開いたかと思うと、なにやら小包を抱えたナベリウスが姿を見せた。
 よほど急いでいたのか、豪奢な銀色の髪は乱れて、額や首筋には薄っすらと汗が滲んでいる。

「はい、これ。ナベリウスちゃんからのプレゼント」
「プレゼント?」

 怪訝に思いながらも、小包を受け取った。すると意外にも重量があることに気付く。青色の風呂敷で包まれたそれは、長方形型をしている。
 まさか、これって――

「学校行くんでしょ? 昨日、キッチンで弁当箱を見つけたのを思い出したの。だから、どうせならと朝食の残りを詰めてみたんだけど――どうかしら?」

 朝食の残りとは言っても、今朝ナベリウスが作ったのは普通に夕食でも通用する贅沢なメニューだった。
 いや、それよりも問題は――あの生意気で、小悪魔染みていて、お姉さん風を吹かして、いつも俺から主導権を持って行きやがるナベリウスが――不安そうに身体を丸めながら、上目遣いで俺の様子を伺っていることだ。
 余計なことしちゃったかな、怒られないかな――とでも言いたげに揺れる瞳は、なんだか普通の女の子みたいだった。

「……ありがとう」

 おかしい。
 どうして俺まで恥ずかしがらなくちゃいけないんだ。どうして俺は、弁当一つでここまで喜んでるんだ。

「……これ、ちゃんと残さず食うから」
「うんっ! 残したりしたら承知しないからね」

 白磁の肌を紅潮させて、彼女は頷いた。
 いつもは学食で済ませているんだけど――まあたまには弁当も悪くないというか、むしろ望むところだろう。食堂のおばちゃんが作った定食を頬張る託哉のとなりで、俺はナベリウスが作った弁当を平らげてやるのだ。
 こうして俺と託哉は、大学に向かったのだった。




 その通学途中のこと。
 桜並木を歩いているところで、となりにいる託哉が言った。

「なあ夕貴。おまえ合コンの話、覚えてるか?」
「……あぁ、それか」

 もちろん覚えていた。
 最初に誘われたのは一週間ほど前だった。俺たちの通う大学の一回生から、男五人、女五人を集めて飲み会を開くという話。
 同校のよしみで酒を飲む――というと、厳密な意味では合コンじゃない気もするが、まあ細かいところは気にしちゃいけない。
 どうせ俺たちは大学に入ったばかりで、ほとんど知り合いがいないんだ。だからこそ今回の企画が立ち上がったのだし、だからこそ俺も交友の輪を広げるために、仕方なく参加をオッケーしたのだった。

「気のなさそうな返事だな。もしかしてアレか? ナベリウスさんがいるから、おまえには他の女が目に入らないっていうのか? あの極上のボディを堪能しちまったら、もう普通の女は食えないっていうのか!? ああ!?」
「落ち着けよ……俺は元から乗り気じゃなかっただろ」
「そういえば、夕貴は昔から女が苦手だったよな」

 苦手――とは厳密には違う。
 ただ俺は、あまり自分の顔に自信が持てなかったんだ。女の子は、もっと男らしい顔立ちのやつがタイプだろうから、と。
 まあ今となっては、さすがに慣れたというか考え方が変わったというか、それほどコンプレックスだと思っていないけど。

「でもよ。もうオレたちも子供じゃ通じない年頃だぜ。だから今のうちに、ちょっとぐらい女遊びを嗜んでおいたほうがいいと思うんだよ」
「本音は?」
「次の合コンに、前からオレが狙っていた可愛い女の子が来るんだよぉー!」

 託哉は子供みたいにスキップを始めた。その人懐っこい振る舞いに、思わず苦笑が漏れる。

「……まあいいや。とにかく俺も今回だけは参加するよ」

 本当はナベリウスを放って合コンに行きたくはなかったけど――まあ約束だったから仕方ないか。
 俺の参加意思を確認した託哉は、満足そうに頷いた。
 それからは何事もなく、ただ早足気味に徒歩三十分ほどの距離にある大学へと向かった。

「なあ夕貴」

 ふと。
 最後に託哉は、無感情な冷たい声で言った。

「ナベリウスさんが来てから、なにか変わったことはなかったか?」

 脱色した前髪の隙間から覗く目は、背筋が震えそうになるほど鋭かった。

「いや、特になにもないけど」
「……そうか。じゃあ今朝、ニュースで殺人事件があったって言ってたよな。知ってるか?」
「ああ。俺たちも見た。朝食の途中だったから、最悪な気分になったけど」
「そのニュースを見たナベリウスさんは、どんな反応してた?」
「どんなって。べつに普通だよ」

 質問の意図がまったく分からなかった。
 訝しげに眉を潜める俺に気付いた託哉は、次の瞬間、破顔した。

「くっそぉー! まじかよぉ! 恐いニュースに震える美少女の様子を聞きたかったのによぉー!」

 それは、むかつくぐらい無邪気な笑みだった。

「……はぁ。まあそんなことだろうと思ったけどな」

 相変わらず女絡みの話だけは怖いぐらい真面目になるやつだ。いつか警察に捕まるんじゃなかろうか。
 それから俺たちは、いつものように雑談を交わしながら大学に急いだのだった。




[29805] 0-7 忍び寄る影
Name: テツヲ◆c49d9b75 ID:366fa69a
Date: 2012/03/09 13:12
 ――お父さん、お兄ちゃん。これからよろしくね。
 そう少女は笑いました。


 ****


 すっかりと日の落ちた住宅街を、俺はのんびり歩いていた。
 大学での講義をすべて終えたあと、俺と託哉は駅前に繰り出して、若者らしく自由気ままに時間を潰した。そのおかげで、ここ数日ナベリウスのせいで溜まっていたストレスを発散できた。あの自称悪魔は、暇を見つけては色仕掛けをしてくるのだ。健全な若い男としては、ストレスが大変なことになる。
 心機一転、というやつだろう。
 これからはナベリウスのやつからイニシアチブを奪い取ってみせる。今までは、ちょっと落ち着きが足りなかった。もう少し冷静に対処すれば、きっと俺にも勝機があるに違いない。
 ……ふと。
 いつの間にか、あの少女を当たり前のように受け入れている自分に気付いた。
 まだ出会って数日しか経っていないのに、体感的には何年もの時間を共に過ごしてきた気もする。
 本当、よく分からない。いったいなんなんだ、あの女は。

「……はぁ」

 空を見上げると、そこには見事な三日月と、まばらな星々が顔を覗かせていた。携帯電話で時刻を確認してみると、午後七時半を回ったところだった。
 駅前で託哉と別れた俺は、一人で帰路についていた。仕事を終えたサラリーマンも、街に繰り出していた学生も、みんな完全に帰宅したのだろうか。住宅街は、しんと耳鳴りが聞こえてきそうなほどに静まり返っていた。
 街の中心部。それこそ駅前とか繁華街は、この時間帯でも大層な賑わいを見せているものだが、これといったアミューズメント施設がない住宅街は例外だ。
 娯楽がないのだから、必要以上に人が寄り付かない。
 出歩く人間も皆無。きっと今頃、各家庭では夕食が始まっていることだろう。
 だから早く帰らなくちゃいけない。
 きっと家では、ナベリウスが晩御飯を作ってくれているはずだから。
 べつに楽しみなんかじゃないけど、俺が「美味しい」って言うたびに、あいつが嬉しそうに笑うもんだから……つまり、その締まりのない顔を見たいだけなのだ。他意はないのだ。本当なのだ。
 歩く。
 歩く。
 歩く。
 人気のない道を。
 無音の住宅街を。
 誰一人として見当たらず、俺一人の足音しかしない夜を、歩く。
 犬の鳴き声も、一家団欒の気配も、しない。

「……おかしいな」

 独り言だった。
 夜の帳に放たれた声は、ほんの少しだけ静寂と拮抗したあと、霧散して消えていった。
 そう。
 完全と言ってもいい、完璧と呼んでもいい――それほど人がいない。犬もいない。虫もいない。鳥もいない。人間がいない。動物がいない。


 誰も、いない。


 ゾクリと背筋に何かが這い上がる。
 なんとも言えない危機感のようなものを感じて、俺は立ち止まっていた。
 周囲を見渡す。
 そこらの民家には明かりが付いている――けれど人の気配を感じない。
 どうなってるんだ。
 どうして誰ともすれ違わない。
 ここまで来ると、おかしくなったのは世界のほうではなく、俺のような気がしてきた。
 ……おかしい、か。
 そういや今朝のニュースで言ってたっけな。この街で殺人事件が起こったとか。被害者は高校生、しかも女の子。凶器は刃物のようなもの。犯人は不明。動機も不明。手がかりは今のところなし。
 にも関わらず、大学の空気はいつもどおりで――まあ他人が殺されたぐらいで、いちいち生活習慣を変える人も稀だろうけど。
 結局のところ、みんな他人事だと思ってるんだ。それは俺だって同じ――
 だから。
 今このとき。
 背後に何者かの気配を感じたとしても――それは犯人ではないはず。
 ゆっくりと振り返ってみる。誰の姿も見えない。どうやら薄暗い闇の中に、うまく身を隠しているようだった。


 ――俺以外の人間がいた、という安心と。
 ――俺たち以外に人間がいない、という不安。


 長考した末、とりあえず歩いてみることにした。
 こつん、と足音が一つ――いや、二つ。
 百メートルほど適当に歩く。念のため、わざとらしく右に曲がったり左に曲がったりしてみたが、ご丁寧に追いかけてきやがった。
 そろそろいいか、と歩みを止めてみる。すると俺の後ろにいる野郎も足を止めた。
 ……なるほど。
 少なくともストーカー以上、殺人犯以下のやつに俺は尾けられてるらしい。
 でも、だからこそ――こんなときだからこそ、冷静になるべきだろう。
 まずは状況を客観的に分析する。
 周囲に人の気配なし、つまりいざという時の助っ人は期待できない。
 背後に人の気配あり、しかも確実に俺を尾けている。
 手持ちの武器はなし、せいぜい教科書やノートの入った鞄が盾として使用できるぐらいか。
 相手の素性や目的は分からないが、もしもヤツが殺人犯だとしたら、ナイフ以上の装備を持っているだろうことは想像に難くない。
 ……まずい。
 あまりにも分からないことが多すぎる。せめて相手の顔だけでも確認できればイメージも立てられるのだけど、この暗闇の中じゃ贅沢は言えない。
 俺はこう見えても、ガキのときから空手に打ち込んできた。だから徒手空拳の争いならば自信がある。でも相手が刃物を持っていた場合、俺のアドバンテージは一気に崩れ去る。
 だから俺は、つま先で地面をとんとんと叩いたあと、一目散に駆け出した。

 いや、逃げ出した。

 やばくなったから逃げるのではない。やばくならないように逃げるのだ。第一、いくら空手を習っていたからと言っても、殺人犯を敵に回すのは普通に怖い。可愛い女の子が人質になっているとかならまだしも。
 夜の住宅街を駆ける。
 運動能力には多少の自信があるので、本気で走ればそう簡単には追いつかれないつもりだった。
 でも背後からは変わらず足音が聞こえてくる。

「くそっ――!」

 距離は広まるどころか、むしろ縮まっているようだった。 
 やっぱりだ、間違いない、誰かが俺を追いかけてきてるんだ……!
 まだ肌寒さの残る四月の夜なのに、体は熱を持ち、微かに発汗を始めていた。額から流れた汗が頬を伝い、顎を通ってアスファルトの路面へと消えていく。
 おかしな話だが、俺には予感があったのだ。捕まれば殺される、と。だから俺は、体操着でもないのに全力で走っているのかもしれなかった。
 闇夜の鬼ごっこが始まってから、どれほどの時間が経過したのか。ふと気付けば、背後に迫っていた気配は完全に消えていた。それこそ煙のように。
 追ってきたのも突然なら。
 姿を消したのも突然だった。

「……振り切った?」

 汗を拭いながらも警戒を続けていた俺は、そのとき犬の鳴き声を聞いた。それも尋常じゃない声量。怪しい人間を見かけたから吼えた、危害を加えようとしてきたから威嚇した――そんな生易しいものではなく。
 まるで……断末魔に似た泣き声だった。
 止めておけばよかったのに、俺は何かに誘われるようにして犬の声がしたほうへと歩き出した。その途中で、何度か人間とすれ違った。かなりの汗をかいている俺を不審な目で見てきたが、気にしないことにした。
 辿り着いたのは小さな公園だった。ブランコ、シーソー、ジャングルジム、砂場といったメジャーな遊具が目立つ。また敷地を囲うようにして桜の木々が植えてある。なるほど、夜桜も悪くない。
 もう危険の気配も、異常の残滓もなかった。
 しかし。

「……んだよ、これ」

 拳を強く握り締めて、それをまっすぐに見つめる。
 大きな桜の木の下、俺の眼下に広がっていたのは、仔犬の死体だった。頭が、手が、足が、胴体が切断されて、あたりに散らばっている。
 つまり俺が聞いた犬の鳴き声は、この犬の断末魔だったということか……?
 唇を噛み締める。鉄のような味が口内に広がったが、だからなんだという話だった。
 この殺害方法には、明らかな悪意がある。うっかりと命を奪ってしまった、という言い訳は利かない。
 ああ、そっか。

「……俺のせい、だよな」

 この犬が殺された現場は見ていないけれど、誰がやったのかは容易に想像がつく。きっと俺を追いかけていた野郎が犯人だ。鬼ごっこの途中で、偶然にも目に入った獲物を気まぐれに惨殺。動機は不明。逃げた俺への当てつけか、あるいは初めから、生き物を殺せるのなら何でもよくて、たまたま最初に見つけた獲物が俺だっただけの話で、第二の獲物を見つけた瞬間、ターゲットはこの子に変わっただけなのかもしれない。
 俺は鞄をベンチの上に放り投げると、桜の木の下を掘りにかかった。当然スコップはないので、素手で土を退けていく。爪のあいだに泥や砂利が入って気持ち悪かったが、そんなのは関係ない。
 ほどなくして、小さな穴が完成した。

「……こんなのしか用意できねえんだ。ごめんな」

 言い訳のように呟きながら、見るも無残な姿となった子犬を穴に埋めていく。最後に、手間をかけて掘り起こした土をもとに戻すと、そこには小さな墓があった。
 墓標もなく、もしかしたら意味すらないのかもしれないけど。
 それでも無駄じゃないと信じたい。
 桜の下に埋められた仔犬の体は、やがて木々の養分となる。あの小さな命は巡り巡って、いつか花を咲かせるのだ。だから絶対に無駄じゃない。
 公園に備え付けてあった水道で手を洗う。四月の夜の水は、ひたすらに冷たかった。




 意識はひどく曖昧だった。
 それでも慣れとは恐ろしいもので、俺は適当に歩いているつもりだったのだが、気付けば家に辿り着いていた。
 あぁ、ようやく帰ってきた。きっとナベリウスのやつ、カンカンに怒ってるだろうな。もう夜の九時を回っちゃってるし。
 でも予想に反して、萩原邸は無人だった。明かりもついていないし、誰の気配もしない。どうやらナベリウスはいないらしかった。
 ……あれだけ留守番してろって釘を刺しておいたのに。
 普段の俺だったら、きっとナベリウスを心配して家の近辺を探し回るぐらいはやっただろうけど、いまはそんな気力もなかった。
 ただ、眠りたい。
 色々と疲れた。
 とりあえず体よりも、頭のほうに休みを与えてやりたい。
 風呂ぐらいは入りたかったが、すこし悩んだ末、やっぱり止めておいた。その代わり濡れタオルで軽く体を拭いて、顔と手を洗う。
 着ていた服を洗濯機の中に放り込んで、タンクトップとジャージを着て、自分の部屋に戻る。そのまま明かりを灯すことなく、倒れるようにしてベッドに飛び込んだ。
 目を瞑ると、すぐに眠気はやってきた。深い奈落の底に落ちていくような感覚が身を包む。意識がたゆたい、現実と夢の境界線があやふやになった。
 ……考えることは山ほどある。
 俺を尾けていたのは誰なのか。そいつは本当にくだんの殺人犯なのか。仔犬を殺したのもそいつの仕業なのか。
 そして、ナベリウスはどこに行ったんだ?
 あれだけ留守番してろって釘を刺したのに。ちゃんと「分かったわ」って笑顔を浮かべながら頷いてくれたのに。
 そういや、あいつ言ってたっけ。

 ――ちょっと用が出来たのよね。

 これまで彼女に私用があったところなんて見たことなかったのに。
 もしかして、その”用”のために、ナベリウスは家を空けているのだろうか。
 ……ああ、きっとそうなんだろう。
 俺の「留守番をたのむ」っていうお願いを破ってまで、こんな夜中に女の子一人で出歩いてまで、どうしても為さなければならない用が、ナベリウスにはあるんだ。
 頭の片隅でぼんやりと思考しながら、いつしか俺は睡魔に身をゆだねていた。



[29805] 0-8 急転
Name: テツヲ◆c49d9b75 ID:366fa69a
Date: 2012/03/09 13:41
 ――どうして? ねえお母さん、どうして?
 そう少女は泣きました。


****


 俺がストーカー野郎に追い回された日から、一週間が経っていた。あれ以来、これといった問題もなく、拍子抜けするほど平穏な日々が続いている。
 ただ、あの日から一つだけ決定的な変化が見られるようになった。ナベリウスのやつが、深夜になると家を空けるようになったのだ。
 ちょっと前なら、俺のベッドに潜り込んできたり、裸にワイシャツという実にマニアックな格好で迫ってきたりと、それはもう小悪魔全開の様子だったのに、最近はどことなく態度が冷たい気がする。
 もちろん表面上は、これっぽっちも変わっていない。
 甲斐甲斐しく飯を作ってくれるし、風呂を沸かしてくれるし、洗濯もしてくれるし、花に水をやってくれる――
 でも言葉では言い表せない微妙な差異が、最近のナベリウスからは感じられた。その変化が微妙すぎるものだから、問い詰めようにもどう言えばいいか分からず、結果としてわだかまりを解消できずにいた。
 近頃の彼女は、街が寝静まった頃に家を出て、夜明け前になると何食わぬ顔で帰ってくる――というサイクルだった。
 ここで最大の問題は、ナベリウスのやつが深夜、家を空けたときは決まって――殺人事件の新たな被害者が発見されること。
 これは果たして偶然の一致なのか……?
 考えてみれば、俺はナベリウスのことをほとんど知らない。
 人種も、生まれも、思惑も、目的も――本当になにも。唯一知っているのは、名前ぐらいか。
 謎は、やがて疑惑を生む。
 でもいつまでも見てみぬフリはできない。

 だから聞いてみようと思う。
 今日、家に帰ったら。
 今夜、彼女に会ったら。
 ナベリウスに、俺の知らないあいつのことを、あいつの口から聞きたいと思うのだ。

 殺人事件のほうは、すでに犠牲者は最初の一人から数えて、計三人にまで上っている。手口は一緒、遺体の死因や殺害状況も一緒。にも関わらず、事件解決の糸口は掴めていない。一部では警察の捜査能力を疑問視する声まで出ているぐらいだった。
 付近の小学校では集団登下校が実施されており、中学・高校でもクラブ活動が一時的に禁止されている。
 そんななか、大学には何の変化もなかった。まあ学生の半分ほどが成人であり、各々が責任能力を持っているということもあって、学校側から学生の行動に制限をかける必要もないと判断したのだろう。
 それでもやっぱり、街全体がどこか浮ついているような感じは確実にあった。

 しかしまあ、色々と偉そうなことを述べたものの、いま最も浮ついているのは俺とか託哉なのかもしれなかった。
 繁華街の通りにある居酒屋の一つ。名を『九心伝』。東日本を中心にチェーン展開する店であり、安定したサービスと一風変わったメニューが売りの店舗である。
 店内はやや薄暗く、どこか大人っぽい感じの音楽が談笑の邪魔にならない程度に流れており、雰囲気自体は悪くない。
 カウンター席とテーブル席と座敷席があって、俺たちはテーブル席に腰掛けていた。
 メンバーは、俺と託哉を含めて男子五人と、託哉が連れてきた大学の一回生――俺と同期かつ同学の――女の子たち五人の、計十人だった。
 まあ。
 簡単に言っちゃえば、合コンをしているわけである。
 街を密かに賑わせる殺人事件も、週末の居酒屋には勝てないらしく、店内は祭りに似た喧騒で満ちていた。
 女好きの託哉が連れてきた女の子たちは、揃いも揃って目を惹く美人ばかりだった。みんな愛らしい容姿だし、スタイルだって優れてるし、性格だって悪くなさそうだ。
 聞くところによると――ここ最近覇気が見られなかった俺を元気付けようと、託哉のやつが多方面に声をかけて、とびっきりの女の子たちを呼んでくれたというのだ。
 まあ託哉は、俺とは違って男らしい顔立ちをしているし、女性ウケがいいのかもしれない。だから人脈が広いというか、色んなところに顔が利くという一面も持っている。


 ――夕貴。おまえが元気になってくれるなら、オレは本望だよ。


 一時間半ほど前に、俺の肩に手を置いて朗らかに笑いながら、託哉はそんな格好いい台詞を披露してくれた。しかし酒が入った今となっては一匹の野獣と化しているらしく、ほどよく顔を赤らめた託哉は、歯の浮くようなトークで女の子を口説いていた。
 俺の方はというと、合コンが始まってから三十分ぐらいの間は、ひっきりなしに女性陣から話しかけられたり質問攻めに合っていたのだが、愛想のない返事を繰り返すうちに、いつしか見限られてしまった。
 それでも時折、露骨に身体を寄せてきながら「ねえ夕貴くぅ~ん、携帯のアドレス教えてよぉ~」と猫撫で声で迫ってくるのだから始末が悪い。

 確かに託哉が集めた女の子たちは、類を見ない美人ばかりだ。
 でも俺って、あまり派手な女の子は好きじゃないんだよな。もっと清楚な感じの子がいいっていうか。
 託哉が連れてきた女の子たちは、どうも男慣れしすぎていて、俺には敷居が高すぎる。まあ、こんな女みたいな顔をしたやつに好意を持ってくれる女性なんて、滅多にいないだろうけど。
 テーブル席の隅っこに陣取っている俺は、これでもかと盛り上がっている託哉たちを横目に、一人チビチビとお酒を飲んでいた。
 ふと視線を感じたのは、そのときだった。

「ぁ――」

 蚊の鳴くような声。
 視線の主は、俺の対面に座っている女の子だった。
 合コンに臨む女子にしては珍しい、わりと大人しめの服装。一度も染めたことのなさそうな黒髪は、肩の高さで切り揃えられている。滑らかな白い肌は、きっと意識的に日焼けを避けているからだろう。
 清楚な容姿と、控えめな態度は、その整った顔立ちも相まって、どこか良家のお嬢様を連想させた。

「……えっと、なんか用?」

 じぃーと見つめてくるので、不審に思って声をかけてみると、彼女の頬がほんのりと赤くなった。

「あの……ごめんね。もしかして迷惑だったかな……?」
「べつに謝らなくていいし、迷惑でもないけど――ただ気になったんだよ。どうして俺のこと見てんだろうって」
「うーん、どうしてかな? 自分でもよく分からないけど、夕貴くんのことが気になったの」

 あれ、この子、なんで俺の名前を知ってるんだろう?
 ……って、そういえば始めに簡単な自己紹介をしたっけ。すっかり忘れてた。
 自己紹介があったことを忘れていたのだから、当然俺はこの子の名前も覚えていない。

「……あっ、ごめんね夕貴くん。わたし、櫻井彩って言います」

 俺の表情から察してくれたのだろう、彼女――櫻井彩は、ぺこりと頭を下げながら名乗ってくれた。どうやら、見た目どおりの礼儀正しい女の子らしい。

「丁寧にありがとう。俺のほうこそ、櫻井さんの名前を覚えてなくて悪かった。ごめんな」
「ううん、気にしてないから謝らないで。それと櫻井さんじゃなくて彩でいいよ。あんまり苗字で呼ばれたくないの」
「……じゃあ、彩さん、でいいのか?」

 あんまり女性を名前で呼ぶの、慣れてないんだけどな。
 しかし彼女は、さらなる難題を課してきた。

「彩、って呼んでくれると……嬉しいな」

 ちょっぴり頬を染めて、俯き加減に、それこそ独り言のようにつぶやく。
 まあ彼女の要望であるのだし、ここは素直に従うべきか。

「……彩」

 やばい。
 なんだか妙に気恥ずかしいぞ。というのも、彩が一世一代の告白を前にしたかのように照れているから、その羞恥さんが俺にも伝染してきやがったのだ。
 なんとも言えないぎこちない空気が流れる。まるで付き合いたてのカップルみたいだ。
 俺は沈黙に耐え切れず、

「そういえばさっき、俺のことが気になった、と言ってたよな。あれって何で?」 

 そんな無神経な質問をしていた。
 彩は、お酒の入ったコップを両手で持ちながら、うーんと小首を傾げた。

「そうね、なんて言えばいいのかなぁ――私には、夕貴くんが楽しんでいるようには見えなかったのよね。むしろ……こんなことを言うと失礼に当たるかもしれないけど……どことなく、不機嫌そうに見えたの。それで気になっちゃって」

 小さく舌を出して、ごめんね、と彩。

「いや、そんなつもりはなかったんだけどな。もしかして気分を悪くさせたか?」
「全然。むしろ安心しちゃった」

 チビチビと酒を飲みながら、彼女は続けた。

「私もね、本当はあまり乗り気じゃなかったんだ。でも、いい機会だと思って参加することにしたの」
「いい機会?」
「そう。実は私、ちょっとだけ男の人が苦手なの。だから少しでも男性を好きになれるといいなぁ、と思って」
「なるほどな。それで、調子はどうなんだ?」

 彩は、力なく首を横に振って苦笑した。

「今日こそはっ、って意気込んでたんだけど、やっぱりダメみたい。男の人に話しかけられると、頭の中が真っ白になって、なんだか不安になって、身体が震えちゃうの。……弱いよね、私って」

 男に声をかけられると、頭が真っ白になり、不安になり、身体が震えてしまう――と彩は言うが、それは果たして”ちょっとだけ苦手”というレベルなのだろうか?
 いま彩が挙げた症状は、男性恐怖症の例に当てはまる。
 子供のころ、父親や兄からの虐待を受けた経験、または異性から性的暴行を受けたといった経験が、精神的な傷となり心理的なトラウマを生むのが男性恐怖症だ。
 もしかして彩は、かつて異性との間に、何かよからぬ出来事があったのだろうか?
 ……いや、これは俺が興味本位で邪推していいことじゃないな。

「そっか。でも彩、一つだけ気になることがあるんだけど、聞いていいか?」
「うん、いいよ」
「……さっきから、俺とは普通に話せてねえか?」

 実はこのとき、すでに嫌な予感がしていた。
 だが俺の葛藤など知る由もない彩は、

「だって夕貴くんって、女の子みたいに可愛い顔してるんだもの。だからかな? 不思議と夕貴くんのこと、恐いって思わないのよね」

 と、無邪気に言った。

「……そ、そうか。そうだよな。やっぱそういうことだよな……」

 きっと俺の顔は、凄まじく引きつっていたと思う。
 ……でも、ここで怒っちゃだめだ。きっと彼女は”褒め言葉”のつもりで言ったんだ。だから彩の好意を”悪口”と誤解してはいけない。
 天然なのか、あえて無視してるのか――俺が負ったダメージに気付かない彩は、内緒話をするように顔を寄せてきた。

「あのね、さっきお友達とお化粧直しに行ったとき聞いたんだけどね。みんな夕貴くんのこと狙ってるらしいよ。……ほら、いまだって、夕貴くんのこと気にしてるでしょう?」

 確かに、他の女の子たちが、気付かれない程度のさりげなさを装って、ちらちらと俺に視線を送っているような。
 そうこうしているうちに「ちょっと彩ー! さっき抜け駆けなしだって言ったじゃん!」とか「あぁー! あたしが話しかけても、まったく返事してくれなかったのにー!」とか、なんとも姦しい声が飛んできた。
 託哉と談笑していた女の子たちが声の正体だった。
 ……あれ、もしかして俺、モテてる?
 いや、勘違いするな萩原夕貴。彼女たちには俺の顔立ちが物珍しく映ったんだ。それだけなのだ。
 幸いというべきか、託哉は完全に出来上がっており、女性陣の興味が俺に移っていることに気付いていない様子だった。

「……怒られちゃったね」

 首を傾げて、小さく舌を出し、てへへ、と彩は笑った。
 その笑顔を見て、一瞬だけドキっとしてしまった。
 彩は大人しくて目立たない感じの女の子だが、顔立ちは整っているし、十分に愛らしい容姿をしている。絶対に料理とか得意なタイプの子だ。まあ偏見だけど。
 それから俺たちは、酒が入って祭りのごとく盛り上がる居酒屋の隅っこで、他愛もない話に興じていた。
 好きなテレビ番組の話とか、最近気になってる芸能人は誰かとか、この前聴いたあの曲がよかったとか。
 実のある話も、実のない話もあった。

「俺は、どちらかと言えば犬が好きかな」
「そうかな? 絶対に猫のほうが可愛いよ。むしろ私、あんまり犬って好きじゃないんだよね」

 とか。

「そういえば大学の二年上の先輩に、グラビアアイドルの人がいるらしいよ」
「マジで? 今度、託哉に教えてやろうかな……」

 とか。

「ああ、俺の家って母子家庭なんだ。だから女手一つで俺を育ててくれた母さんを尊敬してるし、早く楽をさせてあげたいと思ってる」
「うん、私もお母さんのことが大好きだよ。いつか恩返ししたいと思ってるもん」

 とか。
 特に印象に残ったのが、母親の話だ。どうやら彩も母親のことが大好きらしく、この話題だけで三十分は消費したと思う。それでも物足りないと感じるのだから、やっぱり俺はマザコンなのだろうか?


 ――こんな話をしてると、お母さんに会いたくなっちゃうね。ううん、会いに行っちゃおうかな。


 気恥ずかしそうに苦笑しながら、相も変わらず酒をチビチビと舐めながら、彩はそんな粋な台詞を言った。
 なるほど、やっぱりいい子である。母親を大事にする人間に、悪いやつはいない。by萩原夕貴。
 当初は楽しめないと思っていた合コンだったが、彩と話すようになってからは満更でもなかった。異性として好きになったわけじゃないけれど、友達としては是非付き合っていきたいなぁ、と思えるぐらいには彼女に好感を抱いていた。
 これで大学での友人が一人出来たことになる。そう考えると、今日の合コンにも大きな意味があるように思えた。
 賑々しい空気に満ちた居酒屋は、むしろこれからが最高潮だと言わんばかりの様相を見せている。午前五時まで営業している店だから、この時間から入店する客も少なくないのだ。
 でも俺たちはもうすぐお開きだろう。みんな泥酔と言っていいぐらいに酔っ払ってるわけだし、二次会の予定もないし。

「ねえ夕貴くん。さっきから思ってたんだけどね――」

 なんだか酒を飲むペースが早くなったような気がしないでもない彩は、ほっぺたを赤く上気させたまま、楽しげな笑顔を浮かべていた。
 俺は、この合コンが終わりを迎えるそのときまで、彼女の声に耳を傾け続けていた。




 合コンが終わったのは、それから三十分後。
 俺たちは割り勘で支払いを済ませたあと、居酒屋の前で解散することになった。
 すでに時刻は午後十一時を回っており、夜もたけなわといったところである。しかし週末の繁華街は、煌びやかなネオンの光も相まって、不夜城のごとき賑わいを見せていた。
 さて、じゃあ後は何事もなく帰宅するだけ――とは問屋が卸さなかった。泥酔した人間が多すぎたので、家が近いもの同士で帰ることになったのだ。
 駅の改札に消える子や、タクシーに乗り込む子たちに手を振って別れを告げていくうちに、その場に残されたのは俺と、びっくりするぐらい泥酔した彩の、二人だけになってしまった。

「……ごめん、ね……夕貴くん」

 酔っ払った女の子を一人残して帰ってしまうほど、俺は恥知らずじゃない。
 ふらふらと頼りなく揺れる彩の身体を支えながら、ほとんど二人三脚に近い状態で、俺たちは夜の静かな住宅街を歩いていた。

「別にいいって。それよりおまえ大丈夫なのかよ」

 あまり酒を飲んでいなかった俺の意識は、透き通るぐらいクリアだった。酒の影響と言えば、やや体が火照っている程度。

「……うん、たぶん……大丈夫……のような、気がする……」
「絶対大丈夫じゃないだろ……」

 壊れたテープレコーダー寸前の彩は、俺に重心の多くを預けていた。
 おかげで柔らかな身体が密着してしまう。触れ合った部分は、燃えるように熱かった。さりげなく鼻腔をくすぐるのは、量産品である香水の類とは対照的な、ほのかな石鹸の香り。
 彩は小さな鞄を持っていた。
 邪魔になるだろうから、俺が代わりに持ってやろうか、と提案してみたが、きっぱりと断られてしまった。


 ――女の子の鞄には、男の子には言えない秘密が詰まってるんだよ。


 とは彼女の談である。
 まあ化粧品やブラシを初めとした女の子にとっての必需品が、あの鞄には入っているんだろうな。男に触れられたくないって気持ちも分からないでもない。
 泥酔して立つこともままならない彩は、しかし鞄だけは絶対に手放そうとしなかった。だから俺も、その意思を尊重することにしたのだ。

「……ぅっ、ごめ……夕貴くん、ちょっと、休ませて……」

 口元を手で押さえたと思った瞬間、彩の身体が弛緩した。

「おい、大丈夫かっ?」
「そこ……」

 彩が指差した先には、かなり大きな公園があった。あの仔犬を埋葬した公園とは場所も、規模も違っている。
 やや逡巡したが、このまま彩を歩かせるのは無理があると判断し、すこしのあいだ公園内で休むことにした。
 適当なベンチを見つけると、そこに彩を座らせた。だが彼女の身体はずるずると斜めに傾いていき、やがて仰向けに寝転んでしまった。

「……ん」

 悩ましげに吐息を漏らす彩は、すっかりと両目を閉じていた。……まさか寝ちまうつもりじゃないだろうな。
 手持ち無沙汰となった俺は、とりあえずミネラルウォーターでも買ってこようと思った。幸い、公園のすぐ近くで自動販売機を見た覚えがあった。

「彩。一分ほど外すけど、大丈夫か?」
「……うん、だいじょ、ぶ……」

 全然大丈夫じゃなさそうな声だったが、まあ俺が急げば済む話だし、それまで彩にはすこし眠らせてやってもいいだろう。

「じゃあ、すぐ戻るから」

 言ってから、競歩に近いスピードで歩き出す。なるべくはやく彩のもとに帰らないと。
 ……まったく、妙なことになっちゃったな。
 頭の隅っこで愚痴を零しながら、たまにはこんなハプニングも悪くはないかな、と考える自分もいた。

「……いや」

 思わず、違うだろう、と苦笑してしまう。
 たまには、だって?
 それを言うなら、ナベリウスが萩原家に居候するようになってから毎日がハプニングなのだから、まったく”たまには”じゃないよなぁ。
 ナベリウスのやつ、ちゃんと留守番してくれているんだろうか?
 疑いたくはないけど、前例があるだけに楽観も出来ない。
 夜桜の下を歩きながら、もう一度だけ決意を固める。今夜家に帰ったら、ナベリウスに詳しく話を聞こう、と。
 悪魔の話も(これは嘘だろうけど)、母さんとの関係も、どうして俺の元に現れたのかも、全部聞いてやる。その上で、あいつを真正面から受け止めるんだ。

「……ん?」

 視界の端に、見慣れた銀髪が映ったような気がした。
 立ち止まって周囲を見渡してみる。だがナベリウスらしき人影は、草の根を分けて探しても見つかりそうになかった。
 気のせい……か?
 まあ俺も多少アルコールが入ってるし、見間違いの一つや二つがあってもおかしくないか。つまり見間違いだ。あんな悪魔みたいな女は、この世に一人しか要らない。
 しばらく歩いた先、見つけた自販機でミネラルウォーターを二つ買い求める。俺も喉が渇いていることに気付いたのだ。
 さて、あとは彩の元に帰るだけ。
 ミネラルウォーターを手に入れたからか、行きよりも若干遅いスピードで歩いていた俺は、それが最大のミスであったことを直後に知る。


 耳を劈くような、甲高い女性の悲鳴が、聞こえた。


「――っ!?」

 戸惑いは一瞬。
 考えるよりも先に体が反応していた。せっかく買ったミネラルウォーターもその場に投げ捨てて。
 だって聞こえてきた女性の声は、間違いなく彩のものだったから。お母さんのことが大好きなの、と嬉しそうに話した声を、俺が聞き間違えるわけがない。
 全速力で走った。もしも鞭があったのなら、俺は自分の尻を叩いていただろう。それほど遮二無二な走りだった。

「……彩っ!」

 悲鳴を聞いてから、きっと二十秒も経っていない。いや、二十秒もかかってしまったと恥じるべきなのかもしれない。
 彼女を寝かせたベンチを見つけた。でもそこには泥酔している女子大生の姿はなかった。彩の姿は、煙のように消えていた。

「――え」

 次の瞬間、俺は自分の目を疑った。
 よくよく観察してみれば。
 ベンチから数メートル離れた場所に、何かが転がっている。かなり大きな物体だった。ちょうど人間大ほどだろうか。

「……マジかよ」

 果たして。
 それは、人間の死体だった。
 性別は男。服装や身なりからして、恐らく浮浪者だろう。顔がよく見えないので年齢は分からないが、少なくとも三十は超えていそうだ。彼は、体中を刃物のようなもので傷つけられており、夥しいまでの出血だった。俺が一目で死体だと看破したのも、その出血量のためだ。
 これはあれか。もしかして、第四の殺人事件ってことか?
 ……くそっ、落ち着け。ここで焦ってどうすんだ。
 パニック寸前の頭を何とか押さえつける。平凡な大学生の俺にとって、成人男性の死体を発見する、という出来事は明らかなキャパシティオーバーだが、それでも冷静になろうと努めた。
 ここで取り乱しても始まらない。
 まずは警察を……いや、それよりも先に彩を探さないと。

「どうかな、夕貴くん。楽しんでもらえた? 夜桜よりも、よっぽど綺麗でしょう?」

 俺が誰よりも探していた女の子の声が、背後から聞こえた。

「彩っ!」

 振り向く。
 そして同時に、息を呑んだ。
 俺の背後にいたのは、櫻井彩。
 でも残念ながら、素直に喜べそうにない。
 だってさ。
 彩の身体は、嘘みたいに返り血を浴びて真っ赤になってるし。
 その顔には、まるで悪魔みたいに狂気的な笑顔が浮かんでるんだぞ?
 これがテレビ番組のドッキリなら、俺は仕組んだプロデューサーを非難するどころか、むしろ天才的だなと絶賛しただろう。
 ……あぁ、そっか。
 これってもしかして彩なりのジョークなんじゃないか?
 だって、あんな可愛い女の子が、お母さんが大好きと言っていた女の子が――人殺しなんてするはずがないじゃねえか。

「あはは、夕貴くんってさ。本当に可愛いよね」

 彩の手には、べっとりと血の付着した包丁が握られていた。
 そして、その刃についた血をペロリと舌で舐めとって、彩はゾッとするほど美しい声で、言った。

「本当に、殺しちゃいたいぐらい可愛いよ――夕貴くん」




[29805] 0-9 飲み込まれた心
Name: テツヲ◆c49d9b75 ID:366fa69a
Date: 2012/03/13 22:43
 ――止めて! お願いだから止めてよぉ!
 そう少女は叫びました。


 ****


「あはっ、いい顔してる。やっぱり夕貴くんって、可愛いよね。きっと女の子にモテモテなんだろうね」

 全身に返り血を浴び、血に塗れた包丁を持ち、足元に死体を放置し、それでも彩は、とても可愛らしい笑顔で場違いな言葉を口にした。

「……そこの人を殺したのは、おまえか?」

 これだけは、どうしても聞いておきたかった。
 例え、分かりきった答えだとしても――残された希望に縋るために、唯一残った期待を捨てるために、この問いは必要だったんだ。
 現実は、残酷だった。

「そうだよ。私が殺したの。それが、どうかした?」

 きょとん、と首を傾げて、そんなの見れば分かるでしょう、と彩は続けた。
 その落ち着いた口調と、小鳥みたいな仕草が、居酒屋で初めて話したときの彩と重なって見える。

「なんでだよ……なにしてんだよ、てめえは!」
「あれ、どうして怒るの? だって悪いのは、その人のほうなんだよ?」

 まるで汚らわしいものを見る目で、彩は成人男性の死体を指差した。

「たしか――夕貴くんがどこかに行って、ちょっとしてからかな。公園の隅っこにいたその人が、ふらふらーって歩いてきたかと思うと、ベンチで寝てた私に襲い掛かってきたの」

 恐かったよー、と。
 まったく恐くなさそうに――むしろ冷笑さえ湛えて、彩は自分の身体をかき抱いた。

「私ってね、男の人が苦手だから、思わず悲鳴を上げちゃったの。当然だよね。だって乱暴されそうになったんだし。うん、そうそう。女の子なら、誰だって悲鳴を上げるよね。だって――犯されるのって、とっても痛くて恐いもんね」

 まるで男性から性的暴行を受けたことがあるような口ぶりだった。
 だが彩の話を聞く限りでは、彼女は完全なる被害者に思える。普通の女子大生が泥酔しているところを襲われて、助けを呼ぼうと声を張り上げただけなのだから。

「うん、本当に恐かったからぁ」

 彩は楽しげに微笑み、

「そこの人には、死んでもらうことにしたの。女の子に乱暴しようとしたんだから、それぐらいの報いはあって当然よね」

 俺の抱いた希望的観測を粉々に砕いたのだった。
 つまり。
 櫻井彩こそが殺人事件の犯人である、という実に簡単な話。

「……殺すことは、ないだろ」
「うん? どうして?」
「バカが! てめえ分かってんのか!? 誰かを殺しちまったら、おまえだって罪を問われんだぞ! これは明らかに正当防衛じゃない。おまえがやったことは、ただの過剰防衛なんだよ!」
「なるほど。夕貴くんって、頭いいんだね」
「ふざけんなっ! 寝言も大概にしろ、この大馬鹿野郎ぉ――!」

 深夜の公園に、焦った男のみっともない声が残響した。
 身構えたまま警戒している俺とは対照的に、彩は包丁を両手で弄んでいた。

「……分かんない。夕貴くん、どうして怒ってるの? ……あぁ、もしかして私が人を殺しちゃったから、警察に捕まるんじゃないって、心配してくれてるの?」
「心配してねえ。俺は怒ってんだよ……!」

 拳を握り締めながら、歯の隙間から搾り出すみたいに言葉を吐き出す。
 脳裏に去来するのは――居酒屋で楽しそうに酒を飲んでいた彩の姿。
 お母さんのことが大好きだと、今すぐにでも会いに行きたいと、はにかみながら彩は言ったんだ。
 本当に頭に来る。怒りのあまり脳が沸騰しそうだ。
 だって。

「おまえが人を殺して、誰よりも悲しむのは――――彩のお母さんだろうがっ!」
「…………」

 その言葉と同時、彩の顔に浮かんでいた冷笑が消えた。

「いつか恩返ししたいって――お母さんのことが大好きだって、そう言ってたじゃねえか! あんときのおまえ、めちゃくちゃ綺麗に笑ってたじゃねえか! なのに、どうしてだよ……! なんでお母さんを悲しませるようなことすんだよ……!」

 もう涙さえ出そうだった。
 色々と考えることはあるし、重大な違和感を見落としている気もするけど、それよりも涙を我慢するので精一杯だった。
 子供が母親を慕うのは当たり前だけど、母親が子供を愛するのも当然なんだ。
 だから何があっても、お母さんを悲しませることだけは絶対にやっちゃいけない。これは義務じゃなくて、もはや使命だ。俺たち子供が、産みの親である母親に見せていいのは、幸せに笑う未来だけなのだから。
 もちろん、それが理想論なのは分かってる。
 でも理想と分かっていても――いや、理想と分かっているからこそ俺は、そのマザコン染みた夢が好きだ。
 俺が伝えたいことは、もうすべて言葉にした。あとは彩に期待するしかない。彼女に、ほんの少しでも良心が残っているのなら――

「……つまんないなぁ」

 彩は肩をすくめる。

「なにそれ、命乞い? あんまり私を怒らせないでよ夕貴くん」

 冷たい視線。
 空気そのものが質量を持ったかのように重たく感じて、それが体の動きを縛ってくる。
 ……もしかして、これが殺気ってやつか?
 人間は両目を瞑っていても、なにか鋭いものを顔に向けられれば、なんともいえない嫌な気分になる。その感じを何百倍にも濃くしたものが、きっと殺気なんだろう。

「それにね、夕貴くんは勘違いしてるよ? だって私、警察になんて捕まらないもん」

 彩はゆっくりと歩き出した。俺を中心点として、その円周を描くような軌跡を辿りながら。

「考えてみれば簡単な話だと思わない? いくら悪いことをしても、それに気付く人がいないと、犯人の特定は難しくなるよね」
「そうだな。でも、おまえの悪事は俺が見た。だから……」
「ううん、誰にも見られてないよ。だってさ――」

 瞬間。
 視界から彩の姿が消えた。
 きちんと警戒していたのに、絶対に見逃すもんかと注意していたのに――あっさりと彩は消えたのだ。
 いったい何が起こってんだ? と、俺が考えるよりも早く。

「ここで夕貴くん、死ぬんだもの」

 一切の感情を排除した抑揚のない声が、背後から聞こえてきた。

「――っ!?」

 振り向く余裕はない。
 ただ勘と反射に任せて、その場にしゃがみこんだ。
 ヒュッ、と鋭い音がして、頭上を刃物が通過していく。逃げ遅れた毛髪だけが、数本だけ切られて宙を舞った。

「へえ、夕貴くんって運動神経もいいんだね――!」

 高揚した彩の声。
 俺を殺そうとしてるのに――テンションが上がってるんだ、こいつは。
 そんなの、ただの殺人狂じゃないか。
 地面を転がって彩から距離を取った俺は、即座に立ち上がると、衣服についた汚れを落とすこともなく身構えた。

「……本気かよ、おまえ」

 マジで俺を殺そうとしてんのかよ。

「もちろん本気よ。第一、このあいだも殺そうとしてあげたでしょう? もう忘れたの?」
「このあいだ?」
「そうそう。ほら、楽しく追いかけっこしたじゃない。まあ途中で犬がうるさく吼えてきたものだからムカついちゃって、あのときは夕貴くんのこと、見逃してあげたけど」

 思わず息を呑んだ。
 楽しく追いかけっこだと?
 途中で犬がうるさく吼えてきた?
 もしかして――あのときのストーカー野郎は、彩だったのか?
 ふと居酒屋での台詞が脳裏をよぎった。

 ――むしろ私、あんまり犬って好きじゃないんだよね。

 偶然にしては、少々出来すぎている気がする。
 つまり彩は、一週間以上も前から俺のことを知っていて、そして俺に殺意を抱いていた――ということだろうか。
 ……いや、待てよ?
 いままで見逃していたが、彩が手にしている包丁はどこから出てきたんだ?
 視線だけを動かして周囲を確認してみる。するとベンチの側には、見慣れた鞄が落ちていた。それは間違いなく彩のものだった。鞄は開いていたが、中身が散乱するどころか、そもそも何も入っていない。
 そういえば。

 ――女の子の鞄には、男の子には言えない秘密が詰まってるんだよ。

 とか言ってたっけ。
 いま思うと悪夢みたいな話だ。
 男の子には言えない秘密って、その血に濡れた包丁のことだったのかよ。
 初めから凶器を持ち歩いていたということは、誰かを殺す予定があったってことだよな。人殺しを――いや、第四の殺人事件を起こすつもりだったってことだよな。
 しかし理解出来ても、納得は出来そうになかった。
 疑問は二つ。
 どうして彩は、人殺しに手を染めた?
 どうして彩は、俺を殺すことに執着している?
 考えても答えは分からない。
 唯一分かるのは、このままだと俺の命が危ないということだけだ。
 だが不幸中の幸いにも、俺には空手の経験があった。それも有段者である。だから刃物を持った素人相手ならば、いくらか対抗は出来るし、その気になれば彩を無力化することもできるかもしれない。
 そうだ、俺がこの子の目を覚ましてやるんだ。事情を聞くのは、それからでも遅くない。

「……分かったぜ、彩。俺を殺せるもんなら、殺してみろよ」

 構える。
 この狂気に侵された娘には、もう何を言っても無駄だろうから。

「格好いいね、夕貴くん。女の子に人気があるのも分かるような気がするよ」

 彩は包丁を握ったまま、無防備に立っているだけ。彼女の言葉は、無視する。そんな暇があるなら、一瞬の隙でもいいから見つけて包丁を奪ってやる。

「実はね、夕貴くんって結構有名なんだよ。とっても素敵な男の子がいるって、私の耳にも入ってきたぐらい」

 彩の動きを観察する。
 足の運び、利き腕、呼吸の間隔、間合いの管理、そして軸足なども一切考慮せずに歩いている。
 たぶん、彼女には武道の経験はない。

「私も初めて夕貴くんを見たときは、運命を感じちゃったなぁ。よく分からないけど、心の奥底が疼く感じがしたの」

 俺は丸腰で、武器になりそうなものは持っていない。
 対して彩は、殺傷性のある刃物を持っている。その差は大きいが、しかし絶望的でもない。確かに包丁は脅威だが、武器を持った素人は、その多くが『武器を使う』のではなく『武器に使われる』ことになる。
 だから彩の凶器にのみ注意すればいい。言うは易し、行うは難しだとしても。

「あれれ? もしかして夕貴くん、女の子と喧嘩するつもりなの?」

 口元を薄っすらと歪ませて、彩は前髪をかき上げる。
 その一瞬を、俺は隙だと判断した。
 迎え撃つのではなく、攻め入る。脚に溜めていた力を解放して、一気に駆け出した。
 前傾姿勢を保ちつつ、包丁にだけ警戒して彩に接近する。恐らく一撃あれば、彼女から意識を奪うことができる。女の子を殴るのは気が引けるが、いまはフェミニストを気取ってる場合じゃない。
 縮まる距離。加速する緊張感。背中をイヤな汗が伝う。俺は腰だめに構えていた拳を突き出した。

「あーあ、見損なったよ夕貴くん」

 そう呟いた彩は、退屈そうな顔をあらわにしたまま、とんと軽やかなステップを踏み、こともなげに俺の拳を避けた。

「――くそっ!」

 完全に見切られてる。あまりにも手ごたえがなさすぎた。
 俺は奥歯を噛み締めたまま、彩に畳み掛けようとして――その姿が視界から消えていることに、ようやく気がついた。

「危ないなぁ。これでも女の子なんだからね」

 耳元に吐息が吹きかけられる。
 慌てて距離を取ろうとするが、それよりも早く、彩のかたちのいい脚が跳ね上がっていた。わき腹のあたりに強烈な衝撃。俺の体は地面を何度もバウンドしてから、ようやく止まった。
 彼女の身体能力は、人間に許された領分を明らかに超えていた。俺の視界から一瞬で消失する脚力も、重量にして数十キロを越える男の肉体を蹴り飛ばす膂力も。
 肉というよりは骨に響く痛みが、全身の神経を稲妻のように駆け巡る。

「がっ、はっ……!」

 肺に溜まっていた空気が漏れる。
 仰向けに倒れたまま、じんじんと痺れるような痛みから逃れようと、無様にのたうちまわる。

「痛くしてごめんね、夕貴くん。でも、こうでもしないとお話できないから、しょうがないよね」

 慈しむような視線。
 そのまま彩は、俺に馬乗りのかたちで跨ってきた。艶かしい女の子の感触。ちょうど腹の部分に、彼女の柔らかな臀部が乗っかる。
 頬に土をつけ、荒く息を吐く俺を見て、彩は熱っぽい吐息を漏らした。

「……本当に、夕貴くんって可愛いね」

 頬を薄っすらと赤くする彩は、扇情的でさえあった。

「ど、う――して」
「うん? ごめん、もう少し大きい声で言ってもらっていいかな?」
「……っ、……どうし、て……こ、んな」
「あぁ、やっぱり気になるよね。じゃあ、夕貴くんにだけ教えちゃおっかな。特別だよ?」

 てへへ、と気恥ずかしそうに彩は笑った。
 右手に握った包丁をチラつかせたまま、彼女は続ける。

「あれは、私がまだ小学校に入ったばかりのころだったかな。両親がね、離婚したの。理由は、性格の不一致っていうありきたりなもの。それでも一つの家庭を壊すには十分なものだよね、それって。
 紆余曲折はあったみたいだけど、私はお母さんに引き取られることになったわ。当時の私に小難しい話は理解できなかったけど、お父さんと離れ離れになるのは寂しかったけど、まあお母さんと一緒ならいいかなって思えたんだ。
 それから数年間、お母さんは女手一つで私を育ててくれたんだけど、やっぱり限界はあるのよね。お父さんから養育費は貰っていたみたいだけど、思春期の子供を育てるのは精神的に負担がかかるし、やっぱりお母さん一人で仕事と家事をこなすのは無理があったのよ。
 あっ、誤解しないように言っておくと、私はちゃんと家事を手伝う偉い子だったよ? おかげで料理も得意になったんだから」

 俺に嫌われないようにと言い訳する彩が、ひどく場違いに思えた。

「あれは私が中学生になったばかりのときかな。お母さんがね、再婚したの。もちろん私も喜んだよ? それでお母さんの負担は減るし、なにより愛する人と一緒になりたいって思うのは、女として当然だもんね。
 相手の人には息子さんがいて、私にもお兄ちゃんが出来ることになったの。一人っ子だった私は、それはもう喜んだよ。初めてお兄ちゃんって呼ぶときは緊張したけど、嬉しいっていう気持ちが大きすぎて気にならなかった。とまあ――ここまでなら、ただの身の上話だよね」
「俺、は……そんな話が聞きたいんじゃ、ねえ!」
「お母さんがね、死んじゃったの」

 その言葉を聞いた瞬間、エンジンを切られたモーターのように思考が停止してしまった。
 口を閉ざす俺を満足そうに見下ろし、彩は微笑んだ。

「再婚して一年ぐらい経ったころかなぁ? 買物して家に帰る途中、自動車に轢かれちゃったの。相手は十代後半ぐらいの男の人で、原因は飲酒運転だった。
 もちろん泣いたよ? いっぱい、いっぱい泣いたよ? 涙が枯れても、目が腫れても、ずっと泣いたもん。大好きだったお母さんが死んじゃったんだから、当然だよね。一時期は自殺して、お母さんのあとを追おうかなって考えてたぐらいだし。夕貴くんもお母さんが大好きって言ってたから、この悲しみは分かってくれるでしょう?」
「……ああ」

 小さく頷く。
 あらゆる問題や葛藤を抜きにして、純粋に『母親が死んだら悲しいか?』と聞かれれば、質問者が聖人君子だろうが悪党だろうが、俺は頷いてみせるだろう。

「だよねっ! ……あぁ、よかったぁ。夕貴くんに分かってもらえなかったら、私、泣いちゃうところだった」

 瞳を潤ませて鼻を鳴らす彩は、真実喜んでいるようだった。

「お母さんと離れ離れになったことは寂しかったけど――やっぱり人間は慣れる生き物らしくって、半年もすれば前を向けるようになった。新しいお父さんも、三つ年上のお兄ちゃんも、本当に優しい人たちだったし。
 でも幸せって、長く続かないのが世の摂理なんだよね。あれは……私が中学三年生のときかな? あるときね、お兄ちゃんに犯されたの」

 悲観せず、むしろ穏やかな笑みを浮かべたまま、彩は続ける。

「あのころの私って、同年代の子と比べても発育がよかったから、きっとお兄ちゃんにとっては目の毒だったんだろうね。初めて犯されたときは痛くて、涙が出て、止めてって言っても辞めてくれなくて、本当に辛かった。
 でも、こんなこと誰にも言えないよね。私はお母さんの娘で、新しいお父さんとお兄ちゃんとは血が繋がってないんだから。お父さんは優しかったけど、もし告げ口しちゃったら、義理の娘である私は捨てられるんじゃないかって、そんな気がしてたの」

 それが。
 櫻井彩という少女が心に負った傷。


 ――実は私、ちょっとだけ男の人が苦手なの。


 男性恐怖症とも言える症状を挙げた彩だが、やはり異性から暴行を受けた経験があったようだ。

「それからね、数週間に一回ぐらいの割合で乱暴されたかなぁ? 抵抗しちゃうと、唯一血が繋がっていない私は捨てられるんじゃないかと思って、ずっとされるがままだった。でも、嘘でもいいから行為を受け入れちゃうと、気持ちよくなってくるんだから人間って不思議だよね。そうは思わない、夕貴くん?」

 微笑んで。
 彩は俺の手を優しく掴み、それを自身のふくよかな乳房へと誘導した。

「な、に……を」

 てのひらに伝わってくるのは、どこまでも男を魅了する柔らかな感触だった。弾力のあるふくらみが、衣服越しに感じられる。

「……んっ、あっ、いいよ、夕貴く、ん……」

 透き通った肌は、いまやすっかりと紅潮している。腰を繰り返し前後させる彩は、自身の性器を俺の腹にこすり付けているようだった。彼女は快感に震え、薄く瞳を閉じながら、妖艶な喘ぎ声をもらす。それはあまりにも倒錯的で、ぞっとするほど美しかった。

「はあぁ……やっぱり、夕貴くんってたまらないね。もうわたし、とろとろだよ……」

 彩の全身が弛緩し、倒れるように覆い被さってきた。艶やかな黒髪が顔にかかり、ほのかな石鹸の香りが鼻腔をくすぐった。

「なんかね、夕貴を見てると、お腹の下のところが熱くなるのよね。その感覚が、頭の奥が痺れるぐらい、気持ちいいの」

 熱っぽい吐息。
 耳元で囁かれるものだから、なんとも言えないむずがゆさがあった。

「……夕貴くん」

 耳に生暖かい感触。たっぷりと唾液の乗った彩の舌が、ぴちゃぴちゃと音を立てる。それは”舐める”というよりも”しゃぶる”に近い。ぬめった粘膜が、俺の耳をねぶっていく。

「……くっ」

 声が出そうになるのを寸前で我慢する。耳たぶを甘噛みしたり、穴の中に舌を入れたりしてくる。肌が粟立ち、淡い快楽が全身の神経を駆け巡る。

「……もっと夕貴くんの可愛い声、聞かせてよ」

 発情した女の吐息が耳にかかる。

「夕貴くんって……女の子みたいな甘い匂いがするんだね」

 ぴちゃぴちゃ。卑猥な水音を立てながら、彩の愛撫は止まらなかった。耳を唾液まみれにしたあとは、首筋に吸い付かれる。何度も鼻を鳴らし、俺の匂いを胸いっぱいに吸い込む。こんなときなのに素直に反応してしまう自分の肉体が心の底から恨めしかった。
 ゆっくりと上半身を起こした彩は、口元のよだれを拭った。それは女というよりは、牝と表現したほうが近しい淫らな姿だった。

「ごめんね、私だけ盛り上がっちゃって。でも、夕貴くんも気持ちよかったでしょう? ……さて、そろそろ時間切れかな。夕貴くんを殺さないと、怒られちゃうもんね」

 汗ばみ、火照った顔に笑みが浮かぶ。

「うん。本当は夕貴くんを殺したくないけど、殺さなくちゃいけないんだもの。そうじゃないと、そうじゃないと……そうじゃないと……っ?」

 大きく目を見開く彩。

「あれ……? 私、どうして? ……どうして、夕貴くんを殺そうとして――ううん、だって私は夕貴くんのことが――いや、好きだからこそ……ううん、違うもん。普通は好きな人を殺そうとしないはず……私は――――ぐっ、あ、あぁ……!」

 その刹那。
 彩の身体がふらりと傾いだ。彼女は心臓のあたりを押さえたまま、発作に耐えるみたいに顔を歪めている。
 ……ここしかない!
 これまで回復に努めていた体を運動させて、よろめきながらも立ち上がって見せた。
 理由は分からないが、彩は胸を押さえて蹲っている。
 躊躇はあったが、俺は彼女に背を向けて走り出した。
 数十メートルほど距離を開けて振り返ってみると、立ち上がった彩がこちらを睨んでいるところだった。確実に追いかけてくる気だろう。さっき彩が見せた身体能力があれば、追跡することは容易だろうから。
 このまま繁華街や駅前あたりに逃げ延びれば、俺は助かるだろう。さすがの彩も、人目のあるところでは襲ってこないはずだ。

「……違うよな」

 一人呟いて、苦笑する。
 自分でも馬鹿だとは思うが、俺の足は人気のある繁華街ではなく、人気のない河川敷へと向いていた。
 だってさ。

 ――うん、私も――

 しょうがないだろ。

 ――お母さんのことが大好きだよ――

 こんなの反則じゃねえか。

 ――いつか恩返ししたいと思ってるもん――

 あんな粋な台詞を吐くやつを見捨てるなんて、男のすることじゃねえよな。
 母親を大事にする人間に、悪いやつはいないんだ。
 だから俺が、彩の目を覚ましてやる。死んでもあいつを助けてやる。せっかくできた友達を、このまま見放すわけにはいかないから。



[29805] 0-10 神か、悪魔か
Name: テツヲ◆c49d9b75 ID:366fa69a
Date: 2012/03/13 22:42
 ――そっか。そういうことだったんだ。
 ようやく少女は諦めました。


 ****


 櫻井彩は、取り立てて目立つような少女ではなかった。
 成績は平均の域を出なかったし、運動も不得手、対人関係では人見知りの気が災いして交友の幅もあまり広いとは言いがたかった。その分、彼女は人目を惹く愛らしい容姿をしていたが、それも絶世というわけではなく、やはり優れたアドバンテージにはならなかった。
 幼いころから、実の両親に愛情を注がれ続けてきた彩は、周囲の期待を裏切らない心優しい少女に育った。
 いま思えば、その幼少期こそが、彩にとって最も幸せだった時期なのかもしれない。
 贅沢を許された家庭ではなかったし、毎日のようにご馳走がテーブルに並ぶ家庭でもなかった。それでも彩が欲しいとねだったものは大抵買ってもらえたし、週末には家族揃って遠出するだけの余裕はあった。

 ――私たちはずっと一緒だよね。
 そう少女は言いました。

 特別なものは一つもない、どこにでもある平凡な家族。
 家の取り決めでも見合いでもなく、ただ偶然に出会って愛し合い、その果てに結婚した両親。そして彼らの愛の結晶こそが、他でもない彩だった。
 全てが偽りのない愛によって出来ているのだから、彼らが幸せになるのは当然であり、必然でもあった。
 だがこの世に永遠などという洒落たものは存在しない。その証拠に、ありもしない永遠を神の前に誓った一組の男女は、時の流れがもたらす感情の風化に勝てず、契った愛を無に帰した。
 当時、小学生になったばかりの彩に小難しい話は分からなかった。それでも大好きな父と離れ離れになるということだけは理解できた。もちろん彩は離婚に反対したが、両親の決意は固く、どれだけ泣き喚いても結末は変わらなかった。

 紆余曲折はあったものの、彩は母と二人で暮らすことになる。父のいない生活に戸惑いはあったものの、それも時間が解決してくれた。
 誰よりも母のことが大好きだった彩は、女手一つで私を育ててくれるお母さんに負担をかけてはいけないと、以前よりも心優しく、礼儀正しい少女に育っていくことになる。家では率先して家事を手伝い、あまり好きじゃなかった勉強や運動も精一杯にやった。
 母と二人で不器用ながらも暮らす生活は、実を言うと嫌いじゃなかった。むしろ家族が一体となって努力しているような感覚もあって、好ましかったぐらいだ。
 いつの日か、私がお母さんを護ってあげたい。
 それが彩の望みであり、人生における目標だった。

 ――お母さん、いつもありがとう。
 そう少女はお礼を言いました。

 どれほど仕事が忙しくても、家事に時間を圧迫されても、彩の母親は、娘と過ごす時間をかならず作った。そんな二人の努力が、気付かぬうちに実を結んだのか。ある日、彩は母から改まって話を聞かされた。
 お母さんに、もう一度だけチャンスをくれないかな?
 申し訳なさそうな、それでいて幸せそうな顔で、母は告げた。
 それは再婚の話だった。
 母が、以前から密かに逢瀬を繰り返していた男性。つい最近、とうとう先方がプロポーズの言葉を口にしたらしく、それを待ち望んでいた母は「彩が許してくれるなら」という条件付きで、再婚を受け入れたのだった。
 正直な話、いつかこんな日が来るかもしれない、とは彩も覚悟していた。贔屓目に見ても、母は美しい容姿をしていたし、出産を経験したとは思えない若々しいプロポーションを保っていたからである。
 もちろん心から賛成は出来なかった。父親と離れ離れになった悲しみの残滓が、まだ心のどこかで燻っていたからだ。
 しかし結局、彩は反対するどころか笑顔で祝福しさえした。
 当然だろう。
 大好きな母親が、いままで女手一つで彩を育ててくれた母が、自分の幸せを掴み取ろうとしているのだ。その邪魔をするのは、とてもではないが無理だった。
 お母さんにとっての旦那様は、私にとってはお父さんだね。
 そう明るく言った彩を、母は涙を流しながら抱きしめた。

 それから半年もしない間に、先方との顔合わせ、新居の購入、婚姻届の提出などを済ませた。新しい家族が出来るのは、思っていたよりもあっけないものだった。
 彩の新しい父となった男性は、母よりも二歳年上の会社員である。見るからに温厚で、そして誠実そうな容姿の彼は、血の繋がらない義理の娘である彩を大層可愛がった。彼には息子がいて、彩は父親と同時に兄も持つこととなった。

 ――お父さん、お兄ちゃん。これからよろしくね。
 そう少女は笑いました。

 当時、中学一年生だった彩と比べて、高校一年生の兄――つまり三歳年上の彼は、ずっと気恥ずかしそうな態度を崩さなかったものの、妹が出来ること自体は歓迎だったらしく、不器用ながらも愛のある接し方をしてくれた。
 あの、お兄ちゃんって……呼んでもいいですか?
 そう彩が勇気を出して聞いたときの、兄の真っ赤に染まった顔が忘れられない。
 義理の繋がりではあったが、それは仲睦まじい兄妹だったと思う。兄は、国立の大学を目指すほど頭がよかった。あまり褒められた成績ではなかった彩にとって、兄は頼りになる家庭教師の一面も持っていた。
 大好きな母、誠実で裏表のない父、照れ屋だが頭のいい兄――新しく始まった『家族』は、この上なく順調だった。
 しかし。

 ――幸せって、長く続かないのが世の摂理なんだよね。

 新しい父と兄を得た代償は――大好きな母の死という、なんとも最悪なものだった。
 夕食の買物に出た母は、飲酒した若者が運転する車に跳ねられて死んだ。しかも相手方が未成年ということもあり、罪は比較的軽くなるそうだった。
 もちろん彩は泣いた。何日も学校を休んで泣き続けた。涙は枯れることもあるらしいが、少なくとも彩の瞳から涙が止まることはなかった。

 ――どうして? ねえお母さん、どうして?
 そう少女は泣きました。

 部屋に篭って悲嘆にくれる彩を、もちろん父と兄は気遣った。それこそ彼らも会社や学校を休んで、日に日に衰弱していく彩を心から心配した。
 そんな日々が一ヶ月も続けば、さすがの彩も冷静さを取り戻す。
 悲しいのは私だけじゃない。お父さんも、お兄ちゃんも、きっと泣きたいはずなんだ。なのに私は、一人で子供みたいに泣くだけ。これではお母さんの娘として胸を脹れない。
 決意すると、立ち直るのは早かった。
 元気を取り戻した彩を見て、父と兄は涙さえ浮かべて喜んでくれた。
 それから一年が経つころには、彩は以前と同じように笑顔を浮かべることが出来るようになっていた。当然だろう。母は天国にいるのだ。きっと彩を見守ってくれているのだ。ならば、彩が上を向いていなくては、母も安心して眠ることができない。

 初めは三人だった家族が、二人になり。
 二人だった家族が、四人なり。
 最後はまた、三人に戻った。

 中学三年生になった彩は、母の面影を受け継いだ美しい少女へと成長した。そんな彩を、父は以前にも増して可愛がった。なにより父は、母を失って生きる気力を失っていたころの彩を知っている。だからこそ、彩を大切に思う気持ちも一層強まったのだろう。
 強まり、深まる親子の絆。
 しかし、それを快く思わない者もいた。父と血の繋がりを持つ実の息子、つまり彩の兄である。
 当時、一日の大部分を受験勉強に費やしていた兄は、見えない部分でストレスを蓄積し、軽いノイローゼ状態になってしまっていた。仲睦まじい彩と父を見ているうちに、兄は途方もない疎外感に駆られた。彩に父を取られてしまったと。
 ほんの少しでも力を加えれば弾け飛ぶ――そんな張り詰めた糸に最後の切れ込みを入れたのは、他でもない彩自身だった。
 兄は受験勉強をしていることは知識として知っていても、兄の背負う重圧や心の闇まで知らなかった彩は、その日、勉強を教えてもらおうと、いつものように部屋をたずねた。
 薄手のキャミソール姿だった彩は、禁欲的な生活を送っていた兄にとって、さぞかし扇情的な姿に映ったことだろう。
 ここで兄の名誉のために言わせてもらうならば、この時点では、まだ理性のほうが勝っていた。
 だが彩の指差した先を見て、兄のストレスは限界に達した。なぜならそれは、優秀な兄からしてみれば、吐き気がするぐらい易しい設問だったから。
 俺から父を奪っただけではなく、お前は勉強の邪魔さえもするのか……!
 兄の頭に血が上ったのは、それがきっかけだった。
 ここで彩の名誉のために言わせてもらうならば、実を言うと、彩が兄に尋ねた問題は、すでに復習を繰り返して十分に理解している範囲だった。部屋に篭りっぱなしの兄を心配して、自分の頭の悪さを話の種として利用した彩。それは絶対の悪手だった。
 ほとんど逆上した兄は、彩をベッドに押し倒した。理性を失った兄には、無防備な服装と体勢でいる彩が、自分から誘っているようにさえ見えた。
 そもそも兄は、初めから彩を意識していたのだ。二人が初めて出会ったのは、彩が中学一年生、兄が高校一年生のころ。完全な兄妹の絆を作るには、少々遅すぎた出会いだったと言ってもいい。
 彩の身体は、年のわりには女らしい身体つき。兄の情欲はひたすらに燃え上がった。

 ――止めて! お願いだから止めてよぉ!
 そう少女は叫びました。

 行為は、すぐに終わった。
 ぐちゃぐちゃになったシーツの上で、乱れた服を直そうともせず泣く彩を見て、兄はようやく自分の仕出かしたことの重大さに気付いた。兄は後悔した。もう絶対に妹を傷つけまいと誓った。罪を償おうと思った。
 だが兄の心と体には、あの夜の彩の姿が強く焼き付いていた。彩の色っぽい喘ぎ。鼻腔をくすぐる甘い匂い。病み付きになる肌の感触。男好きする身体。
 人間とは欲望に弱い生き物。一度でも線を踏み越えてしまえば、二度目は躊躇しない。もう一度だけ、あともう一度だけ。これを最後に、俺は兄に戻るから。そんな言い訳を盾に、兄は彩の身体を何度も求めた。いつまで経っても、”最後”が訪れることはなかった。
 途中から彩は、必死になって抵抗するよりも、いっそ行為を受け入れたほうが楽だということに気付いた。

 ――そっか。そういうことだったんだ。
 ようやく少女は諦めました。

 兄が求めてきたときは、もう好きにさせてあげよう――そう決心すると、不思議と心が軽くなったような気した。それと同じ分だけ、兄に抱かれた分だけ、彩の心は磨耗していった。
 すでに諦めの境地に達していた彩は、父に告げ口することをしなかった。彩が黙っていれば表向きは円満な家庭なのだから、それをわざわざ壊そうとは思わなかった。
 同時に、兄のほうも彩を求めることは止めなかった。愛らしい容姿に色白の肌、そして女性特有の丸みを帯びた身体は、ここまで来れば麻薬と同じで、兄の劣情は行き着くところまで堕ちていた。
 そんな生活が三年以上続いた頃、とうとう彩の心は擦り切れ、壊れる寸前まで陥った。
 時を同じくして、兄は第一志望校に合格した。ストレスから開放された兄は、以前のように彩を求めることはなくなった。むしろ懺悔するかのごとく、不自然なまでの優しさを見せるようになった。……おかしな話だ。彩が望んでいたものは、そんな偽善染みた気遣いじゃないのに。
 すべては元通りとなり、彩には平穏が戻った。だが彼女が心に負った傷までが治るわけじゃない。
 最愛の母親を事故で亡くしてしまい、頼りにしていた兄からは乱暴された――この二つの出来事が大きな傷となり、彩の心を蝕んでいく。もう大丈夫なのに、もう泣かなくてもいいはずなのに、それでも心は癒えない。
 周囲の人間が笑っている中で、自分一人だけが堕ちていくような錯覚。 
 どう足掻いても逃げ出せない永劫の檻。その中で、誰にも聞き届けてもらえないのを知っているのに叫ぶ少女がいた。
 それこそが、櫻井彩にとっての、ハウリングだった。


****


 夜の河川敷は、とにかく薄暗くて人気がない。
 そのくせ無駄に敷地が広いものだから、とてつもない孤独感に襲われる。照明が一切設置されていない河川敷は、下手をすれば犯罪の温床になりそうな雰囲気を醸し出していた。
 踏み鳴らす足音は、地面いっぱいに植えられた芝生に吸収される。
 川沿いに立ってみると、数百メートルほど向こうに対面の河川敷が見えた。ふと顔を上げてみれば、片側三車線の大きな橋や、電車橋、水道橋などが架かっている。合計三本の橋が、闇夜にまっすぐ伸びていた。
 この河川敷は、俺の家からさほど遠くない位置にある。だから子供のころは、よく学校の友達と遊びに来たものだった。だだっ広くて、川があって、芝生が植えられていて、子供の遊び場所にはぴったりだったのだ。
 でも感傷に浸る時間はない。目を細めて、暗がりの奥に浮かび上がった人影を注視する。まあ、そんなことをしなくても相手が誰なのかは分かっているんだけど。

「夕貴くんって、本当に鬼ごっこが好きなんだね」

 居酒屋で談笑していたときのような、楽しそうな声。血に濡れた包丁を握り締め、口元に冷笑を貼り付けて、櫻井彩が姿を見せた。俺たちは十メートルほどの距離を保ったまま、対峙する形になった。

「……まあな。俺は男らしいやつだからな。走るのも隠れるのも大好きだ」
「そうなの? 夕貴くんって女の子みたいに可愛い顔してるから、てっきりインドア派かなぁって思ってたのに。偏見かもしれないけど、絶対に料理とか得意そうだよね」
「ああ、それは偏見だ……とめちゃくちゃ言いたいけど、残念ながら料理は得意なほうだ」
「やっぱり。でも料理が出来る男の子って、とってもポイントが高いと思うよ」

 くすくす、と彩は、どこか嬉しそうに笑う。その手に包丁が握られていなければ、ただの雑談にしか見えないと思う。

「なあ彩。一つだけ聞いてもいいか?」
「どうぞ。なんでも教えてあげるよ」

 こういうのを冥土の土産って言うのかな。彩は両手で包丁を弄びながら、そんな言葉を続けた。思わず反論したくなったが、俺が聞かなくちゃいけないことは別にある。

「……おまえ、なんで俺を殺そうとしてんだ?」

 結局のところ、疑問はこれに尽きた。
 俺には誰かに殺意を向けられるような覚えはないし、もっと言えば恨まれるようなことをした覚えもない。まあ後者のほうは、知らず知らずのうちに誰かの怨恨を買っていた、という場合もあるだろうが、殺人に繋がるような愚挙を犯した記憶はなかった。
 それに彩は、人間とは思えない身体能力を見せていた。もしかすると、それも殺人衝動の一端を担う原因なのかもしれない。

「……なんでだろうね。私にも分かんないや」
「分からない? 自分のことだろ?」
「そうだね。でも本当に分からないの。ただ心臓――ううん、心かな、とにかく胸が疼いて仕方ないの。夕貴くんを殺せって、夕貴くんを殺してしまえって、そう訴えかけてくるの。その声に逆らうと、心臓が握りつぶされるように痛んで、本当に死んじゃいそうになるの。だから夕貴くんを殺さなくちゃいけないんだ」

 彩の話は、あまりにも意味が分からなかった。
 心が痛む?
 俺を殺せって訴えかけてくる?
 その声に逆らうと、死んでしまいそうになる?
 ……分からない。
 少なくとも俺は、殺人衝動を伴う心臓病なんて知らない。まだ彩のジョークと言われたほうが信用できる。

「夕貴くん。なんだか恐い顔してるね」

 くすくす、と彼女は笑う。

「ああ。絶対におまえを止めてやる。そんでもって、俺を”可愛い”だの”女の子みたい”だの言ったことを後悔させてやるからな」
「根に持つ男性は嫌われるんじゃないかなぁ。それに夕貴くんって、本当に綺麗な顔してるんだよ? 女の子の私よりも、きっと夕貴くんのほうが可愛いんじゃないかな?」

 その一言に悪気はなかったんだろうけど、俺には挑発されたように感じた。

「……よく分かった。おまえは初めから俺の敵だったんだな。もう絶対に許さねえ」
「あれ、不快にさせちゃった? じゃあ謝るね。ごめんね、夕貴ちゃん」
「てめえ謝る気ねえだろっ!」

 しまった、思わず突っ込んでしまった。

「とにかくだ。おまえが俺を殺したいって言うのなら好きにすればいいさ」
「へえ、諦めがいいね。言っとくけど、私は本当に夕貴くんを殺すよ? いまだって心が疼いて疼いて仕方ないんだから」
「我慢するなよ。身体に悪いぞ」
「そっか。夕貴くんがそう言うなら、もういいかな」

 彩の口元に冷笑が浮かぶ。
 それと同時、空気が明らかに変質した。圧倒的な人の殺意というものは、ここまで露骨に場を支配できるものなのか。
 額には脂汗が滲み、足は微かに震え、意志が折れそうになった。
 でも俺には闘わなければならない理由がある。

 ――私もお母さんのことが大好きだよ。

 そう言ったときの彩の笑顔が忘れられない。
 母親を大事にする人間に、悪いやつはいないんだ。母親を大事にする人間が、俺はどうしようもなく大好きなんだ。
 だから逃げない。絶対に、目の前のバカ娘を止めてやる。
 そんな決意を胸に秘めて、俺は走り出した。
 彩は無防備に突っ立っているだけ。構えを知らないのか、構える気がないのか。まあ両方だろう。
 間合いを詰めた俺は、躊躇いもなく右足を跳ね上げた。腰を大きく捻り、重心を左足に移行させて、彩の左側頭部目掛けて回し蹴りを叩き込む……!

「凄いなぁ! 夕貴くんって、喧嘩も強いんだね!」

 俺の全力も、彩にしてみれば楽しくおしゃべりしながらかわせるものらしい。
 間もなく、視界から彩の姿が消える。萩原夕貴という人間の動体視力では捉えられない、櫻井彩の超人的な脚力。俺と彩では、元々のスペックが違いすぎる。それは自転車と大型バイクを競争させるようなものだ。
 だが手がないわけじゃない。

 チャンスは、ここにある。

 ほとんど闇雲に、けれど確信を持って体を半回転させた俺は、真後ろに向けて裏拳を放った。
 公園で二度、彩が見せた動き。
 彼女は攻撃を回避したあとは、必ず敵の背後を取ろうとする。だったら、それを利用しない手はない。
 いくら身体能力が向上したと言っても、彩は武道の経験がない素人だ。ならば動きが単調になってしまうのは当然だし、暴力に慣れていなくても仕方ない。
 スピードでは大型バイクに勝てなくても、趣味でずっとサイクリングを続けてきたのだから、免許取立てのペーパードライバーが相手なら、なんとか一矢報いることもできる。

「きゃあっ!」

 腕に重たい衝撃が伝わってくる。どこか場違いな可愛らしい悲鳴。見れば、彩は芝生のうえに尻餅をついたまま肩を押さえていた。彼女の手からは包丁が消えている。それは俺にとって最高の幸運だろう。
 どうやら彩は痛みに慣れていないみたいだ。予想外の反撃を食らって、いい具合に混乱してくれている。
 この隙に彼女を抑えることができれば……!

「……死ねばいいのに」

 風に乗って、微かな呟きが聞こえてきた。
 ゆらりと立ち上がった彩は、上半身を脱力させたまま顔を俯けている。長い前髪が陰を落として、その表情は伺えない。

「……おまえ……彩、か?」

 思わず、目を細めて、そんなことを口にしていた。
 何かが違う。
 俺の目の前にいるのは、本当に櫻井彩なのか?
 彩の足はふらついているのに、身体は頼りなく揺れているのに、手には武器を持っていないのに、視線は敵であるはずの俺から逸れているのに。
 それでも、ひたすらに不気味だ。
 一切の感情を削ぎ落としたかのような様相は、精巧に作られた殺人マシーンを連想させる。
 萩原夕貴を殺すと豪語していた彩のほうが、まだ遥かに人間味があった。少し前までの彩は、どこか善悪の区別がつかない子供みたいな趣さえ感じられたのに。
 粘ついたアメーバのような禍々しい気配が、夜の河川敷を侵食していく。それは視覚化して見えるほどの膨大な負の感情。
 夜の帳に広がっていく濃密な殺気のせいで、胃の中のものがこみ上げてきた。殺される。そんな言葉が、脳裏をよぎる。

「あれは……?」

 初めは目の錯覚かと思った。
 櫻井彩の背後に『何か』が浮かびがっている。それは陽炎のように実体がない。人間の邪気そのものを集めて一つにしたら”アレ”になるかもしれない。
 漠然とだが、理解した。
 あの『何か』が、彩を狂わせた原因だと。
 お母さんを好きだって、そう笑顔で言った女の子を惑わした原因だと……!

「……悪魔が」

 奥歯を噛み締める。
 あんな可愛らしい女の子を狂わせた存在なんて、どう考えても悪魔としか思えない。

「てめえが彩を苦しめてんのかよっ!」

 叫んだ。
 彩の手が上がる。きっと今の彼女ならば、数秒にも満たない間に俺を殺せるだろう。

「もしもそうだってんなら、俺がおまえをぶっ飛ばしてやる!」

 彩が一直線に駆けてきた。なんて驚異的な速力。真っ直ぐに向かってくるものだから目では追えるが、反応は間に合いそうにない。
 やっぱり、俺は死ぬのかな。
 どうも力が及ばなかったみたいだ。
 ごめんな、彩。
 おまえを助けてやれなかった。
 どれだけ足掻いても、俺みたいなちっぽけな人間では君を救うことはできないらしい。
 だから、せめて祈ろう。無力な自分を棚に上げて、真摯に想いを捧げよう。


 誰でもいい。頼むよ。願うよ。どうか、お母さんが大好きなこの子を、助けてやってくれ。


 果たして、その祈りを聞き届けたのは、神だったのか。
 妙に脳裏に響く、甲高い耳鳴り。どこかから溢れ出す冷たくも美しい波動。夜の河川敷が強烈な冷気に包まれる。芝生に霜が張り、儚い雪の結晶が宙を舞い、冷気が白い霧となって逆巻く。
 世界が凍っていく。恐ろしいまでの絶対零度が、白銀に彩られた幻想的な景観を生み出した。
 ヒュン、と鋭い音が、幾重にも重なって聞こえた。上空から巨大な氷の槍が、目で数えられるだけで十数本ほど降り注いできた。それは彩が立っていた地点に命中し、小さな氷山を作る。彩は、大きく後方に跳躍し、辛くも難を逃れた。
 もしかして、俺みたいなガキの祈りを神様が聞き届けてくれたのだろうか?
 そんなバカみたいなことを本気で考え、ゆっくりと空を見上げた俺は、そこに見慣れたシルエットを見つけた。 

「真名すら持たない低級悪魔が、よくもここまで暴れたものね」

 馴染みのある、少女の声。

「でも、ちょっとやり過ぎよ。好き勝手に人を殺しちゃったら、《悪魔祓い》や《法王庁》の連中がやってくるわよ。もっとも、あいつらはこの極東の地で起こった事件に関してだけは対応が遅いけどね」
 
 無骨な鉄鋼で出来た水道橋の上に、悠然とたたずむ影があった。
 風になびく長髪は、月明かりに映える銀髪。俺たちを見下ろす目は、どこか冷めた銀眼。
 またたく間にこの場を支配し、絶対零度の世界を作り上げて。
 ソロモン72柱が一柱にして、序列第二十四位の大悪魔ナベリウスがそこにいた。




[29805] 0-11 絶対零度(アブソリュートゼロ)
Name: テツヲ◆c49d9b75 ID:366fa69a
Date: 2012/06/28 22:46

 冷気が、白い霧となって逆巻く。
 身体は手足の末端までが震え、急冷された空気を取り込んだ肺は痛み、吐き出す吐息は凍てついたかのように白かった。木々も、芝生も、コンクリートも、ゴミ箱も、公共用のトイレも、果ては水道橋までが、完膚なきまでに凍っていた。夜の河川敷は、あっという間に絶対零度の世界へと変貌していた。

 ――だってわたし、悪魔だし。

 いつかの彼女の言葉が脳裏をよぎった。

「よくも夕貴を虐めてくれたわね。そこの女の子」

 水道橋のうえに佇立し、俺と彩を見下ろしながらナベリウスは言う。彼女の唇は緩やかに弧を描いているけれど、その月光を思わせるような銀眼は笑っていなかった。

「な、ナベリウス……?」

 その姿が、俺の知っている彼女と重ならなくて、思わず訝しげな声が出た。

「あぁ、質問ならあとにしてくれる? いまは外敵を排除するほうが先決でしょ」

 外敵。それは櫻井彩のことか。俺にとっての助けるべき対象は、ナベリウスにとって排斥する対象でしかないのか反論しようと思った。しかし、

「我が主を脅かした代償は高くつくぞ。その矮小な命で購い切れると思うな、小娘」

 その厳然たるナベリウスの宣言があまりにも威圧的すぎて、二の句を継ぐことが出来なかった。
 彩が放ったプレッシャーとは比ぶべくもないほど鮮烈な殺意。俺よりも小さなナベリウスの身体が、なぜか氷山よりも大きく見えた。
 ただの人間に過ぎない俺が止める間などあるはずもなく、次の瞬間にはふたりの少女による殺し合いが幕を開けていた。


****

 
 それは果たして戦闘と呼べるものだったのか。少なくとも実力が拮抗していなかったことだけは確かだった。
 人の目では――萩原夕貴の目では決して追えない速度で、彩は氷に閉ざされた世界を縦横無尽に駆ける。対するナベリウスは、水道橋に腰掛けたまま移動する気配を見せない。ただ風になびかないようにと銀髪を指で押さえているだけ。
 夜の河川敷を支配した氷は、細かな欠片に至るまでがナベリウスの異能によるもの。ただ念じるだけで、地面からは氷塊が吹き上がり、空中からは氷槍が降り注いだ。彩が満身創意になりながら、やっとの思いでナベリウスに接近しても、薄氷で形成された盾があらゆる脅威からナベリウスを守護した。

 圧倒的なチカラは、彼女だからこそ持ち得るもの。ソロモン72柱が一柱にして、序列第二十四位に数えられる、この世に現存する、本物の《悪魔》。とある宗教が母体となった悪魔祓いや、ローマ教皇庁の裏の顔でありバチカンに総本山を持つ法王庁は、古来から悪魔の存在に気付き、水面下で殺し合いを続けてきた。
 ただし、一般に浸透している悪魔像――人に憑依して奇抜な行動を起こすといった悪魔憑き――は大きな間違い。これを悪魔を研究する機関たちは総じて”オド”と呼ぶ。オドは悪魔の階級にすら入らない最下位の悪魔とされている。その実態は、悪魔というよりは死者の怨念の集合体に近く、日本では悪霊と認識されている場合が多い。

 このオドに取り憑かれた人間の末路が、他でもない櫻井彩。

 だがこの世には正真正銘の《悪魔》も存在する。かつてソロモン王が使役したとされる72体の大悪魔。通称、ソロモン72柱。
 《悪魔》が脅威だと認識されている最大の要因は、《ハウリング》と呼ばれる固有の異能にある。彼らは体内で、マイクロ波の中でも特殊な波長域にある波動――俗に『Devilment Microwave』、日本語に直訳してDマイクロ波と呼称される――を生成する。
 このDマイクロ波は、特定の分子系に対して影響を及ぼし、人間の手では起こしえない超常的な現象を発生させる。その不可思議な現象こそが、悪魔の持つ《ハウリング》という異能の正体。
 ハウリングが使用された際、周囲の人間は揃って耳鳴りがしたと訴えることがある。これはDマイクロ波が、人体の大小の筋肉に軽微の痙攣をもたらすことが原因である。
 ナベリウスが持つハウリングに名はないが――それを言うなら《ハウリング》という名称さえも人間が便宜上つけたものだが――古くから敵対してきた法王庁は、あらゆるものを凍結させる彼女の異能を、こう呼ぶ。

 《絶対零度(アブソリュートゼロ)》。

 空間そのものを制圧する異能は、悪魔の中でも桁外れに強力だ。人間一人を跡形もなく凍てつかせることなど造作もない。
 気付いた頃には、全身を血に濡らした彩が瀕死の状態で倒れ伏し、それをナベリウスがどこか冷めた眼で見下ろすという構図が出来上がっていた。
 ナベリウスがほんの少し戯れただけで、夕貴を脅かしていた”外敵”は無力化された。身じろぎすら至難となった彩をどうでもよさそうに見つめながら、ナベリウスは地面に降り立った。そのの背後に、人間ひとりを殺すにはじゅうぶん過ぎるほどの氷槍が出現する。

「……もういいだろ。まさか、彩を殺すつもりじゃねえよな」

 いつの間にか。ナベリウスの背後には、夕貴が歩み寄って来ていた。

「もちろん殺すつもりだけど? むしろ殺さない理由なんてないでしょうに」
「なっ……」
「勘違いしないように言っておくわ。わたしはね、夕貴の味方よ。これは不変の事実。わたしは、夕貴のことを息子のように思ってるし、弟のようにも思ってるし、恋人のようにも思ってる。それだけあなたが大事で、愛しくて、守ってあげたいのよ。でもわたしが守るのは――夕貴や、夕貴の身内だけ。それ以外はどうなってもいいし、どうしてあげる気もない。だから、この人間の小娘が死のうとわたしの知ったことじゃない。私情を交えて言わせてもらうなら、殺したくて仕方ないぐらいよ」

 正直な話、ナベリウスは腹を立てていた。
 彩が夕貴を襲ったこともそうだが、ここ最近、街を賑わせていた殺人事件に悪魔が介入していると察したナベリウスは、夜な夜な夕貴の目を盗んで、諸悪の根源を捜していた。そうした手間をかけさせられたことも、彼女の怒りに繋がっている。
 だからナベリウスは、櫻井彩を殺す。それに一度でも悪魔に魅入られた人間は、もう助からない。悪魔に憑依された段階ではまだ助かる見込みもある。だが殺人を犯して死者の魂を食らった者の心は、悪魔との結びつきが強くなり、切り離すことが難しくなる。唯一、彩に憑依した悪魔を殺す方法があるとすれば――それは宿主である彩もろとも悪魔を殺すという、なんとも乱暴な手段だけ。
 ある意味、これはナベリウスの優しさでもあるのだ。

「ねえ夕貴」
「……なんだよ、ナベリウス」
「実はね、わたしって悪魔なのよ。知ってた?」
「…………」
「夕貴と初めて会ったとき、ちゃんと言っておいたでしょ? わたしはソロモン72柱が一柱にして、序列第二十四位の大悪魔ナベリウス。そして夕貴と主従の契約を結んだ女よ。わたしが言えるのは、これぐらいかな」

 言って。
 ナベリウスの殺意と同調するように――周囲の気温が数度下がった。

「ナベリウスっ!」

 これまで聞いたこともないほど必死な、夕貴の声。
 最後に、ナベリウスは振り向いて、笑った。

「もう、わたしからはなにも言わないわよ」

 それはどこか、だらしのない弟を叱りつける姉のような顔だった。
 ナベリウスの背後に待機していた氷槍が動き出す。
 氷の槍が、櫻井彩を貫くまで――それは本来ならば数秒にも満たない間だったはずだが、ナベリウスはその刹那に思考していた。
 もうヒントはあげた。
 だから、あとは夕貴次第。
 なぜなら。
 ナベリウスが動くのは、自衛のためか、夕貴のためか、身内のためか、もしくは――

「止めろぉ! 彩を殺すなぁぁぁぁっ!」
 
 ――彼女が主と認めた者からの、命令だけなのだから。
 つまり夕貴は、初めから命令していればよかったのだ。きちんと口に出して、止めろ、と言ってくれれば、ナベリウスは喜んで引き下がったのに。
 一従者として、主に害を与えた曲者を放っておくことはできない。だからナベリウスが殺意を手放すには、その害を与えられた主からの許しが必要だった。
 ナベリウスと彩のあいだに割り込んだ夕貴は、大きく両手を広げて彩を庇うようにした。
 その目は――どこまでも真っ直ぐで、これっぽっちも怯えていない。
 ナベリウスは、その瞳に覚えがあった。まったくもって、夕貴はあの人に似ている。

「りょーかい。これでいいんでしょ、マイマスター」

 どこか気取ったようにそう言って、ナベリウスは指を鳴らした。すると氷槍は静かに霧散し、河川敷を覆っていた氷はまたたく間に消失。
 絶対零度の世界は、ここに終わりを告げて。
 今宵の戦闘は、彩ではなくナベリウスの――いや、萩原夕貴という少年の勝利に終わったのだった。


****


 ナベリウスのやつが指を鳴らしただけで、河川敷は元通りになっていた。
 数秒前までは凍死するんじゃないか、と思うほど肌寒かったはずなのに、氷が無くなった途端、俺の体は現金にも寒気から来る震えをなくしていた。
 ナベリウスから殺意が消えたことを確認すると、俺は一目散に彩へ駆け寄った。

「おいっ! しっかりしろっ!」

 全身を血に濡らす姿は、どこからどう見ても瀕死に見えた。うつ伏せに倒れていた彩を抱きかかえて、腕の中で仰向けの状態にする。

「……ゆう、き……くん……?」

 ガキみたいに大声で呼びかけたことが功を奏したのか、彩は薄っすらと瞳を開けた。しかし、見るからに瞼が重そうだ。まるで、少しでも気を抜くと、眠ってしまいそうな。

「……私ね。世紀の……っ、大発見……したんだぁ……」
「そんなのどうでもいいんだよっ! だから――」
「こ、んな……私、でもね。……男の人を、好きに、なれるんだなぁ……って。……えへへ、これって、大発見でしょう……?」

 止めろ。
 頼むから止めてくれ。
 そんな話、いつでも出来るだろ。
 なのに、どうして今するんだよ。
 だから。
 ……だからっ!
 これだけは伝えておかなきゃって、思い残すことはありませんようにって、そんな必死そうな顔すんなよ――!
 俺の気のせいだと思いたかったが、現実から目を逸らしちゃいけない。彩の身体は、一秒ごとに冷たくなっているようだった。
 出血が多すぎたのか、氷を身に浴びすぎたのか――恐らく両方だろう。
 でも悪いことばかりじゃない。ナベリウスの氷を全身に浴びたことが、彩の命をかろうじて繋いでいる。身体を急激に冷やされるということは、体内の血管が収縮して出血が収まるということでもあるから。
 しかし、それは時間稼ぎにもならないだろう。
 どちらにしろ彩の命は、間もなく燃え尽きようとしていた。

「……なあ。ナベリウス」

 呼びかけると、背後から返答があった。

「なに? まさか、その子を助けてくれ、だなんて子供みたいな命令はしないわよね?」
「…………」
「あのね、夕貴。それは命令じゃなくて、お願いよ。奇跡を願うのなら、その相手はわたしじゃなくて、神様に言ったほうがいいわよ」

 奇跡――つまり彩は、そんな神様頼みの事象が起きないかぎり助からないとでも言うのか。

「……彩は、一体どうなってんだ? どうして俺を殺そうとしてきた? どうして人を殺した? どうして、あんな化物みたいな身体能力を持ってたんだ?」
「そうね。簡単に言うと、その子は悪魔に魅入られたのよ。真っ当な人間なら悪魔に憑依されるようなことはないんだけど――きっと、その子は心に大きな傷があったんでしょうね。自己を保てなくなるほど深い心の傷が。もうどうなってもいい、と自暴自棄になってる人間は、それだけ悪魔みたいな邪悪なものを引き寄せやすいのよ」

 正直に言えば――ナベリウスの話は、荒唐無稽すぎて理解に苦しんだ。
 でも必死に受け止めた。
 こんな状況下で嘘をつくほど、ナベリウスは性根の曲がった女じゃない。
 それに彩を助けるためならば、俺は何だってする。母親を大事にする人間に、悪いやつは絶対いないんだから。

「低級悪魔――まあ一般にはオドって呼ぶんだけどね。このオドは実体を持たず、自分一人じゃ何もできない。だからこそ人を操り人形にして、他者を殺し、心を食らって己の力とする。だから、その子――彩ちゃんだっけ? とにかく彩ちゃんが殺人事件を引き起こしたのは、彩ちゃんの意思じゃなくて、オドに強制されていただけってことになる。まあ結論から言えば、彼女の身体能力が向上したのも、彼女が人を殺したのも、彼女が夕貴を狙ったのも、すべてオドが原因ってことよ」
「なるほど――いや待て。それっておかしくねえか? おまえの説明だけじゃ彩が俺を狙った理由が分からない」
「そりゃあ分からないように話したからね。こればっかりは、あとで落ち着いて話したほうが分かりやすいと思うし」
「……なんだか気に食わねえが、まあいい。今は彩を助けるほうが先決だ」
「だから無理だってば。彩ちゃんは人間を殺しちゃってるでしょう? とすると、すでに彼女とオドの結びつきは、外部からの切り離しが効かないほど強固になってると見て間違いないわ。つまり――」

 オドを殺すということは、彩ちゃんを殺すということよ。そうナベリウスは続けた。
 信じたくはない、そんなの信じてたまるか、と現実逃避することは楽だし、容易い。
 でも、それで事態が収束することはない。
 しかし俺に出来ることがないのも、また事実である。

「……おい、彩」
「な、に……?」
「こんなところで寝てる場合じゃないだろ。おまえ、お母さんのことが好きなんだよな?」
「……うん。……だ、いすき……だよ」

 なら。
 自信を持って母親を大事だと言えるのなら。

「生きろよ。無様でもいい、人殺しでもいい、奇跡が必要だったら奇跡を起こせばいい。だから生きろ……生きてくれよ」

 それが。

「……どんなに醜くても、精一杯生きてやるのが……俺たちに出来る、最高の親孝行だろうが……!」

 瞳からは涙がしとどに溢れた。
 なんだ、どうりで視界が霞んでやがるなぁ、と思ったわけだ。
 頬を伝った透明色の雫は、俺の顎から彩の瞳に落ちる。それは一筋の涙のようになって、まるで彩も泣いているように見えた。

「……そう……だね……う、ん……夕貴くんの、言うとおり、だと……思う、よ」

 彩の瞳からも、涙が溢れた。決壊したダムのように、とめどなく涙が溢れた。

「あぁ……こんな、話をしてると、お母さんに……会いたく、なっちゃうね……ううん、会いに行っちゃおうかなぁ……」

 それは。

 繁華街の居酒屋で。

 彩が言った言葉と同じ――だった。

 あのときは母親離れできない少女の台詞に聞こえたのに、どうして今は、こんなにも悲しい一言に聞こえるのか。

「な、んだか……眠たく、なって……きちゃったなぁ……」

 力なく笑って、彩は瞳を閉じた。瞼が閉ざされたせいで溢れた涙が、より一層の筋となって頬を伝う。

「おい……なに寝ようとしてんだよ」

 彩の身体が弛緩していく。少しずつ力が抜けていく。
 それが嫌で、俺は彩を抱きしめた。

「……あの、ね……夕貴くん。……もうちょっと、だけ……顔、近づけて、くれないかな」
「あ、あぁ、これでいいか?」
「……だめ。もっと」
「えっと、このぐらいか?」
「ううん……もっと」

 意味が分からなかったが、とにかく彩の願いを叶えてあげたかった俺は、言われるがままにした。
 ほとんど目と鼻の先にある彩の顔は、血の気を失っているのにも関わらず綺麗で――可愛らしかった。
 やがて俺は、これ以上近づけることはできないという距離まで顔を接近させた。

「じゃあ、これぐらいで――」

 そう言いかけた瞬間――ふと唇に感触。
 驚きに目を見開く俺を満足そうに見つめて、彩は悪戯っ子のように笑った。

「……えへへ。……初めて、好きな男の子と、キス……しちゃった」

 ほんのりと頬を赤くして、彩は舌を出した。
 もう身体を動かすだけの力は残っていないはずなのに――俺とキスする力があるのなら、それを少しでも生命力に回せよと怒鳴りたい気持ちだった。

「……バカ野郎ぉ。俺なんて、いまのがファーストキスだよ」
「そう、なんだ。……夕貴くん、とっても素敵、だから……もう経験済みなのかと、思ってたのになぁ」

 一体キスにどれほどの価値があるのかは分からないが。
 それでも彩は、この上なく幸せそうに微笑んだ。

「……あのね、夕貴くん」
「なんだ?」
「……好き、です。……私、夕貴くんのことが、好きです……」

 か細い声で、囁くようにして彩は言った。こんなときなのに、とも思ったが、もしかしたらこんなときだからこそなのかもしれない。
 突然の告白を受けた俺は、混乱するしかなかった。そもそも女の子から告白されたことは、これまであまりなかったんだ。
 なんて答えればいい?
 どう返すのが正解なんだ?
 そんな取り留めのない思考が無数に駆け巡った。

「……彩、俺は――っ?」

 そこで初めて気付く。
 もう彩の身体は氷のように冷たくなっていて、呼吸は気付かないほど小さくなっていることに。

「……おい、嘘だろ? なに寝てんだよ、彩」

 身体を揺さぶりながら問いかけるも、反応はない。
 彩は、ただ満足そうな笑顔を浮かべたまま、沈黙しているだけだった。
 最悪の予感が、脳裏を掠めた。
 振り返ってナベリウスを一瞥すると、彼女は力なく首を横に振った。それが、どうしようもなく死刑宣告のように見えて、俺は目の前が真っ暗になった気がした。
 ……ふざけんな、なんだよこれ。
 こんな結末ありかよ。
 どうして彩が死ななくちゃいけないんだよ。
 いや、まだ彩は生きてる。風前の灯に似た命であったとしても、まだ生きてるはずなんだ。
 でも俺は、やっぱり無力だ。
 何も出来ない。
 何もしてやれない。
 どうすることもできない。
 彩を、助けてやれない。
 ほとんど自棄になった俺は、彩の身体を強く抱きしめた。冷たくなっても彩の身体は柔らかく、血に濡れているはずなのに甘い匂いがした。
 胸の中に彩を感じながら、必死に祈る。
 頼むから、この子を助けてくれ。
 こいつはお母さんが好きだって言ってんだ。
 そんな女の子が、こんな可哀想な最期を迎えていいはずがない。
 だから。
 だから……!
 ナベリウスが氷を操ったときと同じように、かすかな耳鳴りがした。

「……これは、まさか」

 俺の背後で、ナベリウスが驚いたように声を漏らす。
 でも、そんなのは関係ない。
 今は彩を助けたい、としか頭にはないから――


 どう足掻いても打破できないような堅固な壁。
 それを前にして、誰にも助けてもらえないことを知っているのに、叫ぶ少年がいた。
 それこそが、萩原夕貴にとっての、ハウリングだった。



[29805] 0-12 夜が明けて
Name: テツヲ◆c49d9b75 ID:366fa69a
Date: 2012/03/10 20:27
「さあ、おまえの知ってることを全部話してもらうからな」

 休日の朝、俺とナベリウスは萩原邸のリビングにいた。
 朝食後のコーヒータイムを満喫している俺たちは、木製のダイニングテーブルに向かい合うようにして腰掛けている。
 悪魔のことやら、ナベリウスが俺の元にやってきた理由やら、そういった知られざる秘密を彼女に問い質そうとするという、わりと真面目なシチュエーションのはずなのだが……。

「わたしの知ってること? ……ああ、それって夕貴の部屋の本棚に隠してある、グラビア写真集のことでしょ?」
「違うわっ! というか、てめえ何で知ってんだよ!?」
「そりゃあ夕貴が大学に行ってる間に、部屋を物色したからに決まってるでしょうが。夕貴の隠された性癖を調べてあげようと思ってたんだけど、意外にアダルトビデオとかの類はなかったなぁ。あのグラビアアイドルの写真集が一つあっただけだし」
「バカっ、あれはグラビアアイドルじゃねえよ! 俺が応援している女優さんのファースト写真集だ!」
「ふうん、そうなんだ。でもあの子、びっくりするぐらい胸が大きかったよね。てっきり夕貴は巨乳が好きなのかなぁって思ったんだけど」
「まあ確かに、あの子の胸が大きいってのは認めるよ。そのせいで顔や演技じゃなくて、胸しか見ないようなファンがいることが俺は許せないけど、まあ誰かを好きになる理由は人それぞれだし――って、なんでおまえにこんな話をしなくちゃならねえんだ!?」
「まあまあ、落ち着きなさいよ。どうせ夕貴ちゃんがあの子を使ってるのはバレバレなんだし」
「えっ、使うってなんだ!? いや、それよりも夕貴ちゃんって呼ぶなよ!」
「んー、それを言っちゃってもいいのかなぁ。でも夕貴が――あっ、噂をすれば」

 退屈そうにテレビのリモコンを弄っていたナベリウスが、部屋の隅にある52インチのテレビを指差した。
 そこに映っていたのは、タレントや俳優を特集するという番組だった。本人の出演はないが、テレビ局が独自に取材した芸能人の趣味や華々しい経歴を取り上げるという――あっ!

「……あれ、夕貴ちゃん?」

 ナベリウスが顔を覗き込んでくるが、俺はそれどころじゃなかった。
 だってさ。
 だってさ!
 俺が応援している女優こと高臥菖蒲(こうがあやめ)さんが、テレビ番組に取り上げられてるんだぞ!?
 ……あぁ、やっぱり菖蒲ちゃんって可愛いなぁ。なにより雰囲気がいいんだよなぁ。おっとりとしてて、ちょっと天然で、めちゃくちゃ礼儀正しくて。それにどことなく俺の母さんに似てるし。

「おーい、夕貴ちゃーん。男装の似合う女性ランキング第一位の夕貴ちゃーん?」

 液晶の大画面に映っているのは、優しげな笑顔を浮かべる菖蒲ちゃんだった。
 全体的に色素が薄いのか、日本人にしては珍しい鳶色(とびいろ)の髪を持ち、肌は秋田美人もびっくりするぐらい白い。
 それに、二重瞼の瞳をいつも眠そうにしてるところとか、他人から声をかけられたとき一瞬だけ遅れてレスポンスを返すところとか、なんとも言えない可愛らしさがあるんだよなぁ。

「大丈夫よ、夕貴ちゃん。このテレビに映っている女の子よりも、夕貴ちゃんのほうが可愛いから」

 高臥菖蒲という少女こそが、俺の理想の女性像と言っても過言じゃない。
 小学六年生の頃から突出した愛らしさを誇っていたらしい菖蒲ちゃんは、街を歩いているときに芸能プロダクションからスカウトを受けた。
 当初は家の事情で断っていたものの、それから一年後に両親からの勧めを受けて、中学一年生のときに晴れて芸能界入りを果たした。
 雑誌やテレビ出演などを経て、それから二年もしないうちに映画初主演まで勤めた菖蒲ちゃんは、美しいルックスや年齢に見合わない豊満な胸もそうだが、自然と人を惹きつけるようなカリスマ性があるのだ。言ってしまえば天性のスター気質というやつだろう。

「ねえ夕貴ちゃん、あとで下着でも買いに行かない? そろそろ夕貴ちゃんにも必要になってくるころでしょ?」

 しかも菖蒲ちゃんは、東日本を中心に展開する大財閥である高臥家の一人娘なのだ。つまり生粋のお嬢様ということであり、それが菖蒲ちゃんの礼儀正しさや気品に繋がっているのだろう。
 ……と、俺が黙って菖蒲ちゃんを想っているのをいいことに、好き勝手ほざく悪魔女がいるらしい。

「よっ、この美人! 憎いねぇ女顔! 今まで何人の男を騙してきたのかなぁ? これだから夕貴ちゃんは――」
「うるせえっ! さっきからなに言ってんだよ、てめえは!」
「やっと反応したわね。それにしても、夕貴に好きな女の子がいたなんてね」
「べつに好きなわけじゃねえよ。ただ憧れてるだけだ」

 まあ俺は今年十九歳で、菖蒲ちゃんは今年で十六歳だから、交際するとなると犯罪の恐れが出てきてしまうわけだけど。

「ふーん、まあ写真集を買うぐらいだものね。筋金入りのファンってことなんだ、夕貴は」
「ああ……って、おまえと話してるうちに番組が終わっちまったじゃねえか!」
「ほんとだ。きっと、わたしがチャンネルを変えたときにはもう番組終了間近だったんでしょうね」
「そんな冷静な考察はいらねえよ……」

 高臥菖蒲のテレビ露出は珍しいのに……。
 もっとちゃんと見ておけばよかったなぁ……いや、むしろ録画しときゃよかったかも。
 まあ後悔しても遅いか。あとで菖蒲ちゃんのファースト写真集でも見て元気を出そう。
 とにかく今は、もっと大事な話があるんだ。……もちろん菖蒲ちゃんも大事だけど。

「なあナベリウス。そろそろ話を聞かせてくれよ」

 ここからは真面目な話だと、俺はテレビを消した。
 お茶請けのどら焼きを頬張っていたナベリウスは、口をハムスターのように膨らませながら「むご?」と何とも間抜けな反応をした。
 なるほど、実に締まらない。
 むぐむぐ、とどら焼きを咀嚼したナベリウスは、唇を舌で舐めたあと紅茶を口に含んだ。

「まあ別にいいけどね。わたしは元から何も隠してないし。でも、大して面白い話でもないわよ?」
「構わない。俺は真実が知りたいんだよ」
「わーお、かっこいい台詞――とか言うと、また夕貴に怒られそうだから言わないけど」
「いや、それもう言ってるから」
「そこを気にしちゃったら男らしくないわよ」

 そ、そうだったのか。
 くそっ、危ないところだった。もう少しで俺が女々しい男だと勘違いされるところだったじゃないか。

「まあ、確かに夕貴には、真実を知る権利があるかもね。もう隠し切れないだろうし」

 そう前置きして、ナベリウスは続けた。

「どこから話したものかなぁ……あっ、ちなみにわたしは本物の悪魔だからね? ソロモン72柱だからね? ナベリウスちゃんなんだからね?」
「それはもう分かってるよ。むしろ、あんなもん見せられたら信じるしかないだろ」

 絶対零度の世界。
 あれこそがナベリウスの力であり、彼女本来の姿。
 銀髪銀眼という人間離れした容姿は、悪魔という種族ゆえの身体的特徴だったということになる。いや、どうりで人間離れした美貌だと思った。もちろん本人には言わないけど。

「そのとおり! ふっふっふ~、わたしは凄いのよ。見直したでしょ?」

 腰に手を当てて、ご立派な胸を張るナベリウス。そのうち鼻が伸びそうなぐらい威張っていた。

「はいはい、見直した見直した。だから最初から全部教えてくれ」

 投げやりに同意すると、ナベリウスは「なーんか気持ちが篭ってないなぁ。まあいいけどー」と面白くなさそうに唇を尖らせた。

「じゃあ、まずは《ソロモン72柱》について話そうかな――」

 かつてソロモン王が使役した72体の大悪魔。
 その絶大な力を警戒したソロモン王によって封印された彼らではあるが、やがてバビロニアの人々によって解き放たれ、世界中に散らばっていったらしい。

「その中の一柱がわたしってわけ。どいつもこいつも面白いぐらい自分勝手なやつばっかりでね。封印を解かれた《ソロモン72柱》の悪魔たちは、世界各地に潜伏して勢力を築いたり、歴史の裏で悪魔祓いの連中と殺し合いを続けたり、人間と恋に落ちて子供を産んだりもしたのよ」
「なるほど。ちなみに他人事みたいに言ってるけど、おまえも最強に自分勝手だからな?」
「えっ、嘘でしょ? わたしって貞淑でおしとやかな女性だよね?」
「その間逆だろうが。ある朝、人のベッドに裸で添い寝してた女がなに言ってんだよ……。つーか、それで思い出したけど、どうして俺のベッドに潜り込んだんだ?」
「……いやん」
「頬を赤らめんなっ! 身体をくねくねさせんなっ!」

 ルックスがいい分、無駄に似合っててちょっぴりドキドキするじゃねえか!

「まあ、わたしが夕貴の元にやってきた理由は単純なんだけどね」
「単純なのかよ。今までもったいぶってたのは何なんだ。んで、なんで俺の元にやってきたんだ?」
「そうね。約束、かな」
「約束? もしかして母さんとの約束か?」
「それもあるけど、厳密に言えば違うかな」
「じゃあ誰だよ」
「夕貴のお父様との約束かな」

 …………。
 その言葉を聞いて、数瞬だけ思考が止まった。

「解き放たれた《悪魔》たちは、各地に散らばったって言ったでしょう? 世界各地に潜伏して勢力を築いた悪魔がいて、歴史の裏で悪魔祓いの連中と殺し合いを続ける悪魔がいて、そして――」
「……人間と恋に落ちて、子供を作った悪魔もいた」

 そうそう、とナベリウスは同意した。

「もしかして、それが俺の父さんで――悪魔と恋に落ちた人間が、俺の母さんだとでも言うつもりか?」
「そのとおり。察しがよくて助かるわ。頭の回転が速い男の子はポイント高いかもよ」

 つまり俺の推論が正しければ、萩原夕貴は純粋な人間じゃなくて、悪魔とのハーフってことになる。

「ソロモン72柱が一柱にして、序列第一位の大悪魔バアル。かつて魔神とさえ謳われた彼は、しかし人間をこよなく愛する風変わりな悪魔だったわ。その結果、当時は女子高生だった夕貴のお母様、小百合(さゆり)と恋に落ちたのよ。いやぁ、あれはロマンチックな逃避行だったなぁ。バアルに付き従っていたわたしも、巻き込まれる形で一緒に逃げたものよ」

 ……マジかよ。
 そういや母さんが「私も若いころは運命的な出会いをして、ロマンチックに駆け落ちしたものよ」とか言ってたな。その駆け落ちのせいで実家と絶縁していた母さんではあるが、数年前にようやく許されて交流が復活したのだ。

「まあ分かりやすく言うと、わたしが夕貴の元にやってきたのは、夕貴がバアルの息子だからってことになるかな。バアルと小百合の子供は、わたしの子供みたいなものだしね」
「そっか――いや待て。一万歩譲って、その荒唐無稽な話を信じてやるとしてもだ。なんでおまえは、裸で添い寝してたんだ?」
「……いやん」
「だから頬を染めて身体をくねくねさせんなっ!」 

 これが定着したら嫌だなぁ!
 俺のツッコミを華麗に無視したナベリウスは、紅茶をずずっと飲んだ。

「ところで夕貴。あなたのお母様である萩原小百合について聞きたいんだけど、いいかしら?」
「なんだよ。べつにいいけど、つまんねえこと言って母さんを侮辱したら怒るぞ」
「つまらないことじゃないと思うけど――わたしが聞きたいのは、小百合の外見年齢のことよ。正直に言って、夕貴から見た小百合は、何歳ぐらいに見える?」
「それは――」

 ありのままを答えようとして、言葉に詰まった。
 ぶっちゃけた話をすれば――俺の母親こと萩原小百合は、実年齢よりも十歳以上若く見える。よく永遠の二十歳とか、女子大生みたいとか、ご近所様からは評されているし。
 二人で買物に出かければ、母さんが腕を組みたがることも相まって、恋人同士のように見られることが多い。俺としては腕を組むのは恥ずかしいのだけど、それを断れば「もういいっ! 夕貴ちゃんの可愛い姿、街中に教えてくるもん……!」とか言って、俺の忌まわしい記憶(子供のころの女装写真)の封印を解こうとするものだから始末が悪い。
 母さんは、二十代前半の外見年齢だし、息子の俺から見てもルックスがいい。
 加えて性格には無邪気なところがあり、やや子供っぽい面が残っているのも否定できない。
 それを、俺は今まで不思議に思わなかった。確かに学友たちの母親と比べると、母さんがかなり若すぎるような気がしたのだが、まあ俺の母さんだからアリかなって意味もなく納得していたのだけれど。

「夕貴の反応から察するに、どうやらビンゴみたいね。きっと小百合は、わたしと出会ったころとあまり変わらない容姿なんでしょう」
「……確かに、おまえの言うとおりだ」

 記憶を振り返ってみる。
 俺が幼稚園児のとき、小学生のとき、中学生のとき、高校生のとき、大学生のとき――その始まりから終わりまで、母さんの容姿はほとんど変わっていない。もちろん多少は変化しているが、それは老化というよりも成長だ。むしろ俺が幼稚園児のときよりも現在のほうが、色気が増して美人になっている印象さえある。
 ナベリウスに言われて愕然とした。
 ……これは異常だ。若作りという言葉では済まされない。
 もしかして、母さんの身になにか得体の知れない現象が起こっているのでは――そう考えると、気絶してしまいそうなほどの絶望を感じた。

「ああ、安心して。べつに小百合は病気とかじゃないから。むしろ、その逆かな」

 恐らくは青褪めていただろう俺の顔を見て、ナベリウスは苦笑した。

「逆だって?」
「そうよ。んー、なんて説明すればいいのかなぁ。まあ簡単に説明すると、小百合はバアルとセックスしたわけでしょう?」
「……ま、まあ」

 当たり前のことだとしても、なんとなく母さんのそういう話は聞きたくなかった。

「夕貴のお父様であるバアルは、ソロモンの序列第一位に数えられるほどの大悪魔だった。小百合は、その偉大なる悪魔の精を、子宮という女性の体内部に何度も注ぎ込まれた」
「…………」
「何度も注ぎ込まれた」
「繰り返すなやボケぇ!」
「あっ、ごめんごめん。とにかく小百合とバアルは、それはもう人目を憚らずに――」
「話が脱線し過ぎだ! 真面目な話じゃなかったのかよ!」

 べつに他意はないけれど、母さんのそういう話は聞きたくない。べつに他意はないけれど。

「いやぁ、ごめんごめん。あまりにも夕貴が面白い反応をしてくれるものだから、つい遊んじゃった」

 つい、じゃねえぞこの悪魔……。
 まあ反論するのも時間の無駄なので、あえて耐えるけど。

「理論的に説明すると小難しい話になるから、夕貴にも分かりやすく説明するとね――」

 それから彼女は色々な話をしてくれた。悪魔のこと。父さんのこと。Dマイクロ波と呼ばれる波動と、《ハウリング》と呼ばれる異能のこと。

「……なるほど。大体は理解はした。でも納得は出来そうにないな」
「それでいいのよ。こんなのわたしたちを目の敵にする連中が、勝手に研究しただけの理論に過ぎないんだから。なかには科学では説明できないような異能を持つヤツもいるしね」

 ナベリウスが言うには、そのDマイクロ波の秘密とやらを研究して、悪いことに使おうとする人間たちもいるとのこと。

「先も言ったように、悪魔の血液――いえ、体液にはDマイクロ波が含まれている。つまりバアルの精を子宮に直接受けた小百合は、悪魔化するまではいかないけれど、常人を遥かに上回る健康的な身体になったのでしょうね。あと、下手をすれば運動能力もちょっぴり向上してるかも」

 言われてみれば、母さんはドジで抜けているわりには運動神経がよかったよな。俺が小学生のとき、運動会に来てくれた母さんが父兄参加の競技に出場した際、ぶっちぎりで優勝してたし。そのとき、周囲の男どもの母さんを見る目が、なんかいやらしくてムカついたのを覚えてる。

「バアルはね、小百合のことを本当に愛してたわ。というより人間のことを愛してたのかな。最強の悪魔だったくせに、とてもそうは見えなかった」
「…………」
「バアルは悪魔の中でも別格の能力を誇っていたわ。でも封印から解き放たれた悪魔たちは、それぞれの勢力に分かれて殺し合いを始めたからね。いわゆる闇の権力争いってやつかな? とにかく、それが嫌でバアルは野に下った。もちろん各勢力は、バアルを必死に探していたみたいだけど――だからこそ、わたしは夕貴の元に来たの。だって夕貴の身体には、半分とは言え最強の悪魔の血が流れているんだから。誰に狙われないとも限らないでしょう?」
「狙われるって……そんなの今までなかったぞ」
「今までなかったからと言っても、これから無いとは限らないでしょ? 大丈夫よ、わたしが夕貴を護ってあげるから。それに――」

 一瞬だけ悲しそうに目を伏せたあと、ナベリウスは首を振って、言った。

「バアルは、夕貴が生まれることを心から楽しみにしてた。自分に何かあれば、この子を護ってやってくれ、とわたしに約束させたの」
「……そっか」

 父さんの顔なんて見たことがなかったし、俺と母さんを置いて一人で逝った父を恨んだことさえある。
 でも、どうしてだろう。
 会ったことも、話したこともないのに。
 どうして、こんなにも嬉しいんだろう。

「でもね、バアルの血を引いていることの悪影響は、すでに出ちゃってるのよね」
「悪影響? ……それって、まさか」
「ご明察。低級悪魔であるオドに魅入られた櫻井彩が、夕貴を理由もなく殺そうとした原因はそれよ。まあ理由がないのは表向きだけで、実はあったんだけどね」

 低級悪魔であるオドは、より上位の悪魔を盲目的に欲するという。共食いでもして力を高めようというのだろうか。
 序列第一位の大悪魔であるバアル。その血を引く俺は、オドにとっては最高の餌に見えるらしい。

「本来、悪魔は極東に位置する日本よりも、欧州とかのほうが分布的には多いんだけどね。それだけ彩ちゃんが心に負った傷は、オドにとって美味しそうに見えたのかな」

 俺には専門的な話はよく分からないので、ナベリウスの言っていることの大部分が理解できなかった。
 一人でぶつぶつと小難しい単語を口走る彼女を見ていると、ふいに思い出すことがあった。

「そういえばおまえ、俺が河川敷に移動する前、公園のあたりにいなかったか?」
「あぁ、いたわね。そういえば」

 あっさりと肯定するナベリウス。
 彩のためにミネラルウォーターを買いに行ったとき、視界のすみに銀色の髪が見えたのだが、あれは見間違いじゃなかったらしい。

「やっぱりいたのかよ。じゃあもう一つだけ聞くけど、おまえがその気になれば、もっとはやく俺を助けることができたんじゃないか?」
「うん、できたけど――ただ、わたしが手を出さなかったのも、ちゃんとした理由があるのよね」
「理由? どんな?」
「夕貴がピンチになると《悪魔》の血が目覚めるんじゃないか、と思ってたのよ。だからギリギリまで傍観に徹してたんだけど」
「そんな三流ヒーロー物みたいな都合のいい展開があってたまるか……」
「もしかしたらあるかもしれないでしょ? まあ実際にはなかったわけだけどね。やっぱり夕貴は……」

 とかなんとか、またしても一人でぶつぶつと意味不明なことを呟くナベリウスだった。
 あの夜、奇跡的に彩は助かった。
 絶対に助からない、と予想していたナベリウスは心底驚いていたようだったが「まあ夕貴だし、アリかな」と意味の分からないことを言って、一人で納得していた。
 彩を助けたいと願って彼女を抱きしめたとき、聞こえてきた耳鳴りは一体なんだったのだろうか。
 ……いや、それよりも他に考えることがある。
 櫻井彩は、命を拾った代償として、ここ一ヶ月ほどの記憶を失ってしまった。つまり大学に入学してからの人間関係がリセットされたということだ。勉学のほうは、まあ学校は始まったばかりなのだから、まだ追いつけるレベルだろうが。
 彩は、人を殺したことも、俺と出会ったことも、ナベリウスと殺し合ったことも、夕貴くんが好きだと言ってくれたことも、そのすべてを忘れていた。
 でも、それでいいと思った。
 あんな辛い出来事なんて、忘れ去ったほうがいいのだ。絶対に。
 彩は人を殺したが――それも俺が黙っていれば、事実は誰にも知られることなく、彩は幸せな生活に戻れる。
 ここで問題があるとすれば、それは――殺された人々の死を、俺が背負えるかということだ。
 たかが一介の大学生に過ぎない俺にとって、それは荷が勝ちすぎているとは思う。
 正直、耐えられる自信は、ない。

「……ねえ夕貴。無理しなくてもいいのよ?」

 ナベリウスは言う。
 俺のために言ってくれる。
 でも。

「あなた一人ですべてを背負う必要は――」
「あるよ」

 こればかりは譲れない一線だ。
 世界のことを考えるなら、人間社会のことを考えるなら、殺人事件に怯える街の人たちのことを考えるなら――彩が人を殺したという事実を警察に教えるべきだろう。
 いくらオドとかいう低級悪魔に操られていたとは言え、それは科学的に証明できることじゃないので酌量の余地には入らない。
 だから彩は、俺やナベリウスから見れば無罪でも、人間社会という一つの集団から見れば限りなく有罪なんだ。
 でも。
 それでも。
 彩は言ったんだ。
 お母さんが大好きだって、そう言ったんだ。

「ナベリウス。俺はさ、男らしいんだよ」
「そんなの今は関係ないでしょう?」
「いや、関係あるね」

 当たり前だろう。
 こんなの考えるまでもない。

「男らしいやつは、可愛い女の子の秘密をチクったりしねえんだよ」

 そうだ。
 例え、櫻井彩が萩原夕貴のことを忘れてしまったとしても。
 何かの拍子に、彩が殺人事件のことを思い出してはいけないから、もう俺と彩は極力近づかないほうがいいのだとしても。
 それでも俺は――彩の秘密を背負う。
 悪魔のことも、ナベリウスのことも、俺のことも、果てには殺された人のことも関係ない。
 ただ、お母さんが大好きだ、と彩が笑ったという事実があれば十分。
 それだけで俺は頑張れる。
 彩の家庭問題も気になるところではあるが、それはさすがに俺の管轄外だろう。あとは彩自身がどうにかする、と信じるしかない。
 とにかく、これで全ては終わったのだ。
 いちおうの結末を迎えたのだ。
 決してハッピーエンドとは言えないが、それでもバッドエンドじゃなかったから、俺は良しとしようと思うのだ。

「……母さんに電話してみようかな」

 なぜか無性に、母さんの声が聞きたくなってしまった。
 もう大好きな母親と会うことのできない女の子も、この世には確実にいるのだ。だから『母親と会えるのは当たり前』という概念は捨てるべきだ。失って初めて大切なものに気付くのだけは嫌だから。
 願わくば、この世にいるすべての『子供』が、『お母さん』と仲良くいられるようにと祈りたい。
 それから俺は、実家にいる母さんに電話をかけた。
 もしもし、というお決まりの文句のあとに続けたのは、『長生きしてくれよ』と『俺は大丈夫だから』という二つの言葉。
 ……実は、もう一つだけ続けた言葉がある。
 それは。

「えっと……母さん、俺が悪魔の息子って本当なの?」




[29805] エピローグ:消えない想い
Name: テツヲ◆c49d9b75 ID:366fa69a
Date: 2012/03/10 20:27
 その日の夕方。
 まだ就寝には幾分か早かったが、俺は自室のベッドに潜り込んでいた。布団を頭まで被って、身体を丸めて、まるで現実から目を背けるように。
 ナベリウスには啖呵を切ったものの――やっぱり俺にとって、人間の死を背負うというのは重過ぎるみたいだ。
 殺された人たちには家族がいたし、人生があったし、守りたいものもあったはずだ。
 そのすべてを俺の都合によって無視するのだから、これが重くないはずがない。
 ふと気を抜けば、手足がガタガタと震える。
 歯の根が合わずカチカチという音がして、瞳からは涙が溢れそうになる。
 そんな情けない姿をナベリウスに見られたくなくて、俺は一人でベッドにいるわけだった。
 あれから――ナベリウスからは様々な話を聞いた。悪魔のこと、ハウリングと呼ばれる異能のこと、悪魔を退治する組織や機関のことなど。もちろん目から鱗みたいな話ばっかりだったけど、あの夜のナベリウスを見たからには、信じないわけにもいかなかった。

 俺は、悪魔の血を引いているという。
 これが笑ってしまうような話で、今は人間側にいる萩原夕貴は、何かの拍子に悪魔として覚醒することもあるらしい。
 まったくもって信じられない話だ。
 実を言うと、あまり実感はないし、完全に信じているわけでもない。
 ナベリウスが悪魔だということは理解したが、だからといって、俺が悪魔の血を引いているという事実だけは半信半疑だった。
 それに悪魔の血を引くというわりには、俺はずいぶんと弱い存在のようだ。
 殺人事件を犯して逃亡するような犯人は、実は尊敬に値する人間じゃないかとさえ思う。人の死を背負うと意識しただけの俺が、もう限界ギリギリなんだ。実際にその手で殺人を犯した人間にかかる良心の呵責は、想像も出来ないほど大きいはずだ。
 人を殺したうえで逃亡するなんて、いまの俺にしてみれば偉業にしか思えない。そんなことをすれば、確実に心が潰れる。

 さっき電話で母さんの声を聞いたはずなのに、それで頑張ろうって思ったはずなのに、身体の震えがどうしても止まらない。
 寒い。
 ひたすらに寒くて、暗くて、孤独だ。
 誰か助けてほしい。
 そんなことを願っては駄目だし、この暗闇から俺を救い出してくれるような人はいないのだけど、それでも誰かに助けを求めてしまう。
 俺は弱い人間だ。男らしいとか言ってるけど、実際は女々しくて頼りない男なんだ。女の子の秘密を守る、とか大見得切ったくせに、それから一日も経たないうちに限界を迎えそうになっている。
 やっぱり無理だったのかな。俺には彩を、お母さんを大事にする女の子を、守ってあげることが出来ないのかな。
 このまま一人で震え続ける日々が続くと思うと、もう俺は――

「夕貴」

 きぃ、という蝶番の軋む音。

「……ナベリウスか」

 ベッドに潜ったまま、頭を布団の中に隠したまま、俺は彼女に呼びかける。なるべく冷たい声で、なるべく大丈夫そうな声で、なるべく睡眠を邪魔されて機嫌を悪くしたような声で。

「悪いけど、俺は疲れてるんだ。このまま寝るから、一人にしてくれ。だから晩飯もいらない」

 返答はなかった。
 ただ、ぺたぺた、とフローリングの床を裸足で歩くような音がするだけ。

「……夕貴」

 慈しむような声とともに、ナベリウスはベッドのなかへ入ってきた。
 あまり認めたくはないけど、俺は泣いてしまっている。ガキみたいに泣いてしまっているんだ。きっと頬は真っ赤だろうし、目は腫れてるだろうし、もしかしたら鼻水も垂れてるかもしれない。そんな顔、他人には見せたくない。
 拒絶しようと思った。
 一人でゆっくりと寝たいから、おまえは邪魔だと――そう理由付けて、ナベリウスを追い出そうと思った。

「夕貴」

 薄暗くて、汗ばむほど熱の篭った布団のなか、ナベリウスが俺を呼んだ。緩慢とした動作で振り返ってみる。

「――っ!?」

 そのときの衝撃を、どう例えたらいいだろうか。
 なにか温かいものに抱きしめられたかと思うと、間近にはナベリウスの顔があって、唇には柔らかいものが触れていた。
 それは、キスだった。
 キスされたことによって反論は出来なかったし。
 抱擁されたことによって、抵抗も出来なかった。
 驚きに目を見開く俺と、ほんのりと頬を赤く染めて物憂げに瞳を閉じている彼女。

「……ナベリ……ウス」

 それからしばらくして、彼女はゆっくりと顔を離した。

「どう? 落ち着いたでしょう?」
「おまえ……どういうつもりだ」

 返事はなかった。
 ただ。

「夕貴一人で背負う必要はないのよ」

 母親のように、姉のように、恋人のように、諭されるだけ。
 俺の髪を優しく撫でたナベリウスは、はにかんだように笑ったあと、言った。

「わたしも一緒に背負うから」

 その一言を聞いた瞬間、なぜか瞳からは涙が溢れた。


 ――夕貴の面倒を見るのはわたしなんだから。
 ――わたしが夕貴を守ってあげるから。


 ふと、そんな彼女の言葉を脳裏で反芻した。
 嗚咽が漏れそうになって、感謝や謝罪の言葉が口をつきそうになる。でもそれの受け取りを拒否するかのように、ナベリウスは俺の唇に吸い付いた。
 人肌の体温に触れているだけで、あれだけ不安だった心が安らいでいく。
 きっと、ナベリウスは知っていたんだろう。
 孤独がもたらす”寒さ”を打ち消すには、誰かと触れ合うことが一番の近道だって。人肌の温もりは、誰かの傷を癒す最高の特効薬なんだって。
 肉体的というよりも、精神的に満たされていく感覚。
 母親の胎内でたゆたう子供になったような錯覚。
 自分を受け止めてくれる人がいる、という事実。
 自分を守ってくれる人がいる、という真実。
 情けないことだけど、女々しいことかもしれないけど、俺という男は、ナベリウスという女にだけは頭が上がらないみたいだ。
 ありがとう、と口にすることはしない。そんな他人行儀な台詞を交わすほど、俺たちの距離は離れていないから。
 俺たちは、日がすっかりと沈み、あたりの民家から明かりが消えるまでのあいだ、ずっとベッドのなかで寄り添っていた。


**** 


「彩ー? 次の講義に遅れるよー?」

 遠くのほうで友人が手を振っている。
 あと五分ほどで二限目が始まるからか、無数の学生たちが大学のキャンパス内を慌しく右往左往している。
 そのうちの一人が、櫻井彩だった。
 彩は、大学に入ってからの数週間程度の記憶を失くしていた。とある朝、ベッドの上で目覚めると、大学の入学式以降のことが思い出せないことに気付いたのだ。
 不思議とパニックになることはなかった。普通なら、頭の心配でもして病院に駆け込むところだろうが、彼女は違った。
 むしろ彼女が感じていたのは、生まれ変わったように清々しい気分。なにか不浄なるモノが抜け落ちたかのように身体が軽く、頭がスッキリしていた。
 清廉な自分に安堵することはあっても、慌てるようなことは決してなかった。まあ数週間分の講義内容が頭から抜け落ちていることは大きな問題だったが。

 それに、彩の兄が、とある夜に彼女の部屋を訪れて謝罪したのだ。泣きながら土下座した彼は、これまでの行為を心から反省していた。だから都合のいいことかもしれないが、いつかと同じように仲のいい兄妹に戻りたいと。
 許した。
 だって彩は気付いていたからだ。出会ったときから兄が彩に寄せていた淡い想いに。兄妹となってしまったからこそ届かぬ想いに。ただの情欲ではなく、心の底に確かな愛があったからこそ、兄は彩に乱暴した。
 それを完全に許せるわけじゃないが、もう過ぎ去ったことをいつまでも責めるのは嫌だった。元はと言えば、兄の想いを理解していたのに、誘惑していると取られてもおかしくない薄着の格好で、兄に勉強を教えてもらっていた彼女も悪い。
 紆余曲折はあったが、彩は円満な家族を取り戻した。兄と一緒に、大好きだったお母さんの墓参りにも行った。
 母の墓前でも土下座して「彩を、お母さんの大事な娘を傷つけて、本当にすいませんでした」と泣き出した兄には、さすがに困ったものだが――

「うん、いま行くからー!」

 友人に手を振るものの、足の遅い彩は中々追いつくことができない。
 それに痺れを切らしたのか、

「もう先に行って席を取ってるからねー! 早く来なさいよー!」

 友人は苦笑したあと、次の教室に一足先に向かってしまった。
 冷たいなぁ、と思わないでもないが、まあ本質的なところでは彩が悪いのだし、文句を言うのは筋違いだろう。
 それに最悪、履修人数が多い科目では席が確保できず、教室の後ろのほうで立って講義を受けなくてはいけないこともある。大学は学生の自主性に任されているので、講義をサボる人間が多い。だから稀に、ほとんどの学生が真面目に講義を受けに来た場合、人数があぶれるという事態が発生するのだ。
 そういう意味では、席を確保するというのは大事だ。友人には感謝せねばなるまい。
 さて。
 それじゃあ私も急がないと――そう彩が己を戒めるのと同時に、前から一人の男の子が歩いてきた。

「ぁ――――」

 ――ドクン、と心臓が跳ねる。

 女の子みたいに綺麗な顔立ちをした彼は、

 ――暴れる鼓動が痛い。

 周囲の視線を集めながらも、

 ――身体が熱くなる。

 どこか涼しげな眼をしたまま、

 ――視界が霞んでいく。

 ゆっくりとした足取りで、彩に近づいてくる。

 やや長めの黒髪と、柔らかそうな色白の肌。身長は170センチメートルほどで、体格は細め。その少年は、パッチリとした二重瞼を退屈そうに細めており、気だるそうにポケットへ手を突っ込んで、わざとらしいぐらい男らしく振舞っている。
 おかしい。
 あの男の子と会うのは初めてのはずなのに、どうしてこんなにも心が痛むのか。
 張り裂けそうな胸の痛みは、どこか恋に似ている。
 ふと、目が合った。
 胸の前で両手を握って、震える身体を必死に抑えながらも、瞳を潤ませる彩と。
 足を止めて、驚きに目を見開いている少年と。
 なにか言わなければいけない。
 このまま離れ離れになりたくない。
 もしかすると、これが運命の出会いというやつなのかもしれない――そんなメルヘンチックなことさえ彩は考えた。
 本当に、ただ本当に、一目見ただけなのに何かを確信した。
 私は、この人のことを――

「……あ、あのっ!」

 勇気を出して、ようやくかたちになった言葉は、半ば裏返り気味のものだった。
 恥ずかしさのあまり、かあ、と顔を赤くした彩は、いたたまれなくて顔を俯けた。
 その視界の隅に、少年の足が見えた。
 彩が慌てて顔を上げたころには、目の前に少年の姿はなかった。振り返って見れば、案の定そこには少年の背中がある。
 彩にとっては運命的な出会いに思えたのだが、少年にとってはそうでもなかったらしい。その証拠に、あの男の子はなにも言わず、ただ黙って立ち去った。
 果てしない悲哀が胸に去来する。
 でも、これも仕方ないと思うのだ。
 ただでさえ人見知りの気があり、女の子にも自分から声をかけることができない彩だ。見知らぬ男の子に喋りかけようとするなど土台無理な話だったのだろう。
 名残惜しいとは思うが、これも運命だ。
 あの男の子のことは忘れて、自分は友人の待つ教室へと――

「――――あっ」

 そのときだった。
 もしかしたら彩の気のせいかもしれない。
 いや、きっと彩の勘違いであり、自惚れでもあるだろう。
 だって彩は、あの少年のことを知らない。
 つまりあの少年も、彩のことは知らないはずなのだ。
 まったくの他人。
 なんの繋がりもない関係。
 だから――

「あっ、あぁ……!」

 あの少年が背中を向けたまま、右手を上げて手を振ったとしても――それは彩に向けたものでは、決してないはずなのだ。
 瞳からは涙が溢れて、どうしようもなく身体が熱くなった。
 まったくもって意味が分からない。
 どうして私は、あの男の子が気になって仕方ないんだろう?
 どうして私は、こんなにも泣いてしまっているんだろう?
 考えても答えは出ない。
 ただ彩は、涙が止まらなかっただけ。

「……ゆう、き……くん……!」

 嗚咽に混じって、自分の口から見知らぬ人の名前が出る。
 根拠はないけれど、彩にはその名前があの少年のものだと思えて仕方なかった。

 ――あの少年は。

 どうしてだろう。

 ――とっても優しくて。

 いくら考えても答えは出ない。

 ――とっても綺麗な顔立ちをして。

 見知らぬ他人とすれ違っただけのはずなのに。

 ――とっても強くて。

 私は、あの男の子のことを知らないはずなのに。

 ――そして。


 ――とっても、お母さん想いの――


 分からない。
 ちっとも分からない。
 もしかすると、彩の抜け落ちた記憶と、あの少年は関係があるのだろうか。
 いや、さすがにそれは穿ちすぎだろう。だって、もしもあの少年が彩と関係があるのなら、さきほど声をかけてくれたはずなのだから。
 竜巻にも似た感情の渦が、胸のうちで暴れまわる。
 愛しさや悲しさが入り混じって、それは彩の心に深く根付いた。しかし不思議と痛いとか辛いとは思わず、ただただ儚くて煩わしいだけだった。
 やがて講義開始を告げるチャイムが鳴り、閑散としたキャンパス内に彩は一人でぽつんと立っていた。
 涙は止まらず、愛用しているピンク色のハンカチは斑模様に染まっている。
 友人に怒られるかもしれない、とは思ったものの、どうしても講義には出る気になれなかった。
 彩は一人、静かになったキャンパス内で、どうすればこの涙が止まるのかと考えることにした。


 [零の章【消えない想い】 完]



[29805] 壱の章【信じる者の幸福】 1-1 高臥の少女
Name: テツヲ◆c49d9b75 ID:366fa69a
Date: 2012/07/11 23:53
壱の章【信じる者の幸福】




 四月も終わりに近づき、街中に咲き誇っている桜も陰りを見せ始めた、今日この頃。
 俺は自室で、誰にも邪魔されることなく趣味の時間を満喫していた。具体的に言うと、お気に入りの本を写真集を眺めていた。
 これまで女優やアイドルに興味がなかった俺が、唯一応援している女優さんがいる。それが高臥菖蒲だ。まだ十六歳とかなり若いのだが、抜群のルックスと演技力を持つ、いま最も注目されている一人。
 俺が菖蒲ちゃんの写真集を見て癒されていると、萩原邸のチャイムが鳴った。

「……チっ、誰だよ。俺の至福の一時を邪魔するやつは」

 思わず本気でイラっときた。どうせナベリウスはソファで昼寝でもしているのだろうし、俺が応対するしかないか。写真集をベッドに広げたまま、俺は玄関に向かった。




「こんにちは。まずは一つお伺いしたいのですが、ここは萩原夕貴様のお宅でよろしいのですよね?」
 
 彼女を前にして、俺は呆然と立ちすくむしかなかった。

「……え、あ」

 色々と言いたいことがあるはずなのに、俺の口から漏れ出るのは”言葉”というよりは”音”でしかなかった。ぶるぶると震える指で、俺は彼女を指差す。

「あ、あ、あ、ああ、あ、あ……菖蒲、ちゃん?」
「もしかして、わたしのことをご存知なのですか!?」

 お祈りするときのように両手を組んで、瞳を輝かせながら彼女――菖蒲ちゃんは表情を輝かせた。
 その姿は、どこからどう見ても、俺の知る『高臥菖蒲』であり、つい一分前まで写真集で眺めていた顔をまったく同じだった。
 やや色素の抜けた淡い鳶色(とびいろ)の髪は、緩やかなウェーブを描いて背中に流れている。陶磁器のように滑らかな玉肌と、すっきり通った話筋。瑞々しい唇は赤く、とても柔らかそうだった。透き通った二重瞼の瞳は、ちょっとだけ眠そうに閉じていて、それが何とも可愛らしかった。
 身長は、公表で162センチメートルのはずなのだが、高臥菖蒲という少女が放つオーラのようなものが、彼女を実際の寸法よりも大きく見せていた。常人とは比ぶべくもないほどの圧倒的な存在感だ。
 特筆すべきは、やはり胸だろう。服の胸元を大きく押し上げる膨らみは、収穫時の果実を二つ詰め込んでも、ああは行くまい。彼女は黒を貴重としたセーラー服に身を包んでいる――いや待てっ! 俺はなにを冷静に観察しているのだ!?

「ええええぇぇぇぇぇっ――――!? ま、まさかっ、モノホンの菖蒲ちゃん!?」

 あまりに驚きすぎて、”本物”という言葉を噛んじまった!
 落ち着け、とにかく落ち着くんだ萩原夕貴。おまえは出来る子だ。これまでだって幾多の苦難を乗り越えてきたじゃないか。だから成せば成る、あのナベリウスとかいう悪魔の出現にだって、なんとか対処して見せただろう。
 ……いや、待てよ?
 もしかして、これってマジでテレビ局のドッキリじゃねえのか?
 ナベリウスのときとは違って、菖蒲ちゃんはモノホンの――いや違った、本物の女優さんなわけだし。
 そっか。
 そうだったのか。
 これはテレビ番組が仕掛けた罠だったんだ。
 なーんだ、分かってしまえば簡単じゃないか。
 危ない危ない、もう少しで、あの飛ぶ鳥を落とす勢いの女優こと高臥菖蒲さんが、俺を訪ねてきたのだと勘違いするところだった。 

「夕貴様。菖蒲は、貴方様に会いとうございました」

 テレビのスピーカーから聞くのとはまた違った、人の心を落ち着かせる清涼感のある声。彼女は丁重に頭を下げて、うやうやしく礼をした。
 きっと子供のころから厳しい教育を受けてきたのだろう。視線や瞼の開閉、呼吸の間隔、手や足を動かす速度や角度、果てには指先の動き一つを取ってみても、それは完璧だった。
 菖蒲ちゃんがその身に纏う気品やオーラは、生まれ持った美貌だけじゃなくて、細かな仕草からも形成されているのだ。

「えっ、俺に、会いたかった……?」

 なんだこれは。脚本家の野郎、イカス真似をしてくれるじゃねえか。もはやテレビ局のドッキリを恨むどころか、感謝の言葉を言いたいぐらいだ。
 まあでも、そろそろ種明かしの時間だろうな。今のうちに菖蒲ちゃんの姿を、この目に焼き付けておこう。

「あの、そんなに見つめられると照れてしまいます。旦那様」

 透き通るような色白の頬を、薄っすらと赤く染めて、菖蒲ちゃんは俯いてしまった。むしろ俺が照れそうだった。

「……? 夕貴様、お顔が赤いようですけれど、まさか体調を崩されているのですか?」

 接近してくる。
 ふわり、と風に乗るようにして爽やかな柑橘系の香りがした。きっと、これは菖蒲ちゃんのものだろう。額に柔らかい何かが当てられた。ちょっとだけ冷たくて、それでいて心地いい感触だった。菖蒲ちゃんの、手だった。

「なっ、なにを……!?」
「お静かに。夕貴様と添い遂げる者として、これぐらい当然の気遣いですよ」

 顔と顔の距離は、きっと五センチもない。

「……やっぱり熱があるみたいですね。どんどん熱くなっています。それに肌も汗ばんでいるようですし」
「いや、その……あ、菖蒲ちゃんが離れてくれれば、きっと熱も下がると思うんだけど」

 言えた。
 初めて、まともに喋ることができた。
 一人の男して、おどおどしてるだけじゃ格好がつかないもんな。

「そうですか?」

 どこか嬉しそうに笑った菖蒲ちゃんは、両手を後ろで組んだ。

「でも、ご無理はなさらないでくださいね? 夕貴様に何かあれば、きっとわたしは泣いちゃいます。いえ、わたしも倒れちゃうかも……です」

 俺から視線を逸らして、はにかむ菖蒲ちゃん。どこまで可愛ければ気が済むんだ、君は。
 念願だった菖蒲ちゃんとの対面。しかし純粋に喜ぶことが出来ないのも確かである。だって、あまりにも謎が多すぎる。
 日本中の男の憧れである高臥菖蒲が、なぜ俺みたいな一大学生の家に訪ねてきたんだ?
 夕貴様ってなんだ?
 それより俺のことを知ってたみたいな言い方じゃなかったか?
 挙句の果てには、旦那様とか言われるし……。

「……あの、どうかなさいましたか、夕貴様?」

 じぃーと訝しげに見つめていると、世にも不思議そうな顔をして疑問を投げかけられてしまった。その際に、首をちょっとだけ傾げるところがキュートすぎて俺のハートがデストロイしそうだ。だめだ落ち着け俺。
 目を合わせるのが気恥ずかしくて、俺は視線を逸らした。その先に見えたのは、彼女の足元に置かれたボストンバッグ。めちゃくちゃ大きい。中身が膨らみすぎてる。まるで旅行にでも行こうとしているみたいだ。

「と、ところで、どうしてきみは俺の家に……?」

 もじもじと男らしさの欠片もなく問いかける俺に、彼女は言った。

「決まっているではありませんか。わたしと夕貴様は、添い遂げる未来にあるのですから」

 なんの臆面のなかった。
 高臥菖蒲という名の少女は、今ここに宣言する。

「どうぞ、これからは菖蒲を好きなようにお使いくださいませ。愛しの旦那様?」

 パチっ、と女優だからこそ出来るのであろう、美しいウインクを添えて。
 もちろん何もかも完璧と言っていいぐらい、意味が分からなかった。




[29805] 1-2 ファンタスティック事件
Name: テツヲ◆c49d9b75 ID:366fa69a
Date: 2012/03/10 17:56

「ここが夕貴様がお生まれになり、お過ごしになった空間なのですね」

 嬉しそうに菖蒲ちゃんが言った。
 あれから俺は、玄関先では誰に見られるものか分かったもんじゃない、ということで、とりあえず菖蒲ちゃんを萩原邸に通すことにした。
 菖蒲ちゃんは、このあたりでは有名なお嬢様学校――愛華(あいか)女学院の制服を着ている以外に、中身がパンパンに詰まったボストンバッグを持っていた。明らかに女の子一人じゃ持ち運ぶのも難しそうな大きい鞄だ。
 ふわふわと夢見心地のまま、菖蒲ちゃんをリビングまで案内した俺は、ソファで眠っていたナベリウスを叩き起こした。安眠を妨げられたナベリウスは怒っていたが、菖蒲ちゃんを認めると「あれ、なんか夕貴の好きな女の子がいる」と目を丸くした。
 なんだかんだと来客用にお茶を淹れて、俺たち三人はリビングのダイニングテーブルに腰を落ち着けた。俺のとなりにナベリウスが座り、俺の正面に菖蒲ちゃんが座っている。
 いったい菖蒲ちゃんは何が目的なんだろう?
 訝しげに見つめていると、菖蒲ちゃんと目が合ってしまった。
 じろじろと不躾な視線を送ってしまっていたはずなのに、菖蒲ちゃんは気分を害した様子はない。むしろ口元に微笑を湛えて『なにか?』といったように小首を傾げた。
 可愛すぎて死ぬかもしれない。

「ちょっと夕貴。どういうことか説明してよ。さっきから意味が分からないんだけど」

 俺のとなりで、寝癖のついた頭を気にしながらナベリウスが口火を切った。

「……なるほど。やっぱりナベリウスの差し金でもないってことか」
「当たり前でしょうが。だから早く説明しなさい」
「悪いけど、俺も説明してほしいぐらいだ。まあ端的に説明すると、さっき菖蒲ちゃんが俺の家を訪ねてきたんだよ。それで今に至る」
「……ごめん。やっぱり意味が分からないわ」
「安心しろ。俺もだ」

 アホみたいな会話をする俺たちを、菖蒲ちゃんはニコニコしながら見つめていた。相変わらず瞳を眠そうにちょっとだけ閉じながら。
 現状のなんたるかをまったく分かっていない俺とナベリウスは、自然、事情の説明を求めるために菖蒲ちゃんを見た。

「改めまして、わたしは高臥菖蒲と申します」

 そう名乗った菖蒲ちゃんは、ちらりとナベリウスを一瞥した。

「これはこれはご丁寧に。わたしはナベリウス。好きなように呼んでくれていいからね」
「分かりました。それではナベリウス様とお呼びさせていただきますね」

 一瞬、《ナベリウス》という人間らしからぬ名前に戸惑いを見せたものの、菖蒲ちゃんは華麗に対応してみせた。

「……ところで、一つだけお伺いしてもよろしいでしょうか?」
「いいけど。なに?」

 ナベリウスが対応する。

「はい、えっと……」

 これまでマイペースだった菖蒲ちゃんは、そこで初めて口篭った。

「……夕貴様とナベリウス様は、どのようなご関係なのか、と気になりまして」
「あぁ、べつに見たまんまよ。わたしは、夕貴の母のようでいて、姉のようでいて、恋人のような女――みたいな感じかな」

 これっぽっちも見たまんまじゃなかった!

「そうなのですか。分かりました」

 だが菖蒲ちゃんは、特に表情を変えずに理解を示した。おかしい。普通、ナベリウスの外見年齢的に姉とか恋人ならまだしも、母の部分には疑問を持つものだと思うんだけど。

「そう? 話が早くて助かるわ。物分かりのいい子は好きよ」
「はい。わたしもナベリウス様のような、お美しい方には憧れてしまいます」
「ちょっと夕貴、いまの聞いた? この菖蒲って女の子、かなり見所があるっぽいわよ?」

 お美しい方、というワードに反応したのか、ナベリウスが耳打ちしてきた。でもナベリウスが俺に身を寄せた瞬間、菖蒲ちゃんの眉がぴくっと吊り上ったような。

「菖蒲、でいいのよね? 事情はよく分からないけど、とにかくよろしくね」
「こちらこそ。これからもよろしくお願いしますね、この野郎」
「……え」

 リビングに満ちていた暖かな空気が、一瞬にして凍った。
 狐につままれた顔をするナベリウスとは対照的に、菖蒲ちゃんは目元を和らげたまま上品に腰掛けている。……えっと、なんか菖蒲ちゃんの口から、その清楚な佇まいに似つかわしくない言葉が吐き出されちゃったような気がするんだけど。

「……ねえ菖蒲。いま、なんて言ったの?」

 勇気を出して問いかけるナベリウス。その顔は笑っているけれど、若干引きつっていた。

「あっ、すみません。声が小さかったようですね。では繰り返します。これからもよろしくお願いしますね、この野郎。これでよろしいでしょうか?」
「……どうして『この野郎』なのか説明してくれない? わたし、なにも悪いことしてないよね?」

 さすがのナベリウスも困惑気味である。菖蒲ちゃんは微笑みながら、おっとりとした様子で答える。

「はい。わたしとしても不本意だったのですけれど、ナベリウス様が三分の一ほどわたしの敵であるということが判明しましたので、ちょっぴりと敵意を明示させていただきました」

 ふわふわの髪を上品な所作で耳にかけて、菖蒲ちゃんは続けた。

「夕貴様の母上様に当たる方は、わたしにとっても母上様同然です。また、夕貴様の姉上様に当たる方は、わたしにとっても姉上様なのです。ですから、ここまでは最大限の敬意を表せるのですが」
「……なるほどね。恋人は無理、と」
「恐れながら、仰るとおりです。もしもナベリウス様が、夕貴様の恋人であられるのなら……わたしにとっては敵なのです」
「ふうん、そうなんだ。つまり菖蒲は、夕貴のことが好きだと言いたいわけね」
「好き、というよりも、結ばれる運命にある、と言ったほうが自然かもしれません。夕貴様とわたしは、将来的に添い遂げる運命にあるのですから」

 何の臆面もなく、菖蒲ちゃんは宣言する。やはりと言うべきか、ナベリウスが耳打ちしてきた。

「……ねえ夕貴。この子、ちょっと頭がおかしいんじゃないの? なんだか電波を受信してるっぽいわよ?」
「他人事みたいに言ってるけど、おまえも十分に電波塔だったからな」
「電柱ぐらい?」
「東京タワーだボケー!」

 思わず椅子から立ち上がって、ツッコミを入れてしまった。
 いつものようにナベリウスと中身のないやり取りをしていると、くすくすと楽しそうな笑い声が聞こえてきた。菖蒲ちゃんが口元に手を当てて笑っている。
 不思議だ。なんだか菖蒲ちゃんの笑っている姿を見ていると、それだけで満ち足りた気分になる。この女の子が微笑んでくれるのなら、もうなんでもいいや。そんな打算的なことさえ考えてしまう。
 高臥菖蒲という少女は、本当に、どこまでも人を惹きつける。

「とても仲がよろしいのですね、お二方」

 頬を薄っすらと染めて、菖蒲ちゃんは言った。

「まあね。わたしと夕貴は、ご主人様と奴隷の関係だからね」
「誤解を招くような言い方すんなやっ!」
「べつに誤解を招いてないでしょ? ほら、わたしと一緒にお風呂入ったじゃない。それに夕貴ったら、わたしの胸まで揉みしだいたものね。それらを強制されたわたしは、夕貴の奴隷ゆえに従うしか……従うしか道が……!」

 ナベリウスは両手で顔を覆って、わざとらしい嗚咽を漏らした。どこからどう見ても嘘泣きである。まあ、こんな三文芝居に騙されるバカなんていないけどな。

「……な、ナベリウス様? そのお話、詳しく聞かせて頂いてもよろしいでしょうかっ?」

 いたー!
 完璧に騙されてる人がいたー!
 菖蒲ちゃんは、ハラハラドキドキするアクション映画を見るときのように両拳を握って、ずいと身体を乗り出した。
 そういやこの子、テレビで見るかぎり、かなり天然入ってたっけ……。

「ええ、たっぷりと聞かせてあげるわ。でも、その前に一つ聞いてもいいかしら?」
「……? はい、わたしに答えられる範囲であれば構いませんが」
「じゃあ遠慮なく聞くけど、さっき菖蒲が言ってた、夕貴と添い遂げる運命、ってなに?」
「そのままの意味ですよ。わたしと夕貴様は、夫婦(めおと)となる未来にあるのです」
「ふうん。ちなみに、その未来とやらは、どうやって知ったの?」
「未来を視たのです」

 すこし前と同じように、やはりリビングの空気が凍った。
 今度こそナベリウスの顔は完璧なまでに引きつっている。いまにも「病院行ってきたほうがいいんじゃない?」と言い出しそうだ。まあ正味なところ、俺も菖蒲ちゃんの頭をちょっとだけ心配してしまったのだが。

「そうですね。信じることができない、というのも当然の反応だと思います。まずは事情を説明しましょう。それが夕貴様に対する、せめてもの償い……ですから」
「事情を説明してくれるのは嬉しいけど、俺に償いって……?」

 どこか悲しそうに目を伏せる菖蒲ちゃん。その”償い”とやらは言いにくいことなのか、菖蒲ちゃんは話題を変えるように笑みを浮かべた。

「それでは順を追ってお話させていただきます。夕貴様とナベリウス様はご存知でないでしょうが、わたしは学生という身分の他に、女優さんという肩書きを持っていまして」
「あぁ、それなら知ってるわよ? だって夕貴が、菖蒲の大ファ……」
「ファンタスティック! いやぁ、俺ってファンタスティックって単語の響きが好きなんだよなぁ!」

 椅子から立ち上がって、意味不明な感じに場を濁してみた。
 いや、だってさ。
 なんか恥ずかしいだろ?
 いずれ知られてしまうだろうけど、他人の口から「この子は、あなたのファンなんです」と言われるのは気恥ずかしくて仕方ないのだ。

「……? ちょっと夕貴。あなた、頭がおかしくなったんじゃないでしょうね」
「そんなわけねえだろ。俺はファンタスティックが大好きだったじゃねえか!」
「…………」
「なっ!」
「……まあ、そんなような気がしてきたわ」

 渋々といった体で、ナベリウスは頷いた。どうやら俺の意図を察してくれたらしい。でも、さすがに誤魔化すのが下手すぎたと思う。これは菖蒲ちゃんにバレてしまったのでは――

「言われてみれば……確かに夕貴様の仰るとおりです! ファンタスティックという言葉は、他の言葉とは一線を画すと思います!」
「ええぇぇぇっ!? マジで!?」

 口から出任せだったのに!
 もちろん俺にはファンタスティックという言葉に思い入れはない!
 菖蒲ちゃんは興奮に頬を赤く染めて、小声で「ファンタスティック……ファンタスティック……」と何度もつぶやいていた。もう俺は泣きそうだった。

「さすがですっ、夕貴様! ”ファンタスティック”の素晴らしさをご教授してくださるとは、菖蒲、感激です!」

 それはあまりに美しすぎる笑顔。ちょっと嘘を言ってしまったけど、この見る者を癒すような微笑みを見られたのだから、まあ良しとしよう。

「今度、記者の方に好きな言葉を尋ねられた際は、もちろんファンスティックです、と答えますね」
「それは止めてくれっ!」

 とりあえず俺とナベリウスは、まあ世間一般の人が認知してる程度には高臥菖蒲という女優のことを知っている、みたいな感じの”設定”になった。

「話を戻しますが、先も言いましたとおり、わたしには未来が視えます。……いえ、正確には未来を予測できる、と言いましょうか。これはわたし特有の能力ではありません。【高臥】という家系に生まれた女児が、先天的に発現する異能のようなものなのです」
「……高臥家っていうと、日本でも有数の資産家だったよな」
「はい。【高臥】は、いくつかの分家と共に一つの大きなグループを形成しております。その資産力は、かの大家である如月家に次ぐと言われているそうです」

 庶民である俺には実感が湧かないが、彼女がそう言うのだから、やはり世の財界には派閥のようなものがあるのだろう。

「我が高臥家は、如月家や、有能な高官を輩出することで知られる高梨家と比較すれば見劣りします。しかし、その差を埋めるものが【高臥】の人間にはありました」

 それが、未来を予測する力とでも言うのだろうか。

「もう夕貴様とナベリウス様もお気付きでしょう。我ら【高臥】は、未来というある種究極の情報を垣間見ることによって栄えました。高臥宗家の直系、それも女児のみが発現するこの力は、歴代によって千差万別です。夢として未来を視る者がいれば、虫の知らせのような形で数時間先の未来を予知する者もいます。ちなみに、わたしは後者に当たりますね」

 いつもテレビで見るときと同じ、おっとりとした口調で菖蒲ちゃんは説明する。

「敵を知り、己を知らば、百戦危うからず。孫子の兵法にあるとおり、【高臥】は科学という分野が発達するよりも以前から、未来予知という能力について研究してきました。もっとも、まだ若輩者のわたしには小難しい話は理解できませんし、専門家の方の視野を以てしても不明瞭な部分が多く見えるようです」
「……アインシュタインの相対性理論によれば、時間は相対的なものに過ぎない。つまり本来存在しないということになる。この理論から考察すると、時間という概念は人間の幻想に過ぎず、未来も過去も存在しない。ただ”今”という時間が連続しているだけのはずだ」

 要するに、未来という不確かな情報を予測することは不可能ということになる。

「なんだか頭の良さそうなこと言っちゃって。そういえば夕貴って、学校の成績がよろしいんだっけ? 菖蒲にいいところを見せるチャンスじゃない」

 銀髪の悪魔が「ヒューヒュー!」とか言って囃し立ててきたが、もちろん無視した。

「そうですね、夕貴様の仰るとおりです。しかし、それは理論の一つに過ぎません。事実として、わたしたちが未来予知を可能としているのですから、やはり何かしらの理屈があるのでしょう。例えば【高臥】には、量子力学という観点から見た仮定の理論があります。脳細胞の活動には、量子的な情報作用があるのではないか、という説ですね」

 現在、高臥家において最も有力な仮説が次のようなもの。
 近親婚。それは現代だからこそ禁忌とされているが、古来の日本では数多くの例が見られた。血統を重んじる名家であればあるほど、近親婚を是とする傾向にある。
 高臥家も、古くは近親婚を厭わなかった一族。近しい、優秀な遺伝子同士の結びつきは、高臥に突然変異とも言うべき変化をもたらした。
 脳細胞には量子的な情報作用があるのでは、という説がある。高臥の女児は、上記の近親婚を繰り返したことによって、先天的に脳細胞の量子的な情報作用が常人よりも強まったのではないか、とされている。

「量子脳理論か。あまり詳しくはないけど、たしか著名な学者達によって提唱されたアプローチだったよな」
「仰る通りです。さすがは夕貴様。聡明でいらっしゃいますね」
「こんなの豆知識の範囲だ。誰でも知ってるよ」

 つまるところ、『未来予知』の完全な解明は出来ていないってわけか。
 いまの現代科学では、どうやっても解明できないブラックボックス。それが未来を予測する力。

「でも菖蒲ちゃん。未来予知って言っても、さすがに十年以上先のことは視れないだろ? どうして俺と結ばれるって思ったんだ?」
「……そんな。”菖蒲ちゃん”だなんて……夕貴様ったら」

 俺の問いもどこ吹く風。柔らかそうなほっぺたを桃色に上気させた菖蒲ちゃんは、両手で頬を押さえて、いやいやするように首を振った。

「あっ、ごめん。いつもの癖で呼んじまった。……えっと、菖蒲さん、でいいかな?」
「……菖蒲ちゃんのほうが可愛いと思います」

 ”菖蒲さん”が気に食わなかったのか、彼女は沈んだ声でつぶやいた。

「じゃ、じゃあ菖蒲ちゃんって呼んでもいいのか?」
「そう呼んでくださるのなら本望です。しかし、ここは敢えて”菖蒲”と呼んでください」
「どうして?」
「決まっているではありませんか。わたしと夕貴様は、添い遂げる未来にあるのですよ? 妻をちゃん付けする夫は、まずいないと思います」

 なるほど。
 まあ理に適っている、のか?

「……でも、時々でよろしいですから、わたしがいっぱい頑張ったり、夕貴様のお役に立てたりしたのなら、そのときはご褒美として”菖蒲ちゃん”と呼んでください」
「そんなのが褒美でいいのか?」
「はい。菖蒲は、夕貴様からの褒美を拒むような愚かな女ではありません」
「……まあ、じゃあ菖蒲って呼び捨てにするけど、本当にいいんだな?」

 こくり、と彼女は頷いた。

「なんか悪いな。それなら俺も”夕貴様”じゃなくて夕貴って呼び捨てにしてもいいぜ」
「そんな! 呼び捨てになんて出来ません! 夕貴様は、わたしの夕貴様なのです!」

 ずいっと身体を乗り出して、顔を近づけてくる菖蒲ちゃん。その胸元では、大きな膨らみがこれでもかと自己主張しており、彼女の動作に従って揺れる揺れる。爽やかな柑橘系の香りがして、その甘い匂いに頭がくらくらした。

「わ、分かったから落ち着いてくれ。もう好きなように呼んでくれていいから」
「そうですか? では、遠慮なく夕貴様とお呼びさせていただきますね」

 小首を傾げて微笑む菖蒲は、とにかくご機嫌な様子だった。

「さて、どこから話せばよいのか迷うところですが――端的に申しますと、高臥の女児は、あるとき決まって予知夢を見るのです」

 菖蒲の話によると、高臥直系の女児は平均して十代後半の年齢に差し掛かると、何年も先の未来を夢として視るという。
 この”予知夢”は、今のところ百パーセントの確率で起こっているらしく、しかも外れたことがないらしい。挙句の果てに、その”予知夢”とは自分が将来添い遂げる相手と幸せに暮らす未来を垣間見るというのだ。
 『未来予知』という異能と同様、詳しい原因は分かっていない。高臥の仮説によると、女性としての本能や遺伝子が、より優良な男性の遺伝子を求め、強力な予知能力を発動させた、ということらしいが。
 ただ高臥の長い歴史を鑑みると、高臥直系の女児が予知夢で視た相手は、例外なく高臥家を繁栄させるに最も適した相手だった。
 他の有名な名家と比べると地力で劣っていた高臥家は、この予知夢に従うことによって、金融、鉄道、外資、芸術、政界、芸能などに影響力を持つ家系と繋がり、あらゆる方面に事業を展開させるだけの力を持つに至った。

「……それって、本当の話なのか?」
「はい。菖蒲は三年ほど前に視たのです。夕貴様と幸せに暮らす未来を」
「……それって、絶対に外れないのか?」
「はい。菖蒲の母も、当初は”予知夢”に逆らったそうです。しかし運命に翻弄されるかのごとく父と出会い、愛し合い、結婚したと」
「マジか……」

 もちろん俺としては、菖蒲に憧れていた――いや現在進行形で憧れているのだから、異論などあるわけがないのだが。

「ちなみにさ、その菖蒲が視たっていう未来で、俺たちは何をしてたんだ?」
「そ、そのようなことを口にすると、菖蒲は恥ずかしすぎて死んでしまいますっ!」

 なぜか頬を真っ赤にして、両腕で身体をかき抱く菖蒲だった。

「えっ、恥ずかしいことをしてたのか?」

 うーん。
 お揃いのシャツを着て、ペアルックで街を歩く……とかかな。

「ですから、言えません! ムチとローソクとロープを使うだなんて――あっ、失言でした。今のは忘れてください」
「はあぁぁぁぁっ!? 俺、菖蒲に何してたんだ!?」
「いえ、本当に忘れてください。……菖蒲も悪いのです。菖蒲が上手くご奉仕できないばかりに、夕貴様は……ぅぅっ!」
「だから俺は何をしたんだっ!?」

 ここまで気になることも珍しい!
 いや、パニックになるな萩原夕貴。ここで冷静さを失ってしまうと、また話が脱線するじゃないか。菖蒲の発言も気になるところではあるが、他にも聞いておかなければならないことがある。

「ところで菖蒲。さっきから思ってたんだが、あのバカでかいボストンバッグはなんだ?」
「あのバッグには、菖蒲の衣服や日用品が詰まっているのです」
「なんで? やっぱり旅行でも行くのか?」
「いえ、その……実はですね」

 珍しく口籠ったかと思えば、菖蒲は上目遣いで俺を見てきた。その愛らしさと来たら、もう強烈である。なんでもお願い事を聞いてしまいそうだ。
 でも次の瞬間、俺は”なんでもお願い事を聞いてしまいそうだ”と思った自分を後悔するのであった。

「わたし――高臥菖蒲は、本日を持って【高臥】を出ました。ですから、これからはよろしくお願いいたします」
「はあ!? ちょっと待て、なんでそうなるんだ!」
「そう仰る夕貴様のお気持ちも分かります。でも、わたしは家出しちゃったんです。恥ずかしながら、お父様があまりにも頑固でして――」

 予知夢を見た菖蒲は、俺の存在を数年前から知っていたわけであって、その想いは日増しに強まっていったそうだ。それは恋慕というよりも『とにかく会ってみたい』という感情だろう。
 しかしながら、せめて高校を卒業するまでは男と会うことは許さん、と父親に窘められ続けてきた菖蒲は、つい昨日、とうとう父親と大喧嘩して、家を飛び出してきたというわけらしい。

「つまり、夕貴様に追い出されてしまうと、わたしは野宿しか方法がなくなるのです」

 瞳を潤ませて、鼻を啜る菖蒲。
 女の子が野宿。そんなことが許されるわけがない。第一、菖蒲は絶世という形容がぴったりの美少女なのだ。街を歩けば、どこぞの馬の骨とも知らない男にナンパされまくるに違いない。

「わたし、言いましたよね? 事情を説明することが、夕貴様に対する、せめてもの償い、と」
「ああ、確かに言ってたな。それがどうし……ま、まさか」
「はい。わたしを家に泊めてくださる、せめてもの償いです」

 そんな伏線いらねー!
 しかも菖蒲に悪気がない分、タチが悪すぎる!
 呆然と大口を開ける俺と、話に飽きたのか何度もあくびを噛み殺しているナベリウスを交互に見て、菖蒲は告げた。

「これからよろしくお願いしますね、夕貴様、ナベリウス様。三人力を合わせて、ファンタスティックな生活を送りましょうね」

 だからさ。
 ファンタスティックは止めようぜ、菖蒲ちゃん……。



[29805] 1-3 寄り添い
Name: テツヲ◆c49d9b75 ID:366fa69a
Date: 2012/03/10 18:25

 とりあえず今日は――そんな打算的な言い訳のもと、高臥菖蒲(こうがあやめ)は萩原邸に一泊することになった。
 幸い、うちには空いている部屋がいくつもある。なかでも客間は、常日頃から定期的に掃除してるから、いつでもお客さんを案内することが出来る。ナベリウスのやつが陣取っているのは一階の客間であり、その一つとなりの部屋を菖蒲に宛がった。
 自室のベッドに腰掛けながら、俺は壁にかかっている時計を見た。時刻は午後九時。外は真っ暗。すでに夜だった。
 とにかく急場凌ぎということで菖蒲を泊めてしまったが、とにかく早急に対策を講じなければならない。

「……風呂、入るか」

 この悶々とした気分を洗い流したい。汗を流し、ゆっくりと湯船に浸かれば、なにか名案を思いつくかもしれないし。
 のろのろとした足取りで立ち上がった俺は、あまり足音を立てないように気をつけながら、一階にある風呂場に向かった。




 結論から言うと、風呂に入っても心は落ち着かなかった。むしろ興奮が高まった。なにせ俺が入る十数分前まで、菖蒲が汗を流していたからだ。
 あの女優『高臥菖蒲』が使った直後のシャワールーム。そう意識すると、一ファンとしては平常でいられなかった。

「はぁ……もうイヤだ……」

 部屋に戻ると、敵地から帰還したかのような安心感があった。
 風呂でさっぱりしたばかりなのに、廊下を走って階段を駆け上がったせいか、体が汗ばんでいる。まあ俺の服装は、上はタンクトップ、下はジャージという開放的なものなので、すぐに汗も引くだろうけど。
 用心のために、部屋の鍵を閉めておくことにした。普段は開けっ放しなのだが、今日は特別だ。
 重い足取りでベッドに腰掛けて、タンクトップの胸元をぱたぱたと扇ぐ。

「……なんか腹減ってきたな」
「よろしければ、菖蒲がなにかお作りしましょうか?」
「えっ?」

 耳元で声がした。
 最高に嫌な予感がしたが、それでも確かめないわけにはいくまい、俺はのろのろと後ろを振り向いた。そこにいたのは、予想通りの人物。

「あ、菖蒲……ちゃんっ!?」
「いけませんよ、夕貴様。わたしのことは”菖蒲”と呼び捨てで構いません、と言ったではありませんか」

 彼女は優しく笑った。
 きちんとドライヤーで乾かさなかったのか、腰にまで届く鳶色の長髪はしっとりと濡れていた。甘やかな匂いが、俺の部屋を満たしていく。肌は火照り、頬は剥きたてのタマゴみたいにつるつるしている。彼女は花をあしらった淡いピンク色のパジャマを着ていた。

「えっと、なんで、菖蒲がここに……?」

 やや体を後ろに逸らす。だって菖蒲は、ベッドの上に女の子座りしながら両手をついて、上半身を前傾させているのだ。おかげで、俺が後ろに下がらないとキス出来そうなぐらい距離が近い。

「……俺の間違いじゃなけりゃ、部屋の鍵は閉まってたはずだよな。どうやって入ってきたんだ?」
「普通に入りましたよ? 鍵もかかっていませんでしたし」
「そんなはずは――」

 言いかけたところで気付いた。
 なんか知らないけど、部屋の片隅にあるクローゼットの戸が開いている。まるで今さっきまで誰かが入っていて、つい今しがた誰かが出てきたと言わんばかりに。
 視線で問うと、彼女は臆面もなく頷いた。

「はい。失礼ながら、クローゼットにお邪魔させていただきました。とってもオシャレな服ばかりで、菖蒲は感動しました」
「いや、まあ服のセンスは横に置くとして……どうしてクローゼットに?」
「夕貴様が部屋の鍵をお閉めになる、と分かっていたからです」
「俺が鍵を閉めると分かっていた……って、まさか」
「はい。予知っちゃいました」
「…………」

 ちょっと声に出すと失礼なので、心の中で叫ぼうと思う。
 しょうもないことに予知能力使うなや! しかもクローゼットに忍び込むとか、小学生のかくれんぼか!? めちゃくちゃ可愛いからって調子乗ってんじゃねえぞコラぁっ!
 よし、これで俺の心に蓄積していたストレスは消滅した。

「つーか、人が部屋の鍵を閉めることさえ予知できるっていうなら、俺のプライバシーがないのも同然じゃ……」
「ご心配なく。夕貴様にはご説明していませんでしたが、菖蒲の能力は一族の中でも強いほうではないらしくて、さほど応用も利かないのです」

 彼女の持つ予知能力は、虫の知らせのようなかたちで、数時間先から数日先までに起こる一つの事象を予測するものだという。言ってしまえば、日常のふとした瞬間に神様からお告げを受け取るようなものだ。

「しかしながら、わたしが予知するタイミングには、多少の法則性があるようなのです。これまでの経験上、リラックスしているときや身の危険が迫ったときなどには大抵、何らかの予知をするのですけれど」
「……なるほど。たしか現在、高臥家で最も有力な仮説が、量子脳理論を元にした仮説だったよな。菖蒲がリラックスしたとき、あるいは身の危険が迫ったときに予知することが多い……とすると、つまり脳細胞の活動が活発化してるときに予知能力が発動するってことか?」

 すこし気になって考え込んでいると、ふと視線を感じた。顔を上げて見れば、そこには何だか幸せそうな顔をした菖蒲がいた。

「……なんだ?」
「あっ、いえっ、何でもありませんっ。失礼しました」
「気になるな。俺に言いたいことがあるなら隠さず言ってくれていいぞ。つーか、そっちのほうが俺も嬉しいし」
「……では、遠慮なく言わせていただきますが、夕貴様は女の子のように綺麗な顔立ちをしていらっしゃるのですね」
「ぐはっ!」

 まさか菖蒲にまで指摘されちまうとは……!

「それに肌もお綺麗ですし、髪だって艶やかですし……。夕貴様は殿方なのに、わたし、嫉妬してしまいそうです」

 目に見えて分かるぐらい肩を落とす菖蒲。それを見ているうちに、なんだか頭を撫でてあげたくなってきた。下心とかではなく、親戚の女の子やペットを可愛がるときに近い、純粋な動機。
 もちろん俺には、自然な風を装って女の子のあたまを撫でる、なんてことはできない。だから、ちょっと手を上げて、やっぱり下ろして……みたいな怪しい行動を取る羽目になった。
 しかし、やはり菖蒲は、最高に気の利く女の子だったようだ。

「……ん」

 きっと俺の意図を察してくれたのだろう。菖蒲は子供がおねだりするように、瞳を閉じて頭を差し出してきた。ここで「いいのか?」と聞くほど、俺は無粋じゃない。とにかく勇気を振り絞ろう。夕貴だけに。だめだ落ち着け俺。
 生唾を飲み込んでから、意を決して菖蒲の頭に手を乗せた。色素の薄い鳶色の髪は、ほんのりと湿っていた。
 壊れ物を扱うかのような手つきで、ゆっくりと撫でてみる。菖蒲は気持ちよさそうに息を吐いた。リラックスしている証拠だろう。

「……不思議です。夕貴様に頭を撫でられると、自分でも驚くほど心が落ち着きます」
「俺も……菖蒲に触れているだけで、言い残すことがないぐらい満足だ」
「……本当でしょうか。菖蒲は夕貴様をお慕いしておりますが、夕貴様は菖蒲のことを……あら?」

 菖蒲は、俺の肩越しに何かを見るような仕草をした。

「これは、もしかして……」

 ベッドの上を四つんばいの体勢で移動した菖蒲は、俺の背後にあった一つの本を手に取った。何を隠そう、高臥菖蒲のファースト写真集である。
 菖蒲が忍者みたいに突如現れたものだから、隠すのを忘れてた……。

「夕貴様? これは一体、どういうことでしょうか?」

 写真集を手に持ち、彼女は目を鋭くした。ていうか自分の写真集を腕の中に抱える女優さんを見るのは、かなりレアなんじゃないだろうか。
 ベッドの上で女の子座りをする菖蒲とは対照的に、俺はなぜか正座だった。

「……いや、実は」
「実は? 夕貴様も殿方ならば、大きな声ではっきりと仰ってください」
「……実は、俺って……その、昔から、菖蒲ちゃんの……大ファンで」
「…………」
「いつも、菖蒲ちゃんが出演するテレビを見て、やっぱり可愛いなぁ、って思ったり……えっと、映画もシアターで見たし……写真集も、初版のやつを買ったし……」
「…………」
「だ、だから……!」

 こうなったら腹を括って、正直に告白するしかない。

「俺は、昔から菖蒲ちゃんに憧れてました!」

 場の雰囲気もあって、なぜか頭を下げながらのカミングアウトとなった。いくら待っても菖蒲ちゃんは何も言わない。もしかして気持ち悪いと思われてしまったんだろうか。
 そーっと視線を上げてみる。

「…………」

 菖蒲は、ただ顔を――それこそ耳まで真っ赤にして、気恥ずかしそうに俯いていた。

「……本当ですか?」
「え?」
「……本当に、夕貴様は……わたしのことを……」

 熟れた桃のように紅潮した頬が、やけに目立って見えた。

「ああ。べつに、嘘とかじゃないけど……」
「…………」

 訥々と答えると、彼女はさらに頬を赤くした。

「……ずるいです、夕貴様」
「え?」
「ですから、夕貴様はずるいです……」

 そう言って、彼女は俺にしなだれかかってきた。ほとんど抱き合うような格好だった。

「あ、菖蒲!?」
「きっと――」

 これまでとは違う、どこか平坦とした抑揚のない声で、菖蒲は言う。

「夕貴様なら、わたしを救い出してくれるかもしれない。あの陽だまりのような未来において、わたしのとなりで微笑んでくれた貴方様ならば、わたしを助けてくれるかもしれない――そう夢想せざるを得ませんでした」

 恐る恐るではあるが、俺は菖蒲の背中に手を回していた。抱きしめた身体は、テレビや本で活躍している姿よりも遥かに小さく感じて、どこまでも庇護欲をかきたてられる。

「救い出す……? どういう意味だ?」

 脈絡のない話に戸惑いを隠せない。彼女は小さくかぶりを振った。

「……いえ、これは少々、大げさな物言いでした。夕貴様を勘違いさせてしまったようですね。ただ、菖蒲は弱い女なのです。本当に、自分でも嫌になるぐらい、弱いのです」
「どういうことだ?」
「…………」

 菖蒲が言うには、数時間先、あるいは数日先程度の未来しか知ることが出来ないとはいえ、それは生きる上で大いに彼女の役に立ったという。『未来』は、幼いころの彼女にとって、確かな味方であり、何よりも信用できるものだった。
 彼女が小学生の時、一風変わった未来を視た。

 それは、人の死に関わる予知。

 小学校の担任の先生が『長期休暇の際、趣味の登山中に遭難してしまい、そのまま還らぬ人となる』という未来を菖蒲は知った。
 当然、先生を助けようとした。何度も何度も呼びかけて、忠告して、お願いした。けれど、未来は変わらなかった。小さな子供が口走る『未来』は、周囲の人間にとって戯言と同じだった。
 未来を垣間見ても、それを共感してくれる人間がいなければ、なにも変わらない。誰かの死は、その本人の理解と協力がなければ回避できない。人の生死に関わる予知は、これまで四度ほど経験したらしいが、一度も回避できた試しがないという。
 菖蒲は中学生の頃、街中ですれ違った老人が『階段で足を踏み外し、頭を打って死亡する』という未来を唐突に予知したこともある。もちろん声をかけて、なんとか未来を変えようとしたらしいが、結局は無理だった。
 どうして菖蒲の声に耳を貸さないんだ。そう思うのは、俺が彼女の能力を存知しているからだろう。
 ちょっと考えてみれば分かる。
 見知らぬ少女に、いきなり『貴方は死ぬ未来にあります。ですから、わたしの言うことに従ってください』と教えられても、普通に詐欺だと疑うだけだろう。
 きっと菖蒲は、大勢の人に自分の言葉を信じてもらいたいがために、芸能界に足を踏み入れたんだ。有名になりさえすれば、嘘のような言葉にも説得力が付加すると思って。
 学校のテストが視える、水溜りに嵌ってしまう――そんな些細な未来ならば、簡単に変えられる。しかし未来は、それが自分以外の大多数の人間に影響を及ぼす事象であればあるほど、軌道を修正することが困難になる。
 もっと言えば、自分自身の未来を変えることは容易だろうけど、他人の未来を変えることは想像以上に難しいんだろう。
 しかも菖蒲は、か弱い女の子だ。高臥という名家に生まれたとしても。類稀なる美貌を有していたとしても。女優という肩書きを持っていたとしても。どうでもいい他人の死を救えなかったことを、こうして後悔するぐらい、純真な女の子なんだ。
 これまで予知した誰かの死。
 一人目は救えず、二人目も救えず、三人目は菖蒲が声をかけようかと迷っているうちに死んでしまい、四人目は声をかけることもしなくなった。
 不幸中の幸いは、人の死を予知すること自体が少ないことか。それでもいつ誰かの死を垣間見るのかと思うと、菖蒲は強烈な不安に駆られるというのだ。

 例え、誰かの死を予知しても、それを回避することが出来ないのなら。

 そんなの、崖から落ちる人間に手を差し伸べないことと、何が違うのか。

 おかしな話だよな。本来なら信じるべきはずの未来を、信じることが恐いなんてさ。菖蒲ほど、未来を信じるために生まれた女の子はいないってのに。
 だって菖蒲は――

「でも、わたしは笑っていました。何年後かも分からない未来において、夕貴様と一緒に――貴方様のとなりで、菖蒲は心の底から笑っていたのです。わたしは、自分に嫉妬しました。未来の自分に嫉妬しました。あんな純粋な笑みを浮かべることが出来る自分に、嫉妬したのです。菖蒲は、夕貴様と会う日を糧にして生きてきました。夕貴様ならば、わたしを助けてくれるかもしれない。この暗闇から、わたしは救い出してくれるかもしれない――だって、未来のわたしは、確かに救われていたのですから」

 現在の菖蒲は独りで泣いていて、未来の菖蒲は俺と一緒に笑っていた。だから、彼女の「お慕いしております」という言葉は、純粋な好意というよりも、期待の裏返しなのだろう。
 『未来』が視えるから、これから先、なにが起こるか知っているから、逆に誰よりも『未来』が怖くなった。自分一人しか知らない結末。誰かと相談することもできない。

 菖蒲は、怖いんだ。
 未来を信じることが、怖いんだ。

「……だったら」

 正直な話、俺には何もできない。
 それでも。

「せめて俺だけは、菖蒲を信じるよ。世界中の人間が菖蒲の示す『未来』を否定したとしても、俺だけは君を信じてみせる」

 抱きしめる。
 強く、強く抱きしめる。
 そうでもしないと、菖蒲が消えてなくなってしまいそうだったから。
 そうでもしないと、菖蒲の嗚咽が聞こえてしまいそうだったから。
 ちっぽけな俺に何が出来るのかは分からないが、それでも護ってあげたいのだ。
 もしかすると、菖蒲が『萩原夕貴が部屋の鍵を閉める』なんて下らない予知をしたのも、すべては『自分の悩みを誰かに聞いてもらいたい』という無意識下での願望があったからこそ、俺と二人きりで話し合える場を設けるために、予知能力が発動したんじゃないだろうか。
 しばらくして、菖蒲は糸が切れた人形のように眠りに落ちた。心情を吐露して安心したのか、それとも単純に泣きつかれたのか。恐らく両方だろう。
 俺はベッドに菖蒲を寝かせたあと、電気を消して、部屋から出て行った。今日だけは客間で寝よう。
 今日だけは。



[29805] 1-4 お忍びの姫様
Name: テツヲ◆c49d9b75 ID:366fa69a
Date: 2012/03/10 17:10

 いまのところ俺の周囲で目立った変化はないが、このまま平穏無事では済まないだろう。
 なにせ菖蒲は家出したのだ。今頃、高臥の家では大騒ぎの真っ最中だろうし、警察に捜索願が出される可能性だって十分にある。
 今日、最低でも明日には、菖蒲と本格的に話し合ったほうがいい。彼女を説得して家に帰すか、もしくは高臥家に直接連絡して指示を仰ぐか、まあ二つに一つだろうが。

「……ふーん。なあ夕貴。それが本当なら、わりと冗談じゃ済まないぜ」

 その声には、意味ありげな、どこか忠告にも似た響きがあった。
 俺と玖凪託哉(くなぎたくや)は、一限目の講義を受けるために、大学のキャンパス内を歩いていた。
 雑多な学生たちが、スクランブル気味に通路を横断していくせいで、人ごみの密集率が実際の人数よりも多く感じられる。それぞれの行きたい教室が違うものだから、こうなるのも必然なのだろうけど。
 俺は悩んだ末に、友人である託哉に現状を相談することにした。この玖凪託哉という男は、一見チャランポランな野郎に見えて、まあ実際もチャランポランな野郎なのだが、その実は思慮深い一面を持っていたりする。こいつは友人の相談事を鼻で笑って一蹴するような友情に疎い男じゃないのだ。

「夕貴ちゃんも運がねえなぁ。押しかけてきた女が、よりにもよって高臥菖蒲。いや、【高臥】の人間かよ」
「誰が夕貴ちゃんだ。それにしても意外だな。託哉なら、もっと疑ったり騒いだりするかと思ったんだけど」

 高臥菖蒲が俺を訪ねてきた。そんな冗談にしか聞こえない話を、託哉はあっさりと信じた。いや、正確には、女の子が押しかけてきたと話したところまでは興奮していたが、その女の子が高臥菖蒲と聞いた途端、託哉は難しそうな顔をしたのだ。

「はっはー、まあ細かいことは気にするなよ。とにかく、だ。憧れてた女優と仲良くなれるかもなんて中途半端な気持ちなら、【高臥】と関わるのは止めとけ。場合によれば、夕貴が考えてる以上に面倒なことになるかもしれないぜ?」
「……中途半端な気持ちなんかじゃねえよ。自分でもよく分からないけど、俺は菖蒲のことを護ってやりたいって思うんだ」
「ふーん、まあ夕貴は気持ち悪いぐらい高臥菖蒲のファンだったもんなぁ。もしかしてアレかい? 高臥菖蒲に、あなたと私は結ばれる未来にありますー、みたいなことを言われたりした?」

 心の底を見透かされたような気がして振り向くと、託哉は人懐っこい笑みを浮かべた。

「あれ、まさかビンゴだったりすんの?」
「……おまえ、なにか知ってるのか?」
「いや、いまのは嘘から出た真ってやつさ。オレは少なくとも、夕貴の役に立つような情報は何一つとして知らねえよ」

 どことなく含みを持った言い回しだった。
 俺の役に立つような情報は知らないのなら――俺の役に立たない情報ならば、託哉は知っているのだろうか。
 そう思ったところで、遠くのほうが騒がしいことに気付いた。
 俺たちが通う大学は、よりよい生活環境や職場環境などを実現するために、いわゆるコンビニエンスストア店舗と業務提携を結んでおり、その結果としてキャンパス内にコンビ二があったりする。コンビニの目の前にはセラミックブロックを敷き詰めた大きな広場があり、そこにはベンチが複数設置されているだけではなく、大学内でも数少ない喫煙スペースが存在する。
 どうやら、その広場のほうでちょっとした騒ぎが起こっているらしい。人のざわつく気配というのは、言葉にしなくても分かるものだ。

「なあ夕貴。どうせ一限目が始まるまで時間あるし、見に行ってみないか?」

 趣味が悪いな、とは思ったが、やはり多少は興味を惹かれるわけで。

「ああ。行ってみよう」

 俺たちは、人込みに逆らって広場のほうに向かった。託哉に聞きたいことがあったが、なんだか真面目な話をする雰囲気でもなくなったので、後回しにしよう。
 広場の人口密度は、いつもよりも明らかに増していた。さらに言うなら、集まっているのは女よりも男のほうが多い気がする。すれ違う男たちは、みんな揃って鼻を伸ばしていた。それは街中でとびっきりの美人を見かけた反応に似ている。
 やがて、広場を賑わせた”原因”を見つけた瞬間、俺は自分の観察眼が捨てたものではないと思い知った。周囲には大学生が群がっていて、口々に小声で何かを囁きあっている。また、男より数は少ないものの、女の姿もそれなりに見られた。

 この広場に集まった大学生たちの注目は、いきなり現れた場違いな女子高生にあった。

 黒を基調とした制服は、間違いなく愛華女学院指定のセーラー服。女子高生が大学キャンパスを闊歩するだけでも相当目立つのに、それが天下の愛華女学院の生徒ときた。これは騒がれないほうがおかしい。
 おまけに、なんかまあ、とにかく説明するのも馬鹿らしくなってくるのだが、その女子高生さんは変装のつもりなのか、目深に帽子を被っており、口元をサージカルマスクで隠している。
 今時、花粉症にかかっている人でも、あそこまで分かりやすい防御はしないと思う。だがその下手な変装が功を奏しているのは否定できない。彼女は目立ちまくる代償として、その正体を誰にも知られることなく、ここまでたどり着けたのだから。

「……なにしてんだよ、菖蒲」

 無意識のうちに声が出た。
 ここで正体がバレたら大変なことになる。もしかしたら一限目の全講義に出席する生徒数が、半分以下にまで落ちるかもしれない。
 ただ不幸中の幸いにも、菖蒲が愛華女学院の生徒であるという事実は伏せられているので、周囲の大学生たちは、突如現れた謎の女子高生を只者ではないと確信しながらも、彼女を女優である『高臥菖蒲』と結びつけることができないようだった。

「……なあ夕貴。もしかしてこれって、噂をすればってやつか?」

 託哉の問いに、俺はゆっくりと首を縦に振った。
 全力で変装している菖蒲は、どうやら誰かを探しているらしく、キョロキョロとあたりを見渡している。注目されるのには慣れているのだろう、自分に視線が集まっていることを不思議には感じていないみたいだ。
 ……うーん、この状況をどう乗り切るべきか。
 菖蒲が探しているのは間違いなく俺のはずだ。もちろん名乗り出てあげたい。だって、菖蒲がちょっと不安そうに見えるんだ。やっぱり大学内で一人は心細いんだろう。でもここで名乗り出るのは自殺行為だ。俺にまで注目が集まってしまう。
 そのとき、事件は起こった。

「あっ、夕貴様っ!」

 口元をマスクで覆っているせいで、その声はくぐもっていたが、それでも十分に澄んだ音色だった。おかげで注目が二割増しだ。
 好奇的な色を多く含んだ衆人環視の中、菖蒲は親を見つけた子供のように弾んだ歩調で、トコトコと俺のほうに歩いてきた。
 えっ、夕貴様ってあいつのこと? ていうか”様”ってなに? もしかしてそういうプレイ? まわりにいる学生たちの憶測はどんどんヘンな方向に広がっていく。
 託哉のやつは、面倒に巻き込まれるのが嫌なのか、いつの間にか離れた距離にまで移動していた。

「探しましたよ、夕貴様」

 そうこうしているうちに、菖蒲が俺の目の前まで歩み寄ってきていた。ざわつく気配。さっきまでは俺も野次馬の一人だったのに、いまは俺が当事者になってしまっていた。
 向かい合う俺と菖蒲のまわりには、興味津々な顔をした若者が集まっている。

「もうっ、駄目ではありませんか。お弁当を忘れて行ってしまわれるなんて」

 菖蒲は学生鞄のなかから、青い風呂敷に包まれた弁当箱を取り出した。ちなみに、これを用意してくれたのはナベリウスだ。もちろん菖蒲の分もある。そういえばリビングに置きっぱなしにしたまま、持って行くのを忘れてたっけ。

「……あ、ありがとう。おかげで助かったよ」

 なんとか笑顔を浮かべてみたものの、きっと俺の顔は引きつっていたと思う。

「これぐらい当然です。だって、わたしは夕貴様のものなのですよ?」

 なんでよりにもよって、そんな言い回しをするんだ……。
 菖蒲が「わたしは夕貴様のもの」と言った瞬間、男の学生たちが露骨に不愉快そうな目をしやがった。広場の喧騒が強くなる。まさに菖蒲に夕貴を注いだかのごとく――ちがった、火に油を注いだかのごとくだった。
 これは撤退するのが無難かもしれない。

「あー、君。とりあえず俺とあっちに行こうか」

 菖蒲は不服そうに瞳を細めた。きっとマスクの下では、頬が膨らんでいるんだろう。

「……夕貴様? どうして”君”などと他人行儀な呼び方をするのですか? 夕貴様は、わたしの旦那様なのですよ? ですから、もっと菖蒲のことを――っ!?」
「よしっ、あっちに行こうねー!」

 愛想笑いを浮かべながら、菖蒲の手を取る。こうなれば強制連行だ。これ以上この場にいたら、菖蒲は確実にボロを出してしまう。
 俺は菖蒲の手を取って、ほとんど競歩に近いスピードで歩き出した。
 背後からは「……あ、あの、夕貴様のお気持ちは嬉しいのですが、まさかこんな外でなんて……大胆です……」と明らかに勘違いしている声が聞こえてきた。
 握り締めた手は、力加減を間違えば折れてしまうんじゃないかと思うほど小さくて、柔らかかった。でも憧れの人と手を繋いだ、という感動も、さすがにいまだけは味わう余裕がない。
 がむしゃらに広場から離れるうちに、俺たちはいつしか大学の近所にある公園に辿り着いていた。どうも、ここ最近は公園に縁があるようだ。
 さすがに運動が過ぎたのか、春先だというのに身体は熱を持ち、微かに発汗を始めている。
 菖蒲が公園に着いて最初にしたことは、マスクを外すことだった。

「……夕貴様? 一体どういうことなのか、説明してくださいますよね?」

 菖蒲の顔は笑っているけれど、その声には明らかな棘があった。

「いや、えっと、ごめん」
「菖蒲は賢くありませんので、ごめん、だけでは分かりません。夕貴様は、一体なにに対して謝っていらっしゃるのですか?」
「だから、その……菖蒲を”君”って呼んだこととか」
「そうですね。本当に、そうです。あのとき、菖蒲が心の中で泣いていたことを、夕貴様はご存知ないでしょうけれど」

 うわぁ、拗ねてる。
 でも正直な話をすれば、俺は菖蒲の拗ねている姿が嫌いではないので、逆にもっと拗ねさせてみたいとか思ってしまう。

「えっと、あとは……勝手に手を繋いだこととか……?」

 女の子はデリケートな生き物だから、これは怒っているだろうなぁ、と思っていたのだが。

「……いいです。それは、特別に許して差し上げます」

 菖蒲は赤くなった頬を隠すかのように、ぷいっと顔を背けたのだった。許して差し上げますとか言ってるけど、やっぱり怒ってるみたいだ。

「そうか。でも本当に悪かったな。俺がもっと菖蒲を気遣ってやれればよかったんだけど」
「いえ、思い返せば菖蒲も軽率でした。人込みの中に夕貴様のお姿を見つけた途端、つい舞い上がってしまって」
「謝らなくてもいいって。元はと言えば、弁当を忘れていった俺が悪いんだから。菖蒲は学校を遅刻してまで、俺に弁当を届けに来てくれたんだろ? だから、俺が”ありがとう”って言って終わりだ」

 微笑みかけると、菖蒲は何度かぱちくりと大きく瞬きをしたあと、俺につられて笑った。
 結局、俺は一限目の講義を欠席することになった。なぜか菖蒲も「では、わたしもお供しなければなりませんね」と意味の分からない理論を発動し、遠まわしに学校を欠席する意志を表明した。
 軽く雑談しているうちに腹が減った俺たちは、公園のベンチで二人並んで弁当を食べることにした。すこし遠くのほうでは小さな子供たちが天真爛漫に走り回っており、それを離れた場所から何人かの女性――恐らく母親だろう――が見守っている。
 菖蒲は相変わらず帽子を被ったままだった。
 常識的に考えれば、セーラー服に帽子という組み合わせは合わなくて当然のはず。しかし菖蒲の着こなしのせいか、不思議と違和感なく見れてしまうのだった。
 菖蒲がいちいち微笑むたびに、俺も嬉しくなって、つい笑ってしまう。そうすると菖蒲もまた笑って、俺もふたたび笑うのだ。
 こんな綺麗な笑顔、初めて見た。何の裏もない、あらゆる打算が排斥された、子供みたいな笑み。
 でも、いまは楽しそうに笑っていても、菖蒲は不安を抱えているんだよな。もう自分一人で、未来を信じるのは怖い。そう菖蒲は言った。
 これまで俺の知らないところで、菖蒲は密かに涙を流してきたのだろうか。
 テレビや本でしか菖蒲を見る機会がなかった俺は、彼女が楽しそうにしている姿しか見たことがなかった。でも菖蒲と触れ合える機会ができて、初めて知ったんだ。昨日の夜、俺の部屋に菖蒲が訪ねてきて、色々と話をして、ようやく思い知ったんだ。
 菖蒲は、いままで未来に救われるのと同時に、未来に惑わされてきた。その結果、信じるべきはずの未来を恐怖するようになった。
 おかしな話だ。菖蒲ほど、未来を信じるべき女の子はいないのに。まさに菖蒲は、未来を信じるために生まれてきたような女の子なのに。
 だって――

「見ーつけた。勝手に出ていっちまうから、探すのに苦労したぜ」

 そのとき、軽薄さを隠そうともしない声が聞こえてきた。
 俺はため息をつきながらも、そいつに向かって文句を言う。

「……おまえが俺を見捨てたのが始まりだろ、託哉」
「はははは。夕貴ちゃん、拗ねた顔も可愛いなー」
「喧嘩売ってんのかてめえ! あと夕貴ちゃん言うな!」

 相変わらず変なところで掴みどころのない奴である。
 託哉は、俺の『夕貴ちゃんと言ったことを訂正して謝罪しろ』攻撃を華麗に捌いたあと、菖蒲に向き直った。

「……ふーん、確かに本物の高臥菖蒲だな。あぁ、でも【高臥】なだけマシか」

 面倒くさそうに頭を掻いて、託哉は言った。その脱色した前髪から覗く瞳は、どこか冷たい光を宿している。

「はじめまして、高臥菖蒲さん。さて、いきなりだが言わせてもらおうか。実はオレは、ずっと前から君のことを警戒していた。なぜだか分かるかい? まあ分からないだろうな。とにかく君は危ない。危ないからこそ、オレが一夜を共にして、ずっと君のことを見守ってあげようと思うんだよ。前口上が長くなったが、なにが言いたいのかと問われれば、オレはこう言うだろう」

 託哉は、菖蒲の前に片膝をつき、

「オレは高臥菖蒲さんの大ファンなんだよぉぉぉぉっ!」

 身振り手振りを交えて、そう宣言した。
 結論。やっぱりコイツは真性のアホだった。






 なんだか妙なことになっている。
 常日頃から女の尻ばかり追いかけている託哉にとって、高臥菖蒲という少女は、まさに至高のご馳走に見えるらしい。託哉はこれ幸いにと菖蒲を口説いていた。
 ……なんか、面白くない。
 玖凪託哉という俺の友人は、三枚目っぽい言動とは裏腹に、かなり整った顔立ちをしている。身長は俺より五センチ以上高く、ガタイだっていい。その容姿には女々しいパーツが一つもなく、精悍という言葉がよく似合う。まあ髪を明るめに脱色しているものだから、一見してナンパな野郎に見えることは間違いないんだけど。
 託哉は誰に対しても積極的に声をかける。それは良く言えば人懐っこいが、悪く言えば遠慮がない。初めは戸惑い気味だった菖蒲も、いつの間にか託哉と打ち解けていた。

「というわけで菖蒲ちゃん。夕貴のことなんか放って、オレと一緒に遊びに行かない? この間さ、すげえ雰囲気のいいバー見つけたんだよ」
「託哉様のお誘いは嬉しいのですが、丁重にお断りさせていただきます」
「ぐはっ……! せめてもう少しぐらい考えてくれても……!」

 わざとらしく吐血の仕草をする託哉。

「ち、ちなみに理由を聞いてもいいかい? どうしてオレが駄目なんだ?」
「託哉様が駄目――というよりも、わたしが駄目なのです」
「君が駄目なわけないだろう!? 菖蒲ちゃんが駄目なら、この世でオッケーな女の子がいなくなるぜ!?」
「……いえ、そういう意味ではなくて。……ただ、わたしが、夕貴様じゃないと駄目なのです」

 そう言った菖蒲の頬は、ちょっとだけ赤くなっていた。
 思わず心が温かくなる。自然に口元が緩み、笑みがこぼれた。温かなお湯に浸かっているような、なんとも言えない気持ちのいい感情が胸に溢れた。
 ふと気付くと、託哉が瞳に涙を浮かべながら俺を睨んでいた。よほど菖蒲に誘いを断られたことが悲しかったのだろうか。

「……なんだよ託哉」
「ふーんだっ! 夕貴ちゃんなんてもう友達じゃないもんねー!」

 普段の俺なら”夕貴ちゃん”と呼ばれて怒るところだが、いまだけは怒りが沸いてこない。それぐらい俺の心は澄み渡っているのだ。

「おまえは子供か。駄々を捏ねるみたいに言うなよ」
「うるさいもんねー! 夕貴の言うことなんて聞かないもんねー! 夕貴は女の子みたいな顔をしてるんだもんねー!」
「あーはいはい。俺は女の子みたいな顔してるなー」

 いまだけは、どんなことを言われても怒らないのである。

「やーい、やーい! 夕貴のお母さんはでべそー!」
「んだとコラぁ!? 俺の母さんがでべそなわけねえだろうがっ!」

 しまった、母さんの悪口につい反応してしまった。

「まあ。夕貴様と託哉様は、仲がよろしいのですね」

 ガキみたいな口論をする俺たちを一歩引いて眺めていた菖蒲が、口元に手を当てて上品に笑った。

「誰がこんなやつと!」

 偶然か必然か、その否定の声は合成したみたいにハモっていた。それがまた、俺と託哉は仲がいい、と菖蒲に思わせたのだろう。彼女は笑った。すると不思議なことに、俺と託哉もつられて笑ってしまうのだった。
 この高臥菖蒲という少女は、ただそこにいるだけで周囲の人間を惹きつける。
 よく芸能人にはオーラがある、というような話を聞くが、それは真実だと、菖蒲を見ていれば強く思う。高臥菖蒲が支持されているのは、その清楚なルックスや、純真な性格や、高い演技力や、女子高生にしては飛びぬけたプロポーションだけでは決してない。
 口には出来ない、真似しようとしても出来ない、後天的には身につけることの出来ない、そんな”なにか”が菖蒲にはある。
 言ってしまえば、それは女優としての資質なのだろうし、もっと言えば人の上に立つ器というやつなのかもしれない。
 頭の隅で、ぼんやりとそんなことを考えながら、俺たちは取り留めのない話に興じていた。

「……あれ?」

 俺がそれに気付いたのは、菖蒲が不自然に言葉を詰まらせたからだった。談笑していたはずの菖蒲が、急に不機嫌そうに目を細めて、遠くのほうを見つめている。その視線を辿ってみると、公園の外には黒塗りの高級車が停まっていた。
 公園内にいる主婦たちは、一瞬その高級車に注目したものの、やはり我が子を見守るほうが大切なのか、すぐに視線を戻した。
 菖蒲はこれみよがしにため息をついた。やっぱりあの高級車は、菖蒲と関係があるのだろうか。
 ほどなくして車から一人の男性が降りてくる。

「……参波(さんなみ)」

 ぽつりと菖蒲が言った。
 それを聞いた託哉が目を見開き、次の瞬間には忌々しげに舌打ちした。
 高級車から降り立った男性は、一直線に俺たちに向かってくる。彼は見るからに品のいいスーツに身を包んでいた。遠目でも分かるほどの高い身長が、またスーツとよく合っている。振る舞いの一つ一つは非常に洗練されており、手足はもちろんのこと、指先までが測ったようにピンと伸びている。
 特筆すべきは背筋か。彼は、まるで背中に定規でも当てているのではと疑うほど背筋が垂直だった。

「ご無沙汰しております、菖蒲お嬢様」

 俺たちの目の前で歩みを止めた彼は、ぴったり九十度で頭を下げて、うやうやしく礼をした。それは、きっと三角定規よりも美しい直角だったと思う。 

「……参波。まさかお父様に言われて、わたしを連れ戻しに来たのですか?」

 菖蒲は腕を組み、やや権高に疑問を口にした。その物言いが板についているあたり、菖蒲はこの男性と親しい間柄なのだろう。

「仰るとおりでございます――と言いたいところではありますが、違います」

 言って、彼――参波さんは顔を上げる。
 参波さんは、社会人の見本のような身なりだった。品のいいスーツを嫌味にならないように着こなし、顔には拘りのありそうな銀縁の眼鏡をかけている。年の頃は、大体三十半ばから後半ぐらいだろうか。
 間違いなく大企業に勤めていらっしゃるような装い――と言いたいところではあるが、なぜか参波さんは、カラスの濡れ羽のような黒髪をオールバックにしていた。
 しかも、参波さんの右目付近――ちょうど眉のあたりから頬の上部にかけてまで――には瞼を通過する大きな切り傷が入っている。
 社会人として完璧なまでに整った風貌は、しかし髪型と切り傷が与える暴力的な迫力によって、彼を只者ではないように見せていた。

「違う……? その心は何ですか、参波」
「そのままの意味です。私には――いえ、重国(しげくに)様には、お嬢様を連れ戻す意思はございません」

 今のところはですが、と参波さんは付け足した。

「……お嬢様。こちらの方が、例の?」

 参波さんの目が、俺を捉える。

「はい。貴方には説明するまでもないでしょうけれど、このお方が萩原夕貴様です」
「……ふむ」

 萩原夕貴という人間の価値を計るように、参波さんは俺の足先から頭のてっぺんまでを観察した。さすがにじろじろ見られるのはあまり気分のいいものじゃないな。

「これは失礼を致しました。萩原夕貴様の気分を害してしまったようですね」
「いえ、頭を上げてください。僕は何とも思っていませんから」

 俺の許しが出たからか、参波さんは面(おもて)を上げた。

「寛大な処置痛み入ります。では、遅ばせながら自己紹介を。私は、参波清彦(さんなみきよひこ)と申します。現在は【高臥】において家令を努めさせていただいております。以後、お見知りおきを」
「ご丁寧にありがとうございます。僕の名前は、萩原夕貴。今は大学で経済学を学んでいます」
「はい、存じております。しかし夕貴様。私には丁寧語を使用せずとも構いませんよ。普段通りのお言葉でどうぞ」

 そう言われても、はい分かりました、と簡単には頷けない。彼のほうが目上なのだ。礼儀は払うべきだろう。
 俺の躊躇を読み取ったのか、菖蒲が口を開いた。

「夕貴様。参波の言うとおりです。だって、夕貴様と菖蒲は添い遂げる未来にあるのですよ? つまり長い目で見れば、参波は夕貴様に仕えることにもなるわけです」
「……いや、そうは言われてもなぁ」
「お嬢様の仰るとおりでございます。夕貴様、どうか私に対しての丁寧語は控えるようお願い申し上げます」

 頭を下げる参波さん。そこまで懇願されたら、逆に丁寧語を使うことが失礼にも思えてきたな。

「……分かった。これからは普通に話すよ。でも、その代わり、夕貴様って言うのは止めてくれないか?」
「畏まりました。では、夕貴くんと」

 俺としては、目上の方にタメ口を利くのは逆に落ち着かないんだけど――丁寧語を使ったままじゃ、参波さんずっと頭を下げてそうだもんな。

「……はい、これにて一件落着です。夕貴様と参波は、今のうちから仲良くするのが正解ですからね」

 嬉しそうに両手を合わせて、菖蒲は続けた。 

「参波。こちらの方は夕貴様のご友人で、玖凪託哉様です」

 紹介された託哉は、どこかふてぶてしい態度。
 紹介された参波さんは、怪訝に眉を歪めていた。

「参波だぁ?」
「玖凪ですと?」

 不機嫌そうに足を組みなおす託哉と、不愉快そうに眼鏡をくいっと上げる参波さん。

「おいあんた。もしかして漢数字の”参”に、津波の”波”って書いて参波じゃねえだろうな」
「そういう君こそ、まさか漢数字の”玖”に、朝凪の”凪”で玖凪じゃないだろうね?」

 互いの問いに、互いとも答えなかった。それでも二人は、自分の知りたい答えを得たように見えた。

「ちっ、相変わらず主体性のない人たちだねぇ。あんたらは、とうとう十二大家(じゅうにたいけ)の一つにまで取り入ったのかい?」
「人聞きの悪いことを言う。私たちは、己の信ずる方に仕えているだけだよ。君たちと違ってね」

 ピシリ、と空気が軋むような音が、聞こえた気がした。なんだか分からないけど、止めに入ったほうがよさそうなことだけは確かだ。
 しかし、俺が仲裁するよりも数瞬早く、二人は顔を背け合った。

「……さて、話が逸れましたね。まさか夕貴くんのご友人が、あの玖凪だということには正直驚きましたが」

 眼鏡をくいっと上げた参波さんは、それでは本題に入りましょう、と言った。

「単刀直入に申し上げます。夕貴くん、お嬢様をお願いします」
「は?」

 いきなり頭を下げて、菖蒲を頼まれてしまった。まったくもって単刀直入じゃない。だって意味が分からないし。

「噛み砕いて言えば、お嬢様をしばらくの間、夕貴くんの自宅に泊めてあげてほしい、ということですね」

 いや、それ噛み砕けてないような。
 参波さんの説明によると、菖蒲の父親である高臥重国さんは、経営者としては他に類を見ないほど優秀な方で、それと同じぐらい厳格なのだそうだ。
 しかし重国さんは、まわりにはバレていないと思っているそうだが、超がつくほど菖蒲のことを溺愛しているという。だからこそ菖蒲が予知夢を見ても、高校を卒業するまでは、と制限を設けて娘を手放そうとしなかった。
 結果として、菖蒲は束縛にも似た過保護に嫌気が差し、父親に反発した挙句、家出という強行手段に出てまで俺の家に来たというわけである。
 ここからが本題。
 娘に泣きながら「お父様なんか、大っ嫌いです!」と言われた重国さんは、やはりまわりにはバレていないと思っているそうだが、この世の終わりを目前にしたかのような勢いで落ち込んでいるらしい。
 家出した菖蒲の行方は、高臥の持つ組織力を駆使することによって、間もなく判明した。すぐに菖蒲を連れ戻さなかったのは、菖蒲の母親である高臥瑞穂(こうがみずほ)さんが、重国さんを『いい機会だから』と説得したから。
 高臥家直系の瑞穂さんと、婿養子として高臥に入った重国さん。この二人の間に偏った発言力の差はないそうだが、それでも【高臥】の保有する未来を垣間見る力が絶対だと理解しているのは、正統な血を引く瑞穂さんのほうだった。
 歴代の中でも稀有な能力を持つ瑞穂さんに説得されたなら、さすがの重国さんも覚悟を決めないわけにはいかない。どちらにしろ菖蒲と重国さんは、親子史上初と言ってもいいぐらいの大喧嘩をしたのだから、しばらくの冷却期間は必要となってくる。
 俺には知れない複雑な事情があった模様だが、とりあえずは様子見ということで、しばらくの間、菖蒲が俺の家に滞在することは黙認されるということだ。
 女優業のほうは生活が落ち着くまで一時的に休止。まあ元々、菖蒲がメディアに露出することは少なかったし、女子高生にもなって学業も本格化してくるのだから、その措置は自然かもしれない。女優はアイドルとは違って融通も利くらしく、例えドラマや映画の出演依頼が入ったとしても、一身上の都合があればキャンセルすることも出来る。
 また、菖蒲が俺と同棲している、というスクープが人目に触れないようにするためのシステムはすでに構築されている。高臥一族は、該当地域における各社報道局、新聞社、雑誌社などにコネクションを持っており、必要とあらば情報を握りつぶせるという。つまり、圧力をかけるってことだ。
 参波さんはハッキリと口にしなかったが、その発言の節々から察するに、【高臥】はその気になれば検察や行政のほうにも手を回せるようで、大抵のスクープや特ダネ程度ならばあっという間に葬れるらしい。

「決して言葉にはしませんが――重国様は、夕貴くんに期待しているのです」

 重国さんは、目に入れても痛くないほど菖蒲のことを可愛がってきた。だが娘は、いずれ男の元に嫁がなければならない。
 息子が結婚するときは『おめでたい』と素直に思うものだが、娘が結婚するときは『取られてしまった』という気持ちが胸のうちで燻るのは、やっぱり父親だからなのだろうか。
 それでも重国さんは「菖蒲が視て、選んだ男ならば信用してみよう」と断腸の想いで決意し、菖蒲が萩原邸に滞在することを許可した。
 すべての話を聞いて、俺は思った。
 あれ、なんか俺が菖蒲と結婚することが前提になってないか?

