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[31060] WHITE ALBUM2 -retouch-(WHITE ALBUM2)
Name: 曽か◆e7871846 ID:5859e1d7
Date: 2012/01/12 08:12
 これは、夢だ。
 目覚めたら消えてしまう幻。
 あったかもしれない「もしも」の話。
 だったら、俺は…


 コンサートに行く。


「どうしても来れないのか?」
 電話の向こうの武也は、心配そうな声だった。
「ああ、バイト先でどうしても外せない用事があってさ…」
 テーブルの上に置かれた、『冬馬曜子ニューイヤーコンサート』と書かれた紙切れを見つめながら言う。
 嘘では、ない。
 取材元が、わざわざ俺を指名して送ってくれたチケットなんだ。行って、挨拶しておけば、今後も開桜社を贔屓にしてもらえるかもしれない。
 …そうだよ。初仕事が認められた御褒美でもあるんだから。全然、嘘じゃない。
「三十一日まで拘束されるような仕事なのか?」
「本当に、ごめんな」
「…早めに終わったら、連絡しろよ。二年参りが終わったあとも、依緒と御宿で飲んでるからさ。やろうぜ、新年会」
「わかった。…ありがとな」
 嘘じゃないなら、なんでこんなに苦しいんだろう。


 御宿芸術文化ホールに到着した。
 時刻は、八時十分。
 開演は八時なので、すでに一曲目が始まってしまっている。
 部屋を出た時刻を考えれば、充分間に合うはずだった。でも、足が思うように動いてくれず、もたもたと電車を何本か逃がし、ようやく着いたときには入場が閉め切られていた。
 休憩時間まで、ロビーのソファで時間を潰すしかない。
 扉の向こうからは、かすかに冬馬曜子のピアノが聴こえてくる。
 音楽については素人の俺だが、その音色は、なんとなく聴き覚えがあるような気がした。
 やっぱり親子なんだな、あの二人…。
 缶コーヒーを飲みながらしばらく耳を傾けていると、やがて演奏は止み、大きな拍手が聴こえてきた。
 休憩時間に入ったらしい。ドアが開け放たれ、トイレや喫煙所に向かう客たちが溢れ出す。
「行くか…」
 立ち上がる。
 何を思うのか、何を思い出してしまうのかはわからない。
 ただ、ほんの少しでもあいつに繋がりのある何かに、触れていたかった。
 だから、来たんだ。
 入り口を通り、自分の座席を探す。
 贈られてきたチケットは、なんと最前列だった。こんなプラチナチケット、売ったらいくらになるんだか想像もつかない。取材の御褒美にしては豪華すぎるだろ、これ。
 でもまぁ、あの人の金銭感覚からすれば、これくらいどうってことないのかもしれない。
 ようやく席を見つけた。
 腰を降ろし、息をつく。
 客は超満員で、ざっと見回してみても、空席は俺の右隣だけだった。


「かずささん?」
 トイレから出てきたかずさを、美代子が呼び止めた。客席近くのトイレを使わず、わざわざ出演者用のトイレにまで足を運んでいたからだ。
「控え室に忘れ物ですか?」
「…あっちのトイレに行ったら、やたら声をかけられて」
 こちらは相手のことを全く知らないのに、相手は自分のことを知っているという状況は、気味が悪いことこの上なかった。
「サインとか、握手とか、あたしにそんなことされて何が嬉しいんだ? まったく理解できないな」
「空港でお話ししたじゃないですか。いまあなたは、ちょっとしたアイドルなんですってば」
「アイドルなんて…勘弁してくれよ…」
 その評価なら、自分よりもっとふさわしいやつがいる、とかずさは思う。
 例えば、いつもニコニコしてて、おせっかいで、芯が強くて、でも甘えん坊で。そういうやつこそ、アイドルと呼ばれるべきなんだから。
「今日は、コンサートが終わったらそのまま帰るから。控え室に顔出せないって、母さんに伝えといて」
「わかりました。お伝えします」
 それじゃ、と客席に向かってかずさは歩き出す。
 これ以上、記憶の蓋が開いてしまわないように。
「駄目だな…あたし…」
 やはり、この国に来るべきではなかった。
 居場所なんか、ないのに。
 自分の席に腰を降ろし、息をつく。
 そう、日本での自分の居場所なんて、この席みたいなものだ。この時間だけは確かに自分のものだけど、ずっと座ってはいられない。岩津町の自宅だって、今は売りに出されてしまった。
 ――居場所なんて、帰るところなんて…ない。
 アナウンスが聴こえる。
 次の曲が始まるらしい。
 かずさは顔を上げ、気分を変えようと伸びをしようとし、
「隣…来たのか」
 どこかで見たようなジャケットが、左隣の座席にかかっていることに気が付いた。


「なぁ、やっぱりこっち来れないのか?」
 席に着いて、ジャケットを脱いだ途端、武也から電話がかかってきた。
 席に着いた時点で電源を切らなかったことを後悔しつつ、俺はロビーに戻った。
 次の演奏がもうすぐ始まってしまうのだが、それを言うわけにもいかない。
「だから悪いって…」
「頼むよ。いい加減、口説けもしない女とサシで呑むのは飽きてんだ」
「サシで呑むのには飽きてるけど、口説けもしない女自体には飽きてないんだろ?」
「…俺の話はいいだろ」
「近いうちに必ず話すよ」
 雪菜には、完全にふられてしまったけれど。
 このままにしておくわけにはいかないって、それだけはわかっているから。
「でも…今はまだ無理だ。ごめん」
 特に今日は、タイミングが悪すぎる。
「まだっていつだよ」
 武也の語気が荒くなる。
「まだ、まだって、何年待たせればすむんだよ、春希…! いつか卒業するんだぞ俺たち。もうおまえらに…おせっかい、してやれないかもしれないんだぞ…!」
 その声は、電話越しとは思えないくらい、やけに近く感じて…
「だから、今話せ」
 背後で、自動ドアの開く音。
「こんな気持ちのまま、年を越したくねぇだろ?」
 親友が、そこに立っていた。


「口説けもしない女は、どうしたんだよ…」
「久々に口説こうとしたら、喧嘩した」
 武也は平然と答える。
「今はそれどころじゃねぇってさ。どうしてくれるんだ。おまえらのせいだぞ」
「そりゃ、すまなかったな…」
「おう、大いに責任を感じてくれ」
 武也は向かいのソファに腰を下ろす。
「よく、ここだってわかったな」
「依緒と別れたあと、御宿駅に行ったら、あれを見つけてな」
 武也は壁を指差す。
 ちょっとキツめの美人がピアノを弾いている写真、『冬馬曜子ニューイヤーコンサート 御宿芸術文化ホールにて開催』と書かれたポスターを。
「電話の向こうから、人が大勢いる感じがしたし。ま、無駄足覚悟でな」
「恐れ入るよ」
「俺としては、無駄足になる方が良かったんだが、な」
「…」
「なぁ春希。おまえ何やってんだよ。三年経ったのに、また同じことを繰り返すつもりか?」
「違うよ」
「ん?」
「全部、やり直そうとしたんだ。おまえが取ってくれたホテルにも行った。でも…」
 俺は、イヴに起きたすべてのことを話した。
 すべてをリセットして、雪菜とやり直そうとしたこと。
 雪菜は一度はそれを受け入れてくれて、ホテルに行ったこと。
 でも、かずさのことを忘れられなかったこと。
 それを悟った雪菜に拒絶されたこと。
「つまりさ…、俺が三年前に雪菜につけた傷は、全然癒えてなかったんだ。俺の方も、傷つけたナイフをまだ隠し持ってたままだった。そんな二人が『リセット』だなんてさ、笑っちまうよな…」
「…………あのさ」
 ずっと黙って聴いてくれていた武也が、ようやく口を開く。
「これは、男の俺の言い分だけどさ。そこは無理やりにでも進めちまうべきだったんじゃねぇの? 雪菜ちゃんが誰を好きかなんて、今さら疑う余地もないだろ?」
「そう、だったのかもな」
 カタチから入る恋人関係も、あったのかもしれない。
 雪菜も、拒絶した自分を叱ってほしかったのかもしれない。
 でも、あのときの俺は――いや、今の俺だって、そんなことはできない。
「ほんっとに、ややこしい関係だよなぁ。おまえら」
 武也は溜息をつく。
 そこに呆れの色はあっても、軽蔑の色はない。こんな風に、いつも俺の味方をしてくれる武也だから、話したくなかったんだ。
 救われた気に、許された気に、なってしまうから。
「…と、もうこんな時間か。随分話し込んじまったな」
 武也が腕時計を見た瞬間、ドアの方から一際大きな拍手が聴こえてきた。その長さから、どうやらラストナンバーだったらしい。
 時刻は午後十一時五十分。ニューイヤーコンサートと言いつつ、わずかに新年に届かなかったらしい。
 結局、一曲も聴けなかったな。
「どうする? どっかで呑むか?」
「いや、帰るよ」
「そうか。じゃ、行こうぜ」
 立ち上がろうとして、気が付く。
「あ、ジャケット…」


 かずさは上の空だった。
 永遠のライバルである母の演奏のはずなのに。
 一所懸命にアラを探して、あとで指摘してやろうと企んでいたはずなのに。
「…っ」
 かずさの意識は、左隣の空席に向かれたままだった。
 見覚えのある男性物のジャケット。
 その持ち主が、気になりすぎて。
 拍手が鳴るまで、演奏が終わったことにすら気が付かなかった。
 客たちは皆満足そうな顔をして、席を立っていく。
 『ジャケット君』は、結局一度も戻ってこなかった。
 ――あいつのはずがない。
 そう思いこもうとするものの、意識が、視線が、ジャケットから外れてくれない。
 今やほとんどの客が席を立ってしまったが、ジャケット君は帰ってこない。かずさも座ったまま、動けない。
「どうしました?」
 やってきた係員の女性が、かずさに声をかけてくる。
「あ…いや…、これ、このジャケットが」
「忘れ物ですか?」
 忘れ物…。
「そう…そうです。一度ジャケットをかけたまま、ずっと帰ってこないみたいで」
「そうですか。ではこちらは、私どもがお預かりさせていただきますので」
 係員が、ジャケットを手に取る。
「あ…」
「? なんでしょう?」
「お願い、します…」
 かずさは慌てて立ち上がる。
 『触るな!』なんて声を上げそうになった自分が信じられなかった。


