私を殺してくれてありがとう。
小さな女神がそう言った。
何もない世界。太陽が支配する空も、風に凪ぐ草が生える大地も、大地に人を縛り付ける重力の鎖も、光も闇も何もない。
無と呼ぶ定義が、確かに存在する場所に、一人の男と少女が対峙していた。
「はじめまして、でよろしいか?」
赤い双眸で見上げる少女に、男は言う。
定型的な挨拶の言葉に、少女は瞼を下ろし、首を横に振った。
「はじめましてじゃない。 貴方は私を知っているはず」
子供特有の凛とした、それでも抑制された小さな声が音のない世界に響く。
「どうか? お主のような少女に、一度会えば忘れることはないかと思うが」
男の言うとおり、少女は一度目にしたら忘れることができないような容姿をしていた。
それはどこか、人と違う特徴があるわけでも、目立って有り余る奇抜な容姿をしているわけではない。
ただ美しいのだ。
無重力の世界に無造作に踊る長く、艶やかな金色の髪。燃え盛る紅玉のように大粒の瞳。陶器のように白い肌。
漆黒の夜空に浮かぶ月のように、編みあげられた物語に出てくる女神のように、人が手に触れてはならないような美しさと純潔さ、そして神秘を少女は纏っていた。
「確かに貴方が人であった時、私と貴方との間に面識はなかった。 それでも、貴方という存在が誕生した時、私が貴方の中に生まれたその時から、貴方は私の存在を感じていたはず」
「……どういう意味だ?」
「頭で認識したことはないと思う。 それは心に、貴方の起源たる魂に訴えかけるものである以前に貴方が人である限り脳の容量が限界に達してしまうから。 魂に刻まれた情報はそれほどまでに重いもの。 それでも、貴方は無意識的に私を理解して許容していてくれていた」
言葉を紡ぐ少女と、訝しむ視線を送る男の間には、暗い水面のように漂う空間が揺らめく。
本来ここは、何者の存在も許されない場所であるはず。それなのに、男も少女も、個としてここに存在しているという疑問。
少女は何者であるのか。
男の問いは、少女自らの口で語られる。
「貴方の魂は私に限りなく近いものだった。 最初に生まれた現象の起源を内包する者。本来ならば人の身に生まれるはずのない貴方だからこそ、私を殺すことができた」
少女の言葉に、男は得心した。
「ああ、そうか。 主は世界か」
男の言葉に、今まで能面のように張り付けていた表情だった少女に微笑みが浮かぶ。
それはまるで、触れれば散ってしまいそうな儚げなスミレのように思えた。
「そう、私は貴方達人間が世界と呼ぶ存在。 貴方の生きていた、可能性の一つ」
「私に、遺恨を晴らしに来たという訳か」
男は息を吐きながら、真っすぐと見据える少女と視線を絡ませた。
運命というものを“これでいいのだ”と受け止めるか、それとも“これでいいのか?”と疑うのか、一人の武人としての生涯を送った男にとってそのどちらも関係なく、どの道、男は納得して死にたかっただけなのだ。
そして、その結果がこの場所だった。
それでも、殺してしまう世界に未練も罪悪感も無かったわけではないが、後悔だけは微塵も残すことはしなかった。
正義とは悪の影に存在し、光が強ければそれほどまでに影の濃さも増すものだ。
固定された正義とは悪と同義であり、自らの正義を貫くには常に自分の正義を疑わねばならない。
その上で、男は自らの正義に法りその手で世界を殺した。
男は平静の表情を崩さなかったが、胸から込み上げる痛みを喉元に覚えながら、少女から紡ぐ侮蔑と憎悪の言葉と、報復を待った。
だが……、
「違う、私は貴方にお礼と、謝罪をしに来た」
「……何だと?」
余りに予想外の言葉に、男は眉をひそませた。
だが、そんなことを気にせず少女は薄い唇で言葉を続ける。
「私の起源は、災厄と疫病。 人間たちが悪とするものだった。 私は自分のそんな在り方が嫌で嫌でしょうがなかったの。 人を苦しめ、貶める事象しか起こせない私にとって、世界という役割は苦痛でしかなかった」
少女は長いまつ毛に影を落とし、冷然と言う。
水のように澄んだ綺麗な声には哀しみが混じっていた。
「だけど、そんな中、私は貴方の存在を知った。 存在するはずのない、事象の起源を持ち生まれた者。 本来ならば、世界として生まれるべきだった魂。 私を殺してくれるという希望を見出すには、理由はそれだけで充分だった」
儚げに語る少女の眼差しの奥には、漆黒の絶望と閉塞感、そして灼けるような痛みが揺らいで見えた。
