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[31098] (チラシの裏より) 調子に乗ってなのはSSを書いてみた なのはSS 2月12日タイトル変更
Name: 三鷹の山猫◆ef72b19c ID:fa6e15e0
Date: 2012/03/01 23:03
なのはのSSです。タイトルと内容は関係ありません。

『小説を読もう!』でも別タイトル、別作者名で書いています。

2月12日 タイトル変更。 『就活がうまくいかないからむしゃくしゃして書いてみた』→『調子に乗ってなのはSSを書いてみた』

3月1日 チラ裏から移動



[31098] 1!
Name: 三鷹の山猫◆ef72b19c ID:d1000a7d
Date: 2012/03/01 22:55
 私を殺してくれてありがとう。

 小さな女神がそう言った。

 何もない世界。太陽が支配する空も、風に凪ぐ草が生える大地も、大地に人を縛り付ける重力の鎖も、光も闇も何もない。
 無と呼ぶ定義が、確かに存在する場所に、一人の男と少女が対峙していた。

 「はじめまして、でよろしいか?」

 赤い双眸で見上げる少女に、男は言う。
 定型的な挨拶の言葉に、少女は瞼を下ろし、首を横に振った。

 「はじめましてじゃない。 貴方は私を知っているはず」

 子供特有の凛とした、それでも抑制された小さな声が音のない世界に響く。

 「どうか? お主のような少女に、一度会えば忘れることはないかと思うが」

 男の言うとおり、少女は一度目にしたら忘れることができないような容姿をしていた。
 それはどこか、人と違う特徴があるわけでも、目立って有り余る奇抜な容姿をしているわけではない。
 ただ美しいのだ。
 無重力の世界に無造作に踊る長く、艶やかな金色の髪。燃え盛る紅玉のように大粒の瞳。陶器のように白い肌。
 漆黒の夜空に浮かぶ月のように、編みあげられた物語に出てくる女神のように、人が手に触れてはならないような美しさと純潔さ、そして神秘を少女は纏っていた。

 「確かに貴方が人であった時、私と貴方との間に面識はなかった。 それでも、貴方という存在が誕生した時、私が貴方の中に生まれたその時から、貴方は私の存在を感じていたはず」

 「……どういう意味だ?」

 「頭で認識したことはないと思う。 それは心に、貴方の起源たる魂に訴えかけるものである以前に貴方が人である限り脳の容量が限界に達してしまうから。 魂に刻まれた情報はそれほどまでに重いもの。 それでも、貴方は無意識的に私を理解して許容していてくれていた」

 言葉を紡ぐ少女と、訝しむ視線を送る男の間には、暗い水面のように漂う空間が揺らめく。
 本来ここは、何者の存在も許されない場所であるはず。それなのに、男も少女も、個としてここに存在しているという疑問。
 少女は何者であるのか。
 男の問いは、少女自らの口で語られる。

 「貴方の魂は私に限りなく近いものだった。 最初に生まれた現象の起源を内包する者。本来ならば人の身に生まれるはずのない貴方だからこそ、私を殺すことができた」

 少女の言葉に、男は得心した。

 「ああ、そうか。 主は世界か」

 男の言葉に、今まで能面のように張り付けていた表情だった少女に微笑みが浮かぶ。
 それはまるで、触れれば散ってしまいそうな儚げなスミレのように思えた。

 「そう、私は貴方達人間が世界と呼ぶ存在。 貴方の生きていた、可能性の一つ」

 「私に、遺恨を晴らしに来たという訳か」

 男は息を吐きながら、真っすぐと見据える少女と視線を絡ませた。
 
 運命というものを“これでいいのだ”と受け止めるか、それとも“これでいいのか?”と疑うのか、一人の武人としての生涯を送った男にとってそのどちらも関係なく、どの道、男は納得して死にたかっただけなのだ。
 
そして、その結果がこの場所だった。
 
 それでも、殺してしまう世界に未練も罪悪感も無かったわけではないが、後悔だけは微塵も残すことはしなかった。
 正義とは悪の影に存在し、光が強ければそれほどまでに影の濃さも増すものだ。
 固定された正義とは悪と同義であり、自らの正義を貫くには常に自分の正義を疑わねばならない。
 その上で、男は自らの正義に法りその手で世界を殺した。
 男は平静の表情を崩さなかったが、胸から込み上げる痛みを喉元に覚えながら、少女から紡ぐ侮蔑と憎悪の言葉と、報復を待った。

 だが……、

 「違う、私は貴方にお礼と、謝罪をしに来た」

 「……何だと?」

 余りに予想外の言葉に、男は眉をひそませた。
 だが、そんなことを気にせず少女は薄い唇で言葉を続ける。

 「私の起源は、災厄と疫病。 人間たちが悪とするものだった。 私は自分のそんな在り方が嫌で嫌でしょうがなかったの。 人を苦しめ、貶める事象しか起こせない私にとって、世界という役割は苦痛でしかなかった」

 少女は長いまつ毛に影を落とし、冷然と言う。
 水のように澄んだ綺麗な声には哀しみが混じっていた。

 「だけど、そんな中、私は貴方の存在を知った。 存在するはずのない、事象の起源を持ち生まれた者。 本来ならば、世界として生まれるべきだった魂。 私を殺してくれるという希望を見出すには、理由はそれだけで充分だった」

 儚げに語る少女の眼差しの奥には、漆黒の絶望と閉塞感、そして灼けるような痛みが揺らいで見えた。

 決して終わることのない、永遠の平行線。
 凍りつくような静寂に包まれる孤独に怯える日々。
 
 そして男は知った。
 この少女は、自分と同じ……。もう一人の自分であったのだと。
 
 世界という鎖に縛られ、自ら死ぬことも叶わず、ただ緩やかな時に身を任せることを強要され続けた彼女にとって、男の存在は冴え冴えとした月の光明に見えたに違いない。

 「……全ては、盤上の遊戯だったというわけか」

 「ごめんなさい……。 喉が潰れるまで謝罪の言葉を言っても、とても許されないことをしたということはわかってる。 でも、私は……」

 小さな肩を震わせている少女に、男は憮然と言い放つ。

 「構わんよ」

 一瞬、何を言われたのか判らなかったのだろう。
 少女は丸くした目で男を見るが、男に目に偽りや強がりの色はなく、水を映す水面のように穏やかなものだった。

 「本来ならば、私は君を許すべきではないのかもしれん。 だが、全てのものは嘲笑うかのように流れる運命の本流で必死になってもがくもの。 溺れるものが藁を掴んだとて、一体誰にそれを嗤うことができようか。 まして、私は生きた世界で多くの血を流してきた。 お主を責める言葉など、私は持ち合わせてはおらんよ」

 表情を和ませている男の言葉に、少女は目頭が火のように熱くなり、鼻の奥に込み上げてくるものを感じた。

 「それに……、付けるべき決着は付けてきた。 未練も、執着もあるが後悔だけは微塵もしておらん。 例えそれが、主の描いた筋書き通りであったとしても、私はお主を殺せたことに満足をしている。 それならば、謝る必要などどこにもなかろうよ」

 鷹揚のない男の低い声は、少女の心に深く染みてゆく。
 
 憎しみに歪んだ叫びを、嵐のような怒りをぶつけられると思っていた。
 それでも足りないことをしてしまったことを理解していた。
 自らの死を招くために、一人の男の生を狂わせてしまった罪は贖っても贖いきれるものではないと。
 少女は、心の底では男と会うことに底なし沼のような暗黒と混沌の恐怖を感じていたのに、男は草を凪ぐ深い風のように少女を赦してくれたことに、暗雲たちこめる空から光の梯子が射しこんだ時のような救いを感じた。
 気が付けば、目を開いたまま大粒の涙が頬を伝う。

 「ごめんなさ……い。 ごめんなさい。 貴方を……私の身勝手に巻き込んでしまって……」

 「謝る必要はないと言ったはずだ」

 小さな手で頬を擦りながら涙を流す少女に、男は困ったように肩を竦めた。

 「ところで、主はこれからどうなる? このまま此処に、というわけではなかろう」

 男が素朴な疑問を問いかけると、少女は泣き腫らした目を向けて答える。

 「此処は世界が終焉を迎えた後にできる、新しい世界を誕生を誕生させる胎盤のような場所なの。 私は新しい世界が生まれるまで、此処に居続けることになるけど、その後は輪廻の輪に組み込まれることになる」

 「そいつは重畳。 人としての生を手に入れるということか」

 「……貴方は、自分がどうなるかは聞かないの?」

 少女の言葉に、男は自嘲と諦観が入り混じったかのような笑みを浮かべた。

 「理由や過程がどうであれ、私はお主という世界を殺した。 同時に、その中にあった命の全てもだ。 即ち、私は咎人。 行く先は閻魔のもとだろう」

 「違う。 そんなこと、私がさせない」

 高く澄んだ少女の声。
 氷のように美しい声には確かな決意が潜んでいた。

 「貴方にはこのまま転生して貰う。 その為に、私は貴方をここに呼んだ」

 少女は男の手を取り、柔らかく包み込む。
 小さく柔らかな手には体温はなく、死人のように冷たいというのに涙に濡れた少女の艶やかな赤い瞳には、燃え盛る炎にも似たものが滾っていた。

 「このままだと貴方は輪廻の輪に戻る前に魂が消滅してしまう。 例えどんな理由があっても世界殺しは重い罪だから。 だから……、元の世界は無理だけど別の可能性が行き着いた世界に貴方を送る」

 「……しばし、待たれよ。 一体、どういうことだ?」

 話しが男にとってわけのわからない方向に進み始めたようで、手を取る少女を制止して説明を求めたところ、少女はきょとんとした顔で男の顔を下から覗き込むように見上げた。

 「今、言ったばかり。 貴方の魂をこのまま別の世界に送る」

 「なにゆえ?」

 「貴方には、もう一度人をやり直して貰いたいから」

 「人を、やり直す?」

 男か呆然と聞き返すと、これ以上の言葉は必要ないとばかりに少女の手に力がこもる。

 「私は貴方が再び人をやり直す権利さえ奪ってしまった。 だけど、一度輪廻を介さずに転生すれば、そのまま他の魂の群れに紛れることができる。 それが私にできる精いっぱい」

 「そんなことして大丈夫なのか?」

 少女は先ほど、世界殺しは大罪になると言った。ならば、その罪を裁く存在があるはずだ。
 だが、少女は不敵に口角を吊り上げた。

 「知ってる? 罪って言うのはね、誰かに見つかって初めて罰を科せられるんだよ?」

 「つまり、誰かに知られなければいいという訳か。 呆れたものよな」

 男は溜息とも言えるように息を吐きながら言うと、自分の足元が粒子の光となって散っていっていることに気が付いた。

 「これは……」

 「新しい肉体が貴方の魂を呼んでいる。 もうすぐ貴方は別の貴方として新たな生を受けることになる」

 自分の足が痛みも苦しみもなく消えてゆくのに驚くでもなく、むしろ何が起きているのかわからないといったように呆然とつぶやく男に対して、少女は落ち着いた口調で説明する。
 足から腰、腰から端へと下から上へと、雌を誘う蛍の光のような薄緑の光となって散りゆく中、少女の握っていた手も光となってすり抜けてゆく。

 「本来だったら、輪廻の輪に戻る時に魂は前世の記憶が洗浄される。 だけど、貴方の場合はこのまま記憶を引き継ぐことになってしまう。 この場で、私と会い話した記憶もそのまま……。 その上で、お願いしたいことがあるの」

 少女は湿った涙を伏せ、押し殺した表情で言う。
 
 「こんなこと、お願いできる立場じゃないってことぐらいわかってる。 だけど、貴方がこれから行く世界に助けを求められたら、その時は力になってあげて。 あの子は、私と違って優しくて……私よりも哀れな子だから」

 悔恨と懇願が入り混じった声に、男は何も言わずに、ただしっかりと頷いた。

 少女の姦計にはまり、結果として魂の終焉の一つ手前まで追い込まれた男がそのような頼みを聞く道理はないのかもしれない。
 だが、それでもどういうわけか頷かずにいれなかった。

 男の身体は、ついに肩らか上だけを残すだけとなると、不意に男は何かを思い出したかのように口を開いた。

 「主の名はなんという」

 「え?」

 余りに唐突すぎる質問に、少女はつい頓狂な声が口から零れ落ちた。

 「名だ。 主が親から与えられた、主を指す呼称だ」

 「アンラ……。 アンラ・マンユ」

 少女が呆気にとられたまま、機械的に呟くような小さな声で言うと、男は満足したように目を細めた。

 「さらばだアンラ・マンユ。 貴殿のこれからに幸福の雨が降らんことを」

 男はそう言い残すと、光となって完全に霧散し消えた。
 この無の世界に少女は一人残り、これから遠くない、しかし近くもない未来までの間、新たな世界が生まれるのを見届けなければならない。

 男のとの会話を胸の内で反芻すると、少女の頬には先ほどまでとは違う、あたたかな歓喜の涙が頬に流れた。

 人と話すことなど世界となってから初めてのことで、未来も過去も、現在さえもが入り混じった時間の概念のない世界という立場で、例えそれが自らの罪の許しを乞う為に設けた席であっても少女にとっては夢のような時間だった。

 「幸福の雨が降らんことを……か……」

 少女は無の虚空を見上げながら、今はもういない男の為に言葉を贈る。

 「ありがとう、私を殺してくれた人。 どうか、新しい貴方に無限の幸福が訪れんことを……」

 少女の穏やかな声は、反響することもなく無の中に消えていった。
 
 
 ◆◇◆


 関東の南に海鳴市という都市がある。

 海に面したその街は地方と呼ぶには栄えていて、都心と呼ぶには少し寂れているよくある地方都市の一つだ。
 人口は約二十万ほどで、大きい地区と小さな地区のいくつかに分けられ、それぞれの自治体が治めている。
 その中でも一際大きいのが、経済的にも位置的にも海鳴市の中心にある海鳴区だ。
 幹線道路や鉄道を中心とした交通網の整備が進んでおり、商業地区を取り囲むように住宅地区が広がっている。
 
 そして、その海鳴区の東に位置する大学付属の小学校、私立聖祥大学付属小学校の入学式が慎ましやかに執り行われていた。
 
 本館から渡り廊下で繋がれた、フローリングの広い体育館の壁には全面に赤と白のストライプの垂れ幕が下げられており、整然と並べられた椅子にはこの春から新入生として入学する子供たちが行儀よく座っていて、その内の一つ、“ひやま いちよう”と名前の書かれた青のカラーテープが張られた椅子の上にも、少年が一人座っていた。

 いちよう、という少年以外の全ての子供たちはこれから始まる新たな生活に胸を膨らませ目を輝かせているというのに、いちようだけが憮然とした態度でいる。

 緋色に染まる山の一つ葉、と書いて“ひやま いちよう”と読む。

 強い癖の入った黒い髪に、やや吊りあがった目。いわゆるイケ面というものではないが、中性的でそれなりには整った顔立ちの少年は、かつて世界を殺した男の新たに得た生だった。
 
 男が緋山一葉としての生を受けてから、既に六年の月日が流れている。
 前世の男の人格は消えており、今は緋山一葉の人格が構成されてはいるが、それでも記憶だけは失われることはなく一葉は物心がつく以前から自分一人の劇場で延々と流される映画を見ているかのように、脳裏には自分の知らない自分の生涯が残っていた。
 
 記憶ではなく、記録。

 記録の中に居る男は、依存していたと言ってよいほどに戦いを嗜好していた。
 影を振り切るかのように生きた人生の中で槍を離すことはなく、戦いの最中の高揚感と、互いの殺気で刃が研がれる緊張感はあらゆる美酒よりも水に劣り、戦い、傷つけ、殺し合うことでしか自らの生を実感することができなかった。

 今の、緋山一葉という人格は戦うことを望んではいない。少なくとも、自ら喧嘩を買って出るような真似は今までしたことはない。
 だが、それでも鮮明に脳裏に残る六十数年にわたる一人の男の生涯は一葉のアイデンティティを不安体にさせ、清廉な少年期を奪うには充分だった。

 私立聖祥大学付属小学校は、俗に名門と呼ばれる学校で学費も偏差値も公立のそれとは雲泥の差がある。
 一葉の家は両親とも共働きで、父は会社でそれなりの役職に就き母はフリーのカメラマンをしている。
 家庭階級では中の中のやや上、と言ったところで一人っ子を抱える家庭としては若干金銭の余裕があった。
 その為に、ダメならダメで公立に通わせるつもりの軽い気持ちで一葉に聖祥を受けたせたのだが、前世の記録を継承している一葉は読解能力も理解能力も成人のものと同等であり、いくら名門といえどたかだか小学校の入試に落ちるはずもなかった。
 入試直前に行われた僅かな試験勉強で知識を、考えるまでもない問いが書かれた問題用紙に、何も考えずに答えを綴っていけば全教科満点という有り得ない結果を出してしまったのだ。
 
 一葉の他にも、もう一人だけ全教科満点がいたらしいが、それは学校創設以来初めてのことらしく、両親は喜びよりも驚きの方が勝っていた。
 
 将来は学者か政治家か。
 両親や近所の人たちにはそのようなことを言われるが、所詮は罪枷寝た知識を応用しただけで、自分が天才などではないことぐらい一葉が一番理解していた。
 
 式は滞りなく粛々と進み、最高学年代表の祝辞や校長と理事長の長い話し、初めて聞く校歌を半ば無理矢理に歌わされた後は、在校するにあたっての注意事項を述べられる。
 そして最後に各クラスの担任が、自分の受け持つ生徒の名前を呼びあげて教室に移動するという流れだ。

 一葉が所属することになるクラスを担当する若い女性教諭が高い声を張り上げて、生徒の名前を一人一人読み上げていく。

 ア行から始まり、カ行、サ行と、一葉にとってこれから一年間同じ空間で勉学を励む仲間の名前なのだが、まるで意味のない単語の羅列のように聞こえ欠伸を噛み殺しながら自分の長呼ばれるのを待った。

 「一年一組十八番! 高町なのは!!」

 「はい!」

 タ行の一番初めに呼ばれた生徒が力いっぱいに声を張り上げて席を立つ。
 一葉の斜め前に座っていた女の子で、返事をすると席から離れて先に呼ばれていた生徒たちが並ぶ花道の参列に加わる。
 甘栗色の髪を両サイドでくくるという特徴的な髪形と、大粒の瞳が印象的な可愛らしい女の子だった。
 多分、将来は美人になるのだろうなと、少女を視界の端に捉えながら一葉は漠然とどうでもよいことを考えながら、重い瞼を堪えて必死に眠気と戦っていた。


 ◆◇◆


 時間の流れとは早いもので、一葉が聖祥大学付属小学校に入学してから三年が過ぎた。

 学校という世間から隔絶された空間に放り込まれた好奇心の塊である子供たちは、事あるごとに暴れ、騒ぎ、泣きだし、そんな喧騒に包まれた三年間は思い返せば落ち着く暇さえなかったと追憶する。

 小学校に限らず、学校ではクラスを超えたコミュニティが自然と出来上がるもので、それは通学路や趣味が同じであったり、休み時間に同じボールを追いかける仲間であったりといくつかのグループが出来上がる。
 しかし、小学生という多感な時期は異性と行動することに恥じらいを感じるもので確実に男女の仲は明確に分かれるものだ。
 
 少なくとも、一葉はそう思っていた……のだが、

 「なんでこうなってんのかなぁ……」

 「どうしたのよ、急に?」

 ぼやくような一葉の言葉に、金髪の少女が怪訝な視線を送った。

 「んにゃぁね。 改めてさ、なんで君たちとこうして昼飯をつついているのか疑問に思ってね」

 昼休みの時間帯。
 聖祥には給食というものがなく、昼食は各自の家から弁当を持ってくることになっており、食事をする場所も制限されないという、まるで高校のような制度になっている。
 
 一葉は校舎の屋上に置かれた五人掛けの黒塗りのベンチに腰を下ろして、母の作った豚の生姜焼きを口に運びながらしみじみと言うと、金髪の少女の隣に居た甘栗色の髪をツインテールにした少女が哀しそうな声を出す。

 「一葉くんは、私達と一緒にごはん食べるの嫌なの?」

 「違うよ。 一葉くんは、本当は嬉しいんだけど恥ずかしがってるだけなんだよ」

 今度は青紫色の髪をした少女が、柔らかな笑みを浮かべながら言う。
 心なしか、どこかからかっているようだった。

 「……そうなの?」

 その言葉に、大粒の双眸で覗きこんでくる少女に違うと言ったら、その顔は泣き顔に歪むだろう。
 一葉は面倒臭そうに箸をつく。
 
 「ソノトオリデスヨ」

 「なによその言い方」

 「照れ隠し」

 「じゃあ、少しは照れた顔してみろ」

 金髪の少女は弁当箱に入っていたカットレモンを箸でつまんで一葉に投げつけた。
 ぺちゃり、と音を立てて頬に張り付いたレモンに気にも留めず、一葉は口に含んだ豚肉を粗食しながらフェンス越しに校庭を見下げる。
 視線の先には広いグラウンドでサッカーボールを追いかけまわしている男子を見てから、再び自分と同じベンチに座っている少女たちを見る。

 右から、金髪の子がアリサ・バニングス。白いカチューシャをつけた青紫の髪の子が月村すずか。そして甘栗色の髪をしたツインテールの子が高町なのはという。
 
 一葉は、確かに激しい運動などを率先してやるような性格はしていないが、それでも本来ならば男子に交じってサッカーボールを追いかけている方が自然だ。
 自身もそれを理解していて、もはや日常になってしまっているこの光景に密やかに溜息をつく。

 なぜこのような状況が続いているのか、それは一年前に話しが遡ることになる。

 
 ◆◇◆


 その日は気持ちの良い小春日和で、柔らかな日差しがギンモクセイの若葉に反射してキラキラと輝くような日の正午過ぎ。
 
 一葉はカビと誇りの入り混じった聖祥大付属小学校の図書室で頬杖をつきながら本を読んでいた。
 無駄に広い聖祥の図書室には、一葉以外に人の気配はなく、貸出カウンターの上に掛けられた壁時計が時を穏やかに刻む音がやけに大きく響く。

 開け放たれた窓からは、薄黄色に変色している年季の入ったカーテンを靡かせながら海から潮の香りを孕んだ風が入り込み、一葉の髪を優しく撫でる。

 一葉が小学生になって一年の二週間が過ぎ、その休み時間のほとんどをこの図書館で過ごしていた。
 特別、本が好きというわけではないが、一葉はかつての自分が生きていた世界と今の世界の歴史の齟齬に気が付き、最初はその情報収集のために始めたのだが、今では教室から逃げる意味合いも含んでいる。

  印字で刻まれた文字を目で追っていくと、この世界で起きた様々なことを知ることができる。
 伝説、伝承、英雄譚。中には自分の知っている物語がまるで別のものになってしまっているものもあった。

 自分とは違う、一人の生涯の記録を持った一葉は他の同年代の子供よりも遥かに達観して老齢した性格をしていた。
 そんな一葉と、エネルギーの塊である小学生とでは、その温度差は冷水と熱湯ほどあり、一葉は一年経った今でもクラスに馴染めないでいた。

 こうして一人で過ごすことに、一葉はすっかり慣れ切っていた。
 両親には心配させまいと、家ではそれなりに明るく振舞ってはいるが、一葉が大人になり少年時代を懐かしみ振り返ることがあったとしても、思い出すのはこうして一人で、図書館で過ごしていたという寂しいものだろう。

 この一年間で、一葉は取り返しのつかないほどにクラスから浮いてしまっている。
 だからといって、無理に馴染む気など毛頭もなかった。

 一葉は手にしていたハードカバーの本を読み終えると、別の本を探そうと席を立つ。
 すると、ふと窓の外からカーテンの隙間を通して耳障りな喧騒が聞こえてきた気がした。

 怪訝に思い、一度本棚にしまおうと手に持った本を古びた樫のテーブルの上に置いてカーテンを開く。
 声のする方へと視線をやると、そこには何かを奪い、取っ組みあっている二人の少女の姿があった。

 「あれは……」

 その少女はアリサ・バニングスと月村すずかだった。
 二人とも髪の色に特徴がありすぎるために、遠目からでも直ぐにわかる。

 アリサもすずかも、一葉のクラスメイトだった。

 この一年間で知った二人の人物像は、アリサは負けん気が強く勝気な性格ながらも、人の先頭に立つカリスマ性のある女の子だ。自分の意思をしっかりと持ち、成績も優秀で一葉と同じく入学試験で満点だったと聞いている。
 相当な負けず嫌いらしく、この一年間で事あるごとに一葉に突っかかってきていた。

 対して、月村すずかは一人でいることの多いおとなしい女の子だ。
 ただ、それは人と馴染めないのではなく、自分から周囲と一線を引いているような、小学生に似合わない落ち着いた雰囲気を纏っていた。
 
傍目から見ていても接点のない、ただのクラスメイトの二人がなぜ喧嘩をしているのだろうと疑問に思いながら傍観していると、二人の声は次第に熱がこもり始め、いつどちらが手を出してもおかしくなくなってきていた。

「見て見ぬふりもあれだしなぁ……。 やっぱり、この場合は止めに行った方がいいのかな……」

別段、本を読む以外することもないので、一葉は誰もいない図書館でそう呟くとテーブルに置いていた本を本棚に戻し、駆け足で二人の元へと向かった。

 
◆◇◆


一葉が現場に着いた時、目に飛び込んだのは甘栗色の髪を耳の上でぴょこんと縛っている女の子が、アリサに思い切り平手打ちをしている瞬間だった。

物凄く綺麗に入ったらしく、スパァン!と乾いた音が響く。

平手打ちをしていたのは、高町なのはだった。

アリサはなのはに殴られた頬を自分の左手で押さえながら、敵意に満ち満ちた目でなのはを睨みつける。

「なにすんのよ!!」

「痛い?」

 アリサの激昂した声とは裏腹に、冷静な声でなのはは返す。
 その口調が、アリサに更なる苛立ちを覚えさせた。

「当り前でしょ!!」

 今にも殴りかからんばかりの勢いで顔を憎しみに歪ませ声を荒げるアリサと、冷たい面持ちのまま視線をぶつけるなのはを、本来の当事者であるすずかは顔を青くして愕然と立ち竦んでいた。
 
 「そう。 でもね、大切なものを取られた人はもっと痛いんだよ?」

 静かな口調で言い返すなのはに、一応は声に出さず感嘆した。

 なのはは一葉と、一年生の時から同じクラスだったのだが、いつも教室の隅に居て自分の意見を主張しない、周囲に流されやすい子だと思っていたからだ。
 そんな子が、いつもクラスの中心に居るアリサに喧嘩を売っていることに、一葉は驚きを隠せなかった。

 ともあれ、曖昧にだが一葉も状況が読めてきた。
 おそらくなのはが手にしているカチューシャが原因だろう。
 あれは、確かすずかがいつも身につけているものだ。アリサがすずかのカチューシャを奪い、それをなのはが取り返してこのようなことになってしまったのだろう。
 
 アリサは顔を真っ赤にして、今にもなのはに掴みかからんばかりに憤慨している。
 子供同士の喧嘩で、激昂した相手に対して冷静な受け答えは火の中にガソリンをぶち込むようなものだ。
 言葉で言い負かすことができなくなると、直ぐに暴力に頼ろうとする。

 可及的速やかに事態の収束が必要だと思った一葉は、一歩前に出るとその場の全員に聞こえるように掌を二回叩いて注目を集める。
 響く、乾いた音に誰もが身体をビクリとさせて、一葉の方を見た。

 「そこまで。 休み時間、そろそろ終わるよ」

 突然の乱入者に呆気にとられていた三人の中で、一番に思考を回復させたのはアリサだった。
 一葉の顔を見るや否や、視線だけで人を殺せるのではないかと思うほど厳しい目つきで一葉の突き刺す。

 「なによ! アンタには関係ないでしょ! 出しゃばってこないでよ!!」

 声を荒げるアリサの言うとおり、この件は一葉にとってまったくの無関係だ。
 それに加え、喧嘩の仲裁に入るほどこの場の三人の誰とも親しいわけではない。
 だからといって、ここまで出張ってしまった以上、引き下がるのは格好が悪すぎてできるはずもなかった。

 「確かに関係ないけどさ、見ちゃった以上見て見ぬふりもできなくてね。 それよりさ……、話しは変わるけどバニングスって犬飼ってるよね?」

 「……なんで知ってんのよ?」

 アリサが眉根を寄せ、一葉を睨みつけたまま唸るような声を出す。

 「いつも制服に犬の毛がついてるから。 それはともかくさ、オレがある日バニングスの家で飼ってる犬を誘拐したらどう思う? 怒るでしょ?」

 「当り前でしょ!」

 「じゃあ、なんで怒るのかその理由を考えてみようか。 多分、高町が言いたかったのはそういうことだと思うから」

 「そんなの……!」

 アリサは何かを言いかけて、喉元に押し込めた。
 頭の回転の速い聡明な少女だ。一葉が言いたいことが直ぐにわかったのだろう。

 「少し頭冷やしてから話しあった方がいいんじゃない? 午後の授業が終わったあたりがちょうどいいでしょ」

 聖祥は進学校の為、低学年だろうが関係なく午後まで授業がある。一コマ四十五分の時間は沸騰した頭を冷やすにはちょうどいい間だろう。
 とりあえずこの場を収めようとしていた一葉なのだが、意外にもアリサの口から却下の言葉が飛び出した。

「……必要ないわよ」

 アリサは細い指で自分のスカートの裾を強く握りしめながら、絞り出すような声で言った。

 「ごめんなさい。 私が悪かったわ」

 アリサが、か細い声ですずかに頭を下げると、すずかは一瞬だけ呆気にとられたように目を丸くすると、直ぐに柔らかな笑みを作って首を横に振った。

 「ううん、もういいよ」

 あっさりと頭を下げたアリサに、すずかは毒気がすっかり抜かれたのか怒る気配もなくアリサの謝罪を受け入れた。
 
 「おい、高町」

 「え? な、なに?」

 急展開な状況についていけず、アリサとすずかのやり取りをボウと眺めていたなのはに、一葉が話しかけるとなのはは困惑した声で返事をした。

 「高町もバニングスに言わにゃいけないことがあるんじゃない?」

 「え? うっ、うん……」

 なのはも、申し訳ないという気持ちがあったのだろう。一葉がなにを言わせたいのかなのはは直ぐに理解して、細い指をもじもじと絡ませながらアリサの前に立って頭を下げた。

 「あ、あの……。 顔叩いちゃって、ごめんなさい……」

 「いいのよ。 元はといえば全部私が悪かったんだし」

 なのはの言葉に、僅かに頬を朱色い染めながらアリサはつっけんどんに言う。
 
 この様子だと後々に尾を引くことはないだろう。
 三人がお互いの非を認めて許しあっている光景に、一葉はどこかこそばゆいものを感じて心が緩む。
 だが、このあたたかな空気を壊す冷酷な事実を、一葉はこの三人に突きつけなければならなかった。
 
 「ゴメン……。 ちょっといいかな?」

 「あ……、緋山くんもありがとう。 止めに入ってくれて……」

 一葉が三人に声をかけると、すずかが一葉に礼を言った。
 それに続いてアリサも口を開く。

 「私からもお礼を言っておくわ。 アンタが来なければ私、多分高町さんのこと殴ってたし」

 「ふぇ!? そ、そうなの!?」

 アリサの言葉にビクリ、となのはの肩が動いた。
 
 「あー……、うん。 それはいいんだけどさ、ちょっと言ってもいいかな?」

 「なによ?」

 口をどもらせる一葉に、三人が怪訝に思い首を傾げる。

 「チャイム、とっくに鳴り終わってるんだけど」

 正確には、なのはがアリサを殴った辺りである。
 「え?」と三人の声が重なり、一葉の言葉に三人の顔が面白いようにみるみる内に青く染まっていった。
 小学二年生にとって、授業を無断欠席するということは形容しがたい背徳感に襲われる。
 まだ幼い心に、学校という共同体で作られたルールを破ってはいけないという強迫概念が強く根付いているからだ。
 もっとも、それは時間の経過とともに薄れていくが。

 「走る?」
 
 一葉の言葉を切り口に、立ち竦んでいた三人が爆発したように一斉に走り出した。
 一葉も、一呼吸遅れて走り出すが直ぐに追いついて並走すると、アリサが視線を前に向けたまま叫んだ。

 「な、なんでもっと早く言ってくれなかったのよ!?」

 「そんなん言える空気はなかったろが」

 「じゅ、授業サボったってばれたらお姉ちゃんに怒られる……」

 「待ってよ~! みんな~!!」

 一人だけ運動神経の乏しいなのはは、一葉たちから直ぐに距離が開いてしまう。
 その手には渡しそびれたすずかの白いカチューシャが未だに握られていた。

 
 ◆◇◆


 結局、授業に大幅に遅れた四人は仲良く放課後まで廊下に立たされることになり、日が傾き始める前に先生の小言で締められてからそれぞれの帰途についた。

 アリサとすずかは迎えの車に乗って帰って行ったので、今は一葉となのはの二人だけだ。

 「……緋山くんは、すごいね」

 「あん? なにが?」

 まだ高い太陽の作る住宅街の影の中を、一葉は一つの小石を延々と蹴り続けながら、どこか気落ちしたなのはの声に素っ気なく答える。

 「だって、さっき緋山くんは言葉だけでバニングスさんのことを止めたでしょ。 私なんて、暴力をふるうことしかできなかったのに……」

 「んー、別にあれはあれでよかったんじゃない?」

 「え?」

 一葉は地面を転がる足に視線を固定したまま言うと、なのはは頓狂な声を出す。

 「あの時さ、バニングスは頭に血が上ってたろ。 どの道、頭を冷やさせるには何かしらのきっかけは必要だったんだよ。 それが高町の場合は平手打ちだったってだけだろ。 あのまんま放っておいたら、多分もっと面倒くさいことになってたと思うよ」

 「だけど……」

 「それにさ、オレはあれで高町の印象が随分変わったよ」

 一葉はそう言うと大きく足を振って、ずっと転がしていた小石を強く蹴った。
 綺麗な弧を描いて、小石は赤く塗られた逆三角形の標識のど真ん中に、カツンと命中する。

 「高町はさ、自分の意見を人に言うの苦手でしょ?」

 その言葉に、なのはは唇をギュッと引き締めて俯いてしまう。その沈黙を肯定を受け取り、一葉は言葉を続けた。

 「いつもクラスの隅っこにいる奴がさ、クラスの中心にいるバニングスに平手打ちかました挙げ句に案だけの啖呵を切ったんだ。 正直、痺れたね」

 「たんか?」

 小学二年生には少しばかり難しい単語だったらしく首を傾げるなのはに、一葉は困ったように笑う。

 「すごくかっこいいことを言う、って意味だよ」

 今まで、ずっとなのはの横を歩いていた一葉は、一歩足を大きく踏み出して振り返る。
 すると、落ち込んだなのはの目と視線がぶつかった。

 「暴力はいけないことかもしんないけどさ、人の為に暴力を振るうことができるのは本当に優しい奴だけなんだと思う。 それに、高町は悪いことしたと思ったからバニングスに謝ったんだろ? 人の痛みを知ることができて、人の為に力を振るうことができるなんて、オレからしたら高町の方がよっぽどすごく思うけどね」

 一葉のとって、なのはは眩しく見えた。

 かつての一葉だった存在は、正に戦場の修羅のような生き様を晒していた。
 ただ、理想の為にその身を焦がし、炎のように血を飛沫に舞わせ、数多の命を雪に散らしていった。
 一葉に在るのは恐怖だ。
 例えそれが一葉自身が行ったことでなくとも、その記録を持つ一葉の根底は同じもの。

 つまり、自分も同じ修羅なのではないか、と。

 「高町はね、自分で思ってるよりもずっと、ずっとすごい人間だよ。 もっと、胸張って良いと思うよ」

 一葉の言葉を切り口に、突然なのはの頬に大粒の涙がボロボロと零れ初めて、その出来事に一葉はギョッとした。

 「ちょっ……! なんで泣くの!?」

 「わ……、わかんない。 わかんないけど……」

 止めどなく溢れてくる涙を両手で拭いながら、なのははしゃっくり混じりで答えるが、なのは自身もなぜこんなに涙が出てくるのかわからずに戸惑っていた。

 この時、一葉はまだ知る由もなかったが、なのはの家は数年前に父親が大怪我を負い、その間リハビリが終わるまでなのはは家族からも孤立していたという。
 誰にも迷惑をかけまいと、ただ一人で過ごした幼少期はなのはの胸に小さな穴をあけていた。
“人に迷惑をかけてはいけない”、“自分はいい子でなければならない”という強迫概念にも近いものを呪詛のように自分自身にかけ続けていた。

 だが、それは裏を返せば“誰かに認められたい”、“誰かに受け入れてもらいたい”という欲求でもあった。
 一葉のかけた言葉はなのはにとって、胸を縛り付けていた鎖を解く言葉に他ならなかった。
 その歓喜を、幼いなのはは理解することができず、ただ涙として流すことしかできなかったのだ。
 
 「緋山くん……、ありがとう……」

 「えと……、どういたしまして?」

 なのはが泣きながら紡いだ感謝の言葉に、一葉はわけもわからず応えることしかできなかった。
 おそらく、なのは自身もなんでお礼を言ったのかわかってなかったのだろう。
 結局、一葉は泣きやまないなのはを近くの公園まで連れて行き、涙が止まるまでベンチに腰かけ、ただ何もせずに隣にいた。

 その日をきっかけに、一葉は三人もの友達を同時に手に入れることになったのだ。






[31098] 2!
Name: 三鷹の山猫◆ef72b19c ID:d1000a7d
Date: 2012/03/01 22:54
 感想を書いて下さった方々への返信の仕方がよくわからんのです……




 ああ、これは夢だ。とすぐに気がついた。
 それも、自分の夢じゃない。

 殺して、殺して、殺し尽くして赤い雨を降らせる獣の夢だ。
 
 嗤うように夜天に浮かぶ黄金の月だけが、すべてを見下ろしていた。

 修復が不可能なほど無残に解体された血肉の塊の中で、男は鉄を濡らしながら口を醜く歪めて節句を唱える。

 我が槍は菩薩の御手 我が剣は閻魔の赦し 現の辛苦から衆生を解放し 汝ら極楽浄土へ案内奉らん

 死もまた救いである。己にも殺した者にも吐き捨てて、湧きだす悦びに浸り殺し続けた。

 海淵のごとし疵は無色の罪を赤へと変える。
 
 そして獣は嗤い続ける。世界など、死んでしまえばいい、と。

 それが、世界が用意した運命だとも知らずに……。

 『わ……は、ここ……ま……す』

 
 ◆◇◆


 「一葉はどうすんのよ?」

 「なにが?」

 いつも通りの面子で、昼休みにざわめく屋上で一葉が母の作った弁当に舌鼓を打っているとアリサが尋ねてきた。

 「んにゃ、まったく」

 一葉が正直にそう答えると、アリサだけでなくなのはとすずかも大げさな溜息をつく。

 「進路の話しだよ。 さっき、プリントもらったでしょ?」

 穏やかな口調ですずかが言うと、一葉はつい先ほど配られたプリントのことが脳裏によぎる。
 しっかりと見はしなかったから確かなことは言えないが、そう言えばそんなようなことが書かれていた気がする。

 「そういや、貰った気がしないでもない」

 「気がしないでもない、じゃなくて間違いなく貰ってるわよ!」

 心底どうでもよさそうな返事をする一葉に、アリサが声を荒げてから「なんでこんな奴が私よりも成績がいいのよ」とぶつぶつ言い始めた。
 ただ、それはテストの点数に限ったことで内申点を含めた成績表であれば、宿題をしてこなかったり、授業中に居眠りなどの態度が悪かったりする一葉よりも、アリサの方が全然上だったりする。
 
 昼休みになれば一人で図書室へと向かっていた一年前までとは違い、今はこの四人で過ごす時間がやたらと増えた。
 それこそ、最初の一週間は変わらずに図書室へと足を運んでいたのだが、いつの間にか結託したアリサとすずかとなのはの三人に拉致られるようになり、気がつけば四人でワンセットといった風に見られるようになってしまっていた。
 その状態が一年も続けば、それはもう普遍な日常で今日の昼食も四人で摂っていたのだが、今の話題は四限目に社会科の授業で行われた将来の進路についてだった。

 昨今の大学生でさえ自分の将来に霞がかかっているというのに、小学三年生に “将来の夢”ではなく“進路”を求めてくるところは、さすが名門と言わざるを得ない。

 「でも、将来かぁ。 アリサちゃんとすずかちゃんは、もう結構決まってるんだよね?」

 なのはが緻密に細工されたタコさんウインナーを頬張りながら二人に尋ねると、悪態をついていたアリサがピンク色の弁当箱に納められたおにぎりを手にしながら答える。

 「ウチはお父さんもお母さんも会社経営だし、いっぱい勉強して跡を継がなきゃ、ってぐらいだけど」

 アリサが手にしたおにぎりの先端を齧りながらすずかに視線を送る。

 「私は機械いじりが好きだから、工学系の専門職がいいなって思ってるんだけど……、一葉くんはどうなの?」

 「んー……、具体的な職業とかは決めてないけど、最低限の学歴がついたら旅に出たいなぁ。 バックパッカーっていいよね。 憧れる」

 「バックパッカー?」

 一葉の言葉に三人が同時にキョトンした表情を作る。
 ちなみにバックパッカーとはバッグを背負い低予算で外国を旅行する人のことを言う。

 「まぁ、犬猫と違ってせっかく自分の意思で好きなところに行ける人間に生まれたんだからさ、世界中を回って、自分の目で見れるもんは全部自分の目で見てから就職を考える」

 「アンタ……、それって多分社会から取り残されるわよ?」

 「いざとなったらアリサの会社で雇っておくれ」

 「いいわよ。 時給二百円でこき使ってあげるから覚悟しなさい」

 「労働基準法の適応を申請せざるを得ない」

 「社長令嬢権限でそれを却下する」

 「それで、なのはちゃんは?」

 すずかはアリサと一葉のやり取りを無視しながらすずかが身を乗り出して、今まで会話に参加してこなかったなのはに聞いた。

 「進路……かぁ……」

 「あら、意外ね。 てっきり「私は翠屋を継ぐの!」って言い出すかと思ったのに」

 なのはの逡巡した声に、一葉と話していたアリサがなのはの声真似をしながら言うと、一葉は口に含んでいた米粒を吹き出し、すずかはお茶を喉に流し損ねてむせた。

 「ちょ……、アリサちゃん……。 今のは……」

 「アリサの秘められた才能を垣間見た気がした。 会社継がなくてもモノマネ芸人で食っていけるんじゃね?」

 二人ともなのはに対して悪気は一切ないのだが、アリサの、なのはのモノマネが予想以上に似ていてツボにはまってしまったのだ。
 笑いをかみ殺すすずかと、本気で感心した声を上げる一葉に、アリサは悪乗りをしたのか意地の悪い笑みを浮かべてさらになのはのモノマネを続ける。
 
 「なんなの! 私は翠屋を継ぐの! にゃーっ!!」

 すずかはまだ口に残っていたお茶を、角度によっては虹が見えそうなほど綺麗な霧状にして吹き出してしまった。

 「ふぇぇ!? 私、にゃーなんて言わないよ!?」

 「いや、かなりの頻度で言ってる」

 「ふぇぇ!?」
 
 「混乱するからやめい」

 ちなみに、最後の「ふぇぇ!?」はアリサだ。
 すずかは完全にツボにハマったらしく、顔を伏せて痙攣していた。

 一葉達の穏やかな日常。
 まだ桜の散りきらない季節のあたたかで優しい風がそっと吹き抜ける。
 そこには劣悪さも、醜悪さもない穏やかな日々があるだけだ。
 今の一葉にとって、ありふれたそれは何よりもかけがえのない大切なものだった。


 ◆◇◆


 その日は、アリサもすずかも稽古事のない日だったので全員で揃って帰った。
 アリサの家もすずかの家も相当の資産家で、二人ともその家の格式に見合った教養を叩きこまれており、なのはも二人ほどではないが同じ塾に通うようにしていた。
 普段は一葉一人が時間を持て余す形になっていたのだが、毎週水曜日だけが全員放課後が開いているのだ。

 授業が終わると同時に、校門から吐き出されるように帰途につく白い制服を着た生徒たちの流れに乗って四人は家を目指す。
 他の歩行者の迷惑になると知りつつも、路地の白線を大きく踏み出して横一列になって歩くのはいつものことだった。

 「一葉くん……、大丈夫?」

 奥歯で欠伸を噛み殺していた一葉に、不意にすずかが尋ねてきた。
 つい一瞬前までは、なのはの実家が経営してる喫茶店、翠屋の新作スイーツの話題で盛り上がっていたのに、いきなり話しを振られたことに一葉は動揺した。

 「確かに、今日のアンタ少し変よ」

 「うん。 具合悪いの?」

 なのはとアリサも、すずかを切り口に一葉の様子を窺ってくる。
 おそらく、二人とも一葉が心此処にあらずといった感じになっていることに気がついていたのだが、切り出すタイミングを掴めなかったのだろう。
 
 「今日のオレ、そんな変?」

 心配そうな声で聞いてくる三人に対して、一葉は首を傾げながら言う。

 「う~ん……。 なんか、上の空というか……、らしくないというか……」

 「それにアンタ今日の授業中、ずっと窓の外眺めてたでしょ。 ノートもとらないで」

 「……よく見てらっしゃる」

 子供の注意力は中々侮れない、と一葉は胸の中で思った。
 子供は純粋であるがゆえに他人の感情の起伏の機微に敏感で、この三人に至っては行動を一葉と共にすることが多いために、普段から雲のように掴みどころのない一葉が、今日はいつも以上に周囲の景色から浮いていたことに気がついたのだろう。

 「ちょっと、寝不足なだけだよ。 ここんとこ夢見が悪くってさ」

 一葉は掌をひらひらさせながら、さもなんでもないように装った。
 この時の一葉は、嘘は言わなかったが本当のことも言うことはしなかった。

 一葉は見たのは、自分の中にいる自分が蓄積させていた経験の夢。
 骨を軋らせ、血肉を貪り、影を振り切りながら命の散り様を奏でた男の夢。
 四天王、十六神将に名を連ね、英雄と崇められながらも血に飢えた獣だと畏怖と蔑如の視線で見られた男の生涯を、たったの一晩で鮮明に回顧した。

 穏やかな日常の中で忘れかけていた自分でありながら自分でないという、足元からアイデンティティが崩壊していく音が恐怖と焦燥となって一葉を蝕んでいた。

 「どんな夢見たのよ?」

 アリサが怪訝そうな表情で尋ねてくると、他人の夢の話しほどどうでもいいことはないんじゃないか、と胸の内でぼやきながら言葉を濁した。

 「あんま覚えてない。 なんか、嫌なもん見たな~、って感覚だけは残ってんだけど、でも夢ってそんなもんじゃね?」

 「そう? 私は割と覚えてる方だけど」

 「テレビ曰く、そう人の方が少ないらしいよ」

 ふと、もしここで本当のことを言ったのならと、一葉の脳裏に一抹の誘惑がよぎる。
 自分が胸の内に秘めた秘密は両親にさえ話していない。
 陰鬱な光を求め戦い抜いた挙げ句に、己の独りよがりで一つの世界を死に導いた男の物語が自分の頭の中にあるのだと話したら、普通なら子供の妄言として一蹴されてしまうだろう。

 だが、この三人ならばどうだろうか。
 話したところで解決策が出てくるとは思えない。それでも、心にため込まれている重みを誰かと共有するだけで、気持ちはずっと軽くなるはずだ。
 もしかしたら親身になって相談に乗ってくれるかもしれない。力になってくれるかもしれない。
 それでも、万が一つ自分を気味悪がって離れて行ってしまうのではないかという恐怖の方が遥かに大きかった。

 同じ制服を着た生徒たちの流れは商店街に近づくにつれて疎らになっていく。
 アーチ状の入り口を構える商店街の入り口を中心に、商店街側に住居を構える家庭と住宅街側に住居を構える家庭に別れるのが原因だ。
 四人の中では一葉とアリサが住宅街に住んでおり、すずかが離れた郊外の屋敷に住んでいる。なのはだけが商店街側に住んでいる。

 いつもならばここでそれぞれ別れるのだが、今日はなのはの実家が経営している喫茶店におやつを食べに行くことになっているので、四人は揃ってモザイク調の石畳が敷かれた商店街へと足を踏み入れた。

 「そういや、なんか変な声が聞こえてた」

 夢の世界から引き上がる直前にノイズが混じるような声が聞こえてきたことを、一葉はふと思い出して口にした。
 
「声? どんなのよ」

 「なんか、「私はここにいる」って言ってた」

あの夢は自分の内側にある記録のはずだった。しかし、最後に聞こえてきた声は全く聞き覚えのない声だ。
 
 「なにそれ?」

一葉が夢で聞いたという呼び声にアリサとすずかが眉をひそめる中、一人だけ違う反応を見せたのがなのはだった。

 「ねっ、ねえ! その声って、もしかして男の子の声じゃなかった!?」

 「んにゃ、女の人の声だった」

 「え……? そうなの?」

 「そうなの」

 跳び上がるような反応を示したなのはだったが、自分の意見が一葉と噛み合わなかったとなると、シュンとトレードマークのお下げと共に萎れてしまうなのはを見て、一葉だけでなくアリサもすずかも訝しむような視線をなのはに送った。

 「なあ、なのは」

 「にゃ?」

 一葉が声をかけると、なのはは顔を上げる。

 「なのはの言ってる声って、今聞こえてるやつのこと?」

 『だれ……か 僕の声を……きい……て』

 「にゃ!? そう! これ!」

 なのははハッとした表情を作ると、首を何度も縦に振った。
 実は一葉も結構前からこの声が聞こえていたのだが、チャンネルの壊れたラジオのようにひどく小さく掠れていたし、誰もなんの反応も示していなかった為に幻聴の類かと思っていた。

 「声? すずか、聞こえる?」

 「ううん。 全然」

 アリサの問いかけにすずかは首を横に振る。
 二人には本当に聞こえていないのだろう。

 「幽霊だったりして」

 冗談半分で一葉が思いついたことを口にすると、面白い反応を見せたのはアリサだった。
 ぎくりとした表情を作り、顔色が青くなっていた。

 「アリサちゃん、もしかしてホラーとか苦手?」

 「そっ、そんな訳ないでしょ! この私が!」

 吠えるように声を荒げるアリサだが、僅かに声が震えていてそれが虚勢であることが見て取れる。

 これは間違いなく面白くなる。

 そう思った一葉は直ぐに行動に移ることにした。
「なのは、声のする方向わかる?」

 「うん! 多分こっち!」

 なのははそう言って一葉の袖を掴むと駆けだした。そして、一葉もなのはが駆けだす直前にしっかりとアリサの袖の端を掴んでいた。

 「ちょ!? 話しなさいよ」

「やだ」

 「どうしてよ!?」

 一葉に引っ張られるアリサは掴まれた手を解こうと抵抗してみるものの、ガッチリと掴まれた手は石のように硬く外れることはない。
 なのはに引っ張られる一葉に引っ張られるアリサという、連結された三人に並走してすずかが柔らかな微笑みを浮かべながらアリサに声をかける。

 「アリサちゃん、アリサちゃん。 アリサちゃんは別に怖くないんでしょ?」
 
 三人の先頭を走るのは運動能力が著しく低いなのはだ。他者とは群を抜いて運動が得意なすずかは息も乱さずに余裕の表情で走っている。

「当り前でしょ!」

 先ほどまで蒼白だった顔を信号機みたいに赤くしてアリサは声を荒げた。それが怒っている為なのか、それとも羞恥の為なのかは判らないがすずかはさらなる質問を投げかける。

「じゃあ、なんで嫌がるの?」
 

 「それは……、」

 押し黙ってしまうアリサをすずかはただニコニコと笑いながら見ている。
 行こうよ。という誘いではなく遠回しにアリサの思考を自主的に声のする方へ向かわせようと誘導しているのだ。
 あくまで、アリサが自分の意思で行くという言質を取る為なのだが、すずかの余りに腹黒いやり方に一葉は苦笑いをしていた。

 だが、アリサは一葉のその笑いが自分に向けられたものだと勘違いして、さらに顔を紅潮させて叫んだ。

 「わかったわよ! 行けばいいんでしょ! 行けば!」

 結局、すずかの策にはまったアリサは大粒の瞳に涙をためながら太陽のような金髪をなびかせ、踏みつけるように乱暴に足を進めた。

 一葉は視線をすずかに移すと、すずかも一葉の方を見ていて視線が絡まる。

 よくやった!と視線だけで一葉が言うと、すずかは、当然!と言わんばかりに物凄くいい笑顔でグーサインで返した。


 ◆◇◆


 一葉達が住む海鳴区は、海に面した土地ではあるが漁港がない為に海産はそんなに盛んではない。しかし、文字通り海を観光資源とする土地であり、シーズンともなると多くの観光客が足を運んでくる。
 そして、その観光スポットの中でも、最も海を美しく一望できると言われているのが海鳴海浜公園である。
 太陽の高い時間帯は遮蔽物がない為に、空の青と海の青が入り混じる地平を眺めることができ、夕暮れともなると黄昏の太陽が蜂蜜を垂れ流したかのように海を朱金に染め上げる。

 一葉達が公園にたどり着いたのは、ちょうどその時間帯だった。

 夕陽に照らされる空は疎らに浮かぶ鰯雲をも同じ色に染め上げ、地平は続く海は太陽の光を反射させてキラキラと輝いている。

 なのはを先頭に走り続けていた四人は息を乱しながら、沈みかけた西日が足元から引っ張る影を踏みながら移動していた。
 
 「声が大きくなってきた!」

 「大声出さんでもわかるから、いい加減手を離してくれ」

 「アンタもね」

 なのはは一葉の裾を、一葉はアリサの裾をずっと掴んだままだ。そしてすずかはアリサの右腕を掴んでいた。
 これは、逃がさないというよりも一人だけ仲間はずれは寂しいと言いだして繋いだものだ。

 アリサの細い腕からは小刻みな振動が伝わって来る。
 なのはが「ここなの」と言って公園に入ってから、アリサの顔色は優れない。
 対してすずかはケロリとした表情で一葉に尋ねる。

 「ねえ、本当にその声聞こえるの?」

 「今も聞こえてるよー。 助けてー、助けてー、足をくれーって言ってる」

 「そんなこと言ってないの!」

 一葉がふざけると怒られた。
 確かにいささか不謹慎だったかと反省する。

 「ごめん、ごめん。 でも声が聞こえるのはホントだよ。 これで変死体とか発見したらマジで嫌だけどね」

 変死体、辺りでアリサは今にも泣いてしまいそうなほどに顔を強張らせた。
 普段強がっている分、こんな怯えた小動物みたいなアリサはどことなく可愛らしく思えたりもする。
 
 結局、一葉はなのはに、アリサは一葉に、すずかはアリサに手を引かれるという何ともおかしな集団となって公園と歩いていると、人工的に作られた緑地帯の前に着いた。
 クヌギやコナラの落葉樹が植えられた雑木林は、中が暗くてよく見えない。

 「ここなの」
 
 なのはは言うと、躊躇いもなく雑木林の中に入った。
 
 下草の刈り込みはしっかりとされているようで歩く分には困らなかったが、背の高い部分で重なり合う木々の隙間からは僅かな光しか差し込んでこなくて薄暗い。注意して歩かなければ木の根や、飛び出した枝に顔をぶつけてしまいそうになる。

 しばらく歩くと、一本のクヌギの根に一匹の小動物が転がっているのを発見した。

 「……ハクビシンか?」

 明らかに猫や狸とは違う、スラリと胴の長い動物のシルエットは明らかにイタチ科のものだった。
 最近では都心でも野生化したハクビシンがいるという話しをテレビで見たことがあり、一葉が言うとなのはは手を離して倒れている動物のところまで駆けだした。
 
 なのはがしゃがみこんで硝子細工を扱うかのように、力なくぐったりとしている動物を抱き上げると怪我をしているらしく、なのはの白い制服に血の赤が霞んで付いていた。

 「怪我してる……」

 一葉はなのはの上から覗き込むように見ると、腹が微かに動いていて呼吸をしているのがわかる。よく見ると、首には赤い宝石のようなものがついた首輪もしていて、もしかしたら誰かがペットとして飼育していたものが脱走して、運悪く烏か猫にでも襲われたのかもしれない。

 「確か商店街に動物病院があった気がする。 そこに連れてこう」

 「うん」

 なのはは立ち上がり来た道を戻り始めると、一葉たちもそれに続く。

 「しっかし、幽霊探しで手負いの動物を見つけるとはね」

 「ふん、幽霊なんていないってことよ」

 先ほどまでの様子がウソのように、位置もの調子に戻っていたアリサが一葉の呟きに落ちの首を取ったかのような口調で答える。

 「でも助けてって声を辿ってきたらコイツがいたんだからさ、実は妖怪だったりして。 確か鎌鼬っていう妖怪いたでしょ。 水木しげるのやつに」

 アリサはまた泣きそうな顔になった。

 一葉がアリサをからかっていると、ふと浮かない表情のすずかが視界の隅に入った。
 それはどこか儚げで、水面に映る月のように触れれば形が崩れてしまいそうな危うい横顔が、どういう訳か一葉の心に印象強く残った。


 ◆◇◆


 動物病院と海鳴海浜公園とはそう距離が開いておらず、怪我をして多分ハクビシンと思われる動物を抱えたなのは達が転がるようにして病院の入り口を開けると、幸いなことに他に診察待ちの患畜はおらず、すずに診察をしてもらえることになった。

 結果だけ言ってしまうと、推定ハクビシンはフェレットで、怪我自体はひどいものではなく擦り傷程度のものだったらしい。
 ただ衰弱が激しいので、しばらくは入院が必要とのことだ。

 「ハクビシンとフェレットってなんか違うんですか?」

 「さあ? 違うから、違う名前がついてるんじゃないかな」

 一葉の質問に何とも曖昧な返答をする女医に、一瞬本当に獣医なのかと疑ったが腕は確からしく、本人は素人から見ても手際よくフェレットの処置を終え、フェレットの首根っこを掴んでケージの中に放り込んでしまった。

 「首輪もあるみたいだし、どっかで飼われてるのが逃げたんでしょうね。 ま、とりあえず二、三日様子見てみましょ」

 「あの、今日は持ち合わせがないので明日診察料を持ってきます」

 病院だって慈善事業ではない。フェレットに使った薬や包帯だって無料ではないし、人間と違って保険が効かない。今日だけの診察代でも馬鹿にならないはずだ。
 そんなこと子供にだってわかる。
一葉が言うと、獣医師は一瞬だけ目を丸くして、白衣に手を突っこんだまま大笑いを始めた。
 
 「子供がなーに気にしてのよ。 いいって、いいって」

 「でも……」

 「あのね、今日の君たちがしたことはとっても尊いことなのよ。 私としてはそれが報酬。 お金なんて取れないわよ」

 そう言うと白衣のポケットから赤い煙草の箱を取り出して、一本加えると火をつけた。
 診察室に紫煙を漂わせながら、獣医師は一葉の頭に掌を置くと、二カッと唇を吊り上げる。

 「少しは大人に格好つけさせなさい。 それより、診察代よりも君たちはこの子の引き取り先を探してね。 流石に私もそこまで面倒見切れないから」

 それじゃ、もう診察時間終りだから明日来てねー。という言葉で締めくくられ全員が診療所を追い出された。
 外に出ると既に太陽は街の地平に姿を隠していて、道路の端に均等に並べられている街灯に明かりが灯っている。

 最近は冬も遠のき暖かくなってきたものの、陽が沈むと身を切るような寒さがぶり返してきて、一葉となのははともかく郊外に住んでいるすずかと住宅街の一番端の方に住んでいるアリサは徒歩で帰るには危険な時間帯となってしまっていた。
 仕方ないから、すずかもアリサも自分の携帯電話で迎えの車を寄越して貰うことにして、それを待っている間、拾ったフェレットについて話し合うことにした。

 「私の家は犬がいるから無理ね」

 「ごめんなさい。 私の家もちょっと……」

 槇原動物病院と掲げられた看板の塀ブロックに背中を預けながらアリサとすずかが言う。

 「私の家も飲食業だから……」

 申し訳なさそうな表情を滲ませる三人の視線は自然に一葉に集まる。
 確かに、アリサの家は犬屋敷で、すずかの家は猫屋敷だと知っている。
 仮にアリサの家にフェレットを置けばボロ雑巾になり果てるまで玩具にされ、すずかの家に置けば猫の腹を満たす餌にしかならないということが目に見えていた。

 二人の家の敷地が広大といえど、わざわざフェレットの墓を作らせるために預けるわけにはいかない。
 そして、なのはの家は飲食業を営んでいる為、動物の飼育は極力避けるべきであって、消去法でいくと、一葉の家しか選択肢は残されていないのである。

 棄てられた子犬のような視線に耐えきれず、一葉は大きく溜息をついた。

 「一応、親に聞いてはみるけど……、それでダメだったらみんなで里親探しだな……」

 「そうね……」

 アリサが一葉の意見に同意したところで、ちょうどよく迎えの車が来た。
 なのは方向が同じなすずかの車に途中まで乗っけて貰うことになったが、一葉はアリサの誘いを断って歩いて帰ると主張した。

 その際に「私と一緒に帰るのが嫌なのか!」とアリサが騒いでいたが、車に押し込んでから執事の鮫島さんに頼んでさっさと車を出して貰った。

 一葉が一人になった時には、太陽は完全に西の果てに沈んでいて、代わりに半分に欠けた下弦の月が空を支配していた。

 「さーて、と……」

 一葉はアリサの乗った黒塗りのプレジデントを見送ると、大きく背筋を伸ばしてから歩き始めた。
 その歩先は自分の家ではない。
 声の誘う方へと、一葉は歩きだした。


 ◆◇◆


 『私は……ここにいます……』

 まるで脳味噌に直接スピーカーを埋め込まれたかのように響く声に誘われて、一葉は声のする方へと歩き出した。
 先ほどまでのは少年の声だったが、今聞こえているのは穏やかな女性の声だ。
 なのははこの声には気がつかなかった。一葉にしか聞こえていないのだ。

 夢の中で聞こえてきた声に似ている声は、病院を出た辺りからはっきりとした輪郭を持って響き始めた。
 そして歩を進める度に、その声は大きなものになってゆく。

 槇原動物病院と、海鳴海浜公園との対角線上にある山岳部には山を切り崩して建てられた、稲荷を祀った神社がある。
 
 八束神社と呼ばれる神社は住宅地から離れていて、落ち込んだような静寂が支配しており人の気配が感じられない。
 敷地の入り口に置かれた一対の石灯篭の間を抜けると、所々に色の剥げ落ちた鳥居が参拝者を迎える。
 さらにその先には百八段の階段と、御神体を祀る本殿が。
 
 一葉は暗がりに足を踏み外さないように注意しながら石段を踏みしめ、参拝道を歩く。
 本殿のあたりを抜けると、既に社務所の明かりは落とされていて、夜を照らす明かりは月から降り注ぐ金糸の束だけだった。
 
 一葉は躊躇うことなく足を進ませ、本殿の裏にある鬱葱とした陰樹の森に入る。
 幸いにも、森を形作る木々は背の高い落葉樹が多い為か下草がまったく生えておらず、微かにしか差し込まない月の光でも足を取られることなく歩き続けることができた。

 一葉が足を踏みしめる音と、梟の鳴き声。そして虫の音が森に響く中、一葉の頭に響く誘いの声は徐々に、そして確実に大きなものになっていく。
 しばらく森の中を歩き続けると、巨大な一本杉が憮然と立っていた。
 樹齢はゆうに千年を超えているのだろう。大人が五人手を繋いでも一周りできないほどの太さの幹には神木の証である麻縄が括られていた。

 「スッゲ……。 リアル竹取物語だ……」

 その巨木を見た一葉の第一声はそれだった。
 
 神木の根っこのあたり、樹木の中心に位置する樹幹から内側から淡く鈍い光がぼんやりと滲み出ていた。
 暗闇でもわかるその輝きは、基調は黒なのだが角度によっては翠や青の線が入っていて瑠璃色の烏の羽のような色をしている。
 
 一葉はその光に近寄ると、しゃがみこんで手を触れた。
 乾いた木の皮から伝わる温度は樹木が保つものではなくて、人肌よりも温かい。毛の持つ獣のそれだった。

 『貴方は……?』

 不意に声が響く。
 今までの、ラジオのオープンチャンネルのような不特定多数に語りかけるようなものではなくて、一葉だけに向けられた言葉だ。

 「多分、アンタに呼ばれてきたんだと思う。 さっきまでの声はアンタだったんじゃない?」

 一瞬、樹木が内側から脈打った気がした。

 『私の声が聞こえたのですか?』

 「聞こえてなけりゃ、こうして今も話すことができないと思うんだけど」

 一葉の尤もな台詞に、声の主は「確かに」と、クスクスと笑い始めた。
 それはどこか上品な笑い方で、姿も見えないせいもあって、ふとお嬢様なすずかと重なる。

 『貴方はここから私を出してくれるのですか?』

 「検討中。 力づくで強行するには道具がないし……、そもそもアンタ何者? 幽霊の類は信じてないけど、悪霊ってオチは勘弁して貰いたいんだけど……」

 『その辺は安心してください。 私は、いわゆる霊的なものではありません。 むしろ、対極に位置する機械的なものです』

 一葉はその言葉に眉根を顰めた。

 「なんで木の中に機械が埋まってんのよ?」

 『不運が重なったとしか言いようがありません』

 声の主は、落ち着いた口調で言う。

 『この木が少々傷つくのは諦めてもらうしかありませんが、道具は無用です。 幹に手をかざしたまま私に魔力を送って下さい』

 「まりょく?」

 聞いたことのない単語に一葉は言葉を反芻すると、声の主は一瞬だけ逡巡し、納得した口調でさらに言葉を重ねた。

 『そうですか……。 この世界にはまだ魔法文化がないのですね』

 一拍置くと、再び言葉が続く。その言葉には先ほどまでになかった真剣みが帯びていた。

 『よろしい、判りました。 では、私の言うとおりにしてください』

 「チョイ待てコラ。 なんで急に上から目線になってんだ」

 『久しぶりに人と言葉を交わしたので興奮しているのです。 気にしないでください』

 悪びれた様子もなく、凛とした声で言い張る声に一葉は不服ながら従うことにした。
 もっとも、状況に流されているのもあるのだろう。
 それでも内心では信じてはいないものの、本当のこの中身が心霊的なもので解放した瞬間に呪い殺されたり取憑かれたりするとシャレにならないので、気持ちだけは森の出口にと向かっている。

 『まず、目を閉じてください』

 言われたとおりに一葉は瞼を下ろす。視界から入る全ての情報が遮断されて、掌にかかる温もりが先ほどよりもずっと鋭敏に感じる。

 『そのまま集中して。 胸の奥の辺りに何かを感じるはずです』

 そう言われると確かに心臓の奥の方、胸のやや左側に温かいものがこみ上げてくるのを感じる。それに伴って、一葉の心臓が徐々に、まるで雄鶏の叫びのように、静かにそして力強く、目覚めの歓喜に打ちひしがれるように鼓動が早まる。
 自然と額に汗が浮かび上がる。
 その叫びが血管を駆け巡り、身体中に浸透してゆく。
 
 『いい感じです。 そのまま耳を澄ませて。 そうしたら、聞こえてくるはずです。 貴方だけの、私を起動させるパスワードが』

 寒さを孕んだ夜風が森の木々を躍らせる。木の葉同士が重なり合う音がザラザラと森中に響く。その音に混じり炙り文字が浮かんでくるかのように一葉の脳裏に言葉が浮かび上がってきた。

 「深淵の空、宵の影……」

 聞こえる。誰のものでもない、自分だけに用意された目覚めの言葉。
 
これは祝詞だ。
 
 自分から自分に送る、目覚めの祝詞。

 「光届かぬ眠りの森、獣が眠る夜の果て」

 身体が熱い。
 まるで内側から炎が燃え盛るように、心臓が沸き上がる。
 それでも、これは決して不快なものではない。
 むしろ、興奮している。
 嬉しいのとも、愉しいのとも違う。そんなに綺麗で単純な感情ではない。
 生きたまま生まれ変わるような、束縛から解き放たれた雄牛のような、暴れ狂う情熱が心臓の奥で活火山のように暴れ狂う。

 「誰も踏み入れぬ楡の館で……、死を侍らせてお前を待つ……」

 言い終えた瞬間、瞼と通して鈍い光が一葉の眼球に突き刺さるとともに、樹が割れる乾いた音が森に響く。
 一葉は咄嗟に顔と頭を腕で隠して一歩引き下がった。
 
 「随分と根暗で、鬱つうとしたパスワードですね」

 今までとは違いフィルターが外れたかのようにはっきりとした声が耳に届く。
 反射的に力いっぱい閉じた瞼をピントを合わせるようにゆっくりと開けると、目の前には有り得ないものがいた。

 「初めまして、マイマスター。 私は聖王を守護する盾であり、翼。 護国四聖獣が一。
月の踊り子の名を冠するものです」

 燃え盛る黒い炎。
 それを纏った、巨大な黒い鳥。
 一葉と同じ程の背丈はあるだろうか。漆黒の怪鳥は王に傅く家臣のように、一葉に頭を垂れていた。

 「契約はここに交わされた。 これより私は貴方と翼となり盾となりましょう」

 怪鳥はゆっくりと頭を上げる。
 身体も、翼も、嘴も、全てが黒で彩られた鳥の巨躯の中で浮かび上がるように嵌め込まれた深緑の双眸が一葉の視線と絡み合う。
 深い湖の底のような色をした瞳は、見ているだけで吸い込まれそうなほどに美しかった。

 「貴方が……、私の新たな主だ」

 怪鳥の言葉は静かに、それでもはっきりと静寂な森に響いた。




[31098] 3!
Name: 三鷹の山猫◆ef72b19c ID:d1000a7d
Date: 2012/03/01 22:55
 念のために言っておくが、無限の剣戟ではない。 





 「つまり何か? お前は鳥の形をしてるけど実は機械で、ベルトっつう国で王様の護衛をしてたわけ?」

 「ベルトではなくベルカです。 貴方は一体何を縛る気なんですか?」

 ところ変わって一葉の自室。
 勉強机の上にチョコンと佇む一羽の鳥と対談する、間の抜ける光景があった。

 森で木を割ってこの鳥が飛び出てきた時、一葉は本気で妖怪の類だと思い込み、とりあえず携帯電話で写真を撮ってから知り合いに一斉送信しようとしたところ目の前の鳥に携帯電話を消し炭にされた。
 中に入っていたデータも当然、灰に帰した。

 「ふざけたことしないで下さい。 この世界で私の存在が知られたら、立場が悪くなるのは貴方もなのですよ」

 そう言われても、ただの黒い塊となった携帯電話を片手に涙を流さずにはいられない一葉が項垂れる姿が森の中でしばらく見られた。

 一葉の家は二階建ての一軒家だ。
 父親は企業の役員で、母親はフリーのカメラマンをしている為生活水準は平均よりもやや高い方だ。一葉が一人っ子ということもあって八畳のフローリングの部屋を貰っている。

 折りたためばソファーになるベッドと、あまり服の入っていないタンスとクローゼット。そして本棚と勉強机と必要最低限のものしか置いていない一葉の部屋は片付いているというよりもどこか殺伐としていた。
 ただ、唯一の趣味として勉強机の隅に置かれた二十センチのキューブ水槽が置かれ、中には二十匹の小型の淡水フグが泳ぎ回っている。

 一葉は家に帰ると無地の黒いTシャツとダメージジーンズに着替え、連れ帰って鳥の尋問……もとい話し合いの場を設けることにしたのだ。

 驚いたことにこの鳥は自分の大きさを自由に調整できるらしく、今は一般的な中型の鳥のサイズになっている。
 机の上に置かれた、暖かな紅茶が並々と注がれたマグカップよりも一回り大きい程度だ。

 「かつて私と、私の主は戦闘中に虚数空間と呼ばれる亜空間の奔流に巻き込まれ地球に流れ着きました。 しかし、その時既に主は事切れており、私も魔力が枯渇していた為にまったく動けない状態であの木の根元に長い間放置されていたのです」

 「そんで成長した木に巻き込まれたってわけか。 何とも壮大で間抜けな話しだこと」

 「返す言葉もありません」

 一葉はとりあえず鳥に好きなようにしゃべらせてから、わからない箇所は後に聞くというつもりだったのだが、出てくる単語が初めて聞くものばかりで予想以上に時間がかかってしまった。

 ともあれ、話しを要約するとこの鳥は地球ではない別の世界にあるベルカという国で国王を守る為に開発されたデバイスと呼ばれる機械らしく、戦闘中に時空間の奔流に巻き込まれてしまい地球まで流れ着いたとのこと。
 
 持ち主が死に、樹木の成長に巻き込まれながらも大気中に漂う微量の魔力を取り込みながら自分の声に気がつく魔導師が現れるのをずっと待ち続け、今日ようやく見つけることが出来たという話しだった。
 今まで届くことのなかった声が、何故今日になっていきなり届くようになったのかはわからないが、この鳥が言うには最近になって急に空気中の魔力の濃度が上がったらしい。
 契約は一葉が起動パスワードを口にした時に交わされ、吐きは相互の了承がなければ不可能とのこと。
 当然、この鳥は久しぶりの術者を逃がすはずがない。
 そして、この鳥はデバイス呼ばれる魔導師が魔法を扱う時に使用する補助機械の中で、ユニゾンデバイスというものに属し、術者と融合することによって戦闘能力を爆発的に高める機能を持っているらしい。
 本来ユニゾンデバイスは人型なのだが、護国四聖獣と呼ばれるこの黒い鳥を含めた四機だけが獣型として開発されたという話しだ。

 「んで、リンカーコアだっけか? それは魔導師の身体だけにある疑似器官なわけね」

 「はい。 マスター(仮)には魔導師たる資質があります。 飛びぬけて魔力が高いという訳ではありませんが、それでも平均よりは上のはずです」

 「そんな地球では役に立たない才能があるって言われても全く嬉しくないんだけど。 つーか、なんだよ“カッコ仮”って」

 「(仮)とは仮定の仮です。 契約は交わしましたが、私はまだ貴方をマスターとして認めたわけではありません」

 「なんじゃそら」

 一葉は紅茶を啜りながら言うと、鳥は翠の双眸を一葉の視線と絡ませて嘴を動かす。

 「先に言っておきますが、悪い意味でとらえないで下さいね」

 「善処はする。 とりあえず言ってみ」

 「貴方はまだ子供だからです。 いくら私を起動させる力を持っていたとしても、貴方はまだ幼く、なんの力も持っていない。 私を取るに相応しいとは思えないからです」

 さらに言えば一葉はまだ子供である分だけ時間と可能性が満ち溢れている。魔法の世界に足を踏み入れ魔導師としての運命に縛りつけるにはまだ早すぎる。

 「それに、私は兵器です。 貴方の扱い方次第では、人だって簡単に殺せる。 子供が軽い気持ちで持っていいような代物ではないのですよ」

 「ふぅん……正直だね、お前は。 下手に取り繕うよりも全然好感が持てるよ」

 「ありがとうございます」

 一葉は口に付けていたマグカップを置いて、言葉を続けた。

 「とりあえず、お前の言うとおりオレは子供だ。 だから親に扶養されてる立場であって、被扶養者のオレが何か生き物を飼いたいって言ったら勿論両親の了承を取らなければならない。 ここまでは解る?」

 「はぁ……」

「そう言うことで、一応明日両親にお前を家においていいかの許可を頂かにゃならない。 その辺は多分問題ないと思うけど、誰かに何か聞かれてもお前はペットってことになるけどそれでもいい?」

 「まあ、魔法文化のないこの世界ならば仕方がないのでしょうね。 貴方が平然とし過ぎて、私がこの世界では異質な存在だということを失念していました」

 「喋ったり、火を出したりする以前に、もう見た目が異常だけどな」

 今でこそ鳩ほどの大きさになっているが、本来は一葉と同じ大きさの巨体を有する鳥の見た目は鷹そのものなのだが、その羽は黒く染まっていて、それで漆黒という訳でもなく光の角度によって碧色や瑠璃色の線が走っている。
 当然こんな鳥は地球上には存在しないし、種類によっては他の生物の声を真似する鳥もいるが、自分の意思でこんなにも流暢にしゃべる鳥が世間に知れたらとんでもないことになるだろう。
 
 一葉は、出会って最初の方に写真に撮って知り合いに送信しようとしたことは失敗してよかったことなのかもしれないと思い始めた。
 それでも、炭になった電話帳の中身はもう一度聞き直さなければいけないめんどくさい作業を考えるとどうしても気持ちが億劫になってしまう。

 「まっ、今日はもう遅いし寝るか。 お前は……、あー。 えーと……」

 どこで寝る?と聞こうとして、一葉は重要なことに気がついた。

 「そういや、お互いの自己紹介まだだったような気がする」

 「ああ、言われてみればそうですね」

 一葉の言葉に、鳥も初めてそのことに気が付き首を小さく頷かせた。

 「とりあえず、オレの名前は緋山一葉。 緋山が名字で一葉が名前」

 「私は……、そうですね。 このあたりで心機一転して、貴方に付けてもらうのもいいかもしれません」

 「オレに? 最初に言ってた月の踊り子ってのは?」

 「あれは、いわゆる二つ名です。 と、いうわけでマスター(仮)。 私に格好いい名前をください」

 「いちいちカッコ仮って言うのもメンドイだろ。 一葉でいいよ。 それよか、名前ねぇ……」

 一葉は俯きながら手を組んで考え始めた。生き物に名前をつけるなんて初めてのことだったが、意外にもすんなりと頭に思い浮かんだ。

 「……ベヌウ」

 ポツリと、呟くように声に出してみる。

 「ベヌウ……ですか。 どのような意味があるのですか?」

 「エジプトの神話に出てくる神様だよ。 鳥の姿をしてて火の化身でもある。 まさにお前のことじゃないか」

 立ち上がる者の意味を持つ、死者の守り神であり再生のシンボルでもある。あれは確か太陽の化身だったが、まあ月でも似たようなものだろう。
 
 「なるほど、悪くはありませんね」

 鳥は猛禽の双眸を閉じると、身体からカシャカシャと機械が作動する音が聞こえてきた。
 どうやら新たに授けられた名の登録作業を行っているようで、一葉はその音でこいつは本当に機械なのだと改めて実感する。

 「登録が完了しました。 これから、しばらくの間厄介になります」

 ベヌウと、名を登録された鳥は瞼を上げ緑の双眸を一葉に絡ませる。
 森のように深緑は、見ているだけで吸い込まれてしまいそうになるほどに綺麗だった。

 ◆◇◆


 『僕の声が聞こえますか!? 誰か!!』

 「うおぉう! なんだ、なんだ!?」

 突然、頭の中にスピーカを埋め込まれてたかのように響く声に、一葉は片づけようとしていたマグカップを床に落としそうになった。

 ベヌウとの話も終わり、そろそろ寝ようかということでちょうど片づけをはじめたばかりだ。
 いつもの就寝時間を大幅に超えてしまっている為、風呂は明日の朝でもいいかなということに意識を向けていたので、大音量で響く声に一葉はひどく動揺してしまった。
 
 「ビックリした。 本当になんだ今の?」

 「念話ですね。 近くに魔導師がいるのでしょう」

 目を丸くしながら視線を彷徨わせる一葉に、ベヌウはティッシュ箱製の寝床に収まりながら言った。
 箱の中には緩衝材として、景品で当たった上等なスポーツタオルが敷いてある為、寝心地は悪くないはずだ。
 それでも近いうちにちゃんとした寝床を作ってやらなければならないだろう。
 
念話とは魔導師同士の思考を声を出さずに伝えあう無線のようなものだ。
 魔法の知識がなくともきっかけさえあれば突然使えるようになるもので、大抵の魔導師が初めに覚える初歩的な魔法だということを教えられた。

 ベヌウが一葉を呼んだときに使用していた魔法も、念話の亜種だ。
 無作為に、誰にでも言葉を伝えるのではなく自分を起動できる資質を持つ者だけに届くように魔力の波長を調整していたらしい。

 緩衝材に、景品で当たった上等なスポーツタオルを敷いているので急遽あつらえた割には案外気に行ってもらえたようで既にうつらうつらと船を漕いでいる。
 「魔導師ねぇ……。 そういやこの声ってさ、さっき話したフェレットを見つけた時に聞こえてた声なんだけど」

 一葉は、ベヌウを見つけた経緯として夕方に聞こえた声に誘われてフェレットを見つけたことを教えていた。
 ただ、状況だけでは何もわからず結局この話題は保留ということになったのだ。

 「そのフェレットが変身魔法で姿を変えている魔道師か、もしくはその使い魔なのでしょう。 助けを求めているようですが、どうしますか?」

 「んー……」

 『僕の声が聞こえる人! お願いです! 僕に力を……、少しでいいですから力を貸して下さい!!』

 一葉は首を捻る。
 押し出すような叫び声にはっきりとした緊迫感が帯びていた。
 明らかに厄介事の匂いがするし、そうしたことに自分から首を突っ込むほど馬鹿ではない。
 別に放っておいてもいいのだが、たった一つだけ一葉の頭に引っかかるものがあった。

 「あのさぁ、その念話ってのが聞こえた奴がオレの他にももう一人いてさ……。 友達なんだけど、頭にバカがつくぐらいお人好しなんだよね」

 「だとしたら、様子だけでも見に行きましょう。 御友人がいなければ帰ればいいですし、結界が張られているので大まかな場所は判ります。 私の背に乗っていただければすぐの距離です」

 ベヌウはそう言うと、ティッシュ箱の中からピョンと跳び出ると、翼を広げて窓まで移動した。
 窓枠からガラスにコツコツと嘴を当てる。
 ここを開けろということなのだろう。

 ベヌウは早く開けろと視線で一葉に催促する。
 だが、ベヌウと一緒に行くとしても身を守る為の最低限のものは持って行きたかった。

 「ちょい、待ち。 持っていきたいものがあんだ」

 「早くして下さい。 こうしている間にも御友人が巻き込まれている可能性があるのですよ」

 わかってるよ。と言いつつ、一葉は机の一番上の引き出しを開けて紺色の麻包みを取り出した。
 紫の組紐で止められた麻包みは筆箱と同じぐらいの大きさで、ずっしりとした重量感が一葉の手に乗る。

 これは一葉にとってこの世界で唯一の、そして最強の武器だ。
 この平和な世の中で使うことは一生ないと思っていた。もしかしたら杞憂で済むかもしれないが、用心をすることにこしたことはない。
 
 だが、一葉は気がついていなかった。
 この日、この時に緋山一葉にとっての終わりが始まったのだということに。


 ◆◇◆

 死の恐怖はただ一つ。それは明日が来ないということだけだ。

 フェレットを腕に抱えたまま疾走するなのはの脳裏にそんな一節が思い浮かぶ。
 燻ぶるように胸を焦がす焦燥と恐怖が、意識とは関係なしに足を動かさせた。

 圧倒的な存在感がなのはの背後から迫って来る。突き刺さる視線に牙が生えているようだ。
 埃をむりやり一つにくっつけたかのような黒い靄の塊は、アスファルトやコンクリートを砕く轟音を静寂に包まれる夜の街に響かせながら、まるで飢えた獣が獲物を追いかけ回すかのように執拗になのはを狙っている。

 あれが、一体なんなのかわからない。

 わからないからこそ恐ろしかった。
 ただ、あのあまりに凶悪な存在に捕まってしまったら腹を裂かれ、内臓が舌の上を転がるような様を想像せずにはいられなかった。
 

 なぜ、こんなことになってしまっているのだろうか……。

 就寝時間になって、電気の明かりを消してベッドにもぐりこんだ。そこまではいつも通りだった。
 しかし、その直後。直接頭に響く助けを呼ぶ声がなのはを呼んだのだ。
 放課後に聞こえてきた時よりも近く、はっきりと聞こえる声は必死に助けを求めていて、その声は確かに自分に聞こえていて、なのはは気がついたら家を飛び出していた。

 街灯と月明かりを頼りに声がより大きく聞こえる方へ足を進めていく内に、その道は今日の放課後に歩いたばかりの道だということに気がついた。

 頭に響く助けを求める声は動物秒品の方角から聞こえてくる。なのはがそう確信した時、死んだかのように静まり返る夜の街に大気を震わせる音が弾けたのだ。

 なのはは、その音に一瞬身体を強張らせる。
 これ以上進むかどうか逡巡するが、足の速度を緩めながらも音のした方向に続く最後の曲がり角を曲がる。そこで視界に入ったのは自分の知っている街ではなかった。

 爆弾が落とされたかのように舗装されたアスファルトが剥がされ地面が剥き出しになっている。
 規則的に並べられ、道路を形作っていたブロック塀は粉々に砕かれていて、海鳴市特有の青く塗装された街灯は力ま変えに折り曲げられたかのようにひしゃげ、電気が爆ぜる音を神経質に鳴らしていた。

 まるで、戦場だ。
 こんな光景、テレビの中のドラマや映画でした見たことがない。

 そして、その中心にいるなにか。

 黒い靄にクラゲの触手をくっつけたかのような不格好ななにかが空気を裂く奇声を上げながら、ちょろちょろと逃げ回る小動物に襲いかかっていた。
 小動物にぶつけようと触手を振り回すたびアスファルトが砕かれ、街灯がなぎ倒される。
 
 余りに暴力的で非現実的なその光景になのはは足を竦ませた。

 生命の根幹にある生存意識が頭の中で、ここから早く逃げろという警鐘をガンガンと鳴らす。
 アレは危険だ。
 理屈抜きに頭がそう理解した。
 なのはは無意識のうちに一歩後ずさる、と踵にカツンと硬いものが当たった感触がした。

 カラン、カランと乾いた音を上げて転がるのは砕けたコンクリートの破片だ。
 今まで耳をふさぎたくなるほど空気を振動させていた音が響いていたのに、なぜか小石の転がる音微かな音が世界中に響いたかと思えるほど大きく聞こえた。

 音が鳴りやむ。
 なのはの耳に長い音の余韻が残る。

 黒い靄の塊はギョロリとした赤い双眸をなのはに向けた。
 目と目が合う。
 ヘビが身体中に絡まるようなねっとりとした視線に、なのはの背中に気持ちの悪い悪寒が無遠慮に駆け巡り汗が流れる。それがたちまちに凍りつくように冷えて、なのはの身体から温度を容赦なく奪っていく。
 だが、身体の芯から底冷えするような震えは寒さから来るものでは決してなかった。
 
 これが夢であればいいと思う。
 しかし肌を切る冷たい夜風が、鼻につく土埃の匂いが間違いなく今起こっていることが現実だと知らしめる。

 ぽふ……、と胸を打つ軽い衝撃になのはは我に返った。

「走って!」

 同時に耳に届く叫び声。
 いつの間にかなのはは、訳のわからない状況に思考を停止し空気に飲み込まれてしまっていた。
 そんな空気を振り切るように、踵を返して全力で走りだす。
 このまま見逃してくれないだろうかという、藁にもすがりたくなるような淡い期待は、文字通り泡のように脆く消え去った。
 
 靄は咆哮を上げ、路地を破壊しながらなのはを追いかけはじめたのだ。

 「ありがとうございます。 来てくれたんですね」

 腕の中から声がする。
 そこで、なのはは初めて自分の腕にかかる重力に気がついた。
 中に収まるのは、夕方拾ったフェレットで……、え?
 今、この子喋った?

 「すみません……、巻きこんでしまって……」

 「ふぇ? えぇ!? フェレットさんが喋った!?」

 聞き間違いじゃない。間違いなく話しかけているのは翠の瞳をなのはに向ける腕の中にいるフェレットだ。
その事実に背中を突かれたような驚きが心臓に走るが、今はもはやそれどころではない。
 背後から迫りくる圧倒的な存在感が、街を壊す音と共に徐々に近づいてくる。
 今、どれほどの距離があるのかなんて怖くて振り返ることもできない。

 なのはは足が速い方ではなく、それでもまだ逃げ続けられているということはあの靄はなのは以上の鈍足なのかもしれないが体力が尽きれば直ぐに追いつかれてしまうことなんて誰にでもわかる。
 
 「ねえ! アレなに!? 一体なにが起きてるの!?」

 絹を裂くような悲鳴を上げながら走り続けるなのはの頭の中は既にいっぱいいっぱいで、混乱だけが頭の中でグルグルと渦巻いていた。

 「それは……、後で説明します。 今は力を貸して下さい」

 「力!?」

 気持ちも頭の中も切羽詰まっているせいで声が大きくなってしまうなのはとは対照的に、フェレットは落ち着いた声で言葉を続ける。

 「はい。 魔法の力です。 貴女にはその資質があります」

 「魔法の、力!?」

 息を切らしながら、なのはは叫ぶようにしてフェレットの言った言葉を繰り返した。
 魔法って何!?
 それってアニメとかおとぎ話の中の話しじゃないの!?
 なのはの息はもう限界まで上がり、口から入り込む冷たい空気が喉と肺を凍えさせ脇腹に鈍い痛みが広がってゆく。

 頭に響く声に誘われて訪れた場所には黒い化け物が暴れ回っていて、フェレットが喋り出して、そのフェレットが自分には魔法の力があると言い出した。
 もはや、なにがなんだかわからない。
 考えることを放棄してしまいたいとさえ思った。

 それでも夢であれ現実であれ、どの道後ろから迫りくる脅威から逃げ切らなければならないことには変わらない。
 
 背中に空気の振動が伝播する。背中から圧迫感が近づいてくる。そして圧迫感がなのはの足を裂き、バランスを崩し地面の上で身体を回転させた。
 砕けて飛び散ったアスファルトの破片が、なのはの足を掠めたのだ。
 視界を急速に回転させながら、なのはは咄嗟に腕に抱いていたフェレットを庇うように包み込んだ。
 身体がアスファルトに擦りつけられる。
 目の前に火花が散るような激痛の中、なのはは直ぐに起き上がろうとして、できなかった。
 
 黒い靄は、気がつけばもう逃げられない距離にまで迫っていた。
 
 「あ……、あ……、あぁぁぁぁ……」

 腰が抜けてへたり込む。立ち上がることさえできない。
 逃げる気力を失ったなのはに、靄は追いかけるのをやめて獲物を追い詰めた獣のように慎重に、そして確実になのはとの距離を詰めてくる。

 「立って!!」

 腕の中でフェレットが叫ぶ。
 だが、恐怖に麻痺したなのはの耳にその声が届くことはない。
 化け物と視線が絡み合う。
 動かなければいけない……、そう考えているのに膝は微かに震えるだけでなのはの意思に従おうとはしない。
その目を見ただけで視界は恐怖に濁り、足は竦み、心はたやすく屈服する。

 自分はここで死ぬ。そう、思った。

 なのはは、一点にとどまった視界を見続ける。そこから何かを得ようとはせず、ただ見ているだけだ。
 靄は足のない身体を器用に動かして、黒く長い触角を目標に定める。
 
揺らめく空気が、頬を撫でる。

ああ、呆気ない。これで終わりだ。

 なのはは自らに襲いかかる運命を受け入れて、目を閉じた。
そして、瞼の裏に今までの自分の思い出が浮かび上がってきた。
これが走馬灯というものなのだろうか。
過保護だけど、大好きな家族。灰汁が強いけど、仲の良い友達。親友を作るきっかけを与えてくれた、一人の少年。

強い癖の入った黒髪が特徴的なその少年はクラスでも、それどころか学校全体を見回してもどこか浮いていて、例えるなら新緑の森に一本だけ生える老木のような違和感があった。
だけど、それは嫌なものではなく側にいると心地が良くて雨の後の森のような安心感を与えてくれていた。
気がつけば、いつだってその少年を目で追っていたのだ。

「死にたく……ない……」

大気の波に身体を声を震わせながら、なのははポツリと呟いた。

「たす……けて……」

死にたくない。
 まだ、みんなと一緒にいたい。
 まだまだ、生き足りない。
 少年の顔が脳裏に浮かんだ瞬間、煮立った鍋のような激しさでそんな思いが浮び、叫んでいた。

 「助けてよ! 一葉くん!!」

 刹那、なのはの目の前は漆黒に染まった。


◆◇◆

 なのはを襲ったのは身を突き抜けるような熱風だった。
 大気を灼きながら渦巻く黒い炎は渦巻く暴風となって黒い靄を吹き飛ばす。
 そして瞬間の間になのはと靄との間を遮り、揺らめく炎の壁となり抉られたアスファルトの上で燃え上がる。
 極限まで追いつめられたなのはの目には、見たことのない色の炎。漆黒の炎は恐怖よりも、むしろ美しさを感じさせるものだった。

 「バッカ! やり過ぎだ! なのはに当たったらどうするつもりだったんだよ!」

 「そんなヘマは犯しませんよ。 大気の温度、湿度、風向、その他諸々を計算し、調整したうえで撃ちましたから。 多分ですけど」

 「多分ってなんだ! 多分って!」

 「……え?」

 ぼんやりとした思考で、なのはは目の前で起こったことを茫然と眺めていたら不意に上空から聞き慣れた少年の声と、聞いたことのないソプラノ調の女の人の声が聞こえてきた。
 それは自分の恐怖と妄想が作り出した幻聴ではないかと一瞬疑ったが、力強い羽ばたきに風を起こしながら舞い降りてきた、大きな鳥の背に乗った少年の姿がそれが現実であるということを教えてくれた。
 
 「でも、なんとか間に合ったのです。 そこら辺は評価してください」

 「ったく……。 ギリギリだったじゃんかよ」

 こんな異常な状況の中でも、いつも通りの様子で鳥の背中から飛び降りる一葉の姿を見て、なのはは胸が苦しくなって目尻に熱いものが溜まって来るのを感じた。
 
 「大丈夫だった、なのは? つーか、アレなに? どういう状況なわけ?」

 一葉が腰に手を当て、揺らめく黒い炎の先を見据えなえながら尋ねてくる。
 炎が壁になり、なのはを追いかけていた黒い靄の塊の姿は見えなかったが、それでも炎を越えようともがく低い咆哮が夜の空に轟いている。
 
 なのはは、今にも一葉に抱きつきたい衝動を抑え込みながら安堵に口の端を上げて小さな笑みを浮かべた。

 「えへへ……、ホントに……、来てくれた……」

 一葉が来たことで、緊張の糸が切れたなのはの瞳から透明な滴が流れる。
 
 「あの……、貴方は……?」

 突然の乱入者に、なのはの腕にいたフェレットが戸惑う声で尋ねる。振り返ると、意思を持った、窺うような仕草に一葉は一瞬だけ目を丸くして、直ぐに納得したように頷く。

 「鳥の次はフェレットかい……。 まあ、いいや。 とりあえず、質問は全部後回しにしてアレをどうにかしたいんだけど」

 一葉は未だに地面にへたり込むなのはと視線を合わせる為にしゃがみ込み、親指で炎の先を指差した。
 
 「一葉、おそらくアレには実体はありません。 こうして足止めは可能ですが、私の炎で焼き切ることは不可能です」

 「だ、そうです。 悪いけど手短に頼むわ」

 「はっ、はい!」

 ベヌウは、自分が吹き飛ばした靄の手応えから事実だけを伝える。その口調は淡々としているが、視線はナイフのような鋭さで炎の先から外すことはしなかった。

 フェレットはなのはの腕からスルリと抜け出すと、一葉を見上げて視線を合わせる。

 「あれは、ジュエルシードというロストロギアが作り上げた思念体です。 僕はそれを封印しに来たんですが……、力が足りなくて……。 だから、魔法の資質のある人を探していたんです」

 「ロストロギアやら、ジュエルシードとやらは後で詳しく聞くとして……、要するにこの辺で魔法を使える奴を呼んだらオレとなのはが来たってわけだ」

 「はい……」

 色々と巻きこんでしまったことに責任を感じているのか、フェレットは暗い表情をして俯いてしまった。
 そうしている間にも、靄はベヌウの作り上げた炎の壁を触手で払いながら無理にでも特攻してこようとする。
 すかさずベヌウは翼の先端に炎を走らせ、それを叩きつける。
 強い風を生み出しながら襲いかかる強い衝撃に、靄は一瞬たたらを踏みながらも再び炎の壁に押し込まれた。

 「あんな化け物、オレらみたいな小学生に封印しろと? 無理に決まってんだろが」

 「ちなみに私のもできませんよ。 封印術式を持っていませんので」

 それは何となくわかる。
 ベヌウが製造された理由は国王を守るためであって、その他の機能はつけられていないのだろう。
 そして、なのはも一葉も封印というもののやり方どころか存在すらも知らない。自然と一葉の思考は、あの靄を力づくで叩き伏せる方向へと移っていた。

 だが、フェレットは一葉の意見に首を横に振った。

 「出来ます。 貴方たちの魔法の力と、このレイジングハートがあれば」

 フェレットはそう言うと、首輪に付けていた赤い宝石を小さな前足で器用に取り外し、二人に見えやすいように掲げた。

 「綺麗……」

 ビー玉ほどの大きさの深紅の宝石を見て、なのはは漏らすようにポツリと呟いた。

 「一葉……」

 ベヌウの声が挟み込む。
 レイジングハートと呼ばれた宝石に目を奪われていたなのはは、ハッとした表情でベヌウを見た。

 「ねっ、ねえ! 一葉くん! この鳥さんなに!?」

 「後で説明する。 なに?」

 お下げをピコピコさせながら騒ぐなのはを無視して、一葉は腰を上げベヌウを見た。
 猛禽の双眸は真っすぐと揺らめく炎の向こう側を見据えたまま、ベヌウは嘴を動かす。

 「このままではキリがありません。 ユニゾンしてさっさと終わらせてしまいましょう」

 「ヤダ」

 ベヌウの提案を、一葉は一拍も置かずに却下した。

 「……一応、理由を聞いてもよろしいでしょうか?」

 ベヌウが硬い声で質問する。

 「さっきの説明の中でユニゾン事故ってのがあったろ。 今、ここでそれが起きたらシャレにならんし、ぶっつけで使ったことのない武器を使い程肝も据わってないもんでね」

 ユニゾン事故とは、デバイスと術者の適合率が低かったり、その他の要因で起こったりする事故のことだ。
 それが起こった場合、本来ならば術者を強化させるはずのユニゾンが逆効果になってしまったり、意識が乗っ取られ暴走してしまうことがある。
 もし、そんなことがこの場で起きてしまえば取り返しのないことになってしまうだろう。

 「しかし……、ではどうするつもりなのですか? 主に、久しぶりのユニゾンができると思い、上がりに上がった私のテンションとか」

 「その辺は是非とも別の機会に取っといて。 おい、フェレット。 そのレイジングハートってのはなのはにも使えるんだよな?」

 「え? はい、使えるはずです」
 
フェレットにその旨を確認すると、指を組んで背筋を伸ばした。短くはない時間ベヌウ乗せに捕まっていたせいで、強張ってしまっていた筋肉をストレッチでほぐし始めた。

 「オレ、ちょっと囮になって来るからその隙にちゃっちゃと封印してくれ」

 「囮って……、ええぇぇ!? ダメだよそんなの! 危ないよ!」

 「少女の言うとおりです。 危険すぎます」

 なのはとベヌウが制止の言葉は正しい。それでも一葉は落ち着いた振舞いで、部屋を出る前にズボンにしまった麻袋を取り出し、組紐を解いた。 中に収められていたのは銀糸の束。鍼治療で使用される、大量の鍼だった。一本、一本が髪の毛ほどの太さしかない極細の針が、僅かな光に反射して鈍く輝いている。

 「心配ならさ、ベヌウもついてこいよ。 アイツで少し確かめたいことがあるんだ」

 一葉がそう言うと、場の空気が変わった。
 そうとしか言いようがないほどの違和感が、ベヌウだけでなくなのはとフェレットにも襲いかかる。
 まるで奈落の穴を覗く込んだかのように腰が浮く感覚。それを作り出しているのは、間違いなく一葉だった。
 なのはの額には嫌な汗が浮かび、身体が小さく震えていた。

 「フェレット。 早めに準備終わらせてくれよ」

 一葉はそう言うと、地面を蹴って炎の壁に向かって駆け出した。
 ベヌウも慌てて翼をはためかせて、その背を追う。
 残されたなのはとフェレットは、呆然と少年と鳥の後姿を見送った。


 ◆◇◆


 「想像してください! 貴方が魔法を制御する杖と、身を守る強い服を!!」

 「とっ、とりあえずこれで!」
 
 迸る桃色の光の中で、フェレットの言葉になのはが咄嗟に思い浮かべたのは普段着ている聖祥の制服をアレンジしたものだった。
 頭の中で思い描いたイメージが形となり、レイジングハートから織りなされる生地がなのはを包み込み、弾けるような光が天を衝く。
 巻き上がる砂埃。

 「成功だ……」

 砂によって遮られた視界が、緩やかな風に飛ばされて拓け、そこに佇むなのはの姿を見てフェレットは目を輝かせながら呟いた。
 
 白を基調にした青いラインの入ったジャケットとロングスカート。指抜きのグローブとミリタリーブーツ。そして、手には杖頭にある紅玉を金輪で囲った杖が携えられている。
 
 バリアジャケット。
 魔道師を守る鎧だ。布地が主になっているが、それには魔力が編み込まれており強度は見た目よりも遥かに魔法の服。デバイスを起動させることによって生み出されるバリアジャケットは当然、魔法の資質がある人間にしか扱えず、同時にバリアジャケットを展開させなければ、暴走体も封印することができない。

 「へぇ!? ええ!?」

 そして、当の本人は困惑の渦中にいた。

 「なっ、なんなのこれ!?」

 なのはは自分の身体を見回す。今まで着ていたオレンジのトレーナーやデニムのスカートが、頭の中でイメージしていた服に変わっていた。
 その風体は、まさに魔法少女と呼ぶに相応しいものだった。
 それでも、驚きの波は引かないまでもなのはは直ぐに一葉のことに意識を向けた。今、こうしている間にも、あの炎の壁の向こうで自分達の為に時間を稼いでいるのだ。
 あの大きな黒い鳥も一緒にいるが、それでも危険であることには変わりがない。
 
 早く行かなきゃ!

 なのはが一葉達のいる先に向かおうと足を踏み込んだ瞬間、ゴウ、と空気を砕く音を上げながら大きなコンクリートの塊がなのはの顔面めがけて飛んできた。

 「きゃあ!」

 なのはは咄嗟にレイジングハートで腕で顔を保護する体制をとる。すると、レイジングハートのコア、紅玉の部分に文字が光り浮かび上がる。

 __ Protection.

 機械変性された女性の声がレイジングハートから響く。すると、半透明の膜が障壁となりなのはを中心とした一帯を覆った。
 すると、コンクリートの塊は膜にぶつかった瞬間、衝撃に耐えられなかったコンクリートは乾いた音を立てて、砕け、四散した。
 それでも砕けたコンクリートはその勢いを殺さずに、罅割れたアスファルトやブロック塀に突き刺さり、電信柱を叩き折る。
 倒れる電信柱に引っ張られ、千切れる電線はバチバチと音を立てながら地面に落下した。

 その光景を見て、なのははサッと血の気が引いた。

 こんなにも簡単に道路や塀を壊す威力で飛んできたコンクリートが、もしあのまま自分に直撃していたら……。
 脳裏に浮かんだのは、潰れたトマトのようにグチャグチャになった光景。だが、それは自分ではなく、一葉の姿だった。

 あんな場所に一葉がいる。
 なのはにとってそのことが、自分が傷つくよりもずっと恐ろしく思えた。

 「僕らの魔法は“発動体”と呼ばれるプログラムに組み込まれた方式で、その方式を発動させるには術者の精神エネルギーが必要になります」

 フェレットはなのはの肩にスルスルと昇ると耳元で魔法の説明を始めた。
 本当は今すぐにでも飛んでいきたいという焦燥の想いが心を焦がすが、それでもここで封印の仕方や魔法に関して少しでも聞いておかなければならないという理性は残っている。
 ゲーム好きななのはは、説明書を読まずにゲームを始めることほど愚かしいことはないと知っていた。

 「そして、あれは忌まわしい力を基に生み出されてしまった思念体。 アレを落ち着かせるには、その杖で封印して元の姿に戻さないといけないんです」

 「よくわからないけど……、これで一葉くんを助けることができるんだね?」

 なのははレイジングハート……、元はただの赤い宝石が姿を変えた杖を掴んだ手にギュッと力を込めた。
 踊るように揺らめく黒い炎の向こう側では、まだ硬いものが砕ける音が大気を揺るがしている。

 「今みたいに攻撃や防御といった基本的な魔法は心に願うだけで発動しますが、より大きな魔力を必要とする魔法には呪文が必要になるんです」

 「呪文?」

 「はい、そうです。 目を閉じて心を澄ませてください。 そうすると貴女の心の中に呪文が浮かんでくるはずです」

 言われて、なのはは瞼を下ろす。
 遮ることがなにもない暗闇の中で、一葉を案じる気持ちが急いているというのに、不思議とすんなりと穏やかな精神の境地に入ることができた。

 そして、耳を澄ませば聞こえてくる。
 山奥の静かな湖面に、水が打つような静かな響きが、なのはの鼓膜に入り込んでくる。

 しかし、その刹那。今までと違う質の咆哮が聞こえたかと思うと、辺りは全ての音が死んでしまったかのように静まりかえってしまった。
 なのははハッとなって瞼を上げる。だが、その視線の先は変わらず炎の壁が遮っていて向こうの様子を知ることはできなかった。

 まさか……。

 言葉にしたくないような不安が、虫が這いあがって来るかのように首筋にまとわりつく。
 指先が痺れて、唇が小刻みに震える。

 フェレットが耳元で何か言っているが、今のなのはには不安に脈打つ自分の心臓の音しか耳に響かなかった。

 なのはは息を呑む。
 どうか、この嫌な予感が当たりませんというようにという、神に懇願する祈りはモーゼ野海のように真ん中を中心にして割れる炎の壁の先に見えた光景によって裏切られることとなった。
 風に乗り、飛沫になって散る炎。
 その先にあったのは、原形をとどめていない住宅地の道路。その上に佇む少年と黒い怪鳥。そして無数の剣に串刺しにされている、黒い靄だった。

 「……え?」

 「……ッ!?」

 余りに予想外の出来事に、なのはは頓狂な声をこぼし、フェレットは驚愕に喉を絞らせた。
 
 「準備終わったの?」

 「へ……? あ、ううん……。 もう少し……」

 口を開けて惚けているなのはに、一葉はいつもの口調で話しかけてきた。

 「それなら、早く終わらせてくれ。 こいつ、切っても切っても再生するんだ。 流石に疲れてきた」

 「うっ……うん」

 鷹揚のない、一葉の平坦な声になのはは呪文を得る為に再び視界を闇に落とし、耳を集中させた。
 それでも、心の中ではあらゆる疑問が生まれては渦巻きなのはを乱していった。

 あの剣はなに?
 
 これは、一葉くんがやったの?

 どうやったの?

 まるで昆虫の標本のように地面に縫いつけられた黒い靄。一葉の台詞からして、あの惨状を作り上げたのは一葉自身に違いない。だが、丸腰だったはずの一葉がいったいどうやったのかまではわからなかった。
 滾々と湧き出る疑念を押し込むように、なのはは自分の心を集中させようと必死に努める。
 今自分がすべきことはあの靄を封印するべきことなのだから、と。すると。耳の奥をくすぐるように一節の言葉がなのはの中に入ってきた。
 
それが、フェレットの言っていた封印の呪文だ。なのははそう確信して、迷わずに小さな唇を動かし声を張り上げた。

「リリカルマジカル!」

 なのはの声にフェレットが続き、封印するべき器の名前を叫ぶ。

 「封印すべきは忌まわしき器! ジュエルシード!!」

 __Sealing mode. Set up.

 レイジングハートの音声が響く。なのはは杖頭を地面に縛りつけられた靄に向けると、レイジングハートの口金が弾け、桃色の翼が広がる。さらに翼は形状を変え、無数の帯となり靄に襲いかかった。
 桃色の帯は既に動かなくなっている四肢をさらに縛り付けると、黒一色だった靄の額にXXIという押されたばかりの焼印のように赤い文字が浮かび上がる。

 __Stand by Leady.

 「ジュエルシードシリアルXXI! 封印!!」

 __Sealling.

 なのはが叫ぶと無数の光が靄を貫く。最後の断末魔が、静かな夜の住宅街に木霊とともに光の粒子となって大気に散っていった。
 靄の姿がなくなると、突き刺さっていた剣はカランという音は立てて地面にぶつかると、靄同様に消えていった。
 最後に残ったのは、銃撃戦の後のような凄惨な光景だけだ。

 「おろ?」

 砕けたアスファルトの隙間に、一葉は青く光るものを見つけた。しゃがんで拾おうとする一葉に、フェレットが慌てて制止する。

 「触らないで!!」

 押し出すような叫びに一葉は反射的に出した手を引っ込め、なのはは耳を押さえた。

 「急に叫んでしまってすいません。 でも、それは触ると危険なんです」

 フェレットはなのはの肩から服を伝って器用に地面に降りると、視線でなのはについてくるようにと促した。
 なのははフェレットの後について、捲れ上がったアスファルトの上を危なっかしく歩く。

 「これがジュエルシードです。 レイジングハートで触れて」

 そこには淡い青色の光を放つ、小さな菱形の宝石が落ちていた。
 なのはは言われたとおりに、レイジングハートの先で触れようと近づけると、ジュエルシードの方から引きあう磁石のように近づいてきた。
 そのまま、ジュエルシードはレイジングハートのコアに溶けるように消えていく。

 __Receipt number XXI.

 レイジングハートがジュエルシードの封印を確認すると、なのはの内側から淡い桃色の光が粒となって沸き上がり、白いバリアジャケットは元のトレーナーに、レイジングハートも杖から小さな宝石に戻った。

 「あれ? これでお終い?」

 あれだけの騒動であって、封印がこんなにあっさり終わってしまったことに、なのはは拍子の抜けた声を漏らした。

 「はい、二人のおかげで……。 ありがとう……」

フェレットはそう言うと、そのまま力尽きたように倒れてしまった。

 「えっ!? ちょっ、ちょっと! 大丈夫!?」

 なのはが突然倒れ込んだフェレットを狼狽しながら抱き上げる。呼吸は落ち着いていて、ただ意識を失くしただけのようでなのははホッと胸をなでおろす。

 「あの……、お二人ともよろしいでしょうか?」

 一葉の隣にいたベヌウが窺うような声色で二人に声をかけた。

 「そのフェレットが気を失った為だと思われますが、ここ一帯を覆っていた結界が解かれました。 早くこの場から離れた方がよろしいかと……」

 結界?