「あれ、ジャケットがない…」
 慌てて自分の席に戻ると、座席にかけてあったはずのジャケットがなくなっていた。
 すでに他の客の姿はない。
 受付に行って事情を話すと、ジャケットは忘れ物として届けられていたばかりだった。隣の席の人がわざわざ届けてくれたらしい。
 ジャケットを着て、ホールを出る。
 十二月の寒気が、顔を突き刺す。
 武也には先に行くように言っておいた。今から走ればすぐに追いつくだろう。
 曜子さんの楽屋には…行かないことにした。
 向こうも覚えていないだろうし、感想を訊かれても答えられないしな。
 階段を下りようとすると、除夜の鐘が聴こえてきた。
「新年か…」
 白い息と一緒に言葉を吐き出す。
 結局、何一つ問題を解決しないまま、新しい年を迎えてしまった。
「なぁ、かずさ」
 つぶやく。
「おまえは、どうしてる? 元気にやってるか?」
 階段を下りる。
「…………もう、会うこともないけど、な」
 ――え?
 その言葉は、俺の口から漏れたものではなかった。
 顔を上げた先には、
 流れるような黒髪の女性が、こちらを背に向けて立っていた。
 携帯電話を耳に当てている。
 なんだ。電話か…。
 通り過ぎようとして、
 でも、さっきの声が、耳から離れてくれない。
 ――回り込んで、ちょっと顔を確認するだけ。
 この三年間、街で似たような後ろ姿を見かけるたびにやっていたことを、繰り返すだけ。
 ゆっくりと、回り込もうとして、
 電話を終えた女性が歩きだしてしまった。
「――かずさっ!」


「――っ!?」
 突然呼び止められたかずさが身を震わせたのは、『有名人』となってしまった面倒くささからではない。
 もう、二度と聴くことはできないと思っていた声。
 絶対に、絶対に忘れることのできない声が聴こえてきたから。
「かずさ…だろ?」
 それでも、かずさは振り向けない。
 足が動いてくれない。
 ――なんだよ。
 ――いま、『会うことはない』って言ったばっかりなのに。
 ――やっぱりおまえは、あたしの言い分なんか聞いてくれないんだな。
 俯いた目が、回り込んできたスニーカーを捉えた。
「やっぱり、かずさだった」
「っ違う! あたしは冬馬かずさなんかじゃない」
 あんな酷いことをしてしまった人間が、のこのこと戻ってこれるはずがない。
「ひ、人違いだ」
 顔を背け、早足で歩き出す。
「俺、苗字は言ってないんだけど…」
「~~~~っ!」
 走り出す。
 とにかく目の前の人間から逃げ出したくて。
「待てよ!」
 がくんっ、と姿勢が崩れる。
 腕を掴まれた。
「離せ!」
 顔を背ける。
 顔を見てしまうと、顔を見られてしまうから。
 自分でもどんな表情をしているか把握できない、こんな顔を…。
「かずさ。聞いて」
「――嫌だっ!」
「あ…」
 強引に手を振り払う。
 再び走り出そうとして――そして、こけた。
「ヒールが折れてるから、って、言おうとしたんだけど…」
「………」
 咄嗟に両手をかばったかずさは、肩を強打して動けない。
「おまえ、本当に…変わらないのな」
 ――おまえだって。
 覗き込んできた春希こそ、三年前の顔をしていた。

 
「そう。…うん。ジャケットを届けてくれた人のヒールが折れちゃって、お礼も兼ねて。…いやいいよ。俺だけで出来るから。っていうか来るな。せめて三が日まではナンパを控えろ」
 武也はもう御宿駅に着いているらしい。
 遅れた俺に不満を言い、理由を述べると呆れていた。
「じゃあな。依緒にもよろしく」
 電話を切る。
「…部長か?」
 隣に座ったかずさが言う。
「ああ」
「電話終わったんなら離せよ」
 左手を、俺に繋がれたままで。
「だーめ。離したら逃げるだろ」
「……!」
 抗議するように、繋いだ手をぶんぶん振り回してくる。
 その力加減は全然本気じゃなくて、なんだか笑ってしまう。
「さて、と。とりあえず靴だな。このへんだとド○キかな。サイズは何センチだ?」
「…自分で買える」
「ド○キまで何履いて行くつもりだよ」
「じゃあ、買ってこい」
「離したら逃げるだろうが」
「……」
「……」
 膠着状態のまま、ベンチに座り続ける二人。
「そうだ。曜子さんを呼ぶか」
 って、ここはどこ公園だっけ?
「駄目だ。こんなとこ見られたら爆笑される」
「爆笑というのは大勢が笑うことであってだな…」
「うるさい」
 会話が続かない。
 でも、全然嫌じゃない。
 くすぐったいような、懐かしい沈黙。
 懐かしい、『女の子じゃない』手のひらの感触。
「ホテル、どこだ?」
「…訊いてどうするっ」
「うろたえるな。他意はないってば。タクシーに来てもらうんだよ」
「近いからいい」
「じゃあ…どうすりゃいいんだ?」
「…馬鹿」
「意味がわからん…」


 かずさは春希の提案を片っ端からつっぱねた。
 ――次から次へと、よくもまぁおせっかいが思いつくもんだ。 
 気に入らなかった。
「そうなると、うーん」
 三年間のブランクなんかなかったみたいに振舞う春希が。
 左手を離してくれない春希が。
「じゃあ、そうだな…」
「あ…」
 手が、離れる。
 離れてしまう。
 春希が立ち上がる。
「――行かな」
「ほら」
 そして、かずさの目の前でしゃがんだ。
 こちらに背を向けて。
「な、なんだよ…」
「おぶされ」
 気に入らなかった。
 かずさの望みを叶えるのに、こんなに時間がかかってしまう春希が。
「ホテル、近いんだろ? だったら歩いていったほうが早い」
 心の中で、ゆっくり十秒数えたあと――、
 かずさは、出来るだけめんどくさそうに腰を上げた。


「そういえば、なんとかコンクールで準優勝したんだって? やるじゃん」
 背中にかずさの重みを感じる。
「…あんなの、全然駄目だ」
 首筋にかずさの吐息を感じる。
 ホテルになんか、辿り着かなければいいのに。
「大したことじゃないのに、知名度だけは上がって最悪だ。あの記事を書いたやつに説教してやりたい」
「はは…そりゃ、ごめん」
「春希が謝る必要ない」
「いやほんとに…」
 まさか隔月のクラシック専門誌が、あんなにたくさんの人に読まれるなんて思ってもみなかったんだよ。
 忘れかけていたけど、そういえばこいつは有名人の娘で、とんでもない美人なのだった。
「春希は…」
「ん?」
「春希は、この三年間どうしてたんだ? その、雪菜と…」
「勉強とバイトに明け暮れてた」
「そ…っか」
「これでも苦学生ですから。ファミレスに、コンビニに、塾講師に、引越しもやったな」
「どうせ、あちこちでしなくてもいいおせっかいをしてたんだろ?」
「できることをやれる範囲でしてただけだ。仕事だからな」
「はいはい。言うと思った」
「その納得のされ方、納得いかないんだが…」
 できるだけ、ゆっくり、歩く。
「…雪菜とは、さ」
「……うん」
 でも、核心から逃げるわけにもいかない。
「つい最近まで、何もなかった。何もなさすぎて、最近色々あった。…って、なんかわかりにくいな。もし興味ないっていうならやめるけど、」
 今話さないと、かずさは、もうすぐウィーンに帰ってしまうんだから。
「できれば、聞いてほしい」


「……」
 俺の告白を聴き終えても、かずさは無言だった。途中、ほとんど相槌を打っていなかったから、寝ているのかもしれない。
 …いや、それはありえないか。
「俺、やっぱりかずさが好きだ」
「…っ」
 かずさの喉が鳴る。
「三年経っても、好きなままなんだ」
 言って、しまった。
 人を好きになる資格なんか、ないはずだったのに。
「…………雪菜は、春希を振ってなんかないよ」
 俺の気持ちの話、してたんだけどなぁ…。
「電話でも何でもして、とにかく仲直りしろ。そして、二度と離すな」
「雪菜は俺を責めないだろうけど、許してもくれないよ。だって、雪菜の指摘したことは間違ってないんだから」
「……」
「まだ、かずさを忘れられてない。俺は、だけど……」
「…………あたしのことなんか、忘れてくれ」
「かずさは、俺のこと忘れたか? 向こうで、その、新しい…」
「…………るわけないだろ」
「え?」
「…あたしのことはいいんだってば」
 かずさの気持ちの話、してたんだけどなぁ…。
 俺は、焦っていた。
 どうしてもかずさの口から、今の気持ちが聞きたかった。
 だって、もうホテルの前まで来てしまったんだから。
「かずさ……」
「そんな甘えた声出すなよ……、おまえ、卑怯だ」
「知ってる」
「最低で、最悪で、汚い男だ」
「知ってる」
「だから……」
 俺の顎に、かずさの指がかかる。
「もう二度と、あたしの前に現れないでくれ」
 頬に柔らかな感触を残して。
 冬馬かずさは、ホテルの中に消えた。


 ――あたしの馬鹿!
 靴も履かずに、かずさは廊下を走り続ける。
 ――あたしは、また、あいつに呪いを…。
 一人っきりのエレベータの中、かずさは膝を抱えて泣いた。
「駄目だ。駄目だ駄目だ駄目だ」
 欲しがっちゃいけない。
 気のある素振りをしちゃいけない。
 一言『恋人がいる』って、嘘をついてしまえば良かったんだ。
 でも……。
 春希の匂いに包まれて、春希の温かさを感じて、
 あんなに幸せな気分のときに、嘘なんてつけなかった。
 エレベータが最上階に到着する。
 誰にも顔を合わせないように早足で廊下を通り、部屋に飛び込む。
「あら、遅かったわね。…って、どうしたの。その格好」
 先に帰宅していた曜子が目を見開く。
「なんでもない」
「靴失くして、顔そんなにして、何でもないはないでしょ」
 曜子を無視して寝室に向かい、ベッドに飛び込む。
 今は何も考えたくない。
 何もしゃべりたくない。
 ドアの向こうで、溜息がひとつ。
「………やっぱり、劇薬だったかしら」


