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[29811] 【完結 習作】突発性変異誘発症候群(オリジナル ホラー)
Name: 烏口泣鳴◆db25df9d ID:41696623
Date: 2011/10/06 21:14
 まえがき

 この小説は「小説家になろう」にも掲載させていただいております。


 あらすじ的な何か

 ようこそ異世界へ。
 幻想と変化を望む希求者様、ようこそいらっしゃいました。
 恐れる事は御座いません。ここはあなたが望んでいた別天地。
 奮って御変質下さい。



[29811] ようこそ異世界へ
Name: 烏口泣鳴◆db25df9d ID:41696623
Date: 2011/09/18 17:27
 ──この本の中にある様な、素敵なところへ行けたらいいのに。

「涼子、ちゃんと勉強やってるの?」
 食事を始めるなり、母がいきなりそんな事を聞いてきた。この後の展開は決まっている。
「やってるよ」「あなたも来年は受験生なんだから──」
 そうやって小言が始まるのだ。そんなお約束に付き合う事が嫌で、私はすぐさま席を立って自分の部屋へ向かった。後ろから「残すな」だの、「話を聞け」だの聞こえてくるが、構わず階段を上がる。階段を上がり終えた際に「まったく隣のシュウちゃんに比べて」と微かに聞こえた気がしたので耳をふさいだ。嫌な気分だった。
 部屋の中に入って机に向かった。いつもの習慣で鞄の中から教科書を取り出そうとしたが、母の言葉を思い出してやめた。せめてもの反抗だが、結局自分が損をするだけだ。それでも少しだけ私の心は落ち着いた。たまに思いついた様にあの手の小言を繰り返す母が嫌だった。特に隣人と比べられる事が我慢できなかった。そして、毎回その言葉に傷いて、反論もできずに部屋に逃げ帰る自分がもっと嫌だった。努力しても埋まらない差というものがあるのだ。
 頭に血が上って何もする気が起きない。本棚の最下段にあるハードカバーの小説を取ってベッドで横になった。もう何度も読んだ、古い児童向けの翻訳ファンタジーだ。軽く目を通すだけで頭の中に情景が蘇る。そこは美しく、魅力的な世界だ。だが行く事はできない。虚構の世界を思い浮かべれば浮かべるほど、その幼い頃から親しんだ世界への憧れと郷愁が入り混じり、現実との落差が照らし出されて悲しくなった。なまじっか手が届きそうだから、余計に胸が熱くなる。
 魔法は決して本の中だけの嘘ではない。かつては多くの人が憧れていた世界は現実のものとなった。魔術は科学体系に取り込まれ技術として使用され、段々と生活の中でも使われ始めている。本の中でだけ息づいていたはずの生物達がコンクリートで囲まれた研究室の中を這うようになり、物語の神秘に覆われていた魔法使いは今や全ての人々がなれるのだ。
 私が今読んでいる本も、魔法が知られていなかった当時はファンタジーと位置付けられ現在もそう呼ばれているが、この中に書かれている事の幾つかは現実となり、また幾つかは未来の世界で現実になるのだろう。けれど多くの夢見る人々にとって本の世界はいまだ夢のままだ。森の中を彷徨い妖精の舞う泉へ辿り着く昔話は、剣を取り龍を討伐する御伽噺は、魔法が当たり前になれば当たり前になるほど、ますます離れていく様に感じられた。
 本を閉じる。目も閉じる。
 本に描かれた情景を闇の中で思い浮かべながら私は夢の世界に足を踏み入れた。
 からりという音が聞こえた。何か固い物が落ちた様だ。

 眠りから覚めると、目の眩む光があたりを覆っていた。思わず両手で顔を庇い、目を強くつむった。毎朝の目覚めと違っていた。混乱しながら眩んでしまった目の代わりに耳を澄ました。周りの音は聞こえなかった。いつもは聞こえるはずの涼やかな鳥の声も、慌ただしい家族の音も何も聞こえなかった。
 ただ自分の荒い鼻息だけが響いていた。響く鼻息に顔が赤くほてった。それをきっかけにして緩やかに意識が覚醒し、いつもとの違いが異常としてはっきりと認識した。
 ここはどこか別の場所なのかもしれない。ぼんやりとそう思った。
 顔を庇う両腕をゆっくりとずらしながら目を開けると、まっ白な壁が見えた。起き上がって辺りを見回すと、白い壁が四方を囲んでいた。乗っているベッドも、掛かっているシーツも、来ている簡素な服も同様に、にごりのまるでない病的なまでの白さだった。気が狂いそうな白い部屋の中で、ただ一つ自分の浅黒い肌だけが安心感を帯びていた。
「お目覚めかな」
 びくりと声のした方に視線をやると、ベッドの陰に黒い生き物がいた。ぬいぐるみの様に頭が大きい不格好で愛嬌のある生き物だった。
「見れば分かるでしょ」
 自分の口から言葉が漏れた。
「分からないね。別に僕が覚醒と睡眠の違いが分からないわけじゃない。きっと君自身でさえも分からない。どういう事か分かるかな?」
 黒い生き物の言葉はよく分からなかった。だから首を横に振った。黒い生き物は小馬鹿にした様な表情を浮かべている。馬鹿にされているのだろうが、姿形と相まってどこか滑稽に見えた。
「今の君の状態を正しく理解すれば、僕の言っている事は分かるだろう。とはいえ正しく認識するのは大変だろうね」
 理解しようと努めたが、頭がうまく働かなかった。ふらりと視界が揺れた。
「まあいいんだ。元気そうだから。折角生み出されたというのに、すぐに消えてしまっては悲しいだろう?」
 だんだんと黒い生き物の声が遠くなっていく。気がつくと体が横たわっていた。
「ああ、また寝てしまうのか。まだ疲れが残っているのかな? なんせこの僕を──」
 私はゆっくりと眠りに落ちていった。

 気がつくと人の群れの中を漂っていた。右に左に迫る人を避けながらどこかへ向かっていた。視界がちらつく。意識が途切れ途切れとなってはっきりしない。やがて誰かと落ち合った。今度は二人でどこかへ向かう。やがて高い建物の中に入り、そのまま意識を失った。

 目を開けるとどこか大きな部屋の中にいた。幾つもの照明機材が運び込まれて、辺りを照らしていた。照らされた壁は古くぼろぼろになっていた。一見するとみすぼらしいがよく見ると、見たこともない様式の装飾で飾られ、形容出来ない絵が描かれ、どことなく不可知の威厳を感じさせた。突然、体全体に衝撃が走り、また不思議な世界へと飛び立った。

 そして目を覚ますと、目の前に一人の青年がいた。くすんだ銀色の髪に青い目をしていて、見た事のない服装をしていた。どこかその青年はいつも読んでいたファンタジー小説を思い起こさせた。
 青年から小さな地図を手渡される。青年は遺跡の中の地図だと言っていたが、そこには山や森が書き込まれていた。地図に書き込まれているのは遺跡のごく一部だそうだが、本当だとすれば遺跡は想像する事さえ困難な程の広さだ。頭ではでたらめだとは思うのだが、なぜだか心では受け入れていた。ここはそういう場所なのだと。
 青年が何か喋っていたが、あまり頭に入ってこなかった。幾つか気になる話を聞いた気がするが、思い出そうとすると、記憶があいまいになってしまい思い出す事が出来なかった。満足げに去っていく後ろ姿を見ながら、とりあえず遺跡の中に入ってみようと思った。
 前には二股の道が待ち構えていた。後ろを振り向くとそこに瓦礫の散乱する階段があった。地図を確認してみると、どうやらここは遺跡の入口らしい。すでに遺跡の中に入っていた様だ。上を見上げると遺跡の中に青い空が広がっていた。それはきっとおかしいのだろう。だが当たり前だという印象が強かった。そもそも部屋で寝たと思ったら、いつの間にか見た事もない場所に立っていたのだ。何が起きても驚かない心になってもおかしくはないのかもしれない。それに夢だという思いも強かった。きっとこれは夢なんだ。そう思うと、何が起きても不思議ではなくなってしまう。
 とりあえず進んでみる事にした。地図を見ると今いる場所は草原の様だ。確かに辺りには草が生え茂っている。遠くを見ると森の向こうに山が見えた。
「とりあえず話にあった魔法陣とやらを見てみましょう」
 それが良いと思った。
 地図に示された魔法陣の場所へ行くと、地面に奇妙な模様が描かれていた。教科書で読んだ魔術様の模様とは似ても似つかなかった。魔法陣というからには魔術に関連した模様だと思っていたが、これではないのだろうか?
「私が見たどの文化圏のものとも違う。独自の文化を? いや人が考え付くものなのか? こんなこれを覚えればここに移動できるわけね。こんな便利な物があれば私ももう一つの方を見てみない事には何とも言えないな。いや面白い!」
 それもそうだと思い。もう一つの魔法陣へと向かった。そこにも見た事のない奇妙な模様があった。どうやらこれが魔法陣で間違いないようだ。
「素晴らしい! 素晴らしい! これぞ魔術の最奥! さて一旦外へ引き上げようかな。探索に準備は不可欠だ。この年になってこれほど心がシャワーとかないのか? RPGの基本は情報集めだな。さっそく外で村人の話をきかなくちゃ」
 両方の魔法陣を踏み終えてから、遺跡の外へ出た。
 遺跡の中と違い、外は夕闇に染まっていた。薄く帳を張った闇の中でちらほら炎の明かりが見えた。焚火だろうか。もう夜は近い。すぐさま火を焚かなければ。
 ふいに眠気が襲ってきた。なんだかひどく疲れていた。疲れた意識とは裏腹に、肉体の方はてきぱきと火を起こし野営の準備を行っていた。その間にもどんどんと意識は遠ざかり、やがてどこかで聞いたからりという音と共に完全に意識を失った。



[29811] 何て事の無い寒い朝
Name: 烏口泣鳴◆db25df9d ID:41696623
Date: 2011/09/18 17:27
 ──私はもう駄目だから、みんなの願いを叶えたい。この白塗りの世界から抜け出して。

「わっ」
 頬に嫌な感触を得て毛布を払いながら飛び起きた。慌てて頭のあった場所を確認すると九本足の蜘蛛がいた。本来の八本足とは別に顔からもう一本余分に足が生えているのだ。あまりの気味悪さに絶句しているうちに、蜘蛛は奇妙な軌跡を描きながら、ちょこまかと砂を蹴り捨てて草むらの陰に隠れてしまった。呆然としていると冷たい風が吹いた。思わず体からはがれた毛布を体に纏わりつかせた。
「寒い」
 足元の草にうっすらと霜が降りている。どうやらひどく冷え込んでいるらしい。毛布の間から吹き入ってくる風が冷たかった。とにかく火でも起こしてみるかと、手ごろな草葉を集めようとして、はたと気づいた。
「ここ、どこ?」
 今いる場所にまったく見覚えがなかった。辺りは森に囲まれていたが、その一帯だけ木が生えておらず広場の様になっていた。薄暗い中でちらほらと人影が見えた。テントが張ってあるので、キャンプ地なのかもしれない。観光地だろうか?
 どちらにせよ、この場所はまるで見た事のない場所だった。よくよく見てみると自分の服装も今まで一度も見た事のない、どこか異国を思わせる服装をしていた。何かがおかしい気がした。ただ心のどこかで当たり前だという思いがあった。頭の中が引っかき回された様に、ごちゃごちゃとまとまりがなくなっているようだった。
「私の名前は広瀬涼子」
 自分の記憶が正常かどうか確かめるために、自分の名前をつぶやいてみた。はっきりとした親しみを持って、自分の名前だという事が確認できた。続いて両親の名前を挙げようとして、思い出せず口ごもってしまった。その後も自分の記憶を確認してみたが、自分の名前や好みなど自分自身については思い出せるのに、両親の名前、友達の名前、自分の住んでいる場所などの自分以外の事については思い出せなかった。ぼんやりとした映像がかすれて残っているだけだった。
 昨日はどんな一日だったか思い出そうとしてみた。しかしどれだけ頑張っても、ぼんやりと白い壁が見えるだけだった。今の状況に繋がりそうな記憶は欠片も出てこなかった。考え込んでいる内に、ぐるぐると視界が回っている様な錯覚を持った。視界の揺れに合わせてだんだんと意識があやふやになっていく様な気がした。
 近くの樹に体をもたれかけてゆっくりと深呼吸をすると、少しずつ意識がはっきりとしていった。気持ちが落ち着いてから、もう一度さっきの考えに立ち戻った。
 確か起きたらひどく寒かった事についてだったろうか? よくよく考えてみるとおかしい事だとは思えない。そう何もおかしい事などないのだ。これだけ考えて、何がおかしいのか分からないのであれば、それはおかしくないのだろう。思い悩む必要はない。簡潔に言えば、目を覚ましたら寒い場所にいただけなのだ。誰かが死んでしまったとか、ものすごい災害が起きたわけではない。ただ起きたら寒かっただけなのだ。それは冬に入ってしまえば当たり前の事だ。今は冬なのだから寒いのは当然だ。明確な答えが頭の中に構築されていった。自分の中ではっきりとした答えができると、妙にすがすがしい気持ちになった。
 問題があるとすれば、今着ている服が防寒に適しているとは思えない事だ。その時、体が導かれるようにして足元の荷物から暖かそうなコートを引っ張り出した。何の疑問も抱かずに、コートへ袖を通す。
 暖かかった。これで寒空の下で冷たく凍りつく事はなさそうだ。
 心地よい安堵感が体を包んだ。目を閉じて大きく伸びをした。目を開けると、膨れ上がった人間の顔と目があった。
「っ!」
 驚いて声すら出せずに後ずさった。眼のあった何かは消えていた。気のせいだったのだろうか。一つ息を吐いて気持ちを落ち着けた。何にもおかしくはない。幻覚を見る事くらい誰だってあるのだ。
 気がつくと足が何処かへ向かっていた。どうやら遺跡へと歩んでいるらしい。ゆっくりと視界が霞がかっていった。
 視界が晴れると辺りから樹木が消え去り、草原に囲まれていた。草原の向こうに人影があった。その人影が段々と近づいてくる。それは緑色をしていた。
「人じゃ……ない?」
 口が勝手に開いた。
 緑色をしたそれが何なのかよく分からなかった。なぜそれを人でないと思えてしまうのか分からなかった。どこが人と違うのか。人とはなんだ? 分からない。これだけ考えて分からないのであれば、きっとあれはヒトなんだろう。



[29811] ここは一体
Name: 烏口泣鳴◆db25df9d ID:41696623
Date: 2011/09/18 17:28
 次の実験で私は消えてしまうかもしれない。だから私が消えても誰かに思い出してもらえる様に、私の事を憎める様に、今までの日記を書いて、私という存在を少しでも残しておこうと思う。
 ある日、まだ空も暗い内から両親に起こされて車に乗せられた。眠くて文句を言いたかったが、両親の奇妙な熱気に気おされて何も言えなかった。車に乗り込んですぐに寝てしまい、起きた時には海岸沿いを走っていた。沢山の人で賑わっている浜辺を眺めながら、私は旅行に行くのだと確信した。そして何かおもちゃを買ってもらえるんだと信じて疑わなかった。両親が目を輝かせていたからだろうか。なぜそう思ったのかはちょっと曖昧だ。もう、大分前の事だから記憶は薄れている。
 もうひと眠りした頃に車は目的地で止まった。肩を揺すられて目を開けた時、眼前に白い大きな建物がそびえ立っていて驚いた事を覚えている。今ではすでに見慣れてしまった外観も、その当時はとても不思議で魅力的に見えた。中に入ると両親は受付に行って興奮気味に何かを伝えていた。私は受付の隣に飾られたドーベルマンの置物をいじっていた。
 私がドーベルマンの口に指を突きこもうとした時、両親は私を掴んでロビーの椅子に座らせた。大人しくしている様に言われたが、その言葉を聞くつもりはなかった。綺麗なロビーで一通りはしゃいでから、やってきた研究所の女性に手をひかれ小さな部屋へと向かった。両親と引き離された事に若干の抵抗を感じたが、それでも喜びが勝っていた為に大人しく付いて行った。私はその女性をおもちゃ屋の店員だと思っていたからだ。自分のほしい物を決めに行くものだと勘違いして舞い上がっていた。
 小さな部屋の中には白衣を着た研究員が数人、横に並んでいた。席に座らせられて質問攻めにあったはずだが、正直なところ覚えていない。先ほどから何度も述べているように、私はおもちゃの事で頭がいっぱいだった。
 どうでもいい事だが、その時思い描いていたおもちゃは当時頻繁にCMが流れていた人形だった。私自身はそこまで欲しくはなかったが、友達が親に買ってもらえないと泣いていたので、貸してあげて一緒に遊びたかった。その人形は後で手に入れる事ができたが、その友達と会えなくなっていたので、無用の長物となった。それでもたった一つの私の宝物だ、

 視界が薄れていく、また眠くなってきたようだ。私はゆっくりと日記を閉じた。

 気がつくと、緑色のヒト型を倒していた。頭についている草が食べられそうだったので引き抜いた。あまりおいしそうには見えなかったが、拒む間もなく手慣れた手つきで肩からかけたバッグに詰め込んでいた。自分の行動を少し不思議に感じた。
 しゃがみ込んで、倒れている緑色の頭を持ち上げた。眼が二つ、鼻が一つ、口が一つ、耳はなかった。一見すると人間の様に見える。耳のない人だっているだろうし、人間で間違いないと思う。だがどこかがおかしい。何か道理に合わないそんな気がした。結局これが人なのかどうか、はっきりとした確信には至らなかった。人だとすると殺人の罪に問われてしまう。
 ここは一体どこなのだろう。改めてそんな事を疑問に思った。どの国かは分からないが、ぼんやりとここは島なのだとは思っている。はっきりとは思い出せないが、誰かからそんな事を聞いた気がした。人が沢山いるので、無人島ではないだろう。周りの人を見ると様々な人種や人以外の種族がいるので、日本ではなさそうだ。一つだけ心当たりというか、期待している事があった。それはここが本で読んだようなファンタジーの世界ではないかという事だ。そんな雰囲気が漂っている様に思えた。もしそうであれば、魔法なども使えるかもしれない。今倒した緑色も、人の姿に似たモンスターだと思えば罪の心も軽くなる。
 そういえば、この緑色を私はどうやって倒したのだろう? 戦っていたはずなのだが、思い出せなかった。記憶が途切れがちだ。
 突然目の前に帽子を目深にかぶった男が現れた。再び記憶があいまいになる。ああそうか。そういう事だったんだ。何か分かった気がしたが、記憶と同様千切れていった。



[29811] 夕暮れの中で
Name: 烏口泣鳴◆db25df9d ID:41696623
Date: 2011/09/18 17:28
 今日は緑を二つ殺した。
 明日は三つになっているのだろうか。分からない。

「おい、涼子!」
「あ、シュウ……何よ」
 名前を呼ばれたので振り返ると、隣に住む幼馴染が立っていた。昨日母親が私と対比した人物だ。昨日の嫌な記憶を思い出して思わず渋面を作った。
 そいつは名前を都並修也といい、絵に描いた様な優等生だ。まず成績に関しては私と天地の差がある。当然向こうが月で、私がスッポンだ。校内での成績は常にトップを維持し、目指す医学部に合格する事を有望視されているらしい。その上品行方正、明朗快活と性格も申し分ない。顔に関しても、クラスや部活での評価を聞く限りは相当のレベルを保持している様だ。ただ顔に関しては、私は幼い頃から見慣れているからなのか、私の評価と世間の評価はずれている。友人達が持て囃すたびに首をかしげてしまう。母親から事ある毎に比べられてきたこともあり、とにかく一緒にいると劣等感を刺激される人間である事は間違いないと思っている。この点に関しても世間の評価とはずれているらしいが、これに間違っているのは世間の方だと信じている。外面がいいせいで周りの評価は高いが、実際はとにかく腹の立つ奴なのだ。
「な、なんだよ?」
 私が苦い顔をしていたからか、シュウが半歩下がった。
「別に……それより珍しいね。あんたから話しかけてくるなんて」
 私達は家が隣同士ではあるが、登校から下校までの間にお互いが関わる事はあまりない。小学校の頃はよく一緒に遊んでいたが、中学校の時にシュウが一緒に登下校する事を拒否してから段々と疎遠になり、高校では家族ぐるみの付き合いの中でも他人行儀な関係になっていた。特に学校での関係は他人と言ってもいい位の付き合いだ。
「誤解されるから別々に登下校しようとか言ってなかった?」
「何だよそれ。まあいいや、たまにはいいだろ。ほら、もうそろそろで……」
「もうそろそろ?」
「いや、その……」
 その先は口ごもってはっきりとしなかった。何かあっただろうか? 口ぶりからすると重要な事の様に思えるが。
「もしかして転校でもするの?」
「え? 俺が?」
「いや、違うならいいけど」
 分からない。一体何があるというのだろう。もうすぐと言えば、年末年始だが、年に関係するものだろうか?
「そっか。転校しない方がいいのか」
 シュウを見ると何やら照れくさそうな顔をしていた。改めてこうして近くから見ても、かっこいいという感じではなく、見慣れた顔だという印象が強い。
 マジマジと見ていると、段々とシュウの顔が赤くなっていった。
「な、なんだよ?」
「別に」
 しばらくお互い無言になった。別に気まずくなったというわけではない。私としては特に話しかける事がないだけだ。ただ話しかけない代わりに、昔二人で一緒に帰っていた時の事を思い出して懐かしい気持ちが湧いてきた。確かあの時はこんなにも眩しい夕日が。
「おい、涼子! 涼子! おい!」
 突然、ぐらぐらと揺れる視界一杯に、シュウの顔が写りこんだ。近い。
「な!」
 あまりの驚きに思いっきりシュウを突き飛ばした。心臓の鼓動が耳に響く。視界が暗い。何が起こったのか理解できないまま、衝動的によろめいたシュウに向かって思いっきり怒鳴った。
「何すんのよ、あんた!」
「涼子、気付いたか? ダイジョブか?」
 てっきり怒鳴り返してくるかと思っていたので、その反応に当惑した。
「はぁ?」
「お前がいきなり変な事言い始めるから……びっくりした。なあ、ホントに大丈夫か?」
 何を言っているのだろう? 私が変な事を言っただろうか?
 突然手を強くつかまれた。
「とにかく早く帰ろう! 荷物持つよ」
 荷物をひったくられ、なすがままにして手を引かれ家へと連れられた。
 何か思い出せそうな気がした。だが結局、家に帰りそのままベッドに倒れこんでも、頭に引っかかる記憶を手繰り寄せる事は出来なかった。



[29811] 白い部屋で悪魔と二人
Name: 烏口泣鳴◆db25df9d ID:41696623
Date: 2011/09/18 17:29
「お帰り。あら! 顔色悪いんじゃない?」
「うん、なんか風邪ひいたみたい」
「大変! はやく寝なさい! 明日も塾でしょ! 一日でも遅れたら大変なんだから!」
「…………」
「薬あったかなぁ? あんたは早く寝なさい。夕飯はおじやでいいわね?」
「……うん、分かった」

 カチカチと時計の針が時を刻む音が聞こえてくる。

 目を覚ますと豚の顔が目の前で笑っていた。その顔には見覚えがある。昨日見た黒い生き物だ。
「お目覚めかな?」
 第一声は昨日と同じ言葉で、まるで昨日を繰り返している様な奇妙な感覚だ。白で統一された部屋、人形の様な黒い生き物、そいつが喋る昨日の繰り返し。まるで不思議な物語を読んでいる様な錯覚に陥った。だがそれも面白いかもしれない。そう思って私は口を開いた。
「見れば分かるでしょ?」
「ああ、今日ははっきりしている様だ」
 私も昨日と同じ事を言ったのに、そいつは昨日と違う言葉を吐きだした。外見の割に愛想のない奴だ。なんとなく現実に引き戻された気がした。とは言っても、依然として周りを取り巻く環境は夢の世界の様であったが。
「さて、早速だけど僕がなんだかわかるかな?」
 そいつは短い手を胸に当てて、片目をつぶった。滑稽なその動作はまるで人形劇を見ている様だ。
「さあ? 見た所、豚の人形に見えるけど」
 私は首をかしげた。
 するとそいつは怒ったように、腰に手を当ててくるりと回った。
「悪魔だ。こんなに愛くるしい豚さんがいると思うのかい?」
「悪魔?」
 悪魔とはあの神話などに出てくる悪魔だろうか? 実在していたとは知らなかった。
「悪魔や天使、それから神様なんかはまだ確認されていなかったはずだけど」
 悪魔と名乗ったそいつは大げさな動きで顔に手を当てた。一々芝居がかっているその動作は、正直うっとうしい。
「ああ、なんて嘆かわしい。僕を造りし造物主が僕の事を知らないなんて!」
「は? なんだって?」
 耳を疑った。その口ぶりからすると、まるで目の前の生き物を造ったのが私といっているみたいではないか。
 そいつは私の顔を見ると一瞬小馬鹿にしたように笑い、それからもう一度大げさな動きで顔に手を当てた。
「僕を造りし造物主が僕の事を知らないなんて!」
 腹の立つ言い方だがそれよりも気になる事がある。
「まさかあんた、私の子供ってわけ?」
 悪魔は一瞬怪訝な顔になった後、狂人を見る様な目つきで私から後ずさった。
「そんなわけないだろう、冗談はよしてくれ。自分の顔と僕の顔を比べてごらんよ。人という不完全な肉体から完全な調和のとれた僕の様な悪魔を生み出せるわけないだろう? わきまえなよ、立場を」
 蹴りつけてやった。
「痛い!」
 その顔はどう見ても調和がとれている様には見えなかった。
「まあ、それに関しては安心したわ。で、あんた自分の事を悪魔って言ったわよね?」
「当然さ。僕は悪魔だから」
「で、造物主と言ったわね?」
「勿論。僕か君のどちらかか、あるいは神の見た夢でないのなら」
「造物主って誰?」
「言うまでもなく君の事さ。我を造りし稀代の魔術師よ」
 見間違いでなければその口元がひきつっている。今にも笑い出しそうな表情だ。いや、もう笑っている顔だ。
「ふざけてるでしょ?」
「当然さ。僕は悪魔だから。だけど言っている事はすべて真実。僕は悪魔だから本当の事しか語らない」
 若干の苛立ちを覚えるが、蹴りつけたい衝動を抑え現状把握に努めた。こいつが本当に悪魔だとするなら、いや本当じゃなかったとしても、かなり面白い状況には違いない。私はこんなファンタジックな世界を望んでいたはずなのだ。とりあえず、そいつの言っている事は全て本当だと信じてやる事にした。そうしないと、話が進みそうになかったという事もある。
「悪魔ってそういうものなの?」
「君が信じた悪魔はね」
「私が信じた?」
 私が悪魔の存在を信じていた覚えはない。いて欲しいと願っていただけだ。それに今まで悪魔を見たのは書物の中でだけだったが、そこに描かれていた悪魔像も目の前にいる人形とは全く違う存在だ。
「私があなたみたいなのを悪魔だと?」
「ひどい言い草だねぇ。信じられないかい? まあいい、おいおい分かるさ。それはそうとお腹は空いていないかな? ほら、ここに料理があるから冷める前に食べるといい」
 悪魔が盆の上で湯気を立てるシチューを差し出してきた。一体どこにあったのだろう。今いる部屋はほとんど視界を遮るものがない。同じ白色に統一された家具が壁際に置かれているだけだ。だというのに、今の今まで湯気を立てる料理の存在に気付かなかったのはどういう事だろう。
 私の考えを遮る音が、私自身のお腹から響いてきた。同時に息を噴き出す音が悪魔の辺りで鳴った。悪魔をにらむと、憎たらしいほどさわやかな笑みで料理を差し出してきた。まあ、さわやかと言っても所詮は豚の顔なわけだが。
 渡されたシチューを口に運ぶと、暖かさがお腹の中に沁み渡った。とても幸福な気持ちになった。特別おいしいわけでもないのに軽い感動まで覚えてしまう。無我夢中で食べ進めて、気がつくと綺麗にたいらげていた。
「さあ、お腹も一杯になっただろう? ゆっくりと眠るといい」
 悪魔の声に誘われる様に、ゆっくりと睡魔が近づいてきた。
「まずは体力を回復させないといけないからね」
 悪魔の手が優しげに私の頭をなでたと同時に、眠りの中に落ちて行った。途中で声が聞こえた気がした。
「君の心が現実に押し潰されない様に」
 何と言ったのかは、聞き取れなかった。

「つっ」
 体を走る鋭い痛みに目を覚ました。
 目を開けると、目の前に死体が置かれていた。その数は二体。両方とも赤黒い肌に、角を生やした見た事もない人間だった。
 まただ。このところ、気がつくと目の前に死体が置かれている。「気がつくと」といっても記憶が途切れているわけではない。確かに私が戦っていたはずなのにその間の事は現実味がないのだ。戦いが終わった後に、「気がつくと」という表現がぴったりくるほど、唐突に現実だと感じられるようになる。唯一実感できる事は目の前に存在する死体と体に走る傷跡だけだ。
 耳を澄ますと、どこからか時計の音が聞こえてくる。辺りにそんな音を出しそうな物は全くない。一体どこから聞こえてくるのだろう。一定のリズムで繰り返される針の音が少しずつ私の心を溶かしていく。二つの死体に目をやると、それは両親になっていた。いつも兄の事ばかり褒めるから、私の事ばかり虐げるからつい……どうしよう。どこかに逃げなくては。
 逃げよう逃げようと考えていたせいなのか、ふと遺跡の入り口近くに描かれた魔法陣を思い浮かべていた。一瞬の眩暈を感じると視界に映る景色が遺跡の入り口に変わっていた。戻ってきてしまったようだ。このままさっきまでいた魔法陣に戻ってもいいが、折角だから遺跡の外に出てみよう。遺跡の外に出ればきっと警察も追っては来れないだろう。遺跡の中で今も響くサイレンの音から一刻も早く逃げ出したかった。

 カチカチと時計の針が時を刻む様なサイレンの音が聞こえてくる。



[29811] 重なる歌声
Name: 烏口泣鳴◆db25df9d ID:41696623
Date: 2011/09/20 20:14
 目が覚めた。
 残響する歌声は遠く彼方へ消え失せた。

「あれ?」
 気がつくと自転車の前で固まっていた。今自分が何をしようとしていたのかとっさに思い出せなくなっていた。空は夕焼けに染まっている。服は制服を着ていた。下校途中だろうか。辺りを見回すと、場所はスーパーの自転車置き場だった。通学路からはやや離れている。手には買い物袋を持っていて、中には醤油が入っていた。どうやら醤油が切れていたので買い出しを命じられたというところだろうか。
 そこまで考えが及んだ途端、はっきりと現状を思い出す事ができた。ああ、そうだった。母親に買い物を頼まれたのだ。早く帰らなければ夕飯に間に合わなくなってしまう。
 急いで自転車にまたがろうとした時、唐突に肩を叩かれた。振り向くと、幼馴染のシュウが立っていた。
「よう、涼子もおつかいか?」
「まあね。あんたも?」
 右手を見ると醤油の入った袋を提げている。あまり恰好のつく立ち姿ではない。お互い様ではあるが。
 お互いの庶民臭さに呆れていると、シュウがじっと黙ったままこちらを見つめている事に気付いた。まさか私の恰好を馬鹿にしているのか?
「何? アホらしい恰好はお互い様だからね」
「ん? あ、いや、大丈夫かなと思って」
「はぁ?」
「いや、最近よくぼーっとしてるから。この前も風邪ひいたみたいだし」
 やけに深刻な顔で聞いてくるので思わず噴き出した。
「何真剣になってんの? ちょっと疲れてるだけだから。風邪だって寝たら治ったしね」
「そ、そっか」
 そう言って、シュウは頭を掻きながら微笑した。その表情はどこかぎこちない。おかしいのはむしろシュウの方だろう。最近やけに絡んでくる割にどこかよそよそしい態度なのだ。最初は何か企んでいるのかと思ったが、その様子もない。まさか私に惚れたのかとも考えたが、かつて私はこいつに手ひどく振られたのでそんな事はありえない。他に可能性があるとすれば。
「まさかあんた病気?」
「は? いや違うけど」
 違ったらしい。こちらの健康をしょっちゅう気遣ってくるので、実は聞いてくる当人が病気なのかと思ったのだが。
「まあ、それならいいんだけど」
 自分の想像が外れた事に安堵する。憎らしいとはいえ、一応幼馴染だ。健康であってくれる事にこしたことはない。
 安堵すると同時に当初の目的を思い出した。私は自転車にまたがってシュウに尋ねる。
「私は夕飯までに醤油持って帰らなきゃいけないからもう行くけど、あんたはどうすんの?」
「あ、俺も帰るよ」
 シュウが慌てて自転車にまたがるのを見て、私は漕ぎだした。すぐに追い付いてくるだろう。
「待てよ」
 案の定すぐさま追い付いてきたシュウと、家を目指して並んで帰る。帰り道の途中では二人とも一言も話さなかった。最近では当たり前になった光景だ。向こうから声をかけられて一緒に帰るのだが、その途中で向こうは一切話さないのだ。こちらから話を向けても、短い返事が返ってくるだけで会話が続かない。
 シュウの顔を盗み見ると、いつも通り眉間に皺を寄せ、頬を赤らめている。険しい表情は悩んでいる様に、赤い頬は恥ずかしがっている様に見えるのだが、合わせてみると怒っている様に見える。私達の親が二人の中が悪い事を気にして、シュウに命じていやいや私と帰らせているのかもしれない。
 そんな事を思っていると、いつの間にか家の前まで来ていた。ブレーキをかけて家の前で止まる。なぜかシュウも同じ様にして私の家の前で止まった。シュウの家はもう一つ先なのだが。
 何だろうと横にいるシュウに目を向ける。夕焼けに染まって陰影のはっきりした顔がこちらを見つめていた。お互いの目が合うと、今まで黙っていたシュウが突然声をあげた。
「なあ、涼子」
 振り絞る様な声だった。ついに私と帰る事に我慢の限界が来たのだろうか。
「何?」
 振り返ると、真顔のシュウが立っていた。表情からは何を考えているのか読む事が出来ない。
 シュウの口が開く。まだ何か迷っている様子で、なかなか言葉に繋がらなかった。背中を押してやろうかとこちらも口を開いたとき、シュウの口から予想外の言葉が飛び出した。
「クリスマス、空いてるか?」
 思いもかけない言葉に開いた口がふさがらない状態が数秒続いた。
「空いてるけど」
 やっとの事でそれだけ言うと、それを聞いたシュウは嬉しそうにポケットの中から二枚の紙を取り出した。
「たまたま友達から二枚もらったんだけどいかないか? 涼子好きだったろ?」
 クリスマスライブのチケットだった。私も予約していたが抽選に外れて諦めていたものだ。相当な人気のはずだが、譲ってもらったというのはどういう事だろう。
 見るとそのチケットは、くしゃくしゃになっていた。まさかずっとポケットに入れていたのだろうか。よれ具合を見ると一日二日でつく様な皺ではない。
 どういった経緯で手に入れたのだろうか。しばらく考えていたが、やがてやめた。ちょうど行きたかったライブなのだ。今はこの幸運を噛みしめるべきだろう。
「いいけど」
 途端にシュウは輝く様な笑顔を私に向けてきた。そこまで喜ばれるとさすがに気恥しい。
「ありがとな! これ渡しとくから!」
 言うなり、私にチケットを渡し、驚く様な勢いで自分の家の中に駆け込んでいった。
 独り取り残され、手渡されたチケットを見た。なぜあんなにも喜んでいたのだろう。もしかして一人で行くのが恥ずかしかったのだろうか。それにしても他に行く相手がいると思うのだが。
 隣家の玄関を見ながら、思わず呟いた。
「あいつ彼女いないのか?」
 ドヴォルザークが定時の歌を唄っていた。

 悪魔がその黒い体を赤く着飾っていた。
「何? サンタクロース?」
「その通り! ところで知っているかな? この赤と白を基調にしたサンタのイメージは、飲料メーカーの宣伝によって出来上がった事を!」
「聞いたことあるよ。ただ、あんたの恰好がサンタクロースだって分かったのは、その服装じゃなくて後ろのクリスマスツリーが見えたからだから」
「…………」
 後ろを振り向いて肩を落とす悪魔の様子を無視して、私は尋ねた。
「今日はクリスマスなの?」
 日付の感覚は無くなっていた。
「いや、イブだよ」
「そっか」
 今日が何月何日か。そんなことすら分かっていないのか。薄々気づいてはいたが。
「私は記憶喪失なのかな?」
「以前の事を思い出せるかい?」
 過去を思い出そうとすると、あやふやなイメージが去来するだけで、何一つとしてはっきりとは思い出せなかった。
「思い出せない」
「そうだろうね」
 沈黙が降りた。
 悪魔は私を気遣う様に七面鳥を捧げ持った。
「そんな事よりパーティーを楽しもう。料理はしっかりと用意してある。残念ながら君と僕の二人だけだが、今日は精いっぱい楽しもうじゃないか」
 二人だけのクリスマスか。懐かしい思いが胸を満たした。忘れてしまった記憶が私に語りかけているのかもしれない。
 ふと気付く。
「そういえば、他の人達はどうしたの?」
 悪魔が黙った。
「どうしたの?」
「まるでここに昔誰かがいた様な口ぶりだね」
「ここには確かに沢山の人が……」
 いくら考えても確証が得られそうな記憶は思い出せなかった。
「無理して思い出す必要はないよ。いずれ時が解決するさ」
 ずきりと頭が痛んだ。
「慌てて先に進む必要はない。今ここに君を害する人はいないんだ」
 気がつくと目に涙が溢れていた。
「君は今、安らぎを感じているだろう」
 視界が段々と暗くなる。
「だから思い出さなくていいんだ」
 悪魔の歌声がゆっくりと私の中に滲み渡っていった。

 暗闇が囁きかけてくる中で、笑う地図を頼りに遺跡外の店を探していた。もう何度道を間違えたか分からない。その度に馬鹿笑いをする地図が私の苛立ちを助長する。
 五分でつくはずの道のりを一時間近く彷徨って、ようやく目的の店を見つけた。露店が並ぶ広場をイメージしていたが、そこには現代的なスーパーが胸を張っていた。
 入口にはスーツを着こなしたボーイと垢で粗末な服を着た山賊がにやにやと全く同じ表情で立っていた。あまり良い気分ではない。
 冷やかな目をした自動ドアを抜けると、赤色の絨毯が合唱していた。陳列された商品達は思い思いの言葉で冒険者達にすり寄っている。その媚びる様には、入り口で感じたよりも更に強い不快感を催した。
 この前会った冒険者から、買った方がよいと言われた商品を探す。皮肉気に口を吊った看板が目当ての商品を教えてくれた。
 商品の前に立つと、ざわめきが一層強まった。うるさいので適当に手に取ってレジに持っていった。
 レジに並ぶ他の冒険者は籠に商品を入れていた。確かに入口の脇に籠が積み重ねられていた。少しだけ損をした気分になったが、籠達が一様に陰気な話を囁いているのを見て考えが変わった。使わなくて良かったと心の底から思った。
 レジを済ませて外に出ると、入る時に立っていたにやけ面の二人がいなくなっていた。店員だと思っていたが、冒険者だったのかもしれない。
 店の外に広がる森の中で仄明かりが漂っていた。ふとクリスマスという単語が閃いた。そういえば明日はクリスマスイブだ。みんなその準備をしているのだろうか。
 私も二人でライブに出かけるんだ。そう考えると嬉しくなった。あの人と行けるからだろう。なぜだろう、さっきまで何とも思っていなかったのに。今では──の事が…………誰だ? 誰の事だ? おかしいな。何か辻褄が合わない。そもそも明日何に行くといった? 明日は遺跡に潜って……変だ。辻褄が合わない。
 頭が痛くなった。誰かに助けてほしい。
 助けを求めて周りに視線を走らせた。木々が笑っていた。土が笑っていた。石が笑っていた。雲が笑っていた。空が笑っていた。月が笑っていた。みんな私の事を笑っていた。
 私だけ除けものなのだろうか。そんな不安が心を満たした。そう思うと涙が込み上げてきた。涙も笑っていた。
 心が張り裂けそうになって走った。笑う森を抜けると湖が湛えられていた。湖も笑っていた。
 絶望的な孤独感が私を襲う。よろよろと湖に近づくと、みんなの笑い声が高まった。湖に顔が映った。その顔は笑っていなかった。