決して終わることのない、永遠の平行線。
凍りつくような静寂に包まれる孤独に怯える日々。
そして男は知った。
この少女は、自分と同じ……。もう一人の自分であったのだと。
世界という鎖に縛られ、自ら死ぬことも叶わず、ただ緩やかな時に身を任せることを強要され続けた彼女にとって、男の存在は冴え冴えとした月の光明に見えたに違いない。
「……全ては、盤上の遊戯だったというわけか」
「ごめんなさい……。 喉が潰れるまで謝罪の言葉を言っても、とても許されないことをしたということはわかってる。 でも、私は……」
小さな肩を震わせている少女に、男は憮然と言い放つ。
「構わんよ」
一瞬、何を言われたのか判らなかったのだろう。
少女は丸くした目で男を見るが、男に目に偽りや強がりの色はなく、水を映す水面のように穏やかなものだった。
「本来ならば、私は君を許すべきではないのかもしれん。 だが、全てのものは嘲笑うかのように流れる運命の本流で必死になってもがくもの。 溺れるものが藁を掴んだとて、一体誰にそれを嗤うことができようか。 まして、私は生きた世界で多くの血を流してきた。 お主を責める言葉など、私は持ち合わせてはおらんよ」
表情を和ませている男の言葉に、少女は目頭が火のように熱くなり、鼻の奥に込み上げてくるものを感じた。
「それに……、付けるべき決着は付けてきた。 未練も、執着もあるが後悔だけは微塵もしておらん。 例えそれが、主の描いた筋書き通りであったとしても、私はお主を殺せたことに満足をしている。 それならば、謝る必要などどこにもなかろうよ」
鷹揚のない男の低い声は、少女の心に深く染みてゆく。
憎しみに歪んだ叫びを、嵐のような怒りをぶつけられると思っていた。
それでも足りないことをしてしまったことを理解していた。
自らの死を招くために、一人の男の生を狂わせてしまった罪は贖っても贖いきれるものではないと。
少女は、心の底では男と会うことに底なし沼のような暗黒と混沌の恐怖を感じていたのに、男は草を凪ぐ深い風のように少女を赦してくれたことに、暗雲たちこめる空から光の梯子が射しこんだ時のような救いを感じた。
気が付けば、目を開いたまま大粒の涙が頬を伝う。
「ごめんなさ……い。 ごめんなさい。 貴方を……私の身勝手に巻き込んでしまって……」
「謝る必要はないと言ったはずだ」
小さな手で頬を擦りながら涙を流す少女に、男は困ったように肩を竦めた。
「ところで、主はこれからどうなる? このまま此処に、というわけではなかろう」
男が素朴な疑問を問いかけると、少女は泣き腫らした目を向けて答える。
「此処は世界が終焉を迎えた後にできる、新しい世界を誕生を誕生させる胎盤のような場所なの。 私は新しい世界が生まれるまで、此処に居続けることになるけど、その後は輪廻の輪に組み込まれることになる」
「そいつは重畳。 人としての生を手に入れるということか」
「……貴方は、自分がどうなるかは聞かないの?」
少女の言葉に、男は自嘲と諦観が入り混じったかのような笑みを浮かべた。
「理由や過程がどうであれ、私はお主という世界を殺した。 同時に、その中にあった命の全てもだ。 即ち、私は咎人。 行く先は閻魔のもとだろう」
「違う。 そんなこと、私がさせない」
高く澄んだ少女の声。
氷のように美しい声には確かな決意が潜んでいた。
「貴方にはこのまま転生して貰う。 その為に、私は貴方をここに呼んだ」
少女は男の手を取り、柔らかく包み込む。
小さく柔らかな手には体温はなく、死人のように冷たいというのに涙に濡れた少女の艶やかな赤い瞳には、燃え盛る炎にも似たものが滾っていた。
「このままだと貴方は輪廻の輪に戻る前に魂が消滅してしまう。 例えどんな理由があっても世界殺しは重い罪だから。 だから……、元の世界は無理だけど別の可能性が行き着いた世界に貴方を送る」
「……しばし、待たれよ。 一体、どういうことだ?」
話しが男にとってわけのわからない方向に進み始めたようで、手を取る少女を制止して説明を求めたところ、少女はきょとんとした顔で男の顔を下から覗き込むように見上げた。
「今、言ったばかり。 貴方の魂をこのまま別の世界に送る」
「なにゆえ?」
「貴方には、もう一度人をやり直して貰いたいから」
「人を、やり直す?」
男か呆然と聞き返すと、これ以上の言葉は必要ないとばかりに少女の手に力がこもる。
