まだ春の香りが漂う季節の真っただ中。月明かりに照らされた一場面はどうしようもないくらいに絵になっていた。
出会いの季節と冠される春において、その二人の逢瀬は物語の一部分としては上出来。
かたや冷酷な部分を併せ持ちながらも人情を忘れぬ黒く長い髪を持つ、正にクールビューティー。
かたや粗雑ながらも人を捨て置けない心を持った男。
キャスティングは万全。背景となる絵面も帳を漂う雲が遠慮を見せて美しく輝く黄金を見せることをかって出た。
男は背を見せたまま漆黒の帳の中へと消えて行こうと。
女は今まさにその男に声をかけるところであった。
どんなドラマが始まるのかと、蚊帳の外である観客は期待に胸を躍らせる。
儚くも散っていく限りの恋であるのか、はたまた誰も知り得ぬ伏線がひょっこりと顔を見せ、とんでもない真相が明らかになるのか。
しかして女の口から紡がれた言葉は冷酷以外の何でもなかった。
「待ちなさいランゼル。どこへ行くの」
男は答える。
「何って、ちょっと散歩」
「なら刀は置いて行きなさい。それができないと言うのなら、私を斬っていきなさい」
季節は人の出会いを冠する春の帳が下りた美しい夜のこと。
始まろうとしていたドラマはおおよそ、観客が期待していたことの全てを裏切った血に塗れた話になろうとしていたのだった。
- 05 Please come back to my life -
「何でそんな物騒な話になってんだよ。ちょっと風に当たってくるだけだっての」
「それにどうして刀が必要なのかしら」
「寮生が襲われたんだろ?それぐらい耳に入ってる。得物を持たずに行っちゃ、もしもの時に自分の身を守れねぇだろ」
「なら時間を考えることね。危険だと認識しているのにどうしてわざわざ出て行こうとするのかしら」
無駄だな。
既にあの女の息がかかっているとしか思えない。
シオンに情報を渡していたということは俺に情報を渡すに同じ。だと言うのにキリハをここで配置したのは一体どういう了見なのか。
もともと読めない女ではあったが、ここまでされると欺瞞を通り越して単純な課題のようにも思える。
「あの女に頼まれたのか?」
「だったら?」
「俺を止めてどうするよ。もう事は学園内だけじゃ収集がつかなくなってるんだぜ?国のお偉いさんに報告が上がってねぇわけない」
「大人しく駆除(コマンダー)に任せることね。下手に手を出して噛みつかれては笑い話にもならないでしょう?」
会話を交わしながらも互いに決定的な距離を離さない。
互いに位置しているのはギリギリの境界線。一歩でも縮んでしまえば相手の剣が奔ることになるだろう。
キリハの右腰に下がるのは俺と同じ得物。つまりは刀だ。
東国の出身であるキリハはその扱いに非常に優れており、精鋭を育てるこの学園の中と言えどその右に出る者はいないというお墨付き。
曰く、キリハが刀を抜いたところを誰も見たことが無いという。
唯一見ることができる相手は二度ととしてその事実を誰かに伝えることができなくなってしまうからだと。
居合抜き。
その必殺の一閃は無論俺だって目にしたことはない。
スキル一辺倒の話ではない。キリハは武だけに長けた存在ではなく、式術の評判も高い。
俺達が使う魔術とは様子が異なっているようだが、その詳しい違いは俺にはよく分からない。ただ魔術と似たようなものであることは違いない。
双方を兼ね備えた相手とは非常にやりにくい。それも双方を得意とするというこは、伴った柔軟な思考も合わさってくるということ。
「……それじゃ困るんだよ」
「何故」
「手出しされちゃ困るんだよ。目にした悪意(アリス)は俺が滅する。それが俺の誓いだからだ」
「誓い、ね。誰との?」
そんな当然のことを聞かれたところで、俺は当然のように答えを返すしかないじゃないか。
「今は知らねぇ、いつかの俺との誓いだよ」
刀を抜く。
