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[29957] プレシアなのはフェイト(無印再構成・完結)
Name: 男爵イモ◆16267a69 ID:66348768
Date: 2011/09/29 19:12


 暗い部屋に、四角く切り取られた光の窓がある。
 通信用のモニターだ。
 画面を満たすノイズは、騒乱を暗示しているかのように、ただひたすら白と黒をかき乱している。
 それが鮮明さを取り戻したのは突然のことだった。

「―――ミッドチルダ地上の管理局員の諸君。気に入ってくれたかい?」

 見開かれた黄金の瞳が、画面越しにこちらを見つめている。
 その狂相を、画面を前にした女は冷ややかに眺めた。

「……おや、プレシア、どうして君がそこにいるのかな?」
「それはこちらの台詞よ」
「ふむ。どうやら私は通信先を間違えたようだね」
「首尾は?」

 つまらない冗談に付き合う気はない。無論、男はそれを理解した上でこのような戯れを仕掛けてくるのだが、プレシアと呼ばれた彼女は今まで一度も反応したことがなかった。

「上々さ。私の娘たちは実に良くやってくれたよ」よくぞ訊いてくれたとばかりに白衣を翻し、男は両の腕を軽く開いた。「知っての通り、君の望みの品の輸送も既に始まっている。私はこれからミッドチルダ地上本部へと通信を入れるから、君は頃合を見計らって輸送船を襲撃すればいい。なに、次元世界すべての目が私に向いている最中だ。事は容易に運ぶだろう。
 あるいはアルハザード時代の研究者たちでさえ膝を屈した、時間という絶対者への挑戦。
 あるいはアルハザード時代の支配者たちでさえ欲し止まなかった、死後の世界からの奪還。
 君が見事打ち勝ち、願いを叶えることを、ささやかながら祈っているからこそ、私は君の都合に合わせて計画を大幅に繰り上げたのだよ」
「……そう。ならば通信はこれで終わりね」
「ふふ。つれないことをいうじゃないか。これが最後の会話となるかもしれないというのに」
「他に何か話すことがあるような関係かしら?」
「あるとも」男はゆっくりと頷いた。「前々から言ってはいるが、君も私にとっては娘のようなものなのだから」
「…………」
「そう睨まないでくれたまえ。我々研究者にとって、親とは先人であり、受け継ぐものとは血ではなく成果であるということくらい、君とて理解しているはずだ。故に、私のやり残した研究を引き継ぎ完成させたプレシア・テスタロッサもまた、私の娘のようなものなのだよ。それも、極めて優秀な。ここは、せっかくなので最後に父とでも呼んでもらえれば、喜びもひとしおなのだがね」

 若干毒が含まれてはいても、結局この台詞もまたつまらない戯れであったから、女はいかにも億劫そうにため息をついた。
 その反応を満足げに眺めて、男は笑う。

「君が父と呼んでくれないのならば、代わりに私が君を母と呼ん」
「さようなら。ジェイル・スカリエッティ」

 彼女は一方的に通信を終了した。
 まったく。最後まで変わらず気持ちの悪い男だ。







 空気は凛と澄み渡っている。
 気持ちの良い朝だ。
 そのように感じるのは、空の青さと、何より元旦というキーワードが強く作用したのだろう。実際には、深く吸い込みすぎると胸が痛くなるほどの冷たさしか存在していないというのに、人間とは単純なものである。
 あるいは、自分だけが単純なのかもしれないと思いもしたが、目の前の人の群を見れば、その仮説を棄却する以外の判断はありえなかった。
 神社に集まる人の群は、もはや新年の代名詞といってもいい。
 高町なのはも、ほんの少し前まではその一部だった。しっかりと流れに乗り、賽銭箱に硬貨を放り込んでから大鈴を鳴らし、様々なことを祈った。そして、目を開くと、近くにいたはずの親友二人の不在に気づいたのだった。
 全体のために死を選ぶ一部の細胞のように集団から離脱し、なのはは二人を捜した。
 しかし、この人の多さである。木の葉を隠すならば森の中といわんばかりの状況は、一人で対処するには重すぎた。しかも、携帯電話は今日に限って携帯していない。なんのための携帯電話か、と後悔したものだったが、後悔が役に立った経験など終ぞないし、それは今回も同じだろう。
 結局、三十分ほどで捜索を打ち切り、待ち伏せ作戦へと方針を転換した。
 なのはは神社の隅の人気のない、けれども参拝客の大群を広く眺めることのできる位置に陣取って、そこでようやく一息つくことができた。吐き出した白い息は、思うより鈍く重たかった。すっかり気疲れしてしまっていた。人の波を切り裂いて進むのには、体力以上に精神力が求められたのだ。向けられる迷惑そうな視線は一つでも大きな破壊力を持つというのに、それが四方八方からまるで矢のように飛来すれば、彼女でなくとも消耗は必至である。それが三十分も続けば、よほど面の皮が厚くないかぎり撤退したくもなる。
 休憩がてら観察していた人混みはカラフルだった。振り袖があり、袴があり、黒ずくめがあり、ジャージがあり、巫女服があり、何でもあった。ぼんやりと、目の焦点を合わせずに眺めていたので、それらはモザイク画のようにも見えた。もしかしたら、その中に捜し求める二人がいたかもしれないが、一度休憩状態へと移行した頭は再始動を渋って怠け続けていた。
 視覚と同様に、聴覚も音のモザイクの中をたゆたっていた。履き物の種類と踏まれる地面の状態との組み合わせが音を決め、個々人が自分のリズムでそれを刻む。それら一つ一つの輪郭を滲ませ、境界線を取り払い、全てまぜこぜにした音は、放課後の校舎の如く人を眠りへと誘う引力を持っているらしい。
 不覚にもあくびを抑えきれず、なのはは口元を手で覆い隠した。
 そのときだった。

〈―――助けて〉

 マーブル模様のカンバスの上に新たに黒く鋭いラインを描くような、そんな鮮明さで以て語りかけてくる声を、なのはは確かに聞いた。
 音の洪水の中にあって、それだけがきちんと形を保っていたというのなら、それは音ではないのだろう。
 事実、なのはには覚えがあった。
 あのとき以来、一度も聞こえてこなかったからすっかり忘れてしまっていたが、こうして聞けば、それが同じものだとすぐさま理解できる。
 他の誰にも聞こえない、幻聴として片付けられた声。
 なのは自身、あれはなにかの間違いだったと納得し、過去の出来事になり果てた経験。
 それが、今になってどうして再び……。

〈―――誰か〉

 脳裏に響くその声は、なのはの困惑など知らずに呼びかけを続ける。
 これが助けを求めるものでなければ、気分を悪くしながらもただひたすら無視すればよかった。だというのに、聞こえてくる声は、まさに絶体絶命の危機に瀕したかのように切羽詰まっている。

「ああ、もう……っ」一度頭を振ってから、なのはは走り出した。けれどもどこへ向かえば声の主の元へとたどり着くかわからず、歩調は自然と緩む。

 心だけが焦りに加速する悪循環。それを断ち切ったのは、立ち止まった背中を押すように、二度、三度と続けて助けを求める同じ声。
 何か予感のようなものがあって、なのはは細い脇道へと足を踏み入れた。
 その瞬間、強烈な既視感に襲われた。
 否、それは断じて既視感などではない。
 なのはは確かにこの場所を見たことがあった。
 ここは、昨晩の夢と同じ場所だ。
 初夢が正夢になったのは初めてだったが、それがどうして今回なのか。なのはの中の冷静な部分が愚痴った。そして、その他の大部分は、予感に導かれるままに地を蹴り、駆ける。視線を左右させ、声の主を探しながら。
 元来運動が苦手なこともあり、すぐに息が上がってしまう。けれども足を止めず、前へ前へと進む。

「あ……!」

 見つけた。
 道の真ん中。
 うずくまる小さい何か。
 駆け寄って、傷ついた体を抱き上げる。
 冷えた手の平に、体温が伝わってくる。
 あたたかい。
 フェレットだろうか。
 首輪なのか、赤い宝石を首からぶら下げている。
 この怪我は自分の手には負えない。
 そもそも傷の程度がわからない。
 動物病院に行かなければ。
 いや、それではダメだ。
 元旦の昼前から開いているわけがない。
 どうしよう。
 思考が交錯に交錯を重ね、なにを考えるべきかもわからず混乱していると、抱えた小さな命が身じろぎするのを腕に感じた。
 それがどうしてか、なのは心から混乱を打ち払い、冷静な思考を呼び込んだ。
 まずは急いで家に帰り、すずかとアリサに連絡を取ろう。友人たちは自宅でたくさんの動物を飼っている。簡単な治療ならば、その用意があるはずだ。はぐれてしまい、自分の所在を伝える必要もあったのだからちょうどいい。いまやこの場での合流に拘るべきではない。
 なのはは元来た道を戻る。抱き上げたフェレットに振動が伝わらないよう、慎重かつ速やかな足運びを心がけて。
 小道から境内を抜け、足下に気をつけながら石の階段を下った際、周囲からおびただしいまでの視線が集まったが、今度は気になどしていられない。風を切る矢のように家を目指す。

「なのはちゃん!」

 偶然は、幸運となってなのはの背を押した。

「すずかちゃん!」なのはは自分を呼んだ声の方、左斜め後ろに振り返った。「よかった……」すずかに近づく。「ごめんね、はぐれちゃって。携帯電話、家に忘れて来て」
「ううん、それより」すずかがフェレットを見る。「この子、怪我して……」
「うん、すずかちゃんとアリサちゃんを捜してるときに見つけて……、道に倒れて……」

 説明はまともな形をしていなかったが、流石は親友、即座に事情を察して、素早く携帯電話を取り出した。

「ありがとう」なのはは礼を言う。

 すずかは小さく首を振って答える。数秒後、受話器に向かって話し始めた。

 なのははその内容に耳を傾けつつ、荒れた呼吸を整えていた。胸が激しく上下し、服の下にはわずかに汗をかいている。頬も少し熱い。

「あ……」動きを感じて胸元を見ると、フェレットが目を開いていた。

 グリーンの宝石みたいな瞳が、じっとこちらを見つめる。

「大丈夫だよ。もうすぐ手当てしてもらえるからね」なのはは話しかける。

 フェレットは小さく首を傾げ、しばらくなのはと視線を交わした後、再びうずくまり目を閉じた。



 今日の出来事を家族に告げ、フェレットを飼ってもいいか恐る恐る尋ねると、両親はあっさり許可を出した。予想通りの展開だったが、だからこそ心の広さにつけ込んだようにも思えて、なのはは申し訳なかった。
 現在、フェレットはすずかに預かってもらっている。しかし、それは治療後の経過を見るためであり、いつまでもというわけにはいかなかった。猫の楽園である月村家では、フェレットが生きていくことはできないのである。バニングス家も同様で、こちらは犬の楽園となっている。
 別の飼い主を探すという選択肢は却下した。天秤の両端に様々な要素を乗せた末の決定であったが、決定的だったのは、やはり例の幻聴である。
 助けを求める声に従った結果、傷つき倒れるフェレットに行き着いた。
 本当に偶然だろうか。
 あれだけはっきりと聞こえた声だ、とても幻聴とは思えない。思えないが、このまま何も起きず時が過ぎれば記憶は風化し、かつてと同じく幻の声を聞いたと納得できよう。
 しかし、なのはには予感があった。
 彼女は肩まで湯船に浸かり、湯煙に包まれながら目を瞑る。すると、叫びだしたくなる衝動にも似た、なにか事を成さねばならないという強い欲求じみた情動が心の裡に渦巻いているのを、確かに感じ取ることができるのである。人によっては、迫り来るなにかを感じ取ったが故の焦りとも思うかもしれない。実際、なのはの予感の正体は、迫り来る大事を前にしたかの如き心の昂ぶりから逆算して導き出された、なにかが起こるに違いない、という思い込みだった。
 けれども、論理的に正しくない推測が、時に他の何よりも正確に未来を言い当てるということがある。
 正になのはの予感こそが、それだった。
 心地良い熱に包まれリラックスした身体とは対照的な、いまにも破裂せんばかりに膨らんだ精神は、その声を聞いたとき、驚きよりも待ち侘びたという感情を強く感じた。

〈聞こえますか? 僕の声が、聞こえますか?〉

 覚えがある。まだ半日も経っていない。
 慣れない内は違和感ばかりが付きまとう、頭の中に直接響く声だった。けれども些細なことを気にしていられないほど、語りかけてくるその声は焦燥に満ちている。だからなのははきちんと聞きとろうと目をつむり、集中する。もはや鋭利な刃物にも喩えられそうな集中力を以て、その声を逃がすまいと追いかける。

〈聞いてください。僕の声が聞こえるあなた。僕に少しだけ、力を貸してください。お願い、僕の所へ……!〉

 声はいよいよ必死さを増し、なのはは湯船の中で勢いよく立ちあがった。声は昼間のと同じもので間違いない。間違いないということは、自分は恐らくフェレットに助けを求められているということで、それはすなわちどういうことなの? よくわからないが、とにかく一刻の猶予もなさそうだということだけはわかっていた。これが自分の妄想であれば、もうそれでいい。危機に陥っている人などいなかったということなのだから。けれどもそうでなかった場合、今このときも助けを待つ誰かがいるということだ。なに、喋るフェレットなどという不思議な生き物も、高町家の人間と比べれば大したものではない。
 そんな風にどこかずれた感覚で自分を励まして、なのはは浴室を飛び出した。途端、襲いかかる冷たい空気に身を震わせながら、手早く体を髪を拭き、パジャマではなく外行きの服を身につける。それから駆け足で自室に戻り、コートを羽織って玄関へ。

「どうした、なのは?」

 靴を履いていると、背後から声。首だけで振り返り、なのはは答えた。

「お兄ちゃん! ちょっといまから出かけてきます!」気が急いていたせいで、自分でも驚くほど返事の声は大きくなった。

 訝しげな表情をした兄の「気をつけろよ」という言葉を背後に、なのはは駆け出した。
 風は肌に突き刺さるほど冷たいが、走ることで体温と息が上がり、汗が一筋額を流れる。吐き出した白い息は、月明かりに照らされながら空気に溶けていく。
 暗いアスファルトの上をひたすら駆け、駆け抜け、駆け尽くし、それでも月村邸にはほど遠い。ほど遠いが、しかし、到着地点はそこだった。なのはの五感、あるいは第六感がそう告げている。
 人気のないその交差点は、どこにでもある夜の静けさに包まれていた。それがどうしてだろう、やけに不吉なものに感じられて、なのはは知らず喉を鳴らす。
 しかし、すぐに覚悟を決めた。
 立ち尽くすだけならポストでもできる。何のためにここまで来たのか。
 自分に言い聞かせ、なのはは一歩、踏み出した。
 最初の一歩を、
 自分の意志で、踏み出した。
 途端、すぅ、と水が砂に吸い込まれるように、わずかな夜の音も引いていった。
 残るのは、完全な無音。そして、自身の呼吸音。
 それまで無意識に肌で感じていた音さえも失われ、なのはは、体の輪郭がなくなり空気の中に拡散し消えていくような錯覚を得た。あるいは、圧しかかる静寂の重圧に押しつぶされて、体どんどん小さくなっていき、最後には消え失せてしまうような錯覚を得た。
 精神と肉体が乖離するような眩暈を取り除いたのは、目の前で弾けた轟音だった。
 視界の端を小さな何かが横切る。恐らくフェレット。考えるのとほぼ同時、なのはは動物的な反射でそれを目で追う。予想通りのものを視界にとらえ、安心し、そしてフェレットを追うように飛び出してきた巨大な何かが、一瞬の安堵をたやすく粉砕した。ついでに樹木の幹をも粉砕したその黒く巨大な何かは、倒れてきた木の下敷きになり、もがいて暴れている。
 これだけでも常識を疑う光景だというのに、なのはの元に跳躍してきた小動物がこちらを見上げて言う。

「来て、くれたんですか……!?」

 フェレットがなにやら人間の言葉を口にしたから、なのはは目を丸くして驚いた。驚かざるをえなかった。
 ここに来るまで、自分を呼ぶ声はこのフェレットのものなのだと漠然ながら理解していたにもかかわらず、実際こうして目の前で、肉声で言葉を話されると、やはり、違う。

「私を呼んだのは、あなたなの?」
「いまは事情を話している時間がありません」フェレットは早口で言う。「ですが、後で必ず説明します。僕にあなたの力を貸してください!」
「それはもちろんそのつもりで来たんだけど、でも、力って」
「魔法の力です、あなたには資質がある!」
「ま、魔法……?」

 もしかしてお風呂で寝ながら夢を見ているのではないだろうか。
 突然飛び出したリリカルな単語のせいで、不覚にも現実を疑ったなのはの心を支えるように、フェレットが言葉を続けた。

「いえ、いまはそれより先に―――」
「そう……」なのはは、はっとする。「逃げないと!」

 彼女はフェレットを抱え上げると踵を返し、脱兎の如くその場から逃げ出したした。
 これだけの異常事態に晒されて、感覚が麻痺したのだろうか。足に震えはなく、自分で思ったよりも体は軽い。
 心はフラットだし、頭は冷静だ。その証拠に、逃げる自分とは別に、事態を冷静に眺める傍観者の自分がいる。だから腕の中で事情の説明を始めたフェレットの言葉を、ずいぶん冷静に聞くことができていた。
 魔法。
 その資質がなのはにはあるらしい。
 そしていま、その力を求められている。
 自分にしかできないことだ。
 他の誰でもない、高町なのはにだけできること。

「―――わかった。私はどうすればいいの?」
「これを」フェレットが口にくわえ差し出したのは、赤い宝石。「それを手に、目を閉じて、心を澄ませて。それから僕のいう通り、言葉を繰り返して」

 返事は頷きで返す。
 なのはは目をつむった。赤い宝石を握った手を、さらに強く、握る。

「我、使命を受けし者なり」
「契約のもと、その力を解き放て」
「風は空に、星は天に」
「そして、不屈の心は―――」

「この胸に!」

 恥ずかしいなあ、と冷静な部分で思いつつも、自分の意思で力を貸すと決めたから拒否できなかったキーワード。
 しかし、どんな魔法なのか、口にしている内に心は沸き立つ。

「この手に魔法を。レイジングハート、セットアップ!」

 ついには心が言葉に追いついて、追い抜いて、自然と最後の言葉が生まれ出でた。
 そうして、なのははインテリジェントデバイス、レイジングハートを手に戦うことになった。
 胸の鼓動はまるで戦場に響く鼓舞太鼓。
 ならば昂揚した心は戦場に生きる戦士のそれか。
 襲いかかる敵の攻撃は、心に願うだけですべて防ぎきっていた。その力強さを目にしたフェレットが、驚嘆とも感嘆ともとれる声を上げるが、このとき、受けた衝撃と轟音とで、なのはの意識は舞い上がっていたので、向けられた言葉を聞いている余裕はなかった。聞き流したフェレットの言葉には、魔法関係者の先達としての助言も含まれていたが、当然、これは頭の片隅にも残らない。残らないから己の思うまま、望むまま、杖を振るう。
 槍のように突き付ける杖先。
 射出される桜色の魔弾。
 光の尾を引き空間を疾駆する魔力の弾丸は、まるで降り注ぐ雨の如く次々と敵に突き刺さり、あっという間に沈黙させた。
 結果を見たフェレットも沈黙した。

「あれ……? もうおしまい?」きょとん、と。何の手ごたえも感じなかったといわんばかりの表情で、なのはは首をかしげる。

 思えば、あまりにも早い才能の発露だった。
 こうしてジュエルシードを封印したなのはは、近づいてくるサイレンの音からそそくさと逃げ出し、暗い公園の冷たいベンチに腰を下ろした。そこでようやく夢から覚めたように力が抜けて、軟体動物もかくやと背もたれに体重を預ける。圧倒的な火力で敵を制圧したとはいえ、いままで戦いとは無縁な暮らしをしてきたのだから仕方がないことではあった。

「はう……」

 なにやら情けないため息が出る。それを慰めるように手の甲をフェレットが舐め、なのははくすぐったさに身を震わせた。
 それから二人は自己紹介をし合って――フェレットはユーノ・スクライアという名前だった――なのはは詳しい話を聞くことになる。
 ジュエルシードという危険な道具が散らばってしまったこと。
 ユーノはそれを回収するためにこの世界へと来たこと。
 この第97管理外世界と呼ばれるもの以外に、世界はいくつも存在すること。
 そして、しばらくして魔力が戻れば、ユーノは再び一人でジュエルシードの回収を行うつもりであること。
 すべて聞き終えたなのはは、当然のようにこういった。

「私にも、お手伝いさせて」

 それは、この地でユーノが頼ることのできる人はいないという事情に思うところがあるからだったし、なにより目の前で困っている人を放っておけはしないからだった。
 決して敵をコテンパンに叩きのめすことに快感を覚えたからではないったら、ない。








 ジュエルシードを輸送していた船を、事故に見せかけて撃墜した。これは、直接奪取することで記録が残り、万が一にでも管理局が即座に対応してくる危険性を考慮してのことだった。まき散らされたものを一つ一つ集めるのは手間だが、管理局は陸も海も大混乱のただ中である。彼らが輸送船の事故が事件であると知るころには、回収は終わっている。それどころか、自分は既にこの次元を去っている可能性が高い。
 そのような目論みの下、彼女は娘を現地へと送り、回収に当たらせることにしていた。

「母さん」

 つい先ほど声をかけた娘が、扉を開き部屋に入ってくる。彼女それを手招きして、自分のそばに呼び寄せた。

「フェイト」その名を口にするたびに、彼女の中には形容しがたい感情が生まれるが、呼ばれる娘はといえば、ただ名を呼ばれただけで嬉しそうな顔をする。

 幼い娘の金色の髪を指で梳きながら、彼女はいった。

「母さんの大切なものが、なくなってしまったの。ねえ、フェイト。それを探してきてくれないかしら」

 子犬にするように頬を撫でると、娘は気持ちよさそうに紅色の目を細め、そして頷いた。
 それ以外の返事などしたことのない娘である。もちろん、そのように育ててきた結果だ。
 善も悪も彼女が教えた。魔法の使い方から、戦い方さえも。
 そこに山猫を素体とした使い魔が介在する余地はなかった。そもそも今は亡きリニスの存在を娘は知らない。その代りというわけではないが、狼を素体とした使い魔、アルフをそばに置いている。

「ありがとう。私の愛しいフェイト。そのようなことはないとは思うけれど、危なくなったらすぐに母さんを呼びなさい。きっと助けてあげるから」
「はい。母さん」

 教育の成果か、それとも生物としての機能なのか、母親に向けられる瞳には一片の疑いすらも存在しない。それは、今日まで母以外の人間と一切接してこなかったということを差し引いても、純真に過ぎる色をしていた。
 母と自分と狼。たったそれだけで、少女の世界は完結している。
 自分が何のために生み出されたのかも知らず。
 なるほど。確かに使い勝手のいい道具ではある。
 自嘲するように薄く笑いながら、彼女は娘を優しく撫で続けた。







 夜の学校に、静寂が訪れた。つい先ほどまで、魔法戦による大音量が充ち満ちていたので、その差もあって、静けさが耳にうるさいほどだ。

「リリカルマジカル、ジュエルシード・シリアルⅩⅩ、……封印!」

 ノリノリでレイジングハートをバトンのように回転させて、六つ目のジュエルシードを獲得するなのは。その手際は、今日までに神社やプールで行った魔法少女活動のおかげで、ずいぶん滑らかなものだった。とはいっても、彼女は接敵と同時に、流星群を思わせる弾丸の嵐を叩きつけ、一瞬で撃沈させてきただけなのだが、それにしてもユーノではかなうべくもない天才を秘めていることは明らかだ。
 昨日今日魔法に触れた人間とはとても思えない。リンカーコアが提供する潤沢な魔力量もそうだし、それを扱う術も、まるで生まれたばかりの仔馬が己の足で立ち上がりすぐに走り出すように、恐ろしいまでの速度で馴染みつつある。
 もし、生まれた時から魔法技術に囲まれて、この歳まで専門的な教育を受けていたならば。
 歴史に"もし"はないとよく知るスクライアの人間であっても、そんな仮定を思わず抱いてしまうほど、ユーノから見たなのはの資質は飛び抜けたものだったのだ。
 サンプルが少ないので断言するのは危険だが、この第97管理外世界は、まるですべての人間から魔法資質をかき集め、それを一部の人間に付与したかのような世界だとユーノは思う。
 両極端な、ゼロかイチか。そして、技術とは普遍的なものであるべきだから、数の多いゼロ側の人間にとって都合のいい科学技術を核にして、この星の人間社会は育ってきた。はたしてこの世界の魔法技術は時間とともに風化したのか、それとも元々存在しなかったのか。
 ジュエルシードを回収するために来たというのに、ユーノの中では好奇心がむくむくと成長していた。それを義務感と責任感とで押さえつけ、なのはに声をかける。

「お疲れさま。なのは」

 なのはは見た目、本当にお疲れ様だった。
 地上に降り立ち、バリアジャケットを解き、ふらつく足で、だらりと垂らした腕に引きずられてそのまま地面に倒れこんでしまいそうな不安定さを器用に保ち続けている。
 これではどちらが手伝いで、どちらがジュエルシードを回収しなければならない者であるかわからない。
 男らしく生きてきたとはとてもじゃないがいえない人生だったけれど、これは正直、あまりにも不甲斐ないのではなかろうか。でもそれをいったら、いまのペット扱いもどうかと思うし、なにより高町家でペット扱いされることをそれほど嫌がっていない自分が、男として以前に人として終っているようにも思えて、なにかこれ以上考えてはいけないような気がしたユーノは、心の声に従い、現在の境遇について考えるのをあっさりやめた。

「それじゃー、帰ろっかぁ、ユーノくんー」
「うん。……大丈夫? なのは」
「だぁいじょーぶだぉー」

 のびた麺類みたいにこしのない返事をして、なのははクラゲのようにふわふわと歩き出した。レイジングハートを待機状態に戻さず、文字通り杖のように使っている姿は、見ているだけで涙を誘う。
 見るに見かねたユーノは、魔力節約のためにフェレットに変身しているというのに、なのはに魔法をかけて体を軽くし、こうしてまたペット扱いが終わる期限が遠くなったのだった。



 その翌々日の日曜日。

「この、この。フェレットのくせに二足歩行なんかしちゃってー」
「あうあうあー」
「この、この。フェレットのくせに人間の言葉なんか喋っちゃってー」
「うあうあうー」
「この、この。フェレットのくせに私より頭がいいなんてー」
「あうあうあー」

 つんつん。つんつん。つんつん。
 なのはの人差し指でつつかれて、ユーノは目を回していた。
 原因は、休み明けに提出しなければならない宿題に取り組むなのはの隣で、ユーノが家庭教師のようにあれこれ口を出したことだった。理系科目に自信がるという彼女だったが、それを上回る学力を通りすがりのフェレットに見せつけられたことで、プライドがいたく傷ついたらしい。
「そうは言うけど、魔導師は多かれ少なかれみんな数学に強いから」ユーノは言い訳する。「魔法を重視する文明に生まれ育った僕ができるのも……、無理はない……かなぁ?」
 言い終わる前に、彼の柔らかい脇腹に人差し指を突き付けるなのは。すらすらと理知的な口調で問題の解法を並び立てたときとはうって変わって、腰が引けるユーノ。
 それで満足したのか、なのはは頬杖をついて指先でペンを回した。
 ユーノはほっとして、言い訳の続きを口にする。

「なのはは才能があるから、きっとすぐに僕なんか追い越すよ。マルチタスクもちゃんと使えてるし」
「マルチタスク?」
「……あれ? 話してなかったっけ?」

 いや、でも射撃とシールドを同時に使ってたよね、とユーノは首――首? 胴体?――をひねる。
 敵の攻撃を豆鉄砲にしてしまう装甲と、敵の防御を紙のように引き裂く射撃との両輪が、今日までの短い期間で確立しつつあるなのはの戦闘スタイルの基礎だった。どちらも高い魔力値に頼り切りではあるが、魔力値が魔導師の戦闘力の大部分を規定するということを示すよい例でもある。

「えっと、マルチタスクっていうのは、要するに頭の中で計算しながら作文しながら腹筋しながら時間を数えながら明日の予定を立てながら歌いながら読書しながら腹筋するようなものなんだけど」
「そんなの無理だよ……」なのははスルーした。
「日常生活の中でも、無意識に使っている力だからね」温情に甘えて、ユーノもなかったことにした。「どちらかといえば、それを意図的に使う技術ってことになるのかな。慣れてくると、意識して無意識に使う、なんていう言葉じゃ表現しにくい状態になるんだけど、まあ、手続き記憶、つまり歩いたり泳いだりするのに近いものだと思うから、一度できるようになると忘れないし、できると便利だよ」

 しかもそれは魔導師の必須技能だというから、なのははどうにか習得しようと脳に火を入れた。そして、あっという間にオーバーヒートを起こし、煙を上げながら机に突っ伏す。
 同じことを幾度か繰り返すうちに半日が過ぎたが、課題は終わらず、マルチタスクは習得できずと散々な結果に終わったのでした、まる。



「なのに実戦になると当たり前のように使ってるんだから、なのはは本当に凄いよ……」
「なにか言ったー?」

 唸る風音と魔力弾の発射音にまぎれて、ユーノの呟きはなのはに届かなかった。
 彼はなんでもないよと首を振り、しかし、考え直す。

〈マルチタスク、ちゃんと使えてるよ。なのはは〉ユーノは念話で言い直した。
〈え?〉なのはは言葉の意味を理解するのに少し時間がかかったようだ。〈あ、ほんとだ……って、うわぁっ!?〉

 レイジングハートの紅玉から放たれ続けていた射撃が止む。すると、それを機と見た敵が攻撃に転じた。伸びてくる木の枝を、なのははひたすらシールドで耐える。同時に砲撃を放とうとするが、きつく締められた蛇口のように、杖からは欠片の魔力も発射されずにいた。
 ある動作を引き金に、次の動作を記憶から引き出すというのは、人間誰しもが自然と行うことだ。それをいくつも連続させることで、スムーズな一連の動作を組み上げている場合、シークエンスに割り込みをかけられると、頭が真っ白になり手が止まってしまう。その場合、最初の動作からやり直しになるわけだが、上手くいかないことも少なくない。先の失敗のせいで必要以上に自分の動きを意識し、注意がそちらに向き続けることは、無意識の動作に常に意識で割り込みをかけることと意味を同じくするからだ。
 いまのなのはの状態がまさにそれだと見当をつけると同時、ユーノは盾となるべく上空へと身を躍らせた。
 なのはの集中をかき乱したのは自分なのだから、その穴を埋めなくてはならない。
 自分には砲撃などできないが、しかし壁になることぐらいはできて、いまのなのはに足りないのはそのどちらかであるから、ユーノは迷わずなのはの前に飛び出し、鮮やかな緑色に輝く円形の防壁を構築した。
 瞬間、凄まじい衝撃が、受け止めた防壁ごと小さな体に響く。

 ―――なのははこんなものを平気な顔で受け止めていたのか!