「……つまり、しばらくの間、菖蒲を預かって欲しいってことか」
「端的に言えば、そうなります。私としても、これは重国様が子離れをするいい機会だと思うのですよ」
「…………」

 俺の知らないところで、話が飛躍しすぎているような気がする。
 ナベリウスの場合は、あいつが母さんの知り合いで、俺の父親とも仲がよくて、なにより悪魔という繋がりがあるからこそ、当たり前のように居候しているわけだが。
 でも菖蒲は、客観的に見れば赤の他人なんだ。いくら本人が『萩原夕貴と結ばれる未来にある』とは言っても、今のところは他人なんだ。

 付き合ってはいないから、恋人同士じゃない。

 血が繋がってないから、親類同士じゃない。

 もちろん菖蒲と同居することは素直に嬉しいし、考えるだけで楽しそうだなと思う。
 ただ常識的に考えて、知り合ったばかりの、それも年頃の女の子と同棲するのは、道徳的に問題があるように思えるのだ。俺だって健全な男だし、なにかの間違いで、菖蒲に欲情して襲い掛かってしまうことだってあるかもしれない。
 そう考えると、自信を持って『菖蒲を任せてください』とは言えないのだ。

「……夕貴様は、菖蒲と一緒にはいたくないですか?」

 優しく、ともすれば遠慮がちに、菖蒲が俺の手を握ってきた。菖蒲の瞳は悲しそうに揺れていて、俺が拒否の言葉を吐き出せば、その瞬間に泣き出してもおかしくはなかった。

「……いや、そんなことはない。菖蒲と一緒にいるのは凄く楽しいよ。だからこそ――」

 だからこそ。
 容易に頷くことが出来ないのも、確かである。

「……菖蒲は、夕貴様をお慕いしております。それだけでは、駄目でしょうか?」

 駄目だ、と口にするのが、ある意味では正解なのかもしれない。そうすれば菖蒲は高臥家に戻り、安全で、贅沢で、恵まれた環境の中で学業に励むことができる。
 俺の家にいれば、ナベリウスという銀髪の悪魔がいるし、なにより間違いが起きないとも限らない。

 それでも。

 俺は思い出していた。

 昨日の夜、菖蒲が泣いていたことを。

 あんなに澄んだ笑顔を浮かべる菖蒲が、今にも消えそうな儚さを身に纏い、辛そうな表情をしていたことを。

 あの菖蒲が俺だけに見せた弱さを知った上で、彼女を放っておくことができるのか? そんなの、女々しい男のすることじゃないか? 菖蒲のことを護ってやりたいって、そう思ったあのときの俺は嘘だったのか? 道徳とか、性欲とか、そんなちっぽけな鎖に縛られただけで迷う程度の想いだったのか?
 いや、違うよな――

「……分かりました。俺が責任を持って、菖蒲を預かりたいと思います」

 参波さんに向けて頭を下げた。一度決意してみると、さっきまで悩んでいた自分がバカに見えてきた。
 さりげなく横を確認すると、菖蒲が何度も頷きながら、瞳を拭っていた。その涙が、悲しいからではなく、嬉しいからであるといいけど。

「……やはり、ですか。夕貴くんならば、そう言ってくれると思っていました」

 参波さんは、最初から俺の答えを知っていたような口ぶりだった。
 それを疑問に思って尋ねてみると、

「夕貴くんは、お嬢様が選んだ方ですから」

 と、彼さんは笑った。
 聞くところによると、参波さんは菖蒲が生まれるよりも前から高臥家に仕えていたという。それゆえに参波さんと菖蒲の両親は、上司と部下というよりも、もはや友人のような間柄らしい。つまりこの人は、十六年間もの間、菖蒲のことを見守ってきたのだ。
 参波さんにとって、菖蒲は娘のような存在であり、菖蒲にとって、参波さんは第二の父親のようなものなのだろう。
 相変わらず定規を当てたみたいに真っ直ぐ背筋を伸ばしながら、参波さんは公園内で遊ぶ子供たちを見つめていた。公園を走り回る少年少女と、幼き日の菖蒲を重ねているのだろうか。

「……素晴らしい」

 鉄棒で戯れる幼い少女二人を見つめながら、参波さんが呟いた。確かに、小さな子供が遊ぶ姿って、なんか尊い感じがするよなぁ。
 俺にその素晴らしさを再認識させてくれるとは、さすが参波さんである。

「それに比べて菖蒲お嬢様は……ふぅ」

 うんうん、と俺が頷いていると、参波さんは菖蒲を見つめながらため息をついた。

「……参波、どこを見ているのですか?」

 菖蒲は警戒心をあらわにしたまま、両腕で胸を隠した。

「いえ、他意はないのです。ただお嬢様の成長した胸を見ていると、私は残念でなりません。幼いころのお嬢様は、それはもう天使が顕現したのかと本気で信じるほど愛らしかったというのに」

 確かに、菖蒲の幼少期といったら、常軌を逸するほど可愛らしかっただろう。

「しかし、今のお嬢様を見ていると反吐が出そうになりますね」
「えっ?」

 俺の気のせいじゃなければ、参波さんの口から紳士らしかかぬ言葉が漏れたような。

「まったく、あの天使のようになだらかだったお嬢様の胸も、今となっては……はぁ」
「……参波? 夕貴様の前で、失礼な発言をしてはいけませんよ?」

 菖蒲は優しげに微笑んではいるが、その眉は微かにつりあがっていた。密かに怒っているようである。

「夕貴くん。どう思いますか?」
「どう思いますかって、言われても……」

 なんの話だ?

「ふむ、分かりませんか。ならば、あれを見てください」

 参波さんは、鉄棒で遊ぶ女の子たちを指差した。

「あの小さな身体、なだらかな胸、丸みを帯びていない体つき……最高だと思いませんか?」
「ぶっ!」

 なにも飲んでないのに咽せてしまった。
 ま、まさか参波さんは……!

「ロリコン、なのか……?」
「ふっ、あまり褒めないでくださいよ夕貴くん。照れるではないですか」

 銀縁の眼鏡をくいっと上げて、参波さんは朗らかに笑った。実にいい笑顔である。でも俺は、朗らかに笑えなかった。

「さ、参波さん! さすがに子供に手を出すのはまずいだろ!」
「参波ではなく、きよぴーとお呼びください」

 どうやら幼女の話をするときは、参波さんではなく、きよぴーと呼ばなくてはいけないらしい。

「安心してください。幼女とは、手折るものではありません。ひたすらに慈しんで、愛でるものなのです。分かりますか? 愛でるものなのです。それなのに昨今ときたら、幼女に性的興奮を催すような下賎な輩が増えているというではありませんか。まったくもって度し難い。いいですか、幼女とは興奮するものではなく、癒されるものなのです。そこを間違えてしまった者こそが、ロリコンではなく、犯罪者と呼ばれるのですよ」

 急にロリコン講座を開かれても対応に困るんだけど。

「もうっ、参波! 夕貴様に変なことを吹き込まないでください!」

 まさに救世主のごとく、菖蒲がきよぴーを……じゃなかった、参波さんを止めてくれた。

「むむ、ここにはおっぱいお化けがいることを忘れていました。では夕貴くん、この話はまた後ほど」
「さ、ん、な、み? あまり、わたしを怒らせないほうが賢明ですよ?」

 何気なく横を見て、俺は思わず息を呑んだ。いちおう菖蒲は笑っているのだが、さっきからひっきりなしに頬の筋肉が痙攣しており、今にも爆発しそうである。噴火寸前の火山があるとすればそれだ。
 二人は、しばらく仲睦まじい口論をしていた。と言っても、菖蒲が怒って、それを参波さんが華麗に受け流していただけだが。

「さて、では私は戻ります。こう見えても時間が押しているものでして」

 腕時計を見つめながら、参波さんが言った。菖蒲はよほど怒っているのか、腕を組んだまま、そっぽを向いている。恐らく慣れっこなのだろう、参波さんは気にした様子もなく、黙って翻った。
 参波さんは俺と別れの挨拶を交わすと、そのまま振り返ることなく歩き始めた。相変わらず背筋を真っ直ぐ伸ばしたまま。
 その最後。

「玖凪の。なにを企んでいるのかは知りませんが、お嬢様と夕貴くんに手を出すことだけは許しませんよ」
「はん、あんたに言われるまでもねえよ参波の。夕貴はオレのダチだし、それにダチの女に手を出すほどオレも落ちぶれちゃいねえさ」

 参波さんと託哉は、そんな嫌味を交換し合っていた。
 一体、この二人はどういう関係なんだ? 少なくとも良好な間柄ではなさそうだが――いや、それを言うなら今日が初対面のようだったのに、どうして互いのことを知っているような口ぶりなのだろうか。
 黒塗りの高級車に乗り込む参波さんを眺めながら、俺はそんなことを考えていた。
 




[29805] 1-5 スタンド・バイ・ミー
Name: テツヲ◆c49d9b75 ID:366fa69a
Date: 2012/03/10 17:34

 菖蒲が萩原邸に滞在することが正式に決まると、彼女の日用品が圧倒的に足りていないという問題が浮上した。 
 家出の際、巨大なボストンバッグに荷物を詰め込んだ菖蒲だったが、いくら詰め込んでも持ち運べる量など高が知れてる。数日程度の外泊ならば大丈夫だろうけど、それ以上となると買い足す必要性が出てくる。やっぱり女の子は男と違って、色々と入り用なものが多いみたいだ。
 というわけで早速、俺と菖蒲は街に繰り出していた。
 菖蒲と二人きりはさすがに緊張するので、ナベリウスも買い物に付き合わせるつもりだったのだが、あの銀髪悪魔はいらないところで空気を読むのが得意らしい。

「あぁ、わたしはパス。今日は見たい昼ドラがあるし」

 とか何とか、アホみたいに人間くさい台詞を残し、ナベリウスはリビングのソファに沈んでいったのだった。
 そんなこんなで俺は、かの女優『高臥菖蒲』と、なんとも恐るべきことに二人きりでデート。いや、買い物を満喫していた。

「夕貴様! そこです、そこ! そこですってばー! 早く、早くっ!」

 ひどく興奮した、菖蒲の声。
 激しい運動をしているからか、その頬は薄っすらと紅潮しており、瞳には隠しきれない歓喜が滲んでいる。上下に運動している菖蒲の胸元では、男性の視線を強く惹きつける蠱惑的な双つの膨らみが揺れていた。
 どうやら菖蒲は、もう我慢できないらしい。俺も焦らすのは止めて、そろそろフィニッシュと行こう。
 最後の瞬間に備えるため、指先に神経を集中。どんな反応も見逃さぬよう、これでもかと目を見開く。限界まで溜めた力を解き放ち、俺は俺のために、なにより菖蒲のために最後まで一直線に駆け抜けた。
 その結果。

「やりましたっ! さすが夕貴様です! やっぱり夕貴様は、菖蒲の夕貴様ですっ!」

 俺が額の汗を拭っていると、そんないまにも飛び跳ねそうな声が聞こえてきた。よほど嬉しいのか、菖蒲は両拳を握って、きらきらと瞳を輝かせていた。
 実に女の子らしい仕草ではあるが、基本的に落ち着いた物腰の菖蒲にしては珍しくもある。

「喜んでくれるのはいいけど、あまり騒ぎすぎないほうがいいんじゃないか? 菖蒲は有名人なんだから」

 口では説教をしつつも、菖蒲の笑顔を見れたことが嬉しかった。
 俺はクレーンゲームの筐体から、今しがた手に入れたばかりの戦利品を取り出す。その宇宙人をモデルにデザインしたようなぬいぐるみは、若い女の子の間ではそこそこ流行っているらしく、菖蒲も多分に漏れずファンだという。
 元はと言えば、繁華街にある中規模のゲームセンターの入り口付近で、このクレーンゲーム機の筐体を見つけたことが始まりだった。
 例の宇宙人のぬいぐるみ――アニーちゃんと言うらしい――を認めた菖蒲は、しかし口に出して「あれが欲しい」とは言わなかった。
 ただ一瞬立ち止まって、プレゼントのねだり方を忘れた子供のような表情を浮かべるだけ。
 どうしたんだろう、と訝しむ俺に気付いた菖蒲は、すこしだけ寂しそうに笑って「行きましょうか」と言った。
 だが、そこで黙って頷くほど俺は鈍い男じゃない。
 なにも言わず――ここで何も言わなかったのが個人的なポイントである――クレーンゲーム機の筐体に歩み寄った俺は、これまた黙って財布を取り出し、硬貨を投入するという男業を披露した。
 戸惑う菖蒲に向けて「これ、プレゼントしてやるよ」と笑いかけたときの俺は、自分で言うのもなんだが本当に男らしかったと思う。
 初めは遠慮していた菖蒲も、すぐに応援に回ってくれた。やっぱり彼女は出来た娘で、ここで遠慮すると逆に男の面子を潰してしまうと理解してくれたのだ。
 結局、一回目は失敗し、二回目も失敗し、三回目にしてようやく宇宙人のアニーくんを手に入れたわけだった。

「菖蒲って、それが好きなんだよな?」
「はい! だって、とっても可愛いではありませんか!」

 菖蒲はアニーちゃんを胸元に抱きしめて、頬をすりすりした。

「そろそろ行こうか。日が沈むまでには必要なものを買い揃えておきたいから」
「そうですね。こうして夕貴様にプレゼントもいただきましたし」

 幸せそうに蕩けた笑顔。身長差があるものだから、俺たちが見つめあうと、自然、菖蒲は上目遣いのようなかたちになる。
 それがまた下手な刃物よりも殺傷性の高い武器だったりするのだ。

「……夕貴様? お顔が赤いようですけれど」

 となりを歩く菖蒲が、アニーちゃんを愛おしそうに抱きしめながら、そう言った。

「えっ、そんなに顔が赤いか?」
「はい。それはもう林檎さんみたいに」

 菖蒲が身を寄せてくる。数秒に一回は肩がぶつかるほど距離が近い。その顔には、心の底から俺を気遣う気配が感じられた。
 平日と言えども繁華街には人が多く、様々な商店や娯楽施設が所狭しと並んだ空間には、祭りに似た喧騒が満ちている。
 でも行き交う人間の全員が、菖蒲の正体には気付かない。巧妙な変装をしているわけでもないのに。
 女優さんである本人曰く、

「勘違いをなさっている方も多いですが、実は大した変装をせずとも、みなさん意外とお気づきにならないものですよ。もし気付かれたとしても、わざわざ声をかけてくださる方も稀です」

 なるほど、と思った。
 確かに不自然にならない程度に帽子を被ってたら、目立つ行動をしないかぎり正体がバレる気配はなさそうだ。街で芸能人を見かけても、よほどのファンでない限りはそう声をかけることもないだろう。
 ちなみに菖蒲の服装は、フリルのついた白のチュニックと、ややダメージの入ったショーパンに、黒のニーハイソックス、そしてローファーという組み合わせ。
 清楚な菖蒲には縁のなさそうなファッションだが、彼女本人はあえて自分のイメージと正反対の服を着ているという。まわりの人たちに『高臥菖蒲があんな服を着るはずがない』と思わせることが狙いだ。まあ本人はロングスカートとかのほうが好きみたいだが。
 俺は菖蒲に案内されるがままに、近場のスーパーマーケットやら薬局、洋服店、雑貨店などを回った。
 女の子の買い物が長いという都市伝説みたいな話は、実は真実なのだと思い知った。菖蒲は品選びをする際に、追い詰められた棋士のごとく長考する。思わず俺が先に「参りました」と投了しそうだった。
 そこそこ膨れ上がった荷物は、もちろん俺が持った。さほど重くはなかったし、なにも買わない俺はせめて荷物運びぐらいするべきだと思ったのだ。
 もちろん菖蒲は「わたしも持ちます」と遠慮したのだが、そこは俺が断固として譲らなかった。女の子の前では格好をつけたくなるのが男という生き物だ。
 男の俺が思いつくかぎりの日用品はあらかた買い込んだが、菖蒲には最後にもう一つだけ買いたいものがあるらしかった。
 もちろん反対はしなかった。この買い物が楽しすぎて、終わらせるのがもったいないような気がしたから。
 間もなく、俺は早く家に帰っておけばよかったと後悔することになる。

「……なあ菖蒲。まさかここって」
「はい夕貴様。ご覧のとおりです」

 くるっと振り向いた菖蒲は、頑なに手放そうとしないアニーちゃんなるぬいぐるみを抱きしめたまま、花のような笑みを浮かべた。

「ここは、いわゆるランジェリーショップというところですね」

 その言葉を聞くと同時、背中に嫌な汗が伝った。

「……だ、だよな」
「はい」
「女の子が下着を買う店だよな」
「はい」
「女の子のためだけにある店だよな」
「はい」
「男には関係ない店だよな」
「はい」
「じゃあ俺はあっちのほうでジュースでも飲んでるべきだよな」
「いいえ」

 菖蒲はゆっくりと首を横に振った。

「実はですね。せっかくの機会ですから、夕貴様には菖蒲の下着を見繕っていただこうと思いまして」
「…………」

 この子、正気か。
 店先に突っ立っているだけでも不審者呼ばわりされそうなのに。というか、菖蒲と一緒でなければ、すでに不審者扱いされていると思う。

「い、いやぁ、べつに俺は必要ないんじゃないか? あれだろ、店内には下着に詳しい従業員のお姉さんとかいるんだろ?」
「いますよ。それがなにか?」
「あー、だから、そのお姉さんに見繕ってもらえばいいんじゃないか?」
「そうですね。夕貴様の言には一理あります」
「だろ? じゃあ、そういうことで」
「でも逆に言えば、夕貴様の言には一理しかありません」

 引き返そうとした俺の正面に回りこんで、菖蒲は教師のように人差し指を立てた。

「とにかく、菖蒲は夕貴様に下着を見繕ってほしいのです。夕貴様がお選びになった下着を身につけていないと、菖蒲は夜、夕貴様とお喋りできません」
「えっ、それってどういうことだ?」
「深い意味はないですが――べつに、いざというときのために準備をしているとかではありませんよ?」
「意味が深すぎるっ!」
「確かにちょっぴり意味深な発言だったかもしれません。まあマリアナ海溝程度でしょうけれど」
「アホか! 自分から世界最大の深度と認めてどうするんだっ!」

 菖蒲は周囲を伺ったあと、内緒話をするように顔を寄せてきた。その鳶色の髪からは爽やかな柑橘系の香りが、蟲惑的な身体からは俺が使っているボディーソープの匂いが、それぞれ漂っていた。

「それに、菖蒲にはどうしても下着を買わないといけない理由があるのです」
「理由、か。……もしかして壊れちまったとか?」
「いえ、違います。しかし、その下着が菖蒲にとって機能性を発揮しないという意味では、夕貴様の言うとおりでもあります」
「もったいぶった言い回しだな。つまりどういうことなんだ?」
「……なるほど。夕貴様は、あまり女性の下着に詳しくないようですね。それは良いことですよ」

 よく分からないが、俺が女の下着に詳しくないことは、菖蒲にとって嬉しいことであるようだった。

「女性が下着を買い換える理由は様々ですが、突き詰めれば二つの理由に絞れてしまうのです」
「なるほど。まあ一つは、下着が壊れたり、破れたりしたときだよな。あとは失くしたとか」
「正解です。では、もう一つは?」
「うーん……」

 とりあえず真剣に考えてみたが、一向に見当はつかなかった。

「はい、時間切れです」

 菖蒲は楽しそうに告げる。

「もう一つの答えは、女性の胸が大きくなったとき、ですね。ちなみに今回、菖蒲が下着を買い換える理由がこれです」

 そういうことか。
 俺の胸は大きくなんてならないから、壊れる以外の理由で下着を買う必要性が思い浮かばなかった。……いや待てよ? ということは菖蒲の胸って、以前より大きくなってるってことか?

「……夕貴様。視線がえっちです」
「悪い。べつにそういう意味で菖蒲を見たわけじゃなかったんだ」
「そう言われるのも女として複雑ですが――まあいいでしょう。ただ真面目な話をすると、ここ最近、菖蒲の胸は少しだけ成長したようでして、そろそろ新しいのを買い換える必要があったのです」
「なんか女の子って大変だな」
「はい、夕貴様の仰るとおりです。胸が大きくても疲れるだけですし、毎晩マッサージは欠かせませんし、なにより集まる男性の視線に気疲れしますし」

 マッサージか。
 やっぱり女優という容姿を売りにする肩書きを持っているだけあって、ルックスを磨くのも仕事のうちみたいなものなんだろうな。

「まあ……その、あれだ。俺には女性の苦労が分からない。ちっとも、これっぽっちも分からない。だから俺が、下着を見繕うことは出来ないと思うんだよ」
「いいえ、夕貴様が下着を見繕うことは出来ます」

 そう言って、菖蒲は俺の手を取った。

「簡単な話ですよ。要は、夕貴様が適当に下着を選んでくだされば、それを菖蒲が試着いたしますので、あとは夕貴様自身が見て確認すればいいのです」
「下着を試着したところを見る――ってことは、下着だけの姿になった菖蒲を見ろってことか!?」

 この子、やっぱりちょっと天然入ってるな……。
 俺の手を引いて先導していた菖蒲は、肩越しにこちらを見た。

「大丈夫ですよ、夕貴様。菖蒲の水着姿を見るようなものと思えば、ノープロブレムではないでしょうか?」
「どこがだ!? 問題ありまくりだろ! 水着と下着は全然違うじゃねえか!」
「そうですか? 『水』と『下』が違うだけですのに」
「そういう意味じゃねえよ! とにかく菖蒲、これはノープロブレムじゃない!」
「……あぁ、そういうことですか」

 うんうん、と頷いた菖蒲は、自信ありげに微笑んだ。

「つまり、モーマンタイということですよね」
「バカっ、言い方の問題でもないっ!」
「……? えっと、それは……あぁ、今度こそ把握いたしました」

 困ったような顔をしたのも一瞬――すぐに菖蒲は答えに行き着いてくれたようだった。

「やっと分かってくれたか。じゃあ」
「はい夕貴様。菖蒲としたことが、ファンタスティックの素晴らしさを差し置いてしまうとは、軽率の極みでした」
「ファンタスティックはもう忘れろぉぉぉぉっ!」

 そうして俺は、ランジェリーショップに連れ込まれた。





 ランジェリーショップが美しい布だとすれば、俺はそこにぽつんと浮いたシミに違いなかった。
 パッと見た感じだと、この店は二階建ての構造らしく、下着の他にも多種多様な品揃えがあるようだ。店内はシックな雰囲気に満ちており、照明もどことなくピンク色を帯びている気がする。
 こういうランジェリーショップは、実は男子禁制というわけではないらしいが、それでも男が入ってはいけないという暗黙の掟が、自然と成立している気がする。
 さっきから俺は菖蒲の後ろに隠れるようにして歩いているのだが、それでも店にいる女の子たちが興味津々な目で俺を見てくる。
 店内にいる唯一の男。それを理由に変な言いがかりをつけられては堪らないので、俺はずっと俯きながら歩いていた。でも気のせいじゃなければ、俺を観察する女の子たちの目には、嫌悪ではなく好意的な色があるように感じられた。
 男連れの客はまったくおらず、ほとんどが女の子同士だった。男には分からない感覚だが、女という生き物は、下着や水着を選ぶという行為そのものに謎の楽しみを見出す生き物だ。
 菖蒲に誘われるがままに、俺はランジェリーショップで何かと戦っていた。

「夕貴様のお気に召すようなものはありましたか?」

 俺の前を歩いていた菖蒲が振り返った。

「いや、お気に召すも何も、どんな下着があるのか分からないし……」
「……? えっと、下着ならば、夕貴様の目の前にありますけれど」

 きょとん、と小首を傾げる菖蒲。
 確かに俺たちが足を止めたのは、数えるのも億劫になるほどのブラジャーがかけられた棚の前なので、どんな下着があるか確認しようとすれば簡単なのだが。

「それは分かってるけどさ。でもなんか、男の俺がこれを見てもいいのかって思うんだよ」
「ご心配なく。世の中には男性一人でランジェリーを買っていくような方もおられますから、菖蒲と一緒にいる夕貴様は、さして奇異な目で見られたりはしませんよ」
「まあ、確かに思っていたよりは大丈夫そうだけど」

 俺と目が合った女性店員さんは、みんな頭を下げて「いらっしゃいませ」と言ってくれる。どうやら表向きは歓迎されているらしい。
 俺が興奮と葛藤の狭間で戦っていると、背中がざわつくような気配がした。気になって振り返ってみる。すこし離れた陳列棚のあたりで、菖蒲よりもニ、三歳は上であろう美女の子二人が、俺を見てヒソヒソと何かを言い合っていた。なんか凄く楽しそうな、あるいは機嫌のよさそうな顔で、ずっと俺のことを見ている。
 もうマジで帰りたいと思った。

「なあ菖蒲。あの子たち、俺のことが邪魔なんじゃないか? ずっと内緒話されてるんだけど」
「大丈夫ですよ。あの方たちは、きっと夕貴様のお美しい顔立ちに見蕩れているだけでしょう」
「そんな馬鹿な。少女漫画の見すぎなんじゃないか、おまえ」

 第一、俺は美しい顔立ちなんてしてないのに。男らしさに溢れてるはずなのに。

「……なあ菖蒲。やっぱり俺が下着を選ばないと駄目なのか?」
「もちろんです。それに夕貴様は、すこし難しく考えすぎている節がありますね。わたしに似合う下着、わたしの好きそうな下着、わたしの苦手とする下着――そのようなことは一切考慮せずとも構わないのです。ただ菖蒲は、夕貴様が菖蒲に着せたいと思う下着を選んでくだされば、それで満足なのですから」
「いや、それは違うだろ。これは菖蒲の下着なんだぜ? だから菖蒲が好きなやつを選ばないと駄目だろ」
「いいえ、それも違います。だって、菖蒲が下着を見せる相手は、夕貴様だけなのですよ? ですから、夕貴様がお好みの下着を選んでくだされば万事解決です」
「うーん、俺のお好みって言ってもなぁ……」

 あれが好きだからあれを買ってくれないか、と気楽に言えるようなもんでもない。

「念のため、もう一度だけ聞いておくけど、本当に俺が選ばないとだめなのか?」
「もちろんです。あっ、ですが夕貴様。例の透けてるショーツとか、布地の小さなブラジャーは止めてくださいね? 菖蒲はまだ高校生ですので、いささか早すぎるかと」
「例のってなんだ!? 俺にはそんなマニアックなものを選んだ記憶はねえぞ!」
「そうですね。現在(いま)の夕貴様は、そう仰いますよね。ですが未来の夕貴様は……ぅぅっ!」
「だから俺は何をしたんだっ!?」
「いいんです、もういいんですよ夕貴様。菖蒲は頑張ります。菖蒲も夕貴様に満足していただけるまでご奉仕いたしますから、今はいいんです」
「よくねえよ! 断っておくが、俺に特殊な性癖はねえからなっ!?」
「……分かっております。そう言って、夜は菖蒲のことを調教なさるのですよね。ですが夕貴様、さすがに牝犬や淫乱女は言いすぎだと思うのです」
「だからおまえのどんな未来を視たんだ!?」

 菖蒲は物憂げに瞳を伏せ、どこか諦めの境地に達したような顔をしていた。
 言っておくが、俺は健全な男だ。もちろん年相応に女の子の身体に興味はあるけど、決して世間様から蔑まれるような性癖は持っていない。

「……とにかく。俺が下着を選べばいいんだな?」
「えっ、ああ、はい。夕貴様のお好きなものを選んでいただければと」

 こうなったら自棄だ。なんか恥ずかしがってると女々しい気がするので、いっそのこと積極的に下着を選んでやる。
 意を決して、棚にかけられている数多のブラジャーと対峙する。女の子が直接身につけている下着はいやらしく見えるが、陳列棚に並べられている下着には不思議と興奮しない。
 それにしても、こうして下着を眺めていると、色々と面白い発見がある。いままで俺は、女の子の下着なんてせいぜい色が違うだけ、と単純に考えていた。でも実際、女の子の下着は、多種多様なんて言葉じゃ言い表せないぐらいの種類や数がある。
 とにかく可愛らしいタイプの下着を選べばいいだろうか。でも菖蒲は清楚だから、基本的には白色、もしくは暖色の下着がいいよな。……いや、待てよ? あえて黒とか紫みたいな妖艶な色合いの下着を選んで、菖蒲の持つ清楚な雰囲気とのギャップを楽しむというのも悪くないんじゃないか?

「あの、夕貴様? さきほどから菖蒲と下着を交互に見ていらっしゃるようですが、なにを考えているのですか?」

 ちょっぴり警戒したような顔で、菖蒲はその豊満な胸を隠してしまった。それを見て、ふと思い出すことがあった。

「……なあ菖蒲。そういえば胸の大きな女の子用の下着って、あまりないんじゃなかったっけ?」
「そうですね。確かに夕貴様の仰るとおりです。ですが最近は、バストサイズの大きい女性のために、選ぶ楽しみを満喫できる程度には種類も充実しております」
「なるほど。奥が深いな……」

 男の下着とは大違いだ。
 察するに、女の子にとって下着とはファッションの一部なのだろう。その感覚は分からないでもないが、納得はできても理解はできそうにない。
 俺たちに声がかけられたのは、そんなときだった。

「いらっしゃいませ。なにかお探しですか?」

 振り向くと、そこには人のよさそうな笑顔を浮かべた女性が立っていた。名札をつけているところを見ると、この店の従業員さんだろうか。
 彼女は、淡いブラウンに染めた長髪を後頭部で結ってアップにし、やや露出の高いオシャレな洋服を着ている。年齢は二十代半ばぐらいで、年若い少女には出せない女の色気のようなものが漂っている。ちなみに託哉が好きそうな、かなりの美人さんだった。

「こんにちは、緋咲(ひさき)さん。ご無沙汰しております」

 そのとき、菖蒲が礼儀正しく頭を下げた。

「はーい、こんにちは菖蒲ちゃん。えーっと、大体三ヶ月振りぐらいかな? すこし見ない間にずいぶんと綺麗になったねー。まあテレビのコマーシャルとかでちょいちょい見てんだけどね」
「そうでしょうか? 確かに髪が伸びましたし、すこしだけ胸も大きくなりましたけれど」
「ううん、違う違う。そういうのじゃなくて」

 悪戯っ子のような流し目で、この店の従業員――緋咲さんは俺を見た。

「恋。してるみたいじゃん?」

 あはは、と楽しそうに笑って、前髪をかきあげる緋咲さん。
 わりと親しげに話しているようだが、この二人は知り合いなのだろうか。

「ねえねえ菖蒲ちゃん。この可愛い顔した男の子、紹介してよ」
「だ、駄目ですっ! 夕貴様は、わたしの旦那様なのです! いくら緋咲さんでも、夕貴様に手を出すことは許しません!」
「あっはー、これは本気みたいねー。まさか天下の女優『高臥菖蒲』に、男ができるなんて思ってもいなかったけどさ」

 さばさばとした口調の緋咲さんは、真白い歯を見せて笑いながら、菖蒲の頭を撫でた。菖蒲は唇を尖らせていたが、緋咲さんに頭を撫でられるのは嫌いじゃないらしく、複雑そうな顔をしながらも、どことなく嬉しそうだった。

「夕貴様、ご紹介します。こちらの方は、肆条緋咲(しじょうひさき)さんと言いまして」
「そうそう、肆条緋咲(しじょうひさき)。夕貴くんの好きなように呼んでくれていいからね。緋咲ちゃんでも、お姉さんでも、おまえでも――あっ、夕貴くんさえよければセフレでもいいわよ?」
「もうっ、緋咲さん!」
「あっはー、これはびっくりだよ。菖蒲ちゃんが怒ったところなんて今まで見たことなかったのに。でも、ねえ? 夕貴くんの話題になった途端、すぐに怒っちゃうなんてさ」

 緋咲さんは俺に向き直った。

「はじめまして、夕貴くん。もう一回、自己紹介しとこっか。あたしは肆条緋咲。短大出てすぐだから――まあ五年近く、この店で働いてる計算になるかな? 菖蒲ちゃんとは、この子が初めてブラジャーを買いに来たとき以来の付き合いでね。ずっと菖蒲ちゃんには贔屓にしてもらってるってわけよ」

 せっかくお金持ってるんだから、もっといい店に行けばいいのにねえ、と緋咲さんは付け加えた。
 でも、きっと菖蒲がこの店に通い続けるのは、緋咲さんがいるからだと思う。まだ会ったばかりだけど、それでも俺は緋咲さんに好印象を抱いていた。年上の女性だからか、包み込むような母性というか、人を安心させるような包容力があるのだ。

「なるほど、そういうことだったんですか。どうりで菖蒲と仲がいいと思いました」
「あっれー? 名前で呼び合うような仲なんだ。そういえば夕貴くん、いっぱい荷物持ってるし、もしかして二人で買い物してたの?」
「まあ、そうですね。男が荷物を持つのは当然ですし」
「ふーん。女の子みたいに綺麗な顔してるくせに、よく言うじゃん。あたし夕貴くんのこと気に入ったよ。菖蒲ちゃんに飽きたら、あたしんとこにおいでよ。お姉さんがいっぱいサービスしてあげるからさ」

 緋咲さんは身体を前傾にし、胸元を指で引っ張って、なかなか立派な谷間を見せつけるようにしてきた。
 ここで言い訳させていただくと、女は本能的に男性の下半身を、男は本能的に女性の上半身を見てしまうという通説がある。つまり俺が緋咲さんの胸に見蕩れてしまったのは男として当然であり、むしろ俺は本能という鎖に囚われた哀れな犠牲者とも言えるはずだ。

「夕貴様? どこを見ているのですか? まさか、他の女性の胸に見蕩れていた、なんてあるわけがないですよね?」

 菖蒲が俺の腕を引っ張って、自分の胸元で抱くようにした。おかげで豊満な胸の谷間に、俺の腕が挟まってしまう。
 その感触は、緋咲さんの色香に惑わされた俺を解き放つのに十分すぎた。百聞は一見にしかずと言うが、見るよりも触ったほうが色々と分かるのは確実だ。

「あっはー、夕貴くんを取られちゃった。それにしても二人、仲がいいね。身体に触れることに躊躇はなさそうだし。んー、ということは、もうエッチしたんだ?」

 なんて大らかな人なんだ……。
 俺は菖蒲の胸が気になって答えることができず、菖蒲も頬を真っ赤にして俯いているだけだった。

「……なぁるほど。まだセックスはしてないんだ。面白くないなぁ。二人とも早くしなよー? エッチって、病み付きになるぐらい気持ちいいんだから。……あれ、ということは? つまり夕貴くんは、まだ童貞ってこと?」
「大らかすぎるにもほどがあるわっ!」

 思わずツッコミを入れてしまった。

「ふむふむ、その反応から察するに、二人とも経験なしと。いいねえ、青春だねえ。やっぱり若者はこうじゃないと。あっ、言っておくけど、あたしはまだ二十五歳だからね? ギリ若者だからね?」

 むっと眉を寄せて、ここだけは譲れないと緋咲さんは注釈を入れた。
 菖蒲は俺の腕を抱いたまま、ずっと離れようとしない。ちょっとでも緋咲さんが俺に近づけば、菖蒲は小動物のように威嚇するのだった。

「ありゃりゃ、怒らせちゃったみたいね。機嫌を直してよ菖蒲ちゃん。もう夕貴くんに手を出さないからさ」
「……本当ですか? 絶対ですか? 神に誓いますか?」

 瞳を半眼にし、じとーとした目をする菖蒲。

「もちろんよ。お得意様の男に手を出すほど、あたしも困っちゃいないって。それで? 今日はどんな用なのかな。もしかして、また胸が大きくなっちゃった?」

 こくりと菖蒲が頷くと、緋咲さんは目を見開いた。

「えっ、ほんとに? また大きくなったの? そろそろ成長が止まりそうな感じだったんだけどなぁ」
「大きくなった、とは言っても、本当に少しだけです。ただ最近、わずかに違和感のようなものがありまして」
「まあ菖蒲ちゃんほど胸が大きかったら、すこしのズレでも違和感は出るよねえ。Fカップのバストともなると、必然的に肩紐が太くなるし、それに合わせて肩も凝るだろうからね。ブラのサイズ感、ワイヤーの角度、カップの形状、パッドの有無または硬さや大きさ――そういった要素を組み合わせて厳選し、自分に合うブラジャーを探していくのが女の子の宿命。そして、そのお手伝いをするのがあたしの仕事だからさ」

 緋咲さんは、ブラジャーが陳列した棚を指差した。

「言ってくれれば、あたしが菖蒲ちゃんぴったりのやつを見繕うよ? そういえば菖蒲ちゃんって、胸が大きいことを気にしてたっけ?」
「はい、多少は。胸が大きいと、苦労することが多いですし」
「だよねだよね。可愛いブラジャーは中々ないし、ぴったり目のシャツを着ると胸が強調されて人目につくし、バストに合わせた服を着るとお腹のところがダブダブになって太って見えるし、電車とか乗ると痴漢に合いやすいしね。その反面、利点と言えば、胸で挟んで男を気持ちよくしてあげることぐらいだよねー?」

 ニヤニヤと笑いながら、緋咲さんは俺を見た。もちろん視線を逸らした。反応すると負けのような気がしたからだ。

「まあ最近は、胸を小さく見せるブラジャーとかもあるけどね。菖蒲ちゃんさえよければ、そういうのを試着してみてもいいんじゃない?」
「いえ、緋咲さんの提案はありがたいのですが……」

 そこで菖蒲は言葉を止め、さりげなく俺を一瞥した。怪訝に眉を歪めた緋咲さんは、しかし何かに気付いたようで、ははーん、と意地の悪そうな笑みを見せた。

「なーるなる。これもまた青春の一ページってわけね。だったら、お姉さんは菖蒲ちゃんと夕貴くんのために、あえて引き下がるとしましょうか」
「あの、わたしはまだ何も言っていないのですけれど」
「口にしなくても分かってるわよー。どうせあれでしょ? 菖蒲ちゃんは、夕貴くんに下着を選んでほしいんでしょ?」

 きっと顔を赤くしたのは、菖蒲じゃなくて、俺のほうだったと思う。

「彼氏連れの女性客も珍しくないしねえ。まあ、そういうお客さんは、大抵いやらしい感じの下着を買っていくんだけどさ」

 相変わらず発言の随所に下ネタが盛り込まれているような気がするが、華麗にスルーした。
 それから緋咲さんは、新発売された商品から、最近の流行まで、俺と菖蒲に色々な情報を教えてくれた。参考になる意見をしっかりと残してくれたあたり、なんだかんだ言っても彼女は仕事をきっちりこなす人なのだろう。
 とりあえず、俺が好きなデザインのものを選び、そのブラジャーの中で菖蒲のサイズに合ったものを緋咲さんが探し出し、それを菖蒲が試着する、という流れになった。
 しかし自慢じゃないが、女性の下着なんて母さんのしか見たことがなかった俺である。どうせなら菖蒲に可愛らしい下着を見繕ってやりたいが、それに必要なセンスを研ぎ澄ましたことのない俺にとって、今回のミッションは厳しいものがある。
 あまり迷いすぎても優柔不断な女々しいやつと思われそうなので、ほとんど直感に任せて選ぶことにした。
 萩原夕貴プロデュースの第一弾は、ピンク色を基調とした、フロントホックのブラジャーである。早速、緋咲さんが菖蒲に合いそうなサイズのものを探し出し、それを菖蒲へ渡す。やや畏まった様子で、菖蒲は試着室の中に入り、ゆっくりとカーテンを閉めた。

「いやぁ、楽しみだねえ夕貴くん。君、菖蒲ちゃんのあられもない姿を見物するんでしょ?」

 試着室の前で、俺と緋咲さんは並んで立っていた。ちなみに手荷物は緋咲さんに預かってもらっている。
 カーテンの向こうからは微かな衣擦れの音がして、菖蒲が服を脱いでいるのが分かる。

「まあ見ますけど。でもちょっとだけ見たら、すぐに顔を背けますんで大丈夫だと思いますよ」
「なんで顔を背けるの? じっくり見ちゃったらいいじゃない」

 緋咲さんは腕を組み、近くの壁に背中を預けた。

「言っておくけど夕貴くん、覚悟してたほうがいいよ? 菖蒲ちゃんって、すっごくいやらしい身体してるんだから。肌は抜けるように白くて、胸とか腕には血管が透けて見えるのね。手足はスッとしてて細長いし、そのくせ肉付きがいいから、触ってるほうが気持ちよくなっちゃうしさ。はっきり言って、菖蒲ちゃんの裸を見て興奮しない男は、もう病気と見て間違いないわね」
「裸じゃなくて、ちゃんと下着を穿いてます。それにこれは下着の試着なんですから」
「あっはー、そうやって自分に言い聞かせてないと、女の子みたいな顔した夕貴くんでも、さすがに男の部分が出てきちゃうんだ?」

 この人、いらないところで鋭いな。油断はできそうにない。

「……まあ、今は菖蒲の着替えを待ちましょう。俺のことはいいじゃないですか」
「そうだね。そういうことにしとこうか。でも、もし夕貴くんが溜まってるって言うんなら、いつでもあたしが相手してあげるよ? 夕貴くんみたいに綺麗な顔した男の子って、超タイプだったりするんだよねー」

 あはは、と相も変わらず大らかに笑う緋咲さんの頬は、微かに紅潮していた。お酒を飲んだ女のひとみたいな、何とも妖艶なたたずまい。

「緋咲さん? 夕貴様には手を出さない、と先ほど約束しましたよね?」

 試着室のなかから、やや尖った菖蒲の声が聞こえてきた。俺たちが振り向くのと同時に、カーテンがゆっくりと開いていく。

「……夕貴様、どうでしょうか」

 自信のなさそうな菖蒲の声。でも自信がないのは本人だけで、抜群のプロポーションを保っている緋咲さんですら、菖蒲の肢体を見て息を呑んでいた。
 現れたのは、ブラジャーとショーツのみを身に纏った、あられもない姿。豊かな胸も、かたちのいい鎖骨も、小さなへそも、くびれた腰も、その全てがそれ単体でも輝けるだけの魅力を兼ね揃えている。
 女の子として、最上級の美しさ。
 菖蒲がメディアに素肌を、水着姿を露出しなかったのは正解だろう。この完成された身体を一度でも見てしまえば、生涯に渡って劣等感に苛まれることは想像に難くないからだ。

「夕貴様?」

 見蕩れていると、本人が不安そうな声を上げた。見れば彼女は、縮こまるように身体を丸めていた。

「あ、あぁ、悪い、。ょっとぼんやりしてた」
「あっはー、夕貴くんったら嘘ついちゃってさ。ほんとは菖蒲ちゃんに見蕩れてただけのくせに」
「緋咲さんっ!」

 余計なことを言わないでくれ、と緋咲さんを睨んでみる。しかし、緋咲さんは悪戯っ子のように笑うだけだった。

「……見蕩れる? あの、それはつまり、菖蒲の身体が夕貴様のお気に召した、と解釈してもよろしいのでしょうか?」
「……まあ、そう解釈してもいいけど」

 付き合いたてのカップルみたいなぎこちない会話だった。

「そうだ菖蒲ちゃん。どうせなら色々とポーズを取ってみてよ。なんかキメポーズとかあるんでしょー?」
「ポーズ、ですか? どうしてもと望まれるのでしたら、わたしなりに努力してみますが」

 菖蒲はその場でポーズを取り始めた。胸元を強調してみたり、くびれた腰を強調してみたり、背中を向いて滑らかな背中を見せてみたり。そのすべてが扇情的だった。
 本気で鼻血を出しそうになった俺は、動悸の激しい胸を押さえながら、菖蒲に背を向ける。そんな俺と菖蒲を、緋咲さんはニヤニヤした目で見つめて「じゃあ、次いってみよー」と明るく言ったのだった。
 



[29805] 1-6 美貌の代償
Name: テツヲ◆c49d9b75 ID:366fa69a
Date: 2012/03/10 18:56

 結局のところ、菖蒲は三着の下着を購入することに決めた。しかも全部、俺が選んだやつである。
 購入する下着が決まると、俺はひとまず先に店を出た。さすがにあのファンシーな雰囲気には辟易していたし、店内にいた女の子たちの視線にも参っていたからだ。
 突き抜けるような青空には、白い綿菓子みたいな雲がいくつも寝そべっている。快晴とは言えないが、そこそこいい天気だった。
 まだ菖蒲が出てくるまでは時間がありそうだったので、俺はトイレに行っておくことにした。女の子と二人きりで買い物なんて初めてだったので、トイレに行くタイミングが分からず、わりと我慢していたのだ。
 近場にあったトイレが清掃中だったので、少し離れたところにあるコンビニまで足を伸ばした。用を足すと、繁華街の人込みを縫うようにして、俺はランジェリーショップまでの道のりを急ぐ。

 遠目に菖蒲の姿を見つけた瞬間、俺はトイレに向かったことを激しく後悔した。

 菖蒲は美しい少女だ。男を惹きつけて止まない、蟲惑的な身体の持ち主でもある。考えてもみろ。彼女が一人で所在なさげに立っていたら、声をかける男がいても何らおかしくない。
 ランジェリーショップの店先でたたずむ菖蒲の前には、逃げ道を塞ぐようにして三人の男が立っていた。そのポジション取りや、立ち居振る舞いを見るに、男たちは相当にナンパ慣れしているようだ。
 幸い、まだあまり注目はされていないようだが、これ以上目立つとなると、菖蒲の正体が周囲に露見することも考えられる。それだけは避けたい。
 見たところ、菖蒲は目立った抵抗をしていなかった。ただ俯いて、顔を隠しているだけ。声も出さないのは、やはり自分が女優の『高臥菖蒲』だと看破されたくないからだろう。
 そんな菖蒲の態度を、気弱な女、あるいは押せば堕ちそうな女と見たのか――どんどん男たちの行動はエスカレートしていく。
 無意識のうちに舌を打ちながらも、駆け足で菖蒲の元に向かった。近づけば近づくほど、やたらと気のよさそうな男の声が聞こえてくる。
 俺はナンパする男たちにではなく、ああして菖蒲が男に言い寄られてしまう状況を作り出した、俺自身に憤慨していた。奥歯をかみ締め、拳を固く握りながら、両者のあいだに割って入る

「待てよ」

 言いたいことはいっぱいあったのに、言葉になったのは一つだけだった。
 あまり喧嘩は好きじゃないし、誰かと対立するのも出来れば避けたいのだが、いまだけは保身を考える余裕はない。

「ゆ、夕貴様……?」

 背後から菖蒲の声が上がる。その悲痛な声を聞いて、俺はさらに菖蒲の身体を背中で隠すようにした。

「……チ」

 舌打ちがあがる。
 露骨に不愉快そうな顔をする、三人の男。
 一人は、陽気そうに笑う優しそうな顔立ちの男。ただし目が笑っていない。こういう表情をしたやつこそが一番危ない。
 一人は、肥満体型が目立つ男。腹回りには脂肪がついているが、それと同じだけ筋肉も見受けられた。顔の表面を、にきび跡やほくろが覆っている。こんなときでも糖分が欲しいのか、手にはジュースの入った紙コップが握られていた。
 一人は、長い金髪が特徴的なホスト風の出で立ちをした男。三人の中でも比較的整った顔立ちをしている。
 三人とも俺より背が高く、ガタイもいい。なによりこちらが怒気を垣間見せながら割り込んだのに、彼らにうろたえた様子はない。それは、誰かと争うことに慣れている人間特有の度胸。
 どうやらこの男たちは、ただ女に声をかけて回るだけのチャラチャラした連中とは一線を画すようだ。

「はぁ? おまえなにしてんの?」

 剣呑とした声。
 口火を切ったのは、長めの金髪をしたホスト風の男だった。時間のかかりそうな、整髪料をふんだんに使ったヘアースタイルをしている。こういう男は大体プライドが高く、ナルシストであることが多い。その証拠に、暇さえあれば手で髪を弄っている。きっと神経質でもあるんだろう。

「なにしてんの、じゃねえだろ。女の子一人に、おまえら三人でなにやってんだよ。この子が嫌がってるのが分かんないのか?」

 丁寧語で対応して、相手の気を逆撫でしないように意識して、穏便に事を運ぶのが理想なんだろうけど、そんなの冗談じゃない。
 エゴだと言われてもいい。頭の悪いやつと罵られてもいい。ただ、これだけは言える。俺の応援している女優さんを困らせる野郎は、どこのどいつだろうが敵だ。

「その子が嫌がってるぅ? おいおい、おまえこそ見て分かんねえ? おまえが来るまで、俺らは楽し~くお喋りしてたの」

 金髪ホスト風の男がそう言って、

「そうだ! その女の子には、俺たちが最初に目をつけたんだ! 関係のないおまえは、どっか行けよっ!」

 肥満体型の男が、ジュースを飲み込んだあと、そう続けて、

「あはは、そゆこと。いやいや、ごめんね。キミ、女の子には困ってなさそうだし、今回は譲ってよ」

 陽気でチャラチャラした男が、これで話は終わりだと言わんばかりに締めくくった。もしかして、こいつら俺がナンパの同業者だと勘違いしてるのか?

「……そうか。言ってなかったっけ」
「あ?」

 俺は菖蒲の肩を抱いた。これでもかと密着した体勢。頬と頬がくっつくほどの近距離。ふわり、と風に乗って、淡い柑橘系の香りが鼻腔を掠めた。

「こいつは俺の女なんだよ。つまり、あんたらは人の女に手を出したってことだ。どっちが引き下がるべきなのか、分かるよな」

 これみよがしに菖蒲の肩を抱く。横目に見れば、菖蒲は顔を真っ赤にして俯いている。彼女はなにかを言いたそうに俺をチラチラと見ているが、目が合った途端に唇を引き結んで、やはり俯いてしまう。こんなかたちで、公衆の面前で菖蒲を抱きしめるなんて思ってもみなかった。
 狙っていた女を、まずお目にかかれないほどの美少女を、よこから出てきた男に抱かれたのが許せなかったのか、男たちの空気が変質した。険悪な雰囲気が増し、暴力的な緊張が生まれる。それはどこか、張り詰めた糸にも似ていた。
 人間は、殺意や敵意には敏感なもの。それが自分に向けられていなくとも、自分の存在する空間に放たれた悪意には誰だって警戒するものだ。
 ランジェリーショップの店先で、俺たちの間に流れる一触即発の空気を感じ取ったのか。今までは足を止めずに行き交っていた人々も、少しずつだが集まり始めているようだった。
 でも頭のいいやつならば、ナンパした女に彼氏がいると発覚した時点で、手を引いてくれるはずなのだが。

「……やっべ、おれ久々にキレそうだわ」

 何事も楽観視するのはよくないらしい。神経質そうなセットをした金髪を指で弄りながら、ホスト風の男が前に出る。いつ殴り合いになっても構わないように、菖蒲を背後に回す。
 菖蒲は何かを言いたそうにしていたが、俺は人差し指を唇に当てて『静かに』とジェスチャーをした。

「おいおい、そんなことでキレんなよ。自分の彼女に触れることのなにが悪いんだ?」
「あー、出た。ほら出た。それだ。俺はよぉ、そのスカした口調にキレそうなんだよ。え? なに? 余裕のつもり? 女の前だから格好つけたいわけ? 女みたいな顔してるくせに、なに調子に乗っちゃってんの?」

 女みたいな顔。その言葉に苛立ちを感じた。菖蒲に手を出されたことだけが怒りの原因だったのに、今はちがう。馬鹿にされて反論の一つもしないほど、俺は出来た人間じゃない。

「調子に乗ってねえよ。自分の女を抱くのは当たり前だろうが。それに文句をつけるってことは、つまりおまえたちが俺に嫉妬してるってことだろ」

 肥満体型の男が一歩前に出た。やはり手には中身の入ったジュースを持ったまま。

「そ、そういう口調が調子に乗ってるっていうんだ! おまえ何様のつもりなんだよ!」

 その語彙の足りない煽り文句に続くようにして、陽気でチャラチャラした男が言った。

「あんさぁ。キミ、本当に止めといたほうがいいよ? おれらの顔、見たことない? このあたりじゃ結構有名なんだけどなぁ」
「知るかよ。成功率ゼロパーセントのナンパ師みたいな宣伝で売ってるのか? だったら悪いな。見たことも聞いたこともない」

 金髪のホスト野郎が、拳を握り締めた。

「ちょー無理だわ。おれ無理だわ。マジで無理だわ。なあ健太、陽介。もうコイツ殺してもいいよな? 海斗には止められてんけど、暴れちゃってもいいよな?」
「こんなことでキレんな。さっきまでは長そうな舌で長広舌を振るってたくせに。人の女が羨ましいからってよ」

 仮にだが『緊張』が糸だとして、それを断ち切るハサミを『敵意』だとするなら。

「てめえぇぇぇぇっ! まじぶっ殺すぞコラぁぁぁぁーっ!」

 その金髪の男が響かせた咆哮こそが、という糸を切断するハサミだったのだろう。ホスト野郎は、ほとんど遮二無二に殴りかかってきた。
 すでに周囲には人だかりが出来ている。誰も喧嘩を止めようとしない。暴力とは、それが己の身に降りかからないかぎりは一種の娯楽として機能する。格闘技という種目にファンがつき、試合に観客が押し寄せるのがいい証拠。

「夕貴様!」

 背後で菖蒲が声を荒げた。手で制し、離れていろと指示する。
 素早く間を詰めてきた男は、腕力だけに任せた殴打を繰り出してきた。とても格闘技を習っているようには見えない動き。しかし男の拳は、迷うことなく俺の顔面に向かってきた。躊躇いもなく相手の急所に攻撃できるということは、すなわち暴力を振るい慣れている証。
 腕の振りだけに任せた一撃は、足腰の力を伝えていない分だけ威力が低くなり、隙も大きくなる。それはつまり拳を振るっているのではなく、拳に振るわれている状態に近い。ホスト野郎は、暴力を振るうことには慣れていても、暴力をコントロールすることに関しては素人だと思えた。
 こういう輩には正面から抵抗せず、相手の力を受け流すようにして戦ったほうがいい。

「死ねやクソ野郎ぉぉっ!」

 俺に向けて、力任せのパンチが振るわれた。やや横から襲いくるような、フックに近い殴打。
 選択肢はいくつかあった。攻撃を受け止めるか、攻撃を避けるか。いや、その二つは上手くない。防御しても回避しても、結果は一つ前の局面に戻るだけ。
 俺は姿勢を低くして、男の腕の下を掻い潜るようにして、自分から前に進んだ。
 ひゅん、と景気のいい音がする。それと同時、攻撃に失敗した男の身体が傾いだ。重心を定めておらず、軸足も無視していたら、そうなるのは当然。
 男の背後にまわった俺は、すぐさま腕を極めにかかった。だが相手も喧嘩慣れしているだけのことはある。俺が関節に加える力から逃れようと、男はほとんど無意識のうちに重心をずらし始めた。
 それに俺も抵抗――しない。むしろ応援してやる。
 人間は関節を極められると、本能的に重心をずらして痛みから逃れようとする。だから、その肉体の反射とも言うべき動作に、俺からも力を加えてやることで――

「うわっ!?」

 相手はバランスを崩して、面白いぐらい簡単に転ぶのだ。
 顔立ちには似合わぬ間抜けな声を上げて、男はひっくり返った。それだけならばよかったのだが、ホスト野郎は、肥満体型の男とぶつかってしまった。ここで問題は、肥満体型の男が紙コップのジュースを持っていたことだ。
 ぶつかった衝撃により、肥満した男は紙コップから手を離してしまう。宙を舞った紙コップが落下地点に選んだのは、金髪の男の、頭の上だった。
 ジュースは、まだかなり残っていたらしい。あれほど整髪料で固めていたセットは跡形もなく崩れ、金髪の男のプライドをズタズタに引き裂いた。
 くすくす、と周囲から笑い声が上がる。しりもちをつき、頭からジュースを被った男を見て、俺たちの様子を遠巻きに見守っていた大勢の人たちが失笑したのだ。
 あれだけ神経質そうに髪を弄っていた男にとって、今の自分を笑われるのは最大の恥だろう。これで引き下がってくれればいいのだが――

「……殺してやる」

 ホスト野郎が、ポケットから何かを取り出した。美しい銀色の煌めき。それは折りたたみ式ナイフだった。
 周囲で笑っていた人たちも、男がナイフを取り出したのを見て表情を一変させた。慌てて逃げ出す者もいれば、警察に電話をかけようとしている者もいるし、中には俺に「逃げろ!」と叫んでくれる人もいる。
 それにしても、こんな公衆の面前で刃物を取り出すなんて……こいつ、俺が思っていた以上に狂ってる。保身を考えるだけの余裕がなくなっているのか頭、それとも荒事が日常茶飯事なのか。

「はーい、ストップストップ。キミたち、ちょーっと血の気が多すぎるでしょ」

 そのとき、よく響く女性の声が、半ば恐慌状態に陥っている場に響き渡った。
 視線が集中した先は、ランジェリーショップの入り口、自動開閉ドア。淡いブラウンの長髪をアップにした女性、肆条緋咲(しじょうひさき)さんが立っていた。
 面倒くさそうに頭を搔きながら、緋咲さんは俺たちの間に割って入った。

「なんだてめえはぁ!? 俺はよぉ、いま最高にキテんだよぉ! その女みてえな顔した野郎をぶっ殺してやらなきゃ気が済まねえんだ! 邪魔しやがったら、てめえ犯してやるからなぁ!」

 まずい、怒りの矛先が変わった。
 俺が慌てて緋咲さんを護ろうとしたとき――その必要はないとでもいうように、緋咲さんは肩越しに俺を見て、小さくウインクをした。

「あっはー、最近の若者は怖いねー。でも残念。あんたみたいな外面だけ気にするチンケな男に、あたしを満足させるのは無理よ。それに、あんたは顔でも、この子に負けてるよ」
「んだと……!?」
「大体さあ、ここって女の子が下着を買うお店の前なんだよねー。もう少し暴れる場所を選んでくれたのなら、あたしも干渉しないんだけど、さすがに今回のケースは無視できないでしょ」
「てめえ、調子に乗るのもいい加減に……」
「あっ、ちなみに言い忘れてたけど、もう警察には連絡したよ。交番自体はこの繁華街にあるからさ。おまわりさんが来るまで、あと数分ってところじゃないかな」

 つまり緋咲さんの余裕は、すでに犯罪の抑止力たる警察を呼んであったからなのか。

「まあ、あんたたちがどうしてもって言うなら、この子の代わりにあたしが相手をしてあげてもいいよ。こう見えても、ちょっとだけ剣道とかやってたからさ。あんたがハンデをつけてくれるっていうなら、いい勝負が出来るかもね」

 飽くまでも緋咲さんは余裕を崩さない。もしかして、この人はある意味で大物なんじゃないだろうか。大人っぽい感じの美人だし、スタイルはいいし、なにより下ネタも豊富だし。
 ホスト野郎はナイフを構えたまま、俺たちを怨めしそうな目で見つめていた。しかしリスクを計算するだけの冷静さは残っていたらしく、数瞬の躊躇の後ナイフをしまい、身を翻した。
 恐ろしいほどの敵意が篭った瞳。人を呪い殺せそうな目で、ホスト野郎は最後に俺を睨んだ。
 なにか言い残すかと思ったが、予想に反して、彼らは最後まで無言だった。ただ時折こちらを振り返りながら、繁華街の人込みに紛れるようにして走り去っていった。

「夕貴様、お怪我はありませんか!?」

 俺が男たちの背を見つめていると、菖蒲が大きな声を上げながら駆け寄ってきた。さすがは女優。発声がしっかりしているからか、その声は繁華街に強く木霊した。ふと、ホスト野郎が振り返った。ちょうど菖蒲が大声を発したのと同じタイミングだったが……まあ正体を気付かれてはいないだろう。
 そうこうするうちに事態は収束した。喧嘩が終わったことを察した周囲の人たちは、名残惜しそうな気配を見せながらも、やがては散り散りになっていった。

「んー、なんだか呆気なかったねえ」
「それより緋咲さん。本当に警察呼んだんですか?」
「いや、呼んでないわよ。ただでさえ女の子は喧嘩嫌いなんだし、これで客足が遠のいたりしたら嫌でしょ。一従業員としては、あまり面倒を大きくしたくないからさ」

 つまり警察を呼んだ、という話はブラフだったってわけか。

「なにより、菖蒲ちゃんがいるんだから、警察沙汰にするわけにはいかないでしょ?」

 その温かい気遣いが、いまはすごく嬉しかった。

「夕貴様ぁ……!」

 腕を強く引っ張られる。力を抜いていた俺はよろめいてしまった。胸の中に、菖蒲が飛び込んでくる。小さな身体が、震えていた。男たちに言い寄られても、気丈な態度を崩さなかった菖蒲。逃げ出すこともせず、ただ俯いてじっとしていた菖蒲。
 名前も知らない男たちに口説かれる恐怖は、女の子にとって身の危険を想像せずにはいられないのだろう。

「大丈夫か? あいつらに、何もされなかったか?」

 菖蒲を優しく抱きしめながら、菖蒲の甘い匂いを感じながら、なるべく優しく問いかけた。返答はない。ただ彼女は小さく、何度も頷くだけ。

「ごめんな。俺がちゃんと店先で待っていれば、こんなことにはならなかったのに」
「……いいえ、夕貴様は悪くありません」

 嗚咽の混じった声で、菖蒲は言った。ちょっとだけ泣いてしまったようだ。
 このままいつまでも菖蒲を抱きしめていたかったが、さすがに公衆の面前ということもあるので、そうもいかない。しかも緋咲さんがニヤニヤしながら俺たちを見てるし。

「いやぁ、青春だねえ。若いっていいねえ。でもあたしがいるんだから、もうちょい自重してほしかったかなぁ」

 わざとらしく拍手をしながら、緋咲さんが含みのありそうな目で俺を見てきた。

「……言っておきますけど、俺は緋咲さんには怒ってるんです」
「ありゃりゃ、どうして?」
「どうしてもなにも……さっきの金髪の男は、いざとなれば女にだって手を上げたでしょう。それぐらい緋咲さんにだって分かってたはずです」
「まあね。だって彼、あたしのことを犯すとか言ってたし。でもあたし的には、夕貴くんにだったらなにされてもいいんだけどなー」

 冗談交じりの、さばさばとした口調。でも俺は、それを冗談としては受け止められなかった。

「ふざけないでください。言っておきますが、俺は怒ってるんだ」
「怖い顔だねえ。もしかして夕貴くんってば、あたしがピンチになったら助けてくれたりした?」

 そんなわけないよねー、と苦笑する緋咲さん。返す言葉なんて、もちろん決まってる。

「なに当たり前のこと言ってるんですか。俺は女の子を見捨てるほど恥知らずな男じゃない」

 言ってから、これは格好をつけすぎかな、とも思った。
 緋咲さんは大きく目を見開いて、じっと俺のことを見ている。それは、いつもペースを崩さない彼女にしては珍しい。

「……あたし、本当に夕貴くんのこと気に入っちゃったよ」

 とても楽しそうな、とても嬉しそうな笑顔を緋咲さんは浮かべた。
 結局、緋咲さんは「もう危ないことはしないよ」と約束してくれた。それと同時に「あたしが危なくなったら、夕貴くんが助けに来てくれるもんね」と約束させられてしまったけど。
 仕事に戻る緋咲さんを見送り、帰路につく俺たちは逆に見送られた。
 今日からしばらくの間、菖蒲と一緒に暮らす生活が始まるんだ。しかもナベリウスという核弾頭が萩原邸には設置されているのだから、締めてかからないと色んな意味で危ない。
 俺は明日から訪れるであろう、新たな日々に想いを馳せながらも、菖蒲と二人並んで帰路を辿った。


****


 男たちは憤慨していた。
 このままでは絶対に済まされない。自分たちは舐められたら終わりだ。力を誇示することこそが生き甲斐であり、畏怖されることこそが生きている価値なのだから。
 確かに、あの女性的な顔立ちをした男は、自分たちより強い。それは認めよう。
 だが復讐する機会と手段がないわけじゃない。
 長い金髪と、ホストのような出で立ちが特徴的な男――新庄一馬は、一つの事実に気付いていた。帽子を目深に被った、類稀な美少女。一馬は、彼女に「どこかで会ったことあるよね?」と問いかけたが、それは本心から出た声だった。あの少女を見たときから、言い知れぬ既視感があったから。やはり一馬は間違っていなかった。

 あの女は、女優の高臥菖蒲だ。

 いつも仲間内で話題に上り、いつか抱いてみたいと夢見ていた少女。可憐な顔立ちもそうだが、なにより男の情欲をかきたてて止まない蟲惑的な身体が、堪らない。

「おい、海斗に連絡しろ」

 一馬は夢想していた。これこそが最大の復讐になるのだと、そう信じて疑わなかった。ここに、一つの悪意がカタチを成した。



[29805] 1-7 約束
Name: テツヲ◆c49d9b75 ID:366fa69a
Date: 2012/03/10 19:20
 
 菖蒲(あやめ)が俺の家に訪ねてきた日から、すでに一週間が経過していた。
 さすが高臥家のお嬢様なだけあって、菖蒲は他者と上手く共存する術を知っている。自己主張を忘れず、自分の意見はしっかりと口にする。それでいて引くべきところはきっちりと弁えており、決して相手を不快にさせない。
 俺が想像していた以上に、この奇妙な共同生活は円満に進んでいた。

「ねえ夕貴。菖蒲のこと、好き?」

 俺のとなりで、コップに注がれた牛乳をごくごくと飲んでいたナベリウスが言った。

「はあ? いきなり何を言い出すんだよ」
「あれ、好きじゃないの?」
「……どうかな。憧れてるのは間違いないけど」
「ふーん。なんだか釈然としないわね」

 煌びやかな銀髪をかき上げながら、ナベリウスは残りの牛乳を飲み干した。そのかたわらで、俺は調理に勤しんでいた。現在時刻は午後九時であるのだから、もちろん夕食は終わっている。ゆえに俺が作っているのは夕食ではなく、夜食やデザートに分類されるものだった。

「でも、あの子――菖蒲はいい子よ。夕貴のお母様とすこしだけ似てる。まあ、あっちのほうが若干子供っぽいような気がしないでもないけど」
「違う、母さんは子供っぽいんじゃない。母さんは、いつまでも子供心を忘れない人なんだ。そこを間違えるな」
「はいはい。そういうことにしといてあげるわ」

 言って、ナベリウスは冷蔵庫にもたれかかりながら、リビングのほうを見た。萩原邸はカウンター型キッチンという、リビングとキッチンが隣接しているような造りになっているので、料理をしながらでも家族と親しむことができる。
 風呂上りの菖蒲はピンク色のパジャマを纏い、首にはタオルをかけて、やや火照った身体を冷ますように窓際のあたりにいた。開けた窓から入り込む夜風が、そのふんわりとした鳶色の長髪を柔らかく揺らしている。
 毎朝のように水遣りを担当したがる菖蒲のことだ、きっと庭にある花壇に咲き乱れる、色とりどりの花を見つめているのだろう。

「それにしても、いきなり知らない女の子と同居なんてどうなることかと思ったけど、意外と上手くいってる感じね。まあ、未来予知なんて胡散臭い能力をどこまで信じていいものかは分からないけれど、あの子が夕貴と結ばれるっていうなら、それはわたしにとって喜ばしいことかなぁ。どこぞの馬の骨には夕貴ちゃんをやれないし」
「素晴らしくツッコミどころが満載だが――とりあえず俺を夕貴ちゃんって言うな」
「あ、そこから突っ込むんだ。やっぱり図星?」
「違うわっ! てめえが俺の輝かんばかりの男らしさにケチつけてくるから怒ってんだよっ! ついでに言わせてもらうが、いきなり知らない女の子と同居ってシチュエーションは、どこぞの銀髪悪魔のときにもう経験済みだボケ!」
「うっわ、つまり夕貴って……中古?」
「新品だっ! まだ封すら切ってない状態に決まってんだろ! 返品だって余裕でこなすわ! クーリングオフも任せろ!」
「ふーん。でも男で新品って、あまり褒められたことでもないわよ?」
「えっ、それってどういう意味だ!?」
「答えを知りたければ、今晩にでも菖蒲の寝室に潜り込むことね。わたしの見立てでは、きっと菖蒲はドMよ」
「……そ、その根拠は?」
「よくぞ聞いてくれました。まあ考えてもみなさいな。菖蒲が言ってたでしょ? わたしは未来で、夕貴にアブノーマルなことをされてましたって」
「まあ言ってたな。で、それが?」
「はーあ、夕貴は鈍いなぁ。ちょっと見方を変えれば分かるでしょうに。……あぁ、その前に一つだけ確認しておくけど、夕貴には特殊な性癖なんてないよね?」

 これは紛れもない正念場だ。俺の潔白を証明せねばなるまい。

「そんなものあるわけがない、と母さんに誓う」
「神様じゃないんだ?」
「いや、神様なんぞ目じゃない。神様に誓う、という使い古された定型句が原型としたら、その最上級が、母さんに誓う、だ」
「……あっ、そう」

 なぜか呆れた顔をするナベリウス。
 俺はおかしなことなんて言ってない、よな?

「とにかく、夕貴に特殊な性癖はない、と仮定して話を進めましょうか。まあ、ここからは簡単な話なんだけど、夕貴に女の子を虐めて喜ぶ趣味がないとすると、じゃあ、どうしてそういうプレイに発展したか、ってところに論点が移動するでしょ? 夕貴が望んでもいないのに、恐らくは恋人か夫婦である二人の間に、そういったアブノーマルなプレイ様が降臨なさったってことは」
「……ま、まさか」
「そう、だからわたしは菖蒲がドMだと仮定したのよ。単刀直入に言いましょうか。つまり、あの子が時々口走る不吉な未来は、すべて菖蒲の性癖が発端となっていたのよっ!」
「な、なんだってぇぇぇぇっー!?」

 キッチンにて、アホみたいな漫才を繰り広げる俺たちだった。
 さて、あまりナベリウスに構っている時間もないので、手早く本分に戻るとしよう。
 牛乳と卵と砂糖をボウルに入れて、ハンドミキサーを使ってかき混ぜる。そうして完成した黄色い液体に、四分の一カットしておいた食パンを浸していく。フライパンにはバターを入れておき、満遍なく油分と塩分が溶け切ったことを確認すると、さきほどの食パンを弱火で焼いていく。表面を黒くしてしまっては見栄えが悪いので、きつね色になった段階で裏返して、しっかりと両面に熱を通すことが大切だ。
 出来上がったものを皿に載せる。用意したのは、もちろん三人分。好みはあるだろうが、俺の独断でちょっとだけシロップをかけておく。
 これで、フレンチトーストの完成。
 慣れれば十五分とかからない程度の手間で、喫茶店で注文するのと変わらない味が楽しめる。俺の知るレシピの中でも、フレンチトーストは特に簡単なほうだ。
 ついでだから三人分の紅茶も入れて、それをリビングのダイニングテーブルに持っていく。その一連の流れを見守っていたナベリウスが、じゅるり、とわざとらしく涎を垂らしていた。
 差し出されたフレンチトーストを物珍しそうな目で見つめて、菖蒲は恐る恐るといった風に黄金色のパンを口に運んだ。

「……美味しい」

 それが菖蒲の第一声だった。
 目に見えて喜ぶでも、子供のように笑うでもなく、ただ一言、美味しい、と菖蒲は言った。その反応が嬉しかった。

「……美味しいです。これ、夕貴様がお作りになったのですよね?」
「ああ。誰でもできる超簡単なレシピだけどな」

 これは謙遜じゃなくて、本当である。
 第一、菖蒲は仮にもお嬢様なのだから、普段からもっと美味しいものを食べてるはずだ。だから料理人でもない俺が作ったフレンチトーストごときに、そこまで感動するのは理に合わない。

「夕貴は女心が分かってないわね」

 はむはむ、と口を動かすナベリウスが、俺の疑問を見透かしたように視線を向けてきた。

「きっと、世界一の料理人が、最高級の食材を使って、最高峰の技術を以て調理した料理よりも、菖蒲はこのフレンチトーストのほうが美味しいって言うわよ」
「なんで? 言っておくけど、俺は鳥骨鶏の卵すら使ってないぞ?」
「ちっちっち、甘いわね。まったくもって夕貴は分かってない」

 そこで一瞬溜めるように、ナベリウスは紅茶を口に含んだ。

「女の子って生き物はね。理屈じゃないのよ」

 無駄に格好いい台詞だった。
 いつにも増して母性を感じるというか、大人びて見えるナベリウスの顔。その口周りがシロップで汚れてさえいなければ、きっと俺は素直に感動できたと思う。
 しかし、ナベリウスの言葉が正しいものであると証明するように、菖蒲はとても幸せそうな顔でフレンチトーストを頬張っていた。菖蒲の口は小さいから、なんだか頑張って食べているようにも見える。小動物みたいに頬を膨らませて、とまではいかないけれど、それに近い状態だ。
 ふと菖蒲と目が合う。
 口に食べ物が入っている状態では喋れないのだろう――菖蒲はぱちくりと大きく瞬きをして、俺に視線だけで『なにか?』と問いかけてきた。

「いや。本当に美味いのかなぁ、って思ってさ」

 ぶんぶんっ、と何度も首を縦に振る菖蒲。きっと『当たり前です!』と言っているのだろう。

「そっか。ならよかった。菖蒲の口には合わないかも、と心配してたから」

 不思議そうに小首を傾げる菖蒲。たぶん『と、仰いますと?』みたいな感じのことを言いたいのだと思う。

「菖蒲は高臥家のお嬢様だろ? だから俺が作ったフレンチトーストなんかで大丈夫かなって」

 今度は、むっ、と眉を歪めて視線を鋭くする。どこからどう見ても、菖蒲は不機嫌そうだった。恐らく『いくら夕貴様でも、その発言だけは聞き捨てなりません』と強く怒っているんだろう。

「……悪い。ちょっと自虐が過ぎたみたいだ。菖蒲が美味しいって思ってくれたんなら、それだけでいいよな」

 俺が自嘲気味に笑いながらそう言うと、菖蒲はニコリと微笑んで、一度だけ頷いた。
 その柔らかな笑顔には、人間を応援するパワーがあると思う。嫌なこと、辛いこと、悲しいこと、泣きたいこと――そういう負の感情を吹き飛ばすだけの何かが、菖蒲の笑顔にはある。それを見ていると、こちらまで笑顔になってしまう。
 萩原邸のリビングには、幸せそうな笑い声がずっと木霊していた。




 フレンチトーストを食べ終わったあと、俺たちはそのままリビングで寛いでいた。
 ただし俺と菖蒲は、リビングと庭を繋ぐウッドデッキに腰を下ろして夜風に当たっているので、正確にはリビングではなく、庭で寛いでいるといったほうが正解かもしれない。
 ちなみにナベリウスのやつは、だらしくなくソファに身体を横たえて、バラエティ番組に夢中になっている。どうも、今夜のナベリウスは笑点のハードルが低いらしく、ことあるごとに笑い声が響いてくる。

「夕貴様は、お料理が上手なのですね」

 真正面を見つめながら、菖蒲がぽつりと呟いた。
 俺はあぐらをかき、菖蒲は三角座りをしている。ウッドデッキに並んで腰を落ち着けているものだから、俺たちの視線は交わることなく、二人して夜の帳が下りた庭を見つめていた。

「得意なわけじゃない。人並みにできる程度だ」
「それでも料理をなさる殿方は素晴らしいと思います。菖蒲はあまり料理に造詣が深くありませんので、その……」

 膝の間に顔を埋めて、菖蒲は口元を隠してしまった。

「そうなのか? 俺としては一度、菖蒲の手料理を食ってみたいんだけど」
「夕貴様がそう仰られるのでしたら、菖蒲は努力いたしますが……」

 菖蒲は、母親やお手伝いさんに料理を教わったことはあるが、定期的に練習はしていないらしく、いささか自信がないという話だ。もちろん包丁を初めとした料理器具の使い方は理解しているし、基本的な味付け、初歩的なレシピなども記憶しているだろう。それでも他人に満を持して料理を振舞えるか、と聞かれると、菖蒲は一抹の不安が残るというのだ。

「それでも俺は食ってみたいな。一度でいいから菖蒲の手料理を食べてみたい」
「……本当ですか?」

 立てた膝の上に顔を横向きに載せて、菖蒲が俺を見てくる。よほど自信がないのか、もしくは不安なのか。微妙に瞳が潤んでいた。こういう女の子らしい仕草を見ると、なんだかドキっとしてしまう。俺は体が熱くなるのを自覚しながらも、平静を装って答えた。

「ああ。菖蒲が作ったものなら、どんな料理だって喜んで食うよ」
「……菖蒲は、夕貴様のそういうところに惹かれます」
「そういうところ?」
「はい。夕貴様はとても優しくて、温かくて、強くて、賢くて――なによりお美しいです。時々、菖蒲ごときが夕貴様と触れ合ってよろしいものかと、頭を悩めることさえあります」
「それは過大評価しすぎだろ。前から思ってたが、菖蒲は俺のことを持ち上げすぎている感があるな」
「そうでしょうか? 夕貴様こそ、自身を過小評価しすぎているように思います。菖蒲は、夕貴様ほどお美しい方を初めてお見受けしましたけれど」
「……あのな。この際だから言っておくけど、男に『可愛い』とか『綺麗』とか言っちゃだめなんだ。俺のことを間違っても『お美しい方』なんて言わないでくれ」
「……分かりました。夕貴様がそう仰られるのであれば」

 納得がいかないのか、菖蒲は俺ではなく花壇の花を見つめていた。そういえば、と思った。

「なあ菖蒲。あの花、知ってるか?」

 指差した先にあるのは、美しい紫色をした花。ちょうどこの時期から開花を始める花。そして俺がとある理由から大好きな花でもある。
 しかし菖蒲は、あの花の名前が分からないようだった。まあ夜ということもあって庭も薄暗く、花びらの色がよく視認できないので、知っていたとしても答えを当てるのは難しいかもしれない。

「あれはな、アヤメ科アヤメ属の多年草なんだ」
「なるほど、アヤメ科アヤメ属の多年草なのですね。……えっ、あの、夕貴様?」
「どうした?」
「……アヤメ、ですか?」

 まるで合わせ鏡という現象を初めて知った子供のように、菖蒲は目を丸くした。

「ああ。あれはアヤメっていう花だ。誰かさんと同じ名前だな。俺が大好きな花だよ」
「……もう、夕貴様ったら」

 頬を赤くした菖蒲は、口元に手を当てて笑みをこぼした。

「そういえば菖蒲っていう名前は、誰がつけたんだ?」
「確か、お父様だったと思います。名前の由来などは聞いていないのですけれど」
「……そっか。お父さんがつけたのか」

 やはり菖蒲の父親である重国(しげくに)さんは、本当に彼女のことを大切に思っているのだろう。
 重国さんは【高臥】の長い歴史を鑑みた上で、自分の娘に”菖蒲”という名前を授けた。それは祈りでもあるし、願いでもある。
 なぜならアヤメという名前には――

「あの、夕貴様」
「……ん? どうした?」
「いえ、その……ですね」

 じっと見つめてきたかと思えば、もごもごと口ごもって顔を俯けたりと、菖蒲はとにかく落ち着きがない。

「……実は、一つだけお願いがありまして」
「お願い? ……まあ、下着を見繕ってくれ、みたいな感じのやつじゃなかったら何でも聞くぞ」
「いえ、それはまた今度です」
「次もあるのかっ!?」

 慌てて振り向くと、菖蒲は「当然です」と頷いた。どうやら決定事項のようである。こほん、と咳払いをして、彼女は続けた。

「……夕貴様のお作りになったフレンチトースト、とても美味しかったですよね」
「そう言ってくれるなら、作った俺としても嬉しいよ」

 まあレシピ自体は母さんに教えてもらったんだけど。

「……夕貴様のお作りになったフレンチトースト、とても美味しかったですよね」
「そう言ってくれるなら、作った俺としても……あれ?」

 おかしいな。
 気のせいじゃなければ、会話がループしているような。

「……夕貴様のお作りになった」
「いや、もう分かったから。一度美味しいって言ってくれただけで十分だって」

 俺が苦笑すると、菖蒲は曖昧な顔をしながら右手で頭を抱えた。くしゃり、と鳶色の長髪が乱れる。
 ふと、閃くことがあった。

「……もしかして、またフレンチトーストを食べたいのか?」

 外れて元々で言ってみた。すると菖蒲は、ぱあ、と瞳を輝かせて、何度も何度も、それこそ子供みたいな笑みを浮かべて頷いた。

「はいっ! 夕貴様さえよろしければ、是非!」

 いまからわくわくが抑えきれないようで、菖蒲は忙しなく髪を弄っていた。

「もちろんいいに決まってんだろ。そんなのお願いにも入らないよ。もし菖蒲さえよければ、俺と一緒に作ってみるか?」
「えっ?」
「だからフレンチトーストだよ。一緒に作ってみないか?」

 俺としては自然な発想だったのだが、菖蒲には寝耳に水だったようだ。
 彼女は、笑ったかと思えば肩を落として、気恥ずかしそうに頬を赤くしたかと思えば『駄目だ駄目だ!』と自分を引き締めるように首を振って、幸せそうにはにかんだかと思えば乙女チックに人差し指を付き合わせたり、なんとも理解できない行動を見せた。
 この日の夜、俺と菖蒲は、一つの約束を交わした。子供の頃のように、小さな唄を口ずさんで、指切りを交わした。
 もう一度、フレンチトーストを作ってやるという約束。今度は、二人でフレンチトーストを作ろうという約束。
 俺たちの間に交わされた約束を見届けた証人はいないけれど、それでも夜空には、まるで俺と菖蒲の未来に広がる闇を切り裂くように、大きな満月が咲いていた。



****



 彼らは、この街において知られた存在だった。
 初めは誰構わず喧嘩を仕掛けることで有名だった。暴力を誇示することに満足できなくなった頃には、裏で恫喝を繰り返して、学生や社会人から金銭を巻き上げる効率性の良さに味を占めた。
 しかし警察にマークされるようになってくると、隠れて悪事を楽しむようになった。表立って発散できないストレスは、停まっている高級車を荒らしたり、マフラーを改造したバイクで暴走することによって、周囲の人間にストレスを転換させるという方法を用い、晴らしていった。
 いつしか男たちは街でも畏怖の対象になっていた。いわゆるアウトローを気取る少年少女たちは、男たちを恐れ、敬い、礼儀を尽くすようになった。
 娯楽を消費する人間が、そのかたちを変えない在り方に飽きを覚え、次の娯楽を求めるように、男たちが繰り返す悪事はすこしずつエスカレートしていった。
 女をナンパする楽しみは、女をレイプする快楽に。クスリは使うのではなく、売る側になった。

 また、クスリに手を出したことが、男たちに革命的とも言える変化をもたらした。あるとき、とある暴力団の構成員が、男たちの評判を聞きつけ、接触してきた。
 男たちと暴力団の間に交わされた密談は、そう難しい話ではない。要約すれば、自分たちがケツを持ってやるから、おまえたちは若者を中心にクスリをさばけ、ということだった。
 本来であれば抑止力として機能する警察は、しかし暴力団がバックにつくことで、男たちの敵ではなくなった。
 暴力団と警察は、表裏一体。
 暴力団は、小さな悪事を警察に摘発させて点数を稼がせノルマを達成させたり、表の権力だけでは解決できない問題を裏の力で解決してやったりと、警察側に利益をもたらす。警察は、暴力団に関わる多少の悪事を見逃してやったりするなどして、相互の損益を打ち消すような関係を築いている。
 だが、いくら水面下で癒着しているとは言え、クスリをさばくのはリスクの高い行為であり、それを知っているからこそ、暴力団は男たちをライブベイトに見立てることにした。
 裏の協力関係にある暴力団でも、さすがに悪事の決定的瞬間を警察に補足されてしまえば一巻の終わり。そこで男たちが緩衝材として選ばれた。いざとなれば、とかげの尻尾のように男たちを切れば、暴力団にまで罪が言及されることはない。悪事の”現行犯”さえ摘発すれば、警察は表面上は満足してくれるのだから。
 相互に利益を生み、損益を消すとはいっても、互いに疎ましいと思っていることは不変の事実。さすがの警察も、違法薬物が蔓延する、という事態を静観するほど腐ってはいない。
 これが現実。しょせん国家権力は抑止力であり、正義ではない。警察が内部に孕んだ闇は、組織に利益をもたらすのと同時に、切り離すことのできない問題も抱えた。それは汚職を汚職で上塗りするような、決して明るみには出来ない文字通りの闇だった。

 しかし、それは男たちにとって関係のない話。
 男たちは悪事の延長線上として、暴力団からクスリを買い取り、それを学生たちでも手が届くぐらいの良心的な値段で売りさばいた。
 これまで万引き、ひったくり、カツアゲなどが金銭源だった男たちにとって、クスリの売買はこれまでとは比べ物にならない利益を生みだした。
 また、暴力団がバックについたことで、街でアウトローとして名の知られた者たちですら、男たちに敬意を払うようになった。
 男たちは突出した暴力を持っていた。それは喧嘩の強さだけではなく、危機に陥れば躊躇いもなく刃物を振り回すような、ある種の省みない暴力だった。
 いい大学を出て、一流企業に勤めることが表のエリートならば、まさに男たちは、裏のエリートとも言うべき道を歩んでいたのだ。

 だが、そんな生活にも、いつしか飽きがくる。

 暴力団がバックについた。そう言えば聞こえはいいが、実際は都合のいい犬として飼われているだけ。
 確かに男たちは順風満帆に見えるかもしれないが、それはいつ破滅を迎えるとも知れない、一寸先の見えないレールの上を走っているのと同義のはず。
 現状を楽しみつつも、漠然とした不安を抱きながら、男たちは欲望の赴くままに日々を過ごしていた。
 そんなときだ。
 男たちの一人。荒井海斗の耳に、今までとは趣が違う情報が入ってきたのは。
 本来、彼らに序列はないし、本人たちも友人だけは大切に扱う人種だったゆえに上下関係も定めていなかったが、男たちは自然と海斗をリーダーとして扱っていた。
 理由はあまりない。ただ海斗がアウトローにしては頭のキレる男で、喧嘩の強さも一人だけ抜けていたからだろう。
 しかし海斗は、仲間の一人――新庄一馬からもたらされた情報に、数日の間、頭を悩まされていた。苦悩、ではない。むしろ大きな利益を生むにはこの情報をどう活用するべきか、という一点だけを寝ずに考えていた。
 男たちが、ここまで警察に捕まらずやってこれたのは、すべて海斗の的確な判断があったからこそ。だが、その海斗をして、一馬からもたらされた情報は扱いづらいものだった。

 曰く、女優『高臥菖蒲』について。

 一馬を含めた数人の仲間が、これまで築き上げた情報網を駆使することによって判明した、高臥菖蒲の住所。
 決定的な情報は、愛華女学院に在学している女生徒の一人によってもたらされた。その女生徒は資産家の娘ではあるが、火遊びを求めてクスリに手を出し、今となっては薬物欲しさに男たちに股を開くような、都合のいい存在になっている。
 彼女が言うには、今年の一年生、つまり愛華女学院の新入生として、高臥菖蒲が入学してきたとのことだった。
 その情報を基点として探していくうちに、男たちはついに掴んだ。高臥菖蒲が、あの忌々しい女性的な顔立ちをした男と同棲していることを。
 金髪にホストのような装いがトレードマークの新庄一馬は、高臥菖蒲を使って、とある男に報復がしたいと海斗に進言した。
 しかし、それだけではもったいないと海斗は思う。例えば、高臥菖蒲が年頃の男と同棲している、というような話を、より過激に脚色して、雑誌社などに売り込むほうが利益は出る。とは言え、そうすることの報酬は微々たるものだろう。まだクスリを売りさばいたほうが金は稼げる。
 ならば、どうするか。
 ひたすらに頭を悩ませた結果、海斗は覚悟を決めた。男たちのために。自分のために。

 なにより、もう終わらせるために。

 男たちは覚悟を決める。
 無謀だということを理解しているのは、六人の中でもきっと海斗だけ。それが成功すると思っているのは海斗を除いた五人だが、それが失敗すると思っているのは五人を除いた海斗だけだった。
 復讐、金銭、色欲、娯楽、興奮、そして諦念。
 六つの思惑が交差した結果、ここに一つの犯罪行為が生まれる。
 海斗は言う。
 かの女優『高臥菖蒲』を――してみせよう、と。
 誰が知ろう。
 この男たちの選択こそが――【高臥】のみならぬ、日本の表社会の経済を混乱させ、裏社会に未曾有の大抗争をもたらすような、最凶の悪手であると。



[29805] 1-8 宣戦布告
Name: テツヲ◆c49d9b75 ID:366fa69a
Date: 2012/03/10 22:31

 愛華(あいか)女学院は、日本でも有数の由緒正しいお嬢様学校である。
 英国のパブリックスクールを原型に創設された愛華女学院は、明治初期には淑女を教育するに相応しい現場という触れ込みで周知のものとなり、一躍その名を轟かせた。
 古めかしくも落ち着いた雰囲気を持つ学生寮、壮麗でありながら温かみのある校舎、連綿と受け継がれてきた伝統、社交界でも通用するような子女を育て上げる情操教育など、愛華をお嬢様学校と呼称するに値するだけの要素は枚挙に暇がない。
 昭和中期までは、聖書について学ぶ授業や、特定の曜日におけるミサも取り入れられていたが、第二次世界大戦の終戦をきっかけに大規模な見直しがなされ、宗教的な概念は排除されることになった。

 それでも愛華が、淑女を教育するに適当な現場であることは変わらない。
 かの女学院が掲げる教育理念は、子供を清く正しく育て上げたいと願う親にとっては魅力的に見えたのだろう。事実、愛華は県内でも上位に位置する偏差値を誇ったし、部活動にも積極的で、いくつかのクラブは全国大会にもよく名を連ねた。
 また、入学する生徒は、一般的な水準よりも裕福な立場にあることがほとんどだった。例えば資産家、政治家、官僚、芸能人、経営者などを親に持つ子供が、全校生徒の実に半数近くを占める
 愛華を卒業したという事実は、学歴が重視されなくなりつつある現代社会においても少なくない利点を持つので、こぞって娘を入学させようとする親も多い。

 今年入学した生徒の中にも、やはり政財界や芸能界にコネクションを持つ家系の出が多く見受けられた。だが特別であることが普通となりうる愛華の中において、一際”特別”な女生徒が、今年の新入生には一人いた。
 老若男女を惹きつける美貌。他を凌駕して余りある出自。愛華女学院という枠の中でさえ、やはり彼女――高臥菖蒲は頭一つ抜けていた。
 もちろん、その類稀なる美貌や人気を妬む女子も多かったが、一度でも菖蒲と接すれば、禍根の種は消えていくのだ。
 菖蒲の人気ぶりを示すエピソードの一つとして、クラス委員を決めるホームルームでは圧倒的な他薦によって学級委員を任されそうになった。しかし、菖蒲は辞退した。学級委員は、他の委員会よりも拘束される時間が長い。女優という職業柄、菖蒲はクラスに時間を割くだけの余裕はなかった。
 だが、生徒の全員が何かしらの委員に所属しなければならないという決まりがあったため、菖蒲は保健委員会に入った。一度に全校生徒が委員会に入るわけではなく、春から夏、秋から冬という二学期制に分かれて、委員が交代する仕組みだ。
 なぜ保健委員会に入ったのか――と聞かれると、菖蒲は首を傾げざるを得ない。ただあえて理由を挙げるとするなら、家の関係で親しい二年上の先輩がいたからだろうか。

 その日は、保健委員会の召集があり、いつもよりも遅い時間に下校することになった。
 普段は参波清彦の運転する車で登下校していた菖蒲も、萩原家に居候するようになってから、基本的に徒歩が多くなっていた。心配性の父はそれを嫌がっているらしかったが、彼女は車よりも歩くほうが好きだった。
 熟れた鬼灯のような夕焼けが空を赤く染める。芸術的とさえ言える美しさだった。空に見蕩れるあまり、思わず足元の段差に躓いてしまうぐらいには。
 彼方に沈んでいく太陽を見つめながら、菖蒲は久しぶりの徒歩を楽しみつつ、のんびりと人道を歩いていた。

 こうして一人きりになるのはずいぶん久しぶりだ、と菖蒲は思った。
 彼女の周囲にはいつも人が集まる。外出するときも、父が護衛の者をつけろと決まりごとのように言う。高臥の本邸には住み込みの家政婦が大勢いて、菖蒲の世話をしてくれた。
 もちろん誰かと一緒にいることは嫌いじゃない。それでもたまには一人になりたい。彼女だって年頃の女の子だ。自分だけの時間というのは貴重だった。

 しかし、菖蒲はいま、一人でいるのが嫌だった。となりに誰もいないのが寂しかった。夕貴の温もりを感じたかった。彼と一緒にいるだけで、菖蒲は嬉しくて、楽しくて、幸せになる。あの人がいれば、どんな未来だって変えられるに決まっている。
 はやく帰りたい。彼の顔を見たい。照れた顔、笑った顔、拗ねた顔が見たい。それだけで菖蒲は、心の底から安らげるから。

「……ふふ」

 自然と笑みがこぼれたので、口元に手を当てる。
 ここが人気のない住宅街でよかった、と菖蒲は胸を撫で下ろす。一人で思い出し笑いをするところを誰かに見られていたら、きっと今頃、恥ずかしくて居ても立ってもいられなかっただろう。
 まったくの無音というわけではないし、遠くから人の喧騒やけたたましいロードノイズが聞こえるが、菖蒲の周囲は閑散としている。まったくの無人だった。
 ふと排気音が耳に届いた。どうやら後方から車が接近しているらしい。邪魔になってはいけないと思い、端に寄って、歩くスピードを落とした。
 大型のワゴン車が通過していく。菖蒲しか歩行者はいないのに、きちんとスピードを落として徐行している。恐らく運転ルールをしっかり守るような善人が搭乗しているのだろう。と、思った矢先、なぜかワゴン車は、菖蒲がいた地点を通り過ぎてから十メートルほど進んで、停止した。
 このあたりに商店はないし、なにかトラブルが起きたようにも見えないのに、その白い大型車は停車したのだ。
 怪訝に思いながらも、菖蒲は変わらぬ速度で歩く。
 行儀がいいことではないと理解していたが、通りすがりにワゴン車の中を覗いてみた。だが窓には低透過率のスモークフィルムが張られており、外からでは内部の様子が伺えない。
 菖蒲は不審に思いながらも、そのまま足を進めた。多少おかしな点が見受けられたとしても、その小さな違和感は、菖蒲に危機感を与えるほどのものではなかった。
 そのとき、人工的な物音がした。慌しくも素早い複数人の気配。さっきの車から人が降りてきたのかな、と菖蒲は思った。彼女は肩越しに背後を見る。

 もう少しだけ振り返るのが早かったのなら、未来は変わったかもしれないのに。

 菖蒲の視界に飛び込んできたのは、いつか見た男たちの姿だった。金髪ホスト風の男と、陽気そうな男。彼らの後ろには、短く刈り込んだ髪にサングラスをかけた男がいた。
 彼らの行動は迅速だった。あらかじめ計画していたことを伺わせる、大胆で緻密で迷いのない動きだった。
 金髪の男が、数秒にも満たない間に菖蒲の身体を拘束して、口元に布を当てる。布は市販のハンカチらしく、清潔な匂いがするところから察するに、薬品の類は塗布されていない。
 陽気そうな男が、手に持っていた黒い物体を、菖蒲の柔らかな腹部に押し付ける。体験したこともない全身を駆け巡り、菖蒲は声にならない悲鳴を上げた。びくん、と大きく痙攣。口元の布が、少女の叫びを掻き消す。
 威力を強化した高電圧式スタンガン。それが菖蒲の自由を奪ったものの正体。電極から発した電気ショックは皮膚から神経に伝わると、全身の神経網を駆け巡って、あらゆる筋肉を硬直させる。
 それでもスタンガンを食らった人間が気絶することはない。
 感電後は十数分ほど放心状態になり、身体に力は入らないが、絶対に気絶はしない。意識を奪うほど強力なスタンガンは、もはや殺傷性の高い武器だ。本来、スタンガンは護身用であり、人体に害がないよう設計されている。
 迸るような激痛と、感電による放心のせいで、菖蒲の身体は人形のように脱力していた。
 ずるずる、と地面に倒れこみそうになった菖蒲は、もやがかかった意識の中で、金髪ホスト風の男が自分の身体を支えたのを見た。
 彼らはアイコンタクトだけ交わすと、二人がかりで菖蒲を持ち上げ、運搬を開始。素早くワゴン車まで到達すると、後部座席に菖蒲を寝かして、男たちも車に乗り込む。
 ここまで経過した時間、わずか二十秒。

「やっべ、俺ら天才的じゃね?」
「つーか、菖蒲ちゃんの身体が柔らかすぎてビビった」
「あ、分かる、それめっちゃ分かるわぁ。しかも、すげえいい匂いするしよ」

 霧のようにかすむ意識。夕貴以外の男性に触れられた、というだけで、彼女の瞳には涙が滲んだ。

「やめろ。大事な人質だ」

 鋭い一言が、浮ついていた車内に緊張を呼び戻した。
 菖蒲が重い瞼を薄っすらと開いてみると、そこには髪を短く刈り込んだ男が座っていた。側頭部のあたりに何本かのラインを入れた髪型をしており、どこか他の男たちとは違う雰囲気を纏っている。その強い意志を宿した目には、一見して只者ではないと伺わせるだけの何かがあった。

「悪い、海斗。ちょっと調子に乗っちまった」

 金髪ホスト風の男が頭を下げる。もう一人の陽気そうな男は車を運転しているようで、菖蒲の視界には見当たらない。

「いや、べつに俺も怒っちゃいない。でも、ここからが正念場だってことは忘れるなよ」

 髪を短く刈り込んだ男――海斗は、菖蒲が持っていた学生鞄から携帯電話を取り出した。

「一馬。まずはこの携帯電話に登録されている、高臥家に関係する番号を全てコピーしろ。なるべく急げよ。終わったら、携帯からバッテリーを抜いてくれ」
「オッケー、ばっち分かったぜ。でも海斗、なんでバッテリー抜くんだよ?」
「携帯にはGPSがあるだろ。電波が受信できなかったらGPSは使えないからな。そのための用心だ」
「へー、さっすが海斗。豆知識王って呼ばれるだけのことはあるわ」
「そんなの初めて聞いたぞ。とにかく無駄話はいいから、早くしてくれ。番号をコピーし終わったら、適当に郊外を走りながら高臥家に電話をかける。さすがに何の準備もなく逆探知は出来ないと思うが、まあ念を入れるに越したことはないしな」

 終わりのない夢を見ているような気分で、菖蒲は男たちの会話を聞いていた。
 幸い、彼らは菖蒲に危害を加えるつもりは今のところないようだ。海斗以外の二人は、菖蒲の身体を舐めるように見つめているが、手は出してこない。
 漏れ聞こえてくる会話によると、この大型のワゴン車は男たちが盗んだもので、あと数時間もしないうちに廃棄する腹積もりらしい。
 身代金の要求。金の使い道。彼女の耳が、不穏が言葉をいくつか拾った。
 たまに意識が途切れるものだから、彼らの思惑を明確に把握できたわけではないが、それでも菖蒲は大体の見当を立てていた。

 これは、誘拐だ。

 自然に発生した悪意ではなく、人為的かつ故意的に発生した悪意だ。
 女優としての菖蒲か、高臥家の一人娘としての菖蒲か、あるいは女としての菖蒲を欲したのかは分からない。それでもこれは誘拐に他ならなかった。
 事態を理解した途端、恐怖よりも怒りがこみ上げてきた。視界が霞み、溜まっていた涙が瞳の端から雫となって流れていく。
 悔しかった。ひたすらに悔しくて、死んでしまいたいと思った。
 どうしてわたしは、こうなる未来を予測できなかったのだろう。役に立たない未来、どうでもいい未来、そして見たくもない未来は何度でも垣間見るのに、どうして本当に回避したい未来だけは視えなかったのか。高臥家は、未来を予測することによって栄えたはずなのに。
 せめて自分が未来の視えない、ただの女の子だったのなら、こんな悔しい想いをすることもなかったのに。
 人々は未来を素晴らしいものだと謳い、信じるに値するものだと豪語するが、そんなの嘘だ。未来なんて邪魔なだけだ。こんなもの、人を惑わすだけではないか。こんなもの、人を裏切るだけじゃないか。
 流れた涙は頬を伝い、乾いたシートの上に吸い込まれて湿った跡になった。

「……ゆ、う……き……さ、ま」

 男たちには聞き取れない小さな声で、菖蒲はその名を呼んだ。このようなときでも、夕貴のことを思えば、救われた気持ちになれるから。
 男たちに誘拐されても、肝心なときに未来が味方をしてくれなくても、夕貴だけは心を温かくしてくれる。
 だって、あの少年は言ったのだ。菖蒲を護る。菖蒲の未来を信じると。世界中の人間が菖蒲の言うことを否定したとしても、俺だけはお前の未来を信じてやる。そんな恥ずかしい台詞を、心から口にしてくれたのだ。
 だから諦めない。彼が味方をしてくれるのならば、菖蒲は諦めない。ずっと遠い未来、菖蒲のとなりで一緒に笑ってくれた彼さえいれば――

「――ぁ」

 そのときだった。
 神経が麻痺しているのにも関わらず、菖蒲の身体が震え、瞳からは大粒の涙がとめどなく流れていく。
 ありえない。信じられない。悪夢、という言葉さえ生温い。これが嘘だとすれば、神様は性格が悪いなどというレベルじゃない。
 菖蒲が未来を予知するタイミングには、多少の法則性がある。それは主に、リラックスしているときや身の危険が迫ったときだ。
 ゆえに身の危険が迫った、いま正にこのとき、菖蒲は生まれ持った異能を発動させた。

「……い、や」

 でも、こんな未来は認められない。認めていいわけがない。もしもこの未来を受け入れてしまうと、あの未来と矛盾することになる。
 今回ばかりは諦めるわけにはいかない。もう一度だけ、前を向かなければならない。自分を信じると言ってくれた少年の笑顔を護るために、こんな弱い自分を抱きしめ、そして信じてくれた彼を救うために。
 なぜなら。

 ――”萩原夕貴が死ぬ”――

 そんな未来は、絶対にありえてはいけないのだから。
 高臥の予知夢が絶対の的中率を誇っていることを鑑みれば、菖蒲と夕貴は結ばれるという運命にあり、必然的に夕貴はここ数年以上はなにがあっても死なない、ということになるはず。
 にも関わらず、菖蒲は視てしまった。夕貴が死ぬ。そんな最悪の未来を。

「へい海斗、高臥っぽい感じの番号は全部コピーしたぜ」

 新庄一馬の声がした。それと同時に、バッテリーを抜かれた菖蒲の携帯電話がシートに放り投げられる。
 鋭い瞳で車内の様子を確認した海斗は、やけにゆっくりとした所作で携帯のボタンを押したあと、それを耳に押し当てた。
 海底を彷彿させるような静寂の中、微かなコール音と、海斗のコンセントレーションにも似た深呼吸だけがあった。
 直後。コール音が途切れ、通話口から人の気配が漏れた途端。

「こんにちは。高臥菖蒲さんを預かっている、とでも言えば分かってくれるか? とりあえず初めまして、悪人です」

 そんなふざけた宣戦布告が、海斗の口から高臥関係者に伝えられたのだった。



[29805] 1-9 譲れないものがある
Name: テツヲ◆c49d9b75 ID:366fa69a
Date: 2012/03/10 23:05
 墨染めされたような夜空に、まばゆい月が浮かんでいる。
 萩原邸のリビングには、俺とナベリウス、そして玖凪託哉の姿があった。今日は久しぶりに託哉が夕飯を食っていく予定だった。このことは菖蒲にも伝えていたのだが、午後七時を過ぎても、彼女は学校から帰ってこなかった。
 チャイムが鳴った。慌てて腰を上げて、駆け足で玄関に向かう。菖蒲には合鍵を渡してあるので、本来ならば彼女がチャイムを鳴らす必要はない。でも、もしかしたら鍵をなくしたのかもしれない。なくした鍵を探しているうちに、こんな遅い時間になってしまったのだ。そうに違いない。
 ドアを開けると、ひんやりとした外気が肌に触れた。薄い部屋着では、いささか心もとない。

「……?」

 見慣れたはずの玄関先に広がった光景を見て、俺は間抜けな反応をしてしまう。そこに菖蒲の姿はない。
 萩原邸の門扉の向こう側、公共道路上には闇よりも濃密に塗装された漆黒の車が二台、停車している。周辺には気配を断つようにして、ダークスーツに身を包んだ長身の男たちが見受けらた。姿勢を正し、両手を背で組んだ彼らは、その不動の佇まいから見て、軍部や警察を通して専門的な訓練を受けた者であると推測できる。
 なにより俺の視線を奪ったのは、ゆっくりとこちらに歩み寄ってくる一人の男性だった。恐らく四十代前半ぐらいの彼は、老いを伺わせない豊かな髪をくしで撫でつけ、新品のように卸したてのスーツを着こなしている。
 彫りの深い整った顔立ちは、永遠に解けない命題に挑む哲学者のように気難しい形相を見せていた。不愉快そうに歪んだ眉と、忌々しそうに細められた瞳が、その印象をより一層強くしている。
 闇さえ恐れおののくような濃密な気配。対峙した者に是非もなく降伏を促すような存在感。もしも、人の上に立つべき人間がいるとすれば、それはきっとこの男性を指すのだろう。彼は間違いなく、王としてこの場に君臨していた。
 ふと微かな既視感。なんとなく、この人の顔を見たことがあるような気がする。ほとんど呆然としている俺の眼前で、その男性は足を止めた。

「お前が、萩原夕貴か」

 それは質問というよりも、断定だったように思う。
 明らかに訪問者としては異質の団体。警戒をするのが正解で、礼儀を尽くすのが間違いなんだろうけど、雰囲気に呑まれていた俺は、自然と敬語で対応した。

「……はい。僕が萩原夕貴で――っ!?」

 不自然に言葉が途切れた。瞬間的に聴覚が停止。目の前で火花が散ったような感覚。ぐらりと揺らぐ視界。自分の意思とは裏腹に、俺は転倒。遅れて鈍い痛みが左頬に発生した。
 殴られた。そう気付いたのは、俺が無様に尻もちをついてから、たっぷり十秒は経った頃だった。倒れたときに歯で口腔内を切ったのか、舌に鉄の味が広がる。
 地べたに這い蹲り、口元を手で拭う俺を、先の男性が憤怒の色が滲んだ瞳で見下ろしていた。暴力を振るうことには慣れていないのだろう。彼の拳は人体を殴ったことによる衝撃に耐え切れず、皮膚が裂けて血が滴っていた。

「重国(しげくに)様。彼には手を出さないと、私に約束してくださったはずでは」

 以前公園で出会った参波清彦さんが、俺と重国さんのあいだに割って入っていた。
 ここまでくれば、俺の鈍った頭でも理解できる。そもそも”重国”とは、菖蒲の父親の名前だ。この、およそ常人とは比ぶべくもない威圧と存在感を持つ彼こそ、高臥の現当主。俺が重国さんを見た瞬間、なんともいえない既視感を抱いたのは、彼の顔立ちがどことなく菖蒲に似ていたから、だろう。
 ……なるほど。彼が高臥家の当主であるのなら、この要人を警護するように敷かれた、密かでありながら物々しい警備にも頷ける。
 でも、どうして俺が殴られなきゃいけないんだ?
 それに重国さんと言えども、常時これほどの人数を動員しているのは不自然に思える。高臥家には敵が多いのか、あるいは何らかの非常事態なのか。
 ふらつく足に鞭を打ち、俺は壁を支えにしながら立ち上がった。

「……あなたは、菖蒲の父親ですか?」

 正直に言えば、いきなり殴られたことに少なからず腹を立てていたけど、相手が菖蒲の父親なら怒鳴ることもできない。

「高臥、重国さんですよね?」
「俺の名を口にするな。虫唾が走る」

 重国さんは不服そうに瞳を細めた。その眼光には、己に歯向かう者のことごとくに服従を強制するような力がある。気圧された俺は、知らずのうちに一歩退いていた。

「……さて、夕貴くん。不躾な訪問に謝罪を申したいところではありますが、状況が状況だけに時間もありません」

 重国さんは汚らわしいものを見るような目で俺を見ている。だから代わりに、参波さんが事情を説明してくれた。

「単刀直入に事実だけをお伝えします。お嬢様が、誘拐されました」

 ”誘拐”という単語が出た瞬間、重国さんが辛そうに顔を歪めたのが印象的だった。

「……は? 誘拐?」

 復唱した。
 あまりにも現実味がなくて。

「はい。菖蒲お嬢様が、誘拐されました」

 参波さんも復唱する。それが事実だし、そう口にするしか、表現の方法がないからだろう。
 誘拐。
 菖蒲が誘拐された。
 誰に?
 どうして?
 たった四文字の言葉を満足に飲み込めず、俺は夢見心地のまま参波さんの顔を見ていた。

「重国様。彼に説明しても?」
「……お前の好きにしろ」

 主の許可を得た参波さんは、呆然とする俺に事の顛末を話し始めた。 
 本日午後五時四十五分頃、高臥関係者のもとに『菖蒲を誘拐した』と犯人から電話があった。【高臥】には犯罪に対応するためのマニュアルが用意されており、それに従って対処を開始。五分と経たない間に、【高臥】の宗家や分家の人間にも情報の伝達が完了。
 【高臥】に繋がる連絡番号は、それ相応の地位につく人間か、各位関係者にしか知らされていない。ゆえに犯人が連絡手段を確保している時点で、これは悪戯ではなく”犯罪”であると断定。
 また、電話を受け取った者が、犯行声明の一部始終を録音していた。【高臥】は早急に手を回し、犯罪心理学などに長けた複数の専門家に、音源を分析を依頼。幸いなことに、犯人は変声機すら用いておらず、解析は容易だった。
 ”声”には人間の心理状態が現れる。訓練を積んだプロフェッショナルの人間ならば、犯人の声から犯行当時の心理や、相手の出身地、性格、年齢、身長、体重などを読み取れる。

「結論から言えば、犯人グループは二十代前後の若者です。人数は、恐らく六人。暴力団とも繋がりがありました。裏では傷害事件、恫喝、薬物の売買、集団での性的暴行などを繰り返していたようですね。不良行為と呼ぶには、やや悪質に過ぎると言ってもいいでしょう」

 今回の件は、その不良行為の延長線上でしかない。だからこそ誘拐自体は大胆ではあったものの、それは綿密というには繊細さに欠け、計画的というには穴が目立ちすぎた。
 犯人たちは若者なりに計画を練ったみたいだけれど、それも【高臥】という家系の持つ財力、権力、組織力を前にすれば、風の前の塵に同じ。
 犯人は、走行する車内から電話をかけたという。恐らく逆探知を警戒していたんだろう。移動しながら電話することによって、位置を特定させないという寸法。
 しかし技術とは日々進化しているのだ。
 今では全ての電話回線がデジタルで管理されており、電気通信事業者を経由することによって即座に参照が可能になっている。つまり逆探知は、犯人グループが思っている以上に簡単ってことだ。
 恐るべきは高臥一族の力か。
 男たちは運が悪かった。【高臥】を敵に回した時点で、そいつらの負けは確定していた。第一、日本における誘拐事件の検挙率は限りなく百パーセントに近いのだから。
 だが参波さんから、犯人グループの容姿や特徴を聞いた瞬間、俺は一週間ほど前の出来事を思い出し、同時に後悔した。
 ほぼ間違いなく、菖蒲を誘拐したのは、あの三人組の仲間たちだろう。復讐にしろ報復にしろ、菖蒲を誘拐するだけの動機があいつらにはある。
 でも、ちょっとした諍い――というより逆恨みか――を理由に、犯罪行為に手を染めるとは、頭が悪いにもほどがある。
 菖蒲の身柄を拘束されている以上、高臥家は後手に回らざるを得ない。しかし、それは犯人側が専門的な訓練を受けていた場合の話だ。今回の相手は、たかが喧嘩に慣れた程度のアウトロー気取りが数名だけ。それなら積極的に救出作戦を展開できるらしいが――

「分かるか。何の力も持たないお前が粋がった結果が、これだ」

 参波さんの説明が終わった途端、重国さんが口火を切った。

「俺が、粋がったから……ですか?」
「そうだ。お前も知らぬ存ぜぬで通すほど愚かではあるまい。思い当たる節があるだろう」

 俺のせい。
 俺が粋がったせい。
 例えば、あの繁華街で、菖蒲があいつらに絡まれていたとき、もっと冷静に対処できていれば、こんなことにはならなかったんじゃないか?
 相手を逆撫でせずに、俺が耐え忍んでさえいれば、あいつらも気が済んだんじゃないのか。
 菖蒲を口説かれたことや、俺の顔立ちを馬鹿にされたことに腹が立って、これでもかと反論してしまったけれど、もっと大局を見据えて行動していれば、菖蒲が誘拐されることはなかったのでは、と今更ながらに思ってしまう。
 きっと重国さんは、繁華街で起きた騒動を知っているんだ。

「お前は言ったな。”俺が責任を持って、菖蒲を預かりたいと思います”と」

 重国さんはポケットから小さなボイスレコーダーを取り出した。

『分かりました。俺が責任を持って、菖蒲を預かりたいと思います』

 それは他の誰でもない俺の声。いつかの公園で、参波さんに頭を下げて言い放った一言。
 菖蒲を溺愛しているという重国さんのことだ、俺という人間の覚悟を知るために、参波さんに会話の一部始終を録音させていても何らおかしくはない。
 ふと参波さんに視線を向けてみると、彼は申し訳なさそうに頭を下げた。主の命令とはいえ決まりが悪いんだろう。

「あの菖蒲が、あそこまで頑なに自分の意思を曲げず選んだ男だ。俺も期待はしていたが――結局はこの様だ。確かに、菖蒲をあらゆる脅威から護るのは個人の力では不可能と言ってもいい。それでも、お前の家に居候することを許した途端、俺の娘は悪意に巻き込まれてしまった。これは偶然か、必然か。どちらにしろお前が菖蒲を護れなかったという事実に変わりはない。いや、あいつも見る目がない。このような使えない男を選ぶとは」
「……あなたに、俺の何が分かるんですか」

 一方的に罵倒されることに耐え切れず、気付けばそんな反論をしていた。重国さんが不愉快そうに舌を打つ。

「つまらん。己のことを知りもせず、知ったような口を叩かれたくないと言うわけか」

 彼は続ける。

「萩原夕貴、十九歳。母子家庭。前科なし。幼少の頃から多方面に秀でた才を持ち、世間では『天才少年』、『神童』などと称される。九歳の頃、高柳書道祭と呼ばれる十四歳以下を対象とした書道コンクールにて圧倒的な支持と評価を受け、最優秀賞を受賞。その作品は、現在も学習センターのロビーにて展示。十四歳の頃、ひったくりの現行犯を独力で逮捕。警察から感謝状を授与――」

 重国さんは、スーツのポケットに手を入れたまま、そらんじる。

「十五歳の頃、偏差値だけで見れば県内でも五指に入る進学校、峰ヶ崎大学付属高等学校に入学。入試を首席で通過。それにより入学式の新入生答辞を勤める。入学以後、三年間に渡って学年首位の成績を維持。十七歳の頃、全国空手道選手権大会において、個人・団体の部それぞれで好成績を収める。翌年、同大会の個人の部で準優勝、団体の部で優勝。今年の春、高校の教諭から日本でも最難関の国立大学の受験を勧められるも、そのまま繰り上がりで峰ヶ崎大学に進学。現在は母親と二人暮し。大学では主に経済学を専攻している。これで満足か?」

 どうでもよさそうに。学校のテストを受けるために、仕方なく一夜漬けで覚えた知識を披露するように、重国さんは言った。

「俺は血筋、家柄、経歴では人を選ばん。その者が英雄と呼ばれていようが俺には関係ない。つまり、貴様の経歴など、俺にとっては判断材料にもなりはしない。仮にお前が地球を救うほどの偉業を成していたとしても、それは考慮に値しない。今回のケースは、菖蒲がお前を選んだという事実があったからこそ、黙認することにしたが――それも限界だ。お前ごときに菖蒲を任せるわけにはいかん」

 ……甘かった。
 俺は、この人をみくびっていた。
 娘を溺愛する父親としか聞いていなかったから、もっと人情に溢れた人だと想像していたが、実際は違った。きっと重国さんは、必要とあらば社会的底辺に位置する人間でも雇用するし、逆に必要なければ総理大臣であっても見向きしない。
 人間の本質を見て、判断する。かつて聖徳太子が定めた冠位十二階と同じように、家柄や経歴といった”上辺のもの”に捉われることなく、重国さん自身が判断する。
 もはや俺と交わす言葉さえ持ちたくないのか、重国さんは翻って歩き出した。

「参波。菖蒲を任せるぞ」
「心得ております」

 うやうやしく礼をする参波さんを一瞥してから、重国さんが車のほうに向かう。その背を見つめながら、俺はかたわらにいる参波さんに問いかけた。

「……参波さん。菖蒲を任せるって、どういうことだよ」
「そのままの意味ですよ、夕貴くん。お嬢様を救出するために少数精鋭の臨時作戦本部が敷かれましたが、その陣頭指揮および実働部隊を担当するのが私です」

 とある深刻な事情があり、警察に協力は仰げない。そこで参波さんを含めた十数名ほどのメンバーで、菖蒲の身柄を確保し、犯人グループを制圧するというのだ。
 詳しい話は知らない。参波さんの能力は分からないし、勝算があるのかも不明だし、そもそもで言えば、どうして警察に協力を依頼できないのかが分からない。
 でも話を聞いた俺は、逡巡する間もなく決意を固めていた。

「夕貴? 新手の宗教が勧誘でもしてるの? さすがに遅すぎるわよ」

 背後からナベリウスの声。なかなか戻ってこない俺を気にして彼女もやって来たんだろう。

「悪い、ナベリウス。あとで話すから」
「はい? えっ、ちょっと、夕貴……」

 足を動かす。あの大きな背中を追う。どこまでも縋りつく。いまの俺では、彼の前に立つ資格はない。だから背後に立ち、地面に頭突きする勢いで頭を下げる。

「お願いします! 俺も一緒に連れて行ってくださいっ!」

 夜空に響き渡るほどの声量。近所迷惑なんて知ったことか。俺の大切な女の子の一大事なんだ。
 萩原邸を包囲していた黒服の男たちが俺に注目し、重国さんの足が止まる。

「どうか、俺にチャンスをくださいっ!」

 重国さんは振り返ってもくれない。俺の言葉では、この人の心を震わせることができない。それでも俺は、アスファルトの路面を見つめながら、ひたすらに叫んだ。

「……下らん。お前が犬死しようと俺の知ったことではないが、素人に参波の邪魔をさせるわけにもいかん。黙って家にいろ」
「嫌だ! それだけは聞けない!」
「威勢だけはいいな。だが、過剰な威勢を振りまく輩は往々にして恥知らずと相場が決まっている。確かに、世の物事には総じて例外が存在するが、お前がその例に漏れるようには到底見えん。負けた上に吼える犬など、目障り以外の何者でもない。なにより俺の娘を護れなかったお前に、いまさら何が出来る?」
「菖蒲を助けます」
「……なに?」

 そこで重国さんは振り返る。俺は顔を上げて、真正面から重国さんと対峙した。押し潰されそうなプレッシャーに抵抗しようと拳を握り、奥歯を噛み締め、腹には力を入れる。

「貴様。菖蒲を助ける、と言ったのか」
「助けます!」
「口先だけなら何とでも言えよう。なぜお前は、菖蒲を助けようとする」
「約束したからです!」
「約束?」
「菖蒲を護ってやるって、あいつと約束したんだっ!」
「…………」

 値踏みするような視線を感じる。足先から頭のてっぺんまで、まるで解剖されているような錯覚に陥るほど、重国さんは俺を観察する。
 負けちゃいけない。一ミリでも圧されちゃダメだ。重国さんの持つ、圧倒的な存在感が何だ。俺が一方的に罵倒されようとそれが何だ。
 恥知らず。
 頭が悪い。
 見込みがない。
 俺ごときに菖蒲を任せるわけにはいかない、だって?
 そんなもん知るか。
 いくら頭を下げてでも、情けない男だと思われても、俺には護らなきゃいけないものがあるんだ。
 どうしても果たしたい約束があるんだ。
 絶対に、絶対に、絶対に護ってやりたい女の子がいるんだ……!

「……つまらんな。菖蒲も見る目がない」

 とうとう完全に見限られてしまったのか、重国さんは俺に背を向けた。

「待ってくれ! 頼むから俺を……!」
「知らん。貴様がどうなろうと興味はないし、それは【高臥】の管轄外だ」

 やっぱり、俺は無力なのか。どうあっても大切な人を護れないのか。
 でも約束したんだ。菖蒲の言う未来を信じてやるって。あいつを護ってやるって。一緒にフレンチトーストを作ろうって。そう約束したんだ。
 だから俺は、こんなところで諦めるわけには……!

「……もう一度だけ言おう。俺は、お前のことなど興味はないし、それは【高臥】の管轄外だ」
「え……?」
「だから、お前が勝手に参波についていこうが、お前が勝手に菖蒲を救おうと無駄な努力をしようが、俺には何の関係もない」

 それだけ。突き放すような一言。でも今の俺には、神の言葉よりもありたがい一言だった。
 黒塗りの高級車に重国さんが乗り込むと、すぐさまエンジンがかかり、静かなマフラー音を立てて車が動きだした。
 走り去る車に向けて、俺はもう一度だけ頭を下げて、叫んだ。

「ありがとうございますっ!」

 おそらく車内は防音が効いているだろうが、それでも不思議と、俺の声は重国さんに届いたような気がした。
 ここに一つの光明が差した。俺は新たな決意を胸に、菖蒲を救い出すことを誓う。
 今このときをもって、高臥菖蒲の救出作戦が展開することとなった。





[29805] 1-10 頑なの想い
Name: テツヲ◆c49d9b75 ID:366fa69a
Date: 2012/03/10 23:41

 高臥菖蒲は、心の底から辟易していた。
 男たちに身柄を拘束される際、スタンガンの電気ショックを浴びせられた菖蒲は、あれから数時間経ったいまとなっても、その影響を色濃く残している。
 もう痛みはほとんどないが、激しい運動をした直後のように筋肉が引きつっていた。高熱を発したときみたいに意識が朦朧としている。しばらく水分も摂っていない。水分が不足すると、眠気や脱力感、頭痛などを引き起こすが、それも菖蒲の倦怠感の一端を担っていると思われた。

 卸したての制服が汚れてしまったこともショックだ。この愛華女学院の制服には思い入れがある。あの多忙な父が、何とか時間を作って入学式に顔を出してくれた。一緒に写真を撮った。制服姿を褒めてくれた。この黒を基調としたセーラー服が汚れてしまうのは、同時に思い出を汚されたような気がして、たまらなく嫌だった。
 ワゴン車で輸送されている途中に気を失ってしまったので、菖蒲は自分が誘拐された直後からの詳しい経緯が分からない。
 ただ、気付いた頃にはもう、菖蒲はこの見知らぬ部屋に軟禁されていた。狭くて暗くて埃っぽい、倉庫みたいな部屋。ベッドやデスクなど、申し訳程度に調度類もある。男たちが用意していた大きめのランプだけが唯一の光源だった。
 菖蒲の両手は、頑丈そうな手錠によって繋がれている。それも手を背中側に回すようなかたちで拘束されているので、体幹バランスが上手く取れない。いちおう歩き回れる程度の自由はあるが、尋常ではない気だるさが身体に停滞しているので、菖蒲はぼんやりと座り尽くすしかなかった。
 部屋のなかには菖蒲以外にも、見張り役の男がいた。その男こそ、菖蒲の気を滅入らせる最大の要因だった。

「ね、ねえ。菖蒲ちゃんは、好きな食べ物とかあるの?」

 どこか媚びた声が、癪に触って仕方ない。
 ベッドにもたれかかって座り込む菖蒲を、部屋の端から見つめる彼は、肥満体型の体をパイプ椅子に預けており、さきほどからスナック菓子をボリボリと食べている。
 自分から見張り役に志願した彼は、坂倉健太という名前で、かつて菖蒲をナンパした三人組のうちの一人。

「じゃあさ、好きな動物とか、いるのかな?」

 こうした意味の分からない質問を、健太は飽きずに繰り返す。もちろん菖蒲には答える義務も義理もない。自分を誘拐した連中と同じ空気を吸うのも嫌だった。

「……それにしても、菖蒲ちゃんって、本当に可愛いよねえ。俺、ずっとファンだったんだよ」

 卑下た笑み。いやらしい視線が、菖蒲の身体を蛇のように這いまわる。特に健太が注目していたのは、制服の胸元を大きく押し上げるバストだ。まくれたスカートから覗く、白くて健康的な脚にも欲情の滲んだ目が向けられている。
 健太が劣情を催していることは、この部屋で二人きりになったときから菖蒲も気付いていた。それでも逃げ出すことはできないので、じっと俯いて耐えるしかない。

「そういや、菖蒲ちゃんの写真集も買ったよ。でも俺的には、もっと露出して欲しかったんだけどなぁ。水着とか着る予定ないの? もったいないよ。せっかく、そんな身体してるのに」

 スナック菓子の油がべっとりと付着した唇に、淫らな笑みが浮かぶ。
 健太は、顔の皮膚にニキビ跡やほくろが見られ、お世辞にもルックスがいいとは言えない。菖蒲は外見で人を選ばないようにと普段から心がけているが、露骨な下心を向けてくるような相手だけは昔から苦手だった。

「菖蒲ちゃん。俺、君のファンなんだよ? せっかく写真集を買ってあげたのに、ファンの声を無視するっていうの?」

 そう促されると、菖蒲も反応せざるを得なかった。

「……ありがとう、ございます」
「うっほー、可愛い声だなぁ。やっぱり俺、菖蒲ちゃんが世界で一番可愛いと思うよ。顔は見たことないぐらい綺麗だし……それに、身体だって」

 健太の視線に含まれているのは、色欲。ゾクリと背筋を何かが這い上がったような気がして、菖蒲は身体を震わせた。

「ところでさ、菖蒲ちゃんって――処女だよね?」

 それは少なくとも、これまで面識のなかった女性にぶつける質問ではない。

「ねえ、処女だよね?」

 問いを重ねる健太の瞳は、インクで塗りつぶされたように黒く淀んでいて、菖蒲は無意識に息を呑んだ。
 ゆっくりとパイプ椅子から立ち上がった健太が、指についたスナック菓子の粉を舐め取りながら、菖蒲のほうへ向かってくる。

「まさか菖蒲ちゃん。あの男と、ヤッたりしてないよね?」

 あの男とは、まず間違いなく夕貴のことだろう。
 この坂倉健太という男は、自分の容姿にコンプレックスを持っているというか、ルックスの優れた同性を好ましく思っていない節がある。
 これまでの会話(とは言っても、健太が一方的に喋っていただけだが)から、そのことに菖蒲は気付いていた。

「俺、ずっと信じてたよ。菖蒲ちゃんはまだ汚れてないって。そうだよね?」
「……私に、近づかないでください」
「怯えた顔も可愛いなぁ」
「――っ!? 離してくださいっ!」

 健太は膝をつき、菖蒲と目線を合わせる。間近で彼の脂ぎった顔を見て、菖蒲は全身の毛が逆立つのを感じた。
 大きな手が、彼女の肩を掴む。そのまま健太は、せっかく捕らえた女性特有の柔らかな肌を逃がすまいと、握力を強めた。

「……菖蒲ちゃん、めちゃくちゃいい匂いがするんだね。それに、こんなにエロい身体して……」

 健太は火照った顔で、荒い吐息を連続して吐き出す。

「もう我慢できない。菖蒲ちゃん、俺……!」

 さすがに抵抗しないわけにはいかなかった。だが健太の力は予想以上に強く、逃げることは難しい。手錠により手を背中側で繋がれた菖蒲は、大した回避行動も取れず、強引にベッドに押し倒された。
 夕貴様、助けて……!
 そう菖蒲が祈り、現実逃避しようと瞼を閉じた瞬間、状況は変わった。

「健太。その子には危害を加えるなって、言ったよな?」

 歪みが生じていた空気を矯正するような、鮮烈な声。
 あれだけ猛っていた健太の動きが止まる。彼は菖蒲をベッドに押し倒したまま、見るからに狼狽した様子で、乱入してきた第三者を認めた。

「……か、海斗」

 取り繕うように笑いながら、健太が立ち上がる。いまとなってはその肥満体型の身体が小さく見えた。
 姿を見せたのは、荒井海斗という青年。短く刈り込んだ髪、側頭部に入ったライン、精悍な顔立ち、鋭い眼差し。男たちのリーダー格に等しい人物だった。

「まったく。健太は女を見ると人が変わるな。おまえがどうしてもって言うから見張り役を頼んだが、それは間違いだったみたいだな」
「……わ、悪い。でも菖蒲ちゃんが」
「そんな顔すんなって。べつに俺は怒っちゃいないさ。ただ、その子を傷つけるのはまずい。交渉は対等に行わなけりゃだめだ。おまえだって、せっかく手に入れた現ナマがボロボロだったら嫌だろ?」

 わたしはお金と一緒ですか、と菖蒲は嫌な気分になった。海斗は苦笑しながら、部屋の片隅にあるパイプ椅子に腰掛ける。

「そういうわけで、見張り役は俺が代わる。そろそろ予定してた時刻だしな」

 嫌な汗をかいていた健太は、海斗の怒りを買っていないことに安心したようだった。健太は、名残惜しそうに菖蒲の身体を舐め回すように見つめてから、すごすごと退室していった。
 菖蒲は深々と安堵のため息をつき、両手を拘束されている不自由さに苦労しながらも、ベッドの上で身体を起こした。

「悪かったな。あんたも女だ。さすがに怖かったろう」

 足を組んでパイプ椅子に腰を落ち着けている海斗は、携帯電話を操作しながら、菖蒲のほうを見ずに呟いた。
 やはり返答する義理はないので、菖蒲は沈黙を貫く。ベッドに押し倒された際に乱れた長髪を、手で整えることも出来ないのが歯痒い。

「もう一度だけ言っておくが、俺たちはあんたに危害を加えるつもりはない。高臥さんが身代金をたんまり支払ってくれたら、無事に解放してやるさ。まあ、俺たちが捕まっても、あんたは自由の身だがな」
「……成功すると、思っているのですか?」

 本当は口も聞きたくなかったのだが、どうしても疑問が晴れず、気付けば菖蒲はそんな質問をしていた。携帯の液晶を見つめていた海斗が、その鋭い眼差しを菖蒲に向ける。

「わたしを誘拐した目的は、あなたの発言から推測するに、きっとたくさんのお金なんだと思いますが……」
「それがどうした?」
「どうしたって……お金が欲しいから、という理由だけで、こんな犯罪行為を計画したのですか?」

 海斗は、値踏みを計るように菖蒲を凝視した。

「……なるほど」

 そして笑う。

「やっぱり、あんたはテレビで見たとおりの女だ。礼儀正しい。それに美人だしな。俺みたいな不良――いや、もう犯罪者か。とにかく俺みたいなやつにも、しっかりと敬語で対応してくれる」

 ”犯罪者”というワードを口にするとき、海斗が自嘲気味に唇を歪めたのを、菖蒲は見逃さなかった。

「でも、俺たちとあんたじゃ住む世界が違うんだ。なあ? あんたはお嬢様だもんな? なんの苦労もせず、恵まれた環境の中で、贅沢に暮らしてきたんだもんな。だから、金のありがたみも知らないし、金のために行動を起こす人間の心理が、分からないんだ」
「……わたしだって、お金の大切さを理解しています」
「いいや、理解していないな。現代社会において、金ってのは大雑把に分けて、二つの側面を持つ。その両方を理解しているのが俺たちで、その片方しか知らないのがあんただ」

 海斗は続ける

「確かに、金ってのは人の夢を叶えるだろうよ。でも、それと同じぐらい、金は人の夢を壊すんだ。光があれば影がある、なんてのはよく聞く言葉だが、あれはマジなんだよ」

 これまで金銭に困ったことのない菖蒲には、金というものがどれだけ大切で、どれだけ人の夢を阻害するかが分からない。それが海斗の言い分だった。

「例えば、こんな話をしようか。俺の親父は、一つの夢を抱いて、田舎から単身で上京した。そして、寝る間も惜しんで働いた。汗水垂らして、ギャンブルも恋もせず、ただがむしゃらに働いた。その一日の給料は、あんたがテレビでちょっと喋っただけで貰えるギャラよりもずっと低いさ。それでも、親父は死ぬ気で働いたんだ。
 そんでまあ、努力ってのは、たまには報われることもあるらしい。田舎を飛び出して十年近く経った頃、ようやく親父は自分の工場を手に入れた。それが親父の夢だったんだってよ。笑っちまうだろ? 小っさな工場を仕切ることが、親父がガキんころから抱いてた夢だってんだからよ」

 心底愉快そうに海斗が笑うたび、パイプ椅子のさび付いた結合部が耳障りな音を立てた。

「当時は景気もよかったらしいからな。親父の工場も軌道に乗って、娯楽に傾倒するだけの余裕もできた。親父が話そうとしなかったから詳しくは知らないが、その時期に親父とお袋は出会ったんだそうだ。そんで馬鹿みたいに意気投合した二人は、当然のように交際を始めた。
 でも、仕事人間だった親父は恋愛に疎かったし、お袋もいいとこのお嬢様だったから、加減ってものを知らなかったんだろうな。ろくに避妊もしなかった結果、お袋は俺を身篭っちまった。お袋の実家は大した資産家らしくてな。もちろん結婚は反対された。んで、結局は駆け落ちっていうか、お袋が実家と縁を切ったことによって、二人はめでたく結婚。俺を出産。夫婦は順風満帆ってわけだ」

 はじめは事務的だった口調も次第に高揚し、いつしか海斗の言葉には感情が乗っていた。

「しばらくして妹も生まれて、俺たち家族は順調そのものだった。でも、幸せって長く続かないのが世の摂理なんだよな。泡が弾けるような好景気も、いつしか終わって、不景気の波に変わっちまってた。その煽りをモロに食らったのが、親父の工場だ。
 あれは、俺がまだガキん頃だ。今でも憶えてる。あっけなく他人の手に渡った工場を見つめる、親父の虚ろな目を。死ぬほど働いて得たものが、一瞬のうちに崩れていくんだ。あんたに分かるか? 分からねえよな? 金に困ったことのないあんたには」
「それは……!」
「いや、いい。分からなくて当然だ。こればっかりは仕方ない。誰だって生まれは選べないもんな。金持ちのあんたにも、あんたなりの苦労があるんだろう。それは理解してるつもりだ。べつにあんたを責めるつもりはないんだ」

 それでも、恵まれた菖蒲には分からない不幸がこの世にはあるのだ、と海斗は告げる。

「金ってのはよ、確かに夢を叶えると思うさ。欲しいものが買えるし、したいことができる。今時、どんな不細工だって、金さえ持ってりゃ大層な美人がいくらでも寄ってくる。
 だが、それと同じぐらい、金は夢を壊すんだ。例えば、詐欺まがいの手順で借金の肩代わりをしちまった人間を見てみろよ。クソみたいな大金を積まなきゃ手術も受けられない人間を見てみろよ。結局、金がなけりゃ人は生きていけないんだ。いくら綺麗事を言っても、それだけは変わらねえんだよ」

 気付いた頃には、菖蒲が加害者で、海斗が被害者だ、という雰囲気が構築されつつあった。もちろん、それは雰囲気の話であって、現実は逆の立場になるが、菖蒲の心に居たたまれない感情が芽生えたことも確かだった。

「話は戻るが、工場を失った親父は荒れたよ。生きる気力を失ったんだろうな。新しい職を探すこともせず、毎日のように酒を飲んでた。それでもギャンブルには手を出さなかったから、借金がかさむようなことだけはなかったけどよ。
 そんな家族を支えたのがお袋だ。お袋も元はお嬢様だったからな。早朝から夕方まで、慣れないパートで少ない金を稼いで、家計をやり繰りしてくれたよ。俺はガキなりに新聞配達なんかをやってた。妹には苦労させたくなかったし、なにより俺の頑張ってる姿を見れば、親父も目を覚ますんじゃないかって夢を見てたからな。
 でも、親父は終わってた。俺たちが汗水垂らして働く姿を見ても、親父は酒を飲みながらテレビ中継の野球に怒鳴り散らすだけだった。
 腐りきった親父に愛想を尽かしたお袋は、とうとう妹を連れて出ていっちまった。お袋は俺も連れて行こうとしたが、俺は親父を見捨てることが出来ず、こっちに残ったよ。んで、それ以来、お袋と妹とは連絡を取ってない」

 海斗の話は、まるで不幸を題材にした物語のように現実味がなかった。少なくとも菖蒲にとっては。
 それだけ、この二人の価値観は違っていた。どうやっても相容れなかった。

「俺は昔から空手をやっててな。自分で学費を稼ぎながら、なんとか時間を作ってトレーニングに打ち込んだよ。おかげで学業のほうはボロボロだったが、それでも空手は楽しかったし、俺の生き甲斐だった。でもよぉ。やっぱ人生って上手くいかねえんだよなぁ」 
「……なにが、あったのですか?」
「はっ、聞いたら笑っちまうぜ? なんせ、あのクソ親父が酒代欲しさに、俺に空手を止めてバイトの時間を増やせっつーんだよ。おかげで俺たちは大喧嘩さ。でも、腐っても親父だ、実の父親を殴ることも出来ない俺に、親父は……」

 ガラスで出来たボトルで、海斗は足を思いきり殴られた。砕けた破片は皮膚を深く切り裂き、一部の神経を僅かに傷つけた。海斗は、右足を高く上げることができないようになった。日常生活に支障はないが、今までと同じように空手を続けることができなくなって――

「そんで、俺は学校を止めて、街でアホみたいに喧嘩に明け暮れた。そうして俺は、あいつらと出会った。クスリは売るし、女はまわすし、どうしようもないクズの集まりだが、それでも俺たちは仲間だ。俺とは毛色が違うが、みんな、あんたには想像もつかないような過去を持ってる。金こそが力だって、みんな分かってるんだ」
「……話は分かりました。でも、こんな大それた犯罪が、成功するとお思いですか?」

 菖蒲としては、精一杯の反論をしたつもりだった。

「成功、しねえだろうなぁ……」

 予想に反し、海斗は苦笑を浮かべて首を振った。横に。

「では、あなた方は、どうしてわたしを誘拐したのですか?」
「身代金を頂くために決まってるさ。もちろん成功する見込みが限りなく低いってのは分かってる。それでも何十億って金をせしめることができれば……いや、それが成功しなければ俺たちは終わりなんだ」

 海斗は、自分たちのグループが長くないと予想をつけている。

「健太は見境なく女を犯っちまうしよぉ……達樹はクスリにハマっちまってるしよぉ……一馬はキレるとすぐ刃物を振り回すしよぉ……」

 このままでは、遠くない未来に海斗たちは破滅を迎えるだろう。いずれ海斗のグループは、将来的に暴力団の傘下に加入することが表向きは決まっているそうだが、それも嘘だという。
 実際は海斗だけしか気に入られておらず、勧誘もされていない。海斗以外のメンバーは、全員使えないと見なされており、頃合を見て切り離される予定とのことだった。

「……でもよ、そんなの出来ねえだろ。どれだけ腐っていても、あいつらは俺の仲間なんだよ。クズで、頭が悪くて、喧嘩っ早い奴らだが、それでも俺にとっちゃかけがえのないダチなんだよ」

 だから海斗は覚悟を決めた。なにか人生の転機となりうるような、革命的なきっかけが必要だった。
 例えば、誘拐。
 途方もない大金を奪いさえすれば、あとはどうにでもなる。今の時代、金さえ積めば爆弾でも拳銃でも手に入る。もちろん密航や密輸だって、裏社会とのコネクションが多少あれば、世間の人間が思っている以上に簡単だ。
 菖蒲と引き換えに数十億という金を手にして、【高臥】の力が及ばない欧州か、もしくは欧米のほうに逃げる。それが海斗の計画。
 もちろん不可能に近いということは分かっている。それでも不可能を可能にしなければ、自分たちは変われないのだと、この破滅にしか続かないレールから降りることができないのだと。

「だからよぉ、あんたには悪いが、せいぜい利用させてもらうぜ」

 言って、海斗が携帯を耳に押し当てる。どこかに電話をかけるらしいが、この場合、海斗たちが連絡を取ろうとする相手は、恐らく【高臥】だけだろう。

「向こうがあんたの無事を確認したがってたからな。すこしだけ会話させてやるよ」

 その一言を最後に、室内には静寂が戻った。菖蒲の心には、静寂が戻らなかった。


 ****


 あれから俺たちは、参波さんの部下が運転する車で、犯人グループが潜伏してると思しきアジトに向かっていた。
 こんなかたちで例の高級車に乗るとは思わなかった。居住性を重視した広い車内には、クッションの効いたソファや小さなテーブルがあり、窓にはスモークフィルムが張られている。参波さん曰く、車体は防弾仕様で、ちょっとやそっとの攻撃ならば余裕で耐えられるらしい。
 実は、あれから色々と事態は変わっていた。
 まず俺たちの話を聞きつけたナベリウスが「菖蒲の危機なら、わたしも手伝おうかな」と名乗り出てくれた。でも彼女は、この作戦に参加していない。その代わりに、なぜか託哉のやつが、一緒に来ることになった。
 理由は分からないが、もともと参波さんはナベリウスの同行には否定的だった。結局、いつまでも話は平行線だったのだが、それを見かねた託哉が「じゃあ、オレがナベリウスさんの代わりってことで、どうだ?」などとふざけたことを抜かしやがった。しかも、それを参波さんが了承したというのだから始末が悪い。きっと俺の知らない思惑やら事情があるのだろうけど。
 託哉に問い詰めようにも、こいつは車内のソファに寝転んで、のんきに居眠りをしているので、交わす言葉も持てなかった。
 結局、俺は参波さんと二人で話し合いながら、目的地への到着を待っていた。

「高臥一族は、他の家系とは、あらゆる面において一線を画するのです」
 
 どうして警察に協力を要請しないのか。そう問いかけた俺に、参波さんは躊躇うような気配を見せたものの、事情を明かしてくれると言った。
 そして同時に、協力を要請しない、のではなく、協力を要請できない、とも。

「この日本という国には、表社会において、裏社会において、その力を畏怖され、畏敬され、崇拝され、神聖視される十二の家系が存在します。それぞれ【高梨】、【九紋(くもん)】、【鮮遠(せんえん)】、【朔花(さくばな)】、【如月】、【姫楓院(きふういん)】、【斑頼(まばらい)】、【哘(さそざき)】、【月夜乃(つくよの)】、【高臥】、【御巫(みかなぎ)】、【碧河(あおがわ)】。この合わせて十二の家系は、私たちの世界では、俗に十二大家(じゅうにたいけ)と呼称されます。夕貴くんも、いくつかの家名は聞いたことがあるでしょう」

 例えば、高梨家は有能な高官を輩出する、いわゆる政治家の家系として有名だ。参波さん曰く、高梨家は古くから政界に根付く一族で、その規模は内政や外交にも深く関与するほどだという。
 他にも日本における華道最大の流派を誇る姫楓院家。医療方面に大きな力を持つ碧河家。表社会の経済を動かす、高臥家や、如月家。

「この十二の家系は、表と裏の社会に途方もない力を持ちます。出る杭は打たれる、ということわざがありますが、十二大家はあまりにも出すぎた杭です。もはや一介の資産家や政治家が、太刀打ちできる道理はありません。同時に、この十二の家名を持つ人間に手を出すことは、私たちの世界において最も犯してはいけない禁忌でもあります」
「……でも参波さん。じゃあ、今回のケースはどうなるんだ? 菖蒲は、その……誘拐、されただろ?」
「ですから、それが問題なのです。元々、お嬢様が実名のままデビューなさったのは、【高臥】という家名を盾にするためだったのです。お嬢様が高臥家の人間と知れば、どのような悪党だろうと、まず手を出そうとは思いません。この国において、十二大家に牙を向くことは、すなわち死に直結するのですから」

 だからこそ、まずい。
 裏社会において、任侠と仁義の世界を仕切っているのは【哘(さそざき)】。つまり日本で起こった暴力団絡みの事件は、元を正せば【哘】に責任が帰結する。
 今回、菖蒲を誘拐したやつらは裏で暴力団と繋がりがあった。
 構図を明確化するなら、【哘】が、【高臥】の人間に害を成した、ということになる。
 ただでさえ双方の家系は、表社会の【高臥】と、裏社会の【哘】とに住む世界が分かれているのだ。【哘】の管轄する人間が、【高臥】の一人娘に手を出したとなれば、それはもうすいませんでしたでは済まされない。
 俺なんかでは想像もつかないような数多くの利権が複雑に絡み合っているせいで、一つの小さな歪みが、日本全体に壊滅的な影響を与えることだってある。
 今回の場合、【高臥】は【哘】が直接的には関与していないことを理解している。だから秘密裏に事を済ませて、事態が明るみになることを回避しようとしている。そうしなければ、比喩でも何でもなく、日本がどうなるか分からないから。
 警察を頼れないのもそのため。警察と暴力団は表裏一体。警察にもたらされた情報は、必ず【哘】に回る。緘口令を敷いたとしても、やはり人の口に戸は立てられない。
 だから【高臥】は総力を挙げて、身内だけで救出作戦を展開することにした。

「しかしながら、今回の作戦には【高臥】の人間は一人も参加していません。すべて《参波一門》の息がかかった人間です」

 要するに、信頼できる、ということか。
 一通り話をした俺と参波さんは、今度は菖蒲を救出し、犯人グループを殲滅するための作戦について話し合った。まあ話し合いとはいっても、俺が一方的に情報を叩き込まれていただけだったのだけれど。
 現地到着まで残り十五分と迫った頃、参波さんの携帯に着信があった。犯人グループから高臥関係者にかけられた電話は、すべて参波さんの元に回線が接続される仕組みになっている。案の定、電話は犯人グループからのものだった。

「はい。あなた方の要求どおり、こちらのほうで身代金を用意いたしました」

 通話口から微かに漏れてくる男の声を聞いて、俺ははらわたが煮えくり返るような錯覚に陥った。
 こいつらのせいで。
 こいつらが菖蒲を、傷つけたんだ。
 そう思うと、自分の無力さや迂闊さを呪うと同時に、これまで感じたことのない怒りが心を侵食するのが分かる。

「夕貴くん」

 ソファに腰掛けたまま、膝の上で両拳を握っていた俺に、参波さんが電話を渡してきた。

「……参波さん、これは……?」
「いいから、出てみてください。私から言えるのは、それだけです」

 犯人と交渉中のはずだが、俺が代わってもいいんだろうか?
 あいつらの声を聞いた瞬間、口から罵声が飛び出さないとも限らない。むしろ怒鳴ってしまう自信がある。それでも参波さんが促すので、俺は渋々といった体で、携帯電話を耳に当てた。

「……もしもし」

 口にしてから、なんとなく間抜けな第一声だな、と思った。少なくとも菖蒲を誘拐したやつらに言う台詞じゃない。

『夕貴様、ですか……?』

 でも俺の鼓膜を震わせたのは、汚らわしい男の声ではなく。

「……あ、菖蒲か?」

 思わず涙が出そうになった。
 菖蒲が無事でいてくれたことが、この世の何よりも奇跡に思えて、神様に土下座してやりたい気分になった。
 言いたいことは沢山ある。
 おまえを助けてやる、とか。
 あいつらに酷いことはされてねえか、とか。
 護ってやれなくてごめんな、とか。
 しかし、俺が何かを言うよりも早く、菖蒲は悲痛な声で、それを告げた。

『……夕貴様。菖蒲の一生のお願いを、ここで使います』

 それは子供がよく口にする、相手に頼みごとをするときの枕詞として使われる決まり文句だが、この状況下では、やけに真摯な言葉として聞こえた。

「……ああ、分かってる。俺に助けてほしいってんだろ? だって約束したもんな。おまえの言う未来を信じてやるって」
『はい。約束しました』
「それなら話は早い。おまえが無事だって知れただけで百人力だ。もう怖いものなんてない。絶対におまえを助けてやるからな。だから」
『いいえ』

 冷たい、否定。

「一生のお願いですから……来ないでください」

 呟く声が、震えていた。

「どうか、お願いですから……」

 重ねる声が、泣いていた。

「夕貴様だけは……!」

 失いたくない、と。
 そんな未来は見たくない、と。
 菖蒲は何も言葉にしていないはずなのに、なぜか俺には、彼女の言わんとすることが理解できた。もちろん俺には未来を視ることはできない。他人の心を読むこともできないし、そもそもで言えば、女の子の気持ちを読むのも下手だ。
 それでも、分かってしまった。

「……視たのか?」
『…………』
「俺が死ぬって……視たんだよな?」
『…………』

 その沈黙が、暗に肯定を示していた。
 これまで菖蒲が、人の死を視ても、その未来を回避できなかったのは、誰も菖蒲の言葉に耳を貸さなかったから。
 つまり菖蒲の言うとおりに従えば、未来は変わるはずなのだ。垣間見た未来を修正することによって【高臥】は栄えたのだから。
 かつて菖蒲の話を聞いた俺は、彼女の言葉に耳を貸さないやつは馬鹿だな、と思った。もちろん、それは『未来予知』という異能を存知している俺特有の発想だ。
 一度でもいい。
 菖蒲が視た”誰かの死”が、一度でもいいから回避できれば、きっと菖蒲は前を向ける。どうやっても未来は変えられない、という妄念を崩せる。頑張れば未来は変わる、という希望にすりかわる。
 それでも。

「……悪い、菖蒲。そのお願いだけは、聞けねえよ」

 通話口の向こうで、彼女の嗚咽がより一層の激しさを増した。

『……そん、な……どうして、ですか! 夕貴様は、約束してくれたではありませんか! ……わたしの、未来を、信じてくれるって……』
「ああ、言ったよ」
『……なら、どうしてですか……どうして、夕貴様は……夕貴様も……』

 わたしの言うことを聞いてくれないんですか、と。
 菖蒲は失望に染まりきった声で、希望を捨てようとしない俺をなじった。
 でもよ。
 仕方ねえんだ。
 これだけは譲れない。
 俺という人間の命だって。
 いくら菖蒲との約束だって。
 憧れている女の子のお願いだって。
 そんな下らないチンケなもんより、俺には遥かに大事なもんがあるから。

「……悪いな。でも菖蒲は、一つだけ勘違いをしてるよ」

 狼狽する気配が伝わってくる。
 俺は携帯電話を強く握り締めながら、想いを吐露した。

「俺は。
 自分の命よりも。
 おまえとの約束よりも。
 憧れてる女の子のお願いよりも。
 ずっと、ずっとおまえのほうが大切なんだよ、菖蒲」

 だから聞けないんだ。
 菖蒲との約束を守ることは、菖蒲のお願いを聞くことは、転じて菖蒲自身を護れないってことだから。

『……バカ』

 小さな、罵倒。

『……夕貴様なんか、大嫌いです』
「そっか。俺は菖蒲のこと、大好きだけどな」

 不思議と笑みがこぼれた。きっと向こうでも、菖蒲が笑っていると、そう信じたい。
 そうして電話は途切れた。元々、人質の無事を知らせることだけが、この電話の目的だったのだろう。
 もう何が正しくて、何が間違っているのかも分からない。もしかすると、これまで菖蒲が予知した”誰かの死”は、俺みたいな自惚れ野郎にこそ降りかかるのかもしれないけれど。
 それでも、いいんだ。どんな未来だって跳ね除けてやる。菖蒲を悩ませる未来なんて、俺があっけなく変えてやるんだ。
 なあ、待ってろよ菖蒲。絶対に、何があってもおまえのことを助けてやるから。





[29805] 1-11 救出作戦
Name: テツヲ◆c49d9b75 ID:366fa69a
Date: 2012/03/11 00:04
 犯人グループのアジトとして特定された場所は、俺たちの街からしばらく車を走らせた先にある漁港だった。漁港に隣接している倉庫街の一角に、犯人たちが潜んでいるらしい。
 この倉庫街は、主に海貨業者や漁業就業者たちが利用している。しかし棟の一部は、個人や企業に貸し与えるためのトランクルームであり、陸で仕事をしている人間も頻繁に寄りつくという。

 犯人グループが立て篭もっている倉庫は、管理人の趣味により音楽スタジオとして改造されている。要するに、一般的な倉庫よりも防音に特化しているということだ。音を遮断するという必要上、壁は厚く、小窓の類は一切設けられていない。入り口は、正面に一つ、裏に一つの計二つ。犯人の逃走経路を潰しやすいのは利点だが、侵入経路が限定されているのは難点。犯人を取り逃がす可能性は限りなく低いが、攻略戦を展開するのも、また面倒ということだ。
 俺たちは黒塗りの高級車から降りたあと、参波さんの指示に従い、移動を開始した。
 ずっとソファで眠りこけていた託哉は、こんなときなのにも関わらず、のんきに欠伸をかましていた。こいつがどうして俺たちと一緒に来たのかは分からないし、参波さんがどうして託哉の同行を許可したのかも不明だ。きっと参波さんには、彼なりの考えがあるのだろうけれど、俺にはいまいち意図が掴めない。
 犯人グループのアジトから、直線距離にしておよそ百メートルほど離れた位置に、俺たちは待機していた。

「封鎖班、観測班、救護班の連携完了を了解。以後、私の指示があるまで、そのまま待機」

 参波さんは、大型のトランシーバーで部下と連絡を取っている。
 トランシーバーは通信機同士で直接電波をやり取りするので、電話機と基地局との間で電波を送受信し合う携帯電話よりも、この場合は確実なのだろう。携帯電話は周辺一帯の周波数を少しいじるだけで使えなくなってしまう。よって、盗聴・妨害される可能性の低いトランシーバーは、今回のようなスポットミッションには最適と言える。

「おもしれーぐらい大掛かりだな。なんか男として、血が滾るっつーか、不謹慎な言い方をすればワクワクする感じだよな」

 俺のとなりにいる託哉が、普段とまったく変わらないおどけた口調で言った。

「おまえな……」
「なんだよ夕貴。言いたいことがあるなら、はっきり言えばいいじゃん」
「……いや、なんでもない」

 本当ならば文句の一つぐらい言いたかった。
 菖蒲が誘拐されたってのに、どうしてそんなに余裕でいられるのか。俺なんて、この戦場を思わせるような独特の緊張感に苛まれて、胃の中のものを戻しそうだっていうのに。
 託哉は「美少女に危ない真似をさせちゃ駄目だろ。つーわけで、俺が代わるわ」などとふざけたことを言って、ナベリウスの代理として、この救出作戦に参加した。
 つまり助力を買って出てくれたというわけで、そういう観点から見れば、託哉は俺たちの味方という認識で間違いないが――

「なあ託哉。おまえ、格闘技の経験とかあったっけ?」
「いんや、自慢じゃないが喧嘩すらあまりしたことがない」
「…………」
「そんなオレに比べて、夕貴は空手やってたから腕に覚えはあるよなー。なんせ全国二位の腕前だもんな」
「俺のことはいいんだよ。それよりおまえ、喧嘩もしたことないなら、大人しく家に帰ったほうがいいんじゃないか? 無理言って連れてきてもらった俺が言うのも何だが、足手まといはごめんだぞ」
「うーん、まあ大丈夫じゃない? こう見えてもオレ、とっても恐ろしい殺人鬼って呼ばれたこともあるんだよーん」
「こんなときに冗談はいらねえよ……」
「あ、バレた?」

 これっぽっちも気負っていない様子の託哉は、にしし、と人懐っこい笑みを浮かべて頭を搔いた。
 この緊迫感漂う状況において、託哉の奔放さが疎ましいのは確かだが、それと同じぐらい、託哉の無邪気さが俺の緊張を紛らわせてくれているのも否定できない。
 ほどよい緊張は悪いものではない。緊張という名の刺激は、人間の五感を研ぎ澄まし、鋭敏にさせる。それは緩んだ筋肉を引き締め、警戒心を増幅し、次の一手を素早く打つためのキーとなる。
 転じて、過ぎた緊張は人間の体を縛る鎖となってしまう。これまで何度か大舞台に立ったことがある俺は、それを経験から理解していた。
 そうした意味では、託哉がこの場にいることは決して無駄じゃなかった。こいつがとなりにいるだけで、俺はプレッシャーに呑まれることなく、軽口を叩く余裕を失くさずにいる。もしかしたら参波さんも、それを計算に入れていたのかもしれない。

「夕貴くん、玖凪の。事態に大きな変化がありました」

 トランシーバーを通じて部下から情報を得たのか、参波さんが言った。すかさず託哉が返す。

「仕事って、どういうことだい? 参波さんよ」
「観測班より『城から人間一人が外出するのを確認した』と緊急連絡が入りました。外見の特徴から照合した結果、対象を王子の一人と確認。姫を連れていないところを見ると、恐らくは長丁場になると判断して、食料調達にでも出たのでしょう。どうやら私たちに補足されていることを知らないようです」

 ちなみに”城”は犯人グループのアジトを指し、”王子”は犯人グループそのものを指し、”姫”は俺たちが救出するべき対象である高臥菖蒲を指す。

「舐められたものです。暴力団と繋がりがあるとは言っても、彼らは裏社会のことを知らなさすぎる。私たちの情報収集能力を侮ってもらっては困りますね」
「おいおい、参波の。あんたらに気にする体裁なんてあったのかい?」
「それはもう。なにせ、裏では力が全てでしょう?」

 参波さんはスーツのネクタイを緩めながら、口端を歪めた。彼はこんなときでもスーツを華麗に着こなしている。オールバックの髪型と、右目のあたりに入った大きな切り傷が、この闇に呑まれた漁港と嫌に合っていたけれど、それも銀縁の眼鏡が生み出すインテリな雰囲気が、なんとか参波さんを堅気のように見せている。

「……参波さん。つまり、これはチャンスってことか?」

 俺が躊躇いがちに問うと、彼は頷いた。

「察しがいいですね。夕貴くんの言うとおり、これはチャンスです。まずは危機感の足りない”王子”から、お話を伺うとしましょうか」

 要するに、食料調達に出たと思しき男から、犯人グループの内情や、アジトの内部構造、そして菖蒲の様子を尋問しようということ。
 それにしても、一つのミスが勝敗を決しかねないこの状況下において、単独で外出するとは迂闊すぎるにもほどがある。あの男たちには危機感がないのか、もしくは自分たちの位置が特定されているとは想像していないのか。まあ両方だろうな。
 晴れ渡った夜空の下、月明かりに照らされた漁港の中を俺たちは移動する。今ばかりは月光も疎ましく思えたが、僅かに残った宵闇に身を隠すようにして、俺たちは気配を殺しながら、間抜けな王子様に接触するのだった。




 結論から言うと、俺たちは目下の目的を成し遂げた。
 つまり犯人グループの一人を補足し、襲撃し、拘束したというわけである。それを成し遂げたのは、参波さんだった。俺たちが行動しようとするよりも早く、すべては終わっていた。
 いかなる歩法か、足音どころか震動すら立てずに王子の背後まで忍び寄った参波さんは、躊躇うことなく相手の喉に一撃を見舞った。無力化された王子は、うめき声を発することも出来ず、その場に転倒し、意識を喪失。
 俺たちが拘束した男は、かつて菖蒲をナンパした三人組の一人だった。筋肉と脂肪が半々ぐらいの肥満体型の男。顔の表面にはニキビ跡やほくろが目立つ。あのとき、紙コップのジュースを持っていた男だ。
 少しはダイエットをしたほうがいいんじゃないか、と文句を超えて説教してやりたくなる重い体を引きずり、俺たちは物影まで移動。
 身動きできないように拘束されて寝転ぶ男に、参波さんがバケツ一杯の水(さっき参波さんの部下が持ってきた)を勢いよく顔面にぶっかけると、水分が気管に入ったような反応と共に、男が目を覚ました。
 両手両足を縛られている肥満体型の彼は、どうやら状況を飲み込めていないようで、呆然とした顔で虚空を見つめていた。
 それは間抜けと笑うに相応しい姿だったが、菖蒲に危害を加えたこいつらを前にして浮かべる笑顔など、あいにく俺は持ち合わせていない。

「私の声が聞こえますか」

 参波さんが声をかけるも、男は反応を示さない。しかし男は、参波さんを見て、託哉を見て、そして俺を認めた瞬間、ようやく事態を理解したようで、一気に冷や汗をかき始めた。

「お、お前っ! あのときの!」
「騒がないでください。また、私の許可なく声を発することを禁じます」
「まさか菖蒲ちゃんを取り戻しに来たのか!? い、言っとくけど、菖蒲ちゃんはお前なんかのものじゃなくて、俺のものなん……」
「騒ぐな、と言いました」

 ゾッとするほど冷たい声。
 同時に、ポキッ、と小気味よい音がした。
 男の背後に回った参波さんが、指を折ったのだ。
 その耐え難い激痛により、男は『騒ぐな』という命令を無視して絶叫したのだが、参波さんが男の口元を布で抑えて声を封じたので、くぐもった呻き声しか漏れなかった。

「見かけによらず荒っぽいねえ、参波の」
「荒っぽいっていうか、これは……」

 託哉は感心したような声色だったが、俺はそうもいかなかった。
 人間の指を折る。そんな荒い芸当は、まず間違いなく俺にはできない。参波さんは、手馴れた様子だった。【高臥】の家令であり、家人のボディーガードも務めているという参波さんは、卓越した戦闘技術と、人を壊す覚悟を、当たり前のように備えていた。

「本来ならば爪を剥いでもよかったのですがね。専門的な器具がなければ、効率よく痛みを与えることができませんから、今は『骨』で代替させていただきます」

 瞳に涙を浮かべて悶える男を見下ろし、参波さんは告げる。

「もう一度だけ忠告しておきましょう。私の許可なく、声を発するな。死ぬぞ」

 その宣告には、もはや暗示にも似た強制力が内包されていた。男は壊れたおもちゃのように、何度も首を縦に振る。こいつも暴力団と繋がりができる程度にはアウトローを気取っていたのだ。弱肉強食という摂理を、いちおう理解しているのだろう。

「私の指示に従えば、命までは取らないと約束しましょう。ただし、私の指示に背けば、その違反した分に見合っただけのペナルティを科します。よろしいですか?」

 ブリザードに直面したように体を震わせながら、男が頷く。

「ご理解いただけて結構です。ではお聞きしますが、あなたは坂倉健太さんで間違いありませんか?」

 高臥家の組織力か、あるいは参波さん独自の情報網により、男たちの身元は割れている。これは、その確認だろう。男は戦々恐々としながら頷いた。

「……は、はい」
「ふむ、それでは次にお聞きしますが――」

 そうして参波さんは、次々と男から情報を聞き出していく。
 暴力を背景にしているとはいえ、淀みなく尋問を進めていく参波さんは、明らかに馴れた様子だった。相手を脅すだけではなく、時には慰めるような優しさを見せ、恐怖という殻に閉じこもっていた男の心を開いていく。
 犯人グループ内の情報を漏らすことには若干の躊躇を見せたものの、それも長くない沈黙だった。参波さんを前にして、坂倉健太は閉ざす口を持たない。
 彼らの計画は、アウトローが考えたにしてはよく練られていたが、【高臥】という家系を敵に回すとなれば話は別だ。
 男たちの計画は、せいぜい『一般人に警察が味方したぐらいの戦力』が相手ならば、まあ運がよければ成功するんじゃないか、という程度のものでしかない。……と、酷評はしたが、警察を相手取れるかもしれないレベルの計画を立てているあたり、こいつらのリーダーは油断ならない男なのかもしれない。
 犯人グループのアジトは、音楽スタジオ、居住スペース、キッチンスペース、シャワールーム、トイレと少なくない空間があるらしい。
 まだ俺たちに包囲されていることも知らない彼らは、思い思いに寛いだり、交代で睡眠を取ったりしているようだ。誘拐を実行したときは極度の緊張に包まれていたらしいが、時間が経っても追っ手が来ないことに気付き(まあ気付かせていないだけだが)、今は金の使い道について談笑する余裕さえあるという。
 菖蒲は居住スペースに監禁されているが、見張り役は一人だけ。表と裏の入り口には鍵をかけているものの、特にバリケードを築くこともしていない。他にも男たちの持つ武器、道具などを事細かに聞き出し、城のレイアウトも聴取した。

「……おまえら、よくそれで誘拐なんかしたな」

 無謀としか言いようのない計画に呆れて、俺はかぶりを振った。まあアウトローとしては失敗なしの人生だったらしいので、こいつらは不良行為に躊躇いはないし、成功するとしか考えていない。
 自信とは厄介なものだ。過剰な自信は、分析能力の欠如に繋がり、情報の正確性を見失い、誤った意思決定と戦略に信頼を寄せてしまい、結果として高いリスク負担をしてしまう。こういった輩の行動は、大体がリスク・リワード・レシオに基づいていない。
 俺の発言が気に食わなかったのか、坂倉健太は参波さんに向ける目とはまた違った、どす黒く濁ったような目で俺を見た。

「……うるさい。お前なんかに、菖蒲ちゃんを渡すもんか」
「え?」
「うるさいって言ったんだ! どうせお前、菖蒲ちゃんとヤリまくってんだろ!? いいよなぁイケメンは! 菖蒲ちゃんだって、しょせんは顔のいい男にしか興味はないんだ! 菖蒲ちゃん、普段は清楚に振舞ってるけど、夜になると男に喜んで股を開くような淫乱に違いないんだ!」

 参波さんは何も言わなかった。それよりも早く、俺が坂倉健太の胸倉を掴み上げていたから。

「てめえ……菖蒲の悪口言ってんじゃねえよ」

 殴るどころか、殺してやりたい気分だった。でも無力化されている男に暴力を振るうほど、俺は喧嘩が好きじゃない。

「一つだけ聞くぞ。おまえら、菖蒲には何もしてねえだろうな」

 自分でも驚くほど底冷えした声。ひっ、と息を呑んだ坂倉健太は、俺から視線を逸らした。まるで何かを隠そうとするかのように。

「……な、何もしてない、けど」
「正直に言えよ。人間の嘘なんて分かりやすいもんだ」
「……お」

 そして彼は、小さな、小さな声で呟いた。

「……お、犯そうと、した」

 このとき、こいつをぶん殴らなかった俺は、自分で言うのもなんだが、よく耐えたと思う。

「ち、違うんだ! 確かに菖蒲ちゃんに、その……しようとしたけど、結局は何もしなかったから、俺は悪くない!」
「じゃあ……菖蒲は無事ってことか?」
「無事だよ! 無事だから、もう放してくれ!」

 言われて、俺は坂倉健太を解放した。菖蒲に乱暴しようとしたこいつは許せないけど、菖蒲が無事だってことが分かっただけで、俺はもう何でもいいような気がしたんだ。
 作戦に必要な情報は、もう全て得た。
 なおも言い訳を繰り返す坂倉健太を参波さんの部下に引き渡し、俺たちは本格的な救出作戦を展開するためにブリーフィングを開始。
 元々、参波さん一人で犯人グループは制圧できる目算だったので、俺と託哉は過ぎた戦力というか、むしろ邪魔者になってしまう可能性のほうが大きい。
 遠まわしに、参波さんは俺に『夕貴くんの手を煩わせるまでもなく、私が単独でお嬢様を連れ戻してきますよ』というようなことを言ってくれた。それは俺を足手まといと見なしての言葉ではなく、純粋に俺の身を案じてくれた上での発言。
 それでも、俺は頭を下げて、参波さんに懇願した。菖蒲を助けるって約束したから。あいつの言う未来を信じてやるって誓ったから。俺は行かなきゃならない。
 一時間ほど前、車の中で菖蒲と電話したとき『萩原夕貴が死ぬ』という未来を視たと、彼女は言っていた。一生のお願いだから来ないでください、と。
 でも逆に言えば、これはチャンスだと思うのだ。今回の『犯人グループ制圧および高臥菖蒲の救出作戦』を無事に成し遂げることができたならば、それはすなわち、菖蒲の視た未来が変わった、ということになる。
 俺が生きて、あいつを助け出すことができればいい。あいつの見ている前で、あいつの視た未来が変わったということを、俺の生存という事実によって、示すことができればいい。それは最高の結末だと、俺は愚考するのだ。

 救出作戦の概要は、至極単純なものだった。
 表口と裏口から同時に城へ侵入。俺たちの包囲にすら気付いていない王子は、突然の襲撃に混乱すると予想されるが、そのパニックに乗じて犯人グループの制圧に乗り出す。時を同じくして、姫の身柄を確保する。
 以上が、大まかな作戦内容。
 優先順位としては、何を置いても姫の救出が先にくる。菖蒲さえ助けてしまえば、あとは何とでもなるし、どうにでもなる。
 城の内部は明かりもつけず、ランプのみを光源としているらしく、月光に照らされた漁港よりも室内は薄暗いと思われるが、それを事前に理解していれば、あらかじめ目を闇に慣らしておくことで対処できる。

 ここで問題は、突入メンバーの編成だ。
 菖蒲が監禁されている居住スペースは、裏口から入ってすぐの位置にあると坂倉健太が証言した。それを踏まえた参波さんは、託哉が表口から、俺と参波さんが裏口から、という異色の構成を告げた。
 いや、このメンバーなら、どのような編成になっても異色なのは違いないのだが、それでも喧嘩すらしたことがないと自白する託哉を一人にさせるのは、いささか無理がありすぎるような気がする。
 参波さんの戦闘技能は、間違いなく俺よりも遥かに上だ。それは、さきほど坂倉健太を捕える際の一連の動きを見ていれば分かる。
 また、自分で言うのも自惚れであるような気がして憚られるのだが、俺は喧嘩は好きじゃないけれど、対人戦闘ならば自信がある。相手が悪魔とかなら苦戦どころじゃ済まないが、タバコや酒を嗜む不健康なアウトロー程度だったら、例えナイフを持たれたって何とか対処してみせる。
 でも託哉は、どうなんだ?
 作戦は長くても二分かからない、と参波さんは予想している。つまり速攻で奇襲をかけて、一瞬で犯人グループを無力化するだけの格闘能力が要求される。
 かくいう俺も、参波さんに言わせれば『ギリギリでつれていけるレベル』だという。むしろ俺が菖蒲と懇意という事実がなければ、参波さんも無理をして同行を許可したりはしなかっただろう。
 それでも、参波さんは迷わず言うのだ。表口は、玖凪託哉に任せますと。まるで託哉を一つの戦力として認めているかのように。分からない。一体どういうことなのか。

「託哉、おまえ……大丈夫なのか?」
「もちろんさ。オレが死ぬわけないだろ? むしろ夕貴ちゃんは、オレが犯人たちを殺さないように心配しとけよ」

 もう作戦開始十分前だ。
 そろそろ託哉が表口のほうに周り、俺と参波さんが裏口のほうに周らなければいけないため、これが託哉を説得できる最後のチャンスだった。
 相変わらず微塵も緊張していないような託哉に、俺は言う。

「……おまえは女好きで、アホで、バカで、玖凪とか変な名前してて、いつも俺のことを夕貴ちゃんって言って、挙句の果てには俺の母さんを口説こうとするぐらいどうしようもないやつだけど」
「オブラートに包まれていない事実が耳に痛いっ!」
「だけど、おまえは俺の親友なんだよ」
「…………」

 普段は人懐っこい笑顔を浮かべている託哉が、無感情に目を細めた。

「菖蒲を助けることができても、犯人グループを制圧することができても、おまえが死んじまったら意味がないんだ。だから」
「大丈夫。オレは死なねえよ」

 そう笑って、託哉は身を翻した。

「まあ、夕貴は菖蒲ちゃんを助けることだけに集中しとけばいい。オレはそれまで時間を稼ぐぐらいのことはしてやるよ」

 明るめに脱色した髪を風に遊ばせながら、託哉は漁港の闇に消えていった。
 俺は参波さんに促され、指示されていた位置に着く。
 城は防音機能に特化した建築方式だ。遮音性能はその材料の重さや厚さに比例する。事実、城の壁は容易には突き破れない。それに比べて、表口と裏口のドアはアルミ製で、壁に比べるとそれほど厚くはないし、重くもない。常人ならば突き破るのも難しい扉だが、参波さんにとっては障害にもならない。
 参波さんは最後の定期連絡を、トランシーバーを通じて行っていた。

「封鎖班、観測班、救護班の連携完了を了解。突撃班のバックアップは不要です。今回の作戦には、《玖凪一門》の助力が確認されています。よって、制圧自体は容易でしょう。むしろ救護班は、犯人グループの人間を死なせないようにしてください」

 ……なにか、見逃してはいけない違和感があったが、俺はそれを『作戦開始前の緊張』ということで片付けた。
 作戦開始スタート位置についた俺は、まだ春先なのにも関わらず、全身を伝う嫌な汗を不快に思いながらも、デジタル時計を眺めていた。
 もう俺と参波さんの間に会話はない。必要な情報や注意点はすべて叩き込まれた。だから、あとは各自で作戦開始を待ちながら、コンセントレーションに集中するだけ。
 デジタル時計が午後九時を指す。重圧が加速する。ここに菖蒲の救出、および、犯人グループの制圧という、一つの作戦が開始した。



[29805] 1-12 とある少年の願い
Name: テツヲ◆c49d9b75 ID:366fa69a
Date: 2012/03/11 12:42
 作戦開始の合図は、各々が持つデジタル時計の表示だけだった。
 犯人グループの潜伏先である通称”城”を攻略する上で、表口からの侵入を任された玖凪託哉は、自宅の敷居を跨ぐような気軽さで突入した。
 アルミ製の扉を思いきり蹴破って、気配を殺すこともなく堂々と乗り込む姿は、慎重な作戦に必要とされる態度とはかけ離れている。
 薄暗い室内に飛び込むのと同時、託哉は左右から微かな殺気を感じた。もとより防音に特化した音楽スタジオだ。風の入り込む隙間のない、空気の停滞した空間の中ならば、どんな些細な”乱れ”だって感じ取れる。
 待ち構えるようなかたちで表口に潜んでいた二人の男。彼らが振り下ろした細長い角材を、託哉は器用に身を捻って回避した。
 結果的に、男たちの攻撃は外れたが、それは明らかに託哉らの襲撃を予想した布陣だった。

「おいおい。勘付かれてんじゃん。坂倉健太って野郎は嘘をついてたのか? それとも参波のやつらがドジりやがったのか? まあ正味なところは、坂倉健太がアジトを出たまま帰ってこないことを怪訝に思い、あんたらも最悪の事態を想定していた。そんなところだろうな」

 喧嘩に明け暮れ、手には武器を持った二人のアウトローを前にして、託哉は丸腰のまま長広舌を振るう。

「それにしても無茶したよなぁ、あんたら。【高臥】に手を出すとか、社会的に抹殺されてもマジで文句言えないぜ。いまのうちに謝れば、シャコの餌になるのだけは許してもらえるかもよ?」

 まるで大学の友人に語りかけるような託哉の言葉を、男たちが悪意によって濁す。

「うるせえ! 黙って聞いてりゃ、なに舐めたクチ聞いてやがる! てめえ、サツの回しもんじゃねえだろうな!?」

 不良行為の延長線上として”誘拐”という犯罪に手を染めた彼らにも、多少の危機感はあるらしい。事実、いきなり乱入してきた託哉を見て、男たちは過剰なまでに殺気立っている。
 高臥菖蒲という人質を盾にしているのだから、高臥家が警察に連絡する可能性はあるかもしれない、とは予想していても、いまの託哉が見せたような能動的な襲撃をかけてくるなど、犯人グループは夢想だにしていなかったのだろう。
 託哉は、参波清彦から聞いていたデータと、彼らの身体的特徴を照らし合わせた。《参波一門》は託哉にとっていけ好かない連中ではあるが、その腕だけは一流だ。情報は限りなく正確。託哉を迎え撃った男たちは、富永聡史と大久保達樹の両名と見て間違いない。
 今にも噛み付いてきそうな狂犬を連想させる聡史はともかくとして、達樹のほうは日頃から薬物を常用していそうな気配がある。目の焦点や呼吸の度合いを見れば、その人間が真っ当か否か、託哉にはすぐに分かる。
 まさか警察の人間だと疑われるとは思っていなかったので、託哉は失笑した。

「おまえ眼科行ったほうがいいんじゃねえ? こんな髪を明るく脱色した警官とか、実在するなら見てみたいわ」
「黙れっ! ぶっ殺すぞコラぁぁぁぁっ!」

 獣のような咆哮を上げて、二人の男が左右から挟みこむように襲い掛かってくる。

「……さっきからよぉ」

 これまで人を傷つけることはあっても殺すことだけはできなかった男たちが、この極限の状況においてようやく持つに至った”本物の殺意”を、玖凪託哉が否定する。

「誰に意見してんだ、てめえ」

 およそ人としての感情など内包されていない、冷え切った声。
 次の瞬間、乾いた破壊音と共に、木の破片が中空に撒き散らされた。それは角材が砕かれた証拠。死神の鎌のように跳ね上がった託哉の足が、男たちの首ではなく、手に持っていた武器を破壊した。
 勢いよく撒かれた木の破片は、託哉にとって服を汚すゴミに過ぎないが、男たちにとっては視界を遮る目潰しに等しい。網膜に向かって迫りくる破片を見て、男たちは反射的に瞼を閉じた。

「ビビってんじゃねえよ。敵前で目を瞑るなんざ、余裕か馬鹿のどっちかだ」

 続いて振りぬかれた託哉の拳が、富永聡史の鼻を砕いた。脳髄に響く強烈な痛みと、滝のように流れ出る血。それは聡史から戦意を奪い、意識さえも揺らす。
 痛みに喘ぐ声がうるさい。託哉は聡史の声を封じることにした。喉に向けて貫手を放ち、みぞおちに向けて膝蹴りを打つ。呼吸を助ける役割を果たす横隔膜にもダメージを入れたので、これでしばらく満足に声も出せない。
 そうこうしているうちに、大久保達樹が、託哉の無防備な背中に拳打を繰り出した。それをサイドステップでかわした託哉は、伸びきった達樹の腕を掴み取る。
 ここで肝心なのは力点と支点が作用する部分。そこを見極めば、人間一人を転倒させるぐらい赤子の手を捻るよりも簡単だ。
 あっけなく地面に転がる達樹。その腕を関節に負担がかかるように極めつつ、託哉は上から思いきり体重を乗せた。耳障りな音を立てて、達樹の腕に通っていた骨が折れる。

「……チ」

 情けない悲鳴を上げる達樹がうっとうしかったので、彼の頭を全力で踏みつける。それがあまりにも強い力だったせいか、大口を開けていた達樹は、前歯二本を地面にぶつけてしまう。からん、と乾いた音を立てて、見た目のわりに健康そうな歯が託哉の足元に転がってきた。

「なんだこりゃ」

 十秒と経たない間に、男たちは地に伏し、赤黒い液体を垂れ流すだけのアタッチメントになった。瞳に涙を浮かべて、何とか謝罪を口にしようとする達樹の頭を踏みつけ、託哉は続ける。

「てめえら、こんな様で【高臥】を敵に回しやがったのか? 冗談も大概にしとけよ。これ以上つまんねえギャグ見せられると、手元が狂って、おまえらを殺しちまいそうだ」

 もう勝負はついているが、託哉の手は止まらない。頬についた返り血を拭いもせず、ガタガタと震える男たちに向けて、なおも執拗に攻撃を加えていく。

「ただでさえ《参波》のせいで苛立ってんのに、今年の春から《壱識(いちしき)》の小娘までが、この街に入り込んでるっていうじゃねえか。だからよ、こんな下らねえ害虫駆除に手を貸す暇なんざねえんだよ、オレは」

 その言葉どおり、もともと託哉は、この作戦に関与するつもりなど毛頭なかった。だが萩原夕貴という少年の願いを叶えるには、託哉が手を貸してやる必要があった。
 いくら高臥重国の許可が出たとはいえ、実戦訓練を積んでいない夕貴の協力を許すほど、参波清彦はお人よしじゃない。
 この脆弱な犯人グループを制圧し、人質である高臥菖蒲を救出するのは、清彦一人の力でも可能だった。ただし、それは萩原夕貴という『足手まとい』がいなかったらの話。空手を学び、卓越した格闘能力を有していたとしても、実戦を知らない夕貴は不確定要素に過ぎない。
 そんな裏の事情があったからこそ、託哉はこの作戦に参加した。
 犯人を制圧し、菖蒲を救出するのに必要な力が十だとして、清彦一人でノルマを満たしていると仮定した場合、夕貴という存在が入ると、恐らく数字は五にまで落ちる。それでは駄目だ。だから、数字を再び十にまで押し上げるには託哉が力を貸すしかなかった。

「表口は制圧した。あとは裏口だけだ。……なぁ、オレがおまえに力を貸すのはここまでだぜ。あとはてめぇで何とかしてみせろよ、夕貴」

 夕貴と清彦が裏口から侵入し、各々の戦闘を繰り広げていた頃、託哉はおもちゃで遊んでいた。




 表口から《玖凪一門》の人間が襲撃するのと時を同じくして、参波清彦は萩原夕貴を伴い、裏口から侵入を開始した。
 作戦が失敗するとは微塵も思っていない。それでも清彦が、いくつかの不安要素を見据えていたのは確かだ。
 その最たるものが、足手まといの萩原夕貴と、強すぎる戦力である玖凪託哉だ。しかし、彼らは個別だと障害にしかならないが、二人揃うと、それぞれのプラスとマイナスが中和され、いい塩梅に働いてくれる。
 つまり夕貴が入ったことによる戦力低下を託哉が補い、暴走すると予想される託哉を親友である夕貴が抑えるということだ。
 薄暗い倉庫の中を駆けながら、清彦は作戦終了までの流れを脳裏で反芻する。

 第一に、菖蒲の救出。
 第二に、犯人グループの制圧。
 第三に、玖凪託哉の暴走を阻止。

 この全ての目的を同時にフォローするためには、夕貴に菖蒲の救出を担当させるのが最も摩擦のない選択だった。清彦が菖蒲のところに向かってしまうと、夕貴を危険に晒す可能性が高くなるし、なにより託哉のほうにまで目がいかなくなる。
 坂倉健太の話によれば、表口付近に二人、裏口付近に二人、菖蒲の見張りが一人いるとのことだった。
 事実、清彦と夕貴の前に立ちはだかったのは、金髪ホスト風の男と、陽気そうな男の二人。恐らく前者が新庄一馬、後者が高橋陽介だろう、と清彦は当たりをつけた。
 現状、作戦はスムーズに進んでいる。どのような状況だろうと臨機応変に対応できるように、プランは優先度の高いものを”A”として、最悪の事態を想定した”E”まで考え、夕貴と託哉に伝えていた。しかし今のところ状況はプラン”A”のまま進んでいる。
 清彦としては『表口に三人、菖蒲の見張りに二人』や、『菖蒲の見張りに二人、裏口に三人』という異色の構成だった場合を心配していた。どんな幸運な事態だろうと、それが清彦の予想していなかったものならば、忌避はしても歓迎はできない。
 戦闘という行為は、その勝敗の九割近くが戦う前から決まっている。これが参波清彦の持論だった。
 予定していたとおり、新庄一馬と高橋陽介の二人を清彦が引き受け、夕貴は菖蒲の監禁されている居住スペースへと向かう。
 しかし、清彦たちがどうしても菖蒲を助けたいのと同様に、犯人側はどうしても菖蒲という人質を奪取させたくないというのが本音。
 夕貴が居住スペースに向かっていると判断した男たちは、清彦に見向きもせず、夕貴を排除しようとした。

「てめえ! そのツラぁ忘れてねえぞ!」

 長い金髪を整髪料によってセットし、ホストのような装いをした一馬が吼える。聞けば彼は、大衆の前で夕貴に恥をかかされたらしく、その逆恨みにも似た私怨が、今回の事件を引き起こしたそもそもの発端だという。
 菖蒲を助けようと、無我夢中で居住スペースに向かう夕貴の背に、一馬がナイフを振り下ろそうとする。それを見逃すほど、参波清彦は優しい人間ではなかった。

「ぐっ、あっ、あぁ……!?」

 男たちの足が止まる。夕貴の行動を阻害しようとしていた一馬と陽介は、混乱と苦渋が混じった声を上げると共に、まるで子供のように片足でケンケンをした。それを一瞥し、清彦は告げる。

「ふうむ、どうやら君たちに対する認識を改める必要がありそうですね。私たちの襲撃を感知してなお、童心に返る余裕をお持ちとは」

 銀縁の眼鏡を外し、スーツの前ポケットにしまう。その憮然とした様子の清彦を見て、一馬は解せないと声を荒げた。

「……て、めえ……なに、しやがった!?」

 一馬と陽介の利き足から滴り落ちる、赤い血。
 突如として機動力の要となる足にダメージを受けた彼らは、その原因を作ったであろう清彦に視線を向ける。
 少なくとも清彦は、拳銃も、ナイフも――いや、武器を所持しているようには見えない。つまり丸腰である清彦に遠距離攻撃を受けたという事実が、彼らを混乱の渦に突き落としていた。確かに清彦は、これといった武器を手に持っていなかった。表向きは。

「なにをした、と言われても困ってしまいますね。もっとご自分の目を信用なさってはいかがですか?」
「あぁ!? ふざけたこと言いやがって! マジでぶっ殺すぞ、てめえっ!」
「すみません。大声を張り上げることによって相手を威嚇したい、という君の意図は掴めるのですが、正直、耳に悪いので止めていただけますか? それと語彙力も不足しているように思います。何か不都合があればすぐ『殺す』と口にするのは、頭の悪さが露呈するので止めたほうがよろしいかと」

 飽くまで冷静に返す清彦の言葉は、しかし男たちを逆上させるだけ。

「おい陽介! こいつに地獄見せんぞ!」

 一馬が促し、陽介が足に流れる鋭い痛みに耐えながら金属バットを構えた瞬間、ようやく彼らは気付いた。
 足に、なにか小さな物体が突き刺さっている。
 一馬と陽介は、それを即座に投げナイフだと看破し、すぐさま引き抜こうとした。しかし肉を抉った刃物を取り出すのは、一般の人間が想像しているよりも遥かに大きな苦痛を伴う。
 どうしてナイフを投擲されたことにも気付かなかったのか。不可解に思いながらも、ようやくナイフを引き抜いた彼らは、血に濡れた刀身を見て、すべてを理解した。
 本来であれば銀色に輝くはずの刃が、闇のように黒く塗りつぶされている。それも刀身だけではなく、取っ手さえも真黒に塗装されていた。
 確かに、この月光も届かぬ室内と、この影がカタチを成したような投げナイフならば、男たちに気取られずに攻撃することが可能かもしれない。
 それでも男たちは、不可解だ、分からない、と顔を歪ませる。突入した瞬間から今の今まで、清彦はずっと丸腰だったはずなのに。

「まだ裏社会の入り口でイタズラをする程度なら可愛げがあったのですが、君たちも運がない。よりにもよって、菖蒲お嬢様に手を出すとは」

 もう一度、清彦の手から黒塗りのナイフが放たれた。刃渡り五センチほどのそれは殺傷性こそ低いが、獲物の動きを封じるには最適。
 一切の予備動作を排除した投擲運動は、警戒していたはずの一馬と陽介でさえ気付けなかった。さきほどナイフを引き抜いたばかりの箇所に寸分違わず、二本目のナイフが刺さる。まるで吸い込まれるが如く。

「私は”抜いていい”と許可していないはずですが」

 身悶える二人を見据えて、清彦は告げる。

「……お、まえ……どうやって――っ!?」

 声を荒げた新庄一馬は、そこで言葉を失う。
 今度こそは見逃さない、と注意していた一馬の目を潜り抜けて、清彦が再びナイフを握っていたからだ。
 男たちにしてみれば手品のように見えるだろうが、実際は何のことはない仕掛けである。ただスーツの袖口に仕込んでいた刃物を、次から次に取り出しているだけの話。
 裏社会において、全身に仕込んだ暗器を用いて戦うことで知られる《参波一門》に生を受けた清彦にしてみれば、これは呼吸するに等しい動作。
 慈悲もなく放たれた投げナイフが、男たちの利き腕に刺さった。相手の重心や、筋肉の微妙な発達の違いを見れば、普段から使っているほうの腕や足を見抜くのは容易。そして、それを真っ先に潰すのは《参波一門》の定石であり、常識だった。
 ところで清彦は、よく人から「定規を当てたように真っ直ぐな背筋」と言われるが、それはある意味、この上なく的を射た発言だった。
 清彦の姿勢がいいのは『紳士の嗜みとして』ではあるが、元はと言えば、それは礼儀作法のために身につけたものではない。
 孫の手で背中を搔くように後ろへ手を回した清彦は、そこから一つの暗器を取り出した。
 常時、背中に定規を当てるようにして隠していた『仕込み杖』。携帯するための刀。殺傷力こそ本場の日本刀に劣るが、相手に気取られることなく持ち運ぶには最適だ。
 何の装飾もない質素な白鞘から刃を引き抜く。投げナイフとは違い、仕込み杖の刃は月光を吸収するような銀色。
 清彦を丸腰だと思っていた男たちにとって、いきなり敵が長柄の武器を取り出したという事実は、戦意を消失させるに相応しいものだった。
 それでも新庄一馬と高橋陽介は、最後の意地でナイフと金属バットを構えた。【高臥】の一人娘を誘拐した彼らは、犯罪に手を染めたのだから、この場を乗り切らないと文字通り人生が終わる。だから一馬と陽介には、逃亡や謝罪といった逃げ道は残されていない。
 投げナイフの刺さった足を庇いながらも駆け寄ってくる男たち。清彦は迎え撃つのではなく、むしろ衝突するように自らも接近した。
 
 横薙ぎに一閃する刃が、一馬のナイフを叩き折り。

 返すように一閃した刃が、陽介の手から金属バットを奪い去った。

 驚愕する二人は、隙だらけを越えて動かぬ的に等しい。その場で回転した清彦は、一馬の腹に回し蹴りを叩き込み、そのまま勢いを殺さず、陽介の足を仕込み杖の刃で浅く切り裂いた。
 迸る激痛に耐え切れず、彼らは絶叫。
 声を張り上げることは、すなわち肺にあった空気を全て吐き出すということ。肺が空っぽの状態で息が吸えなくなると、気を失ったほうが遥かにマシだと思えるほどの苦痛が訪れる。
 足を押さえて蹲ろうとする陽介の腹に、清彦は拳を叩き込んだ。あまりにも的確にツボを抑えた拳は、横隔膜に強いダメージを与える。目を見開いた陽介は、口端から唾液を垂れ流しながら、その場に崩れ落ちて痙攣する。これで一時間はまともに動けないだろう。

「陽介! くっそ、てめえ!」

 さきほど蹴られた腹を押さえながらも立ち上がった一馬が、神経質そうにセットされた金髪を振り乱しながら叫ぶ。
 返す言葉は持たず、低姿勢を維持したまま清彦は疾走。
 長い金髪を乱暴に掴んだ清彦は、近場にあったコンクリートの壁に一馬の頭を打ち付ける。顔面に衝撃を受けた一馬は、鼻血を出しながら悶絶した。
 清彦は、右手にあった仕込み杖を捨てると、袖口から投げナイフを一本取り出す。時を同じくして、左手で一馬の手を掴むと、それを近くにあった木製のテーブルに載せた。
 そして、テーブルに一馬の手を縫いつけるように、清彦はナイフを振り下ろす。

「ぐっ――ああぁああぁ、あああぁぁぁぁぁっ!」
「大の男がみっともない。私は顔の肉を切り裂かれたことがありますが、声一つ上げませんでしたよ」

 そう言って、清彦はずり下がった眼鏡を上げようとした。しかし、そういえば胸のポケットにしまったままだったことを思い出し、ため息とともに眼鏡を装着。

「それと」

 仕込み杖の刀身を白鞘にしまい、それを背中に戻してから、清彦は言った。

「口の聞き方には気をつけたほうがいい。”てめえ”と言われる度に、貴様を殺そうと我慢するのが大変だった」

 反論する声は皆無。もう新庄一馬と高橋陽介の二人には、戦意も、敵意も、殺意もなかった。
 その他を寄せ付けぬ圧倒的な暴力によって、日本の裏社会に広く名を轟かせる零から玖の漢数字を冠する家系は、俗に《武門十家(ぶもんじっけ)》と呼ばれる。
 《武門十家》は、純粋な名声こそ《十二大家》に劣るものの、それぞれの家系が特異かつ特殊な格闘術を継承しており、裏社会において悪名的なネームバリューを持つ。
 よって《参波一門》を知らなかった時点で、この男たちは”ひよっこ”と言える。

「これは……まずいですね」

 閉鎖された空間に生じた暴力的な”乱れ”を感じ取るのは、そう難しいことではない。
 この音楽スタジオに改造された倉庫の中、表口のほうから、過剰なまでの”乱れ”を清彦は感じた。恐らく玖凪託哉が、犯人グループの一部を制圧してなお執拗に攻撃を加え続けているのだろう。
 菖蒲の救出に向かった夕貴は、どうやら無事のようだ。誰かと争っている気配こそするものの、状況は夕貴のほうが圧倒的に有利で、間もなく決着もつきそうだった。空手で全国二位にまで上り詰めた実力は本物らしい。
 一呼吸の間だけ思考に時間を費やした清彦は、まず託哉を止めることにした。犯人は全員生かして捕えたいというのが【高臥】および《参波一門》の総意。
 そうして歩み去る清彦は、聡明な彼にしては珍しく、新庄一馬の目に狂った光が宿っていたことに気付いていなかった。



****




 菖蒲が監禁されている居住スペースに踏み入った瞬間、俺という侵入者を排除しようと横合いから拳が飛んできた。
 回避は間に合わない。咄嗟に右腕を盾にすることにより、なんとか顔面へのダメージを防ぐことができた。顔には顎や目を始めとした人体急所が密集しているので、何を差し置いても守らなくちゃいけない。
 防御した右腕に重たい衝撃が伝わり、骨の髄まで痺れが走る。これは間違いなく武道を嗜む人間の攻撃だった。
 一方的な展開になることだけは避けたい。とりあえず抵抗の意を示すために、俺は攻撃が飛んできた方向に向かって闇雲に拳を繰り出した。
 手応えは、ない。
 でも相手が飛びのいたような気配があった。

「あの体勢から反撃するとか無茶苦茶だな、おまえ」

 呆れたような、それでいて、どこか褒め称えるような声。
 ほとんど真っ暗と言ってもいい室内に満ちた闇を、小さなランプの明かりが所在なさげに削っている。薄ぼんやりと浮かび上がる視界には、簡易ベッドや本棚、デスク、チェアーなどが見受けられた。そして――

「……夕貴、さま」

 ぽつりと漏れたのは、幽霊を見たかのような声。
 簡易ベッドの近くに――菖蒲の姿があった。
 両手を手錠によって繋がれ、身体や制服に埃を被り、美しい鳶色の長髪は乱れていたが――それでも菖蒲は、気弱そうに明かりを放つランプよりも、光っているように見えた。
 明らかに憔悴した面持ちの菖蒲は、無事だった。
 確かに清潔とは言えない様子ではあるけれど、あいつらに何かをされた痕跡はないし、ちょっとだけ眠そうにした二重瞼の瞳も、まだ力を失っていない。
 すぐさま菖蒲に駆け寄りたいというのが本音だけど、そう上手く事が運ぶはずもない。
 俺と菖蒲を隔てるようにして、一人の男が立っている。精悍な顔立ち、短く刈り込んだ髪、側頭部に入ったライン、鍛え抜かれた身体、なにかを為そうとする意思に満ちた瞳。ただ一目見ただけだが分かった。こいつが坂倉健太の言っていた、犯人グループのリーダーである荒井海斗だと。
 ちくしょう、手の届く距離に菖蒲がいるってのに……!
 歯噛みする俺とは対照的に、荒井海斗は泰然とした笑みを浮かべる。

「なるほど。おまえが一馬の言ってた萩原夕貴か。確かに女みてえな顔してやがる」
「んなもん知るか。そこを退け」
「おいおい、女しか目に入らないってか? さすが全国空手道選手権大会で名を馳せた男は違うな」
「……なんで、それを知ってる」
「さあな。でも一度でいいから、お前と闘り合ってみたかった。夢は親父に潰されちまったが、それでもお前をぶっ倒すことができりゃあ、俺もいくらか救われるよ」

 荒井海斗は構える。明らかに空手か、それに準ずる武道に通じている者の構えだった。

「勝手に救われてろ。俺は空手になんか興味ねえよ。ただガキなりに強さってのを求めて適当な武道に手を出したら、それが空手だっただけの話だ」

 小さい頃は、母さんを護るに相応しい男になろうと必死だった。子ども扱いされることが嫌だった。誰かに褒められても嬉しくなかったし、誰かに褒められるために頑張ってきたんじゃない。
 ただ、母さんを護りたい。
 そう願って、努力して、手に入れた今の強さが、俺の誇りだ。
 この力があれば、菖蒲を護れると俺は確信している。
 未来は変わる。
 俺が死ぬなんて未来は、あっさりと変わるんだ。菖蒲の見ている前で、俺は生きて、あいつを救ってやるんだ。
 第一、俺ほど男らしいやつが死ぬなんて、世界にしてみれば途方もない損失だろうし。
 ふと、菖蒲を見つめてみる。すると彼女は、今にも泣きそうな目で俺を見ていた。見守ってくれていた。それに笑顔で頷いて、俺は荒井海斗に向き直る。

「行くぞ」

 海斗が言って。

「勝手に来いよ」

 俺が返す。
 言い終わるが早いか、海斗の姿がブレたように見えた。予想していたよりも遥かに洗練された動き。これほどの腕前ならば、現役の頃はさぞかし有名だったはずだが、俺は『荒井海斗』という名前を聞いた覚えがない。
 一息の間に接近してきた海斗が、鋭い呼気を吐き出しながら、拳を繰り出してきた。獣のように荒々しく、機械のように正確無比な、理想的と言ってもいいほどの拳打。
 それを回避せず、防御せず、俺は――俺も、パンチを繰り出してやった。

「――っ!?」

 驚きは二連。
 互いの顔面に拳がクリーンヒットした衝撃で、俺たちは同時にたたらを踏んだ。
 一瞬、気が遠くなる。
 それでも俺は菖蒲を救うため、海斗は菖蒲を奪わせないため。それぞれ違った目的のために顔を上げる。

「……お前、馬鹿だろ」

 口から血の混じった唾を吐き出して、海斗が笑う。

「うるせえ。てめえこそ馬鹿だろうが」

 真似したつもりは微塵もないが、俺も口から血の混じった唾を吐き出し、笑ってやった。自分たちでもなぜ可笑しいのか分からないが、不思議と笑みがこぼれるのだ。
 いまの俺には遠回りする余裕なんてない。多少、傷ついてもいい。ただ真っ直ぐに、菖蒲の元に向かいたい。立ちふさがる障害物が壁だろうが人だろうが、あるいは拳だろうが関係ない。全部、真正面からぶっ潰してやる。
 互いに距離を保ち、タイミングを計る。

「……?」

 冷静に海斗の姿を観察していると、微かな違和感に気付いた。
 武道において重心は基本であり、それを効率よく動かすのが軸足だ。
 体重を乗せた足を”実の足”、体重を浮かせた足を”虚の足”と呼ぶ。”実の足”に十の体重を乗せた場合、”虚の足”の体重は零にする。スムーズに攻撃の動作に移るためには、この”虚実”を併せ持った状態を維持するのが前提。
 にも関わらず、海斗の重心が微妙にズレているというか……そう、アンバランスなのだ。まるで片足を庇っているような動き。かつて俺は、大きな怪我を負った人間が、リハビリ明けに練習に顔を出したとき、あんな動きをしていたことを道場で見た記憶がある。
 なんとなくだけど、分かってしまった。
 きっとこの荒井海斗という男は、選手生命に関わるような大怪我を負い、表の舞台に立てなくなったんだ。
 本来であれば手加減の一つもしたいところだが、それは荒井海斗にとって、侮辱にしかならないだろう。

 だから、全力で行かせてもらおう!

 素早く駆け寄った俺は、大きく身体を捻り、腰を限界まで使った上段回し蹴りを仕掛けた。相手の側頭部を狙いとして、海斗という男の存在さえも刈り取るつもりで、手加減なしの蹴りを放つ。
 回避は間に合わないと悟ったのか、海斗は左腕を上げて防御に徹して――瞬間、確かな手応えが、互いの身体を駆け抜けた。
 海斗は苦痛に顔を歪めながらも、俺の脚を払いのけて、攻撃に転じる。
 その動きを観察する。いまの海斗は、右足が”実の足”、左足が”虚の足”という状態。
 よって、何らかのアクションに出るためには、海斗は右足を”虚の足”、左足を”実の足”に変えるようにして重心を移動させる必要がある。
 でも一連の動きを見ていて何となく分かったが、海斗は右足に重心を乗せることに抵抗感がある。恐らく、かつて怪我をしたとき、右足を庇うように生活していた影響が無意識のうちに出ているのだろう。
 俺の思惑どおり、海斗は右足から左足に重心を移動させながら、拳打を放った。
 しかし、シフトウェイトに齟齬が生じ、維持しなければならないはずの”虚実”に微かな綻びが発生した。
 それは転じて、この確かな武道の才を持った荒井海斗という男に隙をもたらし、純粋な才能だけならば劣る俺に絶対的な好機を生んだ。
 迫りくる拳をいなし、俺自身は完璧な”虚実”を併せ持ちながら、海斗に反撃する。
 だが右足に重心を乗せることに抵抗感を持つ海斗は、効率よく”虚実”の変換ができない。いま現在、彼は左足に体重を乗せ、右足を浮かせている状態。それが攻撃の姿勢だとすると、右足に体重を戻すことが防御の姿勢なのだが、過去に負った何らかのトラウマが、海斗のシフトウェイトを阻害する。
 勝敗は、あっさりと決した。
 躊躇いもなく骨を折ることはできないが、躊躇いもなく海斗を戦闘不能に追いやった。荒い息をつきながら、大の字になって床に寝転ぶ海斗に、俺は告げる。

「……強いな、おまえ」

 海斗は精悍な顔立ちに似つかわしくない、きょとん、とした目をしたあと、満足げに笑った。それはどこか、長いマラソンを走り終えた人間の顔に似ていた。

「……ありがとうな」

 なぜか、海斗は礼を言った。まるで、こんな自分と決闘してくれたことを感謝するように。
 できるなら、この荒井海斗という男とは、本当の大舞台で、正々堂々と、互いの体調が万全のときに試合してみたかったと俺は思った。
 肺に溜まった熱い息を吐き出し、菖蒲に向き直る。全てをやり遂げたような満足感が身体を包んでいた。
 菖蒲を護ってやることができた。重国さんがくれたチャンスを生かすことができた。なにより菖蒲の視た”萩原夕貴の死”という未来を、菖蒲の見ている前で変えてやることができたんだ。
 ゆっくりと歩き出そうとした俺は、菖蒲が何かを叫んでいることに気が付いた。

「――ゆ、っ――さま――し――!」

 なぜか耳が遠くなって、よく聞こえない。
 水の中に潜ったときのように視界がおぼつかず、ぐらぐらと脳が揺れる。背中が燃えるように熱い。まるで焼けるように。灼熱が迸る、という表現がぴったりの、熱。
 足が揺らぎ、真っ直ぐ立つことができず、俺は顔から地面に倒れてしまった。鈍い痛みが頬に生じ、俺は顔を歪める。が、やはり背中の熱さのほうが気になって、他のことにまで思考が回らない。
 遠くのほうでは菖蒲が瞳からしとどに涙を流しながら、必死の形相で声を張り上げている。一体、菖蒲は何が言いたいんだろう? もっとはっきり喋ってくれたらいいのに。
 あぁ、それにしても背中が熱いなぁ。

「一馬! てめえ何してやがる!」

 怒声が聞こえた。
 荒井海斗の怒声。
 驚愕に目を見開いた海斗が、部屋の入り口に立つ誰かに向けて、菖蒲と同じように叫んでいる。俺は背中に走る熱に耐えながらも、ゆっくりと顔を上げた。

「……ひ、はは、ひゃはは、くっあはははははははははっ!」

 耳障りな笑い声。
 そこに立っていたのは、鼻血を出し、右手にナイフで貫かれたような穴を開け、全身に掠り傷を負った、金髪ホスト風の男。
 一馬と呼ばれたそいつは、なぜか手に刃物を持っている。しかも驚くことに、刀身の部分が血で真っ赤だ。一体、あれは誰の血なんだろう。一馬の鼻血が付着した、と考えるには、ちょっと無理があるよな。

「なあ海斗! オレぁやってやったぜ! そうだよなぁ!? オレたちゃ犯罪者なんだもんなぁ!? 邪魔するやつぁ片っ端からぶっ殺してやりゃいいだけの話じゃねえか!」

 高笑いしながら、一馬は嘯いた。
 まったく、殺すとか物騒なことを言うやつだ。誰がてめえなんかに殺されるもんか。菖蒲が見ている前で暴力を振るうのは気が引けるけど、ちょっと俺が黙らせてや――

「ぐっ、うっ……!?」

 立ち上がろうとした瞬間、尋常じゃない痛みが身体を駆け抜けた。それは鎖のように全身を縛りつけて、萩原夕貴という人間の自由を奪っていく。
 なんだ。
 なんだってんだ。
 困惑する俺の指元に、どこかで見たことがあるような赤い液体が流れてきた。トマトジュースのようにも見えるが、ちょっと鉄のような臭いもするので、まあ血が妥当だろう。

「夕貴様! イヤです! こんなの、イヤぁぁぁぁっ――!」

 今まで聞いたこともないような菖蒲の、絶叫。
 髪を振り乱し、目からボロボロと涙をこぼし、菖蒲は俺に駆け寄ろうとする。しかし腰が抜けたのか、上手く立つことができないようだった。
 おかしい。
 未来は変わったってのに、どうして菖蒲は泣いてんだ。
 菖蒲には涙なんて似合わない。だから俺が拭ってやる。いや、まあ確かに菖蒲の泣き顔も可愛いとは思うんだけど、あの子には太陽みたいな笑顔のほうが映えるんだ。
 すでに俺の周りには、小規模の血溜まりが広がっていた。血の脂のせいで手が滑って、なんだか気持ち悪い。
 ……ああ、そっか。
 自分でもなぜなのかは分からないけれど、唐突に悟った。背中が熱いのも。上手く立てないのも。血が流れるのも。菖蒲が泣いてるのも。海斗が怒声を上げたのも。一馬が狂った目で高笑いしてるのも。

 俺が刺された。

 そう考えれば、すべて納得がいくじゃないか。
 敵であるはずの海斗が怒っているのは、きっと一馬が刃物を使ったからだろう。俺たちは初対面だが、それでも海斗という男は何があろうとも喧嘩に拳以外の凶器を用いることはないはずだ、と俺は理解していた。
 血液が大量に抜けたからか、身体が寒い。歯の根が合わず、カチカチと音がする。それなのに背中だけが異様に熱かった。
 視界が霞む。猛烈に眠い。気を抜けば瞼が落ちそうだ。こんな睡魔、今まで味わったことがない。でもこの眠気に負けてしまうと、俺はもう二度と目覚めることができないような気がする。
 ……嘘だろ?
 俺、こんなところで死んじまうのか?
 まだ何もしてねえじゃねえか。
 これまで密かに考えてきた、母さんに親孝行する計画も、まだ何も実現してねえだろうが。
 櫻井彩の秘密を、背負っていくんじゃないのか。
 お母さんと会えない女の子の分まで、俺が母さんを護ってやるんじゃないのかよ。
 第一、ナベリウスはどうすんだ?
 あの銀髪悪魔は、あんなアホみたいな女と一緒に暮らせる男は、俺ぐらいしかいねえだろ。
 それに菖蒲は?
 ここで俺が死ねば、菖蒲はどうなる。
 菖蒲の見ている前で、最悪の未来が実現してしまえば、あの子は、きっと壊れる。
 そんなの。
 ……イヤだ!

「く――そ、っ――」

 立ち上がろうとするが、体から力が抜けていく。出血と共に、運動に必要な熱と体力が削られていく。
 なんとか菖蒲に手を伸ばすが、それが届くはずもない。
 見ていて悲惨なぐらい涙を流す菖蒲を慰めてやりたくて、お前が泣く必要なんてないんだよ、と抱きしめてやりたいけれど――その資格を神様が奪っていったのかと思うぐらい、俺の体は動かない。
 諦めるわけにはいかない。
 ここで俺が諦めちまったら、菖蒲は二度と未来を信じることができなくなる――それだけは許せない。だから俺は文字通り死ぬ気で立ち上がろうとする。
 それでも――無理だ。
 精神や根性で何とかなる領域を遥かに超えた問題。
 懸命に『菖蒲の視た未来を変えてやろう』と足掻く俺は、きっと無様という言葉を見事に体現していて、笑ってしまうぐらい格好悪いだろうが、それでも諦めることはできない。
 だってさ。
 約束したんだ。
 菖蒲を護ってやるって。
 菖蒲の言う未来を信じてやるって。
 なにより、俺自身に誓ったんだよ。
 菖蒲が視た『萩原夕貴の死』という未来を、あっさりと変えてやるって。
 だから俺は、こんなところで死ぬわけには――

「…………え」

 そのときだった。
 俺の目に――絶対に見たくなかったものが飛び込んできた。
 きっと、その光景は、これから萩原夕貴という人間の心に焼きついて、生涯消えることはないだろう。

 ――それは。

 ――何とも残酷で、悲しい光景。

 ――あれだけ俺に向かって泣き叫んでいた菖蒲が。

 ――なにかを諦めたように、顔を俯けた。

 ――もう俺は助からない、と見切りをつけたように。

 ――やっぱり私の未来は変わらないんだ、と理解したように。

 菖蒲のあんな顔だけは見たくなかった。
 絶望に泣き崩れていた菖蒲が、もはや感情を映すこともなく、壊れた人形のように俯き、呆然とする姿なんて。
 未来を信じることを諦めた姿なんて絶対に見たくなかったんだ。 

「……ざ、けんじゃ……ねえ」

 言っただろうが。
 俺の命よりも。
 おまえとの約束よりも。
 憧れてる女の子のお願いよりも。
 ずっと、ずっとおまえのほうが大切なんだって――そう、言ったじゃねえか。
 なのに、どうしてそんな顔すんだよ。
 そんな簡単に諦めんなよ、馬鹿野郎!