それが何を意味するのかは戦いの場に身を置くものならば誰もが知っていよう。
キリハは黙って俺を見つめていたが、俺が鞘から刀を抜くと共に自らの鞘へと右手を当てた。
そのまま何をするでもなく、少し腰を落としただけで俺に斬りかかってくることはしない。
それは俺に対する遠慮だとか、やりにくさだとかではなく、ただ単純に自らのスタイルとは異なっているだけの話。
無暗に刀を抜くのではなく、ここぞというその瞬間での一閃。最小の攻撃で最高の結果を得る為に。キリハは何も言わずに俺の目を見ている。
「……殺しはしない。けれど手加減はしないわ」
「建前なんていらねぇよ。手加減もいらなければ殺めることも躊躇うな。少なくとも俺はそのつもりだ」
「私に勝てる気でいるのかしら?」
「そのまま返してやるよ。模擬戦の総称なんざ酒のつまみにもなりゃしない。お前はまだ知らないだろう」
互いの命を奪い合う 底の見えない殺し合いだ
駆ける。
間合いに入ることを躊躇っては首は取れない。
どれだけ同じ時間を共にしようが大義の前には何もかもが霞む。余計な情で濁るくらいならそもそも心に留めていない。
キリハは尚も動かず、当初の姿勢を保ったままで俺を見据えている。
もう既に俺の首を落とせる距離だ。だというのにそれをせずにただ俺の出方を待っている。
このまま突っ込んで斬りかかれば首が落ちることは必至。俺の刀が届く前にキリハの刀が俺を捉える方が早いだろう。
だからこそ小細工が必要だ。相手の首に剣が届かないというのなら、届くような状況をこちらで作り出さねばならない。
「『Give me a force, Sala. Your energy hurt my enemy.』
(力を寄越せサラマンダ。 テメェの炎でアイツを焼き尽くせ) 」
魔術はそれほど得意ではないが無能ではない。
俺にとって魔術とは相手にダメージを与えるものではなく、あくまでも物理的な攻撃のサポートとしての位置づけでしかない。
その為に威力は問題ではない。言ってしまえば、相手に何のダメージを与えなくてもいいのだ。代わりに隙さえ作ってくれればそれでいい。
ゴウッと炎が地面を奔る。
一つ一つの奔流こそどうということもない子供のお遊びにしか過ぎないが、束となって一点に終結すれば痛みを与えるほどにはなるだろう。
鋭いムチのように動く滑らかな軌道の神髄は傷を残すことではなく、捲きつくことで相手の動きを止めることにこそあった。
小手調べには丁度いい組み合わせだ。
戦いとは言わば、幾重にもわたる選択肢の集約と言ってもいい。下手に選べばそれだけ死に近づく。最善の手をうつしか生き残る手段はない。
そうだ、俺の攻撃すらも選択肢の一つ、選択を迫られたキリハは何を選ぶのか。
「辿る未来が一つしかないというのなら、動きも制約されるものよ」
言葉を発したキリハはしかし、全く動くことなく。
それはまるで、動く必要などないのだと俺を嘲るように。
「料理というからには必ず食材が使われるものでしょう?手を加えるものが無ければ味を調えることはできないものね」
「だから何だよっ」
「食べる側だって同じよ。食べる食材が無ければお腹を満たすことはできない。つまるところ、アナタが今私にしようとしていることも同じ」
言葉の意味が分からないままに、しなる炎のムチに乗じて刀を振り下ろす。
「私にはね、アニマと呼ばれる一切を感知しないのよ」
パァンッ!
っと、何かが弾けたような音がした。
呆気にとられて動きを止めたその一瞬、先ほどまで自分と並奔していたはずの炎のムチが姿を消していた。
その事実に気づくのに一秒。
むき出しの肉体を差し出していることに気づいた時には、キリハは薄く微笑んでいた。
先ほどまでよりもわずかに腰を落としている。
そのわずかの違いが、攻撃に移るモーションだとは予測できたが、迫りくるであろう刀の軌道を追える自信など、微塵も感じなかった。
アニマを感知しないだと?