 聞き慣れない言葉になのはは首を傾げたと同時に、遠くの方からサイレンの音が木霊してきた。そして、その音は徐々に近づいてきている。

 なのはと一葉は、一度顔を見合わせて今の状況を確認する。

 所々がクレーターになり、蜘蛛の巣のように亀裂が走っている。敷地を区分する役割を持つブロック塀は粉々に砕け、倒れた電信柱のから千切れた電線が神経質に電気を迸らせていた。

 「……もしかして、私たちここにいると大変アレなのでは」

 頬をひきつらせて不格好の笑みを浮かべるなのはの額には冷たい汗が噴き出ていた。

 「……その意見に激しく同意する」

 そもそも、こんな夜中に子供が二人で出歩いている時点で補導の対象だ。もし見つかったら家にも学校にも連絡がいくだろう。
 
 なのはと一葉は再び顔を見合わせると、しっかりと、力強く頷き合う。
 言葉はなくとも意思の疎通はできるのだ。

 逃げよう!と。

 「とりあえずごめんなさ~い!!」

 二人はサイレンの音で騒がしくなり始めた夜の街から逃げだすために走りだした。




[31098] 4!
Name: 三鷹の山猫◆ef72b19c ID:d1000a7d
Date: 2012/03/01 22:55
 時間は少し遡る。
 
 酸素を呑みこみ燃え盛る黒い炎の壁の中に漂う戦場の空気。血流を無理やり早くしたかのような高揚感。
 ベヌウは困惑していた。
 
自分の新たなマスターが一人で魔力の塊の暴走体と戦うと言い出したのだ。
 それは誰から見ても無茶無理無謀。自分を起動させるだけの資質はあるといっても、一葉はなんの力も持たない子供なのだ。
 先ほどまで一緒にいた少女は状況に流され困惑するだけだったが、あの反応は実に正しい。

 魔法文化のないこの世界で、魔法の力は異質で異端な力。獣から見る炎と大差がないはずだ。
 
 だが、一葉はどうだっただろうか。
 次元世界と呼ばれる異世界の存在も、常識を遥かに超えた技術も、それが生み出した脅威を目の当たりにしてさえも動じる素振りを見せない。
 子供は順応性が高いと言ってしまえばそれまでだが、はっきり言って一葉は異常だった。
 視角から入る情報に否応なしに納得するのではなく、高い知性と理性で理解したうえで、自分のとる行動を決めていた。

 今、この場にいるのはベヌウと一葉。そして飢えた獣のような目つきで睨んでくる黒い靄だけだ。そして、その靄と対峙するのはベヌウではなく涼しい表情をした一葉だった。
 一葉が確かめたいと言ったこと。それは靄との戦闘だ。
 確かめたいことがあの靄の戦闘能力か、それとも自分の実力かはわからない。

 本来ならばベヌウは止めるべきなのだろう。
 魔法の知識もデバイスもなく、手にしているものといえば家を出る間際に持ってきた髪の毛ほどの極細の鍼だけだ。そんな丸腰同然の子供が理性のない怪物と戦うというのだ。そんなの、殺されてしまうに決まっている。
 
 だが、ベヌウは一葉を制止することを躊躇っていた。
 それは、一葉が纏う空気。
 先ほどの少女とフェレットは、この空気の正体がわからなかったが、ベヌウには直ぐにわかった。
 それは今まで自分が生きてきた戦場で慣れ親しんだもの。殺意だ。

 少年の小さな体躯から発せられる、押し殺した気配からもわかる研ぎ澄まされた槍のような殺意。
 才能だけでは、訓練だけではこれほどまでに濃密な殺意を出すことはできない。鉄を血で濡らした者だけが発することのできる純然たる殺意の渦は、一葉のような少年が身につけていてはいいはずのないものだった。

 今までベヌウが仕えてきた歴代の主たち。数多の戦場を駆け抜けてきた王族特務達と比べても遜色がないほどだ。
 ベヌウは、見た目のまま一葉を矮小な存在として助けに入るか、それとも自分の肌に叩きつけられる一葉の雰囲気を信じるか。ベヌウは心中で皮裏し損ねていた。

 だが、全ては突然始まった。

 一葉が掌に乗せた鍼を滑らせるように落とすと、風に乗り宙に舞う。鈍い月の光を浴びてキラキラと反射する鍼は、何の前触れもなくその形状を巨大な剣へと変えた。
 そう、それは言葉通り何の前触れもなく、まるで鍼が最初からあったかのように。

 仏神が手にしているような利剣を思わせる剣の群れは黒い刀身と、刀身の中心に梵字が彫られていること以外一つとして同じ形状のものはなく、大きさも大人の身の丈を超える者から人の腕程度の長さと様々だ。
 一葉を取り囲み宙に浮く剣群は、意思を持っているかのように標的を定めていた。

 一葉がヒラリ、と手を振る。

 それを合図に始まったのは一方的な殺戮。風を切り裂く音が靄へと襲いかかる。
 真っ先に失った者は赤い双眸だった。比較的小さな剣が二本、靄の眼球に突き刺さる。
 耳をふさぎたくなるような叫びが空気を震わす。それでも一葉は怯むことなく靄から飛び出る全ての触手を瞬く間に切断した。
 しかし、靄は瞬時に何本かの触手を再生させる。それを鞭のようにしならせ、一葉に叩きつける。
 だが、それは一葉にぶつかることなく空を切り、そのままの勢いでアスファルトに衝突し衝撃音と共に粉塵と破片を弾けさせた。

 そしてベヌウはあり得ないものを目にした。
不規則に四散するアスファルトの破片を、一葉は全て躱したのだ。人間の動体視力と反射神経では決して不可能なはずなのに、一葉は身を翻し、時には破片を足場として、鮮麗されたその動きは舞をも思わせた。
それは、多くの戦場と戦士を目にしてきたベヌウですら、思わず見惚れてしまうほどのものだった。

 一葉は地面を蹴って思念体の横に移動する。
 そして右手を大きく振ると、新たな剣群が現れ横殴りの暴風となって靄に突き刺さった。
 
ゴロゴロと地面を転がって行く黒い塊は壁にぶつかった衝撃で動きを止める。その刹那、追い打ちをかけるかのように今度は剣線が豪雨となって靄の頭上から降り注ぐ。

それは、最初から最後まで一方的なもの。戦いとさえ呼べない圧倒的で理不尽な暴力は、稲光のような鮮烈さと嵐のような衝撃をベヌウに与えた。

靄はアスファルトに磔られ、身動きも取れなくとも触手を再生させ抵抗を試みようとする。それでも、一葉は再生されていく触手を淡々と、冷めた面持ちで切り落として行った。

そんな一葉の姿が、ベヌウにはひどく哀しく見えた。

一葉のような幼い少年が、こんなにも躊躇いもなく残虐で冷酷な行為を平然と行うことができてしまうことが、哀れに見えたのだ。

靄は最後の力を振り絞るかのように、手元にあったコンクリートの塊を掴むと一葉に向かって投げつける。
それでも、風を呑みこむ音を上げながら迫るコンクリートを、一葉は半身だけを動かして軽く躱し、最後の一本となった触手を切断した。

「……ごめんな」

呟く小さな声が終焉の合図だった。
使い古した針山のような姿になった靄に死という概念があるのかはわからない。だが黒い風貌が細かに痙攣していることからまだ息はある。それでも、おそらく二度と自分の力で動き出すことはできないだろう。

「貴方は……何者なのですか?」

ベヌウは胸のあたりが冷たくなるのを感じながら尋ねた。
始めてみるはずの魔法の暴走が生み出した怪物を相手に掠り傷一つなく少年が、少年の皮を被ったまったく別の何かに思えた。

「さあね。 そんなん、オレが知りたいよ」

一葉が纏っていた殺意は既に霧散していて、代わりに黄昏を見つめる老人のような寂しい目つきをしていた。

 「やっぱり、オレってどっこおかしいのかね?」

 「一般的に見たら、間違いなく異常でしょうね」

 それはこの世界に限ったことではない。ベヌウは今まで渡り見てきたどの次元世界の常識においても、一葉は当てはまらなかった。

子供に似つかわしくない体術。どんなことにも動じない精神力と冷静な判断力。そして冷酷さ。何よりも、魔法ではない特別な力を自在に操っている。
そう、一葉の剣は魔法の力ではなかった。
魔法を発動させるには心臓の奥にあるリンカーコアと呼ばれる疑似器官を使わなければならない。レアスキルと呼ばれる、個人の持つ固有能力だとしてもそれだけは変わらないのだ。
だが、一葉が剣を発動させたとき、魔力の循環は一切確認できなかった。

「それでも、私は貴方に興味を覚えました」

「どういうこと?」

 「私は、貴方が子供だから私を取るに相応しくないと先ほど言いました。 しかし、それ以前に私の主は、私が仕えたいと思う人間であるべきだ。 私は見た目だけで貴方を判断し、そして切り捨てようとした。 恥ずべき事です」

 「なにが言いたいんだ?」

 一葉はベヌウが言葉に含んだ意味を探るかのように目を細めて視線を絡ませる。
 
 「私は、貴方に何も見出していなかったということです。 今までの非礼をお許しください。 そして、貴方が何者なのか、そしてこれから何者になっていくのか、それを私に近くで見届けさせてください」

 「オレが何者になるか……ね」

 透き通るようなベヌウの言葉に、一葉は眉一つ動かさずに言う。

 「もしオレが、今日のまま平気で誰かを傷つける人間のままだったら?」

 「貴方のもとを去ります。 しかし、きっとそういう状況になることはないでしょう」

 「どうしてそう思う?」

 「貴方はきっと、優しい人だからです」

 僅かに言葉を止める一葉をベヌウは見ると、不快そうに微かに柳眉を逆立てていた。

 「……適当なことを言うな。 お前にオレのなにがわかる」

 「わかりません。 だから教えてください。 緋山一葉、貴方のことを」

 轟々と燃え盛る黒い炎の中でベヌウと視線をぶつけ合わせながら、一葉は空気の塊を呑み込むみたいに溜息をつくと、続きを口にした。

 「いいよ、教えてやるよ。 オレがいったいどんな人間で、なにをしたのか。 お前の質問に全部答えてやる」

 苛立ちを吐き捨てるかのように一葉は言う。だが、その言葉に憤りは感じられなかった。
 むしろ、何かに戸惑いそれを振り払おうとしているような、そんな感じがした。

 「ありがとうございます。 ただ、その前に一つお聞きしたいことがあるのですが」

 「なんだよ?」

 「この惨状、御友人にどう説明なさるおつもりですか?」

 「あ……」

 一葉はベヌウの言葉に自分が作り上げた光景を改めて見回して、間抜けの声を口から零した。


 ◆◇◆

 一葉が走って目指したのは海鳴海浜公園だった。

 なのはの運動能力は平均的に非常に劣っており、途中までは一葉がなのはの手を牽引するように引っ張って走っていたのだが、一葉もやはり小学生であり直ぐに体力の限界が近づいてきた。その為、最初に来た時のようにベヌウの背中に乗れないかと尋ねたところ、定員一名という返答が帰ってきたのでなのはを乗せることにした。
 ベヌウは空を飛ぶ生き物を素体として作られている。地面を走る人間に速度を合わせることができない為に、海浜公園を落ち合う場所としてベヌウは先になのはを乗せて先に行ってしまったのだ。

 一葉が、なのはにベヌウの背中に乗るように促した時に、最初は息を切らしながら断っていたのだが、その目は期待と羨望でキラキラと輝いていたことを見逃さなかった。
 おそらく、一葉がベヌウの背中に乗って現れたのを見て自分も乗ってみたいという子供心が働いたのだろう。
 そんなこともあって、一葉が一人遅れて海浜公園に到着すると、海を一望できる広場のベンチに腰を下ろしているなのは達を見つけて一葉は小走りで近づいた。

 空全体を包み込む夜の帳を照らすのは、淡い月の光と点滅を繰り返す切れかけの街灯の電球だけだ。夜の闇と同化した海からは低い漣の音が遠くから響いている。

 一葉がなのはの隣に腰を据えると、ベヌウは小さなサイズになっており一葉の左肩に翼を休めた。
 
 「……すいませんでした」

 そのタイミングを見計らったかのように、なのはの腕から声が漏れた。鉛のように沈んだ声は、フェレットのものだった。
 
 「あ……、起こしちゃった? ごめんね、乱暴で」

 「その乱暴者というのは私のことでしょうか?」

 なのはを背に乗せてここまで飛んできたベヌウがなのはを不埒者を咎めるような視線をなのはに送ると、わたわたと大きく手を振って拙い言葉で弁明を始めた。

 「にゃっ!? そっ、そういうわけでは……!」

 「怪我はもういいの?」

 一葉は耳元に届くベヌウとなのはのやり取りを半ば無視するようにフェレットに傷の具合を聞くと、フェレットは首を小さく頷かせた。

 「怪我は平気です。 もう、ほとんど治ってますから」

 怪我自体は大したことはないと獣医師は言ってはいたが、それでも先ほどの大立回りで悪化したのではないかという懸念は幸いにも取り越し苦労で済んだようだ。

 フェレットは身を振るわせると器用に包帯の結び目を外して、身体全体を巻いていた包帯をスルスルと解いていった。
 一葉はそれを何も言わずに回収する。病院によっては一度使った包帯を殺菌消毒して使い回しているのだ。槇原動物病院でも、二階のベランダに包帯を干していて、つまりこの包帯は借り物ということになる。
 無料で診療をしてもらっておきながら包帯まで汚してしまうわけにはいかない。

 「わ、ホントだぁ。 傷の痕がほとんど消えてる」

 ベヌウとの言いあいを止めたなのはがフェレットの脇を抱えて、ぶらりとぶら下げるように持ちあげると驚きの声を上げる。
 柔らかな薄暗さが辺りを支配しているせいで、一葉の位置からはフェレットの身体を詳しく見ることはできなかったが、なのはの感心した声を聞く限りは本当に大丈夫なのだろう。

 「助けてくれたおかげで、残っていた魔力のほとんどを治療に回すことができましたから」

 「えっと……、よくわかんないけどそうなんだ。 ねっ、それよりも自己紹介してもいいかな?」

 「え? あ……、うん……」

 脈絡もなしに話題を切りかえるのはなのはの悪い癖で、唐突すぎる自己紹介の申請にフェレットは半ば反射的に頷く。それを見て、なのはは薄い胸を張って自己紹介を始めた。

 「私、高町なのは。 小学校三年生。 家族とか仲良しの友達は、なのはって呼ぶよ」

 「僕はユーノ・スクライア。 スクライアが部族名だから、ユーノが名前です」

 「ユーノくんかぁ。 かわいい名前だね」

 可愛らしい笑みを浮かべながら言うなのはに、フェレットは曖昧な表情を作りながら視線を一葉に移した。

 「あの……、そちらの方は?」

 フェレットの緑の双眸と視線が合う。ベヌウの瞳の色に似ているが、ベヌウが湖の底のような深緑色だとしたら、ユーノと名乗ったフェレットは森の若葉のようなエメラルドグリーンをしている。

 「自己紹介オレもすんの?」

 「当り前なの! 一葉くんには聞きたいことがいっぱいあるの! それに鳥さんも! 自己紹介!!」

 首を傾げた一葉に、なのはが叩きつけるように声を荒げて一葉は背筋を仰け反らせて怯んだ。

 「僕からもお願いします」

 なのはの手の持ち上げられたまま首だけを動かして視線を一葉に向けるフェレットの姿はどこかシュールだった。
 一葉は言い渋るものでもないと、唇を開く。

 「オレは緋山一葉。 なのはと同じく小学三年生。 今日はもう遅いし、面倒くさいから詳細は後日ということで」

 「一葉のデバイス、ベヌウです。 以後お見知りおきを」

 一葉に次いでベヌウも簡潔に自己紹介をすると、ユーノが驚嘆な声を上げて目を剥いた。

 「デバイス!? 使い魔じゃないんですか!?」

 それは同じ魔法文化圏からやってきたユーノさえも異教徒を見つけた聖職者のような声を上げるということは、一葉の部屋で言っていた通りベヌウは本当に特別なデバイスなのだろう。
 なのはは、デバイスって何?といった感じに首を傾げ頭の上にクエスチョンマークを浮かべていた。

 「それも含めて明日でいいかな? オレ、もう眠いんだけど」

 一葉は広場の真ん中で孤独に時を刻む高時計に目をやると、短針は丑の刻を示していた。
 小学生が外で長話しをしていていい時間帯ではないし、明日も学校があるのだ。
 なのはは一葉の言葉に悔しそうに喉を鳴らした。

 「うぅぅ……。 明日になったらちゃんとお話ししてね……」

 ぶら下げたユーノをなのはは膝の上に置く。なのはの家では動物は飼えないと言っていたので、とりあえず一葉の家に来るようにユーノに言おうとしたところ、したり顔でなのはは笑みを浮かべた。

 「実はユーノくんを私の家で飼えるようになりました!」

 「おお、マジでか!?」

 「うん! マジなの!」

 家族に相談したところ、なのはの母親である桃子さんが意外と乗り気ですんなりと話しが通ったらしい。ベヌウのこともあり、一晩で動物を二匹連れ込むのは流石にまずいと内心で思っていた一葉にとってこの事は渡りに船だった。

 そうしてベヌウは一葉の家に、ユーノはなのはの家にとそれぞれ解散することになったのだが、女の子を一人で歩かせるには危険な時間帯なのでなのはを家まで送ろうと一葉が持ちかけたところ、ベヌウが自分から背中に乗せて送ると提言した。その方が早くて安全に済むとのことだ。

 ベヌウの背に乗って、また明日と言いながら手を振るなのはが夜の空へと溶けるように消えてゆくまで見送り、一葉はしばらく笑うように空に浮かぶ三日月を見上げながら、一人溜息を吐いた。

 「なんか……、訳わかんないことに首突っ込んじゃったなぁ……」

 一葉のそんな呟きは、闇の中に静かに呑みこまれて消えていった。


 ◆◇◆


 カーテンから差し込む光の筋に誘われて、一葉は黒いカーテンを開いて窓を開け放った。
 その日は突き抜けるような快晴で、空の高い所に斑に浮かぶ鰯雲が流れている。柔らかな風に乗って庭に植えられているキンモクセイの新芽の香りが鼻をくすぐった。

 だが、これ以上ないというほどに気持ちの朝だというのに、一葉の表情は梅雨の朝のように浮かないものだった。

 一葉は部屋の空気を入れ替えると、寝巻として使っているTシャツとジャージを脱ぎ棄てて、制服のブレザーと短パンに着替える。そして鞄を持つと机の上のティッシュ箱の中で眠っているベヌウを起こすことにした。

 「おい、朝だぞ」

 近いうちに、こんな即席ではないまともな寝床を用意しないといけないな、と思いつつ一葉がベヌウの頭を軽く小突くと、眠気眼のままベヌウの嘴で大きく欠伸をしてから一葉に挨拶をした。

 「む……、おはようございます」

 「お前、機械なのによく寝るなぁ……」

 「機械にも休息は必要なのですよ。 スリープ状態に入らず長時間活動をしているとオーバーヒートを起こしてしまいます」

 「喋って動くパソコンみたいなもんなわけね。 まあペットとして飼うんだったらこっちの方が自然でいいか。 ベヌウ、ついてきて」

 一葉が腕を出すと、ベヌウは翼を動かして腕に飛び乗る。
 
 「なんでしょうか?」

 「母と父にお前を我が家に置く旨を言わにゃならん。 二人とも動物好きだから大丈夫だとは思うけどね」

 ちなみに一葉は自分の両親のことを父、母と呼ぶ。特に深い意味はないが、何となく呼びやすいのだ。

 「ああ、そうですね。 昨夜はあのまま寝てしまいましたから」

 昨日、一度目の帰宅のときはまだ両親は帰ってきておらず、二度目のときには既に新寝室に入っていた為、まだベヌウを拾ったことを両親に告げてはいなかった。こういう話しはなるべく早い方がいいと思った一葉は朝食時に頼みこもうと昨夜から決めていた。
 父はもう会社に行っていていないだろうが、緋山家の最高権力者である母、亜希子はまだいるはずだ。
 腕を伝って肩に移動したベヌウを乗せて、一葉はスクールバッグを持って部屋を出た。


 ◆◇◆


 結論だけ言ってしまうと驚くほど簡単にベヌウを飼う許可が下りた。
 一葉がベヌウを肩にとまらせリビングに入ると、タバコを咥えながらフライパンを振っていた亜希子は目を丸くしていたが、一葉が鳥を飼いたいと伝えたところ、自分で面倒を見るんだったらいいと言われたのだ。
 朝のニュースをBGMに、近いうちに日食が起こるという話題を耳の片隅に捉えながら、亜希子が作った朝食を胃に収めてから登校をしたのだが、その日はバスでなのは達と会うことはなく、その日になのはと最初に会ったのは教室だった。

 ちなみにベヌウも一緒に学校に連れてきており、スクールバスでは鞄の中に押し込み、今は屋上で待機して貰っている。

 ベヌウと念話で話しながら歩いたせいで、一葉が教室に着いた時間は朝のホームルームが始まるギリギリの時間だった。廊下や教室には子供特有の甲高い声が響き朝の喧騒に包まれている。
 一葉は鞄を自分の机の上に置くと、アリサとすずかと話していたなのはが近づいてきて、身を小さくして小声で話し始めた。

 「一葉くん、おはよう。 鳥さんは?」

 「今、屋上にいる。 ユーノは?」

 「お家。 ねぇ、念話ってわかる?」

 「教えてもらった。 授業中にでも隙を見て話そう」

 「……なにやってんのよ、アンタたち?」

 なのはの頷きに被せるように、後ろから怪訝なアリサの声が聞こえてきた。
 二人が振り返ると、アリサとすずかが眉根を寄せて訝しそうな視線を突き刺していた。

 「ちょっと、フェレットの引き取り手の話しを……」

 一葉がそう言うと、二人はとたんに表情を暗くした。

 「二人とも……、昨夜の話し聞いてないの?」

 「ふぇ? 昨夜って?」

 沈んだ声を出すすずかに、なのはは首を傾げた。すると、今度はアリサが言葉を重ねてきた。

 「昨日の病院で、車かなんかの事故があったらしいのよ。 それで……、昨日のフェレット大丈夫かな、って」

 心当たりがありすぎて言葉に窮するなのはと一葉だった。

 沈痛な表情を作り俯いてしまったアリサとすずかは本当にフェレットのことが心配なのだろうが、事故と処理されたあの惨状のきっかけはユーノであったという事実を知る一葉となのはは曖昧な表情を浮かべるしかなかった。

 結局、フェレットは事故の起こる前に脱走を図っていて、それをたまたまなのはと一葉が発見して、今はなのはの家で保護しているという作り話をでっちあげてフェレットは無事だという事実だけをアリサとすずかに伝えることにした。

 真顔で嘘八百をスラスラと並べる一葉に、なのはは不格好に引き攣った笑みを作っていたが、アリサとすずかはあからさまにホッとした表情を浮かべると、そのまま雑談の流れに入っっていった。
 話題の中に、一葉も鳥を飼い始めたことを上げると週末に月村家で催されるお茶会にユーノと共に連れてくることになったりと、昨日の騒動が嘘だったかのようにいつも通りの朝の日常だった。


 ◆◇◆


 『ジュエルシードは僕たちの世界の古代遺産なんだ』

 国語の授業中に、不意にユーノの声が頭に響いてきた。ビスケットか何か、固いものを頬張っているらしく、ボリボリと乾いた音がノイズとして混ざっている。
 一葉は自分の斜め後ろに座っているなのはにこっそりと視線を送ると、なのはにもこの声は届いているらしく目線がぶつかり頷いていた。

 『本来は手にしたものの願いを叶える魔法の石なんだけど、力の発現が不安定で昨夜みたいに単体で暴走して使用者を求めることがあるんだ。 たまたまジュエルシードを見つけてしまった人が何も知らずに使用して、それを取り込んで暴走することもある』

 話しを聞く限り、そのジュエルシードとやらは危険極まりない代物らしい。そんなものが自分の生活圏内に落ちていることに、一葉は危惧を感じた。

 『そんな危ないものが、なんでこんなところに?』

 なのはの尤もな質問に、ユーノは声を沈めて苦しそうに言葉を続ける。

 『僕のせいなんだ……。 僕は故郷で遺跡の発掘を仕事にしてるんだけど、ある日僕が監督していた古い遺跡の中であれを見つけて、調査団に依頼して保管して貰ったんだけど……、その途中で事故か、人為的災害にあってこの世界に二十一個のジュエルシードが落ちたんだ』

 『それって、ユーノ関係なくない?』

 『でも……あれを見つけたのは僕だから……。 全部見つけて、本来あるべき場所に返さないといけないから……』

 今まで黙って聞いていた一葉が口を挟むが、ユーノは声を震わせていた。確かに現場監督は現場の責任を負うことも仕事ではあるが、調査団にジュエルシードを譲渡した時点で責任も調査団に移るはずだ。
 つまり、ユーノは責任を問われる立場ではなく自らを責める必要はないのだ。
 それでも、ユーノの、壊れた笛から絞り出したかのような声は自らに十字架を背負わせているかのように自虐的なものだった。

 『貴方は真面目なのですね』

 不意にベヌウの声が割り込んでくる。

 『だからこそ必要のない責任まで背負おうとする。 そして、その結果関係のないものまで巻きこむことになった』

 ベヌウの言葉は、刃のようにユーノに突き刺さった。

 『すいません……。 だけど一週間……、いいえ、五日あれば魔力が戻ります。 それまで休ませてもらえば……』

 『その五日の間に再びジュエルシードが暴走したらどうするのですか? 再び高町嬢に頼るのですか? それとも、一葉を戦場に立たせるのですか?』

 『それは……』

 淡々とした口調には強さがあった。ユーノはそんな声になにも言えなくなり押し黙り置く場を噛みしめる音だけが念話を通して頭に響く。それは自分の無力さに対する苛立ちか、それとも不甲斐ない自分に対する怒りなのかわからないが、それでもベヌウの言うことはなにもかもが正論で、ユーノはなに一つとして言い返すことができなかった。

 責任を取らないと自分の口から言っているにもかかわらず、身勝手に巻きこみ命の危険にまで晒してしまった人に対して自分の寝床と用意し欲しいと言っているのだ。
 それはなんという不誠実さと、甘え。
 ベヌウに言われて、ユーノは顔から火が出るのではないかと思うほどに自分が恥ずかしくなった。

 『少しだけ……、少しだけだけど、私はユーノくんの気持ちわかるな』

 穏やかな口調でなのはは言う。
 一葉は、意識は念話に向けながらも黒板に書かれた文字の羅列を写し取っていたノートから顔を上げて振り返ると、なのはは柔らかな微笑みを浮かべていた。

 『ね、ユーノくん。 そのジュエルシードを集めるのって私たちもお手伝いできないかな?』

 『ちょっと待て。 “たち”ってなんだ、“たち”って』

 『だって、一葉くんも手伝ってくれるんでしょ?』

 なのはは一葉の言葉に、なに当り前のこと言ってんの?と言わんばかりに首を傾げた。

 『それに、一葉くんには鳥さんのこととか聞きたいことがいっぱいあるし……。 ふふ、まさか私に隠し事をしてたなんて……』

 ふふ、と柔らかな笑みを語尾に付けるなのはに、一葉はもの凄く嫌なものを感じた。例えるならば首筋に刃を突きつけられたかのようにひやりとしたもの。
 なのはは笑っていた。いつもと変わらぬスミレのような笑みの中に黒い瘴気を渦巻かせ、敵意や殺意といった負の感情はないがひどく無邪気で静かな怒りをたぎらせた瞳は一葉を貫いていた。
 それは過去に一度だけ見たことがある、逆鱗に触れた時の桃子さんの微笑みに似ていた。

 『あ……、あの?』

 会話が途切れたことにユーノは状況がわからず戸惑った声を唸らせるが、一葉としてはそれどころではない。
 なのはが本気で怖かった。
 気がつけば授業中の教室はいつも以上にシンと静まりかえっており、唯一響いているはずの教師すらも言葉を詰まらせて、誰もがなのはを見ていた。

 「えーと……、高町さん。 なにかありましたか?」

 「いいえ、なんでもありません」

 頬に汗を伝わらせ引き攣った笑みを作りながら教師がなのはに尋ねると、なのはは微笑みを崩さないままさらりと答えた。
 その様子に、触らぬ神にはなんとやらと判断したのか、教師は片手に持った教科書に視線を戻して、そうですかの一言で済ませ授業を再開し始めた。
 再び響く黒板を叩くチョークの音がやけに大きく聞こえる。

 『ユーノくん。 今、ジュエルシードっていくつあるの?』

 『えっと、二個だけど』

 『あと十九個か……。 頑張らないとね!』

 一葉を完全に置いてけぼりにしてやる気に満ちた声を出すなのはと、戸惑いの色を覆いきれていないユーノの声が念話で響く。

 『本当に手伝ってもらってもいいの?』

 『うん。 だって、ご近所にそんなものが落ちてたら危ないでしょ? ちなみに一葉くんに拒否権はないから』

 有無を言わさぬ。まさにそれを体現したなのはに、一葉は頭を抱えて突っ伏した。

 この日は土曜日の為、授業は午前中で終わる。チャイムと共に多くの生徒が鞄を持ちだして教室を出ていく中でなのはだけが真っすぐに一葉の席にと足を向けてにっこりとほほ笑んだ。

 「一葉くん。 お話ししよ?」


 ◆◇◆


 「昨日木の中から生まれてきた」

 「それ絶対嘘でしょ!」

 放課後、一葉はなのはの部屋にいた。
 柔らかな桜色のカーテンやベッドシーツで統一された、いかにも女の子らしい部屋には窓際に可愛らしいぬいぐるみや小物が置いてある。
 一葉はなのはの部屋に来るのは初めてというわけではないが、いつもはアリサとすずかもいる。
 二人きり、というわけではないがなんとなく腰が浮いて落ち着かなかった。

 部屋の中央の置かれたミニテーブルの上には、なのはの部屋に来る途中に立ち寄った翠屋謹製のシュークリームと紅茶が並々注がれたティーカップが置かれていて、ティーっカップは二つだが、シュークリームは四つ、一葉、なのは、ユーノ、ベヌウのそれぞれの前に配膳されている。
 なのはの家に遊びに来る時には、翠屋でおやつを貰うのが常なのだが大抵シュークリームは一人一つ。だが、今日は一葉となのはが二人できたのは見た桃子さんが頬に手を当てて上機嫌な笑みを浮かべ一つずつおまけをしてくれたのだ。

 「事実です。 樹木の成長に巻き込まれて動けなくなっていた私を一葉が助けてくれました」

 シュークリームに頭を突っこんだままベヌウが言う。よほど気に入ったのか先ほどから最低限の捕捉しかせずひたすらシュークリームを貪っていた。

 「あの……、昨夜デバイスって言ったのは……?」

 おどおどした声でユーノが尋ねる。その声色は疑念と戸惑いが入り混じっていた。

 「それも事実です。 ベルカという国を知っているのであれば護国四聖獣のことも耳にしたことがあるのでは?」

 「……ッ! やっぱり、貴方はベルカのユニゾンデバイスの……、月の踊り子……」

 驚愕に目を剥くユーノに、ベヌウは半分以上形を崩したシュークリームを食べながら翼だけを軽く動かして応えた。

 「ねぇ、ユーノくん。 “ユニゾンデバイス”ってなに?」

 なのはが首を傾げて尋ねると、ベヌウに視線を釘付けにしていたユーノがハッと我に帰り、なのはに説明を始める。

 「“デバイス”っていうのは魔道師が魔法を使う時の補助輪みたいなものなんだ。 術者のリンカーコアから生み出される魔力を効率よく魔法に換える変換機の役割も果たしてる。 なのはに渡したレイジングハートもそうだよ」

 「え? でも、レイジングハートとベヌウさんってだいぶ違うよね?」

 「デバイスにも色々な種類があるんだ。 レイジングハートは人工知能が搭載されたインテリジェントデバイスって呼ばれてて、これはデバイス単体でも魔法を発動することができる。 今、一番メジャーなのがストレージデバイスっていうもので、これは人工知能が備わってないぶんインテリジェントデバイスに比べて処理速度が格段に早くなってるものがあるんだけど……」

 ユーノはそこまで言うと、一呼吸おいてさらに言葉を重ねる。

 「他にも、昔に滅んだ“ベルカ式”っていう魔法があるんだ。 僕たちが使うのは“ミッドチルダ式”っていう魔法なんだけど、“ベルカ式”は“ミッドチルダ式”とは違う魔法形態をしていてデバイスも独自のものが開発されてたんだ。 その内の一つがユニゾンデバイス。 これはもう製造自体が禁止されてて、手に入れるには目が飛び出るほどの金額で取引するか、遺跡を発掘したりして探し当てるしかないんだ」

 「ほぇ~。 じゃあ、ベヌウさんってとっても珍しいんだね」

 なのはの感心した声に、ユーノは首を横に振った。

 「珍しいなんてものじゃない。 本来、ユニゾンデバイスは人の形をしてるものなんだ」

 「え? でも、ベヌウさんは鳥型じゃないの?」

 「そう、だからなんだよ。 護国四聖獣はずっと昔にいたベルカの王様……、聖王って呼ばれる人を守るために存在した王族特務っていう騎士たちが使っていたものなんだ。 その騎士たちが使用する為だけに開発された、たった四機だけの獣型のユニゾンデバイス。 “影を駆る者” “常夜の護り手” “深淵の奏演者” そして、“月の踊り子”。 今、現存しているのは教会に保管されている“影を駆る者”だけだと思われてたんだけど……、文化的な価値は計り知れないよ」

 「日本で言う重要文化財ってところか。 とんでもないもん拾っちまったなぁ……」

 誰よりも早くシュークリームを食べ終えていた一葉が、口の中に広がる甘味を紅茶で喉に流しながら言うと、ベヌウがシュークリームを全部胃の中に収めて一葉に視線を流した。

 「私からしたら一葉もとんでもないものを持っている気がしてならないのですが。 そろそろ昨日のことを話していただけませんか?」

 ベヌウの言葉を切り口になのはとユーノの視線が一葉に集まる。一葉はカップを置くとなんでもないように口を開く。

 「ありゃ、手品みたいなもんだよ。 種も仕掛けもあるものを物凄いものみたいに見せただけさ」

 「手品?」

 一葉の言葉に三人が首を傾げる。気がつけばそれぞれに配られたシュークリームはすべてなくなっており、なのははともかくユーノやベヌウは明らかに体積以上のものを身体に収めたということの方がよっぽど手品だと思う。

 一葉は部屋の隅に置いた自分の鞄を座ったまま身体と腕だけを伸ばして引きずるように手元に手繰りよせる。そして留め金を外して開くと中から紺色の麻袋を取り出し、組紐を解いた。
 中に収められているのは細かな鍼の束だ。
 一葉はそれを一本だけ取ると、みんなに見えやすいようにテーブルの中央に置いた。

 「三年前に死んだウチの爺さんが鍼医師やっててね。 形見分けで貰ったんだ。 これが昨日の剣の正体」

 「え?」

 なのはとユーノの声が重なる。表情も同じように目を丸くしていた。

 「この“鍼”っていう存在を“剣”っていう存在に変えたんだ。 まあ、別の場所にある剣をオレが持ってた鍼と交換しただけだよ」

 「それって、どういうこと?」

 なのはは頭の上にクエスチョンマークを浮かべている。だが、ユーノは一葉の説明に驚愕の表情を作りベヌウは正面から刃で斬り付けられたかのような衝撃を受けた。
 一葉は今、間違いなく“存在を変えた”と、そして“剣と鍼を交換した”と言った。
 ユーノとベヌウの驚倒の理由は全く別の理由だった。
 ユーノは一葉の能力を魔法の類だと思った。鍼を起点として別の場所に保管されている剣を召還する転移魔法が、魔法文化のないこの世界で独自に編みあげられていたのだと、そう思ったのだ。
 だが、ベヌウは違った。
 一葉の能力にベヌウは心当たりがあった。だが、その能力は有り得るはずがない、この世に有り得てはならない能力だ。
それでも、疑念は嵐のように渦巻き、バラバラだったパズルのピースが組み合わさっていくように確信へと変わっていく。そして、出来上がったパズルをベヌウは自分で否定することができなかった。

 『お前には後で詳しく説明するよ』

 ベヌウが思考の海へ沈みかけているのを引っ張り上げるかのように一葉はベヌウにだけに念話で言った。

 「えっと……、よくわかんないんだけど……」

 なのはは一葉の説明が理解できず両手でカップを持ったまま、上目遣いで困った表情をしている。

 「わかんなきゃそれでいいよ。 そんな重要なことじゃないし。 ただオレがこういった手札を持ってるってだけ」

 「う~……、うん……。 わかった」

 納得できない表情をしながらもなのははとりあえず頷く。瞬間、部屋にいる全員が空を切り取られたかのような違和感に身を震わせた。

 「これは……!!」

 「昨日と魔力の波長が似ています。 おそらく、ジュエルシードでしょうね。 ここからそう遠くない」

 一葉となのははユーノとベヌウの言葉に立ちあがって窓を開いた。外を眺める景色には、普段通りの景観にたった一つだけ異物が混じっていた。
 ジュエルシードが発動したと思われる山岳部。そこが灰色のドームに覆われていたのだ。

 「あれが結界か……。 魔力がない人には見えないってのがちょっと信じらんないぐらい目立ってんな」

 「八束神社の方向だね。 急ごう!」

 なのははテーブルをひっくり返しそうな勢いで踵を返すと、ユーノが慌ててなのはの肩に飛び乗り転がるようにして部屋を出て行った。
 主のいない部屋に取り残された一葉とベヌウは呆れた表情を浮かべる。

 「これってオレも行った方がいいよね?」

 「でしょうね。 忘れ物を届けに行かないと」

 二人の視線はテーブルの上に向く。そこには置いてけぼりにされたレイジングハートが寂しそうにチカチカと光っていた。



[31098] 5!
Name: 三鷹の山猫◆ef72b19c ID:d1000a7d
Date: 2012/03/01 22:55

 一葉が飛びだしたなのはを追いかけようと、玄関で靴を履いた時に気がついた。
 今現在、高町家にいるのは自分とベヌウだけ。つまり鍵がかけられないということに。

 どうしたものかと一瞬だけ逡巡するが、このままではなのはが命の危険にさらされる可能性があるため、泥棒が来ないことを祈りつつ一葉も玄関ドアを開けて走りだした。
 目指すのは八束神社。ベヌウには空からなのは達を探すことを頼んだが、それでも姿を見るけることはできなかった。もしかしたらバスに乗ってしまったのかもしれない。

 『一葉』

 風に滑るように空を飛ぶベヌウは遥か上空から一葉に声をかける。

 『今から語るのは私の独り言です。 とりあえず、なにも言わずに聞いては下さいませんか?』

 そんな前置きをしてベヌウが語り始めたのは、ベヌウが遥か昔にいたベルカのという国の若い研究者の話しだった。
 その研究者は次元世界の他にも、まだ自分達の知らない世界があるのではないかという研究をしていた。
 それは今自分達が住んでいる世界が同じ次元に並行して存在しているという、別の可能性の世界。いわゆるパラレルワールドというものである。
 研究者が目をつけたのは時間だった。時間の流れが一つの流域だとしたら、一本の本流から無数の支流に別れ無限に可能性というものが広がっていくのだとしたら、その本流を突き止め意のままに堰止めたり流れを早めたりすることができるのだとしたら、人間は神の領域に踏み込むことができるというものだった。
 その研究に当時の聖王は強い関心を持ち充実した設備と、莫大な研究費用を研究者に与え一つの装置を作らせた。
 それは“鍵”と呼ばれる八十八個の魔石。世界への扉を開くものだ。

 『だが、人間には越えてはならない境界があるのです。 彼らが天に向かって吐いた唾は、矢の雨となって自らに降り注いだ』

 研究者たちは無人世界で扉を呼びだし、開こうとした。そして、その結果として多くの次元世界を巻き沿いにその世界は滅んだ。
 なにが起こったのかは誰もわからない。なぜなら、その場にいた人間は全て消えてしまったからだ。そして、凄惨な結果だけが残った。

 『私が製造される以前の話しです。 記録でしか残っていませんでしたが、その時に超大規模の次元震……、次元世界と次元世界を繋ぐ空間が断裂する災害をそう呼ぶのですが、それが確認されていました。 一葉……、一つ質問です。 例えば一葉の前に未来を覗く機械があったとします。 それを覗き、自分が死んでしまう未来を見たとして、一葉は死を回避することはできますか?』

 『無理だろ。 それができたら未来が見れる機械は失敗作ってことになる』

 『そのとおりです。 人が介入できるのならば、もはやそれは運命とはいえない。 我々は、決して抗うことのできない奔流の中にいるのです。 今の話しを踏まえたうえでお答えください。 一葉、貴方の“剣”の能力、その本質はなんなのですか?』

 それは語彙も言い回しもない直球の問いかけ。今、一葉の前には線のように走る車の列があった。大通りの信号機は赤を灯しており、早くなのはを見つけなければならないという焦燥に胸を焦がしながら、心拍数の上がる心臓と息を整えながらベヌウの問いに答えた。

 『多分、お前の想像してる通りだよ。 オレの能力は可能性の否定と肯定。 “起こったかもしれない”っていう未来を過去から現在に持ってくることができる。 あの鍼は純銀製でね、剣に精製されていたかもしれないっていう可能性をあの鍼の現在に上書きしたんだ』

 『なぜ……、人間に過ぎない貴方がそんな能力を持っているのですか……? 有り得ないことです。 人間に許された能力の領域を大きく踏み外してしまっている』

 『……』
 
 一葉は押し黙ってしまった。
 かつてベルカが総力を挙げて成功させようとした研究。そして取り返しのつかない凄惨な結果で終わり挫折した神へと至る道を十歳にも満たない少年が歩んでいたのだ。
 もはや冗談以外のなにものでもない。だが、それでも一葉が嘯いていないことぐらいベヌウにはわかった。
 そして何より、見てしまったのだ。
 “鍼”という現在が“剣”であったという可能性に変わる、その瞬間を。世界が変質する、その現場を。
 鍼が剣へと変わる瞬間、極々僅かな次元震が起こっていた。次元と次元の狭間で起こる断裂現象はどんな微細であっても人間個人で引き起こせるものではない。
 例えば、それは山脈を押し動かすことに等しい行為だ。だが、ベヌウと契約した少年はそれを呼吸するかのように容易くやってのけた。
 
 ベヌウは見下ろす街の景色に、目標にしていた甘栗色の髪を持った頭を見つけた。肩には小さな動物が乗っている。
 なのはで間違いないだろう。走っている小さな影はちょうどやってきた市バスに乗り込んでしまった。

 『高町嬢を見つけました。 そちらに合流します』

 バスに乗り込まれたしまたら、後はその先に向かえばいいだけだ。ベヌウは翼を風に滑らせて一葉の肩に滑空した。
 ちょうど一葉を足止めしていた信号が青に変わり、ベヌウが一葉の肩にとまると同時に一葉は強く地面を蹴って走りだす。

 『……この能力はなんでもできる訳じゃない。 条件も、限界もあるし、あまりやり過ぎるとしっぺ返しがくる。 オレができることなんて、たかが知れてるよ』

 『例え制限があったとしても充分に在り得ない能力です。 世界の理に反している。 貴方の存在は、この世界にとって癌細胞に近いものなのではないですか?』

 頬に突き刺さる視線を感じながら、一葉はベヌウの言葉に遠い過去を回顧するような寂しい笑みを浮かべた。

 『どうだかね……。 むしろオレは世界に生まれるべきだったって、世界に言われたことがあるけど』

 『世界に……? どういう意味ですか?』

 『それは後で話すよ……、今は目の前のことに集中しよう』

 一葉はそう言うと大通りから外れて細い路地裏に入り込んだ。なのはが乗り込んだのが市バスなら、確か八束神社経由のものがあったはずだ。今からバスを追いかけても間に合うはずがなく、一葉は裏道を使うことにした。
 
普段人が入り込まない路地裏には放置されたポリバケツやら空き缶が転がっている。
 一葉はそれらにぶつかり、踏みつけながらも速度を落とさずに走り続けた。
 網の目のように入り組む路地裏を抜けると視界が開け、ちょうどバス通りの大通りを挟んでなのはの姿が視界に入った。
 だが、既になのはは神社の石段を駆け登っており、声をかけようにも車の音でかき消されるだろうし念話を飛ばそうにも夢中になったなのはが気がつくかもわからない。
 足取りをしっかりと神社に向けるなのはの様子を見ると、まだレイジングハートを忘れたことに気がついていないようだ。
 大通りには目に見える範囲に信号機はなく、途切れることなく車が走り一葉を再び足止めする。そうしている間にも、なのはは結界の中に入って行ってしまった。

 その後ろ姿を見て、一葉は心の中で舌打ちをした。

 なんて迂闊な。昨晩あんな目に遭ったというのに、なのははなにも学習してはいなかった。
 平和というぬるま湯にどっぷりと浸かった今まで、たった一度死ぬかもしれない目に会っただけでは目に見える世界は変わらない。それでも、自らの意思で危険な場所に足を踏み入れようというのに、なのはからは危機感というものがまったく感じられなかった。

 そのことが一葉に強い苛立と怒りを感じさせた。

 『急ごう、マジで手遅れになる』

 『わかりました。 しかし、後ほど私の質問にはちゃんと答えていただきたい』

 『わかってるよ』

 走る車の僅かな隙間を一葉は駆け足で無理に通り抜ける。クラクションが鳴らされ空に木霊するが、一葉は振り返る来なくそのまま神社の石段を駆けあがって行った。


 ◆◇◆

 「なのは! 早くレイジングハートを起動して!!」

 突き刺すようにユーノは叫ぶ。目の前にはジュエルシードの力で異形の姿と化した化け物が喉を鳴らし、牙と敵意を剥き出しにしてなのはとユーノを睨みつけている。

 「ユ……、ユーノくん……」

 蝋燭から火が消えていくような声でなのはは言った。

 「レイジングハート……、忘れてきちゃった……」

 「え……? えぇぇぇぇー!?」


 ◆◇◆


 一葉が階段を上りきると、目に飛び込んできたものは気を失って参道に倒れている若い女性だった。
 慌てて駆け寄り首筋に手を当てると脈は規則正しく動いており目立った外傷も見当たらずおそらく気を失っているだけだろう。一葉は女性の肩を持ち上げると引きずるようにして参道の脇に生えている枝ぶりの良い松の木まで移動させた。そのまま根元に身体を預けさせると、ベヌウはその範囲を結界で囲う。

 途端、境内に大気を壊すような咆哮が響き渡る。
 一葉とベヌウが反射的に声の方を向くと、視線の先にはなのはとユーノが狂ったように暴れまわる暴走体から逃げ回っていた。

 鋼色の巨体は四肢で大地をめくりあがらせ、四つ目の眼はわき出る殺意を隠しもせず涎をまき散らしながらなのはの小さな体を爪で引き裂き牙を突き立てようとしている。

 一葉は布袋を紐をほどき数本の鍼を取り出す。そしてそれを一つの剣として顕現させた。
昨晩のように一本の鍼を一振の剣にするのではなく、数本の鍼を巨大な一振の剣としたのだ。

 仁王像ほどの大きさもある巨大な利権は空気を裂く音を上げて一葉の手から離れた。
 同時にベヌウの炎が剣を包み込み、黒い軌跡を残して大気を突き抜ける剣はなのはと暴走体の間に突き刺さる。

 「きゃぁ!?」

 突然の衝撃になのはは滑るように身を転がせ、なのはは巻き上がった風に飛ばされ茂みにへと突っ込んでいった。

 大地を砕き土埃を巻きあがらせ突き立つ剣に纏わせていた炎が揺らめく紐となって暴走体に襲いかかり瞬く間に四肢を縛り上げ身動きを封じる。まるで一連の舞を思わせるような鮮やかな動きを、なのはは呆然と見ることしかできなかった。

 拘束から逃れようと喉が裂けるほどの声を上げて乱暴に暴れる暴走体を視界の端に捉えながら、一葉は腰を抜かしているなのはに真っすぐと歩み寄る。
 ジャリ、と土を擦る音に気がついてなのはも一葉を見た。
 なのはは軽い脳震盪を起こしているのか起き上がろうともせず、一葉が来たことにあからさまに安堵の表情を浮かべていた。

 だが、その表情が一葉をさらに苛立たせた

 「……おい」

 一葉はなのはの前に立つと、尻を地面に付けたままのなのはを見下ろしながら怒気を孕んだ低い声を出した途端、なのはの表情に怯えと、僅かな戸惑いが浮かびあがった。

 なんで怒ってるの?
 助けに来てくれたんじゃないの?

 そんな思考が顔を青くしたなのはから窺えた。

 「なのははさ……、戦場でなにが一番怖いか知ってる?」

 「……え?」

 不安と恐怖に押しつぶされてしまいそうだったなのはは、突然投げかけられた質問に答えられず頓狂な声を喉から出した。
 だが、一葉はそんなことを気にも留めず言葉を重ねる。

 「それってさ、自分の命を奪おうとしてくる敵でも、殺意や敵意でも、人殺しが正当化される狂気でもないんだよ」

 冷ややかな視線で紡がれる一葉の言葉に、なのははなにを言っているのかわからない顔をしている。その光景を一葉が投擲した剣の衝撃波で投げ出され土埃まみれになったユーノが見ていた。

 「戦場で一番怖いものってさ、それは無能な味方なんだ」

 一葉から吐き出された言葉に、なのはは正面から刃で切り付けれたかのような衝撃を感じた。
 そして同時に、その衝撃はユーノにも届く。

 「オレが今こうしてここに立ってるのは誰のせいだと思う? 誰のせいでオレはこの場所にいて暴走体に攻撃をしたと思う? 一体誰のせいで、オレは使いたくもないこの能力を使う羽目になってると思う?」

 誰のせいだかわかる。それは自分のせいだった。不注意だったとしても魔法という身を守る唯一の武器すら持たずに危険な場所に立ち、今は一葉の力に縋ろうとしていた。
 言葉にされて初めて、なのははこの事態が自分の不注意が招いたことであると気がついた。
 そして同時に一葉が言いたい本当のこと、自分が足手まといだということも。

 一葉の言葉は冷たい鎖となってなのはの喉に巻きつき、声も出さずに目を見開いたまま涙がボロボロと溢れ出てきた。そして傍から全てを見聞きしていたユーノも、自らの迂闊さと浅薄さに奥歯を噛みしめた。

 ユーノは自分の軽率な行動を後悔していた。
 ジュエルシードが落ちた管理外世界で出会った二人の少年少女。二人とも自分と年齢も大して変わらないというのに、二人が二人とも自分を遥かに超える才能を持っていた。
 一人は膨大な魔力を有する少女。そしてもう一人は古代に栄えた超国家ベルカの守護聖獣を従え、ジュエルシードの暴走体を苦もなく倒す少年。おそらくこの世界でこれ以上の協力者は望めないだろう。自分は当たりを引きすぎたのだ。だからこそ、ユーノは油断していた。
 この二人に頼ればなんとかなるのではないかと。
 それはとんでもない甘えと怠慢だった。目的のために手段を完全に履き違えてしまっていた。
 そして、その目的ために再びなのはを命の危険にさらすような手段をとってしまったことに。

 そしてなのはは傷ついていた。
 いつも自分の傍にいると信じて疑っていなかった少年が、今は自分を否定する言葉を突きつけているという現実に、なのはの心は刃物でズタズタにされたようになってしまっていた。
 なのはは浮かれていたのだ。
 秘密というものには二つの面がある。誰かにそれを隠す後ろめたさと、誰かとそれを共有する密やかな喜びと。
 魔法というアリサにもすずかにも秘密を一葉と共有したことに、なのはは淡い喜びを感じていたのだ。
 そして、周りが見えなくなった結果、一葉の怒りの琴線に触れてしまったのだ。
 なのはが今恐怖に感じていることは、一葉が怒っているということではない。このまま哀想を尽かされるかもしれない、見限られてしまうかもしれないという、自分から離ていってしまうかもしれないという恐怖だった。

 「やる気があるのは結構だけどさ、想いとか気持ちだけでなんとかなるって思った? 現実は漫画やアニメじゃないんだ。 それとも、いざとなったら誰かが助けてくれると思ってた? そういうのはね、甘えっていうんだよ。 覚悟ない奴は戦場に立つな。 レイジングハートさえ渡してもらえれば後はオレが一人でやる。 命のやり取りには慣れているし、中途半端な奴がいればそれだけで自分の命さえ危なくなる」

 一葉は瞳の奥に怒りの炎を滾らせながらも能面のような表情で淡々言葉を紡いでいく。その一言一言がなのはと、そしてユーノの胸に突き刺さっていった。

 「でも……、僕にはジュエルシードの持ち主としての責任が……」

 「力のない奴に責任なんてあるはずがないだろ。 義務や責任を果たすにはそれに見合った覚悟を見せてみろ」

 絞り出すようなユーノの声を、一葉は平坦な声で切り捨てる。

 「これがゲームとかじゃないってことはわかってるとは思うけど、二人とも頭の本当に大事なところでは理解してないんじゃないか? コンティニューはないんだ。 例え命を落とさなくても、一生背負わなきゃいけない障害を負うことだってあるかもしれない。 それでも……」

 一葉は言葉を区切って膝を折る。視線をなのはに合わせて右拳を突きだした。

 「それでも自分には覚悟があるってんなら、それをオレに見せてみろ。 オレは一切手を出さない。 なのはとユーノの二人だけで、後ろのやつを止めて見せろ」

 突きだされた一葉の拳が開かれると、掌には紅玉が置かれていた。自分が置いてきぼりにしてしまったレイジングハート。そして、甘えの象徴だった。

 「人が戦うにはいつだって理由がつきまとう。 純粋に戦いたいからか、なにかを守りたいからなのか、それが名誉なのか財産なのか、美醜はどうであれ二人の戦う覚悟をオレに見せてくれ」

 一葉の言葉に、なのはの脳裏によぎったのは家族の顔、そしてアリサとすずかの顔、学校のクラスメイト達の顔。傷ついたら哀しくなる人たちの顔だった。

 一葉はきっと強い。なのはは昨夜一葉の戦う姿を見ていないが、それでも暴走体を止めた事実を目の当たりにしている。それでも、一葉が一つのジュエルシードを対処している間に別のジュエルシードが発動してしまえば一人でどうにかできるものではないことぐらいなのはにだってわかる。
 その時になのはの大切な誰かが傷ついてしまったとしたら、なのはは一葉を恨まずにはいられないだろう。
 この街で、自分の大切な人たちがたくさんいるこの街で危険なことが起きているというのに、そのことを知りながらなにもしない、なにもできない、そんなことは絶対に嫌だった。

 傍観者にはなりたくない。

 その想いがなのはの手をレイジングハートに伸ばさせた。


 ◆◇◆


 恐怖はある。それでも、なのはに迷いはなかった。

 __Stan by Ready.

 一葉から受け取ったレイジングハートがなのはの胸の中で桃色の光を奔らせ、その形状を杖に変えてゆく。なのはの着ている服を弾き飛ばし、昨夜と同じバリアジャケットがなのはの身体を包み込んでいった。

 「起動パスワードなしでレイジングハートを起動させた!?」

 純白のバリアジャケットを纏うなのはを見て、ユーノは驚愕の声を上げる。それも仕方のないことで、デバイスの無詠唱起動は魔法に慣れた者にしかできるものではなく、魔法に触れること自体が二度目のなのはが到底できるものではないからだ。
 いうなれば、自転車をすっ飛ばして大型バイクに乗るようなもの。なのははそれを難なくやってのけてしまった。

 一葉はベヌウを肩に乗せなのはと暴走体を一望できる鳥居の上に移動していた。なのはがバリアジャケットを展開し、戦いの準備が整ったを確認すると我が身が裂けることさえ厭わずに暴れ狂う暴走体を拘束していた黒い炎の拘束が飛沫となって消え去った。

 瞬間、暴走体は音を壊しながらなのはに牙を閃めきかせながら襲いかかった。

 __protection.
 
 レイジングハートから機械音声が響くと同時になのはの周りを薄桃色の膜が包む。しかし放たれた弾丸と化した暴走体はそんなことを気にも留めずに参道を破壊し、大地を罅割れさせながらなのはに突っ込んで行った。
 土埃を上げながら地面をめくり上げなのはを防護魔法ごと参道から本殿へと圧し出していく。

 「なのはッ!!」

 土埃で視界が遮られる中、ユーノは震える声で叫び、咄嗟に鳥居の上を見上げる。
 だが、そこには傍観者を決め込んだ一葉が冷めた表情で見下ろしているだけだった。

 本当に手を出さないつもりなのか!?

 この感情は理不尽で不誠実なものだとユーノは頭では理解している。それでも胃の底から燻ぶる感情を抑えきることはできなかった。

 あの少年はなのはの友達ではなかったのか?
親友ではないのか?

 なのはが一葉と言葉を交わしているときの嬉しそうな表情を思い出す。あれは人を信用して、信頼しきっている表情だ。
裏切られることなど決してあるはずがないと信じ切っている、ひな鳥が親鳥を見るような視線。
 まだなのはと出会ってたった二日目のユーノでも、なのはが一葉に淡い想いを寄せていることは直ぐにわかった。
 そして自分のような他人でさえ直ぐにわかる感情を当の本人が気がついていないはずがない。なのにそんな相手が、手を伸ばせば届く距離で危険な目に遭っているというのに一葉は動きを見せる気配など微塵も感じさせなかった。

 それはジュエルシードの義務や責任を抜きにしても人として間違っているのではないか。胃の中に募る苛立ちは次第に一葉に対する不信感へと変わっていった。

 __Protection Condition All green.

 視界を阻む土埃の中から聞き慣れたレイジングハートの声に、ユーノは声のする方にハッと視線を向けた。徐々に薄らいでいく煙の先には腰が引けながらも障壁を展開したまま襲いかかってきた暴走体を逆に吹き飛ばしていたなのはの姿があった。

 自らの勢いがそのまま帰ってきた暴走体は絞るような奇声を上げ、体重を重力に任せながら倒れ込む。
 昨夜の塵が集まって模られただけの靄とは違い、原生動物を取り込んだ暴走体は実態を持っている分、力の強さは段違いのはずなのに、なのはの周りを包む防護障壁には罅一つ入っていなかった。

 「いたたたた……っていうほど痛くはないかな?」

 驚きに言葉を失っていたユーノとは対照的に、あくまで冷静ななのはの声が響く。

 「えと……、封印っていうのをすればいいんだよね。 レイジングハート、お願いできる?」

 __All right. Sealling mode. Set up.

 なのはの呼びかけにレイジングハートが答えると、杖の先端部がスライドし小さな部品が飛び出した。小さな筒のようなものはなのはから送り込まれる過剰な魔力の排出口だ。
 桃色のエネルギーは翼を象るかのように大気にささやかな風を揺らめきかせ、瞬時の間にその形状を鉤爪の付いた縄へと変え暴走体に襲いかかる。

 収束された魔力は重力のない風を切り裂き荒れ乱れる軌跡を残す。一度は倒れ込んだものの、起き上がり身を低く構えていた暴走体の腹部と四肢を縛り上げ締めつけた。

 大気を震わせる咆哮とともに殻のように身体を覆う灰色の鎧の肌が擦れ合い、空に突きぬける。その叫びはこれから自らに降りかかる運命を嘆いているように聞こえた。
 そして、額に浮かび上がるのはローマ数字の焼印。シリアルナンバーXVIだった。

 __Stan by Ready.

 「リリカルマジカル! ジュエルシードシリアルXVI! 封印!!」

 なのはの叫びは終焉の合図だった。絹を裂くような悲鳴を上げながら暴走体は四つの深紅の瞳を見開き、開け開かれた口からは涎をまき散らしながら青い粒子となって散って、消えていった。


 ◆◇◆


 「高町嬢は素晴らしい才能を持っていますね」

 コンビニで買ってきたチョコビスケットを突つきながらベヌウは一葉に言った。
 人口の明かりに満たされた部屋の外は夜の帳が下りており、カーテンの隙間からは夜の闇が覗いて見える。
 一葉は椅子に腰を下ろしながらパックの紅茶を啜りながらベヌウの言葉に耳を傾けていた。

 「魔法に触れてまだ二日しか経っていないというのに、今日の戦闘でデバイスの無詠唱起動をやってのけた。 今のデバイスの機構がどうなっているのかは知りませんが、本来無詠唱起動は魔法を始めて一年目ほどでようやくできるようになるものです。 それにジュエルシードの暴走体に物怖じしない胆力と、人の言うことを理解できる頭と謙虚さも持っている。 このままちゃんとした指導者のもとで知識と技術を身につければ優秀な魔道師になるでしょうね」

 「随分と評価が高いね。 そんなになのはってすごいの?」

 「ええ、魔力の潜在量だけ見てもとんでもない量を保有しています。 リンカーコアは遺伝でしか発生しないことがほとんどですが、極稀に突然変異でリンカーコアを持って生まれる人間がいます。 そうしたものは例外なく稀有な才能を持っているのですよ」

 「魔導師の最初の系譜ってことね。 混じりものよりも純粋種の方が優秀ってわけか」

 一葉は紅茶を一口喉に流すと、マグカップをベヌウの横に置く。ベヌウは三枚目のビスケットを食べ終えると、それで満足したのか食事で乱れた羽毛の毛づくろいを始めた。
 ベヌウは気取ったところもあるが、質朴でもある。こうして見ているとユーノが驚愕するような存在には見えない。
 だが、実際に強いのだとは思う。ベヌウには戦場に身を置き、生き延びた者にしか出すことのできない凄味というものがあった。
 この平和を文字にしたような平成の世に、ベヌウとの出会いは自分にとっていったいどんなスパイスになるのかは想像できない。
 その始まりが今日だったのかもしれない。
 一葉は机の上に置いてある、自分用に分けておいたビスケットを頬張りながら今日の出来事を反芻した。


 ◆◇◆


 ジュエルシードを封印したなのははユーノを肩に乗せたあと、直ぐに一葉に謝りに来た。

 「ごめんなさい……。 私、浮かれてたのかも……」

 レイジングハートを待機状態に戻して元の服装に戻ったなのはは、鳥居から降りてきた一葉に吹けば消える蝋燭の火のように小さな声で頭を下げた。
 急に腰を曲げられてなのはの肩から滑るように地面に落ちたユーノも、直ぐに体制を整えてなのはに倣い頭を下げる。

 「僕もです……。 貴方となのはに甘えてた。 そのせいでまた、なのはを危険に巻きこんでしまった……」

 一葉はそんな二人を見て、不機嫌そうに腕を組みながら口を開いた。

 「オレが言いたかったのはね、二人とも目の前のことに集中しすぎて周りが全く見えてなかったってことなんだよ。 どうせ、怪我をしても困るのは自分だけだって思ってただろ? なのはとユーノが傷ついて、周りの人がなんとも思わないとでも思ってた?」

 「う……」

 「それは……」

 一葉の厳しい言葉に縮こまってしまう二人は口をどもらせた。覚悟を見せろと言われても、そんなものの見せ方なんか知らないし、なのはにできたのはなるべく無傷でジュエルシードを封印することだけだった。
 自分が危険なことをしようとしていることは、今身を持って知った。一葉が反対することはまさに正しく、止めろと言われても説得の言葉が思いつかない霧のようなもどかしさがなのはの胸中を満たしていた。

 「でも、ユーノはともかくなのはは首を突っ込みたいんだろ? だから、みんなで協力してさっさと終わらせよう」

 「え?」

 頓狂な声はなのはとユーノの声が重なったものだった。一葉の言葉に、なのはは伏せていた顔を上げると、照れくさそうに目を逸らしながら頭をガシガシと掻いている一葉と、呆れるように溜息をついているベヌウがいた。

 「手伝って……くれるの?」

 「オレに拒否権はないんじゃなかったんかい。 それに、本当は全力で止めてやりたいんだけど、なのはの性格上絶対に首を突っ込むのはわかってるからね。 なるたけ目の届くところにいて欲しいんだよ」

 肩を小さくして窺うように尋ねてきたなのはに、一葉は肩を竦ませ困った笑みを浮かべながら言った。

 「とりあえず、今日のところはお疲れ様、だ。 自分は危険なことをしようとしてるって自覚を持ってくれればそれでいいよ。 ほれ、一緒に帰ろう」

 差し出される一葉の手をなのはは取る。すると、今まで心を覆っていた陰鬱な雲が嘘のように払われ、代わりにあたたかな喜びが一筋射しこんできた。甘えるなと言われたばかりだが、それでも自分を認めてくれたような一葉の言葉が嬉しかったのだ。
 なのはは小さな声で「ありがとう」と言うと、一葉は微笑みながら頷いた。

 今はそれだけでよかった。覚悟などいくら言葉にしても身につくものではない。そして、力は覚悟に導かれ、覚悟は力に溺れる。
 なのはは手にした魔法の力に溺れるのか、それとも覚悟に導かれるのか、今から先のことなんて一葉にはわからない。だが、それでも自分が手にした力が、そして自分が踏み入れようとする道の世界の危険を少しでも自覚して欲しかったのだ。
 だから、なのはに突き離すような言葉を投げつけた。
 いつか、本当に覚悟を決めなければならない日が訪れた時に、今日という日を忘れないようにする為に。

 そうしてなのはは手を繋いで、沈みかけの太陽が夕焼けに染める空の下を歩いて街に帰っていった。そして今に至る。

 一葉とベヌウは会話に一旦区切りをつけ、一葉は下の階に下りて空になったマグカップに再び紅茶を注いでいた。
 お湯の中で滲み出る紅は茶葉から淹れる上等なものではなく、普通のティーパックだ。茶葉もないわけではないが、一葉はこの手軽さと安っぽい味が好きだった。
 既に何度かだしたティーパックは色が薄くなってしまっているが、寝る前なのでこれくらいで丁度いい。

 湯気が揺らめき立つマグカップの中身をこぼさないように、慎重な足取りで階段を上り自室のドアを開けると、ベヌウは出る前と同じ場所で一葉が帰ってくるのをおとなしく待っていた。

 一葉にとっては、今日の本番はここからだった。

 自分の異端と罪を、他者が耳にして一体どういう反応をするのか、その時にどうなるのか。
 それを知る為に、一葉は何万歩よりも意味のある一歩を踏み出した。


 ◆◇◆


 初めて人が人を殺すのを見たのは三つの時だった。
 仮面を張り付けたかのように表情が死んだ女が、口元だけを醜く歪ませ、血化粧を拭いもせずに人を切り刻んでいた。

 壊れたスプリンクラーのように赤い飛沫を吹き出すそれは、辺りを鼻につく粘ついた匂いで満たし、艶やかな異界を作り上げる。
 あまりに人智と常識を超えた殺戮に、影を縛り付けられたかのように身動きが取れず、視線を外すこともできなかった。

 不意に女と目が合う。

 蛇のように絡み合う視線は冷たい鎖となり、心臓を縛り上げた。猛獣に捕まった動物のように、恐怖を通り越し絶望と諦観だけが胸を締め上げた。
 
 死

 ただその一文字だけが頭に浮かんだ。
 あの時、自分はきっと笑っていたのだと思う。
 そう、涙を流すことよりも、命乞いをすることよりも、なぜか笑っていた。
 死の覚悟などなく、ただこの状況を受け入れ命を奪われるということだけは納得していたのだ。
 だが、女は自分を見逃した。

 それは気まぐれか、それとも子供は殺さないという妙な正義感を持っていたのか。
 いや、おそらくそのどちらでもなかったのだろう。

 ただ単に自分など最初から目に入っていなかったのだ。
 去り際、女は自分の横を過ぎ去っていくときの、まるで埃を見るような目が印象的だった。
 古代ベルカの騎士甲冑を纏った、赤毛のポニーテールの女。

 そして、その六年後。自分は再びその女と同じ目をした少年に出会うことになった。


 ◆◇◆


 「なのは……。 彼を……、一葉をあまり信用しない方がいい」

 「え?」

 ユーノの声に、なのはは横になっていたベッドから身を起こす。視線の先では、ユーノがバスケットの中から緑色の双眸でなのはを真っすぐと見据えていた。
 カーテンの隙間から差し込む月明かりがユーノの金色の毛にキラキラと反射して、明かりが落とされた部屋で不気味なほどに浮かんで見えた。

 一葉に送られる形でなのはとユーノが家に着いたのは夕方だった。夕食を済ませ、シャワーを浴びたなのはは今日の疲れもあり、明日に備えて普段よりも早めに床についたのだが、不意に耳に届いたユーノの声に耳を疑った。

 「正直……、僕は彼が怖い」

 「どういうこと?」

 問いの言葉か微かに反響する。

 「言葉の通りだよ。 なのはは、一葉が怖くないの?」

 「それは……」

 ユーノの言葉に、なのはは言葉を探した。
 そんなことない、とは断言できなかったのだ。むしろ、なのはは今日の一葉のことを故意に目を逸らし深く考えないようにしていた。
 未知が恐怖に分類されるのならば、魔法と言う未知に触れる前のなのはは一葉の能力に畏怖し、恐怖したかもしれない。
 だが、魔法を知り戦い経験した今になっても、今日の一葉は自分の知っている一葉の姿とは違って見えた気がした。

 「思い返すと一葉は最初からおかしかった。 最初のジュエルシードが暴走したときだって、無傷で力を無力化させるし、今日だってなのはが戦ってるとき見てるだけで本当に手を出すつもりがなかった。 いざとなったら自分がいつでもなんとかできると言わんばかりにさ」

 「でも……、今日のは私たちが悪くて……」

 「うん、それは認めるよ。 あれは弁明のしようがないほどに僕たちが悪かった。 だけど、なのははあの時、一葉は自分が何度も命のやり取りをしてきたことをはっきりと口に気がついてた? まるで戦うことが当たり前みたい慣れ切ったことを言ってた。 それがこの世界の……、この国の、なのはの年代の平均なの? それに、あの時の一葉の目は……」

 ユーノはそこまで言って、言葉を躊躇った。
 思い返すのは六年前の冬の日のこと。自分の姓がスクライアになるきっかけとなった事件のことだ。
 まだ、三歳だったユーノの目の前で両親を物言わぬ肉塊に変えた、冷たい刃のように鋭く、その奥には冬の湖のような純粋さがあった女の目。それは自分が人間を殺すことに疑いなど持たない孤高の獣のような瞳。
 一葉がなのはを突き離したときの目は、あまりのその女の目に似ていた。

 「一葉はきっと奪う側の人間だよ。 僕や、なのはとは違う。 それに、一葉の能力……、僕はあれをずっと魔法だと思っていた」

 「え……、どういうこと……?」

 なのはのか細い声に、ユーノは胸を締め付けられるような思いで首を縦に振った。

 「魔法を使うには、心臓の奥の方にある“リンカーコア”っていうものが必要なんだ。 リンカーコアは魔力を生み出す源で、その量によって魔法の強さが決まるんだけど、僕の念話を聞き取れた一葉には“リンカーコア”は間違いなくある。 それがどれほどのものかまではわからないけど、だから僕はずっと一葉が出した剣は転移魔法を応用したものだと思い込んでいた。 だけど、今日一葉が剣を出した時、リンカーコアは発動してなかったんだ」

 「それって……」

 「一葉は魔法じゃない別の力を持ってる……。 昨日、説明してくれたときだって嘘は言ってないけど、本当のことはなにも話してくれなかったじゃないか」

 ユーノの言葉に、なのはの瞳が揺れた。
 表情を変えることなく、的確に鋭い指摘をしてくるユーノに、なのはは一葉を擁護しようとなにかを話そうとしても、言葉が喉に絡まってうまく喋ることができなかった。

 「少なくとも、僕は全部話さなきゃいけないことは話した。 だけど、一葉はそうじゃない。 僕は、そんな人を相手に自分の背中を預けられるほどお人好しじゃないし、強くもない。 だから、僕はどうしても彼を信用できないし、しちゃいけないんだ。 なのはも……」

 「きっと……」

 吐息のような小さな声をユーノの言葉に被せた。
 ユーノの言葉は、きっと全部正しい。今まで共に過ごしてきた時間との葛藤の中に芽吹いた猜疑の芽は嵐のようになのはの心臓に蔦となって巻きついてきた。
 自分は何か大事なことを忘れているのではないか、記憶に幾重にも鍵をかけて思い出さないようにしているのではないか。
 今まで一葉が取りこぼしてきた、同級生とは思えない振る舞い。時々見せる、黄昏を見据える老人のような目つき。
 自分と同じ場所にいて遠いような、今まで自分が見落としてきたものがきっとこの疑いの気持ちの根源だ。

 「きっと……、一葉くんにも言えない理由があるんだよ。 だから、私は一葉くんの方から、きっと言ってくれるって信じてるもん」

 伏せられた長いまつ毛が差し込む付きの光に照らされる。ピンクの掛け布団は、握りしめられたなのはの拳で皺ができ、弱々しく震える声は自分自身に言い聞かせているようだった。

 「なのは……」

 いつもよりも小さく見えるなのはの影は痛々しく見えた。こうなることをユーノはある程度想像していたが、友達である一葉を疑うように仕向けたことに罪悪感を覚えるが後悔は微塵もなかった。
 一葉は危険すぎる。理屈じゃなく、頭の中の本能がそう警鐘を鳴らしているのだ。あの目は悉く奪ってきた者の目。もし、なのはが一葉の傍にいて傷つくことがあれば、それは自分の責任だ。
 だから、ユーノはなのはに忠告をした。

 「ユーノくん……。 もう、寝よ?」

 「うん……」

 なのはは会話を遮るように布団にもぐってしまった。ユーノはこれ以上なにも言えずに、身体を丸くし眠りにつくことにした。
 胸の内に、小さなわだかまりを秘めながら。



[31098] 6!
Name: 三鷹の山猫◆ef72b19c ID:d1000a7d
Date: 2012/03/01 22:55
 最初に言っておくけど、ハーレムルートは存在しないよ!




 「俄かには信じがたい話しです……。 しかし、作り話にしては……」

 「こんなウソついてどうすんだよ。 まぁ、信じろって方が無理かも知んないけど本当にオレは前世の記憶と能力を引き継いでるんだよ」

 一葉は腕を組みいつの背もたれに体重を預けながら言うと、動揺に身を震わせていたベヌウとの間にしばらくの沈黙が降りた。
 会話のなくなった部屋に響くのは水槽のモーター音と、穏やかに時を刻む時計の鍼だけだ。
 短針は既に日の変わり目の時間を指しており、一葉が淹れなおした紅茶もすっかりと冷めてしまっている。

 一葉が話したのは前世の記憶と能力の引き継ぎ。そして能力の本質と、世界殺しのことだった。
 一葉の能力である、可能性の否定と肯定は言いかえれば事象の交換ということでもある。一度起きてしまった事象を全くなかったことにすることは不可能で、別の世界で起きた事象と交換するということだ。
 ただ、その世界とは次元世界ではなく並行世界と呼ばれるもの。
 並行世界は次元世界とは異なり、同一の宇宙で同一の次元を持つ違う世界だ。多世界解釈や、ベビーユニバース仮説など多くの物理学、宇宙論で論じらてはいるが、未だにその存在を確認されたことはない未知の世界。そして、古代ベルカが手を伸ばし、失敗した世界。
 一葉はそんな世界に簡単に干渉することができるというのだ。

 そして、なによりも驚いたものが、一葉は前世では六十二年の生涯を送ったという。九歳時に合わない言動はこれで納得るが、一葉が生きた時代は今から言うと約四百年前。
 戦国、安土桃山時代と呼ばれた乱世の時代であり、戦争が日常的に起きていた時代だ。
 つまり、今現在の平成の世で人を殺してきた経験がそのまま別の身体に移植されたということになる。
 人を殴ったこともない人間が、人を殺した経験だけを持っている。それはどれほどの苦痛なのか想像もつかない。
 そして、一葉が能力を引き継いだままこの世に生れて来たということ。
 獣と畏れられた生涯。その生涯で唯一心を開き、平定の世を目指した主とともに血潮と駆け抜けた戦乱の世。それが実現した世界を、一葉は守るために殺したという。
 つまり、“世界を殺すほどの力を今、一葉は持っている”と言うことになるのではないか。
 そうだとしたら、それはとんでもないことだ。

 「やっぱり、信じらんないかね?」

 一葉は困ったような表情で頬を緩ませるが、ベヌウとしてはそんな軽い気持ちにはなれなかった。

 「いえ……、しかし戸惑ってはいます。 私の予想の範疇を大きく超えていたので……。 しかし……、だとしたら貴方は……、貴方の魂は血と罪で穢れてしまっているのですね……」

 自らの願いの為に世界そのものを、そしてそこに生きた数え切れない命を一葉は奪った。
 それは死などという生半可な罰では赦されない罪だ。
 例えその結末を、世界自身が望んでいたとしても。

 「そうだな……。 オレは大罪人だ。 質が悪いのがさ、ただ死に損なっただけじゃなくてさ、人生まで一からやり直させるってとこだよ。 こりゃ、もう拷問だ」

 一葉はベヌウの言葉に小さく声を漏らした。
 罪が肉体と言う器にではなく、魂に宿るというのなら一葉は奪い去っていった幾億の死をその身に背負って生まれ落ちた。
 例えそれが、“緋山一葉”という人間が起こしたものでなくとも、“緋山一葉”を構成する魂そのものに罪があるのだ。
 そして記憶ではなく魂に刻まれている飛沫に舞う血を、雪に散らす命を、鉄が肉に食い込み骨を断ち斬る快感を知ってしまっている。
 磨かれた刃で斬りつける肉からはあたたかな血が噴水のように溢れ出て、土に染み込む生臭は脳を快楽に麻痺させる。血まみれの鎧で血を拭い、新たな血を求めて咆哮を上げながら新たな死を求める。

 それは一葉が夢に見る、かつて起こった現実。僅か一夜で回顧する争いの絶えない修羅の生涯はまるで胡蝶の夢だというのに、一葉は目が覚めるたびに暗闇から伸ばす無数の手に引きずり込まれ、光届かない深海に囚われてしまうかのような恐怖に苛まれていた。

 そして、その恐怖の奥にある、黒く澄んだ確かな快感にも。

 自分は本当に緋山一葉なのか。過去も、今も、そして未来も、緋山一葉という一貫性を持った人間なのだろうか。
 自分はそう思っていても、他者はそうではない。他者はそう思っていても、自分はそうではない。自己統一性の矛盾。
 家族と接するとき、友人と話すとき、自分の顔面に張り付けた顔が仮面のように思えて、ひどく醜いものに感じた。

 自分がいったい何者であるのか。それを確かめる方法はただ一つ。
 戦うことだ。

 死も苦痛も、その愉しみの代償の一つにしかすぎなかった。

 そして、一葉が初めてジュエルシードの暴走体と対峙した時、身体中の血が沸騰したかのように思えた。
 “また、戦える”、“また、殺せる”。頭の中にいる誰かが、確かにそう囁いた。
 自らの中にひっそりといた、忘れようとしていた獣の存在をはっきりと確認した瞬間だった。

 「罪を償う機会を与えられた。 そう考えることはできないのですか?」

 「償って消える罪なんかありゃしないよ」

 一葉は諦観の笑みを浮かべたまま自嘲気味に言う。
 そもそも、一葉は償いという言葉自体に傲慢さを感じていた。それを罪を犯した人間が、その罪から逃れるために作り上げた妄言。犯した罪も、刻まれた過去もなにをしても決して消えることはないというのに、償いの言葉を逃げ道にし現実から身を背けているようにしか思えないからだ。
 そして、犯した罪を赦すことなど、神にすらできないということも。

 「ならば、戦えばいい」

 「……は?」

 予想もしないベヌウの言葉に、一葉は眉根をひそめた。

 「戦って、戦って、戦い続けて、かつての貴方が奪ってきた以上の命を救えばいいではないですか。 今の貴方は過去の貴方とは違う。 誰かの為に怒ることができ、傷つき、力を振るうことができる。 今日の一葉を見ていれば、誰でも貴方が優しい人間だということはわかります。 もし、今の一葉の生に意味があるというのならば、貴方はきっとその為に生まれてきたのですよ」

 ベヌウのまじめな顔と、ゆっくりとした言葉に一葉は声を詰まらせた。

 「一葉は世界を殺すほどの力を持っているというのならば、誰かを守る力だって持っているはずです」

 「簡単に言ってくれるなよ。 殺すのと守るとじゃ、全然意味合いが違いすぎんだろ。 それに、オレは誰かの為に力を振るえるほど器用じゃないんだよ」

 そう、いつだってそうだった。
 直すことよりも壊すことの方が簡単で、描くことよりも破くことの方が容易く、糸はいつの間にか絡まっているのに解くことは難しすぎた。
 自分が愛した、主の愛した世界を守ってみせる。そして払われた代償は大きすぎた。

 「そうでしょうね。 私から見ても、一葉は器用に生きれる人間には見えません。 しかし、今は私がいるではありませんか」

 「……なに言ってんのお前?」

 「私は言ったはずです。 貴方が何者になっていくのかを見届けたい、と。 一葉はまだ、緋山一葉とかつての貴方だった存在の狭間に立っているだけで何者でもない。 行く末を見極めるまで、私は一葉の傍にいましょう」

 「なんじゃ、そら。 結局、オレと契約するってこと?」

 「違います。 主従の契約は交わしませんが、しばらく貴方の力となりましょう。 それに、そちらの方が面白そうだ」

 突き離すような言葉の裏に、ベヌウは一葉に深い哀れみを感じていた。
 ベヌウは人工知能という、人間とは違う時間の流れの中を生きている。蓄積された記憶を記録として引き継ぎ、とどまることを知らない川の水底じっと息を潜ませる小石のように時代に取り残されていく暗澹。
 機械が感情など、と一蹴されるかもしれないがそれでもベヌウにはゴーストがあった。あらゆる高度な集まりがプロトコルとなり、計算式が真理を求め、シュミレートが魂を求め、人格と呼ばれるものを手に入れた。
 ただの、単調な0と1の羅列ではない。それこそが、自らの人格を持つデバイスこそが、ベルカの技術の特徴でもあった。
 そして、寿命の概念がない機械だからこそわかるものもある。
 清廉な幼い時代を経験せずに、周囲を差し置いて成長を続ける精神は普通の人間ならば到底耐えられるはずのないことだ。
 それでも、一葉は狂うことも自棄になることも、自らの罪から目を背けることもせずに、自分の中に潜む、もう一人の自分と九年間共に在り続けたのだ。
 絶望か諦観か、一葉の鳶色の瞳の奥に宿った黒く濁った光をベヌウは見逃さなかった。
 現実逃避という安寧も求めずに、自我を保ちながら罪を悔い続ける一葉の姿は、自らの手首を切り刻む自傷行為にも思えた。

 事実、一葉は限界まで追いつめられていた。こうして、出会ったばかりのわけのわからない機械にまで自分の秘密を打ち明けてしまほどに、自らの自己統一性の基盤が足元から罅割れ、崩れかけていたのだ。
 そして、そのことを話したことによって、確かに胸の内が軽くなった気がした。

 「ま……、それでもいいけどね。 じゃぁ、オレもしばらくお前を利用させてもらうとするかな。 オレも、そっちの方が面白そうだ」

 「ならば、私のことをもっと効率よく利用する為に一葉にいいものを差し上げましょう」

 「ふぅん?」

 どこか尊大に振舞うベヌウの言葉に一葉は眉をひそめた。すると、ベヌウは机の上を嘴でコン、つつく。
 すると嘴が当たった個所を中心として二つの正三角形が反発するように回転するサークルが、ベヌウの羽毛と同じ色の光で浮かび上がってきた。
 サークルの円周には、地球圏ではどこでも使われていないであろう文字がぎっしりと綴られていて、模様のようにも見えた。
 一葉がそれを見つめていると、サークルの中心に光の粒子が集まり、それが一つの形をなす。

 「これは……アンク?」

 生命の意味を持つ、頭に楕円の輪のついた十字架だ。アンクの力を信じる者は一度だけ生き返ることができると信じられている。
 黒金色のアンクの十字が交差する箇所にターコイズブルーの宝石が埋め込まれている。だが、それは磨かれ、精錬されたものではなく表面がごつごつとした原石のようだ。

 「これはアームドデバイス“アルデバラン”。 ユーノの説明では、ストレージデバイスと呼ばれるものに属します。 人工知能はありませんが、処理速度に特化してカートリッジシステムが組み込まれています」

 「カートリッジ……、なんだそら?」

 「説明すると長くなるので、魔力を込めた弾丸とだけ言っておきます。 格ゲーで言う溜め技みたいなものですよ。 予め込めていた魔力を使用して一時的に魔法の威力を底上げするのです。 ちなみにアルデバランには三十発分のカートリッジを込めることができます」

 「なんでお前が格ゲーと言う単語を知ってるのかはこの際置いておいて、オレは魔法なんて念話ぐらいしか使えないんだけど……」

 「これから覚えていけばいいではないですか。 手札が多いことには越したことがありませんし、持っている素質を腐らせるのは私も忍びがありません」

 一葉は机の上に現れたアンクを手に取る。人差指ほどの大きさのアンクはペンダントのトップなのだろう。
 何気なく眺めていると、一葉はあることに気がつき戦慄が背中を駆け抜けた。

 「まさかオレもなのはみたいにフリフリな服に変身……!?」

 「なりたいんですか? 申し訳ありませんけど、アルデバランの先代の持主は男性でしたし、設定もその時のままになっています」

 驚愕に声を震わせる一葉に、ベヌウはピシャリと言った。

 「そもそも、高町嬢が使用してるデバイスとアルデバランとでは設計思想があまりにも違いすぎる。 私のいた国ではあんなに布地の多い騎士甲冑は……、今はバリアジャケットと言うんでしたか。 とにかく、レイジングハートを見る限り、私の知るデバイスはもう面影程度しかありませんでしたよ」

 「へぇ、具体的に言うと?」

 「違いがあり過ぎて逆になにから挙げればいいのかわかりません。 百聞は一見にしかず。 とりあえずアルデバランをセットアップしてみればわかりますよ」

 「ふぅん……。 で、どうやってセットアップすんの?」

 「私を起動させた時と同じ呪文を唱えればできます。 それから、椅子からは立った方がいい。 多分、壊れますから」

 「椅子壊れるって……、そんなに物騒なもんなの?」

 「魔法に限らず人間の作ったものなんて物騒の塊ですよ。 それよりも、ほら。 一葉が怪我したりとかはしませんからやってみてください」

 一葉がこめかみを引きつけると、取りつくしまがない冷然とした口調で答えた。
 なにか納得しないものを感じながらも、正直デバイスのセットアップと言うものには興味があり、ベヌウの言うとおり椅子と建ち部屋の中央へ移動する。
 一葉の部屋は八畳ばかりの部屋だが、ものが少ない為、実際の寸借よりも広く感じる。

 一葉はアンクを手に持ち、闇に張り付くように意識を集中させた。

 「深淵の空、宵の影。 光届かぬ眠りの森、獣が眠る夜の果て」

 一葉の声が部屋の壁に反響し響く。そして、足元にベヌウがアルデバランを出した時と同じサークルが浮かび上がってきた。
 だが、ベヌウが自身の羽毛と同じ碧や瑠璃色の線の混じった黒い光に対して、一葉のは光沢の入った灰色。
 冷たい鋼の色だった。

 「誰も踏み入れぬ楡の館で、死を侍らせてお前を待つ」

 一葉が呪文を終えた刹那、鋼の光が一葉を包み寝巻のジャージを黄金の鎧へと変えた。
 全身を包む甲冑には繊細な装飾彫刻が施されており、黄金で造られた絢爛さだというのに卑しさを感じないデザインになっている。
 隙間なく身体を閉じ込める西洋の突撃兵のような鎧はいかにも鈍重そうだというのに、重さを全く感じない気持ちの悪さが身体に押しかかる。
 頭の兜は目だけを晒す鉄仮面で視界が狭すぎる。
 そして、手にしていたアンクはやたらと巨大なロングソードに形状を変えていた。

 アルデバランをセットアップして、一葉はベヌウが示唆した言葉の意味をようやく理解した。
 確かに、こんな関節部でさえプロテクターで補強されているような鎧を座ったまま身につけると、間違いなく椅子は破壊されていただろう。

 一葉は自分の掌を見ながら何度が拳を閉じたり開いたりしたり、腕を回してみたりした。

 「これってさ……、デザイン変更って可?」

 「まあ、ある程度は。 専門の機材がないので繊細な変更はできませんが、デザインやパラメータをいじくるくらいならできます」

 「じゃあ、今から設定を変えよう。 ちょっと、これはオレと相性が悪すぎるわ」

 一葉はアルデバランのセットアップを解除すると、再びいすを引いて座りベヌウと前にアンクを置いた。
 一葉は元々、足を使った戦術を主に置く上に、剣では一葉の能力と被ってしまう。手札が多いことにこしたことはないが、今持っている手札を棄てる必要も、同じ手札を持つ必要もないだろう。
 だが、一葉にとってはそれだけではない。
 一葉には、一葉なりのこだわりがあるのだ。
 結局、この後ベヌウは一葉のこだわりに一晩かけて付き合わされることになる。


 ◆◇◆


 街の灯が息を潜め、街灯の明かりだけが夜道を照らすような時間帯、灰色のコンクリートを固めて建造された夜の高校の校舎は灰色の月明かりに不気味に照らされていた。
 ユーノの張った時間と空間を隔離する封時結界によって、結界の中は色のついた靄がかかり星が零れて落ちてきそうな夜空さえも壊す。
 熟れた果実が落ちるまでのゆったりと流れるような時間の中で、異物が浮くように動き回るいくつの影があった。

 __Stand by. Ready.

 「リリカルマジカル! ジュエルシードシリアルXX! 封印!!」

 伸びる影の一つ、足元まで辿ると白いバリはジャケットを纏ったなのはが練仁具ハートを天に掲げ、天を衝く桃色の閃光を迸らせ、異界の空を割る。同時に、高校の校舎の中を自由に疾走する人体模型の中から、殻を剥かれ真珠を剥き出しにされた貝のように、菱形の青い宝石がレイジングハートの中へと吸い込まれていった。

 「なのは、お疲れ様」

 なのはがジュエルシードをレイジングハートに封印する為、世界を隔てる為に張られていた結界を維持するために校庭の中心にいたユーノがなのはの足元に近づき、バリアジャケットを伝ってスルスルとなのはの肩に昇っていく。
 同時に、、もしもジュエルシードが暴走した時の為にいつでも動ける配置で待機した一葉も空から降りてきた。

 「お疲れー」

 微かな風をふわりと巻きあげてグラウンドに着地する一葉。

 一葉のアルデバランの容姿は初めて展開した時よりも大きく変わっていた。
 一葉が求めたものは重厚な守備力ではなく、機動力を重視した軽装具。身体全体を覆っていた黄金の鎧は剥がされ、黒を基調とした胴衣と包み袴。そして黒金の胴と籠手、白い腰布といったほっそりとした一葉の身体のラインが浮き出るほどの装備になっていた。
 だが、だからといって防御能力が極端に落ちた訳でなく、腰に巻かれあ布にはベヌウの魔力を混ぜた一葉の血で文字が縫い込まれており、詠唱なしに強固な防御魔法が展開できるようになっている。
 そして、なによりも特徴的なものは右肩から袈裟掛けにされた深紅の数珠と顔面の下半分を隠した面付きだ。

 それは、一葉がかつての人生で身につけていたものを模倣したもの。面付きは人間の顕示欲を隠し、神格を宿らせ己の人格を誤魔化すためのもの。そして袈裟掛けにされた数珠は命を奪った相手をその場で供養するためのものだ。
 アルデバランという、言葉の通り雄牛を表すような重厚な装備は見る影もなく、刀幅の広いロングソードは笹穂型の長槍へと形状を変えていた。
 これほどまでの大幅な設定の変更は専用の機材がないベヌウが一個体で行うには限界を超えていて、多少の不具合には目を瞑りつつもなんとかして形になっている。

 八束神社での一件から既に一週間の時間が流れ、今夜までの間に五つのジュエルシードの封印に成功してきた。

 思えば放たれた矢のように時間を早く感じる一週間だった。
 初めてジュエルシードの暴走体と対峙した時のような魔力の暴走にはそれ以降出くわすことはなく、比較的穏やかな雰囲気の中でジュエルシードの封印作業を着々とこなしてきてはいるが、この一週間の内になのはも一葉も真綿に水を染み込ませるかのように魔法の知識も技術も確実に飲み込み、自分の力としていっていた。

 特になのはは、魔導師として生まれるべくして生まれてきたかのような高い才能をしだいに開花させていっている。一葉も、なのはほどではないが魔道師としての才能を芽吹かせ始めている。

 ただ、ベヌウだけは一葉の中にもっと別の、驚異的な才能を見出し始めていた。

 なのはがジュエルシードを封印すると、バリアジャケットを解除する。一葉も甲冑を首にかけたアンクに戻して、なのはと一緒に校庭から学校の校門を抜けて帰途についた。

 結界を説いた空は、月明かりだけが生きているかのような夜だった。
 規則的に等間隔に並べられた人工的に作られた街灯の明かりにには温かみがなく、ぼんやりと淡く空の闇に浮き上がる月の明かりが作り出す薄い影を踏みながら二人は歩く。
 一葉は夜の散歩に赴くような軽い足取りに対して、なのはは頭と腕をだらけさせ、脚に力なくフラフラと身体を揺らしながら歩いていた。
 普段はなのはの肩が指定席となっているユーノも、流石になのはの体調を推みてなのはの足元を短い四肢を動かしてチョコチョコと歩いている。

 「なのは、大丈夫?」

 足取りのおぼつかないなのはに踏まれないように、ユーノは気をつけながらなのはを見上げ、心配そうに尋ねた。

 「だいじょぶ……なんだけど……。 ちょっと、疲れた……」

 なのははそう言いながらもフラフラと歩いていると、自分の右足に左足を引っ掛けてバランスを崩し、倒れそうになる。
 一葉は咄嗟になのはの襟首を掴むと、その衝撃でなのははアスファルトの道路に倒れ込みはしなかったものの、服の襟が喉に食い込んで「ふぇふぅ」という奇怪な声を上げ咳込んだ。

 「ありゃ、ごめん」

 「なんでだろ……。 転ぶところ助けてもらったのに、なんか釈然としないの……」

 ケホケホと喉を鳴らして息を整えながら、なのはは潤んだ瞳で一葉を怨みがましそうな視線で見る。

 なのはは連日のジュエルシードの探索で疲弊しきっていた。いつも人目の少ない深夜の時間帯に探索に出る為、必然と睡眠時間は削られ、いつ暴走するかもわからない獣るシードを慣れない魔法を使い封印していくとなれば、それは当然のことだ。
 一葉のアルデバランにはロストロギアの封印術式はインストールされておらず、封印作業はなのはが一人で行っている。探索自体はユーノとベヌウが分担して行っており、一葉は万が一に側にいるだけだ。
 つまり、なのはと一葉の困憊具合は比較するまでもないということであり、さすがに一葉も後ろめたさを感じるほどだった。

 「明日は日曜だし、とりあえず休養日にしたほうがいいかもね」

 「僕も一葉に賛成だな。 これ以上の無茶はよくないよ」

 一葉の意見にユーノは賛同する。
 
 子供の身体にここまで疲労がたまってしまうと、間違いなく身体に支障をきたしてしまうだろう。もし、なのはが身体を壊せば、ジュエルシードを封印できる唯一の人材が失われてしまうことになる。
 それだけは絶対に避けなければならない。

 「でも……」

 二人の提案になのはは逡巡しながら弱気な視線を彷徨わせるが、なのはがなにか言う前にユーノがさらに言葉を被せる。

 「明日は休みにしよう。 もう五つも集めて貰ったんだから、少しは休まないと身体がもたないよ。 それに、明日は約束があるんでしょ?」

 「うー……、うん。 じゃあ、明日はちょっとだけジュエルシード探しは休憩ってことで……」

 ユーノの言うとおり、明日はアリサとすずかと交わした約束があった。それはなのはの父である士郎が監督を務める少年サッカーチームの試合の観戦だ。海鳴市の河口から流れる一級河川の河川敷で午前中から行われる。

 「でも、一葉くんは明日は本当に来ないの?」

 なのはは窺うように上目遣いで聞いてくる。普段から一緒に行動を共にすることが多い四人だが、明日の約束のメンバーに一葉は含まれていなかった。

 「サッカーとか興味ないっす。 オフサイドのルールも判らん上に、事あるごとに士郎さんが引き込もうとするから行きたくないんだよ」

 「あぅ……、ごめんなさい……」

 一葉の言葉になのはは小さくなってしまった。
 士郎は自ら少年サッカーの監督を務めるだけあって、大のサッカー好きであり、そのこととなると人が変わる。
 以前、士郎のチームの試合が近い日に、一葉が翠屋に赴いた時など仕事をそっちのけにしDVDプレイヤーまで持ち出し、サッカーの講釈の熱弁を強制的に聞かされることになったことがある。
 一葉は小学三年生の運動能力の平均を超えた身体能力を持っているが、実際は普通よりも少し体力があるだけで筋肉や腱の動かし方を知っているだけなのだが、そんな一葉を士郎が放っておくはずもなく、事あるごとにチームに引き入れようとしていた。

 「明日は図書館にでも行ってまったりと過ごすよ。 あ、でも昼飯は翠屋に行くかも。 明日、母も父も仕事でいないんだ」

 ちなみに、一葉は自分の両親のことを父と母と呼ぶ。
 一葉となのはが話しをしながらしばらく歩くと、海鳴公園の入り口にたどり着いた。
 シン、と音が死んだかのような静寂に包まれる公園の入り口の前で、一葉の肩に止まっていたベヌウが地面に跳び下りると、翼を広げて身の大きさを変えた。
 ベヌウの瞳が一葉と、なのはの視線と同じ高さになる。

 ここ数日、緋山家と高町家のちょうど中間にある海鳴公園で二人は別れ、なのはがベヌウの背に乗って家まで送ってもらうというのが半ば恒例化していた。

 ベヌウはなのはが乗りやすいように身を低くすると、なのはは鐙の代わりに翼に足をかけて背中に乗る。
 当然、ベヌウ乗せには騎乗帯などはなく、跨ると翼を広げられなくなる為、なのははベヌウの首に後ろから手を回して背中でうつ伏せになる形になる。

 「じゃ、後はよろしく」

 「ええ。 一葉も気をつけて」

 ベヌウは背中に乗ったなのはの姿勢が安定したことを確認すると、大きな翼で旋風を起こして一気に夜空へと上昇していく。そしてベヌウの黒い身体は瞬く間に夜の闇へと溶けていった。


 ◆◇◆


 ぐん、と腰が持ち上げられる感覚。そして同時に強い風が頬にぶつかり、前髪がはためいた。
 冷たい風が身体全体を突き抜ける。
 なのははベヌウに申し訳ないと思いながらも、吹きつける向かい風に振り落とされないようにベヌウの羽を拳を作りしっかりと握っていた。
 ベヌウの羽毛は一見して漆黒に見えるが、こうして間近で見ると瑠璃色や碧、蒼色の線が走っていて、それが月の光に反射して妖艶に煌めいている。

 ベヌウの背中に乗り始めた最初の方こそ、足が地面についていないということに腹の底から震えて下を見る余裕もなかったが、自分にも空を飛ぶ適性があるということを教えられてから、積極的に空の空気というものに慣れようと努めていた。
 本来人は空を飛ぶ生き物ではない。だからこそ、足元に地面がないことは根源的な恐怖が引き出されるが、なのははすんなりと空に慣れることができ、今では周囲を見回す余裕さえある。
 上を見上げれば手を伸ばせば届きそうな星の海と大きな月。下を見れば家屋の伝統が織りなす光のイルミネーションに心を躍らせた。

 「お二人とも、一葉が怖いですか?」

 なのはが視線の遥か先にある電灯の峰をボウ、と眺めていると不意に耳に届いたベヌウの言葉に、微かに心臓を震わせた。

 「隠さなくてもいいです。 ここしばらくのお二人の態度は不自然でしたからね」

 ベヌウの言葉に、なのはもユーノも身を強張らせた。
 一週間前、神社でジュエルシードを封印して以降一葉との距離を測りあぐねていたのは事実だからだ。
 それを指摘されたことに、嘘がばれたときのようなバツの悪さが胃に広がった。

 「確かに、一葉は異常かもしれません。 正直に言ってしまえば私もそう思っています。 しかし、高町嬢。 例え一葉が異端の能力を持っていたとしても、一葉は一葉です。 貴方が今日という日まで過ごし、共に過去を培ってきた少年には変わらないのですよ。 一葉が人とは違うということがわかった途端に距離を置くのは……、正直一葉が哀れです」

 その言葉に、なのはは顔に火がついたかのように熱くなった。
 確かに一葉の異常性をどこかで恐怖してはいる。そして、そのことで余所余所しい態度をとってしまった自分がひどく醜く思ったからだ。

 ベヌウの声は念話ではないのに、びゅうびゅうと風を切る音に混じって不思議なほどにはっきりとなのはの耳に聞こえてきた。

 「だけど……、彼は……」

 それでも、なのははともかくユーノにも思うところはある。
 弁明しようと口を開きかけるが、ベヌウは言葉を被せる。

 「疑うな、と言う方が無理なことぐらいはわかっています。 一葉の能力はそれほどのものだということは私も理解していますから。 しかし、私は一葉のことをひとまず信じることにしました。 お二人にも、信用しろとまでは言いません。 しかし、信頼はして欲しいのです。 背中を預け、預けられる程度には信じて貰わなければ、私たちは同じ戦場に立つことはできませんから」

 「……ベヌウさん。 一葉くんの力ってなんなの? ユーノくんは最初、転移魔法だって思ってたって言ってたけど、違うんでしょ?」

 なのはは長いまつ毛をそっと伏せて尋ねた。
 まるで濁った湖に沈んでいく枯れ葉のように重たい声色だった。

 「それは私ではなく、一葉本人に聞いてください。 私が答えるべきことではありません」

 ベヌウの付き離すような正論に、なのはの鼻の奥がツンとして泣きそうになった。
 ベヌウの言うとおり、一葉に聞けば一番手っ取り早い。だが、それでもなのはは一葉に直接聞く気にはどうしてもなれなかった。

 気がつけば、ベヌウは高町家の直ぐ上空に着いていた。
 風を切りながら急降下すると、翼を大きく広げ速度を殺しながらなのはの部屋の窓がある切妻造りの屋根に降りて翼をたたんだ。
 瓦屋根にベヌウの爪が当たり、カツンという乾いた音が夜の街に呑みこまれ消えていく。

 「それでは高町嬢。 良い夢を」

 「うん、おやすみなさい」

 ベヌウは窓を跨いでなのはが部屋の中に入るのを確認すると、再び翼を広げて夜の空へと溶けていった。
 
 「信用はしなくてもいい……か。 言われちゃったね……」

 ベヌウの姿が見えなくなった後も、しばらく夜の闇を見つめていたなのはがポツリと唇から零れた言葉は、心の入っていない洞のようだった。

 「なのは……」

 ユーノの耳には、なのはのそんな声が不吉な予言のように耳に残った。


 ◆◇◆


 雲一つない空だった。
 いつもより高く感じつる気ぬける青空からは太陽の鬣が降りしきり、新芽の芽生えたばかりの銀杏の並木道を煌々と照らす。いくつもの天使の梯子が透き通る薄緑の葉脈の隙間を抜けて、アスファルトの道に降りてきていた。

 一葉とベヌウは図書館へと繋がる一本道の道中にいた。
 まだ五月だというのに、この日の気温は初夏のもので一葉は長袖ではなく無地の黒いTシャツにダメージジーンズとサンダルといったラフな出で立ちをしている。

 時間帯はまだ正午前で、おそらく今頃はなのは達は応援に向かったサッカーを観戦している真っ最中だろう。
 一葉も、当初の予定では肩にかけたショルダーバッグの中に入っている本を返却してから、適度に冷房の利いた図書館で読書をしていたはずだ。
 しかし今、一葉だけでなくベヌウでさえ道のど真ん中で困惑の沼にどっぷりと脚を突っ込んでしまっていた。

 『どうしよう……?』

 『どうしましょうかね……?』

 「あっ! 今、また喋ったやろ!?」

 二人の目の前には、念話を聞き取れる車椅子の少女がいた。


 ◆◇◆


 『高町嬢はともかくとして、ユーノはもう完全に一葉を信用していませんね。 多分、これからも信用を得るのは無理でしょう』

 『ま、仕方ないわな。 魔法っていう特別な力がある世界から来たんなら、魔法のない世界を下に見る傾向はあるだろうし、そんな世界に見たこともない力を持ってるやつがいたら、あまりいい感情を持たないのは当たり前だろうしね』

 一葉とベヌウは朝食を摂ってから直ぐに家を出て、図書館に向かった。
 海鳴区の東に位置する場所にある図書館は、海鳴海浜公園の敷地内にあり、図書館に至る道に沿うようにして植えられている銀杏の並木道の向こうに建てられている。
 海鳴図書館は数年前に市に点在するいくつかの小さな図書館を統合して建設されたもので、それに見合って規模も県内で一番の敷地と蔵書量を誇っている。

 今日は一日が完全休養日となったことで、一葉は久しぶりに図書館で読書を楽しむことに決めていた。
 一葉が読むジャンルは様々で、小説もそうだが、学術本や図鑑、ルポルタージュまで多岐にわたる。別に、心を躍らせる物語や知識に飢えているわけではなく、文字が読めればなんでもいいのだ。

 銀杏のトンネルをしばらく歩くと、洋館を思わせるレンガ造りの建物が見えてくる。中世の館をモチーフに建てたのだろうが、その趣と建てられたばかりの真新しさのギャップが全体の雰囲気をチープなものにさせていた。

 『ぶっちゃけると、私も最初はそうでしたからね。 あまりユーノ・スクライアのことは強く言えないのですが……、ユーノ・スクライアも高町嬢もまだ幼く世界を知らない。 あまり気にしない方がいいと思いますよ』

 ベヌウが言っているのは一葉と、なのはとユーノとの間にできた溝のことだ。それは些細な、だけど確実にできた決して埋まることのない猜疑と言う名の溝。
 そのくせ、なのはは一葉が隠してきたこと、そして今も隠し続けている秘密を聞こうとしては、躊躇ったり、必要以上にチラチラと一葉の顔色をうかがったりと、まるで私の気持ちに気がついてと言わんばかりのアピールに、一葉は少しうんざりし始めていた。

 なのはが、そしてユーノが聞きたいことはわかっている。

 一葉の剣は魔法と違い理側の存在ではない。おそらく、ユーノからしたら行き着く先のない問いのように思えるのかもしれない。そして、その解放なくして一葉に対する疑念や厭わしさ、弾劾したいという、ヘドロのような感情は胸の内にため込まれ続けていくのだろう。
 そして、そのことをなのはに伝えているということも容易に想像がついた。

 『いつか、一葉のことを二人に話す日はくるのですか?』

 『さてね……。 今のところ、その予定はないな』

 一葉は、耳元で囁かれるベヌウの問いを、海から運ばれるあたたかな風に揺れ落ちる葉を見ながら言った。
 その目つきは、まるで黄昏を見つめる老人のように儚いものだった。

 いつか自分のことを話す機会が訪れるかもしれないことは、いつも頭の片隅にとどめていた。
 だが、それは決して今ではないし、一葉がベヌウに自分のことを話したのは、出会いそのものが特殊だったからだ。安寧の世界で生きる家族や、なのはをはじめとした友達たちには出来ることであれば永遠に口を噤み続けるつもりでもあった。