 ユーノの驚愕は、向けられる攻撃と受け止めるシールドとの強打で生まれる衝撃に等しかった。

「ユーノくん!」思わず、といった風に叫ぶなのは。
〈大丈夫。防御は僕が担当するから、なのはは攻撃を……!〉
〈―――わかった!〉なのはは力強く頷く。

 ユーノは背後に割いていた注意を前方のみに傾ける。
 役割は決まった。
 ならばあとはお互いを信じるだけだ。
 ここまで頼れる姿を見せていない、それどころか頼ってばかりの自分だけど、だからこそ、ここで弱った体に鞭打って、なのはが攻撃に専念できるようにしなければ。ユーノは強く思った。

『Shooting Mode. Set up.』

 背後から聞こえてきたのは、すっかりなのはの手に馴染んだレイジングハートの声。
 いつ何どきも冷静さと熱い心を忘れないミッドチルダ魂の粋が、主人が固定砲台として完成したことを告げる。
 そして放たれるは、

「ディバイン―――バスタァァアアア!!」

 桜色の極光。
 青い空を分割する巨大な一文字。
 ユーノの頭頂部ぎりぎりを通過した大砲は、彼の誇るアホ毛二本を暴風の理不尽さで奇麗サッパリ消し飛ばし、直後、敵の核たるジュエルシードを一撃の下に黙らせた。

「やった……!」なのははガッツポーズ。
「毛が……、毛が……ッ」ユーノは慌てた。
「それじゃあ封印してくるよ」ジュエルシードの暴走は止まり、ユーノの悲鳴を華麗にスルーしたなのははレイジングハートを変形させた。

 通算六つ目のジュエルシードを封印する呪文を口ずさむ。

「リリカルマジカル、ジュエルシード・シリアルⅩ、封い―――」
『Master!』「なのは!」


『Photon Lancer』


 ディバインバスターが描いたばかりの直線を、なのはたちの後方に延長したその場所から、輝く黄金の一条。
 全く対応できないタイミングで、それは襲いかかった。
 直撃。
 炸裂。
 魔力は花火のように弾けて、たまやー、などと叫ぶ余裕もなく、一人と一匹は真っ逆さまに落下を開始する。
 かろうじて意識が残ったユーノが、なのはの襟元を口にくわえ、落下速度を緩和せんと尽力する。しかし、体重の差なのか魔力の残量のせいなのか、ちっとも減速しない。それどころかどんどん加速して、数秒後には二人揃って地面に激突、ぺしゃんこに潰れて二次元の住人になる運命。ああ、短くもないけど長くもなかった人生よさらば。せっかくかわいい女の子と知り合いになったのに、それで運を使い切ったのかもしれない。まだまだやりたいこともあるのになあ。
 死を覚悟しながらも諦めきれず、ついに宙で必死の平泳ぎを始めたユーノに声をかけたのは、レイジングハートの人工知能だった。
 紅玉が点滅する。
 自分を使えと点滅する。
 レイジングハートは、元々ユーノの持ち物だった。ユーノ自身、忘れかけていたことだ。それは、ユーノがデバイスに頼る魔導師ではなかったから。そしてなにより、レイジングハートとなのはの相性が抜群だったから。

「ありがとう。レイジグハート」

 このデバイスの助けがあれば、どうにか無事に着地できるかもしれない。
 風の中、ユーノは短い腕を白い杖へと伸ばし、

「なのは……!?」

 しかし杖を掴んだのはユーノではなかった。

「ごめん。気絶しちゃってたみたい」なのはがにっこり笑う。頭と足がそれぞれ天地を逆に向いているというのに。
「いや、いやいやいや、なんでそんなに落ち着いてるの?」

 まだあわてるような時間じゃない、とでも言い出しかねないなのはの落ち着き具合に、逆にユーノが慌てるという本末転倒。

「ユーノくん。状況は?」

 状況がわかっていないだけだった。
 というか、彼女も冷静に混乱しているらしい。どう考えても、普通はそんなことを尋ねる前に自分が落下しているのに気づく。
 ユーノは努めて従容を装い、告げた。

「とりあえず、誰かに撃墜されて落下中だよ。僕の力じゃ、なのはの体は重すぎ―――」
「…………」
「なのはの体を持ち上げられなかった」
「そう……」杖の柄を強く握って、なのはは飛行の魔法を発動。桜色の羽が生まれる。分厚い空気のクッションに受け止められたかのように空中で一跳ねすれば、きちんと頭が上を向き、それで体勢は元通り。

 ユーノも自分一人の軽く小さい体くらいならば支えられる。なのはに遅れず落下を止めて、空を向く。その前にちらりと下方に目をやれば、地面までの距離はマンション二階分ほどしか残っていなかった。

「あ……、あれかな」空を駆る黒い人型をなのはが指差す。

 ユーノはそれを見て、厳しい目つき。

「魔導師、かな。デバイスにバリアジャケット。それにさっきの攻撃。僕らと同じ、ミッドチルダ式の魔導師」
「それがどうして私たちを?」
「わからない。でも」
「ジュエルシード?」なのはが尋ねる。
 ユーノは頷いた。「横取りするつもりだと思う。墜としたあとは、こちらを見向きもしなかったし。ロストロギアの密猟かもしれない」

 その場合、どうしてジュエルシードがこんな管理外世界にあることを知っているのか、という疑問に行き着くのだけれど、そこまでは口にしない。

「……ちょっと話してくる」
「え?」

 聞き返すユーノに視線は向けず、なのはは空を見上げたまま言う。「どうしてこんなことするのか、お話を聞かせてもらってくるよ」
 怒ってる?
 どうしてだろう、ユーノにはそのように聞こえた。空を見るなのはの目が厳しいせいか。たしかに、いきなり撃墜されて喜ぶ人間はいないだろうが、しかし、ユーノの中で焦点を結んだ高町なのは像は、いま目の前にいる彼女本人とは若干の食い違いがある。
 なのははユーノを置き去りにして、ものすごい速度で一直線に飛んで行く。
 そして、再び金色の魔力に狙い撃たれ、生まれた爆煙の中からなのはが降ってきた。







 ユーノを置き去りに飛翔するうちに、空の青を背景にした黒い衣がより鮮明に見えるようになってきた。けれどもそれを着る少女こそが、なのはの目を奪ってやまなかった。
 金色の髪と黒いマントを風になびかせて、華奢な腕で黒い杖を構えるその姿。幼くして既に変化を失った、彫像のイメージ。見た目には健康的な白い肌が、しかし、触れれば大理石の冷たさをもたらす想像しか許さない。周囲に比較できる物体が存在しないがゆえの距離感の曖昧さも手伝って、どれほど近づいても手の届かない、完成という概念を連想させる。
 恐ろしいのは、少女が少女であることだ。
 一日単位で、それどころかこの瞬間も刻一刻と変化し続ける代謝の激しい年代にありながら、それを完成形として見てしまえる在り方が、なによりも恐ろしい。
 ジュエルシードに向けられていた視線が、接近に気付いたのだろう、こちらへと向けられた。
 離れていてもわかる血のように赤い瞳に、なのは息をのんで停止した。
 きれい。
 でも、つくりものみたい。
 無表情な瞳に続き、黒い杖の先端が無造作にこちらを向く。それを見て、なのはは問いをぶつける前にレイジングハートを構えた。危機に遭遇したとき、腕を盾にし目を瞑る動作に近い、それはごく自然な動きだった。けれども、それを合戦を開始する合意と捉えたのか、少女は自身の周囲に金色のスフィア複数個を出現させた。そして、なのはが防壁を構築するのと同時に、金色の閃光が鏑矢となって、短い戦いの始まりを告げた。
 放たれる金色と受け止める桜色。
 今日まで体験したことがない、体の芯にまで伝わる強烈な猛打がなのはを襲った。
 着弾により発生した煙に包まれる。このままでは危険だと判断するより先に、視界が覆われたことに対する動物的な恐怖に背を押され、地を蹴り跳ねるように咄嗟に上方へと、

「……っ!?」

 逃れるより早く、一瞬後の撃墜が進路を塞いでいた。
 まさか、―――こんなに速いなんて。
 煙幕から逃れる早く、ほんの数秒前までお互いの声も聞き取るのが難しいであろう距離が開いていたはずなのに、煙を引き裂いて上空から現れた黄金の少女。大上段に振りかぶられた黒い鈍器が、突進の勢いを乗せて、わずかの容赦もなく振り下ろされる。
 そんな危機的状況にあってなのはが注視したのは、けれどもこれから自分を打ち砕く凶器ではなく、少女の色のない瞳だった。

『Protection』

 なのはは他人事のようにレイジングハートの声を聞きながら、奥の見えない洞窟みたいな瞳を印象に刻み込む作業に熱中していた。
 落下を開始し、再び開く少女との距離を埋めようと、手を伸ばす。それは、何か手放してはいけないものを手繰り寄せようとする、必死の抵抗だった。外から見れば、あるいは溺死を目前に助けを求める手にも見えたかもしれない。
 黒衣の少女は、そんなことに興味はないと言わんばかりに視線を切って、本来の目的であろうジュエルシードに向きなおった。
 その横顔を視界に残したまま、なのはの意識は空に溶けていった。



「ん―――、あ……、ゆめ?」

 見慣れた天井と、肌になじんだ柔らかい布団。嗅ぎなれた香りは自然と心身を心地よい弛緩に導く。
 なのはが目を覚ました場所は、夕日で橙色に染まった自室のベッドの上だった。
 なんで? どうして?
 自分がなぜここにいるのか。今はいつなのか。よくわからない。
 けれども今まで自分が見ていたものが、ただの夢ではないことは、自分が一番よく知っている。
 忘れるはずがない。
 顔に吹き付ける風の感覚。
 耳をつんざき頭蓋を震わす魔法の爆音。
 そしてこちらを見下ろすあの子の、無感動な瞳。
 あれは、そう、本当に何の興味もないモノを見る目だった。通学路が工事中で、仕方がないから道を代えようと思う程度の、苛立ちも怒りもない、たまたま障害に遭遇した人が迂回経路を思案する表情。こちらに興味がないからこそ、こちらからもあの少女が美術作品めいて見えたのかもしれない。
 ともかく、理由は定かではないが、あの少女の顔がなのはの目にはとても気になるものとして映ったのだ。結局、その原因を探るよりも先に、あっけなく返り討ちにされてしまったのだけれど。
 そこから先の記憶は、目覚めるまで、すなわち今このときまでのものが一切ない。
 ならばこうして自分が無事でいるのは、

「……そっか。ユーノくんが助けてくれたんだ」

 首だけ動かし、ゆるりと周囲を見渡せば、小さな寝床に丸まったフェレットの姿があった。
 窓から射した夕日に照らされて、心地よさそうにすやすやと眠っている。その様子をしばらく何も考えずにぼんやりと眺めてから、なのはは上半身を持ち上げた。
 その音を敏感に聞き取って、ユーノが目を覚ます。

「よかった。目が覚めたんだね、なのは」
「ごめんね、ユーノくん。起しちゃったね」
「うん。いや、気にしないで。本当はずっと看ているつもりだったんだけど、僕もいつの間にか寝てしまったみたいだから」

 寝起きの人間みたいに目元を前足でこすりながらユーノが続ける。

「それより、どこか痛いところはない? 一応、目に見えるケガは治療したけど、体の内側のことまでは、さすがに見ただけじゃ細かいところまではわからなかったから。……心配だったんだ」
「大丈夫、だと思うけど……」

 腕を回し、首を回し、体をひねり、確認する。どこか異常はないか。動かないところや動かすと痛むところがないか、恐る恐る試してみる。
 それほど大事ではないはずなのに、奇妙な静寂。パジャマの薄い生地が擦れて立つ音だけが、やけに耳に残る。
 なぜかこちらから目をそらしたユーノを気にしつつ、なのはは言う。

「……うん。平気みたい」

 その言葉で、空気が融けた。
 ふたりで安堵。示し合わせたように、ほぅ、とため息をついて、それから顔を見合せ、何やらおかしくなったので、こみ上げてきた衝動に身を任せてくすくす笑い合う。
 ひとしきり笑ってから、なのはは尋ねた。

「ところで、ユーノくん」
「あの女の子のことだね?」

 打てば響くような反応は、最初からこの質問を予期していたからなのだろう。

「そう、あの子……」
「詳しくはわからないけど、使う魔法から見て、僕やなのはと同じミッドチルダ式の魔導師だってことは間違いないと思う。それも、魔法を用いての戦闘に関する訓練をきちんと受けた」ユーノの口調は厳しい。「射撃もできるし近接戦闘もこなすオールラウンダーみたいだったけど、あの移動速度は、たぶん近接戦闘の方が得意なんじゃないかな」

 なのはが目を伏せ考え込むと、ユーノは苦笑をこぼした。

「でも、なのはが聞きたいのはこんなことじゃないよね?」
「また……、会えるかな?」
「なのはがこれからもジュエルシード集めを続けるなら、きっと、近いうちに」

 その言葉の手触りに、違和感があった。
 なにか、嫌な感触。
 聞くべきではない、と心が警鐘を鳴らす。

「ユーノくん?」なのはは尋ねた。
「……僕が言うのは酷く筋違いだということはわかっているけど、やっぱり言っておくべきだと思う。いや、僕が言わなければならない。これは僕の責任だ」

 一拍の間を置いて。

「なのは。君はここで降りるべきだ」

 ユーノはそう言った。



[29957] 02
Name: 男爵イモ◆16267a69 ID:66348768
Date: 2011/09/29 15:07


 ユーノが言ったとおり、不本意ながらもなのはを巻き込んだ彼が、危険を理由に彼女を事態から遠ざけるのは、理に悖ることであった。それでも、ユーノが続けた説得を振り切るだけの意思を持ってなのはが事に当たっていたかというと、それもまた否だった。
 これまでは圧倒的な魔力量で格下の相手を叩く戦いであったのが、これからは明らかに格上である魔導師の少女との戦いになる。
 言葉を交わすことすらできず、あっという間に墜とされた記憶はまだ数日前のもの。
 あの戦いでなのはが死んでもおかしくなかった、とはユーノの言だ。それを告げた彼が気落ちしているように見えたのは、なのはを危険な目にあわせたことに、自責の念を感じていたからなのだろう。ならばこれからもなのはが杖を手に戦い続けることは、彼が自分を責め続けるということに同義である。幸か不幸か、それがわからないほどなのはは子供ではなかった。加えて、なのはが怪我をすれば家族や友人が悲しむとまで言われれば、レイジングハートを握る手が緩むのも仕方なかった。

「―――ちょっと、聞いてるの? なのは? なのは!」
「わっ!?」

 強く名を呼ばれ、なのははバネ仕掛けみたいに勢いよく体全体で跳ねた。背筋がまっすぐになる。

「えっと……、アリサちゃん?」

 声の主の名は、なのはの親友の名でもあった。そして、テーブルに上半身を乗り出したアリサを引きとめようと必死なのが、月村すずか。こちらもなのはの親友である。
 三人揃って長年の親友同士。今日もいつも通りに皆で昼食を取っていた。
 だんだんと、状況がわかってきた。
 つまり自分は、友人の話を聞かずに一人で考え込んでいたのだろう。なのははそう理解した。

「ごめんね、アリサちゃん」
「最近多いわよ?」アリサは肩を竦める。「昨日も、というか新学期が始まってからずっと似たようなことになってるし」

 そういえばそうだったかも、と思い出したなのはに今度はすずかが尋ねる。

「なのはちゃん、なにか悩みごと? 私たちで力になれるなら嬉しいけど」

 彼女たちはいつだって優しい。一見すると何事にも強引なアリサにしても、それは同じことだ。
 自分が傷つけば、家族だけでなく彼女らも悲しむのだ。今更になってなのはは気づく。彼女は自分の父が大怪我を負った時のことをよく覚えている。自分の性格の支柱ともいえる部分があの時期に形成されたのだということも知っている。だから、あの時の自分と同じ気持ちを大事な人たちが抱くことは、とても我慢できそうにない。

「また考え込むんだから」あからさまにため息をつくアリサ。「そんなに悩んでるのに話せないなら、やりたいようにやればいいじゃない。何をするかは感情で決めて、どうするかは頭で決める。なのはにはそういうやり方が向いてる気がするわ」
「でも……」

 そこまで自分を知っている彼女らだから、なのはは迷惑をかけたくなかった。

「なのはのことだから、悩む原因は自分のことじゃないんでしょ?」アリサはすずかに顔を向け、「どう思う?」
「うん……、やりたいことがあるけど、誰かに迷惑がかかるかもしれないから迷ってる、とかかな? なのはちゃん、優しいから」
「でしょうね。で、誰かっていうのにあたしたちも含まれてる、と」

 ぽかんとするなのはの前で、親友二人はあっという間に正解へと至りつつあった。

 驚き一色のなのはの表情に、アリサが問う。「いままで何度同じことがあったと思ってるのよ?」
「ねえ、なのはちゃん? 私たちが力になれないなら、それは仕方がないことだと思うけど……、それでも、なのはちゃんがしたいことの邪魔にだけはなりたくないよ」
「今さら遠慮されて喜ぶ仲でもないしね。あんたに何かあれば心配するだろうし、あたしたちの知らないところでそうなったら怒りもするだろうけど、あたしたちのせいであんたがしたいこともできなくなるなら、そっちの方がもっと嫌なんだから。……ねえ、すずか、このセリフを言うの何度目?」

 問われて、すずかは小さく首をかしげた。数え切れない、というニュアンス。二人の息はぴったりだった。

「ま、本当にどうにもならなくなったら言いなさいよ。できることなら、何でも力になってあげるから」
「……うん」なのはは自分の肩から力が抜けるのを感じた。「ありがとう。アリサちゃん、すずかちゃん」

 ああ、高町なのはは本当にいい友人に恵まれた。



 だから、
 そんな友人たちに心配をかけるわけにはいかなかった。



 意識が急速に浮上する。再び落ちかける心に、強い意志で圧力をかけて押し上げる。
 いまは頭痛がありがたい。痛いということは、現実に生きているということなのだから。
 自分は、またやられた。あの少女に。
 自分は、まだ負けてはいない。あの少女に。
 手には杖が、胸には心が、残っている。
 隣には、わがままに付き合ってくれると言った、魔法の先生がいる。

「ありがとう、ユーノ君。また助けてもらっちゃったね」

 体はアスファルトの上で横たわっていた。ユーノの魔法で受け止められたのだろう。硬い地面と衝突していれば、擦り傷しかないこの状況を説明できない。
 なのはは立ち上がった。
 空を見上げる。まだ黒衣の少女が青い空を背景に浮かんでいた。
 気絶は一瞬のものだったらしい。

「大丈夫?」ユーノが尋ねる。そして、彼はすぐに自分の言葉を否定するように首を振った。「いや、違う。まだいける?」
「もちろん」なのはは答えた。「まだいけるよ!」
「そう。なら、極力近寄らず」
「得意な距離を維持する、だね」

 視線を交わし合ってから、なのはは再び地を蹴った。一直線に舞い上がる。
 単純な戦闘技術ではなのが劣る。しかし、果たしてこの粘り強さに相手が耐え切れるかどうか。
 少女がこの場でなのはを退けたとしても、次のジュエルシードを、更にその次のジュエルシードを間に挟み、二人は対峙することになるだろう。
 それは予感ではない。
 なのはの意思が折れない限り、ほとんど確定された未来だった。
 こうして、なのはと少女の戦いは、幾度目かの再開を迎える。



 時はわずかに遡る。
 授業中の広い教室内、なのははノートを取るかたわらで、別のことを考えていた。ユーノが高町家から去る前に教えてくれたことを反芻していたのだ。
 一つの世界を一冊の本とたとえるならば、それらを並べる書架が次元の海に相当する。個々の本は、本来ならば互いに干渉し合うことなく存続していくものだ。しかし、ユーノがなのはの世界に来ることができたように、人の技術は別世界への介入を可能とするに至っていた。となれば当然、複数の世界を跨いだ犯罪が起きる可能性は否めず、実際に数多く起きている事件の解決を目指す警察のような組織も存在する。
 時空管理局である。
 彼らの仕事の一つに、ロストロギア対策がある。
 ロストロギアとは、進化しすぎた技術によって自らを滅ぼした世界の遺物の総称であり、そのような世界が遺した道具であるから、これの示す効果は非常に大きくなるのが必然だった。故に、使う方向を間違えれば、次元災害と呼ばれる、文字通り次元世界レベルでの災害などが起こりえる。ロストロギアの暴走が複数の世界をまとめて消し去ったという過去の事例も、実際に存在していた。そして、それを間近で見てきたからこそ、管理局はロストロギアの扱いについて非常に神経質な面を持っている。
 そのような事情があるので、本来ならば―――ジュエルシードも一級品のロストロギアであるのだから―――管理局次元航行部隊の艦船が、ユーノの通報に応じて迅速に駆けつけてくるはずであった。だというのに、現実には管理局に属さない民間人たるユーノが、ジュエルシード回収の任に当たり、それを現地住民たるなのはが手伝った。
 その大きな原因は、管理局の内部を上から下までかき回す大混乱だった。
 時空管理局の運営に大きな影響力を持つ、ミッドチルダという世界がある。次元世界の中心ともいえる、そのミッドチルダの治安維持を目的とする組織、管理局ミッドチルダ地上本部が、前代未聞の大規模な襲撃を受け、甚大な損害を被っていたのだ。これにより、ミッドチルダ地上本部は一時的に機能の大部分が停止する。数日後、更に追い打ちのように、ミッドチルダの首都全域を巻き込んでの大規模なテロルが起きた。これによって、地上本部と険悪な仲の次元航行部隊にまで混乱は伝播し、局の各所で動きが停滞、あるいは硬直した。襲撃およびテロルを行った人物が、複数の世界にて重大な犯罪の容疑で指名手配を受け、また大規模な次元災害を引き起こしえると判断されていたのも拙かった。
 主たるこれらと、これら以外の数え上げるのも億劫になるほど多くの要因が作り出した間隙を縫うように、ジュエルシードは地球の小さな島国の小さな町にばら撒かれてしまったのだった。
 以上が、ユーノから聞いた事のあらましである。
 運が悪い。与えられた情報からの、なのはの素直な感想がそれだった。しかしその言葉を耳で拾ったユーノが、なんとも言えない反応を見せたことが、心に引っかかった。結局その引っかかりについて尋ねることはできなかったし、仮にユーノがふらりと姿を消さなかったとしても、尋ねることはなかっただったろう。
 なぜなら心の中に生まれた仮説が正しいかどうかは、憶測に憶測を重ねて議論すべきことではなく、あの少女に直接問うべきものなのだから。
 そうだ。
 高町なのはは、もう一度あの少女に、今度はユーノの手伝いとしてではなく、自分の意思で会わなければならない。

「違う」彼女はすぐさま否定の言葉を紡ぐ。「あの子に、会いたいんだ」

 小さく声に出せば、それが確たる意志であるとの思いが更に強まった。ただの錯覚だと言いたい者は言えばいい。この時のなのはには、だからどうした、と言い返せる強さがあった。
 そのとき、まるで主の心が固まるを待ち侘びていたかのように、レイジングハートが声を上げた。

「結界……?」なのはは首を傾げる。

 レイジングハートによれば、ユーノのものと思われる結界が近くで展開されているらしい。
 デバイスを持っていても広域探査の魔法を使えないなのはであるから、散らばったジュエルシードの存在を感知することはできない。しかし、レイジングハートは主の能力に関係なく、ある一定の独立した機能を働かせることができる。それが、近くに発生した結界の存在を感じ取ったのだ。
 町中で結界を張るのは、どのような理由によることなのか。
 ユーノが未発動のジュエルシードを発見し、保険として結界を張ってから回収作業を始めたのか。
 それともジュエルシードとは関係なしに、結界を張らなければならない状況に陥ったのか。
 前者ならばいい。
 だが、後者であったなら、それはどのような状況だろう。
 まさか、あの黒衣の魔導師に襲われている?
 可能性として、あり得ないとは言いきれない。
 ユーノへの念話を試みても反応がないことも、なのはを焦らせる一因だった。
 できる限り目立たないように気をつけて、彼女は静かに教室を抜け出した。席が扉に近いのは運が良かった。肩越しにちらりと振り返ると、閉まる扉の隙間から、親友たちの顔が見えた。
 すずかと、次にアリサと目が合う。二人とも、扉が閉じる瞬間まで視線をこちらに向けていた。
 なのは静まりかえった廊下に足音を響かせ、校舎を飛び出した。その間にも、念話での呼びかけを続けている。しかし相変わらず応答はない。いるべき受信者の手応えが感じられない。