「私は貴方が再び人をやり直す権利さえ奪ってしまった。 だけど、一度輪廻を介さずに転生すれば、そのまま他の魂の群れに紛れることができる。 それが私にできる精いっぱい」
「そんなことして大丈夫なのか?」
少女は先ほど、世界殺しは大罪になると言った。ならば、その罪を裁く存在があるはずだ。
だが、少女は不敵に口角を吊り上げた。
「知ってる? 罪って言うのはね、誰かに見つかって初めて罰を科せられるんだよ?」
「つまり、誰かに知られなければいいという訳か。 呆れたものよな」
男は溜息とも言えるように息を吐きながら言うと、自分の足元が粒子の光となって散っていっていることに気が付いた。
「これは……」
「新しい肉体が貴方の魂を呼んでいる。 もうすぐ貴方は別の貴方として新たな生を受けることになる」
自分の足が痛みも苦しみもなく消えてゆくのに驚くでもなく、むしろ何が起きているのかわからないといったように呆然とつぶやく男に対して、少女は落ち着いた口調で説明する。
足から腰、腰から端へと下から上へと、雌を誘う蛍の光のような薄緑の光となって散りゆく中、少女の握っていた手も光となってすり抜けてゆく。
「本来だったら、輪廻の輪に戻る時に魂は前世の記憶が洗浄される。 だけど、貴方の場合はこのまま記憶を引き継ぐことになってしまう。 この場で、私と会い話した記憶もそのまま……。 その上で、お願いしたいことがあるの」
少女は湿った涙を伏せ、押し殺した表情で言う。
「こんなこと、お願いできる立場じゃないってことぐらいわかってる。 だけど、貴方がこれから行く世界に助けを求められたら、その時は力になってあげて。 あの子は、私と違って優しくて……私よりも哀れな子だから」
悔恨と懇願が入り混じった声に、男は何も言わずに、ただしっかりと頷いた。
少女の姦計にはまり、結果として魂の終焉の一つ手前まで追い込まれた男がそのような頼みを聞く道理はないのかもしれない。
だが、それでもどういうわけか頷かずにいれなかった。
男の身体は、ついに肩らか上だけを残すだけとなると、不意に男は何かを思い出したかのように口を開いた。
「主の名はなんという」
「え?」
余りに唐突すぎる質問に、少女はつい頓狂な声が口から零れ落ちた。
「名だ。 主が親から与えられた、主を指す呼称だ」
「アンラ……。 アンラ・マンユ」
少女が呆気にとられたまま、機械的に呟くような小さな声で言うと、男は満足したように目を細めた。
「さらばだアンラ・マンユ。 貴殿のこれからに幸福の雨が降らんことを」
男はそう言い残すと、光となって完全に霧散し消えた。
この無の世界に少女は一人残り、これから遠くない、しかし近くもない未来までの間、新たな世界が生まれるのを見届けなければならない。
男のとの会話を胸の内で反芻すると、少女の頬には先ほどまでとは違う、あたたかな歓喜の涙が頬に流れた。
人と話すことなど世界となってから初めてのことで、未来も過去も、現在さえもが入り混じった時間の概念のない世界という立場で、例えそれが自らの罪の許しを乞う為に設けた席であっても少女にとっては夢のような時間だった。
「幸福の雨が降らんことを……か……」
少女は無の虚空を見上げながら、今はもういない男の為に言葉を贈る。
「ありがとう、私を殺してくれた人。 どうか、新しい貴方に無限の幸福が訪れんことを……」
少女の穏やかな声は、反響することもなく無の中に消えていった。
◆◇◆
関東の南に海鳴市という都市がある。
海に面したその街は地方と呼ぶには栄えていて、都心と呼ぶには少し寂れているよくある地方都市の一つだ。
人口は約二十万ほどで、大きい地区と小さな地区のいくつかに分けられ、それぞれの自治体が治めている。
その中でも一際大きいのが、経済的にも位置的にも海鳴市の中心にある海鳴区だ。
幹線道路や鉄道を中心とした交通網の整備が進んでおり、商業地区を取り囲むように住宅地区が広がっている。
そして、その海鳴区の東に位置する大学付属の小学校、私立聖祥大学付属小学校の入学式が慎ましやかに執り行われていた。
本館から渡り廊下で繋がれた、フローリングの広い体育館の壁には全面に赤と白のストライプの垂れ幕が下げられており、整然と並べられた椅子にはこの春から新入生として入学する子供たちが行儀よく座っていて、その内の一つ、“ひやま いちよう”と名前の書かれた青のカラーテープが張られた椅子の上にも、少年が一人座っていた。