 『結局、オレは臆病者なんだよね。 正直に言うとさ、人に嫌われるのは怖いし、完全に拒否されるぐらいだったら、溝があっても今の方が全然マシだよ』

 一葉の唇から紡がれた言葉は、ひどく薄く透明だった。
 夜の闇に紛れて爪を研ぎ、牙を剥いて血を浴び、肉を喰らい続けた男の魂を持って生れてしまった少年の願い。
 それは、誰かに受け入れてもらいたい。醜い自分を仲間にしてもらいたい。優しく、美しい人たちと一緒にいたいというものだった。
 そして、思いがけず手にしてしまった願いを、一葉は失うことをなによりも恐れていた。

 『一葉……』

 そんな一葉の横顔を見て、ベヌウはなにかを言いかけて、止めた。
 今のベヌウには一葉を慰める資格など持ち合わせていなかった。主従の契も交わしておらず、一葉の行く末をただ傍観者として徹する為だけに側にいる。
 そんな自分が慰めなどという傲慢なことをしていいはずがないと思ったからだ。
 それでも、ベヌウは胸の内に深い孤独を抱える少年に、少しずつ自分が惹かれていることに気がついていた。

 五月の穏やかな陽気の中、突然背中に氷を這わせたかのような悪寒が一葉に走った。
 それは殺意や殺気といった不穏なものではないが、胃が浮くような違和感が一瞬にして鳥肌へと変わる。
 一葉は鞄を抱えて、咄嗟に右に跳ぶ。
 一葉の突飛な行動に、肩にとまっていたベヌウはバランスを崩し翼を広げて無理やり体制を整えた。

 そして、一葉が側道にった瞬間、今まで一葉が歩いていた場所に風を呑みこむ音を上げて猛スピードの車椅子が通過していった。

 「チイィ! 外してもうたか!!」

 アスファルトを焦がすドリフトで車椅子の勢いを殺しながら、関西訛りの少女が唸った。
 歳は一葉と同じぐらい。セミロングの焦げ茶の髪が特徴的な小柄な少女だ。

 「アホか! ぶつかったら死んでるわ!!」

 「なにゆうてんのや。 人間ちょっとやそっとじゃ死にはせん」

 電動の車椅子をレバーで操作しながらカラカラと近づいてくる少女は太陽の光を一身に浴びて咲いた向日葵のような笑顔で言った。
 少女の膝の上には年季の入った無地のクリームいをした膝かけが乗せられており、それは少女が長年愛用していると同時に、それと同じ時間だけ脚を動かすことができないのだと見て取れる。

 「久しぶりやな、いっちー。 今までなにしてたん?」

 「お前の暴行未遂は完全にスルーかい。 それからいっちー呼ぶなって言ってんだろうが子狸が」

 「こないな美少女つかまえて誰が狸や、誰が」

 「お前だ、お前。 自分で美少女言うな。 それから地味に痛い。 カバンぶつけんの止めろ」

 少女は膝かけの上に置かれていた、黄色い花の刺繍の入った手提げカバンをがバシバシと一葉の太腿にぶつけていた。中にはハードカバーの本が何冊か入っていて、結構な衝撃が骨に響く。
 一葉は少女の手からカバンを取り上げると、そのまま自分の肩に下げ歩きだした。
 少女の方も、まるでそれが当たり前かのように車椅子を前に進ませ始める。
 二人の間には、何とも言えない穏やかな雰囲気が流れていた。

 それは一葉にしては珍しいことで、ベヌウは内心で感嘆していた。
 まだ同じ時間を過ごし始めて一週間と少しばかりしか経っていないが、それでも一葉が常に他人とは明確な一線を引いていることに気がついていたからだ。
 踏み込みすぎず、馴れ合いすぎず、なにかあったときはいつだって逃げ出せる距離を保っている。それは、自分が普通ではいられないという卑屈さからか、はたまた劣等感がそうさせているのか、それはなのはや、ベヌウはまだ会ったことはないがアリサとすずかという少女にも同じだ。
 魔法やジュエルシードのこともあって、なのはとの関係に溝が生まれはしたが実質的な距離は縮まっている。
 それでも一葉は自分の立ち位置を決して見誤ったりはしない。
 だが、この車椅子の少女は一葉との間に溝や距離は感じられなかった。

 「なんか、格好いい鳥さんつれとるなぁ。 どうしたんや?」

 「空から落ちてきたのを拾った。 それで飼うことにした」

 「……私、鳥獣保護法とか詳しく知らんが、それって犯罪ちゃうんか?」

 「犯罪ってばれなきゃ犯罪にはなんないんだよ」

 「お巡りさーん! ここに犯罪者がいてまーす!!」

 「やめい、騒がしい」

 一葉はカバンを振って軽く少女の身体にペチリと当てると、少女カラカラと笑いだした。
 身体の生涯を微塵も感じさせない、そんな屈託のない笑顔だ。

 『一葉、こちらの少女は?』

 ベヌウは一葉に尋ねた。
 その声はしっかりと届き、一葉は念話で答えようとした時だった。

 「あぁ、私の名前は八神はやてっていうんよ」

 「は?」

 『え?』

 「……ん? あれ? 今、喋ったのって誰や?」

 はやては首を傾げた。



[31098] 7!
Name: 三鷹の山猫◆ef72b19c ID:d1000a7d
Date: 2012/03/01 22:56
 「突然ですが魔法使いになりました」

 「馬鹿にしとんのか喧嘩売ってんのか聞いてもええか? ちなみに喧嘩を売っとんのなら、今なら高価買取中やで?」

 はやては腕を組みながらこめかみを引きつかせた。
 はやてと一葉がいる場所は図書館の表玄関にある広場だった。モダン調の石畳が円状に敷き詰められた広場は大人の足で二十歩ほどで、その中央には幾何学的なモニュメントが鎮座している。
 一葉はその広場の隅にある塗装の剥がれかかったベンチの上に正座をさせられていた。

 「あの……、八神嬢……?」

 「ベヌウは黙っとき。 私は今、いっちーと喋っとるんや」

 「はい……。 申し訳ありませんでした」

 はやての膝の上に置かれたベヌウは見下ろされる冷ややかな視線に容易く屈服した。
 一葉は一葉で、はやての見透かすような視線から逃れようと必死に目を逸らしていた。

 ベヌウの念話がはっきりと耳に届いたはやてに、魔法やベヌウと出会った経緯などを誤魔化す術はなく、結局全てとまではいかないがある程度のことは喋らされてしまった。
 それでも、内容も突拍子のないもので、はやても瞳の奥から疑問の火を消すことは中々消そうとはしなかった。
 会話が途切れ、はやては一葉はジト目でしばらく見つめていると、深い溜息をついた。

 「まぁ……ええわ。 百万歩ぐらい譲っていっちーが魔法使いになったてことでええ。 で、それでどうなん?」

 「どうなん……とは?」

 「なんか危険なことに首を突っ込んでへんかってことや」

 「いいえ……。 そのようなことは決してありませんが」

 はやての鋭すぎる問いかけに、一葉は咄嗟にシレっとした表情で嘘をついた。

 「ダウト。 大嘘や」

 一葉の嘘に、はやては逡巡の迷いもなく確信的な口調で言った言葉に、一葉の動揺は表情に浮き彫りに出た。
 それを見て、はやては再び深い溜息をつく。

 「あんなぁ、いっちー。 いっちーが自分で気がついてるんかどうかは知らんけど、嘘をつくときに目を逸らす癖を直さんと、ばればれやで?」

 一葉の嘘にはやては最初からわかっていた。一葉が嘘をつくときに瞬きが増えて人の目を見られなくなる癖に気がついたのは、出会ってまだ間もない頃だ。
 それは一年と、少しだけ前になる話し。
 銀杏の並木が黄色く萌え、たわわとなった実が地面に落ち始める季節の頃だった。
 はやて動かない足のせいで、本来義務教育である小学校は休学扱いになっており、はやてが実際に時間に縛られなければならないことは病院への通院だけだった。
 そんな友達もできない環境で、両親も既に他界にして、人との繋がりは希薄だったはやてが本の世界に没頭するのは自然の摂理なのかもしれない。

 その通り、はやては孤独な灰色の世界よりも、夢や希望が満ち溢れている本の世界に生きていた。
 綴られた物語から夢想する世界では風よりも早く野を駆け抜けることができ、その足で世界中を旅して回った。
 嵐のような恋に落ち、蜂蜜のような愛を経て、運命の人と結ばれた。
 本の世界は、まさに自分が生きているもう一つの世界だったのだ。

 そんなはやてにとって図書館とは無限の世界の宝庫であり、自分が遂げることのできない未来の可能性が眠る場所だった。
 病院のない日であれば開館時間に訪れては物語の世界に浸り、閉館時間となれば多くの本を借り出し家でさらに夢想する。そういう生活が続いていた。
 それこそ、自分がどちらの世界に生きているのか、わからなくなってしまうほどまでだ。

 そんな生活が変わるきっかけとなったのが緋山一葉との出会いだった。
 今でも、昨日のことのように鮮明に覚えている。
 窓から差し込む黄昏が図書館を黄金に染め上げる夕暮れ時、下半身が麻痺して立つことのできないはやては、本棚の高い位置にある本に必死に手を伸ばしていた。普段ならば、司書の人に頼んだりするのだが、その日はたまたま目に見える範囲には誰もいなかった。
 はやては結局諦めようと、伸ばした手を戻した時に、後ろから別の人の手が伸びてきたのだ。それが一葉だった。

 日本人の平均である癖の強い黒髪に、やや目つきの悪い鳶色の瞳。いわゆるイケ面というものではないが、中性敵でさっぱりとした顔つきをしているが、体つきも特別いいわけでもなく、どこにでもいそうな少年。だが、はやてはその少年を見た瞬間、足の爪先から髪の毛の一本に至るまで電気が駆け抜けたかのような衝撃を覚えた。
 
 この少年は、自分と同じだと。

 それは少年の鳶色の瞳の奥に静かに揺らめく黒い濁り。毎日鏡で見る、自分と同じ胸の内に埋めようのない洞を持った者の目だ。
 その時はやては、、はぐれてしまった群れを見つけた渡り鳥のような歓喜に心臓が熱くなった。
 これは運命だ。
 一人ぼっちだった自分に、神様が仲間をくれたのだと。

 はやてが一葉と仲良くなるまで時間はかからなかった。一葉が図書館にやってくるのは学校が終わってからの放課後の時間帯が多く、その時間から閉館の間で僅かな間ははやてにとって最も心の安らぐ時間になっていた。

 気がつけば、一葉ははやてにとっての拠り所になっていたのだ。一葉と一緒にいるだけで、あたたかなものが胸を満たして行き、一葉と言葉を交わすだけで、灰色だった世界が鮮やかに彩られていった。

 だからこそ、はやては一葉が明確に引いた最後の一線を越えようとはしなかった。
 一葉とはやての距離は近い。それは間違いないが、それでも伸ばした手を先から飲み込まれていってしまいそうな闇が広がる境界が一葉にはあり、はやてはそれに触れられずにいたのだ。
 それはきっと、はやてが一番共感した孤独の正体。夜の色に同化して、冷たい心臓を抱えてひっそりと生きる烏のような澱。
 はやては恐ろしかった。
 その澱に触れてしまえば、自分の前から一葉が姿を消してしまうのではないかということが。
 今日だって、一葉は嘘ではぐらかそうとした。
 寂しいことだが、それはつまり、はやてが踏み込んではいけない領分なのだ。

 「でも、嘘やばれたとこで私には教えてくれへんのやろ? もうちょい、頼りにしてもろうてもええんやで?」

 はやてはまつ毛を伏せて沈んだ声で言った。
 一葉と過ごす穏やかな日々の反面、胸に立ちこめる黒い雲は決して晴れることはないのかもしれないという寂しさ。
 自分だけが一葉を拠り所としてしまっている心境の複雑さ。そして自分では力になれないという歯がゆさがいつもはやての胸には白いシャツに染み込んだシミのようにあった。

 「うーん……、本当にどうしようもなくなったら頼りに行くわ」

 眉を寄せて困ったように笑いながら一葉は言う。
 取り繕いや嘘は感じない。それでも一葉はきっと、自分だけの力で終わらせようとするのだろう。
 はやてが群れからはぐれた渡り鳥だとしたら、一葉は孤高の獣というイメージがあった。狼や、ライオンといった狩りをする動物ではなく、例えるなら雄牛。どっしりと構えた強靭な肉体を持った一人ぼっちの獣。
 誰かを巻きこむなんてことは絶対にしない。

 はやては寂しさを一葉に悟られないように、努めて意味を浮かべながら薄い胸を叩いた。

 「わかった。 そん時は私がどーん、と受け止めたる」

 「おお、よろしく頼む」

 それが話しの区切りだ。
 はやてはこれ以上、一葉がなにをやっているか首を突っ込むことはしないし、一葉も話すつもりはない。
 それは一葉とはやてがお互いの雰囲気、目に見えぬ重力のような関係性が成り立たせる言葉の要らない会話のようなものだ。
 一葉はその区切りで正座を強要されいていた足を崩そうとする。
 しかし……、

 「誰が足崩してええ言うた?」

 はやてがピシャリと言い放った。

 「とりあえず、いっちーには正座のまま魔法についての説明でもしてもらおか?」

 背筋が凍るほどの素敵な笑顔に、一葉は戦慄した。


 ◆◇◆


 『感じのよい少女でしたね』

 『本気でそう言ってんならお前の目は節穴だよ』

 一葉は千の針で皮膚を軽く突かれているかのように痺れる足を引きずっていた。
 はやてに強要された説教まがいの説明は一時間ほど続き、病院の予約の時間が迫ってきたという理由で解放された。
 もしまだ時間があれば夕方まで続きそうな勢いだった。
 結局図書館に行く気力もなく、はやてと本を返してから、昼食を摂る為にそのまま翠屋へ直行ということにしたのだ。

 『てか、なんでお前ら初対面なのにあんなに仲良くなってんだよ……』

 『なにか、運命的なものを感じました』

 はやてとベヌウはうまが合うらしく直ぐに仲良くなった。ベヌウは基本的に他人との距離を置く為に余所余所しく、嬢などの愛称をつけることが基本だが、はやてには呼び捨てだ。
 一葉が正座を強要され徐々に足の感覚がなくなっていく間、ベヌウははやてに魔法のことを教えていた。
 ベヌウが言うには、はやてにも魔道師として高い資質があるらしく、はやても魔法の話題に熱心に聞き入っていた。
 なにができて、なにができないのか。空は飛べるか、動物に変身はできるのか、九歳の女の子が夢想しそうな魔法の典型を熱のこもった声色で矢次に聞いては、その全てが可能だということにテンションを上げていた。
 一葉ははやてから足のせいで小学校は休学して通信教育を受けていると聞いていた。そんな子供が魔法という奇跡に出会ったのならば、きっと自由を縛る鎖を解くことができるかもしれないという希望に縋るだろう。
 だが、はやてが本当に願ったのは、きっと自分の足のことではない。

 『それよりも、はやての言葉……、どう思いますか?』

 『ああ……、あれね……』

 __魔法で家族は作れへんのかな?

 それははやてが別れ際に零した言葉。
 誰に伝えるでもなく、風に舞うように消えていった透明な言葉は一葉の胸に静かに沈んでいた。

 『はやてに家族はいないのですか?』

 『知らね。 あいつの家族構成を聞いたことがない』

 思い返せば、その手の話題は意図的にはぐらかされていた気がする。
 それに、きっと一葉はベヌウが思っているほどはやてのことは知らない。
 名前が八神はやてで、同い年で、足が不自由で、本が好きで、そして深い孤独を抱えている、寂しがりやな女の子。
 はやては自分のことは話さないし、話したがらない。理由はわからないが、言いたくないのであれば、一葉も無理に聞く気は全くなかった。

 『でも常識で考えたら、児童保護にうるさいこのご時世に障害を抱えた子供が一人暮らしをしてるとは思えないけどね』

 一葉は、上がったことはないがはやての家の前までは言ったことがある。
 住宅街の一等地に建てられた、外からでもわかるバリアフリーの大きな家だ。とてもじゃないが、子供が独り暮らしをしているような家には見えなかった。

 『しかし、あの時のはやての目は……』

 __一葉に似ていた

 初めてベヌウが一葉と出会った夜、自分はおかしいと諦観していた時の目と、はやての目はドキリとするほど似ていたのだ。
 辛さも痛みも通り越して、哀しみと寂しさだけが残ってしまった、群れかたを忘れてしまった烏のように澄んだ瞳。それは同じ哀しみを抱える者同士でしかきっと理解することも、触れることすらもできない、そんな色をしていた。

 『オレさぁ……、はやてに初めて会ったとき“あ、こいつなんかオレに似てるな”って思ったんだ』

 ベヌウの言葉に被せるように、一葉は念話で言葉を紡いだ。

 『でも、似てるだけだ。 はやては群れかたを忘れてるだけで、群れることができないわけじゃない。 オレとは違うよ』

 はやての孤独がなんなのか一葉は知らないが、一葉は心が孤独だった。周りには家族もいるし、友達もいるが、それでも、それらの人々は決して仲間にはなり得ないし、一葉の拠り所にもならない。
 休まることのない閉塞感の中、一葉は群れている振りをしているだけだ。そうすることで今の、穏やかに流れるぬるく、切なく、凡庸で平和な時間を手にしている。
 だが、はやては違う。はやては濁りのない澄んだ瞳の奥で、自分の仲間を探していた。自分の拠り所を、探していたのだ。

 『だからさ、せめてどうにかしてやりたいって思ったんだわ。 同情とか、憐憫とか、多分そういうのだと思う。 そんな考えがさ、物凄く傲慢な考えだってことはわかってるけど、はやては誰かに愛されようともがいてる。 そんな孤独とか寂しさとか、少しでも和らげてあげたいんだ』

 一葉の言葉は、深い余韻を残してベヌウの胸に響き、その一つ一つが重くのしかかる。
 淡く切ない眼差しと、哀しみに満ちた一葉の横顔は冬の湖のように澄んでいて、見ているベヌウの方が強い苦しみと悲しみに詰られるような気分になってきた。
 人の孤独とは山や森に在るのではなく街に在り、人と人との隙間に在るものだ。
 ベヌウは気が遠くなるほどの長い時間を生きてきた。その中でも、これほどまでに人の隙間に生きる少年を見たことがなかった。
 孤独の内に生きる少年が、孤独の内でしか生きていけないということが哀れで仕方なかった。
 そんな一葉が、自分ではない誰かの孤独を和らげたいと言っていることが、滑稽にも見え、危うくも思えた。

 『一葉、私は貴方に初めて会ったとき、貴方は優しい人だと言いました。 その意見は今も変わりませんが……一葉、貴方は優しすぎる。 自分が持たないものを他人に与えようとすると、我が身を滅ぼしかねません』

 ベヌウには、一葉のそれは施しではなく自己犠牲に聞こえた。

 『なに言ってんだよ。 オレのは優しさじゃなくて偽善と陶酔だ。 弱い奴に手を差し伸べて、善人ってやつを演じてるだけだよ』

 『それでも、それは決して悪ではありません。 事実、はやては一葉と居ることで孤独が和らいでいるのではないですか? 人の心というものはね、見えない善よりも目に見える偽善の方がよほど救いになるのですよ』

 はやてが一葉に想いを寄せていることに、ベヌウは直ぐに気がついた。
 二次性徴直前の、男女の違いを意識し始める思春期の戸張で自分の足の障害に遠慮をせず普通に接してくれる少年は、一葉が意識しなくともはやてにとっては特別なものだったに違いない。
 実際、ベヌウがはやてと話しているとき、内容のほとんどが一葉のことだった。はにかみながら楽しそうに話すはやての表情は、共通の知り合いを話題に出すという分を遥かに越えていた。

 『一葉は今、貴方が無理だと言っていた“誰かを救う”ということができてしまっている。 それだけでなく、はやてが求めるだけ一葉は与えようともしてしまっている。 一葉、貴方ははやての孤独を和らげる前に、自分の孤独をどうにかしないといけないのはないですか? 一葉は確かに普通の人間ではありませんが、それでも間違いなく人間の領分に生きています。 人間として生まれ、営み、生きていかなければならないのなら、楽しまなければそんだと私は思いますがね』

 『人生楽しく……、ねぇ……。 例えばどんな感じよ?』

 『そうですね……、生物の娯楽はやはり人間の欲求とは切っても切り離せません。 その中でも最も顕著に表れるのが三大欲求。 食欲、性欲、睡眠欲です。 特に性欲は子孫を残す為の重要な役割を担っており、人間のようにある程度の社会秩序が構築された生物であると生涯の伴侶を獲得し、またその後の生活を円満にするのには決して欠かせないものであるものだと推測されます』

 『グダグダ御託並べてないで結論だけ言ってくれ』

 『将来、はやてを伴侶に迎える為の育成、もとい光源氏計画などやってみてはいかがですか?』

 一葉はずっこけそうになった。

 『死んでもやらんわ! てか、なんで光源氏知ってんだよ!? お前は別の世界から来たんじゃないのか!?』

 『一葉の部屋に合った情報端末で調べました。 一応、この世界の一般常識は学んでおこうと思いまして』

 ベヌウの言う情報端末とは一葉の部屋に置いてあるノートパソコンのことだろう。

 『もっと知るべき情報があるだろうが……。 それよか、お前がパソコンを使えたことに驚きだわ』

 『ふふ、私は戦闘よりも情報戦に特化された機体なのですよ? あんな原始的なセキュリティなど私の前では水に浸したティッシュに等しい。  ペンタゴンにハッキングすることも、核ミサイルの起動パスワードを入手することも、アメリカ大統領の筆おろしの相手でさえ簡単に見つけられます』

 『頼むから、それ絶対にウチのパソコンでやるなよ』

 一葉は頭を抱え深い溜息を吐いた。

 『まあまあ、そんなことよりもはやてのことです。 私は割と本気で言っていますよ』

 『なんでそんなにはやてを推すのさ?』

 『先ほど言ったばかりでしょう。 運命的なものを感じた、と』

 『それはお前の運命であってオレの運命ではないな?』

 ちなみにベヌウの言った運命的なものの正体は、今から半年後にわかることになるのだが、今の一葉達はそんなことを知る由もなく念話で話しをしながら翠屋を目指し商店街の入り口にさしかかった。
 その時、この一瞬間で慣れ親しんだ背筋を駆ける冷たい衝撃と、心臓の奥を刺激するざわめきが一葉に襲いかかる。

 『……昼飯、食いっぱぐれたな』

 『手際良く済ませればまだチャンスはありますよ。 急ぎましょう』

 巻き起こる魔力の奔流を目指し、一葉は元来た道を走り始めた。


 ◆◇◆


 「これはなんというジブリ。 都市計画で山を追われた狸が引き起こしたものに違いない」

 「アホなこと言ってないで早くジュエルシードを探しますよ」

 一葉とベヌウの眼前に広がる光景は、まさに都会のマングローブと呼ぶべきものだった。
 ジュエルシードによって突如現れた巨木は瞬く間に蜘蛛の巣のように枝葉を伸ばし、街を呑みこんだ。
 太陽の光を遮る木の葉の屋根は微かな風にザラザラと音を立て、まるでなにか得体のしれないものの嗤い声のように木霊しては、夢と現実の狭間に浮いているかのような異界の雰囲気を醸し出していた。

 「とりあえず、なのはも来てると思うから先に合流すっか。 オレだけじゃジュエルシード見つけても封印できないしね」

 「そうですね。 位置はすでに把握してします。 ここから北北西、建物の中を移動中のようです」

 ベヌウは一葉の肩から飛び跳ねると、翼を広げ本来の大きさに戻った。休日の住宅街だというのに辺りに人気はなく、こんな異常事態にも関わらず人の気配というものがまったく感じられない。

 「既にここら一帯に強力な結界が張られています。 これは、ユーノのものではありませんね。 おそらくはジュエルシードの暴走の副産物でしょうが、結界の構成が不安定すぎる。 これでは、結界が解かれた後もこの樹木はそのまま残ってしまうでしょう」

 「うわ。 じゃあ、このベコンベコンになった道路とか建物とかもそのまんまなわけ?」

 「ローンがまだ残っている家には本当に災難なことです。 しかし、おそらくこれで終わりではないはずです。 今は小康状態に入っているだけで、きっかけがあれば再び活動を再開させるでしょうね」

 街全体に枝葉を広げて影を落とす森を見上げてベヌウは言う。
 植物は本来動物以上に長い時間をかけて成長を遂げる。それは植物は動物と比較して時間の概念が希薄だという説もあるが、その生命観すらを書き変え、尚且つ未だに膨大な魔力を大気に渦巻かせるジュエルシードにベヌウは改めて脅威を覚えた。

 「ロストロギア、ジュエルシード……。 私が思っていたよりも厄介な代物のようですね」

 「確かになぁ……。 地球温暖化を一発で解決できるだけの力があるんだもんな……」

 一葉はため息交じりに吐き出すと、首に下げたアンクに魔力を込めた。


 ◆◇◆


 「ひどい……」

 バリアジャケットを纏ったなのはが唖然と零した。
 魔力の兆しを感じ駆けあがった街を一望できる高いマンションの屋上から見える景色は森に呑みこまれた、見たこともない自分の住む街だった。

 溢れ出るジュエルシードの魔力とともに現れた樹木はなのはが手を出す間もなく一瞬にして枝葉の天蓋で覆い尽くした。
 今は結界のおかげでこの惨状に街の誰も気がついていないが、その結界がなくなった後にどれほどの爪痕が残るのか考えたくもなかった。

 「多分人間が発動させちゃったんだ。 強い想いを持った者が願いを込めて発動させたときにジュエルシードは一番強い力を発揮するから」

 ユーノの言葉に、なのはの脳裏に一人の少年が浮かび上がった。
 少年サッカーの試合でゴールキーパーを務めていた白いジャージの少年だ。その少年から感じた微かな違和感は喉の奥に小骨が引っ掛かっているような些細なものだったが、今思い返すとそれはジュエルシードの魔力の残滓だったのだ。

 なのはの胸に後悔の波が押し寄せてきた。
 気がついていたはずなのに、こんなことになる前に止められたかもしれないのに、そんな悔恨の蛇がなのはの小さな心臓に巻きつき締め上げる。

 「つまり、あのどこかにジュエルシードと一緒に核となっている人間も閉じ込められている可能性もある、ということですか?」

 「ふぇ!?」

 突然入り込むように響いた声になのはは頓狂な声を上げて跳び上がった。
 反射的に振り返ると、そこにはベヌウと甲冑を纏った一葉の姿があった。

 「なんだ……。 狸と合戦できると思ったのに」

 「狸が原因だった方が容易にことは済んだのですがね。 森を消し炭にすればいいだけの話しだったのですが、人間が取り込まれているとなるとそうもいきません」

 「人間を炭化させるわけにもいかんしなぁ」

 一葉は槍を肩にかけ、ユーノとなのはの隣に歩み寄ると、視線をユーノに移した。

 「で、ユーノ先生。 こういう場合はどうしたらいいの?」

 ユーノは一葉の視線に応えるように頷き現状を口にした。

 「それは……。 封印するには接近しないとダメだけど、まず基になってる部分を見つけなきゃ。 でも、これだけ範囲が広がっちゃうとどう探していいのか……」

 「当たりにぶち当たるまで端から燃やしていきましょう」

 「当たりが出るまで片っ端から叩ッ斬る」

 「だ、ダメだよ! そんなことして中にいる人間まで傷つけちゃったら……」

 当たりというのは、当然核である人間のことだ。二人の物騒な作戦にユーノは慌てて手を振った。
 だが、だからといって打開の案があるわけでもない。街全体に張り巡らされた枝葉は強靭で太い根を張り巡らせ、複雑な魔力の回路を組んでいる。その魔力の供給減がジュエルシードなわけで、流れを遡れば道理としては見つかるわけなのだが、回路も魔力も入り組み過ぎていてなにがなんだか判別がつかなくなってしまっている。
 ユーノは探索魔法は得意な方だが、これでは砂漠の中で砂を探せと言われているようなものだ。
 なにか方法はないかと頭を捻らせていると、凛然となのはの声が響いた。

 「基を見つければいいんだね」

 全員がなのはに視線を向ける。
 突き刺さる三つの視線に目もくれず、なのははレイジングハートの杖頭を空に構えた。それは自分がなにをすべきなのか信じて疑わない自信に満ちた滑らかな動きだった。

 __Area search.

 レイジングハートのコアが光り、なのはの足元に桃色の魔法陣が浮かび上がる。正方形が規則的に回転する魔法陣の上で、なのはは瞼を下ろし眉間にしわを寄せながらこめかみが痛くなるほどに神経を集中させた。
 それは魔法陣から拡散させた魔力から送られてくる情報を視覚化し自身の脳にフェードバックする為だ。
 街を覆う根の先から先へ、枝の一本、葉の一枚に至るまで回路に電気を流すように隅々まで調べていく。すると樹木の根幹、白い繭のようなものに包まれ抱き合いながら意識を失っている少年少女の姿が脳裏に過った。

 「見つけた!!」

 なのはの視線はオフィス街に向けられた。住宅街と比べて背の高い建物が密集している為に木々の茂りが一層に目立っている。

 「直ぐに封印するから!」

 「こっからやるつもりかよ?」

 「大丈夫! できるよ!」

 一葉の問いかけになのはは声を張り上げて答えた。
 肯定の言葉は勢いから出たものではなく、なのはには確信めいたものがあった。
 できる、できないの問題ではない。“やらなければならない”のだ。目の前で引き起こされた災厄の根源を断ち切る為になのははレイジングハートの矛先を標的に向けた。

 「そうだよね? レイジングハート」

 __ShootingMode. Set up.

 レイジングハートのコアを包む金輪が分解し、音叉の形に再構築される。銅金から排出される桃色の魔力は翼のように広がり、まるで断罪の十字架のようにその姿を変えた。

 なのはの目は獲物を狙う猛禽のように鋭く標的を見据えていた。
 ありったけの魔力をレイジングハートに込める。

 「行って! 捕まえて!!」

 刹那。大気が悲鳴を上げた。
 レイジングハートから撃ち出された魔力の弾丸は風を貫き大気を灼く。それはまるで空を切り裂く彗星のように見えた。

 __Stand by Leady.

 「リリカルマジカル! ジュエルシードシリアルX! 封印!!」

__Ssallng.

 なのはの遠距離狙撃の成功を告げるレイジングハートの声が響き、コアにシリアルナンバーが浮かび上がる。
 その怒濤の光景を誰もが呆然と見ていた。

 「ユーノ。 今のってお前にもできんの?」

 「……多分ムリ」

 なのはが起こした砲撃魔法の残滓の風を頬に受けながら、ユーノは呆けた口調で言った。




[31098] 8!
Name: 三鷹の山猫◆ef72b19c ID:d1000a7d
Date: 2012/03/01 22:56
気がつかないうちにそれなりの時間が過ぎていたようで、結界が解かれたあとの空は朱金色に染まっていた。
 街は最初のベヌウの懸念の通り、ジュエルシードが召還した森林はそのまま残り凄惨な光景がそのまま残っている。
 木霊するサイレンの響きや街の喧騒が、空に近いこの場所からだとよく聞こえる。なんの前触れもなく突然現れた巨木の雑木林に街は混乱の渦に巻き込まれているのだ。

 「周りの人に……、迷惑かけちゃったね……」

 なのはは膝を抱えながらポツリと呟いた。
 見回す景色は自分の住み慣れた街だというのに、木々に呑みこまれ異界のような異質を漂わせまるで見たこともない街を見下ろしているような違和感が、なのはの胸にさざ波のような後悔と自責を引き寄せていた。

 もっと注意していれば……。あの時、気のせいで済まさなければ……、自分がもっとしっかりしてさえいればこんなことにはならなかったはずだ。
 なのはは自分の無力が情けなさすぎて涙さえ出てこなかった。

 「なのははちゃんとやってくれてるよ……。 あの時、僕だって気がつかなかったんだ……」

 ジュエルシードは魔力の振幅が激しい。一たび発動すれば次元を揺るがすほどの力を発揮するが通常の状態では魔力の反応はほとんどと言っていいほど微弱になる。
 ユーノは探索や結界などの補助魔法を得意としているにもかかわらずジュエルシードを見つけ出すのにこうも手こずっている理由はそれだった。
 ジュエルシードがすぐ近くにあったとしても、発動前であったのなら気がつかないのが普通だ。むしろ、違和感を感じたなのはがすごすぎるのだ。なのはが責められる道理はない。
 だが、なのははユーノの庇護の言葉に首を横に振ると膝に顔をうずめてしまった。
 そして途端に脳天に衝撃が貫き視界に火花が散った。

 「◎◇▲□~~!?」

 なのはが声にならない声を上げて痛みで熱がこもる頭を抱えて顔を上げると、目の前には一葉が立っていた。
 一葉に叩かれた。なんでそんなことするのだろう、となのはは鼻の奥がツンとした。
 やっぱり街がこんなことになってしまったことを未然に防げなかったことを怒っているのだろうか。
 そうだとしたら、今度こそ本当に一葉に嫌われてしまう。そう思った瞬間になのはに渦巻いた。
 なのはは一葉の顔を見れず視線を逸らそうとした時、一葉が唇を動かした。

怒られる!

なのはは目を固く閉ざし耳を塞ごうとする。だがそれよりも早く一葉の声がなのはの耳に届いた。

 「アホかお前は」

 「ふぇ?」

 なのはが目尻に涙を浮かべたまま顔を上げると、一葉は呆れた表情でなのはを見下ろしていた。

 「なんでそんなにへこんでんのかよくわかんないんだけど、なのははわざとジュエルシードを見逃したわけ?」

 「ち……違うよ!!」

 「そうだろうね。 でも、なのははこうなったのは自分のせいだって思ってるんでしょ?」

 「うん……」

 語彙も言い回しもない直球の質問に、なのははまつ毛を伏せた。

 「私……、ジュエルシードが発動する前に気がついてたんだ。 もしかしたら、っていう程度だったんだけど、誰がジュエルシードを持っていたのか気がついてた……。 でも、私はその時なにもしなかったの……」

 「オレもなんもやってないぞ」

 「でも……、それは……」

 「違うと言ったら次はこれが顔面にめり込みます」

 一葉は見せつけるように拳を作り、なのはは押し黙ってしまった。ここで口答えすると、一葉は本当に殴る人間だと知っていたからだ。

 「あのさぁ……、もしオレが我儘を言わないでなのはと一緒に行動をしてたらなのはが違和感を感じた時にこんなことにならなかったかもしれないし、今なのはがこんなに苦しい思いをしなくても済んだかもしれないだろ。 でも、起こったっことを後悔し続けてもなにも始まらんだろ」

 一葉は溜息を交えつつ言葉を続けた。

 「過去を振り返ることは間違いじゃないけど、どの道人は前に進まなきゃならない。 後悔を糧にして道を歩み続けなければならないんだ。 あん時にああしてたら、こうしてたらなんてイフの話しをいくら口にしても過去に帰れるわけじゃないんだよ」

 なのはは鳶色の瞳を吸い込まれるかのように見つめていた。雰囲気に呑みこまれているのかもしれない。今の一葉の言葉は、時間を重ねた老人の言葉のようになのはの心に染み込んで行った。

「でもな、一番してはいけないことは自分の犯した失敗をなんとも思わないことだ。 失敗をして、それを何度も繰り返すことはなにも学ばずにまた同じ間違いを繰り返すことになる。 でも、なのはは今の自分を後悔してるんだろ? それだったら、それでいいんだ。 その後悔を次に繋げればいい。 もし力が必要だったんんら俺がいつでも手伝うよ」

なのは一葉が紡ぐ言葉にグッと喉元が締められたような気がした。慰めでも同情でもなくて、ただ真っすぐな言葉が嬉しくて嬉しくて、なのはは今まで流れてこなかった涙がどっと溢れ出てきた。

なんでこの人はこんなにも優しいのだろう。なんでこの人は自分が欲しい言葉を、一番欲しい時にくれるのだろう。
 なのはの胸の内に渦巻いていた後悔の感情は波を引き、代わりに一葉のあたたかな言葉が胸を打ち響いた。

 「振り向くなとか、後悔なんてするなとか偉そうなことなんて言えないけどさ、それでも自分のやってきたことを否定しちゃいけない。 自分の過去を否定することは、自分自身を否定することだ。 それでも後悔することが嫌だったら強くなればいい。 自分自身に迷いを持たないぐらいにね。 それが、今のオレに言える限界」

 なのは瞳を真っすぐな視線で見据えながら言う一葉の言葉に、名乗っは胃の底から沸き上がってくる熱い歓喜を覚えた。
 そして、同時に今の今まで一葉を疑っていた自分を恥じた。
 変わらないのだ。魔法という異端の力に出会っても、一葉が隠し続けてきた能力が露見しても、今まで自分が共に時間を重ね合わせてきた緋山一葉という少年は決して変わらないのだ。

 「一葉くんは……いつもずるいよ……」

 なのはは流れです涙をぬぐいもせずに、鼻水を垂らしながら言った。
 自分でだけではどうすることもできなかった心の内に沈殿した沼のような感情を、一葉は言葉だけで吹き飛ばした。
 そうだ、一葉はいつだって自分の傍にいてくれた。いつだって自分ことを理解してくれて、いつだって欲しい言葉を与えてくれる。どんなときだって自分を助けてくれるのだと。
 そう思いこんでしまうほどに、一葉の優しが嬉しかった。

 なのはは声もあげずに、涙をこぼし続けた。そんななのはを一葉は困った笑みを浮かべながら、ずっとそばに居続けてくれた。


 ◇◆◇


 「……寝過ごした」

 「私は何度も起こしましたよ?」

 一葉はベッドから上半身だけを起こして鳴らなかった目覚まし時計を手に呟いた。時間は丁度正午を指していた。

 「御友人との約束の時間、だいぶ過ぎてしまっていますね」

 ちなみに約束の時間とは午前十時だ。非難するベヌウの視線をうなじに感じながら一葉は枕元に置いてある携帯電話に慌てて手を伸ばした。


 ◇◆◇


 「二秒で来い」

 簡潔な言葉は余りに無茶な要求だった。
 携帯電話の受話器越しに耳に届くのはアリサの低い声だ。この日は月村邸で催されるお茶会に参加するという約束を以前から交わしていた。
 お茶会と言っても堅苦しいものではなく、紅茶を飲みながら世間話をするという子供の背伸びのようなものだ。
 だが、一葉は昨夜深夜の特番でやっていた心霊現象検証番組を見ていた為、今朝起きることができずに布団の中で約束の時間を二時間ばかり過ごしてしまっていた。
 一葉は充電器に繋いだままの新しい携帯電話、以前のものはベヌウに消し炭にされて市あったので買ったばかりの折りたたみの黒い携帯電話を確認すると、何件かの着信とメールを受信していて、主催であるすずかからの着信をリダイヤルすると三コールも無い内になぜかアリサの声が耳に響いたのだ。

 一葉は正直に、「寝坊しました。 ごめんなさい」と伝えたところアリサの声からは受話器越しでもわかる明確な不機嫌が伝わってきた。

 今日のお茶会ではユーノとベヌウのお披露目が企画されていた。事の発端は三日前になる。
 アリサとすずかには黒い羽の鷹を拾ったと伝えてから半月近くの時間が過ぎているが、五日見せると言っておきながら未だに機会がなかった。
 それは魔法やジュエルシードのこともあって一葉は最近腰を落ちつけられない状況が続いていたこともあるがアリサも、特にすずかは他人の感情に機微なところがあるので、きっとなにかを察していてくれたのだろう。それまでしつこい要求をしてくるようなことは決してなかったのだが、なのはが口を滑らせてくれたのだ。

 その日は霧のような雨が降っていた。曇天から舞うように落ちてくる滴を傘で弾きながら放課後の通学路をいつもの四人で歩いていた。
 一葉は雨で黒に近い灰色に彩られたアスファルトに出来上がった水溜りを蹴りながら歩いていると、会話の話題は各々の家で飼育しているペットからそれとなくユーノの話しへと移っていった。
 動物病院へ連れて行ってから、アリサとすずかはユーノを見ていない。近いうちにお茶会にでも連れてくるということになっていたのだが、その時になってアリサが思い出したかのようにベヌウも連れてくるように言ったのだ。
 一葉も、おそらくアリサ自身もその場限りの会話だと思っていたのだろう。一葉がいつものように、「時間ができたら」と話題を打ち切ろうとした前に、なのはが言葉を被せてきた。

 「え? “二人にはまだ”見せてないの?」

 同時に強烈な痛みが肩に走った。両肩に鉤爪のように食い込む指先。右はアリサ、左はすずかのものだった。

 「“二人にはまだ”……、ってことはなのはには先に見せてあげたってことよねぇ?」

 「なんでなのはちゃんだけ特別なのか、少し詳しく聞きたいなぁ~」

 二人の低い声が蛇のようにうなじに這う。
 一葉がこめかみに汗を浮かばせながら言い訳を始める姿を見て、ようやくなのはも自分の失言に気がついたのか両手をワタワタとして弁解を始めるが時は既に遅く、胡散臭げな二人の視線に丸めこまされてしまっていた。
 この年頃の少女はみんな一緒、なんでも同じものをという共有意識が強い。それは普段接している時間が長く濃密なほど顕著に表れるものだ。なのはは最近のごたごたでそのことを失念していたのだろう。
 結局、今までの気遣いはどこに行ってしまったのかと疑いたくなるほど強引にお茶会でベヌウを連れていくことが決められてしまったのだが、いざ当日となると一葉は寝坊。なるほど、アリサが怒り狂うのもこれでもかというほどに納得できてしまう。

 一葉は受話器の向こうにいるアリサになんども頭を下げ「只今まいります」としか言えなかった。

 「一葉は女性に弱いのですね。 以外です」

 「なに言ってんだよ、いつだって社会を支えてんのは女の方さ。 というか、腕っ節以外で男が女に勝てる要素があるとは思えん」

 「一応、私もAIの構築的には雌に分類されるのですが」

 「めんどくさいのは人間だけで十分だ」

 一葉は手早く寝巻から普段着へ着替えると、寝癖を整える時間を惜しんでとりあえず輪ゴムで髪を後ろで縛った。
 そんな一葉の横顔にはどことなく覇気がない。普段と違う様子にベヌウは怪訝に思い見ていると、そんな視線に気がついたのか一葉は重たそうに口を開いた。

 「今日さぁ、恭也さん来てんだよね……」

 「恭也……、確か高町嬢の兄君でしたか。 それがどうかしたのですか?」

 ベヌウは実際に恭也に会ったことはないが、今までのなのはと一葉の会話やその他の節々から聞いてなのはの兄であることを知っていた。ついで付け足せば、すずかの姉の忍の婚約者でもある。

 「んー、オレなんかあの人に嫌われてるっぽいんだよね」

 んなアホな。とベヌウは内心で思った。

 「確か恭也氏は大学生でしたよね。 そんないい大人が一葉のような一回り以上年下に嫌悪の感情を向けるなど常識的に考えて有り得ないと思うのですが」

 「オレも詳しく走らんが、なのは曰く高町家の住人はみんな武道の達人なんだそうな」

 「あー……」

 その言葉でベヌウはようやく納得した。一葉の振る舞いは歩き方だけでなく立ち方から既に違う。常に体感の中心に重心を置いて、踵を浮かせたすり足のような歩き方は一葉の前世の記録の浸食によって滲み出る行動だ。
 六十数年かけて培った武の積み重ねを、僅か九歳の少年が呼吸を擦るかのような自然な動作で行っていれば、確かに薄気味悪いだろう。

 「ま、別に直接なにかしてくるって訳じゃないからいいんだけどね。 視線が痛いんだよね、特になのはといる時は」

 一葉はアルデバランをトップにしたネックレスを首に通すと、ベヌウは机の上から一葉の肩に飛び移った。

 「さて、行きますか」

 月村邸のお茶会では一般庶民である一葉が中途半端なお茶菓子を持って行ってもかえって気を遣わせてしまう為に手ぶらだ。
 一葉はズボンの後ろのポケットに財布を突っ込むと部屋を飛び出た。


 ◇◆◇


 一人の少女が海を見つめていた。
 月のような金髪と、絹のように強い肌。宝石のように赤い瞳。少女の名前はフェイト・テスタロッサ。
 この街に落ちたジュエルシードを求めてやってきた、魔導師だ。

 フェイトは波打ち際まで進んでは、不意に諦めて戻る波を見続けていた。
 雲一つない空に浮かぶ太陽の鬣は風に凪ぐ海を照らし海を輝かせているというのに、フェイトを包んでいるのはあたたかな闇だ。
 世界で一番大好きな人が与える、笑いたくなるほどに悪意に満ちた辛辣な言葉の刃は身体ではなく心を抉る。その傷は言えることなく膿み、鈍い痛みとともにフェイトの心を黒いもので満たしていた。

 フェイトは母の命令でこの地に来た。願いをかなえるロストロギア、それに母がいったいなにを願うのかはわからないし、知りたいとは思うがきっとそれは聞いてはいけないものだとフェイトは思っていた。
 ただ、ここに居るのは母の為に。大好きな母に自分を好きになって貰う為に、ほんの少しでも認めて貰う為にフェイトはここに居る。

 幸いにも、この世界は魔法文化のない世界だ。他に魔道師はいないし、万が一戦闘になったとしてもジュエルシードを取り込んでしまった暴走体程度だと思っていた。それならば、時空管理局が感づく前に全てを終わらせてしまえばいいだけの話しだ。
 だが、事態はフェイトの斜め上を行っていた。

 「私の他にも、ジュエルシードの探索者がいる……」

 洞窟のように感情の抜け落ちた声が、フェイトの唇から零れ落ちた。
 フェイトが地球に来たのは先週のことだ。そして初めに見た光景は森に押しつぶされ壊れた街並み。その惨状はジュエルシードが引き起こしたものであることは容易に想像がついが、その場にジュエルシードはなかった。
 ジュエルシードは一度暴走を始めると魔道師が封印処理を行うまで止まることはないと母に聞かされていた。
 つまり、この街にはフェイトの他にもジュエルシードを封印できる魔道師がいるということになる。
 思ったよりも厄介なことになるかもしれない、という思いとは裏腹にフェイトはどうとでもなるような気持でもあった。

 その魔導師がジュエルシードを持っているのならば力づくで奪えばいい。
 自分の前に立ちはだかるというのなら、薙ぎ払えばいい。
 それが犯罪であることは知っている。それでも、フェイトは自らの罪悪感を薄れさせるほどの未来があると信じていた。
 フェイトはジュエルシードを母の元へと持って帰るという揺るぎない決意を再確認すると海から視線を外して探索に戻ることにした。
 本来ならば、こんなところで時間を浪費している暇などないのだ。
 それでも、フェイトはまだ幼かった頃の思い出、優しかった母に連れられて行った海を思いだしてつい懐古してしまったのだ。

 これが終わればきっと、あの日に戻れる。私は母さんと幸せになれる。

 フェイトは暗い闇に落ちる希望の光を信じて歩き出す。が、ここであることに気がついた。

 「お財布が……ない……?」

 何気なしに触ったデニムのスカートのポケットに在るはずの感触がなかった。
 それは赤い折りたたみ式の財布で、中には地球で使える通貨とカード、それと偽造した身分証などが入っており、地球での生活で必要な全てが収められていた。
 つまり、それがないとこの世界で生活ができない。

 どうしよう……!
 どうしよう……!
 一度母さんのところまで戻るか……。いや、それはできない。こんなことで母さんの手を煩わせるようなことをしたら失望されてしまう。自分の力でどうにかしなければ。

 しかし、フェイトの焼けつくような気持ちとは裏腹に、財布といつどこで落としたのか見当もつかなかった。
 家から歩いてきた道中か、立ち寄ったコンビニか、それとも空を飛んでいた時か。
 空を飛んでいた時ならば見つけるのは絶望的だ。捜索範囲が広すぎる。

 自分はなんて間抜けなのだろう……。

 フェイトは自分が情けなくて目頭が熱くなってきた。

 「あのー……」

 フェイトがどうすることもできなくて立ち竦んでいると、不意に後ろから声をかけられた。
 一瞬戸惑った。声をかけられるまで接近されていたことに気がつきもしなかった。だが、フェイトは声に振り返ると感情の振り幅は一瞬にして真逆なものになった。

 立っていたのはフェイトと同い年ぐらいの少年だ。強い癖の入った黒い髪をうなじで一つに束ねていて、肩には黒い鳥を止まらせている。
 普段ならば、あまりの特徴的な鳥の方に視線を奪われるだろうが、フェイトの目は少年の手に釘づけにされた。

 「それ……!」

 少年の手には、フェイトが落とした財布が握られていた。
 フェイトは歓喜と、そして感謝の言葉を少年に伝えようとして、ドキリとした。
 少年がフェイトを見る目、それは驚愕に染まっていてまるで幽霊を見ているかのような表情をしていたからだ。

 「アンラ……マンユ……?」

 少年はフェイトを見ながら、震える声でそう絞り出した。


 ◇◆◇


 一葉は息を切らせて走っていた。原因は定期的に振動する携帯電話のせいだ。

 「二分で来い」

 最初に言われた時よりも百八秒の猶予を与えて貰ったが、本当に二分おきに電話が振動するからたちが悪い。
 一葉の家からすずかの家まで少なく見積もっても一時間はかかる。もう開き直ってゆっくり行ってもいいのだが、一葉の心臓はアリサに対する恐怖で支配されていた。
 今は電話の振動は無視しているが、最初の方に応答した時のアリサの声は氷のように冷たく鋭い声で、冷ややかなものが一葉の背筋を駆け抜けていった。それはアリサが本気で怒っている時の声だ。
 電話の向こう側では携帯のディスプレイを割らんばかりの握力を込めて話している姿が想像できた。

 ちなみに、怒りのゲージがマックスになった時のアリサの逸話として、こんな話しがある。
 それは一葉が聖祥に入学して一年と少しが過ぎた頃、一葉はなのは達と交流を持つようになるまでいわゆる苛めというものに遭っていた。名門の私立小学校といえど、いやむしろ名門だからと言うべきなのかもしれない。選民意識の強い私立、それも心根が根付くまでの不安定な幼少期において群れかたがわからないものに行われる、群れることに成功した者たちの洗礼を受けていたのだ。
 一葉はそもそも群れるつもりも無かった。
 この世界で、全てが馬鹿らしく思えた。社会に守られて、大人に守られてのうのうと暮らしている少年少女が厭わしく思えた。
 埋もれた歴史を知りもしないで、ただ与えられる平和を貪り続ける社会が疎ましく思えた。足元に積み重ねられた屍を、自分達は仮に世界だと呼んでいるだけなのに、それに気付きもしない者たちを軽蔑した。

 無知とは罪だ。そして無知の塊である子供たちに、一葉が合わせて群れることなど有り得なかった。
 一葉は誰よりも孤立していたくせに、成績や身体能力は高かった。そんな一葉が苛めの槍玉に挙げられるのは自然の流れだったのかもしれない。

 最初は無視から始まった。まるで透明人間のように、そこに居るのに居ないよな扱いは瞬く間にクラス中に伝播していき、一番後ろの席などプリントがわざと配られないこともあった。
 そして時間が経つにつれて、それは少しずつ陰湿なものへと変貌していき上履きや鞄がなくなることや、ノートや鉛筆がゴミ箱に突っ込まれていることなどが日常的に行われていった。
 子供は無邪気なゆえに悪意を知らない。周囲に流されることが善であると思い込んでいるクラスメイト達は徐々にその数を増やしていったのだが、それはある日を境にパタリと止んだ。
 一葉がアリサ達と出会った日だ。
 なのはは当時、クラスでは孤立していたしすずかも自分の殻を作り上げ閉じこもっていた。アリサはアリサで、苛めなどという陰湿なものに加わる心根は持ち合わせてはいなかったが、クラスで苛めが起きていることは察していた。
 だが、それが一葉だとは思いもよらなかったらしく、一葉が苛めの標的にされている気がついてから直ぐに一葉に、それは事実かと問い詰めにきた。
 一葉は、その時は興味な下げに事実だけを簡潔に伝えた。
 時間が経てば苛めている側も飽きるだろうし、正直一葉自身苛めに遭っているということ自体が興味なかったのだ。
 自分が可哀想だとは思わなかったし、今の現状をどうにかしようなどとも思っていなかった。
 だが、一葉の話しを聞いたアリサは、口角を吊り上げて背筋が凍るほどの笑みを浮かべた。
 単色の感情に塗りつぶされた瞳は一葉ではないどこかを映し、その笑みを見た一葉の直感が、この少女を敵に回してはいけないという警鐘の音は忘れることができないままだでいる。
 そして、その直感が実に正しかったことを一葉は翌週に知ることになった。

 週が開けての月曜日、一葉がいつも通りに教室に行くとその日は席に空きが目立った。その時は気にも留めなかったが、ホームルームの時間に担任の教諭が席に居ない人間は急な転校が決まったということが伝えられた。
 同じクラスの人間が、まるで照らし合わせたかのように時期外れの転校。そんな偶然があるはずがない。
 そして何気なく彷徨わせた視線の先に、一葉は腹の底から沸き上がる歓喜を噛み殺しているかのような笑みを浮かべるアリサが目に入ったのだ。そこで一葉は初めて姿を消した生徒たちが、自分を苛めていた主犯格の人間ばかりだという共通点に気がついた。
 ホームルームが終わると同時に、アリサは真っすぐと一葉の席の前に来てこう言ったのだ。
 「これで……、アンタを苛める人間はいなくなったわよ」

 チェシャ猫のように無邪気に歪むアリサの顔はいつも通りに可憐な美貌を持ち合わせているのに、触れれば溶けてしまいそうな危うさも内包していた。

 普段は友達思いで正義感が強く、常に他人のことを気にかけている善人を絵に描いたような人柄をしているのに、家族や友達、自分を大切に想う者に危害を加える者にはそのベクトルは見事に反転する。
 一葉はしばらく後になって知ったのだが、アリサの家は人の人生など簡単に操作できるほどの資産家らしい。
 ちなみに転校していった少年たちの行方を知る者は誰もいない。

 ともあれ、今回はおそらくすずかに関してのことでアリサの逆鱗に触れたのだろう。この年頃の子どもは親しい間柄の人間と情報の共有を渇望する傾向があるし、アリサ自身も黒色の鷹を見ることをかなり楽しみにしている様子だった。それが、いざ当日になると一葉の寝坊というのは、憤慨されても文句のつけようがない。
 つまり、時間が経てば経つほどに事態の収拾が面倒臭くなるのである。

 一葉は一秒でも早く月村邸へと辿りつく為に、普段使っている商店街のルートではなく海鳴公園を横断するルートを選んだ。
 この時間帯ならば、公園を抜けた先にある大通りのバスが丁度いいはずだ。
 額と首筋に玉のような汗を浮かばせながら、長く続いた冬の凍土を溶かそうと降り注ぐ太陽の光の下を走り続ける。流れるような景色で、視線の先に赤い小さなものが落ちているのが視界に入った。
 それは自然との調和をコンセプトに作られている海浜公園で明らかに浮く、人工の赤色をした女ものの財布だった。
 一葉は速度を落として、財布を拾い上げる。すると掌にずっしりとした重量を感じた。明らかに一カ月分の給料がそのまま入っていそうな重みである。

 「うわー……、どうすんべー……」

 一葉はどうしたらいいものかと呼吸を整えながら思案した。一度拾ってしまったからにはそのまま見て見ぬ振りもできないし、落とし主も困っているはずだ。
 だが、交番は遠いい。

 『一葉、あちらで挙動不審な少女がいるのですが、もしかしたらそれの落とし主かもしれませんよ』

 一葉はベヌウに視線で促された方向を見ると、雑木林の向こう側、木々の隙間から確かになにかを探しているような仕草をしている少女がいた。

 「お前、目ぇいいなぁ……」

 一葉も視力にはそれなりの自信があるが、それでもベヌウが指した人物はほとんど点でシルエットで辛うじて性別がわかる程度でしか捉える事ができなかった。

 『私の素体は猛禽類ですよ? 人間よりも視野が広く深いのは当たり前です。 その気になれば夜の海に投げ捨てられた針だって見つけ出すことができます』

 北海道の大鷲は雪原に同化した雪兎も的確に補足して捕えるという。同じ猛禽を素体につくられているのであれば、デバイスという兵器として造られたベヌウはその索敵能力は野生の遥か上をいくのだろう。

 一葉はとりあえず軽い駆け足で少女の方へと向かいことにした。距離が近づくにつれてその輪郭がはっきりとしていく。後ろ姿しか見えないが、この辺りでは目にすることはあまりない外国人だった。
 くすみのない艶やかな金髪。アリサの金色が太陽の色だとすると、その少女は月の光のようだ。それを二つに纏めている。
 一葉が近づいていることに気がついていないらしく、ずっと下を剥いたままうろうろとしていた。
 とりあえず、この少女に財布の持主であるかどうかを聞こう。それがそうであれば万事解決。違ければ、申し訳ないがこの事は無かったことにしよう。

 「あのー……」

 一葉が声をかけると、少女は振り返る。

 そして、一瞬一葉の時間が止まった。

太陽の光に反射する、絹のような美しい髪。
 鬼火のような白い肌。
 見ているだけで吸い込まれてしまいそうになる、燃え上がる煉獄から生み出されたガーネットのように赤い双眸。
 名工が作り上げたビスクドールのように、作り物を思わせるほどの美しさを持った少女を、一葉は知っていた。

 「アンラ……マンユ……」

 かつての一葉が手を下した、自らを世界と名乗った少女がそこには居た。


 ◇◆◇


 困惑した二人の間に海から運ばれる湿った風が吹き抜ける。
 生臭い潮の香りを孕んだ風は、一葉の鼻孔に粘りつくように入り込み冬の鉄のように硬く、冷たくなった思考を緩やかなものにさせた。

 目の前いる少女は驚くほどアンラ・マンユと容姿が似ているとはいえ、冷静になって注視すれば少女の雰囲気、第一印象とも言うべきかもしれない。それがまるで違う。
 アンラが冷静と孤高を内包し、決して揺るがない北極星だとしたら、少女は夜とともに姿を変える儚い月のような印象だ。
 少なくとも、アンラはこんなところに居るはずはない。一葉はサッと引いた血が心臓から指先まで戻っていくのを感じると、同時に絞ったように苦しくなっていた喉が緩んだ。

 「あー……、ゴメン。 知り合いにすごく似てたから驚いてた。 それより、これって君の?」

 「あっ! そっ、そうです!」

 一葉は手にしていた財布を差し出すと、少女は白魚のように細く華奢な指先で財布を受け取り、大事そうに胸元で抱えると、ホッと安堵のため息をつく。そして、二つに纏めた金髪を無造作に空中に躍らせながら大げさに頭を下げた。

 「あの……! ありがとうございました……!!」

 「別に気にしなくていいよ。 拾ったもんそのまま渡しただけだし。 でも、これからはそんなに中身入れない方がいいよ」

 「はい……」

 一葉が軽く注意すると、少女は雨に打たれた花のようにシュンと萎れてしまった。そんな姿を見て、一葉は軽く息を吐くと自分の財布を取り出し、ホルダーに付けていたキーチェーンを取り外し、少女に差し出した。

 「はい、これ」

 「え? これって……?」

 一葉の掌に乗っているのはなんの装飾もされていない、無骨なデザインの鎖だ。少女は半ば反射的に受け取ると、どういう用途で使用するものなのかわからないらしく、一葉とチェーンを見比べた。

 「それ、キーチェーンだよ。 財布を落とさないように、両端の金具で財布とズボンを繋げんの。 それ、あげる」

 「え!? そんな、悪いよ!」

 「いーよ。 同じようなの他に持ってるし」

 ワタワタと両手を振る少女に、一葉が早く財布に着け売るように促す。鎖を持ったまま手を振るものだから、鎖がビュンビュンと空気を切り裂く音を上げて危ない。
 少女は俯きながら申し訳なさそうな声でありがとう、と言うとおぼつかない手つきで財布のホルダーに金具をつけ始めた。

 「あの……、なにかお礼を……」

 金具と金具をぶつけ合う音がカチャカチャと響く。少女は上目遣いで窺ってくるが、一葉は面倒臭そうに手をヒラヒラと振って答えた。

 「いいよ。 そういうのめんどくさいでしょ?」

 「だめ!!」

 少女が口調を強めると同時に、カシャンと鎖が型にはまる音がやけに大きく響いた気がした。今までの抑え気味な態度とは打って変わって、押し気味な口調に一葉は一歩身を引いてしまう。
 少女の方も、無意識のうちに声を荒げてしまったことに羞恥で顔を赤く染めていた。

 「あ……、あの……! 恩を受けたらきっちり返せって、母さんが言ってて……!」

 「ああ……、そうなんだ……」

 取り繕うように言葉を紡ぐ少女に、一葉は戸惑いながらも相槌を打つ。

 「ありがたいんだけど、今はちょっと急いでてさ……」

 「でも……、ここまでして貰ってなにもお礼ができないんじゃ……私が納得できない……」

 呟く少女の瞳には真摯な光が宿っていた。見たところ一葉と同い年ぐらいだろうか、真っすぐと心根の優しい少女に、一葉は気持ちが朗らかになっていくのを感じた。

 二度目の人生、そして二度目の九歳は家族にも友人にも恵まれなに不自由なく過ごすことができているが、かつての人生では人生の転機とも呼べる出来事があった。
 それは生涯の主君と出会ったこと。思えばあれが全ての下り坂だったのかもしれない。
 千年続いた戦国の世、流された血と積み重ねられてきた業。哀しみの鎖で繋がれた負の連鎖を共に断ち切ろうと言った主。
 それは決して歴史の表舞台には現れない、人と人との争いではなく、人と人を超えた者の争いへの誘いだった。
 異能の力を持って生れた自分。身に流れる異端の血は己の為でなく、ただ主の為に忠義を尽くす一本槍であろうと心に誓った。
 だが駆け抜けた戦場が百を超す頃に誓いは破れ、誇りは砕け、忠義は絶望と呼ぶ名の風と雨に晒され朽ちていった。
 そうなるように仕向けたのはアンラだったが、あの無の世界でアンラに会った時、一葉は不思議とアンラを憎むことができなかった。
 それは肉体が滅んだために記憶が記録になったせいか、もしかしたらそもそも憎しみと言う感情自体を持っていなかったのかもしれない。
 一度目の人生、あの時の一葉は壊れていた。気が触れてしまったわけでも、狂ってしまったわけでもない。自分が壊れていると自覚できる壊れ方をしていたのだ。
 そして、それはアンラにも同じことが言えただろう。
 自分を殺すという禁忌を躊躇うことなく臨んだ少女はきっと一番壊れてはいけないところが壊れてしまっていたのだろう。
 そして、そんなアンラと同じ容姿をした少女が目の前に居るということがなんとなく奇妙な感覚がした。

 「じゃぁ、貸し一つってことでどう?」

 「貸し一つ?」

 一葉の妥協案に少女はキョトンとした表情で首を傾げた。

 「つまり、今度オレが困ってた時に助けてってこと。 それでチャラってことでどうよ?」

 「え……、でもまた会えるかわからないし……」

 「わからないってことは、また会えるかもしれないってことでもあるでしょ。 日本ではそういうのを“縁”っていうんだよ」

 「“えにし”……?」

 「そ。 次に会った時、お互いに名無しじゃなんだから自己紹介しとこう。 オレは緋山一葉。 緋山がファミリーネームで一葉がファーストネーム」

 「私は……、フェイト。 フェイト・テスタロッサです……」

 フェイトはどこか気恥ずかしそうに、はにかみながら言う。
運命の名を持つ少女との出会いは、まさしく一葉を運命の渦へと導く始まりだった。



[31098] 9!
Name: 三鷹の山猫◆ef72b19c ID:d1000a7d
Date: 2012/03/01 22:56
 「じゃあ、オレは急ぐから機会があればまたね」

 一葉はそう言い残すと再び走り出した。目指すは月村邸である。
 フェイトと話している間も二分刻みで振動する携帯電話の振動がズボンの布越しに伝わってくる感覚は、もはや喉元に突きつけられたナイフと同義であった。
 通り抜ける公園の出口で逸る気持ちを抑えながら、一葉は一旦振り返ると視線の先でフェイトが一葉に大きく手を振っていた。
 一葉は同じ動作でそれに答えると、道路に飛び出す前に左右を確認して再び走り出す。

 『アンラ・マンユとは、以前に話して下さった世界のことですよね。 あの少女は見間違うほどに似ていたのですか?』

 一葉が公園から出ると、ベヌウが念話で話しかけてきた。
 車が矢次に走る大通り沿いの歩道には人影が多い。一葉はベヌウの問いかけに念話で答えた。

 『正直ビビった。 でも容姿が似てるだけで中身は別だよ。 アンラがこんなところに居るはずがない』

 『一応報告しておきますが、先ほどの少女は魔道師でしたよ』

 『……マジで?』

 『本気と書いてマジと読みます。 それに無視できないレベルの魔力を有していましたし、デバイスらしきものも持っていました。 魔法文化のない世界に魔道師が来ることなんてほとんどありません。 だとしたら、可能性は一つです』

 『ジュエルシード絡みかぁ……。 これは、思ったよりも再会が早そうだなぁ……』

 一葉は足の速度を緩めて頭を掻いた。
 大通りのバス停まではあと少しだ。ここまでくれば、ゆっくりと歩いても間に合う。

 『ユーノが言っていた管理局ってやつかね?』

 『そこまでは判りませんよ。 管理局云々については後ほどユーノ・スクライアに直接聞きましょう』

 管理局と言うのは、正式名称“時空管理局”という組織だ。文字通りあらゆる次元世界を管理する組織らしく、法執政と警察機関をくっつけたようなものらしい。
 ロストロギアが魔法文化のない世界に落ちたならば、間違いなく動くだろうとユーノが言っていた。
 と、不意に心臓の奥が指先でなぞられる違和感が一葉を襲った。ここ最近で感じ慣れた、ジュエルシードが発動した兆しだ。

 『うっわ……。 タイミング悪っ』

 『お気の毒さまです』

 一葉は足を止めて頭を抱えた。
 なのはは今頃月村邸でお茶を飲んでいるので身動きが取れないだろう。最悪アリサの連絡を無視して一葉がジュエルシードの元へ駆けつけたとしても一葉は封印ができない。壊していいのなら話は別だが、封印処理に関しては一葉はとことん役立たずなのだが、だからといって放置したままでいる訳にもいかない。

 『ベヌウ。 詳しい位置教えて』

 一葉はベヌウにジュエルシードの詳細を尋ねた。
 最近魔法に触れ続けていたおかげで、リンカーコアが活性化しているのか魔力の反応に関してはだいぶ敏感になったが、それでも一葉はなんとなくでしか感じることができなかった。
 ジュエルシードの反応は強力で、本来ならば魔道師として平均程度の実力があれば詳しい位置も感知できるらしいのだが、一葉の索敵能力は壊滅的らしくベヌウとユーノからお墨付きを貰っている。

 『ここから北西2.5km。 幸い密集した住宅地からは離れているようです』

 『あいよ。 こっから北西に2.5km……、2.5km?』

 ベヌウに言われた方角を頭の中にある地図と照らし合わせる。そして一葉は深い溜息を吐いた。

 『そこ……、多分すずかん家だ……』


 ◇◆◇


 『なのは!』

 『うん! すぐ近くだ!』

 月村邸のラウンジで猫と戯れながら、アリサとすずかとお茶を楽しんでいたなのははジュエルシードの発する不穏な気配を感じ取った。
 月村邸の敷地にある深い森。そこから発せられる、滲み出るような強力な魔力の波動はなのはの心臓の奥にあるリンカーコアを刺激する。

 『どうする?』

 『え? えぇとぉ……』

 なのはは自分の周りに視線を彷徨わせた。柔和な笑みを浮かべて子猫を抱き上げているすずかと、一葉が来ないことに不満そうに頬をつきながらテーブルの上で腹を出して寝ている猫のへそを指先で弄っているアリサがいる。
 逡巡するなのはの中に焦りが燻ぶり始めた。
 いきなり席を立ってこの場から森に駆けだすと、戻ってきた時に二人からの追及は免れない。言い訳を連ねても、聡いこの二人を相手に巧みに真実を隠して作り話をでっちあげられる自信などなのはにはなかった。
 しかし、こうしている間にもジュエルシードは完全な暴走を始めてしまうかもしれない。焦げ付くような苛立ちと焦りが胃の中で熱を持ち始めた時、ユーノが思いついたように声を上げた。

 『そうだ!』

 ユーノは言うと、なのはの膝からスルリと降りて一直線に森へと駆けだした。

 「あっ! ユーノくん!?」

 思わず念話ではなく肉声で声を上げるなのはに、ユーノは視線を森に向けたまま念話を飛ばす。

 『なのは! 僕を追いかける振りをしてついてきて!』

 「え? あ!」

 なのははユーノの意図を理解して慌てて席を立つ。

 「ユーノどうしたの?」

 突然走り出したユーノに、アリサは怪訝な表情でその後ろ姿を見ていた。

 「なにか見つけたみたい。 ちょっと探してくるね」

 なのはは曖昧な笑みを浮かべて言うと、すずかも席を立とうとする。

 「私も一緒に行こうか?」

 「ううん、大丈夫だよ。 直ぐに戻ってくるから、二人とも一葉くんを待っててあげて」

 やんわり断るなのはは、胸にチクリとした痛みを覚えながらも、森に姿を隠したユーノを追いかけて走りだした。


 ◇◆◇


 なのはが森の入り口に入ると、アリサとすずかからは見えない位置でユーノが待っていた。
 森の中は薄暗く、手を広げるように生い茂る木々の隙間から太陽の光が差し込んでいる。ひんやりとした空気は深閑としていて、夏が訪れる前の深い緑色で彩られていた。

 ユーノはなのはが追い付いたのを目で確認すると、そのまま押されるようにして森の中を駆け抜けていく。
 少しずつだが、確実に強まっているジュエルシードの力の波動を感じながら、なのはは汗で湿った指先でレイジングハートを握りしめた。

 なのはの脳裏に過るのは五日前の出来事だ。人間が発動させたジュエルシードは瞬く間に海鳴の街を呑みこみ混乱を引き起こした、まるで悪夢のような出来事。
 使いようによっては簡単に人を殺すことができる力であると、なのはは実感せざるを得なかった。
 その力がすずかの家で発動しようとしている。
 五日前と同じことが起こってしまうのではないか、すずかとアリサを巻きこみ傷つけてしまうのではないかという恐怖が、なのはの胸の内に黒い水のようになのはの心に溢れ出ては染み込んでいく。

 そして、一葉がこの場にいないことがたまらなく不安だった。
 甘えるなと言われたが、それでも側に一葉がいるのといないのとでは安心感がまるで違う。
 ユーノが言うには、一葉の力は極端に偏っていて魔力自体は強いが索敵や砲撃魔法といった魔力を外部へ放出する才能がまるでないらしい。
 それでもジュエルシードほどの強大な力ならば違和感程度は感じるだろうし、一葉の傍にはベヌウがいる。
 今の発動にも気がついて直ぐに来てくれるはずだ。そうすれば……、となのははそこで思考を止めて頭を小さく振った。

 ダメだ……。また、一葉くんに頼ろうとしてる……。

 「大丈夫……。 私と、ユーノくんだけでも……」

 なのはは自分に言い聞かせるように、小さな声で呟いた。

 一葉がなにかに悩んでいることになのはは気がついていた。言葉にして伝えられたわけでも、明確な意思表示があった訳でもないがそのことは間違いないはずだ。
 それは半月ほど前。ちょうど、最初のジュエルシードが暴走した夜を境目にしてだ。
 元々浮世離れしているような雰囲気を持つ一葉だったが、魔法と出会ってから黄昏を見つめる老人のような深い憂いを湛える目をしていることが多くなった。
 その目つきをしている時の一葉は、まるで鏡に映った花か、水に映った月のようで、そこにあるのに触れることができない儚い幻を見ているような寂しい気持ちになった。
 そして、今越している瞬間も実はただの夢で、一葉は幻となっていなくなってしまうのではないかという不安が水に垂らした墨のようにじわじわとなのはの胸に広がっていた。

 すずかとアリサにはどう説明していいのかわからないし、ユーノは一葉のことをどこか疑っている。
 なのはは抱えた不安を誰にも相談できず、一人胃の中に鉛のような重みを沈めていた。

 それでも、自分にできることがないわけではない。一葉に頼らず、ジュエルシードを封印することができれば少なくとも安心させることはできるはずだ。
 自分にできることはそれぐらいしかないのだから、となのはは決意を胸の内に灯した。

 背の低い笹の絨毯を掻き分けながらしばらく走ると、ジュエルシードの魔力はより強いものになり、堰の見えない茂みの向こうで白銀色の光が天を衝いた。

 「完全に発動した!!」

 なのはの押し出すような叫びにつられて、ユーノも声を張り上げる。

 「ここじゃあ人目につきすぎる! 結界を張らないと!!」

 ユーノは足を止めて魔法陣を展開する。足とに浮かび上がる魔法陣は、模様はなのはのものと同じだが、ユーノのものは若草色の光を発していた。
 その光は魔力光と呼ばれ、指紋のように個人によって色が異なるらしい。事実、なのはは桃色で、ベヌウは黒、一葉は鋼色をしている。
 反発しあうように回転する正方形の陣を中心に、新緑の森は瞬く間に時間の死んだモノクロの世界に塗り替えられていく。

 停滞する空気。
 その中でなのはは突き上げる光の先を見据えていた。

 今度は一体どんな化け物が姿を現すのだろうかという恐怖が手足を冷たくさせ、身体を強張らせる。
 徐々に晴れる視界。そこに居たのは巨大化した猫だった。

 「……はへ?」

 「……え?」

 間の抜けた声をこぼすなのはとユーノに、猫はつぶらな視線を絡ませて「にゃー」と可愛らしい声を上げた。

 「えーと……。 ユーノくん……、あれって……?」

 「うん……。 多分、猫の“大きくなりたい”っていう願いが正しく叶えられた……のかな?」

 張りつめていた空気は一瞬で弛緩し、怪獣映画にも出てこなさそうな可愛らしい巨大な猫をなのはとユーノは呆然と見上げ、そこで気がついた。
 子猫の首に巻かれている赤い首輪は、里親が決まった子猫に目印で付けているものだ。だとしたら、このアメリカンショートの猫はなのはが月村邸に着いた時に、すずかが里親が決まったと喜びと寂しさが入り混じった表情で言っていた子猫だ。

 子猫は突然高くなった視界に戸惑っているのか、暴れることもせずに、ずっと同じ場所を行ったり来たりしていた。
 この様子だと周囲に被害が出ることはないだろうが、どの道危険なことには変わりがない。

 「とりあえず、ちゃっちゃと封印しちゃおうか……。 あのサイズだと、流石にすずかちゃんも困っちゃうだろうし……」

 なのはが首からぶら下げていたレイジングハートに手を伸ばし、セットアップしようとした刹那。

 猫の首がゴトリと音を立てて地面に落ちた。


 ◇◆◇


 なのはは自分の目の前で起こったことが理解できず、無意識のうちに後ずさった。

 頭部を失くした猫の巨躯は、その断面から壊れたスプリンクラーのように血を噴き出し、ズシンと音を立てて倒れた。
 辺りに充満する、むせ返るような鉄の匂い。
 落ちた首は地面にぶつかると、その衝撃で大きく跳ね上がり勢いを殺し、赤色を飛沫に舞わせながらゴロゴロと空気の抜けたサッカーボールのように無骨に転がっていった。
 ピタリと止まった頃には、元の毛色がわからないほどに血と泥で汚れてしまい、ただの肉の塊にしか見えなくなっていた。

 なのはは、見なければいいのその光景から目を離すことができなくなっていた。
 胃の底からなにか熱いものがこみ上げてくる。

 気持ちが悪かった。
 流れる血が、頭を失くした胴体が、切断された頭部が……。
 そして、光を失った猫の目が……。

 「ぉぉえ! うえぇぇぇぇ!!」

 なのははその場にしゃがみ込むと、恥も外聞もなく吐瀉物をぶちまけた。
 うっ、とした酸っぱい胃酸の匂いが血の匂いと混じり合い、それがさらに嘔吐感に追い打ちをかける。
 氷のような悪寒が無遠慮になのはの背中を駆け巡り、気持ちの悪い鳥肌が浮き立つ。自分の喉が焼き切れそうな熱さを感じながら、胃の中が空になる頃にはようやく頭に冷静になれる余裕が生まれた。

 いったいなにが起きたのか……。涙でかすむ視界で辺りを見回すと、そこは新緑の森ではなく血の赤で染まった異界になり果てていた。

 自分の隣にはユーノがいる。必死になってなにかを離しかけているが、そこまで頭が回らない。
 足元には血。雨の後のような血だまりが大地を濡らしている。
 視線の先には猫の死体。首を失った断面からは、未だに血が流れている。そしてその上に立つ二人の人間。

 ……人間?

 なのはは吐瀉のせいで目尻に溜まった涙を袖で拭って同じ場所をもう一度見た。
 そこには今までいなかったはずの人間が、確かにいた。

 一人は若い女性。
 灰色の髪に布地の多い民族衣装のような白い服を着ていて、歳は恭也と同い年ぐらいだろうか。頭の上には尖った獣の耳が乗っかっており、腰には長い尻尾がついていた。
 もう一人は中学生ぐらいの少年だ。
 黒いパンツと黒いブーツ。指抜きのグローブもハイネックのシャツも、フード付きのコートも全部黒でコーディネートされていて、艶やかな金髪と血のように赤い瞳が浮いて見えた。

 少年の手には血を滴らせた凶器が握られており、なのははその少年が猫を殺したのだと瞬時に理解した。

 その凶器は太刀。士郎や恭也が稽古で使う小太刀ではなく、刃渡りが120cmはある野太刀と呼ばれる人を殺す為に鍛えられた鉄の刃。
 少年の持つ野太刀は鍔がなく柄もない、茎が剥き出しの状態だった。波打つ乱れ刃紋は半分が血で隠れている。

 「へぇ、これがジュエルシードか。 思ってたのより小さいな」

 変声期を迎えたばかりの少年の声がなのはの耳に届く。ボウ、となのはは二人の様子を眺めていると、少年は子猫の体内からジュエルシードを取り出し、マジマジと見つめていた。

 「そうですね。 私も資料では知っていましたが、こうして実物を目の当たりにするとこんな小さなものが願いをかなえる器だとどうも信じられません」

 「でも一つだけじゃそんなに出力はないんだろ? 塵も積もればなんとやらってことかね?」

 「ええ、ジュエルシードは二十一個全てをそろえて初めてその力の真価を発揮するとされています」

 「だとしたら、僕たちは運がいい。 こうして発動したジュエルシードを手に入れただけじゃなくて、ジュエルシードをいっぱい持ってそうな子にも会えたんだから」

 「まったく、そのとおりです」

 二人の会話を呆けたまま聞いていたなのはの背筋に得体のしれない寒気が襲いかかった。
 無表情のまま淡々と会話を続けていた女性とは正反対に、少年はなのはに視線を向け人形のように端整な顔を歪ませて笑みを作った。

 「ねえ、そこのお嬢さん。 僕に君の持ってるジュエルシードを全部くれないかな?」

 「なのは逃げて!」

 押し出すようなユーノの叫びがなのはの耳に届くよりも早く、ザリという土の擦る音が聞こえたと思うと、「キュッ!?」と喉を絞られるような声を上げてユーノが姿を消した。
 いつの間にかユーノのいた場所に金髪の少年がいた。目で追うどころか、意識で捉えることさえできなかった。

 ユーノは少年に蹴り飛ばされていた。投げ捨てられた玩具のように大きな弧を描きながら宙を舞い、そして遥か向こうの茂みに重力のまま落ちていった。
 結界の中の壊れた空から差し込む鈍い光に反射して、少年の金髪と燃えるような赤い瞳は不気味に輝いていた。

 「まあ。ジュエルシードを差し出そうが差し出すまいが君が死ぬことには変わりないんだけどね」

 少年の唇から出た言葉は、なのはにとって意味のない単語の羅列に聞こえた。頭の中の冷静な部分は早く逃げろと警鐘をガンガンと鳴らしているが、足は竦み、身体が石になったかのように動かない。

 ジュエルシードの暴走は何度も見た。
 命に危機に直面したこともあった。

 それでも、その全てが遊戯場の児戯あったのではないかと錯覚するほどの恐怖が、なのはの身体を凍りつかせていた。

 野太刀を肩にかける少年は、新しい玩具を買って貰った子供のような無邪気な笑みを浮かべてなのはを見下ろしている。

 __ああ、終わりだ。

 少年の目に迷いはない。いや、そもそもこの少年に迷う必要などないのだ。
 この少年はきっと、人ではない。
 人の姿をして、人の言葉を操り、人のように振舞うなにかだ。

 今までの暴走体とは違う。同じ姿をして、同じ言葉を話し、同じような振舞いをするのに、きっとこの少年には人が植物か、よくても虫けら程度にしか映らないのだろう。

 人が人を殺す禁忌はこの少年には通用しないのだと、なのはは直感で理解した。

 「ゴメン……、な……さい……」

 なのはは少年を見上げながら、震える声で言った。
 それは誰に向けた言葉なのか、それとも少年に対する命乞いなのかなのは自身にもわからなかった。
 少年は笑みを崩さないままユラリと野太刀を片手上段に構える。

 「さようなら、お嬢さん。 運が悪かったって諦めてね」

 断頭台の刃にも似た無慈悲な一閃。だが、その一撃がなのはを血で濡らすことはなかった。

 少年は刃を振り下ろす直前、ハッとした表情を作るとその場から爆ぜるように跳び退いた。

 「キャッ!?」

 直後、少年が立っていた場所に黒い火球が風を呑み込む音を上げながら衝突した。その衝撃に大地は削れ、なのはは吹き飛ばされてしまう。
 同時に、火球よりも激しい勢いで黒い影が金髪の少年へと襲いかかる。

 一葉だ。
 一直線。その言葉が相応しいほどに一葉は少年に向かって槍を閃きかせながら突進していった。
 少年は突然の乱入者に驚きながらも冷静に一葉の槍を太刀で弾く。一瞬驚きで目を丸くしていたが、直ぐにその表情は歓喜のものへと変貌した。

 「へえ!」

 少年が一葉の太刀筋に感心の声を上げる。そこからはお互いに言葉はいらなかった。
 無言で交わされる無数の剣戟。もはや閃とでしか捉えることができない速度で切り結ぶ二人の刃は澄んだ音を立ててぶつかり合う。

 一葉が距離を取ろうとすると、少年が距離を詰める。

 一葉の武器は槍だ。野太刀とはいえ懐に入られてしまえば必殺の一撃は放てないぶん一葉の方が圧倒的に不利になる。
 身体能力の差もある。一葉が前世の戦闘経験を引き継いでいたとしても、今現在の筋肉は小学生のもの。魔法で底上げはしているが、体力というリミットもある。
 一葉に対して少年は中学生程度の年齢だ。戦い長引けばどちらが不利か論ずるまでも無い。
 少年は一葉の剣閃を狡猾な蛇のように巧みにいなしながら、狼のように獰猛に攻めてくる。

 「一葉!!」

 「行かせません」

 防戦一方になっている一葉に加勢しようと、一葉よりも少し遅れてきたベヌウが飛び出そうとするが、その進路は少年の傍らにいた女性に阻まれた。

 「……そこをどきなさい」

 「お断りします」

 強い苛立ちを孕んだ視線でベヌウは女性を睨みつける。

 「どかなければ殺しますよ?」

 「できるものなら」

 女性が言い終わると同時に、ベヌウはなんの躊躇いもなく火球を女性にぶつけ、さらに無数の炎の矢を翼から撃ち出した。
 無慈悲で冷酷な一撃。命を思いやる気持ちなど微塵もない必殺の一撃は女性を立っていた場所を中心に、木々を薙ぎ払い土を燃え上がらせ大気を焦がした。

 轟々と燃え上がる炎。ベヌウは塵一つ残さず焼き払った確信があった。
 しかし……、

 「炎熱変換を持つ使い魔ですか。 面白いですね」

 炎の中から凛とした声が響くと同時に、ベヌウの炎が飛沫となって掻き消された。

 「そんな……、馬鹿な……」

 あまりに予想外の出来事にベヌウな目を剥いて驚いた。今の一撃は手加減なしで撃ったものだ。生きているどころか原形を留めていることさえあり得ないというのに、女性は何事もなかったかのよういその場にたたずみ、大地を燃え上がらせたベヌウの炎を片手で薙ぎ払った。
 有り得ない……。そんなベヌウの心中を察するかのように女性は初めて薄い笑みを浮かべて口を開いた。

 「普通の使い魔ならば跡形も残らなかったのでしょうね。 しかし、私を普通の使い魔だと思って相手をすると……」

 女性はそこで言葉を区切る。瞬間、女性の身体が僅かにぶれ、ベヌウが気がつくよりも千倍早く、目の前に跳躍していた。

 「死にますよ?」

 ナイフのような冷たい声がベヌウに届くと同時に、強い衝撃が身体中を突き抜けた。


 ◇◆◇


 広大な森の彼方まで蹴り飛ばされたユーノは、焼き鏝を当てられたかのようにジンジンと熱を帯びた脇腹の痛みを堪えながらなのはの元へと走り続けた。
 押し込められた叫びと喉を衝き上げる痛みに顔は強張り、冷たい汗が全身の毛孔から吹き出る。
 いったいなにが起きたのか、前触れもなく襲いかかった理不尽にユーノは炎のような怒りとなのはの身を案じる焦燥が喉のあたりで燻ぶる。

 突然現れた少年は、鳥が唄を紡ぐように自然な振舞いでジュエルシードを取り込んだ子猫の首を一太刀の元に斬り落とした。
 あの少年は危険すぎる。ユーノの背筋には本能とも呼べるような悪寒が駆け巡っていた。
 猫の首が胴体から斬り離される瞬間、飛沫に舞う血を眺めながら少年は歓喜に顔を歪めていた。あれは自分の家族を殺した女と同じ、他人の死をどうとも思わない、自分達とは違う概念を持った存在だ。
 そんな少年の元に、なのはを一人残してしまった。

 それは、あらゆる悪を司る魔の聖典の前に捧げられた供物と同じだ。

 なのはの命が危ない。
 なのはを想う気持ちが、軋む骨に鞭を打ち背中を押されるように足を動かし続けた。
 背の低い笹の茂みをユーノは切り裂くように駆け抜ける。
滾々と湧き出る黒い不安が溢れ出そうになった時、緑の視界は扉が開いたかのようにユーノの視界が開けた。
 つい数刻前まで、自分がなのはといた場所に出たのだ。
 ユーノは息を切らしながら辺りを見回すと、腰を抜かしてへたり込んでいるなのはを見つけた。

 良かった!無事だった!

 安堵の歓喜がユーノの喉元に出かかった瞬間、黒い塊が風を呑みこみながら空から落ちてきた。

 夜の闇を切り取ったかのように黒い塊は落下の勢いのまま地面に衝突する。森に轟音と衝撃が響いた。
 ユーノとは僅かに距離は離れているが、それでも衝撃が全身を襲い小さな体が吹き飛ばされてしまった。
 落下地点は大地がめくりあがり、土が失われ小規模なクレーターが生まれていた。
 その中心にある土煙が、緩い風に押し流されていく。

 「ふっ……、ふふふふふ……。 私の翼を地につけるとは……、面白い……」

 そんな声が聞こえてきた。
 ベヌウの声だ。だが、普段の凛と澄んだ声色ではなく喉をひきつらせているかのように震えている。

 「殺す!!」

 刹那、ユーノの視界が黒い炎で支配された。渦を巻き天を衝く炎はユーノが展開した結界の空を砕き、空を焦がし雲を焼き払う。
 クレーターを中心とした大地は熱で罅割れ、寄り添うように茂る草木は燃え上がる寄りも早く灰燼に帰した。

 黒い炎の先に、ユーノは怒れる神を見た。

 荒らぶる竜のような咆哮には怒りと殺意が漲り、それを象徴するかのように炎が燃え盛る。
 洪水のような猛々しい殺意は、自分に向けられているわけでもないのに深海に沈められたかのような圧迫感がユーノの心臓を絞った。
 巻き起こる炎と一緒に渦巻いているのはベヌウの魔力なのか、確かに恐ろしく強いということだけは解るのに、触覚だけがすっぽりと抜けてしまったかのような奇妙な感覚をユーノは覚えた。
 護国四聖獣の一角を担う月の踊り子の魔力。伝承によれば一夜で国を一つ焼き払ったという力を目の当たりにして、あまりに自分とはかけ離れた力に頭が理解することを拒んでいたのだ。

 ベヌウが放つ天を衝くほどの黒い炎の中心が割れたかと思うと、炎は揺らめきながら巨大な翼へと姿を変える。まるでベヌウの初列風切羽を延長させたかのような巨大な翼は触れるもの全てを灰に変えてゆく。
 ベヌウは翼の先端から黒い飛沫を緩やかな風に舞わせながら、目標を定めた猛禽の勢いで一直線へと風を引き裂き空へと飛び立つ。
 ユーノはその光景に、現実離れした戦慄に心臓を震わせ恐怖に身を凍えさせた。

 今目の前に起きている現実が理解の外だった。
 自分が数刻前に過ごしていた穏やかな時間の流れる深閑とした森の気配は微塵も残っていっていない。辺りには植物の青臭い芳香に代わり、炭の煤けた匂いが宙に舞う。
 整然と立ち並んでいた幹の太い木々も、力任せにへし折られたかのような亀裂を残し何本も無造作に転がっている。
 絨毯のように茂っていた笹も、土ごと根こそぎ焼き払われていた。

 「ユーノ……くん……?」

 弱々しい声がユーノの耳に届く。なのはの声だった。
 戦場を彷彿させる凄惨なこの場所で、バリアジャケットも展開せずにボウ、とした視線でユーノを見ていた。

 「なのは! 大丈夫!?」

 なのはと目があった瞬間、ユーノは爆ぜるようになのはの元に駆けだした。鬼気迫る様子で駆け寄り腕に飛び込むユーノを、なのはは大粒の涙を瞳に浮かべながらギュッと抱きしめた。
 突然腹に加わった圧力に、ユーノは肺に溜まった空気を「きゅっ!?」という奇声とともに全部吐き出してしまうが、なのははそんなこともお構いなしに濁流の中でしがみついた藁のようにユーノを抱きしめる腕の力を緩めることはしなかった。
 なのはの服には煤けた灰の匂いと、酸っぱい胃酸の香りが染み込んでいた。
細い腕から小刻みな振動が伝わる。

 「こ……、こわ……、怖かったよぅ……」

 押し殺していた恐怖喉もとで震わせながら、なのはは小さな声で言った。

 「大丈夫……、もう大丈夫だから。 それよりも、状況はどうなっているの? どうしてベヌウがここに……」

 ユーノは努めて穏やかな口調で、なのはに冷静になるように促す。なのははユーノを自分の胸板に押しつけたまま、声を引っ掛けながらも言葉を紡いだ。

 「わ……、私……動けなくて……。 でも、一葉くんが助けに来てくれて……。 だけど……直ぐにどっかに行っちゃったの……。 ベヌウさんも……」

 なのははユーノに状況を説明するというよりも、むしろ自分を取り巻く現状を把握しようとしているようだった。
 ベヌウの名前が出たことで、ユーノはベヌウが飛び立っていった空を見上げた。視線の先には空の代わりに黒い炎の海が広がっていた。そして波打つ炎の中で黒とグレーの閃光が飛び交い、時折ぶつかり火花を散らしている。
 お互いに罅割れた結界から出たら面倒なことになるということをわかっているのか、結界の外に出るようなことはしないが、それでもお互いの力が拮抗した熾烈を極めた戦いだということが見て取れる。
 使い魔でベルカの四聖獣と渡り合う力を持っているのだ。だとしたら、その主はどれほどの力を持っているのか想像もできない。森の奥からは鉄と鉄がぶつかり合う澄んだ音と、樹がなぎ倒される鈍い音が木霊して響いている。
おそらく一葉はその主と戦っているということは想像に難くなかった。

 「なのは……、一葉は?」

 確認の意を込めて、ユーノは端的に尋ねる。なのはが身じろぎするように震え、小さな、息を呑むような音がこぼれた。

 「一葉くんは……」

 震えながら声を絞り出したなのはが、そこで言葉を止めた。森の奥から響いてくる火花を散らす音が物凄い勢いで近づいてきたのだ。


 ◇◆◇


 槍の連撃が全ていなされる。まるで春の細流のように流れに逆らわず受け流す剣の技術は熟練の動きを感じさせた。
 そして決して外すことのない視線からは、鞘から抜かれた刃のように鋭く、それでいて血肉を求める獣の顎のような殺意に一葉は心臓を震わせた。

 手練だ。

 緋山一葉になってから初めての対人戦。それでも、相対する少年の実力の高さを肌で感じ取った。
 飛行魔法を駆使し、水を舞う魚のように縦横無尽に宙を駆け廻りながら振りかざされる、鉛のような重たい斬撃を受け止め、弾き返す。
 一葉が歯を食いしばり耐えるのとは正反対に、嗤っていた。
 反りの入った片刃の剣は、日本刀ではなく太刀に分類されるもの。一葉がかつて生きていた時代に最も多く使われていた武器だ。一瞬、脳裏にかつての時代が過るが一葉はその雑念を直ぐに振り払った。
 少年の剣戟は首筋や身体の中央、全てが人間の急所を的確に狙ったものだ。気を抜けばその瞬間に殺れる。

 一葉の槍に太刀を弾き返された少年は、そのまま宙で回転し密集して立ち並ぶ木の幹を強く蹴って、再び一葉に襲いかかる。

 「カートリッジ、ロード」

 少年の口が僅かに動き、太刀の柄頭から薬莢が吐き出された。同時に、今までとは明らかに違う、まるで濁流に押し流されるかのような衝撃がアルデバランを貫通して身体を突き抜けた。
 競り合う刃と槍は火花が散すが、一葉は少年の勢いを殺せない。ラッセル車に押し出される土のように一葉は身体を持っていかれる。

 「ハハッ!」

歪んだ少年の口から押し殺した笑い声が漏れた。血のように赤い眼は、新しい玩具を買ってもらった子供のように無邪気に輝いていて、一葉はその少年を睨みつけるがその実、胸の内では焦燥を覚えていた。

 __この先にはなのはがいる。

 行く手を遮るかのように重なり合う枝葉が折られていく感触を背中に感じながら、一葉は奥歯を噛みしめた。
 自分が戦っている姿を見られるのを嫌って、わざわざこんな森の奥まで移動したというのに、このままでは元居た場所にまで押し戻されてしまう。そして、一葉が感じた焦りはもう一つあった。
 それは、この少年の前になのはを晒すこと。
 この少年は、なのはやユーノとはまるで違う生き物だ。戦いに酔いしれ、血を愉しみ、死に憑りつかれた、人の姿をした獣。それは一葉が恐れていた自らの自己統一性を脅かす人格を体現したもの。
 ただ、空気に当てられただけで、生まれたばかりの鹿のように立ち上がることさえままならない状態になってしまっているなのはを戦いに巻き込むわけにはいかない。

 しかし、一葉は背中に響く衝撃がなくなったかと思うと、狭い緑色の視界が一気に広がった。そして、無情にもなのはの姿を視界の端に捉えたのだ。

 __まずい!!

 一葉は舌打ちをした。
 話すかに逸れた意識と、強張った筋肉の隙を少年は見逃さなかった。少年は鍔競り合っていた太刀からふと力を抜くと、その反動で体制を崩した一葉の水月に蹴りを叩きこんだ。
 痛みはない。ただの牽制だ。戦いの機微は経験が知っている。次に来る一手も予想できた。

 少年は刀を右上段の八相に構え、距離を詰めていた。太刀の必殺の間合いの一撃。一葉が隙を見せて初めて見せた、少年の隙だ。

 __大振り!

 唐割での一撃。一葉はアルデバランを投げ捨て、右手で拳を作り少年に突き出した。
 狙うのは顔面や、身体じゃない。少年が振り下ろす腕の肘だ。

 「ぐッ!?」

 一葉の墓指と人差指の関節に、骨と骨の間を貫く感覚が走る。少年は感電したかのような痺れが肘に走り、攻めの体制を大きく崩した。
 息継ぐ間もなく、一葉は左手に隠し持っていた鍼を両刃の小太刀に変換する。そして、少年の首をめがけ刀を振り上げる。斬線は斜めに走った。 僅かな皮を裂く感触。
しくじった。一葉はそう思った。

 少年の首は赤の虹を散らせるには至らなかったが、咄嗟に当てた手の指先からは赤が滴り流れている。
 少年は、咄嗟に一葉との距離をとっていた。お互いの武器の射程を半歩ほど外した、お互いが絶妙に手を出せない距離だ。

 「……カッコいい剣だね」

 「そりゃ、どうも」

 一葉の手放したアルデバランが、地面に突き刺さる音が二人の間に響く。宙に立ちながら視線を衝突させる一葉と少年の頭上では、ベヌウと少年の使い魔が戦っている音が堤防を打つ荒波のように大気を揺るがしていた。
 一葉はうなじに、なのはとユーノの視線が突き刺さるのを感じていた。だが、二人にかまっているような余裕は全くない。
 一葉の今の一撃は、必殺の間合いでの一撃だった。今ので少年の喉元に剣を突き立て、終わらせるつもりだったのに、少年は咄嗟に躱し、被害を薄皮一枚に留まらせた。並みの反射神経じゃない。

 一葉は、人殺しという禁忌をなのはの目の前で行うことに躊躇いを持っていなかった。
 それが、二度となのはとの日常に戻れない結末になるとしても、先のことを考えていたらこの少年には勝てないことぐらい理屈がなくとも理解できる。
 そして、一葉が死んだら、次はなのはが殺されるということも。

 「気に入ったんなら、もっと見せてあげようか?」

 手札は見せた。これ以上、出し惜しみする必要はない。
 一葉は甲冑の腰布の裏に下げていた麻袋の組み紐を解き鍼を宙に舞わせ、その全てを利剣へと変換した。
 艦隊を思わせる剣群は、その切っ先を少年に向けている。

 「あんたには二つの選択肢がある。 このまま消えるか、それともこの剣を墓標に死ぬかだ。 さて、どっちにする?」

 一葉は表情を殺した声で言った。だが、能面のような顔の下にある、凝縮された凶悪な殺意は決して見逃せるものではなかった。

 ヒッ!と喉を引き攣らせた、なのはとユーノの声が一葉の耳に届く。そして、ただならない雰囲気を感じ取ったのか、上空で行われた戦闘の激音も鳴り止んだ。

 森に響く喧騒が一瞬にして、シンとなった。音が死んだ空気が辺りを包む。少年は向けられた殺意と剣先に恐怖するのではなく、まるで幽霊を見ているかのような表情をしている。
 なにかに驚いているような、口を半開きにして呆けている顔を見て、一葉は在ることに気がつき胸がざわめいた。

 さっきの子に……、似てる?