「……お、れ……は、おま、……え、を……!」

 護ってやりたいんだ。
 お前の言う未来を信じてやりたいんだ。
 そうだ。
 俺は死ぬのが怖いわけでも、命が惜しいわけでもない。
 ただ、菖蒲の視た未来を変えたいだけ。
 そのために『俺が死ぬ』という未来を変えなければならない。
 そうじゃないと菖蒲は、駄目になっちまう。
 菖蒲のためならば、俺は神様だろうが悪魔だろうが何にでもなるし、運命だろうが未来だろうが変えてみせるし、奇跡だって起こしてみせる。
 未来ってのは凄いんだ。
 未来ってのは素晴らしくて、信じるに値する最高のもんなんだよ。
 だから、未来を視てしまうがゆえに、未来を恐れるようになった菖蒲を放っておくことはできないんだ。
 信じてほしいんだ。
 未来を、信じてほしいんだ。
 菖蒲は誰よりも未来を信じるべきだ。そう父親からも望まれた証を、あの子は持ってる。
 そんな菖蒲には不幸ではなく、幸福こそが似合うと。
 菖蒲が信じることを止めないかぎり、幸福はいつまでもあの子と共にあるのだと。
 そう。
 俺は思うんだよ。

「――っ、ぅっ、ぁ――!」

 キィン、と耳鳴りがする。
 あぁ、なんだか頭が痛い。
 心臓が疼く。
 背中だけじゃなくて全身が燃えるように熱い。
 耳鳴りが酷すぎて、海斗の怒声も、一馬の高笑いも耳に入らない。
 マジでなんだってんだ、この耳鳴りは。
 もしかして、これが死んじまう前兆だってのか。
 ……そんなの、許せるもんか。
 なあ神様。
 奇跡でも何でもいいからよ。
 俺に力をくれよ。
 生きたいわけじゃねんだ。
 怖いわけでもねえんだ。
 ただ俺は、菖蒲の悲しむ顔を見たくないだけなんだよ。

「――っ、あ――!」

 鼓膜を侵すような耳鳴り。
 心臓が熱い。
 何がどうなってるのか分からない。
 それでも、これだけは言える。
 俺は菖蒲の悲しむ姿なんて絶対に見たくないんだ。
 だからさ、菖蒲。
 お前の視た未来は、俺がこの手で変えてみせるよ。


****


 音響機器が共鳴したときに発生するような、大きな不快感を伴う高音が鳴り響く。
 音楽スタジオに改造された倉庫にいる人間は当然として、漁港の各所で待機していた《参波一門》の者たちですら、その異常を感じ取った。
 鼓膜を侵し、脳そのものを揺らすような耳鳴り。
 それは明らかに生理的な現象によってもたらされたものではなく――なにか人為的な、外部からの影響が人体に浸透した結果、発生したものだと誰もが気付いていた。
 意識を揺らすほど強烈な耳鳴りは、もはや”耳鳴り”というよりは、一種の災害に違いない。
 音楽スタジオにいた玖凪託哉は、予想外の衝撃に顔を歪め、その場に膝をついた。暴走する託哉を止め、菖蒲の元に向かおうとしていた参波清彦は、長年愛用していた眼鏡のレンズにヒビが入ったのを見た。絶望していた高臥菖蒲は、脳裏に響く甲高い音に意識を奪われつつあった。
 キィン、と響く、果てしない高音。

 それは、

 とある少年の願いがカタチとなった、

 どこまでも純粋な、

 ハウリング。

 漁港の闇に紛れるようにして事態を見守っていたソロモンの序列を持つ大悪魔は、心底複雑な気持ちで重い腰を上げた。

「……まずいわね」

 潮風に揺れる長い銀髪を指で押さえ、一度だけ夜空に浮かぶ満月を見上げる。
 漁港を包み込んだ膨大な波は、俗に『Devilment Microwave』と呼ばれる。日本語に直訳するとDマイクロ波。『悪魔の所業』を意味するデビルメントを冠したマイクロ波は、人体の大小の筋肉に軽微の痙攣をもたらし、耳鳴りを起こす。
 少量のDマイクロ波は人体に何の影響も及ぼさない。しかし悪魔が《ハウリング》という異能を行使する際には、それこそ膨大なDマイクロ波が必要になる。つまり、この耳鳴りは、誰かが《ハウリング》を発露させたということなのだが。
 絶対零度を司る彼女は、もともと静観に努めるつもりだったので、この耳鳴りには関与していない。
 消去法に準ずると、自然、誰が《ハウリング》を行使したのかはすぐに分かる。

「夕貴……」

 祈るように呟く。
 確かに、かの少年が悪魔として覚醒する可能性は十分にあった。しかし、それは何かの弾みで傾くほど軽い天秤ではない。十九年もの間、人間側に傾いていた秤なのだ。恐らく瀕死の傷を負ったとしても、萩原夕貴の内にある秤は微動だにしなかっただろう。
 死という絶対的な壁に直面しても動かないはずの天秤が、動いた。
 いまの自分では不可能な何かを為すために、夕貴は人間ではないものに目覚めてまで、その願いを叶えようとしている。
 それ自体は、彼女にとっても悪いことではない。むしろ喜ばしいといってもいいだろう。悪魔として覚醒することにメリットはあっても、デメリットはないのだから。
 これから先、恐らくあの少年が歩む道には幾多の苦難が待ち受けている。ゆえに己の身を護るだけの力は必要になってくるはずだ。
 事実、ナベリウスは夕貴に人間として平穏に暮らしてほしいと願う反面、《悪魔》として覚醒してほしいと祈ってもいた。
 だから櫻井彩のときは限界まで傍観に徹した。それは今回も同様だが――さすがに参波清彦と玖凪託哉の両名がついていながら、夕貴が瀕死の怪我を負うのは予想外だった。こればかりは完全にナベリウスのミスと言っていい。だが幸か不幸か、事態はナベリウスが望んでいた方向に進みつつある。
 とは言え、不用意に《ハウリング》を行使するのは自殺行為だ。《法王庁》にはDマイクロ波を感知する術があるし、彼女の同胞であるソロモンの悪魔たちは総じてDマイクロ波を知覚する能力を持つ。つまりDマイクロ波を大量に放出することは、いらぬ外敵をおびき寄せる原因にもなる。
 一刻も早く少年を止める必要があった。迷いはない。肩にかかった銀髪を手で払ったあと、彼女は疾走した。悪魔と称するに相応しい身体能力で、宵闇に包まれた漁港を駆け抜ける。《参波一門》の敷いた包囲網を掻い潜り、目的地である倉庫の上空数十メートルにまで跳躍すると、天に向かって手をかざす。
 全方位に指向性のないDマイクロ波を垂れ流すだけの少年とは違い、彼女のコントロールは完璧だった。指向性を持ったDマイクロ波は、中空に一本の巨大な氷槍を生み出す。
 ソロモン72柱が一柱にして、悪魔の序列第二十四位に数えられる彼女は、今度こそ主人を護るため、舞台に上るのだった。


****


 不思議な感覚だった。
 痛みも、熱も、恐怖も、不安も、震えも――消えていく。
 全身を鎖で縛り付けられた挙句、重い鉛でも乗せられてるんじゃないか、と疑うほど微動だにしなかった体は、確かな活力を取り戻し、立ち上がることさえ可能にしていた。
 背中にあった刺し傷が治癒していく。

「なんだぁ!? こ、こりゃあ何なんだよオイっ!?」

 狂った光を目に宿し、これでもかと高笑いをしていた新庄一馬は、激しい耳鳴りに恐怖し、死の淵から蘇った俺に困惑しているようだった。

「てめえ、なんで立てんだよっ! オレがこの手でぶっ刺してやったはずだろうが!?」

 じりじりと後退(あとずさ)りながら、一馬が悪魔でも見るような目で俺を見る。
 その瞳に浮かぶのは、畏怖の色。理解の範疇を超えた何かと出会ってしまったとき、人はこんな顔をすると思う。
 狼狽する一馬が煩わしかったので、ちょっと口を閉ざしてくれないかな、と念じてみた。

「ぎ、あっ、ぎゃあああぁぁああぁぁあぁぁぁっ!?」

 聞くに堪えない悲鳴が上がる。
 どうしたんだろう、と思って見てみれば、一馬が目、鼻、口、耳から血を流して悶絶していた。毛細血管でも切れたのか、顔から血の涙や鼻水を垂れ流している。
 それと同時に、俺の足元に広がっていた液体であるはずの血溜まりが、数え切れないほどの弾丸という固体となって、一馬の体を穿っていく。まるで血液が意思を持ったかのように。
 近場にあったナイフや金属片すらも見えない糸に操られるように動き出し、一馬の全身を斬りつけ、傷つけていった。
 俺は内から溢れる破壊衝動を抑えるように、血に塗れた左手で顔を覆った。指の隙間から覗く景色は、それこそ阿鼻叫喚。
 血液が凶器となり、金属が武器となった光景は、まさしく悪魔の描いた地獄絵図に他ならなかった。

 血液を変化させて、金属に作用する。まるでありとあらゆる鉄分を支配するように。

 あぁ、それにしても耳鳴りがひどい。
 何も考える気が起きない。
 そんな俺でも、菖蒲の無事だけはしっかりと確認していた。彼女は耳鳴りに耐え切れず気を失ったようだ。大丈夫、命に別状はない。血液の流れを見れば一目瞭然だ。いまの俺ならば、菖蒲の体調を菖蒲本人よりも正確に把握することが出来る。
 だから。
 菖蒲を護りきるためにも、悪意を持つ人間は排除しなければならない。

「――たっ、が、ぎい、す、けっ、ぐっ――た、た……す、け……てく、ぎいぃぃぃ――!」

 血まみれになった体を丸めて、一馬が朱色の涙を流しながら懇願する。
 その姿に、思わず失笑した。
 ……こいつ、俺を殺そうとしやがったくせによく命乞いができるよな。
 果たして、俺はどうするべきなのか。
 こいつを助ければいいのか。
 こいつを殺せばいいのか。
 ……分からない。
 あまりにも耳鳴りがひどすぎて正常に思考が働かない。
 もういいや。
 考えるのは面倒くさい。
 とにかく菖蒲を護ればいい。
 菖蒲を傷つけるヤツは排除すればいいんだ。
 そうするのが手っ取り早いよな、きっと。
 ぼんやりとした頭で決定を下した俺は、一馬に向けて歩き出そうとして――足が動かないことに気がついた。

「――っ?」

 強烈な冷気を感じる。
 よく見れば、俺の足が凍っていた。それも膝のあたりまで満遍なく、俺の動きを封じるように。
 ――直後、倉庫そのものを揺らすような衝撃が走る。まるで神が鉄槌を下すように、天から何かが落下してきた。土埃が舞い、視界を覆いつくす。常温だったはずの倉庫に流れ込む、針のように冷たい冷気。
 天井を突き破るようにして現れたのは、軽自動車ほどはありそうな巨大な氷槍。無骨にして威厳に満ちた氷の刃。
 それを見て、俺はなぜか胸が温かくなるのを感じた。

「止めなさい、夕貴。それ以上は貴方のためにならないわ」

 子供を叱責する母親のような声。
 氷槍から遅れること数秒、破壊された天井を通して、見慣れた女性が降りてきた。着地の際、ふわりと銀髪が舞い踊り、月光を反射する。
 彼女は――ナベリウスは、呆然とする俺を認めると歩み寄ってきた。

「……大丈夫よ。もうここに敵はいないから」

 そう言い、俺の頭を自分の胸元に抱くようにして、ナベリウスは諭す。

「夕貴は頑張ったわ。だから、もういいのよ」

 優しく髪を撫でられる。
 トクン、トクン、とナベリウスの胸から聞こえる音が、俺の心を落ち着けていく。人肌の体温は、どうしてこうも心地いいのか。ナベリウスに抱きしめられると、あれだけ煩わしかった耳鳴りが、ゆっくりと収まっていった。

「……ぁ、ぐっ!」
「安心しなさい。何があっても、わたしが夕貴を護ってあげるから。そうでしょう? ねえ、ご主人様?」
「ナ、ベ……リウス」
「喋らないで。いまは気持ちを落ち着けることに専念しなさい。まずは深呼吸を」

 言われたとおり、俺は大きく息を吸って、吐き出す。

「……うん、もう大丈夫そうね」

 俺から身体を離して、ナベリウスは笑った。
 その笑顔を見た途端、まるで憑き物が落ちたように体が軽くなった。これまでのことが悪い夢だったかのよう。自分でも驚くほど視界や意識がクリアになっていく。きっと近視の人が初めてコンタクトをつけたとき、こんな感じなんだと思う。

「……その、ナベリウス。俺は」
「はいストップ」

 人差し指を俺の唇に当てて、彼女は言う。

「もっと大切なことが今の夕貴にはあるでしょう?」
「……ありがとう」

 悪いな、とは言わなかった。
 きっとナベリウスが求めているのは謝罪じゃなくて、感謝だと思ったから。
 ナベリウスの気持ちを無駄にはできない。俺は彼女に背を向けると、部屋の端で倒れている菖蒲のもとに向かった。両手を手錠で繋がれているものの、目立った外傷はない。あえて言うならば、手首の皮を擦りむいているぐらいか。
 冷たいコンクリートに伏した菖蒲の身体を抱きかかえる。
 腕に伝わってくるのは、確かな温もり。
 こんな無力でちっぽけな俺でも、なんとか護ることのできた女の子の重みだった。

「……菖蒲」

 優しく揺さぶりながら、そう声をかける。それはアヤメという花にちなんだ名前。父親から与えられたという、未来を信じる者に相応しい名前。

「……ん、ぁ――」

 悩ましげな吐息が漏れる。綺麗に線の入った二重瞼が震えたかと思うと、春を迎えた花のように開いていく。何度かぱちくりと瞬きをする菖蒲は、まだ意識がはっきりしていないようで、ぼぉーとした目で俺を見ている。

「……よう」

 上手い言葉が見つからず、当たり触りのない発言になった。それがきっかけだったのかは分からないけれど、生気のなかった菖蒲の瞳に力が戻っていく。大きく見開かれた瞳には涙が滲み、溢れ、透明色のしずくが頬を伝っていった。

「……夕貴、様……ですよね?」
「ああ」
「本当に……夕貴様、ですよね?」
「ああ」

 とめどなく流れる涙。身体を起こした菖蒲が、俺の胸元に飛び込んでくる。

「これは、夢じゃないですよね? 菖蒲は、信じても、いいのですよね……?」
「当たり前だろ。疑ってどうすんだよ」

 こんなときに。
 こんなときに――気の利いた台詞をさらっと言えたら、きっとモテるんだろうけどなぁ。
 今まで女の子と付き合った経験がないから、この場に相応しい言葉が思いつかない。
 とにかく菖蒲に泣き止んでほしいと思い、そのために色々と思考を巡らせてみたが、どうも適当な言葉が出てこない。
 だから、まあ。

「菖蒲」

 名を呼ぶと、彼女は顔を上げた。見つめあう。視線が交錯する。
 ナベリウスが空けた天井の穴から、柔らかな月明かりが菖蒲を祝福するように降り注ぐ。埃や汗で汚れているはずなのに、彼女は美しかった。
 ただし、瞳から伝う涙だけは頂けない。いやまあ誤解のないようにもう一度だけ言っておくと、泣いている菖蒲も可愛いんだけど、やっぱりこの子には笑顔のほうが似合うと思うんだよ。
 菖蒲の涙を止める一言。
 それは。

「……どうだ菖蒲。おまえの視たつまんねえ未来なんか、俺があっさり変えちまったよ」

 よし、口が滑った。わりと男前な言い回しのつもりだったのが、実際に口に出すと、なんかスベってるような気がしてきたというか、ただの勘違い野郎が言いそうな台詞に思えて、微妙に後悔してきた
 俺は優しげな笑顔を浮かべつつ、内心では『どうしよかな、言い直したほうがいいかな』と密かに悩んでいた。

「……いいです」

 菖蒲は涙に濡れた瞳を和らげて、俺の胸に顔を埋めたあと、小さな声で言った。

「……わたしが夢で見たあの未来さえ外れなければ、いいんです」

 それは高臥菖蒲という少女が視た、果てしなく遠い未来の、夢。
 この男らしさだけが取り柄の俺みたいなやつにできることは少ないだろうけど、それでも、こんな俺でも、せめて女の子の涙ぐらいは止めてあげたいと思うのだ。
 俺は一人、菖蒲の小さな体を抱きしめてやりながら、この子が泣き止むその時まで、胸を貸してあげようと心に誓うのだった。 




[29805] 1-13 在りし日の想い
Name: テツヲ◆c49d9b75 ID:366fa69a
Date: 2012/08/05 17:05
 
 高臥菖蒲の救出及び犯人グループの制圧を目的とした作戦は、まあ紆余曲折はあったものの、無事に終わりを告げることになった。
 誘拐を企てた六人の男たちは、それぞれ入院が必要になるほどの怪我を負っていたが、命に別状はないという。
 もしかすると、あいつらは社会的に抹殺されるんじゃ……? 俺は微妙に心配していたのだが、どうやら高臥重国という人の器は空よりも大きく、海よりも深いらしい。

「貴重な労働力を無駄にはできん。菖蒲に危害を加えたことは許せんが、かといって奴らを抹殺しても利は生まれん。あの男たちには【高臥】監視の下、社会に貢献できるような立派な人間になるよう矯正してやる。当然、罪を償わせ、しかるべき罰を与えたあとでな」

 要するに、真っ当な人間に仕立て上げてやるから覚悟してね、ということだ。
 重国さんが大見得を切ったのだから、あいつらが社会復帰する頃には悪事の”あ”の文字も出ないぐらい人格が変わってしまっているかもしれないが――
 それでも将来、愛する人を見つけて、子供をもうけて、孫の顔でも見たとき。いまの自分があることに感謝する日が、きっと来ると思うのだ。

 そういえば、と何かのついでのように振り返るのも可哀想な話なのだけれど、俺の親友こと玖凪託哉くんは、驚くべきことに無傷だった。
 喧嘩したことがない、とか言ってやがったくせに、託哉は犯人グループのうち二人も生け捕りにした。
 本人曰く「いやー夕貴ちゃんにも見せたかったなー。オレの華麗なる戦闘振りを。まあぶっちゃけ、不意をついた挙句、ラッキーパンチが当たっただけなんだけどね。てへっ」とのこと。誰が夕貴ちゃんだ。
 とにかく託哉が無事でよかった。あんな軽薄な野郎でも俺の友人には変わりない。でも武器を持った男二人を無力化するほどのラッキーパンチが炸裂するとか、託哉はもう明日あたりに死ぬんじゃないだろうか。運を使い果たした的な意味で。
 さて。
 これで事件は、一端の終結を迎える。
 男らしいことだけが取り得の俺みたいな大学生には荷が重過ぎる事件だったけれど、過ぎ去ってみれば一瞬だった。自分が何をしたのかもあまり憶えていない。
 でも、それでいいと思う。菖蒲が無事だったのなら、それでいいと思うんだ。




 事件の二日後。
 萩原邸のリビングには俺と、菖蒲と、そして重国さんの姿があった。
 すでに夜の八時を回っているので、窓の外は暗く、心地のいい静けさが住宅街には満ちている。いわゆる一家団欒の時間というやつで、この時間に出歩くような人は、まあ少数派だろう。
 数日前までは大規模な人数を動員していた重国さんも、事件が解決してしまえば多少は自由の身となるらしく、今日は車の運転手が一人と、黒服のボディーガードが二人の、計三人しか連れていなかった。参波さんは諸々の事後処理に追われていて、この場にはいない。
 俺と話がしたい。そう、重国さんは言った。
 ナベリウスに席を外してほしい、と改まって告げたところを見ると、どうやら大切な話のようだ。その証拠に、重国さんはスーツを、菖蒲は学校の制服を着ている。わざわざ正装しているぐらいだから、少なくとも世間話ではないだろう。
 リビングのダイニングテーブルに腰掛ける俺の真正面に重国さんが座り、そのとなりに菖蒲が座っていた。

「まずは礼を言おう」

 口火を切ったのは重国さんだった。

「参波から話は聞いた。おまえは俺の娘を救出するのに一役買ってくれたそうだな。やはり菖蒲の見る目は正しかったというわけだ」

 これは褒められている……のか? 
 重国さんと話をするだけでも緊張するのに、感謝と賞賛の言葉まで重ねられると、ひたすら恐縮してしまう。
 俺は小さく頭を下げて、なるべく気丈に言った。

「ありがとうございます。僕が役に立てたのかは分かりませんが、菖蒲を助けることができたのは自分でも誇れる結果だと思っています」

 顔を上げると、菖蒲と目が合った。
 誘拐されたことにより憔悴していた彼女も、病院で点滴を受け、一晩ぐっすり眠ると、なんとか元気を取り戻した。
 事件自体は、およそ午後六時に発生し、午後九時半には決着という早期解決だった。つまり事件の解決が早かった分だけ、菖蒲にかかる負担も軽減されたわけだ。まだ目の下に隈があったり、笑みに力がなかったりはするけれど、日常生活に支障をきたさない程度の活力をいまの菖蒲は持っている。
 俺と重国さんが大切な話をしている、と分かっているからか、菖蒲は余計な口を挟もうとしない。それでも目が合うたびに、温かな笑顔を送ってくれる。……なぜか誘拐事件が発生する前よりも、菖蒲が俺を見る目には熱が篭っているような気がしなくもないが、まあそれは差し迫った案件でもないので棚上げしておくことにする。

「さて、萩原夕貴。次に、お前を使えない男と侮蔑したことを詫びよう」
「……お父様? 夕貴様に、そのような暴言を口になさったのですか?」

 重国さんの服を引っ張って、ちょっと不機嫌そうに菖蒲が言う。

「ああ、確かに言った。しかし」
「もういいです。お父様の言い訳など聞きたくありません」

 ぷいっ、とそっぽを向く菖蒲。珍しく困ったような顔というか、まるで飼い主に捨てられた子犬のような顔をした重国さんは、俺の視線に気付くと、こほんと咳払いした。

「……話が逸れたな。そろそろ本題に戻ろう」

 相変わらず不機嫌そうに顔を背けた菖蒲の様子をちらちらと伺いながら、重国さんは――


「お前が菖蒲を助けてくれたことには礼を言おう。しかし今後、菖蒲は【高臥】の本邸で生活させる。お前たちの逢瀬も認めん。異論はあるか」


 ――承諾できようはずもない事柄を、決定事項のように告げるのだった。
 俺が反論しようとするよりも早く、バンっ、と鈍い音がリビングに木霊した。それは菖蒲がテーブルを叩いて、椅子から立ち上がった音。

「お父様! そんな話、わたしは聞いていません!」

 顔を真っ赤にして憤る菖蒲とは対照的に、重国さんは鷹揚と構えている。

「瑞穂に教わらなかったか。淑女たる者、みだりに声を荒げるものではないと。母の忠告は聞くものだ」
「ここでお母様を引き合いに出すなんて卑怯です! わたしが聞きたいのは、そんなことじゃなくて……!」
「菖蒲。これは決定事項だ。覆す気はない」
「そんな……! わたしは!」
「俺が決めたことだ。覆らん」
「……お父様は、なにをお考えになっているのですか」

 力なく着席した菖蒲は、俯いたまま搾り出すように問いかける。

「決まっている。娘を幸せにするためだ。お前に幸福を与えるためならば、俺は手段を選ばん。それだけ言えば分かるだろう」

 唇を噛み締め、菖蒲は沈黙。
 恐らく、反論するだけ無駄だと悟ったのだろう。いまの重国さんは、もはや父親ではなく、高臥家当主の顔をしている。こうなった重国さんは、例え愛する娘の意見でも――いや、愛する娘の意見だからこそ、耳を傾けない。
 だから彼の真意を聞くのは、俺の役目だった。

「菖蒲を幸せにするため、と言いましたよね。僕には菖蒲がここに滞在したいのか、高臥家の本邸に帰りたいのかは分かりませんが」
「……わたしは」

 遮るようにして、菖蒲はつぶやく。力のない声で。いまにも消えてしまいそうな、儚い声で。

「夕貴様と、一緒にいたいです」

 涙で潤んだ瞳。それは明らかに重国さんの決定を悲しんでいる姿だった。しかし、菖蒲の悲哀に暮れる顔を見ても、重国さんの言葉は変わらない。

「萩原夕貴。確かにお前は娘を救ってくれた。それは認めるし、感謝もしよう。だが、お前が俺の娘を危機に晒した、という事実は変わらん」
「……それは」
「これまでの経歴を見れば、お前が優秀な男だということは分かる。しかし、俺が欲するのは英雄ではなく、菖蒲を任せるに相応しい男だ」

 つまり、俺は菖蒲を任せるに相応しい男じゃないと、重国さんは言いたいのだ。

「……わたしは、夕貴様以外の殿方と結ばれるぐらいなら、生涯独り身を貫きます」
「滅多なことを言うものではない。男が女を幸せにするのが義務ならば、父には娘の幸福を願う権利がある。お前に相応しい男は、俺が見つけよう。だから頑なになるな」
「……お父様は間違っています。第一、高臥直系の女児が見る予知夢は絶対だと仰ったのは、お父様とお母様ではありませんか。わたしは夕貴様と添い遂げる未来を視たのです。ですから……」
「確かに、【高臥】の予知夢は外れた試しがない。しかし何事にも例外は存在する。お前を不幸にする未来など、俺が絶対に変えてみせよう」

 重国さんの意思を変えることができるのは、重国さんが認めた男だけ。そして、俺は認められなかった。

「帰るぞ、菖蒲。まずは落ち着いた環境で、身体を癒すことに専念しろ。精神的にもダメージは残っているはずだ。この場にいても、お前の心労は募るばかりだろう」

 椅子から立ち上がった重国さんは、菖蒲の手を引いて、半ば無理やり連行しようとする。菖蒲は髪を振り乱して抵抗するが、重国さんは握力を緩めない。

「嫌です! お父様、離してください! わたしは夕貴様のお側にいたいのです!」
「一時の感情に流されるな。俺はお前のためを思って言っているんだ」
「わたしのためを思うのでしたら、今すぐこの手を離してください! わたしはは、夕貴様と添い遂げる未来しか歩みたくありません!」

 断固として父の決定に逆らう菖蒲を見て、重国さんは苛立たしげに舌を打ち、

「いい加減にしろ。もっと柔軟な思考を持て。いいか、菖蒲。お前が視たという、この男と添い遂げる未来など――」
 

 ――”絶対に信じるな”――


 俺を失望させる一言を、口にしたのだった。
 その言葉を聞いた瞬間、俺は勢いよく椅子から立ち上がっていた。父親の決定であるのなら、それは赤の他人である俺が否定していいものではないと――そんな賢明かつ臆病な考えに至っていた俺は、もう黙っていることはできそうにない。

「おい、その手を放せよ」

 目上の人間に、菖蒲の父親に、高臥家の当主に、俺は言った。重国さんは菖蒲の手を掴んだまま、ゆっくりと振り返る。その眼差しは鋭く、明らかに不愉快そうだった。

「今、なんと言った」

 恐ろしいまでの威圧感。それでも俺は堂々と胸を張る。絶対に悲しませたくない女の子がすぐそばにいるから。

「聞こえなかったのか。その手を放せって言ったんだよ」
「貴様。誰に口を利いているのか、分かっているんだろうな」
「当たり前だろ。俺はあんたに話しかけてんだよ、重国さん」
「いい度胸だ。一応聞いておくが、それは俺が誰であるのか知った上での言葉なのだろうな?」
「知らないわけねえだろ。知らなかったら、こんな口は利けねえよ」
「よく言った。この高臥家当主、高臥重国に」
「違うだろうがっ! 俺は高臥家の当主様なんかと話してねえよ!」

 重国さんの名乗りを聞いて、俺は心底失望した。視界が赤く染まる。憤怒が湧き上がってくる。この抑え切れない怒りを発散するために、この馬鹿な男の目を覚ますために、俺は腹の底から叫んだ。

「俺が話してるのは、”菖蒲の父親”としてのあんただろうが!」
「…………」

 息を呑む気配。重国さんのとなりでは、菖蒲が瞳に涙を浮かべて俺を見ていた。

「さっきから黙って聞いてりゃ独りよがりなことばっかり言いやがって! あんたみたいな男が、どうして娘を幸せにできんだよ! なにより――!」

 なにより。
 俺が泣きそうなぐらい悲しかったのは。

「自分の娘に”菖蒲”と名付けたあんたが……どの口で未来を信じるなって言えんだよっ!」

 そうだ。
 重国さんは誰よりも未来を信じてるはずなんだ。誰よりも菖蒲の未来を案じているはずなんだ。高臥家の歴史なんて知らないし、『未来予知』という異能がどこまで正確なのかも分からないけれど。
 それでも、重国さんは娘を愛している。その何よりの証拠が、”菖蒲”という名に他ならない。

「あんたの言うとおり、俺には何の力もねえよ! 自分で言うのも馬鹿みたいだが、俺みたいな男は菖蒲に相応しくないだろうさ! ああ、認めてやる! 俺は無力で、情けなくて、恥知らずな男だ! それに比べて、あんたは憧れちまうぐらい優秀で格好いい大人だよ! だから――」

 そんなあんたが。人の上に立つべき人間が。菖蒲をここまで育ててきた人が。自分の娘に”菖蒲”という名を授けたあんたが……!

「俺の今後の一生を賭けて、お願い申し上げます! 俺はどうなってもいいんです! だから、どうか――」

 みっともなく。恥も外聞もなく。俺はその場に土下座して、フローリングの床に額を擦りつけながら、懇願した。

「どうか……菖蒲が信じる未来を、奪わないでやってください……!」

 せっかく『未来は変わらない』という妄念を突き崩すことができたんだ。前を向いた娘を否定するようなことだけは、しないであげてほしい。彼女が俺を肯定しようが否定しようが構わない。ただ彼女が信じた未来を歩ませてあげてほしい。

「……そんな……止めてください、夕貴様……!」

 駆け寄ってきた菖蒲が、俺の肩を掴んで体を起こそうと促してくる。でも、それに逆らうように、俺は土下座を続けた。重国さんが許してくれるまでは絶対に頭を上げないと心に決めていたから。

「夕貴様、お願いですから……菖蒲のために、そんなことをしないでください!」

 すすり泣く声。
 菖蒲が思わず泣いてしまうほど、いまの俺はみっともないってことなんだろうな。でも悪いな、菖蒲。おまえのお願いは聞けないよ。誰にだって譲れないものがあるように、萩原夕貴という男にとっても譲れないものがある。だから俺は頭を下げ続けるよ。
 果たして、俺が土下座を敢行してから、どのぐらいの時間が経ったのか。

「つまらん」

 この嫌な膠着を破ったのは、他の誰でもない重国さんの声だった。

「……見る目がない」

 自嘲気味に呟いた重国さんは、わずかに苦笑すると、なにも言わず踵を返した。俺が慌てて顔を上げると、そこにはもう重国さんの姿はなく、代わりに、きっちりと閉めていたはずの廊下に通ずる扉が、所在なさげに揺れていた。
 しばらくして、萩原邸の外から車の排気音が聞こえてくる。遠ざかっていくロードノイズを聞いて、俺はほとんど直感的に、重国さんが帰ってしまったんだと理解した。

「……どうなってんだ?」
「さあ……どうなっているのでしょうか?」

 俺と菖蒲は顔を見合わせて、氷解しない疑問を突きあう。
 もう俺との逢瀬は認めない。そう断言していた重国さんが、菖蒲を残して帰ってしまったという事実。これが意味するところは、きっと一つだけだろう。もしも俺に自惚れが許されるのならば、自分に都合よく物事を湾曲して捉えていいのならば、やっぱり答えは一つしかない。

「……あー、その、おかえり?」
「あっ、はい……えっと、ただいま?」

 それは何とも締まらない、共同生活再開の合図だった。


****


 夜の静けさに包まれた街並みが足早に流れていく。夜闇のなかを悠々と走行する車内は光の届かない深海のように静謐で、高臥重国はずっと昔に置き忘れた記憶と感情が心の奥からゆっくりと浮上してくるのを感じていた。
 少年の言葉がまだ耳に残っている。あれは奇麗事だ。世間の荒波に揉まれたこともない若者だからこそ平然と口にできる青臭い理想だ。事実、重国の頭は、理論ではなく感情で訴えた少年を否定していた。あんな子供に自慢の娘を任せられるわけがない。それは高臥家の当主として、そして一人の娘の父として、決して揺るがぬ矜持だった。

 しかし、なぜだろうか。あの少年にいつかの自分を重ねてしまったのは。

 窓のそとに目をやる。スモークフィルムの張られたガラスに映る街並みは、古いアルバムのなかの一枚のように色褪せて見えて、それが重国の古い記憶を呼び覚ます。想起した風景はセピア色にかすんでおり、あらためて時の流れがもたらす記憶の風化に驚かされた。

 だが重国はすべて覚えている。忘れられるわけがない。自分の大切な娘が生まれたときのことを忘れる父親などいるはずがない。

 当時、彼には心痛の種があった。高臥家の入り婿として由緒ある大家の末席に加わり、かの一族が紡いだ歴史と不可思議な異能のことを妻から聞かされた。曰く、未来を垣間見る。その神の所業にも等しい力は、彼と妻のあいだに産まれてくる娘にも備わるであろうことは想像に難くなかった。

 未来とは、個人が扱うには重すぎる究極の情報だ。それに娘が惑わされる可能性を、彼は夢想せずにはいられなかった。
 
 それはどこか、おとぎばなしを眺める感覚に似ていた。喧騒は遠く、自分がどこにいるかも定かではない。病院の片隅、祈るように組み合わせたてのひらには汗が滲んでいた。
 白いリノリウムに囲まれた世界は現実感がなく、あと数瞬で自分の子供が産まれるという事実を夢見心地にしていた。知識はあったし、責任も持ち合わせているつもりだった。それでも、自分が一人の父となる事実だけは、愛する女性が苦しんでいる最中も実感がないままだった。

 そんな愚かな男の認識は、ほんの一瞬で変えられた。

 踏み出す足は重く、心臓の鼓動がはっきりと聞こえた。寝台に身を預けた妻はひどく憔悴していたが、出産に無事耐え抜いたという自負が女性としての魅力を高め、生来の美貌をより際立たせていた。
 幼すぎる赤子のかんばせは、ずっと想像していたものよりも儚くて、小さかった。誰かが護ってやらなければ今にも散ってしまいそうな、頼りなく揺れる命の灯火だった。

 いま考えても、なぜかは分からない。赤子をじっと見つめているうちに、彼の目からは訳もなく涙が溢れた。ありがとう、と言葉が漏れた。

 だからこそ彼は、生まれてきた娘を抱くよりも早く、母親の腕のなかでむずがる我が子に一つの名を授けた。歩むべき道を迷わぬように。己の信じた未来を違えぬように。こんな自分のもとに産まれてきてくれた娘が、生涯の伴侶を見つけるまでの間、その名に護られて強く生きていけるように。彼の父としての最初の仕事は、娘の未来を祈ることだった。
 妻に勧められて、彼は菖蒲と名付けられた赤子を胸に抱いた。ほんとうに、小さなぬくもりだった。それでも懸命に生きていた。いままで持ち上げてきたどんなものよりも重く、温かかった。おとぎばなしが現実になった瞬間だった。

 あのときに抱いた想いとは、なんだったのか。

 父親として娘を護ることか。それは果たして義務なのか、権利なのか。あるいは傲慢なのか。娘の幸福を願うあまり、彼は忘れてはいけない大切なものを忘れてしまっているのではないか。
 高臥宗家の直系女児として生まれた娘は、確かに異能の力を受け継いでいた。だれよりも未来に近く、それゆえに惑わされやすい立場にいた。
 父親として、心配しなかったと言えば嘘になる。ただ、娘の未来を疑うことだけはしなかった。名とは体を表すものである。であれば、娘に幸福が訪れるのは必定だった。

 あのときに抱いた想いとは、なんだったのか。

 愚かなり高臥重国、と彼は自分を罵倒した。いつから忘れていた。おまえは娘の将来を案じるあまり、娘の幸福を考えていなかった。彼が選択した未来よりも、きっと娘が選んだ未来のほうが正しいはずなのに。未来とは他人が与えるものではなく、おのれで選ぶものなのに。

「……萩原夕貴、か」

 正直に言わせてもらえば、まだまだ認められない。女性に見紛う顔立ちに、しっかりと鍛えてはいるようだが大柄とは言えない身体は、娘を任せるにはいささか頼りない。学業成績は優秀でも、頭の回転は速くても、女のことになると頑固に早代わりするのも頂けない。まさか土下座までするとは思わなかった。

 それでも、その青臭さは、かつての自分とよく似ている。

 なにより少年は、父親としての責務に駆られた重国に在りし日の想いを取り戻させてくれた。

「見る目がないのは俺か、菖蒲か。……難儀なものだな。もし俺に未来が視えれば、こんなふうに頭を悩ませないで済むのに」

 その自嘲気味な吐露は運転手の耳に入ることなく、静かな走行音に紛れて消えた。窓に映る彼の顔には、いつかの病室で娘を初めて抱き上げたときのような笑顔が浮かんでいた。


****


 俺はやや遅めの風呂から上がったあと、キンキンに冷えた缶のコーラを手に、自室のベッドに腰掛けていた。やっぱり風呂上がりには炭酸飲料が合うと思うのだ。異論は認めない。
 手持ち無沙汰となったので、テレビをつけて適当にチャンネルを回してみる。液晶の中に見慣れた顔が映った。これはぜひ視聴せねばなるまいと思った俺は、音量を二割増しぐらいに上げて、リモコンをベッドに放り投げた。
 それは大御所のバラエティ番組。キャリアのある司会を中心に、ひな壇に座っている芸人やら女優やら俳優やらアイドルが面白可笑しくトークするというもの。何人かのレギュラー人はいるが、基本的には毎回ゲストが変わる仕組みだ。

「やっぱ可愛いなぁ……」

 うんうん、と再認識しつつ、ぐびりとコーラを呷る。テレビに映っていたのは、『清楚・オブ・清楚』の異名を勝手に俺がつけた女優『高臥菖蒲』さんだった。菖蒲は白を基調とした衣装を着て、行儀良く椅子に座りながら、司会者の話を聞いている。
 そのとき、芸人の一人が「菖蒲ちゃんだって年頃の女の子なんだから、彼氏の一人や二人ぐらいいるんじゃないの~?」とかアホなことを言い出しやがった。そこそこ好きな芸人だったが、俺はいまこいつのことが嫌いになった。異論は認めない。
 もちろん菖蒲は否定するが、スタジオは『菖蒲のような美人に彼氏がいないわけがない』というムードなので、追求の手は止まない。

「……けっ、菖蒲ちゃんに彼氏がいるわけねえだろうが。いたら俺がショックで三日は寝込むわ」
「そうですね。まったくもってそのとおりです」

 耳元で声がした。いつかにも体験したような気がする。恐る恐る振り返ってみると、そこには淡いピンク色のパジャマを着た菖蒲が立っていた。

「なっ! なっ、なっ!」
「なすび?」
「びっ、びっ、ビーカー!」
「カエル?」
「るっ、るっ、ルビー……って、なんでしりとりが始まってんだ!?」
「奇遇ですね。菖蒲も疑問に思っておりました」
「そのわりには冷静じゃねえか! ……いや違う、いまは無駄話してる場合じゃない。俺が本当に聞きたいのは、なんでここに菖蒲がいるのかって話だ! だって、ほら、そこにっ!」

 液晶を指差す。風呂上がりなのだろう、薄っすらと湿った鳶色の髪を手櫛で梳きながら、菖蒲は言う。

「あぁ、それは前に収録していたものですね。当時は忙しかったので正確な日取りは思い出せませんが、数週間か、あるいは数ヶ月前に録ったものではないかと」
「へえ、そうなんだ……」

 テレビにいる菖蒲と、俺のとなりにいる菖蒲を交互に見る。もちろん、どちらを見ても俺の視界には『高臥菖蒲』しか飛び込んでこないのだが、だからこそ混乱するというか、とても不思議な気分になるのだった。菖蒲が女優だということは理解していたが、こう、テレビに映っている彼女と、現実に俺のとなりにいる彼女を見比べると、より現実味が増すというか。
 今日は部屋の鍵を閉めていなかったので、菖蒲は普通に入ってきたようだった。しかし、無断で部屋に入ったことを咎めておいたほうが、この子のためになるかもしれない。

「あのな菖蒲。君も分かっていると思うけど、念のために言っておくぞ。人様の部屋にノックもなしに入るのは駄目なんだ。行儀の悪いことなんだ。ナベリウスの部屋とかならともかく、ここは男の部屋だ。しかも夜、女の子がお風呂上がりの姿で男の部屋にやってくるとか、色々と勘違いされても文句は言えないぞ」
「……勘違いなさっても構いませんのに」

 可愛らしく唇を尖らす菖蒲。おまえは小鳥か。いや、落ち着くんだ萩原夕貴。心の中でツッコミを入れてどうする。とにかく心を静めよう。じゃないと俺は勘違いをしてしまう。間違った勘違い野郎になってしまう。それだけは避けたい。
 あまりに意味深な菖蒲の発言を聞いてしまった俺は、昂ぶる本能を鎮めるために何度も深呼吸する。

「……んしょ」

 男の胸にハート型の矢が刺さること間違いなしの愛らしい掛け声と共に、菖蒲が俺のとなりに腰掛けてきた。
 ふわりと柑橘系の香りが鼻腔をくすぐる。まだ幾分か髪が湿っているので、シャンプーの香料も強めに残っているのかもしれない。
 菖蒲は俺が愛用しているボディーソープを密かに使っているらしいが、なぜか俺よりも、菖蒲の身体のほうが甘い匂いがする。ちくしょう裏切りやがったなボディーソープの野郎。今度からちょっと多めに使っておまえの消費を早くしてやるぜ。ふん、後悔しても遅いからな。アホな考えが無尽に駆け回る。

「……?」

 突然、ぱたぱた、と音がしたので、横目でとなりを見てみた。

「ぶっ!」

 思わず口に含んだコーラを吐き出しそうになる。ていうか、ちょっと鼻から出た。
 恐らく風呂上がりで身体が火照っているからだと思われるが、菖蒲は服の胸元をぱたぱたと仰いで、僅かばかりの風を欲していた。パジャマのサイズがすこし小さいのか、第一ボタンは外されていて、豊満な谷間がばっちり見えている。しかも肌が汗ばんでいるせいで、ありえないぐらい色っぽい。
 臨、兵、闘、者、皆、陣、列、在、前。
 よし、これでもう俺は大丈夫だ。悪しき感情は封印してやった。

「え」

 だが試練は絶賛続いているようで、次の瞬間、俺は思わず大口を開けて固まってしまった。
 なんというか事実を口にするのも憚られるのだけれども、それでも現実を見ろと言われて、俺に身に降りかかった出来事を端的かつ率直に説明するのであれば、なぜか風呂上がりで火照った体を持て余しているはずの菖蒲が俺にしなだれかかってきたというか、肩と肩がくっついちゃってるというか、まあ、とりあえずそんなところである。
 上はタンクトップ、下はジャージ、そんなラフという言葉を極めたような服装の俺は、剥き出しの肩や二の腕に、菖蒲の柔らかい身体の感触を感じた。
 やばい。そろそろ本格的に勘違いしてしまいそうだ。必死に封じている男の部分が狼さんとなって顕現しそうだ。

「……あの、夕貴様?」
「な、なんだっ? 断っておくが、俺は勘違いなんてしてないぞっ?」
「勘違い、ですか? よく意味が分かりませんが……ただ夕貴様と添い遂げる者として、菖蒲は常に貴方様のお側で、貴方様を見守りたく思います」
「貞淑だな。まあ菖蒲らしいけど」
「未来の妻としては当然かと。愛する殿方を支えるのは女の喜びなのです。夕貴様のお子も早く授かりたいですし」
「臨、兵、闘、者、皆、陣、列、在、前」
「えっと、どうして急に九字をお切りに?」
「気にしないでくれ。俺の中に潜む、邪悪な欲望を吹き飛ばすためだ。臨、兵、闘、者、皆、陣――」
「……我慢なさらなくても構いませんのに」
「あー耳掃除しよ。なんか今日は耳の調子が悪いなー。むしろ頭の調子がおかしいのかもなー。明日あたり病院でも行こうかなー」

 もう限界だった。あと数分でもこの場にいれば、俺は菖蒲を押し倒してしまうだろう。だから醜態を晒す前に立ち去るのが吉だ。自分でも馬鹿だとは思うが、菖蒲の前では格好をつけたい俺がいる。
 とりあえず部屋から出て、水風呂にでも入ろう。修行が足りないのだ。きっとそうなのだ。決意し、立ち上がった俺は、しかし強い力で腕を引っ張られ、ベッドに引き戻された。
 からん、と中身のないコーラの空き缶が床に落ちる。

「――ぁ」

 その吐息にも似た声は、どちらのものだったか。俺たちは見つめあった体勢のまま、固まっていた。交わる視線の位置関係が、常時とは違う。普段は正面から交差するはずの視線は、いまは上と下から交わっている。
 ベッドに寝転んだ菖蒲と、その上に覆いかぶさるような体勢の俺。
 不可抗力か、あるいは偶然という名の介入者があったとは言え、俺が菖蒲を押し倒していることに変わりはなかった。
 倒れた衝撃で、菖蒲のパジャマは乱れてしまっている。はだけた胸元から見えるかたちのいい鎖骨が、やけに艶かしく見えた。腹部のほうもまくれ上がっており、小さなへそが顔を覗かせていた。
 なにより顔と顔の距離が近い。互いの吐息が肌で感じ取れるレベル。風呂のせいか、あるいは男に押し倒されたからか、菖蒲の体はぽかぽかと温かくなっていて、女の子特有の甘い匂いが強くなった。

「あ、その、ごめん」

 言葉とは裏腹に、体は動かない。それは純粋に、もっとこの体勢で菖蒲を味わっていたい、という俺の下種な感情がもたらした行動だった。

「……わたしは」

 抵抗どころか、身じろぎ一つしなかった菖蒲が動く。ぷるぷると果実のように瑞々しい唇から目が離せない。ちろちろと覗く紅い舌が、まるで俺を誘っているみたいだと思った。

「夕貴様を、お慕いしております」

 まるで願い事を口にするように、菖蒲は想いを吐露する。

「菖蒲はおかしいのです。夕貴様を想うだけで、菖蒲の身体は熱に浮かされたように熱くなります。夕貴様に触れられると、菖蒲の心は浮き足立ちますのに、それと同じぐらい胸が苦しくなるのです」

 彼女は物憂げに瞳を伏せる。

「どうか、菖蒲に慈悲をください。こんなはしたない女に夕貴様が失望なさるのも無理からぬことですが、それでも」

 そこから先を、菖蒲は口にしなかった。
 ただ。
 本当に、ただ、としか言いようのない自然さで。

「……ん、ぁ」

 俺たちは、キスをした。
 どちらかと言えば人見知りで奥手の俺が、ここまで大胆な行動に出ることができたのは、ひとえに雰囲気の力が大きいと思う。甘くて、切なくて、胸が痛くなるような雰囲気。
 柔らかい身体を組み敷きながら、俺は菖蒲の唇を愛撫する。柔らかな唇を互いの唾液で濡らすのは、何とも心を昂ぶらせる行為だった。
 ソフトなキスに満足できなくなった俺は、おっかなびっくりと舌を伸ばし、菖蒲の唇を割った。菖蒲は未知の感覚に一瞬だけ身体をびくつかせたが、すぐに自分の舌を伸ばし、俺のそれと交わらせた。

「……菖蒲」

 少なく見積もっても、数分間はキスしていたと思う。気付いた頃には、バラエティ番組は終わってしまっていた。

「……いいのか?」

 鼓動がうるさい。自分でも何を言ったのか分からないほどの興奮と緊張。それでも。

「はい」

 菖蒲は潤んだ瞳で、小さく頷いた。頼りない光源が映し出す影が、ふたたび一つになった。




[29805] エピローグ:信じる者の幸福
Name: テツヲ◆c49d9b75 ID:366fa69a
Date: 2012/03/09 01:42
 どうやら俺は悪魔になってしまったらしい。
 ナベリウス曰く、《悪魔》の定義は『Dマイクロ波と呼ばれる特殊な波長域の電波を体内で生成する生物』とのことらしいが、その定義に俺は当てはまるようになった。
 菖蒲の誘拐事件をきっかけにして、俺の体内では《悪魔》の波動が生成されるようになった。そのせいで色々と人間離れした芸当ができるようになったのだが、普段はDマイクロ波を極力抑えるようにしているため、日常生活では人間のままだ。
 つまり悪魔になったというよりは、人間が《悪魔》の力を手に入れた、というほうが近いかもしれない。
 だが誕生したときから正真正銘の《悪魔》であったナベリウスとは違い、俺は後天的に《悪魔》の力を手に入れたクチなので、力のコントロールが上手くない。
 例えるなら、ナベリウスが制球力の優れたプロ野球選手だとするなら、俺はボールを投げるどころか、赤ん坊がばぶばぶ言いながら硬球で戯れているような感じだった。
 率直に言うと、いまの俺には優秀な指導者による訓練が必要だった。

「ほらまた。夕貴は頭で考えようとしすぎよ。もっと身体とか、こう……心で感じなさい」

 相変わらずニュアンスの伝わりづらいアドバイスを披露してくれる銀髪悪魔は、そのステータスの項目に”同居人”だけでなく”師匠”も追加されていた。
 要するに、俺はナベリウスに戦い方を教わっているのだった。
 萩原邸には近所でも評判になるほど大きな庭がある。その庭の大きく開いたスペースで、俺とナベリウスは様々な特訓をしているのだった。
 ちなみに菖蒲は、庭とリビングを繋ぐウッドデッキ(縁側みたいなもの)に女の子座りをして、ずっと俺を応援してくれている。いまの菖蒲は、今時な外出着ではなく、丈の長いロングスカートが特徴的なお嬢様然とした部屋着を身につけていた。
 ちなみに特訓とは言っても、「頭じゃなくて身体で覚えるのよっ!」というナベリウスの主張により、わりと本格的な格闘戦までメニューに取り入れられている。
 ただ格闘戦とは言っても、俺が一方的にやられているのが正直なところだった。
 もう何度、投げ飛ばされたか分からない。確か十回を超えたあたりで数えるのを止めた。でもさっき休憩したとき、菖蒲が俺にタオルを手渡しながら「十九回も投げられていましたが、大丈夫ですか?」と教えてくれた。へこんだ。
 そしていま、とうとう記念すべき二十回目を達成した俺は、尻もちをついたまま、目の前に立つナベリウスを見上げていた。すでに汗だくの俺とは違い、彼女は汗ばんでもいない。

「ほら、立てる? 男の子なんだからしゃんとなさい」

 豪奢な銀髪を耳にかけながら、ナベリウスが手を差し伸べてきた。

「……立てるに決まってんだろ。男の中の男である俺を捕まえてなに言ってんだ」

 思いのほか小さな手を握り締めると、思いのほか強い力で引っ張られた。
 基本的に、庭は芝生で覆われているので転倒した際の肉体的なダメージは少ないのだが、菖蒲の前で格好悪いところを見せてしまったという事実が精神的にキツイ。
 特訓を始めたばかりの頃は、俺が転ぶと「夕貴様っ、お怪我はありませんか!?」と駆け寄ってきた菖蒲も、いまとなっては『戦地に赴く夫を健気に見守る妻』みたいな顔で応援してくれている。
 ……でも菖蒲のやつ、俺がナベリウスの手を握って立ち上がるたびに、なぜかむっとした顔をするんだよな。そのわりには俺たちが離れた瞬間、ほっと胸を撫で下ろして、うんうんと頷いているし……。

「菖蒲に見蕩れてる場合じゃないわよ、夕貴ちゃん」

 誰が夕貴ちゃんだ――そう反論しようと振り向くと、ナベリウスが挑発的な笑みを浮かべて、構えを取っていた。

「わたしが教えた通りにやってみなさい。ていうか、こういうのは体で覚えるものだから、現在進行形で教えてるんだけどね」
「教えられてるのは受け身の取り方だけだけどな、いまのところ……」

 俺は空手だけじゃなくて、合気道や柔道も多少は詳しいのだが、裏社会で行われる命のやり取りは、当然そういう”スポーツ”として進化した武道とは一線を画する。
 己の肉体にDマイクロ波を作用させることにより、身体能力の向上や五感の鋭敏化といった効果が望める。なかでも脳の情報処理速度が活発化するのは驚きだ。こうなると、網膜から取り込んだ映像を精密に解析することができる。噛み砕いて言うと、視界がスローモーションに見えるということだ。
 戦闘用に思考を切り替えたナベリウスは、もはや貫禄さえ感じられる。
 寒気がするほど隙がない。どころか、ナベリウスはただ構えているだけなのに、攻め込もうとしている俺のほうがプレッシャーを感じていた。
 躊躇していても始まらない。隙がないのなら、隙を作り出せばいいだけの話だ。
 とは言っても、俺にナベリウスの心理を読み取れるはずがなかった。実戦経験に天と地ほどの差があるんだし。
 つまり、これは純粋な格闘戦ではなく、どちらかといえば一種のクイズのようなものだった。ナベリウスが『ここを攻めてみなさい』というポイントをわざと作り、それを俺が見つけ出すのだ。
 ちなみに今まで出題されたクイズは全部で二十問。それは俺が投げ飛ばされた回数と同じ。
 要するに、まだ一度も正解していないというか、ナベリウスにやられっぱなしというか、まあそんなところである。
 俺にも《ハウリング》と呼ばれる悪魔固有の異能があるのだけれど、まだ能力の全容が分かっていないため、迂闊に使用するのは自殺行為だ。
 ナベリウス指導の下、色々と試した結果、どうやら俺の力は血液や金属を操るっぽい感じの《ハウリング》らしいんだけど、まだ完全には把握し切れていない。
 誰かと似た《ハウリング》はあっても、誰かとまったく同じ《ハウリング》は存在しないので、俺はこれから時間をかけて調べていかなきゃいけないという。
 とにかく。
 この銀髪悪魔をぎゃふんと言わせるには、純粋な格闘戦で勝つか、上手く心理の死角をつくしか、方法はない。
 そうと決まれば話は早い。
 菖蒲の見ている前で散々恥をかかされた分、いまこそ復讐してやろうじゃないか。

「はいハズレー」
「へっ?」

 それは光のように一瞬で、風のように迅速。
 無駄な思考が過ぎたせいか、どうやら俺は隙を作ってしまっていたようだった。
 ナベリウスは、流れるような自然さでふところに潜り込んでくると、俺の胸板を強く押し、脚をひっかけるようにした。

「――うおっ!?」

 子供の喧嘩でも見られるような方法で転ばされた俺は、間抜けな声を上げながら、足元の芝生に吸い込まれていく。
 背中から落ちる――そう判断した俺は、頭を護るために首を丸め、地面と接触する瞬間に右腕で地面を強く叩くことによって、衝撃を緩和した。

「……うん、受身の取り方だけは合格ね」

 肩にかかった銀髪を払って、ナベリウスが微笑んだ。

「うーん。夕貴って、筋は悪くないんだけどね。むしろ妙なところでセンスを感じるし、鍛えれば強くなると思うんだけど……」
「だけど、なんだ?」
「女の子の前で格好をつけたがるのは減点ね。このフェミニストがっ」
「ぐはっ!」

 な、なぜか心にダメージが……!

「それにしても夕貴って、意味の分からないところでお父様そっくりよね。たまに血筋というものを呪いたくなるんだけど」
「んなこと言われても、俺は父さんのことなんて一ミリも知らないから分からないなぁ」

 父さんか……会ってみたかったな。
 この際だから、ナベリウスに俺の父親――萩原駿貴(はぎわらとしき)について聞いてみることにした。辛い過去を思い出したくないのか、母さんは父さんについてほとんど話してくれなかったから、名前ぐらいしか知らないのだ。
 いいわよ、と気軽に了承するナベリウス。

「ソロモンの序列第一位に数えられた《バアル》は、人間社会では萩原駿貴と名乗って活動してたわ。まあバアルを一言で言い表すなら、自信家というか、キザな男というか、とにかくそんな感じだったかなぁ。しかも意味不明なカリスマ性があってね。具体的に言うと、『一緒に来るか? 俺の見る世界は楽しいぜ』みたいな背筋が寒くなる感じの台詞を口にしても、バアルならやけに似合っていて、逆に格好いいぐらいだった」
「……なんだか、俺が抱いていた父さんのイメージとずいぶん違うな。もっと優しいパパって感じだったんだけど」
「それで間違ってないんじゃない? ちょっと不器用だったけど、バアルは優しかったからね。人間ラブだったし、女の子を大切にするような悪魔だった。当時、バアルには二人の悪魔がつき従っていて、そのうちの一人がわたしなのよ。バアルの従者というだけで、この世で一番幸せなのは自分なんじゃないかって思うぐらい魅力に溢れたかな、夕貴のお父様は」
「……そう、なんだ」

 不思議だ。
 なぜか父さんを褒められると、俺のことのように嬉しい。
 口元を綻ばせる俺を見て、ナベリウスは母性的な包容力のある笑みを浮かべた。母さんとはまた違うけど、こいつも俺の母親というか、姉というか、とにかく大事な家族だったりするのだ。本人には絶対に言わないけど。
 だって恥ずかしいし。
 




 目覚めは、ひたすらに気持ちよかった。

「お気付きになられましたか?」

 頭上から菖蒲の声が降ってくる。

「……ここは」

 なにやらアングルがおかしい。どうして菖蒲の顔と一緒に青空まで見えてるんだろう。
 後頭部には柔らかい感触。爽やかな柑橘系の香りと、俺と菖蒲が愛用しているボディーソープの香りと、心が休まるような菖蒲の匂い。
 自分が膝枕されていると気付くのに、そう時間はかからなかった。
 菖蒲が言うには、俺はナベリウスと特訓している最中、運悪く頭を打ってしまい一時的に昏倒したらしい。
 彼女は俺の頭を優しく撫でながら、目元を和らげている。見ているこっちが嬉しくなるぐらい、幸せそうな顔をしていた。

「……えっと、足、痛くないか?」
「いいえ、ちっとも」

 聖母のような慈愛に満ちた笑顔で即答されてしまった。
 かあ、と顔が赤くなるのが分かる。

「夕貴様? お顔が赤いようですけれど、大丈夫ですか?」
「大丈夫! だからあまり顔を近づけないでくれ!」

 これ以上、心臓の鼓動が早くなったらまずい。身体を重ねたとしても、やっぱり不意打ちはよくないと思うのだ。
 ただ、本当は今すぐにでも体を起こすことは出来たのだけど、菖蒲の太ももがびっくりするぐらい気持ちよかったので、このまま膝枕を続けてもらうことにした。

「……そういや、ナベリウスのやつは?」
「ナベリウス様は、キッチンのほうで昼食をお作りになっています。お呼びしましょうか?」
「いや、いいよ」

 もうすこし二人っきりでいたいからさ――なんてキザな台詞が思い浮かんだが、もちろん口には出さなかった。
 他愛もない話をして、ささやかな幸せを噛み締めていた俺は、話題が途切れたのを見計らって、もう一度だけ例のことを聞いてみようと思った。

「……なあ菖蒲」
「はい、何でしょうか」
「……本当にいいのか? 俺、人間じゃないんだぞ」

 めちゃくちゃ勇気を出した上での質問だったのだが、しかし菖蒲はぽわぽわとした顔つきを崩さなかった。

「そうですか。でも夕貴様は、夕貴様なのですよね?」
「まあ確かにそれはそうだけど……」
「貴方様は、わたしの夕貴様なのですよね?」
「いや、まあ俺ごときが菖蒲の夕貴様なのかは分からないけど……」
「貴方様はっ! 菖蒲のっ! 夕貴様なのですっ!」

 なぜだか分からないけど、いきなり怒られてしまった。しかも子供みたいに。怖いっていうか、逆に可愛いのだが。

「いいですか? 菖蒲がお慕いするのは、人間でも悪魔さんでもなく、いまこうして菖蒲と一緒にお喋りをしている夕貴様なのです! それに菖蒲は、好意を寄せてもいない殿方に膝をお貸しするほど、安っぽい女ではありません!」
「そ、そうなんだ」
「ほらまた、そんな覇気のないことでどうしますか!」
「……ごめん、俺って謝ってばっかりだな」

 きっといまの俺は、かなり情けない男に見えることだろう。
 俺が意気消沈すると、菖蒲も申し訳なさそうに表情を曇らせた。

「……も、申し訳ありません。つい言葉が過ぎました。淑女としてあるまじき言動の数々、平にご容赦を」
「いや、そこまで固い謝罪をしなくてもいいだろ。俺だって自虐が過ぎたみたいだし」

 二人して反省する。
 とにかく、菖蒲は俺が悪魔の血を引いているという事実を受け入れてくれた。いや、むしろ受け入れたとか以前に、そんなの関係ありません、って感じの反応だ。
 菖蒲本人も『未来予知』という異能を有し、【高臥】という家系の血を引いているのだから、一般的な人間よりも、俺みたいな存在への理解が深いのかもしれない。
 早く母さんに菖蒲を紹介したい。ただ純粋に、菖蒲という女の子を母さんにも知ってほしい。
 でもなぁ、母さんって、はっきり言ってちょっとバカだからなぁ。わりとテンション高めだし。まあそこが放っておけないんだけど。

「そういや、菖蒲のお母さんってどういう人なんだ?」

 知らずのうちに、そんな言葉が口をついていた。

「はい、お母様ですか?」

 菖蒲の顔が誇らしげな色を帯びた。

「娘である菖蒲が言うのも何ですが、お母様は立派な方で、菖蒲が憧れて止まない淑女でもあります。ただ、少々気が強いと言いますか、お父様を振り回すような一面も確かにあるのですけれど、間違ったことは口にせず、いつもお父様を影で支えるような、そんな方なのです」

 わたしの理想ですね、と菖蒲は最後に言った。

「へえ、なんか格好いい人だな。一度会ってみたいよ」
「大丈夫ですよ。夕貴様とお母様はいずれ会うことが決まっています。ただしワインにだけは絶対に気をつけてくださいね。絶対に」

 例の予知夢か、あるいは通常の未来予知によってかは分からないが、菖蒲は俺の知らない未来を知っているようである。
 そう、未来。
 誰よりも未来を信じるべき菖蒲は、紆余曲折を経て、以前よりも遥かにしゃんとした顔で前を向けるようになった。
 重国さんの願いが込められた、”菖蒲”という名前。
 それは未来を愛し、未来に愛されるために存在するような、名前。
 過ぎ去った過去を『反省』するもの、いまある現在を『精一杯に生きる』ものだとすれば、いずれ訪れる未来は『信じるべき』もののはず。
 菖蒲は、未来を視てしまうがゆえに未来を恐れ、信じることを止めた――それは何という皮肉だろうか。
 この子が信じる未来には、間違いなく幸福しかないというのに。

「そういえば夕貴様。前々から一つ疑問に思っていたのですが」
「ん? なんだ?」
「わたしやお父様とお話しているときに夕貴様が仰っていたことなのですが――”菖蒲”という名前には、何か意味があるのでしょうか?」
「あぁ、まあな」
「……ええと、アヤメの花のように健気な、とか、そういったニュアンスだと解釈しても?」
「まあそれでも間違っちゃいないけど、本当は違うぞ」
「と、仰いますと?」
「……そうだなぁ」
 
 やっぱり菖蒲は知らないのか、自分の名前が持つ意味を。

「あれ、見てみろよ」

 俺が指差した先にあるのは――花壇の片隅で健気に揺れる、薄紫に色づいた美しい花。

「あれは……アヤメ、ですよね」
「そうだ。おまえと同じ名前をした花だ」
「……あの、それが何か?」
「やっぱり知らないか」

 じゃあ――
 俺が教えてあげてもいいですよね、重国さん。
 貴方が願った想いを。
 愛する娘に向けた祈りを。
 この未来を信じるべき女の子に――いまこそ伝えるべきですよね。

「アヤメってのは、主に山野の草地に生える多年草だ。葉は直立し、高さは平均して五十センチほどで――」

 萩原邸の庭に、俺の声が流れていく。
 それはどこまでも穏やかで、ささやかで、幸福な、時間。
 一人の少女が夢見た、尊き未来。
 この子が未来に愛されないわけがない。
 この子が信じた未来が不幸なわけがないんだ。
 菖蒲という名に込められた父の願いは、きっと無駄にはならない。
 名は体を表す、という言葉どおり。
 高臥菖蒲という少女は、誰よりも未来を信じるに相応しい者。
 この子が信じることを止めない限り――幸福はいつでもいつまでも”菖蒲”と共にある。
 それは花言葉。
 アヤメという花に隠された、花言葉。

 ――”信じる者の幸福”――

 それが花壇の端で健気に揺れ、この高臥菖蒲という少女と同じ名前をした美しい花の、花言葉だった。




[壱の章【信じる者の幸福】 完]




[29805] 弐の章【御影之石】 2-1 鏡花水月
Name: テツヲ◆c49d9b75 ID:366fa69a
Date: 2012/07/11 23:54
 弐の章 【御影之石】




    
 鳳鳴会(ほうめいかい)。
 近年、着実と頭角を表してきた暴力団。
 順調に害悪をばら撒き続けているわりには、”指定暴力団”として扱われていない。曰く、鳳鳴会は警察内部に強いコネクションを持っており、検察の目を上手く誤魔化しているからだという。
 五百を優に超える構成員の中には、レスラーや力士崩れを始めとした、いわゆる力自慢が散見される。そうした高い格闘能力を有する人間を多数抱えていることから、鳳鳴会は武闘派として知られていた。
 だがかの一派には『仁義』が絶望的なまでに欠如しており、その実態は世間一般で知られている暴力団よりも純粋で明快な悪であった。
 鳳鳴会の”事務所”があるのは繁華街の外れ、そして街の北に位置する閑静とした高級住宅街のほうに”本拠地”がある。
 一見して非の打ちどころのない武家屋敷。敷地は刑務所のように高い塀で囲まれ、屋根には高価な瓦が敷き詰めてあり、正面玄関には立派な門構えが来訪者を威嚇するように建っている。
 明らかに常軌を逸した金持ちかヤクザが住んでいそうな邸宅だが、その認識が間違っていないあたり、世も末なのかもしれない。まあ正義の味方よりも悪党のほうが儲かる時勢、というのは疑いようがないだろう。
 少なくとも、この鳳鳴会の本拠地である日本家屋に攻め込むような馬鹿は、自殺志願者ぐらいしかいないはずだった。

 ほんの、数十分前までは。

 武家屋敷をぐるりと取り囲む塀の上であぐらをかき、内部の様子を伺っていた玖凪託哉は、思わず頭を抱えたくなる気持ちでいっぱいだった。

「……なんだこりゃ」

 外観から想像できるとおり、敷地内には見事な日本庭園が広がっているのだが、その美しい和の景色を見ても、託哉の心は晴れなかった。
 ツンと鼻を刺激する臭いと、鮮烈な朱色。

 そこに広がっているのは、惨状だった。

 庭園の各所には冷たくなった人間の遺体が散見され、今もなお赤黒い液体を垂れ流している。空気は鉄のような不快な臭いを孕んでおり、常人ならば吐き気を催してもおかしくはない。近場の住人も、この武家屋敷が暴力団の本拠地であることを知っているため、もし叫び声が聞こえたとしても、誰も駆けつけてこないし警察にも連絡しない。
 現在の時刻は、およそ午後十一時を回っている。ねっとりとした濃厚な闇が、痛々しい血の色とやけに合っていた。
 端的に事実だけを見れば『鳳鳴会は何者かの襲撃に遭った』ということになるわけだが、そう簡単に結論付けることが出来ないのも確かだった。大体、武闘派で知られる暴力団に表立って喧嘩を売るなど狂人としか思えない。
 塀の上であぐらをかいていた託哉は、死の充満した日本庭園に降り立った。
 名のある庭師が頻繁に手入れをしているのか、庭園は血に濡れてもなお美しい。こん、こん、と定期的に木霊するししおどしの音が、託哉に風情というものを強く感じさせる。

「……これは」

 それに気付いたのは、派手なスーツを死に装束とした遺体を間近で見たときだった。
 恐らく心臓を抉り取られたのだろう、左胸のあたりに真っ赤な花を咲かせて、強面の男が絶命している。筋骨隆々とした体も、いまとなっては腐るのを待つだけの肉塊でしかなかった。
 だが託哉が違和感を覚えたのは死因ではなく、遺体に『抵抗した形跡』がないことだった。まるで他殺されたのではなく病死したのではと思えるぐらい、男たちの死は自然的だった。
 託哉はわだかまりを胸の裡に抱えたまま、庭園を横切り、返り血で汚れた縁側に土足で上がった。屋敷のなかを注意深く散策していく。

 誰もが羨むような華族然とした屋敷も、いまとなっては形無しと言うしかない。
 見るからに金をかけていそうな障子には赤黒い血がべっとりと付着しており、紙が濡れて、破れている箇所も見受けられる。上質な畳は、遺体を安置するためのベッドだった。部屋の数も多い。まるで大奥だ。たまに日本刀や拳銃が隠してあったりした。近頃の暴力団というものは豊富な装備を持っているらしい。これも二十年ほど前に裏社会で起きたあの抗争のせいかもしれない、
 そうして彼が足を踏み入れたのは、およそ集会でも開けそうな大きい和室だった。もちろん床は畳張りで、縁側に面している部分には障子が張られている。
 もうこれで大体の部屋は見て回ったはずだった。発見したものは隠し金庫と、重要そうな書類と、あとは大量の遺体だけ。目ぼしい手がかりは見当たらなかった。もちろん犯人の姿も。
 託哉は肩を落として、とぼとぼと歩きながら家に帰ろうと――

「生き残りがいましたか。この崇高な僕の目を掻い潜るとは、それだけで賞賛に値します」

 ――した瞬間、眼前に一人の男が立っていた。

「……?」

 ほんの一瞬だけ、託哉は夢を見ているような錯覚に陥った。
 ……あの男は、いつ、どこから、どうやって現れたんだ?
 つい数秒前までは自分一人しか、この部屋にはいなかったはずである。それは確かだ。間違いない。だがあの男は、まるでずっとそこに立っていたような自然体のままで声をかけてきた。
 託哉の体感で言うなら、あの男が魔法でも使っていきなり出現したように見えた。

「……おまえ、何者だ」

 託哉の顔から笑みが失せ、瞳からは感情が消える。警戒するのも当然だった。

「これはこれは畏れ多い」男はわざとらしく肩をすくめる。「まさか人間ごときが、この崇高な僕に問いを投げかけるとは」

 その男は、見るからに場違いな風貌をしていた。
 日本人離れした金色の髪。不健康そうな白蝋の肌。顔には柔和な笑みが仮面のように張り付いており、目は線のように細い糸目。なぜか敬虔な神の僕を思わせる神父服を着ている。
 西洋風の容姿ゆえ、正確な判別は難しいが、年の頃は二十代半ばが妥当と言える。身長は高く、体つきも悪くなかった。
 この血の惨劇と化した武家屋敷に、神父の装いをした男がいる――これをどう解釈するべきか、託哉は色んな意味で迷ったが、少なくとも男が弔いを目的にこの地へ足を運んだということはなさそうだった。
 そもそも、死者を前にして嘘くさい笑みを浮かべているような人間が、まともな精神性を有しているわけがない。
 こんな胡散臭い男に死者を任せるぐらいなら、近場の寺から徳の高い坊主でも連れてきたほうが百倍はマシだと託哉は思う。

「一つ聞かせろ。鳳鳴会に襲撃かけやがったのはてめぇか?」
「鳳鳴会? なんでしょうか、それは」
「とぼけてんじゃねえよ。ここにいた連中を皆殺しにしたのは、てめえかって聞いてんだ」

 人間の感情を最も表すのは”目”だと言われているが――眼球が露出しているのかも疑わしい糸目が、男の感情を覆い隠している。鳳鳴会を知らない。そう言って首を傾げた男の言葉が、本音か嘘か、託哉には見抜けなかった。

「然り。君の言ったとおり。崇高な僕の手足となって動くような都合のいい組織が必要だったので、この……鳳鳴会でしたか。ここに足を運んだのですが」
「……本物の馬鹿だな。いっぺん病院行ってこい」
「それこそありえませんね。人間ごときが僕の崇高な体を診るなど考えただけで吐き気がします」

 おかしな物言いだった。
 託哉が反論しようと口を開いた瞬間、目の前から男の姿が消えた。

「なっ――」

 絶句する彼の背に、声が投げかけられる。

「それに崇高な僕を飽きもせず付け狙う不粋な輩もいることですし。あの小賢しい牝ガキを黙らせるには、圧倒的な物量で押し返すのが手っ取り早い」

 化かされたような気分になりながらも後ろに振り向くと、案の定、そこには男の姿があった。つまり、あっさりと背後を取られた。
 生きとし生ける者には呼吸があり、感情がある。これらを総じて俗に”気配”と呼ぶ。訓練を積んでいない人間でも、自分の後ろから誰かがこっそりと近づいてきたら、自然と気付くものだ。
 強い喧騒に満ちた人ごみの中ならまだしも、閉鎖された部屋の中で対峙していた相手の気配を見失うなど、まずありえない。
 しかし実際のところ、託哉は反応どころか認識すらできていなかった。これを冗談と言わずして何と言うのか。
 
「そして、長年探していたものがこの地で見つかったのです。くっくっくっ、いやなに、実に長い宝探しでした」

 柔和な笑みと、不気味なぐらい細い糸目。人を舐め腐るような態度に、さすがの託哉も堪忍袋の緒が切れた。

「……決めた。オレの命に代えても、おまえだけは絶対にぶっ殺す」
「どうぞ。ご自由に」

 唇を三日月のように歪めて、男はニタリと嗤う。
 もう言葉はいらなかった。
 鋭利な光を瞳に宿し、託哉は男に向かって走り出す。
 その速度は、例えるなら疾風。
 目で見ることも、手で捉えることもできない。暴力という刃を備えた風こそが、いまの託哉だった。
 武術の極意には”縮地”と呼ばれる歩法が存在するが、託哉はそれを十に満たない幼少の頃に、もう会得していた。
 託哉の身体能力は飽くまでも常識の範囲内だが、その極限まで研ぎ澄ました体捌きが、風のごとき動きを可能とする。
 少なく見積もっても十メートルはあった距離を一息の間に詰めた託哉は、身を屈め、左手を畳につき、その反動で跳ね上がった右足を使って、男の顔面に蹴りを仕掛けていく。
 常人ならば、反応どころか視認さえ困難であろう託哉の攻撃は――しかし。

「――っ!?」

 つま先は、美しい弧を描いた――否、”弧”しか描けなかった。それはつまり、完璧な”円”を描くはずだった足が、男の左手によって途中で止められてしまったことを意味する。
 驚愕する託哉と、感心する男。
 次の瞬間、託哉の足首を男が人間離れした握力で掴んだ。肉に食い込み、骨まで軋ませる男の指は、人体を破壊することに特化した万力のようだった。
 ほとんど強引に足を引かれ、託哉の体が宙に浮く。機動力の要となる足のコントロールを奪われてしまい、回避どころか防御も満足にできない。
 成人男性ほどはある託哉の体を、男は苦も無げに片手で振り回す。
 だが、一方的におもちゃ扱いされて黙っているほど、託哉は出来た人間ではない。

「――うぜえぞバカが!」

 怒声が響く。
 託哉は自由なほうの足で、再び男の顔面に蹴りを放った。体を上下左右に振り回されているせいで体幹バランスが上手く取れず、それは託哉をして自己嫌悪したくなるような不恰好な蹴りだったが、人の命を刈り取るだけの破壊力は十分にある。
 だが、おもちゃの反抗をみすみす許してしまうほど、男は抜けた人間ではなかった。

「いいですねえ」

 糸目を三日月のように歪めて、男は不気味に哂う。
 それは暗に余裕を示す仕草だと言えたが、しかし、さすがの男も二度に渡って託哉の蹴りを受け止めることはできなかったのか――今度のつま先は完璧な”円”を描いた。ヒュン、と空気を切り裂くような音がして、男の前髪が横薙ぎに揺れる。躱されたのだ。
 間髪いれず、託哉は蹴りの勢いを利用して、そのまま体を回転させる。回転運動により生じたエネルギーは、男の握力から逃れるための一手となった。
 ズボンの足首部分が裂けて、布が飛び散る。
 それと合わせて、託哉は男の腕から逃れることに成功した。恐らく、あと数秒でも逃げるのが遅ければ、足首の骨は粉々に砕かれていただろう。
 ここで注目すべきは、託哉の体術ではなく、男の膂力。その常識を超えた力は、ドーピングしたオリンピック選手であっても追随できまい。

「――ははっ!」

 両者ともに笑みがこぼれる。
 託哉が達人だとするなら、男は超人だった。
 人間であることは決して恥ではない。生まれ持った身体能力が人外の生物に劣っているとしても、何代にも渡って積み重ねてきた一族の業(わざ)が、託哉を異端と渡り合えるだけのレベルにまで押し上げている。
 対して、男は無骨だった。戦闘慣れはしているものの、技術を研鑽してきた様子がない。それでも圧倒的なパワーによって繰り出される一撃は、託哉と並んで余りある。
 人間離れした体捌きを可能とする託哉と、人間離れした身体能力を持った男。
 二人は障子を薙ぎ払い、ふすまを蹴り倒し、畳を跳ね上げ、扉をぶち壊し――だだっ広い武家屋敷の中を、殺し合いながら移動していく。
 男が腕を振るうたびに、ばがんっ、と嘘のような音がして、壁や柱が破壊されていく。
 何度見ても慣れない、何度見ても目を疑うような、恐るべき怪力である。
 この男なら、素手で屋敷を解体することも可能かもしれなかった。
 しかし、男は積極的に攻撃を仕掛けることはなく――託哉の攻撃を捌き、その反撃として腕を振るっているだけだった。
 それは、ともすれば防戦一方にも見える。あるいは他に狙いがあるのか。
 どちらにしろ託哉には分からなかった。

「――愉しいですねえ! この崇高な僕が苦戦していますよ!」

 まったく苦戦していなさそうな顔と声。
 聞いているだけでも苛立ってくる自己陶酔した言葉の数々は、狙っているのなら大したものだった。少なくとも託哉の頭に血が上っていることは確かである。

「――はん。調子に乗んなよ、このエセ神父が!」 

 戦闘は激化した。 
 積極的な攻めに出る託哉と。
 消極的な受けに回る男と。
 攻撃を躱される託哉と、攻撃を躱していく男――なるほど、状況的には五分だろう。両者共に優勢でなければ劣勢でもない。
 傍目には攻めている託哉のほうが有利にも見えるが、男には正体不明の異能があるので、片時も油断は許されない。どちらも次の瞬間には死ぬかもしれない、という意味では、これは互角の戦闘に違いなかった。
 しかし、一瞬の判断ミスが戦況を左右することは多々ある。殺し合いにおける拮抗など、そう長くは続かないのが常である。
 これまで防御に甘んじていた男が、ここにきて初めて前に出た。
 ――いや、正確には、男が本当に打って出たのか、託哉には分からない。分かる暇もなかった。堅固な要塞のように隙のない男に、ようやく決定的な隙を作り出せたと思って回し蹴りを繰り出したら、次の瞬間には、男の姿を見失ってしまったのだ。

「――っ!?」

 またこの感覚だ、と託哉は思った。
 てのひらから水や砂がこぼれ落ちていくように――せっかく捉えたと思った男の姿が、まるで魔法のように消失してしまう。託哉の目の前から消えてしまう。
 託哉の背筋にゾクリと冷たいものが這い上がった。針のように鋭い、殺気。いつの間にか託哉の後方に、男が回り込んでいた。
 まずい――そう思って、その場から跳躍しようとした託哉の足を、男ががしりと掴んだ。
 そして男は、託哉を勢いよく振り回し――放り投げた。
 常識はずれの怪力を駆使した遠投は、託哉の体をボールか何かのように吹き飛ばした。

「――がっ!」

 苦痛にうめく声さえ置き去りにするほどの速度で、託哉は血に濡れた障子を突き破り、日本庭園のほうにまで転がっていく。
 視界が高速で加速する中、託哉は神業的な身のこなしで受身を取り、体勢を立て直し、ダメージを可能なかぎり軽減して見せた。

「……あんの野郎」

 肉体的には無事でも、精神的には無事じゃない。もうなにがなんでもぶっ殺してやらねば気が済まない、と託哉は思った。
 近場に転がっていた暴力団構成員の遺体から拳銃をもぎ取る。
 それはオーソドックスな半自動式拳銃。別に隠してあったマガジンを拝借し、装填する。スライドを引き、弾薬を手動で薬室に送り込むと、託哉はグリップを強く握り締めた。
 あの男は明らかに人間離れした膂力の持ち主ではあるが、だからといって、託哉は自分が劣っているとは微塵も思っていない。そもそも負けるつもりで殺し合いに望むバカもいないだろう。
 ここで問題があるとすれば、それは実力云々ではなく、あの男が見せた瞬間移動のような異能のほうだ。
 恐らくは超能力の類……と推測できるが、真相は不明。
 だが、これまでの人生で、託哉は何度か不可思議な力を使う相手と出会ったことがある。ゆえに理屈では説明できない現象にも、さほど驚かない。

「おや、まだ生きてたんですか? しぶといですねえ。僕の崇高な攻撃を受けてもなお存命しているとは。まるでゴキブリのようだ」

 芝居がかった口調。
 両手を大きく広げて、主に自己陶酔しているとしか思えない内容の演説をしながら、さきほどの男が縁側に姿を見せた。
 託哉は躊躇なく、発砲。
 乾いた銃声が閑静な高級住宅街に鳴り響く。音は三連。大量生産の鉛弾が合計三発、夜気を切り裂きながら飛んでいく。
 それと合わせて、男の姿が消失した。

「……へえ」

 やはり間違いない、と託哉は確信する。今度は見逃していない。
 例えば、託哉の目でも捉えきれぬほどの速力をあの男が有していると仮定しても、”静”から”動”に移行する際には、絶対に”初動”が発生する。それがないということは、すなわち”静”のままということである。そして、あの男が消える際に”初動”は見受けられなかった。
 ”静”から”動”に移行するプロセスを経由せず、生物は移動できない。絶対に。
 つまり、あの男は間違いなく異能か超能力か――とにかく常識を覆すだけの力を持っている。

「……次は」

 縁側にいたはずの男は――同じく縁側の、隅のほうに立っていた。移動距離はおよそ十五メートル近く。
 しかし託哉が気になったのは、他のところにあった。

「どうした大将。頬から血が出てんじゃねえか」

 そう。
 託哉に知覚されることなく自由に移動できる、という強力な異能を持っているはずなのに、男の頬には銃弾が掠ったかのような痕があるのだ。
 弾が命中するなどとは微塵も思っていなかったが――どうやら予想以上の成果があったらしい。せいぜい威嚇程度に拳銃を使用するつもりだった託哉としては、この結果は僥倖と言える。
 託哉の認識よりも早く移動できるあの男なら、銃弾だって簡単に避けることができるだろう。しかし掠っただけとはいえ、銃弾は確かに男の体に触れたのだ。
 これが果たして――なにを意味するのか。

「なるほど。まだ完全じゃねえが、なんとなく読めてきたわ。てめえの力が」

 挑戦的な笑みを浮かべる託哉を見て――逆に男の顔から笑みが消えた。

「……危険、ですね。君は」
「そりゃどうも。でも命乞いだけは勘弁してくれ。白ける」
「ご心配なく――きっと、退屈はしませんよ」
「そうかい。ならいいや」

 拳銃を構える託哉と、どこか不気味に哂う男。
 この唐突に始まった殺し合いは、これから佳境を迎えるだろう。まだ夜は始まったばかり。血に濡れた庭園と、死体に満ちた日本家屋は、まさに二人の戦場に相応しい。この上ない舞台である。
 そのとき、不意に。

「……っ?」

 キィン、と。
 甲高い耳鳴りを――託哉は聞いた。

「くっはははははは――」

 腹を抱えて、男は心底愉快そうに笑う。それを聞いた託哉は、トリガーにかかっていた指を躊躇なく引いた。
 最後に男は、これまでとは違う凛冽なる声で、言った。

「矮小な体躯と、下賎な命。その虫に等しい分際で、どこまで足掻けるかな。人間」

 両手を広げ、芝居がかった口調で告げるその男の姿は、死者を弔う神父などでは断じてなく。
 まるで死者をいざなう悪魔のようだった。



[29805] 2-2 相思相愛
Name: テツヲ◆c49d9b75 ID:366fa69a
Date: 2012/12/21 17:29
 五月の下旬にもなってくると、昼間は温かく、夜は肌寒くなってくる。いわゆる季節の節目というやつだろう。人間が最も体調を崩しやすい時期だ。
 暦が四月に変わると同時に母さんが実家に遊びに行ってしまったため、俺は萩原邸に一人ぼっちで留守番していた。でも四月の初旬には憎たらしい銀髪悪魔が出没し、四月の下旬には可愛らしい予知っ娘が訪問してきたせいで、いまとなっては萩原邸も賑やかなものだった。

「夕貴様。課題が終わりましたので、見ていただけますか?」
「おっ、もうできたのか」

 俺と菖蒲がいるのは、一階にある客間の一つだった。まあ現在は菖蒲に私室として使ってもらっているので、客間という表現は正しくないかもしれない。壁に取り付けられたハンガーには、黒を基調としたセーラー服がかけられている。この客間は庭と面しているので、よく風が通る。開けた窓から入り込む風が、スカートの裾をひらひらと揺らしていた。
 部屋の中央には折りたたみ式の丸テーブルが鎮座していて、それを挟み込むように俺と菖蒲が座っている。テーブルの上には温かい紅茶の他に、所狭しとプリントやノートや教科書といった勉強道具が並んでいた。
 率直に言えば、俺は菖蒲に勉強を教えていた。まあ金のかからない家庭教師みたいなものである。大学生のアルバイト先として家庭教師はよく聞くし、俺が菖蒲に勉強を教えるのは自然だろう。
 外出するときは今時の女の子のように大胆な服を着ることもある菖蒲は、しかし、本当は丈の長いロングスカートのほうが好みらしく、家にいるときはゆったりとした服を着ていることが多い。いまの彼女は、どこからどう見ても深窓のお嬢様だ。

 俺は彼女から受け取ったプリントを採点していく。この場合における”課題”とは、学校が課した宿題にあらず、俺が参考書などを元に作成した勉強用の小テストみたいなものだ。プリントには、びっしりと数学の公式が書き込まれていた。女の子にありがちな丸まった文字じゃなく、やや大人びた筆跡である。
 今日はこれでノルマは終わりだった。
 礼儀正しく正座していた菖蒲は、ようやく膝を崩して、女の子座りをした。彼女はその楽な姿勢のまま、俺が自室から持ってきた高校時代の教科書やノートを興味深そうに見ている。いままで菖蒲が頑張っていたのだから、今度は俺が集中する番だった。
 半分ほど採点が進んだとき、菖蒲が何かを思い出したようにぽんっと手を合わせた。

「そういえば夕貴様。お父様とお食事に行くのは、明日でしたよね?」
「えっ、明日だっけ?」
「明日ですよ。間違いありません」
「い、いやぁ、たしか一週間後ぐらいじゃなかったっけ?」
「明日です。夫のスケジュールを管理できない妻がどこにいますか。菖蒲に間違いはないのです」
「……そっか。とうとう俺の命日がやってくるのか」
「あの、夕貴様。ご冗談だとしても、命日などと不吉なことは口になさらないでください」

 唇を尖らせる菖蒲は、わりと本気で怒っているように見えた。でも恐るべきことに、明日が本当に俺の命日になる可能性も否定できないので、笑って謝罪することはできない。
 事の起こりは、二週間ほど前、俺が重国さんからディナーのお誘いを受けたことに帰結する。もちろんそれは光栄なんだけど、ここで問題は、その楽しいはずの食事会が、なぜか俺と重国さんの二人きりで行われること。
 きっと目玉が飛び出るような高級料理を食べに行くのだろう。ただでさえ俺は正式なマナーに自信がないのに。これは暗にイジメられているのだろうか、と被害妄想が生まれてしまう。
 明日から菖蒲は、数日間だけとはいえ萩原邸を離れてしまうのだ。ゆえに食事会には参加できない。学業に慣れ、私生活が落ち着き、新しい環境に順応した菖蒲は、休止していた女優業を再開した。映画やドラマといった、数ヶ月単位で時間を縛られるような仕事は断っているそうだが、テレビの出演、雑誌の撮影など、比較的拘束される時間の短い仕事は請けるようになった。
 ちょうど明日から、いくつかの仕事が連続しているらしく、菖蒲は向こうに泊り込む。ちなみに女優『高臥菖蒲』のマネージャーは、高臥家の家令を務める参波清彦さんである。運転手とボディーガードも兼ねているらしい。
 つまり俺と重国さんが楽しく(だったらいいな……)食事をしている頃、菖蒲と参波さんは揃って都心のほうに赴いているってことだ。
 せめて菖蒲がとなりにいてくれれば頑張ろうという気にもなるのだが……。

「大丈夫ですよ、夕貴様。過密なスケジュールですので頻繁に連絡を取るのは難しいと思いますが、定期的に近況をメールします」

 電話ではなくメールします、と言ってる時点で、菖蒲の忙しさが分かろうというものだ。

「……分かった。ちゃんとメールしてくれよ?」
「もちろんです。夕貴様も、ちゃんと返信してくださいね?」

 女々しく寂しがる俺を見て、菖蒲は『しょうがないなぁ』みたいな笑顔を浮かべた。やはり見ているだけでも胸焼けしそうなバカップルが、そこにはいた。

「……言い忘れておりましたが」

 採点が佳境に入った頃、菖蒲がぽつりと漏らした。

「どうした? そんなに改まって」
「いえ、それほど差し迫った案件でもないのですが……参波曰く、ここ最近、この街に不穏な動きがあるとか。ですので、夕貴様もご留意なさってください」
「不穏な動き? 具体的には?」
「分かりません。ただ、その……暴力団、の方々の間に、小規模の抗争が起きていると聞いております。表沙汰にはなっておりませんが、すでに死者の方も出ているという話です」

 死者が出るほどの抗争か。ニュースになっていないところを見ると、この件が明るみに出ると困る人間がいるってことなんだろうな。

「明日、夕貴様がお食事に赴かれるのは繁華街にあるお店です。……正直、菖蒲は心配でなりません」

 俺は詳しく知らないのだが、繁華街には暴力団の事務所がいくつかあるらしく、この抗争が勃発している時期に進んで行くのはあまり賢い選択ではないという。

「お父様のことですから、きっと日時を変更したりはしないでしょう」
「そっか。まあ重国さんは多忙な人だし、もう一度スケジュールを合わせるのも難しいんだろうな」
「仰るとおりです。でも、それとこれとは別の話と言いますか……もし、夕貴様の身に何かあれば、と考えるだけで、菖蒲は途方もない不安に駆られます。絶対に、ご無理だけはなさらないでくださいね?」
「無理なんかしないよ。だからさ、そんな悲しそうな顔しないでくれ」
「……約束ですよ?」
「ああ、約束する」

 いまだ釈然としない様子だったが、それでも菖蒲は頷いてくれた。俺としても、怪我だけは絶対に避けたい。そろそろ大学のほうも、七月に予定されている期末試験に合わせて忙しくなってくる。だから、この時期に講義を休むのは学生にとって痛手なのだ。
 ……そういや大学で思い出したけど、託哉のやつ、ここ最近ずっと休んでるよな。まあ託哉は昔から意味もなく学校を数日続けて休んだりする馬鹿だったし、さほど心配はしていない。ただ一切の連絡がつかないってのは珍しいんだけど……。
 頭の隅でぼんやりと思考しながら、俺は課題の採点を終えた。多少のケアレスミスを除けば、それ以外は満点と言ってもいい結果。愛華女学院は県内でも上位に位置する偏差値なので、そこの生徒である菖蒲の成績も元から優秀だった。本来ならば俺が勉強を教えなくてもいいのだけど、女優という職業柄、今回のように長期間授業を欠席さぜるを得なくなることもあるため、こうした家庭教師も必要となってくるのだ。

「採点終わったぞ。あとで見直しして――」

 プリントを手渡そうとしたところで、菖蒲が読書に夢中になっていることに気付いた。

「なに読んでんだ?」

 わざわざ立ち上がり、菖蒲のとなりに移動した。彼女は目元を和らげて、身を寄せてきた。ふんわりとした甘い匂いが、鼻腔をくすぐる。廊下とかですれ違うだけでもいい匂いがするもんな、菖蒲って。

「夕貴様が持参なさった理科の教科書です。こういうものを見るのは久方ぶりなので、つい読みふけってしまいました」
「なんか恥ずかしいな。それ、俺が小学生のときの教科書だぞ」

 俺は教科書を覗いた。

「……懐かしいな。火成岩か」

 本当に懐かしい。火成岩とか、火山岩とか、深成岩とか。ガキの頃は、その無駄に格好いい名前にテンションが上がったもんだ。まあテストのときは覚えるのが面倒でテンション下がったけど。

「夕貴様。この火成岩の名前、分かりますか?」

 悪戯っ子のような笑みを浮かべて、菖蒲が俺を見上げてきた。見れば、教科書の一部が手で隠されている。ちょうど岩の写真の下部が見えなくなっているわけだが、そこにクイズの答えが書かれているのだろう。しかし偶然にも、俺はその火成岩を覚えていた。

「ああ。それは確か……花崗岩(かこうがん)だったかな」
「さすが夕貴様ですね。大当たりです」

 なぜか嬉しそうに微笑み、菖蒲は手を退けた。記されていたのは『花崗岩』の三文字。正解だった。俺は調子に乗った。

「花崗岩ってのは、石垣とか石橋にも使われるぐらい綿密で硬い石材なんだぜ」
「そうなのですか? さすが夕貴様です……」

 きらきらと瞳を輝かせる菖蒲。

「まあ花崗岩ぐらい誰でも分かるよなぁ。小学生レベルの問題だし」
「……申し訳ありません。菖蒲は夕貴様の妻に相応しくないようです。花崗岩も覚えていませんでした」
「ああっ、違う! いまのは違う! だから落ち込むな!」

 がっくり、と肩を落とす菖蒲。速攻で地雷を踏んだ俺だった。それから俺たちは勉強道具を片付けた。
 
「今日は一緒に寝るか?」

 消灯した部屋の中、俺たちはベッドの上で寝転んでいた。ちょうど俺が水平に伸ばした腕の上に、菖蒲が頭を乗せている。腕枕というやつだ。
 やけにいい匂いのするベッドは、普段から菖蒲がここで寝ている証拠。

「よろしいのですか? 菖蒲は明日、午前五時半過ぎには起床する予定ですので、夕貴様の安眠を妨げてしまうのではないかと」
「バカ。おまえ、俺に黙って行くつもりか? むしろ明日は俺も準備を手伝うから、ちゃんと起こしてくれよ」
「……はい、かならず」

 菖蒲の顔が、とろん、と幸せそうに蕩ける。

「じゃあ寝るか。睡眠は十分に取っておいたほうがいいだろ」
「そうですね。明日は食事の時間も安定して取れないだろうと参波が言っていましたので、最低限の体調だけは整えておくべきだと思います。……ですから、その、夕貴様」
「なんだ?」
「……明日からしばらくお別れになるのですから、せめて最後に、夕貴様のお作りになったフレンチトーストが」
「いいよ。作ろうか」
「ほ、本当ですかっ? 本当に作ってくださるのですねっ?」
「ちょっと違うな。作るんじゃなくて、一緒に作ろうって言ってるんだ。明日の朝は、二人でフレンチトーストを作って、二人で食べよう。それでいいか?」
「っ~~!」

 菖蒲が、ぎゅーっと俺に抱きついてきた。そこまで嬉しかったのだろうか。
 まあ何にせよ、四六時中一緒にいることはできないんだし、これは仕方のないことだ。
 この夜、俺たちは互いを護るように身を寄せ合い、眠った。




 日が落ちても、繁華街は祭りのような喧騒で満ちていた。このあたりには数えるのも億劫になるほどの居酒屋やバーやクラブがあるし、他にもカラオケ、ゲームセンター、ボーリング場などといったアミューズメント施設がそこかしこに点在している。
 さきほどから仕事帰りのサラリーマンが同僚と連れ立って居酒屋に入っていくのを何度も見かけるし、表通りには周辺店舗のキャッチマンが過剰なまでの大声で、それぞれせめぎ合うようにして行き交う人々にセールストークを振りまいている。実に賑やかだった。
 俺は一人、小さなメモ用紙を手に、煌びやかなネオンで彩られた繁華街を歩いていた。その紙には見慣れぬ住所が明記されており、俺はそこに向かって黙々と歩いているわけなのだが。

「……やばい」

 背中に嫌な汗が流れる。
 今朝、菖蒲が女優としての仕事を果たすために都心のほうに出発した。その際、彼女が「これがお父様の指定したお店です。絶対に遅刻はなさらないでくださいね」と言って、俺に渡してくれたのが例のメモ用紙。この繁華街には多種多様な店舗があるものの、基本的な価格帯はリーズナブルで、重国さんが通いそうな高級店はないと思うのだが。
 しかも、あまり繁華街の地理に詳しくない俺にとって、”住所”という簡素な情報だけを頼りに目的地に向かう、と言うのは少々難しい。そもそも色んな店が密集しているせいで、このあたりは複雑なのだ。とてつもなく分かりにくい。
 俺が家を出たのは、午後七時。約束の時間は、午後八時。萩原邸から繁華街まで徒歩で二十分ほどだから、かなり余裕を持って家を出たはずなんだけど、道が分からない。

「……はぁ」

 途方に暮れるしかなかった。そろそろ本格的にまずい。マジで今日が俺の命日になるんじゃねえか、これ。
 わりと真剣に遺言を脳内でしたためながら、俺は肩を落としてとぼとぼと歩いていた。正面から勢いよく誰かがぶつかってきたのは、そんなときだった。

「おっと!」
「痛っ」

 二人揃って体が傾ぐ。かなり強い衝撃だったのだが、咄嗟に足を踏ん張ったおかげで転ぶことはなかった。接触した箇所を手で押さえながらも、俺は前を向いた。

「いやぁ、悪かったね。ちょっと急いでたもんだからさ。いまのは僕の不注意だ」

 そこにいたのは、よれよれの背広に身を包んだ三十代後半ぐらいの男性。
 特筆すべきほどの容姿ではないけれど、あえて言うなら、無造作に伸びた黒髪と顎まわりの無精ひげが目立つ。よく見れば整った顔立ちをしているが、口元に浮かぶ締まりのない笑みが、どこか頼りない印象を彼に与えていた。
 失礼な言い方をすれば、うだつの上がらなさそうな男性に見えた。きちんと身だしなみを整えれば有名商社の面接担当官にも好印象を与えられるだけの素材を持っているとは思うのだが、それをわざと台無しにするように、彼は容姿に気を遣っていない。
 その胸元には、社会人の装いに相応しくない、安っぽそうなペンダントが揺れていた。やや歪なかたちをした石が、チェーンに繋がれている。

「大丈夫かい? ちょっと強くぶつかっちゃったようだけど」

 右手で頭をかきながら、彼は申し訳なさそうに苦笑した。まだ出会ったばかりなのだけれど、俺はすでにこの男性に好感を抱いていた。パッとしない風貌だが、それを補って余りある柔らかな空気を彼はまとっているのだ。偏見が許されるのなら、きっと彼は、家では優しい父親をやっていると思う。

「あぁ、はい。大丈夫ですが」
「それはよかったよ。僕の不注意で人様に怪我させたとなったら、娘が泣くからね」

 俺のイメージどおり、彼は父親だったらしい。間もなく彼はその場で膝を折り、アスファルトに右手を伸ばしたかと思うと、そこから手品のように一枚の紙を取り出した。

「これ。落し物だよ」

 紙に付着した微かな汚れを落としてから、それを右手で手渡してくる。メモ用紙だ。どうやら衝突した際に落としてしまっていたらしい。軽く頭を下げて、紙を受け取る。

「わざわざ拾っていただいて、どうもありがとうございます」
「いいさ、元はといえば僕が悪いしね。そんなに畏まらないでもいいよ」

 言って、彼は右手で頭をかいた。
 ……あれ?
 なんか言葉にできない違和感があるような。
 これまでの記憶を振り返ってみる。
 彼が頭をかくとき、メモ用紙を拾うとき、メモ用紙を手渡すとき――そのすべての動作を、彼は右手だけで行っていた。
 よくよく見てみれば、背広に隠れて分からなかったが、彼には左手がなかった。

「……ああ、これかい?」

 俺の不躾な視線に気分を害することなく、彼は鷹揚と笑みを浮かべた。

「ちょっとした不注意でね。もう慣れたよ。とっくの昔にね」
「……すいません、じろじろと見てしまって。俺の配慮が足りませんでした」
「謝らなくてもいいさ。ただ僕みたいな障害を持った人間からすれば、君みたいな健常者から、そういう腫れ物に触れるような態度で接せられることが一番の苦痛なんだってことは知っておいてほしいな」
「……分かりました。憶えておきます」
「うん、素直でいいね。僕の娘も、君ぐらい人の話を聞く子だったらよかったんだけどね」

 口ではそう言いつつも、彼は誇らしげだった。なんだかんだ言っても自分の娘を愛しているのだろう。
 本音では、もう少し彼と話をしていたかったのだが、さすがに時間が圧迫していた。あと十分で俺の死亡推定時刻――じゃなかった、午後八時になってしまう。
 しかし、偶然とは面白いものだ。駄目元で彼に、メモ用紙に記された住所について聞いてみると、思わず涙しそうなほど素晴らしい答えが返ってきた。

「ああ、そこなら知ってるよ。かなり近いね。ここから徒歩で五分、走れば三分かからないよ」

 これで俺が重国さんに殺されることはなくなりそうである。しかも彼は、ぶつかったお詫びにわざわざ案内してくれると言うのだ。もうこの男性が神様に見えてきた。
 重国さんとの待ち合わせ場所に近づくと、彼は「じゃあ僕の役目は終わりだね。君と出会えてよかったよ」と最後に言い残し、人ごみの中に消えていった。わざわざ俺を案内する余裕があったわりには、かなり急いで走り去っていったのが謎と言えば謎だった。
 なんにせよ、ギリギリ時間には間に合ったのだから、俺の命日も先延ばしにされたはずだ。

「遅かったな。まさか迷子になっていたわけでもあるまい」

 とてつもなく不機嫌そうな声。店先に佇んでいたのは、夜を従えるような存在感を持ったスーツ姿の男性。どこか菖蒲と似ているその人は、十六歳の娘がいるとは思えないほど若々しく、まるで俳優のように格好いい。

「言い訳ならあとで聞こう。まずは俺についてこい」

 …………。
 やっぱり、今日が俺の命日になるかもしれない。





 日が落ちても、繁華街は祭りのような喧騒で満ちていた。このあたりには数えるのも億劫になるほどの居酒屋やバーやクラブがあるし、他にもカラオケ、ゲームセンター、ボーリング場などといったアミューズメント施設がそこかしこに点在している。
 さきほどから仕事帰りのサラリーマンが同僚と連れ立って居酒屋に入っていくのを何度も見かけるし、表通りには周辺店舗のキャッチマンが過剰なまでの大声で、それぞれせめぎ合うようにして行き交う人々にセールストークを振りまいている。実に賑やかだった。
 俺は一人、小さなメモ用紙を手に、煌びやかなネオンで彩られた繁華街を歩いていた。その紙には見慣れぬ住所が明記されており、俺はそこに向かって黙々と歩いているわけなのだが。

「……やばい」

 背中に嫌な汗が流れる。
 今朝、菖蒲が女優としての仕事を果たすために都心のほうに出発した。その際、彼女が「これがお父様の指定したお店です。絶対に遅刻はなさらないでくださいね」と言って、俺に渡してくれたのが例のメモ用紙。この繁華街には多種多様な店舗があるものの、基本的な価格帯はリーズナブルで、重国さんが通いそうな高級店はないと思うのだが。
 しかも、あまり繁華街の地理に詳しくない俺にとって、”住所”という簡素な情報だけを頼りに目的地に向かう、と言うのは少々難しい。そもそも色んな店が密集しているせいで、このあたりは複雑なのだ。とてつもなく分かりにくい。
 俺が家を出たのは、午後七時。約束の時間は、午後八時。萩原邸から繁華街まで徒歩で二十分ほどだから、かなり余裕を持って家を出たはずなんだけど、道が分からない。

「……はぁ」

 途方に暮れるしかなかった。そろそろ本格的にまずい。マジで今日が俺の命日になるんじゃねえか、これ。
 わりと真剣に遺言を脳内でしたためながら、俺は肩を落としてとぼとぼと歩いていた。正面から勢いよく誰かがぶつかってきたのは、そんなときだった。

「おっと!」
「痛っ」

 二人揃って体が傾ぐ。かなり強い衝撃だったのだが、咄嗟に足を踏ん張ったおかげで転ぶことはなかった。接触した箇所を手で押さえながらも、俺は前を向いた。

「いやぁ、悪かったね。ちょっと急いでたもんだからさ。いまのは僕の不注意だ」

 そこにいたのは、よれよれの背広に身を包んだ三十代後半ぐらいの男性。
 特筆すべきほどの容姿ではないけれど、あえて言うなら、無造作に伸びた黒髪と顎まわりの無精ひげが目立つ。よく見れば整った顔立ちをしているが、口元に浮かぶ締まりのない笑みが、どこか頼りない印象を彼に与えていた。
 失礼な言い方をすれば、うだつの上がらなさそうな男性に見えた。きちんと身だしなみを整えれば有名商社の面接担当官にも好印象を与えられるだけの素材を持っているとは思うのだが、それをわざと台無しにするように、彼は容姿に気を遣っていない。
 その胸元には、社会人の装いに相応しくない、安っぽそうなペンダントが揺れていた。やや歪なかたちをした石が、チェーンに繋がれている。

「大丈夫かい? ちょっと強くぶつかっちゃったようだけど」

 右手で頭をかきながら、彼は申し訳なさそうに苦笑した。まだ出会ったばかりなのだけれど、俺はすでにこの男性に好感を抱いていた。パッとしない風貌だが、それを補って余りある柔らかな空気を彼はまとっているのだ。偏見が許されるのなら、きっと彼は、家では優しい父親をやっていると思う。

「あぁ、はい。大丈夫ですが」
「それはよかったよ。僕の不注意で人様に怪我させたとなったら、娘が泣くからね」

 俺のイメージどおり、彼は父親だったらしい。間もなく彼はその場で膝を折り、アスファルトに右手を伸ばしたかと思うと、そこから手品のように一枚の紙を取り出した。

「これ。落し物だよ」

 紙に付着した微かな汚れを落としてから、それを右手で手渡してくる。メモ用紙だ。どうやら衝突した際に落としてしまっていたらしい。軽く頭を下げて、紙を受け取る。

「わざわざ拾っていただいて、どうもありがとうございます」
「いいさ、元はといえば僕が悪いしね。そんなに畏まらないでもいいよ」

 言って、彼は右手で頭をかいた。
 ……あれ?
 なんか言葉にできない違和感があるような。
 これまでの記憶を振り返ってみる。
 彼が頭をかくとき、メモ用紙を拾うとき、メモ用紙を手渡すとき――そのすべての動作を、彼は右手だけで行っていた。
 よくよく見てみれば、背広に隠れて分からなかったが、彼には左手がなかった。

「……ああ、これかい?」

 俺の不躾な視線に気分を害することなく、彼は鷹揚と笑みを浮かべた。

「ちょっとした不注意でね。もう慣れたよ。とっくの昔にね」
「……すいません、じろじろと見てしまって。俺の配慮が足りませんでした」
「謝らなくてもいいさ。ただ僕みたいな障害を持った人間からすれば、君みたいな健常者から、そういう腫れ物に触れるような態度で接せられることが一番の苦痛なんだってことは知っておいてほしいな」
「……分かりました。憶えておきます」
「うん、素直でいいね。僕の娘も、君ぐらい人の話を聞く子だったらよかったんだけどね」

 口ではそう言いつつも、彼は誇らしげだった。なんだかんだ言っても自分の娘を愛しているのだろう。
 本音では、もう少し彼と話をしていたかったのだが、さすがに時間が圧迫していた。あと十分で俺の死亡推定時刻――じゃなかった、午後八時になってしまう。
 しかし、偶然とは面白いものだ。駄目元で彼に、メモ用紙に記された住所について聞いてみると、思わず涙しそうなほど素晴らしい答えが返ってきた。

「ああ、そこなら知ってるよ。かなり近いね。ここから徒歩で五分、走れば三分かからないよ」

 これで俺が重国さんに殺されることはなくなりそうである。しかも彼は、ぶつかったお詫びにわざわざ案内してくれると言うのだ。もうこの男性が神様に見えてきた。
 重国さんとの待ち合わせ場所に近づくと、彼は「じゃあ僕の役目は終わりだね。君と出会えてよかったよ」と最後に言い残し、人ごみの中に消えていった。わざわざ俺を案内する余裕があったわりには、かなり急いで走り去っていったのが謎と言えば謎だった。
 なんにせよ、ギリギリ時間には間に合ったのだから、俺の命日も先延ばしにされたはずだ。

「遅かったな。まさか迷子になっていたわけでもあるまい」

 とてつもなく不機嫌そうな声。店先に佇んでいたのは、夜を従えるような存在感を持ったスーツ姿の男性。どこか菖蒲と似ているその人は、十六歳の娘がいるとは思えないほど若々しく、まるで俳優のように格好いい。

「言い訳ならあとで聞こう。まずは俺についてこい」

 …………。
 やっぱり、今日が俺の命日になるかもしれない。




[29805] 2-3 花顔雪膚
Name: テツヲ◆c49d9b75 ID:366fa69a
Date: 2012/02/06 07:40
 重国(しげくに)さんが指定した店は、驚くべきことに、街を歩けば日に五軒は行き当たりそうな普通の洋食屋だった。
 立派というにはお世辞が過ぎ、貧相というには失礼な、そこはかとなく年季の入った店。外観こそ古びた印象を受けるが、店内は感心するほど清潔だった。
 さっきまで死ぬほど緊張していた俺は、重国さんの予想外のチョイスに混乱し、自分でもよく分からない境地に至っていた。
 もしかすると『貴様ごときに高級料理を食わせるのは金の無駄だ』という言外のアピールなのかもしれない。さすがに穿ちすぎだとは思うが、否定しきれないあたりが菖蒲を溺愛しているという高臥重国さんの油断ならないところだ。
 食事時ということもあり、店内はそこそこのお客さんで賑わっている。大繁盛とまではいかないが、店の行く先を憂うほど閑古鳥が鳴いているわけでもない。
 まだ入ったばかりだが、実を言うと、俺はもうこの店を気に入っていた。壁際に大きく女優『高臥菖蒲』のポスターが貼られているからである。もう常連になってもいいとさえ思う。菖蒲の可愛らしさが分かる人間に悪いやつはいないのだ。
 俺は重国さんに続くがまま、カウンター席に腰を下ろした。眼前には厨房があって、人のよさそうな初老のマスターとその奥さんらしき女性が調理に勤しんでいる。
 でもまあ、いい意味で庶民的なこの洋食屋の中においても、やっぱり重国さんは微妙に浮いてるよなぁ。
 店主も対応に困るんじゃないだろうか。

「おおっ、しげっちゃん、また来たのかい。たしか四日ぐらい前の昼にも来てくれただろ?」

 と、思った矢先、厨房にいたマスターが重国さんに親しげな挨拶をした。

「ああ。正確には五日前の昼だ」

 氷水の入ったコップを傾けながら、重国さんが返す。ただ水を飲んでいるだけなのに、どうしてこの人はこんなに渋いんだ。
 おっと、五日前だったかい――と粋に笑って、マスターは続ける。

「そういえばしげっちゃん。ここ最近、菖蒲ちゃんがシャンプーのコマーシャルに出てるじゃないか。いやぁ、あの子は見るたびに綺麗になっていくよなぁ。お母さんにも似てきたし」
「俺の娘だからな」

 その簡素な相槌とは裏腹に、重国さんは誇らしげな気持ちを腹に隠しているように見える。やっぱり菖蒲を褒められたから嬉しいんだろうな。心なしか水を飲むスピードが上がったような気がするし。
 しばらく他愛もない話に興じていたマスターは、会話の途切れたタイミングを見計らって、重国さんのとなりで小さくなっていた俺に声をかけてきた。

「ところで、君は……?」
「俺の連れだ。何の因果か、一緒に食事をすることになった。今夜は美味いものをご馳走してやってくれ」

 間髪いれず、重国さんが説明を入れた。

「紹介が遅れました。僕の名前は萩原夕貴です。よろしくお願いします」

 失礼のないように頭を下げてみる――しかし反応がない。
 怪訝に思って顔を上げてみると、マスターが驚いたように目を丸くして、じっと俺を見つめていた。
「……あの、どうかしましたか?」

「そりゃあ、どうかしたさ。だってしげっちゃんが――」
「余計なことは言わなくていい。それよりも注文を頼みたい」

 有無を言わせぬ強い口調で、重国さんが遮る。
 マスターは何か言いたげにしていたが「……ま、しげっちゃんがそう言うなら」と渋々引き下がった。
 結局、俺はサーロインステーキセットを、重国さんは牛ヒレカツセットを注文した。ちなみに値段は、食前のポタージュスープとライスがついて、それぞれ千円ぐらい。ディナーとしては安上がりなほうだろう。
 マスターとその奥さんが調理を開始し、とうとう俺と重国さんの二人っきりになってしまった。まわりに他のお客さんがいるので閑散とはしていないが、誰も俺たちに干渉してこないという意味では、これは完璧なまでの二人っきりに違いなかった。
 きっといまの俺は、はたから見れば就職面接を受けている若者にしか見えないと思う。

「意外だったか?」

 俺とは視線を合わせずに、重国さんが口火を切った。
 そんなことはないです、と答えるのが正解だったのかもしれないけど、俺は馬鹿正直に頷くほうを選んだ。
 重国さんとは――菖蒲の父親であるこの人とは、本音で語り合いたいと思ったから。そのために重国さんは、俺を食事に誘ってくれたと思ったから。

「……はい。正直に言えば意外でした」
「だろうな」

 なにかを思い出すように目を細め、続ける。

「ここは、俺がお前と同じぐらいの年齢のときから通い続けている馴染みの店だ。それこそ瑞穂と――菖蒲の母親と出会うよりも前からな」

 聞くところによると、いまのマスターは二代目で、重国さんは先代が腕を振るっていたときからの常連客だという。
 まだ学生の頃、ちょっとした気まぐれで入った店の味を気に入り、定期的に通うようになった。
 いきなり「わたしは絶対に貴方となんて結婚しないからね!」と怒鳴りつけてきた見知らぬ女性と、未来に翻弄されるようにして愛し合うようになると、よくこの店でディナーを食べた。
 いつしか娘が生まれると、その愛らしい我が子を自慢するように、やはりこの店に足を運んだ。
 絶賛するほど美味いわけじゃないし、大した人気があるわけでもない。近場では隠れた名店として知られているらしいけど、それが重国さんを虜にするだけのアドバンテージになるかと聞かれれば、答えは否だ。
 それでも。
 それでも――この店には、高臥重国という人間が歩んできた軌跡があって、かけがえのない思い出がたくさん詰まっているんだ。

「夕貴」
「えっ? あっ、はいっ」

 唐突に下の名前で呼ばれて、俺は裏返った声を上げてしまった。
 それを気にした様子もなく、重国さんは言う。

「望むとも、望まざるとも、お前が誰かの上に立つような人間になったのなら――まずは膝をかがめて、下を見ろ」

 なんの脈絡もない話だったが、それでも俺は真剣に耳を傾けた。
 膝をかがめて。
 下を見る。
 例えば――会社を経営する人間が、社員の意見にもきちんと耳を傾けるような人だったら、雇用される側も嬉しいよな。
 つまり。

「……目線を合わせるってこと、ですか?」
「ああ、そうだ」

 俺の答えに満足したのか、重国さんは珍しく機嫌のよさそうな顔をした。

「他者の意見に耳を傾けるのは簡単だろう。その中から優れたアイデアを見つけるのも、採用するのも、実用化するのも容易だ。しかし、人は誰かの上に立つようになると、社会的に弱い地位にいる者と目線を合わせることを嫌うようになる。それでは駄目だ。分かるか?」

 その言葉を脳裏で反芻し、きっちりと理解してから、俺は頷いた。

「保育士は、小さな子供と話すとき、自然と膝をかがめて目線を合わせるようにする。なぜか。そうしなければ子供が言うことを聞かないからだ。逆に言えば、目線を合わせて話しかければ、物心がついていない子供であろうとも意思疎通ができる。これは社会でも同じだ」

 ゆっくりと、低いトーンで紡がれる声には、不思議な説得力がある。
 この人の言うことなら間違いないと、頭ではなく心が信じてしまうのだ。
 それは恐らく、重国さんが俺と目線を合わせているから――だろう。

「勉強になります。今日は僕のために貴重なお話を聞かせてくださり、本当にありがとうございます」
「礼はいらん。お前が恥をかいて被害を被るのは、他の誰でもない菖蒲だ。俺は菖蒲のためを思って動いているに過ぎん」
「菖蒲……ですか」

 俺たちは揃って、壁にかかっているポスターを見た。

「あれも瑞穂に似て、美しく成長した。親の欲目を承知で言うなら、菖蒲は日本で最も愛らしい女子だろう」
「――違いますよ」

 親馬鹿とも取れる重国さんの発言を、俺は即座に否定した。
 ギロリ、と明らかに不機嫌そうな目を向けられる。

「それはどういう意味だ。俺の娘に不満でもあるのか、お前は」
「いいえ、僕が不満なのは重国さんの言葉です」

 これだけは自信を持って言える。

「いいですか? 菖蒲は日本一可愛いのではありません」

 俺は胸を張った。

「菖蒲は、世界一可愛いんですよ!」
「――っ!?」

 どんなときも冷静沈着だった重国さんの瞳に、驚愕の色が混じった。
 がたっ、と椅子を動かして、俺と正面から向かい合った重国さんは、神か悪魔を見たような畏怖した声で、

「貴様――天才か?」
「え?」
「まさかお前が、菖蒲の美貌をここまで正しく認識しているとは夢想だにしなかった――それに比べて俺は親失格だな。菖蒲の愛らしさを日本という小さな島国ごときに収めてしまうとは……」

 重いため息をつき、重国さんは俯いてしまった。
 ……まさか。
 俺を出会い頭に殴り飛ばしたことといい、いまこうして落ち込んでいることといい――この高臥重国という人は、菖蒲が絡むとまわりが見えなくなるんじゃないか?
 このままだと、重国さんがネガティブに囚われたまま帰ってこなさそうだったので、俺は何とか慰めてみることにした。

「げ、元気を出してください! ほらっ、菖蒲の声を思い出してみてくださいよ!」
「菖蒲の声、か」
「そうです! あの水のせせらぎのように澄んだ声を持つのは、世界を探しても菖蒲しかいませんよ! 菖蒲の声を聞くだけで、不思議と元気が沸いてきますし!」
「……確かに、お前の言うとおりだ。あれは菖蒲が生まれてから四年と九十八日と十三時間ほど経った頃の話だが、とある些細な案件から苛立っていた俺は、菖蒲の『お父様と結婚するにはどうすればいいのですか?』という一言により、不思議と笑顔になったものだ」

 どこまで詳細に覚えてんだ、この人は……。
 よほど菖蒲から言われた一言が嬉しかったんだな。

「で、ですよねっ! それにほら、菖蒲の雰囲気も素晴らしいとは思いませんか? そばにいるだけで安らぎますよね!?」
「いいや、安らぐどころではない。菖蒲がとなりにいるだけで無限の気力が沸いてくると言っても過言ではないだろう。違うか?」
「違いません! 重国さんの言うとおりだと思います!」

 俺が満面の笑みで同意すると、重国さんは楽しげに唇を歪めた。
 見つめ合って、通じ合って、認め合う。
 それは例えるなら、赤い夕日に照らされた河川敷で拳を交えた男たちの間に流れるような空気だった。

「……やはり、お前は稀有な才能を有する男だったようだ。ここまで話が分かるとはな」
「まだまだですよ! 正直に言って、僕はまだ菖蒲の魅力を語りきっていません!」
「面白い。お前という男から見た『高臥菖蒲』という女を、俺に聞かせてみろ」
「もちろんです。でも、重国さんから見た『高臥菖蒲』という女の子も、僕は聞いてみたいです」

 すると、重国さんは僅かに目元を和らげた。その顔は、思わず息を呑むほど菖蒲と重なって見える。

「いいだろう。瑞穂や参波にも話したことのない菖蒲の素晴らしさをお前に教えてやる」

 何かの決めゼリフのようだった。
 この二人っきりの食事会で改めて思い知らされたことは――重国さんが菖蒲のことを溺愛している、という事実だった。




 午後十時過ぎ。
 大勢の人で賑わう夜の繁華街を、俺は一人で歩いていた。
 あれから――俺と重国さんは菖蒲の話で大いに盛り上がり、美味しい料理に舌鼓を打ち、マスターに挨拶をして店を出た。会計は重国さん持ちで、本人曰く「大人に恥をかかせるな」とのこと。どこまでも渋い人である。
 店を出る間際、とてつもなく嬉しい出来事があった。
 支払いを終えた直後、俺が店内のトイレを借りたために、マスターと二人きりで話をする機会ができたのだ。
 店の外にいる重国さんを待たせてはいけないと思い、急いでカウンター席を横切ろうとする俺に、マスターは言った。

「数日前に、しげっちゃんが一人でこの店に来てくれたんだが――ずっと君のことばかり話していたぞ」

 と。
 聞くところによると――いままで重国さんは、高臥瑞穂、高臥菖蒲、参波清彦、そしてあと一人を含めた計四名だけしか、あの洋食屋に案内していないらしい。

「しげっちゃんは、自分が認めた人間だけしか、ここに連れてこないんだ。しげっちゃんとは二十年近い付き合いだけど、彼があれだけ誰かを気に入っているのは初めて見たよ」

 本当かどうかは分からないが、マスターはそんなことを言っていた。
 そういえば重国さんは、今日一日、俺のことを『萩原夕貴』ではなく『夕貴』と呼んでくれていたし、誰かの上に立つ人間の心得も説いてくれた。
 だから。 
 もしかすると――もしかするかもしれない。
 甘い期待は捨てるべきだと思うけど、それでも顔が緩んでしまうのは止められないのだ。

「……よし」

 明日から頑張ろう。
 もっと勉強して、色んな知識を身につけて、誰にも負けないぐらい強くなって――菖蒲に相応しい男になってやる。
 すっかりと暗くなった夜空を見上げる。
 重国さんとは洋食屋を出たところで別れたので、いまは一人きりだ。本当は車で家まで送ってもらうこともできたのだが、こんな締まりのない顔を見られたくなかったので、丁重に辞退した。
 去り際――重国さんは、

 ――夕貴。また連絡する。

 そう、言ってくれた。
 俺のどこを気に入ったのかは分からないが――もしかすると、また菖蒲のことを語り合いたいだけかもしれないが――とにかく重国さんは、『次もある』と言ってくれたのだ。
 そんなことがあったせいで、俺は一人で歩いているのにも関わらず、時折思い出したようにニヤけてしまい、すれ違う人から怪訝な目で見られてしまうのだった。

「……ん?」

 ふと、ポケットに振動を感じた。
 携帯電話を取り出してみると、案の定、誰かからメールが入っている。確認してみると、それは菖蒲からだった。
 そういえば一日の終わりに連絡してくれるって言ってたっけ。なんかメールって新鮮だな。ちょっと……いや、かなり緊張するぞ。
 実を言うと、俺と菖蒲はいつも一緒にいたので、ほとんどメールをしたことがなかった。する必要性がなかった、と言い換えても間違いじゃない。
 俺は、かの女優『高臥菖蒲』はどんなメールを送るんだろう、と彼女の一ファンとしてワクワクしながら――

「…………」

 なんだこれ。
 文頭が『謹啓、愛しの夕貴様へ』から始まって、文末が『謹言』で終わってるんだけど。
 たかがメールを送るだけなのに畏まりすぎだろ、菖蒲のやつ。
 俺たちは気心知れた間柄なんだから、こんな丁寧な文章じゃなくてもいいのに。
 さらによく見れば、なにかの画像が添付されているようだった。
 菖蒲の馬鹿丁寧な文面に呆れていた俺は、大して期待せずに添付ファイルを開いて――

「――っ!?」

 どくん、と心臓が跳ねる。
 かあ、と顔が熱くなるのが分かる。
 携帯の液晶に映っているのは――気恥ずかしそうに目をつむり、こちらに向けて瑞々しい唇を突き出す菖蒲の顔だった。
 まあ、いわゆる一つの――キス顔というやつである。
 ほんのりと赤くなった頬を隠そうともせず、まるで遠く離れている俺に想いを伝えようとするかのように、菖蒲はとんだサプライズ写真を送ってきてくれた。
 もう一度、彼女が送ってきたメールをじっくり読み返してみると、『夕貴様に、早くお会いしたいです』という一文が見受けられた。いや、もっと下には『夕貴様のフレンチトーストが……』とか、『夕貴様の腕の中に……』とか、『夕貴様が菖蒲以外の女性と懇意になってしまわれないか心配で……』とか、色々と書いてある。
 なんかもう……早くぎゅーと抱きしめてやりたい。
 あの柔らかな笑顔が見たい。
 心が安らぐような甘い匂いを嗅ぎたい。
 今朝別れたばかりなのに――もう会いたくて会いたくてたまらない。
 というか、すでに菖蒲のキス顔が爆弾クラスの破壊力を有していて、見つめているだけで唇が緩んでしまう。まあ速攻で待ちうけにしたけどなっ! 
 この画像をオークションに売り出せば、一体どれほどの高額で落札されるのか……もちろん誰にも渡さないけど。
 ……いや、待てよ?
 これって、菖蒲が勇気を出して俺にキス顔を送ってきてくれたんだから、俺のも送らないといけない感じのノリじゃないか?
 でもなぁ。
 菖蒲のやつ、俺のキス顔をゲットしたら、絶対に待ちうけに設定するだろうしなぁ。
 人様のあられもない写真を待ちうけにする奴がいたら、そいつはきっと鬼畜さんに違いないのだ。
 俺は自分の正論に頷きながら、菖蒲の待ちうけ画像を見つめつつ、返信するメールの文面を考えていた。
 ――そのとき。
 ガァン、ガァン、と短い破裂音が、連続して聞こえたような気がした。

「……なんだ?」

 立ち止まって、あたりを見回してみる。しかし、周囲の人たちには何も引っかかるものがないらしく、不審げな顔をしているのは俺だけだった。
 ……気のせい、か?
 そう片付けてしまうのが正解だろう。
 でも、あの耳に馴染みのない、何かが炸裂するような音が――頭にこびりついて離れない。
 自分でも上手く言葉にできないが、とにかく嫌な胸騒ぎがする。
 人間の勘は、俺たちが思っている以上に論理的な作業であり、信頼に足るものだ。決して侮ってはいけない。
 ……とは言ったものの、ちょっと変な音を聞いたぐらいで警戒心をあらわにするのもバカらしい。これが住宅街ならまだしも、ここは繁華街なのだから、俺の知らないところでクラッカーが鳴らされていてもおかしくない。今頃、近くの居酒屋で誕生日パーティーでもやってるのかもしれないし。
 無理やり自分を納得させた俺は、そこはかとなく周囲に視線を巡らせながら、家路を急いだ。  
 それは歩き始めて、およそ一分ほどしたときのことだった。
 ――どんがらがっしゃーん、と。
 今度は、近くの路地裏からゴミ箱を盛大にひっくり返したような音が聞こえてきた。
 なんだなんだ、と思いつつも、路地裏を覗き込んでみる――すると、そこには一人の少女が、ゴミ箱を盛大にひっくり返したような光景の中に、転がっていた。

「…………」

 無視したい。
 めちゃくちゃ無視したい。
 ぶっちゃけると、これが酔っ払った成人男性だったのなら見なかったことにもできたが、若い女の子が相手だとそうもいかない。ただでさえ暗い通りなのだから、誰かに襲われないともかぎらないし。なにより母さんから『困っている女の子を見かけたら、夕貴が助けてあげてね』と口を酸っぱくして言われているのだ。
 ため息一回分だけ思考した俺は、華やかな表通りから外れて、人気のない路地裏に足を踏み入れた。
 残飯や余った食材が散らばっているところを見るに、あの中身がぶちまけられたゴミ箱は、きっと付近の飲食店が利用しているものなんだろう。
 饐えた臭いが鼻腔を刺激する。
 俺は口で呼吸しながら、片膝をついて蹲る少女に声をかけた。

「……大丈夫か?」

 自分でも情けないぐらい小さな声。

「……?」

 すると、少女は怪訝そうに顔を上げる。
 その少女は――どこか触れがたい鋭利な美しさを持っていた。
 鏡のような艶やかさを持った長い黒髪は、後頭部の高い位置で一房に結わえられ、尻尾のように腰の下まで真っ直ぐに伸びている。
 まだ踏まれていない新雪のような肌は、白磁を連想せずにはいられないほど白く透き通っていた。
 こちらを見つめる切れ長の瞳は、しかし精彩がなく、どこか気だるげに見える。左目の下にある寂しげな泣きぼくろが、何とも言えない憂いを湛えており、少女の美貌を引き立てていた。
 ほんのりと朱に色づいた唇。すっきりと通った鼻筋。小柄ながらも引き締まった肢体――どれを取っても欠点はなく、一つのパーツとして完成していた。
 年齢は、恐らく菖蒲と同じぐらいだろうか。少なくとも俺より年上には見えない。
 上は黒のタートルネック、下は黒のデニムという、まるで闇に溶け込むかのような出で立ちで、少女は夜に君臨している。
 俺たちは何をするわけでもなく、ただ見つめあっていた。

「――いたぞぉ! こっち来いやっ!」

 路地の向こう――奥まったところから、巻き舌の怒声が聞こえてきた。
 俺と少女が同時に振り向くと、そこには派手なスーツに身を包んだ男性が二人、立っていた。遠目でも殺気立っていることが分かる。明らかに堅気ではない人たちだ。
 混乱する俺をよそに、彼らはふところに手を突っ込んで――拳銃を取り出した。そして、ためらいもなく俺たちに銃口を向けてくる。

「……逃げて」

 現実逃避しかかっていた意識を呼び戻す、鮮烈な声。
 それは危機感を覚えていないような抑揚のない口調だったが、少女の強い意志の篭った瞳が、俺に『逃げろ』と促してくる。
 よく見れば、彼女の顔は辛そうに歪み、額には脂汗が滲んでいた。押さえた腕から真っ赤な血が滴っているところを見るに、ほぼ間違いなく、この少女は負傷している。
 状況から見て――さきほどの破裂音は銃声で、この子が撃たれたもの……だろうか?
 とりあえず悠長に思考している場合じゃなさそうだ。

「――足を撃て! あの牝ガキが生きてさえいりゃいいんだ! 絶対に逃がすな!」

 屈強な体、温厚とは言いがたい形相、黒光りする拳銃――なるほど、恐らくは暴力団の人間だろう。
 彼らは、まるで何かに取り憑かれているような必死さで、例の少女を狙っていた。
 間もなく、トリガーが引かれる。

「――くそっ!」
 考えてる場合じゃない!

 ナベリウスに教わったことを脳裏で反芻しながら、右手を前に突き出す。
 普段は体内で抑えているDマイクロ波を――《悪魔》の因子を開放し、己の肉体に作用させる。
 溢れる高揚感、高まる身体能力、研ぎ澄まされていく五感、活発化した脳の情報処理――まるで世界が変革したかのような錯覚に陥るが、この場合、変わったのは世界ではなく俺だった。
 夜気を切り裂くような高音がして、強烈なマズルフラッシュが明滅する。それと合わせて、人体を軽く穿てるほどの威力を持った四発の弾丸が、高速で飛来してきた。
 網膜から取り込んだ映像を綿密に解析し――弾丸を見切る。
 ――いける!
 確信を抱くと同時、俺はDマイクロ波を一気に開放した。
 すると、キン、と何かに弾かれるような音がして――そのたびに、強力な運動エネルギーを有していた銃弾が、魔法のように俺たちから|逸れていく(・・・・・)。
 まだ弾き返すような芸当は無理だが、弾の軌道をずらすことはできるようだ。ぶっつけ本番だったので心配だったけど。

「……な、なんだっ?」

 事態を飲み込めず、呆然と突っ立っている男たちに向けて、俺は走り出した。

「舐めんなよクソガキぃ!」

 男たちは顔を真っ赤にして銃を構える。
 しかし、拳銃とは意外に当たらないもので、対人用として殺傷が期待できる有効射程距離は五十メートルほどだが、実際に多く使用される距離は二十メートル程度で、プロフェッショナルの人間が平均的に使用する距離ともなると実に七メートル前後にまで落ちる。
 訓練を受けたプロの傭兵ならまだしも、拳銃をちらつかせて威張るだけの暴力団構成員が、俺という『近づいてくる標的』に弾を当てるのは不可能と言っていいはず。
 しかも、発砲するためには『構える』、『照準を合わせる』、『トリガーを引く』という三つの動作を流れるように行わねばならない。このうち一つでも欠ければ、拳銃は殺傷兵器として機能しない。
 男たちが『構えた』ときには、もう俺は彼らのふところに潜り込んでいた。

「――こんの野郎ぁ!」

 一人の男が闇雲に発砲する。しかし、正しくシークエンスを完了させずに射撃した結果、弾は斜め上に発射されていき、夜空の向こうに消えていった。
 発砲の反動で手首が上がる――その隙を見逃さず、俺は男の腕を蹴り上げた。拳銃が空高く舞い上がり、夜の黒と同化して見えなくなる。

「ちぃ――!」

 だが、相手も暴力を生業とする人間だけあって、次のアクションが早い。
 男は得物を失っても戦意を喪失せず、ラリアットするように大振りのパンチを繰り出してきた。
 それを屈んでかわし、腹の右上――ちょうど肝臓のあたりを掌底で打つ。内臓にダメージを与えるのなら、拳よりも掌底のほうが効率的だとナベリウスが教えてくれた。
 そも肝臓とは、人体急所の一つ。的確に打たれれば激痛を伴う。それを証明するように、男は膝からくずおれた。
 しかし、安心するのはまだ早い。

「――ふっ!」

 鋭い呼気とともに、もう一人の男がナイフを突いてきた。
 さっきの男と違い、こっちの男は頭がよさそうだ。接近戦ならば拳銃よりもナイフのほうが断然使えるし、俺みたいな一般人には常識の範囲外である”拳銃”よりも、日常で使用している”刃物”のほうが、本能的な恐怖感が強く、先端を向けられると動きが鈍ってしまうことがある。
 喧嘩慣れした動き。
 暴力を振るうことに躊躇いのない身のこなし。
 的確にナイフを振り回してくる男は、かなり荒事に馴染んでいるようで、分かりやすい隙がなかった。
 でも――俺に『金属』は効かない。
 萩原夕貴という人間――あるいは《悪魔》と呼んだほうがいいのかもしれないが――には《ハウリング》と呼ばれる異能がある。

「――っ?」

 意図せずに生じた耳鳴りにより、男が顔をしかめた――それと同時、ナイフが見えない糸に操られるように、男の手から飛んで、離れたところにある地面に落ちた。

「――なん」

 ありえない事象を目の当たりにして、男に『分かりやすい隙』ができた。それを見逃さずに放った上段回し蹴りが、男の側頭部にヒットする。
 二人目の男が倒れるのと同時――空から、さきほど俺が上空に蹴り飛ばした黒塗りの拳銃が降ってきた。
 しーん、と静まり返る。
 残心する余裕もないので、俺はすぐさま少女に振り返り――

「――そこ動くなやぁ!」

 静寂は許さない、と言わんばかりの大声で、さっきの男たちとはべつの男たちが路地の奥から駆け寄ってくる。

「……マジかよ」

 頭を抱えて蹲りたい気分だった。
 次から次へと湧き出てくる暴力団構成員は、あの少女を狙っているらしく、俺には目もくれない。

「おいっ! 逃げろ!」

 一喝した。
 少女は気だるそうに立ち上がる――しかし、彼女は腕を負傷し、血が抜けて貧血状態になっているらしく、身体がふらついていた。
 不思議と――迷いはなかった。というよりも、迷っている暇はなかった、といったほうが正しい。
 俺は少女の小柄な身体を無理やり抱きかかえると、そのまま走り出した。

「……これ」
「うるせえ! 黙ってろ!」
「うん。分かった」
「はあ!? おまえ、なんで無駄に落ち着いてんだ!?」
「黙ってろって言われた。でも騒いだほうがいいなら騒ぐ」
「騒ぐな! いまは逃げるのが先だろうが!」
「うん。逃げぴこ、逃げぴこ」
「なんだその呪文は!?」
「”逃げる”を今時風に言い換えてみた。語尾に”ぴこ”をつけることで緊迫なイメージが薄れるという寸法。これ、きっと流行る」
「なんだこいつはぁぁぁぁ!?」

 それは、なんとも間抜けな逃走劇だった。
 



[29805] 2-4 呉越同舟
Name: テツヲ◆c49d9b75 ID:366fa69a
Date: 2012/03/11 01:06

 夜の繁華街。
 華やかな明かりの漏れる表通りから道を一つ外れると、薄暗いじめじめとした裏通りに行き当たる。その複雑に入り組んだ路地裏は、地理を知らない者からは迷路のようにも見える。立ち並ぶ建物の隙間を縫うようにして通路が通っているものだから、圧迫感が強く、空も遠い。
 派手なスーツを着崩した屈強な男たちが、ふところに刃物や拳銃を忍ばせて、あたりの通路を網羅するように駆け回っている。なにか探しものでもしているのだろうか、と思わせる様子だが、その認識は大体のところで間違っていなかった。
 一人の男が、それを満足げな様子で見つめている。
 月光を受けて輝く豪奢な金髪と、病んだ者を思わせる白蝋の肌。日本人離れした西洋風の顔立ちは、しかし男の放つぬめりつくような禍々しい気配により、どこか人間でさえないような風采を滲ませている。顔には作り物のごとき欺瞞の笑みが常に浮かび、眼球の露出が極端に少ない糸目が、人知れず進行する病魔のような不気味さを醸し出していた。
 風に揺れる神父服が、この退廃的な路地裏の雰囲気と相反しており、当てはまるはずのないピースを無理やり埋め込んだパズルを連想させる違和感が、その男にはあった。

「それで、首尾はどうなんですか?」

 両手を後ろで組みながら、男は問いかけた。そのかたわらに控えていた鳳鳴会の若頭が、戦々恐々としながら答える。
 これまで幾度も死線を掻い潜ってきた暴力団の幹部が、一介の神父に恐れをなしている光景は、明らかに異常だった。

「い、いや、その……下の者の報告じゃあ、いいところまでは追い込んだそうなんですが……」
「どうぞ、続けてください」
「……なんでも、そこに居合わせた若いガキが、女を連れて逃げたと」
「ガキ? 誰です、それは」
「分かりません。ただ、このあたりの組とはもう話をつけてますから、恐らくは堅気の人間でしょう」
「……ふうむ」

 男は思案する。ほんの暇つぶし。単なる娯楽のために例の女を追っていたが、もしかすると思わぬ収穫があるかもしれない。

「まあいいでしょう。君たちは引き続き、女を追ってください」
「……分かりました」
「ああ、それと」

 ひたいに冷や汗を浮かべながら下がろうとする若頭を睨ねつけて、男は言う。

「女を補足しても、絶対に手を出さないでください。まずは崇高な僕に一報を。君たちごときでは、あの少女には勝てないでしょうしねえ」

 男から発せられる凶悪なプレッシャーが、まるで死神のように若頭の肩に圧し掛かる。それは殺気などという言葉では生温い、もはや人間には発せない類のオーラである。
 《鳳鳴会》の若頭は、まるで暗示か洗脳をかけられたように頷いた。三十代前半の彼は、男気と根性を併せ持ち、喧嘩に強く、部下から慕われ、敵からは恐れられるような傑物だったのだが、その面影はすでになかった。

「……は、はい。かならず!」

 震える声で呟き、前のめりになりながら駆け出していく。しばらくすると、通路の向こうから部下を叱責する怒声が聞こえてきた。どうやら彼は、真面目に職務を遂行しているようだった。
 一週間ほど前、この金髪に神父服を着込んだ男によって襲撃された鳳鳴会は、統率力を持った幹部クラスの人間を、さきほどの若頭を除いてほとんど失った。それにより命令系統は崩壊し、組織体系の維持が不可能となって、鳳鳴会は一時的に壊滅状態に陥った。
 その女王アリを亡くした働きアリの集団を、悪魔的なカリスマで支配したのが、この男である。つまり現在の鳳鳴会は事実上、男の私兵と化していた。
 人間を操るのは面白いが、娯楽に傾倒しすぎるのも問題だ。
 男がこの街にやってきた、そもそもの目的は――偉大なる《悪魔》の遺児を手に入れることなのだから。

「……おや?」

 薄暗い闇の中を歩き出した男は、やがて道端に薄汚れた週刊誌が捨てられているのを見つけた。
 その表紙を飾っているのは、淡い鳶色の髪をした見目麗しい少女。男が日本にやってきたのはつい最近だが、それでも芸能人と呼ばれる類である”彼女”には見覚えがあった。
 いずれ、そう遠くない未来、この女も。

「くっくっ……」

 ぐしゃり、と週刊誌を踏み潰し、顔を手で覆って、男は忍ぶようにして笑った。
 その佇まいは、神を堕とそうとする悪魔のようだった。


****


 俺は今日ほど自分の迂闊さを呪ったことはない。

「……はぁ」

 スプリングの利いたベッドに腰掛けて、俺はひたすら内省していた。ため息は通算で、もう十回を越えていると思う。
 やたらとアダルティック風味に装飾された部屋の中。薄いピンク色の照明、備え付けの冷蔵庫、ジャグジー付きのバスタブ、なぜか天井に設置された鏡、オーディオやカラオケセット、人間二人がいかがわしいことをしても大丈夫そうな大きさを持つダブルベッド、その枕元にはティッシュの箱と避妊具、エトセトラ、エトセトラ……。
 率直に言うと、俺がいるのはホテルだった。それも先頭にラブがつく、大人のためのホテルである。
 部屋の中は静まり返っているため、耳を澄まさずとも、シャワールームのほうから水の流れる音が聞こえてくる。それを聞いていると、もやもやとした煩悩が沸いてくる。いちおうは非常事態なのに。
 あれから――俺と例の少女は、武装した暴力団構成員を振り切ろうと、夜の街を駆け回った。しかし相手の数が多すぎたため、上手く逃げ切ることができず、下手な逃走劇となってしまった。そして、とりあえず安全を確保することが第一だと判断した俺は、手近な建物に潜り込んだ。
 その判断が間違っていたとは思わない。ただ、適当に逃げ込んだ先がラブホテルだったのは誤算だった。まあこういう場所は面倒な手続きがいらない上に、時間をかけずに個室まで辿りつけるので、『身を隠す場所』という意味では最善かもしれないのだが。
 あの少女は、部屋に着くなり「シャワー」と短く言い残し、浴室に消えていった。恐らく、悪臭が我慢ならなかったのだろう。路地裏でゴミ箱の中身をもろに被ったみたいだったしな、あの子……。
 黙っていても陰鬱な気持ちは晴れそうになかったので、テレビでもつけて気を紛らわせることにした。
 リモコンのボタンを押すと、液晶に光が灯った。
 テレビに映ったものは、とにかく肌色。あとは淫らな水音、荒くて甘い息遣い、女性のいやらしい嬌声。それはアダルトビデオだった。

「あわわっ……」

 動転した俺は、女々しい悲鳴を上げながら、リモコンの受光素子をテレビに向けた。それと同時に、浴室の扉が開いて、小柄な人影が姿を見せる。

「なにしてるの」

 シャワーから上がった少女の開口一番がそれだった。

「なにって――」

 言い訳しようと振り向いた瞬間、俺は見事に石化した。
 汗を流したばかりの彼女は、当然と言わんばかりに肌の大部分を晒した状態だった。申し訳程度にバスタオルをまとっているものの、それだけである。ほとんど身体を拭いていないらしく、全身が濡れていた。タオルの縁から伸びる見事な脚線には水滴が伝っており、それがカーペットにぽたぽたと落ちて、染みを作っていく。
 身長は、およそ一五〇センチメートルほどか。年齢は菖蒲と同じぐらいだろう。小柄な体格を裏切らず、胸元の膨らみはほとんどなかった。
 黙って見つめあう俺たちを嘲笑うかのように、テレビの中では「いいっ! いいっ! いいのぉ……!」と女性が鳴いている。
 迷った末、俺はリモコンの赤いボタンを押して、うるさいほうの女を黙らせた。
 しかし、寡黙なほうの女を黙らせることはできないらしく、 

「消すの?」

 液晶を指差し、抑揚のない口調で言う。この少女は基本的に無表情なので、なにを考えているのか分からない。俺は顔を背けた。

「ああ。つーか、そんなことはどうでもいいから、まずは服を着てくれ……」
「わかった」

 ベッドの上であぐらをかく俺の背後で、がさごそと布擦れの音がする。バスタオルが身体を拭う音。片足ずつあげて、なにか小さな布を穿く音……。
 悶々としながらも耐え忍んでいると「終わった」と短い声が聞こえてきた。
 少女は黒のタートルネックとデニムを纏い、近くにあった椅子に腰掛けている。美しい黒髪は後頭部の高い位置で一房に結わえられ、尻尾のようになって背中に垂れ下がっていた。いわゆるポニーテールという髪型だ。つーか、まだ髪が濡れてるんだから、もっと乾かしたほうがいいんじゃないかと思う。女の子としての嗜みみたいなもんがないのか、この子は。
 場所が場所だけに凄まじく気まずかったのだが、黙っていても状況は好転しないと思い、友好的に歩み寄ることにした。

「……あー、まずは、その、自己紹介からだな。おまえの名前は?」
「美影(みかげ)」

 ぽつりと呟く。友好性の欠片もなかった。

「……そ、そうなんだ。それって名前だよな? 名字は?」
「壱識(いちしき)」

 やはり素っ気無い。仕方ない、ここは俺が空気を和ませてやるか。ちょうど渾身のギャグを思いついたしな。

「へえ、壱識美影っていうのか。なんか技名みたいで格好いい名前だな」
「……?」
「あれだよ、あれ。よく漫画とかに出てくる技には零式とかあるだろ? つまり零式があるなら壱式も……」
「…………」
「な、なんだっ? そんなにつまんなかったのかっ? 確かに自分でもスベったとは思ったけど、もう少しぐらい明るいリアクションを返してくれてもいいだろ!?」
「……ぐう」
「寝んなボケぇー!」

 怒鳴ると、少女――壱識美影はふらついていた頭を振った。そのマイペースな仕草にカチンとくる。
 俺は挑発的な口調で、

「あーあ。名前が変なやつは、性格まで変みたいだな。壱識とかどんな名字だよ」

 これみよがしに、ぷぷっ、と笑ってやると、美影の目がわずかに鋭くなった。

「名前は?」
「俺か? 聞いて感動するなよ。萩原夕貴っていうんだ。”萩原”は母さんの姓かと思いきや、実は父さんの姓でさ。そういや俺は母さんの姓を知らないんだけど、でもまあ母さんは俺に”夕貴”っていう最高の名前を与えてくれたから……」
「ぷぷっ、普通」

 わざとらしく口元に手を当てて、美影は忍び笑いをした。何事にもやる気がなさそうに見えるわりには負けず嫌いなのか、彼女は俺から目を逸らそうとしない。

「…………」

 名前をバカにされた時点で、俺の怒りは沸点に達していたのだが、喧嘩している場合じゃないと自分に言い聞かせることにより、なんとかクールダウンに成功した。

「……んで、おまえは何なんだ?」

 その漠然とした問いに、美影は本気で考え込むそぶりを見せた。しばらくして明快な答えを思いついたのか、美影は心なしか嬉しそうな顔で面を上げた。

「クーデレ。私は壱識・クーデレ・美影」
「待て待て、間に意味不明なもんが混入してんぞ。くーでれ、ってなんだ?」
「普段はクールで、たまにデレデレする人のこと」
「なるほど……ん? おまえってクールには見えるけど、べつにデレデレはしてないよな?」

 ぎくっ、と美影の身体が跳ねる。明らかに戸惑っていた。

「べ、べべべつにそんなことないし。私、超デレデレだし」
「もうちょっと上手く誤魔化せよ……。とにかくおまえは、そのクーデレとかいうやつじゃないと思うぞ」
「むう……」

 自分でもしっくり来ていないのか、美影はかたちのいい顎に手を添えた。左目の下に泣きぼくろがあるせいか、物憂げな顔がよく似合っている。

「まあクールはともかくとして、おまえがデレデレしてる姿なんか想像すらできねえよ。そもそも、おまえって好きな男とかいるのか? あるいは、好きなタイプでもいいけど」
「好きな人はいない。でも」
「でも?」
「好きなタイプは、男らしい人」

 その言葉を聞いて、俺は体が熱くなるのを感じた。

「おいおいおいおい! マジかよ、おまえ!」
「……?」
「いや、だってさ。この状況で好きなタイプが『男らしい人』って言ったら、それってもう俺に対する告白じゃねえか!」

 やっぱりあれか、王子様のように颯爽と彼女を助けたことが罪作りの始まりだったのか!?

「……はぁ」

 なぜか、美影は大きくため息をついた。そして、さも面倒くさそうに立ち上がったかと思うと、冷蔵庫からブロック状の氷を取り出して、それを持ったまま俺のところに歩み寄ってきた。
 はい、と差し出される冷たい氷。受け取ると、もちろん冷たかった。

「……なんのつもりだ?」

 これで頭を冷やせとでも言うのだろうか。

「喋らないほうがいい。悪化する」
「なにがだ!? おまえのタイプは『男らしい人』なんだろ!? つまり、俺だろうが!」
「夕貴。きもいを越えてきゃっそい」
「きゃっそい? なんだそりゃ」
「”きもい”の最上級形。次世代を担うセンセーショナルな言葉。これ、きっと流行る」
「いや、それはさすがに流行らないと思うぞ? なんか言いにくいし」
「え…………?」

 この世の終わりを目前にしたような顔だった。それまでは茫洋とした佇まいの中にも凛とした一本の芯みたいなものが通っていたのだが、いまの美影は捨てられた子猫のように小さく見える。ついでに目もうるうると潤んでいるようだった。

「……残念」

 美影は肩を落として、とぼとぼと椅子に戻っていく。その儚げな背中を見ていると居たたまれなくなってきた。

「い、いやぁ、やっぱり”きゃっそい”は流行るかも……」

 美影に聞こえるように独り言を呟いてみたが、効果はない。
 それからも何度か声をかけたのだが、美影はなにも言わなかった。
 せめて反応ぐらいしろよと思った俺は、彼女の背中に向けて、さっきもらった氷を投げつけた。わずかに溶け始めていたブロック状の氷が、放物線を描いて美影に迫る。
 そのときだった。
 美影が振り向くことなく背中を向けたまま、右腕を水平に伸ばした――それと同時、中空を舞っていた氷が、まるで見えない刃に切り裂かれるように真っ二つに割れて、カーペットに吸い込まれていった。もちろん美影はナイフを持っていないし、彼女の位置からは氷を切断することも物理的に無理だった、はずなのに。

「…………」

 手品のような光景を見て、俺は絶句していた。
 そんな俺の混乱とは無縁の美影は、つまらなさそうに唇を引き結び、背中を丸めていた。オリジナルの流行語(?)を否定されたのが、よほどショックだったらしい。
 俺は狐につままれた気分になりながらも、これからどうするのが一番正解なのかと頭を悩ませていた。




「……痛くないか?」
「痛い。でも我慢できる」
「そっか。偉いぞ」

 ベッドの上では、美影が上半身の服を脱いで女の子座りをしている。腕の治療をするためだ。本人は誤魔化していたのだが、時間が経つにつれ血が滲み出てきていたので、せめて止血だけでもしようと彼女を説得したのが数分前のこと。
 腕といえば、美影は両手首にブレスレットのようなものをつけていた。まったくデザインのない無骨な代物である。最近は、こういうのが流行っているのだろうか。
 滑らかな白い肌には痛々しい傷跡があった。どうやら銃弾が掠ったらしい。深刻なダメージではないが、出血量が多い。一度病院できちんとした治療を受けたほうがいいように思える。
 包帯なんて洒落たものは当然ないので、タオルを適当な大きさに引きちぎり、美影の腕に巻いてやる。
 彼女を治療しながら、俺はどうして出会ったばかりの女の子とラブホテルにいて、しかも傷の手当をしてるんだろう、と不思議な気分に陥っていた。

「よし、終わったぞ」
「ん」

 いそいそと服を着込む美影。さすがに胸元は隠していたが、あまり羞恥心の類は持ち合わせていないらしく、肌を晒すのに抵抗はないようだった。

「……あれ?」

 ふと、美影のわき腹に目がいった。スポーツでもしていたのか、無駄な贅肉が一切ない。引き締まった肢体を裏切らぬ細くくびれた腰。そこに青紫をした痣のようなものがある。

「おまえ、それ……」
「べつに痛くない」
「そういう問題じゃねえだろ。そっちも治療するからじっとしてろ」
「だから痛くない」
「うるせえ。黙って癒されてろ」
「やだ」
「おまえ……」
「触るな。変態」
「誰が変態だ! 言っとくけど、俺は女の子をいじめて悦ぶような男じゃねえからな!?」
「……?」

 しまった。
 なんか余計なことを言ってしまったような気がするぞ。

「……と、とにかく。怪我してる女の子を放っておくのは母さんの教えに反するんだよ。無理やりにでも治療してやる。ほら、こっち来い」
「近づくな。強姦魔」
「だれが強姦魔だ! 俺は女の子を襲うような鬼畜じゃねえよ!」

 どうやら彼女は、男に興味がない反面、男をそれなりに警戒しているようで、俺に必要以上の接触を許してくれない。怪我を治療させてくれたのも、自分ひとりでは満足に止血ができないと判断したためだろう。
 ぶーたれる美影をなんとか説得したところで、一つの問題が浮上した。
 湿布はないので、適当な袋に氷を詰めて、それを患部に当てようかと思っていたのだが、ちょうど使えそうな袋がないのである。
 部屋の中をがさごそと漁っていると、

「夕貴」

 ちょんちょん、と背中をつつかれた。

「なんだよ。袋が見つかったのか?」

 答えて、振り向く。
 そこには、ゴムっぽい素材でできた円形状の物体を指でつまんだ美影の姿があった。ラブホテルに備え付けてあるアレのことだ。

「お、お、おまえ、それは……!」

 円滑な家族計画を進めるための必須道具じゃねえか! あるいは夜のお供と言い換えても間違いじゃない!

「これに氷を詰めれば使えそう」
「いや、確かに使えそうだけど……」

 まだ十五、六の少女に、これを使わせてもいいのだろうか?
 美影は丸まった部分をくるくると引き伸ばした。どうも表面上に塗布されたゼリー状の潤滑剤がべとつくらしく、不愉快そうな顔をしていた。

「夕貴、夕貴」

 今度は服が引っ張られる。まるで餌をもらうときだけ近寄ってくる猫みたいだ。

「なんだ?」
「これ、なに?」
「…………知らないのか?」
「だから聞いた」
「……まあ、そりゃそうか」

 なんというか、娘に「子供ってどうやって作るの?」と聞かれた親の気分を、疑似体験したような感じだ。悩んだ末、俺は苦し紛れの説明をした。

「……それはな。男の子を守り、女の子を慈しむ、言うなら命を育むための大切な道具なんだよ。将来はおまえも使うようになるはずだから、敬意を持って接しろよ」
「マージョリー?」
「は? なに言ってんだ、おまえ」

 美影はよくぞ聞いてくれた、といわんばかりに胸を張った。しかし残念なことに、服の胸元はほとんど盛り上がっていない。
 気だるそうにぼんやりとしていた切れ長の瞳が、キランと輝いたように見えた。

「マージョリーは、”マジ”を幅広い年齢層に使ってもらえるように言い換えた結果。どことなくインテリな雰囲気を漂わせることから、就職面接で使っても嫌な顔はされず、むしろ感心されることが予想できる。これ、きっと流行る。来年の流行語大賞はもらった」
「いきなり饒舌になりすぎだろ、おまえ。あと、ちょっと言いにくいんだけど……それ、流行らないと思うぞ?」
「マージョリー?」
「ま、マージョリーだ」
「……残念」

 美影は肩を落として、とぼとぼと歩いていった。まるで彼女の周囲だけ重力が強くなったのではないかと錯覚するぐらい落ち込んでいる。その背中からは、なんともいえない哀愁が漂っていた。
 結局、美影は『例のブツ』に氷を入れて、患部を冷やすことになった。

「これ、伸縮性があるわりには破れない。気に入った」

 …………。
 もう少し詳細に教えておいたほうがよかったかもしれない、と俺は後悔することになった。




 俺たちがラブホテルに潜伏してから一時間半が経った。
 それなりに打ち解けた頃合を見て、俺は当初から気になっていたことを聞いてみることにした。
 あの命がけの逃走劇が功を奏したのか、美影は俺に敵意や悪意を持っていないようで、あまり警戒はされていない。まあ手で触れたりするとすぐに弾かれるところから見て、懐かれているとも言えないのだが。
 窓辺。カーテンの隙間から外の様子をうかがう。すぐとなりには背の低い建物があった。あちらもラブホテルのようで、屋上には卑猥な看板がある。ここが七階だから、向こうのホテルは五階ぐらいの高さだろうか。まあどうでもいいが。
 俺はベッドで寝転ぶ美影に向けて質問した。

「そろそろ聞いてもいいか? どうしておまえが暴力団に狙われてんのか」
「…………」

 返答はない。よほど言いにくいことなのだろう。

「自分から巻き込まれた俺が言うのもなんだけど、事情は把握しておきたいんだ。このままおまえを放っておくのも気分が悪いしな」
「…………」
「だから教えてくれ。なにがどうなってんだ?」
「……ぐう」
「だから寝んなやコラァー!」

 近場の壁を強く叩くと、その音と衝撃で、美影の身体がびくんと跳ねた。腹の上に乗せてある、丈夫なゴム製の袋に入れられた氷水が揺れる。
 ふわぁーあ、と眠そうにあくびをかまし、美影は言う。

「夕貴、うるさい」
「おまえが静かなんだって。年頃の男と一緒にいるんだから、もっと警戒しろよ」
「うん、するする」

 口うるさい教師の詰問に飽き飽きした生徒のような気のない返事。
 果たして、こいつにとって男とは何なのだろうか。自分で言うのもアレだけど、女の子にとって出会ったばかりの男と密室に二人きり、というシチュエーションはわりと恐怖だと思うのだが。

「なあ美影。おまえ、俺のことが怖くないのか?」
「もっちー竹原」
「…………」

 なんかまた意味の分からないことを言われてしまった。俺が閉口していると、美影はなにかを思いついたようにぽんと手を叩いた。

「あ、もっちー竹原とは、”もちろん”という使い古された言葉にコメディ風味を加味したもので、これからの時代を担うに相応しい――」

 それから数十秒、美影の説明は続いた。気のせいかもしれないが、こういった話をするときだけ美影は活き活きとする。
 すべてを聞き終えてから、俺はため息をついた。

「あのなぁ。そんなどうでもいい話より、もっと大切な話があるだろ」

 諭すように言うと、美影は不機嫌そうに瞳を細めた。泣きぼくろが彼女をより悲壮に見せている。

「……もっちー竹原はどうでもよくない」
「わかった、わかった。俺もこれから”もっちー竹原”を使うから、とっとと話を進めてくれ」

 冗談半分で言ったのだが、美影はキラキラと瞳を輝かせた。めっちゃ本気にしている。

「本当っ? もっちー竹原、使うっ?」
「も、もっちー竹原」

 なんだこれは。日本語をバカにしているような気がして、微妙に申し訳なくなってくるぞ。
 俺はマグカップに淹れたインスタントコーヒー(部屋に備え付けてあったもの)を口に含み、続けた。

「じゃあ気を取り直して話を本題に戻すけど……どうして美影は、あんな乱暴なやつらに追われてたんだ?」

 ベッドに寝転んだままの美影と目が合う。さきほどまでは精彩が欠けていたはずの切れ長の瞳に、いまは怜悧な光が宿っている。数瞬の沈黙を挟んで、美影は答えた。

「仕事」
「仕事? 内容は?」
「とある敵を追ってた。その敵が暴力団を掌握した。物量に圧されて不覚を取った。以上」
「……は? え、いまので説明終わり?」

 こくり、と頷く美影。どうやら終わりらしかった。ナベリウスのときと同じぐらいツッコミどころが満載なので、どこから追求するべきか迷う。

「……ところで、その敵ってなんだ? お姉ちゃんを二股の末に捨てた悪い恋人とか、家族を貶めた悪い詐欺師とか、そういう感じの敵か?」
「違う。バケモノ」
「……バケモノ?」
「そう。私の仕事、バケモノ退治」
「――っ」

 思わず言葉に詰まった。
 それはもしかすると、俺自身が純粋な人間じゃないから、と無意識のうちに気後れしているからかもしれなかった。
 美影曰く、《壱識》は古くから『人間ではないモノ』を薙ぎ払うことに執着し、それを生業としてきた家系であるらしい。分かりやすく言えば『バケモノ専門の殺し屋』、あるいは漫画とかに出てきそうな『妖怪退治屋』みたいなもの……だろうか? 詳しくは分からないけど。
 美影を追っていた連中は、この繁華街に拠点を置く鳳鳴会という暴力団。ただしいまの鳳鳴会は、その美影が追っているという《敵》の支配下にあり、組織としての体系を保っていないという。いわば《敵》とやらの私兵と化しているのだ。
 ある程度の話を聞き終えて、俺は違和感を覚えた。こんな小さな身体をした少女が、半日常的に殺し合いをしているという事実に。

「……?」

 俺の視線を受けて小首を傾げる彼女は、どこからどう見ても戦闘に耐えられるだけの身体をしていないのに。
 まあ、いくら考えても答えは出ないか。
 どちらにしろ、夜が明けるまでは、この部屋でじっとしている必要がある。朝になれば暴力団もそう自由には動けない。ゆえに日が昇るまでのあと数時間は安心できず、場合によればまた逃走劇が始まるかもしれない。

「私からも質問」
「ん、ああ、べつにいいけど」

 無表情のまま挙手した彼女は、わりとどうでもよさそうに言う。

「夕貴、何者?」
「何者、か……」
「裏では異能なんて珍しくない。でも夕貴のは知らない」
「…………」

 いまは非常事態なんだし、正直に説明したほうが得策だとは思う。
 でもここで俺が《悪魔》の血を引いている、と告白しても大丈夫なのだろうか? べつに美影を信用していないわけじゃないが、彼女が異端狩りを生業としている以上、迂闊に俺の事情を漏らすのは憚られる。
 どうしよう、どう答えるのが正解か。そう内心で舌を打ったときだった。

「来た」

 美影から怠惰な空気が消えて、鋭い緊張感が生まれる。

「来たって……」

 言いかけて、俺の耳がどたどたと遠慮のない足音を捉えた――ような気がした。咄嗟に悪魔の”波動”を耳に作用させて、部分的に聴力を強化する。

「……マジかよ」

 どうやらこのホテルに、数十近い人間がなだれ込んで来ているようだった。恐らくは鳳鳴会の人間だろう。巻き舌の怒声や、なにかを破壊するような音も聞こえる。
 彼らは階段を使って、俺たちの部屋がある地上七階のフロアまで駆け上がってきている。しかも道を塞ぐように、非常階段のほうからもだ。
 もう間もなく、このラブホテルは戦場と化すに違いない。
 美影と行動をともにしている以上、いまさら投降しても無事に家に帰してもらえるとは思えない。第一、この子を敵に差し出してまで、俺は助かりたくないし――
 ゆらりと立ち上がった美影が、気だるそうな顔のまま口元に手を添えて、ぷぷっと笑った。

「夕貴。せいぜい格好よく死んで」
「死なねえよ! 無様でも何でも逃げ延びるわ! 俺の帰りを待ってる人がいるんだからな!」
「恋人?」
「まあ似たようなもんだ。機会があったら紹介してやる」
「いらない」

 抑揚のない口調で、美影は否定した。心の底から興味を抱いていないような声色だった。自分のこと以外は無関心なのかもしれない。
 不思議なことに、その美影らしい態度を見て、なんのドラマもなく、俺の腹は決まった。悪いやつらに追われてる女の子を放って家に帰るなんて、男のすることじゃないよな。
 俺は美影の頭にぽんと手を置いた。

「まあ、いまは逃げるのが先決だな」

 美影が上目遣いで俺を見る。とうとう触れることには成功したのだが、しかし美影は不愉快そうに「んー」と唸って、俺の手を払いのけた。

「触るな。うざい」

 肩にかかっていた黒髪の房を背中に流して、キッと俺を睨んできた。
 俺としては握手感覚で頭を撫でたつもりだったのだが……ま、まあ女の子のなかには、身体を触られるよりも髪を触られるほうが嫌だっていう子もいるらしいし、美影もそういうタイプに違いない。

「……そんなに嫌だったのか」
「頭にゴキブリが乗ったのかと思った」
「えっ、言いすぎだろ!?」
「じゃあ蜘蛛が乗ったのかと思った」
「……それも微妙だけど、ゴキブリよりはマシか。ちなみに、なんで蜘蛛なんだ?」
「私が虫の中で一番嫌いなものが蜘蛛。次点でゴキブリ」
「悪化してるじゃねえか!」
「喋るな。この二酸化炭素発生装置が」
「ひでえっ! さすがの俺もマジで傷つくぞ!」

 まったく。いつかこいつとは白黒つけたほうがいいのかもしれない。

「……まあ、いいか。そういやお前ってバケモノ退治してるとか言ってたけど、ぶっちゃけ強いのか?」
「うん。私、超強い」
 無表情のまま腕を曲げる。しかし細身の腕には、力こぶなんて上等なものは見当たらない。めちゃくちゃ弱そうだった。
 俺は内心でため息をつき、かぶりを振った。

「とにかく、だ。まずはホテルから逃げよう。それでいいか?」

 しばし黙考してから、美影は抑揚のない小さな声で、

「もっちー竹原」
「マージョリーか」
「うん。逃げぴこ、逃げぴこ」 

 恐らく。
 それは俺たち以外には理解できないであろう、日本語をバカにしつくしたような確認の合図だった。




[29805] 2-5 鬼哭啾啾
Name: テツヲ◆c49d9b75 ID:366fa69a
Date: 2012/03/11 14:09

 ラブホテルというものは基本的に防音がしっかりしているはずだが、どうにも騒がしい。巻き舌の怒声、大地を踏み鳴らすような足音、暴力的な破壊音、一般人の悲鳴。それら怒涛の騒音が渾然一体となって、この建物を包み込んでいる。
 不幸中の幸いは、ここがラブホテルだったことだ。フロントは無人。会計も自動清算支払機で済ませられるので、身分証明書を提示せずとも部屋まで直行できる。つまりホテル側の人間は、泊まっている人間のことを逐一把握していない。いくら暴力団でも、客のプライベートに関与していない従業員から、俺たちの所在を聞きだすのは無理だろう。

 警戒しながら廊下に出ると、ちょうどとなりの部屋から初老の男性と若い少女が出てくるところだった。親子ほども年齢が違う彼らからは、明らかな犯罪の匂いがした。ズバリ援助交際だろう。
 ほかにも何組かのカップルが慌てて部屋を飛び出しては、転がるようにしながら階段やエレベーターのほうに駆けていく。威嚇のためか、さきほど階下から何発かの銃声が聞こえてきた。ホテルでお楽しみ中だった人たちが泡を食って逃げ出しているのはそのため。
 一般客の姿はちらほらと見かけるのだが、しかし暴力団らしき影はどこにも見当たらない。おそらく、彼らは一階からしらみつぶしに俺たちを探している。ゆえに地上七階にあるこのフロアには、まだ捜索の手が及んでいないのだ。

「よし、逃げるならいまだな」

 ここで問題は、どこからどう逃げるか。

「夕貴。どうする?」

 俺の服を引っ張りながら、美影が尋ねてくる。その茫洋とした瞳からは、どこか俺という人間を試そうとするかのような思惑が感じられた。

「そうだな……」

 目を閉じて、脳裏でありとあらゆる情報を再生し、咀嚼し、反芻していく。

「たぶんだけど、この建物には三つの出入り口があるはずだ。一般客が利用するものと、従業員が利用するものと、緊急時に使われる非常階段」
「うんうん」
「このなかで一番手っ取り早いのは三番目のやつだな。表口も裏口も一階からしか繋がってないけど、非常階段は全フロアから繋がってる。あの緑のマークに従って移動すれば、迷うことなくたどり着けると思う。ただ」
「相手がもう抑えてる」

 そんなことは初めから分かっている、とでも言いたげに、美影が言葉を引き継いだ。
 暴力団側としても、せっかく追い詰めた獲物を逃がす真似だけはしたくないだろう。初めから出口なんて塞がれてると考えたほうが後々に気が楽だ。まともな方法で逃げ切れる、と楽観視するのは止めたほうが無難。
 だが正面から突破するのもリスクが大きすぎる。俺の能力にも限度があるし、美影がどの程度戦えるのかも分からない。相手は拳銃や刃物を装備しているし、その具体的な人数だって不明。あまりにも不明瞭な要素が多すぎて、作戦を立てようにも上手く行かない。
 どうする、どうすればいい……?
 必死に頭を働かせるが、利口に迷う時間などあるはずがなかった。それを思い知らせるように、俺たちのいるフロア、七階に暴力団がなだれ込んできた。けたたましい騒音と、暴力的な緊張と、乱暴な気配。

「いたぞ! こっちだっ!」

 敵の一人が出したその合図を皮切りにして、階下にいた暴力団構成員が次々と七階に上がってくる。
 通路の向こう、ちょうど階段のあたりにいる男たちは、目算で七人。彼らは拳銃を構える。背後にいた美影が動く気配がしたが、俺はそれを左手で制し、右手を前に突き出す。べつに手を伸ばす必要はないのだけれど、そうしたほうが『銃弾を逸らす』というイメージを作りやすいのだ。
 警告もなく男たちが発砲してきた。ガァン、と鼓膜が割れそうな轟音。ホテルの通路に、たちまち硝煙の臭いが漂う。
 キィン、とかすかな耳鳴り。
 空気を切り裂くように突貫してくる銃弾を知覚し、それを構成する『金属』にDマイクロ波を作用させる。でたらめになる運動エネルギー。銃弾は真っ直ぐに飛ぶことができず、ありえない急角度で方向転換していった。いくつかは天井に跳弾し、電灯を破壊した。ぱらぱらとガラスの破片が降り注ぐ。
 数瞬、男たちが困惑した。それは絶好の隙と言えたが、いかんせん距離が遠すぎる。これといった遮蔽物のない通路においては、拳銃を持っている彼らのほうが圧倒的に有利だ。

「逃げるぞ、美影!」

 この場でじっとしていても事態は好転しない。少なくとも拳銃の射線から逃れることのできる場所に移動する必要がある。

「でも」
「こっちだ!」

 ぼんやりとした顔でなにかを言いたげにする美影の腕を引っつかみ、ほとんど引きずるようにしながら、俺は走り出した。
 このホテルの通路は、アルファベットの『L』のようなかたちをしている。とりあえず角さえ曲がってしまえば、被弾の心配はしなくていい。
 電灯が割れたせいで薄暗い通路をひた走った。男たちは俺と美影を追いながら発砲してくる。すぐ近くの壁や、足元の床、天井に穴が穿たれ、コンクリート片が飛び散った。
 間もなく、角を曲がる。銃弾の雨が止んだ。
 遠くのほうには緑のランプ。緊急用の出口。あの重々しい鉄の扉を開けば、屋外に設けられた避難階段に出られる。そこにも敵はいるだろうが、真っ直ぐ伸びたホテルの通路とは違い、階段の踊り場なら迂闊に拳銃は使用できないはずだ。多少のリスクは伴うが、もう贅沢を言っている場合じゃない。なんとか接近戦に持ち込み、相手を蹴散らす。あとは闇に乗じて逃げればいい。
 幸いにも、非常出口は屋内からしか開かないようになっている。つまりいま扉がバーンと開いて、向こうから敵が出てくるというようなシチュエーションはありえない。それは俺たちにとって幸運と言える。
 だが、間に合わない。
 俺たちが非常出口に到達するよりも、暴力団の連中が角を曲がり、拳銃の照準を合わせるほうが明らかに早い……!

「美影!」
「わかった」

 俺はその場で立ち止まり、美影は非常出口のほうに駆けて行く。あの扉を開くのには数秒の時間を要する。それまでの間、雨と注ぐ銃弾から身を守る必要があるのだ。
 向こうの角から、スーツを着崩した男たちが姿を見せる。それと同時に、美影が非常口の取っ手に手をかけた。
 しかし。

「……開かない」

 ガチャガチャ、と取っ手を動かすが、扉は固まったように動いてくれない。
 それは力が足りないとか、開け方が分からないとか、そんな単純な理由じゃなかった。こうしたホテルの非常口は、誤用を防ぐために非常ベルが鳴らなければ開閉しないタイプの場合があるのだ。そして最悪なことに、今回がそのパターンだった。
 だが開きませんでした、では済まされない。もう俺たちに逃げ場はないのだ。かといって男たちを撃退するには、銃弾を防御しながら数十メートルほどの距離を詰めなければならない。さすがの俺も、美影を護りながらそれをするのは無理がある。
 こんなことになるなら最初から接近戦に持ち込めばよかった、と後悔するが、それは後の祭りだろう。
 どうする。どうする、萩原夕貴。落ち着いて考えろ。頭を使え。思考を止めるな。

「…………」

 この場合、非常ベルを鳴らすことができれば俺たちの勝ちだ。でも近くには手動タイプの警報装置はない。
 ただ、天井のほうに丸っこいかたちをした機械が見える。あれは恐らく、特定の条件が揃ったときのみ作動する非常ベルだ。それはちょうど、通路の向こう側にいる男たちの真上あたりに設置されている。あいつをどうにしかして鳴らしてみせるしかない。

「……やるしかないか」

 男たちが曲がり角のところに立ち、揃ってバカみたいに拳銃を発砲してくる。こちらが不可思議な力を使うことを知っているせいか、遠慮がない。
 俺は《ハウリング》を使った。
 キン、キン、と甲高い音がして、そのたびに銃弾が逸れていく。鼻腔を突く火薬の臭い。通路全体に硝煙が立ち込めていく。
 俺は一歩、一歩と下がりながら、能力を行使し続ける。

「ぐっ!」

 ずきん、と心臓が痛んだ。思ったより限界が近い。
 《悪魔》の異能も万能じゃない。《ハウリング》には膨大なDマイクロ波が必要とされる。Dマイクロ波を作り出すのは心臓だが、あまり過剰に力を使いすぎると、需要に供給が追いつかなくなる。それによって無茶な労働を課された心臓には過度の負担がかかり、刺すような痛みが胸を圧迫する。
 半分だけしか《悪魔》の血を引かず、まだ満足にトレーニングもしていない俺にとって、異能を連続して使用するのは危険だった。その証拠に、ナベリウスからも口を酸っぱくして止められてる。
 でも、ここで止めるわけにはいかないんだ……!
 天井にぽつんと設置された機械を見つめる。それは数秒おきに点滅し、弱い光を放っている。あの機械こそが、いまの俺たちを救うかもしれない命綱だった。
 本来ならば”量”が足りないかもしれないが、あの装置が男たちの真上にあるという事実を踏まえれば、決して不可能じゃないはずなんだ。

「夕貴」

 すぐ後ろにいる美影が、相変わらず感情の読み取れない声でつぶやいた。心配してくれているのか。手際の悪い俺を叱っているのか。

「……っ、大丈夫、だ!」

 そう声に出した瞬間だった。じりりりりり、と身も竦むような音がホテルを包み込む。突然のことに驚いた男たちの銃撃が一瞬だけ止まった。

「開いた」

 美影の細っこい手が、頑丈な非常口をいとも容易く開いた。非常ベルが鳴ったことにより、仕掛けが作動したのだ。ホテルの内部と比べると冷たい外の風が、体を吹きつける。
 俺は例の機械を見た。
 天井に設けられているのは、光電式スポット型煙感知器。数秒おきに点滅する光源の光が『煙』に乱反射されると、それを受光素子が検知し、ベルが鳴るという仕組みである。
 男たちが拳銃を使ったことにより発生した多量の硝煙は、俺たちが逃げるための一手となった。これで彼らと警報装置の距離がもう少しでも開いていたなら、受光素子に届くまえに硝煙が霧散してしまい、光源を乱反射させるだけの『煙』を確保できなかっただろう。
 そういう意味では、俺たちはまだツキに見放されていない。

「……よし、行くぞ」

 鋭い痛みの走る左胸を押さえつけながら、非常口を通って外に出る。振り返ってみると、通路の奥から、男たちが慌ててこちらに駆け寄ってくるところだった。その何かに取り憑かれたような必死の形相に違和感を覚えながらも、俺は非常口を閉めた。どうせすぐに開けられるだろうけど、少しでも時間を稼げればいい。
 外に出ると、晴れた夜空と、かたちのいい三日月が目に入った。まわりにはラブホテルが立ち並んでいて、少し狭苦しい印象を受ける。
 地上七階ともなると、さすがにそれなりの高さになる。避難階段は鉄かステンレスのようなもので造られており、歩くと小気味よい音が鳴る。階段は一階まで通じているらしく、上手くいけばこのまま逃げ切ることも可能に思えた。
 ただし、下のほうからは人の気配がする。注意は必要だった。俺たちは小走りで階段を駆け下りる。

「夕貴」
「なんだ。いまは無駄話してる場合じゃねえだろ。それともあれか? 俺の男らしさに気付いたのか?」
「冗談は顔だけにして。それより」
「なんだとてめえコラぁ! 俺の顔が冗談だって言ったのか!? 俺はよく母さんに似てるって言われんだぞ! つまりおまえはいま俺の母さんを侮辱しやがったってことだ! すぐに謝れ!」
「狙われてる、って言おうとした」
「は?」

 俺がまくし立てても、美影は表情一つ変えなかった。代わりに、美影は指で上のほうを指した。まるでそっちを見てみろ、とでも言うように。
 見上げると、そこには七階の非常口から飛び出してきた男たちがいて、俺に銃口を向けていた。

「バカっ! もっと早く言え!」
「ごめんごメンゴ。……あ、”ごめんごメンゴ”とは、使い古された”ごめん”という謝罪の言葉を、今時の女子高生を中心に流行ってほしいという願いを込めてプリティーに換言したもので――」
「説明ならあとで聞くから黙ってろぉぉぉぉっ!」
「ごめんごメンゴー」

 美影の手を引っ張って、俺は目の前にあった非常口に飛び込んだ。まだ二階分しか降りていないので、そこは五階だった。せっかく外に出たのに、またホテルの中に逆戻りである。おまけに悪いことは重なるらしく、通路の奥のほうにはさっきの男たちとは別の連中が待ち構えていた。彼らは俺たちに気付くと、ふところから拳銃を取り出す。それと合わせて、背後からは避難階段を駆け下りてくる気配。
 まずい。これは洒落にならない……。
 さきほど力を使いすぎたので、しばらくは間を置かないと、俺は《ハウリング》を満足に行使できない。銃弾を防げない。
 正面には拳銃を持った男たち、背後からも拳銃を持った男たち。図らずも挟み撃ちだった。
 迷っている暇はない。
 俺は美影を連れて、一番身近にあった部屋に飛び込んだ。すこし前までは一般客が利用していたのか、オートロックはかかっていなかった。
 部屋はかなり広く、調度品も趣向を凝らしたものが多かった。よく見ればテーブルのあたりにピンク色のブラジャーが落ちている。前の客が付け忘れたらしい。俺は扉を内側からロックした。美影はブラジャーを拾って「おおー」とか言っている。アホだった。

「ちくしょう、あいつらアホみたいに拳銃を撃ちまくりやがって! そんなに明日の朝刊を飾りたいのかってんだ!」
「ううん、たぶん飾られない」

 大きなあくびをかみ殺し、美影は言う。

「さすがに今回は事態が特別。明るみに出てはいけない問題が多すぎる。【哘】か【如月】が出張ってきて、公的機関にエクスキューズをかけるはず」
「それってどういう――」

 意味だ、と続けようとした俺の声を、暴力的な騒音が遮った。扉はロックしたはずだが、筋骨隆々とした大の男の力と、拳銃の破壊力には耐え切れなかったようだ。勢いよく扉が開いて、暴力団構成員が部屋のなかに押し寄せてきた。その数は、十二人。

「追い詰めたぞクソガキども! てこずらせやがってっ、観念しろや……!」

 荒い呼吸の合間に、搾り出すようにして一人の男が言った。その表情には余裕がなく、目の焦点も微妙に合っていない。

「おら坊主。そこの女をこっちに渡せや」

 ここで美影を引き渡せば、俺は助かるかもしれない。五体満足で帰れるとは思えないが、殺されはしないかもしれない。それでも女の子を犠牲にしてまで、俺は助かりたくなかった。

「うるせえよ。大の大人がよってたかって、こんな小さな女の子を追い掛けまわすなんて、恥ずかしくねえのか」
「私、小さくない」

 ぐいっ、と服が引っ張られる。状況が分かっていないのか、美影が不服そうな顔で俺を睨んでいた。それを無視して、俺は男たちに宣言する。

「べつに正義の味方を気取るわけじゃないが、おまえらにこの子は渡せない。どうしてもって言うなら、力ずくで奪ってみろよ」

 張り詰めた緊張と、高まる敵意や悪意。冷や汗が背中をべっとりと濡らしていく。
 つい啖呵を切ってしまったけど、状況は悪い。
 いまの俺に《ハウリング》は使えない。それに相手は十人近くいるのだ。格闘戦に持ち込むにしても、高いリスクが付きまとう。美影は自分のことを超強いとかほざいてやがったが、それもどこまで本当か分からない。そう考えると、仲間である美影ですら不安要素の一つに見えてくる。
 美影を護りながら、武装した男を十人も倒す。無理とは言わないが、かなり厳しいことは間違いない。
 じりじりとした空気。俺も、男たちも、迂闊には飛び出さない。しかし、その一触即発の膠着を崩すように、

「そういえば」

 平坦とした美影の声。俺より一歩前に出た彼女の背中では、後頭部の高い位置で一つに結われた漆黒の髪が、尻尾のように揺れていた。

「あのバケモノは元気?」

 バケモノ。その単語が出た瞬間、男たちの顔が恐怖に塗りつぶされた。正気を失っていくのが目に見えて分かる。

「次、会ったら伝えて。”お前は私が殺す”と。そしてもう一つ――」

 美影は言った。

「――”用済みになっても、道具を捨てないであげて”――」
「う」

 道具。
 それが何を。いや、誰を指しているのか。いまそのバケモノの指示に従い、働いているのは誰か。使われているのは誰か。道具とは誰なのか。用済みになれば殺されるのは、果たして誰なのか。

「殺されたくないからって、バカ正直に従いすぎ。うざい」
「うう」

 がたがたと震える男たちを指差して、美影は罵倒を続ける。俺が止めに入るよりも早く、

「う、うわあああぁぁぁああぁぁぁぁぁーっ!」

 半狂乱になったような悲鳴が部屋を占領した。精神に支障でもきたしたのか、男たちは不気味な笑みを浮かべ、口端からよだれを垂らしながら拳銃を構えた。トリガーにかかっていた指が引かれていくのが、やけにゆっくりと見える。俺は反射的に、近くにあったベッドの影に隠れるようにして身を伏せた。
 でも美影は、男たちの正面でじっとしたまま動かない……!

「あんのバカがっ!」

 急いで助けに行こうとするが、それを遮るようにして、発砲音が重なった。狂ったように部屋を侵食していく破壊の雨。いまベッドから飛び出せば、俺が死んでしまう。

「美影っ! 隠れろっ!」

 声を張り上げてみたが、銃声がうるさすぎて自分でもよく聞こえなかった。ぱりん、ぱりん、と窓ガラスが割れて、俺の身体に降り注いだ。充満していた硝煙と火薬の臭いが、清浄な空気に押し流される。こんなときなのに、汗に濡れた体を撫でていく夜風がやけに気持ちいいなぁ、と思った。
 それは一瞬にも永遠にも思える時間だった。しばらくして銃声が止む。もしかして、美影が……?

「――っ!」

 そこから先を考えたくなかった。あんな小さな女の子が、銃弾を防ぎきるだけの力を持っているとは思えない。いくら小口径と言えども、あれだけ撃ち込まれれば、誰だって瀕死の重傷を負うだろう。
 俺は恐る恐る、ベッドの陰から頭を出して、部屋の様子を覗いてみた。
 果たして、美影は無事だった。
 ほっとするのも束の間、今度は言い知れない疑問が脳裏をよぎった。美影は一歩も動いておらず、男たちの正面に立ったままだ。手には何も持っていない。
 一体、何があったんだ……?
 美影はどうやって銃弾から身を守った……?
 マガジンを交換し終わった男が、美影に銃口を向ける。

「止め――!」

 今度こそ止めようと思ったが、遅かった。ガァン、と長く尾を引く轟音。スパイラル回転を加えられた鉛弾が、冷たい夜気を焼きながら高速で飛来する。

 その瞬間、俺が見たものは、まるで魔法だった。

 美影が右腕を振るう。それこそハエでも払うように。相変わらずの気だるそうな顔で。ただそれだけ。ただそれだけなのに、銃弾が彼女の体から逸れていった。

「は……?」

 自分の目が信じられず、俺は何度か瞬きをした。ふたたび、男が発砲。美影が腕を振るう。銃弾の軌道が変わる。躍起になった男たちが何度も何度も、装填したマガジンが空になるまで撃ち続ける。しかし、大量生産の鉛弾は、どれ一つとして美影には届かない。
 ガラスの破壊された窓から、横殴りの強い風が吹き込んできた。ふわりとカーテンが舞い上がり、眩い月明かりが室内を照らし上げる。

「……あれは」

 なにか銀色の『糸』のようなものが、室内を縦横無尽に行き交っていた。その『糸』は、主人を護るように美影の周囲に展開している。
 美影が腕を振るうと、『糸』は途端に表情を変えて、静かに、けれど力強く、銃弾の雨から彼女を守護するのだ。それは見蕩れるほど美しい光景だった。
 彼女は純粋な人間である。動体視力や反射神経も、人の域を超えていない。いくら鍛えたところで、人の身には限界があるのだから。
 美影は銃弾をいとも簡単に防いでいた。恐らく、銃口の向きから着弾点を予測し、その軌道を計算することによって、目で見えないはずの銃弾を、感覚で視ているのだろう。しかしあんな細い糸で銃弾を弾くなら、それこそ万分の一ミリの誤差も許されない、絶対的な技量が必要になるはずだ。なのに美影は、いとも容易く己の身を護っている。
 年端もいかない女の子が、すでに超人的な技能を身につけている。それは人が何代にも渡って研鑽してきた技術の結晶だった。
 水のように流麗な『糸』が、火のように怒涛な銃弾を防ぐ光景は、どこまでも芸術的だった。思わずため息が漏れるほどに。
 でも俺は同時に、打ちのめされたような気分も味わっていた。 
 
 ”おまえたちが《悪魔》だとしても、驚異的な能力を持っているとしても、私たちは一族で積み重ねてきた業によって、おまえたちに追随してみせるぞ。人間であることは恥ではない。ゆえに侮るなかれ。私たちは決しておまえたちに負けはしない”

 美影の小さな背中が、俺にそう訴えかけてくるような気がした。あの覇気のなかったラインの細い身体が、いまは実際の寸法よりも遥かに大きく見える。儚げな美貌を湛えた横顔から目が離せない。
 ギャップに惹かれる、というやつだろうか。
 常に気だるげな態度を崩さなかった美影が、いまや切れ長の瞳をすっと細めて、息を呑むほどの凛とした空気をまとっている。その事実に、たまらなく好感を抱いてしまうのだ。
 発砲が途切れる。
 弾切れ。男たちが慌ててマガジンの交換をしようとする。そのとき、獣を思わせるような俊敏さで美影が駆け出した。
 ただでさえ小柄な身体が、地を滑空するツバメのごとき低姿勢で疾走してくるのだ。男たちにしてみれば美影が消えたようにしか見えなかっただろう。
 ぶらりとしていた美影の両腕が、交差するように振るわれた。極細の『糸』が翻り、男たちの”指”の肉を的確に切り裂いていく。鋭い痛みにより、彼らは武器を取り落とした。
 美影は体術を用いて接近戦を仕掛ける。しなやかな肉体を生かした、パワーというよりはスピードを重視した体捌き。類稀な身体能力によって繰り出される一撃は、その小さな身体から繰り出されたとは思えないほどの力強さ。
 仮にも武道を志し、幼い頃から修練に励んできた俺には分かる。この壱識美影という少女は、途方もない才能の塊だ。天才と呼ぶのも失礼に当たるような、磨いても磨いても研磨の終わらない至高の原石。

 誰かを護ることのできる”強さ”に、ただひたすら愛された人間がこの世にいるという事実に、俺は戦慄さえ覚えた。

 応戦する男たちは、この場において、美影という主役を際立たせるだけの脇役に過ぎない。
 息つく間もなく放たれる拳、くびれた腰の回転から繰り出される蹴り。その一挙手一投足に俺が見蕩れるたびに、男たちが一人ずつ薙ぎ倒されていく。
 最後の男がくずおれるのと合わせて、美影が俺に振り向いた。

「終わった」 

 その顔には、何もなかった。学校に遅刻しないのは当たり前。遅れずに始業に間に合ったぐらいで何を騒ぐのか。そんな顔だった。

「……あ、ああ。お疲れ」

 気が動転しているせいか、場違いな労いの言葉をかけてしまう。自分でも頭がおかしいとは思うが、俺は美影に憧れのような感情を抱いていた。あの極限とも言うべき次元にまで磨き上げられた戦闘技術。それは生まれ持った天賦の才と、たゆまぬ努力の結晶だろう。いまの俺には、美影が美しい宝石のようにさえ見えた。

「夕貴。ちょっとヘン」

 ぐいっと美影が顔を近づけてくる。ほのかなシャンプーの香りがした。
 当面の危機を排除したからか、美影はふたたび気だるそうな空気をまとっている。ぼぉーとした切れ長の瞳が、俺をじっと見つめていた。
 もちろん惚れたわけじゃない。それは確かである。恥を承知で告白すると、俺は巨乳が好きなのだ。こんな貧相な身体をした女など御免被る。

「てい」
「痛っ、なにすんだ!」

 いきなり頭を叩かれてしまった。わざわざぴょんとジャンプまでして。美影は艶やかな黒髪をちょこちょこと弄りながら、

「バカにされたような気がした」
「くっ!」
「たぶん、私の身体を嘲笑った。違う?」

 読心術でも心得てるのか、こいつ。俺は胸中に渦巻く気持ちを悟られたくなくて、わざと挑発するような言葉を口にした。

「違わないよ。だってさ、おまえって今年で十六歳だろ? それにしては身体に成長が見られないよなぁ。胸だって小さいし」

 むっ、と美影の瞳が鋭くなる。

「夕貴」
「なんだ、反論があるのか?」
「巨乳はファンタジー、貧乳はリアリティ」
「名言っぽく言うなよ! ちょっと感心しちゃったじゃねえか!」
「私はリアリティを捨ててファンタジーを目指す」
「やっぱり気にしてんのか……」
「私にも希望は……あるはず」

 自分の胸を揉むような仕草。心なしか肩が落ちているような気がする。やっぱり年頃の女の子としてはコンプレックスの一つなんだろうな。
 それから俺たちは気絶した男たちを放って、部屋から移動することにした。ただしホテル内には、まだまだ暴力団の連中がいる。階下に向けて移動するのは悪手だろう。

「……いや、待てよ?」

 閃くものがあった。
 多少無茶だが、いまの俺と、優れた身体能力を持つ美影なら、上手くやれば可能かもしれない。
 俺は眠そうに目をこする美影を誘導して、ふたたび上を目指すことにした。






 通路を駆ける俺と美影を追いかけながら、暴力団の連中が飽きずに発砲してくる。紛争地帯もかくやと言わんばかりの銃弾の雨が、ホテルを内部から食い荒らすように小さな穴を開けていった。
 俺が異能で、美影が『糸』で、それぞれ銃弾を防いでいるのだが、こうも乱射されては精神衛生上よくない。しかも、俺は力を使いすぎたせいか体が重いし、美影も傷の影響のせいで動きが鈍い。それに銃弾自体は防げても、跳弾までは予測できない。跳ね返った弾だけあって威力が落ちているのは幸いだが、それでも何発かは体に掠ったりもした。なにか打開策が必要だった。

「夕貴」
「なんだ!? ふざけた話ならあとで聞いてやるから、いまは」
「赤いの」

 美影の視線の先を辿ると、そこには赤い消火器があった。

「なるほど、確かに使えそうだな……!」
「任せる」
「ああ!」

 そうして俺たちは、消火器を素通りした。こちらに飛んでくる銃弾の軌道を『逸らす』のではなく”捻じ曲げて”、消火器に穴を開けようと試みる。
 カン、カン、と甲高い音がして、鉛弾が消火器にぶつかるが、金属板がへこむだけで、なかなか穴が空かない。

「……くそ!」

 一昔前ならともかく、いまの安全基準だと金属板が厚すぎて、暴力団の持つ小口径の銃じゃ消火器を貫けない!
 それでも諦めずに異能を行使し続ける。そして、ちょうど消火器と男たちの距離が狭まったとき、聞きなれない破裂音がして、消火器に穴が空いた。
 ガス容器のところに穴が空き、気化した圧縮ガスとともに白い消化剤が勢いよく噴き出した。それはジェットエンジンの要領で本体をくるくると回転、暴走させて、通路の一帯にもくもくと白い煙幕をかたち作っていく。あの消火器が蓄圧式じゃなく加圧式でよかった。
 大量の粉塵が、噴射するガスによってあたりに立ち込める。男たちは喉、肺、網膜をやられて、苦しげに咳き込みながら足を止めていた。

「なんとか上手くいったな……」
「これも消火器に気付いた私のおかげ」
「確かに今回ばかりはおまえの手柄だ」
「私、偉い?」
「ああ、偉いぞ」

 乱れた黒髪を撫でてやると、美影は「んー」と不愉快そうに唸って、俺の手を払いのけた。まだ懐かれてはいないらしい。
 暴力団の連中を黙らせたとはいえ、それは一時的なものだ。すこし時間を置けば彼らは回復するだろう。
 俺たちは駆け足で、一番初めにいた部屋まで戻ってきた。美影は『ここで何をするんだろう? 逃げるつもりなら下に降りたほうが早いんじゃないか?』と怪訝顔である。
 むう、と顎に手を添えて思考に耽っていた美影は、明快な答えを思いついたのか、ぽんと手を叩いた。

「なるほど」
「分かってくれたか。まあかなり無茶だけど、おまえなら平気だろ?」
「私が責め、夕貴が受けなら平気」
「なんの話だ!?」
「不純異性交遊か援助交際」
「不埒なことをするためにベッドのある部屋に戻ってきたわけじゃねえよ!」

 まったく、どんだけマイペースなんだ、こいつ。
 俺は窓辺に歩み寄った。

「夕貴」
「なんだ?」
「交渉は二千円から」
「安っ! おまえ、安すぎだろ! つーか、意味が分かって言ってんのか!?」
「うん。私、テクニシャン」
「マジかよ……」

 最近の女子高生は進んでんのか? まあ美影の言うことだから本当かどうかは分からないけど。
 俺はカーテンを引きちぎるようにして取り外した。かなり大きなサイズの窓があらわになる。そのガラスを片っ端からぶち壊しまくった。ぽっかりと開いた穴からは、となりのホテルの屋上が見えた。あの看板とかが置いてある背の低い建物である。ここが七階だから、向こうは五階か六階だ。直線距離にして十メートルもない。

「いけるか?」
「余裕」

 反論も、説明を要求されることもなかった。
 これが美影じゃなくて一般人なら『おまえ馬鹿だろ』と一蹴されていたはずだが、人間離れした運動能力を持つ彼女ならば、この幅飛びは楽勝だろう。それは俺だって同じだ。
 本当なら暴力団の連中がホテルに乗り込んできたとき、ここから跳ぶべきだった。でもまあ、あのときは美影が優れた運動能力を持っていることを知らなかったので、そんなアバンチュールな判断ができなかったのも、やっぱり仕方ないのだ。
 すこし遠回りをしたが、まだ遅くはない。

「じゃあ」

 行くか、と言おうとしたところで、通路のほうから怒声が聞こえてきた。

「……もう時間はねえか」
「夕貴、早く」
「わ、分かってるって」

 実を言うと、俺はびびっていた。人間離れした芸当ができるようなっても、それは飽くまで『体』の話であり、俺の『心』は純粋な人間のままなのだ。
 銃弾を防ぐ、という受動的なアクションならともかく、ビルの七階から飛び降りる、という能動的なアクションをするのは、ぶっちゃけ怖い。銃弾は向こうから飛んできたが、今回は自分の意思で窓から身を投げ出さないといけない。まさに紐なしバンジーだ。それもコンディション体制が最悪な。

「はぁ」

 美影が外人のように肩をすくめて、ため息をついた。これみよがしに。

「やっぱり夕貴、男らしくない」
「……んだと?」

 顔の筋肉が引きつった。

「てめえ、この男の中の男である俺を、女々しいって言ったのか?」
「ぷぷっ、足が震えてるくせに」
「…………」

 こいつ、あとで絶対にしばく。
 しかし美影の激励――ただおちょくってるだけかもしれないが――により、覚悟が決まったのも確かである。
 俺が窓枠に足をかけるのと、部屋に暴力団構成員が踏み込んでくるのは、まったくの同時だった。男たちが拳銃を向けてくるのを無視して、俺は目を閉じた。こういうのは総じて自分との戦いだ。いまの俺がその気になれば、ビル間の跳躍も難なくこなせるはず。

「夕貴」

 出会ったときからいまのいままで変わらない、抑揚のない声。確かに女の子らしい綺麗な声ではあるけど、こんなやる気のなさそうな呼びかけで腹を括るなんて、俺も人のことは言えないよなぁ。
 背後でマズルが火を噴く。重なる銃声。
 こんなときなのに、ガキん頃の運動会を思い出した。小学校の徒競走で、母さんにいいところを見せたくて、日が暮れるまで河川敷で練習してたっけ。本番では一位を取った俺を、母さんが抱きしめてくれた。俺はクラスでは一番足が速かったけど、やっぱり本番は不安で。スタート前に、先生が鳴らしたピストルの音が、暴力団のそれと重なって聞こえた。

「――っ!」

 跳んだ。勇気を出して。
 ごお、と冷たい強風が肌を乱暴に撫でていく。髪が逆立ち、服がなびいた。夜に身を投げた俺の頭上を、男たちが放った銃弾が掠めていく。
 想像していたよりも、それは難しくなかった。建物の距離が近かったこともある。ただやっぱり、走り幅跳びの選手が助走をつけて跳ぶような距離を、助走なしで跳べてしまう俺のほうが、この場合は異端なのだろう。
 コンクリートに足がつく。無重力に近いような体感が終わる。自分の足で地面に立つということが、やけに素晴らしく思えた。
 ひたいの汗を拭う俺のすぐとなりを、黒い人影が横切っていった。その小柄な少女は、衝撃を殺すようにニ回転ほど地面を転がり、止まった。

「……なんとか上手くいったみたいだな」
「これぐらい朝飯前」

 振り返ってみると、俺たちが跳んだ窓のあたりに暴力団構成員が詰め寄っていて、こちらを幽霊でも見るような目で凝視している。また馬鹿の一つ覚えみたいに銃を撃ってくるかと思ったが、果たして、彼らは慌ててホテルの中へ引き返していった。

「……おかしいな」

 この距離からでも十分に照準できるのに。それに、あれだけ執拗に俺たちを――いや、美影を追っていたあいつらが、大人しく引き下がるとは思えない。

「お見事。まずは褒め称えましょう。願わくば、麗しき姫と小さな勇者に、神のご加護があらんこと」

 きっと俺の期待に応えたわけじゃないだろうが――小気味よい拍手の音と芝居がかった声が聞こえてきた。

「……夕貴」

 珍しく緊張した美影の声。慌てて視線を前に向けると、俺たちの行く手を遮るように、屋上の向こうに一人の男が立っていた。
 日本人離れした金色の髪。不気味なまでに細い糸目。敬虔な神を僕を思わせる神父服。なるほど、容姿だけならば善人にも見える。
 しかし、そいつが悪の塊のような存在であるということは、一目見ただけで分かった。
 化け物が人間の皮を被って歩いているような違和感。まるで夜にぽっかりと穴が空いたような喪失感。あの男の周囲だけ次元が歪んでいるようにさえ見える。
 一難去ってまた一難どころじゃない。いま分かった。さっきまでのドンパチは危機じゃなくて鬼ごっこだ。
 本当にやばいのは。美影が狙っているという《敵》は、この男なのだから。




 屋上はかなり広かった。
 中世の城をイメージしたようなかたちの大きな看板が建てられているが、それの分のスペースを差し引いても、小さな子供が遊びまわれるぐらいの広さは残っている。隅のほうには空調設備や給水設備が並んでいて、いまもごうごうと音を立てていた。看板をライトアップするための照明が四方に設置されているため、視界は悪くない。
 なにか本能的な危機感を感じて、俺は身構えていた。銃口を向けられても気だるそうな態度を崩さなかった美影でさえ、いまはピリピリとした緊張感を放っている。そんな俺たちを薄気味悪い糸目で睥睨し、男は苦笑した。

「おやおや、この崇高な僕に挨拶もなしですか? 近頃の若者は、どうも礼節を弁えていないらしい」
「黙れ」

 間髪入れず、美影が一蹴した。おまえの声なんか一秒だって聞いていたくない、とでも言うような刺々しい口調だった。男はやれやれと肩を竦めると、

「さて。そこの小さな勇者様に一つ、お聞きしたい」

 俺に声をかけてきた。

「……小さな勇者様じゃねえよ。夕貴だ」
「それは失礼。では夕貴少年。命だけは助けてあげましょう。ですから、そこの小娘を、この崇高な僕に渡しなさい」
「……なんだって?」
「聞こえませんでしたか? それとも聞こえた上で惚けたフリをしているのでしょうか? どちらにしろ二度は言いません。これ以上、崇高な僕を煩わせる問答を続けた場合、君の命は保障しかねます」
「私をどうするつもり?」

 美影が一歩前に出る。その横顔は凛としていて、これっぽっちも男を恐れていない。ほう、と感心する男。

「いいですねえ。強く、気高く、美しい。優美な肉体と、堅固な精神。貴女のような女を跪かせて、その澄ました顔を絶望に歪ませることができれば、実に楽しいでしょう」

 クックック、と癇に触る笑い声。美影の瞳が鋭くなる。

「……ヘンタイ。死ねばいいのに」
「おや、嫌われてしまいましたか。まあいいでしょう。おもちゃを買うにも金を支払うのが人間社会だ。欲しいものは力で勝ち取るとしましょうか――」

 夜の屋上を満たしていく濃密で、不吉で、邪悪なまでの殺気。それは息苦しさを覚えるほどだった。全身が泡立ち、嫌な汗が肌を伝っていく。まるで俺たちを虫として認識しているような、そんな遠慮のなさ。自然と呼吸が荒くなる。拳銃を前にしても動きが鈍らなかった俺の身体が、いまはコールタールの海に沈んでいるように重い。こいつ、本当に人間なのか……?