いちよう、という少年以外の全ての子供たちはこれから始まる新たな生活に胸を膨らませ目を輝かせているというのに、いちようだけが憮然とした態度でいる。
緋色に染まる山の一つ葉、と書いて“ひやま いちよう”と読む。
強い癖の入った黒い髪に、やや吊りあがった目。いわゆるイケ面というものではないが、中性的でそれなりには整った顔立ちの少年は、かつて世界を殺した男の新たに得た生だった。
男が緋山一葉としての生を受けてから、既に六年の月日が流れている。
前世の男の人格は消えており、今は緋山一葉の人格が構成されてはいるが、それでも記憶だけは失われることはなく一葉は物心がつく以前から自分一人の劇場で延々と流される映画を見ているかのように、脳裏には自分の知らない自分の生涯が残っていた。
記憶ではなく、記録。
記録の中に居る男は、依存していたと言ってよいほどに戦いを嗜好していた。
影を振り切るかのように生きた人生の中で槍を離すことはなく、戦いの最中の高揚感と、互いの殺気で刃が研がれる緊張感はあらゆる美酒よりも水に劣り、戦い、傷つけ、殺し合うことでしか自らの生を実感することができなかった。
今の、緋山一葉という人格は戦うことを望んではいない。少なくとも、自ら喧嘩を買って出るような真似は今までしたことはない。
だが、それでも鮮明に脳裏に残る六十数年にわたる一人の男の生涯は一葉のアイデンティティを不安体にさせ、清廉な少年期を奪うには充分だった。
私立聖祥大学付属小学校は、俗に名門と呼ばれる学校で学費も偏差値も公立のそれとは雲泥の差がある。
一葉の家は両親とも共働きで、父は会社でそれなりの役職に就き母はフリーのカメラマンをしている。
家庭階級では中の中のやや上、と言ったところで一人っ子を抱える家庭としては若干金銭の余裕があった。
その為に、ダメならダメで公立に通わせるつもりの軽い気持ちで一葉に聖祥を受けたせたのだが、前世の記録を継承している一葉は読解能力も理解能力も成人のものと同等であり、いくら名門といえどたかだか小学校の入試に落ちるはずもなかった。
入試直前に行われた僅かな試験勉強で知識を、考えるまでもない問いが書かれた問題用紙に、何も考えずに答えを綴っていけば全教科満点という有り得ない結果を出してしまったのだ。
一葉の他にも、もう一人だけ全教科満点がいたらしいが、それは学校創設以来初めてのことらしく、両親は喜びよりも驚きの方が勝っていた。
将来は学者か政治家か。
両親や近所の人たちにはそのようなことを言われるが、所詮は罪枷寝た知識を応用しただけで、自分が天才などではないことぐらい一葉が一番理解していた。
式は滞りなく粛々と進み、最高学年代表の祝辞や校長と理事長の長い話し、初めて聞く校歌を半ば無理矢理に歌わされた後は、在校するにあたっての注意事項を述べられる。
そして最後に各クラスの担任が、自分の受け持つ生徒の名前を呼びあげて教室に移動するという流れだ。
一葉が所属することになるクラスを担当する若い女性教諭が高い声を張り上げて、生徒の名前を一人一人読み上げていく。
ア行から始まり、カ行、サ行と、一葉にとってこれから一年間同じ空間で勉学を励む仲間の名前なのだが、まるで意味のない単語の羅列のように聞こえ欠伸を噛み殺しながら自分の長呼ばれるのを待った。
「一年一組十八番! 高町なのは!!」
「はい!」
タ行の一番初めに呼ばれた生徒が力いっぱいに声を張り上げて席を立つ。
一葉の斜め前に座っていた女の子で、返事をすると席から離れて先に呼ばれていた生徒たちが並ぶ花道の参列に加わる。
甘栗色の髪を両サイドでくくるという特徴的な髪形と、大粒の瞳が印象的な可愛らしい女の子だった。
多分、将来は美人になるのだろうなと、少女を視界の端に捉えながら一葉は漠然とどうでもよいことを考えながら、重い瞼を堪えて必死に眠気と戦っていた。
◆◇◆
時間の流れとは早いもので、一葉が聖祥大学付属小学校に入学してから三年が過ぎた。
学校という世間から隔絶された空間に放り込まれた好奇心の塊である子供たちは、事あるごとに暴れ、騒ぎ、泣きだし、そんな喧騒に包まれた三年間は思い返せば落ち着く暇さえなかったと追憶する。
小学校に限らず、学校ではクラスを超えたコミュニティが自然と出来上がるもので、それは通学路や趣味が同じであったり、休み時間に同じボールを追いかける仲間であったりといくつかのグループが出来上がる。