 見つけた。私以外の笑っていない人を見つけた。死人の様に青白い男性が湖に映っていた。
 嘲笑の歌声が響く中で、私と彼だけが笑う事無くそこにいた。



[29811] お正月に乾杯
Name: 烏口泣鳴◆db25df9d ID:41696623
Date: 2011/09/21 19:15
 液体を注いだグラスが言った。
「今年もよろしくお願いします」

 乾杯を終えると、ちょうど年始に行われる恒例の長距離リレーがスタートしたところだった。私の父親や叔父達は大型テレビの前で酒を酌み交わしあっている。さっきまで眠そうな顔をしていた父親の顔が生き生きと輝いていた。海外から昨日の深夜に着いたばかりだから眠いだろうに、興味がある事だと眠気が吹き飛ぶようだ。ついさっき娘の私と久しぶりに会った時でも眠そうだったのに。
 といっても、私自身も海外を飛び回っている父親と久しぶりに会ったというのに、何も感じなかったのだからお互い様ではあるが。
「よぉ、久しぶり」
 綾という名のいとこがビールを片手にやってきた。
「どうも」
「元気ないなぁ。眠そうだぞ」
 快活に笑う顔はすでにアルコールで赤くなっている。普段は落ち着きのある大人びた女性なのだが、お酒が入ると人が変わった様に周囲と絡む。うっとうしい程ではないし、まして暴力を振るうわけでもないのだが、その豹変ぶりには普段自分を抑えているのだろうかといらぬ想像をしてしまう。
「実際眠いんです。日が変わるまで料理を手伝っていたので。誰かさん達がおせち料理を全部食べてしまいましたからね、綾さん」
「あはは。いやぁ、酔ってたから覚えてないなぁ」
「そうですか。残念です」
「私が覚えてるのは、クリスマスに男の子と歩いている涼ちゃんの嬉しそうな顔だけだなぁ」
「ぶっ」
 思わず口に含んでいたジュースを噴き出した。ちょうどグラスを口に当てていた事に感謝した。
「どうした?」
 噴き出した音を聞きつけて親戚達の目が私に集まっていた。
「いやー、涼ちゃんが焦ってるところなんて久しぶりに見たなぁ」
 にやにやと笑ういとこと周りに集まり始めた親戚達へ、私は必死に弁解した。すればするほど勘違いが深まる泥沼の中で、いつの間にか眠気は消え失せていた。

「今年はいい事あるかな」
「いい年にしようじゃないか」
 私は記憶を無くしていて去年の事を殆ど覚えていない。そして悪魔も生まれたばかりで去年の事は殆ど知らない。比べる年を知らぬのに、それでもこの年をより良くしようと思う。それはずれている事だと思うのに、消え失せた記憶が当たり前の事だと言っている。
 悪魔はグラスに入った透明な液体を飲みほした。悪魔の手元を見ると飲み干されたはずのグラスには、すでになみなみと液体が注がれていた。
 私も悪魔に倣って飲み干した。美味しかったが、今まで飲んだ事のない未知の味がした。甘さとも辛さとも塩辛さとも酸っぱさとも違う、気持ちに直接働きかけてくるような不思議な飲み物だった。手元を見るとすでにグラス一杯に注がれていた。こぼれそうになったので、グラスに口をつけて少しだけ啜る。さっき飲んだものとは違った味がした。火照った体を冷ます冷たい美味しさだった。
 そういえば冬だというのに、部屋の中はとても温かい。見回しても暖房器具は見当たらない。
「ここは冬なのに暖かいね。これも悪魔の力?」
「ん? そうだな。そういう事にしておこう」
「何それ」
「人の進歩を悪魔と呼ぶならそうなんじゃないかな」
 悪魔の指さす先には旧式の石油ストーブが赤く輝いていた。間違いなく先ほどまでそこにはなかったものだ。
「また物を増やしたね」
 始めはまっ白で埋め尽くされていた部屋が今は家具が林立していた。起きる度に家具が増えていく様は面白くもあった。なぜかテレビが二つある辺りに悪魔の適当さがうかがえる。
「君が次に起きた時には片づけておくよ」
 悪魔はそういったが、きっと私が次に起きた時は更に増えているのだろう。
 大きなタンスで隠れてしまった扉に目を向ける。この部屋でたった一つの出入り口がふさがっている。その事実はもう二度とここから出られない事を暗示している様な気がした。とはいっても、記憶がないからなのか、あるいは悪魔という話し相手がいるからなのか、この部屋に囲まれた閉塞感を不幸だとは思わない。外の様子は気になるが、中の暮らしも悪くはないと思っている。
 今は見る事ができないが、扉は周囲の壁と全く同じ色で、遠目には突き出たノブだけが微かに判別できた。近くで見ると扉と壁の境目がうっすらと見えたが、それでも気を抜くと分からなくなってしまう位、壁に溶け込んでいた。
 扉には鍵がかかっていたが、鍵を開閉するためのつまみも鍵穴は見当たらなかった。その時はそれが当たり前だと思っていたけど、よく考えればおかしな話だ。鍵穴が見当たらないのに鍵がかかっているという事は、鍵穴は向こう側についているのだろう。内側につまみも鍵穴もなくて、外側からだけ鍵をかけられるならそれはまるで牢屋の様ではないか。
 かつて、私がその疑問を悪魔にぶつけると、悪魔はここは牢屋ではないと言った。ここは君に悪意を持つ者が君を閉じ込める為に造った場所ではないと言った。悪魔は嘘をつかない。だからそれは本当の事なのだろう。だとしたら一体この部屋はなんなのだろう。一体だれが私を閉じ込めたのだろう。
 その時は眠気でそれ以上思考する事が出来なかったが、今ならできる。私は扉を指さして悪魔に言った。
「ねえ、悪魔ならさ、あの扉の鍵を開けてくれない?」
「そんな事はできないね」
 あっさりと断られてしまった。何故開けてくれないのだろう。もしかして悪魔が私の事を閉じ込めているのだろか。
「どうして? 悪魔なら簡単な事でしょう?」
 悪魔は嗤った。
「いやいや、確かに悪魔はなんでもできるけど、同時に何もできないのさ。僕は主人の願いに縛られている。主人の望みに反した事は逆立ちしたってできないのさ」
 ますます分からない。主人の願いを聞くのなら、今すぐ開けてくれたらいいのに。
「あなたの主人は私でしょ。私は今外に出たいって思ってるんだけど」
「本当にそうかな? まあ、なんにせよ、僕の主人は君じゃない。僕の主人は僕を生み出した存在なんだよ」
「あんた私の事を造物主だって」
「確かにそうさ。君は僕を生み出した。でもその時の心は記憶と一緒に無くした。その心がないと僕は君の願いを聞く事が出来ないのさ」
 悪魔は嗤った。とても悲しそうに嗤っていた。
「融通の利かない悪魔ね」
「しょうがない。そういうものなんだ」
 悪魔の姿がぶれた。
 分からない。分からない。
「ねぇ、扉の向こうには何があるの? 知ってるんでしょ?」
「何があると思う?」
「んー、洞窟?」
「はずれ」
「古いお城?」
「金属で囲まれたこの部屋を見てそんな事がいえる?」
「実は扉の向こうに全く同じ部屋があるとか?」
「映画の見すぎじゃないかな?」
「あんたみたいな人形見てたらそんな考えにもなるわよ」
 分からないから、意識が遠のく。
「ふぅ、もっと色々とヒントがあるだろうに。おっと、また寝てしまったか」
 ここは一体どこだろう。私は一体誰だろう。
「でも眠りに入る周期は安定してきた。もう少しで」
 分からないってなんだろう。

 乾杯を終えて私はカップに入った水をなめた。ほのかな甘みが口の中に広がった。カップに入っているのは、ただの水のはずなのに。喉が渇いていたからだろうか。おいしいを甘いと勘違いしたのかもしれない。あるいはこの島の水は本当に甘いのではないだろうか。ここの水は澄んでいるから。私の事を笑ったりしないのだし。
 対面の相手はまだ飲んでいない。カップには波一つ立っていない水で満たされている。お気に召さなかったのだろうか。
「水は御嫌ですか?」
 返事はなかった。キラキラとした玉は黙ったままキラキラと輝いている。
 他の飲み物があればよかったのだが、あいにくとここは文明の届かない森の中。近くに電灯の点いた店はないし、私に野生の植物から飲み物を採る技術はない。
 キラキラとした玉はキラキラと黙っている。思い返してみれば、会った時から喋っているところを見た事がない。無口な性格なのか。はたまた私に関心がないのだろうか。
 とはいえ、その静寂は私にとって心地よかった。他の物達の様に私の事を笑う事無く、静かにそこに在る。きっと前の持ち主がとても透明な人だったのだろう。どんな人なのかは分からない。名前すら分からない。けれど透明な人なのだから、きっと透明な名前なのだろう。
 カップの液体をあおる。懐かしい気持ちになった。確かこんな風に誰かと新年を祝ったはずだ。一体誰だったか。学習機能を持った人形だったか。豚の人形じみた悪魔だったか。医者を目指す幼馴染だったか。戦争で死んだ家族だったか。魔王にさらわれた姫だったか。魔術を極めんとして挫折した魔術師だったか。同じサークルの女の子だったか。娘を殺した妻だったか。実験で生まれたもう一人の私だったか。
 ああ、誰だったのだろう。沢山の人が思い浮かぶのに、誰一人として見覚えがない。私が一緒に新年を祝ったのは、確か俺があの時一緒にいたのは、あたしがあの時救えなかったのは。
 あれは誰だ。
 混乱が極みに達した時、突如右手が発光した。気がつくと大きな顎に挟まれていた。
 痛みは感じなかった。ただ噛まれたという事実に驚いて、ようやく思い出す事が出来た。
「お前……悪の怪人だな? そうだろう。そうに違いない!」
 右手に魔力を集中させて、目の前で見開かれた眼窩に突っ込んだ。
 そうだ、俺は社会を惑わす悪の怪人共を殺さなくちゃいけないんだ。
 何を迷っていたのだろう。いや、迷うのは仕方がない。それは子供の頃に憧れた戦士達が必ず通っていた宿命じゃないか。
 口が開いて体が地面に投げ出された。胸に大きな穴が開き、右腕が取れていたが、傷はふさがり始めている。左腕は動く。何も問題はない。
 顔をあげると巨大なトカゲがそこにいた。間違いなく悪の怪人だ。人の形をしていないので、もしかしたら変身しているのかもしれない。
 俺は即座に懐から有毒ガスの詰まった箱を取り出して、唸り声をあげている耳障りな口に投げ入れた。くぐもった爆音がトカゲの腹から響いた。
 すぐ横をトカゲの大きな尻尾が叩いた。その風圧によって横合いに吹き飛ばされる。
 立ち上がると、トカゲが口から煙を出しながら暴れまわっていた。
 このままトカゲは死ぬだろう。そう判断してトカゲと大きく距離をとった。
「嫌だ……嫌だ……嫌だ!」
 気がつくと足が震えていた。
 何を逃げているんだ。いや、何を迷っていたんだ。僕だけにしかできないんだ。僕がやらないといけないんだ。例えどんなやつが相手でも。
 そうだ、早く目の前の敵を殺さなくちゃ。そうしないと皆が。
 僕の体が軽やかに舞った。ただの高校生だとは思えない跳躍力でトカゲとの距離を詰めていた。
 不思議と体が勝手に動く。まるでずっと昔からそうしてきたかの様に。意識を集中して、突き出す両手で、僕は思いっきりトカゲの腹を突きあげた。
 ぶつりという音がして視界が暗転した。視神経が切れた音だと気付いたのは、次の番になってからだった。
 何を迷っていたんだ、私は……。



[29811] 独りロンド
Name: 烏口泣鳴◆db25df9d ID:41696623
Date: 2011/09/23 19:45
 幻想と戯れる。
 葬儀を終えた死体が踊る。
 死体の中で私も踊る。
 そうか、私も仲間だったんだ。



 目の前に死体が倒れていた。さっきまで元気に踊っていた寡黙な死体は二度と動く事のない人形に変わってしまった。今度は誰か別の意思が彼の体を輪舞に誘うのだろう。
 それが良い事なのか、悪い事なのかは判別できなかった。ただ彼の意志は決してそれを望んでいなかった事だけは分かる。私はその事に憐みを覚えていた。目の前の笑い始めた物ではなく、すでに飛び立った名前も知らぬ誰かに。その飛び去った先で願いを叶えて欲しいと祈らずにはいられなかった。
 木枯らしが吹く中で私はずっと祈っていた。



 ゴンという音と共に意識を覚醒した。額に皮膚が張った様な熱を感じる。どうやら寝ていたらしいが、起きぬけのぼんやりとした酩酊感はなかった。はっきりとした意識が、額に走った痛みのせいだろうかと考えた。
 机に載っている置時計を見ると、ちょうど十一時を指していた。夕飯を食べ終えたのが八時過ぎだったはずだ。帰るのが遅くなったため親が時計を強調しながら夕飯を並べていたのでよく覚えている。そうしてご飯を食べてからの記憶が無い。という事は、二時間は寝ていた様だ。長い間、机に突っ伏していた事を認識すると、急に体の節々が痛み始めた。体が鉛でも流し込まれた様に重い。全身が強張っていた。
 反射的に大きく伸びをした。すると手に持っていたシャープペンシルが手からこぼれ落ちた。緩慢な動作で拾い上げていると、宿題をしていた事を思い出した。
 どれだけ進んでいただろうか。眠る前の進歩状況は覚えていない。大した量ではないが、夜も更けた今になって義務的に勉学と向き合わねばならない事がたまらなく億劫だった。
 閉じた状態で置かれたノートに手を伸ばした。ノートを閉じられているという事は意識して宿題を中断したという事だ。全く覚えていないが、どうやら寝たのは自分の意志らしい。それでは何を恨む事もできない。
 苛立ちながらノートを開けると、そこにはびっしりと書き込みがされていた。よく見るとそれは宿題の答えだった。思わず寝る前の自分を褒め称えた。やる事はしっかりとやっていた様だ。
 ならばこんな机の上ではなく、ベッドに入って寝る事にしよう。そう考えてノートを閉じようとすると、ページの端に何やら奇妙な走り書きが描かれていた。よく見てみたが全く見覚えのない文字だ。それを何故文字と認識しているのかすら分からない位、自分の知っている文字とはまるで違っていた。だというのに、私はそれを字と認識し、あろうことか読めそうな気さえした。
「それはね。草の葉から降り注ぐ雨の意味だよ」
 声のした方へ振り返ると、全身がただれた死体が立っていた。
「ふーん、朝露の事?」
 その死体はどこかで見た事のある姿だった。つい最近どこかで見たはずなのだが、それがどこだか、その死体が誰だかは分からなかった。
「違うよ。この世界とは全く違う世界だと、雨は木から生まれるんだ」
「なんだ。この世界にはないんだ」
 気になっていた文字も意味が分かってしまえばなんて事はない落書きにしか見えなくなった。馬鹿らしくなって落書きは消しゴムで消してしまった。
「君が望むならその世界を見る事ができるんだよ」
 意味がわかってしまえば、死体の語る言葉も馬鹿げた妄言にしか聞こえない。
「悪いけど、これからお風呂に入らなくちゃいけないの」
 私は着替えを持って扉へと向かった。
「どうして現実から目をそむけるんだい?」
 あいにくとさっきまでと違って、私は彼等の仲間ではないのだ。
「ん?」
 私が今思い描いた彼等とは誰の事なのだろう。何か忘れている気がする。ぼんやりと何かを思い出しかけたが、一つに収束する事無く霧散してしまった。そもそもどうしてそんな事に思い至ったのか。寝ぼけているのだろうか。
「疲れてるのかな」
 私は疲れを落とすという新たな目的を持って、部屋のドアを開けた。湯船につかる快楽を想像すると、さっきまでの何もかもが消え去っていた。



 あんまり眠れなかったなぁ。
 さてと、今日もなんとか生き残らなきゃ。
 ん、早速来たわね。
 あれ? お母さん? 鳩? シュウ?
 迎えに来てくれたんだ。ちょっと待ってよ、すぐ出るから。
 あれ? シュウ? 鳩? なんで? 鳩? どうして?
 そうか殺さなくちゃいけないんだ。
 とにかく生き残らなきゃ。
 あれ? お母さん?



[29811] 錯覚世界
Name: 烏口泣鳴◆db25df9d ID:41696623
Date: 2011/09/23 19:45
「ごめんなさい。お母さん、ごめんなさい」
「いいのよ。涼子のせいじゃないわ。お母さんは大丈夫だから」
 母親の優しい言葉が少女の胸に突き刺さる。決して許されることではないのだ。それなのに暖かく包んでくれる母の愛が、少女には我慢できない位に痛かった。
 外から突き刺さる怜悧な光が暖房によって温まり、病室を柔らかく包んでいた。だが、うなだれる少女とその母親が横たわるベッドの周りは静かで暗い。それが伝染する様に、病室の中は重苦しい空気で満たされていた。
「ごめんなさい、ごめんなさい」
 謝罪の言葉が病室の中に響く。同じ病室で暮らす別の患者達は、落ち着かない様子で、意識的に親子から視線をそらしていた。病室から向けられる意識に気がつくことなく、少女は謝罪の言葉を吐き続けた。
「お母さん、ごめんなさい」
 少女が見つめる母親の体は起き上がる事ができない位にボロボロだった。それは全て少女のやった事だ。母親を傷つけようなどとは思っていなかった。
 夢から覚めると、荒れ果てた部屋の中で母親が血まみれになって倒れていた。混乱に陥りながらも記憶を手繰ると、確かに母親を傷つけた記憶があった。だが何故そんな事をしたのか分からなかった。ただ夢から覚めたら、母親が倒れていて、全て自分の手によるものだと気がついたのだ。あまりの出来事に耐え切れず少女はその場で気絶した。
「お母さん、お母さん」
「いいのよ、涼子。お母さん、大丈夫だから」
 少女の目から涙があふれた。母親を壊した自分があまりにも醜い存在に思えた。言葉を交わす事ですら母親に悪い影響を与える気がして、謝罪の言葉すら口に出せなくなった。
 お母さんの為に何かできないだろうか。少女は頭の中をぐるぐると回って、贖罪を探し求めた。頭の中をぐるぐると回り続けていくうちに、だんだんと頭が鈍くなる。
 母親、贖罪、島、自分、病室、絵本、悪魔、闘争。
 イメージが頭の中でぐるぐると回っていた。
 せめて目の前に横たわる鳩を料理してお母さんが元気になる料理を作ろう。ぐるぐると回り続けて鉛の様に重たくなった頭が、わずかなりとも贖罪になりそうな事を思い浮べた。
 ついさっき倒したばかりの鳩。なぜか草原で倒した気がするのに、今は病室のベッドの上に寝転んでいる。不思議な気がした。だが考えてみれば当たり前の事だ。怪我をしたら病院で寝ているものなのだ。
 早く料理をつくらなくちゃ。何処かに刃物はないだろうか。
 少女は辺りを見回したが、それらしいものはどこにもなかった。
「あら広瀬さん。良かったですね、娘さんがお見舞いに来てくれて」
 少女が振り向くと、笑顔を振りまく看護士が立っていた。看護士は少女が母親を傷つけた事を知らない。
 母親の怪我は表向き強盗に入られて傷つけられた事になっているからだ。少女が気絶から目を覚ますと、家の中を警察がうろつきまわっていた。警察から母親が病院で目を覚ましたと聞いて、少女は安堵するとともに、自分のしでかした罪の大きさに恐れ慄いた。周りにいる警察は自分を捕まえに来たのだと直感したのだ。
 しかし現実は違っていた。家は強盗に入られた事になっていて、少女と母親は悲劇の主人公となっていた。気丈な母親が少女を隠し、強盗から少女を守った。そんな筋書きが出来上がっていた。
 確かに部屋の中は荒れていた。母親を引きずり倒し、辺りにあるもので無茶苦茶に殴り続けたのだから荒れて当然だ。強盗が押し入ったなどと判断されたその部屋などよりもずっと、気絶する前のその部屋は確かに荒れていたはずなのだ。
 それなのに、母親の腕と共に折れ曲がった椅子の足は完全な形に戻っていた。母親めがけて引き倒した食器棚は、中の食器も割れたガラスもほぼ完全な形で元の位置に戻されていた。何よりもあれだけ完全に破壊した母親の体が、たかが数回刺されただけの、平凡な大怪我に成り下がっていた。
 少女は恐ろしかった。分からないうちに母親を傷つけた自分が理解できなかった。いつのまにか捻曲がった虚構が真実とすり替わっていた現実も理解できなかった。元々いた世界から全く知らない別の世界に放り出された様な気がした。
 看護士が鳩のいるベッドに近づいた。いつのまにか鳩のいた場所に母親が横たわっていた。
 どこからともなく、ブーンという蜂の唸り声が聞こえてきた。



[29811] 混ぜ合わさる幻想旅情
Name: 烏口泣鳴◆db25df9d ID:41696623
Date: 2011/09/23 19:46
 月が好きだ。清浄な青い光に身を包まれると、まるで自分が綺麗になったような錯覚ができるからだ。だから目の前にいる犬も好きだ。普段は嫌悪を感じる存在だけど、綺麗になった今の自分なら触れ合っても許されるような気がする。なので月が見えない事がとても悲しい。

 月が嫌いだ。村の老爺が語る話では、月が恐ろしいものの前触れだったからだ。そう、ちょうど今頭上に上っているような丸い月は、きっと俺をおかしくしちまう。だからそこにいる狼も嫌いだ。狼は月と共に現れて、月は狼と共に狂気を振りまく。なので月が見えない事がとても嬉しい。

 月は綺麗だ。今日の様な満月は特に。いつのことだったか、故郷であいつと一緒に見た素敵な夜の事が思いだされる。だからそこにいる狼も綺麗だ。あの夜は狼の遠吠えが辺りにこだまして、二人で一緒に震えていた。狼に噛み砕かれたあいつは月の光で輝いて、とても綺麗で、周りに広がる世界も綺麗に見えた。なので月が見えない事がとても悲しい。

 月は気味が悪い。今日の様な満月はもっと。昔、みんなで肝試しをした記憶が蘇る。だからそこにいる犬も気味が悪い。肝試しの間ずっと犬の高笑いが鳴り響いて……結局、あの時一人多かったのはなんだったんだろう。今でも答えは見つからない。なので月が見えない事がとても嬉しい。


 白い病室の中で私は、学校の帰りに私は、戦争を終えて私は、結婚式の式場で私は、雪に閉ざされたロッジで私は、茨に囲まれたお城の中で私は、私は、私は。

 目を覚ますと狼の死体を抱いていた。緑がかったカーペットの上だった。
 ここがどこだか分からない。私が誰だか分からない。
 私は血に塗れて座っていた。とても心地の良い気分だった。
 ここはとてもいい気持。気持ちのいい別世界。
 きっとここは夢の中だろう。ぼんやりとそう思った。
 気持ちがいいから夢の中。苦しまないのが夢の中。
 ぼんやりと腕の中で眠っている母──でもなぜか死んでいる狼を見た。
 死んでるから殺さない。私は母を殺さない。
 疲れはすっかりとれていた。いつも頭を苛んでいた頭痛も消えていた。
 やっぱりここは夢の世界。苦しまないから夢の世界。
 ぼーっとしていると、現実の記憶が薄れていった。
 現実の事を忘れてく。嫌な事を忘れてく。
 現実に戻るのが怖い。現実に対する記憶は薄れているが、現実は苦しいという印象だけは強く残っていた。
 いつまでたっても忘れられない。だってみんなが責めるから。
 ここはどこで、私は誰だろう。今の私がいつもの私でない事は、感覚として分かっていた。
 ここがどこだか分からない。私が誰だか分からない。
 記憶がどんどんあやふやになる。苦しい気持だけが心に残る。
 あれ?
 目が覚めたらまたあの苦しい世界に、
 私って、
 戻らなくちゃいけないのだろうか。
 今とっても幸せだったはず。

 ぐるんと誰かの記憶が抜け落ちて、私の記憶が戻ってきた。


 目が覚めた。
 お母さんが笑っていた。私は謝って謝って謝り続けた。

 目が覚めた。
 蜂が辺りを飛び回っていた。友達になろうと思った。殺した。

 目が覚めた。
 シュウの家で夕飯を食べた。シュウもおばさんも心配してくれた。嬉しかった。

 目が覚めた。
 月が出ていた。狼が嗤っていた。殺した。

 目が覚めた。
 お母さんが退院した。嬉しい。お祝いをした。

 目が覚めた。
 狼を見つけた。殺した。

 目が覚めた。
 シュウにチョコを渡した。学校に行く時に渡したので、いつ食べるのかと一日中シュウの事を見ていた。なんだか照れくさい。

 目が覚めた。
 夢の中にいた。現実は怖いと思った。けど現実は幸せだ。だから夢は間違っていた。

 目が覚めた。



[29811] 幻灯機はくるくると回る
Name: 烏口泣鳴◆db25df9d ID:41696623
Date: 2011/09/23 19:46
「いってらっしゃい! 気をつけてね! そうだ! ついでに洗剤買ってきてくれる?」
「う、うん。分かった。行ってきます」
 不自然なほど明るく振る舞う母とぎこちなく返事を返す私。
 私が母を傷つけ、その罪を母が隠した時に、私と母の関係は決定的に変わった。
 私は母に対する罪悪感から、心の中で育っていた母と日常に対する不満が消えた。母は私の犯した凶行を勉強から来たストレスだと考えたのか、勉強や受験と言った言葉を使わなくなって、事あるごとに私の身の回りを心配するようになった。結果として、よそよそしいながらも、お互いが思いやりを持って接している。傍から見れば中の良い親子だ。
 それは少なくとも私にとっては良い変化なのだと思う。かつて私が望んでいた生活がこれだった──はずだ。
 そのはずなのに、私はどうもこの変化を歓迎できないでいる。あまりにも変化が決定的過ぎたせいだろうか。私は多分一生、母に対する罪悪感を抱きながら、よそよそしさを持ち続けると思うし、母もきっと私が嫌がる事を言えないだろう。
 お互いがお互いの事を思いやって──接する事を恐れながら付き合っていく歪な親子。母に対する不満を育て続けていた昔とどちらがまともなのだろう。

「よう、涼子!」
 どんよりとした思考を快活な声が打ち払った。
 足元に下がっていた視線を上げると、そこに幼馴染のシュウがいた。
 ついさっきまで頭の中に渦巻いていた思考を悟られない様に、努めて平静を装って挨拶を返す。
「あ、シュウ。おはよう。珍しいわね、こんな時間に」
 ちなみに現在、朝五時。早朝も早朝だ。ただでさえゆっくりしたい日曜日な上に、冬休み中でやたらに寒いときている。用でもなければ外に出たいとは思わない。
「ああ……ちょっとな。涼子こそ、どうしたんだよ」
「私? 私は……宿題を取りに学校へ」
 改めて自分の行動を確認すると恥ずかしい。言っていて顔が熱くなった。
「ん? 冬休みに課題なんてあったか?」
「部活の」
 シュウが小馬鹿にした様な顔で溜息をついた。
「なんにせよ、ベタにも程があるだろ。いくらなんでも」
「うるさいなぁ。あんたこそどうなのよ!」
 さっきの反応からして、あまり人には言いたくない事の様だ。なんとか反撃の糸口にならないだろうか。
「俺は……あー、別に……」
「……まさか、マジであんたも忘れ物?」
「いや、違うから! ただ……」
 どうやら相当恥ずかしい事らしい。シュウの顔は真っ赤になっていた。これ以上追求するのも少しだけかわいそうだ。
「ま、いいや。じゃあ、私行くから」
「あ、ちょっと待て」
 学校へ向かおうとした私を、なぜかシュウがひきとめた。かまってほしいのだろうか。
「何?」
「えっと……実は俺も学校に用があってさ。一緒に行くよ」
「別にいいけど……何しに行くの?」
「ほら行こうぜ!」
 私の言葉を意図的に無視して、シュウは歩き出した。
 まさか本当に宿題を忘れたのだろうか?

 月に照らされた静かな夜。風の音しか聞こえない本当に静かな夜。
 この夜はとても居心地がいい。ゆったりとした時の流れが私を優しく包みこんで、頭の天辺から足の先まで綿が詰め込まれた様な心地よさを感じた。
 ついさっきまで通学路を歩いていたので、街と森の対比が余計に夜の静けさを煽る。
 世界の急激な変化にも大分慣れてきた。最近では様々な世界を楽しむ余裕すら持ち始めていた。
 この世界にはもう何度も来た事がある。他の世界は一度しか訪れる事ができないが、この世界だけは何度もやってきていた。その違いに何か理由があるとは思うのだが、今はまだ分からない。そもそも一つの世界にいる時間はとても短く、次々に別の世界へと移ろっていくので、世界の事を知るには時間がなさすぎる。
 この世界についても知っている事はほとんどない。一つだけ分かっている事は、この世界では戦わなければならない事。定期的に何かに襲われてそれを殺し続ける世界だという事。それだけがこの世界に対して理解した唯一の事だった。
 乱暴とすら取れるこの世界の決まり事に、私は何故か安らぎを感じていた。しんと静まり返った夜と同じ位、心地の良いルールに思える。
 ふと月明かりに照らされてひらひらと飛びまわる虫がいた。敵だ。
 私は力を込める事無く、腰かけていた体を起こす。この胸に大きな傷の入った体は、力では動かない。この大柄な男の体は意志によって勝手に動く。この土気色をした体は戦う為だけに動く。


 私は誰だ。
 私はただの会社員だ。どこにでもいるごく普通の。
 ならば着こんでいる鎧は何だ。胸に抉る傷は何だ。今化物と戦っているのは何の冗談だ。
 私は誰だ。
 私は人間だ。それだけは確かなはずだ。
 ならば胸を抉る傷を見ろ。人間であれば死んでいる。水面に映るお前の顔を見ろ。血の気の無い顔は死人のそれだ。
 私は人間だ。
 いいや、お前は死体だ。
 ならば何故動いている。私は動ける。思考もしている。今頭を働かせている私が死んでいるはずがない。
 そもそも死ぬような目に遭った事なんてなかったはずだ。私はついさっきまで部屋のソファに座っていた。手に入れた宝物を愛でながら、穏やかに過ごしていた。私が死んでいるはずがない。

 すっと視界が明るくなった。思考を遮っていた霧が晴れ、心地よい感情が私の胸を内側から圧していた。天にも昇る様な素敵な気分だ。
 今まで何に悩んでいたのか。それすらもすっと忘れてしまっていた。
 ああ、私は馬鹿だ。これほどまでに素敵な世界にいて、何を悩んでいたというのだろう。
 思い出す。宝物を手に入れた時の事を。
 黒く艶やかな髪が思い出される。
 黒の中に悠然と漂う緑は暗い泉の底に沈んだエメラルドの様だった。
 長い年月をかけて育て上げられたその髪は、両手で伸ばしきれないほど長かった。
 柔らかい手触りはシルクですら足元にも及ばない。
 まさしく日本女性の美を極限まで突き詰めた至高の宝を私は抱いていた。
 全世界の頂点に立ったような優越感。世界を我がものにした様な充足感。
 あの時確かに私はこの世の全てを抱いていたのだ。
 ざわめく様な喜びが私の胸を駆け抜けた。
 世界は素晴らしい。何もかもがうまくいく。

 視界の端でのそりと何かが身じろいだ。人だろうか。
 私は胸を支配する喜びに任せて振り向いた。
 そこに誰がいようと私は愛そう。駆け寄って抱きしめよう。

 そこには何かがいた。
 人型をした肉の塊だ。
 頭頂部には──何もなかった。
 できそこないだ。
 一片の興味すら湧かないできそこないだ。

 やはりこれは夢だ。
 こんなくだらないモノが私の世界に在っていい筈が無いのだから。


 大変だぁ! 大変だぁ!

 私はじっとミミズさんとトカゲさんを見ていました。

 逃げなくちゃ! 逃げなくちゃ!

 大きくて長い体と大きくて赤い口を私はじっと見ていました。

 危ないよ! 危ないよ!

 きっと私は怖かったんだろうと思います。私もそこにいたら危ないと思います。

 来ないで! 来ないで!

 だから良かったです。私が無事で良かったです。

 ヤメテ!


「嫌な夢見たわ」
 起きるなり彼女はそう呟いた。
 彼女のそばでは悪魔が本を読んでいた。
「おはよう。良かったじゃないか」
 そっけない。彼女は悪魔を睨みつける。
「他人事だと思って」
「夢だったんだろう? 現実じゃなくて良かったじゃないか」
 悪魔の応えを彼女は一瞬吟味する。
 しかし納得はできなかった。
「……やっぱりやだよ。いくら夢だからって、あんなの」
「ふむ」
 悪魔は本を畳むと彼女に顔を向けた。
 小さな豚面に見つめられても、彼女は怯むことなく見つめ返す。
「何よ」
「いや……そうだなぁ、悪夢の内容はどんなだった?」
「えーと……あれ、何だったかな? 人が死んじゃう夢だったような」
 彼女は首を傾げてみたが、答えは出てこない。
 夢は分厚い水の彼方へ消えていた。
 誰が死んだのかも、どうして死んだのかも分からない。誰かが誰かを殺していた様な気もするし、大きな事故があった気もする。近しい人が死んでしまった気がするし、全く知らない人が死んでしまったのかも知れない。もしかしたら自分自身が死んでしまったのかも。決めつけようとすれば固まっていくのに、それが本当にさっき見た夢かと問われれば、すぐさま霧散してしまう。
 しばらく彼女が頭を悩ませていると、悪魔がそれを打ち切った。
「別に無理して思い出さなくていいよ、ちょっと気になっただけだから」
「そう? でも気になるなぁ。こういうのって、思い出せないとイライラするんだよねぇ」
「忘れてしまった物はしょうがない。苛立つのであれば甘い物でもいかがですか、お嬢様?」
「だーれが、お嬢様よ」
「言わずもがな。ついでに僕は意地悪なお嬢様にこき使われる召使って所だね」
「はいはい。そんな皮肉はいいから、さっさと甘い物を用意してちょうだいな。勿論お茶もつけてね」
「ほらね」
 悪魔は肩をすくめると、虚空からトレイに乗ったお茶とお菓子を取りだした。
「さすが! 褒めてつかわす!」
 彼女は悪魔からトレイを受け取って、少し遅い朝食を食べ始めた。
 悪魔は美味しそうに食べる彼女に目を向けながら、じっと考えていた。


 蛸だ。

 窓から身を乗り出して夜空を見上げていると、目の前に蛸が現れた。
 またいつもの幻覚だ。もう何が出てきても驚かない。
 夜風が気持ちいい。嬉しさに満ち溢れ、暴れだしそうな心をしんと沈めてくれる。
 幸せだ。今日をしっかりと噛みしめる。昨日をゆっくりと思いだす。

 蛸が踊っている。
 私は淡々とそれを燃やす。

「涼子」
 横から声がかかる。
 目を向けると、声の主が隣家の窓から身を乗り出していた。
「俺がついてるから、あまり思い詰めるなよ」
 幸せだ。こんなにも自分の事を思ってくれている人がいる。
「おばさんの事はさ……その……俺も背負っていくよ」
 母親を殺そうとした私を思ってくれる人がいる。
「だから……とにかく、思い詰めないで、俺を頼ってくれ」
 私はゆっくりとうなずいた。
 私はとても幸せだ。

 蛸だ。焼きあがった蛸を私は食べた。
 砂の味がした。


 遺書を書いた。誰にも見られない様にこそこそと。
 皆が寝静まった中で月の光を頼りにようやく書き終えた。
 誰に向けたものでもない下らない遺書だけれど、やり遂げた達成感が冷たく私の心に沈んでいる。
 それだけで書いてよかったと後悔できた。

「帰ったら美味しい物作ってあげるからね」
 お母さんが笑いながら、そう言った。
 お母さんの事を殺そうとした私を励まそうとしている。
 気に病んではいけない。普段通り過ごしてほしい。
 そんな気遣いが痛いほど伝わってくる。
「うん!」
 私は力強く頷いて、嬉しそうに話す。
 ほんの一日だけの検査入院。深刻になる必要は無い。だから本当なら自然体で居ればいいはずなのに、私はお母さんが少しでも安心できる様に努めて明るく振る舞い続ける。
 嘘で塗り固められた自分の態度を客観視しながら、私は罪悪感で心が切り刻まれる。
 私はその痛みから目を背けて、じっとお母さんに笑顔を向ける。
 薄暗い病室で、時が静かに流れていく。私は身を切り刻まれながら、一瞬一瞬の幸せを噛みしめる。
「どうしたのかしら?」
 私ははっと顔を上げた。どうやら要らない事に頭を使って、じっと俯いていた様だ。
 今は唯自分を押し殺して、これ以上お母さんを悲しませない様にしなくては。
「あ、ごめん。ちょっとぼーっとしてたみたい」
 私は慌てて笑顔を作った。
 ところがお母さんは私ではなく、病室の外を見て呟いた。
「何か……あったみたいね」
 お母さんと同じ方向に目を向けると、看護士の人達がバタバタと急ぎ足で廊下を往来していた。
 ここは病院だ。何かがあってもおかしくない。一歩間違えればお母さんも……。
 嫌な想像を振り払って、お母さんを見るとしきりに何かを気にしている様だった。
 二人の間に暗い沈黙が降りて、薄暗い病室から更に光が減った。
 暗い雰囲気に耐え切れなくなった私は、いつもの通りに明日迎えに来ると告げて、いつもの通り病室から逃げ帰った。
 その日、病院で誰かが死んだ。

 彷徨う炎を見た。
 あれは一体何だったのだろう。もしかしたらあの世で迷う魂だったのかもしれない。
 あそこは綺麗な森だった。希望も何もないけれど、鬱蒼としていて吸い込まれる様な森だった。
 これからあそこに行くのだろうか。
 今いる場所とどちらが良いだろう。
 すっかり麻痺してしまった心では答えを出す事ができそうにない。
 しかし今から行く所が綺麗な場所だと思うと、少しだけほっとした。錯覚かもしれないけれど、どこか体が軽くなった様な気がした。
 私は遺書をベッドの上に置いた。
 窓を開ける。冷たい風が吹き込んできたが、高鳴る鼓動の熱がそれをかき消した。
 熱い体が心地よい。寒いのよりは暑い方が好きだ。
 地獄は寒いのだろうか。寒いのは嫌だ。