 躰が、重い…。
 目が覚めると、既に昼。普段の俺だったら有り得ない時間。
 昨夜はどうやって帰ったかも覚えていない。
 重い体を引きずって体温計を探し当てると、三十八度五分。
『もう二度と、あたしの前に現れないでくれ』
 かずさの最後の言葉と行為は、熱を伴って俺の体に残り続けていた。
「言ってることと、やってることが合ってないだろ…馬鹿」
 あいつの態度と言葉、どっちを信じるかって言われたら…。
 今までの経験上、それは…。
「……っ」
 ベッドに戻ろうとして、携帯に着信が入っていることに気が付いた。
 武也?
 今は声を出すのも億劫だが、昨日の件もあることだし、コールバックしてみる。
「どうした?」
「いや、昨日の『恩人』とどうなったかなーなんて。なぁ、美人だった? 連絡先くらいは訊いたんだろうな?」
「おまえじゃあるまいし…」
 どうにかしたい気持ちは……なかったとは言わないけど。
「…? なんか、調子悪そうだな」
「ちょっとな。昨日の夜、風に当たりすぎたみたいだ」
「熱か?」
「八度五分」 
「マジかよ、新年早々…。何か欲しいものあるか? 薬くらいだったら買って行ってやるけど」
「大丈夫。寝れば治るから…」
「…そっか。何かあったら電話しろよ。おまえは心臓が止まる数秒前までレポート書いてそうだからな。しかも他人の」
「褒めてくれてありがとう…」
「今の反応から見てもだいぶひどい熱だな。寝たほうがいい。うん」
 携帯を切った。
 横になると、すぐに眠気がやってくる。
 眠る直前に思い浮かべたのは、あいつの顔。
 今ごろ、成田だろうか。
 あいつのことだ。あんなことを言った手前、日本に長居なんかしないだろう。
 躰がこんなじゃなければ、成田で待ち伏せて、せめて一言……。


 ――チャイムの音で目を覚ました。
 時計を見ると、あれから三時間ほど経過している。
 立ち上がるとまだふらつくが、さっきほどじゃない。
「はぁい…」
 ドアを開けると、
「こんにちは」
「……雪菜」
 イヴから、ずっと会っていなかった雪菜だった。
「武也くんから連絡もらって。春希くんが死にそうだって」
「あいつ…」
「調子、悪そうだね」
「ああ、寝る前に測ったときは、八度五分…」
 雪菜は目を見開く。
「! たいへん。ベッドに戻って。一応、色々持ってきたから…」
 スーパーの袋を片手に、部屋に入ってくる。
「食欲ある? おかゆくらいだったら食べられそう? 少しくらいは食べなきゃ駄目だよ」
 雪菜は袋から食材を取り出すと、手早く冷蔵庫に入れていく。
 イヴのことなんかなかったみたいに。
 イヴのことなんか忘れたみたいに。
 …違う。
 この一週間で、雪菜は立ち直ったんだ。
 少なくとも俺と話せるぐらいにまで、自分だけで立ち直ったんだ。
 雪菜は強くて、優しい…。
「雪菜…」
「もうちょっと待ってね。簡単な下ごしらえは家で済ませてきたから」
「あのさ…」
「おリンゴも貰ってきたよ。固形物が無理そうだったら、すりおろしてもいいし」
 俺は、そんな雪菜を…、
「昨日、かずさと会ったんだ」
 もう一度、奈落の底へ叩き落さなくちゃならない。


「……っ」
 キッチンに見える背中が、一度、大きく揺れた。
「曜子さんのニューイヤーコンサートに来てたんだ。曜子さんから、あの記事のお礼にって、チケットもらってさ」
「……」
「そこに、かずさが来てた」
 雪菜の手は、完全に止まっている。
「…そう。かずさ、元気だった?」
「相変わらずだったよ。俺を見るなり走って逃げてさ、ヒール折っちゃって」
「……かずさらしいなぁ」
 ふふっ、と笑い声が聴こえるが、どんな表情をしているかはわからない。
「追いかけて、何とか話をして……色んなことを話したんだ。三年分。去年のイヴまでの話を、全部」
「そ…っか」
 雪菜の頭が、わずかに上がる。
「そっかそっか。話しちゃったんだ」
「だから俺…」
「なんで今、その話をしちゃうかなぁ…。これから美味しいごはん作って、看病して、気が弱ってるところを勇気付けて、イチコロにしちゃう作戦だったのになぁ」
 ――そんなことをされたら…いや、そんなことされなくたって、雪菜のことは好きなままだよ。
 喉まで出掛かった台詞を飲み込む。
「かずさ、何だって?」
「いや、まだ返事は…」
「やっぱり。そういうところも変わってないかぁ…」
 はぁ、と可愛く溜息をついてみせる。
「あの時も、かずさってば最後まで素直にならなくて、だから私、なんだか怒れてきちゃって」
 『あの時』がいつなのか、雪菜の言葉だけからはわからない。
「『とっちゃうよ』って、言ったのになぁ…」
 鼻をすする音。
「……ごめん。わたし帰るね」
 こちらに顔を見せないまま、
 泣き顔を決して見せないまま、
 雪菜は出て行った。


 躰が、重い…。
「八度五分。熱ね」
 曜子が体温計の表示を見て言う。
「あんな寒空の中、一体何時間話し込んでたわけ?」
「いま、何時?」
「元旦の夜よ。あなた半日以上も寝てたってわけ」
「…………帰る。ウィーンに帰る」
「そんな状態で飛行機に乗られたら、他の乗客に迷惑よ」
「離れなきゃ…早く離れないと、あたしは……」
「『離れる』ねぇ。ほんと、劇薬だったわね。効き目が良すぎて困っちゃう」
 意識が朦朧としていて、曜子が何を言っているのかもよくわからない。
「ま、いい機会だし、ひさしぶりに母親っぽいことするチャンスだと思うことにしましょうか。何やったらいいかわかんないから、とりあえず美代ちゃんに丸投げするけどー」
「こんなときだけ、母親ヅラして……」
「はいはい。母親ヅラされたくなかったら、いつも健康でいることね」
 曜子の手のひらが、かずさの額に当てられる。
「うう……」
 その冷たさが気持ち良い…ということを悟られたくなくて、かずさは目を瞑り、眉間に皺を寄せてみせた。
 その態度に、曜子がくすっと笑う。
「さてと、お薬はどうしましょうか。…あえてここで、もう一度劇薬を処方するのもあり、かな?」


 次に目覚めた時には、ほとんど熱は引いていた。
 何も食べずひたすら寝て、体力の回復に励んでいたのが功を奏したのかもしれない。
 あれから日付が変わって、一月二日。
 起きたのは朝の六時。体調が戻ったと同時に生活のリズムも戻るなんて、我ながら、なんてクソ真面目なんだろう。
「何か、口に入れなきゃ…」
 それでもまだ、雪菜の持ってきた食材を食べる気にはなれなくて、缶詰やパスタソースを使った簡単な雑炊を作ることにする。
 ボンゴレ雑炊。
 熱で倒れたときは、無性にこれが食べたくなるのだ。
 土鍋に材料を放り込む。
 学園祭の数日前、かずさに作ってやったことを思い出しつつ、ゆっくりと煮立たせてゆく。いい匂いがする。
 と、携帯が鳴った。麻理さんからだ。
「悪い。起こしちゃったか?」
「いえ、いつもこのくらいの時間に起きるので」
「だと思った」
「それで、いつ〆切です?」
「…そうやって話の先を読もうとするクセ、やめなさいってば」
「でも、仕事なんでしょう?」
「半分正解。仕事じゃないけど、連絡欲しいんだって。朝イチで伝えてほしいって頼まれて」
「誰からですか?」
「冬馬曜子」
「……」
「北原、おまえもしかして年上好き?」
「違いますよ!」
 ものすごい勘違いをされていた。
「…ふーん。そうか。そうなんだ。じゃあ番号を伝えるぞ。090…」
「ま、待ってください! メモメモ!」
 麻理さんとの通話を終え、すぐさまメモした番号に電話する。
「あ、ギター君?」
「北原です…」
 相変わらずだった。


 かずさは、まだ熱にうなされていた。
 短い夢をいくつも観た。
 それはすべて三年前の、鮮明なリプレイ。
 親友を裏切った数々のシーンが何度も何度も繰り返され、かずさを苦しめる。
 やがて、夢を観ることすら疲れ――
 かずさは、ゆっくりと意識を取り戻した。
「……はぁ」
 ホテルの寝室である。
 枕も、シーツも、汗でしっとりと濡れていて気持ちが悪い。
 照明は落とされている。遮光カーテンが引かれているため、今が何時なのか判然としない。首をひねれば時計が見えるはずだが、その労力すら惜しい。
 視線を動かすと、ドアの隙間から、向こうの部屋の明かりが漏れていた。曜子はそこで誰かと会話しているらしく、声が聴こえてくる。
 ――母さん、こっちに来てよ…。
 むしょうに人恋しかった。
 さっきまで観ていた夢の恐ろしさと、病気の心細さが、かずさを甘えん坊で寂しがりやな性格に戻していた。
「――春、」
 思わず名前を呼びそうになって、慌てて口をつぐむ。
 涙と鼻水が溢れ、みっともなく、子供のようにすすり泣く。
 二度と目の前に現れるな、なんて言ったのは自分なのに。
 こんな時だけ助けを呼ぶなんて、どれだけ自分勝手なんだ。
 もう、解放してあげようって決めたのに。
 雪菜の元へ…
「そう。一日経ってもまだ熱が引かなくて」
 隣の部屋の声が大きくなる。曜子がこちらへ向かっているらしい。
 ――母さん。早く。
「医者には見せました? インフルエンザの可能性は?」
 ――春希。酷いこと言ってごめんな。
「インフルエンザではないみたい。…ひょっとしたら、疲れもあるかもしれないわね。ウィーンに渡ってから、ずっと根を詰めっぱなしだったから。熱を出したとたんに今までの無理が」
「無理させないであげてくださいよ…」
「あら、無理をさせてる元凶がそれを言うのね」
「……」
「なに? そのちょっと嬉しそうな顔」
「し、してません!」
 ――春、希?
「とにかく、顔だけでも見てやって。もしかしたら余計に熱が上がるかもしれないけど、時には荒療治も大切よね。…で、何それ?」
「土鍋です。あとカセットコンロ。こちらに調理設備がないと聞いたので」
「いい匂いね~。一口ちょうだい」
「病人優先です」
 ――こっちに、来る?
「わ、うわ…」
 かずさはベッドから飛び起きる。寝巻きのまま、髪はぼさぼさで、汗臭い。
 こんな格好悪い冬馬かずさを見せるわけにはいかない。
 慌てて、毛布に包まり、
「かずさ。入るわよー」
「お、お邪魔します…って、何やってんだ。かずさ」
 ベッドの下で、毛布から顔だけ出したまま芋虫になっているかずさを見て、春希は目を丸くした。