しかし、小学生という多感な時期は異性と行動することに恥じらいを感じるもので確実に男女の仲は明確に分かれるものだ。
少なくとも、一葉はそう思っていた……のだが、
「なんでこうなってんのかなぁ……」
「どうしたのよ、急に?」
ぼやくような一葉の言葉に、金髪の少女が怪訝な視線を送った。
「んにゃぁね。 改めてさ、なんで君たちとこうして昼飯をつついているのか疑問に思ってね」
昼休みの時間帯。
聖祥には給食というものがなく、昼食は各自の家から弁当を持ってくることになっており、食事をする場所も制限されないという、まるで高校のような制度になっている。
一葉は校舎の屋上に置かれた五人掛けの黒塗りのベンチに腰を下ろして、母の作った豚の生姜焼きを口に運びながらしみじみと言うと、金髪の少女の隣に居た甘栗色の髪をツインテールにした少女が哀しそうな声を出す。
「一葉くんは、私達と一緒にごはん食べるの嫌なの?」
「違うよ。 一葉くんは、本当は嬉しいんだけど恥ずかしがってるだけなんだよ」
今度は青紫色の髪をした少女が、柔らかな笑みを浮かべながら言う。
心なしか、どこかからかっているようだった。
「……そうなの?」
その言葉に、大粒の双眸で覗きこんでくる少女に違うと言ったら、その顔は泣き顔に歪むだろう。
一葉は面倒臭そうに箸をつく。
「ソノトオリデスヨ」
「なによその言い方」
「照れ隠し」
「じゃあ、少しは照れた顔してみろ」
金髪の少女は弁当箱に入っていたカットレモンを箸でつまんで一葉に投げつけた。
ぺちゃり、と音を立てて頬に張り付いたレモンに気にも留めず、一葉は口に含んだ豚肉を粗食しながらフェンス越しに校庭を見下げる。
視線の先には広いグラウンドでサッカーボールを追いかけまわしている男子を見てから、再び自分と同じベンチに座っている少女たちを見る。
右から、金髪の子がアリサ・バニングス。白いカチューシャをつけた青紫の髪の子が月村すずか。そして甘栗色の髪をしたツインテールの子が高町なのはという。
一葉は、確かに激しい運動などを率先してやるような性格はしていないが、それでも本来ならば男子に交じってサッカーボールを追いかけている方が自然だ。
自身もそれを理解していて、もはや日常になってしまっているこの光景に密やかに溜息をつく。
なぜこのような状況が続いているのか、それは一年前に話しが遡ることになる。
◆◇◆
その日は気持ちの良い小春日和で、柔らかな日差しがギンモクセイの若葉に反射してキラキラと輝くような日の正午過ぎ。
一葉はカビと誇りの入り混じった聖祥大付属小学校の図書室で頬杖をつきながら本を読んでいた。
無駄に広い聖祥の図書室には、一葉以外に人の気配はなく、貸出カウンターの上に掛けられた壁時計が時を穏やかに刻む音がやけに大きく響く。
開け放たれた窓からは、薄黄色に変色している年季の入ったカーテンを靡かせながら海から潮の香りを孕んだ風が入り込み、一葉の髪を優しく撫でる。
一葉が小学生になって一年の二週間が過ぎ、その休み時間のほとんどをこの図書館で過ごしていた。
特別、本が好きというわけではないが、一葉はかつての自分が生きていた世界と今の世界の歴史の齟齬に気が付き、最初はその情報収集のために始めたのだが、今では教室から逃げる意味合いも含んでいる。
印字で刻まれた文字を目で追っていくと、この世界で起きた様々なことを知ることができる。
伝説、伝承、英雄譚。中には自分の知っている物語がまるで別のものになってしまっているものもあった。
自分とは違う、一人の生涯の記録を持った一葉は他の同年代の子供よりも遥かに達観して老齢した性格をしていた。
そんな一葉と、エネルギーの塊である小学生とでは、その温度差は冷水と熱湯ほどあり、一葉は一年経った今でもクラスに馴染めないでいた。
こうして一人で過ごすことに、一葉はすっかり慣れ切っていた。
両親には心配させまいと、家ではそれなりに明るく振舞ってはいるが、一葉が大人になり少年時代を懐かしみ振り返ることがあったとしても、思い出すのはこうして一人で、図書館で過ごしていたという寂しいものだろう。
この一年間で、一葉は取り返しのつかないほどにクラスから浮いてしまっている。
だからといって、無理に馴染む気など毛頭もなかった。
一葉は手にしていたハードカバーの本を読み終えると、別の本を探そうと席を立つ。