 艶やかな金髪に、赤い瞳。少年はアクティブミディでツインテールだった少女と髪型こそ違う。年齢の差もあるし、男女の骨格の違いもあるが、それでもついさっきフェイトと名乗った少女と、蝋を顔に押し固めてから張り付けたと思えるほどに顔の造形が似ていた。

 __兄妹……、とかかな? どのみち、絶対に無関係じゃないな。

 一葉は面付き越しに、少年をジッと睨んだままでいると、少年は突然背中を反り笑いだした。

 「くはっ! ははっ! ハハハハハッハハハ! ハハハハハハハハハハハ!!」

 「……気でも触れた?」

 一葉が少年の様子を見て呟いた。少年は一通り笑い終えると、大きく息を吐いて呼吸を整える。前髪を掴んで笑いをかみ殺すが、それでも肩が震えていた。

 「運命とは……面白いものだな! まさか、君と再び相まみえることができるなんて!」

 前髪から覗く少年の目には戦慄の炎が宿っていた。一葉は少年の言葉に引っかかりを覚えた。
 数刻前、一葉はこの少年にそっくりな少女に出会いはしたが、この少年自体に会ったのは今が初めてだ。それなのに、少年は一葉との因果があるようなことを口にする。その口調からは、決してそれが嘯きだとは思えない。
 一葉は眉を潜め、少年を見据える。怪訝を孕んだ一葉の視線に気がついたのか、少年は鼻で笑うと、一葉と視線を外さないまま傍らにあった樫の木に触れた。
 樹齢が三十年を超えていそうな、幹の太い木だ。それが、少年が触れた途端、一瞬にして色が黒ずみ、葉が枯れ、腐り果て自重に耐えられずに倒れた。

 「これで……、思い出せてくれたかな?」

 少年は顔を歪めたまま問う。ズシンと空気を揺らす倒木の音を耳に打たせながら、一葉は少年が引き起こした現象に心臓を凍らせた。

 今の異能は知っている。なぜならそれは、一葉が前世で首を刎ね、殺した男が持っていた能力だったからだ。

 「アゼル・テスタロッサ。 それが、僕の“今の”名前だよ」

 親の仇を見つけたかのような、喜びに打ち震えた声が、森に響いた。



[31098] 10!
Name: 三鷹の山猫◆ef72b19c ID:d1000a7d
Date: 2012/03/01 22:56
 「君の名は?」

 「緋山……、一葉……」

 薄ら笑いを張り付けて尋ねるアゼルに、一葉は喉を唸らせながら答えた。

 「緋に染まる山の一つ葉か……。 美しい名だ」

 一葉はアゼルと名乗った少年を見据えた。その視線を感じ、アゼルはお世辞にも言い性格をしているとは言えないらしく、挑発的な笑みをさらに深める。

 「疑ってます、って顔してるね。 そんなはずはない、あの男がここに居るはずがない。 そんな表情だ」

 「……」

 アゼルの言った通りだ。一葉の胸の中は意味深なことを口にしながらこちらの動揺を誘う心理戦の可能性も見いだしていた。
 一葉のそんな思推を感じ取ったのか、アゼルは物覚えの悪い子供を見るように肩を竦めて困ったように笑う。

 「君という存在がこの世界に存在するというのなら、僕という存在がこの世界に居てはならないという道理にはならないだろう。 君がどういう術を使ってこの世界にやってきたのかは知らないが、僕もまたどういうわけかこの世界で新たな生を受けてしまった」

 唇を動かしながら、アゼルは太刀に魔力を走らせた。月の光を切り取って張り付けたような淡く光る黄金色が刀身を覆い包む。一葉も、自らの膂力を高めるために四肢の腱と筋肉に魔力を流し込む。
 お互いが発する無言の圧力は蛇のように絡み合い、深海のように重い空気を作りだす。

 「かつての君は、確かに特別だった。 そして、今の君もまたそうなんだろうな。 だけどね、特別という言葉は決して唯一の人間に与えられるものじゃない。 僕も君と同じで、この世界に落とされた、特別なんだよ」

 アゼルは言い終えると同時に太刀を横一文字に振った。ヒュン、と大気を切り裂きながら魔力で固められた黄金の刃が一葉へと襲いかかる。
 一葉は下段からの振り上げで、魔力刃を相殺した。腕に風船を割ったような衝撃が走る。

 __軽い

 魔力刃は黄金の粒子となって拡散し、一葉の視界を遮る。
今のは牽制だ。だとしたら、次に来る一手は予想ができる。

 「嘗めんな!」

 粒子が覆う空間に、一葉は利剣を数本投擲した。金属同士が弾け合う澄んだ音が響く。

 「流石! 良い勘をしてる!!」

 アゼルは粒子の中で一葉が放った剣を全て叩き落とすと、突進の勢いを殺さないまま一葉に突っ込んでくる。

 「っつ!」

 咄嗟に宙に浮く利剣を手に持ち、一葉はアゼルの剣を防いだ。鉄の塊に殴られたかのように思い衝撃が骨に響く。

 「ハハッ!」

 アゼルの瞳は楽しそうに輝いていた。そのまま連続で襲いかかる斬撃を一葉は反射だけで弾く。一撃、一撃が重い。打ち合うたびにその方向へ進路を変えながらも、一葉は何合もアゼルと剣を撃ち合った。

 「ッシ!」

 「ズァッ!?」

 かち割るような上段からの斬撃に、一葉は風を砕く勢いで地面に落下した。衝突した勢いで、一葉は地面を転がった。追い打ちをかけるように、アゼルは上空から何発もの魔力刃を撃ちこむ。

 「どうした! これで終わりじゃないだろう!?」

 魔力刃の衝撃は、辺りに土埃を舞わせ視界を遮る。アゼルは、迂闊にも自分の放った魔力刃が巻き起こす土埃のせいで一葉の姿を見失ったらしく、一葉が最初に落下した場所に更に魔力刃を撃ちだしてきた。
 一葉は随分と遠くまで転がったのか、土埃でかすむ視界の先に先ほど投げ捨てたアルデバランを捉え、咄嗟に手を伸ばした。

 手に馴染む重みが腕に圧し掛かる。一葉は上空で自分の姿を探すアゼルに槍の切っ先を向けた。
 息を殺して、殺意を断つ。感づかれたら終わりだ。まだ向こうが気がついていない内に終わらせる。
 一葉は上半身を捻じり、右足を強く踏み込んだ。

 「ぐっ……!」

 その反動で、身体全体の骨と腱が軋み激痛が襲う。それでも一葉は奥歯を噛みしめながら、アルデバランに魔力を注ぎ、その刃を閃きかせた。

 “篠”。竹が群生する様を模した突きの連続技だ。一葉が前世で習得した技術に魔力を乗せたものだが、その技の反動は小学生である一葉には過酷すぎた。

 アルデバランから繰り出される鋭い突きの衝撃は魔力の塊となって、一度の踏み込みで土埃にいくつもの穴を開けてアゼルに襲いかかる。

 「……ッ!?」

 ギリギリまで抑え込まれていた、攻撃的な気配にアゼルは咄嗟に自分の前に防御魔法を展開する。だが、完全に発動するには至らず薄氷のように脆い障壁を、一葉の一撃は容易く打ち破り、肉を削り血を飛沫に舞わせた。


 ◇◆◇


 未知が恐怖だというのなら、今自分の心を支配しているものは恐怖以外のなにものでもないのだろう。
 辺りは脈打つ血が戦いに鼓舞するかのように熱い空気で満たされているのにも関わらず、ユーノの身体は絶対零度の恐怖に凍えていた。
 傍らに居るなのはは、この空気に中てられて気を失っている。顔を蒼白にして倒れているなのはに身を寄せるように、ユーノは二人の一葉とアゼルのやり取りを見ていた。

 「弐の型、篠……か。 流石だよ。 技の威力はともかくとして、キレは以前よりも遥かに研ぎ澄まされている」

 アゼルは酷薄に笑いながら、ゆっくりと地面に降り立った。足元には血でできた水溜りが地面を濡らす。

 「だが、斬線に迷いがあったな。 かつての君なら、僕を殺すまではできなくても腕の一本くらいは持っていけたはずだ」

 「腕の一本、足の一本斬りおとしたとこで、アンタには関係ないだろ」

 「確かにその通りだけど、モチベーションの問題だよ。 自分が与えたダメージが目に見えるってことは、それだけ自分の気持が高揚するものだ。 例え僕には関係ないと知っていても、四肢の欠損はその最たるものだと思うけどね」

 「なにが言いたい?」

 「そうだな……、簡潔に言うと君は弱くなってしまったんだろう、ってことかな。 肉体は仕方ないとしも、心が弱くなった。 残念なことだよ」

 荒れ狂う激流のような刃の打ち合いが収まったこの森で、二人の会話はやけに大きく響く。そんな中で、ユーノは動けないでいた。
 それは直感ですらない、原始的な本能にも似たなにかが、ユーノの意思を拒み身体の動きを奪っていた。
 目の前に、自分の求めるジュエルシードがある。協力してくれている女の子が、危険な場所で意識を失っている。だが、“そんなことよりも”ユーノは恐れていた。
 指先を動かす微かな関節の音。瞬きの音を立てることを。心臓ですら止まってほしいと思っていた。
 アゼルの意識は一葉に向いている。だが、なにかのきっかけでそれが自分に向けば、間違いなく殺される。
 “あれ”はそういう者の目だ。自分の家族を奪った女に限りなく近い、獣にも似たなにか。勝利の為の過程ではなく、むしろ条件に固執する者の目。
 失禁しなかったのは最後のプライドだ。気を失くしているなのはが羨ましく思えた。

 「言いたいこと言いやがって……。 オレが弱くなったかどうかなんて……」

 ユーノの視線の先で、一葉は腰を据えてアルデバランを中段に構えなおす。力強い突き技を押し込む構えだ。
 凶悪な殺意を押し殺そうともせず、槍のように鋭い殺意をより濃くする。

 「死んでから決めろ!!」

踏み込んだ右足の衝撃で大地に亀裂が入る。無限の重力を穂先に込めたかのような重い一撃は閃となってアゼルに襲いかかる。
瞬間、空を追う結界の一部がステンドグラスのように砕けた。

「兄さん!!」

 乾いた音とともに舞い落ちる結界の破片の空を、金色と黒色を併せ持った影が、一葉の槍の一撃の横合いに紫電を放った。
 槍の攻撃はどうしても直線になってしまう。射線上に対しては無二を力を発揮するが、他の角度からの衝撃にはひどく弱い。
 一葉の槍がはなった衝撃は、アゼルから逸れ密集している雑木林にぶつかった。静観と立っていた幹の太い樫を何本のへし折り、辺りに鈍い音を響かせながら倒れていく。
 一葉とアゼルの間に、一人の少女が降り立った。

 「うっわ、嫌なタイミングで来るなぁ……」

 一葉が顔を顰めて言うと、その声に少女はようやく一葉の存在に気がついた。

 「え……、え? 一葉? なんでこんなところに……」

 困惑しながら当たりの状況と一葉の顔を何度も見比べる少女はフェイトだった。アゼルとこうして顔を比べて見ると、本当に瓜二つだ。

 「これで幕……、ですかね」

 突然現れたフェイトの隣に、ベヌウと戦っていた女性が舞い降りた。服の所々が焼け焦げて、肌が露出し、そこから出血している。
 女性に遅れて、ベヌウも一葉の隣に翼を広げて降り立った。女性とは対照的に、ベヌウは傷らしい傷こそないが息が激しく荒れていて、ひどく疲弊している。

 「リニスの言う通りかもね。 これで事実上の二対一だし、僕たちは目的のものを手に入れたしね」

 アゼルは軽い口調でそう言うと、視線を気を失っているなのはと、ユーノに移した。

 「ただ、ドロンする前にやるべきことはやっとかんとね」

 「……待て」

 アゼルの不穏な言葉に、一葉は声を被せた。

 「レイジングハート」

 __……Yes sre.

 一葉はアゼルと視線を絡ませたまま、なのはの首にかかるレイジングハートを呼ぶと、レイジングハートも一葉の意図を汲み取り、ジュエルシードを一つだけ取り出した。
 糸が切れた風船のように一葉の前に流れてくるジュエルシードを乱暴に掴むと、アゼルに投げつけた。
 アゼルはジュエルシードを右手で受け取る。そして、一葉を睨んだ。

 「これは……、なんのつもりかな?」

 「それで見逃せ」

 「ま……、待ってよ! どういうこと!? なんで一葉がここにるの!?」

 ただならない空気を滲ませる二人に、フェイトは声を荒げた。双方から放出される鋭く、重たい殺意は押さないフェイトには過酷で、額に粒のような汗を浮かばせていた。

 「フェイト、彼と知り合いなの?」

 「う……、うん……」

 アゼルは一葉に視線を固定しまま問いかける。その声色には苛立ちが孕んでいた。フェイトは首肯すると、怯えるように小刻みに震える手で、鎌状のデバイスをギュッと握りしめる。

 「アゼル、情けは必要ありません。 あの少年も、その使い魔もかなりの実力者です。 ここで見逃すと、後の脅威となる可能性があります」

 「リニスは黙ってて!」

 リニスと呼ばれた女性の提言に、フェイトは苛立ったこえで怒鳴った。そして、なにかに縋るような瞳で一葉を見た。

 「ねぇ……。 一葉は……、私たちの敵なの……?」

 「そちらさんが、ジュエルシードを探して集めてるってるんならそうなるね」

 その言葉に、フェイトは傷ついたように目を伏せた。

 「フェイトと……、アゼルか。 二人はなんでジュエルシードを求める? それって、本来だったらそこに居るフェレットの持ち物のはずだ」

 突然呼ばれた自分の名前に、ユーノは身体をビクリと震わせた。この場に居る全員の視線がユーノに集中する。そのことに、ユーノは居心地の悪さを感じるよりも、蛇に睨まれた蛙のように粘つく恐怖を覚えた。

 「……フェイト、行こう」

 「え……? でも……」

 「とりあえず目標のジュエルシードを二つ確保。 これ以上、この場にとどまる理由はないよ」

 「……うん。 わかった」

 フェイトが頷くと、アゼルは踵を返し宙に浮いた。リニスとフェイトも一葉を気にしながらその後についていく。その時、黒を基調としたフェイトの服装の中で、腰に不自然に輝く銀色の鎖がキラリと反射した。

 「……緋山一葉」

 罅割れた結界の天蓋で、アゼルは一葉を見下ろした。

 「君は心が弱くなった訳じゃなくて、堕落したんだな。 以前のままの君だった、仲間の命乞いではなく、その仲間をどう利用できるか考えていたはずだ。 さて、この子を投げつけて目くらましに使うか、それとも盾にして突っ込むか、てね」

 「……」

 「僕がジュエルシードを集める理由なんて、君には解ってるはずだ。 だけど、止めようなんて思わない方がいい。 堕落した君に僕を止めることはできない。 目を閉じ、耳を塞いで、今日のことを記憶の奥に閉じ込めれば、君は今まで通りぬるま湯につかった平穏を過ごすことができるんだから」

 そう言い残すと、アゼルはリニスが三人の足元に展開した魔法陣に呑みこまれて消えていった。
 フェイトは最後の瞬間まで一葉になにかを言いたそうにしていたが、結局曖昧な表情のままアゼルともにこの場を去った。

 「はぁー……、死ぬかと思った……」

 三人の気配がなくなった途端、一葉の緊張の糸が切れた。構えを崩してアルデバランを解除する。騎士甲冑を解除すると、服は無傷だが皮膚の所々に痛々しい切り傷がいくつもできていた。
 デバイスは展開すると同時に、術者が身につけている衣服を量子変換しバリアジャケットに代える。つまり、魔法で戦った場合は衣服は無事なのだが、当然、術者本人はそう言うわけにもいかない。非殺傷設定という、敵を制圧する設定にしていれば話しは別だが、殺傷設定で戦うと、傷はそのまま肉体にフィードバックされるのだ。
 つまり、一葉はアゼルとずっと殺傷設定のまま戦っていたことになる。

 「一葉は……、あの少年と知り合いなのですか?」

 疑うような口調で、ベヌウは一葉に問いかけた。
 ユーノも、二人の会話は端々出しか耳に届かなかったが、それでも二人が既知の仲であることが容易に想像がついた。
 あの少年たちは、どう見ても他の次元世界から来た人間だ。自分のようなイレギュラーな事態が起こらなければ、本来ならば管理外世界の人間と交流を持つことなど非常に稀有なことだ。
 ベヌウの鋭い双眸は一葉を貫くが、一葉は視線を気にする様子もなく待機状態に戻したアルデバランを首にかけながら口を動かした。

 「んー……、多分。 オレもよく現状が呑みこめてないんだわ。 詳しい話し合いは後でするとして、とりあえず今はなのはを運ぼう」

 一葉は筋肉をほぐすように肩を回しながらなのはに歩み寄る。ユーノは、その姿を見てようやく自分の意思を取り戻した。

 「こ……来ないでっ!!」

 ユーノはなのはと自分を覆う小さな防御結界を張った。通常の結界と違い、機動性は極端に落ちるが死角がなく、より堅固な防御魔法だ。
 結界の中で、ユーノは姿勢を低くして一葉を見上げて睨みつける。その突然の行動に、一葉だけでなくベヌウも呆気にとられた。

 「……どゆこと?」

 「……さぁ?」

 ユーノの意図が飲み込めない、一葉とベヌウは顔見合わせて首を傾げた。普段と変わらない一葉の様子に、ユーノは粘りのある気持ちの悪いものが胃の中から沸き出るような気持ちになった。
 まるで、今まで行っていた殺し合いとも呼べる戦闘が無かったかのように振舞う一葉は、命が助かったという安堵も、相手を傷つけてしまうかもしれないという恐怖も、微塵も感じさせない。まるで、それが当たり前であるかのように振舞っているのだ。
 ユーノは、そのことが気持ち悪くてしょうがなかった。

 「一葉……、君は、はっきり言って異常だ……。 もう、これ以上……僕にもなのはにも関わらないで欲しい……」

 空気が一瞬にして冷え込んだ。

 「……どういうことですか?」

 一葉の代わりに口を開いたのはベヌウだった。ただ、その口調は非常に平坦で、淡々としていた。

 「今まで手伝ってもらったことには感謝してる……。 でも……、冷たい言い方かもしれないけど……僕やなのはと、君たちとじゃ違いすぎるんだ……。 正直……僕は、君たちが側にいるだけで怖い」

 「私たちが来なければ、貴方達がどうなっていたかわかりますか?」

 「それは……」

 殺されていた。それは間違いない事実だ。ユーノは気まずそうに視線を落とした。

 「感謝されこそすれ、非礼の言葉を浴びせるのが貴方達スクライアの礼節なのですか? だとしたら、私は心の底から軽蔑をしなければなりませんね」

 「違う!」

 部族を嘲る言にユーノは勢いよく声を荒げた。自分を罵る言葉ならばいくら言われようと構わない。だが、身寄りも行き場もなくした自分を受け入れてくれた部族を貶める言葉を受け入れるわけにはいかなかった。
 飛び出した言葉の勢いは止まらず、ユーノは堰を切ったかのように胸の内にため込んでいたものを吐き出した。

 「スクライアとかっ! 礼節だとかっ! 僕はそう言うことを言ってるんじゃないんだ! 一葉、君は本当に何者なんだ!? 君の持つ能力も! 戦闘技術も絶対に普通じゃない! 君がなにかを隠してることだって僕は気がついてる! そもそも、なんで君に次元世界の知り合いがいるんだよ!?」

 脳みそが沸騰したかのように熱い。僅かに残った頭の中の冷静な部分が、これ以上はもう止めろと言っているが、それでもユーノは口を止めることはしなかった。

 「そうだよ! 思い返せば最初から全部おかしかったんだ! この街に落ちたジュエルシードが暴走したその日に、古代ベルカの守護聖獣と出会ったなんて、そんな都合のいい話しがあるもんか! 今だって、君たちが助けに来たタイミングも良すぎた! もしかして、君たちはさっきの連中の仲間なんじゃないのか!?」

 「……黙りなさい」

 ベヌウの不穏な声に、ユーノはビクリと言葉を止めた。鋭い猛禽の双眸には、炎のような怒りが揺らいでいた。

 「ここに来るまでの間、どれほど一葉が貴方達のことを心配していたか知らないからそんな暴言が吐けるのです。 不慣れな飛行魔法を使い、尚且つ得体の知れない連中に躊躇いもなく喰ってかかっていったのですよ。 あの少年が何者なのか、私も知りませんがかなりの使い手であることは間違いありません。 下手したら、命を落としていたかもしれないというのに……、それを貴方は……」

 「はい、ストップ。 ここで言い合いしてもしょうがないだろ」

 一方的にまくしたてていたベヌウの言葉を一葉は遮る。

 「しかし……」

 「いいから、いいから。 隠し事してんのは本当だしね」

 右手をひらひらと振りながら近づくと、一葉はユーノの目前に立つ。結界越しに見上げる一葉は、掌でそっとユーノとなのはを覆う半球体の結界に触れた。

 「え……?」

 間の抜けた声がユーノの口から零れた。ユーノが渾身の力で展開した結界魔法を、一葉は触れただけで破壊したのだ。
 ユーノは自分の力を過信していたわけではない。しかし、攻撃魔法が不得手な代わりに、結界魔法や防御魔法と言った補助系の魔法は人よりも優れているという自負があった。だが、一葉はそれを呼吸するかのように無効化せしめたことが、信じられなかった。

 呆気にとられるユーノを尻目に、一葉はなのはを肩に担ぐ。子供とはいえ気を失った人間を担ぐとなると相当重いはずなのに、一葉は身体を持ち上げるときに顔を引き攣らせる表情をしただけで、平然と歩き始めた。

 「ユーノさ、正直に言うとオレはジュエルシードにはそんなに興味がないんだ。 ただ、なのははオレの友達だ。 友達が首を突っ込んでる以上、オレ一人が尻尾を巻いて逃げるわけにはいかないんだよ。 オレらのことが怖いってんなら、これから距離はとるようにする。 だけど、悪いけどさ、このまま引っ込むつもりは毛頭ないんだわ」

 その後ろをついて、ベヌウも小さなサイズとなり、一葉のもう片方の肩にとまった。
 森の出口を目指し歩いていく一葉の後姿を見ながら、ユーノは言葉にできない……、それでも確信めいた嫌な予感が胸の中に染み込んでいた。


 ◇◆◇


 「“えにし”があれば、きっとまた会える」
一葉はそう言った。腰につけた鎖に触れると、それは冷たい鉄でできているはずなのに、なぜか温もりが掌に広がっていく感覚がした。

 初めてできた友達……。いや、友達と呼べるほどのものではない。それでも、初めて言葉を交わした同世代の少年は、フェイトにとって特別なものには変わりがなかった。

 __きっと、また会える。 だって、“えにし”は繋がってるんだから……

 もう一度会えた時には、もっといっぱい話したい。自分のことも、そして一葉の話しも聞きたい。それで、ちゃんと友達になって貰いたかった。
 そんな温かい妄想が、フェイトの脳裏に浮かんでは溶けていく。

 早く会いたい。そう思う気持ちは、フェイトが思っていたよりも、ずっと早く実現した。

 二人が再び出会った場所。そこは戦場だった。


 ◇◆◇


 「んで……、どんな知り合いなのさ?」

 アゼルがタバコをふかしながら言った。既に日は暮れており、仮宿として使っている高級マンションのリビングにある大きな天窓からは月の光が差し込んでいる。
 上下灰色のスウェットを身に纏ったアゼルはシャワーを浴びたばかりで、胡坐をかきながら白いソファの上で下世話な笑みを浮かべていた。

 「……誰と?」

 アゼルの言葉に、フェイトは憮然と答える。硝子製のオーバルテーブルを挟んで、シメントリーのソファの上で着替えもせずに、クッションを抱えて寝転がっていたがアゼルの視線から逃げるように、ゴロリと背もたれの方に寝返りを打った。

 「まーた、とぼけちゃって。 一葉だよ、緋山一葉。 さっき、仲好く喋ってたくせに。 どんな関係なのよ?」

 「……別に、兄さんには関係ない」

 背中の向こうにあるアゼルの表情は見えないが、見なくても判る、にやついたアゼルの口調にフェイトは胸の中がささくれた。
 アゼルに言われずとも、フェイト自身がまだ困惑しているのだ。友達になれるかも、と淡い期待を勝手に抱いたのは自分だが、それでも裏切られたという気持ちがあった。
 あの森で、一葉と二度目の邂逅を果たした時に一葉はフェイトのことを敵を見る目で見ていた。そして、そのことに怯んでしまった。
 相手が顔見知りだったというだけで、覚悟が揺らいでしまったのだ。一瞬でも大好きな母と、出会って間もない一葉を天秤にかけた自分が恥ずかしく思えた。

 「フェイト、貴女は見ていないと思いますが、あの少年はかなりの手練でした。 今後の対策を立てる為には、今は少しでも情報が欲しいのです」

 耳に届いたのは、リニスの声だった。
 素体となっている山猫の姿に戻ったリニスは、アゼルの膝の上で丸くなっている。
 以前は母の使い魔であったリニスは、今ではアゼルの使い魔として使役されており、以前は通夜のある焦げ茶色の毛並みだったが、主従契約を変更した際に色が変色し、今はくすんだ灰色の毛並みになっている。
 そして、変わったのは色だけではなかった。
 アゼルがどんな契約を結んだのかは知らないが、勤勉で優しかったリニスの人格は書き換えられ、今ではアゼル至上主義といった正確に変貌している。
 使い魔は契約者との契約内容によって、その人格は左右される。そんな、魔導師として当たり前のことを理解してはいても、かつてのリニスの面影をフェイトはどこかで求めては寂しさが胸を差す。
 フェイトは、今のリニスがどうも好きになれなかった。そして、同時にアゼルもだ。

 「まー、情報以前に僕としては純粋な興味だよ。 可愛い妹に友達ができたんだ。 それは喜ばしいことじゃないか。 それが、たとえ敵でもね」

 胃がムカムカする。アゼルはいつだってそうだ。触れられたくない箇所を遠回しに、だけど的確に真綿で締めるように刺激してくる。
 フェイトは妙な居心地の悪さを感じて、腹筋を使って身を起してソファから降りリビングの出口へと向かった。

 「お、行っちゃうの?」

 わざとらしくアゼルが聞いてくる。

 「シャワー浴びてから寝る。 明日も早いから」

 フェイトが素っ気なく言うと、アゼルがさらに言葉を続けた。

 「フェイトさぁ……、フェイトがどんな友達を作ってもそれは勝手だけど、一葉は止めておいた方がいいよ」

 「どういうこと?」

 フェイトは立ち止まって首だけ振り返る。そこには火の付いたタバコを咥えたアゼルが、揺らめく紫煙の向こうで、いつも通りの薄ら笑いを張り付けていた。

 「言葉の通り。 きっと苦労することになるよ」

 「……」

 フェイトは黙って、アゼルの言葉を待つ。アゼルは咥えていた煙草を一息吸ってから煙を吐き出した。

 「彼はフェイト側の人間じゃないんだよ。 一般的な人間じゃない。 今はつまらなくなってるけど、きっときっかけがあれば直ぐに化けの皮が剥がれると思う」

 目を細めて言うアゼルに、フェイトは一抹の疑問を覚えた。

 「兄さんは……、一葉と知り合いなの?」

 フェイトが地球に着いたのは一週間前だ。そしてアゼルが合流したのは二日前。それまでは実家である時の庭園に居たはずだし、アゼルが以前に地球に来たことがあるなんて話しは聞いたことがない。その僅かな間に、一葉と出会ったことは考えにくいにもかかわらず、アゼルも一葉も、まるで昔馴染みのような口振りで話していた。

 「知り合いといえば知り合いだし、違うといえば違うのかもね。 ただ、“緋山一葉”に会ったのは今日が初めてだよ」

 アゼルの回りくどい言い方に、フェイトは眉根を顰める。

 「ああ、別に無理に理解しようとしなくてもいいよ。 人間てのはね、一皮剥けば誰れだって爪と牙を持った獣なんだよ。 ただ、彼の持つ爪と牙は人の分を超えてるってだけでの話しさ。 そして、彼が今着ている化けの皮を脱いだ時に犠牲になるのが誰かなのかを、フェイトがわかってくれさえいればね」

 アゼルはそこで言葉を区切って、その犠牲に誰がなるのかを煙草の先端で暗に示した。それは、フェイトと、アゼル自らだった。

 「だったら、敵じゃなくて友達になれば大丈夫、なんて安直な考えは持たない方がいいよ。 牙を抜かれた獣は人に隷属しなければ生きていけないけど、野生の獣は人と混じり合うことなんて決してない。 孤高であり、孤独でなければならない。 彼はそういう生き物なんだよ」

 「一葉は動物じゃない……。 人間だよ?」

 そうだ、一葉はアゼルが言うような獣じゃない。そうでなければ初対面の相手にあんな優しさを見せるはずがない。
 アゼルのわかったような口調に、擦れるような苛立ちを堪えるように、フェイトは腰にぶら下がる鎖を無意識の内に握りしめていた。
 だが、アゼルはそんなことに気にも留めず言葉を続けた。

 「確かに、今の彼はそう見えるかもね。 あれは擬態がうまいのか、それとも周囲の小教に流されて戸惑ってるだけなのかまでは分からないけど、どちらにしろ僕たちがジュエルシードを求め続ける限りぶつかり合うことになる。 一葉のことをどう想うのかは勝手だけど、覚悟はしておいた方がいいと思うよ?」

 アゼルはそう言うと、咥えていた煙草の灰をテーブルの上に置いてある灰皿に落とした。それは、わざわざ時の庭園の自室から持ってきた、アゼルがいつも愛用している本物の人間の、それも子供の頭蓋骨で造られた灰皿だ。その無遠慮な悪趣味も、フェイトがアゼルを毛嫌いする要因の一つだ。

 「覚悟もなにも……、私は母さんの為にジュエルシードを集めるだけ。 それを邪魔するんだったら、一葉だろうと誰だろうと関係ない。 排除するだけ」

 フェイトは踵を返し、リビングから出ていく。背中から聞こえてきたアゼルの、「おやすみ」の言葉を無視して、フェイトは足を進めた。


 ◇◆◇


 「あの少年は、アゼルがかつて生きていた世界の住人だったのですか?」

 リニスはベッドの上で上半身だけを起こして、耳にかかる髪を指先で掻きあげながらアゼルに問いかけた。
 明かりの落とされた薄暗い部屋を照らすのは、枕元のサイドテーブルの上に置かれたランタンだけだ。オレンジ色の淡い光が、リニスの露わになった肌を妖しく照らす。
 リニスは掛け布団のシーツで胸元を隠してはいるが、一糸纏わぬ生まれたままの姿だ。そして、同じベッドの上に寝っ転がっているのはアゼル。部屋にはむせ返る生臭い匂いが充満しており、男女と情事の後であったことを顕にしていた。

 「憎くはないのですか?」

 枕に頭を預けて煙草を吸うアゼルを見下ろす形で、リニスは問いかける。
 アゼルの母と契約を打ち切られた時に、リニスは本来の毛色を失ったが、どういうわけか瞳の色だけはそのまま残っていた。
 コーヒー豆を炒ったような澄んだ瞳は、アゼルを純粋な視線で射抜く。

 「憎いっちゃぁ、憎いね。 ジュエルシードを差し出して、仲間の命乞いをしたときの腑抜けっぷりを見たときなんか、マジでぶっ殺してやろうかと思ったもん」

 「私が言っているのはそういうことではありません。 肉体が変わったとはいえ、かつて貴方を殺した人間なのですよ。 復讐しようとは思わないのですか?」

 「んー……、そうだなぁ。 一葉が彼だと気がついた時に、憎悪よりも先に悦びが来たのは認めるよ。 彼との殺し合いは、愉しいものだったし、憎しみをぶるけることができる期待もあった。 だけど、僕が今なすべきことはそれじゃない」

 アゼルはそう言いながら、寝転がりながらランタンの隣に置いてある灰皿に煙草を押しつぶし、そして裸体の身を起こした。

 「僕には行くべき道がある。 復習や憎悪なんて感情は、路肩の石にしか過ぎないんだ。 それでも、こうして彼との邂逅を果たしたんだ。 このまませいぜい踊って貰うことにするよ。 彼にも、母さんにも、フェイトにも、僕が用意した舞台の上で……。 僕を……、アゼル・テスタロッサを終わらせる物語を終焉に迎える為もね」

 ここではない、遥か未来を見据えるようなアゼルの横顔に、リニスは言葉にできないような郷愁を感じた。アゼルの契約内容は、それを交わしたその日から魂に刻まれている。
 それでも、アゼルに哀れみを感じれずにはいられなかった。
 リニスはアゼルの肩に頭を乗っけて体重を預ける。アゼルは覗き込むようにリニスの顔を見ると、深い憂いを湛えたその表情に、困ったような笑みを浮かべた。

 「アゼル……。 私は、赦されることなら貴方とずっと……」

 それは霞のような声だった。アゼルはリニスが紡ぐ言葉を続きを言わせまいと、自らの唇をリニスの唇に押しつける。

 「ん……、んぁ……」

 くぐもった声が、重ね合わされた唇から洩れる。最初は触れ合うだけの軽い口づけだったのに、お互いに情欲の炎がついたのか、腕を背中に回し合い求めあうように身体を求め合った。
 貪るように絡め合う下の動きも、段々と激しいものになっていく。

 「……ぷぁ」

 喉ものとに押し込める窒息感に、二人は名残惜しげに唇を離すと撹拌された唾液が銀橋を作ってプツリと切れる。
 アゼルは背中に回していた腕を、リニスの胸に移動させ押し倒す。リニスの頬は扇情に赤みが増し、蕩けた口元からは涎が垂れていた。

 「もう一回しようか?」

 アゼルが意地悪な意味を浮かべたまま、リニスに圧し掛かる。リニスは何も言わずに、アゼルの首に腕を回した。



[31098] 11!
Name: 三鷹の山猫◆ef72b19c ID:d1000a7d
Date: 2012/03/01 22:56
 山を沿うようにして切り崩された螺旋状の山道を、低いエンジン音と振動を上げて走行するハマーの車内は非常に騒がしかった。
 女三人寄れば姦しい、とはよく言うが、その車内という密室には女性が七人もいるのだから仕方がないといえばそうなのかもしれない。
 進行方向に向かって左側の運転席に居るのが、一葉の母の亜希子。このジープの持主だ。
 そして助手席にすずかの姉の忍。中部座席には左からなのはの姉の美由紀と母の桃子。そして後部座席には小学生組のなのはと、アリサ、すずか一葉の順で座っている。
 軍用車両を改造したハマーは、シートがやや硬いが七人乗っても車内の空間には余裕があり、圧迫感というものを感じさせない構造になっている。旅行という浮ついた空気の中、それぞれがお菓子やジュースを口元に運びながら、好き勝手に会話を楽しんでいた。

 ゴールデンウィークの初日を迎えた今日は、連休を利用した緋山家、高町家、月村家、バニングス家の合同慰安旅行の初日だ。と、いっても、アリサの両親と一葉の父は仕事の都合で来ることはできなかったが、当然、これにはベヌウとユーノもついてきている。
 そして、アリサとすずかの愛でるという純粋な暴力に晒され続けていた。最初の方こそ、念話で助けを必死に求めていたのだが、しばらくするとその声は途絶え、今では死んだ魚のような目をしてぐったりとしている。
 なのはは、そんな二匹を申し訳ない気持ちで見ていると、アリサを挟んで一葉がふと視界に入った。
 車内の会話に参加することもなく、誰も話しかけるなと言わんばかりに、耳にはイヤホンが嵌め込まれていて、左の頬には湿布が痛々しく張られていた。
そんな一葉を見て、なのはは暗澹な気持が胸に落ちた。

 月村邸での一件から今日まで、一週間の時間が流れた。そして、僅かなその間になのはと一葉の関係は呆気なく瓦解した。
 あの日を境に、一葉はあからさまになのはを避けるようになり、アリサとすずかにも距離を置くようになり始めた。
 学校に居る時も一人でいる時間を増やし、放課後も一人で帰る。ジュエルシードを探索するときは、姿は見せるがそれだけだ。
 今日の旅行だって、ずっと前から企画されていたのに前日になって一葉が行きたくないと駄々をこねたらしい。 頬の湿布は肉体的な説得をした結果だと亜希子が言っていた。
 急に余所余所しい態度をとり始めた一葉に対して、すずかは戸惑い、アリサは悩みがあれば相談すればいいのにと憤慨していた。
 なぜ一葉が自分達と距離を置くようになったのか、その理由が黒い靄のように霞んでいてはっきりとせず、胸の中にもどかしさが募る。
 一週間前の、あの森でなにかがあったことには間違いない。それでも、その“なにか”がなのはには判らなかった。

 金髪の少年と、一葉が剣を交えて居たまでは記憶に残っている。だが、次に気がついたのはすずかの部屋のベッドの上だった。
 自分が気を失っている間に、事態はどのようにして収束に向かっていったのか、そしてなぜレイジングハートに封印されていたジュエルシードが一つ減っているのか、ユーノに尋ねても言葉をはぐらかすだけでなにも教えてはくれはかった。
 まるで自分だけが仲間外れにされているような居心地の悪さに、胸が締め付けられる。

 あの時になにが起こって、どうして一葉が自分達から距離をとり始めたのか、なのははどうしてもその理由が知りたかった。


 ◇◆◇


 「断固拒否する!!」

 「なんでよ!? 別に問題なんてないでしょ!?」

 「大有りに決まってんだろ! 頭沸いてんのか、お前は!?」

 アリサと一葉の口論は激しさを増す。アリサはともかくとして、普段は冷静な一葉も興奮しているようで、お互いが目を見開きながら顔を紅潮させて唾を飛ばし合っていた。

 しかし、激しい炎のぶつかり合いのような二人の雰囲気とは裏腹に、周囲の大人たちの見る目は微笑ましい。すずかも困ったように笑っているだけで、亜希子は爆笑している。

 「頭が沸いてんのはそっちでしょ! 日本語が読めないの!?」

 アリサが一葉と視線をぶつけたまま指差した先には、一枚の張り紙が張ってあった。“女”と刺繍された赤い暖簾の隣に在る、黄ばんだ張り紙には手書きの文字でこう綴られている。
 “十歳以上のお子様の、ご入浴はご遠慮お願い致します”

 「あんたは九歳! つまり、私達と一緒に入れるじゃないの!」

 「入れるのと、入りたいは別問題だから! て、言うか羞恥心持とうよ少しは!!」

 「さっきからズラズラ理屈ばっかりこねて、何様よアンタ!? おとなしくこっちに来なさいよ!!」

 「そんな横暴にオレは屈しないぞ!」

 二人の口論の原因は、一葉がどちらの温泉に入るかだった。普通に男湯に入りたい一葉と、女湯に連れて行って一緒に入りたいアリサの意見は平行線のままで、男湯と女湯を分ける暖簾の前で、既に十分以上が経過していた。

 「別にいいじゃんか。 こんな別嬪に囲まれて風呂に入れることなんて、多分これから先の人生で一生ないぞ」

 「母はちょっと黙ってて。 話しがこじれる」

 にやついた表情でアリサに助け船を出そうとする亜希子に、一葉はピシャリと言った。どう考えても、この状況を楽しんでいるようにしか見えない。なのはは、アリサがなにを想って一葉を女湯に誘っているのかはわからないが、その意見には胸の内で賛成していた。
 勿論、裸を見られることが恥ずかしくないわけではないし、一葉の裸を見ることもそうだ。
 だが、それ以上になのはは恐怖していた。
 一葉が先週の一件から、不自然に距離を置き始めたことはなのはにもわかっている。そして、このまま一葉が自分達のところに戻ってこないのではないかという疑心が恐怖に代わっていたのだ。
 一葉は良くも悪くも、なのは達のグループの中核の人間だ。一葉がいたから、アリサとすずかと今の関係を築くことができ、そしてそれを今日まで維持し続けることができた。
 もし、一葉がこのままグループから抜けてしまえば、そのまま瓦解へと繋がることになってしまうかもしれない。
 アリサはきっと、最近の雰囲気を肌で感じ取っていたのだろう。一見して高飛車な性格と思われがちだが、アリサは最低限のモラルは持っている。そうでなければ、一葉を女湯に誘うなんて我儘を言うはずなんてない。

 なのはだけでなく、すずかもまたアリサを応援するような視線を送っていた。今回の騒動の渦中になのははいる。その後ろめたさもあり、自分から誘うことはできなかったが、一葉とゆっくり話し合う機会を設けたかった。
 今回の温泉旅行は、絶好の機会だ。いつもとは違う状況ならば、今日まで噤んできていた口も緩むかもしれない。その時に、一週間前、気を失っている間にいったいなにが起きたのかを聞くつもりだった。

 今のところ表立って意見をぶつけ合っているのはアリサと一葉だけだが、女性陣の誰も一葉と同じ温泉に入ることに対して嫌な顔をしていない。小学生の子供はひとり混じったところで、どうとも思わないからだろう。
 このままアリサが押し続ければ、そのうちに一葉が折れるのではないかという希望を持っていたのだが、二人の口論の均衡を崩したおはなのはの父である士郎だった。

 「まあまあ、落ち着いてアリサちゃん。 このまま一葉くんをそっちに連れてかれちゃうと、僕が一人になっちゃうよ。 それは勘弁しもらいたいなぁ」

 柔和な笑みを浮かべながら、士郎は自分の腰のあたりまでしか身長のない一葉の肩に手を置く。その口調には有無を言わさない強みがあり、アリサはウっと押し黙ってしまった。

 「まぁ、士郎さんがそう言うなら仕方ないかなぁ。 あーあ、何年かぶりに一葉と裸の付き合ができると思ったのになぁ……」

 「すいません、亜希子さん。 ただ、せっかくの温泉なのに一人きりっていうのはちょっと寂しすぎて」

 「いやいや、わたしゃその気になればいつでもできるんで」

 最初に折れたのは亜希子だった。ただ、その表情は悪ふざけの笑みを浮かべていて最初から本気でなかったことが窺える。
 士郎の言うとおりに、一葉を除けばこの場に居る男性は士郎だけだった。恭也は恋人の忍と旅館付近の散歩に行ってしまっている。

 「うぅ……ッ。 おじさんがそう言うなら……」

 アリサが悔しそうに喉を鳴らしながら言うと、一葉がなにかを思いついたように手を叩き、口を開いた。

 「よし。 じゃぁ、オレの代わりにベヌウを提供しようじゃないか」

 『ちょっと! なに言ってるんですか!?』

 一葉の突然の言に、ベヌウが念話でだが空気を裂くような奇声を上げた。この旅館に来るまでの間、アリサとすずかに散々弄ばれた恐怖があり、ようやくそれから解放されると思っていた矢先のことだ。

 「いや、アンタの代わりにペットって……」

 アリサが消沈した声色で言うと、その様子を見て士郎が口を開いた・

 「アリサちゃん。 今は一葉くんがそう言ってくれてるんなら良いじゃないか。 それに温泉に入るのは今だけじゃないし、ここの温泉は二十四時間ずっと開いてるからいつでも誘えるよ?」

 「ちょっと! 士郎さん!?」

 今度は一葉が空気を裂くような声を上げた。だが、士郎はそんなことを気にする様子もなく、「さ、行こうか」と一葉の肩においていた手でそのまま襟首をつかみ、ズルズルと男湯に引きずりこんで行ってしまった。
 ただ、僅かな隙に一葉の肩に居たベヌウを、アリサはしっかりとかっぱらっていたのだから、アリサはアリサで油断できない存在なのかもしれない。

 「次は夕食の後に入るからね! 逃げるんじゃないわよ!」

 アリサが左腕でベヌウを胸に押しつけながら、右手は暖簾の向こう側に消える一葉を指差しながら叫ぶ。

 『高町嬢、高町嬢。 できるなら、私は今すぐに一葉の方に向かいたいのですが……』

 なのはの頭の中にベヌウの声が響く。チラリとなのはがベヌウを見ると、翼を広げるどころか、身動きすら取れない状態だ。

 『うーん……、ごめんね。 諦めて』

 『……でしょうね』

 落胆のため息とともに、ベヌウは吐き出すように言った。こんなに呆気なく諦めるということは、心のどこかでは最初からこうなることを予想していたのかもしれない。

 『覚えてくださっているとは思いますけど、私は一応機械であるということを頭に入れておいてくださいね。 ある程度の耐水性があるとはいえ、長時間水に浸かることは想定されて設計されてはいません。 できれば、長風呂は避けて欲しいのですが……』

 『うん。 わかった。 アリサちゃんたちに、それとなく言っておく』

 『……温泉とは、日本人にとっての心の癒しになるそうですね。 自然の景観を見ながら湯に浸ると、心が緩むと聞きます。 温泉は初体験ですが、もしかしたら私も同じような心境になってしまうかもしれませんね』

 『え?』

 脈絡も為しに言いだしたベヌウの言葉に、なのはは怪訝な声を出した。だが、ベヌウはアリサの腕に抱かれたまま淡々と言葉を続けた。

 『もし、そのような時になにかを聞かれれば、ついつい口を滑らせてしまうかもしれません。 これは、気をつけねば……』

 『えと……。 それって……』

 ベヌウの言葉に、なのはは一瞬困惑した。わかりやすすぎるほど遠回しなその言質は、聞きたいことがあれば何でも答えてやるという副音声が見え隠れしているような気がしたからだ。
 ベヌウがなぜ、急にそんなことを言い出したのかはわからない。だが、この機会を逃すと自分の知りたいことを知ることは二度とないと悟った。同時に、ここが分岐点であるということも。

 きっと、自分は試されているのだ。ここで逃げたら、一葉もベヌウも自分の腕が届かない遠くまで行ってしまうのだろう。あの日の森の中で、一体なにが起こったのかは知らない。だが、知らないでは済まされないことが間違いなく起こったのだ。

 まずは知らなければいけない。夕暮れのあの日、森に呑みこまれ壊れた街を見た時の覚悟を思い出せ。

 なのはは、襟元を強く締めながら、ベヌウを抱いたまま暖簾の中に消えていくアリサの後を追った。


 ◇◆◇


 少し集めのお湯に肩まで浸かると、一葉はふー、と大きく息を吐いた。
 肩まである癖っ毛は後ろで一つに束ねている。頭の上には白いタオルが置かれていて、正しい温泉の入り方を体現していた。
 一葉の隣に居る士郎を同じ風体をしている。傍から見れば、親子のように見えるかもしれないが、士郎は三十代後半とは思えないほどに、引き締まった筋肉をしている。そして、身体全体に残る痛々しい傷跡は、どう見ても堅気には見えない。
 今でこそ喫茶店のマスターをやっているが、昔は傭兵まがいの仕事に就いていたらしいい。なのはが小学生に上がる頃に、仕事で大けがを負って生死の境を彷徨ったらしい。幸い後遺症も残らなかったのだが、それをきっかけに引退したのだと、緋山家で亜希子と信之とともに晩酌を交わしてほろ酔い状態になっていた士郎がポロリと零していた。

 「本当は日食に合わせて来れればよかったんだけどねぇ……」

 「まぁ、その辺は仕方ないでしょ。 太陽系は人間に都合を合わせちゃくれませんよ」

 「確かに。 間違いない」

 一葉が、温泉に解されて血からの抜けた声で言うと士郎は笑った。
 一年ほど前からニュースで騒がれている皆既日食は、本来だったら今年のゴールデンウィークと重なるはずだった。百年に一度の規模で、その最良観測地が海鳴市だということもあって、最近は街興しを盛んに行っていたのだが、どういうわけか太陽系が重なる時期が少しずれているらしい。

 「それでも、この景色が見られただけで十分ですよ。 これ以上を望むと罰が当たりますって」

 一葉と士郎の視線は、先ほどからずっと温泉から見える露天の景色に固定していた。岩風呂から揺らぐ湯気の向こう側には、都会では見ることができない、突き抜けるような広い空が昼と夜が混じり合う藍色に染まっていた。逢魔時の空は、緩やかに闇が支配していき、連なる山脈を呑み込んでゆく。
 夜のとば口の、ひんやりとした空気の中で入る温泉は心地が良かった。
 一葉が目を細めて思っていたことを言うと、隣から笑いをかみ殺すような声が聞こえてきた。

 「……どうしたんですか?」

 尋ねると、士郎は頭の上に乗せていたタオルの位置を整えながら答えた。

 「いやぁ、なんだかんだで結構楽しんでるみたいでよかったな、って思ってね。 亜希子さんの話しだと、今日の旅行はあんまり乗り気じゃなかったみたいだからさ」

 「ずっと拗ねててもしょうがないですからね。 来たなら来たで、楽しまないと損でしょう」

 「それは、その通りだけど……、切り替えが早いねぇ」

 一葉の言葉に、士郎は顔を綻ばせながら言った。
 二か月も前から計画されていた、四家族による今回の旅行で、一葉は自分がこの場に居ることが場違いな気がしてならなかったが、それでも来てしまったものは仕方がない。
 気持ちを切り替えて、出来るだけ楽しもうと思っていた。

 アゼルとの邂逅から、一週間の時間が過ぎた間にジュエルシードの反応は途絶えた。おそらく、アゼルとフェイトが封印して回っているのだろう。
だが、それならばそれでもいい。ユーノには申し訳ないが、一葉にとってジュエルシードは大した問題ではない。一葉が最も恐れていることは、なのはのことだった。

なのはのことを考えると、墨を飲んだかのような気持ちになる。

 なのはは気性は争いごとに向いていなさすぎる。人の哀しみも、憎悪も知らずに成長した温室で育てられた花のような無垢な性格のなのはを、哀しみと憎悪しか知らないアゼルの前に晒すわけにはいかない。
 同じものを目標にして動いているのであれば、近い未来に、間違いなく再びぶつかり合うことになるだろう。
 なのはを、これ以上深みにはまらせるわけにはいかないのだ。
 しかし、一葉のそんな想いとは裏腹に、まるであの森での失態を取り戻そうとするかのような勢いで、なのはは以前にもましてジュエルシードの探索に熱意を入れるようになり始めた。
 ユーノがそのことを後押ししていることを、一葉は知っていた。
 確かに、得体の知れない力を持つ自分よりも、比較的平均の位置に居るなのはを頼ろうとするのは理解できる、だが、それでも九歳の……それも女の子を自分の都合で戦場に立つように促すユーノの神経が信じられなかった。
 ユーノにも事情はあるし、もしかしたらそれがユーノの世界での当り前なのかもしれない。
 それでも、なのはがこのままジェルシードを探し続けることは納得できなかった。

 ならば、自分が戦うしかない。
 なのはを戦場に立たせないためには、アゼルと戦わせないためには、自分が強くなるしか道は残されていない。

 例え代償に、“緋山一葉”を失うことになっても……。

 「どうしたんだい、怖い顔して?」

 「お?」

 士郎の声に、士郎は思考の海から引き揚げられた。自分でも気が付かない内に、眉間に皺が寄っていたらしい。一葉は石気を引き締める為に、両手でお湯を掬って自分の顔に叩きつけた。
 ここに来る途中の車の中で、ある程度の整理はつけてきた。今日はめいっぱい楽しもうと決めてきたのだ。もしかしたら、これが自分が自分でいられる最後の行楽になるかもしれないからだ。

 アゼルと剣を交えた日から、今日までの間に一葉の中で異変が起きていた。
 ぽっかりと口を開けた暗闇の中から、誰かがこっちへ来いと誘う声が聞こえてくる。最初は木霊のような小さな声だったのに、日に日に輪郭を帯びどんどん近づいてくる。
 それはきっと、自分の獣の部分。視界に入る誰もかもを食い千切ってでも、血を求め続ける、理性のない本能。誰を不幸にしても、どんな世界が待っていても、一度戦が始まれば、更なる戦を求め続けずにはいられない存在の声だ。

 「なにか悩みごとかい?」

 「まぁ、悩みが多い年頃ですから」

 「……その悩みには、うちの娘も入ってるんだよね?」

 鋭すぎる、さりげない士郎の言葉に、一葉は思わずドキリとした。一葉が士郎を視線だけ動かして盗み見ると、士郎は目の前の景色に向いたまま言葉を続ける。

 「ここ最近ね、なのはが夜によく出歩いてるみたいなんだ。 本当なら、親としては叱らなきゃいけないんだろうけど、どうもただ遊び歩いてるというわけでもないらしい。 一葉くんは、なにか知ってるんじゃないかな?」

 「……」

 「この間も、忍さんの家でなにかあったそうじゃないか。 なのははその時のことをなにも言わないけど、恭也がね……。 本当に申し訳ないことをしたよ……」

 「今日の恭也さんのなり、やっぱり士郎さんが犯人ですか……」

 「ああ、あれで溜飲を下げてくれるとありがたいんだけどね」

 一葉と士郎が言っているのは、今日の恭也の風体のことだ。頭と右腕には包帯が巻かれ、頬には一葉が貼っている湿布よりも大きな絆創膏が貼られていた。
 その姿は見ている方が痛々しく感じるほどのものだ。

 「まったく、小学生に暴力をふるうなんてなにを考えてるんだか……。 普段の修行に甘えがある証拠だ」

 「いやぁ……、それでもあれは少々やり過ぎでは……」

 出立の直前、高町家の車に乗り込む恭也の煤けた表情を思い出すと、なんとも言えない気持ちになった。よほど強烈な折檻を士郎から受けたのか、一葉と目が合っても気まずそうに視線を逸らすだけでそれ以上のことはなにもなかった。

 恭也が士郎に折檻を受けた理由。それは月村邸の一件でのことが発端だ。
 あの時、一葉がなのはを担いで森を抜けると、出迎えたのは顔面を蒼白にしたすずかと、アリサとファリン。そして冷静な面持ちを保っていた忍とノエルと、鬼の形相をした恭也だった。
 一葉が森の中で倒れていたのを見つけて運んで来たと説明しながら、なのはをノエルに引き渡したのと同時に、恭也が突然一葉の胸倉を掴んで壁に叩きつけたのだ。
 その視線からは、怒りを憎悪、そして隠された侮蔑が滲んでいて、言葉にせずとも恭也がなにを考えていたのかが直ぐに理解できた。

 “お前がなにかしたのだろう”、と。

 一葉は背中を響かせた衝撃に奥歯を噛んで耐えながら、なにか喋らなければと思うが、頭の中に浮かぶ言葉はどれも声にはならずい、ひっそりと沈んでいく。
 左腕と両足が焼けるように痛かった。“篠”を放った時の反動か、その痛みのせいで頭の中が鈍感になっていたのだ。
 これは後になってわかったことだが、この時に一葉の左太腿の筋肉が肉離れを起こしていた。左腕も右足も、その一歩手前だった。
 “篠”は高速の、突きの連続技。必要なのは上腕の筋肉と腰のしなやかさだが、それ以上に柔らかく、強靭な太腿の筋肉群が重要になる。
 未だ九歳で未発達の一葉の筋肉はそのどれもをも持ち合わせてはおらず、たった一撃を放っただけで、筋肉の内出血が皮膚から滲み出るほどに身体がボロボロになってしまっていた。
 すずかたちの狼狽の声が遠のいていくのと同時に、目の前が平板になって、そのまま意識を失ったわけである。

 目を覚ました時には病院のベッドの上で、なぜかはやてが顔を覗きこませていた。
 気を失った一葉の外傷に気が付いた忍たちが、自家用車で病院まで運んで来たのだが、その光景を外来で来ていたはやてが偶然目撃して、ずっと付き添っていてくれたらしい。
 今は家に連絡を入れに行き席をはずしているが、恭也は忍にこってりと絞られていたらしい。
そして、なぜかはやてから物凄く怖い顔で説教を受けたのは、また別の話しだ。

 「鞭を惜しめば子供はダメになる。 叩くべき時は容赦なく叩くよ、僕は。 それに、アフターケアは忍さんがやってくれるだろうし……、今頃慰めて貰ってるんじゃないかな?」

 はぁ、と一葉が曖昧に相槌を打つと、士郎は話しを本題へと戻した。

 「それで、話しを戻すけど……。 亜希子さんの話しでは、一葉くんも最近夜に出歩いてるみたいじゃないか。 聞く限りじゃ、その時間帯はなのはが外出してる時間と重なるんだよ」

 士郎の言葉に、一葉はギョッとした。家を抜け出す時は細心の注意をはらっていたはずなのだが、亜希子にはどうやら通用しなかったようだ。
 元々、館が異常に鋭いところはあったが、正直ばれているとは思っていなかった。
 だが、気が付いているのになにも言ってこないということは、それなりに信用はされているということなのだろうが、本当のことを言うのはやはり躊躇ってしまうのだが、この周りに誰もいない状況でこう言う話しを切りだされるということは、士郎はずっと二人きりで話せる機会を窺っていたのだろう。

 「なるほど、その話しをする為に二人きりになる機会を作ったわけですか……」

 「その通り。 勘がいい子は好きだな、僕は」

 あっけらかんと言う士郎に、一葉は肩を竦ませながら、呆れたように溜息を吐いた。

 「確かにオレが関与してることは認めますけど、そのことはなのは本人から聞きゃいいじゃないですか」

 「僕は口下手だからねぇ。 人から情報を聞き出すのが得意じゃないんだよ。 それが自分の娘だったらなおさら、可愛すぎてなにも聞けなくなる」

 「口下手の割にはいい感じに追い込まれてる気がするんですけど」

 「それだったら、このまま全部喋ってくれるとありがたいんだけどね」

 「それは断ります。 なのはが言ってないんだったら、オレの口から言っていいことじゃないんで」

 一葉がきっぱりと言うと、士郎は困った笑みを作りながらお湯を身体の顎先まで沈めた。

 「まぁ、一葉くんならそう言うとは思ってたけど、あまり危険なことに首を突っ込んじゃいけないよ。 君と話してると、時々忘れるけど一葉くんもまだ子供なんだから」

 「……わかってますよ。 自分でできることと、できないことの区別ぐらいはついてます」

 士郎の言葉に、一葉はズキリとした痛みを覚えた。こういう心遣いは苦手だった。

 「わかってるんならこれ以上はもう言わないけど……たまには周りの大人たちも頼りなさい。 僕も、力になってあげるから」

 「……はい」

 一葉はこの時、士郎が本当に言いたかったことが理解できていなかった。誰にも頼らないというその強さが、後に悲劇が一葉を飲みこむことになる。


 ◇◆◇


 『え? じゃあ、一葉くんはずっと魔法の特訓をしてたの?』

 『ええ。 ここ最近のジュエルシードの探索に姿を見せなかったのはその為です。 朝早くから夜遅くまでやっていますよ』

 ベヌウは溜息混じりの念話で言った。なのはとベヌウがいる場所は、熱のこもった湯気が立ち込める広い室内温泉だ。薄や色のタイルが敷き詰められた浴室の真ん中には、八角形の浴槽が埋め込まれていて、なのはとベヌウは二人でお湯に浸かっていた。
 他のみんなは外の露天風呂に言っていて、浴室の一面に仕切られた硝子戸の向こう側に居る。
 硝子戸から差し込む黄昏は、浴室に立ちこめる湯気まで彩り、その上を火の木の良い香りが彷徨している。
 なのはは室内温泉を堪能してから露天風呂の方に合流すると皆に嘯いて、ベヌウと話しをする為にここに残った。
 ベヌウはなのはの隣で、浴槽の縁で濡れ場を畳んでいるだが、ユーノはアリサに拉致られてしまったので念話だけでの参加となった。

 家族と、友達と一緒の旅行。それは心が浮かれるべきはずのことなのに、なのはの気持ちは鉛を飲んだかのように沈んでいた。

 『先週の、月村邸での出来事は聞き及んでいると思いますし、高町嬢は直ぐに気を失ってしまっていましたが、それでも一葉の実力の一旦はその目で見たはずです。 私自身、一葉があれほどの実力を持っていることは驚きましたが、所詮は諸刃の剣。 あの時の怪我だって、まだ完全には癒えてはいないというのに……』

 「え?」と、なのはは念話ではなく肉声で漏らした。諸刃の剣とはどういうことなのだろうかという思いもあったが、それよりも、今ベヌウは怪我と言ったか、と。

 そんななのはの反応に、ベヌウは冷え冷えとした視線でなのはを見ていた。

 『なにも、聞かされてはいないのですか?』

 「どういう……、こと?」

 白い室内がシン、と静まり返る。
 温かなお湯に身体を浸しているにもかかわらず、芯から冷え込んでしまいそうな空気と重さに押しつぶされてしまいそうになる。
 なのははベヌウの言葉の意味がわからなかった。確か、あの時に一葉は怪我らしい怪我はしていなかった気がする。それこそ、自分が気を失う前までの話しだが、今日までに一葉はそんな素振りを見せていなかった。
 それに、あの少年……。確かアゼルと名乗っていた少年が持っていた武器は太刀だった。あんな物騒なもので傷つけられたら、今頃温泉に来ているどころの騒ぎでは済まないはずだろう。
 なのはが思考の渦にはまっている様子を見て、ベヌウは大きな溜息を吐いた。

 『その様子だと、本当になにも知らないようですね……。 私はてっきり、ユーノ・スクライアから聞き及んでいるものだと思っていましたよ』

 ベヌウの言葉に、なのははこめかみがズキリとした。思考の渦は相殺され、一葉だけでなくユーノでさえ自分を除け者にしようとしている事実だけを直ぐに認識した。

 『一葉はあの時、自らの技の反動で肉と腱が切れかかっていました。 今は、痛みは引いたようですが、自分の持つ技術が使えない以上、魔法の力に頼るしかないというのが一葉の至った結論でした。 その意見には私も賛成だったのですが、今の一葉は自分の身体を苛め過ぎている。 今度は自分が自分の身体を壊してしまうかもしれません』

 『……ユーノくんは……、知ってたんだよね? 一葉くんが怪我したこと。 なんで……、教えてくれなかったの?』

 なのはは姿に見えないユーノに問いかけた。そこにどんな表情があるのか、なのはにはわからないが、一瞬だけ声が揺らいだ気がした。

 『それは……、なのはに余計な心配をして欲しくなかったから……』

 ユーノの、僅かに動揺する気配が伝わってきた。ユーノの言葉は、きっと真意には間違いないのだろう。決して嫌がらせや、投げやりな気持ちで口を噤んでいたとはなのはも思っていない。
 だが、ユーノのそんな言い分に、なのはの感情は一瞬で沸騰した。

 『余計な、って……、余計な心配ってなに!? 一葉くんが私たちのせいで怪我をしたことは余計なことなの!? なんでユーノくんはそんなことが言えるの!?』

 なのはは辛そうに声を震わせた。細張った指で自分の顔を覆う。

 恥ずかしかった。情けなかった。無知を振りかざして、いつも通りに一葉に接そうとしていた自分を、一葉は一体どういうふうに見ていたのだろうか。
 怒りを感じていたのだろうか、それとも呆れていたのか。胃を鷲掴みにされたかのような気持ち悪さがなのはの心に滾々と沸き上がる。
 そんな感情の吐き出し方をなのはは知らない。ただ、際限なく溜めこむことしかできなかった。

 『黙っていたのは、悪いと思ってる。 だけど、なのは。 この際だから言っておくよ。 一葉は普通じゃない、はっきり言ってどこかおかしい。 彼の傍に居ると、なのははきっと不幸になる。 そうなる前に、一葉から離れるべきだ』

 『そんなこと……! ユーノくんが決めることじゃないでしょ!? 私の友達は私が決める!』

 声を荒げるなのはに対して、ユーノは冷静な声色で言葉を続ける。

 『なのはだって、本当は気が付いてるんでしょ? 一葉が普通じゃないってことぐらい。 彼は異常だ。 それは、一葉の持つ能力のことだけじゃない。 立ち振る舞いや、雰囲気、一葉の存在そのものが、どこか不自然なんだってことぐらい……』

 『……っ!』

 なのはは喉に声を詰まらせた。ユーノが言葉にしたこと、それはなのはが心のどこかで思っていたことでもあるからだ。
 一葉がアゼルと邂逅したあの日から、一葉が一葉でなくなってしまうような奇妙な感覚を覚えていた。そして、その感覚は落ちることのない油のようにねっとりとなのはの心にこびりついて、いつの日か些細な火種が煉獄の炎を吹き上げるのではないかという、胸を締め上げる不安が広がっていた。

 『なのはは知らないだろうけど、一葉とアゼルって奴は知り合いだったんだ。 多分だけど、一葉はなにかを企んでる。 なのははいいように利用されてるだけなんだよ。 だから……』

 『少し黙りなさい、ユーノ・スクライア』

 氷のように鋭い声が、ユーノの声を遮った。

 『貴方はよく、私の前でそこまで一葉を悪し様に語れますね。 少々、驚きましたよ』

 『今のが……、僕の素直な感情だよ。 僕の言ってることが間違ってるっていうんなら、教えて欲しい』

 『一葉がなにも語らないのであれば、それは貴方達が知らなくてもいいことです。 そして、それは私も同じです。 貴方達には、貴方達が弁えるべき分があります』

 『……、なにも言えないってことは、僕たちに知られちゃまずいことがあるんじゃないのか?』

 『やめてよ! 二人とも!!』

 なのはは、泣き出してしまいそうな声を上げた。ユーノとベヌウの間に漂っていた不穏な空気は、なのはの声に遮られ、双方とも口を噤んだ。

 なのはは怖かった。その場限りの慰めを口にしたとしても、再びベヌウに詰られそうな気がして。身体が震えてしまいそうなほどに、それが怖くて……。いや、これは恐怖じゃない。寂しさだ。
 いつも当たり前に隣に居た人が、突然遠くに行ってしまうのではないかという寂しさは、なのはをまるで胸に洞があいたかのような気持ちにした。

 『高町嬢、一葉が戦う理由は貴方にあるのですよ』

 『……うん』

 『わかっているのならば、ジュエルシードから手を引いてください。 高町嬢が諦めてくだされば、一葉もまた戦う理由がなくなります。 これ以上、誰も傷つきません』

 『……ごめんなさい。 ベヌウさん』

 なのはは、呟くような小さな声で謝った。

 『なぜですか? ジュエルシードの回収ならば、保障は出来かねますが私がなんとかしましょう。 それとも、なにか他の理由があるのですか?』

 理由なんて、わからない。もしかしたら無いのかもしれない。
 ユーノが困っていて、一葉と共通の秘密が持てて、最初はそんな軽い気持ちで始めたジュエルシードの探索だった。
 だが、今は違う。言葉にはできないが、きっとここで引いてはいけないのだと、なのはは確信にも似たものを持っていた。

 『ここで諦めたら……、ここで逃げちゃったら、本当に私の前から一葉くんがいなくなっちゃう気がするの……。 ユーノくんの言ってることも、ベヌウさんが言いたいこともわかるけど……。 だけど……、私はこのまま一葉くんがいなくなって、後悔することしかできないなんて絶対に嫌だから……』

 『ならば、その想いを一葉に伝えてください。 高町嬢がそう言うのであれば、私はこれ以上は止めることはしません』

 『……うん』

 なのはは、憂鬱そうな表情で長いまつ毛を伏し目がちにして頷いた。ベヌウの言うとおりにして、自分の気持ちを一葉に伝えてもそれをちゃんと言葉にできるのかわからず、胃のあたりがじくじくした。
 いや、それよりもわからないのは自分の感情だ。
 一葉がいなくなるのは嫌だ。一葉が隣に居てくれなければ嫌だ。一葉が自分のことを見てくれなければ嫌だ。どんな時でも、傍に居て欲しい。
 こんな感情、アリサやすずかに対してはない。しかし燻ぶるような、それでいて叫びたくなるような狂おしい感情が一葉に対してあった。
 それがいったいなんなのか、なのはにはわからない。だけど、絶対に見て見ない振りをしていいものではないということはわかる。
 ただ、無くすだけなのは嫌なのだ。この手から全てが零れ落ちて、なに一つ掴めないまま、なに一つ守れないままに。

 『話しはこれで、お終いにしましょう。 高町嬢、そろそろ露天の方に向かわないと、御友人が迎えに来ていますよ』

 ベヌウの言葉に、なのはは硝子戸に視線を移すと、アリサが迎えに来ていた。なかなか来ないなのはに、痺れを切らしたのだろう。
 なのはは慌てて湯船から身体を起こすと、ベヌウの身体を抱き上げたお湯からあがった。

 お風呂を出たら、一葉くんとちゃんと話しをしよう。なにを話していいのかわからないし、どう言えばいいのかもよくわからない。それでもなにかを伝えなければ、なにも始まらないし、掴むこともできないのだ。
 なのはは密かに決意して、アリサの元へと向かった。
 そして、見落としていたのだ。ベヌウの、深い憂いを湛えた新緑の瞳を。
 まるでその瞳は、この物語がハッピーエンドでは決して終わらないと悟っているかのような、そんな瞳だった。


 ◇◆◇


 一葉は温泉に三十分ほど浸かって、ここ数日の特訓で凝った筋肉をゆっくりほぐした。足の痛みも、腕の痛みもほとんど取れている。これならば、もう戦闘にも支障が出ないだろう。
 温泉から上がると、着替えの浴衣に袖を通してから今日着てきたTシャツと下着はそのままゴミ箱に捨てた。その為にわざわざ着古したボロイものを着てきたのだ。
 一葉は浴衣の帯を締めると、その上に紺色の羽織を腕に通した。

 「それじゃ、士郎さん。 先に行ってますよ」

 「は~い~よ~」

 一葉は脱衣所を出るときに、まだ中に居る士郎に声をかけると、士郎は百円を入れたら動くマッサージチェアの振動に身を任せ、間の延びた声で答えるのを聞いてから廊下に出た。
 そのまま、一度部屋へ戻ると戻るつもりだったが、二階へ続く階段の踊り場の小窓から見える景色がふと気になった。温泉浴場のある中二階の踊り場の階段を下りて、庭園へと繋がる縁側を目指して歩き出す。
 この宿は百年続く老舗なだけあって、庭園の造りも純和風で立派なものだった。枝ぶりのいい松や、年季の入った石灯篭、斜め上を見上げれば簾で隠された向こう側からは温泉の白い湯気がもくもくと空に向かって揺らいでいる。

 一葉は縁側に腰を下ろすと、気持ちのいい風が吹いてきた。この時期の風は、まだ少し冷たかったが、それでも火照った身体には丁度いい。のぼせた頭の熱が、スーと冷えていくと、縁側の廊下が軋る音がして、一葉は振り向いた。

 「はっぁ~い、少年。 はじめまして」

 見覚えのない女性が、そこには居た。腰まである燃えるような赤をした髪と、額に深緑色の宝石をつけている女性は口調こそは気さくなものだったが、視線にはあからさまな敵意が混じっている。
 声をかけてきたものの、一定の距離を保ったまま近づいてこようとはしなかった。

 「君かね。 最近、ウチの子をあれしちゃってくれたのは……」

 「失礼ですけどどちら様? そんなに動物の匂いをぷんぷんさせた知り合いなんて一人しかいないんですけど、そちらのお仲間?」

 カマをかけてみた。一葉の言った知り合いとは、アゼルと一緒に居た灰色の髪の猫耳女性だ。知り合いというほどではないが、今はそんな些細なことを気にしている必要はない。
 目の前に居る赤毛の女性からも、温泉や石鹸の匂いに混じって、同じ匂いがしていた。
 一葉の誘導はどうやら当たりだったらしく、女性は目を見開き僅かにおののく表情をした。

 「なるほどね……。 どうやら、ただのガキんちょってわけじゃなさそうだ」

 「お姉さんの方こそ、人間じゃないでしょ。 やっぱり、ジュエルシード絡み?」

 一葉がゆっくりと腰を上げると、女性は一葉と視線をぶつけたまま一歩下がった。温泉に入る時に、服は身軽な方がいいと鍼は部屋に置いてきてしまっているが、アルデバランは首にぶら下げている。ここで事を起こすつもりはないが、万が一の時の為にいつでもセットアップできるように警戒していた。

 「そうだよ。 私はね、警告しに来たんだ。 これ以上調子に乗るようだったら、ガブリといっちまうよってね!!」

 「はぁ……、さいですか……」

 「さいですか、じゃないよ! 私たちの手にかかれば、アンタなんかイチコロさ!」

 一葉の態度にカチンと来たのか、女性は憎々しげに声を荒げた。この女性は、きっと使い魔なのだろうと確信にも似たものが一葉には在った。
 だが、森の中で見た女性と比べると感情も豊かで、振舞いも人間のそれと変わらない。使い魔にも色々な種類がいるのだなと思いつつも、言うべきことは言っておくことにした。

 「まぁ、その辺の話しは置いておいてさ。 ちょっと、そちらのご主人様に伝えておいてほしいことがあるんだけど」

 「……」

 女性は警戒に顔を険しくするが、対照的に一葉は朗らかな笑みを浮かべて唇を動かした。

 「そっちこそ、あんまり調子に乗ってるようなら、喰うぞ……ってさ」


 ◇◆◇


 『あ~、あ~、こちらアルフ。 フェイト、聞こえる?』

 『聞こえるよ。 そっちはどう?』

 『あー……、うん。 フェイトが言ってた“いちよー”ってガキに会ったよ……』

 『え?』

 『そんで、少し話したんだけど……』

 『そっ……、それで!?』

 食いつくように尋ねてくる自分の主に、アルフは暗澹な気持になった。今までフェイトは、他人に固執したことがない。それは生まれ育った環境が否応なしにそうさせたものだが、そんなフェイトが初めて言葉を交わした同世代の少年に特別な思い入れを持つことに、アルフはなんとなくだが納得はしていた。
 フェイトと繋がる精神パスからは、不安と期待が入り混じった感情が流れてくる。だが、そんなフェイトに、アルフは突き離すような気持ちで言葉を続けた。

 『フェイト……、アイツにはなるべく近づかない方がいい。 あれは危険すぎるよ』

 『え……?』

 期待を裏切られた子供のような、呆然としたフェイトの声がアルフの頭に届く。自分の言葉が主を傷つけることだとアルフはわかっている。それでも、あの少年は駄目だ。
 あれは、住む世界が違いすぎる。

 “喰うぞ”あの時、酷薄な笑みを浮かべて言った少年に対して感じた感情は、恐怖だった。
 それは本能にも似た、獣という野生の根源に眠っている畏れを力任せに引きずり出されたかのような恐怖だ。
 アルフは狼が素体となった使い魔だ。そして、その本能が一葉に対して警鐘を鳴らしていた。
 獣が戦う理由はいつだって生きる為だ。自らの生を生き抜き、遺伝子を子へ繋げる為に、子を守り続ける為に生きることに固執する。
 緋山一葉は、獣の成り立ちの根幹の正反対に居る存在だ。人間というよりも、自分のような獣に近い匂いがした。だが、違う。生物として、圧倒的に隔絶された場所を歩き続けているように思えた。
 その小さな一身に、死の全てを背負って引きずりながら……。

 『アゼルの言うとおりにした方がいい。 アイツはフェイトとは違う。 アゼルに任せよう』

 『……』

 気持ちがみるみる降下して、哀しみの沼にはまった枯れ葉のような気持ちがフェイトから伝わってくる。そんな感情にアルフも心を痛めたが、聞くところによれば、フェイトと一葉はまだ二回しか会ったことがなく、それも一日の中での出来事だ。
 薄い友情だ。今なら、まだ傷は浅くて済む。今日は偶然、一葉を見かけて軽く威嚇をしようとしただけなのだが、さらなる威嚇で返されたのはもしかしたら幸運だったのかもしれない。少なくとも、自分達だけでは太刀打ちすらできないことはわかった。
 例え今、海のような深い哀しみに溺れようとも、人間は哀しみを忘れることができる。このまま、一葉の記憶は時間とともに風化して貰った方がフェイトの為になる。それが、アルフなりの忠誠だった。

 『……。 ねぇ、アルフ』

 『ん? なんだい?』

 フェイトは、少し言葉を躊躇いながらも、意を決したように言葉を続けた。

 『一葉と……、話しがしたいんだ。 連れてきてくれないかな?』



[31098] 12!
Name: 三鷹の山猫◆ef72b19c ID:d1000a7d
Date: 2012/03/01 22:56
 夜の一族。
 それは文字通り、深淵の闇に紛れて生きることを宿命づけられた、異能の力を持った哀れな一族。
 その起源を探るには、どこまで歴史を遡ればいいのかわからないが、一つ確実に言えることは、夜の一族は人間の身体を持ちながら、人ではない進化を遂げたということだ。
 人と同じ姿をし、人と同じ言葉を操り、人と同じように振舞える、人とは違う者。それを人は化け物と呼ぶ。

 そう、月村すずかは化け物だ。
 夜の一族の大抵は、人より高い運動能力を持ち、秀でた頭脳を持ち、美しい容姿を持つ。人の渇望する大抵を手にした対価は安寧だった。
 夜の一族は、人の血を吸わずにはいられない。吸血症、好血症に非常によく似ているが、それは違う。精神的依存、性的嗜好、肉体的ではなく心に帰結するものであるということまでは同じだ。ただ問題は、それが遺伝してしまうということだ。

 もしかしたら夜の一族は、その血を糧に異端の力を手にしたのかもしれない。
 そして、人の血を啜ることで、人間を超えてしまった者たちを、人は決して許容などしなかった。容赦のない迫害と、魔女狩りとも呼べる一方的な虐殺という悲劇が一族に降り注いた。数の暴力に蹂躙され続け、長い歴史の変遷でその数を減らし続けてきた。

 人に畏怖され敬遠される存在。人のように振舞うことはできても、人にはなれない醜い存在。だから、一族の人間として生まれ落ちてしまった限り、自分の領分を生涯わきまえなければならない。
 すずかは、今は亡き父にそう教わり育った。忍はその考えを良しとしなかったが、まだ幼いながらも、すずかは心の内でそれが正しく正しいのだと納得していた。
 人が人の領分で生きるのならば、化け物は化け物領分で生きていくべきだ。夜の一族の名の通りに、夜のように深淵の闇の中に、鴉のようにひっそりと同化して、鉄のように冷たい心臓を抱いて生き続けるべきなのだ、と。

 そんな、深海に心を囚われたような、閉塞された気持ちを解放してくれたのは、一人の少年と二人の少女だった
 きっかけはいつも頭につけている白いカチューシャ。写真も、思い出も、なにもすずかに残すことはなかった、すずかの母の形見。この世に残った、唯一の母の生きた証だ。

 すずかの母は、すずかが物心つく前に他界した。だが、例え思い出を残していたとしても、多分すずかは実の母を愛せなかっただろう。いや、すずかが好きになれないのは、夜の一族の生き様そのものだ。
 心の深きでは納得はしているものの、最初から定められた運命、人の目を気にし怯えながら、誰とも交わることのない生涯を送らなければならない孤独を、納得せざるをえなけれならないという苦痛があった。すずかの両親は、近くもなく遠くもない近親婚だったそうだ。それは、一族の秘匿を不必要に世間に広まることを防ぐと同時に、血の希少性を守る為に作られた掟だ。すずかも例外ではなく、既に生まれた時から将来の相手が決まっている。

 ただ生き永らえる為に、黴の生えるような歴史を持つ一族を永らえさせるためだけに、掟という鎖で窮屈に縛られた生涯を、喜んで受け入れることなどできようもない。見えない檻に囲われて、閉塞された小さな世界で生き続けなければならない苦痛を、どうしたら恨まずにはいられるのだろうか。
 そして、そんな生き方に抗いもせずに、父親と結婚をした母親をどうしたら好きになれようか。

 そんな母親と同じように、すずかもまた血という鎖と、運命という濁流に抵抗する術もなく、夢を描くこともできない今日という殻に閉じこもりながら、生き続けることしかできなかった。

 すずかは、居るかもわからない神様を憎んだ。
 なぜ貴方は、一つしかないこの世界に二種類の人間を産み落とすのか。持つ者と、持たざる者とを。
 この残酷な世界で飛び立つことも叶わず、空の深さを見上げるだけの井の中の蛙のように生き続けなければならなにのか、と。
 だが、それは違った。すずかは知らなかっただけで、夢を描くことのできる明日を最初から持っていたのだ。
 それを気付かせてくれたのは、あの三人だった。
 すずかの囲う小さな世界の殻を粉々に破壊して、空の広さも、海の青さも教えてくれた。自分は孤独などではなく、ただ一歩を踏み出す勇気を持たない臆病者だったということを。

 すずかは最初、この感激を誰に感謝すればいいのかわからなかった。
 一度は憎んだ神様か、濁流に呑みこもうとした運命か、だがそのどちらでもなく、もっと単純な話しで、三人の、大切な友達に感謝を捧げればよかったのだ。

 アリサ・バニングス、高町なのは、そして緋山一葉。この三人の出会いがなければ、すずかは未だに壁に囲われた狭い世界で空を見上げ、神様を憎み、運命を嘆くことしかできなかっただろう。

 だが、この想いを三人が知ることはない。なぜなら、すずかはその根本たる理由である夜の一族のことを三人に隠しているからだ。
 それは秘匿の掟に従っているということもある。だが、それ以上に怖かった。
 夜の一族であること、自分が化け物であるということを知られるのが。あの親愛の目が、友愛の情が、蔑如と畏怖のものに変わることに心臓を抉られる程の恐怖を覚えていた。

 このまま一緒に居続ければ、隠し通せるものでもない。もしかしたら、遠くない未来に秘密を打ち明けることになるかもしれない。それでも今は……、今だけはこの魔法のように楽しい時間を大切にしたかった。
 それなのに、変化は前触れもなく、あまりに突然にやってきてしまったのだ。

 最初の違和感はなのはの態度だ。表面上には見せない、微かな異変は一葉に対しての立ち振る舞いに現れた。アリサはその微細な変化に気が付かなかったが、すずかは直ぐに気が付いた。
 あれは他人を恐れて顔色を窺う視線。かつての、三人と出会う前のすずかと同じ臆病者の目だった。
 その時には既に、すずかたちの関係に亀裂が入り始めていた。決定的になったのは、一葉があからさまにすずかたちと距離をとり始めてからだ。
 その出来事に、すずかは戸惑いと恐怖が入り混じった闇が降りてきて目の前が真っ暗になった。
 一葉はすずかたちのグループで中心の人物だ。その一葉がいなくなってしまうことは、グループの終わりを、楽しくてしょうがない魔法の時間の終わりを意味している。

 そんなのは嫌だ。
手に入れた安寧を、自分を優しく包んでくれた温もりを失うことになるなんて、嫌だ。思いがけず手に入れた魔法の時間を手放すなんて、絶対に嫌だった。
 例えなにがあろうと、一葉の気持ちを自分達から離れさせるわけにはいかないのだ。

 幸いと言うべきか、今年のゴールデンウィークは三家族合同での慰安旅行の予定が入っている。一葉がなぜ、余所余所しい態度をとり始めたのか、腹を割って聞くいい機会ではないか。
 蜘蛛の糸を辿るような、僅かな希望にすずかは縋った。

 そして旅行当日。前夜になり亜希子と悶着があったらしいが、それでも一葉がちゃんと来たことにすずかは胸を撫で下ろした。車の中では機嫌が悪そうに耳にイヤホンをあてて会話にはいることを拒んでいたが、二泊三日の旅行だ。機会はまだ、いくらでもある。
 アリサが脱衣所の前で一葉を女風呂に引き込もうとしたときだって、言葉にはしなかったものの心の中ではアリサを支持していた。
 結局、それが叶うことはなかったが温泉に入るのは今だけではない。夕食の後や寝る前だってあるのだ。
 すずかは、ベヌウを抱えて先に言ったアリサ達について脱衣所に入ると、そこには先客がいた。
 日本ではまず見かけないような、燃えるような赤い髪をした女性だった。温泉から出たばかりなのか、豊満な身体を浴衣で隠している最中だった。
 女性はすずかたちを一瞥すると、さほど興味も持たずに手早く着替えを済ませて出ていく時だった。

 __え?

 すれ違いの瞬間、すずかの鼻に動物の匂いが掠めた。
 夜の一族には、人狼族という種族もいる。狼男のモデルともなった、獣の因子を持った人間だ。今の女性からはそれに限りなく近い匂いがした。だけど、人狼族よりも、もっと獣じみた匂いだ。
 人間に獣が混じったというよりも、獣が人のふりをしている、そんな違和感がすずかの胸に落ちた。
 匂いがしたのはすれ違いの一瞬だけで、確かな確証は持てなかったが、もしもこの時に忍がいたのなら確実な対応をしていたのだろう。
 もっとも、女性の方はすずかを見てもなにも反応を示さなかったのだから一族とは無関係に違いないのだろうが、すずかの胸にはもやもやとしたものが広がっていた。

 すずかは、一旦は温泉に入りながらも結局胸のつっかえがとれずに、なのはと入れ違いで女性を探しに行くことにした。
 その際、他の面々には洗顔石鹸を忘れたと嘘をついて、身体を拭くのもそこそこに急いで浴衣に袖を通して脱衣所を飛び出た。
 まずは中庭から、と考えていたのだが、その予想は的中にあまりにも呆気なくすずかは女性を見つけることができた。
 中庭へと続く縁側。その女性はあまりにも予想外な人物と一緒に居た。

 一葉だ。
 すずかの位置からは、一葉は後ろ姿しか見えなかったが、二人の間には不穏な雰囲気が漂っていた。
 だが、どこか様子がおかしい。女性の表情にははっきりとした怯えが浮かび上がっていた。それに対して、一葉の後姿はいつもと変わらずに飄々としている気がする。
 見ず知らずの人に絡まれているのならば、立場的には常識的に考えて逆になるのではないだろうか。
 すずかは廊下の曲がり角に身を隠して、二人の様子を覗うことにした。二人の会話を聞く為に聴力を高める。五感の強化は夜の一族の持つ特技の一つで、その気になれば数百メートル先で落ちた一円玉の音だって聞き取ることができる。

 だが、二人の会話は要領の得ないもので、話しはほとんど終わっていたらしく漠然としたものだったが、一葉が紡いだ最期の言葉に、すずかは身を震わせた。

 “喰うぞ”

 まるで背骨に氷柱が突き刺さったかのような悪寒が、すずかの背中を無遠慮に駆け巡った。

 __あれは、本当に一葉くんなの?

 すずかの瞳に映し出す少年の背中は、いつも一緒に居る少年のものではなかった。

 あれは違う。夜の一族とか、そんなものじゃない。もっと恐ろしく、おぞましい存在。夜の一族が人と袂を別ったよりも以前に、別の道を選んだ、そんな存在にしか見えなかった。
 すずかは一葉の影に、黒く巨大な雄牛を見た。強靭な四肢に無数の楔を打ちつけられ、鎖で縛られてなお強大な角を閃きかせる狂牛だ。
 女性は一葉から逃げるように、直ぐにその場から立ち去って行ったがすずかはしばらくの間、立ち尽くすことしかできなかった。

 この旅行で、一葉の話しを聞こうと思っていた。少しでも、わかり合えると信じていた。
 だけど、だめだ。あれは違う。自分の知っている一葉ではない。
 それこそ人の形をして、人の言葉を操って、人のように振舞う化け物ではないか。そして、あれが一葉の中で目覚めてしまったから、一葉は自分達と距離を置くことにしたのだとすずかは理解できてしまった。
 そして、自分達を置いて、さらにその先へと進もうとしていることも。

 __どうして?
 その先は寂しいのに
 その道は寒いのに
 その果てには孤独と辛さしかないのに
 魔法のような楽しい時間なんて、ないのに
 誰かと一緒に居歩くことなんてできない、狭い、狭い道なのに
 一人が寂しいことなんて、人でない私でさえ知っているのに……
 それなのに……、なのに……

 「どうして……?」

 呆然と立ち尽くすすずかの頬に、熱い滴が流れ落ちた。


 ◇◆◇


 夕食が済み、入浴セットを持ったアリサからの追撃を逃げ切った一葉はひとりで温泉に入った後、夕方に使い魔と会っていた縁側に腰を下ろしていた。
 今頃、旅の一団は腹ごなしに急遽催された卓球大会で盛り上がっている頃だろう。面子のほとんどが常識をぶっちぎってどこかに忘れてきてしまったような人たちばかりだ。
 もしかしたら卓球は卓球のルールに則った卓球以外のスポーツになっている感は否めないが。

 『新しい使い魔……ですか。 状況がどんどんカオスになっていきますね』

 『新しい勢力かアゼルの手下か、どっちかわかんないけどとりあえず喧嘩だけは売っといた。 てかさ、使い魔ってそんなにほいほいと造れるもんなの?』

 『不可能ではありませんが、無暗に何体も造る魔道師はいませんね。 魔道師一人につき一~二体が常識の範囲です』

 『そりゃ、どうしてさ?』

 『効率的ではないからですよ。 使い魔を維持する魔力はバカにはなりません。 それならば、強力な一体を造った方が術者の負担が少ないからです』

『羊千匹より獅子一匹ってやつね。 確かに、戦う側としてはそっちの方が厄介だわな』

一葉はそう言うと、自動販売機で買った瓶のコーラを口に含んだ。重層が口の中ではじけて、温泉で乾いたのどを潤す。
ベヌウは今、レクイエーションルームでなのはとユーノの傍に居る。使い魔がなにかしらのアクションをとった場合に備えてだ。
ちなみに、一葉はなのはとユーノに使い魔のことは話してはいない。せっかくの温泉旅行に水を差す気持ちにはなれなかったし、正直に言ってしまえば、もはや二人を戦力として考えていなかった。

『ま、とりあえずそんなに強そうな奴じゃなかったけど、一応注意だけはしておいて。 ベヌウはそのまま、なのは達の傍で待機ってことで』

『それは構いませんが……、一葉の方は大丈夫なのですか?』

『んぁ? ああ、襲われても返り討ちにしてくれる』

 『そういう意味でなく……。 いや、やはりいいです。 なんでもありません』

 『そうかい』

 ベヌウが言葉を濁らせたことは、なんとなく一葉にもわかった。それは現状の、戦力の分散という物理的かつ戦略的なものでなく、むしろ一葉の精神的なものを心配しているのだろう。
 数時間前、一葉が赤毛の使い魔と対峙した時に、一葉は自分でも驚くほど容易く濃度の濃い殺意を引きだすことができた。“敵意”ではなく“殺意”だ。この二つは似て非なるもの。敵意が警告だとすれば、殺意は殺す気持ちを前面に押し出すことだ。
 一葉はあの時に、使い魔に対し、自分の感情をコントロールしきれずに敵意をぶつけるつもりで、殺意を向けてしまった。
 ベヌウもおそらく、一葉の変化に感づいているのだろう。あの森でアゼルと出会ってから、一葉は確実になにかに蝕まれ始めているということに。

 『……一旦、念話を切ります。 なにかあったら繋いでください』

 『あいよ』

 ベヌウとの念話が切れて、辺りには沈黙が落ちる。頭の中に響いていた声が途切れると、静寂の向こう側から聞こえてくる虫の音が耳の奥に響いた。
 一葉は自分の服の袖を強く握りしめて、縮こまるように身を強張らせた。ベヌウの声が聞こえなくなった途端、このまま夜の闇の孤独に溶けてしまいそうな気がしたからだ。

 この心臓に染み込むように静かに襲いかかる感情を一葉は知っていた。
 これは恐怖だ。

 自らの闇に呑みこまれた時、自分がどうなってしまうのか。伸ばした手の先さえも見えないような漆黒の道を歩み続けて、果たして未来はあるのか。世界を取り残して自分だけが変わってしまう恐怖は、無明の闇の中で崖の上に取り残されてしまったかのような絶望にも似ている。

 いずれ自分は自分のままいなくなる。その時に、自分の近しい人たちはどう思うのだろうか。それを考えただけで心臓を口から吐き出してしまいそうになる。

 不意に、ギシリと縁側の廊下が軋む音が聞こえた。一葉が音がした方を振り返ると、そこにはすずかが立っていた。
 浴衣姿のすずかはいつもの頭につけている白いカチューシャを外して、藍色の長い髪を一つに束ねて肩にかけていた。

 「……卓球は、どうしたの?」

 一葉は努めて平常な声で言った。追い詰められている自分を感づかれたくなかったからだ。
 一葉の問いに、すずかは柔らかい笑みを浮かべて答えた。

 「抜け出してきちゃった。 みんなでトーナメントやってたんだけど、今は決勝戦で士郎さんと恭也さんが一人ダブルスで親子対決中」

 「……一人ダブルス」

 正直、少し見てみたい気がした。
 すずかはゆったりと歩くと、一葉の隣に腰を下す。肩が触れ合いそうで、そうでない微妙な距離。すずかの髪から、ふわりと柔らかい香りが鼻を掠めた。

 「浴衣、脱いじゃったんだね。 似合ってたのに」

 「んー、寝るときは着慣れたものがよくってさ。 すずかも浴衣すごく似合ってるよ」

 「ふふ、ありがと。 お世辞でも嬉しいな」

 目を細めるすずかを見て、一葉はドキリとした。すずかが身につけているのは、浴衣というよりも寝巻に使う着流しだ。薄い青色の布地に流水を泳ぐ金魚が刺繍されている、袖や裾からはすずかの白魚のように白く細い四肢が伸びている。胸元からはだける鎖骨や、襟首から覗かせるうなじなど、普段着とは違う独特の艶めかしさは小学生のすずかに不釣り合いなほどに様になっていた。
 対して、一葉はほぼ普段着だ。ワンポイントのTシャツの上に羽織を着ているだけで、下は三本線のハーフパンツだった。

 「で、なんの用?」

 「え?」

 「なにか言いたいことあるんじゃないの?」

 一葉の言葉に、すずかは一瞬だけ目を丸くすると、すぐに気まずそうに視線を下に逸らした。

 「えと……、そんなにわかりやすかったかな?」

 「わかりやすいもなにも、あからさま過ぎていつ話しかけてくんのかヤキモキしてましたよ」

 すずかの様子がおかしくなったのは、一葉が温泉から上がってからのことだ。夕食のときなど、チラチラと一葉の方を見てはなにかを話しかける素振りを見せては躊躇うという挙動不審な行動をしていた。
 そんな態度に戸惑いを覚え、ようやく声を掛けられて安堵したほどだ。

 「……あのさ、ちょっと前にみんなで将来の夢のことを離したの覚えてる?」

 「ん? 確か、すずかが機械工学系に行きたいって言ってたやつ?」

 「うん……。 あの時、一葉くんはさ、旅に出たいって言ってたよね? それってさ、一葉くんはどこに行きたいのかな?」

 視線を落としたまま、慎重に言葉を選ぶようにすずかは言う。

 「どこって、そりゃ……。 どこだろ?」

 おかしい。自分は世界を見て回りたいと間違いなく願っていたのに、いざこうして詰問されると、具体的な風景がまったく思い浮かばなかった。
 戸惑うように口をどもらせる一葉をチラリと見て、すずかは哀しそうにまつ毛を伏せた。

 「多分さ、一葉くんは“どこかに行きたい”じゃなくて“どこかに行ってしまいたい”思ってるんじゃないかな? ここじゃないどこか、誰も一葉くんを知ってる人がいないところに」

 すずかの言葉が、一葉の胸を鋭く突きさした。今まで考えたこともなかった。それでも、言葉にされて初めて、すずかの言葉こそが一葉が心の底で望んでいたことだと気が付いたのだ。
 透明な湖の水底まで見透かすようなようなすずかの言葉に、一葉は少なからず動揺した。

 「そのリアクションだと、図星みたいだね」

 「あー……、どうだろ? 自分でもよくわかんないわ」

 一葉は曖昧に言葉を濁すと、すずかは顔を上げて一葉を見た。雨に打たれた花のように寂しそうな表情をしていて、つい視線を逸らしてしまった。

 「私はね、きっと一葉くんがどこに行きたいか、その場所を知ってるよ」

 「え?」

 「ごめんね……。 実はさっき、一葉くんがここで女の人と話してるの盗み聞きしちゃったんだ」

 「……!」

 言葉に窮した。あの時、なにか聞かれてはまずいことを滑らせてはいなかっただろうか。数時間前の記憶を掘り返して言動を振り返ようとするが、すずかはさらに言葉を続けた。

 「その時に、一葉くんがどこに行こうとしてるのか……なんとなけどわかっちゃったの……」

 すずかの声が震える。一葉が逸らしていた視線をすずかに向けると、ギョッとした。すずかの瞳からは、大粒の滴がボロボロと溢れ出ていた。

 「ねぇ……。 一葉くんが行こうとしてる先には……きっと、なんにもないよ……。 その道の途中だって……、痛くて……哀しいことばかりだよ……。 なのに……、なんで……。 ここに居なよ……。 どこにも行かないで……、このままずっと……、私達と一緒に……、居てよ……」

 言葉を詰まらせながら、すずかは浴衣の裾を両手でギュッと握りしめていた。夜の闇を区切る廊下の明かりに浮かぶその姿は親とはぐれてしまった子供のようで、一葉の胸は痛みで裂けそうになった。
 だが、すずかの願いは一葉に届くことはない。今までの穏やかだった時間を否定したくはない。できればこのまま続いて欲しいとさえ願っている。
 すずかがここで一葉の殺意を具現化した影を見たことは、一葉は簡単に想像がついた。
 荒れ狂う雄牛はなにもかもを壊し、痛みと悲劇だけを残すだけだ。あの影が目覚めた今、もはや今まで通りの時間を過ごすことができないことなど、一葉自身が一番理解していた。

 「ごめんな……、すずか」

 胸を抉る痛みが自分の醜さを糾弾する。一葉は付き離さねばならないほどに近づいてしまった過去の自分を後悔した。
 こんなことになるくらいだったのならば、誰とも交わることなく、ただ周囲の人々を蔑みながら孤独に過ごし続ければよかった。
 しかし、どれほどに悔やんでも過去は戻らない。すずかは一葉の言葉に、白い顔をますます透き通らせ青ざめさせた。

 「どう……、して……?」

 絞り出すような声すずかの声には絶望しか見えなかった。強張った身体をむりやり動かすように、すずかは一葉の服の袖を掴んだ。

 「オレは……、その道を往かなきゃいけないんだと思う。 そうしないと、きっとオレは自分が守りたいものを、守ることができないまま終わる気がするんだ」

 「一葉くんの、守りたいものってなに……? その中には……、私たちは入ってないの……?」

 「それは……」

 服を通じて身を震わせるすずかの振動が一葉にも伝わってくる。こめかみに痛みとなって襲いかかる気まずさから逃れる為に、一葉は言葉を濁そうとした時だった。

 「ちょっといいかい?」

 一葉とすずかの前に、赤毛の女性が現れた。


 ◆◇◆


 「悪いね。 取り込み中だったかい?」

 中庭のつつじの生け垣を掻き分けて、夜の闇から浮かび上がるように姿を見せたのは件の使い魔だった。服装は宿で貸し出している浴衣から、白いタンクトップとデニムのホッとパンツ。それに指抜きのグローブにブーツという、いかにも動きやすそうな格好をしている。
 使い魔は一葉とすずかの間に数メートルの距離を置くと、片足に体重を駆けるようにして立ち止まった。

 「わかってんなら空気を呼んでお引き取り願いたいんだけど」

 「そういうわけにもいかないのさ。 ご主人様の命令でね」

 「命令ねぇ。 忠実なことで。 それより、伝言はそのご主人様にちゃんと伝えてくれたの?」

 「あたしゃ伝言板じゃないよ。 言いたいことがあるんなら自分で言いな」

 使い魔は整った顔を張りつめさせ、視線を逸らした。その表情に多少の警戒心は見られたが、数時間前とは打って変わって敵意というものがなりを潜めていた。それは一葉でもない、まだ姿を見せない主でもない別のなにかと向き合い内面の脆さを押し隠そうとしているように見えた。

 この人だ、とすずかは直感した。この人が、例え張本人でなくともこの女の人が一葉をどこかに連れ去ろうとしている人達の一人なのだと、すずかは名も知らぬ女性を睨みつけた。
 一葉の袖を握った手は離さない。むしろ力を込めて握り直した。

 だが、すずかのそんな気持ちを知ってか知らずか、使い魔はすずかの視線に気が付くと鋭い一瞥をくれるだけで、直ぐに興味なさそうに一葉に向き直した。

 「ご主人様の命令でね。 アンタを連れてこいってさ。 悪いけど一緒に来てくれないかね?」

 「……そんな口上でおとなしく付いてくのはよほどのバカか大物だけだと思うよ」

 「あたしとしてはアンタに拒否された方が嬉しいんだよ。 できればアンタはご主人に会わせたくないからね」

 女性は腰に手を当てて嘆息を漏らしながら言った。緊張とは別種の強張りを表情に張り付ける使い魔に、一葉はなんとも言えない疑問を抱いた。
 もし使い魔の言うとおりに会って話がしたいというのなら、このような回りくどい手段などとらずに自分から会いに来た方が効率がいいし、なによりも今の一葉にはすずかという枷が付いている圧倒的に不利な立場に居る。
 この状況で、すずかを交渉材料にも使わずに要件を伝えるだけのやり方はどうにも理解しがたかった。

 『ベヌウ、さっき話してた使い魔からデートの誘いがあったからちょっと行ってくるね』

 『……はい?』

 一瞬、ベヌウの間の抜けた声が響いたかと思うと、烈火の勢いで声を荒げた念話が飛んできた。

 『イヤイヤイヤイヤ! なに言っちゃってるんですか!! だめに決まってるでしょう!! 危険すぎます!!』

 『んにゃ、多分大丈夫でしょ。 今の状況でこっちに危害を加えないってことは、そういうことだよ』

 『ならば私も一緒に行きます! どうにかして話しを長引かせて下さい!!』

 『却下。 お前はなのはとユーノの傍にいて。 違うとは思うけど、これがアゼルの罠って可能性もゼロじゃないしさ。 ベヌウまでこっちに来ちゃったら、あの二人じゃ太刀打ちできないでしょ』

 『しかし!!』

 『三十分たっても帰ってこなかったら迎えに来て。 じゃ、そういうことで』

 『あ……ちょっ……!?』

 一葉はベヌウとの念話を強制遮断すると、そのまま立ちあがろうとした。だが、袖に強い抵抗感を感じて腕を引っ張られてしまう。すずかが服を握ったままだった。

 「ダメ……だよ。 行っちゃ、ヤダよ……」

 人ゴミで迷子になってしまった子供のような表情で、すずかは懇願する声で一葉を見上げていた。
 一葉は僅かに逡巡した。このまま、この場に残りたいという願望もあったが、それでも付き離すような気持ちで、すずかの手を優しく解いた。

 「大丈夫。 まだ、大丈夫だから。 ちゃんと戻ってくるよ」

 「でも……」

 「忍さん。 後はお願いしてもいいですか?」

 「え?」

 この場に居るはずのない人物の名前に、すずかは頓狂な声を漏らした。一葉はすずかから視線を外して、廊下の角に向ける。そこから、忍が出てきた。

 「……いつから気が付いてたの?」

 「最初からですよ。 ちょっと年上のお姉さんにデートに誘われちゃったんで、遊びに行ってきます」

 「そんなのダメに決まってるでしょ。 知らない人について言っちゃいけないって亜希子さんに教わらなかったの?」

 「あの人とは知らない間柄じゃないですよ。 そうですよね……、えーっと……」

 『名前、なんて言うの?』

 『……アルフだよ』

 「ね、アルフさん?」

 「まあね」

 アルフが首肯すると、忍は疑うような目つきで一葉とアルフを見比べる。あまりにもあからさますぎる一葉の言い訳は、本当ならば普段の忍に通用するはずがない。それでも、一葉にはこの場を忍が見逃す確信があった。

 「……そういうことなのならば、わかったわ。 アルフさん、一葉くんのことお願いね」

 「お姉ちゃん!?」

 忍の言葉に、すずかは悲鳴のような声を上げた。明らかな虚言を、狡猾な頭脳を持つ忍が見抜けないはずがない。だとしたら、忍は一葉の嘘を知っての上でこのままなにも見なかったことにしようとしているのだ。

 「お姉ちゃん! どうして……!?」

 「すずかは黙ってなさい。 一葉くん、朝までには戻ってくるのよ」

 「はいはい」

 一葉は簡単に返事をすると、一葉は足元に会った旅館のゴムサンダルを足にはめ立ちあがった。
 すずかが伸ばした手は見ない振りをした。
 一葉はすずかが、いや。月村家に関わる人間が普通ではないことにずっと前から気が付いていた。
 満月が近づくと吐息から血の匂いを香らせる姉妹に、動く度に機械の摩擦音が響く従者。ファリンとノエルについてはよくわからないが、忍とすずかはおそらく人外か、もしくは人を踏み外した者の末裔なのだろう。忍は一葉がそのことに気が付いていることに、感づいている節があった。だからこそ、あからさまな不審者に一葉が付いていくことを見なかったことにしたのだ。
 人外の一族が迫害されるのはどの時代、どこの世界であっても同じこと。人知れぬ息を潜めて生きる一族なのならば、僅かに疑問を持ってしまったのならば例え知人でも許容はしない。一族が権力を持っているのならば土地を追いやられるか、命を奪われか、そのどちらかである。
 疑わしきは消せ。その理念は忍にもあった。一葉のように、一族に対して違和感を持ってしまった人間を遠くの血に追いやったこともある。だが、一葉は妹の友人であり自らの婚約者の家族とも面識があるために一筋縄ではいかない。そうであれば、自分達の関与しない、目の前に居る第三者の手によるものであれば、まさに渡りに船だ。例えあの女性が一葉に対してよからぬことを考えていたとしても、消えて欲しいと思っていた人間に対して手を差し伸べる必要などどこにもないのだ。と、いう思考が忍の頭で展開されているのだろうなと思いつつも、一葉はうなじにすずかの視線が突き刺さるのを感じながらそれを無視して、アルフの背中に続いて闇に消えていった。


 ◆◇◆


 「なんで!? どうして一葉くんを行かせたの!?」

 「落ち着きなさい、すずか」

 「落ちつけるわけないでしょ! 私、一葉くんを追いかける!!」

 「待ちなさい!!」

 裸足のまま飛び出して、夜の闇に消えていった一葉を追いかけようとしたすずかの腕を、忍は咄嗟に掴んだ。

 「離してよ!」

 「ダメに決まってるでしょ! いいから、少し落ち着きなさい!!」

 すずかは掴まれた忍の手を振り払おうと乱暴に暴れるが、小学生の体格で大学生の忍に叶うはずがない。仇敵を睨みつけるような視線で、すずかは忍を見上げた。普段温厚なすずかがこれまでに凶暴な感情を顕にするなんて、忍でさえ初めてだった。
 それだけ一葉を想っていたのか、一葉という友達がいる世界での温もりを大事にしていたのか忍にはわからない。それでも、忍は表情を強張らせて、すずかに突きつけなければあらない言葉があった。

 「すずか……、一葉くんのことは……。 このまま戻ってきても、戻ってこなくても忘れなさい」

 「……え?」

 すずかは一瞬、忍がなにを言っているのかわからなかった。しかし、理解した瞬間に刃のような衝撃がすずかの全身を切り裂いた。

 __なんで? なんでそんなことを言うの? どうして私に友達を忘れろって、残酷なことが言えるの?

 頭の中で忍の言葉が火のようにぐるぐると渦巻く。なにをどう尋ねていいのかわからなくて立ち竦むだけのすずかに、忍はさらなる言葉の刃を斬りつけた。

 「あなただって気が付いてるんでしょ? 彼がまともな人間じゃないってことぐらい。 この旅行が終わったら、一葉君には私たちに関する記憶を消させてもらうわ」

 視界がぐにゃりと歪んだ。身体は冷え切っているのに、掴まれている腕が熱くて痛い。頭の中も、心臓も、全てが焼けつくような痛みで喉が苦しくなった。

 「ど……して……?」

 「彼が危険だからよ。 それに私たちのことになにか感づいてる素振りを見せることもあるし、このまま放っておくわけにもいかないのよ」

 「だったら……事情を話して契約を交わすとか……! 他にも手があるじゃない! なんでそんな……!」

 「一族との契約は最終手段よ。 そう易々と使っていいものでもないの」

 「……っ! じゃあ、なんでお姉ちゃんは恭也さんと契約できたの!? なんでお姉ちゃんはよくって私はダメなの!? そんなのおかしいよ!!」

 すずかは、自分でもゾクリとするほどに厳しい声を出した。廊下の蛍光灯に照らされた闇の中で、忍は気まずそうに目を伏せ、なにかを喋ろうとしてから躊躇い、再び唇を動かした。

 「そうね……、お姉ちゃんばかりずるいよね……。 だけどね、すずか。 すずかも見たんでしょう? ここで、一葉君の影を……。 あの……、禍禍しい獣の姿を……」

 忍の言葉に、すずかがビクリとした。“あれ”を、あの一葉の影に潜む雄牛の影を忍は見たのか!?
 あの、禍禍しいまでの瘴気を纏った獣の姿を見てしまったのか!?