「ほら、口開けろ」
「……」
 匙に載せた雑炊を顔の前に持ってきても、かずさはむすっとした顔のまま、口を開いてくれなかった。
「ほらかずさ、あーんよ。あーん」
 そんなかずさに、曜子さんは肩を震わせながら声をかける。
「食欲、ないのか?」
 ふるふる、とわずかに首を振るかずさ。
「ボンゴレ雑炊、嫌いか?」
 今思い出したけど、そういえば前食べさせたときは『まずい』って言ってたっけ。失敗したかもしれない。
「そんなわけ――あ、いや、食べられないほどじゃ、ない」
「そうなると…あ」
 そこで思い当たる。
「曜子さんに食べさせて欲しいんだな。久々に甘えたいと」
「あら、そうなの? やっだかずさぁ、そうならそうと言ってくれればぁ」
「どうしてそうなるんだ!」
 なんだよ。元気あるんじゃん。
「貸せ!」
 かずさは俺から匙をもぎ取ると、自力で雑炊を口に運んでいく。
「たっぷり寝てさっぱりしたみたいだな。食欲があるのは何よりだ」
「そうだよ。元気になった。だからおまえはもう帰れ」
「おまえは感謝の気持ちとかそういうのがないのか」
「ふん」
 猛烈な勢いで雑炊を掻き込み、
「…あっつ!」
「だから、そんな慌てて喰うなって…」
 ペットボトルのお茶を手渡してやる。
「さて、と」
 曜子さんが立ち上がった。
「ギター君が来てくれたし、私はちょっと出かけてくるわね」
「仕事ですか?」
「ええ。どうせ滞在延長するんだったらついでにやっとこうと思って」
 ということは、俺が来るまでずっと、曜子さんはかずさの傍を離れなかったのか…。
「三時間くらいで戻ってくるわ。おなか減ったらルームサービスで何でも頼んで良いし、そっちのほうのベッドを使ってくれて構わないから。それと、そこの引き出しの中にお徳用の、」
「仕事、なんですよね…?」
 ちょっとだけ見直したのが台無しですよ。


 曜子さんが出かけ、雑炊を食べ終わると、とたんに部屋が静かになった。
 かずさは再びベッドに横になったが、目を閉じる様子はない。
「あの、さ」
「…なんだよ」
 汗でべとべとになっても尚、艶を失わない黒髪が流れる。
「悪かったな。夜中に連れ回しちゃって。熱出したの、俺のせいだ」
「別に…」
「でも、おまえの頼みを聞かなかったことに関しては、謝らないから」
「頼み…?」
「二度とあたしの前に…ってやつ」
「……っ!」
 かずさは毛布を被ってしまった。
「あ、あれは…」
「こんなチャンス、逃したく、ないから」
「う…」
 美味しいごはん作って、看病して、気が弱ってるところを勇気付けて――そういう、誰かの作戦を卑怯に真似てでも、振り向かせたいって、思うから。
「雪菜と、話したよ」
「…」
「雪菜と、話したんだ」
「わかってるよ…」
 毛布から黒髪が覗く。
「あたし、ウィーンに帰っちゃうんだぞ…?」
「わかってる」
「あたしはまだまだ、『冬馬曜子の娘』だ。トラスティで準優勝しようが日本で有名になろうが、世界の中じゃ無名もいいとこだ。もっと練習して、色んなコンクール出て…、もう日本になんか、帰ってこれなくなるんだぞ…?」
 かずさは、『帰る』と言ってくれた。
 日本を自分の居場所だと思うようになってくれたことが、涙が出るくらい嬉しかった。
「俺は、待たないぞ」
「え…?」
「こっちから、ウィーンに押しかけてやるから。大学卒業したら、無理やりにでもな」
「おまえ、それがどういうことかわかってるのか…?」
「かずさの行く先々に押しかけて、おまえを勝手に幸せにしてやる。…馬鹿にすんなよ。どこの国でも、雑用が得意な奴は重宝がられるんだ」
「……」
「え、と……駄目か?」
「急に自信なさげになるな…馬鹿っ」
「うわっ!?」
 かずさは布団を払いのけると、そのまま抱き付いてきた。
「…ごめん。春希」
「なんだよ」
「そんな選択、絶対に春希を不幸にするって、わかってる。春希だけじゃなくて、雪菜とか、部長とか、他の人も不幸にするってわかってるんだ。それでもあたし……今、人生最高に幸せだ」
「かずさ…」
「あたしを選んでくれたから。春希を、独占できるから」
 かずさは頬をすり寄せ、そして――
「ん……」
 三年ぶりの、かずさの唇。
「ん……ちゅ……ふ……んん……春希ぃ……」
「……ん……かずさ……」
 かずさの口内を侵略し、味わい尽くす。
 かずさも負けじと応戦し――
「っ!?」
 唇を、強く噛んできた。
 下唇にしびれるような痛み。
「ん……ふぁ……ちゅ……」
 流れ出る俺の血を、かずさが舐めとっていく。
「ん……」
 唇が離れ、かずさは、恍惚と悲壮を秘めた瞳でこちらを見る。
「これで、春希はあたしのものだ」
 血と、キスの契約。
 この恋には、乗り越えなければならない困難がいくつもある。
 悲しませなければならない人が、何人もいる。
 けど、二人なら――
 二人なら、乗り越えられる。
 そう信じて、前へと歩き出す。







「春希…?」
 瞼を開くと、心配そうにこちらを覗き込んでいるかずさの顔があった。
 ここは――ウィーンの自宅兼事務所。
 二人っきりでやってきた、二人だけの世界。
 そうか。
 あれは…、夢だった。
 夢だったんだ…。
 目覚めたら消えてしまう幻。
 あったかもしれない「もしも」の話。
 けれど、「もしも」なんてものはない。
 それは、俺自身がかずさに言ったことだったのに。
「あ……あぁぁ……」
 俺は、
 俺はなんてことを。
 『一度は彼女を選んだこと』を、『選んだ彼女を捨てたこと』を、なかったことにしてしまった……。
「ああああああぁぁぁぁぁぁ!」
「春希っ!?」
 あのときの選択を、
 あの人たちとの別れを、
 すべて忘れて、都合の良い結末を夢想してしまった。
 雪菜と話しただって?
 何を話したんだ?
 傷つけただけじゃないか。
 だってあの世界の雪菜は…まだ歌を取り戻してない。
 俺に完全に壊されてもいないけど、一度も歌を取り戻せてないんだ。
 単に、傷の浅いほうを選択しただけだ。
 罪悪感の少ない選択を、しただけなんだ。
「大丈夫だから、春希……」
 毛布の中で震える俺を、かずさが包み込む。
「大丈夫。あたしが、おまえを幸せにしてやるから……」


 きっかけは、引き出しから出てきた一冊の古雑誌。
 アンサンブル二月号。
 冬馬かずさ特集。
 数年前、俺がはじめて書いた記事。
 雑誌は、大切に仕舞われていた。
 問い詰めると、かずさはバツが悪そうに、数年前の一泊二日の凱旋について話してくれた。
 冬馬曜子のニューイヤーコンサートに行っていたこと。
 隣の席が空席だったこと。
 美代子さんに雑誌をもらったこと。
 空港で、俺に電話しようとして繋がらなかったこと。
 それらのエピソードが俺の記憶を刺激し、あんな夢を観せてしまったのだろう。


「春希の選択が間違っていなかったって、これから一生かけて思い知らせてやるんだから……」
 忘れるな。
 この幸せは、あの罪と表裏一体だということを。
 多くの人を傷つけた上に成り立っているということを。
 償えない罪は一生悔やめ。
 けれど幸せになることにも、もう迷うな。
 俺は、冬馬かずさと幸せになるって、あの時に決めたんだから。



[31060] WHITE ALBUM2 -retouch-(WHITE ALBUM2)
Name: 曽か◆e7871846 ID:5859e1d7
Date: 2012/01/18 17:36
「ちょっと、武也」
「――ん?」
 顔を上げると、いつの間にか依緒たちはずっと先を歩いていた。
「何ボーッとしてんの。置いてくよ」
「っ悪い」
 慌てて二人に追いつく。
「武也くん、大丈夫? やっぱり、さっきのお店で待たせちゃったよね?」
 雪菜が武也を心配そうに振り返る。
「いや、大丈夫。ちょっと考え事してただけだよ」
 雪菜を安心させるように軽く笑って、武也は答えた。
「そうそう。心配することなんかないって。女の子との買い物なんか何千回とこなしてる奴なんだから。ペース配分くらいお手の物ってもんよ」
「…せめてケタをひとつ減らしてくれ」
 武也と依緒のやりとりに、間に挟まれた雪菜がくすくす笑う。
 『三人』でいるとき、武也と依緒は決して並んで歩かない。
 それは、あの時からの暗黙のルールだった。
「何買ってきたんだ?」
「えっと、マフラー。ずっと欲しかったのがクリスマスセールで安売りしてたから」
 雪菜が紙袋を持ち上げる。
「依緒とお揃いで買ったんだ。ふわふわであったかそうなの」
「へぇ、そりゃあ雪菜ちゃんに似合いそうだな」
「依緒と、お揃いなんだよ?」
「絶対似合うだろうなぁ。今度遊ぶとき巻いて来てよ」
「だからその、依緒が…」
「雪菜もういい。こいつにコメントを期待する方が馬鹿なの。だから店の中に連れてかなかったんだから」
「もう、依緒…」
 唇を持ち上げた依緒をなだめる雪菜。
 もちろん、依緒だって本気で拗ねてはいない。雪菜だって武也だってそのことはわかっている。
 こんな軽口の応酬が自然にできるようになったのは、それほど昔のことではない。
 あれから――
 あいつがいなくなってから、武也と依緒は毎週のように雪菜を外に連れ出していた。
 ショッピングモール、映画館、遊園地。夏は海、冬はスケート。
 終業時間が合えば、毎晩だって呑みに誘う。…もちろん、門限の範囲で。
 しつこいくらい頻繁に雪菜のスケジュールを確認し、休みを合わせ、決して彼女を一人にさせなかった。
 すべては、『三人』のため。
 そのためなら、飯塚武也は自分の恋だって諦められた。