「夕貴」
「……なんだ」
「あいつ、ヘンな力を使う」
「分かった」

 気をつけろ、とも、頑張れ、とも言葉に出していないが――その短いやり取りだけで、俺たちは互いに『死ぬな』と伝えていた。
 あれだけ晴れていた夜空は、すこしずつ曇り始めていた。遠くのほうから流れてきた暗雲が、見事な三日月を覆い隠そうとしている。

「くっ、くくく、ははははは――」

 男の笑い声。そのとき、信じがたいものを見た。

「――っ!?」

 俺たちの目の前から、男が消失した。姿が消えた。まるで初めからそこにはいなかったかのように。男の姿を見失ったのは美影も同様らしく、その瞳には明らかな驚愕の色が浮かんでいる。
 あまりに現実離れした現象を見て、俺たちは警戒するどころか困惑するので精一杯だった。

「いやはや、美しきかな人間愛。なんとも安っぽいドラマだ」 

 ほとんど反射的に振り返ると、そこには男の姿があった。
 生物にとって『背中』とは最も無防備かつ護りにくい場所である。それが分かっているからこそ俺は――きっと美影も――背後には細心の注意を払っていたのだ。いきなり第三者が現れて襲い掛かってくるならまだしも、俺たちと会話をしていた男が、俺たちに気付かれることなく、俺たちの背後を取るなど正気の沙汰ではなかった。

「……っ?」

 気付けば、視界が薄暗くなっていた。怪訝に思って空を見上げると、もう月が見えなくなっている。今夜の風はよほど強いのか。雲の流れも速いみたいだった。
 戸惑いから一歩、また一歩と後ずさる俺たちを満足そうな目で一瞥し、男は獣のように姿勢を低くする。間もなく男は駆け出した。視認するのも難しい超人的なスピード。その爆発的な踏み込みは、コンクリートの床に穴を穿つほどだった。
 だが目で追えない速度じゃない。俺だって偉大な父さんの血を引いてるんだ。
 数瞬のうちに間合いを狭めた男は、希少価値の低い虫を採集するかのような乱暴さで俺の頚椎を掴もうとしてきた。技術も戦術もない、ただ相手を破壊することだけを考えた動き。夜気を切り裂きながら振るわれる腕。プロボクサーのパンチですら楽々かわせるいまの俺でも、回避するのが精一杯だった。

「この野郎っ!」

 咄嗟にサイドステップを踏み、男の右方に回りこむ。男は右腕を振るった状態なので、こちらに回り込めば一方的に攻撃できる。
 手加減も躊躇もせず、腰だめに構えていた拳を突き出した。パンッ、と乾いた音。男は両腕を交差させて、右方からの拳打を左のてのひらで受け止めた。明らかに戦闘慣れした体捌き。ただ数秒、拳を交えただけで、踏んできた場数の差が決定的に違うことを思い知らされた。

「夕貴。六時の方向」

 こんなときでも冷静な美影の声。俺は咄嗟に六時、つまり後方に跳び、男から距離を取った。それと合わせて、天空から極細の『糸』が雨のように降り注いでくる。
 月明かりを反射して銀色に輝く『糸』は、ムチのように変幻自在な動きで男を攻め立てる。さすがに素手で防ぐことは無理なのか、男はたちどころに駆け出した。彼を追うようにして『糸』が翻り、古くなったコンクリートに切り傷をつけていく。
 美影は目にも留まらぬ俊敏さで屋上を駆けながら、オペラの指揮者さながらの洗練された所作で両腕を振るっていた。それと呼応して『糸』が、”男”をというよりは”空間”を切り刻んでいく。しかし男のほうが一枚上手だった。なにひとつ当たらない。

「ちっ……」

 埒が明かないと悟ったのだろう、美影は苛立たしげに舌を打ち、『糸』を手繰り寄せた。

「おや、もう終わりですか? 最近の曲芸師は客も満足させずに退場するのが一般的のようですね。いやはや、つまらない世の中になったものだ」

 身を寄せ合うようにして並ぶ俺と美影の正面に立ち、男は芝居がかった口調で嘯く。その余裕に満ちた言動が、決して虚構のものではないと俺たちは知っている。こちらが全力で挑みかかっているのにも関わらず。男はまだ力の一端すら垣間見せていないのだ。

「さて。時間も押していることですし、手早く幕を引くとしましょうか」

 唇の端が釣り上がる。男の腕が上がる。それがどうしようもなく死刑宣告に見えた。
 ……来る!
 俺は後先のことは考えずに《悪魔》の因子を解放した。全身の細胞が活性化する感覚。天才的な数学者にでもなったみたいに脳の気分がよくなる。いまの俺ならば、格闘技の世界チャンピオンを圧倒することさえ可能だ。
 男の姿がゆらゆらと揺らぐ。まるで陽炎のように。
 ……なんだ、これ?
 上手く認識が……できない?
 キィン、と微かな耳鳴り。鼓膜を突き刺すような痛みに顔をしかめる。

「美影!」

 なにがなんだか分からず、となりを見てみると――彼女は呆然としたまま、その場に突っ立っている。

「アホがっ、ぼさっとすんな!」

 俺は美影の身体を抱きかかえると、そのまま後ろに跳んだ。数瞬前まで美影がいた場所を、男の腕が薙ぎ払っていく。そのまま男は、肉食獣のような獰猛な動きで俺を追尾してきた。

「……マジかよっ!」

 驚異的なスピードで振るわれる拳や蹴りが、夜の闇を削り取っていく。なんて力だ。この男の一撃をモロに食らってしまったら、胴体に風穴が開いてしまう。明らかに人間離れした身体能力だった。
 美影を抱いたまま逃げるうちに、看板のほうに追い込まれてしまった。もう後ろには逃げられない。

「さようなら。この崇高な僕の手にかかって死ねることを誇りなさい」

 男が腕を振りかぶる。その間際、俺は体内に眠る力を、いまの自分にできる限界の範囲まで引き出した。バネのように収縮した脚の筋肉が、男の攻撃と合わせて一気に弾ける。後ろに逃げられないのなら、上に逃げればいいだけの話。空高くジャンプして、俺は美影とともに窮地を脱した。
 ばがんっ、となにかが潰れる、轟音。
 男の腕が、あの大きな看板を真っ二つに破壊した。それは例えるなら、幼稚園児が学校の黒板を叩き潰したようなものだ。あまりにもショッキングな光景。少なくともナベリウスと互角か、それ以上の膂力である。しかし驚いているのは、なぜか男のほうだった。

「……この波動……まさか……」

 男の顔から笑みが消える。俺は美影を揺さぶった。

「おまえ、現実逃避をするならあとにしろ! まだ終わってねえぞ!」
「えっ、あ……?」

 美影は慌てて自分の足で地面に立つと、

「……私、なにしてた?」
「は?」

 そんな意味不明なことを俺に聞いてくるのだった。本人も間抜けな質問だと思ったのか、透き通った色白の肌に薄っすらと朱が差す。

「……なんでもない」

 そう誤魔化すように言って、美影は男に向き直った。俺も気を入れなおし、ここからが正念場だと己を戒めた。男は驚愕と歓喜が入り混じった複雑な顔で、ぶつぶつと独り言を呟いている。

「……これは……知らない……《アスタロト》……いや、違う……それにしては弱々しすぎる……だがしかし……」

 一人で自問自答を繰り返していた男は、やがて明快な答えに行き当たったのか。

「そうか、そういうことですか! まったく、運命の悪戯というものは恐ろしい! そしてやはり神は、我に味方をしているようだ!」

 よほどハイになっているのだろう、男の口調からはうざったらしい自己陶酔的な色が消えていた。これまで虫を見るような目で俺たちを見ていた男が、ここにきて初めて対等な生物と、いや、目上の者と対峙するかのように、うやうやしく礼をした。困惑する俺たちを他所に、男は続ける。

「まずは無礼を詫びましょう。どうかお気を静めていただきたい。偉大なる《悪魔》の遺児よ」

 それが誰のことを言っているのか。俺にはすぐに分かった。俺にしか、分からなかった。

「悪魔の……遺児?」

 美影がきょとん、とした顔で俺を見る。彼女の疑問に答えるように、男が言葉を足していく。

「然り。そこの少年――否、そこにおられる方は、ソロモン72柱が一柱にして、序列第一位に数えられた最強の魔神である《バアル》のご子息です。そうですよねえ? 夕貴様?」

 とても俺を敬っているとは思えない、どちらかと言えば人の神経を逆撫でする口調だった。

「いやぁ、本当に驚きましたよ。数週間前、この地で《バアル》に似た波動を感じたものですから、まさかと自分を疑いながらも足を運んでみたのですが――どうやら当たりだったようですね。《バアル》が人間の牝との間に子を作ったなどと、出来の悪いジョークだとばかり思っていたのですが」

 数週間前。つまり菖蒲の誘拐事件があったときのことか? 
 きっかけは分からないけれど、あのときに俺は純粋な人間から《悪魔》になった。その覚醒の際に、膨大なDマイクロ波が放出されてしまったという。ナベリウスがいらぬ外敵をおびき寄せぬために、間もなく俺を正気に戻してくれたのだが……。
 《悪魔》には同胞を知覚する能力がある、とナベリウスから聞いている。ただしそれは、まだ鍛錬も積んでおらず、《悪魔》の力に振り回されているような状態の俺には到底無理な芸当だが。
 しかし、この男は、俺の波動を感じ取ったというのだ。それが果たして、なにを意味するのか。

「さて、名乗り遅れましたが」

 男は両手を広げて、空を抱くようにしながら宣言した。

「我はソロモン72柱が一柱にして、序列第七十一位の大悪魔ダンタリオン。貴方のお父上の同胞。その末席を汚す者ですよ」

 どこか威厳さえ感じられる声だった。

「……っ」

 悪魔。ナベリウスと同じ、ソロモンの悪魔。俺の父さんの同胞。人知を超えた強大な異能を操る、紛うことなき一騎当千の怪物。
 正直に告白すると、いつかこんな日が来るんじゃないかって思ってた。それと同時に、こんな日は絶対に来ないんじゃないかとも思ってた。
 いくら《悪魔》の血を引いているからといっても、俺は元は平凡な大学生なんだ。ちょっと女顔ってことにコンプレックスを持ってて、大好きな母さんがいて、大事な女の子がいて、バカみたいな親友がいて、ちょっと家が大きくて、悪魔の同居人がいて。
 確かにそれは、普通の人よりも愉快な要素に溢れた『日常』だったろう。出来の悪いB級映画みたいな事件に巻き込まれたり、いきなり憧れていた女優が家に訪ねてきたり、不思議な力が使えるようになったり、愛する女の子と結ばれたり。
 でも、今回は違うんだ。
 いままでは俺が巻き込まれる側だったのに対して、今回は俺がこの街にいたからこそ、あの男――ダンタリオンがやってきたんだ。
 言い知れない恐怖が全身を駆け抜ける。俺の平穏で、平凡で、幸せな『日常』が、音を立てて崩れていくような気がして、暴力に満ちた『非日常』に塗りつぶされていくような気がして、たまらなく怖い。

「……おまえの目的はなんだ?」

 震える膝に力を入れて、前を向く。ダンタリオンは顎に手を添えて、考え込むような素振りを見せた。

「ふうむ、目的ですか。そう尋ねられると思いのほか困りますねえ。ただあえて答えるとするならば、自衛のため、でしょうか」
「自衛だと?」
「貴方は知らないでしょうが、我らがソロモンの同胞たちは、この人間によって支配された世界のなかで、いまもなお壮絶な殺し合いを行っています。それは人間の組織した《悪魔祓い》や《法王庁》と呼ばれる組織もしかり、人のことわりを外れた異端の存在もしかり――つまり僕たちにはあまりにも外敵が多すぎるのですよ。
 加えて、我らが同胞のあいだにも派閥があります。まあ現時点では《マルバス》、《バルバトス》、《グシオン》が率いる三大勢力が抜けていますがね。彼らはこぞって貴方のお父上である《バアル》、ならびにその従者二名を血眼になって捜索していたようですが、ついぞ行方は掴めなかったという話です。
 とにかくそうした諸々の脅威から身を護り、己の存在を保持するためには、偉大なる血統を受け継ぐ貴方様のお力が必要なのですよ」

 いつかの朝、ナベリウスが言っていたことを思い出した。封印から解き放たれた悪魔たちは、それぞれの勢力に分かれて殺し合いを始めたという。いわゆる闇の権力争い。それを嫌った父さんは野に下り、人間社会に潜伏して、母さんと出会った。

「いまの君は、意識しなければ感じ取れるほどの微弱な波動ではありますが、きっと強くなる。あの恐ろしいバケモノの血を引く君ならばね」
「話が長い。夕貴を利用したいのなら、そう言えばいい」

 美影が苛立ったように口を挟んだ。ダンタリオンは不気味な笑みを浮かべて、首を傾げる。

「これはこれは人聞きの悪い。利用だなどと空恐ろしいことは考えていませんよ。ただ崇高な僕は、少しばかり彼のお力を貸していただこうかと愚考したまでです」

 それからも美影とダンタリオンが口論を続けていたが、あまり耳に入ってこなかった。でも漠然と、このままではいけない、俺がどうにかしなくちゃ、俺がしっかりしなくちゃ駄目なんだ、ということだけは理解できた。

「……ふむ、どうやら時間切れのようですね」

 その呟きと時と同じくして、けたたましいパトカーのサイレンが聞こえてきた。どうやらこちらに向かっているらしい。それも凄まじい勢いで。さすがに被害が大きすぎたのか、公的機関もご立腹のようだった。

「日を改めましょう。今夜のところは《バアル》の血に免じて引き下がるとします」

 ダンタリオンが身を翻す。豪奢な金髪と、嘘くさい神父服が風にそよいだ。

「それでは。また夜に」

 芝居がかった口調でそう告げて、ソロモンの悪魔は屋上から飛び降りていった。
 気付けば雲は流れに流れて、ふたたび晴れた夜空が広がっている。明るい月の光が、いまは何となく疎ましいと思った。




 あのあとホテルの屋上から退避した俺たちは、集まった野次馬や警察の目を潜り抜けて、人気のない場所に向かった。念には念をということで、夜が明けるまでは身を隠していたほうがいいと思ったからだ。
 閑散とした場所にある廃墟の中で、俺たちは息を潜めていた。

「美影。ほら」

 そこの自販機で買ってきたスポーツドリンクを放り投げる。 キンキンに冷えたペットボトルを受け取った美影は、なにも言うことなく、すぐさまキャップを空けて中身を呷った。
 二人とも埃にまみれた挙句、これでもかと汗だくである。それにもう数時間以上、水分を摂っていない。あれだけ激しい運動をしたっていうのに。喉がカラカラだった。
 俺も美影も一気に半分ぐらい飲み干して、ぷはー、と景気のいい吐息を漏らした。

「夕貴」
「なんだ」
「疲れた」
「そうか」
「夕貴」
「なんだよ」
「悪魔の子供って、本当?」

 いつもの抑揚のないトーンで。覇気のない気だるげな瞳で俺を見つめて、美影は言った。どう答えるべきか迷ったが、いまさら隠すのも意味がないと思って、俺は正直になることにした。

「……ああ、本当だよ」

 しばらく逡巡するような間が続く。やがて美影は興味をなくしたように、俺から視線を逸らした。

「眠い」

 目がしぱしぱするのか、ひっきりなしに瞼を擦っている。本当は聞かないほうが正解かもしれなかったが、どうしても気になって、俺は話を蒸し返した。

「……あのさ。おまえの家って、いわゆるバケモノを退治する家系なんだよな?」
「うんうん」
「じゃあ、こんなことを聞くのも野暮なんだけど……俺をやっつけなくてもいいのか?」

 やっつける。
 そう表現してしまったのは、きっと言葉の中だけでも、自分を『殺す』と言いたくなかったからだろう。
 美影は尻尾のようになった毛先を弄りながら、

「仕事じゃないから」
「は? どういうことだ?」
「夕貴、勘違いしてる。例えば、自分の子供が犬に殺されたとする。その場合、夕貴は世界中の犬を殺す?」

 気性の荒い犬がいれば、大人しい犬もいる。
 残忍で獰猛な怪物がいれば、心優しい人間を愛するような怪物もいる。
 この世界には人間など足元にも及ばないような上位の存在がたくさんいる。それは吸血鬼だったり、人狼だったり、妖だったり、悪魔だったりする。
 裏社会にも裏社会なりのルールがあって、特にこの日本では、《青天宮(せいてんぐう)》と呼ばれる退魔組織が幅を利かせているらしく、好き勝手に異端のバケモノを殺してまわっては、様々な面でネガティブな摩擦が生まれてしまう。
 つまり狩りをしないライオンは、いっそのこと放っておいたほうが安全だという話だ。無理をして手を出すから、彼らは自衛のためにその力を振るわざるを得なくなる。
 基本的に《壱識》が動くのは、指定された危険度を超えた生物を討伐するためか、正式に依頼を通された場合だけ。

「まあなんだかよく分からないけど……とにかくおまえは俺の味方って認識でいいんだよな?」
「…………」
「まあ、その……なんだ。おまえが俺を警戒するのも分かるよ。なんだかんだ言っても、俺は《悪魔》の血を引いてるからな。もしかすると悪いヤツかもしれないし」
「…………」
「でも信じてくれ。俺は女の子をいじめて悦ぶような女々しい男じゃないんだ。こう見えても一部じゃあ男らしいって評判なんだぜ? ……ま、まあ、最後のは嘘なんだけど」
「……ぐう」
「寝てんじゃねえぞコラぁぁぁぁっ!」

 こいつとは一度、白黒つけたほうがいいのかもしれない。むしろ俺の男らしさでメロメロにしてやる。
 遠くのほうを見ると、空が薄っすらと白ずんでいることに気付いた。携帯で時間を確認すると、無機質なデジタル時計の表示が、もう間もなく夜が明けると告げていた。
 そこで、俺はダンタリオンよりも恐ろしい事実に気付き、頭を抱えた。

「……やべえ。菖蒲にメール返すの、忘れてた」




[29805] 2-6 屋烏之愛
Name: テツヲ◆c49d9b75 ID:366fa69a
Date: 2012/06/25 00:48

 実のところ、俺たちがいまいる田辺医院は、きちんとした認可を受けていない、いわゆる闇医者と呼ばれる類のものらしい。
 街外れの閑散とした区画、その路地裏にひっそりと立地する小さな病院。美影の治療のために訪れたその建物の外観は、くたびれた民家そのものだった。入り口のところに『田辺医院』と手書きで書かれた看板がなければ、絶対に病院だと気付かないと思う。
 ただ、病院としてのやる気がなさそうな店構えとは裏腹に、内装はリノリウム材質を使うことで、なかなか病院っぽい趣を漂わせていた。
 わりと広い待合室には、古くなったソファがいくつか置かれていて、壁には数年前のカレンダーがいまだに掛けられている。ほかにも観葉植物を植えた鉢植え(もう枯れてるけど)とか、明らかに呪いが込められていそうな不気味極まりない絵画が飾られている。蛍光灯がたまに明滅しているせいか、室内はちょっと薄暗い。全体的に退廃した雰囲気を漂わせている。ただし、受付のところにあるポスター(とある清楚な女優さんのやつだ)だけは真新しかった。いちおう定期的に掃除をしているような気配はあるが、どう頑張っても清潔とは言えない。
 美影はいま、奥にある診察室で田辺さんに治療してもらっている。そして俺はというと、殺風景な待合室のソファに腰掛けながら、田辺医院に勤める新米看護師さんの歓迎を受けているのだった。 

「きゃ~! 夕貴く~ん、抱いて~!」
「…………」

 どうすればいいんだ、これ。
 さっきから看護師の格好をした二十歳過ぎのお姉さんが、黄色い悲鳴を上げて俺の身体に抱きついてくるんだけど……これが、びっくりするぐらい対応に困る。
 この白いナース服を着込んだ看護師は、辻風波美(つじかぜなみ)さんという名前だった。田辺医院に勤めて二年になるらしい。自称”新米看護師”で、まだまだ肌が水を弾く年齢とのこと。
 彼女はほんのすこしだけ茶色に染めた長髪を団子に結って、よく見なければ分からない程度の薄い化粧を施した、なかなかの美人だった。美影ほどではないが背は低く、小動物のような愛嬌がある。しかし発育はかなりのもので、ナース服を押し上げる胸元の膨らみは目のやり場に困るところだ。確実に二十歳は越えているはずだが、その仕事ぶりや言動には、いくらか学生気分が混じっていた。
 なぜか無駄にテンションの高い辻風さんは、さっきから俺に抱きつき、桃色の笑みを浮かべながら頬ずりをしてくる。

「……えっと、そろそろ離れてもらいたいんですけど」
「いや~ん! 夕貴くんったら、いけずなんだから~! でもそこが素敵ー!」

 なんだこれ。非合法な病院ってことで、気を張っていた自分がバカらしくなってくるぞ。

「ねえねえっ、夕貴くんって彼女とかいるのっ? いるのかなっ? いないでしょっ? いないよねっ? ちなみにわたし、彼氏スーパー募集中なんだけど!」
「すいません。俺には心に決めた人がいるので」
「ががーん! 出会って数分で破局しちゃった! ようやく運命の人を見つけたと思ったのに~! ……いや、ちょっと待って? 二番目から始まる恋っていうのもアリなんじゃない? うん、これはキタわ! 本命を蹴落とす女の壮絶なラブストーリーが始まるのよー!」
「始まらねえよ! どうでもいいからとっとと離れろボケー!」

 思わず突っ込んでしまった。
 半ば無理やり突き放すと、辻風さんは唇に人差し指を当てて「怒った夕貴くんも素敵……」と頬を赤らめていた。もうだめだ、この人。
 美影の治療にはちょっと時間がかかるらしく、俺はそれを待つ間、気を取り直した辻風さんに熱いコーヒーを淹れてもらった。二人して待合室のソファに腰掛けながら、白いマグカップに口をつける。

「さっきから思ってたんですけど、俺とのんびりコーヒーなんか飲んでていいんですか? 仕事とかあるんじゃ?」
「あー、いいのいいの。べつにお客さんなんて滅多に来ないし。基本的にわたしは、看護師の格好をして接客することでここが病院だっていう雰囲気を醸し出すのが仕事だから」
「……身も蓋もないですね」

 戸惑う俺をよそに、辻風さんはからからと明るく笑って、

「まあ、なんだかんだいっても、わたしみたいなスーパーぴちぴちギャルがこんなボロッちい病院に勤めてるのは、ぶっちゃけ趣味の一環なのよね~」
「趣味……ですか?」

 オウム返しに問うと、辻風さんは大きな瞳をキラキラと輝かせた。ちなみに自分の職場を『ボロッちい』と表現したのは突っ込まないでおいた。

「そう、そうなのよ夕貴くん! よくぞ聞いてくれたわ! 実はね、この田辺医院には、裏のお仕事をしてる人たちがじゃんじゃん来るのよ~!」
「はぁ。それがどうかしたんですか?」
「夕貴くんのバカ! 人が集まるってことは、情報が集まるってことに決まってるでしょ!? つまり血湧き肉踊るような、いや、むしろ首が飛んで身体が千切れるような、女の子の心を掴んで放さないスプラッターなお話がたくさん聞けちゃう、みたいな感じよ~!」
「スプラッターな話?」
「そうそう! 実はね、夕貴くん! この辻風波美ちゃんには”新米看護士”という表の顔のほかに、駆け出しの『情報屋』という裏の顔があったりするのよ~!」
「へー、凄いですね。また今度、いっぱい話を聞かせてくださいね」
「しどいっ! しどいよ夕貴くん! そんな思春期のいたいけな子供を見るような目でわたしを見ないで~!」

 ここですこし真面目な話をすると、辻風さんは裏社会のあんなことやこんなことを調べるのが趣味で、自宅にはそれ関係の情報をまとめたスクラップ帳が山のようにあるらしい。
 この病院には、裏家業を生業とする人間とともに殺伐としたエピソードの類も集まる。そのため、それを蒐集したい辻風さんにとって『田辺医院に勤める看護師』というポジションは絶好なのだった。
 彼女の趣味は、もはや一介の『情報屋』として活動できるほど本格化していて、すでに辻風さんを頼る顧客も何人かいるという。まあ黙っていれば普通に可愛いしな、この人。黙っていれば。

「そういえば、一つ気になってたことがあるんですけど、聞いていいですか?」
「うんうん、いいよ! どんどん聞いて! ちなみにわたし、貞淑さには自信があるよ! おっぱいはDカップだし、お尻も大きい安産型だし、料理もしっかりこなすし、男性には朝だけじゃなく夜もしっかり尽くすよ! どうどうっ? 辻風波美ちゃん、お買い得だと思わない!? わたしって、いまどき珍しい超優良物件だと思うなぁ……ちらっ、ちらっ」
「つっこみづれー!

 昔から『口は災いの元』と言われているが、この人はそれが顕著すぎる。

「……はぁ、疲れる。それで辻風さん、俺が聞きたいのはですね、あの受付のところに飾られてるポスターのことですよ」

 彼女の言葉を借りれば”ボロッちい”この病院のなかでも、ひときわ異彩を放つ真新しいポスター。昨夜、とある洋食屋で見たのと同じやつだ。ほほう? と不敵に笑う辻風さん。

「ふっふっふ~、よくぞ聞いてくれたわね、夕貴くん! あれはね、飛ぶ鳥を落とす勢いの女優さんこと『高臥菖蒲』ちゃんのポスターよ! わたし、あの子の大ファンなのよね~!」
「分かります! 実は俺も菖蒲の大ファンなんです!」

 思わずノッてしまう俺だった。

「えっ、ほんとに~!? 夕貴くんも菖蒲ちゃんのこと好きなんだ? 言っとくけどわたし、彼女のファースト写真集も持ってるよ? しかも初版のやつ!」
「そんなの俺も持ってますよ! 当然じゃないですか!」
「ちっちっち、甘いぜ夕貴くん! わたしの持ってるのは、なんと本人直筆のサイン入りなんだよ! ファースト写真集の発売記念で開かれた握手会に行ったとき、特別サービスで入れてもらったのだ!」
「えっ、菖蒲のサイン入り!? そんなのあるんですか!? いいなぁ、それ欲しいなぁ!」

 本人と会うのは気恥ずかしかったから、俺は握手会とかに行ったことがなかったのだ。ニマニマと笑っていた辻風さんは、ふと怪訝顔をして、

「……さっきから思ってたんだけど、夕貴くんって『菖蒲ちゃん』のこと『菖蒲』って呼ぶんだね」
「あっ、はい。まあ」

 しまった。
 つい忘れてたけど、俺は本人と一つ屋根の下で暮らしてるんだった。これは『高臥菖蒲』のファンという名の同志である辻風さんにも内緒にしないと。うーん、でも菖蒲のやつ、頼めばサインとかしてくれるんだろうか? 俺の写真集にもぜひ直筆のサインを入れてほしいぞ。
 辻風さんは探偵のように顎に手を添えて、気難しそうに唸った。

「むう、なんか引っかかるなあ。夕貴くん、やたらと『菖蒲』って呼びなれてる感じがしたんだよね」
「き、気のせいじゃないですか? 俺は菖蒲とメールとかしたことないですし」
「ほらまた。まるで恋人を呼ぶときみたいに親しげだね。……んん? メール?」
「――菖蒲ちゃんって可愛いですよね!?」
「そうなんだよ~! ほんと可愛いよね、あの子! 菖蒲ちゃんが出てるシャンプーのコマーシャルも最高~! わたし、あれに感化されてシャンプー変えちゃったもん! 柑橘系の匂いがたまらないよね!」

 よし、なんとか誤魔化せたみたいだな。
 どうやら辻風さんは生粋の『高臥菖蒲』ファンらしく、俺の知らないような菖蒲のことまで知っていた。まあべつにいいんだけどな。菖蒲の寝顔とか、菖蒲の手料理とか、菖蒲の匂いとか、菖蒲の抱き心地とか、俺しか知らないようなこともいっぱいあるんだし。よく分からないライバル心を抱いてしまう俺だった。

「それに」

 その言動に見合った幼さの残る所作でコーヒーをすすってから、辻風さんは続けた。

「あの子、菖蒲ちゃんは、かの【高臥】の人間だからね! あんだけ可愛いのに、血筋や家柄まで恵まれてるなんて……菖蒲ちゃん、素敵! 抱いて! むしろ抱かせてー!」
「…………」

 一人で盛り上がる辻風さんを尻目に、俺は、かつて参波さんから伝え聞いた話を想起していた。
 その他と隔絶する財力、政治力、権力、暴力から、古来より日本の頂点に君臨する十二の家系。これをこの国では、畏怖と畏敬を込めて俗に十二大家と呼称するという。
 菖蒲の生まれた【高臥】は表寄りの家系だが、なかには裏家業を生業とする裏寄りの家系も存在するらしい。つい最近まで平穏な日常を満喫していた俺には想像しづらいが、この世には血で血を洗うような常軌を逸した非日常も、確かにあるのだ。
 とは言え、俺は裏社会の情勢について何も知らない。現在進行形で厄介な問題に苛まれているのにも関わらず、だ。
 ここは恥を忍んで、辻風さんに色々と聞いておくべきかもしれない。なんだかんだ言っても彼女は善人のようだし、頼る相手としては間違っていないだろう。

「あの、辻風さん。一つお願いがあるんですけど」

 そう前置きして、俺は彼女に頭を下げた。さっきまで冷たい態度であしらっていた俺が軟化したのを見て、辻風さんは、

「きゃー! 夕貴くんのデレきたー! でも、今日は油断して子供っぽい下着を穿いてきちゃったどうしよ~!」

 などと黄色い悲鳴を上げていた。やっぱり人選を間違えたのだろうか、と後悔する俺だった。
 ため息混じりにすこし温くなったコーヒーを啜っていると、脳内に繁殖しているお花畑から戻ってきた辻風さんが意外そうな声を上げた。

「でも夕貴くんって、美影ちゃんのお友達なんだよね? わたしもなんとか美影ちゃんに媚を売って《壱識》とのコネを確立しようとしたんだけどさ~」
「辻風さん、本音だだ漏れじゃないですか。もっとオブラートに包んで言いましょうよ」
「あはは、ごめんごめん。でもわたしね、美影ちゃんにお菓子やジュースを上げて餌付けしようとしたんだけど、どうもあの子は人に懐かないのよね~」
「餌付けって……」

 一つ屋根の下に本人がいるんだから、もうすこし本音を隠したほうがいいんじゃないか?

「……言い忘れてましたけど、俺と美影は出会ったばかりなんです。だから俺は、美影のことを詳しく知りません。あの子の家が、どんなことをしているのかってのは聞いたんですが」
「ははあ、なるほどね。事情はよく分からないし、改めて聞くつもりもないけど、夕貴くんと美影ちゃんの関係については分かったわ」

 一介の『情報屋』として裏家業の連中と交渉することもある辻風さんは、こういう話になると目の色が変わるようだ。こちらの事情に深入りせず、ただ要求された情報を速やかに提供するだけの、裏に身を置く人間の顔になる。

「ところで夕貴くんは、こっちの世界のことをどれぐらい知ってるのかな?」
「いえ、ほとんど何も……」
「なるほどねえ。うーん、どうしようかなぁ。本当はまとまったお金を頂戴するところなんだけど、夕貴くんに恩を売っておくのも悪くないし、今回は特別にタダにしてあげようかな? 初回限定大サービスってやつで」
「微妙に本音が漏れてますけど、とりあえずお礼を言っておきます。ありがとう、辻風さん」
「きゅんっ! ぐさっ、ぐさっ……! なんてこったパンナコッタ! ゆ、夕貴くんの笑った顔、超絶に可愛いよ~!」

 はうー、とか言って悶える辻風さんが正常に戻るのには数分を要した。もはや可愛いと言われたことに対して突っ込む気すら起きない。

「……あの、もうそろそろいいですか?」
「えっ、ああうん、ごめんごめん。これも仕事だからちゃんとしないとね。ちなみにさっきの『きゅん』はときめいた音で、『ぐさっ』はハート型の矢が胸に刺さった音だからよろしくね!」
「頼むから仕事しろよ」

 今度こそ新米看護師から情報屋の顔になった辻風さんは、こほん、と小さな咳払いをしてから言った。

「そうね、じゃあまずは二十年ほどまえに、日本の裏社会で起きた未曾有の大抗争。あの《大崩落》について話そうかな」

 それはすこし古い話。
 かつてこの国の裏社会で、過去何百年ものあいだ変動しなかった裏の勢力図が、一遍に塗り変わるほどの大抗争が起きた。それは抗争というよりは戦争に近く、数多くの人間が殺し、殺され、殺しあって、朽ち果てた。数多の勢力を巻き込んだ争いは都合四年も続き、裏社会に甚大な被害をもたらすだけに留まらず、表社会の経済にも深刻なダメージを与えたとされている。
 その日本史上類を見ず、この先も数世紀は勃発しないであろうと云われる抗争を、あらゆる既存のものが崩れ落ちたことから、裏では俗に《大崩落》と呼称するという。

「それで、この抗争のときにとんでもない戦果を上げたのが、美影ちゃんの生家である《壱識》を含めた十の家系なのね」

 裏社会に拠点を置き、裏家業を生業とする十の一門。各々の家系が独自の戦闘術を継承することから、彼らは俗に《武門十家》と呼ばれ、表の権力を完全に放棄する代わりに、裏の世界で絶大な支配力を持つに至ったという。
 争いごとに特化した彼らは、他の追随を許さない圧倒的な戦闘能力を誇り、古くから日本の裏社会に君臨してきた。武装した暴力団や犯罪組織すらも寄せ付けない強大な力。近代になってもその勢力は衰えず、いまもなお彼らは裏社会で暗躍している。
 ただでさえ都市伝説級の存在であった彼らは、例の《大崩落》のおりにも暗躍し、その超人的な戦闘力を世に知らしめた。
 また、これは余談なのだが、この田辺医院も《大崩落》のときに病院として機能し、数多くの命を癒し、慈しみ、救ってきたらしい。あらゆる身分、立場、勢力にある人間を分け隔てなく治療したことから、田辺医院は戦闘禁止区域、いわゆる安全地帯として当時に活躍した。つまり『田辺医院にいる間はみんな患者さんなんだから、ここでは戦闘しちゃだめだよ。殺しあうなら外でやってね』ということである。

「ちなみに《大崩落》によって大打撃を受けた経済の復興に尽力したのが、【高臥】と【如月】の二家と言われているわ。まあ当時はわたしも美幼女だったし、ほとんど覚えてないんだけどね~」
「……なるほど。大体の話は分かりました」

 辻風さんの口から紡がれる、なんとも荒唐無稽な話を、俺は自分なりに整理しながら聞いていた。要するに、いまから二十年ほど前に、とにかく凄い抗争が起きて、その際に凄い人たちが暗躍した、ということである。そこまで考えて、俺は首を傾げた。

「あれ? でも辻風さん。そんな四年も続くほどの大規模な抗争に、どうやって決着がついたんですか?」
「ふふふのふ! よくぞ聞いてくれたわね、夕貴くん!」

 《大崩落》を終結に導いたのは、十二大家の一つである【九紋】と呼ばれる家系らしい。かの家が仲裁に入ることで、すべては丸く収まったというのだ。
 でも俺としては、ちょっと納得がいかない。もちろん抗争が終わってくれたことは嬉しいけど、不謹慎な言い方をすれば、話に上手くオチがついていないような気がするのだ。

「んん? どしたの、夕貴くん。なんか釈然としない顔してるけど」
「いや、べつに他意はないんですけど。ただ四年も続いたわりには、あっさりとした終わりだなと思って」
「まあ、そう考えるのも無理ないけどね~。でもあの人たちはちょっと特別だから」
「特別、ですか?」
「そ。特別。この国の裏社会で【九紋】の名を知らない者はまずいないからね~。夕貴くんは殺人鬼って知ってるかな? 殺人鬼」
「はぁ、そりゃまあ知ってますけど」
「うんうん、夕貴くんが博識で波美ちゃんも大満足だよ! とまあ、恐らく本当の意味で殺人鬼と呼べる者がいるとすれば、それはあの人たちのことを指すだろうね。泣く子も頚動脈をかき切られるような殺人鬼一族。わたしたちのような裏の情報を取り扱う商売人のあいだでは、九紋家は《武門十家》の全てを敵に回しても同等に渡り合えるだけの戦力を持つ、と目されているわ。まあここ数百年の間、あの人たちが歴史の表舞台に顔を見せたことはほとんどないから、わたしにも詳しいことは分からないんだけど」
「……話のスケールが大きすぎて、上手くイメージが浮かびませんね」
「事実は小説よりも奇なりって言葉があるぐらいだから、何が起こっても不思議じゃないんじゃない? それに全部が全部、丸く収まったわけじゃないしね~」
「どういうことですか?」
「簡単な話だよ。やっぱり抗争……というか戦争があるからこそ、儲かる家業とか事業もあるじゃない? 例えば殺し屋さんとか、武器商人さんとかね。だから《大崩落》という名のマーケットを潰した【九紋】は、そうした連中から逆恨みされていたらしいの。ところで夕貴くんは、十年ちょっと前に、外国で起きた爆発テロ事件のことを知ってる?」
「いや、ちょっと知らないですね。もしかしたら聞いたことはあるかもしれませんけど、記憶はしていないです」
「そっか~。まあ夕貴くんにも分かるように説明すると、その爆発テロ事件は、【九紋】に恨みを持つ連中が起こしたものらしくてね。事実、巻き込まれた被害者のなかには、家族で仲良く海外旅行していた【九紋】の分家筋である宗谷家がいたって話なんだよ。酷いよね、たった数人の人間を殺すためだけに、その何十倍もの人間を巻き込んだんだから」
「分家を、ですか……」
「そこがミソだよね。実戦じゃあ勝てないからって、直接的には関係のない分家の人に報復するだなんて。まあキツイ言い方をすれば、そういう醜くて汚い応酬があってこその裏社会なんだけどね~」
「…………」

 一通りの話が終わる。あまりにも現実離れしたエピソードの数々は、しかし思いのほかあっさりと理解し、信じることができた。それは恐らく、他でもない俺自身が《悪魔》という現実離れした生物の血を引いているからだろう。
 十六歳の少女が、美影みたいな小さな女の子が、単身でバケモノと殺し合いを繰り広げるぐらいなのだ。もはや萩原夕貴という人間が培ってきた”常識”という名の物差しは、使えないと思ったほうがいい。
 そんなふうに思考をめぐらす俺のかたわらでは、辻風さんがなにやら難しそうな顔をして唸っていた。

「うーん、なんだか暗い雰囲気になっちゃったね。せっかく夕貴くんと二人っきりだっていうのに、これじゃあ盛り上がらないよ~」
「べつに明るい話をしてたわけじゃないんですから、これでいいと思いますよ」
「もう、夕貴くんは冷たいんだから! 波美ちゃん、スーパーショックだよ~!」
「あー、美影の治療、はやく終わらねえかなー」
「ちょっ! なんなのっ、そのコイツの相手をするのは疲れたぜ、とでも言いたげな台詞は! もしかして夕貴くん、わたしのこと嫌いなのっ!?」
「いや、好きか嫌いかで言えば好きですけど。辻風さん、とても親切だし。まあ色々とひどいことも言っちゃいましたけど、俺はあなたみたいな人は嫌いじゃないですよ」
「ぐふっ!」
「えっ、どうしたんですか辻風さん! なんか吐血の仕草してますけど、べつに血は出てないですよ!?」

 瀕死の兵隊さんみたいな顔をして、辻風さんは俺を見た。

「ん、ちょっと夕貴くんの甘い言葉に、わたしの乙女なハートがやられちゃったんだぜ……ごほっ!」
「…………」

 突っ込みづれえ……。
 恐るべし辻風波美さんである。もはや一目置かざるをえまい。そう確信させるだけの何かが、彼女には備わっているのだった。


****


 一般の病院と比べると清潔さに劣る診察室のなかで、美影は右腕とわき腹の治療を受けていた。それぞれ銃傷と打撲である。
 この田辺医院の経営者かつ唯一の医者でもある田辺は、五十過ぎの男性だった。しかし、かなり恰幅がよく、年のわりには若々しい顔つきをしているので、その気になれば四十代前半ぐらいと言っても通じそうだった。
 美影は年季の入った丸椅子に腰掛けていた。治療のため、上半身にはブラジャーしか着用を許されていないが、それを恥らう様子はない。適当な普段着のうえに白衣をまとっただけの田辺は、美影の右腕を注意深く、鋭い目つきで診察していた。

「なるほど、こりゃ銃弾が掠ったのか。……ふん、珍しいじゃねえか、ヤクザものに遅れを取るなんてよ。こんな失態、おめえの両親が知ったらどう思うかね」

 医者とは思えぬ横柄な言葉遣い。まあ非合法を地でいく彼に礼儀を求めるほうが間違っているのだろう。美影は澄ました顔を崩さない。

「親とかどうでもいい。早くして」
「へいへい。まあ確かに、おまえの母親は――千鳥(ちどり)のやつぁ、娘がくたばっても顔色一つ変えねえだろうけどよ」

 秘密裏、非合法とはいえ、田辺医院は二十年以上も前から営業している。それゆえに田辺は、美影の母親である壱識千鳥とも面識、交友があった。

「それに」
「あん?」

 黙って治療を受けていた美影が、ぽつりと漏らす。

「父親は、初めからいない」
「……そういや、そうだったなぁ」

 現在において美影の母親は存命しているが、父親はすでに鬼籍に入っている。その詳細を、美影本人は知らない。ただ物心ついた頃には母しかいなかったし、父がいないことを疑問に思うだけの時間と余裕はすべて鍛錬に費やしてきたので、美影は父親のことについて何一つ知らない。
 それは奇しくも萩原夕貴と似たような境遇であった。しかし、出会うことすら適わなかった父を尊敬している夕貴とは違い、美影は『父親』という存在に何の憧れも持っていなかった。
 ただ、まったく好奇心の類がないか、と聞かれて即答できるほど、興味がないわけでもない。

「……田辺は、私の父親のこと、知ってる?」

 どうでもよさそうに美影は言う。事実、どうでもよかった。ただ治療の間、患者である自分にはすることがないから、暇つぶしとして質問したつもりだった。
 田辺はぴたりと手を止めて、眉間にしわを寄せる。その顔には隠し切れなかった葛藤がにじみ出ている。母の知人ということもあり、美影はそれなりに昔から田辺のことを知っていたが、こんな苦々しい表情を見るのは初めてだった。

「……さあな。知らねえよ」
「そう」
「仮に俺が知ってたら、どうするつもりだったんだ?」
「どうもしない。父親とかどうでもいい」
「千鳥がいれば、親父はいらねえのか?」
「べつに母親もどうでもいい」
「これはもしもの話だが」

 右腕の治療を一通り済ませ、清潔な包帯を優しく巻きながら、田辺は続けた。

「もしも俺がおめえの父親だったら……どうする?」
「…………」

 ぼんやりとしていた美影の目に怜悧な光が宿る。普段の怠惰な気質を除けば、もともと彼女は頭の回転が早いほうだ。人のつく嘘なんて簡単に見破れる。
 だが田辺は数十年近くもの間、裏の人間を相手に商売を続けてきた男だ。その半分も生きていない美影に、田辺の真意を読めるはずもなかった。

「……なんてな。いまのは冗談だよ。俺とおめえに血の繋がりはねえさ」

 冗談。ようやく自分がからかわれたと理解した美影は、むっとした顔でそっぽを向いた。

「……田辺、嫌い」

「はん、俺だって発育の悪いガキに興味はねえ。おめえの母親は、そりゃあもういい女なのによ。どこで遺伝子に不備が出たのか知りたいもんだ」
「……てい」

 軽くイラっとした美影は、田辺のすねを蹴り上げた。いくら鍛え上げたとしても、発生する痛みを軽減するのには限界がある。それゆえの泣きどころだ。

「痛ってえな、なにしやがる、この貧乳のクソガキが!」
「ふん」

 かすかに頬を膨らませる美影。これは本人も半分ぐらいしか自覚していないことだが、彼女は胸が小さいことに密かなコンプレックスを持っていた。
 腕の治療が終わったところで、今度はわき腹の診察が始まった。待合室で夕貴と波美が謎の交友を深めている頃、美影と田辺は親子のような会話を繰り広げていた。


****


 はっきり言って、辻風波美という女性は未知の生物に等しいと思う。少なくとも俺のなかでは。
 瀕死の兵隊さんのような顔をして蹲り、ごほごほと吐血の仕草をする彼女からは、もはやヘンなオーラを感じるぐらいである。
 間もなく活気、というか正気を取り戻した辻風さんは、その場で立ち上がり、拳を握り締めて、ソファに片足を乗せた。
 また乱心したのかよ、と嘆息する俺に、彼女は小さくウインクをする。

「さあさあっ! なんか機嫌のよくなった波美ちゃんが、出血大サービスで、凄惨な裏社会で起こった感動的なエピソードを一つ語っちゃうらしいよ! 持ってけそこのイケメン!」
「とりあえず下着が見えそうなんで足を下ろしたほうがいいですよ」

 辻風さんが着ているナース服の裾はとても短いのだ。俺の指摘を受けた彼女は、顔を赤くしてその場に蹲ってしまった。あまり男慣れしていなさそうな反応だった。

「きゃ~! 夕貴くんのえっち、ヘンタイ、強姦魔ー!」
「どう考えても最後のおかしいだろうが! だれが強姦魔だ!」

 辻風さんは、いささかテンションが高いというか、天真爛漫すぎるな。いちおう俺は徹夜した身なので、いまの彼女に付き合うだけの気力がない。ソファに座りなおした辻風さんは、こほん、と咳払いをした。

「さてさて、それでは気を取り直しまして。この新米看護師こと辻風波美ちゃんが、小噺を一つ披露してしんぜましょうぞ」
「まあ聞かせてくれるってんなら、ありがたく聞きますけど」
「ふっ、その心意気、わたしは決して嫌いじゃないよ夕貴くん! このお話はとっても泣けるから、ハンカチを用意して聞いてね!」

 辻風さんはイタズラっ子のように笑って、透明感のある声色で語り始めた。

「あるところにね、一人の殺し屋さんがいたの。彼は小金色の菓子をもらうような悪い政治家とか、なんか怪しいことを企んでる秘密結社のボスとか、そんな数多の要人を恐怖のどん底に叩き落すほどの実力を持った、まあいわゆる凄腕ってやつだったのね。請け負った任務は確実に遂行し、行く手をさえぎる強敵は慈悲もなくボコボコにして海にポイするような、冷酷非道の殺人マシーンみたいな男だったらしいの」
「へえ、そういう話って現実でもあるんですね。でも泣ける要素がないような気がするんですけど」
「おっと、早まっちゃあいけませんぜ旦那! ここからが波美ちゃんの真骨頂なんだから」

 芝居がかった口調で言ってから、彼女は続けた。

「でも、そんな感情のない冷徹な殺し屋さんにも、転機が訪れちゃうだよね。それはね! 万国共通の必殺技と謳われ、人を苦しませる代名詞でもある、あの”愛”よ! さすがの殺し屋さんにも一抹の感情は残っていたらしくて、彼は任務中に出会った女性と恋に落ちるの! どうどう、ロマンチックだと思わない!?」
「たしかにロマンチックだとは思いますけど、ところどころで入る辻風さんのヘンな言い回しのせいで感動はできないですね」
「んもう、きっついなー夕貴くんは。さすがの波美ちゃんも泣いちゃうよ~」

 ぐすんぐすん、とわざとらしく鼻を鳴らす辻風さん。

「でもまあ、ここからは心して聞いてね? 全米どころか、多元宇宙が泣くほどのエピソードが夕貴くんを待ち受けてるんだから」
「それが本当だとしたら、きっと辻風さんは地球から戦争をなくすことができますよ」
「任せてよ! わたしが夕貴くんを涙の海に溺れさせてあげるから!」

 どん、と自称Dカップの胸を叩く辻風さん。揺れた。

「さてさて、とある女性と恋に落ちた殺し屋さんだけど、やっぱり人生ってのは物語のように上手くいかないものなんだよねー。女性のほうが何の仕事をしていたのかは波美ちゃんも知らないけど、二人を取り巻く環境が彼らの愛を阻んだらしくてね。結局、二人は愛し合ったまま離れ離れになっちゃうのよ~!」
「確かに……それは悲しいですね」

 いまの話を、自分と菖蒲に置き換えて想像してみると胸が痛くなった。
 父さんと離れ離れになった母さんも、相当に辛かったはずだ。その証拠に、俺がまだ子供の頃、真夜中のリビングで寂しそうに泣いている母さんを見たことがある。

「夕貴くんが共感してくれるのは嬉しいんだけど、実はこの話には、さらに悲しいオチがあるのよね」

 さっきまで軽口を叩いていた俺は、いつの間にか辻風さんの話を真剣に聞き入っていた。

「愛する女性との別離を経験した殺し屋さんは、それから何年もの間、いままでどおりに人を殺し続けたの。誰かから頼まれて、誰かを殺して、誰かから頼まれて、誰かを殺して。その繰り返しね。
 そんな非生産的な日常の果てに、彼は一つの仕事を請け負うの。正確なところは分からないけど、それは『とある有力な家系の跡取りを殺してほしい』という感じの内容だったらしいわ。もちろん彼は、二つ返事で請け負ったのね。だって、子供だろうと老人だろうと、頼まれれば殺すのが殺し屋さんなんだから。でもね、運命のイタズラっていうのは本当にあるのよね。なぜって、彼が殺してくれと頼まれたのは……かつて愛を育んだ女性との間にできた、自分の子供だったんだから」
「…………」

 そんなことが本当に起こり得るのだとしたら、悲しいなんて一言じゃ済まないな。
 愛を育んだ時間は短くても、密度は濃かったのだろう。心を触れ合わせて、体を重ねて――そうして女性は妊娠した。けれど、その頃にはもう二人は離れ離れになっていて、殺し屋の男は自分に子供がいるという事実を知らなかった。
 自分が語り手のくせに涙ぐんでいる辻風さんは、ポケットティッシュを取り出して、鼻をちーんとかんだ。

「ううっ、泣けると思わない? 彼は自分に子供がいるとは知らなかったんだよ? そして、さすがの殺し屋さんも、この仕事には言い知れない葛藤を覚えたの! やっぱり殺人マシーンのようだった彼にも、自分の子供は愛らしく映ったのね! 結局、彼は仕事を遂行できず、けれど任務を放棄することもできなくて……!」
「そ、それでどうなったんですかっ?」
「うんうん、それでね? 彼は三日三晩、悩みぬいた挙句――自殺したらしいわ。子供を殺せないなら、自分が死ぬしかないと思ったのかな? その仕事ぶりから、彼を恨んでいた人も大勢いたらしいからね~。でも、ここで一つだけ問題が残るの。彼に仕事を回した依頼主は、『とある有力な家系の跡取り』を殺したがってるんだから、彼が死んだとしても、べつの人に頼むのが筋でしょ? 事実、彼の子供をねらう輩は後を絶たなかったんだって」
「そんなのダメじゃないですか! なんとかして、その子供を守ってあげないと!」
「その意気だよ、夕貴くん! でもね、なんとも不思議なことに……その子供を狙う悪者たちは、なぜかことごとく不幸な死を遂げちゃうんだって! まるで彼の幽霊が、子供をひっそりと守っているかのように!」

 これで辻風さんの話は終わりのようだった。正直、大して期待せずに聞き始めたんだけど、最後になると手に汗握るぐらい面白かったな。

「……それにしても、辻風さんって本当に色々知ってるんですね。ただの思わせぶりな看護師見習いかと思ってたんですけど」
「夕貴くん夕貴くん、本音が漏れてるよ? わたしのほうがお姉さんなんだから、もっと敬おうね? あんまり調子こいたこと言ってると、お姉さんが可愛がってあげちゃうぞ?」

 にこり、と柔和な笑みを浮かべる辻風さんのこめかみは、ぴくぴくと痙攣していた。でも辻風波美さんって、もともとが凄く愛嬌のある人だから、怒ってもあんまり怖くないんだよな。俺が苦笑しながら謝罪すると、彼女は「うむ」と居丈高に頷いた。

「まあ、夕貴くんが感動してくれたところ悪いんだけど、いまの話は裏社会に伝わる都市伝説みたいなものだから、話半分に聞いてね。ほかにも色々と聞きたければ……ふっ、夕貴くん、今夜のわたしは空いてるぜ?」
「お疲れ様でした」
「冷たいっ! 冷たいよ夕貴くん! でもそこが母性本能をくすぐるのも否めないんだよ~!」

 きゃー、と黄色い悲鳴を上げる辻風さん。やっぱりダメかもしれない、この人。
 あらかた話が終わり、マグカップの中身が空になったところで、奥のほうにある診察室の扉が開いた。艶やかな黒髪を後ろで一つに結った小柄な少女と、よれよれの白衣を着た体格のいい男性が、待合室に姿を見せた。

「おう波美、えらく堂々とサボってくれてんじゃねえか」

 ソファに座りこけてだらーとしていた辻風さんを見て、白衣を着た男性――田辺さんが横柄に言った。彼は病院内だというのにタバコを咥えており、さっきから美味そうに紫煙をくゆらせている。
 医者という職業はどちらかといえばインドアなものだとばかり思っていたが、田辺さんは明らかに只者ではない風采と貫禄を併せ持っていた。彼の場合、名の知れた殺し屋が寄る年波に負けて医者に転職した、という事実が隠されていても不思議ではなかった。

「だって院長~! どうせお客さんなんて滅多に来ないじゃないですか~。わたしは仕事をサボってるんじゃなくて、むしろサボらされてるんですよ~!」

 上司に叱られた辻風さんが、唇を尖らせてぶーたれた。部下の反論を受けて、田辺さんの目つきが鋭くなる。ただでさえ厳つい顔をしているので、ちょっと怖い。

「はん。仕事をサボるだけならまだしも、若い男を口説いていた女がなに言ってやがる」
「うーわ、その年で八股もかけてる院長がそれを言いますか~!? しかもわたしの調査によると、そのうちの七人は二十代で、最後の一人は十七歳の女の子だし! 犯罪も甚だしいですよ~!」
「うるせえ。男はいくつになっても若い女が好きなのよ。なあ、坊主?」

 かっかっか、とさも愉快そうに笑った田辺さんは、ソファの片隅に座っていた俺に目を向けた。

「……えっと、はい、まあ。若くて可愛い女の子は、男のロマンですよね」

 とりあえず話を合わせておいた。

「おっ、なかなか話せるじゃねえか。まあ坊主なら女を引っ掛けるのも楽そうだもんなぁ。ちなみにおめえ、巨乳派か? 貧乳派か?」
「いちおう……巨乳派だと思います、たぶん」
「分かってるじゃねえか、坊主! 乳のない女なんざ、アルコールの入ってない酒みてえなもんだよなぁ! そこにいる波美も、きゃーきゃーうるせえガキみてえな女だが、童顔のわりには発育がいいんだよ。なんならおめえ、持って帰ってもいいぜ」

 田辺さんの失礼とも取れる発言を受けて、辻風さんがソファの背もたれに身体を隠し、頬を赤らめた。

「ちょっ! わたしの夕貴くんに悪いことを教えないでくださいよ! ていうか、院長ってわたしのことを性的な目で見てたんですか!? もう職場変えようかな……」 
「ざけんじゃねえ。だれがおまえを性的な目で見てんだ。俺は大人っぽい女にしか興味はねえんだよ。その点じゃあ、あの【高臥】の一人娘はたまんねえなぁ。一度でいいから抱いてみてえ」

 言ってから、田辺さんは受付のところにある菖蒲のポスターを一瞥した。その発言は、きっと冗談の類なんだろうけど、俺の心中は穏やかじゃなかった。賑やかになった待合室のなかで一人、眠そうに目をこすっていた美影がぽつりと漏らす。

「……帰る」

 この壱識美影という少女は、女性の平均身長よりも小さい辻風さんよりもさらに小柄である。しかし認めたくないが、こいつは触れれば切れるような鋭利な美しさを持っており、どこにいても不思議と人目を惹くのだった。

「ねえねえ美影ちゃん! 今度、わたしと美味しいものでも食べに行かない!? それで《壱識》とのコネ……じゃなくて、美影ちゃんと個人的に仲良くなりたいなぁ~」

 微妙に寝惚けている美影を利用しようというのか、どことなく汚い大人の顔をした辻風さんが身を乗り出した。美影は気だるそうな目で辻風さんを見つめて、

「……だれ?」
「ががーん! 忘れ去られてる~!」

 ふらふらと身体を揺らす美影に対し、頭を抱えてうわんうわん泣き喚く辻風さんだった。
 美影の治療は無事に終わったらしく、田辺さんによると、しばらく安静にしていれば身体も本調子に戻るとのことだ。必要はないと思うが、念のために鎮痛剤の類も処方してくれるという。
 それから俺たちは、あまり長居しすぎると彼らに迷惑がかかる可能性もあると判断し、足早にお暇することにした。外に出ると、もう日は昇っていた。どこからどうみても立派な朝である。携帯で確認してみると、もう午前七時を過ぎていた。

「おう美影。代金のほうはおめえんちにツケとくからよ。母親にも伝えてくれや」

 俺たちの見送りに表まで出ていた田辺さんが、紫煙を吐き出しながらそう言った。彼のとなりには辻風さんが控えている。美影は相変わらずの茫洋とした顔で振り向いた。

「わかった」
「そりゃ重畳だなぁ。……ああ、それと、最後に一つだけ聞いておきてえんだが」

 これまで省みないほど豪放だった田辺さんが、がしがしと頭をかき、言いにくそうに口ごもった。彼は美影から視線を逸らしながら、

「千鳥のやつぁ……元気にしてんのか?」
「母親なら元気。たぶん」
「……そうか。ならいいんだが」
「明日、母親と会う予定がある。伝言、いる?」
「いいや、べつにいらねえけどよ……」

 どことなくおかしな会話だと思った。それに田辺さんが美影を見る目には、どこか愛する我が子を心配するような、親愛の情が宿っている気がしたのだ。

「夕貴く~ん! わたしはいつでもヒマしてるから、好きなときに電話してきてね~!」

 可愛らしくデコレーションされた携帯電話を握り締めて、辻風さんがくりっとした大きな瞳を輝かせていた。さっき言い寄られて、ほとんど無理やり番号を交換させられてしまったのだ。

「あぁ、はい。機会があったら連絡しますから」
「おっけー! 波美ちゃんは待ってるよー! 夕貴くんが電話してくれるまで今夜は眠らないからね~!」
「眠ってくださいよ! なんで出会ったばかりの女性に意味もなく電話をしなくちゃいけないんですか! しかも夜に!」
「そ、それはぁ……だからぁ……えっとぉ……きゃー!」
「いま絶対ヘンな想像したでしょ!」

 どうにも締まらない。でも辻風さんはちょっと残念なところがあるからこそ辻風さんなのは間違いない。彼女にいきなりクールになられても困惑するだけである。
 俺たちは、最後にお礼を言って、田辺医院をあとにした。




[29805] 2-7 遠慮会釈
Name: テツヲ◆c49d9b75 ID:366fa69a
Date: 2012/03/11 14:38

 俺と美影は、ダンタリオンを倒すまでの間、一時的に共同戦線を張ることになった。
 ダンタリオンに狙われている俺。ダンタリオンを倒したい美影。俺と美影を欲しているダンタリオン。差し迫った脅威を打倒するためには、俺たちが手を組むのが一番だった。
 本来ならナベリウスに連絡を取るのが最善なのだが、なにがあったのか、あの銀髪悪魔は家を空けているらしく、萩原邸に電話しても誰も出ない。かといって暴力団に追われている現状では家に帰る気も起きず、彼女の所在をこの目で確かめるのは無理だった。
 とにかく方針としては、身を潜めて情報収集をしつつ、ナベリウスと連絡が取れるまでじっとしているに尽きる。あんなバケモノに自分から喧嘩を売るのは自殺行為だ。
 そうと決まれば、次に必要となってくるのが活動の拠点。萩原邸は使えない。ホテルも金銭的に無理。であれば、美影が暮らしている家が選ばれるのは自明の理だった。



 美影は現在、実家を離れて一人暮らしをしているらしい。それ自体はとても素晴らしいことである。これっぽっちも異論はない。
 親元を離れることは、自主性や責任感の醸成、そして精神的な面での成長が望める。俺も一度ぐらいは母さんと離れて暮らしてみるべきだとは思うが、それは普通に寂しいのでパスである。
 ただし男子と違い、女子の一人暮らしには多くの危険が付きまとう。その代表的なものが性犯罪だろう。パッと思いつくだけでも、痴漢、強姦、ストーカー、盗聴、盗撮など枚挙に暇がない。それが美影のように見目麗しい少女ならば、なおさら犯罪に巻き込まれる可能性は上がる。
 だから、まあ、美影が一人暮らしをしてるって聞いたときは、俺はそこそこセキュリティのしっかりしたところに住んでるんだろうなぁ、と勝手に想像していたんだけど、それは間違いだったらしい。

 街外れの閑散とした区画に居を構えていた『田辺医院』から、徒歩で三十分ほど歩いた場所にそのアパートは存在した。距離的にはそう遠くない。すぐ向こうに工業地帯があるせいか、あたりの空気は淀んでおり、呼吸をすると喉と肺がイガイガする。
 ギャグなのか真面目なのか、アパートの名前は『住めば都』というらしい。もし笑いを取ろうとしているなら、そいつはきっとセンスがないと思う。
 アパートの周囲には、ボロボロの廃墟が立ち並んでいる。ほかにも穴の空きまくった金網や、『立ち入り禁止』などの看板があちらこちらに乱立していた。
 そんな排他的な場所のど真ん中に、一つだけぽつんと小奇麗なアパートがあるのだ。どう見ても異常である。
 この『住めば都』というアパートは、鉄筋構造の二階建てだった。築十五年ほど、1LDK、ユニットバス完備、という見事なラインナップ。おまけに家賃は相場よりも五割ほど低いという、目玉が飛び出るような超優良物件である。
 明らかに裏があるのでは、と疑うだけの好条件だが、実際そのとおりだった。
 美影曰く、このアパートは裏の人間しか入居を許可されないらしく、下は薬物の売人から、上は異端を専門的に排除する殺し屋さんまで住んでいるとのことだ。
 要するに、美影が住んでいるのは裏の人間の、裏の人間による、裏の人間のためのアパートなのだった。まあいまの俺たちの隠れ家としては最適なので、文句は言うまい。

「……そういえば」
「ん」

 ぴたりと立ち止まった俺を、美影は振り返った。

「こんなことを聞くのは野暮かもしれないけど……おまえ、俺を部屋に入れてもいいのか?」
「……?」
「いや、ほら。俺は男で、おまえは女じゃないか。もちろん自制はするけど、なにかの拍子に間違いが起きるかもしれないし」
「間違い。なにそれ?」

 美影がぼぉーとした目を向けてくる。徹夜明けで眠いのか、ひっきりなしにまたたきをしている。

「いや、だから間違いっていうのは……」
「うん」

 ちょこん、と俺の前に立って、目を逸らすことなく真っ直ぐに見つめてくる。あまりにも純真無垢な瞳である。どうやらこいつは、俺のことを男として認識していないらしい。

「夕貴?」

 いきなり閉口した俺を不審に思ったのか、美影が変わらず覇気のない顔で小首を傾げた。そうだよな、ちょっと心配しすぎだよな。俺は無防備な女の子を襲うような男じゃないし、美影は必要以上に男を忌避するような女の子じゃないもんな。俺たちは戦友みたいな関係なんだし、間違いなんて起こるわけがない。
 喉に刺さった小骨が抜けたような清々しい気持ちで、俺はかぶりを振った。

「……いや、なんでもない。ちょっと考え事してただけだよ。忘れてくれ」
「そう」

 興味をなくしたのか、美影の唇がつまらなさそうに引き結ばれた。そのとき。並んで歩いていた俺たちに向けて、一石ならぬ一声が投じられた。

「おかえり。美影ちゃん」

 不思議と心が安らぐような、温かみのある声。どこか耳に優しい発音と言葉遣い。アパートの正面玄関には、俺たちを待ち構えるように一人の男性が佇んでいた。
 無造作に伸びた黒髪と、半端に伸びた無精ひげ。うだつの上がらなさそうな風貌は、しかし庶民的な親近感を相対する者に抱かせる。三十代後半ぐらいの彼は、よれよれの背広に身を包み、こちらに向けて親しげに右手を振っている。
 どこかで見たことあるな、と思ったら、彼は昨夜、俺を重国さんとの待ち合わせ場所まで案内してくれた、あの隻腕の男性だった。
 俺が東京湾に浮かばなかったのは、この人のおかげと言っても過言じゃない。

「……ん?」

 美影のとなりに立つ俺を認めると、彼は人懐っこい笑みを浮かべた。

「やあ、また会ったね。僕のこと、覚えてるかな? こんなことを男性に言うのもおかしいけれど、なぜか君とはまた会えるような気がしてたんだよ」
「はい。もちろん覚えてますけど……」

 この不意の再会を手放しで喜べないのは、場所が場所だから、だろう。美影の話が真実ならば、このアパートには裏社会の人間しか近寄らないはずなのだから。

「夕貴。これと知り合い?」

 どことなく不機嫌そうな顔で、美影が彼を指差した。

「まあ知り合いだな……っていうか、目上の方を”これ”とか言うなよ。失礼だろ」
「べつにいい。だって冴木は、私のストーカーだから」
「……え」

 なんか美影の口から、女子の一人暮らしの天敵ともいえる単語が飛び出したような……。

「ハハハ、こりゃ参ったね。まさかストーカーと認識されてるとは思わなかったよ。相変わらず美影ちゃんは手厳しいな」

 これっぽっちも不快さをあらわにせず、むしろ照れたように頭をかいて彼は苦笑した。それから俺に向き直って、

「紹介が遅れたね。僕は冴木っていうんだ。好きに呼んでくれていいよ」
「分かりました、冴木さん。俺の名前は萩原夕貴って言います。こちらこそ紹介が遅れてすいませんでした」

 愛想笑いを浮かべて名乗りを済ませる。繁華街で会ったときは名前も聞かずに別れちゃったからなぁ。

「……萩原……夕貴」

 冴木さんは思慮深げな顔で、俺の名を何度も呟いていた。

「あの、どうかしましたか?」

 心配になって尋ねてみると、彼はハッとした顔で手を振った。

「ああいや、べつに大したことじゃないよ。ただ素敵な名前だと思ってさ」

 なるほど。母さんのネーミングセンスが分かるなんて、やっぱり冴木さんはいい人だったんだ……!
 俺は緩みきった顔を見られぬように俯いて、ぽりぽりと頬をかいた。

「いやぁ、それほどでもないですけど。ちなみに名付け親は、俺の母さんなんですよ」
「へえ、いいお母さんだね。大事にしてあげなよ。親にとって子供っていうのは宝物なんだから」
「もちろんですよ! 母さんを幸せにするのが俺の夢なんですから!」

 そう宣言する俺を見て、冴木さんは目元を和らげた。
 ……あれ、でもそういえば、繁華街での会話から察するに、冴木さんには家族がいるはずなのだが。冴木さんは多少なりとも裏社会と関わりがあるみたいだし、だとするなら彼の家族はどこでなにを……?

「冴木とかどうでもいい。夕貴、はやく私の部屋に行こ」

 すでに打ち解けた俺と冴木さんの間に割って入ってきた美影が、俺の服の裾をぎゅっと握ってくる。冴木さんが顔色を変えた。

「……ところで、萩原くんは美影ちゃんとどういった関係なんだい? まさか恋人同士なんてことはないよね?」

 なぜかは分からないが、冴木さんの満面に浮かぶ笑顔の中に、かすかな怒気が滲んでいるような。背筋に冷たいものが這い上がった。

「あ、当たり前じゃないですか。俺と美影の関係は、そんなロマンチックなものじゃないですよ」
「そうかい、ならいいんだ。美影ちゃんはこのアパートの紅一点にしてアイドルだからね。一人占めはだめなんだよ。例えば、三号室の住人である渡辺くんは、美影ちゃんを盗撮するぐらいの大ファンだしね」
「は、はぁ……」

 なんか色々と聞き捨てならない情報が漏れたような気もする。
 向こうのほうから見慣れぬ男性が歩いてきた。その男性は、目深にニット帽を被り、安っぽいジャージで上下を固めている。年齢は二十代前半ぐらいで、どこか暗い雰囲気を漂わせていた。

「やあ、渡辺くん。お帰り」

 冴木さんが手を振ると、どこかから帰宅したばかりの男性――渡辺さんはびくっと体を震わせた。

「あ、あぁ……どうも」

 いつ職質されてもおかしくない不審な態度だった。俺たちとは目を合わそうともせず、落ち着きのない様子で絶え間なく周囲を伺っている。
 しかし渡辺さんは、気だるそうに佇む美影に気付くと、かさついた唇を緩めた。それは相手の機嫌を取るための媚びたような笑みだった。

「み、美影、ちゃん……こんにちは」

 名指しされた美影が、ちらりと視線をよこす。でも美影は興味がなさそうに、あるいは気分を害したようにそっぽを向いた。

「美影ちゃん、あの……へ、へへ」

 無視されているのにも関わらず、渡辺さんは幸福に蕩けた笑顔で美影のことを見つめていた。彼は卑下た目で、美影の身体を足先から頭のてっぺんまで舐め回すように凝視している。俺の気のせいでなければ、渡辺さんは性的な興奮を腹のうちに隠しているように見えた。

「……うざい。あっちに行け。ヘンタイ」

 たまりかねた美影が吐き捨てるように呟いた。それでも渡辺さんの表情は曇ることなく、むしろ罵倒されたことによって恍惚とした笑みさえ浮かべて、いやらしく舌なめずりをした。感情をあらわにすることが少ない美影に、ここまで不機嫌そうな顔をさせるのは大したものだが、渡辺さんを賞賛するのはできそうになかった。

「あぁ、美影ちゃんの声、可愛いなぁ……」
「だまれ。もう私に喋りかけるなって忠告したはず。二度は言わない」
「へへへ、ごめんね美影ちゃん。でも、そんなに怒らないでもいいじゃないか。ほら、もっとこっち見てよ」
「しつこい。これ以上、私を怒らせたら殺す」
「美影ちゃんは物騒だなぁ。でも女の子が、そんな言葉遣いをしたらだめだよぉ? 君みたいに綺麗な……」

 そこで初めて、渡辺さんは俺の存在に気付いたようだった。けれどタイミングの悪いことに、美影は俺の服をぎゅっと握ったままである。その実態はどうであれ、美影が俺に寄り添っているように見えることは間違いない。

「…………」

 強い怨嗟の篭った視線が、俺に突き刺さる。渡辺さんは呪詛を抑えるようにぎりぎりと歯軋りをして、それからなにも言わず、アパートにある自室へと姿を消した。

「ハハハ、まあ渡辺くんは美影ちゃんの大ファンだからねぇ」

 剣呑な空気を意に介さず、冴木さんがマイペースにフォローを入れた。もしかして冴木さんは天然なのだろうか。性犯罪者を思わせる渡辺さんの言動に、あの美影ですら激情を堪えるのに必死だったというのに。

「美影。大丈夫か?」
「べつに普通」

 素っ気のない返事。しかし美影はさも面白くなさそうに目を細めていた。
 それから俺たちは冴木さんに見送られて、アパートの二階に位置する美影の部屋に向かった。


****


「ハァ……ハァ……ハァ……」

 カーテンの締め切られた薄暗い部屋に、獣のような吐息が漏れる。
 足の踏み場もないほど汚くちらかった室内には、膨大な量の写真がこれでもかとばら撒かれていた。その写真は、どれも似たような構図だった。しかも同じ少女しか写っていない。それだけでも異質なのに、千にも届こうかという数の写真のなかで被写体となっている少女は、一度としてカメラのレンズを捉えていなかった。
 すべて、盗撮だった。
 一度や二度の気の迷いでは断じてない。明らかに倒錯した思惑が感じ取れる。性犯罪者でさえ、この大量の写真を見れば自分が正常だと誤解するだろう。

「ハァ……ハァ……ハァ……」

 艶やかな黒髪を後頭部の高い位置で結い、いつも面倒くさそうに瞳を細めている少女。息を呑むほど白い肌と、左目の下にある憂いを湛えた泣きぼくろ。写真に写っている少女は、人目を惹く美しい容姿をしていた。
 渡辺は、溢れる興奮を抑えようといつもの『日課』をこなしていた。かさついた唇から漏れる吐息が、写真のなかで可愛らしくあくびをしている少女に降りかかる。生気のなかった瞳にいやらしい欲望が浮かびあがり、痩せこけた頬に不気味なえくぼが浮かんだ。

「……美影ちゃん、美影ちゃん……!」

 愛する少女の名を呼びながら、渡辺は『日課』を終えた。それと合わせて、写真には彼の白い体液がべっとりと降りかかる。冷静になった渡辺は、少女の写真で作ったベッドに体を横たえた。

「……どうしてだよ」

 裏切られた気分だった。手に入らなくてもいい、振り向いてくれなくてもいい、話しかけてくれなくてもいい。ただあの少女が誰かのモノにさえならなければ、彼はそれだけで満足だった。
 にも関わらず、これまで微動だにしなかった均衡が崩れ去ってしまったのだ。あっけなく。

「……あの野郎」

 ぎりぎりと歯軋りをする。あまりに強い顎の力が、彼の奥歯を砕いてしまった。欠けた奥歯を吐き出し、渡辺は呪詛を唱えるように連続して呟く。

「許さない……許さない……絶対に許さない……俺の美影ちゃんを奪うやつは絶対に許さない……」

 醜悪な笑みが、渡辺の形相を歪ませる。一人の少女を偏執的に愛していた男は、ここにきて完全に間違った方向に歩を進め始めていた。
 そうだ、どうせ手に入らないんだったら、いっそのこと力づくで奪ってやればいいんだ。幸いにも彼女は、この街に拠点を置く暴力団の一つである鳳鳴会に追われている。彼らに情報を持ち込み、彼女を無力化してもらって、ついでにあの忌々しい女顔の男をぶち殺してもらおう。
 もしかすると彼女は、鳳鳴会の連中に汚されてしまうかもしれないが、それでもいい。彼女をもらったあとは自分がたっぷりと清めてあげればいいのだ。
 そうだ。そうだ。それでいいのだ。それが、いいのだ。

「ふ、ふふ……美影ちゃん、待っててね……くっ、ククっ」

 生臭い闇の中で、どこまでも倒錯した一つの狂気がいま、ゆっくりと醸成を開始した。



****


 
 
 美影は部屋に着くなりシャワーを浴びに浴室に向かった。俺もあとで貸してもらおう。走り回ったから身体中が汗でべとべとする。
 美影の部屋は、とても質素だった。年頃の女子が好みそうな調度類は一切なく、必要最低限の家具だけが揃えられている。キッチンには自炊どころか、料理をした形跡すらない。冷蔵庫の横にあるゴミ袋の中身を見るかぎり、美影は普段からブロックタイプの栄養食を好んで食べているらしかった。
 ひどく殺風景な室内には、脱ぎ散らかされた衣服が散乱している。これは元からあったものではなく、さきほど美影がシャワーを浴びる際に脱いでいったものだ。
 窓辺に立つと、ガラス越しに退廃とした風景が広がって見えた。このアパートを覆い隠すようにして立ち並ぶ背の高い廃墟が、太陽光を遮っている。日当たりは最悪だった。

「……はぁ」

 やっぱり女の子の部屋というのは緊張する。浴室のほうからはシャワーの音が聞こえるし、健全な男なら卑猥な妄想をするのが当然のシチュエーションである。 
 俺がぼんやりと窓の外を眺めていると、シャワーの音が止み、浴室から美影が出てきた。ホテルのときと同じ、身体にタオルを巻いただけという、見方によれば誘っているとしか思えない格好で。
 目を逸らさなくちゃいけないはずなのに、俺の視線は固まったように動かなかった。色白の肌はほんのりと赤く上気していて、濡れそぼった黒髪が肩や背中にまとわりついている。それは見蕩れるに値する、扇情的な姿だった。

「上がった」

 男に裸を見られているのにも関わらず、美影には恥らう様子がなかった。

「夕貴?」

 石化した俺を訝しんだ美影が、ゆっくりとした足取りで歩み寄ってくる。吐息がかかりそうな間合いまで近づくと、美影は不思議そうに小首を傾げた。

「どうかした?」

 あらためて観察しても、その眉目の整った顔立ちには圧倒させられるばかりだった。左目の下の泣きぼくろが儚げな憂いを湛え、濡れた下まつげは妖しい魅惑を放っており、締まった肌の上を流れる水滴の一滴一滴が美影を輝かせている。

「夕貴、ちょっとヘン。顔が赤いし、息も荒いし、まるで渡辺みたい」
「渡辺さん……?」
「うん。いつも私にヘンなこと言ってくるヤツ。あいつ、嫌い」
「……まあ確かに、ちょっとおかしな人だったけどさ」

 あんな人を射殺せそうな目で睨めつけられたのだ。さすがに庇おうという気は起こらなかった。

「冴木もヘンだけど、渡辺はもっとヘン。声を聞くたびにぶち殺しそうになる」
「いや、ぶち殺すは言いすぎだろ。あの人にもあの人なりの……」
「何度、私の出したゴミを漁られたか分からない。売春の話を持ちかけられたこともある」
「…………」

 もう俺が口を出すのは止めよう、と思った瞬間だった。あとこのアパートに滞在する間は、気を抜かないほうが身のためかもしれない。
 話が終わると、美影はいそいそと服を着始めた。とはいえ羞恥心の薄い彼女は、純白のショーツを穿き、黒のタートルネックを着込んだところで着替えを止め、その場にごろりと寝転んだ。上は隠れたが、下はショーツ丸出しのうえに、カモシカのようにしなやかな美脚までが惜しげもなく晒されている。
 もちろん直視するわけにもいかないので、俺はあさっての方角を見ながら注意した。

「……おい、ちゃんと服を着ろよ。いや、着てくれよ。俺の理性がタイヘンなことになるだろ」
「ふわぁ……」

 猫のように丸くなっている美影が、シャワーで火照った身体を冷ますように熱っぽい息を吐いた。というよりあくびをした。徹夜明けで眠いのだろう。もちろん俺も眠い。呆れてため息を漏らしたところで、ふと気付く。

「……ん?」

 この部屋を装飾する数少ない家具の一つ、小さなテーブルの卓上、そこに美影が両手首に着けていた無骨なブレスレットが置いてあった。シャワーを浴びている間、外していたのだろう。なんともなしにそれを拾い上げて、まじまじと観察してみる。

「なあ美影。こういうのが最近は流行ってんのか?」
「……?」

 寝転んだまま気だるそうな所作で、美影が俺を――というよりブレスレットを見る。
 次の瞬間、夢想だにしていなかった変化が巻き起こった。これまでの怠惰な仕草からは想像もできないほどの素早い身のこなしで身体を起こした美影は、慌てて俺のほうに駆け寄ってきた。
 茫洋ながらも凛としていた空気は霧散して、クールと称すに相応しかった切れ長の瞳には確かな怒りが宿った。あまり感情を表に出すことがない美影が、不機嫌そうに眉を寄せ、目を細めている。

「それ返して」
「え?」
「それ返してっ」
「…………」

 ふむ、なんだこれは。
 俺の記憶違いじゃなければ、美影は抑揚のない口調だったはずだ。声に感情を乗せることも面倒くさがる彼女は、敵と戦闘するときだって声を張り上げることはなかった。そんな彼女が、誰が聞いても分かるぐらい棘のある声を発している。ちょっと不安というか、心配になってきた。

「おい、急にどうしたんだよ。なんか悪いものでも食ったのか?」
「はやく返せ!」

 いったいどうしたんだ、こいつ。
 すぐにブレスレットを返してもいいけど、この変化の原因を知りたいのも確かだ。いまの俺たちは相棒のような間柄なんだし、パートナーのことを深く理解するのもまた必要なことだろう。ちょっと色々と試してみるか。

「分かった分かった。ほら、返すよ」

 そう言ってブレスレットを差し出す真似をすると、美影の顔がふにゃんと緩んだ。例えるなら、フレンチトーストを食べたときの菖蒲みたいな顔である。ブレスレットが美影の手に渡る寸前、俺はひょいと手を掲げて、ふたたびブレスレットを遠ざけた。

「…………」
「…………」

 沈黙。またしても美影の顔が曇り、不機嫌と不愉快を足して倍にしたようなオーラが発せられる。美影がブレスレットを奪い返そうと手を伸ばす。俺はブレスレットを彼女から遠ざける。よく分からない不毛なやり取りは、次第にヒートアップしていった。

「返せっ、返せっ、返せーっ!」

 美影はぴょんぴょんと飛び跳ねてブレスレットを追いかける。そのたびに濡れた黒髪が舞い踊り、甘いシャンプーの匂いがする。やや長めのタートルネックの裾からは、清潔なショーツと滑らかな脚線が覗いていた。あっちこっちにブレスレットをかざすと、それに釣られて美影の跳躍も変化する。

「返せっ、返せっ、返せーっ!」

 何事にも限度があるように、このとき、俺のイタズラも少しばかり度が過ぎていたのだろう。痺れを切らした美影は、勢いよく俺に飛び掛ってきた。ブレスレットを高く掲げるために爪先立ちをしていた俺は、あっけなく押し倒された。転倒したときに腰をしたたかに打ちつけてしまう。

「いってぇ……」

 などと言っているあいだに、美影が俺のうえに圧し掛かってくる。それも馬乗りに。美影はズボンを穿いていないので、ショーツ丸出しである。かたちのいい尻が、俺の腹にむにゅんと乗っかった。
 濡れた黒髪が垂れ下がり、頬をくすぐってくる。ポニーテールではなくストレートに髪を下ろしているせいか、あるいは風呂上りの女の子が発する魔力のせいか、いまの美影は凄く色っぽい。
 温かな熱を持った身体は汗ばんでおり、薄桃色に紅潮していて、妖しい色香を放っていた。もともと肌の色が白いせいか、上気した頬がひどく艶かしい。
 思わずごくりと喉を鳴らしてしまった自分を心の中でボコボコにしてから、俺は美影から目を逸らした。すると、小さな布一枚しかまとっていない彼女の下半身に目がいってしまい、逆効果となった。
 美影は両足で俺の体を挟み込んだ。柔らかく、それでいて張りと弾力のある太ももが、わき腹のあたりを圧迫してくる。かあ、と全身が熱くなるのが分かった。

「ちょっ、おい! この体勢は色々と問題があるだろ!」

 俺も気を抜けば(不覚にも)見蕩れてしまうぐらいなんだ。こんな密着した体勢だと理性が長くは保たない。

「それ返せ!」

 どうやら美影は、いまの体勢について思うところはないらしかった。恐らく羞恥心よりもブレスレットを奪い返すほうが優先なのだろう。
 互いの吐息が肌にかかるほど顔が接近する。甘い、甘美とさえ言える女の子の匂いが、鼻先をくすぐった。

「くそ……!」

 ブレスレットを奪い返されたくない、というよりも、美影の魅力から逃れようとして、俺はみっともなく抵抗した。
 でも運の悪いことに――あるいは良かったのかもしれないが――腕を振り回すと、美影の胸に手が当たってしまった。それも両手で、鷲づかみ。ブレスレットが床のうえに落ちる。

 女性の平均よりも劣るとはいえ、そこには確固たる柔らかさが存在した。

 美影は面倒くさがってブラジャーをつけていなかったようなので、阻むものはタートルネックの布しかなく、乳房の感触が文字通り手に取るように分かった。
 男の本能が発動してしまい、手が動いて、たおやかな膨らみを揉みしだいてしまう。
 ……やべえ、めちゃくちゃ柔らかい。
 なんだかんだ言ってもこいつ、ちゃんと胸あるんだな。失礼なことを考える萩原夕貴、十九歳。男らしさだけがとりえの男。

「……はっ!?」

 なに当たり前のように女の子の胸を揉んでんだ、俺は!? こいつは出会ってから一日と経ってない女の子だぞ!? こんな不埒なことを俺がしてるって知られたら、母さんからは説教され、菖蒲には泣き喚かれ、ナベリウスには一生からかわれ、託哉にはヒューヒューと口笛を吹かれること間違いなしじゃねえか!
 いやでもまあ美影は羞恥心の薄い子だし、ちゃんと謝れば許してくれるはずだ。こいつは俺のことを男と認識してないようだし。

「ごめんな? わざとじゃなかったんだぞ? ほんとだぞ?」

 いちおう本気で悪いとは思っているので、心からの誠意を込めて謝罪してみた。

「…………」

 美影はぽかんとした顔のまま、自分の胸と、それに触れる俺の手をじっと見つめていた。
 たぶん、俺がいままで体験したアクシデントのなかでもベストスリーには入る、気まずい展開だった。いっそのこと怒鳴ってくれたほうが気持ち的には楽なのだが、しかし美影は俺に罰を与えることなく、ただ罪の意識のみを植えつけるかのように、沈黙を保っていた。往々にして、罪とは罰がなければ晴れぬものである。

「…………」

 なんか腐った生ゴミを見るような目で見られてるんだけど。

「えっと、怒ってるか……?」
「……ふん」

 鼻を鳴らし、俺から離れていく美影。
 いそいそとブレスレットを装着した美影は、普段どおりの無愛想で怠惰で無表情な女の子に戻った。理由は分からないが、あのブレスレットを他人に触れられると彼女は気分が害するようだ。
 それから俺たちは眠気を我慢し、ちょっと遅い朝食を摂ることになった。ここまで徹夜すると、逆に一週回って眠くなくなってしまったのだ。ただし朝食を摂るとは言っても、精のつく食料など備蓄されていなかったので、俺が近くのコンビニまで買出しに行くことになったのだが……。

「……なあ美影。なにか食べたいものとかあるか?」
「うるさい黙れバカ」

 美影はあぐらをかき、こちらに背を向けている。もうすでに服を着込み、長い黒髪はポニーテールに結われていた。なぜか俺に胸を触れられる前よりも、美影が厚着になっているような。
 さっきから微妙に美影の頬が膨らんでいる気がするのだが……見間違いであると思いたい。

「さ、さすがに怒りすぎじゃないか? もうちゃんと謝っただろ? そりゃ俺だってイタズラが過ぎたとは思うけど」
「喋るな女顔」
「ぐっ!」

 いまだけは反論できない!

「……はあ」

 しばらくは共闘しなきゃいけないってのに、これじゃあ先が思いやられるな。俺が言うのもなんだけど。
 これ以上、ここにいても罵倒されるだけだと思い、俺は足早に部屋をあとにした。こうなったらコンビニで調達できる食料で、なにか美味しいものを作ってやるしかない。扉を閉める直前まで、抑揚のない口調で紡がれる美影の悪口が、俺の耳と心を痛めて止まなかった。





 アパートの正面玄関には、俺たちと別れた直後のままの出で立ちで冴木さんが佇んでいた。ぼんやりと曇天を見上げていた彼は、階下に現れた俺を認めると意外そうな顔をした。

「うん? 萩原くんじゃないか。どうしたんだい。まさか美影ちゃんに部屋を追い出されたわけでもないだろうし」

 頼りなさそうな笑みを浮かべて、冴木さんは茶化すように言う。

「まあ美影ちゃんは色恋沙汰とは無縁の生活をしてるし、萩原くんみたいな年頃の男の子と接するのに慣れていないんだろう。そう気にすることはないよ」
「年頃の男と接するのに慣れてない、ですか。でもむしろ、あいつは男をあしらうのが上手いと思うんですけど」
「ハハハ、確かにそうかもしれないね。ただ美影ちゃんは男のあしらい方を知っている、というよりも、男をあしらうことしか知らないと言ったほうが正しいよ。いままで恋をしたことがないから、『あしらう』以外の選択肢が、あの子のなかにはないんだ。そう考えると、萩原くんは脈があるほうだと思うよ」
「うーん、絶対に脈だけはないような気がするんですけど。あと恋をする美影なんて想像できませんし」
「同意だね。僕も想像できない」

 互いに顔を見合わせて、俺たちは笑った。

「それにしても冴木さんって、美影のことに詳しいんですね」
「詳しいっていうほどでもないよ。ただ同じアパートに住んでいるわけだし、それだけ美影ちゃんと触れ合う機会も多いのさ。とは言え、満足にコミュニケーションを取れたことは数えるほどしかないけどね」

 あぁ、ちなみに僕の部屋は二号室だよ、と冴木さんは補足した。美影の部屋が一号室に当たるから、そのとなりに冴木さんが住んでいるということになる。いわゆる隣人というやつだ。
 俺が近場のコンビニまで食料を買出しに行く旨を伝えると、彼は合点がいったと大きく頷いた。

「ああ、そういえば美影ちゃんはいつも手軽な栄養食ばかり食べていたね。君みたいな若い男の子にはちょっと物足りないか」
「まあ……そんなところですね」

 正直なところ、俺はべつに栄養食でもよかったのだが、美影になにか美味しいものを食べさせてやりたかった。あんな味気ないもんばかり食べてるから成長の兆しが見えないのだ、あいつは。

「……ところで、一つ気になってたことがあるんですけど」

 のほほんと笑っている冴木さんを見ていると決意が鈍りかけたが、それでも俺にはどうしても聞いておきたいことがあった。

「うん? なんだい?」
「ちょっと聞きにくいんですけど……冴木さんには家族がいるんですよね?」

 あまり踏み込まないほうがいい、とは思ったが、質問してしまった以上、もう撤回はできない。冴木さんはきょとんとしてから、居心地が悪そうに苦笑した。

「そうか。萩原くんには昨日の夜、繁華街でばったり会ったときに、僕に家族がいるってことを教えちゃったんだっけ。いやあ、参ったね。あのときは一期一会の出会いだと思っていたから、口を滑らせても大丈夫だと思ってたんだけどなぁ」
「冴木さん。俺から質問しておいてこんなことを言うのもおかしいんですけど、べつに無理して事情を話す必要は……」
「でも気になるんだろう?」

 いまさら引き下がろうとする俺を、冴木さんは努めて明るい表情で引き止めた。
 確かに、気にならないと言えば嘘になる。昨夜、繁華街で会ったときの冴木さんはとても満ち足りた顔をしていた。娘のことを語るときの彼は、とても幸せそうだったのだ。
 恥を承知で告白するなら、俺は『父親』という存在に強い憧れを抱いている。もちろん母さんがいてくれたから寂しくはなかったけど、しかし俺を挟むようにして父さんと母さんが立っている光景を、ガキの頃は何度も夢に見たものだ。冴木さんに家族がいるのなら、なるべくそばにいてあげてほしいのだが。

「まあ、萩原くんを楽しませるようなエピソードがあるわけでもないんだけどね」

 物憂げな顔で曇った空を見上げながら、冴木さんは言った。

「実を言うとね。別居してるんだよ」
「別居、ですか?」
「そうそう、別居さ。僕にも妻と娘がいたんだけどね、いまは離れて生活してるんだよ。君もある程度は察してると思うけど、僕は残業手当が出ないと嘆いたことも、意地の悪い上司にいびられたこともない。そういう平凡なサラリーマンが抱える普遍的な悩みとは無縁なんだよ、僕は」

 この『住めば都』というアパートに入居する絶対条件は、裏の人間であること。つまり冴木さんは、うだつの上がらない社会人なんかじゃない。なんの仕事をしているのかまでは分からないが、彼が大手を振って歩けるような人種じゃないことだけは確実。
 ということは、もしかして冴木さんが家族の方と別居しているのは、それが原因なのではないだろうか?

「ははあ、萩原くんはどうにも頭の回転が早いみたいだね」

 なぜか楽しげに冴木さんが声を上げた。

「たぶん君が考えているとおりだよ。僕は妻と娘に愛想を尽かされたんだ。まあそれも当然かな。真っ当な職を持たない男なんて、妻と娘からすれば害悪以外のなんでもないだろうし」
「そんなことないですよ!」

 予想していたよりも、否定の声が大きくなってしまった。いきなり剣幕をあらわにした俺を見て、冴木さんが目を丸くしている。
 でも俺は悲しかったんだ。きっとこれは『父親』という存在に美しいイメージを持ってしまっている俺だからこそ言える綺麗事なのだろうけど、父親である冴木さんが、自分のことを『害悪』なんて称するのは我慢ならなかったのだ。
 ふと我に返ると、感情的になった自分が恥ずかしく思えてきた。

「……すいません、急に大きな声を出したりして」
「いや、いいさ。僕も自虐が過ぎたみたいだしね」
「そう言ってもらえると助かります。……でも俺は、自分の言葉が間違っているとは思いません。冴木さんの抱える事情は分かりませんが、お父さんがいなくなって嬉しいと感じるような家族はいないはずです」
「……そうだね。きっと萩原くんの言うとおりだ」

 冴木さんの声には真実、俺の言葉に納得してくれた響きが含まれている。俺みたいな部外者に出る幕などあろうはずもないが、冴木さんには家族の人と仲直りしてほしいな、と切に思う。この世には父親のいない子供だっているのだから。

「……萩原くんはいい子だね。優しくて、強くて、賢い。そういうところはお母さん譲りなのかな?」
「どうなんでしょう? よく母さんに似てるとは言われますけど」
「だろうね。そんな気がするよ。ところで再確認しておきたいんだが、”夕貴”という名前をつけたのは、お母さんなんだよね?」
「そうです。名前の由来とかは聞いてないんですけど、母さんは生まれてくる子供が男子でも女子でも、”夕貴”っていう名前をつけるつもりだったと聞いています」
「……ふうん、なるほどね」

 右手の指で無精ひげをさする彼は、なにか深い考え事をしているように見えた。

「えっと、そういえば冴木さんの下の名前をまだ聞いてないんですけど、この際だから教えてもらってもいいですか?」

 これは純粋な知的好奇心からの質問である。あっさりと答えてもらえるんだろうなぁ、と高をくくっていた俺は、しかし予想を裏切られることとなる。

「あー、非常に言いにくいんだが……萩原くん、実は”冴木”っていう名前は、僕の本名じゃないんだよ」
「へ? どういうことですか?」
「裏社会じゃあ本名を失くしてしまう人間が稀にいるぐらい、偽名を名乗るのは日常茶飯事だからね。僕がそのパターンに当てはまってもおかしくはないだろう?」

 いまいち『偽名を名乗るのが普通』という裏の常識に馴染めないのだが。

「これは余談だけど、僕の”冴木”っていう名前は、実は美影ちゃんが名づけてくれたものなんだよ」
「あいつが?」
「うん。このアパートで初めて会ったときにね。美影ちゃんはこう言ったんだ」
 
 ――冴えない顔。おまえなんか冴木でいい。

 と、初対面の成人男性に対して、美影は言ったらしい。まったく怖いもの知らずというか、なんというか。

「ちょうど僕も新しい偽名が必要な時期だったしね。どうせなら、こんなうだつの上がらないおっさんの考えた名前よりも、美影ちゃんのように可愛い女の子が考えてくれた名前のほうが幸があるかな、と思ったわけさ」
「なるほど。でも”冴えないから”っていうのが由来じゃ、微妙に幸先が悪いような気が……」
「いいんだよ、細かいことは気にしない気にしない。僕を含めて、このアパートに住む人間は、みんな美影ちゃんのファンだからね」
「ファン、ですか。でもあの渡辺っていう人は」

 言いかけて、二階から誰かが降りてくる気配を察知した俺は、続く言葉を飲み込んだ。噂をすれば、というやつだろう。アパートから出てきたのは、ニット帽を目深に被った男性だった。安物のジャージをまとった彼の目は充血していて、肌には張りがなく、唇はかさついている。

「やあ、渡辺くん。どこかに出かけるのかい?」

 目元を和らげて挨拶をする冴木さんを無視して、渡辺という名をした男性は、ぶつぶつと独り言を呟きながら俺たちの前を素通りしていった。
 さすがに様子がおかしいな、どうしたんだろう、と思った瞬間。

「へ、へへ」

 おぞましい含み笑いを漏らし、渡辺さんが俺を一瞥した。その目には生気どころか正気すらないように見えた。ここに警察がいれば、まず間違いなく彼は取り押さえられているだろう。そう思わせるだけの異常性が、いまの渡辺さんにはあった。
 下手をすればナイフでも振り回しそうな雰囲気だったのだが、彼は俺たちにはなにも言わず、黙ってアパートを後にした。

「……なにかあったんでしょうか?」
「さあ、どうだろうね。基本的に僕たちは『互いの事情に深入りしない』のが原則だから。仮に渡辺くんが殺し屋に狙われてるとしても、僕たちには手の出しようがない。うかつに手助けをしてはいけない。それが裏のルールってもんさ」
「…………」

 ちょっと冷たいが、きっと冴木さんの言葉に嘘はないのだろう。ここは俺の常識が通用しない世界。無秩序こそが秩序とまでは言わないけれど、表社会よりも”暴力”が幅を利かせているのが裏社会だ。興味本位で首を突っ込めば、それが身の破滅に繋がることだってあるかもしれない。

「…………潮時、か」

 そのとき、感情を伺わせない平坦な声で、冴木さんはよく分からないことを呟いた。

「え、なにか言いましたか?」
「おや、萩原くんは耳がいいね。聞こえちゃってたか。まあこっちの話だから、気にしないでくれ」

 そう言われてしまうと、俺にはどうしようもない。冴木さんが渡辺さんの事情に深入りしなかったように、俺は冴木さんの事情に深入りしないほうが自然なのだ。この裏社会では。

「萩原くん」

 なんの脈絡もなく、冴木さんは言う。

「君さえよければ、これからも美影ちゃんと仲良くしてあげてくれないか。あの子には恋人はもちろん、世間話を交わせるような友達すらいないからね。きっと萩原くんとの出会いが、美影ちゃんの心境に何らかの変化をもたらすだろう」
「……そうでしょうか? 美影のやつ、確実に俺のことを嫌ってると思いますけど。ついさっきも喧嘩しちゃいましたし」
「それはいいじゃないか。美影ちゃんは、僕たち『住めば都』の住人のことなんて眼中にないからね。嫌ってもらえたり、喧嘩してもらえたりするだけでも、僕にしてみれば信じられない話さ」
「そう言われても素直に喜べないんですけど……」
「ハハハ、まあ萩原くんの気持ちも分かるけどね」

 これから美影と友好な関係を築けるつもりがゼロの俺は、さも愉快げに笑う冴木さんがすこし恨めしく思えた。

「とにかく、だ。美影ちゃんと仲良くしてあげてくれよ、萩原くん」
「はぁ、最低限の努力はしてみます」

 渋々と頷く俺を、冴木さんが満足そうな目で見つめていた。
 それから俺は冴木さんに挨拶をして、近場にあるコンビニに向かった。美影の部屋を出たときよりも、空はいくらか曇っているような気がした。




[29805] 2-8 明鏡止水
Name: テツヲ◆c49d9b75 ID:366fa69a
Date: 2012/03/11 15:23
 
 コンビニで数日分の食料を買い込んだ俺は、人目を避けて美影の部屋まで戻ってきた。
 美影の機嫌はそう悪くなかった。ただ微妙に俺から距離を取っているような気がする。あまり目も合わせてくれない。出会ったばかりの男に肌を晒すのが平気な彼女でも、やっぱり胸を触られるのは嫌なのだろうか。
 俺がキッチンで調理をしている間、美影はテレビを見ていた。このテレビは今時珍しいぐらいボロボロで、いつ壊れてもおかしくない代物である。なんでも捨てられていたものを拾ってきたらしい。
 美影が好んで見るのはバラエティやドラマではなく、ニュースの類だった。恐らく街の近況や世論を知るためだろう。それが規制されたり操作されたりした上で開示された情報だったとしても、役に立つことに変わりはない。
 例えばいま、朝のニュース番組はもともとの予定を変更して、昨夜この街の繁華街で起きた事件について報道していた。
 現場からの中継を任されたリポーターによると、この街に根を張る暴力団がラブホテルに大挙して押し寄せて、少なくない軽傷者を出したとのこと。幸いにも死者は皆無だった。
 ニュースの速報は、どうにも要領を得ない感じだった。たぶん、情報の多くが意図的に規制されているためだ。現に『暴力団は拳銃を所持していた』という事実はいまのところ出てきていないし、《鳳鳴会》という組織名も伏せられていた。

「……あれだけ派手だったのに、やけに扱いが小さいな。公共施設に武装した暴力団が乗り込んだんだ。もっと色んな報道局が食いついてもおかしくないんじゃないか?」

 俺は卵と牛乳と砂糖を入れたボウルをかき混ぜながら、鋭い目つきでテレビを見つめる美影に問いかけた。

「ううん、これでも大きく報道されてるほう。本来なら昨夜の事件そのものが隠蔽されてるはず」
「隠蔽だって? でも扱いが小さいとはいえ、ちゃんとニュースになってるじゃないか」
「たぶん、目撃者が多すぎたせい」
「なるほど。つまり事件を完全に隠蔽しちまうと事件を見ていた人たちが怪しむから、最低限の情報だけ流したってわけか」

 自分が巻き込まれた事件がもみ消されていく……おかしなものだよな、ふと気を抜けば、昨夜の出来事がぜんぶ夢だったんじゃないかと錯覚しそうになるんだから。
 気を抜けば漏れそうになるため息を押し殺して、俺は調理を続けた。いま作っているのは、ご存知、フレンチトーストである。これならコンビニで売っている食材からでも作れるし、なにより手間がかからない。
 カットした食パンに、卵と牛乳と砂糖を混ぜた液体をたっぷりと染み込ませたあと、バターをしいたフライパンで焼いていく(ちなみに必要最低限の調理器具だけは揃っている)。
 その過程でふと思った。
 美影って栄養食ばっかり食べていたみたいだけど、甘いものとかは大丈夫なのかな?

「なあ。おまえってなにが好物なんだ?」
「ポン酢」
「待て待て。それは調味料であって、料理じゃないだろ」
「しゃぶしゃぶをごまダレで食べてるやつを見ると親の顔が見たくなる」
「言いすぎだろ! キレやすい若者ってレベルじゃねえぞ! 確かに俺もごまダレよりはポン酢派だけど!」
「派ぁ?」

 おまえ死んだほうがいいだろ、みたいな顔をされてしまった。美影は大きく重たいため息をついた。

「夕貴、”派”とかない。そもそもポン酢とごまダレを比べることがおかしい」
「そこまでポン酢が好きなのか……」
「ポン酢を捨ててごまダレに浮気をするやつは死ねばいいのにといつも思う」
「愛が重い!」
「誰にも私を止めることはできない」
「まず走ってもねえよ、おまえは!」

 熱した鉄板のうえで食パンが焼かれる音と、なんともいえない甘ったるい匂いが部屋に充満していく。くんくん、と鼻を鳴らす美影。

「……それ、甘いもの?」
「そうだよ。おまえ甘いものは好きか?」
「やぶさかじゃない」
「ならよかった。もうすぐ出来上がるから楽しみにしてろ」

 そうこうしているうちに萩原家秘伝のフレンチトーストが完成した。本当ならシナモンを隠し味として入れるのが母さんの教えなのだが、コンビニには売っていなかったので今日は省くとしよう。
 埃を被っていた小皿を洗い、そこにフレンチトーストを盛り付けていく。美影の分にはシロップを多めにかけておいた。
 出来上がったものをテーブルに運ぶと、美影の目の色が変わった。挑みかかるような、疑いかかるような眼差し。『おいおい、おまえ本当に美味しいんだろうな?』とでも言いたそうな瞳である。
 コンビニで買ってきたインスタントコーヒーを二つ淹れて、俺は美影の対面に腰を下ろした。ちょうどテーブルを挟んで座るようなかたちだ。

「むう……」

 美影は気難しそうな顔をしていた。フレンチトーストが未知なるものに見えるのかもしれない。
 やがて覚悟が決まったのか、どことなく小動物を思わせる仕草で、彼女は小さな口をめいっぱい広げてフレンチトーストを頬張った。
 よく吟味するように両目をつむり、もぐもぐと音がしそうなぐらい軽快に顎を動かす。

「――っ!」

 次の瞬間、カッと美影の目が見開かれた。つやつやとした玉肌が、薄っすらと上気する。

「どうだ、美味いだろ?」

 なんとなく勝った気分である。しかし俺が作った料理を美味しいと認めることは、美影にしてみれば自分の負けと認めることに等しいようだ。

「……べつに普通」

 ぷいっ、とそっぽを向く。その頬は大量に詰め込んだフレンチトーストのせいでハムスターのように膨らんでいる。

「素直じゃねえな。美味けりゃ美味いって言えよ」
「だから普通。まあ食べられないこともない」
「そのわりには凄まじい勢いで食べてるじゃねえか……」

 ぱくぱく、もぐもぐ、ぱくぱく、もぐもぐ、と。
 その見事な食べっぷりは、さながら久方ぶりに餌を与えられた猫である。

「…………」

 あー、なんか和むなー。
 俺の視線に気付かず、ほこほことした顔でフレンチトーストをついばむ美影は、なんともいえない愛嬌があるんだよなぁ。
 いまの美影を見ていると、自分でもびっくりするぐらい心が落ち着く。なんていうか、一生懸命にヒマワリの種をかじるハムスターを見ているような感じ。
 普段の言動があまりにも憎たらしいので、こうして美味しい食べ物に油断している美影の姿はなんとも愛らしく映るのだ。

「……なに?」

 俺の生暖かい視線に気付いた美影は、むっと目を鋭くして不機嫌そうな顔になった。

「いや、べつに。なんでもないよ」
「……ふん」

 どこか釈然としない面持ちで視線を逸らせる美影。
 あまり露骨に観察するのも悪いな、と思った俺は、部屋の片隅に置かれているおんぼろテレビに目を向けた。

「……おっ」

 そのとき、示し合わせたかのようなタイミングで、菖蒲が出演しているコマーシャルが流れた。
 それは清楚な菖蒲にぴったりの、シャンプーの映像広告である。菖蒲が愛用している柑橘系の香りがするシャンプーと同じやつだ。なんでも菖蒲はコマーシャルに出演しているという役得で、会社のほうからタダで製品をもらえるらしい。

「やっぱり可愛いよなぁ、菖蒲って。きっと学校でもみんなに好かれてるんだろうな」

 無意識のうちに呟いてしまった。
 美影はフレンチトーストを食べながら、

「うん。好かれてる。学級委員にも推薦されてた」
「へえ、そうなのか。学級委員に推薦されてたとは知らなかったな」
「でも仕事が忙しいからと断って、保健委員に立候補してた」
「へえ、そうなのか。保健委員に立候補してたとは知らなかったな……ん?」

 なんだ?
 こいつ妙に詳しいな。
 もしかして隠れファンなのか?

「なあ美影。つかぬことを聞くけど、なんでおまえは菖蒲が学級委員に推薦されてたり保健委員に立候補してたってことを知ってんだ?」
「見てたから」
「見てた?」
「うん。おなじクラス」
「あー、なるほど。そういうことだったのか。確かにそれなら納得できるなってええええええええっ!?」

 パニックに陥る俺とは対照的に、美影はどこまでも自然だった。

「私、愛華女学院の生徒」
「はあぁぁぁぁっ!? そんなのありえ」

 ない、と言いかけたところで、俺は踏みとどまった。
 そうだ、よく考えるとありえない話じゃない。むしろ考えれば考えるほど現実味を帯びてくる。俺は美影の非現実的な姿しか見ていないので想像しづらいが、こいつも今年で十六歳、つまり現役女子高生のはずなのだ。

「そこのクローゼットに制服が入ってる」

 普段の俺ならば、証拠を得るためとはいえ女の子の秘密が詰まっていそうな場所を覗くことはしないのだが、今回だけは特別だった。
 部屋の片隅にある小さなクローゼットを開け放つと、そこには黒を基調としたセーラー服がかけられていた。菖蒲が着ているものよりも幾分かサイズは小さいけれど、それが愛華女学院の制服であるという事実に変わりはない。
 確かに、美影には黒い色がよく似合うから、このセーラー服もばっちり着こなせるとは思う。でも、こんな愛想の欠片もない怠惰な女の入学を許してしまうとは……。

「だめだ。美影が勉強している光景なんか想像もできない……」
「想像できないというより、そんな光景は存在したためしがない」
「ちゃんと勉強しろや!」
「授業を受けた記憶もほとんどない」
「だからサボっちゃだめだろ……」
「学校にはちゃんと行ってる。ただ授業中はいつも机と愛を確かめ合ってるから」
「それ寝てるだけじゃねえか!」
「悪いのは私じゃなく、私をいっぱい調教した机のほう」
「言い訳が斬新すぎるわ! そんなことを理由に居眠りしてたら先生に怒られるぞ!」
「怒られてない。でも泣かれた」
「もう話しちゃったのか!? ……ち、ちなみに、先生には居眠りしてた理由をなんて説明したんだ?」
「私は机にいっぱい調教された牝奴隷。ご主人様には逆らえないから寝るしかない――と」
「俺が先生だったらおまえに病院を勧めてるわ! つーか、そんなことを先生に言うおまえ凄いなっ!」
「……照れる」
「褒めてねえよ!」

 こいつと喋ってるとため息が止まらないのは、俺の思考が硬いからなのだろうか?

「でもさ、おまえの両親はなんて言ってんだ?」
「……?」
「いやほら、いま聞いた話だと、おまえって学校における一種の問題児じゃないか。授業中、寝てばっかりだったら先生に怒られるし、それを続けてたら親御さんにも連絡がいくだろ?」
「知らない」
「知らないって……」
「父親はいないし、母親とはそういう話しない」
「…………」

 ちょっと迂闊だったかな、と反省する。
 家族の問題は、往々にしてデリケートであることが多い。俺だって父さんのことについて尋ねられるのはあまり好きじゃない。聞かれるたびに、自分には父親がいない、という事実を再認識させられるから。
 美影にも、父親はいないという。離婚か、あるいはすでに亡くなっているのか。よせばいいのに、俺の口は止まらなかった。もしかするとそこには、ある種の親近感のようなものが働いているのかもしれなかった。

「……その、おまえのお父さんってどんな人だったんだ?」
「んー。知らない。私が生まれたときにはもう死んでた」

 やっぱり聞かなきゃよかったかな、と少しだけ後悔した。

「……そっか。実は俺も、父さんの顔、見たことないんだ」
「そう」

 簡素に応える美影の目は、父親の話題をするときよりも幾分か、寂しそうに見えた。なんだか朝っぱらから陰鬱な雰囲気になってしまった。このままでは気が滅入るばかりなので、俺は空気を明るくしようと話題を戻した。

「まあ真面目な話、おまえはもっとしゃんとしたほうがいいと思うぞ」
「……?」
「いや、なんかもったいないなって思ったんだよ。おまえってほら、色々とだらしないところがあるだろ? たとえば出会ったばかりの男に肌を晒したり、一度座ったり寝転んだりするとなかなか動かなかったり、太陽をうざそうな目で見つめたり」
「太陽は眩しいから嫌い。紫外線も超うざい。たぶん、あいつ調子乗ってる」
「そこがおかしいんだって。普通、年頃の女の子なら暗がりよりも陽だまりを好むはずなんだよ。でも美影は朝よりも夜のほうが好きなんだろ?」
「うん。暗いと落ち着く」
「だろうなぁ……」

 美影が太陽の下で走り回ってる光景なんて想像できない。絶対こいつは月に照らされた高層ビルのてっぺんとかで、物憂げな顔をしながら腰掛けてるほうが似合いそうだ。

「それに、さっき俺がコンビニに行くときだって、本当ならおまえも一緒に来るべきだったんだよ。そっちのほうが安全だしな」
「ねむい。だるい。シャワー浴びてから外に出たくない」
「ただのニートじゃねえか、おまえ……」

 まったく、こいつの将来が心配になってくるな。
 それからしばらくの間、もぐもぐとフレンチトーストを頬張っていた美影は、なにが拍子かは分からないが「はっ!?」と名案を閃いた学者のように立ち上がった。その様子は、さながら天啓を授かった巫女のようでもあった。

「……もらった」
「なにがだ」
「今年の流行語大賞、もらった。これは絶対に流行る」
「また意味不明な言葉を思いついたのか……」

 ため息をついて肩を落とす俺を尻目に、美影は言った。

「これから私のことは”ニーデレ”と呼ぶべき」
「はあ? なんだそりゃ」
「普段はニートで、いざというときにデレデレする人――つまり私のこと」
「……おい美影」
「じー」
「……いや、だから美影」
「じー」
「…………」
「じー」
「……ニーデレ」
「なになに?」
「美影」
「じー」
「……あのな、ニーデレ」
「うんうん」

 もう色んな意味で終わってるな、こいつ。
 相変わらず美影の顔は気だるそうな感じだったが、その瞳の奥底には長いマラソンを走り終えたときのような達成感が秘められている気がした。

「……まあなんでもいいけどさ。一つだけ聞いていいか?」
「うんうん」
「確かにおまえにはニートの素養があると思うけど、べつにデレデレはしてないよな?」

 ぎくっ、と美影の身体が跳ねる。いつかのときとまったく同じ反応だった。

「そ、そそそんなことないし。私、超デレデレだし」
「……やっぱり誤魔化すのが下手すぎるよ、おまえは」

 もしも”ニーデレ”という言葉が流行ったとしたら、そのときは日本の終わりだと俺は思う。
 それから間もなく、俺たちは朝食を食べ終えた。栄養をしっかり摂ったあとは、これまで酷使した身体と脳を休めるために仮眠を取ることにした。
 布団は一つしかなかったので、俺は床のうえで毛布に包まって眠ることになった。相当に眠かったのだろう。美影は布団に潜り込むと、すぐに寝息を立て始めた。かけ布団から頭だけをぴょこっと露出させ、猫のように身体を丸めている。その寝顔を、俺は見つめていた。

「……ったく。もっと警戒しろよ。バカ」

 一つ屋根の下、腕を伸ばせば届くような距離に若い男がいるというのに、美影にはこれっぽっちも思うところがないようだった。
 まあ警戒されていないというのは素直に嬉しいのだが、しかし男として意識されていないのもちょっと複雑だったりする。一切合財の煩わしいことから逃れるように、俺は毛布のなかに潜り込んだ。

「……ん」

 なんかいい匂いがした。安物の毛布から香ってくる、甘い女の子の匂い。
 こんな非常時なのに……いや、こんな非常時だからこそ、壱識美影という少女のことを意識せずにはいられなかった。
 もちろん俺には菖蒲がいるので、美影に惚れたとかそんな不埒なことは言わないけれど。それでも、なにがあっても美影のことだけは護ってやらないとなぁ、なんて、そんなお節介なことを考えてしまう程度には、俺はこいつのことが気に入り始めていた。


****


 漆黒の帳が下りた夜景は、世界が終わってしまったのではないかと危惧するほどに深遠だった。澄み渡った空には美しい三日月が浮かび、その黒い画用紙のような夜天に煌くまばらな星々が、闇に呑まれる世界に幾許かの希望を与えている。

「……醜いですねえ」

 そびえたつ高層ビルの屋上から、まるで神のごとき威容と傲慢さで夜の街並みを俯瞰する男がいた。風になびく金色の髪と、縫いつけたような糸目と、場違いな神父服。ソロモンの序列を持つ彼は、名を《ダンタリオン》という。

「ああ。人というものは実に醜い」

 くつくつ、と喉の奥から湿った音が漏れる。

「このような下賎な輩がはびこる世界など壊れてしまえばいい――そうは思いませんか?」

 フェンスを始めとした安全装置が設けられていない屋上のふちに佇み、変わらず夜景を見下ろしたまま、ダンタリオンは背後にいるであろう人影に向けて、そう問いかけた。

「へえ、気付いてたんだ。相変わらずの用心深さで安心したわ、ダンタリオン」

 氷のように冷たく、水のように澄んだ女性の声がした。
 この高層ビルの屋上には、あまった敷地面積を有効利用するためにヘリポートが設けられていた。ほかにも空調設備や給水設備がごちゃごちゃと並んでいる。そのなかでも奥まった場所にある一際大きい給水タンクのうえに、銀色の長髪をした女が立っていた。
 およそ完成された美貌。よく磨かれた銀貨のような瞳。月明かりにも負けない白磁の肌。ソロモンの序列を持つ大悪魔にして、一人の少年に忠誠を誓う彼女は、名を《ナベリウス》という。

「褒め言葉として受け取っておきましょう。貴女のほうこそ昔と変わらず美しいままだ」

 かつての同胞を前にした二人の反応は、それこそ正反対だった。ダンタリオンは楽しげに唇を歪め、ナベリウスは冷酷に目を細めている。ナベリウスを見上げて、ダンタリオンは旧友を迎えんと手を広げた。

「どうです? 久方ぶりの再会だ。よろしければ一緒にお食事でも」
「遠慮しておくわ。いまだから言うけど、わたしは昔からあなたのことが大嫌いなのよね。そのいやらしい目を見ているだけで反吐が出そうになるし」

 前髪をかきあげ、ナベリウスはため息を漏らした。突き放すような罵倒を受けても、ダンタリオンの笑みは崩れない。

「ふうむ、そうですか。しかし僕は昔から貴女のことを好いていましたよ。人間など足元にも及ばない絶対の美貌と、気高くも誇り高い精神。なるほど、貴女のような女性を跪かせることができれば、さぞかし気分がいいでしょうねえ」
「いつまで経ってもその腐りきった性根は変わらないのね。……でもねダンタリオン。残念だけど、あんたじゃ役者不足なのよ。わたしを自由にしていい男は、この世に一人しかいないの。それは」
「我らが偉大なる《バアル》の遺児、ですか?」

 ぴくっ、とナベリウスの眉が吊り上がる。

「僕は残念でなりませんよ、ナベリウス。あの美の女神と称すに相応しかった貴女が、いまでは過去に縋り付くだけの牝でしかない。敬愛した《バアル》が逝ってしまったからと、その面影を求めて、彼の子息によりどころを求めるとは。哀れですよ、実に哀れだ。見るに耐えませんよ、いまの貴女は。その日の食事代に困って男に股を開くような女となんら変わらない」
「……なにを勘違いしているのか知らないけど」

 さも面倒くさそうにかぶりを振って、ナベリウスは言う。

「わたしはもうバアルのことなんてどうでもいいの。逝ってしまった彼に、わたしが護れなかった彼に、いまさら求めることなんてないわ」
「ほう? ではなぜ貴女は、あの少年を?」
「そんなの決まってるじゃない」

 ナベリウスは母親か姉のような親愛の笑みを浮かべた。それは一人の少年にだけ向けられ、捧げるもの。

「わたしは、夕貴を愛してる。夕貴がバアルの血を引くという事実は、わたしがあの子に抱く愛になんの影響も及ぼさないわ。わたしはあの子を護ってあげたい。夕貴がわたしを愛してくれなくてもいい。夕貴がわたし以外の者を愛してもいい。それでもわたしは夕貴を愛して、慈しむ」

 そう気付いたのだ。いつかの朝、初めて少年の姿を見たときに。
 そう誓ったのだ。いつかの朝、初めて少年と出会ったときに。
 この子だけは護ってあげたいと。今度こそ、護り抜いてみせると。あの十九年前の日に、王なるソロモンの使徒として、己が真名に賭けて、彼女は心に決めたのだ。
 他の誰にでもない、心の奥底にいる、かつての主を護れず怯えていた弱い自分に、ナベリウスは言い聞かせたのだ。己の殻に閉じこもって泣いていた情けない自分は、初めて少年を見守ると決めた日から、何人にも侵すことのできない神聖な想いに変わったのだ。
 だから。

「夕貴は、わたしが護る」

 それこそがナベリウスの願いであり、贖罪だった。

「……なるほど。貴女のお気持ちはよく分かりました。愛ゆえに少年を護ると」

 顎を手でさすり、ダンタリオンは嘆息した。

「しかし残念ですねえ。いくらバアルの血を引くとはいえ、まさか人間と混じってしまったような半端者に、貴女ほどの女性が忠誠を捧げるとは」
「…………」
「それに『彼』はどうしたんです? かつて貴女とともにバアルを守護していた『もう一人』は? ……ははあ、まあ容易に想像はつきますけどねえ。大方、バアルが人間の牝と恋に落ちたという事実に失望し、袂を分かったのでしょう?」

 芝居でもなんでもなく、心の底から呆れたような口調で、ダンタリオンは続ける。

「まったく。どうやらバアルや貴女は、人間と関わりすぎたようですね。参考までに聞きますが、あんな虫けらのような種族のどこがいいんです? ありとあらゆる家畜を捕食し、多種多様な動物を娯楽のために捕獲し、鑑賞しては芸を仕込み、必要がなくなっては人の手で殺す。何年、何十年、何百年、何千年と経っても同族で殺し合いを続け、果てにはこの星すらも壊そうとしている。反吐が出るほど愚かですよ。あのバアルが愛し、子を孕ませたという一匹の牝も、しょせんは下賎な……」

 ダンタリオンの言葉が止むのと合わせて、どこからともなく『氷』が顕現した。まるでツタが這うように、ヘリポートを含めたありとあらゆる設備に少しずつ薄氷が張られていく。パキパキ、と小気味よい音とともに屋上は氷結、無機質なコンクリートを白い霜が覆い尽くした。気温はゼロを下回ってマイナスに到達。果てには、吐息さえも凍てつかせる氷点下にまで陥った。
 一瞬にして、人の手により造られた空間は、生きとし生ける者を凍えさせる絶対零度に飲み込まれた。

「黙れよ、ダンタリオン」

 氷にも劣らぬ冷えきった声。小高い氷山のようになった給水タンクの頂点からダンタリオンを睥睨し、ナベリウスは告げる。

「おまえはいま、絶対に言ってはいけないことを口にしたぞ」

 あの二人を。敬愛した主と、一つの約束を交わした親友を。愛し合い、未来を誓い、けれども離れ離れになるしかなかった、あの二人を。萩原駿貴(はぎわらとしき)と小百合を侮辱することだけは、赦しがたい。

「やはり美しいですねえ、この力……人は、貴女のこれを《絶対零度(アブソリュートゼロ)》などと呼称していましたが、なるほど、言い得て妙だ」

 さすがに以前ほどの余裕はなくなっているものの、ダンタリオンは身構えることなく平然としていた。

「それが遺言か?」
「まさか。天上の神も、この崇高な僕の死だけは望まないでしょう ……とはいえ、貴女が相手では分が悪すぎることは確かだ。我らが同胞のなかでも、貴女と殺り合って無事で済む者はまずいない。ですが――」

 ダンタリオンは三日月のごとく口を歪めた。

「貴女に《絶対零度(アブソリュートゼロ)》と呼ばれる強大な異能があるように、崇高な僕にも一つの手品が使えます。それを使えば、貴女はともかく、この街はどうなりますかねえ?」
「…………」
「まあ日本のど真ん中に『南極』を作る覚悟がおありなら、僕も協力しますが」

 ナベリウスの欠点は、その大きすぎる力にあった。威力、持続力、汎用性、利便性、応用性に長けている反面、効果範囲があまりにも広すぎるのだ。
 確かに彼女ならば、この場でダンタリオンを殲滅することは可能である。しかしそれは街に大きな被害をもたらすことが前提だった。少なく見積もっても、ダンタリオンを滅ぼす頃には、街の半分以上が絶対零度の下に埋もれているだろう。
 もちろん本来ならば、それほど広範囲に渡って被害が出ることはない。ただナベリウスに戦闘の意志があるように、ダンタリオンには周囲を巻き込む意志があるのだった。
 もっと噛み砕いて言えば、ダンタリオンはこの街の住人すべてを人質に取っている。だが誤解してはいけない。ナベリウスは正義の味方ではないのだ。むしろ彼女は、かの少年とその身内を護るためならば、ありとあらゆる人間を見捨てることだろう。

「……ふうむ、どうやら退いてはくれないようですね」
「愚問だよ、ダンタリオン。お前はここで朽ち果てろ」

 ナベリウスは右手の指を鳴らした。パチン、と乾いた音。強風の吹き荒れる夜空に、壮麗な氷槍が何本、何十本と形成されていく。それは主の命を待つように、ナベリウスの背後に待機した。

「……やれやれ。久方ぶりの再会だというのに、降るのは血と氷の雨ですか」

 大げさに肩をすくめるダンタリオンは、その実、ナベリウスが戦意をあらわにしたことを喜んでいた。

「いいですねえ、その冷酷な顔。かつての貴女を彷彿とさせますよ。あの触れることさえ躊躇われる女神のようだった貴女を」
「ふん、隙あらばわたしに手を出そうとしていた男がよく言うわね」
「いえいえ、こればかりは仕方のないことでしょう? なぜなら」

 二柱の大悪魔により発せられた殺気が、屋上のコンクリートに張っていた氷にヒビを入れた。

「美しい花は摘まれてしまうのが道理なんですから」

 本来ならば、その宣言を皮切りに、壮絶な死闘が幕を開けていたことだろう。しかし何事にもイレギュラーは発生するものだ。それはまるで神のイタズラのように人を翻弄する。踊らされる役者が人間ではなく悪魔であったとしても、例外を回避することは不可能。
 次の瞬間、圧倒的な熱と爆発が、コンクリートを破壊し、絶対零度の世界を打ち砕いた。

「――っ!?」

 彼女らは現状を理解することもなく、ただ吹き荒れる火炎の嵐に飲み込まれ、炸裂した火薬のエネルギーに翻弄された。それが軍事用の爆弾によって引き起こされた事態だということを、ソロモンの悪魔は知らない。
 晴れ渡った夜空に轟音が残響し、眠りに落ちていた夜の街並みを叩き起こした。高層ビルの屋上はごうごうと燃え上がり、跡形もなく崩壊。軽自動車ほどもあろうかというコンクリートや鋼鉄の破片が、階下の公共道路に降り注いだ。
 それは突然にして、一瞬の出来事だった。




 激しい爆発を起こした高層ビルを、遠くから見守る男がいた。
 あらかじめ仕掛けていたC4爆薬ではビルを倒壊させるまでには至らないが、それでもあのそびえたつ摩天楼の『頭』を吹き飛ばすだけの威力はじゅうぶんにあるはずだった。
 実際のところ、ヘリポートが併設されていたビルの屋上は、いまとなってはハリウッド映画さながらの様相を呈している。

「やったか……?」

 まだ油断することは許されないが、それでもあの爆発に飲まれて生きているような人間はいないだろう。
 とにかく、これでもう大丈夫のはずだ。娘を脅かす脅威は排除した。
 男は握り締めていた起爆スイッチをポケットに放り込む。このスイッチを押すことにより発せられた複雑な暗号つきの電波が、あの高層ビルの屋上にある給水タンクの真下に仕掛けていた爆薬に届くことにより、先ほどの爆発は発生したのだ。
 一切の感情が見えない顔で周囲を見渡し、まるで医者のような慎重さで危険がないことを把握してから、男はその場をあとにした。


****


 
 美影の部屋で一夜を過ごし(もちろん男女間に起こりうるトラブルは欠片としてなかった)、軽く朝食を摂ったあと、俺たちは駅前に向かった。
 街の空気はいつもよりも浮ついていて、どことなく祭りのそれに似ている。まあ無理もない。自分たちの住んでいる街で、原因不明の爆発事故――いや、ここは爆発事件といったほうが正確か――が起こったのだから。
 俺たちも今朝、ニュースを見て事件のことを知ったので、詳しくは分からない。昨夜の深夜過ぎ、オフィス街の一角にある高層ビルで起こった、爆発。
 警察としては”何らかの火種がヘリポートにあった航空燃料に引火したのではないか”という線から捜査を進めているらしいが、これは恐らく、裏の人間が粉飾した『シナリオ』だろう。
 ただ爆発とは言っても、実質的な被害は高層ビルの屋上に設けられたヘリポートだけに留まった。時間が時間だけにビルの内部はほとんど無人で、死者どころか軽傷者も出ていない。爆発によってコンクリート片が階下に散らばったために周辺道路は封鎖されていて、作業には少なくない時間がかかるとのこと。
 かなり衝撃的な事件だったのは確かだが、テロにしては爆発規模と犯行時刻が中途半端すぎるうえに犯行声明も出ていないので、犯人の意図がまったく読めず警察の捜査は難航しているのが現状。
 多くの人が行き交う大通りを歩く最中、俺はとなりを歩く少女に声をかけた。

「なあ美影。あの爆発って何だったのかな?」

 自称ニーデレは、しばし考え込むように「んー」と唸ってから、

「知らない。私が聞きたい」
「やっぱりか。まあ冴木さんも知らないみたいだったからなぁ」

 俺たちがアパートを出るとき、もはやお決まりのように階下にたたずむ冴木さんと挨拶を交わした。そのとき爆発事件について情報を交換したのだが、やはりと言うべきか、冴木さんもニュースで報道されている以上のことは知らないようだった。

「でもさ、ちょっと気になるよな。このタイミングで高層ビルが爆破されるとか、偶然にしては出来すぎてると思うんだよ」
「まあ、母親だったら爆発のことも知ってると思う」
「……お母さん、か」

 俺たちが駅前まで出てきたのは、美影の母親と会うためである。これは昨日の今日で入った緊急の所用ではなく、数週間も前から予定されていた案件らしい。なんでも美影の”仕事”に関するリアルタイムの近況を、定期的なスパンで報告する必要があるのだとか。 そうした事情があって、俺たちは美影の母親に会いに来たわけなのだが……。

「どうかした?」

 歩く速度を落とした俺に、美影が改まって声をかけてきた。

「いや、そりゃどうかするだろ。だって俺とおまえは出会ってから数日も経ってないんだぞ? 愛どころか恋すら芽生えてないんだぞ? なのにいきなり美影のお母さんと顔を会わせるとか、俺には荷が重過ぎると思うんだよ」

 まだ菖蒲のお母さんと会ったこともないのに。ぶっちゃけ胃が痛い。俺という見知らぬ男を連れてきた美影を見て、彼女の母親はどう思うだろう? 怒るのか、悲しむのか、喜ぶのか……まあとりあえずテンパるのは間違いないだろうな。俺だって自分の娘が男を連れてきたら、確実に理不尽な怒りをぶつける自信がある。

「夕貴は母親と会うの、イヤ?」
「イヤってわけじゃないけどな。ただ申し訳ないっていうか」
「イヤじゃないならいい。もう時間を過ぎてるから、急ぐ」

 てくてく、と俺の前を歩いていく美影。その背中には、腰にまで届く尻尾のようになったポニーテールの房が揺れていた。

「……はぁ」

 覚悟を決めるしかないか。それから俺たちは足早に、待ち合わせ場所へ向かった。
 どの街においても鉄道駅の周辺は、必然的に経済的発展が進む傾向にある。それだけ電車は利便性の高い移動手段として現代では重宝されているということだろう。具体例を挙げると、いわゆるオフィス街と呼ばれる会社などの事務所が集中して立地する区域や、この街一番のデパート、大きなモニュメントの建てられた中央広場、バイパス道路やロータリーなども、やはり駅を中心とした半径のなかに収まっている。そうした諸々の総和が、この俗に『駅前』と呼称される場所に、都会的な喧騒をもたらしていた。
 美影が足を運んだ先は、デパートのすぐそばにある喫茶店だった。日当たりのいいオープンテラスの隅のほうに腰掛けていた女性に、美影は近づいた。

「来た」

 小さな文庫本を開いていた女性は、読みかけのページにしおりを挟んで、それをテーブルのうえに置いた。

「そう。遅かったのね。五分の遅刻よ」

 美影に勝るとも劣らない平坦とした声で応え、こちらに振り向く。
 腰のあたりまで伸びた長い黒檀の髪と、陶磁器のごとく滑らかな白い肌。綺麗な卵形の輪郭、どこか冷めた二重瞼の瞳、ふっくらとした瑞々しい唇、整ったプロポーション。年齢は二十代後半ぐらいだろうか。妙齢の美女といって差し支えないだろう。彼女は貴婦人めいたシックな服装に身を包み、お洒落なストールを肩にはおっていた。その胸元には、美しい光沢を放つ宝石をあしらったペンダントが揺れている。

「……この人が」

 美影の、母親か。
 たしかに彼女は、美影によく似ていた。というより、美影が彼女に似ているのか。
 もちろん泣きぼくろの有無とか、身長とか、胸の大きさとか、他にも大きなところでは美影が髪をポニーテールに結っているのに対し、こちらの女性はストレートのまま下ろしているなど、よく見れば細かな差異はあるのだが、それの分を差し引いても、顔立ちや雰囲気がそっくりだった。
 でも母親にしてはずいぶんと若く見える。学校の三者面談に赴いたら「美影ちゃんのお姉さんですか?」と聞かれそうなレベルだ。
 もしかしたら彼女は、若作りなのではなく、本当に若いのかもしれない。きっと出産の適齢期よりも早くに美影を産んだのだろう。

「あら。そちらの方は?」

 予定外の同伴者である俺を認めた彼女は、小首を傾げて意外そうな顔をした。細かい仕草まで娘とよく似ている。
 さて、ここからが正念場である。
 やっぱり第一印象が肝心だからな……失礼のないように紳士的な対応をしないと……あれ、でも俺は美影と付き合ってるわけじゃないんだから、べつにそこまで気張らなくてもよくないか?
 とかなんとか俺が脳内で忙しく一人会議をしていると、先制攻撃と言わんばかりに、向こうが先に口を開いた。

「初めまして、かしら。私は壱識千鳥(いちしきちどり)。この子の母親よ」

 美影によく似た黒髪の美女、壱識千鳥さんは、娘と瓜二つの無表情な顔と抑揚のない口調で自己紹介をした。
 ……やばい。色々と余計なことを考えすぎて、上手く言葉が出てこない。こういうシチュエーションだったら普通、俺のほうから挨拶するのが自然なのに。このままでは俺の評判ばかりか、美影の男を見る目までが信用できない、と間違った烙印を押されてしまう。

「……? あなた、は……」 

 俺の顔を一瞥した千鳥さんが、かすかに目を見開いた。それは千鳥さんのなかで、俺という男の株価が暴落したことを表明するジェスチャーなのだろう。ファーストコンタクトは、成功とは言えなかった。少なくとも俺のなかでは。
 ようやく脳が機能を取り戻し、口が言葉を紡げるようになったのは、それから数秒後のことだった。

「あの、俺は萩原夕貴といいます。先に名乗らせてしまってすいませんでした」
「……ふうん。萩原と言うの、あなた」

 どこか含みを持った言い回しだった。千鳥さんは顎に手を添えて、じっと思考に没頭していた。一体どうしたんだろう。俺の名前に引っかかりを覚えたようだが……でも萩原って名前、べつに珍しくないよな?

「母親。どうかした?」

 娘から見ても千鳥さんの様子は訝しく見えたのか、美影が疑問の声を上げた。

「……いえ、なんでもないわ。萩原夕貴さんと言ったかしら。どうぞ、あなたもおかけになって」

 千鳥さんは迷いを断ち切るようにかぶりを振って、俺に空いた席を勧めてくれた。でも気のせいでなければ、その男を惹きつけて止まない千鳥さんの物憂げ横顔からは、複雑な想いを人知れず内心で整理しているような趣が感じられる。
 とにかく、こうして俺と美影と千鳥さんという異色の組み合わせによる会合が始まったのだった。




 テーブルのうえには淹れたてのコーヒーが三つと、しおりを挟んだ文庫本が一つ。まわりの席では人々が談笑しているというのに、俺たちの席にはぎこちない空気が流れていた。
 美影と千鳥さんは事務的な、ともすれば無機質ともいえる会話をしていた。外見だけならば親子に見えるが、その関係は冷え切っているというか、互いが互いに関心を持っていないように見える。

「状況は?」

 優雅な振る舞いでコーヒーカップに口をつけて、千鳥さんが切り出した。

「べつに普通」

 対する美影は、すこしも逡巡することなく返してから、

「あの爆発、なに?」

 そう短く続けた。

「さあ。私にも分からない。方々に手は尽くしてあるけれど、詳しい情報が集まるのにはもうすこし時間がかかるわ。少なくとも例の爆発事件に、私たちは関与も介入もしていない」

 どうやら千鳥さんのほうでも、まだ爆発事件の詳細は掴めていないらしい。
 美影は千鳥さんの言葉に反応せず、ぼんやりと虚空を見つめていた。それが美影なりの、思考しているポーズだと俺は知っている。見方によれば自分を無視している風にも見える娘の態度に顔色一つ変えず、千鳥さんは頷く。

「それで、私に協力できることはあるかしら」
「ううん。母親の手は借りない」
「でしょうね。私も力を貸すつもりはなかったし。いまのは聞いてみただけ」
「わかってる」
「ただ、どうしても無理なら先に言っておきなさい。よその人間に話を通すわ。《青天宮》のほうからも矢の催促があるし、他にもいくつかの案件が切羽詰っているから」
「大丈夫。一人でも平気」
「そう。なにか私に言っておくことは?」
「ない」
「遺言はいらないのね」
「うん」
「じゃあいいわ。ただし、死なないでね。また一から仕込むのは面倒だから」
「わかった」

 それだけ。本当にそれだけだった。
 出会ってから五分と経っていないのに、注文したコーヒーには口をつけていないのに、美影は席を立った。千鳥さんも引きとめようとはしない。ただ淑やかにコーヒーをすすっているだけ。
 俺は愕然とした。
 これが、親子の会話なのか?
 なにより千鳥さんは『遺言』って言った……それって美影が死ぬ可能性も考慮してるってことだよな?
 普通、お母さんってのはもっと子供のことを愛するもんだろ?
 子供ってのはお母さんのことをもっと慕うもんだろ?
 正直に言うと、俺は期待してたんだ。ダンタリオンを退けるには、とても俺たちの力だけでは足りない。だからもしかすると現状の戦力不足を補うために、千鳥さんが力を貸してくれるのではないかと。そのために今日、この壱識の親子は顔を合わせたのではないかと、俺は心のどこかで期待してたんだ。
 でも違った。この二人のあいだには、上司と部下が交わすような冷たい近況報告しかなかった。この二人のあいだには、親を慕い、子供を愛するような親子の会話は、微塵も存在していなかった。

「ちょっと待てよ、美影!」

 さすがに納得がいかなかった。俺は慌てて椅子から立ち上がり、距離が遠のく小さな背中を呼び止めた。ぴたり、と美影の足が止まる。

「先に帰る。夕貴も日が沈むまでに帰ってきて」

 美影は振り返ることなくそう言って、実の母親である千鳥さんには挨拶もせず、駅前の人ごみと喧騒のなかに消えていった。
 自然、その場には俺と千鳥さんが取り残された。出会ったばかりの女性と二人きり。本来なら気まずいとか気恥ずかしいとか、そうしたデリケートな感情が浮かぶはずだが、いまの俺の胸中にはやるせなさだけが去来していた。どうしてこの人は、もっと美影のことを心配してやらないんだ?

「……あなたは、母親なんでしょう?」

 拳を握り締めながら、言い知れない怒りを覚えながら、震える声でつぶやく。

「……美影は、あなたの大事な娘なんですよね?」

 激情を堪える俺とは対照的に、千鳥さんはしたたかだった。否。娘の話だというのに、彼女はあまりにもしたたか過ぎた。

「そうよ。あの子は私の娘。それがどうかしたの?」
「さっき遺言って言ってましたよね。あれはどういう意味なんですか?」
「そのままの意味よ。あの子が死んだときのことも考えているだけ」
「……また一から仕込むのが面倒っていうのは、どういう意味なんですか」
「そのままの意味よ。あの子が死んだら、次の子が必要になるでしょう?」
「あんたは美影のお母さんだろうがっ!」

 しまった、と思ったときには遅かった。
 いきなり大声を出した俺に周囲の視線が集まる。好奇の色を含んだ衆人環視。しかし、ただ黙ってにらみ合う俺と千鳥さんは、談笑の肴をのぞむ人々にとっては実につまらない観察観象だったらしい。しばらくすると観衆は、各々の時間に戻っていった。年若い男と、妙齢の美女。年の離れたカップルの痴話喧嘩とでも認識されているのかもしれない。
 千鳥さんは間を取るようにコーヒーカップに口をつけてから、

「残念だけど、私には萩原さんの仰りたいことがよく分からないわ。私があの子の母親だからどうしたというの?」
「母親なら……もっと子供のことを大事にするはずだ」
「同意ね。だから?」
「だからって……!」

 ふたたび怒鳴ってしまいそうになった。
 これは昔からのことだが、『母親』という存在がからむ問題がおきると、俺は心の制御が効かなくなってしまう。自分でもダメだと分かっているのに、どうしても直すことのできない、欠点。
 お母さんを大事にしない子供は大嫌いだし、子供を大事にしないお母さんも大嫌いだ。べつに親孝行しろとか、盲目的な愛を注げとか、そういう過剰な親愛を望んでるわけじゃない。ただ最低限、仲良くしてほしいだけだ。本当に、それだけなのだ。俺の主張はそんなに間違っているのか? そんなに難しいことなのか?
 なにが可笑しかったのか、千鳥さんは口元に手を当ててくすくすと笑った。

「……お母さんにそっくりね、あなた」

 続いて彼女の唇から漏れた言葉に、俺は数瞬のあいだ思考停止を余儀なくされた。

「その顔、その声、その考え方。本当にそっくり」
「か、母さんを知ってるんですかっ?」
「さあ、どうかしら」

 はぐらかすような口調とは裏腹に、千鳥さんは俺という人間のなかに母さんの――萩原小百合の面影を見ているようだった。
 なんというか、沸騰していた頭に冷水をぶっかけられた気分である。ここでいきなり俺の母さんの話題が出るとは思わなかった。俺は大きく深呼吸し、頭を冷静にしてから彼女の向かい側に腰掛けた。

「……すいません、取り乱してしまって」
「気にしていないわ」

 それはお世辞ではなく、千鳥さんは本当に気分を害していないようだった。
 心を落ち着けてもう一度、彼女と向き合ってみると――やっぱり美影とよく似ていることが分かる。
 美しい黒髪も、白磁の肌も、顔立ちも、雰囲気も、あまり感情を表に出さないところまで全部、似通っている。
 ただ美影と比べると千鳥さんのほうが身長は高いし、胸も大きい。母親である千鳥さんが平均的な女性のプロポーションに至っているという事実を踏まえれば、美影もいずれは女性らしい身体をゲットできるかもしれない。

「萩原さんには不思議に映るでしょうね。私と美影が」

 俺が切り口を探していると、向こうから話題を振ってきた。一瞬、オブラートに包むべきか迷ったが、ここは本音を話すことにした。

「……はい。はっきり言って不思議どころか、不快です。あなたたちの親子関係を見ていると悲しくなります」
「そう。でも信じてくださる? 私は美影を愛しているわ。ただ『親子』という関係以上に優先しなければならないものがあるだけ」
「…………」
「ところで萩原さんは、この石をご存知かしら?」

 何の脈絡もなく、千鳥さんは首にかかっていたペンダントを外した。そのペンダントは、見るからに手作り感の溢れる代物だった。いびつな形状をした”石”が、安っぽい銀色のチェーンによって繋がれている。

「あれ、これって……?」

 はじめは宝石の類かと思ったが、よく見ると違う。やや白みを帯びた色合いをしており、表面はツルツルしているのだ。俺はつい最近にも、この石を見たことがあるような――

「……これは、花崗岩……?」

 いつかの夜、菖蒲と一緒に見た理科の教科書に載っていた写真と、千鳥さんの持っているそれは酷似している。どうりで既視感があったわけだ。
 あれ?
 既視感?
 既視感……うーん、なんか引っかかるような気がする。
 まあいいか。

「博識ね。萩原さんもご存知のとおり、これは花崗岩と呼ばれる火山岩の一種。墓石に使われることでも有名ね。あの美しい墓石を見れば分かると思うけれど、この花崗岩は磨けば磨くほど光る石としても知られているわ」

 どうしていきなり花崗岩の話をするのか、俺には分からなかった。ただ一つだけ疑問なのは、千鳥さんの持っている花崗岩がいびつな形状をしていることだ。
 なんというか、元は円形だった石を半分に割ったような感じ。もう半分がどこかにあっても不思議じゃない気がする。

「これは私が幼い頃、祖母にもらったものなのよ」
「……それが」

 どうしたんですか、と続けようとした俺の言葉を、千鳥さんが遮る。

「この花崗岩の別名はね。御影石と言うの」
「御影、石……美影とおなじ名前、ですか?」
「そうよ。あの子の名前は、この石から取ったのだから」

 千鳥さんが幼い頃から大事にしてきた石。磨けば磨くほど光るという性質を備えた石。それとおなじ名前を与えたのだから、私は娘のことを愛している。そんな遠まわしのニュアンスが、この唐突な御影石の説明には込められているのだろうか?
 俺がぼんやりと思考しているうちに、千鳥さんは御影石のペンダントを首にかけ、チェーンに巻き込まれた長い黒髪をふわりと払った。

「あの子はいずれ家業を継がなくてはならない。一族のなかでも美影は、有力な次期後継者候補として挙げられているわ。まだ身体が成熟していないのにも関わらず、あれだけの能力を完成させているのは凄いことよ。私はあの子を産んでよかったと誇りに思う」
「だったら……もっと美影のことを大事にしてあげてください。子供にとってお母さんは特別なんです」
「でしょうね」
「知ってますか、あいつが家では味気ない栄養食ばかり食べてるって。ほとんど友達もいないみたいだし、学校ではいつも寝てるって言ってたし、勉強だって苦手らしいです。しかも笑えることに、好きな食べ物はポン酢で、しゃぶしゃぶをごまダレで食べてるやつが許せないそうです。本人は認めませんでしたが、甘いものも好きみたいです。あと美影は、自分なりの流行語を作るのが趣味なんですよ。いつも両手首につけてるブレスレットを誰かに取られると、なぜかあいつは不機嫌になるんです」
「そう。初めて知ったわ」

 どうでもよさそうに。大事な娘のプロフィールを。親なら誰でも知っていそうな当然の情報を。千鳥さんは、どうでもいい与太話を耳にするように、聞き入れた。俺は心の奥底から沸いてくる罵詈雑言を抑えるのに必死だった。

「……あなたは、本当に美影のことを愛してるのか?」
「ええ。母親だもの」

 母親。
 その嫌に無機質な響きが、壱識親子の間柄を物語っている風に思えた。いまにして思い返せば、美影はいつだって千鳥さんのことを『母親』と呼んでいた。そこには親愛の情など欠片も存在せず、ただ生物学的な関係を認めるための意味しかない。
 悲しかった。この世にはお母さんと会いたくても会えない子供がいるんだ。お母さんのことが大好きなのに離れ離れになってしまった女の子を、俺は知っているんだ。
 もちろん理想論なのは承知の上だ。この世には俺の知らない不条理がいくらでもある。子供を売る親。親を殺す子供。そんな想像したくもない現実が、いまも世界のどこかで行われているのは俺だって知ってる。
 でも世界中の親子の関係を円満にすることはできなくても、せめて俺の目の前にいる美影と千鳥さんには仲良くして欲しい、と。
 そう願ってしまう俺は、きっと馬鹿なんだろう。それは自覚している。ただその馬鹿さが嫌いになれない自分がいるのも確かだ。
 いまここに母さんがいたら、俺とおなじ行動を取っていると思う。親子が仲良くしないのなんて嘘だって、そう怒鳴って、泣き喚いているはずだ。
 とはいえ、俺にできることは少ない。根本的な話として、家族の問題には他人が立ち入る隙などないのだ。それでも、他人だからこそ出せるおせっかいも、あると思うんだ。

「ひとつだけ、お願いしてもいいですか?」
「それが実現可能な範囲内であれば」
「ありがとうございます。じゃあ……」

 しっかりと頭を下げて、お願いした。

「もっと美影のことに関心を持ってください。あいつを大事にしてあげてください。俺が望むのはそれだけです」

 千鳥さんは、不可解だと言わんばかりに目を細めた。

「……分からないわね。どうして萩原さんは美影のことをそこまで気にかけるの? まさか男女の関係というわけではないのでしょう?」
「い、いえ、俺と美影のあいだには何もないですけど……」

 思わずどもってしまった。

「ただ俺は、あいつのことが嫌いじゃないんです。だらしないところはあるし口も悪いけど、よく見れば可愛らしいところもある。だから……なんていうか、友達……いや、これは違うな……と、とにかく、俺は美影を放っておけないんです」

 無理やりまとめてみた。でも恋人でも友人でもないことは確かなのだから、俺と美影の関係を一言で言い表すことは難しいと思うんだ。一番近いところで戦友だと思うが、これもどこか違う気がするし。
 千鳥さんは珍しくきょとん、とした顔で俺をじっと見つめていた。まるで俺の背後にいる誰かを見つめるように。

「……そう、分かったわ」
「え?」
「いままでよりも少しだけ、あの子に関心を持ちましょう。それでいいかしら?」
「は、はいっ! どうか、よろしくお願いします!」

 思わず笑みがこぼれた。よく考えると、お母さんに娘のことを頼むのもおかしな話だが。でも通じたのだ。完全に、とは言えないかも知れないけど、確かに俺の想いは千鳥さんに通じたのだ。

「……本当に、お母さんにそっくりね」

 俺の笑顔を見て、千鳥さんは過去を懐かしむようにつぶやいた。

「ただ誤解を生まないために言っておくけれど、私は今回の件に関しては手を出さない。あの子に力を貸すつもりはないわ」
「……理由を、聞いてもいいですか?」

 娘に関心を持つと言った以上、てっきり助力してもらえるかと思っていたのだが、俺の考えが甘かったらしい。
 千鳥さんは、物憂げな顔で温くなったコーヒーの水面を見つめながら、吐露する。

「……人を探しているの。昔の知人を、ね」

 どうして知人を探すことが美影に力を貸さないことに繋がるのかは分からない。なにも事情を知らない俺には、千鳥さんの言動が破綻している風に思えた。
 でもこれ以上、追求することはできそうにない。
 だって千鳥さんの瞳が――いまにも泣きそうに揺れていたからだ。その儚げな横顔に追い討ちをかけることができるほど、俺は愚かではないし子供でもなかった。



[29805] 2-9 乾坤一擲
Name: テツヲ◆c49d9b75 ID:366fa69a
Date: 2012/03/16 13:11
 一人で帰宅した美影をアパートの階下で出迎えたのは、冴木だった。

「やあ、おかえり美影ちゃん」
「…………」

 へらへらとした締まりのない笑み。ほとんど手入れされていない黒髪と無精ひげ。よれよれの背広。ただ左肩から先がないことを除けば、彼はうだつの上がらないサラリーマンのような風貌をしている。
 美影がアパートから出発するときも帰宅するときも――必ずと言っていいほど、冴木はそこにいる。そして「行ってらっしゃい」とか「おかえり」とか頼んでもいないのに言ってくるのである。
 不気味というより、不可解だった。この冴木という男が何をしたいのか、美影にはまったく分からなかった。

「……ただいま」

 優しい目でじっと見つめられていることに居心地を悪くした美影は、そっぽを向いて、小さな声で応えた。

「うん? これは珍しいね。まさか美影ちゃんが挨拶を返してくれるとは思わなかったよ。これも萩原くんのおかげかな?」
「夕貴?」
「そうそう、萩原夕貴くんだ。やっぱり女の子っていうのは、年頃の異性と触れ合うことによって輝くものだからね。その証拠と言っては何だけど、萩原くんと出会ってから、美影ちゃんは優しくなったような気がするよ」
「冴木の目は節穴。私はべつに変わってない」
「そうかい、僕の勘違いだったか。ごめんね」

 あっさりと意見を曲げる冴木。照れくさそうに頭をかく彼の姿を見ていると、なぜか美影は心が落ち着くのを感じた。彼には人を和ませる才能があるのか、あるいは美影自身、本音では冴木のことが嫌いではないのか。真相は不明だ。

「そういえば萩原くんはどうしたんだい? 一緒に出かけたのだとばかり思っていたんだが」
「夕貴はいま、母親といる」
「母親?」
「うん。私の母親」
「…………」

 ほんの一瞬、冴木は悲しそうに目を伏せた。

「……そうか。美影ちゃんの母親が」

 気の入っていない相槌が、冴木の心境を物語っている。ぱちくりと切れ長の瞳を瞬きさせる美影に、彼は言う。

「美影ちゃん。最近は物騒だけど、心配はいらないよ。君は萩原くんと一緒に青春を謳歌するといい」
「……冴木?」

 普段の彼らしからぬ様子を、さすがの美影も訝しんだ。

「ハハハ、まあ萩原くんは女の子にモテるだろうから、美影ちゃんも苦労するかもしれないけどね」

 次の瞬間には、いつもどおりの冴木に戻っていた。聞き捨てならない発言に、美影はむっとした顔で反駁する。

「べつに苦労しない。夕貴とかどうでもいい」
「ほう、つまり美影ちゃんは萩原くんのことが嫌いなのかい?」
「だから夕貴とかどうでもいい」
「なるほど。どうでもいいってことは、嫌いでもいいってことだよね。やっぱり美影ちゃんは萩原くんのことが嫌いなんだね」
「ちがう。嫌いなんじゃなくて、どうでもいい」
「おかしいなぁ。僕の知っている美影ちゃんなら『嫌い』と断言していたはずなんだが……そこまでして萩原くんを『嫌い』と言いたくないってことは、まさか」
「……もういい。冴木、嫌い」

 美影は僅かに頬を膨らませて、非難するように二重瞼の瞳を半眼にして、じとーと冴木を睨んだ。それは暗に怒りを表す仕草のはずだが、彼女のネガティブな視線を受け止める冴木は、申し訳ないという気持ちよりも美影を愛らしいと思う庇護欲に支配されていた。
 美影本人は気付いていないが、あまり感情を表に出さない彼女の拗ねた顔は、周囲の人間にはとても微笑ましく映るのだった。
 だが美影が拗ねてしまったことは事実なので、冴木は機嫌を取るために媚びた笑みを浮かべた。

「ごめん、美影ちゃん。僕としたことが大人げなかったみたいだ」
「むー」

 猫のような唸り声である。
 結局、その後すぐに萩原夕貴という名の緩衝材が帰宅したために、美影と冴木のあいだにわだかまりが残ることはなくなった。しかし美影は部屋に上がるそのときまで不機嫌を崩さなかったし、冴木はそんな美影をどこまでも温かい目で見つめていた。
 それは、アパートの隣人同士の、本当に、なんでもない、ただの会話だった。




 繁華街のなかでも性風俗産業が集まる――俗に歓楽街とも呼ばれる――区域に、鳳鳴会の事務所はある。
 ビルの二階から五階まで鳳鳴会の息がかかった金融会社のテナントが入っており、そして、最上階である六階に彼らはいた。
 部屋には拳銃や刃物などが無造作に置いてある。普段なら慎重に慎重を期して隠しているはずの麻薬も、テーブルのうえに堂々と積まれている。それは警察に踏み込まれれば言い逃れのできない有様だった。
 しかしいまの彼らには、保身を考える余裕はなかった。むしろ警察に捕まったほうが、あの《悪魔》から開放されるという意味では、遥かに魅力的に思えた。
 応接間にあるソファに腰を下ろし、二人の人間が向かい合っている。一人は、《鳳鳴会》の若頭である壬生(みぶ)という男。質のいいスーツと、ポマードで固めた黒髪。その鋭い目には、表の人間にはない狡猾な光が宿っている。
 壬生と話しているのは、渡辺と名乗る青年だった。

「……そのネタ、本当なんだろうな?」

 壬生は得心のいかない顔で問いかけた。彼の背後には血の気の多そうな男が数人、控えている。

「ほ、本当、ですよ……おれ――あ、いや、僕は、絶対……う、嘘は言いません!」

 渡辺の様子は明らかにおかしかった。やたらと汗をかき、目は虚ろで、手足はぶるぶると震えている。もちろんそれには暴力団に対する恐怖も、成分としては多分に含まれているのだろうが、それ以上に、執念のようなものが渡辺から正気を奪っていた。

「あ、あなたたちが追ってる、女の、居場所……知ってるんです、僕!」
「…………」

 これだ。
 もともと渡辺が《鳳鳴会》の事務所を訪れたのは、壱識美影という少女についての情報を密告するためだった。
 暴力団の情報網(まあダンタリオンに組織の幹部を皆殺しにされたせいで、以前よりも数段、情報収集能力が落ちているのだが)を以てしても補足しきれなかった獲物の所在が、こんな精神に異常をきたしていそうな男からもたらされたのだ。壬生が疑うのも当然だった。
 実のところ、このまま渡辺が情報をタレこまなければ、美影と夕貴は鳳鳴会に見つかることはなかった。
 あの『住めば都』というアパートは、基本的に住人を募集していない。もちろん部屋が空いているかぎり新入居には歓迎的だが、大体的に募集をかけているわけではない。
 だから『住めば都』に入居するためには、なんらかの偶然により情報を手に入れるか、現住人からの紹介に頼るしかない。
 渡辺の場合は、クスリを売った対価として『住めば都』の情報を聞いた。たかが薬物の売人に過ぎない彼が、暴力団ごときでは影も踏めないアパートに辿りつけたのは、まったくの偶然だった。奇跡と言ってもいい。まだ宝くじで大金を当てるほうが確率的には高いはずだった。
 どんな違法行為も認める『住めば都』だが、ただ一つだけ原則として禁止していることがある。

 それは、住人同士の干渉。

 本来なら会話するのも褒められたことではないが、それは黙認されている状態。渡辺や冴木は、美影があの《壱識一門》の人間だと知っているが、それもおなじ建物で共生する上でどうしても知ってしまうことなので、あえて口に出さなければ問題はない。
 とは言ったものの、ルールは無実有名ではなく、しっかりと生きている。住人同士が意図的に素性を探りあったり、他の住人の情報をよそに持ち込んだりするのは、重大なルール違反。
 これが表の世界ならば、ルールに抵触しても罰金や懲役で済む。だが裏の世界では、それこそ凄惨な『罰』が存在する。アパートを追い出される、なんて甘い夢を抱いてはいけない。いまの渡辺は、ルールを破った者として殺されても文句は言えない状態だった。
 だから渡辺にとって美影の情報をリークするのは高いリスクを伴うことなのだが、それを承知のうえで彼は鳳鳴会に足を運んだのだ。命を賭けても惜しくはないほど愛した少女を、手に入れるために。
 そんな事情を知らない壬生が、招かれざる客である渡辺に一定の警戒心を持つのは、至極当然のことだった。

「あんたの目的が何なのかは知らねえが――もう冗談じゃ済まねえぞ?」

 壬生がそう言うと、彼の後ろにいた部下たちがふところに手を忍ばせた。男たちがスーツの下に武器を隠し持っていることは一目瞭然。つまり、脅しだ。

「ほ、本当です! 僕は、美影ちゃんの、居場所を知ってるんです……!」
「それがガゼだったら死ぬぞ、あんた」
「分かってます」

 壬生が本気で脅しにかかっても、渡辺は平然としていた。見た目よりも胆力や根性があるのか、あるいは持ち込んだ情報に絶対の自信があるのか。

「壬生さん、どうします?」

 進展しない状況に業を煮やした部下のひとりが、壬生から考える時間を奪っていく。壬生は文武両道の優秀な男だが、この分岐路だけは、いくら考えても正しい答えが分からなかった。
 しかし手をこまねく余裕がないのも、確かである。
 いま思えば、あの夜が彼らの運命を決定付けた。
 街の北に位置する高級住宅街には、鳳鳴会の総本山ともいえる大きな武家屋敷が建っている。そこには今代の会長とその家族や、組織の大幹部、住み込みで働く末端の構成員などを始めとした、鳳鳴会の主要なメンバーが大勢、暮らしていた。
 たしかに鳳鳴会は『仁義』よりも金銭的な利益を重視する一派で、決して薬物には手を出そうとしない古いタイプの暴力団とは反りが合わず、この界隈でも疎まれていた。
 だが、これまで狡猾な手段を用いて障害を取り除いてきた彼らも、身内の結束は固かった。自分たちが非道なことをしている自覚はあったが、それでも壬生は鳳鳴会という家が嫌いではなかった。
 あの夜、繁華街の事務所にいた壬生が連絡を受けて駆けつけた頃には、もう全てが終わっていた。代々受け継がれてきた大きな屋敷も、専属の庭師を雇って手入れをしていた豪勢な庭も、この世のものとは思えない地獄と化していた。ダンタリオンと名乗る《悪魔》が、なにもかも奪い去ってしまった。
 もちろん多くの部下がダンタリオンに従うことをよしとせず反抗したが、その結果は悲惨なものだった。さすがの壬生も、人間の身体を素手で引きちぎるという解体ショーを目の当たりにしたときは、胃の中のものを一切合財ぶちまけた。
 もう壬生には――鳳鳴会の残党には、ダンタリオンに逆らう意志と気力は残っていない。
 どうせ進退窮まっている。自分たちは無茶をしすぎた。このまま無能の体を晒し続ければあの悪魔に殺されるだろうし、そうでなくとも警察に捕縛されてしまうだろう。ならば賭けに出るのも悪くない。いや、賭けに乗るしか、道は拓けない。

「……いいだろう。あんたの話を信じてやる。だが信用の担保は、あんたの命だ。妙なマネしやがったら、その場で殺るぞ?」

 壬生の答えを聞いた渡辺は、満足そうに頷いた。少年と少女の与り知らぬところで、確かな悪意が動き始めた。


****


 過去を振り返っても、憶えていることはいくつもなかった。
 物心がついたときにはもう、誰かを殺すことが当たり前になっていた。頼まれれば誰だって殺した。なぜなら『彼』はそれを生業とする、一匹の殺し屋だったからだ。
 呼吸をするように人を殺す『彼』を、恐れない人間などいなかった。一片の情も持たない殺人マシーン。冷酷非道の悪漢。希代の殺し屋。そうした通り名の数々が、『彼』の実力と評判を物語っていた。
 『彼』が持つ異名のなかで最も通りがよかったのは、《音無し》。
 これは『彼』に襲われた人間は断末魔を上げることもできない、つまり声(おと)を発する前に殺されてしまう、という嘘か真か分からない風聞から囁かれるようになった異名だ。

 そんな悪名高き『彼』の人生は、一人の女と出会ったことで目まぐるしい変化を始める。
 美しい女だった。艶のある長い黒髪と、月明かりにも負けぬ白い肌。幾重にも賞賛の言葉を重ねようと足りないような、人を惹きつける不思議な魅力を持った女だった。そして、その美貌と同じぐらい女は強かった。
 二人が初めて出会ったのは、戦火の中。殺し屋であった『彼』と、同じく裏家業を生業とする女は、もともとは対立する敵として相見えた。だがそれは信念や志を伴わない、仕事上の話だ。依頼や状況が変われば、二人の関係は敵にも味方にもなる。
 そんな繰り返しの果てに、移ろう時の流れは二人の距離にも変化をもたらした。

 愛しかった。

 夜になるたびに肌を重ねて、ただただ寄り添いあった。《音無し》と忌まれた『彼』にも、心の奥底には確かな情が残っていた。
 あるとき『彼』は、女がいつも肌身離さず身に着けていた”石”を受け取ることになる。美しい光沢を放つそれは、聞けば女が幼少の頃から大切に扱っていた代物だという。

 その名を、御影石。磨けば磨くほど光る石。

 女から御影石の話を聞いたとき、まるで人の生涯のようだと『彼』は思った。『彼』の場合、すでに人生という石の磨き方を忘れ、汚すことしかできなくなっていたが、一般的な人間の人生とは普通、磨けば磨くほど光るものに違いなかった。
 いくら愛を育んだところで、当時の二人には指輪などというシャレたものは用意できなかったし、その必要もなかった。だから愛を誓った証として、真円の御影石を二つに割り、それぞれ片方ずつ持つことにした。二人は約束を交わす。すべてが終わったら、二つに割れた石をもういちど一つに合わせよう。

 だがその後、二人が共有した愛を嘲笑うかのように、戦況は悪化の一途を辿った。後に未曾有の大抗争として語り継がれる《大崩落》は、愛し合う二人の関係に小さな終焉をもたらした。
 それでも『彼』は以前と変わらず、誰かを殺し続けた。殺し屋が殺人を続けるのに理由はいらない。しいて言えば、そうやっていままで駆け抜けてきたからこそ、『彼』はただ殺し屋としての己を貫いた。
 カレンダーをめくる代わりに人を殺す。そんな日々が続き、女の顔も思い出せなくなっていた頃、『彼』のもとに一つの依頼が持ちかけられる。それは『とある有力な家系の跡取り』を始末してほしいという内容のものだった。
 仕事の期間や報酬、肝心の標的について。そうしたあれこれを吟味してから、『彼』は依頼を受諾した。

 その依頼は、『彼』を貶めんとする人間が巧妙に偽装したものだった。

 希代の殺し屋として謳われる『彼』と、裏社会に広く知られる《壱》の一族に、報復せんがために計画された陰謀。
 さすがの『彼』も、これには気付くことができなかった。無理もない。殺し屋として生きてきた自分に、まさか血を分けた娘がいるなどとは、夢にも思うまい。
 いつかの日、『彼』と御影石を分かち合った美しい女。刹那で、けれど濃密な時間をともに過ごし、深く肌を重ねたあの女が、ほんの僅かな、数少ない交わりのなかで『彼』の子を宿すとは、まさに神の誤算に違いなかった。
 自分たちの遺伝子を受け継いだ幼い娘の姿を、『彼』は写真を通して初めて見た。それに手垢がつき始めた頃には我慢ができなくなり、現地に潜入し、遠目に娘を観察する日々が続いた。
 娘を見るたびに胸のうちには温かな感情がわき上がり、氷のように冷たかった殺し屋の顔にぎこちない笑みが浮かんだ。娘が生まれ、一人の”親”となってしまった瞬間、一匹の”殺し屋”として生きてきた人生は『彼』のなかで否定された。
 何のことはない。あれほど冷酷で非道だった薄汚い男にも、性根のところには人間らしい感情が残っていた。これは、ただ、それだけの話。

 だが娘を護るのは、さすがの『彼』にも難しいことのように思えた。もとから『彼』に恨みを持つ者が仕掛けた罠だ。保険として『彼』以外にも多くの殺し屋を雇っているに決まってるし、他にも二重三重と罠を張っていることだろう。
 苦悩することはなかった。愛する我が娘の名を知った途端、悩むことが馬鹿らしくなった。二人にとって御影石は、互いを愛し、未来を誓い合ったことの証明。それとおなじ名前を娘に与えたということは、まだ女は『彼』のことを想っているという証拠に他ならない。
 多くの人間に恨まれる二人の娘は、生まれながらにして幾多の困難に苛まれていた。これまで標的の家族や恋人を人質に取ったこともある『彼』としては、娘が危険に晒される可能性を考慮せずにはいられなかった。

 だから、護ろうと思った。

 御影石とおなじ名前をした娘の人生は、きっと磨けば磨くほど光るに違いないのだ。なんの罪もない娘に、自分たちの咎を負わすのは間違っている。いままで平然と人を殺してきた自分のセリフでないことは分かっていたが、それでも『彼』はそのエゴを貫こうと思った。
 決意すると、あとの行動は早いものだった。まず『彼』は、自分に依頼を持ちかけた相手の素性を調べつくした。やはり『彼』以外にも複数の同業者が、『とある有力な家系の跡取りを殺す』という依頼を受けているらしい。まず間違いなくそいつらは、『彼』が失敗したときの保険だった。
 手始めに、自分以外の同業者を皆殺しにした。娘に危害を加える可能性のある人間は、誰であろうと殺した。ある程度の脅威を排除したあとは、娘を殺しに行くフリをした。

 そこで『彼』は数年ぶりに女と再会することになる。恋人でも夫婦でもなく、ただの敵として。

 『彼』の事情は把握していたのだろう、女はなにも聞かなかった。会話らしい会話さえなかった。
 娘を殺そうとする『彼』と、娘を護ろうとする女。それが表向きの構図だったが、実際のところは女とおなじぐらい『彼』も娘のことを護ろうとしていた。
 もしかするとこれは罰なのかもしれない、と『彼』は思った。いままで多くの人間を殺してきた自分は、こうして愛する女性と殺しあい、苦しみでもしなければ採算が取れないのではないかと。
 女と戦闘する最中、『彼』はあらかじめ用意していた仕掛けを使い、自らの死を偽装した。自分が死んだと匂わせる”証”を現場に残してきたので、不備はないはずだった。
 そうして『彼』の任務は、母親である女に返り討ちにされる、という結末になるわけだが、それは『彼』の人生が終わったと換言はできない。
 『彼』は世間的に死んでみせたあと、自分に娘を殺すよう仕向けた依頼主を抹殺した。それだけではない。思いつくかぎり、探し出せるかぎり、自分と女に恨みを持つ人間を見つけては例外なく殺した。
 そうしてある程度、娘の平和を確立することできた。
 だが油断してはいけない。まだまだ娘に仇なす輩はあとを絶たないのだから。ゆえに少しでも娘に危害を加える可能性のある者には、不幸な死を遂げてもらうことにした。それはただひたすらに自分という存在を殺し、影ながら娘を護り続けるという守護霊を連想させる生き方。
 そんな名も無き亡霊が、いまも愛する娘を護るためだけに活動している、という事実を知る者は、誰もいない。


****


 喉の奥から湿った笑いを漏らしながら、渡辺は夜道を歩いていた。

「くひひ……やった、これで……」

 さきほどまで鳳鳴会の事務所にいた彼は、壱識美影に関する情報のすべてを暴力団に提供した。渡辺は凡庸な男だったが、その執念と用心深さだけは大したものだった。
 これから渡辺はあのアパートに戻り、美影の動向を観察する。安物の指向性マイクがあるから、それを使えば美影が部屋にいるのかどうかぐらいは分かる。そうして隙をうかがい、美影を襲撃しようとする《鳳鳴会》とうまく連携を取る予定だった。
 なるべく人気のない道を選び、帰路を急ぐ。

「……美影ちゃん……あぁ」

 想像するとよだれが止まらなかった。
 初めて彼女を見たとき、渡辺は本当に、心の底から、純粋な気持ちが湧き上がってくるのを感じた。あの美しい黒髪も、月明かりによく映える白い肌も、憂いを湛えた泣きぼくろも、その全てが渡辺を惹きつけて止まない。渡辺にとって壱識美影という少女は女神のような存在であり、妄想のなかでのみ汚していい対象だった。
 古い医者の家系に生まれ、子供の頃から医学に関連する知識のあれこれを強制的に学ばされてきた彼は、やがて自分を『家を継ぐ道具』としか見ていない両親に絶望した。
 高校を卒業すると同時に家を飛び出し、裏社会に身を置くようになった。
 皮肉なことに、彼がこれまで頭に詰め込んできた薬物に関する知識は、あらゆるクスリが行き交う裏社会でこそ本領を発揮した。実家と縁を切るとき、彼の財布のなかに入っていた二万円が、いまではその数百倍にまで膨れ上がった。
 だがいくら金があっても、美影の心だけは買えなかった。年頃の女子が好みそうなプレゼントを見繕っても、彼女は見向きもしなかった。
 しばらくして渡辺は悟った。ああ、美影ちゃんは俺が手を出していいような子じゃないんだ。あの子は誰のものにもなっちゃいけないんだ。彼女は孤高だからこそ美しいんだ。だから俺は、遠くから美影ちゃんを見ているだけで満足なんだ。
 そう思い、ずっと美影のことを見守り、妄想のなかで汚し続けてきた。しかし。

「……あの、クソ野郎……」

 女のように美しい顔をした男の顔が脳裏をよぎる。アパートの階下で、その男と美影が寄り添っていた光景が、まぶたの裏に焼きついて離れない。
 これまで美影を見続けてきた渡辺には分かるのだ。

 きっと美影にとって、あの男は特別な存在になってしまう、と。

 だから自分が奪おうと思った。どんな手を使ってでも美影を自分のものにして、一日中、二人きりで楽しいことをしようと思った。必要あらば薬物でも何でも使って、美影を自分の女にしてやるつもりだった。それは明らかに偏執的な動機だったが、しかし、渡辺の愛の強さだけは本物だった。

「……く、くっひひひ」

 閑散とした夜道を進む。もともと人との関わりを避けて生きる傾向のあった彼は、いつもの癖で、たとえ誰かが殺されてもすぐには気付かれないような薄暗い道を選んで歩いていた。それが絶対の悪手であるとも知らずに。

「こんばんは」

 ふと背後から男の声が聞こえた。渡辺は怪訝に思いながらも振り返った。すると不思議なことに、そこで彼の人生は終わった。

「ひゅっ――!」

 空気の抜けるような呻き声とともに、渡辺の喉から勢いよく鮮血が噴き出す。そこらのコンクリートに真っ赤な潤いが与えられていく。
 あまりに唐突な出来事ゆえに渡辺の理解も追いついていなかったが、それでも自分の身体を濡らしていく温かな血が、どこから出ているのかは分かっていた。喉仏のあたりから迸る灼熱。ああ、どうりで声が出ないわけだ。
 続いて振るわれた銀のきらめきが、渡辺の左胸を抉っていた。血液の源、内臓の核となるもの。よく研がれたナイフの刃先が、心臓に突き刺さる。
 唐突に見舞われた激痛のショックにより声さえ――否、それを言うなら、すでに最初の一撃で喉は破壊されていたので、断末魔を上げるだけの機能すら彼には残されていなかった。
 複数の急所を刺して、確実に仕留める。これは訓練を受けた者ならば誰だって知っているような、ナイフを用いた模範的な殺害方法だ。
 それから数秒もせぬうちに、渡辺の身体は血だまりのなかに倒れていた。全身は血を失い、力が抜け、熱が冷え、命が消え、魂までもが霧散していく。
 すこしずつ近づいてくる死の足音。
 渡辺は恐怖と寒さから、ひたすら身体を震わせた。

「ちょっと遅かったか。まあいい」

 薄暗い闇のなかから誰かの声がする。冷たい、殺人マシーンのような男の声だ。
 おまえは誰だ、なぜこんなことをする――そう問いかけようとしたが、無理だった。渡辺の喉は、鋭い刃物によってぱっくりと切断されている。あと数分の命すらもない彼に、誰何する余裕などあるはずがなかった。
 意識が遠のく。仄暗い深淵が迫ってくる。ああ、寒い。とても寒い。誰かに温めて欲しい。どうしてこんなに孤独なのだ。どうして自分のとなりには誰もいないのだ。

「……み、……か、げ……」

 死の間際、命を賭けても惜しくないほどに愛した少女の名を呼んだ。そのせいで寿命が数秒縮まったが、だからとうしたという話だった。
 しかし、渡辺が美影の名を呼んだことが不快だったのか、闇のなかに佇んでいた人影は、手に持っていたナイフを渡辺の頬に突き刺した。それは内部の舌を串刺し、反対側の頬まで貫通した。これで物理的に、渡辺が発声することは不可能になった。
 最後の力を振り絞り、渡辺は目の前にたたずむ何者かの足に縋りついた。血に濡れた手で、相手の足首を掴む。それすらもあっさりと払われてしまう。どう足掻いても一矢報いることは無理そうだった。
 間もなく、渡辺という男は、死んだ。
 一切の慈悲なく渡辺を殺した人影は、入念に彼が死亡しているという事実を確認してから、なんの後始末もせずにその場をあとにした。




 とある男の生が終わったのと同時刻。
 繁華街の一角にある六階立てのビルには、非合法な金融会社のテナントや鳳鳴会の事務所が入っている。
 そんな人の嘆きや悲しみを材料にして作ったような悪の巣窟は、しかし今、壊滅の危機に瀕していた。鳳鳴会の若頭である壬生は、見慣れた事務所のなかで行われる惨劇に対して抵抗する術を持たなかった。

「余計な手間取らせんなよ。あのクソ野郎はどこにいるのかってオレは聞いてんだ」

 肌の至るところに血の滲んだ包帯を巻いた青年――玖凪託哉が、もう何度目かも分からない詰問をする。明るめに脱色した髪。左耳に光るピアス。眉目の整った顔立ち。
 まさかこんなことが。壬生は驚愕のあまり、言葉だけでなく正常な思考も失っていた。
 たしか自分たちは、渡辺という男からもたらされた情報をもとに、今夜にでもあの黒髪の少女に襲撃をかける予定を立てていたはずだ。
 それが、どうしてこんなことになったのか。
 十数分ほど前に、単身で事務所に乗り込んできた一人の青年。彼によって、ここに残っていた構成員のほとんどが戦闘不能に追い込まれた。それは気絶などという生易しいものではない。すぐにでも救急車を呼ばなければ、手遅れになる者がいるほどだ。
 すでに事務所のなかは阿鼻叫喚の状態だった。
 壁や床には真っ赤な血が滴っており、ぴくりとも動かない恰幅のいい男たちがあちこちに倒れている。ソファやデスクは派手に転がって、室内のレイアウトはぐちゃぐちゃになっている。
 現在、部屋のなかで意識を保っているのは壬生と、乗り込みをかけてきた青年だけだった。

「鳳鳴会なんて大層な看板を掲げてるわりには雑魚の集まりだな。リハビリにもならん」
「て、てめえ――!」
「うぜえよ。口答えするな」

 ようやく喉が動いたと思った途端、壬生の身体は吹き飛んでいた。洗練された回し蹴り。わき腹に激しい痛みが走る。いまので肋骨の一、二本が折れたことは確実だった。
 背中から壁に衝突し、壬生は肺のなかの空気とともに、口端からだらりとよだれをこぼす。全身に降りかかった衝撃は強烈で、うめき声すら上げることができなかった。苦痛に悶える壬生を、託哉は冷酷な目で見下ろす。

「余計な口は利くなよ。これは交渉じゃねえんだ。命だけは助けてやるから、とっとと質問に答えろ。あの《悪魔》はどこにいる?」
「あ、あ、く……ま……?」
「そうだ。あの金髪に神父服を着込んだ嘘くさい男のことだ。てめえなら知ってんだろ? 隠し立てすんなよ。《青天宮》のやつらが動き始めてんだ」

 壬生は言葉に詰まった。
 確かに先日まで、自分たちはあの男――ダンタリオンに支配されていた。悪魔的なカリスマと超人的な戦闘能力を持った、正真正銘の怪物に。
 しかし壬生は、ダンタリオンの居場所を知らない。正確には、先日のオフィス街で起こった爆発事件以降、ダンタリオンも行方不明になってしまったのだ。
 壬生には、託哉の期待に応えることができない。その旨をどうにか伝えると、託哉は落胆せず、むしろ納得した。

「……なるほど。やっぱりあの爆発は……そういうことだったのか」

 殺気が消える。一瞬、壬生は『助かった』と思った。だがそれは、間違いだった。

「とんだ無駄足――と言いたいところだが、元からおまえらには腹が立ってたんだ。この際だから徹底的に潰してやる」

 託哉は壬生の胸倉を掴んだ。底冷えのする瞳に睨めつけられて、壬生の全身を冷や汗が濡らしていく。

「荒井海斗、大久保達樹、新庄一馬、坂倉健太、富永聡史、高橋陽介。この六人の名前に心当たりはないか?」
「……っ」
「ふうん。図星って顔だな。そりゃそうか。てめえが飼ってた連中の名前ぐらい覚えていて当然だよなぁ?」

 かつて高臥菖蒲を誘拐しようとした六人の男たち。
 名の知られたアウトローであった彼らに薬を提供し、若者を中心に薬物を売り捌かせて、その利益を折半するという、一種のビジネス。
 鳳鳴会としては純利益が低下する代わりに安全性が高まり、六人の男たちは危険性を増加させる代わりに本来はなかったはずの利益を獲得した。あれはそういう持ちつ持たれつの関係だった。
 壬生としても、彼らのリーダー格であった荒井海斗という男には一目置いていた。腕が立ち、頭の回転が早く、なにより人のうえに立つ資質も備えていた。いまでも壬生の脳裏には、海斗という存在が強く焼きついている。
 託哉の握力が強まる。シャツの胸元を圧迫されているせいで首が絞まる。肋骨が折れているからか、呼吸をするとひどく痛む。酸素の需要に供給が追いつかなくなる。視界にもやがかかり、すこしずつ頭のなかが霞んでいく。

「てめえらが薬を捌くことに文句はねえよ。でも」

 壬生は意識を失う直前、静かな怒りを湛えた声を聞いた。

「玖凪一門(おれたち)の邪魔だけはするな。どうしてもってんなら暴力団じゃなくて軍隊でも連れて来い。遊んでやるよ」




 周囲をよく俯瞰することのできる見晴らしのいい建物の屋上に立ち、『彼』は最後の仕上げをしようとしていた。
 その手に握られているものは、独自のルートで入手し、『彼』なりの工夫と改造を施した起爆装置。先日、オフィス街のビルを爆破したのとまったく同じタイプのものだ。
 『彼』は街の北にある浅ヶ丘と呼ばれる高級住宅街を見据えている。そこに立地する武家屋敷を――鳳鳴会の本拠地を、いまから爆破するつもりだった。
 『彼』が爆弾にこだわるのには二つ理由がある。一つは高い威力があり、広範囲をまとめて吹き飛ばせるから。もう一つは、この犯行が自分の仕業なのだと気付かせないためだ。以前の『彼』は、もっと静かな暗殺を好んだ。だから自分が生きていると悟られぬよう、あえて爆弾を使った派手な殺し方をしている。
 本来であれば、繁華街にある事務所のほうも同時に破壊する計画だったが、もうその必要はない。いましがた《玖凪一門》の人間が、事務所を制圧したからだ。現在の『彼』と《玖凪》のあいだに繋がりはないので、あちらにもあちらなりの因縁があったということだろう。

 これでいい。
 これでいいのだ。
 あの《悪魔》は爆殺した。娘の情報を密告した渡辺という男もさきほど殺した。鳳鳴会の事務所もべつの人間が制圧してくれた。念には念をということで、アパートのほうも焼却処分した。だから、あとは暴力団の本拠地を爆破すればいい。それで全てが終わる。
 あらかじめ予定していた時刻になったのを確認してから、『彼』は起爆装置を作動させた。もしここに電子戦を想定した特殊部隊がいたとしても、『彼』が作った複雑な暗号を備えた電波を妨害することは不可能だろう。つまり爆破は、避けられぬ運命だった。
 次の瞬間、いつかの夜と同じように、晴れた夜空に轟音が響き渡った。

「……終わった、か」

 なるべく周囲の民家には被害が出ぬよう火薬の量は抑えたが、それでも爆発の規模は大きかった。武家屋敷は完全に倒壊。
 ダンタリオンに襲撃されたことにより、武家屋敷には以前ほど人が残っていなかったが、それでもまだ結構な人数がいた。それに銃火器や薬物の類も、たくさん秘匿されていたはずなのだ。そうした脅威となりうるものを排除するのは大切なことだった。
 とにかく、これで全ては終わった。
 今回はすこし無茶をしすぎたので、しばらくは身を隠したほうがいいかもしれない。爆薬を調達するために使ったルートも今後は使用を控えたほうがいいだろう。個人の足取りを追ううえで金の流れほど分かりやすいものはないからだ。
 聞けば、娘の母親も――『彼』を愛し、『彼』が愛した女も、この街に来ているという。いまだに『彼』の愛は薄れていなかったが、それでも会いたくないのは事実だった。
 あらかた仕事を終えた『彼』は、身を翻した。

「ようやく見つけましたよ」

 しかし、この街から去ろうとする『彼』のまえに立ちはだかる男がいた。金色の髪、縫いつけたような糸目、場違いな神父服。以前、『彼』が爆殺したはずの《悪魔》が、そこに立っていた。

「いやはや、実に見事な手際ですねえ。この崇高な僕としたことがまったく気付きませんでしたよ。僕がこの街に来てからずっと感じていた殺気は、あの小娘のものではなく、貴方のものだったとは」

 芝居がかった身振り手振りを交えて長広舌を振るう男――ダンタリオンは、心の底から感服しているようだった。
 ダンタリオンが生きていると知っても『彼』は驚かなかった。むしろ、いまからどのようにして殺してやろうか、と頭のなかでシミュレートが始まっているぐらいだ。その演算の最中、一つだけ疑問に思ったことを『彼』は口にした。

「……まさか、武家屋敷と、そこに残っていた連中をおとりにしたのか?」
「はい。あの高層ビルの爆破から、崇高な僕を狙っている何者かがいるのは分かりました。しかし、この広い街のなかで、その不届きな輩を探し出すのは骨でしょう? だからあの……鳳鳴会、でしたっけ? とにかくその蛆虫どもをエサにしたんです」

 自分が利用し、最後まで道具のように扱った暴力団を思い出し、ダンタリオンは唇のはしを吊り上げた。

「貴方ほどの優秀で用心深い男が、爆破する瞬間を自分の目で見届けないはずがありません。まあ、今回も貴方が爆破という手段に訴えかけるかどうかは一種の賭けでしたけどねえ」

 このあたりで例の武家屋敷を見渡せて、かつ逃走経路もじゅうぶんに確保できる場所は、いま彼らが立っている建物の屋上だけだった。『彼』がこのスポットを選んだのは、そうした理由があったからである。そしてダンタリオンは、それを読んだのだ。何十人もの人間を見捨てて。

「さあ、もう御託はいいでしょう。貴方が血を望んでいる以上、死合いは避けられない。もっとも、その身体でどこまで戦えるのかは知りませんがね」
「…………」

 こうして一つの戦闘が幕を開ける。
 愛する娘を護るために、元殺し屋の男は、命を賭けた死闘に挑んでいった。


****


 夜も深まった頃、その異変は唐突に訪れた。
 俺たちが美影の部屋で休んでいると、どこからともなく上がってきた火の手が、またたく間にアパートを包み込んだのだ。
 鉄筋アパートが自然に燃えるわけがないから、これは明らかに何者かによる放火だった。火のまわりが尋常じゃないぐらい早いのは、恐らく火薬かなにかを使っているからだろう。
 消火する時間など欠片もなかった。
 ただ大きなバッグに美影の衣服や貴重品を詰めこんで運び出すのが、俺たちにできる精一杯だった。
 幸いなことに冴木さん、渡辺さんはアパートを離れていたので、心配はいらない。俺と面識のないほかの住人の方々も全員留守だったらしく、結果的に被害者はゼロだった。
 ごうごうと燃え盛るアパート『住めば都』を、俺たちは黙って見つめていた。圧倒的な熱と光が、周囲の闇を削っていく。まるで地上に太陽が生まれたかのようだった。これで目と喉に痛い黒煙さえなければ、素直に歓迎できたのに。
 仮にも自分の家が燃えているのだ。あまり感情を表に出すことのない美影も、今回ばかりはさすがに寂しそうな顔をしていた。

「美影……」
「夕貴。早く、ここを離れたほうがいい」
「ああ、さすがに人が集まってくるだろうからな」

 俺に弱みを見せたくないのか、美影は気丈に振舞っていた。小さな肩と背中が微かに震えている。吹き荒れる熱風が、長い黒髪を忙しなく揺らしていた。
 類稀なる身体能力を持ち、戦闘に耐えうるだけの鍛え抜かれた身体をしていても、その心は年頃の少女のものなのだ。
 ただの、十六歳の女の子が、そこにはいた。

「……逃げよう、美影」
「うん」

 どうしていいか分からなかったので、とりあえず慰める意味も込めて、美影の頭にぽんと手を乗せてみた。
 滑らかな黒髪をゆっくり撫でる。シャンプーかリンスの甘い香り。

「……ん?」

 そこでふと思った。
 いままでも何度か美影の頭を撫でたことはあったけど、そのたびにこいつは不機嫌そうに「んー」とか唸って、俺の手を払いのけていたはずなのだが。

「夕貴。どうかした?」

 眉間にしわを寄せる俺を見て、美影は小首を傾げた。ちなみに現在進行形で、俺は美影の頭をナデナデしている。

「いや、どうかしたっていうか……」
「ん」
「まあ、その……なあ?」
「……?」

 ますます小首を傾げる美影。
 この際だから、思い切って聞いてみることにした。

「おまえ、さっきから俺に頭を撫でられてるけど……いいのか?」
「…………」

 美影は自分の頭に乗っている俺の手を、恐る恐るといった風にチョンチョンと突いた。
 そして、ようやく不覚を取ったらしいことに気付くと、美影は「んー」と不愉快そうに唸って、俺の手を払いのけた。

「……触るな。ヘンタイ」

 以前よりも、いくらか棘のない罵倒だった。
 暗くてよく分からなかったが、美影のほっぺたが微妙に赤くなっているような気がした。
 それは空元気かもしれなかったが、やっぱり美影は落ち込んでるよりも、この憎たらしいほうが合っていると思うんだ。

「はいはい、俺はヘンタイだよ」

 なぜか俺のなかには大人の余裕が生まれていた。
 どうやら美影はそれが気に食わなかったらしい。

「むー」
「さあ、はやく行こうぜ。まずは安全な場所に逃げよう」
「むー」
「ニーデレ」
「うん分かった」

 自分の考案した名前で呼ばれた途端、美影の顔から険が消えた。だんだんこいつの扱い方が分かってきたような気がする。ちなみに美影曰く、ニーデレとは”普段はニートだけど、いざというときにデレデレする人”のことらしい。ただのアホとしか思えない。
 それから俺たちは美影の荷物が入ったバッグを持って、燃え続けるアパートに背を向けた。



[29805] 2-10 胡蝶之夢
Name: テツヲ◆c49d9b75 ID:366fa69a
Date: 2012/03/11 15:54

 俺たちが背を向けた頃には、もうアパートを侵食する炎は手がつけられない勢いにまでなっていた。跡形もなく燃え尽きるのも、そう遠くないだろう。
 美影の荷物が入ったバッグを背負って、薄暗い夜道を進む。このあたりに民家はなく、近くに工業地帯があるだけなので、人っ子一人どころか猫一匹すら満足に見当たらない。もうすこし向こうに行けば表通りに出るが、ここらは比較的、人が少ない場所だ。

「……冴木さんや渡辺さん、大丈夫かな」

 あの人たち自身に被害はなかったとしても、彼らの家であるアパートが燃えてしまったという意味では、やはりそれは火災に巻き込まれたと言えるだろう。
 美影はどうでもよさそうにつぶやく。

「心配いらない。あいつら、きっと殺しても死なないタイプ」
「……確かにそうかもしれないな。まあ俺に心配されるほどヤワな人たちでもないか」

 気落ちしそうになる自分を励ますためにも、無理して苦笑してみた。
 それからしばらく歩いた俺たちは、見知った人物と望まぬ再会をすることになった。月明かりも満足に届かぬ建物の陰に、一人の成人男性が倒れている。安っぽいジャージとニット帽。赤黒い血溜りのなかに横たわる彼は、まず間違いなくアパート『住めば都』の住人、渡辺さんだった。
 首元の肉はぱっくりと裂けており、左胸のあたりにも刃物か何かで抉られた跡が見られる。顔面には大きなナイフが突き立っており、それが渡辺さんの顔を地面に縫いつけていた。脈を取るまでもなく、俺たちは渡辺さんが死亡していることを理解した。

「…………」

 言葉が出てこない。
 嘘だろ、とか、なんだよこれ、とか本当は言いたかったのに、喉は固まったように動いてくれない。
 はっきり言って俺は、渡辺さんのことがあまり好きじゃなかった。だって彼は明らかに美影を性的な目で見ていたし、俺のことを嫌悪していたような素振りもあったから。それでも、それが渡辺さんの死んでいい理由にはならない。
 以前にも一度、死体を見たことがあるせいか、あるいは最近、非常識な体験ばかりしてきたせいか、俺の頭のなかは不気味なぐらい冷静だった。
 俺は遺体のそばにしゃがみこんだ。かつて本で読んだ知識を頼りに、死後硬直、血液の凝固、死斑などから大まかな死亡推定時刻を割り出す。

「……たぶんだけど、渡辺さんが亡くなってから、そう時間は経ってないな」
「私も同意見。きっと殺されたのは、日が沈んでから」
「殺された、か……やっぱりこれは他殺なんだろうな。考えたくないけど」

 見たところ渡辺さんの死因は、刃物によっていくつかの生命器官を破壊されたことと、それに伴う出血多量だ。俺のような素人が確認しただけでも顔、喉、心臓の三箇所が抉られていることが分かる。
 陰鬱な雰囲気が流れる。俺と美影は何をするわけでもなく、ただ黙って渡辺さんの遺体を見つめていた。

「やあ、探したよ。こんなところにいたのかい」

 沈黙を打破したのは俺でも美影でもない、第三者だった。同時に振り向いた俺たちの先には、よれよれの背広に身を包んだ男性が立っていた。無造作に伸びた黒髪と無精ひげ。左肩から先のない、隻腕。うだつの上がらないサラリーマンのような風貌をしている。

「冴木さん?」
「冴木」

 予想していなかった人物の登場に、俺たちは間の抜けた声を上げてしまう。どこかいつもとは違う笑みを浮かべながら、彼はこちらに近づいてくる。その顔にはびっしりと汗が浮かび、顔色もかなり悪いように見えた。

「びっくりしたよ。アパートが燃えていたからね。美影ちゃんと萩原くんの身に何かあったんじゃないかって心配してたんだ」
「それを言うなら俺だって心配してましたけど……」

 かすかな、違和感。
 頭のなかに警鐘が鳴り始める。
 このままではいけない。
 自分でも何がおかしいのかは分からないけれど、このままではいけない。
 それは危機感というより、違和感。
 俺は美影に歩み寄ろうとする冴木さんの前に立ちはだかった。彼は、意外そうな顔をするわけでもなく、ただ微笑む。

「どうしたんだい、萩原くん。そんなに怖い顔をして」

 締まりのない、へらへらとした笑み。すこし前までは心を温かくしてくれた彼の微笑が、いまでは腕のいい道化師のそれに見えた。

「……冴木さんは、いままでどこにいたんですか?」
「僕かい? ちょっと街のほうに出てたのさ。それで難を逃れたんだよ」

 冴木さんの全身を、俺は冷静に観察した。頭髪、顔、肩、腕、胸、腹部、腰、太もも、足首……そのなかに一つだけ、以前の冴木さんとは違う箇所があった。それを見つけた瞬間、疑惑は確信に変わった。
 俺が疑っていることを察したのか、冴木さんは困ったようにはにかんだ。

「まあ火災に巻き込まれかけたんだ、萩原くんの危機意識が強くなるのも分かるけどね。でもいまは一刻も早く逃げることが先決じゃないかい?」
「逃げる? 誰からですか?」

 冴木さんの笑顔に小さな亀裂が入る。

「もうアパートからはじゅうぶん離れていますよね。ここなら消防署の人たちに見つかることも、駆けつけてきた警察に事情聴取されることもありません。もしかして冴木さんは、俺と美影が誰かに狙われてるってことを知ってるんですか?」
「…………」
「それに俺は、最初からずっと気になってたんです。どうして冴木さんは」

 俺たちのすぐそばに横たわっている遺体を、大きな血だまりのなかに倒れる渡辺さんの身体を、見つめる。

「渡辺さんの死には、一言も触れないんですか?」

 暖かな光を宿していた冴木さんの瞳の奥に、冷たい炎が灯ったように見えた。

「仮にも同じアパートの住人です。それに冴木さんはアパートを出入りする人たちにいつも挨拶を交わしていました。だから冴木さんは少なくとも、俺よりは渡辺さんのことを知っているはずです。そんなあなたが、渡辺さんのことについて一言も触れないのはおかしい。いや、もっと言えば、誰かの死を見ても無反応なのが俺には異常に思えたんです。俺にはあなたが、人の死に慣れているように見えます」
「……ふむ」
「あるいは、冴木さんはここで渡辺さんが死んでいることをあらかじめ知っていた、という可能性も考えられます」
「ハハハ、なるほどね。つまり君は、僕が渡辺くんを殺したと言いたいわけだ」
「そうですね、否定はしません。冴木さんのズボンの足首に、血の手形があるかぎりは」

 まるで死に逝く誰かが――この場合は渡辺さんか――遺したダイイングメッセージのようだ。きっと殺される寸前、文字通りわらをも掴む思いで、冴木さんの足首に縋りついたのだろう。

「……やれやれ」

 身構える俺とは裏腹に、彼はどことなく嬉しそうな顔をしていた。

「本当に萩原くんは頭の回転が早いね。勘もいい。この薄暗い視界のなかで、そこまで気が付くのは大したもんだよ」
「理由を聞かせてもらってもいいですか?」
「いいよ、と言いたいところだけど」

 彼はふところから拳銃を取り出すと、それを躊躇いもなく俺たちのほうに向け、

「もう時間切れだ」

 静かにトリガーを引いた。
 なんの警告もない発砲に、大きな音に対する準備のなされていなかった鼓膜がひどく痛んだ。廃墟が連なった薄暗いなかにマズルフラッシュが明滅。

「――っ!」

 俺と美影は咄嗟に身をひねり、銃弾をかわした。ちょうど俺たちの中間をすり抜けた銃弾は、大気を焼きながら闇のなかに飲まれていった。
 でも冴木さんの攻撃をかわした俺がまず思ったことは安堵ではなく、さらなる違和感だった。
 ……おかしい。
 いまのは不意の一撃だったのに、俺たちはあまりにも簡単に避けることができた。暴力団の連中は拳銃の平均射程距離よりも遠くから撃ってきたので銃弾を防ぐこともかわすこともできたが、俺たちと冴木さんの距離は五メートルもないのだ。
 これほどの近距離ならば、《悪魔》の血を引く俺でも、優れた運動能力を持つ美影でも、まず完全に回避することはできないはずなのに。
 もしかして冴木さんには、初めから当てる気がなかった……?
 その考えに俺が達したのと同時に、キィン、と《悪魔》が異能を使ったとき特有の耳鳴りがした。
 背後から、禍々しい、殺気。

「後ろだ! 萩原くん!」

 拳銃を構えたまま冴木さんが声を張り上げる。俺は反応することすらできず、ただ呆然と突っ立っているだけだった。冴木さんは姿勢を低くしながら駆け寄ってきて、俺の身体を突き飛ばした。足を踏ん張っていなかったせいで、ごろごろと地面を転がってしまう。急いで立ち上がり、冴木さんと美影の無事を確認すると、ほっと胸を撫で下ろした。

「ようやく追いつきましたよ。その傷ついた体で崇高な僕から逃れたのは賞賛に値しますが、しかし、終幕を引き伸ばす道化師ほど滑稽なものはありません」

 安心したのも束の間、耳に覚えのある芝居がかった口調が聞こえてきた。
 仄暗い闇のなかから人影が浮かび上がる。成人男性の平均を超える身長と骨格。金色の髪と、不気味なまでに細い糸目と、嘘くさい神父服。いつかの夜、俺たちのまえに現れたソロモンの大悪魔が、そこにいた。
 冴木さんは汗がびっしりと浮かんだ顔で、自嘲気味に笑った。

「……巻いたと思ったんだけどね。僕としたことが、泳がされていたというわけか」
「いえいえ、そう悲観することはありませんよ。この崇高な僕の手から一時とはいえ逃れたのですから、もっと誇ったらどうです?」
「ちっ――」

 思考する暇も、逡巡する時間も、俺たちには与えられていない。ダンタリオンは怪物じみた身体能力を駆使し、混乱と困惑の渦中にある俺たちを畳み掛けてきた。

「どうしました? 息が上がっていますよ?」
「……っ」

 冴木さんはダンタリオンの一撃を身を引いてかわし、ほとんど照準もせずに発砲した。機械のように的確な軌道をたどる鉛弾は、俺たちに近づこうとするダンタリオンを牽制する。
 研ぎ澄まされた体捌きと、相手の動きを読む勘と、卓越した銃の腕前と、理屈では説明できない危機回避能力。
 そこには俺の知る冴木さんからは想像もできない、驚異的な腕前を持った戦士がいた。
 もしかしたら冴木さん一人でダンタリオンを牽制し続けることは可能かもしれなかったが、しかし、すぐに拮抗は崩れた。
 時間が経つごとに、冴木さんの動きが鈍くなるのが目に見えて分かった。おそらく彼は、人体の重要な部分を負傷している。目立った外傷がなく、手や足もきちんと動いているところから見るに、もしかしたら肋骨か内臓にダメージを負っているのかもしれない。
 さらに追い討ちをかけるように、冴木さんの銃から弾が切れた。右腕しかない彼にはマガジンを交換するだけのこともできない。
 それを好機と見たのか、ダンタリオンが大きく踏み込んだ――ように見えた。

「――っ!?」

 だが冴木さんの前にいたはずのダンタリオンは、その場から姿を消していた。動きが速いとか、そういう次元の話じゃない。この場にいる俺と美影と冴木さんの知覚を掻い潜れるだけの、なにか特別なチカラが働いている。
 どこをどう見渡しても、ダンタリオンの姿はない。
 一体、ヤツはどこに消えた……?

「美影ちゃん!」

 困惑を破ったのは、冴木さんの大きな声だった。
 冴木さんは必死の形相で、悲痛なまでの叫び声で、美影に注意を呼びかける。その声に従って美影のほうを見ると、小柄な背中のうしろに、ダンタリオンが回りこんでいた。
 でも当の本人は気付くのが数瞬、遅かった。
 さすがの美影も、冴木さんと戦っていたはずのダンタリオンがいつの間にか自分の背後に移動しているなんて、想像はできても想定はできないだろう。気を抜くのも、索敵を怠るのも、それは人間なら仕方のないことだった。

「――くっ」

 美影は遅ればせながらも素晴らしい反応を見せたが、それでもやはり、遅すぎた。
 ダンタリオンの腕が上がる。糸目と唇が、三日月の上弦と下弦のごとき歪みを見せる。
 そのときは、呆気なく訪れた。
 美影の背から腹にかけてを貫くようにしてダンタリオンの腕が突き出される。鮮やかな血飛沫が中空を舞い、柔らかな肌と肉に風穴が開いた。

「……え?」

 目を覆いたくなるような光景を、俺と冴木さんは――否。
 その光景を。
 俺と美影は――ただ黙って見つめていた。

「ぐぅっ、はっ……」
「やはりこの少女のためですか。どうです、これで満足でしょう? この崇高な僕が、わざわざ感動的な演出を用意してさしあげたんですから」

 よれよれの背広から、冴木さんの腹部から――ダンタリオンの腕が生えていた。そこは真っ赤に濡れていて、いまもなお夥しい量の血液を垂れ流している。
 冴木さんは、美影を庇ったのだ。
 その代償は決して安いものじゃなかった。人間は、腹部に風穴が開いて活動できるようには作られていない。

「さえ、き……?」

 美影は尻もちをついたまま、ぽかんとした顔で冴木さんを見上げていた。

「……ハ、ハハ……そう、か……ぶ、じ……だったんだね……美影ちゃん」

 あろうことか、冴木さんは笑った。青白くなった顔を微笑ませて、まるで美影のことを気遣うかのように、笑った。それは友人でも隣人でもなく、もっと近しく親しい相手に向けるような笑顔に見えた。

「……だ、いじょ、ぶ……僕、が……まもって、あげる、から……」

 最後の力を振り絞るような微笑み。
 冴木さんは美影に負い目を感じさせないためだけに、圧倒的な激痛を堪えて笑っているのだ。
 ダンタリオンが腕を引き抜く。それと同時に、冴木さんはその場にくずおれた。
 冷たいコンクリートのうえに、渡辺さんのときよりも大きな血だまりが広がっていく。まだ幾許かの時間は残されているだろうが、それでも彼の命が風前の灯なのは火を見るよりも明らかだった。

「冴木さん……!」

 居ても立ってもいられず、俺は冴木さんに駆け寄った。
 ここにきて俺の頭のなかは後悔で満たされていた。初めに拳銃を向けたとき、冴木さんが狙っていたのは俺たちじゃなくて、俺たちの背後にいたダンタリオンだったのだ。
 最初から最後まで冴木さんを信じることができていれば、もっと違う結末があったかもしれない。過ぎ去った過去を、悔やまずにはいられなかった。

「……萩原くん」

 いまにも消え入りそうな声。

「美影ちゃんを、連れて……逃げてくれ」
「そんな、冴木さんは――!」
「僕は、いいんだ……それより、美影ちゃんを……護って、やってくれ……」
「なんでそこまでして美影のことを?」
「……決まってるだろう? 僕が、美影ちゃんの、ファンだからさ」

 人懐っこい笑み。
 どこまでも優しい、父親のような笑み。
 このまま、この人をここで死なせてしまってもいいのか?
 俺の《ハウリング》は血液にも作用するという特性上、治療にも用いることができる。ただし、それにも制限や限界がある。Dマイクロ波の馴染んだ自分の体ならともかく、血の繋がりもない他人の体を癒すことは難しい。せいぜい止血が限度だろう。
 ここで俺が異能を使えば、冴木さんの命を数十分は長引かせることができるはずだ。でも、冴木さんに異能を使ってしまうと、ダンタリオンを相手にするだけの力がなくなってしまう――

「……くそっ!」

 自分に腹が立って、コンクリートを思いきり殴りつけた。誰かが苦しんでいるときに、こんな小賢しい計算をするなんて、俺はいつからそんなクズになった?
 いまはダンタリオンのことなんてどうでもいいじゃねえか。俺は冴木さんが好きなんだ。この人に少しでも長く生きてほしいんだ。だから――

「……いいんだ、萩原くん」

 震える俺の拳に、冴木さんはそっと手を重ねた。

「きみは……本当に優しいね……」
「俺のことなんかどうでもいい! もう喋らないでください!」
「うん、そうだ、ね」

 冴木さんが口から大量の血液を吐き出す。俺は着ていた上着を脱いで、彼の腹部に押し当てた。尻もちをついたまま呆然としている美影が、珍しくおろおろしながら、つぶやく。

「……さ、冴木……あの」
「美影ちゃん、怪我は……ないかい?」
「う、うん。でも」
「これは珍しい、ことも……あるもんだね……まさか、美影ちゃんに、心配されるなんて」

 精一杯の強がりなのだろう、冴木さんは目元を柔らげた。その心温かい横顔を見て、俺は一つの決意を固めた。立ち上がり、こちらを興味深そうな目で見つめていたダンタリオンと対峙する。

「おや、もう今生の別れは済ませたのですか? もっと見せてくださいよ、安っぽい人間愛を」
「……余裕だな、てめえ」
「それほどでもありません。それは崇高な僕にとっても面白い見世物ですしねえ」

 瀕死の冴木さんを顎で指し、ダンタリオンはクックックと癪に障る笑いを漏らした。この絶好の機会にダンタリオンが傍観に徹しているのは、死に喘ぐ冴木さんを見るのが愉しいからだと言うのだ。
 もちろん怒りもあったが、それ以上に、いまの俺には成すべきことがあった。

「ダンタリオン。取り引きをしねえか?」
「これはこれは。貴方様に名を憶えていただけていたとは光栄ですねえ。して、取り引きとは?」
「冴木さんを最寄の病院に連れていく。そのあいだの時間をくれ」
「ふむ、想定範囲内の答えだ。仮にですが、こちらがその条件を呑んだとして、君は何をしてくれるのですか?」 
「おまえを殺してやる」
「……はい?」

 ダンタリオンの顔から笑みが消える。この強大な威圧感をまとった男とは思えないほどの、きょとんとした顔。
 俺は分かりやすいように、もう一度だけ説明することにした。

「だから、冴木さんを病院に連れていく猶予を与えてくれたら、おまえに生まれてきたことを後悔させてやるって言ったんだよ、ダンタリオン」
「…………」

 居心地の悪い沈黙が続く。この最中にも、俺とダンタリオンの脳内では、ありとあらゆる情報を加味したシミュレートが始まっている。

「くっ――」

 やがて、笑う。

「はははははははは――!」

 ダンタリオンは腹を抱えて、夜空に哄笑をこぼした。

「これはいい! さすがは我らが偉大なる《バアル》の血を受け継ぐだけのことはある! 何を言い出すかと思えば、この大悪魔と謳われた我が身を滅ぼすだと? ……くっくくく、はははははははは!」

 よほど可笑しかったのか、ダンタリオンは体をくの字に曲げて、心の底から笑っていた。ひとしきり馬鹿笑いをかましたあと、今度は打って変わって不気味な冷笑を浮かべる。

「クッ――いいでしょう。どうぞ、貴方様の自由になさってください」
「ずいぶんと簡単に許すんだな」
「ええ、それはもう。ゴミはゴミ箱に捨てたほうが自然環境には優しいでしょう?」
「…………」
「それにこう見えても崇高な僕は、《バアル》に一定以上の敬意を払っています。ですから、彼の血筋に免じて、あと一度だけ君に幾許かの猶予を与えましょう」

 次の瞬間には、ダンタリオンの姿が消えていた。当然のように別れの挨拶はなかった。だが以前とは違い、今回のインターバルは短い。冴木さんを最寄の病院――ちょうど近くには田辺医院がある――に届けたら、すぐにでもダンタリオンとの殺し合いが始まる。
 俺は冴木さんの体を背負うと、美影とともに走り出した。もう残された時間は、ない。





 深夜ということもあり、田辺医院には田辺さん一人しかいなかった。辻風さんは無事に勤務を終えて、数時間前に帰宅したらしい。
 血まみれの冴木さんを見ただけで、田辺さんはおおよその事情を察してくれた。
 診察室の奥にある手術室は、この清潔とはいえない病院のなかでも比較的綺麗な場所だった。設備もそれなりに最新のものを導入していて、大掛かりな手術を行うことも想定しているように見えた。
 しかし、どんなに設備の整った病院でも、どんなに腕の優れた名医でも、冴木さんの命を繋ぐことは不可能だろう。
 俺たちはいま、手術室にいた。ベッドの上には冴木さんが寝かされていて、そのかたわらでは田辺さんが忙しなく治療を進めているところだった。

「……美影、ちゃん」

 いまにも崩れそうな笑みを浮かべながら、冴木さんは美影に手を伸ばす。身を挺して自分を庇ってくれた冴木さんにどんな顔をすればいいのか分からないらしく、美影はびくっと身を竦めた。

「……君が、負い目を感じることはないよ。僕がしたくてしたことだから」

 鎮痛剤が効いてきたのか、あるいは何らかの峠を越えたのか、冴木さんの声には力が戻っていた。

「……冴木。私のこと、嫌いになった」
「そんなことはないよ。僕はいつだって美影ちゃんのファンさ」
「で、でも」
「美影ちゃんに心配してもらえるのは嬉しいけどね。でも僕は、いつもの美影ちゃんのほうが好きだな」
「いつもの?」
「ああ、そうだよ。そんなにおどおどしてる美影ちゃんは、美影ちゃんらしくない」
「……私、べつにおどおどしてない」
「それはどうかな。僕には美影ちゃんがおどおどしてるように見えるけどね」
「むー」
「ハハハ、その調子だよ。それでこそ僕の、美影ちゃんだ」
「私、冴木のじゃない」
「そうかも、しれないね」

 とても寂しそうな笑みだった。

「……ねえ、美影ちゃん。ひとつだけ、お願いしてもいいかな?」
「うん。なに?」

 冴木さんは照れくさそうに視線を泳がせてから、

「ほんの一度だけ……美影って、呼び捨てにしてもいいかな?」
「……?」

 美影は意味が分からない、とでも言いたげに小首を傾げる。

「だめかな?」
「……べつにいい」

 いつもどおりの茫洋とした瞳で、真っ直ぐに冴木さんを見つめながら、美影は小さく頷いた。

「ありがとう。それじゃあ――」

 すうっと息を吸い込み、彼は言った。
「美影」
「うん」

 冴木さんの前にちょこんと立っている美影が、反応する。

「美影」
「うん」

 一度だけ、という約束を破った冴木さんを咎めることなく、美影は頷く。冴木さんは美影の頭をゆっくりと撫でた。俺に触れられると不機嫌になるはずなのに、なぜか美影が冴木さんの手を振り払うことはなかった。

「お母さんと仲良くするんだよ。親にとって娘は、かけがえのないものだからね」
「……? うん」

 怪訝な顔をしたものの、美影はやはり頷いた。しばらく他愛もない話をしてから、二人は離れる。

「萩原くん」

 あの、人を落ち着かせる温かな目が、俺をじっと捉えている。

「僕のような他人が頼むのもおかしいけど、君に美影ちゃんのことを任せてもいいかな?」
「……もちろん、俺にできることはしますが」
「それはよかった。君なら安心だよ。どうか美影ちゃんを護ってやってくれ」

 僕の代わりに、と。
 美影には聞こえない小さな声で、彼はつぶやいた。
 それで俺が抱いていた疑問は、確信に変わった。

「冴木さん。もしかしてあなたは美影の……」
「そこから先を言ってはいけないよ。口に出さないほうが美しい真実もあるものさ」
「そんな……」

 主語を抜いて話す俺たちの後ろで、美影だけが首を傾げていた。

「……俺たちが初めて会ったときのこと、憶えてますか?」
「ああ、うん。繁華街でぶつかっちゃったときのことだね」
「あのとき、冴木さんは言いましたよね」

 僕の娘も、君ぐらい人の話を聞く子だったらよかったんだけどね。

「冴木さんがいつもアパートの階下にいたのは、その人の話を聞かない子を温かく見送ったり、優しく出迎えたりするためですよね」
「……本当に勘がいいね、萩原くんは」

 苦笑する冴木さん。

「でも、その話はここまでだ。いまの君には、もっと他にやらなければならないことがあるはずだよ」
「それは……!」
「お母さんを、幸せにしてあげたいんだろう?」

 冴木さんの瞳が、俺に『迷うな』と告げていた。

「……そうだ、君にはこれをあげるよ」

 冴木さんは背広のふところから、どこか見覚えのあるペンダントを取り出した。それは美影の母親である壱識千鳥さんが身につけていたものと、まったく同じだった。
 いまにして思えば、初めて繁華街で会ったとき、彼はこのペンダントを首にかけていたじゃないか。千鳥さんの御影石を見たとき妙な既視感があったけど、あれは菖蒲と一緒に見た理科の教科書じゃなくて、冴木さんが持っていたペンダントが原因だったんだ。

「……御影石」
「よく知ってるね。そうだよ、これは御影石っていうんだ」

 冴木さんから石を手渡される。とてつもない重みを感じる。まるで冴木さんの人生が、この御影石に込められているような気がした。

「……だめですよ、これは俺には」
「もらってくれ」

 石を握った俺の拳に、冴木さんが優しく手を乗せた。

「君にもらってほしいんだ。頼むよ」

 どうして冴木さんが俺に御影石を託したのかは分からない。それでも彼の想いを無碍にすることは、どう自分に言い繕っても無理だった。

「……わかりました。確かに、預かりました」
「うん。君に預けるよ」

 柔らかな微笑み。まるでもう思い残すことはないとでも言うような、この世の人間には見えていないものが見えているような、そんな儚い表情。
 そのとき、慌しく治療を進めていた田辺さんが言った。恰幅のいい彼は、頭髪にいくらか白いものが混じっている初老の男性だ。普段着のうえに、使い古された白衣を着ている。

「おい美影。そこの坊主もだ。もうおめえらにできることはねえよ。ここからは俺の仕事だ。とっとと行っちまえ」

 確かに、俺たちがここにいても邪魔になるだけだろう。それにあまり時間をかけすぎると、ダンタリオンが痺れを切らしてしまうかもしれない。でも、このまま冴木さんと美影を、離れ離れにしてしまってもいいのだろうか?