すると、ふと窓の外からカーテンの隙間を通して耳障りな喧騒が聞こえてきた気がした。
怪訝に思い、一度本棚にしまおうと手に持った本を古びた樫のテーブルの上に置いてカーテンを開く。
声のする方へと視線をやると、そこには何かを奪い、取っ組みあっている二人の少女の姿があった。
「あれは……」
その少女はアリサ・バニングスと月村すずかだった。
二人とも髪の色に特徴がありすぎるために、遠目からでも直ぐにわかる。
アリサもすずかも、一葉のクラスメイトだった。
この一年間で知った二人の人物像は、アリサは負けん気が強く勝気な性格ながらも、人の先頭に立つカリスマ性のある女の子だ。自分の意思をしっかりと持ち、成績も優秀で一葉と同じく入学試験で満点だったと聞いている。
相当な負けず嫌いらしく、この一年間で事あるごとに一葉に突っかかってきていた。
対して、月村すずかは一人でいることの多いおとなしい女の子だ。
ただ、それは人と馴染めないのではなく、自分から周囲と一線を引いているような、小学生に似合わない落ち着いた雰囲気を纏っていた。
傍目から見ていても接点のない、ただのクラスメイトの二人がなぜ喧嘩をしているのだろうと疑問に思いながら傍観していると、二人の声は次第に熱がこもり始め、いつどちらが手を出してもおかしくなくなってきていた。
「見て見ぬふりもあれだしなぁ……。 やっぱり、この場合は止めに行った方がいいのかな……」
別段、本を読む以外することもないので、一葉は誰もいない図書館でそう呟くとテーブルに置いていた本を本棚に戻し、駆け足で二人の元へと向かった。
◆◇◆
一葉が現場に着いた時、目に飛び込んだのは甘栗色の髪を耳の上でぴょこんと縛っている女の子が、アリサに思い切り平手打ちをしている瞬間だった。
物凄く綺麗に入ったらしく、スパァン!と乾いた音が響く。
平手打ちをしていたのは、高町なのはだった。
アリサはなのはに殴られた頬を自分の左手で押さえながら、敵意に満ち満ちた目でなのはを睨みつける。
「なにすんのよ!!」
「痛い?」
アリサの激昂した声とは裏腹に、冷静な声でなのはは返す。
その口調が、アリサに更なる苛立ちを覚えさせた。
「当り前でしょ!!」
今にも殴りかからんばかりの勢いで顔を憎しみに歪ませ声を荒げるアリサと、冷たい面持ちのまま視線をぶつけるなのはを、本来の当事者であるすずかは顔を青くして愕然と立ち竦んでいた。
「そう。 でもね、大切なものを取られた人はもっと痛いんだよ?」
静かな口調で言い返すなのはに、一応は声に出さず感嘆した。
なのはは一葉と、一年生の時から同じクラスだったのだが、いつも教室の隅に居て自分の意見を主張しない、周囲に流されやすい子だと思っていたからだ。
そんな子が、いつもクラスの中心に居るアリサに喧嘩を売っていることに、一葉は驚きを隠せなかった。
ともあれ、曖昧にだが一葉も状況が読めてきた。
おそらくなのはが手にしているカチューシャが原因だろう。
あれは、確かすずかがいつも身につけているものだ。アリサがすずかのカチューシャを奪い、それをなのはが取り返してこのようなことになってしまったのだろう。
アリサは顔を真っ赤にして、今にもなのはに掴みかからんばかりに憤慨している。
子供同士の喧嘩で、激昂した相手に対して冷静な受け答えは火の中にガソリンをぶち込むようなものだ。
言葉で言い負かすことができなくなると、直ぐに暴力に頼ろうとする。
可及的速やかに事態の収束が必要だと思った一葉は、一歩前に出るとその場の全員に聞こえるように掌を二回叩いて注目を集める。
響く、乾いた音に誰もが身体をビクリとさせて、一葉の方を見た。
「そこまで。 休み時間、そろそろ終わるよ」
突然の乱入者に呆気にとられていた三人の中で、一番に思考を回復させたのはアリサだった。
一葉の顔を見るや否や、視線だけで人を殺せるのではないかと思うほど厳しい目つきで一葉の突き刺す。
「なによ! アンタには関係ないでしょ! 出しゃばってこないでよ!!」
声を荒げるアリサの言うとおり、この件は一葉にとってまったくの無関係だ。
それに加え、喧嘩の仲裁に入るほどこの場の三人の誰とも親しいわけではない。
だからといって、ここまで出張ってしまった以上、引き下がるのは格好が悪すぎてできるはずもなかった。