「次、どこ行こっか」
 依緒が武也に目線を送る。
 コースのプランニングは武也担当だからだ。
「そうだなぁ…」
 頭の中で、周辺の地図を検索する。計画より少し早く買い物が終わってしまったのだ。女性の買い物にかかる時間を警戒しすぎたらしい。小木曽家のパーティまで、まだ少し時間があった。
「あそこは?」
 考えながら歩いていると、雪菜が前方を指差した。
 大きな倉庫のような建物。
「リサイクルショップ?」
「雑貨とかあるかもしれないよ」
「あー。最近多いよな、こういうとこ」
 雪菜が行きたいと言うのならば、二人が反対するわけもない。
 しかし店の中は、予想とは少し違っていた。
「寸胴に、大型コンロに、雪平鍋12個セット?」
 依緒が棚に並んだ物を挙げていく。
「こっちはオフィス用品だな。ボールペン箱買いしてくか?」
「馬鹿」
「あはは…ごめん」
 雪菜が苦笑する。
「最近多いらしいぜ。店じまいとか引越しのときに出る不用品を買い取って、整備し直して売るんだ」
「あ、でも、あっちの方は家具とかあるよ。雑貨とかあるかも」
 依緒が指差した一角に行ってみると、確かにこちらは引越しの回収品ゾーンらしかった。
「でもやっぱり、家具とかが多いね」
「いま本棚とかCDラックを買っても荷物になるしなぁ…」
 それでも、商品を指差しながらあれこれ喋るのは飽きない。
 ぶらぶら歩いていると、ようやく小物や雑貨の置いてある棚を見つけた。半端な数の漫画や雑誌、二世代くらい前のドライヤー、動くかどうか怪しい扇風機などが、特に法則性もなく並べられている。
「――あ」
 突然、雪菜が声を上げた。
 その視線の先、壁に立てかけられているのは――
「ギター、か?」
 雪菜が黒いケースを開けると、中からアコースティックギターが現れた。
 くい、と武也の袖が後ろから引っ張られる。
 振り返ると、依緒が眼で何かを訴えかけていた。
 ――わかってるよ。
 アイコンタクトで応える。
「…ケース付きで七千五百円か。あーでもこれ、新品で買ってもせいぜい一万五千くらいだな。相当な安もんだよ」
「…」
「楽器に興味あるなら、ちゃんとした店で新品買ったほうがいいよ。今度連れてくからさ」
「…」
 雪菜は武也の言葉など聞こえない様子で、ネックを指でなぞっている。
「まさか……だけど……」
 雪菜はケースからギターを取り出すと、
「雪菜、ちゃん?」
 顔を近づけ、匂いを嗅ぎ始めた。
 ――どうなってんのよ!
 眼で怒鳴り込んでくる依緒。
 ――知らねぇよ!
 無言で怒鳴り返す武也。
 しばらくギターに鼻を近づけていた雪菜は、続いてケースの中にも顔を突っ込む。
 その表情は、おそろしく真剣だった。武也たちのウケを狙ってやってるようには見えないし、そもそも雪菜はそんな性格ではない。
 ――まさか。
 武也の中で、ひとつの有り得ない仮説が思い浮かぶ。
 ――引越しの不要品。
 ――二年前、『あいつ』が使った引越し業者が、もし……
 依緒の顔を見る。
 同じタイミングで彼女も同じ仮説に至ったらしく、表情を固くしている。
 ――あの野郎。
 ――あれから二年も経ったのに。自分だけ逃げたくせに。
 ――また雪菜ちゃんを縛ろうとするのか。
 このギターが、あいつのものだという証拠はない。
 だが、このタイミングの悪さは、どうしてもあいつの仕業としか思えない。
「雪菜。あっちに古着があるみたいだよ」
 何も言わなくなった武也を見限って、依緒が雪菜の気を逸らそうと声をかける。
 雪菜は聴こえているのかいないのか、
「…………これ、買いたい」
 ギターを抱きしめた。


「で、どうすんのよ?」
 帰り道、武也と並んで歩く依緒が言う。
 小木曽家主催のクリスマスパーティは、和やかで明るかった。雪菜の父と母も、そして武也も依緒も。彼女がいるはずの孝宏だって、この日ばかりは家族を優先する。
 例年通り御馳走に舌鼓を打ち、他愛のないおしゃべりをして…、
 そして誰も、雪菜の持ち帰ってきたギターには触れようとしなかった。
「しょうがないだろ。自分へのクリスマスプレゼントとか言われちまうとさぁ…」
「そりゃあ、あの子が自分から何かをやり出すなんて、数年ぶりのことだったけど…」
 俯いた依緒が言う。
「新しい恋でもいい。やりがいのある仕事でもいい。雪菜が立ち直れるならね。でも、過去の思い出にすがるのはまずいよ。それじゃいつまで経っても、あいつを忘れられない」
 あの楽器には、思い入れがありすぎる。
 いい思い出も、そうじゃない思い出も、数え切れないくらい。
「あー!」
 そのとき、道の向こうから聞き覚えのある声が聴こえた。
「もしかして、もう終わっちゃったんですか!? 二次会断って走ってきたのに!」
 肩で息をしながら走ってきたのは、柳原朋。
 特殊な業界に就職したため、学生時代に比べるとなかなかスケジュールが合わないのだが、なんだかんだと重要なイベントには必ず顔を出してくれる。
「雪菜、寂しがってませんでした?」
「…おばさんは、寂しがってたぞ」
「とりあえず顔だけでも見せてきます! 勝手に帰らないでくださいよ!」
「あ、ちょっと!」
 依緒の言葉も聞かず、再び走りだす。
「相変わらず、こっちの話を聞かない子だよね…」
 依緒が溜息をつく。
「…………ねぇ。あたしたち、いつまで雪菜のそばにいられるんだろうね?」
「…」
 それは、武也がずっと考えないようにしていたこと。
 たとえば、依緒がどこか地方に転勤しただけで、武也も今のようには雪菜に会えなくなってしまう。
 男の武也が雪菜と気軽に接せるのは、あくまで依緒を間に挟んでいるからだ。雪菜にとっても、雪菜の両親にとっても、武也の存在はかなり危ういバランスの上に成り立っている。
 誰かに恋人が出来てしまってもまずい。
 しかも、武也と依緒という組み合わせが、一番まずい。
 三人の中の二人がカップルになるという関係だけは、絶対に作ってはいけないのだ。
 それは、雪菜を一番傷付けてしまうから。
 雪菜たちに負けないくらいの年月をかけた、悲願の恋だとしても。
 ――俺が、どうにかしないと。
 ――どんなにそばにいても決して恋愛対象にならない、絶対に安全な男にならないと。
 安心、安全、安定。
 かつて、学内一のプレイボーイと呼ばれた男とは思えない思考。
 誰かの代わりを演じようとしていることに、武也はまだ気が付いていない。


 その夜、雪菜はギターを抱いて眠ることにした。
 しがみつくとゴツゴツして冷たかったが、雪菜は気にもかけない。
 懐かしい匂いがする。
 あの部屋の、あの人の匂いがする。
 ネックに頬をすり寄せ、脚をボディに絡ませて眠っていれば、せめて夢の中だけでも、あの頃に戻れる気がした。
 人生でいちばん幸せだった二年間に。
「…ん」
 不意に、弦が鳴った。
 姿勢を変えようとして、脚が弦を引っ掛けたのだ。
 ――この、音は。
 あのとき、毎晩のように電話をかけては、雪菜が寝付くまで聴かせてくれた音。
 布団の中で、雪菜はそっと弦に触れてみた。
 ゆっくり、はじく。
 懐かしい音と、懐かしい匂いに包まれて。
 雪菜は久しぶりに、ぐっすりと眠ることができた。