[29811]
Name: 烏口泣鳴◆db25df9d ID:41696623
Date: 2011/09/23 19:47
 はっと目を覚ますと、そこはいつも露店を開いている市場だった。土でできた宿屋の古い外壁に沿って商品の入った麻袋を積み上げて身を預けていた。
 俺は確か緑の茂った島の市場で商品を並べていたんだが……。
 さっきまでの記憶を必死で手繰り寄せようとしてみたが、すっとどこかへ消え去っていた。どんな場所だったか、深く深く考えていく内に、いつの間にか最初に覚えていたはずの事まで消え去って、後には何も残っていない。ただまっさらな空間で露店を開いている自分しか思い出せなくなっていた。
 なんだったか、市場で品を並べていた様な……。
 しばらく未練がましく、ぼんやりと首を捻っていたが、ブーンと耳障りな音が耳にひっついて、一気にぼーっとしていた意識が引き上げられた。
 反射的に耳を張ると、惜しくも逃げられた様で、ただ顔の側面にじんとした熱が淀んだだけだった。それを馬鹿にする様に一匹の虫が目の前を飛んで行った。むっとすると同時に、はっきりと自分の意識が覚醒した事を自覚した。
 もう夢は完全に霧散していたが、夢の記憶が無くなった変わりに、段々と薄ら寒い不気味な感覚が皮膚を粟立たせた。何か分からないが、とても嫌な予感が体全体を震わせた。
 夢を覚えていると気がふれる。迷信深い厩のじいさんが言っていたうわ言が頭をよぎった。
 嫌な思いを振り払う様に目の前に広がる大通りを注視した。
 目の前に砂埃を巻き上げる雑踏が広がっていた。交易の通り道だけあって、ひたすら人が多い。人種も国も宗教も文化も何もかもがごった煮の異人達が、赤やら青やら黄色やらの衣服を着て色彩すらもごった煮の雑踏を作っている。色が右へ左へと移り変わって、光球から燦々と照りつける熱さがその刻々と変わる雑色を揺らめかせ、流れうねる往来の極彩色がどろりと混ざり合っていった。
 ぐわぐわんと頭が揺れる。ちかちかと光る色の奔流が目の奥を撫でつける。
 視覚のみがどんどんと鋭くなって、次々と変化する奇々怪々とした景色のみが世界の全てになり、しんと静まったこの世の地獄がゆっくりと脳天を揺さぶっていった。

 はっとすると、青い空が広がっていた。またどこか別の場所へ飛んだのかと、きょろきょろと辺りを見回すと、そこはいつも露店を開いている市場だった。背後の麻袋に体を預けて気を失っていた様だ。
 横に立てた水筒を手に取り、蓋を開けて口をつけた。口の中に広がった冷たい刺激が頭をはっきりと覚醒させてくれた。
 おかしい。大通りを歩きまわる人だかりなど見慣れた光景のはずなのに、何故頭がこんがらかったのだろう。あるいは何かの病気だろうか。
 今日は店を畳んで切り上げようかと考えていると、再び唸る羽音が耳の周りに付きまといやがて、止むと共に耳に何かが張りつく感触があった。
 今度こそと気合を入れて叩くと、何かをつぶす感触があった。見ると手のひらに、べったりと虫の死骸が塗りたくられていた。ここ数日で急に増えてきた食物を腐らす害虫だ。食物を腐らすというので、飯屋なんかが殺虫剤を買いあさっている。背後に建つ宿屋の女将も昨日血相を変えて、雑貨を扱う俺のところに殺虫剤を買いに来た。お陰でここの所の売り上げは好調だ。虫様々といったところか。
 汚れた手のひらを見ながらつらつらと考えていると、今度は普段は気にも留めない市場の音が、今日に限っては何故だか無性に気になった。
 熱気で膨らんだ空気が震えて、耳の奥を切り刻んでいた。道行く人の話し声や馬の足音、商人の呼びかけ、商品の擦れ合う音、舞い上がる砂埃の音、そんなものが混ざり合ってザワザワと、脳みそまで響いてくる。
 足音が聞こえる。こちらに近づいてくる様だ。集中をどん底まで凝らしている為か、幾つもの足音の中から、はっきりと聞きわける事ができた。しかし何故だか汗と混ざって広がっていく虫の体液から目を逸らしがたく顔を上げる気にはならない。
 足音が止まると、ぐにゃりとした音が頭の中にねじ込まれた。それでも虫の体液の行方から目を逸らさないでいると、強い調子で肩を揺すぶられた。
 掌から視線を逸らした拍子に、ようやく顔を上げる事ができた。
 目の前には、身綺麗な恰好をして、首都の軍人である事を示す緑の帽子を頭にのせた髭面の偉丈夫が立っていた。指には枝を燻らせて、侮蔑の色合いと若干の警戒を含んだ目つきで俺を見下ろしている。多くの人間がやってくるだけあって、悪党ごろつきの類も多いこの町は、首都の人間達から疎まれている。同時に交易商の通り道でもある為、この町で財を成す人間も多く、その点では首都の人間達から妬まれている。首都から逃げ込んだ犯罪者も多い為、軍人からすれば尚更目の上の瘤となっている。相手の目つきはその表れだ。
「何用で?」
 愛想という物を習った事がない俺は、短くそう言い切った。
 軍人は無理矢理作ったとすぐに分かる、憎々しさが滲み出たぎこちない笑顔を浮かべて、俺がよりかかっている麻袋を指さした。
「あるだろう? 虫を殺す奴が」
「まあ、ありますがね」
「全部貰おう」
 思わずニヤリとした表情を作ってしまった。というのも売れ行きが好調な事もあって、積み上げた袋の中は全て殺虫剤だ。相手もさすがにそれだけの量とは思っていまい。全部買ってしまったら全く使い道がないはずだ。
 目の前の相手が一体どんなふうにうろたえるのか、ワクワクした思いで、はっきりと言ってやった。
「旦那、後ろに積んであるやつは全部虫殺しなんですがね」
 ニヤニヤと笑いながら積んであった袋を一つ取って開ける。
 軍人は僅かに目を見開いたが、すぐに憎々しげな笑顔に戻って、懐から袋を取り出し俺に投げ渡した。開けると袋一杯に質の悪い宝石が詰まっていた。質が悪いと言っても、全部合わせれば、後ろに積んである全ての殺虫剤の四、五倍位には値打ちがある。
 驚きで固まっている内に軍人は何処かにいた仲間と共に、俺の後ろに遭った商品を馬車の荷台に積み上げていった。
「どうだ?」
 顔を上げると軍人が枝をつきだしてきた。受け取ると、軍人はマッチに火を点けてそれを枝に移す。
「そこらの葉巻とはわけが違う上等物だ。一本くれてやろう。大事に吸えよ」
 軍人は最後に本心からの笑顔を浮かべて去って行った。
 宝石袋を握りしめて、しばらくぼんやりしていたが、やがて立ち上がった。今日はもう切り上げよう。体調が良くなかったし、商品もほとんど売れてしまった。それになんだか眠い。
 のそのそと残った商品をまとめていると、しゃがれただみ声がかけられた。
「よう、儲かったみたいだな」
 まだ昼を少し過ぎたばかりだというのに、酒瓶を携えて酔いに酔った飲み仲間が上機嫌に立っていた。口には俺が咥えている物と同じ枝を咥えている。
 俺が非難がましく酒瓶を見つめていると、そいつは笑いながらポケットから金貨を取りだした。
「あいつらそこいら中の殺虫剤を買いあさっててな。俺はその先回りをして殺虫剤を買い集めて、売りたたいてやったんだ」
 豪放な様子で笑いあげると、そいつは俺の肩を組んで往来へと引っ張り込んだ。
「お前も相当もうかったみたいじゃないか? え? どうだこれから飲みにいかねぇか?」
 そいつの吐く酒気に当てられながらも、体調を理由に固辞して、残った商品を抱え上げた。
 別れ際に酒瓶を掲げたそいつから、謳う様な声が背中に投げかけられた。
「そういや、あいつらはあんなに買い込んで何をするつもりなんだろうな」

 目を覚ますと、柔らかい日差しと涼やかな木陰の中で、木に寄りかかっていた。辺りを見回すと、茂る草を絨毯にして沢山の露天商が並んでいる。
 目の前には遺跡の中で仕入れてきた商品が並んでいた。
 さっき売り切ったはずだが……。
 違和感を覚えたが、深く考える前に客が来た。
 それから半時もたたない内に次から次へと客が来て品物は全て売れてしまった。
 今日は早く帰って、明日からの遺跡探索に備えよう。
 そう考えて家に帰ると、日中に酔っぱらって話しかけてきたあの飲み仲間が押し掛けてきた。いつの間にか俺の寝床で寝ていた。俺はそいつをどかして、眠りに就いた。
 次の日、遺跡の中に入って、草原を進んでいった。右腕に腫れものができているのが気になりはしたが、構わず市場のいつもの場所で露店を開いた。
 次の日も次の日も、遺跡の中を先に進んで、大通りの露店で物を売った。右腕の腫れが少しずつ大きくなっていった。
 右腕の痛みに耐えながら、その日も寝た。

 左腕の痛みに、はっと目を覚ますと、路地裏のゴミ捨て場で身を起こした。痛みの走った左腕を見てみると、すっぱりと切れていた。近くには血のついた陶器の破片が落ちている。
 体を起こすと、頭が痛み、酒臭い息が口から洩れた。体が鉛の様に重い。
 目を落とすと、体に纏わりつく様に、ブーンと数え切れないほど虫が唸っていた。顔に左手を強く押し当てると、掌に沢山の虫がへばりついた。
 不思議と纏わりつく虫の感触はなかった。ただブーンという虫の羽音とフラリフラリと揺れる路地裏の薄暗い汚れた道が癇に障った。
 辺りを見回すと、場所は大通りの脇道の様だ。虫の羽音以外に何も聞こえないところを考えると、もう深夜をとうに過ぎた頃だろうか。ところが空を見上げてみると、日が照っていた。日中の割にはやけに静かだ。
 家に帰ろう……。
 大通りに出ると、いつもなら沢山の往来で賑わっているはずなのに誰もいなかった。荒れ果てた露店が商品を残したまま打ち捨てられて、虫がたかっていた。
 目を凝らすと木箱の陰に人の腕を見つけた。重たい脚を動かして、近寄って見ると、なんて事はない。虫の塊が人の腕の形をしているだけだった。
「おーい……」
 大きな声を出してみたが空しく反響して、虫のブーンとした音に消えてしまった。
「おーい……」
 声を上げる度にひどくなる視界の揺れを我慢しいしい、しばらく声を上げながら歩いていると、背後から足音が聞こえた。
 振り返ると、兵隊を伴った昨日の軍人がいた。煙を上げる枝を咥えたその顔にはやっぱり笑顔になりきれていない笑顔を浮かべていた。昨日と違うのはそれが悲しそうな顔だったという事だ。
「この前の露天商か」
 後ろに控えている兵隊たちは、みんな何か不気味なモノでも見た様な顔をしていた。皆が皆、同じ様に煙を上げる枝を咥えていた。
「……昨日の旦那じゃあ」
 そこで咳き込んで言葉が途切れた。
 せき込んだ顔を上げると、軍人の顔が更に悲しそうな、哀れそうな顔に変わり、後ろの兵隊達の顔が更に恐ろしげに歪んだ。蠅がひしめく街の中で、そこだけは清浄な空間を作っていた。まるで神の一団の様に。
「まだ喋れるのか」
 そう言って、剣を抜いて近寄って来た。
 殺される。
 そう直感したが、体が重くて逃げる事ができない。
 ざり……ざり……と足音が近寄ってくる。
 何が起こっているのかも分からないまま、応戦しようと心を決めた。左の腰に携えた剣を抜き取ろうと右腕を当てると、何の感触もなく、代わりにどさりという音が聞こえた。地面を見ると、黒い……中から虫が湧きだす何かが落ちていた。左の腰を見ると、虫のたかった剣がしっかりと携えてあった。
 ざり……ざり……と足音が近寄ってくる。
 顔を上げると、剣に反射した陽光がまぶしく思わず目を閉じた。
 近付いてくる足音がとまった。風を切る音がした。
 眼を開けると、蠅のたかった首から上の無い体が俺にのしかかってきた。



[29811] 夢の日の出
Name: 烏口泣鳴◆db25df9d ID:41696623
Date: 2011/09/23 19:47
 満足気に溜息を吐いて、読み終えたぼろぼろの絵本を閉じた。色の落ちた拍子に手を当てて、そこに描かれたデフォルメされた女の子と龍に憧憬を注ぐ。
 これは病院の帰りに買ってきた古い絵本だ。内容はごく普通のファンタジー。一人ぼっちで暮らしていた女の子が龍と一緒に旅をして、道中に魔法使いや妖精の力を借りながら、最後には両親と出会う、そんな話。
 一昔前なら、龍なんているはずがない、魔法なんてあるはずがない、過去しか見られない人によって、そんな風に思われていた。今だったら、龍は喋れないと証明された、こんな魔法は科学的に不可能だ、科学のかの字も知らない人によって、そんな風に否定されるだろう。
 魔法が認められたところで、世界は大して変わらなかった。結局のところ、届かぬ理想は夢として切り捨てられて、空想を描けば笑われる世の中が続いている。
 けど、私はそれで良いと思う。みんながみんな夢見がちだと世界はきっと回らない。それに皆が夢を笑うからこそ、それでも夢を貫き、空想を抱き続ける確かな自分を感じられるんだ。
 というわけで、夢というものが大好きなのだけれど、残念な事に最近その夢に悩まされるようになってきた。起きてる方の夢ではなく、寝ている方の夢だけれど。
 起きてる方の夢は恥ずかしいので、心の中でしっかりとしまい続けておく。きっと一生涯、誰にも伝える事もなく、墓の中にまで持っていく事になるだろう。
 問題の寝ている方の夢だ。最近、良く夢を見る。それはとても楽しい夢なのだけれど、日常のあらゆる場面でその夢に入り込んでしまう点が大変困ったところだった。更にその夢を見ている間も、現実の私は動いて喋るらしい。その事実をつい先日知った。
 それを知るまでは、夢の事なんか覚えていなくて、時々それまでの前後の辻褄が合わない不思議な感覚があるだけだった。疲れているのかも。それ位にしか考えていなかった。周りも周りで私が突然変な事を口走る様になった事を、物語にかぶれ過ぎた為だろう位に考えていた。
 夢を意識する様になってから、段々と夢の中でも意識がはっきりする様になって、起きた後も夢を覚えていられる様になった。それにつれて、この夢が何なのかぼんやりとだが分かりかけてきた。
 それから私は積極的にこの夢を見ようと努力している。その努力は実っていないが、意識して夢の中に入る様になった。
 この夢を見る事になった原因を探し出して、消し去る為に。私が母親を傷つける事になった原因を、それがあるなら一片も残らない位叩き壊し、それがいるなら意識の一片たりとも残さないように殺し尽くす為に。
 今丁度、頭の中をすっと冷たい何かが横切る様な感触があった。これが夢に入る前兆だ。

 鈍い衝撃が足先に伝わった。足元を見てみると、金属製の水筒が足の上に落ちたらしい。傍の草上に砂にまみれた金属製の水筒が転がっていて、自分の足が履いている皮靴が奇妙に歪んでいた。
 落ちた水筒を拾って調べてみると、長い間使われていないのか、中に砂が溜まっていた。水分の補給が必要無いので、自分のではないはずだ。汚れ具合から誰かが使っていたものを、奪ったり貰ったりしたものではなさそうに思う。ならば何故こんなものを持っているのだろう。
 この夢の世界にきて初めにする事は状況の確認だ。ここが島内にある遺跡であり、毎回この遺跡かその近辺に飛ばされてくる。この島とは全く関係のない他の世界も夢見ているはずなのだが、何故かはっきりと思い出せるのはこの島の事だけだ。
 場所については、その遺跡の何処かで、自分がいなかった時の記憶もぼんやりとだがあるので、地図を見ながらすぐに確認できる。
 問題は状況で、突然戦いの最中に放り出される事もあれば、激流の中で気がついてそのまま流されていった事もある。突然飛ばされる為に危急の対応を迫られた時に判断ができないし、また自分のいない時の記憶はぼんやりとしたものなので、例えば今持っている水筒をどこで手に入れ、どうしたかったか、などの些細な事は大抵思い出す事ができない。
 何よりの問題は……
「さて、誰ぞを襲って商おうかな」
 別の誰かの意識も一緒に同じ体に存在する為、強く意識を保っておかないと勝手に体が動き出してしまう事だ。
「そうはさせるか」
 大抵、平和主義というか、私の価値観でいう「悪い事」をしたがらない人が多いので、滅多に変な動きはしないが、たまに強烈な意識が入り込んできて、勝手に人を襲う事がある。この間、女性を襲った事があったが、どれだけ強く止めようと思っても、全く手を緩めることなく、襲いかかっていた。
 私の意識と関係なく、体が動く。意識せずとも足が動く。とても不思議な感覚だ。方角は……察するに南にある魔法円へと向かっている様だ。私は特に異存もないので、周囲の景色を眺めながら、気ままに歩く体に任せる事にした。

 真っ暗な夜空の下を、疲れ知らずのこの体が昼間の往来を歩く様に軽妙な足取りで歩いていた。月一つ、星一つない夜なのに、瑞々しく生え茂っている草の絨毯に光が照り返して、まるで月の出る雪夜の様に明るかった。
 もう時刻は深夜をとうに過ぎて、夜が明け始める頃合いだ。こんな時間までこの夢に浸っている事は今日が初めてだ。疲れを知らないからだとはいえ、意識の方は何となく夜が近づくと休息を取ろうとして眠ってしまい、そのまま夢から覚めていく。その後でも体は動いているのかもしれないが、少なくとも私はこの島の夜を経験した事がなかった……はずだ。
 視界の端に全く光の無い夜空が見える。太陽は出るのに、星と月はでないのだろうか? それとも今が曇っているのか。そもそも遺跡の中なのになぜ空があるのだろう。ぼんやりと夜空に想いを馳せているが、決して視界は空を見上げようとはしない。このちぐはぐな印象も段々と慣れてくると、それが当たり前の様になってくる。こちらの世界が正しくて、向こうの世界が間違っている様なそんな気になってくる。勿論、それはその刹那、咄嗟の感覚の話であって、しっかりと意識を向ければ、その錯覚はすぐに消え去ってしまうのだけれど。
 さっと世界が明るくなった。
 体が後ろを振り返ると、背後に聳える山々から朝の予光が漏れ始めていた。
 夜明けか。見るのはいつ以来だったろう。何年か前に家族と初日の出を見に行った時が最後だったかも知れない。
 言い知れない郷愁だか、感傷だかが胸に広がると、頭の中にさっと冷たい何かが横切った。
 今日はもうこれでお終いだ。結局、この夢を壊すきっかけは掴めなかった。あるいは宝玉を手に入れれば。
 曙光が山々に覆いかぶさりその背丈を小さくしていく。視界一杯に光が広がって、その光が心の中に差し込んで、意識を白く染め上げていく。
 消え去る意識が空を見上げた。空には月と星が浮かんでいて、太陽の光によって消し去られている所だった。
 月は浮かんでいたのだろうか?



[29811] にんぎょうになるお店
Name: 烏口泣鳴◆db25df9d ID:41696623
Date: 2011/09/24 19:30
 夕暮れの光が街を一色に染め上げた。

 影が濃く深く世界を沈めていく。

 誰もいない横道。左にはコンクリートが右には木材が入り組んで、圧迫する様な境界が少女の前と後ろに続いている。

 名前も知らない街の名前も知らない道をゆっくりと歩いていると、少しずつ影が浮かぶ様に、心に恐怖が灯っていく。

 人気の無い道路、人気の無い建物に囲まれていると、無機質なビルの窓から誰かが覗いている様な、古い店の締め切られた扉から何かが飛び出してくる様な、そんなえも言えぬ空想が背筋を震わせる。

 しんと静まり返った空間が恐怖をいや増していく。

 もう行くのは止めて帰ってしまおうか。

 そんな気持ちがもたげてくる頃にようやく目的の店が目に映った。アンティークな人形からただの使い古された人形まで、とにかく誰かが使っていた古い人形を売っている店だと聞いていた。話の通り、何も書かれていないボロボロの大きな木の板が、看板の様に屋根に掛かっている。

 足早に店へと寄りつくと、黒く塗られた木製の扉に『17時~19時』とだけ書いてあった。

 これは開店時間だろうか?

 携帯を見ると、十七時には少し早い。

 試しにノブを捻ると金属の軋む音が体に伝わった。鍵は開いている様だ。金属音の不快感に眉を顰めながら、扉を開く。

 中に入ると夕闇よりも薄暗い。その向こうの無数の人形達は天井、壁面、棚の上、ありとあらゆる場所から入口とそこに立つ少女を見つめていた人形達が私を見つめていた。

 あるものは無表情で、あるものは笑い、あるものは顔を隠しているが、どれもこれも生気を感じさせないのっぺりとした顔で彼女をじっと見つめていた。

 能面の自分達と顔を合わせる事で、入ってきた客も自分達と同じ能面にしてしまおう。そんな悪意を感じる趣向だった。

 この店の話はあらかじめ聞いていたが、いざその場を見ると、僅かな躊躇いが生まれた。

 このまま帰ってしまおうか。

 さっき湧き出た欲求が再び心の中に現れた。しかし、ここで帰れば友達に笑われるという恐れが、店の中へと足を進ませた。

 店の中には人形しかなかった。壁一面、天井まで人形に覆われ、腰ほどの棚には人形が詰め込まれ、あるいは乗せられている。それ以外には何の家具もない。店と聞いていたが、カウンターやレジ台はなく、また入口以外の扉は無かった。

 また店内には話に聞いていた年のとった気味の悪い店主はいなかった。代わりに自分と同じ年頃の少女が一人だけ品定めする様に壁にかかった人形の群れを見つめていた。

 制服などは来ていない様だけど、お客だろうか? それともアルバイトだろうか?

 店員に人形を選んでもらって買う。友達の間で決めた罰ゲームを行う為には、店員がいなければならない。そしてそれが気味の悪い店主でなければ、なんと運のいい事だろう。

 怖がりな彼女はたった一人店にいた少女が店員であってほしいと、半ば祈りながら少女へ近付いて行った。

「あの、すいません。店員さんですか?」

 はっと振り返った少女の驚いた顔を見て、店員であって欲しいという願いが叶わなかった事を知った。

 それを証明する様に、胸にプラスチックでできた安っぽい西洋人形を抱いていた少女は顔を赤らめながら否定した。

「い、いえ、私は、店員じゃなくて」

 がっかりするよりも恥ずかしさが先立った。
「ご、ごめんなさい」

 謝罪の言葉を口にして、その場を離れ様と一歩後ろに下がろうとした。その時にしゃがれてぐちゃぐちゃになった声が前方から聞こえてきた。

「Gaahadeenn daaggu」

 はっと目の前の少女を見ると、目を見開いて視線を胸に抱いた人形に落としていた。

 目の前の少女が人形を強く抱きしめた。

 再び耳の裏を逆撫でる様な声が響いた。

 古くなって発声装置が壊れているのだろう。その気色の悪い声は誰かが作ろうと思っても作る事ができない、地獄の底から聞こえてくる様な響きに感じられた。

 ゆっくりと視線を上に上げると、人形を抱いている少女と目があった。その一瞬後に慌てたように抱いていた人形を壁に掛け直した。

「すみません。あの、とにかく私は店員じゃないです。えっと……今店員の方はいないみたいで、私が来た時からいなかったみたいで……あの、それじゃあ、失礼します」

 少女は曖昧な笑いをこちらへ向けた後、そそくさと出口へと足を向けた。

 気恥ずかしさに居心地が悪くなったのだろう。取り残された彼女は自分が事の発端を作っただけに申し訳ない気持ちになりながら、少女を見送った。

 と、少女がそのまま帰っていくのかと思っていると、突然横の棚に座る龍のぬいぐるみに顔を向けて数秒、考え込むようにじっとしていると思うと、突然爽やかな笑顔でこちらへ戻ってきた。

「いや、先程は失礼、お嬢さん。私は広瀬涼子。先のお詫びに、どうです、これから食事にでも行きませんか?」

「え、あの?」

 突然なんだろうと思っていると、目の前の爽やかな笑顔が艶やかな笑顔に変わった。

「ごめんなさい。今のは何でもないわ。気にしないで。それじゃあ、さようなら。また何処かで会いましょう」

 頭に浮かぶ疑問符を解消する事無く、少女は素早い身のこなしでドアを開けて出ていってしまった。

 いきなり何だったんだろう。まるで人が変わった様に……。

 人形のホラーで人形と人の心が入れ替わってしまうという物がある。ではあの少女も?

 ぞくりと自分の想像に肌を粟立たせた。

 嫌な想像がどんどんと膨らんでいって、薄暗い店の中で人形達が笑いだしそうな気配が満ちていく。

 もう笑われてもいいから帰ろう。

 バタンと扉が閉まる音が聞こえた。さっきの少女が開けた扉がたった今閉まっただけなのは分かっているが、一瞬閉じ込められた様な錯覚を感じる。

 早く出よう。

 扉へ向かおうとした瞬間、背後からしわがれた声がかかった。

「いらっしゃい」

 全身に冷や汗がうっすらと滲み渡った。

 振り向くと、よぼよぼとした老婆がカウンターにちょこんと座っていた。老婆の後ろには色あせた木製の扉が今丁度閉まるところだった。

 ああ、店の人は奥にいたのか。

「いらっしゃい」

 もう一度、優しげにしわがれた声がかかる。

 仕方ない。こうなったら何か買って早く帰ろう。

 覚悟を決めて、老婆へと歩み寄った。



 店を出ようとした時に、視界に映った龍のぬいぐるみが龍に変わっていた。

 人形が本物に変わっていた驚きで、思考が停止した。

 しかし驚いている間にも体は勝手に龍の攻撃を避け、口は驚きを表す前に詠唱を完了させている。

 ようやくここが、いつもの島だと分かった時にはすでに戦いは終わっていた。

「ふぅ、面倒な事になってきた」

 いつもながら何のことやら分からない自分の言葉を聞きながら、私は目の前に倒れた龍を見ていた。

 さっきの店での事を思い出して、身もだえしたい様な気持になった。

 自分が鳴らした人形の声、それに驚いた自分、その後に目があった事、しどろもどろになりながら逃げ帰ろうとした事……そして何よりもこの島の夢を見ている──つまり現実の世界で別の誰かが私の体に乗り移って勝手に動いている事。

 何か変な事を言っていないといいけど。

 自分が変な事を口走り、あの店に入ってきた綺麗な少女に変な目で見られる事を想像して、恥ずかしさが更に高まった。

 綺麗な少女だった。下がったまなじりが意志の弱そうな印象を出していたが、それを囲む白磁の肌と整った長い黒髪が何処か神秘的な雰囲気を出していた。あんな綺麗な女の子を始めてみたかもしれない。

 しかし、その整った顔が私の言葉によって歪んでしまうのかと、すこぶる嫌な気分になる。

 もう二度と会う事はないだろうけど。それでもやっぱり恥ずかしい。

 心を落ちつけようと、別の事を考えてみる事にした。

 私が身もだえている間にも、体は勝手に何処かへ向かい、口は勝手に動いている。

「知っているかい、昔……」

「そんな事どうでもいいよ。それより今日は……」

「目先の事ばかり考えるな。まずは……」

 一人で議論を始めている自分を客観視しているとこれまた気恥ずかしい。幸い周りに人はいないが、一人で喧々諤々議論を続けていたらどんな目で見られるか。

 最近、どんどんこの体に入っている意識が活発化している。昔は私の意識もはっきりしていなかったし、こんな風に他の意識同士でやり取りをする事もなかった。

 これは何を意味するのだろう。

 現実の私の体は幸いこんな騒ぎ立ててはいない様だが、いつこんな際立った異常さが見られるか分からない。

 もしかしたらさっきの店で意識が飛んだ瞬間から、私の体が他人から見れば気違いじみた騒ぎをしているかもしれない。

 恥ずかしさというより、不安や危惧が強くなっていくが、夢の中にいる自分ではどうしようもない。

 不安が膨らんでいる間も、騒ぎが口から溢れていく。

 人が悩んでいる気もしならないで。

 そう思うと無性に腹が立って、怒鳴ってでもこの口ぜわしい意識達を止めてみたくなった。

 よし、と決意を持って、大きく息を吸い込んだ瞬間、すっと頭を何かがよぎった。

 夢の終わりだ。



 身を起こすと、自分の部屋だ。頭上の電灯が煌々と私を照らしている。

 窓はカーテンがかかっておらず、夜に染まった景色が見えた。隣家の電灯が明るく照っている。

 空腹を感じて、ベッドから降りた。何か作らなければ、階下の台所へ向かう途中、また人形の店での事を思い出して恥ずかしくなった。

 私の意識が無い間、あの意志の強そうな、まるでフランス人形の様な美しい少女に変な事を言っていなければいいのだけど。



[29811] 夕闇の怪人
Name: 烏口泣鳴◆db25df9d ID:41696623
Date: 2011/09/24 19:30
 闇をまとった狐が駆け寄ってくる。

 体から黒い湯気を立たせながら私の元に走ってくる。

 私が抱きとめる為に腰をかがめようとした。

 すると震える様な旋律が流れだして、辺りに狐を打ち倒す意志が具現化していった。


 うっすらと目を開けると、なじみの顔が私を覗き込んでいた。

 狐はどこだろう。

 頭の中に靄が立ち込めていたけれど、習慣化した言葉が喉の奥からこぼれだした。

「おはよ、シュウ」

「ん、おはよー」

 私が起きた事に気付いたシュウは間延びした挨拶を返しながら、やんわりと笑顔を作った。しかし、その顔には隠しようの無い疲労が滲み出ている。

 その表情を見て、狐が夢の中のものだと察した。そして現実では私がシュウを振り回していたのだろう事も。

 後悔の念が胸に広がった。

「あー、またやっちゃったか。ごめん」

「別にいいよ。来た事の無い場所に来れたしね」

 シュウは手を横に振った。その手にはスポーツドリンクのペットボトルが握られていた。

 思わずそれを見つめていると、シュウはその視線に気付いて、手に握ったペットボトルを突き出した。

「はい、これ。お互い散々走りまわってたからな。喉渇いただろ?」

 受け取ろうとして起き上がると、背中の服がべったりと張りつく感触があった。今まで横になっていた場所に目をやると、木製のベンチが汗で黒く染まっていた。

 走りまわった挙句にこのベンチに疲れて横になったのか。

「汗だくで寝てたから、もしかしたら風邪ひくかも。俺のパーカー貸そうか?」

 自分の服を見てみると、これもぐっしょりと濡れていた。スカートではなかった事と、紺のブラウスだった事が、汗でぬれた今の自分には幸いと言えば幸いだ。

 とはいえ、汗まみれの自分が見られていた事実はそれなりに恥ずかしい。

 それに加え、横に立ってペットボトルを渡そうとしているシュウが、私という女性に対して、恐らく何らの魅力も嫌悪も感じずに、私の元をあっさりと離れて飲み物を買いに行って、何の邪気も混ぜずに寝ていた私を覗き込んだのだろうと考えると、無性に腹が立った。

 だがそれに対してどういう形で怒ればいいのか、そもそも怒って良いのかも分からず、ぐっと堪える事しかできない。

「どうした? 日射病になるぞ?」

 私の事を心配してくれている純真な眼差しに言い知れぬ悔しさを感じつつ、私はペットボトルに手を伸ばした。

 指が触れた瞬間、驚いて取り落としそうになった。受け取ったペットボトルは、一体どれほど私が起きるまで待っていてくれたのだろう、すっかり生ぬるくなっていた。

 シュウを見ると、衣服は尋常じゃない程汗がしみついているものの、体は乾ききっている。

 私がかけた苦労と、彼の優しさがはっきりと感じられた。

「ありがとう」

 再び「ごめん」と言いたくなるのを堪えて、「ありがとう」と無理矢理答えた。

 シュウは笑顔で答えを返して、口では何も言わない。

 居た堪れなくなって辺りを見回すと、ここは何処かの公園だった。

 見知らぬ公園だ。

 狭い敷地の中に、滑り台やジャングルジムなどのお情け程度の遊具がぽつりぽつりと寂しく置かれていて、それが夕日によって朱一色の闇に染め上げられて、懐かしい様な不安を呼ぶ様な、寂しげな場所だった。

 それを取り囲むように敷地の外周に木が立ち並び、さわさわと葉を鳴らしている。

 その木々も夕日で朱に照らし出されて、普段のすがすがしい緑色は見る影もなかった。

 どこまでも人を不安に陥れる寂しい公園に、私とシュウは囲まれていた。

「ここは……」

 何処だと聞こうとした言葉を途中で区切り、シュウの後方に立つジャングルジムの一角に目を奪われた。

 初めはジャングルジムを見た瞬間に気付いたふとした違和感だった。だが、目を凝らしていく内に段々と空間から染み出してきた様に人の輪郭が滲みだしてきた。

 鉄で組み上げられた子供達の遊び場の横に地面に引きずるほど大きな蓑と顔全体をそっくり覆う深い笠を纏った古風な人影が立っていた。

 その人影は昼間であれば、光景にまるでそぐわない墨汁の染みだったかもしれない。けれどそれが夕暮れの闇に滲んだ世界には、なんと完璧な調和を見せるのか。

 巷間に広がる子供を連れ去るという夕闇の怪人の噂が頭に浮かんだ。蓑と笠という格好が、西洋風なマントと仮面を身に付けた噂の怪人である事を否定するが、蓑と笠という時代錯誤した格好は神隠しを行う山の神を思わせて、人攫いの印象を強くしていた。

「ここ? どこかの公園だろうけど、分からないなぁ。大分遠くに来たから」

 シュウののんびりとした言葉を頭のどこかで聞き流して、私は怪人に視線を注ぎ続けた。

 怪人がゆっくりと後ろを向いて、公園の出口へと向かって歩いて行った。その動きは霞を思わせる様な、どこかおぼろげな印象を与え、見ていると吸い込まれていきそうな錯覚を感じてしまう。

「シュウ! あれは?」

 人影は次第に闇に滲みながら出口へと向けて消えかけていた。

「ん?」

「あれはいつからいたの?」

 シュウは私の指した方向に振り返ってから、困惑した表情で言った。

「あれってどれ?」

「あの蓑と笠を着た変な奴!」

 その問答の間にも段々と怪人の影は薄くなっていく。

 シュウはもう一度振り返ってから、気まずそうに口を開いた。

「そんなのいないよ。……言い難いけど、いつもの幻覚じゃない?」

 幻覚?

 公園の出口に目を向けると、すでに怪人は闇に溶けて消えていた。

 確かにとても不思議な現実感の無い光景だった。

 それでも、あれが本当に幻覚のか。

「分からない」

 私の小さな呟きに、シュウが心配そうな顔をしてこちらを見つめている。

 夕暮れに侵されて、お互いの顔がぼんやりと滲んでいる。



[29811] 私の思い出に出てくる私の尊敬する教授
Name: 烏口泣鳴◆db25df9d ID:41696623
Date: 2011/09/24 19:31
「良くできた推論だけど、証明できるかしら?」

 それが亡くなった教授の口癖だった。

 徹底的な実証主義を標榜し、紙の上の理論だけでは、例えそれがどれだけ確からしい理論であろうと決して賛同する事は無かった。それどころか、「未証明で発表された理論は、その証明の為に他の『より画期的な発見』をしたかもしれない人的、物的資源を消費せねばならない為、身勝手な推論は害である」と考えて、常に憤っていた。

 自身の研究についても、多くの発見(教授に言わせれば推論)を生み出したにも関わらず、それが実験によって証明できる様になるまで、公に発表せず、証明できるまで温め続けていた。存命中に発表された論文はその中のごく一部だったが、教授の持って生まれた圧倒的な才覚は、そのごく一部だけでも科学の世界に対して文句のつけようの無い素晴らしい功績を打ち立てた。

 私はそんな教授の姿勢に憧れを抱いていた。どこまでも自分が正しいと信じ、誰に非難を受けようとそれを意に介さない力強さ。幾つもの功績を打ち立てて、自身の我儘を通す気高さ。才覚と意志によって前人未到の域へ踏み込み進んでいく美しさ。

 私は誰よりも教授に憧れていた。だから教授が教授職を辞した時も、私は教授について行った。教授は私の事を認めてくれて、ついていく事を許してくれた。

 私は教授を半ば妄信している。それはこの手記を読んでくれれば頷かれる事と思う。が、多少は間違っていたとも思っている。その一つとして、先の実証主義があげられる。それを貫く意志は美点だと思うが、考え自体は弊害も多い。例えば教授が死んでしまった事で、生み出した多くの理論が闇に葬られてしまう。

 その理論を引き継ぐのは、唯一人の助手だった私だけだ。しかし私には教授ほどの才能は無い。

 だから私は未証明のままパソコンに残されていた理論達を全て学会や科学雑誌に引き渡した。教授の志には背く事になっただろうが、私は自分のした事を正しい事だと確信している。

 教授の様に自分の信じた事を成している。と言ってしまっては、少し自分を美化しすぎだろうか。


 今でも教授が死んだとは信じられない。まさか、という思いが、心の中で荒れ狂っている。教授が死ぬはず無いと頭の中で叫んでいる。

 私は教授が死んだ場面に立ち会っていた。

 藪の生い茂った田舎道を今でもありありと思い出せる。私と教授は大きな機材を背負って山の中の村を目指して歩いていた。風が強く雨で道がぬかるんでいた。

 道の右手に崖があって、教授はそれを覘きながら、休もうかと言った。遥か後ろを息も絶え絶えに歩いていた私は最後の気力を振り絞って、教授の元まで登った。

 教授は相変わらず崖を覘き込みながら、すぐ後ろで疲れ果てている私に対して、まだ若いのにと呵々大笑した。

 今でも思い出せる。まったくこの人は殺しても死にそうにないなどと、今思えば不謹慎な失笑を覚えて、教授の背中を頼もしく思いながら見つめた時だ。

 教授が崖から飛んだ。

 崖を覘き込んだ私の視線の中で、教授は羽ばたく様に手足を振り回していた。そして突き出た岩に跳ね返って、動きを止めてから、水しぶきをあげて水の中に飛び込み、そのまま上がってこなかった。

 私は夢の様な心地でその場に座り込んで、崖下の川を見つめていた。もしかしたら元気に浮かんでくるかもしれない。そんな事を考えていた。

 私が正気に返ったのは、教授の死亡を言い渡された時だ。

 ぬかるみで足を滑らせて落ちたのだろう。遺体は上がっていないが、途中に当たった岩には大量の血と体がこびりついているから生きているはずがない。

 私はそんな警察の報告を聞いて、掴みかかりそうになった。そんなはずはない。ちゃんと探せ。教授はきっと生きている。

 けれどしなかった。私の理性が押しとどめた。

 そうして私は教授が生きていると心のどこかで思いながら、葬式を執り行い、論文を発表した。

 後は教授の遺品を整理するだけだ。それから先の事は考えていない。


 私は文章を保存して、ぐっと伸びをした。

 まだまだ書きたい事は沢山ある。教授という人がどういった人だったのか。それを沢山の人が知ってくれればなぁと思った。

 葬式での事が思い出される。弔問客は少なかった。それは教授が教授職を辞した後はずっと私と二人で没頭していて、交流が狭かったためだ。教授職についていた時の知人は多かったが、連絡してみるとそのほとんどが既に他界していた。

 僅かな弔問客が言った異口同音の言葉を覚えている。「あの彼女が」と誰もが言っていた。死んでしまった事だけでなく、研究内容や私生活の事を私が話す度に誰かの口から「あの彼女が」が漏れた。

 私以外の誰もが教授職についていた頃の教授しか知らないのだ。私だけが唯一、教授の事を最後まで見ていたのだ。

 だから私は教授像を作って、それを皆に知ってもらおう。そう考えた。

 教授の事を書き残そうとした経緯を思い出すと、胸の内に熱い血が流れこんでいった。

 新たにやる気を充填して、もう一度伸びをすると、再びパソコンへ向かう。

 文章の最後の部分、「少し自分を美化しすぎだろうか。」の後に改行を入れて、さてあの思い出深い研究所での事を綴ろうかと考えた。


 空港から数時間、最初は感動していた海沿いの街並みもいい加減飽きて何にも感じなくなっていた。

 陰気で無口なタクシーの運転手は乗車してから一度も喋らない。なんとなく目つきがいやらしく、油断すると殺されてしまいそうな雰囲気がある。

 後部座席で一緒に座っている教授は私の横でのんきに寝ている。「着いたら起こして」との事だが、私は今すぐにでも叩き起こして無理矢理にでも話し相手にしようか迷っていた。

 決心をつけて手を振り上げた瞬間、タクシーの前方から急に光がさした。

 私は振り上げていた手をそっと、教授の肩に置いた。

「教授、着きましたよ」

 料金を支払って、タクシーを降りると、太陽からの燦々とした光に照らされた大きな白い研究所が私達を迎えてくれた。

 とにかく大きな研究所だった。仰ぎ見ると、太陽が目に入って眩み、中々その全体像が把握できない。真っ白で真四角な建物には窓が一切なく、何階建ての建物なのか見当がつかず、それがより一層研究所に高さを与えていた。横幅は左右ともずっと先の方まで続いていて、遠くの方にぼんやりと切れ目が見える。