「はぁ、は……っ」

 後先考えない疾走で呼吸が乱れ喉がひりつくが、いまは形振り構っていられない。一体何事かと周囲から視線が飛んで来るも、それを気にする余裕もない。ただし、魔法が人目についてはいけないという認識だけは捨て去るわけにはいかない。
 結界付近にたどり着いたとき、なのははまず人目につかないビルとビルの隙間に体を滑り込ませる。そこで魔法の言葉を口にすれば、狭く薄汚れた裏路地に似合わない純白の花が咲く。どうしてかは自分自身にもわからないが、彼女の身を包む魔導師の鎧、バリアジャケットのモチーフは、聖祥大付属小学校の制服だった。
 その手に握った機械仕掛けの魔法の杖に力を借りて、なのはは結界の内側へと進入を果たした。
 音がない。
 未だに荒い自分の呼吸がよく聞こえる。
 肌に慣れた衣服の感触が不意に失われたような静閑さは、不思議を通り越して不気味でさえある。これまで幾度か経験してきたものの、この感覚には馴染めそうにない。しかし、それが今は好都合だった。通常から異常な空間へと切り替わったことを本能で察することができたからこそ、血液のように全身を循環する緊張感が得られるのだ。
 とん、と軽やかにアスファルトの地面を蹴って、なのはは飛翔した。
 視線はまっすぐ上を向き、四角く切り取られた空の青。
 その眩しさに目を細める。
 視界の端を、ビル側面の灰色が流れていく。
 ビルの隙間から空へと飛び出した。
 一直線に高みを目指しながら、地形の把握と索敵を同時に行う。
 見慣れた町の、見慣れない俯瞰図。
 濫立するビルの群。
 その間隙を縫うように飛び回る、黒い人影。

「あの子……」

 見つけた。あの少女だ。
 まだこちらには気づいていない。
 なのはには意図の読めないアクロバティックな飛行は、しかし、少しも危なげがない。舞う桜の花弁が指の隙間をするりと抜けていく様子を連想させるほどだ。あるいは森の中、木々を避けて疾駆する獣か。ともすればビルが自ら避けているとさえ思えてくる凄まじい俊敏さに、なのははしばしの間、見とれていた。
 あれに近づかれれば、自分では対処のしようがないだろう。離れて見ると、今さらながらによく分かる。
 いや、そもそも離れていないと目が追いつかない。
 そう考えた時だった。
 少女がビル壁に張り付くように設置された階段に腕を伸ばす。その指先に吸い寄せられたなのはの目が、階段の手摺りを走る小動物の姿を捉えた。

「ユーノ君!」なのはは覚えず叫ぶ。

 少女の動きが動物のそれに見えたのも必然で、つまるところ、それは獲物を追う肉食獣の動きだったのだ。テリトリーが空であるから、彼女の場合、猛禽と喩えてもしっくりくるだろう。
 一方の追われる獲物は、こちらは文字通り小動物だった。紺青の宝石を咥え、繰り広げるは死にもの狂いの逃走劇。人の身には思いもつかない動きで追手を翻弄しようと駆け回る。しかし、彼の最大の武器である繊細かつ鋭利な運動性能は、不幸なことに、追跡者も同じく持ち合わせているものだった。しかも、ユーノは怪我に加えて魔力を消耗した状態であるというハンデを背負っている。始まった時点で勝敗は見えていたと言っても過言ではない。
 なのはが声を上げたのは、ついに少女がフェレットを捕らえようとする、その直前のことだった。
 四つの瞳が、この場にいるはずのない魔導師、すなわち高町なのはへと向けられる。そこに籠もる感情は揃って驚き。そして、驚きがもたらすものとは、いつも決まって動作の硬直。
 引き延ばされた刹那から最初に抜け出したのは、ユーノだった。
 彼は足場を蹴り、弾けるように跳ぶ。紙一重の位置まで迫っていた少女の指から遠ざかる。
 少女が自らの失態に気づくのと、なのはがレイジングハートを構えるのとは、ほぼ同時だった。
 なのはは撃たない。しかし、構えられるレイジングハートを見た途端、ユーノに劣らぬ勢いで少女もその場を離脱した。二人の間に開いた距離を維持したまま、苛立った目がまっすぐになのはを睨んでいる。その、ジュエルシードへの未練を微塵も感じさせない切り替えの早さになのはは驚き、次いで気を引き締める。

〈なのは、どうしてここに?〉ユーノの念話。
〈うん……、やっぱり、あの子が気になるから〉
〈でも―――〉
〈危ないのはわかってるよ。ユーノ君が心配してくれてるのも〉なのはは、ユーノの言葉を遮るように言った。〈だから、これは私のわがまま。もちろんジュエルシードは回収するけど、それはあの子と会うためで、つまり自分自身のためってことになるのかな〉
〈……そっか。うん、わかった。今は納得しておくよ。いや……、巻き込んで、助けてもらって、今さら僕がどうこう言える問題でもないしね。今度は僕がなのはを手伝う番だ〉
〈ありがとう、ユーノ君〉
〈それは僕の台詞だよ。それより気をつけて。あの子がミッド式なのは確かだけど、どうやらそこにカートリッジシステムを組み込―――〉

 ユーノが言い終わる前に、今度は砲撃音が彼の言葉を上書きした。
 空間全体が揺さぶられたかのような大音響。
 手を伸ばせば触れられる距離をかすめていった黄金の魔法は、なのはの砲撃を魔力量で大いに上回っているように見えた。
 そんな、馬鹿な。なのはは思う。顔が引きつるのを自覚する。魔力量で勝り機動力に劣る自分は、距離を維持しながら射撃で戦うことでアドバンテージを得られると考えていたが、今のを見れば同じ考えを持ち続けることはできなかった。

〈どどど、どうしよう!?〉焦るなのは。危うく交通事故を逃れた直後のように、理性が後退してハイになっている。
〈と、とりあえず高度を下げて!〉ユーノが言った。〈高いところが好きなのは馬鹿と……じゃなくて、空戦で高い位置を取るのは有利ではあるけど、この場合、相手に狙いをつけやすくもさせるから〉

 彼の言ったとおり、ビルの影に身を隠して狙いを定めさせない少女に対して、遮蔽物のない開けた空に位置取るなのはは的と化していた。なのはや少女ほど魔力があれば、ビル群ごと薙ぎ払う戦い方も不可能ではないが、一方がそれをすれば、もう一方に隙を突かれて墜とされるだろう。
 言われたとおりに高度を落とし、なのはもビルの影へと逃げ込んだ。これで相手の位置がわからなくなったが、相手からもこちらの位置がつかめないなら、先ほどよりは幾分安全だろう。
 でも、安全なだけだ。
 少女との距離は遠ざかってしまった。
 やはり、捨て身で切り込んで、魔法ではなく言葉をぶつけた方がよかったのではないだろうか。そんな疑問が湧いてくる。別の可能性は、いつだって後になってから見えてくる。

「なのは?」気遣うような声色だった。

 いつの間にかすぐ近くまで来ていたユーノに声をかけられ、なのはは我に返った。
 これがユーノではなく少女だったら……。
 自分が致命的な隙を見せていたことに気がついて、ひやりとする。

「ユーノ君、怪我はない? 大丈夫だった?」なのはは取り繕うように尋ねた。
「うん、僕は逃げ回るだけだったから……。それもあとちょっとで危なかったけど、本当にありがとう、助かったよ。なのはは大丈夫?」
「大丈夫」なのはは短く答えた。

 お互いの無事を確認する作業はそれで終わり。
 意識を切り替える。

「さっき伝えられなかったことだけど」ユーノが言った。「あの子のデバイスには、カートリッジシステムが組み込まれているみたいだ」
「カートリッジ、システム?」なのはは繰り返した。
「そう」ユーノは頷く。「魔力を封じ込めた弾丸を使って一時的に魔力を高める手法で、元はというと魔力の少ない民族よる工夫なんだけど、元から潤沢な魔力を持つ魔導師が使った場合」
「さっきみたいな凄い魔法に」なのはは、引き継いだ言葉を途中で止めた。「……話は変わるけど、ユーノ君、なんだかデバイスみたいなものを構えた女の子が見えるんだけど」
「え? 僕には既にいくつもスフィアを展開して今まさに撃たんとする魔導師の姿しか見えないけど」
「そう、残念ながら私にはもうあの子が撃ったようにしか見えないの」

 針のように細い射撃が雨あられと降り注ぐ。近辺で一番高いビルの屋上からの一斉掃射だった。
 悲鳴を上げて逃げ回るなのはとユーノ。
 これはもう覚悟を決める他はない。戦いが避けられないなら、戦いながら声をかけ続けるしかない。

「待って!」なのははシールドを展開しながら叫んだ。「ジュエルシード! ジュエルシードが欲しいなら、その理由を教えて! 私たちはあなたの敵じゃないから!」

 こうして、なのはと少女の二度目の戦いが始まったのだった。
 幾度も墜とされ、幾度も食らいつく戦いが。



「勝ったらジュエルシードをちょうだい」
「うん、わかっ」
「ダメだよなのは。いまの、主語が抜けてる」
「チッ」
「うわ、舌打ちした」

 そんなやり取りがあったかどうかは定かでないが、なのはと少女は互いに相手が欲しいものを掲げて戦っていた。これは語りかけることを止めなかったなのはの功績だった。撃墜しても撃墜しても立ち向かってくるあまりのしつこさに少女が折れたとも言えるが、とにかく、敗者が差し出す賞品を約束させたことには間違いない。
 なのはは、話を聞いてもらうこと、話を聞かせてもらうことを欲し、
 少女は、ジュエルシード一つを欲した。
 なのはを一方的に打ち負かし、その手の内にあるジュエルシードを全て奪うのが、少女にとって一番効率のいいやり方だったことを考えれば、交渉での勝利はなのはのものだった。そして、何よりも会話が成立したという点において、なのはは大きなものを得ていたのだ。
 しかし、熱にしても空気にしても情報量にしても成果にしても、あらゆるものは多いところから少ないところへ流れ、全体は平均化するものだ。もちろん人為的に偏りを生むことは可能だったが、それを成そうとする強い意志は、なのはと少女とで均衡し、釣り合っていたので、やはり結果は変わらない。先に得たなのはは、今度は失う側へと回り始めていた。
 少女のカートリッジは既に尽きている。けれども、それで削られたなのはの魔力は戻らない。自身の魔力を温存することに成功した少女が攻めに回れば、なのははたちまち撃墜されてしまう。実際、何度も撃ち落とされて、その度に体力、気力、そして魔力を大きく奪われていた。
 意識が朦朧とする。
 手足はこんなにも重たいものだったのか。
 あんなに近かった空が、今ではなのはを拒絶しているかのように遠い。
 皮肉なことに、体力や気力よりも先に、誰よりも多く生まれ持った魔力が底を尽きかけていた。
 ぼやけた視界に、黒い鎌を振りかぶる少女の輪郭が映る。
 迫る金色の刃。
 打ち砕かれる脆弱な防御。
 衝撃に体を貫かれながら見た赤い瞳には、苛立ちと怒りだけが込められていた。
 なぜかその事実に安堵を覚えながら、なのはの意識は暗転した。







 今日のジェイルさん。

「広域次元犯罪者、ジェイル・スカリエッティ。あなたを、逮捕します」
「いや、参った。やはり前倒しし過ぎたか」

 プレシアが激怒するだろうなあ、などと考えながら、あっさり逮捕されました。







 フェイトはアルフに背負われていた。一度は断ったものの、アルフが再三に渡って申し出てきたので、押し負けたのだ。
 疲れた体には、アルフの歩くリズムが心地よい。目を閉じれば眠ってしまいそうなのは、しかし、疲労だけが理由ではなかった。フェイトはこうしてアルフに背負われることに、体の芯から慣れていたのだ。最も安心できる場所の一つであるからこその、全身の脱力である。
 フェイトの十年にも満たない人生において、母の傍にいた時間よりも、アルフと共に過ごした時間の方が、おそらくは長い。フェイトとアルフの関係は姉妹のようなものだった。だから、現地の魔導師との戦いで疲れたフェイトをアルフが気遣うのは当然であったし、それ以前に、戦いを手伝おうとしたのも当然だった。

「ねえ、フェイト」アルフが問う。「どうしてあの時、一人で戦うなんて言ったんだい?」

 保険として待機していたアルフが戦いに参加しようとしたのは、あの白い服の魔導師が結界内に現れてからすぐのことだった。
 二人でかかれば、決着はもっと早く、もっと一方的な形でついていただろう。フェイトがここまで消耗することもなかったはずだ。いや、それを言うなら、そもそも最初から二人であのフェレットを追いかけていれば……。
 フェイトはそれら全てのことを事前に計算し、理解していながら、それでもアルフの介入を止めたのだ。

「わたし一人で十分だったから」フェイトはアルフの耳元で、彼女だけに聞こえる声の大きさで言った。「それに、あの白い服の魔導師……、二人がかりで倒しても、絶対に納得しないような気がしたから」
「あー……、確かに面倒くさそうな感じはしたけど。でもさ、結局フェイトが一人で倒したけど、次も突っかかって来そうなのはあたしの気のせい?」

 言われてみるとその通りで、一人で倒そうが二人で倒そうが、それどころか百人で囲んで倒そうが、快復と共に再び挑んできそうな気配があった。しかも、前回の戦いとも呼べない戦いと比べて、今回、あの魔導師は徹底的に距離を取り、どうにか戦いの形を繕うことには成功していた。彼女の急速な成長がこのまま止まらず、戦いの度に厄介な障害物として立ちはだかってくる可能性も決して否定はできない。
 けれども、そう考えると、アルフの存在を明かさなかったのは正解であったようにも、フェイトには思えてきた。仮にあの魔導師の戦力がフェイトと肩を並べるようになったとき、権衡をたやすく崩す奥の手、すなわち奇襲用の戦力は重宝するはずである。

「まあ、フェイトがいいなら、あたしはそれでいいんだけどさ」
「うん。あの魔導師もジュエルシードを集めるなら、それはそれで効率は悪くないかもしれないし」

 この時点でのフェイトたちは知らない単語だが、発想の根幹は、鵜飼という漁方に近いものがある。
 あの白い魔導師のデバイスにジュエルシードを吐き出させるのと、当たり外れの落差著しい広域探索の魔法を使うのとを並べたとき、確実性を重視するなら、多少の面倒が伴うとしても前者の方が好ましい。しかし、フェイトたちには時空管理局という名のタイムリミットがあった。それ故に、今後は自分で探し、またライバルから奪い取るという両方の手段を用いることになるだろう。
 今回は敵の口車に乗せられて、こちらに何のメリットもない条件を容れてしまったせいで、ジュエルシードを一つしか手に入れられなかったが、いざとなったら強引に全て奪い取ってもいい。

「そう、今は預けてるだけ……」
「フェイトぉ……」何とも形容しがたい、それでも敢えて言葉にするならば、酷く情けない口調でアルフが呟いた。「それ、なんだかほら、アレみたいだよ……、銀玉銀行」
「なに、それ?」フェイトは訊いた。
「よくわかんないけど、好きなときには引き出せないとか。肝心なときに閉まってるのかねえ?」
「ねえ、アルフ。あの人、どうしてわたしに挑んでくるのかな?」
「んー、ジュエルシードだけじゃあないみたいだったけど……。あ、この前、フェイトがいきなり攻撃したせいかも。あれで怒ったんじゃない?」
「話を聞いて欲しいってずっと言ってた」
「じゃあ友達がいないんだよ、きっと」アルフは自分の言葉に笑う。

 後ろから抱きつくようにアルフの首に回した腕に、意図せぬ力がこもったことをフェイトは自覚した。
 フェイトに友達はいない。

「フェイトには、あたしたちがついてる」アルフが言った。そして、小さく跳ねるようにしてフェイトを背負い直した。「ほら、もうすぐ部屋につくよ。そうだ、この前美味しいケーキ屋を見つけたから、今度ふたりで買いに行こう?」
「うん」フェイトは薄く目を閉じて囁く。「お土産にケーキを持って帰ったら、母さん、喜んでくれるかな」
「きっと喜んでくれる」
「私は、アルフと母さんがいてくれれば、それでいい」

 母がいて、アルフがいる。
 真実、それで満足しているのだ。
 友達という概念は、よくわからない。わからないままでいいや、とフェイトは思った。
 ふと、あの魔導師の白い服が、まぶたの裏の黒い視界をよぎった気がした。
 わたしの、そして母さんの邪魔をする、未熟な魔法使い。
 彼女について考えるとき、付随する感情は苛立ちだけだ。
 だというのに、どうしてか、フェイトはあの魔導師のことが気になるのだった。

「ごめんよ……、フェイト」
「なにが?」
「うん、なんでもないよ」







 気づけば自室のベッドの上。これで二度目だ。
 恐らく玄関を経由せず、転移魔法で直接この場に運ばれたのだろう。前回がそうであったし、ユーノの体のサイズを考慮したところ、それ以外の方法はなのはの頭では思いつかなかった。
 どうやら服装は変わっていないようだ。といっても、バリアジャケットではなく外出用の服である。靴は履いていなかったが、首を動かして見える範囲には、どこにも見あたらない。
 なのはは天井を眺めながら安堵のため息をついた。どうやら家族に心配をかけずにすんだらしい。というのも、気絶したなのはを家族が見つければ、これも以前と同様に、母か姉の手でパジャマに着替えさせられた上でベッドの上に寝かされるはずなのだ。そして、間違いなく大いに心配される。しかも、この短い期間に二度ともなれば、さすがに様子を見ようということにはならず、病院に連行されてしまうだろう。なのはとしても、誤魔化しきる自信はないし、何より心配してくれる家族への誠実さに欠けることはできそうにない。
 きっと、今回はユーノが密かに事を運んでくれたのだ。前に少女に敗れたとき、気絶していた事情を説明できずに困り果てたなのはの姿を、彼は申し訳なさそうに見ていた。だから、多少の無理をしてくれたのだろう。
 目が覚めてからここまでの思考に三秒。頭の回転はそれほど悪くない。

「よいしょ」なのはは体の重心を右に寄せ、右腕で上半身を持ち上げようとした。「――って、うにゃっ?」しかし、腕にも腹筋にも力が入らず、右に傾いた体は寝返りを打つような動作。残念ながらベッドの右にはほとんどスペースが残されていなかったので、なのはの体は勢いのままに転げ落ちていく。

 たまらぬ顔面ダイブであった。
 ひっくり返って床に落ちたピザのように、なのははうつ伏せで床に張り付いている。どうにか立ち上がろうと全身に力を入れるも、四肢は生まれたての子鹿みたいに震えるだけで、少しも体を持ち上げられない。このままではジリ貧であると考えて、一度力を抜いた。今度は煮すぎた餅みたいになった。でも気にせず、なのははその状態のまま精神を集中し、ぐっと力を溜め、一瞬に全てを注ぎ込む決心で立ち上がろうと試みる。ノミのように跳ねてから、無様に頬で着地した。
 寝床から顔をのぞかせたユーノと目が合ったのは、ちょうどそんなときのことだった。
 どうやら、一部始終を目撃されたらしい。こちらを見る深緑のつぶらな瞳が、なにやらそんな感じだった。
 数秒の沈黙の後、ユーノは何も言わず、ただ魔法でなのはを持ち上げてベッドに寝かせたのだった。



「ブラックアウト?」ユーノから魔法を教わる過程でその言葉を知っていたが、なのはは思わず尋ねてしまう。
「うん」ユーノが律儀に答える。「結局、魔力は魔力という名前がつけられたエネルギーだからね。魔力を使い切るのは体力を使い切るようなもので、純粋魔力ダメージや魔法の使いすぎで魔力が枯渇すると、一時的に身体の活動レベルが落ちて、結果、これはなのはも知っての通りだけど、意識を失ってしまう。これがブラックアウト」

 その状態で更に過負荷を与えられると、魔力の源であるリンカーコアや他の身体器官にも無視できない損傷が発生することがある。これをブラックアウトダメージなどと呼ぶ。
 なのははそこまで理解していた。覚悟の上で、黒衣の少女に魔法戦を挑んだのだ。

「それじゃあ、私の体が動かないのも」
「それは運動不足じゃないかな」あっさり斬って捨てるユーノだった。
「ええ……ッ!? た、たしかに運動はしてないけど……」
「いや、ごめん、冗談というか……。本格的な戦闘訓練を受けた魔導師と比べれば、誰だって運動不足だといえるから、そういう意味での運動不足だよ。むしろ、運動不足を実感できるまで戦いを維持できたっていうのが、僕には凄いことに思えるかな。それになのはの場合、連続して気絶と覚醒を繰り返したせいで、きっと自分で考える以上に消耗しているはずだし。一応治療はしたけれど、全身疲労は抜けてないだろうから、しばらくは安静にした方がいいと思う」
「そっかー」なのはの返事は気の抜けた声だった。

 これだけで済んでよかったと喜ぶべきなのか、それとも、しばらくあの少女と出会えないのを残念に思えばいいのか。少しだけ考えて、どちらかに決める必要はないと結論した。これだけで済んだことは喜ばしいし、しばらく会えないことは残念である。そのままでいい。

「きっと、明日の朝には全身が筋肉痛になってるんじゃないかな」ユーノが何とはなしに呟いた。
「うわ、どうしよう」
「とりあえず、完全に良くなるまでは無理をしないこと。明日は……、まあ、頑張って」
「他人事だよぉ」なのはは嘆く。
「ぼ、僕はほら、その間にジュエルシードとあの子を探しておくから」
「あ!」ユーノが喋るのを聞いて、どういうわけか今まですっかり忘れていた事柄を、なのはは思い出した。「そうだ、ジュエルシードは!」

 しまった、という気配がユーノから伝わってきた。彼はどうやら気を遣ってくれていたようだ。少女に敗れてジュエルシードを奪われたなのはが気を落とさないように考えたのだろう。
 それに、少女との間に賭けを成立させたはいいが、なのはは気絶してしまったので、賞品のやりとりまでは見ていない。あるいは、全てのジュエルシードを持って行かれたのかもしれなかった。

「それは大丈夫。なのはもあの子も、お互いにきちんと約束は守っているよ」ユーノは断言した。

 ユーノが言うには、彼が予め準備していた転移魔法が、ブラックアウトした直後のなのはを安全圏まで運んだのだという。そのとき、彼はわざわざジュエルシードを一つ、その場に残してきたらしい。なのはの手伝いをすると言った彼は、なのはが少女との約束を破って嘘つきにならないよう、気を遣ってくれたのだ。また、少女も、ブラックアウト状態のなのはに追撃をかけて全てのジュエルシードを奪おうとはしなかった。

「そっか、よかったぁ……」

 じわりと心の底から暖かい喜びがわき出てくるようだった。必死に食らいついてようやく取り付けた約束には、ちゃんと意味があったのだ。それが、なのはには無性に嬉しかった。

 後押しするようにユーノが口を開く。「あのとき、なのはが来てくれなかったら、僕が見つけたジュエルシードをあの子に奪われるだけだったから、それを考えると悪くない結果じゃないかな。それに、僕も無事では済まなかったかもしれない。なのはには助けてもらってばかりで、本当に感謝の言葉もないよ」
「そんなことないよ。私だってユーノ君に助けてもらってばっかり。それに、ユーノ君がいなかったらあの子にも会えなかった」
「うん……」少し考えるように間を置いてから、ユーノは尋ねた。「ねえ、なのは。これは別に答えてくれなくてもいいんだけど、聞いてもいいかな」
「なに?」なのはは首を傾げた。
「なのはは、どうしてあの子が気になるの? あそこまで必死になれる理由はなに?」

 その質問に、なのはは咄嗟には答えられなかった。容易には言語化できなかったのだ。
 動機を濾過して言語にする処理が、どうしても上手くいかない。これ以上濾過できないほど純粋なのではなく、フィルタが詰まっている。
 なのは自身、自分を動かしたモノの正体を掴めていなかった。ただ、あまり好ましい色をしていないことはわかる。あまり触れたくない色彩。きっと、味は苦い。

「ごめん、ただの興味からの質問だったから、気にしないで」ユーノが少し焦ったように言った。「理由がどのようなものであっても、僕はなのはを手伝うよ」
「うん……」なのはは微笑んだ。「ありがとう、ユーノ君」



[29957] 03
Name: 男爵イモ◆16267a69 ID:66348768
Date: 2011/09/29 15:07


「いい家族だね」ユーノが言った。彼は夕食に丸いビスケットを囓っている。短い両腕で大切そうに食料を抱える姿は大変愛らしく、高町家のちょっとした癒しになっていた。
「うん」

 なのはは自分のベッドにうつ伏せになり、枕に顔を埋めた。夕食の席に出向き、食事を取り、自室に戻ってきただけでヘトヘトになってしまったのだ。あと少しだけダイニングルームが遠ければ、途中で立ち往生していたかもしれない、と真剣に思う。
 日中に体を休めてどうにか取り戻した運動能力は、しかし、亀のような鈍い動きしかなのはに許さず、それが家族の皆を心配させた。そして、家族の誰もが理由を問い、答えられないなのはが言葉を濁せば、皆それ以上きこうとはしなかった。父などは追求の代わりに、「急に激しい運動をするのはよくないぞ、明日は丸一日休んだ方がいい」と助言して、事情はともかく原因は見抜いているようだった。彼は剣をやるので、人体における怪我や疲労に関しては、下手な医者よりも詳しいのかもしれない。そして、それはなのはの兄や姉についても同じことが言える。高町家―――正確には父の家系だが―――は剣術家の家系なのである。だというのに、その血を引いているはずの自分が運動音痴で、いま、このようにして疲労で身動きがとれないあたり、なのはには酷く納得がいかなかった。もちろん八つ当たり的な思考である。しかし、これから風呂に入りに行かなければならないことを思うと、憂鬱になるのも仕方がなかった。
 はふぅ、と息を吐いて脱力し、しばらくそのままでいる。
 部屋にはクッキーを囓る細かい音と、暖房が空気を暖める音。
 なのははあくびをする。
 動きたくない。眠ってしまいたい。でも、お風呂にも入りたい。
 このような、どちらに転ぶも自由でありながら時間制限が存在しない状況は、そこから抜け出すのに莫大なエネルギーを必要とする。二度寝をするべきかしないべきか悩む状況と同じだ。眠れもせず、かといって目を覚まして何か有益な活動をするでもなく、ただ無為に時間が経過していくことはしばしばある。
 最適解をたぐり寄せるための知性は、その大部分が睡魔に削り取られてしまっていた。なのはは残りわずかな意識でもってどうにか首を動かし、薄く開いたまぶたの隙間からユーノを見た。

「ユーノ君は?」
「うん?」ユーノは半分ほどの大きさまで削れたビスケットから顔を離す。
「どんな家族?」

 尋ねる言葉が切れ切れなのは、長い文章を組み立てる知性が起動していないからだ。だというのに、そのこと自体ははっきりと認識できる。きっと互いに独立した回路なのだろう、となのはは考察した。更に、どうやらそのような考察をする回路もきちんと動いているらしい、とも考える。

「家族というか、僕は両親がいなかったから、部族のみんなに育ててもらって……、だから、そうだね、スクライアの一族が僕の家族ってことになる」
「そうなんだ……」
「どういう家族か一言で言い表すのは難しいけど、育ててもらって感謝をしてるし、それに僕が考古学とかそっちの方面に進んだのは、一族が遺跡発掘の仕事をしていたからで、そういう意味でも尊敬しているよ。みんながみんな、その分野での先輩に当たるわけだからね」