「あー、だから、そこで薬指」
 武也が指摘すると、雪菜は慌てて指を動かし、
「っ!」
 左手を抑えてうずくまる。
「ちょっと! 武也」
「俺がやったんじゃねーよっ!」
 依緒を睨み返した。
「もっと初心者向けの曲を選びなさいよ」
「最初はみんなこの曲をやんだよ。俺だってこれで覚えたんだっつーの」
「だいじょうぶだいじょうぶ。だんだんわかってきたから」
 そんな二人に、雪菜は笑いかける。…指をさすりながら。
 クリスマスイヴから一週間後の日曜日。
 つまり、大晦日。
『うちでギターを教えてくれない?』
 どうやって雪菜を忘年会や二年参りに連れ出そうか、という二人の企みは、そんな本人の一言で消えてしまった。
 そうして、もうかれこれ三時間ほど、雪菜の部屋でのレッスンは続いている。
 とっくに薄れた知識と経験を必死に思い出してアドバイスしてはいるのだが、そもそも思い出せるほど大層な知識や経験があるわけでもなく。
「ほら指見せて。マメできてる」
 依緒が絆創膏を取り出して言う。
「ありがと。でも、絆創膏すると感覚が変わっちゃうから」
 雪菜は練習を止めようとしなかった。
「でも、雪菜ちゃん飲み込み良いよ。楽器はじめてってほんと?」
「うん。ギター歴はまだ一週間。やっと楽譜が読めるようになったとこ」
「一週間って…ちょっと雪菜、まさか買ってからずっと練習してたわけ!?」
 依緒が雪菜に駆け寄り、無理矢理手のひらを開かせる。
 マメが出来ている…が、ひとつどころではない。そして、これがはじめてではない。この一週間で、いくつのマメが出来て潰れたのか、武也にはわからなかった。
「一日十時間、ってわけにはいかないけどね」
「じゅう…ってそんな」
 顔を見合わせる武也と依緒。
「楽器は、ある程度まとまった時間やらなきゃいけないんだって」
 なんでもないことのように笑って、雪菜はギターを弾き続ける。よく見ると、目の下にクマが出来ているのが見えた。
「ま、まぁ、上手になれることに越したことはないよな」
「そ、そうよね」
 雪菜に、というより、自分たちに言い聞かせる。
 その後も、レッスンは続いた。
「武也くん、ここなんだけど」
「ん?」
 雪菜が楽譜を指差したので、武也は顔を近づける。
 ――あ。
 その、甘い薫りに、武也の頭が一瞬、停止した。
 ずっとそばにいたはずなのに、いや、だからこそ忘れていた。
 小木曽雪菜は、綺麗なのだ。
 憂いを帯びた瞳、長い睫毛、手触りの良さそうな髪、キメの細かそうな肌、瑞々しい唇…。
 ミス峰城大附三連覇で、大学でも、おそらく職場でも、数多くの男性を惹きつけてきたその美貌。
 想い人がいなければ、応援すべき彼がいなければ、武也だってその例外ではないのだ。
 ――まずいぞ。
 表面上は冷静を装って雪菜にアドバイスをしつつ、
 ――このままじゃ、俺は……
 隣にいる依緒の顔を決して見ないようにしながら、
 ――第二の、友近浩樹になっちまう。
 誰の代わりを演じつつあるのか、武也はようやく気が付いた。



[31060] WHITE ALBUM2 -retouch-(WHITE ALBUM2)
Name: 曽か◆e7871846 ID:9543510e
Date: 2014/11/02 19:50
――ここに来るのも卒業以来か。
 人で溢れかえるキャンパスを武也は歩いていた。
 峰城大学大学祭、最終日。
 屋台で声を張り上げる者、何かのコスプレをして歩いている者、チラシを片っ端から配っている者……。
 そんな光景を懐かしく思いながら、歩く。
 今日は依緒も雪菜もいない。
 三人にとってこの場所は“NGゾーン”の最たるものであったし、大学祭というイベントは特にまずい。
 武也も進んで訪れようとは思わなかったのだが、今年は少し事情が違っていた。
「えっと、十三時の回で合ってるんだよな」
 受付で貰ったパンフレットと記憶を照合させる。
 ステージイベントのライブ参加者リストの中に、目当てのバンドはあった。

 野外ステージの客席は、すでに満員だった。
 漏れ聞こえる声から判断するに、このバンドを目当てに訪れた客もちらほらといるようだった。
『今年のステージは、あの曲をやるらしい』
 大学内のミニFMで、未だ根強い人気を誇る、冬の定番曲。
 本学のOBである超有名バンドが在学中に作った歌だとか、有名なピアニストが作曲しているらしいとか、数年の間に真偽入り混じった尾ひれが追加され、かといって大学の外にまで届くわけでもない微妙な知名度のまま、あの曲は今も聴かれ続けているらしい。
 結局空席を見つけられなかった武也は、客席後方で立ち見をすることにした。
 時刻は、十三時三分。
 やや押している状況の中、前のバンドの演奏が終わる。
 実行委員に追い立てられるようにして彼らが撤収し、とうとうそのバンドがステージに上がる。
 バンドは、たった二人だった。
 ボーカルの女の子と、ギターを持った男の子。
 まるで、いつかのバレンタインコンサートのような構成のバンドは、配置に付くと、お互い目配せをし、ステージの裾に目線を送った。
 聴き覚えのあるイントロが流れ出す。
 一拍の間を置いて、客席からまばらに歓声が上がった。
 『ほら、あの曲だよあの曲!』『ほんとにやるんだぁ』などと声が聴こえてくる。
 男の子がギターを弾き、
 そして女の子が歌い始める。
 誰かが誰かに片想いをする、そんな不器用な歌を。
 客席の温度は徐々に上がっていく。
 歌が進むにつれ、曲を知らない客までもが手拍子を始め、歓声を送り出す。
 ヒートアップしていく客席に、緊張気味だったボーカルの表情も次第に変わっていく。
 歌うことが心底楽しくてたまらないといった表情で、彼女はギターに目線を送る。
 だが、ギターは自分の演奏に夢中なのか、手元を注視しているため、それに気が付かない。
 ちょっと不満そうなボーカルは、わざわざギターの傍まで歩み寄ると、彼の背中に自分の背中を合わせ、彼を挑発するように耳元で歌い続ける。
 そのことに動揺したギターの手元が怪しくなり、客席から笑い声が上がる。
 明らかに練習不足のギターと、特別上手くはないボーカル。
 演奏もとちる。ボーカルはすぐ調子に乗って彼にちょっかいをかける。
 原曲の知名度と打ち込みに助けられている感じは多分にあるものの……
 そんなアクシデントすら味方につけて、客席は間違いなく今日一番の盛り上がりを見せていた。
「……」
 自分が今、どんな表情でステージを観ているのか、武也にはわからなかった。

       ※ ※ ※

 大きな拍手に見送られて、バンドはステージを降りていった。
 持ち歌は一曲のみ、ステージMCすらない。飛び入りに近い参加だったのだろう。
 武也は客席を迂回して、ステージ横のテントに向かう。
「お疲れ、小春ちゃん」
「……飯塚先輩」
 このステージを影から支えた、舞台の下の脇役を労うために。

「良かったよ、ステージ」
「……『良かったよ、演奏』とは言わないんですね。いいんです。わかってますから」
「褒めてんだから素直に喜びなよ……」
「やっぱり、二週間じゃ無理があったんです。なんでギリギリになるまで練習しなかったんだろあの二人。もっと早く声をかけてくれれば色々とやりようがあったのに……」
「まぁ小春ちゃんのおかげで何とかなったんだし、客席はすげぇ盛り上がってたし、結果オーライだって」
 結果的に見れば大成功だと思うのだが、小春は納得がいかないらしい。
「……あ」
 考え込もうとしていた小春は、顔を上げて武也にぺこりと頭を下げる。
「打ち込みデータ、ありがとうございました。おかげで何とか形になりました」
「今や誰も歌わなくなっちゃった曲だからさ、小春ちゃんたちにカバーしてもらって良かったと思うよ」
 杉浦小春から連絡があったのは二週間前のこと。
 ステージに参加する友達から泣きつかれ、小春は迅速に行動を開始した。まったく出来上がっていなかったオリジナル曲を諦めさせ、三曲あったセットリストの中から一曲に絞り、それが“あの曲”に決定するやいなや、武也に連絡を取って打ち込みデータの提供を依頼した。
 シンセの操作方法を一から覚え、難しいギターパートも打ち込みで補い、ボーカルの練習にも付き合って、何とかこの日に間に合わせたのだった。
 ――ほんとに、そっくりだよな。
 この怒涛の仕切り能力。そしてお節介根性。
 大学生最後の年だというのに未だグッディーズのバイトも続け、そんな状況の中で、最大限のサポートをしてのけた。
「もっとこう、先輩たちの時のような、すごいステージにしたかったんですけど……」
 それは、三人のライブのことを指しているのか、二人のライブのことを指しているのかはわからないが、一人ではどうしたって限界があるだろう。
 あのステージの成功は、音楽以外の要素がいくつも重なった結果だ。
 同じ曲を用意したからといって、すべてを再現できるわけでもない。
「……それで、飯塚先輩はおひとりですか?」
「……四捨五入してもまだ二十代の俺だから許すけど、色々と誤解を生む発言だから今後は控えるようにな」
 さっきの会話中も、小春の目は武也の周囲をきょろきょろと落ち着きがない。
「雪菜ちゃんも依緒も来てないよ。孝宏君は……って、それは君の方が詳しいか」
「小木曽は来てませんよ。去年くらいから何か、大学祭自体に来なくなっちゃって」
「ま、そりゃそうだろうな……」
 孝宏にも孝宏なりの傷があるのだろう。
「柳原朋は会ったことあるよな? あいつも今日は来てないし、それから雪菜ちゃんの御両親も……」
「あの、さっきから意図的に特定の人物を避けてません?」
「意図的に人物を特定しない質問をしておいてそれを言うか……」
「……っ」
「あいつは来てないよ。ていうか今は海外」
「転勤ですか? 海外ってどこですか?」
「ウィーンだよ」
 後半の質問にだけ答える。
 嘘は、言っていない。
「ウィーン……それって、えっと……」
 何やら考えこみ始める小春。
 ――しまった。ヒントをあげすぎちまったかも。
 慌てて話を逸そうと思い、
「ねぇ、あなたさっきのバンドの人?」
 闖入者が、その役目を買って出てくれた。

「わたしは、裏方ですけど……」
「ふーん。なるほどなるほど。あの二人とはどういう関係? 同じサークルだよね? 同級生?」
「い、いえ。あの二人とは同級生ですけど、わたしは単なる助っ人で」
「自分でステージに立とうとは考えなかった? あの男の子、かなりテンパってたけど、助けたいとは思わなかった?」
「……あの、どこかでお会いしませんでした?」
 質問攻めの動揺からようやく立ち直った小春が、闖入者の女にようやく質問を返す。
「んー? ああ、あたしここのOBだから。ちょっと前まで学生だったし」
「いえ、そうじゃなくて。以前にもこうやって丸め込まれたような気がして……」
「あたし講義にもゼミにもあんまり出てなかったし、接点はないと思うけどなぁ。……あ、もしかして、あなた舞台とか観にくる人?」
「いえ全然」
「……ちょっとショックだわ。あたしの知名度もそんなもんか」
 蚊帳の外に置かれている武也も、この女の顔にどことなく見覚えがある気がしていた。
 小春もしばらく考えこみ、やがて、
「――お前、瀬能か!」
「――先輩の彼女の振りをしていた人! 和泉さん!」
 同時に、違う名前を叫んだ。
「……だいぶショックだわ。ホームグラウンドだったはずなのに」
 期待した答えではなかったらしく、宇宙人は微妙にプライドを傷付けられた顔をしていた。
 