「確かに関係ないけどさ、見ちゃった以上見て見ぬふりもできなくてね。 それよりさ……、話しは変わるけどバニングスって犬飼ってるよね?」
「……なんで知ってんのよ?」
アリサが眉根を寄せ、一葉を睨みつけたまま唸るような声を出す。
「いつも制服に犬の毛がついてるから。 それはともかくさ、オレがある日バニングスの家で飼ってる犬を誘拐したらどう思う? 怒るでしょ?」
「当り前でしょ!」
「じゃあ、なんで怒るのかその理由を考えてみようか。 多分、高町が言いたかったのはそういうことだと思うから」
「そんなの……!」
アリサは何かを言いかけて、喉元に押し込めた。
頭の回転の速い聡明な少女だ。一葉が言いたいことが直ぐにわかったのだろう。
「少し頭冷やしてから話しあった方がいいんじゃない? 午後の授業が終わったあたりがちょうどいいでしょ」
聖祥は進学校の為、低学年だろうが関係なく午後まで授業がある。一コマ四十五分の時間は沸騰した頭を冷やすにはちょうどいい間だろう。
とりあえずこの場を収めようとしていた一葉なのだが、意外にもアリサの口から却下の言葉が飛び出した。
「……必要ないわよ」
アリサは細い指で自分のスカートの裾を強く握りしめながら、絞り出すような声で言った。
「ごめんなさい。 私が悪かったわ」
アリサが、か細い声ですずかに頭を下げると、すずかは一瞬だけ呆気にとられたように目を丸くすると、直ぐに柔らかな笑みを作って首を横に振った。
「ううん、もういいよ」
あっさりと頭を下げたアリサに、すずかは毒気がすっかり抜かれたのか怒る気配もなくアリサの謝罪を受け入れた。
「おい、高町」
「え? な、なに?」
急展開な状況についていけず、アリサとすずかのやり取りをボウと眺めていたなのはに、一葉が話しかけるとなのはは困惑した声で返事をした。
「高町もバニングスに言わにゃいけないことがあるんじゃない?」
「え? うっ、うん……」
なのはも、申し訳ないという気持ちがあったのだろう。一葉がなにを言わせたいのかなのはは直ぐに理解して、細い指をもじもじと絡ませながらアリサの前に立って頭を下げた。
「あ、あの……。 顔叩いちゃって、ごめんなさい……」
「いいのよ。 元はといえば全部私が悪かったんだし」
なのはの言葉に、僅かに頬を朱色い染めながらアリサはつっけんどんに言う。
この様子だと後々に尾を引くことはないだろう。
三人がお互いの非を認めて許しあっている光景に、一葉はどこかこそばゆいものを感じて心が緩む。
だが、このあたたかな空気を壊す冷酷な事実を、一葉はこの三人に突きつけなければならなかった。
「ゴメン……。 ちょっといいかな?」
「あ……、緋山くんもありがとう。 止めに入ってくれて……」
一葉が三人に声をかけると、すずかが一葉に礼を言った。
それに続いてアリサも口を開く。
「私からもお礼を言っておくわ。 アンタが来なければ私、多分高町さんのこと殴ってたし」
「ふぇ!? そ、そうなの!?」
アリサの言葉にビクリ、となのはの肩が動いた。
「あー……、うん。 それはいいんだけどさ、ちょっと言ってもいいかな?」
「なによ?」
口をどもらせる一葉に、三人が怪訝に思い首を傾げる。
「チャイム、とっくに鳴り終わってるんだけど」
正確には、なのはがアリサを殴った辺りである。
「え?」と三人の声が重なり、一葉の言葉に三人の顔が面白いようにみるみる内に青く染まっていった。
小学二年生にとって、授業を無断欠席するということは形容しがたい背徳感に襲われる。
まだ幼い心に、学校という共同体で作られたルールを破ってはいけないという強迫概念が強く根付いているからだ。
もっとも、それは時間の経過とともに薄れていくが。
「走る?」
一葉の言葉を切り口に、立ち竦んでいた三人が爆発したように一斉に走り出した。
一葉も、一呼吸遅れて走り出すが直ぐに追いついて並走すると、アリサが視線を前に向けたまま叫んだ。
「な、なんでもっと早く言ってくれなかったのよ!?」
「そんなん言える空気はなかったろが」
「じゅ、授業サボったってばれたらお姉ちゃんに怒られる……」
「待ってよ~! みんな~!!」
一人だけ運動神経の乏しいなのはは、一葉たちから直ぐに距離が開いてしまう。
その手には渡しそびれたすずかの白いカチューシャが未だに握られていた。
◆◇◆
結局、授業に大幅に遅れた四人は仲良く放課後まで廊下に立たされることになり、日が傾き始める前に先生の小言で締められてからそれぞれの帰途についた。