 なのはは遺跡発掘をするフェレットの集団を思い浮かべようとして、大失敗した。
 魔法や異世界が存在するくらいだ、フェレットの部族が存在するのは何もおかしくない。彼らが言葉を話すのも、ユーノという実例があるのだから十分に許容できる。しかし、フェレットたちが揃って言葉を交わし、遺跡発掘の計画を立てている光景は、どうしても想像できなかった。
 彼らの小さな体に合った専用の住居はあるのだろうか。
 会話はできても、その短い手足で文字を書けるのだろうか。
 もしかしてフェレット独自の古代文明などがあって、それの発掘をするのだろうか。
 疑問は尽きない。というより、前提となる知識や常識のオーバーラップが少なすぎて、正確な情報の伝達が行われていないように思われる。
 それでも、彼が家族を大切に思っていることは、語る声や口調から十分に読み取れた。
 彼にとって家族が考古学の師であるというのは、なのはの兄姉にとって父が剣の師であるということと同じなのだろう、とも推測できる。
 推測できる、ただそれだけだ。
 自分にはそのようなものがあるだろうか、と考えたとき、なのはには咄嗟に挙げられるものが存在しない。
 喫茶店の仕事を手伝うために色々と教えてもらってはいるが、それとて他の全ての可能性をなげうって一心に取り組んでいるわけではない。このままでは、生涯を貫く誇りや信念には到底ならないことは、本人が一番よくわかっている。
 この問題は、結局、自身の進むべき方向がはっきりと定まっていないことが起因であり終着点であった。
 喫茶翠屋の後継ぎになるのか、それともまったく別の道を行くのか。別の道とは、どのようなものなのか。
 それを悩むことができるのが学生の特権であるとは知っていても、なのはの周囲には、恐らくはかなり幼い頃から、やるべきこと、やりたいことを明確に定めていたであろう親友たちがいる。それを意識してしまうと、どうしても自分一人だけ取り残されたような気持ちが拭い去れない。
 そして今、そんななのはの前に、己の道を誇らしく語ることができるユーノがいる。フェレットだけど。

「考古学って……」なのはは一度口を閉じ、続く質問を考えてから言った。「面白い?」
「面白いよ」ユーノは即答する。「うん……、と言うか、面白くなければ、あんなこと誰もやってないんじゃないかなあ」
「あはは……、身も蓋もないね」なのはは苦笑した。
「まあ、確かに身も蓋もないけどね。でも、極論でもないと思うんだ。学問とか呼ばれるものって、基本は道楽で、つまり嗜好品みたいなものであって、けれどもそればかりだと周りから白い目で見られてしまうし、場合によっては邪魔されてしまうから、どうにかして誤魔化そうとする。研究の真髄は実験やフィールドワークの楽しさにあって、研究者の本来の目的はそれなんだけど、真面目に働いている人たちからは遊んでいるだけのようにしか見えないし、事実その通りだから、何らかの成果を出して、そっちに視線を誘導するんだ。でも、僕も最近になって気がついたんだけど、世の中似たようなことは結構多いんじゃないかな」

 言われてみれば、そうかもしれない。熱のこもったユーノの言葉には、不思議な説得力があった。
 そういえば、売り上げを伸ばすための新商品を開発すると銘打って、様々なアイディアを形にしていくパティシエールの生き生きとした様子を、なのははよく見知っている。それも、きっと同じことなのだろう。

「それに、娯楽として作られたものは基本的にたくさんの人がそれを楽しんでいるけれど、僕が扱う研究には、広い世界の中で僕一人だけしか考えてないような謎がたくさんあるからね……、そういうのが、もしかしたら楽しいのかもしれない」
「ユーノ君だけ?」
「うん。それも、自分なりの答が正しいか正しくないかすら確認できないような謎ばっかりで」
「へぇ、凄いなあ……」感心してばかりのなのはであった。
「いや、全然凄くないよ。さっきも言ったとおり、ただ楽しいことをやってるだけだからね」彼は苦笑した。「なのはは、どんなことをしているときが楽しい?」

 もしかすると、将来についての悩みともいえない幼い不安を見透かして、それで彼は助言らしきものをくれたのかもしれない。
 だとすれば、ありがたくも少し気恥ずかしい。

「うーん……」なのはは照れ隠しに小さな笑みを作る。「とりあえず、今はお風呂に入って、それからベッドの上で目を瞑るのが楽しいと思う」







 毛布にくるまったなのはの寝顔はとても穏やかだった。彼女は風呂を出て髪を乾かしたらすぐにベッドに入ったので、きっと心地よく眠りにつけただろう。空腹が最高のスパイスであるように、疲労は最高の睡眠薬なのである。ユーノはそんなことを考えながら、寝顔を眺めていた。
 かち、かち、と規則正しい時計の音。
 すう、すう、と優しく響くなのはの呼吸音。
 小動物に変身しているユーノは、動作や嗜好もそれなりに小動物らしくなる自分に、随分と昔から気づいていた。そして、今現在、なのはの毛布の隙間に潜り込みたい自分にも気がついていたりするのだった。
 ごくり、とユーノの喉が鳴る。
 シャンプーの甘い香りと風呂上がりの体温でデコレーションされたベッドは、もうそれだけで何にも勝る魅力を放っている。
 部屋に満ちる夜の暗闇の中でなお白いなのはの肌は、きっととても柔らかいに違いない。

「……最低だ」

 ときどき無性に自殺したくなるユーノ・スクライアだった。これからジュエルシードの探索に出るという使命がなければ、本当に衝動のままベッドに潜り込んで、その後、首を吊っていたかもしれない。
 ぶるぶると首を振って、遠心力で邪な考えを遠くに飛ばす。

「さて……、それじゃあ、行ってくるよ」

 窓ガラス越しに外を見る。
 墨色の空に月。
 暗幕に開いた小さな穴みたいな星々。
 天蓋を突き破り訪れるはずの艦はまだ来ない。







 後にJS事件と呼ばれる一連の事件は、首謀者たるジェイル・スカリエッティの逮捕により、ひとまずの終演を迎えた。
 幕が引いたときに喝采を得たのは誰だったのか。それは、今の時点では誰にもわからない。後世の人々が拍手の残響を耳の奥で捉え、それぞれ勝手に想像するのだろう。真実とは、いつの時代もそのようにして作られてきた。今を生きる者たちの目には、今の真実は映らない。彼らの目の前には、今しなければならないことがただ山と積まれているだけである。
 華々しい舞台を降りた役者たちを、次の舞台が待っていた。
 JS事件の続編あるいは外伝のような形で語られることになるジュエルシード事件。これに挑むのは、ハラオウン提督率いる次元航行艦の乗組員一同。
 危険度の高いロストロギア・ジュエルシードが、輸送中の事故によってとある管理外世界に散佚した。そのような内容の通報と報告があったのは、ミッドチルダ地上本部襲撃事件の最中のことだった。この襲撃事件は管理局史に残るほどの事例であり、このような極めて通常ではない状況下での別事件の発生は、端的に言ってタイミングが悪かった。
 まず、次元航行部隊の対応が遅れた。これは局内で地上本部への救援が重要視され、またそのための処理が酷い混乱の中で行われていたことによる。海と陸の対立から、協力一つ申し出るのにも多大な根回しが必要とされたのだ。
 次に、ようやく収まり始めた混乱から脱し第97管理外世界へと向かった艦船が、道半ばにして何者かによる大規模な魔力攻撃を受け、機能停止に陥った。これは別次元からの奇襲であり、一歩間違えばクルーごと次元の海に沈んでいた可能性もあったとされる。その後、その艦は現場での機能復旧およびその後の任務達成が不可能であるとの判断を下し、帰還。次元航行部隊は、別の艦の派遣と、管理局の次元航行艦への攻撃を行った人物の特定という二つの大きな仕事を抱えることになった。
 そして最後に、地上本部襲撃事件の首謀者と同一人物による、ミッドチルダでの、聖王のゆりかご起動である。この巨大な質量兵器は、最終的に複数の次元航行艦による砲撃で破壊されたが、この作戦を実行するために発生した負荷は、次元航行部隊の処理回路を大きく圧迫した。
 これら未曾有の事態が重なったことにより、聖王のゆりかごの轟沈に関わった一人であるハラオウン提督は、休む暇なく第97管理外世界へと急行しなければならなくなった。
 ほぼ全ての艦が同様に急ぎ各地へと散っていったので、自身の労働環境を嘆く者がいても、他者を羨む者はいない。むしろ、次元航行部隊は羨ましがられる側だろう。陸は強力な指導者や重要な施設を失い右往左往しているし、次元の海の彼方には今も助けを待つ人々がいる。それに比べれば、いくら提督が自身の艦一つで事件現場に赴かねばならないほどとはいえ、ただ忙しいだけの自分たちはどれほど恵まれていることか。
 そのような考えが部隊員たちの総意であることを感じ取れたのは、ハラオウン提督にとって数少ない救いだった。
 そして、もう一つの救いは、副官が気を利かせて持ってきてくれた、やたらと甘い飲み物だ。湯気の立ち上るカップを傾ければ、体の隅々にまで糖分が染み渡るような気がした。眠りを妨げる熱くて苦い泥のようなコーヒーよりも、こういうときはありがたい。それを実感してしまえるほどに、疲労が蓄積している。
 最後に寝たのはいつだったか。
 呼吸が重く、頭が鈍い。それに、目が痛い。
 どうにも最近、体力が落ちてきた気がしてならない。昔はそれこそ、この程度の激務ならば好んで摂取していたのだが……。

「艦長?」

 部下の声で我に返る。思考が脇へと逸れていた。集中力が落ちてきている証拠だった。
 考えたくはないが、歳かもしれない。

「ジュエルシードの情報を。それと、一応現地世界の情報も」
「はい」部下が頷き、空中にウインドウを展開した。「確か艦長は、この世界についてご存じでしたよね?」

 モニター内には、ジュエルシードと第97管理外世界についての詳細。細かい文字が何行にも渡って連なっている。
 部下の言うとおり、どのような偶然によるものか、ハラオウン提督は現地世界について無知というわけではなかった。魔法技術が存在しないのに、極めて優秀な魔導師が輩出されることのある不思議な世界。ごく近しい知人が、そこの出身者だった。その関係もあって、現地については資料以上の情報を持っている。だから、いま重要なのは、どちらかと言えばジュエルシードに関する情報の再確認だった。
 ちらりと時計に目をやる。
 到着まで、まだまだ時間がかかりそうだ。
 この作業を終えたら、一度休もう。







 なに? ユーノ、ジュエルシードを探索しなければならないからベッドに潜り込めない?
 ユーノ、それは今やろうとするからだよ。
 逆に考えるんだ、帰ってきてから潜り込めばいいさ、と考えるんだ。

「……はっ!」と目覚めると、朝になっていた。

 小鳥のさえずり。
 道行く自動車やバイクのエンジン音。
 なのはの柔らかいお腹。
 ベッドの隙間どころか、パジャマの隙間に潜り込んでしまったらしい。

「死のう」ユーノは呟いた。

 ああ、でもどうせ死ぬならあと五分くらい堪能してもいいんじゃないかな。いや、いいに決まってる。死刑囚だって、刑が執行される前にタバコの一本ぐらい吸わせてもらえるというし、潔く自決する自分がこの柔肌を許されないわけがない。
 起き抜けの頭はどうしようもなく馬鹿になっており、五分が十分へ、十分が三十分へと延びに延びる。
 で、結局。

「ん……、くすぐったいよ、ユーノ君」

 なのはが目を覚ましてしまいました。
 パジャマの胸元から顔をのぞかせたユーノが少し動く度に、長い胴体とふわふわの毛が肌を撫で、くすぐったいのだろう、彼女は身を捩る。

「おはよう、ユーノ君」目元をこすりながら、なのはが言う。声はいまにも溶け出しそうな緩さだ。
「お、おはようございました!」ユーノはピンと伸びて硬くなった。
「どうしたの? 変なユーノ君」なのははくすりと笑い、ユーノを抱きしめた。それから再び目を瞑り、体の力を抜く。「わ、ふわふわで凄くきもちい」
「そ、それはこっちの台詞というか」
「ふわぁ……」
「なのは? え、また寝ちゃった?」抱きしめられたまま、ユーノが尋ねる。

 返事はなかった。

「ゴクリ……」ユーノは唾を飲んだ。だって、男の子だもん。罪悪感は、緊張と甘い匂いに包まれて、すっかり姿がぼやけてしまっていた。

 こうして、ますます正体を明かせなくなるユーノ・スクライアであった。







 なのはが目を覚ましたのは、携帯電話のバイブ音が原因だった。メールを受信したらしい。ベッドサイドテーブルの表面を細かく叩く硬い音が、数度響く。手を伸ばしてそれを取り、デジタル表示の時計を見ると、おやつの時刻まであと少しだった。
 普段から真面目な学生にとって、このような時間帯に自宅の自室にいるのは、なかなかに不思議で新鮮だった。加えて、思考は、覚醒の直後とは思えないほどに透明だ。空気が地平の果てまで静かに澄み渡り、一切ぼやけることなく、あらゆる細部まで観察できそうな印象。近年稀に見る好調かもしれない。
 この絶好調ともいえる状態で、なにをしよう。そんなことを考えつつ、なのはは仰向けに寝転んだままの姿勢でメールを開く。
 送信者は、思ったとおり親友の一人だった。内容も、想像したとおり、顔を見せなかったなのはを気遣うものだ。それを読んでいる内に、携帯電話が再び振動し、新しいメールの着信を知らせた。こちらの送り主は、もう一人の親友だった。彼女たちは、きっと一緒にいるのだろう。
 読み終わってから、メールボックスをチェックしたところ、昼頃にもメールが一通届いていた。アリサからだ。特に約束しているわけではないが、三人揃って平日の昼食を取ることは、日常の一部になっている。なのはとしては、午前の内に欠席を連絡するつもりだったのだが、寝過ごしたせいでメールできずに、友人たちに心配をかけてしまった。
 申し訳なく思いながら、めるめるめると返信する。ちょっと体調を崩してしまい、朝から今までずっと寝ていました、連絡できなくてごめんなさい。もう大丈夫なので、明日は会えそうです。
 すると、数分と待たずに、更なる新着メールが二通届いた。まるで早さを競っているようだ、となのはは一人笑う。文面によると、すずかがこれから見舞いに来るらしい。許可を求める形で書かれていたので、すぐにリプライを書く。一方、アリサはこれから用事があるとのことだった。悔しがる、しかし少しもウェットではない友人の表情が目に浮かび、また笑みがこぼれる。
 それから、なのははシャワーを浴び、着替え、空腹を訴えるお腹に適当な食べ物と熱いコーヒーを与えた。
 メールでのやり取りから一時間が経ち、すずかが訪れた。

「いらっしゃい、すずかちゃん」
「こんにちわ、なのはちゃん。立ち歩いても大丈夫?」
「うん、平気だよ。昨日の夜からさっきまで、ずっと寝てたらすっかりよくなったから。心配かけちゃってごめんね」
「よかった、アリサちゃんも凄く心配してたから……。でも、無理したらだめだよ?」体調の善し悪しが一目でわかる程度には、お互いを理解している。それでも、心配なものは心配なのだ。なのはもそうだから、すずかもそうなのだろう。「お邪魔します」すずかは靴を脱ぎ、家に上がった。

 リビングを抜け、階段を上り、なのはは友人を自室に招き入れた。
 すずかが持ってきたクッキーと、なのはが淹れた飲み物を挟んで、二人は談笑する。幼なじみ三人が揃ったときなどは、テレビゲームで盛り上がったりもするのだが、今日はすずかが気を遣ってくれているのだろう、穏やかな雰囲気が続いていた。
 話題は、突然変異のようにころころと変わる。それでいて、ときおり先祖返りを起こすこともあったし、そこから別の方向へと進化していくこともあった。たとえば、クッキーの味についての話が、次の瞬間にはすずかの家の猫の話になり、そこからアリサの家の犬の話へとつながり、通学路の途中にある公園の話へと飛んだかと思うと、手紙のやり取りをしている遠くの友人の話になって、今度は翠屋の新作の話に浮気し、またペットの話に戻ったりする。

「そういえば」すずかが思い出したように言った。「ユーノ君は、今はいるの?」

 ユーノが拾われた日、彼に治療を与えたのはすずかだった。そして、その夜の内に彼は月村家を脱走し、なのはと出会っている。
 翌朝、ユーノの姿がないことに驚いたすずかが電話で連絡をくれたときは、なのはは酷い罪悪感を覚えたものだった。昨夜の内にメールででも連絡しておけばよかった、と後悔もした。
 結局、逃げ出した彼を再びなのはが拾い、いまは高町家で飼っているのだと説明することで、フェレット騒動は一段落を迎えたのだが、彼がどのようにして檻から脱走しえたのか、などという謎も残った。魔法の存在を知っているなのはは、その話題が出るたびに内心で冷や汗をかかなければならなかった。

「あれ? そういえば……」姿が見えないな、となのはは首を傾げた。彼専用の寝床も空っぽだ。

 ユーノがベッドに潜り込んできたのは今朝のことだったが、その後、どうなったのだろう。とてもくすぐったかったのを覚えている。それに、体温の高い彼の体は、胸元に置いて寝るにはうってつけだった。実際、半分寝たままの状態で、彼を抱きしめた気がする。
 しかし、目が覚めたときにはいなかった。特に注意して探したわけではなかったが、視界に入った覚えはない。
 頭に詰んだエンジンの機嫌がよかったので、目が覚めた瞬間から現在までのことはしっかりと記憶していた。いまなら、シャワーの温度も、パンの食感も、完璧に再生できそうだ。
 それほどまでの好調を維持する頭脳は、だから、すぐさま一つの仮説を組み立てることもできた。
 柔らかいクッションから立ち上がり、なのははベッドに向かった。そして、不思議そうな目でこちらを見るすずかの前で、掛け布団を持ち上げる。電線に留まった鳥がする爆撃みたいに、なにかが床にべちゃっと落ちた。
 フェレットだった。ぴくりとも動かない。

「…………」なのはは無言。あんまり寝相悪いわけじゃないんだけどなあ、などと考えている。
「…………」すずかも無言。ただし、こちらは状況の説明を求める無言だった。もっとも、聡明な彼女のことだ、ユーノの体がちょっと不自然に平べったいあたりから、だいたいのことを察していそうではある。

 家族揃ってテレビを見ていたら色めいたシーンが始まったときみたいに、気まずいしじまが沈殿した。

「み、水とかお湯かけたら元に戻らないかな?」
「ワカメじゃないんだから、戻らないよ」お嬢様は意外にも庶民的なことを知っていた。
「どうしよう! このままだとユーノ君が、し、死んじゃう……!」
「まずは落ち着いて、なのはちゃん。ほら、深呼吸して」

 なのはは言われるまま深呼吸した。

「ふぅ……、うん、落ち着いた」
「じゃあ、次は急いで水かお湯を用意しないと」
「すずかちゃんの方が混乱してたなのー!?」なのはも相変わらず、語尾が乱れる程度には混乱していた。

 不意に、既に忘れ去られつつある被害者がむくりと身を起こした。
 彼は部屋の中をきょろきょろと見回す。まずなのはの顔を見て、次にすずかの顔を見た。

「ユーノ君……、よかったぁ」
〈あれ? ここは……、一体なにが……〉ユーノが念話で尋ねる。〈なんだかとても柔らかくて、マシュマロで、幸せだった気がするんだけど、急に苦しくなって……。寝る前のことがどうしても思い出せないんだ。なのは、なにか知らない?〉
〈う、ううん、知らない。なにも知らないの〉
〈そっか……。うん、僕も疲れがたまってたのかもしれない〉勝手に納得してから、彼は視線をすずかに向けた。〈彼女は……、ああ、僕を治療してくれた……。そっか、なのはのお見舞いに来てくれたんだね?〉
〈うん、すずかちゃん。もう一人、アリサちゃんの方は用事があって来られなかったから、元気になったユーノ君のお披露目はまた今度〉
〈それはいいけど、なのは、体はもう大丈夫? 一応、治癒魔法の効果が持続するようにはしておいたんだけど、具合は?〉
〈あ、だからこんなに調子がよかったんだ。そっか、ありがとうユーノ君。おかげですごく元気になったよ〉
〈でも、無理したらいけないよ。魔法もしばらくは控えること。大事を見て、一週間くらいは〉

 それはやや不満が残るところであったが、これ以上言葉もなく見つめ合っていると、威嚇し合う犬猫に見えてしまう。なのはは素直に忠告を呑み、ユーノを手招きした。







 一度は不意打ちによって一方的な勝利を得たが、二度目はない。航行速度から見て、管理局が尋常ならざる警戒をしているのは明らかである。艦を駆る者がよほど慎重なのか、それとも奇襲がそれほどまでに恐ろしかったのか。

「あるいは、そう……」彼女は目を細めた。「釣り上げようとしているのか」

 どうであれ、新しく派遣されてきた次元航行艦の到着が遅れるのであれば、それは好都合だった。もちろん、もう一度同じ手で追い返すことができれば言うことはないが、それができるぐらいならば、時空管理局という組織はとうの昔に滅んでいる。
 先日、管理局の戦艦に痛打を与えたのは、次元跳躍攻撃だった。逃げ帰ったその艦には、こちらの居所を悟られなかったと見ていい。しかし、魔力波動の記録程度はされただろう。管理局が有能か無能かという次元の話ではなく、戦艦に備わる機能が自動でデータ取りを行うという意味だ。当然、そのデータを、現在第97管理外世界へと向かっている艦も共有しているはずである。彼らが現地に到着し、捜査中にフェイトと接触すると、あまり面白くない事態にもなりかねなかった。
 小さな舌打ちの音が部屋に響いた。
 娘の方では、予期せぬトラブルが起きている。管理局の立ち直りも予想以上に早い。スカリエッティに至っては、あれだけ大言壮語しておきながらあっさりと逮捕されてしまった。
 管理局が困難を乗り越えると、まるで反動のように、今度はこちらの行く先にこそ複数の艱難が現れた。
 この計画は、元から賭けのようなものではあったが、そうであるなりに準備に力を入れてきた。各段階で失敗したときの挽回策も練ってあるし、最悪、身を隠すという選択肢も考慮に入れている。自分の生きる意味そのものであるのだから、決して失敗はできなかった。
 ここは退くべきか、それとも駆け抜けるべきか。
 自分は臆病になっているのか、それとも焦慮に駆られているのか。
 わからない。
 わかりません。
 なにか、自分にとって好ましい答がわかったためしは、思えば一度もなかった。いつだって、理解したくもない真相ばかりが、呼んでもいないのに迫ってくる。
 そして。彼女は思う。いつだって、私はそれらを乗り越えてきた。
 それは今回も同じこと。
 体から力を抜き、椅子の背にもたれかかる。
 目を瞑ると、暗闇が宇宙のように広がった。まぶた越しに感じる生体ポッドの冷たい光は、さながら銀河だ。
 白い光に包まれた、大切な人のことを思う。
 早く、あなたの笑顔を見たい。







 母の呼び出しに従って、フェイトは時の庭園に帰参した。たった十数日ほど離れていただけで懐かしく感じてしまうのは、第97管理外世界での生活が忙しかったからだろう。しかし、その成果を持ち帰った今日、これから会う母が喜んでくれると思えば、努力の甲斐もあったというものだ。
 フェイトは母の書斎を目指した。ともすれば駆け足になりそうだったが、自分に言い聞かせて我慢する。久しぶりに顔を見るプレシアに、いきなり叱られたくはない。フェイトが一人で歩いているのは、一緒に帰ってきたアルフが一足先に調理場へと向かったからだった。彼女は一刻も早く土産のケーキを冷蔵庫に放り込むことが己の使命だと信じているようだったので、フェイトも敢えて止めずにおいた。その代わり、後で彼女が怒られたなら、弁護するつもりでいる。もっとも、プレシアは既にアルフの性質については諦めている節があるので、怒られることはないだろう、とも思うのだが。
 そうしてたどり着いた部屋の前。
 古めかしい扉を二度ノックすると、入室の許可が出た。
 ゆっくりと扉を開くと、ぎい、と鈍い音が鳴った。この音を聞くだけで、条件付けされた犬のように嬉しくなってくるフェイトである。
 彼女は部屋に入ると、静かに扉を閉めた。
 そこは広い書斎だった。広いというのは、面積だけでなく体積に関してもいえる。ほとんど真上を見上げなければ視界に入らない天井と、壁一面の本棚を埋める書籍は、いつ見ても圧巻である。そして、大量の書籍を蔵する施設に特有の紙のにおいは、いつも変わらない。
 入り口から見て正面の、入室したフェイトと相対する位置取りの机に、プレシアは向かっていた。視線は机の上の本に落ちている。

「ただ今戻りました。母さん」入ってすぐの所で立ち止まり、フェイトは挨拶した。

 数秒のラグがあってからプレシアは顔を上げ、こちらを見る。

「おかえりなさい」彼女はちらりと時計に目を向けると、本を閉じて立ち上がった。「もうこんな時間……。アルフは?」
「いまは夕食の仕度をしているみたいです」少し考えて、フェイトは続ける。「でも戻ってきたばかりだから、まだ時間がかかると思います」
「そう。だったら、悪いけれど任せてしまおう」プレシアは呟くと、フェイトに近寄った。そして、その肩を柔らかく押して部屋の外に出る。「夕食までの時間で、話を聞くわ。それにバルディッシュの調整も、時間があれば」

 ポケットの中のバルディッシュが嬉しそうな気配。寡黙な相棒はプレシアのことが好きなのだ。そのあたり、親近感と共にわずかな嫉妬を感じることもある。もはやどちらに嫉妬しているかもわからない、それは複雑で微弱なものだったが、存在するのは確かなことなのである。
 それからフェイトは、プレシアの私室まで母の後ろをついていった。そして、集めたジュエルシード六つを差し出し、求められるがままに報告を行い、たくさんのカートリッジを受け取った。

「随分とたくさん使ったようだけれど」プレシアがカートリッジを指して言う。
「はい」フェイトは頷く。「さっきも言った、現地の魔導師が……」
「責めているわけじゃないわ」プレシアは浅く目を閉じた。「それにしても……、管理外世界にミッド式の」

 目を閉じたプレシアは無表情だった。元々感情も思考もあまり表に出さない人なのだ。しかし、表に出ないだけであることをフェイトは知っている。感情については、アルフが色々と読み取って教えてくれることがあるし、思考については、ものを教わるときなどに感じ取ることができるのだ。いまだって、静かな表面とは対照的に、その内側では凄まじい速度で計算が行われているのだろう。次元が違うと言っても過言ではない母の能力は、フェイトの憧れだった。
 プレシアが目を開くまでのそれほど長くない時間、フェイトは飽きることなく母の顔を見つめていた。

「もう少し、その魔導師について教えてちょうだい」
「はい。えっと」フェイトは既に報告したことしか思い浮かばなかった。
「能力や使う魔法ではなく、相手をしたあなたがなにを思い、考えたのかを」プレシアがフォローする。
「思ったこと……」あまり経験のない質問だったので、フェイトは戸惑う。「……どうしてわたしや母さんの邪魔をするんだろうって」
「それは向こうも同じことを思っているでしょうね。好きか嫌いかは?」
「嫌いです!」フェイトは強い口調で即答した。嫌いな理由は、もちろん自分たちの邪魔をするからだった。
「そう」プレシアは、なぜか薄く微笑んだ。「そろそろ夕食ができる頃ね。バルディッシュの調整は後にしましょう」彼女は立ち上がり、フェイトにも部屋を出るよう促した。

 それから三人で一緒に食事を取り、デザートを食べた。
 フェイトが選んだモンブランのケーキは、ブランデーが強くきいており、彼女は一口目で顔をしかめた。それを見たプレシアがくすくす笑い、自分のケーキと交換してくれたのが、フェイトには嬉しかった。それを傍で見ていたアルフも、嬉しそうに笑った。
 夕食後には、久しぶりに母と二人で風呂に入り、フェイトは髪を洗ってもらった。母が綺麗だと言ってくれた長い髪は、フェイトの自慢である。白い魔導師と戦ったせいで傷んでしまったかもしれない、というのが目下の心配事だったが、プレシアによるとそんなことはないようで、フェイトは安心した。
 その後は、体が冷えない内にベッドに入り体を休めることになった。自分のベッドではなく、母のベッド。明日には第97管理外世界に戻るので、少し我が儘を言ってみたところ、プレシアが頷いたのだ。しかし、プレシアはバルディッシュを整備しなければならなかったので、一緒に寝ることはできなかった。本当は母が来るまで起きていようと思ったのだが、自分でも気がつかない内に眠ってしまい、翌朝、盛大に落ち込んだフェイトであった。



