──この本の中にある様な、素敵なところへ行けたらいいのに。
「涼子、ちゃんと勉強やってるの?」
食事を始めるなり、母がいきなりそんな事を聞いてきた。この後の展開は決まっている。
「やってるよ」「あなたも来年は受験生なんだから──」
そうやって小言が始まるのだ。そんなお約束に付き合う事が嫌で、私はすぐさま席を立って自分の部屋へ向かった。後ろから「残すな」だの、「話を聞け」だの聞こえてくるが、構わず階段を上がる。階段を上がり終えた際に「まったく隣のシュウちゃんに比べて」と微かに聞こえた気がしたので耳をふさいだ。嫌な気分だった。
部屋の中に入って机に向かった。いつもの習慣で鞄の中から教科書を取り出そうとしたが、母の言葉を思い出してやめた。せめてもの反抗だが、結局自分が損をするだけだ。それでも少しだけ私の心は落ち着いた。たまに思いついた様にあの手の小言を繰り返す母が嫌だった。特に隣人と比べられる事が我慢できなかった。そして、毎回その言葉に傷いて、反論もできずに部屋に逃げ帰る自分がもっと嫌だった。努力しても埋まらない差というものがあるのだ。
頭に血が上って何もする気が起きない。本棚の最下段にあるハードカバーの小説を取ってベッドで横になった。もう何度も読んだ、古い児童向けの翻訳ファンタジーだ。軽く目を通すだけで頭の中に情景が蘇る。そこは美しく、魅力的な世界だ。だが行く事はできない。虚構の世界を思い浮かべれば浮かべるほど、その幼い頃から親しんだ世界への憧れと郷愁が入り混じり、現実との落差が照らし出されて悲しくなった。なまじっか手が届きそうだから、余計に胸が熱くなる。
魔法は決して本の中だけの嘘ではない。かつては多くの人が憧れていた世界は現実のものとなった。魔術は科学体系に取り込まれ技術として使用され、段々と生活の中でも使われ始めている。本の中でだけ息づいていたはずの生物達がコンクリートで囲まれた研究室の中を這うようになり、物語の神秘に覆われていた魔法使いは今や全ての人々がなれるのだ。
私が今読んでいる本も、魔法が知られていなかった当時はファンタジーと位置付けられ現在もそう呼ばれているが、この中に書かれている事の幾つかは現実となり、また幾つかは未来の世界で現実になるのだろう。けれど多くの夢見る人々にとって本の世界はいまだ夢のままだ。森の中を彷徨い妖精の舞う泉へ辿り着く昔話は、剣を取り龍を討伐する御伽噺は、魔法が当たり前になれば当たり前になるほど、ますます離れていく様に感じられた。
本を閉じる。目も閉じる。
本に描かれた情景を闇の中で思い浮かべながら私は夢の世界に足を踏み入れた。
からりという音が聞こえた。何か固い物が落ちた様だ。
眠りから覚めると、目の眩む光があたりを覆っていた。思わず両手で顔を庇い、目を強くつむった。毎朝の目覚めと違っていた。混乱しながら眩んでしまった目の代わりに耳を澄ました。周りの音は聞こえなかった。いつもは聞こえるはずの涼やかな鳥の声も、慌ただしい家族の音も何も聞こえなかった。
ただ自分の荒い鼻息だけが響いていた。響く鼻息に顔が赤くほてった。それをきっかけにして緩やかに意識が覚醒し、いつもとの違いが異常としてはっきりと認識した。
ここはどこか別の場所なのかもしれない。ぼんやりとそう思った。
顔を庇う両腕をゆっくりとずらしながら目を開けると、まっ白な壁が見えた。起き上がって辺りを見回すと、白い壁が四方を囲んでいた。乗っているベッドも、掛かっているシーツも、来ている簡素な服も同様に、にごりのまるでない病的なまでの白さだった。気が狂いそうな白い部屋の中で、ただ一つ自分の浅黒い肌だけが安心感を帯びていた。
「お目覚めかな」
びくりと声のした方に視線をやると、ベッドの陰に黒い生き物がいた。ぬいぐるみの様に頭が大きい不格好で愛嬌のある生き物だった。
「見れば分かるでしょ」
自分の口から言葉が漏れた。
「分からないね。別に僕が覚醒と睡眠の違いが分からないわけじゃない。きっと君自身でさえも分からない。どういう事か分かるかな?」
黒い生き物の言葉はよく分からなかった。だから首を横に振った。黒い生き物は小馬鹿にした様な表情を浮かべている。馬鹿にされているのだろうが、姿形と相まってどこか滑稽に見えた。
「今の君の状態を正しく理解すれば、僕の言っている事は分かるだろう。とはいえ正しく認識するのは大変だろうね」