「……萩原くん」

 俺の迷いを読み取ったのか、冴木さんは目元を和らげた。

「美影ちゃんを、よろしくね」
「……はい」

 こんなの反則だ。あんな満足そうな顔で微笑まれたら、もう余計な口を挟むこともできないじゃないか。
 俺は御影石のペンダントを首にかけた。そして最後に一度だけ、冴木さんに向かって頷いてから、外に出る。きっとこれが、彼と過ごす最後の時間だと知りながら。

「……冴木」

 最後に、美影は小さな声で言う。

「ありがとう。私、冴木のこと、嫌いじゃない」

 それからくるりと背を向けて、てくてくと足早に手術室を出ていく。小さな背中には、長い尻尾のようになったポニーテールの黒髪が揺れている。
 冴木さんは呆気に取られた顔をしてから、ゆっくりと目を閉じた。もう二度と出会うことはないだろう少女の姿を瞼の裏に焼き付けてから、ゆっくりと目を閉じた。

「ああ、行っておいで。僕の大切な……美影」


****


 萩原夕貴と壱識美影が田辺医院をあとにしたのを確認してから、その女性は手術室に足を踏み入れた。
 診療用のベッドには冴木が体を横たえており、そのかたわらには手持ち無沙汰な様子の田辺がいる。恐らく、もう医者である彼にできることは終わったのだろう。

「……やあ、久しぶりだね」

 もう力のなくなった声を上げて、冴木は彼女を見た。

「ち、千鳥……」
「久しぶりね、田辺。それに――あなたも」

 驚きに目を見開く田辺を一瞥してから、彼女――壱識千鳥は、冴木に目をやった。
 千鳥は、美影をそのまま美しく成長させたような容姿である。年若い頃に娘を身篭った彼女は、いまだに若々しいルックスと優れたプロポーションを保っている。
 腰の下あたりにまで伸びた長い黒髪と、透き通るような白磁の肌が特徴的な、大和撫子という言葉がよく似合う美女。

「こうして会うのは何年ぶりかしら、《音無し》さん」
「またずいぶんと古い名前を持ち出してきたね。いまの僕は”冴木”だよ」
「それこそ違うわ。あなたは」
「冴木だ」

 千鳥の言葉を遮る声には、有無を言わせぬ力がある。彼が”冴木”という名前にこだわるのには一つの理由があった。

「冴木という名前は……僕が唯一、美影ちゃんからもらったものなんだよ。本当なら父親の似顔絵をもらうことが密かな夢だったんだけどね。それは贅沢というものだ。だから僕は死ぬそのときまで、”冴木”でありつづけるよ」
「…………」

 どこか悲しげに目を伏せる千鳥に、冴木は告げる。

「……こう言っては何だけど、君にだけは会いたくなかったなぁ」
「そうでしょうね。あなたはずっと私たちの目から逃れ続けてきたのだから」
「美影ちゃんに手を貸さなかったのは、僕を見つけるためかい?」
「そうよ」
「ひどい母親だね、君は」
「あなたこそ、ひどい父親だわ」

 千鳥は、ずっと冴木のことを探していた。
 しかし身を隠すことに徹した冴木は、そう簡単にしっぽを掴ませるような男ではない。
 だから美影をおとりにした。
 美影に危機が迫れば、かならず冴木は姿を現す。
 かつて萩原夕貴に懇願されたとき、千鳥が頑なに協力を約束しなかったのは、そうした理由があったからである。

「田辺。彼の命は、あとどのぐらい持つの?」

 美影によく似た無表情で、抑揚のない口調で、千鳥は言った。
 だが田辺はなにも応えなかった。その沈黙が、冴木に残された時間を物語っている。

「……そう。わかったわ」
「すまねえ、千鳥。この殺してもくたばりそうになかったクソ野郎が、まさかこんな……」
「相変わらず嫌われてるね。前から思ってたんだが、どうして田辺は僕のことが嫌いなんだ?」
「あん? そんなの決まってるだろうが。当時、俺たちにとって千鳥はどうしても抱きたい女ナンバーワンだったんだよ。それをおめえがかっさらっていったんだ」
「なるほど。恋敵ってわけか」
「うるせえ。無駄口たたく暇があったら、奇跡でも何でも起こして生き延びてみせろ。てめえ、勝ち逃げするつもりか」

 挑発するような口ぶりとは裏腹に、田辺は自分の力が及ばないことを激しく悔やんでいるようだった。

「……それ、まだ持ってたんだね」

 千鳥の胸に揺れる御影石のペンダントを見つめながら、冴木はつぶやく。

「ええ。あなたは?」
「残念ながら、僕はもう持っていないよ。さっき萩原くんにあげたからね」
「どうして彼に?」
「美影ちゃんが、萩原くんに懐いているようだったからね。まさか美影ちゃんが、年頃の異性を部屋に招き入れるなんて夢にも思わなかったよ」
「あの子が……?」

 母親である千鳥から見ても、それは異例のことのように思えた。
 基本的に壱識美影という少女は、あまり他人と関わろうとしない。その美影が他人を、それも異性をプライベートルームに招待するなど信じがたいことだった。

「びっくりだろう? だから彼になら、美影ちゃんを任せてもいいかなって思ったんだ」
「まるで父親のような台詞ね」
「ごめん。あの子は、君の娘だったね」

 嫌味のような千鳥の言い草に、冴木は苦笑する。
 千鳥はしばらく視線を泳がせてから、肩から先がない冴木の左腕に注目した。

「やっぱり、その左腕……」
「ああ。むかし、君と殺しあったときにね。僕が死んだと分かる”証”として斬り捨てた」
「それも全部、美影のためにやったのかしら」
「そうだと言ったら、君は嫉妬してくれるかい?」
「……バカ」

 不機嫌そうに眉を寄せる千鳥。しかしその仕草も、冴木にとっては微笑ましく映る。
 すこしずつ部屋のなかに死の気配が充満していく。ここにいる三人にはそれが理屈ではなく感覚で分かっていた。
 田辺は最善を尽くしたが、それでも冴木の命を繋ぐことは、やはり無理だった。むしろ生命維持に必要なための器官のいくつかを失っている彼がここまで持ちこたえたのは、純粋に田辺の腕によるところが大きい。
 不思議と、冴木に苦痛はなかった。それどころか母親の胎内で眠る赤子のような心地よさを感じているほどだった。

「ねえ千鳥。お願いがあるんだ」
「なに?」

 千鳥の無表情のまま首を傾げる仕草のなかに、冴木は愛する娘の面影を見た。きっと将来、美影もこのように美しく成長するに違いない。
 冴木に後悔はないが、これからの娘の成長を見守れないことだけが無念だった。

「もう僕は美影ちゃんを護ることができない。だから、これからは僕の代わりに、君があの子を見守ってあげてくれ」
「……分かったわ」
「そうか――うん、ありがとう」

 冴木は笑った。本当に嬉しそうに。
 すでに冴木の目には何も見えていなかった。視力を失ったわけではなく、彼にはもう瞼を開くだけの力すら残っていないのだ。

「……千鳥」

 耳を傾けてようやく聞き取れる程度の小さな、ひどく掠れた声で、冴木は言う。

「ずっと、ずっと、きみのことを、愛していたよ」
「知ってるわ」
「いまでも、きみのことを、愛しているよ」
「知ってるわ」
「死んでも、きみのことを、愛していくよ」
「知ってるわ」
「そうか――」

 かつて《音無し》という異名で知られ、希代の殺し屋と謳われた『彼』を知る者からは想像もできない、子供のような笑み。
 それから冴木が声を発することはなかった。死者は黙するのが常で、何かを語ることなどありはしない。
 息を引き取った冴木を見つめて、田辺は肩を震わせていた。

「……バカね」

 滑らかな白い肌のうえを透明色のしずくが伝う。それはリノリウムの床に一滴、二滴と落ちて、小さな水溜りを作った。
 千鳥は静かに涙を流しながら、愛する夫の頬を撫でた。

「私のほうが、ずっと、ずっとあなたのことを愛しているわよ」




[29805] 2-11 才気煥発
Name: テツヲ◆c49d9b75 ID:366fa69a
Date: 2012/12/21 17:28
 深夜の高速道路を走る車のなかで、参波清彦はほとほと困り果てていた。

「菖蒲お嬢様。まだ家に到着するまで時間に余裕があります。すこし睡眠を取ってはいかがですか?」

 ハンドルを握り、アクセルを踏みながら、清彦はバックミラーに目を向けた。そこには仄暗い闇夜もぱっと華やぐような美少女が、いかにもご機嫌斜めな顔で、後部座席に身体を預けている。

「……いいです。わたしは眠りません」

 長い鳶色の髪を揺らし、少女――高臥菖蒲はぷいっとそっぽを向く。
 そのまま物憂い横顔で窓の外を眺めていた菖蒲は、恋に煩うかのように小さなため息をついた。
 清彦は無駄だと知りつつも、説得を試みることにした。

「お嬢様。きっと夕貴くんにも止むに止まれぬ事情があったのだと思いますよ。ですから、そう気にする必要はないかと」

 清彦は、菖蒲と二人きりのとき――つまり周囲の目がないところでは、普段よりも幾分か砕けたフランクな口調で会話することがある。今回も、そのパターンが適用された。
 菖蒲の瞳はわずかに潤んでいる。

「……でも。でも夕貴様は、わたしのメールに返信をなさってくださらないのですよっ? おかげでここ数日、ほとんど眠れませんでした」
「分かっています。だから私は、少しでも睡眠を取ってはどうかと尋ねたのです」
「いいえ、眠りません。こうなれば意地です。それに、わたしが眠ってしまっているあいだに夕貴様からメールが届く可能性もあります。想い人から返信していただけないことの悲しみを知っているだけに、わたしは眠ることはできないのです。分かりましたか、参波?」
「……なるほど、よく分かりました」

 お嬢様がどれほど夕貴くんのことを愛しているのか――と続く言葉を、清彦は飲み込んだ。
 それにしても清彦の知るかぎり、菖蒲はここまで意固地な少女ではなかったはずなのだが――彼女にとって夕貴との出会いは、性格や気質の一部に変化をもたらすほど大きいものだったのだろうか。
 唇を尖らせながら、菖蒲はなおも愚痴をこぼす。

「昨日の夜、ようやくメールの返信がきたと思ったら、差出人は夕貴様ではなくお父様でした」
「それは初耳です。重国様は何と?」
「大事はないか、何かあればすぐに連絡しろ……と、書かれていました」
「なるほど。相も変わらず、重国様の子煩悩にも困ったものですね」

 一歩間違えば不忠とも取られる発言だが、清彦と重国は部下と上司というより気心の知れた友人のような間柄なので、菖蒲も畏まって注意はしない。

「しかしお嬢様。どうか重国様のお気持ちも汲んであげてください。重国様は、お嬢様が可愛くて可愛くて仕方ないのですよ」
「この際、お父様はどうでもいいのです!」
「…………」

 ここに重国がいたら危うく日本経済が傾いていたところだ、と清彦は思った。

「いま思えば、わたしはすぐに気付くべきだったのです。わたしと夕貴様は、お互いの着信メロディーを特別なものに変えています。ですから、メールが届いた時点で、わたしはそれがお父様であると気付くべきだったのです」

 清彦は知らないことだが、夕貴は『女々しい』という理由から菖蒲だけの着信メロディーを変えるのを嫌がっていた。しかし菖蒲から遠まわしの可愛らしい説得をされて、しぶしぶ言うとおりにしたのだった。

「きっと夕貴様は、わたしのことが大切ではないのです」

 頬をぷりぷりと膨らませてつぶやく菖蒲に、

「まさか。夕貴くんはお嬢様のことを深く愛していらっしゃいますよ。それは私が保証します」

 苦笑交じりに清彦がフォローを入れる。
 清彦としても菖蒲の気持ちはよく理解できた。なにせ都心で女優としての仕事をこなした数日間に菖蒲が送ったメールに、夕貴は一度も返信をしなかったのだから。
 清彦の言葉が信じきれなかったのか、菖蒲は上目遣いでバックミラーを見た。

「……本当ですか? 本当に、夕貴様はわたしのことを愛していると、参波は思いますか?」
「はい。彼は素晴らしい人間です。なにせお嬢様が選んだ方ですから。そんな夕貴くんが、お嬢様を愛していないわけがありません」

 ほんの一瞬、菖蒲の表情に微かな恥じらいが混じった。

「そ、そうですか? 夕貴様は、素晴らしい殿方ですか?」
「ええ。彼は素晴らしいですよ」
「……ふふ」

 夕貴を褒められたことが嬉しいのだろう、口元に手を当てて微笑をこぼす菖蒲。なんだかんだ愚痴をこぼしつつも、菖蒲は夕貴のことを愛しているのだな、と清彦は目元を和らげた。
 ――異変が起こったのは、そんなときだった。

「……参波」

 やけに強張った菖蒲の声。
 不審に思った清彦は、バックミラーを通して後部座席を覗いた。そこには俯いている菖蒲の姿。美しい髪が顔を覆っているせいで表情までは読み取れない。

「お嬢様……?」

 怪訝顔をあらわにする清彦。
 裏に精通する者として、彼は”異常”な気配を嗅ぎ分けることには自信があった。
 その嗅覚が、断言している。
 菖蒲の様子は、恋に一喜一憂する少女のそれではない――と。

「……参波、お願いがあります」
「お願い、ですか? それはどのような?」

 問いかける清彦に、菖蒲は繰り返し告げる。

「……《参波》、あなたに言っているのです」
「お嬢様。それは――」

 抗弁しようとして、ふたたびバックミラーを覗いた清彦は、思わず口を閉ざしてしまった。
 しっかりと顔を上げた菖蒲の目には、ごうごうと燃え盛る炎のような熱くて強い意志が宿っている。
 彼女の母親である高臥瑞穂が、未来を視た瞬間、よくあんな目をしていたことを清彦は覚えていた。つまり菖蒲がいま、未来予知の異能を発動させたことは、火を見るよりも明らかだった。
 いったい菖蒲がどんな未来を視たのかまでは分からないが、清彦の答えは初めから決まっている。かの一族に尽くすことを決めた日から、この身と心は、彼らのためだけに使うと。

「――了解しました。何なりとご命令を。菖蒲お嬢様」

 清彦の声から親しみの色が抜け落ちて、代わりに、主人にかしづく従者の声に変わった。
 それを知ってか知らずか、菖蒲は震える手で携帯をぎゅっと握り締めたまま、つぶやく。

「……夕貴様。菖蒲は、上手くやれるでしょうか」

 その言葉が意味するところは、清彦には分からない。
 ただ確かな波乱がこのあとに待ち受けているだろうことを、彼は漠然と理解するだけだった。 


****


 田辺医院を出て、しばらく適当に歩き続ける。
 深夜を回っているからか、街には人っ子一人見当たらない。いつもは夜間でもそれなりに交通量のある幹線道路は、今夜に限って不気味なぐらい車が走っていなかった。まあここ数日、あんな物騒な事件ばかり起きていたんだ、夜中にわざわざ出歩くような物好きはいないだろう。
 幹線道路沿いをしばらく歩くと、大きなホームセンターが見えてきた。ロードサイド型店舗で、広大な駐車場を備えている。
 俺たちは、ほとんど車の停まっていない駐車場に足を踏み入れた。
 そこは、ただ長い年月と風雨にさらされたコンクリートが広がる、寂しい空間だった。

「……いるんだろ、ダンタリオン」

 夜の帳に向かって呼びかけると、

「ほう、お気付きになられましたか。さすがは夕貴様。大した慧眼だ」

 誰もいなかったはずの空間に、一人の男が突如として現れた。
 《ソロモン72柱》が一柱にして、序列第七十一位に数えられる大悪魔ダンタリオン。
 いきなり肩や背中にずしんと重たい何かが圧し掛かったような気がした。大気を、重力を、空気を、そうしたあれこれに影響を及ぼすほどの威圧感。隠そうともしない剥きだしの殺気。
 全身から冷たい汗が噴き出し、服を濡らしていく。綱渡りにも似た極限の緊張が、心と体を苛む。
 あらためて対峙してみて痛感させられるのは、このダンタリオンという男の底知れなさだ。なぜか、俺にはダンタリオンが死ぬ光景がイメージできない。それは転じて、勝てる気がしない、という意味でもあるが――

「さあ、もういいでしょう」

 曇った夜空を見上げて、ダンタリオンはつぶやく。

「しばしの猶予を与えた対価を今こそ頂きたい。たしか貴方は」
「いちいち確認すんな。おまえを殺してやるって言っただろ。それはいまでも変わってない」

 目線を逸らすことなく啖呵を切ってやった。もともとの戦力差が絶望的なんだ。せめて威勢だけでも張ってないとやってられない。

「ふっくくく……なるほどなるほど、崇高な僕を殺すと。しかしなぜでしょうねえ。そう告げる貴方の姿が、《バアル》と重なって見えるのは」
「相変わらずうざいやつ。死ねばいいのに」

 むっつりとした顔で美影が言った。

「おやおや、嫌われてしまいましたか。まあ従順なペットほどつまらないものはないですし、躾ける余地が残っている分、楽しみは尽きませんがね」

 にらみ合う。すでにもう言葉はいらなかった。
 雲行きの怪しい空から、ぽた、ぽたと水滴が降ってくる。それは少しずつ勢いを増し、本格的な雨へと変わった。
 髪が濡れ、服が濡れ、靴が濡れる。全身にまとわりつく布の感触が気持ち悪い。降りしきる雨の勢いは留まることを知らなった。

「それでは見せていただきましょうか――」

 闘いの火蓋が、切られる。

「――バアルの血が、どれほどのものなのかを」

 この雨をものともしない爆発的なスピードで、ダンタリオンが駆けてくる。迸る殺意と神父服が合ってなさすぎて逆に笑えてくる。

「ちっ、こんな血の臭いがする聖職者なんか見たことねえぞっ!」
「遠慮することはありません。これからは毎夜、見ることになりますよ。ただし――」

 間合いが狭まる。

「悪夢のなかで、ですがね」
「だれがっ!」

 俺にはダンタリオンの動きがはっきりと見えた。Dマイクロ波は筋肉だけじゃなくて、神経系や神経網、そして電気信号などにも影響を及ぼす。脳の情報処理は活発化し、普通の人間には視えない世界が視えるようになる。
 雨の一滴一滴が、ダンタリオンの体に触れ、染み、弾かれ、伝う様子までが手に取るように分かる。
 いまの俺は体を動かす速度よりも、考える速度のほうが早い――だからその場に見合った最善の行動をじっくりと選ぶことができる。
 無造作に振るわれる腕。できることなら合気道の要領でその腕を取り、攻撃を未然に防ぎたかったが、それは贅沢というものだった。
 ダンタリオンの膂力はよく知ってる。こいつは前にホテルの屋上にあった頑丈な看板を一撃でぶっ壊した。まともに食らえば大怪我は免れない。
 いまの俺たちの体勢と、このタイミングでは――攻撃を防ぐことも、反撃することもできない。
 だから残された選択肢は、回避。
 俺が横に跳ぶと、鏡合わせのように美影も反対側に跳んだ。彼女は生まれ持った勘により、思考ではなく感覚で『避けるしかない』と判断したのだろう。 
 ダンタリオンの腕が、直前まで俺たちがいた空間を薙いだ。

「ほう、避けますか。すばしっこいですねえ。まるで猿のようだ」
「私が猿なら、おまえはバナナ」

 次に仕掛けたのは俺――ではない。それよりも遥かに早く、美影が動いていた。

「ふむ。その心は?」
「おまえは、私に取って食われる」

 美影は、ダンタリオンの死角に潜りこみ、鋭い蹴りを放った。ずば抜けた体術。それは相手を倒すための格闘技ではなく、相手を殺すための戦闘術。
 だがダンタリオンは、自身に向けられる殺気にひどく敏感だった。
 その証拠に、美影の姿は見えなくても、雨と闇のなかに混じった微かな殺気を頼りに、ダンタリオンは美影の蹴りを防いだ。

「素晴らしい――が、いささか非力なのは否めませんね」

 感嘆とも落胆とも取れる発言をしてから、ダンタリオンは腕を振るった。拳を握らず、指を広げて鉤爪のようにし、獲物の急所を抉りに来る。
 それは武道や格闘技を学んだ者みたいに洗練された動きじゃない。防御も回避も無視して、ただ相手を破壊することだけを重視している。超人的な運動能力を持つダンタリオンだからこそできる芸当だ。
 美影は無理にかわそうとせず、とんっと軽やかに跳躍し、もう一本の足でふたたびダンタリオンに蹴りを放った。わき腹に命中。ダンタリオンは姿勢を崩しもしない。だが美影の身体は、蹴りの反動で間合いから遠ざかった。
 美影の肢体がひるがえるのと同時に、闇を縫うようにして極細の『糸』が奔った。濡れた路面が幾重にも切り刻まれる。

「――ぐっ!?」

 そのとき俺は、ダンタリオンの背後に忍び寄っていたところだったので、危うく巻き添えを食らいそうになった。間一髪のところで後ろに跳び、『糸』を避ける。間もなく着地。右方から微かな風。目を向ければ、ダンタリオンが俺に接近していた。

「野郎……!」

 ほとんど反射的に拳を繰り出す。当たらない。今度は足を跳ね上げる。これも当たらない。身体能力ではなく、実戦経験に圧倒的な差がある。俺の動きは美影に比べるとあまりにも単調で、稚拙だった。

「悪くはない――ですが、これでは《バアル》の名に泥を塗るだけだ。実に残念です」
「おまえが……!」

 苛々した。
 その人を食ったようなうざったらしい顔で……!

「父さんの名前を口にすんなっ!」

 大きく踏み込み、腰だめに構えていた拳を突き出す。思いっきり体重を乗せた一撃だ。いままでとは威力も速度も違う。これならさすがのダンタリオンも――
 ――ずしん、と重たい衝撃。
 俺の拳は、ダンタリオンの額に命中していた。しかし、ダンタリオンは止まらない。むしろ殴った反動で、俺の右肩がダメージを食らっちまった。
 くそっ、こいつの身体、一体どうなってんだ……!?

「もう一度だけ言いましょう――残念だ」

 俺が腕を戻すのと、ダンタリオンが腕を振るうのは、まったくの同時だった。
 まずい。
 ちょうど身を引いて重心が不安定な状態のときを狙われた。これでは上手く回避ができないし、防御するにしても足を踏ん張っていないから強力な一撃は受け止められない。
 ダンタリオンの腕が迫る。

「残念?」

 まるで突風のように、俺とダンタリオンのあいだを小柄な人影が通過していく。
 ダンタリオンの腕が止まる。

「おまえには言われたくない。ヘンタイ」

 見れば、美影の手から伸びた『糸』が、ダンタリオンの腕に幾重にも絡みついていた。だが彼我の腕力差は歴然だ。長くは持ちそうにない。
 だからいまのうちに、俺がこいつをぶっ飛ばしてやる……!

「――づっ、らあああぁっ!」

 勢いよく足を跳ね上げる。殴っても意味がないなら、蹴ってみるしかない。裂帛の気合を乗せた、まさしく全身全霊の一撃。これを無傷で凌ぐというのなら、もはや素手ではダンタリオンに有効なダメージを与えることはできないだろう。

「クック――」

 そのときだった。
 ダンタリオンから禍々しい《悪魔》の波動が放たれ、あの耳に障る、不快な高音がもたらされた。
 ――ハウリング。
 その言葉が脳裏をよぎる。
 ダンタリオンだけが持つ固有の異能が、降りしきる雨と広がる闇のなか、発動した。
 固体から気体に変化するように――ダンタリオンの身体の輪郭が、まるで陽炎か蜃気楼のごとく、ゆらゆらと揺らいだ。
 それに戸惑いを覚えたのか、美影の動きが目に見えて鈍くなった。『糸』の拘束が緩み、ダンタリオンの腕が解き放たれると同時に、その姿は跡形もなく消失してしまった。

「……なるほど」

 でもよ。
 さすがにこう何度も見せられちゃ手品の種にも見当ぐらいつくよな。
 ずっと考えた。ダンタリオンと邂逅した夜から、いまのいままでずっと考えていた。瞬間移動のような異能の正体が何なのかを。
 判断材料はいくつかあった。
 例えば、俺たちが初めて相見えたのはホテルの屋上だが、あのとき曇りかけだった夜空が、いきなり時間でも飛ばしたみたいに曇天になり――それと同時に、俺たちはダンタリオンの姿を見失った。
 例えば、戦闘の最中、たまに美影の動きが鈍くなるのは――決まってダンタリオンが異能を使ったとき。
 これらのことから、俺はひとつの仮説を立てていたが、それはいま確信に変わった。

「……いやはや、実に愉快ですねえ」

 その声がしたほうに目を向けると、明らかに一足飛びでは到達できない遠距離に、ダンタリオンが立っていた。
 あの一瞬で、俺たちの間合いから離脱するとは――やはりダンタリオンの能力は驚異的としか言いようがないな。
 大きく両手を広げて、ダンタリオンは失笑を漏らした。

「この崇高な僕を『殺す』と断言したときの貴方には《バアル》の面影を見ましたが――それが蓋を開けてみれば、とんだ茶番だ。出来の悪い主人を持ったナベリウスが気の毒でなりませんよ」
「ほっとけよ。おまえに俺たちの何が分かるってんだ」

 俺はあいつが好きだし、あいつは俺に優しくしてくれる。主人とか従者とか、そういう堅苦しい関係だと思われたくない。
 だからさ――
 
「ナベリウスは俺の家族だ。ある意味、トラブル製造機みたいな女だけど、それでも俺はあいつが好きだ。調子に乗るから本人には絶対言わないけどな」
「結構。今宵、ナベリウスが舞台に上ることはありませんが、それでも主人からそのように想われるのは、従者として本望でしょう」

 今宵、ナベリウスが舞台に上ることはない……だと?
 それってつまり、あいつの身になにかあったってことか?
 俺が真意を問うよりも先に、

「ただ、どうも貴方にはナベリウスを従えるだけの器があるとは思えませんね。しょせん《バアル》も、彼が孕ませたという人間の牝も、情と欲に溺れるだけの愚図でしかなかったというわけだ。こんな出来損ないを作ることしかできなかったのですから」
「……んだと?」
「聞こえませんでしたか。ならばもう一度だけ言いましょう。しょせん貴方の父君と母君は、情と欲に溺れるだけの愚図でしかなかっ……」
「――父さんと母さんをバカにすんなっ! ぶっ殺すぞてめえっ!」

 頭に血が上ると、その後の行動は支離滅裂なものとなるのは分かっていたが、これだけは譲れない一線だった。
 俺は、母さんのことを愛してるし、父さんのことを尊敬してるんだ。
 それを馬鹿にされて黙っていられるわけがない。

「おや、気に障りましたか。でしたら謝罪しましょう。申し訳ありませんね、出来損ないの夕貴様」
「俺の悪口はいくら言っても構わねえ。でも父さんと母さんのことを侮辱しやがったら、絶対におまえを殺してやる……!」
「そのジョークはもう聞き飽きましたよ。崇高な僕から一つだけ忠告してさしあげましょう。威勢というのは、切るべき手札が残っていて初めて機能するものです。いまの貴方は、うるさく吼えるだけの犬でしかない」
「――っ!」

 胸のうちでくすぶっていた炎が、一気に燃え上がる。
 身体中の血液が沸騰し、細胞が暴れ狂い、神経が活性化する。心臓が強く脈打ち、そこから悪魔の波動が溢れ出し、全身を駆け巡った。
 キィィィィン……と甲高い耳鳴りがする。
 周囲に建っている街灯が次々に割れ、ガラス片が降り注いだ。自動販売機が倒れ、電柱が揺れる。地面そのものが、かすかに振動。

「……ほう」

 ダンタリオンは静かに拍手をした。

「これは素晴らしい。どうやら君は『憤怒』をきっかけにしたほうが潜在的な能力を引き出せるようですね」
「父さんと母さんに言ったことを取り消せ、ダンタリオン!」
「やれやれ、よくもまあナベリウスと似通ったことを仰るものだ。しかし、人間の牝に惹かれた大悪魔と、大悪魔に孕まされた人間の牝ですかぁ……くっくっく、なるほど、吐き気がするほどおぞましい組み合わせですねえ」
「てめえぇぇぇぇーっ!」

 もう限界だった。
 父さんと母さんを悪く言うやつは誰だろうが絶対に許さねえ。
 意地でもダンタリオンの顔面に一発ぶちこんでやろうと勇んで、俺は足を踏み出した。

「だめ」
「――ぐおっ!」

 それは百年の恋も冷めるような情けない光景だったと思う。
 ダンタリオンに向かって走り出そうとした瞬間、俺は横合いから伸びてきた美影の足に引っかかって、その場に転んでしまったのだ。
 緊張に張り詰めていた空気が緩み、なんともいえない気まずさが流れる。

「……おい美影、何のつもりだ?」

 仰向けに倒れていた体をゆっくりと起こし、美影を睨めつける。当の本人は悪びれるどころか、冷静な目をしていた。

「夕貴。男らしくない」

 いつかと同じように――彼女は肩をすくめて、わざとらしくため息をついた。

「ヘンタイ男の口車に乗せられる夕貴は、可愛くて見てられない」
「……言ってくれるじゃねえか。この俺が『可愛い』だと?」
「ぷぷっ、怒り狂ってたくせに」

 口元に手を当てて、無表情のまま忍び笑いをする美影。憎たらしいことこの上ない姿である。
 思わずムキになって反駁しそうになって――ふと、冴木さんでもなく、千鳥さんでもなく、この俺自身の胸元に揺れる、御影石に目がいった。
 これを受け継いだということは、あの冴木という男性の想いと願いを託されたという意味でもある。
 そうだ。
 俺は何がなんでも美影を護ってやらなくちゃならねえんだ。
 あんなクソ野郎の話術に翻弄されてる場合じゃねえんだ。
 俺には護りたいものがたくさんある――それは家だったり、母さんだったり、ナベリウスだったり、菖蒲だったり、託哉だったり、うっちーだったり、委員長だったり――そしていま最優先で護らなくちゃいけない女の子が、すぐとなりにいるじゃねえか。
 だから、さ……なんていうか。
 怒りに我を忘れてる場合じゃないよな、美影。

「……ふん、あとで覚えてろよ」

 憎まれ口を叩きながら立ち上がった俺を、美影は心なしか満足げな目で見つめていた。

「くっくっく……」

 和みかけた空気を引き締める、悪魔の笑い声。

「いや、これは失敬。麗しい人間愛につい。お気に触ったのなら謝罪しましょう」
「いらねえよ。おまえから聞きたいのは、父さんと母さんを侮辱したことに対する謝罪だけだ。口は災いの元ってことわざ知ってるだろう。それを思い知らせてやる」
「相変わらず口だけは達者のようだ。ですが保護者(ナベリウス)のいない今の貴方に、一体なにができますかねえ?」
「そうだな。なにもできないかもしれない。でも――おまえのことはよく知ってるぜ、ダンタリオン」
「ほう?」
「悪魔には《ハウリング》と呼ばれる固有の異能が備わっている。これはナベリウスはもちろん、おまえにも使える。そうだよな?」
「然り。まあ《ハウリング》などという人間が考案した名称で呼ばれるのは甚だ不愉快ですがね」
「そもそものきっかけは、おまえが異能を使うと美影の動きが鈍くなることだった。でも俺はそうならない。これはなぜだ?」

 外人のように肩をすくめるダンタリオンを無視して、俺は話を続けた。

「どうして俺たちに違いが生じるのか。そもそも俺と美影の違いはなんだ? 名前? 容姿? 性別? 年齢? 生まれ育った環境? ……いや、もっと根本的に違うものがある。それは血筋だ。半分だけとはいえ《悪魔》の血を引く俺と、純血の人間である美影――つまり俺の体内にはDマイクロ波という波動が流れていて、美影にはそれがないってことだ」
「クックク……」

 なにが可笑しいのか、ダンタリオンは口端を吊り上げた。

「美影には効き、俺には半端にしか効かない。当然だよな。おまえの《ハウリング》は、Dマイクロ波を相手の体内に直接作用させて始めて効果を発揮するものだから。おまえの波動は、俺の波動に邪魔される――だから俺には……いや、《悪魔》には上手く効かないんだ。要するに、純粋な人間である美影にしかおまえの能力はちゃんと効かないんだよ。そうだろ?」

 その性質上、ダンタリオンの《ハウリング》は、同族である悪魔には相性が悪い。

「相手の体内に働きかける必要があり、概要としては瞬間移動のように見える力」

 おそらく、それは。

「おまえの《ハウリング》は、『ありとあらゆる生物の体感時間を止める力』だよな。ダンタリオン?」

 ナベリウスのように派手な力じゃない。
 でも純粋な恐ろしさだけでいえば、ダンタリオンのほうが遥かに上だ。
 ダンタリオンがその気になれば、剣聖だろうが英雄だろうが勇者だろうが一瞬で殺せる。それも相手に『死んだ』と気付かせることなく。
 ナベリウスに勝てる人間がいたとしても、そいつはダンタリオンの足元にも及ばない。
 でもダンタリオンは、ナベリウスには勝てない。
 だってダンタリオンの《ハウリング》は、悪魔だけには効力を発揮しないんだから。

「人間の細胞膜ってのは、ある一定の刺激を受けたり外部から特殊な物質が来ると活動を開始する。このときナトリウムイオンやカリウムイオンなどを初めとした電解質が、イオンチャンネルを通じて受動的拡散を起こす――なんて面倒なプロセスを経てようやく細胞膜の内と外に電位差が生じ、電気信号が発生する。この一連の流れを、活動電位って呼ぶんだ。
 人間の情報伝達には全て『電気信号』が使われてる。これがなければ目から見たもの、耳から聞いたもの、鼻から嗅いだものを認識することすらできなくなる。
 きっとおまえの《ハウリング》は、この『電気信号』の伝達を阻害、あるいは活動電位のプロセスに介入して邪魔するものなんだろ。ありとあらゆる認識をできなくして、対象の体感時間を停止させるってところか」

 ダンタリオンの異能は、脳の認識能力をシャットダウンさせるもの。
 つまりそれは、他者の知覚を掻い潜るチカラ。
 体内にDマイクロ波を持たない人間ならば問答無用で体感時間を止められてしまい、俺やナベリウスのような《悪魔》ならば体感時間を止められることはないけど、ダンタリオンの存在を見失ってしまう。
 突き詰めて言えば、それは『一時的に自分の存在を消してしまう能力』と換言できるだろう。
 これまで沈黙を保っていたダンタリオンが、ほう、と感嘆の吐息を漏らした。

「……いやはや、これは驚きました。頭の回転の速さにはなかなかどうして目を見張るものがある。その賢さは好感に値しますよ」
「おまえに褒められても嬉しくねえよ。そんな暇があるなら、父さんと母さんに言った侮辱を取り消せ」
「……?」

 言葉を交わす俺とダンタリオンを尻目に見て、美影が首を傾げていた。どうやら難しい話は苦手のようだ。
 しばらく黙考してから、ダンタリオンは言った。

「そういえば――貴方の話を聞いて、ふと思い出しましたよ。遥か昔、有象無象の人間どもは、我が矛を《静止歯車(シームレス・ギア)》と称しました。実に滑稽だとは思いませんか? 静止するのは歯車ではなく、貴方たち人間だというのに」

 なるほど、《静止歯車》か――やはり真正面から戦うのは分が悪すぎるな。これは分かっていても防げないタイプの能力。ある意味、ナベリウスよりも厄介と言える。
 警戒する俺を見て、ダンタリオンは苦笑した。

「まあそう怯えずともよろしいでしょう。崇高な僕は、虫を踏み潰すのに全力を出すような真似はしません」
「……俺たちには異能を使わなくても勝てるって、そう言いたいのか?」
「然り。先に見せたのはパフォーマンスの一環だ。二度はありません」
「遊んでるつもりかよ、おまえ」
「いいえ、愉しんでいるのです。《バアル》の血を引く貴方が、どのような手を見せてくれるのかをね」
「……いまの言葉、忘れるなよ」

 俺もまだまだガキだな。
 もしかすると、これも俺のなかに流れる父さんの血の影響かもしれないけど――ダンタリオンと対峙していると、やけに血が騒ぐんだ。
 格闘技のエキシビションを見終わったときのような感覚に近い。気分が高揚し、普段よりも好戦的になる。なんでもいいからバラバラに壊してやりたくなってくる。
 どちらにせよ冴木さんを手にかけたこの男を許すことはできない。俺の父さんと母さんを侮辱したことも忘れていない。
 これは萩原夕貴という男の意地がかかった、絶対に負けられない戦い。
 暴力に満ちた『非日常』なんて、俺は望んでいない。ただ幸せな『日常』があればそれでいいんだ。
 この件が片付いたら家に帰ろう。菖蒲に会ったら”ただいま”って言おう。とうとうメールの返信はしないままだったから、きっと菖蒲は分かりやすく頬を膨らませて拗ねるだろうから、ご機嫌を取るために優しく頭を撫でてやろう。
 それでいいんだ。
 べつに世界を救うためだとか、この街に平和をもたらすためだとか、そんな大層なテーマを謳うつもりはない。
 ただ、菖蒲に会って、ナベリウスに会って、そして母さんに会いたい――そのためだけに俺はこの夜を乗り切ろう。
 だから気合入れて、

「おらダンタリオン! いまからおまえに生まれてきたことを後悔させてやる! もう謝っても遅いからな――!」

 目の前にある邪魔なカベをぶっ壊してやるんだ。

「くっくく、はははは――」

 冷たい雨が降る小夜中に、黄金の大悪魔が立っている。それはてのひらで顔を覆い、哄笑をぶちまけた。

「はははははははははははははは――!」

 ダンタリオンから発せられる鬼気が、百戦錬磨の”武威”となって空間を揺るがす。コンクリートに亀裂が走り、ダンタリオンを中心にひび割れていく。

「……反則じゃないのか、これ」

 一瞬、さっき言ったことを取り消そうかなと思った。
 自然と身体が震える。雨に混じって、背中にいやな汗が伝った。
 ダンタリオンは上半身を弛緩させたまま、泰然とした足取りでこちらに近づいてくる。その唇は三日月のごとく歪み、赤々とした口内を覗かせている。

「くっ、ははは、はははははは――」

 夜さえ従える正真正銘のバケモノが、不気味にほほえむ。

「面白い。さすがは《バアル》の血統か。まったくあの男ときたら、死んでも愉しませてくれる」

 これまでの芝居がかった口調とは似ても似つかない、威厳に満ち溢れた声。きっとこれがダンタリオンの本性なのだろう。
 濡れそぼった金髪の隙間から、禍々しい視線を感じる。縫い付けたように閉じていたはずの糸目が、わずかに開いていた。
 こんな反則染みた野郎に勝てるわけがない――と尻尾を巻いて逃げ出すのが正解なんだろう。

「……でも」

 拳を握り、顔を上げて、俺たちの『日常』を壊そうとする『非日常(ダンタリオン)』を睨みつける。

「ここが正念場だろう、萩原夕貴……」

 小さな声で、自分に言い聞かせる。
 負けるわけにはいかない。この夜が明けるまでに、絶対にすべてを終わらせないといけない。
 そうだ。
 何度も言ってるけど、俺は男らしいんだ。女性モデルのスカウトを受けた経験も、電車で痴漢された経験も、小学校高学年になっても同級生から女の子と間違われていた経験もあるけど――俺は女々しくなんてない、男らしいんだ。
 びびって背を向けるわけにはいかねえよな、やっぱり。
 だって男だったら――

「家族を護るために前を向くもんだろうが――!」

 思いっきり叫んでやった。するとダンタリオンの威圧に当てられていた心身が解き放たれ、一気に呼吸が楽になった。
 となりに立つのは長い黒髪をポニーテールにした少女、壱識美影。その小さな身体は、しかし凛と背筋が伸びていて、いささかも怯えているようには見えない。
 俺と美影は身構えた。

「美影! 頼むからいまだけは真面目にやってくれよ!」
「私はいつも真面目。ふざけたことなんかない」
「嘘つけや!」

 緊張感の欠片もないやり取り。それでも俺たちのあいだには、この数日間でたしかに育み、こうしてカタチとなった絆がある。
 なにより俺の心は、もっと強い想いで括られていた。
 ずっと昔から言われてきたもんな。自分もそうされて嬉しかったら、夕貴にもそうしてほしいって、何度も何度も言われてきたもんな。
 単純な話だ。
 ――困っている女の子がいたら、夕貴が助けてあげてね――
 そう母さんから、口を酸っぱくして言われてきたじゃねえか。
 だったら俺は、その言いつけを護ろう。いまは面倒くさいことを考えず、ただ美影をあのヘンタイ野郎から護ることだけを考えよう。

「かかってこいよ、ダンタリオン! てめえが俺の父さんと母さんに言った侮辱、忘れてねえからなぁっ!」
「はははは――」
「ヘンタイ男には二つの借りがある。私の分と、あの冴えないやつの分。それを今夜、清算させてもらう」
「ははははははははは――!」

 ふたたび、哄笑がこぼれた。
 ダンタリオンは芝居がかった言動で、告げる。

「いいでしょう、見せてもらいましょうか。まだ夜は始まったばかりだ」


****


 そこは酷い有様だった。
 綺麗に均されていたコンクリートは至るところに亀裂が走り、砕けに砕けている。それだけならばまだ大規模な地震に見舞われただけ、とも言い訳できるが、地中数メートルにも達するクレーター状の大穴がいくつも空いているのだから、誰がどう見てもただ事ではない。
 それらの破壊をたったひとりで行った黄金の大悪魔は、降りしきる雨のなかにたたずみ、つかの間の余韻に浸っていた。

「……なるほど。やはり人間と混じっても、《バアル》の血はいささかの陰りも見せませんねえ」

 少年は善戦した。特殊な操糸術を用いる少女と力を合わせて、ダンタリオンと真っ向から戦った。その結果が、この荒れ果てた駐車場である。
 だが彼らは頭がいい。純粋な実力では敵わないと悟るや否や、迷うことなく場を切り上げ、駐車場に隣接しているホームセンターのなかに身を潜めた。
 きっと少年は、初めからホームセンターを戦場にすることも視野に入れていたのだろう。店内は薄暗く、都合のいい遮蔽物も多いし、なにより武器になりそうなものが山ほどあるから。
 すでに彼らがホームセンターに姿を消してから、優に五分は経過している。こうしてダンタリオンが待っているのは自分に科したルールであり、この夜を愉しむための秘訣みたいなもの。鬼ごっこで鬼が時間を数えるのは、そうしないとすぐにゲームが終わってしまうから。いまのダンタリオンも、その時間を数える鬼に等しい。
 実力で劣っている彼らは、きっと小賢しい策を弄するだろう。
 果たして、萩原夕貴と壱識美影はどのような手を使ってくるのか、楽しみではある。
 ただ唯一の懸念は、少年が誤解しているのではないか、ということだが――まあさすがの少年も、まさか《静止歯車》ごときがダンタリオンの切り札だとは思っていないだろう。
 今宵、ダンタリオンは少年と少女を手中に収めるつもりだった。現在、ソロモン72柱のなかでも絶大な戦力を持つ三柱の《悪魔》を出し抜くためには、どうしても《バアル》の血が必要なのだ。
 とは言え、ここで自らの欲望に従ってしまうところが、ダンタリオンの悪い癖である。懸命に足掻こうとする少年少女を見ていると、ついつい戯れたくなってしまう。
 そういえば、とダンタリオンは思った。
 かつて《バアル》からも、”いつかその悪癖がおまえ自身を滅ぼすぞ”と忠告されたことがあったが――

「……貴方は死に、崇高な僕は生きている――それが答えでしょう?」

 雨をもたらす空を見上げて、つぶやく。
 夜の帳のなかにそびえる広大なホームセンターに向かって、彼は歩き出した。




 壱識千鳥は苛立っていた。

 ここ最近、《青天宮(せいてんぐう)》という組織の内部では大小さまざまな揉めごとが相次いでいる。それは事実として知っていたが、まさかここまで手際が悪いとは思わなかった。向こうとしても、思いのほか被害が甚大なことにひどく慌てている様子だが、それは自業自得というものだろう。

「さきほども説明したでしょう。いまさら責任の所在を明らかにするつもりはないわ。そちらの警戒網に穴があったのだとしても、それは私たちの関するところじゃない」

 抑揚のない声で、千鳥は淡々と事実を羅列する。ただでさえ萎縮していた電話相手の男性職員が、声を詰まらせた。

「元はと言えば、あなたたちの職務怠慢が原因でしょう。あるいは故意に情報を隠蔽していたのかしら。……ええ、たしかにあなた方が足りない手を私たちに求めるのは自然よ。でもそれがあの《ソロモン72柱》なら話は変わってくる。そちらの基準で言えば、前もって作戦本部を組織し、一個中隊に相当する人員を導入して事に当たるべき相手でしょう。それともまさか、あなた方は忘れてしまったのかしら。二十年前に何が起こったのかを」
『い、いや……ですが』

 相手の声を遮って、千鳥は続ける。

「萩原駿貴との契約により、彼に連なる者への攻撃は禁止されているけれど、今回はその例に当てはまらないでしょう。あまり国家の血税を無駄にしないほうがいいのではなくて?」

 《青天宮》は国家の霊的守護を担う、日本独自の退魔組織。現存している最古の資料によれば、その起源は鎌倉時代にまで遡るとされている。表向きは防衛省に属する形態をとっているが、内部部局、各自衛隊、その他の附属組織とは一切の連携を断っているため、実質的には独立していると言って構わない。

 もともとが陰陽師の集まりだったこともあり、初期の活動理念は妖(あやし)と呼ばれる存在の排除だった。しかし、近代化が進むにつれ妖の個体数が著しく減少し、年月の経過による組織形態の変遷もあるため、現代ではその活動は多岐に渡る。もちろん非現実的な現象や対象が観測された際は、手段の可否を問わず禍根を断ち切り、速やかに世の泰平を維持するだろう。

 だが、それは飽くまで《青天宮》の事情であり、外部の人間である千鳥にはまるで影響のない些事だった。そう、少なくとも《壱識》には影響しない、はずだった。

 誰かの作為があったわけではない。今回の事態は、偶然に偶然が重なっただけのこと。つまり、運が悪かったのだ。

 目的のためには手段を選ばない――そうして選ばれてしまったのが、千鳥の娘である美影だった。

「それで、”目標”の情報は掴めているのかしら」
『……こ、肯定。すでに観測班から報告を受けています。”目標”は、悪魔学における序列第七十一位に該当する《ダンタリオン》かと推測されます』
「ダンタリオン……耳に覚えのある名前ね」
『データベースに照合した結果、1881年にイングランドのカースル・クームで起きた集団失踪事件、1927年にアメリカのオンタリオ湖周辺で起きた猟奇殺人事件、その他にも多くの事件に”目標”が関与していると資料にあります。なかでも代表的なものが、1943年にバチカンで起きた惨劇です。法王庁(ほうおうちょう)異端審問会(いたんしんもんかい)特務分室(とくむぶんしつ)の擁する精鋭部隊が――』
「皆殺しにされたのでしょう。一夜のうちに、抵抗すらさせてもらえず、ただ壊滅させられた。……正直なところ、裏に伝わる都市伝説だとばかり思っていたのだけれど、中央のデータベースに載っているのなら、信憑性のある話なのでしょうね」
『はい。このことから法王庁は、現存する《悪魔》のなかでも《ダンタリオン》を最重要殲滅対象として推奨しています』
「……そういうこと。でも話を聞けば聞くほど、あなた方の手際に異を唱えたくなってくるわね。そんなバケモノの入国を許しただけでなく、いまのいままで満足に捕捉すらできていなかったのだから」

 彼女の言葉はおおむね正論だが、一概にそうとも言いきれなかった。ダンタリオンの異能は他者の目を欺くことに特化している。《青天宮》が人間によって運営されている以上、索敵がうまくいかないのは仕方ないと言えるだろう。
 電話越しの喧騒が強くなったのは、そんなときだった。

「どうしたの?」
『……いや、すまないね、《壱識》の』

 返ってきたのは千鳥の知らない、若い女性の声だった。

『さっきまで電話口にいた男は、つい先月に研修を終えたばかりの新人なんだとさ。だからあんまり怒らないでやってくれ。ここからはわたしが代わりに指揮を執らせてもらう』

 ふう、と深呼吸にも似た吐息が聞こえた。おそらくタバコでも吸っているのだろう。
 千鳥は訝しみながらも誰何した。

「あなたは? 状況はどうなっているのかしら」
『さてね。わたしが何者かは横に置くとして、状況は芳しくないな。《青天宮》の練度も落ちたものだよ。低コストによってリスクを最小化することが現代軍事の基本とは言え、これだけ金と人員を惜しんでいては話にならん』
「…………」
『そう警戒するなよ。元はと言えば、おまえらが好き勝手に暴れた尻拭いをわたしたちがしてやってるんだぞ。感謝されこそすれ非難される覚えはない。先の質問に答えてやる。わたしは――』

 その女性の名を聞いた瞬間、千鳥はすべてを納得した。


****


 俺たちがホームセンターに忍び込んでから、不気味なほど静かな時間が続いていた。
 しっかりと掃除の行き届いた空間には、たくさんの商品が綺麗に陳列されている。大きな陳列棚がいくつも並んでいる光景は、どこか図書館にも似ている。
 このホームセンターは、小さな子供が隠れてしまえばまず見つけられないぐらい大きく、闇に目が慣れないと満足に歩き回ることすらできないほど薄暗かった。
 あれからダンタリオンの姿は見ていない。隠れた俺たちを探しているのだろうか。……でもあの狡猾で用心深い男にしては、動きがなさすぎる気がするけど――

「……それにしても寒いな。雨に濡れたままだから風邪引きそうだ」
「うん。でも私は温かいからいい」
「おまえ、それカイロじゃねえか。どこから持ってきたんだよ」
「さっき見つけたから持ってきた」
「……一個しかないのか?」
「うん」

 一人でぬくぬくと暖を取る美影が羨ましくてしょうがなかった。
 俺と美影は、清算レジカウンターのなかに身を潜めていた。わざわざ正々堂々と戦う必要はないので、なにか上手い戦法はないかと相談しているところだ。

「そういえば、夕貴のチカラってなに?」

 ふと思いついたように美影が言った。

「ああ、説明してなかったっけ」
「うん」

 美影としても俺の能力を把握し、作戦視野を広めておきたいのだろう。
 いまさら隠すことでもないので手短に説明しておくか……といっても俺自身、まだ完全には分かっていないのだが。

「俺の能力は、まあ端的に言うと『鉄分に作用する力』だよ。……たぶん」
「鉄分? ……たぶん?」
「いや、ごめん。”たぶん”ってのは置いといてくれ。自分でもまだよく分かってないんだ。まあ基本的には金属や血液を操ったりできる感じなのかな? ちなみに銃弾を逸らしたのもこの力だ」
「……ああ」

 美影が得心した面持ちで頷いた。

「もうすこし詳しく説明しておくと、銃弾の軌道を変えることはできても、銃弾をそのまま跳ね返すことはできない。ナイフとかカッターとか工具とか、手に持てる程度の大きさの物体ならサイコキネシスのように操ることもできるけど、自動車クラスの大きさや重さになると動かすことすらできない」
「そう」

 いままではホテルの屋上や駐車場で戦っていたので能力を使う機会に恵まれなかったが、ここは天下のホームセンターだ。金属製の、武器になりそうなものが大量に貯蔵されている。なにか探せば使えるものがあるかもしれない。
 その旨を美影に伝え、俺は歩き出した。すぐさま後ろに彼女が続く。
 俺たちは細心の注意を払いながら、薄暗い店内を進んだ。濡れた衣服から落ちる水滴が、微かな音を立てる。
 陳列棚には本当に色々なものがラインナップされている。木材や建材、工具、塗料、金物、電材、家庭雑貨、置物、インテリア、暖房用品、園芸用品、エトセトラ、エトセトラ……。

「目ぼしいものはあったか?」

 俺は赤色の塗料を噴射するラッカースプレーを手に持ったまま、美影に声をかけた。

「ううん」
「だよなぁ……」

 そう簡単に使えそうなものが見つかるはずもないか。
 どうする。
 俺はどうすればいいんだ。

「夕貴?」

 こんなガキの宝探しみたいなことをしていて、本当にダンタリオンに勝てるのか?

「夕貴、夕貴」

 くいくいっと服を引っ張られたが、それに構わず俺は自分の世界に没入していった。
 さきほど、その場の勢いみたいなもので俺と美影は、無策のままダンタリオンに挑んだが――これはどう考えても無謀だった。反省しよう。
 だが失敗を重ねることは無駄なんかじゃない。
 トライ・アンド・エラーを繰り返すことは、成功するパターンを見つける近道だ。
 さきほど、俺たちは『真正面からではダンタリオンに勝てない』という失敗のパターンを経験した。これを学習し念頭に置いた上で、もっと違う方法を考えないとだめだ。
 急がば回れという言葉もあるが、追い詰められたネズミに等しい俺たちに、そう何度もパターンを増やしていくことはできない。言ってしまえば拳銃みたいなもんだ。残された弾丸は、あと一発か二発。それがなくなれば殺されるだけ。
 彼我の戦力差は絶望的と言っていい――こちらは攻撃を当てるどころか、ダンタリオンの姿を捉えることさえできず、仮に攻撃が当たったとしてもそれは一切通用しない。
 これじゃワンサイドゲームどころの話じゃないな。

「どうすればいい……もっと考えろ……」

 根本的な問題は、有効的な攻撃手段がないこと。それは火力不足というよりも、《静止歯車》という異能のせいで上手く照準を絞ることができないのが痛い。あのチカラを使われると、俺たちはダンタリオンを知覚できなくなるから。
 ……じゃあいっそのこと、照準を絞る必要性を失くすのはどうだ?
 ひとつの的をピンポイントで狙撃するのではなく、散弾銃のようなものを使って的を含めた空間そのものを打ち抜いてしまえばいい。
 つまり点ではなく、面の攻撃。
 どんなにパンチをかわすのが得意なボクサーでも、リングごと吹き飛ばされたらどうしようもない――だから要は、そういう状況を作り出せばいいんだ。
 爆弾でもあれば話は早いし、簡単な作り方なら知ってるけど、さすがにそれは素人が知識だけで製作に乗り出すのは危険すぎる。
 ナベリウスの能力なら、点でも面でも自由自在に攻撃できる上に火力も文句なしなのだが――いつも姉か恋人のように俺を護ってくれた彼女は、ここにはいない。
 だからこそ、あの銀髪悪魔に「わたしがいないと何もできないのね」とか、そういういかにもお姉さんぶったセリフを言わせるわけにはいかないのだ。
 ダンタリオンという『的』を含めた面そのものを攻撃する。大体の方針は定まったが、肝心の方法だけがどうしても思い浮かばない。
 貫通力に優れたライフルと、範囲力に優れた散弾銃。この二つの特性を併せ持った方法を思いつき、実行に移し、成功させねばならない。
 美影の『糸』なら広範囲を攻撃することは可能だと思うが、それだと恐らく火力が足りない。あの『糸』では、ダンタリオンの肉を裂けても骨を絶つことは難しいだろう。
 いったい俺はどうすればいい――

「……ん?」

 ぼんやりと周囲に視線をめぐらせると、ふと気になるものがあった。
 てのひらサイズの小さな玉が、専用のケースに収納されて、綺麗に並んでいる。

「ピンポン玉か……」

 なんともなしに手にとって裏面を見てみると、材質はプラスチックではなくセルロイドと書かれていた。

「……セルロイド製。珍しいな。最近だとプラスチックのほうが主流のはずなんだけど」
「なにそれ?」
「硝酸セルロースってやつだよ。ニトロセルロースとか樟脳から合成できる。プラスチックよりも燃えやすい反面、しなやかさがあり、透明性や吸湿姓に優れてて……」
「……夕貴?」
「いや待て。セルロイドだと?」

 たしか以前、科学か物理か忘れたけど、なにかの本で読んだ記憶がある。しょせん子供騙しの実験程度にしか捉えてなかったが、いま思うとやりかた次第ではいけるかもしれない。
 これを使えば――あるいは。
 深い闇のなかに一筋の光明が差したような気がしたが、その先にあるものが何なのかはまだ見えない。

「……てい」
「痛っ」

 いきなりわき腹にパンチされてしまった。あまり痛くはなかったが、意味が分からない。

「なにすんだよ、美影」

 非難の目を向けると、彼女はいかにも拗ねてますといった風な顔をしていた。
 どうやら俺は、一人の世界に没入しすぎていたらしい。そういやさっきから何度も美影の呼びかけを無視しちゃってたっけ。

「……夕貴、嫌い」

 つまらなそうに唇を引き結び、美影はぷいっと顔を逸らしてしまった。ここは素直に謝ろう。

「わるい、ちょっと考え事を――」

 言いかけて、美影が手に持っているものが気になった。

「おまえ、それ……」
「……? 懐炉がどうかした?」

 俺たちの体は雨に濡れて、かなり体温が下がっている。だから美影は、宝物でも扱うみたいにカイロを握っている。
 カイロのなかには、大量の鉄粉が入っている。鉄は年月の経過とともに錆びるものだが、これは空気中の酸素と鉄の分子が反応し、酸化鉄になるからであって、れっきとした化学反応なのだ。
 そしてカイロは、この化学反応を利用した商品だ。袋のなかに入っている鉄粉は、空気に触れると急激な化学反応を起こす。この際、人肌にも負けぬほどの強い熱が発生する。
 だが俺が注目したのはカイロではなく、その中身――鉄粉である。

「そうか。これを使えば――」

 どうやっても完成させることのできなかったパズル、その最後のピースがいま、ぴったりと当てはまった気がした。

「夕貴?」

 不審げに尋ねてくる美影に、俺は言う。

「なあ美影。協力してくれ。上手くやればダンタリオンに一発ぶちかますことができるかもしれない」

 美影の顔つきが変わる。
 茫洋としていた瞳に、鋭い光が宿る。
 至極真面目に彼女は言った。

「マージョリー?」
「もっちー竹原だ」

 などと日本語をバカにし尽くしたような掛け合いをしてから、俺たちは本格的に行動を開始した。
 あのクソ野郎は、俺の大切な父さんと母さんを侮辱しやがった。
 口は災いの元なんだって――絶対に思い知らせてやる。


****


 静まり返った店内を、悠然と歩く影があった。

「……やれやれ、よくもまあ童心に返る余裕があるものだ。鬼ごっこの次はかくれんぼですか」

 嘆息交じりの呟きは、そこかしこに充満する闇に吸い込まれて消えた。
 萩原夕貴と壱識美影の行方を見失ったダンタリオンは、店内のどこかに潜んでいるであろう二人の登場を今か今かと待ち続けていた。
 ここにきて少年と少女が尻尾を巻いて逃げるとは、微塵も思っていない。
 むしろ、こうしているあいだにも彼らは、自分を倒すための算段を立てているのだとダンタリオンは考えている。
 自分のほうから彼らを探し出す、などと不粋で味気ない真似をするつもりはない。
 慎重であり、狡猾であり、そして用心深いダンタリオンだが、彼にはここぞというときに遊んでしまう悪癖があった。

「いや、悪い癖ですねえ」

 癖とは本来、無意識下で行われるもの。もし自覚していたとしても、染み付いたそれを拭い去るのは、なかなかどうして難しい。
 それにダンタリオンは、もとより少年を殺すつもりなどない。
 彼の真の目的は、バアルの血を手に入れて、絶大な戦力を持つ《マルバス》、《バルバトス》、《グシオン》という三柱の悪魔を出し抜くことだった。
 また、最大の懸念であったナベリウスは、おそらくここには来ない。
 あのとき――高層ビルが爆破されたとき、運はダンタリオンに味方した。爆弾が仕掛けられていたのは、ナベリウスが立っていた給水塔の真下だった。
 つまりダンタリオンからは最も遠く、ナベリウスに最も近いところで爆発は起こったのだ。
 ナベリウスの異能なら爆発を防ぐことも容易のはずだが、ダンタリオンに気を取られていた彼女が、あの咄嗟に防御できたとは思えない。
 間違いなく彼女は生きているだろう。だが間違いなく身動きはできない。そして間違いなく、いまのナベリウスに戦闘する力は残っていない。
 だから、ダンタリオンを脅かす外敵は、ここにはいない。

「さて。此度はどのようにして楽しませてくれるのか。待った甲斐があるといいのですがね」

 やがて彼は立ち止まる。その口元には確かな愉悦が浮かんでいた。

「もういいでしょう。姿を見せては如何です? ――ああ、そう警戒せずとも構いません。花とは散るからこそ美しい。その刹那的な時の歩みを止めるような真似などしませんよ」

 事実、彼には《静止歯車》を使うつもりはなかった。
 その理由は、簡単に言ってしまえば”強者の余裕”に尽きるが――美影の壊れた瞬間を見たいと望むダンタリオンとしては、ゼンマイの切れた人形を相手にしても面白くない。やはり花とは、手折る瞬間が最高なのだ。
 彼が《静止歯車》を殺傷目的に使うのは、気に入らない相手を掃除するときだけ。その証拠に、鳳鳴会の本拠地を護っていた暴力団構成員たちは、みんな自分が死んだと気付く間もなく、殺された。
 ダンタリオンの言葉がきっかけだったのかは分からない。
 ただ、店内にふたたび静寂が戻ったときにはもう、彼の背後に少女がひとり立っていた。
 後頭部の高い位置で結われた長い黒髪と、白い肌。見目麗しい容姿。黒のタートルネックとデニム。さきほどまで雨に打たれていたせいで全身は濡れており、いまもなお磨かれた床のうえに水滴が垂れ落ちている。

「おや? 彼はどうしたんです?」

 予想に反して、現れたのは美影だけだった。

「知らない。おまえの相手なんか私一人でじゅうぶん」
「ふうむ。君たちが何を企てているかは判然としませんが、貴女がそう仰るのなら信じましょう」

 まさか夕貴が逃げ出すはずもないので、これも一つの作戦なのは間違いなかったが、それを理解したうえでダンタリオンは大仰に頷いた。
 あの少年が、いまから何を見せてくれるのか――そう考えるだけで、ダンタリオンの心は躍った。

「最後の決戦と参りましょうか――お嬢さん」

 芝居がかった言動で、うやうやしく礼をするダンタリオンと、

「だまれ。ヘンタイ」

 取り付く島もなく一蹴する美影。
 正真正銘、最後の決戦が幕を開けた。




 深夜のホームセンターは、さながら台風の一過となんら変わらぬ様相を呈していた。
 《壱識》の少女と、《悪魔》の男――両者の戦闘は、下手をすればホームセンターそのものを破壊しかねない勢いだった。
 すでに壁、柱、天井、床などはひどく傷つき、陳列棚のほとんどが倒れ、綺麗に陳列されていたはずの商品はそこらにぶちまけられている。
 荒れ果てた店内を、壱識美影は一陣の風となって駆け抜ける。
 彼女の手から伸びる極細の『糸』が、そこらの棚や柱に絡みつく。暗闇を縫いつけるように奔る『糸』は、まるで獲物の自由を奪うための蜘蛛の巣だった。

「ほう……」

 ここにきてダンタリオンは、美影の技量に心から感服していた。他者を見下す傾向にある彼が、ただの人間、それも年若い少女に賛辞を送るなど前代未聞と言っていい。
 確かにダンタリオンは前から美影のことを求めていたが、それは飽くまで『おもちゃ』として見目麗しい容姿をした女を欲しただけ。もともと対等とは思っていない。偉大なる大悪魔にとって、人間の小娘など羽虫も同然なのだから。
 しかしダンタリオンはいま、美影のことを『おもちゃ』ではなく『一人の敵』として認めていた。だからこそ、楽しみも増す。

「くっくっく……」

 ダンタリオンが唇を歪めるのと同時、彼の足元に無数の『糸』が這ってきた。軽やかな足運びでそれをかわす。
 美影の操る『糸』は、壁や床に触れるたびに鋭い刃物で切りつけたような傷を生んだ。

「素晴らしい。実に見事だ。その若さで大したものですよ、お嬢さん。よほど殺しの素質に恵まれていると見える。あなたの両親は、さぞかし卓越した腕だったのでしょうねえ」
「両親は――」

 幼少の頃から心身に叩き込まれてきた《壱識》の操糸術。実の母に何度も殺されそうになりながらも体得したそれが、いま彼女を脅威から護っている。

「――関係ない!」

 手を振るう。腕を動かす。幾重にもばらけた『糸』が、銀の奔流となってダンタリオンを追い詰める。

「関係なくはないでしょう? 人間は無力な生き物です。誰かと寄り添いあわなければ生きていけない。かくいう貴女も、あの男の命を犠牲にして生き永らえたというのに」
「……っ!」

 これまで湖水のように静かだった美影の瞳に、確かな怒りが浮かび上がった。

「おや、気に障りましたか?」
「べつに普通」

 美影は平然と言ってのけたが、その表情はすこし硬い。本人にも内側から湧き上がる感情がなんなのか、よく分かっていないようだった。
 当然であろう。
 美影にしてみればアパートの隣人を引き合いに出されただけ。それで怒るほうがおかしいのだ――が、しかし実際に彼女は怒っている。
 認めるしかあるまい。美影はきっと冴木のことが好きだった。彼はいつも美影に「おかえり」だの「行ってらっしゃい」だの言ってくる変人だったが、それでもあの笑顔を見ていると不思議と心が落ち着いたから。
 少なくとも美影は、ダンタリオンにあの冴えない男をバカにさせるのは不愉快だと思った。あれをバカにしていいのは自分だけだ。

「どうしました、お嬢さん。もう終わりですか?」
「だまれ!」

 裂帛の声。
 美影は『糸』で牽制しながら間合いを詰め、神速の回し蹴りを放った。あっけなく避けられる。続いて振り返りざまに逆の足を跳ね上げる。これも届かず。

「ちっ――」

 舌を打っているあいだに悪魔の腕が薙ぎ払われた。美影は身を屈める。頭上を旋風が通過し、逃げ遅れた黒髪が数本、断ち切られた。

「いい反応だ」

 天から降ってくるダンタリオンの声。
 美影が反駁しようとするよりも早く、ダンタリオンの足が動いた。それは鋼鉄をも蹴りぬくような一撃。
 美影はたわめていた脚の筋肉を開放し、真後ろに向けて跳んだ。目標を見失った悪魔の蹴りは、すぐ近くにあった陳列棚に命中。重量のある棚が、発砲スチロールのように吹き飛んでいく。耳をつんざく轟音。多種多様な商品が宙にばら撒かれた。
 美影は空中で体勢を整えながらも、ダンタリオンに向けて『糸』を放った。それも結果的にかわされてしまったが、反撃の意志を示すことが重要だった。
 いまのところ戦況は、ギリギリ五分と言っていい。ただし、美影が持てる技のかぎりを尽くしているのに対し、ダンタリオンは手加減しているうえに異能を使っていない、という注釈がつくが。
 ゆえに、これは茶番。
 あらかじめ勝敗の決められた出来レース。
 どう足掻いても変えることのできない未来と運命。
 そう。
 美影には勝ち目がないはずだった。


 萩原夕貴という少年が、いなければ。


 息つく間もなく繰り広げられる攻防の最中、どこかから『何か』が大量に投げつけられてきた。
 それがダンタリオンの頭上に到達した瞬間、
「……夕貴、おそい」
 美影は憔悴した面持ちで『糸』を振るい、その『何か』をバラバラに切り刻んだ。
 ぱらぱらと、黒い粉が降り注ぐ。

「……これは」

 ダンタリオンは、自分の体に降りかかった黒い粉を怪訝そうに見つめていた。投げつけられてきた『何か』が市販のカイロであり、黒い粉の正体が『鉄粉』であるという事実を、彼は知る由もない。
 ダンタリオンが視線を前に向けたときにはもう、新たな異変が生じていた。
 濃淡な闇をかき消すような、白い霧。

「まさか、煙幕……?」

 またたく間に視界を埋め尽くした白煙。これが裏でこそこそと策を弄していた夕貴によるものだということを、ダンタリオンは即座に見抜いた。
 目ではなく感覚を頼りに周囲を探ると、すでに美影の気配は消えていた。あるのはただ空間に充満する白い煙だけ。

「くっくく、はははは――」

 右手で顔を覆い、ダンタリオンは乾いた笑いを漏らした。

「これが貴方の策だとでも言うのですか? 本当に? こんな子供騙しが?」

 煙幕で視界を奪い、相手の混乱に乗じて不意を衝く――なるほど、それは確かに単純だが有効的な戦法だろう。だが《バアル》の血を継ぐ者が、まさかそんな使い古された策に頼るとは。
 どこにいるかも分からぬ少年に向けて、黄金の大悪魔は声を張り上げる。

「まったく――とんだ期待外れですね。いや、あるいは期待した僕が愚かだったのか。どうやら貴方は《バアル》の名に泥を塗るだけの出来損ないらしい」

 これではナベリウスも報われない、とダンタリオンは彼女に同情の念を抱いた。

「少しは頭が回るかと思えば……やれやれ」

 まさか夕貴は失念しているのだろうか。ダンタリオン固有の異能である《静止歯車(シームレス・ギア)》を。
 これがあるかぎり彼らは、ダンタリオンに触れることすら叶わぬというのに。

「……つまらん。興醒めもいいところだ」

 どうやら少年は、《悪魔》よりも人間の血を強く受け継いでいるらしい。これは正直、大きな誤算だった。
 こうなったら萩原夕貴という人格を徹底的に壊してやり、自分に都合のいい人形として扱ったほうが早いかもしれない。
 もはや手心を加えるつもりはない。遊ぶ気などとうに失せた。一気に決着をつけてやろう。
 ダンタリオンの全身から迸る悪魔の波動――《静止歯車》と呼ばれる異能がいま、発動した。これで夕貴と美影に成す術はなくなった。彼らはもうダンタリオンを知覚することさえできない。
 ダンタリオンは大きく両手を広げて、この煙幕の向こうにいるであろう少年に、言った。

「さあ、幕を引きましょうか」


****


「ああ。もう終わらせてやるよ、ダンタリオン」

 煙幕の向こうから聞こえてきた声に、俺は小さな声で応えた。
 準備を整えるのに手間取ったが、なんとか間に合ったのでよしとしよう。美影のやつも俺の指示通りに動いてくれたみたいだし。
 ……とは言ったものの、美影のやつ、ダンタリオンの挑発に乗って真正面から戦いやがった。あれだけ《静止歯車》を警戒しろと忠告しておいたのに。
 この白い煙は、ピンポン玉から発生したものである。ピンポン玉はセルロイドという非常に燃えやすい合成樹脂で出来ている。これを細かく切り刻み、切れ目を入れたアルミホイルで包んで下からライターで炙ると、大量の煙が出るのだ。
 わざわざ煙幕を作ったのには、ふたつ理由がある。
 ひとつは、ダンタリオンの体に降りかけた『鉄粉』から注意を逸らすため。あんな黒いだけの粉と、この視界を奪う白煙だったら、後者に警戒するほうが自然。
 目を閉じて、神経を集中させる。
 体のなかを悪魔の波動が駆け巡っていく。鼓膜を震わせる、かすかな耳鳴り。俺だけが持つ《ハウリング》がいま、発動しようとしている。
 どうやらダンタリオンも《静止歯車》を発動させているようだが――いまの俺には、あのクソ野郎の位置が手に取るように分かる。

「もうおまえの力は通じねえよ」

 ダンタリオンの体に付着した大量の鉄粉が――否、鉄分(・・)が、俺のDマイクロ波に共鳴してダンタリオンがどこにいるのかを教えてくれる。
 話は戻るが、俺が煙幕を作ったもう一つの理由は、『武器』を隠すためだ。
 さっきまで美影が派手に大立ち回りを演じてくれたおかげで、綺麗に陳列されていた商品は床のうえにばら撒かれている。人間の手では持ち運ぶことのできない膨大な量の、工具や金具が。
 俺は右手を前に伸ばした。
 この、てのひらの先には――俺の大事な父さんと母さんを侮辱しやがった、ソロモンの大悪魔がいる。
 百か二百にも届こうかという量の、ナイフ、カッター、スパナ、ドライバー、包丁、ペンチなど、その他諸々の『武器』が宙に浮かび上がり、ダンタリオンという『的』を完全包囲した。
 俺の《ハウリング》が、金属製の物体を、ことごとく支配する。

「……っ」

 ずきん、と左胸が痛む。
 過剰な労働を強いられた心臓が、もう無理だと悲鳴を上げてる。
 俺は右手を前に伸ばしたまま、左手で心臓のあたりを強く押さえた。頼むから、もう少しだけ我慢してくれ。

「……はっ、子供騙しで悪かったな、ダンタリオン」

 白煙の向こうにいる男に、俺は言った。

「おまえは大切なことを三つ忘れてる。それが何だか分かるか?」

 脳髄を直接揺さぶる、強烈な耳鳴り。

「一つ目は、ここがホームセンターだということ」

 ホテルの屋上でも駐車場でもない、俺のチカラを最大限に生かせるフィールド。

「二つ目は、俺にも《ハウリング》が使えること」

 ひたいから流れてくる汗が、頬を伝い、顎から落ちて――床に触れた。
 それが、合図。
 俺の《ハウリング》によって宙に浮かんでいた様々な金属製の『武器』が、一斉に動き出した。まるで時計の中心にいるダンタリオンに対して数字が牙を剥くように、数多の刃が襲い掛かる。逃げ道はない。上も下も左も右も、振り向けば刃物しかないから。

「そして――」

 目が霞む。息切れも酷い。それでも絶対に許せないことがあった。

「三つ目は、俺の父さんと母さんに言った侮辱を取り消してないことだ。……やはり口は災いの元だったな、ダンタリオン」



[29805] 2-12 因果応報
Name: テツヲ◆c49d9b75 ID:366fa69a
Date: 2012/03/18 03:59

 もうもうと立ち込めていた煙幕は清浄な空気に押し流され、次第に薄れていった。
 店内はさっきまでの喧騒が嘘みたいに静まり返っている。俺も美影も固唾を飲んで、じっと前を見据えていた。
 そのとき不意に、場違いなコール音が鳴り響いた。ズボンのポケットから振動を感じる。しまった、そういや携帯をマナーモードにするの忘れてたな。

「夕貴」

 背後からちょんちょんと指で突かれる。それは『はやく電源を切れ』という美影なりのアピールだ。
 俺は携帯電話を取り出しながら、美影を振り返った。

「わるい、迂闊だった。俺って肝心なところで抜け――」

 喉が凍った。俺から言葉を奪うだけの強大な何かが、煙幕の向こうから迸った。耳鳴りがする。これまでとは比ぶべくもないほど凶悪な耳鳴りが。脳髄をぐりぐりとかき回されるような痛みに耐えかねた俺と美影は、耳を抑えてその場にうずくまった。

「な……」

 んだこれ、と声にするよりも早く、左肩のあたりに、鋼鉄のハンマーがぶち当たったかのような衝撃が走った。
 殴り飛ばされた俺は、離れたところにあった大きな棚に背中からぶつかった。内臓が圧迫され、口から血反吐が噴き出る。やがて剥がれ落ちた俺の体は、ずるずると落下し、床に沈んだ。その衝撃で、携帯電話は床のうえを転がっていった。もうコール音は止んでいる。
 俺は立ち上がるどころか、意識の手綱を握りしめるので精いっぱいだった。

「んっ、くっ!」

 美影の呻き声が、沈みゆく意識に歯止めをかけた。
 仰向けに倒れたままゆっくりと顔を起こすと、そこには――

「やれやれ、余計な手間をかけさせてくれるものだ。まあ面白いものを見せていただいたことですし、よしとしましょうか」

 ――酷薄とした顔でこちらを睥睨する、ダンタリオンが立っていた。
 その体には致命傷どころか、かすり傷のひとつさえも見当たらなかった。こんなのありえない、と否定するのは簡単だが、自分の目で見た現実を信じないわけにもいかない。でもダンタリオンの異能は生物にしか効かないはずだから、全方位から飛んでくる物体を防ぐことはできないはずなのだが。

「いったい、どうやって……」

 ようやく俺は気付いた。
 煙幕が晴れた店内、さきほどまでダンタリオンが立っていた場所、その周囲には金属製の商品がたくさん浮かんでいる。いや、あれは”浮かんでいる”というよりも、まるで”時が止まっている”かのようだった。
 もちろん俺はいま、《ハウリング》を使っていない。つまり、なにか得体の知れないチカラがそこに働いているのは明白だった。

「なんだ、あれは……」

 ダンタリオンの異能は、生物の体感時間を止めるものじゃないのか? どうして無機物にまで《静止歯車(シームレス・ギア)》が効いているんだ?

「そう不思議がることもないでしょう。あれこそが崇高な僕の、本来のチカラなのですから」

 ダンタリオンが指を鳴らす。すると空中で静止していた金属類が、次々と床に落ちた。静かな空間に、金具を打ち鳴らしたような音が残響する。

「ナベリウスから聞いたことはありませんか? かつて我らが、ソロモンの手により封印されたことを」
「……知ってる。それがどうした」
「聞いているのなら話は早いですね。我らはソロモンに封印されたことを機に、力の大部分を失いました。ですが、完全になくしたわけではありません。現在の我らが持つ異能は、本来のものではなく、劣化した、いわば残滓に過ぎません」
「残滓……?」
「然り。生物の体感時間を止めるなど、副次的な作用ですよ。かつて《ダンタリオン》という大悪魔が持っていた異能は、『時の流れを停止させる力』でした。そして崇高な僕は、限定的ですが、それを行使できるのです」

 つまりダンタリオンは、さきほど自分の周囲の時間を止めて危機を脱したと言っているのだ。

「バカな……時を止めるなんて、物理的に不可能なはずだ」
「この世に存在するモノの全てを、自分の物差しで測れると過信するのは優等生の悪い癖ですよ。崇高な僕も、ナベリウスも、バアルも、そして貴方も人間ではありません。《悪魔》だ。物理的な不可能を可能にする存在なのです。それに崇高な僕のチカラに異を唱えるなら、《ベレト》や《アスタロト》とは対峙することもままなりませんよ?」

 要するに、ナベリウスやダンタリオンの《ハウリング》は、本来のものを劣化させた粗悪品に過ぎないということ。

「劣悪な人間どもは、我らのそれを《フィードバック》と称しました。……どうもその様子だと、ナベリウスから聞いていないようですね。まあ彼女のそれは崇高な僕よりも容赦がないですから、貴方に聞かせたくなかったのかもしれませんが」

 くつくつ、と薄気味悪い笑み。

「さて、と。ようやく捕まえましたよ、お嬢さん」

 ダンタリオンは右手で美影の首を無造作に掴み、身体ごと持ち上げていた。美影は首を圧迫されているせいで呼吸もままならないらしく、じたばたと苦しそうにもがいている。
 いい加減、認めるしかない。
 どうやら俺は――失敗してしまったらしい。

「……美影を、離せ」

 地べたを這いずりながら、俺は言った。

「離せ?」

 ダンタリオンは失笑する。

「この崇高な僕が、捕らえた獲物をみすみす逃がすような愚者に見えますか?」
「てめえ……!」
「大きな声を出さないほうが賢明ですよ。僕は臆病ですからねえ。驚いて、ついつい手に力が入ってしまうかもしれません」

 ダンタリオンの握力が強まる。
 ぎりぎり、と骨が軋む音が聞こえたような気がした。

「ん、うっ……!」

 美影は、苦痛に揺れる目でダンタリオンを真っ直ぐ見つめていた。
 絶対的な窮地なのに――それでも彼女は諦めていなかった。
 あまりの苦しさゆえに目は涙に潤み、唇からはよだれをこぼしているのに、それでも美影は凛としていて、美しいままだった。
 でも美影がそういう少女だからこそ、ダンタリオンは彼女を気に入っているのだ。

「さあ。もういいでしょう、お二方?」

 俺と美影を交互に一瞥してから、ダンタリオンは気持ち悪いぐらい優しい声で言った。

「敗北を認めてはどうです? これ以上、無駄な血を流す必要もないでしょう。崇高な僕は、あまり貴方たちの肉体を傷つけたくないのですが」

 そうか。
 ダンタリオンの目的は、俺たちを殺すことじゃないんだ。
 こいつは俺の血と、美影の心身を欲している。
 だから戦う力を奪ったあとは、こうして懐柔しようとしてくる。
 でも、どんな好条件を提示されたって、俺たちはダンタリオンの軍門には下らない。
 それを思い知らせてやるためにも、俺は精いっぱいの強がりを口にした。

「……ざけんな。誰が、おまえなんかに負けを認めるか」

 いまの俺が威勢を張っても滑稽にしか見えないだろうが、ダンタリオンの思いどおりに事が運ぶよりは百倍マシだ。
 案の定、ダンタリオンは困ったように苦笑した。

「やれやれ。その強情なところだけは《バアル》によく似ていますよ。念のために伺っておきますが、お嬢さんも彼と同意見ですか?」

 首を絞められたまま、美影はしっかりと頷いた。声は出せず、意識も朦朧としているはずなのに、その瞳には強い意志が宿っている。おまえなんかに従うもんかって、そう言ってる。
 ダンタリオンの口から、深いため息が漏れた。

「いやはや、困りましたねえ。身体ではなく、心を屈服させなければいけませんか。とは言え、貴方たちの心を折るには少々手間がかかりそうだ」

 当たり前だ。
 誰がてめえなんかに負けるもんか。
 指先を動かすのも面倒なほどの倦怠感が全身を包んでいる。声を出そうとすると代わりに血の混じった唾液が口からこぼれる。意識は泥のように濁り、霧のように霞んでいる。
 それでも俺は、ちっぽけな意地を張っていた。ガキの喧嘩みたいなもんだ。負けたと思わなけりゃ負けじゃない。俺はまだやれる。いまでも隙あらばダンタリオンの顔面に一発ぶち込んでやろうと思ってるぐらいで――
 電話が、鳴った。
 耳に懐かしいメロディー。
 それが誰からの着信なのか、俺には液晶を見ずとも分かる。
 すこし前に可愛らしい遠回しの説得をされて、彼女一人だけ着信音を変えていたから。
 俺の携帯電話が、床のうえに転がったまま、チカチカと着信を示すランプを灯している。
 ダンタリオンが新しいおもちゃを見つけた目で、静寂をかき乱す携帯電話に視線を移した。

「……やめ、ろ」

 あれには手を出すな。
 俺には何をしてもいい、でもあいつにだけは手を出すな……!

「ほう――」

 俺の形相から何かを感じ取ったのだろう、ダンタリオンは美影を俺のとなりに放り投げてから、悠然とした足取りで携帯電話に近づき、それを拾った。


****


 携帯が鳴った瞬間から、萩原夕貴の目は不安に揺らぎ、恐怖の色を映し始めた。
 つまり電話の相手は、夕貴にとって大切な人間である可能性が高いということ。そして、それをダンタリオンが気付かないはずもなかった。
 無造作に携帯を拾い、液晶を覗くと、そこには『高臥菖蒲』の文字が羅列していた。

「……これは」

 見覚えのある名前だった。たしか以前、路地裏に落ちていた週刊誌の表紙を飾っていた少女が、これと同じ名前をしていた。
 電話に出ると、一拍の間を置いて、美しい声が聞こえてきた。

『もしもし、夕貴様ですか? ご無沙汰しております。菖蒲です』

 夕貴の体が震える。離れたところにいる彼にも、通話口から漏れる音声がわずかに聞こえるのだろう。
 ダンタリオンは応答しない。ただ夕貴を嘲笑うかのように唇を歪めるだけ。
 電話を受けている者が夕貴ではなくダンタリオンであるという事実を知らぬまま、菖蒲はなおも矢継ぎ早に言葉を足していく。

『菖蒲はいま、予定していた仕事を終えて、参波の運転する車に乗って帰宅しているところです。夕貴様もご存じのとおり、外国製の車ですね。塗装は黒……あっ、黒で思い出しましたが、夕貴様は女性の黒い下着がお好き、というのは本当なのでしょうか? ナベリウス様から聞いたのですけれど』

 少女の声は楽しそうに弾んでいた。どう穿った見方をしても、それはただの友人や家族に用いるような声色ではない。
 ここにきて、ダンタリオンは一つの確信を抱いていた。
 きっと、この少女と夕貴は、愛を交える特別な関係にあるのだと。

『参波によりますと、あと三十分ほどで萩原家のおうちに到着するそうです。さきほど高速を降りて、いまは街の中央をまっすぐ伸びる幹線道路を走っているところですね。右手には大型のレンタルビデオショップが、左手にはファミリーレストランが見えます』

 菖蒲は現在地を詳しく話した。
 ダンタリオンはこの街の地理を完璧に把握しているわけではない。だが菖蒲の説明はあまりに丁寧すぎるもの。おかげで居場所は容易に特定できた。
 なにより菖蒲の説明にあった”幹線道路”沿いに、このホームセンターは建っている。大型のレンタルビデオショップも、ファミリーレストランも、すぐ近くにある。
 つまりダンタリオンがその気になれば、そう時間をかけず高臥菖蒲の身柄を抑えることができるのだ。
 人間を屈服させる方法とは、いつの世も単純にして明快なものである。その者が抱える大切なモノを奪ってやればいい。それだけで人は立てなくなる。この場合、夕貴にとってのアキレス腱は、間違いなく『高臥菖蒲』だろう。
 ダンタリオンは、夕貴を傀儡にするために、菖蒲という操り糸を手に入れることに決めた。
 ただひとつだけ懸念があった。
 それは――罠の可能性。
 疑いを持たずにはいられないほど、菖蒲の説明は詳細に過ぎるものだった。これでは自分の居場所を特定してください、と言っているようなものだ。
 ダンタリオンの真の恐ろしさは、その戦闘能力ではなく、ナベリウスをして『用心深い』と言わしめた狡猾な頭脳にある。これまで彼は、たくさんの人間を弄び、壊してきた。人間というおもちゃのことは、誰よりも深く知っている。
 だから声を聴くだけで、ダンタリオンにはその人間の心理が手に取るように分かる。
 絶えず、通話口から漏れ聞こえてくる少女の声に、耳を傾ける。
 果たして、これは策を弄している者の声なのか?
 答えは――否だ。
 高臥菖蒲の心に、やましい感情は微塵も存在していない。それは《ソロモン72柱》の名に懸けて、断言できる。
 自分の居場所を恋人に伝えることに、どれだけの意味があるのかは分からない。しかしダンタリオンは、愛が理屈の通じぬものであると知っていた。要するに、こういうことは深く考えるだけ無駄なのだ。
 まあ適当に理由づけするなら、自分と相手の距離を確かめることで、物理的ではない精神的な繋がりを確認したい――といったところだろうか。
 さあ、もう”狩り”に必要な情報はすべて得た。

『ところで夕貴様はいま、何をなさっているのですか? もう間もなく菖蒲は――』

 ダンタリオンは電話を切り、いらなくなった携帯を握りつぶした。そして少年に向き直り、

「崇高な僕から、偉大なる血を引く夕貴様に、一つだけ宣言しておきたいのですが――」
「やめろ……」

 夕貴はがくがくと震える足で立ち上がる。さすが《悪魔》の血を引くだけあって回復力には目を見張るものがある、とダンタリオンは密かに感心した。

「あいつにだけは……」
「貴方の」
 
 次の瞬間、二人の声が重なった。


「菖蒲にだけは、絶対に手を出すな――!」
「いまから貴方の大切な者を、奪って差し上げましょう」


 自分の大切な人を護ろうとする声と、それを奪おうとする悪魔の囁きが、交錯する。
 ダンタリオンは弾かれたように駆け出した。途中、店内にあった長いアルミパイプを手に取る。足の向かう先は、決まっている。幹線道路をまっすぐ走る、黒塗りの高級車だ。幸い、いまは深夜。大雨が降っていることもあり、交通量はほとんどない。一般的な自家用車ならまだしも、外国製の車ならばすぐに見つかるだろう。
 高臥菖蒲という少女の身柄を確保し、夕貴の心を屈服させる――それがダンタリオンの目的である。
 罠の可能性は万にひとつもない。
 ただの小娘が、歴戦の大悪魔を欺けるわけがないのだから。

「待て、ダンタリオン!」

 夕貴の怒声など意に介さず、ダンタリオンは姿を消した。
 あとに残ったのは、少年の悲痛な叫びだけだった。


****


「待て、ダンタリオン!」

 ひどく掠れた声が、荒れ果てた店内にこだまする。
 あれだけ執拗に俺たちを追っていたダンタリオンは、ここにきてあっさりと標的を変えた。
 俺には電話越しの菖蒲が何を言っていたのかほとんど聞き取れなかったが――それでもダンタリオンが菖蒲に狙いを定めたことだけは理解できていた。
 菖蒲はいま、車に乗って萩原邸に帰宅している。それだけは何とか聞こえた。でも彼女を乗せた車がどこをどう走っているのかはまるで見当がつかない。
 けれど、ダンタリオンは迷いなく走り出した――きっと電話で菖蒲が口にした情報を元に、彼女の居場所を特定したのだろう。

「ちくしょう! なんでこんなことになるんだよ!」

 菖蒲には何の罪もないのに。
 あの子だけは危険に晒したくなかったのに。
 一本の電話が、明暗を分けた。
 ただ偶然、あいつが俺に電話をかけてきただけで、事態は思わぬ方向に進んだ。
 タイミングが悪かったとか、運がなかったとか、そういう言い訳はしたくない。
 全部、俺のせいだ。
 やっぱり俺みたいな半端者には、誰かを護ることなどできないのか?

「……いや」

 それは違う。
 後悔するのはまだ早い。
 俺には前に走るための足と、大切なものを守るための腕がある。
 少しでも戦える力が残っているのなら、最後まで足掻いて見せろよ、萩原夕貴……!
 まずは大きく深呼吸し、頭を落ち着かせる。
 俺が覚悟を決めるのと、美影がよろめきながら立ち上がるのは同時だった。

「……夕貴」

 彼女もかなり疲労しているみたいだが、その瞳には炎のような闘志が燃えている。

「やられっぱなしじゃ気が済まない。あいつ、絶対ぶち殺す」
「ヘンなところで気が合うな。俺もまったく同意見だ」

 こんなときなのに、俺たちは顔を見合わせて笑った。

「いけるか、美影」
「余裕」

 揃いも揃って疲労している俺たちにも、絶対に譲れないものがある。
 俺と美影は傷ついた体を庇いあうようにしながら、暴走するダンタリオンのあとを追った。


****


 雨が降りしきる夜の街を、ダンタリオンは疾走していた。その手には、ホームセンターから持ってきた長さ一メートルほどのアルミパイプが握られている。
 屋根から屋根に飛び移りながら、幹線道路を注視し続ける。もし少女が電話で言っていたことが正しいなら、もう間もなく黒塗りの高級車が彼の前に現れるはずだった。
 もはや罠だとは疑っていない。夕貴の反応と菖蒲の口調からは、腹のうちで隠し事をしている者特有の白々しさが感じられなかった。人間の嘘を見抜くことに関しては、ダンタリオンの右に出る者はいない。
 街には生き物の気配がなかった。ここ最近、立て続けに起きた事件を警戒して、住人は早くに眠りについているのだろう。深夜を回っているからか、道路を走る自動車も皆無。これで雨が降っていなければ、耳鳴りがするほど静かだったに違いない。
 闇夜を切り裂くヘッドライトが、遠目にうかがえた。
 一台の車が――黒塗りの高級車が、貸切となった道路を悠々と走行している。
 建物の屋根に立ち、ダンタリオンは”標的”を観察した。運転席に男が一人と、後部座席に少女が――見えない。暗闇と、雨と、そして窓に張られたスモークフィルムが視認の邪魔をしていた。
 ダンタリオンは不気味に唇を歪めてから、獣のように駆け出した。時速六十キロ近くで走っている車との距離が、みるみるうちに縮まっていく。

 やがて車は、幹線道路から外れて片側三車線もある大きな橋に進路を向けた。名を深往橋(みおうばし)。全長五百メートルを超えるアーチ橋で、下には川が流れている。
 車が橋の中腹に差し掛かったときにはもう、ダンタリオンは攻撃態勢に入っていた。足場としていたアーチの上から飛び降りる。数十メートルほどの高さ。彼は落下しながら大きく手を振りかぶり、槍を投げる要領でアルミパイプを投擲した。
 命中。
 凄まじい力で投げつけられたアルミパイプは、車のボンネットに突き刺さった。聞きなれない金属の悲鳴とともに、エンジンが破壊される。
 驚いた運転手は反射的にブレーキを踏み、ハンドルを切った。道路が濡れていたこともあり、車体はくるくるとスピンしながら走行し、アーチの根本にぶつかってようやく止まる。
 着地したダンタリオンは、無残に変わり果てた車に歩み寄った。路面とタイヤが激しく摩擦したから、ゴムの焼けたような臭いがする。アスファルトからはわずかに白煙が立ち上っていたが、それは間もなく雨によってかき消された。

「……ふむ」

 己の勝利を疑っていたわけではないが、ここまで呆気ないと逆に拍子抜けしてしまう。
 ダンタリオンが黒塗りの高級車に近づくと、ツンと鼻を突く火薬の臭いが強くなった。よほど激しくタイヤが摩擦したのだろうか?
 いや、違う。
 かすかな違和感を覚えて、ダンタリオンは足を止めた。
 いま自分の目の前にあるのは、外装にも内装にもしっかりと金を使っている車だ。もちろんタイヤも高級品で、そう簡単にすり減るようなものではない。しかも路面には大量の水が溜まっているから、摩擦など微々たるものだ。
 ならば、この火薬の臭いは……待て、火薬だと?
 頭の片隅で浮かび上がる疑問に答えをつけながら運転席を覗いたダンタリオンは――そこに誰も座っていないことに気付いた。それだけではない。運転席側のドアがわずかに開いている。ほとんど直感で、ダンタリオンは後ろに向けて跳んでいた。それは正解だった。

 後部座席には少女の代わりに、小型の爆弾が設置されていた。

 ダンタリオンが飛び退くのと、車が爆発するのは、前者がほんの数瞬、早かった。まばゆい閃光がほとばしり、けたたましい轟音が響きわたる。爆薬はガソリンに引火し、さらに大きな火炎を生み出す。細かな破片が飛び散り、火をまとったタイヤが転がり、車体はごうごうと炎上した。
 渦を巻いて吹き荒れる爆風が、ダンタリオンの身体を押し流す。彼は空中で体勢を整えた。

「……まさか」

 表面上は冷静だが、その実、ダンタリオンの脳髄にはネガティブな思考が濁流となって押し寄せていた。
 自分が追っていた車には、高臥菖蒲ではなく爆弾が搭載されていた――これはどう考えても”罠”だ。
 しかし、そうだとすると矛盾が生まれる。
 仮にこれが罠なら、夕貴は菖蒲から電話がかかってくることをあらかじめ知っていなくてはならない。だが携帯電話に着信があったとき、夕貴は心から焦り、怒っていた。そこに演技がなかったことはダンタリオンも確信している。
 ならば高臥菖蒲の側が、夕貴に黙って独断で”罠”を仕掛けていた?
 ……いや、これもありえない。
 菖蒲の声や口調からは、策を弄する者が放つ特有の”気配”が感じられなかった。専門の訓練を積んだ人間ならあるいはダンタリオンを騙しおおせるかもしれないが、十代の小娘には荷が重いだろう。
 極めつけは、やはり車に爆弾が設置されていたことか。
 ここ日本は治安のいい国だ。重火器や爆薬は一般には出回っていない。もちろん金とコネがあれば手に入れることはできるが、それでも現物を用意するのは時間がかかる。これほど用意周到な”罠”を仕掛けるためには、初めからダンタリオンの行動を読んでいないと不可能。

「……ふん」

 まるで”未来を予知されている”かのような錯覚に囚われ、ダンタリオンは忌々しく鼻を鳴らした。


 そして、それは錯覚ではなく、真実。


 ダンタリオンの背後に、音もなく忍び寄る影があった。
 深く思考に没頭していたダンタリオンは、それに気付くのが一瞬遅れた。索敵を怠っていたわけではない。ただダンタリオンの知覚をうまく潜り抜けるほどの腕前を、相手が持っていただけの話。
 背中に灼熱が走る。なにか鋭い刃物のようなもので肉を切り裂かれた。あと一秒でも避けるのが遅ければ、骨まで断たれていたに違いない。

「……ソロモンの大悪魔ですか。二十年前を思い出しますね。あのときは私も尻の青い若造でした」

 冷静な声がした。
 ダンタリオンが片膝をつきながら面を上げると、そこには黒いスーツを着た男が立っていた。オールバックの黒髪、銀縁の眼鏡、右目のあたりには大きな切り傷が入っている。男の手には、一振りの刀が握られていた。日本刀にしては刃渡りが短く、厚みもない。白木でこしらえたそれは、『仕込み杖』と呼ばれる暗器の一種。
 燃え上がる車を背に、参波清彦が立っていた。




 この”罠”の功労者は、間違いなく高臥菖蒲である。
 彼女は『未来予知』により夕貴の危機を知ると、すぐさま清彦に事情を説明し、協力を求めた。清彦はこれを快諾。暗器術を用いる《参波一門》の人間にとって、”罠”はお手のものだからだ。
 ここで特筆すべきは、夕貴の携帯にダンタリオンが出ることを視ていながらも電話をかけた、菖蒲の愛の強さ。
 そして驚嘆すべきは、人間の心理を知り尽くしたダンタリオンを見事欺いた、菖蒲の演技力。
 ただの小娘が、歴戦の大悪魔を罠にかけることができたのは、この演技力に寄るところが大きい。
 ダンタリオンは、自分を騙しおおせるとしたらそれは専門の訓練を積んだ人間だけだ、と自己分析していた。
 しかし残念ながら、ただの小娘に過ぎないはずの菖蒲は、その専門の訓練をしっかり積んだ人間だった。
 当然だろう。

 菖蒲は、女優なのだ。

 演技を専門とする、人間なのだ。
 彼女がここまで有名になったのは、なにも美貌や家柄だけじゃない。菖蒲をよく知るファンや、業界の人間は、その卓越した演技力も高く評価していた。
 だがいくら菖蒲の演技力が優れているからといっても、それだけでダンタリオンを欺けるわけではない。
 携帯電話による通話。つまり判断材料が”声”しかなかったことも、菖蒲に味方していた。
 もし直に会っていたら、菖蒲の手足の震えを見て、ダンタリオンは演技を見抜いていただろう。




「我を謀ったのか、人間ごときが……」

 ダンタリオンが底冷えのする声で言った。人間の罠にかかったという事実が、彼から余裕と遊び心を奪っていた。
 ゆらりと立ち上がったダンタリオンは、上半身を脱力させたまま俯いている。濡れそぼった金髪が、彼の表情を隠している。糸目がわずかに開き、膨大な悪意を孕んだ眼球が露出した。人の域を逸脱した怪物の発する殺気が、夜の闇をぐにゃぐにゃと歪ませる。天が落下し、大地が揺れているのではと錯覚するほどの武威。まるで世界が怯えているかのようだった。否、確かに世界は怯えていた。

「……まさか、これほどとは」

 清彦の額に脂汗が滲んだ。さすがの清彦も、単身で《悪魔》を倒せるだけの腕は持っていない。ダンタリオンは身体から血を流しながら、ゆっくりと清彦に歩み寄っていく。

「虫けらに等しい分際でよくもやってくれる。身の程を弁えろよ劣等。貴様、誰に向かって牙を剥いている」

 黄金の髪、白蝋の肌、血に染まった衣服。そこには《ソロモン72柱》の名に恥じない、本物の怪物が立っていた。

「くっ……」

 清彦はすばやく投げナイフを投擲した。ノーモーションで放たれたそれは、常人であれば避けるどころか認識することもできない。だがナイフは、ダンタリオンに当たる寸前、空中で停止した。ナイフだけではない。ダンタリオンの周囲に降る雨粒までもが、空中で止まっている。
 信じられない光景だった。

 ダンタリオンを中心とした半径だけ、時間の流れが狂っている。

 不気味で、凶悪で、禍々しくて、物理法則すらも書き換える強大なチカラの発露。時を停止させるという理こそが《ダンタリオン》の本性。
 清彦はじりじりと後退しながら、なにか周囲に使えるものはないか探していた。手持ちの武器ではあまりに心許ない。いや、もし強力な武器が転がっていたとしても、全力を出したダンタリオンに敵う人間はいまい。だから。

「お前こそ身の程を弁えろよダンタリオン。わたしの前だ、頭が高いぞ」

 彼を倒す役目を担うのは人間ではなく、おなじソロモンの大悪魔だった。
 この大雨を物ともせず燃え続けていた車が、一瞬で鎮火した。空から降る雨が、水滴からヒョウに変わった。濡れていた路面が、ほんの一瞬で凍った。冷気が、白い霧となって、渦を巻く。

「あの娘が――ソロモンが口にした言葉を忘れた? わたしたちの序列は絶対にして不動、ってね。もう一度だけ言うわよ。身の程を弁えなさい、ダンタリオン」

 それは身も凍るほど美しい、女性の声。
 気付いた頃にはもう、彼らがいる橋は、大きな氷細工と成り果てていた。どこをどう見渡しても『氷』しか見えない。ダンタリオンの足元から、コンクリートを突き破るようにして氷の槍が出現した。それも一本ではなく、二本、三本、四本、五本――否、数えきれない。

「――む」

 憤怒に染まっていたダンタリオンの顔に、ここで初めて警戒の色が浮かぶ。
 彼女が舞台に上るのはありえないはずだった。至近距離で爆炎に曝された代償は決して安くない。事実、彼女は満足に動けるような身体ではないのに。
 そこまでして。
 そこまでして――おまえはあの少年を護ろうとするのか?
 
「邪魔をするか、貴様!」

 やはり最後にはおまえが立ちはだかるのか。

「バアルの下僕に過ぎぬ貴様が、人間と混じった出来損ないを護るために身を削るのか!」

 どれだけ傷つこうとも、おまえは立ち上がるというのか。
 ダンタリオンが右手を前に伸ばす。時が止まる。彼の周囲だけ時間の流れが狂い、夜をまたたく間に凍らせた氷が、宙で停止する。

「……やっぱりあんたはバカよ」

 呆れたように、それでいてどこか悲しげに、彼女は告げる。

「言ったでしょ? わたしはもうバアルの血なんてどうでもいいって」

 絶対零度の氷が凶器となって顕現するが、それは停滞する時の流れに阻まれた。
 停止の世界と、凍結の世界――まさしく超常としか言いようのない二つの理がぶつかり合う。

「わたしは、夕貴を愛してる。ただそれだけよ」
「戯言を……!」

 彼女の想いを、ダンタリオンは否定する。
 愛だと? ふざけるな。それは人間が生み出した都合のいい夢ではないか。誰かが誰かを愛することに何の意味がある? それで何ができる? 
 そんな得体の知れないものは断じて認められない。なぜなら。

「貴様の主が逝ったのも、その愛とやらのせいではないのか!」
「……そうね。そうかもしれない。きっとバアルは、小百合を愛さなければ死ぬことはなかったから」
「ならば何故だ! どうして貴様は、《バアル》を失っていながらも愛などという泡沫の夢に縋るのだ!」

 極大の衝撃が奔った。それぞれ互いに譲れぬものがあるから、かつての同胞はここに衝突する。

「たしかにバアルは……ううん、駿貴は誰かを愛したから死んでしまった。これはわたしが未来永劫に渡って背負うべき罪。小百合と交わした約束も護ることができなかったから。でもね、ダンタリオン」
 
 拮抗が、崩れ始める。

「駿貴が小百合を愛したから、彼らのあいだに愛があったから――わたしは夕貴に出会うことができた」

 彼女は言うのだ。愛する者を奪い去ったのが”愛”なら、愛しい少年とめぐり合わせてくれたのもまた”愛”だと。その矛盾がダンタリオンには信じられなかったし、その想いが彼女には大切だった。
 いや、そもそもダンタリオン自身、理解していたはずではなかったのか。愛とは理屈の通じぬものであると。

「まったく、よくもまあわたしの可愛い夕貴ちゃんを虐めてくれたものね。あんたの力なら一思いに決着をつけることもできたでしょうに。その肝心なところで遊ぶのがあんたの悪い癖よ」
「認めるものか」

 悪い癖。ああ、確かに事実としてはあった。明確に思い出せぬほど昔、自分はあの男からその悪癖について警告されたことがあった。
 太古の時代から気に入らなかった。
 誰よりも高く、誰よりも強く、誰よりも賢く、そのくせ誰よりもお節介で、誰よりも仲間想いだった、あの男が。
 ソロモンに封じられる瞬間もそうだ。あの男なら、ソロモンの法術を破ることもできたはずなのに、なぜかそうしなかった。おそらくあの男は、ソロモンの身を案じていたのだろう。いくら王と呼ばれても、まだ幼く頼りなかった、あの少女のことを。しとどに涙を流しながらも自分たちを封じた、あの少女のことを。
 気に入らない。あの男に警告されたとおりの死に様など許容できるわけがない。死してもなおこの身を縛ろうとするな、バアル!
 
「認められるものか――」
「たしか《バアル》からも忠告されてたでしょう?」

 停止する世界と、凍結する世界。両者のあいだに張り詰めていた最後の糸が、ここに断ち切られる。  

「”いつかその悪癖がおまえ自身を滅ぼすぞ”ってね」
「認めてなどなるものかぁぁぁぁぁっ!」 

 飛来する氷は、しかしダンタリオンを傷つけることはできない。彼に近づこうとするものは例外なく時を止められてしまうから。
 だが互角に思えた場の膠着も、長くは続かなかった。

「ぐっ――!」

 それは実力の差ではない。
 ダンタリオンは夕貴の攻撃から身を護るために、彼本来の異能を使ってしまった。そのときの消耗さえなければ、きっとこの氷を完全に防ぐこともできたはずなのに。


 ――ゆえに、これは慢心が生んだ結果である。
 ――全力で愛する者を護ろうとする少年と、ただ戯れでそれを奪おうとした男。
 ――黄金の大悪魔は、自身の圧倒的なチカラに目が眩み、目前にあった勝利を逃したのだ。


 やがてダンタリオンの理は崩れ去り、時の流れは正常に戻った。もう氷の侵攻を食い止める盾はない。
 彼は超人的な身のこなしで飛来する氷槍をかわした。だが消耗したダンタリオンには、迫りくる氷をすべて避けるのは無理だった。血に濡れていた神父服が、さらに赤く染まっていく。
 しばらくして攻撃が止む。
 ダンタリオンは険しい顔つきをしていた。それは何かに怯えているようにも見える。いまの彼は、威厳や傲慢さを失っていた。
 こつ、こつ、と静かな足音が響く。夜気と雨露に彩られた闇のなかから、ひとりの女性が姿を現した。
 見れば見るほど深みに嵌る、完成された美貌。腰にまで届く豪奢な銀髪と、優しい月明かりによく似た銀眼。
 ナベリウスの顔色は悪かった。病人のように青白く、美しさよりは儚さのほうが勝っている。雨に濡れた衣服のところどころに滲んだ赤い血が、彼女が負っている傷の度合いを物語っているように思えた。
 それでもナベリウスは、どこか悪戯っ子のような笑みを浮かべながら、ぷらぷらと手を振った。 

「はあい、ダンタリオン。元気にしてた?」



****



 大きな爆発音を頼りにダンタリオンを追ってきた俺たちが見たものは、巨大な氷細工と成り果てた深往橋だった。

「……なに、これ?」

 ぱちくりとまたたきをして美影が言った。まあ驚くのも無理はない。いくら今夜が冷え込んでいるからといっても、こんな大規模な凍結現象は起こるわけないしな。
 でも呆ける美影とは対照的に、俺は唇が緩むのを抑えきれずにいた。
 もう心配はない。
 この氷を見たときから、俺の心は安堵に満ちている。

「行くぞ、美影」
「待って」

 走り出そうとしたら、ぐいっと服を引っ張られた。

「なんだよ。いまは急がないとだめだろ」
「よく見て。いまは六月。水が自然に凍るわけない。これは間違いなく何者かの仕業。きっとヘンタイ男に続いて、新手の敵が……」
「……ぷっ、はははは!」

 美影があまりに真面目な顔をして解説するものだから、思わず笑ってしまった。
 案の定、彼女はむっと眉を寄せた。

「夕貴。これは真面目な話。いまは笑ってる場合じゃない」
「大丈夫。俺には心当たりがあるんだ」
「……?」
「いいからついてこい。きっと大丈夫だから」





 深往橋の中腹では、思ったとおりの状況が展開していた。
 満身創痍のダンタリオンと、悠然とたたずむナベリウス。橋の至るところが凍結していて、コンクリートには霜が張り、冷気が白い霧となって逆巻いている。すぐ近くにはボロボロになった車が転がっていた。たぶん、さっき聞こえてきた爆発音は、この車からだろう。
 まず俺が驚いたのは、ここに参波さんがいることと、ここに菖蒲がいないことだった。駆けつけたばかりの俺には何がどうなってるのかさっぱり分からない。
 参波さんに事情を伺いたいところだったが、それよりも先に、ナベリウスが俺たちに気付いた。

「あれ、夕貴も来たんだ?」

 殺し合いをしている最中とは思えない、いつもどおりの声。
 どう切り返そうか迷ったが、なぜか妙に気恥ずかしくなった俺は、そっぽを向きながら悪態をついた。それは例えるなら、授業参観にお母さんが来てくれたときに似ているかもしれない。

「……遅いんだよ、バカ」

 肝心なときにはいつも母親か姉のように俺を助けてくれる同居人。初めて会った日からは想像もできないが、いまはこいつがいないとなんとなく落ち着かないのだ。

「そうね。たしかに夕貴の騎士……いや、配下……ううん、部下……でもなくて子分……そうそう、奴隷にしては駆けつけるのが遅かったかも」
「なんで騎士から始まって奴隷に辿りつくんだよ……だいたいおまえは」
「でもね」

 ナベリウスは雨に濡れた前髪をかきあげてから、可愛らしくウインクをした。

「本命っていうのは遅れてやってくるものなのよ、ご主人様?」

 非常に不本意だが、いまだけはナベリウスのことを女神と称してやってもいいと思った。俺の背後では美影が「むー」とか唸りながらナベリウスのことを警戒しているが、それは置いておこう。

「……《バアル》の血統か。なるほど確かに、貴様はあの男とよく似ている」

 美影とバカをやる俺をじっと観察していたダンタリオンが、重々しい口を開いた。
 それに俺が応えようとするよりも早く、

「黙りなさい」

 ナベリウスが一蹴していた。
 そこらの空中や地面から『氷』が無数に出現し、ダンタリオンに襲い掛かった。ナベリウスは一歩も動いていないのに、神父服は刻一刻と血に染まっていく。
 ダンタリオンは抗弁しない。その余裕がない。彼は命からがら、迫りくる氷をかわすことしかできない。それは寒気がするほど一方的な光景だった。
 というよりも、すでにダンタリオンは力を使い果たしているのだろう。やつの全身から放たれていた禍々しいオーラが消えている。

「遅いわ」

 圧倒的な物量に圧されたダンタリオンが見せた一瞬の、それでいて決定的な隙を見逃さず、ナベリウスは一本の氷槍を放った。針の隙間を縫うようなコントロール。それはダンタリオンの腹部を貫いただけに留まらず、彼の大柄な体を吹き飛ばし、アーチの支柱に串刺した。
 氷の槍が、ダンタリオンをはりつけにする。

「ぐぅっ……!」
「動きが鈍ったんじゃない? いや、違うかな。やけに弱ってるみたいだし。さしずめ夕貴に追い詰められて、チカラを浪費したってところでしょうね」

 ため息混じりにかぶりを振るナベリウスと、

「……くっくく」

 俯いたまま、串刺しにされたまま、喉を震わすダンタリオン。

「なにが可笑しいの? もしかして頭がおかしくなった?」
「いえいえ、僕は正気ですよ。ただ、貴女の手によって傷つけられた痛みの、なんと愛おしいことか」
「……あんたって、女に追い詰められたほうが興奮するタイプだっけ?」
「どうでしょうね。ただ貴女から与えられるものなら、それが苦痛の類であったとしても、僕は喜んで受け入れましょう」
「そうなんだ。でも残念。わたしは夕貴のものなの。女を口説きたいのなら他を当たりなさい」

 至極真面目な顔で『わたしは夕貴のもの』とか言わないでほしいのだが。
 さすがに照れる。
 つーか、べつにおまえは『もの』じゃねえよ。

「わたしから与えられるものなら喜んで受け入れる――そう言ったわよね?」
「はい、確かに」
「じゃあ受け入れなさい。あなた自身の死と、破滅を」
「……己が同胞を殺しますか、ナベリウス」
「愚問よ。ここで朽ち果てなさい、ダンタリオン」

 この二人のあいだにどんな因縁があったのかは分からない。それでも俺には、ナベリウスとダンタリオンの関係が、敵ではなく、たしかな同胞に思えた。
 ありとあらゆる箇所から出現し、飛来し、落下する氷。それは俺がホームセンターで行った作戦の、何倍、あるいは何十倍もの威力と範囲を誇っていた。
 はりつけにされていたダンタリオンには、それを回避することができなかった。少なくとも俺にはそう見えた。
 深往橋を強く揺さぶる、衝撃。
 凄まじい勢いで砕けた氷が、細かな破片となってこちらに降り注いでくる。俺と美影は腕で顔を守り、目を細めた。

「……ふん。相変わらず逃げ足だけは一人前ね」

 つまらなさそうにナベリウスは言った。
 ようやく場が落ち着きを取り戻し、俺が周囲の状況を観察するだけの余裕を取り戻したときにはもう、ダンタリオンの姿は消えていた。

「疲れてるところ悪いけど、夕貴はその子と一緒に早く逃げたほうがいいわ。これだけ派手にやっちゃったから、警察とか駆けつけてくるかもだし」
「おまえはどうするんだ?」
「決まってるでしょ?」

 ナベリウスは、おもむろに俺を抱きしめた。
 慈しむように、優しく頭を撫でられる。
 俺は雨に濡れて、埃にまみれて、汗をかいて、血に染まっているのに。
 それでも彼女は服が汚れるのを気にせず、抱きしめてくれた。

「わたしの夕貴に手を出した不届き者を、このまま放っておけるわけないじゃない」
「……俺はべつにおまえのじゃねえよ」
「そうね。夕貴は菖蒲ラブだもんね」

 身体を離す。
 ナベリウスはどこか寂しげな表情を浮かべていた。
 てのひらに水とは違うべたつきを感じた俺は、手元に視線を落とした。

「……え」

 さっきまでナベリウスの背中に回っていた手には――べっとりと赤い血が付着していた。
 慌ててナベリウスに視線を移す。よく見ると、彼女の着ている服の一部に不自然な赤色が滲んでいる。明らかに模様や刺繍によるデザインじゃない。
 それに暗いせいで初めは分からなかったけど、ナベリウスの顔色はすこし悪かった。いつもは健康的な白さなのに、いまは病人を思わせる不健康な青白さだ。

「傷口が開いちゃったみたいね」
「おまえ、大丈夫なのか? どこか怪我してるのか?」
「慌てない慌てない。わたしは大丈夫だから。ところで夕貴は、あの高層ビルの爆発事件は知ってる?」
「もちろん知ってるけど……」
「わたしとダンタリオンは、あれに巻き込まれたのよ。これはそのときの傷。このナベリウスちゃんにとって爆弾なんか屁でもないんだけど、さすがに設置場所が悪すぎた。まさか給水塔の真下――わたしのすぐ足元に仕掛けられてるなんてね。おかげでダンタリオンよりも深いダメージを食らっちゃって、回復に時間がかかっちゃった」

 だから――ナベリウスは駆けつけるのが遅れたのだろう。
 まだ万全じゃないのに、ちょっと動いただけで傷口が開くのに、いまにも倒れそうな顔をしているのに――それでもこいつは無理を通して、俺を護るために駆けつけてくれた。

「……ありがとう。おまえがいてくれて、よかった」

 素直な感謝が口をついた。
 ナベリウスはきょとんとした顔でしばらく俺を見つめてから、照れくさそうに笑った。

「……うん。わたしも間に合ってよかった」

 数十秒前までの剣呑とした空気とは程遠い、温かな感情が胸に広がっていく。まるで母さんに抱きしめられたときのような、うっすらと眠気すら覚える安心感。
 ああ、この感覚、なんだか懐かしいな――

「こんばんは、夕貴くん」

 そのとき後ろから声をかけられた。
 振り向くと、参波さんがこちらに歩み寄ってくるところだった。

「やはりお嬢様の予知したとおりになりましたか。瑞穂様はお嬢様がチカラに振り回されていることを懸念していらっしゃいましたが、夕貴くんと出会ってからはお嬢様も安定してきたように思いますね」

 後半はほとんど独り言のつもりだったのか、声量も小さかった。

「参波さんも無事でよかった。菖蒲は大丈夫なのか?」
「お嬢様は安全なところいます。詳しい事情は後ほど説明させていただきますので」
「分かった。……あれ、そういえば美影は?」
「ああ、あの子なら、そこにいるわよ」

 ナベリウスが指差した先には、スクラップになった車の陰に隠れて警戒心マックスの目でこちらを見つめる美影がいた。どうやら美影は、突如として現れ、絶大な戦闘力でダンタリオンを退けたナベリウスのことを敵かもしれないと疑ってるらしい。
 俺は苦笑してから、手を振って、こっちに来いというジェスチャーをした。

「大丈夫だって。危険はないから」
「むー」

 どれだけ説得しても、美影の防衛本能は揺るがなかった。まあ気持ちはわかるけど。

「あの娘は……まさか《壱識》の?」

 参波さんが言った。

「……だれ?」

 美影のなかで知的好奇心が防衛本能をわずかに上回ったようだ。相変わらず物陰に隠れたままだったが、その顔には警戒心ではなく参波さんへの興味が溢れている。

「名乗り遅れましたね。私は参波清彦。以後、お見知りおきを」

 簡潔な自己紹介。でも美影にはそれでじゅうぶん通じるようだった。

「……《参波》の。私は」
「壱識千鳥の娘でしょう」
「母親を知ってるの?」
「古い馴染みです。君は千鳥の若いころにそっくりですね。すぐに分かりました」
「私、べつに母親と似てない」
「なるほど。その物言い、やはり彼女を彷彿とさせますよ」
「むー」

 過去を懐かしむように語る参波さんとは対照的に、美影は不満げな顔をしていた。

「……菖蒲に続き、また愉快な子を拾ってきたわね」

 一連の流れを黙って見ていたナベリウスがため息をつく。

「拾うって……そんな捨て猫みたいに。美影とは今回、一時的に手を組んだだけだって。やましいことは何もしてないからな?」
「はいはい。詳しい話はまたあとで聞くから」

 明らかに誤解したままのナベリウスは、颯爽と身をひるがえした。

「彼を追うのですか、あなたは」

 意外なことに、踵を返したナベリウスを引き留めたのは、参波さんだった。

「ええ。追うわよ。だってわたしは悪魔だし。忠誠を誓ったご主人様を護るのは絶対だし。なにか文句ある?」
「文句などありません。私の障害にならないのであれば、あなたがどこで何をしようと構わない……ただ、いまのあなたが言った台詞と似たようなものを、ずっと昔にも聞いたことがあるような気がします」
「……奇遇ね。わたしもいまのあなたが言った台詞と似たようなものを、ずっと昔に聞いたことがあるような気がするわ」

 そういえば参波さんは、菖蒲の誘拐事件のとき、ナベリウスの同行に否定的だったな。託哉はあっさり許可されたのに。
 もしかしてこの二人には、俺の知らない因縁があったりするのだろうか?
 今度こそナベリウスは、俺たちに背中を向けた。

「じゃあね。その子に欲情して襲い掛かったりしちゃだめよ、夕貴ちゃん」
「だから俺をちゃん付けすんな――!」

 反射的に叫んでしまったけど、俺の声が届くより先に、ナベリウスは姿を消してしまった。
 さっきまでの喧騒が嘘みたいに静まり返った橋の上で、俺は美影に振り向いた。

「あいつの言うことに従うのは癪だけど、まずは逃げよう」

 実際問題、美影はともかく俺のほうは力を使い切ってしまっているから、ナベリウスのあとを追っても足手まといになるだけなのだ。

「夕貴、夕貴」
「なんだ?」

 美影は、これだけは譲れない、とでも言いたげな力強い眼差しで、

「逃げぴこ」
「……は?」
「逃げるよりも、逃げぴこのほうがいい」
「…………」

 最後の最後まで緊張感のない、俺と美影だった。


****


 深往橋からしばらく離れた先にある路地裏に、ダンタリオンの姿があった。
 冷たい雨が降り注ぐなか、全身から夥しい血を流し、足を引きずるようにして仄暗い通路を進んでいる。

「いやはや、美しい花には棘があるとはよく言ったものですねえ」

 つぶやく声には力があった。
 ダンタリオンは致命傷とさえ言える傷を総身に受けたが、しかしそれは彼に死や破滅を与えるほどのものではなかった。
 《悪魔》という種族は、身体能力だけでなく生命力にも優れている。
 心臓――正式名称は『核』――から溢れ出すDマイクロ波は骨、肉、血だけでなく、神経や細胞にまで影響を及ぼし、さまざまな恩恵をもたらす。
 Dマイクロ波を傷口に集中させれば、戦闘能力は大幅にダウンするものの、その分、治癒速度は劇的に上昇する。今回受けた傷も、数日と経たない間に癒えることだろう。

「くっくっく……」

 そうだ、まだ終わりではない。
 萩原夕貴には失望と同時に、一抹の希望も見出した。いまは弱くとも、いずれきっと少年は誰にも届かない高みに上るだろう。それが”血筋”というものだ。やはりどんな手を使ってでも、あの少年を手中に収めなければならない。
 そのためにはナベリウスが邪魔だ。彼女は強すぎる。あまりにも美しい反面、あまりにも手に負えない。しかも戦闘における相性が悪すぎる。真っ向勝負は、自殺行為と見ていい。
 であれば、手はひとつ。
 ナベリウスの唯一の弱点は――彼女が忠誠を誓っている少年だ。萩原夕貴の身柄を押さえてしまえば、ナベリウスは恐れるに足りない。単純ではあるが、最も確実な方法。
 あの気高くも美しい彼女が、自分の足元にひざまずく光景を想像し、ダンタリオンは唇を歪めた。


「――よぉ、久しぶりだな大将」


 どこか聞き覚えのある声がした。
 ダンタリオンが振り向くよりもずっと早く、銀光が尾を引き、彼の左胸に突き刺さっていた。

「…………」

 事態が呑み込めず、ダンタリオンは呆然とした顔で、自分の胸に刺さったナイフと、それを握る青年の顔を見つめていた。明るめに脱色した髪、左耳につけたピアス、精悍な顔立ち。全身の至るところに血の滲んだ包帯を巻いていること以外、その青年は、ダンタリオンの記憶にある姿のままだった。
 夕貴は失念していたが、実は《静止歯車》を無効化する方法はもうひとつあった。
 それは、奇襲。
 要するに、異能を使われる前にトドメを刺してしまえばいい――それだけの簡単な話。
 用心深いダンタリオンには、およそ奇襲や不意打ちは通用しない――はずだった。
 しかし。

 夕貴の小細工を防ぐためにチカラを浪費し、
 菖蒲と清彦による予想外の”罠”に嵌められて混乱し、
 ナベリウスとの交戦によりチカラを大幅に消耗し、
 《絶対零度(アブソリュートゼロ)》よって大きな深手を負わせられた。

 そうした物事の連続は、ダンタリオンの心理に小さな穴を作った。針の穴ほどの、常人では決して視ることも破ることもできない、本当に小さな穴が。
 ゆえに本当の意味で玖凪託哉が突いたのは、左胸に収まった心臓ではなく、狡猾な大悪魔が垣間見せた心理の死角。
 よってここは、人間ごときに不覚を取った大悪魔を非難するのではなく――ヒトの身でありながら大悪魔を上回った人間こそを賞賛すべきだろう。

「オレたちが初めて会ったときのことを憶えてるか?」

 ダンタリオンの左胸を抉りながら、託哉は続ける。

「オレ、あのとき言ったよな」

 あのとき。
 ダンタリオンは過去を振り返る。大きな武家屋敷。障子。畳。掛け軸。死体。和室。たしかあのとき託哉は――

「決めた。オレの命に代えても、おまえだけは絶対にぶっ殺す」

 一言一句違わず。
 託哉はかつて口にした台詞を、もう一度だけダンタリオンに言い放った。
 《悪魔》の絶対的な弱点は、ずばりDマイクロ波を生み出す心臓。Dマイクロ波の源泉を破壊されてしまえば、もう《悪魔》は超人的な身体能力を発揮することも、不可思議な異能を使うことも、そして――傷を癒すこともできなくなる。
 託哉の一撃は、ダンタリオンの心臓を確実に刺し貫いていた。

「……ふ、く、くくく」

 ナイフが引き抜かれると、ダンタリオンの体は崩れた。前のめりに倒れ、泥の溜まった水たまりに顔が浸かる。

「無様だな」
「ええ、まったく」

 託哉の侮蔑を、ダンタリオンはあっさり受け入れた。

「まさか、この崇高な僕が人間ごときに敗れるとは――これが歌劇であったならば、きっと観客どもは竜頭蛇尾だと口を揃えて訴えるでしょう」
「意見の相違だな。オレは、ここに観客がいたなら、満場一致の大団円だと手を鳴らして喝采してると思うぜ」

 ここぞとばかりに大口をたたく託哉を見て、ダンタリオンは楽しげに口端を吊り上げた。
 負けを認めたわけではない。勝ちを謳うつもりもない。ただ、大悪魔と恐れ敬われた自分が、人間の手によって死に瀕している事実が、可笑しくて仕方なかった。

「じゃあな。そこでひとり、誰にも知られず死んじまえ」

 あっけなく踵を返す託哉。

「おや。トドメは刺さないのですか?」
「もうすぐナベリウスさんがやってくるからな。あの人は嫌いじゃないが、家の事情でちょっと顔を合わせにくい。……ああ、それと、前から言おうと思ってたんだが」

 一拍置いてから、彼は言った。

「オレはおまえのことが大嫌いなんだよ」
「くっくく、はははは……」
「あばよ、クソ神父。地獄でも一人で十字架切ってろ」

 その言葉を最後に、玖凪託哉は姿を消した。

「はは、ははははは――」

 なけなしの力を振り絞り、ダンタリオンはうつ伏せだった体を仰向けにする。
 深い深遠にも似た曇天を見上げながら、彼は自問した。
 いったい何がいけなかったのか――父の愛を踏みにじり、その娘を弄ぼうとしたこと? 一思いに決着をつけなかったこと? ナベリウスはしばらく戦えないはずだと高をくくったこと? 人間の”罠”を見破れなかったこと? 愛などという得体の知れないものを否定したこと? 自らの欲に負けて、ここぞというときに遊んでしまったこと?

 それとも――あの男の忠告を聞かなかったこと?

 ああなるほど、きっとそうなのだろう。あの男はいつだって正しかった。その正しさが疎ましく、そして羨ましくもあった。
 思えば、きっとダンタリオンは、ただただ許せなかったのだ――自分のあずかり知らぬところであの男が死んでしまったという事実が。
 おそらく、ダンタリオンが自身の悪癖を自覚しながらもそれを軽視していたのは、あれだけ周囲の者を惹きつけておきながらも勝手に逝ってしまったバアルの言葉に従うことを、無意識下で忌避していたから。
 もしもダンタリオンがバアルの忠告に従って”悪癖”を改善していたら、少年はとうに彼の手中に落ちていたはず。そういう意味では何とも皮肉であり、運命的なものを感じるが――
 
「愚かなり――ダンタリオン」

 雨をもたらす空を見上げて、彼はつぶやいた。
 その自身を揶揄する声は、静かな雨音にまぎれて、消える。
 この結末は、つまるところ盛者必衰の理を表したものであり――彼がいままで跳ね除けてきた因果が、めぐりにめぐって己の身に返ってきたのだ。
 ゆえに、心に留めておかなければならない。
 人知を超越した一柱の《悪魔》を討ったのは、彼が認めた同胞ではなく、か弱き人間が生み出したほんの小さな”刃物”に過ぎなかったということを。




 ナベリウスが辿り着いたときにはもう、すべてが終わっていた。

「……無様ね、ダンタリオン」
「ええ。自分でもそう思いますよ、ナベリウス」

 抑揚のある言葉とは裏腹に、もうダンタリオンの体からは生命力が枯渇しかけていた。

「……不思議なものね。あんたのことなんて大嫌いだったのに、いまわたしは寂しいと思ってる。悲しいと感じてる。これでまたソロモンの同胞が一人、無に還ってしまうから」
「いいえ、貴女に悲観する暇などありません。僕がそうであったように、いずれ他の同胞たちも《バアル》の血筋を求めて、この地に現れるでしょう。ゆえに、この身が滅んだとしても、それはほんの僅かな幕間に過ぎない」
「…………」
「果たして、貴女はあの少年を護りきれるのか――それを見届けることができないのは、いささか無念ですがね」
「護るわ。絶対に」

 即答だった。
 それだけ『萩原夕貴を護る』という誓いが、自分の心に刻まれているのだろう。彼女の声には欠片の迷いさえなかった。

「もう無駄話はいいでしょ。せめて最期ぐらいはわたしの手で送ってあげるから」

 この路地裏の気温だけが急激に下がる。

「これはこれは――まさか貴女に介錯を頂けるとは。冥土の土産にしては華がありますねえ」
「うえっ、気持ち悪いこと言わないでよ。わたしはあんたと喋ってるだけで鳥肌が立ってるんだから」
「ひどい言い草だ。こう見えても僕は、昔から貴女のことを好いているというのに」
「知ってるわ。だからわたしはあんたのことが嫌いなのよ」
「ええ、知ってますよ」
「それも知ってる」

 冷たく言い放つナベリウスの横顔には、何人にも侵せぬ強さとともに、氷のような儚さも内在しているように思えた。
 しばし、言葉が途切れる。
 勢いのなくなった静かな雨音は、どこか葬送曲に似ていた。

「……我はソロモン72柱が一柱にして、序列第二十四位の大悪魔ナベリウス」

 胸に手を当てて、彼女は己が真名を口にする。
 ねえ、ダンタリオン――もしもあの日、あなたがバアルの言葉を素直に受け入れていたら、もっと違う結末もあったんじゃないかな。

「我はソロモン72柱が一柱にして、序列第七十一位の大悪魔ダンタリオン」

 唇を歪めて、彼は己が真名を口にした。
 それは今際の際とは思えない、まるで迫りくる”死”そのものすら楽しんでいるかのような、いかにも彼らしい態度。
 だからこそ彼女は、冷厳とした顔つきのまま言葉を続ける。

「我らが王なるソロモンの使途として、敬愛する同胞として、今こそ汝に永遠(とわ)の眠りを与えよう」

 静止歯車なんて呼ばれたあなたには、わたしの絶対零度は相応しくないかもしれないけど。
 きっとあなたのことだから、最期のときまで気持ち悪いことを言って、わたしを困らせるんだろうけど。
 それでも、これからはもうあなたと喧嘩もできないのだと思うと、やっぱり一抹の寂しさを覚えるから。

「受諾する。畏敬すべき王なるソロモンの使途として、汝の手により我が歯車を停止させよう」

 これでまた、ソロモンの同胞が散ってしまう。
 わたしを知る者が、バアルを知る者が、この世から消えてしまう。

「貴女になら、いいでしょう」
「……え?」
「敬愛する女性の手にかかって逝けるのです。男にしてみれば、これ以上の結末はない――と、きっとあの男なら、そんな言葉を口にしたでしょう」
「……あはは」

 思わず乾いた笑いが漏れた。

「よりにもよって、あんたがそれを言う? 相変わらず気持ち悪いわね、ほんと」

 わたしは、この男の、こういうところが気持ち悪いと思う。なんていうか、生理的に無理って感じ?
 いくら言い寄られても、世界でたった一組の男女になっても、恋とか愛とか、そういうロマンチックなものは芽生えないんじゃないかな。
 でも。

「でも――あんたのそういうところ、わりと嫌いじゃなかったなぁ」

 無邪気な子供がはにかむように、ナベリウスは微笑んだ。
 かつての同胞は、こうして最後の袂を分かつ。
 黄金の大悪魔は、白銀の大悪魔の手によって、果てなき天へと還った。
 ナベリウスは雨に打たれながら、鈍色の雲に覆われた空を仰いだ。

「……ばいばい、ダンタリオン。また地獄で会いましょ」

 その言葉が届いたかどうかは分からない。
 だがあれだけ勢いよく降っていた雨は、もう間もなく止もうとしていた。


****


 ダンタリオンに関する一連の事件は、表沙汰になることなく闇に葬られた。
 各社報道局に規制を敷き、警察の上層部に圧力をかけ、《青天宮》の失点を死に物狂いで挙げようとする公安を抑えるなど、さまざまな組織を上手く宥めることで、うまく全体のバランスを取った者がいた。

「武装した暴力団が公共施設に乗り込んだ件、大手商社のビジネスビルが爆破された件、浅ヶ丘と呼ばれる高級住宅街にある武家屋敷が爆破ならびに倒壊した件――他にもまだまだあるな」

 不機嫌そうな若い女性の声が響く。

「幹線道路沿いのホームセンターに至っては、三週間にも渡る改修工事が必要だ。凍結した深往橋の一時的な封鎖、大破した自動車の撤去、局地的な交通規制とそれに伴う周辺店舗からのクレーム対応などもある。耳ざとい検察や行政のほうにも細かな根回しをした。まったく、金の無駄遣いだとは思わないか。まだ飢餓の国に募金したほうが建設的だろうよ。まあ【哘】のご老体が出張るのを抑えられただけでも僥倖か。地獄耳だからな、あのクソババアは」

 そこは国内でも有数の高級ホテルだった。政財界の要人や、国外からの招待客も頻繁に利用するという性質上、常に物々しい警備が敷かれている。
 天井には豪奢なシャンデリアがまばゆい明かりを放っており、足元には赤い毛並みの絨毯、他にも大理石などを初めとした高級石材が使われている。全体的に人工的な美しさを追求した造りになっているが、ところどころに置かれた観葉植物と、ロビーの中央に設けられた豪奢な屋内噴水が、ほどよい塩梅で自然の安らぎをもたらしていた。
 ロビーラウンジにあるソファに、女性がひとり腰掛けている。
 一族からは【如月】という姓を、両親からは『紫苑(しおん)』という名を与えられた彼女は、ホテルの高価な調度類に見劣りしない美女だった。やや目つきが悪いことを除けば、非の打ち所がない顔立ちである。年齢は二十代後半。すらりとした肢体をパンツルックのスーツに包み、青みがかった長い黒髪はうなじのあたりで一房に結わえられている。
 まるでやり手のキャリアウーマンのような容姿の紫苑は、足を組んでふんぞり返り、すでに何本目かも分からないタバコを美味そうに吸っている。

「それにしても今回の一件は、金を湯水のように使ったことを除けば、なかなか面白いケースだった。《青天宮》の連中があれほど慌てたのはいつ以来かな。小耳に挟んだところによると、おまえんとこのガキ――たしか託哉と言ったか、そいつもずいぶんとやんちゃしたらしいな、瓜生雷蔵(うりゅうらいぞう)?」

 紫苑が問いかけた。
 彼女の対面のソファには、齢七〇にも届こうかという老人が腰を下ろしていた。この格式あるホテルにそぐう礼服。白く染まりきった髪をくしで撫でつけ、口ひげと顎ひげを短くたくわえている。老いているが恰幅はよく、身長は一八〇センチメートルほどありそうだった。柔和な顔つきはジェントルマンという言葉がよく似合う。

「そうですな。この雷蔵の目から見ても、託哉坊ちゃまは少々血気盛んに過ぎるところがあります。しかし男子はそのぐらいでちょうどよい、と御館様は申しておりました」
「その考え方は嫌いじゃないがね。ただ、あの街は【高臥】のお膝元だ。わたしとしてはあまり重国殿の機嫌を損ねたくない。それに《参波》の連中もいるしな。参波清彦といえば、重国殿の側近中の側近だろう?」

 ため息混じりに紫苑が言うと、雷蔵は過去を懐かしむように目を細めた。

「参波清彦。懐かしい響きですな。あの《参波》の青二才と最後に会ったのは、もう十六年ほど前になりますか」
「十六年前というと、ちょうど《大崩落》の末期か。……そうそう、《大崩落》で思い出したけど、おまえ《音無し》と呼ばれた男のことは知ってるか? 現在は冴木と名乗っていたらしいが」

 雷蔵がかすかに息を呑む。

「知っているも何も、かつて《音無し》とは三度に渡って殺し合ったことがあります。ですがあの男は、もう十年以上も前に亡くなったと聞き及んでおりましたが」
「それが生きていたんだよ。まあ今回の一件で、今度こそ死んだらしいがね」
「……そうですか。それは惜しい男を亡くしました」

 悲しげに目を伏せる雷蔵。紫苑には、それが死者に対する黙祷のように見えた。
 それからも二人は、誰もいない深夜のロビーラウンジで事後処理に関する話を交わした。

「さて、話は以上だ。質問はあるか?」

 一通りの話が終わったあと、紫苑がつぶやいた。

「いいえ、ございません。紫苑様のお噂はかねがね耳にしております。貴女様の手腕に不手際などありますまい」
「どうもありがとう、と言いたいところだが、《凶犬》なんて時代錯誤も甚だしい異名を持つ男に世辞を言われても嬉しくないね」
「いやはや、お恥ずかしい。昔の話です」
「そうか? おまえほどの男が、なぜ《玖凪》の番犬をやっているのか理解に苦しむよ。おまえさえよければわたしの下に来ないか。破格の待遇で扱ってやるぞ」
「ご冗談を。貴女のようなお美しい女性に、この老いぼれは映えませぬ。どうかご再考を」
「世辞だけでなく謙遜も上手いようだな。まあいい。気が変わったならいつでも連絡しろ」

 紫煙をくゆらしながら面倒くさそうに手をぷらぷらと振る紫苑に、雷蔵は畏まって一礼した。
 如月紫苑と、瓜生雷蔵――この二人のあいだには年の功による序列がなかった。それを証明するように紫苑は尊大な態度を崩さないし、雷蔵は自分の半分も生きていない小娘に礼を忘れない。
 なぜなら、そもそもの身分が違うからだ。
 紫苑の生家である【如月】は、十二大家のなかでも最大の規模と勢力を誇ると目される家系。たかが一介の使用人に過ぎない雷蔵とは隔絶した差がある。

「もうあらかた話は終わったな。この際だから、おまえに一つだけ聞いておきたいことがある。ここから先は、まあ仕事というよりは趣味の範疇なんだがね」 
「私めに答えられることなら何なりと答えましょう、ミズ紫苑」
「結構。実は前から気になって個人的に調べてたことがある。そのことについてだ」

 雷蔵は余計な口を挟まず、じっと彼女の声に耳を傾けている。

「まずは事実確認をしておこうか。おまえら《武門十家》と呼ばれる連中は、壱識、弐伊(にい)、参波、肆条、伍瓦(ごがわら)、陸崎(ろくざき)、漆坂(しちさか)、捌宮(はちみや)、玖凪、そして零月(ぜろづき)の合わせて十の家系から成る。ただし零月だけが《大崩落》のときに壊滅し、絶滅したため、現在の《武門十家》は事実上、九の家系から構成されている。そうだな?」
「仰るとおりでございます。さすがは紫苑様。卓見であらせられますな」
「だから世辞はいらんと言っただろう。まあいい、ここからが本題だ。《零月》が滅んだ理由は、おまえら《玖凪》との抗争に敗れたからだと聞いている。これも間違いないな?」

 その問いかけに、雷蔵ははっきりと頷いた。

「なるほど。やっぱりそうか。じゃあもうひとつだけ聞くけど――」

 そこで一旦言葉を止めて、紫苑は雷蔵に視線を集中した。


「零月の血を引く最後の生き残りがいて、しかも、そいつをどこかのだれかがかくまってるって話、知ってるか?」


 沈黙は、一瞬。
 すぐに雷蔵は首を横に振った。

「さあ、なんのことやら。この雷蔵にはさっぱり分かりませぬ」

 いまの紫苑には、雷蔵が穏やかな老人ではなく、老練な古強者に見えた。
 紫苑は人の心理を読むことには自信があったのだが、どうにも雷蔵の内面だけは覗けなかった。
 だから彼女は、カマをかけてみることにした。

「とぼけるなよ。おまえらが、《零月》の生き残りをかくまってるんだろう?」
「申し訳ありませんが、私は知りませんな」
「果たしてそうかな。前々からおかしいとは思ってたんだよ。その最たるものが、おまえらのせいで無駄に騒ぎが大きくなった先の抗争、《大崩落》だ。あれは裏社会の勢力図を瓦解させ、表社会の経済に深刻なダメージを与えるほどの抗争だった。だがどれだけ調べても、《大崩落》が起こった原因は判然としない。もちろん、ある程度の推測はつくがね」

 あれだけの抗争なのだ。その発端となった出来事が、後世に伝わっていないのはどう考えてもおかしい。だから《大崩落》についてのあれこれを知られると困る何者かがいて、その何者かが意図的に情報を秘匿していると考えるのが自然。

「これは私見だが、《大崩落》を引き起こしたのは――」

 言いかけて、紫苑は口をつぐんだ。
 もし自分の見解が正しかったとしても、推理を裏付ける証拠がなかったら、それは小娘のたわごととなんら変わらない。無為に手のうちを晒すのは止めたほうがいいだろう。
 ここで彼女が真実を言い当てても、それを立証することができない以上、得をするのは『紫苑が真実を知っている』という事実を知ることになる雷蔵だけ。

「……いや、止めておこう。いまの話は忘れてくれ、瓜生雷蔵」

 面倒だな、と紫苑は思った。現状の手札では、この老人からこれ以上、話を聞きだすのは無理そうだ。
 タバコを灰皿に押し付けて揉みけし、彼女は立ち上がった。

「もう行ってしまわれるのですか、ミズ紫苑?」

 続いて腰を上げた雷蔵が尋ねた。

「ああ。おまえの口をこじ開ける自信がないわけでもないが、それにも時間がかかりそうだ」
「それはどうでしょうな。老いても私は男です。貴女のような女性から口説かれれば、一晩と待たずにうっかりと口を滑らせるかもしれませんよ」
「相変わらず世辞と謙遜の上手い男だな、おまえは」
「畏れ入ります」

 うやうやしく礼をする雷蔵に、紫苑は背を向ける。

「そうそう。言い忘れていたが、近日中に法王庁の連中が来日する予定だ。これからはおまえと仕事することも増えるだろうね」
「存じております。なんでも異端審問会における特務分室、その室長が直々にお出でになるとか」
「らしいね。聞くところによると現在の室長は、まだ二十歳にも満たない女子だって話だが、果たしてどうなることやら」

 おそらくその”室長様”とやらをもてなさなくてはいけない紫苑としては、ため息が漏れるのを抑えることができなかった。

「……まあいいさ。これも点数稼ぎの一環だ。一族の能無しどもや、あのクソ兄貴をいずれ顎でこき使ってやるためには、いまのうちに苦労を背負い込んだほうがいい」
「心中をお察しします」
「否定はしないんだな、わたしの一族の者どもが能無しであるという事実を。もしや瓜生雷蔵殿は、【如月】に喧嘩を売っていらっしゃるのかな?」
「さあ、この老いぼれには小難しい話は理解できませんな。ただひとつ言えることは、男が困ったときは美女の味方をすればいい、ということのみです」
「真理だね」

 今度こそ紫苑は歩きだす。

「ではな、わたしは行くぞ」

 王者の風格さえ漂うような、貫禄のある姿。ロビーラウンジの端に控えるホテルマンが、業務も忘れて彼女に見蕩れる。如月紫苑は、人を惹きつける魅力に溢れた女性だった。
 頭を下げ続ける雷蔵を残し、紫苑はそのホテルをあとにした。




[29805] エピローグ:御影之石
Name: テツヲ◆c49d9b75 ID:366fa69a
Date: 2012/03/16 13:24
 大切なものは失って初めて気付く、とはよく聞く言葉だが、わざわざ失わずとも、すこし距離を置いただけでそのありがたみが分かるのだから不思議なものだ。
 今回、俺が”大切”だと再認識したものは、なんの変哲もない『日常』だった。
 すべてが終わったあと、萩原邸の自分の部屋でぐっすり眠り、夜明け前に目覚め、シャワーを浴びて、リビングでコップ一杯の牛乳をごくごくと飲んだとき、ふと俺はたまらなく学校に行きたくなってしまった。
 退屈だと思っていた『日常』も、こうして改めて触れてみると、それがどれだけ貴重なのか思い知らされる。まあぶっちゃけもうすぐ期末試験だから、俺には休んでるヒマなんてないんだけど。

「夕貴様。どういうことなのか、もう一度だけ説明していただきたいのですが」

 繰り返すが、俺には休んでるヒマなんてない。
 まだ日が昇って間もない頃の萩原邸のリビングには、清々しい朝とは思えないほどの重苦しい空気が流れていた。
 天使のような微笑を浮かべる菖蒲から目を逸らし、俺はダイニングテーブルを見つめながら訥々とつぶやく。

「……い、いや、だから……美影、を……」
「美影? これは驚きました。夕貴様は出会って間もない女性を下の名前でお呼びになるのですね。さすがです。感心いたしました」
「壱識さん! 壱識さんだ!」
「そうですね。べつに菖蒲に他意はこれっぽっちもないのですけれど、夕貴様はそのほうがよろしいかと存じます。それではもう一度お伺いしますが、夕貴様は、壱識さんをどうするおつもりなのでしょう?」
「その……なんていうか……」
「はい。どうぞ遠慮なく仰ってください」
「……えっと、だから」
「いいですか、夕貴様?」

 俺の声を遮って、彼女は告げた。

「菖蒲は賢くありませんので、『いや』とか『だから』とか『その』とか、そういう曖昧な言葉だけでは夕貴様がなにを仰りたいのか分かりません。もっと大きな声でお願いしてもよろしいでしょうか」

 うわぁ、怒ってる。
 めちゃくちゃ怒ってる。
 顔立ちが整っている分、怒ったときの凄みも半端じゃないんだよな……。

「……ふわぁ」

 だらだらと冷や汗を流す俺のとなりでは、美影がのんきにあくびをかましている。この修羅場と言っても過言じゃないシチュエーションを、まったく意に介さない図太さは見習いたいところだ。
 美影に思いっきりデコピンしたい欲求を抑えて、俺は説得を続けることにした。

「……あのな、菖蒲」
「はい」
「じ、実は今日から……」
「はい」
「……ここにいる壱識美影が」
「はい」
「この家で暮らすようになった、というか……」
「…………」
「いやまて誤解するなよっ!? 俺と美影のあいだにやましいことは何もないからな!? ただ、この家には空いている部屋がいっぱいあるから、そのうちのひとつを美影に貸してあげようって話なんだ! ……ここまではいいか?」
「はい、いいですよ。もう分かっちゃいましたから。しょせん菖蒲は、夕貴様にとって都合のいい女というやつなのですよね。ええ、大丈夫です、自分でもじゅうぶんに理解していますから」
「……おーい」
「夕貴様ときたら、菖蒲が真心を込めて送ったメールを余裕で無視なさいますし、ずっと連絡が取れないかと思えば、壱識さんのようなとても可愛らしい女の子を連れ帰ってきますし……菖蒲はこんなにも愛しい想いを抱えていますのに、夕貴様はちっとも理解なさってくださらないご様子……」
「…………おーい」

 頬を膨らませてぶつぶつと独り言をつぶやく菖蒲。さっきまでは怒っていたのだが、いまはどちらかというと拗ねているらしい。
 もちろん、俺だって美影を萩原低に住まわせるのは賢い選択じゃないと思う。
 ただ、これには深い事情と、致し方ない理由がある。
 美影が住んでいたアパートは跡形もなく燃えてしまったので、彼女には『年頃の女の子が一人暮らしをしてもいいような環境の新居』が必要だった。
 ここで真っ先に候補に挙がるのが、俺たちの住む萩原邸。
 びっくりするぐらい男らしい長男がいて、無駄に個性豊かな同居人がいて、最高の母親がいて、いくつも空き部屋があって――そんな好条件にもほどがある物件が、美影の鼻先に転がっていた。
 新たな同居人が増えることは、心から賛成できなかった。でも美影と千鳥さんの親子関係を意地でも改善させてやるんだと目論む俺にとって、それは決して悪い選択ではない。常日頃から、美影に『お母さんの大切さ』を説きまくってやるのだ。
 それがお節介なのは承知しているが、こればっかりは萩原夕貴という人間の性分なので直しようがない。子供とお母さんは仲良くするのが一番なんだから。
 そしてなにより、冴木さんから頼まれたんだ、美影のことをよろしくねって。だったら美影が萩原邸に住みたいと望む以上、空いている部屋を貸し与えるぐらいはしてやりたいと思う。

「ところで、壱識さん。ひとつお伺いしたいことがあるのですが、よろしいですか?」
「……?」

 菖蒲は見るからに不安そうな顔で、俺ではなく美影に声をかけた。聞くところによると、この二人はクラスメイトだという。俺はよく事情を知らないのだが、当人たちには複雑な葛藤があるのかもしれない。

「ずっと気になっていたのですが――壱識さんはわたしの夕貴様とどういったご関係なのでしょうか?」

 気のせいかもしれないけど、なんか『わたしの』がちょっと強調されていたような……。
 美影は、逡巡する間もなく答える。

「一夜を共にした関係」
「はぁ……!?」

 予想の斜め上をいく答えに、俺は思わず立ち上がっていた。ちなみに菖蒲は笑顔のまま固まっている。

「夕貴、どうかした?」
「どうかするに決まってんだろバカ! おまえ自分がなにを言ったか分かってんのか!?」
「一夜を共にした関係」
「繰り返すなっ! いらん誤解を招くだろうがっ!」

 たしかに俺とおまえは一夜どころか二夜も三夜も共にしたけど!
 でもさすがに言い方ってもんがあると思う。これじゃあ勘違いされてもおかしくない。とは言え、菖蒲は頭のいい子だから、美影のアホが口走った言葉の裏に隠れた真実にも気付いてくれるはずだ。

「……夕貴様。おそらく言葉にするまでもないと思いますが、菖蒲は夕貴様のことをお慕いしております」
「あ、あぁ、もちろん俺も……」
「ですが、どうやら菖蒲の愛は一方通行だったらしいことが、今回の一件でわかりました」

 そそくさと立ち上がった菖蒲は、かるく身だしなみを整えたあと、ぺこりと頭を下げた。

「いままでお世話になりました。実家に帰らせていただきます」
「ちょっと待てぇぇぇぇぇーっ!」

 歩み去ろうとする菖蒲の腕をつかんで、こちらに引き寄せる。淡い柑橘系の香り。柔らかな肌の感触が手に懐かしかった。

「違うんだ菖蒲! 俺の話を聞いてくれ!」
「嫌です! 菖蒲はもう実家に帰るのです! 夕貴様みたいな変態さんのことなんて知りませんっ!」
「だから落ち着けって! さっきのは誤解なんだ!」
「……誤解? ではお聞きしますが、夕貴様は壱識さんと一夜を共にしなかったのですね?」
「ま、まあ、共にしたっちゃあ共にしたけど……でもそれは」
「お世話になりました」
「待て待て待て待てー!」
「待ちません! もう菖蒲のことは放っておいてください!」

 子供みたいに駄々を捏ねる菖蒲をなんとか宥めようと試みるが、大体にして往々、こういうときの男の言葉ほど信用できないものはなかったりするのだ。
 泣きわめく菖蒲を羽交い絞めにしながら、俺は美影を見た。本人にもこの修羅場を作り出したという自覚はあるだろう。きっと菖蒲を落ち着かせるための手伝いをしてくれるはず――

「……ぐう」
「なに寝てんだてめえコラぁぁぁぁっー!」

 まあ美影に期待するほうが間違ってるよな、やっぱり。
 騒がしい日常に辟易しながらも、『あー、やっと戻ってきたなー』と心のどこかで安堵している自分がいるのも確かである。
 ただ、俺は嬉しい。これまで友達らしい友達のいなかった美影が、ナベリウスや菖蒲とぎこちないながらも楽しそうに過ごしている姿を見るのは。
 そういや、冴木さんも言ってたっけ。

 ――萩原くん。君さえよければ、これからも美影ちゃんと仲良くしてあげてくれないか。あの子には恋人はもちろん、世間話を交わせるような友達すらいないからね。きっと萩原くんとの出会いが、美影ちゃんの心境に何らかの変化をもたらすだろう――

 俺との出会いが、美影にとってプラスに働いたかどうかは分からない。
 でも冴木さんとの約束が果たせそうだから、俺はこの選択に後悔はしていない。

 ――萩原くん。美影ちゃんを、よろしくね――

 それが冴木さんが俺に残した、最後の言葉。
 あの人は自分の命が燃え尽きる寸前でさえ、美影のことを一途に想っていたんだ。冴木さんの想いと願いは、彼が生涯に渡って持ち続けた御影石とともに、俺に託されたんだ。
 だから俺は、自分にできることをする。冴木さんの代わりに美影を見守っていく。
 男と男が交わした約束なら、最後まで黙って守ってみるものだ。
 



 その日、午後の講義が休講となった俺は、『でかいと噂の萩原邸に行ってみたい』と会うたびに口にするうっちーや委員長と別れて、ひとりで岐路に着いた。
 お昼をすこし回った頃、作りたてのお粥をトレイに乗せて、ナベリウスの部屋に向かう。

「入っていいか?」

 ノックをすると、すこしの間をおいて「いいわよー」と間延びした声が返ってきた。三日ぐらい前に、なんの許可も取らずに入室した俺は、ナベリウスが汗を拭いているところをモロに見てしまった。それ以来、かならずノックをするようにしている。

「調子はどうだ? ……って、もうほとんど大丈夫そうだな」

 ナベリウスはベッドの上で上半身を起こして窓のそとを眺めていた。いつもは裸に男物のワイシャツというアホみたいな寝間着なのだが、いまは大人しく水色のパジャマを着ている。

「大丈夫もなにも、元からわたしに療養する必要なんてなかったんだけどね」

 肩にかかった銀髪を背中に流すナベリウス。明らかに不機嫌そうである。
 俺はお粥をテーブルに置き、ベッドの端に腰掛けた。

「嘘つくなよ。まだ顔色が悪いじゃないか。無理して強がらなくてもいいんだぞ」
「べつに強がってないわよ。わたしは真実しか口にしない女だし」
「はいはい。そういうことにしとくから、いまは大人しくしてろ」

 もう十日以上も前のことになるが、この街のオフィス街にある高層ビルで起きた爆発にナベリウスは巻き込まれた。そのときに負ったダメージ自体は数日と経たずに治癒するような、言ってしまえば人間でいう捻挫レベルの怪我だったらしいのだが、その回復を待たず、彼女はダンタリオンと交戦した。
 足の関節が炎症を起こしているのに運動すれば、完治が長引くどころか、怪我そのものが悪化するのは自明の理。つまりナベリウスは俺を助けるために、傷ついた身体に鞭を打ったのだ。その代償を、彼女はいま支払っている。

「そのお粥、夕貴が作ってくれたの?」

 腕を組んで顔を背ける、という実に分かりやすい拗ね方をしていたナベリウスが、白い湯気を立てるお粥に注目した。

「あぁ、そうだけど。もしかして食欲なかったりするか?」
「ううん、ちょうどお腹減ってたところよ」
「じゃあよかった。遠慮せずに食えよ」
「えー夕貴が食べさせてくれないのー?」
「そんな女々しいことできるわけないだろ。ワガママ言ってないで自分で食べろ」
「やだやだー! 夕貴が食べさせてくれないとやだー!」
「ガキみたいに駄々こねるな!」

 彼女は長い手足をばたつかせ、均整の取れた肢体をくねらせた。その暴れた反動でパジャマがはだけて、かたちのいい谷間があらわになった。かすかに汗ばみ、ほんのりと紅潮した柔肌。
 慌てて俺が目を逸らすと、当の本人は恥ずかしがるどころか、にんまりと新しいおもちゃを見つけた子供のような笑みを浮かべた。

「あれ? 夕貴、ちょっと顔が赤いけど、いったいどうしたの?」
「う、うるさいな。俺のことなんかどうでもいいだろ。それよりもパジャマのボタンを閉めろよ」
「いやよ。だって全部閉めたら息苦しくなるじゃない。ほら、わたしって菖蒲ほどじゃないけどおっぱいが大きいから、こういうときは邪魔になるのよね」
「分かった分かった、ほんとに分かった。もう分かったから、とりあえず乱れた服を直してくれ!」

 思いっきり下を向いて、彼女の姿そのものを視界から外す。
 それが間違いだったと知るのは、実に二秒後のことだった。

「もうっ、夕貴ちゃんの照れてる姿、ほんとに可愛いんだから!」
「――うえっ!?」

 ナベリウスの細くてしなやかな両腕が伸びて、俺の首に巻きついたかと思うと、次の瞬間にはぐいっと引っ張られていた。
 彼女は俺をぎゅーっと抱きしめた――それはつまり、ナベリウスの胸元にある豊かなふくらみが、俺の顔面にこれでもかと押し付けられてしまったわけで。
 頭がくらくらするほどの甘やかな匂いが、胸いっぱいに広がる。それはボディーソープや柔軟剤だけでは説明できない、彼女自身の香り。ほのかに鼻腔をくすぐる汗の匂いが、また心地よかった。
 思わず弛緩しかかった全身に活を入れて、俺は脱出を試みる。

「ちょっ、おいっ、アホっ、はなせっ!」
「そんなに暴れないでもいいじゃない。このわたしに抱きしめられる喜びをもっと味わったらどう?」
「知るかバカ! とにかく離せ! 話はそれからだ! 熱いお粥がおまえを待ってるんだぞ!」
「んもう、つれないなぁ。言っとくけど、ナベリウスちゃん自慢のおっぱいに触れる男なんて、夕貴ぐらいしかいないんだからね?」

 すこしだけ寂しそうな声。
 でもこいつの胸ってマジで柔らかくて、温かくて、いい匂いがするんだよな……乳房の中身がぱんぱんに詰まっているというか、表面がぷりぷりに張ってて、しかも揉んだときの感触が半端じゃなく気持ちいいし……。
 実際、こうして頬に当たる乳肉は、理性を焼ききってしまいそうになるぐらい魅惑的で……はっ、なに惑わされてるのだ、俺は!?

「分かった! 俺がお粥を食べさせてやる! だからもう助けてくれー!」
「うん、わかった。それで譲歩してあげるわ」

 解放された俺は、すばやく距離を取って、大きく深呼吸をした。もうこいつには惑わされないぞ。
 それから数分後、ようやくパジャマのボタンをしっかりと留めたナベリウスに、俺はお粥を食べさせてやっていた。

「……ほら、口開けろよ」
「あーん」

 ナベリウスはとても満足そうな顔だった。俺がスプーンを口元まで運ぶと、彼女は「はむ」と食いつき、じっくりと味わうように口を動かしてから呑み込んだ。

「味はどうだ? 個人的には上手くできたと思うんだけど」
「なに言ってるのよ。美味しいに決まってるじゃない。夕貴がわたしのために作ってくれたものが、不味いわけないし」

 やべえ。
 なんかめちゃくちゃ照れるんだけど。

「はい次、あーん」
「……ったく」

 なにが楽しいのか、ナベリウスはにこにこしながらおねだりしてくる。スプーンを口元に運ぶと、やはり彼女は「はむ」と小鳥がついばむようにお粥を口にするのだった。

「……うん、美味しかったわ。ありがとう、夕貴」

 最後の一口を食べ終えると、ナベリウスははにかむようにして笑った。その顔色は、食事を始める前よりも幾分か良くなっているように見えた。

「んー、なんかご飯食べたら、身体が熱くなってきちゃった」
「そりゃあ人間には代謝ってものが……いや待てよ、そもそも悪魔って人間とおなじように代謝するのか……?」
「さあ、どうかしら?」

 実際、栄養を摂ったことにより代謝熱が生じて、わずかに体温が上がっているのだろう、ナベリウスはパジャマの胸元をぱたぱたと扇いでいた。汗ばんだ首筋に絹のような銀髪が張り付いている光景は、なんとも扇情的である。

「――っておまえ、なんでまたパジャマのボタン外してんだよっ!」
「だって熱いんだもん。仕方ないじゃない」

 そうこう言っているあいだにも、かたちのいい谷間がちらちらと見えている。ナベリウスが身じろぎするたびに、弾力のあるふくらみが上下左右にぶるんぶるんと揺れたりもしている。
 ていうか、こいつまさか……?

「気付いた? わたし、ノーブラよ」
「の、ノーブラ……だと……?」

 それは無条件に男を惑わす、魔法の言葉。
 ナベリウスは上半身を前傾させ、上目遣いで俺を見つめてくる。ほのかに赤らんだ頬も、だらしなくはだけた胸元も、半開きになった唇から漏れる甘い吐息も――この妖艶な姿を目の当たりにして、我慢できる男がいるとは思えない。

「夕貴さえよければ、揉ませてあげよっか?」

 それはまさしく悪魔の囁きだった。

「い、いいのか……?」

 あの、たわわに実った乳房を好きなだけ揉みまくりたい、という邪悪な欲望が、いま俺のなかで鎌首をもたげていた。
 赤い舌で、くちびるをチロリと舐めて、彼女は微笑む。

「ええ。わたしの身体、夕貴の好きにしていいから」

 それは間違いなく、男が女の子から生涯で一度は言われたい台詞ベストスリーには入るであろう言葉だった。

「じゃ、じゃあ……ちょっとだけ」
「ちょっとでいいの?」
「……えっと、やっぱり一分だけ」
「一分でいいの? 本当に?」

 なんだかナベリウスのてのひらで踊らされているような気がする。
 こうして最終的には『先っぽだけ……』とか口走ってしまうのだ、俺という男は。
 しかし悪魔がいれば、当然天使もいるわけで。

『ナベリウス様? 菖蒲です。新しいパジャマをお持ちいたしました』

 コンコン、と扉がノックされる。
 その乾いた音と菖蒲の優しい声が、俺を悪魔の誘惑から救ってくれた。
 我に返った俺は、動悸の激しい胸を押さえながら頭のなかで九字を切っていた。その間、ナベリウスは「ちっ、いいとこだったのに……」と悪者にしか見えない顔で舌打ちし、「わざわざありがとう。入っていいわよ」と廊下で待っている菖蒲に入室を促した。
 一拍置いて、扉がひらく。

「失礼します。ナベリウス様、こちら、お洗濯したばかりのパジャマです。柔軟材の香りと、お日様のいい匂いが……」
「よ、よお菖蒲。ご苦労様。学校から帰ってたんだな」

 手をあげて挨拶すると、菖蒲はきょとんとした顔で小首をかしげた。

「はあ、ありがとうございます。もうテスト前ですから授業は午前で終わりなのですが……あの、ところで夕貴様は、どうしてそんなにお顔が赤いのでしょう? それに息も乱れていらっしゃるようですし、ナベリウス様に至っては着ているパジャマが大きくはだけていますし、これではまるで……」
「エッチをした直後みたい、と言いたいの、菖蒲?」

 そのナベリウスの発言とともに、身の危険を感じた俺はベッドから飛びすさり、菖蒲は両手に抱えていたパジャマをフローリングに落としてしまった。

「し、失礼しました」慌ててパジャマを拾いながら、菖蒲は問いかける。「あ、あの、ナベリウス様? それはご冗談、ですよね?」

「さあ、どうかしら? ていうか菖蒲、”それ”ってなに? ちゃんと言葉にしてくれないと分からないんだけど」
「ですから…………え、エッチ…………をした、というのは、ご冗談なのですよねっ?」
「悪いけど、声が小さくてよく聞こえなかったわ。ねえ夕貴?」
「ここで俺に振るなよ! 俺とおまえは何もしてないだろうが! 菖蒲をからかって遊ぶのは止めろ! こいつはおまえと違って純粋なんだよ!」

 すでに菖蒲は涙目になっていた。「うぅ……」と小さく唸りながら、俺をじっと見つめている。
 でもちょっぴり泣いてしまった菖蒲を見て、『慰めよう』ではなく『可愛らしい』と思ってしまう俺は、男として失格なのかもしれない。

「……あら?」ナベリウスが身を乗り出して、菖蒲の背後を覗き込んだ。「ヘンな気配がするかと思えば、美影ちゃんじゃない」

 扉の内側に立つ菖蒲の後ろ、つまり扉の外側である廊下に美影が立っていた。美影は壁に身体を隠して、頭だけをぴょこと覗かせている。その顔には、やはり警戒心がありありと浮かんでいた。

「……み、美影ちゃんって呼ぶなっ」

 ちょっとだけ声が震えていた。まるで天敵に怯える小動物のようである。

「照れないでもいいじゃない。わたしたちは一つ屋根の下に住む家族なんだから」
「むー」
「それともなに? 力づくでわたしを黙らせてみる?」
「ち、近づくなっ」

 美影は突き出していた頭を完全に引っ込めた。それから俺たちが黙って扉のほうを見つめていると、またそーっと顔を出し、ナベリウスと目が合った途端、やはり慌てて壁の影に隠れてしまう。

「……おい、あんまり美影をいじめてやるなよ」
「いじめてなんかないわよ。これも一種のスキンシップなんだから。ねえ菖蒲?」
「いえ、わたしに振られましても……」
「まあこんなの軽いものよ。さっきまでわたしと夕貴がしてたスキンシップは、もっと激しかったし」

 菖蒲の身体が、びくん、と弱めの電流を受けたかのように跳ねた。明らかに憤懣やるかたない様子である。
 菖蒲が抱える葛藤をきちんと理解したうえで、ナベリウスは自分の身体を両腕でかき抱いた。

「あ、やだ、まだおっぱいのところに夕貴の感触が……」
「夕貴様のバカー!」

 涙に濡れた顔を手で隠して、菖蒲は背を向けた。

「やっぱり菖蒲は都合のいい女だったんです! 夕貴様は、ベッドのうえでタバコを吹かしながら、明日の予定を聞く菖蒲に『ま、気が向いたら連絡してやるよ』なんて鬼畜さんみたいなことを言うんです! とにかく夕貴様はヘンタイさんなんですー!」

 止める間もなく、菖蒲は意味不明なことを口走りながら、自室のほうに走り去っていった。
 気付けばとうに美影の気配も消えていて、残されたのは俺とナベリウスと、そしてテーブルのうえに置かれた新しいパジャマだけになってしまった。

「なんでこうなるんだ……」

 あとで菖蒲を慰めにいかないと……でもあいつ、俺を部屋に入れてくれるかな……。

「はぁー、スッキリした。それじゃおやすみー」頭まで毛布を被って逃げようとするナベリウス。「おい待てこのクソ悪魔」俺は有無も言わせず、強引に毛布を剥ぎ取ってやった。

「おまえのせいでまた菖蒲が機嫌を損ねちまったじゃねえか。この責任はどう取ってくれるつもりだ?」
「分かったわよ。じゃあナベリウスちゃん自慢の身体で……」
「もうそのネタはいいよ!」

 やっぱり病人であっても、ナベリウスは厄介ごとしか生み出さないな。当の本人は唇を尖らせながら「ネタじゃないのに……」とつぶやいていた。
 それから俺は、食器を載せたトレイを持って、部屋から出ようとした。

「……ねえ、夕貴」
「ん?」

 不意に服の裾をくいっと引っ張られたので、仕方なく立ち止まる。

「なんだよ。どうした?」

 怪訝に思って問いかけると、彼女はすこしだけ恥ずかしそうにしながら、

「……もうちょっと一緒にいてよ。ダメ?」

 そんなバカみたいなことを聞いてくるのだった。
 さっきまでは小悪魔全開だったのに――いまの彼女は、小さな子供のように弱々しく、不安げな顔をしている。
 正直な話、しばらくナベリウスとは口も聞きたくなかったが、仕方なく、本当に仕方なく、俺はもう一度ベッドに腰掛けることにした。
 なんだかんだ言っても、こいつは病人なのだ。完全に元気になるまでは優しくしてやっても罰は当たらないだろう。もちろん全快したら、たっぷりと説教してやるけど。

「……しょうがないな。じゃあおまえが寝るまでここにいるから。それでいいだろ?」
「うん。ありがと」

 毛布で口元を隠すナベリウスの頬は、俺の見間違いでなければ微かに赤くなっているように見えた。
 それは以前と少しだけ変わった、萩原家の新しい日常だった。




 晴れ渡った青空と、照りつける日差し。気温はそこそこ高いが、さわやかな風が吹いているので、長袖でも半袖でも過ごせるような気持ちのいい日だった。
 なかなか部屋から出ようとしなかった美影を無理やり連れ出し、萩原邸の最寄駅から電車で三十分ほど揺られた先にあるそこは、古くからある墓地だった。お盆にはまだ早いので、ほとんど人はいない。ただ墓石がどこまでも並んでいるだけ。
 ここに冴木さんが眠っていることを教えてくれたのは、彼の最後を看取った田辺さんだった。表立った親戚のいない彼のお墓を誰が建てたのかは分からない。それを田辺さんは知っているようだったが、結局教えてくれなかった。
 しばらく閑散とした敷地内を歩くと、ひときわ真新しい墓石が目を引いた。その表面には『冴木家之墓』と刻まれている。
 ちょっと疑問に思った。
 ”冴木”というのは数多く存在する偽名のひとつに過ぎないはずだったのに、どうしてそれが墓銘として刻まれているのか――

「……ん?」

 持参した花束を供えようとして、俺は手を止めた。なぜなら、すでに花束がひとつ供えられていたからだ。どうやら俺たちの前にも誰かが訪れたらしい。
 まあ考えるのはあとにして、いまはお参りしよう。
 花束を供え、俺たちはしばし黙祷を捧げた。
 
「いい天気ね」

 ちょうど俺と美影がお祈りを済ませて顔を上げた瞬間、背後から抑揚のない女性の声が聞こえてきた。
 振り返って確かめるまでもなかった。

「……千鳥さん」

 艶やかな黒髪と、色白の肌。貴婦人めいた服装と、胸元に揺れる御影石のペンダント。思わずため息が漏れそうなほどの美貌。
 美影の実の母親である壱識千鳥さんがそこにいた。

「母親。ここでなにしてるの?」
「決まっているでしょう。お参りよ」

 千鳥さんは物憂げな顔で冴木さんのお墓を一瞥した。墓前には綺麗な花束がふたつ供えられている。ひとつは俺たちが持ってきたもので、そしてもうひとつはおそらく――

「萩原さん。あなたの家に、この子を住まわせると聞いたのだけど、いいのかしら」
「はい。俺の家は大きいですし、部屋もいくつか余ってますから」
「そう。面倒をかけるようで申し訳ないけれど、お金が必要なら、言ってくれれば用意するから」
「……えっと、反対しないんですか?」
「ええ。美影があなたに懐いているようだから」

 それは初耳すぎる。
 案の定、美影の顔に明らかな不機嫌が浮かんだ。

「母親。それ勘違い。私はべつに夕貴とかどうでもいい」
「つまり彼のことが好きではないのね?」
「うん」
「では彼のことが嫌いなのかしら」
「だから夕貴とかどうでもいい」
「なるほど。半信半疑だったけれど、これはまさか本当に……」

 かたちのいい顎に手を添える千鳥さん。それにしても相変わらず細かな仕草のひとつひとつが美影そっくりだな。

「萩原さん。どうやらこの子はあなたに懐いているみたいだから、これからも仲良くしてあげてくれないかしら」
「えっ」

 いまの会話のどこに、美影が俺に好意を示している要素があったんだ?
 千鳥さんの発言に納得できなかったのは俺だけではないらしく、美影は目を半眼にしてじとーと母を睨んだ。

「……母親。嫌い」
「そうやってムキになるところが怪しいのよ、美影。いい加減、学習なさい」
「むー」

 なんだか美影がいいようにあしらわれていた。
 でも俺は、壱識親子の会話を聞いていて、奇妙な違和感を覚えていた。駅前にある喫茶店で話したときよりも、千鳥さんの態度が柔らかいような気がするのだ。
 これは俺の勘違いかもしれないけど――千鳥さんは不器用ながらも、娘との距離を埋めようとしているように見える。もしかすると彼女の心境になんらかの変化があったのかもしれない。とは言え、この二人の関係は、まだまだ普遍的な親子と比べるとぎこちないが。
 しばらく話したあと、俺たちは解散することになった。もうしっかりとお参りはした。報告も済ませた。元気な美影の姿を、冴木さんに見せてあげることができた。あとは前を向いて、家に帰るだけだ。

「……それ」

 別れ際、千鳥さんが聞き取れるかどうかの小さな声でつぶやいた。彼女の視線は、俺の首にかかった御影石のペンダントに注がれている。

「……そうね。そのほうがいいのかもしれない」

 ふっと寂しげな微笑を浮かべた千鳥さんは、うなじのあたりに手をまわしてペンダントを外すと、

「美影。これを」

 それを娘に差し出した。
 美影はぼんやりとした目で千鳥さんと御影石を交互に一瞥してから、怪訝顔をあらわにする。

「……それ、母親が大切にしてたもの。どうして私に?」
「もう私には必要のないものだからよ。できることならあなたに受け取ってほしいと思うのだけど、だめかしら」
「……べつにだめじゃない」

 その突然の提案を、美影はかなり不審に思っているようだったが、しばらく逡巡した彼女は、結局ペンダントを受け取った。

「付け方、分かる?」
「ううん」
「貸してみなさい」

 これまで親子らしい触れ合いのなかった彼女らをいま繋いでいるのは、ひとつの小さなペンダントだった。
 ふと空を見上げると、そこには雲ひとつない見事な晴天が広がっていた。
 美影には千鳥さんがいるように、俺にも大切な母さんがいる。
 もしかしたらいまこのとき、母さんが俺と同じように空を見上げているのかもしれないと思うと、不思議と心は温かくなる。
 母さんと離れている俺ですらこうなのだから、互いに触れ合える距離にいる美影と千鳥さんの心はもっと温かいのだと、そう信じたい。
 かつて冴木さんと千鳥さんを繋いでいた石はいま、冴木さんが護り、千鳥さんが名付けた少女に受け継がれた。

 それは母親が幼い頃から胸に抱いていた”名(みかげ)”と、父親が生涯を賭けて貫き通した”意志(いし)”。

 柔らかな風が吹く。俺の首にかかったペンダントが、冴木さんから託された御影石が、それと同じ名前をした少女に手を振るかのように、小さく揺れた。
 まるで冴えない風貌をしたあの人が、愛する少女に何かを告げているみたいだと思った。”美影ちゃん、お母さんと仲良くするんだよ”。まあたぶん、そんなところだろう。
 俺は墓前に向けて、心のなかでつぶやいた。
 冴木さん。あなたの娘は、今日も元気ですよ。




 [弐の章【御影之石】 完]




 小鳥のさえずりと、無邪気な子供たちのはしゃぐ声が、のどかな空気に拍車をかけている。
 抜けるような青空を一度だけ見上げてから、彼女は足元に視線を落とす。お世辞にも綺麗にされているとは言えない、こじんまりとした墓がそこにはあった。

「遅くなってごめんね。心の整理をつけるのにずいぶんと時間がかかっちゃった」

 線香から立ちのぼる煙が、ゆらゆらと頼りなく風にさらわれていく。

「でも、仕方ないよね。みんなだって、わたしとは会いたくなかっただろうし」

 墓前にちょこんとたたずむその女性は、どうも年齢の判別がつかなかった。もう立派な母親のようにも、まだ未成年であるようにも見える。
 肩口あたりで切り揃えたミディアムカットの黒髪。左頭部の髪は赤いリボンで結ばれ、かたちのいい耳が露出している。瑞々しい肌は、ほんのすこしだけ日に焼けていながら、女性らしい白さを保っていた。
 先日買ったばかりの新しい数珠を手に持って、彼女は墓前にしゃがみこんだ。
 目を閉じて、心のなかを空にし、ただ黙祷する。
 見目麗しい少女が、本職の者でさえ息を呑むほど真摯に祈りを捧げている光景は、どこか神聖的な趣を醸し出していた。
 その、すこしばかり年季の入った墓に刻まれた銘は――

「……ん?」

 静かな庭園に似つかわしくない、”どてーん”という物音を聞いて、彼女はぱちくりとまたたきをした。
 怪訝に思いながらも周囲をみわたす。細かな砂利の敷き詰められた通路に、まだ幼い男の子が倒れていた。きっと忙しなく走り回っている途中にこけてしまったのだ。
 彼女は小さく苦笑してから、呻き声を上げるだけでなかなか立ち上がらない少年に歩み寄った。

「大丈夫かな、ぼく?」
「えっ……?」
「どこか痛いところある?」
「……うん、痛い」
「どこか怪我したのかな?」
「……うっ、うっ、うぅぅぅっ!」

 止める間もなく、男の子は泣き出してしまった。まだ痛みに耐えることも、うまく感情を制御することもできず、ただ泣くことでしか自分の気持ちを相手に伝えられないのだろう。
 だが幸いなことに、彼女は、子供の世話をすることにかけては一日の長があった。

「ほうら、泣かないの。お母さんが……じゃなかった、お姉さんが魔法をかけてあげるから」
「ま、魔法……?」
「うん。魔法だよ。とっても効くおまじないなんだから」

 少年の頭に手を乗せて、彼女はつぶやく。

「そーれ。痛いの痛いの、とんでいけー」
「…………」
「ふふ、どうかな? これでもう大丈夫でしょ? そーれ、痛いの痛いの、飛んでいけー」
「……うっ、うえぇぇぇぇぇぇっー!」
「あ、あれっ? だめだったっ? おかしいなぁ、あの子はいつもこれで泣き止んでくれたんだけど……」

 このままだと”子供を泣かせた悪い大人”という烙印を押されてしまう。彼女にとって、それは非常に不本意なことだった。
 もはや良案を模索する時間もない。
 だから彼女は、その場に膝をつくと、優しく、壊れものを扱うかのような手つきで、涙に濡れた少年を抱きしめた。

「ごめんね、もう泣かないで。お姉さんが悪かったから」
「ふぇ……?」

 ほんの瞬間、涙が止まる。
 まだ幼い子供なのに――いや、もしかすると、理屈ではなく感性で物事を捉える幼い子供だからこそ、彼女が放つ包み込むような母性に気付いたのかもしれない。
 慈愛に満ちた行為が、温かな安心感を生み出す。
 それから幾許も経たないうちに少年の涙は収まり、代わりに、愛らしい笑顔がこぼれた。

「もう大丈夫かな?」
「うん。もう痛いの、なおったよ」
「それはよかった。やっぱり、これはあれかな。痛いの痛いのとんでいけー、が効いたんだね」
「……ふぇ、うぅっ」
「あぁ、ごめん冗談だから! もう泣かないでってばー!」

 慌てて前言を撤回する姿は、さきほどまでの母性に満ちた彼女とは似ても似つかなかった。

「よし、今度こそ大丈夫かな?」
「へいき、だいじょうぶだよ。ありがと、お姉ちゃん」
「どういたしまして。……それにしてもお姉ちゃんか。こう見えても一児の母なんだけど」
「……?」
「あ、ううん、こっちの話。ぼくは気にしなくていいからね」

 彼女が目元を和らげると、少年の顔には笑みが浮かんだ。

「でもね、ぼく。元気に遊びまわるのはいいけど、これからは怪我をしないように気をつけないとだめだよ? お母さんにとって子供は、自分の命よりも大切な宝物なんだから。……って、ぼくにはまだ早かったかな?」
「ううん。わかるよ。ぼくも、お母さんのこと、大好きだから」
「……そっか。大好きなんだ」
「うんっ、大好き!」

 その言葉を聞いて、彼女は心の底から嬉しく思った。
 やっぱり、お母さんが子供を愛し、子供がお母さんを慕うのが一番なのだ。それが青臭い考えだと自覚しているが、彼女は一歩たりとも譲る気はなかった。
 やがて少年はちゃんとお礼を言ってから、元気よく走り去っていった。彼女が見ているだけでも、すでに何度か転びかけていたが、いまさら呼び止めて注意するのも野暮のように思えた。

「……懐かしいなぁ。あの子が子供の頃にそっくり。我慢してたはずなのに、あの子に会いたくなってきちゃった」

 でも、いましばらくは帰れない。まだ清算するべき過去が、いくつか残っているから。
 彼女は雲ひとつない青空を見上げた。離れたところにいても、長いあいだ顔を見ることができなくても――もしかしたらあの子が、いまこうして彼女とおなじように空を見上げているかもしれないと思うだけで、不思議と心は軽くなる。
 のどかな庭園に、小鳥のさえずりと、無邪気な子供たちのはしゃぐ声が響いている。 
 柔らかな風が、近くの花壇に植えられた小さな百合の花を、揺らしていた。




 [ハウリング【第一部】 了]






[29805] 用語集&登場人物まとめ
Name: テツヲ◆c49d9b75 ID:366fa69a
Date: 2012/03/22 20:19
弐の章【御影之石】までの重要語句をまとめました。ネタバレ前提で書いていますので、本編未読の方は注意してください。以下はあいうえお順で並べています。

登場人物のまとめを追加しました。



【愛華女学院(あいかじょがくいん)】
 作中世界において、全国でも有数のお嬢様学校のことを指す。高臥菖蒲と壱識美影は、ここの生徒である。
 英国のパブリックスクールを原型に創設され、明治初期には淑女を教育するに相応しい現場という触れ込みで周知のものとなり、一躍その名を轟かせた。昭和中期までは、聖書について学ぶ授業や、特定の曜日におけるミサも取り入れられていたが、第二次世界大戦の終戦をきっかけに大規模な見直しがなされ、宗教的な概念は排除されることになった。
 県内でも上位の偏差値を誇り、部活動にも積極的に力を入れている。また入学する生徒は、一般的な水準よりも裕福な立場にあることが多く、資産家、政治家、官僚、芸能人、経営者などを親に持つ子供が、全校生徒の実に半数近くを占める。独自の奨学金制度を持つことから、中流家庭の出であっても入学することは難しくない。学生寮も完備しており、地方出身者を受け入れる体制も万全。


【悪魔】
 広義には、人間以外の生物。狭義には、かつてソロモン王に仕えた72柱の大悪魔のことを指す。
 そもそも悪魔の定義は、非常に曖昧である。例えば、欧州において低級悪魔とされるオドは、日本においては邪悪な悪霊と認識されている。表社会の人間にとっては架空の存在だが、裏社会の人間にとっては脅威に他ならない存在。


【悪魔祓い】
 悪魔と敵対する組織。とある新興宗教が母体となっている。


【オド】
 低級悪魔。日本では悪霊とされている。単体では何もできない。心に傷を負った人間に取り憑き、宿主を操ることで真価を発揮する。
 取り憑かれた人間は、慢性的な殺人衝動に悩まされたり、高い身体能力を得ることが多い。なかには異能を発現するケースもあるが、これは非常に稀なパターン。死者の魂を喰らう特性を持ち、宿主が人を殺せば殺した分だけ、オドの力も強くなる。自分よりも上位の悪魔がいた場合、それを盲目的に欲する傾向にある。


【十二大家(じゅうにたいけ)】
 作中世界において、日本国に深く根付き、強大な力を持つに至った十二の家系を指す。他を凌駕する財力、権力、暴力、政治力などを持つ。
・碧河 (あおがわ)
 医療方面に大きな力を持つ家系。
・如月 (きさらぎ)
 十二大家のなかでも最大の規模と勢力を有する家系。
・姫楓院 (きふういん)
 日本における華道最大の流派を誇る家系。
・九紋 (くもん)
 殺し屋の家系。単独で、武門十家の全てを敵に回しても同等に渡り合うだけの戦力を持つ。
・高臥 (こうが)
 表社会の経済を動かす家系。いくつかの分家とともに大きなグループを形成している。『未来予知』の異能を有する。
・朔花 (さくばな)
・哘 (さそざき)
 裏社会において、仁義と任侠を取り仕切る家系。日本で起こった暴力団絡みの事件は、元を正せば哘に責任が帰結する。
・鮮遠 (せんえん)
 陰陽道本家と目される家系。《青天宮》の頂点に立つ。
・高梨 (たかなし)
 代々続く政治家の家系。その規模は、内政や外交にも深く関与するほど。
・月夜乃 (つくよの)
・斑頼 (まばらい)
・御巫 (みかなぎ)
 

【青天宮(せいてんぐう)】
 日本の霊的守護を担う退魔組織。その起源は鎌倉時代にまで遡るとされる。裏社会のなかでも特に大きな力を持つ勢力。
 表向きは防衛省に属する形態をとっているが、事と場合によれば警察や軍部を上回る権限を持ち、一定の条件を満たした上でなら超法規的な措置を取ることも認められているため、実質的に青天宮はどこの管理下にも置かれていない、独立した組織である。
 もとは陰陽師と呼ばれる者たちの集まりだったこともあり、初期の活動理念は”妖”の排除だった。しかし近代化が進むにつれ妖の個体数が著しく減少したため、現代では指定された危険度を超えた異端の生物を観測しては対処する、という活動を行っている。十二大家の一つ、【鮮遠】を頂点に置いたピラミッド組織。


【ソロモン72柱】
 かつてソロモン王が使役したとされる、72体の大悪魔のこと。法王庁や悪魔祓いが本物の悪魔と認識しているのはソロモン72柱だけである。古くは神に匹敵する力を誇っていたが、ソロモンに封印されたことを機に、本来の力の大部分を失っている。
 人間とは比べ物にならないほどの高い身体能力を持ち、生命力や回復力も目を見張るものがある。
 Dマイクロ波と呼ばれる波動を体内で生成し、《ハウリング》と呼ばれる固有の異能をふるうことでも知られている。ただし現在の彼らがふるう異能は、本来のものではなく、劣化した、いわば残滓に過ぎないもの。彼らは膨大なDマイクロ波を消費することで、本来の異能をふるうこともできる。それは《ハウリング》とはべつに、《フィードバック》と呼称される。
 具体例を挙げると、ダンタリオンのハウリングは『生物の体感時間を停止させる力』だが、フィードバックは『時の流れを停止させる力』となる。


【大崩落(だいほうらく)】
 約二十年前、日本の裏社会で起こった未曾有の抗争。過去数百年ものあいだ変動しなかった裏の勢力図を一遍に塗り替え、表の経済に深刻なダメージを与えた。抗争自体は都合四年も続いたが、十二大家の一つである【九紋】が介入したことにより終結を迎える。
 大崩落の発端となった出来事は、いくつかの有力な説が提唱されているものの、仮説を裏付けるだけの論拠がないため、実質的に判然としていないのが現状である。語源は『既存の勢力や経済が、崩れ落ちるようにして壊れた』ことに由来する。


【田辺医院】
 いわゆる闇医者。街外れの閑散とした区画、その路地裏にひっそりと立地している。経営者は田辺。彼の助手として、辻風波美がいる。
 明らかに病院とは思えない店構えだが、裏の者が頻繁に利用するという性質上、そこそこ儲かっている。《大崩落》の折に、安全地帯として機能した。院長である田辺に命を救われた者も多く、田辺医院は現在においても戦闘禁止区域として扱われている。


【Dマイクロ波】
 悪魔が体内で生成する、マイクロ波のなかでも特殊な波長域にある波動のことを指す。正式名称は『Devilment Microwave』だが、日本が舞台の本作では、主に『Dマイクロ波』の呼称が用いられる。
 このDマイクロ波が大気中に流れ出し、万物の分子系に影響を及ぼした結果が、《ハウリング》と呼ばれる異能。余談だが、『デビルメント』とは『悪魔の所業』という意味である。


【ハウリング】
 広義には、悪魔がふるう異能全般を指す。狭義には、本来悪魔が持っていた異能の残滓を指す。
 Dマイクロ波が万物の分子系に影響を及ぼした結果、発現するものとされているが、真相は不明。なかには科学ではまったく説明のつかない異能を操る者もいる。
 ハウリングが行使される際、膨大な量のDマイクロ波が必要となる。このときDマイクロ波は、人体の大小の筋肉に軽微の痙攣をもたらし、周囲にいる者に耳鳴りを引き起こす。この甲高い耳鳴りが、音響機器を共鳴させたときに発生する現象である”ハウリング”と酷似していたため、それにちなんで悪魔の異能にも『ハウリング』の名称が用いられるようになった。ダンタリオンの『生物の体感時間を停止させる力』、ナベリウスの『氷を生み出し、それを自在に操る力』などが該当する。
・フィードバック
 こちらが悪魔本来の異能。物理法則を書き換えるほどの力。悪魔の切り札とも言える力だが、行使したあとは戦闘力が大幅に落ちてしまうという欠点もある。ダンタリオンの『時の流れを停止させる力』が該当する。ナベリウスは不明。


『萩原邸(はぎわらてい)』
 物語の主な舞台であり、萩原夕貴にとっては母親との思い出が詰まった大切な場所。
 もはや邸宅と言っても過言ではない広大な敷地面積を誇る。母子家庭の二人暮しにはいささか豪華すぎるが、これは夕貴曰く『父親の遺産があるから』とのこと。
 庭には花壇、別棟の倉庫、鯉の泳いでいる池などがありながら、小さな子供が遊びまわれるぐらいのスペースも残っている。
 建物は三階建て。一階にはリビング、キッチン、トイレ、風呂、客間が三つ、応接間が一つ。二階には夕貴の部屋、小百合の部屋など家人の私室と、トイレ、洗面所、ちょっとしたバルコニーがある。三階には空き部屋が三つ。さらに上に屋根裏部屋が一つ。
 余談だが、近所の間では『萩原さんの家は、どこぞの名家の親戚筋なのではないか』とまことしやかに囁かれている。高臥菖蒲が滞在していることを知る、一部の者たちは『なるほど。萩原さんは、あの高臥家の親戚だったのか』と妙に納得されていたりもするが、それは当人たちの知らない事実である。


【武門十家(ぶもんじっけ)】
 裏社会において圧倒的な戦闘能力を誇る十の家系を指す。それぞれの家系が特殊な戦闘術を継承しており、これが”武門”の語源となっている。零から玖までの漢数字を冠することでも知られている。
 悪名的なネームバリューを持ち、裏社会では十二大家よりも恐れられる勢力。また零月家、壱識家ではなく、零月一門、壱識一門といった呼称が用いられる。
・零月 (ぜろづき)
 武門十家のなかで唯一、零落している家系。大崩落の折、玖凪との抗争に破れ、絶滅したとされる。
・壱識 (いちしき)
 特殊な糸を用いた戦闘術で知られる家系。彼らの技は、俗に『壱識の操糸術(そうしじゅつ)』と呼ばれる。
・弐伊 (にい)
・参波 (さんなみ)
 全身に仕込んだ暗器を用いて戦うことで知られる家系。十二大家の一つである【高臥】とも密接に関わっている。
・肆条 (しじょう)
・伍瓦 (ごがわら)
・陸崎 (ろくざき)
・漆坂 (しちさか)
・捌宮 (はちみや)
・玖凪 (くなぎ)
 大崩落の折、零月を滅ぼしたとされる家系。


【フレンチトースト】
 萩原夕貴が、実の母親である小百合からレシピを教わったお手軽料理。高臥菖蒲の大好物。困ったときはこれを女性に食べさせれば大抵なんとかなる。
 余談だが、夕貴のレシピは以下のようなもの。
 材料は、四分の一カットした食パン、牛乳100ml、卵一個、砂糖大さじ一杯、バター。
 まずボウルに牛乳100ml、卵一個、大さじ一杯の砂糖を入れて、よくかき混ぜる(お好みでシナモンを入れてもいい)。次にカットした食パンをそれによく浸す。ここで手を抜いてしまうと、食パンの中身まで液が浸透せず、完成したときの味が落ちてしまうので要注意。
 熱したフライパンにバターを入れる。サラダ油のようなものでも代用できるが、塩気のあるバターを使ったほうが、甘みが引き立つ。
 あとは、よく液が染み込んだ食パンを、こんがりときつね色になるまで片面ずつ丁寧に焼いていけば完成。夕貴の経験上、シロップをかけたほうが女性陣の受けはいい模様。


【御影石(みかげいし)】
 美しい光沢を放つ石。花崗岩とも呼ばれる。墓石に使われることでも有名。弐の章【御影之石】のキーアイテム。
 作中ではペンダントとして登場した。原型は満月のような真円のフォルムだったが、現在は割られたスイカのように歪なかたちをしている。ただし表面は研磨しているので、それほど不恰好なわけでもない。
 もともとは壱識千鳥が祖母から譲り受けたもの。千鳥と冴木は、御影石のペンダントを結婚指輪の代わりにそれぞれ所持し、愛を誓い合った。最終的には、冴木は夕貴に、千鳥は美影に、それぞれペンダントを譲った。
 結局、千鳥と冴木が交わした『すべてが終わったら、二つに割れた御影石をもういちど一つに合わせよう』という約束が果たされることはなかった。冴木に想いを託された夕貴と、千鳥の血を受け継いだ美影。次世代の彼らに、その気があるのかは全くの不明である。


【法王庁(ほうおうちょう)】
 ローマ教皇庁の裏の顔であり、バチカンに総本山を持つ、世界でも有数の特務組織。法王庁の傘下である異端審問会のなかでも、対悪魔に特化した部隊を特務分室と呼ぶ。







以下は登場人物のまとめになります。引き続き、ネタバレにはご注意ください。


・荒井海斗 (あらいかいと)
 高臥菖蒲を誘拐しようとした六人の男たちのリーダー格。喧嘩に強く、度胸もあり、頭の回転も早い。非凡な人物であり、暴力団の若頭からも一目を置かれるほどだった。現在は【高臥】監督の下、罪を償っている。父親はすでに鬼籍に入っているが、母親と妹は存命している。
 あらゆる悪事に手を染めているが、喧嘩には刃物を一切使わないというポリシーを持つ。実は『高臥菖蒲』のファンだったという裏設定がある。


・壱識千鳥(いちしきちどり)
 美影の実の母親であり、武門十家の一つである《壱識》の人間。
 腰まで伸ばした艶やかな黒髪と、透き通るような色白の肌が特徴的な、大和撫子という形容がぴったりの美女。美影とよく似た容姿をしている。夕貴曰く、仕草の一つ一つまでそっくりらしい。ただし娘とは違い、女性的な丸みを帯びた身体をしている。
 愛する夫の遺言により、あまり良好とは言えなかった娘との仲を不器用ながらも改善しようと密かに努力している。御影石のペンダントを美影に託した。


・壱識美影(いちしきみかげ)
 愛華女学院に通う高校一年生。自称ニーデレ(普段はニートで、いざというときはデレデレする人)。メインヒロインの一人。
 腰まで伸びた長い黒髪をポニーテールに結わえた美少女。抜けるような色白の肌と、いつも気だるそうにした茫洋な眼差し。左目の下にできた泣きぼくろが特徴。よく鍛えて引き締まった身体をしているが、あまり胸はない模様。身長は150センチほどと小柄。本質的には怠惰な少女で、休日には部屋で引きこもっていることが多い。
 母親譲りの美貌を持ち、黙っていれば誰もが振り返るほどの整った容姿をしているが、あまり人付き合いというものに興味がないため、異性どころか同性との交流も皆無。オリジナルの流行語を作るのが趣味の一つらしく、たまに意味不明な発言をして周囲を困らせる。ポン酢が大好物で、ごまダレでしゃぶしゃぶを食べる人が許せない。
 作中でも屈指のずば抜けた戦闘センスを持つが、これは希代の殺し屋と謳われた男と、裏社会に広く知られる《壱》の一族に生まれた女、この両者の遺伝子を正しく受け継いだため。その天賦の才とたゆまぬ修練が実を結んだ実力は、一目で萩原夕貴に憧憬を抱かせ、歴戦の大悪魔から手放しの賞賛を送られるほど。
 好きな異性のタイプは『男らしい人』と本編では口にしたが、これは夕貴に対する皮肉のようなもので、実際には特定の好みはない。ちなみに夕貴のことは好きでも嫌いでもなく『どうでもいい』とのこと。
 作中では最後まで、自分の父親が誰なのかを知ることはなかった。


・瓜生雷蔵(うりゅうらいぞう)
 武門十家の一つである《玖凪》に仕える老人。
 白く染まりきった髪をくしで撫でつけ、口ひげと顎ひげを短くたくわえている。老いを伺わせない恰幅のいい身体を礼服に包んでいる。全盛期の頃は、裏社会のなかでも最強の刺客と目された人物。《玖凪》の擁する最高戦力。
 かつて《音無し》とは三度に渡って殺しあったが、決着はつかなかった。


・如月紫苑(きさらぎしおん)
 十二大家の一つである【如月】の人間。
 青みがかった黒髪をうなじのあたりで一房に結わえている。パンツルックのスーツに身を包んでいることが多い。キャリアウーマンという形容が似つかわしい美女だが、やや目つきが悪い。
 ダンタリオンに関する一連の事件を、表沙汰にすることなく葬った人物。


・玖凪託哉(くなぎたくや)
 萩原夕貴の親友。武門十家の一つである《玖凪》の人間。
 明るめに脱色した髪、左耳につけたピアス、精悍な顔立ちが特徴。身長も高く、異性に好まれそうな容姿をしているが、そちらの方面にはあまり誠実とは言えないので、特定の女性はいない。
 色々と謎が多い青年。参波清彦とは仲が悪い模様。


・高臥菖蒲(こうがあやめ)
 愛華女学院に通う高校一年生。予知っ娘。メインヒロインの一人。
 色素の薄い鳶色の髪はゆるやかなウェーブを描いて背中まで流れ、いつも眠そうに少しだけ目を閉じている。年相応のあどけなさを残した愛らしい顔立ちをしており、その美貌は異性を惹き付けて止まない。プロポーションも優れており、バストの大きさは特筆すべきものがある。身長は162センチ。夕貴からは『清楚・オブ・清楚』という異名を勝手につけられている。
 十二大家の一つである【高臥】に生を受け、幼い頃から淑女としての教育を施されてきた。昔ながらの女性のように、一人の男性に尽くして尽くして尽くしぬくタイプ。高臥宗家の直系女児として、『未来予知』の異能を持つ。
 誰に対しても丁寧口調で接する。基本的には聞き分けのいい少女だが、夕貴が絡むと途端に意固地になる。大好物は夕貴の作ったフレンチトースト。
 以前は『未来予知』の異能に振り回されていたが、夕貴と出会ってからは徐々に安定しつつある。


・高臥重国(こうがしげくに)
 十二大家の一つである【高臥】の現当主にして、東日本を中心に展開する高臥グループの総帥。
 相対する者に是非もなく降伏を促すような存在感と威圧感を持つ。他に類を見ないほど優秀な傑物。婿養子でありながら名実ともに【高臥】の頂点に立っている。
 厳格で気難しい面が目立つが、その実は愛情に深い人物であり、妻と娘のことを誰よりも愛している。菖蒲が芸能界に入ることに強く反対していたが、いまとなっては菖蒲が出た番組や雑誌を、多忙なスケジュールの合間を縫って密かにチェックしている。
 十六年前、彼は誰よりも生まれてくる娘の未来を案じていた。【高臥】の長い歴史のなかでは、自身の強力な異能に耐え切れなかった者も少なくなかった。未来とは、個人が扱うにはあまりにも重すぎる究極の情報。それに娘が惑わされる可能性を、彼は夢想せずにはいられなかった。
 だから彼は、生まれてきた娘を抱くよりも早く、母親の腕のなかでむずがる我が子に『信じる者の幸福』という意味を持った名を授けた。歩むべき道を迷わぬように。己の信じた未来を違えぬように。
 しかし時が流れるうちに、いつしか彼は『娘が信じた未来を歩ませる』という想いを忘れ、『自分の手で娘に幸福な未来を与える』という父ゆえの使命感に捉われていた。だが一人の少年の言葉により、原始の想いを取り戻した彼は、十六年前と同じように娘の信じた未来を歩ませることにした。


・冴木(さえき)
 うだつの上がらないサラリーマンのような容貌をした隻腕の男性。常にへらへらとした締まりのない笑みを浮かべているが、相対する者には不思議な安心感を抱かせる。
 その正体は、かつて《音無し》とまで呼ばれた希代の殺し屋。数多くの異名を持ち、その実力と、目的のためなら手段を選ばない狡猾さから、裏社会の要人を震え上がらせた。
 左腕がないのは、己の死を偽装するために自分で切り落としたため。”冴木”というのは美影が適当につけた偽名の一つに過ぎないが、彼はそれを死ぬそのときまで大切に抱き続けた。彼の墓には、本名ではなく、『冴木』という銘が刻まれている。
 御影石のペンダントを夕貴に託した。
 作中では、最後まで娘に自分が父親だと明かすことはなかった。


・櫻井彩(さくらいあや)
 夕貴や託哉とおなじ大学に通う一回生。清楚な容姿の少女。好きな異性のタイプは、お母さんを大切にする可愛い顔をした男の子。
 誰よりも慕った母親を交通事故で亡くし、信頼していた義理の兄から性的暴行を繰り返し受けていたという過去を持つ。さらには低級悪魔であるオドに取り憑かれ、本人の意思とは無関係のところで何件かの殺人を犯した。
 最終的には夕貴の決断により、彩はもとの平凡な日常に戻れるようになった。それと同時に、大学に入学してからの記憶をすべて無くした。悪魔に関する記憶も、自身が殺人を犯したことも、萩原夕貴という少年と出会ったことも、その少年に恋をしたことも。
 ある夜に起きた出来事をすべて忘却してしまったが、それでも、とある少年に対する想いだけは消えなかった。


・参波清彦(さんなみきよひこ)
 【高臥】の家令を努める男性。武門十家の一つである《参波》の人間。
 社会人の見本のような風貌をしているが、カラスの濡れ羽のような黒髪をオールバックにしていたり、右目のあたりに大きな切り傷が入っていたりと、明らかに堅気とは思えない身体的特徴がいくつかある。普段は銀縁の眼鏡をかけているが、戦闘の際には外すことが多い。
 壱識千鳥とは古い知り合いらしい。


・肆条緋咲(しじょうひさき)
 繁華街にあるランジェリーショップに勤める女性店員。歩く下ネタ製造機。
 淡いブラウンに染めた長髪をアップにした美形の女性だが、とにかく発言が危ない。蠱惑的なプロポーションをしており、あどけない少女には醸し出せない大人の色気をまとっている。何事にも大らかな女性だが、口を開けば一言目から下ネタが飛び出すので注意が必要。
 菖蒲とは数年来の付き合いで、年の離れた友人といってもいい仲。初音という妹がいる。学生時代は剣道を習っていたらしい。


・田辺(たなべ)
 街外れの閑散とした区画、その路地裏にひっそりと立地する『田辺医院』の経営者。いつも私服の上からよれよれの白衣を着ている。
 すでに年齢は五十を過ぎているが、恰幅がよく年のわりには若々しい顔つきをしているので、その気になれば四十代と言っても通用する。いまだにお盛んらしく、辻風波美によると、複数の女性と交際しているらしい。巨乳好き。
 壱識千鳥や冴木とは古い知り合い。昔は千鳥にぞっこんだったらしく、彼女の娘である美影のことも何かと気にかけている。横柄な言動が目立つが、その実は情に厚い。


・ダンタリオン
 ソロモン72柱が一柱にして、序列第七十一位の大悪魔。
 不健康そうな白蝋の肌、豪奢な金色の髪、眼球がまったく露出しないほどの細い糸目、漆黒の神父服。つねに柔和な笑みを浮かべており、外見だけなら善人に見えないこともないが、その実は『自分こそ崇高』と考えている性格破綻者。他者を見下す傾向にあり、彼が認めるのはソロモンの同胞だけ。
 人間のことを知恵と運動能力を持ったオモチャ程度にしか見ていないが、気に入った相手には多少の礼を尽くす。狡猾な頭脳を持ち、ナベリウスをして用心深いと言わしめるが、『ここぞというときに遊んでしまう』悪癖を持つ。だがそれも自身の圧倒的な力に裏づけされた、一種の余裕である。
 他者の心を潰すことに快楽を覚える。確立された一つの自我を潰すのは、誰かが積み上げたトランプの山を勝手に崩すような優越感があるらしく、強い心を持った人間には一定以上の関心を持つこともある。壱識美影がその実例。
 人間の女と交わったバアルに失望すると同時に、大悪魔を束ねる立場にあった彼に強い敬意を払っている。そのため愛憎入り混じった複雑な感情を抱いている。
《ハウリング名:静止歯車(シームレスギア)》
 生物の体感時間を停止させる異能。正確には、体内にDマイクロ波を持たない生物の体感時間を止める力である。火力こそないが、非常に燃費がよく、長時間の戦闘に向いている。人間だけではなく、吸血鬼や人狼であっても《静止歯車》から逃れることはできない。事実上、全力を出したダンタリオンに対抗できるのは地球上に71体しかいないとされる。
 ダンタリオン本来の異能は、時の流れを停止させる力。これを発動させた彼は、まさしく絶大な戦闘能力を誇り、自分よりも上位の大悪魔が相手でも互角に渡り合えるようになる。


・辻風波美(つじかぜなみ)
 田辺医院に勤める看護士。田辺の助手。自称は『新米看護士』。勤務暦は二年ほど。
 小柄というほどではないが身長は低いほうで、どことなく小動物のような愛嬌がある。勤務中は長い髪を団子に結っており、わりと仕事ができるような女性に見えないこともないが、まだ学生気分が抜け切っておらず、その言動はいささかハイテンションである。
 裏社会の情報を集めるのが趣味で、駆け出しの《情報屋》という顔も持っている。夕貴とはメールアドレスを交換した。女優『高臥菖蒲』の大ファン。


・ナベリウス
 萩原邸に居候する美女。銀髪悪魔。メインヒロインの一人。ソロモン72柱が一柱にして、序列第二十四位の大悪魔。
 銀色の髪と瞳が特徴的。本人は自分の髪が自慢らしく、白髪と呼ばれると怒ったりする。一見して人間とは思えないほどの完成された美貌を持つが、これは彼女が《悪魔》と呼ばれる種族であることに起因する。かなり胸が大きく、《悪魔》ゆえの極上の柔らかさとかたちを誇る。
 奔放なところが多く、夕貴が抱える心労の八割近くは彼女の仕業。しかし母性的な一面も確かにあり、夕貴も心の底では彼女のことを強く慕っている。基本的に家事は万能で、彼女が料理を作ることが多い。トラブルメーカーであると同時に、萩原家を支える大黒柱のような役目も担っている。
 夕貴の実の母親である萩原小百合とは、過去に何かしらの付き合いがあった模様。
《ハウリング名:絶対零度(アブソリュートゼロ)》
 氷を生み出し、自在に操る力。悪魔のなかでも特に強力な異能とされており、威力、持続力、汎用性、利便性、応用性に長けている。ただし効果範囲が広く、ロケーションによっては力の行使を自重せざるを得ない場合もある。


・萩原小百合(はぎわらさゆり)
 物語の主人公である萩原夕貴の実の母親。夕貴曰く、意外と子供っぽくてバカなところもある女性らしい。


・萩原駿貴(はぎわらとしき)
 物語の主人公である萩原夕貴の実の父親。夕貴が生まれる前に鬼籍に入っているが、息子である夕貴からは尊敬されている。ナベリウスを含めた二柱の悪魔を従えていた。
 萩原駿貴とは人間社会で活動する際の名前で、真名は《バアル》。ソロモンの序列第一位に数えられた最強の大悪魔。他者を見下す傾向にあるダンタリオンですら、彼には確かな敬意を払っていた。


・萩原夕貴(はぎわらゆうき)
 大学の一回生。経済学を専攻している。物語の主人公。
 女性的な美しさと男性的な凛々しさを融合させたような顔立ちをしているが、どちらかと言えば前者の成分のほうが多いため、彼を見た者の多くは『綺麗』や『可愛い』といった評価を抱く。主に年上の女性から好意を寄せられることが多い。彼自身は密かに男らしさというものに憧れているが、はたから見ればあまり密かではない。
 多方面に秀でた才を持つ。学業成績は非常に優秀で、運動神経も高い。ただし彼は、これを才能ではなく努力の成果だと認識している。高柳書道祭と呼ばれる書道コンクールにて入賞したこともあり、実はかなりの達筆。
 女手一つで自分を育ててくれた母親を尊敬しており、心の底から愛している。好きな異性のタイプは、お母さんを大事にする女の子。女優『高臥菖蒲』の大ファンでもある。
《ハウリング名:不明》
 鉄分に作用する力。金属製の物体を操ったり、怪我を治癒することが出来る。まだ詳しいことは分かっておらず、能力の全容も不明。



[29805] 参の章【それは大切な約束だから】 3-1 北より訪れる災厄
Name: テツヲ◆c49d9b75 ID:366fa69a
Date: 2012/07/11 23:54

 参の章 【それは大切な約束だから】




 北欧の片田舎にひっそりと立地するその街は、正午頃から冷たい雨に見舞われていた。
 もともと人口の少ない僻地ではあったが、こうも空の機嫌が悪いと出歩く者はまばらだ。道行く人々は傘を差し、一様に俯きながら家路を辿る。交通量の少ない道路には、型式の古くなった自動車が思い出したように現れ、小さな水しぶきを上げて走り去っていく。果たして首都圏に住む人間は、この活気の薄い街のことを知っているだろうか。答えは恐らく否だ。
 街路樹の立ち並ぶ大通りに面したところに、その陰気なホテルはあった。天井は低く、調度類は必要最低限のものしか設えられていない。それでも薪のくべられた暖炉が演出する仮初めの華やかさが、場末の質素な室内を温かく照らし上げていた。

「あー、暇だねえ。しけた街だぜ。娯楽のひとつもありゃしねえ」

 安物のタバコをくわえて退屈そうに窓のそとを眺める男は、どこか異様な雰囲気をまとっていた。恰幅のいい体と、肉食獣を連想させる何かに飢えた目つき。顔の造形には隙がなく、人間としては不自然なまでに整っている。年の頃は、二十代半ば。やや長めの髪は、血に濡れたように紅い。

「知らないね。あたしは関係ないだろ。てめぇの暇ぐらい、自分で潰せよ」

 ベッドに片膝を立てて腰掛けている少女は、異性の目を惹きつけるような蠱惑的な美しさを備えていた。線の細い華奢な肢体は、しかし野生動物を連想させるしなやかな筋肉と、女性特有の柔らかな肉に包まれている。
 身じろぎするたびに、亜麻色のセミロングストレートの髪がさらりとこぼれ、物憂げな目元に妖しい陰影を落とす。年の頃は、十代後半。ぴんとツリ上がった目が、いかにも気の強そうな印象を与えている。
 
「へぇ、言うじゃねえか」男は唇をゆがめた。「なんならおまえで遊んでやってもいいんだぜ? オレはよ、ここ最近のネズミみてぇな生活にずっとイライラしてたんだ」

「自業自得だろ。あの狂信者どもに嗅ぎつけられそうになったのはあんたのせいだ。フラストレーションの根源を断ちたいなら、いますぐ自殺でもしてくれば?」
「おいおい、ちょっとしたジョークってやつじゃねえか。そうカッカすんなや。ただでさえ愛想がねぇんだからよ、てめぇは」
「あんた、やっぱり喧嘩売ってるだろ」
「なんだぁ? 気にしてんのかぁ? べつにいいじゃねぇか。男に媚びて股開くような必要があるわけでもねぇだろう」
「もう黙りな。あたしに話しかけるな」

 彼らの関係は すこし妙だった。親子や兄妹というには肌や髪の色が違うし、かといって愛を育む仲にしてはいささか剣呑である。実際、彼らの間に友好的な感情はなく、ただ因縁じみた腐れ縁があるだけだった。
 それからしばらくの間は、少女の望んだとおり沈黙が続いていた。横殴りの風が、たてつけの悪い窓をかたかたと揺らしていく。雨粒が窓をたたく音と、暖炉にくべられた薪がはぜる音。その原始的な音色が、また気を滅入らせる。
 部屋の扉がノックされた。
 二人は顔を見合わせてアイコンタクトを交わし、わずかな合間に多くの意思を疎通する。やがて”様子見”という結論に達すると、窓辺に立つ男は愉快げな呼気とともに紙巻きタバコをくわえ、入り口に近かった少女は軽やかな足取りでドアに近づき、声を発した。

「だれだい?」
『……ホテルの従業員っす。ここ開けてもらえます? お客さん宛てに荷物が届いてるんで』

 男性特有の低い声だった。顔を見ずとも、そのやる気のなさそうな声だけで職務に忠実でないことが分かる。ドアを開くと、そこには眠そうな眼差しの青年が立っていた。くちゃくちゃとガムを噛みながら、手に大きなバッグを持っている。

「あたしら宛てに届いてる荷物ってそれかい?」

 愛想笑いもせず少女が問いかけると、青年は意表を衝かれたように目をしばたたかせた。扉越しにいた相手が、まさかこれほど若く美しい女だとは知らなかったのだろう。真新しいバッグ。見るからに重そうなそれを視線で指し示すと、青年は丸めていた背筋をまっすぐ伸ばして頷いた。

「そ、そうです。ついさっき人の好さそうなジジイ……あ、いや、老人の方から預かりまして。これをあなたたちにと。ええはい」
「なるほどね。ところでそれ、重そうだね。危ないから気をつけたほうがいいよ」
「いえいえ、ご心配なさらず。こう見えても俺って力持ちなんすよ。数年前までボクシングを齧ってましてね。自分で言うのも何ですが、結構いいセンいってたんすよ」

 聞いてもいない個人情報を矢継ぎ早にばらまきながら、青年は劣情にまみれた視線を飛ばす。ぬるりと粘着的にからみつくような視線を、しかし少女は意に介さず冷静に受け止めながら振り返り、

「そろそろかな。気をつけな」

 部屋の奥にたたずむ紅い髪の男に、そんなよく分からない忠告を向けていた。

「はっ、誰に言ってやがる」

 男は短くなった煙草を指で弾きながら胴間声で応えた。だがそんな突拍子もない二人の応酬を見た青年は怪訝顔で固まることしかできない。やがて営業スマイルに情欲をブレンドさせた表情で、青年が真意を問おうと口を開いた、正にその瞬間。

 世界から、音が消えた。

 雨粒が窓をたたく音も、暖炉の薪がはぜる音も、すべて消えうせた。あらゆる音を奪うだけの凄まじい轟音が生まれ、空気を激しく揺らした。次いで吹き荒れた紅蓮の灼熱が、色欲に染まっていた若い青年の体を跡形もなく燃やし尽くす。ホテルに預けられ、男と少女のもとに届けられた荷物の中身は――人間数人をまとめて吹き飛ばせるだけの威力を持った”爆弾”だった。
 寂れた街に似つかわしくない火炎と衝撃波が、ホテルを内側から食い荒らしていく。火薬の臭いが混じった煙がたちのぼり、白濁していた空を黒く染め上げた。

「だから、”危ないから気をつけたほうがいいよ”って言ったのにね」

 よく通る少女の声。

「くっくっくっ……なるほどなるほど、やってくれんじゃねぇか」

 腹を抱えて、男は笑う。

「いいねえ。娯楽のひとつもねえ街だと思っちゃいたが、ちょうどいいアトラクションがあるじゃねぇかよ!」
「バカは気楽でいいね。こういう面倒なことになるから、あたしはあんたと一緒にいたくなかったんだ」

 壁や天井が吹き飛び、野ざらしとなった部屋のなかに、紅い髪をした男と亜麻色の髪をした少女が背中合わせで立っていた。至近距離で爆発したにも関わらず、彼らの体には傷一つない。冷たい雨が、ぽつぽつと衣服に染み込んでいく。見上げれば、天井に大穴が空いていた。これでは雨漏りどころの話ではない。

 すでに二人は囲まれていた。

 まるで獲物にたかる蟻のように、階下の公共道路には漆黒のローブをまとった人間たちが大挙して押し寄せて、ホテルを完全に包囲している。その数は百や二百ではきかないだろう。すでに街の住人たちは異常を察し、我先にとこの場から逃げ出そうとしている。冷たい雨だけが、変わらず降り注いでいた。

「……《悪魔祓い》か。あたしらを追ってきたんだね」
「相変わらず辛気くせぇツラしてやがる。狂信者どもがよ」

 《悪魔祓い》。それが男と少女のもとに爆弾を届け、深い黒の外套をまとった人間たちの総称。痩せこけた頬に落ち窪んだ目、青白い肌、肉の落ちた手足、暗澹とした表情、その足取りは亡者のようにおぼつかない。全員が頭までフードをすっぽりと被っているせいで、薄気味悪さが余計に増している。
 狂信者の群れは抑揚のない声でぶつぶつと呪詛を唱えながら、赤く充血した目で高みにいる男と少女を見上げている。そこにあるのは病的なまでの執念。怨恨。憎悪。敵意。憤怒。悲憤。総和した負の感情は、人の醜さを再確認させて余りある。もし神がこの光景を目の当たりにしたならば、己が創造を省み慙愧に至るだろう。
 だが忘れるなかれ。この世には膨大な”群”を、単騎で凌駕する”個”が存在することを。

「はっ、おもしれえ――」

 男の屈強な体から、禍々しい波動が流れ出す。総身にたぎる武威が、紅い髪を乱雑に揺らした。男は歓喜に震える。これでもうネズミみたいな生活は終わりだ。退屈しのぎにちょうどいいおもちゃが現れたから。だがしかし。

「頭が高ぇよ。ひれ伏せ、人間ども」
 
 解き放たれた威圧は、天災のごとき壮大さでホテルの周囲に伝播した。誰も彼もが膝を折り、耳を抑えてうずくまる。その光景を見た男は、口角をつりあげた。それでいい。ひれ伏せ、人間ども。

「待ちな」

 いまにも飛び出さんばかりの男を、少女が呼び止める。

「あんた、忘れたわけじゃないだろうね。いまは大事の前なんだ。ここで騒ぎを大きくして、世界の目を引きつけるわけにはいかないよ」
「じゃあ何か? 尻尾巻いて逃げろってか? はっ、冗談じゃねえ! いいか、オレらは喧嘩を売られてんだぜ? 歯向かってくる連中は、みんなぶっ殺してやらなきゃ気が済まねぇよ」

 気分が高揚しているのだろう、男の声はずいぶんと荒くなっている。それに呼応するように、爆発に見舞われても冷静なままだった少女の顔に、かすかな苛立ちが浮かんだ。

「寝言は寝てから言いなよ。《グシオン》からも注意されてただろ。なんのためにあたしがあんたの子守をしてると思ってるんだい?」
「知るかタコ。んなもん頼んだ覚えはねぇだろうが。《アスタロト》のやつから連絡がくるまでの間、好きに遊ばせろや」
「あたしを怒らせたいのか?」
「それもいいかもしんねえなぁ。それで? てめぇが怒ったらどうなるってんだ? え? 愛想のいい売女にでも変身すんのか? ……くっ、ははははははっ! わりぃわりぃ! 想像したら笑っちまった!」
「……よく言った。長い付き合いもここで終わりにしてやるよ」

 少女の身体から、男のものよりも遥かに強大な波動が溢れ出した。それは人の理では計りきれない力の発露。泣いていた空がさらにその表情を曇らせて、台風のように乱れた風雨が街を襲う。
 まさしく一触即発の彼らが、不自然な風の流れを感じたのはそのときだった。振り向けば、野ざらしとなった部屋のなかに闇色の外套をまとった壮年の女が、さながら幽鬼のように佇んでいる。二つのオーラが張り詰め、音もなくせめぎ合っているこの場は、感受性の強い者が立ち入れば意識を奪われてもおかしくないのに。
 つまり平然と現れた闖入者は、危機回避能力や生存本能に支障をきたすほど、正気を失っていた。