[29957] 04
Name: 男爵イモ◆16267a69 ID:66348768
Date: 2011/09/29 15:08


 憂鬱な曇り空は、いまにも泣き出しそうだ。
 雨は好きではない。なぜなら、フェレットは傘を差せない。濡れ鼠みたいにみすぼらしい姿で高町家に帰るのは、色々な意味で遠慮願いたいところだった。
 だというのに、ユーノは寒空の下、ビルの屋上から海鳴の町並みを眺めている。
 一番遠くにあるのは海だ。次に住宅地があり、そしていまユーノがいるビルの森へと至る。反対側に振り向けば、海の代わりに山があり、他はだいたい同じだった。
 海鳴市はあまり大きくないが、その分のどかな土地である。定住するなら、きっととても暮らしやすいだろう。各地を飛び回ってばかりの自分だからこそ、町を見る目はあるとユーノは自認していた。
 だが、この町の良さが分かるから、ジュエルシードによる被害を減らそうとしているのかというと、決してそうではない。
 ユーノは最初、魔法を使えるのが自分だけだという義務感と、ジュエルシードに関わる者としての責任感とで、ジュエルシードの回収を始めた。もちろん、管理局に通報し、プロフェッショナルである彼らが駆けつけるまで、という条件を自分に課して。しかし、管理局の艦が現れる前に自分一人の力では対応しきれなくなり、なし崩し的に現地の協力者まで得て回収に当たることになった。
 これが、この世界の暦でいうところの、ここ半月ほどの出来事である。
 この短い期間の内に、ユーノがジュエルシードを集めて回る理由は大きく変化した。なのははユーノの手伝いではなく自分自身のためにレイジングハートを握るようになったが、ちょうどそれを鏡に映したかのように、ユーノは義務感と責任感によってではなく、なのはを手伝うために持てる力を振るうようになったのだ。
 転機は明らかに、黒衣の少女に追いかけ回されているところを助けられたときだった。
 あのとき、なのはが何度も何度も挑みかかっていった理由はわからない。なのは自身、なぜあの少女に拘るのかわかっていない様子だった。けれどもユーノは、自分がなのはを助けようと思った理由ならわかる。自分がなのはに惹かれているということなら、誰よりもよくわかっていた。

「でも、僕のことフェレットだと思ってるみたいだしなあ……」

 人間だと明かすと、今までやってきたことの中には、意味が大きく変わってしまうことがいくつもある。たとえば、男が覗くことは決して叶わないであろう女性の私生活全般や、男が触れることは決して叶わないであろう無防備な女性の身体は、ユーノがフェレットであるからこそ許されてきたものだった。
 いっそのこと、使い魔みたいにフェレットが真の姿だということで押し通そうか。

「そうなると、問題は異種族間での……、無理だろうなあ。……はぁ」ユーノは鈍色の空を見上げた。「あ、黒」

 ようやく近づいてきたパンツの主が、こちらをじっと見下ろしていた。
 それは、少女だった。
 少女は、例の魔導師だった。今日はバリアジャケットではなく、私服を着ての登場である。
 それにしても、まだ十かそこらだろうに黒とは、侮れぬ。下から見れば、光が透けて眩しい白のスカートとの対比が実に美しいではないか。
 敵ながら、なかなかどうして天晴れである。

「オウフ」ユーノは踏みつけられた。いつの間にかこの場所は結界に捕らわれていたので、フェレットを虐待する少女の図が衆人環視に晒されることはなさそうだった。
「あなたの主はどこ?」少女は目だけ動かして周囲を見た。「また、あなた一人?」

 彼女の言葉が示すとおり、二人だけで会うのはこれが初めてではない。二日前にも、ユーノと少女は出会っていた。示し合わせてではない。二勢力が同じものを狙っていれば、必然的に顔を合わせる確率は高まる、ただそれだけのことだ。
 そして、標的が一つしか存在しなければ、得る者と得られない者とに分かれるのもまた必然。残念ながら前回は譲ったユーノだったから、今回こそは先を越そうと思っていたのだが、遠くからじっと見る視線に気づいたとき、それはすっぱり諦めていた。

「僕は使い魔じゃないよ」答えつつ、考える。どうして少女がコンタクトを取ってきたのかを。そして、どうしてそれが今なのかを。

 いままで、彼女がこちらに対する興味を積極的に示したことはない。それは、なのはがいるときでも、いないときでも、変わらない。
 ……つまり、こちらの行動に対する反応ではない?
 何かしらの心変わりがあったのか、それとも、こちらの目には映らないところで、状況に変化があったのかもしれない。

「それじゃあ、あの人に連絡は?」少女が尋ねる。あの人。なのはのことだ。
「いますぐには取れない」取らない、というのが正しいのだが、もちろんそんなことは口にしない。「伝言ならできるけど」
「そう……、だったら伝えて。以前と同じ条件でなら、あなたと戦ってもいい、と」
「同じ条件……、賭けのことだね?」

 少女は頷く。その動きが、彼女の足の裏からも伝わった。
 この時点で、ユーノはほとんど確信した。相手は、焦っている。
 ジュエルシードを輸送していた船を攻撃したのは、彼女もしくは彼女たちだ。それは、回収に現れた時期から見て、まず間違いない。とすると、彼女たちを焦らせるのは管理局だろうか。ただでさえロストロギアの密猟者なのだ、その上管理局の輸送船を撃墜したとなれば、厳罰は免れない。時期的にも、管理局が混乱を収め、動き出す頃かもしれなかった。
 どちらにせよ、焦るということは、時間が最大の敵であるということだ。ユーノたちは、逃げに徹し、余裕があれば妨害するだけで、敗北を突きつけることができる。
 敗北を突きつけることだけなら、できる。
 相手の敗北条件と、こちらの勝利条件が、噛み合っていないのだ。
 ユーノがなのはの意志を最優先すると決めた以上、勝利とは、なのはが自分自身の力でこの少女と意思疎通することである。ジュエルシードを集めるだけでは決して勝利にならない。

「僕を人質にすれば、僕たちが持っている六つすべてを手に入れられるんじゃないかな?」ユーノは言った。「僕はほら、こうしていまにも踏み潰されそうだし」
「いま、六個?」
「君の方はいくつ?」
「七」彼女は答える。「でも、手持ちは一つ。あなたがここで退くなら、二つになる」
「退かなくてもなるよね」ユーノは苦笑。

 ジュエルシードを追いかけてきたから、遭遇した。逆にいえば、偶然でもない限り、二人が出会う地点はジュエルシードの近くに限られる。そして、出会ったならば少女の勝ちだ。ユーノがジュエルシードを手に入れるためには、出会うより早く封印、回収してから、一刻も早く逃げる必要がある。今回は、少女の方こそがジュエルシードを囮にユーノを待っていたので、回収して逃げることは当たり前だができないことだった。

「場所と時間は?」ユーノは尋ねる。「できれば、何日か時間を置いてほしいんだけど、どうかな?」
「……どうして?」

 どうやら彼女は、自分がなのはにどれだけのダメージを与えたのか理解していないらしい。
 だったら、理解させないままでおこう。

「正直にいうと、準備の時間が欲しいんだ」ユーノは意識してゆっくりと喋る。「条件こそ賭けの形をしているけれど、前回と同じように勝ち目がないのでは、賭けにならないよね。つまり、こちらには、戦う意味がない」

 少女は厳しい表情になり、しばらく黙る。

「二日後」
「四日後じゃだめかな?」ユーノは即座に切り返す。
「だめ」少女も即答した。それから訂正する。「……三日後の二十三時は?」
 あまり焦らしすぎても上手くいかないか。そう考え、ユーノは「ありがとう、わかったよ」と了解した旨を告げる。「あ、もちろん、ちゃんと伝えるという意味だよ。来ることを確約したんじゃない」
「…………」少女は騙されたような顔になった。
「いや、ごめん、そうだなあ、いまのは僕の言い方が拙かった。不慮の事故やなにかで、来たくても来られないことがあるかも、って話。他になにか伝えることはある?」

 少女は首を振った。

「それじゃあ、三日後の二十三時に、この場所で」ユーノは最初から待機状態にして伏せておいた転送魔法を起動し、一瞬で場を離脱した。小動物は、逃げ足が速いのだ。







 色々と忙しい身には、携帯電話は欠かせないアイテムだ。予定と予定のちょっとした間隙を縫うようにして、友人と連絡を取ったり、あるいはこなさなければならない作業を行ったりと、時間の合理的な使い方を提供してくれる。ただでさえ高性能なのに、その気になれば、自宅の強力なマシンと連携して非常に重たい処理までもこなせるのだから、使用頻度と併せて考えれば、携帯電話ではなく、電話機能を搭載した携帯型のコンピュータと呼称するべきかもしれなかった。つくづく近ごろの技術の進歩には驚かされる。
 そして、それが既に手放せない存在になっているから、考えてしまう。これのなかった時代、どのようにして世界は回っていたのか、と。
 現代よりも、ずっと回転が遅かったに違いない。一人の人間が生涯でこなせる作業量は、比べものにならないほど少なかっただろう。しかし、代わりに、求められる作業量も少なかったはずだ。
 もちろん、いまの生活はとても幸せだ。いくらかの不満と、それを我慢できるだけの幸せが詰まった、カラフルな風船みたいな日々である。けれども、もしかしたら、古い時代に生まれた方が自分は幸せだったのではないだろうか、とも思うこともある。
 自分にとっての幸せとは、家族がいて、友人がいて、自分がいて、穏やかな日常があるということだ。いまは機械の力で忙しさを誤魔化して、穏やかな日常を作り上げているが、それが遠回りでしかないようにときどき思えてしまうのである。
 携帯電話が鳴って、それを手に取るまでの三秒間で、月村すずかはそんなことを夢想した。その内容は一瞬で揮発して、思い出せなくなる。いつものことである。
 のぞき込んだディスプレイには、相手の電話番号が表示されていなかった。相変わらず、どういう仕組みなのかはわからない。しかし、誰からかかってきたのかは知っている。こうなるのは一人だけ。
 すずかは通話ボタンを押し、スピーカーを耳に当てた。

「あ、すずかちゃん?」予想通り、久しぶりに聞く声だった。「八神です。いま大丈夫やった? えっと……」
「うん、大丈夫だよ」すずかは答える。「こっちはいま、午後三時過ぎ。今日は土曜日。だから、こんにちは、だね」
「そか、こんにちは。それにしても、あー、土曜日、サタデイ、ザムスターク。……あかん、昼も夜も昨日も今日もないような生活してるから、完全に狂っとる」はやての声はどこか疲れていたが、口調は冗談めいていた。「ごめんなー、気づけばあっという間に時間が過ぎてて……、二ヶ月ぶり?」

 身近にいる親友二人とはまた違った小気味の良さが、彼女との会話にはある。すずかはそれが好きだったし、それ以上に、色々なことを喋っているときのはやてが好きだった。図書館で知り合ったとき、すぐに好きになった。だから、はやてをなのはやアリサにも紹介した。皆はすぐに仲良くなって、けれどもやがてはやては引っ越してしまったのだ。

「忙しいのはわかるけど、体に気をつけないと駄目だよ」
「あはは、体壊しとる暇もないくらい忙しいから平気平気……、と言いたいところやけど、最後に寝たの、いつやったろか」
「もう」すずかは怒る。はやてが自身の価値を低く見る傾向にあることを、長い付き合いで知っているから、余計に心配だった。それについ最近、なのはが体調を崩したばかりだ。少なからず敏感になっていた。
「すずかちゃんが心配してくれてるんはわかってるんよ。こうやって話した後はいつも、体休めようって気になるもん。リラックスできるというか、切羽詰まった感じがなくなるというか……。ああ、ダメや、言ってるそばから眠なってきた。すずかちゃんは相変わらず効果抜群やなあ、ほんまに。電話越しでこうなるんなら、実際に会ったらアイスクリームみたいに溶けてしまうかも」

 就寝前のハーブティー代わりにされるのもどうかと思ったが、すずか自身、はやての声を聞くことで元気になれるし、彼女が自愛という言葉を思い出すきっかけになれるのならば、いつでもどこでも電話を受けていい。誰かが害を被るわけでもない。
 それに、いまはもっと気になることがあった。

「はやてちゃん」すずかは慎重に発音した。「なにかあったの?」

 幽かに息を呑む気配、次いで、沈黙が電波に乗って伝達される。
 先ほどまでの饒舌さが、無言を際立たせていた。

「ん……、それは、生きとる人間やったら何かしらあるやろうけど」誤魔化すように言ってから、はやてはため息をつく。受話器から聞こえたそれは乾いていた。「重症やね。うん、ちょっと、海鳴に足運ぶことに決まって、ナイーブになってるんよ」
「え? か、帰ってくるの? いつ? 本当に?」すずかは自分でも驚くほど大きな声できき返していた。座っていた椅子から腰が浮いていた。

 海鳴を去って以降、はやては常に世界中を移動しているらしく、所在地というものがない。そんな彼女に連絡を取るには、滅多に帰らないというイギリスの拠点に手紙を送るか電話をかけるかして、後は返事を待つしか手がなかった。だから、こうして彼女と会話できる短い時間は、実は宝石に勝る贅沢品なのである。
 そんな状況で、直接会えるかもしれない可能性が目の前に差し出されたのだ、はやての憂鬱声にもかかわらず喜んでしまうのは、ねこじゃらしを前にした子猫がエキサイトするのと同じくらい必然だった。

「たぶん一週間もかからへんと思うんやけど」はやては再びため息。「重たい体引きずって帰った挙げ句、すずかちゃんにも会われるかわからへんなんて、ホンマこの世は地獄やで! フゥハハハーハァー……はぁ」
「は、はやてちゃん?」
「……せやから、どちらにしても、確定した段階でもう一度こっちから連絡しますぅ」萎びた植物みたいに元気のない声だった。
「あ、うん」すずかは思わず返事をする。
「報告は以上であります、サー」
「えっと、それじゃあ、楽しみに待ってます。あ、でも、無理は絶対にしちゃだめだよ?」
「は、無理は絶対にいたしません、サー!」力強く言ってから、はやては吹き出した。つられて、すずかもくすくす笑う。

 よかった。どうやら、少しは力になれたようだ。







 ユーノは、妻が欲しがっていた限定品のジュエリーを手に入れた夫のように喜び勇んで報告した。それを聞いたなのはは、飼い犬がしっかり芸を覚えたときのアリサのように喜んだ。

「三日後だから、なのはの休養も十分、とは言えなくても、体調は随分良くなると思う。でも、それまでは絶対に無理をしないこと」
「うん、わかってるってば」

 とは言うものの、なのはは今すぐにでも魔法を使いたくてうずうずしていた。ユーノが釘を刺したのは、こうなると予想していたからこそなのだろう。
 だが、なのはにも言い分がある。

「このままだと同じように負けるだけだから、ちょっとだけでも……」
「だったら理論の勉強をしよう」
「理論はじっくり時間をかけて取り組むものだって言ったの、ユーノ君だよ」
「一日中、朝から晩まで勉強ができるって滅多にないことだよ。それが三日も連続でなんて、僕は羨ましいけどなあ」

 どうやら彼は本気で言っているらしい。恐ろしい生物を前に、なのはは戦慄を禁じえなかった。

「それは論点がすり替わってる」なのはは言う。「三日後に効果が出るわけじゃないでしょ?」
「いや、なのはこそ論点がずれてる。なのはは別に、戦いに勝つ必要はないんだ」
「でも勝たないと、あの子は話してくれない。そういうルールなんだから」

 何度も何度も食らいついて譲歩を引き出したときのように、粘り強く挑んで相手が折れるのを待つ手もあるが、それは逆効果にもなりえる。できればプラス方向の感情を持ってもらいたいのが、人間の本能だろう。

「うーん、それについてはね、僕、ちょっと前から考えていたんだけど……」

 ユーノは言葉を切り、しばし視線を彷徨わせた。
 直立した体が、風に吹かれた草のようにゆらゆらと揺れている。細いヒゲがぴくぴくと震え、黒い鼻がひくひくと動いている。
 それを眺めるなのはは、思考に必要なリズムを取っているのだろう、と推測した。自分なりのリズムを確立した人間は、物事を考えるのが上手い。

「うん」彼は一つ頷いて、視線をこちらに向けた。「ジュエルシードと交換で、という形なら、戦わずに話し合いに応じてくれるんじゃないかな」
「え? ジュエルシードと?」なのはは驚いた。「だって、それじゃあ」
「確かに危険だけど、……たぶん、もうすぐ管理局が来るから」彼はじっとなのはを見つめた。「僕の言ってること、わかるかな」
「えっと……、急がなきゃいけない?」
「それもある。じゃあ、どうして急がないといけなくなるんだろう」
「それは……、管理局が来るから」

 ユーノが吹き出した。

「ひ、酷いよ」なのはは頬を膨らませた。「ちょっと待ってて、すぐに正解を思いつくから」
「ごめんごめん」

 謝るユーノから視線を外し、なのはは目を細めた。なにかを見ているわけではない。なにかを見るように目を細めるという表現があるが、なにかを見るときは目を細めたりしないものである。
 焦点が合わずにぼやけた視界の中で、なのはは考える。
 管理局、つまり警察のような組織が来ると、なにが起きるのだろうか。
 まず、管理局はジュエルシードを集めようとするはずである。人海戦術か、それとも少数精鋭によるのか、はたまた異世界の機械を用いるのかはわからないが、少なくとも封印して回収する瞬間には、管理局員が現場に立つことになる。そこには、同じくジュエルシードを求める黒衣の少女も現れるかもしれない。そうなれば、管理局としては事情を聞くくらいはするだろう。すると、少女が正直に答えても、黙秘を貫いても、逃げ出しても、彼女の身柄は管理局に拘束されてしまう。
 少女が現場に現れなかったとしたら、どうなるだろうか。これも、結果は変わらない。事情を知るユーノやなのはが管理局に説明を求められ、やはり少女は追われることになるのである。

「捕まっちゃうかな……?」なのはは呟き声できく。
「次元航行部隊はかなり優秀みたいだから」ユーノは答える。「それに、あの子はジュエルシードを七個集めたのに、手持ちは一つだと言っていた。つまり、背後に別の誰かがいるんだろうけど、これは組織ではなく個人だと思う。実際に動いているのはあの子一人だけみたいだからね。その黒幕も、たぶん芋づる式に捕まることになる。そのとき、ジュエルシードも一緒に管理局の手に戻ることになるはずなんだ」彼は息をついた。「……というのが希望的観測であり、言い訳であって、本音は、なのはじゃあの子には勝てないだろうから、ジュエルシード一つ無駄にするだけかなあ、と」

 なのはは顔をしかめた。しかし、勝てないというのには半ば以上同意もした。

「あの子が管理局に捕まったら、話をすることはできなくなる。それまでに急いでどうにかしないといけない。でも、そんな短い期間では、なのはが勝てるようにはならない。だから、話をするには別の方法を考える必要があって、その内の一つが、さっき言ったジュエルシードと引き換えにするやり方なんだけど……」彼は天井を見上げた。「既に賭けの賞品として一つ渡した身で言うのもなんだけど、あの一つでいくつかの世界が滅びてしまう可能性もないわけじゃないんだ。もちろん、あのときは全部奪われるより一つで済ませただけ良かった。でも、今回は約束をなかったことにすれば、あの子にジュエルシードを渡すことにはならない」

 つまり、極論すれば、大勢の人の命か自分のしたいことか、どちらかを選ばなければならないということ。
 そんなの、選ぶまでもなく決まっていた。
 ここに、なのはの進みたい道は潰えた―――かと思ったそのとき、更にユーノが続けた。

「けれども、だからといってここで約束を反故にすると、以降の賭けも成立しなくなる。そうなると、僕たちが持っているジュエルシード全てを奪いに来る可能性もある。僕はこれが最悪のパターンだと思う」
「それじゃあ、つまり―――」

 なのはは首を捻って考えた。
 つまり、どうすれば一番いいのか。
 彼女が答を出す前に、ユーノが口を開いた。

「賭けに乗って戦えば、負けてジュエルシードを取られるだけ。賭けに乗らず戦わなければ、襲われてジュエルシードを全部奪われるかもしれない。どちらの方法も、いずれ管理局があの子を逮捕するから、意思疎通はできなくなる。それに、こちらがなにか得られるような事態には、どう転んでもならない」彼は息をついた。「だったらジュエルシードと交換で話を聞かせてもらえるよう交渉するのが、今のところ一番いいんじゃないかな」
「なるほど……」
「もちろん交渉が失敗すれば戦いになるだろうけれど、そうなれば三日程度の付け焼き刃じゃ焼け石に水、なんの役にも立たないから、それなら将来の可能性を広げるために、魔法の理論でも学校のテキストでも、とにかく勉強に打ち込んだ方が得だと思うよ」
「うわ……、そういえばそんな話だったね」
「僕は最初からそのつもりで話してたよ」







 ここしばらく学校を休んでいたなのはは、取り残されないようしっかりと自宅学習に励んだ。しかし、それだけに取り組めるほど勉学を愛しているわけではなかったので、息抜きを欲しがった。魔法を使いたかったのである。これに反対したのはユーノ。その彼も最後には折れて、彼の魔力でレイジングハートを起動、戦闘シミュレーションを行うという妥協案に落ち着いた。
 そうこうする間に時は過ぎ、約束の日が来た。
 なのはは約束の場所に、指定された時間の一時間前に赴くことにした。これはユーノの提案に従ってのことである。彼は罠や伏兵の存在を警戒していた。なのははそこまでする必要はないと思ったが、彼が一人で先行して安全を確かめてくるというので、それを阻み、仕方なく二人で一緒に家を出た。それが二十一時半のことだった。
 学校を休み続けている娘がそんな時刻に外出すれば、真っ当な両親ならば心配する。なので、二人はユーノの転送魔法で外に出て、そこから徒歩で目的地を目指していた。

「うう……、なんだか見られてるよ」なのはは呟く。言葉に紛れて、白い息がこぼれた。
「なんか、その……、ごめん」なぜかユーノが謝る。

 家を出るとき靴を持ち出せなかったなのはは、バリアジャケットを着て夜の町を歩いていた。
 真っ白なワンピースに青いライン。胸元には真っ赤なリボン。しかも腕にはフェレットを抱えている。
 目立たない方がどうにかしていると言えよう。

「バリアジャケット、寒くないのはいいんだけど」
〈白は夜だと余計に目立つね〉ユーノが念話に切り替えて言う。〈逆にあの子は、夜だと視認が難しそうだ。まあ、いまさらデザインを変える余裕はないから仕方ないけど〉
〈ユーノ君はいいよね〉
〈そうかな?〉
〈目立たないし、目立っても恥ずかしくないでしょ?〉
〈なのはも慣れると気持ち良くなるよ〉
「な、ならないよ!」

 思わず肉声で叫ぶと、ぎょっとしたような視線が周囲から向けられる。なのはは慌ててうつむいて、早足でその場を離れた。
 頬が熱い。

〈そんな変態さんみたいになるわけないよ!〉
〈最初はみんなそう言うんだけどね〉独り言のような口調でユーノ。〈そもそもバリアジャケットを日常的に展開できる魔導師があんまり多くないから、その辺も関係あるんじゃないかと思うけど、どうだろう〉
〈知らない!〉
〈うん、もうすぐ着くから次の裏路地に入って。そうしたら僕が結界を張る〉
〈人の話聞いてよ……〉

 なのはは一度後ろを振り返ってから、素早くビルとビルの隙間の暗闇に身を滑り込ませる。
 同時に、世界が切り替わる感覚。

「もう大丈夫。誰にも見られないよ」
「わかった」なのはは頷き、地を蹴った。

 久しぶりの飛翔だったが、違和感はない。むしろ失われていたものを回復したかのように、安堵に近い感覚。
 ユーノが追いつき隣に並ぶ。

「このビルの屋上が約束の場所だよ」彼は軌道をわずかにずらし、片方のビルに近づいた。

 二人は勢いよくビル上空へと駆け上がり、屋上を俯瞰する。

「まだいないね」

 なのはは無人の屋上に降り立った。
 少し歩き回り辺りを観察してみるが、申し訳程度にプランターや植木鉢が置かれているだけ。それも黒く朽ち果てた植物の残骸しか見当たらない。いまは一月の半ばである。枯れてからずいぶん経っているはずなので、長く放置されていると見るのが妥当だろう。得られた情報はそれだけだった。
 遅れて着地したユーノを見ると、彼はちょろちょろと機敏に動き回り、なのは同様に周囲を探っていた。

「あ……、なのは」
「どうしたの?」

 呼ばれるままに近寄ると、そこには手摺りに貼り付けられたA4サイズの紙切れ。
 そこにはこう書かれていた。

『指定場所の変更。海鳴臨海公園へ』



 まるで誘拐事件の身代金引渡しみたいだなあ、などと考えながら臨海公園に向かったなのは。再びコスプレ姿で夜の街を練り歩き、後にその写真がメールで知人たちに行き渡るのだが、それはまた別の話である。
 細かい場所までは指定されていなかったため、彼女は公園内を散々歩き回るハメになった。場所を間違えていないかと不安に思って、回収してきた書置きを読み返したのも一度や二度ではない。

「ね、ねえ、ユーノ君?」なのはは足元を歩くユーノを見て、彼が傍にいることを確かめた。
「どうかした?」
「ううん、なんでもない」

 このやり取りも何度目か知れない。
 夜の暗闇は木々の隙間を駆け抜けていく風音と手を組んで、おどろおどろしい様相を演出していた。更に、人のいる普段の光景を知っているだけに、無人の空間に自分の足音だけが規則正しく響く状況が不気味でもある。

「ユーノ君?」
「うん?」

 ユーノは声をかけられるたびに律儀にこちらを見上げて返事をしていた。
 少しも迷惑そうでないのが逆になのはを心苦しくさせる。

「ううん、なんでもないよ」
「さっきからどうしたの?」ユーノが苦笑する気配。「緊張してる?」
「え? 緊張?」思いもしない指摘になのははびっくりした。
「あれ、違った?」
「うん、緊張じゃなくて……」
「そういえば屋上では普段どおりだったね。それじゃあ、うーん、なんだろう……」彼は考える素振りを見せる。

 ユーノが答を出す前に、なのはは白状することに決めた。

「ユーノ君は平気なの? 夜の公園とか」
「ああ、そういうこと。特にこれといって思うことはないよ。ほら、真っ暗な遺跡の中で実際に追いかけ回されたりすることもあるから、場所が開けてるだけ安心というか」
「へえぇ……」なのはは素直に感心した。「それじゃあ私は成れそうにないなぁ、考古学者」
「他にも、ちょっと囓ってる民俗学というか文化人類学というか、そういうので色々な部族の生活圏に長期間お邪魔して調査することがあるんだけど、やっぱりあるんだよね」
「あるって?」
「特定の道や山を歩くとき、ふと気づくと間違いなく背後に誰かいるんだけど、絶対に振り返ってはいけない、声をかけてはいけない、もし振り返ると―――、みたいな伝承。あ、なのは、振り返らない方がいいよ」

 なのはは歯を食いしばり涙目でユーノを睨んだ。
 そのとき、道の右脇の茂みから、
 物音がした。

「……ッ!?」電流が流れたかのようになのはは跳ねた。喉が引きつって悲鳴も出ない。しかし、反射的に音の出所に顔を向けてしまった。

 音は続く。茂みが揺れる。
 しかし、知性を感じさせるリズムではない。恐らくは公園に住む動物だ。彼女は必至にそう思おうとした。
 瞬間、首筋にひやりと冷たいなにか。