理解しようと努めたが、頭がうまく働かなかった。ふらりと視界が揺れた。
「まあいいんだ。元気そうだから。折角生み出されたというのに、すぐに消えてしまっては悲しいだろう?」
だんだんと黒い生き物の声が遠くなっていく。気がつくと体が横たわっていた。
「ああ、また寝てしまうのか。まだ疲れが残っているのかな? なんせこの僕を──」
私はゆっくりと眠りに落ちていった。
気がつくと人の群れの中を漂っていた。右に左に迫る人を避けながらどこかへ向かっていた。視界がちらつく。意識が途切れ途切れとなってはっきりしない。やがて誰かと落ち合った。今度は二人でどこかへ向かう。やがて高い建物の中に入り、そのまま意識を失った。
目を開けるとどこか大きな部屋の中にいた。幾つもの照明機材が運び込まれて、辺りを照らしていた。照らされた壁は古くぼろぼろになっていた。一見するとみすぼらしいがよく見ると、見たこともない様式の装飾で飾られ、形容出来ない絵が描かれ、どことなく不可知の威厳を感じさせた。突然、体全体に衝撃が走り、また不思議な世界へと飛び立った。
そして目を覚ますと、目の前に一人の青年がいた。くすんだ銀色の髪に青い目をしていて、見た事のない服装をしていた。どこかその青年はいつも読んでいたファンタジー小説を思い起こさせた。
青年から小さな地図を手渡される。青年は遺跡の中の地図だと言っていたが、そこには山や森が書き込まれていた。地図に書き込まれているのは遺跡のごく一部だそうだが、本当だとすれば遺跡は想像する事さえ困難な程の広さだ。頭ではでたらめだとは思うのだが、なぜだか心では受け入れていた。ここはそういう場所なのだと。
青年が何か喋っていたが、あまり頭に入ってこなかった。幾つか気になる話を聞いた気がするが、思い出そうとすると、記憶があいまいになってしまい思い出す事が出来なかった。満足げに去っていく後ろ姿を見ながら、とりあえず遺跡の中に入ってみようと思った。
前には二股の道が待ち構えていた。後ろを振り向くとそこに瓦礫の散乱する階段があった。地図を確認してみると、どうやらここは遺跡の入口らしい。すでに遺跡の中に入っていた様だ。上を見上げると遺跡の中に青い空が広がっていた。それはきっとおかしいのだろう。だが当たり前だという印象が強かった。そもそも部屋で寝たと思ったら、いつの間にか見た事もない場所に立っていたのだ。何が起きても驚かない心になってもおかしくはないのかもしれない。それに夢だという思いも強かった。きっとこれは夢なんだ。そう思うと、何が起きても不思議ではなくなってしまう。
とりあえず進んでみる事にした。地図を見ると今いる場所は草原の様だ。確かに辺りには草が生え茂っている。遠くを見ると森の向こうに山が見えた。
「とりあえず話にあった魔法陣とやらを見てみましょう」
それが良いと思った。
地図に示された魔法陣の場所へ行くと、地面に奇妙な模様が描かれていた。教科書で読んだ魔術様の模様とは似ても似つかなかった。魔法陣というからには魔術に関連した模様だと思っていたが、これではないのだろうか?
「私が見たどの文化圏のものとも違う。独自の文化を? いや人が考え付くものなのか? こんなこれを覚えればここに移動できるわけね。こんな便利な物があれば私ももう一つの方を見てみない事には何とも言えないな。いや面白い!」
それもそうだと思い。もう一つの魔法陣へと向かった。そこにも見た事のない奇妙な模様があった。どうやらこれが魔法陣で間違いないようだ。
「素晴らしい! 素晴らしい! これぞ魔術の最奥! さて一旦外へ引き上げようかな。探索に準備は不可欠だ。この年になってこれほど心がシャワーとかないのか? RPGの基本は情報集めだな。さっそく外で村人の話をきかなくちゃ」
両方の魔法陣を踏み終えてから、遺跡の外へ出た。
遺跡の中と違い、外は夕闇に染まっていた。薄く帳を張った闇の中でちらほら炎の明かりが見えた。焚火だろうか。もう夜は近い。すぐさま火を焚かなければ。
ふいに眠気が襲ってきた。なんだかひどく疲れていた。疲れた意識とは裏腹に、肉体の方はてきぱきと火を起こし野営の準備を行っていた。その間にもどんどんと意識は遠ざかり、やがてどこかで聞いたからりという音と共に完全に意識を失った。