「おいコラ。ババアは引っ込んでろや」
「よく見な。あれは……」

 忌々しげに一歩前に出る男を、少女が手を上げることによって制す。
 壮年の女は、見覚えのあるバッグを抱えていた。あのホテルマンが部屋に届けたものと同一のそれだ。彼女が自爆攻撃を仕掛けようとしているのは火を見るよりも明らかだが、その顔には命を賭す者には相応しくない、幸せそうな笑みが浮かんでいる。

「ほ、ほ、ほ、ほ――」

 壮年の女が、掠れた声で叫ぶ。

「滅びろ悪魔があぁぁぁああぁあああ!」

 おぞましい絶叫とともに、バッグの中身が炸裂した。それは即効性の毒ガスを内包したカプセルだった。空気中に撒き散らされる毒性化学物質。撒布されてから分解されるまでの時間や加害の持続効果は短いが、殺傷能力には優れている。壮年の女は嘔吐し、呼吸困難に陥り、全身を痙攣させて間もなく死亡した。

「化学兵器か……また面倒なものを持ち出すね」

 少女が無造作に手を振った。直後、鼓膜を突き刺すようなハウリングが生じ、まばゆい青の極光が彼らのいた空間を”射抜いた”。それが崩れかけていたホテルにとどめを刺し、陰気な現代建築は瓦礫の山となってがらがらと倒壊した。毒ガスは霧散し、ホテルの内部にいた人間は例外なく潰されこの世から消えていく。
 だが信じがたいことに、降り注ぐ瓦礫の雨ですら男と少女を圧しつぶすことは適わなかった。巨大なコンクリート片が舞い散るなかを二つのシルエットが駆ける。床を蹴って落下する家具に飛び移り、そこから瞬時に次の足場を見繕っては岩壁を跳ぶ鹿のように何度も跳躍していく。崩落する瓦礫も、男と少女にしてみれば空中に架けられたアーチとおなじだった。

「ちっ、うざってぇ。なぁオイ、邪魔が入ってよかったじゃねぇかよ」
「命拾いをしたのはあんたのほうだろ」

 やがて彼らは、プレス機と化したコンクリート片や大量の家具をすべてかわし、倒壊したホテルから二棟ほど離れた建物の屋上に着地した。男は心底うっとうしそうに眉根を寄せ、少女は服についた埃を手で払う。冗談としか思えない脱出劇も、この二人にとっては食後の一服となんら変わらない。

「なぁ、ひとつゲームでもしねぇか?」

 新たなタバコに火をつけて、男は言う。

「オレとおめえ、どっちが先にこいつらのリーダーを見つけてぶっ殺せるか、競争すんのはどうだ?」

 その脈絡のない提案に、少女はかたちのいい眉をひそめた。

「却下だね。そんなことしてる暇があるなら、この街から離れたほうが早いだろ。人間の足じゃあたしらには追いつけないからね」
「しらけること言ってんじゃねえよ。オレは妥協してやってんだぜ? これ以上、無駄に騒ぎを大きくしたくねえなら、オレよりも先に獲物を見つけてぶっ殺せばいいんだ。それができりゃオレは黙っておまえに従ってやるよ」
「……はぁ」

 面倒くさそうに頭をがしがしと掻く。彼女の表情には、呆れよりも諦念のほうが色濃かった。

「いや、でも長い目で見れば、それも手としては悪くないか……」
 
 少女の頭にひとつの発想が浮かび上がる。ここで派手に暴れることによって、世界の目を引きつけることによって、今後の活動をスムーズにすることができるかもしれない。
 
「……分かったよ。今回ばかりはあんたに乗せられてやる。要は、こいつら《悪魔祓い》の指導者を見つけて始末すればいいんだろ?」
「そういうこった。単純明快なルールさ」

 男と少女は、屋上の縁に立って寂れた街並みを俯瞰する。狂信者たちが、二人を引きずりおろそうとするかのように手を伸ばし、怨嗟のこもった呻き声を漏らす。
 たった二人の生物を滅ぼすためだけに戦争でも始めるつもりなのか、《悪魔祓い》の者どもは、その手に刃物から銃火器に至るまで思いつくかぎりの悪意を握り締めていた。
 
「さて。殺るかい」

 両手の指を鳴らし、男がとなりを見やる。少女はつり気味の目を細めて、好きにしな、と呟いた。

「おぉ、言われるまでもなく好きにするがよ――だがその前に」

 それは男にとっての礼儀だった。戦いの際に名乗りを上げるのは闘争に身を置く者として当然。他人の道理には従わない無法者でも、男には男なりのルールがある。

 ゆえに名乗ろう。己が真名を。

「我が名は《フォルネウス》! ソロモン王に賜った序列は第三十位! なぁオイ劣等ども! このオレの真名を耳にしたんだ! もう死んでも悔いはねぇよなぁっ!」

 どす黒い愉悦をあらわにして、紅い髪をした男――フォルネウスは階下に飛び降りていった。いや、そんな生易しいものではない。流星のごとき勢いを伴った落下は、舗装された道路に大きなクレーターを作り出した。ずしん、と大地が揺れ、土砂と細かな破片が舞い上がる。

「さぁ、始めようじゃねぇか」

 陥没した大穴の中心にたたずみ、周囲をぐるっと見渡してから、フォルネウスは不敵に告げた。狂信者の集団がニタニタと病的な笑みを浮かべ、民間人は恐れをなして逃げ惑う。騒ぎを聞きつけて出動してきた警察は慌てて拳銃を取り出し、投降を促そうと声を張り上げた。

「う、動くな貴様! 両手を上げて――」
「ズレてんぞ公僕。オレの前でイキってんじゃねえ」

 フォルネウスが駆けた。人ごみをすり抜け、自分に銃口を向けていた警官に肉薄すると、その首をただの手刀で斬り落とした。勢いよく血が噴き出て、ボーリング玉ほどの物体がごろりと転がる。一瞬、嘘みたいに場が静まったあと、

「殺せぇ……殺せぇ……悪魔を、殺せぇぇぇええええ!」

 黒い外套をまとった《悪魔祓い》の者たちが一斉に蜂起し、

「逃げろ! 殺されちまうぞ!」「退いてよ、退いて! 退きなさいよ!」「俺が先だ! やめろ服ひっぱんな!」

 恐慌した民間人が蜘蛛の子を散らすように逃げ出し、

「う、撃てぇ!」

 フォルネウスの危険性を目の当たりにした警官たちが集中砲火を開始した。銃声や爆音が鳴り響き、次いで悲鳴がこだまする。

「そうだよやりゃできんじゃねぇか! せいぜい足掻けや人間ども!」

 指先にしたたる血を舐めとりながら、フォルネウスが吼えた。立派な街路樹がならぶ大通りは、このときを持って戦火に包まれた。首が飛び、手足が千切れ、臓物が吹きこぼれる。建物に穿たれる弾痕、爆炎に晒される街路脇の自動車、化学兵器に汚染されていく空気。ヒトが空想する地獄という場所は、意外と身近に転がっているものだなと、その光景を眺めていた少女は思った。

「あのバカ……派手にやりすぎだね」

 こと殺しという分野において、フォルネウスの右に出る者はそういないだろう。だがなまじ戦闘能力が高いだけに、こうして暴れたときの被害も尋常ではない。決して愚かな男ではないのだが、損得を勘定する利口さを持たないのも確かである。
 少女に向かって、下の道路にいた人間たちが狂ったように発砲してきた。まともに照準もしていない銃弾は、しかし数を撃てば当たる道理。雨は狙って降り注がずとも、地にいる者を確実に濡らすように。

「死にたくないなら黙ってな」

 言って、右手の人差し指を前に伸ばす。それだけで大量生産の鉛弾は消し飛んだ。彼女がその身から放つ波動は、遥かなる蒼穹のように澄んでいながら、邪悪なフォルネウスのそれを凌駕していた。

「あたしはソロモン72柱が一柱にして、序列第十三位の大悪魔ベレト。恨むなら、信仰する宗派を間違えた自分を恨みなよ」

 すでにベレトの眼下には、フォルネウスが生み出した惨状が広がっている。軽く息を吸うと、火薬や血の臭い。そして生物の脂が焼けた臭い。それは嗅ぎなれた、死の臭い。幾星霜を経ても変わることのない、人が紡ぎだす忌むべき臭い。
 ベレトは疾風にも劣らぬ速さで街を駆けながら、この狂信者たちを率いている何者かを探し始めた。都会と比べると開発の進んでいない田舎の街並みが視界を流れていく。
 建物の屋根から屋根に飛び移る最中、何者かの視線を感じた。見下ろせば、階下の道路にたくさんのパトカーが停まっていて、青い制服を着た大勢の警官がそれなりに洗練された挙措で拳銃を照準していた。

「構わん! 撃て!」
「し、しかし、あれはどう見ても……」
「外見に惑わされるな! よく見ろ! 人があれほど速く動けるものか!」

 美しい少女の容姿に躊躇いを覚える者もいたが、それでも風よりも速く駆けるベレトの脚力は、彼らの常識というフィルターを取り外すにはじゅうぶんだった。数瞬ほど葛藤してから、警官たちは空中にいるベレトに向けて発砲した。連なる銃声。

「……ったく、どいつもこいつも」

 ベレトが投げやりに右の人差し指を停車しているパトカーの一台に向けた。それと同時、音響機器を共鳴させたような甲高い音がして、青の極光が弾けた。まばゆい光芒が、パトカーを貫く。衝撃波が波紋のように周囲に広がる。警官たちは拳銃を落とし、尻餅をつき、顔を腕で護って吹きすさぶ風の暴力に備えた。

「……な」

 衝撃が過ぎ去ったあと、恐る恐る顔を上げた警官は、そこに信じられない光景を見た。パトカーが消滅している。あたりには自動車の残骸らしきものが散らばっている。先の一瞬に、いったい何があったのか。

「一度だけ忠告してやるよ。これ以上やるってんなら、あたしはあんたらを殺す」

 遥か高みからベレトが告げる。まるで神のような超然とした言い草だった。しかし、彼女の言葉が決してハッタリではないことを警官たちは理解していた。治安維持の象徴である赤と白を基調とした警察車両を、人知を超えた力で破壊されたのだ。警官の多くは心を折られ、呆然としたままベレトを見上げていた。

「……ま、忠告しても無駄な連中もいるみたいだけどね」

 ベレトの目に《悪魔祓い》の群れが映った。「あの少女には近づくな!」と怒鳴る警官を無視して、狂信者たちはふらふらとした足取りでベレトに迫ってくる。風に乗って、戦いの匂いがした。人間特有のねっとりと絡みつくような陰湿な殺気が満ちていく。
 見かねた警官のひとりが、黒い外套のフードを頭まですっぽりと被った若い女の腕を掴み、力づくで避難させようとした。しかし次の瞬間、警官は口から血を吐き、腹を押さえてくずおれた。腕を掴まれていた若い女が、手に血まみれのナイフを持ったまま不気味に笑っていた。同僚が刺されてパニックになる警察連中とは対照的に、黒尽くめの集団はまったくと言っていいほど統率を乱さず、ただ血走った目でベレトを見上げるだけだった。
 ベレトは小さくため息をつき、手早く終わらせようかと、気だるげに右の人差し指を前に伸ばした。




 いつ頃からか、《悪魔祓い》と呼ばれる組織が誕生した。母体となったのは、近代になってから創始された比較的新しい新興宗教。星の数ほど存在する宗派のなかでも彼らが凡俗として埋もれなかったのは、掲げる思想や戒則がとにかく分かりやすかったからだ。

 ”神を崇めよ。隣人を愛せよ。自然を慈しみ、動物に感謝の意を捧げよ。されど、決して《悪魔》だけは許すまじ”

 前身が宗教団体だったこともあり、《悪魔祓い》に属している者の多くは民間人だ。しかし宗教にのめりこんだ人間とは厄介なもので、彼らは教義に殉じるためなら、自分の命ですら道具のように扱う。無関係の者を巻き込むことなど前提だ。飛行機を落とすことも、豪華客船を沈没させることも、一つの街を戦火に包み込むことも厭わない。
 病的なまでの執念により、なにもかもを犠牲にして、ただ《悪魔》を滅ぼすことだけを是とする。この厄介すぎる性質から、《悪魔祓い》は、裏社会では忌むべき”狂信者の集団”として強く警戒されている。

「そうだ、そうだ、そうだ! そうだそうだそうだ……!」

 その老人は、草木の生い茂った丘の頂上にそびえる教会の麓から、絶望に包み込まれた街並みを見つめていた。
 北欧には《悪魔祓い》の支部がいくつか存在するが、そのうちの一つを指導する、司教という位階を賜ったのがこの老人だった。
 数週間ほど前、他国に根を張る同胞から、二柱の《悪魔》がそちらに向かっていると連絡を受けた。それは老人にとって革命的な情報だった。
 悪魔の定義はとてつもなく曖昧だ。欧州では低級悪魔に分類されるオドも、日本では強い力を持った悪霊とみなされる。吸血鬼がそうだと呼ばれた時代があれば、異能を持った人間のことを指す地域もある。
 だが世界中の組織が共通して悪魔だと認識している正真正銘の怪物が、この世に72体だけ存在する。ソロモン72柱と呼ばれる彼らこそ、《悪魔祓い》がその教義において否定している打倒すべき敵だった。

「殺せ! 殺せ、殺せ、殺せ! 殺せ殺せ殺せっ! 悪魔はみんな殺してしまえぇぇぇぇっ!」

 総力戦だった。ありったけの武器と、ありったけの人員を導入した。いつもは老人のそばに控えている幹部たちですら、いまや一人も残っていない。悪魔を滅ぼすためだけに、誰もが命を捨てている。

「そいつらは邪悪なのだ! 存在してはいけない、存在していることが間違いなのだ! だから正せ! 悪魔がいない世界を作り上げろ!」

 もはや老人には、何も残っていなかった。
 育ててくれた親がいた。信頼しあえる友人がいた。添い遂げようと誓った女性がいた。己の血を分けた子供がいた。だがいまはもう何も残っていなかった。
 すべての始まりは、彼の娘が、オドに取り憑かれた人間の手によって殺されてしまったことだった。絶望に暮れた彼は、何かに縋らなければ生きていけなかった。だが真の意味で彼が不幸だったのは、娘を殺されたことではなく、手を伸ばした先にあったものが、異質な宗教だったことだろう。
 その邪宗門には、彼と似たような境遇の者が大勢いた。信仰を続けるうちに高度なマインドコントロールを受けた。信者は狂信者に、純粋な想いは執念に変えられた。家族を殺し、家や土地を売った。いつしか彼は、多くの信者をまとめる立場と権力を手に入れていた。
 すでに彼は、どうして自分がここまで悪魔を憎んでいるのかという理由や、娘を殺されときの無力感と絶望を忘れてしまっていたが、その心にこびりついた我執だけは絶えていなかった。
 脳裏に薄っすらと、かつて抱き上げた愛しい我が子のかんばせが浮かび上がる。貴様らさえいなければ、私の人生は狂わなかったのに。貴様ら《悪魔》さえいなければ、私の娘は死なずにすんだのに。

「なればこそ――私はあの邪悪な者どもが許せないのだ!」

 老人が吼えると同時に、雨音に混じって甲高い耳鳴りがした。

「あたしらがいなくなっても、この世界は変わらないよ。あんたら人間には、それが分からないんだね」

 老人以外には誰もいないはずなのに、どこからともなく少女の声が聞こえてきた。彼が血走った目であたりを探っていると、上空から『何か』が射られた。すぐそばに建っていた古い教会が、跡形もなく消し飛ぶ。桁外れの破壊力だった。
 気付くと彼は、赤黒い血溜まりのなかに倒れていた。見れば、腹部から大量に出血している。おそらく教会が木っ端微塵になった際、勢いよく散らばった建材のひとつが、彼の腹を切り裂いたのだろう。

「あんたが指導者だろ? 想像よりも年が行ってたから探すのに苦労したよ」

 離れたところに、ひとりの少女が立っていた。ツリ気味の目と、肩口よりもすこし長い亜麻色の髪。血も凍るほど美しい少女だった。およそ人間に許された美貌を越えている。
 少女の華奢な肢体からは、針のように練磨された波動が迸っていた。内側から溢れ出る力が、雨に濡れた服を揺らしている。死に直結する傷を負ったせいで老人の意識は霧のように霞んでいたが、それでも目の前にたたずむ少女の正体に気付かないはずがなかった。

「そうか……貴様のような小娘だったのか。この悪魔めっ!」
「悪魔ね。否定はしないけど、平気なツラして同族を巻き込むあんたたちにだけは言われたくないよ。あのホテルマンに爆弾詰まったバッグを持たせたの、あんただろ?」
「黙れ! あれは必要な犠牲だったのだ! 私は貴様らを……ぅっ、かはっ!」
 
 老人の口から鮮血が吹きこぼれる。死に瀕した彼を、少女は腰に手を当てたままの体勢で見つめていた。

「もう長くないみたいだね。それにあんた、もともと死病を患ってるだろ。安静に暮らしても、せいぜい一年ちょっとしか持たなかったはずだよ」
「……よく分かったな。さすがは悪魔とでも言うべきか。医者に言わせれば、私の命はあと半年ほどらしい」

 本当は、今日の作戦のために、体内に殺傷力の高い生物兵器を埋め込むつもりだった。こういう状況のとき、《悪魔》を道連れにできるように。
 しかし加齢にともなう肉体の衰弱と、長きにわたる闘病生活の二重苦が、老人から手術に耐えうるだけの体力を奪っていた。兵器を埋め込む手術が無事に完了しても、麻酔から目覚めることができなくては意味がない。つまり老人にはもう、少女を滅ぼす手段がなかった。生涯を賭けた悲願が潰えるのは、何とも呆気ないものだった。

「……貴様の名を、聞かせてもらおうか」
「ソロモン72柱。序列第十三位の大悪魔ベレト。それがあんたを殺したやつの真名さ」
「ふ、ふふ、そうか……なるほどな」

 老人は笑った。真名さえ分かっていれば、死んでも呪うことぐらいならできるかもしれないから。
 そうして彼の生涯は幕を閉じる。走って走って走り抜けて、振り返った先に残っているものは空虚な過去だけ。そこに救いはない。
 だが彼は後悔していなかった。他人から見れば不幸すぎる人生でも、彼から見ればそう捨てたものではない。なぜなら最後に、自分を殺した悪魔の名を抱いて、ともに地獄に堕ちることができるのだから。自分さえ満足できれば、それでいい。
 狂信者の末路など、得てしてそういうものだ。




 北欧の北大西洋上に位置するこの国は、独自の軍事力を保有していない。ゆえに安全保障の大部分は、北大西洋条約機構の協力およびアメリカとの防衛協定によって確保している。だが対テロなどの組織的な危機に対抗する手段は持たずとも、治安維持を目的とした国家警察は設置されている。
 さりとて凶悪犯罪が数年に一度起きるかどうかの田舎町に勤める彼らに、迫り来る害悪を取り除く力などあるはずもなかった。

「なぁ。ビールが飲みたいとは思わないか?」
「いいですね、それ。今夜にでも一杯引っ掛けますか」

 立派な街路樹の立ち並ぶ大通り。青い制服を着込んだ二人の警官が、道路の中央に停めた警察車両をバリケードにして、雨に濡れた路面に直接しゃがみこんでいる。
 住人の避難が終わり厳重警戒態勢が敷かれた町からは、元から薄かった活気が完全に消えうせていた。ずっと向こうのほうから鳴り響く警報が、ひどく危機感を煽る。耳を澄ましても人の息吹は聞こえず、ただ、ざあざあと降り注ぐ冷たい雨が耳朶を打つだけ。

「なんで俺、こんな仕事を選んだんだろうなぁ。勤務時間は不規則だし、忙しいわりにゃ給料も低いしよぉ。俺みたいないい男に嫁さんがいないのは、きっと仕事のせいだろ」
「まーた先輩の言い訳が始まった。そんなに嫌なら辞めたらいいじゃないですか。言っときますけど、俺は引き止めたりなんかしませんよ」
「バカ。いまさら再就職する気力なんかあるかよ。それに俺、この仕事嫌いじゃないからな」
「どっちなんですか、いったい」
「いまだから告白するけどよ。実は俺、ガキの頃から正義の味方ってやつに憧れてたんだ。そんで気付いたら、この仕事を選んでた。単純だろ? 笑いたけりゃ笑っていいぞ」
「あはははは!」
「マジに笑うなよ……」

 警官の男は、腹を抱えて笑い転げる部下をねめつけた。そろそろ数年近い付き合いになるが、いまだに上司を敬おうとしない態度には困ったものだった。
 あまり緊張感がない会話を続ける二人だが、その実、彼らの胸中には不安や不満が濃霧のごとく立ち込めている。そもそもの発端は、十数分ほど前にもたらされた無線連絡。肝心の内容は、ひとまず現場指揮官の正気を疑ってしまう程度にはお粗末なものだった。

 ”そちらにテロリズムの容疑者が向かっている。相手は単犯である。発見次第、無力化せよ。もちろんのこと生死は問わない。第四警戒態勢が発令された現在、厳重警戒圏内においてのみ携行した拳銃の使用も全面的に許可される。諸君の健闘を祈る。”

 いま思い返しても、それは冗談としか思えない指令だった。まずテロが単独犯によって引き起こされるなど聞いたことがない。こんな辺境のド田舎に暴力をもたらしたところで、政治的利益など微々たるものだろうし、実際、犯行声明の類は一切出ていないようだった。
 第一、テロを収めるのは軍隊や専門の訓練を積んだ特殊部隊の仕事だろう。人手の多くが住人の避難に当てられているせいで、町を襲う危機を沈静化するだけの手が足りないのは理解できる。だから手が空いていた自分たちが現場に回されるのも仕方ないとは思うが、拳銃を撃つことさえ滅多にない末端の構成員に、いったい何が出来るというのか。

「……言い忘れていたが、おまえ、逃げたければ逃げてもいいぞ。今回だけは仕事をサボっても文句は言わん。だれだって命は惜しいだろうからな」
「はあ? なに言ってんですか。いつも俺のことを鬼みたいに叱るくせに」
「まぁ、おまえ若いからな。それに綺麗な彼女いるじゃないか。こんな馬鹿げた仕事に付き合う暇があるんなら、その子、幸せにしてやれよ」
「先輩には似合いませんって、そんな格好いい台詞。あと彼女とは先週別れちまいました。だからつれないこと言わないで、いつもみたいに俺を口うるさく叱ってくださいよ。いまだから言いますけど、実は俺も……っ!?」

 ぞくり、と肌が泡立つ。背後に不気味な気配を感じて、二人は振り返った。そこには様々な武器を持った狂信者の群れがじっと佇立している。その生気のない風貌からは、悪霊や幽鬼といったネガティブなものを連想させる。

「こ、この人たち、いつの間に……?」

 部下が狼狽しながら言う。だが警官の男は、もっと他のことが気になっていた。黒尽くめの集団は、一心不乱に前方を、バリケードにした警察車両の向こう側を見据えている。見つめる先には何があるのか。好奇心をくすぐられた警官の男はわずかに腰を浮かし、彼らの視線を辿ってみた。

「――何年、何十年、何百年と経っても変わんねぇなぁ」

 数十メートルほど向こうから、紅い髪の男が紙巻き煙草を咥えながら歩いてくる。色男と言って差し支えない、どこか浮世離れした容姿だった。何かに飢えた鋭い目が、雨露のなかで炯々と輝いている。それは荒々しい威圧を撒き散らしながら、踏み出す一歩ごとに静まり返った大通りを支配していく。風が止んでいるにも関わらず、街路樹が激しくざわめいた。

「てめぇらはいつでも、いつまでも愚かなままだ。いい加減、理解しろや。てめぇら人間に、オレたち《悪魔》は殺せねぇよ」

 深紅の男と、漆黒の集団が対峙する。彼我の距離は三十メートルほどだろうか。素人目にも明らかな殺気が張り詰める。眼球の動き、呼吸の強弱、そして唾液を飲み込むことですら気を遣うような緊張感。

「……まぁ、クソみてぇな妄念に囚われた莫迦どもに言っても無駄か。いつでもいいぜ。死にに来いや」

 多分に嘲りの交じった笑みを口端に刻み、紅い男は短くなった煙草を宙に向けて弾いた。灰を散らしながら、くるくると舞い上がる紙巻き。それが路面の水溜りに落下し、ジュッと音を立てた瞬間、闇色の群れが奇声を上げながら紅い男に突撃していった。

「せ、先輩。あの紅い男、何だと思いますっ?」
「知るか! 大方、あいつが例のテロの容疑者なんだろうよ! それよりも問題は、この黒いヘンテコな格好をした集団だろ! なんだ、こいつらは丘の上の教会で新手のミサでもやるつもりなのかっ!?」
「俺に聞かれても知るわけないでしょう! こっちが聞きたいぐらいっすよ!」

 彼らは蚊帳の外だった。あらかじめこの場に陣取っていたのに、紅い男も、そして邪宗門の徒も、警官二人には目もくれない。そうこうしている間にも、漆黒を象る亡者の群れは、紅い男に捨て身の特攻を仕掛けていく。絶え間なくこだまする争いの音、悲鳴と断末魔、正気を失ったような笑い声。この場に長く留まるだけで、間違いなく気が狂う。

「くそっ、さすがに二人じゃ何もできんぞ! おい、帳場のお偉いさんに連絡を取るから無線をよこせ! まずは、うおっ!?」

 立て続けに爆発が起こった。通りに立っている街路樹が勢いよく燃えながら倒れる。熱風が吹き荒れ、警官の男の前髪をちりちりと焦がしていく。彼は制帽が飛ばないようにと手で押さえた。

「なにが起こった!?」
「分かりません。たぶん、手榴弾かなにかを使ったんじゃないでしょうかね。でもこれであの紅い髪の男も……」

 部下の希望的観測を打ち砕くように、火炎のなかから悠然とした足取りで紅い男が出てきた。口元に、笑みを貼り付けて。

「いいねぇ! その見境のねぇとこは好きだぜ! おらっ、どんどんかかってこいや! 悪魔祓いの信者さんたちよぉ!」

 血に飢えた獣が狂奔する。銃弾すらもかわす常軌を逸した運動能力。紅い男は、なんの道具も使わず素手で人間の身体を切り裂いていた。まるでワインのコルク栓が跳ぶように、人の頭が宙を舞う。街に降る雨が、この一瞬だけ赤くなった。

「先輩、正義の味方に憧れてたんでしょう? だったらあの怪物、どうにかしてくださいよ!」
「バカ言うな! 小便チビるの我慢するのが精一杯だ!」

 正直な話、警官の男は”逃げようか”と迷っていた。ここで半端な正義感を振りかざしても命を無駄にするだけだ。それは勇気ではなく無謀だろう。
 彼らに与えられた最初の指令は、大まかに言って特定地域を哨戒しながら逃げ遅れた住人を捜索し、発見次第保護することだ。しかし今のところ街にいるのは黒い外套をまとった集団と、人の理を外れたバケモノだけ。
 警察とは、治安を守り、困っている人に手を差し伸べるのが仕事なのだ。人間としての矜持や常識を捨てた連中をどうこうするために、ひとつしかない命を捨てるのも馬鹿げている。

「……逃げる、か?」

 深く思考に没頭していた彼は、無意識のうちに小さな声で呟いていた。それはとなりに座っている部下にも聞こえないような、か細い声だったにも関わらず。

「おもしれえ。逃げてみな。十秒待ってやるよ」

 警察車両を隔てた向こう側から、ありえないはずの返事があった。ふと気付けば、もう銃声はしない。悲鳴も、哄笑も響かない。警官の男が十数秒ほど自己の世界に没頭している間に、あたりは不気味なまでの静寂に支配されていた。この場で生きているのは、たった三人だけになっていた。

「よぉ。てめぇらに言ってんだぜ?」

 低く押し殺した声が耳朶を打つ。それで確信した。この男は、あれだけ大量の殺人を犯したのに、まだ殺したりないと言っている。自分たちに死ねと、とっととオレに殺されろと、そう言っている。

「……ちくしょう。ジョークにしても笑えんぞ」
「まったくもって同感ですね……」

 不思議と恐怖に取り乱すようなことも、無様に命乞いをすることもなかった。きっと彼らは漠然と理解していたのだ。ああ、もう俺たちは助からないなと。尻尾巻いて逃げても追いつかれて殺されるだろうなと。警官二人は観念して尻を浮かし、警察車両の陰から出た。

「手段は問わねえ。面白けりゃ何でもいい。万物の霊長を自認する人間様の底力を見せてくれや」

 言って、悪魔が示威的にゆっくりと歩いてくる。ほとばしる波動が、路面に溜まった水溜りに力強い波紋を起こす。衣服の下に眠る四肢は、いかなる肉食獣の追随も許さぬほどの性能を生み出し、有象無象を蹂躙する。動物としての究極を体現した、生粋の狩猟者。この紅い髪の男からすれば、人間など喰らうだけの獲物に過ぎないだろう。

 そのとき、一発の銃声が、通りに反響した。

 警官の男が我に返ると、となりにいる部下が構えた拳銃を発砲していた。銃口からもうもうと立ち上る硝煙。放たれた弾丸は雨を切り裂き、紅い男の顔面にあやまたず命中していた。大きく仰け反った顔が、銃弾の威力を物語っている。さすがのバケモノも、現代兵器が急所に直撃してはひとたまりもあるまい。

「……ぬりぃな。度胸はあっても殺意が足りねえ。”殺してやる”じゃなくて”死にたくない”だ、そりゃ」

 嘲笑する。歯と歯のあいだに鉛弾を挟んだまま。

「ば、バケモノが……!」
「うぜぇよ劣等。寝言こいてる暇があんなら、とっとと殺り合おうじゃねぇか。それともオレから行ってやろうか。あぁ、安心しろ。ちゃんと手加減してやっからよぉっ!」

 紅の悪魔が疾走する。踏み込みの衝撃でコンクリートが陥没していた。ただ直進するのではなく、周囲の建物の壁を蹴りつけて空間を三次元的に駆けてくる。

「先輩っ!」

 部下の声がした。反射的に大きく横に跳ぶ。かたわらにあった警察車両が、紅い男に薙ぎ払われて、きりもみしながら吹き飛んでいく。人間にとっての乗り物は、紅い男にとって障害物にすらならなかった。

「こんの……!」

 でたらめに拳銃を撃ってみるが当然のように当たらない。暴力を備えた風を、人間が捉えられるわけがない。
 逃げろ。警官の男は、部下に向けてそう叫ぼうとした。この正体不明の怪物には抵抗など無意味だ。まだ逃げたほうが生き延びる可能性はある。恥だとしても、警官失格だとしても、正義の味方にあるまじき行為だとしても、ここは逃げたほうが絶対に賢い。事実、このとき男は逃げようとした。

「……あのバカ!」

 しかし部下は、果敢にも立ち向かっていく。違うだろう、と警官の男は思った。お前はそんな格好いい奴じゃない。俺の目を逃れて仕事をサボるのが得意技だったじゃないか。そのあと二人で、仕事の愚痴を言い合いながら酒を呑むのが日課だったじゃないか。

「先輩」

 部下がこちらに振り向く。その顔には、確かな勇気が宿っていた。警官の男が幼いときに見たヒーローショーの主役にも負けない、どこまでも格好いい漢の顔だった。

「いまだから言いますよ。べつに俺は、先輩の夢を笑ったんじゃないっす。ただ可笑しかったんです。だって……」

 彼は照れくさそうな顔でつぶやいた。

「俺の夢も、正義の味方だったんですから」

 そんな恥ずかしい告白が、部下の最期の言葉だった。いつも怠惰で、仕事の手際も悪くて、でも困ってるやつは放っておけないようなお人よしで。そうか。おまえが警察の仕事に愚痴を言いながらも退職しようとしなかった理由がようやく分かった。俺と一緒だったんだな。

「なるほど、悪くねえ。腕はからっきしだが、久しぶりに殺し甲斐のある野郎だった。こういう莫迦は嫌いじゃねぇぜ」

 新たな血が流れる。心臓を抉り取られ、ガラス細工のように虚ろな目をした部下が、紅い男の足元に倒れていた。

「……俺は」
「あん?」

 俯きながら、歯噛みしながら言葉を搾り出す。なによりも許せないことがあったから。我ながら単純だとは思うが、市民を護る警官として、正義の味方に憧れた男として、もう退くことはできなくなったから。

「俺は、そいつの上司だ」

 拳銃を構える。震える手で。恐怖ではなく、怒りによって震える手で。

「知らねぇよ。無駄口たたく暇があんなら、その手にあるオモチャをぶっ放してみな。一発でも当てることができりゃ楽に殺してやるよ」

 気に入らなかった。このクソ野郎が。笑ってんじゃねえよ。いまおまえの足元にいる、そいつは。

「俺の大切な部下なんだよぉ!」

 銃声が轟く。ざあざあと冷たい雨が降っていた。制帽を被っているのに、警官の男の顔は確かに濡れていた。悪魔の顔は、確かに哂っていた。
 近くの路地から新たに涅色の衣をまとった者たちが現れ、紅い男を認めるや否や病的な笑みを浮かべる。大勢の足音に混じって、ぼそぼそと囁くように「悪魔は殺せ悪魔は殺せ悪魔は殺せ」と抑揚のない合唱が聞こえる。それは聞く者の心を蝕む、醜悪なコーラスだった。

「ゴキブリみてぇな連中だな。殺しても殺してもキリがねえ」

 新たな掃討を始める直前に、紅い男は――大悪魔フォルネウスは告げた。

「よぉ、ポリ公ども。てめぇらの根性と気迫は見事なもんだったぜ。機会がありゃあ、また生まれ変わって挑みに来な。いつでも待ってるぜ、正義の味方さんよ」

 それはフォルネウスなりの賞賛だった。旧来の友に向けるような笑みを口端に刻み、深紅の大悪魔は踵を返した。
 通りの隅には、青い制服を着た男が二人、並んで眠っていた。




 豊富な若緑に囲まれた丘の上からは、戦火に包まれる町が一望できる。原型を留めないほどに破壊された教会の跡地には、黒衣をまとった老人の亡骸が雨に打たれていた。その冷たい骸を、ひとりの少女がじっと見つめている。
 乱暴な風になびく亜麻色の髪は、華奢な肩口よりも少しだけ長く、活発でありながらも清楚なイメージを抱かせる。滑らかな肌は、雨に濡れて生来の白さがより顕著となっていた。ピンと吊り上がった目が、儚げな美貌に力強い芯のようなものを加えている。
 ソロモンの序列第十三位に数えられる少女は、名をベレトという。
 物言わぬ屍と化した《悪魔祓い》の指導者を前にして、ベレトの胸中には哀れみにも似た感情が渦巻いていた。いつの時代も人間は愚かなままだ。自分たち《悪魔》を排除したところで世界はなにも変わらないというのに。これではあの子が、自分たちを捨ててまで王として生きようとしたあの子が、報われない。

「……ソロモン。あんたは」
「よぉベレト。もう終わったのかよ」

 彼女の呟きを、荒々しい声が遮る。ベレトが振り向くと、そこには全身に返り血を浴びたフォルネウスが立っていた。紅い髪が、さらに濃厚な深紅に染まっている。吐き気を催すぐらい、彼は血の臭いを帯びていた。
 すでに街は大変な騒ぎになっていた。多くの人間が殺され、建物からは火の手が上がっている。どこかで警報が壊れたように鳴り続け、至るところには凄惨たる破壊の爪痕が刻まれ、そこで起こった惨劇の度合いを物語っている。

「いやぁ、スッキリしたぜ。やっぱりフラストレーションってのは溜めに溜めて、一気に発散するのが一番だなぁ」

 悪魔祓いを率いていた指導者を先に殺す。それがこのゲームのルールだったはずだが、勝利したベレトは不機嫌に、そして敗北したはずのフォルネウスは上機嫌な顔をしている。

「……あんた、初めからやる気なかっただろ? 街で好き勝手に暴れる時間を作るために、あんな勝負を持ちかけたんだね。あたしがこいつらのリーダーを見つけるまでの間、あんたは自由に殺しができたと」
「おいおい、そりゃ下衆の勘繰りってもんだぜ? オレは全力で殺ったさ。んで、おまえさんに負けた。それでいいじゃねえか。いまからオレは、おまえに従ってやるんだからよ」
「もう遅いね。ここまで騒ぎが大きくなったんだ。情報は海の向こうにまで流れるだろうし、法王庁の連中なら、あたしらがここにいたってことにも気付くはずだよ」
「べつにいいだろうさ。悪魔祓いに比べりゃあ法王庁なんざ可愛いもんだぜ」
「ま、半分だけ同意するけどね」

 彼らが戦闘の余韻に浸っていると、ベレトの携帯電話に着信があった。それと同時に、フォルネウスの顔が曇る。

「なぁオイ。そんな人間が作った気色悪い機械なんざ捨てちまえよ」

 彼は携帯が、というか便利すぎる機械があまり好きではなかった。

「便利だけどね、これ。そういうあんたも、人間が作ったタバコや酒を楽しむだろ。それと似たようなものさ」
「……そんなもんかねえ」

 フォルネウスはそれ以上なにも言わず、小さく鼻を鳴らして、新たな紙巻き煙草を取り出した。

「あたしだよ。用件は?」

 相手も確認せずにベレトは問いかける。この携帯に電話をかけてくる者は限られているからだ。

「……分かった。フォルネウスにも伝えるよ」

 時間にして三十秒もなかった。ベレトは電話を切ると、犬猿の仲と言っても過言ではない同胞に声をかけた。

「よかったね。あんたの大嫌いな、このネズミみたいな生活は終わりだよ。《アスタロト》から連絡がきた」
「……ほぉう」

 フォルネウスの動きがぴたりと止まる。次いで、その唇が不気味に歪んだ。血に飢えた紅い獣は、待ち望んでいた時が来たことを歓喜した。

「もうすぐ法王庁のやつらが、正式な手続きを踏んでくだんの国に入るらしい。あたしらも行くよ。もちろん、こっちも正式な手続きを踏んでね」
「……くっくっくっ、そうかよ、そりゃいいじゃねえか! 《グシオン》の野郎、ずいぶんと待たせやがったなぁ!」
「あたしも嬉しいよ。やっとあんたの子守から解放されるからね。ただ、あたしらは別に暴れに行くわけじゃない。むしろ今回みたいに好き放題に暴れることはできなくなるだろうね。そこんとこは忘れないでよ」

 こうして二柱の大悪魔は、その場からひっそりと姿を消した。

「それじゃあ行こうか。日本へ」

 北欧の片田舎に、未曾有の混乱だけを残して。




 のどかな昼下がり、アルベルト・マールス・ライゼンシュタインは多忙な執務の合間に、愛飲している葉巻を楽しんでいた。
 彫りの深い顔立ちと、白いものが混じった灰色の髪。目は鷹のように鋭く、筋骨隆々とした体は略式の軍服に包まれている。四十を過ぎたばかりの彼は、巌のような大きな存在感を持った人物だった。
 彼のつかの間の休憩は、扉をノックする音によって終了した。アルベルトが執務机のうえにある灰皿に葉巻を置くと、書類や本棚で埋め尽くされた将校室の空気が引き締まった。

「入れ」

 短く告げると、まだ若い下士官がきびきびと入室してきた。下士官は左の脇に書類の束を抱えたまま、右手で敬礼した。

「失礼します。戦隊長殿。第二セクションより報告書と、シュナイダー枢機卿より令状を預かって参りました」

 差し出された二枚の書類を受け取り、ざっと目を通す。どちらも予想していた内容が記述されていた。
 情報処理を専門とする諜報部……組織内部の者からは第二セクションと呼ばれる……からは、北欧で起きた《悪魔》が関わっていると見られる戦闘に関する詳細な調査報告。そしてシュナイダー枢機卿からは、極東の島国に入国する正式な認可が下りたという事実報告。
 それらの重要な情報を咀嚼したアルベルトは、書類を机のうえに置いたあと、下士官に問いかけた。

「ファーレンハイト室長はどうしているね」
「はっ。室長は現在……その、ローマ市内にて必要物資の調達を行っています」
「率直に言いたまえ。室長はどうしているのかね」

 繰り返し問うと、下士官は苦々しい表情を浮かべて訥々と言った。

「……室長は現在、ローマ市内にて買い物を楽しんでいます。かの地に合う衣服や小物を探すと」
「そうか」

 アルベルトの胸中に、かすかな安堵が訪れた。それでいい。自分たちは間もなく欧州を離れ、くだんの国に入る。数週間前から水面下で進めていた手続きも無事に終わった。馴染みのある土地でゆっくりできる時間はもう幾許もないのだ。せめて彼女には、いまの間だけでも平穏を満喫して欲しかった。
 やがて下士官が退出すると、アルベルトは窓のそとを眺めて、静かに呟いた。

「……日本か。あの男が死んだ地だったな。室長に深刻な影響が出ねばよいが」

 法王庁異端審問会特務分室。彼らが日本の土を踏むのは、これより十日後のことであった。





[29805] 3-2 永遠の追憶
Name: テツヲ◆c49d9b75 ID:366fa69a
Date: 2012/05/12 14:32

 夢を見ていた。誰よりも大切だった人を救えなかった夢。親友と交わした約束を違えてしまった夢。それは十数年もの間、彼女が向き合い続けてきた過去であり、ここ数ヶ月ほどは一度として見なかった、在りし日の咎。
 時間の流れは早いものだった。特に幸せな時間は矢のように過ぎ、泡沫のように消えていく。六月、遅れてやってきた梅雨も終わり、暦は七月に差し掛かっていた。

「はぁっ、はあっ……んっ、くぅっ……」

 寝苦しい夜だった。気温、湿気とともに高く、全身に何かがまとわりつくような不快感があった。ごうごうと空調が音を立てる。冷房はかかっていた。それでも部屋は暑かった。彼女にとっては。

「んっ、あっ、くっ、うぅっ……!」

 ひどく汗をかいていた。それほど彼女は、夢にうなされていた。悪夢ではない。これはただの夢だ。かつて背中を預けて共に戦った人と刹那の間とは言え邂逅できるこの一時を、悪い夢だなんて思いたくない。

「――だめっ! 駿貴!」

 悲哀に掠れた声が、熱帯夜に残響する。弾かれたように身体を起こしたナベリウスは、室内にわだかまる闇を見据えて、荒く熱っぽい呼吸を繰り返した。顔にかかった銀髪の房を気だるげに払いのける。目尻からは、汗とは違うしずくが一筋だけ流れていた。

「……また、あの夢」

 もうずっと見ていなかったのに。あの朝、初めて少年に触れたときから、夜は苦しむための時間から安らぐための時間に変わったはずだったのに。どうして今になって。
 いや、本当は分かっている。ここしばらく、ナベリウスは夕貴のぬくもりを感じていない。いつも例の夢を見そうな夜は、一人だと心細いから、夕貴の腕のなかに潜り込んでいたのだけれど。

「うわぁ、すっごい汗……」

 素肌にべっとりと張り付く衣服の感触が気持ち悪かった。腰まで伸びた長い銀髪も汗を吸い、雨に濡れたように毛先が束になっている。服の胸元を引っ張って中を覗いた。布が吸収しきれなかった水滴が、まだ滑らかな肌のうえで輝いている。時計を見ると、午前二時を回ったところだった。
 こんな汗だくの状態では眠ることもままならないと思い、彼女はシャワーを浴びることにした。冷房の効いた自室から出ると、すぐに嫌になるような蒸し暑さが襲ってくる。ぺたぺたと素足のまま脱衣所まで歩き、水分を吸って重くなった寝巻きを洗濯籠のなかに放り込むと、浴室に入ってシャワー栓をひねる。

「……ん、はぁ」

 思わず悩ましげな吐息が漏れるほどに心地よかった。やや温めに設定したシャワーを頭から浴びると、女性らしい起伏のある身体に小さな滝がいくつも現れる。腕、肩、腹と順にゆっくりさすり、全身にこびりついたものを洗い流していく。
 十数分ほどかけて湯浴みを済ませると、緩慢とした足取りで脱衣所に出た。備え付けられた鏡には、絶世という形容が似つかわしい美貌が映っている。
 濡れそぼった銀髪は肌に張り付き、絹糸のごとき麗しさを披露している。豊満な肢体は、男性を欲情させるだけの肉付きがあり、それでいてすらりと細い。ヒップから腰にかけての優美な曲線は芸術的とさえ言える。かたちのいい豊かなふくらみが、身じろぐたびに上下に柔らかく揺れ、きらきらとした水滴を飛ばす。
 世の男性を虜にする整った美貌は、どこか物憂げに歪んでおり、それが却って彼女を魅力的に演出していた。

「……ひどい顔だなぁ」

 だがナベリウスは、鏡に映った女を不細工だと思った。こんな情けない顔をした自分は見たくない。まるで王子様の助けを待つ無力なお姫様を気取っているような顔。まったくもって最低だった。
 バスタオルで全身を拭き終えると、用意しておいた替えの寝巻きに袖を通した。まだ幾分か濡れたままの銀髪が、背中の布をかすかに濡らす。
 なんとなく。本当になんとなく夕貴の顔が見たいと思ったナベリウスは、一階にある自室ではなく、二階にある彼の部屋へと向かった。広い家のなかは耳鳴りがするほど静まり返っていて、家人の気配はしない。みんな眠っているようだった。
 迷いのなかった足取りは、しかし夕貴の部屋のまえで止まった。普段ならあっさりと回せるはずのドアノブが、今夜だけは微動だにしない。きっとあの夢を、萩原駿貴の夢を見たせいだ。圧倒的な罪悪感に蝕まれた身体が、彼の血を引く少年に会うのを拒否しているのだろう。やっぱりわたしは臆病だな、とナベリウスは自嘲気味に唇を歪めた。
 わざわざ二階に上がったのに、このまま自室に引き返すのも間抜けだと思ったナベリウスは、なけなしの勇気を振り絞り、萩原邸に来てから一度も入ったことがない部屋に足を踏み入れた。
 ややアンティークな趣のある調度類と、ところどころに散見される女性らしい小物。そこは萩原小百合の部屋だった。おそらく夕貴が定期的に掃除しているのだろう、ほとんど埃は溜まっていない。
 大きく息を吸ってみると、懐かしい匂いが胸を満たした。どこか夕貴を彷彿とさせる、心地いい匂い。おかしなものだ。ずっと気後れしていたのに、いま自分はこんなにも安心感を覚えている。部屋は薄暗いのに、心はこんなにも温かい。
 ふと、化粧台の脇に小さな写真立てがあることに気付いた。それを手にとって眺めてみる。映っているのは美しい母親と、あまりにも可愛らしい少年だった。まだ幼い夕貴が、どこか照れくさそうに小百合と手を繋いでいる。小学校の卒業式の日に撮ったものらしく、卒業証書の入った黒筒を抱える小百合の目は、すこし赤くなっていた。ありふれた、どこにでもあるような一枚の写真が、なぜかナベリウスには尊いものに思えて仕方なかった。

「……あぁ、そういえば小百合、髪の毛切ったんだっけ」

 かつて萩原駿貴が生きていた頃は、小百合の髪もずいぶんと長かった。でも、夕貴が生まれると同時に、小百合は自慢だった髪をばっさりと切ってしまった。それはきっと一人で子供を育てる覚悟の証だったのだろう。

 ――あのときの小百合の苦悩を、ナベリウスは誰よりも知っている。

 ため息混じりに写真立てを元あった場所に戻すナベリウス。そろそろ戻ろう。ここにいても感傷に浸ってしまうだけだから。そう自分に言い聞かせた彼女は、振り返った瞬間、本棚に並べてある古いアルバムに目がいった。興味を惹かれて、なんともなしにアルバムの一つを手に取る。そのとき、ページの間に挟まっていた一枚の写真が、ひらひらと足元に落ちた。

「こ、これは……とんでもないものを見つけちゃったかな……」

 拾い上げた写真には、ソロモンの序列を持つナベリウスをも震駭させる、驚きのものが映っていた。


****


 深々とした青空と、連なるようにして浮かぶ白雲の群れ。風が吹き、花壇に植えられた色とりどりの花が優しくそよいだ。小さな池には色艶のいい鯉たちが元気に泳ぎまわっている。俺と母さんが長い年月をかけて少しずつ整えてきた萩原邸の庭は、今日も平和だった。
 七月の初頭。燦々と降り注ぐ日差しは留まることを知らず、ただ突っ立っているだけでも汗が噴き出てくるような猛暑だった。強烈な紫外線が、じりじりと肌を焦がしていく。男子はともかく、女性はこぞって日焼け対策に念を入れてからでないと外にも出られない。ちなみに俺は男らしいので、もちろん日焼け対策などこれっぽっちもしていない。

「はぁ、はぁ……くそっ」

 ぽたぽたと滴り落ちる汗が、足元に広がる芝生に吸い込まれていく。すでにシャツは水分を吸って重くなり、素肌にまとわりついていた。そろそろ着替えないと運動に支障が出るかもしれない。
 すぅっと肺一杯に酸素を吸い込み、ゆっくり気息を整えてから、俺は乳酸の溜まった脚で強く踏み込んだ。握り締めた拳を、一切の加減なく突き出す。

「遅い。動きが直線的すぎ。バカの一つに覚えにもほどがある」

 抑揚のない、ともすれば退屈しているとも取れる声。しっかりと目で捉えていたタンクトップ姿の美影が、半歩だけ後ろにずれる。俺の拳は、彼女の鼻先で止まっていた。腕の長さ、踏み込みの距離、拳を振るうタイミング、それら全てが完全に見切られている。彼女は最小の運動で、俺の最大をいなした。差し引くと、こちらが晒した隙の分だけ、向こうが自由に動けるということになる。

「格闘戦で大事なのは直線運動じゃなく、曲線運動。こういうのは身を持って覚えたほうがいい」

 言葉を置き去りにするほどの速さで美影が動いた。艶のある黒髪をなびかせて、俺の死角に潜り込んでくる。肉薄すると同時、彼女は大きく弧を描くように足を跳ね上げる。視界の外から飛んでくる蹴り。俺は反射的に上半身を逸らし、顔面に迫る脅威を避けた。逃げ遅れた前髪が、靴底に叩かれる。

「まだ動きが鈍い。見てから、考えてからでは駄目。勘や反射で動かないと間に合わない」
「そんなこと簡単にできるわけないだろ!」
「できる。こうして何度も何度もひとつの動作を反復し、脊髄反射の行動パターンにすりこんでいく」

 言うが早いか、舞うように絢爛な蹴りを放ってくる。回避に専念すれば防ぎきれないこともないが、反撃など夢のまた夢だった。美影の攻めは芸術のように美しく、猛火のごとく容赦がない。《悪魔》の波動で身体能力を強化していないとは言え、ここまで一方的にやられるのは男として不甲斐ない。

「隙あり」

 息つく間もなく、美影は劣勢の俺を畳み掛けてくる。引き締まった肢体が半回転し、遠心力を乗せた裏拳が繰り出された。それをてのひらで受け止めると、今度は跳ね上がった膝が俺の腹部に突き刺さっていた。

「ぐはっ!」

 一瞬、気が遠くなった。覚悟を決めていたにも関わらず、全身に伝播する鈍い衝撃に耐え切ることはできなかった。それは身長一五〇センチほどの小さな身体に似つかわしくない膂力。事実、美影の力は弱いのだろう。だが天性の格闘センスとしなやかな筋肉によって繰り出される一撃は、パワー不足を微塵も感じさせない。変幻自在にして予測不能な彼女の攻撃に、俺は抵抗する術を持たなかった。

「待てっ、参ったっ、俺の負けだ!」
「そう」

 素っ気無い返事。美影はあっさりと拳を収めると、眠そうにあくびをした。

「もう無理だ……死ぬ」

 あまり男らしいとは言えない台詞を口にしてから、芝生のうえに大の字になって寝転ぶ。照りつける日差しは正直うざかったが、吹き付ける風が汗に濡れた体には心地よかった。

「悪い、美影。飲み物とってくれ。喉がカラカラだ……」
「ん」

 ひょいっと投げつけられたペットボトルを受け取る。すぐさまキャップを外し、中身を煽った。キンキンに冷えたスポーツドリンクが喉を通るのは、もう死んでもいいと思えるぐらいの満足感があった。
 体力を使い果たした俺とは違い、美影はいつもどおりの涼しい顔をしていた。このクソ暑い中、ほとんど汗をかいていない。彼女はポニーテールに結わえた長い黒髪と、左目の下にある泣きぼくろが特徴的な、とにかく怠惰な感じの女の子だ。とくに日焼けの心配はしていないようで、服装はタンクトップとショートパンツ(ちなみに上下とも熱を吸収する黒色)という開放的なものだった。それでも肌は抜けるように白いのだから、さすがの太陽も形無しといったところである。
 ここ最近、俺は彼女に訓練をつけてもらっていた。実際のところ、こいつの体術は常人離れしている。ほんの数分、拳を交えるだけで生まれ持った才能の差に絶望したくなるほどだ。だから少しでも、先のような模擬戦のなかで身をもって美影の技を盗んでいきたいとか思っていたりするのだ。
 一分ほど芝生のベッドを満喫した俺は、汗を吸って重くなったシャツを脱いだ。ちょうどウッドデッキに替えの服を用意しておいたので、それに着替えようと思ったのだ。その最中、ふと気付くと、美影がじっと俺を見つめていた。

「なんだよ?」
「夕貴、男にしては肌白い」
「ほっとけ。俺は日焼けしても赤くなるだけで一向に黒くならないんだよ。前もって言っておくけど、女みたいな肌質とか間違っても言うなよ?」
「女みたいな肌質」
「……よほどぎゃふんと言わされたいらしいな、おまえ」
「フリかと思った」
「誰も笑いを取ろうなんてしてねえよ!」

 タオルで汗を拭き取りながら、俺は続ける。

「でもさ、そういうおまえだって日焼け対策とかしなくてもいいのか?」
「……?」
「いや、せっかくきれいな色白の肌してるんだからさ。もっと気を遣ったほうがいいんじゃないかと思ったんだよ。ほら、いまだってけっこう露出が多いじゃないか。そっちのが涼しいのは分かるけど」
「UVカット的なものは嫌い。あやめにクリームを塗れって言われたけど、丁重に辞退した。洗い流すの面倒」
「そっか。まあおまえの好きにしろよ。俺も無理にとは言わないし」
「夕貴は」
「ん?」

 新しいシャツに袖を通していると、相変わらずぼんやりとした眼差しで美影が言った。

「夕貴は、肌が白いほうがいい?」
「そうだな。ぶっちゃけ男はどっちでもいいけど、やっぱり女の子は肌が白いほうが可愛いと思う」
「そう」
「なんだ、とうとう日焼け対策をする気になったのか?」
「ううん。めんどいからしない。それに夕貴の好みとかどうでもいい」
「……あ、そう」

 こいつが俺にいい感情を抱いていないのは知っていたが、こうもはっきり断言されると傷つくなぁ。

「まあいいか。それで師匠、今日の俺はどうだった? 自分で言うのもなんだけど、今日はそこそこ調子がよかったというか、けっこういい動きができてたような気がするんだけど」

 冗談げに問いかけると、茫洋としていた美影の目がなぜかキランと輝いた。

「師匠……師匠……」小さな声で、語感を確かめるようにつぶやく。「夕貴、さっきの聞こえなかったから、もう一回」

「は? ……いや、だから今日の俺はどうだったって聞いたんだけど」
「じー」
「確かにまだおまえには敵わないけど、これでも自分なりに過去の反省を生かして、寝る前にはイメージトレーニングをしたりとか……」
「じー」
「……美影?」
「じー」
「…………」
「じー」
「……えっと、師匠?」
「今日の夕貴は、確かにいつもよりマシだった。でもまだ頭で考えようとしすぎ。それじゃ間に合わない」

 どことなく嬉しそうな顔で、美影はぺらぺらと本日の感想を述べていく。どうやら師匠という言葉を偉く気に入ったらしい。アドバイスもためになるものばかりで、やっぱり戦闘という分野において彼女は逸材なのだということを再確認した。

「あら、まだやってたんだ。そろそろお昼ごはんができるから、適当なところで切り上げなさいよ」

 そのとき、庭とリビングを繋ぐ掃き出し窓からナベリウスがひょこっと顔を出した。夏場の彼女は、薄い青色をしたノースリーブタイプのシャツと、七分丈の黒のパンツという服装でいることが多い。美影とおなじく開放的な服装だが、こちらは胸元のふくらみが半端ではなかった。薄手だから、歩くたびにゆさゆさと弾むのだ。俺も健全な男子なので、ほんと勘弁してほしい。
 現在時刻は、十一時半。たしか午前九時ぐらいから庭で特訓してたはずだから、実質二時間以上は運動してたことになる。これまで意識してなかったけど、お昼ごはんができたと言われた途端、腹の音が鳴るのだから不思議なものである。

「むー」

 もはやお馴染みとなった猫のような唸り声を上げた美影は、俺の背中に隠れて警戒心マックスの目でナベリウスを睨んだ。やっぱり出会い方がよくなかったんだろうな。あのダンタリオンを苦もなく退けたナベリウスは、美影にしてみれば未知なる存在に思えるのだろう。

「相変わらず嫌われてるわね。わたし、なにか悪いことしたっけ?」
「した。私の目は誤魔化せない。きっとおまえはヘンタイ男をも上回る、最強のヘンタイ女」
「さすが美影師匠だ。洞察力も半端じゃねえな……」

 俺がうんうんと頷いていると、「……ちょっと夕貴? わたしはべつにヘンタイじゃないわよ?」と人のベッドに裸で潜り込んでくる銀髪悪魔が優しく笑っていた。ただし顔の筋肉がぴくぴくと動いているところから見るに、内心では怒りを堪えているらしい。

「はぁ、しょうがないわね。ここは美影に誤解を解いてもらうためにも、このナベリウスちゃんが一肌脱いであげよっかな」
「さすがヘンタイ女。すぐ脱ごうとする」
「ねえ夕貴ー? この子、ちょっとオイタが過ぎるみたいだから本気で調教していいかなー?」

 パキ、と乾いた音がした。見れば、ウッドデッキに置いてあるペットボトルの中身がカチカチに凍っていた。ナベリウスのやつ、思いのほか本気のようである。もちろん俺は止めない。女同士の喧嘩に割り込むことの恐ろしさは、ここ最近で嫌になるほど理解していたからだ。
 笑顔のままナベリウスが庭に出てきた。美影はびくっと身を竦めてから、一歩前に出る。肌を刺すような緊張感が生まれ、庭に吹いていた風が一瞬だけ凪いだ。それと同時に、かたわらにいた美影が地を蹴り、ナベリウス目掛けて駆け出した。

「いい度胸ね。愚かにもわたしに挑もうとする心意気だけは認めてあげるわ、美影ちゃん!」
「美影ちゃんって呼ぶな、このヘンタイ女……!」

 類稀なる身体能力を駆使し、果敢にも間合いを狭めていく美影に対し、ナベリウスは飽くまで泰然とした佇まいを崩さない。その余裕に付け入るように、美影は容赦のない奇襲をしかける。左の拳が閃く。空気が鋭く揺れた。だが空気は揺れても、ナベリウスの笑みは微塵も揺れない。小さな舌打ちが聞こえた。攻守が秒刻みで交代しながら、まばたきする暇もない、一瞬が命取りになる駆け引きが繰り広げられる。
 ふいに美影が緩急を変えた。小さな身体が地に沈む。深く、強くしゃがみこんだ姿勢から体軸を回し、相手の機動力を削がんと足払いが放たれた。

「甘い甘い。この程度じゃわたしは倒せないわよ」

 優越の笑みを口端に刻みながら、ナベリウスは真上にジャンプして相手の狙いを外す。しかし思惑を読まれた程度で動揺するような素人は、この場にいない。
 しゃがみこんだ体勢のまま、美影は芝生のうえに手をつき、逆立ちする要領でしなやかな脚を空に伸ばし虚空を蹴りぬいた。もはや呆れるぐらいの体幹バランスである。避けきれないと判断したのか、ナベリウスは両腕を交差させて真下からの蹴りを防ぐ。その身体がさらに宙に浮いた。

「へえ……」

 白い陽射しに溶ける銀髪の合間から感嘆の吐息が漏れる。我らが師匠の体捌きは《悪魔》にも通じるものらしい。
 やがてナベリウスが膝を曲げて華麗に着地するのと同時に、小柄な影が疾駆していた。反撃の隙など与えないつもりなのだろう、美影の攻めは留まることを知らない。しかし当然ながら、ナベリウスの受けも崩れることを知らなかった。
 目にも止まらぬ攻防が続く。拳が、肘が、膝が、脚が、刹那のうちに交錯する。あまりにも美しい格闘の音色。常人の理解が追いつかない洗練された技の応酬。その道の者が生涯を賭けて到達せんと足掻く、武の極地がここにある。華やかな銀髪と艶やかな黒髪が尾を引き、灼熱に晒される庭を彩っていく。俺は静止の声をかけるのも忘れて、ただ呆然とそれに見蕩れていた。
 直後、ナベリウスの体勢が崩れた。恐らく芝生に脚を滑らせたのだろう。絶好の隙を見逃さず、美影は間合いをさらに詰めた。黒髪が踊り、槍を思わせる横蹴りが繰り出される。余力を振り絞った渾身の一撃。もし当たれば、さすがの《悪魔》でも相応のダメージは免れない。

「はい捕まえた。わたしの読み勝ちってとこね」

 ナベリウスが得意げに笑う。彼女はわきに美影の右足を抱えるようにして挟んでいた。あの一瞬、咄嗟に身体を捻り、腕と胴体のあいだに蹴りを通し、攻撃をかわすと同時に獲物を捕まえたのだ。脚を滑らせたのは演技だったのか。

「ふふふ。さあ、わたしをヘンタイ女と言ったことを後悔させて――げっ」

 明らかに妖しいことを企んでいたナベリウスの眉が歪む。なぜなら美影の重心を支えていた軸足が、ふわりと宙に浮いたからだ。さすがの師匠でも、両足が地面についていない不安定な姿勢ではまともな威力の蹴りはできないはずなのに。

「私をちゃん付けしたことを後悔させてやる」

 不敵に告げてから、美影は、ナベリウスにがっしりと固定されている右足を”軸”にして、左足を”矛”に変えた。なんて素早い機転だろう。逃げられないのは脚を掴まれた美影も、脚を掴んだナベリウスもおなじ。であれば、先に仕掛けたほうが勝つのは自明の理。
 相手の思考をあらかじめ読みきっていたのか、あるいは咄嗟の判断でナベリウスの考えを見抜き、コンマの世界でリードを取ってみせたのか。どちらにしろ美影が《悪魔》を上回ったことに変わりはない。達人同士の勝負とは、刹那の駆け引きによって決するもの。その圧倒的な戦闘センスに、俺は肌が泡立つのを感じた。

「いい線いってるんだけど、惜しいわね」

 が、やはりと言うべきか。膨大な戦闘経験を持つナベリウスにとって、不測の事態などあろうはずもなかった。
 ナベリウスはぱっと手を離し、せっかく捕まえた獲物をあっさり解放する。動作の最中に軸足を失った美影は、まるで泳ぎ方を忘れた魚のように宙でばたつき、芝生のうえに落下した。どすん、と痛々しい音が響くが、そこは我らの師匠である、ちゃんと受身をとったようだ。

「うー、もう本気だす」
「あら。いちど読み負けたのに、次があるわけないでしょ?」

 悔しそうな顔で身体を起こした美影の両肩を、ナベリウスが背後からがしっと掴む。こうして幕引きはあっけなく訪れた。

「は、離せー!」
「ふっ、まあわたしがちょっと本気を出せばこんなものよ。さて、聞き分けのない子にはオシオキが必要よね?」

 じたばたともがく美影の耳元で、ナベリウスがぞっとするほど綺麗な声でなにか悪いことを囁いていた。ぎくり、と美影の身体が跳ねたかと思えば、今度はおろおろと周囲を見渡し、俺と目が合った途端、視線で助けを求めてくる。

「ふっふっふー、それ!」

 ナベリウスは両手の指をわざとらしくわきわきさせてから、美影の胸をむんずとつかんだ。それも服の上からではなく、タンクトップのなかに手を侵入させるという徹底ぶり。薄い黒地の下で、合わせて十本の指がもにゅもにゅと動き、胸元をわずかに押し上げていたふくらみのかたちを思う存分に変えていく。

「ふむふむ、なるほど。柔らかさは抜群だけど、カップは予想を裏切らないわね」
「ち、違……んっ、やっ!」

 珍しく女の子みたいな艶然とした声を上げて、美影は悪魔の手から逃れようとする。しかし人間の身体とは、動作の基点となる部分を効率的に押さえれば、大した力を入れずとも拘束することができる。いくら美影師匠の体術がずば抜けているからと言っても、自分の体格を上回る相手を出し抜くのは至難の業だった。

「……おいナベリウス。美影も嫌がってるみたいだし、いいかげん離してやれよ」

 彼女らの絡みを見ないようにしながら、ため息混じりに注意すると、ナベリウスはぴたっと手を止めて、一言。

「夕貴も一緒に調教する?」
「しねえよ!」

 そんなところを菖蒲に見られたら今度こそ人生が終わる。ナベリウスは「まあ、ご主人様がそう言うなら従うけどー」と明らかに渋々といった体で美影を解放した。いじめられた猫のように距離を取った美影は、身を丸めて「うー」とショックを受けていた。

「……まったく、なんだかんだ言って仲いいよな、おまえら」

 こうして天下の美影師匠は、ナベリウスという偉大な壁にぶち当たったのであった。ちなみに昼食は夏にぴったりの冷やしそうめんだったのだが、

「もうちょっとネギ入れよっかなー」
「――っ!?」

 ナベリウスが薬味の入った皿に手を伸ばすと、正面にいた美影は見ていてかわいそうなぐらい身体をびくつかせる。そして猫もかくやの素早さで椅子から立ち上がり、となりに座っていた菖蒲の背後に隠れるのだった。

「むー」
「あの、美影ちゃん? なぜわたしの後ろに隠れるのでしょうか?」

 ちゅるちゅると可愛らしくそうめんを啜っていた菖蒲が困惑顔で問いかける。色素の薄い鳶色の髪と、いつも眠そうにした二重瞼の瞳。お嬢様然としたロングスカートが、開けた窓から入り込む風に揺られている。

「あやめは気にしなくていい。私はヘンタイ女から身を護ってるだけ」
「はぁ、なるほど……分かるような分からないような」

 むっつりとした顔で応える美影に、きょとんとした顔で頷く菖蒲。俺のとなりではナベリウスが我関せずとそうめんを吸い込んでいる。そんな銀髪悪魔を、我らが師匠は親の敵でも見るような目で警戒していた。窮鼠猫を噛むとも言うし、いつの日か追い詰められた美影が、ナベリウスに対して反乱を起こすのではないかと、ちょっぴり心配だったりする。


****


 夜も深まった頃、高臥菖蒲の部屋にはどこか不貞腐れた様子の美影がいた。テーブルの上には冷たい麦茶が入ったグラスとともに、化粧水やら乳液やら保温クリームなどの美容道具が所狭しと並んでいる。

「さて、美影ちゃん。それではお肌のお手入れをしましょうか」
「……めんどい。だるい。眠い」
「駄目ですよ。今日はたくさん紫外線を浴びたはずです。わたしがお手伝いしますから、てきぱきとお手入れを済ませちゃいましょう」
「むー」

 一階の客間。ベッドに深々と腰掛ける美影を、菖蒲が苦笑しながら説得している。
 この二人は、当初の修羅場が嘘だったように仲がいい。温室で育った菖蒲と、過酷な修練を積んできた美影。性格から生まれ育った環境まで正反対だが、だからこそ惹かれあった部分もあるのだろう。おなじ学校のおなじクラスということもあり、彼女らはすでに親しい関係を築いている。
 萩原邸に居候する際、美影が陣取ったのは三階にある空き部屋だった。そこにみんなで苦労して家具を運び込んだのは数週間前のことだが、菖蒲と美影が仲良くなったのもそのときだった。

「あやめ。さっさと済ませて」

 むくりと起き上がった美影が、ストレートに下ろした黒髪をちょこちょこといじりながら言った。よく無愛想と言われ、あまり人付き合いに精を出さない彼女も、なぜか菖蒲に世話をされるのは嫌いじゃないようだった。

「はい、それでは化粧水を塗りましょう。じっとしていてくださいね、美影ちゃん」
「うん」

 まずはスプレータイプの化粧水を軽く吹きつける。次に、美白効果と保温力に優れた別の化粧水をてのひらに垂らし、美影の肌に優しく馴染ませていく。案の定と言うべきか、美影は「んー、んー」と猫のようにむずがっていたが、菖蒲はお構いなしにてきぱきと作業を進めていく。

「終わりました。次は乳液ですね。乳液を塗り、油膜を張ることで、お肌の水分が蒸発するのを防ぐことができます」

 えっへん、となぜか誇らしげに胸を張って解説する。ただでさえ目立つ胸元の豊かなふくらみが、寝巻きのボタンを無理やり外さんばかりに盛り上がる。基本的に彼女は、誰かに尽くすことに喜びを覚えるタイプだ。それは美影の世話をすることも例外ではない。
 それから数分後、しっかりとスキンケアをされた美影は、べたべたとする肌に慣れないらしく、居心地の悪そうな顔をしていた。

「あやめ。これ、いつになったら落とせる?」
「明日の朝です。……前から疑問に思っていたのですが、もしかして美影ちゃんは、いままでお肌のケアをしたことはないのでしょうか?」
「うん」
「の、ノーケアでこんなにきれいなお肌を……うぅ、わたし、自信がなくなっちゃいました」

 ぐすんぐすん、とわりと本気でにじむ涙を拭い、菖蒲は世の理不尽さを呪った。

「でも美影ちゃん。次からは、ちゃんと日焼け対策をしないとだめですよ? なにかトラブルがあってからでは遅いですからね」
「……ん」

 美影は曖昧に頷いてから、くるりと背を向けた。それは暗に「面倒くさい」と言っていることを、菖蒲はこの短い付き合いのなかで学んでいた。

「せっかく美影ちゃんはきれいな色白の肌をしているのですから、日に焼けちゃうのはもったいないかと。お肌を黒くするのは簡単ですが、もとの白さに戻すのは時間がかかりますし」
「……きれいな色白の肌」
「そうです。きれいな色白の肌です。美影ちゃんが肌のお手入れを疎かにするのは、タイヘンな損失だと思います」
「…………」
「美影ちゃん?」

 なにか引っかかるものがあったのか、美影はどこか物憂げな顔で虚空を見つめていた。はて、いったいどうしたのだろう、と菖蒲が首を傾げていると、

「あやめ。次からは、私に日焼け止めのやつ塗って」

 これはもしや、わたしの想いが通じたのでは。どんな心境の変化があったのかは分からないが、ようやく美影は日焼け対策をする気になったようだ。菖蒲は密かに心のなかでガッツポーズをした。

「もちろんです。美影ちゃんが望むのなら、わたしに異存はありません。女の子にとって紫外線は天敵ですからね」
「べつに日焼けとかどうでもいい」
「はい? ではなぜ日焼け対策を?」
「……なんとなく」
「はぁ、なんとなくですか……」

 美影の言動は明らかに矛盾していたが、菖蒲は気にしないことにした。実際のところ、本人もなぜ日焼け対策をしようと思ったか分かっていないようだった。美影の突然の心変わりには驚かされたが、それもまあ日に焼けた肌がぴりぴりして痛いとか、そういう単純な理由なのだろうと菖蒲は自分を納得させた。
 こうして萩原邸の夜は更けていく。何が起こっても変わらない、彼女らなりの、彼女らだけの幸福な日常がそこにはあった。



[29805] 3-3 男子、この世に生を受けたるは
Name: テツヲ◆c49d9b75 ID:366fa69a
Date: 2012/05/27 16:44
 
 うだるような暑さに見舞われた峰ヶ崎(みねがさき)大学は、四月の頃と比べるといくらか活気が薄れているように見えた。道行く学生たちはひたいの汗をぬぐいながら、足早に冷房のかかった教室へと急ぐ。鳴り響く蝉の合唱が、本格的な夏の到来を告げていた。
 体育館の壁にかかっている大きな時計が、あと十五分ほどで一限目の講義が始まることを示している。バスケットコート二面分のだだっ広い空間には、すでにバレーボール用のネットが二つ立てられ、暇を持て余した女子たちが黄色い歓声を上げながらボールで遊んでいた。
 俺が大学において専攻しているのは経済学だが、卒業に必要な取得単位数のなかには『体育』がもれなく含まれている。ちょうど今日は、一限目からバレーボールの講義があった。

「ねぇ萩原。あんた、ここ最近学校休んでるみたいだけど、なんかあったの?」

 体育館シューズの靴紐を結びながら、藤崎響子(ふじさききょうこ)は言った。活発さを伺わせる勝気な目と、癖のないショートカットの黒髪。身長はやや高めで、手足もすらりと長い。その恵まれた体格と優れた運動神経を見込まれて、高校時代は女子バスケ部のキャプテンを務めていた。

「あぁ、まあ色々あったな。悪魔が添い寝してきたり、予知っ娘が押しかけてきたり、自称ニーデレとか名乗る女の子と共闘したり」
「……頭、大丈夫? とりあえず保健室でも行ってきたほうがいいんじゃない? それとも、嘘をついてまで隠したい事実があるってことかしらね」

 自分で口にしても荒唐無稽としか思えない出来事の羅列だ。あえて嘘偽りを交えず赤裸々に語ってみたが、案の定、藤崎は冗談だと解釈したようだった。俺のとなりでじっと考え事をしていた彼女は、やがて「ははーん」と意地の悪い笑みを浮かべた。

「なるほど、そういうことだったのね。悪いけど萩原、あんたの秘密はたったいま秘密じゃなくなったから」
「は? 秘密?」
「もうっ、とぼけちゃってっ、この色男! どうせあれでしょ、可愛い彼女ができたとかそういうオチでしょ? 思わず大学をサボっちゃうぐらい、熱々の恋愛をしてると」

 このこのー、と意味ありげに肘でつついてくる。ほどなくして藤崎は、打って変わって朗らかに目元を和らげた。
 
「ま、萩原のことだから健全な恋愛してると信じてるけどさ。ちゃんと相手の子の門限とかも気遣ってあげないとだめだかんね? なんかあったら相談乗ったげるから、いつでも言いなよ」

 とてつもなく気持ちいいことを言われてしまった。実際のところ、俺を茶化したのは友人に恋人ができたことに対する様式美のようなもので、本音では純粋に祝福してくれていたのだろう。この居心地のいい距離感は、高校のときから変わっていない。
 彼女と一緒にいると、いい意味で気を遣わなくて楽だ。竹を割ったようにすっきりとした性格には、しかし絶妙な塩梅で年頃の女性らしい淑やかさも散見される。男子からも女子からも好かれるのは、そうした気質が所以だろう。俺たちが高校三年の頃、クラスの委員長としてまわりを引っ張っていたのは伊達じゃない。

「そういやさ。玖凪のバカはなにしてんの? あいつも最近休みがちだよね」
「俺が聞きたいぐらいだよ。何度か連絡してるんだけど、一向に返事が来ないし」
「……はぁ、そっか。どこほっつき歩いてんのかしらね、あいつ。また余計な面倒起こさなきゃいいけど」

 不機嫌そうにぼやく顔は、俺の気のせいでなければどことなく寂しそうに見えた。そんな藤崎の不安を和らげるように、あるいは心労を募らせるように、くだんの男が体育館に姿を見せた。
 明るめに脱色した髪が、窓から差し込む光芒に輝いている。引き締まった端正な顔立ちは、だらしなく緩んだ口元のせいで本来は抱くはずの好印象を台無しにしていた。左耳に空いたピアスがその最たる例だろう。身長も高く、体育館にいる学生のなかでも目立っていた。
 玖凪託哉。それが俺の親友であり、藤崎響子の同級生でもある男の名だった。

「よぉ夕貴ー。実はこないだ、街でOLのお姉さん二人をナンパしちゃってさー。初めは手応えなかったんだけど、夕貴の写メ見せたら途端に連絡先教えてくれちゃったりなんかして……」

 さっそうと現れた託哉は、しかし藤崎の姿を認めると笑顔のまま見事に石化した。そして、くるりと背を向ける。

「あー、なんかオレもうすぐ急用できるっぽいから帰るわ。んじゃ、そういうことで……」
「待てこの女の敵。あたしに挨拶もしないなんて、ちょっと冷たくない玖凪くん?」

 不自然なまでに優しい声とともに藤崎は手を伸ばし、逃亡を図った託哉の首根っこをつかんだ。実にいつもの光景である。託哉は肩を落とし、これみよがしに渋面を作った。

「ちっ、口うるさい委員長に捕まっちまった。夕貴ちゃん。OLのお姉さんのうち一人は食べてもいいから、オレを助けてくれよ」
「……藤崎。こいつの性格を存分に矯正してやってくれ。なんなら俺も手伝うから」

 久々に会ったというのに、いきなり友人をちゃん付けときた。なんて失礼な態度だろうか。心配して損した。もう俺は託哉のことなんて知らないのだ。

「よろしい。あたしに任せなさい。玖凪を真人間にしてあげるから」
「おいおい。せっかくの楽しいキャンパスライフなのに勘弁してくれよー」

 唇を尖らせて文句を言う託哉のことなどお構いなしに、藤崎は話を進める。

「そんで、あんたはなんで学校休んでたのよ? 面白くないこと言ったら許さないからね」
「べつに何でもいいじゃん? どうしてもオレが大学を休んでた理由が欲しいってんなら、巨乳の美女と一夏のアバンチュールを楽しんでたってことで納得してくれ」
「バカ。調子のいいことばっか言ってるとしまいに怒るよ?」
「へー、もしかして嫉妬してんの委員長? 自分には男がいないからって、幸せを掴もうとしている人間の足を引っ張るのは止めてもらいたいんだけどなー」
「うっさい! あんたにだけは、あたしの恋路についてとやかく言われたくないね! あとその委員長っての止めな! あたしが委員長だったのは、三年の前期だけ! 後期は武山だったでしょ! 大体あんた、いまから体育なんだから早く着替えてきなさいよ」

 この体育館に集まっている学生は、俺や藤崎も含めてみんな運動に適した服を着ている。でも託哉は、なぜか普段着のままだった。女子バスケ部の主将を務めていた藤崎からすれば、それは見過ごせないことなのだろう。

「いや。オレはこのまま講義を受ける。着替えるの面倒だし」

 素っ気無く言って視線を逸らす。藤崎が、やれやれ、と肩をすくめてため息を漏らした。

「ようやく大学に来たかと思えばすぐこれなんだから。朝から無駄なカロリー使わせないでよ。もう子供じゃないんだから、ワガママ言ってないで早く着替えてこいバカ凪」
「考えてみろよ。オレの露出が増えれば、女の子たちが運動どころじゃなくなるだろ?」
「寝言ほざいてないでとっとと着替えろー!」

 とうとう堪忍袋の緒が切れたのか、藤崎は託哉の服に手をかけると無理やり脱がそうとした。いまさらこの両者の間に恥じらいなんて上品なものがあるはずもない。が、その瞬間、託哉の顔に浮かんでいた人懐っこい笑みが消えた。息を呑む気配。普段の軽薄な振る舞いからは想像もできないほど素早い動きで、託哉は、面倒見のいい委員長の細い腕をつかんだ。でも、それは少しだけ遅かった。

「……え?」

 驚きが、か細い吐息となってこぼれる。生き生きとしていた藤崎の表情が、あっという間に曇っていく。まるで青天の霹靂だと思った。いまにも雨が降りそうなほどに、彼女の瞳は不安げに揺れていたから。

「あんた、それ……」

 まくれあがったカットソー。託哉の上半身。幾重にも巻かれた白い包帯。ちょっと道端で転んだ、という度合いではありえない、物々しい治療の痕跡がそこにはあった。ここ最近、託哉とはまったく連絡が繋がらなかった原因がこれなのだろうか。
 
「そろそろ離せよ。さすがのオレも、公衆の面前でストリップする気はねえって」
「で、でも、それって……大丈夫なの、あんた?」

 弱々しい声。いつも人の目を見て話をする彼女が、いまはひっきりなしに視線を泳がせている。託哉が衣服の下に隠していたのは受療の名残。他人のデリケートな領域に踏み入ってしまったのだ。藤崎にしてみれば申し訳なさでいっぱいだろう。

「大丈夫じゃなかったら学校に来るわけねえだろ。それに、こりゃあれだ。車に轢かれそうな美人のお嬢さんを身を挺して庇ったときにできた傷だったりするんだよ」
「……その、ごめん。あたし、あんたが酔狂で学校サボってるって勘違いしてた。配慮が足りてなかったよ」

 藤崎は頭を下げて訥々と謝った。不和により生じた沈黙が、重苦しい空気に拍車をかけている。そこかしこから聞こえる賑やかな喧騒が、俺たちの間に流れる静寂をより顕著なものとしていた。
 藤崎響子という女の子は、いつも眩しいぐらい正しい。責任感が強く、自然とみんなから慕われるような人柄。高校の頃、素行に問題のあった託哉を厳しく、そして優しく叱りつけて彼女なりの道を示そうとした。俺も何度か、困ったときは相談に乗ってもらったりした。クラスメイトとはいえ、他人のためにここまで親身になれるのは珍しい。
 でも、だからこそ自分が間違ったときは強く反省する。それも今回のケースは、託哉の事情を知らずに藤崎が勝手に非難した形だ。沈痛な面持ちになるのも頷ける。

「はっ。なに女みたいなツラしてんだよ委員長」

 可笑しくてたまらないと、託哉は吹き出した。この状況で笑うのは、いささか緊張感が足りていないかもしれない。だが付き合いの長い俺には分かる。こいつの口からこぼれた笑いには、嘲りの意などこれっぽっちもないと。こいつは意味もなく嘲笑などしないと。少なくとも、可愛い女の子のまえでは。

「いいか、響子ちゃん。さっきも言ったように、これは悪党に命を狙われる大人っぽい美女を助けたときに負った傷なんだ。いわゆる名誉の負傷ってやつ?」
「……さっきと言ってること変わってるじゃない」
「まあ細かいこと気にすんなよ。女が悩んでいいのは、惚れた男が浮気してるかどうかって案件だけだぜ?」

 おどけるように託哉が破顔する。その人懐っこさに毒気を抜かれたのか、藤崎は短く切りそろえた黒髪を気だるげに掻き上げながら相好を崩した。

「……はは。あんたと話してると、落ち込んでた自分が滑稽に思えてくるから困るね」
「それでいいんじゃねえ? 響子ちゃんは、落ち込んでる顔よりも笑顔のほうが可愛いと思うけどなー」
「バーカ。あたしを口説こうなんて百年早いよ」
「ちっ、バレたか。この機会に響子ちゃんを一人前の女にしてやろうかと思ったのによー」
「だから馴れ馴れしく下の名前で呼ぶな! バカ凪のくせに!」

 そうこうしているうちに、また中身のない、けれど決して無駄でもない喧嘩が始まった。実のところ俺は、この二人の関係が好きだったりする。遠慮のない男女間の友情って、見ていて気持ちいいよな。まあ本人たちは「友情じゃない!」と否定するだろうけど。
 やがて講義開始を告げるチャイムとともに、名簿をわきに抱えた体育教師がやってきた。集合の合図がかかる。

「なあ託哉。おまえ、その怪我どうしたんだ?」
「んー?」

 散らばっていた学生が一箇所に集まる最中、退屈そうにあくびをする託哉に声をかけた。

「藤崎にはああ言ってたけど、さっきの包帯の巻き方を見るに、ちょっと転んだとかじゃないよな?」
「まあな。これは建物の屋上から落ちた美少女を颯爽と抱きとめたときの傷だ。羨ましいだろ?」
「ふざけるなよ。ここ最近、ずっと連絡が取れなかったし……」
「オレのことがそんなに心配か、夕貴ちゃん?」
「……あのなぁ。俺は真面目な話をしてるつもりなんだぞ」
「安心しろよ。核ミサイルか隕石でも降ってこないかぎり、おまえらのことはオレたちが護ってやるから」

 おまえらのことは、オレたちが護る。これだけ聞けば格好のいい台詞だが、しかし俺は騙されない。託哉が手を尽くすのは、きれいな女の子が関わっている案件だけ。事実、菖蒲が誘拐されたときも今までにないぐらい協力的だった。つまり。

「おまえらって……どうせナベリウスと菖蒲だけが目当てなんだろ?」
「惜しい! 大本命は小百合さんだったりして。あの人、マジで美人だよなー」
「んだとコラぁ!? てめえ俺の母さんに指一本でも触れてみろ! そんときは冗談じゃなくマジでぶっ殺すぞ!」

 わりと本気で怒鳴ったのだが、ぬらりくらりとかわされてしまう。相変わらずキャラが掴みにくい野郎である。結局、怪我の理由も聞きそびれてしまった。
 こいつは女好きで、何を考えているか分からなくて、俺の母さんの入浴シーンを覗こうとしたこともあるぐらいアホなやつだけど、それでも大切な親友なのだ。もし困っていることがあったら、俺は相談に乗る。解決まで導いてやる。たとえ託哉にどんな事情があったとしても、俺たちが親友であることに変わりはないのだ。

「……なるほど。やっぱりか」

 あごに手を添えて託哉がつぶやく。その目に宿るは怜悧な光。視線の先には、抜群の運動神経で華麗に活躍する藤崎の姿。体育館中にいる男子が、いや女子ですら、きらきらとした汗を流しながら動く藤崎に見蕩れていた。

「どうしたんだ? そんなにマジな顔して」
「夕貴。あれを見てみろ」

 有無を言わせぬ迫力に負けて、俺は託哉の指示に従った。藤崎が跳ね回るたびに、白い半袖のシャツがまくれあがり、ちらちらと滑らかな腹部が見える。

「バっカ。ちがうちがう。それじゃねえ。あれだよ、あれ」
「だからどれだよ。藤崎のことじゃないのか?」
「もちろん響子ちゃんのことさ。んでもって、オレが注目してんのは――」

 そこでようやく気付く。いまは夏場。気温はかるく三十℃を越えている。つまり運動をすれば相応の汗を流す。藤崎のすらりとした身体にシャツがぴっちりと張り付き、薄い水色のブラジャーが透けている。どうりで体育教師までニヤけてるわけだ。

「オレの下着予報によると、今日の委員長は水色系統のブラとショーツをつけるはずだったのさ。どうよ? この絶対の的中率。まあ近いうちに、響子ちゃんはオレの指示する下着しか身に着けられなくなるぐらいオレに夢中になるから、そんときはもっと――」

 そのとき。凄まじいスピードで飛来してきたバレーボールが、得意げに俺のほうを向いていた託哉の横っ面にクリーンヒットした。託哉は無言のまま床に沈んでいく。

「――丸聞こえだっつーの! 死んでもあんたにだけは夢中にならないわよ! そこで講義が終わるまで反省してろ、バカ凪!」

 なんとも見事なスパイクだった。ただし得点は、藤崎の相手チームに入った。




 
 午後三時過ぎ。その日の講義にすべて出席し終えた俺たちは、食堂棟の最上階に位置するカフェに集まっていた。冷房のもたらす人工的な心地よさと、壁一面に張られたガラスから入り込む太陽光の自然的な安らぎが、店内をゆったりと包み込んでいる。
 うちわ片手に窓のそとを眺める託哉と、知り合いから借りたノートを写すのに必死な俺の対面には、疲れた顔でオレンジジュースを吸い込む藤崎が座っている。今日一日の講義が被っていた俺たちは放課後になっても行動をともにしていた。
 そんな、あまり盛り上がっているとは言いづらい雰囲気の中に、やおら芝居がかった声音が響いた。

「僕は思うわけだよ。この世で一番美しいものはなんだろうって」

 視線を上げると、俺たちが陣取っているテーブルの前に、清潔感に溢れた好青年が携帯を持って立っていた。さっぱりとした短髪に、おしゃれな伊達めがね、流行を取り入れたファッション。内村竜太という名前の彼は、親しい者からはうっちーというあだ名で呼ばれる。

「ごめん、うっちー。もうちょっと汗が引いてからじゃないと騒ぐ気になれないってのが正直なところなのよねー」

 憔悴した様子の藤崎が答えた。右手でぴしゃりと頭部を叩き、うっちーは大げさに嘆息する。

「分かってないね、藤崎くん。疲れているからこそ、疲れているときにこそだよ。いまから僕が、君たちに最高の癒しを提供してあげよう。この世で一番美しいものは、これだ!」

 ふふふ、と謎の笑みを湛え、握り締めていた携帯を印籠でも見せつけるが如く、俺たちの眼前に突き出した。液晶に映っているのは、色素の薄い鳶色の髪を揺らす可憐な少女だった。何を隠そう、女優『高臥菖蒲』の画像である。相変わらず俺ですら舌を巻くほどの熱狂ぶりだ。しかし気分の高揚を隠せない男性陣とは裏腹に、藤崎は頬杖をついて呆れ顔をあらわにしている。

「また出た。それもう見飽きたわよ」
「見飽きた……だって!? 言論の自由が許されてるからって、それだけは言っちゃだめだろう! よく見てくれよ、この天使のごとき微笑を浮かべる菖蒲ちゃんを! 僕なんか興奮を通り越して新たな境地を拓けそうになるよ!」
「だーかーら、それも聞き飽きたってーの」

 うっちーが顔を赤くして力説しても、彼女の表情が晴れることはなかった。まあ藤崎が芸能人のことで騒いでいるのはほとんど見たことがないから、仕方ないといえば仕方ない。

「くっ、なんて面白くないやつなんだ!」彼女の攻略は適わないと見たのか、伊達めがねの似合う友人はこちらに視線を向けてきた。「萩原と玖凪からもなんとか言ってやってくれよ! 菖蒲ちゃんは可愛いよな!?」

 俺はノートを模写する手を、託哉はうちわを扇ぐ手を、それぞれ止めた。

「そんなの当たり前だろ。俺の母さんに誓って、菖蒲は可愛いと断言できる」
「確かに、あのおっぱいの破壊力はやばいよな。一度でいいから、後ろから手を入れて思う存分に揉み揉みしてみたいっつーか」

 俺が強く同意すると、続けて託哉も深く頷いた。悲しいかな、男という生き物はいつだって可愛い女の子には弱いのだ。
 元はといえば、うっちーこと内村竜太とは大学の入学式のオリエンテーションで知り合い、そのまま仲良くなった。会話のきっかけは、うっちーの携帯の待ちうけに設定されていた『高臥菖蒲』の画像。一人の女優を応援する同志として、俺たちが友人となるのは時間の問題だった。

「ダメだね! ぜんぜんダメだ! 君たちの心意気や良しと言いたいところだが、しかし僕たちの天使を呼び捨てにするのは許せんなぁ同志萩原! 菖蒲じゃなくて、ちゃんと”菖蒲ちゃん”と呼ばないと罰が当たるぞ!」
「あ、悪い。これからは気をつける」

 つい癖で菖蒲と呼び捨てにしてしまった。世間的に見ればあの予知っ娘はかなりの有名人なのだ。事情を知らない人の前で、親しげに名を呼ぶのは得策じゃないだろう。

「そして罪深きはおまえだ、玖凪! 菖蒲ちゃんだけが持つ、あの天元の果実を揉みたいと口にするなんて万死に値するぞ!」
「じゃあ、うっちーは揉みたくねえのか? あのけしからんおっぱいを。いや、あそこまでいくと、もはや”けしからん”じゃなくて”だらしのない”おっぱいと言うべきだな。もう一度だけ聞こう。おまえは揉み揉みしたくねえのか? あの、だらしのないおっぱいを」
「……ひ、卑怯だぞ玖凪! 僕を貶めるつもりか! そんな脅しに屈するほど、僕の愛は弱くないぞ! 僕はおっぱいもひっくるめて、菖蒲ちゃんのことが好きなんだ!」
「なるほど。揉みたいと」

 託哉がささやく甘言のまえに見事敗北したうっちーであった。

「まあ気持ちは分かるけどなー。あの巨乳を好きに揉みしだける野郎がいたとしたら、オレはそいつを絶対にぶっ殺すわ。なあ、夕貴?」

 よりにもよって、ここで俺に話を振ってくるとは。さすが託哉、うざすぎる。自分が楽しむためなら親友でさえも見捨てるのか。いや、もしかすると、これは復讐なのかもしれない。託哉が何に対して怒っているかは想像したくもないけど。
 刻一刻と悪化する動悸を悟られないように、俺は頷いた。

「……だ、だよなっ! ぶっ殺すよな! そのときは俺も参加するから呼んでくれ!」
「オッケー。絶対に呼ぶから、絶対に来いよ。なにが起こるから分かんねえから、ちゃんと遺書も遺しとけよ。分かったか?」
「……う、うん」
「萩原? どうしたのよ。そんなに汗かいて」

 オレンジジュースをずずっと吸い込みながら、藤崎はじっと俺の顔を見つめていた。もちろん俺は何も言わず男らしい態度を貫いた。

「にしても、男って生き物はどうして女の胸にこだわるかな。これ、そんなにいいもんじゃないよ?」

 自分の胸に目線をやりながらぼやく。藤崎はすらりとした身体をしていて、お世辞抜きにスタイルは抜群だと思うが、胸は平均ほどしかない。

「おいおい正気かよ。いま響子ちゃんは、世の男をすべて敵に回したぜ」

 託哉の顔は、いままで見たこともないぐらい真剣だった。こいつは女絡みのことになると無駄に頑張るのだ。

「それはさすがに大げさでしょ。胸なんて大きくても邪魔なだけだと思うけどね。ていうか何度も言ってるけど、あたしの彼氏でもないあんたが馴れ馴れしく響子ちゃんって呼ぶな」

 これまで女性とバストについて議論などしたことはなかったが、もしや世の女性はみんな自分の胸を邪魔だと思っているのだろうか。そういえば菖蒲も胸が大きいのを気にしてるとか言ってたな。
 しばらく議論は続いたが、どうあっても乳房を軽視する藤崎のスタンスは変わらない。業を煮やした託哉が苛立ちを隠そうともせずに告げる。

「はーあ、これだからおっぱいで勝負できない女は嫌なんだよなぁ。いいか、響子ちゃん。巨乳はファンタジー、貧乳はリアリティなんだよ。人間って生き物は、現実よりも理想を追い求めるわけ。分かったらとっとと男に揉んでもらってファンタジーを目指せ。相手がいねえならオレが直々に手伝ってやるから」

 あれ、なんかどこかで聞いたことがあるような言葉だな……気のせいか? もしかして有名な名言だったりするのだろうか。

「またバカなことを言い出したわね。あんたと話してると頭が痛くてしょうがないんだけど。それに間違っても玖凪にだけは指一本、触れさせないからね」

 両手で胸を隠し、椅子を大きく後ろに引いて距離を取る藤崎。さらりと揺れるショートカットの黒髪の隙間からは、勝気な目が威嚇するように細められているのが見える。ポロシャツにジーンズという動きやすさを重視した服装で、袖と肌の境目はかすかに日焼けして色が変わっている。
 控えめに見ても、藤崎は美人だと思う。高校の頃も男子バスケ部の連中を中心にかなりモテてたし。これは冗談みたいな話だが、バスケの公式時代で偶然にも撮影された藤崎の写真(ユニフォームの隙間からブラチラしてる)が男子の間ではかなり有名だったりする。たった一枚の写真に、バカみたいに歓声を上げて拳を掲げるのが男という生き物なのだ。男のなかの男である俺が言うのだから間違いない。
 託哉と藤崎が冷戦を続けている間にも、菖蒲の大ファンを自認するうっちーは携帯の待ちうけを見つめながら詩的なことを囁いていた。

「あぁ、菖蒲ちゃん……咲き誇る花よりも可憐な顔立ち、美しいガラス細工よりも繊細な佇まい、流れる水よりも清らかな声……くっ、まずい。菖蒲ちゃんのことを考えていたら家に帰って写真集を見たくなってしまった!」

 うっちーの愛は、冷たい戦争を終結させるほどの奇跡を起こしたのか、託哉と口論していたはずの藤崎がしょうがないなぁと苦笑した。

「うっちーって、ほんとに高臥菖蒲のことが好きだよね。萩原よりも熱狂的なんじゃない?」
「それは違うよ。菖蒲ちゃんを応援するファンには、上も下もないんだ。みんな等しく、一人の女優さんに憧れている仲間なんだよ。僕たちは、ファミリーなのさ……」

 いまにも天に上りそうなほどの朗らかな笑顔だった。窓から差し込む陽の光が、キラキラと彼を照らし上げている。これほど美しいうっちーは初めて見たかもしれない。

「あれは忘れもしない。僕が勇気を出して、初めて菖蒲ちゃんの握手会に行ったときのことだ。緊張して手と足が同時に出ていた僕に、菖蒲ちゃんは白魚のような指を差し出して、こう言ってくれたんだ。『そんなに緊張なさらなくてもよろしいですよ。わざわざご足労いただき、どうもありがとうございます』ってな! くはー! 菖蒲ちゃん可愛すぎるだろマジで! ちなみに握った指は、思わず顔面の筋肉が痙攣するぐらい柔らかかったよ!」

 自分の体を抱きしめて、いやいやするように首を振る。間違いなくいい奴なのだが、ちょっと菖蒲のことを好きすぎるのが玉に瑕だ。

「なぁ夕貴。おまえ、事情を説明するなら早いほうがいいんじゃねえ?」

 うっちーの暴走を呆れ顔で見つめていた託哉が、俺に耳打ちしてくる。

「……確かに、なぁ」

 実を言うと、俺もまったく同じことを考えていた。うっちーと藤崎は、以前から萩原邸に行ってみたいと口を揃えて言っていた。いままではそれとなく理由をつけて断っていたが、そろそろ彼らの要望を無碍に却下するのも限界だった。ナベリウスたちのことをいつまでも隠しきれるとは思えないし、頃合を見て萩原邸に居候している愉快な同居人のことを紹介したほうがいいかもしれない。

「コラそこ! 僕はまだ菖蒲ちゃんの魅力を語り終わってないぞ! これからが本番だということをじっくりと教えてやる!」

 俺と託哉が小声で会議をしていると、うっちーの怒号が飛んだ。どうやら途方もない使命感に燃えているようである。実際、彼ほど菖蒲のことに通暁しているファンも珍しいだろう。
 延々と続く女優『高臥菖蒲』の話。いくつか旬の話題を語り終えたうっちーは満足げにアイスコーヒーを口に含んだ。ひとつの仕事を終えた男の姿がそこにはあった。

「はあん。男って女の話をし始めると長いよね。それよりあたしは、リチャード・アディソンのほうが興味あるよ」

 その名が出た瞬間、みんなの顔色が変わった。興味ありげに伊達めがねを押し上げるうっちー。目を細めて押し黙る託哉。俺はおぼろげな記憶を頼りに話を繋げる。

「……それって確か、外国出身の実業家の名前だよな? 情報処理分野において画期的かつ斬新なアイデアで大きなシェアを獲得し、莫大な資産を築き上げたって。情報マネジメント論の講義で先生が事例として挙げてたような記憶があるけど」
「そうよ。しかもリチャード・アディソンって、ほとんど人前には姿を見せないって話じゃない? よく芽衣とか彩ちゃんとお昼を食べるときに話題に上るのよね。まあ若い女の子の間だとリチャードさんは美男子に間違いない、って決め付けられてるけどさ」

 あははー、と藤崎が頬を緩めると、託哉の口から失笑がこぼれた。

「女って、いくつになってもそういうの好きだよなー。まさか委員長が男に興味を持つなんて夢にも思わなかったけどよ」
「うっさいバカ凪。年中、女の尻を追いかけてるあんたにだけは言われたくないわよ。そんで話は戻るけどさ、そのリチャードさんが、近々来日するって話なのよ」
「あー、やっぱ委員長から男の話を聞かされても違和感しかないわ。年中、女の尻を追いかけてるオレが言うんだから間違いないぜ」

 背もたれに深く身体を預けた託哉が、皮肉げにつぶやく。藤崎の動きがぴたりと止まる。こめかみがぴくぴくと痙攣していた。

「玖凪くーん。それはどういう意味かなー。つーか委員長言うな!」
「そりゃ悪かったな委員長」
「ねえ萩原、うっちー。あたし、こいつのこと殴っていいかな? グーで」
「怪我人を殴んのかよ。ひでぇ委員長だな」
「うっ……そ、それを言われると、あたしも手が出せないような」
「ひとつ、忠告しといてやるよ。リチャード・アディソンには関わらないほうがいいぜ」

 投げやりに託哉は言った。それは一見、藤崎への当てつけのようにも思えるが、しかし付き合いの長い俺には託哉が冗談を口にしているようには感じられなかった。ごうごうと自己主張する冷房の音が、俺のなかに浮かんだ微かな違和感をすこしずつ消していった。




 あと二週間もしないうちに期末試験が始まる。この時期になると、キャンパス内に設置されているコピー機の前には講義中にも関わらず行列ができるようになる。俺の場合、さすがにノートは自分で書き写すけど、講義中に配布されたプリントまでは模写できない。コピー機を使いたいのは山々だが、大学ではその機会を手にいれることは出来そうにないのだ。
 だが萩原邸には、俺が高校入学と同時に母さんが買ってくれたカラープリンターがあるので、帰宅すれば無料でコピーすることができる。コンビニを利用してもいいけど、金がかかるうえに人の目があるところで地道に作業を続けるのも落ち着かないしな。

「……なんだよ、おまえら?」

 ドリンク一杯でいつまでも居座るのはマナーが悪いということで、俺たちは解散することになった。しかしカフェを出ても、食堂棟から離れても、大学の正門を抜けても、みんなは俺から離れなかった。むしろ当然と言わんばかりに、あとをついてくる。

「いやぁ、なんだよって言われてもねえ?」
「僕に他意はないんだ。ただ菖蒲ちゃんを愛する同志として、もっと萩原と語り合いたいと思ったんだよ」
「久しぶりにナベリウスさんの顔でも見に行くかー」

 揉み手をしながら擦り寄ってくる藤崎。うっちーはなぜか俺から微妙に目を逸らしている。そして託哉は、わざとらしく言いながら萩原邸の方角に向かって歩いていく。

「ちょっと待ておまえら。あらかじめ言っておくけど、俺の家にはついてくんなよ?」

 最高に嫌な予感がしたので、前もって釘を刺しておくことにした。託哉はともかく、他の二人は隙あらば萩原邸に来ようとするから。
 藤崎とうっちーは顔を見合わせたあと、示し合わせたように頷いてから、にんまりと意地汚い笑顔を作った。

「まあでも? なんだかんだ言って萩原っていいやつだからさ。きっとあたしたちの頼みも聞いてくれるよね」
「うんうん。萩原は、菖蒲ちゃんを応援する同志を見捨てるような男じゃないしね。初めて会ったときから、僕は萩原のことを信じてたよ」

 まずい。なんか徐々にみんなを萩原邸に連れて行かなければならないノリが形成されているような気がする。二人の言葉を聞いた託哉は、満足そうに頷いた。

「よく分かってるじゃん二人とも。夕貴は『わたしはあなたと結ばれる未来にあります』とか言って押しかけてくる美少女をも温かく迎え入れるような男だからなー」
「ぷっ、はははは! 冗談は止めてくれたまえよ玖凪くん! そんな電波を受信してるとしか思えない女の子、この世にいるわけないじゃないか!」

 ツボに嵌ったのか、うっちーは腹を抱えて笑い転げている。あとで絶対、本人に告げ口してやろうと俺は心に誓った。
 結局、俺にはこの三人の波状攻撃を捌ききれなかった。以前から「でかいと噂の萩原邸を見てみたい」と会うたびに口にしていた藤崎とうっちーは、俺の許可が出るや否や大層喜んでいた。表向きの理由は、大量に溜まっているプリントをコピーしたり試験対策をするためだが、藤崎たちの目は勉強ではなくイタズラをする子供のそれだった。
 真面目な話、いつかはバレるだろうと思っていたので、これを機にみんなにも萩原邸の現状を知ってもらったほうがいいかな、と俺は前向きに考えることにした。ただナベリウスと美影はともかく、菖蒲のことを説明するのは骨が折れそうだけど。
 この選択が吉と出るか、凶と出るか。おみくじでは”凶”を引く確率は三割ほどらしいが、それは裏を返せば十回中七回はセーフでもあるということだ。初っ端から”凶”を引くなんて、よほど運に見放されたやつだけに決まってる。
 俺は大丈夫だ、きっと。



 ****


 
 愛華女学院の校舎は、明治初期から連綿と受け継がれてきた伝統ある学び舎だが、しかしその外観は古色蒼然とした歴史を伺わせない。幾度かの改築を経た結果、くだんの女学院は年月がもたらす貫禄と、最新の建築技術が生み出した住み心地を同時に手に入れていた。いくら名門と言えど校舎は木造建築ではないし、とうぜん教室には最新の空調設備が取り付けられている。敷地面積は大学のそれに匹敵するほど大きく、警備体制も万全。その有りようは由緒正しい女学院に相応しい、荘厳たる重みを漂わせている。
 放課後の教室では、一日の授業から解放された女生徒たちが気楽に、されど淑女としての嗜みを忘れずお喋りに興じている。口元に手を当てて微笑む仕草は、年頃の女子としては上品に過ぎるが、ここ愛華女学院ではよく見られる光景だった。

「ご、ごきげんよう壱識さん。もう放課後になったよ?」

 窓辺の列の一番後ろ。教師の目が最も届きにくいその席は、入学したときから七月の現在に至るまで壱識美影が陣取っていた。美影は広げたノートのうえに頬を乗せ、それはもう気持ちよさそうに眠っている。小さく開いた唇から垂れたよだれが、なにも書かれていない紙に染みを作っていた。

「んん……」

 クラスメイトから声をかけられた美影は、むずがゆそうに目をこすりながら身体を起こした。ぱちぱちと瞬きを繰り返し、口元のよだれを拭ってから、ようやく自分の置かれた状況を理解する。

「……なに?」

 美影の周囲には、黒を基調としたセーラー服に身を包んだ女子が十人ほども集まっていた。彼女らは好意と遠慮を足して二で割ったぐらいの態度で、じっと美影のことを見つめている。

「……ファイトですよ、美影ちゃんっ」

 高臥菖蒲は、教室の端からその光景を見守っていた。謎の使命感に満ちた顔で、ぎゅっと拳を握り締めながら。
 実のところ、菖蒲はクラスメイトたちの心境を知っている。みんな、美影と仲良くなりたいのだ。だが無愛想で協調性がなく学校を休むことも多い美影は、お嬢様が多い愛華女学院では怖がられる対象だった。
 しかし萩原邸に居候するようになり菖蒲と仲良くなったことが、美影の境遇にささやかな変化をもたらした。菖蒲はクラスでも中心的な人物。とうぜん影響力も大きい。有り体に言えば『あの高臥さんが仲良くしているのだから、きっと壱識さんは不良ではなく、ただ不器用なだけなんだ』と思われるようになった。
 もともと美影は、良くも悪くも目立つ。気まぐれな猫のごとき生活態度もさることながら、端麗な容姿は人ごみのなかでは浮いてしまう。小柄だが、無駄な贅肉のない引き締まった身体も、ダイエットに精を出す年頃の女子からは羨望の眼差しで見られた。
 四月の頃はクラスで孤立していた美影だが、ここ最近はそうでもなかった。みんな、美影と仲良くしたいのだ。

「あのね壱識さん。実はこのあと、みんなでお茶をしようってお話をしてるんだけど、一緒にどう?」
「めんどいからいい」
「そんなこと言わずに、ね? 松島さんのおうちのコックさんが作るケーキ、とっても美味しいんだよ」
「……ケーキ」

 不機嫌そうだった美影の顔から、わずかに険が取れた。女の子にとって甘いものは偉大なのだ。

「……フレンチトーストはある?」

 黒髪の先っぽをちょこちょこといじりながら美影が言う。落ち着いた物腰の松島さんが、曖昧な笑みを浮かべて首を傾げた。

「うーん、どうかしら? たぶん、お願いすれば作っていただけると思うけれど。もしかして壱識さん、フレンチチーストが好きなの?」
「ぜんぜん。まったく。これっぽっちも好きじゃない。あんなのどうでもいい」
「えっ……」

 フレンチトーストで釣れば一緒にお茶ができるかも、という思惑をあっさり打ち砕かれた松島さんは、笑顔のまま石化してしまった。微妙に気まずい空気が流れるなか、今度は携帯を手に持った快活な女子がずいっと身を乗り出した。

「ねえねえ。よかったらあたしとメールアドレス交換してくれない? 前から壱識さんとはメールしたいって思ってたんだ」
「べつに私はメールしたくない」
「わたしも!」
「べつに私はメールしたくな……」
「わたくしもいいかしら?」
「べつに私は……」
「ずるい! わたしも!」
「…………」

 ずっと機会を伺っていたのだろう、勇敢な一人の発言を皮切りにみんなが携帯を取り出した。美影は抵抗を続けているが、それも長くは持ちそうにない。
 そのとき、菖蒲の携帯に着信があった。見れば、夕貴からのメールだった。はて、いったいどうしたのだろう。怪訝に思いながらも受信ボックスを開く。件名はなし。本文は『覚悟して帰ってきてくれ』だけだった。絵文字がなければ顔文字もない。その簡素な文面からは、菖蒲の気のせいでなければ切羽詰っている様子が感じられた。

「覚悟して帰ってきてくれ……? なにか覚悟せざるを得ない事態でも発生したのでしょうか。……はっ! ま、まさか!」

 菖蒲の脳内に、不穏なイメージが浮かびあがった。ベッドのうえでもつれ合う夕貴とナベリウス。もしかして夕貴は、菖蒲をポイと捨てて、ナベリウスと昼下がりのアバンチュールを楽しむつもりではないのか。ありえる。存分にありえる。夕貴が浮気するとは思えないが、しかし男性とは一時の欲望に流される生き物だと、つい最近ネットで見た。

「こ、こうしてはいられません。すぐにお家に帰って、ナベリウス様を阻止しなくては……!」

 間違った方向に情熱を燃やす。彼女には天然なところがあった。通りがかった女生徒が、未来の妻としての気迫に満ちた菖蒲を見て「ひっ!」と息を呑む。

「――いい加減にしろ」

 直後、放課後の賑やかな喧騒に満ちていた教室の空気が一変した。ぞくり、と肌が泡立つのは、きっと冷房のせいではあるまい。生物としての生存本能が警鐘を鳴らしている。素人の菖蒲にもはっきりと感じ取れるぐらいの、殺気。

「もう私に構うな」

 剣呑な顔つきで美影が言う。クラスメイトたちはタイミングが悪かった。安眠を邪魔されて不機嫌だった美影には、自分を囲んでいる女子たちが、逃げ道を塞ぐ敵のように思えたのかもしれない。邪魔だ、どけ。離れたところにいる菖蒲にも、美影の怒りが手に取るように分かった。

「これ以上、私を怒らせたら……ただじゃ済まさない」

 湖水のように静かだった瞳が、暴風雨のような荒々しさを宿す。厳格ながらも平穏だった学びの園に、暴力的な雰囲気が立ち込める。いまこの教室を支配しているのは、間違いなく美影だった。温室で育ったクラスメイトたちは、体験したこともない圧倒的な害意に震え上がり、涙を流して命乞いする――はずだった。

「か、か、か」

 みんなが一斉に叫んだ。

「可愛いー!」

 きらきらと目を輝かせたクラスメイトが、険しい面持ちの美影に飛び掛かり、これでもかと抱きつく。

「ねぇいまの聞いたっ? 私を怒らせたらただじゃ済まさない、だってっ! んもう、美影ちゃん可愛すぎるよー!」
「む、むー!」
「ていうか、今日ちょっと冷房強くないかな? なんか寒気がしたんだけど。ほら、ここ鳥肌立ってるし」
「うー!」

 喜色満面に嬌声を上げるクラスメイトに囲まれて、美影はじたばたと暴れていた。なんのことはない。温かな陽だまりのなかで育ったお嬢様は、自身に向けられる敵意に鈍感だった。率直に言えば、彼女たちは天然すぎて、研ぎ澄まされた美影の殺気を理解できなかったのだ。
 いくら名門女学院に通っていても、彼女たちが女子である以上、可愛いものを愛でたくなるのは自然だろう。もっとも、愛でられるほうはたまったものではないだろうが。

「美影ちゃんの黒髪、すごくきれいよね。どこの美容室に通ってるの? よかったら使ってるシャンプー教えてもらえない?」
「はなせー!」
「お肌も真っ白だし、羨ましいわ。わたしも美影ちゃんぐらい色白だったらよかったのだけれど」
「はなれろー!」
「それにとても引き締まった身体をしているし。体育の着替えのとき、いつも美影ちゃんを見るたびに自信をなくすんだけど」
「やめろー!」

 いつの間にか『壱識さん』から『美影ちゃん』に呼び方が変わっているが、それを気にする者は誰もいない。
 いい傾向だ、と菖蒲は思った。清々しい気持ちで窓のそとを眺める。美影は無愛想だが、とても優しい女の子でもある。できることなら、もっとみんなに美影の素晴らしさを知ってほしいと、菖蒲はひとりの友人として切に願うのだ。

「あやめ」

 名を呼ばれて視線を戻した菖蒲が見たものは、憔悴した美影の姿だった。髪が乱れ、胸元のリボンが緩み、中途半端にソックスが脱げている。よほど激しく可愛がられたらしい。

「美影ちゃん。また今度、メールするね」

 教室から出て行く女生徒のひとりが、携帯を握った手を振りながら言った。どうやらメールアドレスの交換は無事に終わったようだ。帰路につくクラスメイトが別れの言葉を告げても、美影はそっぽを向いたまま不機嫌そうな顔を崩さなかった。

「高臥さん。さようなら、また来週ね」
「はい。お疲れ様でした。さようなら」

 愛想のいい笑みを浮かべて会釈する。みんな気軽に声をかけてくれるのは嬉しいのだが、どうせなら自分も『高臥さん』ではなく『菖蒲ちゃん』と呼んでほしいな、と彼女は心のなかでごちた。

「……ひどい目に遭った」

 美影がぽつりと漏らす。

「そうでしょうか。美影ちゃん、楽しそうに見えましたよ」
「あやめの目は節穴。私はあいつらのことなんか嫌い」
「本当に?」
「本当」
「絶対に?」
「しつこい。絶対の絶対」
「……そうですか。残念です」

 もしかすると美影は、心の底から嫌がっていたのだろうか。たしかに表面上は煩わしそうだったけれど、その実は満更でもないように見えたのだが。

「……でも、美味しいケーキだけは一緒に食べてやってもいい」

 かすかな声だった。ただ一緒にケーキを食べるだけ。小さな、小さな決意。だが菖蒲には、それが大きな一歩に思えて仕方なかった。

「生クリームたっぷりのショートケーキを考えたやつは天才。てっぺんに苺を乗せるという発想は、もはや神にも等しい」
「…………」

 いや、実は本当に甘いものを食べたいだけなのかも、と菖蒲は呆れと同時に微笑ましい気持ちを覚えた。

「あやめ、あやめ」

 くいっくいっと服を引っ張られる。茫洋とした目が「疲れたから早く帰りたい」と告げていた。そこで菖蒲は、夕貴から届いたメールのことを思い出し、美影に説明した。

「……メール?」
「そうです、メールです! 夕貴様から怪しげなメールが届いたのです! きっとまたナベリウス様がよからぬことを企んでいるのでしょう。これは急いで帰らねばなりませんね」

 決意を新たにしていると、美影がこそこそと携帯を取り出し、受信メールをチェックしていた。

「……きてない」
「美影ちゃん?」
「帰る」

 短く言って、足早に教室の出口へと向かう。なぜか美影の機嫌が悪くなったような気がする。菖蒲は首を傾げながらも、小さな背中のあとを追った。




 峰ヶ崎大学から徒歩で三十分も歩くと萩原邸が見えてくる。閑静な住宅街のなかでも一際大きい敷地と、オフホワイトの三階建ての家屋。その華やかな佇まいが、周囲に劣等感を振りまいていることは想像に難くない。だが不思議なことに、門扉の前に立っても、玄関を潜っても、内村竜太と藤崎響子は驚きはしても嫌味の類はまったく感じなかった。
 優しいのだ、この家は。
 この『萩原』という表札のかかった邸宅は、ひたすら優しい空気に満ちている。ここだけ時間がゆっくり流れているような錯覚に陥るほどに。犬は飼い主に似るというが、この場合、家が住人に似たのかもしれないと竜太は思った。

「話には聞いてたけど、これは凄いわね……」
「ま、まさか萩原は、どこぞの名家の血でも引いてるんじゃないか?」

 内村竜太、藤崎響子、玖凪託哉の三名が通されたのは、玄関を潜ってすぐのところにある応接間だった。さりげなく高級感を漂わせるアンティーク風の家具がしつらえられ、客人をもてなすための大きなソファが目を引く。純白のカーテンがかかった窓からは、青い芝生の張られた庭が一望できた。フルパワーで稼動する冷房が、冷たい風を勢いよく吐き出し、熱のこもった空間を居心地のいいものへと変えていく。
 夕貴はここにはいない。竜太たちを応接間に押し込めたあと、「おかしいな。靴はあるのに姿が見えないぞ。……まあいい。おまえらはそこの部屋に隠れててくれ。俺は悪魔がいないか調べてくるから」と二階に上がっていったからだ。

「にしてもさぁ、なんで萩原はあんなに挙動不審なわけ? ここ自分の家でしょ?」

 おっかなびっくりとソファに腰を落ち着けている響子が言った。癖のないショートカットの黒髪と、勝気な目。すらりとした健康的な脚を所在なさげにぶらぶらさせながら、部屋のなかを見回している。
 一方、竜太は、忙しなく部屋を歩き回っていた。さっぱりとした短髪と伊達めがね。見るからに好青年然とした彼も萩原邸の大きさに戸惑っている。ただし窓辺に立つ託哉だけは落ち着き払った様子で、のんきに携帯などを弄っているが。
 竜太は腕を組み、大げさに唸って見せた。

「うーむ、確かに謎だね。萩原の足取りは、まるでお化け屋敷を進むときのようだった。なにか未知なるものを警戒しているとしか思えない」
「だよねぇ。もしかして家のなかに誰かいるのかな?」
「玄関には女物の靴があったし、お母さんがいるんじゃないだろうか」
「でも萩原のお母さんは家を空けてるって聞いてるけど。それに普通、自分の母親を警戒するかしら?」

 二人は顔を見合わせた。

「……謎だ」
「……謎ね」

 貧乏揺すりをしながら唸る響子を尻目に、竜太は伊達めがねを押し上げて思考に没した。萩原邸に到着してから、夕貴の様子がどうにもおかしいことが引っかかる。普段はあれだけ乗ってくる高臥菖蒲の話にも今日はほとんど乗ってこなかった。むしろ避けている節すらあったほどだ。

「あっ、そっか、あの玄関にあった靴は……」やおら響子がぽんと手を叩き、小さな声でぶつぶつと独り言を漏らした。「まったく萩原のやつ、彼女をお泊りさせるのはいいけど、ちゃんと家に帰してあげないとだめじゃない」

「なにか分かったのかい、藤崎?」
「んー? べっつにー?」

 わざとらしく口笛を吹きながら窓のそとに目を向ける。竜太がなにを聞いても、彼女は答えてくれなかった。どうやら玄関にあった女物の靴がヒントらしいが、そこから閃くものが竜太にはなかった。

「おまえら、邪推もほどほどにしとけよ。もうすぐ面白いもんが見れるから、黙って待ってろ」

 託哉が言う。響子の貧乏ゆすりがぴたりと止まった。

「面白いもの? あんた、なにか知ってるの?」
「おいおい、オレを誰だと思ってるんだ。夕貴ちゃんのことなら何でもお見通しさ」
「御託はいいから、とっとと教えなさいよ」
「悪いな。オレは女の頼みしか聞かない主義なんだよ」
「だったらちょうどいいじゃない。可愛い響子ちゃんが聞いてるんだから、はやく教えなさい」
「悪いなっ」
「あたしは女の子だっつーの! もうキレた! この世からあんたの存在を抹消してやる! 表に出ろ、バカ凪!」

 飽きもせずに罵りあう二人。これは長引きそうだな、と思った竜太は、萩原邸の様子を探るためにもトイレに行くことにした。この家にはなにか大きな秘密が隠されているような気がしてならないのである。

「あぁ、トイレならこの部屋を出て左に真っ直ぐ歩けばあるぜ」

 響子に胸倉を掴まれた託哉が、廊下のほうを指差して告げる。「それじゃ、行ってくるよ」と断ってから、竜太は応接間を抜け出した。
 長く、そして広い廊下をゆっくりと歩く。どこからか取り入れられた自然光が、よく磨かれたフローリングに反射し、ささやかな光芒となって竜太の伊達めがねに届く。うっすらと目を細めながら足を進めると、目的のトイレを見つけた。その内部は、母親と子供の二人暮しにしてはやたらと清潔にされている。まるで何人もの若い女の子が利用することを想定しているかのようだった。
 間もなく用を足した彼は、応接間に戻る途中、玄関のほうから物音を聞いた。もしかしたら家族の方が帰ってきたのかもしれない。失礼にならないよう、挨拶をしておこうと思った。

「美影ちゃん、なにか聞こえませんか?」
「なにかってなに?」
「い、いえ、ですから……その、あれです。男女がもつれあう音色と言いますか、とにかく、そんな感じのものです」
「うん。聞こえる。そこにある応接間から、ヘンな声が」
「応接間から!? ま、まさか夕貴様とナベリウス様は、上司と部下、あるいは社長と秘書といった特殊な設定を使って……あら? 玄関に靴がたくさんありますね」

 若い少女の会話が聞こえてくる。どうやら二人いるらしい。なぜか竜太には、そのうちの一人の声にひどく聞き覚えがあった。
 なんともいえない胸騒ぎがする。暴れる鼓動がうるさい。この先にはやく進め、ここから先に進んでは駄目だ。相反する二つの思考が、脳髄のなかで激しい火花を散らしている。両者のバトルは、好奇心という味方がついたことにより、前者の辛勝に終わった。
 応接間の前を通りすぎると、そこはもう玄関だった。西に傾いた陽射しが、女学院の制服を着たシルエットを二つ、浮かび上がらせている。その姿は、逆光気味で判然としない。
 だが竜太には、シルエットだけでじゅうぶんだった。ずっと憧れていた少女を見間違えるわけがない。例えそれが、影絵のようにおぼろであったとしても。

「…………」

 うまく言葉が出てこない。冗談だろ。なんだこれは。マジかよ。だってここは萩原の家なんだぞ。熱が出るぐらい回転している頭脳とは対照的に、口と喉はまったく機能しない。結果として、竜太はまばたき一つすらせずに呆然と立ちすくむだけの怪しい人物と化していた。

「なに、これ?」

 長い黒髪をポニーテールにした小柄な少女が、気だるそうに竜太を指差す。それを受けて、黒のセーラー服越しでも分かる豊満な胸をした可憐な少女が、淑やかに首を傾げながら口を開いた。

「お客様でしょうか? もしかすると夕貴様のご友人の方かもしれ……」
「うおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおっ!」

 少女の声に割り込み、竜太は叫んだ。心の底から、命を燃やしつくす勢いで叫んだ。「ひっ! な、なんですか……?」と怯えられようとも、「うるさい。だまれ」と罵られようとも、竜太は叫んだ。魂の疼きを抑えるためには、力のかぎり声を張り上げるしかなかったのだ。驚きはあったし、混乱もした。しかしそれらを上回る極大の喜びが、彼を包み込んでいる。

「な、なにっ? もしかして萩原とその彼女があんなことやこんなことをしてる現場に遭遇しちゃったっ?」
「あー、よかった。これでようやく響子ちゃんの説教から解放されるわ」

 応接間の扉が勢いよく開き、動転した響子と肩をすくめた託哉が出てくる。二階からどたばたと足音がしたかと思えば、「なにが起こったー!?」と夕貴が階段を駆け下りてきた。さらにタイミングを見計らったように、買い物袋を提げた銀髪の美女が帰宅した。

「なんだか大勢いるわね。夕貴のお友達?」
「おまえ買い物に行ってたのかよ! 玄関に靴あったじゃねえか!」
「もう夏だからね。今日はサンダルで出かけたのよ」

 銀髪の美女と夕貴が仲睦まじく会話していると、黒髪ポニーテールの少女が忍び寄り、
 
「……てい」

 夕貴の足を軽く蹴った。

「いきなりなにすんだ、美影!」
「知らない」

 冷たく言って、美影と呼ばれた少女は背を向けた。色白の頬がぷっくりと膨らんでいる。どうやら拗ねているらしい。

「うわぁ、きれいな人……銀髪なんて初めて見た。もしかしてこの人が萩原の彼女?」

 陶然と響子がつぶやくと、銀髪の美女は頬を染めて俯いた。

「……ううん。彼女じゃなくて、性欲処理用の奴隷かな。毎晩、夕貴にいっぱいご奉仕して、溜まりに溜まった熱いリビドーを抜いてあげてるのよ」
「ナベリウス! おまえは話がややこしくなるから黙ってろ!」

 夕貴が慌てて、ナベリウスと呼ばれた女性の口を塞ぐ。それははたから見れば抱き合っているようにも見えて、響子は「あわわっ。さ、さすがに付き合いたてで露出プレイは早くないっ?」と両手で顔を隠した。まあ指の隙間から、ちゃっかり覗いているのだが。

「夕貴様、ご無事ですか!? ナベリウス様の毒牙にはかかっていませんよね!?」
「まあまあ、落ち着きなよ菖蒲ちゃん。夕貴よりも遥かにいい男が、君のとなりにいるじゃないか。オレ、今晩空いてんだけどな」
「性懲りもなく女の子を口説いてんじゃないよ、バカ凪! あんたはもっと節操ってものを弁えて……えぇっ!? ちょっ、えっ、なにこれっ、女優の高臥菖蒲!? 本物!? なんでこんなとこにいんの!?」

 響子はこれでもかと目を見開くと、まじまじと菖蒲を見つめる。彼女らの影に隠れるようにして、皮肉げに口端を歪めた託哉と機嫌悪そうに目を細めた美影が対峙していた。

「これはこれは。どこかで見たようなまな板だと思ったら、《壱識》さんちの美影ちゃんじゃねえか。あのシリアルキラーのときの騒動以来だな。あれだけファンタジーを目指せって言ってやったのに、まだリアリティを追い求めてんのかよ」
「…………私だって、ちょっとぐらい、ある」

 肩を落とし、唇を尖らせて美影は応える。セーラー服の胸元には女性的なふくらみの痕跡があるにはあるが、ナベリウスや菖蒲のそれと比べると、いささか心もとない。

「ちょっと萩原! これどういうこと!? なんであんたの家に高臥菖蒲がいるのよ!? ただでさえ銀髪のきれいな彼女がいるのに!」

 いい具合に混乱した響子が、次々とまくし立てながら夕貴に詰め寄る。

「ま、待て。落ち着け。いまから説明するから」
「これが落ち着いてられるかっての! うわっ、しかもそっちの黒髪の子もめちゃくちゃ可愛いじゃん! こんな美人を三人もはべらせるなんて萩原も偉くなったわね! あんた、高校のときは色んな女の子からアピールされてたくせに、ちっともいい顔しなかったじゃない!」
「嘘つけ! 俺はいままで告白とかほとんどされたことないぞ!」
「みんなさりげなくアピールしてるのに、あんたが『女の子はもっと男らしい顔をしたやつに惚れるはずだ』とか意味分かんない理論を発動するから、だれも告白までいけないのよ! それともやっぱり、男は巨乳じゃないと嫌なの!? 高校のときはこんなにおっぱいが大きい子いなかったものね!」
「違うって! それによく見ろ、胸が大きいのはナベリウスと菖蒲だけだろうが!」

 ナベリウスと菖蒲。ややベクトルの異なる美貌を持つ二人だが、男性の視線を釘付けにする豊満な乳房が、絶対の共通点となっていた。なるほど確かに、響子の言ったとおり巨乳だろう。だが夕貴の発言によって暗にバストが小さいことを示された美影は、さきほどと同じように夕貴に歩み寄ると、今度はかなり強い力ですねを蹴った。

「いてぇっ! おい美影! さっきからおまえは何がしたいんだ!?」
「…………知らない」

 ぷいっとそっぽを向き、艶やかな黒髪をなびかせて去っていく。垣間見せる横顔は、怒っているというよりも、やはり拗ねていると表現したほうが似つかわしいものだった。そのまま美影は二階へと続く階段を上っていき、姿を消した。
 残された夕貴は蹴られた足を抱えてケンケンし、響子はなおも混乱を続けている。ナベリウスは買い物の戦利品を冷蔵庫にしまいにいき、所在なさげに佇む菖蒲をこれ幸いにと託哉が口説いていた。
 どこからどう見ても成功したとはいえない状況だ。もし夕貴がおみくじを引いていたら、白い紙片には”凶”の一文字がこれでもかと自己主張していたことだろう。
 しかしながら、入り乱れる会話も、看過しえぬ謎の数々も、竜太にはどうでもよかった。この混沌とし始めた場において、彼だけが状況を正しく理解していた。小難しいことを考える必要はない。ただ憧れていた少女と邂逅した。これはそれだけの話ではないのか。

「ふおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおっ! 本物の菖蒲ちゃんだぁああああああああああああああっ!」

 男、内村竜太。その十九年という短くも長い生涯において、もっとも歓喜した瞬間だった。





[29805] 3-4 それぞれの夜
Name: テツヲ◆c49d9b75 ID:366fa69a
Date: 2012/06/25 00:52
 すべての事情を説明するのに一時間近くも奔走した俺は、間違いなく今日だけで嘘と言い訳がうまくなったと思う。
 もっとも骨が折れたのは、やはりと言うべきか菖蒲のことについてだった。苦肉の策として俺が提唱したのが『じつは萩原家は高臥家の遠い親戚で、菖蒲は通学時間を短縮するために居候している』というものだった。幸いなことに萩原邸は大きく、言われてみれば名家としての風格もなくはない。実際、うっちーと委員長は半信半疑なふうだったが、これを信じると言ってくれた。女優としての資質か、菖蒲の演技と口裏あわせが抜群に上手かったのも功を奏した。
 ちなみにナベリウスは母さんの友人、美影は俺の従兄弟という設定になった。「わたしは夕貴の奴隷なのにー」とか「従兄弟。べつにどうでもいい」などと文句も出たが、それは黙殺させてもらった。
 みんながみんな、まだ完全に納得したわけじゃないだろう。それでも日が暮れ、真っ赤な夕焼けが空を染め始める頃には、萩原邸にもある程度の落ち着きが戻っていた。



 鮮烈な紅色が尾を引き、地平線の彼方に消えていく。ノスタルジックな夕焼け空は、その有りようを少しずつ群青の帳に変えていた。
 午後七時をまわる頃、リビング・ダイニングには俺、ナベリウス、菖蒲、美影の萩原家組。そして託哉、藤崎、うっちーのお客様組が顔を揃えていた。さすがに七人もいると手狭に感じるが、いままでが快適すぎただけなので、家の規模を鑑みればこれぐらいの人口密度が普通なのだろう。
 親睦会も兼ねて、みんなで夕飯を食べることになった俺たちは、それぞれ分担して支度を進めていた。

「嫌」
「そう言うなよ。たまにはいいじゃないか」
「しつこい。嫌って言った」
「せっかく藤崎とうっちーの説得がうまくいったんだ。頼むから今回だけは俺の顔を立ててくれよ」

 食事の支度そのものは滞りなく進行中である。しかし、美影は見知らぬ人間と食事をすることに抵抗感があるらしく、俺の説得も虚しく響くだけだった。長い黒髪を揺らし、三階にある自室に上がろうとする背中を必死に引き止める。

「なあ。そんなにみんなと飯を食うのが嫌なのか?」
「ぜったいに嫌」

 どうあっても美影の意志は変わらない。仕方ない。こうなったら最後の手段に出るか。本当は食べ物で釣るような真似はしたくないんだけど。

「そっかー。残念だなー。今日はしゃぶしゃぶなのになー」
「ポン酢さま……!?」

 気だるそうだった切れ長の目がきらきらとした輝きを放つ。

「夕貴、夕貴っ。それ本当っ?」
「あ、ああ。本当だぞ」

 とてつもなく嬉しそうに俺の服を引っ張ってくる美影に気圧されて、思わずたたらを踏んでしまった。いまは夏場だけど、ダイニングには冷房がかかっているので問題なく食えるだろう。ナベリウスは、美影の好物がポン酢であると知り、以前からしゃぶしゃぶをする機会を伺っていたのだ。それが偶然、今日だったというわけである。
 けっきょく、ポン酢という神の調味料(本人談)に釣られた美影は、こうして参加の意を示したのだった。それから全員が協力して食事の場を調えていった。

「……うん、こんなものね。みんな、もう座っちゃってもいいわよ。あとはわたしがご飯よそってあげるから」

 満足げな顔でうなずき、ナベリウスがよく通る声で告げる。
 ダイニングテーブルの上には所狭しと料理が並べられていた。ぐつぐつと煮立つ大鍋と、赤身と白身のバランスがほどよい薄めの肉。箸休めには、たくさんのきのこをバターや粉チーズとともに炒めてハーブで香りづけしたものや、さっぱりとした味わいのトマトとアボカドのサラダ、そして漬物が数種類。各自の手元には、ポン酢用とごまダレ用に、二つの小皿が用意されている。もちろん刻みネギや大根おろしといった薬味も忘れていない。

「みんなグラスは持ったね。それじゃあ乾杯しようじゃないか。僕たちの期末試験を祈って、そして菖蒲ちゃんと出会えた奇跡を祝って――乾杯!」

 うっちーがコーラの入ったグラスを掲げて声高らかに叫ぶ。さきほどまで狂ったように涙を流し、菖蒲を困惑させていた青年の姿はすでにない。普段から場を盛り上げることの多い彼は、緊張やら葛藤を押し殺し、こころよく乾杯の音頭を引き受けてくれたのだ。
 号令に合わせて、そこかしこでグラスをぶつけ合う小気味よい音が響き、談笑する声とともに笑顔が咲いた。乾杯して十秒も経たないうちに、盛り上がりは最高潮に達していた。

「はぁ、ほんと綺麗ですよね、ナベリウスさんって。プロポーションも信じられないぐらい整ってますし。あたしもこれぐらい美人に生まれたらよかったのになぁ」

 藤崎が恍惚とした顔でつぶやく。おなじ女として、ナベリウスの完成された美貌に憧れてしまうのかもしれない。でも藤崎は知らないのだ。悪魔の本性を。

「それほどでもないわよ。わたしなんて、大したことないし」

 お褒めに預かったナベリウスが、さらさらとした銀髪を耳にかけながら上品に微笑んだ。まさに天使と呼ぶに相応しい、洗練された美である。もちろん俺は騙されないが。

「うわぁ、謙遜するなんて大人だ。まるで欠点が見当たらないですね。これはさすがの萩原でも釣りあいが取れないでしょ」
「待て待て。さっきから思ってたんだけど、もしかしておまえ、俺とナベリウスが付き合ってるって勘違いしてねえか?」
「だって事実じゃん。大学を休んでたのも、ナベリウスさんと熱々の恋愛をしてたからじゃないの?」

 こいつ、体育のときの勘違いをまだ引っ張ってるのか。あのとき即座に訂正しなかったことが、ここまで尾を引くとは。さっきから”彼女”とか”付き合ってる”とか声に出るたびに、菖蒲がびくっと身を竦ませて、俺のほうを『し、信じてもいいのですよねっ?』みたいな弱々しい目で見てくるから凄まじく気まずい。
 ここは穏便に事を済ませるためにも、慎重に訂正しなければならない。が、いつだって場を引っ掻き回すのは銀髪悪魔だと萩原家では相場が決まっていた。なにを思ったか、ナベリウスは雪のように真っ白な頬をほんのりと紅潮させてわざとらしく俯いた。いつもどこかで見るような光景だった。

「彼女か……うん、そう呼ばれてたこともあったかな。でもいまは、ただ夕貴の欲望を受け止めるための肉人形でしかないから……」
「え」

 ぴたり、と藤崎の動きが止まった。

「に、に、にに、肉人形って……どういうことですか?」
「そのままの意味よ。わたしに自由なんてないの。ご主人さ……いえ、夕貴にいっぱいご奉仕するのが、わたしの仕事だから」
「萩原ー! あんた、そこに正座しなさい! 健全な恋愛してると信じてたのに、その結果がこれ!? 見損なったわ!」
「お、落ち着けよ。俺は悪くないんだ。おまえがナベリウスに騙されてるんだよ」
「男はみんなそう言うのよ!」

 両手を振って無実をアピールするが、藤崎の顔から怒りが薄れることはなかった。口元を手で抑えて、ぷくく、と笑っているナベリウスに、あとで説教してやろうと俺は心に決めた。結局、なにも悪くないはずの俺が謝り倒すことによって、藤崎に許してもらった。なんて理不尽だろう。もういい。こうなったら男らしくやけ食いしてやるのだ。

「はーあ。これからは玖凪だけじゃなくて萩原の動向も観察しないといけないのか。あんたさぁ、お母さんがいないからってハメ外しすぎじゃない?」
「俺は健全だって言ってんだろ! それに母さんは実家に遊びに行ってるだけだ。もうすぐ帰ってくるよ」
「……それそれ。前から疑問に思ってたのよ。この際だから言わせてもらうわ」

 藤崎は怪訝顔をした。

「まずひとつ確認しておきたいんだけど、萩原のお母さんっていつから家を空けてるんだっけ?」
「……今年の四月だけど。それがどうかしたのか?」
「つまり三ヶ月以上もいないってわけね」
「ああ。里帰りなんだから、こんなもんだろ?」
「なに寝惚けたこと言ってんのよ。はっきり言うわ。長すぎる」

 それは断言だった。

「いくらなんでも、三ヶ月以上も里帰りするなんておかしいんじゃない?」
「そうなのか? ……俺、昔から親戚とかいなかったから、そのへんの感覚がよく分からないんだけど」
「ま、なにか特別な事情があるならべつだけどさ。とにかくあたしはおかしいと思うよ。もう大学生になったはいえ、一人息子を置いて長いあいだ家を空けるなんてさ」
「でもたまに連絡くれたりするぞ?」
「じゃあ事故とか病気になってるわけじゃないのね。それならよかった。あたしも高校の行事のときに何度か萩原のお母さんと会ったけど、すっごく綺麗でいい人だったしね」

 んー、と何かを思い出すようにして藤崎は言った。一方、俺は顔が緩むのを抑え切れなかった。母さんが褒められると何でこんなに嬉しいんだろう。もういちどだけ他人の口から母さんのことを聞きたくて、俺はたずねた。

「……そ、そうか? 母さん、優しくて綺麗だったか?」
「さすが萩原のお母さんって感じだったよ。よく似てた」
「いやぁ、なんか照れちゃうなぁ。俺が母さんと似てるのは当たり前だし、母さんが優しくて綺麗なのはもっと当たり前だけど、やっぱりあらためて言われると照れるなぁ……」

 母さんと似てる。それは他人から言われてもっとも嬉しい言葉のひとつだ。胸がぽかぽかと温かくなる。ただ、それとはべつに、藤崎の言葉が俺の脳裏にずっと引っかかっていた。

 ――いくらなんでも、三ヶ月以上も里帰りするなんておかしいんじゃない?

 ずっと母さんと二人で生きてきたから、世間的な常識のことは知識でしか知らない。たしかに漠然と、帰ってくるの遅いなぁ、とは思っていたけど、母さんだから大丈夫だって盲目的に信じてた。いや、それはいまでも信じてる。母さんが俺を放って、いなくなったりするわけがないんだから。
 ……まあ、考えていても仕方ないか。とにかくいまは飯を食おう。
 グラスに注がれたコーラを半分ほど飲んでから、お預けを食らっていた空腹を満たそうと、小皿にポン酢を注いでいく。実を言うと、俺はごまダレがそんなに好きじゃない。
 ふと気付くと、となりに座っている美影がとても満足そうな顔でこちらを見ていた。どうやら俺がポン酢を選んだことを喜んでいるらしい。よくよく見れば俺だけではなく、美影は、ここにいる全員がポン酢とごまダレのどちらを選ぶか確認しているようだった。偶然か、ほとんどの者はポン酢派らしく、ごまダレには見向きもしない。どうやら惨劇は回避できそうである。
 美影の小皿には、当然のようにポン酢が注がれている。ちなみに刻みネギがたっぷりと盛られていたりするが、なぜか定番の大根おろしは入っていなかった。

「おまえ、大根おろしはいらないのか?」
「あれは邪道。真のポジョリストは、ネギちゃんとポン酢さまと肉くんだけで食べる」
「…………」

 突っ込むな。ここで突っ込んだら負けだぞ萩原夕貴。なんか美影が俺の反応を伺うかのようにこちらをちらちらと見ているが、あえて無視を決め込んでやるのだ。

「夕貴、夕貴」

 くいっくいっと服を引っ張られる。

「……なんだ?」
「ポン酢さまと将来を誓い合うまでの領域に到達した者を、人は畏敬を込めてポジョリストと呼ぶ」
「聞きたくなかったー!」
「夕貴がどうしてもって言うなら、私がポン酢さまのイロハを教えてあげてもいい」
「いらねえよ! ポン酢が美味いことぐらい知ってるわ! それに俺も母さんも、萩原家は昔からごまダレじゃなくてポン酢派だから安心しろ」
「……そう」

 どことなくつまらなさそうに呟き、ちびちびとオレンジジュースを飲む美影。どうやら自分の手で、俺にポン酢さま……いや、ポン酢の素晴らしさを説きたかったらしい。

「いやぁ、僕ってポン酢はだめなんだよね。やっぱりしゃぶしゃぶと言ったらごまダレだろう」

 俺と美影がポン酢について語り合っていると、対面の席から不穏な発言が飛び出した。菖蒲にコーラのお代わりを注いでもらって上機嫌のうっちーが、ほこほことした顔で”ごまダレ”の入った小瓶に手を伸ばす。彼の正面には、ちょうど美影が座っていた。いまだかつてない悪寒が総身を駆け抜ける。次の瞬間、上機嫌だったはずの美影から表情が抜け落ちた。

「……ごま、ダレ……?」

 小さな手から箸がこぼれ落ちる。それが床に落ちる前に、俺がギリギリで拾い上げていた。美影は俯いたままぷるぷると震えている。まるで極寒の吹雪にさらされているかのようだ。

「おい! しっかりしろ!」
「……ポン酢さまを、見捨てた……ポン酢さまを……裏切った……」

 なだらかな肩をつかんで揺さぶるが、まったく反応してくれない。美影は物憂げな表情で、ずっとうわごとのように呟いていた。目元の泣きぼくろが、色白の肌に映えて、より一層の憂いをもたらしている。

「うん? どうしたんだい? きみは……たしか、美影ちゃんだったよね」

 伊達めがねを押し上げて、うっちーが言う。

「うっちー。悪いことは言わない。今日だけはごまダレじゃなくて、ポン酢で食べたほうがいい。でないと、おまえの命が危ないかもしれない」

 ひとりの友人として、おなじ女優を応援する同志として、そして心からの善意で、俺は忠告した。しかし、うっちーは朗らかに笑うだけだった。

「ははは。萩原も大げさだね。たかが調味料の話じゃないか」
「止めろ! それ以上は言うな! おまえは命が惜しくないのか!?」
「おいおい、どうしたんだい萩原くん。冷静になってよく考えてみてくれよ。ポン酢だろうがごまダレだろうが大差ないだろう?」
「俺がなんとか美影を抑えるから、だれかうっちーの口を塞いでくれー!」
「……夕貴。もういい」

 美影の肩に乗っている俺の手に、細くて白い指が重ねられる。美影はいままで見たこともないような寂しげな目で、俺をじっと見つめていた。

「めがねくんも、気にせず食べて。もういいから」

 謎の名称を口にする美影。うっちーは苦笑した。

「えっと……めがねくんっていうのは僕のことかな、美影ちゃん?」
「うん。もういい、ごまダレで食べて。もういい」
「み、美影……?」
「もういい。ごまダレでいい。私だけがポン酢さまの素晴らしさを理解してるから。もういい。ポン酢さま、ポン酢さま、ポン酢さま……」
「美影が壊れたー!」

 小皿に注がれた黒い液体を見つめる美影からは、なにか不吉なオーラのようなものを感じた。不気味である。ぐつぐつと煮立つ鍋が、ほんの一瞬、黒魔術のための釜に見えたのは気のせいだろうか。
 しかし美影の乱心も長くは続かなかった。肉をしゃぶしゃぶして、ポン酢に浸し、それを口に含んだ瞬間、世にも幸せそうな顔になったからである。
 
「……おまえ、本当にポン酢が好きなんだな」

 思わず破顔した。美影の唇は、いや、口はその体格を裏切らない小ささだ。ハムスターのように頬を膨らませて食べる姿は、なんとも愛らしい。父性本能みたいなものが湧き上がってきた俺は、思わず美影の頭に手を伸ばすが、指が触れる寸前で「んー」と不機嫌そうに払われてしまった。

「触るな。ヘンタイ」

 などとお決まりの罵倒も追加された。

「いや、それは言いすぎだろ。不用意に触ろうとしたことは謝るけど、俺のどこがヘンタイに見えるってんだ」
「全部」
「……え、マジで?」
「もっちー竹原」

 瞬間、ダイニングの空気が凍った。楽しそうに談笑していた全員が、箸を止め、美影を見つめる。当の本人は、なぜ自分が注目されているか分からず、きょろきょろと周囲を見渡していた。しばらくして現状を理解した美影は、

「あ、もっちー竹原とは、”もちろん”という使い古された言葉にコメディ風味を加味したもので、これからの時代を担うに相応しいセンシティブな……」
「つまんねぇな。そんなもんが流行るかよ。変わってねぇのは発育皆無なナリだけじゃないんだな」

 バカにするように託哉が言う。美影の頬がかすかに膨らんだ。

「……相変わらずうざい。死ねばいいのに」
「そうツンケンすんなよ。胸が絶望的なんだから、せめて器ぐらいはでかくいこうぜ」
「黙れ。全身生殖器」

 よく分からないが、とてつもなく剣呑な雰囲気である。もしやこの二人、知り合いなんだろうか。気心が知れてるとは言いがたいけど、微妙に顔見知りっぽい空気を醸し出しているのだが。

「とにかく、もうつまんねえこと言うのは止めとけ。せっかく上等な容姿に生まれたんだ。口を開いて損するのはもったいないぜ」
「……もっちー竹原はつまらなくない。きっと流行る」
「どうだか。みんなの意見を聞いてみろよ」

 託哉は肩をすくめて、一同をぐるっと見渡した。

「う、うーん。僕には美影ちゃんのセンスは斬新すぎてちょっと理解できないかなー」
「わたしはノーコメントで」
「ナベリウス様、ずるいです! ちゃんとコメントしてあげてください! 人はそうやって成長するものだと、お父様も言っていました!」

 うっちーが、ナベリウスが、菖蒲が、とりあえず否定する。それを見た美影は、唇を尖らせたまま、なにかに耐えるようにじっと俯いていた。オリジナルの流行語を否定されるのは、自分の子供をバカにされるような気分なのかもしれない。

「へぇ、可愛いじゃん。これからはあたしも使わせてもらおっかな」

 そのとき、ずーんと重くなった場に明るい声が響いた。気まずい雰囲気のなか、藤崎だけが興味ありげな顔で身を乗り出している。

「美影ちゃん、だったよね。他にもなんかないの? よかったら教えてほしいんだけど」
「……!」

 こくこく、と凄まじい勢いで美影の首が縦に動く。よほど嬉しいのか、ほっぺたに赤みが差して本来の年齢よりも幼く見えた。俺は萩原家の長男として、美影の居候を認めた者として、藤崎に聞いておかねばなるまいと思った。

「確認させてくれ。おまえは、本当に、心の底から……”もっちー竹原”を可愛いと思ったのか?」
「そうよ。なにか文句でもある?」
「ち、ちなみにどのへんが?」
「語感とか可愛いじゃない。それに”竹原”ってチョイス、絶妙だと思わない? きっと山田とか佐藤だと、これほど人の心の琴線には触れないわよ」
「そもそも琴線に触れてるのは藤崎だけのような気が……」

 言わぬが花、という言葉を思い出した俺は、あえて口をつぐんだ。もういい。そっとしておこう。ここから先は、俺たちが入っちゃいけない領域だ。
 すでに美影は藤崎に懐いてしまったようで、二人は楽しそうに会話している。あの他人に気を許すことが少ない美影が、まさか菖蒲以外に懐くとは。聞くところによると藤崎には弟がいるらしいし、長女なだけあって年下から好かれやすいのかもしれない。
 一緒に食事することは、お互いの心の距離を近づける効果があるらしい。かつて何かの本だったか番組だったかで聞いたその説を、俺はいま強く実感していた。当初、あれだけ混沌としていたのが嘘のように、萩原邸のダイニングには心地いい空気が流れている。

「でもさぁ、ほんとびっくりしたよね」

 それなりに打ち解け、皿に乗っているしゃぶしゃぶ用の肉がほぼなくなった頃、藤崎がぽつりと言った。

「まさか萩原が、あの高臥菖蒲と一緒に暮らしてるなんてさ。あんた高校の頃から、ずっと高臥菖蒲のこと好きだって言ってたよね?」

 みんなの視線が、俺と菖蒲に集まる。いずれ焦点の当たる話題だとは思っていたが、とうとう来たかという気分だった。やっぱり遠い親戚という設定は、ちょっと無理があったのかもしれない。ここはうまく誤魔化さないと。すべての真実を告げるには、さすがに話が長くなりすぎるし、ともすれば彼女たちを巻き込まないとも限らないから。

「……あの、響子様。先にも申しましたとおり、萩原家は、我ら【高臥】の遠い親戚筋に当たります。なんでしたら親族の者に連絡して裏を取っていただいても構いません」

 弱々しい表情で菖蒲が言う。大きくふくらんだ胸元に手を当てて、儚げに目を伏せながら。ほんのりと赤らんだ頬が、衣服からのぞく白い肌が、やけに艶かしく映る。

「いや、ごめんごめん。べつに疑ってるわけじゃないんだけどね。ただ驚いただけっていうか……」

 藤崎は罰が悪そうに苦笑したあと、あごに手を当てて、ぶれることなく菖蒲を見つめた。

「な、なんでしょう? わたしの顔になにか……?」
「いや、べつに不満とか文句はないんだけどね。むしろその逆っていうか、菖蒲ちゃんを見てるとおなじ女として自信がなくなるっていうか」
「……?」
「だーかーら、菖蒲ちゃんは美人だって言ってんの。ちょっとはあたしにも分けてもらいたいもんよ、特にその胸とか。大人しい清楚な顔立ちしてんのに、こんな凶悪なおっぱい持ってたら、そりゃ男が騒ぐのも無理ないよね」

 頭の後ろで手を組み、あははと観念したように笑う。藤崎は、俺の次ぐらいに男らしいさっぱりとした性格をしているのだ。

「うぅ……響子様、その、あまりこういう場で胸のことを言うのは……」
「あ、そうだね。配慮が足りてなかったよ。ここには男子が三人いるのに」

 藤崎の発言のせいか、託哉もうっちーも食い入るように菖蒲の胸元を見つめている。年相応のあどけなさを残した顔立ちに似つかわしくない豊満な乳房は、ほとんど強制的に男の目を惹きつけてしまう。
 菖蒲は、両腕でやんわりと胸元のあたりを隠していた。照れているのか、頬が妙に赤い。そんな仕草でさえも周囲の者の目を奪って止まなかった。

「くっはー! や、やばいぞ萩原! 頼むからちょっと僕の胸に手を当ててみてくれ。人間の心臓がこれほど早く脈打てることにびっくりするぜ……」

 うっちーは深呼吸を繰り返しながら、やたらと興奮した様子だった。気持ちはよく分かる。初めて菖蒲がこの家を訪ねてきたときは、俺もまったく同じ症状に陥ったから。まともに喋れるようになるまで時間がかかるんだよな。

「そこまで言うなら、菖蒲ちゃんとメールアドレスでも交換してもらえよ」
「な、ななな、なにを大それたことを言っているのだね!? この僕に神様を殺すなんて恐れ多い真似ができるわけないだろう!」

 託哉の提案に、うっちーが慌てて立ち上がって反応する。どうやらうっちーにとって菖蒲にメールアドレスを聞くことは、神殺しと同列に並ぶほど恐れ多いことらしい。

「すでに僕の人生には一度、奇跡が起こっているんだぞ!? 本物の菖蒲ちゃんと会えただけでなく、こうして一緒にご飯を食べて、挙句の果てに言葉さえも交わしたというのに、この上さらに連絡先を交換するなんて……くっ、しまった! 改めて数えてみたら、奇跡は一度じゃなくて三度も起こっているじゃないか! 僕のバカ!」

 ひとりで楽しそうに悶えるうっちー。勝手に神格化されている菖蒲は、とにかく困っていた。嬉しさと気恥ずかしさが入り混じって、素直に喜べないようだ。うっちーの熱意に、俺と菖蒲は目を合わせて苦笑した。

「萩原? なに菖蒲ちゃんと見つめあってんのよ」

 不思議そうに藤崎が指摘してくる。

「あ、いや、べつになんでもない」

 俺は短く言って、ふたたびうっちーに視線を向けた。藤崎はじっと考え込んでから「ま、いっか」と呟いた。
 まわりの後押しもあって、菖蒲とうっちーはメールアドレスを交換することになった。いや、彼女らだけではなく、携帯を持っている者はみんな互いの連絡先を交換した。仲良きことは、それだけで尊いことだと思う。母さんも「友達は大事にするのよ」って言ってたし。まあ美影だけは頑なに男性陣と触れ合おうとせず、藤崎とだけアドレスを交換したのだが。
 できることなら、こんな幸せな時間がいつまでも続けばいいなと。そんなガキの夢みたいなことを俺は真摯に思うのだ。
 



 あれだけ騒がしく、そして大いに盛り上がった夕食会の名残を惜しむように、託哉と藤崎とうっちーは萩原邸に泊まっていくことになった。空いている部屋はたくさんあるから、友人三人を泊めることに支障はまったくなかった。
 しかし俺が言うのもなんだが、年頃の男女がひとつ屋根の下で眠るのは問題が起きる可能性がある。それぞれの寝床を決めるのにはさすがに慎重にならざるを得なかった。結果として、藤崎は一階の空いている客間。託哉とうっちーは二階の俺の部屋で寝て、俺は母さんの部屋で眠ることになった。三階には美影が住み着いているので、この構成なら男女の住み分けがきっちりとできる。
 午後十一時を回る頃には、夕食の後片付けや宿泊のための準備も終わり、みんな思い思いに寛いでいた。入浴は、女性陣から先にゆっくりと汗を流してもらい、そのあと俺たち男性陣が手早くシャワーを浴びた。
 シャワーから上がったあと、俺はひとり母さんの部屋にいた。定期的に掃除しているので生活臭は残っているが、部屋主を失って久しい空間は、いくらか色褪せて見えてしまう。
 夕食のとき、藤崎が何気なく言った言葉が、いまだ俺の脳裏で残響している。確かに冷静に考えてみれば、いくら絶縁していた実家との交流が復活したからといって、三ヶ月以上も向こうに滞在するのはおかしいよな。それに俺は、まだ親戚と話したことすらないのだ。たまに母さんが電話してきたときも、通話口から漏れ聞こえてくるのは母さんの声だけだし。
 ……まあ、考えても仕方ないことにいつまでも拘泥するのは止めておこう。そう自分に言い聞かせて、俺は深くため息をついた。部屋のなかをぐるりと見渡し、特に異常がないかを確認する。

「……あれ?」

 ふと本棚に並べてあるアルバムが気になった。きちんと整理整頓し、時系列順に並んでいたはずなのに、俺が幼稚園あたりの頃のやつと小学校あたりの頃のやつが逆に並んでいる。もしかして誰かが『アレ』を見たのだろうか。だとしたら由々しき事態である。アルバムを手に取って中身をあらためる。

「ぐ、ぐぬぬ……!」

 頭をがしがしと掻き毟りたくなる衝動が走るが、寸前で我慢する。そこに映っていたのは、母さんに女装させられた幼き日の俺だった。認めたくないが、はっきり言ってむかつくぐらい似合ってる。微妙に涙目で、俯きがちにカメラ目線を決めているショットなんか、未来の俺を悶えさせるために母さんが計算していたとしか思えないほどだ。
 本当なら、いますぐにでもこれらを処分したい。実際、俺が中学生の頃、ひっそりと燃えるゴミの日に出そうとしたことがある。だがそれを見咎めた母さんは「もういい! 夕貴ちゃんなんて知らないもん!」と泣き喚きながら、家出してしまったというエピソードがある。ちなみにその後、母さんは深夜を過ぎたあたりで「……おなか減った」とむくれながら帰ってきた。
 とにかく、俺の女装写真を、母さんは宝物のように扱っている。どう頑張っても処分はできそうにない。
 自嘲交じりのため息を吐き出し、俺はそっとアルバムを元あった場所に戻した。なんだか女装写真の枚数が微妙に減っていたような気もするが、こんなものを密かに持ち出すやつなんているわけないよな、と俺は自分を安心させた。


****


 澄み渡った夜空が広がり、夏の星座がその儚いかんばせを覗かせている。萩原邸の二階に設けられたバルコニーは、階下に広がる庭を一望できる造りになっており、その見晴らしのよさに加えて風通りも悪くない。涼やかな風が、まとわりつくような夜の暑苦しさを中和させている。質のよさそうな木製のホールディングテーブルとチェアが置かれていて、天気のいい日にはここでランチを摂ることもできそうだった。

「はぁ……」

 胸の裡にわだかまる熱を吐き出し、ロートアイアン製のフェンスにもたれかかりながら、内村竜太は緩慢と頭上を見上げた。果てのない宇宙が、きらめく星々を飲み込むように径を拡げている。もっとも強くまたたく星に向けて、彼はゆっくりと手を伸ばした。

「やっぱり……届かないよなぁ」

 なぜかは分からないが、この場所からなら星にも手が届くような気がした。だが竜太のてのひらには生温い夜気が絡みつくだけだった。それでいい、と彼は思う。星は届かないからこそ尊いのだから。
 携帯電話を取り出し、ぽちぽちと当てもなく弄る。ぼんやり操作するうちに、いつしか竜太は、電話帳に新しく登録された人物のページを開いていた。そこには『菖蒲ちゃん』と、確かに刻まれている。しかもアドレスだけではなく電話番号まで。
 信じられない気分だった。いまも半ば夢見心地だ。ずっと憧れていた女優と知り合いになれただけではなく、まさかこうして連絡先まで交換してもらえるなんて。挙句の果てに、自分たちはいま一つ屋根の下にいるのだ。これを奇跡と言わずしてなんという。
 実在するかも分からない神に感謝するように夜空を見上げていると、屋内からバルコニーへ通ずる扉が開いた。

「……邪魔」

 竜太が目を向けるよりも早く、素っ気無い声がした。泣きぼくろが印象的な壱識美影が、切れ長の目を細めて竜太をじっと睨んでいる。風呂上りなのだろう、夜に溶けそうなほど艶のある黒髪はほんのりと濡れ、うっすらと紅潮した頬が目立っていた。夕食のときはポニーテールに結わえていた髪も、いまはストレートに背中まで流れている。
 竜太がなによりも驚いたのは、彼女の服装だった。長袖のタートルネックに、下はジャージ。露出しているのは顔ぐらいで、胴体も四肢も布地に覆われている。暑さに強い体質なのだろうか。

「いや、邪魔って言われても、先にここにいたのは僕なんだけど……」
「うるさい。邪魔」

 やはり素っ気無く言って、美影は備え付けられていた椅子に腰掛けた。竜太とは目を合わそうともしない。

「……もしかして、このバルコニーは美影ちゃんのお気に入りの場所なのかな?」
「邪魔って言ったはず。どっか行け」

 取り付く島もなかった。言動の節々から、竜太を追い出そうとする思惑が透けて見える。さきほど聞いた話によると、美影は夕貴の従兄弟なのだという。親等で言えばそれなりに近いほうだが、性格的にも容姿的にもあまり似ていない。竜太にとって夕貴は気の合う友人だが、どうにも美影と意気投合する未来だけは見えなかった。

「あー、こほん。ところで美影ちゃんはいつもそんな厚着なのかい?」

 わりと誰とでも仲良くなれる自信のある竜太は、友好的な関係を築くためにもうすこしだけコミュニケーションをはかることにした。だが竜太の決意も虚しく、美影は口を閉ざしたまま夜の闇を見つめているだけだった。
 このままでは気まずくなる一方である。なにか話題はないだろうか。苦し紛れに視線を泳がせた竜太は、美影の胸元に揺れるペンダントに気付いた。

「……あれは、たしか」

 見覚えがあった。美しい光沢を放つ石。以前から夕貴がたまに身に着けている代物とよく似ている。しめた、と竜太は思った。女子とはアクセサリを好む生き物だし、そこに夕貴を絡めれば話題にはもってこいだろう。

「そのペンダント、きれいだよな」

 なるべく愛想のいい笑顔を浮かべて口火を切る。美影が流し目で竜太を見た。やはり向こうも興味を持ってくれたようだ。

「たしかそれ、萩原が持ってるのと同じやつだろ? いくら従兄弟とは言え、お揃いのアクセサリを着けるなんて珍しいね」
「べつに同じものを持ってても意味なんてない」
「そうかなぁ。普通、お揃いのアクセサリを持つのは恋人同士ぐらいだと思うんだけど」
「……恋人?」

 美影がぴくりと反応する。その反応を見て、竜太は閃いた。

「ははあ。そういうことか」
「……?」
「いや、だからさ。美影ちゃんって、萩原のことが好きなんだろう?」

 なんともなしに指摘した瞬間、美影は不愉快そうにペンダントを服のなかにしまいこんだ。そして冷たい声で言う。

「べつに夕貴とかどうでもいい」
「じゃあ美影ちゃんから見て、僕はどうだい?」

 冗談げに問いかけると、

「死ね。おまえなんか嫌い」
「一刀両断されちゃったー!」

 一拍の間も置かず、あっけない答えが返ってきたのだった。自分だけ嫌いと言われたままでは悲しすぎるので、彼は友人の評価も聞いてみることにした。

「だ、だったら玖凪は?」
「問題外。あいつは大嫌い」

 抑揚のない声には僅かな棘が混じっていた。詳しくは分からないが、どうも美影は託哉のことをかなり嫌っているらしい。自分ひとりだけ嫌われているわけじゃないと知り、ほっと安心してしまう竜太だった。

「じゃあナベリウスさんは?」
「あいつも嫌い。ヘンタイ女はいつか私が倒す」
「ヘンタイ女って……まあ確かに、あの人ってなんかエロいけど」

 健全な若い男子にとって、ナベリウスは毒にしかならないだろう。蠱惑的な顔立ちや出るところは出た豊満な身体もそうだが、あの艶かしい物腰は菖蒲一筋を公言する竜太でさえ気を抜けば見蕩れてしまうほどだ。
 
「美影ちゃん。萩原はどうだい?」

 もう一度だけ聞くと、美影は露骨に不機嫌そうな顔をした。

「……ちっ」
「舌打ちされたー!」

 思いのほか会話は弾んでいたのだが、ここにきて地雷を踏んでしまったらしい。美影はゴミを見るような目で竜太を睥睨した。もともと端正な顔立ちをした美人だ。ほんのすこし表情を崩すだけで酷薄とした陰翳が差し、相対する者を威圧する凄みが出る。

「めがねくん」
「は、はいぃっ!」

 底冷えのする視線に射抜かれて、竜太はびしっと直立した。女子高生に似つかわしくない、凶悪なまでのプレッシャーを感じる。年の功による序列も忘れて、思わず従順な挙措を取るほどだった。美影は肩にかかった黒髪の房を背中に流して、告げた。

「ポン酢さまを裏切るようなやつは、邪魔」
「失礼しましたー!」

 まだ根に持っていたのか、と内心で驚きつつ、競歩に近い足取りで早々にバルコニーから退散する。夕食会のときからずっと感じていたことだが、壱識美影という少女はあまり人付き合いに関心がないようだ。
 逃げ帰るように夕貴の部屋に入った竜太は、扉を閉めて大きく深呼吸をした。不思議といい匂いのする室内には、客用の布団が一組だけ敷かれていた。今夜、託哉と竜太はここで一夜を明かす。どちらがベッドで寝るかはあとできっちりと話し合わねばなるまい。
 夕貴を交えた男三人で夜通し騒ごうという意見も出たが、ひとつ屋根の下に若い少女が何人もいるような状況ではそれも気が進まなかった。結果として、部屋のスペースの関係上、夕貴は母親の部屋で眠ることにしたというのが今回の経緯だった。

「……なにやってんだろうなぁ、僕」

 しんと静まり返った部屋に一人でいると、今日あった色々な出来事のせいで高揚していた頭が、途端に冷静になった。そして頭の芯が冷えれば冷えるほど、当初からずっと引っかかっていたことが確固たる疑問として浮かび上がってくる。

 果たして、ほんとうに高臥菖蒲は萩原夕貴と親戚なのだろうか?

 当人たちがそうだと断言した以上、あまり疑るような真似はしたくない。事実、夕貴の説明に穴はなかったし、菖蒲の態度にも不審なところはなかった。ここ萩原邸も、ただの母子家庭ではまず手が届かないぐらい大きく広い。高臥家の人間に連絡して裏をとっても構わない、とまで菖蒲は言った。客観的に見れば、なるほど親戚だと言われても違和感はない。
 だが、と竜太は思う。確かに話の整合性は取れているが、なぜか完全に納得することはできない。もしかすると菖蒲と同棲している夕貴に嫉妬しているだけかもしれない。それでも、うまく形容できない違和感がある。率直に言うと、突拍子がなさすぎる気がするのだ。そして、なにか都合がよすぎるような気がするのだ。
 竜太が取り留めのないことを考えていると、部屋の扉がコンコンとノックされた。思考に没頭していた彼は、相手を確かめもせずに入室を促した。

「失礼します」

 そう断って姿を見せたのは、薄いピンク色のパジャマに身を包んだ菖蒲だった。丁寧に畳んだ衣服を両手に抱えている。竜太が大口を開けて固まっていると、菖蒲は弾んだ口調で言った。

「夕貴様。お洗濯した服をお持ちしました。菖蒲が箪笥にしまわせて……」

 そこで菖蒲は、部屋にいたのが竜太だと気付いたらしい。すこしだけ眠そうに閉じた二重瞼の瞳が、ぱちぱちと何度かまたたく。

「や、やあ菖蒲ちゃん」

 緊張により顔を赤くしながらも、竜太は手を上げて挨拶した。正直、目を合わせるだけでせいいっぱいだ。これで半径一メートル以内に近づいたりしたら、間違いなく心臓が破裂する。だが竜太にとって、目を合わせるのは不幸だったかもしれない。なぜなら。

「あ、うっちー様……」
 
 幸せそうだった菖蒲の顔が、竜太を認めた途端、残念そうに曇ってしまったから。竜太は、彼女の表情が変化した理由を、部屋にいた相手が気心の知れた親戚ではなく今日出会ったばかりの自分だったから、と解釈した。ただ相手を間違えただけでこれほど申し訳なさそうにするなんて、やっぱり菖蒲ちゃんは優しい女の子だ。

「えーと、今夜は僕と玖凪がここで寝る予定なんだけど……」
「……そういえば、そうでしたね。申し訳ありません。わたしとしたことが、お客様が使用なされる部屋を失念してしまうなんて」
「い、いや、そんなに落ち込まなくてもいいって! 菖蒲ちゃんは悪くないよ!」

 どよよん、と暗いオーラを発散する菖蒲を、竜太は励ました。小さな声で「これでは未来の妻として失格です……」と呟きが漏れたが、憧れの少女を前にした竜太の耳には入らなかった。

「そうだ!」

 わざとらしく大きな声を上げたのは、話題を変えるためだった。

「さっきバルコニーで美影ちゃんと会ったんだけどさ」
「……また、ですか?」

 菖蒲が困り果てたというようにため息をつく。

「お風呂から上がったばかりでは風邪を引いてしまうと何度も言っているのですが、どうも美影ちゃんはバルコニーを気に入っているらしくて」

 火照った身体を冷ますだけならいいのだが、美影はあのままバルコニーで眠ってしまうことがあるという。深夜、ふと心配になってバルコニーへ行ってみると、テーブルに突っ伏して静かに寝息をたてる美影の姿があるらしい。なるほど、と竜太は納得した。夏にしては厚着をしていると思ったが、涼んでいるときに睡魔を覚えたときのための用心だったのか。

「とりあえず、あとでわたしが様子を見に行ってみますね」

 そうまとめて、菖蒲は両手に衣服を抱えたままぺこりと頭を下げた。

「それでは、わたしは夕貴様のお洋服を箪笥にしまいますね。うっちー様はごゆっくりと寛いでいてください」

 勝手知ったる親戚の家、菖蒲は迷いのない足取りで部屋の奥にある箪笥に近づいた。すれちがうとき、竜太の鼻腔に爽やかな柑橘系の香りと、甘ったるいボディーソープの匂いが届いた。どくん、と心臓が跳ねる。密閉された空間に二人きり。竜太の顔は見る見るうちに赤くなっていった。
 菖蒲は箪笥のまえに両膝をつき、上品な所作でひとつひとつの衣服を引き出しにしまっていく。その後姿を、竜太はじっと見つめていた。
 テレビや雑誌を見るかぎり、高臥菖蒲は育ちのいいお嬢様という印象だった。そこには竜太の理想も多分に含まれているだろう。何かしらの偶然により本人と出会ったとき、理想と現実のギャップによって『高臥菖蒲』に幻滅してしまうのではないか、という不安もわずかにあった。

 しかし、なぜだろうか。こんなにも胸が痛むのは。こんなにも鼓動が高鳴るのは。こんなにも想いが溢れるのは。

 ただの理想だったはず。芸能人と一般人。まず間違いなく、死ぬまで交わらないはずの間柄だった。だからこそ竜太は、純粋な気持ちで菖蒲を応援することができたのだ。
 衣服を箪笥にしまう。そんな地味な作業を一生懸命にこなす菖蒲は、竜太の理想とぴったり一致していた。

「ふふ。夕貴様の服、柔軟材のいい香りがします」

 楽しげな独り言だった。何もかもどうでもいいと思えてしまうぐらい、楽しげだった。夕貴と菖蒲がほんとうに親戚なのかということも。そして、ほのかな憧れが確かな想いに変わりつつあることも、菖蒲の幸せそうな横顔のまえには些細な事実だった。

 手が届かない位置にあるからこそ、星は見るだけで満足できる。では、手が届く位置に星が瞬いていたら?




 静かな夜が、ゆったりと庭を包み込んでいる。よく手入れされた花壇の花も、色艶のいい鯉が悠々と泳ぐ池も、青々とした元気のいい芝生も、すべて夕貴と小百合が十年以上もかけてガーデニングしてきたものだ。一見して豪勢にも思えるが、素人が四苦八苦しながら整えたことが分かる痕跡が、そこかしこに見られる。金持ちの道楽では決してない。ここにあるのは親子の絆だけだった。
 ナベリウスは庭に出て月を見上げていた。風になびく長い銀髪を左手で抑え、豊かな胸元に右手を添える優美な輪郭は、一幅の絵画のごとき華がある。

「美人ってのは罪だなぁ。ただ月を見上げるだけでも絵になる」

 飄々とした声とともに、玖凪託哉がリビングの掃き出し窓から庭に下りてきた。

「ナベリウスさんは自分がどれだけ魅力的なのか分かってないな。気をつけないと、悪い男に言い寄られるかもよ。例えば、ここにもひとり候補者がいる」
「あら、わたしを口説くつもり?」
「つもりじゃなくて、口説いてるんだよ。どうどう? 今晩あたり、二人でちょっと新たな世界の探検にでも行ってみない?」
「残念ね。こう見えても、わたしって一途なの」
「はは、そりゃ確かに残念だ」

 人懐っこい笑みを浮かべて、託哉は夜空を振り仰いだ。青白い月光に照らされる澄ました横顔は、ともすれば女性の心を一瞬でさらえるだけの魅力がある。背も高く、ナベリウスがやや見上げるようなかたちだ。これで紳士的な嗜みを身につけ、軽薄な振る舞いを矯正し、意中の女性だけに愛を捧げることができるようになれば言うことなしだろう。

「……ありがとう、託哉」

 なんの前触れもなく、ナベリウスは真摯に感謝した。ずっと前から言おうと思っていたことをようやく口にできたのは、この美しい夜のおかげかもしれなかった。託哉はきょとんとしたあと、自嘲気味に肩をすくめる。

「なあに。たった二年か三年さ。改まって感謝されるような覚えはない。それにオレたちがいなくても、あの人なら一人で何とかしてみせたと思うぜ」
「あなたは、どこまで知ってるの?」
「人並み程度にはってところさ。いや、むしろ知らないことのほうが多いかもしれねえな。当時、オレはまだ生まれてもいなかったからな」

 ナベリウスは遠い過去に想いを馳せる。背中を預けて戦った人と、想いを持ち寄った親友がいた。抑えきれない愛が、やがて大きな闘争に発展した。誰かが死に、誰かが殺した。邪宗門の徒。ソロモンの小さな鍵。四書一法のなかでも最悪の書物。すべてが消え去ろうとしていた。だから大切なものを護るために命を捨てる決断をした。けれど、それは叶わず、消えることのない咎だけが手元に残された。

「……駄目だぜ、ナベリウスさん」

 はぁ、とこれみよがしにため息をついてから、彼が至極真面目な顔で言う。

「そんな物憂げな顔されたら抱きしめたくなるじゃん。どうして男の身体が大きいか知ってるか? 可愛い女の子を抱きしめてあげるためだよ。……どうどう? いまのオレ、わりと男前じゃなかった?」
「ぶれないわね、あなたも」

 託哉の決め台詞は、ナベリウスの苦笑によって相殺される。それから二人はしばし無言で月見を楽しんでいた。

「……リチャード・アディソン。この名に心当たりはあるか?」

 沈黙を破ったのは託哉だった。

「ううん、ないけど。それがどうかしたの?」
「いや、どうもしないさ。ただ最近、日本にうざったらしい連中がなだれ込んできてるらしいからな。もしかすると今後、どうかするかもしれないって話だ。ナベリウスさんも肝に銘じておいたほうがいいぜ。オレの勘だと、きっとまた厄介なことが起こるね」
「厄介なこと、ね」

 唇に指を当てて、ナベリウスは思考する。リチャード・アディソンという名に聞き覚えはない。ここ十数年ほどの間、彼女には裏世界の情報を取り入れるほどの余裕はなかったから。
 これから先、また誰かの血が流れるのだろうか。数日前の夜、久しぶりに見た”あの夢”が、なにかの予兆のように思えてならない。もうあんな想いだけはごめんだ。いや、自分はまだいい。本当に悲しいのは、残された母親と子供のほうだ。今度こそ、命に代えても守り抜いてみせる。ナベリウスは夜天に煌めく壮麗な月に向けて、ふたたび誓いを立てた。

「あー、なんつーか。ナベリウスさん」

 どことなく妖しい光を目に宿した託哉が真正面から見つめてくる。もしかして大切な話なのかしら、と心を引き締めた。それは念のためだったが、ナベリウスの傾注も虚しく、託哉の声には好色の響きが見え隠れしていた。

「そろそろナベリウスさんも寂しくなってくる頃だろ? よかったらオレが人肌で温めて、きみの孤独を……」
「ふーん。へーえ。ほーう。また性懲りもなく女の子を口説いてんのね、あんたは」

 さきほどの託哉と同じく、リビングと庭を繋げる掃き出し窓から藤崎響子が顔だけをぴょこんと覗かせていた。託哉は数秒ほど石化したあと、こほん、と小さく咳払いし、ゆっくり背を向けた。

「あれぇ? どこ行くのかなぁ、玖凪くん? ナベリウスさんを口説いてる最中じゃないの?」
「委員長が嫉妬するから今日のところは引き上げるわ。じゃあな」
「だれが嫉妬するってーのよ! いい加減なことばっか言ってると、ほんとに怒るかんね!?」
「図星を衝かれたからって怒鳴んなよ、響子ちゃん」
「響子ちゃん言うな!」

 近所迷惑にも等しい声量で怒鳴る響子の脇を、託哉は悠々とすり抜けていった。響子は拳を握り締めて「ぐぬぬぬっ!」と乙女らしからぬ唸り声を上げていたが、やがて肩を落として大きなため息をついた。

「すいません、ナベリウスさん。あいつに何かバカなこと言われませんでした?」
「ううん、べつに何も。ただ夜のお誘いを受けたぐらい」
「いやそれバカなことですから!」

 言ってから、委員長のように背負わなくてもいい苦労を背負っている少女は、庭に出てナベリウスのとなりに立った。
 誰が貸したのかは分からないが、響子は薄手のジャージを着ていた。そのすらりとした身体と勝気な目は、活発な、ともすれば男勝りな印象を抱かせる。だが反面、ショートカットの黒髪から漂うシャンプーの香りが、たおやかな少女の余韻をもたせていた。

「玖凪にも困ったもんですよね。高校の頃からちっとも変わんない。いつも女の尻ばかり追いかけて、学校にはちゃんと来ないし、来ても授業中は寝てばっかだし。どうしてあいつが萩原と友達なのかがよく分かりません」
「そうね。夕貴は優等生みたいだし、託哉とはある意味、正反対なのかもしれないわね。託哉なんてちゃらんぽらんな軟弱ナンパ野郎だから」
「……そ、それはちょっと言いすぎじゃないですかね? あいつも案外、ちょこっとだけいいところあるんですよ? まあよく見ないと分かんないんですけど」
「つまり響子は、託哉のいいところが分かる程度には、よく見てるってわけね」
「え」

 ぽかん、と呆気に取られたあと、響子の顔が見る見るうちに赤く染まった。

「な、なんでそうなるんですかっ? あたしはもっと誠実な男のほうが好きなんです! これは命を賭けてマジです! 大学出て五年ほどOLやって平凡な巡りあわせで公務員の男性と出会って二年ほど付き合ったあと結婚して子供は二人産みたいんですよ!」
「急にそんな人生設計を語られても困るんだけど。とりあえず落ち着きなさい。テンパりすぎよ」
「テンパってません! あたしは不名誉な事実を誤認されて慌ててるだけです! あんなふしだらな野郎と結ばれでもしたら、藤崎家のご先祖様に申し訳が立ちません! バカ凪なんて屑です! 人間の恥です! あいつに惚れる女なんて頭の一部がおかしいとしか思えません! 玖凪と付き合うぐらいなら、萩原の犬にでもなったほうが二万倍はマシですよ! あたし、なにか間違ったこと言ってます!?」
「……なんだか託哉が可哀想になってきたわね」

 ナベリウスがあのつかみどころのない青年に同情していると、響子は「うっ、確かに言いすぎたかも……」と気まずそうな顔で反省の意を示した。響子自身、まっすぐな芯の通った性格をしているから、託哉のことを悪い人間ではないと理解しつつも、その軽薄な言動を認めることができずにいるらしい。まさしく風紀を乱す不良の更生に燃える委員長そのものだった。
 いちど声を荒げると冷静になったのか、響子は頭痛を払うようにかぶりを振ってから、静かな声で語りだした。
 
「べつに玖凪のことなんてどうでもいいんですけど……ただ、あたしは、なんだか怖いんです」

 響子の声はかすかに震えていた。それは恐怖というより不安の表れではないかと、ナベリウスは分析した。

「玖凪は……あいつのことだけは、高校の頃からよく分からないんです。なんだか他の人とは違うっていうか。あたしたちと同じところで生活して、同じものを見ているはずなのに、もっと違うところを見てる気がするっていうか。そして、いまにも消えちゃいそうな気がするっていうか。……まぁ、うまく説明できないんですけど」

 あはは、と申し訳なさそうに笑う。やるせない不安が、心痛の種となって響子を苛んでいるのかもしれない。

「正直に告白すると、あたしは玖凪のことが気になってるんだと思います。もちろん惚れてるとかじゃありません。ただ、なんていうか……心配、そう、心配なんです。すこしでも目を離すといなくなっちゃいそうで。自分でもバカなこと言ってるのは自覚してますけど。あいつも普通の大学生なのに」
「……なるほどね」

 託哉が大学生の身分を持っているのは本当だし、学校生活をそれなりに楽しんでいるのも嘘ではないだろう。しかし、それは真実の一部でしかない。響子は生来の勘のよさで、玖凪託哉という青年にまとわりつく違和感に気付いたのだろう。親友である夕貴でさえも見逃すそれにわずかでも引っ掛かりを覚えたのは、もしかすると託哉が男で、響子が女ということに関係しているのかもしれない。
 双方の幸せを願うなら、違う世界に生きる二人を遠ざけるべきだ。いまよりも深く踏み込めば、託哉は知られたくないことを知られ、響子は見たくないものを見てしまうかもしれない。それが賢い選択であることは誰よりも分かっている。ずいぶんと昔、違う世界に生きる二人が出会い、愛し合い、離れ離れになってしまった事例を間近で見ているから。託哉と響子の距離は、あの二人よりも遠い。必然、ナベリウスの答えは否定的なものとなる。

「そうね。確かに託哉とあなたでは生きる世界が違うかもしれない」
「……です、よね。どうやっても仲良くなれない人ってのはいますし。あたしとあいつも、どこか合わない部分があるのかもしれませんね」

 響子は不器用に口端を歪めた。笑っているはずなのに、いまにも泣き出しそうな、か弱い少女の顔だった。普段は強がっているけれど、その実、年相応の女の子らしい弱さもちゃんと持っている。なぜ響子のとなりにいい男がいないのか、不思議でならなかった。その疑問が、ナベリウスの喉をふたたび震わせた。

「……でも」

 でも、と前置きして、本来なら終わらせるべき会話をさらに繋げる。人間よりも長く生きた彼女の老婆心は、悩める少女を放っておくことをよしとしなかった。大した助言はできないかもしれない。それでも、せめて女の先輩として、なんの役にも立たないささやかなアドバイスを贈るぐらいはできるから。

「悩むぐらいなら、いっそ男の好きにさせてあげればいいんじゃない?」
「……好きに、ですか?」

 おうむ返しに応える響子に、ナベリウスは頷いてみせた。

「そうよ、好きにさせてあげるの。男なんてふらふらした生き物だからね。理解しようとするだけ無駄なのよ」
「でも、あたしは……」
「べつに相手のすべてを理解する必要はないでしょう」

 諭すように言う。

「自信を持ちなさい。あなたは今日まで託哉とうまくやってきた。そこに秘密はあっても嘘はないはずよ。だれにだって人には言いたくないことの一つや二つはあるものだしね。響子だって、その歳になってもまだろくに男を作ったことがないっていう事実を隠してるでしょ?」
「それは、まあ……」
「あ、やっぱりそうなんだ」

 指摘すると、響子は「うぐっ!」と絞首されたような声を上げた。本人の言い訳によると、小学校から高校までバスケ一筋だったので男を作る暇がなかった、ということらしいが、それは詭弁の域を超えていなかった。
 顔を真っ赤にして支離滅裂な言い訳を繰り返し、すこしずつどつぼに嵌っていく響子に向けて、ナベリウスは優しい声音で言った。

「まあ、わたしが言いたいのは、あんまり悩む必要はないんじゃないってことよ。たしかに託哉はふらふらした子だけど、あなたの生真面目さに救われてるところもあると思うわ。はたから見ればお似合いだしね」
「あのー、ちょっと疑問に思ったんですけど、なんだかあたしが玖凪に惚れてるのが前提になってません?」
「違うの?」
「それだけは絶対にありえませんね!」

 きっぱりと否定してから、響子は続ける。

「でも……なんだか気分が楽になったような気がします。ちょっと考えすぎてたみたいですね、あたし。余計なことでバカみたいに悩んで……ほんと、これじゃ委員長って呼ばれても仕方ないなぁ」
「考えて、悩んで、そして損をするのが女って生き物だからね」
「あはは、ナベリウスさんの言うとおりですね。だから、これからは単純にいこうと思います。あいつはよく分かんないところばっかりですけど、きっと悪いやつじゃないと思いますから。もし玖凪がどこかでバカやったら、それをあたしが叱り飛ばしてやる。……って、こういうと夫婦みたいですけど、勘違いだけはしないでくださいね?」
「はいはい。分かったわよ」

 晴れやかな顔で夜空を見上げる響子は、ナベリウスの見間違いでなければ、ほんの数分前よりも綺麗になっているような気がした。
 男が迷って、負けて、そして立ち上がって強くなる生き物なら、女は悩んで、泣いて、そして前を向くことによって綺麗になる生き物だ。これはただそれだけのことだと、ナベリウスは思った。


****


 眠る前に冷たいお茶を飲もうと思った。明かりの消えた萩原邸のリビングは静かだった。十年以上前から壁にかかっているアンティーク風の時計の針は、二本とも頂点を指している。さすがにもう全員、自分の部屋に戻っているようだった。
 水分補給を終えて母さんの部屋に戻ろうとしていた俺の頬を、ふいに微かな風が撫でた。よく見れば、掃き出し窓がわずかに開いている。ジャガード織のカーテンがふわりと舞い上がった際、庭のほうに月明かりよりも鮮烈な銀色が見えたので、俺はすこし寄り道していくことにした。

「なにしてんだよ。いくら夏だからって、そんな薄着だと風邪引くぞ」

 窓枠に手をかけてそう言うと、ウッドデッキに腰掛けていたナベリウスが肩越しに俺を見た。ノースリーブタイプのシャツと、七分丈のパンツ。剥き出しになった二の腕やふくらはぎは息を呑むほど白く、艶かしかった。

「大丈夫よ。わたしは風邪を引かない女だからね」
「いや、それだとおまえ馬鹿だってことになるぞ」
「だったら言い直すわ。わたしは悪魔だから、風邪なんか引かないのよ」
「そっか。なら大丈夫だな」

 わたしは悪魔だから風邪を引かない。その言葉になぜか不思議なぐらい納得した俺は、彼女の左隣に腰を下ろした。そのまま俺たちは何も言わず、黙って寄り添っていた。この場所には母さんとの思い出がたくさん詰まっているからか、あるいはナベリウスがとなりにいるからか、夜の帳が下りた庭の風情のなかにいても俺は孤独を感じず、母の胎内に包まれているような安心感を覚えていた。
 あくびを噛み殺しながら横を向くと、ナベリウスが柔らかな微笑を浮かべて俺を見つめていた。

「な、なんだよ」

 月明かりに照らされる彼女は、さながら女神のごとく美しかった。至近距離で触れるその美貌に、俺は頬が熱くなるのを感じた。普段なら「あれー? なんか夕貴の顔が赤く見えるんだけど、気のせいかなー?」とか言ってくるはずなのに、彼女は優しげな佇まいを崩さない。

「もしかして夕貴、眠いの?」
「ん? あぁ、まあな。今日は暑かったし、大学で体育もあったし、夜はみんなで騒いだし。そりゃ眠くもなる」

 すると、ナベリウスは心なしかうきうきした顔で問いを重ねる。

「じゃあ、いますぐにでも眠りたかったりする?」
「べつにいますぐってわけでもないけど……なんでそんなこと聞くんだ?」
「決まってるじゃない。わたしが夕貴の枕になってあげようかと思って」
「は?」

 なに言ってんだこいつ、と口を開ける俺を一目も見ずに、ナベリウスは自分の太ももをぽんぽんと叩いた。

「膝枕してあげる。ほら、寝転びなさいよ」
「…………」
「あれー? なんか夕貴の顔が赤く見えるんだけど、気のせいかなー?」
「やっぱおまえはそういうやつだよなぁ!」

 この静かな夜のせいだろうか、ナベリウスと面と向かって話すのが妙に気恥ずかしい。きっと俺の顔は、彼女の言うとおり赤く染まっていることだろう。

「はぁ。まさか夕貴が、女の膝枕も素直に享受できないような女々しい男だったなんてね」
「……なんだと?」

 いまのは聞き捨てならない。萩原夕貴にもっとも似合わないとされる言葉の一つが”女々しい”であるというのは周知の事実なのに。

「ほらほら、そんな拗ねた顔してないで、はやく寝転びなさいって。べつに他意はないから」
「怪しい。俺のなかの何かが、おまえを信用してはいけないと叫んでいるような気がする。だっておまえは……」
「もしかして、イヤ?」

 いつものように親愛なる罵倒をかましてやろうと思ったら、ナベリウスが悲しげに目を伏せた。長いまつげが銀色の瞳に影を落とす。悲しいことに、女の子にそんな顔を許すほど俺は女々しくなかった。

「……わかった、わかったよ。じゃあ膝枕してくれ」
「ほんとに? いまさら嘘だって言っても聞かないわよ?」
「ああ。どうせ演技だろうけど、おまえの落ち込んでる顔なんか見たくないし」

 投げやりに告げると、ナベリウスは満面に笑顔を咲かせて「うん。こっちきて」と催促した。促されるままに身体を傾け、ゆっくり頭を下ろすと、たわやかな感触が右側頭部に伝わってきた。

「なんで庭のほう向くのよ。こっちに顔向ければいいじゃない」
「う……」

 それはさすがに恥ずかしいような。しかし彼女の提案を断りきるだけの明確な理由もないので、俺はしぶしぶと体の向きを変えた。

「ちょっと。それはこっち向きすぎじゃない?」
「いいだろべつに。どこを向こうが俺の勝手だ」

 仰向けに寝転んでナベリウスと目を合わせるのが気恥ずかしかったので、体を九〇度ではなく一八〇度ほど動かした。鼻先数センチのところに、青い薄手のシャツに包まれたナベリウスのおなかが見える。彼女は、仕方ないなぁ、とでも言うように相好を崩した。

「どう? 悪くないでしょ?」
「……まあな。悪くない」

 ナベリウスの太ももは反則的なまでに柔らかかった。ほどよく筋肉がついていながら、女性としてのしなやかさもある。この膝枕を人工的に再現できたら人類から不眠症がなくなるかもしれない。
 ゆっくりと大きく息を吸うと、ナベリウスの身体から甘い匂いがした。なんだかすごく落ち着く。人工的には作り出せない、彼女だけの匂い。まだ銀髪もすこしだけ濡れていて、そこから微かにシャンプーの芳香が漂っている。疲れていた体が急速に眠りを求め始めた。

「眠りたくなったら眠ってもいいわよ」
「俺はそれでいいかもしれないけど、おまえが疲れるだろ。人間の頭ってけっこう重いからな。足、痺れるんじゃないか?」
「気にしない気にしない。夕貴の寝顔が見れるって特典があるしね」
「そんなもん見ても何の得にもならないぞ。つーか、こんな話してる暇があるなら、自分の部屋に戻ったほうが……」
「だーめ。いくらご主人様の命令でも、それだけは聞けないわ」

 ナベリウスは慈愛に満ちた瞳で俺を見つめながら、幼子をあやすように髪を撫でてくる。これがまた信じられないぐらい気持ちよくて、眠気が一気に襲ってきた。そんな俺を見て、彼女はくすくすと笑った。

「夕貴の目、とろんってなってる。かわいい」
「……バカ。俺にもっとも似合わない言葉の一つを堂々と吐くな」

 すこしずつ薄れていく意識のなか、俺は小さな声で言った。なんともいえない幸福感が身を包んでいる。こんなに安心して眠りに落ちた記憶は、俺の十九年の生涯のなかでもそうないと思う。

「ねえ夕貴。月がきれいね」
「ああ……そう、だな」

 ナベリウスの声がぼんやりとしか聞こえない。自分がうまく喋れているかも自信がない。ただ彼女に包まれていることしか、分からない。俺の髪を優しく撫でる白魚のような指の感触がまた、睡魔に拍車をかける。

「あれ、もう寝たの?」

 まだギリギリ起きてるよ、と言いたいのに、喉を震わせる力はもう残っていなかった。俺が眠りに落ちたと判じたのか、彼女は沈んだ声で言う。
 
「……ごめんね」

 なにが、と聞きたいのに、やはり声は出なかった。

「……わたしが、夕貴を護るから。あなただけは絶対にわたしが護るから。ずっと見てきたもの。夕貴が小百合を護ろうと努力してきた姿を」

 ずっとって……どういう意味だ? 俺とナベリウスが出会ってから、まだ数ヶ月ほどしか経っていないはずなのに。

「いろんな約束を破ってきた。果たすべき責任からも逃れ続けてきた。それでも、最後の、ほんとうに大切な”約束”だけはまだ破ってないから」

 俺の頭を撫でていた彼女の手が止まる。一抹の名残惜しさを覚えた。ずっと昔にも、こんなふうに誰かの膝でまどろんでいた気がする。涼やかな風が吹くたびに銀色の髪がさらさらと揺れ、彼女の匂いが鼻腔に届いた。ほんとうに心地いい。

「正直に言うと、ちょっと怖い」

 意識が闇に落ちる寸前。いまにも泣き出しそうな、弱々しい声を聞いた。

「あなたのなかに流れる血はだれにも負けない。きっと夕貴はなんでもできるわ。友達を助けることも、母親を護ることも、好きな女の子と添い遂げることも。そして」

 大切な人を護って死ぬこともね、と。さながら懺悔のように彼女は呟いた。

「だから忘れないで。あなたが父親から受け継いだ《天元の法》は、多くの人を護れる代わりに、大切な人を悲しませてしまうかもしれない力だってことを」

 抽象的すぎて言ってることがよく分からない。もっとはっきり言ってくれよ。おまえが不安だってんなら、俺が男らしさ全開で助けてやるから。そう口に出したつもりだったのに、声にはならなかった。睡眠を欲する俺の体は、ナベリウスの包み込むような優しさに甘えて現実から遠ざかっていく。

「おやすみ、夕貴。愛してる」

 バカ。そんな恋する女の子みたいな、蕩けた声で冗談を言うなよ。勘違いするだろうが。




[29805] 3-5 ガール・ミーツ・ボーイ
Name: テツヲ◆c49d9b75 ID:366fa69a
Date: 2012/07/12 00:25

 今年一番と銘打たれた猛暑も、休日の昼下がりというファクターを前にしては形無しという他ない。冷房のきいた室内でゆっくりしたい、と怠惰なことを願う俺とは対照的に、繁華街は多くの人でごった返していた。そして悲しいかな、いまの俺には冷房のきいた室内でゆっくりできるほどのゆとりは心身ともになかった。
 単刀直入に言おう。俺はすべてに絶望して家出したのだ。いや、もっと正確を期して言うならば、萩原邸は個性豊かな三人の同居人に乗っ取られてしまったのだ。
 萩原家の長男たる俺をここまで追い詰めるほどの残酷な事件が起こったのは、託哉たちが一泊した次の日だった。俺と菖蒲と美影がリビングでくつろいでいると、やけに機嫌のいい笑みを浮かべたナベリウスが後ろ手になにかを隠しながらやってきた。訝しむ俺たちに、銀髪悪魔は声を大にして告げた。

「ふっふっふー! これなーんだ!」

 ナベリウスが持ち出してきたものは、まだ幼い少女が映った写真だった。とても可愛らしい女の子が、唇に人差し指を当てて涙目になっている。あれ、これどこかで見たことあるような……と俺の心中がざわめき始めた瞬間、菖蒲と美影が血相を変えてナベリウスに駆け寄った。そして彼女たち三人は、一枚の写真を囲ってきゃーきゃーと黄色い声を上げ始めたのである。

「……ま、まさか」

 そこでようやく、俺は写真の被写体となっている少女の正体に気付いた。いや、もしかすると初めから気付いていたのかもしれない。きっと男らしく生きようとする萩原夕貴の心が、かつての女々しい自分を否定していたのだ。ぶっちゃけると、ナベリウスが持ち出してきた写真とは、俺の女装写真だった。かなり本気で嫌がる俺を意に介さず、

「やっぱり夕貴ちゃんは可愛いわね。さすがはわたしのご主人様」
「こ、これは可愛すぎます……さすがは菖蒲のごしゅじ……こほん、旦那様です!」
「べつに夕貴とかどうでもいい。……でも弱味を握るために写真はもらう」

 などと口々にほざきながら、彼女たちは一枚の写真をめぐって壮絶なバトルを始めた。そして俺は、いつまでも飽きずに萩原夕貴ではない何者かが映った写真の争奪戦を続ける馬鹿どもにぶちギレた。

「ふっざけんな! おまえら自分がなにしたか分かってんのか!」

 その日の夜、俺の部屋には三人の少女が正座していた。やれやれと肩をすくめるナベリウス、しゅんと項垂れる菖蒲、眠そうにあくびをする美影。二名ほど反省してなさそうなやつがいたが、それでも心をこめて説教すれば、きっと分かってくれるだろうと思っていた。

「おまえら、俺のことを温厚な男だと思ってんだろ! はっ、違うな! それは大きな間違いだ! 俺はその気になれば燃えるゴミの日に燃えないゴミを出せるんだぜ!? どうだ、いまさら男らしいと思っても遅いからな!」

 腕を組んで居丈高に叫ぶと、「いるいる。悪いことを男らしいと勘違いしてる子が」とか「あの、夕貴様? それは一周まわって逆に女々しいかと思うのですが……」とか「……ぐう」とか、最高にうざい反応が返ってきた。

「んだとコラぁっ! もっぺん言ってみろ! こう見えても俺はおまえらが思ってるよりも遥かに男らしいんだじょ……だ、だぞっ!」

 やべえ噛んじゃった……と羞恥に顔を赤くしつつも男らしく言い直した俺に、さらなる追い討ちがかけられた。

「あれま。顔真っ赤。夕貴ちゃん可愛い」
「……ふふ。夕貴様ったら、”だじょ”なんて……ふふ」
「だじょ……これは流行る」

 俺のなかで怒りが爆発的に高まっていった。いつの間にか萩原邸のヒエラルキーは狂っていたらしい。長男である俺の威厳が地に落ちていたなんて知らなかった。そのことに気付くのが、俺はすこしばかり遅かったのだ。

「分かった。もういい。おまえらなんか嫌いだー!」

 翌日の早朝、つまり今朝、俺はなんの未練もなく萩原邸を飛び出したのだった。



 じりじりとした陽射しが照りつける街中を、俺はやさぐれながら歩いていた。太陽光や自動車から出る熱をアスファルトが吸収して熱源となり、周囲の気温を押し上げている。これが俗にいうヒートアイランド現象なのだろうか。とにかく暑い。
 本格的な夏の到来を示すように、すれ違う人々は春の頃と比べるとかなりの薄着だった。腕や足を露出し、帽子をかぶってサンダルを履く。それでも暑さを緩和するには至らないのだから、今日の最高気温が35℃を超えるというのは伊達じゃない。

「ふん、もういいんだ。あいつらのことなんか知らないんだ。俺はこれから一人で生きてやるんだ……」

 むかむかとした気持ちのまま空を仰ぎ見る。晴れ渡った空を見れば怒りも収まるかな、と思ったのだが、どこまでも広がる蒼穹のなかに彼女たちの姿が浮かんできて、余計にイラつく結果となった。
 当てもなく繁華街をうろついていると、携帯に着信があった。液晶に表示された『自宅』という文字を見てげんなりしたが、心の底ではあいつらのことを嫌いになりきれていない俺が無意識のうちに通話ボタンを押していた。

『ねえ夕貴ー。そんな女の子みたいに拗ねてないで、とっとと帰ってきなさいよ』

 明らかに悪びれていないナベリウスの声が耳朶を打つ。ちょっとでも期待した俺がバカだったらしい。この銀髪悪魔は、俺を辱めたことを何とも思っちゃいない。

「……いますぐにでも電話を切ってやりたいところだが、これだけは言わせてくれ。俺は女々しくなんかない」
『そう? でも拗ねてる時点で女々しくない?』
「ほっとけ。もう俺はおまえのことなんか知らないんだ。ナベリウスなんか大嫌いなんだ。ちょっとでもおまえのことを信じた俺がバカだったんだ」
『あら、そんなこと言っちゃうんだ。わたしのおっぱいを揉み揉みしたくせに』
「それとこれとは関係ないだろ! 元はと言えば、人のベッドに裸でもぐりこんだおまえも悪いんだ!」
『まぁ、べつにわたしは夕貴になら揉まれてもよかったんだけどね』
「そ、そんな男心をくすぐるようなこと言っても、俺は騙されないぞ!」
『はいはい。わかったわかった。それより美影が謝りたいって言ってるから代わるわね』
「美影が謝りたい……だって?」

 もしかして天変地異の前触れなのだろうか。なんだか怖くなってきた。普段の言動から察するに、美影は俺のことを嫌っているとばかり思っていたのだが。いままであいつに謝られた経験なんてないぞ、たぶん。
 ひたいに流れる汗が、暑さによるものから悪寒によるものへと変わった直後、聞き覚えのある怠惰な声がスピーカーから吐き出された。

『夕貴。ごめん』

 開口一番、美影は平坦とした声で言った。あまりにもストレートなその態度に、携帯を持つ手が震えた。

「お、おまえ……正気か?」
『うん。ごめん』

 思わず涙が出そうになった。あの気まぐれな猫のごとき美影が、まさか自分の非を認めて素直に謝罪の言葉を口にするとは。さすがの美影も、人の恥ずかしい過去を面白おかしく突くのは罪悪感があったのだろうか。清々しい気持ちが胸に生まれるのを感じながら、苦笑交じりに言葉を返す。

「いいんだ。いいんだよ美影。おまえが謝ってくれただけで、もうじゅうぶんだ」
『そう。安心したじょ。私も悪いと思ってたんだじょ』
「は?」
 
 ぴしり、と音を立てて大切な何かに亀裂が走った気がした。俺の気のせいでなければ、美影の語尾にあまり思い出したくないものが付加されていたような。

『夕貴、もう帰ってくるんだじょ。あやめが心配してるんだじょ』
「…………」
『どうしたんだじょ?』

 一瞬、俺の耳に異常があるのではないか、と疑ったが、こう何度も繰り返されては聞き間違えることもできない。

「……なあ、ひとつ聞いていいか?」
『なんだじょ?』
「その”だじょ”って、もしかして……」
『ぎくっ』

 受話器越しなのに、美影の狼狽がはっきりと伝わってくる。

『べ、べべべつにパクってなんかないし。私、”だじょ”を編み出した夕貴のセンスに嫉妬なんかしてないし』
「…………」
『それにアイディアに著作権はないってあやめが言ってた。夕貴が世に発表する前に私が……』
「ふーん。美影って人のアイディアを盗むようなやつだったんだな」
『ち、違う! 私は今年の流行語大賞を狙える器!』
「だまれ! このパクリが!」
『……パク、リ……私が、パクリ……パクリ……パクリ……』

 湧き上がってくる苛立ちを堪えて、飽くまで冷静に追い詰めていく。しばらくするとバタっと何かが倒れる音がして、「美影? ちょっと、しっかりしなさい」というナベリウスの声が聞こえてきた。これで多少は溜飲が下がったというものだ。携帯を耳から離し、通話を終えようとボタンに指をかける。

『夕貴様……』

 そのとき、儚げな声が空気を揺らした。いちど電気信号に変換されているにも関わらず、その声はスピーカーから従来の美しい音色となってこぼれた。荒くれていた心がおだやかに凪いでいくのが分かる。電話を切ろうとする俺を踏み留めるだけの魅力が、彼女の声には備わっていた。俺はゆっくりと携帯を耳に押し当てた。

「……なんだよ菖蒲。俺に言いたいことでもあるのか?」

 本当はもっと優しい声で語り掛けたかった。しかし俺の胸のうちで渦巻く怒りと羞恥が、口をつく言葉を刺々しいものに変えてしまう。
 十数秒ほど沈黙が続いた。菖蒲のかすかな吐息と、繁華街の喧騒だけが耳に入ってくる。後者のほうが圧倒的にやかましいのに、なぜか俺は前者のほうに意識を吸い寄せられていた。それだけ菖蒲の存在は、俺のなかで大きな比重を占めているのだろう。

『……申し訳、ありませんでした』

 意を決したように彼女は言う。それはさきほどの美影を彷彿とさせる突然の謝罪だったが、抑揚のない口調の美影とは違い、たしかな感情のこもった声が菖蒲の抱く罪の意識を如実なものとしていた。

『菖蒲としたことが、夕貴様と添い遂げる者としてあるまじき非道な行いを……これでは未来の妻を名乗る資格は、ありませんね』
「そ、それは思いつめすぎじゃないか?」
『いいえ。菖蒲は愚かな女なのです。夕貴様の嫌がることを嬉々として行うような、とてつもないあんぽんたんなのです……』
「げ、元気だせって! 菖蒲はあんぽんたんなんかじゃないから!」

 あの大事件を棚上げして励ましたくなってくるぐらい、彼女の吐露は悲壮さを帯びていた。

「それにさ。こうして謝ってくれただけでもじゅうぶんだよ。やっぱり菖蒲はいい子だな。ナベリウスや美影とは違う」
『……っ』
「俺には菖蒲しかいないんだ。だから落ち込むなって。な?」

 我ながら恥ずかしい台詞だったが、なんとか菖蒲を慰めるに至ったらしく、電話越しで息を呑む気配がした。

『……本当ですか? 夕貴様は、菖蒲のことを嫌いになっていないのですね?』
「当たり前だろ。いちいち確認すんなよ」

 自然と唇がゆるむのが分かる。たぶん、向こうでも菖蒲が顔をほころばせていると思う。すべてを許せるような気分になってきた俺は、ヘソを曲げるのを止めて萩原邸に帰ろうかと思った。ナベリウスに直接文句を言ってやりたいし、この機会に美影を徹底的にいじめてやりたいし、そして落ち込む菖蒲の頭を撫でてやりたいのだ。

「じゃあ、そろそろ……」

 帰ろうかな、とさりげなく言おうとしたまさにそのとき、銀髪悪魔の声がかすかに聞こえてきた。

『ねえ菖蒲。さっきわたしがコピーした夕貴の写真、家宝にするって本当なの?』
『な、ナベリウス様! 声が大きいです!』
「…………」

 よし、家出しよう。うっとうしいぐらい青い空に、俺は男の誓いを立てた。

『あの、夕貴様? 菖蒲にも菖蒲なりの事情というものがありまして、率直に申しますと、愛らしい夕貴様のお姿に心を奪われてしまった愚かな女がひとりとでも言いますか、とにかく落ち着いて話し合いの場を設けるのが適切かと……』
「菖蒲だけは信じてたんだけどな」
『うぅ……面目ないです。夕貴様があまりにも可愛らしくて、つい……』
「いままでありがとう。みんなにもよろしく言っといてくれ」
『お待ちください! いやです夕貴様! 菖蒲を置いて行かないでください!』
「じゃあな。俺は男を磨いてくるよ」

 告げてから、俺は電話を切り、携帯の電源も落としていた。もういい。萩原邸は個性豊かすぎる三人の女の子に乗っ取られてしまったんだ。俺に帰る場所なんてないんだ。
 春の頃からは想像もできない灼熱がふりそそぎ、地表のコンクリートを焦がしていく。際限なく上がっていく気温が、俺の体力をじわじわと奪っていく。したたり落ちる汗は、まるで涙のようにも錯覚した。
 ポケットに両手をつっこみ、背中を丸めて、冷たい風に吹かれるようにとぼとぼと歩く。まわりには楽しそうに笑う家族や、友人連れ、カップルばかりが目立つ。どんどん孤独感が強まってきた俺は、どうせ手に入りもしない人の温もりから遠ざかるために繁華街を離れることにした。そのまま十分近くも歩いた頃、俺の視界にはのどかな住宅街が広がっていた。
 そこからさらにまっすぐ進むと、汐坂(うしおざか)というこの街でも有名な長い坂道がある。両脇には街路樹が等間隔で並び、春になると一斉に桜を咲かせる。それがまた軽く感動を覚えるぐらい美しいのだ。
 汐坂を上った先には、やや開発の遅れた昔ながらの住宅街と、なかなかの敷地面積を誇る自然公園が構えている。俺はこのサウナのごとき熱から逃れるため、そして陵辱された心を癒すために緑の豊富な自然公園を目指すことにした。
 しかしながら、真夏日に徒歩で坂道を上るのはなかなかの重労働だった。いつしか太陽はてっぺんまで上り、夏に相応しい炎天下がアスファルトのうえに完成している。家出してしまったことをちょっぴり後悔しながら、俺は汐坂との死闘に意識を集中した。



 男の意地で汐坂を踏破した俺は、しかしそこで体力の限界を迎えていた。このままだと冗談抜きにぶっ倒れそうだったので、疲労困憊の心身を労わろうと自然公園のなかに入る。
 この荘圏風致公園(そうけんふうちこうえん)は、緑の少なくなった現代において往時を偲ぶことのできる貴重な憩いの地だ。都市計画法上、風致公園の一種として自然が保全されている。よって、正確には”自然公園”ではなく”風致公園”の名称が正しい。色とりどりの花壇で占められたスポットや、大勢の子供が遊んだり家族がピクニックシートを敷くことのできる広大な広場などがある。
 公園を造ってから緑を植えた、というよりは、うっそうと生い茂った森を切り開いて公園にした、という形容がしっくりくるほど、ここは瑞々しい自然に溢れている。背の高い樹木があちこちに屹立するなかを散策路が貫き、いくつかの道に分かれて伸びている。
 公園の南端部にはちょっとした展望台があり、高台から街を見渡せるようになっている。俺が死ぬ思いで上ってきた汐坂の高さだけ、開ける景色も美しいものになるのだ。
 鮮やかな緑に包まれた散策路を歩きながら大きく息を吸うと、清浄な空気が肺を満たした。木立が日光を遮っているからか、街中よりもずいぶんと涼しく感じる。滴っていた汗がゆっくりと引いていく。これで蝉の大合唱が小鳥のさえずりだったら言うことなしなのだが、そこまで望むのも贅沢だった。
 のんびりと散歩する老夫婦や、犬のリードを引く子供、ジョギングする初老の男性などとすれ違いつつ歩いていると、ふいに木立を縫って歌声のようなものが俺の耳に薄っすらと届いた。

「……なんだ?」

 純粋に興味を引かれた。唄は展望台のほうから聞こえてくる。爽やかな風に乗って流れてくる発音は、あまり馴染みのない外国のものだった。それがまた余計に俺の知的好奇心を刺激する。俺だけじゃない。あれだけ喧しかった蝉も鳴くのを止めて、この歌声に聞き入っていた。
 甘い蜜に誘われる蝶のように、心が惹きつけられる。
 展望台に近づけば近づくほど歌声は鮮明になる。どこかで聞き覚えがあると思ったら、この旋律は、俺が子供の頃に母さんがよく子守唄として歌ってくれていたものに酷似している。
 やがて散策路の果てまで辿りつくと、一気に視界が開けた。扇状に作られた展望台の弧を描く部分には落下防止用の鉄柵が建てられ、その向こうには俺たちの街が絶景となって広がっている。そして。

 展望台の最奥、白い陽射しが天使の梯子のように降り注ぐなかで、その少女は歌っていた。

 瞳を閉じ、両手を胸に添えて喉を震わせる姿は、歌っているというよりも祈っているように見えた。
 黄金を溶かして繊維状にしたような長い金髪は、ほのかに赤みがかっており、ツインテールに結われてちょこんと肩口から背中まで流れている。目鼻立ちのくっきりとした顔は卵形の輪郭を描き、清廉な声を紡ぎだす唇には果実を思わせる瑞々しさがあった。
 プロポーションもよく、ミニスカートの縁からは健康的な脚線美がのぞき、くびれた腰とほどよくふくらんだ胸元のバランスは見事と言うしかない。年の頃は俺とおなじか、すこし下ぐらいだろうか。鮮烈な赤いチュニックが、珍しい髪の色とよく合っていた。
 やおら唄が止まる。ぴくり、と長いまつげが震えたかと思えば、少女は胸に添えていた手を下ろし、ゆっくりと両目を開いた。自然公園を彩る若葉に見劣りしない、翠緑の双眸が俺をそっと捉える。見つめあうことしばらく、挨拶の一つでも投げかけるべきかと思慮をめぐらせていると、

「こんにちは」

 俺の逡巡を汲み取ったかのように少女のほうから声をかけてきた。ついさっきまで彼女が口ずさんでいたのは異国の唄だが、その第一声は日本人と比べても遜色のない流暢な発音だった。

「恥ずかしいの聞かれちゃったね。だれもいないと思ってたから、びっくりしちゃった」

 そう告白したわりに彼女には気分を害した様子はなく、むしろ歌姫が観客にパフォーマンス後の礼を述べるがごとく自然体のままで俺を遇した。それにしても、出会ったばかりの男に自分から声をかけるなんて、やっぱり外国人の方は日本人と比べるとフレンドリーなのだろうか。

「ここはいい場所だね。景色はきれいだし、風はとっても気持ちいいし。うん、日本にきてよかった」

 展望台の入り口で呆然とたたずむ俺をまっすぐに、優しい眼差しで見つめてくる。なんだか浮世離れした雰囲気の持ち主だな、と思った。聖性を帯びているとでも言えばいいのか、相対しているだけでもひどく緊張する。

「名前」
「え?」
「教えてほしいな。きみの名前」
「…………」
「だめかな?」
「……萩原、夕貴だけど」

 ペースを握られていたからか、暑さに頭が参っていたからか、俺は問われるがままに自分の名を口にしていた。彼女は「はぎわら、ゆうき……」と語感を確かめるように呟いてから、うっすらと目を細めた。

「うん。いい名前だね。きみにとても似合ってると思うよ」

 俺は両親から頂いた自分の名に強い愛着を持っているが、しかし一般的に見て”萩原夕貴”というそれは平凡の域を出ない。さりとてお世辞であっても他人から褒められると嬉しいことに変わりはなく、少女の言葉は、俺の胸中に芽吹いていた僅かな警戒心をふたたび種に戻すのにはじゅうぶんだった。

「ありがとう。それで、君の名前はなんていうんだ?」
「わたし? わたしはリゼットだよ」

 一陣の風が吹き抜ける。若葉がざわざわと揺れた。自然の息吹に呑まれてもなお、彼女の声は鮮明に俺の耳まで届く。

「リゼット・アウローラ・ファーレンハイト。長いからね、リズでいいよ」

 赤みがかった金色の髪とエメラルドグリーンの宝石を思わせる翠緑の瞳を持つ少女は、柔らかな微笑とともにそう名乗った。風になびく長髪を抑える手には、精緻な紋様が刻まれた銀の指輪が白光を受けて輝いていた。



 木立を貫いて差し込む陽光が、荘圏風致公園の展望台を白く照らしている。柔らかな風が吹き、じっとりと汗に濡れた体を労わるように撫でていく。展望台の奥にたたずむ少女の、赤みがかった金髪が揺れる。それは陽のなかに溶けていきそうな、ひどく美しい色合いだった。
 リゼットと名乗った少女は、軽やかな足取りでベンチまで歩み寄ると腰を下ろし、空いたとなりのスペースをぽんぽんと叩いた。木陰にあるので涼しそうだ。

「ほら、ここ空いてるよ?」
「……いや、それは見れば分かるけど」
「よかったら少しお喋りしようよ。だめかな?」

 なんだかつかみどころのない女の子だな。出会ったばかりの男を遇するにしては、いささか気安い態度に思えるけど。

「袖触れ合うも他生の縁、だったかな。この国の言葉って素敵だよね。たまには行きずりの相手と縁を深めるのも悪くないと思うよ」

 とりあえず自分で行きずりの相手って言うな、と思ったが、初対面なのでツッコミは自重しておいた。
 そんな俺の思考など知る由もない少女は、満面に笑みを咲かせてこちらをじっと見つめていた。あまりにも無垢な目だった。幼い子供特有の、成長するに従って失われるはずの無邪気な視線である。その清廉な眼差しに、素性の知らない他人に対して無意識のうちに作っていた精神的な距離が、ゆっくりと埋められていくのを感じた。
 出会ったばかりの、それも異邦人の女の子とうまくコミュニケーションを取れる自信などあるわけがない。だが、そこまで考えたところで、いまの俺には帰る家なんてないことを思い出した。どうせ日が暮れるまでは当てもなく街をぶらつくつもりだったわけだし、ちょっとぐらい変わった寄り道をしても罰は当たらないか。
 のろのろとベンチまで近づいた俺は、小さく会釈してから少女のとなりに座った。踏み出す足が重かったのは、きっと見知らぬ女性と二人きりというシチュエーションに一抹の不安を覚えたからだろう。

「なんでそんなに離れて座るの? もっとこっち来ればいいのに」
「…………」

 遠まわしに『女慣れしていない女々しい男』と言われた気がしたので、ほんの少しだけ距離を詰める。

「わたし、きみとは仲良くなりたいな。萩原夕貴くん」

 どこか妖艶にそう言って、身体を寄せてくる。流れるような金髪はツインテールに結われ、かたちのいい鼻梁とふっくらとした唇が、白い陽射しに照らされている。鮮烈な赤いチュニックに、黒を基調としたチェック柄のミニスカート。そして彼女の細くて滑らかな指には、この世のものとは思えないほどの美しい銀色の指輪が――瞬間、かつてないほどの強烈な危機感を覚えた。

 あれは、ひどくやばい。

 言いようのない感情に駆られた俺は、立ち上がると同時に少女から距離を取った。ほとんど無意識の行動だった。なぜかは分からないが、彼女の持つ見事な指輪が、世界中のどんな凶器よりも恐ろしく見えた。全身に悪寒が走り、身体中の毛穴が開く。冷や汗が背中を濡らした。

「どうしたの。そんなに怖い顔して」

 荒く呼吸を繰り返す俺を見つめて、少女は無邪気に微笑んだ。

「もしかして夕貴くん――この指輪、知ってるのかな?」

 右手をかざす。精緻な紋様が刻まれた白銀の指輪が燦然と輝いていた。驚くべきことに、少女が当て推量で口にした言葉は、不気味なほど的を射ていた。確かに俺はあの指輪を、どこかで見たことがあるような気がするのだ。
 深呼吸をして気息を整える。脳にまでしっかり酸素を回すと、支離滅裂だった思考もクリアになる。なんだかバカらしくなってきた。たかが指輪一つに何びびってんだ、俺は。

「……知らねえよ、そんなもん」

 もう一度、彼女のとなりに腰掛ける。吐き出した言葉には棘とともに幾分か自嘲が混じっていた。勝手に取り乱した挙句、初対面の女の子を突き放すなんて、女々しいと言われても何の反論もできない。

「そっか、知らないんだね。じゃあしょうがないね」

 俺が足元の石畳に視線を落としていると、そんな暢気な声が聞こえてきた。横目に見れば、少女は俺の態度をまるで気にしたふうもなく空を見上げている。ほんとうによく分からない子だった。

「……あのさ。ひとつ君に聞きたいことがあるんだけど」

 先の非礼を反省して柔らかい声で口火を切る。しかし俺の努力も虚しく、彼女は不服そうに首を傾げた。

「君じゃないよ。わたしの名前はリゼットだよ。リズでいいって言ったでしょ?」
「いや、会ったばかりの女の子を愛称で呼ぶのは失礼だと思うんだけど」
「そんなことないよ。向こうだと普通だしね。夕貴くんさえよければ、リズって呼んでほしいな」

 気まずい。なにが気まずいかって、目を期待にキラキラと輝かせて見つめてくるのだ。いままでに経験したことのないタイプのプレッシャーに敗北した俺は、鳴き方を忘れた小鳥のような情けない声でつぶやいた。

「……リ、リズ」

 なんたる屈辱だろうか。いままで男らしさを欲しいままにしてきたこの俺が、まさか女の子の名前を呼ぶのに緊張して思春期の子供のごとき様相を呈してしまうとは。とりあえず家に帰ったら枕に顔を埋めて気が済むまで叫ぼう、とアホみたいなことを考えていると、

「うん。夕貴くんはそれでいいと思うよ」

 リズは笑ってくれた。ミニスカートから伸びる脚が機嫌よさそうにぶらぶらと揺れている。まだ名前ぐらいしか知らないが、少なくとも悪い子ではなさそうだ。
 それから俺たちは言葉を交わすことなく、ベンチに掛けて木陰がもたらすささやかな避暑を楽しんでいた。気心の知れない相手と一緒なのに、なぜか沈黙が苦痛じゃなかった。かすかな蝉の声と、風の音色と、木の葉がざわざわと揺れる音。自然が与える安らぎとは偉大だと改めて実感した。いくら文明が発達しようと、きっと人は緑から離れることはできないと思う。
 あらかた汗が引いた頃、俺はさりげなくリズの様子を伺ってみた。彼女は目を閉じていた。柔らかな表情。まるで自然の息吹を全身で感じているかのようだった。瑞々しい若葉を透かして降る光が、循環する風が、ありとあらゆる生物の鼓動が、リズを祝福していた。現代において、これほど自然と調和できる人間も珍しいだろう。
 とりわけ俺の目を奪って止まなかったのは、リズの髪だ。薄っすらと赤みを帯びた金色の髪。これまで見たことがない不思議な色合いだった。

「あっ、これ?」

 いつの間にか、じっと見つめていたらしい。俺の視線に気付いたリズは得意げにツインテールの房をつまんだ。

「ストロベリーブロンドって色なんだよ。きれいでしょ? わたしの密かな自慢なの」
「確かにきれいだな。日本人も髪を染めたりするけど、その色は人工的には出せないんじゃないか?」

 基本的に女という生き物は髪を褒められると喜ぶものだが、リズはそれが顕著だった。その証拠に、彼女は頬を赤く染めてもじもじと膝をすりあわせながら「えーそれほどでもないよー」と、明らかにそれほどでもあるように謙遜してみせた。抑えきれなかった喜びが、だらしなく緩みきった唇に現れている。

「でも、夕貴くんもきれいな髪してるよ」
「そうか? あんまり髪を褒められたことはないんだけど」
「あと肌も男の子とは思えないほど色白できめ細かいし、目もぱっちりとした二重だし。女の子にモテモテじゃない?」
「……お世辞にしか聞こえないから止めてくれ」

 俺の顔立ちは本当に平凡だと思う。特徴といえば、母さんに似ていることと、男らしいことぐらいか。……あれ、待てよ? 母さんに似ている時点で、男らしいという特徴は当てはまらなくないか?