 表情を強張らせるすずかは、掴まれた腕から微かな振動が伝わってくるのを感じた。それは、忍が顔を青くして震えている振動だった。

 「私も、あれを見たわ。 すずか。 なんで恭也はよくて一葉君はダメかって、本当はわかってるんでしょう? 恭也は人だし、私たちも人間ではなくとも人として振舞うことはできる。 でも、一葉君は違う。 一葉君は、人間ではあるけど人じゃない。 私たちよりも、遥かに化け物じみた存在よ。 そんな危険な存在を、私は月村の当主として見過ごすことはできないの」

 忍は、ここで見た一葉を思い出す。あれを目にしたのは偶然だった。恭也との散歩の帰り道、この中庭から見た自分の妹と同い年の少年が発するおぞましい空気。 獣氣、とでも呼ぶべきなのだろうか……。いや、あれは普通にケダモノのものだ。
 むせ返るほどに濃密で野生じみた殺意の渦。忍は、それを自分に向けられているわけでもないのに、刹那、死を覚悟した。

 例えばもし、一葉と恭也がルールのない殺し合いで戦ったとしても恭也は一葉に勝利をすることはできないだろう。小学生と大学生という圧倒的で絶対的な体格と体力の差を置いてでも、恭也がどれほどまでに人として肉体を鍛え上げても、所詮は人の枠組みにしか収まることができない。恭也は強くとも、一葉ほどの怖さはないのだ。

 一葉はおそらく、人のままに魔の領域に踏み込んでしまった者、もしくは今まさに踏み込もうとしている者なのだろう。だとしたら、血が薄れつつある夜の一族と、今まさに誕生しようとしている生粋の純粋種。どちらが強いのかなど論ずるまでもない。
今の時点で身を凍らせるほどの脅威を感じているのだ。これから五年先、十年先、一葉が大人になり誰にも手がつけられないほどの怪物となって自分達と対峙した時に、滅ぶのは間違いなく夜の一族の方だ。

 このまま放置しておくわけにもいかないが、忍は一葉に短絡的に手を出せない理由があった。
 それは社会の枠組みの中にある人間の関係性。一葉は月村の人間と家族ぐるみの付き合いをしていることは周知の事実として認識されている。そんな一葉が、突然月村家に関しての記憶を失ったら間違いなく周囲が訝しむ上に、緋山家の家は借家などではなく土地持ちだ。遠くの地に追いやるとしても、経済的な問題が出てきてしまう。

 思い返せば、一葉は初めて会った時から不気味な少年だった。忍は夜の一族という特異性から、幼い頃から狼の群れに紛れて生きる羊のように息を潜ませ、世間と溶け込まないようにしてこなければならなかった。その経験が、望まざるとも精神を早熟させ無邪気な幼少時代を奪うことになったのだが、一葉もまたかつての忍と同じような雰囲気を持っていた。子供のくせに、子供のように振舞おうとする不自然があったのだ。恭也が一葉を毛嫌いしていた理由はそこにある。
それでも、実害はない。そんな甘い考えが、このような事態を引き起こすことになるとは思いもしなかった。

 「大人になりなさい、すずか。 私たちはね、失うことでしか生きていけない、弱い生き物なのよ」

 「そうしなければ生きていけない!? じゃあ、なくなっちゃえばいいじゃない!! 友達を切り捨てなきゃ生きていけないんなら……、夜の一族なんてなくなっちゃえばいいんだ!!」

 「すずか!!」

 スパァン!と乾いた音が響いた。忍は自分の掌に広がる熱のこもった痛みを感じ、数瞬遅れてから自分がすずかの頬を叩いたことに気が付いた。
 すずかはなにが起きたのかわからないようで、目を丸くして赤らんだ左の頬を押さえて忍を見上げていた。
 すずかが大切だった。忍は、すずかが生まれた時、差し出した自分の指を弱々しく握ったすずかを守ろうと誓ったのだ。
 失うことでしか生きていけない一族に生まれたからって、かけがえのないほどに大切なものぐらいある。忍は両親が死した後も、すずかの唯一の居場所である月村の家を守ろうと必死だった。
 それなのに、そのすずかから月村を、自分の想いを否定する言葉を浴びせられて手を上げてしまったのだ。

 「あ……。 ご……、ごめ……」

 「私は……」

 顔を青くしてすずかに謝ろうとした瞬間、すずかは腰が抜けたかのようにその場にへたり込んで、呻くように涙を流し始めた。

 「私は……、夜の一族になんか……生まれたくなかった……」

 忍はその言葉に、胸に心臓が裂かれるかのような痛みが走った。忍がすずかほどの年齢だった時は友達など一人もいなかった。必要もなかった。
 守るべきなのは一族の安寧と、すずかだけだった。そういう生き方をしてきたからこそ、忍にはすずかの哀しみが理解できなかった。

 忍は、ふと空を見上げた。
 そこには、すいこまれてしまいそうな夜の闇に浮かぶ丸い月が、嘲笑うかのように吸血鬼の姉妹を見下ろしていた。



[31098] 13!
Name: 三鷹の山猫◆ef72b19c ID:d1000a7d
Date: 2012/03/01 22:57
夜の闇を照らすのは、頭の上から降り注ぐ月明かりの束だけだった。
 人工の明かりなど一切ない、太古の夜が息づく深淵の闇に一縷に差し込む月明かりは、湖の水面に反射して、星屑をちりばめたか空をそのまま映しているようだった。

 ごつごつした木々や、蔦が垂れる森に囲われて、深く静かに水を湛える湖の畔でフェイトはうずくまるように膝を抱えながらぼんやりと水の揺らめきを眺めていた。

 湖の向こう側は低い崖になっていて、フェイトがしゃがみ込んでいる位置からは湖と夜の境界が見えないが、フェイトが腰を下ろしている水際は柔らかな草が生えており浜辺のようになっている。
 この空間は、遥か昔に雷でも落ちたのだろう。広がる森の中で口を開けたかのようにぽっかりと広がる空間にフェイトは居た。

 むせ返るような土と緑、水の香りの中でフェイトはジッと待ち人がやってくるのを待っていた。
 アルフからの念話で、一葉を呼びだすことに成功したという報告を受けてから十分ばかり経過している。そろそろ、ここに着く頃合いかもしれない。

 フェイトは、なぜ自分がこんなにもあの少年に固執しているのかわからなかった。それでも、誰もが皆口をそろえて一葉が異常だと言う。危険だと言う。アゼルは愉悦の表情で、アルフは戦慄した声色で。まるで一葉が人ではないような言い方に、フェイトは腹が立っていた。
 あの少年は、そんな人間じゃない。そのことを、誰もわかっていないのだ。
 一葉は敵だ。それでも、フェイトは一葉に会って言いたかった。

 君は、優しい人だよ、と。

 フェイトは腰にぶら下げた無機質な鎖に指先を絡めた。これが、フェイトが触れた一葉の優しさだ。

 もうすぐここに一葉が来る。期待と不安が入り混じり、心臓をねじあげられるような気持ちの中で、フェイトは湖に浮かぶ星を見ていた。


 ◆◇◆


 冷ややかな夜の森の風が頬を撫でる。一葉がアルフに促されるがまま足を踏み入れた森の中で、一葉は自らの過失に後悔していた。

 一葉の服装は薄いTシャツに羽織。後はハーフパンでなだけで、足元は裸足だ。旅館に置いてあったゴムサンダルを拝借してきたのだが、夜の森に散策に入る装備ではない。

 先行しているアルフは獣道とも呼べない粗末な道をつくってくれてはいるが、人の侵入を拒むかのように枝葉を伸ばす常緑樹の固い葉が露出している一葉の肌を切り裂く。手を伸ばせばその先が見えなくなってしまうような暗闇の中で、一葉は小さな傷をいくつもつくっていた。

 一葉とアルフの間に会話はなく、枝を掻き分けるガサガサとした音が夜の闇に溶けて不気味に木霊している。
 いったい自分はどこに連れてかれようとしているのか。アルフに導かれる一葉の胸の内は強い好奇心で満たされていた。

 争いにおいて、情報とは単純な兵器や兵力にも勝る重要なものだ。あらゆる情報を多く有している方が、戦局を圧倒的有利に進めることができるのは常識だ。
 だがアルフの主は、一葉がその存在を確認する前から自らの存在をほのめかした上に、使い魔という戦力までも露呈させた。よほど腕に自信があるのか、それともなにも考えていないだけの愚か者なのか。
 判然とすることはできないが、どのような人物なのかは実際に会ってみればわかる。そう思いながらも、心の隅で旅館に残してきてしまったすずかに対する気持ちもあった。

 すずかには申し訳ないことをしてしまった。まるで、置き去りにされてしまった子供のように苦しそうな表情のすずかが脳裏に過る。
 普段は温厚なすずかが、あんなにも感情をぶつけてきたことなど未だかつてなかった。すずかとしては、強い葛藤の末に行き着いた結果だったのだろう。
 だが、一葉はすずかから逃げるような形でアルフについていってしまった。
いや、これは逃げたんだ。思いがけずに手に入れてしまった、かけがえのないほどに大切なものを失うと現実を再確認しなければならな恐怖から逃げ出しただけだ。

 一葉は後悔していた。
 逃げるだけならば、誰にだってできる。この一週間の間にも、目を閉じ、耳を塞ぎ、明かりを消した暗い部屋の隅でただ時間が流れるのを待つことができたのならば、という誘惑になんども駆られた。自分が変わってしまう前に、今のままの自分を周囲の人たちの思い出に閉じ込めて、なにも言わずに姿を消そうとも思っていた。
 それでも、同時にそれだけはしてはいけないということも一葉は理解していた。どうしたらいいのかなんてわからない。だが、一葉は圧倒的ななにかに絡め取られていくかのような、音もなく静かに締めつけられているかのような、そんな感覚を覚えていた。

 これから先の、遠くない未来。自分を知っている人達に向けてさよならを言ってから去らなければならない。それが、おそらく自分にできる唯一の決着だ。
 だが、あの時ふとすずかの泣き顔に、別の少女の泣き顔が重なって見えた。

 それは、はやてだ。
 あの孤独な少女は、自分が姿を消したら再び孤独になってしまうのだろうか。もしかしたら新しい友達を見つけ、輝かしい未来を自分の力で切り開いていくのかもしれない。
 だが、未来はわからない。人間は一歩踏み出す先の未来さえ見ることができないのだ。それでも間違いないの、自分がなにも言わずに姿を消したのならば、今日のすずかと同じようにはやても涙を流すということだ。
 はやては気丈に見えて、その本質は脆く繊細な優しい子だ。寂しさを誰にも悟られないように、いつも笑ってごまかしているはやてが涙を流すことは、自分が傷つくことの千倍嫌なことだった。
 感情や心理な、複雑なものは必要ない。単純に、はやての泣き顔よりも笑っている時の顔の方が好きなだけだ。それでも、一葉ははやてすらも切り捨てなければならない。

 自分の心の奥に閉じ込めていたはずの、目を覆われた狂牛のように暴れ回る影が織を壊して自分を呑みこんでしまう前に。
 はやてを壊し、なにもかもを哀しみに沈めてしまう前に。


 ◆◇◆


 「着いた。 ここだよ」

 森に入ってから十分ほど歩いただろうか。アルフが目的地への到着を告げると、鬱葱とした森から急に視界が開けた場所に出た。光を閉ざした深閑の森の空気は一変して、月の鬣が降り注ぐ小さな草原が一葉の眼前に広がっている。
 近場に水場があるのか。一葉の居る覚悟からは見ることはできないが、水の匂いとせせらぎが辺りに満ちている。
 一葉が一歩踏み出すと、そこは今まで踏んでいた固いごつごつとした石と土ではなく、柔らかな草の絨毯が敷き詰められていた。

 「ちょっと待ってな。 今、フェイトを呼ぶから」

 アルフが何気なしに言うと、一葉は眉根をひそめた。

 __フェイトって、確か……

 聞き覚えのある名前に、記憶の海底からフェイトというの名前いう名前の少女の顔を想いだそうとするよりも瞬刻早く、月明かりが淡く照らす草原の向こうから、徐々に近づいてくる人影に気が付いた。
 歩くよりも少し早い、駆け足で近づいてくる影は青白い月明かりに、金色の髪と白い肌が蝋燭の明かりのように照らされて夜の闇に浮かぶ美しい幽霊のようにも見えた。
 そして、輪郭がはっきりと浮かび上がった少女の顔を確認すると同時に、目の前に立っていたアルフの背中を反射的に蹴っとばした。

 「ッガ……!?」

 後ろかの襲いかかった突然の衝撃に、アルフは肺の中に溜められた空気を全部吐き出すような声をあげて、前のめりに地面に衝突した。
 その隙に、一葉は左に大きく飛び跳ねてアルフと、一葉の思いがけない行動に足を止めたフェイトから距離をとった。

 「……アルデバラン」

 自分の耳にしか届かない小さな声で、アルデバランを呼び起こす。紡がれた、起動パスワードによって、一葉は鋼色の光に包まれ、黒い甲冑に姿を変えた。

 「可能性の一つには考えてたけど……、アゼルの回し手かい」

 フェイトはアゼルの妹だったはずだ。だとしたら、今の現状は陽動に惑わされてしまい、ジュエルシードを持ったなのはと引き離されてしまったことを意味している。
 ベヌウは置いては来ているが、それでも困戦は必至になる。猫耳の使い魔も来ていれば、状況はさらに悪くなるだろう。
 確かに、アゼルの陽動という可能性を視野に入れていなかったわけではない。だが、こんなところまでアゼルが来るはずがないという甘ったれた先入観が、今回の過失を招いてしまった。

 一葉はフェイトに槍の切っ先を向ける。呆けた表情で立ちすくんでいたフェイトは、ハッとして慌てて声を継いだ。

 「ち……違う! 待って!!」

 「早く、デバイスをセットしてよ。 一方的にいたぶるのは趣味じゃないんだ」

 「待って! 話しを聞いてよ!!」

 一葉の、ナイフのように尖った視線に、フェイトは居たたまれない気持ちで心臓が焼けついてしまいそうだった。一葉の目に敵意や害意はない。ただ、残してきてしまったなのはの身を案じる焦燥の炎だけが揺らめいていた。

 佇まいや、纏う雰囲気である程度の力量は測ることができる。アルフも、フェイトとの間に入り、フェイトを守るように牙を唸らせる。
アルフも決して弱くはないのだろうが、一葉が脅威に感じるほどのものは持っていないはずだ。
 だが、それは一葉の持つ現状の常識の範囲内に限ってのことであり、魔法という未知の力で押された場合は、戦況がどう転ぶか予想できない。
 敗北することはないだろうが、それでもなのはの元に向かうまでの時間は稼がれてしまうかもしれない。
 そうだとしたら、一葉が取るべきことは一つ。この場で圧倒的な実力差を見せつけて、戦意を喪失させることだ。

 「……、早くしてくれないかな? じゃないと、こうしている間にも……」

 瞬間、一葉が立っていた場所の土がめくれあがると同時に、一葉が姿を消した。

 縮地という歩法がある。現代の、スポーツと化した活人術である日本武道の雛型となっている、あらゆる古武術、つまりは殺人術に通じて奥義とされている歩法だ。
 それは特殊な歩法により、距離の概念を失くすという驚異の技術。現代の武道に使いてはいないが、戦乱の世において武を極めた達人は、総じてこの歩法を身につけていた。

 アルフにとっては、風が通り過ぎた程度にしか感じなかっただろう。しかし、その風がそよぐ瞬きの間に、一葉はフェイトとの距離をゼロにした。

 「ほら、心臓に手が届きそうだ」

 一葉はフェイトの胸に手を置いた。

 刹那、世界は濃厚な悪意に沈んだ。酷薄な笑みを浮かべる一葉を中心に、信じられないほどの殺意が夜の闇さえも蝕む。

 一葉の動きを追い切れなかったアルフの身体は、空がそのまま落ちてきたかのような圧力に、意識を繋ぎとめるだけで精いっぱいだった。
 肺がどれほど酸素を欲しても、身体が動くことを拒絶した。野生すらも超越した、狂気にも似た殺意にアルフは屈服せざるを得なかった。
 野生の狼を素体にしたアルフでさえそうなのだ。幼いフェイトがこれほどまでに凶悪な殺意を中てられて無事でいるはずがない。

 だが、一葉の予想と期待は、顔を茹でダコのように真っ赤にしたフェイトに裏切られることになった。

 「……エッチ」

 「……は?」

 ポツリと零したフェイトの言葉に、一葉の間の抜けた声が森に吸い込まれて消えていった。


 ◆◇◆


 忍は音を殺すようにして、レクイエーションルームへと戻った。
 既に卓球大会は幕を閉じており、部屋には誰の姿もなくなっていた。忍は恭矢に会う為に真っ先にレクイエーションに戻ったのだが、どうやら入れ違いになってしまったようだ。もしかしたら、卓球の汗を流す為に温泉に行ったのかもしれない。

 卓球台が常設されたレクイエーションルームの静寂が、忍の耳に圧し掛かる。そして、静寂に混じってすずかの慟哭が聞こえてくる気がした。

 すずかの頬を叩いた後、忍はすずかに吸血鬼の魔眼を使った。放っておけば、本当にそのまま一葉を追いかけに行ってしまいそうだったからだ。
 すずかに夜の一族の能力を使ったことなど、初めてのことだった。
 今までそんなもの必要がなかった。自分と妹の間には、夜の一族であろうが吸血鬼であろうが、そんなもの関係がないほどの絆があると信じていた。

 だが、すずかと同様に忍も追い詰められていたのかもしれない。
 月村の一族は、まるで薔薇のようだった。
 それは容姿を指してのことではない。
 薔薇は身体中を貫く寒さと、凍った大地があるからこそ美しく咲くことができる。いつだって、美しさゆえに傷つけられずにはいられないから、鋭い棘を持っている。そして、美しさ故に、人を傷つけられずにはいられないのだ。

 月村は人間関係の中で人と親密になればなるほど、血や家のことを隠してはおけなくなる。決して深きまでは踏み込ませないように、壁が必要となるのだ。
 そう、美しい花を守るために、全てを貫き、切り裂く薔薇の壁が。
 最後には、皆が悲しそうな顔をして去っていってしまう。忍は、それを見るのが嫌いだった。
 同年代の少女たちの屈託のない笑顔や、無垢な表情を見るたびに、自分も普通に生まれていたのならあんな風になれたのだろうかと、自分が普通ではないことを思い知らされた。
 子供のころから、他人とは違うと言うことを常に意識し続けてきた忍は、今までの月村の人間がそうしてきたように、誰にも触れることのできない孤高の薔薇として生きてきたのだ。

 だが、すずかは違う。すずかは、あの三人に出会ってしまった。
 棘も、荊も必要ない、自分を傷つけることなど決してないと信じ切ることのできる優しい人たちに。
 忍にとって、そんな人間は恭也だけだった。優しさだけに寄りかかり、恐怖や葛藤など必要のない、大切な心の拠り所。

 忍は、すずかから祖の拠り所を奪わなければならないのだ。それがどんなにすずかの心を切り裂く行為であっても、それほどまでに忍の目には一葉が異常に映った。

 「しーのぶっちゃん」

 「ふひゃ!?」

 忍が暗澹な気持で立っていると、ふとうなじに生温かな吐息が吹きつけられた。ぞくり、と電気が首筋に走り、忍が咄嗟に振り向くとそこには日本酒の一升瓶を両手に持った亜希子が居た。

 「ちびっ子たちも寝ちゃったし、これから桃子たちと一杯やるんだけど忍ちゃんも一緒にどうよ?」

 亜希子は手にして居た日本酒を、忍にひけらかし朗らかな笑みを浮かべる。忍は、そんな亜希子の表情を見て、沈んでいた気持ちがさらに下降していった。
 一葉を意図的に、不審者に引き渡した直後に、その母親と酒を酌み交わせるほど忍は無恥ではなかった。この様子を見ると、亜希子はまだ一葉がいなくなったことに気が付いていないのだろう。

 「私は……、遠慮しておきます」

 「え~。 せっかくいいお酒持ってきたのに。 純米大吟醸だよ? 獺祭だよ? 精米23%だよ?」

 「ごめんなさい。 ちょっと、はしゃぎすぎちゃったみたいで……」

 「ま、無理に付き合うこともないさね。 明日もあるんだし、そういうことなら今日はゆっくり休みなよ」

 亜希子は残念そうに言いながらもあっさりと引いた。

 「それじゃ、私は桃子と士郎さんを待たせてあるから先に行くね。 おやすみなさい」

 「はい。 おやすみなさい」

 忍は踵を返して部屋から出ていこうとする亜希子の背中を見送ろうとした。が、亜希子はなにかを思い出したかのように立ち止まると、再び振り返り忍と視線を絡ませる。
 亜希子の顔から、笑みが消えていた。

 「ウチのガキさ、朝には戻ってくるとは思うけど……。 これからは、あまり舐めた真似は慎んでね。 私、忍ちゃんのことは好きだから、あんまり喧嘩とかしたくないんだわ」

 平坦な声だった。いつも明るく、子供っぽい亜希子からは想像ができないほどに亜希子の顔には能面のように表情が消え、それなのに月のように爛々と輝く双眸が忍を射抜いていた。

 「言いたいことはそれだけ。 じゃ、今度こそおやすみね」

 それは一瞬の出来事で、亜希子は言い終えると氷が解けたかのように直ぐにいつも通りの表情に戻ると、再び忍に背中を向けて歩き出す。
 亜希子の去り際の一言は、忍を戦慄させた。もしかしたら、今抱えている厄介事の渦中には亜希子も居るのかも知れない、と。
 靄のようだった疑心は形となり、忍の心に広がっていった。


 ◆◇◆


 「あーっと……、それを言う為にわざわざ呼びさしたわけ?」

 「う……、うん……」

 「……、オレと君がさ、敵同士ってことは理解してるよね?」

 「……それなりには」

 「じゃあさ、顔を見せた途端になにかされるとか思わなかったわけ?」

 「む……胸を触るとか……?」

 「それは忘れてください……」

 冷たい月明かりが束となって振る注ぐ水辺で、一葉は大きな溜息をついた。フェイトと出会ってから一悶着はあったものの、敵意も害意もないフェイトの反応に毒気を抜かれた一葉はどうしてここに呼びだされたのかという理由を穏便に問いかけ、二人した湖の畔の草の上に腰を下ろしていた。
 遠くから聞こえる虫の音と、空を仰げば月明かりと一緒に空ごと落ちてきてしまいそうな澄んだ夜空と、微かな風に流されて森のざわめきとともに湖面に微かな白い波を躍らせている。
 穏やかな時間が進む、夜の暗闇が支配する漆黒の世界で、まるで一葉とフェイトの居る場所だけが二人の為に用意された舞台のように月明かりが降り注いでいた。
 肩と肩が触れ合いそうで、触れ合わないもどかしい距離で一葉は足を延ばして、フェイトは膝を抱えた形で並びあっている。
 アルフは素材の姿である赤毛の狼の。形態の戻って、フェイトの身体に巻きつくように伏せっている。時折、二人の会話に反応するように、耳をピクピクと動かしていた。

 つい数刻前まで深刻だった空気とは正反対に、フェイトと一葉の間に穏やかな雰囲気が流れていて、フェイトは安堵の気持ちどころか、胸の内から滲むような喜びが染みるように滲み溢れてきた。
 自分と一葉との関係はひどく曖昧なもので、不確定ものだった。もしかしたら、自分の言葉に耳を傾けることもなくて、一方的な蹂躙を受けることだって予想していた。だが、現実は一葉が手を傾ければ触れられる距離に居る。何気もなしに言葉を交わしている。まるで“当たり前の友達”として接することのできるこの時間が、たまらなく嬉しかった。

 「とりあえずさぁ、面倒な話しは置いておいて、ちょっと真面目な話ししてもいい?」

 「……うん」

 一葉は寄せた眉根に指を当てながら言った。

 「多分、オレが言いたいことはわかってるとは思うけどさ……、ジュエルシードのこと。 なんでも願い事をかなえるってのは確かに魅力的だけどさ、なんであんなもん集めんのさ? いや……、そもそも誰がフェイトにジュエルシードを集めるように命令したの?」

 「……」

 一葉の鋭い質問に、フェイトは押し黙ってしまった。伏せられたまつ毛は、湖面の光が反射して煌めきに反射している。月明かりに青白くなっているその表情は、まるで親に悪戯が見つかった子供のようだった。

 「だんまりでもいいけどさ、今回はこうして言葉を交わし合うことができたんだ。 だけど、次に会った時は問答無用で殺しちゃうかもしれない。 今の時点で、オレとフェイトはそういう関係にあるってことは理解してるよね?」

 殺すかもしれない、そんな物騒な言葉に反応したのはアルフだった。伏せた身体の首だけを上げて、あからさまに一葉に牙を剥く。フェイトは一葉に敵意を向けるアルフを宥めようと耳の根元を撫でながらポツリと言葉を漏らした。

 「……全然、怖くないよ」

 「……は?」

 「一葉が怖いこと言っても、私は全然怖くないよ。 だって、私は一葉が優しいこと知ってるもん」

 フェイトは一葉と視線を合わせることもなく、青白い月明かりが射しこむ水底を見据えながら言葉を重ねた。

 「私がジュエルシードを集める理由は、母さんがそれを望んでるから。 母さんに……、ジュエルシードを集めてきてほしいって言われたから」

 「母親のお願い、ね。 それはアゼルも同じなの?」

 フェイトは言葉を濁した。アゼルは間違いなく母の命令で地球にきたし、その旨は母本人から伝えられている。だが、フェイトはアゼルがなにを考えてジュエルシードをわからなかった。
 もし、一葉にアゼルを信用できるかと問われればフェイトは首を横に振るだろう。フェイトとアゼルの関係は不思議なもので、兄妹としての思い出は確かに記憶の片隅にあるというのに、長い時間を過ごしてきた慣れ親しんだ感覚が全くないのだ。そして、長年培われてきた小さな違和感は大きな疑念へと姿を変えていた。
 アゼルは本当に、自分の兄なのか、と。

 「ねえ……。 一葉は、兄さんとは昔からの知り合いなの?」

 フェイトは窺うように一葉の横顔を見ると、一葉は黄昏を見つめる老人のような目つきで月を見上げていた。
 アゼルはフェイトよりも数日遅れて地球にやってきており、以前にアゼルが地球を訪れたことがある話しも聞いたことがない。アゼルが地球にやってきてからの僅かな期間で一葉と出会う確率など限りなく低いだろうし、なによりも二人の間には深い確執があるように思えた。

 「知り合いでは、一応あるのかな。 ただ、昔からって言われると、それは違うよ。 そもそも、オレたちの間にはどんなに時間や距離があっても関係なかったんだと思う。 出会うべくして出会った。 多分、それだけ」

 「それって、どういう意味?」

 要領の得ない一葉の言葉は、フェイトに説明するというよりも、自分自身に納得させようとしているような口調だった。

 「フェイト、忠告だけしておくよ。 アゼルを信用するな。 あいつはフェイトや、フェイトのお母さんとは違う思惑で動いてるはずだ」

 「どういうことだい?」

 一葉の言葉に反応したのは、アルフだった。微かに鼓膜を震わせる声に、一葉は一瞥を送ると立ちあがった。

 「言葉の通りだよ。 アゼルはフェイトとは違う。 自分の目的の為なら、誰かを傷つけることを厭わない。 それがたとえ、身内でもね」

 影が差し込み視界が暗くなった。一葉は月を背に向けてフェイトを見下ろしていた。その表情が逆光でよく見えないが、ぼんやりと青白く浮かび上がる輪郭は触れてしまえばそのまま消えてしまいそうなほどに儚く、寂しげに見えた。

 「悪いことは言わないよ。 ジュエルシードからは手を引いた方がいい。 フェイトはともかく、アゼルとオレは間違いなく敵同士だ。 次に会う時も衝突することになる。 その時に、その場にフェイトが居たら正直安全は保証しかねるんだよ」

 「……それじゃあ、一葉と一緒にいた女の子はどうなの? あの子も、兄さんの敵なの?」

 フェイトは前に会った森で気を失い倒れていた少女のことを思い出した。あの少女はきっと、一葉の友達なのだろう。だからあの場所に一緒に居て、一葉はせっかく手に入れたジュエルシードを手放してまであの少女を守ろうとしていた。

 「……オレは、本当はあいつがジュエルシードを探すことには反対なんだ。 あいつは、きっと浮かれてるだけで、状況に流されたまま、ついうっかり命のやり取りをするような場所に足を踏み入れただけだ。 だけど、なのははまだ本当に死ぬような目に遭ってないから今でも首を突っ込もうとしてくる。 今はもう、オレの傍に居るだけで危ないってことを理解してない」

 森の木々の間を吹き抜ける風が、人の声に似た音を響かせていた。一葉の声からは、フェイトが名前も知らない、一葉だけの友達のことを大事に想っていることが伝わってくる。

 「大切なんだね……、その子のこと」

 「……ま、友達だしね」

 「そっか……。 友達だから……か……」

 友達。一葉が何気なしに出したその言葉に、フェイトは憧憬と嫉妬を同時に覚えた。
自分は一葉と友達になりたかった。一葉と出会ったその日から、ずっとそう思っていたのに一葉の方はそうではなかった。一葉には既に友達がいて、自分なんて必要ない。既に一葉の隣には、なのはという少女が居た。
 一人で、寂しかったのは自分だけだったのだと思い知らされたからだ。

 「やっぱり、優しいんだね。 一葉は……」

 フェイトは自分が傷ついたことを悟られないように、努めて唇を微かに釣り上げた。それでも、その微笑みは翼を失ってしまった鳥が虚栄するかのように寂しいものだった。

 「んなわけあるかい。 オレのは優しさじゃなくて傲慢だよ。 傷つくのが嫌だ、傷つけるのが嫌だ、だから突き離そうとしてるだけだ。 ついでに言えばさ、アゼルの傍に居ればフェイトもきっと傷つくことになる。 だからさ、ジュエルシードのことはアゼルに全部任せて引っ込んでくれると非常にありがたいんだけどね」

 一葉の苦笑交じりの物言いに、フェイトは首を横に振った。

 「ダメだよ。 母さんは私を必要としてくれているし、私も母さんに必要とされたい。 だから、ジュエルシードを兄さんだけに任せることはできないんだ。 それに、兄さんを信用するなって言ったのは一葉だよ?」

 「そうだった。 説得の順序を間違えちゃったな」

 フェイトは一葉の顔を視界に入れた。こちらを見下ろす二つの目が、困ったように緩んだのが見えた気がした。

 「でも、このまま引いてくれないんだったら次に会うときはまた敵同士になっちゃうな。 じゃ、オレはもう行くけど、今日は会えて楽しかったよ」

 一葉は踵を返してこの場から立ち去ろうとする。もはや語るべきことはないと判断したのだろう。だが、フェイトは一葉とここでもっと話しをしたいという誘惑に駆られていた。
 咄嗟に一葉の腕に手を伸ばし、引きとめようとした瞬間。湖の対岸で膨大な魔力が月の光を押し戻した。

 「これは……」

 「ジュエルシード! こんな近くで!?」

 失態だった。目先のことに気を取られ過ぎていて、ジュエルシードの存在に気が付けなかった。フェイトは立ちあがると、首にぶら下げていた二等辺三角形とペンダントを手に取り、バリアジャケットを身に纏った。

 湖の水をまきこんで、力強く渦巻く水柱から現れてきたものを見て、フェイトは絶句した。

 「なんだい!? あの不細工な亀は!?」

 驚愕の声を張り上げたのはアルフだった。フェイトがバリアジャケットを展開すると同時に獣の姿から人型へと姿を変え、ジュエルシードの魔力に警戒し身を構えていた視線の先に映ったものは、豚のような鼻をした巨大な亀だった。

 「おお、スッポンだ。 こんな綺麗な湖にも居るもんなんだ」

 声を震わせるアルフとは対象に、一葉は感心した声を上げた。刹那、湖の対岸に居たはずの亀の口が、フェイトの目の前で大きく開いていた。

 「……え?」

 意識の外の出来事だった。一葉の隣にいて、自らの相棒であるバルディッシュを手にバリアジャケットを展開していたはずなのに、指一本動かすことができず、呆けた声を漏らすことしかできなかった。

 「きゃっ!?」

 襟首を強く引っ張られ、視界が反転した。フェイトは地面に転がされ、景色が流れる。フェイトは体制を土に身体を擦らせつつ視線を一葉に移すと、そこにはいつの間にか騎士甲冑を纏った一葉の背中があった。

 「気をつけた方がいいよ。 あの亀、笑えるぐらい首が伸びるから」

 一葉はスッポンに視線を固定したまま言った。一葉の言葉通り、フェイトはスッポンの伸ばした首の先を目先だけで辿ると、薄い扁平型の甲羅を背負った本体はその場から微塵も動いてはいなかった。

 「いったいあの亀のどんな願いにジュエルシードが発動したっていうんだい?」

 アルフが一葉の横に移動しつつ尋ねる。アルフは一葉にあまりいい感情は抱いていないが、この場は共同戦線を張った方がいいと判断したのだろう。
 もはや警戒の念は一葉ではなく、目の前のジュエルシードに注がれていた。

 「これだけ透明度の高い湖だからね。 餌になる魚なんてほとんどいないだろうし、腹いっぱいになるまで食事がしたいとかじゃないかな。 ていうか、野生動物の頭の中なんて飯食うことと子孫を残すことぐらいしかないでしょ」

 「つまり、あたしたちは餌ってことかい」

 「スッポンてめちゃくちゃ肉食だしね。 フェイト、オレがあれを止めるからジュエルシードの封印は任せても大丈夫?」

 「大丈夫だけど……、いいの?」

 フェイトは戸惑うような表情を浮かべた。自分と一葉はジュエルシードを巡って対立をしている。だが、一葉はジュエルシードに対する固執などまるでないような口調で、フェイトにその所有権を譲渡しようというのだ。

 「いいのかもなにも、オレは術式持ってないから封印出来ないんだよ。 それに、ジュエルシード自体にはあんまり興味ないしね」

 「ジュエルシードに……興味がない? じゃあ、なんで集めてるの?」

 「こっちにも色々と都合があるんだよ。 それよりも、一応頭の上に防御魔法でも張っといた方がいいよ。 髪、血で汚れたら嫌でしょ?」

 フェイトが返事をするよりも早く、一葉の身体が一瞬ぶれたかと思うと姿が消えた。



[31098] 14!
Name: 三鷹の山猫◆ef72b19c ID:d1000a7d
Date: 2012/03/01 22:57
 「ベヌウさん、本当にこっちでいいの!?」

 「ええ。 このまま直進してください」

 なのはは息を切らして走っていた。夜の森は漆黒に呑みこまれていて、手にしている懐中電灯が照らす丸い光の先には枝葉が茂るだけの同じような景色が広がっている。
 肩に佇むベヌウがいなければ、十分もたたずに遭難してしまっていただろう。

 「なんで勝手な行動をとるんだ。 これじゃあ、疑って下さいって言ってるようなものじゃないか」

 「耳が痛いですね。 一葉には後ほど私から言っておきましょう」

 地面を走るユーノは、責めるような口調でベヌウに言う。なのはも言いたいことは山ほどあった。だが、今はそれどころではない。
 なのはが、一葉が旅館を抜け出して敵の使い魔についていったことを知らされたのはついさっきの出来事だ。
 卓球大会も終わり、すずかもいつの間にか床に入ってしまっていたので、なのはもアリサと明日に備えて眠ろうとした時に、ベヌウから念話で事の経緯を教えられたのだ。
 なのはにとっては寝耳に水だった。一葉はてっきり温泉に入っているか、先に寝ているものだとばかり思っていたからだ。

 既に状況は始まってしまっている。そして、状況の中身はまた一葉がなのはを置き去りにしたまま、一人でなにかをしようとしていることだ。

 自分は魔法という力を手に入れた。特別な力を手に入れたというのに、一葉にとってはまだ足りず、隣に立つことさえも許してくれない。そして、このまま遠くに行ってしまうのではないかという恐怖が黒い蛇となって喉元に絡みつき、食いついてくる。そして、その痛みと衝撃に頭と心臓が熱くなった。

 急かす足は止まらせることはない。伸ばした手でさえ怪しい漆黒に呑みこまれていく、そんな暗闇の中では懐中電灯の明かりも気休めにしかならない。視界の外から飛び出てくる木の枝にピシャリと頬を叩かれたり、地面から突き出た木の根に足をひっかけたりと、手足にも顔にもいくつもの切り傷ができて、そこだけに熱がこもる。

 突然、空を焼く閃光が広がった。夜の空を呑みこむ青白い光りを、なのはは知っていた。

 「あれって!?」

 「ジュエルシードの魔力だ! 近くで発動してる!」

 「この方角の先は……、一葉が居る場所ですね」

 押し出すようなユーノの叫びに、ベヌウが冷静に言うと、なのはは焼けた矢で胸を貫かれたような気がした。
 この先に一葉が居る。もしかしたらジュエルシードを探しに来たあの少年と、戦っているかもしれない。
 一葉の怪我の具合をなのはは知らないが、それでも聞く限りでは安静にしていなければならないものだ。なによりも、一葉は封印術式を持っていない。その事実に、冷たい感触がなのはの背中を吹き抜けた。

 なのはは行く手を遮る草木を素手でむりやり掻き分け、身を寄せ合うようにして立ち並ぶ木々の隙間から差し込む光の向こうを目指して足を速度を速めた。

 細くて鋭い枝葉に切りつけられるたび、掌が熱い痛みを帯びる。こめかみが破れそうなほどに歯を食いしばり、鋭い痛みに耐えながら前に進むと身体全体に纏わりついていたガサガサとした抵抗感から、ふと解放され視界が広くなった。むせ返るほど鬱葱とした森の中とは違い、その場所は青白い月明かりと、生温かな雨が降り注いでいた。

 なのはは頬に打った滴に手を当て、見る。

 「なに……、これ……?」

 掠れた声が、口から漏れた。
 掌にはべっとりとした血糊が付いていた。月明かりとともに降り注ぐ雨。これが全部地だとでもいうのだろうか。
 背筋が恐怖で震え、眩暈がした。一体、どんな凄惨な出来事がここで起こってしまったのだろう。そして、なによりもなのはが探している少年の姿が見えない。その現実が、なのはの思考を考えたくもない方向へと導いた。

 __まさか……、この血って……

 「す……、すごい……」

 なのはの脳裏に嫌な想像が過り始めた瞬間、頭上から聞き慣れない少女の声が降りてきた。なのはは咄嗟に頭を上げる。
 そこには、赤い雨と月明かりのカーテンが降り注ぐ中、虚空に足を置く二人の姿があった。一人は始めてみる金髪の少女、もう一人は一葉だった。

 「あの子は!?」

 「ユーノくん、知り合いなの?」

 まるで通り魔にでも出くわしたかのような声を上げるユーノに、なのはは状況が呑みこめないまま尋ねた。

 「あの森にいたアゼルって奴の仲間だよ! なんで一葉と一緒に居るんだ!?」

 「……え?」

 ユーノの言葉に、なのはの口の中は一瞬で乾いた。心がぐらぐらと揺れ、いろんな感情が頭の中を駆け巡る。

 __アゼルって、あの怖い人のことだよね?

 __私を殺そうとした人のことだよね?

 __なんでそんな人の仲間と一緒に居るの?

 __なんで、私じゃなくてそんな子と一緒に居るの?

 冷たい夜気が皮膚を撫で、身体から体温が急速に失われていく。心臓がばくばくと荒れ狂い、知らずの内に握りしめていた拳には冷たい汗が滲んでいた。

 「おーい、あったよー」

 不意に遠くから聞こえてきた声の方向に、なのはは視線を移した。そこには薄緑色をした、なにかの大きな塊の上に乗った赤毛の女の人が、見せつけるようにジュエルシードをかざしていた。

 「ほら、早く封印しなよ」

 「あ……、うん」

 一葉はなのはが来たことなど眼にも入らず、隣に居る少女に封印を促す。その瞬間、なのはの頭は沸騰したかのように熱くなった。
 これは怒りか?
 違う。だけど限りなく近いものだ。熱を持った沼が心臓に沸きだしたかのような不快感がなのはの胸を支配していく。
 それは一葉が自分に秘密でここに来たことじゃない。本来のジュエルシードの持主であるユーノを蔑にして、あの少女に渡そうとしていることに対してなんかでは決してない。

 あの言葉だ。あの言葉は、今まで一葉が自分だけに投げかけていてくれた言葉だ。

あの視線だ。一葉が少女に向ける、直ぐ近くからの同じ目線。あれは自分だけに向けていてくれたものだ。

 あの場所だ。あの少女が居る、一葉の隣は……、あそこは自分が居るべき場所じゃないのか?

 「やっぱり、一葉とあいつらは繋がってたんだよ!」

 ユーノが足元で叫ぶ。だが、その言葉はなのはの耳には届いていなかった。
 今のなのはにとって重要なことはジュエルシードのことじゃない。まして、一葉がどちらの味方かどうかでもない。

 あの少女は、自分の居場所を奪った……、泥棒だ。
ただ一葉の隣に居る少女に対して、嵐のような怒りが喉元まで込み上げてきた。

 「なのは!?」

 「ちょっ……、高町嬢!?」

 なのはは胸を突き上げる感情に任せて、レイジングハートをセットアップしベヌウとユーノを振り切って空を駆けて行った。


 ◆◇◆


 一瞬の出来事だった。
 フェイトが一葉の言葉を返す間もない内に、一葉はフェイトの意識からきて、次に視界に捉えた時にはジュエルシードを取り込んだ暴走体の眼前で槍を下段に構えていた姿だった。

 __Upper Soul.

 凛然と響くデバイスの機械音。そして、風を抉るような音が辺りに響いた。
 実際に一葉の槍が抉ったのは風ではなく、肉と骨だ。スッポンと呼んでいた暴走体の首が付け根から細か肉片土地の飛沫となって大気に赤い虹を咲かせた。

 フェイトは、目の前でなにが起きたのか一瞬理解が追い付かなかった。弾き飛ばされた、砕かれた骨と肉が地面にぶつかる音が耳に届き、そこで初めて意識を引っ張られハッとした。

 スッポンの血によって、あんなに綺麗だった湖は血の穢れに染まる。ただの肉塊となり果てたスッポンの上で槍を手携え佇む少年の表情は暗がりで見えないが、月を背負って血を浴びるその姿は、さながら編みあげられた物語に登場する騎士に見えた。

 「す……、すごい……」

 フェイトの唇から、呆けた声が零れ落ちた。身体が小刻みに震え、無意識の内に寒さに耐えるように両腕を抱えていた。
 この震えは畏怖からくるものではない。胃の底から込み上げてくるような震えの正体は憧憬と興奮だ。
 喉元まで込み上げてくる熱は血を通して身体中を駆け巡り、炎のように燻ぶり始める。

 一葉の動きが追えなかった。一度目を瞬く間になにもかもが終わっており、目の前で起こっている現実に混乱しながらも、自らの実力の差を目の当たりさせられたのだ。
 圧倒的な力。視界に入ることすら許さない速度。高速戦闘を主とするフェイトにとって一葉は完成型であり、その光景を見て興奮するなという方が難しかった。

 「えーっと……、アルフだっけー? 悪いけどさー、ジュエルシード回収しに行ってくんなーい?」

 「へ? あ……、あぁ……」

 夜の空から声を間延びにさせて声を張る一葉はアルフに声をかけた。呆けていたのはフェイトだけではなくアルフもそうだった。アルフは一度、視線だけでフェイトに了承を取ると、一葉の足元で横たわる、首を失くしたスッポンの死骸の元へと飛んでいく。

 フェイトも、アルフも飛び立ってから一拍置いて、空の上から中々移動しようとしない一葉の隣へ行こうと足を地面から浮かせた。

 地面を離れて空が近くなると、月の光が質量を持っているのではないかと思うほど明るかった。穏やかな光の中で、フェイトは一葉の隣に近づくと、ドキリとした。長めの、黒い前髪から覗く打つ茶色の双眸が、深い憂いと哀しみを湛えていたからだ。
 それは、戦いに臨み圧倒的な勝利を収めたばかり者がする目ではなかった。

 「おーい。 あったよー」

 フェイトが一葉の横顔に眼を奪われていると、下からアルフの声が響いた。声の方を見ると、アルフは見せびらかすようにジュエルシードを掲げフェイトに手を振っていた。

 「ほら、早く封印しなよ」

 「あ……うん」

 一葉の声に促されて、フェイトは慌ててバルディッシュを構えなおし、封印式を展開しようとして、腕を力強く引っ張られた。

 「ふぇ?」

 フェイトの口から間の抜けた声が零れる。同時に、硝子同士がぶつかり合うような乾いた音が耳をつんざいた。
 フェイトはなにが起きたのかわからなかったが、数瞬遅れて事態を把握することができた。
 誰かから、魔法攻撃を受けたのだ。

 「ビビった。 なんだ今の?」

 パラパラと桃色の粒子が舞い月明かりに反射する中、一葉の声が、吐息がかかるほどの耳元から聞こえてきて、フェイトは心臓が弾け飛ぶかと思った。

 __近い!近い!顔が近い!!

 咄嗟の行動だったのか、一葉は抱き寄せる格好でフェイトを左腕でくるみ、胸に押しつけていた。一葉の息が頬に当たるほどに顔が近くて、フェイトは気恥ずかしさと緊張がぐるぐると意識をかき乱して、顔が燃えるように熱くなった。

 「……なのは?」

 乾いた声が一葉の口から聞こえてきて、フェイトは冷や水をかけられたかのように一瞬にして冷静に戻った。
 一葉がこぼした、なのはという名前にフェイトは聞き覚えがあった。先ほどの一葉との会話の中で出てきた、一週間前に森の中で気を失っていた少女の名前だ。
 フェイトは一葉の腕の中に収まりながら目線だけを動かすと、その先には鬼火のように白いバリアジャケットを身に纏った少女がいた。
 こちらを見据える大粒の双眸には、熱い怒りと冷たい狂気が揺らめいていて、奥まで突き通る光がそこにはあった。

 「どうして?」

 鷹揚のない、冷ややかな声。

 「どうして、そんな子と一緒に居るの?」


 ◆◇◆


 一葉に抱かれている金髪の少女を見て、なのはは粘り気を持った黒い感情が胸の内に広がっていくのを感じた。

 知っている。この感情は嫉妬だ。
 叫び出したいほどに胃の中で暴れまわる感情の渦を抑え付けながら、あくまで冷静になのはは一葉と少女を見た。

 一葉の右手には、普段腰に巻かれている白い布があった。あの布には経絡呪文と呼ばれる術式が編まれており、言語の代わりに予め編みこんだ文字で魔法を発動させる代物だ。一葉はあれに強力な防御魔法の術式を編みこんでいた。
 それをあの少女を守るために使用した。その現実に、なのはは頭の芯を矢に貫かれたかのような痛みを覚えた。

 一週間前のあの森で、自分が腰を抜かして動けなかったときはそんなことしてくれなかったのに。一直線にアゼルに向かっていって、一人ぼっちにしてたくせに、なんでその子は身を呈してまで守ろうとするの?

 痺れるように熱くなっていく頭で、今日や、今まで一葉と過ごしてきた過去が陽炎のように揺らめき、鮮烈な痛みを胸に刻んでいく。

 今まで自分が居たはずの場所。今日まで自分が立ちたいと渇望していた場所。そこに、あの少女は居る。
 もしかしたらこのまま奪われてしまうのではないかという不安に心臓を掴まれ、ギリギリと引き絞られるような激痛と、暗い闇に投げ出されたかのような恐怖が荒れ狂う波のようになってなのはに襲ってきた。

 「ねえ、どうして? 一葉くん」

 なのはの問いかけに一葉は有り得ないものを見るような視線でなのはを見るだけで、言葉を発することはない。
 言い訳も、弁明もしない一葉に対してなのはは胸の内に更なる苛立ちがささくれた。

 レイジングハートに魔力を再装填する。桃色の魔法陣がなのはの足元に浮かび上がり、発狂するかのような煩悶を抑え付けながら少女を睨む。
 この少女がいけない。この少女さえいなければ……。
 消却されない苦しみにも似た感情は一葉ではなく、一葉の腕の中にいる少女に向けられていた。

 「……で、そのままどうすんの?」

 険を含んだ声が風に乗って、なのはの耳朶を打った。一葉は、獲物を見据えた猛禽類のような鋭い視線でなのはを射抜いていて、なのはは動揺した。
 今まで一葉に、これほどまでに厳しい眼で見られたことがなかったからだ。

 「今装填した魔力を、オレにぶつければそれで満足?」

 「それは……」

 冷ややかな一葉の口調に、足が震えて胸が凍りついた。少なくとも、なのはは一葉の言葉を実行するつもりはなかった。
 自分の攻撃の対象はあの少女。敵のくせに一葉を誑かし、自分の居場所を奪おうとしている少女を少し痛めつけてやるつもりだったのに、それなのに一葉は金髪の少女を庇いながら突き刺す視線をなのはに向けている。
 その視線に迫られて、なにか喋らなければという断崖に追い詰められたように切迫した感情が喉元まで込み上げてくるが、言葉が絡まってうまく喋ることができなかった。

 そして、二人の姿を見ている内になのはは気が付いてしまった。今この場所にいるのは決して三人ではない。
 二人と、一人だ。
 一葉にとって自分は思いがけず現れてしまった邪魔ものであって、一葉が自分を庇護することなど決してない。
 疎外感と澱が腹の底に溜まり、なのはは目尻が熱くなっていくの感じた。
 不意に、風が唸りを上げた。

 「え?」

 漏れた声は誰のものだったのかはわからない。一葉かもしれないし、もしかしたら自分だったかもしれない。
 ただ、しっかりと確認できたことは金髪の少女が一葉の腕から飛び出し、凶刃をなのはに振りおろしたということだけだった。


 ◆◇◆


 __Protection.

 なのはの前に展開された薄桃色の壁に、バルディッシュの刃が喰いこんだ。
 インテリジェントデバイスのAIに阻まれ、フェイトは小さく舌打ちをした。

 しくじった。そう思ったからだ。

 状況に身体の動きが追い付かないのか、なのはは目を丸くしたまま固まっている。ならば、勝機は今だ。
 フェイトは、今度はなのはではなく、防御魔法を破壊する為にバルディッシュを振るった。
 一撃、二撃。思っていたよりも硬い。空気を引き千切る音を上げて、ようやく三撃目で防御魔法に亀裂が入り砕けた。

 フェイトは、なのはと呼ばれるこの少女が嫌いだった。そうであろうと、心の中で決めていた。
 その理由は一つしかない。なのはが一葉の友達だからだ。
 自分が欲しくて、欲しくてたまらないものを当り前のように持っているなのはが妬ましかった。
 まるで、玩具を買ってもらえずに癇癪を起している子供だ。頭の中に僅かに残った冷静な部分がそう言っているが、フェイトはあえて燃える炎のような激情に身を任せることにした。

 背中から一葉が制止する声が聞こえる。だが、フェイトはその声を振り切るかのように、防御魔法が砕かれた衝撃で地面に落下していくなのはに追撃をかけようとする。しかし、それは若草色の魔法群に阻まれた。

 バインドだ。魔法を覚えるときに初めて習う基礎魔法だが、高い汎用性とバリエーションに富んだ拘束魔法。
 縄状となった八本の魔力の集合体は、狡猾な蛇のような動きでフェイトに襲いかかる。フェイトはそれらを身を捻じり躱しながら、バルディッシュの刃で破壊していく。そして、四本目を叩き落とした瞬間、若草色のバインドに混じって桃色の砲撃が風を壊す音を立てながらフェイトに迫ってきた。

 「……っく!」

 フェイトは攻撃の手を止め、咄嗟に防御魔法を自分の前に展開した。

 フェイトは防御魔法を自動設定にも、バルディッシュにも発動権限を委譲していない。自動防御設定は実用性が高い反面容量が重く、大抵の場合は魔法初心者か、もしくは固定砲台と呼ばれる砲撃魔道師が好んで使うのだが、高速戦闘を主とするフェイトはそのどちらでもなかった。
 術式を位置から構築するには、どんなに訓練を積み慣れていても僅かに隙が生まれてしまう。
 そして、今回はその隙をつかれた形となってしまった。

 二発。なのはが撃った砲撃がぶつかっただけで、フェイトの張った六角形の金色の壁に蜘蛛の巣のような亀裂が走っていた。
 そして、その向こう側。なにもかもがズレて見える景色の向こう側に、間を置かずに次弾を装填し終え、壊れかけた結界に杖頭をコツリと当てているなのはを見て、フェイトは背筋が凍った。
 いつ距離を詰められたのかわからなかった。ただ、今わかるのは自分が絶望的な状況に追いこまれていることだけだ。

 「……あんたなんか、いなくなっちゃえ」

 ゾクリとするほど、冷酷な声が届いた。虫けらを見るような冷徹な視線がぶつかる。

 逃げられない。フェイトは身体を強張らせて、固く瞼を閉じた。


 ◆◇◆


 心の底から、なのはが心配だった。
 最初はこの世界に落ちてしまった二十一個のジュエルシードを集めることを手伝ってもらうだけだった。
 時には暴走してしまうジュエルシードの回収だけでも十分に危険だが、今となってはそのことが安全に感じてしまう。
 それは、三人の介入者によって物事の中身が大きく変容してしまったせいだ。

 緋山一葉、フェイト・テスタロッサ、アゼル・テスタロッサ。特に一葉とアゼルの間には深い確執があるようで、もはやジュエルシード集めは二人の抗争の口実にしかなり得ていないとさえ感じていた。
 二人の間にあるのは純然な憎しみと、静かな狂気。そして、触れれば切り裂かれてしまいそうな殺意。
 その二人の間に立つことになってしまったなのはの舞台を整えたのは、間違いなくユーノだった。

 痛みも憎しみも、争いもない静かな日常を奪ってのは間違いなくユーノで、果たしてその罪を自分は贖うことができるのか、懺悔の言葉を吐き出すことが赦されるのかという苦しみにユーノは苛まれていた。

 そして今、傷つき悲しみに沈むなのはを見ながら胸を引き裂かれるような気持ちでいた。
 絶望敵までに無力自分が、出来ることは少ない。せいぜい、声を張り上げることしかできないのだ。
 そう、なのはを取り巻く危険な状況の原因をつくりだした張本人、緋山一葉だ。ユーノは、スクライアという特殊な部族の立場上、普通の子供よりも多くの文化や、大人の世界を見てきた。その経験が、一葉に対する違和感を感じさせていた。

 一葉に初めて会った時から感じていた、拭いきれない不快感。真っ白い羊の群れにポツンと紛れる黒い羊のようで、黒い毛に白い粉をまぶして白い羊のふりをしているかのように、どこか浮いていた。
 だが、一週間前の森で見た一葉の正体は黒い羊なんかではなく、牙を持って生れた羊だった。
 いずれその隠された牙は、なのはの喉元に届く。確信めいた予感をユーノは感じていた。

 だから、ユーノは今日までの間、なのはに一葉とは縁を切った方がいいと進言してきた。しかし、言葉でいくら伝えようとしても、伝わったのは言葉だけで、本当に伝えたいことは伝わらなかった。
 ユーノの言葉は、今までなのはが一葉と積み重ねてきた溶けることのない雪のような時間に吸われ、なのはに届くことはない。

 なにもかも自分が不甲斐ないせいだ。なのはが再び、こうして危険な場所に身を置いてしまっていることも、なのはが再び傷ついてしまっていることも。

 「なのはっ!!」

 一葉の腕の中に収まっていた、フェイトという少女が突然なのはに襲いかかった。
 ユーノは咄嗟にバインドを展開してフェイトの動きを止めようとする。しかし、ユーノのバインドよりも、フェイトの動きの方が遥かに早く、次々とユーノのバインドを破壊していく。
 このままではまずい。ユーノはバインドの重ねがけをしようと再び術式を構築しようとするが、叩きつける怒声で阻まれた。

 「邪魔するんじゃないよ!!」

 猛然と襲いかかる赤髪の女性。頭の上には、人間にはあり得ない三角形の獣の耳が付いており、その女性が使い魔であることを教えていた。

 「くっ……!」

 使い魔はユーノに向かって拳をふるう。咄嗟に避けたユーノが立っていた場所は、その衝撃によって地面がめくれ上がった。

 「あの白い娘の使い魔かい……。 悪いけど、ジュエルシードは貰っていくよ」

 ユーノは崩れた態勢を立て直し、使い魔を睨みつけた。その手には、ジュエルシードが握られている。

 「返せ! それは僕のものだ!!」

 押し出す叫び声を上げるユーノに、使い魔は行儀悪く中指を突き立てて叫び返した。

 「そんなこと、こっちは知ったこっちゃないんだよ! 痛い目見ない内に、さっさとお家に帰んな!!」

 「ふざけるな!!」

 ユーノはバインドを使い魔に向けた。形なく漂うユーノの敵意が凝縮し鷹のようなバインドは鋭く大気を裂き使い魔に襲いかかる。
 速度も、精度も申し分はない。これがテストや訓練だったのならば間違いなく満点をとれただろう。
 しかし、ユーノは実戦の空気を、元は獣である使い魔の膂力を知らなかった。

 使い魔はバインドの合間を縫うように疾走し、ユーノとの距離を瞬く間に詰めた。
 ユーノが知覚した時にはもう遅い。月を背負うようにして飛びあがった使い魔が拳を振り上げていた。

 __まずい!

 咄嗟のことで筋肉が硬直して動かない。冷やりと走る悪寒は、空から降り注いだ目が痛くなるほどの桃色の雨に消し去られた。


 ◆◇◆


 一度吐いた唾が呑めないことぐらい知っていた。
 戦うには優しすぎるなのは傷つけまいと、必死になって遠ざけようとしていたのに、そのことがなのはの心をなによりも傷つけていたのだ。

 結局、自分のことばかりでなのはの想いも、気持ちも、大切なものはなにもかもを見落としてしまっていた。
 いや、もしかしたら自分はわざとみないようにしていたのかもしれない。
 弱くても、逃げても誰も指をさして責めたりなんてしない。それでも、それは見落としてはならないものだった。絶対に目を背けてはいけないものだったのに、自分は見ようともしなかった。
 自分が唾を吐いたのは天に向かってなんかではなく、なのはの心に向かってだったという現実に。


 ◆◇◆


 一葉は平静を装っていたが、その実、胸の内は振り子のように激しく揺れていた。飼い主に置いてきぼりにされてしまった動物のように傷ついたなのはの目は、深く鮮やかな哀しみに彩られている。
 どうして?と乾いた声で問いかけるなのはの言葉に、一葉は喉を詰まらせた。

 なのはの右手に携えられたレイジングハートは、装填されたなのはの魔力によって桃色の残滓が揺らめいている。
 質量を持ったかのように敵意に満ちた視線は、一葉ではなくフェイトに向けられていた。
 一葉は咄嗟に抱き寄せたフェイトの肩に力を入れ直し、呼吸を整えてから唇を動かす。

 「……で、そのままどうすんの?」

 苦しい沈黙に耐えられず一葉が言葉を発すると、自分でもぞっとするぐらいの厳しい声が出た。

 「今装填した魔力を、オレにぶつければ満足?」

 なのはがフェイトに狙いを定めていることを知っていて、あえて言った言葉だった。フェイトを庇うような言動は、さらになのはの心を抉る。だが、今はそうすることでしかこの場を穏便に収める方法が思いつかない。

 なのはも、きっとすずかと同じだった。
 彼女たちを取り巻く不安に気付かずに、自分の何気ない言動が真綿で首を絞めるように追い詰めていたというのに、自分は呑気にフェイトと密会していた。そのことがなのはの逆鱗に触れて、憤慨してしまったのだろう。

 なのはも、ユーノから聞いてフェイトがアゼルの仲間だと言うことは知っているはずだ。なのはを蔑にして、敵であるフェイトと会っていたとなるとそれは裏切りと見られても仕方がない。
 しかし、今回に関してフェイトは完全にとばっちりだ。
 一触即発の雰囲気の中、どうにかして無傷で帰してやりたかったのだが、状況はいつも一葉の期待を裏切っていく。
 突然、フェイトは一葉の腕から飛び出し、金色の暴風となってなのはに襲いかかった。

 「ちょ……っ、おい!」

 咄嗟に伸ばした手は、フェイトの髪をくすぐるだけで捕まえることはできなかった。

 「フェイト!!」

 一葉の叫びをかき消すかのように、突風となったフェイトを止めようと一葉もその背中を追いかけようとする。
 ふと、左肩に鈍い重力を感じた。ベヌウだ。

 「時間になっても帰って来なきゃ向かいに来てとは言ったけど、なのはまで連れて来いって言った覚えはないんだけど」

 「高町嬢を連れてくるなと言われた覚えもありません」

 怒りをベヌウに向けるのは見当違いだとわかっていても、滲み出る苛立ちは感情をぶつける矛先を探している。
 一葉は憎々しげにベヌウに言うと、ベヌウはいつになく冷ややかな視線で応えた。

 「貴方はもう少し人の気持ちというものを考えた方がいいですよ。 今回は一葉の無神経さが招いたことです」

 「わかってるよ。 だから、こうなる前に止めようとしたのに……」

 「わかってませんよ。 一葉はわかったつもりでいるだけで、なにもわかっていません。 だから、こうなってしまっているのでしょう?」

 ベヌウの視線はフェイトとなのはに向けられていた。ユーノの放つバインドをフェイトが巧みに躱している。
 一葉は、なのはが自分のことを友人よも近しいそれで見ていることに気が付いていた。だが、それはなのは自身も気が付かないような霞のように淡い感情。時間とともに自然と消えて薄れていくものだと思っていた。

 もし一葉が、この世界に魔法という異端の力があるとこを知っていたのなら、初めからなのはと友達になろうという考えは持たなかったはずだ。
 なのはだけではない。アリサも、すずかも、平成の世だからこそ保ち続けることができた欺きの仮面は、一度戦場の空気に晒してしまえばいとも容易く剥がれ落ちてしまうとわかっているのに、誰かと寄り添い続けることができるなどという夢から、とっくに覚めているのに。
 魂の穢れた咎人が、罪を忘れ何食わぬ顔で安穏と暮らし続けていた。その代償に、なのはとすずかを傷つけたのだ。

 一葉と、ベヌウの視線の先でフェイトがなのはの防御魔法を叩き割り、その衝撃でなのはが落下している。
 だが、一葉の心が動じることはなかった。
 アゼルとの、“あの男”とこの輪廻の果てに邂逅してから歯車は廻りだした。それは同時に、自分が人でいられる時間のカウントダウンの始まりでもある。
 ベヌウは戦って償えばいいと言った。だが、自分は既に償っているのではないか?
 罰を受けているのではないか?
 自分が人の心を持って生まれ落ちてしまったこと。この世に生を受けたことそのものが、罰だ。
 そんな思推に至った途端、一葉の中に漠然と漂っていたなにかが明瞭な形を持ち胸の内に圧しかかってきた。

 「……、ベヌウ。 下の二匹止めてきて。 聞きわけがないようだったら、死なない程度に痛めつけてもいいから」

 「……、一葉?」

 自棄になった訳ではない。一葉はただ、自分の道標を見つけただけだ。それは過去という名の未来。かつての、人にあらざる獣の心を持った過去に進む道を。

 どこか雰囲気の変わった一葉に、ベヌウは怪訝な声を出す。だが、一葉は苦衷の表情を浮かべ、ベヌウと視線を合わせることはしない。
 ジュエルシードなどもはやどうでもいい。どうせアゼルを殺せば、この糞くだらない争いも治まるのだ。とりあえず、今はこの面倒な場を鎮めなければならない。
 色々と考えるのはそれからだ。

 「早く行って。 二十秒以内に制圧して」

 「……わかりました」

 ベヌウは躊躇しながらも、目線の遥か下でぶつかり合っている二匹を目指し、翼を広げて滑空していった。

 鈍く圧し掛かっていた左肩の重力から解放される。一葉は左手に握っているアルデバランを、ギュッと握り直して二人の少女を視野に入れた。
 いつの間にか二人の形勢逆転しており、なのはがフェイトに向かって零距離魔法を放とうとしている。
 二人までの距離は決して近くはない。だが、一葉にとっては遠いい距離では決してなかった。
 一葉は足元に魔力を込める。すると一瞬の内に踵に小さな足場が生まれ、それを思い切り踏み込んだ。
 空中に疑似的な地面を造ることによって、空中戦でも縮地を使えるよう一葉が考えた魔法だ。
 太腿と脹脛にかかる負荷も、実際に地面を蹴るよりも遥かに低い。ただ、どうしても直線的な動きになってしまうが、それでも通常の飛行魔法よりは遥かに速度が出る。

 圧しつけるような風の抵抗が身体を突き抜ける。一度の踏み込みで刹那の間に距離を詰めた一葉の耳に聞き慣れた、そして今まで聞いたことのない声が耳に届いた。

 「あんたなんか……、いなくなっちゃえ」

 砂漠のように感情の乾いた声。この声を、あんなにも人の気持ちに敏感で、心根の優しかった少女が出しているのだと思うと、喉が塞がれたような気持ちになった。

 レイジングハートの穂先から迸る、夜の闇を照らす桃色の閃光が吐き出される寸前、一葉は足を振り上げてレイジングハートの柄を蹴り落とした。
 衝撃で照準の狂った魔力の五月雨は全く見当違いの方向へ撃ち出される。射線の先にはユーノとアルフが居た気がするが、まあベヌウがなんとかしているだろう。

 一葉はなのはとフェイトの間に入り、なのはを睨んだ。すると、なのはは目に見えてわかるように、ビクリと肩を震わす。

 「フェイト、今日はもう帰った方がいいよ」

 「で……、でも……」

 一葉は視線をなのはにぶつけたまま言うと、躊躇いにフェイトは言葉をどもらせた。
 喧嘩を吹っ掛けた側の居心地の悪さもあるのだろう。一葉も他人の喧嘩に横やりを入れるのは好きではない。だが、一葉はフェイトがさらに言葉を続ける前に、威圧的に声を被らせた。

 「いいから。 ジュエルシードはそのまま持って帰っていいよ。 だから、今日はもう帰って」

 「……一葉?」

 「聞こえなかった?」

 先ほどまでとはまるで違う高圧的な態度に、フェイトは動揺した。そして、一葉の友達に喧嘩を売ったことが、一葉の逆鱗に触れたのだと思い、自分が取り返しのないことをしてしまったのだと、直感で悟った。

 聞き返すフェイトに、一葉は冷ややかな視線を送ると、見開いた目に涙をためて、顔面を蒼白にして小刻みに震えているフェイトが居た。

 「別にフェイトに腹を立ててるわけじゃないよ。 ただ、これ以上ここに居られると話しがややこしくなるんだ」

 その言葉に偽りはない。一葉はフェイトに苛立っているわけではなく、自分自身に苛立っていた。
 一瞬、フェイトの傷ついた表情が、なのはと重なって見えた。こうして、なのはを傷つけていたのかと思うと、自分自身を殴ってなりたくなる。
 戦うことしかできなかった自分が、この世界で確かな温もりをくれたのはなのは達の三人と、はやてだった。
 ふと、はやては今どうしているのだろうと思考が影を過る。自分が今、こうして温泉に来ている間も、一人でいるのだろうか。
 あの、孤独な少女が孤独の世界でしか生きるすべを知らないということが、一葉にとって心臓が抉られるほどに哀しかった。
 だが、それでもはやては関係ない。今は、魔法という非現実の世界に足を突っ込んでしまった愚かな自分を呪うべきなのだ。そういう考えが、後にはやてを巡り己を縛る鎖となることを、この時の一葉が知る術を持たなかった。

 「わ……、わかった。 ジュエルシードは、くれるんだよね?」

 「遠慮せずに持ってっていーよ」

 「ありがと……。 アルフ!!」

 「あいよぉ!」

 フェイトが呼びかけると、地面から威勢のいい声が張り上げられた。その声から察するに、なのはの砲撃の被害は感じさせられない。
 一拍置いてから、アルフはフェイトの傍らに跳び上がり、座りの悪い視線で一葉を見た。

 「今日はとりあえず感謝しとくけど、今度会った時は敵同士だよ。 覚悟しとくんだね」

 「それはオレの台詞だよ。 さっさと行きな」

 「わかってるよ。 フェイト、早く行こう」

 アルフはフェイ尾の腕をグッと引き、早くこの場から立ち去ろうと転送魔法を展開すると、フェイトはその反動に逆らうようにして一葉に向かって叫んだ。

 「一葉! 今日はこんなのだったけど、次に会った時はもっとちゃんとお話ししよ!? それで……!」

 フェイトが言葉を言いきる前に、アルフの展開した転移魔法が実行される。途中で途切れたフェイトの声が、静かな森に木霊して消えていった。
 再び静謐な空気に包まれる中、一葉は再びなのはに視線を向ける。そこには、理不尽を燃やす被害者の瞳を燃やしたなのはが居た。

 「なんで!? どうして止めたの!? 私、まだあの子にやり返してな……っ」

 なのはの叫びを遮るように、一葉はなのはの横っ面を叩いた。柔らかな肉の感触が過ぎ去ったあと、ジンジンとした熱のこもった痛みが掌に広がっていく。
 なのはは、一瞬なにをされたのか理解できなかったようで衝撃が撃った左の頬を手で押さえながら、キョトンとした表情で一葉を見た。

 「残念だよ……、見損なったよなのは。 なのはは人を傷つける為に魔法を知ったの? そんなチンケなことの為に、魔法を使うのか?」

 重く、冷たい一葉の声はなのはにはカチンときた。

 「チンケなこと!? じゃあ、一葉くんは私のなにを知ってるの!?」

 胸の内に溜めこんだ澱を吐き出すように、なのはは叫ぶ。

 「私たちをほっといて……、私を殺そうとした人の仲間と仲良くしてっ! 私のことなんか何にも考えてない癖に!!」

 なのはが腕と頭を大きく振ると、いくつもの滴が待って月の光に反射した。それは、なのはの瞳から零れた涙だった。

 「私のことなんて……、なんにも知らない癖に……! 私はただ……、一葉くんと一緒に居たいだけなのに……!!」

 涙を飛沫に舞わせ、引き裂くような慟哭を上げるなのはに一葉は胸を貫かれる痛みを覚えた。
 こんな痛みを知ることになるのならば、最初から出会わなければよかった。友達になどならなければよかった。
 だが、それでもまだ救いはある。今日という日までの間に刻まれた時と思い出は決して消えはしないが、人間とは過去を忘れることのできる生き物だ。まだ幼いなのはの記憶など、後五年、十年すれば霞となって消えてしまうだろう。
 そして、忘れさせる方法は簡単だ。なのは自身に、忘れたい過去という思推に促せばいい。
 傷ついているなのはを、もっと傷つければいいだけの話しだ。

 「オレは別に、お前と一緒に居たくないんだよ」

 「……え?」


 ◆◇◆


 一瞬、なのははなにを言われたのか理解できなかった。そして、理解した途端に頭の中が真っ白になって、景色がぐわんと揺れた。

 「もう、友達ごっこはやめにしよう。 正直疲れたし、押し付けがましいところが相当うざいんだよ」

 言葉がなのはの心をズタズタに切り裂き、頭は鈍器で殴られたかのような衝撃が撃った。
 吐き捨てられた言葉を、聞き間違いだとどれだけ否定しようとも、一葉の冷淡な面持ちの視線が都合のいい幻想の全てを悉く打ち砕いていく中、一葉はさらに言葉を重ねた。

 「旅行中はさすがに取り繕うけど、もううんざりなんだ。 これからオレに話しかけるな。 もう友達でもなんでもない、ただの他人だ」

 唾が喉に絡まる。
 そんなの嫌だ。その言葉が出なかった。首を絞められたかのように喉が痛くて、胸が熱い。
 つい先ほどまで炎が揺らめいていたのではないかと思うほど熱かったからだが、急速に熱を失い氷のように冷たくなっていく。寒くて、指先が震えて、それなのに脳味噌だけはまだ焼き切れるように熱かった。

 「ジュエルシードも、もう好きにやったらいいよ。 オレはもう関係ないからね。 “高町”がどうなろうが知ったこっちゃないし」

 吐き出される言葉が質量を持っているかのように痛かった。いつも通りの名前ではなく、名字で呼ばれたことに、身体ではなく心が痛んだ。

 「やだ……よ……、そんな……の……」

 ようやく絞り出せた声は、壊れた笛のように掠れていた。

 「ごめんなさい……。 ごめんなさい……、ごめんなさい、ごめんなさい……、ごめんなさい……。 お願いだから……、そんなこと、言わないでよ……」

 「そういうところがうざいって言ってんだよ。 泣いて謝れば、なんでもかんでも許してもらえると思ってんの?」

 一葉が重ねる言葉は、なんども心の中で反響して悲鳴を上げた。じわじわと冷たい闇が沈潜していく。反響が遠い余韻を残して過ぎ去り、なのはの視界が反転した。

 「なのはっ!!」

 下からユーノの声が聞こえてくる。風を突き抜ける衝撃と腰が浮く感覚が身体を支配し、若草色の柔らかな魔力の塊が背中に衝突すると、初めてなのはは自分が飛行魔法を維持できずに落下していったことを自覚した。

 なのはは呆然と空を仰ぐ。今なお、空の上に座す少年は他人を見るように冷たい視線でなのはを見下ろしていた。
 今流れ出ている涙に既に熱はなく氷のように冷たくて、まるで絶望が頬を伝っているかのように思えた。
 そして、ようやく理解する。
 自分は、自分が絶対に失うわけにはいかなかった拠り所を失ってしまったことを。



[31098] 15!
Name: 三鷹の山猫◆b3ece1a7 ID:96031d12
Date: 2012/03/01 22:57
 なのはが泣いている。そのことが心臓に穴があいてしまうかのように哀しかった。
 ユーノは自分の感情に気付かない振りをしていただけで、本当はなのはを一人の女の子として見ていることに気が付いていた。
 だから、なのはを傷つけて、涙を流させる一葉が許せなかったのだ。だけど、その癖一葉の力に頼らなければならない自分が居る。
 今だってそうだ。ユーノとアルフに降り注いだ質量を共なった桃色の雨は濁流のような黒炎に呑まれて消えた。
 ギョッと、顔を空に仰いだのも一瞬、降り立った夜のような漆黒の怪鳥の姿を見てそれがベヌウだということに気が付いた。
 自分がまたなのはを傷つけている少年の力によって助けられた。自分の無力を突きつけられているようで、胃の底から滲み出る苛立ちに奥歯を噛みしめる。
 結局のところ、自分が原因で魔法の戦禍に巻き込んでしまった少女の力になる術はユーノにはない。一葉にすがるしか手がないことは十分というほどに理解している。

 だが、理解していても納得することなどできなかった。ジュエルシードのこともそうだ。まるで自分の持ち物のように他人に権利を譲渡することも、なのはを言葉の刃で切り裂くことも、呆然自失となったなのはが空から堕ちていく様をただ見下ろしていたことも。

 なのはが地面に衝突する寸前、ユーノは咄嗟に魔力でクッションをつくった。狙い通りになのははそこに落下し、ユーノは声をかけようとするが、微かに俯かれた横顔を見てグッと喉が詰まった。
 なのはの顔は、青を通り越して死人のように白く染まっていたからだ。その表情は信じていたものに裏切られた絶望の顔、言葉にできない慟哭を胸に抱えてどうしたらいいのかわからない者の表情だった。

 緩やかな塵埃を揺らめかせながら、ユーノは地面に降り立った一葉を睨みつける。
 一葉はそんなユーノに冷たい一瞥を送るだけで、甲冑を解除すると直ぐに背中を見せ歩き出してしまう。ユーノはそんな一葉の態度に、血管がはち切れそうなほどの怒りを覚え感情のままに叫んだ。

 「待てよ! いったいどういうつもりなんだ!?」

 ユーノの怒声は森に何度も木霊して吸い込まれていく。
 一葉はふと足を止めて、身体を半身だけ振り向かせユーノを見た。音のない闇の中、瞬き一つしない一葉の視線は冷たく、そんな瞳を凝視している内に足元から仄かな怒りがさらに沸き上がり毛が逆立つ。

 「どうせ聞いてたんだろ? どうもこうも、言葉の通りだよ。 ユーノの言うとおり、おれたちはジュエルシードから手を引く。 後は二人で好きにやってよ」

 「僕が言ってるのはそういうことじゃない! なんで、なのはにあんな酷いことを言ったんだ!?」

一葉はなのはを傷つけ、今までの関係を否定する言葉は静寂なこの森に響き、ユーノの耳にも届いていた。

 「めんどくさくなっただけ。 全部がね」

 吐き捨てられた一葉の言葉に、流石にユーノも絶句する思いだった。
 信頼を与えるだけ与えておいて、最後に全てを奪い取る。そんな残酷なことがなぜできるのだろう。こうして信頼も友愛も、なにもかもを壊してしまうのならば、最初から友達になんてならなければよかったのだ。友達なんか作らずに、一人のままでいてくれたら自分と出会うこともなかったし、なのはがこんなにも傷つくこともなかったはずだ。

 一葉は冷たい目を崩すことなく、ユーノとの視線を外すと再び背中を向けて、森の出口へと歩き出した。
 すると風を砕きながらベヌウが一葉の肩にとまる。そんな一羽と一人の後姿にユーノは喉を張り上げる。

 「待てよ! まだ話しは終わって……!!」

 ヒュン、と風を切り裂く音がユーノの言葉を遮る。鼻先に、鋭い刃が突きつけられていた。
胸に押し抱えていた熱が一瞬で冷める。これは鉄ではない。表面がごつごつとして、その奥に小さな光の粒子がある。鉱石だ。
鉱石の刃。一葉はこんなものまでも自らの武器にすることができるのか。

「悪いね。 今、結構いらついてんだよ。 それ以上わめくようだったら、ホントに殺すよ?」

闇に浮かび上がる背中から発せられる平坦な声に、ユーノは返す言葉を呑みこんだ。

 「……もう、いいよ。 ユーノくん」
 
 力のない、のろのろとした声だった。なのはの声だ。

「もう……、もう……いいんだ……。 私が……、悪いんだから……。 私が……みんな……」

 俯いているなのはの表情は前髪に隠されていて見えない。だが、唇が怯えたように微かに震えていた。
 腕を膝に抱いてうずくまるなのはの白魚のように白くて細い指先は、小さな切り傷で赤く滲んでいる。
 ここに来る道程で、一葉の身を案じて一秒でも早く駆けつけようと小さなな身体を夜の森に晒した結果だ。
 そんななのはの姿を見て、ユーノは暗澹な気持になった。
 これでは、いくらなんでもなのはが報われなさすぎる。

 しかし、ユーノはそれ以上一葉になにも言うことができなくて、なのはにもかけてあげられる言葉を見つけることができなかった。


 ◆◇◆


 「先ほどの話し……、高町嬢に対してどこまで本気なのですか?」

 「全部だよ。 本気と書いてマジと読む」

 「高町嬢は着々と力をつけてきています。 今さら切り捨ててもメリットはないと思いますが」

 闇に紛れる枝葉を掻き分けながら、一葉はアルフが作った獣道を歩いていた。辺りは静寂に支配されていて、今は風の音さえも聞こえない。
 今頃、森の奥ではユーノがなのはを慰めてでもいるのだろう。

 「下手に力をつけられてもオレにとっては足手まといにしかならないし、アゼルとやり合うんだったらどのみちなの……、高町は邪魔になるだけだ」

 なのは、と言いかけて言葉を訂正した一葉にベヌウは胸が衝かれるような気持ちになった。
 一葉は自分で気が付いていないのだろうか。その横顔が闇に沈んだ苦渋に怪しく滲んでいることを。
 ベヌウには、一葉が自棄になっているようにしか見えなかった。自分自身を追いこむことで、今の“緋山一葉”という人格との決別を図ろうとしている。なのはとの決別は、その第一段階に思えた。

 「一葉の勝手で、高町嬢との縁を一方的に切るというのですか? それがどんなに彼女を傷つけるのか、一葉が知らないはずないでしょう」

 「もう、そうも言ってられないんだよ。 あの日、アゼルと戦った時、オレ中でスイッチの入る音がしたんだ。 オレは多分もう戻れない。 その時になって、高町が近くに居たら今よりも、もっと傷つけることになる」

 冷徹に光る目が、痛みと不安で揺れていた。
 ベヌウは喉が引き絞れるほどに苦しくなった。迷わずに、恐れずに強くなれる人間なんていない。人を傷つけずに成長できる人間なんてどこにもいない。
 闇の中で何度も、何度もぶつかって、ようやく人は自分の目指すべき場所にたどり着けるというのに、一葉は一つの人生を跨いでようやく手にすることができた安寧を呆気なく瓦解させてしまった。
 そして、また振り出しに戻って闇の中で彷徨い続けようとしている。
 なぜこうなってしまったのか……、一葉に、れっきとした変化が訪れるようになったのはアゼルという少年が姿を現してからだ。

 「私は、一葉とアゼルという少年との関係を聞いていません。 あの少年は、いったい何者なのですか? 一葉は……、魔法の技術はまだはザルですが実力的には私が生きた時代の中でも十指に入ります。 そんな一葉が危惧するほどの力を、あの少年が持っているのですか?」

 「まあ、強いよ。 レベルでいうと10だよ、あいつは」

 一葉は苦く笑いながら、どこかふざけた口調で応えた。

 「茶化さないで下さい。 私は真面目に聞いています」

 「オレも真面目だよ。 アゼルがレベル10なら、オレは7か8ってとこだね。 あの二人を荷物に抱えてちゃただでさえ低い勝率がもっと低くなる。 それに、ベヌウだってアゼルの使い魔とやり合ったんでしょ? どうだった? 魔法戦百戦錬磨のベヌウさんの目から見て、あの使い魔の力は」

 「……正直言ってしまえば、あの使い魔は異常でした。 本来使い魔というのは術者からの魔力の供給量によって強さが変動するものなのですが、あの使い魔は術者ではない、まったく別の場所から魔力を供給していた。 使い魔じゃなくて、底なしの魔力を持った魔道師を相手にしているようでしたよ」

 「ちなみにレベルで言うと?」

 「私が10だとしたら、8と9の間ぐらいですかね。 しかし、まだ隠し玉を持っていますよ、あれは」

 アゼルに伴っていたあの使い魔は、存在そのものが不自然だった。ベヌウは数千年前とはいえ、今は失われた技術の粋を集めて作られた機械だ。情報戦に特化した機体だが、それでもユニゾン状態ならば小さな次元世界を一夜で滅ぼしたこともある。つまり、ベヌウは兵器として造られた。だが、その兵器を相手にたった一人の人間が使役する使い魔が互角に戦うことなど、本来はあり得ないことだ。
 いや、互角ではない。防御能力に関しては向こうの方が圧倒的に上だった。あれはもはや使い魔ではなく、ベヌウと同じ兵器に近い。

 「アゼルもね、オレに近い能力を持ってるんだよ。 オレの能力は可能性の否定と肯定だけど、あいつは空間の保存だったかな。 多分、それを使い魔に使ってるんだと思う」

 「……、なぜそんなことを知っているのですか、と聞いてもよろしいでしょうか」

 ベヌウは訝しむ声で一葉に尋ねた。旧知の間柄だとは、あの時の二人の様子でわかっていたが、どうやらベヌウが想像していた以上に二人の関係は深いようだった。
 異能や人外は忌み嫌われるのはどの世界や時代でも同じだ。お互いに能力を把握しあっているということは、顔見知り程度の薄い関係などではない。
 そして、ベヌウの質問に一葉は何気なしに爆弾を投下した。

 「だって、前の世界であいつぶっ殺したのオレだもん。 と、正直に答えよう」

 「……はい?」

 唐突なカミングアウトに、ベヌウは頓狂な声を漏らす。微かに聞こえた一葉のはな息が返事だった。

 「なんで、そんな重要なことを黙っていたんですか……」

 「言っても、言わなくても同じだからだよ。 やることはなにも変わらない」

 「確かに、やることはなにも変わりません。 それでも、心の持ちようは違うはずです。 それに、あの少年が一葉と同じ世界の人間だと言うのならば、一葉を蝕んでいるものを抑え込むすべを知っているかもしれない。 高町嬢とスクライアにも、ちゃんと説明すれば協力してくれるはずです」

 「無理だよ」

 苛立ちを募らせたベヌウの声も一瞬、一葉は微笑を浮かべた。

 「手遅れなんだよ……、もう……。 それに、アゼルはもう飲みこまれてる。 アゼル・テスタロッサっていう人間の元の人格は知らないけど、あれはもうオレの知っている男そのものだ。 そして、あれがオレの行く末だよ」

 一葉の声に脈動の感触はない。あくまで冷静な声で言葉を紡ぐ一葉に、ベヌウは哀れに思えた。
 なぜ、この少年ばかりが失う。なぜ、この少年ばかりがこうも傷つかなければならないのか。
 普段の、どこか強気で奔放な一葉の面影は、もはや見る影もなくなっていた。

 「諦めて……、いるのですか?」

 「人生諦めも肝心、ていう格言が地球にはあるんだよ」

 「冗談に、聞こえませんよ」

 「冗談じゃないよ……。 ほんとにね、冗談じゃないんだよ……」

 一葉の視線はベヌウではなく、ここではない遠くの空を見ていてた。まるで死に場所を探す獣のように、遠いい目のように、深い憂いを湛えていた。
 伸ばした手の先さえ見えない闇の道、この夜の森のような未来を、一葉は歩いていた。


 ◆◇◆


 アルフが発動させた転送魔法の行く先は、フェイト達が間借りしている高級マンションの一室だった。
 フェイトを腕に抱えて、フローリングの地面に降り立つと、アルフの鼻に微かな鉄の匂いが掠めた。人間では知覚できないほんの僅かな血の匂いは、この場で滴ったのではなく、血の付いたなにかがここを歩いた香りの残滓だ。

 アルフは周囲の状況を把握するために、頭から飛び出た三角形の耳をぴくぴくと動かす。するとリビングの扉の向こう、廊下の奥からシャワーの水がタイルを叩きつける音に混じって、噛み殺すような艶のはいったリニスの喘ぎ声が耳朶を打ち、アルフはフェイトに聞こえないぐらいの小さな舌打ちをした。

 アゼルとリニスが肉体関係を持っていることはずっと前から知っていた。確かに、術者に忠実で妊娠の心配もない使い魔は、そうした性欲の処理に使われることは多々ある。自身が使い魔であるアルフにとって、そのことは理解も納得もしているが実際に身内にやられるのとでは認識に違いは生まれる。
 それに、今はフェイトと居住を共にしているのだ。フェイトとアゼルの生家である時の庭園では、二人の部屋は離れていた。だが、今はこうして決して広くはない部屋で共に生活をしているというのに、アゼルは自重というものをしない。
 アゼルとリニスの関係が、まだ幼いフェイトにとって悪い刺激にしかならないと言うのに、関係を無遠慮に重ね続ける二人に対して、アルフは苛立ちを募らせていた。

 今度、一度ガツンと言ってやらないとだめかねぇ……。と、アルフは胸中で溜息をつく。フェイトはまだ、二人の関係に気が付いていないがそれも時間の問題だろう。
 ふと、アルフの腕に圧し掛かっていた体重が軽くなる。
 フェイトはアルフの腕から立ち上がると、振り返って薄い笑みを浮かべて言った。

 「いっぱい汗かいちゃったね。 アルフ、一緒にお風呂に入ろっか?」

 その言葉に背筋がビクリと震えた。
 やばい……、今フェイトを風呂場に向かわせたら非常にまずい。少なくとも、保健体育の知識を持っていないフェイトにとっては未知の領域を目の当たりにすることになってしまう。アルフは慌てて腕を耳をバタバタと振って声を荒げた。

 「イヤッ、フェイト! 風呂は今、多分アゼルが入ってるよ! ほら、シャワーの音が聞こえるだろ!?」

 水の音にかき消されたアルフの喘ぎ声は人間の耳には届かない。とりあえず、今はフェイトに風呂場は使用中だということを伝える必要があった。
 アルフの言葉に、フェイトは意識を廊下の先に向ける。そして、初めて水の音に気付き、「ホントだ」と小さく零すと、傍らに遭ったソファに座った。
 真っ白なソファのスプリングがギシリと軋む音を微かに響かせ、フェイトは膝を抱えて体育座りをとる。
 腰まである尻尾のような金色のツインテールを垂らし、どこか浮かない表情でいるフェイトに、アルフは心配そうな声色で声をかけた。

 「フェイト……、途中で邪魔がはいっちまったけど、あのガキんちょと話せて満足できたのかい?」

 「え……? あ、うん……」

 アルフの言うガキんちょというのは一葉のことだ。アルフの言葉にフェイトは咄嗟に言葉に詰まり、歯切れの悪い返事をしながらまつ毛を伏せた。

 そんなフェイトを見て、アルフは困ったように肩をすかした。フェイトが視線を伏せるのは、嘘をついている時の癖だ。確かに、一葉との別れはフェイトにとって納得できるのもではなかったのだろう。

 「ねぇ、アルフ……。 一葉のこと……、どう思った?」

 顔を俯かせ、膝の上で指を弄びながら尋ねるフェイトにアルフは溜息をつく。フェイト自身気が付いていないのだろうが、これではどう見ても恋する乙女にしか見えない。
 子孫を残す機能がないゆえに、恋愛感情を持たない使い魔であるアルフから見ても、フェイトの表情はあからさま過ぎる。
 とりあえず、アルフはフェイトの感情に合わせることにした。

 「まあ、私はあんまり直接話しはしなかったけど、割と良い奴なんじゃないか? 初っ端はあれだったけど、フェイトには優しかったしね」

 「だよね!? だよね!?」

 俯かせていた顔を上げて、心の底から嬉しそうな声を上げるフェイト。アルフとしてはフェイトの気持ちに沿う返答をしなければならないということを含んでいても一応、それが偽りのない正直な感想だった。

 初めてあの少年と対峙した時、あの少年がぶつけてきた威嚇は、生物としての本能が警鐘を鳴らした。
 フェイトと同い年の小さな少年が涼やかな表情で出す、鉛のように重厚で濃厚な悪意の渦。蛇が静かに獲物を締め上げるかのような畏怖が、アルフの心臓に絡みついた。
 あの時に感じた恐怖は、疑いようのないほどに圧倒的なものだった。しかし、その後のあの森で、静かに水を湛える泉の畔で会った時には、そんな恐怖など微塵も感じ取ることができなかった。
 最初の方こそ、地球の重力を全て押し付けられたかのような畏怖を中てられたが、それだけだ。フェイトと話しを始めてしまえば、フェイトの身を案じるような素振りさえ見せていた。

 だが、それでも決して信用したわけではない。
あの少年にとって、ジュエルシードの収集は目的じゃない。暴走体から取り出したジュエルシードを容易く譲渡してくれたことから、それは明白だ。だが、ジュエルシードをこれからも追いかける口ぶりをしていた。
いったい何のために?
もし……、もしもの話しだが、ジュエルシードを集めることが目的でなく、ジュエルシードを探している誰かが目的だとしたら……、ジュエルシードをなにかを為すための手段を考えているのなら、その手段の先に居るのは一体誰なのか。
アルフの脳裏に、三人の顔が過った。
一人は当然、フェイト。そして、アゼル。最後の一人は二人の母親だ。そして、その三人の中から、消去法で考えると、一人しか残らない。そして、一葉がその一人を追いかけているというのならば、フェイトにも危害が及ぶかもしれないという危惧は拭いきれないのだ。

 「ねぇ、フェイト。 フェイトはあのガキんちょのこと、どう想ってるんだい?」

 「え……? どう、って?」

 アルフは思いきって聞いてみた。
 フェイトが一葉に惹かれ始めていることなど、言われなくてもわかる。
 母親からは愛されず、兄からは無関心を決め込まれ、社会性が希薄な時の庭園の中では他にフェイトに手を差し伸べる大人などもいない。
 フェイトが触れた、一葉のほんの少しの優しさも、フェイトにとってはかけがえのない初めての出来事だったはずだ。
 アルフはそんなフェイトが、いったいどれほど自分の感情に気付いているのか確かめてみたくなったのだ。

 「好きなのかどどうか、ってことだよ」

 アルフの言葉に、フェイトは二、三回瞬きをして固まった。
 壁に掛けられた時計の秒針が、チクタクと時を刻む音がやたらと大きく響く。三十秒ほど、アルフと視線を固定していたフェイトは突然、ボッと白い肌が赤く茹であがった。

 「や……、え……? あれ……? え……?」

 あ、藪蛇だった。アルフはそう思った。
 頬に掌を中ててうろたえるフェイトの様子を見て、なんとも言えない微妙な気持ちになった。
 自分の主の初恋は歓迎すべきことなのだが、同時に相手があの少年であるということに鉛のように重たいものが胃に圧し掛かる。
 あの少年はフェイト側の人間じゃない。いや、あの野生染みた殺意はそもそも人間であるかも怪しい。
 旅館の縁側で垣間見た黒い雄牛の影は、決して見間違いなどではない。あの影には、むせ返るほどの獣の匂いがあった。
 フェイトが一葉と一緒に居ることを望めば、いずれあの屈強な角はフェイトの喉を突きさすのではないかという不安がアルフの胸中を占めていた。

 「で……、でも……。 私、一葉と友達でもないし……、それに敵同士だし……」

 まるで自分自身に言い訳をするかのように、頬を赤らめながら言葉を重ねるフェイトを見て、アルフは腰に手を中てて困った笑みを浮かべた。
 胸に秘めた不安も、フェイトのそんな表情を見ていると割とどうでもよくなってきたのだ。勿論一葉は確かに危ないが、正直ここまできたらなるようになるしかないという投げやりな気持ちもある。

 「今はまだ、だろ? 確かに今は敵同士かもしれないけど、ジュエルシードのことが終わればもう一回会いに行ってみればいいじゃないか。 そんときゃ、多分歓迎してくれるよ」

 「そ……、そうかな?」

 フェイトは不安そうに上目遣いで、アルフに尋ねる。不安を溜めこむのは自分だけで十分だ。とりあえず今は、フェイトの気持ちを優先して言葉を続けた。

 「そうさ。 そもそもね、フェイト。 友達ってのはなろうと思ってなるもんじゃなくて、気が付いたらなってるもんさ。 もしかしたら、向こうはもうフェイトのことを友達って思ってるんじゃないかね?」

 「……そうかな?」

 「なんだったら、次に会った時にでも聞いてみたらどうだい。 今日は白い奴とイタチの使い魔が来たからああいう別れ方になっちまったけど、そもそもフェイトのことを本気で敵として見てるんだったら、あんなに気に掛けたりしないだろう?」

 アルフが言うと、フェイトの表情にサッと黒い影が差した。

 「でも……、私たちが帰る時に……、一葉が私たちを見た目はすごく冷たかった……。 そんな目で一葉に見られて、私は一瞬、怖いって思った……」

 視線を落として、フェイトは別れ際の一葉の目を回顧した。闇を閉じ込めた氷のように冷たい目。そして、その目をしたときの一葉は、今までそこに居たのに手を触れることができない幽霊のように存在が希薄になっていた。
 まるで一葉の姿をした別のなにかがそこに居るかのような気味の悪さをフェイトは感じていた。
 そして、フェイトはその気味の悪さを知っている。それはアゼルが……、自分の兄がつねに纏っている雰囲気そのものだからだ。

 「一瞬でも……、ほんの少しでもそんなことを想った私に……。 一葉と友達になれる資格なんて、あるのかな……?」

 「フェイト……」

 思い詰めた表情で言葉を重ねるフェイトに、アルフの表情にも影が差した。
 こうして、なんでもかんでも悪い方向に考えてしまうのはフェイトの悪い癖だ。他人の信じ方どころか、自分を信じる術さえも知らないこんな性格になってしまったのは、家庭環境によるところが大きい。

 先ほどまで朱色に火照っていた頬もいつもの白色に戻っていて、心の在り処を探すように胸に手を当てていた。
 そんなフェイトが可哀想で、それを言葉にできなくて、アルフはギュッとフェイトを抱き寄せた。

 「わっぷ! アルフ!?」

 アルフの突飛な行動に、フェイトは驚いた声を上げるが抵抗らしい抵抗はしていない。腕の中で、キョトンとした表情でアルフを見上げていた。

 「どうしたの? 急に」

 「んー? なんでもないよ。 急にこうしたくなっただけさ」

 華奢な肩、薄い胸、細い四肢。少しだけ力を込めてしまえばぽきりと折れてしまいそうな小さな身体の中には、外見からは想像もできないほどの強さが在る。
 生来の膨大な魔力とは違う。耐え抜いた過酷な戦闘訓練でもない。
フェイトは今、迷っているのだ。自分がなにを信じればいいのか、本当は自分がなにを求めているのか、知らず知らずの内に葛藤という名の迷路に迷い込んでしまっている。
迷うことで人が強くなるというのなら、今の脆い心を支える強さも手に入れることができる。迷って、傷ついて、自分の進む道を見つけた時にフェイトはきっともっと強くなれる。
 ならば、自分の道は迷うことのない一本道だ。フェイトが答えを見つけるその日まで、フェイトを守ろう。

 フェイトの母親が……、あのクソババアがジュエルシードを集める理由など、どうせ碌なものじゃないはずだ。そして、アゼルだってそうだ。
 「アゼルを信用するな」一葉が言ったあの言葉が、アルフの耳の奥に響いて残っている。
 元々、アルフはアゼルに絶対の信用を置いていたわけではない。だが、あの言葉が本当だとするならば、もしジュエルシードがすべてそろった時に、フェイトはどうなってしまうのか。
 先の見えない不安がアルフの胸を苦しくさせた。

 「あれぇ、お帰り……、なにしてんのさ?」

 アルフがフェイトを抱きしめていると、不意に後ろからアゼルの声が聞こえてきた。首だけ振り返ると、そこにはバスタオルを肩に掛けた上下黒のスウェット姿のアゼルがポカンとした表情でアルフとフェイトを見ていた。
 髪はまだしっとりと濡れていて、アゼルが部屋に入った途端に石鹸の芳香な香りが鼻につく。

 「別に、あんたにゃ関係ないだろ」

 アルフは突き放すような口調で答えながら、フェイトの身体に絡めていた腕を解き、アゼルの前に立った。
 アルフの身長はアゼルよりも頭一つ分ほど高いため、自然とアゼルを見下ろす形になる。

 「ふぅん……。 ま、いっか。 それよりも、温泉のお土産は? 饅頭買ってきてくれた?」

 朗らかな笑顔を浮かべながら手を差し出すアゼルに、アルフはムッときた。ジュエルシードを回収できたなんて微塵も思っていないその態度を不快に感じたのはフェイトも同じで、憮然な表情をしながら待機状態のバルディッシュからジュエルシードを取り出すと、乱暴にアゼルに投げつける。

 「っと、危ないなぁ……。 あれ……、ジュエルシードじゃん、これ。 回収できたんだ」

 顔面めがけて一置いよく投げつけられたジェルシードを眉一つ動かさず掴みとったアゼルは、自分の掌に収まった菱形の青い石を見て目を丸くした。

 「……一つだけだけど」

 「一つでも充分だよ。 正直、手ぶらで帰って来るもんだと思ってたからさ。 これだったらきっと、母さんも喜ぶ」

 「……兄さんの方は?」

 指先でジュエルシードを器用に弄りながら、嬉しそうな声を出すアゼルとは対象的に、フェイトは低い声で尋ねた。

 「僕? 僕の方はね……、これだけかな」

 アゼルは左手首に巻かれた青いブレスレッドを光らせると、アゼルを囲うようにいくつかのジュエルシードが宙に浮き出た。

 「ひー、ふー、みー……、全部で五つか。 これで、僕らが持ってるジュエルシードは八つ。 一葉達がいくつ持ってるのかは知らないけど、ゴールは見えてきたんじゃない?」

 何気なしに言うアゼルは宙に浮くジュエルシードを指先でつつきながら薄い笑みを浮かべていた。
 ジュエルシードが手元に集まるのは問題じゃないし、むしろ喜ばしいことだ。だが、アルフもフェイトも内心穏やかではいられなかった。
 たったの一日、行動を別にしただけでアゼルはフェイトの五倍ものジュエルシードを集めてきたのだ。一体どんな手品を使ったのか……、悔しさが胸の中に滲むように染み込んでいく。
 そんな二人の表情を見て、アゼルは肩を竦めながら口を開く。

 「まあ、今回は運に助けられたってのが大きかったけどね。 それに僕だけの力じゃない。 リニスにもだいぶ助けられたし」

 アゼルは視線を落としながら言うと、アルフは微かな存在感を足元に感じた。視線を下ろすと、そこには素体の山猫の姿になったリニスがアゼルの足元に居た。

 「それよりも、シャワー空いたよ。 悪いね、気を使わせちゃって」

 「……?」

 アゼルの言葉に、フェイトはキョトンとした表情をしたが、アルフはないぞの表面を撫でられたかのような苛立ちを覚えた。
 フェイトの前でわざわざ言うセリフではない。アルフはアゼルを睨みつけると、アゼルはわざとらしく肩を竦めた。

 「フェイト……、悪いけど先に風呂に行っててくれないかい?」

 「いいけど……、どうしたの?」

 「ちょいとね、アゼルに聞きたいことがあってさ」

 視線をアゼルに固定したまま、硬い口調でアルフは言うと、フェイトはなにかを言いたそうな顔をしていたが、結局なにも聞かずに首を縦に振ってくれた。
 アルフとアゼルのわきを通って、風呂場に続く廊下に出るフェイトの背中を見送ると、アルフは静かに口を開いた。

 「あんた……、一体なにを斬ってきたんだい?」

 「……質問が抽象的すぎてわかんないんだけど」

 表情は薄い笑みを張り付けたまま、とぼけた口調でアゼルは言うが、二人の間に流れる空気は一瞬にして不穏なものになった。

 「この部屋に付いた血の匂い。 野生の生き物の血の匂いじゃない。 これは……」

 アルフが核心に迫る言葉を発する寸前、首筋に冷たいものが触れた。
 それは、アゼルのデバイスの刃だ。

 アルフは目を丸くすると、直ぐに再びアゼルを睨みつけた。

 「そっから先は、口にしない方がいいよ」

 ゾクリとするほど、平坦な声だった。先ほどまでの薄ら笑いもなりを潜めている。硬質で能面のような表情。それにもかかわらず、目だけはナイフのように冷たく鋭い。

 「……どういう意味だい?」

 アルフは微かに震える手で、首筋に当てられた刃をどかしながら尋ねた。これがただの脅しであるということは理解している。しかし、突然刃物を突きつけられれば動揺するなという方が無茶な話しである。
 アルフは背筋に感じた冷たいものを、アゼルに悟られないように努めて冷淡な姿勢を崩さないようにした。

 「言葉の通りだよ。アルフ。 君はなにも気付かなかった、なにも知らなかった。 だから、今言おうとした言葉も当然口にすることはできない。 それが、フェイトの為だ」

 「……」

 恨めしげに睨むアルフに、アゼルの表情は変わらず感情を読み取ることはできない。普段、人を食った性格をしているだけに、見慣れないその表情はかなり不気味だ。

 「使い魔であるアルフが知ってるってことは、これから先なにかあった時に、主であるフェイトにもあらぬ疑いがかけられるかもしれないだろ? だから、アルフは知らない振りをするべきなんだよ。 今も、そしてこれからもずっと、ね」

 「……それは、本当にフェイトの為なのかい?」

 アルフは、アゼルの言葉の真意が読めなかった。アゼルは基本的に、フェイトに関心を持たなかった。それは時の庭園で長い時を共に過ごしてきたアルフがよく知っている。それなのに、そのアゼルがフェイトの身を案じる振舞いをするということに気持ちの悪さを覚えたからだ。

 「もちろん、半分はね」

 「もう半分は?」

 「自分の為に決まってるじゃん。 僕が影でなにをコソコソやってようが、アルフが気付かなかったんだ。 だから、なにが起きても君たちの責任にはならない。 泥は全部、僕が被るよ。 その代わり……ね?」

 能面の表情を崩して、ニパッと笑うアゼルを見て、アルフは深い溜息をついた。
 早い話しが、共犯になれということだ。手柄は折半にしてやるし、なにかあったら全部責任を取ってやる。だから自分達のやることにはすべて目を瞑れ。こういうことだろう。

 「わかったよ、ったく。 あんたらしいっちゃ、あんたらしけど、その話しは本当なんだろうね?」

 「もちろん。 アルフが口を噤み続けてくれる限りはね」

 少なくとも利害は一致しているし、アゼルの実力はフェイトやアルフと比べても群を抜いている。もしかしたら、好きにやらせた方が効率がいいかもしれない。
 それに、次元世界にも警察組織がないわけではない。自分達がやっていることは犯罪だと理解しているし、そろそろ動きだして居る頃合いだろう。
 万が一に、捕まったとしても責任は全て被ってくれると言っているのだ。うますぎる話しだ。裏がないとは言い切れないが、フェイトのことを考えると断る理由もない。

 「私はあんたがどうなろうと別に構いやしないがね、フェイトを悲しませるようなことだけはするんじゃないよ」

 「当然。 その点に関しては信用してもいいよ」

 「……私はあんたのことなんか、これっぽちも信用してないよ」

 アルフはそう言うと、足を乱暴に進ませた。アゼルのわきを通る時、下からリニスの視線がうなじに刺さって嫌な感じがしたが、あえて気が付かない振りをして主人の待つ風呂場へと向かった。


 ◆◇◆


 「ようやく、その気になってくれたんだ……」

 アゼルは自室のベッドに腰を下ろしながら、フェイトに送って貰った映像データを見て嬉しそうに呟いた。

 「それは?」

 珍しく、感情を顕に戦慄した笑みを押し殺したアゼルの声を聞いて、リニスはアゼルの首に腕を回して後ろから映像を覗きこむ。

 アゼルのデバイス、“イカロス”。ギリシャ神話に出てくる、太陽の怒りを買い地に堕とされた愚者の名を与えられた、リニスの造ったデバイスだ。

 そこにはバルディッシュが保存していた映像の中で、黒い甲冑を纏った少年が一太刀の元にジュエルシードの暴走体を斬り捨てていた。

 「んー? フェイトがジュエルシードを回収した時の映像。 見なよ、これ。 一葉が一枚噛んでやがんの。 仲いいんだね、あの二人」

 普段は薄ら笑顔を張り付けて感情を読ませないようにしているアゼルが、まるで新しい玩具を買ってもらった子供のように興奮した口調で言うと、リニスは少しだけムッとした。

 「私を抱いている時でさえそんな顔しないのに、彼のことになると本当に嬉しそうな顔をしますね。 少し妬けます」

 リニスはそう言うと、唇をアゼルの耳元に持っていき、ぺロリと舐めた。そして、舌先を這わせながら徐々に首筋へと移動させていく。

 「そう言うなって。 前は、ああ言ったけどやっぱり彼とやり合うんだったら紛い物なんかじゃなくて、本物とやりたいんだよ。 それに彼は一歩踏み出した。 きっかけを作ってくれたのはフェイトだ。 これは感謝しないといけないな」

 「そんなこと言って……。 彼は路肩の石に過ぎないんじゃなかったんですか?」

 「そうだよ。 路肩の石さ。 でもね、道のど真ん中に邪魔な石があったら、当然排除しなきゃいけない。 それと同じさ」

 アゼルは右腕をリニスの首に絡ませ、首筋に顔をうずめていたリニスの頬を引き寄せ、軽く口づけをした。

 「それにね、正直に言ったら僕は楽しみでしょうがないんだよ。 彼との戦いはどんな美酒を飲むことよりも、どんな女を抱くことよりも愉しいことだった。 あの快感がまた味わえる。 そう思うだけでゾクゾクするね」

 「どんな女を抱くことよりも……ですか。 私の前でよくそんなことが言えますね」

 「あだだだだだ! 苦しい苦しい!!」

 リニスは、アゼルの首に巻いていた腕を強く締めた。二の腕は喉仏に入っているはずなのに、アゼルは苦しいと言いながら嬉しそうに笑っている・
 そんなアゼルを、リニスはどうしてやろうかと考えていると、不意にアゼルの手がリニスの腕にかかり、グッと力が込められたと思うと景色が反転した。

 「うりゃ! 反撃だ!」

 「え? わっ!? ちょっ……、アゼ……、きゃはっ! やめっ……っくはははははは!はっ……、あはははははははははは!」

 アゼルは一瞬で腕を力点にリニスをベッドに押し倒すと、布一つ纏わないリニスの腹の上に圧し掛かり、脇の下をくすぐり始めた。

 「やめ……っ……。 くひゅ……! はんっ、あはははははっはははは! この! 仕返しですっ!!」

 リニスは腹の上に感じる、布を通さないアゼルの素肌の温もりを感じながら、手を伸ばして肋骨のあたりをくすぐり始める。

 「ぬの!? このやろ!」

 アゼルの身体は筋肉に固められていて、まるでゴムタイヤに触っている感覚がした。それでも、リニスの指先の攻撃が効いているのか、アゼルはくすぐったそうに表情を緩ませながら、リニスへの攻撃をさらに強くする。
 お互い一糸纏わぬ姿で、ベッドのスプリングを軋ませながらポジションをとっかえひっかえして二人は身体をくすぐり合い、ひとしきりじゃれあった後で、ふと視線が重なった。

 最初とは違い、今はリニスがアゼルの腹に乗って見下ろしている。一瞬の間、天使が通り過ぎたかと思うと、アゼルはリニスと視線を合わせたまま哀しそうな笑みを浮かべた。

 「ごめんな、リニス。 僕はね、今こうして君と一緒に居ることよりも、ずっと戦いに惹かれている。 僕が成し遂げようとしていることも、もしかしたら自分が戦いに赴く為の口実にしているのかもしれない。 でも……、僕はそういう生き物なんだ」

 鳥が空を駆けるように、魚が水の中を舞うように、自分は戦うことで生きることができる生き物なのだ。アゼルはそう言っている。
 かつて、リニスの記憶の中に居たアゼルは優しい少年だった。動物を愛し、鼻を慈しみ、命の尊さを知る優しい少年。プレシアがリニスとの契約を破棄し、ただ死を待つばかりのリニスに、手を差し伸べたのはアゼルだった。いつだって、自分のことよりも誰かのことを考えているようなアゼルを、リニスは誰よりも近くで見続け、そして恋に落ちた。
 使い魔を、ただの性の捌け口として扱う術者は多い。だが、アゼルはリニスを愛し、リニスもアゼルを愛していた。
 例え、アゼルが過去の人格に呑みこまれてしまったとしても、リニスの中でアゼルは変わることなどない。
 アゼルを愛した過去は、今でも未来としてリニスの中に生き続けていた。

 「今までさ、哀しませてきたと思う。 そして、これからも僕はリニスを悲しませると思う。 でも、もう戻れないところまで来てしまった。 それでも、リニス。 リニスは僕に付いてきてくれる?」

 アゼルはリニスの頬に掌を優しく触れながら、問いかけた。
 白くしなやかな指先の表皮は、硬い石のようにごつごつとしている。過酷な訓練で、デバイスを握り続けた為に手の皮が破れ、新しい皮ができる前にさらに皮を破るという行為を繰り返し続けていた為だ。
 リニスは、そんなアゼルの手が好きだった。頬に触れた手をそっと包んで、リニスは泣きそうな顔で笑った。

 「この身が滅びても……、それでも貴女に仕え続ける。 それが、私がアゼルと結んだ契約です。 例え世界の全てが貴方の敵になろうと……、世界に降り注ぐ光が矢となって襲いかかろうと、私はアゼルの傍に仕え続けますよ」

 「……ありがとう、リニス」

 「たーだー……」

 リニスは悪戯な笑みを浮かべると、手にしていたアゼルの指先に艶めかし舌を這わせ、もう一つの手をアゼルの股間伸ばす。

 「アゼルにはもう少し、女の身体の良さを教えてあげなければいけないようですね」

 「……さっきシャワーを浴びながら三回……、今、ベッドで二回やったばかりな気がするんだけど?」

 「若いから大丈夫でしょう?」

 「いや、体力と精力は確かに関係なくはないけど、実際は精巣で繁殖できる精子の数が……、む……」

 アゼルの言葉を塞ぐように、リニスは唇を押し付けた。そのまま閉じられた唇を舌先でこじ開け、口内を蹂躙していく。くちゅくちゅとと水っぽい音が、静かな部屋に響いた。

 「ん……、ちゅ。 ぷぁ……。 御託はいいから、お仕置きです」

 「お仕置きって……、いつも足腰が先に立たなくなるのリニス方じゃん」

 「む……。 今回は私が勝ちます」

 「はいはい、わかりましたよー。 それじゃあ……」

 いつもは冷静なリニスが頬を赤くしてふくれっ面で言うのを見て、アゼルは腹の上にリニスを乗せたまま行き追うよく上半身を起き上がらせた。

 「きゃっ!?」

 反動のまま、リニスはベッドに投げ出され背中にシーツの柔らかな衝撃が貫くと思ったら、アゼルの硬い掌で、両腕を抑えこまれ自由を奪われる。
 視界には、嫌らしい笑みを浮かべるアゼルの顔が眼前に広がっていた。

 「ご主人様に逆らおうなんていう悪い使い魔には、お仕置きが必要だね?」

 息が頬にかかる至近距離。不敵に口角を吊り上げ色をるアゼルを見て、自分は勝てない相手に喧嘩を売ってしまったのだとようやく自覚した。

 「あ……、あの……、アゼ……。 ヒャッ!? ンア!? だめ……ぇ……」

 そのままリニスに覆いかぶさるアゼル。その夜、リニスの激しい喘ぎ声が止むことはなかった。



[31098] 16!
Name: 三鷹の山猫◆ef72b19c ID:fa6e15e0
Date: 2012/03/01 22:57
 「いい加減にしなさいよ!!」

 いつもの朝。一葉が登校して教室に入ると、そんな怒声が突然聞こえてきてドキリとした。
 廊下にまで響く、学校特有の朝の喧騒は水を打ったかのようにシュン、と静まり返り誰もが声のした方を注視する。
 一葉もそうだ。入口に立ったまま視線を向けると、その先には憤怒の形相でなのはの机に身を乗り出しているアリサがいた。

 「私たちがなにを話しかけても上の空で、そんなにつまんないわけ!?」

 アリサを発端とした気まずい空気が教室を支配していく中、アリサの隣に立っていたすずかはどうしていいのかわからないような表情で戸惑っている。
 こうなった原因はわからないが、アリサの怒りは既に最高潮に達しているようで、沸騰したように顔を赤くしながら激情を、席に座るなのはにぶつけている。そんなアリサを、教室の誰もが遠巻きに眺めるだけで、止めようとはしなかった。

 もちろん、一葉もその内の一人だ。普段ならば直ぐに間に割って入るだろうが、その光景を一瞥しただけで自分の席に足を進める。一葉の席は窓際の前から三番目だ。教室の後ろ側の扉から入ってきた一葉は、教室の中央辺りの席に居る三人を迂回するように自分の席に向かうと、ふとうなじに視線を感じた。
 振り返ると、すずかがこちらを見ていた。
 困惑と懇願が入り混じったような、今にも泣き出してしまうそうな表情で一葉を見ている。だが、一葉は糸度は絡まった視線を突き放すような気持ちで逸らし、鞄を乱暴に自分の机の上に投げ置き、椅子を引いた。

 「緋山、緋山。 どうしたのよ、あれ?」

 腰を落ち着けようとしたところ、前の席に座っている坊主頭の少年が好奇心に満ちた声音で尋ねてきた。

 「知らない。 てか、なんで来たばっかりのオレに聞くの?」

 「だって、いつもあの三人とセットでいるじゃんよ。 それよりも、止めなくていいの? 高町泣きそうだぞ?」

 「人をマックのバリューセットみたいに言わないでよ。 目障りだったら、お前が止めに行けばいいじゃん」

 不機嫌を隠しもせずに吐き出すように言うと、少年を不穏な雰囲気を感じ取ったのかそのまま押し黙って前に向き直してしまった。
 触らぬ神にはなんとやら、ということだろう。一葉は、自分が今、怖い顔をしているということが自分でもなんとなくわかっていた。正直に言ってしまえば、もはやなのはたちどころか、他人に構うような余裕がなくなってきてしまっているのだ。

 海鳴温泉から帰ってきて二日が経過した。あの夜の森でなのはを傷つけ、そうして生じた関係の亀裂は瞬く間に蜘蛛の巣のように広がり、日常を壊していった。それは、事情を知らないアリサまでもが苛立ちを爆発させるほどのものだ。
 むしろ、一番困惑しているのは、突然一葉に付き離されたなのはよりもアリサなのかもしれない。勘のいいすずかは、なのはが消沈している理由をなんとなく察しているはずだ。
 しかし、アリサにしてみればあの朝、目を覚ましてら突然、自分を取り巻いていた人間関係が激変していたようなものだ。

 一葉はこの二日間、なのははもちろんすずかともアリサとも口を聞いていなかった。電話もメールも無視しているし、話しをかけられそうになったら偶然を装いながら距離を置いた。
 そんな一葉をなのはは気まずそうに、すずかは捨てられた子犬のような目つきで遠巻きに見てくる。そんな居心地の悪い視線に纏わりつかれながら、一葉は頬杖を突きながら窓の外を見上げた。
 透明な朝の太陽の光が雲一つない空に浮かんでいる。目が痛くなるほどの青空だというのに、一葉の心は曇天の空を眺めているように沈んでいる。

 __いつまでこうしていられるのだろう?

 アゼル・テスタロッサ。過去に食われ、今を失った哀れな少年。そして、一葉を待つ末路に先に辿りついてしまった悲しい少年。
 アゼルがジュエルシードを集めてなにをしようとしているのか、一葉にはわかっていた。
 同じ時代を駆け抜け、同じ戦場に立ったものだからこそわかる。あの男は、自らを縛り付けた運命というものを破壊する為に動いている。
 運命とは、運命に縋らなければ生きていけない者の為に在る。あの男は、なにもかもを振り切って、その運命の果てに行こうとしているだけなのだ。

 「もう好きにしなさいよ!!」

 一葉が思考に没頭していると、アリサのつんざく高い声が教室に響く。どんなに尋ねても、曖昧な態度しかとらないなのはに激昂したアリサが、会話を投げ出したようだった。
 だが、そんな悶着にも一葉は我関せずと振り向き見せずに空を眺めていると、突然引き裂かれるような激痛が耳に走った。

 「イデデデデデデデデッ!! なになになに!?」

 「あんたはこっち!! さっさと立ってキリキリ歩きなさい!!」

 アリサだった。
 故意に意識を向けないようにしていたせいで、接近にまったく気がつけなかったのだ。
 アリサは人差指と親指で、一葉の耳たぶをおもいきりつねり上げると力任せに立ちあがらせ、教室の出口へ引きずるように引っ張っていく。

 「取れる! 耳取れるって!!」

 抓まれている耳の奥の鼓膜がミシミシと音を立てる。痛みを通り越して熱い熱が広がっていく。
 一葉が引き攣るような声を上て痛みを訴えると、アリサは進める歩を緩めることなく、視線も前に向けたままドスの聞いた低い声を出した。

 「話しがあんのよ。 黙ってついてこい」

 そんなアリサの声に、一葉は冷たい台風が胸を突き抜けるような寒気に背筋を震わせ、小さく息を呑んだ。
 怒りの矛先が自分に向いた。視線を合わせようともしないアリサとの間に、深海のような不穏な空気が漂う中、一葉は耳を引っ張られながら教室の外まで連行されていく。
 廊下へ出る時、はたりとすずかと目があった。
 なのはを慰めていたのだろう。一葉が最初に見た位置と変わらない場所に立っていたのだが、一葉と視線がぶつかると、一瞬だけ逡巡して、戸惑いに濁った瞳に決意にも似た炎を宿し、アリサとすずかの後に付いてきた。