「ほんとにコーヒーだけでいいの? なんでも奢っちゃうよ」
 ハンバーグを切り分けつつ、千晶が言う。
「遠慮しとく……」
 テーブルの上に続々と並べられている料理は、空腹のときの武也でも食べ切れないほどの量だった。見ているだけで胸焼けしそうだ。
 学園祭当日のグッディーズ南末次店は三時を過ぎても混んでいた。長居するのは気がひけるので早く帰りたい、と武也はぼんやり思う。
 そもそも、この宇宙人とはそれほど親しかったわけではない。わけではないのだが、なぜだか強引に連れ込まれてしまった。
 武也のむすっとした視線をよそに、千晶はものすごい勢いでハンバーグを口に運んでいく。
「よく食べるな……」
「そう? 公演前はいつもこれくらいだよ。たくさん食べないとすぐ痩せちゃうんだもん」
「公演? ……ああ、そうか、演劇続けてんのか」
 人生のすべてが演劇のためにあるような奴だったのだ。続けていない方がおかしい。
「そうそう。ここ」
 千晶が二枚の紙切れを取り出す。
 それは、武也が知っているほど有名な劇団のプラチナチケットだった。
「お、ここすげー人気のとこだよな。知ってるか? 峰城大の学生サークルが前身になってるらしいぜ」
「あー、知ってる知ってる。今日学園祭に来たのもその関係。気が進まなかったんだけど、思わぬ収穫があったから来て良かったな」
「あのライブか?」
「そうそう。あの二人見た? ボーカルの娘はギターの方しか見てないし、ギターの子は、舞台袖の方にずっとアピールしてた。あの舞台裾に誰がいるのかなーって気になっちゃって気になっちゃって」
「……あの娘に迷惑かけたら許さないからな」
「わーかってるって」
 千晶はチケットを武也の方に滑らせる。
「いいのか?」
「うんうん。女の子とでも行くなり、……親友のカップルにあげるなり、好きに使ってよ」
「お前……」
 ――どこまで知っているんだ。この女は。
「やだなー。そんなに睨まないでよ。あたしも色々あって、ちょぴっとだけ大人になったというか、人間ぽくなってきたんだから」
「……」
「なに? 喧嘩? ようやくくっ付いたと思ったのに、またこじれたとか? 冬馬かずさはやっぱり忘れられなかったってこと?」
 本当に、何者なのだ、こいつは。
「色々あったって、言ったでしょ?」
 千晶は意味ありげに微笑む。
「しょうがない。あれから何年も経ったから教えてあげよう。ここ奢るから怒んないでよね」 
 千晶の語った内容は、武也の想像を大きく越えるものだった。
 付属から大学まで、三人を遠くから観察していたこと。
 文学部に転部したあいつに近付いて、役作りのインスピレーションを得ようとしていたこと。
「……でも結局、こりゃあもうあたしの出る幕はないなーと思って、身を引くことにしたの」
 そして、それを諦めたこと。
 あのとき、二人におせっかいを焼いていたのは、武也たちだけではなかった。
「演目は結局、別のに変えた。小木曽雪菜も冬馬かずさも、最後のところの感情を自分のものにできなくてさ。あれは悔しかったなぁ」
 目的はどうあれ、影から見守っていた人が他にもいたのだ。
 方々で厄介ごとに首を突っ込んでは、いつのまにか協力者を増やしてるような奴だったから。
 ……それをまとめて裏切ったのも奴だったが。
「……で?」
「なんだよ」
「今度はそっちの番。あたしにも物語の続きを聞かせてよ」
「……」
「ふぅん、黙っちゃうんだ」
 千晶は唇をとがらせる。
「いいよ。じゃあ、あたしの中の飯塚くんに聞いてみよう」
「……は?」
「あのあと一度はハッピーエンドを迎えたと仮定しよう。あそこまで物語が進んで上手くいかないはずがない。でも今はタケヤくんがひとりだけ。冬馬かずさの再登場によって二人の関係にヒビが入る可能性は充分あった。でも、水沢さんすらいないのはなぜ?」
 テーブルを見つめながら、千晶はぶつぶつ呟く。
 舞台上で見かけた、あの目をして。
「……やめろ。わかった。話すからやめてくれ」
 自分のモノマネなんて、見たくもない。
「お前やっぱ宇宙人だよ。ていうか鬼。雨月山の鬼」
「あたしの解釈だと、その二つってイコールなんだけど」

 重たい口を開き、武也は語り始めた。
 ハッピーエンドから続く、思い出したくもない過去。
 そして、崩れつつある最近の関係を。

       ※ ※ ※

「ねぇ、あんた、最近付き合い悪くない?」
「そりゃあ年末だからな」
 依緒の文句に、武也は携帯を眺めながら生返事をする。
 今年もまた、十二月になった。
 雪菜の家からの帰り道を、白い息を吐きながら二人で歩く。
 一日中曇っていた天気は回復することなく、このまま夜を迎えそうだ。
「確かに、ここんとこ雪菜はギターの練習ばっかりで、なのに武也にはもう教えることがなくなってきてるけどさ」
「お前、どうしても俺をオチにしないと気が済まないわけ?」
 今週もまた、部屋で黙々とギターを鳴らし、楽譜と睨めっこをするだけの雪菜を見守る時間を過ごしていた。
「でも、今は大事な時期なんだよ。雪菜が立ち直れるかどうかの大事な」
「わかってるって」
 ――そのために、今だって……。
 十年来の付き合いであるその顔を、改めて見る。
 これから先、ずっと忘れないために。
 口うるさくて、遠回しにアピールしても絶対に振り向いてくれなくて、直接アピールしてももっと振り向いてくれなくて。
 何でこんな女に惚れてしまったのかと、何度も後悔したけれど。
「ねぇ、今日ずっと携帯見てるけど、どうしたの?」
「ん? ああ、これか」
 着信を確認して、携帯を仕舞う。
「彼女だよ。最近うるさくってさ」
「……っ!」
 ――こんな、最低男の気分を味わってまで、三人の関係を維持しようとしているんだから。

『だったらさ、飯塚君が彼女を作っちゃえば良いんじゃない?』
『あなたが彼女を作れば、水沢さんは“親友”になる』
『“三人”とは無関係の彼女なら、小木曽さんも悩まなくて済む』
『ほら、三人の出来上がりだよ。ちょっと歪だけどね』
『あたし、彼女のふりって得意だし。……詮索しすぎる誰かのせいで、一度は見破られたけど』
『でも、気をつけてね。あたしと共演した男は、例外なく――』

「……どういうこと?」
「そのままの意味だよ。彼女、できたんだ」
「それって、えっと……何曜日の彼女?」
「違う。そういうんじゃない」
 雪菜がいて、依緒がいて、武也がいる。
 依緒が雪菜を慰めて、武也はあちこちの女の子と遊んでいて、それでも雪菜の傍にずっといる。
 大学に入った頃の、あの関係に似ているけれど。それでも、決定的に違う。
 もう、舞台の上に憧れたりしない。
 舞台の上にいる彼女を、舞台の下からずっと支え続ける。
 小春の活躍を見て気が付いたのだ。
 ――俺はやっぱり、こっちが向いてるんだよな。
 覚悟を、決める。
「雪菜ちゃんも少しずつ前向きになってきたし、そろそろ俺も、自分のことを考えても良い時期かと思ってな」
「あんた……何言ってるかわかってんの?」
「もちろん、これからも雪菜ちゃんをサポートしていくのは変わらねぇよ。最近、付き合い悪くてごめんな」
「……武也は、頑張ってるよ。少なくともあたしと同じくらいには。……違う。そうじゃなくてっ」
「お前には迷惑かけっぱなしだけど、二人で雪菜ちゃんを支えていこう。これからも――親友でいてくれよな」
 台詞だけを見れば、親愛の証。
 しかし、依緒にとっては、決定的な決別の宣言。
 十年越しの片想いを、
 ひょっとしたら……だったものを、
 自分の手で、粉々に砕く。
「……っ。武也ぁ」
 依緒の顔を見ることが出来ずに、視線を上に向ける。
 曇り空からとうとう降りだした一粒が、武也の頬に当たり、雫となって落ちた。
 ――ああ、これが、最低男の気分か。
「武也……っ。あたし、あたしは、とっくに……」
「じゃあ、またな」
 依緒の表情を見たくなくて、歩き出す。
 依緒は、追いかけて来なかった。
 ――なんで、
 ――なんでこんな酷いことができたんだよっ! あいつは!