「そ、そういうリズこそ、スタイルいいよな」

 十九年越しに気付いた究極の矛盾から目を逸らすため――いや、お世辞を頂いたせめてものお礼に、俺は出会ったときから思っていたことを口にした。ミニスカートから伸びる滑らかな脚がとくに目を引くが、全体的に文句のつけどころがないプロポーションをしている。

「べ、べつにわたしのお尻は大きくないよっ!?」
「は?」

 いったいどうしたというのか。リズはすばやく立ち上がると、両手で臀部を隠して、俺に威嚇するような目を向けてきた。

「お尻……?」

 失礼を承知で目を凝らしてみる。きゅっと上がったかたちのいいヒップは、くびれた腰と相まって女性特有の魅惑的な曲線を描いている。だがよく見ると、平均的な女性よりもお尻のサイズが大きいような。

「あぅ、気にしてるのに……」

 どうやら俺の視線から自分のコンプレックスが見破れらたことに気付いたらしい。リズは大きく肩を落としながら、ふたたびベンチに腰掛けた。この世の終わりを目前にしたような勢いで落ち込むリズを励まそうと、俺は彼女が自慢だと言った髪の話題に戻すことにした。

「あー、ところでリズの髪は、お母さん譲りだったりするのか?」

 リズはきょとん、としたあと、

「ううん」

 首を大きく振った。はっきりと、横に。

「じゃあ、お父さん譲りなのか?」

 釈然としないままに問いを続けると、彼女はもういちど首を振った。やはり、横に。今度は俺が首を傾げる番だった。

「知らないんだよ。なにも」
「……? どういうことだ?」
「わたし、お父さんとお母さんいないから」

 あっさりとリズは告白した。自分には尊敬する父親も、愛する母親もいないと。

「詳しくは知らないんだけど、わたしは生まれたときから両親がいなかったみたい。だから顔も名前も知らないよ。それに里親に当たるような人もいないしね。まあ生活には困ってないからいいんだけど」

 返す言葉がなかった。頭は回らないし、喉も震わない。お父さんとお母さんがいない。リズが告げた事実が、俺の心を深く抉っていた。
 この十九年間、俺のまわりには色んな人がいた。父親がいない、母親がいない、兄妹がいない、祖父母がいない、そんな人たち。病気や交通事故によって死に別れた者、離婚によって愛を無に帰した者。大切なものが欠けてしまった家族なんてどこにでもある。俺だって生まれたときから父さんがいなかったから、ずっと母さんと二人きりで生きてきたんだ。

 だが、それでも俺たちは一人じゃない。

 お父さんがいなければ、お母さんが抱きしめてくれる。お母さんがいなければ、お父さんが護ってくれる。どんなに不完全で不恰好な家族でも、そこには絶対に自分を支えてくれる人がいるんだ。子供のとき、俺が泣いているといつだって優しく抱きしめてくれた母さんのように。

 しかし、ここにそのぬくもりを知らない女の子がいる。

 正直に告白すると、リズの境遇は、俺の理解を完全に超えていた。もちろん、孤児という言葉があるように、現実には孤独な子供が少なからずいることは知っている。いや、知ってはいたけど、それは遠い世界の話だと思っていた。俺の目の前には絶対に現れないと思ってたんだ。

「そんなに悲しそうな顔しないで。わたしは何とも思ってないから。いまの生活も気に入ってるしね」
「……ああ、ごめん」

 彼女の言うとおりだ。出会って一時間も経っていない少女に感情移入するほうが間違っている。しょせんは行きずりの関係。太陽が中天を過ぎて、西の彼方に沈む頃には別れるだろう。リズだって、よく知りもしない男に深く干渉されるのは不愉快に決まってる。
 だから、せめて心に刻んでおこうと思った。この世には親の顔も知らずに育った子がいて、それでも大丈夫だって、したたかに笑ってるんだ。あんなにきれいな声で、静かに唄を歌ってたんだ。リズに比べれば、母さんがいないと寂しくて死んでしまう俺なんて女々しいに違いないが、今ある幸福な日常の大切さを忘れないためにも、俺は下ではなく前を向くべきだ。
 日が暮れたら、リズと別れたら、まっすぐ家に帰ろう。たまには喧嘩もするけど、俺はあいつらのことが大好きだから。まあ例の忌まわしき写真をふたたび母さんの部屋に封印する予定に変更はないが。もちろんコピーされた分もすべて回収する。もし菖蒲に泣き喚かれても俺は心を鬼にして、写真を奪い取る覚悟だ。

「……リズって、日本に来たばかりなんだろ? それにしては日本語、上手だよな」

 つとめて明るい声で言った。彼女もわざわざ暗い話題を引きずる気はないらしく、「あぁ、うん。それはね」と頷いてくれた。

「子供の頃から、ちょっとずつ勉強してきたの。もちろん日本語だけじゃなくて、他にもたくさんね」
「そっか。リズは頑張り屋さんなんだな」
「えー、そんなことないよー。夕貴くんこそ、きっと頑張り屋さんだよー」

 ほんのりと頬を赤くして謙遜するリズ。とりあえず安心した。勉強ができるということは、それなりに安定した環境で生活していたということだから。
 その後、時間の許すかぎり、俺たちはいろんな話をした。今日は暑いとか、この間は雨が降っていたとか、展望台からの景色は本当に見飽きることがないほど綺麗だとか。途中、リズの提案で携帯の電話番号を交換することになった。

 ――いざというときに役に立つかもしれないでしょ?

 それが彼女の言い分だった。個人的な連絡先を教えていいものか迷ったことは事実だが、とくに断る理由も見つからなかったので、俺はリズの提案を受けることにした。
 たまにはこんな出会いも悪くないものだった。出会って間もない相手だからこそ、気心が知れたナベリウスたちには言えないようなことまで素直に口にできる。ストレス発散といえば彼女に失礼かもしれないが、俺の心は少しずつ穏やかに凪いでいった。若緑と涼風に包まれた展望台は、ここだけ時が止まったかのように静かだった。鉄柵の向こうに広がる街並みと、それを俯瞰する空の暮れだけが、時間の経過を知らせる唯一の時計だった。

「そういえば、リズはどうしてこんなところで歌ってたんだ?」

 すでに陽は西に傾き、木立から差し込む光は朱色に変わっていた。空はその有りようを刻一刻と変えていき、地平線の彼方には赤と紫のグラデーションがかかり、展望台からの眺めをより一層、美しいものにしている。
 会話が弾み、リズと一緒にいることが楽しくなってきたからか、俺の口調は最初のころと比べると幾分か気安いものになっていた。

「うー、そっか。わたし、夕貴くんに歌ってるところ見られちゃったんだっけ」
「まあ、こんなところで歌ってたら、誰に聴かれてもおかしくないしな」
「夕貴くん意地悪だよー。そこはあえて、俺はなにも聞いてない、って言ってくれたほうが男らしいのに」
「は? なに言ってんだ? 俺は最初からなにも聞いてないぞ」
「な、なんて素早い心変わり……夕貴くん、顔だけじゃなくて性格も可愛いね」
「悪い。俺の耳が狂ってたかもしれないから、もういちどだけ聞かせてくれ。いま”可愛い”って言わなかったか?」
「ううん。言ってないよ」

 やんわりと否定する。釈然としなかったが、わざわざ怒鳴りたててこの穏やかな空気を壊すのも嫌だった。

「話は戻るけど、実はわたし、ちょっと探しものをしてるんだ。でもこれといった当てもなくて、直感に従うままに街をぶらぶらしてたら、この自然がいっぱいの公園を見つけてね。ちょっと汗が引くまで休もうと思って公園内を散歩することにしたの」
「なるほどな。それで展望台を見つけたってわけか」
「そんな感じだねー」

 石畳を赤く照らす斜陽を見つめながら、彼女は語る。こんなにきれいな景色が目の前にあって、とっても気持ちいい風が吹いてる。だったら歌わないのは嘘でしょう、と。

「でもやっぱり恥ずかしいな。わたし、あんまり歌に自信ないから」
「そうかな。普通にうまいと思ったけど。それにあの歌、懐かしいよな」
「……え?」
「俺が子供の頃、よく母さんが子守唄がわりに歌ってくれてたんだよ。だからよく憶えてる。でもさすがに曲名までは……って、どうした?」

 ふと横を見やる。リズの顔から親しみが抜け落ちていた。彼女はくちびるに指を当てて、じっと思考に没頭している。翠緑の瞳には、愛嬌ではなく学者然とした理知的な光が宿っている。

「……夕貴くん。さっきの歌、知ってるの?」
「ああ。まあ歌えって言われても自信はないけどな。ずっと昔に聞いてただけだし」
「どこで聴いたの?」
「だから母さんがよく子守唄代わりに歌ってくれたんだよ。ほとんど鼻唄みたいなものだったから、リズみたいに歌詞まではなかったけど」
「……そう、なんだ」

 それっきり彼女は押し黙ってしまった。なにかまずいことでも言ってしまったのだろうか。沈黙が続く。居心地のよかった雰囲気は、リズが無言を貫けば貫くほどマイナスの色を帯びていく。ノスタルジックを呼び起こすはずの夕焼けが、いまとなっては血や警報を連想させた。元来、”赤”は警告色だ。人間は赤い色に本能的な危機感を抱くようにできている。

「やっぱり――夕貴くんが、そうだったんだね」

 リズはベンチから立ち上がると、展望台の中央まで歩を進めた。優雅な立ち居振る舞い。穿ちすぎだろうか、彼女は俺から距離を取ろうとしているように見える。
 やがて彼女は振り返る。ミニスカートが花弁のごとく広がった。赤い生地のチュニックに覆われた右手が、ゆっくりと上がる。人差し指にはめられた銀の指輪に斜陽が反射し、俺のもとに深紅の光芒となって届いた。
 
 きっと、そのリズの行動は気まぐれなどではなく、明確な意図のもとに行われた”合図”だったのだろう。

 突如、展望台を中心とした半径に鋭い緊張が走った。俺が腰を上げるのとまったくの同時に、展望台を囲うように繁茂していた木陰から武装した男が何人も躍り出てきた。人数は目に見えるだけで十二人とそう多くないが、一様に白い軍服に身を包み、黒光りする短機関銃を油断なく構える姿は、それだけで強烈な存在感がある。
 彼らは二人一組になってお互いをカバーしあえるような位置取りで動きながら、ゆっくりと包囲を狭めてくる。明らかに専門の訓練を受けた者たち特有の連携だった。
 俺の混乱をさらに促すように、散策路のほうから新たな人影が姿を現した。筋骨隆々とした体を、やはり純白の軍服に包んでいる。白いものが混じった灰色の髪と、彫りの深い顔立ち。外見は三十代後半から四十代前半ぐらいに見えるが、その揺るぎない眼光だけは、きっと若かりし頃と変わらないのだろう。男の手には銃火器ではなく、無骨な鞘に収められた一振りの剣が握られていた。

「アルベルト。首尾は?」

 またたく間に状況を始めた連中を見ても動揺することなく、リズは散策路を決然と踏みしめて登場した男性に問いかけた。

「上々と言ったところでしょうな。念入りに人払いもしておきました。これで民間人の邪魔が入ることはありません」
「……ふうん。そうなんだ」

 気のない返事を投げつつ、どこか呆れたような目でまわりに佇立する軍服を見渡してから、

「でもね戦隊長。これじゃ物々しすぎるよ。市街地でこれだけの装備を投入するなんて、よくシュナイダーおじさんが承認したね」
「相手が相手です。警戒するに越したことはありません。備えあれば憂いなし。ファーレンハイト室長のお好きな日本のことわざです」
「備えすぎても余計な摩擦を生むだけだってば。わたしたちはべつに戦争をしに来たわけじゃないのに」

 かすかに頬を膨らませるリズと、休めの姿勢でそばに控える男。並んで立つ姿は、厳格な父と育ちのいい娘といった塩梅だが、イニシアチブを握っているのは明らかに少女のほうだった。

「……どういうことだよ、リズ」

 身構えながら俺は言った。どう見てもやばい状況である。あるいは一目散に逃げ出すのが正解かもしれない。それでも、聞いておかねばならないと思った。彼女の笑った顔を覚えている。わずかな時間だったが、彼女とともに過ごした時間は楽しかった。そこに嘘があったなんて、思いたくない。

「ごめんね、夕貴くん。なんだか騙すようなかたちになっちゃって」

 言葉とは裏腹に、彼女は悪びれもしていない。しかし同時に、悪意や害意も感じられなかった。

「わたしが探しものをしてたっていうのは本当だよ。てきとうに街を歩いて、この場所を見つけて、ついつい歌っちゃったっていうのも本当。夕貴くんとお喋りして楽しかったのも本当に本当。わたしにお父さんとお母さんがいないのもね。きみと語り合った時間のなかに、作為的な嘘は何一つとしてなかったと誓ってもいい」
「……おまえの、いや、おまえたちの目的はなんだ?」
「口を慎め、少年。質問をするのは我々のほうだ」

 割り込んだ声は、低く力強いトーンだった。リズのそばに控える男が、俺をまっすぐに見つめている。あまりの眼力に気圧されそうになった。男はしばらく俺を観察していたが、やがて口を開いた。

「……あまり似ていないな。あの男には」
「あの男だと?」
「ソロモン72柱が一柱にして、序列第一位の大悪魔バアル。いや、この国では萩原駿貴という名のほうが通りがよいかもしれんな。己が父のこと、まさか知らぬわけではあるまいよ」

 がちり、と頭のなかでスイッチが切り替わった。俺の出生に関わる秘密を知っている者は、せいぜいナベリウスを含めた七十二柱の《悪魔》ぐらいなものかと思っていたのに。

「……だれだ、おまえ」
「答える義理はない、と言いたいところだが、問われて名乗りを上げないのは非礼に当たるか。私はアルベルト・マールス・ライゼンシュタイン。好きなように呼んでくれて構わない」
「そんなことを知りたいわけじゃねえよ。おまえたちは何者かって聞いてんだ」
「そう急くな。次はこちらから質問だ。正直に真実を述べよ。おまえの父は、《悪魔》か否か」

 もはや隠し切れないと思った。ならば、あえて事実を認めることで、向こうから情報を引き出してやるのが得策だろう。

「……そうだ。萩原駿貴は、俺の父親の名前だ」
「なるほど。とぼけるほど愚かな男ではないらしいな。話が早くて助かる」
「じゃあ次は俺からだ。おまえたちはいったい何なんだ?」

 しばし逡巡してからなにかを言いかけたアルベルトを手で制して、リズが一歩前に出た。

「なかなか哲学的な質問だね。逆に聞くけど、夕貴くんにはわたしたちがどう見えるのかな?」
「どうって……ただの人間だろ。思いっきり武装してるところを見るに、かなり大きな組織が背後にありそうだけどな」
「んー、そうだね。わたしたちは経済的なバックアップには困ってないけど、ローマ教皇庁の庇護を受けているという特性上、政治的な拘束を強く受けるデメリットがある。ここが欧州ならもっと無茶もできたんだけど、利権が複雑に絡み合って身動きのしづらい日本でお忍びの行動を起こそうとしたらこの人数が限界だった。無駄に騒ぎを大きくして、日本政府との間にこれ以上の軋轢を生みたくないしね」

 ふう、とため息混じりに語られる事実は、一度聞いただけで理解するには情報量が多すぎた。脳裏に疑問符を浮かべる俺を知ってか知らずか、リズは翠緑の瞳に怜悧な光を宿して喉を震わせる。

「ローマ教皇庁の影としてバチカンに総本山を置く《法王庁》。裏世界最大の抑止力と目される彼らが、人が人であるために人の理を外れた者たちに人だけで対抗しようと作り上げた一大部門を《異端審問会》と呼ぶの。異教の徒、背教者、吸血鬼(ヴァンパイア)、人狼(ライカンスロープ)、悪魔、妖、果てには存在そのものが伝説に等しい狼人間(ヴェアヴォルフ)まで、とにかく”自分たちが気に入らないもの”を排撃することを目的に、いまも回り続ける一つの機構。――そこに所属するのがわたしたち、と言えば分かりやすいかな?」
「ま、待ってくれ。そんなぺらぺら説明されても意味が分からないって」
「難しく考える必要はないよ。わたしたちは《異端審問会》という一大部門のなかでも、《悪魔》にまつわる事象を中心的に担当する部署なの」

 出会ったときとおなじ、柔らかな微笑のままにリズは言う。

「それが法王庁特務分室。室長はわたし、リゼット・アウローラ・ファーレンハイト。萩原夕貴くん。きみにはすこし聞きたいことがあるんだけど、いいかな?」





[29805] 3-6 ソロモンの小さな鍵
Name: テツヲ◆c49d9b75 ID:366fa69a
Date: 2012/08/05 17:20
 
 俺に聞きたいことがある、とリズは言った。聖職というよりは軍隊を連想させる組織を統べる少女は、愛くるしい笑顔のなかに理知的な面影を垣間見せながら、透き通った目でこちらをまっすぐに見つめてくる。

「まずは一つ。夕貴くん。きみは《悪魔の書(ゴエティア)》がどこにあるか、知ってるかな?」
「……は? なんだそれ?」

 まったく耳に馴染みのない発音だった。自分が置かれている状況も忘れて、思わず呆けた声を上げてしまう程度には。

「真実を述べたまえよ少年。これは尋問ではなく、審問だ。ひとつの嘘が取り返しのつかん結果を招くやも知れんぞ」

 リズのかたわらに控える男が語を継いだ。灰色の髪に、彫りの深い顔立ち。不動の佇まいは、さながら巌のごとき存在感を振りまいている。手には鞘に収められた一振りの剣。アルベルト・マールス・ライゼンシュタインと名乗った彼は、リズから戦隊長と呼ばれていた。

 アルベルトの言ったとおり、いまは下手に隠し立てしないほうが賢明だと俺のちっぽけな人生経験が訴えている。慎重に言葉を選び、警戒を怠らず答えた。

「嘘じゃない。おまえらがなにを言ってるのか、俺にはさっぱりだ」
「……そう。知らないんだね。それとも分からないのかな」

 真意の掴みづらい言い回しだった。なんだかリズと出会ってから俺はペースを乱されっぱなしだ。

「じゃあ二つ目。夕貴くんはリチャード・アディソンのことを知ってるかな?」
「それは知ってる。実業家だろ?」
「そうだよ。リチャードさんに会ったことは?」
「会うどころか顔も見たことねえよ」
「本当に?」
「疑うなよ。サブマシンガンの銃口をいくつ向けられてると思ってるんだ。こんな状況で腹芸なんてできるわけないだろうが」

 皮肉と、かすかな敵意を交えて反駁する。気圧されたら負けだ。飽くまで対等に接しなければ、わずかでも隙を見せれば、そこから一気に食いつかれるだろう。

「……どう思う、アルベルト」
「嘘は言っていないでしょうな。不用意に虚言を口にするほど頭が悪い男には見えません」
「そっか。これはまだ繋がってないってことで結論してもいいかな」

 俺の理解の及ばないところで、なにか重要な話が交わされている。意図的に主語の抜かれた会話からは、大した情報も拾えない。俺は意を決して、こちらから質問を投げかけることにした。

「……いいか。ちょっと聞かせてくれ」
「うん? なにかな」

 後ろ手を組み、機嫌よさそうに目元を和らげてリズが応える。アルベルトは口を閉ざしたまま、鋭い目で俺を見据えていた。

「おまえたちの目的はなんだ? この国で、いったい何をやらかすつもりだ?」
「まるでわたしたちが悪者みたいな言い方だね。安心して。法王庁には日本と戦争をするつもりはないから。それじゃあ本題に入るけど、夕貴くんは《ソロモンの小さな鍵(レメゲトン)》って知ってるかな」

 まるで聞き覚えがなかった。押し黙った俺の反応から知識の有無を察したのだろう。彼女は、ふむ、とちょっと偉そうに頷いた。

「強大な力を持つ、ソロモンの大悪魔。遥かな昔、一人の王は、彼らを使役して古代エルサレムに聖所を建設したの。でも、古くは神々にも匹敵する威容を誇っていた七十二柱の《悪魔》は、人の手には余る危険な存在だった。だから、彼らを律するために”これ”が造られた」

 リズが右手をかざす。人差し指には、精緻な紋様が刻まれた銀の指輪が、斜陽を受けて紅くきらめている。

「悪魔に対して絶大な効力を発揮する、魔封じの書物。この世界の法則とは異なるルールを用いて産み落とされた五つの法典。以下の五部から構成されるそれを、昔の人たちはグリモワールの一つから名前を取って《ソロモンの小さな鍵(レメゲトン)》と名付けたの」

 一つ、《悪魔の書(ゴエティア)》

 二つ、《精霊の書(テウルギア)》

 三つ、《星の書(パウリナ)》

 四つ、《天空の書(アルマデル)》

 五つ、《天元の法(アルス・ノヴァ)》

「書物の名を冠してはいるけれど、その形状はさまざまだね。わたしの所有する《精霊の書(テウルギア)》は、このとおり指輪のかたちをしているから。夕貴くんにも分かりやすく例えるなら、シルバーブレットが近いかもしれないね」

 強い力を持った人狼や悪魔も銀の弾丸にはめっぽう弱い、という西洋の言い伝えがある。無敵の怪物にも弱点の一つはあるものだ。《悪魔》にとってのシルバーブレットが、リズの持つ指輪ということなのだろうか。

「夕貴くんがこの指輪に――《精霊の書(テウルギア)》に苦手意識を抱いたのは、きみのなかに流れる《悪魔》の血が原因なの。いま言った四つの書と一つの法は、それぞれが異なった効力を持ち、人智を超えた力を持つ《悪魔》を抑止してきた。例えば……」

 言いかけて、彼女は口を噤んだ。翠緑の瞳をすっと細めて、油断なくあたりを見回す。リズだけでなく、白い軍服を着込んだ男たちもまなじりを吊り上げて周囲を強く警戒した。

 心身を凍えさせる圧倒的な冷気が、夕焼けに照らされた空間に満ちる。急速に低下する気温。真夏にも関わらず空を染める白い雪。風に揺られていた若葉が次々と凍っていき、自然の息吹が停止した。石畳のうえには薄い霜が張り、唇からこぼれる吐息は驚くほど白い。ここらで凍てついていないのは俺たち人間ぐらいのものだった。

 《絶対零度(アブソリュートゼロ)》と、誰かが小さな声で言った。

 寒気と殺気のせいで肌が粟立つ。顔を見なくても、言葉を聞かなくても分かるぐらい、この凍結現象をもたらした者は怒っていた。その怒りの主は、神の審判のごとく展望台にいる全員に対して平等に敵意を振りまいていながら、例外として俺という個人だけには慈しむような感情を向けていた。

「法王庁の狗が……よくもやってくれたな」

 響いた重たい声音は、耳に心地いい女性のものだった。冷たい氷に覆われた背の高い樹木、その枝のうえに見知った人影が立っていた。銀色の目が怒りに凍えている。普段の彼女とは似ても似つかないぐらい、ナベリウスは怒りをあらわにしていた。

「不愉快だな。貴様ら、誰に向かって銃口を向けているつもりだ」

 ナベリウスが目を細めて、武装した男たちの手元をぐるりと見渡す。ただでさえ歪んでいた美貌が、ここにきて氷点下に達した。まずい。ナベリウスは臨戦態勢に入っている。このまま放っておけば一秒後にでも攻撃しかねない勢いだ。

 しかし、俺は積極的に殺し合いをするつもりはない。リズたちは俺を威圧したが武力行使には乗り出さなかった。ならば、平和的とまではいかないかもしれないが、血を流さずに済む可能性もあるんじゃないか?

「待てよ、ナベリウス! 俺はまだ何もされてない!」
「ありがたく思えよ無知蒙昧ども。弁えぬおまえたちに、いま一度だけ教えてやる」

 どうやら思っていた以上にはらわたが煮えくり返っているらしい。俺がどれだけ静止の声をかけても、ナベリウスは踏みとどまろうとしない。

 ちょっと、イラっときた。

 昨日の夜はあれだけ俺のことをバカにしたくせに。今朝は家出しようとする俺を「どうせ夕方頃には帰ってくるんでしょ? おみやげよろしくー」と見送ったくせに。いつも人の頭を悩ませるぐらい奔放なのに、どうしてこういうときだけ過保護なんだ、こいつは。

 俺は拳をつよく握り締めて、高みから見下ろすナベリウスをねめつけた。

「心して傾聴しろ。そこにおられる方は、我らが偉大なる《バアル》の血を引く――」
「――うるせえバカ! おまえはちょっと黙ってろ!」

 不気味なまでの静けさに支配されていた空間に、俺の怒声が響き渡る。そこでようやく彼女は言葉を紡ぐのを止め、こちらに注目した。凛としていた面持ちが、へなへなと歪んでいく。

「で、でも、こいつら夕貴に危害を加えようとしたんでしょ? 夕貴はわたしのマスターだから、こうして護るのは当たり前で……」
「うるさい。言い訳すんな。おまえが怒るのも分かるけど、俺はリズと話がしたいんだよ。だから、黙ってろ」

 あえて冷たく、権高に告げた。ナベリウスのことは好きだけど、だからといって、いつも振り回されてばかりの俺じゃない。たまにはガツンと言ってやらないと男が廃るというものだ。

 やがて十数秒ほど沈黙が続いたあと、ナベリウスは観念したように体重を預けていた枝のうえから弱々しく飛び降り、俺のとなりに着地した。ふわりと舞い上がる銀髪とは対照的に、滑らかな線を描く肩はひどく落ち込んでいた。

「ご、ごめん。わたしが悪かったから、そんなに怒らないでよ……」

 こっぴどく叱られた仔犬みたく、彼女は俺のほうを上目遣いでチラチラと見ながら言った。よほど堪えたのか、ひどく殊勝な態度だった。もっと憎まれ口が返ってくるかと思っていたので拍子抜けしてしまう。そこらじゅうを侵食していた氷が、ぱりん、と澄んだ音を立てて消滅した。

「……いや、俺も言いすぎた。べつに怒ってるわけじゃないんだけどな。むしろ、おまえが来てくれて助かったぐらいだし。ただ俺は、もっとあいつらから話を聞きたかったんだ」
「夕貴は甘いわ。こいつらは話が通じるほど頭の柔らかい連中じゃ……」

 そこでナベリウスはぴたりと動きを止め、アルベルトに視線を集めた。背後にリズを覆い隠すようにしてたたずむ彼も、じっとナベリウスのことを睨んでいる。

「へえ。どこかで見たことがある顔だと思ったら、アルベルト坊やじゃない。ずいぶんと老けたわね。二十年振りぐらいになるかしら?」
「正確には二十三年振りだ。相変わらず奔放な女だと見えるな、貴様は」
「ひどい言い草ね。こう見えても、わたしって淑やかさには自信があるんだけど」
「自己に対する評価をオブラートに包んで認識しているところは変わっていないらしいな。まずは自分を見つめなおすことから始めたほうがいい」

 挑発的な笑みを浮かべるナベリウスと、険しい眼差しを崩さないアルベルト。どうやらこの二人は、遠い過去に会ったことがあるらしい。だがあまり友好的な間柄ではないらしく、両者ともに隙あらば噛み付こうとする思惑が感じ取れる。

 味方が敵の情報を知っているのなら話は早い。俺が尋ねると、ナベリウスはアルベルトの着ている軍服をじっくりと観察してから言った。

「どうやら出世したみたいね。あの略綬や肩章は、法王庁特務分室の戦隊長である証だし」
「戦隊長?」
「そうそう、戦隊長。ありのままに説明するなら、実動部隊の一つを率いる指揮官ってところかな。とにかく偉くて強い奴とでも思っておけば万事オッケーよ」
「さすがにアバウトすぎるだろ、おまえ……」

 けっきょく、俺が想像していた以上の情報は得られなかった。こんな状況なのに平時のごとく鷹揚と話をするナベリウスは、大物か馬鹿のどっちかだと思う。

「べつにアバウトじゃないよ。いまの説明に間違いはないからね」俺たちの会話に清らかな少女の声が割り込んだ。「ただ真実のすべてってわけでもないけど」

 アルベルトの大きな背に隠れていたリズがぴょこっと横に一歩踏み出し、年頃の女の子らしくお洒落した姿を斜陽のもとにさらした。

「こんばんは、《ナベリウス》。わたしはリゼット・アウローラ・ファーレンハイト。法王庁特務分室の室長だよ」

 首を傾げて微笑む。下手をすれば数秒後には血と悲鳴が飛び交うかもしれない切迫した状況なのに、リズは飽くまで自然体だった。対して、ナベリウスはなにかありえないものを見るかのような目でリズを凝視してから、震える声で呟いた。

「あんた……なに?」

 弱々しい誰何だった。ついさっきまで堂々と胸を張っていた彼女とは似ても似つかない。こんなナベリウスを見るのは初めてかもしれなかった。

「なにって聞かれても困るなぁ。わたしはわたし。他の何者でもないよ。それとも、もしかして、わたしの顔に見覚えでもあるのかな?」
「……いえ。わたしはあんたのことなんて知らない。知っていたらダメなのよ。絶対に」
「そうだね。ソロモンの《悪魔》が、まさか十八才の小娘を知ってるわけないもんね」

 ナベリウスの様子がおかしい。あのダンタリオンを前にしても鈍らなかった覇気が、いまは見る影もない。人間の小娘を相手に、歴戦の大悪魔が戸惑うのはなぜだ?

 本人に直接問いただそうと思った。だが、その沈痛な横顔が「なにも聞かないで」と言っている気がして、俺は喉まで出かかった言葉の嚥下を余儀なくされた。

 かなり長く話し込んでいたのだろう、あれだけ街を紅く染めていた太陽もずいぶんと地平線の彼方に沈み、もう間もなく黄昏が終わろうとしていた。空には深い黒と、かすかな赤が混じっている。夜が訪れるのも時間の問題だった。

「それで、法王庁特務分室が日本に来た目的はなに? あらかじめ言っておくけど、もし夕貴にちょっとでも危害を加えたら、わたしはあんたたちを潰すから」

 ナベリウスはきっぱりと宣言してくれた。その言葉が嬉しく、同時に悔しくもあった。男って生き物は、やっぱり女を護ってナンボだと思うのだ。いつの日か、俺がナベリウスを護ってやりたい。そんな渇望を抱き始めたのはいつからだろうか。

「むー、怖いね」ぷくっと頬を膨らませるリズ。「でも安心して。わたしたちは《バアル》の血が目的じゃないから」

「そのわりには夕貴に接触してきたじゃない。あんたたちのせいでわたしは怒られちゃったんだから。この責任はどう取ってくれるつもり?」
「そうだね。じゃあ見返りは情報提供ってことでどうかな」

 リズの右手がゆっくりと上がる。

「質問に答えてあげる。わたしたちが来日した目的の一つが、これだよ」

 女の子らしい細い指には、きれいな指輪がはまっている。じっと見てるだけで吐き気がしてきた。苦手意識なんて生温い言葉では説明できない、もっと根源的な恐怖が湧き上がってくる。

「……《精霊の書(テウルギア)》。ずっと所在が不明だったって聞いてるけど、まさか法王庁が秘匿してたなんて」
「なあ。ずっと気になってたんだけど、あれって何なんだ?」

 さきほどリズから説明されたが、いまいちよく分からなかった。ナベリウスはしばらく考え込むような素振りを見せたあと、「そうね。実際に見せたほうが早いかな」と言って、空中に氷で形成された槍を何本か生み出した。尖った先端が、リズを向いている。

「バカっ、おまえなにを――!」

 声を荒げる俺を手で制したナベリウスは、流し目で氷槍を見やった。それが合図だったのか、冷たい凶器が一斉に滑り出し、少女を穿たんと宙を奔る。次の瞬間、俺の目に信じられない光景が飛び込んできた。

 生温い大気のなかを疾走していた絶対零度の氷が、リズの眼前で停止した。まるで不可視の障壁に阻まれたかのように。

 リズの指にはめられた指輪が強く発光している。太陽に代表される自然的な光とは根本から異なる、不思議な輝きだった。バチバチ、と音を立てて周囲に青白い電荷が走り抜ける。《悪魔》の波動を帯びた氷槍は、どれ一つとしてリズに届くことなく砕け散っていく。やがてナベリウスの氷は破片すら残ることなく消滅した。もし魔法なんて陳腐な言葉が許されるとしたら、俺は遠慮なく口にしていただろう。

「見たでしょ。あれが《精霊の書(テウルギア)》の力よ」

 呆然とする俺を一目も見ずに、ナベリウスは言った。

「わたしたち《悪魔》の異能を無力化し、無効化する。どんなに強力でも、どんなに膨大でも、それが《悪魔》によって発生した力なら、アレはことごとく消し去って見せるわ」

 それぞれの書が異なった能力を持つなかでも、リズの持つ指輪は『悪魔の異能を無力化し、無効化する』という性質を持つ、と銀髪悪魔は語る。

 でたらめすぎる、と否定することはしなかった。ここ数ヶ月ほどの間に立て続けで起こったさまざまな出来事が、一般的な常識を信じて不可思議な現象を否定するだけの小賢しさを奪っていた。ぶっちゃけ、菖蒲が俺の家に訪ねてきたときのほうがインパクトとしては上だったし。

「ようやく夕貴くんにも分かってもらえたみたいだね。百聞は一見にしかず、だったかな。日本のことわざって的を得ているものばっかりだよね」

 それを言うなら的を射るだろ、と訂正しようと思ったが、日本のことわざを口にする彼女の顔がちょっと嬉しげだったので俺はなにも言わないことにした。知らぬが仏だ。

「この指輪そのものに殺傷力はないけど、純粋な防御だけならずば抜けてるし、なにより四書一法のなかでもっとも小さいの。おまけに可愛いしね」

 それが《ソロモンの小さな鍵(レメゲトン)》か。また面倒な代物が出てきやがったな。できるなら俺の人生とは一切関わらずに海の向こうで勝手に大活躍していてほしいところだ。

「いま説明したことをすべて踏まえて、夕貴くんにどうしても聞きたいことがある。正直に答えてね。きみは《悪魔の書》がどこにあるか、分からないかな?」
「そんなの分かるわけないだろ。なんで俺に聞くんだ」

 呆れ半分にかぶりを振る俺を、じっと見つめる視線があった。どうやら冗談の類ではないらしく、リズの顔は真剣そのものだった。

「……夕貴、与太話に耳を貸す必要はないわ」

 俺のまえにナベリウスが立った。華奢な背中には艶やかな長い銀髪が揺れている。なぜか、彼女は拳をぎゅっと握り締めていた。なだらかな肩はかすかに震えていた。

「与太話なんかじゃないよ。わたしたちが面倒を冒してまで夕貴くんに接触した理由が知りたいんでしょ、ナベリウス?」
「……前言を撤回するわ。べつにあんたたちのことなんて知りたくない。それに夕貴はなにも知らないわ。知ってるわけない。ううん、知らなくてもいいのよ」

 小さな声で自分に言い聞かせるように言う。ナベリウスはリズから視線を逸らし、唇をきゅっと引き結んでいた。憂いを湛えた横顔から目が離せない。いつも俺を護ってくれる彼女の大きな背中が、このときは生まれたての赤子よりもか弱く見えた。しばらく押し黙ったあと、リズは「そっか」と短く相槌を打った。

「我々が、法王庁特務分室が、この極東の島国を訪れた目的は大きく分けて二つある」

 会話の間隙を見計らって、アルベルトが厳かに言った。

「まず一つ。現在、日本のどこかにあるとされる《悪魔の書(ゴエティア)》の発見、および回収。これは五つの書物のなかでも特異かつ最悪な力を持っている。その性質は、純然たる破壊にのみ特化しており、悪意を持って使用すれば甚大な被害をもたらすこともできる」
「……そう。《悪魔の書(ゴエティア)》が」

 まだ日本にあるのね、と。ナベリウスは俺にしか聞こえない、小さな、本当に小さな声でつぶやいた。いまにも泣き出しそうな顔に心が痛む。俺は直感的に確信した。きっとナベリウスは、その《悪魔の書》という書物に深い因縁があるんだ。それも、憎悪に値するような縁が。

「そして二つ。こちらのほうが重要度では上だろう。《悪魔》の三大勢力の一角を率いるグシオンが、この極東の島国へ入ったという。奴らを牽制し、予想される闘争を未然に防ぐための抑止力となることが、我らの最重要任務だ」
「グシオンがこの国にいるなんてね。ちっとも知らなかったわ。まあ、あいつは他の二人と比べると温厚なほうだから下手に暴れることはないでしょうけど」
「おおむね同意だが、しかしアレは強い野心家でもある。油断はできまいよ」

 俺は二人の会話を聞きながら、かつてダンタリオンが言っていたことを思い出していた。

 ”加えて、我らが同胞のあいだにも派閥があります。まあ現時点では《マルバス》、《バルバトス》、《グシオン》が率いる三大勢力が抜けていますがね。彼らはこぞって貴方のお父上である《バアル》、ならびにその従者二名を血眼になって捜索していたようですが、ついぞ行方は掴めなかったという話です”

 ナベリウスやダンタリオンと同等以上の力を持った連中が、すでに日本の土を踏んでいるだって? 俺たちが平凡な日常を謳歌している間にも、そして今このときも、そいつらは裏で暗躍してるってのか?

「日本はさまざまな利権が複雑に絡み合っており、身動きのしづらい国だ。にも関わらず、わざわざグシオンが来日したのは、まず間違いなく《悪魔の書》を手に入れるためだろう。ローマ教皇庁の権威が及ばないこの国なら、我らの戦力も大幅に限定される。ゆえに今しばらくはそちらの対処で手一杯になると予想される」
「つまりあんたらは、俺やナベリウスに構ってる暇はないって言いたいのか?」
「端的に言えばそうなる。すでに貴様らがグシオンと接触していたのであれば、この場で排除することも考えていた。しかし、いずれグシオンは、少年に接触を試みるだろう」

 なるほど。俺たちは見逃されるわけではなく、泳がされるということか。でもそれは見方を変えれば、リズたちと殺し合わなくても済むということだ。俺たちが《グシオン》と繋がらないかぎりは。

 あらかた話が終わる頃には、世界はすっかりと夜に包まれていた。太陽が沈んだ代わりに、漆黒の帳が下りている。展望台からは美しい夜景が見渡せて、点在する明かりが人の営みを教えてくれた。地上に現れた星空だった。
 
「――楽しそうな面子じゃねぇか。オレも混ぜてくれや」

 そのとき、横柄ながらもよく通る声が響いた。俺たちは揃って宵闇の向こうに目を向ける。静かな足音。深い闇のなかから、ナベリウスに匹敵する強大な存在感がほとばしる。

「ほぉう、懐かしい顔がいやがる」男が感心したように言う。「相変わらずいい女だなぁオイ。たまにはグシオンの野郎の言うことも素直に聞いてみるもんだ」

 血に濡れたように紅い髪が夜気のなかに揺れている。非の打ちどころがない整った相貌は、本来なら美丈夫という言葉がよく似合うのだろう。だが好戦的に吊り上った口端を見れば、彼がただの色男ではなく血に飢えた肉食獣に類似するものであると瞬く間に看破できた。なんの変哲もないジャケットと、ダメージの入ったジーンズ。紙巻き煙草を咥え、両手をポケットに突っ込みながら、こちらに歩いてくる。

「うわぁ、最悪。よりにもよって、なんでこいつが日本にいるのよ」

 ナベリウスが柳眉を歪めて悪態をついた。無理もない。俺でも分かるんだ。あの紅い髪をした男の、圧倒的なやばさが。

 美味そうに紫煙を吐き出しながら、男はゆっくりと歩み寄ってくる。愉悦に満ちた双眸が、紅い髪を透かして輝いている。

 俺は漠然と、避けられない殺し合いを予感した。



 
 澄んだ夜気のなかに紫煙が混じる。風に乗って流れてくる煙草の臭い。俺が、ナベリウスが、そして法王庁の者たちが最大級の警戒心を抱いて身構えるなか、紅い髪をした男はのんきに紙巻きのフィルターを咥えている。それが強者としての優越がもたらす余裕であることは一目瞭然だった。

「ずいぶんと久しぶりじゃねぇか。相変わらず最高にいい女だな、てめぇは」

 やや場違いにも思える賛辞は、俺のとなりにたたずむ女性に向けられた。真横から、はぁ、とため息をつく気配。

「あんたこそ、相変わらず殺気が剥き出しね。それじゃ女にモテないわよ」

 わずかな親しみと多大な皮肉を込めてナベリウスが応える。けんもほろろなその対応が愉快だったのか、男は小さく笑って煙草を指で弾いた。

 明らかに旧交を温めるような空気ではないが、彼女たちの態度は強敵を前にしているときに取る挙措ではなく、古い馴染みの悪友と軽口を交わすときのそれだった。たぶん、お互いに最古の同胞として認め合っているのだろう。俺には理解できないが、きっと二人にとっては殺しあうことですら”交友”なのだ。
 
「それで、あんたは何しに来たのよ。戦争がしたいなら世界中の紛争地域でも渡り歩いてくればいいでしょう。念のために言っておくけど、この国は戦争という概念が途絶えて久しいわよ」

 気だるそうに銀髪を掻き上げつつ、ナベリウスが口火を切った。

「戦争ねえ。それ自体は悪くねぇ提案だが、もう人間どもと遊ぶのにも飽き飽きしてんだよ」
「驚いたわ。まさかあんたが殺しにマンネリを感じるなんてね。お願いだから博愛主義に乗り換えるのだけは止めてよね」
「オイオイ、笑わせんなや。乗り換えたのはてめぇだろうが」

 そこで初めて、男の視線が俺を捉えた。肉食獣が獲物を吟味するように、全身をくまなく観察される。

「よぉナベリウス。その女みてぇなツラしたガキがそうかよ?」

 ナベリウスはなにも言わず、毅然と胸を張って頷く。すると男は退屈そうに鼻を鳴らした。

「……つまんねぇな」

 舌打ちとともに吐き出された言葉には失望の念が混じっていた。俺に向けられていた殺気が霧散していく。品定めの結果、どうやら俺は喰らうに値しない獲物だと判を下されたらしい。

「懐かしい波動だ。確かに《バアル》の面影はある。だが、それだけだ。こんなチンケなガキじゃ野郎には遠く及ばねえ。アレは正真正銘のバケモンだったからな」
「おいおまえ。いきなり出てきたくせに、俺の父さんをバケモン呼ばわりすんなよ。あと、俺はガキじゃねえ」
「はっ、口だけは一人前だな。身の程も知らねぇガキが吼えやがる。どうしてグシオンはこんなガキに執心すんのかねぇ」
「……三回目だぞ」
「細かいこと気にすんなや。女々しいのはツラだけじゃねぇのか、ガキ?」
「……上等だ。ガキかどうか思い知らせてやる」

 力の差なんて関係ない。これは沽券の問題だ。男だったら嘘でも意地を張らなければならないときがある。その瞬間を見逃すほど、俺は伊達に十九年も男をやってない。

 だが男のすかしたツラをぶん殴ってやろうと足を踏み出した俺の肩に、ナベリウスが優しく手を乗せた。どうして止めるんだ、と視線で尋ねると、彼女は黙って首を横に振った。銀色の目が、危険だから止めなさい、と告げていた。

「そういうこった。止めときな、ガキ。おめえじゃ力不足だ」

 俺たちの様子を見ていた男がくつくつと笑った。

「まぁ安心しな。オレは女の背に隠れるような野郎に興味なんざねぇからよ」
「俺が、女の背に隠れてるだと……?」
「そうだ。悪いことは言わねえ。てめぇは隅っこのほうで丸くなって震えてな。あの世にいるパパにでも祈っとけや」

 だめだ。もう我慢できない。ダンタリオンもそうだったが、どうして《悪魔》ってのはこうも癪に障る野郎ばっかりなんだ。

 物心ついたときから今の今まで、ずっと努力してきたつもりだ。勉強もスポーツも人一倍頑張ってきた。天国にいる父さんに安心してもらうために、母さんに頑張ったねって頭を撫でてもらうために。子供ながらに母さんを護らなきゃって、空手の道場にも通ってた。積み重ねてきた努力の数は自分でも胸を張れる。

 しかし、それでも、本音ではあの男をぶん殴れる気がしなかった。どう脳内でシミュレートしても、自分が殺される光景しか思い浮かばない。

 悔しかった。べつに俺はナベリウスの背に隠れているわけじゃない。むしろ俺が彼女を護ってやりたいんだ。いくら《悪魔》と呼ばれていても、俺の眼前にある長い銀髪を揺らす背中は、抱きしめれば壊れそうになるほどに細いから。

 女の子を護ってやることができて初めて一人前の男なんじゃないのか?

 だとすれば、ナベリウスの背に隠れてるいまの俺はなんなんだ?

「堪えなさい。あいつは、いまの夕貴が敵うような相手じゃないわ」
「……ああ。分かってる」

 そんなことは誰よりも俺が一番分かってる。分かってるからこそ、情けなくて悔しいんだろうが。

「法王庁特務分室か。珍しいじゃねぇか。普段は欧州に引きこもってるてめぇらが、わざわざ日本くんだりまで来やがるとはよ」

 男は挑発するような声音で、俺とナベリウスから十数メートルほど離れた位置にいる特務分室の連中を揶揄した。武装した十二人の男と、鞘に収めた一振りの剣を構えるアルベルト。彼らの後ろにいるのか、リズの姿はよく見えなかった。

 俺は素直に驚いた。《悪魔》の血を引く俺でさえ、あの紅い髪の男に気圧されているんだ。にも関わらず、白い軍服を着た男たちは一歩も引くことなく堂々と対峙している。きっと《悪魔》と戦闘することを想定した訓練を日常的に行うだけでなく、己が胸に揺るぎない矜持を刻んでいるのだ。いきなり人に銃口を向けてきたりと物騒な連中だが、一人の男として、彼らの在り方には敬意を払うべきだと思った。

「確認したい。先の北欧の惨劇は、貴様たちの仕業で間違いないな」

 男が煙を吸って吐き出すまでの間、じっと口を閉ざしていたアルベルトが長い思慮の末に言った。

「あぁ間違いないぜ。よく調べてやがるな。オレたちの姿を見たやつぁ例外なくぶち殺したはずだが、さすがにてめぇらの目までは誤魔化せねぇか」

 その諜報能力だけは利用価値がある、と男は続けた。

「一つだけ聞かせろや。《悪魔の書(ゴエティア)》はどこにある?」

 アルベルトたちの目が鋭くなる。ついさっき男は《グシオン》と口にしていた。すでに状況証拠は出揃っている。裏の世情に疎い俺ですら、大体の事情を察することができるほどに。

「やっぱりあなたたちも《悪魔の書(ゴエティア)》を探してるんだね。ところで、グシオンは元気にしてるのかな?」
「あ?」

 緊張の糸が張り詰めた一触即発の場に、きれいな少女の声が響いた。アルベルトの大きな背に隠れていたリズが、軽やかな足取りで姿をさらした。ツインテールに結われたストロベリーブロンドの髪が風に揺れている。

「わたしたちの調査したところによると、あなたともう一人は北欧で好き勝手に暴れたあと、グシオンの指示に従って来日したはずなんだけど。ちがうかな?」

 後ろ手を組み、愛らしい笑顔を咲かせて問いかける。リズの質問に対し、男はどう応えるのか。俺が状況の推移を見守っていると、男の唇から紙巻き煙草がぽろりと落ちた。石畳のうえに短くなった灰が舞い散る。

「てめぇは……」

 男はまるで幽霊を見たときのような顔で、リゼット・ファーレンハイトという少女の風采を仔細に眺める。ほどなくして、乾いた笑いがこぼれた。恰幅のいい肩がやおら上下に揺れ始め、その失笑の要因を悟られまいとしてか、男はてのひらで顔を覆って夜空を振り仰いだ。

「……知ってる。よーく知ってる」

 ひとしきり笑ったあと、いびつに歪んだ唇から興奮を殺しきれない声がリズに向けられた。

「てめぇのツラには死ぬほど見覚えがあるぜ。忘れようとしても忘れられねぇクソ忌々しいツラだ」

 むむむ、と眉をしかめるリズ。

「だめだよ、女の子にクソ忌々しいなんて言ったら。あんまりひどいこと言われると泣いちゃうんだから」
「はっ! そのうざってぇ物言いもあのクソガキにそっくりじゃねぇか!」

 まるで話の流れが理解できなかった。初対面の俺から見ても、フォルネウスの様子は尋常じゃない。そういえばナベリウスも初めてリズを見たとき言葉を失っていたが、なにか関係があるのだろうか。

「ナベリウス。おめぇも気付いてんだろ?」
「……ええ。その子は」
「ああ。こいつは」

 男は、冷淡な声で告げた。

「このクソガキは――あまりにもソロモンに似すぎている」

 リズは何も言わなかった。

「その顔、その身体、その声、その口調、そして魂の在り方までもが瓜二つだ。唯一、違うとすりゃあその気色わりぃ髪の色ぐらいか。どちらにしろ親兄弟でもここまで似ることはないだろうぜ。なぁオイ、クソガキ。てめぇは何者だ?」
「うーん、何者って聞かれても困るね。リゼット・アウローラ・ファーレンハイト。それがわたしの名前だよ」

 凄烈なまでの威圧をバックに放たれた誰何にも顔色一つ変えず、リズは丁寧に自己紹介した。だが、いくら懇切に名乗りを上げても、そこに男の求める情報がなくては意味がない。男の顔が、ぎりり、と歪む。

「……そうかい。まぁ何でもいいがよ。てめぇがソロモンの縁者だろうが本人だろうが生まれ変わりだろうが興味はねえ。《悪魔の書(ゴエティア)》に関する情報を洗いざらい吐かせてから殺してやるよ」
「怖いね。でも、あなたにはわたしを殺せないよ」

 リズが右手を胸のまえで水平に構えた。その人差し指にきらめく指輪を見て、男の目の色が変わった。次いで、口端が吊りあがり、黙っていれば色男と形容しても差し支えない顔立ちが、好戦的な形相へと変貌していく。ただでさえ容赦のなかった闘気の発露が、ここにきて完全に人の域を超えた。

 ナベリウスが俺を護るように身を寄せてきた。白の軍服を着込んだ男たちは連携を乱さず、サブマシンガンの銃口を突きつける。リズは一歩下がり、目を細めて敵を見据える。鞘から剣を引き抜いたアルベルトが、姿勢を低くする。

 各々が満を持して戦闘態勢を整えるなか、男はふところから取り出した新しい煙草を口に咥えた。

「いいぜ。始めようじゃねぇか」

 投げやりな声が空気を震わせた瞬間、アルベルトが疾走した。その踏み込みを見ただけで、彼の武芸が神域に達していることが分かる。流水のごとく滑らかな初動でありながら、駆ける姿は疾風そのもの。アルベルトは間合いを詰めると、大上段に構えた剣を躊躇いもなく振り下ろした。

 だが、それが届くことはなかった。

「そういや、まだ名乗ってなかったか」

 アルベルトの剣先は、男のすぐ目の前で停止していた。リズがナベリウスの異能を無効化した光景とよく似ているが、本質はまったく異なる。なぜなら鼓膜を揺さぶる強いハウリングが、いま俺の目の前で起こっている現象の正体を教えてくれたから。

 男の周囲が黒くかすんでいく。地面から炎が吹き上がるように、あるいは風が逆巻くように、男の周囲を闇よりも濃密な『影』が取り巻いている。自由自在にかたちを変えるそれは、堅固な盾と化して男の正面に展開し、銀色の剣先を受け止めていた。

 常識が通じない。否、俺たちの常識が通じるはずもない。なぜなら彼らは――

「オレの名は《フォルネウス》。ソロモン72柱が一柱にして、序列第三十位の大悪魔だ」

 告げてから、ライターを取り出し唇に咥えたままの紙巻き煙草に着火する。闘気と闘気が、武威と武威が、黒と白が激しく衝突するなか、ゆらゆらと立ち上る紫煙だけが孤独だった。

 フォルネウスは煙を肺に入れて味わいながら、目の前にせまる刃を楽しげに見つめていた。人の手によって鍛え上げられた鋭利な凶器を前にしても、堂々たる佇まいには微塵の揺らぎもない。それは幾百、幾千の闘争を乗り越えてきた者だけが持つ、無窮の威風。どれだけ戦いに身をやつせばこれほどの領域にまで辿りつけるのか、もはや推して知ることもできない。

 対するアルベルトは剣を振り下ろした体勢のまま、邪悪に揺らめく『影』と鍔競り合いを演じている。超常の異能を視認しても目の色も変えないのは、《悪魔》という種族のことを凡百よりも存知しているからか。フォルネウスがこの程度のことを造作もなくやってのけるのは、アルベルトにしてみれば百も承知なのだろう。分かったうえで、彼はおのれの誇りと武練を賭けて切り結んでいるのだ。

 金属と影が拮抗し、宵闇に火花を散らす。自分が渦中の人物ではなく傍観者であると錯覚するほどに、その剣戟は美しかった。

「悪くねぇな。人間にしちゃ上出来だ。てめぇの名は?」
「法王庁特務分室第一戦隊所属、戦隊長。アルベルト・マールス・ライゼンシュタイン」
「長ったらしい名前だな。まあいい。憶えておいてやる」
「いらんよ。貴様はここで果てる」
「おもしれぇ。口じゃなく行動で示してみな」

 無論、と言葉を置き去りにして、アルベルトは脚の筋肉をたわめて一気に後ろに跳んだ。大きく距離を開けたあと、間髪いれずに駆け出しふたたびフォルネウスに肉薄する。長い刀身を横薙ぎに一閃。しかし、それも寸前で『影』によって阻まれた。打ち込みの衝撃ですさまじい衝撃波が生まれ、石畳にかすかな亀裂が走った。アルベルトの剣技や体捌きは超人の域にあるが、どうやってもフォルネウスに刃は届かない。

「あれは……」

 いったいなんだ? 《悪魔》が恐ろしい能力を持った生き物であることは知っていたが、まさか『影』を使役する者がいるなんて夢想だにしていなかった。

 そのとき、俺の疑問に合わせてリズが言った。

 《夜影を歩く者(ミッドナイト・ウォーカー》

 わざわざ説明されるまでもない。それがフォルネウスだけが持つ異能の名であることは明白だった。元来、『影』とは特定のかたちを持たない像だ。それに質量を持たせて操り、アルベルトの剣技を一歩も動くことなく防いでいるのだ。あれが《ハウリング》でなくて何だと言うのか。

「戦隊長!」

 特務分室の男が叫ぶ。アルベルトは横目にちらっと声がしたほうに視線を向けたあと、裂帛の気合とともに剣を振りぬき、フォルネウスを守護していた『影』に一筋の亀裂を作ると真横に跳んで離脱した。

「斬りやがったか。やりやがる」

 悪魔の賛辞を掻き消すように、サブマシンガンの銃口が一斉に火を噴いた。アルベルトが全身全霊をもって作り出した間隙を狙って、秒間に何百発もの弾丸が放たれる。銃器の奏でるオーケストラは鼓膜を侵し、連続するマズルフラッシュは夜空にまたたく星のようだ。

 フォルネウスは短くなった煙草を指で弾き、銃弾の嵐から逃れるために駆けた。深紅の大悪魔が走ったすぐあとを無数の弾丸が貫き、石畳に弾痕を穿っていく。

「このチャンスを逃す手はないわね……!」
「えっ、おい!」

 やにわに俺のとなりにいたナベリウスが走り出した。反射的に手を伸ばすと長い銀髪のさきに指が触れたが、彼女自身を捕まえることは叶わなかった。

「あいつは危険よ! 法王庁と手を組むのは癪だけど、フォルネウスを野放しにはできない! 夕貴はそこにいなさい!」

 振り返りもせずに告げる。俺の抗弁を封じるように、ナベリウスの身体から冷たい波動がほとばしった。

「いいねぇ! やっぱりてめぇは最高にいい女だぜ、ナベリウス!」

 かつての同胞の参戦を見受けたフォルネウスは、無邪気な子供のごとく声を張り上げた。それを完全に無視して、走った勢いもそのままに回し蹴りを繰り出すナベリウス。つま先がえがく軌跡は、月の弧よりもなお美しい。しかし、跳ね上がった細い脚はあっさりと受け止められた。ちょうどマガジンが空になったのか、銃撃が止む。しんと場が静まった。

「アスタロトから聞いたぜ。てめぇ、ダンタリオンを殺りやがったそうだな」
「それがなに? わたしの夕貴にちょっかいを出したあいつが悪いのよ」
「いい加減、目ぇ冷ませよ。あのガキに、てめぇほどの女が命を賭ける価値なんざねぇだろう。言っとくが、オレはダンタリオンのことがそう嫌いじゃなかったぜ」
「呆れたわ。まだ分かってないのね。そろそろ女心を理解しなさいよ。いい、女って生き物はね」

 ナベリウスの声を遮るように再度、銃撃が始まる。大気を焼く弾丸。耳をつんざく銃器の咆哮。密着した二柱の《悪魔》めがけて、鉛の雨が降り注ぐ。

「――かわいい男の子が好きなのよ!」

 とりあえずあとで説教してやろうと思う程度にはアホらしいことを真顔で告げながら、彼女は脚を強く振りぬいた。それはダメージにはならなかったが、両者は蹴りの衝撃によって鏡合わせに吹き飛んだ。その中間を銃弾が通過していく。

 フォルネウスは石畳を削って勢いを殺したあと、ゆらりと上半身を起こし、真上に注目した。すでにナベリウスは空高く跳躍し、夜空に向かって手を伸ばしていた。鮮烈な冷気が集まる。

「凍ってろっ!」

 銀髪悪魔が手を振り下ろした。それに従って、大型自動車ほどはありそうな巨大な氷塊が落下する。次の瞬間、フォルネウスの周囲をたゆたっていた『影』が幾重にも枝分かれして帯状に伸び、一つ一つの先端が刃物のように変形した。氷塊はズタズタに切り裂かれ、大きな破砕音とともに細かな破片が展望台に散らばる。白い霧が吹き荒れ、視界を覆い隠した。

 轟音と衝撃が立ち込めるなか、肌と肌を打ち付けあう音が爆ぜた。よく目を凝らしてみれば、白煙の向こうに深紅と白銀のシルエットが拳を合わせているのが分かる。双方はふっと笑ってから、俺たち人間の理解が及ばない領域に突入した。

 驚異的な速さで交差する戦技。一瞬の読みが数手先の死に繋がる刹那の攻防。恐るべき膂力で振りぬかれる拳。踏み込みは鋭く、かすかな残像が尾を引いていた。俺も、リズも、アルベルトも動けない。飛び道具を持つ隊員たちですら固唾を飲んで見守っている。それほどまでに二柱の《悪魔》の戦いは圧倒的だった。うかつに介入すれば死ぬだけだと、誰もが頭ではなく本能で理解していた。

 彼女たちが強いのは知っていた。知っているつもりだった。そんな俺の甘い認識は、ほんの一瞬にして粉々に打ち砕かれた。

 これが、《悪魔》か。

 いまさらながらに自分の身体に流れる血を意識してしまう。決して他人事じゃない。ナベリウスが忠誠を誓い、ダンタリオンが敬い、フォルネウスが認めた大悪魔の血が、俺のなかには流れているんだ。

 そうこうしているうちに拮抗は崩れた。フォルネウスの一撃を受け損ない、ナベリウスは容赦なく蹴り飛ばされる。もともと格闘戦の相性が悪かったのだろう。俺が見たところ、技はナベリウスがやや上、力はフォルネウスがかなり上といった塩梅である。あそこまで競り合っただけでも、銀髪悪魔は賞賛されるべきだった。

 ここまで機を伺っていたアルベルトが一息に間合いを詰めて、剣を横一文字に薙ぎ払った。

「バカが! 効かねぇよ!」

 フォルネウスは右手を前に伸ばし、真っ向から迎え撃った。漆黒の『影』が踊り、銀の剣閃を阻む。衝突の際に火花が散り、爆発的な風圧が二人の髪を揺らした。

 今宵、三度目の鍔競り合いを演じる大悪魔と戦隊長。並みの使い手では立ち入る隙のない膠着に、銀色の影が割って入る。

 長い髪をなびかせながら低姿勢で肉薄したナベリウスが、全力でハイキックを見舞う。足を踏ん張り、腰をしっかりと使い、膝のスナップを利かせて、柔らかい身体を最大限に生かした蹴りである。そこらの男なら見蕩れている間に意識どころか命まで刈り取られているだろう。

 だが美人からのプレゼントをすんなりと受け取るほど、フォルネウスは紳士じゃなかった。

 左手を伸ばし、大きなてのひらで細い足首をがっしりと掴み取る。ウィングスパンを計測するように両手を大きく広げた体勢で、ナベリウスとアルベルトの攻撃を同時に防ぎきった。

「どうしたよ。そんなもんか?」

 すでに理解していたことだが、あらためてフォルネウスの戦闘能力には畏怖の念を禁じえない。初見で達人の剣技を見切る慧眼。かつての同胞をも圧倒する武威。数の不利なんて関係ない。気が遠くなるような時間、闘争のなかに身を置き続けたフォルネウスの実力は、俺の想像しうる次元のさらに上をいっている。

「調子に――」

 アルベルトの手にぎりぎりと力がこもる。微動だにしなかった刀身に動きが見えた。

「――乗るなっ!」

 ナベリウスが叫んだ。瞬間、崩れる拮抗。切り裂かれる『影』。フォルネウスは大きく身を捻って迫りくる剣先をかわし、その過程で自由になったナベリウスは脚を引き戻しながら体軸を回して裏拳を放った。ふわりと腰まである銀髪が舞い上がり、汗の浮かんだ白いうなじがあらわになる。

 戦況が変わった。攻撃とは最大の防御である。であれば、敵が防戦にまわったら一気に畳み掛けるのが定石だった。

 華麗な蹴り技と、隙のない剣戟が交差する。氷と体術をうまく使って柔軟に仕掛けるナベリウスと、自らが振るう刃と同等以上に磨き上げられた剣技を用いるアルベルト。

「はははっ! 最っ高だよてめぇら!」

 打って変わって防戦一方に追い込まれても、紅い悪魔は笑みを絶やさない。苦々しい気持ちが胸を焦がし、嫌な予感が脳裏をかすめる。もしここに万の軍勢がいたとしても、フォルネウスを打倒することは適わないのではないか。心の奥底で、弱くて女々しい自分が顔を出す。

 そんな俺の葛藤を、けたたましい銃声が掻き消した。特務分室が手持ちの火器を乱射したのだ。ナベリウスとアルベルトが同時に飛び退き、残されたフォルネウスは超人的な身体能力を駆使して銃弾の雨から逃れる。いくら強力でも、人が作り出した兵器では《悪魔》に対する必殺にはなりえない。

「……だから」

 俺が必殺に変えてやる。無機質な大量生産の鉛弾に血を通わせるのが、俺の役目だ。

 もう下を向くな。いまはできることをやれ。おまえには父さんからもらった力があるだろう。

 心臓の鼓動がはっきりと聞こえる。やたらと熱い血液が全身を駆け巡り、頭のなかでは甲高い耳鳴りが薄っすらと響いている。普段は水平に構えている天秤が、人ではなく《悪魔》のほうに傾き始めるのが分かった。

 なぜか悲しそうに顔を歪めるナベリウスが視界に入った。そんな顔すんなよって言いたかった。いまの俺でもおまえを護ってやることができるんだって証明したかった。

 俺は男らしさだけじゃなくて諦めの悪さにも自信があるんだ。舐められっぱなしじゃ気が済まない。

「こりゃあ……」
 
 フォルネウスが怪訝顔で動きを止める。なにを訝しんでいるのかは知らないが、この機を逃す手はない。

 発砲された何百発もの弾丸が、ありえない軌道を描いてフォルネウスに襲い掛かる。いくら躱されても、何度でも軌道を修正させてみせた。まだ自分の力のことはよく分からない。それでも『金属を操れる』という特性だけはしっかりと理解している。かつては銃弾を逸らすのが限界だったのに、いまはこうして操作することまでできる。自分でも気付かないうちに、俺の力は確実に強まっていた。

「おもしれぇ! 見せてみろやガキ! グシオンが執心するほどの価値がてめぇにあんのかよ!」

 うるさい。グシオンのことなんて関係ねえよ。俺をだれだと思ってやがる。父さんと母さんの息子だ。ずっと強くなろうって足掻いてんだ。いつか自分の力で母さんを護ってあげたいって夢見てんだ。おまえなんかに邪魔されるほど俺の目標は低くない。

 なにより心配そうな目で俺を見つめる銀髪悪魔に、無様なところを見せてもいいのか? またいつものようにあいつの優しさに甘えるのか?

 ほんとうにそれでいいのか、萩原夕貴?

「――んなわけねえだろうがっ!」

 他の誰にでもなく、俺自身に向かって叫んだ。奮い立たせるんだ自分を。見返してやるんだ相手を。虚勢でもいいから思いっきり前を向いてやれ。力では劣っていても、男としては絶対に負けてやるわけにはいかない。

 女々しくてもいい。情けなくてもいい。いまは強い自分を追いかける弱さがなくてはいけない。弱い自分を認められる強さがなくてはいけない。

 だから、舐めるな。俺は女の背に隠れてるだけのガキじゃねえ……!

「……気が変わった」

 フォルネウスが静かに呟いた。抑揚のない、平坦とした声。殺しに熱狂していた双眸が急速に冷えていく。血に飢えた肉食獣のごとき獰猛な笑みはすでにない。

 その異変は唐突に起こった。これまでの比じゃない強烈な耳鳴り。フォルネウスを目掛けていた銃弾が、奴の身体を突き抜けていく。確かに被弾したはずなのに血や体液は一切出ないし、ダメージを負った様子もない。

 よくよく目を凝らせば、銃弾が貫通した箇所から黒い煙が吹いていた。それだけじゃない。フォルネウスの輪郭が少しずつ曖昧になっていく。固体が気化するように。もっと言えば、肉体が闇と同化するように。

「てめぇらはおもしれえ。ここからは全力で遊んでやるよ」

 刻一刻と強壮さを増していく《悪魔》の波動が、少しずつ世界の法則を書き換えていく。歪められた物理法則は、やがてフォルネウスにフィードバックする。

 そう、これは《フィードバック》だ。

 ソロモン王に封じられた七十二柱の大悪魔は、本来の力の大部分を失った。ゆえに現在の彼らがふるう異能は、大きな湖からバケツ一杯分の水をくみ上げた程度のものでしかない。しかし彼らは、体力の多くを費やすことによって、かつて失った本来の力を限定的に行使することができる。それは諸刃の剣だが、最大の切り札でもある。ちっぽけなバケツと、広大な湖。どちらがより強力かは考えるまでもない。

 かつて俺に《フィードバック》の何たるかを説いたダンタリオンは時の流れを止めて見せたが、それに匹敵するほどの不気味な気配が漂い始めた。

「……あのバカ、ここが日本だってこと忘れてるわね」

 俺のかたわらにナベリウスが着地した。法王庁の連中はじりじりと後ろに下がりつつある。あのリズでさえ、いまは分かりやすく渋面をしていた。

「光栄に思えや。これを使うのはずいぶんと久しぶりだ」

 俺は戦慄した。もはや『影』なんてレベルじゃない。この自然公園を包み込む『闇』そのものが、フォルネウスに隷属している。底知れない深淵が、石畳やベンチや樹木を少しずつ、けれど貪欲に飲み込んでいく。

 大地が揺れる。気流が乱れる。ここになにも知らない民間人がいたら、間違いなく今日が世界滅亡の日だと確信を抱いているところだ。ブラックホールに吸い込まれるように、『闇』がフォルネウスの腕に凝縮されていく。冗談抜きに馬鹿げてる。だって、あんなのをぶっ放したらどうなるか想像もできない……!

「はぁ、まさかここで使うなんて……あいつの力は見境がないうえに超広範囲に及ぶから厄介なのよね。おまけに力を発動させている間は基本的に不死身だし」

 ナベリウスが銀髪をくしゃりと掻き上げて悪態をつく。古い知り合いであるがゆえにお互いの能力もばっちり把握しているのだろう。

 みんなが一斉にフォルネウスを止めようと試みる。だが空から氷が降り注いでも、どれだけ銃弾を打ちこんでも、それらは意味を成さなかった。あらゆる物理的攻撃は、すべてフォルネウスの身体をすり抜けていく。いつの間にか奴の身体は、ほとんど『闇』と融合していた。いや、フォルネウスそのものが闇になっていた。

 俺たちの視線の先には、冗談としか思えない光景が広がっている。フォルネウスの手に宿る絶望。影を操っていたときとは比べ物にならないほどの物量と禍々しさだ。
 
「まずは小手調べだ! 躱すなら上手く躱せや! 受け止めんなら死ぬ覚悟でかかってきやがれ! あっけなく死んでくれんなよなぁオイ!」

 ハイになった口調で声を張り上げて、フォルネウスは石畳に拳を突き刺した。紅い髪とジャケットの裾が激しく巻き上がる。

「ぶっ飛べぇっ!」

 夜が爆発した。本当に、夜が爆発したとしか言いようのない現象だった。フォルネウスを中心に、黒い衝撃波が田んぼの稲をなびかせる風紋のごとく広がっていく。丁寧に敷き詰められていた石畳が剥がれて宙を舞い、接地していたベンチが砕け、そこらに茂っている木々がなぎ倒されていった。

「げ、やば――」
「うわっ!?」

 ナベリウスは俺の腕を引いて大きく後ろに跳び退った。出来の悪いジェットコースターに乗っているような体感と視界。すぐさま俺は自分の脚で立ち、ナベリウスとともに爆心地から離れようと執心する。

「甘ぇよ。ガキ」

 そんな俺たちを紅い悪魔が嘲笑う。うるさい。おまえなんかにガキ呼ばわりされる筋合いはねえよ。そう声に出そうとしたまさにその瞬間、邪悪な黒い奔流がとうとう俺たちの身体を飲み込んだ。ナベリウスが咄嗟に展開した氷の壁も、数秒の時間稼ぎにしかならなかった。

 思わず目を瞑ると、なぜかいい匂いがした。ぎゅっと抱きしめられる。顔に当たる柔らかい感触と、後頭部を優しく撫でる彼女の手。さらさらとした銀髪が頬をくすぐる。

 こんなときなのに俺は呆れた。本当に過保護だよな、おまえは。



****



・《ソロモンの小さな鍵(レメゲトン)》
 ソロモン72柱の力を抑制するために産み落とされた五つの法典。書物の名を関してはいるが、その形状はさまざまである。例として、リゼット・ファーレンハイトが所有する《精霊の書(テウルギア)》は本ではなく指輪のかたちをしている。
 それぞれの書が異なった能力を持つ。四書一法という隠語で呼ばれることもある。

・《悪魔の書(ゴエティア)》
 現在、日本のどこかにあるとされる書物。能力は不明だが、アルベルト曰く『純然たる破壊にのみ特化しており、悪意をもって使用すれば甚大な被害をもたらすこともできる』とのこと。
 これを発見、および回収することが法王庁特務分室の目的。また《悪魔》の三大勢力の一角を率いるグシオンは、この書物を手に入れるために来日したと目されている。

・《精霊の書(テウルギア)》
 リズが所有する指輪のかたちをした書物。『悪魔の異能を無力化し、無効化する』という能力を持つ。四書一法のなかでも純粋な防御だけならトップクラス。

・《星の書(パウリナ)》
 所在、能力ともに不明。

・《天空の書(アルマデル)》
 所在、能力ともに不明。

・《天元の法(アルス・ノヴァ)》
 所在、能力ともに不明。





[29805] 3-7 加速する戦慄
Name: テツヲ◆c49d9b75 ID:366fa69a
Date: 2012/10/01 15:56
 
 目が覚めたときにはもう、となりに大好きな温もりはなかった。

 真夏なのに肌寒いと感じた。果てのない暗闇に一人ぼっちにされたかのような寂寥感。意識が途切れる寸前まで俺を抱きしめてくれていた彼女の温もりは、すでにどこにも残っていなかった。

 自分が土のうえに仰臥しているのだと理解するのには時間がかかった。尋常じゃない倦怠感が全身を包んでいる。思考は鈍く、瞼は重い。身体の至るところが痛んだ。きっと服を脱げば、そこには打撲や擦り傷のオンパレードが見れるだろう。

 ゆっくりと上半身を起こし、あたりを見渡す。うっそうと生い茂った草木が目に入った。荘圏風致公園には緑が多く、敷地面積の大部分は雑木林にも似た木々の連なりによって占められている。どうやら俺は散策路から大きく外れた木陰に倒れているらしい。強すぎる自然の香りが肺を満たし、爪のあいだには土が挟まっていた。

 覚醒してから、時間にして十数秒ほどは自分がなぜこんな場所で寝ていたのか分からなかったが、じんじんと鈍い痛みを訴える身体がすぐさま現実を思い起こさせてくれた。あれだけ美しかった展望台が一方的に蹂躙されていく光景を強く憶えている。血よりも紅い髪をした悪魔の笑い声が耳に残っている。

 そうだ、俺はフォルネウスの一撃から逃げ切れなかったのだ。風に吹かれる紙クズみたいに吹き飛ばされて、この場所に落ちたのだろう。

「くそっ……」

 その場に座り込んだまま、言い知れない悔しさを紛らわせるために拳を握り締めた。俺はなにもできなかった。あれだけ大口を叩いたくせに、フォルネウスの力を前にして為す術を持たなかった。でも俺は辛うじて命を拾い、こうして自分の無力を嘆いている。俺が助かったのは運がよかったからではなく、そうなる必然があったからだ。

 黒い奔流に飲み込まれる寸前、反射的に目をつむった俺を抱きしめてくれた人がいた。柔らかくて、いい匂いがして、気持ちよくて、温かくて。あの優しい感触がまだ薄っすらと肌のうえに残っている。

 恋人のように強く抱きしめられたのだ。もしかしたら近くに彼女がいるかもしれないと考えたが、拙いなりに《悪魔》の波動を探ってみても、周囲からはあの冷たくて美しい気配は感じられない。

「……あのバカ、俺に黙っていなくなったりしたら許さないからな」

 じっとしていても始まらない。俺はすぐそばにあった大木の幹に手をついて立ち上がった。身体の節々から焼け付くような痛みが自己主張を始めたが、懸命に歯を食いしばって我慢した。その気になれば動けないことはなさそうだった。

 夜の荘圏風致公園は、あの展望台での喧騒が嘘のように静まり返っていた。虫の求愛する声も、小動物が地を駆ける気配も一切しない。俺の荒い吐息だけがやけに大きく聞こえ、歩くたびに葉擦れの音が響いた。

 ぼんやりと、うまく思考がまとまらない。気を失っていた時間はそう長くないはずだが、頭のなかは寝覚めが最悪の朝と同じぐらい鈍っている。それでも足が前に進むのは、きっとナベリウスのことが心配だったからだ。いまはフォルネウスなんてどうでもいい。とにかく銀髪悪魔の元気そうな顔が見たい。

 見晴らしのいい散策路は避け、あえて繁茂した木陰に身を隠して木々の群れのなかを歩いていると、ふいに無邪気な少女の顔を思い出した。ストロベリーブロンドの髪が自慢で、ちょっとお尻が大きいことを気にしていて、日本のことわざが大好きな女の子。リズは、法王庁特務分室は無事なのだろうか。彼らの実態はよく分からないし、今後の展開によっては最大の敵となるかもしれない連中だが、できるなら生きていてほしい。それが甘い考えなのは自覚しているが、いままで平凡な学生として暮らしてきた萩原夕貴の常識は、見知っただれかが死んでしまうことに否定的な見解を訴えている。

 どうしてここまであの少女のことが気になるのか、と心のなかで自問してみれば、答えはすぐに見つかった。わたしにはお父さんとお母さんがいない。リズが笑顔で口にした言葉が、俺の心を強く抉っていたからだ。

 叶うなら、もう一度だけリズと話がしたい。彼女の目的が知りたい。あの子には、特務分室の任務とは別に、もっと大きな使命のようなものがある気がする。少なくとも、あんな澄み切った目をした子が腹のうちで邪悪なことを画策しているとはどうしても思えなかった。

 小川のようにゆっくりと流れる思考に身を任せて、俺はとくに強く痛むわき腹を抑えながらナベリウスの姿を探していた。

 そして、足を踏み出した瞬間だった。

『――そこにいたかよ、ガキ』

 否が応にも殺戮を予感させる声が薄闇に響いた。いちど交通事故に遭うと車に恐怖心を抱くように、圧倒的な力によって俺を打ちのめした男の声を耳にした途端、胸のおくから抑えようのない戦慄が湧き上がり、傷ついた全身を硬直させた。

 俺が立ち止まるのとまったくの同時に、かすかな風切りの音が耳に届いた。とっさに大地を強く蹴り、衣服が土に汚れるのも構わず前に転がる。直後、闇色の刃が閃き、俺の毛髪を数本だけ断ち切った。あと刹那も遅ければ、どうなっていたか。その答えを知ろうと、俺は片膝をついた体勢のまま後ろを振り返った。

「……おいおい」

 背後にあった大木に一筋の亀裂が走り、ゆっくりと斜めにずれていく。ちょうど俺の首の位置の高さで切断された木は、物々しい音を立てて地面に倒れた。

『いい反応だ。悪くねえ』

 立ち込める『闇』がくつくつと湿った音を漏らした。フォルネウスの姿はどこにも見えないが、きっと奴はどこにでもいる。

 ひどく静かな時間が流れる。大きな音を立てて暴れる心臓が邪魔だった。天然の遮蔽物に囲まれたこの場所は、俺にとっては死角だらけだ。身を隠すために利用していた木陰がここにきて仇となり、フォルネウスの能力をより凶悪なものに仕立て上げている。

 忙しなく前後左右に視線を這わせて、ひたひたと近づいてくる死の気配を探った。まるで体を動かしていないのに、高まる緊張から大量の汗が噴き出し、服をべっとりと濡らしていく。

 ……どこだ? 次はどこから来る? 向こうの樹木の脇からか? すぐそばにある木陰からか? 俺はちゃんとそれを察知できるのか? 気付けたとしても躱せるのか?

 初撃から数えて十秒も経っていないのに、俺の神経は磨耗する寸前だった。一秒がどこまでも引き伸ばされて、時間が無限に感じる。周囲のあらゆる音が聞こえなくなり、自分の心臓の音だけがやけに大きく聞こえていた。

 そのとき、ぽたり、と大粒の汗が顎から滴り落ちた。何気なく地面に目を向ける。それが功を奏した。

「――っ!?」

 ほんの一瞬、俺の真下の地面が醜く歪んだかと思うと、そこから夜空に向かって漆黒の炎が吹き上がった。見上げるほど高い火柱は、木々が咲かせた若葉を無残に散らしながら屹立する。バックステップが間に合い、コンマの差で命を繋ぐ。

 いま助かったのは奇跡だ。汗が落ちなかったら、俺は間違いなく死んでいた。前後左右どころじゃない。上からも下からも死神の鎌は容赦なく迫ってくる。偶然はそう何度も起こらない。であれば、次の攻撃も躱せる保証なんてどこにもない。

『オレはよ、ずっと楽しみにしてたんだぜ』

 どこかでフォルネウスが言った。

『あの《バアル》の遺産だ。野郎が最後に遺したおもちゃの出来はどうなんだってな』

 ガキの次はおもちゃか。この男もダンタリオンと同様に、俺を萩原夕貴ではなく、ただ父さんの血を引くだけの子供と見てるんだ。

『なぁ、おい。てめぇはいったいなんだ? 人間か? 悪魔か? 手を抜いてんのか? それともマジになってその程度なのか? つまんねぇ引きなんざいらねぇぞ。退屈で退屈でしょうがねぇんだよ』
「べつにおまえを楽しませるつもりなんかねえよ。それに俺は俺だ。人間でも悪魔でもない。父さんと母さんの息子だ」
『こうして見るかぎり、野郎の血を引いてるとは思えないがねえ。なんだ、バアルはそこらの犬でも孕ませたってのかよ?』
「おい」

 自分でも驚くほどドスのきいた声が出た。死の恐怖を吹き飛ばすだけの怒りがふつふつと沸いてくる。両親を侮辱されるとすぐ頭に血が上るのは悪い癖だ。こればっかりはたぶん死んでも治らないし、治そうとも思わない。そんな利口さはいらない。

「もっぺん母さんをバカにしてみろ。そのときはおまえの舌を引きちぎってやる」
『出来もしねぇことほざいてイキってんじゃねぇぞガキ。だがまあ――』

 癪に障る笑い声が漏れた。憤る俺を嘲笑うかのような響き。この野郎、調子に乗ってやがる。
 
『ニワトリみてぇにビビってるよりかはそっちのほうが何倍もおもしれぇ。保護者の子守なしでどこまでやれるか見せてみな』
「知るか。ぺらぺら御託を並べてる暇があったら、煙草にでも火をつけてろ。最後ぐらい煙を味わう時間をやるよ」
『はっ――』

 小馬鹿にしたような呼気を皮切りに、ドクン、と不気味な音を立てて空間が脈動した。主人から狩りの許可を得た『闇』の眷属が、およそ人が考えうるかぎりの凶器と化して俺に襲い掛かってくる。木々が見るも無残に切り裂かれ、焼き尽くされた若葉が儚くなり、舞い上がった土や木片が夜に散った。

 軋みを上げる体を無理やり黙らせた俺は、鋭敏になった感覚だけを頼りに駆け出した。迫りくる凶手を皮一枚で躱しながら、脇目も振らずに全力疾走する。戦うことを放棄したわけじゃない。ここでは地形が悪すぎる。もともと気が遠くなるような実力差があるのだ、せめて俺が満足に戦える場所に移動しないと話にならない。

 俺のすぐ後ろを、人あらざる力の権化が追従してくる。肩越しに背後を振り返ると、あらゆる植物を破壊しながら逃げる獲物を飲み込もうとする黒い奔流が見えた。尖った枝が、よそ見する俺のほほに掠り、つぅ、と一筋の血が流れる。

 そうして走ることしばらく、俺はそこに辿りついた。

 月明かりも満足に届かなかった森のなかとは対照的な、とてつもなく開放的な空間。中学校か高校のグラウンドほどもある敷地面積。足元は芝生に覆われ、周囲を背の高い木々がぐるりと囲んでいる。ここは荘圏風致公園の東に位置する広場だった。休日には子供が大勢でボール遊びをしたり、家族連れがピクニックシートを敷いたりする憩いのスポットだが、夜の帳が下りた今となっては形無しという他ない。

「ここなら……」

 戦える、と思った。戦ってやる、と自分に言い聞かせた。今日は月明かりが綺麗だ。この銀色のベールに包まれた場所なら、フォルネウスとも真っ向から対峙できる。だって、月光を見ているとナベリウスを思い出すから。彼女に見守られているような気になるから。

 けっきょく、ナベリウスの安否は分からずじまいのままこのときを迎えた。せめて一目だけでも、あいつの無事な顔が見たかった。とは言ったものの、俺はさほど心配していない。自惚れを承知で言えば、ナベリウスが俺を放っていなくなるわけがないんだ。あれでくたばるような女なら、俺はもっと安寧な生活を送ってるに決まってる。

「おもしれぇじゃねぇか」

 強い風が吹いた。停滞していた広場に台風のごとき乱流が生まれ、渦を巻いた。その中心に膨大な『闇』が凝縮されていく。それは少しずつ人のかたちを描き出し、なにもなかったはずの空間に一人の男を浮かび上がらせた。幽鬼のごとく顕現したシルエットは、紅い髪を揺らし、整った相貌にどこか子供のような笑みを浮かべて口火を切った。

「よぉガキ。ここで死ぬのか?」

 万の軍勢の吶喊を思わせる、個人が放つにしては大きすぎる存在感。ダンタリオンが人知れず進行する病魔だとするなら、この男は狩りを至上とする生粋の肉食獣だ。戦いを楽しみ、戦いだけを求める。その単純明快な気質上、一切の打算的なものがない代わりに、フォルネウスを御することは誰にもできない。

 あらためて確認した事実を、しかし俺は鼻で笑ってやった。ちょうどいい。望むところだ。フォルネウスを退ける方法が戦いしかないっていうなら、そのルールに従ってやろうじゃないか。

「そういや小耳に挟んだんだが、おめぇもダンタリオンと殺り合ったってのはマジかよ?」

 豪奢な金色の髪、不健康そうな白蝋の肌、亀裂を思わせる細い糸目、神を冒涜するように血に染めた神父服。ダンタリオンは恐ろしいというより、怖かった。脅威ではなく恐怖だった。俺の大切なものを俺の知らないうちに奪い取っていきそうな、言い知れない悪意の権化だった。

 俺が黙って頷くと、フォルネウスは珍しく感嘆した。ほぉう、と。

「あいつと戦って生き残るとは大したもんだ。ダンタリオンは小賢しい野郎だったが、その強さは厄介という意味では本物だった。グシオンも仲間に入れたがってたからな」
「だからなんだよ。昔の仲間がやられて腹が立ってんのか? あんなのただのヘンタイじゃねえか」

 父さんの血を引く俺だけならともかく、なんの関係もない美影の心身をも弄ぼうとしたのだ。しかも後になって聞いてみれば、よりにもよってあの野郎、ナベリウスにも手を出そうとしたらしいじゃないか。女の子を暴力で従えようとする奴なんか、ヘンタイでじゅうぶんである。

 かつての同胞を侮辱されたのだ。さすがに業腹だろうと思って目を向けてみれば、なぜかフォルネウスは楽しげに笑っていた。腹に手を当てて体をくの字に曲げ、ともすれば目尻から涙がこぼれんばかりに笑い転げている。

「そうかヘンタイかっ! なぁるほどなるほど、面白い例えだっ! 確かに言われてみりゃ、ダンタリオンはただのヘンタイ野郎じゃねぇかっ!」

 言って、また笑う。俺としては軽い挑発のつもりだったのに、まさかここまで同意されるとは思っていなかった。

「……あぁ、違いねぇよ。気が遠くなるような昔からそうだった」

 打って変わって冷めた声が、夜のしじまを揺らした。

「ダンタリオンはとにかく傲慢で、強欲で、野心家だった。あのバカが素直に言うことを聞いたのは、ソロモンとバアルの二人ぐらいさ。そのくせナベリウスとは数え切れないほどの因縁がありやがるし、アガレスのちびっ子とはなぜか気が合ってた。いま考えてもいけ好かねぇ野郎だぜ。ヘンタイってのは大いに同意してやる」

 だが、とフォルネウスは続けた。

「あいつのことを認めてない奴は、オレたちのなかには一人もいねえ。二十年ほど前にくたばったバアルに続き、この極東の地でまた一人、ソロモンの同胞が逝っちまった」

 つまらなさそうな目で夜空を見上げる面持ちは、殺しに熱狂していた男とは似ても似つかなかった。ただの戦闘狂だと、死と破壊を撒き散らすだけの怪物だと思っていたのに、こんな顔もするんだ。儚くなってしまった仲間を偲ぶだけの情緒も持ち合わせているんだ。

「だからよ、オレは気に食わねぇんだ」

 矢のように鋭い眼光が俺を突き刺す。

「バアルは人間の女を愛したばかりにくたばった。ダンタリオンはどこぞのチンケなガキに関わったばかりに逝った。なぁオイ、聞かせてくれや。てめぇみたいな何の力も持たないガキに、あいつらの命に勝る価値があんのかよ? バアルの血を引いてるんだろ? ナベリウスを従えてんだろ? ダンタリオンが手に入れようとしたんだろ? 割に合わねぇんだよ、てめぇの存在は」

 フォルネウスの言い分にも一理ある。もし俺が産まれなければ、全てが上手くいってたかもしれない。父さんは死なず、ナベリウスは主人を失った呵責を負わず、日本を訪れる理由のなくなったダンタリオンも世界のどこかで違う悪事を働いていただろう。もしかしたら、という仮定の話でしかないが、そういう可能性もあっただろう。

 でも、だからといって俺は、自分の存在が間違いだとは思わない。それだけは絶対に思っちゃいけない。子供ってのは両親にとって宝物だ。ここで俺が自分の存在を否定することは、すなわち父さんと母さんの想いを踏みにじるのと同義だ。そんな親不孝な真似はするわけにはいかない。

 俺は逃げない。フォルネウスの強さから、そして自分の弱さから逃げ出さない。すべてを理解して受け止めたうえで挑戦してやる。

「……だったら、確かめてみろよ。ほんとうに俺に価値がないのかどうか」

 それに俺はこう見えてもイラついてるんだ。

「おまえ、俺を女の背に隠れてるだけのガキだって言ったよな。母さんのことを犬だと言ったよな」
「はっ、だからなんだってんだ?」
「決まってんだろ。男が舐められっぱなしで終われるか。いまからおまえの顔面に一発ぶちこんでやるから覚悟しろって言ってんだよ」

 せいいっぱいの虚勢を張って告げると、紅い色をした大悪魔は落胆の面持ちもあらわにかぶりを振った。

「そうかい。まあ自殺願望があるなら止めねぇが……ただ、てめぇの子守をしていたナベリウスはここには来ねぇぜ」

 瞬間、言葉に詰まった。べつにナベリウスの助けを期待していたわけじゃないし、あいつがいないと戦えないということでもない。単純に彼女の身に何かあったのかと心配したのだ。

「オイオイ、そう怖い顔すんなや。オレは何もしちゃいねぇよ。あっちはあっちで旧交を温めてるだけさ」

 暖炉に入れられた火のように、かすかな不安が俺の胸中を焦がした。旧交を温める、とは本来ならポジティブな意味で使われるはずの慣用句だが、この状況下ではひどく不吉な言葉に聞こえた。

「感謝するんだな。あれだけのいい女と遊べる機会を蹴って、てめぇみたいなガキを引き受けたんだ。だからよぉ、これ以上オレを失望させやがったら――」
「うるせえ。ほざくな雑魚」

 かすかに目を見開くフォルネウス。俺はこれみよがしに唾を吐いてから告げた。

「さっきからうるさいんだよ、おまえ。男なら拳で語ってみろ。弱い犬ほどよく吼えるって日本のことわざ、知ってるか?」
「かっはははっ!」

 もう抑えきれないとフォルネウスは哄笑をぶちまけた。その体から《悪魔》の波動が一気に流出し、大気を激しく揺らす。あまりにも暴虐で、限りなく強烈だった。ゆらりと上半身の力を抜いた体勢のまま、おのれの存在を世界に知らしめるようにゆっくりと示威的に歩いてくる。

 しかし、比類なき威圧を受けても、俺は一歩も下がることなく平然と構えていた。足が前に進むことを拒んでも、拳が恐怖に震えても、それを悟られないように取り繕って見せた。

 そうだ。こんなところでビビッてる場合じゃない。前に進め、顔を上げろ、拳を握れ。おまえは女の助けがないと何もできない男か。違うだろう。せいぜい意地を張れ。いつも俺を見守ってくれていた彼女がいなくても、自分の足だけで立てるんだってことを証明してみせろ。

 立派で、強くて、誰からも尊敬される父さんがいた。綺麗で、優しくて、誰からも好かれる母さんがいる。

 子供の頃はずっと不思議だった。どうして俺には父親がいないのか。何気なく母さんに尋ねてみても、とても寂しそうな顔で「ごめんね」と抱きしめられるだけだった。その抱擁の意味も分からなかった俺は、深夜のリビングでひとり父さんの名前を呼びながら泣いている母さんを見かけて以来、俺がしっかりしなきゃって思うようになった。

 ほんとうに小さい頃は、実を言うと父さんのことを恨んでた。どうして母さんを一人にしたんだって。でも時が経つにつれ考え方も変わり、やがて恨みは尊敬へと変わった。さらにナベリウスやダンタリオン、そしてフォルネウスまでもが父さんのことを褒め称えて、俺は嬉しく、誇らしかった。

 いまならなんとなく分かる。

 ――あなたのなかに流れる血はだれにも負けない。

 父さんは、俺と母さんを残して死んだんじゃない。

 ――きっと夕貴はなんでもできるわ。

 俺たち家族を守るために命を賭けたんだ。

 ――友達を助けることも、母親を護ることも、好きな女の子と添い遂げることも。

 そのための力は、息子である俺にもきっと宿っている。

 ――そして、大切な人を守って■■こともね。

 いつかの夜、優しい庭でまどろむ俺にそう教えてくれた銀髪の悪魔もいたから。

「おもしれぇじゃねぇか! かかってこいや、《バアル》のガキ!」
「だから……」

 心の奥底に、鍵をかけて厳重に抑えていたものを解き放つ。父さんから受け継いだ、母さんとみんなを護るための力。励起した《悪魔》の波動が体内を駆け巡り、熱くたぎっていた身体をさらに燃え上がらせた。

「俺はガキじゃねえっつってんだろうがぁっ!」

 ソロモン72柱が一柱にして、序列第三十位に数えられる大悪魔フォルネウス。圧倒的な実力を持つ男に向けて、俺はがむしゃらに走り出した。


****


 ナベリウスが目覚めたとき、最初に思ったことは己の不甲斐なさだった。

 かたわらには誰もいない。あれだけ強く抱きしめていたはずなのに、ほんの一瞬、意識がブラックアウトした隙に愛しい温もりは消えてしまった。絶対に離さないと、この子だけはわたしが護ってみせると誓ったはずなのに。

 先の展望台で、彼女とフォルネウスの明暗を分けたのは戦闘能力の差ではない。絶えず闘争のなかに身を置き続けていたフォルネウスとは違い、ナベリウスはここ十数年以上もの間、平和な日本でぬるま湯に浸かっていた。ナイフを研ぎ続けた者と、錆付かせたまま放置した者。実力ではなく、実戦における勘の冴えに開きがあったのだ。

 とにかく夕貴を探さなければ、とナベリウスは気だるげに身体を起こした。首筋に張り付いた銀髪の房を払い、熱のこもった吐息を漏らす。汗の浮かんだ美貌にはいささかの陰りも見えないが、銀色の双眸はいつもよりも精彩を欠いていた。

「――っ」

 立ち上がろうとして、そのまま尻餅をついた。左足がやけに熱い。見れば、七分丈のパンツが大きく裂けて、白い太ももから大量の血がどくどくと流れていた。おそらく、吹き飛ばされた際、尖った木の枝か何かで切り裂かれてしまったのだろう。《悪魔》である彼女なら一日もしないうちに治癒する程度の傷だが、かなり出血が多い。さらに言うなら、機動力の要たる下肢にダメージを負ったことは、夕貴と離れ離れになったこの状況下において最悪と言ってもいい。

 もしかして普段から夕貴にイタズラしてる罰が当たったのかな、と冗談交じりに苦笑し、彼女は立ち上がった。傷口にDマイクロ波と呼ばれる悪魔特有の波動を集中させることにより即席の応急処置も可能だが、いまは自分の身体に回すだけの余力がない。兎にも角にも夕貴を探して、見つけなければ。

 ナベリウスの周囲では、色とりどりの花が穏やかな風にそよいでいた。赤レンガ作りの花壇と、多種多様な季節の花が目立つこの場所は、『フラワーガーデン』と名付けられた荘圏風致公園の目玉スポットだ。ほのかにただよう甘い香りが心地いい。

 一瞬、和みかけた精神を再燃させる。いまは暢気に花を見ている場合じゃない。

 目を閉じ、感覚を細く細く糸のように伸ばしていく。世界中に散らばっているならともかく、この狭い日本の土地にいる同胞の波動を感知するのはそう難しいことじゃない。フォルネウスが大きな力を使っているせいで夕貴の気配は見つけにくいが、その気になったナベリウスが見つけられない道理はない。愛の力は無限大なのだ。

 そんな、全神経を”探知”に費やしている彼女が、フォルネウスとは異なる新たな同胞の接近を感じ取るのは時間の問題だった。いや、すこし遅かった。懐かしい波動を感じて視線を上げたときにはもう、相手は攻撃態勢に入っていた。

 ナベリウスが己が失態を恥じると同時、遥か上空から青の極光が降り注いできた。蒼穹の色をした光芒は、さながら一手の弓となってナベリウスの足元に突き刺さる。

「くっ……!」

 骨の髄まで揺るがす轟音と、まばゆい空色の閃光。ナベリウスは両手を顔のまえで交差して頭部を護りながら、大きく後方に跳躍して難を逃れた。巻き上がった土埃が晴れたあと、そこにはぽっかりと大穴が空いていた。威力の桁が違う、常識外れの破壊力だった。

「こうして直に会うのはいつ以来だろうね。鈍ってないみたいで安心したよ」

 凛とした少女の声が頭上から降ってくる。突然の事態に目を見張るナベリウスの正面に、華奢なシルエットが着地した。肩口よりも少しだけ長い、亜麻色の髪。気の強そうなツリ目に、スッと通った鼻梁。ぴっちりとしたタンクトップにデニムというラフな服装が、野生動物を思わせるしなやかな肢体を際立たせている。年の頃は、およそ十代後半ぐらいで、ナベリウスよりは幾分か下に見えた。

「……《ベレト》。まさか、あなたまで日本に来てるなんて」

 ソロモン72柱が一柱にして、序列第十三位の大悪魔ベレト。それがナベリウスの前に立ちはだかった見目麗しい少女の真名だった。

 ソロモン王が定めた序列は絶対にして不動である。第十三位に座するベレトは、こと破壊力という点において他の追随を許さない。そのすらりとした体躯に秘められた力は、ナベリウスのような汎用性はないものの、いざ戦闘になると絶大な真価を発揮する。

「あたしが来日したのはグシオンの指示さ。いちおう、フォルネウスのお守りも兼ねてるけどね」

 ベレトが肩をすくめて言った。あれのお守りをしてくれるのは大歓迎だが、せめて有言は実行してほしいと思った。

「ちょっとちょっと、ぜんぜんお守りできてないわよ。あいつを抑えるつもりがあるなら、初めから鋼鉄製のワイヤーでがんじがらめにして地下深くにでも埋めてなさいよ。今回の騒ぎ、もう冗談じゃ済まされないって分かってるの?」
「それには抗弁する余地はないね。あたしがちょっと目を離した隙に、あのバカは勝手に消えてたんだ。慌てて後を追ってきてみればこの有様さ。まあ、こうして懐かしい顔を見れたし、気分的にはそう悪くないけどね」
「あら、嬉しいこと言ってくれるじゃない。そんなにわたしに会いたかった?」
「否定はしないさ。あたしは昔からあんたのことが気に入ってる。だから、今夜は大人しく引くんだね」

 その提案に、ナベリウスはぴくっと柳眉を逆立てた。

「……ずいぶんと身勝手ね。元はといえば、先に仕掛けてきたのはフォルネウスよ。やるだけやってはいさよなら、なんて都合がいいとは思わない? 軽薄な男だって、女を抱いたあとはもう少し責任を持つわよ」
「下手な挑発は止めな。冷静に考えるんだね。いまこの場であたしとフォルネウスを敵に回して、あんたに勝算はあるのかい?」

 正直に言えば、ない。

 フォルネウスだけでも厄介なのに、《悪魔》のなかでも最強の火力を誇るベレトを相手にして、この夜を乗り切るだけの自信はさすがになかった。

 こうしている間にも、離れた場所では夕貴とフォルネウスが戦っているのが分かる。大気を通して伝わってくるDマイクロウェーブの多寡は、明らかに異常だった。これほど膨大な量を放出させる必要のある行為は、ナベリウスの思いつくかぎりでは”戦闘”しかない。四月の頃と比べると夕貴は心身ともに強くなったが、一柱の《悪魔》と真っ向から戦うのはいくらなんでも早すぎる。どう考えても無謀だった。

 十秒ほど、じっと黙り込んで思考に身を任せたあと、ナベリウスは結論を静かに伝えた。

「……分かったわ。今夜は見逃してあげる。でも気をつけるのね。次にわたしの目の前に現れたときは、問答無用で凍らせてあげるから」

 負け惜しみではない。毅然と胸を張って告げる姿は、触れがたい神々しさに満ちている。彼女はどんなときでも気高く、美しいのだろう。ただし、その美貌とたわわに実った乳房に惑わされる少年は堪ったものではないだろうが。

「まあ戦うまでもなく、勝敗なんて分かりきってるしね。ベレトちゃんよりもわたしのほうがおっぱい大きいし」

 戦いが終わることから来る安堵か、これまでとは打って変わって茶化すような口調だった。対するベレトはむっとした顔で応える。

「……調子に乗らないことだね、ナベリウス。胸は大きさよりもかたちと柔らかさだ。それに肌の滑らかさならあたしも自信がある」
「負け惜しみにしか聞こえないわね」

 残念ながら、月明かりに照らされる二つの影は、長い銀髪を背中に流した輪郭のほうがより女性らしい体つきをしていた。ベレトも決して貧相というわけではないが、さすがにナベリウスと比べると見劣りする。

「……オッケー。いいよ。この話は終わりにしようじゃないか」

 よく分からない勝負は、こうしてよく分からないままに決着を迎えた。不機嫌そうな顔でそっぽを向く亜麻色の少女を見て、ナベリウスは頬を緩めた。実のところ、彼女にとっても、ベレトは同胞のなかでもかなり好きな部類に入る。できるなら争いたくないのは同じなのだ。

「じゃあ交渉成立ってことで。今夜、あたしらはあんたに手を出さない。それでいいね」

 即興の和平の申し出をしっかりと聞き届けてから、ナベリウスは頷いた。

「受託したわ。そうと決まったら、とっととフォルネウスを止めてきなさいよ」
「いや、それはできない相談だね」

 小さく、けれど確かに、首を横に振る。その所作が意味するところを理解するのには数瞬を要した。ナベリウスは嫌な予感を飲み下しながら、かつての同胞を質した。

「……どういうつもり? まさかついさっき自分が口にした言葉も忘れたの?」
「忘れてないさ。”あんたには手を出さない”。ただ、あの坊やにはちょっと付き合ってもらうけどね」

 それは残酷な宣言だった。約束されたのはナベリウスの明日だけで、彼女が護ると誓った少年はいまも死の危機に晒されたままなのだ。しかも夕貴を助けるためには、自分と同等以上の力を持つニ柱の《悪魔》を退けなければならない。いや、そもそも脚を負傷し、少なからず体力を消耗している状態で、ベレトとまともに戦えるかも不明だった。

「……ひとつ聞かせて。グシオンは、夕貴をどうするつもりなの?」
「さあね。あいつの考えてることは昔からよく分からない。フォルネウスの行動はまったくの予想外だったけど、ここまでお膳立てが整ってるなら話はべつさ。あの可愛い顔をした坊やには……」

 そこから先は言わせまいと、ベレトの顔のすぐ横を鋭利な氷の刃が通過していった。少しでも位置がずれていれば、いまごろ血の噴水が完成していただろう。亜麻色の髪が乱雑になびくのを気にすることもなく、ベレトはぴんと吊り上ったツリ目を細くした。

「……本気かい、ナベリウス?」
「そこを退きなさい。邪魔をするなら、ここで殺すわ」
「正直、驚いたよ。あんたが土埃に汚れてる姿を見るだけでも感慨深いのに、まさかそんなに怖い顔をするなんて。せっかくの美人が台無しだよ」
「……二度は言わないわよ」
「あたしもさ。世の男どもを散々に狂わせてきた美貌も、そうまで歪んじゃ形無しだね」

 冷たくも美しいナベリウスの波動に対し、ベレトのそれは晴れ渡った蒼穹のように澄んでいながら、引き絞られた弓のごとき力強さがあった。

 銀色の大悪魔は己が主人のもとに駆けつけるため、亜麻色の大悪魔は己が目的を達成するため。それぞれ譲れぬものを抱えて、かつての同胞は互いに牙を向いた。



 月明かりも満足に届かない木々の群れのなかに、暗闇を切り裂く純白の佇まいがあった。一切の外連味がない白の軍服は、聖なるものを象徴しているがゆえに穢れやすく、いまは土と埃に汚れていた。人としての性能を限界まで高めた鋼の肉体は、総重量にして十数キロにも及ぶ装備をいとも容易くまとう。高潔な矜持を胸に、彼らは闇夜を照らす光でありつづける。

 結論から言えば、法王庁特務分室に目立った被害はなかった。フォルネウスの凶手にかかった者はおらず、隊員たちはおしなべて行動に支障はない。此度の来日に際して、対悪魔の切り札と目される《|精霊の書(テウルギア)》は、こぼれ落ちる砂に等しかった彼らの命を寸分の狂いもなく掬い上げた。

 しかし、絶対の死地から生き延びた彼らの間に流れているものは、命を繋げたことによる安堵ではなく、立ち込める暗雲にも似た不安だった。

 アルベルト・マールス・ライゼンシュタインは大きな決断を迫られていた。いまこの場にいるのは彼を含めて十三人。つまり、一人足りない。リゼット・ファーレンハイトの姿がどこにもない。

 展望台から逃れた彼らは、そのままの足で退却する腹積もりだった。それは敗走にあらず、正しくは戦略的撤退である。フォルネウスの乱入という想定外の出来事が起こった以上、早々に退いて部隊の存続を第一に考えるのが賢い選択だった。戦力のなかでも人員ほど貴重なものはない。むざむざ犬死にさせるような真似を強いれば、間違いなく上の連中は幼い室長の責任問題を追及するだろう。ゆえに少しでも勝算に陰りがあるならば、時間的な先の展開を視て、貴重な戦力を次の戦いに持ち越すのが最善だった。

 視野を広げて全体の概況を掌握したうえで、おのれの位置づけを理解して的確に行動する。時間的な先の展開を予測し、そこから逆算しておのれがいま何をすべきか考える。これは戦況を見極める際の基本的な方法の一つであり、どれほど熟練した部隊であっても――否、その道を知れば知るほど頼みにする、生き残るための術だった。

 現状における様々な要素を咀嚼し、おのれの目で見たものと部下からの報告によって得た情報をもとに概況を掌握し、非凡な戦術眼によって脳裏に浮かぶいくつものアイディアを反芻した結果、アルベルトは迷うことなく戦略的撤退を推奨した。室長たるリズもそれを承認し、間もなく彼らは死地と化した荘圏風致公園を後にするはずだった。

 いまにして思えば、アルベルトはあのとき気付くべきだったのだ。撤退の準備を進める最中、リズが明らかに挙動不審だったことを。弱々しく俯いていたかと思ったら、次の瞬間には何かを決意したような強い眼差しで何度も頷いていた。さらに小声で「アルベルト、やっぱり怒っちゃうかな……」とか「でも、わたしは室長さんだから、いざとなれば減給を盾に説得すれば……」とか「そうと決まったら、あとはタイミングだよね……」とか、謎の怪しい言動も増えていた。

 その直後である。夜空から蒼穹の色をした光芒が降り注ぎ、轟音とともに大地を激しく揺らした。条件反射に倣って、彼らはその場に伏せた。そして耳に残響する音の余韻が消え去った頃、全員が立ち上がってみれば、リズの姿は見事に消えていたのだった。

 まだ成人していない少女である。いくら肝が据わっていようと、やはり生と死が寸刻みで交差する現場特有の緊張感は荷が勝っていたのではないか。あの小さな身体では重責を背負うにも限界があるだろう。そう思うのが、普通だろう。

 しかしアルベルトは他の誰よりもリズのことをよく知っているつもりだった。過去の経歴が病的なまでに抹消されつくしている理由も、異例の人事で特務分室の長となった事情も、法王庁が厳重に秘匿していたはずの《|精霊の書(テウルギア)》を個人が所有することを許された背景も。そして彼女が、アルベルトたちに黙って姿を消したその訳も。

 恐らく、いや間違いなく、リズは逃げたのではなく一人で戦場に舞い戻ったのだ。なにも言わず、どさくさに紛れてこっそりと行動を起こしたのは彼女なりの免罪符だろう。それはいたずらをする子供と同じ心理だが、じつにリズらしいとも言える。

 なぜ彼女がわざわざ死地に逆戻りしたのかは分からない。だが真意はどうであれ、組織の長がこの公園のどこかにいる以上、残された彼らは戦略的撤退と決め込むわけにもいかなくなった。結果として、アルベルトの部隊は本来なら回避できたはずの危険を背負い込むはめになり、それは転じてリズの責任問題として後日、処理されることになる。あの聡明な少女なら、そうした仕組みもじゅうぶん理解しているはずだ。つまり、そこまでしても成し遂げなければならないことが、リゼット・ファーレンハイトにはあるのだろう。

 繰り返すが、アルベルトは大きな決断を迫られていた。この夜に起こった諸々を包み隠さず上に報告するか、それとも突発的な少女の過失を見逃すか。アルベルト個人の私情としては、リズを庇ってやりたいと思う。まだまだ幼く、か弱い少女だ。誰かが護ってやらねばならないだろう。それが自分の役目だと、彼は僭越ながら自覚している。例えるなら娘を見守る父親の心境に近い。

 アルベルトだけなら、まだよかった。だがこの場にいるのは彼を含めて十三人。アルベルトに温情があるように、部下たちにも不平不満があって然るべきだ。重要な任務の最中に公私混同などもってのほかである。よって、これからリズを追うまえに、上司の仕出かした軽率な行いについての是非を明らかにしておかなければならなかった。

「……さて。おまえたちに言っておかねばならないことがある」

 長い黙考の末、響いた声にはかすかな苦悩が滲んでいた。技能的には優秀でも、人間である以上、士気の低下は避けられない。隊員たちは一様に黙り込んでいた。夜の薄暗い闇が邪魔をしてその表情はよく見えない。

 一人の男として、法王庁特務分室の戦隊長として。二つの立場で板ばさみになるのを感じながら、アルベルトは言った。

「ファーレンハイト室長の行動には明らかに問題がある。本来ならこうした人事も室長の管轄だが、今回ばかりは彼女も当てにならん。私から直々にシュナイダー卿に報告するつもりだ」

 全員に緊張が走った。何名かは俯き、口元を手で抑えて震えている。もしかすると幼い室長のあまりにも愚かな軽挙に吐き気さえ覚えているのかもしれない。

「証人は私と、おまえたちだ。無事に帰投した後、作成した報告書を総括部に……」

 そのとき、誰かが白々しい声で言った。

「あれ、おかしいな。そういえば室長はどこ行ったんだ?」
「さあなぁ。俺はまったく見てないぜ」
「気が合うな。じつは俺もだ」
「右に同じだ」
「なんだぁ? どいつもこいつも見てねえってのかよ。また室長が拗ねても知らねえぞ。まあ俺も見てねえんだがな」

 アルベルトは一瞬、みんなが何を言っているのか理解できなかった。装備を点検する者、ひたいに手を水平に当ててこれみよがしに人を探すジャスチャーを取る者、わざとらしく肩をすくめて呆れる者。各人の行動はそれぞれだったが、共通点として全員が笑っていた。

「おまえたち。自分がなにを言っているのか、分かっているのか?」

 部下たちの思惑を読み取ったアルベルトが静かな声で質した。口元を手で抑えて笑いを押し殺していた隊員の一人が答える。

「ええ、もちろん分かってますよ。要するに、俺たちはレディのエスコートも満足にできない無作法者ってことでしょう。なんせここにいるのは”女性が何をしていたのかも一切見ていない”男どもばかりなんですから」

「バカ言え、俺はちゃんと見てるぞ、室長の脚はたまらん」「いやいや、それを言うならあのプリっとした尻だろう」「たわけ、女はとにかくバストだ」などと冗談めいた声がそこかしこから上がる。切迫した状況などお構いなしに、どっと笑い声が起きるほどだ。

 難しく考える必要はなかった。決断など迫られてもいなかった。アルベルトを苛んでいた心痛の種も、部下たちにしてみれば”室長のわがまま”ぐらいの些細な問題だったのだ。あの浮世離れした少女のもとで任務に就くことが決まった日から、彼らはこの程度のハプニングで戸惑うことはなくなったのである。

 わたしにはお父さんとお母さんがいない、と一人の少女は言った。でもわたしは大丈夫だと、いまの生活も気に入っていると続けて笑った。その笑顔もむべなるかな、彼女に両親はいないが、家族はちゃんといるのだ。

「なあに。戦隊長が頭を悩める必要はありません。俺たちはただ、お転婆なお姫様を連れ戻すだけのことです。屁が出るほど簡単でしょうよ」

 世迷言としか思えない部下の台詞に、アルベルトは生涯でも五本指には入るであろう大きなため息をついた。これもカリスマというのだろうか。ここまで下の者から慕われる上司を、彼は他に知らない。ともすれば上司ではなく、放っておけない妹のように見られているのかもしれないが。

 もういっそ無線で連絡を取り、応援を呼ぶのはどうかとアルベルトは考えた。いや、これは現実的ではない。いまから新たな戦力を要請しても間に合わないし、来日早々あまり多くの人員を導入しては日本政府との間に厄介ごとが噴出するだろう。ここにいる自分と、十二人の馬鹿どもだけで何とかするしかないのだ。

「……話にならんな。どうやら私は人選を誤ったらしい」
「恐縮であります、戦隊長殿」

 びしっ、と全員が敬礼をする。それは軍属の者として申し分ない所作だったが、わずかに緩んだ唇がすべてを台無しにしていた。

 これより彼らはリズを追う。《悪魔》が死闘を繰り広げる舞台にふたたび上るのだから、ただの人間でしかない彼らには大きな危険が付きまとう。そのことはアルベルトを含め、部隊の全員がしっかりと理解していた。理解していてなお、彼らは意気揚々と笑っていた。自信があった。矜持があった。男子たる者、女のわがままの一つや二つぐらい聞いて当たり前だと、誰もが弁えていた。相手が見目麗しい少女ならなおさらだ。

 けっきょく、アルベルトの苦渋の決断は無駄に終わった。証人がいない以上、リズの責任問題を追及することはできない。

 そう、証人など一人もいないのだ。

 アルベルトは任務よりも私情を優先した自分と、部隊の存続よりも年下の上司を取った部下たちを秤にかけて、どっちもどっちだな、と内心で呆れた。



 不気味なほど静かな散策路を、リゼット・アウローラ・ファーレンハイトは走り続けていた。ときどき背後を振り返って、誰も追ってきていないことを確認しながら。

 悪いことをしたな、と他人事のように思う。きっとみんな怒っているだろう。何も言わずに姿を消した彼女は、責められても文句は言えない。でも仕方なかったのだ。リズのわがままを、堅実なアルベルトや部隊のみんなが素直に聞いてくれるとは思えない。我を通すためには、時宜を見計らってこっそりと行かなければならなかった。

 なぜおまえは危険を冒してまで再び戦場を目指しているのか、と問われれば、ただ後悔したくないからとリズは答えるだろう。

 戦略的撤退という名目でこの公園を去ろうとする自分が、かつて大切なものを目の前に逃げ出した少女と重なって見えた。そのことを自覚した瞬間、リズは居ても立ってもいられなくなった。気付いたときにはもう覚悟を決め、絶好のタイミングに合わせて駆け出していた。

 彼女には約束があった。どうしても果たしたい理想があった。そのために全てを裏切り、大切な想いに蓋をして、涙を流しながら別れを告げた。もうあんな思いだけは二度としたくない。

 とある少年の顔が脳裏をよぎる。彼と過ごした時間は楽しかった。同い年の男の子とあれだけ長く話したのは初めての経験である。そこに嘘があったなんてリズは思っていない。ほんとうに伝えたかったことも、まだ口にできていない。

 あの人間と《悪魔》の血を引く少年は、遥かな昔、いと小さき少女と偉大なる大悪魔が信じた理想のカタチだ。こんなところで死なせるわけにはいかない。

 駆けながら、右手の人差し指にはめた指輪のあたりにそっと左手を重ねた。また力を貸してね、と心のなかでささやく。冷たい銀の表面から、懐かしい波動が伝わってくる気がした。それに懐旧の情を抱き、リズは寂しげに笑った。

 ちらっと背後を振り返り、誰も追ってきていないことを確認しながら、彼女は走り続ける。きれいに整えた髪は乱れ、日本の土地に馴染むようにと揃えた洋服は早々にしわが寄っている。足を踏み出すたびにミニスカートの裾がふわりと舞い上がり、引き締まった太ももに汗が伝った。身だしなみよりも目的を優先する姿は、年頃の女の子としてはちょっとどうかと思うが、リズの果たすべき使命に比べればそれも些細な恥だった。いまは前を向いて、迷わず走ればいい。

 ただ、後悔しないために。



[29805] 3-8 血戦
Name: テツヲ◆c49d9b75 ID:366fa69a
Date: 2012/12/21 17:33

 生温い夜気のなかを色とりどりの花びらがたゆたっている。その見事な色彩のなかに、銀色の髪と亜麻色の髪が優雅になびいていた。月明かりが映す一対の影は、さながら演舞を競っているようにも見える。

 息をつく間もなく繰り出される拳を寸前でかわしながら、ナベリウスは間髪入れずに蹴りを放つ。人の認識を超えた速度で迫るつま先を、しかしベレトは身を捻ってあっさりと避けきった。空を切った優美な脚線から、赤いしずくが僅かに飛び散る。

 荘圏風致公園の北に位置する『フラワーガーデン』にて始まった戦いは、完全なる格闘戦の様相を呈していた。両者ともに異能を使わず、人智を超えた身体能力と磨き上げた戦技を用いて、かつての同胞に牙を向く。

 夏の夜は暑い。ねっとりとまとわりつく大気の膜が、全身の熱を際限なく上げていく。じわっと吹き出す汗が、滑らかな肌のうえを伝い、拳や脚を打ち付けあった衝撃で地に落ちていった。

 ベレトとの間合いを離しながら、まずいな、とナベリウスは舌打ちした。彼女にとって、この格闘戦はまったくの不本意だ。なぜなら、左脚の太ももに負った傷のせいで生来の動きができないからである。かといって迂闊に異能を使えば、その瞬間に生まれる僅かな隙を衝かれるのは必定だった。はやく夕貴のもとに駆けつけなければ、という焦りがまた、彼女の体捌きを曇らせる。恐らくベレトは、それらすべてを理解したうえであえて格闘戦に持ち込んだのだ。

「らしくないね、ナベリウス」

 耳元で声がした。考えるよりも先に肉体が反応し、その場に深くしゃがみこむ。頭上を鋭い風とともに少女の脚が通過していった。安堵したのも束の間、跳ね上がったもう一本の脚が、ナベリウスの腹部に突き刺さった。鈍い激痛が、女の肉体を駆け巡る。やがて十数メートルも吹き飛ばされたナベリウスは、その場に蹲って血反吐を吐き出した。

「あたしの知るかぎり、ここまで余裕のないあんたを見るのは初めてだよ。でもまあ、悪くはないね。そうして地面に手をつく姿も扇情的で似合ってるじゃないか」

 肩や首筋に張り付いた髪をさっと流すベレトの視線の先には、四つんばいになって荒い吐息を撒き散らすナベリウスの姿がある。ぱっくりと裂けた左脚からは、いまなお鮮烈な赤色が流れ出していた。《悪魔》の波動を傷口に集中させれば外面は取り繕えるが、それでは意味がないし、なによりもったいない。

「はぁ、はぁ、この……!」

 ナベリウスは口元を拭いながら立ち上がった。左脚に加え、蹴りを入れられた腹も肋骨の一本か二本は持っていかれたかもしれない。痛みには慣れているが、頑丈な精神とは裏腹に肉体のコンディションは悪くなる一方だ。

 ベレトのことは嫌いじゃない。むしろ好きなほうだ。できるなら争いたくないし、機会があればお茶でも飲みながら話をしたいとさえ思う。けれど、それは叶わぬ願いだった。ベレトが、ナベリウスと夕貴の距離を隔てているかぎり。

 苦痛に喘いでいる時間も惜しい。すっと呼吸を整えたナベリウスは、そびえる同胞に向けて駆け出した。汗に濡れた身体がぶれ、足元の花びらが空中に舞い上がる。

「……ま、いいけどね」

 瞬時に攻防は激化した。肉体が思考を凌駕する絶世の速さだった。世界に真っ向から矛盾を叩きつけるような、人の理を外れた者だけが覗ける神速の極地。繰り出す拳は風を置き去りにし、跳ね上がる脚は雷鳴をも凌駕する。

 放たれた掌底を、ナベリウスは体軸をずらして躱すと同時に大きく踏み込んだ。前に出た勢いもそのままに腰の入った右ストレートを打ち抜く。それは神業と称するに相応しい絶妙のタイミングだったが、左脚に負った傷が痛みを訴え、ナベリウスの動きを僅かに鈍らせた。握り締めた拳は亜麻色の髪を叩くだけに終わる。苦し紛れに左脚で回し蹴りを見舞ってみたが、当然のようにそれも当たらない。無茶な攻撃の反動で、ナベリウスの体勢が大きく崩れた。その隙を相手が見逃すはずもない。

 ベレトはぴんと吊り上った目に勝機を見たらしく、防御を捨てて大胆に間合いを詰めてくる。だが、その行動は、ナベリウスの読みが当たったことを示していた。

「――っ!?」

 空中に飛び散った赤いしずくがベレトの端正な顔に降りかかろうとする。ここまであえて放置していた左脚の傷から撒き散らされた血液が、即席の目潰しとなったのだ。神速の戦いの最中、ほんの一瞬でも視界を遮られることは死に直結する。汗が眼に入るだけでも命取りになる可能性があるのだ。この血液が少しでも網膜に付着すれば取り返しのつかないことになるのは火を見るよりも明らかだった。しかし敵もさる者、この程度の罠は見てから回避できる。否、回避してもらわねば困る。目潰しは、単なる布石だ。

 反射的に顔を傾けて鮮血を回避したベレトの腹に、ナベリウスはついさっきのお返しと言わんばかりに全力で前蹴りを打ち込んだ。引き締まった筋肉の感触は、腹部ではなく腕の手応えである。あの咄嗟に防御を間に合わせるとは驚きだが、いまの蹴りでさえ本命ではない。

 開けた間合いを最大限に利用し、ベレトがふたたび距離を詰めてくるまでの間に《絶対零度(アブソリュートゼロ)》を発動させる。地面に右のてのひらを置き、一瞬にしてフラワーガーデンを掌握。いままでになく高速で顕現する凍結現象。ナベリウスの長い銀髪が、おのれの身体から溢れる波動によって大きく巻き上がる。

 さすがのベレトも苦々しい顔をあらわにした。絶大な火力を誇る反面、一切の防御能力を持たない彼女にとって、空間を制圧するナベリウスの力は掛け値なしに厄介だった。

「本気みたいだね、ナベリウス!」

 大きく後ろに跳びながら、ベレトはまっすぐに手を伸ばし、人差し指の先端をナベリウスに突きつけた。甲高い耳鳴りとともに青の光が生まれ、薄暗い夜をまばゆく照らす。その銘を《蒼穹の弓(フェイルノート)》。あらゆるものを貫通する究極の弓が、ぎりぎりと引き絞られる。

 充填された力は、直後に解き放たれた。巨大な氷の剣山が、大地を突き破って次々と出現し、怒涛のごとくベレトのほうに向かって進んでいく。その圧倒的なまでの物量と破壊力は、まさに大悪魔の名に恥じない恐るべき威容だった。

 だが、決して融けない絶対零度は、射られた蒼穹の弓によって破壊された。

 氷が砕ける綺麗な音と、大地を乱暴に揺らす振動。青い光が、透き通った氷に反射し、夜を美しく染め上げる。その壮麗さ足るや、オーロラの比ではない。人どころか自然の手でも再現できない、極限の美しさがここにある。

 粉々に砕け散った氷の破片が雨のように降り注ぐなか、銀色と亜麻色のシルエットは迷うことなく次弾の装填に急いだ。

 ナベリウスには勝算があった。この狭い日本の土地では《蒼穹の弓(フェイルノート)》も満足に使えない。なぜなら、あれは威力がありすぎる。ナベリウス以上に使用が制限される異能なのだ。

 蒼穹の色をした極光は、収束すればするほど破壊力が加速度的に上昇するという性質がある。人差し指一本で、ナベリウスの氷を打ち砕くのだ。両手の指をすべて使い、十の光を束ねて弓を射ればどうなるか。もはや推して知ることすら許されない。

 ナベリウスは笑った。ベレトも笑った。彼女たちの微笑みに魅了されてはいけない。その美貌に魅入られた瞬間、その者は凍てつき、空の弓に貫かれて死ぬだろうから。

 両者が溜めに溜めた力を叩きつけようとした正にそのとき、もうこの世には存在しない偉大なる大悪魔の波動が荘圏風致公園を包み込んだ。ナベリウスとベレトはお互いから視線を外し、示し合わせたように同じ方向に目を向けた。

「これは……」

 ベレトはつり気味の目を細めた。思わず戦意を喪失してしまうほどに、流れてくる波動が久しいものだったからだろう。

「……懐かしいね。まさかこんなかたちで再会できるとは思わなかったよ。さすがはあんたの血を引く坊やだ。フォルネウスを相手によくやってるみたいじゃないか」

 腰に手を当てて、やれやれ、とため息をつく。やはり悪魔の子は悪魔か。顔はさほど似ていなかったが、こうして伝わってくる波動は父親そっくりだった。

 ベレトが目を離した一瞬の隙に、ナベリウスはこの場から姿を消していた。イレギュラーに見舞われたとはいえ、ナベリウスを行かせてしまった時点で、この戦いはベレトの負けだった。

 生温い風が亜麻色の髪を揺らす。健康的な白い肌に浮かんだ汗もそのままに、ベレトはしばらく余韻に浸っていた。風が止んだ頃、フラワーガーデンを覆っていた氷が、ぱりん、と音を立てて消滅した。



 ****

 

「そうだっ! そうだよやりゃできんじゃねぇかっ!」

 耳障りな声が俺を出迎えた。大きく揺れる肩が、凶悪に歪んだ口元が、楽しくて楽しくて仕方がないと笑っている。フォルネウスの身体からは剣呑な鬼気が立ち上っているが、それは《悪魔》の力を解放した俺の足を止めるほどのものではなかった。

 常人には見えない、本来なら自然界には存在しないはずの波動が俺たちの中央の空間でぶつかり合う。薄っすらと外界に流出する程度の俺に対して、フォルネウスのそれは荘圏風致公園を丸ごと包み込むほど膨大だった。でも、男が一度やると決めた以上、そんな些事はまったく関係なかった。

 両手を広げるフォルネウスに向かって足を動かす。大地を駆ける脚力は、すでに人類の限界を超えて魔性の域に達していた。父さんの力は、確かに俺に受け継がれている。このほとばしる活力がなによりの証拠だ。

「いいねぇ懐かしいねえ! この感じ、てめぇの親父を思い出すぜ!」

 駆け抜けた速度を殺さず、返答の代わりに右ストレートを打った。腕力に加速を乗せた手加減なしの一撃を、しかしフォルネウスは顔色一つ変えずに躱してみせた。驚愕する俺の視線と、愉悦に満ちた悪魔の視線が交錯する。

 瞬間、ぞくりと背筋が震えた。

 言葉にせずとも、瞳を介して弾けんばかりの殺意が伝わってくる。フォルネウスの目を見ることは、おのれの無残な未来を垣間見ることと同義だった。腕が上がる。殺される。死が近づいてくる。脳髄に流れ込むネガティブの濁流から逃げ出したくて、俺は真横に跳んで仕切りなおそうとした。それは臆病な俺がもたらした失着だった。

「オイオイつれねぇなぁ! 逃げんなよ!」

 紅い悪魔は難なく後を追ってくる。いったんプラスまで開いた彼我の距離は、またたく間にゼロに戻った。戦闘能力で圧倒的に上回るこの男から逃げ出すことは、無防備な背中を見せるに等しい愚行だ。その過ちを犯した代償として、豪腕が唸りを上げ、空気を断ち割る鋭音を発しながら、迫る。

「ぐっ!」

 重荷を積んだトラックが正面衝突してきたかのような馬鹿げた膂力だった。とっさに両腕を交差して衝撃に備えたが、あえなく俺は吹き飛ばされた。骨の軋む幻聴を聞きながら、空中で体勢を整えて着地し、靴底で芝生を削って慣性を殺す。

「このっ、野郎……!」

 今度は俺から駆け出し、不気味なほど高揚しているフォルネウスに向けて拳を振りかぶる。妙手や奇策を用いず、ただ真正面から行く俺を見て、それでいいと、それでこそ面白いと、悪魔が不敵に笑った。半瞬後には渾身を込めた技が入り乱れ、人智を超えた衝撃の連続に大気が悲鳴を上げた。フォルネウスに追い縋るために肉体のギアは際限なく上がっていく。自らの限界を超えた動きに肉体が軋みを上げるが、表面上は互角の勝負を演じることができている以上、ここで手を緩める謂れはなかった。

 しかし、瓦解はすぐに訪れた。いままで培った技術や経験、そして父さんから受け継いだ力をフルに使っても、《ソロモン72柱》のまえにはあまりにも儚い。徐々に呼吸は乱れ、筋肉は休ませろと訴えてくる。それが体捌きを鈍らせて、刹那にも満たない、けれど確かに存在する致命的な隙を生み出した。

 戦闘の合間にできた不自然な間隙を、天性の慧眼によって見抜いたフォルネウスは針の穴をつくような正確さで拳打を放った。俺は体勢を立て直さず、むしろ崩れるままに身を流して片足に重心を移行し、蹴りで拳を迎撃する。次の瞬間、途方もないパワーがぶつかり合い、空気が爆ぜて、夜が震えた。遅れて発生した衝撃を利用して距離を稼ぎ、心身を少しでも回復させようと努める。場に静けさが満ちて、夜のとばりが主役に戻った。

「……なるほどなぁ。キャンキャン喚き立てるだけの犬だと思っちゃいたが、ちっとは戦いの心得があるみたいじゃねぇか」

 首の骨を鳴らしながらフォルネウスが言う。俺は気息を整えながら、疲労を悟られぬよう平然とした顔を装って切り返す。
 
「バカにすんな。男なら喧嘩のやり方ぐらい知ってて当たり前だろ。それに」

 ふと、脳裏に浮かぶのは長い黒髪をポニーテールに結わえた少女の姿。あいつの気が向いたとき、広々とした庭で格闘の訓練をしていたことを思い出す。ああ、そうだよな美影。おまえの弟子として無様な戦いはできないもんな。

「俺にはおまえより百倍強い師匠がいるからな。こんなのウォーミングアップにもならねえよ」
「ほぉ、そりゃ結構。てめぇの次はそいつを殺してやるよ」
「次なんかあるわけないだろうが。明日の予定を立てる前に、まずは自分の心配をしやがれ」
「言うじゃねぇかよ。そこまで上等な口叩くからには楽しませてくれんだろうな――ガキぃっ!」

 フォルネウスは弾丸を思わせる不可視の速度で間を詰めてくると高速で手刀を薙いだ。もはや視認できるスピードではなく、触れただけで人体をバターのように切り裂くだろうことは明白だった。全神経を回避に専念させて辛うじて逃れられる絶世の刃だった。

 速い。いや、速すぎる。風圧だけで肌が裂けて、頬に血がつたう最中、俺は背筋が凍る思いにとらわれていた。もし仮に、これでまだ手を抜いているのだとしたら、いったいこの男の底はどこにあるのか。俺の絶望を具象化するように、フォルネウスの動きは秒刻みで加速していく。すでに目は意味をなくし、本能と反射だけが俺の命を繋いでいた。死線を紙一重で掻い潜りながら想起するのは、他でもない美影の言葉。

 ――見てから、考えてからでは駄目。勘や反射で動かないと間に合わない。

 そんなこと簡単にできるわけがない、と弱音を吐いた俺に、あいつは言ったっけ。

 ――できる。こうして何度も何度もひとつの動作を反復し、脊髄反射の行動パターンにすりこんでいく。

 自分でも本当にどうかと思うが、認めるしかない。俺がいま生き延びているのは、自分よりも小さな女の子にボコられ続けた成果が出ているからだと。しかし、生まれた頃から相応の鍛錬を積んでいる美影とは違い、一朝一夕で身に着けた付け焼刃だけで戦っている俺が、いつまでも敵の攻撃を捌き続けられるわけがなかった。いずれ遠からず限界がくるだろう。

 このままではジリ貧だと判断した俺は、多少のダメージ覚悟で前に出た。フォルネウスの蹴りがわき腹にかすり、服が裂けて血が飛び散った。痛みの報酬として、無防備なふところに入る千載一遇のチャンスを得る。神経を焼く痛覚に顔をしかめながらも、俺はがむしゃらに踏み込んで全力のパンチを叩き込もうとした。

 目が、合った。

 愉しそうに歪む瞳には余裕があった。罠にかかった獲物を見つめる狩猟者の目だった。生存本能がかき鳴らす警鐘に身を任せて、俺は拳を引っ込めると同時に地面を蹴って大きく距離を取った。遅れて噴き出した汗は、まだ命がある証だった。

「いい勘してやがる。あんな見え見えの誘いに乗るような莫迦なら、ここで一思いに殺してやろうかと思ったが」

 その声には、殺し損ねたことを悔やむ響きはなく、まだ獲物をなぶる愉しみが続くことの歓喜があった。

「……余裕だな。遊んでるつもりかよ」
「冷てぇな。遊ばせてくれよ。同族のツラを拝む機会すら滅多にないんだぜ。バアルの血を引く、それも人間と混じったガキとやり合ってはしゃがねぇほうがおかしいってもんだ」

 そう、俺に語りかける声もひどく高揚していた。絶えず吊り上がった口端は凶暴に、殺意に燃える瞳は獰猛に。

「オレがこのときをどれだけ待ったと思ってやがる。いまなら慎重すぎるグシオンも、口うるせぇアスタロトも、頭の固いベレトもいねぇ。それによぉ、ちっとばかし遊んでやったぐらいでくたばる出来損ないなら、さすがのグシオンもいらねぇって言うだろうよ」
「……グシオン」

 今日聞いたばかりなのに、どこか懐かしい響きのする名だった。リズたちの話によれば、現存する《悪魔》の三大勢力の一角を率いているという。とは言え、そのグシオンとやらがどれほど強力な能力を持っていたとしても、戦いを至上とするフォルネウスが誰かの後塵を拝するとはとても思えないが。

 逆に言えば、この男が曲がりなりにも忠誠を誓うほどのカリスマを、グシオンは備えているのだろう。

「やっぱり、おまえらが日本に来た目的は《悪魔の書(ゴエティア)》ってやつを手に入れることなのか?」

 訊ねると、フォルネウスは酷薄とした顔で笑った。

「……《悪魔の書(ゴエティア)》ねぇ。アレはいいもんだ。桁外れの事象を引き起こす点ではアガレスの力と似ちゃあいるが、その本質は破壊にだけ特化してるときた。まったく、バアルの野郎も面倒な代物を遺してくれたもんだぜ。なぁ?」
「父さんが、遺した……?」
「聞かせろや。おまえはアレがどこにあるか分かるか?」

 予想していなかった質問に言葉が詰まる。そういえば先の展望台で、リズもまったく同じ質問を俺に投げかけたことを思い出す。一度だけなら偶然で済ませることもできるが、立て続けに訊かれては何らかの必然を疑ってしまう。どちらにしろその存在を今日知ったばかりの俺に、くだんの書物の在り処など分かるはずもないが。

「はあん。そうかよ。まあハナから期待しちゃいなかったがな」

 沈黙をつらぬく俺の様子からおのずと答えを得たのだろう、フォルネウスは嘆息した。

「おい、勝手に納得すんな。いったい、おまえらは……」

 あの子は、リズは――

「俺に何を期待してるんだ? 父さんが遺したってどういう意味だ?」
「さあねぇ。どうしても聞きたけりゃ力づくで吐かせてみな。――そろそろいいだろうが」

 変化は唐突に訪れた。気配が変わり、夜の闇がいっそう深くなる。初めは錯覚かと思ったが、違う。ついさっきまで夜空に点在していた月や星々は見えなくなり、見渡すかぎりの世界は混じりけのない黒一色に染められていく。

「あんまり懐くなやガキ。いつまでもペラペラとお喋りなんざ退屈なんだよ」

 フォルネウスの輪郭がゆがみ、少しずつ曖昧になっていく。キィン、と甲高い耳鳴り。物理法則を冒涜する異能の力が顕現しようとしていた。

「ナベリウスの助けは期待すんな。ガキの子守に夢中な女を見逃すほどベレトは甘くねぇ。目障りな法王庁の連中も、ソロモンによく似たあの女も、ここには来ねぇ……いや、もうだれも入ってこれねぇよ」

 波動の流出が、爆発的に膨れ上がっていく。俺は直感した。フォルネウスにとっての遊びは、もう終わったのだ。いや、ここから始まるのか。

「そういやぁ……ずっと昔、バアルに言われたぜ。”戦いの目的ではなく行為そのものに意味を見出すおまえは、いつか戦いに裏切られる”ってな。抜かせよクソが。くたばったのはてめぇだろうが」

 忌々しげに吐き捨てるフォルネウスの顔は、どこか寂しげに彩られていた。

「オレは死なねぇ。どいつもこいつも、邪魔する奴ぁ一人残らず消してやる。まずは手始めにバアルの血を引くてめぇを殺して――」

 直後、影が狂奔した。

「オレたちを裏切ったソロモンに証明してやるよぉ! 野郎の血よりもオレのほうが強ぇってなぁっ!」

 昂ぶった咆哮に呼応して、暗黒の衝撃波が吹き荒れた。大地を駆け抜ける一陣の疾風は、あらゆる自然を蹂躙しながら広がっていく。巻き上がった土埃に視界は支配され、広場は混沌に包まれた。

 舌打ちとともに駆け出した俺は、フォルネウスから距離を取りつつ逃げの一手に甘んじる。こちらから仕掛ける余裕など微塵もなく、完全な防戦一方を強いられる。それでも諦めずに活路を見出さなければならない。無茶だとしても、無理だとしても、ここで俺が死ねば悲しむ人がいるのだから、弱音なんて吐けるはずがなかった。

「ガキが。甘ぇんだよ」

 しまった、と息を呑んだときにはもう遅かった。吹き荒れる影を隠れ蓑にした接近と、巻き上がった砂塵が晴れるほどの神速の踏み込みだった。反応は間に合わず、前蹴りが無防備な俺の腹に突き刺さる。気が遠くなるような激痛に晒され、口から血反吐を撒き散らしながら、俺は地面をバウンドして転がっていく。

「くそっ、たれ……!」

 目がかすむ。脚が震える。拳がうまく握れない。だが、寝てるわけにはいかない。口元の血も拭わず立ち上がるのと、フォルネウスがふたたび肉薄するのは同時だった。バカの一つ覚えか。フォルネウスは真っ向から向かってきて、右腕をまっすぐ突き出した。いくら速くても、フェイントも交えず同じ動きを何度も見せられてはさすがに対処もできるってもんだ。

「がはっ……!?」

 しかし、フォルネウスの腕は何事もなかったかのように俺を捉えた。軌道を予測し、腕をいなそうとしたはずなのに、どうして――

 喉の奥からこみ上げてくるものがあって、俺は蹲ったまま何度もえずいた。生臭い鉄の味を口腔内に残しながら、嫌味なほど赤い血がくちびるからこぼれ落ちる。たった二発食らっただけで、俺の身体はあれだけ溢れていた活力をなくしていた。もし俺がただの人間だったら、もう何度死んでるか分からない。

「そんなもんか? 違ぇだろ。おまえの親父はもっと強かったぜ」

 血の海に溺れてもがき苦しむ俺を、じっと見つめる双眸があった。見下ろす視線は冷たく、そこにはかすかに退屈の色が浮かんでいた。紅い髪が風にゆれ、均整の取れた四肢は静かに眠っていた。

「やっぱり人間の血がまずかったみてぇだな。どこぞの薄汚い野良犬と交わったせいで、産まれたのはチンケな雑種になっちまったってことか」
「雑種……だと」

 犬を彷彿とさせる四つんばいの体勢で地に伏したまま、俺は搾り出すように言った。

「そうさ。てめぇは雑種だ。最高の雄と、野良犬の牝から産まれた半端者だ。そうして這いつくばってんのが何よりの証拠だろうが」
「野良犬の牝、って言ったのか、おまえ……」
「気に入らねぇなら言い方を変えてやるよ。いい男を見つけたら股を開いて子種をねだる淫売ってな」
「……取り、消せ」
「あ?」
「取り消せっつってんだぁっ!」

 湧き上がる怒りに任せて駆け出した。肉体の限界を超えた動きに関節が軋み、筋肉が悲鳴を上げる。痛みのあまり視界は赤く染まり、すでにガタガタだった骨や内臓は激痛というかたちで無言の抗議を訴える。知るか。いまは黙れ。ありとあらゆる無理を気力でねじ伏せて、血に濡れた拳を振り上げる。噛み締めた奥歯が砕けた。

「興ざめだなぁ、オイ」
 
 だが、現実は非情だった。俺の想いは、紅い悪魔のまえには無意味だった。両手をポケットに突っ込んで気だるげに佇むフォルネウスの身体を、俺は立体ホログラムを透過するようにして、ただ、通り過ぎた。触れることすら叶わなかった。

 肩越しに背後を見ると、そこには闇に揺らめく輪郭があった。まだだ。まだ諦めるわけにはいかない。おのれを鼓舞して振り向きざまに裏拳を放つと、俺の手はフォルネウスを空振った。当たったはずなのに手応えはいつまで経っても訪れない。そのまま惰性で何度も何度も仕掛けてみたが、恐怖とともに振るわれる俺の四肢には人のぬくもりも、悪魔の冷たさも、なにも伝わってくれなかった。

「――ぁ」

 堰を切ったように圧倒的な絶望感が襲ってくる。いままでの俺は手加減されて、遊ばれて、いいように戦ってもらっていただけなのだ。その気になったフォルネウスは実体を持たない闇そのものになる。物理攻撃の一切は通じず、不死身に等しい正真正銘の怪物に。

 出鱈目すぎる。こちらからは指一本触れることもできないのに、あちらからは好きなときに好きなだけ攻撃することができるなんて。俺はなにを思いあがっていたんだ。戦闘能力に差がありすぎるなんてもんじゃない。こんなの初めから勝負にすらなってないのに。

「継いでるのは血だけか。どうやらバアルの力は、あの野郎だけのもんらしいな。くだらねぇ。これじゃグシオンの計画にも不備が出そうだな」

 つまらなそうに言って、おもむろに脚を上げる。蹴りがくる、と頭では分かっていても、それを避けるだけの能力と、戦いを続ける意志が絶対的に不足していた。上段蹴りを側頭部に食らい、俺はあっけなく地面に転がった。悲鳴を上げるだけの力もなく、芝生のうえにうつ伏せに倒れこむ。

「……ちくしょう」

 あまりの悔しさに涙さえこぼれそうだった。伸ばした手はなにも掴めず、傷ついた身体では護りたいものも背負えない。舐められたままでは終われないと言っても、他人を見返すだけの力がない。両親を侮辱されても満足に言い返せない。

 ふざけんな、と自分に対する怒りが爆発する。上等な口を叩いたくせに、いざ戦いが始まるとこのざまだ。おまえは誰かの背に護られてるだけのガキじゃないか。いままでだってそうだった。櫻井彩のときはナベリウスが助けてくれた。菖蒲が誘拐されたときは参波さんと託哉が一緒だった。ダンタリオンのときも美影とともに戦った。

 おまえは仲間の力を借りてようやく生き延びてきた、ちっぽけな男だ。この十九年間、いったい何をしてきたんだ。努力しても、そこに結果が伴わなくては意味がないのに。

 つまりは簡単な結論。

 これまで俺が積み上げてきたものは、すべて無駄だったと――

「……んなわけ、ねえだろうがっ」

 絶対に認めてやるわけにはいかなかった。ここで下を向いたら全てが無駄になる。しっかりしやがれ萩原夕貴。ちょっと劣勢に立たされたぐらいでなに弱気になってやがる。

 ふらつきながらも身体を起こす。この暴力に満ちた非日常の最中、まぶたの裏に蘇るのは慌しくも幸せな日常。口ではなんだかんだと文句を言いながらも、俺はあの陽だまりが大好きだった。ナベリウスに大切なことを教えてもらい、美影に無理を言って訓練に付き合ってもらい、疲労した心身を菖蒲に癒してもらった。彼女たちと触れ合う日々のなかで、こんな俺でも目の前にいる人たちを護ることぐらいならできると思った。護りたいと、強く思った。

 それを、勘違いで終わらせることだけはしたくない。

「頑丈だな。まだ立つかよ」

 ゆっくりと立ち上がった俺を、フォルネウスは無感情な目で見つめていた。すでに獲物から興味を失いかけてる目だった。

「さすがに《悪魔》の血を引いてるだけのことはあるか。パパに感謝しとけよガキ。ただの人間なら、もうとっくに死んじまってるぜ」

 そう言って笑うフォルネウスの身体は依然として闇に揺らいでいた。この男の真の恐ろしさは、戦いに熱狂しながらも完全には冷静さを失っていないところだ。猪突猛進な戦闘狂かと思いきや、こと戦いに関しては非常にクレバーときた。いまだって注意深くこちらの挙動を伺っている。唯一、俺が付け込める可能性のあった実力差がゆえの慢心も期待できそうにない。

「おまえに、言われるまでもねえよ……父さんにはいつだって感謝してるさ」

 父さんがいなければ、俺はこの世にいなかった。二十年前に何があったのかは知らない。なぜ父さんは死んでしまったのか。ちょうどその頃に起きたと聞く《大崩落》と関係があるのか。すべてを知っているはずのナベリウスは黙したまま何も語ってくれない。それでも、いつかは知らなければならないという確信があった。父さんの血を引く俺にしかできないことが、きっとあるはずだから。

「いいぜ。おら立てよ。こんなもんで終わりじゃねぇだろう」

 好戦的な笑みを浮かべて、ゆっくりとこちらに歩いてくる。ほとばしる威圧は、ただ面と向き合って対峙することもままならないほどだった。まったくもって底知れない。ただ、フォルネウスはまだ力の半分も出していないことだけは漠然と理解していた。それも無理からぬことだろう。つい先日まで最近は不景気だなとか、将来はどんな職業に就けるのかとか、そんなことをぼんやり考えていた俺が、絶えず闘争と付き合ってきたフォルネウスに勝てる道理はないのだ。

「……でも、だからって逃げる理由にもならないよな」

 肝に銘じよう。ここで諦めたら、俺はもう可愛いとか女々しいと言われても何の反論もしないと。そう決めたら不思議と腹を括るのも楽に思えた。

「覚悟しろよ、クソ野郎。いまから、おまえの顔面に一発ぶち込んでやるからな……」
「はっ、そうかよ」

 風と形容するのもおこがましい脚力で接近してきたフォルネウスに殴り飛ばされる。腕で防御は間に合ったのに、脚を踏ん張る力も残っていなかったものだから、俺の身体は宙を舞ってから芝生に落ちた。満身創痍の身体を必死に起き上がらせると、間髪入れずに腹を蹴られてまた倒れこむ。もう何度目かも分からない血反吐を吐きながらもがき苦しむ俺の頭を、フォルネウスが踏みつけた。

「退屈だな。期待が大きかった分、余計に冷めるぜ」

 靴底から伝わる力はあまりにも強烈だった。地面が少しずつひび割れ、頭蓋骨はミシミシと軋みを上げる。

「バアルも莫迦な野郎だ。よりにもよって、どうして人間を選びやがった。こうなることは分かってただろうによ。人間の女にたらしこまれるとは、さすがの野郎も落ちぶれたか。いや、ここは《悪魔》を誑かせた女のほうを褒めるべきか?」
「て、めえ……」

 その母さんをバカにするような言い方が。

「さっきから気に食わねえんだよっ!」

 怒りが爆発した。どこかから活力が溢れてきて、傷ついた身体の痛みを無理やり消し去った。頭を踏みつけている脚を全力で払う。だが、そのまえにフォルネウスは飛びのいていた。

「ほぉう……」

 広場を占拠していたフォルネウスの波動に対抗するように、俺の身体からいままでにない勢いで《悪魔》の力が流れ出す。もう少しだけ、あとほんの少しだけ、戦える。

「身内をおちょくられるとキレるタイプか。おもしれぇ。火事場の馬鹿力でもイタチの最後っ屁でもなんでもいい。せいぜい楽しもうや」
「黙れよ。おまえだけは絶対に許さねえ。もう二度と俺たち家族をバカにすんな」

 おまえになにが分かる。懸命に生きてんだよ。大切に想ってんだよ。ずっと二人で生きてきた。誰も助けてくれなかった。きっと母さんは想像を絶する苦しみと戦いながら俺を育ててくれたはずだ。なのに過去を振り返っても、憶えているのは優しい笑顔だけなんだ。父さんを失った悲しみを背負っているのに、俺のまえでは見せないんだ。

 なあ。泣きながら笑うことがどれほど難しいか、分かるか?

 それを知ってなお、母さんをバカにすることができるのかよ?

「にしても、解せねぇな。ここまできて力の差が測れねぇほど戦いを知らないわけじゃねぇだろ。どうして立ち上がった? 勝てるとでも思ったのか?」
「……特別サービスだ。おまえにいいことを教えてやる」

 勝てるとか負けるとか関係ない。もう小難しいことを考えるのは止めた。力の差なんて推してまで知りたくもない。だから、もう単純でいいだろ。

「まず一つ。俺はこう見えても男らしいんだよ」

 女の背に隠れてるだけのガキとか不名誉なこと言われたら、そいつのツラに全力の一撃をかましてやりたくなる程度には。

「そしてもう一つ。これはいままで誰にもバレてないとっておきの秘密なんだけどな」

 ぐっと親指を立ててから、それを下に向けた。

「俺は、マザコンなんだよ」

 母さんをバカにされると頭に血が上って支離滅裂になる程度には、だけどな。

「だから、おまえをぶっ飛ばす。菖蒲や美影にも言ってない秘密を知られたんだ。このまま黙って帰すわけにはいかない」

 腰を落として構えを取る。フォルネウスはしばらく喉のおくでくつくつと笑っていたが、やがて右腕を前に伸ばした。

「そうかい。もう死ね」

 鍛え抜かれた体躯が夜にかすんだ。強烈な耳鳴り。俺に向いたフォルネウスの腕から、禍々しい闇の奔流が放たれた。黒い火炎としか形容できないそれは、空間を根こそぎ侵犯しながら俺を消し去ろうと迫る。津波や台風にも似た、大自然の猛威を感じる。速く、重たく、昏い。

 真横に跳んで軌道上から逃れたが、着地した俺を狙ってすぐさま次弾が解き放たれた。先の跳躍で酷使した脚の筋肉にさらなる鞭を打ち、ふたたび回避運動を取る。しかし、三度目の正直か。脅威から脱して顔を上げた俺の目に映ったものは、焼き直しのような怒涛のごとき闇だった。奔流の向こうに哂うフォルネウスが見えた。

 一か八かだ。俺は最小限の動きだけで闇を避けてみせた。おかげで掠った左腕に焼けつく痛みを感じたが、男の意地で我慢して駆け出した。あれほどの力を三度も立て続けに使ったのだ。逃げ回る一方だった俺が無謀にも攻めに出るとは思わないだろうし、さすがの奴も多少の消耗はしているだろう。裏をかいたとも言えない稚拙な特攻だが、長期戦は望めないいまの俺にとって、ここで打って出るしか道はなかった。

「よぉ。久しぶりだな」

 前方、ほんの十メートルと離れていない距離に悪魔がいた。俺と同様に、向こうも地を蹴り加速していたのだ。殺意に酔った目が、お見通しなんだよ、と告げていた。

「くっ……!」

 いまさら止まることはできない。ここで退いてしまったら、そのときこそ俺は死ぬだろう。中途半端な躊躇いは、デッドヒートの途中に急ブレーキを踏むようなものだ。であれば、初めから全力でぶつかったほうがいい。たとえ、結果が玉砕だとしても。

 そのとき、視界のすみに銀色の軌跡が見えた。

「――っ!?」

 驚きは誰のものだったか。衝突しようとする俺とフォルネウスの中央に、なにか小さな物体が投げ入れられた。それは《悪魔》の波動に反応するや否や、青白い輝きを発し、邪悪な闇に呑まれていた広場をまばゆく照らし上げた。

「こりゃあ……《精霊の書(テウルギア)》!」

 歪められていた物理法則が是正されていく。満足に目も開けていられないほど鮮烈な光が視界を満たす。その聖性を帯びた極光の最奥に、ひどく懐かしいものがあるような気がして俺は手を伸ばしたが、それに触れる寸前で指輪が一際強く輝き、巻き起こった衝撃波によって俺は地に墜とされた。

 ほどなくして精緻な紋様が刻まれた指輪は、芝生のうえに音もなく落下した。太陽よりも地上を照らしていた星が潰えたことによって闇は蘇ったが、そこにあるのは俺のよく知っている夜だった。きれいな月明かりと、黒天を彩るまばらな星々。もう禍々しさはどこにも残っていない。

 ぞっとするほど冷たい表情を浮かべたフォルネウスが広場の端にたたずむ人影を睨む。

「……驚いたぜ。何しにきやがった、クソガキが」

 絶対零度よりも冷え切った声は、言外に興がそがれたと伝えていた。俺はゆっくりと彼女を見つめる。ここまで走ってきたのか、自慢だと言っていたストロベリーブロンドの髪はひたいに張り付いていた。ミニスカートから伸びる脚線は疲労を訴えるように弱々しく身体を支えている。夜風にツインテールの房が揺れていた。

「……リズ」

 リゼット・アウローラ・ファーレンハイト。法王庁特務分室の室長という肩書きを持つ少女は、切羽詰った表情でこちらをじっと見つめている。

「なんで……」

 フォルネウスが怒り心頭に発したならば、俺はただただ戸惑っていた。なぜこの場にリズが現れたのか、まるで意味が分からなかったからだ。彼女があの指輪を投げたのは、状況から見て俺を助けるためなのは明白だったが、曲がりなりにも《悪魔》の血を引く俺に法王庁が手を差し伸べるとは思えない。アルベルトや他の隊員の姿が見えないのも気がかりだった。

「よかった、間に合った……」

 俺の顔を見ると、リズはひたいの汗を拭いながらほっと息をついた。

「夕貴くん、わたしね……約束したの」

 いきなり何を言い出すんだ。いまは約束なんて関係ないだろう。それよりも早く逃げろよ。ちょっとぐらいなら俺が時間を稼いでみせるから。いくら敵対するかもしれない組織に属しているとはいえ、女の子が傷つくところなんて見たくない。
 
「わたしには、どうしても見届けたい世界がある。頭のよさそうな肩書きなんて関係ない。使命と理想はべつだもん。……うん、だから、なんていうか、わたしは」

 言いにくそうに視線を泳がせてから、リズは笑みを浮かべて言った。

「夕貴くんに、いなくなってほしくない」

 翠緑の瞳に親愛の情を乗せて、ぶれることなく見つめてくる。俺の混乱はますます深まるばかりだったが、彼女がなにかの冗談を口にしているようにも思えなかった。まるで真意が掴めない。彼女は俺を騙したいのか、助けたいのか、利用したいのか。こうして笑顔を向けてくるのも、俺の警戒心を解くための計算なのか。考え出せばキリがなかった。

 リズ。きみはいったい何を考えて、なにを為そうとしてるんだ……?

「――おいコラ、クソガキ。オレの許可なくしゃしゃり出てきた挙句、なに頭の弱いことほざいてやがる」

 殺気が目に見えて増大していく。怒りが手に取るように分かった。

「てめぇのツラを見てるだけでも吐き気がするってのに、盛り上がってんとこに水差しやがって。そんなに混ざりてぇならそこにいろや。バアルのガキをぶっ殺したあと、そのツラで生まれてきたことを後悔させてやるからよぉ」

 抑揚のない声とは裏腹に、弛緩した身体から溢れる波動は吐き気を催すほどの密度だった。純粋なプレッシャーなら、ナベリウスやダンタリオンよりも遥かに上だろう。おそらく、戦闘において枷を外したフォルネウスは最強だ。

 肉食獣を連想させる、余分なものが一切ない四肢がぎりぎりと引き絞られる。感情の見えない目からは醜い肉塊と化した数秒後の俺が見えた。ここから先は戦いではなく、一方的な狩りだ。捕食者が獲物を殺して食らう、自然界では日常的に見られる当然の摂理。

 リズの介入は、俺の死を先延ばしにしただけで、結果はより残酷なものとなるだろう。もちろん責めるつもりなど毛頭ないが、彼女はフォルネウスを怒らせただけで根本的な解決をもたらすことはできなかった。

「……ナベリウス、ごめん」

 夜空を穿つ月を見上げて、ここにはいない彼女を想う。諦めるつもりなんてない。でも、たぶん俺は殺される。だから、あの美しい銀髪を連想させる月明かりに祈っておこうと思った。せめて彼女が、俺を護れなかったという呵責にとらわれませんように。

 俺が死を覚悟した正にそのとき、ふいに聞き覚えのある唄が耳に届いた。

 思わず対峙している敵から目を離して、ふたたび広場の隅を見た。もう遠い昔にも思える記憶が蘇る。俺たちが出会ったときとまったく同じだ。リズは目を閉じ、両手を組み合わせて唄を歌っていた。悪魔の支配する死地と化した広場において、少女のきれいな声は呆れるほど場違いであるがゆえに戦慄を鎮める効果があった。

 俺はこれを知ってる。だって、ずっと昔、母さんが子守唄として聞かせてくれたから。リズと母さんが共通した旋律を知っているのは偶然なのだろうか。俺には特別な符合があるように思えてならない。

「……ははは、ははははは」

 リズの唄に同調して、決定的な変化があった。静かに激昂していたはずのフォルネウスがてのひらで顔を覆いながら、乾いた笑い声を上げているのだ。

「……なるほどなぁ。そうか、そういうことかよ。おかしいとは思ってたんだ。その顔。その身体。その声。その魂の在り方。そして、この唄。相変わらず人をおちょくるのが好きな女だ。いまさらになって、よくオレのまえに現れやがったもんだぜ」

 俺が怪訝に思い、ぶつぶつと独り言を漏らすフォルネウスに呼びかけようとしたときだった。

「答えろや――なぁっ!」

 荘厳と屹立する霊山が突如として噴火するように声を軋らせると、フォルネウスは大地が陥没するほどの踏み込みとともに疾走した。害意が凝縮されきった双眸に映るのは俺ではなく、ひとりの小さな少女だった。

「くそっ……!」

 事態の深刻さに気付いた俺も一拍遅れて走り出したが、明らかに間に合わない。超絶に加速して一条の雷鳴と化すフォルネウスに対し、ここまで誤魔化してきたダメージが一気に返ってきたのか、俺の足取りは鈍重だった。まだ立っていられるだけでも奇跡に近いのに、悪魔を上回る脚力を望むのはさすがに無謀だった。これ以上、父さんの血が俺を甘やかせてくれることはないだろう。

 それでも、早く、早く、もっと早く。頼むから間に合ってくれ。自分の無駄に豊かな想像力が恨めしい。どうしてフォルネウスがリズの心臓を抉り出している未来が視えるんだ。

 そんな俺の心情を知る由もなく、真紅の大悪魔はリズに向かって問いかける。 

「ソロモンっ! なぜオレたちを裏切りやがったっ!」

 叫びにも似た詰問をまえにしても、少女は透き通った声で唄を紡ぐだけだった。




 どうしても、届かない。

 目の前に広がる光景を見て、ジャンルの違う物語を無理やり組み合わせたみたいだ、と俺は思った。形相を怒りに染め、鮮烈な殺意を手に疾走するフォルネウスと、誰かに願いを捧げるように手を組み合わせながら、懐かしい旋律を口ずさむリズ。きれいなお姫様が登場する絵本のページに、恐ろしいモンスターの切り抜きを貼り付けたかのように、どこか愉快さと違和感が同居していた。

 でも、これは紛れもないリアルだった。

 夢ではないし、物語ではもっとありえない。目には恐怖を。耳には唄を。肌には夜風を。舌には血を。鼻には草の匂いを。このうちのどれか一つでも欠けてくれれば現実逃避もできるのに、鋭敏になった五感はより鮮明に絶望を拾ってくる。

 身体がひどく重い。気を抜けば脚がもつれそうになる。ひたいを伝って流れてくる汗が邪魔だ。それでも、前に進むのを止めるわけにはいかなかった。俺がここで止まってしまえば、か弱い人間の少女でしかないリズは悪魔に殺されるだろう。

 しかし、変えようのない現実として俺にはフォルネウスを止めることはできない。複雑な要素など微塵も介在していない。ただ単純に、俺の走るスピードよりも、フォルネウスのほうが圧倒的に速いだけ。そして、いまはそれが全てだった。

 いつだって俺の力は及ばない。四月、俺が非日常に足を踏み入れるきっかけとなった事件もそうだった。少しずつ冷たくなっていく女の子の身体を、こんな俺を好きだと言ってくれた彩の笑顔を憶えている。両手を血に汚し、記憶と、そしておそらく想いも失った彼女がいま、どのように生きているのかは詳しく知らない。知りたいという欲求を、言い知れない罪悪感で押し殺してきた。俺にもう少し力があれば、あんな悲しい結末を迎えることはなかったはずなんだから。

 もう、嫌なんだ。
 
 また目の前で誰かが傷つくのは。それを傍観するしかないのは。おのれの無力を嘆くのは。必死になって伸ばした手が、届かないのは。

 絶望は連鎖していく。その、人の憎悪や慟哭を繋ぎとめて連環した強固な楔は、やがて俺を縛り付けて身動きを取れなくするだろう。じゃらじゃらと、耳障りな金属の音色が足元から這い登ってくるイメージ。具象化した過去の後悔が、どうせリズを救えはしないという諦観が、幻想の枷となって踏み出す一歩を重くする。

 だが、それでも。

 ここで止まりたくない。ここで止まるわけにはいかないんだ。だって、いままで俺はそうして生きてきた。前を向いて、拳を握って、何度も転びそうになりながら、できるかぎりの全力疾走で、諦めずに走り続けてきた。その不器用で、あまりにも女々しい生き方の結晶が萩原夕貴なんだ。ここで立ち止まることは、リズを見捨てることは、すなわち俺の生涯を否定するのと同義だろう。

 俺の体内を循環する血潮が熱くたぎる。《悪魔》として与えられた力が、人間として生まれ持った誇りが、こんなところでは終われないと吼える。くたびれきった身体に一握りの活力が芽生えた。それを踏み出すための一歩に変えて、俺は僅かでも速く、少しでも遠くに踏み出した。

 それはきっと、今際を迎えた草花が最期に美しく咲き誇る現象と似たようなものだった。心臓が痛いぐらいに鼓動して、視覚化できるほどの強いDマイクロウェーブが溢れた。身体能力は限界を超えて強化されて、肉体にまとわりつく後悔や諦観という名の枷を振り払うがごとく、俺はラストスパートをかける。

 そこに、銃声が割って入った。


 ****


 フォルネウスは疾走する。その目に圧倒的な憎悪を乗せて、リズ以外のなにも見ていない。

 当然だった。リズが口にした唄は、かつて一人の王が《ソロモン72柱》を召喚する際に用いた詠唱に旋律をつけたものだ。もう現代には残っていない、忘れ去られた唄。ソロモン王と酷似した容姿を持つ少女がこの唄を知っている、という符合はすでに偶然では片付けられない。

 リゼット・ファーレンハイトという人物にまつわる背景など知らない。だが、フォルネウスは一秒でも早く、あの顔でこの唄を口ずさむ女を殺してしまいたかった。戦いの目的ではなく行為そのものに意味を見出す彼も、いまだけは純粋な殺意のみに縛られている。

 いまだ唄は続いていた。リズは逃げも隠れもせず、ただ一心に歌っていた。悪魔の怒りに油を注ぐように。くじけず前に進む少年を導くように。戦場の真っ只中にあって朗々と響く声は、どんな荒れ果てたステージでも、観客がいなくとも、孤独という名のドレスを身にまとって歌い続ける。

 そんな歌声を放ってはおけないと、小さな楽団が伴奏を提供する。一斉に楽器を構えて、汚れた衣装で舞台に上る。各奏者の腕は壊滅的で、リズムもてんでバラバラだが、それは確かにひとりの少女のためだけに奏でられた音だった。夜のしじまを揺らさんと銃器が吼えて、ここに型破りのオーケストラが幕を開ける。

 空気を震わす乾いた音色は、しかし大地を濡らす雨のように連続して降り注いだ。広場を囲う木々の奥に、目も眩むほどの輝きを放つ星がいくつも現われ、鮮烈に明滅する。生温い大気を焦がして飛来する金属製の嵐が、荒れた芝生を見るも無惨に穿っていく。うっそうと生い茂る木立を掩体にして、白い軍服を着込んだ男たちが銃火器を構えていた。

 それは法王庁特務分室をして、本来ならありえない戦闘行動だった。なぜなら、彼らが《悪魔》と対等に渡り合うための必須条件が、いまは何一つとして揃っていないからだ。ことを公にしたくないという事情から、今夜の人員は後方支援の者を入れても二十人以下に抑えてあるし、現行の装備も心もとないの一言に尽きる。いや、来日して早々、市街地での作戦に銃火器の携行許可をもぎ取っただけでも、アルベルトの苦労と手腕は推して知るべしと言えよう。
 
 でも、それとこれとは別なのだ。

 戦うと決めた。護ると誓った。あの幼い室長に仕えることが決まった日から、彼らの志は特務分室ではなく、ひとりの少女とともにあった。女のワガママの一つや二つ、笑って許せずしてなにが男か。彼らは優秀だが、それと同じぐらい莫迦だった。

「だからよ! もう小賢しいことなんざ知らねぇよ!」

 だれかが吼えた。それは全員の代弁でもある。戦略的見地から見た分析など知りたくもないし、知ろうとも思わない。いくら絶望的な数字がはじき出されようと、それを目にしなければ関係ないだろう。

 戦うと決めたのだ。護ると誓ったのだ。心身に叩き込んだ戦術を駆使した高度な実戦とは根本的に異なる、ただ闘争本能を揺さぶるだけの原子的な戦い方。

 それが、楽しくて楽しくて仕方なかった。

「はっはー! これだから室長のお守りは止められねぇよなぁ!」

 野太く力強い声には、銃声にも負けない強靭な意志が込められていた。生身の人間が、強大な力を持つ《悪魔》と対峙するのは並大抵のことではない。彼らのひたいには脂汗が浮かんでいた。楽しげに歪んだ口元は、だが震える自分を無理やり鼓舞するための産物でもある。これは精神論や、訓練でどうにかなるものではなかった。大気を伝播するフォルネウスの波動は、もはや当てられるだけでも吐き気を催すほどの密度なのだ。

 恐怖はある。力が及ばないことは百も承知だ。にもかかわらず、退却という選択肢はすでに全員の頭から除外されていた。戦力に決定的な差があっても、彼らには室長たる少女を守りぬけるという、確かな自負があったのだ。

 その瞬間、彼らの心はわずかに、けれど確かに《悪魔》を上回っていた。

「雑魚が――」

 人間の儚くも尊い矜持は、《悪魔》によってあっさりと踏みにじられる。弾丸すらも余裕で躱してのける脅威の肉体性能。慣性を無視するほどの方向転換で蛇行するフォルネウスを捉えようと、弾幕は物理的にかわせる余地をなくすまで激しさを増した。それを無駄だと嘲笑うかのように、フォルネウスの右手に漆黒の影が揺らめく。

「調子に乗ってんじゃねぇ!」

 垂直ではなく並行に降る雨に向けて、拳を叩きつける。甲高い耳鳴りとともに禍々しいエネルギーが炸裂して、一秒後にはフォルネウスを穿つはずだった銃弾がすべて消し飛ばされた。硝煙の匂いが広場に充満しても、フォルネウスは身に一つの傷も負っていなかった。

 ――特務分室の男たちが稼いだ時間は、ほんの数秒ほどしかない。が、その数秒を足場にして、萩原夕貴は遠く隔てる距離を数歩分だけ埋めていた。

 銃声が一時的に途切れるのを見計らって、どこからか純白の疾風が現れた。芝生を決然と駆け抜ける音。灰色の髪。日本人離れした彫りの深い顔立ち。たくましい身体を包むのは、さまざまな略綬や腕章に彩られた白い軍服。手には一振りの剣。法王庁特務分室、戦隊長。

 アルベルト・マールス・ライゼンシュタイン。若かりし頃は上官のものだった《マールス》の銘を法王庁から頂いたのはいつのことだったか、もう彼には思いだせない。ただ、あの日を境に、アルベルト・ライゼンシュタインという青臭い青年は死んだのだ。

 二十年以上も前、日本から遠く離れた異国の地で、大きな戦争があった。表の歴史には残っていないが、多くの命が儚くなった血で血を洗う戦いだった。その最中、切迫した戦況に任せて、アルベルトはあの男と共闘するはめになった。長い銀髪を背中に流す女からは坊やと呼ばれ、おのれの無力を散々に噛み締めた。

 バアル、ナベリウス、そして――

 彼ら三人の顔が思い浮かぶ。あの日、あのときを境に、アルベルトの価値観は大きく変わった。それまで絶対と信じていた”人”という生き物に疑いを持ち、悪魔の王から永遠に解けない命題を課せられた。人はかくも傲慢で醜いと、従者のうち一人が吐き捨てた。

 鈍い痛みが、彼の全身に沈殿している。人体は、そんなに丈夫にはできていない。先の展望台で、ヒトの身でありながら一時とはいえ《悪魔》と対等に渡り合ったアルベルトだが、いくら達人であっても筋肉や関節にかかる負荷から逃れることはできない。ここに駆けつけたときにはもう、アルベルトの肉体は限界近くに達していた。

 それでもなお、剣を執ると決めたのだ。幾多の苦難が待ち受けるだろう少女の進むべき道を、となりで支えてやりたいと思った。それは奇しくも、萩原夕貴を見守るナベリウスとまったく同じ生き方だった。

 いまの彼は法王庁特務分室の戦隊長にあらず、在りし日のアルベルト・ライゼンシュタインだ。

 銃弾のみに意識を集中していたフォルネウスに対し、その背後を見事に取ったアルベルトの奇襲は神業の一言に尽きる。かすかに漏れ出る殺気を、フォルネウス自身の殺気に紛れ込ませて察知を困難にしたのだ。気付いたときにはもう遅く、振り向いたときには首を斬り落としているだろう。それほどまでに必中のタイミングだった。

 ゆえに驚嘆すべきはフォルネウスだ。闘争の権化とも言うべきこの男は、発露した殺気がどれほど極小であろうとも、それが自身に向けられたものであれば絶対に反応してみせる。アルベルトの判断は間違っていなかったが、相手が悪すぎたのだ。

「おもしれぇ。戦神(マールス)とはよく言ったもんだ」

 真紅と純白のシルエットが交差する一瞬、フォルネウスの口元が不敵に歪み、アルベルトの目が大きく見開かれた。

「だが、それだけだ」

 爆轟する衝撃。砕け散る鉄の凶器。吹き上がる鮮血。蹂躙される希望と、止め処なく紡がれる絶望。半ばから折れた剣を手に、アルベルトは膝をついた。軍服が裂けて、肩口から血が流れる。その毒々しい深紅の色合いも、しかしフォルネウスの紅い髪よりは危機感を覚えない。

 ――消耗したアルベルトでは《悪魔》を足止めすることもできない。が、砕かれた剣の残骸が地に落ちる頃、夕貴は無限にも思えた距離をさらに詰めていた。

 あらかじめ結託していたわけではないし、彼らにはお互いを利用するつもりもない。ただ結果として、特務分室がフォルネウスを足止めした僅かな時間が、夕貴の追い風となったのも事実である。夕貴には夕貴の意地が、特務分室には特務分室の矜持がある。自分が信じた道を突き進んだ結果、先の見えないレールがわずかに交わっただけの話。この夜が明ける頃にはまた、それぞれの道を行くだろう。

 さりとて、依然としてフォルネウスの疾走は止まらない。人間の抵抗を歯牙にもかけず、殺意と憎悪を原動力にして狂奔する。生半可な攻撃では足止めにもならない。いくらか距離が縮まったとはいえ、地力に差がある以上、夕貴には追いつけないだろう。

 だからこそ、彼女は来た。伸ばした手を届かせるために。

 真夏に見る雪とはなんとも風流なものだった。血に濡れた広場を、絶対零度の氷が覆っていく。顕現した凍結現象はまたたく間に空間を制圧したが、《精霊の書(テウルギア)》と呼ばれる指輪が落ちている周囲だけが不自然に緑を保ったままだった。指輪の発する青白い輝きが、見る見るうちに氷を溶かしていく。季節外れの冬は、またすぐに夏に主役を明け渡すだろう。

「……まったく、相変わらず血の気が多いわね」

 広場のすみに立つ大木に背中を預けて、ナベリウスは熱っぽい吐息とともに言った。腰まで届く長い銀色の髪は肌に張り付き、それと同じ輝きを放つ瞳はすっかり憔悴していた。左脚の太ももから流れた血が、細い足首や靴を真っ赤に染めている。

 一瞬のすきをついてベレトの目を逃れた彼女は、まっすぐに夕貴のもとまで駆けつけた。さすがの彼女も今夜ばかりは無事とは言いがたい。連戦のなかで力を消耗したうえ、左脚には裂傷を負っているし、ベレトに蹴られた腹は肋骨の一本か二本を折られている。決して戦えないわけではないが、戦闘能力に陰りがあるのも事実だった。

 それが、どうしたというのか。

 彼女は間に合ったのだ。大切な少年のかんばせを、もう一度だけ見ることができたのだ。夕貴が無事ならば、ナベリウスは無限の力が沸いてくる。体力の消耗がどうした。怪我なんて些事にも値しない。いまなら、あのときの約束も果たせると彼女は思った。

「言ったでしょ、フォルネウス。それじゃ女にモテないってね」

 ナベリウスが伸ばした腕の先、疾駆するフォルネウスを取り囲むようにして無骨な氷の槍が無数に生成された。そのうちの何本かは《|精霊の書(テウルギア)》の効果範囲に侵入して打ち消されたが、まだまだ数は残っている。全方位から飛来する鋭利な氷塊をまえにして、だがフォルネウスはなおも足を緩めない。

「はっ――そうかよ!」

 暴力的な破壊音。迫りくる絶対零度を砕き、ときに躱しながら、フォルネウスは一瞬だけリズから目を逸らし、ナベリウスを見た。交錯する二人の視線には、決定的なまでの温度差がある。もう二度と、彼らが同胞として手を結ぶことはないだろう。

 やがて氷塊は、そのすべてが粉砕された。ガラスが砕けるような音を発しながら、ぱらぱらと氷の破片が舞い散る。

 これでもうフォルネウスを阻むものは何もない。銃弾は効かず、戦士の剣は折れ、悪魔の力は無力化される。あとは一直線に駆け抜けるだけで、リズのもとまで辿りつける。

 しかし、それは夕貴も同じこと。

 フォルネウスが氷を打ち落とし、リズから視線を外したその隙に、夕貴はあれだけ遠かった距離を踏破していた。

 無駄なものなど一つもなかった。法王庁の銃撃が、アルベルトの奇襲が、未来を繋いだ。彼らの介入がなければ、ナベリウスは間に合わず、リズの命はとうに散っていただろう。そしてなにより、ほんの一歩分でも足取りを緩めれていれば、夕貴の手は届かなかっただろう。

 おのれの無力を自覚している夕貴にできることと言えば、何があっても諦めずに走り続けることだけ。それが萩原夕貴という少年の生き方だった。

 ここまで走り続けてきたことは、決して無駄ではなかった。


 ****


 あれだけ遠かった背中は、もう間近に迫っていた。目の前にいる。手を伸ばせば届く。だからこそ、ここからが死線だった。

「てめぇの役目は終わってんだよ」

 リズを見据えていた双眸が反転して俺を睨んだ。反応が早すぎる。強烈な殺意が爆発し、濃密すぎる死の気配が漂う。やはりこの男は希代の怪物だ。ナベリウスの氷を跡形もなく粉砕するという荒業を為した直後なのに、その肉体には一分の硬直もない。

 最後の一歩を踏み出した俺を、フォルネウスが拳で迎撃しようとする。極限の緊張感がトリガーとなって、体感時間を無限に引き伸ばしていく。あらゆるものが停滞して見えて、飛び散る汗や血の一滴まではっきりと知覚できた。

 はっきりと知覚できたからこそ分かった。ここまでしても、俺はまだ届かないと。

 この握り締めた拳がフォルネウスの頬を打ちぬくよりも、俺の頭が消し飛ばされるほうが確実に早い。フォルネウスの戦闘能力はでたらめすぎる。正攻法ではまず勝てない。いまの俺では、やはり無理があったのだ。

「信じて、夕貴」

 それはいかなる奇跡か。音よりも速く交差する俺たちの耳に、ナベリウスの声が聞こえた。

「あなたなら、きっと届く」

 俺は苦笑した。あいつの言葉に背中を押される自分が、あいつの顔を見ただけで無限に力が沸いてくる自分が、なんだか可笑しくて。

 フォルネウスの豪腕が、大気を断絶させながら猛烈に迫る。異能を使うまでもない。この男は、生身の肉体だけでも物理法則を冒涜する。でも、そんなの知るか。御託なんかいらない。俺が欲しいものはそこにはないんだ。もっと手を伸ばせ。最後まで走り続けろ。この暴力に満ちた非日常を戦い抜くために。あの大切な日常を護り抜くために。そして、俺が俺でいるために。

 ゼロまで踏み込んだ距離から、俺はさらなる一歩を踏み出して、マイナスまで間合いを詰めた。禍々しいほどの風切り音。超常の破壊力を秘めたフォルネウスの拳は、俺の頭上をかすめて虚空に消えていく。

「このガキ……!?」

 無我夢中でふところに潜り込んだ俺は、忌々しそうに目を眇めるフォルネウスを見上げた。

「なぁ、おい」

 おまえ、俺を女の背に隠れてるだけのガキだって言ったよな。母さんのことを侮辱したよな。

 そのことは、忘れてねえぞ――

「フォルネウスっ!」

 怒号とともに、俺はあらん限りの余力を振り絞り、腰だめに構えていた拳を振り抜いた。フォルネウスはとっさにもう片方の腕を上げて防御を試みたが、渾身を込めた俺の拳打は、吸い込まれるように奴の頬を打ち抜いていた。骨の髄まで痺れるような手応え。屈強な男の身体は、地面を強烈にバウンドして転がっていった。

 いつの間にか、唄は終わっていた。リズは何も言わず、じっと倒れたフォルネウスを見つめている。透き通った翠緑の瞳は、凪いだ海のごとく静かだった。そこには驚きも安堵もない。俺には、リズがこの結末になることを予想していたかのように感じられた。

 身体のそこかしこが痛い。指先を動かしただけでも痛覚が暴走して、痛みのあまり視界が真っ赤に染まる。とりわけ心臓がやばかった。鼓動のリズムが速すぎる。血の供給に需要が追いつかないという矛盾。毛細血管が破裂したのか、肌の至るところに青あざが浮かんでいた。フォルネウスを殴りつけた拳は皮膚が裂けて、ぽたぽたと血が滴っていた。

「だから……言っただろうが」

 もはや呼吸をするだけでも苦痛だった。生理現象によって涙が滲み、酷使した脚はけらけらと笑っている。それでも大きく息を吸い込んで、ふらつく身体に喝を入れて、俺は仰臥するフォルネウスに言った。

「いまからおまえの顔面に一発ぶちこんでやるってな。ちゃんと忠告はしといたぞ」

 真紅の大悪魔は、倒れたまま動かない。



「……くっ、くっくっくっ」

 やがて静けさを打破したのは、抑揚のない笑い声だった。

「ははは、ははははははは」

 荒れた芝生のうえに大の字になって、フォルネウスは笑っていた。無邪気な子供のように純粋で、一切の打算がない歓喜だった。

「よぉガキ。てめぇの名は?」

 夜空を見上げたままフォルネウスは問いを投げた。それが誰に向けたものかは考えるまでもない。俺はしゃんと胸を張って応えた。

「萩原夕貴。萩原は父さんの姓。夕貴は母さんがつけてくれた名だ」
「はっ、クソつまんねぇ名前だな」
「俺は気に入ってるんだよ。おまえにとやかく言われる筋合いはない」
「あぁ聞いて損したぜ。おかげで忘れるのにも難儀しちまいそうだ」

 そう締めくくってから、フォルネウスはゆっくりと立ち上がって血の混じった唾を吐き出した。全力でぶん殴ってやったのに、ほとんどダメージを負った様子はない。それどころか、飢えた肉食獣を思わせる貪欲な闘気は以前よりも強壮になっている。まだ夜明けは遠く、戦いは終わらない。これは殺し合いだ。俺たちかフォルネウスのどちらかが死ぬまで黎明は訪れない。

「そこまでだ。双方、退きな」

 巨大な存在感が一つ増えた。フォルネウスのような禍々しさはなく、晴れ渡った蒼穹を思わせる清澄な波動だった。空気が揺れて、木々がざわめく。ほんの一瞬、月光が陰ったかと思うと、フォルネウスのとなりに華奢な人影が着地していた。肩口よりも少しだけ長い、亜麻色の髪。気の強そうなツリ目。タンクトップにデニムというラフな服装。新たに現れたのは、リズと同い年ぐらいの年若い少女だった。

「何しに来やがった、ベレト。いまからが最高におもしれぇとこなんだよ。邪魔しやがったら、いくらおまえでも許さねぇぜ」

 フォルネウスが言うと、ベレトと呼ばれた少女は不愉快そうに眉根を寄せた。

「あたしは言ったはずだよ。この国では軽挙は慎めと。相変わらず聞いたそばから抜けていく便利な耳だね」
「ほざいてんじゃねぇよ。てめぇのほうこそナベリウスを放って何してやがった。日本に来て腑抜けちまったんじゃねぇだろうな」
「それはあたしの台詞だ。鏡を見てきな。男前になった自分が映ってるよ」

 剣呑な視線がぶつかり合う。下手をすれば、このまま殺し合いでも始めかねない雰囲気だった。

「……ちっ、うざってぇ。マジで白けたぜ」

 フォルネウスが放射していた殺気が色褪せていく。

「今回だけはグシオンの顔を立ててやる。眠くなる横槍も入りやがったしよ」

 その言葉を最後にフォルネウスは身体の力を抜き、気だるげにふところをまさぐった。そして、舌打ち。どうやら目当ての嗜好品は切れているらしい。それに一瞥もくれないまま、少女は「ほら」と真新しい煙草を差し出した。礼の一つも言わず当然のように新品のパッケージを受け取ったフォルネウスは、紙巻きを咥えて大きく火を吸い込んだ。夜空に紫煙が立ち昇る。

「そういうわけだ。今夜は黙っておうちに帰りなよ、坊や」

 坊やと呼ばれたことには一抹の不満が募ったが、それに対する反論よりも、まずは相手の素性を把握しておきたかった。その旨を簡潔に伝えると、亜麻色の髪をした少女はベレトと名乗り、あたしも《悪魔》の一員だと何の衒いもなく口にした。

「おまえは、フォルネウスの仲間なのか?」
「こいつと同列に見られるのは甚だ不本意だけど、まあ間違っちゃいないよ。そういう坊やは、あいつの息子とは思えないぐらい可愛い顔してるじゃないか」
「待て。おまえ、俺をバカにしてんのか?」
「まさか。坊やの顔、けっこう好みだよ」

 どうにも分が悪い。このままだと口車に乗せられていきそうな気がしたので、俺は潔く口を閉ざした。ベレトは肩をすくめたあと、腰に手を当てて広場の片隅を――特務分室の連中がいるあたりを一瞥した。

「さすがに今夜は派手にやりすぎた。日本の国家権力も黙っちゃいないだろうね」

 なんとも含みのある言い回しだった。ベレトの視線に、アルベルトは沈黙で応える。これ以上、騒ぎを大きくしたくないのは全員の総意なのだろう。異論を唱える者も、これみよがしに臨戦態勢を取る者もいない。

「もうじゅうぶん派手にやっちゃってるわよ」

 背後からナベリウスの声がした。近づいてきた足音は、俺のとなりで止まる。

「いいのベレト? こんな後先考えないことばっかりしてたら、あなたたちの大好きなグシオンに怒られちゃうんじゃない?」
「心配には及ばないよ。あいつはきっと、フォルネウスが自分勝手な行動を取ることも計算に入れてる。すべては予定調和さ。ただ……」

 明確な敵意を乗せた目が横に動いて、広場の一点で止まった。

「その女だけは、イレギュラーだ」

 ベレトに倣って、この広場にいる全員の視線がリズに集中した。俺たちの意識が交わる先で、ストロベリーブロンドの髪が風に流れていた。リズは無感情な顔で、なにか思索をめぐらすかのように口を閉ざしていたが、やがてころっと微笑んだ。

「怖いなぁ。そんなに睨まれると泣いちゃうよ」
「あんた、何者だい?」
「リゼット・アウローラ・ファーレンハイト。法王庁特務分室の室長だよ」

 あらかじめ用意していた台詞をなぞりあげるように答えて、ゆっくりと歩き出す。静止した闇のなかに生まれる足音がやけに目立っていた。不思議なことに、だれもリズの歩みを止めようとする者はいない。どこか触れがたい、それでいて目を逸らすことも許されない、魔性のカリスマだった。

 しばらくして足を止めたリズは、ミニスカートを抑えながらその場に屈んで地面をまさぐった。がさごそと手を動かして、なにかを拾い上げる。月明かりを受けてかがやくのは銀色の指輪だった。ふたたびリズの右手の人差し指に収まった貴き円環を見て、ベレトの目が鋭くなる。

「……法王庁が《|精霊の書(テウルギア)》を秘匿しているのは知ってた。なぜなら過去に一度、それが使われた記録があるからさ。1945年、ダンタリオンのやつがバチカンで暴れたときにね」
「俗に言う《バチカンの惨劇》だね。あれは大変だったって聞いてるよ。特務分室の精鋭部隊が一晩のうちに壊滅したって。そこまでしてダンタリオンが目指していたのは、たぶんバチカンの地下百二十八層に封印されてる《ベリアル》を解き放つためだったんだろうね」
「自分から望んで封印されたやつのことなんてどうでもいい。あたしは、法王庁がずっと出し惜しんでいたはずの《精霊の書(テウルギア)》を、どうしてあんたみたいな小娘が持つことを許されたのかって聞きたいんだ」
「んー、そうだね。人徳じゃないかな」

 そのとき、煙草が指で弾かれて宙を舞った。ぞわり、と肌が粟立つほどの怒気を漲らせて、フォルネウスが一歩前に出る。

「舐めやがって、クソガキが。ぶっ殺してやる」
「待ちな」

 ベレトが手を上げてそれを制する。フォルネウスはまなじりを吊り上げて、リズに向けていた殺気の何割かをかたわらに移す。

「オイ。死にたくなかったらその手を退けろや。そろそろマジでキレんぞ」
「あんたは一度暴れると見境がなくなるから駄目だ。ここは大人しくしてな」
「大人しくだぁ? じゃあ逆に聞くがよ、おまえはあのクソガキのツラを見て思うことはねぇのか?」
「あるさ。だから」

 小さくかぶりを振ってから、彼女は右手の人差し指をまえに伸ばした。

「あんたの代わりに、あたしが確かめてやるよ」

 次の瞬間、野生動物を思わせるしなやかな肢体から膨大なDマイクロウェーブが溢れた。あの線の細い華奢な身体のどこにこれほどの力が眠っているのだろう。夜の闇が、月の明かりが、穏やかな風が、荒れてなお豊かな自然が、何かに怯えるかのようにざわついている。暴風雨に似て乱暴。津波のように無慈悲。地震のごとき暴虐。ひとりの少女が力を解放しただけで、天災が起きた。

 無造作に吐き出されるだけだった波動は、やがてベレトの指先に集まった。白魚を連想させる細長い指が青い輝きを発し、それは次第に大きく苛烈になっていく。目もくらむほどの空色をした極光だった。亜麻色の髪は大きく巻き上がり、タンクトップの裾がはためいて健康的な白い腹部があらわになる。

「な、なあ。あれって……」
「バカ! 下がりなさい!」

 ナベリウスに腕を引かれて、俺はよろめきながらも後ろに下がる。銀髪悪魔の判断が正しかったと知るのは、ほんの数秒後の未来だった。

 ベレトの人差し指から、強烈な光が解き放たれた。夜を射抜く一条の光は、さながらレーザービームのように大気のなかを突き進みながら、リズを目指して唸りを上げる。一目見ただけでも規格外の破壊力が秘められていると分かった。

 しかし、何事にも例外は存在する。光の弓は、リズの眼前で視えない壁に阻まれるかのように停止し、あっけなく消失した。どれほど強力でも、それが《悪魔》によって生み出された力である以上、あの指輪を突破することはできない。

 とは言ったものの、たったいま目の前で繰り広げられた攻防は、俺を戦慄させるにはじゅうぶんだった。

「……あれが、ベレトってやつの全力か。それを防いだリズもやっぱりでたらめだけど」
「全力? そんなわけないでしょ」

 ナベリウスはため息をついた。

「あれでまだ、一割も出していないわ」

 そんな、冗談にしか聞こえない情報が耳に入るのと、ベレトの身体からふたたび波動が流れ出すのは同時だった。

「なるほど、さすがに硬いじゃないか」
「そういう問題じゃないよ。これはあなたたちには破れない。絶対にね」
「よく言った。その指輪、あたしが貫いてやる」

 ベレトが大胆不敵に宣言する。直後、青き閃光に世界が塗りつぶされた。夜は朝になり、朝は昼になり、昼は空になった。満足に目を開けることもできず、両手を交差して網膜を保護する。腕の隙間から見える景観は、ひたすらに青かった。大地は細かく振動し、一時的に力場が狂って地面に落ちている小石や自然物がふわりと浮き上がる。

 その極光の中心で、ベレトは右手をまっすぐに伸ばして、人差し指と中指の二本をリズに向けた。女の子らしい指先にすべての光が収束していく。加速度的に増大していくエネルギーは、どこまでも広がる蒼穹のように果てがなかった。

 腹の底に響く重たい衝撃とともに、ベレトの連なった指から空の弓が解放された。その反動だけで足元が深く陥没する。巨大なエネルギーの奔流は、すでに天災に喩えるのもおこがましいほどに破壊力として完成されていた。

 弓となって奔る極光に飲み込まれる寸前、リズは大きく目を見開いた。《精霊の書(テウルギア)》も負けじと光り輝いて、《悪魔》の異能を無に帰そうとする。ついさっきと同じだ。ベレトの力は、やはりリズの眼前で停止して、あっけなく消失する。

 消失する、はずだった。

 《精霊の書(テウルギア)》の暴威に晒されながらも、しかし空の弓は消えなかった。究極の矛と、絶対の盾。本来なら起こるはずの矛盾は、両者の拮抗というかたちで現れていた。衝突の際、莫大な力を乗せた余波が広がって、広場の周囲に立っている木々が折れそうなほどにしなっては若葉が宙を舞う。

「……お願い」

 リズが手を組んで、小さな声でつぶやいた。

「力を貸して。バアル」

 少女の呼びかけに応えるように、指輪に刻まれた精緻な紋様が白く輝いた。そして、それによく似た紋章が、リズの周囲に光って浮かび上がる。

 そのとき、何かに呼ばれたような気がして、俺は顔を上げた。

 声にならない声が聞こえる。気配にならない気配を感じる。四つだ。この場所に一つ。ここより北に一つ。海を遠く隔てた地に一つ。光の届かない地下深くに一つ。そのなかでも北のやつが、ひどくやばい。禍々しいなんてレベルじゃない。これは絶望だ。決して解き放ってはいけない、パンドラの箱だ。

「――うっ!」

 ずきん、と鈍い頭痛。我に返ったときにはもう、何も感じなくなっていた。ナベリウスがどこか悲しげな顔で俺を見ていた。

 視界を満たすほどの極光が弾けて、俺は反射的に目をつむった。一気に場が静まる。ゆっくりと目を開けると、そこには信じられない光景が広がっていた。あれほど退廃としていた広場が、まるで今夜の出来事の一切がなかったかのように元通りになっていたのだ。都会には珍しい豊かな自然と、青々とした元気のいい芝生。息を吸えば、清浄な空気が肺を満たす。間違いない。いま俺がいるのは、人と《悪魔》の戦場じゃなく、この街の住人から長きに渡って親しまれてきた荘圏風致公園だ。

 なぜか、この魔法のごとき現象を、俺はだれに教えられるまでもなく理解していた。これこそが、《精霊の書(テウルギア)》のほんとうの力。《悪魔》の力を無力化するのではなく、無効化してしまう。それはつまり、ソロモン72柱の異能が引き金となった事象をなかったことにするという能力に他ならない。おそらく、フォルネウスに破壊された展望台も、在りし日の姿を取り戻しているはずだ。ただし、特務分室によってつけられた弾痕もきっちり復元されているだろうが。

「……なるほどね。わかったよ」

 ベレトは面倒くさそうに髪をかきあげた。自身の力が打ち消されたことに打ちひしがれている様子は微塵もない。

 いつの間にか、あれだけ行き交っていた殺気や波動は完全と言っていいほどに姿を消していた。耳を澄ませば小動物の鼓動や、虫の求愛する声が聞こえる。気持ちのいい夜風が木々のあいだを通り抜けて、さわさわと軽快な葉擦れの音を奏でる。

「最後にもう一度だけ聞こうか。お嬢ちゃん、あんたは何者だい?」
「さっきも言ったでしょ。わたしは法王庁特務分室の室長だよ。それ以外の何者でもないもん」
「ふん」

 リズの返しが愉快だといわんばかりに鼻を鳴らして、ベレトは身を翻した。俺には彼女が自分の知りたかった答えを得たように見えた。

「よく言うよ。幼い室長さん」

 その亜麻色の髪が揺れる背に、フォルネウスが続く。凶悪に歪んだ顔に浮かぶのは、底知れない愉悦だった。

「くっくっくっ……いいぜ、楽しくなってきたじゃねぇかよ。グシオンの野郎とアスタロトの犬っころはどう反応しやがるかねぇ」

 二人分の足音が静かに響く。だれも彼らを止める者はいない。否、引き止めることのできる者がいない。 

「ナベリウス。あたしらと一緒に来る気はないかい?」

 最後にぴたりと立ち止まって、ベレトは言った。

「愚問ね。わたしが仕えるのは一人だけよ。グシオンなんて眼中にないわ」
「もちろん、そこにいる坊やも一緒さ。悪いようにはしない。客人として、ソロモンの同胞として、最高級の待遇を保証するよ」
「だって。どうする、夕貴?」

 茶化すような口調でナベリウスが振ってくる。悩むまでもない。彼女と同じく、俺の意思は決まっていた。

「どうするもこうするもないだろ。俺には、俺たちには、帰りを待ってくれてる人がいるんだからな」

 ちらりと横を見ると、満面に笑みを咲かせたナベリウスと目が合った。なんとなく気恥ずかしくてそっぽを向いた俺は間違っていないと思う。

「貴様らは、いったい何を企んでいる」

 低い男性の声が割り込んだ。険しい顔つきをしたアルベルトが、鷹のように鋭い目をベレトに向けている。

「貴様らがこの国に来た目的はなんだ。戦争を仕掛けるつもりか。それとも、やはり《|悪魔の書(ゴエティア)》が狙いなのか」
「あたしに聞くな。おまえの知りたい答えはグシオンしか知らない」
「いずれ会うぞ。貴様らの主に伝えておけ」
「いいだろう。伝えてやるよ」

 そっけなく切り返して、華奢な背中は闇に溶けていった。アルベルトは考え事をするかのように押し黙っている。

「よぉガキ」

 フォルネウスが肩越しに俺を見た。

「次に会うときまでにはもうちっとマシに仕上げとけ。適当に場数踏んで、好きなだけ殺してこい。せいぜいオレを楽しませてくれや。なぁ?」
「ほざいてろ。今日のことは絶対に忘れねえからな。おまえは俺がぶっ倒してやる」
「はっ、その物怖じしねぇ性格だけは父親にそっくりだぜ」

 俺の啖呵に気分を害したふうもなく、むしろ面白いとでも言うように笑って、紅い大悪魔は姿を消した。

 まだ夜明けは遠く、戦いは終わらない。それでも地平線のずっと向こう、まだ目に見えぬ彼方から、瑠璃色の黎明がやってくる。



[29805] 3-9 支えて、支えられて、支えあいながら生きていく
Name: テツヲ◆c49d9b75 ID:366fa69a
Date: 2013/01/08 20:08

 優しく、どこか懐かしい温もりを背中に感じる。それを大切だと、絶対に手放したくないからと、俺は抱える手に力を込めた。

 街を撫でる夜風には、すでに太陽が残した熱の面影は残っていなかった。日中には第二の熱源となっていたアスファルトも時間の経過とともに冷たくなって、いまは何食わぬ顔で月明かりを眺めている。どこまでも径を拡げる夜空は透明な表情で、彼方から訪れる星の輝きを受け止めていた。

 夜の住宅街からは喧騒が遠のき、目に見えて分かるほどに静寂が始まっていた。一家団欒の時間も終わって、もうほとんどの家は明かりが消えている。光量の減った地上は、きっと空高くから見下ろせば夜空に見えるだろう。星の光と人の営みが調和して合わせ鏡のように広がっていく暗闇に、こつこつと一人分の足音が静かに響いていた。

「ねえ。ちょっと気になるんだけど」

 やけに神妙な声でナベリウスが口火を切った。

「わたし、重くない?」
「あー、まあ、重くはないな」

 世辞を抜きにしてもそれほど苦ではないのだが、あらためて確認するために俺は彼女を背負いなおした。女性の体重の適正値は分からないが、やはり重いとは感じない。どうやら抜群のプロポーションは見掛け倒しではなく、数値としてもきっちり表われているようだった。

 ならいいけどー、と投げやりに応えたナベリウスは、ついさっきよりも遠慮なく俺にぎゅっとしがみついてくる。

「……おい。確かに負ぶってやるとは言ったけど、そこまでくっつく必要はないだろ」
「あるわよ。だって、こうでもしないと落ちちゃうかもしれないでしょ?」
「くっ!」

 実のところ、俺はいくつかの大きな問題と直面していた。例えば、両腕に密着する肉付きのいい太ももの感触とか、ときおり首筋に吹きかけられる温かな吐息である。とりわけ背中に押し付けられた豊満な胸は悩ましいの一言に尽きる。俺が足を踏み出すたびにナベリウスの身体は上下に揺れて、むにゅん、むにゅんと柔らかな感触を伝えてくる。しかも絶妙な弾力があるものだから、押し付けられる際にベッドのスプリングのように何度も弾むのだ。

 ことの始まりは、ふらふらの俺を見て、ナベリウスが冗談げに「わたしが負ぶってあげようか?」といかにもお姉さんぶった発言をしたことだ。それに男としての誇りを傷つけられたような気がした俺は、逆に見栄を張って「バカ。おまえが俺の背中に乗れよ」と口走ってしまったのである。その結果、荘圏風致公園から萩原邸までの短くも長い距離を、俺は彼女をおんぶして帰路に着くことになったのだが。

「夕貴さえよければ、いつでも好きなだけ触らせてあげるんだけどなー」

 そう、俺はこいつの奔放すぎる性格を一瞬だけ忘れていたのだ。もう惑わされないと覚悟を決めていたはずなのに、紳士ぶろうとする理性とは違い、正直者の心臓は刻一刻とリズムを早めていく。

「さ、触らせるって、なにを……?」
「さあ、なんだと思う?」

 ナベリウスは両腕でぐっと俺の身体を引き寄せて、たわわに実った乳房をこれでもかと押し付けてきた。強い圧力をかけられたふくらみは抜群の柔らかさを証明するようにぐにゅっとかたちを変えるが、それに匹敵する瑞々しい張りが作用することによって、元来の美しい丸みを保つことに成功している。

「どうしても分からないっていうなら、ナベリウスちゃんが分からせてあげよっか?」

 艶然とした目で俺の顔を覗き込みながら、小さな紅い舌でくちびるをぺろりと舐めるナベリウス。蠱惑的な身体もそうだが、この女は仕草のひとつひとつに何ともいえない色気があって、男の本能を妙にくすぐってきやがるのだ。

 しかし、侮ってもらっては困る。いつまでも銀髪悪魔に誑かされる俺と思ったら大間違いだ。日本でも指折りの名家の血をひく予知っ娘や、特殊な糸を用いた戦闘術を伝える家系に生まれた我らが師匠。そんな、お近づきになりたいのかなりたくないのかよく分からない女の子たちと過ごした日々が、俺の神経を図太くしていた。いまの俺ならば、ナベリウスの攻撃に耐えることもギリギリ不可能ではない。

「べつに我慢しなくてもいいのに」

 ちょっぴり拗ねたようにそう言って、ナベリウスは前傾させていた上半身を立て直した。それに安堵しつつも、一抹の名残惜しさを感じてしまうのは男である以上、仕方がないのだろうか。

 夜も深まった閑静な住宅街に、一人分の足音が響く。俺のやや荒い呼吸音と、彼女の穏やかな吐息。お互いの服が擦れあう音。風が吹いて、軒先から顔を出している若葉がざわざわと揺れる。見慣れた景色を歩きながら、俺は平穏を破る一言を口にした。

「……でも、厄介なことになったよな」

 目の前に広がる、代わり映えのしない街並み。誰もが安心して眠っているだろう。夢を見たあとは必ず明日が訪れると信じているだろう。いろんな悩みや不安を抱えながらも、それぞれが掛け替えのない大切な毎日を生きているだろう。

 だが、それを壊そうとしている奴らがいる。

「グシオンは……」

 透き通った氷に小さな亀裂が走るように、静かで、どこか寂しげな音色でナベリウスが言った。

「バアルと同じぐらい、人間という生き物のことを見てた。昔から何を考えてるか分からないやつだったけど、それでもグシオンがいなければ人類はここまで発展しなかったでしょうね。……だからこそ」

 俺の首に巻きついた二本の腕に力がこもる。

「あなたの父親とグシオンが分かり合うことは、最後までなかった」

 果たして、ナベリウスがどんな心境で語っているのかは分からない。ただ、そこに憎しみはなかった。憎しみがないからこそ、彼女の声は辛そうだった。戦いたくないのに、戦わなくてもいいはずなのに、互いに譲れないものがあるから目を逸らすこともできない。もしも、負の感情だけに身を任せて相手を傷つけることができたなら、それはどれほど楽だっただろうか。

 きっと何があっても、ナベリウスを俺を護ってくれるだろう。世界の全てが俺に牙を剥いても、彼女だけは味方をしてくれるはずだ。それと同様に、きっと何があっても、フォルネウスやベレト、そしてグシオンは己が道を突き進むだろう。たとえ、かつての同胞が牙を剥いても。

 ほんの少し、悲しいなと思った。

「ねえ、夕貴」

 声のしたほうに顔を向けると、俺の肩口からぴょこんと顔を出したナベリウスと目が合った。月明かりよりも繊細な銀色の瞳は、どこか不安げに揺れている。彼女は躊躇うように何度か口を開いたり閉じたりしたあと、訥々と語を継いだ。

「夕貴は、イヤだって思ったことある? バアルの、《悪魔》の血を引いてさえいなければ、こんなことにはならなかったのにって」
「それは……」

 ない、と言えば嘘になってしまうかもしれない。たまに想像することがあるんだ。理不尽な暴力のない毎日を。《悪魔》の血とは無縁の自分を。父さんは普通の人間で、母さんもただの専業主婦。大学に進学した俺は、友人に誘われた初めての飲み会でお母さんのことが大好きな女の子と出会い、自然と恋に落ちる。やがて就職して、愛する女性との間に子供もできて、家族のために働くことを生きがいとする人生。そんな未来があってもよかったと、たまに思うときがあるんだ。

 だが、それは都合のいい妄想だ。ありえたかもしれないだけで、結局はありえなかった未来だ。悲しくて、辛くて、泣いて、逃げ出したくて、それでも前を向いてここまで来た。いや、何度も転びそうになる俺をとなりで支えてくれた人たちがいた。だから。

「……ないな。イヤだなんて思ったことない」

 首を横に振って、俺は断言した。ナベリウスは目を丸くしたあと、勢いよくまくし立てる。

「ほんとうに? だって、夕貴はいっぱい傷ついたでしょう? こんなことが、これからもずっと続くかもしれないのよ?」
「バカ。そんなのどうだっていいんだよ」

 家に帰れば、俺を待ってくれてる人がいる。その事実に勝る苦痛なんてない。この先、どんな悲劇に見舞われても、俺は諦めないと自信をもって云える。

「それに、さ……」

 夜空を見上げて、一度だけ深呼吸。熱っぽい吐息が薄闇に溶けていくのを見届けてから、俺はありのままの心情を吐露した。

「もし俺に父さんの血が流れていなかったら」

 優しく、どこか懐かしい温もりを背中に感じる。

「……きっと、おまえとも出会えてなかったからな」

 それを大切だと、絶対に手放したくないからと、俺は抱える手に力を込めた。

「……バカ」

 俺の肩で口元を隠しながら、ナベリウスは小さな声で言った。視界のすみに映る彼女の頬は、ほんのりと赤くなっている。ちゃんと向かい合って顔が見たいと、そう思った。

「……夕貴のバカ」

 何度も彼女は繰り返した。いつものナベリウスからは想像もできないほど幼く、まったくもって腹の立たない罵倒だった。

 しばらくして、大きな大きなため息が聞こえてきた。かぶりを振る気配。長い銀髪が揺れて、心地のいい匂いが鼻腔を掠める。

「……でも、そうよね。夕貴は、もう男の子じゃない。一人の立派な男だもんね」
「今頃気付いたか。言っとくけど、俺はずっと前から男らしいからな」
「うん。あのときとは逆になっちゃった。背中だって、いつの間にかこんなに大きくなってるから」

 言ってから、身体の力を抜いてしなだれかかってくる。余計な力が入っていないからか、あれだけ俺の心を乱した乳房の感触も、いまはさほど伝わってこない。俺の首筋に顔を埋めて、彼女はじっとしていた。少しずつ呼吸の間隔は長くなり、身じろぎの回数が減っていく。

「眠たかったら寝てもいいぞ。着いたら起こしてやるから」

 返事はなく、代わりに穏やかな寝息が聞こえてきた。よほど疲れが溜まっていたのだろう。俺のためとは言え、かつての同胞と殺しあったのだ。これで疲弊しないほうがどうかしてる。

「一人の立派な男、か……」

 なるべく静かに歩きながら、すこし引っかかった言葉を反芻する。いざ他人から言われると、あまり馴染まない表現だ。それはきっと、俺がまだまだガキで、ほんとうの意味で大人じゃないからだろう。

 だから、この大切な温もりを背負えるだけの強さが欲しい。これから帰る家を、一緒に暮らすみんなを、ずっと背負っていけるような強さが。

 諦めずに走り続ければ、いつかは父さんの背中に追いつけるのだろうか。男は母親に似るという。俺の容姿が母さん譲りなら、果たして、父さんからは何を受け継いだのか。

 ――あなたのなかに流れる血はだれにも負けない。

 託哉たちが泊まった夜、月のきれいな庭先でナベリウスはそう言っていた。不思議なものだ。彼女の言葉を思い出すだけで、胸中に巣食う迷いが晴れるのだから。

 ――きっと夕貴はなんでもできるわ。

 他でもない、父さんのことを深く知る彼女が、俺を認めてくれているのだ。

 ――友達を助けることも、母親を護ることも、好きな女の子と添い遂げることも。 

 ゆえに忘れるな、と彼女は言った。なぜなら、俺が父さんから受け継いだ力は。

 ――多くの人を護れる代わりに、大切な人を――

「……大切な人を」

 そこで俺は歩みを止めて、過去の想起にのみ意識を集中した。掘り起こした記憶には、看過できない決定的な欠落があったからだ。時間を遡って、欠けた言の葉を追憶する。しかし。

 ……思い出せない。あのとき、彼女が続けた言葉が、どうしても思い出せなかった。

 無理もないと思う。眠りの淵に落ちる寸前の人間に、まともな記憶を期待するほうが間違ってる。それにほんとうに大事なことなら、ちゃんと面と向かって伝えるはずだ。つまり、ナベリウスが口にした言葉はそれほど重要ではなかったということだろう。

 うまく言い表せない気持ち悪さに蓋をして、俺はふたたび歩き出した。規則的な寝息を立てる彼女を起こしてまで、わざわざ聞くほどでもないことだと。

 このときの俺は、そう思っていた。



 ****



 カチカチと時計が鳴っている。何もかもが静かだった。無機質な音を刻む秒針だけが、立ち込める静寂に影を差している。窓辺のカーテンは揺れることなく内と外を遮断しており、空調のかかっていない室内は、風の凪いだ外と比べても幾分か暑い。

 誰もいないリビングのソファに腰掛けて、高臥菖蒲は行儀よく揃えた膝のうえでぎゅっと手を組み合わせていた。胸騒ぎが止まらない。とても嫌な予感がする。カチカチと時計が鳴っていた。

 【高臥】の家に生まれ、未来予知の異能を受け継ぐ菖蒲は、その副次的な効用からか人よりも直感に優れたところがあった。吉兆にしろ凶兆にしろ、その前触れを少しでも感じ取ったら当たってしまうことも少なくない。ゆえに菖蒲の面持ちは暗く沈んでいた。せめて彼だけは無事でありますように、と、じっとりと汗の滲んだてのひらで祈っていた。

 夕貴が家を出てから、もう半日以上が経過している。気付けばナベリウスの姿もなく、がらんとした家のなかは水を打ったように静まり返っている。とりわけリビングは、ゆとりのある広さが裏目に出て、寒気さえ感じるほどの寂寥感が充満していた。自室に閉じこもっているよりは気持ちも晴れるだろうと思っての判断だったが、どうにも芳しくない。とは言え、いまさら部屋に戻るのも億劫で、菖蒲は飛びかたを忘れた小鳥のようにソファに留まっていた。

 多くは望まない。ただ、夕貴に帰ってきてほしい。無事な顔が見たい。おかえりなさいませと温かく出迎えてあげたい。しかし、なぜか菖蒲には、その願いがとても儚いものに思えてならなかった

 ぼんやりと虚空を見つめていた菖蒲が微かな足音を耳にしたのは、そんなときだった。

「あやめ。まだ起きてる」

 抑揚のない声のしたほうに視線を向けると、リビングの入り口に美影が立っていた。ポニーテールに結わえた長い黒髪と、左目の下にある憂いを湛えた泣きぼくろ。抜けるような色白の肌は、清潔感や透明感を越えて神秘的な趣さえ感じられる。これで愛想笑いの一つでも身につければ間違いなくたちの悪いことになるが、美影がいちいち他人の顔色を伺うような少女でないことを周りの者たちはよく知っていた。

「そろそろ部屋に戻って寝たほうがいい」

 美影の声色は冷たかったが、それなりに付き合いの長い菖蒲は、彼女の気だるげな眼差しのなかに垣間見えるほんの僅かな優しさを見逃さなかった。

「……いえ。今夜はベッドに入っても眠れそうにありませんので」

 現れた気配が待ち人ではなかったことに思わず落胆してしまう自分に嫌気を感じながらも、菖蒲は、なんとか笑顔を取り繕って気まぐれな猫を思わせる同居人を遇する。

「べつに心配しなくても、どうせ夕貴はすぐ帰ってくる。ついでにヘンタイ女も」
「やっぱり、美影ちゃんも心配なのですか?」
「ぜんぜん。まったく。これっぽっちも。あいつらなんか帰って来なくてもいい」

 手をぶんぶんと横に振って力強く否定する美影。ひどい言い草だったが、しかし菖蒲は気付いていた。普段は三階にある自室に引きこもってほとんど下に姿を見せない美影が、今夜に限ってはなぜか意味もなく一階付近をうろついていることに。口には出さないし、態度からも分かりづらいが、もしかすると彼女も夕貴とナベリウスの身を案じているのかもしれない。そう考えると、自然と笑みがこぼれた。

 それからしばらく他愛もない話をしていると、どこからともなく単調な電子音が響いた。美影は会話を中断し、ポケットから携帯電話を取り出した。どうやら電話ではなく、メールのようだった。

「夕貴様ですか?」

 逸る自分を抑えつつ、菖蒲は言った。すると、美影はすぐに違うと答えた。ではだれなのか、と再度聞くと、美影は逡巡するような素振りを見せてから口を開いた。

「……壱識千鳥。私の母親」

 じっと液晶を見つめる美影の顔は、携帯が鳴る前よりも幾分か冷たくなっていた。

 詳しい事情は知らないが、夕貴から伝え聞いた話と本人からのおぼろげな情報をもとに推測すると、美影と母親の仲はそれほど良好ではないはずだった。少なくとも、菖蒲の知るかぎりでは、美影が萩原邸に来てから母親と連絡を取ったことはまったくと言っていいほどない。

 それなのに、いったいどうしてこのタイミングで?