 また、旅館のときのように感情をぶつけられるのだろうか。見えない糸に絡め取られるようなしがらみが、今の一葉には疎ましく思えた。
 自分の中に居る獣が、なにもかもを壊してしまう前に、早く自分を見放して貰いたかった。


 ◆◇◆


 屋上へと続く階段の踊り場。普段は教員も、生徒も使わないこの場所は階下の喧騒は嘘のように静寂に包まれていた。
 蛍光灯の電気が切れているのか、朝にも関わらず薄暗い。年季が入り黄ばんだ壁にアリサは一葉の身体を叩きつけた。
 アリサに比べて一葉は少しだけ身長が高い。それでも、投げ出された衝撃で膝を崩した一葉は下から睨み上げるような形でアリサを見上げるが、その視線にアリサは更なる苛立ちを覚えた。
 一葉の鳶色の瞳は薄く濁っていて、自分じゃない、もっと遠くを見ているような気がしたからだ。
 アリサは拳を固めて一葉の胸倉をつかみ、壁に押し付ける。吊り上げるような形で、今度はアリサが下から見上げる番だった。

 「あんた……、なのはになにしたのよ?」

 自分でも驚くほど不穏な声が、アリサの口から出た。胸の底から吹き出るようにこみ上げる激情を無理矢理抑え込んだ瞳を、アリサを見下ろす一葉の冷たい視線とぶつける。

 アリサはわけがわからなかった。数週間前から感じ始めた、親友たちとのズレ。今、思い返せば、ちょうどフェレットを拾った日あたりからだろう。
 なのはは下を見ることが多くなり、一葉はどこか様子がおかしくなった。
 アリサは、なのはが一葉に好意を寄せていることにずっと前から気がついていた。三人の女子の中に男が一人の仲良しグループだ。遠くない内にそうした恋慕の感情でなにかしらが起こるということぐらいは容易に想像できる。一時は、なのはが一葉に想いを告げたのかと勘繰ったが、そういうわけでもないらしい。
 なのはは未だに、自分の抱える感情に気がついている様子はないし、一葉の様子がおかしいのも、そんな浮ついたものが原因とは思えなかった。
 そう、一葉は変わった。よく言えば、熱中できるものを見つけたともいえるが、どこか見えない影に追われているような鬼気迫るものがあった。
 そして、なのははきっとその影の正体を知っている。知らなくとも一枚は噛んでいるはずだ。二人との付き合いは決して短くはない。それぐらい、挙動を見ていればなんとなくわかってしまうのだ。

 この不器用すぎる親友たち誰にも相談もせずに落ち込むことしかできなくて、自分で自分の傷を広げている。
 自分は一人ぼってだとでも思っているのだろうか?なぜ、相談もなにもしてくれないのだろうか?渦巻くそんな疑念は、屈辱とも感じる怒りの炎となって胸を焦がしていた。

 「別に、なにもやってないよ。 てか、なんでオレに切れるの? わけわかんないんだけど」

 「……! 嘘つくんじゃないわよ! あんたも! なのはも! 気がつかないとでも思ってたの!? 私たちに隠してこそこそなにしてんのよ!?」

 一葉の襟首を締め上げる拳に、さらに握力がこもる。眉を顰めて迷惑そうな表情をする一葉の顔面を殴ってやろうかという激情に駆られるが、僅かに残った理性がそれを押しとどめた。

 「私たちは……友達じゃないの!? 親友じゃないの!? なのに勝手に抱え込んでっ……! 相談でもなんでもしなさいよ! それとも私たちじゃ力になれないっていうの!?」

 襟を締め上げる拳に、ぎりぎり固い衣が擦れる感触が圧迫された指先に伝わってくる。苦しいはずなのに、一葉は抵抗もせずアリサに為すがままにされて唇を静かに動かした。

 「お前には、関係ないことだよ」

 吐き出された言葉に、プツリとなにかが切れる音が頭の中に響いた。自分で自覚するよりも千倍速い、アリサは硬く握った拳を一葉の鼻先にめり込ませていた。

 「アリサちゃん!?」

 衝撃に身体を壁にぶつけ、一葉が腰を崩れさせる最中、アリサの後ろから悲鳴にも似たすずかのつんざく声が聞こえてきた。
 きっと、一葉を無理やり連れ出すのを見てついてきたのだろう。

 アリサは奥歯を噛みしめて、鋭い目で一葉を睨んだ。
 一葉は尻もちをつきながら、アリサを見上げている。
 その目は不満そうに濁り、唇をムッと歪ませているのを見て、アリサはますます頭に血がのぼった。

 「一葉くん! 大丈夫!?」

 一触即発な不穏な空気を漂わせる二人の間に、すずかが慌てて割り込む。一葉は鼻血を出していた。
 すずかはアリサに背を向けて尻もちをついている一葉に視線を合わせると、スカートのポケットから白いハンカチを出し血を拭おうとするが、一葉はそれをやんわりと手で拒否した。

 「なのはがさ……、なにも言わないのはそれなりの理由があるんだよ……。 別に二人を信用してないわけじゃない。 それぐらい、察してあげなよ」

 聖祥の白い制服に、赤い血が滴って斑の模様を染み込ませる。

 「じゃあ……、なのはがそうだったら、あんたはどうなのよ?」

 アリサの言葉に、一葉は能面を張り付けたかのように感情が読めない表情を向けて応えた。

 「オレがどうかなんて、それこそ関係のない話しでしょ。 もうオレに話しかけてこないでよ。 メールも電話も、正直かなり迷惑だし」

 アリサは余りの怒りに息苦しさを覚えた。先ほどまでの黒々としたものとは違う、剥き出しの炎のように激しい怒りだ。
 一葉に裏切られた。
 いや、違う。これは裏切りよりも、もっと酷いものだ。
 心臓をズタズタに切り裂かれて、夜の海に捨てられたかのような痛みが頭を焦がす。

 「……っ! じゃあ勝手にしないさいよ!!」

 目に込み上げてきたものは怒りか涙か、アリサにもわからなかった。理性なんて怒りの炎に焼き尽くされてとっくになくなっている。
 だが、今は理性など必要なかった。
 親友だと思っていた相手から吐き出された、信じられない言葉に、アリサは荒波のように押し寄せる怒りと悲嘆、苛立ちに耐えるので精いっぱいだった。

 崩れ去る恐怖、痛み、悲哀。これ以上は喉が詰まって、どんな罵りの言葉も出てこなかった。
 アリサはなにかを振り切るかのように、一葉とすずかに背を向けると、足音を立てながら乱暴に階段を降りていった。


◆◇◆


 『一葉も大概甘いですね。 甘過ぎて胸やけがしてきましたよ』

 一葉の頭に、そんな声が響いてきた。

 『聞いてたんか……。 盗聴はあまりいい趣味とは言えないと思うけど』

 『盗聴だなんて人聞きの悪い。 屋上に居たら、勝手に聞こえてきただけですよ』

 そんなベヌウの言葉に、一葉は小さく舌打ちをした。学校にベヌウを連れてくる時、さすがに教室に入れる訳にもいかず普段は屋上に待機させているのだ。
 そして、一葉がアリサに連れて来られた場所は屋上に続く階段の踊り場。ベヌウが一葉の接近に気がついて様子を窺うのは当然のことだ。

 『本当に人を遠ざけたいのであれば、もっと心を傷つけるべきです。 中途半端に優しさを残すと、後でしっぺ返しが来ますよ』

 『……アリサはまだ子供だ。 あれで十分だよ』

 『そういう考えが甘いと言っているのです。 少しばかり辛く当った程度で人の縁を切ることができるなどと、本気で思っているわけではなでしょう』

 夜気のように冷たいベヌウの声に、アリサに殴られた頬の熱も引いていくような気がした。
 ベヌウの言うとおりだ。一葉は必要以上にアリサを傷つけることを避けた言い回しをした。
 アリサを傷つけることで、自分が傷つくことを恐れていたからだ。
 それでも、振りむくときに見逃さなかった、普段は気丈なアリサが目尻に溜めているものを見て、心がささくれた。

 『……念話切るよ。 まだ、すずかが居るんだ』

 遠回しに追い詰められているような居心地の悪さを感じ、一葉は強制的にベヌウとの念話を遮断した。
 すずかは今にも泣いてしまいそうな表情で一葉を見ている。
 手には白いレースのハンカチが握られたままで、一葉はふと自分の制服に視線を落とした。袖は血糊がべったりと付いていて、所々赤い斑点模様が染み込んでしまっている。
 デザインを重視した聖祥の制服は、こうした汚れが目立ってしまう。ここまで汚れてしまうとクリーニングに出しても染みが取れるかどうか怪しい。
 鼻孔から流れる血が止まる様子はなく、一葉は口の中に広がる生臭い鉄の味のする唾を行儀悪く廊下に吐き出すと、眉間を指先で圧迫して天井を仰いだ。


 「一葉くん……。 ハンカチ、使って」

 「いいよ。 汚れるでしょ」

 「でも……。 じゃあ、せめて保健室に……」

 「この状況をどう説明すんのさ? 正直に言ったら、もれなく職員室連行と親呼び出しがついてくるよ」

 一葉がそう言うと、すずかは言葉を喉に詰まらせた。
 小学生といえど、クラスメイトに殴られたのだ。それも単純な喧嘩ではなく無抵抗な相手を殴ったとなるとアリサは最悪自宅謹慎処分ということもあり得る。すずかもそのことに気がついて、萎れた花のように俯いてしまう。

 「そんな気遣いができるのに、なんでアリサちゃんに本当のことを言ってあげないの? アリサちゃんだけじゃない……。 私にだって……」

 「本当のことってなんだよ?」

 「それは……」

 一葉が首を傾かせたまま不機嫌そうに睨みつけるが、すずかは視線を下に向けたままだ。今の今までのアリサのように激しい怒りではなく、あたたかな闇が包み込むような居心地の悪さが一葉の胸を締め付ける。

「第一さ、オレがなにか隠し事してたとしてなんで逐一みんなに報告しなきゃならないのかがわかんないんだけど。 自分たちだったら力になれるとでも思った? そういう自惚れたところが本当に鬱陶しいんだよ」

 「なんで……?」

 「あ?」

 「なんで一葉くんは……、必死になって私たちに嫌われようとするの? 私たちじゃ……、私じゃダメなの? 私じゃ、一葉くんを繋ぎとめることはできないの?」

 すずかの震える声は幾分ぎこちなかった。その癖、言葉ははっきりしていて、途中、なにか小さなものを握りしめるかのように掴んだままのハンカチをそっと握り直す。視線も下に向けたままで、苦しそうに廊下に落ちた一葉の血の斑点を見つめていた。

 「私は……、一葉くんが普通じゃないこととぐらい知ってる。 でもね、一葉くん。 私だって……、もしかしたら一葉くんと一緒かもしれないんだよ?」

 「どういう意味……」

 すずかの意味深な言葉を一葉は聞き返そうとすると、ギョッとして言葉失った。
 俯かせていた顔を上げて一葉と視線を絡ませる目。前髪から覗く瞳は普段の墨を流したかのような藍色ではなく、血のように真っ赤に染まっていたからだ。同時に、見えない鎖に四肢を縛られたかのように身体が動かなくなる。
 自由が利かない恐るべき事態だというのにもかかわらず、一葉は不思議と恐怖を感じなかった。
 相手がすずかということもあるのかもしれない。だが、それを差し引いたとしても、悪魔に誘惑される聖者のようにすずかの赤い瞳から目を離すことができなかった。

 ふと、すずかが顔の距離を縮めてくる。熱のこもった吐息が頬に当たり、ふわりとしたスミレの香りが鼻を掠める。
 そして、ねっとりとした熱いものが一葉の頬を這った。

 「ぁふ……ん」

 艶めかしいナメクジのような動きをするそれは、すずかの舌だ。唾液をたっぷりと含め、唇を擦らせながら一葉の顔を舐めまわす動きは、一葉の鼻血の軌跡をたどっている。

 「んぁ……」

 すずかは一通り一葉の顔を舐めつくすと、だらしなく開いた唇から涎を垂らしながら顔を離した。
 鼻先がぶつかってしまいそうなほどの距離。すずかの赤い瞳は情欲に潤ませていた。

 「はぁ……ん、んふ……。 おいし……」

 すずかは光悦な表情で呟くように言うと、口元に垂れた涎をペロリ舐めた。そして腕を獲物に近づく蛇のように動かし、一葉の首筋に絡ませる。
 恋人が抱きつくような形で、すずかは自分の唇を抵抗できない一葉の唇に押しつけた。

 微かに開いた唇の隙間から押し込むようにすずかの舌が侵入してくる。あまりに現実離れした事態に、夢を見ているような心地になっていて、一葉は舌先と舌先が触れあった途端、無意識にすずかの痴態に応えていた。
 なにかを求めあうように撹拌しあう口内。唇と唇の隙間からは熱く甘い吐息が漏れ出して、水っぽい淫靡な音が誰もいない踊り場に響く。
 これは本当に夢なのかもしれない。そんな妖しい感覚に脳髄が蕩けそうになってきた時、不意に走った痛みに意識が引っ張り戻された。

 「づっ……!?」

 鋭い何かで切り付けられたかのような痛みに、一葉は呻きにも似た声が喉から漏れた。
 すずかの犬歯で、下唇を小さく引き裂かれたのだ。
 一葉はまどろみから叩き落とされたかのように自分の意識を取り戻した。だが、身体が石のように動かないのは変わらず、艶めかしく口内を動き回るすずかの舌の感触がやけに生々しく感じた。

 すずかは一葉の口の中で咀嚼するように動かしていた舌を出して、唇から滲み出る血を掬うように舐め取り、甘噛みする。
 名残惜しげな銀糸を垂らしながらようやく一葉から唇を離すと、娼婦のような妖艶な笑みを浮かべた。
 そんなすずかの表情は、普段の大人しい姿からは想像できなくて、一葉は幽霊を見ているような気持ちになった。

 「ね……? 私も……、普通じゃない……」

 すずかは言いながら一葉に視線を絡ませると、言葉を重ねた。

 「私はね……、吸血鬼なんだ。 人間じゃない……。 一葉くんも……、そうなんじゃないの?」

 熱に浮かされ潤んだすずかの瞳には哀れみが混じっていて、居心地の悪さを感じた。すずかはきっと、一葉が人を辞めてしまおうとしていることに気がついている。だからそんな目で一葉を見るのだ。

 「一葉くんと私は、すごく似てる……。 人に言えない秘密があって……、それを隠しながら人の群れに紛れてる。 自分が普通じゃないってことを絶対に誰にも気がつかせないように、仮面をかぶってる……」

 すずかの告白が進むにつれ、一葉の頭は冷静に回転を始めた。すずかの口ぶりから察するに、おそらく忍も同類の吸血鬼なのだろう。
 旅館での一件以来、何かしらの接触があると思っていたが、まさかこんな形になるとは想像すらできなかった。

 「私もそう……。 吸血鬼っていう素顔の上に、月村すずかっていう仮面をかぶって……、そうやってみんなを欺いてきたの……」

 正面に据えるすずかの微笑みは、まるで自嘲の笑みのように見えた。
 吸血鬼だという化け物に生まれてしまった孤独。人間ではないのに、人の心を持って生まれてしまった浅ましさと、危うい演技を続けなければらない苦痛。迫害されるものとして生を持ってしまった身を焼くほどの恐怖。
 すずかはきっと、そうした黒く凶悪な感情に晒され続けてきたのだろう。

 「一葉くんの仮面の下にある素顔を私は知らない。 だけど……、一葉くんは一人じゃないんだよ? 私が居る……。 同じ苦しみが……、同じ痛みがわかる私が……。 だから、お願い……」

 首に絡められた腕に、もう離さないと言わんばかりに力がこもり、吐息が再び唇に頬にかかる。

 「私と……、友達を辞めないで……」

 すずかはそう言うと、薄く瞼を閉じて自分の唇を、再び一葉の唇に重ねた。


 ◆◇◆


 「すずか。 今日、一葉くんを家に連れてきなさい」

 温泉旅行から帰ってきて二日目。チェーダー朝様式で固められた月村邸の食堂で忍はしなやかな白い指でティースプーンで紅茶をかき混ぜながら言った。

 半透明のレースカーテンから差し込む澄んだ光が高い天井に吊るされている豪華なシャンデリアに反射して煌めいている。
 長方形の長テーブルを覆う染み一つないシーツの上にはマイセンで揃えられた食器にトースターやスクランブルエッグが湯気を立て並べられている。
 ファリンは厨房に居て姿はないが、ノエルは忍に後ろに控えていて、いつも通り朝の様子だというのに、それは表層だけで実際に二人の間には月と地球を隔てる見えない壁があるように思えた。
 普段の親密さはなく、なんとも居心地の悪い空気が漂っている。

 時間の融通がきく大学生の忍とは違い、小学生のすずかは家を出る時間が早い。忍は時間に余裕がありゆったりとスクランブルエッグを口に運んでいるが、すずかはトーストの最後の一欠片を口に入れて咀嚼しながら「ああ、ついに来たか」と胸の内の圧が一段高まるのを感じた。

 忍の口調はなんでもない風を装っているが、その視線は剛直なナイフのように鋭くて、拒否は許さないと存外に語っている。
 普段は家で見せることはない、人を屈服させる威圧感を細い身体から滲みだしており、忍の言葉は“月村忍”ではなく“夜の一族当主”としての言葉で、すずかは視線を逸らした。

 だがそれでも、意地でも首を縦には振らなかった。
 これはささやかなプライドだ。忍は一葉との交渉を、一葉の記憶を削除することを前提に進めようとするだろう。
 もしかしたら、交渉すらせずに力づくで、ということもあり得る。
 忍だってその気になれば、すずか介してなどという面倒なことはせず強引に一葉を連れてくることができるというのに、その役目を鈴鹿に任せるというのはそうすることですずかに共犯意識を刷り込ませようとしているのだろう。そして、無理やりにでもすずかに一葉の記憶を消すことを納得させようというのだ。
 狡猾な忍の考えそうなことである。

 すずかは口を噤んだままフォークを置き、ティーカップに注がれていた冷めた紅茶を一気に喉に流すと、忍と視線を合わせないまま席を立った。

 絶対に連れてきてなどやるものか。そんな頑なな思いがすずかの中にはあった。
 この二日間、正確に言えば旅館の縁側で別れた後から一葉が自分に接する態度や纏う雰囲気があからさまに変化していた。
 一葉の鳶色の瞳は諦念とも呼べるような色が支配していて、今ではない遠いどこかを見ているような気がした。
 今の一葉は以前と違い、電話にもメールにも応えてくれず、穏やかな自然消滅を図っている。だが、それでも自分達の関係に亀裂が生じただけで、まだ完全に瓦解したわけではない。
 もしかしたら……、きっかけさえあればまだやり直せるかもしれない。そういった考えがすずかの中にはあり、忍の思惑は歓迎できないものだった。
 このまま口を噤み続ければ、一葉から月村邸に近づくことは決してないだろう。だとしたら、後は曖昧なままでも今の関係を維持し機会を窺うべきだとすずかは考えていた。

 「今日、さくら叔母さんが来るわ」

 忍に背を向け、純銀のドアノブに手をかけようとしていたすずかは、忍の言葉に動揺し、ハッと振り返った。
 二人の視線がぶつかり合う。一瞬、性質の悪い冗談ではないか脳裏に過ったが、鋭いし忍の視線がそんな甘い考えを否定した。

 「……どうしてっ!?」

 平静を装いきれなくなったすずかの口から、悲鳴にも近い声が喉を震わせる。だが、そんなすずかとは対象に、忍は胸元で指を絡め淡々とした口調で唇を動かした。

 「そんなの、一葉君と会わせる為に決まってるでしょう」

 「そん……な……」

 綺堂さくら。今は亡き忍とすずかの母親の歳の離れた妹で、二人の後見人を務めている人物だ。その血筋や才能から夜の一族でも相応の地位を持っており、発言権は忍と同等か、それ以上のものを持っている、ある意味忍以上の女傑だ。
 そんな人物と一葉を引き合わせる理由を、すずかの聡明な頭は瞬時に理解してしまった。

 忍は一葉のことを自分たち姉妹だけの話しでなく、一族全体の問題にするつもりなのだ。
 もし、そうなれば例え当主の妹であろうと、たかだか九歳の矮小たる自分は横から口出しできなくなってしまう。忍の沈黙の二日間は、この日の為の根回しに必要な期間だったのだ。

 窓から差し込む陽の光が、忍の白い輪郭を一層にきわめ立たせる。すずかは出し抜かれた憤りを忍にぶつけるかのように激しく睨みつけると、忍は表情を弛緩させ肩を竦めた。

 「あのね、すずか。 貴女、勘違いしてるみたいだけど、私は一葉君と契約することもと視野に入れてるのよ?」

 「え?」

 予想しえなかった忍の言葉に、すずかの喉から頓狂な声が滑り出た。そんなすずかを見て、忍は弄ぶ指先の上に顎を乗せ、微かに唇を緩ませながら言葉を重ねる。

 「とりあえず座りなさい。 まだ、時間あるんでしょ?」

 「え? う……、うん」

 忍の言うとおり、通学バスが停留所にやってくるまでの時間まで余裕はある。それに、バスに乗り遅れてしまってもノエルに来るまで送ってもらう手もあった。
 すずかは忍に促されるままに、一度は乱暴に立った椅子に再び腰を下ろすと、正面に座る忍はカップを唇に少し傾け、僅かな間を置いてから平坦な声で唇を動かした。

 「誤解がないように先に言っておくけど、契約はあくまで話し合いが穏便にまとまった場合だけよ。 決裂、もしくは私がさくら叔母さんが一葉君を危険と判断した場合は、容赦なく記憶を消させてもらうわ」

 「それって……」

 「別にすずかの為じゃないわよ」

 私のため?と胸中で言葉を続けたすずかに、釘をさすように忍は言葉を重ねる。

 「私も、さくら叔母さんも彼の存在が一族にとっての益になるかもしれないって考えたからよ。 すずかも、間近で見たんでしょう? 一葉君がどんな存在かって」

 忍の言葉に、すずかは二日目の出来事が脳裏に過る。
 身体全体を突き抜けた凶暴な圧。悪意と殺意が具現化したかのような影は、自分を見ていたわけではないのに、心臓が氷漬けになってしまったかと思うほどの恐怖を感じた。

 「すずかも知ってると思うけど、夜の一族は決して盤石というわけではないわ。 人の数だけそれぞれの思惑があって、わかり合えず、すれ違い、ぶつかってしまう。 その中には、穏便でないことしか頭にない狭隘な人たちだっているのよ」

 忍の視線に、僅かに険が滲む。
 忍が言うのは遠縁に当たる、確か人狼族の氷室とか言う男の話しだ。すずかは直接会ったことはないが、数年前にクーデター紛いの事件を起こした野心家だ。
 当時、それは結局失敗に終わったものの、主犯である氷室の行方は現在も掴めないまま今に至る。
 夜の一族は聡明な頭脳と卓越した技術力で、大きな会社をいくつも経営しており、同時に政財界にも広く顔が効く。
 莫大な財産と権力を有する一族の包囲網から逃れるのは、普通に考えて不可能だというのに、だ。
 つまり、それは同じ一族の中で誰かが氷室を匿っていることに他ならない。
 確かに、一族の中には忍が当主の座に座ることを良しと思わない者は少なからずいる。
 そんな人物と手を組み、氷室は再び決起の時を窺っているのだと、噂程度には聞いたことがあった。

 「一葉君は私たちの可能性よ。 彼が私たちの側についてくれれば、そういった人たちの抑止力になってくれるかもしれないわ。 暴力を、さらなる暴力で抑え付け、反抗する気も起こさせないような、そんな理不尽な抑止力にね」

 「一葉くんを……、利用するの……?」

 くぐもった声がすずかの口から零れる。
 忍は本当に一葉と契約するつもりがあるのか、すずかの胸に一粒の不安が芽吹いた。
 夜の一族の契約とは一族の秘密を知った者と生涯の友となるか、伴侶になるか、少なくとも善意の契りだ。
 だが、忍の口ぶりは一葉を利用し、自分たちの番犬に仕立て上げようとしているような、まったく別の思惑を持っているような気がした。
 忍が一葉と結ぼうとしている契りは、もっと別のなにか……、そのなにかはすずかにもわからないが、確信めいたものを感じ、胃が縮んだ。

 「それを含めての可能性よ。 彼を利用する価値があるのか、私たちに利用することができるのか、それだってまだわかってないもの。 ねえ、すずか。 すずかはどう思う?」

 「……どう、って?」

 「一葉君は私たちにとってどういう存在になるか、ってことよ」

 なにかを探るように、忍は深い視線ですずかの目を見た。
 すずかは、忍が自分になにを言わせようとしているのかわからなかった。それでも、一葉のことを悪し様に語る忍に対して、すずかは胸に亀裂が入り、黒い澱が滲み出てくるような気持ちになった。

 「そんなの、私にわかるわけないじゃない。 私がわかってるのは一つだけだもん……。 一葉くんはお姉ちゃんが思ってるような人なんかじゃない。 わかりづらいけど……、本当はすごく優しいってことだけ」

 すずかは膝の上に置いた拳を密かに握りしめた。
 哀しい?
苦しい?
 いいや、違う。胸に塗れた澱の正体は辛さだ。
 大好きな姉が、緋山一葉という少年を誤解していることに、すずかは胸を炙られるような辛さを覚えた。

 すずかの真っすぐな言葉に、忍は鼻息一つで返事をし、曖昧な表情をつくりながら椅子の背もたれに寄りかかるだけで、それ以上なにかを言うことはなかった。


 ◆◇◆


 「ノエル。 すずか、どう思う?」

 「脈あり。 と、考えてもよろしいかと」

 そう、と忍は相槌を打つと、すっかり冷めてしまった紅茶を口に含み、長い口舌で乾いた喉を潤した。
 すずかは既に学校に向かい、広いリビングには忍とノエルしかいない。忍はソーサの上にカップを置くと、リビングを出ていく時のすずかの後姿を回顧した。
 まるで背中に幽霊でも背負っているかのような暗澹さで、忍は冷たい風が胸を吹き抜けたかのような気持ちになった。

 「すずかは……、私のこと恨むかしらね?」

 忍は、微かに暗い光を瞳に宿らせ、口元を自嘲気味に歪めながらノエルに問いかけた。

 「わかりません。 ただ、忍さまの優しさは他者には伝わりづらいものです。 優しさを活かすには強さと厳しさが必要であるということを、今のすずか様が理解するには難しいかと存じます」

 ノエルは空になった忍のティーカップに、再び紅茶を注ぎながら淡々とした口調で答えると、忍は意外なものを見るかのように目をしばたたき、深々と鼻息をついた。
 この従順な専属メイドは、こちらの機微を理解している。二人の間には主従の関係以上の絆が確かにあった。
 だから、ノエルはきっと気がついているはずだ。
 忍が、すずかに隠した嘘に。

 「私はだめな姉ね……。 傷つけることでしか、あの子を守ってやることができないなんて……」

 薄紅色の紅茶から、ゆらりと立ちあがる芳香な湯気を見ながら、忍はそんなポツリと零した。
 勝負は今日の夕方だ。それまでの僅かに残された時間でさくらと段取りを決めなければならない。
 やらなければならないことは多く、時間も切迫しているが、せめてこの一杯の紅茶を飲む時間だけは、現実から目を背けたかった。



[31098] 17!
Name: 三鷹の山猫◆ef72b19c ID:b11a8ce7
Date: 2012/03/01 23:01
 終わってしまえば呆気のないもので、ただ戸惑いだけが残った。
 血に酔っていた最中は方向性のあった思推に溺れ、脳みそが蕩けてしまうほどの光悦と腰が砕けそうなほどの快感に支配されていたというのに、酔いがさめた今胸を占めているのは激しい動揺と羞恥で、すずかは一葉の視線を逃れうように背を丸くしてうずくまっていた。

 既に一限の開始を告げるチャイムは鳴り終わっており、二人の居る踊り場だけでなく学校全体が静寂に沈んでいて、まるで世界に二人だけ取り残されてしまったかのような不気味さと気まずさが二人の間には漂っている。

 月村の一族にとって、血とはアルコールと同じだ。一度口にしてしまえば、芳醇な香りが舌に広がり、冷静な思考を溶かしてしまう。
 個人差はあるが、普段は輸血パックの血液を飲んでいるすずかが、温かな人の生き血を始めて飲んだのだ。直ぐに酔いが回ってしまうのは当然の結果と言えるのかもしれない。
 そして、思考を混濁させるというのは血を吸われた側も同じで、一族の唾液には微弱な毒素が含まれている。
 牙が皮膚に食い込んだ瞬間に、傷口から入り込み体内に回らせるのだ。
 もっとも、毒といっても人体に深刻な影響を与える類のものでもなく、興奮と軽い幻覚を引き起こすもので、依存性もない大麻のようなものだ。

 すずかが一葉に舌を絡ませた時、一葉が抵抗もせずに、むしろ情熱的に応えたのはそのせいだ。
 脈打つ心臓の旋律と、交換し合う唾液。絡め合う舌が直接脳髄を掻き乱すような快感に溺れ、すずかは本能の赴くままに一葉の血を啜り、貪った。そして、一族の秘密を吐露してしまった。
 それは、本来ならば万死に値する重罪だ。
 一族の掟を破った者には厳罰が下される。そこに立場や年齢は加味されない。
 だが、すずかの中で渦巻く後悔は、そんなものは関係なかった。

 忍が動き出した今、どんなに遅くとも今日中には一葉の耳に一族のことが届くだろう。ならば、今すずかが教えたところで早いか遅いかだけで結果は変わらないのだ。
 だとしたら、出来れば自分の口から伝えたいという思惑がすずかにはあった。それに、忍はああは言っていたが、一葉は社会的な立場で見ると一般人。それも小学生であり、夜の一族の系譜には間違いなく関わっていない。
 だが、一葉は夜の一族に限りなく近い存在……、もしかしたら夜の一族の方が一葉に近いという方が正しいのかもしれない。

 夜の一族の始祖。人間に生まれながらも、人としての器に入りきらなかった者たち。一葉がそのような存在だとしたら、忍のいい分は納得こそしないが理解はできてしまう。
 そして尚更、一葉は自分と一緒に居るべきなのだと強く思った。

 神様はきっと、夜の一族を哀れんで自らに似せ、美しく魅惑的に造った。だが、いくら姿を似せようと、その身は所詮醜い似姿で、似ているからこそいっそう身の毛がよだつものだった。
 人でも神でもない、こんな醜い身を与えた創造主を呪う痛みを、おぞましい化け物であるという苦しみを、自らが生を受けてしまった日を憎む哀しみを、きっと一葉は知っている。
 嘘で固めた仮面の下にある、化け物という素顔を知らずに接してくる、優しく温かな人たちが振りかざす無垢という名の刃の痛みを、きっと一葉も知っている。

 だからこそ、自分たちは一緒に居るべきなのだ。
 同じ傷でできた、同じ痛みを舐め合い、慰め合うために。

 ただ、すずかと動揺と後悔の理由。それは自身のファーストキスに関してのことだった。

 「わ……、私……。 ディ……、ディープキス……」

 熱に浮かされたような声で、改めに声に出して自分がしでかした状況を再確認すると、たちまちに噴火寸前の活火山ような恥ずかしさが灼熱のマグマとなって込み上げてきた。
 掌を自分の頬に当てると、まるで風邪を引いた時のように熱い。鏡を見なくとも顔が真っ赤に火照っていることがわかった。

 突然はしたないことをしてしまったことに一葉は怒っているだろうか?
 それとも呆れている?

 一葉の顔を見ることが怖くて、出来ることならば今すぐこの場から走って逃げ去りたいのに、キスの余韻が未だに腰を砕いていて立ちあがることさえままならない。
 穴があったら入りたいとは正しくこのことだ。この際、段ボールでも構わなかった。

 「えーと……、すずかさん……」

 「ヒャッ、ヒャイ!?」

 背中からの声に、丸めていた背中がピンと伸びる。声も喉に絡まって随分と上擦ったものが飛び出た。

 「とりあえず、お互い目を見て落ち着いて話し合おうじゃないか。 今一状況が飲みこめなくて、正直困惑してるんだ」

 僅かな戸惑いが入り混じりながらも、あくまで冷静な声だった。
 すずかは、きゅっと薄い唇を引き締める恐る恐る首を振り向かせた。視線の先には作為のない表情で胡坐をかいている一葉が居て、一葉の顔を見た途端に溜まりに溜まった羞恥心が噴き出て、また前に向き直してしまった。

 「ちょっと、なんで今諦めたのさ?」

 「ごごご、ごめんなさい! でっ、できればこのままでお願い!!」

 すずかは他意はないのだが、恥ずかしくて一葉の顔を正視することができなかった。それどころか、女心というものをまるで理解していない一葉に対して軽く心がささくれた。
 こちらとしては血に酔っていたとはいえ本能の赴くままに初恋の人の唇を奪ってしまったのだ。
 そうした心情を少しでもいいから察して欲しい。

 いや、初恋?
 すずかは自分の感情に疑問を持った。果たして自分は一葉に恋をしているのだろうか、と。
 一葉と出会ってからの二年間でそうした感情を抱いたことは一度もなかった。
 友達よりも少し近しい間柄、親友という定義が正しい。
 その枠の中に居るのはアリサとなのはも同じで、一葉だけが一歩飛び出ていたわけもない。三人の立ち位置は変わることなくずっと同じだったはずだ。
 それに、アリサはともかくとしてなのはが一葉にいわゆる恋慕の視線を向けていることにすずかは気がついていた。
 それは情熱的なものではなく、なのは本人でさえ気がついていない淡く、拙い想い。
 見ているこっちがもどかしくて、微笑ましくて、幸せな気持ちになるものだ。
 恋する少女と恋される少年。それは、自分のような化け物が立ち入ることなど決して許されない、綺麗で無垢な二人だけの物語り。
 そんな二人を見ることがすずかは好きで、そんな物語りを間近で見られる幸運をあの時の自分は世界で一番幸せだと思っていたのに、あの日の自分に今の自分を見せてやりたい。
 一葉がこちら側だとわかった途端、こんなにも一葉を渇望している浅ましい自分の姿を。

 誰にも譲らない。
 誰にも渡さない。
 醜い、醜い独占欲。それなのにそれ以上に一葉に隷属したいという矛盾した欲望が腹の下あたりで渦巻いている。
 鎖で繋がれ、飼育されたい。足蹴にされ、その足の裏を舐めまわしたい。身体も心も、全てを支配されたいという危うい感情。

 これでは、まるで獣だ。
 二日前の旅館ですずかが一葉の影を見た時、この少年は自分なんかよりも遥かに化け物じみた存在であることを理屈なんか通り越して理解した。
 その時から生殺の与奪権を対価に安寧を求める獣のように、一葉に服従したいと心のどこかで願っていたのだ。

 こんな感情、果たして恋と呼んでもいいのだろうか?
 小説で読む恋はもっと楽しくてフワフワしていて、蜂蜜のように甘く檸檬のように酸っぱいものだ。
 少なくともこんなにもドロドロとしていて黒いものではないはずだ。だが、その感情は一度自覚してしまうと、津波のように押し寄せてきてあっという間に心を支配してしまっていた。
 すずかはもう、一葉と友達には戻れない。親友なんかじゃ、満足できなくなってしまっていた。

 「このままって……。 背中に向かって話しかけるのって、無視されてるみたいで嫌なんだけど……」

 「あっ、あのさ! 一葉くん!!」

 一葉の言葉を遮って、すずかは頭で考えるよりも先に言葉を重ねた。

 「今日、私の家に来て欲しいんだ……」

 「……はい?」

 会話が全くかみ合わない突然の自宅へのお誘いに、一葉は状況が口から出た頓狂な声は、二人しかいない踊り場の壁にぶつかって反響した。


 ◆◇◆


 逃げよう。
 水に垂らした一滴の墨のように、そんな考えが一葉の心にじわじわと広がっていった。

 朝のホームルームの前、すずかから唇を奪われ、血を吸われ、まさに驚天動地な出来事から既に二時間が経過しており、後五分ほどで中休みを知らせる鐘の音が学校に響くはずだ。
 ちなみに、すずかは一限が始まる前に既に早退している。家に帰って、忍に色々と話さなければならないことがあるそうだ。

 事の顛末の後に、すずかの口から語られたのは“夜の一族”と呼ばれる月村家の秘密だった。
 動揺が冷め止まないしどろもどろとした口調だったが、それでもずっと昔から光の当たらない歴史の影で生きてきた惨めな一族の話しと、その件について忍から一葉に話しがあるから、今日の放課後に月村邸に来て欲しいという旨を聞かされたのだ。

 すずかの話しでは、一葉が一族の秘密に気がついている可能性がある為、立場を明確にするためらし、有効な関係を築きたいとのことだが実際はどうかわからない、ということだ。
 確かに、忍が懸念していた通り一葉は月村邸の住人たちが普通の人間ではないことに気がついていた。
 それは世の全てを欺きせしめてみようという演技めいた違和感と、必死に自然に振舞おうという不自然さがきっかけだった。
 なにも知らない者だったら気がつかない、微かなズレ。蝶の群れに一匹だけ蛾が紛れ込んだかのような居心地の悪さがあの家には在った。

 常識と日常という安寧に感覚が麻痺したものでは決して感じることができない強かな擬態。人の心を持ちながら人ではいられない苦しみと、他者と深く交わることができない孤独。そして、それをどうすることもできない絶望、屈辱、妬みがあの家には潜んでいた。
 一葉はその感情の全てを知っていたからこそ、その雰囲気を敏感に感じ取っていたのだ。

 かつて一葉が過ごした生も同じだった。家名と家に縛られ、人の領域を超えてしまった差別と蔑如の視線。
 運命に宿命づけられた北極星のように、闇に塗りつぶされた世界で孤独に佇むことしかできず、壊れていくことしかできなかった。

 人は生まれ落ちた時は誰もが自由のはずなのに、いたるところを見えない鉄鎖で繋がれている。
 すずかはきっと、吸血鬼という異端と月村という家名に縛られながら、他者とは違う後ろめたさと、自分ではどうすることもできない疎外感を抱え込みながら今日まで生きてきたのだろう。

 すずかの口から紡がれた告白を聞いた一葉は、すずかを哀れむと同時に、聞いてしまったことをひどく後悔した。

 人外、人の世の裏側に潜んで生きる人種はいつだって秘匿に重きを置く。社会という秩序の中において生き残るための古くからの習わしは世界や時代が違くとも変わらないはずだ。
 それが例え、小学生という社会的に脆弱な力しか持たない一葉であっても例外ではないだろう。
 僅かでも自分達を脅かす可能性を持つ者には、早々に手を打ってくることが容易に想像できたし、すずかはみなまでは口にはしなかったが、言葉の節々から忍が一葉にある種の危惧を抱いているということが見て取れた。
 二日前の夜に、アルフと対峙した時に見せた自分の影。それをすずかだけでなく忍にまで見られていたことは迂闊だったとしか言いようがない。

 すずかの話しでは、“夜の一族”というのは同じ祖を持つ分家と宗家で作られた組織のようなもので、忍はその宗主の座に就いており、また今日は忍の後見を務める幹部が一葉に会いに来るらしい。
 もし、すずかの誘いのまま月村邸に赴いたら、間違いなく自分にとって不利益なことしか起きないと確信めいたものを一葉は感じていた。

 仮に忍たちが友好的に話しを展開しようとしても、なんらかの形で一葉の生涯を縛る制約は課せられるだろうし、記憶の改竄も方法は限られるがないというわけでもない。
 最悪、命の危険を案じなければならないことにだってなり得るかもしれない。
 ただでさえ、今はジュエルシードやアゼルのこと、そしてなによりも自分自身のことで手いっぱいだというのに、これ以上余所に気を回す余裕など一葉にはなかった。

 すずかには、非常に申し訳ないが一葉は“夜の一族”や月村家などに関わる気など微塵もなかった。
 もっとも、今逃げたからといってその後にどうにかなるという問題でもないということぐらいは重々に承知している。
 だが、少なくともアゼルのことを片づけるまでは逃げ続けよう。その後であれば、記憶を消されようが、なにをされようが構わなかった。

 一葉は頬杖をつきながら視線を窓の外へ移すと、ゆったりと雲が流れていた。
 一葉は今日一日、教壇に立つ女性教諭の言葉は全て右から左に流れ、時折指でシャーペンをくるくると回していただけだ。

 そろそろ授業が終わると思いだした頃、教室の黒板の上に設置されているスピーカーから鐘の音が響いた。
 「じゃあ、今日はここまでね」という声を皮切りに、教科書やノートを机にしまう紙擦れの音と同時に生徒たちが無言の抑圧を一斉に解放したように喋るだし、瞬く間に教室は喧騒に支配された。

 一葉も手早く机に教科書とノートをしまうと、筆箱だけを鞄に入れる。とりあえず、今日はこのまま早退し、明日からはしばらく風をひいたことにしようと決めていた。
 そうすれば、両親が共働きである緋山家では昼間の時間も有効に使え、忍もなんだかんだで良識のある人間だ。病人相手に無茶はしてこないだろうという考えがあったからだ。

 一葉は教諭に早退する旨を伝えようと、鞄を持って立ちあがろうとする。
 ふと、窓の反射越しになのはと目が合った。
 ずっとなにかを思い詰めているような、弱々しい表情を見て一葉は心が冷めていくのを感じた。
 この二日の間、ずっとそうだった。
 昼間にこうして起きている時も、寝ている時も、少しずつ嗅覚や聴覚といった視覚以外の感覚が鋭利になっていき、それに反比例するかのように感情が削られていった。
 今まで息を潜ませていた影が徐々に蝕んでいるかのように心が闇に染まっていく。たった二日前は、すずかに大丈夫と言っておきながら、舌の根も乾かぬ内に一葉は人であろうとすることに疲れ始めていた。

 きっと、既になにもかもが手遅れなのだ。
 魔法やアゼルとの出会いは、きっときっかけに過ぎない。
 自分の進む道の先は歩いていくか走っていくかの違いだけで、きっと行き着く先は同じだったはずだ。
 ならば、今の自分には前進することしかできない。結果など、その後で勝手についてくる。
 そうだ、重要なのは生きた結果ではなく、今を生きることだ。
 そう悟った一葉を、なのはもアリサも、そしてすずかが流す悲しみの一滴さえも心を波立たせることはできなかった。


 ◆◇◆


 「お待ちしておりました。 緋山様」

 「うわ……」

 一葉が校門を抜けた時、門扉の影に隠れるように佇んでいた給仕服姿のメイドを見て、一葉は頬の筋肉を引き攣らせた。
 そこに居たのはノエルだった。

 学校の敷地内からは見えない位置に止めている黒塗りのベンツを背に畏まるノエルは、冷たい視線で一葉を一瞥すると滑るように一歩身体を動かし車の後部ドアを開いた。

 「忍さまがお待ちです。 どうぞ、お乗りください」

 「全力でお断りしたいんですけど」

 「申し訳ありません。 なにがあってもお連れするようにと命じられておりますので」

 慇懃、かつ取りつく島のない平坦た声だった。有無を言わさぬその口調から察するに、力づくになってでも身柄を持って来いと命令されたのだろう。
 推論にしかならないが、もしかしたらすずかは忍に一族の話しを打ち明けたことを伝えたのかもしれない。下校時刻でないこの時間帯に待ち伏せしていたことがいい証拠だ。

 ほんのに、三秒の間に一葉はノエルと冷めた視線と鍔迫り合いを交わした。
 知られたくない真実を知られてしまった側と、知りたくもない真実を知ってしまった側。お互いに腹に逸物を抱えている以上、この場での衝突は好ましくない。
 どの道、遅いか早いかだけで結果が同じだというのであれば、この場で衝突してしまった時のデメリットの方が大きい.
 そんな思考が諦念の彼岸に達し、一葉は大きく息を吐くと降参を示すように両掌を上げた。

 「……わかりました。 行きましょ」

 「助かります」

 「ただ、ちょっとだけ待ってもらえますか?」

 「……なんでしょうか?」

 「直ぐに済むんで」

 訝しむノエルの視線を無視して、一葉は親指と薬指で輪っかをつくり、それを舌の根につけて思い切り吹いた。
 すぼめられた唇から甲高い音が空を貫き、飲みこまれる頃、黒い影が風を切って飛んできて一葉の左肩にとまった。
 今のは、ベヌウのあらかじめ決めていた合図だ。魔法を知らない人間の前でベヌウを呼ぶ場合、念話では不自然さがどうしても生じてしまう為の演技だ。

 静観の猛禽の双眸は、肩から「また、面倒事に巻きこまれて」と言いたげに咎めた目つきで一葉を見ていた。
 一葉はそんな視線を頬にちくちくと感じながらも、ノエルから視線を外すことはしなかった。

 「学業の場にペットを連れてくるのは関心致しませんね」

 「すいません。 やたら懐かれて手、勝手についてきちゃうんですよ。 ここに置いてくわけにもいかないんで、こいつも連れて行っていいですか?」

 「構いません。 どうぞ、お乗りください」

 ノエルは右手で一葉に車に乗るように促すと、一葉は軽く頭を下げて車に乗り込む。
 後部座席の、一番奥で腰を下ろすと静かにドアが締められた。
 車内は特有の埃臭さはなく、代わりに柔らかな花の香りで満たされており、窮屈さを感じさせない広い造りになっている。

 『吸血鬼の家にご招待……か。 なんかB級ホラー映画みたいだね。 映画だったら、この後どういう展開になると思う?』

 『知りませんよ。 どうなるか決めるのは、一葉の行動次第でしょう』

 ベヌウは一葉の肩から膝の上に跳び下りながら、つっけんどんに答えた。

 『なに? 機嫌悪いね』

 『当り前です。 なぜ、一葉はわざわざトラブルを引き寄せてくるのですか。 貴方が今やるべきことは血を吸う化け物たちのねぐらに行くことではないでしょう』

 『トラブルってのは突然やってくるからトラブルって言うんだよ。 今回は、オレに落ち度はないと思うんだけどねぇ……』

 一葉は鼻で息を吐きながら、苦い笑みを浮かべる。
 確かにジュエルシードとアゼルに関しては自分から首を突っ込んで行ったが、今回のことは一葉に落ち度はない。すずかの気持ちを無碍にしようとした結果として、こんな事態に陥ることなど予想できるはずもなかった。

 『しかし、不可避というわけではなかったはずです。 月村嬢だけではありません。 中途半端な優しさは、傷を深くするだけです』

 『わかってるよ。 もう、傷つけることでしか、これ以上誰も傷つけない方法がないってことぐらいさ……』

 一葉は窓に肘をついて視線を外に移した。低いエンジン音が車内に振動し、車が静かに動き出す。

 『最初はさ、逃げ道を作っておきたいっていう甘い考えがオレのどこかにあったんだ。 だから、いつもギリギリのところで甘えが出た。 その結果がこれだよ。 遅かれ早かれ決着をつけなきゃいけないんだったら、それが今でも変わらないでしょ?』

 『変わります。 一葉は全ての手が塞がれたというわけではありません。 まだ、ジュエルシードがあります』

 『……は?』

 ベヌウの言葉に、一葉は窓の外で流れていた景色からベヌウに視線を移すと、膝の上で真剣な面持ちで見上げるベヌウと視線がぶつかった。

 『ジュエルシードが真に願いを叶える代物だとうのなら、一葉はジュエルシードに願えばいいだけの話しです。 今のままでありたい、と。 そうすれば、きっと……』

 なんだ、そういうことか、と熱のこもった口調で言葉を続けるベヌウを突き離すように一葉は言葉を被せる。

 『ジュエルシードは欠陥品だよ。 ドラゴンボールじゃあるまいし、なんでも願いをかなえる都合がいいものなんて在るはずないでしょ』

 『……っなぜわかるのですか!? 調べもせずに!!』

 最初から決めつけた口調で言う一葉に、ベヌウは憤りで声を荒げた。
 なにもかもを諦めた諦念が、一葉から自棄の言葉を紡がせているのだと思い、喉元に押した熱を吐き出した。

 愚者は自分が賢い者だと思い込むが、一葉は自分が愚者であるということを知っている。まるで死を悟った老人のように、一応はあらゆる理不尽に対して寛大だった。
 運命というのものを抗いもせずに、ただ受け入れることに慣れてしまっている。
 そんな一葉の生き方は、千年を超える時間を積み重ねたベヌウにとっては到底許し難いことであった。
 だが、一葉はそんなベヌウの思推を否定するかのようにさらに言葉を続ける。

 『わかるんだよ、そういうのは。 ジュエルシードは願いを叶える器じゃない。 どちらかというと、想像を具現化させる代物だと思う』

 一葉の能力は可能性の否定と肯定。そして、能力を実行させるに必要な工程は事象の把握、分析、理解だ。それに空間、物質、無機物、有機物の括りはない。
 一葉はジュエルシードに初めて触れた時から、既にジュエルシードの本質を知っていた。

 『まあ、想像の具現化は願望の具現化とは言えなくもないけどね。 だけど、オレたち三次元の存在が二次元の存在に干渉できないみたいに、そこには絶対的な隔壁がある。 ジュエルシードはね、所詮は平面に想像を具現化するだけであって、その効力は世界に干渉まではできない。 確かに、ジュエルシードには膨大な力が込められてるけど、あれは力の指向性がまるで違うよ』

 『……』

 『最初にあった靄の塊みたいなのは、多分微生物みたいなものが大きな身体を欲しいって願った結果だと思う。 神社の犬は主人を守る為に強い身体が欲しい。 樹が街を飲みこんだときは、ずっと一緒に居たいっていう想像が二人を樹の中に閉じ込めた。 スッポンのときは……、ベヌウはいなかったけ。 まあ、あの時は目の前に餌を出すんじゃなくて自分の身体を狩りに適した形に変貌させた。 どれもこれもさ、生物学的にも生態学的にも有り得ないものだよ。 つまりね、ジュエルシードは別に願いを叶える代物じゃなくて、持ち主の想像を最も安易な形で具現化させる失敗作なんだよ』

 そう、ジュエルシードは術者の身体に作用するだけであって空間や、世界には干渉し得なかった。
 そんな中途半端なものは、願いを叶える器と呼ぶには弱すぎる。

 『ま、ほとんどは推論だけどね。 でも、もしもオレがジュエルシードに今のままでいたいって願ったろころでオレの主観の時間が止まるっている結果は見え見えだよね。 多分、植物状態とかになっちゃうんじゃないかな』

 一葉の言葉に、ベヌウは喉元で渦巻いていた熱が引き波のように冷めていき眩暈を覚えた。
 ベヌウにとってジュエルシードは最後の希望だった。
 一か八かの賭けになるとは漠然と考えていたが、これでは賭けにすらならない。最初から勝負が決まっているわけではない。そもそも賭け金を持っていなかったのだ。

 『ユーノは多分、このことは知らないだろうね。 知る必要もないだろうし。 でも、アゼルは気がついてるはずだよ……。 その上で、ジュエルシードを集めてる』

 『なぜ……、そう思うのですか?』

 断言した一葉の口調に、心が鉄のように冷たく沈んで行く中でベヌウは喉元から声を絞り出すように尋ねる。
 すると、一葉は再び視線を窓の外に移し、静かな口調で答える。

 『あいつはね、無知でも馬鹿でもなかったけど愚直な人間だったからね。 やろとしてることぐらい直ぐにわかったよ。 それに、アゼルの能力とジュエルシードの力が組み合わされば、ちょっと厄介なことになると思う。 それに、アゼルが目的を達することだけは絶対に止めなきゃいけないしね』

 『アゼル・テスタロッサの目的……。 一葉は知っているのですか?』

 『うん。 あいつの考えそうなことだよ。 多分、本当にアゼルがやらかしたら世界が許してくれないだろうね』

 一葉は言ったん言葉を区切ると、大きく息を吐いてシーツの背もたれに体重を預けた。

 『どの道さ、オレが変わろうが変わるまいがあいつと殺し合うことには変わんないんだ。 戦いの中でオレが変わっていくってんなら、つまり最初から詰んでたんだよ』

 今こうして話している間にも、心の奥底にある洞の深淵から自分を呼ぶ声が聞こえてくる。
 その声に気がついていしまった以上、もう元に戻ることはできない。
 もうすぐで自分は声に呑まれて消え、緋山一葉の皮を被った怪物が生まれる。
 平成の世の安寧で生きてきた一葉にとって、魔法世界という新たな戦場は飢えた虎に肉塊を差し出すことと同義だ。
 もしかしたら今の状況は、血と戦いを渇望する身の内に込み上げる欲望に負けてしまう前に、緋山一葉がつけなければならない決着はつけなければならないのかもしれない。

 運命が歯車のようなものだとしたら、きっとなにもかもが最初から組み上げられていたのだ。
 すずかのことだって、きっと……。


 ◆◇◆


 『ねえ、忍とすずかに久しぶりに会えるのは嬉しいんだけど、私が“緋山一葉君”って子に会う必要、本当にあるの?』

 鈴を鳴らしたような凛とした声が、受話器の向こうから聞こえてくる。忍は親機に繋がれた電話のコードを指先でくるくると弄びながら答える。

 「会う必要があるかどうか、会えば多分わかるわよ」

 『ふーん……』

 曖昧な相槌が耳に響く。
電話の相手はさくらだった。先ほど海鳴市に入ったということで電話をくれたのだ。
すずかは家を出て一時間ほどしか経っていない。本来ならばさくらは夕方辺りに到着するよ手だったのだが、抱えていた仕事が予定よりも早く片付いて、昼前には来れるそうだ。
 受話器の向こう側ではさくらの声の後ろからエンジンが振動する音が聞こえてくる。おそらく、今も車で移動中なのだろう。

 「詳しいことはこっちに来てから話すけど、口で言っても彼のことは伝わらないと思うわ。 だから、さくらさんを呼んだのよ」

 会話の内容の主題は一葉についてだった。

 緋山一葉。小学三年生で、すずかの同級生。それ以上は特筆することがないような平凡な少年というのが忍の印象だったのだが、その身に棲まわせたおぞましい秘密を忍は知ってしまった。
 温泉旅行で見た、一葉の影は無数の鎖に縛られ、銛を撃ちつけられ身を拘束され血を流しながらも角を閃きかせる強靭な雄牛に見えた。まるで憎悪と殺意の塊、人の心の底にある闇を具現化したかのような禍禍しさは、言葉で表現する方法を忍は知らないし、伝えられた側もきっと理解できない。
 そもそも、あれは理解するものではないのかもしれない。目で見、肌で感じ、理屈を通り越して納得するものだ。
 あの少年は、自分たちとは違う世界で生きているのだと。

 「それにね……、一人で一葉君になる勇気が私にはないの。 正直に言って、怖いもの」

 『怖い、ねぇ……。 怖いもの知らずの忍も変わったものね』

 「私だって命は惜しいわよ」

 率直な意見だった。
 忍は手にしていた受話器を火誰手から右手に持ち変え、壁に背中を預ける。

 忍しかいない広いリビングはやけに声が大きく響く。微かに開いた窓の隙間から、夏の入り口の温かな日差しと風が入り込んでくる。
 長テーブルに置かれていた朝食の残骸は既にノエルが片づけており、一輪挿しの花瓶に赤い薔薇がいけてある以外に他に生の気配はない。
 ファリンは買い物に外で出ているし、ノエルは四人で暮らすには広すぎるこの家の家事に追われている。
 人目を避けるように建てられたこの館は街の喧騒や住宅街の姦しさとは無縁で、常に妙な静けさと寂しさが漂っていた。

 その家で、忍は胸が締め付けられるほどの寂しさを抱えながら歳を重ね成長してきたのだ。
 窓の外から見下ろす街には人々の触れ合いがあり、人の優しさや温もりがあるというのに、温度のない冷え切ったこの家に閉じこもり、自分に隠された醜さがみんなを怖がらせてしまうのではないかという恐怖に怯えながら過ごしてきたのだ。

 だが、思い返せばこの家も随分と変わったものだ。
 ほんの数年前までこの家は温度の死んだ薄ら寒いものだったのに、恭也のと出会いが全てを変えた。
 比喩などではなく、恋が忍の取り巻く世界の全てを変えたのだ。
 閉鎖された世界は惰性の延長で、永遠に続くかのような退屈の中で人生は長すぎると幾度悲観しただろうか。

 生まれ落ちてしまったその日から宿命づけられた運命という鎖。他者とは違うおぞましさ。
 蔑みと畏れの視線から逃げるように生きなければならない屈辱。
 なにもかもが最初から決められた人生の諦念の彼岸から引っ張り上げてくれたのは、恭也との恋だった。
 恭也は御神の剣士としてではなく、忍を夜の一族としてではなく、一人の男として忍を愛し、忍も一人の女として恭也を愛した。
 なにもかもを知り、納得した上で忍の愛を受け入れてくれた。まるでなんでもない、振るうの男女の恋愛のように。
 恭也が自分の剣に永遠の愛を誓うとか言い出した時は、そのくさい台詞が恥ずかしくてつっけんどんな態度をとってしまったけど、本当は踊り出したいくらいに嬉しかった。
 絶対に言葉なんかにはしてやらないけど、泣きたいほどに嬉しかったのだ。

 その日から、忍を取り巻く世界が変わった。
 自分の境遇を諦めるのではなく前向きに受け入れるようになり、恭也の妹がすずかと親友になったことをきっかけに、肌寒かった家は人の笑顔で溢れるようになった。

 全ては恭也のおかげだ。だから、忍は心の中に密やかな誓いを立てていた。
 恭也が自分を守るというのなら、自分は恭也を守ってみせる、と。

 『命が惜しいって……。 貴女、そんな相手と契約するつもり?』

 さくらの重い言葉が耳朶を打つ。なにかを危惧するような、それでいて咎めるような口調だった。

 「まさか。 すずかの手前、見せかけはするけど私は一葉君と契約する気なんてさらさらないわよ」

 自分で言って、忍は心臓がギュッと縮まった。
 一葉は危険だ。だが、だからこそ利用価値がある。
 忍にそう考えさせるのは、氷室の存在があったからだ。

 夜の一族が影の世界で生きることをよしとはせず、もっと表立って活動すべきだと主張していた過激派の筆頭。
 数年前に忍を亡き者にしようとしたが失敗に終わり、今日まで身を潜め続けている。
 一時は死亡説まで流れたが、最近になって香港マフィア“龍”との接触が確認された。

 氷室は腐っても夜の一族だ。それも、直系の濃い血を継いでいる。もし、“龍”と本格的に手を組まれたら忍にとって大きな災いが降りかかることは容易に想像できる。
 そして、その災いにすずかと恭也が巻き込まれることも。

 そのタイミングで、緋山一葉の存在だ。これはもはや、神の采配としか思えなかった。
 もし、一葉を飼いならすことができれば……と。

 『忍……。 あんた、まさか……』

 「一葉君は契約じゃなくて、“従属”させる」

 忍の言葉に、受話器の向こうから息を飲む音が聞こえてきた。

 “従属”とは夜の一族が百年以上も前に封じた禁忌だ。それを一族の長たる忍が自ら破るなど、決して許されることではない。
 なによりもこれは、すずかに対する裏切りだ。

 自分がなにを考えているのかを知ったら、すずかは自分を蔑むだろうか?
 罵るだろうか?
 軽蔑し、憎むだろうか?

 『ちょっと、自分がなに言ってるかわかってるの? 従属は……』

 「わかってるわよ。 私は全部理解したうえで喋ってるわ」

 さくらの強張った声に対して、忍は冷静な口調で応えた。

 既に決意は固めてある。胸に灯った静かで冷たい炎は、もはや消すことはできない。
 傷つけてでも守ってみせる。自分が立てた誓いも、すずかも。
 それで軽蔑されるのならば、憎まれるのならば構わない。
 忍は最初から赦しなど求めていなかった。

 『……もうすぐでそっちに着くわ。 家で落ち着いて話し合いましょう』

 さくらの声色からは親しみが消え失せ、代わりに圧しこめるような厳しさを孕ませていた。
 それは禁忌を犯そうとする忍へ対する怒りか、それとも十にも満たない幼い少年の人生を奪おうとしている義憤からか。
 どっちにしろ、忍は自分の提案がさくらにすんなりと通るとは思っていなかった。

 「そうね……。 じゃあ、一旦切るわ」

 忍はそう言うと、会話を打ち切って受話器を置いた。
 自然と口からため息がこぼれる。
自分は間違ったことをしていないなどとは思わない。そんなこと、思ってはいけない。
 自分は傲慢で、残酷な人間だ。
 従属は契約と違い、相手の尊厳を悉く奪う行為だ。大切なものを守りたい。そんな独りよがりで浅ましい願いの為に、自分は妹の親友さえも利用しようとしている。

 自己嫌悪で吐き気がした。頭の中を素手で掻きまわされるような不快感と、心臓を絞り上げられる苦しみを払拭するかのように髪をかき上げると、玄関の扉が開いた音が耳に届いた。
 まさか電話を切った直後のさくらが来たはずもないし、ファリンも買い物に出てから時間はそんなに経過していない。
 となれば、思い浮かぶ人間は一人しかない。

 忍はいつもよりも重く感じる足を玄関に向けた。観音開きのリビングの扉を開けると、長い廊下の先の玄関で丁度靴を脱いだばかりのすずかと目が合った。

 「すずか……。 貴女、学校は……」

 「お姉ちゃん。 私、一葉くんに全部話したよ。 夜の一族のことも、私たちが吸血鬼だってことも」

 忍の言葉に被せてすずかの口から衝撃的な言葉が飛び出た。
 一瞬頭が真っ白になって、途端に心臓を鷲掴みにされたかのような衝撃が忍を襲う。

 「……っ!? どうして!?」

 「だって!!」

 激昂する忍の声を遮るように、すずかは一度だけ忍以上の怒声を張り上げた後に落ち着いた口調で薄い唇を動かした。

 「だって、フェアじゃない。 一葉くんはなにも知らないのにいきなり呼び付けて巻きこもうとするなんて、そんな不意打ち卑怯だよ」

 すずかの声色はいたって冷静を努めているが、白いスカートの裾をギュッと握りしめ、表情は鬼気迫るものがあった。
 苦しそうな光を滲ませる瞳は睨みつけるように忍を見上げている。
 その視線は、咎を責める被害者の目つきそのものだ。そんなの厳しい視線に、忍は出かかった言葉が喉もとで引っかかった。

 「そもそも、お姉ちゃんおかしいよ。 ついこの間まで一葉くんを忘れろって言ってたくせに、今日になっていきなり契約のことを言うなんて。 お姉ちゃんがなにを考えてるかなんてわからないけど、私だって馬鹿じゃないんだよ。 お姉ちゃんは契約とか、記憶を消すとかじゃない、もっと別のことを考えてる」

 「それは……」

 鋭すぎるすずかの言葉に、忍はたじろいだ。
 正直、すずかを見誤っていた。すずかが一葉のことを憎からず想い始めていたのは知っていたし、なによりも今の均整が崩れることをすずかは恐れている。

 一葉の記憶を消すというのは、すずかに関する思い出が全て改竄されてしまうということだ。同時に、改竄されるのは記憶だけでなく人間関係も然り。
 今まで重ねてきた時間とともに培われた信頼、友愛、情愛、その全てが永劫失われうということは、永遠の決別を意味している。
 ここまで話がこじれてしまった以上、それを避ける選択肢はもはや契約しか残されていない。
 忍は契約という餌をすずかの前にぶら下げれば、直ぐに食いついてくると思っていたのだ。

 だが、すずはか忍が思っていた以上に聡明で、自分の機微に敏感に気がついていた。

 「お姉ちゃん……。 お姉ちゃんは……、一葉くんをどうしたいの?」

 苦しそうに眉根を寄せ、瞳を潤ませながらすずかは透明で薄い言葉で尋ねてくる。
 すずかの、忍を見る視線には陰りが帯びていて忍は息ができなくなるほどに胸が苦しくなった。
 一葉をどうするかなど、そんなこと少なくとも全ての事が終わるまですずかに教える訳にはいかない。
 自分がなにをしようとしているかを知るにはすずかはまだ幼すぎた。

 忍は手を固く握り、浅く息を吐いた。

 「すずか……。 ごめんね」

 「え?」

 刹那、すずかの視界は暗転して奈落の底に落ちていくかのように意識が遠のいていく最中、すずかが最後に見たものは触れれば崩れ落ちてしまいそうな忍の寂しげで、今にも泣き出してしまいそうな忍の顔だった。



[31098] 18!
Name: 三鷹の山猫◆b3ece1a7 ID:b714db04
Date: 2012/07/12 00:01


 大きな正門をくぐり、一葉を乗せたベンツは玄関先の車寄せに付けられた。
 低い振動を絶え間なく続けていたエンジンが停止すると、しばらく間を置いてからノエルが後部座先の扉を開く。
 一葉は促されるままに車を降り、アーチ状の玄関をくぐると玄関先には大きめのスリッパが並べられ用意されていた。

 屋敷中に敷かれた毛並みのよう紺色の絨毯。一葉はスリッパに足を嵌めると一歩先を歩くノエルについていきながら長い廊下を歩く。
 そして屋敷の一階の突きあたりにある部屋の前まで案内された。

 一角獣と獅子の装飾が施されたチューダー朝様式の厳めしい扉だ。一葉はその部屋を知っていた。
 中に入ったことはないが。確か初めて月村邸に招待された時にすずかから、来賓が来た時のみに使用される部屋だと聞かされた記憶が脳裏に蘇る。
 この部屋に案内されるということは、今日はすずかの友人としてではなく正式な来賓として扱われるということだ。

 「どうぞ、お入りください」

 ノエルは躊躇する様子も見せずに、慇懃な態度でその扉を開ける。
 部屋の中は昼間なのにカーテンが閉められていて、シャンデリアが照らす人工の明かりで満たされていた。

 「ようこそ、一葉君。 待ってたわよ」

 「……どうも」

 大体十メートル四方の部屋の中心に置かれた、木製の応接テーブル。他にはいくつかの本棚と古い機械式の大時計。そして部屋の最奥に置かれた重厚そうな執務机が在るだけで、部屋全体の雰囲気としては質素だがどこか高級感が漂っているが、調度品や時間を被った柱や壁からは余所者委縮させるような空気を放っているようにも思えた。
 そこで一葉を待っていた二人の女性。
 一人は当然忍だが、もう一人は見たこともない女性で、一葉は怪訝に眉根を潜める。
 女性はその表情を察したのか、上品に微笑むと自己紹介を始めてくれた。

 「初めまして、緋山君。 君のことは忍やすずかから聞いているわ。 私の名前は綺堂さくら。 二人の叔母に当たるわ」

 「どうも、初めまして」

 さくらの自己紹介に、一葉は上っ面だけの返事で返した。
 一葉の注意は部屋の間取りに向いていた。
 扉は一つ。窓はカーテンで見えない。万が一の時の為に逃げる経路は頭の中でシュミレートぐらいはしておいても失礼にはならないだろう。

 「どうぞ、かけてちょうだい」

 着席を進める忍の声は硬質で、既に穏やかではない空気が漂っていた。
 一葉は臆した様子を見せることもなくソファに腰を鎮めると、車を降りてからずっと肩に居たベヌウは車内に居た時と同じように一葉の膝に跳び移る。

 一葉は直ぐにでも立ち上がって踵を返したい衝動を堪えながら、正面に座る二人を見た。
 一葉としてはやましいことはなにもしていないし、月村の家に泥を塗ったわけでもない。本来ならばこうして呼びつけられる筋合いなどないが、彼女たちがひた隠しにし続けてきた秘密を理不尽ながら知ってしまった者としての義務と責務でここに居るのだ。
 忍は狡猾な狼のような警戒した面持ちで一葉に視線をぶつけてくる。だが、忍の隣に居るさくらは、押し固めたような硬い表情からは戸惑いが滲んでいた。

 忍の叔母と言っていたが、見た目だけでなくさくらは実際にまだ年若いのだろう。
 側室や妾が当たり前だった時代とは違い、今時姪と歳の近い叔母は珍しい。

 忍は藍色の髪を腰まで伸ばしているが、さくらは赤に近い焦げ茶の髪を肩で切りそろえている。瞳の色も違うが、目のキレや鼻筋の良さ、唇の形など細部は非常に似ており、こうして並べてみると姪と叔母というよりも少し歳の離れた姉妹のようにも見え、余計に二人の表情の温度差が浮き彫りになって見えた。

 さくらは一見して静かな佇まいでいるが、どこか落ち着きはなく意識の中心を一葉では悪、、むしろ隣に座っている忍に向けていた。
 それどころか一葉を見る視線には気遣いさえ窺える。
 さくらが、すずかの言っていた幹部の親族だというのは状況からして間違いはないだろうが、だとしたらこの温度差は一体何なのだろうか?

 「綺麗な鳥ね。 緋山君のペット?」

 一葉が思推の端に触れていると、さくらは一葉の膝の上で翼を休めるベヌウを見て尋ねてきた。

 「ペットというか、なんというか……。 少なくとも愛玩動物ではないですね」

 ベヌウがデバイス出ると知らない人間に、動物が相棒であるなどと公言する無恥さは一葉は持ち合わせてはいないので、とりあえず曖昧に言葉を濁した。

 「へえ。 じゃあ、将来は鷹匠?」

 「いやあ……、確かにカッコいいとは思いますけど、今のところ将来については考えてません」

 ペットを掴みにするのは、初対面同士の会話の掴みとしては上等だ。さくらは事もに接する穏やかな口調で会話を弾ませ一葉と接すべき距離を図っているのだろう。
 だが、一葉としては気を使われているからといって、媚を売る理由にはならなず、徹底して当たり障りのない応答を続けた。
 さくらとの会話の最中、一葉は喜怒を形に現さず徹底して見えな壁を展開し続けると、さくらの徐々に口数が少なくなっていった。

 「緋山様。 紅茶とコーヒー、どちらになさいますか?」

 二人の会話が途切れた、絶妙のタイミングでノエルは会話が割り込み尋ねてきた。
 家の格式は執事で決まるとはよく言うが、ノエルは執事ではないものの、その物腰の丁寧さと徹底された教育を見れば月村の家名は伊達などではないことが窺える。
 同時に、ノエルの慇懃な態度は普段、一葉達が遊びに来た時などの噛み砕いたものではなく、今日は妹の友人としてではなく忍の正式な来賓として招かれたのだと、声には出ない言葉で言われている気がした。

 「いや……、すぐにお暇するので結構で……」

 「一葉君には紅茶を。 私たちにはコーヒーをお願い」

 一葉がやんわり断りを入れる前に忍が声を被せてきた。どうやらノエルとは違い、忍は慇懃無礼で通すつもりらしい。
 ノエルは忍のオーダーに一礼すると、流れるような滑らかな動きで部屋から出ていく。
 扉が静かに締まるのと同時に、そのタイミングを待っていたかのように忍が唇を動かした。

 「で、単刀直入に聞くけど私たちのことはどれくらい知ってるのかしら?」

 忍はソファの背もたれに体重を預け、足を組みながら手慰みに自分の指を絡めていた。
 表情は能面を張り付けたように感情を読むことはできないが、それでも鋭い視線は射竦めるように一葉を貫いている。
 隠微に緊張した空気が部屋を支配してゆく。
 今、一葉の正面に座るのは気さくな友人の姉ではなく、一人の立場を持った大人だった。

 「どのくらいと聞かれても、すずかと忍さんが自称吸血鬼だってことぐらいですよ。 後は一族郎党が集まって夜の一族ってのを名乗ってるってことですかね」

 忍の質問に一葉はあっさりと白状すると、忍は一瞬だけ意外なものを見るように瞳を揺らした。

 「意外ね。 てっきり、とぼけるものだとばかり思っていたのに」

 「とぼけて見逃してくれるんだったら是非ともテイクツーをお願いします。 次は全力でとぼけてみせるんで」

 一葉は真顔で冗談の境界すれすれを言うと、忍は鼻で笑った。

 「却下に決まってるでしょ。 それで、一葉君はいつから私たちのことに気がついていたのかしら?」

 「気がついてたっていうか、今回のことで繋がったってのが正しいですね。 元々、違和感は感じてたんですよ。 月の周期に合わせて口から血の匂いをさせる姉妹と、動く度に機械の駆動音のするメイドさんなんて、アメリカあたりにありそうなB級ホラー映画っぽいじゃないですか。 だから、自分の勘違いかなって思ってたんですけど、今朝すずかに話を聞かされて全部の辻褄が合って納得したってとこですね」

 一葉にとって今回の出来事は、忍とすずかが日常で思いがけず取りこぼしてきた数々の不自然が繋がっただけのことに過ぎず、正直に言ってしまえば二人の正体など対岸の火事の如くどうでもいいことだったのだ。
 興味も関心も示さず、気付かない振りを続ければ今までの日常を過ごすことができると思っていたのだが、まさかこのタイミングで露見し刺されると予想もできなかった。

 「でも、別に脅すつもりもい言いふらすつもりもありませんよ。 だから、もう帰ってもいいですか?」

 「言いわけないでしょ。 そんな口約束、信じろという方がどうかしてるわ」

 忍の瞳には黒い影が落ち、口調には棘があった。不穏な態度をとる忍の空気を感じ取ったのか、今度はさくらが穏やかな口調で話し始めた。

 「あのね、私たちの秘密を知った人間にはそれなりの対処をしなきゃいけないの。 一つは、私たちに関する記憶を消させてもらった上でこの土地から出て行って貰うこと。 これに関しては、金銭的なことはできる限り私たちが負担することになってるわ。 そしてもう一つは契約といって、私たち一族の協力者、もしくは身内になって貰うものよ」

 「なるほど……。 恭也さんは、その契約ってのをしたんですか」

 恭也の名前を出すと、忍の眉がピクリと動いた。

 「そうね。 彼と忍は生涯を一緒に過ごす道を選んだ。 元々、相思相愛だったし彼は家柄的に鑑みて誰も反対はしなかったわ。 でも、一葉君の場合は今の年齢も考慮に入れて、契約するとしてもしばらくは私たちの監視がつくことになると思う」

 「……そう言う話しをしてくれるってことは、オレに記憶を消されるか契約ってやつをするかを選ばせてくれるんですか?」

 「そうね。 私たちは緋山君自身の意見を尊重するわ」

 子供に接するときの、優しく柔和な笑みを浮かべて言うさくらに、一葉は迷惑そうに顔を歪め口を開いた。

 「そんなの、どちらもお断りですわ」

 はっきりとした拒絶の言葉に、さくらの表情に戸惑いが走る。

 「……どうしてかしら?」

 今度はさくらに代わり、険しい目つきで忍が地を這うような低い口調で尋ねてくる。

 「どうしてもなにも、どの道オレに与えられた選択肢はそっちが用意したものだけじゃないですか。 記憶を縛られるか、人生を縛られるか。 どっち選んでもオレにメリットは全くないじゃないですか」

 一葉は眉を顰め腕を組み、冷静な口調で答える。
 幾重にも折り重なれた心理の罠に、一葉は気がついていた。

 最初はノエルが学校にまで向かいに来たことから始まり、逃げられない状況をつくる。そして、普段とはかけ離れた態度で接し、心理的な圧迫をかけて切迫した状況下で僅かな猶予を与える。
 その猶予というのは、思考の選択肢だ。大抵の場合は意図的に与えられた選択を、自分の判断と錯覚し自らに枷を嵌めてしまうだろう。
 だが、一葉は氷のように冷静だった。

 「そもそも、オレを引き込んで忍さんたちにどんなメリットがあるんですか? オレの影を見たんなら尚更ですよ。 忍さん如きが、オレを飼いならせるとでも思ったんですか?」

 まるで、一方的に巻き込まれた被害者のような面をした一葉の平坦な言葉に忍は不機嫌に下唇を噛む。腹に逸物を抱えている以上、この場で怒り狂う筋合いなどないと理性が断じる一方で、目の裏が赤く染まるほどの怒りが込み上げてきた。
 目の前の少年はあまりに冷静で、理解しがたくて、こちらのなにもかもを見透かすような冷たい視線を向けている。

 一葉の正鵠を射た指摘にさくらも数瞬前までの子供を見る目つきは鋭いものへと変貌していた。
 この、オン・オフのスイッチの入れ替えの素早さは流石というところだろうか。
 さくらも、既に一葉に普通の子供として接していたら痛い目に合うということを感じ始めているのだろう。

 そう、一葉は普通ではない。そのことはずっと以前から薄らと感づいてはいたが、この巡り合わせのきっかけとなったのがすずかであるというのは皮肉以外のなにものでもないだろう。
 自分が守りたいと願った妹が自ら、懐に脅威を招き入れたのだ。

 三者の間に、一瞬の沈黙が降りる。そのまま気まずい雰囲気が空気の支配を始めようとした頃、扉から単調で乾いた音が二回響いた。

 「失礼いたします」と、一礼をして入ってきたのはティーワゴンを押したノエルだった。
 ワゴンの上には人数分のカップと、ポットが二つ。それとお茶受けのショートケーキが置かれている。
 ノエルは応接テーブルにワゴンをつけると、手慣れた手つきでカップに紅茶とコーヒーをそれぞれ注ぐと、丁寧に配膳し忍の後ろに佇んだ。

 一葉は目の前に配膳された紅茶に手を伸ばす。忍も乾いた舌を濡らすために、夜の闇と同じ色をしたコーヒーを一口含んだ。
 ほどよい苦みの下に広がり、色々な感情と一緒に呑み下す。忍は湯気が揺らめくカップをソーサーの上に戻すと、鉛を含んだように重たい唇を動かした。

 「……かつて、まだ世の中が戦禍に塗れていた頃に人ならざる者、人あらざるものが今よりもずっと多くいたと言われているわ。 宗教、呪術、特殊能力。 いわゆる異端の力を持つ者たちが、私たちの一族の祖と考えられているの」

 「面白そうな話しではありますけど、それって今関係あることですか?」

 話しの展開に、一葉は手にしていたカップから唇を離して怪訝に眉を寄せるが、忍はそれをあえて無視して言葉を続けた。

 「かつて、と言ったのは、それはもうずっと昔の話しだからよ。 時代と文明の進歩が異端の能力を必要としなくなった。 権力者たちが争ってまで手にしようとした力はいまじゃほとんどが知識や機械にとって変わられてしまっているというのに、力を持った者は今でも生まれ続けているのよ。 この世に必要とされなく今もなお、ね。 ねえ、一葉君。 哀れな話しだと思わない? この弱肉強食の世界で、強者はいつだって力を持たない、声が大きいだけの大衆よ。 私たちは力を持って生まれたとしても、弱者であって、いつまでたっても救われることなく身内同士で虫のように身を寄せ合って生き永らえている。 私たちが、強者に喰われる弱肉だとばれないように、怯えながらね」

 忍は顔に自嘲の笑みを張り付けながら語り、警戒の表情が帯び始めた一葉を睥睨する。
 聡明な一葉のことだ。おそらく、ここに呼ばれた本来の目的に感づき始めているのだろう。

 「……、今の話しを聞く限りだと、忍さんは救いよりも力が欲しいって言ってるように聞こえるんですけど」

 「その通りよ。 だけど、勘違いしないで。 私が欲しい力は身内に対する抑止力であって、別に世の中をどうこうしようなんて一切考えてないわ。 恥ずかしい話しだけど、私は一族の当主といっても絶対の権力を持っているわけではないの。 私が欲しいのは、今の私の生活を脅かそうとする人たちに対する力……。 つまり、一葉君のことよ。 正直に言って、私は君が欲しい。 できることなら、この場で契約をして貰いたいのよ」

 「残念ですけど、オレは忍さんが考えているような力なんか持ってません。 そもそも、オレの力は、誰かの為に使えるような優しいものじゃないんですよ」

「使える、使えないは私にとって関係ないのよ。 ただ、力を持った一葉君が私の傍に居る。 それで十分。 できれば、私が優しくしている間に首を縦に振って貰いたいのよ。 私も力づくは嫌だし、なによりすずかが傷つくからね。 でも、勿論タダでとは言わないわ。 一葉君が望むもの……、私のできうる限りのものであれば、なんでも叶えてあげる」

 忍は隣に座るさくらの、苦虫を噛み殺すような表情を視界の端に捉えた。きっと、壁際で彫像のように佇むノエルも同じような表情をしているのだろう。
 傍から見れば、女子大生が小学生を威圧的に責めているようなこの場では一切不自然に見えない。
 むしろ、威圧的な態度をとっているのは一葉の方だった。
 静かに牙を潜ませる獣のように、一葉が忍を射抜く視線には隠された殺意があった。

 「契約……っていうのは、忍さんと恭也さんを見ている限り、善意を担保として契る契約なんでしょうね。 お互いの信頼が合って初めて成り立つもの。 一応、参考までに聞いておきますけど、忍さんがオレに契約を持ちかけるのは、忍さんの善意から来るものなんですか?」

 一葉の質問に、忍は首を横に振った。

 「いいえ。 これはすずかの善意よ。 すずかが、一葉君との関係を壊したくないっていう善意が、今のこの時間を作っているの。 そもそも、私は最初はね、一葉君と契約するつもりなんてなかったんだけど、すずかに泣いて頼まれてね……」

 言葉の通り、忍は一葉と契約する気など最初はなかった。一方的に、強行的に従属の契りを交わすつもりでいたのだが、忘れようと記憶の底に封じ込めたすずかの涙を、今朝のすずかの慟哭に引き起こされ、同時に甘さが出てしまった。
 電話越しでさくらに言った時、契約は建前だと言ったが今は違う。もし、一葉が話しに乗ってくるのであれば、妹の願いの通り正規の手順を踏もうという考えが心の内にあった。

 「すずかの善意に、一葉君も善意で応えるべきだと私は思うわ。 もし、私たち一族と契約するのならば、その時はすずかと契約を交わして貰う。 将来の、すずかの旦那様の候補としてね。 きっと、すずかもそれを望んでいるから……」

 忍の譲歩の原因はそこのあった。
 この数日の、すずかの一葉に対する執着は尋常じゃなく、心の内に灯った炎が燃え上がり、周りを見えなくさせているような……、初めて自分が恭也に恋心を自覚した時と同じ目をしていた。
 きっと、すずかは一葉に恋を知ったのだ。だとしたら、このまま恋も、愛もない近親婚を強いらせなけらばならないのならば、すずかの女としての幸福を考えるのならば、このまま一葉と、という心算があった。
 すずかの、将来の結婚相手は既に決まっている。まだ一度も顔合わせをしていない、二十も年上の男だ。
 一族の血を引いてはいるが、三親等以上離れている男は、それが唯一だった。人柄も悪くなく、社会的な地位もあるが、それがすずかの幸福に繋がるなどと忍は思っていない。
 忍も、かつては一族が決めた将来の伴侶がいた。だが、自分の我儘で恭也をそれと決め、相手方の面子を潰してしまったのだ。
 そして、そのつけは妹であるすずかが背負うことになる。血のしがらみや、呪いとも言えるような呪縛にすずかに負わせてしまったことをいつも気に病んでいた。
 すずかはまだ九歳で、人の心は不変というではない。だが、女としての幸福を考えてやることは、今からでも早すぎるというわけはないのだ。
 そう、なにもかもすずかの為。
 すずかを想う忍の良心が、こうして一葉との対談の席を設けさせた。
 だが、忍の良心は薄氷を踏みつけるかのごとく、打ち砕かれる。

 「すずかが望もうが望まないが、オレには関係ありませんね。 もう帰ってもいいですか?」

 一葉の言葉に、ただでさえささくれていた神経がさらに尖り忍は不穏に声を出した。

 「私の妹じゃ不服かしら?」

 「そういう意味で言ってるんじゃないんですよ。 すずかは可愛いし、性格もいいし、物凄く魅力的ですよ。 ただね、化け物のいざこざに人を巻き込むなって言ってるんです」

 一葉の口調は静けさの下に、鋼鉄のような硬い拒絶を孕んでいた。
 “化け物”と吐き出された侮蔑と差別の言葉に、胸に氷を押し当てたように冷たくなる。

 「……そう。 残念ね」

 ああ、本当に残念だ。
 この少年はすずかの善意を足蹴にした。
 自分の良心を利用し、甘さにつけいることができなかった。
 なんて、愚かなのだろう。この少年は、自分がまともな人生を送れる最期の機会を、自らの手から取りこぼしてしまったのだ。

 忍は二つの眼球に意識を集中させた。
 目の奥に熱がこもり、景色が薄ら赤い色彩に覆われる。
 魅了の魔眼と呼ばれる、異端の能力は吸血鬼の力の一つだ。
 見つめた相手の身体の自由を奪う催眠術の一種で、応用すれば記憶の操作もできる汎用性の高い能力。
 血のように鮮やかな深紅に変色した双眸で一葉に視線をぶつけると、一葉は一瞬だけ虚を突かる表情を浮かべ、彫像のように筋肉を硬直させ固まった。

 「驚いた? これも吸血鬼の能力よ」

 「知って……、ますよ……。 今朝……、すずかにもやられた……」

 「あら、喋れるの? 驚いたわね」

 口では言いながらも、忍はどこか楽しそうに唇を歪めていた。

 「私の魔眼の力の強さは一族の中でも一番なのに。 本当だったら石像みたく動くどころか、喋ることも眼球一つ動かすこともできなくなるのよ」

 忍はソファから腰を上げ、一葉の前に移動すると再び腰を下ろし視線を合わせる。

 「楽しみね。 一葉君の影の正体、その力がどれほどのものなのかが」

 「……」

 動かぬ一葉の憎々しい目つきを滑稽に思いながら、忍は白魚のような指先で一葉の頬を撫でるように触れる。

 「安心してもいいわよ。 別に、交渉が決裂したからって一葉君の記憶をどうこうするつもりなんて最初からなかったのよ。 ただ、私の奴隷になって貰うだけだから」

 忍の穏やかでない発言に、一葉は目を揺らす。

 「私たちは“従属”って呼んでるものでね、私の血をほんの少しだけ一葉君にあげるの。 そしたらね、不思議なことに一葉君は私の血を定期的に飲まなきゃ生きていけない体になっちゃうの。 つまり、生きていくためには私に一生逆らえない。 理解できたかしら?」

 吸血鬼に血を吸われると眷族になると伝えられる伝承の起源はそれにあり、長い時代の変遷の中で、その言われは大部分が改竄され、間違った形で伝わってきたのだ。
 だが、忍が一葉に血を与えたからといって一葉が吸血鬼になるというわけではない。
 忍やすずかのように、血を糧に生きる一族は血中に濃度の高い麻薬成分を大量に含んでおり、一度でも体内の侵入を許してしまうと精神的な喉の渇きに生涯苦しめられることになる。
 渇きを抑える方法はただ一つ。侵入を許した血の持主の血液を、定期的に摂取することだ。
 もし、それを怠れば最終的には発狂し死に至る。
 つまり、一度でも血を受け入れてしまった人間は隷属という相互関係が強制的に結ばれることになるのだ。
 その非人道さと不道徳に塗れ爛れた関係ゆえに、先達たちは百年以上も昔に禁忌とした。

 忍は鋭い犬歯で自らの唇を薄く噛み切る。痛みとともに鉄の匂いが咥内に広がった。

 「一葉君が最初から首を縦に振ってくれたらこんなことしなくて済んだのにね。 残念よ……、本当に」

 忍は一応の首筋に犬歯をあてがい、優しく牙を突き立てる。
 温かな人の温もりを舌に感じながら、ひと思いに突き立てようとした刹那__

 「本当に残念だよ、忍さん」

 凛然とした一葉の声が響き、空気が忍の身を切り裂いた。


 ◆◇◆


 __あ、目が覚める。

 深いまどろみの海から浮上してくる意識の中で、すずかは閉ざされていた瞼をゆったりと開いた。
 目覚めたばかりで眼球が湿っているせいで視界が霞む。低い血圧で鉛のように重たい頭を持ち上げるように身を起こすと、身体中からポキポキ関節が軋む音が響く。
 朦朧とする思考であたりを見まわと、そこは自分の部屋の、自分のベッドの上だった。

 自分は一体いつから眠っていたのだろうと、混濁する記憶を探る為に頭の中を整理しようとすると、ふと窓から差し込む黄昏に意識が向いた。

 蜂蜜を溶かしたように部屋を染め上げる西日の輝きは、室内に舞う埃をもキラキラと反射させていて眠りのせいで大きく狂ってしまったすずかの体内時計の針でも、今が夕方であるということあわかり、同時にそれを頭で理解した途端に冷や水を頭からかけられたように意識が完全に覚醒した。

 __うそ!?

 すずかはベッドから飛び降り、窓の外を齧り付くように見る。
 出窓から見える景色は、街の隙間に窮屈そうに沈んで行く緋色の太陽があった。まだ宵の明星も出ていない日の入りだ。
 顔に感じる太陽の熱が氷を溶かしていくようにすずかは意識が途切れる直前の記憶が脳裏に蘇ってくる。

 一葉と重ね合わせた唇。
 芳香な血の香り。
 初めて舌を濡らした鉄の味。
 体に流れる血に縛られた宿命を一葉に打ち明けたことと、忍にそのことを話したこと。
 意識を失う直前、すずかの目が映したものは哀しげな微笑みを浮かべる忍の顔だった。
 その表情は寂しそうで、触れれば壊れてしまうそうなほど儚げで、なぜ忍がそんな表情をしていたのかすずかにはわからない。
 だが、あの時の忍の目が血の赤に染まっていたことははっきりと覚えていた。

 眼球の変色は、一族が特殊能力を行使した場合に起こる現象だ。
 忍は魔眼の力を使ってすずかを昏睡させた。
 なぜ忍がそんなことをしたのか、聡明なすずかの頭は瞬時に答えを弾き出す。
 簡単な話しだ。すずかが居ては都合の悪いことを一葉にする為だ。

 燃えたつ衝動に、冷や水をひっかけられたように焦燥と取り返しのつかない絶望が同時にすずかに襲いかかる。
 自分が間抜けに眠りこけていたことに、頭の中で後悔が黒い渦を巻き胸が締め付けられる。
 だが、今は後悔に足を竦ませている時ではない。
 さくらが月村邸を訪れるのは夕方だと聞いていた。ならば、一葉の招待する時間もそれに合わせるのが当然だろう。
 日の入りが始まったばかりの今ならば、もしかしたらまだ間に合うかもしれない。

 すずかは皺くちゃの制服のまま、転がるように廊下に飛び出た。窓から差し込む黄昏に彩られた廊下は痛みを感じるほどに冷たく、張りつめている。
 抑圧されたものが一気に弾け飛ぶような勢いで走るすずかは、廊下の角を曲がろうとした時、出会いがしらで身体に衝撃が突き抜けた。

 「ひゃっ!?」

 ファリンだ。
 顔面を蒼白にしているすずかを、ファリンは目を丸くして見下ろす。

 「すずかちゃん? 目を覚まし……」

 「ファリン! お姉ちゃんは……! 一葉くんはどこ!?」

 ファリンが言葉を言い終わらない内に、すずかはファリンの給仕服の裾を掴み感情を剥き出しにして声を張り上げる。
 険しい声に肩を震わせるすずかを見て、ノエルは一瞬なにかを言おうとして躊躇い、気まずそうに視線を泳がせた。

 「ファリン!!」

 すずかの胸に強い苛立ちを焦りが炎のように燻ぶる。
 糾弾するような棘だらけの声を荒げファリンの睨みつけると、ファリンはすずかと視線を絡ませるとなく、気まずそうに口を動かした。

 「一葉君は……、もう帰りました。 今は舌で忍ちゃんとさくらさんが今後の話しを……」

 ファリンが言い終える前に、すずかはファリンを突き飛ばし再び走り始めた。
 後ろからファリンが呼びとめる声が聞こえてきた気がするが、それを振り切る為に階段を飛ぶように降り、すずかは中二階の踊り場で思わず足を止めた。

 「……さくら叔母さん」

 母の妹がそこには居た。
 自然とすずかを見上げる形になってしまっているさくらの表情は、心なしか疲労の色が滲んでいた。
肩には品の良いショルダーバックが下げられていることから、きっと今から帰るところなのだろう。
 すずかは乱れる息を整え、一呼吸置いてからさくらに尋ねた。

 「叔母さん……。 一葉くんは……?」

 「とっくに帰ったわよ。 彼、すごい子ね。 いったいどうやって知り合ったのよ?」

 どこかふざけた口調で、唇を緩めながらさくらは言う。だというのに、すずかを見る視線には憐憫が込められていて、すずかは理解してしまった。

 時は既に遅かった。自分は、間に合うことができなかったのだ。
 信じていた姉から取り返しのつかない裏切りを受け、それを目の当たりにしてしまった現実に、すずかは真っ暗な闇に突き落とされような気持ちになった。
 視界が眩んで倒れそうになり、咄嗟に階段の手すりにもたれ掛かる。

 そんなすずかを見て、さくらは気遣うような声色で言葉を続けた。

 「あの子との話しあいの経緯は忍に聞きなさい。 私はその場には居たけど、本当に居ただけだから口出しできる立場ではないし、これから帰って大至急やらなきゃいけないことがあるのよ」

 自分の愚かさと無力さの自責に、胃をキリキリと締めあげられ喉が苦しくなった。

 「ねえ、すずか。 忍を責めないであげて。 あの子はあの子で必死だったし、すずかの望みも叶えてあげようとしてた。 ああなってしまったのは誰もせいでもないし、どうしようもなかったのよ」

 「……」

 冷え冷えとした空虚に詰め込まれた恐怖が稲妻のように駆け抜け、すずかの胸にくっきりとした足跡を残していく。
 喉が裂けそうになるほど熱くて、苦しくて、それでも言葉を発することもできずに震える足で腰を抜かしてへたり込んでしまうのを必死に堪えた。

 さくらはきっと大事は事を話している。なのに、すずかの耳からさくらの声は小さくなっていき聞こえなくなってしまった。
 今、すずかにとって重要なのは、一葉を失ったという突きつけられた現実だけだ。

 いや……、違う……。失ったわけじゃない。
 奪われたのだ。

 唐突に、理不尽に、自分が願い渇望した人との絆を粉々に砕き、足蹴にされた。
 ならば、奪ったのは誰だ?