魔術というものはその根源を全てアニマに求めている。
そのアニマを感知しない、つまり認識していないということは魔術という魔術全てを受け付けないことと同じ。
威力云々の問題ではなく、全ての魔術はキリハの前では何の効果を生み出さないということ。
それは例えば脳へと伝達される電気信号。
信号が奔り、感触と合わせることで人間は五感を有効なものとしている。信号が奔らなければ、脳が感知しなければ何の存在も感知できない。
物質があろうが、それを脳が感知しないのならそこには何も無いことになり、
何もない空間でも脳が信号を受け取ればそこには物質が有ることになってしまうのである。
キリハはアニマを感知しない。
それはつまり、いかな魔法であろうともキリハの前ではそれは全て何も起こっていないことになるのである。
「少しは楽しめるのかと思ったらこれとは。まぁ、私のスキルが一つ知れたのはいいことじゃない」
キリハの声がやけにハッキリと頭に響く。
身体を戻そうにも、この体制では明らかに無理がある。無理やり動かしたところでキリハの刀は間違いなく俺の身体に打ち込まれる。
死なないことは理解している。
だがここで攻撃を受けてしまうということは、悪意(アリス)をそのまま逃がしてしまうということだ。
それだけは避けねばならない。己の心の礎を崩されてしまっては、俺という人間が今ここにいる意味を失ってしまうことになるからだ。
いつかの誓いはそんなに軽いものではない。
軽いものではないと、そう知りながらも。
「少し眠りなさい。起きた時にはまた同じような日常が待っているから」
キリハの体が傾く。
左足が踏み込まれる。
鞘から抜き出された何かが一瞬月光を弾いた。
ここまでかと、そう思った矢先のことだった。
『 』
しばらくは開かないだろうと思っていた目が、思いの他たやすく開いた。
その先には確かにキリハの姿があった。
その刀の刀身を見ることはほとんど無いとまでに言わしめた神速の抜刀。その二つ名を返上するように、ただキリハは茫然と俺を見つめていた。
右手に握られた刀はどこまでも白く、美しい刀身を惜しげもなく見せているが、どこかそれを恥じるように鈍色の光を地面に落としている。
確かにあの刀で斬られたはずの胸元に手をやるが、そこにあるはずの大層な傷が無い。
代わりに着ていたシャツに一筋の斬れ目が入っており、春の夜の風にヒラヒラと無関心になびいていた。
「……何を、したの」
呟かれた言葉はキリハの口から。
信じがたい状況を目の当たりにした当人から投げかけられた言葉にランゼルは答える術を持っていない。
それはそうだ。
自分自身でさえ何が起こったのかよく分かっていないのだから。
キリハという女を侮っていたわけではない。だが想像を遥かに越える能力を眼前にした後、確かに敗北を感じたのだ。
避けられるはずもない一振りをかわしたのは自分ではない。ただ確かに己の体は難を逃れ、キリハの刀から逃れることをやってのけたのだ。
不可解な事実を前にした両者にはそれぞれに動揺がはしる。
自分自身ですら分からない動きをもってして相手を圧倒した男はしかし、それがどういう原理でなされたのかに頭が追いつかない。
「……っ」
超人的な男の反応を目にした女はされど、男が持ちえる未知の力に根源的な恐怖を覚えつつあった。
キリハは決して自らを卑下しているわけではない。だが想像を絶する鍛錬を基に磨き抜かれた己の一撃に誇りを持っていた。
それがいともたやすくかわされたとあっては動揺するのも無理はない。絶対にまで磨き上げた技にはそれだけの意味合いが込められていた。
「……声」
「……声?」
「声が、聞こえた。お前、何か俺に言ったか」
独り言のようなランゼルの言葉にキリハは不審な目を向ける。
あの瞬間、あの刹那において確かに声をかけた。だがそれは男に対する勝利を確信したものであった。
「傲慢と、そう言いたいのかしら?」
「……いや、確かに言ったよ。お前じゃないなら、誰かが確かに俺に言ったんだ」
自らの動揺もさることながら、ランゼルのつぶやきはそれを無視できるほどに不可思議な響きを秘めていた。
それはまるで迷子の子供が自らの名前を確認するように。必死に思いだそうとするが、霞む言葉を手の中に収めようとするかのように。
「……こー……いばー?」
「ランゼル、どうしたの、アナタ何を言って」
「『 Code : Little Braver 』?」
ちっぽけな勇気を君に
その言葉が、合図だった。
「っ!!!」
それが何であるのかは全く分からない。
ただ圧倒的な何かがその場を包み込んでいくのがキリハにはわかった。
アニマではない。アニマであるはずがない。
自らの身体がそれを受け付けないのは自分が一番よく知っている。だからこそ、それがアニマでないことは理解できた。
だが感じると共に必死にアニマだと決めつけようとする自分がいることに気づく。それはそうだ。自らが知らないナニカともなれば恐怖しか残らない。
理解が追い付かないままに、身体が傾ぐ。
それほど強い風ではない。ランゼルを中心に巻き起こっている風はそよ風のそれが渦を巻いているというだけの規模でしかない。
だというのにこの威圧感は何だ。
心臓の拍動が止まらないのは何故なんだ。
震える手で刀を握り締める。
ランゼルは何かの感触を確かめるように刀を握りなおした。
その目が、キリハを射抜いた。
「……っ!!!」
言葉が出ない。
出ないほどにランゼルから放たれる何かはとてつもない威光をはらんでいたのだった。