 言いようのない感情が菖蒲の胸をぎゅっと締め上げる。事態が悪いほうへと転がっているような気がしてならなかった。

 菖蒲は何も言えず、美影は何も言わない。リビングに再び静寂が訪れた。カチカチと時計が鳴っていた。

「……リチャード・アディソン」

 母からの文面に目を通していた美影が、ふいに小さな声で呟いた。

「え? リチャ……なんですか?」
「なんでもない。リチャ、リチャ……そう、自転車の新しい呼び方」
「えっと、美影ちゃん? さすがにチャリのほうが呼びやすいような気がするのですけれど……」
「あやめのセンスは夕貴並み。これ、きっと流行る」

 間違いなく流行らないと菖蒲は思ったが、それ以前になんとなく誤魔化されたような気がしたので話を戻そうとすると、すでに美影はこの場を切り上げようとするかのように携帯をしまって背を向けていた。

「あやめも、部屋に戻ったほうがいい」

 さきほど丁重に断ったはずの提案を、美影はふたたび口にした。

「……ごめんなさい、美影ちゃん。やっぱり、わたしはここで夕貴様とナベリウス様のお帰りを待っていたいのです」

 菖蒲は胸に手を当てて真摯に告げた。男なら見蕩れ、女なら憧憬するその佇まいに、しかし美影はため息で応えた。
 
「鏡、見てきたほうがいい。そんな顔したあやめを見ても、夕貴は喜ばない」

 いまいち美影の言っている意味が分からず、菖蒲は答えを探すように視線を泳がせた。そして、電源の入っていないテレビの液晶を見て、そこに写った自分の顔を見て、ようやく気付いた。不安と緊張と疲労がない交ぜになった、病人のように覇気のない女の顔。確かにこれでは夕貴を出迎えた瞬間、逆に心配されてしまうだろう。

 夕貴とナベリウスが帰ってくるまで眠るつもりはない。だが、それでも最低限の休息は取っておくべきだ。友人に気を遣わせてまで張る意地は、きっとどこか間違っている。だから、いまは少しだけ休もう。夕貴を出迎えるときは、なるべく自然に微笑んでみせたいから。
 
「……そうですね。美影ちゃんの言うとおり、かもしれません」
「ストレスは美容の敵って、ヘンタイ女が言ってた」

 まさか美影から美容という言葉を聞けるとは思わなかった菖蒲は苦笑した。それが気に入らなかったらしく、美影は「むー」と不満そうな唸り声を上げて去っていく。

「……美影ちゃん」

 その背中を呼び止める。不躾と分かっていながらも菖蒲は聞かずにおれなかった。

「お母様からは、なんと?」
「……あやめには関係ない話」

 突き放すように言って美影はリビングから去っていった。釈然としなかったが、そもそも壱識家の事情に菖蒲が関係するはずもないので、これはこれで正しい帰結なのだろう。

 階段を上がっていく足音を耳にしながら、菖蒲もいったん自室に戻るために歩き出す。とても静かだった。となりに誰もいないというだけで、世界はこんなにも味気なくなるのだと菖蒲は知った。

 停滞した家のなかで、時計の秒針だけがカチカチと無機質に時を刻んでいた。


 ****


 オフホワイトの三階建ての家屋と、敷地のそとからでも伺える広々とした庭。萩原の表札がかかった我が家は、いつもと変わらない顔で俺たちを待っていた。その見慣れた佇まいを前にした途端、張り詰めた緊張の糸が一気にほどけて、深い安堵が去来した。

 ロックを解除して玄関を潜る。萩原邸はしんと静まっていた。廊下の明かりはついているが、生活音の類はまったくない。いつもなら菖蒲が満面の笑みとともに出迎えてくれるのに、靴を脱がずに十数秒ほど待ってみても何も聞こえてこない。ぱたぱたとスリッパが駆け寄ってくる音も、おかえりなさいませと弾む温かな声もしない。菖蒲が出迎えてくれないと、なんだか家に帰ったような気分にならないなと思った。

 それからすぐに階段の上から足音が降ってきた。ぺたぺたと素足で下りてきたのは、長い黒髪と色白の肌が特徴的な少女である。母親譲りの美貌と、胸元には御影石のペンダント。

「……美影か。やっぱりまだ起きてたんだな。菖蒲は?」
「知らない。たぶん部屋」

 そっけなく答えてから、美影は日常に紛れ込んだ異質なものを見定めるかのように目を眇めて、血に濡れた俺とナベリウスの身体を注視した。

「それ、なにがあったの」

 普段とはまとう気配が完全に違う、彼女の母親を彷彿とさせる大人びた顔だった。俺たちが持ち帰った暴力の残り香が、美影の危機感にスイッチを入れたらしい。

 しかし、問われた俺は早々に返す言葉を持たなかった。今夜に起こった出来事のすべてを上手く語れるほど、俺は事態の全貌を理解しているわけじゃない。いまだ混乱を引きずったままの頭で継ぎ接ぎの情報を整理して美影に伝えるのは、ひどく疲れる作業だった。

「んー、さすがのナベリウスちゃんも今夜は疲れちゃったなぁ」

 そのとき、わざとらしいぐらいの大きな伸びをしてナベリウスが一歩前に出た。それがあまりにも緊張感のない砕けた態度だったものだから、俺は呆気に取られたあと苦笑した。重苦しい空気を意に介さないマイペースな言動は実に彼女らしい。

 しかし、ナベリウスの奔放さを疎ましく思う少女もいた。

「あれ、どうしたの美影ちゃん。そんなに怖い顔してたらせっかくの美人も台無しよ?」
「うるさい。邪魔」
「ひどいわね。このわたしを邪魔者扱いするのなんて、夕貴ぐらいと思ってたのに」
「夕貴とかどうでもいい。いま一番邪魔なのはおまえ」
「お、おい。落ち着けって」

 二人の温度差がかけ離れていくのに見かねた俺は、彼女たちの間に割って入った。ナベリウスはともかく、非常事態であることを踏まえても美影の様子がいつもより刺々しい気がするのだ。

「喧嘩してる場合じゃないだろ。ナベリウスもあんまり美影をからかうなよ」
「ふーん。夕貴は美影ちゃんの味方なのね」
「だから、そういう問題じゃ……」
「ええ、確かにそういう問題じゃないわね」

 ナベリウスは一転して冷静な顔で、俺と美影を交互に見た。

「分かっているなら話は早いわ。よく考えなさい。こんなところで立ち話をするほど追い詰められてるわけでもないでしょう。夕貴も美影も、順序を間違えないで」

 思わず、はっと息を呑んだ。ナベリウスの気遣いに、ではない。彼女に気を遣わせてしまったことに気付けなかった自分が、信じられなかったのだ。

 美影にも思うところがあったらしく、彼女は複雑な面持ちのまま何かを考えるかのようにじっとナベリウスを見つめていた。やがてちらっと廊下の奥を、俺の勘違いでなければ菖蒲の部屋のあたりを見てから、意を決したように顔を上げて言う。

「ヘンタイ女。こっち来い」
「え、わたし?」

 唐突に名指しされて呆けた声を上げるナベリウスに頷きを一つ返し、美影は権高に顎をしゃくって階段のほうを指した。

「まずは治療から。簡単な手当てならできる」
「あら、急に殊勝になっちゃって。いったい、どういう風の吹き回し?」
「勘違いするな。おまえなんか嫌い」

 不機嫌そうにぷいっとそっぽを向く。

「ヘンタイ女はいつか私が倒す。それだけ」

 むっつりとした美影らしい物言いに、俺とナベリウスは顔を見合わせて頬を緩めた。一気に緊張が緩和して、張り詰めていた空気は和やかになった。

「むー」

 いきなり笑い出した俺が気に入らないらしく、美影は猫のような唸り声を上げて近づいてきた。

「……てい」

 ぼすっ、と間抜けな音を立てて、力も腰も入っていない拳が俺のわき腹に突き刺さる。もちろん、まったく痛くなかったが、暴力を振るわれる理由が相変わらず分からなかった。

「だから何がしたいんだよ、おまえは」
「知らない」

 踵を返して階段のほうに歩いていく。その背を、俺は呼び止めた。

「あ、美影」

 長い黒髪を揺らしながら怪訝そうに振り向いた彼女に歩み寄り、俺はずっと伝えようと思っていたことを口にした。

「ありがとうな。おまえに鍛えてもらったおかげで助かった。師匠としては、こんな不出来な弟子じゃ不満かもしれないけど、よかったら今後もいろいろと教えてくれると助かる」

 あのフォルネウスと戦って生き延びることができたのは、間違いなく美影との特訓があったからだ。自分よりも年下の女の子を師匠と呼ぶのは相応しくないかもしれないが、しかし戦闘において彼女は尊敬に値する逸材だった。

「師匠……」

 ぽつりと呟いてから、黒髪の先っぽをちょこちょこといじる。

「夕貴がどうしてもって言うなら考えないこともない」
「じゃあ、どうしてもだ」
「私を師匠と呼ぶなら考えないこともない」
「これからもよろしくな、師匠」
「べつに夕貴とかどうでもいい」
「そっか。俺は美影のこと尊敬してるのにな」
「むー」

 どうやら俺の素直さが逆に不本意だったらしく、頬が微かに膨らんだ。

「……夕貴、嫌い」

 そんな態度ですらも楽しく、温かかった。実を言うと、俺はこいつと意味の分からない話をだらだらと続けるのが嫌いじゃないのだ。

 もうおまえなんかと話すことはない、とでも言うように、ポニーテールを揺らす背中は足早に去っていく。今度は引き止めず、代わりに忘れていた言葉を投げかけた。

「ただいま、美影」

 ほんの一瞬、彼女は足を止める。そして、また何事もなかったかのように歩き出し、階段を上っていった。足音に混じって何か小さな声が聞こえたような気がした。

「まったく、素直じゃないんだから」

 ナベリウスは肩をすくめて美影のあとを追っていく。反射的に俺も歩き出すと、彼女は行く手を遮るように立ち止まり、ゆっくりと首を振ってみせた。流れるような銀髪が優しく揺れた。

「夕貴には夕貴のするべきことがあるでしょう?」

 仕方のない弟を諭すような口調でそう言って、ナベリウスは悠然と歩み去った。しばらくすると上のほうから「とっとと服を脱げ。ヘンタイ女」とか「あれー? わたしにそんな口をきいてもいいのかなー?」とか「ち、近づくな! 離せー!」とか、姦しい会話が聞こえてきた。なんだかんだ言って、あいつらって実は仲がいいように思えるのは俺の気のせいなのだろうか。

 静かになった玄関に佇みながら、俺はナベリウスが口にした言葉の真意を考えていた。夕貴には夕貴のするべきことがあると、彼女は言っていた。

 ……いや、考えるまでもない。ほんとうは分かってるんだ。美影がナベリウスだけを誘った理由が。ナベリウスが俺に伝えた言葉の意味が。

 なぜなら、俺には美影のほかにもう一人、ただいまを言わなくちゃいけない人がいるから。

「……夕貴様」

 ゆっくりと振り向いた先に、だれよりも会いたくて、だれよりも会いたくなかった人がいた。緩やかなウェーブを描く、鳶色の髪。おっとりとした優しい性格を反映するかのように、いつも眠気を湛えた瞳。老若男女を問わずに魅了する、年相応のあどけなさを残した淑やかな美貌。古くから続く由緒正しい大家の一人娘。高臥の少女。

 菖蒲は、いまにも泣き出しそうな顔で俺を見つめていた。



 ****


 おかえりなさいませ、と喉元まで出かかった言葉は、夕貴の身体に刻まれた暴力の爪痕をまえにして無価値だった。

 堰が壊れたように溢れる感情を、菖蒲はせき止めるのに必死だった。すぐそばに大切な人がいるのに、心はまるで温かくならない。一人が二人になっても、リビングは痛々しいほど静かだった。カチカチと時計が鳴っていた。

 菖蒲と夕貴はソファに並んで腰掛けていた。会話はなく、冷たい沈黙だけが二人の距離を隔てている。いつもなら自然と出てくる言葉が、意識せずとも触れられる身体が、いまは果てしなく、遠い。

 ツンと鼻をつく消毒液の匂いに埋もれながら、菖蒲は何も言わずに手を動かしている。女性特有の艶やかな肌には赤黒い血がこびりつき、元の白さも相まってひどく痛々しい。彼女が受けてきた淑女としての教育も、さすがに怪我の治療の方法まで網羅することはなく、その手つきは不器用でぎこちなかった。

 夕貴の身体は素人目に見ても酷い有様だった。ボロボロだったシャツをハサミで切り裂いて裸の上半身を見た瞬間など、気を失いそうになったほどである。血と痣に覆われた肌は、もはや白よりも赤と紫の割合のほうが多かった。明らかにただ事ではなく、それゆえに菖蒲はやるせなかった。何かよくないことが起きているのは明白なのに、自分はあまりにも無力だ。こうして傷ついた彼の身体を看てあげることしかできない。それすらも満足に行えているとは言えなかった。

「……もう、いいって」

 どれほどの間、沈黙が続いていただろう。きっかけとなったのは夕貴の掠れた声だった。余計な心配をかけたくないのか、それとも泣きそうになりながらも治療を続ける菖蒲を見ていられなくなったのか。その答えは夕貴の辛そうな表情のなかにある。

「菖蒲も知ってるだろ。俺は普通の人間じゃない。この傷も、ちょっと時間はかかるだろうけど自然に治る。だから、もういいんだ」

 それは紛れもない真実だった。菖蒲の常識に鑑みても、夕貴は負っている怪我の度合いに反して身体活動に支障がなさすぎる。意識もはっきりしているし、内臓や骨も無事のようだ。肌の各所に散見される擦過傷や打撲も、きっと、そう時間をかけずに治癒するのだろう。いまさら驚くほどのことでもない。彼が人外の血を引いていることは菖蒲も知っていた。

 だが、これは理屈ではなく感情の問題だった。菖蒲の不慣れな治療が、夕貴の身体に微々たる恩恵しかもたらさないことは分かっている。それでも、傷ついた夕貴をまえにして指をくわえて見ているだけなど菖蒲にはできなかった。できないからこそ、そんな彼を癒してあげられない無力な自分に涙がこぼれそうだった。

「……お思いですか」

 絶えず動かしていた手を止めて、菖蒲は呟いた。俯きながら、溢れる感情を押し殺すように唇を噛み締めて。

 決して、夕貴と目を合わそうとはしない。

「このような痛々しい傷を負った夕貴様を見て、菖蒲がなにも感じないと……お思いですか?」

 一言一句を搾り出すように告白すると、夕貴はわずかに息を呑んだあと気まずそうに視線を逸らした。物憂げであっても凛々しく、女性的な美しさを湛えた彼の横顔を見て、こんなときなのに菖蒲は思った。やっぱり愛しいと。

「夕貴様がお辛い思いをなさっているのに、菖蒲には何もできません。無知で、無力で、世間知らずで……夕貴様のおそばにいさせて頂く資格は、菖蒲にはないのかもしれません」
「それは考えすぎだ。そこまで思いつめなくてもいいって。菖蒲はじゅうぶんやってくれてるよ」

 夕貴の言葉を受けて、菖蒲は己が感情を反芻するかのように押し黙ったまま、しばらく視線を泳がせていた。カチカチと時計だけが鳴っていた。
 
「……あのときも、そうでしたね」

 そう、小さな声でつぶやいて手元に視線を落とす。菖蒲の白い肌には、乾いた血が染みのようにこびりついていた。その赤い色が、いつかの光景を強く思い起こさせる。

「いまでも鮮明に憶えています。夕貴様のお体から流れる血を。力なく横たわる夕貴様を。何もできず、ただ諦めようとした自分を。忘れようとしても、忘れようとしたのに、どうしても忘れられません」

 かつて菖蒲が誘拐されたとき、真っ先に駆けつけてくれたのは夕貴だった。しかし、そのせいで夕貴は凶刃に倒れることとなり、一時は死の危機にまで瀕したのだ。

 夕貴は芯の強い少年だ。また菖蒲の身に何かあったら、きっと彼は火の中にだって迷わず飛び込むだろう。そして菖蒲は、囚われのお姫様を気取って救いの手を待つことしかできないだろう。それが分かるからこそ嬉しくて、辛かった。

「菖蒲はもう、傷ついた夕貴様を見たくないのです。たとえそれが菖蒲のためであっても、夕貴様が血を流すのは嫌なのです」

 必死に感情を押し殺した抑揚のない声。

「けれど……」
 
 それが叶わぬ願いであることは、他でもない彼女自身が一番よく知っていた。

「菖蒲が何を言っても、夕貴様は戦うのでしょうね」

 だって、優しいから。

「夕貴様は、悲しくなるぐらい優しすぎますから」

 そして、そんな夕貴だからこそ、菖蒲は愛したから。

「……違う。俺は、おまえが思ってるほど出来た男じゃない。ほんとうに優しいのは菖蒲だ。何も聞かず、こうしてそばにいてくれるんだから。おまえが、みんなが一緒にいてくれる事実に勝る苦痛なんてないんだよ」

 嘘だ、と確かな否定の声が、菖蒲の心を強く揺さぶった。
 
「そんなの……嘘です」

 何も聞かなかったのではない。何も聞けなかっただけだ。夕貴を困らせたくなかったし、菖蒲には彼を支えるだけの力がないことは嫌になるほど分かっていたから。

 心配だった。失いたくなかった。これから先、ずっと彼と一緒に歩いていきたかった。みんなのためなら平気で血を流す彼を、となりで支えてあげたかった。それが上手くできないから、菖蒲は少しだけ自信をなくしている。これはそれだけの話なのだ。

 伝えたい心情はこんなにもはっきりしているのに、どうして言葉にすればするほど違っていくのだろう。傷ついた夕貴に何もしてあげられない自分がもどかしいだけなのに、どうして素直に彼の言葉を受け入れられないのだろう。

 とめどなく溢れる想いが、ひたすらに苦しかった。

 好きになればなるほど、心はこんなにも思い通りにならないから。

「そんなの――嘘です!」

 悲痛な声とともに感情が弾けた。菖蒲は顔を上げて、濡れた瞳で夕貴を見つめた。ようやく二人の視線は交わったのに、彼と彼女の想いは平行線のまま交錯する兆しを見せない。だから、カチカチと時計が鳴っていた。

「わたしは何の役にも立ってません! 夕貴様はきっと、わたしがいなくてもやっていけるはずです! だって、だって!」

 自分の気持ちを繕うこともできない菖蒲とは違い、夕貴には戦うための力があるのだから。

「わたしにもナベリウス様のような力があればよかった! 美影ちゃんのように強ければよかった! そうすれば、夕貴様のお力にもなれたのに! こんな想いをすることもなかったのに!」

 しとどに流れる涙を拭いもせず、夕貴の胸元に縋りついて菖蒲は叫ぶ。荒くなった呼吸が、乱れて頬にかかる髪が、彼女の必死な想いを物語っていた。

「こんな、に……!」

 自信がなかった。武の心得がなく、怪我を満足に治療することもできない自分を、夕貴が好きでいてくれるのだろうかと。考えても考えても分からない。どうして彼は菖蒲を大切にしてくれるのだろう。由緒正しい家柄だから? 容姿が美しいから? 大人しい性格だから? 

 それとも、菖蒲が――

「こんなに、好きなのに……!」

 ――わたしとあなたは結ばれる未来にありますと、勝手なことを言ってしまったから? 

 彼を想う気持ちは誰にも負けないつもりなのに、現実は無情だった。温室で育ってきた菖蒲は、知識に反して経験が少なすぎた。家事の腕はナベリウスに劣るし、夕貴と美影が庭で特訓しているのを見ていつも羨ましいと思っていた。萩原の家で暮らす者のなかで自分だけが何の役にも立っていないと、常日頃から水面下で少しずつ育まれていた劣等感がここにきて一気に肥大し、涙となってこぼれたのだ。

 やがて室内は静かになった。菖蒲の微かな嗚咽と吐息だけが聞こえる。自分が作り出してしまった空気に耐えられず、菖蒲はゆっくりと夕貴から目を逸らした。果たして、彼はどう思っているだろう。困惑ならまだいい。もし失望されてしまったら、と思うと、また涙が出そうだった。

「……わたしは、もっと夕貴様のお役に立ちたい。ずっと夕貴様を支えて差し上げたい。でも、わたしにはできないことが多すぎるのです」

 端的に言えば、菖蒲は悔しいのだろう。夕貴と同じく、戦うための力を持ったナベリウスと美影が羨ましいのだ。あるいは自分だけが無力だと拗ねているのかもしれない。それは考えすぎであると同時に、菖蒲にとっては動かしようのない事実だった。

「バカだな、菖蒲は」

 淑女としては無様に過ぎる醜態を晒した菖蒲を、しかし夕貴は笑顔で包んだ。

「……確かに菖蒲はバカですけど」

 そこまではっきり言わなくてもいいではありませんか、と唇を尖らせて子供のように呟く。もうここまで来れば逆に自分の愚かしさを開き直るだけの余裕も出てきた。さきほど思いの丈を叫んだことが功を奏したのか、気持ちもかなり落ち着いていた。

「ああ、菖蒲はバカだ」

 もう一度だけ夕貴は言った。

「いちいち俺の役に立とうなんて考えるなよ。俺たちは損得勘定で付き合うほど打算的な関係じゃないだろ。それに」

 おまえにはおまえだけにしかできないことがあるよ、と言って、夕貴は壊れ物を扱うような手つきで菖蒲の細い身体を抱きしめる。腕にはほとんど力がこもっていないのに、なぜか抜け出すことができなかった。

「そばにいてくれるだけでいいんだ。この家で、俺の帰りを待っていてほしいんだ。俺にとっての日常は、菖蒲におかえりを言ってもらうことなんだから」

 ふと、思った。

 戦う力を持ったナベリウスや美影が夕貴の”非日常”を支えるなら、果たして、彼の”日常”を象徴するのは誰なのだろう。

 帰りを待つ。この家で、みんなの帰りを待つ。それは戦う力のない菖蒲だからこそできることだと――

「それでも、おまえはまだ嘘だって言うのか? 自分が何の役にも立ってないって、おまえがいなくても俺はやっていけるって思うのか?」

 問いかける声は怯えていた。抱きしめる腕が震えていた。自分のことで精一杯だった菖蒲は、ここにきてようやく気付いた。彼女だけでなく、夕貴も等しく不安を抱えていることに。

「俺は弱い人間だ。男らしいとか言ってるけど、実際は女々しくて頼りない男だ。自分一人の力じゃ何もできない。だから菖蒲が……みんながいてくれないと困るんだよ」

 強く、強く抱きしめられる。

「菖蒲がいない家になんて、帰りたくねえよ……」

 母親に縋る子供のような弱々しさで夕貴は囁いた。

「それは……」

 ほんとうですか、と続けようとした言葉を飲み込んで、菖蒲は己の不粋を恥じた。夕貴が吐露した想いの真贋を見極められないようであれば、それこそ彼のそばにいる資格はないだろう。

 言葉にしなければ伝わらない想いはある。でも、それと同じぐらい、言葉にしなくても伝わる想いもあるはずなのだ。

「夕貴様」
「なんだ?」
「おかえり……なさいませ」

 夕貴の胸に顔を埋めたまま菖蒲は言った。それは遅すぎた言葉だった。いまさらすぎる挨拶だった。しかし、なぜか菖蒲は言いたくて言いたくてたまらなかった。きっと夕貴と同じように、菖蒲にとっての”日常”は彼におかえりなさいませと言うことなのだろう。

 夕貴は、ほんとうに嬉しそうに苦笑した。

「ああ。おかえり、菖蒲」

 その一言が大切だった。絶対に手放したくない響きだった。また落ち込んでしまうかもしれない。また子供みたいに泣いて彼を困らせてしまうかもしれない。時には他の女の子に嫉妬して、淑女としてはしたない姿を見せてしまうかもしれない。それでも、夕貴にならどんな自分を見せても構わないと思った。人はこの感情を愛と呼ぶのだろうか。その答えを知るには菖蒲はまだ幼く、知識も経験も足りなかった。

 ただ、ひたすらに強く願うのだ。これからもこの人とずっと一緒にいたいと。だから、菖蒲は何も言わず、そっと夕貴に体重を預けた。誰もいないリビングのソファで二人は静かに寄り添っていた。あれだけ冷たかった空気が嘘のように触れ合う肌は熱かった。

 身体だけでなく、心も触れ合わなければ温かくならないと菖蒲は知った。

 どれほどの間、抱き合っていただろう。菖蒲が目を閉じて静謐に身を任せていると、ふいに夕貴は寄りかかる身体を優しく引き離した。名残惜しそうに菖蒲が見上げると、夕貴は照れくさそうに微笑んだ。

 その笑顔を見て、とくん、と胸が熱くなり、どうしようもなく呼吸が苦しくなった。

 自然とまぶたが重くなる。彼の瞳に吸い寄せられるように、ゆっくりと顔が近づいていく。甘い吐息が鼻先を掠めて、熱に浮かされたように全身が火照った。いつの間にか菖蒲の両手は、夕貴の胸板にそっと添えられていた。そんな彼女を受け入れるかのように、夕貴は細くくびれた女の腰に手を回した。時間が一瞬にも永遠にも感じられて、世界が彼と彼女で飽和した。

「じー」

 そのとき、何やら不穏な視線を感じた二人はぴたりと動きを止めた。ゆっくりと振り向くと、物陰から顔をぴょこんと出している美影と目が合う。その途端、夢が醒めたように冷静になった菖蒲は、人の目があるリビングで必要以上に夕貴と近しい距離にいて、なおかつ抱き合いながら甘い行為に身を委ねようとしていた自分に気恥ずかしさを覚えた。どうやらそれは夕貴も同じだったらしく、二人は弾かれたように距離を取って、そそくさと佇まいを直した。

「み、美影ちゃん。おはようございます。今夜もお月様がきれいですね」

 気が動転して支離滅裂なことを言う菖蒲。そんな彼女には任せておけないと思ったのか、ひたいに脂汗を浮かべた夕貴が妙に愛想のいい笑みを浮かべた。

「おまえ、そんなとこで何してんだよ。もうナベリウスはいいのか?」
「じー」
「俺たちも、ほら、もう大体の応急処置は終わったとこなんだけどな」
「じー」
「だから、なんていうか……なぁ?」
「じー」

 菖蒲から見ても夕貴は挙動不審だったが、それ以上に美影の態度が気になった。なぜか妙に機嫌が悪いように見えるのだ。

「美影ちゃん。なにかあったのですか?」
「……ふん」

 心配になって訊ねると、美影は冷たい目で菖蒲を一瞥してからこれみよがしに顔を背けた。その反応を見て、夕貴は小さく首を傾げていた。

 菖蒲が「うぅ、美影ちゃんに嫌われちゃいました……」としょんぼりしていると、その居心地の悪い空気を打ち壊すように、軽快な足取りでナベリウスが姿を見せた。さらさらとこぼれる長い銀色の髪に目を奪われるが、よく見れば肌の各所からは包帯が覗いている。

「あちゃあ、もしかして修羅場? とうとう夕貴の悪事が日の目を見ちゃったかー」
「……おい。俺を女たらしみたいに仕立て上げるのは止めろ」
「違うの? いつもわたしのおっぱいをチラチラ見てるのに?」
「べ、べつに見てな……いや待て、頼むからこれ以上ややこしくするな!」

 とても気になる発言があったので、菖蒲はあとでたっぷりと本人から話を聞こうと思った。

「まあ、べつにいいんだけどね。夕貴がどこを見ようが夕貴の勝手なんだし」

 言ってから、ナベリウスは腕を組んだ。かたちのいい豊かなバストが強調されて、薄手のシャツを大きく盛り上げる。その魅惑的なふくらみに夕貴の視線が吸い寄せられた一瞬を菖蒲は見逃さなかった。ほらね、とナベリウスが呟いた。

「異議ありです! いまのは聞き捨てなりません! 夕貴様が見ていいのは一人だけだと思います!」

 慌てて立ち上がって声を張り上げる。菖蒲は気付いていなかった。ソファから身体を起こす際、ナベリウスを上回る豊満なふくらみが大きく揺れたことに。そして、それを夕貴がちらっと見ていたことに。

「夕貴が見ていいのは一人だけ? それってだれのこと?」

 意地悪く口端を歪めながら、ナベリウスはわざとらしく問いかけた。まさか自分だと堂々と宣言するわけにはいかず、菖蒲は顔を赤くしてかぶりを振る。

「そ、それは……秘密です!」
「まさか自分だなんて言わないわよね。菖蒲がそこまで自惚れちゃってるとも思えないし」
「自惚れてるとは何ですか! 夕貴様はわたしの夕貴様なのです! いくらナベリウス様でもこれだけは譲れません!」
「でも秘密なんでしょ? ほんとうに愛してるなら、声を大にして言ったらいいのに。夕貴が見ていいのはわたしだけです、ってね。まあ今時、そんなふうに束縛されて喜ぶ男がいるとは思えないけど」
「うー! もう怒りました! 意地悪なナベリウス様なんて知りません!」
「待て待て! おまえらはなんで喧嘩してるんだ!」

 二人の間に割って入って夕貴は仲裁に努める。しかし、ついさっきまでの名残もあり、夕貴の視線はほとんど無意識のうちに彼女たちの胸元を掠めていく。そんな彼にとことこと歩み寄った美影は、どさくさに紛れて思い切りすねを蹴り上げた。

「いっ――てぇっ!?」

 片足を抱えてけんけんしながら、夕貴は苦痛に揺れる目で美影を睨んだ。

「ちょっと待て! おまえは俺になんの恨みがあるんだ!?」
「なんかむかついただけ」

 美影はくるりと背を向けた。ポニーテールの房が尻尾のように揺れている。

「あーあ、美影ちゃんが拗ねちゃった。夕貴がわたしと菖蒲のおっぱいばっかり見てるから」
「え、俺が悪いのか……?」
「小さいのは小さいなりの魅力があるのよ。あの子、いい張りしてるわよ」
「なんの話だ!?」

 騒がしくなり始めた場を収拾しようというのか、夕貴はソファに深く腰掛けて大きなため息をついた。

「……だめだ、これはいつもの失敗するパターンのやつだ。ちょっと落ち着こう」
「そうね。じゃあ腰を落ち着けて話し合いをしましょうか」

 すんなりと同意したナベリウスは、まるでそこがわたしの居場所と言わんばかりの自然さで夕貴のとなりに座った。となりに座るだけならまだいいのだが、彼女がこともあろうに夕貴の腕を取って恋人のように抱きついた瞬間、菖蒲は頭に血が上るのを感じた。

「……いやいや、近すぎるだろ。もっと離れて座れよ」
「いやよ。だってわたし、夕貴のとなりがいいもの」

 薄手のシャツにできた大きな谷間に腕を挟まれて夕貴はたじろいだ。ナベリウスが艶然と微笑む。ついに我慢できなくなった菖蒲は、飛び込むようにナベリウスの反対側に座って夕貴のもう一本の腕を取った。

「あ、菖蒲?」
「はい、何でしょうか」
「なんか……おまえも近くないか?」
「いいえ、それは夕貴様の気のせいだと思います」

 ツーンとそっぽを向きつつも、菖蒲はナベリウスに勝るとも劣らない密着具合で夕貴のとなりをキープしていた。もちろん彼の腕は絶対に離さないようにと強く抱きしめる。清楚な容姿を裏切る肉感的なバストが圧迫されてかたちを変えた。夕貴がごくりと生唾を呑んだ。

「ほら、美影ちゃんも座ったら?」
「ヘンタイ女の指図は受けない」

 ナベリウスの提案を無碍にして、美影は踵を返した。ほっと安堵する夕貴。その気が抜けた夕貴の顔に腹が立ったのだろう。あるいは、ただ夕貴を困らせてやりたかったのだろう。

「むー」

 美影は引き返してくると、夕貴の膝のうえに何の遠慮もなく腰を下ろした。

「おい! 美影まで何のつもりだ!?」

 夕貴は困惑した。ナベリウスは感心した。菖蒲は特等席を取られたと思った。美影は眠そうにあくびをしていた。

「おまえら、とにかく俺から離れろ! 暑苦しいんだよ!」
「そうですか。夕貴様は菖蒲が邪魔なのですね……」
「い、いや、いまのは言葉の綾っていうか、菖蒲がそんな気に病む必要はないっていうかだな」
「あれま、夕貴が菖蒲を泣かせちゃった。男の風上にも置けないわね」
「アホ! 元はと言えばおまえのせいだろうが!」
「……ぐう」
「とりあえずおまえは寝んなー!」

 夕貴とナベリウスが帰ってくるまではあれほど静かだったリビングも、いまは蜂の巣をつついたような騒ぎになっている。夜も深まった時分、近所迷惑になってしまうかもしれないと菖蒲は思ったが、この幸せな気分をとなりにもお裾分けできるのならどんな苦情も受け入れられる気がした。

 じたばたと暴れる夕貴にぴったりと身体を合わせて、菖蒲は幸せそうに目を細めた。夕貴と同じように、彼女もこの騒がしくも楽しい日常が大好きだった。だからナベリウスのように、美影のように、菖蒲は自分にできることを、自分にしかできないことをしようと心に決めた。

 カチカチという時計の音は、もう聞こえなかった。





[29805] エピローグ『それは大切な約束だから』
Name: テツヲ◆c49d9b75 ID:366fa69a
Date: 2013/03/04 10:50
 
 深夜、リゼット・アウローラ・ファーレンハイトは湯気の立ち上る浴室に佇んでいた。何をするわけでもなく、ただじっと頭からシャワーを浴びて、熱い水流に身を任せている。それだけで身体に蓄積された疲れがゆっくりと洗い流されていく気がしたし、なにより、鼻唄を歌いながら汗を流すような気力はいまの彼女にはなかった。

 手足が鉛のように重い。心がじくじくと痛む。体調も芳しくない。ここ数日は食事もあまり喉を通らなくなった。嘱託医の診断によれば過労とのことらしい。まあそうだろう、とリズも納得した。なにせ欧州を発って日本の土を踏んでからというもの、彼女がまともに睡眠を取ったのは数えるほどしかない。激変した生活環境と膨大な執務に大きなストレスを抱える程度には、リズは普通の人間だった。

 荘圏風致公園での死闘から一夜が明けた。各陣営に差異はあれど、とりわけ大きな被害も戦果もなく、開幕戦はドローに終わったといえる。広場からフォルネウスとベレトが姿を消した後、間もなくリズたちも所定のルートで帰投した。別れ際、夕貴は何かを言いたそうにリズを見ていたが、けっきょく一言も交わさないままに二人は離別した。

 萩原夕貴。人と《悪魔》の血を引く少年。彼は優しかった。夕焼けに染まる展望台で彼と過ごした時間は、自分がただの女の子なのだと錯覚するほどには楽しく、ありふれたものだった。あの永遠にも思えた刹那の合間だけ、リズは抱えたものを忘れて心の底から笑うことができた。

 彼の笑った顔を思い出す。リズの歌声を褒めてくれた。彼の悲しそうな顔を思い出す。わたしには親がいないと、そう告白してあんな辛そうな顔をされたのは初めてだった。彼の戸惑った顔を思い出す。裏切ったのはリズのほうだ。彼の必死な顔を思い出す。リズを助けるために最後まで諦めることなく走り続けた、そのひたむきさを。

 血筋とは残酷だな、とリズは思った。せめて夕貴がもっと冷たい少年だったなら、ここまで思い悩むこともなかったのに。

 必要以上に時間をかけて汗を流してからリズは浴室を出た。清潔なタオルで軽く髪だけを拭いて、濡れそぼった身体にバスローブを羽織る。ひたいや首筋に張り付いた髪をさっと流してから、彼女は脱衣所をあとにした。

 諸々の事情により、リズは格式の高いホテルの上層階にある部屋を一時的な住居としている。シンプルながらも細部に意匠を凝らした調度の数々と、大きなサイズのベッドが二つ。さらに壁一面がガラス窓になっていて、階下の夜景をゆっくりと望める造りになっていた。

 毛足の長い絨毯に湿った足跡を残しながら、薄暗い部屋を突っ切って窓辺に向かう。バスローブの帯も結んでいない、ほとんど半裸の格好で行くにしては人目に触れる可能性のある場所だったが、街は眠りに落ちているうえに部屋は高所にあるため、たおやかな少女の肌を目にした者といえば夜空に浮かぶ月ぐらいのものだった。

 窓辺に立ち、遠く広がる夜の情景を見つめる。思えば、こうしてゆっくりと日本の夜景を目にするのは初めてかもしれない。バチカンも陽が落ちるとライトアップされて見事な景観が見られるようになるのだが、この国のそれはより現代的な光で満たされている。

 だが、なぜだろう。絶景というに相応しい眺望なのに、美しいと感じない。それはたぶん、もっと美しいものをリズは知っているからだ。自然で溢れる公園の展望台。夕焼けに染まる街並み。となりで笑うだれか。ふと、リズは横を見る。そこには何もなかった。だれもいなかった。

「……あはは」

 思わず苦笑してしまう。一人で見る絶景よりも、二人で見た景色のほうが心に残っているなんて情けない話だったから。

 ひとしきり笑ったあと、リズはベッドに倒れこんで枕元に置いてあった携帯電話を手に取った。これはもともと彼女の持ち物ではなく、日本に来て支給されたものだ。

 あまり馴染みのない、真新しい携帯をしばらく眺める。覚えたての手順で操作して電話帳をひらく。登録されている件数は驚くほど少ない。たった三件。そのうちの一つは、ちょうど昨日に登録されたばかりのものだ。赤外線通信とやらの使い方がいまいち分からなくて、彼に教えてもらいながら連絡先を交換したことを思い出し、リズは目元を和らげた。

 誰かの名残を振り切るように携帯を放って、ベッドのうえで寝返りを打つ。露出した素肌に触れるシーツの感触が心地よかった。近頃はあまりベッドで眠る機会がなかったからか、心と身体は疲れているのに眠気がやってくる気配はない。もう一度だけ寝返りすると、ついさっき手放したばかりの携帯が目に入った。なんともなしにリズは手を伸ばす。決意はとても早かった。

 止めておくなら、引き返すなら今しかない。彼女は過ちを犯そうとしている。越えてはいけない一線を越えようとしている。頭では分かっているのに、リズは止まらなかった。シャワーの余韻で火照った耳に、ひんやりとした携帯のボディを押し当てる。

 眠れない夜には誰かの声が聞きたくなる。これはそれだけの話だと、自分に言い訳をして。


 ****


 電話が鳴ったのは、もう間もなく空が白ずむような時分のことだった。

 迷いはあった。罠かもしれないと疑った。それでも、もう一度だけ彼女と話したいと思う気持ちのほうが強かった。

『……もしもし、夕貴くん?』

 液晶に表示された名前から相手がだれなのか分かってはいたものの、いざ声を聞くとどうしても緊張が高まった。言いたいことも聞きたいこともたくさんあったはずなのに、うまく言葉が出てこない。通話が始まった瞬間から、ただ時間だけが無為に過ぎていった。

『夕貴くん、だよね』

 必然的に生じた沈黙が、気まずい静寂に取って代わられる前に、もう一度だけ彼女は言った。俺は小さくため息をついてから答えた。

「……ああ、そうだよ」
『よかった。間違えちゃったかと思ったよ』
「そういうきみは、リズだよな」
『うん。いまはリゼット・A・シュナイダー。表向きはローマ法王庁大使館に勤める職員さんの娘ってことになってるね』

 とつぜん訪れたこの状況に戸惑いを隠せない俺とは違い、リズの声には何の気負いもなかった。飽くまでも自然体。彼女と話していると、お互いの立場を忘れてしまいそうになる。

「リズはいったい……何を考えてるんだ?」
『んー、そうだね。夕貴くんはどんな女の子が好きなんだろう、とかかな?』
「ふざけるなよ。そんなことを知ってどうなるってんだ」
『うん、どうにもならないね。だからこれは、ただのプライベートコール』

 相変わらず本音の掴みづらい女の子だった。まさかほんとうに意味もなく電話してくるとは思えないが、しかし彼女の声や口調からは白々しさがまったく感じられない。

『あぁ、それとあんまり踏み込んだことは言わないほうがいいと思うよ。この電話、もしかしたら盗聴されてるかもしれないから』

 釘を刺すように彼女は言った。俺の詰問を避けるための方便の可能性もあったが、なぜか嘘だとは思えなかった。

「盗聴? だれが?」
『さあ。心当たりが多すぎて絞り込めないけど、第一候補は日本政府の人たちかなぁ。ちょっとした知識と技術があれば一般回線の通信を傍受することなんて簡単だしね。まあ大丈夫だとは思うけど、注意するに越したことはないでしょ?』
「特務分室ってのは、ずいぶんと微妙な立場にいるみたいだな」
『七十年ぐらいまえに試験運用が始まった、《異端審問会》のなかでも歴史の浅い部署だから。それに今回の件に限って言えば、外だけじゃなくて内からも批判の声が上がってるの。それだけ《法王庁》にとって日本は扱いの難しい国ってことなんだよ。アンクル・サムとも仲がいいしね』
「アメリカがアジアを初めとした中東戦略を考える際、日本があると便利だからな。よほどの外交問題でも起こらないかぎり不和にはならないんじゃないか」
『むう、人がせっかく隠語を使ったのに。これじゃ頭隠して尻隠さずだよ』

 微妙に使い方が間違っているような気がしたが、もちろん突っ込む気にはなれなかった。

「そういえば《法王庁》と欧米の関係はどうなんだ?」
『普通だね。たぶん』
「たぶん?」
『じゃあ恐らくでいい?』
「……とりあえず日本語の勉強をやり直してきたほうがいいと思うぞ」

 探りを入れるつもりでいろいろと訊ねてみると、思いのほかすんなりとリズは答えてくれた。状況が状況だけに機密は口にしないだろうし、情報が脚色されている可能性もあるが、それでも何も知らないよりはマシだろう。

 現状、俺とリズの間柄はあまり友好的とは言えない。《グシオン》という共通の敵がいるから一時的に休戦しているが、それは本格的な戦いが始まるまえにお互いの戦力を減らさないようにするための一種の戦略であり、決して友誼を図ってのことではないのだ。

 さらに言うなら、特務分室は俺という存在に《グシオン》をおびき寄せるための餌――つまりライブベイトのような役割も期待しているのだろう。だから俺が下手な真似をしないうちはリズたちと争うようなことにはならないはずだ。

 それが単なる願望に過ぎないことは自分でもよく分かっていた。分かっていても願わずにはいられなかった。彼女の楽しそうな顔を思い出す。あの眩しい笑顔を、わたしにはお父さんとお母さんがいないと気丈に告げた彼女を、この手で傷つけることなどしたくない。

 もし、そのときが訪れたら、俺は――

「……なあ、リズ。どうしていまさら連絡してきたんだ?」

 たぶん、俺の声は冷たかった。それをまったく意に介するふうもなく、リズは穏やかに答えた。
 
『夕貴くんにはないかな。眠れない夜に誰かの声が聞きたくなることって』
「どうだろうな。あんまり意識したことはないけど」

 すると、羨ましいね、と彼女は言った。

『それはきっと、夕貴くんには眠れない夜にとなりにいてくれる誰かがいるからだよ』
「リズには、いないのか?」
『もし、いないって言ったらどうする? 夕貴くんがわたしのそばにいてくれるのかな』
「…………」
『なんてね。冗談だよ』

 リズの声は少し寂しそうだった。いま、彼女はどんな顔をしているのだろう。もし悲しそうな顔をしていたら、俺はどんな行動を取っていただろう。目の前にリズがいたらよかったのに、と思うと同時に、これが電話でよかったと安心する自分がいた。

『わたしのとなりにはね、誰もいなくていいの。ううん、いたらだめなんだよ。誰かがいると甘えちゃうから』
「甘えればいいだろ。誰にも頼らずにやっていけるほど人間は強くないんだから」
『ふむふむ。ちょっと哲学的な話になってきたね』
「……あのなぁ。元はと言えば話を振ってきたのはそっちだろ」
『そうだったっけ。そうだったかな。そうだったような』
「眠そうだな。切っていいか?」
『もう、夕貴くんは冷たいなぁ。ちょっとぐらい甘えさせてよ』
「甘えるのはダメじゃなかったのか……」
『そうだね。だめだったね。だって』

 自分の足で立てなくなることほど怖いものはないんだから、と彼女は続けた。でも、俺はそうは思わなかった。

「……それの、何がいけないんだ?」

 なにも自分の足だけで立つ必要なんてない。

「辛いなら、甘えたいなら、誰かに寄りかかればいいだろ」

 人間は弱くて、なにかに躓くたびに諦めの言葉が脳裏をよぎって、一人ではどうしようもなくなるときがある。それでも、となりに誰かがいてくれるから人は生きていける。支えて、支えられて、支えあいながら生きていくのが人間だから。一人で立つことはできても、立ち続けることはできないのが人間だから。

『……夕貴くんは優しいね。でも、それと同じぐらい、残酷だね』

 リズが優しい声で言葉を紡ぐたびに、彼女の境遇を見てしまう。自分でも残酷なことを言っているのは分かっている。しかし、あえて気を遣うほど俺と彼女は近しい距離にはいないこともまた心得ていた。

『もしわたしが普通の女の子だったら、きっと、夕貴くんの言うとおりにしたのにね』
「リズは普通の女の子だろ」
『ちがうよ』
「違わねえよ』
『じゃあ、夕貴くんは普通の男の子?』

 そうだ、と反射的に応えようとして言葉に詰まった。ごめんね、と、なぜかリズは謝った。

『わたしときみが、わたしときみじゃなかったらよかったのに。でも、わたしときみじゃないと、たぶん出会うこともなかったんだろうね』
「……リズ」

 そんなこと言うなよ。俺とおまえは敵同士なんだから。情報を交換しても、仮初めの共同戦線を張っても、こうして眠れない夜に声を聞いていても――絶対に相容れないんだから。

 でも、確かに夢を見てしまう。もし俺たちが俺たちじゃなくて、もっと別の出会い方をしていたら、きっといい友達になれたんだろうって。

 しかし、それが可能性すらもない、ただの妄想に過ぎないことは俺と彼女が一番よく分かっていた。

「……リズは、辛くないのか?」

 言ってから、自分でも出過ぎた質問だったと後悔する。彼女が「辛い」と認めたところで、俺にできることなんてありはしないのに。

『どうだろうね。分かんないや』

 彼女は肯定も否定もしなかった。俺に甘えることも、弱味を見せることもしなかった。だから俺は、もう一度だけ口を滑らせることにした。

「……リズが何をしたいのかは分からないけど、さ」

 力にはなれない。そばにもいてあげられない。電話越しに優しい言葉をかけることさえできない。そんなことは許されない。だから、せめて。

「もし辛いなら……いっそのこと、抱えてるものを投げ出して、誰かに甘えてもいいんじゃないか?」

 リズに逃げ道を作ってあげることぐらいはしてあげたかった。たとえそれが偽善だとしても。かぎりなく無責任だとしても。彼女が拒絶することが初めから分かっていたとしても。リズの事情を知らない俺には、そんなことしかできない。そんなことしかするつもりはなかった。

 会話が途切れて、居心地の悪い沈黙が訪れる。俺はこれ以上、何も言えなかった。しばらくの間、リズは押し黙ったままか細い吐息だけを漏らしていた。耳元に相手の息遣いを感じるのに、お互いの在り方は悲しいほどに遠く隔てている。それがやるせなかった。

『……できないよ、そんなの』

 雨を知らせる最初の一粒のように、その声は注意しなければ聞き落としてしまいそうなほどに小さく、儚かった。

「できないって、どうして」

 俺はひどい男だ。リズの答えが変わらないと知っているのに、また意味のない問答を繰り返そうとしている。そうすることで『自分は彼女に何かをしてあげた』という自己満足を得たいのかもしれない。小賢しく立ち回ろうとする自分が、たまらなく嫌だった。

『どうしてって言われてもね。夕貴くんに譲れないものがあるように、わたしにもやらなくちゃいけないことがあるだけだよ』
「やらなくちゃいけないこと、か……」

 わざわざ聞かずとも大体の想像はつく。例えば、《悪魔の書(ゴエティア)》と呼ばれる書物の回収や、《グシオン》がもたらすと予想される闘争を未然に防ぐこと。もっと広義で言えば、現存する《悪魔》の殲滅。リズたち特務分室の目的は、まあ、そんなところだろう。

 しかし、だとすれば一つだけ疑問が残る。《悪魔》を倒すことが目的なら、どうしてリズは俺を助けたのだろうか。父さんの血を引く俺は、現状の能力や思想はともかく、長い目で見れば特務分室にとってもっとも面倒な障害になりかねないはずだ。殺す価値はあっても、生かすメリットはほとんど思いつかない。

 ――夕貴くん、わたしね……約束したの。

 荘圏風致公園の広場で、俺をフォルネウスの凶手から間一髪で救った彼女はそんな台詞を口にした。そのためにリズは俺を生かしたというのか。でも特務分室の任務を放ってまで優先するほどの大切な約束なんて想像もできないけど。

 俺が黙っていると、くすくすと屈託のない笑い声が聞こえてきた。

「いきなりどうしたんだよ。べつに可笑しなことを言った覚えはないぞ」
『いや、やっぱり夕貴くんは似てるなって思って』
「似てる……? だれにだ?」
『かつてのわたしが、愛した人に』

 湖のように澄んだ声で告げられて、俺はとっさに何も言い返すことができなかった。言葉に詰まった俺が可笑しかったのか、リズはまた明るく笑った。

『ねえ、夕貴くん。参考までにきみの意見を聞かせてよ。人と《悪魔》は手を取り合えるか、それとも絶対に分かり合えないか。どっちだと思う?』
「それは……」

 質問の意図を考えるよりも早く、俺は反射的に答えていた。銀髪の悪魔と出会ってから今日に至るまでの騒がしい日々を思い出しながら。

「できる。できないわけがないだろ。俺とナベリウスがその証だ」

 迷うことなく断言できた自分が誇らしかった。

『……あはは。夕貴くんならそう言うと思った』

 いままでになく楽しそうに彼女は笑う。楽しそうなはずなのに、聞いている側が悲しくなるような不思議な笑い声だった。

『でも甘いよ。夕貴くんは甘すぎるよ。そんな考えじゃ、いつか絶対に後悔する。分かっちゃうんだよ。夕貴くんを見てると、どうしても思い出しちゃうんだもん』
「後悔なんてしねえよ。人と《悪魔》が分かり合えないはずがないんだ」
『信じれば信じるほど、頑張れば頑張るほど――裏切られたときは辛いし、挫折したときは悲しいよ』
「じゃあどうして俺は生まれたんだ? 父さんと母さんがいたからだろ」

 返答はなかった。一秒、二秒と時間がこぼれて、そのまま時計の秒針が一周した頃、ぽつりと彼女は言った。
 
『……でも、バアルはいなくなってしまった』

 沈黙を破ったのは、抑揚のない声。

『けっきょく、あのバアルでも無理だったんだよ。それは”人”が誕生した瞬間から定められていた、《天元の法(アルス・ノヴァ)》をもってしても書き換えられなかった不変の摂理なんだから』

 リズの言っている意味が、いまいち分からなかった。そう、分からなかったはずなのに、知っているはずがないのに、なぜか彼女が口にした言葉のなかに、とても懐かしいものがあったような気がして――

『夕貴くんも、いつか絶望する日がくる』

 彼女は言った。

『かつてソロモンが、《悪魔》を捨てて”人”を選ばざるを得なかったようにね』

 どうしてここでソロモン王の名が出てくるのか。いったいリズは何を知っているのか。父さんでも無理だったというのはどういう意味か。謎は余計に深まるばかりだった。頭がおかしくなりそうだ。

『それでも、わたしは……』
「え?」

 電話越しの不安定な声量のせいで、うまく聞き取ることはできなかった。でも、俺の勘違いじゃなければ、リズはいま――

『じゃあ、そろそろ切るね。夜分遅くに失礼しました、なんて言ってみたり』
「ま、待てって! 俺はまだ……!」
『おやすみ、夕貴くん。わざわざ付き合ってくれてありがと』

 ばいばい、と明るい調子で言って、リズは通話を終えた。ツーツーという単調な電子音に、なぜか無性に泣きたくなった。いまさらになって、俺とリズを繋いでいたのはただの電子的な回線だったと思い知らされた。

 俺は自室のベッドに腰掛けて携帯の液晶をじっと見つめた。冷静に考えれば、リズの連絡先を残したままにしておくのは褒められたことじゃない。気軽に連絡を取り合えるほど俺たちを取り巻く状況は優しくないからだ。

 しかし俺は、どうしてもリズの名を電話帳から抹消することができなかった。自分から連絡するつもりなど毛頭ないし、決して頭のいい選択じゃないことは分かっていた、けれど。

 ――夕貴くんにはないかな。

 俺には無理だった。

 ――眠れない夜に誰かの声が聞きたくなることって。

 とてもではないが冷徹にはなりきれなかった。

「……ちくしょう」

 顔を上げると、薄っすらと白い光が見えた。窓のそとは明るくなり、いつの間にか朝が始まっている。夜はもう終わったんだ。

 また新しい一日が始まる。さあ、前を向こう。大切な日常を守るために。


 ****


 誰もいない静かな庭先に立ち、ナベリウスは空を見上げた。もう夜明けが近い。まだ辺りは暗いが、街が目覚めるまでそう時間はかからないだろうと思われた。

 しゅるしゅると音を立てて白い包帯が外されていく。あらわになった素肌は、降り積もったばかりの雪原のように白く滑らかだった。昨夜、荘圏風致公園での戦闘で負った傷は魔法のように消えている。表立った外傷だけでなく、折られた肋骨のほうも完全に治っていた。

「……思ったよりも時間がかかっちゃったな」

 楽しい日々が続いていたからか、感覚が鈍っている。あまりいい傾向とは言えなかった。そろそろ意識を切り替えたほうがいいだろう。

 傷ついている暇などない。ナベリウスは夕貴にとって最強のジョーカーでなくてはならないからだ。主従の誓いを立てた以上、いや、たとえそんなものがなくても夕貴の信頼を裏切るような真似はできない。

 昨夜の出来事で分かった。やはり夕貴は《バアル》の力を受け継いでいる。自身の異能について、夕貴は『鉄分に作用する能力』だと勘違いしているようだし、ナベリウスも初めは違和感を覚えたものだが、それは恐らく彼が《悪魔》として覚醒するきっかけが『ナイフによる致命傷』だったことから、金属の類に過剰に反応しているだけと思われる。本来の力は、もっと別のものだ。

 とは言え、ナベリウスとしてはそのほうが都合がよかった。夕貴に大きな力は必要ない。なまじ多くの人を救えるだけの力があるから、ほんとうに大切な人を悲しませてしまうのだ。彼の父親のように、彼の母親のように。

 もう二度と、あんな悲劇を許したりはしない。禍根は例外なく断ち切る。とりわけ大きな障害は三つ。

 フォルネウス、ベレト、アスタロトの三柱を従える《グシオン》の勢力。

 強大な戦力を保有する法王庁特務分室と、《精霊の書(テウルギア)》を持つ少女。

 そして――

「……《悪魔の書(ゴエティア)》、か」

 その響きを口にした途端、ずきんと鈍い痛みが胸の奥に走った。あの忌まわしき書物がまだ日本のどこかにあるということは、”彼ら”は諦めていないのだろう。自らの命を道具のように使ってでも、何もかもを犠牲にしてでも《悪魔》を祓うつもりなのだ。

 だから、今度こそ役目を果たす。どんなことがあっても夕貴だけは守り抜いてみせよう。ほんとうならあのとき、萩原駿貴の代わりに捨てるはずだった命だ。いまさら何も惜しくはない。それに駿貴から言付かった、小百合にも伝えなければならないことがある。

 見れば、空の向こうには瑠璃色の黎明が広がっていた。地平線の彼方からのぼる太陽が、夜に冷えていた街をゆっくりと暖めながら、まどろみに浸る住人たちに朝の訪れを告げている。もう夜は終わったのだ。

「駿貴、小百合……」

 ここにはいない二人の姿を思い出すように、ナベリウスはゆっくりとまぶたを閉じた。そのまま胸に手を当てて真摯に祈る。《悪魔》が願いを捧げるなど滑稽かもしれないが、それでも、あの優しい少年になら気まぐれな神も微笑んでくれるはずだと信じよう。

 ――どうか夕貴の未来が幸多きものでありますように。

 朝焼けの中、祈りを心に刻みながら、もう一度だけ決意を新たにする。わたしと夕貴ならきっと大丈夫だと、ナベリウスは目を閉じたまま自分に言い聞かせた。

 まぶたの裏に広がる暗闇は、まるで夜のようにも錯覚した。



 [参の章【それは大切な約束だから】 完]





[29805] 肆の章【終わりの始まり】 4-1『始まりの終わり』
Name: テツヲ◆c49d9b75 ID:b9883657
Date: 2014/10/19 15:41
 
 悪魔。それは特定の宗教文化に端を発する悪しき超自然的存在のことを指します。世間一般の理解に当てはめて、彼らを説明するうえでもっとも適当な例をひとつ挙げましょう。

 通称、《オド》。真名を持たない低級悪魔として知られる彼らは、生身の人間にとりついて様々な怪奇現象を起こします。その症例はいわゆる悪魔憑きに近く、事実、1630年にフランス中西部で起きた《ルーダンの悪魔憑き》や、1784年にイングランドの南東部で起きた《メルファーン修道院の悪魔憑き》など、過去に世界中で散見された当該ケースの多くがオドの仕業とされています。

 ですがもちろん、彼らは厳密に言えば《悪魔》に数えられることはなく、その存在もきわめて単純なものです。

 オドは正式な名称を『Opaque Dissociative Obsession』といいます。日本語に直訳すれば『不明瞭で、分離的な、強迫観念』といったところでしょうか。彼らに取り憑かれた者は強烈かつ慢性的な殺人衝動に駆られることが語源とされています。分布的には欧州に広く見られる反面、東アジア、とくに日本にはほとんど確認された例はありません。

 諸説ありますが、オドは人間の霊魂に『Devilment Microwave』が何らかの影響を及ぼした結果、発生したものとする見解が有力的です。分かりやすく例えると、ちょっとおかしな波動で突然変異してしまった幽霊といったところでしょうか。
 
 オドはひどく無力で、それ単体ではなんの効果も及ぼしません。ですが彼らは、生身の人間にとりつくことで物理的な行動を可能とします。それは悪意というよりも、単なる生命活動に近い。我々が食事によってエネルギーを摂取するのと同様に、オドは人の魂と、Dマイクロウェーブの二つを存在するための”栄養”として探し求めています。ゆえに彼らは人間を襲い、より上位の《悪魔》を欲します。

 存在するために、そして欠けてしまった一部を補うために。たとえいびつであっても、この世に生まれ落ちた意味をまっとうするために、彼らはただ、我々と同じように、生きようとしているのです。



 
 広大な会議室に流れていた少女の声が静まると、あちこちから息を呑む気配がした。張りつめた空気がわずかに緩み、次の瞬間にはよりいっそうの緊張となって空間を呑みこむ。

 大型のミーティングテーブルを挟むようにして二つの陣営が顔を合わせていた。大勢の人間がいた。けれど、椅子に座っているのは少数で、大多数の者は壁際に控えたり、会議の進行に従事している。

 正面から見て左側、主に白人によって構成されたテーブルの上座を陣取る少女は、長きにわたったプレゼンテーションに幕を下ろすかのように、手元のミネラルウォーターで喉を潤した。

 法王庁異端審問会特務分室の室長という肩書きを背負って現れた彼女は、名をリゼット・アウローラ・ファーレンハイトといった。日本人にはない透き通った肌の白さと、エメラルドグリーンを思わせる翠緑の瞳。赤みがかった金色の髪をツインテールに結わえて、真新しいスカートスーツを着ている。年齢も容姿も、特務組織の長としては似つかわしくない人物だったが、しかし彼女の立ち居振る舞いには緊張や初々しさがまったく感じられない。

 少女の右手の人差し指には、見事な趣向が施された銀の指輪が輝いていた。

「以上のことから、オドを根本的に断絶させることは現代の科学力では不可能に近く、結果として我々は後手に出ざるを得ません。よって、最優先すべきは被害を抑えることではなく……」

 そこまでリズが言ったところで、やおら厳然たる声音が割って入った。

「ああ、そんなことは言われずとも分かっている。なんのために我らが此度の案件の解決を諸君に委託したと思っているのだね」

 リズの対面、もう一方の上座に腰掛ける壮年の日本人男性だった。テーブルの上で組んだ手の陰からは、不機嫌そうに歪められた唇が垣間見える。

「仮称、東日本連続猟奇殺人事件。七月二日のフタヨンマルマルをもって、事件に関するありとあらゆる権限は、ファーレンハイト室長を代表とする法王庁特務分室に譲渡された。よって、諸君には相応の成果を挙げてもらわねば困るのだよ」

 すぐさま別の声たちが同意した。

「まったくだ。これは君のためのオーディションではない。既知の情報を知らされたところで、審査員でもない私たちには何のアピールにもならない。いや失敬、決して馬鹿にしているわけではないのだがね」
「我々が求めているのは常に結果であり、その過程ではない。にも関わらず、長々と語られたうえで新たに分かったことといえば、専門家たる君たちでも事態の鎮圧は不可能という事実だけだ」
「だから私は反対だったんだ。もとから彼らは事件の解決に尽力するつもりはなく、我が国の情勢を調べることが目的だったのでは?」

 にわかに騒ぎ出した日本サイドの様子を、リズはやや困り顔で見つめていた。やがて場が落ち着き始めた頃合いを見計らって、話を続ける。

「よろしいでしょうか。東日本連続猟奇殺人事件は、その規模と被害、そしてあまりの異常性から、事後処理は警察ではなく《青天宮》が担当しています。いまさら改まって言うまでもなく犯人……いいえ、諸悪の根源はオドです。ゆえに火元を絶たないかぎり、事態は悪化の一途を辿るでしょう」
「だから、自分たちでは無理だと?」
「それでは話が違うではないか! なんのために貴様らの入国を許可したと思っておる!」
「いいえ、手段はあります」

 ぴしゃりと少女は言い放った。

「先ほども申しましたとおり、本来オドは欧州を中心に分布しています。その反面、日本で確認された当該ケースは皆無に近く、数百年ほど過去を遡ってみてもそれは同様です。これは《悪魔》の主な活動域が欧州であることと、日本には独自の退魔組織と鎮魂の概念が発達していることから、オドにとって貴国の土は非常に住みにくい性質だったのが幸いした結果でしょう。
 しかし、失礼ながら近年の日本の情勢は不安定です。二十年前に起きた抗争では多数の死者が出たと聞き及んでいますし、その頃から徐々に”土壌”は形成されていたのではないかと思われます。とはいえ、もちろんそれだけではここまで大きな事態には相成りません。真の原因は、こちらでしょうね」

 リズの合図とともに室内の照明が落とされ、正面のスクリーンに資料が投影された。いくつかの写真と、びっしりと書き込まれた文字。裏世界だけでなく、表の社会にも強烈な印象を与えた事件。この場にいる全員の記憶に新しかった。

 それはつい先日、北欧の片田舎で起きた惨劇についての詳細だった。

「結論から申しますと、この惨劇を演出したのは二柱の《悪魔》であり、そして――」

 それは日本にとって決して他人事ではなかった。

「彼らを含む、現存する《悪魔》の三大勢力の一角がいま、この国で暗躍しつつあります」

 次の瞬間、会議室の空気がいままでになく揺れ動いた。ある者は驚き、ある者は立ち上がり、ある者は法螺を吹きこまれたように失笑した。十人十色の反応のなかで、《悪魔》という非現実的な響きだけが全員の脳内で共鳴していた。

 リズが語った事実をまとめるとこうだ。現在、日本で急速に増えつつあるオドに関する事件。その原因は、何柱もの《悪魔》が日本に集結しているから、という実に単純明快なもの。どこにも不可解な要素はない。

 にも関わらず、日本人たちの顔色は、会議が始まるまえよりも難色を示していた。

「悪魔だと? 冗談ではない! それがほんとうなら、一刻も早く排除するべきだ! 大体、《青天宮》の連中は何をしている! そろって昼寝でもしていたのか!」
「無理もないでしょうな。鮮遠朔夜どのがお亡くなりになって以来、あそこも一枚岩ではない。派閥争いに必死な組織など、往々にしてまともに機能しないものですよ」
「何をのんきなことを言っておる! だれが金を払っていると思っておるんだ!」
「少なくともあなたではないでしょう。いや、そもそも金をちゃんと収めているのかも不明だ。聞くところによると、また新しい外車をコレクションの一つに加えられたとか。ずいぶんと羽振りがいいことだ」
「貴様、口が過ぎるぞ!」

 言い争いを始めた者たちを見て、リズは「あのー、とりあえず喧嘩は止めたほうが……」と小さく呟いたが、となりに座っている戦隊長たる部下に静止されたため、おずおずと引き下がった。その間にも、口論はヒートアップしていく。

「そもそもシュナイダー枢機卿はどうしたのだ。このような小娘をよこさず、枢機卿(カーディナル)から直々に話を伺いたかったものだ」
「けっきょくのところ、餅は餅屋でしょう。権限の全てを法王庁特務分室に委託している以上、我々は傍観に徹しているしかない。もとからそういう条件で、私たちは彼らの介入を認めたのですから」
「然り。音に聞く手腕をぜひとも拝見したいものですな。彼らならきっとふさわしい成果をあげてくれるはずだ。そうでしょう、ファーレンハイト室長?」

 責任の矛先がリズに向かったとき、冷たい女性の声がした。

「くだらない。子供の言い争いならよそでやってほしいもんだ」

 さほど大きな声量でなかったにも関わらず、全員が彼女に注目した。それだけの存在感があったのだろう。

 正面から見て右側、壮年の日本人たちが腰を下ろすテーブルのもっとも端に彼女はいた。外見から推測できる年齢は若く、他の者よりも一回り以上は下だと思われた。二十代後半が妥当だろうか。漆黒の髪をうなじのあたりで一房に結わえて、すらりとした身体を紺色のパンツスーツに包んでいる。切れ長の目が怜悧な印象を与える美人だったが、いささか目つきが悪い。

 じっと腕と足を組んで権高に同郷の仲間を睥睨する彼女が気に食わなかったのか、やや肥え太った男が身を乗り出した。

「それはどういう意味だね、紫苑(しおん)くん。言いたいことがあるならもっとはっきり言ったらどうだ」
「その言葉、そのまま返そう松本警視正。新しい外車を買って機嫌がいいんだか知らないが、我関せずと責任をよその国だけに押し付けるのはずいぶんと虫がいいんじゃないか。ドライブを満喫したいなら、せめて自分の仕事を相応にこなしてからにしてもらいたいもんだ」
「無礼な! 無礼だぞ、小娘! いくら貴様が【如月】の人間でも、こんな無礼が許されるわけがない!」
「それは悪かった。じゃあ何か仕返ししてみなよ。ほら、一度だけは甘んじて受け入れよう」

 彼女――如月紫苑は両手を広げて受け入れる姿勢を見せたが、松本は何も言い返せなかった。禿げあがりそうな額に脂汗が浮かび、握りしめた拳が怒りと悔しさに震えていた。 

 権力や財力に目敏い彼にとって、紫苑の生家は決して無視できないものだった。”日本を影から支配する如月一族”とは、もはや政財界ではお馴染みとなった常套句だが、それを一笑に付すにはこの国において【如月】の名はあまりにも大きすぎた。

 しばしの葛藤の末、松本警視正は年長者ゆえの寛容さという名目で怒りを収める体を見せたが、それが強がりに過ぎないことは初見の特務分室の面々ですら看破していた。

「……まあ、いい。だが紫苑くん。そこまで言うなら君にはなにかいい案があるのかね?」
「買い被りすぎだよ。わたしごとき小娘がそんな力を持っているわけがない」
「きみはあの【九紋】の連中と兄弟同然に育ったと聞く。奴らを動かせばどうとでもなるのではないか?」

 その名が出た途端、日本人の多くが顔色を変えた。それは活路を見出したがゆえの変化ではない。あえて言うなら、この国の頂点に君臨してきた十二の家系に対しての畏敬、そして裏社会で数多の屍を築いてきたことに対する畏怖。この国において【九紋】は忌み名であり、死にもっとも近い言葉だった。

「正直、わたしの個人情報を暴露されているようでちょっと気持ち悪いが、それはできない。こちらにも事情があるからな」
「それではいったい、どうするというのだ!」
「少しは自分の頭で考えて頂きたいものだが、そうだな、あえて答えるとしたらねずみ退治だ」

 紫苑の発言に、多くの者が首を傾げた。

「現状、我々がもっとも憂うことはなんだ。多発する殺人事件か? 《悪魔》か? いや違う。ふたたび国のバランスが崩れ、さらなる国力の低下を招いてしまうことだ。《大崩落》の影響で失われた諸々が、十六年かけてようやくここまで回復したのだから」

 いまから数えて二十年前に起きた《大崩落》と呼ばれる抗争。あの地獄の四年間は、日本に決定的な変容をもたらした。かつての泡が膨れて弾けるような景気はまたたく間に崩壊し、表社会の経済は大打撃を受けた。抗争のおりにばら撒かれた銃器やクスリは、当時の膨大な供給が仇となり、裏社会だけでは処理しきれなくなった”商品”の在庫の一部が表にも流れ込む有様だ。刻一刻と変化する国内情勢と、その影響で起こったさまざまな社会問題。

 治安大国と呼ばれたのも過去の話だ。暴力団は当然のように拳銃を携帯し、警察との癒着も問題視されている。犯罪の低年齢化も進み、世論の後押しを受けて、ついには少年法も改正された。

 日本はいま、数多くの負債を抱えている。獅子身中の虫は早々に取り除かねばならない。

「なるほど、ねずみ退治ですか」

 リズがくすくすと笑って言った。

「言い得て妙ですね。一匹見たら三千匹はいると思え。日本のことわざでしょう?」
「それはゴキブリの話だが、まあ、あながち外れているとも言えないね。ねずみだろうがゴキブリだろうが駆除する対象に変わりはないからな。つーか、そんなにいたらやばいよ。普通に逃げるよ」

 リズと紫苑はそれぞれ笑みを浮かべている。だが、目は笑っていなかった。ぶつかり合う視線に火花が散った。

「紫苑様には何かお考えがあるご様子。ですが、日本政府から一切の権限を委託されている以上、あとは我々の管轄です。どうかお気になさらぬよう」
「ああ、それじゃあそちらのねずみは君たちに任せるとしよう。わたしは悪魔退治なんて柄じゃないからな」

 あっさりと引き下がる紫苑。それに一瞬とはいえ安堵してしまったリズがいけなかったのか、それとも初めから陥穽があったのか、紫苑の話には続きがあった。

「じつはわたしにも個人的な仕事があってね。いやなに、君たちのそれに比べれば些末なものだ」
「仕事……?」
「改まって説明するほどのものでもないよ。ねずみと呼ぶのも身に余る不作法者が、近頃この国でこそこそと動き回っているらしくてね。肥え太るだけが能の甘い蜜の味を覚えた政治家や官僚を取り込んで、ただでさえ腐敗しきった政財界にさらなる歪みをもたらそうとしている。このまま遊ばせておけば、間違いなく日本に大きな混乱が訪れるだろう。
 わざわざ調べるまでもなく、そいつの正体は分かった。なにせ外国人であるうえに有名人だからな。室長様も聞いたことがあるだろう。そいつの名前は――」

 紫苑がその名を口にした途端、リズの眼差しが鋭くなった。

「一代で巨万の富を築き上げた若き天才実業家。情報処理の分野において画期的かつ斬新なアイデアで大きなシェアを獲得した時代の寵児。公表されている年齢は二十七歳。イギリスのウィンブルドン出身。オックスフォード大学に入学するも二年で中退。……と、少し調べればいかにもそれらしいデータが上がってくるが、残念ながら二十七年前のウィンブルドンにこの男が生まれた記録はない。しかし、こいつが表社会に大きな影響力を持っていることだけは確かだ」

 だれかの心臓が、どくんと跳ねた。

「禍根は断つ。例外はない。我が【如月】の紋にかけて、悪しき輩には早々に退場してもらおう」

 直後、紫苑の言を遮るように、まるでそれ以上は言わせないとでもいうように、日本陣営の上座に腰掛ける男が口を開いた。

「そこまでだ。慎みたまえ、如月紫苑。我々は君の私情を聞くために集まったわけではない」
「これは失礼。ただわたしは、なんとなくこの話をこの場にいるみなさんにも聞かせて差し上げたいと思ってね」

 紫苑は苦笑して、かぶりを振った。日本人席、ひとりの男が小さく舌を鳴らした。

 それからも滞りなくとは言えなかったが、会議は予定されていたとおりに進んでいった。

 静かに、静かに、時間が終わっていく。

 リズは無感情な顔で時計を見つめていた。紫苑は氷のように冷徹な目で誰かを見ていた。

 窓のそと、ブラインドに遮られた向こう側で、ゆっくりと雨が降り出していた。



 その夜、高臥菖蒲は父の知己が催したパーティに参加していた。高臥宗家の直系である菖蒲は、お家柄、こうして父や母とともに招宴に預かることがあった。

 すれ違う人々はみな華やかなドレスに身を包み、優しい笑顔を振りまいている。優雅な仕草でグラスを傾け、久方ぶりに顔を合わした面々で楽しげに談笑していた。飛び交う声にはお世辞や社交辞令が多分に交じっていたが、こうした場では本音を建前で隠すのがルールでありマナーだ。別にだれも間違ったことをしているわけではない。

 父に連れられて大体の挨拶回りを済ませた菖蒲は独り、壁一面に張られた窓から階下に広がる夜景を見つめていた。高級ホテルの上階を貸し切って行われているこのパーティは、おそらく、この街でもっとも月に近い夜会と言えるだろう。

 落ち着いたドレスをまとい、髪を結いあげた自分の姿が、よく磨かれた窓ガラスに映っている。色素の薄いとび色の髪に、いつも夕貴から眠そうだなと言われる二重瞼の瞳。均整の取れた手足に、大きくふくらんだ胸元。きれいに、きれいに着飾って、父からも褒めてもらった装い。

 でもほんとうに見せたかった相手はここにはいなくて、誰かと話している間も気を抜くと上の空になってしまって、いけないとは思いつつもため息は止まらなくて。そんな自分に嫌気が差しつつも、不思議と胸はぽかぽかと温かくて、知らずのうちに唇が緩んでいて。

 だめだ、これではだめだ、と菖蒲は頬を軽く叩いた。淑女として、そして【高臥】の人間として、与えられた努めはしっかりと果たさなくてはならない。まだまだ夜は長いのだ。

「いやぁ、ご機嫌そうですなぁ」

 背後から声をかけられた。振り向くよりも先に、ガラスに映った半透明の姿が、相手の様相を教えてくれる。

「一年振り、ですかな。いやはや、ますますお美しくなられましたなぁ。お母さまによく似てこられた」
「汐見(うしおみ)様……お久しぶりです。潮見様もお元気そうで何よりです」

 とっさに菖蒲は気が利いた言葉を言えなかった。あにはからんや、近づいてきた男――汐見幸造からはあまりいい評判を聞かなかったからだ。それでも彼の娘である汐見清夏(さやか)は、愛華女学院における菖蒲の同級生なので、いままでそれとなく言葉を交わしたことはある。

 汐見家は、大戦後に急激に成長した、いわゆる成金と陰口を叩かれる家系だった。とは言え、その成長力は驚異的で、現在では莫大な財力と影響力を持っているのも事実である。ただ汐見幸造は、目的のためなら手段を選ばない人物だともっぱらのうわさで、彼の成功の陰で血の涙を呑んだ者も少なくないと聞く。

 なにより伝え聞いた話によると、どうも彼は、他ならぬ【高臥】にもちょっかいをかけてきているらしく、菖蒲としてはいろいろな意味で面白くない相手だった。

「どうやら娘が世話になっているようで、これはあいさつの一つでもと思いましてな」
「いえ、わたしのほうこそ清夏さんにはお世話になっていますから」
「とんでもない。娘が菖蒲さんに何か迷惑をかけてないかといつもヒヤヒヤしておりますよ。ええ」

 汐見幸造は芝居がかった声をあげて、わざとらしくペコペコと頭を下げた。なんとなく嫌な気持ちになる。

「ところで……うまくやられましたな」
「はい? うまく、ですか?」

 いきなり小声で意味の分からないことを言われたので、菖蒲は呆けた声を上げた。

「ええ。高臥さんは実に手広く事業をやっておいでだ。いろんな業界にも顔が広い。私も一実業家として感服しております。ただまぁ、そんな高臥さんも芸能には疎かったんですな。つい先日までは、ですがね」
「……はぁ、そうなのですか」
「さすがは音に聞こえた高臥重国氏です。彼ほどの傑物はこの先もしばらくは現れんでしょう。まさか自分の娘まで利用するとは思いませんでしたが」
「え、利用……?」

 ここでようやく菖蒲は彼の言わんとすることに気付いた。

「ま、待ってください。わたしはそんなつもりで……いえ、わたしのことはどう思われようと構いません。ですが、父に対しての発言だけは取り消してください」
「まぁまぁ、そうムキにならんでもよろしいじゃありませんか。私は褒めているのですよ。私にはそのような真似はできませんからなぁ」

 菖蒲の反論など聞こえていないとでもいうように笑う汐見幸造。もっと反論したかったが、怒りと悔しさのあまり、うまく言葉もまとまらないほどだった。それにここで菖蒲が衆目を忘れて口論でも始めようものならば、彼女だけでなく家の名にまで傷をつけかねない。いままで立派に育ててくれた父や母の顔に泥を塗るような真似だけは避けたかった。

 菖蒲はぎゅっと唇をかみしめて、ひたすら堪えた。堪えることにした。自分さえ堪えればいいのだ、と決めてしまったら、それは意外と楽なことのように思えた。

「お久しぶりだ、汐見殿。ご機嫌いかがかな」

 ひどく険のある声。けれど、それは菖蒲にとって何よりも親しみ深い声だった。

「おぉ、これはこれは……まさかこんなところでご挨拶ができるとは思っておりませんでしたよ、高臥重国さん」

 ついさっきまで嫌らしく笑っていた幸造も、さすがに高臥家の現当主をまえにしては表情を引き締める他ないらしく、動揺を示すかのように目がせわしなく動いていた。

 高臥重国。菖蒲が心から尊敬する実の父であり、名付け親でもある。老いを伺わせない豊かな髪を櫛でなでつけ、妻が仕立てたスーツを折り目正しく着こなしている。四十代半ばとまだ若いが、身にまとう貫禄は並大抵の者なら恐れ戦いてしまうほどに強大だ。婿養子でありながら名実ともに【高臥】の頂点に立つその手腕は怪物と言わざるを得ない。そして彼は。

「どうやら娘が世話になっていた様子。これは父として挨拶の一つでもしておかなければ気が済みません」

 自他ともに、いや、他は認めるがあまり自覚はない、かなりの愛妻家にして子煩悩だった。

 重国は菖蒲のとなりに立ち、愛する娘の肩を優しく抱き寄せた。それだけで安心してしまう菖蒲も、あまり自覚はないが、きっと父のことが大好きで大好きで仕方ないのだろう。

「ほぉ、あなたほどのお人が、私ごときに構ってくださるとは。身に余る光栄だ。帰ったら娘に自慢できますなぁ」

 白々しい言い草に、重国は小さく鼻を鳴らす。無理もない。裏では【高臥】の管轄に土足で上がりこもうと画策しているのに、いざ面と向かえば必要以上にへりくだるのだ。これではまともに相手をするのもバカらしい。

 それから汐見幸造は、嫌味を交えた社交辞令を繰り返したが、重国は顔色一つ変えず全てを受け流した。責任ある立場として、そう易々と挑発に乗ることは愚の骨頂。重国はただ娘のそばに支え木のように力強く寄り添うだけで、まるで反駁はしなかった。うんうん、と菖蒲は頷いた。わたしのお父様は心の広い人なのだ。

 やがて業を煮やした汐見幸造は、ウェイターから受け取ったグラスを一気に煽ると、赤みがかった顔で言い捨てた。

「いやはや、今日は大変貴重な話が聞けましたわ。今後とも、高臥さんとはぜひ仲良くやっていきたいもんですな」
「ええ、そうですね。あなたとは今後とも良いお付き合いをお願いしたいものだ」
「ふん、良いお付き合い……ねぇ。老婆心ながら忠告しておきますよ、高臥さん。余裕をかましていると、いずれふところに火がつきますよ。そのとき、ボヤ程度で済めばよろしいですがね」

 それっきり彼は、もう興味をなくしたと言わんばかりに踵を返した。やっと終わるんだ、と菖蒲は安堵した。

「あぁ、高臥さん。もう一つアドバイスです。せいぜい娘さんを利用するとよろしい。せっかくの美しい娘さんだ。業界関係者の中には涎を垂らしている者もそりゃあおるでしょうからな」

 あまりにもひどい発言だった。菖蒲はズキンと胸が痛くなるのを感じた。小馬鹿にした高笑いだけがやけに耳に響く。

 でも我慢だ、ここで我慢しなくてはどうする。父を見習え、菖蒲。父はどんなことを言われても平然としていたのに、ここでおまえが挑発に乗っては意味がない。そうだ、落ち着くのだ。

 自分に言い聞かせてから、菖蒲はゆっくりと深呼吸した。そして父にお礼を言おうと思った、まさにそのときだった。

「……ほう。よくもまあ口が減らないものだ」

 地獄の門がゆっくりと開くような、低く重たい声。空気が瞬時に凍った。あれ、何かがおかしいぞ、と菖蒲は首を傾げた。

 見上げると、重国の顔からは微笑が消えていた。感情を映さない双眸が、圧倒的な敵意を乗せて幸造を捉えている。

「……いい顔ですなぁ。そうです、その顔が見たかったのですよ、高臥さん」

 ねっとりとした笑みを浮かべて、汐見幸造はもういちど重国と対峙した。だが、重国から発せられるプレッシャーに圧されたのか、その顔には脂汗が浮かんでいる。

「やっぱりあなたは面白い方だ。興ざめしていたところでしたが、これなら存分に……」
「言いたいことはそれだけか。くだらん。老婆心ながら、もっと時間を有意義に使うことをお勧めしよう」

 周囲にいた者たちが振り返る。それほどまでに重国の放つ威圧感は大きかった。汐見幸造は、自分が無意識のうちにあとずさっていることに気付いていただろうか。もはや滑稽なほどに役者が違いすぎた。

「だが、そういえばさきほど面白いことを言っていたな。ふところに火がつく? ボヤだと? 笑止だよ、汐見幸造。この俺がその程度で済ませると思うのか」

 彼は言った。

「火の海にしてやってもいいんだぞ」

 ひっ、と幸造は息を漏らした。そして何事か分からない捨て台詞を吐いて、足早に人ごみのなかに消えていく。幕引きはじつに呆気ないものだった。

 しばらく静寂が続いた。菖蒲は心配そうな顔で父を見上げる。やがて重国は、小さなためいきとともにかぶりを振った。菖蒲には分かる。目に見える仕草ではそれほどでもないが、いま重国の頭のなかは後悔と自己嫌悪でいっぱいのはずだ。

 家長として、一人の娘の父として、重国は軽率な真似をしてしまった。喧嘩は片方が相手をしなければ成立しないのだから。

 でも、菖蒲は。

「……お父様、ありがとうございます」

 そんな不器用な父が愛おしいと、この人の娘でよかったと、心の底から思うのだ。

 重国はわずかに目を見開いたあと、自嘲気味に笑って菖蒲の頭を撫でた。いつもとは違い、やや力強い撫で方だったが、それが嫌いではなかった。

 父と別れた菖蒲は、ひとりで会場を見て回っていた。もうじきこの華やかな夜も終わる。そうなると不思議なもので、ついさっきまでは早く萩原邸に帰りたいと思っていたのに、なんとも言えない寂しさのようなものを感じるのだった。

 当てもなく歩いていると、ひときわ目を引く人物を見つけた。

 何人かの人間に囲まれて談笑している男性。まだ若い。外見年齢だけで言えば、ナベリウスよりも少し上ぐらいだろう。やや長い金色の髪をうなじのあたりで結わえている。雪のように白い肌と、深い青の瞳。背は高く、平均よりは頭一つ分ぐらい抜けている。髪や肌の色から、恐らく異国の人間なのだと思われた。

 だが、菖蒲が目を奪われたのは、彼の顔立ちだった。美しい。まるで神が己の持てる力の全てを注ぎ込んでまで造形したのではないかと思うほどに、美しい顔立ちだった。

 しかし菖蒲が感じたのはときめきではなく、純粋な恐ろしさだった。直感と言ってもいい。あそこまで美しいのは普通ではない。人間を超えた、どこか非現実的な――

「失礼。私になにか用かな、お嬢さん」

 はっと我に返った菖蒲の正面には、さきほどの男性が立っていた。思わず顔が赤くなる。遠くにいた彼の意識に引っかかってしまうほどに、菖蒲はじっと見つめていたのだろう。

「あっ、いえ、その……何でもありません」

 失礼にならない程度にあとずさりながら、菖蒲は必死に微笑んだ。なんとなく、なんとなくあまり近づいてほしくない気がしたから。

 菖蒲の様子を気にしたふうもなく、男は優しく微笑んだ。

「そんなに怖がらなくてもいいのに。いや、無理もないかな。私が無礼をしてしまったんだから」
「そんな……無礼だなんて」
「いや、女性にそう言わせてしまう男など、無礼以外の何物でもないよ。気を遣わせてしまったね。だから、これは私の非だ」

 透き通るほどにきれいな声で言ってから、男は菖蒲の手を取った。目が合う。ぞくりと悪寒が走る。心の隅々まで見透かされているような錯覚。体中を視線という名の糸で縛り付けられていくような感覚。冷たい汗が背中を流れる。

 女性と比べても見劣りしない、白く滑らかな指先。触れ合う肌から伝わるのは温もりではなく、得体のしれない冷たさ。男は壊れ物を扱うような手つきで、ゆっくりと菖蒲の手の甲に口づけをした。

「申し遅れたね。私の名はリチャード・アディソン。以後、お見知りおきを。美しいお嬢さん」

 なぜだろう。分からない。いくら頭を捻っても答えは出てこない。それでも、このとき、菖蒲は、ただ、ひたすら。

 心の底から、怖かった。




[29805] 4-2 小さな百合の花
Name: テツヲ◆c49d9b75 ID:30a5855b
Date: 2014/10/19 16:20


 それに気付いたのは、高臥菖蒲がたまたま近くを通りかかったというだけに過ぎなかった。

 運命的なきっかけは何一つとしてない。平日の午前にも関わらず彼女が家にいるのは、単に学校が夏休みだったからだ。そして、とくに外出する予定もないのに玄関にいたのは、ただその近くに二階へと上がる階段があったからだ。

 鍵穴に金属が差し込まれる気配。がちゃり、とロックが解除される音。あれ、だれか帰ってきたのかな、でも夕貴とナベリウスは家にいるし、美影はそもそも鍵なんて使わずにどこからでも入ってくるし、かといって他に鍵を持っている人なんていないし……と、そこまで菖蒲が考えたところで、何者かが萩原邸に侵入を果たした。

「ただいまー。只今ただいまー。なんちゃって」

 まばゆい光が差し込む。逆光になって相手の姿はよく見えないが、声の調子やおぼろな影のシルエットから、自分よりも年上の女性だろうとは漠然と推測できた。かたわらには、大きな旅行カバン。

「あっちもあっちでよかったけど、やっぱり我が家には……って、あら、お客さん?」

 肩口あたりまで伸びた黒髪に、小さな赤い髪紐が映えていた。片側だけ結われた髪の隙間から、可愛らしい耳がぴょこんと顔を覗かせている。身長は女性の平均ぐらいだろうか。年の頃は二十代後半から三十代前半だと思うが、菖蒲の個人的な観点から物申すならば、正直なところ十代と言っても通用しそうだった。もちろん見た目が若いということもあるが、それに加えて女性のまとう雰囲気が掴みどころのない光のように柔らかいのだ。まったく世間ずれしていないのだろう。人が成長するにつれて誰もが当然のように獲得する打算に満ちた賢しさが、彼女からは感じられなかった。

 そしてなにより、その女性の顔が、菖蒲のよく知っている人に、あまりにもよく似ているような気がして。

「……夕貴、さま?」

 訝しげに菖蒲がつぶやくと、なぜか女性は引きつった顔でだじろいだ。

「い、いやだなー。友達に、それも女の子に、あろうことか様付けさせてるなんて。あの子をそんなふうに育てた覚え、わたしにはないんだけど」

 このとき、菖蒲は全てを理解した。それが早かったのか遅かったのかはわからない。ただ一つ言えることは、全てを理解してしまったがゆえに、膨大な情報が一気に流れ込んだ菖蒲の頭は驚くほど真っ白になった。

「それにしてもこんな可愛い女の子を家に連れ込むなんて。やっぱり夕貴も男の子なんだなぁ。ていうかあなた、どっかで見たような? 気のせいかな?」

 まあいいか、と投げやりに漏らした女性は、呆然と立ちすくむ菖蒲に歩み寄り、可愛らしく微笑んだ。

「いつもありがとう。できればこれからも夕貴ちゃんと仲良くしてあげてね。あの子、ああ見えて寂しがり屋なところあるから」



****



 そのときに起こったことをいつか思い出すなら、俺は家のなかに台風が入ってきたと述懐するに違いない。

「ゆ、ゆゆゆ、ゆ、夕貴様!」
「うおぉっ!?」

 部屋で本を読んでいると、扉をぶち破りかねない勢いで菖蒲が入ってきた。それだけならまだいいが、勢い余ってカーペットの上にヘッドスライディングまでした挙句、ベッドの支柱に頭を打ってゴンという音まで奏でる始末である。

「お、おい、どうしたっ? いったいなにがあったんだっ?」

 あの淑やかな菖蒲がここまで取り乱すなんてただ事ではない。それが分かっているからこそ、さきほどの異常な様子が逆にちょっと怖かった。これはなにかとんでもない事件でも起きてしまったのではないか。たとえば美影がナベリウスにこっぴどくいじめられたとか。

 菖蒲は生まれたての小鹿のようにぷるぷるしながら、涙目で部屋の外を指さした。

「お、お母様、が……」
「まさか……なにかあったのか!」

 見えない手に心臓を鷲掴みにされたような気分だった。瞬時に背筋が凍りつき、平穏にまどろんでいた頭が自分でも驚くほど冷たく染まっていく。

 高臥瑞穂。それが菖蒲の母親の名だ。俺はまだ会ったことはないが、菖蒲からよく話は聞かされていた。きれいで、賢くて、つよくて、優しくて、わたしには真似できなくてって。

 そんな菖蒲のお母さんが、まさか――

「菖蒲! どこの病院だ!」

 返事はない。菖蒲はすでにバタンキューといった塩梅で気絶している。俺に連絡を終えたことで力を使い果たしたのか、それとも打ち付けた頭があまりにも痛かったのか。たんこぶの大きさから見てきっと後者だろうな、なんてどうでもいいことを思いながら、俺は彼女の身体をベッドに横たえると、そのまま部屋を飛び出した。



****



 それに見つかったのは、壱識美影がたまたま不運だったというだけに過ぎなかった。

「あーっ! ちどりんだー!」

 一階の廊下を歩いていると突然、耳をつんざくような叫び声が聞こえてきた。しかも、その大音量の指向性はどうやら美影に向いているらしかった。振り返ると、まるで見たこともない女がこちらを指差している。

 さきほどまで気持ちよく昼寝をしていた美影にとって、これは言うまでもなく面倒くさい部類の出来事である。起きがけに声をかけられることさえ苛立たしいのに、こんなよくわからない女に珍獣でも見つけたかのような反応をされるとは。

 それにいったい、ちどりんとは何のことだろうか。どこか耳に馴染みのある語感ではあるが、少なくとも初対面の女から指を差して言われるようなことではない。

 まあいい。相手をするだけ無駄だ。こいつは頭がおかしい。そう結論づけた美影は、あくびをしながら踵を返した。

「ちょっとっ! どうして無視するのよ千鳥ちゃーん!」

 その名を聞いて、ぴたりと足が止まる。この珍獣ハンターはいま、なんといった?

 だが時すでに遅しである。美影の動きが止まった一瞬を見逃さず、謎の女は美影を後ろから抱きしめていた。

「――っ!?」

 このとき、美影は驚異よりも驚愕を覚えていた。気を抜いていたのは認めよう。身体は多少なまっているし、もしかしたら勘も鈍っているかもしれない。それでも、ただの女に間合いに入られるまで――否、身体に触れられ、あまつさえ拘束されるまでまるで気がつかないなどありえない。

 とは言ったものの、ここに夕貴がいれば見事なツッコミが炸裂していただろう。ただおまえが寝惚けていただけだと。

「うわぁ久しぶりだね千鳥ちゃん! 元気にしてた!? というかちょっとちっちゃくなった!?」

 わーいわーいと嬉しそうに頬ずりをされて、美影のなかの小動物じみた危機感が大きく警鐘を鳴らした。

「やめろ、このっ、はなせー!」
「あれ? でも千鳥ちゃん、なんだかほんとうにちっちゃくなった? ま、まさか……病気!?」

 そんなわけあるか、と突っ込みたかったが、それよりもようやく美影はひとつの誤解に気がついた。

「……それ、わたしの母親」

 じとーとした目で、だからとっととわたしを解放しろ、と訴えかける。しかし現実がそんなに甘いわけもなく。

「えっ? ていうことはもしかして……千鳥ちゃんと市ヶ谷くんの子供っ!?」
「ちょ――」

 きゃーと黄色い声をあげて、さらに抱きついてくる珍獣ハンター。

「すごいすごーい! そっかぁもうあれからそんなに経つんだぁ! でもよかったね、お母さん似で! きっと男の子が放っておかないでしょ! まあそのちょっと無愛想なところとかはお父さんにそっくりだけど!」
「こ、のっ……!」

 わたしに父親なんていない。その否定的な考えが美影の身体を突き動かした。隙を見て腕のなかから抜け出すと、這々の体で逃走を図る。自然と足は二階に向かっていた。なんとなくだが相性が悪い気がする。ここは夕貴に、あのわけのわからない女をなんとかさせるべきだろう。

「ちょっと待ってよー! あの二人は元気にしてるのー!?」

 背後から迫ってきた声を意識して、身体がひどく強ばった。いやな予感。それを間もなく実感。階段から踏みはずす足。ふわりと宙に浮かぶ身体。が、考えるよりも先に反射した。そうだ、この程度の高さから落ちたところで美影にはなんの支障もない。猫よりも猫らしく、華麗に着地を決めてみせるだろう。

 でも、その間際。あの女の顔がもういちど目に映る。

 どうしてだろう。あんなにうっとうしいことをされたのに、なぜか嫌いになれない。それほどまでに誰かによく似た顔。バカみたいで、面倒くさくて、女々しくて、それなのに、まあ飽きるまではずっと見ていてやってもいいかなと思う程度には嫌いじゃない、そんな顔。

「ゆう、き……?」

 ゴン、と大きな音。そして衝撃。次の瞬間にはぐるぐると目を回して気絶する美影の姿がそこにはあった。



****



 ついさっきも耳にしたような、とてつもなく痛そうな音が聞こえてきたと思ったら、俺の眼下には無残な屍が横たわっていた。

「……美影、か?」

 俺の部屋を出てから階段を下りた先、玄関前のスペースに美影の肢体が転がっていた。

「べ、べつの意味の肢体じゃねえだろうな、これ……」

 ごく、と生唾を飲み込む。よくよく観察してみると、控えめな胸のふくらみがゆっくりと上下していた。いちおう、生きてはいるようである。

「おい! しっかりしろ!」

 小柄な身体を慎重に抱き起こし、何度か揺さぶってみる。それでも反応がなかったので、白い頬をペチペチと叩いた。長い睫毛がかすかに震えたかと思うと、きれいな二重まぶたがゆっくりと開く。

「……ゆう、き?」

 いつもの抑揚のない声とはまた違う、気の抜けた夢見心地な声だった。

「そうだ、俺がわかるか!」
「ん……」

 こくりと頷いて、ぼんやりとした目で見つめられる。艶やかな濡羽色の髪に、夏にも関わらず抜けるような白い肌。人間は美しいものを見ると本能的に恐怖を覚えるという。それと同様に、美影は生来の排他的な性格も相まって、どこか触れがたい鋭利な雰囲気をまとっている。そんな美影だからこそ、このように無防備な姿を改めて見ると、普段が憎たらしい分、なんだこいつちょっと可愛いじゃねえかと思ってしまう自分がいないこともない。

「よかった、無事ならいいんだ。安心しろ。なにがあったかは知らないが、すぐに俺が病院に連れてってやるからな」

 なにせいまは緊急事態である。菖蒲のお母さんがたぶんどこかの病院に搬送されているのだから、そのついでと言っては失礼だが、美影を担いで外来するのも手間ではない。いや待て、そういえば俺はマジでこのまま病院に向かってもいいんだろうな。

「くそっ、悩んでるひまはないか」

 事態は一刻を争う。俺は美影の身体を抱き抱えて立ち上がった。

「はは、おや……」
「え? なんだって?」

 美影が俺になにかを伝えようとしている。それも恐らく、かなり大切なことを。

「母親、が……」
「まさか千鳥さんにもなんかあったってのか!」

 なんという偶然だろうか。同い年の、それも同じ家で暮らしている二人の少女が、あろうことかまったく同じ日に母親の不幸を聞くことになるとは。

 すでに美影は意識を失っていた。力を使い果たしたのか、それとも俺に介抱されて安心したのか。こいつのことだからきっと前者だろうな、なんてどうでもいいことを思う。むしろあとで勝手に身体に触ったことを持ち出されて“ヘンタイ”とか不名誉な罵倒を受けそうだ。

 とにかくじっとしてはいられない。まずは美影をリビングのソファにでも寝かせよう。なるべく衝撃が伝わらぬようにゆっくりと歩き出す。弛緩した身体は、十代の少女であるということを踏まえても、壊れてしまいそうなほどに軽かった。

 リビングに到着すると、どこからか自然の風が入ってくるのを感じた。

 カーテンが優しく揺れている。窓が少し開いているのだろう。こぼれる光のむこう、草花が咲き乱れる庭先にだれかが立っているのが見えた。俺は美影をそっとソファに寝かせると窓辺に近づいた。

「おーい、ナベリウス。そんなことしてたら冷房がもったいないだろうが」

 まったく家計に優しくないやつである。この時期、八月の真っ只中といえば、連日で猛暑を記録し続けるような有様なのだ。現代人にとって冷房は欠かせないし、もちろんそれによって光熱費が圧迫されることも想像に難くない。まあ人ではなく悪魔で、おまけに氷まで出せるあいつにそんなことを言うのもナンセンスなのかもしれないが。

 庭先に出ると、思いのほか強い光に目がくらんだ。ずっと家にいたせいだろう。肌を焼き付けるほどの強力な紫外線に、満足に目を開けることもできない。俺は自然と手をかざした。

 その指の隙間から見えるおぼろな風景に、小さな百合の花が揺れていた。

「きれいだね」

 懐かしい声が、聞こえた。

「うん、それにいい香り」

 子供のころからずっと俺のとなりにいてくれた声。

「よかった。わたしのかわりにちゃんとお世話してくれてたんだね」

 嬉しいときも、悲しいときも、どんなときだって俺を包み込んでくれた声。

「ごめんね、遅くなっちゃって。ちょっといろんな人に挨拶してたものだから」
「か……」

 どうしてだろう。なぜか妙に気恥ずかしい。自分でも顔が赤くなっているのがわかる。こんな姿、他のやつらに見られたら俺は二秒で自殺する自信がある。

 とはいえ、ぶっちゃけて告白させて頂くと俺は怒っているのだ。まず大体、帰ってくるのが遅すぎる。いったいいつまで俺をほったらかしにするつもりなんだ。それに帰ってくるなら、せめて前もって連絡ぐらいしてくれてもいいだろう。こっちにも心の準備とかあったりするのだ。

 それでも、そんな文句が一瞬で消えてしまうぐらいには、やっぱり嬉しくて。

 こればっかりはしょうがない。そう自分を納得させるしかない。だって、この世でたった一人の、俺と血の繋がった人なんだから。

「すこし背が伸びた? ちょっと見ない間になんだか逞しくなったんじゃない? うんうん、夕貴ちゃんが立派に育ってくれてわたしは嬉しいよ。できれば」

 あの人にも見せてあげたかったなぁ、と。

 その笑顔が、なんだか泣いているようにも見えて。

「……母さん」

 いままで俺は、この顔を一度だけ見たことがある。ガキの頃、何気なく問いかけた一言が原因だった。あのとき、子供ながらに俺は思ったものだ。もう二度と、母さんにこんな顔はさせたくないって。

 だから抱きしめた。それは親愛の情によるものではない。母さんを慰めようと考えたわけでもない。ただ俺はこれ以上、泣きそうに笑う母さんの顔を見てられなかった。そんな弱い、逃げるような抱擁だった。花の芳香に混じって、嗅ぎ慣れた柔軟剤の香りがした。

「……おかえり、母さん」
「うん。ただいま、夕貴ちゃん」

 そんな俺の心情を見透かしてか、母さんは子供をあやすように優しく頭を撫でてくれた。汗でかすかにべたつく肌の感触も、いまは心地よかった。

「……あれが夕貴の母親」
「み、美影ちゃんっ。わたしたちはいったい、どうすればいいのでしょうかっ。え、えーと、まずは挨拶して、それからそれから……」
「あやめ。ちょっとうるさい。静かにして」

 どこからか、怪しげな会話が聞こえてきた。

「で、でも、夕貴様のお母様ですよっ? それはつまりわたしにとってのお母様ということでもありますし、粗相のないように今のうちからですねっ」
「大丈夫。いまは隙だらけ。いつでもやれる」
「そうですよねっ、いつでもやれますよねっ」
「あやめは陽動。実行はわたしがやる」
「……あの、ちなみに美影ちゃん、ひとつお尋ねしたいのですけれど、いったい美影ちゃんは何をするつもりなのでしょうか?」

 開けた窓の向こう、家の中でこそこそとした密談が交わされていた。あいつら、気付かれていないとでも思っているのだろうか。

「……おい、何してんだおまえら」
「ひゃうっ!」

 見方によっては可愛らしくも聞こえる奇声とともに、バタバタと崩れ落ちるようにしてカーテンの影から二人の少女が現れた。仰向けに倒れた美影のうえに、菖蒲が目を回しながらうつぶせに覆いかぶさっている。服のうえからでも分かる豊満な胸のふくらみが、控えめなそれとぶつかって、男が見れば扇情的な、それでいて女が見れば目を覆いたくなるような悲惨な光景が生まれていた。

「あれれ、だれかと思えば高臥菖蒲ちゃんにそっくりの美人さんに、千鳥ちゃんの子供だ」

 母さんは相変わらずの鷹揚な笑みで二人を受け入れた。子供っぽくて、それなのに包容力があって。こんな風に笑うから母さんは年齢よりも幼く見られがちなんだよなぁ。

「あ、あの、は、はは、初めましてっ。わたしは不肖、高臥菖蒲と申す者でして、非常に僭越ながら夕貴様とは浅からぬ仲と申しますかっ、ご挨拶が遅れて大変申し訳ありませんと言いますかっ」

 なんだか菖蒲がびっくりするぐらい緊張していた。というかテンパっていた。

「あー、やっぱり高臥の。それも本物の菖蒲ちゃんなんだ。うちの夕貴がね、昔からあなたのこと大好きなんだよ」
「あ、ありがたき幸せですっ、お義母様!」
「……とりあえず落ち着け。それで一回、水でも飲んで来い」

 あと母さん。なんかそういうこと言うの恥ずかしいからマジでやめてくれ。

「むー」

 菖蒲のかげに隠れながら、美影は警戒心に満ち溢れた目で母さんを見ていた。ポニーテールの房がしっぽのように揺れている。

「あはは。なんだか猫みたいで可愛いー。ほらほら、こっちおいでー」
「……おまえ、嫌い」
「あー、そんなこと言っちゃうんだー。そんな悪い子は、こうだっ!」

 イタズラっ子のような笑みを浮かべた母さんは、美影に飛びかかると、その小さな身体をぎゅっと抱きしめた。突然の出来事に、美影が総毛立つのが目に見えてわかった。

「だから、やめろっ! はなせっ!」
「じゃあわたしのこと好き? もう嫌いとか言ったりしない?」
「好き。大好き」
「わーい、やっとわたしの思いが通じたー」
「…………の反対」
「はい、ほっぺたすりすりの刑!」
「むー!」

 なんだかよく分からないやりとりが繰り広げられていた。美影も災難だなぁと思う。ナベリウスに引き続き、母さんにまで可愛がられるなんて。まあ愛されている証拠だと考えることにしよう。

「母さん。そのへんにしといてやれって。美影もそろそろ死にそうだし」
「ふーん。そっか。美影ちゃんって言うんだ」

 母さんの動きが止まる。そのまなざしは、ぐったりとした美影の胸元に注がれている。一つの石が、二人の想いが、そこにはある。

「……いい名前だね。うん、やっぱり嘘じゃなかったんだね。よかった」

 独り言のように呟く母さんの声には、俺や美影には分からない、万感の想いが込められているように思えた。

「ねえ美影ちゃん。こういうことされるの、ほんとに嫌かな?」

 さきほどまでとは違う、穏やかなトーンで語りかける。

「……嫌」

 美影はぷいっと顔を逸らした。その態度を見て、そういうところもそっくりだなぁ、と母さんは言った。

「そっか。じゃあしょうがないね。でも、わたしも嫌だからね!」
「……?」
「だーかーらー! わたしは美影ちゃんが嫌っていうのが嫌なのー!」

 子供のように駄々を捏ねる母さん。もうなんかみんな放っておいて部屋で本の続きでも読もうかとか思ってしまった俺はきっと悪くない。ここ暑いし。

 じたばたと暴れる美影に、喜々として抱きつく母さん。じつは美影にとってこの家は非常に住みにくい場所なのではないだろうか。

「いままで寂しかったね。でもね、これだけは覚えておいて。あなたのお父さんとお母さんは、きっとあなたのことを愛しているよ。それだけは間違いない。ねえ、”みかげ”ちゃん」
「…………」

 美影の抵抗が弱まった。母さんのされるがままになっている。時々、チラっと母さんの顔を見たかと思うと、目が合った途端にそそくさと視線をそらす。その繰り返しだった。

 しばらくして満足した母さんは、あ、そうだ、と何かを思い出したかのように手を叩いた。

「そういえば自己紹介がまだだったね。わたしは――」

 母さんが笑顔でそう言ったときだった。

「――小百合」

 だれかがその名を呼んだ。氷のごとく無感情で、雪のように弱々しい、寒さに震える少女を思わせる声で。

 腰まで伸びた白銀の髪が、白い光のなかにたゆたっている。未開の雪原を連想させる銀色の瞳は大きく見開かれて、どこか悲しげに揺れていた。美しいという言葉ではまるで足りない、人を超越した絶世の美貌。それでいて女性特有の丸みを帯びた体つきは、もはや俗物的といっていいまでに扇情的なラインを描いている。まさに悪魔のごとく男を惑わせる、そんな女。

 いや、その比喩は正しくない。だって真実、彼女は悪魔なのだから。

「久しぶりだね。元気にしてた、ナベリウスちゃん?」

 たとえ、その母さんの何気ない一言に、まるで人間のように顔を歪めてしまったとしても。




[29805] 4-3 生きて帰る、一緒に暮らそう
Name: テツヲ◆c49d9b75 ID:30a5855b
Date: 2014/11/06 20:52
 萩原小百合が帰ってきたことによって、夕貴を取り巻く環境は一変した。いや、ある意味ではいままでが異常であり、本来の家主が帰還したことで全てが元に戻っただけなのかもしれない。

 温かな空気に包まれた萩原邸が夕焼けに照らされる頃には、テーブルのうえにたくさんの料理が並んだ。ささやかながらも開かれた晩餐において、腕をふるったのは主賓である小百合だった。久方ぶりの母の手料理をもっとも楽しみにしていたのは言うまでもなく夕貴である。何かと理由をつけて、二階の自分の部屋から何度も何度もキッチンに降りてきては小百合の様子をうかがう落ち着きのなさを見て、驚いたのは菖蒲であり、呆れたのは美影だった。

「あんなに嬉しそうな夕貴様、初めて見たかもしれません」
「なんかムカつく。蹴ってくる」
「だ、だめですよ美影ちゃん。確かに夕貴様の様子は、その、正直ちょっと異常ですけれど、それも仕方のないことかもしれません。だって、久しぶりにお母様と……」

 お会いできたのですから、と菖蒲が言いかけた矢先、夕貴がまた喉が渇いただのと理由をつけてキッチンにやってくるのだ。

「あ、母さん。なんか手伝うことある?」
「とくにないから大丈夫よ。夕貴ちゃんはのんびりと昼寝でもしてて」

 ひらひらと小百合に手を振られて、何事もなかったかのように引き返していく夕貴だったが、その表情が微妙に釈然としていないことを二人は見抜いていた。まずなによりも夕貴ちゃんなどと彼の言葉を借りるならあまり男らしくない呼び方をされて、まったくの自然体であるという時点で、夕貴にとって小百合は特別な存在にほかならないことが分かる。

 そんなこんなもあって、萩原邸の住人たちはなんとも言えない衝撃を受けていた。そうこうしているうちに誰から聞いたのか、どこから聞きつけたのかは定かではないが、玖凪託哉、藤崎響子、内村竜太の三名が意気揚々と門扉を叩いた。小百合の無事の帰宅を祝う会が、ささやかとは程遠い盛大な催しになることは想像に難くなかった。



 午後九時過ぎ。すでに晩餐は佳境に入り、あれだけ忙しなく卓上を動き回っていた箸たちも一時の休暇に入っていた。満足した腹を労わるには椅子というスペースは手狭だったのだろう、各々は立ち上がり、ある者は庭に出て、ある者はソファに突っ伏していた。その光景はもはや立食パーティに近い。

「あたし、萩原のお母さん初めて見たけど、ほんとにそっくりだね」

 そう言って、呆れているのか感心しているのか分からない反応をするのは藤崎響子である。癖のないショートカットの黒髪と、意志の強さを反映した勝気な目。すらりと伸びた肢体にはほどよく筋肉がつき、スレンダーな体型でありながら、女性特有のしなやかな曲線も描いている。化粧や衣服で派手に着飾るよりは、スポーツで汗を流している姿のほうが似合う、健康的な美人だった。

「そうか? そんなに似てるか? 自分ではよく分からないんだけどな」

 無関心を装いつつ、夕貴は頬を緩めながら冷たい飲み物で喉を潤した。

「まぁ、男の子は母親に似るっていうし、あんたが小百合さんに似るのも自然の流れだったのかもね」
「そういう藤崎はお父さん似なのか?」
「うーん、どうだろ。あたしはどっちにもちょっとずつ似てるって感じかなぁ。弟はお母さん似なんだけどさ」

 テーブルに片肘をついた体勢のまましばらく夕貴を見つめていた響子は、彼の所作の節々から普段とは違う喜色を敏感に感じ取って、思わず破顔した。

「なんだよ、俺の顔になんかついてるか?」
「いやーべつにそんなことはないけどさ。ただよかったなって思って。久しぶりのお袋の味、ちゃんと味わって食べなきゃだめだからね」
「……そうか。そういえば母さんの料理を食べるのも」

 ずいぶんと久しぶりだということを、夕貴はいまさらになって思い出したようだった。日が暮れるまでは年甲斐もなく楽しみにしていたのに、いざ食事となったとき、彼は何も感じなかった。美味しいとも不味いとも思わず、ただそれを当たり前のものとして享受したのだ。

「お母さんがいない間、ずっと料理を作ってくれていたのはナベリウスさんだっけ?」
「……ああ」

 夕貴は知らない。人間が営む家事とは無縁だったナベリウスに料理という名のきっかけを与えたのは、かつての小百合だということを。

 感動はなくて当然だし、違和感を覚えることもなかっただろう。なぜならナベリウスが作る料理は、すなわち小百合のそれと同義だ。味付けも、盛りつけも、むろん愛情も。大切なものは失って初めて気付くという。ならば、夕貴があれほど長く小百合の不在に耐えられたのは、その代わりとなる誰かがいたということにほかならない。

 果たして、夕貴はそのことに気付いているだろうか。




 響子と夕貴が談笑を続けるなか、笑い声に包まれるリビングの片隅で、目立たないようにひっそりと高臥菖蒲は動いていた。空になった皿を集めて流しに持っていき、テーブルの汚れを拭いている。注意して観察しなければ、菖蒲がそうした動きをしていることに気付く者はいなかっただろう。なぜなら彼女は汚れ仕事を引き受けているつもりはなく、その自覚も一切ないからだ。ただ宴が終わったあと、みんなの負担を少しでも軽くするために、いまのうちから後始末を進めているだけ。他の者に声をかけないのは無闇に興を削がないためだ。

 それに菖蒲は常に微笑みを忘れないでいた。その綻んだかんばせは、彼女が心から今という時を楽しんでいることの証左である。小百合が帰ってきたことによって、夕貴が笑っていることが何よりも嬉しいのだろう。この日ばかりは決して目立つことなく、菖蒲は裏方に徹して彼のために尽くしていた。

 その淑やかで健気な姿を、一対の眼だけが見つめていた。

 黒縁の伊達メガネの、安っぽいレンズに菖蒲の姿が映っていた。内村竜太は呼吸を忘れるほどに彼女を視線で追ったあと、ふと我に返って、清潔感のある短髪を手でガシガシと掻きむしった。

 彼の胸中にどんな感情が去来しているのかは本人にしか分からない。それでも竜太の視線に、菖蒲は最後まで気付くことはなかった。そして逆に、菖蒲が見ているのはたった一人の少年だけだという事実は、きっと無意識に目で追ってしまっている彼女以外の者には周知のことだった。

 要するに、竜太は手持ち無沙汰だったのだろう。夕貴と響子はちょうど話が盛り上がっているし、託哉はさきほどリビングから出て行った。小百合とナベリウスと美影の姿はずいぶん前からない。いまこの場で暇を持て余しているのは竜太だけで、他の誰よりも負担を引き受けているのが菖蒲であった。

 つまりそれは、需要と供給のバランスが成り立っただけの、自然の成り行きだった。

「僕も、手伝うよ」

 小さな声で彼は言った。菖蒲の意思を尊重するために。

「あ、うっちー様」

 驚いたような顔で菖蒲は振り返る。色素の薄い鳶色の髪が揺れて、甘い女の匂いが舞った。距離が近い。世の女性が例外なく不平等を嘆きそうな、あまりにも恵まれた愛らしい顔立ち。少し前屈みになった菖蒲の姿勢。普段、慎みぶかい彼女が慎重に隠している豊かな胸元が少しだけ垣間見えて、竜太は慌てて顔を背けた。

「ひ、一人じゃ大変だろ? だから僕も手伝おうかと思って」
「ありがとうございます。でも、お気持ちだけ頂いておきます。わたしにお構いなく、どうぞお寛ぎ下さい」

 淑女としては完璧な対応。家人として、もてなす側としても文句のつけようがない言葉。しかし、それは逆に言えば、立場を弁えて一線を引かれているということだ。

 菖蒲に悪意はなかった。純粋な好意のつもりだった。だが、優しさが人を傷つけることもあると、温室で育てられたお嬢様は知らなかった。そんな菖蒲の心の機微を理解できてしまうからこそ竜太は二の句を継ぐことができない。無理に手伝ってしまうこともできたのに実行に移せなかったのは、おそらくこれ以上、菖蒲の笑顔を直視出来なかったからだろう。

「ちょっとうっちー! 聞いてよ萩原ってばさっきからお母さんのこと……」
「バカ! んなこと言ってねえからとにかく黙れ! ヘンな誤解を招くだろうが!」

 にしししと意地悪く笑って呼びかける響子を、夕貴が必要以上の剣幕で制止する。

「ふふふ」

 口元に手を当てて菖蒲は笑っていた。華奢な肩が小さく揺れている。

「……やれやれ、どうやら萩原は、噂通りのマザコンのようだね」

 場の空気に合わせて苦笑しながら口にした竜太の台詞は、状況だけを鑑みれば自然なものだっただろう。それでも、恐らくここに勘の鋭い者がいれば、たとえば藤崎響子がもう少しちゃんと竜太に傾聴していれば、彼の声音に僅かながらの険があったことに気付いたはずだ。

「そうですね。そうかもしれませんね」

 竜太のとなりで同意する菖蒲の口調には、しかし彼の溜飲を下げるだけの真実味もない。遠くで夕貴が「菖蒲までなに言ってんだ! おまえだけは俺の味方をしてくれると思ってたのに!」と子供みたいに文句を言っている。それすらも菖蒲にはとても愉快なことのようで、いつしか目尻にはうっすらと涙が滲んでいるほどだった。

 夕貴にとって、菖蒲を笑顔にすることは簡単を超えて当たり前だった。ナベリウスなら同じ女性であるのだから距離感が近く、それゆえに話も合う。響子とて同様だ。美影は友人であり、託哉も気の利いたジョークで笑いの一つも取ってみせる。

 であれば、果たして竜太にはいったい、何ができるのだろうか。少なくともこれまで彼が菖蒲にしてあげられたことはほとんどない。気を遣ってみても、それ以上に細やかで上品な配慮で返されてしまうだけ。

 夕貴と響子がなにやら楽しそうに揉めている間に、竜太は努めて明るく割って入った。そんな推移を経ても菖蒲は自分の立ち位置を過たず、一歩引いた視点から夕貴の様子を見守り、幸せそうに目を細めて、汚れた皿に手をつけるのだ。

 結果として竜太は、だれも見ていない菖蒲の気遣いと思いやりに、密かに気付いてあげられることぐらいしかできなかった。



 一階でそんなあれやこれやが繰り広げられていた頃、勝手知ったる萩原の家と歩き回っていた玖凪託哉は、二階に設けられたバルコニーで目当ての人物を見つけた。

「よお、こんなところにいたのかよ」

 女好きするような派手目の顔立ちをしているが、明るめに脱色した髪やピアスといった装飾品は、女性に好意よりも警戒心を与えそうだった。

「……なに?」

 事実、壱識美影の声には強い苛立ちがあった。どんな好色な色事師も、その冷ややかな一瞥を受ければ肝を冷やして尻尾を巻くに違いない。

 さりとて今夜の美影の様子は、そうした次元の話とはまた違った。目に正の感情がない。空気が張り詰めている。夕貴と出会うよりも以前の、孤独を知らずに孤独に生きていた頃の彼女を彷彿とさせた。

「なるほど。その様子だとやっぱりおまえか」

 一目見て事情を看破した託哉は、あらかじめ設えられていた木製のチェアーにどっかりと腰を下ろした。

「話は聞いてんだろ。たぶん近々、招集されるぜ。二年前の、あのシリアルキラーのときと同じだ」

 それは少しだけ古い話。まだ美影が御影石を持っておらず、託哉が夕貴と出会っていなかった頃の、語られることのないおとぎ話のような過去。

「いや、でもまあ規模だけで言えば、前とは比べもんにならないか。せいぜい気をつけることだな。あのとき、美影ちゃんは大怪我を負ったんだから。今回はそれで済むとは限らないぜ」
「うるさい。わたしに話しかけるな」
「おー怖い怖い。せっかく親切心で忠告してやってるのに」

 美影は無意識のうちに託哉から目を逸らした。単純に見たくなかったのだろう。美影にとって、夕貴が幸せに満ちた『日常』を思わせる存在なら、託哉は暴力に満ちた『非日常』を強く意識させる存在だから。

 それに美影にしてみれば、お互いに特殊な環境下にあるとはいえ、一切信用ができないこの玖凪託哉という男の声を素直に聞き入れることのほうが難しい。昔に比べれば流れる血が少なくなった時世ではあるが、そもそも彼と彼女は同じ釜の飯を食って和やかに談笑できるほど近しい距離にはないのだ。

「……玖凪の。おまえの目的はなに?」
「下手に勘繰るなよ。こうしておまえと話してることにも深い意味はねえ。まあ強いていうなら、美学だな」
「は?」

 何を言っているんだこいつは、と目を眇める美影をよそに、託哉はかぶりを振った。

「分かんねえならいいんだよ。それでもスッキリしたいなら、女を大切にする、ただの優しいイケメンっつーことで納得しとけ」
「え、ドン引き」
「なに引いてんだバカが。食べんぞおまえ」
「本気でキモイからとっとと死ね」

 そう、美影が結ぶのと、まったくの同時。ウッドチェアーが無人になり、微かな音を立てた。

 僅かな予感もなく動いた託哉は、美影の背後を取った。反射的に跳ね上がった蹴りを躱し、次いで振るわれた腕を受け止めると、そのまま力任せに引き寄せて丸テーブルのうえに押し倒した。痛みに顔をしかめる美影の首に手を当てて、託哉は酷薄とした表情を浮かべる。

「滑稽だな。可愛い可愛い美影ちゃん」

 鼻と鼻が触れあう、吐息と吐息が交じり合う距離で、彼は囁いた。

「オレがその気なら、おまえはもうここで死んでる。それがどういう意味か、わかるか?」

 ぞわり、と空気に異物が走る錯覚。顔を背けようとした美影は、しかし託哉の手によってもういちど正面を余儀なくされる。それは逃げようとしたわけではなく、ただ単に男に触れられて気持ちが悪かったからだろう。事実、美影は怯えることなく強い敵意のこもった瞳で、託哉を睨めつけた。

「死ぬのはいったいどっちだろうな。えぇ?」

 愉しそうに嗤う託哉。当然、こんな扱いを受けて大人しくしていられるほど美影は大人ではない。

 あと数秒もすれば殺し合いの一つでも始まっていたのかもしれないが、しかし、終幕は意外なかたちで訪れた。

「なにしてんのかな、あんたは」

 満面に咲かせた笑みのなかに御しきれない憤怒を湛えて、藤崎響子は第三者が見れば明らかに犯罪の第一歩としか思えない現場を阻止した。

「さっきから見ないと思ったらこんなところでなに盛ってんのよ。ふざけんのもいい加減にしなさいよ、バカ凪」

 純粋な怒りとはまた違った。なぜか響子の声音にはいくらかの戸惑いのようなものがある。

 託哉は白けた顔でため息をついたあと、組み敷いていた美影を解放した。

「やーめた。ガキはオレの趣味じゃねえや」
「ちょ、ちょっと待ちなさいよっ!」

 身勝手な言い草で、面倒から逃げるように踵を返す託哉を、響子は慌てながら引き止める。

「あんた自分がしたことわかってんの!? 言っとくけどあたしが警官ならあんたは今頃、確実に……」
「じゃあな美影ちゃん。オレが言ったこと忘れんなよ」

 響子のことなんてどこ吹く風といった様子でそう締めくくると、託哉はバルコニーを辞した。

 そのあまりの自然体な一連の言動は、これまでの経緯を想像でしか理解していない響子を困惑させた。それでも彼女は、思いつめたような顔で身なりを整える美影のそばにいることと、年下の少女にそんな顔をさせた託哉を追うのとでは後者を優先するべきだと判断したらしい。一言、二言ほど気遣いの声をかけてから、響子は弾かれたようにバルコニーから駆け出した。静かになったあと、美影は、託哉に掴まれた首のあたりをそっと抑えて唇を噛み締めていた。

「待てっつってんでしょ、玖凪!」

 ポケットに両手を突っ込んで肩で風を切るように歩く託哉の腕を、響子は半ば力任せに掴んだ。

「あんたにとってはちょっとした悪ふざけだったかもしれないけど、今度ばかりはやりすぎよ! 女の子はね、あんたが考えてるよりも弱い生き物なの! 分かる!? これで美影ちゃんが男性恐怖症にでもなったら責任とれんの!?」
「抱いてもない女の責任なんて取れるわけねえだろ。じゃあオレ、ちょっとトイレいくわ」
「ふざけんなっ!」

 萩原邸に響き渡るほどの大音量。響子は顔を赤くして、荒い息をつきながら、自分よりも十センチ以上は高い男の顔を見上げた。一般的な少女なら気後れしてしまうような状況や力関係でも、自分が決して間違っていないと思ったことなら臆せずに突き進むのが藤崎響子だ。そのことは託哉もよく知っている。が、だからこそ、彼には腑に落ちない点があったらしい。

「つーか、委員長、なんでそんなに怒ってんの?」
「なんでって、そりゃ、だってあんたが……」
「そもそも委員長にそんなこと言われる筋合いなんてあったっけ? オレがどこでどの女とどんなことをしてようが、おまえには関係ないじゃん」
「か、関係あるわよっ! あんたが悪さすんのをみすみす見逃せるわけないじゃない!」

 響子の歯切れは明らかに悪かった。無理もない。託哉の誠実さの有無はどうであれ、それに関する争点に真正面から首を突っ込めるほど響子は、彼と具体的な立場にないのだから。

 かつての高校の同級生。クラスの友人。大学の同胞。もっとも近しい関係の言葉をあえて求めるなら、腐れ縁。基本的に響子と託哉をつなぐのは、そんなありきたりでどこにでもある相関だ。

 その気になればいつだって他人になってしまえるような薄い繋がり。そんな間柄の響子が、託哉の女性関係を宥めるだけならまだしも、こうして口角泡を飛ばす勢いでまくし立てるのはやや異常と言える。

 実際、託哉も煩わしく思ったのだろう。響子の身体を軽く押す。

「悪さか。たとえば――」
「きゃっ……!」

 突然のことにバランスを崩した響子は、壁に背中からもたれかかった。黒い髪が乱雑になびいて、シャンプーの香りが広がる。

「――こんな感じか、響子」

 ドン、という乱暴な衝撃とともに、託哉の手が、響子の顔の真横に叩きつけられた。さきほどの喧騒が嘘のように静まり返った空間で、その耳朶を打つ静けさと、眼前に迫った玖凪託哉という”男”に怯えるように響子は身を竦ませた。

「怖いか? 震えてんぞ」
「べつに、怖くなんて……」
「男って生き物はな、おまえが考えてるよりも悪いんだよ。もっと教えてやろうか?」
「……なによ、話にならない。もうあたし、いくから」

 そう簡単に逃がしはしないと託哉はもう一歩詰め寄って無言のプレッシャーをかける。顔がさらに近くなったことで緊張したのか、ほとんど抱き合うような距離になったことを意識したのか、響子の顔はうっすらと赤く染まっていた。託哉から目をそらし、唇をぎゅっと噛み締めている。

 そのまま時間が過ぎる。刻一刻と響子の身体は体温を上げていく。おそらく彼女の速くなった心臓の鼓動は託哉にも伝わっていただろう。明らかに男慣れしていない、初心な少女の姿がそこにはあった。

「なーんてな」

 委員長にも可愛いとこあんじゃん、と言って、託哉はあっさりと身を引いた。響子はぽかんとしたあと、ようやく自分がバカにされていたのだと理解が追いついたらしい。それでも何事もなかったかのように去っていく託哉の背が、なぜか響子には遠いものにでも思えたのだろうか。

「く、玖凪」

 呼び止める声は、どこか遠慮しがちなものだった。ぴたりと足を止めた託哉は肩ごしに振り返って、冷たい横顔だけで響子を遇する。

「あんたさ、もっと、その……学校とか、ちゃんと来なさいよ」

 どうしてそんなことを言ってしまったのかは響子にしか分からない。

「出席とか取らないと単位もらえないし。講義中の小レポートもあるし。期末試験の範囲の確認とかもしなきゃだめだし」

 託哉は何も言わない。沈黙という空白の間を嫌って響子は矢継ぎ早に喉を震わせる。

「もしよかったら、ノートとかプリントとかコピーさせてあげるし。一人で講義に出るのが嫌なら、連絡くれたらあたしも一緒に受けてあげるし」
「そうだな。そうできたら、面白いかもな」
「でしょ。だったら……」
「幸せなやつだな、おまえって」

 それだけ言い残して、託哉は立ち去った。階段を下りていく音。あとには響子だけが残された。

「……なによ、あいつ」

 とても悲しそうな顔で、彼女は呟いた。

「そんな冷たいこと……言わなくていいじゃん」



 鮮烈な真紅に染め抜かれた地平線がおぼろとなって消えた頃、あまねく世界は深い闇によって夜と閉じられていた。

 星が一つ、また一つと輝くたびに街からは明かりが消えて、夢が一つ、また一つと増えていった。温かな喧騒の名残に包まれて、誰もが幸せそうに眠っている。それは萩原邸も例外ではなく、あれだけ盛り上がった晩餐が嘘のように、優しい静寂が満ちていた。

 ナベリウスは一人、何をするわけでもなく外にいた。屋内からも庭からも死角になる物陰で、無機質な壁に背を預け、親とはぐれた迷子のように佇んでいる。庭には人の気配。きちんと話をしなければいけない親友がそこにいる。それでもナベリウスの足は動かず、たったひと握りの勇気が持てない自分への言い訳として彼女は、ただ夜空を見上げていた。

 今日は、きれいな満月だ。

 こうして月を眺めてから、いったいどれだけ無為に時間が過ぎていっただろう。それを苦痛に感じないことが嫌だった。もはや自分は、こんな逃げるような時の刻み方に慣れてしまっているのだと思い知らされるから。

「……はぁ」

 小さなためいき。俯くと、さらさらと白い光がこぼれる。月明かりを受けて輝く銀色の髪が、彼女の物憂げな顔を覆い隠した。

 こんなはずじゃなかったのに、とナベリウスは思う。ほんとうならもっと言いたいことがあったのに。言わなければならないことがあったのに。そのためにわたしは、彼と彼女のまえに姿を見せたのに。

 いつからだろう。これほど弱くなってしまったのは。いや、考えるまでもなく答えは分かりきっている。

 あの日、あの時、あの場所で、まだ母親ではなかったひとりの少女と出会ったときから。

 ナベリウスは氷を溶かす温もりと引き換えに、人並みの弱さを知ってしまったのだ。

 だってそうだろう。緊張に震える指先も、止めどない動悸も、在りし日の思い出を映し出す白銀の瞳も、いまの彼女を形成する全てが、ただ、弱く、儚い。

 それはまるで、一人では立ち続けることのできない、ヒトという生き物のよう。

「きれいな月だね」

 迷い続ける彼女の背中を、そっと押す声があった。

「そんなところにいないでこっちにきたら? 久しぶりにお喋りしようよ、ナベリウスちゃん」

 昔の頼りなかった彼女とは違う、どことなく萩原駿貴を彷彿とさせる強く穏やかな口調。

「……そうね。お互いに、積もる話もあるでしょうし」

 長い髪をかきあげて背中に流す。覚悟を決めるとあとは早いものだった。庭先のテーブルに腰掛けて月見をしている萩原小百合のもとに、ナベリウスは一歩、また一歩と近づいた。

 小百合がゆっくりと振り向く。夕貴によく似た、とてもきれいな顔立ち。年をとっても、その悪という概念の一切を知らないような透明色の笑顔はなにも変わっていない。幼かった無垢な瞳には、しかし母性という名の慈愛が滲んでいて、あのときの泣きながら笑っていた少女が立派な母親になったことを思い知らされた。

「……髪、切ったのね」
「え? ああ、うん」

 小百合は少し気恥ずかしそうに、肩口あたりの髪を一房、指でつまんで見せた。

「なんていうか、たまにはわたしもイメチェンしてみよっかなーなんて。それでほら、一回短くしてみるとこっちのほうが楽っていうか、意外と性にあってたっていうか」
「そう。確かに小百合には、そっちのほうが似合ってるかもね」

 ぎこちなく笑って、ナベリウスは首肯した。小百合が長い髪を自慢にしていたことも、萩原駿貴にそれを褒められたことも、ただ首を縦に動かすことによって無理やり忘れようとした。

「だよねだよね! 自分でも短いほうがいいかなって思ってたんだよ。いろいろと邪魔になることも多かったし。それに、ね」

 夕貴ちゃんが生まれてくれたから、と。

 ここにはいない誰かに捧げるように、小百合は柔らかな夜風に言葉を流した。

 ずきん、と鈍い痛みがナベリウスの胸を襲った。どうしてわたしはわざわざ聞いてしまったんだろう。小百合が髪を切ったほんとうの理由なんて、初めから全部分かっていたことだったのに。

 ナベリウスが彼と彼女のまえに現れてしまったことで、止まったままだった時計の針が動き出してしまった。夕貴と二人で生きていくことに精一杯で、いつからか考えることも忘れてしまった過去をいま、小百合はゆっくりとなぞっている。もしこのままナベリウスと出会うことがなかったのなら、きっと小百合は思い出すこともなかったはずだ。そうすることで、最愛の人を喪った悲しみを忘れて、生きてきたはずなのだ。

「いままでありがとうね。わたしのかわりに夕貴ちゃんを支えてくれて」

 その声には、積年の想いが込められているように思えた。

「……べつに、改まって感謝されるようなことでもないわ。ただわたしは、自分がしたいことをしただけだから」
「それでも、だよ。あの子ね、実はとっても寂しがり屋なの。子供の頃なんて、わたしがとなりにいないと不安がって眠ることもできなかったんだから。ほんと、似なくていいとこばっかりわたしに似てて嫌になっちゃう」
「そう? むしろ小百合に似たからあんなに可愛い子に育ったんじゃない? これで駿貴のほうに似てたかと思うと、考えるだけでも寒気がするんだけど」
「いやぁなんか照れちゃうなぁ。まるでわたしまで可愛いって言われてるような気がしちゃって。自分ではそろそろ妖艶な色香の漂う美人さんのつもりなんだけどねー」
「はいはい、身体をくねくねしない」
「じゃあこれならどうだっ」
「流し目が絶望的に似合ってないわよ」
「ひどい! わたしだってちょっとぐらいナベリウスちゃんに近づきたいのに!」

 ほっぺたを膨らませて、子供みたいに駄々を捏ねる。これで大学生の息子がいるなんて、おそらく世界中の誰もが信じないだろう。それだけ小百合は若い。年齢的なものもあるが、身体的なこともそうだ。《悪魔》と深く交わったことで、萩原小百合という人間の生態にも歪みがもたらされている。

「……うん、でも、そうだね。もし夕貴ちゃんが、わたしじゃなくて、あの人に似ていたら、それはそれでよかったかも」
「勘弁してよ。あんなやつが二人もいたらたまらないっての。いったい、わたしがどれだけあいつに振り回されてきたか小百合なら知ってるでしょ?」
「それでも……」

 それでも、と小百合は繰り返した。

「もしあの人に似ていたら、きっと困っている女の子を助けてあげられるような素敵な男の子になっていたと思うから」

 夜空を見上げる小百合の目には、果たして何が映っているのだろうか。

「ほんとうは……月なんて嫌い。とてもいやなことを思い出すから」

 小百合に似合わないその小さく無感情な声は、ナベリウスの耳にだけ届いたあと、まるで吐息のように薄闇へと散っていった。

「大丈夫よ。それなら」

 ナベリウスは頷いた。銀の髪が幾筋もの光芒となって夜の帳を照らした。

「夕貴はね、あなただけじゃなくて、ちゃんと駿貴の強さと優しさも受け継いでる。困っている女の子に、あの子はちゃんと手を差し伸べてきたわ」

 名もなき悪魔に取り憑かれた少女。未来という己の幸福を信じられない少女。父と母の想いを知らず孤独に生きていた少女。その全てを夕貴は傷つきながら、何度も倒れながら、しかし不器用なほどのまっすぐさで救ってきたのだ。

「……そっか。そうだね。ナベリウスちゃんがそう言ってくれるなら、きっとそうなんだろうね」

 誇らしいことのはずなのに、なぜか小百合は寂しそうだった。その表情が意味するところを、小百合の母親としての心情を、この世界でナベリウスだけが分かっていた。大きな力は、それだけ多くの人を救えるかわりに、ほんとうに大切な人を悲しませてしまうかもしれないのだから。あの萩原駿貴がそうだったように。

 一人ならいい、二人でもいい、三人までなら許そう。しかし、もしもそれ以上の誰かを救おうというのなら、そのときはきっと――

「心配しないで。確かに夕貴は、あなたにも駿貴にもよく似てる。でも、似てるだけで、決して同じじゃないんだから」

 だから同じ結果にはならないと、ナベリウスは自分に言い聞かせるように宣言した。小百合はきょとんとした顔で目をぱちくりさせたあと、今夜一番の微笑みを咲かせた。

 それから二人はいろんな話をした。空白の時間を埋めるように、空と星と月に見守られながら、《悪魔》と人は寄り添って言葉を交わし続けた。家のこと、身の回りのこと、これからのこと、もっと細かく言えば夕貴の学校の成績のことまでなんでも話した。

 やがて夜が深くなり、動物たちの息吹さえも聞こえなくなった頃、どちらからともなく立ち上がった。初めの緊張が嘘のように楽しい時間だった。できることならもっと、時間の続くかぎり話していたいとナベリウスは思った。しかし焦ることはないのだ。その機会なら、これからもたっぷりとあると。

 このときはまだ、そう思っていた。

「……あっ、そうだ。ナベリウスちゃん」

 ふいに背後から声をかけられた。どうしたの、と問い返すよりも先に、小百合は語を継いだ。

「あの人は……駿貴くんは、なにか言ってた?」

 途端、目の前がまっくらになった。浮き足立っていた心が昏く沈んでいく。脳裏に蘇る色あせた記憶。遠くに消えていく主の背中。地べたに這いつくばり、必死に手を伸ばす彼女に託された言葉があった。

 それは、遺言だ。

 萩原駿貴が、ソロモン72柱が一柱にして序列第一位の大悪魔バアルが、最期に口にした台詞。本来であればそれを伝えることが、ナベリウスにとって何よりも優先すべき使命だった。でも、ずっと逃げてきたのだ。彼女と向き合うことが怖かったのだ。

 しかし、もう逃げることはできない。

「……ああ、うん」

 ナベリウスは飽くまで背を向けた体勢で、訥々と言った。

「駿貴は――」

 彼が遺した言葉を、妻は静かに受け止めた。口にした瞬間に嘘になってしまう、とても優しくて残酷な言の葉だった。小百合は怒りに震えることも、泣き喚くこともなかった。どう足掻いたとしても過去が変わることはない。それをよく理解しているのだろう。時の流れは残酷だな、とナベリウスは思った。少女は母親になるのと同時に、大人にもなってしまったのだ。

 ありがとう、と小百合は言った。ナベリウスがもっとも聞きたくない一言だった。これは果たして罰なのか、それとも罪なのか。冷え切った頭で思考して、きっとその両方だろうとナベリウスは断じた。

 最後まで背を向けたまま歩き出し、やがてナベリウスの姿が消えた頃、その場にはまだ小百合がいた。チェアーに深く腰掛けた体勢のまま、足を抱えて、まるで子供のように膝のあいだに顔を埋めていた。

「……バカ」

 その罵倒も、もう届かない。遠いところに行ってしまった人には、聞こえない。

「駿貴くんの、バカ」

 庭から少し離れた物陰で、ナベリウスはふたたび建物に背を預けていた。誰にも聞かれたくないであろう、小百合の独り言を聞いていた。汗ばむ真夏の熱気も関係ない。なにもかもが冷え切っていた。頭を、身体を、心を絶対零度に凍らせなければ、きっともう彼女は立っていることさえできなかった。

「一緒にいるっていったもん」

 悲しみに暮れた声が聞こえてくる。

「ずっと一緒にいてくれるって、約束したもん」

 鈍い痛みを訴え続ける心とは別に、ナベリウスの頭は冷静だった。ひたすらに安堵していた。目を合わせなければ、彼女の姿を見なければ、たとえ小百合が泣いていたとしても、それに気付かなくて済むから。

「……ごめんなさい」

 嗚咽に混じって、涙が溢れる。視界はかすみ、膝が震える。小百合は声を押し殺して泣いていた。泣いているのは小百合だけだと、そう、思いたかった。

「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい」

 ほんとうに泣きたいのは小百合で。

「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい」

 ほんとうに泣いていたのは、ナベリウスだった。

 どうして、と自問した内なる声は、おまえのせいだ、という自答によって完結する。それでも涙が止まらない理由だけがどうしても分からなかった。わたしが泣いていいはずがない。だって、わたしよりも小百合と夕貴のほうが辛いに決まっているのだから。きっとこうして涙を流すことで悲哀に浸り、自分も被害者の一人だと無意識のうちに思い込みたいのだろう。泣けばぜんぶ、許されると心のどこかで思っているのだろう。 

 なんて、ひどい女。

「ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい」

 両手で顔を覆って、ひたすらに懺悔を続ける。流れ続ける涙は、皮肉なほどに美しかった。

「夕貴……」

 その名を呼ぶだけで、不思議と胸が安らぐ気がした。いますぐ会いたい。抱きしめてほしい。頭を撫でて、大丈夫だよと囁いてほしい。泣き疲れて眠るまで、ずっとそばに寄り添っていて欲しい。しかし、それでも。

「……寒いよ」

 彼女の涙を拭う者は、だれもいなかった。




[29805] 4-4 情報屋
Name: テツヲ◆c49d9b75 ID:30a5855b
Date: 2014/11/24 23:30
 
 背の高い廃墟が無数に連なった、路地裏というにはあまりにも退廃とした区画の外れにその病院は居を構えている。

 埃と産業ガスが入り交じったような澱んだ空気と、飢えた鼠を思わせる陰湿な気配がそこかしこに漂う。そんな不潔で無秩序な空間の真っ直中に病院が座す光景は、まるで森の奥で見つけたお菓子の家のように違和感を誘う。

 モダニズム建築ではなく伝統的な木造建築。白く清廉とした病棟ではなく、古く劣化した一般家屋。風邪を治療する代わりに、体内に残った銃弾の摘出を。

 正式な認可も資格もない、その非合法の医療機関は、名を田辺医院という。



 俺がここを訪れるのはいつ以来だろうか。ずいぶんと前のことのように感じるが、つい昨日のことのようにも思える。ここ最近、いろんなことがありすぎて時間の感覚がおかしくなっているのかもしれない。

 いわゆる闇医者というだけあって、あらためて訪ねてみれば田辺医院の待合室は一般的なそれと比べて異様なのだと思い知らされる。

 くたびれた民家にしか見えない外観とは違い、内装はリノリウム材質を使うことで医療の場に相応しい清潔さを演出しているが、不規則に明滅する蛍光灯や、枯れ果てた観葉植物といった不気味なインテリアの数々が、本来なら感じられるであろう潔白な印象をひどく無機質なものに変えている。隅に置かれたキァビネットには、いつの時代かも分からない手垢のついた新聞が、時の流れに忘れ去られたかのように沈黙していた。

 ずっと昔、それこそ俺が生まれるよりも以前から、この場所は何も変わっていないのだろう。いつも、いつでも、いつまでも、愚直なまでの誠実さで傷ついた者を癒しては、それと同じだけ人の死を数えていく。

 そして、もう一つ。

 変わっていないと言えば、もっとも変わっていないのはこの人なのかもしれなかった。
 
「きゃ~! 夕貴くんだ~! もうどうしよ今日ちゃんとおめかししてないのに~!」

 呆然とたたずむ俺のまえで、そんなご機嫌なことを言いながら頬に手を当ててくねくねと身をよじっているのは辻風波美さんである。

 正確な年齢は聞くに聞けないが、おそらく二十代前半だろう。派手にならない程度に染めた長髪を団子に結わえて、真新しいナースキャップを被っている。うっすらと施された化粧は、まだ少女の面影が残ったやや幼い顔立ちに、大人の女の色香を絶妙な塩梅で与えていた。背は低いが、それがまた小動物のような愛嬌がある。昨今ではほとんど見なくなったワンピースタイプの看護服も相まって、男にとっては魅力的な女性に映ることは間違いない。

 彼女はこの病院に勤める看護師であり、院長である田辺さんの助手だった。俺も以前、美影とともに世話になったことがある。

「ところで夕貴くんって彼女いたっけ? いるかな? いなかったよねっ? 相変わらずあたし彼氏ハイパー募集中なんだけどっ!」
「すいません。いきなり連絡もなしに来てしまって」
「え~! やっぱりいないの~!? ほんとに~!? 夕貴くんその顔で冗談やめてよ~! あんまり思わせぶりなこと言ってたら、そろそろあたしの中の女の部分が目覚めちゃうぞっ?」
「実はちょっと辻風さんに聞きたいことがあるんです。いま時間は大丈夫ですか?」
「安心して。今日の色は……紫だよ! しかもフロントホックっ! きゃ~! 夕貴くんのえっちバカヘンタイ強姦魔~!」
「んなことだれも聞いてねー! そして人の話も聞いてねー!」

 ぜえぜえと肩で息をする俺をじっと見つめて、辻風さんは陶然とした表情で呟いた。

「……怒った夕貴くんも素敵」
「はい、お疲れ様でした」
「ちょっと待った~! 冗談だってば待ってよ夕貴く~ん! 乙女の可愛いジョークってやつに決まってるじゃんか~!」

 滑り込むような勢いで腕を掴まれる。ナース服の胸元を押し上げるたわわな膨らみの感触に、思わず足を止めてしまう。この人、背丈が小さくて大学生みたいなノリが残ってるわりには、けっこうおっぱいでかいんだよな……と、考えてしまうのは男である以上、仕方ないのだろうか。

 あらためて挨拶を交わしたあと、俺たちは待合室のソファに並んで座っていた。昼時ということもあり間違いなく勤務時間中のはずなのだが、辻風さんは苦い顔をすることなく、冷たいアイスコーヒーまで淹れて歓迎してくれた。

「ほら、飲みなよ少年。お姉さんの奢りだぞ」

 ストッキングに包まれた足を大げさに組んでそんなことを言う彼女が、ずいぶんと微笑ましく見えたものである。いくつか軽い雑談を交わすなかで院長の田辺さんはいま留守なのだと知った。どうりで辻風さんがやりたい放題、いや、自由なわけだ。

「それで、いったい全体どうしたの、夕貴くん。こんなとこまでわざわざやってきて。それとも、もしかしてあたしじゃなくて院長のほうに用があったりするパターンのやつ、これって?」
「いえ、俺は田辺さんじゃなくて、辻風さんに会いたかったんです」
「うっ、そう素直に言われると、さすがのあたしも照れちゃうぜ……ぽっ」

 俺の顔をチラリと見ては、そのたびに頬を紅潮させてそっぽを向く。人選を間違えたかな、と内心で後悔し始めながら、俺は順を追って確認していくことにした。

「辻風さんは……いちおう、看護師なんですよね?」
「そのいちおうってのが凄まじく引っかかるけど、まあそうだね~。新米看護師の波美ちゃんって言えば、ささくれた心に一時の癒しを与える女神としてこの界隈ではちょっとした有名人だったりするのだ」
「勤務歴は、たしか二年ぐらいでしたっけ?」
「そうそう。当時のあたしはまだ色んな意味で若かったもんだよ。ちょうど例のシリアルキラーの騒動があったときだっけかな。いやぁあのときは色々と大変だったね~」
「辻風さんは、けっこういろんなことを知ってるんですね」
「まあね~。ここにいれば裏の情報なんていくらでも入ってくるし、個人的にもそういう商売やってるしね。ふっふっふ、駆け出しの波美といえば、《新米看護師》という謎の美女と並んで、この界隈では有名な《情報屋》だったりするんですぜ旦那」
「じゃあ、そんな辻風さんを見込んで、ちょっと聞きたいことがあるんですが」

 明るい空気のままに冗談げに切り出すと、俺が腹に隠した思惑を察したのか、辻風さんはぴたりと動きを止めた。

「夕貴くん、それって、あたしから情報を買いたいってこと?」
「単刀直入に言えば、そうです。そのために俺はここに来たんですから」
「ふうむ」

 顎に手を添えて、辻風さんは俺という人間を見定めるかのように視線を動かした。

「あたしは《情報屋》だからね。お客さんが知りたいことなら、知っている範囲でなんでも答えるし調べてあげるよ。もちろん、タダってわけにはいかないけどね」

 いつものように朗らかに笑いながら、しかし目には挑戦的な輝きが宿っている。唇をぺろりと舐める仕草が獲物を前にした肉食獣のようだ。忘れていたわけではない。気を抜いていたわけでもない。それでもあらためて思い知らされた気分だった。どんなに明るく見えても、彼女はれっきとした裏社会の住人なのだと。

「いい、夕貴くん。そもそもこの裏社会において情報ってのは、それこそジュエリーショップに並んでる宝石よりも価値のあるもんなんだよ」

 分別のない子供を優しく諭すように彼女は言う。一つの有用な情報は、時として莫大な財力を生み出し、無秩序な暴力を秩序あるものとし、理不尽な権力を退けることもあると。表社会でも些細な情報の漏洩が、水面に投じた一石のように波紋を呼んで、大きな企業や組織を潰してしまうケースだって少なくないように。

「まあ、だからといって”ただ知っている”だけじゃなんのアドバンテージにもならないんだけどね」

 もっともな話である。情報技術が発達した現代においては、ただ知りたいだけであるならば、一日中テレビやネットに齧り付いているだけで世界で起こっている大体のことを理解できてしまう。

 しかし、それでは意味がない。

 多くの場合において情報とは希少価値と比例するものである。公共電波によって脚色された悲劇も、大げさに踊る活字の文体も、人の目に触れた瞬間からそれは情報ではなくただの知識となってしまう。

「だから、それを管理し、情報を司ることを生業とする裏稼業が発生するのもまあ必然っちゃあ必然だよね」

 原因を感知し、流出を待機し、通信に従事し、伝聞を獲得し、出処を確認し、真贋を鑑定し、価値を追求し、概況を掌握し、情報を蒐集する。

 これら九工程のうち一つでも欠ければ稼業としては成り立たない。己の知的好奇心の赴くままに、あるいは第三者に依頼されたがために、十進法だけでは解き明かせない謎を、文字と数字と記号の羅列と二進法によって白日のもとに晒す。

「それがあたしたち《情報屋》だよ。自分が気になることなら、世界中にいる鳩の数だって完璧に調べ尽くす。それがお客さんに依頼されたなら、たとえこの世の真理だって丸裸にしてみせる。ペンは剣よりも強しだなんて言うつもりはないけど、少なくとも情報があればこの世界を生きていけるのだ。そうだろう、夕貴くん!」
「お、おぉ……」

 なんとなくパチパチと拍手を送る。ふっ、ちょっと決まりすぎちゃったかな、と頬をかいて微妙な喝采を受け取る辻風さん。この人がどこまで本気なのか、どちらの姿がほんとうなのか俺には分からない。もしかしたらこうして俺のとなりで見せる笑顔がすでに虚構なのかもしれないと。

「何度でも口を酸っぱくして言うよ! 夕貴くん、あたしってやつぁ今時珍しい超優良物件かもしれりゃ痛ぁっ! し、舌噛んだ~!」

 そう思ったのは、俺の気のせいだということにしておこう。涙目でじたばたと暴れる辻風さんを慰めるには数分を要した。

「んで、夕貴くんが知りたいことって何?」

 ソファのうえにあぐらをかきながら辻風さんが尋ねた。そんな風に座られるとじゃっかん目のやり場に困るのだが、辻風さんはどうにも気付いてないらしい。これが狙ってないと自信を持って言えるから、この人は大人の威厳というものから縁遠いのだろう。

「夕貴くんのことは個人的に気に入ってるから、なるべく力にはなってあげたいけどさ。さすがに取り扱ってるネタにも限度はあるし、先に聞いとこうと思って」
「そうですね。たとえば《法王庁》っていう組織のこととか」
「あ、そんなこと? その程度でいいならタダで教えてあげるよ。どうせみんな知ってることだしね~」
「じゃあ異端審問会について」
「裏世界じゃ有名だよね。人が人であるために人の理を外れた者たちに人だけで対抗しようと作り上げられた一大部門のこと」
「その傘下にある、特務分室とかいう組織のことは?」
「あーなんか《悪魔》を退治しようと頑張ってるやつらのことでしょ? 数週間前に正式な要請を受けて来日したんだってね。どうせ外交で弾かれると思って適当に見てたんだけど、まあ《青天宮》が内部の権力争いでゴタゴタしてる以上、よそに仕事を委託するしかないのかな」
「なんかけっこう普通に教えてくれますね」
「……あのねぇ、夕貴くん」

 やれやれ困ったボーイだぜ、と辻風さんはこれみよがしに肩をすくめた。

「そんな、道端を歩いてる悪い兄ちゃんでも運がよければ知ってるかもしれない程度のことでいちいち商売してたら、あたしは世間話もできないじゃん。だから、たとえばその法王庁特務分室の軍事費を、人件費から軍事政策なんかに関する各種の費用まで事細かに調べてくれだとか、せめてそれぐらいは聞いてくれないと張り合いがないってもんよ」
「まさか、そこまで調べたりもできるんですか?」
「さぁ、どうだろうね~」

 どうにも真意が読み取りづらかった。腹芸が達者なのは裏社会の住人に共通することだが、彼女の場合は情報を司るという職業上、それに輪をかけて洞察が難しい。

「それじゃあ……《悪魔》のことについて、は?」

 自分で口にするのは少しだけ勇気のいる単語だった。辻風さんはすぐには答えず、曇りのない大きな瞳で、俺をじっと見つめる。もしかしたら彼女は俺のこともぜんぶ知っているのかもしれないと、そんな危惧さえ抱き始めた頃、沈黙は破られた。

「知ってるよ。よその国はともかく、この日本という国においてそれは馴染みぶかい言葉だからね」

 かすかな違和感。ナベリウスやリズの話では、《悪魔》の主な活動域は欧州であり、アジアの方面では目立った動きはないと聞いていたのに。

「十九年前に裏社会で起きた未曾有の抗争、通称《大崩落》。それと同時期に活動が確認された《悪魔》が、この国にはいたんだよ」

 いまさらながらにふと思った。十九年前。ちょうど俺が産まれた時期と、一致するって。

「だから国のお偉いさんのなかでも、とくに団塊の世代は《悪魔》という言葉を病的に恐れてる。それは混乱を、暴動を、破壊を、死を、そしてあの《大崩落》を強く思い起こさせるから」

 冷たい目で、忌々しそうに辻風さんは言った。かつての地獄のような抗争は、彼女の人生にも暗い影響を及ぼしたのだろうか。

「その《悪魔》って、名前は……?」
「さあ? なんだかんだ言っても当時はあたしも物心つくかつかないかの頃だし、詳しくは知らないわ。もともとそっちの方面にはあんまり興味ないしね。もし気になるなら調べておこっか?」
「……いや、大丈夫です」

 気のない返事をしながら、俺は強い確信を抱いていた。間違いなく父さんだ。十九年前に父さんは何らかの目的のために日本に来て、そして母さんと出会った。

 父さん。いったいどうして死んでしまったんだ。どうして俺と母さんのまえからいなくなってしまったんだ。あのダンタリオンやフォルネウスでさえ惜しみのない敬意を払うほどに強かった《バアル》が、どうして。

 十九年前に、いったい何があったんだ……?

「むしろあたしは《大崩落》のほうが気になるぜってなもんよ。あれだけ大きな抗争だったにも関わらず、その原因がまったく分からないなんてきな臭いどころの話じゃない。規模と知名度だけでいえば、あの《ミッシング・トゥルース》をも上回るかもしれないってのに」
「なんですか、それ?」
「いわゆる世界七大未解決事件のことだよ。まあ学校の七不思議みたいなもんだね。《法王庁》と国連が共同して、天文学な懸賞金を賭けていることから《ミレニアムセブン》なんて揶揄されてたりもするけど。あたしたち《情報屋》にとっての目標というか、最終到達地点みたいなもんだと考えてくれりゃあいいよ」
「そんなことまで教えてくれるんですね」
「うーむ、こんなの裏じゃあ世間話を超えて常識なんだけどなぁ」

 勝手に有り難がっている俺を、辻風さんはどうにも釈然としない顔で見つめていた。

 なんだかんだと言いながらも辻風さんは俺に色々と教えてくれた。彼女の言葉を借りるなら、それは常識の範囲内らしく、むしろ無知ゆえに呆れられたりもした。それでも裏社会のことを何も知らない俺にとっては有意義な時間だった。出会ってから一時間が経った頃には、俺も夜の街のうまい歩き方ぐらいは弁えるようになっていたと思う。

「どんぐらい前だったかな。北欧の片田舎で起きた集団テロみたいなやつ。あれも確か、夕貴くんの言う《悪魔》の仕業だったみたいだよ。あ、ちなみにこれもネットの一部でオカルトマニアを中心に騒がれてるネタだから。日本でも一時期、ニュースで流れてたしね~」
「……あいつら、か」

 血よりもなお紅い大悪魔の笑い声をいまでも悪夢に見る。空よりも蒼い大悪魔の力が脳裏に焼き付いて離れない。あんなやばい奴らがこの国にいて、いまこの時も暗躍している。誰もが持つ当たり前の日常を、まるで意に介さず踏みにじろうとしている。そんなの、許せるもんか。

「辻風さん。グシオンって名前に心当たりはないですか?」
「んー、さっきも言ったけど、あたしは《悪魔》には疎いっていうか、そもそもあんまり興味がないのだよ。残念ながら夕貴くんに提供できるだけのネタは持ち合わせていないんだよね~」

 実を言うと、俺がもっとも辻風さんに聞きたかったのは奴らのことだった。現存する三大勢力の一角を率いる《グシオン》の動向を、なにか小さな手がかりでもいいから探れないかと考えていたのだが……。

「そんなことより夕貴くん! 美影ちゃんは元気にしてるのかなっ?」

 キラキラと目を輝かせた辻風さんがぐいっと近づいてくる。なぜだろう。弾けんばかりの眩しい笑顔なのに、なんとなく大人特有の打算と卑しさを強く感じる。

「え? まあ元気にしてますけど」
「なんかあれじゃない? たしか波美お姉ちゃんに会いたいなぁ~なんて言ってなかったっけ?」
「これっぽっちも聞いてないですし、そもそも美影はそんな可愛いこと死んでも言いませんけど」
「そこまで言うなら仕方ない! この波美ちゃんが今度、ご飯にでも連れてってあげよう! くっくっく、適当に美味いもん食わせて懐柔してやんよ……」
「頑張ってください。じゃあ俺、そろそろ帰りますから」
「冷たいっ! 冷たすぎるよ夕貴くん! もうちょっとあたしに協力してくれてもいいんじゃんかよ~!」

 オーイオイオイと泣きながら抱きついてくる。とりあえず流れのままに引っペがしてみると、辻風さんは地面に手をついてうなだれていた。

「コネだ、コネがいる……。そんでどうにかして《壱識》の一門に取り入って、たんまりと情報を手に入れて……ブツブツ」

 なんか恐ろしいシナリオが描かれているような気がするが、俺はなにも聞かなかったことにした。

「はぁ、そんなに美影の家に興味あるんですか?」
「あったりまえじゃん! 興味ないやつなんて死んでいいよ! ぶっころだよぶっころ! あたしが許す!」

 くわっと目を見開いて、辻風さんは強烈な眼光を飛ばしてくる。本気で怖かった。

「あの十の一門は、あたしたちからしてみれば生きた伝説みたいなもんなんだよ! 天然記念物なんだよ! なんかもう化石なんだよ! 分かる!?」
「とりあえず凄いってことですよね。わかります」
「そう! それ! マジでそれなんだよ夕貴くん! 十九年前に《零月》の血が絶滅しちゃったいま、残ってるのはあと九つの家しかないんだよ! これがどんだけやばいことなのかわかってるの!?」
「いやまあ大変なのはなんとなく分かりますけど、俺にはあんまり関係ないことですし……」

 あんまりではなく、まったくと言ってもいいだろう。表社会で生まれ育った俺が、裏の勢力について興味など沸くはずもない。辻風さんには申し訳ないが、また別に語り合える同志を探してもらうとしよう。

 あらかた話が終わるのと、勤務時間中の辻風さんが己が職務の何たるかを思い出すのはまったくの同時だった。院長には内緒にしといてね、と笑って、辻風さんは表まで見送ってくれた。

「そういえば、リチャード・アディソンって知ってます?」

 並んで歩きながら、記憶の片隅に眠っていたその名を何気なしに口にすると、辻風さんの顔色が変わった。

「知ってるもクソもってな感じだよね。なに、夕貴くんの知り合いだったりするの?」
「いや、そういうわけじゃないですけど。ただちょっと気になったもので」
「じゃあよかったね」

 笑顔でひらひらと手を振って、どこか投げやりに締めくくる彼女の意図がわからず、俺はもういちどだけ尋ねた。その程度の好奇心ならやめときなよ、と彼女は続けた。

「仕方ない。出血大サービスだ。可愛い可愛い夕貴くんに、お姉さんがアドバイスをしてあげよう」
「ちょっと待ってください。いったいどういうことですか?」
「その一、アレには絶対に近づくな」
「俺はそいつをよく知らない。でも嫌なところでよく名前を聞くんです。辻風さん、教えてください。リチャード・アディソンってのは何者なんですか?」
「その二、年上のお姉さんの助言は忠告ではなく警告だと思ってしっかりと聞くこと」
「辻風さんっ!」
「その三」

 逸る俺を、寂しそうな顔で制して、彼女は言った。

「もしきみの身近にいる女の子がピンチになったら……そのときは絶対にきみが助けてあげること」

 辻風さんは何を知っているのか。そしていま、どういう心境なのか。俺には分からない。それでも口を噤んで思わず頷いてしまう程度には、彼女の言葉はとても誠実で――

 これから起こることを、よくない未来を、暗示しているように思えた。



****



 華やかな通りに面した瀟洒なカフェテラスも、燦々と降り注ぐ日差しのまえには色あせてしまう。春風の心地いい季節や、紅葉の舞う時期が訪ればさぞ賑わうのだろう。しかし、アスファルトに陽炎が揺らめく夏場にかけては活気がなく、喧騒もまばらだ。

 道行く者は皆うだれていた。緩やかな弧を描いて落ちる白い灼熱を呪いながら、額から汗を流し、僅かな日陰を求めて足早に歩いていく。暑さから逃れようと一様して薄着のまま、露出した肌を太陽に焼かれていた。

 そんな雑踏のなかで、ことさらに壱識美影が目立っていたのは服装のせいだろう。愛華女学院が指定する黒地のセーラー服と、黒のストッキングに、黒のローファー。桜の頃には映えるその衣装も、真夏日にはひどく見苦しい取り合わせに変わってしまう。それでも美影を見る目の多くが好意的だったのは、たんに彼女が服装の重さに負けない美形だったからだろう。

 ほとんど汗もかかず、涼しげな顔で指定されたカフェテラスまでやってきた美影は、空いていた隅のほうの席にそっと腰掛けた。

「早かったのね。五分ほど予定が狂ってしまったわ」

 美影の背後の席にあらかじめ座っていた先客が、手に持っていた文庫本に視線を落としたまま、振り向かずに言った。

「ただの気まぐれ。なにか問題ある?」
「べつに。ただあなたが来る前にちょうどこの本を読み終えるつもりだっただけ」

 抑揚のない声で言って、壱識千鳥はあと数ページだけ残った本を未練なく閉じた。

 美しい女性だった。麗らかな長い黒髪と透けるような白い肌が、古き時代に忘れ去られた、かつての女性の理想像を思い起こさせる。眉目の整った顔立ちや、柔らかな肉付きを残しながらも引き締まった身体は、当然のことながら誰にも魅力的に映る。しかしそれ以上に、髪を耳にかける仕草など、所作の節々からは成熟した大人の女の色香を強く醸し出していて、男にとってはもはや毒のようなものだった。かつての夫を喪ったという悲しみが表情に影を差し、目元は常に物憂げで瑞々しい憂いに濡れている。それは年を重ねて、悲哀に泣いたがゆえに完成した儚い美貌だった。

 親子のようによく似ていて、姉妹のように瓜二つで、そして他人のようにすれ違った二人は、互いに背を向けたまま言葉を交わす。

「その制服、どうしたの?」
「さっきまで学校だった」
「あら、てっきり夏休みだと思っていたのだけれど」
「なんか登校日とかいうやつ。あやめに無理やり連れて行かれた」

 一見すれば、何のことはないありきたりの会話にも思えるが、美影と千鳥の間には目に見える関心がない。もし仮にいま、美影が人を殺してきたと言っても、千鳥はそうと一言だけで済ませていただろう。無論のこと愛は存在する。ただ、それを表現し、うまく伝えることができないだけだ。そしてそれが、親子という間柄においてもっとも致命的な欠陥であることを、二人して知らないだけなのだ。

「日取りが決まったわ」

 美影をわざわざ呼び出した理由を、千鳥は告げた。

「今夜、例の場所。詳しくは現地で」
「わかった」
「なにか言っておくことはある?」
「ううん」
「そう」

 美影には他に訊くことはなく、千鳥には何も言うことがなかった。夏の暑さを忘れさせるような冷たい沈黙。不幸中の幸いだったのは、二人にとってそれが気まずいものではなかったことだろう。

「彼とは、どう?」

 腕時計を見ながら千鳥が尋ねた。ポニーテールに結わえた髪をいじりながら美影は答える。おそらく美影も千鳥も気付いていないだろうが、まとった空気や雰囲気、そして仕草の一つに至るまでが微笑ましいほどにそっくりだった。

「夕貴のこと?」
「あなたが珍しく慕っているようだったから」
「べつに普通。あんなやつどうでもいい。母親が帰ってきてからさらにうざい」

 千鳥は切れ長の目を閉じて数秒ほど黙考してから首肯した。そんな母親の反応が物珍しかったからだろう、美影は肩ごしに振り返って千鳥を見た。腰まで伸びた黒髪が風に揺れているだけだった。

「美影。もう少し、彼のそばにいなさい」

 言われるまでもないことだった。広くて、快適で、勝手に美味しい料理が出てきて、萩原邸は美影にとって非常に住み心地のよい場所なのである。女々しいくせに男らしいと言い張る少年と、いつか復讐すべき天敵が潜んではいるが。

 それでもあの家にいることと、夕貴のそばにいることでは大きく意味が違うと美影は思った。母親の手前ということもあり頷いてみせたが、ここに夕貴がいれば間髪入れずに拒否の姿勢を取っていただろう。

「萩原小百合とも……いえ、夕貴さんのお母様とも仲良く、ね」
「……? わかった」

 千鳥の言い回しに漠然とした違和感を覚えて、美影は小首を傾げた。そんな娘の疑問が言葉という確かな形となるまえに千鳥は立ち上がっていた。去りゆく間際、美影の胸元に揺れる御影石のペンダントを数瞬だけ見つめて。

 美影は遠ざかっていく母親の背を亡羊とした目で見つめる。千鳥の姿がごった返す人混みに紛れて消えるのにそう時間はかからなかった。

 そのまま何ともなしに雑踏を見つめていると、幸せそうに並んで歩く親子連れが目に付いた。まだ年若い両親が、子供という名の橋を両手で繋いで川の字を作っている。あんなふうに街を歩くのが普通なのだろうか。少なくとも美影には母親に手を繋いでもらった記憶はない。そもそも繋いでほしいと思ったことさえなかった。むしろ邪魔だろう。片方の手が塞がるということは、それだけ緊急時の対応が遅れるということなのだから。それでも、どうしても手を繋がなければいけないというのなら、よかった。幸いにも美影には母親しかいない。

 そう、母親しか、いないのだ。

 そこまで考えて、美影は怪訝に思った。初めて心の底から興味を持った。右手で母親からもらった御影石のペンダントに触れる。しかし左手は空いていた。何も掴むものがなかった。握り返してくれる温もりなど初めから知らなかった。

 それを幸運というのか不幸というのか、美影には分からなかった。








****


【用語】

・情報屋
 その名のとおり、裏社会において情報を売買することによって生計を立てる稼業のことを指す。辻風波美が該当する。
 明確な基準は存在せず、当然のことながら認可も資格も必要としないため、極論すると情報屋だと名乗れば誰だってそのように認められる。
 しかし、情報屋には九の過程を踏むことが必要だとされており、それができなければ一介の稼業としては成り立たない。すなわち原因感知、流出待機、通信従事、伝聞獲得、出処確認、真贋鑑定、価値追求、概況掌握、情報蒐集である。
 情報屋として裏社会で生きていくには最低限、身を守るための力や資金、そして人脈が必要であるが、辻風波美は田辺医院の庇護を得ることでそれらを補っている。

・世界七大未解決事件
 およそ全ての情報屋にとっての明かすべき目標であり、最終到達地点とされる。《ミッシング・トゥルース》とも。法王庁と国連が共同して莫大な懸賞金をかけていることから《ミレニアムセブン》と揶揄されることも多い。
 全ての事件に共通している事柄は三つ。
 一つ、裏世界だけでなく表世界にも知られるほどの知名度があること。
 二つ、天文学的な懸賞金がかけられていること。
 三つ、いまだ誰にも解決されていないこと。



[29805] 4-5 かつてだれかが見た夢
Name: テツヲ◆c49d9b75 ID:30a5855b
Date: 2014/11/27 20:33
 
 深夜、人里から遠く離れた深い森のなかに、夜影を歩く者がいた。鮮血を思わせる紅い髪。心の底から血を渇望する眼。端正な口元は三日月のように大きく裂け、抑えきれない愉悦が美貌を凶相に変えている。大気を震わせる凶悪な波動が、男の髪と衣服を揺らしていた。

 男のまえに立ちはだかるように、薄闇のなかに巨大な建造物が浮かび上がった。高い塀と広大な敷地。かつては多くの罪人を収容していた陸の孤島。それはとうの昔に廃棄された刑務所だった。

 暗闇のなかに夥しいほどの気配が潜んでいる。蟲のようにひしめきあって、うねうねと、かさかさと、無秩序のようでいて秩序を保ちながら一定の蠢動を繰り返している。それがほんとうに蟲であったのなら、いくらおぞましくてもまだ救いはあったかもしれない。しかし、その正体は、黒いローブをまとっただけの人間だった。

 “神を崇めよ。隣人を愛せよ。自然を慈しみ、動物に感謝の意を捧げよ。されど、決して《悪魔》だけは許すまじ”

 かつて、そんな純粋な教義を掲げた宗派があったことを覚えている者はもう、ここにはいない。

「もうマジで飽きちまったが、それでも何度でも言ってやる」

 人間の醜さを余すことなく体現したような群体に向けて、紅い男は告げる。遥かな昔、叶うはずのない願いを抱いていた馬鹿な少女を思い出しながら。

「オレの名はフォルネウス。あのクソガキが定めた序列は第三十位。おら、これでいいんだろうが」

 突如として現れた正真正銘の《悪魔》を前にして、黒い布に身を包んだ者たちは恐怖するどころか歓喜を爆発させた。おぞましく冷えた空気のなか、誰もが死ぬほど笑っていた。命ある間にカタキと巡り会えた奇跡に心から感謝していた。

 年老いた男が喜びに震える手で重火器を構えた。若い女は涙を流して感謝しながら、火薬の臭いに酔いしれている。小さな子供たちが化学兵器を喜々として抱きしめ、それを幸せそうに見守っていた夫婦は手にした刃物を狂気で濡らしていた。

「さあ、始めようじゃねぇか」

 フォルネウスが嗤うと同時に戦火が弾けた。高い塀のうえから、広い敷地の中から、朽ち果てた監獄の奥から、様々な狂気が、積年の執念を乗せて解き放たれる。それだけで射線に立っていた人間の数十人が巻き込まれて死んだ。血まみれになって倒れていく同志を思いやる者は一人もいない。まだ生暖かい死体でさえ、先立つ不幸を身内に嘆くことは一切せず、もう動くはずのない蝋細工のような目で《悪魔》だけを追っていた。

 大自然さえも跡形もなく焼き尽くすほどの膨大な火力を前にしても、フォルネウスは口元に刻んだ笑みを絶やさない。彼のみに与えられた異能を使う必要もなかった。もはやフォルネウスの運動能力は物理法則をも冒涜する。音速で飛来する弾丸を寸分の狂いもなく見切り、降りかかる火の粉を払いのけながら、すれ違いざまに人間たちの身体を壊していった。

 まもなく轟音。携帯式のロケット砲がまとめて数発、フォルネウスを目掛けて発射される。次いで石ころのような気軽さで放り投げられる手榴弾。空間そのものが破砕に揺れ、血と人体と臓物が吹き飛び、砂塵が大きく舞い上がって視界を塗りつぶした。

「まったく、それはあたしのセリフだ」

 新たな絶望が追加された。フォルネウスを超える強大な気配。蒼穹を思わせる澄み切った波動が風のように流出して、一気に視界を晴らした。

 フォルネウスと背中を合わせて少女は立っていた。肩口まで伸びた亜麻色の髪。気の強さを印象づけるツリ目。カモシカのようにしなやかな肢体をしているが、その身に宿す力だけを純粋に比べるなら彼女の主にさえ匹敵する。その証拠に、彼女はさきほどの集中砲火を、ただ全身から波動を発しただけで完全に防いでみせたのだ。

 ソロモン72柱が一柱にして、序列第十三位の大悪魔ベレト。それが少女の偉大なる真名である。

「この国では派手に暴れるなとあたしは何度も言ったはずだ。まさか忘れたとは言わせないよ、フォルネウス」
「忘れたもクソもねぇだろうよ。暴れてんのはオレじゃねぇ。奴らだ。文句があるなら、てめぇの足元に転がってる馬鹿どもに言ったらどうだい」

 白々しいフォルネウスの言動に、もはやベレトは反駁する気も起きなかったらしい。本来であれば戦闘行為に発展する前に、この《悪魔祓い》の拠点を一撃のもとに滅ぼす段取りだったのだが。

 あれほどの火力を受けても傷一つ負っていない《悪魔》を目にして、狂信者は怯むどころか朗らかに笑った。よかった、生きている。まだ死んでいない。これでもっと殺せるぞと、思わず涙がにじむほどに悦に入っていた。

 ふたたび地獄絵図が再開された。だが二柱の《悪魔》が立っていた空間にありとあらゆる凶器が殺到したとき、そこにはもう彼らの姿はない。フォルネウスは血に濡れた大地を疾走し、ベレトは煙で濁った空に跳躍していた。

 異能を使わず、素手で人体を切り裂くフォルネウスに対して、ベレトは人差し指だけを使っていた。自身の膨大すぎるDマイクロウェーブを限定的に解放した、全力の一割にも満たない攻撃。しかし、それはこの場において、人類が発明した火器を遥かに上回る火力を誇っている。細い指先に収束された青い光は、一筋の光芒となって全てを飲み込んでいく。

 そんな紅と蒼の大悪魔が広げていく破壊の惨状に、一匹の獣が哀れにも迷い込んでしまった。濃い緑色の体毛が特徴的な、かなり大型の狼である。たしかに強靭な四肢をしていたが、それが通じるのは飽くまで野生の世界だけだろう。この泥沼の戦場にかぎって言うなら、その獣の存在はあまりにも儚すぎた。

 だが、しかし。

 なにかがおかしいと、その違和感に誰かが気付いた。

 ほんとうにこんな場所に動物が足を踏み入れるだろうか。野生の獣たちはだいぶ前に危険を察して、すでに遠くへ逃げ出している。だとすれば彼はよほど勇敢なのか、あるいは呆れるほどに鈍感なのか。いや、きっとこれはそれ以前の問題。

 まず、あんな姿をした狼なんて、この世界のどこにも存在しない。

 そのとき、大自然のごとき力強い波動が周囲に伝播した。三重に鳴り響くハウリングに人間たちは耳を抑えてうずくまる。

「かような騒ぎに加わるつもりなど、もとよりなかったが」

 鋭い牙の隙間から漏れ出たのは、低く重たい男性の声。濃い緑色に染め抜かれた体躯。狩猟に特化し、弱肉強食という絶対のルールを体現したような無駄のないフォルム。大きな身体に見合った立派な尻尾。目には長い年月を生きた人間のごとき深い意思と知性が宿っている。

「グシオンの命とあらば仕方あるまい。我が同胞に加勢するとしよう」

 運動性能を極限まで追求した四肢が軽く沈み、残像さえもかき消すほどの俊敏性をもって、彼はすべてを置き去りにした。戦闘の余波によって惨憺たる有様となった監獄のもっとも高い位置、朽ち果てた監視塔のてっぺんに着地する。大地に刻まれた深い爪痕をみれば、彼がフォルネウス以上の速力をもって疾駆したことが分かる。

 雲でかすんだ夜空と、おぼろに映る月を背にして彼は告げた。

「我はソロモン72柱が一柱にして、序列第二十九位の大悪魔アスタロト。これは情けである。せめて苦しまずに逝くがよい、人間よ」

 穏やかな声で名乗りをあげてから、アスタロトは天に向かって吼えた。どこまでも残響する、獣の王とも言うべき偉大な咆哮だった。それは攻勢を狙ってのものではなく、飽くまで弔いのための声だった。たとえ近場にいる人間たちの鼓膜が破れてしまったとしても。

「チッ、うざってぇ。そのへんでドッグフードでも食ってろや犬っころ」
「むしろあたしはあんたに引っ込んでもらいたいところなんだけどね」
「まあそう言い争うこともあるまいよ。まずは彼奴らを安らかに送ってやることが先決だろう」

 この三柱の《悪魔》が集結した時点で、これはすでに戦闘ではなかった。そんな大掛かりなものではない。矮小な羽虫をつぶすとき、人はその行為にわざわざ仰々しい名をつけたりはしないから。

 それは《悪魔》にとっても同じこと。

 命が散っていく。だれもが死んでいく。守られるべき人間の尊厳は、この夜にかぎっていえば蹂躙されるだけのものでしかなかった。

 深紅の大悪魔がもっとも死をもたらした。血よりも紅い髪を揺らしながら。蒼穹の大悪魔は全てを無に帰す。空よりも大きな絶対のチカラで。濃緑の大悪魔は大地を駆けていた。生きとし生ける者を土に還すのがせめてもの情けだった。

 それから数分が経過した頃、その場に立っているのは三人だけだった。至るところから火の手が上がり、もはや建物は原型を留めていない。地面は余すことなく血に濡れているが、意外なことに死体はそれほど多くなかった。ベレトの力によって大部分が消し飛ばされたからである。

「どうやらグシオンが言った通りだったみたいだね」

 周囲を見渡しながらベレトが言った。

「うむ。間違いあるまい」

 警戒するように尻尾をぴんと立ててアスタロトが同意する。

「はっ、この忌々しい波動もずいぶんと久しぶりだなぁ」

 ふところから取り出した紙巻たばこに火をつけながらフォルネウスが吐き捨てた。

 ドクン、と微かな脈動を感じる。人知を超えた強大なチカラを持つ彼らでさえも漠然とした不安を抱く、あまりにも邪悪な気配の残滓。いまはだいぶ薄れてしまっているが、それでも《悪魔》にとって好ましいものではない。とくにアレは。

「そんなに遠い過去のことでもないだろうね。むしろごく最近の話だ」

 数日か、数週間か、正確なところは分からないが、それでも。

「――この場所に、《悪魔の書(ゴエティア)》が、あった」

 整った顔を歪めて、ベレトはその名を口にした。《ソロモンの小さな鍵(レメゲトン)》の一つにして、《悪魔》を律する五つの法典のなかでも最凶の力を持った書物。彼らにしてみれば、この極東の島国にゴエティアがあるというだけでも半信半疑だったのに、まさかこんな人里離れた山奥で実際に感じることになるとは。

「あいつは間違ってなんかいなかった。やっぱり《悪魔の書》はこの国のどこかにある」

 呆れたようにベレトはいう。フォルネウスは白けた顔で紫煙を吹かし、アスタロトは大きく頷いた。三者三様に反応は違えど、内心では同じ心境に至っていた。すなわち、グシオンの言葉はすべて正しい。彼が間違ったことなど一度としてあっただろうか。

 それはこれまでだけの話ではない。きっとこれからも、グシオンは正しい選択を繰り返していくだろう。たとえ、その先に待つのが栄光でも破滅でも、絶対的な天秤の計り手として在り続けるに違いない。《バアル》がいなくなってしまったいま、グシオンを止めようとする者はもういないのだから。

「いこう。アスタロト」

 ベレトに応えて、濃緑の魔獣は空高くに跳躍した。なにもない空中に一瞬の火炎が生まれる。次の瞬間には、月明かりが地面にうつす影は狼のシルエットから、大きな翼の生えたライオンに変わっていた。超大型犬ほどだったサイズも、いつの間にか普通自動車と同程度まで膨れ上がっている。

 その緑の体毛に覆われた背に、ベレトとフォルネウスは飛び乗った。二柱の《悪魔》を背負ってもアスタロトは揺らぎもせず、翼を力強く羽ばたかせて夜空を泳いでいく。

 その最中、ベレトは右手を伸ばして、人差し指と中指の二本を地上に向けた。目もくらむほどの蒼い極光が世界を塗りつぶす。光が止み、ふたたび夜が戻ったときにはもう、廃棄された監獄の影などどこにもなく、ただ大きなクレーターが存在しているだけだった。

 人の血も、肉も、骨も、執念も、憎悪も、そして生きていたという証さえもなく、闇は闇のままで終わったのだ。




 高級ホテルの一室で仮眠を取っていたリゼット・ファーレンハイトは、何度目かの携帯の着信によって現実に引き戻された。ぼんやりとした頭で暗い天井を見つめてから、ぎしぎしと軋む身体を無理やり起こして最低限の身だしなみを整える。

「お休みのところ申し訳ありません、室長」

 まもなく来室したのは戦隊長の肩書きを持つアルベルト・マールス・ライゼンシュタインだった。名目上はリズの直属の部下にあたる。どれほどの鍛錬を積んでも寄る年波には勝てないのか、灰色の髪には白いものが幾分か混じり始めている。片時もゆるむことのない険しい眼光は、彫りの深い顔立ちとよく合っていた。恰幅のいい身体を包むのは軍服ではなく、ホテルのドレスコードに見合った外連味のない黒のスーツである。

 軽く挨拶を交わした末、二人はホテルのソファに差し向かいで腰を据えていた。テーブルのうえには淹れたばかりのコーヒーが湯気を立てている。

「べつに構いません。何があったの」

 ストレートに下ろした髪を気だるげに払いながら、リズは疲れた声で言った。エメラルドグリーンの瞳には眠気と疲労が多分に滲んでいる。感情豊かに笑う普段の彼女との落差はあまりにも激しかった。せっかくの愛らしい顔も、生きることに疲れた落伍者のように生気が薄れている。

 そんな彼女の様子に気付いていないふりをしながら、アルベルトは何枚かの書類を差し出した。

「これで都合、四度目ですな」

 報告書にさっと目を通したリズは、大きなため息とともにかぶりを振った。それは呆れているというよりも、諦観の素振りに近かった。

「やっぱり、こうなっちゃったね」 
「ええ。やはり間違いないでしょう」

 過去、来日したグシオンと思しき勢力が、各地に散っている《悪魔祓い》の集会や拠点を襲撃したのは事実確認が取れているケースだけでも三件あった。その間、二週間も経っていないことを考えれば、あまりにも異常なペースといえる。今回の新たな報告は、その性急すぎる行動には何らかの意味があるのでは、という疑惑にさらなる真実味を加えた。

 そしてなにより、自分たちの推測もあながち外れてはいないだろうと、確かな手応えを得るにはじゅうぶんな状況だった。

「とはいえ、これは手放しで歓迎できるようなことでは無論ありません。グシオンが引き起こす騒動の被害と規模は、もはや我々の情報統制によってカバーできる範囲を大きく超えています。日本政府による支援も確実にありますが、しかし彼らの手を借りるということは、それだけ我々の首を絞める結果に繋がることは自明の理。早々に対策を講じる必要があると判断します」
「違うわ。ほんとうの問題はそこじゃない」

 冷徹な目でリズは断じた。

「これまでグシオンは四度も《悪魔祓い》を襲撃した。襲撃することができた。わたしたちでさえ知る由もなかった情報を、あの無貌の大悪魔は手中に収めていた」

 いくら強力でも、三柱の使徒を従えているだけでは三大勢力の一角にまで数えられない。ゆえに裏世界最大の組織と目される《法王庁》が、現存する《悪魔》のなかでも、最強と謳われる叫喚の大悪魔バルバトスを差し置いて、グシオンをもっとも警戒していることには明確な理由が存在する。

「だから、日本政府がむやみに手を出すような事態だけはなるべく避けたいところなんだけど、そうもいかないのが現状なんだよね」
「彼らにも面子というものがあるでしょうからな」

 邪魔だから消す。混乱を巻き起こすから排除する。これはそんなに簡単な構図ではない。それどころかグシオンを討つことは、人類の進歩を停滞させることになるかもしれないのだ。果たしてそのことに日本政府は気付いているのか。

 いくつかの業務連絡と、今後の方針に関する打ち合わせを終えてから、アルベルトは部屋を後にした。一人きりになったリズは、物憂げな目で窓のそとを見つめる。人の栄華を象徴するような高層ビル。月を目指し、天を穿ち、久遠の空を冒涜する無機質な人工物。かつては想像もできなかった光景だ。

 万物の霊長が手にした繁栄を、それをもたらした人物を思い描きながら、リズは小さな声で呟いた。

「……やっぱり、あなたは最後までわたしのまえに立ちはだかるんだね」




 蝶番の軋む音に出迎えられて、壱識美影は指定された場所に足を踏み入れた。

 かなり広い空間だった。風営法の登録上はカクテルバーということになるのだろうか。明るい橙色の照明が降りそそぐ店内は、高級感のある黒のグランドピアノと専属のピアニストが奏でる旋律でそっと満たされていた。木製のバーカウンターと、その向こう側に陳列された色とりどりの酒。足元には毛足の長い絨毯。明らかに富裕層か、何らかの事情がある者たちのために設えられた店だった。呆れたことに二階にも同様のスペースがあるらしい。

 客と思しき連中の姿もちらほらと目に付く。革張りのスツールに腰掛ける男は丹念に拳銃の手入れをしていた。テーブル席では娼婦を脇に侍らせた男が、麻薬取引と人身売買に関する独自の美学を常連に語っている。奥まったスペースでは屈強な身体をした男たちが、よく研がれた本物のナイフを投擲してダーツを楽しんでいた。

 表社会と異なるのは客層だけではない。黒服に身を包んだバーテンダーや給仕人は、身のこなしが優雅に過ぎた。おそらく経営陣はヤクザやマフィアごときではなく、もっと上の、裏社会における食物連鎖の上位に君臨する者たちに違いなかった。

 そんな闇の社交場において、美影は奇異の対象だった。突き刺さる多くの視線。敵意や害意が多分に入り交じったそれの中に歓迎するような温かみは微塵もない。あえて好意的な目を探すとすれば、それは劣情になるのだろうか。

 さりとて単純な好奇の目もいくつか存在した。子供の殺し屋や花売りなど大して珍しくもないが、この場合は彼女の服装が大きく問題となっていた。夜の街に似つかわしくない、黒のセーラー服である。それも音に聞こえた愛華女学院の制服とくれば誰だって怪訝に思っても仕方あるまい。

 人目を引く整った容姿に、兼ね備えられた知性。一見すると良家の子女にも思えるが、しかしそれにしては夜に馴染みすぎている。結果として美影は、多くの興味を集めながらも、その出自の不明さから遠巻きに見つめられる観察対象として距離を置かれていた。

「よお。いくらだい」

 そんな声がかけられたのは、店に入って五分が過ぎた頃だった。剃髪のたくましい男が片手でナイフを弄びながら、余裕に満ちた目で美影を見下ろしている。どうやらダーツで遊んでいた連中の一人らしい。向こうのほうで似たような雰囲気の男たちがはやし立てるように彼と彼女を見つめている。

 男は美影を抱きたいと言った。金ならいくらでもあると。それが偽りない本心というわけではないのだろう。ただ美影に興味を持ったから、彼女という人間を探るための口実として、男が女にかけるもっとも適当な一言を選んだだけだった。

「死ね。バカ」

 そっけなく応えて、美影は進路を変える。あいつフラレやがったな、と楽しそうに騒ぐ声。いくらかアルコールも入っているのだろう。それらの言動は、しらふの美影にとって非常に煩わしいものだった。

「待てよ、つれねぇな」

 踵を返した美影のほそい肩を、男が乱暴につかんだ。強引に振り向かされる。このままでは面子が潰れてしまうと思ったのか、あるいは事前にかなりの酒を胃の腑に入れていたのか、男の顔は熱と興奮にうかされていた。

「気の強い女は好きだが、生意気なガキはイラつくんだ」

 目にも止まらぬ速度でナイフを弄ぶ男の技術は、美影の基準から見てもかなりのものだった。刃物を凶器ではなく、身体の一部として扱っている。どうやら見掛け倒しではないらしい。この男は対人戦闘のプロフェッショナルだ。肌を切り裂く感触も、噴き出す血潮の温かさも知っている。

 だが、そんなことは美影にはどうでもよかった。

 一瞬の油断が死を招くということを知っていても、男は、小柄な美影などいつでも組み敷けると心のどこかで気を緩めていたのだろう。その僅かな心理の間隙は、男にとって美影の初動を見逃してしまう要因となった。

 脚をまっすぐ垂直に振り抜いて、美影は男の手を蹴り上げた。くるくると回転しながら落ちてきたナイフを静かにキャッチして、嘆息混じりに男を見つめる。痛みが驚愕に、そして殺気に変わるのは時間の問題だった。

「おい。それを渡せ」
「嫌」
「忠告はしたぜ」

 この世界を暴力で生きる者にとって得物は大切な商売道具であり、かけがえのない相棒だった。使い込んで手に馴染んだ武器を奪われるのは、女を寝取られることによく似ている。それがわかっているからこそ美影はあえてナイフを掠め取ったのだ。表面上は平静に見えるが、その実、彼女ほど負けず嫌いな人間もそうはいない。つまりは、面倒くさいことに巻き込まれた腹いせというか、ちょっとした嫌がらせのつもりだった。

 客観的にみれば、体格差で圧倒的に勝る男なら、激情のままに襲いかかっても労することなく美影を制することができる。しかし、その容易な選択が首を絞めることになると男には理解できたようだった。それぐらいは修羅場を潜っているし、相手の力量を計るだけの慧眼もあったのだろう。ゆえに彼は言葉による平和的解決ではなく、もう一本の別のナイフを引き抜くことを選んだのだ。

 このガキは、ただものではない。だからこそ確かめてみたい。純粋に力と力を衝突させて、どちらが上かハッキリさせたい――そんな思いが伝わってくる。それは身一つで戦場を生きてきた男の矜持だったのかもしれない。

 男は挑戦的な笑みを浮かべて姿勢を低くした。美影も感じるものがあったのか、男に比べるとぎこちない所作でナイフを構えてみせた。二人は数メートルほどの距離を置いて対峙する。空気が質量を持ったように重たくなり、加速する緊張感がピリピリと肌を焼いた。




 いくら裏社会の酒場といってもルール無用というわけではない。当然のことながら戦闘行為は御法度である。すでに他の客は、少女と男の決闘という、酒の肴にするには絶好のイベントに強い興味を示していたが、しかし経営陣にとって騒ぎが起きることは喜ばしい事態ではない。それが流血沙汰に繋がる可能性があるとすればなおさらだ。ホールにいたウェイターから状況を知らされた壮年の支配人は、重い腰を上げて仲裁に入ろうとした。

「いーじゃん、やらせておけば」

 バーカウンターに一人で腰掛けている若い女がそれを制した。フルーツカッティング用の果物ナイフを手でくるくると回す仕草が妙に合っている。長い髪をアップにした色気のある美人だった。かたわらに立てかけられている一振りの長物がなければ、今頃は男が群がっていたに違いない。

「せっかくの夜に水を差すのも無粋ってもんでしょ。どうせすぐに終わるんだしさ」
「……あなたは」

 支配人は彼女をよく知らなかったが、そのとなりで眠っている刀には見覚えがあった。そして、その業物を所有している家の名も。

「ちょっとした呼び出しがあってね。お邪魔させてもらってるよ」
「まさか、このようなところでお目にかかるとは……」
「あっはー、それ自分で言っちゃう? 元はといえばここは【哘(さそざき)】の管轄でしょ。マナーがいいとまでは言わないけど、治安のよさだけでいえばダントツだからね」

 ゆえに訪れる客は心のどこかでは退屈しているのだと、彼女は言った。たまにはこういう催しがあっても罰は当たらないと。

 その諫言を、支配人は素直に受け入れた。この国の裏社会に深く通ずれば通ずるほど、彼女たちの言葉を否定することはできなくなる。なにより彼女の生家とは、この年を取った支配人もいくらか関係があった。

「……その一振りを所有していた男のことを知っています。仲間を殺されました」

 恨みはないし、責めるつもりも毛頭なかった。ただ過去を懐かしむようにありのままの事実を語っただけ。女は微笑を浮かべて、かたわらの刀を見つめた。

「あなたの目は、あのときの彼によく似ている。暗い感慨がないと言えば嘘になります。しかし私は、そんなあなたとこうして語り合える今という時間を感じずにはいられない。あの戦いは、もう終わったのだと」

 治安大国と呼ばれたのも過去の話だ。現在の日本はあらゆる問題を抱えているし、治安も悪化の一途をたどっている。

 それでも、ずっと昔に彼らは夢を見たのだ。

 相克する殺し合いの螺旋に身を置いていた者たちで、あの頃は大変だったなと笑い話のように酒を飲みながら語り合えるときがくれば、それはどんなに幸せなことだろうかと。


 

 そんな一幕をよそに、美影と男は向かい合ったまま動かなかった。いたずらに時だけが流れる。互いに一歩でも踏み込めば、そこは必死の間合い。うかつに動けるはずもなかった。視線が交錯し、銀色の切っ先がゆらゆらと揺れる。

 ふっと男が笑った。先に仕掛けたのは彼だった。それもまた面白いと、いつ訪れるかも分からない後の先を取るのではなく、自ら生みだす先の先に光明があると判断したのだ。

 男は地を這うように距離を詰め、横薙ぎにナイフを振るった。文字通り、ただ振るっただけである。それが正解だった。基本というものを極めた先にこそ奥義は存在する。そこに余計な技術が介在する余地はない。

 いったい、いままでどれほどの血に濡れてきたのか。どれほど同じ動作を反復してきたのか。人殺しの技と貶める気すら起きない、億千の賞賛に値する芸術的な一閃。それは死屍累々の果てにたどり着いた、一人の男の人生だった。

 交差は一瞬。ナイフが切り裂いたのは柔らかい肌ではなく、逃げ遅れた数本の黒髪だけ。

 男は会心の初撃がかわされたことに衝撃を受け、美影は目の先数センチを通り過ぎる刃を眉一つ動かさずに見送った。二度目の振り下ろしも、三度目の刺突も、繰り出される刃物のことごとくを紙一重の差で回避する。己の最小限を以て、相手の最大限を制す。美影が幼少の頃から身体に叩き込まれた理念の一つだった。

 美影の見惚れるほど美しい体捌きは、名うての踊り子と比べても決して遜色はなかった。男の洗練されたナイフ術も相まって、それは決闘というよりも演舞のようだった。伴奏ではなく金属によって舞い、歓声のかわりに熱くたぎる鼓動がリズムを刻む。

 ところで美影にとってナイフは、あまり馴染みのない代物だった。なぜなら彼女の一門に伝わる秘技は、およそ対人戦における凶器の全てを遥かに凌駕するほどの利便性を誇るからだ。

 それでも、と美影はおぼろげな記憶を頼りに再現する。さきほど男がナイフで戯れていた光景を脳裏に描きながら、ペンを回すような気軽さで、右手を中心に刃物を遊ばせてみせる。わずかに散漫となった動きを見逃さず、男は最速の突きを放った。彼の口元に浮かんだ笑みは、それが紛れもない渾身であることの証左にほかならない。

 刃物と刃物が衝突し、ひときわ甲高い音がした。美影が、男の冷たい切っ先を真正面から弾いたのだ。舌打ちをする間も男にはなかった。今度は美影がナイフを振るってみせたからである。

 愚直なまでにそれだけで生きてきた男の腕に比べれば、美影の手さばきは子供のように拙い。近接格闘術の心得はあるし、ナイフ一本でも食っていけるだけの実力はすでにある。だが、それだけだ。さすがに相手が悪すぎた。少なくともナイフという観点だけでみれば、美影が男に勝てる道理はない。

 はず、だった。

 稚拙なはずの一振りが、美影のえがく銀色の軌跡が、少しずつ男の求めてやまなかった理想と重なっていく。無機質な金属に命と感情がやどる瞬間を、男は確かに見た。

 こう動きたいと、こう動かしてくれと訴えるナイフの声が聞こえているとしか思えない変幻にして緩急自在の動き。一歩、また一歩と美影が前に出るたびに、男は一歩、また一歩と下がっていく。目では追えても、身体が反射しても、心のまぶたは閉じることを拒否していた。秒刻みで加速していく美影の攻撃を受けるでも避けるでもなく、男はただ、見つめていたかった。

 刃物に愛された人間がいるということを、男は初めて知った。

 凡百の努力や経験だけではどうにもならない、天性の素質によってもたらされた刹那の神業。誰もが憧れて、手を伸ばし、そして現実を知るにつれて諦めていく殺人技術の最果て。

 その夢がいまここにある。一人の少女の手によって、挫折の果てに忘れられていた理想が息を吹き返す。長い年月と、鋼の努力と、数多の経験によって形作られるはずの奇跡を、美影は才能という不条理を使って再現したのだ。




 バーの二階には特別に設けられたVIPルームがある。壁一面に張られた窓から店の全体を見渡せる仕組みだ。クッションのきいたソファに腰を沈めて、ワイングラスでも片手に階下を見下ろせば、さぞ上等な優越感に浸れるだろう。

「……似ている」

 窓ガラスに寄り添うように立ち、繰り広げられる少女と男の決闘を見ていた一人の老人が、万感の想いを込めて呟いた。

「興味深いな。それは母親のほうにか?」

 老人の独語にそう返したのは、ソファにふんぞり返ってワインをたしなむ女だった。【如月】の名を持つ彼女の問いに、かつて《凶犬》と呼ばれた男は、昔に比べるとひからびた声で同意する。

「たしかに、あれは壱識の小娘によく似ております。そうか、あのときの世間知らずが、いまではもう母親になりおったか……」
「でもおまえが言っているのは、そういうことじゃないんだろ?」
「ええ、父親のほうです」

 老人は過去に想いを馳せる。もう二十年近くまえの古い話だ。二人の男がいた。互いに絶対的な殺人技術を持ちながらも、根底に同じものを抱えながらも、その生き方の違いから決して相容れなかった稀代の殺し屋が、二人いたのだ。

「あの娘は、あの男に――」

 三度も殺し合うほどに分かり合えなかった、あの音の無い男に。

「――市ヶ谷宏一に、よく似ている。……ほんとうに、よく」

 きっと少女を見た者の多くは、母親のほうに瓜二つだと答えるだろう。しかし、この老人はそうは思わない。そう見えなかった。耄碌しただけだと言われれば、もう容易に否定できるような年齢ではなくなっていたが、それでも彼は思うのだ。

 時は流れ、世代は変わり、記憶も風化してしまった。しかし、いまこうして彼の目の前には、あの二人の血を継ぐ娘が現れた。

 ――宿敵(とも)よ、あのとき聞けなかった、それが貴様の答えなのだな。

 それは十数年の時を超えた、ある一匹の殺し屋の想いだった。 




 決着まで時間はかからなかった。男の首元にナイフをぴたりと当てて、美影は静止している。自分よりも遥かに小さな女を数秒ほど見つめてから、男は観念したように両手を挙げた。

 数瞬の静寂のあと、二人を熱狂が飲み込んだ。感嘆する者、呆れる者、静かに拍手を送る者とさまざまだったが、それらの関心の焦点であるはずの美影は、さも興味なさそうに手に持っていたナイフを男に投げ渡した。

「……大したもんだな、あんた」

 心から感心したような声で男は言った。あまりにも短い時間のことで周囲にいた者たちには伝わらなかったが、それでも相対していた男だけは、美影の小さな身体に宿った底知れない才能を正しく認識していた。

「さっきは悪かったな。侘びもかねて、一杯どうだい。なんでも好きなもんを奢らせてもらうよ」
「じゃあポン酢」
「お、おう。別に構わねぇが、せめてもっと他のにしようぜ。ここには上等なやつが多いんだ」

 たじろいだ男は、気を取り直して質した。

「もしよければ、名前を聞いてもいいか?」
「美影。い――」

 そのとき、美影を目掛けて小さなペティナイフが飛んできた。さっきまで二人が握っていた本物に比べれば、なんのことはない、果物ナイフのようなおもちゃである。それは美影にとって警戒にも相対しない。あくびをしながらでも躱せるし、羽虫を落とすように迎撃できるだろう――少なくとも男はそう思っていたはずだ。

 ここにきて初めて美影の顔色が変わった。それは驚きであり、焦りだった。切れ長の目を見開き、黒髪をなびかせながら大きく飛び退る。

 そして、右腕を素早く振るった。

 空中に幾筋もの光が走り、大気が甲高い悲鳴をあげる。美影の手から迸った”糸”は、投げナイフを過たず叩き落とすどころか金属そのものをいくつにも細かく分断し、さらに地面にも鋭い切り傷のような爪痕を遺した。

 数秒前まであれほど騒がしかった空間は水を打ったように静まり返っていた。店の経営陣も、客も、なにかありえないものを見てしまったかのように固まっている。呼吸すら忘れていた。彼らの目に映るのは純然たる畏怖と、憧憬にも似た畏敬。

 なぜならそれは、かの一門にのみ許された門外不出の操糸術なのだから。

「……壱識」

 だれかが震える声で言った。ささやくような声量だったにも関わらず、広い空間の隅にいた者の耳にまで浸透してしまうほどに、その名は各々の知識に恐怖として深く刻み込まれていた。

 それは古来より日本の裏社会で暗躍し、裏稼業を生業としてきた十の一門。何代にも渡って一つの血統を受け継ぎ、気が遠くなるまで世代の交代を繰り返し、人としての血を極限まで高めた霊長の極致。

 各々が独自の戦闘術を継承することで知られるかれらを、人は《武門十家》と呼称した。

「さっすが。相変わらずいい動きするじゃん」

 バーカウンターからゆっくりと腰を上げたのは若い女だった。年の頃は二十代半ばだろうか。文句なしの美人だったが、軽薄そうな笑みがせっかくの色気をだらしのないものに変えている。しかし、男を惑わせる妖艶な身体つきも相まって、それがまた蠱惑的ないやらしさを生んでいるのも事実だった。

「二年ぶりかな? 久しぶりだねぇ、《壱識》のおチビちゃん。あのときの怪我はもう治ったのね」
「……肆条、緋咲」

 身の丈に合わない長さの一振りを肩に引っ掛けて、彼女はのんきに微笑んでいる。その気の抜けた笑顔に絆されてはならない。こと殺人という面においては、かの一門は、美影の生家である《壱識》をも上回る。

 ――美影は刃物に愛されている。なるほど、男の認識は大方のところ間違っていない。確かに美影には天賦の才がある。たとえ一切の興味がなかったとしても、彼女がナイフをあつかう素質において他の追随を許さないことに違いはあるまい。しかし当の美影はそうは思わない。そんな可愛らしい自惚れなど抱けるはずもない。

 ここに断言しよう。この場においてもっとも刃物に愛されているのは、他でもない肆条緋咲という女なのだと。一人の男が生涯をかけて磨き上げた技を、なんの変哲もない果物ナイフによって凌駕してみせるのは、世界広しといえども彼女、いや《肆条》を置いて他にはいるまい。

「やっぱり腑抜けちまったんじゃねぇか、おまえ」

 いつの間にいたのか、革張りのソファに玖凪託哉が座っていた。皮肉げに唇をゆがめて美影を睥睨している。

「粋がって絡んできた奴を見逃してやるなんざ優しさを超えてただのバカだ。オレならそいつの指を落として二度と刃物を握れないようにしてるぜ」

 大気を何かが駆け抜けた。託哉の目の前にあった木製のテーブルが真っ二つに割れてくずおれる。美影が左腕を振るった体勢のまま、苛立ちをあらわにした目で睨んでいた。

「いい目だな。おまえにはそっちのほうが似合ってるよ、《壱識》の」

 何事もなかったかのように語る託哉が、美影にはひどく不快のようだった。

 始まりの家が終わりの家によって絶滅したいま、現存する家系は九つ。そのうち、ここに三つが集った。かれらが召集された時点で、これから行われるのは普通の作戦ではありえない。きっと戦火が上がるだろう。民衆の間には恐怖が蔓延するだろう。かつての抗争を彷彿とさせるような混乱が起きるだろう。

 これより先、人の命が雨粒のように流れる夜が来ることを、かれらはまだ知らなかった。



感想掲示板 作者メニュー サイトTOP 掲示板TOP 捜索掲示板 メイン掲示板

SS-BBS SCRIPT for CONTRIBUTION --- Scratched by MAI
1.927463054657