霊峰。ユクモ地方の渓流奥地に存在するその場所に、千雨という一人のハンターが立っていた。
空は相変わらず青く晴れていて、心地よい風が千雨の髪を揺らしている。今日は珍しく雲一つ見つけられなかった。
「やっぱり、見間違いだったんじゃニャいかニャ?」
隣で双眼鏡を覗き込んでいた相棒の言葉に同意する。
「だろうな。そもそもアマツマガツチみたいなのが何匹もいたら、ここら一帯に人間なんか住めないだろ」
ギルドで聞いた、空を飛ぶ古龍らしき影の目撃情報。その確認をする為に千雨達は三日も前からこの場所でそれらしき存在を探していた。
「だったら、ニャんで千雨はここから動かニャいニャ? もともとは一泊くらい調査するだけの予定だったニャ」
ジト目でこちらを見る相棒。千雨はそちらを見ることなく答える。
「見られてんだよ。アマツマガツチじゃねーな。ヤバそうな奴がずっとこっちを観察してやがる」
「ど、どっちニャ!?」
慌てて相棒が双眼鏡を構える。千雨はスッと前方を指さす。
「向こうの姿は確認できない。気が付いたのは、まあ勘だ」
「うー……。千雨の勘って当たりすぎるから怖いニャ。逃げ隠れたナルガクルガ一発で見つけるし。小っちゃい頃はかくれんぼで負けっぱなしだったニャ……」
千雨はぶつぶつ呟く相棒を気にせず、くるりと踵を返してベースキャンプに戻る。
「あれ、何をするニャ?」
「予備の食糧も無くなるしな、ここはひとまず――」
千雨はささっと荷物をまとめて背負う。
「――帰る。お前も荷物まとめろよ」
「でもあっちにいるヤバそうなのはどうするニャ?」
「一応誘ってみたけど反応しないし、遠すぎて何もできねーよ。まあ、ギルドに報告するけどな」
とはいっても千雨の勘が正しければ、相手はアマツマガツチ以上。そしてこの近辺で古龍討伐経験のあるハンターは千雨達だけ。何か起きるとするなら必ず千雨達が動くことになる。
古龍撃退経験のあるモガの村の英雄や、峯山龍狩りで知り合った凄腕のハンター達に連絡を入れるべきか。あるいは別の大陸とやらから人材を集めて貰う必要があるかもしれない。
「あれ、アルバトリオンとやらなのかなあ」
いるかどうかも分からない古龍の名前を出してみたが、どうにもしっくりこない。未知の古龍だろうか。あるいは……。
「神様、かも」
直後、世界がいきなり変わった。
空は昏くなり、風は生ぬるく頬を撫でた。アマツマガツチすら遠く及ばない、絶対的な何かが完全にこちらを捉えている。
「……それでも目視出来ねー」
「千雨、完璧ヤバいニャ」
「わーってる」
愛用の王牙刀【伏雷】を抜き放ち、構える。相手は斬れるかどうかも分からないが、気持ちで負けるつもりはない。斬ると自分の中で決める。
「ッ! 来る!」
勘が危険を訴える。相棒を掴み、大きく跳躍し、思い出したように太刀を振るう。切っ先が何かに掠った気がした。
「――――!」
激震。空中にできるはずがない亀裂が生まれた。中は闇より黒く、亀裂は千雨達の落下先にも伸びて来る。
落ちる。そう理解した千雨は、相棒だけでも逃がそうと、彼を掴んだ腕を振りかぶり、見た。
彼は逆に千雨を投げようと、その小さな体を必死に動かしていた。
「――――!!」
千雨は相棒の名を叫び、投げる。
しかし、我を忘れた時間が長く、二人は空中の裂け目に落ちた後。
投げられた彼の体はわずかに裂け目から出て、また入る。
千雨は最後まで彼女の腕を掴む小さな手を離さそうとしなかった相棒を見て、泣いた。
幼いころから一緒だった相棒を助けられなかった。悔しさで頭がどうにかなりそうだった。彼の小さな体に手を伸ばし、思う。
(――死にたくねえっ!――)
長谷川千雨は、駅のホームで電車を待っていた。今日から新学期。中学三年生となる。
あと一年もあの子供先生が担任だと思うと、憂鬱になる。深くため息をついて、周りの生徒たちから怪訝な目を向けられる。
電車が駅に進入することを告げるアナウンスが流れる。
「ん?」
誰かに呼ばれた、様な気がした。後ろを振り向いたが、誰も呼んではいなかった。ストレスで頭がいかれたのだろうかと、また憂鬱になった。
電車がやってきたのが見えたので、前を向いたら、急に姿勢が崩れた。
「あ?」
体が落ちる。電車の運転手が慌てているのが見えた。落下地点はおそらくレールの上。減速しているとはいえ、車輪に巻き込まれたら死ぬだろう。
走馬灯のように思い出が脳裏を駆け巡る。悲鳴が聞こえた。五月蝿い、死にそうなのはこっちだ。
(――死にたくねえっ!――)
視界が急にクリアになる。手に持っているのは記憶に無い愛刀と見覚えの無い相棒。太刀は捨てても問題ないが、猫の様なおかしな生物は手放せない。
彼を抱え込むように腕を動かした。体勢が変わったおかげで脚が巨大な塊の方向を向く。好都合だ。そのまま電車を蹴って、跳躍。
とっさの回避行動は成功し、ようやく止まった電車から離れたレールの上に着地する。
周囲がどよめく。
「君! 大丈夫かい!?」
駅員の叫び声が聞こえる。返事をしようとして、自分が何と何を両手に持っているか思い出す。どちらも調べられたら拙い。
「ごめんなさいっ!」
脱兎のごとく走り出す。幸い、追いつかれることなく逃げ切れた。
「はー、はー、はー。くそ、この距離は、強走薬、無いと、キツイな。はー」
ようやく人がいないところに来れたので、手に持っていた相棒を下ろして座り込む。
相棒のお腹が、膨らんで、元に戻ったのを確認できた。
「……よかった。生きてた」
涙がこみ上げてくる。あのわけのわからない現象から帰還できたことを、泣いて喜んだ。
ひとしきり泣いた後、ふと気が付く。
二つの人生を歩んだ記憶がある。
一つは、この平和な日本で生まれ育った女子中学生の千雨の記憶。
一つは、ユクモ村に住んでいる超一流のハンターである千雨の記憶。
服装は、女子中学生の物。体は、ハンターの物。精神は、よく分からない。
「なんだよこれ、異世界トリップに分類していいのか?」
千雨の疑問に答える者はいなかった。