「ヒ……ッ!?」

 今度こそ悲鳴を上げかけたが、それより先に別の声が背後から。

「動くな」
「ぐぇ」わずかに遅れて足下からユーノの声。なのはが視線だけで下を見ると、彼は黒いブーツに踏み潰されていた。天誅だろう。

 次に、やはり目だけを動かして首もとを見ると、そこには外灯の光を受けて鈍く輝く黒い金属。恐らくデバイス。
 背後に立つのは黒衣の少女。
 先ほどのユーノの話に従ったわけではないが、なのはは振り返らず、声をかけず、ただ待った。
 数秒の沈黙。

「ごめんなさい」少女が声を出した。「ジュエルシードを全てください。そうすれば、危害は加えない」
「いいよ」なのはは答える。
「時間がないんで…………」台詞は予め準備されたものだったのだろう、予想外の返事を受けて少女は言葉を止めた。
「いいよ。全部あげる」

 ユーノが声を出すが、言葉になっていない。内容は予想できる。
 全てのジュエルシードを渡すのは危険すぎる。元々、一つのジュエルシードと交換するつもりだったのだ。
 けれども、賭けに乗るつもりでも乗らないつもりでも、ジュエルシード一つと交換で話を聞かせてもらうつもりだったとしても、こうして背後から杖を突きつけられた時点で負けだ。卑劣とも取れる手段を選んだことが、焦りと覚悟の証拠。こちらが下手なことをすれば、首を落とされる可能性もある。つまり、全てのジュエルシードを奪われることは決定している。ならば、無償で渡すか釣り合わずとも対価を得るか、どちらが良いかも決まっていた。

「全部、あなたにあげる。その代わり、お話を聞かせて。私の話を聞いて」

 困惑の気配が、首に触れたデバイスから伝わってくる。

「どうして?」少女がきいた。
「まずはお名前を教えて」なのはが言う。

 首筋を撫でるように、少女のデバイスが上下に動く。

「……フェイト・テスタロッサ」
「フェイトちゃん、って呼んでもいい? 私は高町なのは」
「高町……なにょは……」

 もしかして外国人には難しい名前なのだろうか。
 なのはは悲しくなった。

「な・の・は」なのははもう一度言った。
「NANOHA」
「な・の・は!」
「ナノハ」
「な・の・は!」
「なのは」

 ゲシュタルト崩壊を起こしそうななのはだった。

「うん、そう。ありがとう」
「ジュエルシードを―――」
「待って。他にも、どうしてジュエルシードを集めてるのかも教えて」ここぞとばかりに情報を引き出しにかかる。「誰かに頼まれたの? 振り向いてもいいかな」
「だめ」フェイトはデバイスに力を入れた。「ジュエルシードは……」
「うん」
「……母さんの大切なものだから、母さんのために」
「お母さん?」

 頷く気配。
 なのはは更に質問を重ねようと口を開き、

「時空管理局執務官です。そちらの魔導師、デバイスを捨てなさい」

 空気を読まない闖入者に妨げられた。






「時空管理局執務官です。そちらの魔導師、デバイスを捨てなさい」

 その声を聴いた瞬間、フェイトは覚った。これまでの質問は時間稼ぎだったのか、と。
 執務官はこちらにデバイスを向けている。その先端には、即座に発射できるよう待機した魔法。

「え……? うそ」なぜか高町なのはが驚いたように呟く。
「早く!」執務官が強い口調で言う。

 フェイトは小さく舌打ちした。してから、母なら品がないと言って怒るかもしれない、と場違いにも思った。

「わかりました」フェイトはデバイスを引く。〈アルフ。こっちで合わせるから、執務官をお願い〉
〈はいよ。3、2、1〉

 ゼロのタイミングで、先ほど高町なのはたちの目を釘付けにした茂みからアルフが飛び出した。フェイトはそちらを見ない。それが彼女の信頼の証である。しかし、フェイト以外の人間は誰一人例外なくアルフに注意を奪われた。これ以上ないほど瞭然たる隙が、フェイトの望んだ通りの形で訪れたのだ。
 アルフが執務官を杖の防御ごと蹴り飛ばすと同時、フェイトはその場で独楽のように一回転、遠心力を乗せたバルディッシュで高町なのはの頭部を打ち抜いた。手応えはバリアジャケットを貫通しなかったと訴えるが、問題はない。殺すつもりは元よりない。ただ無力化できればそれでよかった。よろめく高町なのはの胸元に手を伸ばし、ペンダントトップの赤い宝玉を強引に握る。それはデバイス。しかし真の目的は、その内に格納されたジュエルシード。抜き出す余裕はないので、デバイスごと奪い去ることにした。自動的に展開される防御術式を魔力任せに突き破り、ついに強制的にモードリリースに持ち込んだとき、視界の端で執務官が地面に墜落した。対照的に、フェイトは地面を蹴って飛び上がる。そしてアルフの隣に移動すると、彼女が用意していた多重転送でその場を離脱した。

「やった!」フェイトは拳をきつく握りしめる。そこには手に入れたデバイスの感触が確かに存在した。「やった……!」

 湧き上がる歓喜。
 醒めやらぬ興奮。
 それは、これまでにない決定的で圧倒的な勝利の味だった。







 次元航行艦に招かれたなのはは、まず検査を受けた。頭部への強い衝撃を受けたことから、本人に自覚症状がなくとも検査が必要だと判断されたためだった。その間にユーノがこれまでのことを説明しておいてくれるというので、なのはは彼に任せることにした。
 なのはは検査を受けながら、フェイトのことを考えていた。
 あのとき、フェイトは母のためだと言った。それに、ジュエルシードが母の大切なものであるとも。しかし、ジュエルシードは管理局が保管していたもので、最初に発掘したのはユーノだと聞いている。
 この矛盾に加えて、フェイトがジュエルシードを集めていることを、フェイトの母親は知っているのか、という疑問が残る。
 知らないのならば、知らせなければならない。だが、フェイトの手持ちのジュエルシードが一度減っていることをなのはは知っていた。そこから導き出されるのは、それまでに集めたものを誰かに預けている可能性。もちろん、どこか別の場所に隠して置いているのかもしれないし、誰かの正体が母親ではないかもしれないが、現在なのはが保有する言語的・非言語的を併せた情報は、フェイトの母親がフェイトに集めさせているという仮説を支持していた。
 一通りの検査が終わるまで一時間ほどかかった。結果が出るには、更にもうしばらくかかるという。
 実は一度、結果を待っているときに、この艦の艦長がなのはを呼び出すために連絡をよこしたが、検査を担当した医師が怒り、逆にこの場に来いと言い返すということがあった。これに慌てたのはすぐ傍で通信を聞いていたなのは本人だった。しかし医師は構わず、艦長もあっさりと従ってしまった。ユーノもついてくるという。かくして白いベッドの住人となり人を待つ彼女であったが、これがなかなかどうして落ち着かない。白いシーツは清潔そのもので、肌触りは硬い。同じく背を預けるベッドも自宅のそれと比べれば随分と硬く、どこか窮屈に感じられた。そこに慣れない環境という要素を付け加えれば、リラックスどころか気が張って仕方がない。なので、部屋の扉が開いたとき、なのははほっと一息ついたものだった。

「なのはちゃん、頭大丈夫やったー?」手をひらひら振るのは、八神はやて。「ああ、起き上がらんでえーよ」

 部屋に入ってきたのは三名。はやてと、フェレットと、そして残る一人が艦長なのだろう。

「ううん、大丈夫」なのははベッドの上で上半身を持ち上げる。「えっと……」ききたいことが多すぎて、なにからきけばいいのかわからず、彼女は状況に任せることにした。
「ほんならまずは紹介しとこか」はやては隣の人物を手で示す。「こちら、この艦の艦長にして私の上司、ハラオウン提督です。そんで、こっちが―――」今度はなのはを指す。「私の古い友人、高町なのはちゃんです。ええと、いまはなのはちゃん、大学生やったよね?」



[29957] 05
Name: 男爵イモ◆16267a69 ID:66348768
Date: 2011/09/29 15:08


「は、はじめました!」友人の上司ということで緊張していたなのはは、いきなりおかしな挨拶をした。

 場に沈黙が落ちる。
 誰かはやく話せよ、と責任を押しつけ合うような気まずい空気だった。
 ハラオウン提督が仕方なさそうに咳払いして、口を開く。

「はじめました……あ」どうやらつられたらしい。

 はやてが吹き出した。口元を手で押さえ、顔を逸らして笑いをかみ殺している。しかし体が震えるのは隠せない。
 それを横目で見る提督は苦々しい表情だが、頬が少し赤かった。

「失礼しました。改めて……、はじめまして、この船の艦長を務めるクロノ・ハラオウンです」彼は表情を真面目なものに戻して言う。「今回の件、到着が遅れ、管理外世界の民間人である高町さんの手を煩わせ、また危険に晒してしまったこと、真に申し訳ありませんでした。時空管理局を代表して、お詫び申し上げます」彼は深く頭を下げた。
「あ、いえ、その……、私の方こそ自分の都合で動いて、それでジュエルシードを……」
「ええ」彼は頷く。「そのことについて、いくつかお伺いしたいことがあったのですが、大体のことはスクライア先生からお伺いしました。ですので、後のことは管理局にお任せください。インテリジェントデバイス……、レイジングハートもきちんとお手元に戻るよう尽力します」
「あの、でもっ」なのはは声を上げる。
「なにか?」
「その、私にもなにかお手伝いできることとか」
「なのはちゃん」遮ったのははやてだ。驚くほど真摯な瞳でこちらを見て、彼女は首を振る。

 海鳴を去ったはやてとは、すずかを介してのやり取りが続いていた。とはいっても、手紙での連絡が年に数度つくかつかないかといった程度のもので、彼女がどのように過ごしているのかを想像するのは困難を極めた。唯一確実なのは、世界を飛び回っているということだったが、まさか異世界を含めてのことだとは思い及ぼうはずもない。ましてやこのような形での再開など、どれほど思考を巡らせたところで片鱗すらも感じ取ることはかなわないだろう。
 なのははなんとか食らい付こうとしたものの、数年ぶりに再開した友人の強い瞳と、若い提督の弁舌には勝つことができなかった。ジュエルシードを全て奪われた引け目があったし、なによりデバイスがないのが大きなマイナスだという自覚があったからだ。
 こうして、高町なのはは日常に戻った。







 二人はXV級艦船クラウディアの静かな食堂で、机を挟んで向かい合っていた。二人とも、自分の皿にはパスタが盛られている。ユーノのものは卵の黄、はやてのものはトマトの赤が目立っていた。
 一日中働いた後の、遅い食事である。
 ユーノはすっかり疲れきってフォークを手に取るのも億劫だったが、忙しい時こそ食事はしっかり取るべしと注意され、食堂に足を運んだ。というより、その忠告の主であるはやてに引きずられるようにして食堂に到着したのだ。
 ユーノ以上の激務をこなしたはずのはやては、しかし、まだまだ元気だった。表情に疲れの色が混ざることはない。これが積み重ねの違いか、とユーノは感心した。

「ああ、それじゃあミッドチルダの方は、とりあえず一段落ついたんですね」

 帰るまでが遠足、というわけではないが、暴れ回っている人間を逮捕すれば事件が解決するかというと、そうではない。広まった混乱を収拾し、事件の背景の調査し、第二陣を警戒し、余罪を追及し……、と数え立てればきりがないほどの仕事が残っている。犯人逮捕後からの方が遙かに忙しい役職も少なくない。

「まさにとりあえずって感じやけど、一応はなぁ」
「八神さんもミッドで? あ、いえ」ユーノは両手を開き、それを相手に向ける。武器を持っていないというアピールではない。「配置とか、民間人に話せないことだったなら、いまの質問はなかったことに」
「そんなことあらへんよ」はやては微笑む。「あの時は、そう……、クラナガンには降りんかったけど、事件解決のために動いてたんは同じ。補佐官はいまも向こうに貸し出し中。んー、やっぱ次元世界は広い分、アホなことする連中が多いわアホの度合いが凄まじいわで大変や」

 それは彼も同意するところだった。といっても、経験に基づいての感覚的なものではなく、数字を考えた末の同意である。

「ところで、今回の事件ですけど」
「うん? ミッドの大規模テロ? それともジュエルシード?」
「ジュエルシードです。執務官の目から見て、あの子、フェイト・テスタロッサの受ける処罰はどの程度のものになると思いますか?」
「ありゃ、自分の処遇よりもそっち?」
「僕の?」ユーノは首を傾げてみせる。

 はやては真剣な目でユーノを見つめた。ユーノはそれに微笑み返す。

「フェイト・テスタロッサにデバイスを持って行かれたとき……。あのとき、なのはちゃんがあの子と会ったのは、約束があったからやと聞いとります。その約束を守ったのはスクライア先生の説得があったから、とも」
 間違いないか、と視線で問うはやてに、ユーノは頷いた。
「説得というか、約束に応じた場合と応じなかった場合で、その後の回収にどのような影響が出るのかを整理しただけですけど」
「それや」はやてはテーブルの上に身を乗り出すようにして尋ねた。「なんで、回収を続ける前提で話をしたん? スクライア先生ぐらい頭良いなら、あの時点で回収から手を引くのが、ジュエルシードの数や安全の面から言って一番効率ええのはわかってたはずやで」

 ユーノは目を瞑り、
 数度の呼吸の後に開く。

「……そのこと、なのはには?」
 はやては首を振る。「この場での会話は誰の耳にも届かんと思ってくれて結構です。公式の場では、思いつかなかった、で通すこともできるでしょう」
「いや、それは別にいいんですが」ユーノは椅子の背もたれに体重を預ける。「そうですね、確かに、なのは自身に降りかかる危険については一種の賭けではありましたが……、結局は、彼女のやりたいことを手伝いたかっただけですよ。まずその感情があって、次に諸々の打算が追いついてきた、つまり、あの子だけではなくなのはもジュエルシードを回収すれば、海鳴市が危険に晒される期間もそれだけ短くなる、とか考えたんですね、きっと」

 はやては腕を組み、しばらく黙って天井を見上げた。
 やがて、そのままの姿勢で呟く。

「相手方、つまりあの子にジュエルシードが渡っても、第97管理外世界は安全やと踏んだ、と?」
「ええ、そういう考えもありました」ユーノはあごを引くように頷く。「ジュエルシードが第97管理外世界に散らばったのは、そこが輸送船の航路上にあった管理外世界である、という点を以て選ばれたのだと感じました。あなたなら誤解しないと思うので、このような言い方をしますが……、僕が輸送船を狙うとしても、あの世界ないし近い管理外世界に散らばるようにしたと思います。ですから、回収が早ければ早いほど、あの世界にとっては安全だった。あの世界でジュエルシードを暴走させるために撒き散らしたわけでは、ないでしょうからね。そうして回収を急ぎ、結果として密猟者がジュエルシードを多く手に入れ、それによってどこか別の世界が危機に晒され、あるいは崩壊したとしても……、第97管理外世界の、あの星の、なのはの家族や友人が住む町が少しでも安全になるならばそれでいい、と僕は考えました」
「んー、管理外世界から一刻も早く、の件は支持できるとして、その他の部分はなあ」
「でしょうね」
「そんでも、密猟しとる子の名前や事情、それに大体の能力までもが判明してるんは大きい……、とはいえ、それも結果論やし……、うーん……」
「いえ、別に擁護してほしいわけではないのですが」
「あー、うん、そのつもりはないんやけど。でも、執務官としてではなくあの町の出身者としては、お礼言いたいぐらい。……もちろん、この場はオフレコやで?」
「理解しています。そのつもりで話しました」
「せやったら、ここからもそのつもりで話してほしいんやけど」はやては声色を変え、にんまり笑った。「なのはちゃん、どうなん?」
「……そうですね、魔法の才能には凄いものがありますよ。幼い頃から魔法に触れていたなら、きっと素晴らしいエースにもなれたんじゃないでしょうか」
「うわ、わかっとるのにそんな返事」大げさに落胆してみせるはやて。「スクライアせんせーはー、なのはちゃんのー、どこがよかったんですかー?」
「うーん……、結構しつこいですね」ユーノは苦笑する。
「あ、ごめんな。ほんまに嫌やった? 職業柄、どうにも」
「いえ、いまのは褒め言葉です」
「ああ、なるほど」からかわれたと気がついて、はやては笑顔になる。「たしかに捜査官の間でも美辞麗句に近い扱いやけど、学者先生の間でも?」
「学者というか、研究を生業とする人たちの間では割と一般的ですよ。しつこいとか、あきらめが悪いとか。うん、そういうところも、手を貸してあげたくなる理由かもしれませんね」
「なのはちゃん、あきらめ悪いん?」
「というより、やりたいことに夢中になっていた、というのに近いのかなあ……。燻っていたところに火がついたというか、とりあえず夢中になれるものを見つけたというか」独り言のように呟いていたことに気がついて、ユーノは咳払いした。「まあ、なにより命の恩人ですからね」
「命の恩人かー……、それは大きいかもなあ」

 彼女の声には、じわりと滲むような暖かさがあった。もしかしたら、誰かに命を救われて、その人のことを好いた経験があるのかもしれない。だが、触れるべきではない気配も同時に纏っていたので、ユーノは曖昧に笑むにとどまった。

「あ、それじゃあ、もしかしてジュエルシードの探索に協力してくれとるんは、なのはちゃんがこの事件と完全に関係をなくさんようにするため?」

 なのはが日常に戻ってから、今日で一週間が経った。その間、ユーノはクラウディアの捜索チームに加わって力を貸していた。その甲斐あってか、既に四つの確保に成功している。しかし、例の少女も管理局の手を逃れて収集を続けているのだ。クラウディアからの観測の中に少女の姿が確認され、はやてとユーノが現場に急行したものの、残念ながら、到着前にジュエルシードごと逃げられてしまったということが二度ほどあった。

「ええ、まあ、一応。なのははあの子と話をしたがっていましたから。ですから、フェイト・テスタロッサにはどの程度の処罰が与えられるのか……、身柄を確保した後に、なのはがあの子と話をする機会が得られるのか、それをききたいんですが」
「そういえば……」はやては両手をパチンと打ち合わせた。「なんか盛大に脱線してしまったわ。うわ、パスタ冷えとる」

 驚くはやてとは対照的に、ユーノは既に食べ終えていた。
 はやてはションボリしながらパスタをフォークで絡め取る。

「話をする機会となると、本局に送る前にどうにかできんこともない、かな。最初に身柄を確保できるんはあの子一人だけやろうし、その後に、背後におる輸送船を攻撃した犯人についての情報を引き出すまでがチャンスやね」
「そうですか」
「全員逮捕したら、その後は会うの難しいんやないかなあ。もしかすると裁判の証人として呼び寄せることもできるかもやけど、まだ何もわかってない今の段階ではなんとも」
「なるほど。わかりました。このこと、なのはに話しても?」
「ふぁ」はやては口を押さえてあくびして、目元を手でこすった。「んー、なんか半分寝ながら独り言しとった気もするけどなに喋ったか覚えとらんし、誰かに聞かれてたら恥ずかしーなー。あ、スクライア先生、こんばんわ。今から夕食ですか?」
「まだ寝ぼけてますね。僕たちは一緒に食堂に来たんですよ。今日は忙しかったから、早く休んだ方がいいでしょう」







 レイジングハートを失ってから四分の一ヶ月が過ぎた。
 その間、なのはは休む暇もなく分厚いテキストや参考図書と向き合っていた。年末年始の冬休みを自主的に延長した結果である。最初の内こそなかなか集中できずにため息をついてばかりだったが、近づく期末試験と、授業についていけない焦燥感とに背を押され、すぐに誰よりも真面目な学生になった。
 この日も、一日の大半を暖房の効いた図書館で過ごしてから、なのはは帰路についた。
 自分で定めたノルマを消化できたのは、友人たちの助力によるところが大きい。星の見えない曇天の下、冷たい風に首筋を撫でられコートの襟元を正す自分はキリギリスみたいだ、と彼女は思う。
 ふと手首を返して時計を見ると、まだ今日は四分の一以上残っている。頭の中で天秤が揺れる。少しだけ迷ってから、なのはは進路を変えた。向かう先は商店街だ。そこには、喫茶翠屋がある。気分転換もかねて、仕事を手伝っていこう。両親は娘の学業に気を遣ってくれるが、だからこそ、という思いもあった。
 街頭や店の照明で、商店街はまだ明るかった。しかし、目立つところから視線を外せば、そこにはうずくまるような暗闇がある。バリアジャケットを着る際、人に見られないようにそのような暗がりを利用したものだった。そのときは何とも思わなかったが、しかし、今は近寄りたいとは思わない。
 きっと、正常ではなかったのだ。
 いま振り返れば、空を駆けた体験も夢のように現実感がない。非常識な、現実的ではない状況に対応するためのモードが、最近になってようやく正常なそれに戻ったのだろう。評価の基準も切り替わり、すっかり以前の通りの生活に馴染んでしまった。昨日、ジュエルシードの探索に協力しているユーノから連絡があったが、それも冷静に受け止めることができた。
 だというのに、
 せっかく正常値に戻ったメータを、再び針が振り切れるまで刺激する人物がそこにいた。

「あ……」その姿を視認した途端、なのはは思わず立ち止まる。

 相手は、なのはが気づく前からこちらを見ていた。なぜか笑顔で手を振る姿は、偶然といった風ではない。先回りしていたのだろうか。
 それは、フェイトの使い魔だろう、と管理局が当たりをつけた女性だった。
 なのはが驚いて立ち止まっていると、その女性は一度肩をすくめてから近づいて来る。歩調は速くも遅くもない。休日に町中を歩くかのような、極めて尋常な様子である。そして、ついになのはの正面で立ち止まった。

「いきなりで悪いけどさ、提案があって来たんだ」やけにフランクな口調で彼女は言う。「機会はこれが最初で最後。判断はこの場ですぐにしておくれ」いいかい、と問う視線はあまりにも友好的だった。

 なのはは頷くような、首を傾げるような、曖昧な仕草を返す。

「フェイト……、あの子の母親が、あんたと話をしたいって言ってるんだ。それであたしは伝言兼送迎役を仰せつかったってわけだけど、ここで頷くならいまから連れて行く、首を振るならあたしは晴れてお役ご免になる」
「行く、行きます!」なのはは即答した。「あ、でも、ちょっとだけ待ってください」
「管理局に連絡でもするのかい? もしそうなら、いまの話はなかったことになるよ」
「ち、違います、お土産にケーキを」
「ケーキ?」彼女は目を丸くした。「……意外と大物なんだね。あんたならフェイトを止めてあげられるかもしれない」



 時の庭園というらしい。
 石で作られた硬い床を歩いたかと思うと、今度はリノリウムのような床を歩いている。凝った装飾の柱を見たかと思うと、剥き出しの金属の柱もある。重たそうな木製の扉を開けば、次は自動で開くスライド式のドアをくぐりもする。そこは、西洋の城を思わせる古めかしい印象と、無機質で酷く未来的な印象とを同時に受ける、不思議な空間だった。だから時の庭園という名なのかもしれない、となのはは閃いた。
 前を歩く案内人の背中を見る。ここに来る前は隠されていた豊かな尻尾が、歩みに合わせて左右に揺れている。催眠術の振り子みたいなそれを眺めていると、不意に彼女の名前を知らないことに気がついた。

「あの……」なのはは声をかける。
「なんだい?」前を行く彼女は、半身だけ振り返った。
「お名前を教えてもらってもいいですか?」
「あれ、言ってなかったっけ? プレシアだよ」
「プレシアさん?」
「そう、プレシア・テスタロッサ」
「え?」なのははびっくりした。「それじゃあ、フェイトちゃんのお姉さん……なんですか?」
「は? 誰がだい?」今度は相手が驚く。変なものを見るような目でこちらを見た。

 二人ともが、どこか会話が噛み合っていないと気がついたとき、足音が通路の先から近づいてきた。
 そちらを見ると、一人の女性がいた。なのははその姿に目を見開く。その輝かんばかりの容貌と圧倒的な存在感から、彼女が自分を呼び出した人物なのだと確信できた。

「アルフ。高町さんが訊いたのは、あなたの名前」彼女はくすくすと上品に笑う。「はじめまして。フェイトの母、プレシアは私です。突然呼び出してしまって、ごめんなさい」
「は、はじめまして、高町です」なのはは完全に気圧されていた。「えっと、お若いですね」
「ありがとう」プレシアは微笑む。それがまた美しい。「あなたの国の時間では、いまは夜でしたね。もう夕食は済ませましたか?」
「いえ、まだです」
「でしたら、ちょうどいい。こちらへどうぞ」

 返事を待たずに、プレシアは元来た道を戻っていく。なのははそれについて行こうと足を進めるが、アルフがついてこないことに気がついて振り返る。目が合うとアルフが手をひらひらと振るので、なのはは少しだけ迷ってから、再びプレシアを追いかけた。
 しばらく無言で歩いていると、ふいとプレシアが言った。

「忘れていた。まずはこれを返さないと」彼女は立ち止まり振り返る。こちらに差し出された白い手の平には、真っ赤な球体が一粒。「予め断っておきますが、格納されていたジュエルシードは全て抜き出しています。それと、デバイスの中のデータは全て参照させて貰いました。つまり、あなたがそれを手に入れてからの生活の大部分を、私は知っています。ジュエルシードに関しては申し開きはありませんが、データを参照したことについては、あなたがどのような質問をするかを予測し、解答を準備するために必要な手続きであったと理解してほしい、そう考えています」

 なのははとりあえず頷いて、人差し指と親指でレイジングハートをつまみ上げた。久方ぶりに触れる相棒の感触は、手によく馴染み、まるで時間の経過を感じさせない。思わず口に含みたくなるまん丸具合も相変わらずだった。しかし、愛らしい見た目と反して、このレイジングハートは剣士の剣、射手の弓矢に等しい。逡巡なく持ち主に返すというのは、敵意の不在や信頼を示すパフォーマンスなのだろうか。ああ、嫌なことを考えている。

「時の庭園にいる限り」プレシアがなのはに微笑みかける。「誰が何人いようと、私には敵いませんからね」それだけ言って、彼女は再び歩き出した。



 幅の広いテーブルを囲んで、ふたりは向かい合って座った。プレシアに正面からじっと見つめられると、なのはは緊張してしまう。そのせいで料理の味がよくわからなかった。スプーンやフォーク、ナイフといったカトラリーのみを用いての食事にも慣れていなかったので、そちらにに気を割かなければならなかったせいでもある。
 最初、なのはは席に着いたとき、フェイトはいないのかと質問した。既に食事を終え部屋で休んでいる、というのがプレシアの返事だった。それ以降はどちらも、言葉を発する目的では口を開かなかった。
 沈黙は、食事の間中ずっと続いた。
 自然が発する音も、環境が作り出す音も存在しなかった。ときおり響くのは全てなのはの手元から生まれた音で、食器がぶつかるその音が立つ度に、彼女は恐る恐る正面を見る。けれども、プレシアはこれといった反応を見せず、上品な手つきで食事を続けていた。
 全て食べ終えると、アルフがデザートを持ってくる。なのはが渡した翠屋のケーキだった。それを見たプレシアが、ほんの少しだけ目を大きくした。

「どうかしましたか?」なのはは思わず尋ねる。
「ようやくなにか質問してくれましたね。ずっと待っていたのですけれど」プレシアは答えた。「以前、あの子が買ってきたものと同じだったので」
「フェイトちゃんが?」
「アルフが見つけた店だと聞いたけれど」プレシアはアルフに視線を向ける。口調はなのはに対するものとは違っていた。
「でも、お土産にしようって言ったのはあの子だよ」

 それは残念なニアミスだったのか、それとも避けられて幸運だったのか。

「あの……」アルフが去ると、なのはは切り出した。「プレシアさんは、フェイトちゃんがジュエルシードを集めていることを知っていますよね?」
「あなたのデバイスからジュエルシードを取り出した、と言いました」プレシアは頷く。「そうです。あなたの集めたジュエルシードを横取りしたことも含めて、全て私の指示です。確認のための質問や文脈は必要ありませんよ」
「……だったら、お願いします、フェイトちゃんにそういうことをさせるのは止めてあげてください!」なのはは叫ぶように言う。
「わかりました。止めさせましょう。他に何かありますか?」
「え?」なのはは驚く。
「あなたの要求を受け入れる、と言いました。他に何か、質問でも要求でも、ありますか?」