 ばらばらになった世界の欠片が一つに集まるように、すずかの思考は一つの結論に行き着いた。
 眩暈に揺らいだ視界も、はっきりとピントが合う。

 「叔母さん……。 お姉ちゃん、どこ?」

 「ん? 忍なら、まだ奥の応接室に居るわよ」

 「わかった。 ありがとう」

 すずかは落ち着いた口調で尋ねながら、数瞬前前には考えられないほどしっかりと静かな足取りで階段を再び下り始めた。

 さくらは、階段を下りるすずかの表情を見て安堵した。
 混乱と恐怖が蒼白に染め上げていたすずかの顔色はすっかりと色を取り戻し、氷の妃のように冷静な面持ちを取り戻していたからだ。
 すずかは幼いと言えど、夜と一族の直系なのだ。今は若さの衝動に惑わされてはいるが、それでも心の内奥には保身のために他者を切り捨てられる冷酷さと冷徹さを潜ませている。
 一度は結んだ絆でさえ、結ぶことよりも解くことの方が簡単なのだと知っている。
 さくらは、すずかの表情をそう勘違いした。

 「時間がないから私はもう行くけど、喧嘩するんじゃないわよ?」

 「わかってる。 気をつけてね」

 さくらは一抹の不安も残すことなく、玄関へと姿を消していった。

 さくらの想像の通り、今のすずかは夜の闇のように冷静だ。
 冷静に、怒っていた。

 引き裂かれた心臓から流される血が燃え上がるような激しい怒りではなく、冷え冷えと燻ぶる青白い鬼火のような炎がすずかの胸の内で出口を求め彷徨っている。

 さくらの後姿を見送った後、すずかはさくらに教えられた通りの部屋へと足を向けた。
 長い廊下の突き当たりにある、普段は貝のように硬く閉ざされた重厚な扉が僅かに開いている。

 「お姉ちゃん。 入るよ」

すずかは最低限の礼節として、扉を二回叩いてからドアノブに手をかけ、扉に隠されていた光景に目を疑った。

 「なに……これ……?」

 すずかの薄い唇から戸惑いの声が零れる。
 すずかの視界に入ったものは、部屋に群生する両刃の刃だった。
 絨毯から直接生えた黒い刃の篠は部屋全体に生い茂っているわけではなく、雨の後の竹林のようになにかを狙い澄ましたかのように二か所だけに集中的にシャンデリアの光を反射させていた。

 いったい、ここでなにがあったのだろう。
 刃の篠は論ずるまでもなく異能の産物だということはわかった。だが、こんな能力をすずかは聞いたことも見たこともない。
 未知なる力を目の前に顕現させた者、それは一体誰なのか……、そんなの決まっている。
 ここに居たはずの、最後の一人だ。

 「一葉君よ……。 これをやったのは」

 部屋の光景に目を奪われていたすずかは、忍の声にハッととした。
 忍は部屋の中心にある応接テーブルに腰を下ろしたまま、なにをするでもなくただそこん座していた。
 垂らされた前髪のせいで表情を伺うことはできないが、声色からは先ほどのさくら以上の疲労が蓄積されているように思える。

 「なにがあったの?」

 すずかの胸の内に灯る炎は気がつけば戸惑いに変わっていた。
 忍しかいない部屋に足を踏み入れ、すずかの身長ほどもある黒い刃に手を触れると、それだけで皮膚の表皮が裂かれ血が滲む。

 「なにがあったかなんて……、そんなこと私が知りたいわよ」

 忍から奪うのは自分だったはずだ。
 なのに、忍は既になにもかもを奪われ疲労しきっているような表情にすずかは戸惑った。
 

 忍からしてみれば、一葉との一連は性質の悪い冗談か、悪夢のような出来事としか思えなかった。
 突きつけた牙はいつの間にか、自らの首筋に突きつけられ生殺の与奪権を全て剥奪されていたのだ。

 「ノエルは大怪我をしたわ。 ねぇ、すずか。 一葉君が何者なのか、知っていたら教えてくれない?」

 「一葉くんは……、一葉君だよ。 きっと、それ以上でもそれ以下でもないよ……」

 すずかの言葉に、忍は溜息ともとれる相槌を打った。
 元々、明確な答えを期待して問うたわけではない。一葉の処遇は既に忍の手を離れてしまった。
 突きつけられた脅威に、さくらは手勢を整える準備向かい、忍も僅かでも一葉が敵対する素振りを見せるのであれば看過することはできるはずもない。
 忍にとって、一葉の不可解な能力も、ベヌウと呼ばれたあの鳥ももはや存在自体が脅威としか感じることができなかった。


 ◆◇◆


 一葉の声が耳朶を打った刹那、鋭い風が頬を通り過ぎただけかと思った。
 前触れもなく踏みしめ慣れた絨毯から飛び出した刃は黒い軌跡を残して大気を突き刺す。
 僅かに掠った忍の衣服が宙に舞い、突然の事態になにが起こったのかと自問しても答えなど出るはずもなかった。

 絨毯から突き出る何振りもの刃は針を通すかのような繊細さで忍とさくらの身動きを固定する。
 脇と股の間を貫く刃は立体の昆虫標本のように二人の身体を固定したにもかかわらず、微かに服を裂くだけで体に傷をつけることはしなかった。

 「忍様!!」

 忍とさくらの後方に佇んでいたノエルが押し出すような悲鳴にも似た声を上げ、ガーターベルトに潜ませた手投げナイフを流れるような手つきで指股で引き抜き一葉に襲いかかる。
 だが、地面か蹴りあげた瞬間にノエルの視界は黒い影に覆われ肩に鋭い激痛が走った。

 食い込む痛みは骨まで達し、肩が悲鳴を上げる。
 黒い影は重力のままにノエルを地面へと圧しつけた。

 「か……はっ……」

 ノエルは受け身も取れず、衝撃が背中を突き抜けた。
 肺にため込まれた酸素が一気に口から吐き出され、喉が咳込む。
 揺れる視界と思考の中でも、鉤爪のような鋭い痛みはぎりぎりと肩に食い込みながらもノエルは現状を把握するために影に意識を向け睨みつけた。

 「____!?」

 意識が、凍った。
 そうとしか思えないほどにノエルは影から目が離せなくなってしまった。

 黒い嘴、黒い翼、黒い爪。
 なにもかもが見ているだけで飲みこまれてしまうような漆黒に彩られた巨躯で唯一エメラルドに怪しく輝く双眸が、獲物を狙う猛禽のそれのように冷たく見下ろしていた。

 こんな生き物、見たことがない。

 それは胸を突くほどの特異さ。
 夜の闇を切り取ったかのような色をする鳥は、生まれながら夜の一族と密接にかかわってきたノエルでさえ言葉を失うほどだった。

 「動かないで下さい。 動けば貴女でなく、貴女の主を殺します」

 初めて聞く声が耳に届く。
 氷のように冷たくて、澄んだ綺麗な声。
 その声の持ち主が、自分を抑え付けている怪鳥だと一瞬遅れて気が付いた。

 「最大の好機は最大の隙。 一つ勉強になったでしょ?」

 今度は平坦な声が部屋に響く。
 これは一葉の声だ。不愉快そうに目を細める一葉は、自らが作り上げた刃の檻に閉じ込めた忍の前に悠然と立つ。
 数瞬前まで、忍の魔眼に魅了され身体の自由を奪われていたはずだというのに、そんな様子は微塵も見せない振る舞いで鳶色の瞳で膝をつく忍を見下ろしていた。

 「どうして私の魔眼が効かないのかしらね? それに、あの鳥は一体なんなのか聞いてもいいかしら?」

 一見、冷静を保っているように見える忍だが、内心では激しく動揺していた。
 凶暴な野良犬のような苛立ちの籠った一葉の視線に気圧される。そして、これ以上何かをする素振りを見せないということが、忍の不安をいっそうにかき立てた。

 「すずかのを見たって最初に言ったでしょ。 同じ技に二度かかるほど、間抜けじゃないんですよ」

 一言、一言、噛んで含めるように、一葉はねっとりと忍に告げる。
 手は冷たく強張り、全身に気持ちの悪い汗が噴き出てくる。身動きが取れないこの状況で、ただ見下されている間も嫌な想像ばかりが浮かんで胃が捻じ切れてしまいそうだった。

 「相手を見ただけで動きを封じるんだったら、それは物理的な拘束じゃなくて精神的ななにかに作用するもんだってのは簡単に想像ができる。 予想だけど、すずかからその魔眼てやつを受けた時に、“動けない”っていうよりも“動いちゃいけない”って感覚があったから、目が変色した時に一種のサブリミナル刺激が出てるんじゃないかな。 魔眼なんて格好いい言い方してるけど、蓋を開ければ催眠術と大差がないものなんじゃないんですか?」

 一葉の言葉に、忍は寒気が足元から這い上がってくるような気がした。
 まるで予め用意していた答えを並べるかのような口ぶりは、きっと最初からこういった事態に陥ることを予測していたのだろう。
 そのことを理解し、納得した上で一葉は忍の前に姿を現したのだ。

 敵わない。いや、もしかしたらそもそも、自分は喧嘩を売ってはいけない相手に喧嘩を売ってしまったのではないか。
 自分はこの場で八つ裂きにされても仕方のないことを一葉にしようとしていた。このまま、容赦のない残酷さで身体中に中てられ閃きかせられた黒金の刃を一気に引かれてしまうかもしれない。
そんな想像が忍の中に生まれ始め、鼓動が早まり全身の毛が逆立った。

「催眠術だったら対処は簡単だ。 忍さんの目が変わる瞬間に、自分の身体を痛めつければいい」

 そう言いながら、一葉は自分の人差指を忍に突きつける。その指先には赤い滴が珠を作り、指を伝って滴っていた。

 「あと、あの鳥はずっとオレの膝の上に乗ってたやつですよ。 ちょっとばかし、サイズが変わっただけでね」

 「……冗談でしょう?」

 一葉の膝の上に居た鳥はせいぜい鳩と同じぐらいの大きさだったはずだ。
 だが、鋭い鉤爪でノエルを抑え込んでいる怪鳥は優に子供の大きさを超える。翼を広げれば、今よりも大きく見えるだろう。

 「事実は小説よりも奇なり、って割と的を射た言葉ですよね。 大きさが変わる鳥だけじゃなくて、忍さんたちみたいな存在が居るぐらいだし」

 忍を人間として捉えていないような一葉の言い方は穏やかな口調の下には、ささくれた苛立ちが見え隠れしている気がした。

 「ねえ、忍さん。 この際だからぶっちゃけますけど、実はオレずっと前から忍さんたちのことが気に食わなかったんですよ。 自分たちにしかわからない、自分たちにしか理解できないって悲壮感と愉悦感に満ちた被害者ぶったその面がさ」

 「それは申し訳ないわね。 一葉君好みの女じゃなくて」

 忍は挑戦的な笑みを浮かべながら言うが、それは虚勢で内心では込み上げる恐怖を必死に抑え込んでいた。
 このまま話しを合わせれば、もしかしたら抜け出す機会が訪れるかもしれない。そんな蜘蛛の糸に縋るような一縷の望みと、空のように高いプライドだけが忍の理性を繋ぎとめていた。
 その崩れない忍の態度に、一葉は酷薄な笑みを浮かべながら言葉を続けた。

 「でもね、気に食わないのと同じぐらいに尊敬もしてたんですよ。 忍さんはオレの持ってないものを持っていて、それを失くさない強さを持ってたからさ」

 忍の、霜から生まれたような美しい瞳に宿る宝石のように輝く気品と、硝子のように静かに澄んだ強さは、血の海に生まれた鮫のような宿命を持った一葉にとって妬ましくもあり羨ましいものだった。
 瞳の奥に宿った強さは、大切な人を守りたいと薔薇のように純粋で高潔な想いだ。誰かの為に力をふるうなんて無垢で綺麗な強さは、一葉は持ち得ていなかった。

 「でもね、忍さんはその強さを見失った。 オレという存在を知った途端に、守る為じゃなくて傷つける為にオレの力を利用しようとした。 非常に腹立たしいね」

 「生きる為に利用できるものはなんでも利用する。 それが、人間が自然淘汰で生き残った最大の要因よ」

 「それはその通りだと思うよ。 そして、忍さんは自分の本当の目的を忘れた。 大切な人を守りたいっていう目的の為に誰かを傷つけてきたこともあると思います。 でも、今の忍さんは手段が目的になってる。 そんな忍さんの目は汚く濁ってて見るに堪えません。 鏡を見た方がいいですよ。 多分、今まで忍さんたちのことを化け物って蔑んできた人たちと、同じ目をしてますから」

 一葉は埃を見るような蔑む目で忍を見ていた。
 二人の視線が絡み合う中、ただお互いがお互いを見合うだけだというのに、二人の間には硬い緊張感が張り巡らされていて、忍に至っては包丁を喉元に押し当て隙があれば一気に引き斬ろうとしている危うい目つきさえしている。

 そんな今の忍には一葉が羨望し憧れた美しさも気品もなく、荊の棘をもつ気高かったはずの薔薇は、欲に目が眩み惨めに枯れ果ててしまっていた。

 「オレはこれで帰ります。 それで、もう二度と関わらないで下さい。 今回は警告で済ませましたけど、次になにかしてきたら自分の首が落ちる音を聞くことになりますよ」

 一葉は吐き捨てるように言うと、そのまま踵を出口に向けた。
 軽く右肘を持ち上げる仕草をすると、ノエルの上に乗っかっていたベヌウがこの部屋に入ってきた当初の大きさに戻り、一葉の肘の上に飛び乗った。
 ベヌウの下敷きになっていたノエルは肩を砕かれ、溢れ出る血は給仕服だけでなく絨毯まで濡らしている。
 起き上がることもままならず、悔しそうに歯を噛みしめていた。

 一葉は、来る時はノエルに開けて貰った扉を自分で開け、忍たちを一瞥することもなく去っていた。
 その背中を、忍もさくらもどうすることもできずに見送ることしかできなかった。


 ◆◇◆


 「結局、私たちの完敗よ。 一葉君といいあの鳥といい、思ってたよりもずっと化け物染みてたわ」

 溜息ともとれる深い溜息をつきながら言う忍の言葉に、すずかは黙って耳を傾けていた。

 一葉が帰った後、忍とさくらはツイスターの要領で慎重に刃の檻から抜け出すことに成功した。
 元々、正しい手順の通りに四肢を動かせば抜け出せるように刃が組まれていたのだ。
 ベヌウの爪で抑え付けられていたノエルは重症で、早急な両腕の付け替えが必要だった。

 この部屋で起こった顛末の全ては、すずかの予想を遥かに上回っていて、その時の光景を想像することもできないが、それでも部屋に残された刃の群生は異様な雰囲気を保ったまま残されていて、忍の話しは嘘ではないと納得せざるをえなかった。
 そして、納得しなければならないのは決定づけられたすずかと、一葉の関係も然りだ。

 「なんで……、そんなことしたの? そんなことしちゃったら……、私はもう一葉くんと……」

 「今までの友達関係は諦めなさい。 完全に敵対フラグが立ったし、改めて彼が危険だって実感したわ」

 「お姉ちゃんが喧嘩を売ったからでしょ!? 私たちがなにもしなかったら、一葉くんだってなにもしてこなかったかもしれないのに!!」

 「なにもしてこないっていう保証なんてどこにもなかったし、なにかが起きてからでは遅いのよ。 さくらさんには動ける人間を集めて貰うことにしたわ。 恭也にも今日のことは話さなきゃいけないし、勿論士郎さんにもね。 それが、どういう意味だかすずかにはわかるでしょう?」

 腕を組みながら悪びれた様子も見せずに、淡々と語る忍にすずかは激昂し、忍の頬を平手で打った。
 乾いた音が部屋に響く。
 突然のすずかの平手打ちに忍は一瞬目を丸くすると、歯を食いしばりながら濡れた瞳で睨みつけるすずかが視界に映った。

 大切な人を、自分が見つけた大事な宝物を取り上げ、打ち砕き、踏みにじった癖に謝罪の一つもなく不遜な態度をとる忍に、すずかは殺意とも思えるような黒い感情が沸き水のように滾々と旨の内に満ちていく。

 「お姉ちゃんは……、なんで……! なんでそんな平気な顔してられるの!? 私から一葉くんを取り上げたくせに!! 私から……、大切な人を取ったくせに!!」

 溢れ出る涙と鼻水を拭いもせずに、すずかは痛みに耐えるように喉に逆流する血を押し殺して唾を飛ばした。

 いつだって忍はそうだ。
 大切なことをなんでもかんでも一人で決めてしまう。自分がなにもかもを背負っているのだと言っているつもりで、見えない刃でどれほどすずかを傷つけているのか気が付かない。
 そして、今回のことだってすずかにとっては許し難いことだというのに、忍は打たれ赤らむ頬を押さえもせず、物怖じさえしなかった。

 「確かに、こうなった事の責任の一端は私にもあるわ。 それは認める。 でもね、すずか。 私は“友達関係は諦めろ”とは言ったけど、“一緒に居ることはできない”なんて一言も言っていないわよ」

 「適当なこと言わないでよ! 私が子供だからってバカにしないで! 私だってもう……、手遅れだってことぐらいわかってるんだから!!」

 一度砕かれた硝子が二度と元には戻らないように、一度破かれた絵画がに二度と元に戻らないように、掴み損ねた過去を巻き戻すことが気ないことなど小学生のすずかですらわかる。
 指先から零れていったのは、魔法の時間だ。
 温かくて、楽しくてしょうがなかった夢のような時間は、もう二度とすずかの元に戻ってくることはない。

 「だけど……、今よりもすばらしい日常を手に入れることができる」

 炎のような怒りをぶつけるすずかに対して、忍は危うい穏やかさを孕んだ静かな声ですずかの声を遮った。

 「友達なんかよりも、もっと一葉君と近しい関係になれる方法が残されてる。 アリサちゃんとも、なのはちゃんとも違う、すずかと一葉くんだけの特別な関係にね」

 「……っ! そんな都合のいい話し……っ!」

 「あるわよ。 一葉君を、すずかだけの一葉君にできる方法が。 寝る時も、食事の時も、お風呂に入るときだってずっと一緒に居られる、そんな未来を実現させることができる方法がね」

 そんな都合のいい話しが、存在するわけがない。
 頭の中の冷静な部分はそう諭しているが、すずかはまるで悪魔に誘惑される聖職者のように忍から目が離せなくなった。

 胸の内に燃え盛る怒りが、別の性質へと変わっていく。

 もし……、もしも忍の言うことが事実なのならば、それは自分にとって素晴らしいことではないか。
 もし、一葉が自分だけを見てくれるようになったら、自分のものになったなら望んでいる全てを叶えてくれるのではないか。
 強く抱きしめ、激しい口づけをし、耳元で愛を囁きながら獣のように毎晩犯してくれるのではないか。
 服を剥かれ、首輪をつけられ全裸で散歩に連れて行ってくれるかもしれない。
 一葉を悦ばせる為に、あらゆる性技をベッドの上で仕込まれるかもしれない。

 そんな甘い日常を想像しただけでも、頭がぼんやりを蕩け下半身がキュンとした。

 「その方法、教えてあげましょうか?」

 心に絡みつくような忍の声に、すずかは細い首を頷かせてしまった。


 ◆◇◆


 月が笑っているかのような空だった。

 夜の戸張に、ぽっかりを浮かんだ黄金の月は夜の闇から淡い光を降り注がせる。
 風は柳の葉を揺らめかせる程度の微風で、海からの生臭い匂いが一葉の部屋にまで運ばれてきた。

 一葉は明かりを灯さない部屋で、ベッドに腰を座らせながら窓枠に肘を置き月を仰いでいた。
 手を伸ばせば届きそうなのに、決して届かない幻のような月は星の泉に囚われ静謐な孤独を強いられているように思えた。
 そんな漣のような静けさが一葉の頬に当たり、自然と今日の出来事が匂いさえも色がついているように明確に思いおこされる。

 すずかの涙、アリサの怒り、忍の敵意。今まで一葉を社会という日常に繋ぎとめていてくれた人たちと確かな決別をしたというのに、一葉の心は虫に蝕まれた葉のようにスカスカで、虚しいものだった。

 一人でいることはなににもまして安全なのに、なぜ一人でいることに今まで耐えいられなかったのだろうか。
 今の自分は、こんなにも一人だ。
 僅かひと月程度の過去の自分は、一人ではいつもさみしくて傍に居てくれる人を求めていた。
 安心できる人、温かい人、君はここに居ていいのだと許してくれる人を。
 だが、今は違う。
 今の一葉は一人ではない。自分の中に居る影を知ってしまった以上、一葉は一人ではいられないのだ。
 肉体という器に込められた二つの魂によって、不完全だった自分はようやく完成される。
 だが、完成された先にいったいなにが待っているのかなんて、一葉にはわからなかった。

 ふと、頬に当たる冷たい夜気に混じって大気が揺れる気配を感じた。
 ジュエルシードだ。

 「どっかで発動したか」

 「そのようですね。 どうしますか?」

 一葉の傍らに居たベヌウが視線を見上げて問いかける。

 「アゼルの気配はないみたいだし、ほっといても大丈夫だと思うよ」

 「……そうですか」

 一葉のそんな言葉に、ベヌウは複雑な想いが胸中を占める。

 なぜこんなことになってしまったのだろうか。
 絶対の不信と贖罪の、真っ暗闇の海に突き落とされ、消えない罪を犯し、地獄のような苦しみを背負いながら、それでも普通の平和の中で生きられたかもしれない可能性を一葉は失ってしまった。
 一葉が月村邸で、去り際に忍に吐き出した言葉はその覚悟の表れだったのだと、ベヌウは震えるほどに理解した。

 打ちのめされ、抉られ、踏みにじられたとしても、生きている限りは必ず変化は訪れる。むしろ、変わることよりも変わらないでいることの方がずっと難しい。
それが、数千年の時を生きたベヌウの知る人間という生き物だ。
 だが、一葉はもはや取り繕いの嘘の笑みを浮かべることすら許されない孤独を選んだのだ。
 そこには変化も、なにもない停滞だけが支配する修羅の道。それはもはや人間とは呼べないどころが、生物としても壊れた者だけが足を踏み入れる境地だ。

 「……どっか行くの?」

 「……散歩です」

 ベヌウは窓枠に飛び乗ると、翼を広げた。

 「そうかい……。 朝までには帰ってきなよ」

 「わかりました」

 素っ気なく言うと、ベヌウは風を切り夜の空に羽ばたく。一葉は、ああは言っていたが、ベヌウはなのはとユーノのことが心配だった。
 今、アゼルの気配を感じないからといっても、もしかしたらどこかで機を窺っているのかもしれないという可能性に、一葉は気が付いていない。
 いつだって冷たい思考を持つ一葉が、そんな初歩的なことを見落とすはずはなく、ベヌウは一葉の、“緋山一葉”という人格のメッキが徐々にはがれ始めているのだと感じていた。


 ◆◇◆



[31098] 19!
Name: 三鷹の山猫◆b3ece1a7 ID:6c236772
Date: 2012/07/13 19:59
その日の授業を終えて、なのはは帰路についていた。
 穏やかな黄昏の街で、家路を急ぐ多くのサラリーマンや学生と多く擦れ違ったりしているというのに、なのははこの世界で一人ぼっちで置き去りにされてしまったかのような気持ちになる。

 その理由は、わかっている。いつもよりも眺めがいい景色のせいだ。
 学校から帰る時、いつだってなのはは四人だった。街中ですれ違う人たちとの距離は、こんなに近くなかったのだ。

 「そういえば……、一人って久しぶりだな……」

 なのはは漏らすようにポツリと呟いた。
 声に出した自分の声に、心の虚しさが圧し掛かり足が鉛のように重くなる。

 なのはは、別に哀しいわけでも寂しいわけでもなかった。胸を占めるのはやり場のない虚しさだ。
 一葉に突き離されたあの日から、自分の居場所はこの世界から無くなってしまい、もう誰からも必要とされないのだという、胸を刺すような切なさと罪悪感がなのはに癒えることのない傷をつけた。

 今朝、燃え上がる炎のような怒りをぶつけてきたアリサの感情だって、あれは自分を心配してくれているからだというのはわかっている。
 そのことに気がつきながらも、どうすることもできない愚かさと弱さに胸がキリキリと締めつけられた。
 アリサに、魔法のことを話すわけにはいかない。これからも嘘を通し続けなければならない自分の浅ましさに息が苦しくなる。

 そして、一葉のこともだ。
 きっとあの少年は、これから今もこれから先も自分が隣に立つことを許してはくれないだろう。
 一葉の傍に、もういられない。
 そうれだけで身体が透明になり、霧のような疎外感とともに胸の奥を小さな棘でチクチクと突かれるような痛みを感じた。

 夜の森で一葉が去っていくのをただ見ていることしかできなかったように、今の一葉との関係はただの他人だ。
 今こうしてすれ違っている人達と同じで、ただの行きずりの人間で、透明人間と同じ存在なのだ。

 一葉とともに駆け抜けた、この数週間にも及ぶジュエルシードを巡る出来事は、まるで夢か別世界の出来事だったかのように思えて憂いが込み上げてきた。

 一人であるという寂しさ、孤独、哀しみ。その全てが混じり合った苦しい感情は、淡い雪のように溶けて、静かな涙となってなのはの瞳からぽろりと零れた。


 ◆◇◆

 「ケンカ……、しちゃったんだ……」

 「ううん……。 私がぼーっとしてただけ。 それで……、アリサちゃんに怒られちゃったの」

 なのはは帰宅後に、制服を着替えもせずに自分のベッドに飛び込んだ。
 枕に顔をうずめながら、もふもふと口を動かしながら勉強机の上で心配そうな視線で見るユーノと今日の出来事を話している。
 まるでなのはは背中に幽霊でも背負っているのではないかというほどに落ち込んでいて、声は穏やかなのに会話の節々で鼻水をすする音が混じっていた。

 涙を見せないのは、なのはなりの強がりだろうか。
 ユーノは突き抜けるような罪悪感を感じ、胸が痛んだ。

 「親友……、だったんだよね?」

 「うん……。 入学したばかりのときから……、ずっと一緒だったの。 一葉くんも……、そう……」

 「……そうだったんだ」

 「うん……」

 力のない声の下に見え隠れする、なのはの悲壮にユーノは心臓が握りつぶされるような気持ちになった。

 ジュエルシードをこの街に落とさなければ……、なのはと出会わなければ……、こんなにも優しい少女が傷つくことなんてなかったはずなのに。

 ユーノはかける言葉を失くし、二人の間に気まずい沈黙が降りる。
 会話のなくなった部屋では、壁にかけられた時計の針から規則的に時を刻む音が、なのはと親友たちの間に生じた軋轢のように響いていた。

 「なの……」

 「……よし! 悩むのやめ!!」

 沈黙に耐えかねユーノはなのはに声をかけようとした途端、なのははユーノの声に被せて勢いよく起き上がった。

 「色々悩みこんだって仕方ないんだから! 今日は塾もないし、晩御飯の時間までジュエルシードを探しに行こう!」

 突然声を張ったなのはにユーノが呆気にとられている間にも、なのははベッドがら飛び降り手際よく燈色のトレーナとデニムのスカートに着替える。

 「とりあえず、今は私たちにできることだけをやろう。 それで、全部が終わってからみんなに謝りに行こうと思うの」

 なのはは眉を八の字にしながら、哀しそうにユーノに言った。

 締められたカーテンの隙間から差し込む夕日が、なのはの白い肌を照らす。
 誰よりも哀しくて、傷ついているはずなのに、無理やりにでも感情を抑え込んで浮かべるなのはの笑みは冬の湖のように寒々しくて、寂しそうで、ユーノは心臓が張り裂けてしまいそうになった。

 なのはの自分自身にも言い聞かせる口調は、出会ったばかりの真っすぐで気丈な姿からは想像もできず、ユーノは蜂蜜色に反射するなのはの瞳に射した影を見つめた。

 いっそのこと、お前のせいだと責めて貰えれば……、罵って貰えればどれほど楽になれるだろうか。
 いくら拭っても、拭いきれない遺恨を彼女の幼馴染に投げつけたのは自分だ。
 自分が彼女と、大切な友達との間に亀裂を生じさせてしまったのだ。
 その、絶対に許されない罪を、自分は罵倒されることで赦されたいのだ。
 だが、心根の優しいなのはは決してユーノにそんなことをしない。むしろ、その優しさがユーノにとっては苦しく、真綿で首を絞められているようだった。

 「そうだね……。 その時は、僕も一緒に謝りに行くよ」

 償いにもなるかわからないが、せめてできることぐらいはやろう。
 ユーノの言葉に、なのはは穏やかに微笑んだ。

 「うん。 ありがとう、ユーノくん」


 月の光が降り注ぐ夜、街で一番高いマンションの屋上に三人の影があった。
 普段は立ち入り禁止にされている、街で唯一の高級マンションの屋上でそよ吹く風に髪を揺らしているのは、アゼルとリニス、そしてアルフだ。
 アルフはグラマスな肢体を布地の少ないタンクトップとデニムのホッとパンツで身を包み、腕を組んでアゼルとリニスに相対していた。
 視線の先にはバリアジャケットを身に纏った二人が居る。

 「ほいじゃ、とりあえず在る分だけのジュエルシードを母さんのところに届けてくるから、留守番よろしくね」

 「ああ、悪いね」

 死を誘う死神
のような格好にそぐわないひょうきんな声でアゼルが言うと、アルフはなにかを思い出すかのように顔を顰める。
 そんなアルフの表情を見て、アゼルは困ったように笑みを浮かべた。

 「いいって。 フェイトに持たせていったら、なにかに託けて折檻されるでしょ。 妹の顔を馬の尻みたいに鞭で叩かれてるのを見るのは僕も流石に心が痛むからね」

 「……、なんであのババアはフェイトに辛く当たるのかね。 フェイトは、あんなに慕ってるっていうのに」

 「……さあねぇ」

 「……あんた、ほんとはなにか知ってるんじゃないのか?」

 冷ややかさを帯びるアルフの視線を、アゼルは平然と真正面から受け止め、大げさに肩を竦めた。

 「あのねぇ、なんでもかんでも人を疑うのはアルフの悪い癖だと思うよ」

 しばらく、アルフはなにかもの言いたげにアゼルを疑わしい視線で見ると、結局問い詰めの言葉ではなく溜息を口から零した。

 「そうだね……。 悪かったよ」

 アルフはバツが悪そうに言うと、アゼルの横に控えていたリニスがわざとらしく咳払いをする。
 時間が迫っていると言いたいらしい。

 「じゃあ、もう行くけど帰りは二、三日先になると思うから。 その間にジュエルシードが発動したらお願いしたいけど……、一葉が来たら諦めて逃げなよ。 二人が相手じゃ、天と地が引っくり返っても勝てないから」

 「いちいち癇に障る奴だね。 言われなくても、あのガキとやり合うつもりはないよ」

 「それは懸命だ」

 アルフの言葉に、アゼルは軽く笑い風に乱れた髪を指先で払い背を向ける。
 漆黒のバリアっジャケットが夜の闇へと溶けて行くのを、アルフはただ見送った。


 ◆◇◆


 アゼルの実家である時の庭園は次元の狭間にある。
 当然歩いて行ける訳もないし、次元艦を使っても細かな座標がわからなければ辿りつくのは困難必死だ。
 転移魔法を使おうとしても距離があり過ぎる為に使えない。
 つまり、通常の方法で時の庭園に辿りつくことはできないのだ。
 そんな中で、時の庭園の交通手段は次元間トンネルだ。
 予め、次元世界同士をトンネルのような亜空間で繋げる技術は、他にはないアゼルとフェイトの母が独自に開発したものだ。
 これによって、転移魔法よりは時間がかかってしまうが安全な人の往来を確保することができる。

 その次元間トンネルの道程で、アゼルは散歩後ろを歩くリニスに見えないように細く笑んでいた。

 今の段階で、手元にあるジュエルシードは五つ。
 ここまではアゼルの思惑通りだ。

 ジュエルシードというなんでも願いをかなえるロストロギアの存在を知ったときの、プレシアの狂喜ぶりは今でも覚えている。
 そんな都合の良いものが存在するはずなどないと、聡明なプレシアであれば直ぐにわかるはずだというのに、プレシアは狂気に呑まれ誰も救われることのない最高の喜劇を作り上げてしまった。

 その喜劇を、アゼルは利用することにした。
 いい感じに狂った母の舞台の脚本を自分が書き換え、演じる。そして、演出の中でプレシアには死ぬまで道化を演じて貰おう。
 フェイトもそうだ。
 数刻前に、アルフに鋭い質問を疲れた時は一瞬冷やりとしたが少なくとも盲目的にプレシアを慕うフェイトは今のところ疑問すら感じていないだろう。
 フェイトは物語りの中核を担う大事な役者だ。
 あの子にはまだまだボロボロになるまで役を演じ続けて貰わなければならない。

 フェイトは、哀れな子供だ。
 空は微笑むことができないから雲を浮かべ、犬は微笑むことができないから尻尾を振るが、人は微笑むことができるから微笑みを忘れ、嘘の微笑みで人を騙す。
 プレシアが微笑みの下に隠し続ける嘘と秘密の正体を知らずに絶望に向かって歩むフェイトは哀れで、滑稽だった。

 自分の思惑通りに事が進むほど楽しいものはない。
 だが、今の段階でアゼルが最も心を躍らせているのは脚本に居ないはずの人物。一葉のことだ。

 「ねえ、リニス。 リニスは、運命ってやつを信じる?」

 「は?」

 空間が混濁する通路でアゼルの質問にリニスは怪訝な声を出した。
 アゼルの表情は見えないがその後ろ姿は腹の底から沸き上がる高揚を抑え込んでいるように見えた。
 運命とは、必然の積み重ねの上に成り立つものだ。
 違う次元、違う世界、まったく違う時代で再び邂逅を果たしだ、かつての宿敵。これは決して、偶然などではない。
くじ引きに偶然性などないことは子供でも知っている。
 手品師でなくとも、計画通りに目当てのくじを引かせる方法はいくらでもあるのだ。

 「運命があるとしたら、きっとそろそろ足音が聞こえてきても良い頃かもしれないね。 楽しみだよ。 運命が、いったい僕をどうしようとしてるのかがね」

 狂気の滲む笑みを押し殺して、アゼルははを剥き出しに口を歪めた。
 そう、狂っているのはプレシアだけではない。アゼルだって、とうの昔に狂い、壊れている。
 緋山一葉が、運命によって自分の狂気をとめに来たのならば、それに応えてやろうではないか。
 世界を滅ぼさんとする悪者を討つ、英雄の配役を。“アゼル・テスタロッサ”を道連れにでしか、世界を救えなかった悲劇の主人公の役目を。

 それには布石が必要だ。
 プレシアの狂気に、彼を巻き込む為の布石が……。


 ◆◇◆


 次元の隙間に消えていった、アゼルとリニスの後姿を見送ったアルフは、鼻で軽く息を吐くと踵を返した。
 階段の踊り場に続く、重々しい鉄製の扉を開け、建物の中に入る。
 マンションの内部には予め結界が張られていて周囲に人の気配はなく、アルフは人間ではあり得ない頭から飛び出した三角形の耳と毛並みの良い尻尾を隠しもせずに、間借りしている部屋まで悠然と歩いた。
 鍵をかけていない玄関の扉を開けると、長い廊下の明かりは消されていて、廊下の最奥にあるリビングの窓から差し込む青白い月明かりが怪しく部屋を照らしていた。
 音もない陰鬱とした空気に包まれるこの家は、まるでアルフの主の心の在りようそのものだった。

 アルフは冷え冷えとした廊下を歩き、フェイトの部屋へと向かう。ベッドと、小さなテーブルしかない身体を休めるだけのこの部屋も、明かりが落とされていた。
 アルフは部屋に入り、テーブルの上に置かれたトレーを見て、ベッドの上で丸くなっているフェイトに苦い口調で声をかけた。

 「フェイト。 また、食べてないじゃないか。 これじゃあ、身体がもたないよ」

 「……大丈夫だよ。 少し、食べたから」

 フェイトが言うと、アルフは顔を顰めた。
 トレーの上に配膳されている食事はパンが二つと、ポテトサラダ、スクランブルエッグなどだが、よく見るとパンがネズミに齧られた程度には欠けてはいるが、これだで人間の栄養を支えきれるはずなどない。
 フェイトが、食事を喉に通さなくなったのは今日に始まった事じゃない。
 元々、食が細いフェイトだったが、ジュエルシードの収集が滞り始めたストレスト、他にもジュエルシードの探索者が居るという焦燥からフェイトの胃が食事を受けつけさせなくなっていた。

 フェイトは目に見えて以前よりも細くなった身体をむくりと起き上がらせる。
 レースカーテン越しに差し込む月明かりが、ミミズが張った痕のような傷を残すフェイトの背中を照らした。
 それは、プレシアから鞭で打たれた痕だ。
 一般的には虐待と呼ばれるその行為でさえ、フェイトは愛情表現として受け取っている。
 この家族は、一種のアジールだ。
 社会と隔絶された空間で、独自の戒律を定めるコミュニティの中で、フェイトにとってプレシアは神にも勝る絶対的で、強権的な存在。
 反抗どころか、疑う気持ちを持つことすら罪であると思い込んでいる。

 フェイトに限らず、アゼルも、プレシアも、この家族はなにもかもが歪んでいるように思えた。
 フェイトはその歪みに囚われて、出口のない迷宮を彷徨っているのだ。
 アルフは最初からアゼルも、プレシアも信用していなかったが、特にここ数日間のアゼルの振舞いに対して、溶けることのない雪のように猜疑心が積もり重なっていた。
 耳の奥に何度も木霊する、アゼルを信用するなという一葉の言葉。

 __アゼルはなにを隠している?

 __あのガキはなにを知っている?

 __プレシアはなにをしようとしてる?

 誰にも助けを求めら得ない四面楚歌の状況の中で、アルフもフェイトと同じように神経がすり減り、胃を痛ませていた。

 「そろそろ行こう。 次のジュエルシードの大まかな位置は特定できてるし……、これ以上母さんを待たせるわけにはいかないよ……」

 「フェイト……。 アゼルもいないし、今日ぐらい休んだって……」

 アルフが心配そうに言うと、フェイトは薄い笑みを浮かべて首を横に振った。

 「大丈夫。 兄さんがいない間も、ちゃんと探さないと。 それに、ジュエルシードを探してたら、また一葉に会えるかもしれないし……」

 「そうじゃなくて! 広域探索魔法を使うにしたってかなりの体力がいるっていうのに、ここ最近のフェイトはろくに休まないどころか食べてだっていないじゃないか!! このままじゃ身体が持たないよ!!」

 アルフは声を荒げるが、フェイトは涼やかな風をいなすような長い睫毛の影を瞳に落としながら言葉を重ねた。

 「平気だよ。 私、強いから」

 その言葉が、中身のこもらない虚勢であることなどアルフには直ぐにわかった。
 フェイトは、凛とした立ち振る舞いでベッドから降りると、バルディッシュを発動させ、黒衣のバリアジャケットで身を包む。

 「行こう。 母さんが待ってる」

 「……フェイト」

 硝子のように清く薄く、氷のように冷ややかで、鋼鉄のように硬い意思を纏うフェイトを、アルフは言葉で止める術など持ってはいなかった。


 ◆◇◆


 煌めくネオンの看板と、そびえる電気の光が夜の闇を押し返すビルの密林に群れる雑多に行きかう人々は繁華街を目指したり、駅に向かったりと様々だが、人ゴミに紛れながらも誰もが一人きりのように振舞う。まるで幽霊の溜まり場のような夜の街をなのはは歩いていた。

 初めて夜の街に繰り出した時の新鮮さと興奮を忘れたわけではないが、あの時は隣に一葉がいた。
 共有する秘密の時間や、好奇心と冒険心が灯り、なのはにとっては内緒の楽しみの一つだったというのに、今ではそんな火も燻ぶりもせず完全に消えてしまい、心の中は鬱々として暗がりが支配している。
 なにに出会っても面白みに欠け、こんな陰鬱な気持ちがさらなる不幸を招いているのではないかと思ってしまうほどだ。

 なのはが家を飛び出してから幾時間が経過しているが、空疎の強がりを漲溢させるなのはに遠慮してかユーノは口数が少なく、二人の間に会話はなかった。

 オフィス街を中心に散策していたなのは達は、最後に一際人口が密集する駅前のバスロータリーに辿りつく。
 駅ビルの上層に設置された、巨大な街灯スクリーンを見上げると夜の空にボウと青白く浮き上がる画面の中で、ニュースキャスターが今日の出来事を淡々と読み上げていた。
 そして、その画面の端では、デジタル時計が既に午後の七時を過ぎたことを示している。

 「タイムアウトかも……。 そろそろ帰らないと」

 塾もない日に、これ以上夜の街を歩き回るわけにもいかないし、家ではもうじき夕食の時間だ。
 残念そうに声を漏らすなのはに、ユーノは口を開いた。

 「大丈夫だよ。 後は僕が残って、もう少し探すから」

 「う……、うぅ~ん……。 ユーノくん、一人でも大丈夫?」

 ユーノの提案に、なのはは心配そうに眉を八の字にする。フェレットが街中に一匹歩き回っていて、猫や狸に襲われないか心配だった。

 「大丈夫だよ。 だから、晩御飯ちゃんと取っておいてよね?」

 ユーノは少しでもなのはの気を和らげようとおどけた口調で言うと、なのはも後ろ髪を引かれる思いを感じながらも渋々ながら了承した。

 ユーノはなのはの服を伝ってスルスルとアスファルトの上に降りると、見下ろすなのはと手を振り合ってから、雑多に行きかう人の足の間を縫うように歩き出した。

 なのははユーノの姿が見えなくなるまで見送ると、急いで家路につくことにした。

 繁華街の出口にさしあたった辺りで、ポケットの中の携帯電話が振動する。
 なのはは急かしながら動かしていた足を慌てて止めて、携帯電話をポケットから取り出した。

 ひょっとしたらアリサか、すずか。もしかしたら一葉から連絡がきたのかもしれないという期待と不安が入り混じる。
 今朝、ケンカ別れしてそれっきりのアリサの怒った顔が脳裏に過り、居心地の悪い感傷となってなのはの胸を小さく突いた。

 心の中で静かに溜まっていく後悔と罪悪感に、なのはは微かに震える指で折りたたまれた携帯電話をパカリと開く。

 『晩御飯もう出来てるよ! 今日はなの葉の好きなハンバーグ(o^∇^o)ノ 早く帰っておいで!』

 桃子からだった。
 小さな液晶に移された文字を見て、大きな溜息とともに力が抜ける。

 なのはが学習塾に通っているのもあり、高町家は門限に関しては寛容だがここ最近帰りが遅くなるのが目立ってきたせいもありこの前桃子にチクリと言われたばかりだった。
 別に遊びまわったり、やましいことをしているわけではないが、家族に事情を話すわけにもいかず、その時は言葉を曖昧にして誤魔化したのだが、それでも追及してこなかったことを考えると、もしかしたらなにかを察してくれているのかもしれない。

 念のために新着メールを受信して見ても新しいメッセージはなかった。

 親友であるアリサにも、すずかにも事情を説明できないことを思うと、皮肉にもこの状況は好都合なのかもしれない、と胸を撫でおろす自分がなんとも打算的に思えて胸が痛くなる。
 携帯電話を折りたたんで再びポケットの中にしまうと、なのはは胸の痛みを振り払うかのように首を大きく振って、自分の頬を二回叩いた。

 自分が今、なにを一番にするべきなのか。それだけを考えよう。
 今必要なのは、ジュエルシードだ。
 それを回収し終え、ユーノに渡せばきっとなにもかもがうまく収まる。

 そんなこと都合の良い解釈だ、世界はそんなに甘くできてはいないと頭に居る冷静な自分が囁くが、そんな妄想でも信じなければ心が折れてしまいそうだった。
 それに、妄想であろうとなんでも関係ない。自分が信じなければ、なにも始まらないのだ。
 自分が一葉を信じなければ、自分は一葉に信じて貰える資格などないのだから。

 ジュエルシードは自分が全部回収する。例え、どんな邪魔が入ろうとも押しとおしてみせる。
 なのははそんな決意を胸につくと、突然世界が灰色に塗り替えられた。


 ◆◇◆


 フェイトはアルフとともにビルの摩天楼の一つに舞い降りた。

 空は闇。
 ビルの屋上から見る足元は、街の明かりがひしめいて、まるで地上から星空を見下ろしているような気持ちになる。
 吹き荒れるビル風に晒され、フェイトの金髪と黒いマントが風を孕み意識を持っているかのようにはためく中、フェイトは準待機状態になっているバルディッシュを空へと掲げた。

 広域探索の魔法で大まかなジュエルシードの位置は割り出している。それでもやはり細かな位置の特定は地道な作業が必要となる。
 探索に特化した補助魔導師ならばもっと詳しい位置を割り出せるらしいが、フェイトには大気に混じって彷徨する魔力の残滓を感じ取る程度しかできなかった。

 だが、この近くにあるというのならば話しは早い。
 ジュエルシードを渡す期日が迫るっている今、無駄な手順は踏みたくなかった。
 ここら一帯に魔力を流し込んでジュエルシードを強制発動させれば、多少の危険は伴うが最も手早く、確実にことを済ませることのできる方法だ。

 フェイトはそれを実行しようと魔力を溜め、止められた。

 「フェイト、待って。 それ、私がやるよ」

 燈色の毛並みの狼が、フェイトを見上げなら口を動かす。
 アルフはフェイトとの付き合いが決して短くなく、浅くもない。説明がなくとも、フェイトがなにをしようとしていたのか直ぐにわかった。

 「大丈夫? けっこう疲れると思うけど」

 「フン! 私を一体誰の使い魔だと思ってるんだい?」

 アルフを気遣うフェイトの言葉に、アルフは皮肉気に口元を吊り上げた。

 この子はもっと自分の使い魔を……、いや。自分の使い魔だからこそ信用できないのかもしれない。
 慎ましかやであるや、分を弁えていると言えば聞こえはいいかもしれないが、フェイトはいつも自分を卑下する傾向がある。
 大魔導師と呼ばれた母親や、才能の塊のような兄に囲まれ育ったせいかもしれないが、そもそもあの二人が規格外すぎるのだ。

 物心がつく前から過ごしてきた時の庭園という井戸の中で共に過ごしたのは、変えるなんかじゃなくて二匹の蛇だ。
 あの二人を基準に考えること自体が間違いだというのに、フェイトはそのことに今も気付かず自尊心や自信というものは根こそぎ無くなっていた。

 フェイトはアルフの言葉に一瞬躊躇するも、ふと笑みを浮かべる。
 自分にできることは、使い魔にもできる。そのことぐらいはわかっているようだった。

 「じゃあ、お願いしようかな?」

 フェイトの言葉を合図に、アルフは自らに内包された魔力を一気に解放した。
 四肢をつけた地には燈色の魔法陣が浮かび上がり、ビル風を巻き込んで魔力が編みこまれた凄まじい旋風が雲を砕く。
 暴風となったアルフの魔力は、姿を見せないジュエルシードと歌を奏で合うクジラのように共鳴し、辺りの魔力の海に沈ませた。

 この時のアルフの失策は周囲に他の探索者がいないと思い込んでいたことだ。
 ジュエルシードを求める呼び声は、一人の少女と一匹のフェレットまでもを呼びよせてしまった。


 ◆◇◆


 風のそよぎが耳を掠めるときのように、首筋にチクリとした微かな違和感を感じた。

 ユーノは忙しなく動かしていた短い四肢を止めて、耳をひくひくと動かす。
 一瞬、気のせいか?と、自分の感じた違和感を疑うが、それは空を覆う現象によって否定されることになる。

 夜の闇と雲を巻き込む魔力の渦が、大地を揺るがした。

 「これは……」

 術式を構築するわけではない、一切の指向性を持たない垂れ流すだけの魔力は、瞬く間に夜のオフィス街を飲み、新たに、感じ慣れたジュエルシードの魔力が突然現れた。
 姿を見せない敵とジュエルシードの絡みあうような旋律は歓喜に満ちた産声のようでいて、膨大な魔力の塊となり空を穿つ。

 「結界も張らずにジュエルシードを強制発動させたのか!? くそ!! 広域結界、間に合え!!」

 固体を口から吐き出すように悪態をつきながら、ユーノは背中からなにかに追われているかのような切迫さで結界を展開する。
 足元に浮かび上がる若草色の魔法陣は切り離す世界と、新たに構築する仮想世界の計算式を刹那の間にはじき出し、それを実行に移した。

 人工の光に溢れた雑多な街は、灰色の景色とともに静寂に包まれ、同時にユーノは戦慄した。
 魔力を持たないものを排除する世界。音も時間も死んだこの世界にいるはずの、姿を見せなかった誰かの存在に、稲妻のような緊張と氷柱のような恐怖に身を強張らせる。

 一体誰がこんなことをしたのかなんて、ユーノでさえもわかる。ジュエルシードを集める自分たち以外の探索者が近くに居るのだ。
 そして、ユーノの脳裏には酷薄な笑みを浮かべる金髪の少年の顔が過った。

 ユーノはアゼルと名乗った少年の戦闘を一度した見たことはない。それも、自分が戦ったわけではないが、傍観に徹したからこそ客観的に自分とかけ離れ過ぎた実力を理解することができた。

 ユーノが重力と水に縛られた哀れな魚だとしたら、アゼルは重力を振り切った鳥だ。
 牙も爪も持たない魚が、翼と嘴をもつ鳥に敵うはずがない。
 窮鼠猫を噛む、という言葉もあるが、アゼルの前では鼠にすらなりえないのだ。

 ユーノは警戒に身を強張らせていると、視界の端になのはが走ってくるのを捉えた。
 突然起きた異常事態に慌てて引き返してきたのだろう。

 静寂の街に響く足音が近づいてくる。
 例えなのはと二人がかりでも、アゼルには勝てない。
 陽の光に溶かされる雪のように無慈悲に、風に散らされる花のように残酷に命を奪われる。

 ユーノの頭の中では、警鐘が鳴り響いてた。
 ここは危険だ、早く逃げよう。
 駆け足で近づいてくるなのはにユーノは叫ぼうとして、声を詰まらせた。

 なのはは、ユーノを見ていなかった。

 轟々と吹き荒れる魔力の旋風の中で、獲物を見つけた猛禽のような爛と底光りする視線は、灰色の空を射抜いている。

 いや、空ではない。
 今までなかったはずの虚空に猛然と蒼い魔力を放出する柱が、灰色の空を貫いていた。

 大質量の魔力が満ちた空間で、その発生源を探し当てるのは砂漠で一粒のダイヤを見つけるのと同じぐらいに困難だ。
 それも、ジュエルシードのように発動するまで魔力を潜ませるタイプのものなら尚更発見は困難になる。
 だが、なのははジュエルシードが完全に発動する直前に的確にその場所を嗅ぎあて、目指していた。

 __予測できたのか!? こんな魔力流が吹き荒れる中で、ジュエルシードの的確な位置を!?

 それは、本来はなのはのような砲撃魔道師が持つ才能ではなく、微細な空気の流れを読むユーノのような結界魔導師の領分だ。
 訓練を積めば、ある程度魔力の流れを読むことはできるようになるが、そのほとんどは持って生まれた才能に左右される。
 つまり、なのははそれだけの才能を持っているということになり、ユーノは驚きを隠せなかった。
 だが、今はその驚きに身を竦ませている場合ではない。

 __近い! この距離だったら……!!

 ユーノの心臓が跳ね上がる。
 ジュエルシードとなのはの距離は二百メートルも離れていない。
 これならば、回収して即離脱することが可能だ。

 『なのは、聞こえる!? シューティングモードでそこから回収するんだ!!』

 『うん!』

 足の速度を緩めないなのはに、ユーノは押し出すような声で念話を飛ばす。
 なのははその声に返事をしながら、ユーノの前を通り過ぎると同時に首にぶら下げたレイジングハートを発動させる。

 「お願い! レイジングハート!!」

 なのはが叫ぶと桃色の閃光が、なのはの服をバリアジャケットへと変化さえ、赤い宝玉は杖となってなのはの手に収まる。

 なのはは地面を擦り立ち止まると、レイジングハートをシューティングモードに移行させ、魔力を込める。
 視線の先にはジュエルシード。空へと構えたレイジングハートに込められた弾丸を、も標的に向ける。

 「リリカルマジカル! ジュエルシードシリアルXIV! 封印!!」

 放たれた魔力は枷を外された獣のような勢いでジュエルシードに襲いかかる。

 大気を砕きながら直進する桃色の流星はなのはの狙い通りにジュエルシードに直撃したが、蒼い魔力を放出する宝石を飲みこんだ閃光は、桃色の光だけではなかった。


 ◆◇◆


 「見つけた!!」

 パレットで掻いたような蒼色の柱を見据えて、フェイトは声を震わせた。
 アルフの魔力に反応して姿を現したジュエルシードは、あまりにもその姿を目立たせすぎ、他の探索者にもその姿を惜しみなく晒してしまっていた。

 「フェイト! 向こうも近いよ!」

 アルフが押し出すような声を張り上げる。
 魔力が渦巻く空間を突如として閉ざした結界は、自分たち以外の魔導師の存在を教えてくれた。
 軽快に身を強張らせる視線の先には桃色の灯。フェイトもアルフも、その魔力光に見覚えがあった。

 二日前のあの森で、自分たちに牙を剥いてきた少女のものだ。
 目視で見る限り、その魔力光はジュエルシードの挟んで自分たちが立つ位置の直線上。ジュエルシードまでの距離も、そう変わらない。

 フェイトは魔力の光を確認すると同時に、準待機状態にしておいたバルディッシュをシューティングモードにシフトチェンジする。
 フェイトから流し込まれる魔力によって、バルディッシュの杖頭から虫の翅のような四枚羽を思わせる魔力が放出される。

 目標はジュエルシード。
 あの少女よりも早く、この一撃を届かせなければならない。

 「ジュエルシードシリアルXIV! 封印!!」

 フェイトの叫びに呼応し、バルディッシュは込められた魔力を弾き出す。
 黄金の箒星は大気に悲鳴を上げさせ、風邪をひき裂きながらジュエルシードに衝突した。

 桃色の魔力との衝突は、同時だった。
 視線の先で桃色の魔力と自分の魔力がジュエルシードを呑みこんだままぶつかり合い、ひしめき合う。
 拮抗する魔力は磁石の同じ極をぶつけ合った時のような激しい反発感をフェイトの手に走らせた。

 __一葉に守られてただけのあの子が……! なんでこんな力を……!!

 胃の底から噛みしめるように滲み出る苛立ちを嘲笑うかのように、バルディッシュを押し返す少女の魔力はさらに強くなり、フェイトは負けじと手に力を込める。

 双方から解き放たれた魔力の衝突がしばらく続いてから、ジュエルシードは一瞬だけ強い光を放ちぶつかり合う魔力を相殺すると、物言わぬただの石のように反応を示さなくなった。

 相反し合う魔力に過剰反応を起こし、逆に安定したのか狂ったように吐き出していた魔力はすっかり沈黙し、ただ宙に浮いていた。

 暖簾に腕を押したときのように手応えがなくなった感触に、フェイトはバルディッシュに魔力を装填する作業の手を止める。

 それは、ジェルシードの向こう側に居る少女も同じだった。

 金色と桃色の魔力の残滓が風に吹かれた花びらのように散っていく。
 ビルの上からでは、肉眼で少女の姿を確認することなどできないはずなのに、フェイトは見据える夜の街で、その少女と視線がぶつかり合った気がした。


 ◇◆◇



[31098] 20!
Name: mitakanoyaaneko◆723d915d ID:70c0b672
Date: 2012/08/16 23:26

 ぶつかり合う魔力の手応えがなくなった頃、なのははなぜだか初めてアリサとすずかと出会った時のことを思い出していた。
 あの時はすずかに意地悪をするアリサが許せなくて、意地悪をされているのに泣き喚くだけでなにもしないすずかに腹が立って、暴力でしか訴えかけられない自分が情けなくて、そしていきなり現れて場を鎮めた一葉が羨ましかった。
 自分も、ああいう人間になりたい。
 その羨望ともいえる感情に、なのはにとって一葉は自分が追いかけて目指す背中になったのだ。

 魔力を通して伝わってきた感情は、哀しみだった。

 あの時、なにもできなかったすずかのような、仲好くなりたいのに意地悪するしか方法を知らなかったアリサのような、理不尽を言葉にできなくて暴力をふるうことしかできなかった自分のような、その全てが混ぜ合わせられた戸惑いと不安の感情。

 わけがわからなかった。

 烏めいたバリアジャケットを纏う少女が、金髪を風に躍らせながら空から姿を現す。
 傍らには、燃えるような毛並みを持った燈色の狼。
 ジュエルシードを挟んでぶつかり合う視線に、なのはは身構えた。

 __なんで?

 金髪の少女は、海の底に居る貝のように口を閉ざしたまま、冷めた視線でなのはを見下ろすだけで言葉を発しない。

 __なんで?

 灰色の世界に浮かんで見える、反りの入った月の色の刃を携える少女は、まるで命を刈り取りにやってきた不遜な死神のように見えた。

 __なんで?

 赤く揺らめく双眸には冷たい敵意が満ちていて、氷の塊を背筋に這わせたかのような不快感を覚える。
 こうして少女と対峙するのは二回目だ。
 初めて会ったのは二日前の森で、あの時は燃え上がった激情に任せて少女に襲いかかってしまった。
 なぜなら、あの少女は自分から大切なものを奪っていったのだ。

 緋山一葉という、友達を。
 彼の隣という、大事な居場所を。
 それなのに……

 __なんで、あんなに寂しそうな目をしてるの?

 なのはが見上げる少女の目は、敵意の下に深い哀しみを湛えているように見えた。

 行き場のない孤独。
 やり場のない哀しみ。
 なにを恨めばいいのかわからない、戸惑うばかりでどうすることもできない静かな怒り。

 その目を、なのはは知っていた。
 あれは、二年前の自分とまったく同じ目だ。


 ◆◇◆


 空から糸で垂らされているかのように宙に浮かぶジュエルシード。
 その向こう側に佇む白いバリアジャケットを纏った少女に対して、フェイトは胃の底から重い鉛の塊が込み上げてくるような感情を感じた。

 自卑でも謙遜でもなく、自分の持たないものを……、友達というものを持っている白い少女に対して、フェイトは強い嫉妬を覚えていた。

 ジュエルシードがあろうがなかろうが関係ない。敵対する理由など、それで充分だ。
 なにも言うべきではない時、それは口で証明するものではなく、また慎むものでもない。

 フェイトは昔、世界にある幸福値はいつだって一定に決まっていて、誰かが幸福になれ分、知らない誰かが不幸になると言うお伽噺を思いだしていた。
 もしも、そんな夢物語のようなことが本当にあるとしたら……、目の前に居るあの少女を消すことができれば、あの少女が今まで幸福だった分、今度は自分が幸福になれるのではないか。
 そんな危ういことを考えていた。

 お伽噺は所詮、作られた物語りでしかない。そんなことはわかっているのに、フェイトはどうしてもあの少女の居場所が欲しかった。

 自分が渇望した友達の隣……、緋山一葉という少年の隣が……。

 __Styte fore.

 バルディッシュの声が手から響く。それが戦いの狼煙となった。

 緊迫した空気を破壊するかのように、アルフが少女に躍りかかる。
 殺意と敵意に剥き出された牙と爪に容赦などという生易しいものはなく、さながら調教された猟犬の如くに主に仇なさんとする敵に襲いかかった。

 白い少女が、ハッとした表情をつくる。
 回避行動をするわけでもなく、防御魔法を発動させるわけでもない。ただ反射的に両腕で顔と頭を保護する体制を取っていた。
 それだけで、あの少女は戦闘に慣れていないど素人ということがわかり、フェイトの中の苛立ちがさらに重たいものとなった。

 __一葉は、もっと迅かった

 __一葉は、もっと強かった

__一葉は、もっと美しかった

 自分が目指す道の、さらにその果てに立つ少年の隣に、こんな不様を晒す少女なんか相応しくない。
 そんなこめかみが痛くなるほどの苛立ちと嫉妬が胸中で渦巻きながらも、フェイトは自分でも驚くほどに冷静に少女を見下ろしていた。

 もし、うっかりアルフが少女の薄い胸を爪で引き裂いてしまっても、細い首筋に牙を突き立ててしまったとしても、同情など微塵も感じない。
 弱いくせに、あの少年の隣に居る方が悪いのだ。

 蟻を踏みつぶす時のような冷徹さで、フェイトは一直線に少女に飛びかかるアルフの背中を見ていたが、フェイトの期待に反してアルフの牙も、爪も、それどころ伸ばした四肢させも少女に届くことはなかった。
薄緑色の障壁が、アルフの一撃を阻んでいた。

 「……使い魔か」

 フェイトは小さく舌打ちをした。
 そういえば、少女を初めて見かけた時も、二日前にもあのフェレットがいた気がする。あまりにも影が薄かったので今まで忘れていた。
 だが、それは大した問題ではない。
 アルフがあの使い魔に阻まれたというのであれば、簡単だ。
 自分で斬りかかればいい。

 フェイトは、自分の足元に魔力を集中させ、一気に弾けさせた。

 「アルフ! 使い魔の方をお願い!!」

 「ガッテン承知!!」

 薄緑の防御魔法と拮抗し、足止めされていたアルフは叫ぶようなフェイトの指示に瞬時に反応して、障壁から飛び退く。

 カツリ、と爪をアスファルトに付け防御魔法を展開していた金色のフェレットを睨みつけ、殺意を纏わせた牙をユーノに向けた。


 ◆◇◆


 悪意と怒気と見下し、そして隠された嫉妬。
 遠慮もなくぶつけられる負の感情に、なのははたじろいでいた。

 緊迫する空気が爆発したかのように、少女は金色の閃光となってなのはに襲いかかる。
 獲物を貪る鮫のような斬撃は、桃色の障壁を削りながら何度もなのはに斬りかかる。

 今はまだ、防御魔法が持ってくれているからなんとかなっているが、それも時間の問題だった。
 なのはは少女が視界に迫ってくるタイミングを見計らって、足元に魔力の渦を集中させる。
 __Flashu move.

 レイジングハートにインストールされていた、特殊な回転をかけた移動魔法だ。
 空を薙ぐ大鎌の一撃が、虚しく大気を斬る。

 フェイトは、一瞬、視界の外から消えたなのはを探す為に身体を硬直させた。なのはは後ろに居た。

 「くっ!?」

 突きつけられた杖の矛先は既に砲撃魔法の装填が済んでいて、魔力光が揺らいでいる。
 背後を取られたことの驚きを押し殺しながらも、フェイトは反射的に防御魔法を発動させた。

 __Divine shooter.

 なのはのレイジングハートから、弾丸のような一撃が撃ち出される。
 フェイトが展開した防御魔法は、魔法弾の衝突に重苦しい衝撃が響き、金色の欠片が空に散る。
 数瞬、煌めきに遮られた視界の中で、フェイトは咄嗟になのはとの距離を取り、次の一撃に身構えた。
 だが、なのはは矛先をフェイトに向けるだけで追撃の一撃を放とうとはしない。

 __知りたい

 ぶつかり合う視線。
 フェイトは体勢を立て直し、刃のように鋭い目つきでなのを睨む。

 __知りたい

 なんでそんなに悲しい目をしているのか、なのはは知りたかった。
 自分はもしかしたら、勘違いをしていたのではないか。そんな気持ちが胸の中でぐるぐると渦巻いていた。
 少なくとも、目の前の少女はすずかの家の庭で会った少年とは全く違うように思えた。

 あの少年は、人の姿をしているのに人以外のなにかを見ているかのような気持ち悪さがあった。

 だけど、この少女は違う。
 きっと、自分と同じだけなんだ。
 誰もかれもに追い抜かれていってしまう孤独感に追い込まれて、御しきれない感情をどこにぶつけたらいいのかもわからない、道を見失ってしまった迷子なだけなんだ。

 「フェイトちゃん!」

 なのはが叫ぶ。
 二日前に、一葉が少女を呼んでいた時の名前が、なのはの耳に残っていた。
フェイトは突然、名前を呼ばれたことに驚きを隠せず、バルディッシュを構えたまま顔を硬直させる。
 なのはは、その隙にぎこちない声で喉を震わせた。
 「えっと……、一昨日はごめんなさい! 私、なのは! 高町なのは!! 私立聖祥大学付属小学校三年生!!」

 __Photon lancer.

 フェイトが手にしている死に鎌が光る。

 「……!?」

 __Protection.

 なのはの名乗りに、フェイトは攻撃で答えた。
 誘導型ではない高速直射弾にレイジングハートは辛うじて反応できたが、相殺しきれなかった衝撃に身がたじろぐ。

 「……あなたが何者でも、私には関係ない」

 「関係なくなんてない! だって、私は一葉くんの友達だもん! フェイトちゃんだって……!」

 「うるさい!!」

 一葉の声を出した途端、今まで氷のように固く冷ややかだったフェイトの表情が歪んだ。
 凍てつく大地に咲く荊の棘のような鋭い視線でなのはを睨みつけ、再びフェイトがなのはに襲いかかる。

 斬りつける刃。
 いくらレイジングハートが防御能力に長けているとはいえ、限界がある。
 徐々にだが、確実に蓄積されていく衝撃がなの葉から体力を奪っていく。そうなれば、自然と魔力結合も緩んでしまう。
 息をつく暇さえ与えないフェイトの高速攻撃を弾く、なのはの防御魔法の堅さが落ち込んできている。
 魔法を構成する桃色の輝きも、精彩を欠き始めていた。

 「待って……! 話しを聞いて!!」

 「必要ない! 言っても、どうせあなたにはわからない!!」

 胸が抉られるほどに痛々しい声で、フェイトは叫ぶ。

 「友達がいて……! 一葉がいて……! 優しくしてくれる人がいるあなたなんかに……、私のことがわかってたまるか!!」

 なのはの防御魔法が砕け散る。

 「きゃあぁ!!」

 フェイトの凶刃が、なのはの左肩を袈裟に切り裂く。
 非殺傷設定の一撃は、バリアジャケット越しということもあって肉体に傷は負わないが、勢いのままに薙ぎ飛ばされ、なのはは整然と立ち並ぶビルの一つに叩きつけられた。

 魔法による一撃で、魔力の源であるリンカーコアにダメージが蓄積される。内臓を直接殴られたかのような衝撃に、胃の中の内容物が喉元まで逆流してきた。

 「ぅえ……」

 なのはは背中に痺れを感じて、飛行魔法がうまく維持できない。重力のままに落下しそうになるのを防ぐのが精いっぱいだった。
 視界に火花が散る。どうやら頭を打ったらしい。

 だが、なのははそれでも立ち上がれた。
 レイジングハートの力も借りて、魔力を足にしっかりと喰いこませ虚空に立つ。
 立ちあがってなのはが見たのは、星が死んだ夜空を背負う、金色の死神の姿だった。

 「ジュエルシードから手を引いて。 次は、手加減しない」

 言葉を失うほどに、美しかった。
 元々、可愛らしい女の子だと思ってはいたが、こうして当り前の日常から乖離した状況で見ると、まるで編みあげられた物語に登場する月の女神のようだ。
 こうして、ビルに叩きつけられ不様を晒す自分とはまるで違う。

 だが、今は見惚れている状況ではない。
 言いたい放題言われたままで黙っている方が、よほど不様だ。

 「最初から……。 わからないって決めつけないでよ……」

 一昨日の、嫉妬に狂った青い炎はどこかに消えてしまった。
 今、なのはの胸にあるのはフェイトを……、自分と同じ寂しい目をした少女を知りたいという欲求だけだ。

 「話しあったり……、言葉にする前からぶつかり合っちゃえばわかるものもわからないよ……。 私は……そんなの嫌だ! なにもわからないままぶつかり合うのなんて!!」

 「一昨日はそっちから仕掛けてきた癖に」

 「それは……。 あの時は本当にごめんなさい……。 でも、今は違う。 私はフェイトちゃんと話しがしたい。 フェイトちゃんとなんで戦わなきゃいけないのか……、その理由が知りたいんだ」

 なのははフェイトと視線をぶつけ、言葉を重ねる。

 「私がジェルシードを探すのは、ユーノくんの為。 ジェルシードはユーノくんが見つけたもので、それを元通りにしなきゃいけないから私もお手伝いしてる。 最初は……、状況に流されてるだけだったけど今は違う! 今は、私は自分の意思で集めてるの! ジェルシードは危険なものだから……、そのせいで私の大切な人たちが危険な目に合うのが嫌だから、私はジュエルシードを集めてる!! それが、私の理由!!」

 「だから?」

 「……え?」

 冷ややかな声が、なのはの胸を貫く。

 「だからなに? そんなこと、私には関係ない。 あなたの戦う理由を聞いたからって、あなたが私の戦う理由を知ったからって、それが戦いをやめる理由にはならない」

 「そんな……」

 霜のように薄く、冷ややかなフェイトの声に、なのはは言葉を失った。
 燃え上がる感情を抑え込む声色の下は悪意と憎しみが見え隠れしていて、フェイトの内側に軋む哀しみの音色のようにも聞こえた。

 「言いたいことはそれだけ? だったら……」

 フェイトは月の光のように揺らめくバルディッシュの切っ先をなのはに向け、なのはもその晒された敵意にレイジングハートを構える。

 「なのは!!」

 再びなのはとフェイトの間に張りつめた空気の糸を切り裂いたのは、押し出すようなユーノの叫び声だった。
 対峙していた二人の注意がユーノに向く。アルフに追いかけまわされていたユーノは激しく息を切らしながらも、切迫した眼差しで貫く視線の先ではジュエルシードが鈍く輝き異変の兆候を示していた。


 ◆◇◆


 __まずい!!

 焦りがフェイトの胸の奥を締め付ける。
 周囲の魔力を呑みこんで、危うい光を湛えるジュエルシードは明らかに暴走の兆しを見せていた。
 初撃の打ち合いでジュエルシードは安定したものだと思い込んでいたが、実はその逆で飽和状態になっていたのだ。

 辺りは戦闘で放出されたフェイトとなのはの魔力で満ちている。
 飽和状態になったジュエルシードは、並々と酒を注がれた盃と同じだ。後一滴の魔力が零されれば、たちまちに溜めこんだ力を暴走させるだろう。
 そうなってしまう前に、封印をしなければならない。

 フェイトはバルディッシュの穂先をなのはからジュエルシードに移し、投擲された石のような勢いで飛び出した。
 ジュエルシードが放出する圧力に晒されて、濁流に呑みこまれた時のような抵抗感が身体全体を突き抜ける。
 その衝撃に、肉も骨も悲鳴を上げていた。

 だが、逃げるという選択肢は、フェイトの頭の中には存在しない。
 瞬きもせずに見つめる先には、自分の求めるものがある。この場で無茶をする理由はあっても、引く理由などどこにもないのだ。

 __間に合え!

 祈るような気持ちで手にしたバルディッシュを伸ばす。が、視界の端に捉えた影に、フェイトは一瞬の驚きと苛立ちで顔を歪ませた。

 フェイトの横には、なのはがいた。

 フェイトと同じようにレイジングハートを伸ばし、ジュエルシードが発する凄まじい魔力の流れの中を必死の形相で逆らい進んでいる。

 ここまでジュエルシードの魔力が不安定になってしまえば、遠距離からの狙撃による封印は不可能だと判断したのだろう。
 それは、正しい。フェイトもまったく同じ判断をしていた。

 桃色と金色が、一つの青色を目指してぶつかり合う。

 拮抗する力によって、激しい火花が散る。その一撃が、ジュエルシードにとっての最後の一滴だった。

 溜めこまれた圧力が、一気に弾き出される。

 「きゃあぁぁぁ!?」

 「くっ!」

 衝撃の余波に、フェイトは体制を崩しながらも直ぐに整える。
 揺らめく視線の先では、なのはが体制を立て直せずに、風に舞う花のように遠くまで飛ばされていた。

 好機だ。
 フェイトは、一度は崩れた封印術式を再び構築しようとバルディッシュに魔力を込めようとする。そして、そこで初めて気が付いた。
 自分の相棒であるデバイスが、外装だけでなく核までにも亀裂が入り、これ以上の酷使は危険だと警告の点滅を示していた。

 デバイスは魔力を含んだ特殊な合金で出来ている。俄かな衝撃では傷一つ入ることはないというのに、フェイトの手にするバルディッシュは、触れればそのまま壊れてしまそうなほどに痛んでしまっていた。

 ジュエルシードの威力は、それほどまでに凄まじいものだったのだ。それにも関わらず、自身に傷一つなかったことは僥倖なのか……。いやで、違う。
 本来だったら、肉体に受けるはずのダメージを、バルディッシュが全て受けてくれたのだ。だからこそ、この程度で済んだ。

 「バルディッシュ……」

 __Ich bin Ordung kann e simmer noch machen.

 大丈夫だ。自分はまだやれる。
 バルディッシュはそう言う。
 だが、これ以上のバルディッシュの酷使は危険だと、メンテナンス技術では素人であるフェイトでもわかる。

 「大丈夫だよ、バルディッシュ。 戻って」

 __Aber.

 「大丈夫だから」

 __Ja…….

 渋々、といった感じでバルディッシュは準待機状態に入りフェイトの手に戻る。
 バルディッシュの力が今借りられないのは大きな痛手だが、大事な相棒をこんなことで失うわけにもいかなかった。
 それに、これ以外の手段がなくなったわけでもない。

 フェイトは、ジュエルシードに目を据えた。その視線の先では、ジュエルシードが悠然と蒼い輝きを放っている。

 上等だ。

 そんな思いを胸に、フェイトは地面を滑るかのように疾走する。
 その動きには躊躇いも遅滞もなく、同時に鬼気迫っていた。

 ジュエルシードの余波は湯気にように揺らめいており、悶えるようにして空を目指している。
 この場から逃げ出したいのか、それとも自分の力を発揮させる為の依代を求めているのか、魔力の残滓は筋のように、そしてやがては紐を編むかのように一つになり、さらにその紐が重力に逆らうように悶え苦しみながら頭を伸ばすように空を目指していた。
 それはまるで、翼を失ってしまった鳥を見ているかのように哀しい光景だった。

 フェイトは、手を伸ばしジュエルシードを掴む。

 「フェイトぉ!!」

 絹を裂くような、悲鳴にも似たアルフの叫びが響く。
 暴走を始めたロストロギアをデバイスなしで封印するなど、不可能を通り越して自殺行為だ。
 だが、フェイトは握りしめた手を解くどころか、指の隙間から溢れ出る濃密な魔力のうねりを閉じ込めようと、ジュエルシードを掴む両手を強く握り直した。

 __止まれ!

 バリアジャケットのグローブが弾けて、皮膚が破れる。腕ごと吹き飛んでしまいそうになるほどの激烈な痛みが駆け巡った。

 __止まれ!

 「フェイトダメだ! 危ない!!」

 アルフの、全身を震わせる叫びもフェイトには届かない。
 手の中で迸る無音の衝撃が、汗の粒を飛ばす。
 __止まれ!

 フェイトはジュエルシードを握りしめたまま、神に祈りを捧げるかのように膝をつき、強引に封印術式を展開した。

 足元に金色の魔法陣が浮かび上がる。
 だが、ジュエルシードの勢いは衰えるどころか、徐々に強くなってきている。

 __止まれ! 止まれ! 止まれ!!

 血が痛みとともに溢れ出る。
 破れたバリアジャケットのグローブはあっという間に赤く彩られ、腕を染める赤い温もりの感覚が少しずつ麻痺していく。

 __お願い! 止まって!

 焦燥がフェイトの胸を押し付け、視界に霞がかかり始める。
 もう駄目かもしれない。必死にしがみつく意識の中で、フェイトに微かな諦観の念が過った時だった。

 頭上に、黒い影が射した気がした。

 突然、フェイトの展開した魔法陣の上を沿うように黒い炎が揺らめき奔る。
 すると、今まで怒り狂う雄牛のように暴れていたジュエルシードの力が瞬間的に弱まった。

 そのまま、黒い炎とフェイトの魔力に抑え込まれるジュエルシードの青い光。まるで、赤子が泣き疲れ眠りに落ちたかのように、今までの騒然が静まり返る。

 いったいなにが起こったのか……。フェイトは震える膝に力を込めて立ち上がろうと視線を上げると、ギョッとした。

 目の前に、黒い鳥が居た。

 時間が止まった異質な世界でも、さらに浮いて見える異質な存在にフェイトは言葉を詰まらせた。

 「まったく、暴走を始めたジュエルシードを素手で封印しようとするなど、無茶無理無謀もいいところですよ。 とりあえず、手を見せてください。 応急処置ぐらいならば私にもできます」

 「え?」

 エメラルドの双眸に射抜かれながら言われた言葉に、フェイトは疑わしげに目を細め、いつでも逃げられる準備をしていた。

 バルディッシュが大破した今、情けない話しだがフェイトには逃げるという選択肢しか残されていない。そんなフェイトの思考を読み取ったのか、怪鳥は溜息ともとれる大きな息をわざとらしく吐いた。

 「敵意はありませんし、そのジュエルシードを奪う気もありませんよ。 あれだけの根性を見せられて横から奪うほど無粋ではありませんからね。 ただ、貴女が傷つくと一葉が哀しむかもしれない。 それだけです」

 突然出てきた名前に、フェイトは目を丸くした。

 「一葉? なんで……」

 「言われてみれば、何度か顔は合わせていますが、こうして話しをするのは初めてになりますね。 話しは一葉から伺っていますよ、テスタロッサ嬢」

 「あ……。 一葉の……、使い魔?」

 フェイトは記憶の中の一葉を思い出すと、確かに初めて会った時、一葉の肩には黒い鳥が居た気がする。

 「使い魔とは少し違いますが、まあ似たようなものです。 一葉と主従の関係を契っていませんが、ベヌウという名を与えて貰いましたからね。 それよりも、早く手を見せてください。 治癒魔法は専門ではないので得意ではありませんが、なにもしないよりはマシなはずです」

 「う、うん」

 フェイトは促されるままに両手を差し出す。それを見たベヌウは、つい顔を顰めてしまった。
 思っていたよりも傷がひどい。
 ジュエルシードの魔力によって傷つけられたフェイトの掌は皮膚が破れ、肉が抉られている。
 滾々と滴る血の流脈の隙間から、白いものが見えた。
 それは骨と、剥き出しになって脂肪だった。
 ここまで手の損傷が激しいと、傷跡が残るどころか手の機能が回復するかさえ怪しい。

 「随分と無茶を押したようですね。 指が原形を留めているのが奇跡ですよ。 痛みは感じますか?」

 「ううん。 あんまり……」

 冷たい汗を額に浮かばせながら、フェイトは答えた。
 掌は感覚が麻痺しきってしまっていて、痛みどころか血の温かささえも感じないというのに気持ちの悪い汗が全身の毛穴から吹き出てくる。

 「だとしたら、おそらく神経もやられてしまっていますね。 私ができるのは応急処置だけです。 早く専門の医者に診せることをお勧めします」

 ベヌウは簡潔に言うと、嘴先でフェイトの手に軽く触れるとフェイトとベヌウの足元に魔法陣が浮かび上がり、黒い炎がフェイトの手に広がった。

 一瞬、ビクリとしたが、手を覆う炎は仄かな熱を孕んでいるだけで身を焦がすような熱さは感じない。
 息を吹きかければ消えてしまいそうな薄い炎は、すぐ消えてしまい幻から醒める時のような飛沫となって散っていく。

 そして、フェイトは驚いた。
 手を濡らしていた血の赤が、無くなっていたのだ。無骨に晒される傷口から覗く骨などに一瞬吐き気を覚えたが、完全に血も止まっている。完璧な止血だ。

 「あ……、ありがと……」

 「止血と消毒をしただけです。 私にできるのはこれだけです」

 治癒魔法は道具が魔力に変わっただけで、医療と同様で決して万能ではない。医療の限界は、同時に魔法の限界でもあり専門の技術と知識が要求される。
 一流の医療魔導師ともなれば傷の回復を促進させたり、血液の精製も可能だが、本来情報戦の機体として開発されたベヌウにはこれで限界だった。

 「しばらくの間、大人しくしているのが賢明でしょう。 その手じゃデバイスも握れませんよ」

 「でも……」

 「アンタァ! フェイトになにやってんだい!?」

 フェイトの言葉を薙ぎ払うかのように、アルフがベヌウに殴りかかってきた。
 狼から人間に形態を変えており、風を砕くような勢いで拳をベヌウに突き出す。
 だが、その拳がベヌウに叩き込まれる直前に、ベヌウは翼を広げ風を巻き起こし、フェイトたちと距離を取った
 アルフは、一度は虚しく空を斬った拳で追撃をかけようとして、フェイトに止められた。

 「アルフ待って! この子敵じゃないから!!」

 フェイトとベヌウの間に立つアルフが、フェイトの制止の言葉にビクリと身体を硬直させる。

 「テスタロッサ嬢の使い魔ですか。 早く、主を連れて帰って下さい。 その怪我は、決して看過していいものではありません。 追撃を恐れているのであれば、向こうの二人には私が話しを通しておきましょう」

 黒い体躯から覗く緑の双眸は冬の湖のように澄んでいて、言葉の通りに敵意や悪意は感じられない。
 だが、フェイトはその瞳に気持ち悪さを感じた。

 使い魔の素体となるのは獣の死体だ。魔法で新たな命と共に知性や理性を与えたとしても、細胞に刻みこまれてしまっている野生を完全に消去することはできない。
 それなのに、目の前の怪鳥には野生というものが微塵も感じられなかった。
 獣の姿をした使い魔ではなく、まるで獣の姿をした人間を見ているかのような矛盾。理解できないのではなく、理解できてしまいそうなことが気持ち悪かった。

 「早くこの場から去りなさい。 私は違くとも、あの二人は貴女たちをすんなりと返す気はなさそうですから」

 フェイトが思考を張り巡らせていると、ベヌウはフェイトたちから視線を外し、なのはとユーノを見た。
 突然の乱入者に迂闊に動けず、遠くから様子を窺っている。

 「行こうアルフ。 これ以上、ここに留まる必要はないよ」

 「で、でもこいつは……」

 フェイトに諭されても、アルフは握りしめた拳を緩めることはしなかった。
 ベヌウの治癒魔法は、遠目から見たら炎熱魔法の攻撃に見えたのだ。自分の主を傷つけようとした相手をこのまま見過ごすことができないという義憤がアルフの中にはあった。

 「いいから。 えと……、ベヌウだったよね? ありがと、怪我を治してくれて」

 「治してませんよ。 私がやったのは傷口に消毒液をぶちまけるのと、そう変わらないことです。 礼を言われることではありません。 それよりも、使い魔の誤解はしっかりと解いておいてくださいよ。 怨みは安く買うものではありませんからね」

 「うん、わかった。 アルフ、行こう」

 「ふん! 命拾いしたね!」

 フェイトはアルフの袖を掴んで促すと、アルフは捨て台詞を吐き出して中指を突き立てた。
 足元に燈色の魔法陣を展開させる。その光に溶けるように、二人は消えていった。


 ◆◇◆


 「ずっと、見てたの?」

 押し殺すような呻りを喉に鳴らし、ユーノは鋭い目つきでベヌウを睨んだ。
 耳元に届くように声を潜めているが、燃えるような怒りは隠しようがなかった。

 「ええ、最初から」

 「だったら、なんでもっと早く出てきてくれなかったんだ。 そうしたら、ジュエルシードが奪われることも、なのはが傷つくこともなかったかもしれないのに」

 「ジュエルシードに関して、私たちは手を引いたと言ったはずです」

 「……ッ! それでもあの子からジュエルシードは奪えたはずだ! あんな得体の知れない奴らにジュエルシードを持たせておくなんて、危険だと思わないの!?」

 ユーノが燃え盛る炎のイメージだとしたら、ベヌウは風に凪ぐ穏やかな水面のようだ。悪びれた様子もなく、ユーノの怒りをいなしていく。

 「ユーノ・スクライア。 貴方は少し勘違いをしているようですから言っておきますが、正直貴方たちがどうなろうと私にとってはどうでもいいことなのですよ。 今回はジュエルシードの暴走が危険だと判断したから手を出しただけです。 なにより、私は貴方が嫌いです。 ユーノ・スクライア」

 平坦な声で言われて、ユーノは背筋がゾクリとした。
 穏やかな目つきのベヌウが全身から滲ませる、涼やかな敵意が見えない刃となって喉元に押し付けられた気がした。

 「このような事が起こってしまった経緯は聞きましたし、それが不可避なものであったのだと理解もしているつもりです。 私の感情が理不尽なものであるということもね。 それでも、考えずにはいられないのですよ。 貴方がいなければ、貴方がこの街に来なければ、ジュエルシードなど落とさなければ、きっと一葉は変わることなどなかった。 壊れてしまうことなどなかったのではないか、とね」

 「一葉くんが、壊れる? それ……、どういうことなの?」

 言葉を挟んだのは、なのはだった。
 ベヌウの言葉が呑みこめず、端的な疑問にベヌウはしばらくの間沈黙を落とす。

 「……いずれ、わかる時が来るでしょう。 その時になって、一葉を責めないであげて下さい。 彼は運命に翻弄された、哀れな少年なのです」

 静かな怒りと、無知を振りかざす者に対する同情と蔑如が入り混じったような低い声に、ベヌウの二人を見る視線に威圧感が増した気がした。

 「貴方たちはなにも知らない。 幼い今はそれでも良いかもしれませんが、いずれ無知が罪であると知る時がくるでしょう。 もっとも、気が付いた時には罪を贖う罰を受けることさえも、許されないでしょうけどね」

 ベヌウは吐き出すように言うと、なのは達に背を向けて虚空に飛び立った。ユーノが展開し続けていた結界の天蓋をぶち破り、その後ろ姿が見えなくなるまでユーノとなのはは重苦しい沈黙で見送っていた。



[31098] 21!
Name: 三鷹の山猫◆b3ece1a7 ID:6c236772
Date: 2012/08/18 15:29
冬の朝のように静謐な石造りの部屋は、病的なほどに清潔だった。
 人を寄せ付けない排他的な空気。その癖、部屋の温度は冷たいのではなく生温かい。暖房を効かせ過ぎなのか、まるで人の吐息が肌に纏わりついてくるようだった。

 「ジュエルシードが六つ……。 たったの、これだけ?」

 部屋の内奥。時の庭園と呼ばれる、この建物の背骨たる巨大な一本柱の前に置かれた黒壇の玉座。
 そこに逞しく座す、不遜なる女帝は気だるげな瞳で、渡されたジュエルシードを指先で宙にクルクルと回しながら、かさついた唇から低い声で言った。

 プレシア・テスタロッサ。
 アゼルとフェイトの母親だ。
 確かな年齢は知らないが、推定四十半ばといったところだろうか。だが、夜の闇よりも深い影のような色のドレスと、仄暗く青い瞳には疲労が滲んでいて、実際の年齢よりも老けて見える。

 困ったような苦笑いを張り付けながら、アゼルは玉座に座るプレシアをバリアジャケットのポケットに手を入れたまま見上げている。
 ちなみに、リニスは外で待機中だ。プレシアは、自身の研究室と直接つながるこの部屋に、使い魔を立ち入らせることを極端に嫌っていた。

 「たったの、って……。 勘弁してよ。 ジュエルシードは発動するまで魔力反応がなくなるっている特性だけでも厄介だってのに、本来の持ち主と争奪戦までやってんだよ。 一週間ちょっとでこれだけ集められたら上出来だと思うんだけど」

 「言い訳は聞いてないわ。 奪い合いになるというのなら、力づくで奪ってきなさい。 遊びで貴方たちを地球に送り込んだわけではないのよ」

 重ねるように、プレシアは口を開く。

 「貴方は私の子供なのよ。 大魔導師と呼ばれた私、プレシア・テスタロッサのね。 できないということが許されないことぐらい、わかっているでしょう?」

 プレシアの口調は淡々としていて、それだけ自分の力に絶対の自信を持っていることが見て取れた。

 かつて、プレシアは遺伝子工学の分野で頭角を顕した研究者だった。若くして多くの研究成果と論文を残したプレシアは紛れもない天才だったが、他にも研究者以外にもう一つの顔を持っていた。
 SSランクという稀有な魔力量に加え、電気の魔力変換資質という二つの才能を持つ最高位の魔道師としての顔だ。
 その才能は血と共に、アゼルとフェイトにも受け継がれていた。

 「できないなんて一言も言ってないよ。 相手が集めたジュエルシードを奪う算段はついてる。 タイミングを見計らって一気に攻めるつもりだよ。 でも、ただね……」

 「……ただ、なにかしら?」

 プレシアは、宙に浮かせていたジュエルシードから、演技めいた気負いの声を出すアゼルに視線を移し、瞳を絞るように細めた。
 行儀の良い笑みを浮かべたアゼルは、一息ついてから言葉を続ける。

 「母さんがジュエルシードを集めてる理由が気になるんだよね。 母さんの専門は遺伝工学でしょ? 畑違いなジュエルシードを集めてどうすんのかなー、って思ってさ」

 「貴方には関係のないことよ。 無駄口を叩いてる暇があったら、早く戻って一つでも多くジュエルシードを集めてきなさい」

 冷ややかにアゼルを見据えるプレシアの表情は変わらない。だが、その表情の温度が下がったのは確かだった。

 「でもね、フェイトはともかくアルフはなにかに感づいてるよ。 あの子は良い意味で術者に似なかった。 もしかしたら、狼としての感の良さがそのまま残ってるのかもね」

 「……まるで、貴方はなにかを知ってるような口振りね」

 「まさか。 それに、母さんがなにを隠していても僕の忠誠が曇ることはないよ」

 軽い口調でアゼルは言ってのけるが、反響する声の残滓にプレシアの目に緊迫が走る。

 カマの掛け合い、騙し合い。

 それが、ここ数年続くプレシアとアゼルの親子関係だ。子犬のように盲目的にプレシアを慕うフェイトと違い、狐のような強かさと蛇のような冷徹さを持つアゼルは、少なくともプレシアが腹を痛めて産んだ子供ではないことは知っているはずだ。
 そう、アゼルもフェイトもプレシアが産んだ子供ではない。だが、だからといって血の繋がりがないというわけではないのだ。
 むしろ、普通の親子よりも遺伝子的には正真正銘の親子だと証明できる。

 だというのに、プレシアはアゼルが気持ち悪かった。
 なにを考えているのかがわからないというわけではない。昔から、なにかの影に怯えているような風に見えていたが、今は違う。
 誰もが目を眩ませる闇の中から、静かに目を凝らす梟のように耽々となにかを狙っているような、そんな気がしてならなかった。

 「ま、僕にとってはたいした問題じゃないし、教えてくれないんだったらそれでいいよ。 ジュエルシードを集めるって、やることは変わらないしね」

 見せかけの忠誠を恥ずかしげもなく掲げるアゼルに、プレシアは利用している後ろめたさなど感じない。

 アゼルはプレシアに背を向け、部屋を出て行こうとする。と、やり残したことを思い出したように足を止め、首だけで振り返る。

 「ああ、そうだ。 言い忘れるとこだったよ。 ジュエルシードを取り合ってる連中の中にね、面白いレアスキルを持ってる少年を見つけたんだ。 一応、報告しておくよ」

 「……レアスキル?」

 プレシアは怪訝に眉を細める。

 アゼルは笑みを消さない。細く笑んだまま、得意げに唇を動かした。


 ◆◇◆


 アゼルとリニスは転送魔法を使って、地球で間借りしている部屋に戻る頃、地球はすっかり暗くなってしまっていた。

 数時間ぶりに帰ってきた部屋には、当然のように誰もいない。
 テーブルの上にはアゼルがコンビニで買ってきた広げっぱなしの新聞と、飲みかけのコーヒーが残ったマグカップが二つ。
 寂しさが支配するこの部屋では、アゼルの存在も希薄になっているような気がした。

 「まったく、実家に帰って夕飯にもありつけないとは我ながら情けない。 アルフにゃ二、三日で帰るっつったのに、まさか三時間程度で追い出されるとは」

 アゼルが身体を伸ばしながら言うと、リニスは躾のなっていない子供を見るような困った笑みを浮かべた。

 「仕方ありませんよ。 プレシアも、きっと余裕がないのでしょう」

 開きっぱなしのカーテンから煌々と差し込む月明かりに反射して輝くアゼルの髪を、後ろから撫でながらリニスは耳元で囁く。

 「プレシアの病は末期に迫っています。 徐々に近づく死に、心は揺らいでいるはずです」

 プレシアはアミロイドーシスを患っていた。
 アミロイドーシスとは、繊維状の蛋白質が沈着して臓器の機能障害を引き起こす病の総称だ。
 この病気は世間的には脳アミロイドーシスと呼ばれる、いわゆるアルツハイマーが有名だが、プレシアの場合は全身性アミロイドーシスと呼ばれるもので、心臓、胃腸、末梢神経系に障害をきたすものだ。
 根本的な治療法は確立されておらず、症状を和らげるだけの対症治療しかない。だが、長く患っているプレシアには、もうそれもあまり効果はないだろう。
 そのことを、以前はプレシアの使い魔であったリニスはよく知っていた。

 「確かに。 一葉の話しにも速攻で食いついてきたしね」

 アゼルは髪を梳くリニスの指に自分の指を絡ませ、優しく頬を引き寄せた。

 「しかし、よかったのですか? あの少年が絡むとなると、アゼルの立てた計画が全て無駄になる可能性だったあるはずです」

 「……世の中にはね、偶然って言葉はあるけど実際に存在したためしはないんだよ」

 偶然とは、人が無知であるが故に生まれた言葉だ。この世界にある、説明できない現象を片づける為に生まれただけの言葉に過ぎない。
 だが、一つ一つの事象を細かに調べてゆけば、世の中の事象は起こるべくして起こる必然であると理解できるはずだ。
 例えば、雨。
 一見してなんの意味もなく地面に降り注ぐ滴は、気温、大気、風向きの影響といった外的要因を受け、落ちるべくして落ちる場所に落ちているのだ。
 そして、降り注ぐ小さな必然と必然がぶつかり合い、やがてより大きな必然へとぶつかる。
 やがてそれは、大きな河となり、流れとなる。それが運命というものだ。

 「彼はきっと、僕の前に立ちはだかる運命だ。 だから、避けて通れない。 でもね、逃げることはできなくても、立ち向かうことはできる」

 「……アゼル」

 アゼルの目は、望郷を見つめる旅人のように寂しくて、それと同時に暗い愉悦を湛えていた。その目の奥には、悪魔的な悦びの光が微かに揺らめいているようにも思える。

 アゼルは、そう遠くない未来に自分の前から消えてしまう。そんなこと、契約を交わした時からわかっていたことなのに、リニスは喉が締め付けられ、目元が熱くなった。
 世界も、時代も違う時に交わされた約束を果たそうと、こんなにももがいている愚直な少年の姿があまりにも哀れで、可哀想で、自分は少しでも力になってあげたいのに、心の底ではいつまでも自分と一緒に居て欲しいと願ってしまっている自分の身勝手さが情けなくて仕方なかった。

 「きっと、彼は僕を殺してくれる。 だけど、その時になって、初めて僕は運命に打ち勝つことができるんだ」

 心に残る、深い声。
 リニスは自分ではないどこかを見るアゼルの首を引き寄せて、長い睫毛を伏せながら自分の唇を押し付けた。
 そうでもしなければ、きっと泣き喚きながら、どこにも行かないでとアゼルに縋りついてしまいそうだった。

 流れる沈黙。
 ただ触れるだけの口づけなのに、いつもの貪り合うようなものとは比べ物にならないほどに熱かった。
 その熱の正体が、自分が流す涙だとしばらくしてから気が付いた。
 身体はこんなに近くても、いくら激しく求めあい絡みあっても、心まで掴むことはできないという無力感。
 そう、いくら濃密な時間を共有してきたとしても、人は結局一人なのだ。

 一人生まれ、一人生き、一人で考え、一人で思う。
 始まりといういつかの昔も、終わりといういつかの明日も、確かにある今もいつだって人は一人でしかいられない寂しい生き物だ。
 だけど、それでも寄り添うことぐらいはできる。
 頭の中にある恐怖とか、躊躇いとか、卑屈さとか、計算とか、そんなもの関係なしに寄り添うことができるだけで、リニスはよかった。

 穏やかに静まり返る部屋に、魔力の気配が流れる。
 リニスとアゼルがハッとして唇を離すと、リビングの中心に燈色の魔法陣が出現し、フェイトとアルフが姿を現した。

 「ア……、アゼル? なんで居るんだい? 数日は帰らなかったんじゃ……」

 「ジュエルシード渡したら、時間ムダにすんなって追い返されたんだ」

 燈色の光の残滓の中で、居るはずのないアゼルの存在にアルフが目を丸くしていると、アゼルはアルフの腕の中に居るフェイトに気が付いた。
 フェイトは俯き加減にアルフの腕に包まれていて、顔色も青く浮かない表情をしている。
 バリアジャケットの腕の部分破れ、白く映える肌には血の痕が飛び散っていた。

 「フェイト、どうかしたの?」

 アゼルが首を傾げて尋ねると、アルフはフェイトを抱えたまま慌てて立ちあがった。

 「そ、そうだ! くっちゃべってる場合じゃないよ! フェイトが怪我をして……、さっきから様子がおかしくって!!」

 怪我?と、アゼルは首に巻かれたままのリニスの腕を解く、落ち着いた足取りでアルフに近づくと腕の中を覗き込む。
 フェイトは全身が汗ばみ、呼吸が乱れていた。顔面も蒼白だ。
 アルフの言うとおり怪我をしたというのなら、明らかにショック症状を起こしている。
 アゼルは脈を図ろうとフェイトの手を取り、ギョッとした。

 手が、ぐちゃぐちゃだった。
 フェイトの、白魚のようにしなやかだった指は引き裂かれ、肉が削がれている。止血と消毒は既に施されているが、そのせいで傷口が生々しく鮮明に見えた。

 「うっわ。 なにやったの、これ?」

 アゼルが顔を顰めると、アルフは捲し立てるように口を動かした。

 「この子ったら、ジュエルシードを素手で封印しようとしたんだよ! そのせいで、手がこんなになって……! さっきから呼びかけても返事しないんだよ!! こっちに戻ってくるときまでは普通だったのにっ……!! どうしよう……、どうしよう……!!」

 「アルフ落ち着いて。 とりあえず、ソファの上にフェイトを寝かせよう。 リニス、フェイトの着替え持ってきてあげて。 このままじゃ風邪ひいちゃうから」

 「わかりました」

 リニスは落ち着いた口調で、アゼルに従い部屋から出て行く。

 その様子を見て、アルフも少しだが冷静さを取り戻した。
 アゼルに言われるままにフェイトをソファの上に寝かしつける。

 「ねえ……、フェイトは大丈夫なんだろうね?」

 「んー? 大丈夫だよ。 てか、僕が帰ってきててよかったね。 アルフだけだったらテンパッてなんもできなかったでしょ?」

 フェイトから視線を離さずに、アゼルはからかう口調で言うと、ぐったり力の入らないフェイトの手に自分の手を重ねそれを解く。

 アルフは、自分の目を疑った。

 「はい、お終い」

 傷が完全に治っていた。
 露わになっていた骨も、砕かれた肉も、引き裂かれた皮膚も、まるで何事もなかったかのように元通りになっている。
 ビリビリ破かれたトランプにハンカチを当てたら元通りになっている手品を見ているような気持ちだった。
 だが、あれには種も仕掛けもある。そもそも手品師は当たり前のことを当たり前でないように見せかけているだけだ。今、アゼルが目の前で起こした現象は、明らかに当り前のことではない。

 「あんた……、今なにをしたんだい?」

 非日常に迷い込んでしまったアリスのように困惑した声に、アゼルは軽い調子で答える。

 「ビックリした? でも、一葉の似たようなことできるはずだよ」

 「……あの、ガキんちょも?」

 アルフの脳裏に、月の光を浴びながら湖の上で哀しそうに佇む少年の姿が蘇る。

 そもそも、あの少年とアゼルの関係をアルフは未だに聞いていない。
 だが、この二人の間には複雑に絡み合い、縺れ合い、傷つけあう、そんな凄まじい物語があるような気がしてならなかった。
 そして、きっとその傷は癒えることなく、生々しいまま胸に突き刺さっている。

 「……ん」

 しばらくの間に、苦しそうに喘いでいたフェイトの呼吸は穏やかなものになっていた。青かった顔色にも生気が戻ってきている。

 「フェイト!」

 アルフはアゼルを押しのけ、フェイトの肩に縋りつく。

 「……アルフ?」

 「あぁぁぁぁ! よかった! フェイトぉ! よかったよ!!」

 フェイトの瞼が薄く開くと、アルフは乱暴にフェイトに抱きついた。
 アゼルがなにをやったかなんてどうでもいい。フェイトが目を覚ました。それで十分だった。

 「目を覚ましたか、愚妹よ」

 アルフに抱き疲れて困惑するフェイトの視界に入ったのは、微笑みを浮かべるアゼルだった。

 「兄さん? あれ? なんで居るの?」

 フェイトは実家に戻っているはずのアゼルが居ることに、表情に浮かばせる困惑の色をさらに深める。
 そんなフェイトの思考を読み取ったかのように、アゼルは口を動かした。

 「母さんに追い返されたんだよ。 ジュエルシードの他にも、ちょっとしたお願いをされてね。 それを早くフェイトに伝えなさいって」

 「新しい、お願い?」

 「ちょっと! ジュエルシードだけでこっちは手いっぱいなんだ! これ以上、他に回してる余裕なんてないよ!!」

 鸚鵡返しに聞き返すだけのフェイトの代わりに、アルフがアゼルに噛みつくがアゼルは微笑みを崩さないままそれをいなす。

 「ああ、一応伝えておくだけだから。 二人はジュエルシードの方に専念して。 新しい方は、僕がやる」

 「……なんなの? 新しいお願いって?」

 強張るフェイトの表情を楽しそうに見下ろしながら、アゼルはプレシアに命じられたことを要約してフェイトに伝えることにした。

 「緋山一葉捕獲令さ」


 ◆◇◆


 フェイトは自室のベッドの上で、天井を眺めていた。

 「一葉を連れてこい……か……」

 ぼんやりと呟く。
 つい数刻前、ジュエルシードを封印した時に怪我はベヌウという一葉の使い魔に応急処置して貰ったまでは覚えている。
 だが、それから後の記憶には霞がかかっていて気がつけばこの家に居たのだ。

 そして、あれほどひどかった傷がどういうわけか完治していた。アルフが言うには、アゼルがやってくれたらしい。
 手の怪我が治ったことは非常に喜ばしいことだが、フェイトの胸中は別のことで占められていた。

 緋山一葉を連れてこい。
 それが母、プレシアの新たな命令だった。
 アゼルの説明では、一葉の持つ
レアスキルにプレシアが強い興味を抱いたらしいが、フェイトからしてみれば一葉がレアスキルを持っていることなど初耳だった。
 その事実は、驚きと同時に胸を打つものがあった。

 フェイトは一葉の実力の全てを見ていないのに、自分よりも遥かに優れていると感じていた。遥かに遠く、高い場所に居るのだと思っていた。
 それは寂しさであり、厳しさであり、憧憬でもあった。
 渾然と一体となった不可思議な心の動きに、フェイトはずっと戸惑っていた。

 水を湛えるあの森で槍を振るう一葉の背中は強く、美しく、そして悲しかった。まだ、知り合ってから重ねた時間は薄氷のように薄いというのに、一体どうすればあれほどまでに純然な強さを手にすることができるのかと、いつも考えていた。

 __ああ、だからか

 フェイトは得心した。
 自分が一葉に惹かれたのは、多分これなんだろう、と。
 まだ三回しか顔を合わせたことはないし、いつそれを感じてしまったのかもわからない。自分がどれほどまでに、胸の内で燻ぶる感情を理解しているのかもわからないが、ただ感じてしまったのだ。

 そして同時に、フェイトは一つの問いも持っていた。
 フェイトは、掌に収まる短い鎖を何気なしに持ち上げた。

 自分と一葉を繋げる“縁”。

 深さを図る錘のように、フェイトの心に投げいられた問いは心の深さをどんなに深いかを知る為の鎖だった。
 森の去り際に感じた、一葉の獣性。已むに已まれない心持が語りかけてきたのは孤独か、或いは不和か。
 そして、そのどちらとも言えるものがアゼルと重なって見えてしまってしょうがなかった。
 不安定な者。迷える者。捩り損ねた者のように苦しく生きているように見え、かくも孤独に高処へ伸びて行く蔦のように哀れに思えた。

 アゼルのことは気に食わない。一葉のことはすごく気になる。
 だけど、あの二人は同じのだと感じてしまう矛盾。フェイトから見て、あの二人は十分に苦しんでいるように見えた。
 自分自身に苦しみ、人間一般に苦しみ、それなのに自分はそうではないと必死に振舞う道化のように。

 フェイトは不安だった。
 なぜ、今日は一葉の姿が見えなかったのか。なぜ、使い魔だけが姿を現したのか。
 幾百の言葉と、もっとも好ましい美徳を探しても波が押し寄せて深い辺りへと持ち去っていってしまう。
 そして、言葉にできない不安は色とりどりの貝殻となってフェイトの心に投げ出してくる。
 しかし……

 「えへへ……。 一葉、私のこと話しててくれたんだ」

 ベヌウの言葉を反芻して、つい頬が緩む。一葉がどんなふうに自分のことを話していたのか、想像しただけで顔が火照った。
 寝返りを打ちながら、鎖を見つめる。
 毎晩、寝る前に手入れを欠かしていないので、新品同様に輝く“縁”は、まだ一葉と自分を繋いでいてくれているのだ。

 だから、大丈夫。

 どんなに深く気持ちが沈んでいても、この鎖を見ていると束の間の一瞬で水面まで浮かび上がる魚のような軽やかな気持ちになれる。

 これは穏やかなる歓喜だ。
 暗黒に覆われた空を指す、光明へと繋がる“縁”という鎖。
 それはフェイトにとって希望であり、絆でもある。フェイトは、その希望に優しく口づけをした。


 ◆◇◆


 未来というものが一枚の葉に広がる葉脈のようなものならば、きっとそれはありとあらゆる方向へと枝分かれしていて無限の可能性と未来がその先にあるのだと思う。

 あの時にああしていれば、こうしていれば……と、人はあったかもしれない未来の残骸と、選択されなかった過去の叫びを抑制しながら大抵は群衆に紛れながら自己にとって最も安易な流れに身を委ねていく。

 高町なのはもそうだった。
 家族に囲まれ、友人に囲まれ、間違いなく幸福であるはずの日常で、あらゆる意見と恐怖の鎖に繋がれながらも行き着く先の見えない生には意味も慰めはないのではないかという虚しさを薄い胸の内に押し込めていた。

 あらゆる安静と、生育と成熟として懶惰に繰り返される日常に、広い希望も、希望に燃える努力もなく心の内に相応しい未来も描くことができないまま、自分が過去の末裔であるということさえも忘れてしまっていた。
 当然、そこに生き生きとしたものはなく、世間にうまを合わせて考えるような見せかけだけを演じて、個性を殺してしまっていた。
 幼いなのはには、それを言葉にできるものではなく、ただ感性が雄鶏の熱い叫びとなって心の裂け目から響くものであった。

 しかし、歳を重ねればいつの日かわかる時もきっと来るのだろう。そして、その日がなのはにとっての、人生の分岐点であったのだということも。

 それは、ユーノ・スクライアと魔法との出会いか。

 ジュエルシードを巡って、哀しい眼をした少女と対峙した時か。

 それとも、死という約束をその身に背負って生まれた少女の兄の慟哭を聞いた時か。

 ただ、いつだって理解はほんの少しだったが確実に、そして決定的に未来を選択して前進してきたのだ。
 そして、歩んできた道を振り返れば帰ればいつだって緋山一葉の姿があった。
 いつも目で追いかけていた少年は刀のように強く、星霜に美しかった。

 ずっと、そう思っていた。

 だが、あの少年は刀は刀でも、血に錆びた刀だった。
 鞘にあっては鞘を腐らせ、抜き打ちの音は耳に卑しく、斬れず、いたずらに人を傷つけながら己も折れ、砕ける、血濡れの刀。

 公園で暴走したジュエルシードを巡って起きたあの日のことを、なのははきっと忘れることはないだろう。
 彼が立っていた未来への分帰路は引けと言われて引ける道ではなく、もはや引いて戻れる道などどこにもなかった。
 例え、その先が奈落の谷と知っていても、歩き進む道しか彼には残されていなかったのだと。

 そして、あの日。
 緋山一葉がその命を一度終わらせたときのことも、なのはは忘れることはない。


 ◆◇◆


 その日は土曜日で、午前中だけの授業だった。
 なのはがスクールバスのステップを降りて仰ぐ空は青く、太陽はまだ高い位置に居る。
 一つだけ、普段と相違点があるとしたら太陽の一部が狼に喰いちぎられたかのように欠けているということだ。
 数ヶ月前からテレビを騒がしていた皆既日食の観測日が今日だった。
 そして、その最良観測地が海鳴市だということもあって、バス停のある通りには多くの人が行き交っていた。市外、県外からわざわざ赴いた人も多いだろうし、中には外国人の姿も見える。
 今日という日を逃せば数十年、少なくともなのはの生きている間では日本で皆既日食を眺めることはできないという一大イベントだ。
 だというのに、なのはは喜怒哀楽の哀だけに寄りかかっているかのように、そのイベントを楽しめないでいた。

 なのはは三日前の夜に起きたことに想いを馳せると、激しかった戦いの余韻が呼び起こされる。
 赤い瞳の奥に深い憂いを秘めた少女のこと。
助けに来てくれなかった一葉のこと。そして、呪詛のような言葉を残して去っていったベヌウのこと。
 きっと、自分が知らないところで物語りは進んでいるのだ。

 樹海が街を呑み込んだ時に決意した、密やかな覚悟は果たされることなく、一緒に居たいとずっと願っていた少年の背中は既に見えなくなり、今や自分は取り残されてしまった傍観者に過ぎないのだ。

 そもそも、今日という日は四人で過ごすはずだった。何カ月も前からそう言う約束を交わしていたはずなのに、結局それは果たされずに終わりそうだ。
 そうなってしまった理由も、なのはは誰にも詳しく語ることはできないことに墨を飲んだような気持ちになった。

 一葉は、ここ数日学校を休んでいる。
 多分関係ないだろうが、すずかも一葉が学校に来なくなるのに合わせて姿を見せなくなった。
 毎日顔を合わせているアリサは、なのはが話しかけようとしても憤りが冷め止まぬようで、未だに教室で視線を合わせよともしない。
 もしかしたら、このままずるずるとそれぞれが孤立していってしまうかもしれないという恐ろしさが冷たい鎖となって、喉に幾重にも巻きついてくる。

 暗い溜息を吐きながら歩く通学路の人流れは、なのはとは真逆の方向だった。おそらく、空を一望する為に遮蔽物のない 
海岸を目指しているのだろう。
 道行く人々の表情は、期待と興奮に溢れている。
 誰ひとりすれ違う人たちに知り合いがいない時ほど、自分が孤独であるとひどく感じることはないだろう。

 『なのは』

 憂鬱が胸に押しかかるなのはの脳裏に、聞き慣れた声が過る。
 俯かせていた顔を上げると、小さな路地に繋がる電信柱の影に、レイジングハートを首に巻いたユーノの姿があった。
 フェイトとの戦闘で大きな損傷を受けたレイジングハートの修復が終わったので、わざわざ届けてくれたのだ。

 なのははユーノが待つ、人影のない路地に入ると、ユーノはなのはの制服に爪を立ててスルスルと肩に昇っていく。
 頬に寄せられたレイジングハートは、三日前は蜘蛛の巣のような亀裂が走っていたのに、今は傷一つなく艶やかな表面が太陽の光を反射させていた。

 「レイジングハート……。 直ったんだ……」

 __Condithion green.

 なのはは、ユーノの首に巻かれた首紐を解いて自分の掌に乗せる。午後の陽光を吸いとって輝く紅玉は、チカチカと表層の奥にあるAIが反応してなのはの呼びかけに答えた。

 __I am sorry. for worry.

 「レイジングハートが頑張ってくれたんだ。 僕だけじゃ、こんなに早く治らなかったよ」

 耳に届くユーノの声が胸に響いた。
 そうだ、戦っているのは自分だけではないのだ。

 どうしようもない状況に嫌だ嫌だと泣き喚いて、川底の石のようにじっとしているのとはわけが違う。

 指先の隙間から零れ落ちてしまう砂のように、このままなにもせずに大人しくいたら自分の手にはなにも残りはしないことぐらい、なのはにだってわかった。

 戦っているのは、自分だけではないのだ。
 なのはがそう知った瞬間に、世界が割れる音が響いた。


 ◆◇◆


 晴れない霧のようなもやもやは、きっとアゼルが重要な部分を教えてくれないせいだと思う。

 プレシアが求める一葉のレアスキルのことや、アゼルと一葉の過去のこと。この三日間の間にフェイトは何度もカマをかけたり、正面から聞き出そうとしても、アゼルはいつも薄ら笑顔で話しを逸らしてしまうのだった。

 自分の知らないところで複雑に絡み合った物語りは進んでいるような居心地の悪さを胸の内に溜めこみながら、フェイトは半袖のパーカーとデニムのハーフパンツを身に纏い、太陽が欠けた空の下を歩く。
 フェイトの前を行くのは、黒い繋ぎを着たアゼルだ。ポケットに両手を突っ込みながら、しっかりとした足取りで歩く足元には山猫の姿のリニスが短い足をチョコチョコと動かして着いていっている。

 『ねえ、アゼル。 本当にこっちに行けば、あのガキんちょに会えるんだろうね?』

 フェイトの膝もとで、狼の姿のアルフが念話でフェイトの気持ちを代弁する。

 アゼルが一葉に会いに行く時は、必ず自分もついていくとフェイトはずっと主張していた。自分だったら、もしかしたら一葉との戦闘を回避して説得できるかも知れないと思ったからだ。
 アゼルも、その真意は微笑みの下に隠してしまって図ることはできないが、了承だけはしてくれた。

 そして、今日になっていきなり、一葉に会いに行こうと誘われたのである。

 アゼルは、まるで最初から約束を交わしていた場所に赴くかのような迷いのない足取りで歩を進めるが、フェイトはどうも納得がいかなかった。

 「大丈夫。 一葉はこの先に居るよ」

 アルフの質問に、アゼルは肉声で答えた。確証もなく言い切るアゼルに、アルフだけでなくフェイトも不機嫌に顔を顰める。
 しかし、アゼルはいつもの調子で足先に視線を向けたまま、言葉を重ねた。

 「ま、わかるんだよね。 どこで、どういった気持ちで彼が待っているのかがさ。 僕たちは、きっと今日の太陽と月のような関係なんだろうね。 どんなに断ち切ろうともがいても、心のどこかでは惹かれあって、こうして何年もの月日を経た後にぶつかり合ってしまう。 もっとも、僕らのどちらがハティでスコルだかまではわからないけどさ」

 「スコル……? ハティ……?」

 効き慣れない名前に、フェと歯首を傾げる。今日は一葉と話しに来たのではないか、と。
 フェイトの膝の下を歩くアルフも、似たような表情でフェイトを見上げていた。

 「ああ。 ごめん、ごめん。 北欧神話なんてフェイトは知らないか。 ま、気にしないでよ。 これはあくまで比喩表現だからさ。 それよりも、ほら。 着いたよ」

 アゼルが足を止める。
 赤信号で阻まれる横断歩道の先には、大きな公園の入り口があった。

 「あそこって……」

 「海鳴海浜公園。 一葉はあそこに居るよ」

 フェイトはアゼルに連れられた先には、初めて一葉と出会った場所だった。
 刹那、あの時の記憶が鮮明に蘇り、身体中が心臓になったみたいに熱く脈打つ。
 無意識の内に握り締めていたキーチェーンに汗が滲む。

 「こんなに、人が多い所に?」

 「結界を張れば関係ないでしょ。 あの辺の有象無象がいなくなれば、あそこはあ少しの足場と、海と空しかない。 全力で戦うには適した場所だよ」

 信号待ちで足を止めるアゼルの横顔を盗み見るように、フェイトは見上げるとアゼルの微笑みには微細だが深みが増していた。
 その笑みに、フェイトは嫌なものを感じだ。

 一葉が、あんなに優しい少年がそんな打算的なことを考えるはずがない。そもそも、フェイトは心のどこかで一葉と戦闘になることなどないと思っていた。
 事情を話せばきっとわかってくれる、と。
 むしろ、フェイトにとっての一番の不安はアゼルだった。

 「兄さん。 先に、私に話しをさせてくれるっていう約束忘れてないよね?」

 「ん? ああ、忘れちゃいないけどね……、多分無駄だと思うよ」

 「そんなの……、やってみなくちゃわからない」

 吐き捨てるようにフェイトが言うと、アゼルは曖昧な笑みで答えた。

 信号が変わり、行く手を阻んでいた車の流れが止まると、自然と足が動き出す。
 吸い込まれるように公園の入り口を通過し広場に行くと、潮風が吹くそこは普段以上の人でごった返していた。

 そして、その人ゴミの隙間の向こう側。時間が、止まった気がした。

 広場の内奥。公園と海との境目に置かれた柵の前で、海と空の混じり合う青を背にして厳しい面持ちで立っている一葉と目が合った。

 「一葉!」

 本当にいた!
 きっと、自分は今笑っているだろう。
 なぜアゼルが一葉の居場所を、こうも的確に知ることができたのかなんて、今はどうでもいい。
 一葉の顔を見ただけで、歓喜に心臓が跳ね上がり、一葉の元へ駆けだそうとする。

 「待って、フェイト。 落ち着いて」

 一葉との距離は走ればすぐだというのに、フェイトは距離を一歩も縮めることはできなかった。
 右腕に感じる圧迫感。
 アゼルがフェイトの腕を掴んで制止していた。

 「兄さん、約束が……」

 叫び出したいほどの苛立ちを喉元に押し込めて、フェイトはアゼルを睨みつける。
 だが、アゼルはフェイトを見てはいなかった。

 「やっぱり、説得は無駄みたいだ。 見なよ。 向こうはやる気満々だ」

 アゼルの視線の先には、一葉が居た。そして、一葉の視線もフェイトではなくアゼルに向いている。
 二人は、まるで自分たちだけの世界を見ているかのようで、フェイトどころか雑多に行き交う人の群れの喧騒の音も、二人には聞こえていないように思えた。

 「なんで、その子連れてきたの?」

 感情のこもらない一葉の声に、フェイトは素手で心臓を掴まれたような気がした。
 苛立ちを含んだ一葉の目は鋭く、冷ややかで、フェイトの期待をナイフのように切り裂く。

 最後に一葉と会った時の別れ際、湖の畔で感じた、肌に纏わりつくような生温かな恐怖を思いだす。
 悪意も敵意もない、代わりに親愛も友愛もない、沈殿する負の感情を撹拌させたかのような淀んだ眼をした一葉は、フェイトの知らない一葉だった。

 「フェイトがどうしても君を説得したいって言ってね。 どうやら、そんな気遣いも無駄だったみたいだけどね」

 雰囲気の重い一葉とは対象的に、アゼルは新しい玩具を買って貰った子供のように弾んだ口調だった。

 「それでも、僕としては嬉しいかな。 ようやく君がやる気になってくれたんだ。 緋山一葉……。 いや、もう君にこの名前は相応しくないのかな?」

 「名前なんて、肉体っていう器に貼られたラベルに過ぎない。 オレたちがどういう名を名乗ろうと、中身が変わらないんだったら、やることも変わらないだろ」

 一葉が一歩踏み出す。同時に、一葉の肩に居たベヌウと、アゼルの足元に居たリニスが結界を展開していく。
 黒色と青色の魔力光は混じり合い、より強固な結界を構築する。それは、お互いの主の戦闘が熾烈を極めると知っていると言わんばかりの、示し合わせたかのような行動だった。

 魔力を持たない者を排除する世界は三人の魔導師と、三匹の獣を残して静寂と濃厚な殺意の渦に沈む。

 深海に居るかのような圧迫感に、フェイトは絶対零度の凍気が舞い降りてきて空気が動きを止めたかのように思えた。
 冷気は体内にある血液すらも凝結させ、身体が動きを停止させたのかと思えた。
 世界そのものが呼吸を止め、次に起こることを待っているかのように思えた。

 __Photon Lancer Phalanx Shift.

 最初に動いたのアゼルだった。
 腕に巻いていたブレスレッド型のデバイスを起動させ、同時に三十八其のスフィアを展開させる。
 毎秒二発の斉射を四秒間。三百八発の魔力弾を叩きこむ。

 __Black rain.

 瞬刻、僅かに遅れて一葉が迎え撃つ。首にぶら下げたアンクを手に取り、騎士甲冑の展開と共に剣群が宙に浮く。
 その刃の全てが黒い炎に包まれ、フェイトごとアゼルに襲いかかった。

 巻き上がる爆炎と、轟音。

 一葉の動きに反応しきれなかったフェイトは、アルフと、自律的にバリアジャケットを展開したバルディッシュとの防御魔法に守られ怪我はない。だが、フェイトの心は今の一撃で大きな傷を負ってしまっていた。

 「うそ……」

 貧血が起きた時のような眩暈に座り込みそうになるのを必死に堪えながら、フェイトはポツリと呟く。

 一葉が自分ごと攻撃した。
 自分の信頼を、いとも簡単に焼き払ったことが信じられなかった。

 「うそだよ……」

 黒い渦巻きのような絶望がフェイトの心を掻き乱し、頭をガンガンと叩く。

 わからない。
わからない。一葉がなにを考えていたのか、一葉の気持ちがわからない!
なぜ、こんなことになってしまったのかがわからない!!

 一葉との出会いは特別だったのに!
 一葉のくれた言葉は特別だったのに!思い出も、結ばれた“縁”も、一葉に関係するなにもかもが特別だったのに!!
 こんなことになるのだったら、こうして裏切られるぐらいだったら最初から出会わなければよかったじゃないか!!