 私がきょろきょろと研究所を眺めまわしていると、教授は「みっともない真似はやめなさい」とだけ言って、入口に向かって歩いていた。

 私は顔を火照らせて教授の後を追った。

 入口の自動ドアを抜けると、高級ホテルの様なロビーが待っていた。壁や柱が全て真っ白で、豪華そうな調度品が浮き上がって見える。

 元来田舎者の私にとって、とかく大きく、豪華な物は憧れの対象であると同時に恐怖の対象でもあった。私というちっぽけな存在が拒絶されてしまう気がした。

 教授は私に構わず受付に向かっていた。

 私も恐る恐る教授の元に向かうと、教授は白衣の男と何か話をしていたが、ドイツ語だったため私には何を言っているのかさっぱり分からない。

 暇なので受付のドーベルマンの置物を見ていると、教授に腕を強く引っ張られた。教授に引っ張られながら、白衣の男に付いて行くと、実験室に着いた。

 案内された実験室はこの研究室の内外全てがそうである様に、真っ白い空間だった。真っ白い壁に囲まれた真っ白い機材を縫う様に、白衣を着た研究員達が歩き回っている。私達が入ってきた方角の反対側の壁は一面にモザイクがかっていた。

 ふとモザイクの壁模様が動いた様な気がして目を凝らすと、それはモザイクではなく、透明な壁の向こうに犇めいている物体だった。そう気がつくと私の視界に、私達のいる白く塗りたくられた幻惑的な空間の向こうに、眩惑的な不思議の国が広がった。

 その部屋には色々なモノが詰め込まれて、その全てが狂っていた。

 フライパンが空に羽ばたき、アイロンが歌を歌い、熊のぬいぐるみは背中でお湯を沸かし、おもちゃの兵隊はピアノと愛し合い、鉛筆が犬のお腹を開いてビールを取り出し、取り出されたビールはエンジン音を響かせて鉛筆の胴体を真っ二つに切り裂いていた。

 そんなのはまだ分かりやすい方で、もっと奇妙な光景が、部屋の中を踊っていた。

「面白いわね。あれは何かしら?」

 吐きそうになった私を現実へと連れ戻したのは教授の言葉だった。

 教授は男からドイツ語で何かを聞くと、感心した様に頷いた。

「真ん中に座っている女の子が見える?」

 突然教授に問われて、私は透明な壁の向こうに目を向けた。

 確かにいた。狂気の中をまるで何事もない様に、安っぽい人形を抱きしめて笑っている。

「あの子はね、モノの性質を感染させるそうよ。例えば電話の性質を冷蔵庫にうつせば、その冷蔵庫が電話として使える様になるし、チーターの性質を亀にうつせば、のろまの亀があっという間にスプリンター選手になるんですって。面白い話よね」

 私が何も言えないでいると、教授は男に何か言って、マイクとイヤホンを受け取った。

「ちょっと今からあの子に質問してみるわ」

 教授が何かをマイクに向かってしゃべると、少女は反応して顔を上げ、口を動かした。

 教授が次々と質問をして、少女がそれに応えて行く。

 それは全てドイツ語なので私には分からない。ただ二人の顔を見ていると、質問を重ねるごとに、教授は笑顔が、少女はきょとんとした不思議そうな顔が、強まっていった。

 やがて教授は質問を終えて、マイクとイヤホンを男に返すと、私の手を引いて、実験室を出た。

 慌てて追いついてきた男の案内で、研究所の外へ出ると、既に車が(しかもリムジンが)待っていた。

 私達はそれに乗り込み、当初の予定だった学会の会場へと急ぐ。


「全く教授がいきなり予定を変えるからギリギリじゃないですか」

「いいじゃない。面白いモノが見れたでしょ」

「……いえ、怖かったです」

「本当に憶病ね。あの子にお願いして、気の強い性質をうつしてもらったら?」

「結構です。私はそれなりに私が好きですので。ところで、さっきは何を質問していたんですか?」

「ん? そうねー。例えば分かりやすいのだと、『笑っている月が独りで寂しくボートに乗った。一緒に乗りたかった相手は誰?』とかかしら」

「いや、何言ってるのか分からないんですけど。答えは何ですか?」

「豚」

「どうしてです?」

「さあ?」

「さあって」

「ホント細かいところを気にするわねぇ。あの子にお願いして、おおらかな──」

「結構です!」



[29811] 不幸を呼ぶ……
Name: 烏口泣鳴◆db25df9d ID:41696623
Date: 2011/09/24 19:31
「死にたい」
「どうしてそんな事言うの?」
「僕は生きてちゃいけないんだ」
「元気出せよ、な」
「死にたい。胸が苦しい。死にたい」
「何が嫌なのか話してみない?」
「話せば楽になる事もあるだろう」
 気がつくと、自分で自分の人生相談にのっていた。
 傍から見ればただの独り芝居にしか見えない。恥ずかしい事この上ない。
 それが演劇の筋をなぞった本当の独り芝居だったら、まだマシだったかな。同じ事か。
 心の中で自問自答しつつ、外の自問自答を冷やかに眺める。
 この場所がブロック塀の入り組んだ、迷路の様な細い路地であった事が幸いと言えば幸いだ。
 少なくとも誰かに自分の姿を見られる事は無い。
 もしかしたらブロック塀の向こうでは誰かがこの狂言を聞いているのかもしれないけれど、こちらから見えなければ居ないも同然だ。
「僕は災厄を呼ぶ体質なんだ」
 自分は言った。
「……その時こっちの世界に来ちゃったから、どうなったかは分からないけど、多分……」
 自分の周りに不幸な偶然が重なっていき、次々に周りの人々が傷ついてきた過去を語り終えると、僅かな沈黙の後、口々に同情の声を投げかけられた。
「……大丈夫。きっとみんな無事だよ」
「今までだって、死人が出る様な事は無かったんだろ? ならきっと……」
 大丈夫、なんとかなる、そんな言葉が次々と自分に対して贈られる。どの言葉にも、きっと、もしかしたら、そんな憶測が付随している。
 今自分の口から流れている同情の言葉の陰には、対岸の火事を眺める様な諦めがあるのだろうと思う。
 きっと何もできない無力感、話者への不満・憤り、話題への無関心、多くの感情がこの体に宿っているだろう。しかし、何もできないと感じる者はその無力感によって言葉を戒められ、話者へ不満を持つ者は言った所で何も変わらず怒りだけが溜まる事、非難をすれば同情的な感情を持つ多数から一斉に攻撃される事を知っているので発言を避け、無関心な物は当然何かを言う必要が無いので、同情以外の情動は口を挟まず、同情以外の言葉は口の端にも出てこない。
 結果として皆が同情している様な錯覚を与える。
 同情に包まれて、不幸を嘆いていた話者は言った。
「ありがとう。頑張ってみます」
 本当に励まされ奮起したのか、深い諦めの末に周りを黙らせる為の方便なのか。私にはその言葉から感情を読み取れない。
 どちらであろうと同情する人々の反応は変わらない。
 誰もが口々に最後の慰めの言葉をかけて、最後に誰かが締めくくった。
「こっちの世界ならその体質も関係ないだろ。ほんの少しの時間だろうが、ゆっくりと休め」
 その言葉を待っていた様に、丘の向こうから猫と狐と大巨人が、三匹仲良く飛び出してきた。敵だ。
「え、嘘」

 草に覆われた巨大な拳がさっきまで私が立っていた地面を叩き潰した。
 轟音と地響き、そして立ち込める砂埃が戦闘の合図となる。
 巨人の拳を避けた自分は即座に足で地面に円を描いた。
 円が完成した瞬間、空気が張り詰め、世界が明るくなった様な錯覚を起こした。
 円の外で流れているはずの音が消えて、どこまでも静かな世界の中に私は立っている。
「おいおいおい、なんだありゃ」
 静かな世界の中で、自分の声がいつもよりはっきりと耳に届いた。
 風で砂埃の晴れた視界の向こうに、巨大で真黒な球体が宙に浮いている。
「待て待て待て! どうすりゃいい? どうすりゃいいんだ!?」
 口から漏れる言葉とは裏腹に、体は落ち着いた様子で空中からガラス瓶を取り出し、蓋を開けた。
「ごめんなさい。ごめんなさい。また僕が……」
「成程な。こりゃあ、厄介だ。まさかこっちにまで影響があるとは」
「ごめんなさい。ごめんなさい」
 開いたガラス瓶から蠢く様に黄色い液体が這い出してきた。
「気にしないで。どうせこの世界じゃ死なない体」
「それにこの程度で災厄だなんてね。笑える話じゃないか」
 黄色い液体は宙を這いまわり、黄色い線によって転げまわる男を描いた。
 転げまわる男の絵は次第に細部が緻密になり、外郭が膨れ上がっていく。
 やがて足元に描かれた円の制空権を越えた瞬間、空気の抜ける様な音が聞こえ、円の外の草が焼け焦げ始めた。
 私の立つ場所を中心にして、円が広がる様に草むらが黒く染まっていく。
「ひゃっはっは。無色無味無臭で有毒な高温ガスだ。これを吸って生きてられる生き物なんざいねぇ」
 男の声に合わせる様に、見えないガスは一気に広がり、三匹を僅かに焼け焦がして──消えた。
「ん?」
 熱は三匹の体毛が僅かに焦がしただけ、毒はコンコンと咳をさせた程度、まるで効いた様には見えない。
 猫が口を膨らませ、狐が遠吠えを上げる様に口を突きあげ、巨人が腕を振り上げた。
「あ、やべ」
 時間が停止した気がした。
「おい、誰か早く逃げろよ」
 その言葉が発せられる一瞬前に、体は動きだしていた。
 円から飛び出すと、猫の吐き出した炎が今までいた場所を包み揚げていた。
「無理! 無理! 無理! 無理!」「なんか必殺技とかないの?」「俺に任せて皆逃げろ!」「もうヤダもうヤダ」「無理だよ、逃げよう」「早くなんとかしろ!」「とにかく一旦離れて落ち着こう」
 私めがけて巨人の腕が振り下ろされた。その動きはゆっくりとして見えるが、実際は途轍もない速度なんだろうなぁと、私は全てを諦めて考えていた。
 体は動かない。狐の口から響く怪しげな韻律が耳を通して体を縛りつけていた。
「なんでもいいから避けろ!避けろ!」「ねぇ、なんか必殺技とかないの?」「こんな事もあろうかと!」「誰か助けて! 早く!」「あ、駄目だ。死んだ」「そうか。死ぬか」「諦めんな! 最後まで足掻いて見せろ!」「まぁ、無理だろ」
 誰も彼もがどこまでもふざけた調子の断末魔を上げていた。
 私自身もやっぱりこれは夢なんだと現実感を喪失したまま、巨人の拳によって体ごと押し潰された。

 気がつくと、蒸し暑い夏が肌を焼いていた。
 突然現実に戻ってきた拍子に、思わずたたらを踏んで壁に手をついた。
 まだ死んでない。非現実的な呟きが頭の中に浮かぶ。
 辺りを見回すと、どこかで見た様な景色だが、はっきりとした記憶は形作れなかった。
「デジャブ?」
 ここはどこだと、手をついたレンガ造りの壁に沿って歩いて行くと、その先に壁に彫られた文字があった。
 装飾も何も無く、ただ簡潔に公園名が彫られた標識を見て、以前一度だけ別の意識に操られるままシュウと一緒にやって来て、蓑を纏った怪人を見た公園だと知った。
 なんでまたここに?
 釈然としないまま、私は近くにあるはずの駅へ向けて歩き始めた。
 蒸し暑さで重くなった足に難儀しながら歩いていると、ふと看板めいた板を掛けた古びた家を見つけた。
 何処かで見た様な気がするのだが、はっきりと思い出す事ができない。
「またデジャブ?」
 近寄って見ると、黒く塗られた木製の扉に『17時~19時』とだけ書いてあった。
 開店時間なのか。いまいち判別がつかない文を見て、「ああ、あの人形の店か」と思い至った。
 この店は近所で有名な怖い人形店だ。店の雰囲気が怖い、店主が怖い、人形が怖い、と恐れられ、入ると二度と出て来られないと噂されていた。
 前に一度行った時には、確か綺麗な人が。
 そこまで考えて首を振った。あの時の恥ずかしい失態を思い出しそうになった。
 改めて店の外観を見ると、あの時と寸分違わぬ不気味さが漂っていた。
 店に相違点はまるでない。一つ違うのは、店の建っている場所だけだ。
 あれは自分の家の近所、この町から3駅離れた場所に店を構えていたのに。
 2号店だろうか、店を移したのだろうか。
 店に漂う不気味な雰囲気が、そんな簡単な話ではないと言っていた。
 もっと悪魔的な現象が私の目の前にこの店を呼び込んだ様な気にさせた。
 前に来た時の不気味な店の雰囲気を思い出す。
 そういえば、あの時は店主がいなかった。もしかしたら開店時間ではなかったからかもしれない。
 携帯を取り出して時間を確認すると、17時を少し過ぎていた。
「丁度いい」
 扉に書かれた時間を確認して、私は呟いた。
 先程死を経験したからだろうか。どこか高揚した気分が私に恐怖を忘れさせてくれた。
 私はそっとノブを捻って、蝶番が鳴らす金属的な不快音を軋ませながら、店の中へと足を踏み入れた。
 店内の人形が一斉に私を迎えてくれた。
 前に来た時と変わらない。入口に全ての人形を向けさせる趣向、最低限の家具しかなく、まるで人形の為にある様な空間。
 今日は店主がいた。皺だらけの老婆がボロボロの木椅子に座って、人形達と同じ様にこちらを見つめていた。
「いらっしゃい」
 しわがれた声がした。
 それが老婆から発せられたのだと分かるまでに僅かな時間を要した。
 店内にはもう一人、女性が居た。どうやら客の様で、熱心に人形を眺めていた。
 私が入ってくると女性はこちらを見て、一拍の後なぜかにやりと笑った。不気味だった。
 私が店内に進むと、女性は入れ替わる様に店の外へと出て行った。すれ違う瞬間、もう一度私を見てにやりと笑った。
 さっきまで女性の居た場所へ行くと、そこには古びたプラスチックで出来た安物の西洋人形と、それに寄りかかる様に透き通った白い肌を持った高そうな日本人形が置かれていた。
 西洋人形は前に来た時に何故か気になって見ていた人形だ。日本人形のいかにも気弱気な表情にも既視感を抱いたが、どこかで見た覚えはまるでなかった。
 私は西洋人形を抱き上げてお腹の辺りを押してみた。
「Gaahadeenn daaggu」
 この前と同じ様にしゃがれてくちゃくちゃになった音声らしきものが発せられた。
 やっぱり前に来た時と同じ店?
 そう考えると、途端に背筋がぞくっとした。
 早く出よう。店主の機嫌を損ねない様に何かを買って。
 そう考えて西洋人形を店主の元へと持って行った。
 老婆は少し驚いた様な表情で私を見つめたが、すっと元の無表情へ戻すとか細い声で、「百円」とだけ言った。
 私は百円を取り出して、店主の手に落とすと、早足で店の外へと飛び出した。
 とにかく逃げよう。
 店を出てもまだ、恐ろしい気持ちが続いていた。
 早く逃げよう。夕暮れに染まった街の中を、何か得体の知れないものを起こさない様に出来るだけ静かに、何か不吉なものに追いつかれない様に出来るだけ早く、駅へ向かって歩き続けた。
 ふと商店街の人ごみの中に笠と蓑を纏った、この前の怪人がいた。
 怪人は私に気がつくと、唯一見える口元をにやりと歪めて脇の路地へと消えて行った。
 私は無視をして、とにかく駅へと向かった。
 何が何だか分からないが、とにかく急いで帰らなければと、考え続けて。
 恐怖に立ち止りたくなる衝動、叫びながら走り去りたい衝動、人形の店や怪人を徹底的に追及したくなる衝動、手に持った人形を手放したくなる衝動、それら全てを押し込めて平静を装って、何かに目を付けられまいと耐えながら、私は駅へと歩き続けた。



[29811] 始まり、始まり、ここから始まり
Name: 烏口泣鳴◆db25df9d ID:41696623
Date: 2011/09/24 19:32
「リョウにも遂に春が来たんだねえ」

 お昼休みに机を挟んで弁当をつついていた友人が気味の悪い笑顔を浮かべながら、そんな事をのたまった。

 回りくどい言い回しに、私はいらっとした。

「春って何よ」
「いやいや、修也君の事ですよ。最近いい感じじゃん?」
「そういうんじゃないから」

 そんな風に映っているのか。溜息を抑えて、私は頬杖をついた。

 確かに修也ことシュウとは最近良く一緒にいる。ただそれは、あくまで幼馴染に対する心配だとか、義務感だとかに促されてのものだろう。私が突然おかしな事を口走るようになり、母親を刺して落ち込んでいたのを気にしてだろう。恋愛とは全く無縁の感情だ。

「私は昔シュウに振られてるんだから、今更付き合うとかありえないでしょ」
「ああ、そういやそうだったねえ」「え、それ初耳」「何それ?」

 小学校の時にラブレターを出して、捨てられた事を思い出した。散々待ち合わせ場所で待った挙句、教室に戻ってみればゴミ箱に自分のラブレターが捨ててあったのだ。もう何度も思い返した光景なのに、未だに悔しさと悲しさが襲ってくる。

「つっても小学校の時の話でしょうに? 心が変わる事だってあるでしょ」
「最近のリョウと修也君付き合ってるようにしか見えないもんねえ」

 私は赤くなった顔を隠す為に俯いた。
 もしも本当にシュウの心が変わったのだとしたら、それは歓迎すべき事なのかな。
 世界が分からなくなっている私はそれを受け入れてもいいのかな。

 考えても詮の無い事だ。シュウの心は分からないし、また振られるのが怖いから好きかどうかなんて聞く事もできないし、私はいつ完全に狂ってしまうのか分からないのだから。

「違うってんならなんで良く一緒にいるんだよ」
「幼馴染だし、最近色々あったから心配してくれて」

 途端に友人達は押し黙った。流石に傷害事件に関係していては無闇に踏み込む事も出来ないのだろう。

 母親が刺された、と世間では思われている。でも実際は私が指した、とシュウだけは知っている。
 それでもシュウは私の事を受け入れて支えてくれた。

 確かに幼馴染とはいえ、おかしいかもしれない。
 でもそれに疑問を挟む気はない。私は嬉しかったから。ただ一緒にいられる事がたまらなく嬉しかったから。

 そういえばと、友人達を眺める。
 なぜ皆は私と普通に接してくれるのだろう。

 私は最近おかしいらしい。突然訳の分からない事を話すようになり、訳の分からない行動をとる様になったらしい。

 春休みを過ぎると、少し落ち着いたのだけれど、それでも時たま変な発言、変な行動が出てしまう。まるで誰かに乗り移られた様な奇妙な言動。

 私の事をあからさまに避けている人もいる。私の方を見ながらひそひそ話をする人もいる。
 けれど同じクラスの人達、とりわけ目の前にいる友人達は何も変わらない様子で接してくれた。

「お、噂をすれば」「リョウ? 修也君が来てるよ」

 教室の入り口を見ると、シュウが立っていた。私が目を向けると、シュウは私に手招きをした。

「さっさと行って来いよ。弁当は私が食べといてあげるから」「頑張ってね」

 友人達に励まされながら、私は立ちあがって、シュウの元へと向かった。
 何の用だろうと、期待と不安を抱きながら。

   ○ ○ ○

「で、何よ」

 私は単刀直入にそう言った。さっきの会話の所為で尖った口調になってしまったのは仕方の無い事だと思う。

「おばさん、元気になったんだって?」
「ああ、うん。結構前から元気だったけどね。検査入院を繰り返してたけど」

 お母さんは昨日、医者から完治を言い渡されたばかりだった。

「それを確認しに?」
「うん」
「あ、そう」

 とても重要な事だし、心配してくれているのはとてもありがたい事なのだけれど、思わず拍子抜けしてしまった。
 いや、勿論恋愛の話で無い事は分かっていたのだけれど。

「涼子も嬉しそうで。じゃ、昼飯邪魔して悪かったな」

 私が戸惑っている内に、シュウは自分の教室へと戻っていってしまった。
 告白とかでない事は分かっていたし、向こうは私の事を好きでも何でもないのだろうけど、なぜだろう、少しだけ怒りが湧いた。

 ふとシュウの言葉を思い出す。
 私はそんなに嬉しそうにしていたのだろうか。

   ○ ○ ○

 あれ? さっきまで家にいたはずなんだけど。

 すぐにここがいつもの島である事に気付く。

 自分の体を見回してみた。胸に大きな穴を開けた男の体があった。

 この前の戦いで巨人に潰された筈なのに、男の体は潰される前と同じ姿だった。

 ほんの少しだけ希望があった。この体に乗り移れなくなったら、全てが解決するんじゃないかと。

 それは幻想だったようだ。いつもの島がここにあり、いつもの体がここにある。

 殺された位で悪夢が終わるはずがないと分かっていた。だから落胆はしていない。僅かに残っている希望が少しだけ磨り潰されただけだ。

 苦しみや申し訳なさから解放される様な希望があった。それだけだ。
 平穏無事にこれからの新しい生活を送れる気がしていた。それだけだ。

 別に悲しくなんかない。この程度の気鬱は目の前の鼬で治してしまえるから。

   ○ ○ ○

 時計の針がリズムを刻んでいた。
 その聞きなれた音で自分の部屋に戻ってきたとすぐに分かった。窓の向こうは暗くなっていた。

 母親は出掛けていて、今日は帰ってこない。
 夕飯を作ろうと、私は台所へと向かった。

 階段を下りる途中でインターホンが鳴った。

 こんな夜に誰だろうかと訝しみながら、私は玄関へと向かった。
 玄関に着くまでの間に、何度もインターホンが鳴らされた。あまりまともな訪問客ではなさそうだ。

 鳴らされるづけるインターホンに辟易しながら覗き穴に目を当てると、インターホンが鳴りやんだ。月に照らされた誰もいない玄関先が映っていた。
 しばらく覘き込んでいたが、結局夜の闇に変化はなかった。

 誰かのいたずらだろう。そう判断しながらも、念の為にチェーンロックを掛けたままドアを開いて外を覗いてみた。すると玄関の足元にスティック状の記録媒体が落ちていた。誰かが誤って落としていったのだろうなどとは間違っても思えない。

 ぎりぎり手の届かない場所に落ちていて、チェーンを掛けたままでは取れそうにない。しかし傍に不審者がいると考えると、無闇にチェーンロックを外したくなかった。辺りを見ても、耳を澄ましても、誰かが居そうな気配はなかったが、とても安心はできない。

 あの記録媒体は何なのだろう。一体、中に何が入っているのだろう。

 確かにドアを開けるのは怖かったが、記録媒体を置いて行った犯人への恐怖と純粋な好奇心から、記録媒体の中身を確認したくもあった。

 しばらく考えてから、私はチェーンロックを外してドアを開き、記録媒体を拾い上げた。
 すぐさまドアを閉めて、チェーンロックを掛け、あっさりとした流れに安堵する。

 一体これは何なのだろうと、手の中の記録媒体を眺めた。玄関の泥がついていたが、それ以外は新品同様だ。

 一体これは何なんだろう。私は色々な想像をしながら、居間にあるノートパソコンへと向かった。

   ○ ○ ○

 私はパソコンから目を離して溜息を吐いた。

 世の中は分かっていない人が多すぎる。
 私は苛立ちを抑えながら、冷たい飲み物を求めて台所へと向かった。

 冷蔵庫を開けて迷った末に牛乳を選び、コップに注いだ。汚らしく白濁した液体を一気に飲み干して再びパソコンのある自室へと戻る。

 自室に入ると床に散らばった書類が目についた。自分でばら撒いたので、誰に文句を言う事も出来ない。

 私は書類を乗り越えて、砕け散った花瓶に注意しながら、パソコンへと向かった。

 倒れた椅子を起こして、座る。

 パソコンのディスプレイに向かうと、メールが届いていた。

 内容を検めると、今まで様々な所から届いたメールと一緒だった。誰も彼もが論文を認めようとしない。

 ディスプレイを破壊したくなる気持ちを抑えて、私はパソコンの電源を落とした。本当に分からず屋の人ばかりだ。

 どうして誰も教授の書いた論文達を認めようとしないのだろう。

 この論文達は未来を豊かにする素敵な論文のはずなのに。今まで誰もが考えていながら、誰もが否定してきた世界の真理を映し出すものなのに。

 論文を受け取った人々はこう言った。

「結論が酷すぎる」

 何故認められないのだろう。最近ようやく世の中に認められ始めた魔術を元にして、この世界が偽である事を示す素晴らしい論文達なのに。

「前半部分は考えさせられる所が多い。だが後半はまるで別人が書いたみたいに狂っている」

 どうして皆認めないのだろう。その後半部分こそが何よりも重要なのに。

「幾つも論文を送って来てくれたけど、全部最後は全く同じ気違いじみた結論じゃないか」

 当然だ。何故ならその結論の部分が一番大事なのだから。

 何故認めないのだろう。教授は正しいはずなのに。それなのに何故これは認めてくれないのだろう。

 私は沈み始めた気持ちを振り払う様に立ち上がった。

 気晴らしに散歩でもしようかな。

 論文の入ったメモリースティックを掴んで、私は外へ向かった。

 外は明るい月夜だった。頭上に上った月はいつも通りの無表情で私達を見つめていた。今私がどんな気でいるかも知らないで。

 通りに出ても歩いている人はいない。とても静かな夜だ。こういう夜は思索が似合う。何か考えてみるのが良いだろう。

 さてこれからどうしようかと、右へ進んだ。

 そうだ。あの少女の所へ行ってみよう。誰もこの論文を証明しようとしないなら、私が証明して皆に認めさせればいいんだ。

 早速素敵な考えが浮かんだ。やっぱり静かな夜には思索が進む。

 自分の思いつきに嬉しくなって、私は駆けだした。サンダルの底が軽快な音を出すので、私は更に嬉しくなって、空を見上げてくるりと回った。

 空に浮かんだ月はいつも通りの無表情で私を見つめていた。私の嬉しさを分けてあげられたらいいのに。



[29811] 誰かが叫ぶ愛の気持ち
Name: 烏口泣鳴◆db25df9d ID:41696623
Date: 2011/09/25 22:05
「愛! これは愛なのね!」
 どこかから叫び声が聞こえた。
 心の底からの叫びだ。誰かが幸せを感じている事に嬉しくなった。

 まともな叫びでは無いと分かっていた。そもそも白昼の街中で叫ぶ行為がまともなはずがない。それでもどこかから聞こえた叫びに気分を高揚させたのは、もう夏に差しかかった熱気に当てられて、幾分イライラしてしまった心を静めてくれた為かも知れない。

 何にせよ、何処からか聞こえてきた叫びが自分に関係があろうとは、毛頭程も考えていなかった。いつか幼馴染の女の子に告げようと考えている愛の言葉や学校で時たま掛けられる好意の言葉と、今しがたの叫びは全く相容れないものだった。
 芝居がかった叫びは現実味が感じられず、まるでスクリーンの向こう側から聞こえてくる様で、いっそ人間に向けられた言葉ではないとさえ感じられた。

 まるで別次元の出来事であるかの様に感じていた為に、叫び声が自分の思い人と同じ声である事に気付けなかった。

「愛してる!」

 視界がぶれた。
 俺は一瞬何が起こっているのが分からなかった。

「好きだ好きだ好きだ好きだ好きだ」

 気がつくと、右腕にしがみついた幼馴染の涼子から愛の囁きを連呼され続けていた。

 あ、また涼子に誰かが乗り移ってる。
 もういい加減事態に慣れてきた頭には冷めきった思いしか浮かばなかった。それなのに心臓は高く強く鼓動した。

 涼子の精神は依然としてあやふやな状態を続けている。
 誰かに乗り移られる回数が減ってきたと当の本人は言っているが、俺はむしろ増えたと感じていた。
 総数としては減っている。他の人がいる場所で乗り移られる事はほぼ無くなった。しかし自分の近くで変わってしまう事が極端に多くなった。

 それはなぜか。俺には分からない。

 もしかしたら自分が病の原因なのではないか。原因不明の病なだけに、色々と考えてしまう。
 思い返してみれば、最初に涼子がおかしくなったのは、自分と一緒にいる時だった。それを根拠に色々な可能性を考えてしまう。

 もしかしたら自分が何かしてしまったのではないか。もしかしたら自分が止められたかもしれない。もしかしたら自分が離れれば治るのではないか。もしかしたら自分に何かできるのかもしれない。

 それで確実に事態が快方に向かうなら、どんな事でも俺はそれをやり遂げる。
 最近は罪悪感に苛まれながら、その確実な方法は何だろうとずっと考え続けていた。

 突然右腕に冷やりとした空気が触れた。
 涼子が一歩引いた場所で顔を赤らめていた。

 正気に戻ったのだろうか。
 先程の人格から変化があった様だが、元に戻ったのかどうかは分からない。違う人格から別の違う人格に変わっただけかもしれない。

「あー、また、ごめんね」

 涼子の様だ。
 戻ったと分かると、途端にその恥ずかしげな顔に見とれてしまう。
 ああ、本当に自分は涼子の事が好きなんだと、毎度のごとく改めて確認させられる。

 きっと顔が赤くなってるだろうな。
 顔を見せない様に、後ろを向きたくなった。

「いや、別にいいよ。今回はすぐに戻ったし」

 なるべく傷つけない様に言ったつもりだったが、涼子の顔は悲しげに歪んだ。
 それはそうだ。この病が彼女に与えた傷は大きすぎる。
 どれだけ言葉を柔らかくしようと、触れれば劇的な悲哀を与えてしまうのは当然だ。

「そっか。いやあ、でも、いつも悪いね。今度何か奢るよ」

 涼子は明るく振る舞っているが、ぎこちなさが余計にかわいそうになる。

 憐れむ事は失礼だと思っているが、憐れむ気持ちは収まらない。どうしても守ってあげたくなる。抱きしめたくなる。
 それなのに、未だその関係まで進めない。そんな今の状況を殴りたくして仕方なかった。

「いいって。俺は好きで……」

 自分が何を言おうとしているのかに気付いて、思わず口を止めてしまった。
 例え意味は違くとも、言えない言葉がある。

「あ、いや、それより面白い店があるんだ。小さいけど雰囲気の良いレストランでさ。ちょっと離れた場所、あーほら、この前行った公園の近くなんだけど。どう? 今度行ってみない?」

「ん、良いよ。もうそろそろ夏休みだしね。時間は沢山あるし」

 小さく拳を握りしめ、咄嗟に出てきた機転を褒め称えた。
 喜びを噛みしめながら、隣のリョウを見ると、軽く俯き加減で何かを考えている様だった。

 まさかあまり嬉しくないのだろうか。もしかして嫌々頷いたのだろうか。
 ここ最近、二人で色々な所へ出かけた。乗り移られた涼子に振り回されて辿り着く事もあったが、二人で約束をして一緒に楽しんできたと思っていた。愛とはまでは行かなくても、好意は持っていてくれるのでは、と思っていた。
 それは思い込みだったのか。

 考えてみれば今相手はどん底にいる状態だ。そこに救いの手を差し伸べる者が居れば、例えいけ好かない人間でも、頼ってしまうのではないか。

 足元が崩れた様な感覚の中で、必死に足へ力を込めて、今考えた嫌な想像を振り払う。

 そんな事はない、とはっきり断定はできない。けれど涼子は今まで沢山の笑顔を俺に向けてくれた。あの笑顔が偽りだったとは思えない。
 好意を持ってくれているかどうか。それは告白すれば分かるのだろう。それができないので、もどかしい。

 断られるのが怖いわけじゃない。告白する事が恥ずかしいわけでもない。涼子に誰か相手がいるとも聞かないし、親同士に交際を止められている訳でもない。将来を心配してという訳でもないし、学生だからなんて言い訳をする気もない。涼子の病気や母親を刺した事件があるから嫌悪している訳でも当然ない。

 告白ができなかった訳でもない。むしろタイミングなんて何処にでも幾らでもあったし、しようと決意した瞬間もあった。
 それでも出来なかったのは、それで幸せになるのが自分だからだ。
 涼子の事が好きだ。だから付き合えたら嬉しい。自分だけは。

 俺が告白した所で涼子の病は治らない。

 もしかしたら俺と付き合う事を喜んでくれるかもしれない。もしかしたら俺が支える事で楽になるかもしれない。もしかしたら俺と一緒にいる事で幸せを感じてくれるかもしれない。
 もしかしたら俺が居た所で何も変わらず苦しいだけかもしれない。

 その傍に、何の苦しみも感じず、ひたすら幸せを感じているだけの自分が居るかと思うと、反吐が出そうだ。

 付き合いたくないわけじゃない。
 例えば俺と付き合う事で涼子の病が治るなら、涼子の幸せを感じるなら、喜んで付き合うだろう。例え苦しむ涼子の隣で幸せを感じている自分が嫌で仕方がなくても、涼子が少しでも幸せになれる様に、全力を尽くすつもりだ。

 だから付き合う事は出来ない。涼子を救う方法を見つけられない今はまだ。

 と、ここまでは自分の中の良い訳、綺麗事だ。

 そもそも俺は今、苦しむ涼子の隣で幸せを感じている。付き合っていなくとも、ただ一緒に居られるだけで、俺には十分幸せだから。
 そんな自分に罪悪感を覚えて、涼子の病をどうしたら治せるのか日々考えている訳だけれど、それでも反吐が出るとまで言った行為を今平然としてしまっている。

 だから、結局のところ、本当の理由は、涼子がどうだとか、状況がどうだとかではなく、ただ自分に自信がないからなのだろう。
 涼子が抱えている難題を解決して、箔をつけたいだけなのかもしれない。
 涼子の隣に居てもふさわしい人間だと認められたいだけなのかもしれない。
 涼子と付き合う為の通過儀礼がないと、自分はそれに値する人間ではないと考えているだけなのだと思う。

 何にせよ、どんな理由があれ、涼子の問題が解決するまでは告白する事は出来ない。
 それがどれだけ幼稚な理由であろうと、自分が納得できないまま告白などしてしまっては、侮辱以外の何物でもないと思っている。

 そんな訳で想いを確認する一番簡単な告白は使えない。

 自ら涼子の気持ちを知る為の道を封じてしまった俺が、涼子の気持ちが分からず心の中で右往左往していると、突然涼子が空を見上げて言った。

「あ、星」

 釣られて空を見上げると、白い太陽の光と水彩絵の具を滲ませた様な青い空が広がっていた。強い日差しから逃れていったのか、太陽と青空以外には雲一つ、星一つ見る事ができない。白昼月も太陽の輝きに隠れている。星とは太陽の事だろうか?