 プレシアの素直さは不気味なほどだった。なぜこうもあっさりとこちらの言葉を容れたのか、なのはにはわからない。けれども、わからないものを怖がるのが人間である。同時に、怖いものを知りたがるのも人間だった。その点で、なのはは正常な人間であると言えた。

「どうしてそんなにあっさりと……?」
「現在私は、十六のジュエルシードを確保しています。対する管理局は四つ。残すところ一つですが、これはじきに管理局が回収するでしょう。ジュエルシードは全二十一個ですから、もうあの子を動かす必要はありませんね」
「十六個のジュエルシードで、何をするつもりなんですか?」
「それには答えません。答えてもあなたには理解できないので、無駄になります。これ以降も魔法に触れるつもりであるならば、あなたは理論を勉強するといいでしょう。けれども気をつけなさい、あなたは魔法の才能があるようですが、それは背が高いのと何も差はないのです。あなたが人間でいたいのならば、自分が何をしたいのかを行動の指針にするといい。資質に従って生きるのでは、獣と同じです。話を戻します。ジュエルシードで何をするかは説明しませんが、結果として、私は遙か過去へと戻るのです」
「か、過去へ?」

 プレシアは返事をしなかった。既に次の質問ないし要求を待っている。凄まじい切り替えの速さ。それに、自身の発言に欠片の疑いも持っていないのだろう。その揺らぎのない自信を前に、なのはは背筋が震えそうになる。多くの場合において恐ろしいものを恐ろしいと感じる理由を説明できないように、ただただ息の詰まりそうな圧迫感を感じるだけだった。

「プレシアさんは、過去に戻って何を?」
「逆に訊きますが、高町さんは過去の一部をなかったことにしたいと思ったことはありませんか?」

 なのはは咄嗟には答えられなかった。

「もちろん、答えたくない質問に答える必要はありません。私が過去に戻るのは、過去を修正するためではありません。既に失われた技術を求めてのことです」
「失われた技術?」
「有り体にいって、死者の蘇生を可能とする技術」

 誰を、と尋ねることはできなかった。大切な誰かに決まっているからだ。触れていいことであるとは思えなかった。触れるのが恐ろしくもあった。

「過去に戻るって……」その場しのぎでそこまで口にしてから、なのはは続く言葉を思いついた。「フェイトちゃんも、ですか?」

 ここまでほとんど即答を繰り返してきたプレシアは、この質問に黙り込んだ。ただまっすぐにこちらを向いた瞳が、綺麗な数式を眺めるときのように澄んだ色を帯びている。面接を受けていると錯覚しそうな状況にあって、しかし、なのはは不思議と嫌な気分にはならなかった。既に質問は済ませていたから、彼女は黙って返答を待つ。
 やがて、プレシアが口を開いた。

「あなたは、あの子のことが気に入らなかった。だから、幾度となく挑んだのです」彼女は断言する。
「違います!」なのはの口が反射的に答えていた。
「違いません」プレシアが即座に言い返す。「関わりを持ったのに、まるであなたに無関心だったでしょう? 私でも良い気分にはならない。けれども、高町さんの反応は過敏だったようにも思えます。幼い頃、誰にも構ってもらえなかった時期がありましたね?」

 なのはは黙り込む。気がつけば、逃げるように椅子の背もたれに背を寄せていた。しかし、視線だけはプレシアの目に縛られて逃げられない。
 意識してゆっくりと呼吸し、心を落ち着ける。

「最初は、誰にも迷惑をかけたくない、という意志が根底にあったはずですが……、成長するに従って欲が出た? それとも、いい子でい続けたために失ったものを、数えてしまったか。どうであれ、気に入らないから自分の方に振り向かせようとしたのです」プレシアは幽かな笑みを浮かべたまま話す。「責めているわけではありませんよ。いいですか? それは強さです。欲する所に従って己を貫く意志。実際、あの子はあなたに興味を持ったようでした。それは決して良い感情ではないようでしたが、問題は、どのように見えるかではなく、視界に入るか入らないか。見え方は、後でいくらでも変えることができます。質問に答えます。あの子は連れて行きません。もう必要ないので、あなたに差し上げましょう」

 いつの間にかわずかに開かれていた扉の向こうで、何かが床に倒れる音がした。







 プレシアは、静かになった食堂に一人でいた。先ほどまで向かい合って座っていた高町なのはは、気を失ったフェイトを背負って帰った。

「あなたも要らないというのなら、予定通りどこか適当な世界に捨てるだけです」

 最初こそ渋っていた彼女だったが、その言葉を聞いて素直に従ってくれたのはありがたい。元からそのために呼び出したのだから、成功だったと言える。
 やるべき事の大部分は終えた。
 あとは、そう……、時間の経過を待つだけだ。恐らく、予想通りの展開になるだろう。そうなれば安心して旅立てる。
 食器を片付けようと立ち上がったところで、部屋の扉が開く。入室してきたのはアルフだった。時の庭園には二人しかいないのだから当然である。

「アルフはどうする?」プレシアは彼女の方を見ずに尋ねた。

 アルフが強い視線をプレシアに向けた。ほとんど睨み付けているようなものだった。それをお前が訊くのか、と瞳が告げていた。
 食器をカートに乗せる音だけが、やけに大きく響く。
 テーブルの上が綺麗に片付く頃になって、アルフが沈黙を破った。

「ずっとそばにいること」彼女は言った。「フェイトとは、そういう契約だ」
「私なら、契約を解除しても生きられるようにしてあげることもできるけど」

 アルフは答えなかった。無言の拒否を、プレシアは背中で聞いた。

「そう。好んで貧乏くじを引くなんて、律儀ね」

 アルフが部屋を出る音を、プレシアは背中で聞いていた。







 なのはが時の庭園に赴き、緊張しながら夕食を取っているとき。
 クラウディア組は二十一個目であると思われるジュエルシードの回収に成功していた。
 今回のシリアルⅦだけが海の底に沈んでおり、手間も時間もかなり多くのものを費やさなければならなかった。だからこそ、探査にも回収にも多くの力をつぎ込むことのできる管理局が押さえたのだとも分析できる。回収という点について見れば、早い者勝ちの原則に従い、管理局の勝利は疑うべくもなかった。
 しかし、いくら個々の勝利を重ねたところで、最初の出遅れが大きい。管理局が五個確保しているのに対して、密猟者は残りの全て、十六のジュエルシードを確保していると思われる。それだけあれば大規模な次元震の一つや二つ、起こすに易い。クラナガン全市民を人質にしてのテロルと比べても劣ることのない、極めて危険と判断される状況である。しかも、ジュエルシードの回収が終わってしまった以上、回収の実行者であるフェイト・テスタロッサはもう姿を見せないだろう。それは、彼女を使っていた母親とやらの情報も、得られる機会が巡って来ないということに等しい。
 そもそも、母親というのがまず怪しかった。というのも、テスタロッサという姓から辿って行き着いた魔導師は、その誰もが、以前に次元航行艦が攻撃された際に記録されたものとは一致しない魔力波動を持っていることが確認されているのだ。これによって、行方不明という状況と高い魔導師としての実力から捜査線上に浮かび上がったプレシア・テスタロッサの線も薄くなった。もちろん、協力者がいるかもしれないし、それ以前にテスタロッサという名前が偽名である可能性もある。だが、そのどちらであったとしても、あるいは更に別の可能性があったとしても、今後この事件の犯人にたどり着くことは絶望的なまでに困難であると言わざるをえなかった。次に表に出てくることがあるなら、ジュエルシードによる大規模な災害が起きるときだろう、とさえ思われた。
 以上のような話がされた会議に末席ながら参加していたユーノは、聞いた話をさっそくなのはに流そうと企てて、思念通話を試みた。

「……あれ?」

 反応がない。
 むむむ、と唸りもう一度チャレンジしてみるも、やはり結果は変わらない。そこにはやてがやって来た。

「あれ、どないしたん?」
「ああ、うん」はやてに言われて丁寧な口調を改めた彼は言う。「なのはに念話が届かなくて」
「なのはちゃんに?」数秒の沈黙。「あら、ほんまに」彼女は手元でなにか操作を行う。すると、ウインドウが空中に展開された。「携帯電話の方にも……」

 しかし、電源を切っているのか電波の届かないところにいるのか、つながることはなかった。
 はやては少し表情を硬くし、歩き出す。ユーノはそれについていく。

「まだ寝るような時間じゃないはずだけど」
「勉強漬けやって言っとったんやろ? 疲れてお昼寝……って時間でもないけど、食事の前に一眠りとか」そうは言うが、はやては早足だった。

 通路に硬い足音を刻みたどり着いたブリッジで、待機していたクルーたちに彼女を命じた。
 すぐさま始められる高町なのはのサーチ。
 結果、該当する反応なし。
 クラウディアの目に映らないなら、なにで調べても出てこないだろう。

「やられた……」はやては小さく呟き目を細める。
「なのはが狙われた?」
「かもしれへん」短く答えて、彼女は休んでいる艦長に通信をつなげた。

 酷くもどかしい三秒が経ち、反応があった。モニタに映し出された艦長は既にバリアジャケットを着込んでいた。

「どうした?」彼は厳しい表情できく。
「なのはちゃんがおらん」
「いつからだ?」
「昨日の夜、念話で話したから、少なくともそれ以降に」ユーノが横から答える。
「いまからなのはちゃんの友人に連絡取ってみます」
「わかった。任せる」

 そのとき、クロノの言葉を塗りつぶすような声が上がった。

「あ、いま反応出ました! レイジングハートの反応もあります。通信つなげ……あれ、これは」弾指の間の後、クルーは叫ぶように言った。「フェイト・テスタロッサの反応も! 至近距離です!」
「なんやて!」
「つながりました、開きます」

 ブリッジにいる全員に見えるよう、最も大きな前面のモニタに表示される現場の様子。
 どこかのマンションだろうか、見慣れない室内で、なのはがフェイトを背負って立っていた。







 事情を話したところ、散々怒られてしまったなのはである。が、上げた戦果は上々、しかも管理局員でも管理世界住人でもないため、お咎めはほとんどなしで済んだ。
 彼女が上げた戦果。
 すなわち、連れ帰ったフェイト・テスタロッサである。
 絶望的な状況に垂らされた蜘蛛の糸。はやてがそう喩えた少女は、しかし、一切の質問に口を開かず沈黙を貫いた。他に情報を得られそうなもの、たとえば使い魔やデバイスなどは持たず、身一つで確保された彼女であったから、捜査に進展がもたらされることはない。また、なのはが出会ったプレシア・テスタロッサも不気味な沈黙を守っていた。こちらに関しては、既に地下に潜ってしまった可能性も見過ごせない。そうなれば、フェイトからいくら情報を引き出せたところで意味はない。しかし、管理局の面々は、プレシアがじきに動き出す可能性も少なくないと見積もっているようだった。これは、なのはが持ち帰った情報による。プレシアが過去を目指しているという話である。
 ジュエルシードは十年近く研究され続けてきたロストロギアであるが、時間の遡行を示唆する研究結果は出ていない。しかし、その研究から得られたデータが外部に流出して広まった可能性は、スカリエッティが管理局の中枢にまでその手を伸ばしていたことからも、無視はできない。そして、優れた技術者であるプレシア・テスタロッサがそのデータを手に入れたとすれば、もしかすると彼女には、他者には読み取れないなにかを見出すことができたのかもしれない。また、願望と現実とを錯誤して認識している場合が、このような犯罪者には少なくない。
 もしかすると。かもしれない。
 仮定に仮定を重ねて考えるしかないが、だからこそ、最悪に備えるというスタンスを徹底するべき事態である。はやてたちは、今回の事件の危険性を大きく見て、既に応援を要請しているという。それにより、近い内に組織の強みを生かした一大捜査網が敷かれることになっていた。
 だが、そんなことはなのはにはあまり関係がない。レイジングハートが手元に戻ったが、それで専門家たちの仕事を手伝えるとは思えなかった。それでも彼女がクラウディアに入り浸っているのは、偏にフェイトに会うためである。
 それも今日で六日目になる。
 この日も、なのはが携えた土産の紙箱には翠屋のケーキが詰まっていた。クラウディアの乗組員の中に、翠屋の支店がミッドチルダにないことを残念がる者が出るほどの人気である。地球出身の執務官であり、第97管理外世界への渡航が容易く行えるはやてなどは、皆に羨まれていた。
 もちろん、それは嬉しい。
 嬉しいが、なのはの本命は彼ら彼女らではない。

「時間は一時間。部屋の中の映像や音声は別室にてモニターさせてもらいます。また、それらは記録させてもらいます」仕事モードのはやてが言う。
「はい」なのはも真面目な顔で答える。
「ほんなら、なにかあったらすぐに呼んでな」

 もうすっかり慣れっこな確認を行い、なのははその部屋に足を踏み入れた。
 そこは広かった。
 純粋な面積については、なのはの自室の何倍もある。だというのに、医療用と思しき大きなベッド以外はなにもない。それがまた、伽藍とした広さを印象づけるのに一役買っていた。
 フェイトはベッドの上に座っていた。上下共に白い服。ベッドの脇には同色の靴が並んでいる。ベッドのサイズとの対比で、その体は余計に小さく見える。ぼんやりと焦点の合わない瞳が、膝のあたりを見ているようだった。

「こんにちは」なのはは挨拶をしながら近寄る。返事がないことは先刻承知だ。しかし、一昨日ごろから、挨拶をすればわずかに視線を向けてくれるようにはなっていた。

 意識してゆっくり歩き、ベッドの隣に立つ。フェイトはもうこちらから視線を外している。なのはは少し屈んで、少女に目の高さを合わせた。

「ここ、いいかな?」ベッドの縁を指し、少し首を傾げて訊く。

 数秒待ってから、彼女はそこに腰を下ろした。そして、手にしていたケーキの箱と紙皿を自分の隣に置く。
 この部屋には机も椅子も存在しない。皿が紙製でフォークがプラスチック製であるのと同じ理由だった。しかし、最近のフェイトならば万が一もないのではないか、と思えた。一週間にも満たない日数で、それも一日に一時間の面会であるが、それだけでも随分と変化してきたように見えるからだ。
 三日目までは、自分のことについてただひたすら話し続けた。長い自己紹介のつもりだった。幼い頃の出来事からつい最近の魔法との出会いまで、地球での生活でどのようなことがあり、どのようなことを考えたのかを語り続けた。フェイトはほとんど反応しなかった。
 四日目と五日目は、魔法と出会ってからのことを喋った。ユーノとの出会いからフェイトとの衝突、そしてプレシアとの会話。特にプレシアとの会話は今でも消化しきれておらず、暗中を模索するかのように語ることとなった。
 そして、それは今日も同じだ。

 ―――あなたは、あの子のことが気に入らなかった。だから、幾度となく挑んだのです。

 語る最中も、プレシアの言葉が頭から離れない。
 自分でもよくわからなかった気持ちに明確なラベルを貼り付けられ、それが正しいか否かに関わらず、中身がラベルに引きずられているようにも思えるし、あるいは何よりも正確に事実を言い当てているようにも思える。
 自分の気持ちがよくわからないという経験は初めてだった。
 否。そうではない。彼女は思い直す。
 正しくは、よくわからない気持ちをここまで深く追いかけ続けるという経験が初めてだった。
 いままで逃げ続けてきたものに、ついに追いつかれた。
 曖昧なままにして置いてきたものは、フェイトに挑んだ動機だけではない。幼い日より定まらぬ将来の夢、一度関わりながらあっさりと諦めつつあったジュエルシード事件。そんな自分だから、他者に一切の関心を払わなかったフェイトの瞳が―――

「―――羨ましかった?」意図せぬ言葉がこぼれ落ちた。口にしてから、そんな馬鹿なと思う。思う一方で、軸索を伸ばす神経細胞のように思考は進む。

 羨ましかったから挑んだ?
 それはつまり嫉妬。嫉妬したから、その強さを突き崩そうとした。自分と同じ所に引きずり下ろそうとした。すなわちこちらに興味を持たせようとした。
 吐き気を催しそうな醜怪な感情。
 目眩に似た不快感を覚えて、なのはは語りかける言葉を止める。まぶたを閉じ、数秒かけて色々なものを押さえ込んだ。
 目を開くと、不思議そうにこちらを見るフェイトと目が合った。しかし、フェイトはすぐに目をそらせてしまう。

「そうだ……、ケーキ食べよっか」なのはは笑顔を作り上げて言う。「今日は私も作るの手伝わせてもらったんだよ。ほら、この前言った失敗を反省して、ちゃんとできてる。それに、今日はフェイトちゃんのためのレシピを作ってもらったから、お店には置いてない特別製」

 紙皿に置かれたのは、白い山を模して作られた栗のケーキ。店舗に並んでいるものと見た目は変わらないが、あれよりもお酒の風味が弱い。フェイトのために作られたものではあったが、実のところ、なのはも店の商品よりこちらの方が好みだった。舌が幼いのである。

「えっと、他にもいくつかあるんだけど」そこまで言って、なのはは黙った。

 フェイトが声もなく涙を流していたからだ。



 しばらく静かに泣き続けたフェイトは、やがて口を開いた。
 ぽつりぽつりと語られるプレシアとの思い出。新しい魔法を覚えて褒めてもらったこと。研究中に話しかけて怒られたこと。一緒のベッドで眠ったこと。書斎の書物を読む許可をもらったこと。数え上げればきりがないほどの、夜空の星々のような記憶たち。
 それはなのはに向けて語られているというよりも、先ほどなのはがしていたような自問自答、あるいは思い出の復習に近い。事実、フェイトはなのはの方を見てはいない。焦点の合わぬ目は、自身の語る過去を見つめているようだった。いままで黙り続けた分を取り戻すかのように、少女はしゃべり続けた。
 なのはにできることは、すぐ傍で相づちを打つことだけ。
 そんな彼女に、不意に話しかける声があった。

〈なのはちゃん〉声の主ははやてだった。なのはだけに絞られた念話である。〈時の庭園の場所、聞き出せそう?〉

 弱みにつけ込むようで嫌だった。だが、はやての声は苦しげで、それが苦渋の選択であることが窺われた。

〈過去にしろ虚数空間にしろ、そこに飛び込む前にプレシアを押さえたい〉はやては強い声で続ける。〈そんな小さい子が家族と二度と会えんようになるなんて……、そんなこと、絶対にあったらあかん〉







 それから更に数日が経ち、フェイトとの会話が成立するようになったとき、ついに彼女は時の庭園の座標を口にした。なのはだけでなく、はやての説得も効いたらしい。はやてがなにを話したかは知らないが、小さな少女の母親を助けてあげたいという言葉に説得力を与えるものであったのは確かなことだ。
 フェイトが口にした座標には、果たして、未だに時の庭園が存在していた。どういうわけか、逃げることなく以前のままの場所にとどまり続けているのだ。
 これを受けて、クロノ提督は即座に武装局員を突入させる。しかし、彼らは踏み込んだ瞬間に魔法の雷に強かに撃たれ、誰一人例外なく床に倒れ伏すことになった。

 ―――時の庭園にいる限り、誰が何人いようと私には敵いませんからね。

 その光景を見て、なのははプレシアの言葉を思い出す。もちろん、事情聴取を受けた際にはやてたちに伝えていたが、それでも突入させたということは、プレシアの誇張だと判断されたのだろう。結果は、モニタに映し出された惨劇である。命を落とした者はいないが、命があればいいというものでもない。
 急ぎ回収を指示するクロノ。できうる限りの速さで答えようとするスタッフ。倒れた局員たちの代わりに出撃の準備を整えたはやて。
 だが、そこに割り込む者がいた。

「なに……?」

 驚きに声を上げたのは誰だったのか。
 クラウディアのクルーが武装局員を回収する前に、彼らが艦へと転送されて戻ってきたのだ。気絶したままの彼らは、クラウディアの床に綺麗に並べられるように順に転送されてくる。そして、突入した全ての魔導師が時の庭園から追い出され、彼らがつないでいた時の庭園内部の映像も途切れた。
 しかし、クラウディアにいる者たちは、すぐに同じ光景を見ることになった。
 外から回線を開くよう要求が入り、許可を出した艦長に従い通信が開始される。
 ブリッジ正面の一番大きな画面に映し出されるのは、十日ほど前になのはが会ったきり行方がわからなくなっていた、フェイトの母親である。

「プレシアさん!」なのはが一番に声を上げる。すると、クロノやはやてを始めとしたクラウディアのクルーたちは、ぎょっとしたようになのはを見た。

 画面の中では、プレシアが朝霧のように薄い笑みを浮かべている。

「お前は―――」艦長席に座ったクロノが、身を乗り出すようにして言う。「お前は、誰だ!」

 画面の中では、目の覚めるような金糸の髪と、血のように赤い紅玉の瞳が、微笑んでいる。
 それは、なのはが会ったときと何一つ変わらぬ姿のプレシア・テスタロッサだった。



[29957] 06
Name: 男爵イモ◆16267a69 ID:66348768
Date: 2011/09/29 15:08


 無数の管理世界に無数の人間がいれば、管理局が取り締まるべき犯罪者の数も尋常ではなく、彼らを収容するための拘置所もまた星の数ほど存在した。そのどれもが内外どちら側に対しても堅牢であったが、ジェイル・スカリエッティが収容される拘置所こそが、数ある中でも特別に厳重とされる三の軌道拘置所の一つ『グリューエン』だった。
 軌道拘置所とは、文字の通り無人世界にある惑星の衛星軌道上に設置された拘置所である。その物理的なアクセスの難易度は他の比ではなく、ここに収容されるのは管理局が特に危険人物と判定した重犯罪者に限られた。ミッドチルダ住民すべてを人質にとったテロリストであり広域次元犯罪者の中でも筆頭と目されていたスカリエッティにはうってつけの拘置所である言える。
 この施設に収容された犯罪者を逃がすまいとする管理局の努力は著しい。起こりえる本人の自発的な脱走や外部からの救出の機会をなくすべく、通常ではありえない通信による事情聴取および一次裁判がおこなわれるほどである。
 この日も捜査官たちは、ようやく迎え入れることができたVIPを決して退屈させまいと、モニタ越しに徹底的なもてなしをおこなうつもりでいた。
 しかし、そこに横槍を入れる者がいた。
 次元航行部隊に所属する若き提督クロノ・ハラオウンだった。
 この提督がまた経歴だけ見れば実に嫌味なエリートで、次元世界を守るためにロストロギアを道連れに自らの艦と共に沈んだ勇敢な提督を父に持ち、同じく元提督であった母は現役の総務統括官、クロノ・ハラオウン本人は艦隊指揮官、執務官長を歴任して歴戦の勇士とまで呼ばれたギル・グレアムに師事したあと弱冠十一歳で執務官試験に合格、以降はAAA+級魔導師として母の艦の次席を勤めて経験を積み、やがて提督となると母の艦を継いで艦長として活躍、現在は二十五歳にしてXV級艦を駆る艦長である。更に聖王のゆりかごの撃墜に尽力した一人ともくれば、ここまでスカリエッティから有力な自供の一つも取れずにいる不甲斐ない捜査陣としても期待するものがあり、ハラオウン提督の要請には首を縦に振らざるを得なかった。
 ハラオウン提督は、聖王のゆりかごを叩いた直後、返す刀で別の任務に赴き、そこで担当した事件も見事終息させてきたらしい。その事件の首謀者がスカリエッティの関与を認めたことで、裏をとりたい、とのことだった。

 そして、彼がモニタを通してスカリエッティと対面したとき、これまで黙秘を貫いてきた黄金の瞳が爛々としたのを、捜査官たちは見た。







 ――おや。君は初めて見る顔だ。ということは、彼女は無事にやり遂げたということかな? 予想よりもやや遅かったが、なにか予期しない障害でもあったのだろうね。うん? いいや、それは嘘だろう。私は管理局員よりも管理局のキャパシティについて詳しいつもりだよ。あの時点の君たちでは、彼女が心変わりでもしない限り、どのような手を打っても止められなかった。それで、嘘をついてまで君は私になにを聞きにきたのかね? 