アリサとすずかは迎えの車に乗って帰って行ったので、今は一葉となのはの二人だけだ。
「……緋山くんは、すごいね」
「あん? なにが?」
まだ高い太陽の作る住宅街の影の中を、一葉は一つの小石を延々と蹴り続けながら、どこか気落ちしたなのはの声に素っ気なく答える。
「だって、さっき緋山くんは言葉だけでバニングスさんのことを止めたでしょ。 私なんて、暴力をふるうことしかできなかったのに……」
「んー、別にあれはあれでよかったんじゃない?」
「え?」
一葉は地面を転がる足に視線を固定したまま言うと、なのはは頓狂な声を出す。
「あの時さ、バニングスは頭に血が上ってたろ。 どの道、頭を冷やさせるには何かしらのきっかけは必要だったんだよ。 それが高町の場合は平手打ちだったってだけだろ。 あのまんま放っておいたら、多分もっと面倒くさいことになってたと思うよ」
「だけど……」
「それにさ、オレはあれで高町の印象が随分変わったよ」
一葉はそう言うと大きく足を振って、ずっと転がしていた小石を強く蹴った。
綺麗な弧を描いて、小石は赤く塗られた逆三角形の標識のど真ん中に、カツンと命中する。
「高町はさ、自分の意見を人に言うの苦手でしょ?」
その言葉に、なのはは唇をギュッと引き締めて俯いてしまう。その沈黙を肯定を受け取り、一葉は言葉を続けた。
「いつもクラスの隅っこにいる奴がさ、クラスの中心にいるバニングスに平手打ちかました挙げ句に案だけの啖呵を切ったんだ。 正直、痺れたね」
「たんか?」
小学二年生には少しばかり難しい単語だったらしく首を傾げるなのはに、一葉は困ったように笑う。
「すごくかっこいいことを言う、って意味だよ」
今まで、ずっとなのはの横を歩いていた一葉は、一歩足を大きく踏み出して振り返る。
すると、落ち込んだなのはの目と視線がぶつかった。
「暴力はいけないことかもしんないけどさ、人の為に暴力を振るうことができるのは本当に優しい奴だけなんだと思う。 それに、高町は悪いことしたと思ったからバニングスに謝ったんだろ? 人の痛みを知ることができて、人の為に力を振るうことができるなんて、オレからしたら高町の方がよっぽどすごく思うけどね」
一葉のとって、なのはは眩しく見えた。
かつての一葉だった存在は、正に戦場の修羅のような生き様を晒していた。
ただ、理想の為にその身を焦がし、炎のように血を飛沫に舞わせ、数多の命を雪に散らしていった。
一葉に在るのは恐怖だ。
例えそれが一葉自身が行ったことでなくとも、その記録を持つ一葉の根底は同じもの。
つまり、自分も同じ修羅なのではないか、と。
「高町はね、自分で思ってるよりもずっと、ずっとすごい人間だよ。 もっと、胸張って良いと思うよ」
一葉の言葉を切り口に、突然なのはの頬に大粒の涙がボロボロと零れ初めて、その出来事に一葉はギョッとした。
「ちょっ……! なんで泣くの!?」
「わ……、わかんない。 わかんないけど……」
止めどなく溢れてくる涙を両手で拭いながら、なのははしゃっくり混じりで答えるが、なのは自身もなぜこんなに涙が出てくるのかわからずに戸惑っていた。
この時、一葉はまだ知る由もなかったが、なのはの家は数年前に父親が大怪我を負い、その間リハビリが終わるまでなのはは家族からも孤立していたという。
誰にも迷惑をかけまいと、ただ一人で過ごした幼少期はなのはの胸に小さな穴をあけていた。
“人に迷惑をかけてはいけない”、“自分はいい子でなければならない”という強迫概念にも近いものを呪詛のように自分自身にかけ続けていた。
だが、それは裏を返せば“誰かに認められたい”、“誰かに受け入れてもらいたい”という欲求でもあった。
一葉のかけた言葉はなのはにとって、胸を縛り付けていた鎖を解く言葉に他ならなかった。
その歓喜を、幼いなのはは理解することができず、ただ涙として流すことしかできなかったのだ。
「緋山くん……、ありがとう……」
「えと……、どういたしまして?」
なのはが泣きながら紡いだ感謝の言葉に、一葉はわけもわからず応えることしかできなかった。
おそらく、なのは自身もなんでお礼を言ったのかわかってなかったのだろう。
結局、一葉は泣きやまないなのはを近くの公園まで連れて行き、涙が止まるまでベンチに腰かけ、ただ何もせずに隣にいた。
その日をきっかけに、一葉は三人もの友達を同時に手に入れることになったのだ。