「黒い流れ星だ」

 見えない。空を見上げても、黒い星どころか黒の欠片も見当たらない。

 一体何を見ているのかと、隣に目を向けると涼子が居なくなっていた。
 辺りを見回しても人の影はない。

 しんとした住宅街から反響する靴音だけが聞こえてきた。



[29811] 腐りきった女
Name: 烏口泣鳴◆db25df9d ID:41696623
Date: 2011/09/25 22:05
「こんにちは」

 リョウが立つ路地の先に女性が立っていた。ぼさぼさの髪の毛に化粧の崩れた顔、着崩れたスーツという退廃とした雰囲気を、顔に浮かんだ満面の笑みが掻き混ぜて、どこか不気味で、どこか人を逸脱した印象を作っていた。

「あなたが黒い流れ星さん? だとしたら期待はずれもいい所だわ」
 リョウは不敵な笑みを浮かべて目の前の存在を嘲笑った。

 リョウはこの女性を見た事があった。以前、人形店で薄気味の悪い笑みを浮かべてきた女性だった。

 しかしリョウにはそれが分からない。以前会った時の女性は笑顔こそ不気味であったが恰好は整っていて、目の前に居る崩れきった格好とかけ離れていたから──というだけでなく、今リョウの中には別の精神が入っていて、その精神にとってはあずかり知らぬ所だったから。

 リョウの中のリョウでない精神は傲岸な態度を崩さない。

「私がどれだけ心をときめかせて、あなたを追っていたかわかるかしら? 時間が戻せるのなら戻してほしいところよ」

「あなた、じゃあないわね。あなたに用は無いのよ。ちょっと退いててくれるかな?」

 女はリョウの言葉など意にも介さず、満面の笑みを浮かべたまま、腐った見た目からは想像のつかない張りのある声で言った。

 リョウの黒目がふっと揺らいだ。途端にリョウの口調ががらりと変わった。

「あれ? ……どちら様? もしかして何か御迷惑でもおかけしてしまいましたか?」

 リョウは女の乱れ切った姿を訝しみながらも、記憶の無かった時の自分が何かしでかしてしまったのではないかと顔を困惑とさせた。

 不敵な笑みから一瞬で困惑へと変わる様子は滑稽だった。それが広瀬涼子の日常だった。

「はじめまして、お嬢ちゃん。私ね、あなたに用があって来たの。ね? 聞いてくれるかしら?」

 リョウは女が何を言っているのか分からなかった。リョウにとってその訳の分からないという感覚は近頃ありふれたものになっていた。この世界へ戻って来た時は特に。
 普通であれば訝しみ避ける様な今の状況も、もしかしたら自分と深く関わりのある事かも知れない。だから聞いた。

「なんの事ですか?」

「この前あげた論文、読んでくれた?」

「え、あー、はい」

 女の言う論文を思い出して、リョウは女から身を引いた。USBメモリの中にずらりと並んだ難しい題名の付いた文章群。専門用語を並びたてた膨大な量の文章はその内のたった一つ、それも極一部の分かる所だけを流し読みしただけで、それを書いた人間の異常さが分かる内容だった。

「あなたがアレを書いたんですか?」

「読んでくれたみたいね。嬉しいわ」

 かみ合わない返答だが、リョウはそれを肯定と受け取った。今一度、論文の内容を思い出して、女から一歩身を引いた。
 異常な人間を前にして、喉が渇いていた。

「なんでアレを私に?」

 唐突に女の表情が満面の笑みから真剣なものに変わった。
 その真剣な表情は女の感情とは無縁の表情だとリョウは感じた。どこか作り物じみた、まるで誰かの真似をしているみたいな表情だ。きっとさっきの満面の笑みだけが、女の生み出せる唯一の表情なのだろう。
 人の真似をする人形だか怪物だか。そんな想像が浮かんできて、リョウは女の目を見ていられなくなった。

「一つ質問してもいいかしら?」

 またもかみ合わない会話だったが、リョウは安心していた。その質問に答えればこの場を離れられるかもしれない。
 早く女の要件を満たして、この場を離れたい。もうそれだけしか考えられない程、目の前の女に気圧されていた。

「どうぞ」

「それじゃあ、質問。0と1の境目に椅子を並べるなら、あなたは何脚ならべる?」

 何故そんな質問を。疑問に感じながらも、答えはすぐに思いついた。

「国、いえ、人によって違います」

「なら、あなたにとっては何脚かしら?」

「十六」

 女はリョウの答えに納得がいかないのか、首を傾けた。

「ん? 並べ方は?」

「一から十五脚を等間隔に並べて、十六脚目を十五脚分の距離だけ離して並べます」

「ああ、なるほどね~。うん、よろしい」

「一体、何なんですか?」

 訳の分からなさと安堵からくる油断で、思わず疑問を口に出してしまって、リョウは後悔した。これ以上、女性との会話を長引かせてはならない。

 だが幸運な事に、女はリョウの疑問などまるで聞いていなかった。

「楽しかったわ。ほんとはもっと色んな事を話そうと思ってたんだけど、なんだか満足しちゃった」

 女は踊る様にくるりと回って、リョウに背を向けた。
 とはいえ、油断はならない。なんとか切り抜けた事に安堵してしまう心を戒めつつ、リョウは女の動向を注視した。
 すると案の定、数歩も歩かない内に、女は振り返った。顔には満面の笑みが浮かんでいる。先程の笑顔よりも、もっと強い、まるで顔を崩した様な笑みをリョウに向けて、女は歌う様に言った。

「そうそう、私言い忘れてた。あなたの秘密を知ってるの。あなたが今どうなってるか知っているから、もし私の知っている事に興味があるなら、今度駅前の喫茶店に来てね。きっと来てね。待ってるから、きっとよ」

 そういって、女は再びくるりとリョウに背を向けると、今にも踊りだしそうな、不安定な足取りで路地の先へと消えていった。

「あ、待て」

 追いかけようにも足が動かなかった。心が動揺していた。
 私の秘密。妄言で片づけられそうな言葉が、何故かリョウの心を捉えていた。
 あの女は本当に何かを知っているかもしれない。そう思わせる様な不気味さがあった。
 そしてあの不気味な女が知っている事はきっと常人が触れられない様な狂った事に違いない。そんな予感が足を縛りつけていた。

 後ろから自分を呼ぶ声が聞こえる。
 シュウの声だ。
 心配してくれるシュウの顔を見て、リョウは決意した。

 女の言っていたカフェに行ってみよう。
 とにかく今の曖昧な状況を打破しよう。



[29811] そうして与えられる不吉な予言
Name: 烏口泣鳴◆db25df9d ID:41696623
Date: 2011/09/25 22:06
「ねぇ、悪魔」
「なんだい」

 白い病室の中で私は本を読んでいた。
 悪魔はジグソーパズルと戦っている。

「私ってもしかしてもう死んでるんじゃないかな」

 本の中では龍に乗った少年が生き生きと空を飛んでいた。

「だったらどうする?」

 私の決死の問いを悪魔は事も無げに受け流した。

「まさか、ほんとに……」
「勘違いはしないでね。僕はもし死んでいたらどうするのか聞いただけだ。君が死んでいるかどうかには言及してないよ」

 悪魔はパズルのピースを嵌めながら言った。ジグソーパズルの答えはまだまだ見えない。

「でもそんな風に言うってことは」
「正直に言うとね、知らないんだ」

「え?」
「君が生きているのか、死んでいるのか。僕は知らないんだよ、本当に」

 悪魔は嘘を言わない。

「そうなの?」
「うん」

「何でも知ってそうなのに」
「僕は君に作られた存在だからね。君の知っている事しか知らないんだ」

 ただはぐらかすだけだ。

「私の知っている事?」
「記憶を無くす前の君がね」

「そうなんだ」
「おや、いつもならもっと喰らいついてくるのに」

 私は少年と龍が新しい島へ訪れた所で本を閉じた。
 奇怪であやふやな島が脳裏に焼き付いていた。

「なんとなく」
「なんとなく?」

「なんとなくまだ知るべきじゃない気がして」
「へぇ」

「これも記憶を無くす前の私がそう言ってるのかな?」
「さあね」

 悪魔は興味がなさそうに、淡々とピースを嵌めていった。

「私もう寝るね」
「ああ、お休み」

 私はベッドの上で横になって天井を見つめた。
 白い天井を見ている内に、段々と意識が薄れていった。

 いつもの様にどこかで誰かの声が聞こえる。

「さてどこまで真実に耐えられるのか。拝見させていただこうか、我が主」

   ○ ○ ○

 朝起きるとニュースで、著名人が殺されたと報じていた。
 一晩の内に十数人。見た事もない人ばかりだが、いずれも物理学の分野で活躍する学者や科学雑誌の編集者。常軌を逸した惨事に朝からどこのニュース番組でもこの事を報じていた。

 大々的に取り上げて、扇情的に発しているけれど、一介の女子高生である私にとっては実感の伴わない関係の無い何かに過ぎない。
 それがどれだけ大きくても、どれだけ悲惨でも、テレビを隔てた私にとっては──誰々が死んだ──小説ならたったの一行で済まされる脇役の退場と同じだ。

 心に余裕のある時ならば、被害者に憐憫を感じ、加害者に恐怖を感じるのかもしれないけど、今の私に余裕はない。
 これから狂気の女に私の秘密を聞く。その事で頭がいっぱいだった。

 横断歩道の信号が青になるのを待って、道路を渡る。私の横にはシュウがいる。真面目な表情で前を睨んでいる。いつものとぼけた表情と比べると、少し怖い。
 私の視線に気がついたのか、シュウがこちらを向いて笑った。

 何故と疑問が浮かぶ。
 どうしてシュウは私についてくるのだろう。一緒に来てくれたのだろう。

 女と出会い、自分の秘密に立ち向かっていこうと決意した昨日、シュウは駆けよって来て言った。

「俺を頼ってくれ」

 嬉しかった。けれど私は適当にごまかして、その場を取り繕った。
 巻き込みたくないという思いもあった。それ以上に、私の秘密──それが何なのか分からないけれど──それを知られたくなかった。

 そして今日、孤軍の決意を持って玄関を出ると、電柱に寄りかかっていたシュウが私を出迎えた。

 そして今現在、女がいるというカフェへ歩きながら、やっぱり私の頭には何故と浮かぶ。
 どうしてシュウは私と一緒に来てくれるのだろう。

 頭の中に答えはあった。そうじゃないかなという望み、そうであって欲しいという願い。
 聞こうかどうか迷っていながら、カフェへの道を粛々と歩き続け、気が付くと店の前に立っていた。

「リョウ? 大丈夫か?」
「ん」

 とかく今回の事は私の事だ。シュウに頼らないようにしたいという思いを胸に、私は入り口のドアを開けた。

 平日の昼間とあって、人は少なかった。
 店内を見回すと、子供連れの奥様方が二組と高齢者の集まりが一組。
 そして店の一番奥まった場所に女性が一人。昨日と同じスーツ姿。けれど今日は完全に装いを整えていた。どこかの会社で働いていそうな知的でやり手の会社員。昨日の狂人と比べればまるで別人だ。

 やってきた店員に告げて、女性が一人だけ座っている席へと案内される。
 席へ近付いてきた私達に向けて、女性は開口一番、にこやかにこう言った。

「あら、始めまして」

 私ではなくシュウへ。
 その瞬間、鳥肌が立った。
 何か嫌な予感がした。

「どうも始めまして」

 シュウは慇懃にお辞儀して、席へと座った。
 シュウも相手を警戒している様だ。普段なら名前を名乗る。

 私もシュウに続いて席に座り、適当に二人分の飲み物を頼んで、女と向かい合った。
 とにかくこちらのペースを握らなければと考えたが、何と言って切り出したものか思いつかない。
 まごまごとしている内に、女が口を開いた。

「それでね、話っていうのは、私の目的の事なんだけど。あ、論文は読んでくれたのよね。なんとなくでも分かってくれてると良いんだけど」

 残念ながら私には全く分からなかった。書いた者が狂っているという事以外は。

 横に座るシュウを見ると、難しい顔で何かを考えている様だった。
 シュウにも読んでもらっていた。読んだ時は何も言わなかったけれど、シュウならもしかしたら理解しているかも。

「あの、一つだけ聞かせてください」

 そう言ったシュウの目には、猜疑の念が込められていた。慎重なシュウらしい心の動き。けれどここまで強い不信を誰かに向けた事があっただろうか。

「あれは本当にあなたが書いた物ですか?」

 女を見ると、笑顔が固まっていた。

「どういう事かしら? 一応私名義で発表させていただいているけれど」

 再び女の表情が柔らかな笑顔に戻った。
 くるくると良く表情が変わる。一片の淀みも無く、まるで精密な機械に皮を張りつけた様に。

「もしも僕の勘違いだったら申し訳ないんですけど、あれに書いてあった内容を昔見た事があるんです」

 女の顔が喜びに変わった。おもちゃを与えられた子供の様に、透き通る様な笑顔に変わっていた。

「まあ! もしかして教授の事を知っているの?」

 突然の弾む様な口調にシュウは若干気圧された様だ。
 シュウはお冷で唇を湿らせて、改めて女の顔に視線を合わせた。

「確か佐藤丹香さんという方だったと思います」

「教授の事ね! どうして知っているの? 将来は物理の研究職に?」

「いえ、僕は医学を志していて、医学関係の本の中に。催眠療法を応用した別の世界から病気にアプローチする方法論だったと思います。面白い考え方をする人だと思って、他の本も読んでみました。どうやら佐藤さんは魔術と別の世界に興味を持っていたみたいですね」

「勉強家ね。その通りよ。魔術と異世界、この二つを調べる事が教授と、その下で学んでいた私の目標」

「その読んだ本に書いてあった事と、あの論文に書いてある事はそっくりでした」

「そうね。さっき論文は私名義と言ったけど、私はまとめただけ。けれど勘違いしないでね。勿論、論文を送った先々ではしっかりと教授と一緒に行った研究ですって伝えているわよ」

 女が急に落ち着いて、私の方へと向き直った。
 女の目が私を覘き込んでいた。腐った泥沼を思わせる目が、私の奥へ這い寄って来た。

「さて、無視する形になってごめんなさい。教授の事になるとついね。尊敬していたから。でも、あなたの事をないがしろにしていた訳じゃないのよ。むしろとっても大事に思っている」

 目が、教授の話を経た彼女の目は、淀んで、気味の悪い、屍蝋の様な。

「涼子」

 はっとして横を見ると、シュウが厳しい表情でこちらを見ていた。

 シュウは私から視線を逸らすと、何も言わずに女を睨みつけた。
 私も同じ様に女を睨む。

 私とシュウの敵意を、女は毛先ほども動じずに笑顔で受け流している。

「体調が悪いみたいだから、手短にすませましょう。私と教授が調べていた魔術と異世界、その鍵があなただと思ってるの。だから協力してほしい。別に人体実験に付き合えというわけじゃないわ。ただ、たまに、そう、一週間に一度、ここでお話をしてくれればね」

「それが彼女になんのメリットを?」

 私が口を開く前に、シュウが私の前に立ちはだかった。
 頼らないと決めたのに、とても頼もしい。悔しくて情けない。

「その彼女の病気、研究をしている所は皆無よ。個人レベルでもね。研究をしていたのは教授。そしてその後を継ぐ私だけよ」

「その──」

「お疑いなら調べるなりなんなりすればいいわ」

 シュウが黙った。相手の言っている事を測りかねているのか、女の言葉が真実だと感じたのか、あるいは交渉の余地がないと考えたのか。

「あなたのその病気について、一つだけ忠告する事が出来るわ。あなた病気が落ち着いてきたなんて思ってないわよね?」

「そんな事は思ってません」

 思える訳がない。私は一度母親を刺したのだ。これは言わば爆弾。どれだけ平静であっても、いつまた爆発するか分からない。安心などしていい訳がない。どんな拍子で、また周囲の人を傷つけてしまうのか。

「そう、ならいいけど。また誰かを刺してしまうかも、なんて程度の認識じゃないわよね」
「え?」

「さっき研究している所は無いって言ったわね。昔一つだけあったのよ。いえ、その研究所が情報を規制して一つにしていたと言っていい。けどその研究所の全てが尊厳と存在を失って死に絶えたわ。たった一人の発病者の所為でね。詳しくは言っても、想像がつかないでしょうけど、とにかく酷い有様だった」

 女の鬼気迫る言葉に気おされて口を開けないでいると、女は伝票を手に持って、急に立ちあがった。

「ま、顔みせ程度ってことで、今日はこの辺で」

 女はテーブルの下に置いてあったバッグを拾い上げて、中を覘き込み、一つ頷いた。

「うん、データもちゃんと取れてる。その病気が解明できる様に期待しておいてね」

 女は鼻歌でも歌いだしそうな様子で、バッグを肩に担ぐと、私を見て笑った。

「いい、できるだけ感情を揺り動かさない事。特に怒りだとか悲しみだとかにね」

「待って下さい」
 去りゆく女をシュウが止めた。
「あの論文、最後の部分も佐藤さんが書いた物ですか?」

「最後っていうのは?」
「それぞれの論文の最後です。みんな同じ結論になっていたでしょう? あれも本当に佐藤さんが書いたんですか? 佐藤さんの考えとは、ある意味正反対だと思うのですが」

 シュウの言葉を聞いた途端、女の表情が劇的に変化した。笑顔から無表情へ。見守る様な表情から、見下す様な表情へ。

 けれどそれは一瞬の事で、すぐにまた笑顔に戻ると、会計を済ませ、去っていった。
「勿論よ」

   ○ ○ ○

 家に帰ると、シチューの匂いがした。
 最近だったら喜んで台所に行く所だが、今はどうにも気力が湧かなかった。
 疲れきっていた。話し合いはそんなに長時間の事ではないのに、心の底から疲れ切っていた。

 つい今しがた、別れる直前にシュウは言った。

「あの人はあまり信用しない方がいいし、関わらない方がいい。病気について知っているのは本当だと思うけど……」

 あの女が信用できない事は分かる。病気について知る手がかりである事も分かる。
 けれど、それとは違った所で、あの女の笑顔を思うと心がざわついた。
 警戒でも期待でもなく──いうなれば、誰かが心の底から語りかけてくる様な、不思議な予感。それが何を示しているのかは分からない。

 携帯が鳴った。非通知と表示されている。非通知は拒否しているはずだけど。
 出ると、あの女の声だった。

「こんにちはとこんばんは、どちらがいい?」

 目の前にいないからだろうか。嫌な感じはするが、威圧は感じない。

「何の用でしょう? そもそもなんで電話番号を知ってるんですか?」
「さっきはあの男の子がいるから話せなかったんだけど、もう一つの忠告をしてあげる。あなたはこのままいけば、間違い無くあの男の子を殺すわよ」

 一瞬、頭が凍りついた。締め上げられる様な痛みを頭に感じた。

「ちょっと待って下さい! 一体何の事ですか?」

 すがりついた携帯は乾燥した電子音を繰り返していた。



[29811] この世界で
Name: 烏口泣鳴◆db25df9d ID:41696623
Date: 2011/09/25 22:07
 それからの私の生活は一変した。毎日、ご飯を食べる時以外は不思議な機械を頭につけて、質問に答え続けた。
 怖かった。私を見つめる目が、私に向く思いが。
 何日も何日も時間の感覚が無くなる位、同じ生活を繰り返した。今思い返しても頭がおかしくなりそうだ。もうすでに狂っている私の頭が、更に狂いそうになる。その生活の果てが罵倒だった。
 多分望む結果が得られなかったのだろう。当時の私には何のことだか分からなかった。周りに言われるがままに生活をしていたのに、なんで怒られるんだろう。不思議に思いながらも従った。
 段々と痛みが加わって、段々強くなっていった。痛くて痛くて、気が付くと眠っていた。
 傍にはあの人形があった。挨拶をするだけの人形。でも私にとっては外界との繋がり、いや外界の遺品だ。
 来る日も来る日も苦痛を覚えて暮らしていた。そうして気が付くと、私は世界を旅していた。本の中にある世界へ毎日の様に遊びにいった。それはきっと他の人は夢だとか空想だとか言うのかもしれない。でも私にとっては世界そのもので、私にとっては現実そのものだった。
 それからずっと世界を旅していたから、こちらの世界の事はほとんど分からない。ほとんど覚えていない。
 今、私の体は薄れている。みんなが現実と言う方の私はきっともうすぐ消えてなくなってしまうのだ。現実の私が消えて、別の世界が本当の私になるなんて思っていない。きっとついにこっちの私が耐えられなくなったのだ。多分、次の実験が始まれば、私は完全に消えてしまう。
 できれば私はこの力を使って、みんなを助けてあげたかった。救ってあげたかった。けれど、もう駄目だ。
 こちらの世界で思い出せるのは、研究員たちの怒り。久々に会いに来てくれた両親の怒った顔。私が結果を出せないから、だから皆が怒っている。私がみんなに迷惑をかけている。
 みなさん、私の事を憎んでいると思います。でも許してとは言えません。言いません。でも、お願いです。どうか私の事を忘れないでください。
 私の隣にいた人形がいない。探しても見つからなかった。どうしていないのだろう。この部屋は何処だろう。
 夢の世界だろうか。現実だろうか。それさえも私は分からなくなっている。
 ここまで長くなった。誰が読んでいるか分からないけれど、ありがとう。お父さんやお母さんだったらごめんなさい。研究員の方たちだったらごめんなさい。
 せめてこの日記の中でだけでも、私という存在が残りますように。

 日記、いや、手紙はここで終っていた。私は目を擦って眠りについた。
 この少女の存在をこの世界に残してあげようというやる気と一緒に、私は深い眠りについた。

   ○ ○ ○

「いや、しかし、可愛い女の子に吸いだしてもらうと元気になるなあ」
「全くね。もみくちゃにされて最高だったわ」

「なんねえよ。体だるくて死にそうだよ」
「下らない現実逃避はそれ位にしとけ」

「てか、大丈夫なん? あたしら死んだりしないよね?」
「まあ、前やられた時は大丈夫だったし、大丈夫なんじゃない? どうせこの体は死んでるし」

「あの子と戦うのはまだ無理ってことねん。気にせず次に行きましょや」
「あいつ怖いでごわす。おいどん、悔しいでごわす」

 体が震えた。言葉の通り悔しさからか、あるいは身に刻まれた恐怖を思い出したからか。
 植物を操る少女に再戦を挑みあっさりと負けた「それ」は、立ちふさがれたルートとは別のルートへ向かって歩いていた。

「二回負けた位で悔しいなど、今更であろう」
「この島来てから何度負けたか分かんないしね」
「死なない体だと緊張感が薄れるよなぁ」

 遥か遠くから爆発音が聞こえた。きっと誰かが戦っているのだろう。今更この程度の事を気にする者はいない。
「それ」が島を徘徊し始めてから大分経った。中にいる意識達にとっても慣れたものだ。

「あのー、ちょっと皆さんに聞きたいんですけど」

「なんだ?」「良いよ」「何?」

「こっちの世界に飛ぶ周期が長くなってません?」
「飛ぶ周期?」
「あ、向こうの、というか、元の? 現実? の世界でまともで居られる時間が増えてません?」

 木陰からのそりと小さな龍が現れた。龍は大口を開けて、「それ」を威嚇している。
 臨戦態勢を整える龍の横を、それは気にせず通りぬけた。
 その龍は大した事無いと、意識の誰もが知っている。

「確かにそうかも。始めのうちはどんどん短くなってたけど、今は段々長くなってるよ」
「そうだな。俺もこの島に久しぶりに来たな。この島の時間はほとんど進んでなかったが」

「それ」は近くの木から果実をもぎ取って口に入れた。
 食べられる物と食べられない物。始めは何も分からず死なない事を盾に片っ端から食べていたが、今では生きる為の知識が身についていた。

「んー、誰かの意識と交代する事は少なくなりましたね。というより最近ではほとんど無くなっていますよ」
「そういや、私達も段々減っている気がしない? 特に最初の方に居たヤバ気な奴らはみんな消えているわ」

 島の冒険者が「それ」の横を通りすぎた。一人で会話している「それ」を奇異の目で窺いながら。
 昔だったら別の冒険者の目を気にしてこそこそと隠れようとする意識があった。しかし慣れ切ってしまった今、そんな意識は居なくなっていた。

「仮説なんですけど、マナが無くなって来たからなんじゃないですか?」
「マナ? ああ、あの女の子が言ってた? 魔力みたいなものだっけ?」
「そうです。あの少女に負けて、マナとかいうのを奪われてから一気に周期が長くなったので、もしかしたらマナが関係しているのかも、と」

「その前から緩やかにだが、長くなっていたと思うぞ」
「ええ、今思い返してみると、それは敵にやられて、体が死ぬ度……いえ、壊れる度だったと思います。もしかしたら、この体が壊れるとマナが漏れ出すんじゃないでしょうか?」

「んー、思い当たる所はあるわね」
「一応仮説ですけど」

「じゃあ、何か? 負け続ければ、いや、自分の体を壊し続ければ、いずれこんな所に来なくてよくなるし、元の世界でも意識を乗っ取られる事が無くなる訳か」
「じゃあ、やってみる?」
「いいんじゃん? どうせ死なないんだし」

「それ」は懐から魔石を取り出した。掌に心地よい感覚が広がる。馴染みきった力の感触。

「私は反対」

「お?」
「怖いのか」

「無駄だと思うから。ゼロになれば増えなくなるっていうなら、こんな事態は最初から起きなかったわけでしょ? きっと何か元凶がある。マナっていうなら、それをこの体に注入した元凶が。それを消さない限りどうにもならないと思う」

「それも一理だな」
「つっても元凶ってなんだ?」

「いいよ、もう適当で! どうせ落ち着き始めてるんだ」

「そうなら良いけど」
「何が言いたい」
「これは爆弾。どんな構造でどんな大きさでどんな効果があるのか分からない爆弾。少なくとも油断してちゃまずいと思う」

「つっても対策も何も無いだろうに」
「それはそうだけど……」

「先に進めばきっと分かる事がある」
「勘か?」
「俺の勘は当たるんだ」

「くそ! そういう台詞吐くとは大体当たるんだよな」
「先に進めると良いけど」

   ○ ○ ○

 店内を見回すと聞いていた通りの女がいた。
 机の上に何か──女性だし鏡だろうか? ──を置いて見つめ合っている。
 見た所危険性は感じない。慎重に女に近づきながら、涼子は拍子抜けしていた。

「あら。今日も来てくれたのね。意外だったわ」

 近寄ると女が微笑みをもって迎えた。
 その微笑みを涼子は鼻で笑った。

「涼子ちゃんじゃないのね? まあ、何でもいいわ。そっちに腰かけて」
「名を名乗ってはいないと聞いていたんだが」

 涼子の言葉に女は驚いた様な表情を作って、息を呑んだ。

「意外ね。涼子ちゃんと面識があったなんて。てっきり面識が無い物だと思ってたのに」

 木や石の椅子とは比べ物にならない座り心地の良さに驚きながら、涼子は促された席に座った。
 ほんの僅かに言葉を聞いただけで分かる信用のならなさ。きっと息をする様に嘘を吐くタイプの人間だ。
 そう思いつつも、涼子の警戒は薄らいでいった。どう見ても肉弾戦が出来る様には見えない。いざとなれば首を捻切ってしまえばそれでお終いだ。

「ある島で情報交換が出来るんだよ。いいか、この体の持ち主以外がこの体に入っていたとしても、そう簡単にだませると思わない方がいいぞ。殺されたくなかったらな」

 涼子は出来るだけ表情を動かさずに、言い切った。この体で迫力を出すのは難しいだろう。
 自分の体であったら、涼子は相手の首にナイフの一本でも突きつけている所だ。

「ふーん、島ねえ。何やら気になる所だけど、その前に……その体で私を殺せるかしら?」

 机にフォークが突き刺さった。
 女の右手のすぐ横に叉が全て埋まった状態のフォークが突き立っていた。
 もしも数センチずれていたら、女の手を潰していただろう。
 フォークを握る涼子の手が赤く充血して震えていた。

「体の力は動かす意識に引っ張られるんだ。覚えときな、学者さん」

「そうだったの。覚えておくわ」

 誰もが一目で分かる暴力性に曝されながらも、女は冷や汗一つかかずに、机に広げたノートにメモを取り始めた。

 涼子の眉が不審に歪む。
 命の危機を前にして、目の前の女は何故冷静でいられるのか。
 見た所、決して自分の命を軽視している様には見えない。この体の持ち主である涼子から聞いた話の印象では、むしろ自分の事だけを考えているからこそ狂っているのだと感じた。
 殺されない自信があるのか? 肉体的な面では抵抗できると思えない。魔術の素養も見られない。精神的な面で、例えばこの体に殺せない様な暗示や呪いがかけられているのかもしれない。
 ならば本当に殺せるか試してみようか。そう考えて、ナイフを手に取った瞬間、視界が黒く反転した。

「お帰りなさい」

 涼子が目を覚ますと、目の前に女の笑顔があった。
 何故か破滅を予感させる、甘くとろける狂者の笑顔。



[29811] 病気の本質
Name: 烏口泣鳴◆db25df9d ID:41696623
Date: 2011/09/25 22:07
「どう? あの男の子を殺す覚悟は出来たかしら?」

 目を覚ますと、目の前にいた女からそんな事を尋ねられた。
 辺りを見回して、ここが以前目の前の女と会ったカフェだと知る。夢の中で駅前のカフェに行ってほしいと頼んだのが功を奏したようだ。
 右手に熱が走り、痛みが右手から右肩へと昇って来た。鬱血して紫がかった右手と机の上に突き立ったフォーク、そしてたった今女の言った言葉。一体私に乗り移っていた意志はこの女と何を話していたのかと悩み始めると、途端に頭が痛くなった。

「あの、さっきの私と何を話していたのかは知りませんけど、今の私はその誰かを傷つけるつもりはありません」

 私の言葉に女は笑った。

「前の人は関係ないわよ。私はあなたに尋ねてるの。どう、殺す気にはなったかしら?」

 そこに至って昨日の電話の事をようやく思い出す。男の子というのはシュウの事か。

「私は……勿論そんな気はありません! 絶対にそんな事はしません!」

 ふざけた言葉に惑わされるな。目的は分からないけれど、きっとこの女は私が慌てふためくのを喜んで見ているに違いない。そう自分を戒めてから、女を睨みつけた。

「そうよね」

 女は相変わらずにこやかな表情を浮かべながら、私の言葉を肯定した。
 思わぬ返答に力が抜けた。

「そうよねって、あなた」
「そうなのよ。人ってそういうものなのよね。どうしてかしら?」
「え?」

「未来が見えないのは当たり前。遠くのことだって分からない。それどころか自分の事さえ分からない。何もかも分からない事だらけ。それで終わった後に過去が何を指示していたかに気付く。自分の周りに何が起こっていたのかに気付くの」

 女の持って回った言葉に一瞬思考が消えそうになった。
 痛む右手を握りしめて、その痛みを体の中へ。頭の中まで電気を走らせ、なんとか女に食らいつく。

「それが私っていう事ですか? 私は何にも分かっていないと?」
「いいえ、人間すべての事を言っているの。私だってそうよ。この世の中は分からない事だらけ」

 女の言いたい事が見えない。ただ女の悩ましげな溜息が鼻につく。

「だったらどうして私がシュウを殺すなんて、そんな馬鹿げた事が起こるって分かるんですか? 何も分からないなら、あなたは……あなたの言う事は当てにならない」

「きっと人は人が好きなのね。だから他の人のことばっかり分かって、自分の事が分からない。私もあなたの事が好きだから沢山の事が分かるのよ」

「あなたが……私の事を?」

 全身に鳥肌が立った。
 逃げ出したい。一刻も早くこの場から。
 しかし頭のどこかに隠れていた冷静な自分が、シュウの安全が確認できるまではここに居るべきだと言っていた。

「そう! 実はね! 実はね! 私あなたの事を昔から知っているの! 覚えているかな?」

 女が目を輝かせて、興奮気味に身を乗り出してきた。
 後ろの壁に頭をぶつけながら必死に記憶を探ったが、昔の記憶に女の顔は見当たらない。

「昔、丁度十年前にね、ドイツであなたのお父さんと話す機会があって、その時にあなたを見る機会があったの」

 十年前。私が七歳か八歳の時だ。小さい頃の事だし、たった一度だけ会った顔を忘れていてもおかしくはないが、ドイツという言葉を見過ごせなかった。
 お父さんは良く海外出張や単身赴任をしているのでこの女と出会っていても別段不思議と思わないが、私が外国に出た記憶はない。両親からそんな話を聞いた事も無いし、写真もビデオも見た事が無い。てっきり日本の外から出た事が無いと思っていた。
 一体何故お父さんは私を連れて海外に行っていたのだろう。旅行か何かだろうか。何故この女とお父さんが話をしたのだろう。仕事の話だろうか。

「あの時、あなたはとても可愛らしかったわ」

 一体お父さんの何なんだ。まさか浮気相手なんて話はあってほしくない。

「だからね。この街の近くに引っ越してきた時に、さりげなくあなたの事を見守っていたの。もしもいじめられていたり、変な人に襲われていたら助けてあげようってね。だけど特に何も無かった」

 そう言って、女は椅子に深く座りこんだ。
 目の輝きが消え、濁った瞳が私を見つめていた。

「ずっと私の事を見ていたんですか?」

 それが事実だとしたら気味が悪い。例え純粋な善意から来たものだとしても、私の知らない所から私に視線を送る者がいたのだ。
 まさしく目の前の女が言っていた通り、私は何も分かっていなかったのだ。

「四六時中ってわけじゃないけどね。この近くに来る事があったら眺めていたわ」

 そもそも何故この近くに引っ越してきた。この近くにやってくる理由は何だ。
 嫌な想像ばかりが頭に浮かぶ。私は頭を振って、お父さんを信じる事にした。

「それで急に論文を送ったりしてきたのも、私の幸せの為に?」

「そう。最近あなたの様子がおかしかったし、あなたが母親を刺したなんて新聞に出ていたから」

 胸が痛んだ。母親を刺した状況が頭の中にありありと浮かんできて、私の頭を痛めつけた。

「すぐにでも助けに行きたかったんだけど、どう止めればいいのか分からないでしょ? 何か悩みでもあるのかと思って、あなたの事を観察していたの。そしたらびっくりしたわ。丁度私が、いえ、あの時はまだ教授が研究していたわね。教授が研究していた現象と同じなんですもの。だからすぐに論文を送って、それから直接会ってその病気を研究して治してあげようと思ったの」

 言っている事はとてもありがたい。けれど実際が伴っていない。シュウを殺す事には繋がらない。

「あなたの言いたい事は分かりました。助けてくれようとしている事は大変嬉しく思います。けれどあなたの言うあの男の子を殺さなければならない理由とはなんでしょう?」

 静かに、出来るだけ静かに言った。努めて落ち着いた風を装わなければ、すぐに昨日から溜まっていた怒りと目の前の不気味さへの恐怖を爆発させてしまいそうだった。

「あら、いきなりよそよそしくなっちゃって。まあ、いいわ。あなたの勘違いを正してあげましょう。私は別にあなたがあの男の子、シュウ君だったかしら、シュウ君を殺さなくちゃいけないなんて一言も言ってない。私が言っているのはこのままいけば、いずれあなたはシュウ君を殺してしまう。だから覚悟しておきなさいと言っているだけよ」

 気が付くと唾を呑みこんでいた。
 母親を刺した光景が頭の中で渦を巻いている。あれと同じ事をシュウにも。考えるだけで肌に汗が滲んだ。

「このままというのは、病気が進行していったらという事ですか? 病気が進むとお母さんにしたみたいに、シュウを?」

「そう、別におかしくは無いでしょう? 一度あった事なんだから、二度あったって」

「そんなわけ──」

 激昂して立ち上がろうとした私の鼻先を人差し指が優しく押していた。

「だからね。覚悟をしておきなさい、と言っているの」

 女の淀んだ目を見ている内に、昂った心が落ち着いていった。

「どうすればいいんですか?」

「そうねえ、とりあえず殺してしまった所をずっと想像し続けて、殺す事に慣れてみたらどうかしら? 覚悟っていうのは待ち構える心だもの」

「そうじゃなくて! そんな事にならない様に、この病気を止めるにはどうすればいいんですか?」

 女は指先でコップに刺さったストローを弄んでいた。私の焦る姿を見ながら笑っていた。

「一つは勿論病気を治す事。でもまだ解析には時間がかかりそうね。間に合うかどうかは分からない」

 コップの中の氷が鳴った。女は喋っている内容に興味が無いと言わんばかりに、コップの中に目を落としてくるくるとかき混ぜた。

「二つ目はあなたからあの男の子を遠ざけてしまう事。相手がいなければどうしようもないものね」

 女がこちらを見つめてきた。私は口をつぐむ。まだ先がありそうだ。私は女の言葉を待った。

「最後はあなたがシュウ君を殺したいと思わない事。この三つね、あなたの取れる選択肢は」

「なら三つ目です。私はシュウを殺したいと思った事なんてありません」
「あら本当かしら?」

 目の前が赤く染まった。今日で何度目かの激昂だ。

「馬鹿な事言わないでください! 私がシュウを殺したいと思うだなんて、そんな事絶対にあり得ません」

 息を切らす私に向けて女は不思議そうに聞いてきた。

「そうかなぁ。じゃあ、あなたのお母さんは?」

「おか、母がなんですか?」

「あなたはあなたのお母さんを殺したいと思った?」

「そんな事、あるわけない!」

 右手に痛みが走った。気が付くと、ナイフを握りしめていた。どうしてナイフを握っているんだ。まるで殺そうとしたみたいじゃ──。

「ほら」

 私の動揺に女の声が重なった。
 慌ててナイフを取り落とした。金属の音が辺りに響いた。

「人は願望によって動く。それは誰でも一緒。人が思った事をすぐに行動に移さないのは、別の願望が阻むから。人はどんな行動をする時にも頭の中で願望がせめぎ合っている。そして勝った願望が行動として表出する」

 金属の音で聖別された世界に、女の澄んだ声が溢れた。
 さっきまでの怒りを忘れて、私はそれに聞き入った。

「けれどね。普通は行動しても叶うかどうか分からない。願望が外に出たら、今度は世界中の願望とせめぎ合う事になるから。だから世界は願望によって動いているけれど、どの願望が叶うかはその強さによって決まるの。例えば人間同士なら願望の強さにそこまで差が無い。だから誰にでもチャンスはあるし、誰もが失敗する可能性がある」

 心地よい声を聞きながら、私は思った。
 願望の強さ。私がシュウに負けていたのは願いが足らなかった。確かにその通りかもしれない。結局のところ、お母さんに小言を言われるのが嫌なだけで、シュウにどうしても勝ちたかったわけじゃない。

「でももしも願えばそれだけで叶うのなら、そんないい事はないでしょう? さっき言ったみたいに頭の中では幾つもの願望が押し合いへしあい外に出ようとしている。けれど出てしまえば必ず叶う。そんな力があったらいいと思わない?」

 確かにそれは幸福だろう。その当人にとってだけは。
 さっきの話と合わせて考えれば、周りの人は全く願いが叶わなくなってしまう。

「良いと思うでしょ? そんな力が欲しいでしょ? それを持っているのがあなたなの。あなたの病気の正体。あなたが願えば全てが叶う。それが今起こっている事の本質」

 その言葉を聞いた瞬間、頭の中に嫌なイメージが流れ込んできた。
 それがなんだか確認する前に、ぶつりと意識が途切れた。

 いつもの移り変わりと違う。そう思った時には、目の前に立ち塞がった鳥と戦っていた。



[29811] 狂いに気づかぬ狂い者
Name: 烏口泣鳴◆db25df9d ID:41696623
Date: 2011/09/25 22:08
「ウーム、馬と鹿……馬と鹿」

 青天、炊事に勤しむ広場を高台に登って見下ろす死体があった。
 瘋癲の様に唸りながら、揺れささめく敷き草を足先で掘り起こしていた。

 あくせくと働く下界の人々は誰一人として死体に見つめられている事に気を向けない。
 高台に立つ死体など瑣末として切り捨て、勢いの増した炎や今まさに切り刻まれんとする野草に掛かりきっていた。

「ねぇ、さっきからウマシカウマシカ悩んでるけど何を悩んでるの?」

 今の今まで悩んでいた死体がそんな事を言った。
 まさに狂癲している。見た者がいれば間違いなくそう思ったであろう。
 死体にとっては幸いな事に、その場は死体ただ一人。聞いていた者はその中に宿る意識、僅か数十の意識だけだった。

「何故ウマシカなのだろう?
 は?
 さっき倒した敵は私の世界に居る馬と鹿の混合物であった。自然とその様な生命が生まれるには偶然に過ぎる。つまり何者かが恣意的に作ったのであろう。
 まあ、そうかもしれねえな」

 定まらない眼球、血の気の無い肌、半開きの口から空気が吹き出される事は無く、鼻の下に生えた髭は微動だにしない。
 けれどどこからか声が聞こえてくる。自分自身と話し続けている。

「ならば何故馬と鹿なのだろう。馬と鹿、組み合わせる益が思いつかない。農業、狩猟、牧畜、工業、芸術、神話、戦争、政治、観賞、易経、科学、文学、哲学、冗談、どんな側面から眺めても、馬と鹿である必要性がまるで感じられない。
 んな難しく考えなくても、ただ馬鹿と掛けただけだろう。
 知能の程を笑う事と一体何の関係がある。
 いや、そうじゃなくて馬鹿って言葉が馬と鹿で出来てるからだろ」

 表情一つ変えず、口先一つ動かさず、自分と向き合い、自分と語り続けている。
 ただ人が立っているだけなのに、ただただ不気味で不快なオブジェに成り果てている。

 それが演劇ならば良くある一人語り、何もおかしい事はない。
 それが絵画であれば、枠組みにはまり静止していれば、枠の外に人がいるかもしれない、誰かと話しているだけかもしれない、一目見ただけでその異常さに気付かない。

 ただ動かない肉人形が涼やかな自然の中心に立ち、その周りから声が聞こえてくるだけなのに、何故そこからは不気味さだけが滲み出ているのか。

 あるいは自然の中で笑っていたのなら、あるいは人ごみで虚空をにらみつけていたのなら、それは不気味であっても、何処か滑稽さを纏っているのに。

「待て待て、もしかしたら馬鹿という言葉が無い世界なのかもしれない。
 ふうん、言っている事が分からない。きっと私の世界には無い概念なのだな。

 馬鹿っていうのは、昔冬路国という国の悪い王様が鹿を連れてきて、家来に向かって、これは馬だ、お前達は何に見えるって言ったのね。それで王様に従う家来は馬ですって言うんだけど、正直に、鹿だって答えた家来もいたわけ。鹿って答えた人は王様に従わない人として殺されちゃうの。そこから権力を恐れて嘘を言う人の事を馬鹿って言う様になって、今は意味が変わって、頭の悪い人を馬鹿って言う様になったの。

 そういう事だったのか。そんな歴史は私の世界に無いな。つまり、あのウマシカを作った者は君の世界の者なのだろうな。
 おい、国の名前が違うし、王様じゃないぞ。
 そもそも馬鹿の成り立ちはそんなんじゃないでしょ。
 その話は聞いた事無いけど、馬鹿って言う言葉はこっちの世界にもあるよ」

 不快感だけが死体の中から染み出している。普段と全く変わらない光景が、死体と共に映っているだけで、薄気味悪く変質していた。

 死体から発せられる気味の悪さの出所を探るなら、それはどの経路を辿るにしても、ゆくゆくは違和という焦点で一つにまとまるはずだ。
 思い描く光景と違う。その違和感が不気味さを手招いている。

「意外と同じ様な世界なんだよね、ウチら。
 でも少しずつ違っているんだね。
 話が通じてるし、根幹は同じだけど、どこか細部が違うんだろうな。
 実は元々一つの世界で、それが枝分かれしたとか。
 ああ、あるかもね」

 世界に同じ物事など何一つとして存在しない。同じに見えても何かが違っている。けれど人はその違いに鈍感であろうとする。おかしくともその違いを見逃して、おかしくともその一つ一つを全く別の存在として、そしておかしくとも多少の違いに耐えながら、世界の正気を保っている。
 けれどほんの僅かな違和感、全く別の物とは言えないけれど、普段であれば見逃す程度、いつもなら耐え忍んでいる、そんな些細な違和感が積もりに積もって崩れた時、始めて人はそれに恐怖する。始めて狂っていると気がつける。

 その狂気を解体しても何に恐怖しているのかは分からない。一つ一つはありふれた違いに過ぎないから。
 だから狂気と向き合えば人は狂っていく。些細な違和を見過ごせなくなり、世界の全てが狂っている事に気が付いて、自身が狂っている事を自覚して、自分は正常であろうと努力してしまうから。
 世界に真の意味でまともなものなんて何一つないのに、理想を追い求めて当てども無く彷徨い、世界を憂い、自身に恐怖し、精根尽き果てて倒れた時には、格子に囲まれて隔離されているだろう。あるいは何かの間違いで英雄になっているかもしれない。