 ――構わないとも。ちょうどいい機会だ、話しておこう。しかし、プレシアについて語るには、まずどちらのプレシアについて聞きたいのか、はっきりさせなくてはならないはずだが。

 ――なるほど。そういう反応をするということは、彼女は色々と話してから行ったらしい。ならばそれほど長くはならないだろうが、まあ私の退屈しのぎにでもつきあってくれたまえ。

 ――始まりは、そう、プロジェクト・フェイトについて調べる者がいるのに気づいたことだ。その調べ方がどうにも杜撰でね、放っておけば君たちでもすぐに見つけられる程度、と言えばわかりやすいかな? あまりにも露骨なので、最初はこちらの反応を見るための囮かと思ったほどだ。しかし、しばらく観察してみたところ、そうではないらしい。プロジェクトFのような秘匿された技術の存在を知りながら、驚くほど稚拙な調査の手法。それも、こちらの気を引くための動きではない。逆に興味が湧いて足跡をたどってみれば、あっさりとたどり着いたよ。プレシア・テスタロッサ。上層部の都合を押しつけられたあげく、すべてを失い追放された優秀な魔導工学の研究開発者。いつの時代もこうして優秀な才能から失われていく。ああ、実に嘆かわしいことじゃあないか。

 ――私は彼女に手をさしのべることにした。これが、ちょうどジュエルシードが発掘された頃に当たる。プレシアは必ず応えてくれると思っていたよ。彼女の経歴を見れば、プロジェクトFを必要とする理由は明らかだったからね。

 ――そうしたら、まあ驚いたと言ってもいい。この感情は、君にも共感してもらえると思う。なにせ、現れたのは全くの別人だ。最初はアリシア・テスタロッサかとも思ったが、しかし彼女はたしかに死んでいた。生きていたとしても、外見と年齢が一致しない。

 ――さて。では彼女は誰だったのか。







 クラウディアのブリッジには、クルーたちに加えてなのはとフェイトがいた。
 フェイトを連れてきたのははやてだった。その行動に打算がなかったといえば嘘になるが、同時にフェイトのためでもある。大事な家族との最後の言葉を覚えているはやてだから働いた、なにか勘のようなものに突き動かされたのかもしれない。
 ブリッジ正面の巨大なモニタの中をプレシアが歩く。床を規則正しく叩く硬い音が響く。カメラの視点は彼女を追いかけ、隣の部屋に移った。

「――――」

 映し出されたものを見て、ブリッジにいた全員が息を飲んだ。半ばまで予想していた者たちも例外ではない。
 理解するべきではないと本能が警鐘を鳴らす。冷静で論理的な思考は凍結し、自らの理性を守っていた。

 異様な光景だった。

 薄暗い部屋。

 光源はわずかに二つ。

 真空の宇宙に浮かぶ連星のように並んだそれは、人を収めた円柱の容器。

 一方には、皆が資料でだけ見知ったプレシア・テスタロッサ。
 もう一方には、フェイト・テスタロッサと鏡写しの少女。
 どちらも目を閉じ身動きせずに、容器の中の液体に静かに揺られている。

「ここは、元は母の研究室でした」金の髪のプレシアは穏やかな声で言うと、少女を収めた容器の表面にたおやかな手つきで触れた。「もう、十年も昔の話です。どこにもいない母の姿を探してここに入った私が見たのは、この生体ポッドと、血を吐いて倒れ伏す母の姿でした。あとで知った話ですが、不治の病だったそうです。母はそのとき既に亡くなっていて、私は私で混乱していたのでしょう、使い方も分からないはずの空の生体ポッドに母の遺体を収めました」プレシアは目を伏せる。「……もしかすると、心の底では理解していたのかもしれませんね。ポッドの中で眠る、自分そっくりな少女。優しかったはずの母さんが私を見るあの目」

 数秒、プレシアは黙り込む。
 クラウディアにも言葉を口にするものはおらず、完全な沈黙が落ちる。眠たげなライオンが喉を鳴らすような低い機械の音だけが遠く響いていた。
 はやての視界の端で、なのはと手をつないだフェイトの体が不安げに揺れる。
 プレシアがこちらに向き直る。
 完全に制御された無表情だった。

「プロジェクトFについてはご存じですか? スカリエッティが逮捕されたと聞きましたから、調べれば出てくるでしょう。簡単に言えば、クローン技術と記憶転写技術を掛け合わせ、人間の完全なコピーを作り出そうとする研究です。その基礎を作り上げたのがスカリエッティ。受け継いだのが私の母でした。
 母。……きっと、私の母親であるつもりはなかったのでしょうね。
 ……残されていた研究の記録から、私が母に作られた存在であるということはすぐにわかりました。オリジナルは、もちろんこの子、アリシア・テスタロッサ。彼女は正真正銘、母の娘です。アリシアが亡くなった経緯と、その後の母の足取りについては、もう調べがついているでしょう。
 母がプロジェクトFを受け継ぎ研究を進めたのは、もちろん、アリシアを生き返らせるためでした。私が存在していることが、その証明です」

 抑制された速度で話し終えると、プレシアはこちらに背を向けた。
 その赤い瞳はどこを見ているのだろう。

「けれども」

 プレシアの体がこわばった。
 つづいたのは血を吐くような苦しげな声だった。

「私は、アリシアにはなれなかった」







 ――彼女は自分の環境について詳しい話をしたがらなかったし、私も興味がなかったので聞きはしなかったが、何があったかは推測できる。

 ――母親の愛に飢えていた幼い少女が考えることなど、想像に難くない。目の前にはプロジェクトFがあるのだから、それを使って母を生き返らせればいい。しかし、自分自身というこれ以上ない好例によって、プロジェクトFが不完全だともわかっている。なのでまずはプロジェクトFを完成させる必要があった。上手くいけばアリシア・テスタロッサをも生き返らせて、母に褒めてもらえるかもしれない、などと考えたのだろう。

 ――つけ込んだ? 人聞きの悪いことを言わないでくれたまえ。私はただ、哀れな少女に少しだけ力を貸してあげただけさ。私自身が完成させてもよかったのだが、あいにくと戦闘機人の研究で忙しくてね。私がしたことと言えば、精々が指導と助言くらいだ。

 ――彼女は実に優秀な生徒だったよ。飲み込みが良く、頭も良い。元々、彼女の母が半ばまで完成させていたこともあり、プロジェクトFの改良は順調に進んだ。完成までにはそれほど時間はかからなかった。

 ――それでも先にアリシアのクローンを作ろうとしたのは、万が一にも母親の失敗作が生まれることを恐れたのかどうか。彼女が話さなかった以上、先にアリシアで試したという事実があるだけだ。結果はもちろん失敗。出来上がったのはアリシアではなく、フェイトだった。新しいプレシア・テスタロッサ、新しいフェイト・テスタロッサが同時に誕生した記念すべき瞬間だよ。プレシアがどうして自分と同じ顔をした失敗作を処分しなかったのか……、実に興味深い。

 ――彼女は行き詰まっていた。行き詰まっていたと言うなら彼女の母の時点でそうだったようだがね。とにかく、彼女には新しいアプローチが必要だった。母親を諦めるという選択はない。そこで、クク、見るに見かねた私は、ジュエルシードについて教えて差し上げたのだよ。次元震を引き起こして虚数空間への扉を開き、虚数空間を航行して旧暦の時代、アルハザードが存在していた時代にたどり着く可能性。それから最近までの数年は、彼女の研究は生命操作技術から離れ、そちらに移っていた。なぜアルハザードの存在を信じたのか? ああ、それは私がアルハザード由来の技術によって作り出された存在だからだろう。

 ――プレシアがやり遂げたということは、彼女は今頃、というのもおかしな表現だがね、過去の世界のアルハザードにたどり着いているはずだ。今だから言うが、アリシア・テスタロッサが完全に複製されなかったのは、やはり彼女の生命活動が停止していたのが大きな理由だろう。あれは元はと言えば、死んだ者を蘇らせるための技術ではなく、生きた人間の予備を作り出す技術、すなわち延命の一種なのだから。

 ――もしアルハザードにも死者を蘇生する技術がなかったならば、『プレシア』の次の研究はそのまま死者の蘇生か、あるいは……







 自身の歩んできた道のりを話し終えたプレシアは「もう、これ以上話すことはありません」と締めくくった。

「私は、これからジュエルシードで次元震を起こすつもりです。必要以上に被害が広がらないように制御する準備はありますが、もちろん信じてもらえるとは思っていません。そうでなくとも、管理局としては保険をかけざるを得ないでしょうから、少しだけ待つことにします」
「こちらには、あなたの娘も含めて四名、AAA級以上の魔導師が存在するが」クロノがプレシアを睨み付ける。
「こちらにも、S級二人までなら一分以内に撃退する用意があります。場合によってはジュエルシードも使いましょう」プレシアは子供を諫める母親のように言う。彼女の周囲に、十六の青い宝石が浮かび上がり円形を描く。そのどれもが、たった一つで次元震を起こすほどの莫大なエネルギーの塊だ。それらは完全に制御されているようだった。

 クロノが歯を噛む。初めて見せる悔しげな表情だった。

「――わかった。では五分」クロノはちらりとフェイトたちの方に目を向けた。「いや、十分ほど待ってほしい」
「わかりました」

 プレシアの返事を待たず、クラウディアのクルーたちは慌ただしく動きはじめた。時の庭園から送り返されてきた武装局員の救護にも人手を取られていたため、忙しくない者はいないほどだ。例外は民間人のなのはと重要参考人のフェイトだけだった。
 なのはは口をつぐんだままのフェイトを見てから、モニタの中の女性をまっすぐ見つめた。

「えっと、プレシアさん……、でいいですか?」
「構いませんよ。この場でいまさらフェイトに戻るつもりはありません」

 つないだフェイトの手に力がこもる。
 なのははその手を離してしまわないように、押しつぶしてしまわないように、優しく握り返す。

「プレシアさんは、どうして――」浮かぶ言葉がたくさんあって、声が途切れた。
「どうして、その子を置いていくのか」なのはの言葉を引き継いでプレシアが言う。「私の妄執にその子を付き合わせるつもりがないだけです。それに、何事にも失敗の危険はある。万が一にもその子を巻き込みたくありません」
「だったら……、だったらそうやって一人で決めてしまわないで、きちんと話してあげてください!」
「ええ、きっと、怖かったのでしょうね。私は、母親としてフェイトを愛したつもりでした。ずっと、自分がこうしてほしいと思うように。母を諦めようと思ったことも、一度や二度ではありません。でも、結局、私の人生は娘を愛するためではなく、母に愛してもらうためのものだった。……そう伝えて、その子に嫌われてしまうのが怖かった。だから、突き放して、顔も見えず罵声も届かないところに置いて、一人で安心していたのでしょう」プレシアは他人事のように言った。不自然なほどに抑揚のない口調だった。「最初は、管理局に預けるつもりでした。けれど、高町なのはさん、あなたがいてくれてよかった。フェイトをあなたに任せると決めたのは、自分のために動いた結果、その子を見なくなった私よりも、自分のために動いて、結果、その子を見つめてくれたあなたが相応しいと思ったから。あなたと、あと十年はやく会いたかった」
「まだ、間に合います」
「いいえ、もう遅い。あなたに救われるのは、もう一人の私に任せることにします」

 プレシアはなのはから視線をそらすと、初めてフェイトを見る。

「ごめんなさい。私は、あなたの母親にはなれなかった。許してほしいとは言わないし、幸せを祈る資格もないけど、でも、どうか――」

 プレシアの言葉を遮るように、初めてフェイトが口を開いた。

「ずっと、考えていました。どうしてわたしが捨てられたのか。なにか失敗して、怒らせてしまったのかもしれない。嫌われて、もう側にいたくなくなってしまったのかもしれない。もしかしたら、愛されていると思っているのはわたしだけだったのかもしれない」つないでいたフェイトの小さい手が、なのはの手からするりと抜けた。「でも、そうじゃなかった」

 フェイトはただひとり、もう大丈夫だと告げるように自分の足で立って。
 それを見るプレシアは、目を細める。

「あなたは、わたしの母さんです。だから、ぜんぶ許します。わたしがあなたの娘だから。あなたがわたしの母さんだから」力強い声だった。

 フェイトはプレシアに微笑みかけた。

「わたしは今まで、母さんにたくさん愛してもらいました。
 頭をなでてもらいました。抱きしめてもらいました。優しい声で名前を呼んでもらいました。
 だから、わたしはもういいから――







 ――さて。いま、君以外にも私たちのやり取りを聞いている管理局員の諸君がいるはずだ。プレシアの事件がおわり、君たちも手が空いたことだろうから最後に一つ教えてあげようじゃあないか。君たちの中には、これまでの捜査の中でプロジェクトFを知った者もいれば、今の私の話で知った者もいるかもしれない。そして、プロジェクトFという前提知識があれば、賢明な諸君ならばもう予想はついているだろう。

 ――そう。どうして私がプレシアに合わせて、自分の計画を準備不足のまま前倒しにできたのか。もちろんプレシアの成功を祈ってはいたが、自分を犠牲にするほどではない。それがどうしてこんなにあっさりと捕まり、この拘置所にいるのか。

 ――つまり、どうしてここにいる私が用済みになったのか、という話さ。

 ――ご存じの通り次元世界は広い。これから十年、五十年、百年。せいぜい犬のように這いつくばり、いくつ有りいつ芽吹くかも知れない種を必死で探し続けてくれたまえ。



[29957] エピローグ
Name: 男爵イモ◆16267a69 ID:66348768
Date: 2011/09/29 15:09


 鳥の声と日の光で目を覚ますと、まずは洗面所に向かう。冷たい水で顔を洗うと、目の奥の方にわずかに残っていた眠気はすっかりと消え去ってしまった。
 部屋に戻り、制服に着替える。真っ白なワンピース型の制服だ。義姉のもう二度と見ることはないであろうバリアジャケットにデザインがよく似ていた。
 これに初めて袖を通したとき、フェイトはこんなにかわいらしい服が自分に似合うのか心配したものだったが、そんな心配は、口々に褒めてくれる新しい家族たち――特に大喜びする桃子を前にしては長続きしなかった。聞けば、私立聖祥大付属小学校はなのはの母校でもあり、桃子は幼い頃のなのはを思い出したらしい。なのはと同じ制服を自分が着ているというのが、フェイトは嬉しかった。その後、せっかくだからと写真を撮ることになり、それがフェイトのアルバムを飾る記念すべき一枚目になった。
 それから少し経った現在、白い制服はすっかり肌に馴染んで、私服も含めた中でお気に入りの一着になっている。
 着替え終え、髪を結び、姿見でしっかりとチェックしてから部屋を出ると、ちょうどなのはも部屋を出てくるところだった。

「あ、フェイトちゃん」
「おはよう、姉さん」

 フェイトが高町家に引き取られ、ふたりの関係は姉妹になった。
 なのはを姉さんと呼び、長いこと末っ子でいた彼女を大いに照れさせ困らせるのがフェイトの密かな楽しみである。
 けれども、どうやら最近になって耐性がつき始めたらしく、

「うん、おはよう。今日もよく似合ってる」

 などと挨拶に笑顔が添えられて返ってくるようになったので、そろそろ対策を考えなくてはいけないだろう。
 ふたりして良いにおいに引き寄せられてダイニングルームに入ると、既に朝食が用意されていた。なのはとフェイトがふたりキッチンに並ぶこともあるが、今日は桃子の料理だった。
 現在、高町家にはフェイトを入れて五人が住んでいる。両親に加えて姉がふたりだ。本当はもう一人、一番上の兄がいるのだが、彼は仕事の関係で海外に行っている。たまに返ってきたときは、寡黙ながらもこちらを気にかけてくれているのがよく分かる好人物だった。

 全員で集まって食事を取り終えると、それぞれが自分の予定に向かって散らばっていく。
 フェイトは皆に見送られ家を出た。
 通学はバスだ。
 毎朝使っていれば顔見知りにもなろうというもので、同じクラスにできた友だちとはまた別に、この通学バスをきっかけにできた友だちもいた。彼らと話をしていると到着は信じられないほどあっという間で、けれどもフェイトはそれを残念に思ったりはしなかった。なぜならば、学校は学校で違った楽しさがあるからだ。
 小学校に通い始めるまで、フェイトは同じ年頃の子供たちと接したことがなかった。教育はすべてプレシアとアルフによっておこなわれ、その質が良かったためだろう、彼女の成績はとても優秀だった。それまで触れることのなかったこの国の言葉や社会について学ぶ教科は努力によって追いついたし、魔導師として必須だった理数系の科目に至っては、もはや小学生どころか中高生のレベルを完全に超越している。けれども、クラスメイトたちと受ける授業は少しも退屈ではなかった。特に、教師と生徒のやりとりが中心の座学と違って、生徒同士の交流が増える体育や家庭科の実習、理科室での実験に教室での話し合いはとても新鮮で、心躍る時間だった。もちろん休み時間にみんなで遊んだりお喋りしたり食事を取ったりするのも、フェイトにとってはまったく新しい体験となる。何もかもが目新しく、そこに何事にも前向きに挑まんとする姿勢が加われば、彼女の学校生活が楽しいものにならないはずがなかったのだ。
 そんな楽しい学校からも、すべての授業が終われば帰らなくてはならない。

 けれども彼女の一日はまだまだ終わらない。

 放課後になると、友だちと約束して一緒に遊ぶこともあるけれど、今日はまっすぐ家に帰ることに決めていた。
 誰もいない静かな自宅で制服から私服に着替えると、すぐに家を飛び出す。
 目指すは『翠屋』だ。
 喫茶店と洋菓子店を兼ねる翠屋は、高町家の父が店長を、母がパティシエールを勤める人気店。ふたりの娘であるなのはも昔から手伝いをしていたというが、最近になって店を継ぐことを決意したらしく、日々精進しているようだった。
 桃子が優しいとはいえ仕事は仕事、客商売で半端なことはできるはずもなく、教えは必然厳しくなるが、それに必死で食らいつくなのはの姿には、かつてフェイトに幾度となく挑みかかってきた姿に重なるところがあった。柔和な笑みとは裏腹に、かなり根性の人なのだ。いつかは鬱陶しくて憎らしくて仕方がなかったというのに、いまは彼女のそういうところに惹かれる自分がいることをフェイトは発見していた。
 帰宅してすぐに翠屋に向かったのは、そんな彼女の手伝いをするためだった。そして、将来は手伝いではなく、一緒に働けるようになりたいとも思っていた。
 実は、そのことを高町家の皆に伝えたことがある。そのときは、まだこれから色々とやりたいことが見つかるかもしれないから、慌てる必要はない、と言われてしまった。しかし、人の願いを頭から否定する人たちでもない。任される仕事が徐々に増えてきていることがくすぐったくも誇らしフェイトである。

 日が暮れて翠屋が閉店しても、まだ一日はつづく。

 この日はなのはと共に帰宅して、ふたりで夕食を作った。そして、さほど待つこともなく帰ってきた家族たちと食卓を囲む。
 和やかな夕食の席は、この一日の報告会も兼ねている。わりと溜め込む質のはずのフェイトになんでも喋らせてしまう不思議な空気が高町の家にはあった。話しても話しても話題が尽きることはなく、けれども他の皆の話も聞きたくて困ってしまうほどだった。
 食べ終わり、準備のときと同じようになのはと一緒に皆の食器をぴかぴかに洗ってから、自分の部屋に戻る。その途中でなのはに呼ばれて、フェイトは足を止めた。

「フェイトちゃん、いっしょにお風呂入ろっか」

 シャンプーが苦手であることはすっかり知られてしまっている。

「あ、うん」と頷きそうになって、フェイトは慌てて首を振った。「先に、宿題やらないと」

 なんとこの国には文字を縦に書く文化があった。縦書きの場合、行は右から左へと書き加えていくことになる。だから漢字の書き取りなどを右手でおこなうと、手が汚れてしまうことがたびたびあった。洗えばいいだけの話だったが、なんとなく、お風呂にはやるべきことをすべて終わらせてから入りたい。

「わかった。それじゃあ、宿題がおわってからにしよう」
「おわったら呼びに行くから」
「うん。待ってるね」

 わかれて部屋に入り、扉を閉める。
 閉じきった空間に一人。家族の賑やかさの直後だから、静けさは余計に際立って感じられた。一日分の心地よい疲れと満腹感も手伝って、思わずあくびが出てしまう。このままベッドに倒れ込めば、次に目を開くのはきっと明日の朝になるだろう。なのはとの約束もあるし、誘惑に屈するわけにはいかなかった。
 手放しかけた手綱を強く握り、フェイトは精神の制御を取り戻す。自分自身のコントロールに関しては、大人にも負けない自信がある。
 その集中力で挑めば、宿題など彼女の敵ではなかった。
 明日の授業の準備もすべて整え、さてなのはを呼びに行こうと椅子から立ち上がる。
 同時に、部屋の扉がノックされる音が二度響く。

「フェイトちゃん、ごめん、いま大丈夫?」なのはの声だ。

 フェイトは扉を開いて迎え入れる。

「ちょうど呼びにいこうと思ったところだったから」
「そっか、よかった。いま、ユーノ君から連絡があって、もしよければフェイトちゃんも一緒にどうかなって」

 なのはの正面に通信用のモニタが浮いていた。体を寄せてのぞき込めば、そこには愛らしい姿をした小動物。彼の首には、首輪みたいにレイジングハートがぶら下がっている。

「こんばんは、フェイト」
「お久しぶりです、ユーノさん」

 お互いに頭を下げ合う。短い期間ですっかり日本式に慣れてしまった二人である。

「えっと、この時間だとミッドチルダは」フェイトは頭の中で計算する。
「あ、いや、いまミッドじゃないんだ。こんばんは、で大丈夫だよ」
「そうなの?」なのはが首をかしげる。「そういえば初めて見るお家かも」ユーノの背景のことだろう。
「昔発掘に関わった遺跡の再調査が始まってね。資料提供側の責任者というか、アドバイザーというか。どうしても資料だけじゃ伝わらないものもあるから」
「えっと、レシピだけじゃ伝わらない職人の技とか、コツみたいなもの?」
「まさにそれ」フェレットの顔が微笑んだ。「なのはの修行の方はどう?」
「うん、大変だけど楽しいよ。お母さんも厳しいけど、学べば学ぶほど、凄さが分かるようになってきて」
「僕には、あの桃子さんが厳しいっていうのはちょっと想像できないけど……、そっか、楽しめてるならよかった。きっと、なのはならすぐに一人前になれる」
「あはは、どうかなあ」照れたように笑うなのは。

 とても親しく会話するこのふたりがかつてパートナー同士だったことは、フェイトもよく知っている。なにせ、何度も戦った人たちなのだ。
 そして、ある意味で、なのはのもうひとりのパートナーだったデバイス・レイジングハートは、元を正せばユーノの持ち物であったという。
 それを聞いたとき、フェイトは驚いてしまった。なにせ、フェイトの目には、なのはとレイジングハートの相性は抜群に見えたからだ。それが借りたばかり、できたばかりの即席タッグだったなんて……。
 高町家に来たばかりという意識がなかなか抜けないフェイトにとって、あの丸っこくて赤いやつは親近感の対象であり、希望でもあった。

「そうそう。仕事を楽しんでると言えば」なのはが隣に寄り添うフェイトに顔を向ける。「フェイトちゃんも一緒にお店のお手伝いしてくれてるから、お父さんもお母さんもお姉ちゃんも、みんな喜んじゃって」

 突然話題に上がったフェイトは、驚きながらも頷いた。

「へえ、すごいじゃないか」ユーノが驚いたように言う。「フェイトはそっちの学校にも通ってるんだよね?」
「はい」
「いいなあ」などという彼の声は本気で羨ましそうだ。フェイトの困惑を感じ取ったか、ユーノは取り繕うように咳払いする。「いや、実は、僕もその世界に興味があって。もしフェイトがよければ、今度いろいろと話を聞かせてもらえないかな」
「それはいいですけど……」フェイトはなのはを見る。ずっとこの世界に住んでいるなのはの方が適任ではないだろうか、と提案するように。
「いや、フェイトの話を聞きたいんだよ。今までと常識が違う世界に暮らしていて、あれが違っていて驚いた、これが同じで安心した、というフェイトの経験を。僕も少しだけなのはの家にお世話になっていたけど、ほら、ずっとこれだったし」ユーノは自分自身の体、小動物の肉体を動かしてみせる。「渡航の許可もなかなか取れるものじゃないしね」

 彼の発言に対して、なのはが不思議そうな表情で口を開いたが、言葉が出てくることはなかった。先に、部屋の外からなのはを呼ぶ声がしたからだ。

「あれ、お姉ちゃん。どうしたんだろう。ユーノ君、ちょっと」
「僕のことは気にしないで。フェイトとも話したかったし」
「ごめんね」

 もう一度呼ぶ声が聞こえ、なのはは小走りに部屋を出ていった。その背中を見送り、フェイトはまたモニタに向き直る。

「さて。それじゃあ、申し訳ないけど先に嫌な話から」
「お願いします」

 ユーノが語ったのは、フェイトの頼み事――ジェイル・スカリエッティ事件の捜査の続報だった。
 フェイトがスカリエッティを知ったのは、ジュエルシード事件がすべて終わってからのことだ。取り調べの最中に、母プレシアと手を組んだ人物として挙がった名前だった。
 そのスカリエッティは、ミッドチルダで大規模なテロルを起こしながら、あっさりと逮捕されたという。
 しかし、事件はそれだけでは終わらなかった。
 なんと、彼は自身のコピーを次元世界中にバラ撒いたと宣言し、いずれ似たような事件が起こりえることを仄めかした。
 自分の母がこのような危険人物と共犯関係にあったことにショックを受けたフェイトだったが、そんな彼女を救ったのもまた母だった。

「これはクロノ提督が言ってたことだけど、レイジングハートの情報がなければ、数年は出遅れていただろうって。それに、この手の事件での数年は致命的だとも」

 レイジングハートは臨海公園で一度なのはの手を離れている。奪ったのはフェイトで、その後プレシアに渡った。そのとき、ジュエルシードが抜かれる代わりというわけではないだろうが、とある情報がインプットされたらしい。それが、プレシアが独自に調べたと思しきジェイル・スカリエッティに関する資料だった。
 プレシアとスカリエッティは信頼し合っていたとはとても言えないようだったが、それでも逮捕を目的に動いている管理局よりはよほど情報を得やすい関係だったのだろう。研究内容に始まって、隠蔽された研究施設や、彼の悪魔的な頭脳を欲してクローンを匿う可能性のある組織や企業など、情報は多岐に及んだ。また、プレシアが起こした事件の全貌も、プレシア本人の手で記録されていた。
 これはフェイトの罪状を軽減するための司法取引的な意図による情報の提供で(実はフェイトは、大した抵抗もなくあっさり捕まったスカリエッティへの報復なのではないか、と密かに思ってもいた)、フェイトが事前に知らされていた用途不明のパスワードによって開示される仕組みになっていた。元々罪は軽かったが、これのおかげでフェイトはほとんど罰を科せられることがなく、短い保護監察期間の後、生涯にわたって完全に魔力を封じるリミッターをつけることを条件に、地球での永住が許された。外から見れば一種の追放だったが、知るものが見れば気遣いにしか見えない処置だった。このあたりはジュエルシード事件を預かるクロノ提督のチームが尽力してくれたらしく、感謝は言葉に表せないほどである。

「じゃあ、この話はこれでおしまい」しばらく話し続けたユーノは口調も軽くそう締めると、一度フェイトの部屋の扉を見てから、突然人間の姿に戻った。

 フェレットの毛並みと同じ色をした柔らかそうな長髪。緑色の理知的な瞳。
 この姿は、ジュエルシード事件の裁判が終わるまでの間、何度も見ていた。どういうわけか、彼は人間の姿とフェレットの姿を使い分けていたようだったけれど。

「それで、ここからが本題、というか……、フェイトに相談したいことがあるんだ」
「相談?」

 フェイトは疑問に思う。
 大人の人が、自分に相談?
 なんだろう。

「うん。事情を知っている中で、一番なのはと仲がいいフェイトに、是非聞いてほしい相談事があって」ユーノは真剣な表情で話す。「実は、なのはに、僕が人間だってことをどうやって打ち明けようか悩んでるんだ」
「え……」

 フェイトは戸惑うも、すぐに気がつく。そうか、信じにくいが、なのははあれで魔法初心者だった。フェイトもユーノを見て使い魔かと思っていたほどだったし、なのはが自分で気づくことはできないだろう。変身魔法の存在すら知らない可能性もある。
 ……それにしても、なのはがいるときいつもフェレットなのはそういうことだったのか。趣味じゃなかったんだ、と納得するフェイトである。

「えっと。たとえば、元の姿に戻ってから、毛皮のコートをプレゼントする、とか」
「ああ、なのはのために毛皮を脱いだら人間になっちゃったよって? なるほど」
「……」フェイトは渾身の冗談を真に受けられて黙り込んだ。

 この沈黙をどうしてくれよう、と考えた矢先、部屋の扉が開いた。

「ただいま。……あれ? どうしたの?」戻ってきたなのはは、誰も映っていないモニタをのぞき込む。
「あ、ごめん。ちょうど今、呼び出しがあって」再び現れたユーノは既にフェレットだった。「なのはの方はなんだったの?」
「うん、お風呂が空いたからフェイトちゃんと入っちゃえって」
「なら、ちょうどいいし、今日はここまでかな。また近いうちに連絡するよ」
「わかった。楽しみにしてる。お仕事がんばって」
「ありがとう。なのはも頑張って。フェイトも、またこんど。それじゃあおやすみ」

 モニタが消失する。いっそ見事な撤退だった。

 それからふたりは一緒にお風呂に入った。
 なのははフェイトとユーノがなにを話していたのか気になるようだったが、フェイトは彼の秘密を死守することに成功した。自分が話してしまえば案外上手くいくのではないかと思いもしたが、リスクを考えれば黙っているべきだろうと判断した。決して毛皮のコート作戦を見たかったわけではない。

 お風呂から上がり部屋に戻ったときには、既に寝るには良い時刻になっていた。
 一度、なにかやるべきことが残っていないか頭の中でチェックしてから、フェイトはベッドに潜り込む。
 温まった体から熱が逃げないよう、しっかり毛布にくるまると、途端にまぶたが重くなり始めた。
 今日も一日、楽しかった。
 きっとあしたも楽しいに違いない。
 やさしく抱きしめられるような心地よさにつつまれながら、眠りに落ちていく。
 夢か現かもわからぬまどろみの淵にあって、フェイトが最後に思ったのは、母のことだった。


 いまでもあなたを思うと寂しいけれど、それでもあなたの娘は幸せにやっています。


 だから、私はもういいから。


 どうか、今度は母さんがたくさん愛してもらえますように。





 End.





























 アルハザードにも死者蘇生の技術は存在しなかった。しかし、技術レベルは、彼女が旅立った時代よりも進んでいた。
 彼女はアルハザードの土台の上で、更に研究を進めた。
 研究の題材は二つ。
 死者蘇生そのものと、
 死んだ人間の再現、すなわちクローンへの任意の特徴・方向性の付加。
 前者はなかなか進まないが、後者の進み具合は悪くない。
 この日も、彼女が所属する研究チームは、一つのプロジェクトを完成させたところだった。
 この成功から得られたデータを使い、彼女はまた次の段階に挑むのだろう。

 深く息を吐き、椅子に体重を預けきる。
 そうして、次の研究の構想を練ろうとしたところで、唐突に再生される記憶があった。


 ―――君が父と呼んでくれないのならば、私が君を母と呼ん


「ああ、――そういうこと」

 彼女は苦笑すると、次の瞬間には研究について考えはじめていた。
 もう、どうでもいいことだ。


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