       ※ ※ ※

「お疲れさま……で、良いんだよね?」
 しばらく歩いたところで、物陰から千晶が現れる。
「演技の参考にはなったか?」
「それなりに、ね」
 宇宙人には皮肉すら通じない。
「本職から言わせてもらうと、台詞が嘘臭い。やっぱり本心から出てない言葉って、言わされてる感じがしちゃうんだよね」
「そりゃそうだろ……」
「ま、今回の場合はむしろそっちの方が良いんだけど」
「なんでだよ」
「希望が残るから」
 あっけらかんと、千晶は言う。
「彼女が出来たのは嘘かもしれない、まだ私のことが好きなのかもしれない、わざと身を引いたのかもしれない……。そうやって脚本に行間を持たせることで希望を残せるでしょ? 半信半疑のままなら、水沢さんも壊れたりしないだろうし。……逆に言うと、ずっと生殺しにするってことなんだけどね」
 ――この女、そこまでわかってて、それでも……
「生殺しがどれくらい続くのは、彼女次第、かな」
 千晶は、一枚のメモを取り出した。
「頼まれてた連絡先、見つけておいたよ」
「……早いな」
「うちのスタッフに、昔仕事した人がいてね。大変だったよもう。今のところ開店休業状態で、取材も依頼も全部カット。事務所の番号にかけてもタライ回しにされるだけだからさぁ」
「悪い」
 礼を言うのは癪だが、助かるものはしょうがない。
 武也は携帯を取り出す。
「お、早速かけるの? せっかくのデートなんだからさぁ、何か奢ってよ。ダーリン♪」
「それ、もう一度言ったらブチ切れるからな俺」
「……あたし結構がんばったのに扱い酷くない? これでも演劇界ではそこそこのアイドルなんだけど」
 千晶のメモに書かれている番号をコールする。
 個人の携帯番号。
「――もしもし。はじめまして。飯塚武也といいます」
 “工藤美代子”という唯一の手がかりに。
「冬馬かずさの――友達です」

       ※ ※ ※
 
「珍しいじゃん、雪菜からカラオケに誘うなんて……って、無邪気に喜んでた数時間前のわたしに言ってあげたいわね。『断れ』って」
 げっそりとした顔で朋が言う。
「久しぶりに雪菜の歌が聴けるのは嬉しいし、そりゃオンステージでも構わないけどさ、せめて他の曲も歌わない?」
「ごめんね?」
 同じ曲ばかり二時間も聴かされ続けた友人に詫びつつも、リモコンは決して手放さない。
「どうしてもこの曲を練習したくって。……で、どう? どんな感じだった?」
「耳が慣れちゃって細かいところなんかわからないわよ……雪菜の歌はいつも最高だし」
「もう、参考にならないんだから……」
 技量的にもファンの欲目的にも、レッスンの講師には全く適していない人選だった。
「ていうか、今どき何でその歌? 最近はずっとギター練習してなかった?」
「この歌を絶対にモノにしたいの。ギターも、歌も」
「へぇ、弾き語りでもやるわけ? だったら今から小屋を押さえるけど?」
「そういうんじゃないよ。すごく個人的な……うん。届けたい人がすごく限定されてる歌なんだよ」
「……まさか、それってさ」
「……うん」
 はぁ、と溜息をつく朋。
「あれからもう、だいぶ時間が経ってるんだよ? 向こうだって雪菜のことなんか忘れてるかもしれないし、第一連絡なんて取れないだろうし、連絡取れたとしても向こうだって迷惑――」
「――朋」
「……ごめん。関係ないわたしが言って良いことじゃなかった。でもさぁ、いつまでも引き摺るなんてさぁ……!」
「ごめん。ごめんね、朋」
「謝らないでよ」
「違うの。……あのとき、酷いこと言って、ごめん」
 あのときの――
 『わたしたちの……“三人”の問題だよ。あなたたちは、関係ない』
 あの言葉を、ずっと後悔していた。
 “三人”は、雪菜にとって特別だったけれど、その周りの世界を蔑ろにするような言葉を吐いたことを、ずっと後悔していた。
 朋が、その言葉にずっと傷付いたままでいることを知っていた。
「……謝らないでよ」
「朋も、武也君も、依緒も、みんなを傷付ける言葉だった」
「謝るなら、訂正してよ……っ! “わたしたち”に入れてよ……っ! 親友だって、踏み込んでも良い関係だって、言ってよ……!」
「……うんっ!」
 雪菜に傷付けられても、雪菜が傷付いても、こうして、傍にいてくれる友達。
 あの“三人”とは、形が違うけれど。
 こういう関係も、生涯の親友と呼ぶのかもしれない。
 みんながいるから、雪菜はまた、こうして歌うことができる。

「でもさ……なんでギターなの? あの人に聴かせるんだったら、一番得意なものだけで伝えた方が良くない?」
「朋、知ってる?」
 親友の質問に、雪菜は答える。
 得意そうに、少しだけ格好を付けてギターを構えながら。
「ギターって――好きな女の子を口説くための道具、らしいよ?」
「……女の子?」

       ※ ※ ※

『ですから、困るんですよ。どこでこの番号をお聞きしたかはわかりませんが、取材の申込みなら事務所の方にお願いします』
「ですから、何度も言っているように取材じゃないんです。冬馬かずさの友達として、冬馬曜子さんにお話があるんです。……胡散臭く思う気持ちはわかりますが」
『ですから、かずささんは現在ウィーンにいらっしゃいますので、連絡はそちらに取ってくださいとお願いしてるじゃないですか』
 それが出来たら苦労はない。
 ――仕方ない。
 武也は手持ちのカードを切ることにする。
「冬馬さんの体調が優れないのはわかっています。それでも、どうしても連絡を取りたいんです。メールでも、手紙でも構いません。でも、絶対に本人に届けると約束してほしいんです」
『……』
 一瞬言葉が詰まった。が、墓穴を掘るような事は言わない。
 優秀な人だ、と武也は思う。
 日本に永住することを宣言した冬馬曜子だったが、それ以降、コンサートは一度も開かれていない。それでも、病気のことは決してマスコミに嗅ぎ付けられることはなく、ベスト版のCDや、過去のコンサートのブルーレイを少しずつ販売することで、冬馬曜子は徐々に“過去の人”になろうとしていた。
 この戦略はおそらく、工藤の手によるものだろう。
 どこかの誰かと違って、武也は交渉事にはまったく向いていない。だが、これまで“ある程度の数”の女性と接してきた経験がある。察しの良い女性に腹芸を挑むことは逆効果だと知っていた。
「峰城大学病院にいることも、病気のことも知ってるんです」
『……それは、脅迫ですか?』
「違います。本来なら知り得ない情報をこちらが知っているということをわかってほしかったんです」
 だから、包み隠さず、持っているカードをすべて切る。真正面からぶつかる。
 もう、嘘を付くことには耐えられなかったから。
「あれだけ厳重に秘匿している情報を知っているってことは、冬馬かずさの友達以外にあり得ない。そうでしょう?」
『これは、社長から言付かってることなんですが。――あの娘の友達だと名乗る人の面会はすべて断って良い、と。どんなに真に迫っていても、友達という時点で嘘だから、だそうです』
「……それは、自分の娘をよく理解してますね」
 妙な方向に信頼されていた。
「ですから、申し訳ないんですが……」
「待ってください。俺は、俺は――」
 まだ、まだ何かやれるはず。
 こんなとき、“あいつ”だったら……。
 大きく、息を吸う。
 脳裏に浮かぶのは、あの日の、冬の公園。
 “あいつ”と、決定的に、道を違えた瞬間。
 最後のカード。
 切りたくなかったジョーカーを、取り出した。
「北原春希の――元親友です。そう伝えてください」

       ※ ※ ※

「えっと、水沢依緒さん、だよね?」
「…………うっそ、瀬之内晶?」
「や〜っとその名前が出たか。ホッとしたよ。最近ちょっと自信なくしててさ」
「なんで、あたしの名前を?」
「そりゃあだって、飯塚武也の彼女だもん」
「え……」
「……ねぇ、水沢さん。あなたは、彼を待てるかな? いつまでかかるかわからないけど、小木曽雪菜が立ち上がって、少しだけ強くなって、あなたたちを応援できるくらいになるまで」
「さっきから、何言ってんのかわからないんだけど……?」
「その時まで待てるっていうのなら、あなたにかかった魔法を解いてあげる」
 ――ほんと、あんたの周りって面白いね、春希。
 ――色んな人が、男も女も、自分を犠牲にしてまで誰かに与えようとする。
「まぁ、たまにはハッピーエンドの脚本も良いでしょ?」

       ※ ※ ※

「言われた通り、手紙を預かってきたんですけど……本当によろしかったんですか?」
「ええ。その子たちは例外」
 峰城大学病院。
 政治家や芸能人もよく利用するため、個室も非常に多い病院である。
 ネームプレートのない部屋のベッドに、彼女はいた。
「なんなら、ここに直接来て貰っても良かったのに」
「駄目です。何のために面会謝絶にしてると思ってるんですか」
 美代子の言葉に、曜子は肩をすくめる。
「……一発くらいなら、殴られても良いかなって思ってたんだけどね」
 美代子には届かない声で、呟く。
「ま、どんな恨み辛みが書いてあっても、受け止めるしかないわよね。……これも、罰、かしらね。一度は、娘を見捨ててしまった事への」
 手紙を開封していく。
「……これって」
「社長?」
「美代ちゃん。ノートパソコン取ってくれる?」

       ※ ※ ※

 そして、二月十四日がやってくる。
「……よし、それじゃ行ってみようか」
「頑張れ、雪菜……特訓の成果、見せてやれ」
「ついでに……今の自分のことも、存分にな」
 朋も、武也も、依緒も、孝宏も、久しぶりに揃ったその日。
「うん、ありがと。それじゃ……」
 雪菜は、ギターを胸に抱えた。
 部屋の片隅にある写真立てを一瞬だけ見る。
『二人とも、迷ったらあたしの音だけ聴け。なんとか導いてやるから』
 もう、三人ではない。
『音を忘れたら、俺のギターの音を聴いて。歌詞を忘れたら……その時は笑顔で誤魔化して』
 もう、二人ではない。
 そして……
 もう、一人ではなかった。
「POWDER SNOW」
 何度も何度も、この日のために練習した曲を、奏でる。
 『WHITE ALBUM』も、『SOUND OF DESTINY』も、『届かない恋』も、今の雪菜には歌えない。
 だから、みんなで作り上げたこの一曲を、遠い空の向こうへと、届ける。

 もう二度と、二人の世界には入れないわたしだけど。
 一度は、あなたの世界一になれたわたしを。
 一度は、あなたの親友になれたわたしを。
 歌っているわたしを、見てほしいから。

 雪菜の周りの世界は、雪菜が不幸でいることを許さなかった。
 誰も彼もが、寄ってたかって彼女を幸せにしようとする。
 そんな世界が、二人の世界の外側にあることを知って欲しかった。
 二人の世界を包み込むように広がっていることを、知って欲しかった。
 “わたしたち”の範囲には、その世界も含まれていることを、知って欲しかった。
 歌と、ギターと、
「元気ですか? わたしは、今でも歌ってます」
 ドイツ語に、ちょっぴりの悪戯心を込めて。
 ――わたしたちの世界は、繋がっている。

       ※ ※ ※

 ウィーンの、とある一室。
 そこには、日本から持ってきた、彼女の数少ない宝物が飾ってある。
 犬のぬいぐるみ、英語の参考書、眼鏡とコーム、古雑誌。
 そして――写真立て。
 写真の中の三人は、これからもずっと、変わらずそこに居て、未来の彼らを見守っている。


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