「もしかして全く違う連中ははじかれてるだけじゃねえか?
 似た者同士が集まっているって事?
 ああ。もしかしたら俺達と全う意識の集まりが、何処かにうろついているかもしれないぜ。
 無くはないな。
 在り得るね。
 友達になれるかな?
 いや、だから私達とは全く違う意識何だって。
 言葉が通じるかも怪しいな」

 繰り返すが狂気は解体すればほんの僅かな狂いの集まりである。つまりその狂気の一部だけを見れば、なんら変わった事のない、ありふれていて、当たり前の事かもしれない。
 ただある一面を見れば、それだけで吐き気を催す位、何処かずれていて、何処か狂っていて、何処か壊れている存在なのだ。

 人が狂気を恐れる一端はそこにある。
 自分の隣に座る人間が根本的にずれているかもしれない。
 誰一人として同じ人などいないのにそう錯覚している常識が、どれ一つとして正確には共有し得ないあやふやな概念を持ち出して仲間意識を持たんとする曖昧な規範が、そんな当たり前の事が、間違っていると気付かされる異常事態こそ、人の狂気に対する恐怖の源となる。

「ま、どうせ俺らだってまともに人と話せないし、共同で事態解決なんて夢のまた夢。この島に居ても、あまり関係ないだろ。
 それもそうね。
 友達になれたらなぁ。
 ま、強いて言えば、元の世界の自分の近くにそんな奴がいない事を祈るくらいね。
 なんで? 居た方が面白そうじゃない?
 私達が近くに居る様なもんよ? 年中ギャーギャー騒いで、時々体が別々に動くし、そもそも死体だし。良く考えてみなさい。
 ああ、そりゃあ嫌だのう。
 改めて今の自分を見つめると死にたくなるな。
 ま、そんな私達が近くに居ない事を祈りましょう」

 勿論人は全てを知りえない。生涯傍らに居ると誓った伴侶でさえ、それどころか自分の事でさえ、知れる事は僅かばかり。
 だからこそ、人は誰かの狂いを知らずに生きている。
 だからこそ、人は誰かの狂いを突然知る事になる。



[29811] 何を忘れているの?
Name: 烏口泣鳴◆db25df9d ID:41696623
Date: 2011/09/26 19:14
 とん、と体が揺れた。
 倒れてはいけない。慌てて態勢を立て直そうとして、頭が重い事に気がついた。
 ぐっとへばりついている。根っこでも生えた様に机から離れようとしない。

 目に光が差し込んできた。驚いて体が跳ねた。
 脳が振られて、重苦しい吐き気が胸にこびりつく。
 寝ていた、と認識した途端、周りの光景が押し寄せてくる。

 煌々と点った電灯とそれに照らされて並ぶ座席。目の前でうなだれている女と奥の座席で話し合っている男女。窓の外は暗く閉ざされて、灯りの点ったこの場所が世界から切り取られている。
 どこかで聞いた事のある楽曲に合わせて、目の前の女から声が聞こえた。

「お目覚めかしら?」

 食器の擦れる音が響いている。左を見ると、老齢の男女と幼い男の子がスプーンを啜っている。

「どうしたの? 気持ち悪い?」

 じわりと頭が温かくなった。
 寝る前の自分を思い出し、女の言葉を思い出した。

「いえ、大丈夫です」

 氷の入ったお冷を流し込んで、頭と体に芯を通す。

「眠っていたみたいですね。すみませんでした」
「気にする事無いわ。眠るっていうのはとても素敵な事だもの」

 女はテーブルの上にノートを開いて、何かを書き込んでいた。
 ノートには数字と記号が並んでいたが、何を意味しているのかは分からない。恐らく私に関するメモなのだろうけれど。

 女は突然ノートに書き込んでいた手を止めて、顔を上げて、笑った。
 笑顔の女と目が合い、なんとなく気まずい思いが胸に残った。

「それで……確か、私の願いは叶うっていう話でしたっけ?」
「ええ、そういう話もしていたわね」

 ひっかかる物言いだけど、もう慣れた。この女は言う事全て煙に巻く。

「願いが全て叶うなら……」

 何か頭に引っかかる。嫌な感じが圧し掛かっている。
 何か忘れていた。思い出さなきゃいけない事を。思い出したくない事を。

「願いが全て叶うなら……例えばこの水がりんごジュースに変わってほしいって願えば変わるんですか?」
「ええ、あなたが本当に望めばそうなるわ」

 私は水を掲げて、睨みつけた。りんごジュースに変われ。甘いジュースに変われ。
 十秒ほどしてもコップの中に入った液体は透明のままだった。

 自分は何をしているんだろうという羞恥が私の顔を火照らせた。
 一応、コップの中身を確かめる為に、液体を口に含んでみる。
 ふわりと甘い味が広がった。
 りんごの味がした。

 驚きながら、含んだ液体に集中した。
 それはミネラルと塩素を含んだ水の味だった。
 念のために一度飲み下して、もう一度新しく水を口に含んだ。
 水の味だ。

「水みたいですね」
「それはそうよ」

 女は笑っていた。何一つ非を認めていない。
 それはそう、とはなんだ。願いは叶わなかったのに。

「あなた本気で水がりんごの味になってほしかったの?」
「それは……ちゃんとリンゴジュースに変われって思いましたけど」
「それは願いじゃないわよね。思っただけ」

 女は人差し指を立てて、片目をつぶって見せた。
 極めて限定的な場面での教示する者のジェスチャーだ。

「あなたは今、その水がりんごジュースに変わったらって願ったのね。でもあなたは本当にそう願ったのかしら。頭の中で思い浮かべただけじゃない? だって、もしも本当に水がりんごジュースに変わったら、あなたは認めざるを得ないもの。あなたには願いを叶える力があるって」

 心臓が跳ねた。息が荒くなった。
 頭が不安に締め付けられている。
 それが何故かはわからない。
 何かを忘れている。

 女は左手で自分のコップを掲げ、右手の人差し指をコップに当てた。

「幸せな人は今を変えたくないものよ。もしも本当にそんな力があるのなら、きっと今の生活が変わってしまう。そんな思いが強ければ、当然水は水のままそこにあり続けるでしょうね」

 女は少し申し訳なさそうに眉を寄せて、コップを置いた。

「私にも少し責任がある。願いを叶えられるなんて言ってしまったから。そんな力が自分にあるなんて知ったら誰だって身構えてしまうもの。そんな事を知らないで、何の気なしにただそうであったらと考えていれば、先の事なんて想像せずに今そうだったらいいなと考えていれば、もしかしたら水はりんごジュースになっていたかもね」

 女の長々とした口舌を聞いている内に、段々と私の心は醒めていった。
 女の言葉はただの言い訳にしか聞こえない。

「結局は証明できないって事ですよね」
「ええ、そうね」

 女はにこやかに肯定した。
 あくまで余裕のこもった同意だ。
 確かに今は示せないけれど本当の事なのよ、と。

 呆れつつ、何気なしに外を見ると、しんと暗闇が下りていた。
 起きた時点ですでに外が暗かった事を思い出した。

 今何時だろう。
 携帯を取り出すよりも先に、店の端に置かれていた柱時計が目に入った。
 もう大分遅い時間だった。
 すでに夕食の時間は過ぎている。

「今日はもう遅いので帰らせていただきます」
「あらそう?」

 帰ろうとして腰を浮かせかけて、思い出した。
 この女とお父さんの関係は?
 何故こんな大事な事をすっかり忘れていたのだろう。

「最後に一つ良いですか?」
「ええ、いいわよ。何かしら?」

 どう聞こうかと一瞬迷ったが、この女に回りくどく聞いても、更にはぐらかされるだけだろう。

「あなたは父とどんな関係なんですか?」

 女の顔がよく分からないといった風に歪んだ。
 とはいえ、それ以上に踏み込んだ質問はできない。
 はっきりと口に出してしまえば、この女とお父さんの不義が本当になってしまう。そんな気がした。

「どんなって言われても……普通の知り合い、いえ顔見知りってところね。あまりお話した事はないけれど、何度か顔を合わせた事はあるわ。けど、急にどうしたの?」
「いえ、分かりました。ありがとうございます」

 動揺した様子はなく、嘘を言った風にも見えない。
 勿論、それを見抜く眼力が私にあるとは言えないし、ましてこの女の言葉を一から十まで信じるわけにはいかないけれど。けど、なんとなく安心した。

 考えてみれば、お父さんの会社はかなり手広く展開している商社だ。研究機関に何か売り込みに行っててもおかしくはない。
 私を連れて出向いていた事は不思議だが、お父さんは休日返上で働いていたりして、あまり家族を顧みない。だから、例えば旅行先で商談の機会を見つけて、私を連れたまま相手先にという事だってあるだろう。

 そう考えると心が落ち着いた。そうあの堅物、厳格なお父さんが不倫なんて。

「よく分からないけど、お力になれたかしら?」

 女の笑顔に私も笑顔で返しつつ、私は席を立った。

「ええ、ありがとうございました」
「あ、お会計なら済ませておいたわ。大丈夫、これ位奢るわよ」

 バッグから財布を取り出そうとして、その手を女に止められた。

「そうですか、ありがとうございます。それでは」
「ええ、またね」

 また会いたいとは思わないが、この病気を治す手段は今の所この女にしか見いだせていない。
 私は手を振る女に手を振って返し、店の家へと向かった。

 家に帰ると、丁度シュウが隣の家から自転車を出している所だった。

「あ、シュウ。どこか出かけんの?」

 シュウは驚いた顔で私の事をマジマジと見回すと、自転車を手放して私の元へと駆け寄ってきた。
 私は見つめられている事で赤くなる。自転車が大きな音を立てて倒れたが、シュウは全く気にせずに私の肩を掴んだ。

「良かった、無事だったか」
「は?」

 一瞬何を言われたのか分からなかったが、すぐにその言わんとする事に思い当たった。
 今の私は次々と精神が入れ替わり、ふらふらとその辺りを歩き回る病気なのだ。いつもなら帰っている夕飯の時間に連絡も入れていなければ、心配するのは当然だ。小さな子供が何処かに行ってしまった時の様に。

「ああ、ごめん。ちょっとまたあの女の人の所に」
「馬鹿か。あの人は危ないって言っただろ」

 思わぬシュウの暴言にたじろぎながらも、私はやや声を大きくして言い返した。

「そうは言っても、今は唯一の道でしょう。いくら気に入らないからって、他に方法が無いならあそこに行くわ。シュウだってあの人は病気について詳しいって言ってたし」
「確かにそうだけど……正直何をされるのか分からないぞ」

「でも今のままじゃ悪くなる一方じゃない」

「今は段々と落ち着いてきてるだろ。そりゃあ、予断は許さないけど、何もあんな人に縋るなんて」

「シュウ。私はね、一刻も早くこの病気を治したいの。もしかしたら、また」

 言葉の続きが出てこない。感情が昂った所為か、その後に続く言葉が出て来なかった。思い出せなかった。
 ただ、シュウは何かを察したようで、開いた口をつぐんだ。

「確かにあの人は怪しいけど、だからこそ近付かなくちゃいけない。あの人が何かをしようとしているのなら、知らない所で何かをさせるよりは目の見える所で防いだ方が絶対に良い。あの女と病気に怯えながら暮らしていくよりも」

 シュウは黙っていた。
 きっと考えているんだ。どうするのが一番いいのかを。

「分かった。ただ一つ約束して。これからあの女と会う時には絶対に俺を一緒に連れてってくれ」

 シュウの真剣な目に見つめられていた。
 シュウをこれ以上巻き込んでいいのだろうか。
 シュウが私の事を心配してくれて嬉しい。
 シュウの手が私の肩に触れている。

「分かった」

 私がそう言うと、シュウはやや安堵した様で、溜息を吐いた。
 それから私の肩に置かれた手を慌てて戻すと、焦った様に倒れた自転車を起こしに行った。

「それじゃあ、シュウ。また」

 自転車を起こしながらシュウはまたも慌てた様子で、私の方に顔を向けて笑顔を作った。

「あ、ああ、また。そうだ、涼子のお母さんかなり心配してたから、ちゃんと謝っておいた方がいいぞ。いい訳もちゃんと考えておけよ」

「うん、分かった」

 いい訳か。
 言い訳は嘘だ。

 お母さんに嘘をつく。
 どうしようもない罪悪感が胸を貫いた。

 当たり前の事のはずなのに、いつもしていた事のはずなのに、どうしてこんなに胸が苦しいのだろう。



[29811] ずっと望んでいた言葉
Name: 烏口泣鳴◆db25df9d ID:41696623
Date: 2011/09/27 19:03
「涼子! どこいってたの!」

 玄関を開けると、お母さんの怒声が聞こえた。
 体がぶるりと震えた。お母さんが私の事を心配してくれる、それが嬉しかった。

 声に続いて床を蹴りつける足音が聞こえ、やがてリビングに通じるドアが開いた。
 現れたのは怒り顔のお母さん。

「ごめんなさい」
「まったく! ……心配したんだから」

 お母さんが私の事を抱きとめ、鼻を啜った。
 泣いているのだろうか。

 私もお母さんの背中に手を回した。お母さんが私の事を思ってくれる、それが嬉しかった。

「あの……本当にごめんなさい」

 私はお母さんの体から身を話して、お母さんの目を見つめた。
 透明な瞳、あの女の濁った目とはまるで違う、綺麗で美しい瞳。

 その眼に嘘を吐かなくてはならない自分が嫌だった。
 結局私はどんな風に道を進んでも、お母さんに泥をかけてしまう。

「その、今日は外で……」

 そう言いかけた私の口を、お母さんは再び抱きしめる事で塞いだ。

「いいのよ。なんであれ、帰って来てくれたんだから。無事でいてくれるだけで」

 まるで私の心を見透かした様に、まるで私の願いを汲み取った様に、私の聞きたかった言葉、今だけじゃない、ずっと望んでいた言葉を私にくれた。

 心が震えて何も言えないでいると、お母さんは私を離して、涙の浮いた眼を瞑って笑った。

「さあ、ご飯を温め直すから、座って待ってて」

 私を促す様に一度私の背を押すと、そのまま私を残して台所へと消えていった。


   ○ ○ ○

 自室の窓ガラスが数回鳴った。
 カーテンの向こう側、静まり返った暗闇から小石でも当たった様な小さな音。

 部屋に入って灯りを付けて、さて着替えようかという時だった。

 何だろうとカーテンを開くと、虫でも鳥でも蝙蝠でもなく、向かいの窓から身を乗り出したシュウが居た。

「よう、涼子。どうだった?」

 私は無言でカーテンを閉めた。

「おい、待てって。どう? ちゃんと怪しまれなかった?」

「良い訳する必要無かった。着替えるからちょっと待ってて!」

 私が制服のリボンを取ると、カーテンの向こう側から窓の閉まる音が聞こえた。

 暖房を付けたが、不意打ちに油断していた姿を見られたせいで、すでに暖まっていた。
 手を震わせながら、すぐさまタンスの引き出しを開いた。着ようとしていた部屋着の上の段、やや外行き用の服に着替えて、カーテンを開けた。

 向かいの窓は閉まっていて、ガラスの奥はカーテンに隠れて見えない。
 私は多分シュウがそうした様に、夜空に身を乗り出して、向かいのガラスを叩いた。

 叩いてすぐに、カーテンが勢いよく開き、シュウが現れた。
 窓を開けたシュウに向かって、出来るだけさり気なく私はお礼を言った。

「さっきはありがとう」
「ん? どういたしまして。大した事はしてないけど。それよりそっちに行っていい?」
「別にいいけど」

 私が窓から体を離すと、シュウは大股に家の境界を越えて、私の部屋へと入って来た。

「久しぶりだな。こうして来るの」
「そうだね。小学校の時以来だもんね」

 ゴミ箱に捨てられたラブレターが頭に浮かんだ。
 行き来が無くなったのはちょうどあの頃か。

 シュウが窓とカーテンを閉めた。
 沈んだ夜の音が完全に締め出されて、静寂に部屋が包まれた。
 聖別された祭儀場の様に今、この部屋は外界から隔離されている。

 この世界に私とシュウ、二人きり。この状況に心ときめいているのは、きっと私だけなのだろう。
 そんな思いと静寂が混じり合って、更に私とシュウは二人きりになった。

「涼子のお母さんは?」
「下で……多分テレビでも見てる」
「この部屋に来たりは?」
「ほとんどないけど」
「そっか。よかった」
「え?」
「あまり聞かれたくない話だし、特に涼子のお母さんには心配かけさせちゃまずいだろ? それで、今日はどうだった? 何か新しくわかった事は」
「ああ、そういう事」

 相手の言葉に一喜一憂する自分が情けない。
 所詮すでにふられているんだ。思い人が私を心配してくれる。それ以上に何を望む。

 私がベッドの上に座ると、シュウは床の上に座った。

「分かった事。まずは私の病気からでいい?」
「勿論。それが一番大事だろ」
「あの女が言うには、私の病気は願いを叶える物なんだって。私の望んだ事が叶う病気なんだって」
「願い事を?」
「そう。世の中にはいろんな願い事があって、その中で強い願いが叶うんだけど、私の場合はそんなの関係無く願い事が叶う病気だって言ってた」

 シュウは怪訝そうに黙りこむと、立ちあがり、ベッドの上にある枕を手に取った。

「じゃあ、これを浮かせてみてよ」

 私は頭を振る。

「私の中にも願い事が沢山あって、その中の強い物が私の願いになるんだって。それで、私はこの病気が願い事を叶える病気であって欲しくないから、叶えられないって」

「それじゃあ、本当にそういう病気なのか分からないだろ」
「うん、私もそう言ったんだけど、自信がありそうだった。それに嘘を言う必要がないし」

 シュウは枕を元の位置に戻して、自分も元の位置に座った。

「まあ、なんとなく分かるよ。本当かどうかは別にして。涼子が願い事を叶えられない理由っていうのも」

 私は思わず俯いた。

「その様子だと分かっている様だけど、はっきり言わせてもらうよ。目を背ける訳にはいかないし。涼子がそんな病気であってほしくないっていうのは」

 シュウがここまで踏み込んでくるのも珍しい。

「うん、私がお母さんを刺す事を、私が願ったって事に……それにまだこの病気が続いてるって事は私がこの病気を望んでいるって事に」

「女の人の話が本当ならね。それで、実際涼子はどう思うんだ? 病気になってから、願い事が叶ったっていう時はあった?」

 考えるまでもなく、思い当たる。もう何度も考えた事だから。
 そう明らかにおかしかった。私がおかしくなり始めた時に、突然シュウが私に話しかけてくる様になったのだ。明らかに不自然なタイミングだった。まるで図ったかの様に。

 それが何を指し示しているのか、私に答えを出す事はできない。

「あるのか?」
「もしかしたら。ちょっと言えないけど」
「そうか。まあ、それなら……じゃあ、涼子のお母さんはどうなる? あんな事件を涼子が望んでたのか?」

 私は押し黙らざるを得ない。
 そう確かにあの頃、お母さんに対して不満を積み重ねていた。ずっとずっと顔を合わせる度に。
 それが殺意に変わらないと誰が言える。人はほんの些細なきっかけで鬼になれる。そんな事、現実も虚構も口を揃えて教えてくれる。

「確かにあの頃は勉強とかの事で色々と」

「あのな、それは俺達みたいな思春期が持つ親に対する不満に過ぎないだろ。それで親を殺そうなんて事にはならない」

「そんなの分かんないじゃん」

「分かる。人を殺すなっていうのは、生まれた時からずっと戒め続けられる事だ。理性が働く状況なら確実に足を引っ張る。だから些細な理由で人を殺すなんてのは突発的な事がほとんどだし、それなら思考は単純になる。涼子が言っていた様に──傷を抉る様で悪いけど──わざわざ母親をめった刺しにするなんて事ありえない」

「仮にそうだとしても──さっきも言ったでしょ、私は願いが叶う病気なんだって。ほんの小さな願いが実際に叶っちゃったって事も」

「その病気は叶わない願いを叶えてくれるって物で、小さな願望を大きくする物じゃないだろ。どっちにしても親に小言を言われたからって、死んでほしいとは思わない。せいぜい、会いたくない、どんなに酷くとも、消えて欲しい、だろう。実際に殺す所を想像しながら死んでほしいなんて言う奴はいない。俺達は普通の学生なんだ。涼子は偏った考えなんて持ってないし特殊な家庭環境じゃない。ドキュメンタリーや映画や小説に出てくる殺人者じゃないんだ。自分の親を殺すなんて事を本気で……」

 シュウの言葉が止まった。まるで何かに気付いた様に驚いた表情で固まった。
 本当に時間が止まったみたいだった。
 目に映る世界も私の心もその瞬間に固まった。

 それはほんの一瞬の事で、時間はすぐに動き出した。

「願える訳が無い」
「今の間は何?」

 勿論、それを見過ごせるわけが無い。

「いや、なんでも」
「考えた事を言って」

「……良く考えたら、間違ってたんだけど」
「言ってみて」

「もしかしたら、自分の手で、その、さっき言った事をやらない様に、別の誰かにしてもらう為に、別の意識に乗り移られるっていう状況を作ったんじゃないかって」

 衝撃は無い
 ただ、やはり、とだけ思った。

「でも、それもおかしいんだ。どちらにしても殺めるなんていう事を願うはずが無いし、精神を入れ替えたって自分が手を汚したんじゃ同じ事だろ。もしも本気で自分はしたくないけどしようとしたなら、事故や病気を願うはずだ」

 先程よりもずっと早い口調で言い切った。
 良くわかった。私の事を慰めようとしてくれている。

 その慰めは優しい嘘だ。
 温かで心地よいけれど、浸かってしまっては前に進めない。

「きっとシュウが言っていた通り、衝動的だから単純な思考になったんだよ。今すぐ殺したいけど、嫌だ。誰か変わりにお願いって。それともずっとわだかまっていたのかもね。自分の手でって思うくらい。その最後の砦が皮肉な事に、いや憶病な事にかな、自分で殺したくない、だった」

「いや、それでも」
「別にいいんだ。もう起こった事だし。これから償っていけば。だから、これからの事を考えよう」

 そうだ。過去の事は関係ない。これから。これからを良くしていかなければならない。

「涼子。それでも絶対におかしいんだ」
「もういいから。それよりも話したい事があるの」

 これ以上この話をしていたくない。
 私がそっけなく答えると、シュウは一度、頭を思いっきりこすってから、じっと私の目を見つめて言った。

「分かった。後で冷静になった時に、もう一度考えてくれ。そして、これだけは忘れるな。その願い事を叶える力で、あんな事件が起こるはずは絶対に無い」

 ありがたい事にシュウの言葉は続いた。
 もしもシュウの言葉が途切れていたら、私は頷いていただろう。
 心にも無く。

「それで、別の話したい事って言うのは?」
「え、あ、うん、あの女とそれからお父さんの事なんだけど」



[29811] 過去の記憶は今ここに
Name: 烏口泣鳴◆db25df9d ID:41696623
Date: 2011/09/29 20:11
「おじさんが不倫? ちょっと信じられないな」

 シュウはそう言って、黙り込んだ。
 私とお父さんがあの女と関わりのあった事、そしてそれを不倫ではないかと疑った事に対する反応だった。

「うん、私も違うと思う。お父さんの仕事関係なんじゃないかな」

 シュウは黙ったまま、考え込んでいる様子だった。
 私の言葉を聞いているのかも分からない。

 電灯に照らされた部屋は影が浮き上がって、かえって、暗さ、寂しさが強調されていた。
 昼間の陽光に比べれば電灯一つでは光量が足りない。人口の光が冷たいと言われるゆえんだろうか。
 シュウも同じ。影が浮き上がって、どこか淀んでみえた。私とシュウの間を電灯の光が遮っていた。

 私とシュウを隔てる壁。それは無数にあって、昔から感じていた事だ。
 その最もたる物が今、目の前にある。

 昔のシュウを思い出す時に真っ先に思いつくのが考え事をしているシュウだ。
 家が隣どうして、年が同じ、家同士の交流があったので、自然と二人で一緒に居る時間が増えた。
 私とシュウ、どちらかの部屋で、話をしている時、本を読んでいる時、お菓子を食べている時、ゲームをしている時、そんな誰にも邪魔されない二人だけの時、何か不思議に出会う度に、シュウは思考に落ち込んだ。
 私もそれに倣って考え始め、二人の間に沈黙が下りる。

 その外界と切り離された静かな時間が好きだった。
 向かい合って座る今と同じ、二人だけの時間がそこにあった。
 それは当時の私にとってこの上なく大事で、幸せな時間だった。

 思考に沈んでいる間は、お互いの事さえ意識の端に上らない。完全な一人の世界を二人だけの世界が包みこんで、外の世界を遠くに押しやっていた。
 その世界を隔てる柔らかで強固な薄絹を私だけが取り去った瞬間は今でも頭に焼き付いている。
 どんな表情をしているのだろうと、シュウの顔を盗み見ると、何の変哲もない表情をしていた。
 誰もがし得る普通の表情。それが私を混乱させた。

 シュウは不思議な、才能とでも呼ぶべき発想を持っていた。
 まるで小説の中に出てくる探偵の様に、飛躍的な発想を重ねて結論に至る能力があった。
 どんな経路を辿ったのか分からないほど奇怪な結論を、どこからともなく考え出す能力がシュウにはあった。

 その能力は決まって、普通の思考では答えへと到達できない時に現れた。
 小さい頃には知識が足りない所為で、世の中の事全てが不思議に思えてしまう。だからシュウの能力はいかんなく発揮され、私には理解できない結論が、けれどどこか真実味のある結論が、次々に生み出された。

 私が幾ら頭を振った所で、シュウと同じ物を見る事ができない。そんな事を考えた。
 私とシュウは別々の世界からやって来た。そんな気持ちにさせられた。
 きっと考えている時のシュウはとんでもない、誰もが浮かべない表情をしているんだ。
 そう思った。

 結果として、私とシュウに外見上の違いはまるで無かった。
 結果として、同じでありながら違うという事が、私とシュウの異質さを際立たせた。
 その異質さが私にとってはシュウとの間を遮る壁に思えて、同時にとてつもない魅力に思え惹かれていった。

 その思いは年を経る毎に強まっていった。それとは反対に、私とシュウは少しずつ世の中の事を分かり始めて、シュウの能力はほとんど現れなくなった。
 シュウの能力が現れなくなった事で、私とシュウの間は埋まった様な気がした。手を伸ばせば届く様な気になった。それは長い間一緒に居た事にも起因しているのだろう。

 二人の間が近付いても、シュウに感じる魅力はいささかも衰えず、内に秘めてしまった才能は外に現れていた時よりも溢れんばかりに輝いている様に思えた。

 私とシュウが小学校の六年生の時、丁度夏休みに入る直前、お昼時の私の部屋。
 当時、キスというものに憧れていた。
 シュウとキスがしたい。何となくそう思っていた。

 恋愛を殊更意識していた訳ではないが、周りから得た知識で、キスと言う物は素晴らしいもので、お互いを永遠に絡め取るものだと考えていた。
 あの頃はシュウを間近に感じていたとは言っても、いつ再び離れてしまうか分からないという不安を感じていた。
 その不安が、キスを行え、と強迫していた。

 そして私はその強迫に抗わず、かといって即座に行動を起こすほどには心を支配されずに、なんとなく漠然と、キスがしたい、と思っていた。

 その思いが最も膨れ上がったのが、先程述べた夏休みに入ろうかという時だった。
 前日にシュウから登校を別にしないかと言われた事が一番私の心を苛んだのだと思う。

 レースに遮られ、和らげられた日差しが部屋を薄暗く照らしていた。横合いから当たる日差しに影が浮き上がり、シュウの姿は六年後の今と同じ様にどことなくぼんやりとしていた。
 隔てられた部屋も今と同じだ。陽光の明るさはあれど、人の声、車の音、一切が硬質な壁に遮られて、静まり返った静寂が茫として、まるで深夜の様に冷たく漂っていた。

 ただ一つ大きく違ったのが、時たま窓からそよぐ風だった。
 レースをはためかせ、体を撫でる風は、静寂を掻き混ぜて、それが済むと窓の外へと帰えっていく。そんな事を繰り返していた。

 そこでシュウは今と同じ様に何かを考えていた。
 私は考える事を止めて、シュウを眺めていた。
 シュウの髪が風に揺れるのを眺めながら、私は何も考えずに対面に座るシュウへと体を近づけていった。

 みしり、と木の軋む音がした。
 お母さんの上ってくる合図だと気付いた瞬間、私は体を引っ込めて、元のベッドの上に座った。

 今自分が何をしようとしていたのか。座ってから始めて気が付いて、心臓がどぎまぎし始めた。
 シュウは変わりなく、何かに考えている様子だった。

 思い出した。
 その失敗のお陰で、私は恋をしているんだと理解したんだ。
 どうしてそんな風に心動いたのかは分からない。
 ただ、それまでの漠とした一緒にいたいという感情を、急に恋だと確信した。

 それから私は告白をしようと、色々と悩み、直接伝える気恥ずかしさ、メールで伝える素っ気なさに悩んで、その中間のラブレターという形に結実した。
 そうして──
 あまり思い出したくない。

 不安と期待をないまぜにした一種異様な興奮の中で、推敲を重ねて書ききった手紙は、翌日ゴミ箱に捨てられた。
 必死に考えた文面はただの炭素の汚れに成り果て、手に持つだけで汗の浮いた渾身の手紙は二つに破れ、大量の屑と一緒に冷たくなっていた。

 私の前にはシュウがいる。
 あの頃と変わりなく、何かを考えている。
 私の心はあの頃とは変わった。ただ好きだという気持ちはまだ残っている。強く沈んでいる。

 気が付くと、私の手には汗が浮いていた。

「なあ、涼子」
「な、何?」

 体が跳ねた。
 現実に立ちかえって見ると、シュウが難しい顔をして、私を見つめていた。

 頭を突きあげる様に胸が鼓動していた。
 それを必死に抑えつけながら、私はシュウと対面していた。

「やっぱりおじさんの仕事関係の人なんじゃないかな?」
「うん、ただどうして私に見覚えがあるのか、分からない」

「涼子は外国に行ってたんだからおかしくはないだろ? おじさんに会った時に涼子が一緒に居たんだ」
「え?」

 私の頭が一瞬止まった。
 必死に抑えつけようとしていた鼓動も瞬時に沈静した。

「私が外国に?」

 全く覚えていない。たったの一度だって言った覚えはない。

「あの、シュウ」

 私が懸命にシュウの言っている事に追いすがろうと口を開いた。けれど、シュウは私の事など目に入っていない様に声を高めた。

「いや、それどころか涼子の留学も関係があるのかもしれない! だったらその六年間の間に──」

 …………え?

「おい、涼子?」

 完全に思考が止まる。何を言っているのか分からない。理解できない。観念が崩れていく。私は考えがまとまらず、自分が何を考えているのかを漠然と感じながら、私を揺するシュウを呆然と眺めている。

「涼子、大事な事なんだ。留学している間に何か無かったか? どんな些細な事でもいい。去年までドイツで何をしてた?」

 留学? 六年間? 去年? 私のしていた?
 中学校へ。高校へ。通っていた。
 私はシュウと……会えなくて。それで勉強を頑張って。
 白い教室に。……白?
 こんなに白い教室は知らない。
 私の中学校の時の教室は──
 思い出せない。
 どこか広い森の中を──
 高校は……思い出せる。
 皆の顔を思い出せる。
 友達を思い出せる。
 去年はクラス替えの前に──
 ……クラス替え?
 去年は皆と違うクラスに──いた?
 私はどこに?
 私はどこに?
 私は何処かにいた?

「涼子」

 私の目の前に突き出された指が私の思考を収束させた。

「シュウ、私」
「涼子か? 涼子だな?」
「私が私の中にいないの」
「ドイツに行っていた間の事が記憶にないのか?」
「私の中に私が、中学校も高校も行ってたはずなのに。旅行だって行ってないのに。ずっと日本に居たはずなのに。それなのにどこにも私がいないの」

 私の心が再び膨れ上がっていった。
 私の心を張り裂く為に、暴走しようとしていた。

「そうか……分かった」

 意外なほど素っ気ない返答だった。
 その素っ気なさが私の狂い始めた思考を停止させた。

「涼子は生まれてから今までずっと日本に居た。けどその間の記憶が曖昧なんだな?」

 私は頷いた。それに伴って、再び頭の中がぐるぐると回り始め、熱を持って私に眩暈を引き起こした。

「涼子、落ち着いて。じゃあ、おばさんに聞きに行ってみよう。涼子が留学していた事を覚えているか」

 私が何か言う前に、立ちあがったシュウが私の手を取って引いた。
 私は引かれるままに立ちあがり、ドアを抜け、階段を下り、リビングへと入った。

 出来ればお母さんも私と同じ様に、留学の事など知らないでいて欲しい。この事件とは無関係であってほしい。
 リビングに入ると、テレビを見ていたお母さんがこちらに気が付いて振り向いた。

「あら、涼子にシュウちゃん。どうしたの?」

 不思議な顔で尋ねてくるお母さん。
 それに対して何と言うのだろう。
 横に立つシュウの顔を見上げると、破顔していた。



[29811] 全ての希望が今途絶える
Name: 烏口泣鳴◆db25df9d ID:41696623
Date: 2011/09/29 20:12
「涼子が留学に行く時の事覚えてます? ほら行きの車に乗る時に」

 朗らかに言い放ったシュウから母親に目を移すと、母親は困った顔で首を傾げていた。
 知らない様だ。十八年来の家族だ。私には分かる。あの仕草に嘘は無い。
 気が付くと。張り詰めていた息を自然と吐き出していた。

「すみません。お邪魔しました」
「あ、ジュースとお菓子持っていくね」
「いえ、大丈夫です。すぐ帰りますから」

 シュウはお母さんとのそんな当たり前のやりとりを終えて、私を連れてリビングを出た。

「お母さんも知らなかったみたいだね」

 シュウは無言で私の手を引っ張った。
 シュウの顔は今まで見た事が無いほど、強張っていた。
 その追い詰められた表情に気圧されて、私は何も言えなかった。

 部屋に戻ると、シュウが焦った様子で、シュウの家に向かう窓を開けた。

「帰るの?」

 シュウは振り返ったが、私の質問には答えなかった。

「明らかにおかしかった」
「お母さんも知らなかった事? 確かにね」

 シュウの焦る様とは反対に私は大分落ち着きを取り戻していた。

 確かに私の過去が丸々信用できないという事は足元を崩す程の衝撃だった。
 それでもお母さんが私と同じ状況にあり、あの女と仲間で無い事を確認した時に、私は崩れた足場の代わりに、しっかりとした膜に包み込まれる様な安堵を感じた。

 私の大事な物は私を取り巻いている現在であって過去では無い。過去がいかに違っても、今周りにシュウがいて、お母さんがいる、遠くにはお父さんや親戚がいて、近くには友達がいる、それが大切な事なのだ。

 そしてそれを崩そうとしているのが、この病気とあの女だ。
 病気はお母さんを傷つけた。そしてこれからも周りを傷つけようとするかもしれない。

 あの女は不気味だ。
 冷静に見つめ直せば、今のところあの女は私の病気を調べようとしているだけで、なんら憎むべき点は無い。

 けれど私にはその当たり前の感覚を振り払うだけの予感があった。きっとあの女は私を完全に狂わせ、私の周囲を害し尽くすであろう予感。半ば確信しているその妄信が私の心に居座っていた。

 病気と女。私の世界がこの二つに脅かされているという確信が、反面私の安堵へと繋がっていた。
 幼い頃から親しんでいた子供向けのファンタジー小説。その中では原因を打ち崩せば、異変も止まっていた。
 現実も同じ。病気と女、この二つを正せば、私の向かっている破局は消え去るはずだ。
 その明確で簡潔な道筋が私の心を安堵させていた。

 勿論、物語の上での整合性が現実の世界に適用できるとは言い難い。
 しかし感情の方はひたすら単純な世界を信じていた。
 もしかしたら、そうでもしないと私の心は崩れ去ってしまうのかもしれない。

「ちなみに車に乗る時に何があったの?」
「行きたくないって言って駄々こねて、隣町まで逃げ回ってたんだ」
「確かにそんな事を忘れるのはおかしいね」

「俺がおかしいと思うのはそこじゃない」
「どういう事?」

 私の疑問に、シュウはやや躊躇いながらも、ふるえる様に硬質な声で答えを返した。

「どうしておばさんは俺の事を無視したんだ?」
「いや、話してたでしょ」
「こんな夜中に男が勝手に上がってたんだ。それにリビングに居れば、俺が玄関から入って来てない事も分かってたはずだ。それなのに何も問いたださなかったんだぞ。幼馴染だろうがなんだろうが、どれだけ信頼していても、一言二言詰問して来るだろ」

「確かに」

 異常だ。そう言われてみれば、おかしい。

 お母さんはあの事件以来優しいし、私をあれこれ縛らなくなったけれど、元々は厳格に規律を重んじるタイプだった。

 お母さんらしくなさ。そこに別の意志が割り込んでいたのだとしたら。
 そんなはずはない。あの女の仲間なんかであってほしくない。きっと勘違い。何かの間違いに決まってる。

「まるで──」

 シュウの言葉が途切れた。
 私の耳にも入った幽かな音が原因だ。

 みしりと、木の軋む音がした。
 お母さんが階段を上がってくる音だ。

 助けを求めて、シュウを見ると、ドアを睨みつけていた。明確な敵意を持って、お母さんを迎えようとしていた。

 やがて木の軋みは消え、足音が私の部屋の前へとやって来た。

 思わず呑んだ息の音に合わせて、ドアノブがゆっくりと、小さく金属音を響かせながら、捻られた。

「涼子、シュウちゃん」

 何も知らぬげな明るい声色。申し訳なさそうに歪みながらも、晴れ渡った表情。やわらかく母性を湛えた笑顔がドアの隙間から現れた。
 私が恐怖を感じるには、シュウが敵意を向けるには、あまりにも役者違いなその様子。
 私が答えを求めてシュウを見上げると、シュウは睨みの取れた固い表情でお母さんを見つめていた。

「思い出したわ。そうね、確か行きの車に乗る時に、涼子が逃げちゃったのね」
「ええ、あの時は大変でしたね」
「そうそう。空港でも同じ様な事があってね。パパの話だと、向こうに着いてからも大変だったらしいわ」
「はは、今の涼子からは想像できませんね」

 しばらく二人共笑っていたが、急にお母さんの目が厳しくなった。

「それにしても、シュウちゃん。幾らお隣さんでも勝手に上がっちゃ駄目よ? 夜這いなら朝にしときなさい」

「朝じゃ、夜這いになりませんよ」
「それもそうね。でも、こんな夜には止しときなさい」

 最後に一つ笑顔をくれると、そっとドアを閉じた。優しげに響くドアの閉め音が笑顔の残滓を振りまいて、続けてとんとんと軽妙に階段を下る足音が聞こえてきた。

「勘違い……だったのかな?」

 緊張の解けた私が苦笑しながら、シュウを見上げると、シュウは一拍遅れてから、はじけた様に私に向き直った。
 その顔にはありありと恐怖が滲んでいた。

「そうみたいだな」

 シュウは突然身を翻すと、机の上からノートとペンを取って何かを書きだした。

 私が見守る中、必死の形相でノートの上から下までペンを走らせ終えると、私の鼻先へと突きだした。

『これを読んでも声を出さないで 本当にかんちがいだと思ってるのか? どう考えてもこのへやでの会話を聞いてきたんだ とにかくおれのへやへ』

 会話を聞いていた?
 お母さんが?
 何の為に?
 お母さんは何をしようとしてるの?

 思わず声を出しそうになって、シュウの手に止められた。

「そうだ涼子。おばさんもうるさいし、俺の部屋にこないか?」

 シュウの緊張した面持ちには汗が浮いていた。

 分からない。
 シュウが正しいのか。お母さんがどうしてしまったのか。一体何が起こっているのか。私はどうすればいいのか。

 分からないまま、私は頷いていた。
 とにかく下流へ、私の意志を置いて、櫂を挿さずに流れるままに流れていきたかった。

 シュウは窓から身を乗り出して、シュウの部屋へと戻っていった。
 私が呆然としたまま、立ちつくしていると、シュウが私を手招いた。私は括られた糸に操られて、シュウの部屋へと進んでいった。

 頭の中に閃く物があった。何かを忘れている。同じ様な事があった。きっと思い出さないと大変な事になる。
 その予兆は私の後ろへ。私は意志を放棄して、操られるままにシュウの部屋へと乗り込んだ。

「何が起こってるの?」
 私の口は辛うじてそれだけ言うとそれ以上動かなくなった。

「分からない。ただあの部屋に居るともっとまずい事になってた気がする」

 顔を上げるとシュウは何か考えている様だった。

 対する私はほとんど物を考える事が出来ない。ただ先を、何事も無く終わる幸せを望みながら、手を引かれるだけの存在になっていた。
 今はシュウだけが頼りだ。この訳の分からない状況を理解して、解決してくれる人はきっとシュウだけだ。
 希望が、字義通りの他力本願な希望が私の心を支え、溶かしていった。どろどろと更に私の思考を奪っていった。

 私は無気力と希望をないまぜにしたまま、シュウを見つめ続けた。
 時間は止まっていた。
 一瞬も永遠も意味を失い、停滞した世界はシュウの思考というただ一つの結果によってのみ計られる。
 今の私には時間を計る術は無く、ただ止まった時の中で時間が動き出すのを待つしかなかった。

 やがてシュウが顔を上げた。

「あれは、まるで」

 狭窄と拡大を繰り返す私の視界の中で、シュウは悩ましげに私を見つめ、

「いや、まだ分かっていない事が多すぎる。予断は止めておこう。そんな事をすれば更に酷い事になる」

 口を閉ざした。
 何かを悟った様だが、それが何なのかは分からない。
 私はぼんやりとシュウを見つめた。何も感じず、何も考えずに、ただ見つめた。

 シュウは悲しげに目を狭めると、溜息をついて、立ち上がった。

「とにかく今日は寝よう。明日学校を休んで、女の人に話を聞きに行ってみよう。多分、あの人が鍵を握っているはずだ」

 私の視線に送られて、シュウは部屋から出ていった。
 私の視線に迎えられて、シュウは布団を持って帰って来た。
 床に敷いて、ベッドと布団を交互に指差した。

「どっちが良い?」

 私がのろのろと布団の中に潜り込むと、シュウは電気を消した。
 ベッドに入りこんだシュウが、こちらを向く気配を感じた。

「これからも色々嫌な事が分かるかもしれない。でも、いや、だから、俺を信じて、頼って欲しい。俺は絶対に裏切らないから。俺も涼子を信じて、守るから。それを信じていて欲しい」

 元よりシュウの事は信じている。けれど私はその訴えかけに言葉を返す事は出来なかった。

 シュウの言葉がどこかしらじらしく闇に響いたから。
 きっと自分自身に言い聞かせる為に言ったのだ。
 きっと私を信じる事が出来ないから言ったのだ。
 それに答えを返すのは、いけない事の様に思えた。

 それでも私は信じている事を伝えたくて、黙ったまま頷いた。
 闇の中なので多分伝わらない。それでいい。

 満月が照らす仄明るい部屋の中で、目を閉じていると、自分の心が瞼に映った。
 心は白く温かく点っていて、暗い未来を進む為の灯りになりそうだ。
 私はシュウと二人でこの灯りを持ちながら、闇の中を進んでいくんだ。

 目を覚ますと、私は日の光に照らされた赤く曇った部屋の中で、傷つき赤くまみれたシュウを見下ろして座っていた。

 世界が終った。
 起きぬけで働かない頭が、ありきたりな一文を思いついた。



[29811] そして扉は開きかけ
Name: 烏口泣鳴◆db25df9d ID:41696623
Date: 2011/09/30 19:15
 光が波打ち私達を照らしている。
 赤く深く沈んだ色が私達を呑みこんでいる。

 私の前にはシュウがいる。
 私が手で触れると弱々しく身じろいだ。

「涼子」

 シュウが掠れた声で私の名前を呼んだ。
 私の視界が揺れて、シュウの顔にピントが合った。

「ここから離れて。まだあいつがいるかも」

 声は途切れて聞こえなくなった。低く呻く声が私の視界を揺らした。
 私の視界が大きく揺れた。

 シュウと一緒に居たい。
 そう思っているのに、私の体は立ち上がって、部屋の外に出ようとする。

 揺れる白い棒が私の目の前を往復している。
 柔らかく肌を粟立てる囁きが私の耳朶を打っている。

 私は冷たい刃物を手に取り──それは大きく笑った。
 金属音が鳴る。残念そうに溜息を吐いている。

 刃物がゆっくりとシュウの中へ入り、ゆっくりとシュウの中から出てきた。
 ゆっくりとゆっくりと、段々速く、どんどん速く、シュウの体が揺れている。

 私はただ願っていた。
 それだけだ。
 目の前で起こっている事、私はどうすればいい?
 ただ願っていただけだ。

 赤く赤く夢の様に彩られた私達。
 白く白く金属の様にぬめってただ笑う。

 再び白い棒が私の目の前を、二回三回。
 私の意識はぼんやりと赤の中に落ちていく。

 笑う。笑う。泣く。泣く。

 大海の様な眠りが終わり、見渡す限り霧の立ち込める目覚め。
 赤く赤く、泣きたくなる様な世界が、私の手の中に収まりそう。

 高鳴る鈴の音を紡ぐ紡ぐ。
 慌ただしく人が行き交う。まるで夢の様に。
 口の無い人々がシュウの家を踏み荒らす。

 私はぼんやりと、嘆く顔を見つめていた。
 苦しそうな表情が私を取り囲んでいる。

 白い白い部屋の中に、私とシュウ、二人きり。他には沢山の人だけしかいない。

 シュウは目を閉じて眠っていた。
 再び起きるか分からないと言っている。
 シュウの眠り顔は安らかで、今にも起きだしそうな気配があった。
 けれど起きない。

 私は一度目を閉じて、何処にもいない神に祈りを済ませた。
 立ち上がり、おばさん達に一礼して、病室の外へと飛び出した。

 あそこは私が居るべき場所じゃない。
 あそこは私が居ていい場所じゃない。
 私が行かなければならない場所は別にある。

 予言は恐らく当たった。
 後はそれをどう解釈するか。

 道はまだ続いている。
 悲劇も惨劇も、この先に転がっている。

 まだどん底には落ちていない。
 これから私がどうするか。

   ○ ○ ○

「私、記憶を失う前に酷い事をした気がする」

「どんな事だい?」

「良く覚えていないけど、周りの皆を傷つけた気がする」

「傷つけた……ねぇ」

「もしかしたら、その所為でこの中に入れられたのかも」

「罰としてかい?」

「うん、もしかしたらここは刑務所なんじゃないかな」

「はは、前も言っただろう。ここは誰かが君を閉じ込める為に作った牢獄ではないって」

「でも──」

「そんなに外に出たい?」

「それは──勿論」

「外に出た所で、その先が幸せかどうか分からないだろうに」

「それでもここから出たい」

「まあ、君ならそういうだろうね」

 悪魔は椅子から飛び降りると、左手をドアへと指し示して、頭を下げた。

「では我が主、外への扉を開けてみたらいかがか」

「え、でもその扉は」

「そろそろ開く頃だと思うんだけどね」

 私はベッドから降りて、扉の前へと向かった。

 確かに扉は以前よりも開きやすそうな気がする。
 決して外観が変わった訳ではないけれど。

 私は扉を開けようとして、ドアノブに手をかけた。

「ねえ、この扉を出たら幸せはないかもって言ったよね」

「あるかどうか分からないって言ったんだよ」

「外に出たらもう悪魔とも会えなくなっちゃう?」

「おや、そこまで気にかけていただけるとは有り難い」

 ドアノブは段々と私の体温を吸って温かくなっていく。

「ま、君次第ってところじゃないかな」

「そっか」

「何にせよ開けてみなければ始まらない」

 私は意を決すると、ドアノブを握る手に力を込めた。
 ゆっくりとゆっくりとその先の幸せを見定める為にドアノブを捻る。

「どうしたんだい、我が主。まさかこの期に及んで臆したとでも」

「……開かないんだけど」

「え、嘘。もっと力を入れてみて」

 ぐっと力を入れても、右に捻っても左に捻っても、押してみても引いてみても、扉は開かなかった。まさか引き戸と馬鹿な事を考えて、右に左にずらそうとしたがやはり動かない。

「どういう事?」

 からかわれたのだろうか。
 悪魔を睨みつけると、悪魔は分からないと首を振った。

「もう開いていてもおかしくないと思ったんだけどなぁ」

「現に開いてないんだけど。私の心の問題って事はないよね?」

「そう言う訳じゃないと思うんだけど。まあ、もう少しここで暮せっていう神様の思し召しかもね」

「意地の悪い神様ね」

「何にせよ、これからちょくちょく試してみると良いよ。そろそろ開くとは思うから」

「こんな緊張を何度も味わわなくちゃいけないの? やだなぁ」



[29811] 独りで立てないお姫様
Name: 烏口泣鳴◆db25df9d ID:41696623
Date: 2011/10/01 19:40
「あら、お早う。涼子ちゃん」

 いつものカフェに駆ける道中で後ろから突然声をかけられた。
 振り返らずとも分かる。病気の解明をする為に一刻も早く会いたかった相手だ。
 逸る心に駆り立てられて、息せききって駆けていた途中だった。どうしてここに居るのかは分からないが、とにかく会えた事は幸運としか言いようがない。
 感謝してもしきれない。

 しかしそれでも、この女だけは好きになれない。何だろう。細かい点を見れば、腹の立つ点は挙げられる。けれど、ここまで嫌う由来は無い様に思う。
 病気に関わっていそうな気配や私を破滅させる悪寒も感じるが、それだって特に根拠がある訳ではない。
 何故だか全く分からない。けれど、とにかく私はこの女が大嫌いだ。

 殺意を覚えながら振り返ると、年を考えずに手をひらひらと振る女がいた。
 淡いブラウンのショールにうっすらと色のついたロングスカート。全身をふわりと浮きあがる様な布地に身を包んだ姿は、どこかお嬢様然としていて、いつもと様子が違う。
 服装以外に女の外見はいつもと変わる所がないのに、何故だが女が別人になった様な気がした。
 徹底的に変わった雰囲気は決して好ましい方向へではなく、それはいつもの退廃的な雰囲気よりもよほど、不吉な何かを予感させるたたずまいだった。

「あらあら、どうしたの、黙っちゃって。ま、いいわ。そんな事より、何処かに行きましょう。ここは寒いものね」

 女が急に私の手を取って来た。
 思わず振り払うと、女は微笑みを深くした。

「ふふ、さ、行きましょう」

 女が背を向けて、何処かへ歩きだした。
 私は操られる様に、その背を追って歩き出した。

 てっきり駅前のカフェに行くのかと思っていたが、着いたのはいつもとは違う店だった。
 コンクリートをどこからかくり抜いてきたような、灰色の立方体だ。看板も何も無く、入り口だけがぽっかりと四角く切り取られ、ガラス戸が嵌め込まれている。
 どこまでも無機質で何か人を寄せ付けないような外観だ。住宅街にぽつんと立つ様は周囲から忘れ去られてしまった様な寂しさがあった。
 ガラスの向こうを覗き込むと輝くオレンジの照明が灯っていた。辛うじて人を呼び寄せようとしている。そんな健気さを感じた。
 周りとの協調はなく、この建物自体もちぐはぐで、白昼夢でも見ている様な気分だった。
 いや、そうであって欲しいと私が思っているだけかもしれない。全てが夢であってほしいと。

「どうしたの? 立ち止まって」

 女について中に入ると、外観に反して中は砂利が敷かれ、木塀に仕切られた日本風のレストランだった。意外にも先客が多かった。

 女は勝手に開いていた席に座り、私もそれに倣って座った。
 私服の中年男が水を持ってきた。メニューも何も渡さずに、そのまま去っていった。

「この店は注文を取らないの。勝手にメニューが運ばれてきて、値段はお客が決める。面白いでしょ」

 私は適当に頷いておいたが、内心どうでも良かった。
 とにかく病気の事を女から引き出さねばならない。それだけを考えていた。

 シュウが入院した事を知られるのは避けたかった。そこから導かれる結論を恐れていた。
 とにかくこの病気を治してしまえばいいんだ。その為にこの女からどうにかして病気の事を引き出して自分で解決する様にしないと。

 大丈夫。シュウに相談する事は出来なくなってしまったけど、まだあの島には沢山の相談相手がいる。ここでの情報を持っていけば、きっと答えが出るはず。原因もきっとあの島にあるんだから。



[29811] 唐突に始まる終焉の秋
Name: 烏口泣鳴◆db25df9d ID:41696623
Date: 2011/10/02 19:41
 お願い。助けて、シュウ。
 お願いだから。

 桜が舞い、燦々とした熱気がこもり、赤い葉に囲まれる、雪の敷かれた校庭に、私はいた。
 赤く暗く世界は闇に閉ざされようとしている。

 だだっ広い校庭に座って、無人の校舎を仰ぎ見ていると、不思議な気分になってくる。
 世界にいるのは二人だけ。そう勘違いしてしまいそうになる偉容。
 窓越しに見える廊下には誰も歩いていない。いつもなら沢山の人が歩いているのに。
 誰もいない校舎は何か見えない氷で閉ざされてしまった様な拒絶感を放っている。
 私のいる校庭も同じだ。
 しんと静まる冷たい空気が私の事を閉ざしている。

 私を取り巻くように、地面に描かれた二重同心円。円と円の間には蛇の様な模様がのたうっている。
 円も蛇も陽炎の様に揺らめいていた。

 手を伸ばせば触れられるかも。
 そう思って、地面に描かれた線に触れようとするのだが、何故だか触れる事が出来ない。
 すり抜けるのでも、届かないのでもない。
 触れているのに、触れていない。私とは別世界の存在の様に、触れても触れても、どうしても触れているという気がしない。
 感触が無いのでも、見えない訳でもない。
 私はそれに触れられない。

 夕暮れが終わる。
 校舎の窓という窓に照らされた空は、その赤焼けを黒く塗って隠そうとしている。

 月が見えていた。
 十五個の月が校舎の三階のガラスに一つずつ映っていた。

「さて、準備は整った」

 女が言った。
 薄く笑って私の顔を覗き込みながら、嬉しそうに私を撫でている。

「これから世界に証明する。そして私は世界を救う。安心なさい。あなたの病気も治してあげる」

 女の瞳が私の視界一杯に映っている。
 女の眼には私の顔。私の顔は女の眼を見つめている。

「夜が来る。月が満ちる」

 女が歌う様に言った。
 私は女の言葉に続けて、口を開いた。

 世界は戻る。始まりの世界へ。
 未だ光の無い混沌の世界へ。
 月の光は夜を薄め、世界の秩序が淡く輝く。
 月の夜に境界は消えて、原初と今が交差する。

 なんと言っているかは分からない。
 空気の震えだけが真実を物語っている。

 足が土を踏み染む音。
 土の中から私の足へ。
 空を伝わり私の耳へ。

「不思議」
「理由は分かっているはずです」

 その声が全てを呼び覚ました。
 全てが破れ、夜気に包まれた世界が、冷たく私の肌を突き刺していた。

 私は思わず振り返った。
 パジャマ姿のシュウがこちらへと歩いてきていた。
 病院から抜け出してきたのだろう。
 何より傷の具合が気になった。

 私の視線を受けて、シュウは笑った。

「傷なら大丈夫。そんなに深くなかったし」
「大丈夫なの?」
「大丈夫。涼子のおかげで助かった」

 良く分からない。
 心に淡く湧いた照れた気分が、なんとなく居心地を悪くさせた。

「失敗したわ」
「むしろ好都合なんじゃありませんか? 勿論、それも含めて阻止するつもりですけど」

 私の頭上を会話が飛んだ。
 意味は分からないが、どちらからも敵意が漏れ出ている。

「幾らなんでも鋭すぎるわ、シュウ君。これが終わったら研究させてちょうだい」
「あなたが涼子から手を退くのなら」
「邪魔はしないでね? 涼子ちゃんの病気を治せるのは私しかいないわよ」
「あなたがやろうとしている事は見過ごせないでしょう。涼子の病気よりも大事な物がある」
「あら、王子様の言葉とは思えないわね。お姫様が泣いちゃうわよ」
「なっ」

 シュウの顔が驚きに凍りついた。
 気が付くと、私の首にはナイフが当てられていた。
 尖った熱が、首に走った。

「邪魔はしないでね、王子様」

 首から流れる血が女の指先で拭い取られた。
 続いて、私の頭の後ろで、何かをしゃぶる音がした。

 私の血を舐めている?
 気味の悪さが頭の後ろから首筋へと電流の様に走った。

「別にいいじゃない。死ぬわけじゃないんだから。あなたが邪魔をするなら、死んじゃうのよ。邪魔をする、しない。どちらを選択すればいいかは、分かるわよね?」

 シュウは固まっている。
 凍りついた様に。
 夜気は寒いのだ。

「ねえ、涼子ちゃん」

 私の耳朶を女の吐息が撫でつけてきた。
 肌が泡立ち、顔が逃げる。
 逃げる私の顔を抱きとめて、女の口が私の耳に寄った。

 シュウを見ると、何か懇願する様な目をこちらに向けていた。

「今の話、分かったかしら?」

 低く、低く、辛うじて聞き取れるささやきが私の耳へと入ってきた。
 嫌いだ。この女が嫌いだ。
 私の心が反抗の念に満たされた。
 分かる訳がない。

「全く」
「そう、ならいいわ。説明してあげましょう」

 聞いてやるものか。女の全てを私は否定してやる。

「シュウ君の事だからちゃんと聞かなきゃ駄目よ?」

 私の思考が一瞬空白になり。

「どういう事です」
「簡単に言うとね。シュウ君はあなたの病気を治したくないのよ」
「そんな訳無い」
「いい? あなたはシュウ君に頼り過ぎよ。今起こっている事は特に大変な事。あなたも苦しいでしょうけど、支える人にとっても重荷になる。さっきだって、シュウ君あなたの病気を治す事なんかよりももっと大事な事があるって言ってたでしょ」

 確かにそんな事を言っていた気も……する。
 言って、いた、はずだ。
 私は見捨てられた?

「あなたがシュウ君を頼れば頼る程、あなたはシュウ君の重荷になっていく。あなたはどんどん嫌われていく。そんなの嫌よね?」
「嫌だ、嫌」

 嫌だ。そんなの嫌だ。

「あなたはそこを動いちゃ駄目」

 突然、女が大きな声を出した。
 私の首筋に再び冷たいナイフの感触が当たった。
 それが何故だかシュウの気持ちの様な気がした。

 嫌だ。

 再びささやきが私の中へ。

「あなたがシュウ君に頼ってしまうのは病気だから。そうでしょ? ね、だから私に協力して。うまくいけば、今夜で病気が治る。そうすれば、あなたがシュウ君に嫌われる事も無くなるわよ」

 嫌われたくない。
 私が頷くと、女が笑った。

「涼子!」

 シュウの叫び声が聞こえる。
 嫌だ。嫌わないで。

「良かったわ。あなたの病気を治すにはどうしてもあなたの同意が必要だったの」

 私の腕の中に古びた人形が落ちた。
 前に古びた人形店で見た、古びた西洋人形。

「こんにちは」

 人形は掠れた声でそう言った。

「それをしっかり持っていて」

 女は私から離れると、波打つ円の縁にノートパソコンを置いて、キーを叩いた。

「さて、術式スタートっと」
「やめろ!」

 女がシュウの声に合わせて回った。
 体の回転に遅れて振り上げた足も回る。
 足はシュウへと吸い込まれ、鈍い音がして、女に飛びかかろうとしていたシュウの体が折れ曲がって、そのまま地面へと叩きつけられた。

「男の子は強くないと。女の事を守れないわよ」

 女は笑って、シュウの口を開いて、右手の親指でシュウの口内を押し込んだ。
 力が抜けて、倒れ伏したシュウを尻目に、女はゆっくりとこちらを観察し始めた。

 女とシュウのやり取りに気を取られている間に、地面に描かれた模様の脈動が一層速く激しくなっていた。
 蛇の様にも、縄の様にも見える、のたうつ何かを、挟み込む様にして円が大きく小さく、不規則にその大きさを変えている。

 突然、空気が耳の奥を揺さぶった。
 頭がふらついて、視界が揺れる。
 ぼんやりと頭上に十五の月。けれど、月はただ一つ。満月が夜空を穿つ様に一つだけ浮かんでいる。

 空気が揺らいで、少しずつ周りが見えなくなっていった。
 円を境に世界は隔絶して、私はただ一人の世界で、揺れている。

 病気を治したいわよね?
 これが病気と何の関係があるのか。
 全く分からないが、とにかく私は病気を治したい。

 決意と共に世界は更に激しく揺さぶられていく。
 私の中に人が見えた。
 沢山の人が私の中に居る。
 年齢も性別もその姿も違う。沢山の人々の中に私が居る。

 私の中に沢山の人の中に私の中に沢山の人の中に──

 その先に世界があった。混沌とした世界が私達の事を見つめていた。
 彼等は私達に特別何かをしてこない。ほんの時たま、その気まぐれが私達の世界を変えていくだけだ。

 彼等の指から伸びる糸が私達の体に絡みついている?
 決してそんな事は無い。
 あなたは間違っている。
 彼等はこちらに来る事は無いし、彼等に期待をしてもしょうがない。

 溢れ出る思考が私をひたしていた。
 一先ず私はここに居よう。
 後はあの人に任せよう。


 光が収束していった。
 その収束が最愛の者を消してしまう。そんな気がして、少年の焦りが増していった。

 けれど体が動かない。
 女に歯を押された瞬間から体が思う様に動かなくなっていた。
 きっと流れが堰き止められたのだ。
 逸る心とは反対に体は遅々としか動かない。

 光が完全に消え去ると、そこには少女が立っていた。涼子だ。無事だったのか。
 加えて、豚の様な生き物がその傍らに浮いていた。

「これが神?」

 珍しく困惑した女の声が聞こえた。

 予定外の事なのだろうか?
 少年には今の状況が良い状況なのか、悪い状況なのかも分からない。
 戸惑う二人ん前で、涼子の体と豚の様な生き物が会話し始める。

「ここが外? これが覚悟のいる世界?」
「僕にもなんだか分からないよ。予想してたのと大きく違うな」
「見た事はある気がするんだけど……ふふ」
「なんだい急に笑ったりして」
「ううん、なんだか外に来たなって。ほら月が出てるよ」
「なんだい月が見たかったなら言ってくれれば、出したのに」
「あのねぇ、そういう事じゃないんだけど」

 全員が頭上に浮かぶ月を見た。
 黄色く輝く満月が泰然と青い光を地上へと降り注いでいる。



[29811] どこまでもふざけたクライマックス
Name: 烏口泣鳴◆db25df9d ID:41696623
Date: 2011/10/03 19:30
 自分を見つめる女に気付いて、少女は月から女へ視線を映した。

「どうしよう、悪魔。なんだか見られてるんだけど」
「そうみたいだねぇ」
「もしかして入っちゃいけない場所だったんじゃない? 怒られるかも」
「違うと思うよ。それより、あの女の人に見覚えは無い? ほら研究所で出会った研究者」
「ああ、ホントだ。でも何だか違うみたいな。もっと優しそうな人だった気がするけど」
「おや、本当に記憶を取り戻したみたいだね」
「ん? あ、ホントだね。でも、そんなはっきりとは思い出せないよ?」
「そんなものさ。多少でも思い出してれば、僕としては十分だ」
「結局あんたは何がしたかったの?」
「なに、この現実がどんなに変容していようと君が耐えられる様にしたかっただけさ」
「意味分かんない。耐える様な世界? これが?」
「いや、僕の予想と大分違っていたんだ」
「ふーん。で、ここは何処な訳?」
「さあ? 少なくとも、僕が見た最後の世界よりは大分時間が経っているみたいだけど」
「んー、なんとなく見た事ある気がするんだけど。何か違うなぁ」
「時の所為じゃないかな? あの研究者が違って見えるのも、歳をとったからだろう」

 悪魔が顎で指した女性は笑っていた。月の光が俯いた顔に差して、その口元だけが引きつっている。
 空に浮かぶ月と校舎の窓に映る十五の月、幾つもの月に照らされた校庭の真ん中で、女性は笑い、肩を揺すっていた。

「そう、まさかあの時の女の子がねぇ」

 頬が月の光に照らされて輝いた。流れ落ちた涙の所為だと知れた。
 木々が優しくそよいでいる。風の気配は感じられない。

「涼子……じゃないのか? また別の意識が?」

 音の無い校庭に少年の呟きが響いた。
 少年は少女を知っている風であったが、少女には見覚えが無い。

「あの男の子は? 悪魔の知り合い?」
「いや、僕も知らないけど。もしかしたら、君が入っている体の知人なんじゃないかな?」
「私の体?」

 少女は身体を捻って自分の体を見回した。
 肌がいつもより浅黒かった。何やら地面に近い。服装も白いつなぎではなくなっていた。

「あれ? 私の体じゃなくなってない?」
「だから言ってるだろう」
「私の体は?」
「さあ? どこかのお墓の下じゃないかな?」
「さらっと言うね」
「今更そんな事では驚かないだろう?」
「これが悪魔の言っていた耐える世界?」
「いや、本当はもっと酷いはずだったんだけど。思ったよりまともで良かったね」
「んー、良かった……のかな? どんな世界だったの?」
「まあ、どんなに酷くても何も感じないと思うから、大丈夫だよ」
「何も感じないのと、耐えるのは違うと思うけど。で、どんな世界だったの?」
「そうは言っても、まともな感情であれを見てたら狂っちゃうよ」
「だからどんな世界なの?」
「おや、あの男の子が君に何か言いたいみたいだよ」
「はぐらかしやがって。覚えとけよ」

 倒れていた少年が立ち上がっていた。危なげな姿勢で地面に手を突き、今にも倒れそうだ。
 天蓋に浮かぶ真円が優しい眼差しで少年を眺めている。

「その体の中に居る意識の人にお願いがあります」
「ほら、何か言ってるよ。君に同い年の男の子が話しかけてくるなんて何年振りだろうね」

 茶化す悪魔を無視して、少女は少年を見つめた。

「お願いですから、あそこにいる女性から逃げてください。お願いです」

 懇願する少年から眼を離して、少女は女性を見た。
 見覚えのある顔だ。不思議な教授の隣に控えてほんの僅かの間だけ話をした。相手は研究者、自分は実験体。それを忘れさせる様な会話だった。
 私を実験器具にしか思わない人々の中で、唯一違った目で私を見てくれた、気の良いお姉さん。姉がいたら、いや、まともに人と関わっていたら、こんな風に楽しい話が出来たのかと知った。思えば、あれがきっかけだったのかもしれない。

 しかし、今少女の目の前に居る女性は違っていた。
 女性が少女を見る眼は実験動物に対するものでも、実験器具に対するものでもなかった。まして人に対するものとはかけ離れていた。それどころかこの世を見ていない。

 何の感情も無く、何の色も無い。
 水に潤み、波打つ皮に囲まれた双眸は確かに少女を向いていたが、何処か彼方を見つめていた。

「うふふ、懐かしいわ。ええ、ええ、素晴らしい夜よ。死者との再会。そう、こんなに月の明るい夜はそれぐらい素敵じゃなくちゃいけないわ」

 貼り付けたような笑みを痙攣させながら、女は月を仰いで高らかに謳いあげた。
 月光が滴の様に煌めきながら、仰ぐ女へ降り注いでいる。

「さて、どうするんだい?」
「んー、いまいち状況が分からないからなぁ」
「まだ分かっていないのかい?」
「え? 悪魔はもう分かってるの? 私の記憶から出来てるのに?」
「ま、それだけ頭の回転が速いという事かな。君と違ってね」
「えい」
「痛い」
「で? どういう状況?」
「それは秘密」
「はぁ?」
「僕としてはあまり君にものを教えたくないんだよ」
「何で? こんな状況で意地悪?」
「そうじゃなくて、なんというか、君に何かを教えて、それが原因で君が歪んだら嫌なんだ。だから君が完全に記憶を取り戻すまでは、出来るだけ何も教えない様にしたいんだ」
「まあ、言い分は分かる」
「分かっていただけて光栄です」
「そうは言っても、危険が迫ってるんだからさぁ」
「おや、何が危険だと思うんだい?」
「うーん、雰囲気が」
「何だいそりゃ」
「名推理にかかれば看過する事など容易いのですよ」
「どこかの探偵小説みたいな事を」
「へへー」
「まあ、どうせそれを見たからでしょ」
「そ、足元」
「ん?」
「何やら足元でこれ見よがしに光ってる魔法陣が怪しいと睨んでるよ」
「うん、もうこの魔法陣は発動を終えて使い物にならなくなってるけどね」

 複雑な模様が描かれた魔法円は既に只の絵に変わっていた。
 繋がったパソコンだけが微かに音を立てて光を放っているが、それすらも月の光に隠れてぼやけていた。

「僕はむしろ君がその手に持ってる人形の方を怪しむべきだと思うけど」
「え? あ」
「Gaahadeenn daaggu」

 気付いた拍子に人形を強く押さえつけると、地鳴りの様に鳴いた。
 掠れて聞き取り辛い挨拶を聞いて、少女は不思議そうに虚空を見上げた。

「あれ?」
「ん?」
「この人形、何か憶えが」
「ほう」
「あー、出かかってるんだけどなぁ」
「ふむ、随分古そうだけどね」
「うん、百年前のアンティークドールと見た」
「いや、十年前の玩具用人形だけど」
「…………ふん」
「で、思い出せた?」
「全然」
「うーん、どうしたもんか」
「てか、何で私が逃げなきゃいけないの」
「彼に聞いてみなよ」

 悪魔につられて、少女も少年を見た。
 少年は先程と変わらない態勢で、呆けた様に立っていた。
 悪魔の声をきっかけに少年の体が震えた。

「あの女の人はその体の持ち主を壊そうとしてるんです。それにあなたにも興味を持った。きっと酷い事に」

「だ、そうだよ?」
「うーん、具体性に欠けるなぁ。ただ、さ」

 少女は女を見て薄く笑った。

「あの女の人が悪い奴な訳でしょ? じゃあ、逃げずに倒しちゃえばいいじゃん。で、実はあの男の子が悪かったらあの男の子も倒す」
「乱暴な」
「悪魔に言われたくないね」

 悪魔は少女の周りを浮かびながら、尻尾を揺らしている。

「でも、その体の持ち主が犯罪者になっちゃうよ」
「私には関係ないね」
「おや、酷い」
「まあ、一つ問題があるとすれば」
「ん?」
「体の動きが物凄く鈍いんだけど」
「寝起きだからじゃない?」
「尋常じゃなく」
「どれどれ」

 悪魔は尚も少女の周りを浮かんで、その体を子細に見回した。
 少女の体は段々と痙攣が強くなっている。
 顔は笑った様に引きつり、身体は妙な形で固まっている。

「なるほど」
「何々?」
「毒だね」
「なんで? 何食べたの?」
「いや、知らないけど。で、逃げられないし、戦えない訳だけどどうするの?」
「どうするって言ってもねぇ。悪魔がちゃちゃっと解毒するか、あの人を倒してきてよ」
「無理だよ。そんな気分じゃない」
「ホントに後で覚えときな」

 女が一歩踏み出した。靴と土の擦れる音が少年の体を緊張させた。
 相変わらず貼り付けた様な笑みを浮かべながら、少女へと一歩一歩近づいていく。

「大丈夫よ。何も怖い事は無いわ」

「だってさ。よかったね」
 悪魔の満面の笑みに、
「後で形が変わるまで打ん殴るから」
 少女は呟きで答えた。



[29811] 求める神は今いずこ
Name: 烏口泣鳴◆db25df9d ID:41696623
Date: 2011/10/04 19:33
 支配の利かない体を捨てて意識だけで少女は身構えた。女は動けない少女へゆっくりと近づいて、傍を漂っていた悪魔を掴み取った。
 掴まれた悪魔は指で圧されて形を変えながら、自分の主人である少女の傍を離れていった。

 女は掴んだ悪魔と顔を突き合わせて、その眼をじっと覗き込んだ。
 唾を呑む音が悪魔の耳に届いた。自分の主人が鳴らしたのだろう。
 自分に注がれる主人の視線、主人が浮かべる緊張を思うと愉快な気分になった。
 離れがたいものは誰にでもあるものだ。

 己を顧みない悪魔を一頻り覗き込んだ女は、悪魔を大きく放り投げた。
 投げられた悪魔は手を離れた瞬間からふよふよと漂い、少女の元へと帰っていった。

「お帰り、悪魔」
「只今、御主人」

 ほんの僅かなやり取りに幾億の感情が込められている。
 夢想家はそんな風に思うかもしれない。真実のところは本人達にも分からない。
 それ以上の言葉を接がずに、二人の視線は互いを離れて女へと向いた。

 女は相も変わらず作り物じみた笑みを浮かべていたが、疑問を持っている様だった。
 と言うのも、頭を肩へと傾け、微かな唸り声を発している。かなり露骨な疑問の仕種だ。
 この記号は演じ手が疑念を周囲に示す為に使われる。だから誰もがそれを疑問符と受け取るが、その仕種は概ね疑問に因らない。

「あなたは悪魔さんなのね?」
「その通りですよ。外郭のみを語るなら私は悪魔と言っていい」
「つまり月とは関係ない訳ね?」
「おや、月から来る悪魔もいるはずでは?」
「でも、あなたはその悪魔ではないのよね?」

 それでは望みの結果ではない。
 実験の失敗を確信した女は笑っている。

「なら、良いわ」

 女が少女へ指を差し伸べ、下にずらした。
 破裂音がして、少女の持つ人形が一回り小さくなった。肌もプラスチックから布に変わっていた。

「ん?」

 人形が顔に手を当てた。
 それから一本の糸で作られた眉を捻じ曲げた。

「私、何か変になっていない?」

 悪魔はふよふよと少女の周りを漂っている。

「いや、別に」
「あ、そう? 何か背が低いんだけど」
「まあ、背と言うか何と言うかだけど。とにかく普通の人形だよ」
「あ、そう。なら良いんだけど」

 月夜の校庭に白い光が生まれた。
 女の取り出した端末が白く月光を塗りつぶしていた。

「それで、涼子ちゃん、どうだったかしら?」

 端末を操作し終えた女が涼子に問いかけた。
 その言葉を合図に涼子が崩れ落ちた。

「ふぎゅん」

 潰された人形から声が上がった。

「ああ、御免なさい。言ってなかったわね。これから毒を抜くから気を付けてって」

「涼子!」

 起き上がろうとした涼子にようやく動ける様になった修也が駆け寄って手を差し伸べた。

「ああ、シュウ。どうなってるの?」
「あまり状況は変化してない。とにかく逃げた方が良い」

 涼子が起き上がると、人形も解放されて浮き上がった。

「まさか人形になるとは」
「まあまあ、他人の体よりは良いだろう」
「この体になったのにほとんど衝撃を受けてない自分が怖い」
「まあまあ、これも教育の賜物という事で」
「洗脳じゃなくて?」
「じゃなくて」

 空気が震えた。
 女が指を鳴らした音だった。
 立ち去ろうとする二人と話し合う二つ、四筋の視線が女へと注がれる。

「それで、涼子ちゃん、あちらの世界はどうだった? 何か見た?」

 涼子の顔が不快に染まった。
 ほとんど覚えていない。だが、何か嫌な世界だった気がする。
 それに一つだけ憶えている事がある。

「あなたが望んでいる様なものじゃありません。あれは私達の事なんか見てないし、私達の言葉を聞く気も無い。そもそもあなたが考えてる様な存在じゃない」

 何の事を言っているのか。喋っている涼子にすら分からない。
 意識の中で繰り返し思っていた言葉。それだけだ。

 女は笑っている。

「どんなものだったのか憶えていません。どんな世界だったかも覚えていません。何を見たのかも、何を感じたのかも。あなたが何を考えているのかも、何をしようとしているのかも。でも、なんとなくだけど分かります。あれはあなたが求めているものじゃない」

「そう。分かったわ。ありがとう」

 女は尚も笑っていた。
 涼子の言葉を信じたのか、切り捨てたのかも分からない。
 ただ、月の光に照らされて笑っていた。

「何でもいいんだけどさ、結局あの人は何がしたいわけ? 魔法陣があったし、魔術の実験? それの生贄にあの女の子を使おうとしたの?」

 人形が悪魔を叩く手を止めて訊ねた。
 修也が女を睨みながら答えた。

「あの人は別の世界の存在を呼ぼうとしたんです」
「ああ、そういう系」
「違うわ。神を呼び出して世界を救おうとしているのよ」
「うん、分かった。お腹一杯」
「何も分かってない! 誰も、誰一人、分かろうとしない!」

 突然語気を荒げた女に慄いて、人形は悪魔の後ろに回り込み、その背を思いっきり押し飛ばした。

「そういうのは悪魔とやって下さい。悪魔好きでしょ? そういうの」

 女の怒気で場が熱せられていく。
 このままでは過熱していき、女は爆発するだろう。

 悪魔は人形を見た。
 自分が招いた未知を恐れて不安げに漂っている。

 しばし思案してから悪魔は流れを止める為に口を開いた。

「世界を救う。それは構わないが、その為にあの女の子を犠牲にするのかい? 世界を救う為に別の世界を」
「体に別の意識を宿らせるだけ。今と何も変わらないでしょう? 終われば帰って来られる様にするわ」

 シュウは涼子を見た。
 見てきた世界に当てられたのか、震えている。

 一切の思案無く、シュウもまた糸口を見つける為に口を開いた。

「でもそれは間違っていた。実験は失敗だった。そうでしょう?」
「ええ、どうやらこの方法じゃいけないみたいね。でも別の方法はまだあるわ」

「それもまた人を犠牲にするものかい?」
「ええ、次のは完全にその通りよ。一つを犠牲にして無数を救う。数の多寡で自分を正当化する気は無いわ。ただ私はその為に生きてきた。それだけよ」

「何故こんな事を? あなたの考える救われた世界って何なんだ」
「こんな病気の無い世界。そこで震える涼子ちゃんや、人形になってしまったカーヤちゃん、そんな治す手立ても無く、朽ち果てるまで好奇に弄ばれ続ける月齢病患者達。世界の誰にも解決出来ない難題に苦しめられる。解けもしないのに難題を捏ね繰り回す愚か者達に弄られ続ける。そんなのって悲しいでしょう。だからその根本原因を、世界の向こう側で嘲笑う神を呼べばその解決策が見つかるはず」

「うーん、いまいち納得し辛いね。その原因を打ち倒せば病気が治るって事かい?」
「違う。その原因である神を顕在化すれば世界はその存在に気付く。この世界とは別の世界がある事に、この世界の操り主が居る事に。そうすれば研究は一気に進むわ。今のまま漫然と見える物だけを考察する世界は一変する。だから向こうがどんな世界でどんな存在だろうと関係ない。ただこちらに引き寄せられればそれで良い」

「別の世界を認識する新しい世界。原始があり、科学を加え、魔術を知った世界に続く第四の世界を望む。あなたの論文通りな訳ですね」
「私でなく、教授のよ」

「だったらその論文とやらを大々的に発表すればいいだろう。何、初速はとてもゆっくりに見えるだろうが、その実、凄まじい速度で動くものだよ、世の中というのは」
「変わらなかったわ! 誰一人まともに扱おうとしなかった! みんな馬鹿にするばかり!」

「それでも分かりません。何故あなたは論文を実行しようとしたんですか?」
「世界を救いたいのよ。おかしいかしら?」

「世界を救うねぇ。本気でそう思っているかは疑問だね」
「……そう、かもしれないわね。でも、私はそう思っていたい」

「そうしなければ、あなたに申し訳が立たないと?」
「…………」
「それが死んでしまったあなたへの手向けだと?」

「ああ、なるほど」
「え、ごめん、私分かってない。どういう事?」
「私も良く呑み込めてないんだけど。シュウ、どういう事?」

「あの人の体は既に死んでるんだよ。涼子と同じ病気でかろうじて意識が宿っているけど」
「私と同じ?」
「そう、別の意識が入れ替わりながら体を操ってる。死体だって動けるのは、涼子がいつも見ている夢で知ってるだろ? きっと入れ替わっている事が気付かれない様に徹底的に演技しているんだ」

「意識が入れ替わる? ほう、そんな現象があるとは面白い。だから主人はあの女の子の体に乗り移れたんだね」
「じゃあ、私の体が人形に乗り移ったのも」
「いや、それは君の力だと思う」

 女は俯いていた。顔は隠れて窺えない。
 月が照らすのは彼女の口だけ。
 それはどこかで見た光景。
 女の口は笑っている。
 泣いている様にも見える。

 青く澄んだ校庭は確かに静止していた。
 動く事を忘れ、息をする事すら憚っていた。
 静止した校庭いるのは月に照らされた黒だけだ。

 やがて女の口から風が漏れた。
 風に押されて時間が回る。
 再び言葉が躍り出す。

「……そうね。私の体には五つの意識が入れ替わっているわ。これはヨーロッパの文献に散在する月齢病という病気。昔は、今人形の中にいるカーヤちゃんが発症していたわ」

「へー、そうなんだー」
「いや、君は本人なんだからさ」
「そうは言われてもねぇ。私も意識が入れ替わってたの?」

「いいえ、月齢病はただ月に関係している以外に表面上の関係は無いの。あなたの周りにいる研究員達も全く着目していなかったわ。私と教授以外は」

「じゃあじゃあ、私はどんな病気だったの?」
「あなたの症状は物体に概念を付与出来た。あらゆる物質を変質させる病気だったわ」

 絵本の狂気がそこにあった。
 吐き気を催す宴がそこにあった。
 それを彼等は笑って見ていた。
 嬉しそうに眺めていた。



[29811] 今日も世界は平常運行
Name: 烏口泣鳴◆db25df9d ID:41696623
Date: 2011/10/05 20:17
 透明な壁の向こうに目を伏せて笑う少女がいた。

 少女はとても簡素な白いつなぎを着て俯いていた。
 黄色がかった薄色の髪と中身の透けそうな白い肌が、つなぎの間から漏れていた。
 ただでさえ白いのに、沢山の照明が照らす所為で少女は更に白く染まって、のっぺりと平坦に見えた。
 きっと碌に運動をしていないに違いない。細い手足は今にも折れそうに垂れている。
 微かにも動かない少女は人形の様だ。
 周りで狂乱している物々がその印象を強めている。
 フォークとスプーンとロンドンブーツと黒地の本が少女を取り囲んでワルツを踊り、白いシーツは少女の前で滑稽な踊りを披露している。
 諸々の服がシーツの後ろで歌を歌って、ベッドとナイフと皿達がそこかしこで笑っている。
 まるでどこかのお祭りの様だ。
 その真ん中で祭り上げられた少女は人形の様に動かない。
 物と人が反対になった様で、私は見ていて怖くなった。
 どうして笑って見ていられるんだろう。
 私は周りを見て疑問に思った。
 透明な壁を隔てて少女を見つめる研究員達は皆一様に期待に満ちた笑顔を浮かべている。
 私の隣に立つ教授もおかしそうに笑っている。
 透明な壁の向こうにいる少女も髪の間に笑う口が見えた。
 ただ一人だけ、私だけが笑っていない。それが何故だか分からない。
 私がおかしいのか、周りがおかしいのか。分からない。

 教授は私の顔色を窺いながら「この研究が進めばあの少女を助ける事だって出来るんだから」といつも言っていた。
 少女は常に笑っていて苦しんでいる様には見えなかったが、私には少女が哀れに思えた。
 だからそれを弄んでいる様に見える研究員や教授に嫌悪を感じていた。
 科学者という立場を考えればそれは潔癖だったのかもしれない。
 そんな私の視線を感じる度に教授は言い訳がましく少女やその他の患者達を救うという建前を並べていた。

 教授は才能に溢れ、人格も申し分無く、誰彼にも慕われる人柄だった。私にとっては神にも等しい存在で、本当に尊敬し続けてきた。
 だから教授が大学を辞め、学会も抜けて、この研究所へ来る時にも、私は頼み込んで付いて来た。
 教授と共に世界を解き明かし、いつか教授に認めてもらう為に。
 ところが人格者だった教授は研究所に来てから一転して、少女の不遇に一抹も同情を示さなくなった。
 科学者として自分を抑えているのだろうかとも思ってみたが、どうもそうではない様だ。
 今までとほとんど何も変わらない態度なのに、何故か少女に対してだけは冷酷で、少女を人間として扱っていない様に思えた。
 この研究所に中てられたのではないだろうか。そう考えれば研究員達が、教授が、あの少女に異常な態度で接する事に納得できる。

「大丈夫よ。あなたは私の助手なんだから」
 私はその言葉を聞いた瞬間、あまりの驚きに視界が明滅した。
 それは私の中に複数の意識が入り込んだ日、異変に気付いた朝の事だった。
 前の夜、他人の体に入る不思議な夢を見た。起きてみると、今度は自分の中に複数の意識が入っていて、私の体を勝手に動かそうとしていた。
 余りの異常な出来事にすぐにでも部屋を飛び出して助けを求めたかった。
 けれどそんな事をすれば、研究員達に何をされるか分からなかった。良くて一生牢獄に閉じ込められ、少し悪くて笑われながら精神と身体を弄ばれ、最悪想像が出来ない程の地獄を見る事になる。
 教授にだって言えない。今の教授も研究員達と同じだ。
 自制した私は声を潜めて内なる意識と語らい、とりあえずの協力を得る事に成功した。
 一先ず安心しつつも、何時意識が暴れて研究員達に拘束されるか心配しながら、朝食の席に座ったその時だった。
「大丈夫よ。あなたは私の助手なんだから」
 教授は全てを見透かした目をしていた。
 私の肩を数回叩いて教授は朝食に手を付け始め、私は呆然として朝食を食べられなかった。
 その日は休んで、自室に籠って泣いた。教授の事が良く分からなかった。

 私達が来てから半年程経つと、研究所が行き詰り始めた。
 少女から望むデータを取れず、日々試行錯誤を繰り返すも、研究は一歩も進まず滞っていた。
 やがて教授に御鉢が回って来た。今までは見学程度、多少のアドバイスをする程度の助力だったが、今度は完全に少女を任された。
 研究員達の間で異世界が関係しているのではという論調が高まった事も大きかった。
 異世界に関する研究は当時教授が第一人者だったと言っていい。というより、まともに扱う研究者はほとんど居なかった。異世界など夢物語だと今と変わらず馬鹿にされていた。
 とにかく藁にも縋りたいという研究所全体のプレッシャーが私達の上に圧し掛かったのだが、教授はまるで気にした風も無かった。
 その点は今まで通りの尊敬できる教授であったが、これから少女に対してどんな酷い実験を行うのかと考えると、疑惑の念は自然と大きくなった。
 加えて研究所内で危険物の様に取り扱われる少女と対面で接する恐怖も大きかった。透明の壁越しに眺めていた異常な光景に自分が浸されてしまうのではにかと危惧していた。
 会ってみると何て事は無い内気な少女だった。教授も私が想像していた様な実験らしい実験は一切せずに、ただ少女と話合うだけだった。
 研究所に備わっているカフェテリア、皆が恐れ戦いて無人の大空洞となった一角で、私と教授と少女は対談した。
 少女は自分の境遇を苦しいと語った。
 けれどそれは私が想像していた様な苦痛ではなく、周囲の期待に応えられない事に対してだった。
 その優しい少女を私は心から救いたいと思った。せめて少女の苦しみを和らげられればと。
 それから何度か少女と話した。何とか様になってきたドイツ語でどうにかこうにか話していると、最初は心を閉ざし気味だった少女も口数が増え、私を姉だと慕ってくる様になった。
 本を読み聞かせ、初等教育程度の勉強を教え、日本語を教えた。
 教授の教育方針は基礎だけ教えて突き放すであり、私も人に教えるのは不得手で、少女も特別頭が良かった訳ではないが、それでも段々と理解が深まっていった。それに合わせて笑いもどんどん増えていった。
 一方、研究所の期待と失望の重圧もまた強くなった。
 私の良心からも研究所全体からも、早く少女の病気を解明しろと無言の責めが増えていった。

 いつもの様に三人で談笑していると、怖がって誰も来るはずのない私達の所へ突然日本人の親子がやって来た。
 父親の方は教授のかつての教え子だった。年度が離れていたので私とは面識が無かったが、偶に教授と連絡を取り合っていたそうだ。
 娘の方はまだ幼く小学校も卒業していない歳だった。父親の影に隠れて怯えていたが、歳の近い少女にだけは好奇の視線を送っていた。
 話によると海外の販路を探り渡っている父親を教授が招いたそうだ。娘も連れて来る様にと厳命して。
 少女の為に友達になれそうな子供を呼んだのかと期待したが、すぐさま打ち砕かれた。来て早々、娘を実験に使うという話になった。
 父親はそれを承知で連れてきていた。どうして我が子を捧げられるのか理解できなかった。話していてすぐに分かった事だが、父親は酷く金にがめつい男だった。それでも自分の娘を売り払う神経は到底理解出来なかった。

 親子は研究室を去っていった。少女の意識を入れられた娘はこれから父親と共に世界を旅する事になる。
 何も知らない二人を仲良くさせて同調する下地を作り、少女の病気を使って私の病気を娘に移す。
 実験は無事成功。娘に病気が移り、その病気の因って少女の意識が娘に移った。この病気が特別な人間に発症する物ではなく、誰もが患者たりえる事が証明された。科学の大進歩。万々歳だ。滅んでしまえ。
 私は少女と離され、少女は再び研究員達の手に委ねられた。
 研究員達が研究成果を奪おうとしたのではない。
 予算を掠め取る事だけを考える研究員達は次もよろしくお願いしますと教授を持ち上げおだて始めたが、教授はそれを固辞して少女を返した。
 徹底的に少女を痛めつける為だ。徹底的に少女を孤独にして世界の外に希望を見出させ、娘への移乗を強める為に。
 私の病気が見逃されたのも、実験に使う為。私と少女が仲良くなったのも、落差で少女により孤独を感じさせる為。
 研究員達には徹底的に辛く当たる様に指導していた。教授は本当に人だろうか? 鬼か何かではないだろうか?
 悔しかったのは教授が何をしても、私の教授に対する尊崇の念が変わらなかった事。非難する心も確かにあったが、きっと教授がやっているのは全て良い事なんだと心の底から心服して理性の雑音を押さえつけていた事。
 それに感謝もしていた。結局私の病気の事は上手く隠されて、見逃された。ありがとうございます、教授。苦しむ少女から目を逸らして私はそう思っていた。

 ついにその日が来た。私と教授は研究所を出る所だった。苦しみ続けて疲弊した少女を見て、教授はここまでねと呟いて、その日の内に退出届を出した。
 研究所が用意した車に手をかけて名残惜しむ様に振り返ると、突然目の前の研究所内から甲高い音が聞こえた。
 耳鳴りだろうか。建物内との気圧差が原因か。
 はたと悲鳴だと気が付いた。気付いた瞬間、高低様々な悲鳴が一斉に私を圧倒し、次の瞬間にはそれまでの喧騒が幻の様に静かになった。
 建物に駆け寄ろうとした私を教授の手が押し止めた。
 入り口のガラスの向こうに人が居るのを見つけた。
 両手両足をそれぞれ車輪の様にひしゃげ丸めて四輪となった人間が、呆けた顔で車輪を回してガラス戸に迫り、こつんとぶつかり弾かれた。ガラスがあるのだからドアを開けなければ外には出られない。それでも何度も何度もガラス戸へ体当たりを繰り返している。
 それが逃げようとして必死にもがいている人間だとしばらくして気が付いた。気が付いた時に、建物からけたたましい危険信号が鳴った。施設ごと魔術災害を消し去る合図だ。
 私が呆然としていると教授は無理矢理私を後部座席に押し込み、車を出発させた。
 後部ガラスから建物を見ると入り口のガラス戸の向こうに続々と人が集まっていた。象の影がよぎった。皮膚が象の皮になった人間が集まって象の振りをしていた。
 残りの人々は本当に人なのかも良く分からない。ただ入り口に集まる物の中に時たま見える目と口の様な物が付いた何かが人間を彷彿とさせるだけだ。だからあの時入り口に犇めいて、声を立てる事も出来ずにガラス戸に鼻を擦り付けていたのは、実は人ではなかったのかも知れない。そう思いたい。
 後日その場所へ行ってみると、聳え立つ偉容が溶け崩れた白いコンクリートの塊になっていた。
 撤去作業の末にも人の死体は一切出てこなかった。一部、その研究所には在り得ない物品が出てきたが特に疑問を持たれる事無く粗大ごみとして捨てられた。私はそれらから眼を逸らして決して見なかった。
 一つだけ、古びたプラスチック製の人形が私の眼に止まった。それは少女が大事にしていた人形だった。お腹を押すと挨拶をするだけの単純な玩具だった。試しに押してみると、壊れているのだろう、声とは思えない掠れた声が聞こえてきた。



[29811] 終わりは唐突で事件は夢の中に消えていく
Name: 烏口泣鳴◆db25df9d ID:41696623
Date: 2011/10/06 21:11
「ねえ、そんな事はあって欲しくないでしょう? 嫌よね? 人がどんどんおかしくなる、地獄の様な世界なんて?」
 ねっとりと絡みつく様な口調。信用ならない。その場に居る誰もがそう感じていた。語る内容も妙に客観的で、実体験というよりは作り物めいていた。
 だが無視できる内容でも無い。
「カーヤさん、でしたよね?」
 だからシュウは事の真偽を人形に尋ねる事にした。
「今の話に出てきた女の子というのはあなたですよね? どうでしたか? 今の話は本当なんですか?」
「ぼんやりとそんな記憶はあるけれど」
「ああ、本当だよ」
 悪魔の断定的な口調に、シュウは思案する。そして言った。
「お話は分かりました。とても危惧すべき事なんでしょう。でもどちらにしたって、あなたの行動に意味があるとは思えない。あなたのやり方で世界が変わるとは思えないんです。そんな無意味な事に誰かを犠牲とするなんて容認できません」
 女は薄く笑う。
「変わるわ。変えてみせる。それにね、次に犠牲になるのは所詮シンボル。誰かでないのだから良いでしょう?」
 女が何処か誇らしげにそう言った。涼子とカーヤはその言葉の意味が分からなかった。だがシュウと悪魔はその意味を悟って、悪魔が溜息を吐く様に呟いた。
「僕がその立場なら絶対に嫌だね」
「そんな事無い。長年の夢だったのよ」
「本当ですか?」
 シュウの問いかけに女が睨みで答えた。
「勿論よ!」
「そもそも神って何ですか?」
「神っていうのは」
「論文では教授もあなたの体も別次元の存在としか書いていません。なのにあなたは神だと言っている。言葉の置き換えにしては少々飛躍している様に感じますが」
「同じ様なものじゃない」
「いいえ、違います。別次元の存在と神ではこの世界に対する支配度が違いすぎる。あなたがその言葉を使っているのには訳があるはずだ」
 女はしばし思案気に空を見上げたが、やがて首を振った。
「やっぱり同じよ。どちらにせよ、この世界を苦しめている嫌な存在。言葉の違いに大した意味は無いわ」
「そんな事は──」
 シュウが尚も追求しようとした時、突然魔法円がぼんやりと光上がった。シュウが驚いて言葉が途切れ、女が勢いづいて嬉しそうに笑ってくるりと回った。
「駄弁はそろそろ終わりにしましょう」
 女は恭しく一礼すると、粘つく様な笑いを浮かべて、
「それでは皆様ごきげんよう」
踊る様に爆発的な光を放つ魔法円の中へと跳び入って、魔法円の放つ光の中に消えた。
 シュウは舌打ちした。
「まだ聞きたい事があったのに」
「だが、あの中に飛び込むのは自殺行為。だろう?」
 悪魔の言葉に頷いてからも、シュウは焦燥として魔法円の輝きを睨み続けた。
「ねえ、シュウ」
 背後から涼子が恐る恐るといった様子で近付いた。
「あの人はどうして自分からあの中に入ったの? 何をしようとしてるの?」
「涼子を使ってやろうとした事を、今度は自分を使ってやろうとしているんだ」
「何でそんな事を?」
「多分、自分なら上手くやれると思ったんじゃないかな? 体も中に意識が入っていない死体ならって思ったんだろう」
 涼子が眉に皺を寄せた。
「良く分からない」
「分からなくて良いんだよ」
 やがて魔法円の光が収束して、中から呆けた様子で膝を突き、空を見上げる女が現れた。ぴくりとも動かない。生きているのか死んでいるのか、判断が付きかねた。
 突然女の腕が跳ねた。続いて、甲高い笛の様な音が辺り一面に広がった。空気を震わし、鼓膜を震わし、聞いていると頭が割れそうになる音が、辺りを震わせる。決して人間の体では出しようのない音が女の口から漏れている。女は手をばたつかせて一つの楽器になっていた。
「まさか本当に成功したのか?」
 両耳を塞ぐシュウの呟きは辺りに満ちる音の奔流に呑まれて消えた。
 その次の瞬間、突然音が消えた。耳の奥に金属を鳴らした様な響きだけを残して、女の発する音は消えていた。耳がおかしくなった所為で、平衡感覚の狂いによろめきながら、涼子は女へと近付いた。
「おい、涼子! やめろ、危ないかもしれない!」
「でも」
 それだけ呟いて、涼子は女へと近寄っていく。恐らく目の前で異常な状態になった女を助けようとしているのだろう。もう死んでいるというのに。シュウは仕方なく涼子を追って女に近付いた。
 女は傍で見ると明らかに死んでいた。死体であるのだから当然で、問題は中に意識が宿っているかどうかなのだが、何となく宿っていないだろうとシュウは思った。
「死んでるんだ」
「そうだな。動いていたから分かり辛かったけど、こうして動かないでいると、やっぱり死体だ」
 妙に生々しい死に化粧をした女は微かな香水の匂いを振りまきながら見開いて動かない眼で天を眺めている。
「助けられないよね?」
「助けるも何も元から死んでる。言いたい事は分かるけど、無理だよ」
「そうだよね」
 子細に観察したが動く気配は無い。
 先程の金切り声は何だったのか。何かが入ったのか、あるいは単なるノイズか。何かが入ったにしても、一向に動かないのは、すぐに抜けていったからなのか。
 しばらく待ってみたが分かる訳が無い。動かない事を確認して、シュウは涼子の肩を引いた。
「涼子、帰ろう。ここに居ると、色々と不味い」
 少なくとも警察に見つかれば面倒だ。
「そうだね」
 シュウが予想していたよりもあっさりと涼子が同意した。シュウが訝しんでいると、涼子が無理矢理笑顔を作って、答えた。
「もうシュウに迷惑かけたくないから」
「別に迷惑じゃないけど」
「いいよ。帰ろう」

 悪魔と人形は何処かへと消えていた。校門を出て、女が見えなくなると、涼子は今迄の事が全部夢だったような気がした。ただ単に危険な状況が去っただけでなく、心が浮き上がる様な喜びに包まれて夢の様な心地だった。
 先程のやり取りの中で、涼子はようやく過去を思い出したのだ。研究所の中で女の子と出会った事、父親に連れられて海外を飛び回っていた事、母親が刺されているのを呆然と見ている所、シュウが刺されそうになっているのを呆然と見ている所、今迄に無い沢山の記憶が溢れてきて、けれどまず真っ先に思い出したのが、小学生の時にシュウに告白をしようとした時の事だった。
 推敲に推敲を重ねて思いを綴った手紙を胸に心地良い眠りにつこうとした時、ノックの音と共に転校という父親の急で無粋な言葉に驚き、悲しみ、泣き明かし、それでも思い切りがつかなくて手紙を持って登校して、結局渡す事が出来ずに、何だか腹立たしくなって手紙をゴミ箱に捨てた思い出。思いだした今ではどうして忘れていたのか不思議な位に、まざまざと当時の思いが蘇る。どうしてシュウが捨てたなどと勘違いをしていたのだろう。辛い思い出が勘違いであると分かっただけで涼子は嬉しかった。
 記憶が次々に押し込まれていく。沢山の記憶が一気に吹き上がってきた所為か、つい先程まで悩まされていた事件が遠いかなたの事に思えた。今はただシュウと二人で並んで歩いている事が嬉しかった。後の事はどうでも良い。
 シュウも同じ事を考えてたらな、と思ってシュウを盗み見ると、何だか難しい顔で空を見上げていた。何だか罪悪感が湧いた。多分今までの事件を、私の為に考えてくれているだろうに、その私が全く別の事に浮かれているなんて。そんな事を考えながらも、心は真綿に包み込まれた様にふわりと浮き上がっている。
 シュウが突然涼子を見た。涼子は何だか気恥ずかしくなって、今迄自分が考えていた事を気取られない様に、言い訳をする様に、自分の中だけで渦巻いていた話題を強引に変えようとした。
「そうだ、シュウ、その、お腹の傷は大丈夫なの?」
「ああ、涼子のお蔭で犯人が逃げてったから」
「そっか」
 それで会話が途切れた。繋げる話題は沢山あるのに、何故だかそれ以上口から出ない。どことない居心地の悪さが満ちてくる。この場から離れたい訳じゃない。けれどこの場にいる為には何か話さなければいけない気がする。でも言葉が出てこない。
 そうして二人で黙り込んで歩いていると、沈黙に耐えかねたのか、シュウが唐突にこう言った。
「今夜は月が綺麗だな」
 涼子が空を見上げると、明るい満月が浮かんでいた。視線を下ろすと、道路の脇に並ぶ家々が照らし出されている。一面輝いている様に見えるが、ようく見れば家と家の間には闇が滲んでいる。白い灯りは段々と青に翳り、最後には闇に変わっていく。そこかしこの光と闇のコントラストに目を転じながら、段々と道の先へと視線は映り、道の先もまた同じ様に月の光と夜の闇が混じり合っていて、それが山へとたどり着くと、山は月の光に照り輝いて、闇は無く、盛り上がった月の光が薄らと三角形を作っていた。何だか不思議な気持ちになって山から視線を転じて空を見上げると、明るい満月が浮かんでいた。綺麗だと思った。
「そうだね」
 涼子が同意すると、シュウは息を呑んで涼子を見て、その表情を見て渋い顔を作って、溜息を吐いた。涼子は空の月に見惚れている。シュウはその横顔を見ながら、やがて顔を緩めて薄く笑うと同じ様に空を見上げた。
「ねえ、シュウ」
 シュウが涼子を見ると、涼子は微笑んでいた。
「どうして私の事を助けてくれるの?」
 シュウはどう言ったものかと考える。今さっき告白して気付かずに流されただけに正直に直球では言い辛い。とはいえ、回りくどくしても流されるのは今しがたで証明された。しばらく考えてから、自分の気持ちを伝えるのはまた次の機会があるだろうと、やはり少し遠まわしに受け答えた。
「助けたいと思ったから」
 あまり格好の付いた答えじゃなかったかなと、シュウは言ってから思った。一方で涼子は顔を更に朗らかにして、まるでシュウの心を見透かした様であった。
 そうしてまた会話が途切れる。涼子は幾分心を弾ませて、シュウは涼子の表情に思い惑って、今迄の凄惨な事件など無かったかのような淡く緩い空気を醸しながら二人は家へと帰った。
「それじゃあ、何かあったら大声を出して。呼べる様なら俺を呼んで。逃げられる様なら俺の所に来て」
 まるでお使いに出掛ける子供に言い聞かせる様だ。
「分かった分かった。シュウもね。もしも何かあったら今度は私が助けるから」
 シュウの心配に反して、涼子は安心しきっていた。もう事件は終わっている。何かが起こる事は無い。心配そうなシュウと別れて、涼子は家へと帰った。母親が笑顔で迎えてくれた。いつもより遥かに遅い夕食を摂って自室に戻る。
 戻るとそこに人形と悪魔が居た。
「あ、お邪魔してまーす」
「やあ、これからお世話になるよ」
 涼子は愕然として膝を突き、混乱を収めてのろのろと立ち上がって、ベッドの上に座っている人形と悪魔の上にかぶさる様にして二つの顔を覗き込んだ。
「何であなた達が居るの?」
 悪魔が楽しそうに涼子の肩を叩いた。
「何を言っているんだい。僕達はずっと君の中に住んでいたんだ。外に出たとて他に行くところも無いし、何、知らない仲じゃないだろう? よろしく頼むよ」
 人形もまた肩に手を置いた。
「って、訳でよろしくね!」
 憤然と追い返そうと思ったが、ふと目の前の人形がまだ少女だった時に二人でお喋りをした時の事を思い出した。思い出すと、何となく追い出す気も失せて、
「ああ、もう」
脱力して二人の居候を認めた。
「さっすが話が分かる!」
「いや、古の賢才にも勝る呑み込みの良さ」
 適当な事を言う二人を放って置いて、涼子はこの事を伝える為に窓を開けて、向かいの窓を叩いた。



[29811] しかし世界はその終わりに謎を残す
Name: 烏口泣鳴◆db25df9d ID:41696623
Date: 2011/10/06 21:11
 一夜明けて、二人と一匹と一体は涼子の部屋に集まって顔を突き合わせていた。
「ニュースにはなってなかったんだ」
「ああ、朝見た限りだと。まあ、田舎の変死ってだけだとニュースにはならないのかもな。魔術の跡が残っているはずだからそれなりに重たい事件になると思っていたんだけど」
 涼子の質問にシュウが答え、悪魔が横から口を出した。
「報道が遅れているだけじゃないかな? 昨日の今日だろう?」
 シュウが首を振る。
「いえ、報道って早いですよ。今日の明け方までに見つかれば今日の朝には報道されているでしょう」
「なら見つかっていない可能性は?」
「最後にあんな大きな声で叫んでいましたからね。あの断末魔を聞けば誰かが通報するでしょう」
「ふむ。なら何て事の無い事件として処理されたという事か?」
 悩む三人に対して、人形は砕けた調子でふわふわと漂っている。
「それなら良いじゃん! 万事解決万々歳」
「それなら良いんですが」
「なる様になるよ! 明日は明日の風が吹くんだよ」
 人形の緊張感の無い言葉に、悪魔は溜息を吐き、シュウも苦笑いを返した。涼子だけが不思議そうな顔で人形を見つめた。
「日本語上手なんですね」
「え? 私の?」
「はい」
「そりゃあ、あなたと一緒に世界中を旅したからね」
 人形の言葉を受けて、涼子が考え込んだ。
「私とですか?」
「そう。あなたと一緒に色んなところを見て回ったよ。意識は互い違いだったけどね」
「憶えていません」
 色々な事を思い出したがまだ完全に戻った訳ではない。人形の言っている事を涼子は憶えていなかった。悩む涼子の周りを飛びながら、人形が慰める様な声を出した。
「仕方が無いって。きっと私みたいにいずれ思い出せるよ」
 人形の気遣いに涼子が礼を返そうとした時、インターホンが鳴った。母親は出かけている。久しぶりに帰って来た父親と何処かへと出かけたらしい。らしいというのは、朝起きたら置手紙だけ残して消えていたからだ。
 だから来客があるのなら涼子が出るしかない。
「ごめん、ちょっと出てくる」
 そう言って、涼子は部屋を出て行った。
 話題が途切れて、何となく手持無沙汰になった悪魔がふわふわと漂いながら二つある窓の内の──シュウの家側でない──玄関が見える窓へと寄った。悪魔は外を見下ろして呟いた。
「あれは昨日の女」
 玄関には昨日死んだはずの女が笑顔を浮かべながら涼子の出迎えを待ち受けていた。
 三人が顔を見合わせる。やがてシュウが音を立てぬ様に下へと向かい、一匹と一体も後に続いた。
「はい」
 涼子の緊張した声が聞こえた。シュウが下りた時、すでに涼子は扉を開けるところだった。涼子の声が緊張を孕んでいるという事は既に扉の向こうに誰が居るのか分かっているのだろう。
「こんにちは」
 涼子が扉を開けると、その向こうから親しげな笑みを浮かべた女が現れた。
「昨日振りね」
「どうして生きているんですか」
 涼子が警戒を滲ませた冷静な声音でそう尋ねた。
「どうしてって。分かっているでしょう? 私はもう死んでいるんだから、また死ぬ事なんてないわよ」
「確かにそうかもしれないけど」
 昨日最後に見た女の崩れ落ちた姿はもう二度と動かないだろうと思わせるものだった。それが動いている事に涼子は酷く違和感を抱いていた。
「そんな事よりね、今日はあなたに謝りに来たの」
「謝りに? 何をですか?」
 酷い事などそれこそ沢山あった。涼子の中に心当たりは無数にあって、謝られても許せない位だ。
「忘れちゃった? ほら、言ったでしょ? 私はあなたの病気を必ず治すって。でもね、どうやら私の研究は一から振り出しみたい。だから治せそうにないの。ごめんなさい」
 そもそもそんな事は全く期待していなかったのだから、涼子にとっては謝られても困るだけだ。むしろ他に謝る事があるだろうという怒りが湧いた。
「用はそれだけですか?」
 涼子がそう尋ねると、女はけたけたと笑った。
「ええ、その通り。用も済んだから帰るわ。あまり歓迎されていないみたいだから」
 女は身を翻して出て行った。玄関が閉まり、後には涼子がぽつりと残される。訳が分からなかった。あの女が何をしたかったのか。何をしに来たのか。まるで分からずに涼子は呆然と立ち尽くした。
 その様子を見ていたシュウは悪魔と人形に自分が抜け出す事を伝え、涼子に内緒にしておくように言って、そっと足音を忍ばせて二階から自分の部屋、それから自宅の玄関に下りて靴を履き、外に出た。歩いている女を追いかけて呼び止める。
「待ってください」
 女は聞こえていないかのように振り向きもせずに歩いていく。
「待ってください、佐藤教授」
 シュウは今は亡き女の師である教授の名を呼んだ。
 女が振り返った。その表情は驚きに満ちている。
「どうして分かるのかしら? 本当に不思議だわ」
「今回は鎌を掛けただけです」
「うーん、憎たらしい程に優秀ね、あなた」
 女は一つ呵々大笑して目を細めた。
「それで? それが分かったらどうするのかしら? 私をこの体から追い出す?」
「いいえ、そんな事に興味はありません。ただ一つお願いがあります」
「何? あの女の子の事ならもう手出しをする気は無いけれど」
「ありがとうございます。でもそうではなく、涼子のお母さんを元通りにして欲しいんです」
 シュウがじっと女を見つめた。女もまたシュウの事を睨みつける様に見つめ返す。
「間違う事もあるのね?」
「どういう意味ですか?」
「あなたが間違える事もあるんだと言ったの。残念ながら私には出来ないわよ」
「そんな……だって涼子のお母さんをあんなにしたのはその体の前の持ち主でしょう? 今その体に入っているあなたにはその時の記憶があるだろうし、それに体に入っていた意識達はあなたの技術を元にしてあんな事をしたはずだ。下手な嘘を言わないでください」
「残念ながらはずれ。あれは私も、私の弟子も、その弟子の体に寄生していた奴等もあずかり知らない事。だってあんな事する意味が無いでしょ? 娘の心を壊す為に母親の精神を壊すなんて二度手間も良い所じゃない」
「そんな訳が無い。だったら誰があんな事を」
「分からないけれど、絶好の場所にあれを出来る人物が二人居るわよね。私は半々だと思っているけど」
 女の言葉でシュウも理解が及んだ様で目を見開いて放心した様に呟いた。
「そんな、そんな事」
「信じる信じないは勝手だけれど、気を付けた方が良いと思うわよ。あなた達はそれなりに気に入っているから、出来れば勝手に死なないで欲しいしね」
 女は笑って背を向けた。
「あ、そうそう。あなたは真実を隠す為にこっそり抜け出してきたつもりなのかもしれないけれど、バレバレだったみたいよ。残念ね」
 シュウが振り返ると、そこには涼子が立っていた。呆然とした面持ちで立ち尽くしている。
「涼子、聞いてたのか?」
「うん、でも大丈夫」
 明らかに大丈夫ではない表情で涼子が答えた。
 二人が顔を突き合わせているところへ外野から声が聞こえた。
「じゃあね、お二人さん」
 二人が女の居た場所を見ると、既に女は消えていた。

 残された涼子とシュウはしばらく女の消えた方を見つめていたが、やがてシュウが涼子を見た。その視線に気づいて涼子も顔を戻して、二人は見つめ合って、涼子の眼の奥に不安を見て取ったシュウは思わず口にしていた。
「俺が必ず助けるから。一生かかっても涼子の病気を治すから。おばさんもきっと元に戻す。おじさんも、もしそうなら絶対に正気に戻すから、だから……だから安心してくれ」
 何の根拠も無い出鱈目だった。それでも本心では合った。何とかしたいという願望であった。
「必ず?」
 涼子が尋ねる。
「必ず」
 シュウが答える。
「一生かかっても?」
「一生かかっても」
「そっか」
 涼子が笑った。不意の事でシュウは面食らう。涼子の笑顔は何となく今の状況には合わない反応な気がしたが、とにかく元気になってもらえたのだと気にしない事にした。今は涼子が笑ってもらえただけで充分だ。
「ずっと私を守ってくれる?」
 涼子が重ねて問いかけてきた。
「ああ、ずっと守る。約束する」
 シュウは答えてから、告白みたいだなと思った。実際に告白するとなるとこんなに簡単にはいかないのだろうと思うと、シュウは何となくおかしな気持ちになった。
「お二人さんお熱いところ悪いのだがね」
 今迄ずっと黙っていた悪魔が声を掛けた。涼子とシュウは初めて気が付いたかの様な目で悪魔を見た。
「まだ大切な事が残っているのを、まさか忘れていやしないかい?」
「大切な事?」
 シュウの眼が俄かに鋭く坐った。まだ事件は終わっていないという事か? 悪魔の不穏な言葉に警戒が強まる。涼子が訳も分からず息を呑んだ。
「そうだ、大切な事さ」
 悪魔は勿体ぶった調子で自身と人形を指し示して言った。
「これから新しい家族が増えるというのに歓迎会は無いのかい?」
「は?」
「歓迎会」
 脱力したシュウが涼子に尋ねた。
「どうする涼子」
「じゃあ、しようか」
 涼子はそう答えた。切り替えよう。涼子はそんな気持ちになっていた。事件に区切りを付ける意味でも良いかもしれない。そう思った。
「うむ、出来れば盛大に頼むよ」
 悪魔がそう言うと、隣に居る人形もこくこくと何度か頷いた。
 涼子はそんな二人の様子を見て家が明るくなりそうだなと思った。それはとても良い事だ。一人で抱えて行くには重い事件だった。けれど支えてくれる人が沢山居る。それが嬉しい。
「あれ、涼子! に、シュウ君」
「あーあ」
 声の方を向くと涼子の友人達が居た。学校の制服を着ている。今日は学校があるのだから当然だけれど。
「どうしたの、みんな」
「いや、また今日も休むって聞いたから学校抜け出して見舞いに」
「ちょっと心配になって。でも、もしかしてお邪魔だった?」
 友人達は涼子とシュウを交互に見て何だか見守る様な慈愛の笑みを浮かべている。
「え、あ、違うよ! これはそうじゃなくて」
 涼子は必死に弁解しようとしたが、その弁解が功を為す前に、友人達の気が別へと逸れた。
「それ何?」
 友人達の視線を受けて、悪魔が答えた。
「悪魔です」
「人形です」
「二人揃って悪魔と人形です」
 下らない事を言って、二人して恭しく一礼した。
「まんまじゃん」
 友人達が楽しそうにつっこみを入れて、近付いていく。
「何? 生きてるの?」
「ペット?」
「生きていますよ。ペットではありません」
「しいて言うなら、涼子ちゃんの家族かな?」
「家族ぅ?」
「今日からだけど」
「その歓迎パーティーをやるんですが、お嬢さん方もどうですか?」
「マジで? 行く行く」
 前方で友人達と悪魔と人形が騒いでいる。涼子とシュウは何だか急に元の世界に戻った様な気がした。事件が終わったんだと心の底から思えてきた。
 友人の一人が涼子に寄って来た。シュウには聞こえない様に声を潜めて涼子に耳打ちする。
「ごめんね、涼子。シュウ君と二人でどっかに行くんだった?」
「ううん、そんな事無かったけど。どっちにしてもあの悪魔と人形が一緒だから二人っきりって事は」
「そか。でも、とにかく付き合えてよかったね」
 思わず涼子はシュウを見た。見られたシュウは不思議そうな顔を返した。何でも無いと言って、再び涼子は内緒話に戻る。
「ちょっと何でそんな事になってるの?」
「だって何だか雰囲気が良い感じだし。恋人っぽい雰囲気が出てる」
「そんな事無いでしょ」
 涼子の反論はしかし友人へと届かなかった。友人は既に傍に居らず、悪魔と人形を囲む輪に呼ばれて、走り去るところだった。
 涼子は友人の背から再びシュウへと視線を移した。シュウは涼子と去っていく友人を交互に眺めながら難しい顔をしていた。
「邪魔な様なら、俺は戻るけど」
「邪魔なんて事無いよ」
「そうか?」
「うん。それに人数は多い方が良いでしょう?」
 向こうで輪を作る友人達が涼子とシュウに手を振った。
「ほら、二人とも早く行こう!」
「何処へ?」
「パーティー会場へ!」
「だから何処―?」
「行けば分かる!」
 そう言って、友人達が歩き出した。真ん中には悪魔と人形を漂わせている。
 涼子とシュウは顔を見合わせて笑ってから釣られて歩き出した。
 涼子はむず痒い様な幸せな気持ちになった。目の前には明るい友人達、それから新しい家族になる悪魔と人形、隣にはシュウが居る。自分を支えてくれる人達が居る。それが堪らなく嬉しくて、思わずシュウの手に自分の手を伸ばしていた。
「ねえ、ずっと一緒に居てくれる?」
 シュウが驚いた表情で見返してきて、それから涼子の手を握りしめて笑った。
「ずっと一緒に居る。約束する」
 優しくしてくれるシュウの好意に付け込んで、一生縛り付けようとしている。何て酷いんだろう、私は。涼子は心の中でそんな風に自嘲したが、それはうわべだけの事で心の奥は喜びに満ちていた。
 二人で手を握り合いながら道を進む。
「ねえ、二人とも」
 友人が振り向くのに合わせてぱっと手が離れた。
「食べられないものある?」
「無いよ」
 何食わぬ顔をして二人は輪の中へと入って行った。自分を支えてくれる人々の温かい輪に入って、涼子は自分の幸せをかみしめた。周りに気付かれぬ様に隣のシュウにそっと寄り添って、これからどんな事があっても頑張っていけると、そう思った。
 自分は幸せだ。そう思った。


『路上で夫自殺 妻も後追いか

 4日午後3時ごろ、先巳市内の路上で模延市香騒、会社員、広瀬勝次さんが刃物で自身の腹部を刺しているのをパトロール中の先巳署の署員が発見した。署員が制止すると勝次さんは意識を失い、病院に搬送されたが死亡が確認された。
 同日午後5時ごろ、模延市香騒の広瀬さんの自宅で勝次さんの妻、君枝さんが倒れているのを帰宅した広瀬さんの長女が友人と共に発見した。病院に搬送されたが同日午後6時ごろに死亡が確認された。死因は明らかになっていない。先巳署は「現場の状況から勝次さんは自殺。君枝さんも事件性はない」と発表。両件の関連は薄いとしている。
 広瀬さん宅は先月24日、強盗に入られ、君枝さんは強盗に刺され重傷を負い、最近快復したばかりだった』


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