 燃え盛る黒い煉獄は地面を焼く。隣に居たはずのアゼルの気配はいつの間にかなくなっており、空からは剣戟の音が降り注いでくる。

 傍観者にしかなり得なかった自分を置き去りにして、物語りは進んで行く。

 「フェイト……」

 世界が闇に染まり、茫然と立ち尽くすことしかできないフェイトに、アルフ心配そうに声をかけるが、フェイトは足を踏ん張るように震えるだけで、表情を愕然と蒼白にしていた。

 上空でぶつかり合う鋼色と金色の魔力によって、空気がビリビリと震えている。

 __あれは、一体誰なんだろう?

 空を仰ぐフェイトの目に映る二人の少年は、狂気のままに殺し合う醜い怪物にしか見えなかった。
 まるで、太陽に月が射すように黒々とした不安が胸を締め付ける。
 そして、運命はさらなる切迫をフェイトに強いることになる。

 一葉とアゼルの魔力が暴れ狂う、この閉ざされた世界で、まったく異なる魔力の反応が現れたのだ。
 この魔力を、フェイトはよく知っていた。

 ジュエルシードだ。
 おそらく最初から公園内に在ったのだろう。一葉とアゼルの魔力に共鳴し、呼び起こされたのだ。
 ジュエルシードは背の高い樫の木に取り込まれ、子供の落書きのような樹木のお化けとなって、灰色の世界に現れた。


 ◆◇◆




[31098] 22!
Name: 三鷹の山猫◆b3ece1a7 ID:6c236772
Date: 2012/08/26 15:49
 なのはが公園の方向に異変を感じ、駆けつけた途端に強大な魔力の波と圧力が身体を突き抜けた。
 その圧力は大気を撹拌させ、打ち砕き、波濤となってなのはの小さな体を呑みこみ、吹き飛ばそうとする。それを必死で踏ん張り、身体を打ちつける空気の圧力にどうにか耐えることができた。
 その衝撃は空の上からやって来ていた。巻き起こった砂塵に目を霞めながらも、なのはは上空を仰ぐ。
 そして、目に入ったものは信じられない……、いや、信じたくない光景だった。

 灰色の空では二人の少年が快哉をあげ、お互いともが獣のように狂喜に顔を歪ませながら刃を斬り結んでいた。
 所々裂けているバリアジャケットの隙間から、血が飛沫となって地面に降り落ちる。だというのに、二人は流れる血よりも、今という時を惜しんでいるかのように愉悦に浸っていた。

 その光景に、なのはの脳裏にベヌウの言葉が過る。

 __彼が壊れてしまうこともなかった。

 そう、理性もなく天上で血を流すあの二人は、まるで壊れたケダモノだ。

 余りの出来事に、身体だけでなく心までも強張らせている。と、頬に空気の流れの変化が触れた。
 反射的に、ハッと視線をやると、そこにはジュエルシードを取り込んだ暴走体。巨大な樹の化け物が樹冠の葉からガサガサとざらついた音を立てながら、地面に根を這わせゆっくりとした足取りで小さな影に近づいている。

 __フェイトちゃん!?

 視線の先にあった人影の正体はフェイトだった。そのすぐ傍らでは、燈色の狼が押し出すような声で必死にフェイトに叫び続けているにもかかわらず、二日前に対峙したばかりの少女は、暴走体に立ち向かうことも、逃げようとすることもせず、ただ空を仰いでいる。

 このままでは危険だ。
 なのはの身体は、咄嗟に動いた。

 「フェイトちゃん!!」

 焦りと戸惑いで心が乱れる中、冷静にレイジングハートを起動する動作に移れるようになったのは、皮肉にも今日まで起きてきた出来事のおかげだ。
 赤い紅玉は眩く光り、白いバリアジャケットと杖に変貌する。なのははその杖の切っ先を暴走体に向け、魔力の弾丸を放つ。
 強固に凝縮された弾丸は空気を貫き、暴走体の即頭部に直撃した。その衝撃に暴走体はたたらを踏み、弾丸の直撃で焦げ燻ぶる煙を緩やかに動かしながら、なのはを見た。

 洞の双眸の奥に潜む敵意。標的は自分に変わった。そう確信した。

 だが、なのはは恐怖を感じなかった。冷静にレイジングハートのリアサイトに視線を合わせ、撃鉄の音が線になるまで魔力を装填し続ける。突き抜ける嵐のような光弾は、一瞬の間に暴走体の枝を撃ち貫き、葉を散らし、樹皮を削り樹幹を抉っていく。暴走体は桃色の爆炎に呑みこまれ、土煙を引き連り倒れ込む頃には砂嵐に巻き込まれた旅人のように無残な姿へと変わり果てていた。
 そして、その暴走体の原動力となっていたジュエルシードは内包されていた樹木から吐き出され、硬質な音を立てながら地面を転がる。
 なのはから撃ち出された魔力弾の衝撃で、暴走が沈静化したのだ。

 だが、なのはの目にジュエルシードは入っていなかった。駆け早にジュエルシードの横を通り過ぎると、フェイトに近づいた。

 「フェイトちゃん……」

 なのはの呼びかけに、フェイトは反応を示さない。代わりに、アルフが敵意に満ちた牙を剥き出しながら、なのはの前に立ちはだかる。

 「なにしに来たんだい?」

 低い声で言うアルフの峻厳な視線に、思わず一歩引き下がってしまう。
 だが、怯えを理性で押し殺しながらなのはは微かに震える唇を気丈に動かした。

 「いったい……、ここでなにが起きたの? どして一葉くんと、フェイトちゃんのお兄さんが戦ってるの?」

 「そんなこと、私が教えて欲しいぐらいだよ。 あのガキ、フェイトごとアゼルに向けて非殺傷設定の魔法を撃ちこんできやがったんだ。 私はあのガキと何回かしか会ったことがないけどね、少なくともそんなことをやらかすような奴じゃなかったはずだ。 私たちが会わなかったこの数日の間に、あのガキにいったいなにがあったんだい?」

 アルフの言葉に、喉が締め上げられるような気がした。
 心が苦しいとか、身体が痛いとかそんなんじゃない。ただ、一葉が人を殺そうとした。そのことに驚きもせず、どこかで納得してしまっていたことに胸の奥が軋んだ。

 一葉がここ数日の間に纏っていた雰囲気を、なのはは敏感に感じ取っていた。
 それは、停滞だ。
 静謐な伽藍である石造りの棺の中で心臓を休ませているかのような、まるで目覚めたまま死を迎える準備を整えているかのように思えるほどに、そこに生き生きとした意思は感じられなかった。
 一葉はきっとそこで自分たちが見ることのできない、一葉にしか見ることのできない景色を見遥かにして、自分だけの幸福を見つけ出そうとしているのだ。
 それはきっと、一人でいる幸福。孤独であるという、幸福だ。だが、なのはにはどうしても、それが苦しい、苦しい幸福であるとしか思えなかった。

 耳朶を打つ剣戟の音になのはは再び空を仰ぐ。二人の戦いは自分が知っている、ユーノから教えて貰った魔導師の戦い方ではない。
 魔法の発動は刃の一閃の繋ぎに過ぎず、相手の心臓を鉄の刃で抉り出そうとする二人の姿はまるで何世紀も昔の戦士の決闘を眺めているようだった。

 一匹の獲物を奪い合う飢えた虎のような勢いで刃を閃きかせる一葉の姿に、なのはは哀しみの錘が心に投げかけられた。
 だが、その錘に掴ったままなにもせずに哀しみの海に沈むわけにはいかない。このまま、自分の無力を悲観して、またなにもできなかったとしゃがみ込んでしまうわけにはいかなかった。

 冬はやってくることがわかっていても止められない。真昼は過ぎ去って行ってしまうとわかっていても見送ることしかできない。
 だけど、一葉は違う。ほんの少し勇気を出して手を伸ばせば掴みとれる、そんな距離に居るのだ。

 「私にも……、わからない。 私も一葉くんに置いてきぼりにされちゃったから……。 でも、置いてきぼりにされちゃったんだったら追いかければいい。 一葉くんがどこかに行こうとしているんだったら、無理にでも連れ戻しちゃえばいい。 私は……、一葉くんとこんな形でお別れになっちゃうのは嫌だ」

 なのはの中にあったのは、静かな決意だった。
 もう一葉がなんと言おうと、一葉になにをされようとそんなこと関係あるものか。
 傷つけられてもいい、拒絶されてもいい。それでも、なのはが今日まで胸にため込んできた一葉との思い出の日々が色褪せることは決してない。
 古い順から過去になって行ってしまう思い出を、このまま懐かしむだけのものになんてしたくなかった。

 「フェイトちゃん……、お願い。 一緒に一葉くんを止めて。 それでもう一度、今度はきちんとお話しして、それで仲直りしよう?」

 フェイトは見上げていた不安に揺れる儚げな瞳でなのはを見た。肌は氷のように青く透き通っている。あまりにも悲しくて、絶望して、その虚ろな表情には戸惑いと哀しみがごっちゃになった黒い影が落ちていた。

 「お願いフェイトちゃん。 力を貸して」

 なのははフェイトに手を差し出す。だが、フェイトはその手を疲れ切った眼差しで見て、掠れる声で囁いた。

 「だめ……、だよ……。 だって……、私はもう一葉に……」

 拒絶された。なのはにどうにか届く小さな声で、フェイトはそう呟いた。
 もし再び一葉に手を伸ばして、その時にまた拒絶されたら心が氷のように粉々に砕けてしまう。
 そうしたら、きっともう立ち直れない。

 「フェイトちゃん……」

 そんなフェイトを見て、なのはもまた哀しそうに顔を歪ませた。
 大切な人を失ってしまう黒い霧に包まれるような苦しみも、今までの関係が壊れて二度と元には戻らないのではないかという、足元が崩れ世界が崩壊してしまうのではないかと思うほどの恐怖もなのはは知っている
 そして、その後に訪れる胸を刺すように鋭く、深い絶望もなのはは知っているのだ。
 その絶望を、なのははフェイトにまで味あわせたくなかった。

 なのははどうにかフェイトを説得しようと言葉を重ねようとする。だが、どうしても言葉が頭に思い浮かばない。
 そうだ。自分もまだ、絶望がから這い出ていない。自分は一歩踏み出そうとしているだけで、まだフェイトと同じ哀しみの海の底にいるのだ。
 声が喉に絡んで、うまく話せない。フェイトが再び空を仰ごうとしたその時、穏やかな声が風と共に降りてきた。

 「もし貴女たち二人が一葉を止めるというのならば、私も協力しましょう」

 大きな翼で緩やかな風を起こしながら地面に降り立ってきたのはベヌウだった。緑の双眸でなのはとフェイトを見据えながら、悠揚たる態度で翼を折りたたむ。

 「どういうつもりなんだ? 今さら協力するなんて……」

 突然現れたベヌウに、一番最初に言葉を発したのはなのはの足元に居たユーノだった。敵意ともとれるような猜疑を孕ませた鋭い視線でベヌウを見上げる。だが、当のベヌウはユーノを一瞥するだけで直ぐになのは達に視線を戻した。

 「他意はありませんよ。 ただ私にとってこの道筋も、それが至る結末も望むものではないということです。 私の声は一葉に届くことはありませんでした。 しかし、もしかしたら貴女たちの声ならば届くかもしれない。 ほんの僅かでも可能性があるのならば、私はそれに縋りたいだけです」

 なのはは初めてこの時になって知った。ベヌウもまた、一葉を止めようとしていたことを。ベヌウの言葉はなにもできなかった自分自身を咎めるような厳しい声で言うベヌウの眼差しには憂いが帯びていて、それなのにいつも通りの気丈な姿を振舞う姿を見ていると、胸が苦しくなった。

 「おそらく、もう時間はあまり残されてはいません。 一葉は戦えば戦うほどに自分が壊れていくと言っていました。 このままでは、本当に一葉が戻ることは二度となくなってしまう」

 自然に険しくなるベヌウの声に、なのはは頭の中が熱くなった。そして、ベヌウの言葉を聞いてなお、動く気配を見せないフェイトにたまらない苛立ちを感じ、アルフを押しのけフェイトの肩を乱暴に掴んだ。

 「……っ! フェイトちゃんはそれでもいいの!? もう一葉くんと会えなくなっちゃうんだよ!? フェイトちゃんは……! フェイトちゃんだって一葉くんの友達なんじゃないの!?」

 強張るフェイトの身体。後ろからアルフがなにか叫んでいるが、そんなことなのはには関係なかった。

 「とも……だち? 私と、一葉が?」

 子ウサギのように青ざめ怯えるフェイトを、なのははさらに糾弾するかのように声を上げる。芯の通った堅い声がフェイトを打ち、胸を貫く。

 「そうだよ! だって、そうじゃなかったら私たちが初めて会った時にフェイトちゃんを庇ったりなんてしないでしょ!? ジュエルシードもあげたりなんかしなかった! 全部、一葉くんはフェイトちゃんのことを友達だと思ってたからしたことなんだよ!?」

 必死に叫ぶなのはの目尻には涙がたまっていた。そして、それはフェイトの瞳にも。
 茫然と見開くだけだったフェイトの瞳に、初めて熱がこもった気がした。

 そして、なのはの言葉に揺さぶられフェイトは思い出す。
 初めて一葉に会った時、月の光が湖を湛える夜の森、一葉はとても優しかった。
 その優しさに触れて、自分も優しい気持ちになれた。
 優しさも、槍を振るう時の厳しさと美しさも、寂しさも全部含めて、自分はあの後ろ姿が好きだったのだ、と。
 なぜ忘れてしまっていたのだろうか。
 なぜ、見失ってしまいそのままでいたのだろうか。
もう一度……、もう一度あの時の一葉に会いたい。会って、話しがしたい。

 「だから……、だからお願いフェイトちゃん。 二人で一葉くんを……、私たちの友達を連れ戻そう」

 貫くようななのはの叫びは、懇願するような震える声になっていく。だけど、その一言一言が熱を持ち、フェイトの胸に深く響いていった。
 もう怖くない、と言えば嘘になる。だがこの少女となら、自分を一葉の友達だと言ってくれたこの少女と一緒ならば、自分が好きだった一葉にもう一度会えるかもしれない。

 フェイトがなのはの手をとり頷こうとした時、凛然とした声がフェイトを制止した。

 「申し訳ありませんが、あの二人の戦いを止めることは私が許しません」

 リニスだ。音もなく歩くリニスは距離を置いてなのはとベヌウを冷たい眼差しで見据える。
 その表情は硝子のように冷ややかだというのに、重く暗い空気がなのはとフェイトに圧し掛かった。
 なのははこめかみに汗が吹き出て、息が苦しくなる。涼やかなはずのリニスの眼差しは透明で、見えない剣を心臓に突きたてられているような気がした。
 これは穏やかなる殺意だ。躊躇いも、逡巡も見せないリニスの表情に、なのはは背筋に微かな電流が駆け足元が痺れ竦む気がした。

 「この戦いはなくてはならないものです。 アゼルからはそこの白い少女に危害は加えなくともよいと言われていますが、そちらが戦闘に介入しいてくるというのなら話しは別です」

 「ならば力で押し通しましょう。 そういえば、貴女にはまだ私の翼を地に墜としたお礼をしていませんでしたね」

 土を擦り一歩踏み出すベヌウは、リニスを厳しい視線で睨みつける。そういえば、この二匹は一度だけ戦ったことがあることをなのはは脳裏に思い出した。
 その際、ベヌウは空から墜とされていた。鳥として生まれてきたベヌウにとって、それは耐え難い屈辱だったのだろう。平坦な声の下には、憎々しい感情が見え隠れしていた。
 だが、リニスはそんなベヌウの言葉に鼻で笑って答える。

 「次はその達者な嘴を地面にめり込ませて差し上げましょうか? もっとも、今さら貴女たちが足掻いたところであの少年は手遅れですよ。 見ればわかるでしょう? 彼はもう、貴女たちの知っている少年ではない。 緋山一葉という皮をかぶっただけの、まったく別の存在です」

 そして、今度はリニスの言葉にベヌウが挑発気に鼻を鳴らす。

 「それは貴女の主と同じように、ですか?」

 ベヌウの言葉に、リニスは一瞬だけ顔を強張らせた。

 「なるほど……。 貴女はある程度のことまでは知っているようですね。 だとしたら、ここで消えて貰った方が都合がいいかもしれません」

 瞬間、リニスの周りにターコイズブルーのスフィアが展開される。その数は八十其。鮮やかな青い魔力を静かに湛えるその矛先は、なのはとベヌウに向けられていた。

 「リニス! 待って!」

 フェイトがリニスとの間に割って入る。だが、リニスは淡々とした表情でフェイトを窘めるように口を開いた。

 「待ちません。 そもそも、フェイト。 貴女はプレシアに命じられていた緋山一葉の捕獲を忘れていませんか? 私たちがそこの少女を足止めし、彼はアゼルに任せるのが最も堅実で合理的な方法です」

 リニスの言葉に、フェイトは瞳に影を落とし端正な顔を歪めた。そしてなのはも、聞き流すことのできないリニスの言葉に、不安が射した。

 「一葉くんの……、捕獲ってなに? フェイトちゃん、どういうこと?」

 「それ……は……」

 黒々とした疑問がなのはの中に滾々と湧き出てくる。その疑問は、なのはの胸を不安に締めつけた。

 そうだ。なぜフェイトはここに居たのだろう?
 最初から一葉と会う約束をしていた?兄を連れて?
 だったらなぜ、フェイトの兄が一葉と殺し合いとも言えるような戦いをしているのだろうか。
 偶然にしては都合が良すぎる。 ベヌウは先ほど、戦えば戦うほどに一葉が壊れて行くと言っていた。だったら、一葉を連れていきやすくする為に最初からアゼルと戦わせるつもりでフェイトが一葉を呼びだしたと考えることが普通ではないか?

 気まずそうに視線を落として言葉を詰まらせるフェイトに、なのはが今まで見落としてきた疑問の欠片が、少しずつ集まり一つになっていく。例えそれが歪んだ形であっても、なのはがそれに気がつく術はない。
 そんななのは達を置いてベヌウとリニスとの間にある緊張感はより鋭いものになっていく。

 「既にこの世に存在しない主に仕えようなど、私の目には滑稽にしか映りません。 主が死んだ時点で使い魔は生命活動を停止させる。 貴女も、貴女の主もただの亡霊にしか過ぎないというのに……、その亡霊がいったいなにをしようというのですか?」

 「亡霊……、ですか。 言い得て妙ですね。 確かに私たちは亡霊です。 この世に確かに存在するのに、決して生きてはいない存在。 触れることのできない霞みとなんら変わりはありません」

 リニスはまるで自分を自嘲するかのように儚げに微笑む。

 「しかし、霞とて夢は見るのです。 それが例え胡蝶の夢だったとしても、一度奪われた夢を再び見させてやりたいという夢をね」

 瞬間、リニスが展開した球状だったスフィアは硬質な音を立てながら鋭い突起の付いた剛直な銛へと形質を変質させていく。
 魔力弾を打ち出す砲台としてではなく、そのままぶつけてくるつもりだ。
 一触即発の空気に、ベヌウも翼に炎を揺らめかせ炎の矢を展開する。緩やかな風に飛沫を回せる屋の本数は、その数百二十。
 その切っ先は全てリニスではなく、リニスが展開しているスフィアの銛に向けられている。

 「その夢は、なにもかもを犠牲にしてまでも実現させる価値はあるのですか? 貴女たちの事情までは知りませんが、私の目には貴女たちはあえて破滅の道を歩んでいるようにしか見えません」

 「……アゼルのデバイスの名はイカロスというのですよ。 あれは私が作ったものです。 イカロスというのは蝋で固めた翼で空を飛び、太陽の怒りを買って地に墜とされた愚かな男の名前です。 なぜ私がデバイスに、そのような名をつけたかわかりますか?」

 リニスの聡明な瞳が、哀しみに揺らぐ。

 「鳥として……、空を飛ぶ者として生まれてきた貴女にはきっと永遠にわからないでしょうね。 翼を焼かれ、地に墜ちたイカロスの気持ちなど……。 なにもかもを犠牲にしてまでも太陽に手を伸ばすことさえ許されなかった、イカロスの悲しみなどね……」

 リニスの声は、川面に立つ波紋のように広がる。そして宙に浮く魔力が凝縮され、雷鳴が彼方で轟くような緊張感が瞬間的に増幅し、弾け飛びそうになった時……。

 「ストップだ!!」

空から突き刺すような叫びが空気を貫き、その場に居た全員が反射的に身体を硬直させた。誰もが見上げる視線の先には、アゼルと一葉の間に割って入る黒衣の魔導師の姿があった。


 ◆◇◆


 執務官。
 それは時空管理局において事件の捜査や法の執行、現場人員への指揮権を持つ管理職だ。また、検察と警察の両方の権限を兼ね備え状況に応じてその場で簡易裁判を行い、即時処刑を執行できる強力な権限も持っており、法務職でありながら尉官級の軍権も発動することができる。
 それ故に執務官の資格を取得するには高い魔力資質と法律全般の知識、そして実務能力が必要とされる。
 クロノ・ハラオウンが執務官となったのは三年前だ。当時、まだ十一歳だったクロノは史上最年少で、狭き門で知られる執務官試験をパスし、既に三年のキャリアを積んでいる紛れもない天才だ。
 そんなクロノがたまたま乗艦していた近隣の次元世界を航行していた次元艦に、ジュエルシードと呼ばれるロストとギアが管理外世界で紛失した事案の一報が入ったのは不幸中の幸いだった。
 スクライアの部族からの情報提供と、サーチャーと呼ばれる探査機で得た事前情報によると、そのジュエルシードは推定でもAAA級危険指定にされるほどの代物だ。
 さらに、調査の段階でそれを狙う犯罪者が居ることも確認できているため、本局からの人員を待つわけにもいかず早急に動かなければならなかった。
 その犯罪者は少なくとも二人。それぞれが強力な使い魔を有しており、また魔道師自身も相当な実力を持っていると推測されている。
 おそらくは、並みの武装局員では歯が立たないだろう。クロノが単身で出撃した理由はそこにある。

 ようやく目的の次元世界に到着したと思ったら、既に二つの勢力がジュエルシードを巡って争いを起こしていたのだ。
 いや、そこまではいい。ジュエルシードを狙う犯罪者と、ジュエルシードを発掘した遺跡の現場を監督していた少年が現地住民に協力を申し出て何度か衝突していたことは知っている。その二人が年端もいかない少年だということも。

 だが、一体誰が想像できただろうか?
 その少年たちが非殺傷設定すらも解除して、激しい殺し合いの中で嗜虐の笑みを湛えていることなど……。

 クロノが咄嗟に二人の間に割り込むと、瞬間、二人の動きが止まった。
 戦いの余韻が耳を打つ。訪れた静寂の無音に、クロノは圧し掛かるような重力を背中に感じた。

 「ストップだ。 二人とも戦闘を中断してデバイスを収めろ。 聞きたいことが山ほどある」

 クロノが言い終える瞬間、魔力が荒ぶる波濤となって大気を攪拌させた。

 「……盟約に従い森の深淵から現れよ 三つ首の髑髏 鴉の骨 狼の牙 百足の血 散在する狩人の屍 集え死神」

 「銀嶺を砕き雲割て出づる八本足の軍馬! 嘶き 吠え 空を砕け!!」

 地を這うような冷淡な声と、昂りをあげる声は魔法を発動させるための詠唱だ。クロノは胸に突き上げるものを感じ、頭よりも先に体に覚え込ませた回避行動に移った。

__Grim Reaper.

 __Mikazuti.

 無機質な機械音が響くと同時に、暴力的な魔力の塊がクロノに襲いかかる。
癖っ毛の少年からは真空に圧縮された空気の鎌が曲線を描き、黒い少年からは獅子頭となった電子の塊が超高速の刺突となって死を叫ぶ。
双方が非殺傷設定など最初からしていないことなどクロノは知っていたはずだった。
これは油断だ。違法魔導師といえど相手は自分と同い年程度の子供であり、もう一人はたまたま巻き込まれてしまっただけの現地住民の子供だという認識しかしていなかった。
 執務官として少なからずの経験を積んできたクロノは幾度となく自分よりもはるかに年上の犯罪者を相手にしてきたが、今回のようなケースは初めてだった。
 いざとなれば力づくで制圧することができるという、子供の喧嘩の仲裁程度の覚悟しかしていなかったのだ。まさか間に割り込んだだけで、殺意の標的が自分に移行するなどと露ほども考えていなかった。
 咄嗟に身体が動いたのは執務官として積む重ねた経験のおかげだった。全身に魔力を通し高速移動で直撃は避けられたものの二人の少年が放った魔法がぶつかり合った余波がクロノの背中を突き抜け、崩された体のバランスは重量のままに地面に引き寄せられ魔力の残滓は慣性のままに矢雨となりクロノに突き刺さった。
 リンカーコアを傷つけられる時の特有の胸を引き裂かれるよう激痛と大気を乱す激流に流されながらもクロノは手放しそうになった意識をとどめ、衝撃に揺れる視界の中で地面との衝突は避けることができた。

 「か……っは……」

 肺にたまっていた空気が全て押し出される。クロノは地面にゆっくりと着地しながら息を整えると同時に現状を理解し、諦観が鎖となってクロノの心臓に巻きつく。

 自分ではあの二人を抑えることはできない。
 その現実は、あの二人が発動させた魔法が物語っていた。

 金髪の少年が発動した魔法は、決して魔力の電気変換などという単純な能力ではない。そもそも電気の発生原理は上空と地面との間にある電位差が生じる為であり、電気変換資質の持った魔導師は自らのリンカーコアで発生させた魔力を電位差へ変換させることによって放電現象を起こしている。つまり、電気変換の魔法は魔導師が魔力によって引き起こす自然現象の一つに過ぎないのだ。
 だが、あの少年は魔法の発動時に電気分子を獅子頭の形に具現化していた。魔力を具現化させるレアスキルは極稀な例として確認されてはいるが、電気変換資質の魔導師としては決してありえない現象であり、もはやその能力は放電現象ではなく荷電粒子間のプラズマ現象に限りなく近い。
 それは魔力を電気に変える能力ではなく物質の分子を意図的に振動させてエネルギーを生み出す、電気変換資質に酷似しているが遥かに高位な能力だ。

 そして、癖っ毛の少年が発動させた魔法は、発生させた魔力によって大気の相対密度の空気をぶつけ合い意図的に発生させた空気の移動を魔力によって殺傷能力を極限にまで高めて操っていた。
 今の少年のように自然現象を人為的な魔力によって発動させることによって消費魔力を控えつつも、より高い魔法を発動させる技術は理論は昔から提唱されてはいたが実際に実戦で使用する魔導師は皆無だった。
 魔法は一言するとファンタスティックな響きに聞こえるが、実際は種も仕掛けもある科学の結集だ。
 デバイスがマナと呼ばれる大気の微粒子を取り込み、人体にあるリンカーコアを刺激し化学反応を引き起こしているにすぎない。
 そして化合によって引き起こされる現象であれば、そこには必ず化学式が存在する。
 魔導師は魔法を使う際にほとんどの演算式をデバイスに依存しているが、現在でもデバイス技術では魔法と自然現象を同時に発動できるほどの計算能力を持つデバイスは開発できていない。
 つまり、少年のデバイスは現在のミッドチルダのものとは別の技術。“失われた時代”のものである可能性が高い。

 そんな二人を相手に一人では荷が重いでは済まないことなど、クロノ自身が一番理解していた。
 だが、力の足りなさが即ちこの場で逃げ帰っていい理由には決してならない。
 時空管理局とは次元世界のあらゆる万人に対しての秩序と法の番人でなくてはならず、絶対的な存在でなくてはならないのだ。
 その番人の象徴たる執務官が、犯罪者を前に尻尾を巻いて逃げ帰ったとなれば、それが秩序の綻びへと繋がってしまうのだから。

 クロノは、ふと視界の端に映った人影に気がついた。
 そこにいたのは二人の少女と三体の使い魔。状況から鑑みて上空で斬線を切り結ぶ少年たちの関係者だろう。
 人員がいれば彼女たちの身柄を確保するべきなのだが、現場にはクロノ一人しか出ていない。
 現場の状況を甘く見ていたミスだった。
 今は何よりも先に二人の少年を制圧しなければならない。状況において公園を中心にした強力な結界が張られてはいるが、どんな拍子で結果が破壊されるかもわからない。
 それだけ少年たちの力は未知数なのだ。
 結界が破壊されてしまった場合、これだけ見晴らしのいい立地だ。管理外世界に対する魔法の露見は免れないだろうし、物的被害や、ここは公園という公共の場なのだ。一般人の被害者も間違いなく出る。
 そうなってしまう前に、現在の状況の何もかもを解決しなければならなかった。

 クロノは視線で少女たちを睨みつけた。その視線に気がついた全てがクロノと視線をぶつけ合う。
 今はこれでいい。あの少女たちがこのまま大人しくあの場にとどまり続けてとは考え難い。
 だからと言って、クロノ一人では手が回らないのであれば、既に管理局が目をつけたという警告をしておく必要がある。
 それが、今後の彼女たちの活動においての枷になるはずだ。クロノの一瞥にはその意味合いが含まれていた。

 今のクロノにとって最優先の行動は、上空の二人の制圧だった。


 ◆◇◆


 「フェイト! リニス! いったん引こう!!」

 焦燥で滲む声をアルフは荒げた。
 時空管理局の登場はジュエルシードをめぐる今回の一件で最も恐れていたことだ。ロストロギアの探索、所持は厳しく規制されている。
 古くから遺跡発掘を生業とするスクライアの一族でさえ、ロストロギアと思われる遺跡を発掘すればいったんは管理局に引き渡さなければならない取り決めがある。

 何の資格も持たない一般人が能動的にロストロギアを収集していること自体が重大な犯罪行為に加え、アゼルとリニスはジュエルシードを奪うために輸送船も強襲している。その時点で管理局に捕まれば実刑200年は優に超えるほどの罪を犯してしまっている。
 それは共犯であるフェイトの同じだ。

 ここで捕まってしまえば今までの行動が全て水泡に帰すだけでなく、一生涯を棒に振ることになる。アルフはそのことを理解していた。

 しかし、アルフの慌ただしさとは対照にリニスとフェイトは静かだった。フェイトは単純に狼狽し戸惑っているだけのようだが、リニスは冷静に状況を判断していた。

 「仕方ありませんね。 水を差されて腹立たしくはありますが、捕まってしまえば元も子もありません。 どうやら管理局の先行隊はあの魔導師一人だけのようですから私はアゼルを連れて後から行きます。 アルフはフェイトを連れて先に行ってください」

 リニスが言うと、アルフは首肯しフェイトの手を取った。

 「あ……」

 フェイトの唇から躊躇いの声が漏れる。フェイトの中には、まだなのはの手をとるべきかどうかという葛藤があった。
 だがアルフはフェイトの零した声を聞こえないふりをした。自分の主が何を考えていることはわかる。時空管理局の脅威が目の前に迫っていても、実兄と一葉の争いをこのまま放っておくことに躊躇いを持っていたのだ。
 たとえ状況が一つでも選択を誤れば自らが破滅してしまうとしても、今まで押し殺し堆積してきたフェイトの良心が呵責に悲鳴をあげていたこともアルフは知っている。
 それでも、アルフはフェイトの使い魔だ。例え何が起ころうと、どんなにフェイトの心が揺らいでいようとも、アルフにとっての最優位性がフェイトの身の安全であるということは不変でなくてはならない。

 アルフは自らの足元に燈色の光を走らせた。魔方陣を描く光の線は転送魔法の術式を展開し、発動させる。

 「待って! フェイトちゃん!!」

 光に消えようとするフェイトとアルフになのはは手を伸ばす。だが、伸ばされた手は虚しく空を掴む、なのはは悲しそうな眼差しを向けるフェイトと目が合った。

 「ごめん……。 私はここで捕まるわけにはいかないんだ。 一葉は貴女が止めて。 会ったばかりの私なんかより、貴女の声の方がきっと一葉に届くはずだから……」

 フェイトの声はどこか寂しそうでいて、悲しそうだった。その悲しさは燈色の光の残滓とともに消えていった。
 そして一人残されたリニスは厳しく冷ややかながらも余裕のある眼差しでベヌウを見ていた。

 「命拾いしましたね使い魔。 心惜しいですが、あのジュエルシードは貴女たちに差し上げましょう」

 「このまま……、私が貴女を見逃すとでも思いましたか?」

 語気を荒げず平坦な殺意を潜ませた声でベヌウは言った。まるで獲物を見つけた狩人のような鋭い視線とベヌウの周囲で揺らめいている炎の矢群の切っ先はリニスを貫いたままでいる。
 リニスもまた八十其のスフィアを展開しているとはいえ、ベヌウとの実力の地力が違うことは承知しているはずだ。
 だが、リニスは余裕の表情を崩さないまま人差し指を天に向ける。
 瞬間、落雷の轟音と震動が大気を揺るがした。


 ◆◇◆




[31098] 23!
Name: 三鷹の山猫◆b3ece1a7 ID:41e37c4c
Date: 2012/11/26 18:04
 対峙する両者は目まぐるしく立ち位置を変え、移動を繰り返しながら空間に傷を刻んでいく。
 斬線は煌きとなり、大気を引き裂く。その度に鉄のぶつかり合う劈く音が空に響き、木霊する。
 相手を破壊せしめてやろうという一撃一撃が、一葉にとっては心地が良かった。

 思慮も遠慮もいらない。髪の先から足の爪先まで電流が駆け抜けるように走る、本気になれる悦び。自分を偽らずにいられる快感。そして興奮。
 あたりに満ちた“殺陣”の空気は委縮し矮小になっていた一葉の狂気を暴走させるに十分なものだった。

 過去や未来ではない。心の底から湛える欲のままに酔いしれることのできる今に一葉は溺れていた。緋山一葉としてのしがらみも、魂のしがらみも関係ない。平穏への祈りも、不変であれという願いも、もはや一葉には無くなってしまっていた。

 魔力の塊がぶつかり合う。衝撃で生み出される風は鋼と金の魔力の残滓で視界を遮り、アゼルと一葉に両者が両者とも命を刈り取る絶好の好機を生み出した。

 一葉はアルデバランに魔力を通した。

 __Gravty core.
 一葉を中心として魔力で押し固めた円状の空気の塊を下方向へ叩きつける魔法だ。遮られた視界の中でもアゼルの居場所は直感的にわかる。それは恐らくアゼルも同じだろう。
 術式を展開しながら一葉は、獲物を見据えた蛇のようなアゼルの粘つく視線に捉われないように縦横無尽に移動する。
 一葉の放った魔法は僅かに手応えはあったが致命傷には至らず、また動きを制限するような怪我を負わせることもできなかった。
 そして視界を遮っていた魔力の残滓を貫いてきた数本の閃光も、一葉の右肩の肉を僅かに削っただけだ。

 傍から見れば今までの一連の攻防は、全て一瞬の出来事だった。魔力によって生み出された靄も、瞬き間に霧散し、アゼルと一葉は再び刃を切り結ぶ。

 「今すぐ戦闘を中断して武器を捨てろ!! 君たちが行っていることは次元法に抵触する犯罪行為だ!!」

 そんな二人の間に、クロノの喝破が響いた。
 その声に反応し動きの速度を緩めたのはアゼルだった。それにつられて一葉もクロノに意識を向ける。
 一葉は弾む息を整えながらも、緩やかに冷やかになっていく自分の体温に苛立たしさを感じていた。この戦いはあくまでアゼルと一葉の私闘だ。その間にジュエルシードという打算的なものはない。だというのに、突然現れた少年は次元法などという聞いたこともない法律を押し付け水を挿そうとする。
 一葉がアゼルにつられて槍を収めた理由は、この戦いは第三者が与えた隙をついて決着をつけるような戦いではないからだ。
 アゼルもまた、それを理解していたからこそ刃を一時的にひいた。

 アゼルは額から流れる血で濡らした唇で微笑を浮かべながら、聞き分けのない子供を見るような眼差しでクロノを見据えた。

 「君の方こそ、そういうの止めてくれないかな。 仕事熱心なのはいいことだと思うけどね、人様の喧嘩にまで首を突っ込むことも時空管理局の職務に入っているわけ?」

 「論点を挿げ替えないでくれ。 君たちの行っている喧嘩自体が犯罪なんだ。 なんだったら罪状を一つ一つ述べていこうか?」

 アゼルのからかうような言葉に、クロノは努めて冷静でいて厳しい口調で答えた。
 弱みを見せれば、そのまま喰われる。そんな直感めいたものがあったからだ。

 「面倒だし先にそいつ殺さね?」

 一葉の不穏な言葉に、クロノはデバイスを身構えた。
この場に砲撃魔導師がいないことは不幸中の幸いだった。三者はお互いに牽制し合い距離を保ってはいるが、それでも一歩踏み込めば必殺の魔法が放てる間合いを測っている。
今のクロノにできることは時間を稼ぐことだった。
どうにかして今の状況を持続させ、応援が来るのを待つ。クロノが乗っていた艦に配備されている武装局員ではこの二人の相手は荷が重いかもしれないが、クロノ一人ではどうすることもできないのであれば物量戦で臨むしかない。
幸い辺りを包囲している結界は不可視結界であって他者の侵入を積極的に阻むタイプのものではない。後五分もすれば増援が駆けつけてきてくれるはずだ。

 だが、クロノのそんな目論見はたやすく崩される。
 今の状況を良しとせず、行動を起こしたのはアゼルだった。

 「なるほど。 確かにそれは魅力的な提案だけど、管理局員殺しはちょっとばかしリスクが高すぎるかな。 彼を殺して管理局から恨みを買うのは、それはまだ僕の望むところじゃない。 だからと言って現状を維持していても、応援が来てもっと面倒くさいことになるだろうからね。 遊びの途中で悪いけど、今日はこのままお開きにさせてもらおうかな」

言い終えると同時に、イカロスの刃から魔力が弾けた。

__Kurui kazuti.
 放たれた魔力は形となり、膨大なエネルギーを内包した紫電に姿を変える。そして紫電は一瞬にして拡散し、空間を刻む亀裂となって地上にいたなのはたちに襲いかかった。


 ◆◇◆


 この二人の少年の起こす行動はあまりにもクロノにとってあまりにも予想外で、想定外過ぎた。
 今まで出会ってきた犯罪者の中には、当然一般人を盾にしてまでも逃亡を図るとする輩は多くいた。しかし、その全ては逃げきれないと悟り自棄になったが故の悪あがきだ。そして自棄になったが故に冷静な判断ができず、思考が直線化され大抵は自滅していった。

 だが、アゼルは追いつめられたわけでも自棄になったわけでもないというのに、瞬き一つせず冷静に、冷酷に地上に居た傍観者の少女たちに牙を向けた。

 そんなあまりに唐突過ぎる出来事を視線では追えるというのに、一葉のように身体が反応せずむしろ緊張で強張ってしまっていた。
身体が緊張したのは一瞬だが、その一瞬が各々の行動の優位性を決定づけた。
一葉はアゼルの放った紫電を追いかけ、アゼルはその隙を突き自らの足もとに転移魔法の陣を敷き終えていた。クロノは一人状況に取り残され、牽制のために保っていたお互いに魔法を発動された時に反応できる絶妙な間合いが仇となった。
クロノの立ち位置からではアゼルに対して射撃もバインドも間に合わない。何もできないまま、みすみす取り逃してしまう。
 腹の底から噴出した焦りと悔しさが胃の中に溢れ出た途端、地上から押し出すような叫び声が響いた。

 「執務官の人! 今だ!!」

 クロノは咄嗟に下を向く。視線の先にはバインドで両腕を縛られた一葉がいた。


 ◆◇◆


なぜ身体が動いてしまったのか、その理由はわからなかった。おそらくは未練とか、執着とか、そんな様なものだろう。
 魂が肉体に惹かれるというのであれば、“緋山一葉”として過ごし蓄積された日々の思い出に、肉体が勝手に反応してしまったといったところだ。

 アゼルの放った紫電は魔力によって指向性が付属され、意志を持ち地上にいるなのはたちに襲いかかった。その様子に気が付いていたのはベヌウだけだった。
 いや。
 きっと、なのはが反応できていようがいまいが関係なかったのだ。緋山一葉が最も恐れていたことはなのはが傷つくことだった。
 なのはに危害が及ぶ可能性に対して、身体が反射的に動いてしまったのだ。
一葉は足に込めた魔力を爆ぜさせ、普段の一葉にはそぐわない騒擾な高速移動で紫電を追いかけた。本来ならば射撃系統の魔法で撃ち落とすべきだが、一葉は砲撃に属する魔法の一切が使えない。
 単純に才能がないのか、形成した魔力を完全に体から切り離すことがどうしてもできないのだ。しかし、逆に言ってしまえば、魔力を体から切り離さず身に纏い発動するタイプの近接・中距離間の攻撃魔法の発動に関して一葉は紛れもない天才だった。
 魔法を発動させるための計算式の精密と速度は当然のことながら、演算には独自の閃きや発想さえも取り入れ、より効率的で効果的に発動させることができた。
 そして一葉の才能の最たるものは、脊髄を介さない程の反射能力だ。どんな緊急時でも、頭ではなく体が最も最善の行動を選択する。
一葉はアルデバランに通された魔力は大気を飲み込み押し固め、穂先の延長線上になるように形成された。

 __invisible spearhead.
 空気を魔力で昂ぶらせた、アルデバランから伸びる見えない穂先はアゼルの放った紫電を貫き砕く。
 雷は衝撃で四散し、閃光となって消滅した。
 その閃光で目が眩んだ、ほんの一重の隙だった。

 若草色の鎖が、一葉の両腕に巻きついた。

 「執務官の人! 今だ!!」

 戦塵で汚れた甲冑小手がきつく締め上げられる。これはユーノの魔法だった。
 一葉はあくまで冷静に、そして冷淡に状況を把握し地上に四肢を着け魔法を展開しているユーノを見下ろす。すると畏れと怯えが入り混じり青ざめた表情のユーノと視線がぶつかった。
 一葉にとって、この展開は予想していなかったわけではない。なのはと違い、一葉はユーノにとって仲間ではなく状況に流されてたまたま一緒に居ることになっただけにすぎない。
 それでいて、ユーノが一葉のことを危険視していることも十分に承知していた。
 時空管理局というユーノの住む警察機関が現れたら、なんらかの行動を起こすことは容易に想像ができていた。

 一葉の腕を締めるバインドは拘束魔法なだけあって魔力結合が堅い。しかし、それは一葉にとって意味をなさなかった。
 一葉はバインドの魔力の構成を分析し、魔力結合同士を結合させている成分を魔力が結合することの出来ない成分に“入れ換えた”。
 まずはアルデバランを持つ左腕のバインドが渇いた粘土のようにボロボロになり崩れ落ちる。その様子を見たユーノの表情に、怯えの色が一層に濃くなった。

 一葉はユーノに対して怒りを持っていなかった。
 例え短い時間とは云え、濃密な時間を共に過ごしたユーノに対して同情も斟酌もなく、ただアゼルとの戦いを中断された苛立ちをぶつけることができる相手が一人増えた程度にしか考えていない。

 左腕と同じように、一葉は右腕を縛るバインドの構成の分析に取り掛かる。瞬間、ネイビーブルーのバインドが一度は開放された左腕を再び締め上げ、右腕にもユーノのバインドの上から重ねて現れた。

 それはユーノの声に反応したクロノのものだった。
 クロノはアゼルの身柄を確保できないと判断すると、ユーノが動きを制限した一葉の拘束を最優先と判断したのだ。

 クロノの展開したバインドは意思を持った蔦のように一葉の身体を縛り上げ、ユーノもそれに倣うかのように再び一葉の身体にバインドを展開させる。
 混じり合う若草色とネイビーブルーの魔力は滲むような黄色に変色し一葉の四肢を空に固定する。それは単純に身体を拘束するものではなく腕や指の関節部分は曲がらない方向に圧力が加えられ、不穏な動きを見せればそのまま骨を破壊するぞという無言の脅しがかけられていた。

 だが、クロノやユーノの考えとは裏腹に、一葉にとってその脅しは意味をなさないものだ。いくら強度や術者が変わろうとも、バインドを構築する魔力の成分や構築式が変わることはない。
 つい先ほどユーノのバインドのように、一葉にとっては乾いた粘土と何ら変わりがないのだ。

 しかし、刹那としてぞわりとした怖気が一葉の背中を舐めまわした。明確な理由などない、もしかしたら前世で蓄積された経験が空気を感じ取ったのかもしれない。
 言いようのない不安が一葉を支配し、それを明確に感じ取った瞬間、形のある脅威が一葉の背中から圧となって迫ってきていた。

 この圧はバインドの術者たちのものではない。もっとほかの脅威だ。
一葉が首だけで振り返ると、その圧の正体は直ぐにわかった。
それはアゼルだった。一葉がバインドで拘束されたのを見計らい、転移魔法を中断して刃を構えたまま猛進してきていたのだ。

 その行動は決して卑怯とは言えない。アゼルは一葉と違い明確な目的を持って行動している。その障害となる一葉が見せた絶好の隙を取り溢す愚かなことは決してしなかった。

 一葉はアゼルの姿を視界に収めると、咄嗟に腰紐に結んでいた麻袋の中身を一振りの巨刀として顕現させた。一葉の隙を逃すまいと、猛進していたアゼルは急な方向転換は出来ない。
 それでも目の前に突然現れた刀の切っ先に恐れもなく突っ込み、イカロスの切っ先を巨刀の刀身に併せ滑らせる。その反動でアゼルは身体の軌道を逸らすことはできたが、それでも満足に避けきることは出来ずに首筋から横腹にかけての縦一直線に肉を裂かれてしまう。
 それでも、迸る激痛を奥歯を噛みしめることによって誤魔化し、イカロスの刃を一葉にぶつけた。

 アゼルが狙っていたのは一葉の首筋から心臓にかけての一閃だった。だが、一葉の顕現させた巨刀によって僅かに軌道がずらされたと同時に、その間に一葉は左半身だけとはいえバインドの解除を成功させていた。
 アゼルの一撃を振り向きざまに防ぎ、イカロスとアルデバランの刀身がぶつかり合う。
 その衝撃に負けたのは、イカロスであり一葉だった。

 先までの激しい戦闘に加え、巨刀を避けるために無茶な角度から圧力が加えられたため、イカロスの刀身は限界に達していたのだ。
 アルデバランとの衝突は、イカロスの刀身を折る決定打になってしまった。

 それでも、武器として負けたのはイカロスだったが人間として敗北したのは一葉だった。
 痛んでいたとはいえデバイスが折れる程の衝撃を、一葉は左腕だけで耐えきることは出来なかった。
 左腕に痺れが走り、瞬間的に握力がなくなる。そして、一葉はアルデバランを掌から滑り落してしまった。

 アルデバランが重力のままに落下していくのを阻止したのはアゼルだ。アゼルはイカロスを捨て、一葉の手から離れたアルデバランを蹴り上げ自分の手に収める。
 そして、その勢いのままにアルデバランの切っ先を一葉の胸に向けた。

 その一瞬は、まるでスロー再生をしているかのようだった。
 飛び散る血汗さえも明確に目で捉えることのできる、まるで世界を置き去りにしてしまったかのような感覚の中で、アゼルの声が一葉の耳朶を打つ。

 「これで幕だ。 君の敗因は、自分が守ろうとした者を信じすぎたことだ」

 瞬間。アルデバランは一葉の心臓を貫いた。

 「……畜生」

 感じたのは痛みではなく熱だ。胸の中に火鉢を突っ込まれたかのような激しい熱を感じた刹那、一葉の命はそこで途切れた。


 ◆◇◆


 「う……そ……?」

 なのはの頬に滴が落ちる。それは雨ではなく、まだ仄かな熱を持つ赤い血だった。
 見上げる視線の先には空に磔にされた幼馴染。まるでゴルゴダの丘で命を奪われた聖者のような姿に、なのははの心臓は冷たく凍えてその光景を愕然と見上げることしか出来なった。

 「そん……な……。 僕は……、こんなつもりじゃ……」

 自分の行動がきっかけとなって起こってしまった悲劇に、ユーノは動揺で声を震わせていた。クロノもまた、自分が介入する暇などない一瞬の出来事に、アゼルと同じ視点から呆然とその光景を見ることしかできていないでいた。
 そんな二人の動揺は展開していた魔法にも影響を及ぼす。死んだ一葉の身体を空に繋ぎとめていたバインドは制御を失い、解除される。
途端に、一葉の亡骸は糸の切られたマリオネットのように地面に落下していった。

 「……ッ! 一葉くん!!」

 地面に縫い付けられていたかのように立ち竦むことしかできなかったなのはは弾かれるように走り出した。
 心臓が冷たいというのに頭の芯は焼けるように熱くて、苦しくて息が止まりそうになる。
 目の当たりにしてしまった光景を否定する言葉を頭の中で何度も何度も繰り返し、嘘であれと血を吐いてしまいそうになるほどに自分自身に懇願しても、闇の中に真っ逆様に落ちて行ってしまうような恐怖に皮膚が泡立だった。

 赤い血を飛沫に舞わせて、空に煌めきを描きながら落ちる一葉をなのはは魔力で強化して身体で受け止める。その腕ごと持っていかれてしまいそうな激しい衝撃は、腕に収まった一葉の顔を見たとたんに胸を抉る痛みによって掻き消された。
 一葉の顔は鼻と口から吐き出された血によって赤く塗られていて、薄く開いた目には光がなくぴくりとも動かない。
 それはまるで、精気のない人形のようだった。

 「一葉……くん……?」

 掠れるなのはの呼びかけに、一葉は応えない。
 乱暴に肩を揺らしても身体と首をがくがくと傾けるだけで怒らない。笑わない。身体の真ん中に槍が刺さっているというのに苦しみもしないし痛がりもしない。

 「うそ……。 こんなの……うそだよ……」 

 なのはは恐怖で身体が震えた。真冬の夜のような凍えが背中を駆け抜け、指先を痺れさせ思考を鈍感にさせる。
 ただ、目の前にある……、自分の腕の中にある現実はただの光景として出しか捉えられず、頭が受け入れることを拒んでいた。
 一葉の身体から流れ出る血はなのはの白いバリアジャケットを穢していく。それに比例していくように、一葉の身体は徐々に冷やかなものになっていった。
 それはまるで血に魂が宿っているかのようで、血が一滴流れていく度に一葉が死んでいってしまっているのではないかと思えてしまうほどのもので……。

 死……。そうだ……死だ。
 血の温もりに浸っていたなのはは、ようやく緋山一葉の死を認識した。

「あ……、あぁぁ……。 いや……。 いやああぁぁぁぁぁあぁぁぁ!!」

 空を切り裂くような慟哭。絶望。心臓をナイフでズタズタに切り刻まれるような激痛がなのはを襲い、嵐のように荒れ狂う混乱と恐怖が頭の中で錯綜した。

 なんで!?
 どうして!?
 なにがいけなかったの!?どうしてこうなってしまったの!?なにが、どうして、なんで……、誰が……

 誰がやった……?

 針のような疑問は、冷たい衝撃となってなのはの脳裏を貫く。

 「いつか、僕が言った時のようになってしまったね。 君の脆弱さが君を殺した。 呆気のない幕切れだよ……、本当に残念だ……」

 鉛色の空。風さえも吹かない停滞した世界で少年が、憐憫と失望が入り混じった赤い瞳でなのはを見下ろしていた。
 いや、見下ろしていたのはなのはではなく、なのはの抱える一葉“だったもの”だ。
 黒いバリアジャケットを纏う少年の金髪も、白い肌も一葉の返り血で赤黒に彩られ、その姿はまるで不遜に佇む死神のようで、なのははその死神に怨嗟の怒りが津波のように押し寄せてきた。
 渦巻く絶望は理性を排斥し、冷たい恐怖は目眩がするほどの激しい感情は憎悪を通り越し、殺意となって喉元にこみ上げる。
 
 ああ、そうだ……。 そんなの決まっている。
 誰がやったのかなんて、ずっと見ていたではないか。
 力がないからと、ただ傍観することしかしなかった卑怯で醜い自分の目の前で、大切な人を殺した人間は目の前に居るではないか。
 臓腑を抉る程の怒りを、殺意を、痛みも哀しみも絶望も何もかもをぶつけるべき相手がいるではないか。

 錯綜していた恐怖と混乱は、激しい狂気となってなのはを焼き尽くす。

 「レイジング……、ハート……」

 __Yes sir. Kill mode on.

 アイツダ……



[31098] 24!
Name: 三鷹の山猫◆b3ece1a7 ID:6c236772
Date: 2012/11/28 20:13
 激しい戦いの空気は、一人の死によって束の間の停滞が訪れた。魔力の奔流であれほど荒ぶっていた風が止み、それなのに揺れだけが体の中に残ってしまったような感覚が張り付いている。
 訪れた静寂には息をのむ沈黙、切迫した冷たさ、張り詰める気配が支配していて封印によって密閉された空間で緊迫した雰囲気を作り出していた。

 その中で、傍観者にしかなり得なかったクロノは息を呑む。何もかもが一瞬の出来事として過ぎ去ってしまった現実に、クロノは身動きが取れずに立ち尽くしていた。

 クロノがアゼルを認識したのは、一葉の心臓にアルデバランが突き付けられた直後だった。
 ユーノ・スクライアの叫びが耳に届き、自らの魔力を触媒にし一葉の四肢にバインドを巻きつけた直後に空気が爆発するような音が耳朶を打った。
 訪れる突風。
 脇を過ぎ去る黒い塊。
 その塊が、僅か一合の攻防で緋山一葉を殺害する。それは本当に一瞬の出来事で、クロノは止めるどころか指先を動かすことさえも叶わなかった。

 「お礼を言うよ、執務官。 多分、下のフェレットのバインドじゃ彼には足りなかった。 君のおかげで、僕は彼を殺すことができた」

 それは空虚な声だった。期待に満ちて宝箱を開けたら中身が空だった時のようであった時のような期待に裏切られた声。
 アゼルはむしろ、自分がなのはたちに攻撃を仕掛けた瞬間に自分に斬りかかって欲しかったとどこかで願っていたのかもしれない。
 アゼルがいつも見ていたのは、自分の仇であり主の仇だった男だ。違う世界、違う時代で邂逅したその男の魂を持つ少年が緋山一葉だ。
 この出会いは運命の采配なのか悪戯なのか、自分にとっての不幸なのか幸運なのかもわからない。わからなかったが、それでも出会いに歓喜している戦士としての自分がいた。
 今さらになって遺恨を晴らそうなどという考えは持っていなかった。純粋に戦いとしての喜びがアゼルにはあったのだ。
 だが、緋山一葉は魂の確執よりも肉体に蓄積された思い出を選んだ。目の前の戦いよりも、他人を選んだ。
 それはアゼルにとって、完全なる裏切りだった。

 しかし、そんなアゼルの心情はクロノに伝わることも、よしんば伝わったとしても理解できるはずなど決してない。
 クロノにとっては状況判断を起こったという、執務官にあるまじき初歩的なミスによって人を一人死なせてしまったという現実に己を呵責し、その不甲斐無さに唇を震わせていた。

 「貴様……ッ。 なんてことを……!」

 クロノは怒りのあまりに眩暈が起こり、立眩みそうなるのを必死に堪えデバイスの先端から砲弾と化した魔力を撃ち放った。
 その数は全部で十二弾。クロノが一度に装填することのできる最大弾数だ。青い光の残滓で大気に尾を引きながら襲い掛かってくる魔弾に対して、アゼルはピクリとも動かない。
 落胆の感情の余韻を消した鋭い表情で、目線を動かすだけだ。

 捉えた。
 クロノの中で確信が生まれる。十二の魔弾全てが直撃コースに乗り、クロノは追撃のための魔力を装填する。
 アゼルの身体が微かに揺らいだのは、クロノのデバイスから薬莢が吐き出されるのと同時だった。

 「遅いよ。 そんなのじゃ一生かかっても僕に一撃を届けることなんてできない」

 「……ッ!?」

 後ろ。そう認識した時には既に炯炯とした黄金の魔法がクロノの身体を突き抜けていた。それは指向性のない、ただ魔力を吐き出しただけの殺傷性の低い衝撃だったが、アゼルの特性である電気変換の特性を帯びた一撃は動きをしばらくの間封じるには十分すぎる威力があった。

 「君は殺さない。 君には恩ができたからね」

 頭の先から足の爪先まで走る痺れに体が麻痺し、重力のままに墜ちるしかないクロノの耳に、風を切る音に混じってアゼルの声が届く。
 敵に掛けられた情けと自分の無力さに、視界から遠ざかるアゼルを睨みつけながらクロノは血が滲むほどに唇を噛み締めた。
 何もできなかった。
 少年たちの身柄も、ジュエルシードも確保できずに、むしろ自分の登場によって状況を無暗に搔き乱し被疑者を死に追いやってしまった。
 悔しさに鼻の奥が熱くなった瞬間、桃色の猛流がアゼルを飲み込んだ。


 ◆◆◆


 「お前が……ッ! お前があぁぁぁあぁぁ!!」

 燃え盛る列火のような感情を露にしたなのはの一撃は、アゼルの右腕を消し炭にした。
 肘から先を吹き飛ばし、残った箇所も赤黒く焼け爛れ、燻る煙には肉の焦げる匂いが混じる。さらに躊躇いなど微塵も感じさせない追撃の魔法は容赦なくアゼルに襲いかかる。
 取り囲む無数の桃色の誘導弾は、一つ一つは蛍火のように小さく脆弱な光しか持たないが、見た目には似つかわしくない破壊力を秘めていた。
 限界の密度まで凝縮された魔力の塊が弾けた時の威力は、魔導師の平均値であるCランクでも手榴弾程はある。
 なのは程の魔力を持つ人間が、非殺傷設定を解除した時の威力は論じるまでもない。人間一人塵も残さずこの世から消し去ることなど蟻を踏み潰すよりも容易い。

 しかしアゼルは怯えるどころか表情筋一つ動かすことなく淡々とした口調で口を開いた。

 「僕が? 僕がなんだって言うんだ? 僕が彼を殺したとでも言いたいのか? 言っておくがそれは違うよ」

 「うるさい!!」

 顔を紅潮させ涙も鼻水も拭いもせずに、なのはは咎を糾弾する被害者のような苦しみの声で叫ぶ。
 アゼルが一言、言葉を発する度、心が狂おしくざわめいた。
 もはや自分の中で暴れ狂う破滅的な衝動を抑えることもできず、アゼルの顔も心臓も、何もかもを切り裂いてやりたいと震えるほど願う。
 
だが、アゼルはその憎しみに満ちた眼差しに貫かれても、表情にも声にも脅えの色を微塵も出すこともなく、尚且つなのはを挑発する言葉を続けた。

 「彼を殺したのは君だ。 本当はわかっているんだろう? 君の存在が彼を追い詰め、そして死に追いやった。 君さえこの場にいなければ結末はもっと違うものになっていたはずだ」

 「うるさいッ! うるさいうるさいうるさいうるさい!! 殺してやる……ッ、殺してやる! 殺してやるッ!!」

 アゼルを取り囲む誘導弾の群れが膨張の予兆を見せ始める。誘導弾に圧縮された魔力の塊が凝縮する殻を突き破る為にエネルギーを昂ぶらせ、それは耳鳴りのような高い音の時雨となって周囲に響き渡る。
 それは死刑執行までのカウントダウンだ。
 辺りに展開された誘導弾の数は優に二〇〇を超える。その一つが弾け飛べば、全ての誘導弾が誘爆を引き起こし、ここにいる人間はなのはも含めただでは済まない。

 だが、それこそなのはにとってどうでもよかった。
 生まれて初めて感じる、眩暈がするほどの憎悪と殺意はなのはの感情を支配し、目の前にいる人間を殺すという明確な目的の遂行以外の思考を排除し、命を顧みることなど他の全てのことに対して盲目にさせていた。

 限界まで昂ぶりが達した誘導弾の爆発のタイミングは、もはやなのはの任意下にある。最後の引き金を引けば、辺りは一瞬にして焦土と化すだろう。
 そしてなのはは、その引き金を引くことに微塵のためらいも持ち合わせていなかった。

 「え……?」

 襲ったのは首の圧迫感だった。
 そして、目の前には血化粧をしたアゼルの顔。無表情な瞳の奥には、小さな苛立ちと怒りが揺らいでいた。

 一瞬、何が起きたのかわからなかった。いや、その無意識に視界に入る光景としては頭では理解できていた。
 アゼルを囲うように展開していた二〇〇を超える誘導弾が全て消滅し、三〇メートルは離れた場所にいたはずのアゼルが左手でなのはの襟首を締め上げ、吹き飛ばしたはずの右腕がアゼルの身体から伸びていた。

 “一瞬”という言葉さえ相応しくないほど、一瞬の出来事だった。まるで瞼を一回瞬かせた瞬間に、世界そのものが変わってしまったかのような感覚になのははアゼルの腕から逃れることも思いつかず、ただ戸惑いの声を漏らすことしかできない。
 
 「これからは命を大事にしろ、小娘。 彼の命は君が百回死んでも釣りの来るものだった。 こんな自分の命を投げ出すような真似二度とするな」

 苛立ちを孕んだ固いアゼルの声がなのはの耳に届くと同時に、アゼルは右腕を振りぬいた。
 ゴン、と重たい衝撃が頬骨に響き、痛烈な痛みが鼻先を貫く。

 「ぷぁ……ッ!」

 唇から空気が抜けるような間の抜けた声が吐き出されると同時に、口内と鼻から血が噴き出て鉄の味がなのはの中に広がった。
 バリアジャケットを纏っているとはいえ、なのははバリアジャケットの防御力のほとんどをアゼルを殺すための攻撃エネルギーに転換してしまっていた。
 殴打された頬の痛みは熱を伴い、ジンジンと広がっていく。

 痛い……、痛い……、痛い……。

 なのはは生まれて初めて顔面を殴られた。
 初めて知る激痛に、今にも泣き出してしまいそうになる。しかし……

 「スターライト……」

 一葉はもう、痛みを感じることさえできないのだ。

 Star right breaker.
レイジングハートにインストールされた、最強の砲撃魔法。怒り、憎しみ、殺意、その全てを起動させ、走査させ、レイジングハートの穂先へ集中させる。

 このまま吹き飛ばしてやる。
 絶対外すことのない零距離射撃。レイジングハートに走る魔力が勢いと密度が上昇させる。
 魔力によって軋みをあげる大気。穂先から収まりきらない魔力が滲み迸る。
 その魔力を自分の足元で爆発させようとした瞬間。

 「なん……で……?」

 まただ。
 装填した魔力を放出する寸前だったはずのレイジングハートが、確かに自分が持っていたはずのレイジングハートがアゼルの右腕にあった。
 まるで映画のワンシーンが飛んでしまうかのような、時間が自分を取り残して進んでしまっているかのような不可思議な現象だ。

 「口で言ってもわからない。 殴ってもわからない。 本物の愚か者だな君は」

 バチリ、という紫電の衝撃とともになのはの身体が弾ける。

 「ア……ガ……」

 「しばらくは動けない。 拾った命を無暗やたらに粗末にしようとするな。 それは君のために死んだ彼への冒涜だ」

 駆け巡る電気の痺れに筋肉が弛緩して力が入らない。光の残滓が視界に張り付いて目が眩む。
もはや飛行魔法を維持することもできずアゼルの左腕一本に中にぶら下げられている状態になったなのはとレイジングハートを、アゼルはゴミを捨てるかのように放り投げた。

 「見逃すのはこれが最後だ。 二度と僕の前に姿を見せるな」

 電気による痛みは少なかった。心は荒ぶっているのに、身体は力を抜かれるような嫌な虚脱感に支配されただ落下していく。
 一葉は血の煌きで空に尾を引いたが、なのはは敗北の涙を空に煌かせた。

 ◆◆◇

 「アゼル……」

 一人空に残ったアゼルの横に、リニスが現れる。

 「……使い魔の方は?」

 簡潔な問いかけに、リニスは軽く首を頷かせ答えた。

 「バインドで簀巻きにしています。 アゼルの放った狂雷のおかげで隙を突くことができました」

 「あっそ」

 アゼルは冷淡な面持ちで下を見下ろすと、確かに視線の先にはリニスのバインドによって拘束され身動きが取れなくなったベヌウが地面に縫いつけられていた。
 新緑の双眸は忌々しげに濃密な殺意で貫き、アゼルを睨みつける。主を目の前で奪われた臣下の憎しみは、世界が闇に沈むかのような殺意となって喉元に絡みついてきた。

 「今さらだけどさ……、あれって本当に使い魔なのかね?」

 それは、アゼルが以前から抱いていた疑問だった。
 思い返すと、使い魔として扱うには腑に落ちない点が多すぎる。契約の時点で素体となった動物の体毛が変色することは決して珍しくなく、実際にリニスもアルフもそうだったから黒い羽毛は特筆すべきところではないが、ベヌウが単体として持つ魔力は術者である一葉を遙かに凌いでいる。
 それは使い魔を使役する上の魔法の性質上あり得ないことだ。他にも、頑なに素体の姿を維持し人間形態にならないことや、魔法を発動する際に魔力を術者に依存しないことなど不可解な点が見受けられる。

 「それこそ今さらですよ。 あれが仮に使い魔でなくとも魔法生命体には変わりありません。 術者が死んだ以上、もう永くはないでしょう。 それよりも、アゼル。 結界の外から何者かが干渉を始めています。 おそらくは時空管理局の増援だと思いますが、このままここにいては面倒になります。 早く離脱しましょう」

 「ああ……、そうだね……。 それにしても参ったな。 母さんになんて言い訳をしよう」

 口で言うほど、アゼルは辟易はしていなかった。
 アゼルの胸中を占めていたのは失望と落胆だ。
 だが、一葉を殺すということは過程であり目的ではない。アゼルは一葉の脅威という障害がなくなってしまった目的の遂行を淡々とこなすだけだ。

 リニスは足元に魔方陣を走らせる。
 迸る青い光の中で、アゼルは下にいる人間たちを一瞥すると、その光に溶けて消えていった。


 ◆◆◇


 「うぇっ……、うあぁぁぁぁっ……!」

 目の前に広がるのは悪夢のような光景だった。
 血の池に横たわる少年と、泣き叫ぶボロボロの少女。
 髪は乱れ、嗚咽に喉を鳴らし、血の混じる涙も鼻水も涎も拭いもしないで物言わぬ死体に縋りつく。
 鳴り止まない苦しみの咆哮はユーノの胸の奥に響いては、心臓を素手で鷲掴みにされてしまったかのような背徳が背筋にまで木霊した。

 「やだぁ……っ! こんなの……やだよぉ……っ!」

 血を吐き出すようななのはの叫びにも、一葉は反応しない。
 胸に突き刺さったままのアルデバランはまるで墓標のようで、緋山一葉という一人の人間の死を象徴しているかのようだった。

 「なのは……」

 ユーノは血に浸った少女を見て、近づくこともできずに茫然とその名前を零す。
 この惨状を作り上げたのは自分だった。少年を死に追いやったのは自分で、少女を悲しみに沈ませたのは自分だという絶望に耳鳴りがして、身体が焼けるように熱くなり、足が震えただ立っていることさえも困難になる。
 ただ、あの少年に危惧を抱いたということだけで自らの中にある道徳を鉄柵の中に閉じ込め、戦場の中で四肢の動きを封じるという恐るべき手段を取ってしまった。
抑えきれない悔恨と、このまま消えてしまいたいという虚しい祈りが胸の中でせめぎ合い、ただ草の上に尻を突きながら茫然と竦むことしかできなかった。

 「君たち……、少しいいか?」

 重たい空気に割り込んできたのは、クロノの憔悴した声だった。
 落下した時に打撲したのか、右腕を抱えながら足を引きずっている。バリアジャケットも所々が煤焦げて、微かに揺らめく煙をくすぶらせ砂塵に汚れていた。

 「あ……、あの……」

 ユーノは喉に声が絡んでうまく言葉にすることができない。泣きたいのか、喚きたいの、自分がいったい何をしたいのかすらわからずに戸惑っている様子を見て、クロノは申し訳なさそうに目を伏せた。

 「すまない……。 こういう時にどう声をかけたらいいかわからないんだ。 とりあえず、場所を移して落ち着けることころで話がしたい。 この結界を解除してくれないか? 彼の遺体……、DOA(搬送時遺体)も運ばなければならない……」

 「この結界を維持しているのは彼ではなく、私ですよ……。 執務官」

 ふと、クロノとユーノに影が差した。視線をやると、その先には翼を畳んだ黒鳥が透明な眼差しを二人に向けている。
 動きを封じていたバインドは、リニスが戦線を離脱したことによって解除されたのだ。

 「君は……」

 「私は……、どうしたらいいのでしょうか?」

 何かを問いかけようとするクロノの声に、ベヌウは言葉を重ねた。

 「わからないのです……。 数千年生きてきて、私は多くの主に使えてきました。 中には勿論、私の目の前で命を散らしていった者も少なくはありません。 それこそ……、仲間の裏切りによって命を落とした者もいます」

 裏切り、とういう言葉にユーノはビクリと身を震わせる。それでもお構いなしに、ベヌウは言葉を続けた。

 「人の命など、花の如くに儚いものです。 だからこそ命を臆病に守らず、むしろ風に身を任せ散って行く花のように自らの死を誇りとする者さえいました。 緋山一葉もまた、そういう人間だったことを私は解っていたはずなのに……。 なぜでしょうか……。 私は、貴方達二人が憎くてしょうがないのです……」

 瞬間、ベヌウの視線に圧が増した。
 黒い身体に炯炯と浮かぶ緑の双眸には殺意も、敵意も、憎しみさえもない。湧水のように滾々と湧き出る黒い感情をどうしたらいいのか分からない戸惑いだけが浮かんでいる。
 こんなことは、ベヌウにとって初めてだった。
 戦場に身を置く以上、ある時との死別は日常と言っても過言ではない。数十年寄り添った者もいれば、僅か三日で死別した者もいる。
 むしろ、天寿を全うした者の方が珍しかった。
 死によって主と引き裂かれることには慣れているはずだった。それでも一葉の死を嘆き、苦しんでいる自分がいる。
 それは、あの若さで命を落とした憐憫からくるものなのか、それとも破滅の道を歩み続けた結果として、悲劇に命の幕を下ろさなければならなかった同情からくるものなのか……、それさえもわからない。

 ベヌウの不穏な気配に、クロノはデバイスを静かに構えた。

 「もっとも罪深いのは私であると認識しています。 仮とはいえ一葉と契約を交わしておきながら、いざという時に無様に地に縛り付けられていたのですから。 しかし、一葉が死に至らしめた全ての原因を抹殺してやりたいという衝動が……、どうしても抑えきることができません。 アゼル・テスタロッサも、その使い魔であるあの女も……。 そして……、貴方方お二人も……」

 ベヌウが言葉を終えると同時に、暴風が吹き荒れる。

 「……ぐっ!?」

ベヌウが吐き出す魔力によって気流が乱れ、衝撃を伴う空気の塊がクロノを突き抜け小さなユーノの身体を吹き飛ばした。
 突風に足を踏ん張らせ、たたらを踏むクロノは反射的に瞼を閉じる。
 一瞬だけ閉ざされる光。そして、瞼を開いた時に目に入った光景にクロノは背筋の震えを禁じ得なかった。

 ベヌウの身体が燃えていた。
 翼も嘴も、身体そのものを黒い灼熱に揺らめかす炎の魔鳥。ベヌウが黒い炎を吐き出しているのではなく、炎そのものがベヌウであると錯覚させてしまうかのようでいて、その姿は威容であり神秘的でもあった。

 その光景に、ようやくクロノはベヌウが使い魔ではないと確信する。
 術者の少年が惜しげもなく駆使した、失われた時代の魔法。術者を凌駕する魔力と術者が死亡したにもかかわらず停止しない生命活動。そして、黒い炎を纏った異形の姿を目の当たりにして散りばめられていた疑問のかけらがようやく一つの解として形を為した。

 「護国……四聖獣……?」

 遥か太古の昔、かつて聖王と共に古代べルカ王国の象徴として君臨したとされる最強のデバイス。
 数多の英譚や伝承に語り継がれる、失われた三機の内の一機。黒鳥のユニゾンデバイス、月の踊り子だ。

 「私の行いが貴方達にとって理不尽であるとは承知しています。 しかし、このまま何もせず良しとするのは私の誇りが許さないのです」

 一言、言葉を発するたびに嚇風が突き抜けるというのに、全身が見えない刃を突き付けられているかのように背筋が凍る。
 理性は伝説という知識に克服され、恐怖によって征服され、クロノは束の間に死を覚悟する。
 まさか、拾ったばかりの命をこんなにも早く落としてしまうことになるとは思いもしなかった。
 クロノは諦観と恐怖の震えにデバイスを手から滑り落してしまいそうになった瞬間、

 「一旦、鉾を収めていただけないかしら?」

凛裂とした声が辺りに響いた。


 ◆◇◆



[31098] 25!
Name: 三鷹の山猫◆b3ece1a7 ID:41e37c4c
Date: 2012/12/02 23:29
  現れたのは若い女だった。歳は二〇半ばから三〇前半……、しかし見た目通りの年齢ではないだろう。
 魔導師の源たるリンカー・コアは、その宿主が一定の年齢に達すると細胞の老化を食い止める特性を持っている。
 常に魔法を最善の状態で発動させるために、宿主の肉体を最善期に留めておこうとするからだ。
 ベヌウの前に姿を見せた女性は、その見た目にはそぐわない厳しい雰囲気を纏っていた。

 「貴方は……?」

 「申し遅れました。 私の名前はリンディ・ハラオウン。 役職は時空管理局提督補佐、次元艦の艦長を務めています」

 高い鼻梁と精悍な顔立ち。凛々しい美貌の顔を持つ女は厳格な面持ちでベヌウに名乗る。

 「次元艦の艦長……。 なるほど、そこの少年の上官ですか」

 「ええ。 できれば冷静に話し合いがしたいのだけれど……」

 「冷静、ですか。 困ったことに私は今非常に冷静なのですよ。 自分でも戸惑うほどにね」

 「ならば私たちに敵意がないことは解っているはずです。 私たちも、貴方達がジュエルシードに関与した経緯を把握しています。 ここで諍いを起こしても、どちらの得にもならないわ」

 「確かに私は冷静ですが、今の私が損得利害を勘定して動くとでも思いますか?」

 「動かない……、でしょうね。 私も身内を目の前で殺されたらきっとそうなるわ」

 大気が緊張に張り詰める。
そしてお互いが放つ無言の闘気が凄烈な魔力の渦となってぶつかり合った。
 
リンディはベヌウに勝利する気はなかった。
 ただ、一瞬。僅かでも隙を見出すことができればクロノを連れて直ぐにでも離脱するつもりだ。
 もし、この鳥がクロノの懸念する通り護国四聖獣の月の踊り子であれば、殺された少年の胸に刺さっているのは付属デバイスアルデバランだろう。
 二つのデバイスを確保できれば聖王教会には大きな貸しを作ることができるし、何よりも管理局として歴史的な大手柄となりクロノの出世の足掛かりにもなる。
 だが、それはリスクが大きすぎるどころの話ではない。
 肌にピリピリと伝播する魔力に乗るベヌウの殺意は、それがまったく別のものであると誤認してしまうほどに混沌としていて、深い奈落を覗き込んだ時のように背筋が凍った。
 こんな怪物を一人で相手にするのは、怒り狂った巨竜に素手で立ち向かうことに等しい。
 無言の意思が魔法となってぶつかり合おうとした、その時だった。

 空気の弾ける音が辺りに響いた。

 「なに……、これ……?」

 続くのは泣き枯れたなのはの困惑する声。
 その間にも空気が弾ける音が連続して続く。そして、その音が弾けるたびに一葉の身体は電流を流された時のように弾け浮く。

 ベヌウもリンディも、そしてクロノもその光景を息を飲んで見つめていた。
 その音の正体は、薬莢の吐き出される音だった。
 アルデバランに内蔵されたカートリッジ、一葉が使いどころが良く分からないと手つかずだった三十八発の魔力が込められた弾丸が次々に一葉の身体に撃ち込まれていく。

 それは、あり得ない出来事だった。
 アルデバランはストレージデバイスに分類される。術者の意思を介さずに作動することは設計思想としても構造上としてもあってはならないことに加え、月の踊り子の付属デバイスであるアルデバランがこのような動きを見せたのは途方もないほどの永い時間を共に過ごしたベヌウにとっても初めて目の当たりにすることで、誰もが視線を縫いつけられたかのように目を離すことができなくなっていた。

 最後の薬莢が撃ち出される。瞬刻の間を置いて、槍の形状を為していたアルデバランの柄に亀裂が入りガラスのように砕け散った。

 不意に、地面に魔法陣が浮かび上がる。それは古代ベルカ式の魔法陣。鮮血のようなピジョン・ブラッドの燐光が息絶えた一葉の下に紋様を描いていく。
 そして、空気が動き出す。
 砕けたアルデバランの破片が氷霧のような残滓を宙に引かせて、一葉の心臓の上に風を湧かせ、最初は微風にしかすぎなかったそれは、見る見るうちに旋風となって吹き荒れる。
 その激しい気流は、閉ざされた結界の中に居た魔力を持つすべての者に異常を与えた。

 最初は一葉に最も近かったなのはだ。
 桃色の光が身体から吸い取られ、バリアジャケットが強制的に解除された。そしてクロノ、リンディ、ベヌウでさえ纏っていた炎を旋風に攫われていく。

 「これは……」

 「一体、なにが……?」

 あからさまな異常にクロノもリンディも狼狽する。
 前触れもなく身体に圧し掛かる虚脱感。これは魔力が底を尽きた時に訪れる特有の倦怠感だ。バリアジャケットが維持できず、強制解除され丸腰となった二人の視線は、自らの魔力の行方へと向けられた。
 リンディの翡翠色とクロノのネイビーブルー、そしてベヌウの黒い魔力は激しい気流の流れに奪い取られ、その気流を根源たる何かに吸い取られていったのだ。
 それだけでは飽き足らず、その気流は大気に残っていた一葉自身の鋼色や、アゼルの金色の魔力まで回収し、底なしの沼のように貪欲に吸収していく。

 その魔力は彷徨するアルデバランの欠片とぶつかり合い、絡み合い、溶け合う。荒ぶる旋風の轟音は旋律となり、その中でピジョン・ブラッドの魔法陣が燦然と輝きを放つ。
 
 想像力とは知識と体験と常識を積み重ねて、冷めきった頭で処理する時に初めて生まれる。
 もはやこの場に居る誰もが知識と、体験と、常識に置いてきぼりにされて、この後になにが起こることすら想像することができなかった。

 一瞬の閃光。
 鳩の血のように赤い光が突き刺し、誰もが固く瞼を閉じる。
 そして目を開けて視界に入った光景を、誰が想像し得たであろうか。

 滔々と溢れる赤い魔力の残滓の中で、高町なのはに抱かれていた緋山一葉が穏やかな呼吸で眠っていた。

 「一葉くん……、息してる……」

 脱魂した声色で、なのはは呟いた。
 その言葉にクロノもリンディも、ベヌウも信じられない面持ちで一葉に駆け寄る。
 穴が開いていたはずの胸は生々しい傷跡が残っているが塞がっており、腹も微かにだが上下運動が行われていた。
 それでも呼吸は浅く、顔は血色の失った土気色をしていて身体も冷たいままだ。おそらく、失われた血は戻っていないのだろう。
 どの道、このままでは危険な状態だ。

 僅かに弛緩した空気の中で、なのは越しに一葉をのぞき見るリンディが口を開いた。

 「一旦休戦にしましょう。 人命が最優先だわ」


 ◆◇◆


 空が暗い。それは夜の帳が下りたせいではなく、月が太陽を隠したせいだ。
 藍墨色で彩られた空に浮かぶ金環の光を翠屋のテラスから見上げる二人がいた。

 高町桃子と、緋山亜希子だ。
 皆既日食を望む為に多くの人が海也海浜公園に足を運んでしまったため、翠屋が閑散としたタイミングを見計らったかのように亜希子がぶらりとやってきたのだ。

 見上げる空は、街を張り巡る電線がやや目につくが十分に広い。翠屋は商店街を抜けた静観な住宅地に立っているため、周囲には高い建物がないためだ。
 贅沢を望まなければ、日食の観測はここからでも満足に行える。甘いものが苦手な亜希子は滅多なことでは翠屋にまで顔を出さないが、案外ミーハーなところのある亜希子は金環日食を狙って翠屋に来たのかもしれないが、きっとそれだけではないだろう。
桃子が亜希子の横顔を覗くと、亜希子は丁度口から煙草の紫煙を吐き出していた。

 「相変わらずいい吸いっぷりね」

 桃子が手にしていたコーヒーで唇を濡らしながら言うと、亜希子は空から視線を外さないまま僅かに口角を釣り上げた。

 「もはや迫害されても信仰を貫いた殉教者の気分なのよね。 値上がりの波濤にも私は負けないよ」

 「それは結構だけど、翠屋は禁煙よ。 今すぐ火を消しなさい」

 桃子の言葉に、亜希子は一瞬だけぎょっとして表情を強張らせる。

 「……テラスって喫煙可じゃなかったけ?」

 「いったい何年前の話をしてるのよ? 翠屋はなのはが生まれた時に全面禁煙になりました」

 「くっ……、嫌煙家の侵略がこんなところにも……。 あんたらは私たちを苛めてなんか楽しいのか……?」

 忌々しげに苦言を吐きながら、亜希子はポケットに入れていた携帯灰皿を取り出して加えていた煙草を押し込んだ。
 その様子を見て、桃子は呆れたように息を吐きながら言葉を続ける。

 「そろそろ煙草やめなさい。 百害あって一利あるものでもないし、一葉君が遊びに来る時も制服に染みついた煙草の匂いが目立つのよ。 それに……、今日は病院に行ってきたんでしょう?」

 「ん……、んん。 まあ、頃合いを見て……ね?」

 桃子の指摘に亜希子は言葉を濁す。
 桃子は亜希子と十年来の知り合いで、お互いが子供を持っても本音で話せる貴重な友人でもあるがどうしても亜希子の喫煙嗜好だけは許容できなかった。
 亜希子が煙草を吸うとき最大限の気を使っていることは理解しているし、今だってわざわざ風上から風下に移動してから火をつけのだがやはりどうしても匂いが気になってしまうのだ。
 それを差し置いても、亜希子はつい先週から大学病院への通院が始まったばかりだ。亜希子の身体を心配せずにはいられないのだが、この様子だとしばらくは喫煙を続けそうな感じだった。

 「まったく……、珍しく翠屋まで来たと思ったら……。 で、なにか話があるんでしょう?」

 「お、流石。 察しが良いね」

桃子の尋ねに、亜希子はどこか嬉しそうに朗らかな笑みを刻む。
 一児の母となっても少女らしい垢ぬけない所がある亜希子だが、このようないつも通りの変わらない様子のままとんでもない爆弾を放ってくることが多々あった。
 長い付き合いの中で、桃子は多少の耐性がついてはいたが、亜希子から話しを持ちかけられるときはそれでもどこか身構えてしまう部分もある。
 それが亜希子の魅力の一つと言ってしまえばそうなのだが、桃子は軽く溜息を吐いた。

 「恭也君ってさ、近いうちに忍ちゃんと結婚するんだよね?」

 「ええ、大学を卒業したらね。 話しって結納のこと? まだ2年近く先のことよ」

 「んー……、あのさ。 未来のお母さんから忍ちゃんに家の子にちょっかい出すの止めるように言って欲しんだよね」

 「ごめんなさい。 全く話が見えないんだけど」

 亜希子の言葉に対して、桃子は狼狽や困惑を通り越して本当に訳が分からず拍子抜けた。忍が一葉にちょっかいを出す理由に心当たりがないし、忍はまだ若いが相当の人格者だ。
 子供に手を出す姿がどうしても想像できなかった。

 「いやさね、最近さ……」

 「お、ちゃんと綺麗な日食になってるね」

 亜希子の言葉に声を被せながら、士朗が店の中から出てきた。
 ディナーの仕込みが終わったのだろう。手にはコーヒーとクッキーなどを載せたお茶受けを持っていた。

 「丁度いいや。 士朗さんも座って。 というか、士朗さんも一枚噛んでんでしょ?」

 「えっと……、何の話しをしてたんだい?」

 着席を促す亜希子に従いながら、士朗は空いているテラスを椅子を引っぱって来て腰を下ろす。その表情には穏やかな笑みを張り付けているが目が笑っておらず、桃子は士朗と亜希子の間に不穏な気配を感じた。

 「最近忍ちゃんのお仲間がうちの周りをうろちょろしてるって話し。 この間もさ、なんか怪しいことやってたから全員簀巻きにして海に放り投げてきたんだけど、そん時士朗さん遠くから様子見てたよね?」

 亜希子の指摘に、士朗は表情は崩さなかったが内心ではぎくりとした。
 士朗は一葉が夜の一族について気が付いたということを忍から既に連絡を受けて知っていた。そして、夜の一族側……、主にさくらを中心として動く連中が一葉の身柄を確保することを主な目的として動いている。
 それが決行されたのは二日前。結果として失敗に終わったが、その原因は全て亜希子の手によるものだった。

 二日前、夜の闇に乗じて一葉の捕獲を試みようと夜の一族の中でも隠密活動に長けた人狼族の精鋭16名、その全員が亜希子一人の手によって再起不能に陥った。
 全員が四肢の骨を粉々に砕かれていて、戦士としての復帰は絶望的だそうだ。

 息子の婚約者の家、娘の親友の母親という板挟みの立場におり傍観者に徹さなければならなかったが、士朗は500メートルも離れていたビルの屋上から双眼鏡越しに見ていた姿に戦慄した。亜希子はそんな士朗の存在に気が付いていたのだ。

 士朗が亜希子と初めて出会ったのは十年前のことだ。
 幼馴染の親友が、ある日突然連れてきて婚約者として紹介された。当時、亜希子は15歳で一葉を既に身籠っていた。
 その時、士朗は腹を膨らませた身重の少女に対して、薄々と堅気でない雰囲気を感じ取っていたのだが、歳月を経てその直感が正しかったと証明された。

 言葉に詰まる士朗の代わりに、桃子は自分の頭に浮かんだ疑問を桃子に投げかける。
 
 「待って待って待って。 話しの脈絡がおかしいことになってる。 どうして、その怪しい連中がいきなり忍ちゃんの仲間になってるのかしら」

 「だってそいつら、忍ちゃんと同じで人間じゃなかったもの」

 亜希子は表情一つ変えずに、さらりと爆弾を投下した。言葉の爆発の衝撃に、桃子も士朗も表情を青白く凍りつかせる。

 「多分、一葉がそのことに気が付いたから忍ちゃんがどうにかしようとしてるんじゃないの? あの子、嘘はうまいけど誤魔化すことに関しては私も不安になるぐらい下手糞だからね」

 「人間じゃないって……。 亜希子さん、それはいくらなんでも忍ちゃんに失礼じゃないかな。 それに、亜希子さんは二日前? 僕が見ていたっていうけど、僕にはそんな記憶はないんだけど」

 「下手な誤魔化しは男を下げるよ、士朗さん。 私だって何も考えないで喋ってるわけじゃない。 士朗さんと桃子を信用してるからこそ、こうしてお願いしに来てるんだ。 あの子には色々あるし、もしかしたら今はあの子にとって大事な時期なのかもしれない。 だから、しばらくは放っておいてほしいんだ」

 言葉の最後の方こそ要領を得ないものだったが、士朗は嘘や誤魔化しが通じる相手ではないと改めて悟る。
 亜希子は普段は雲のように奔放で掴み所がなく、振る舞いは軽薄に思えるが、その裏腹ではいつだって思慮深く物事の真贋を見極めたうえで常に打算的に動いている節があった。
 今回だってそうだ。
 口にした“信用”という言葉はあながち嘘ではない。亜希子は今その信用を利用しているだけなのだ。

 亜希子は士朗に苦痛をちらつかせている。
 人間は時間と空間の条件の内で、はっきりと苦痛を意識させられる。それは例えどんな苦痛にしろ、与えられた側は自らに非がないとしても自らの罪業の結果として悔い改めようとするものだ。
 若い頃から傭兵職を生業としてきた士朗にとって、それは特に顕著だった。

 苦痛を通して罪を意識し、その過ちを正すことによって苦痛を回避しようとした。そして過ちを正せば正すほど手にする苦痛は少なくなり、代わりに幸福が多くなった。
 士朗にとっての幸福とは今の生活であり、家族であり、桃子だ。
 その桃子を目の前にして、亜希子は今後の士朗の行動によって苦痛を与えようとしている。二日前の晩、士朗の存在に気が付きながらも必要以上の暴力を見せつけたのも、その苦痛に帰結するものだろう。

 「私も一葉も、忍ちゃんたちのことを何かするつもりも言い触らすつもりもないよ。 私は忍ちゃんのこと好きだし、すずかちゃんのことだって好きだから今の関係を壊したくはないんだけどね……、今後一昨日のようなことが続くようだったらこっちも付き合い方を考えないってことを二人から伝えてもらった方が角が立たないと思うから協力してくれない?」

 亜希子の表情も声の起伏も変わらない。変わらないからこそ不気味だった。まるで恥辱に表情を歪ませながらも喜劇の化粧で面を偽り誤魔化す道化のように、十年来の親友を引き出しに息子の身の安全を謀ろうとする心理は、きっと心の内では恐ろしいほどの感情が複雑に錯綜しているに違いないというのにその表情からなにも察することも汲み取ることもできない。
 それはまるで意識と肉体が切り離されているかのようで、理性を意識し、理解し、故意に剥離することによって自我の理性の法則を自在に制御することのできる人間なのだと感じた。
 きっと亜希子は足を自切する昆虫のように、取捨の選択を躊躇わない。それは外聞や概念にとらわれず、時間が積み重ねた友愛や思慕も例外ではないのだろう。

 桃子はそのことに気が付いていない。むしろ、事の経緯は一葉よりも忍側に非がある分、詳細を聞いたら道徳と倫理を徹する桃子のことだ。間違いなく一葉の側に付き庇護するだろう。
 これはもはや脅迫だ。威圧や暴力で脅しにかかるヤクザよりも性質が悪いかもしれない。

 士朗が言葉に窮していると、突然亜希子のジーンズから明るいポップ調の音楽が流れた。
 英語の歌詞のそれは亜希子の携帯電話の着信音だ。

 「ごめん、電源切るの忘れてた。 ちょっと出てもいい?」

 「え? ええ」

 亜希子は携帯電話を取り出しながら桃子に了承を取ると、ディスプレイを見て眉を寄せた。
 表示している番号は登録されていない、見たこともないものだった。

 「もしもし、緋山亜希子の携帯ですが」

 通話ボタンを押し携帯電話を耳に当てる。すると、聞き覚えのない若い女性の声が受話器を通して聞こえてきた。

 『突然のお電話申し訳ございません。 私は海鳴警察署少年係の竹下と申します。 そちらは緋山一葉君のお母さまでよろしいでしょうか?』

 「そうだけど、警察がなんのよう?」

 『落ち着いて聞いてください。 お子様が事件に巻き込まれて重傷を負い病院に搬送されました。 大至急保護者の方にお見えになってもらいたいのですが……』

 耳を打つのは、本来ならば取り乱し声を震わせるべき案件なのだろう。
 だが亜希子は臆する様子もなく、冷静に納得した。

 「そういう連絡は警察からしないよ。 あんた管理局の人間でしょ?」

 『……ッ!?』

 受話器越しからでも、無言の動揺が伝わってきた。言葉に窮する女性に、亜希子はさらに言葉を続ける。

 「動揺しすぎだよ。 オペレーターとしてはまだまだ半人前だね。 それよりも家の息子の身柄預かってんでしょ? 迎えに行くから場所指示してちょうだい」

 『……わかりました。 30分後に海鳴海浜公園の広場でどうでしょうか?』

 「了解。 今から向うわ」

 困惑や疑念を押し殺した震える声で提示した案に、亜希子は二つ返事で了承した。
 亜希子は通話を切り、携帯電話を再びジーンズのポケットに戻すと申し訳なさそうな表情で軽く頭を下げた。

 「ごめん、こっちからこんな話し振っといてあれなんだけど急用が入っちゃった。 続きはまた今度ってことで、それまでに桃子は士朗さんから詳しい話しの経緯を聞いておいて」
 
 「わかったけど……、警察署から電話って……。 もしかして一葉君に何かあったの?」

 一葉の身を案じる心配そうな声色で尋ねる桃子に、亜希子は席を立ちながら肩を軽くすくませて困ったような笑みを浮かべた。

 「警察を騙ってただけだよ。 ただ、ちょいと昔の知り合いでね。 切れたと思ってた縁ってのは思わない所で繋がってるから本当に性質が悪いよ」

 桃子にではなく、まるで諦観の独り言を吐き出す。
 去り際の亜希子の眼には痛みのような、決意のような、切ない光が浮かんでいた。
 
 桃子は海鳴海浜公園へと向かい小さくなっていく亜希子の背中を見送りながら、隣に座る士朗に不穏な声色で声をかけた。

 「で、士朗さん。 勿論詳し~いお話しを聞かせてもらえるのよね?」

 思春期の少女のように見惚れる笑みを浮かべる長年連れ添ってきた妻に、士朗は戦慄を禁じ得なかった。


 ◆◇◆


  地球では魔法とは神秘的で超常的なものと思われがちだが、その実態は大半のほとんどが科学技術に依存している。魔法文化のある次元世界にとって、魔法はエネルギー法の任意の一形態であり、科学的なメソッドなのである。

 そのメソッドの粋を結集した最たるものが次元艦だ。
 時空管理局巡航L級8番艦、時空空間航行艦船アースラ。リンディ・ハラオウン提督が艦長を務める次元艦内部にあるデバイスの整備を主な目的としたメンテナンスルームで、三人の人間が会議を開いていた。

 当然、一人は艦の長であるリンディ・ハラオウンだ。そして、無精髭を生やした禿頭の男。アースラの専属医務官であるトルカン・トゥルケ。デバイスの専門家の技術士官マリエル・アテンザ。マリエルは本来別の提督の部下なのだが、今回の航行に限ってたまたま出向という形で乗り合わせていた。
 三人が落ち着いているのは決して大きくない円卓だ。誰もが全員の表情を窺うことのできるこの席で、重たい雰囲気の漂う中、三人は皆眉根を寄せて難しい顔色で浮かべている。

 「彼、今はどんな感じなの?」

 リンディがトルカンに尋ねる。
 彼、というのは一葉のことだ。今はアースラの医務室のベッドの上でなのはとベヌウの付き添いの上で眠っている。

 「今は眠っているだけ……、と言いたいとこだが正直分からんよ。 確かに血を流しすぎて一時は危なかったが、今のとこバイタルは正常だ。 だが、今回のケースは俺だって初めてなんだ。 正直な話し十秒後に目を覚ますのか十年後に目を覚ますのか皆目見当もつかん」

 医官は管理局の序列とは独立した存在にあり、次元航行中は発言権こそないものの、立場的には艦長と同列にある。つまり、艦内で唯一艦長に敬語を使わないでいられる人間ということになる。

 トルカンは眉間に皺を寄せた表情のまま持ってきていたA3サイズの茶封筒をリンディに渡した。

 「あの坊主のレントゲン写真だ。 驚くもんが映ってんぞ」

 リンディはトルカンに促されるまま封筒開け、取り出したレントゲン写真を持ちあげて光に透かし目を細める。
 黒地に浮かび上がる白い人間の骨格。その内部にある一つの異物に気が付いた。

 「この……、胸にあるのは?」

 胸の中心部に浮かび上がるのは輪の付いた十字架だった。

 リンディの尋ねに、トルカンは問の答えだけを明瞭に答える。

 「デバイスだ。 破壊された心臓の機能をはたして坊主の生命活動を維持してる。 生物学的にも医学的にもあり得ないことだ。 医者の立場から見たら内蔵の代わりに電子レンジをぶち込んでるのとそう変わらないが、技術屋としてはどうなんだ?」

 目にした現実の困惑に表情を滲ませるトルカンの視線を受けて、技術士官のマリエルもまた同じような表情を浮かべた。

 「あり得ません。 確かにデバイス技術を転用した義手や義足もありますし、デバイスによる人工内蔵の研究を行っている機関もあります。 だけど、そのどれもがまだ開発途中で実用化には程遠いいですし、大前提として少年の持っていたデバイスは戦闘用のものであって医療用のものではありません。 尤も、クロノ執務官の証言の通りあのデバイスが失われた時代の技術で作れていたのであれば、私たちの知らない機能が搭載されていた可能性も否めませんが、身体の内部に取り込まれてしまっているのであれば確かめようがありません」

 失われた時代、損失期とも呼ばれるその時代は魔法文化創設期からベルカ王朝滅亡までに期間のことを指す。
 数千年前のその時代には高度な文明が存在したという確かな証拠が遺跡として残っており、発掘された遺物からはユニゾンデバイスをはじめとして現在の技術では再現どころか分析することすら不可能な高度な技術によって制作された様々なものが発見されている。
 中には空間を捻じ曲げ次元世界を滅ぼすような物騒な兵器も発見されており、なぜそのような高度な技術が失われてしまったのかはいまだに解明されていないままでいる。

 「私たちの魔力が奪われたことについては?」

 突如として現れた血のように赤い魔力光で描かれた魔法陣のことも、また頭を抱えさせる一つだ。
 あの場に居た人間の魔力を根こそぎ奪っていったのは、確証はないが間違いなくあの陣が原因だろう。しかし、魔導師から魔力を吸収する魔法などこの場に居る誰もが聞いたこともなかった。
 もし仮に、そのような魔法が確立されていているとしたら、大半が魔導師で構成されている時空管理局にはかつてないほどの脅威となる。
確実に封印指定を受け禁呪扱いになり、存在自体が隠蔽されるだろう。

 「それもわかりません。 ただ映像記録を分析した限りでは、あの赤い魔力光はあの場にいた人間のものではありませんでした」

 「あそこに、私たち以外にだれかが居たということかしら?」

 「それは……、正直わかりません。 ですが、あの場に第三者がいたと仮定しても、死者を蘇生させる魔法が存在すると思いますか?」

 発動した魔法自体のことはわからない。マリエルの答えはある意味リンディが予想した通りのものだった。

 「少なくとも、あの坊主に起きたことは俺達がどんなに頭をひねろうが答えは出てこんよ。 理解できない現象が奇跡ってんなら、俺達は今奇跡を見てるんだろうな。 俺はどうしてあんなことになったのか理解できないし説明も出来ない。 お手上げだ」

 椅子の背もたれに体重を預けながら、両腕を上げて掌をひらひらと揺らすトルカンを視界の端に捕えながら、リンディは頬に手を当てて軽く溜息を吐いた。

 「参ったわね。 彼のこと、ご両親にどう説明すればいいのかしら……」

 まさか起こったことをありのまま話すわけにはいかないだろう。
 お子さんは魔法使いになって、一度は命を落としましたがよくわからないことが起こって命を取り留めました。しかし目を覚ますのはいつになるのか分かりません。
 こんな説明で子供を持つ親が納得するはずないが、他にどう言えばいいのかリンディは頭を悩ませた。

 結局のところどうすることもできないのだ。最善はこのまま一葉を時空管理局の本拠地のある第一管理世界ミッドチルダに搬送し原因を究明するべきなのだが、今回のことはそんなに簡単にことが済む話ではない。
 未だに回収しきれていないジュエルシードに護国四聖獣の発見。それに加え、金髪の兄妹の行方さえ掴めていないのだ。
 しばらくは地球に逗留しなければならないし、管理外世界の人間を管理世界へ連れて行くにはそれなりの手続きが必要になる。
 何より、未だに昏睡状態にある一葉の両親の了承が不可欠だった。

 「それは俺たちじゃなくて艦長であるアンタの仕事だが、取り合えず今できることをやるべきじゃないのか?」

 「わかってるわよ、それぐらい」

 リンディとトルカンの付き合いは長い。お互いに慇懃無礼な態度をとってもそれが自然体として受け止めることのできる間柄ではあるが、こういう仕事のことで指摘を受けるとやはり気持ちがささくれてしまう。

 だがトルカンの言うことは尤もだ。
 これ以上自分が一葉に何かをすることは出来ないし、それは医官であるトルカンと技術屋であるマリエルの分野だ。
 今自分がやるべきことは最悪の事態を未然に防ぐこと。そのための情報収集だ。
 なのははベヌウと共に、医務室で一葉の場所に居るが、フェレットの少年の方には既にクロノに命じて艦長室に待機させてある。
 ここの会議が始まってから小一時間が経過しており、これ以上待たせるわけにもいかないだろう。

 「取り合えず彼の方は二人に任せるわ。 何かあったらすぐに報告してちょうだい」

 リンディはそう言って席から立ち上がる。
 まずは事の発端であるロストロギアと、それを狙う敵対勢力について知らなければならない。話しはそれからだ。


 ◆◇◆



[31098] 26!
Name: 三鷹の山猫◆b3ece1a7 ID:6c236772
Date: 2012/12/13 18:01

 アースラの艦長室は純和風の様相をしていた。
 藁の香り放つを敷き詰められた畳だけでなく、品の良い生け花や掛け軸が部屋全体の雰囲気と調和し、時間の流れが緩やかに感じるような均衡がとれている。
 クロノはどうもその艦長室が苦手だった。
 艦長職は次元艦と乗組員全員の命を預かる重要な役職で、それが与える重圧は計り知れないものだろう。
 自らのプライベートとしても使える空間を、精神的な安寧を与える癒しをコンセプトに様相を整えることは大いに結構なのだが、執務官として艦に乗船している以上、常時気持ちを引き締めて職務にあたらなければならないという気持ちがクロノにはあった。
 しかし、この部屋にいるとどうしても気持ちが弛緩してしまうのだ。
 勿論、そうなることを目的として部屋が装飾されているのだから仕方のないことなのだが、クロノは重要な案件がない限り艦長室には極力近づかないようにしていた。

 だが、今その艦長室は梅雨時の曇天のように重たい空気が漂っている。
 畳の上におかれた座布団の上で正座をするハニーブラウンの髪をした少年が原因だ。
 少年の名前はユーノ・スクライア。変身魔法を解除した、フェレットの本当の姿だ。細い体躯に小さな背中。少女と見間違うような幼い顔立ちをしていた。

 「なるほど……。 行方不明になったロストロギアの回収に……」

 「確かにその心持は立派だが、それでも無謀だ。 本来だったら追いかける前に管理局に連絡しなければならないことだぞ」

 「……すみませんでした」

 長めの前髪で表情に影を落とし、ユーノは俯いたまま掠れる声で言う。
 ユーノが乗艦してからしばらくして行われた事情聴取の最中、相当参っているようで終始こんな様子だった。
 まるで見えない重石を背中に背負っているようで、声色も憔悴しきっている。あれだけのことが目の前で起きてしまったのだから、大人びているとはいえ9歳の子供だ。ショックを受けるのは無理もないだろう。

 事情聴取の最中で、ユーノはリンディとクロノに事の経緯を説明した。
 ロストロギアの発掘は伝統的に遺跡発掘を生業としているスクライア一族のみに許可が下りている、いわば無形文化財のようなものなのだが、そこには様々な規定が存在する。
 中には輸送中のロストロギアの盗難、及び紛失が起きた際は可及的速やかに時空管理局に届け出を提出しなければならないという一文もある。
 これはユーノの知るところではなかったのだが、実はユーノが地球から届け出を出す以前にスクライアの一族が既に提出しており、今回のユーノのとった行動は咎められこそすれ法的に罰則を与えられるものではない。
 本来であれば事情聴取が終わりこのまま保護という形になるのだが、ユーノの説明には件について最も重要なことがスッポリと抜け落ちていた。

 「ジュエルシードのことはわかりました。 それでは、金髪の二人のことは?」

 リンディにとって、今回の事案で最も懸念しなければならないのはジュエルシードの探索者であるアゼルとフェイトのことだった。
 管理外世界に渡航する場合は管理局に正式な書類で届け出は提出しなければならず、また魔法の行使も原則禁じられている。
 ユーノとなのはに関しては正当防衛という形で超法規的措置を取り問題にしないつもりだが、あの二人はそういうわけにはいかない。

 明確な目的と明らかな悪意を持って犯罪を犯している以上、被害が拡大する前に迅速に逮捕、拘束しなければならないのだ。
 だが、ユーノの反応はリンディが期待していたものではなかった。

 「……わかりません」

 悄然と掠れた声で答えるユーノに、クロノは口を挟む。

 「わからない、ということはないだろう。 何かしらの理由が合ってあの二人はジュエルシードを狙ってるんだ。 君は、何度か接触しているはずだろう」

 やや詰問の色を帯びたクロノの言葉に、ユーノは首を横に振った。

 「本当に、わからないんです。 あの二人……、特にアゼルって名乗った奴は一葉と深い因縁があったみたいなんですけど……、僕が知っているのはそれぐらいなんです……」

 ユーノはそう言うと、寒さに凍えるかのように身を震わせ、自らの腕を絡めた。

 「一葉とアゼルは……、あの二人はおかしかった……。 異常だとか、怖いとかじゃなくて、同じ人間を見てるはずなのに全く別の生き物を見てるかのような不気味さがあったんです……。 まるで、僕の知らない何かが人間の皮を被って……、人間のふりをしているかのような……。 多分、あの二人の争いの中にジュエルシードは関係ないんです……。 たまたまジュエルシードが僕たちの間にあっただけで、きっと他のなんでも良かったんだ……。 ジュエルシードを探しに来たのは僕だけど、僕はもう傍観者でしかないんです。 あの二人の間に割って入る勇気も、力も、僕にはなかったから……。 だから、管理局の人が来たらせめて協力しようと思って。 なのに……、こんなことになるなんて……」

 傷を自ら抉っているかのように痛々しいユーノの声色に、クロノも針のような痛みが心臓を刺し顔を歪めた。
 脳裏に浮かぶのは心臓を貫かれ、無残に空に磔にされた少年の姿だ。そして同時に、その少年の死体に縋り、世界の破滅を嘆くかのような叫びをあげる少女の慟哭も耳の奥で木霊した。

 「君は……、なにも悪いことはしていない。 あれは僕のミスだった」

 あの状況で、自分はアゼルから注意を逸らすべきではなかったとクロノは悔やむ。
 クロノがアゼルを意識の外においていた時も、アゼルは闇から目を凝らす梟のように耽々と一葉を狙っていたのだ。
 かつて、幾多の現場を渡り歩き犯罪者を相手取ってきたクロノにとってはあり得ない程の初歩的なミス。そんな失態を犯してしまうほどに、状況は切迫し、クロノは追いつめられていた。

 一葉は今、艦内の医務室のベッドで眠っている。
 あの時起きた現象も、なぜ一葉の傷が塞がり息を吹き返したのかもわからないまま、いつ目を覚ますかもを知らない一葉の傍になのはとベヌウはいる。
 本来であればなのはとベヌウもこの場においてユーノと一緒に事情聴取をするべきなのだが、一葉の傍を離れたくないという強い要望を受けて後回しにしたのだ。

 「わかりました。 それで、ユーノ君。 君はこれからのことはどうするの?」

 クロノはそれ以上の慰めの言葉も見つからず声を喉に絡ませていると、リンディは落ち着き払った声でユーノに今後のことについて尋ねた。

 「僕は……、もうなのはのところには戻れません……。 もしできるのであれば、このままこの艦に居させてもらえると助かります……」

 前髪の隙間から覗くユーノの表情は切なそうに俯いていた。自分の起こした行動が、協力してくれた女の子の親友をひどく傷つける結果になってしまったのだ。
 もしかしたら、自分があんなことをしなければ悲劇は避けられたかもしれない。そんな苦しさが震える声には滲み出ていた。

 そんなユーノの心情を察したのか、リンディは真顔だった表情を崩し優しげな声色で口を開いた。

 「それは大丈夫よ。 私たちはロストロギアの確保以外にも、行方不明者の探索と保護の任務を受けているの。 ちなみに、その行方不明者というのはユーノ君、君のことなのよ」

 その言葉にユーノは目を丸くする。

 「え……、それってどういう……」

 「スクライアの部族から捜索願が出されていたんだ。 多分、ジュエルシードを探しに言ったんだろう、ってね」

 ユーノの捜索願が出されたのはジュエルシードの紛失届と同時にだった。初めて遺跡発掘の総監督を任されたユーノの補佐にあたっていた老齢の人物から伝えられたことなのだが、その男の予想は的中したということだ。

 「そうですか……、みんなが……」

 スクライアの一族に血の結束はない。
 今でこそ本拠地として機能する部落があるが、本来は流浪の民であったスクライアは時代の変遷の中で様々な血を取り入れ、今では最初の血統さえもわからない状況にある。
 中にはユーノのような事情を持った人間が多くおり、そんな彼らにとって結束とは血ではなく時間の重さだった。
 信用、信頼、そこには欺きや打算はなく、自らを律することで共存を図る群体のようなものであり、その概念は家族ではなく一族そのものが巨大な生命と捉えたほうが良いのかもしれない。
 ユーノは目の前のことに頭がいっぱいになって、自分の帰りを待ってくれている人たちのことをおざなりにしてしまっていたことに心臓を握られるような痛みを覚えた。

 「ただ、ジュエルシードの収集に関してはユーノ君にも色々手伝ってもらうことになるわ。 恥ずかしい話だけど、アースラは管理局の部署では警邏隊に所属しているからロストロギアの専門家がいないのよ」

 時空管理局の部署は大きく分けて三つある。第一管理世界の治安維持を目的とする陸と、ロストロギアの回収を主な任務とする海、そしてあらゆる次元世界の管轄を任される空だ。

 アースラの所属は空となっており、今回のようなケースは本来であれば海の管轄になる。海に所属する次元艦であれば最低一人はロストロギアについて深い知識を有する専門家が乗艦しているのだが、たまたま近くの次元海を巡航していたアースラには当然そんな専門家はいない。
 つまり、直面した事態に最も有効な対処を助言できる知識を持っているのはスクライアとしてのロストロギアの発掘経験が豊富にあり、ジュエルシードを掘り起こした張本人であるユーノただ一人だけなのだ。 

 「はい……。 僕にできることなら、なんでもやります……」

リンディの申し出に、ユーノは逡巡することなく首を縦に振った。
 悲劇のきっかけを作り上げてしまったことに対する贖罪か、目を潤ませ、青白くなった唇をかむユーノは苦しみを味わっていて、もし事件を解決に導き事態を収束することにほんの少しでも自分にできることがあるのならば力になりたいという気持ちが言葉にせずとも伝わってくる。

 不意に、扉をたたく音が部屋に響いく。そして、一瞬おいて一人の少女が艦長室に入ってきた。

 「失礼します」と、一例を加えて入ってきたのはエイミィ・リミエッタだ。短めに切りそろえた焦げ茶の前髪から覗く大粒の双眸にはまだあどけなさが残る顔立をしているが、アースラでオペレーターを任されている幹部候補生であり、まだ未熟ながらも、非常に優秀な人材である。
 書類をとじたファイルを片手に入室したエイミィの表情はあからさまに強張っており、含みを入れた視線で一度ユーノを一瞥すした。
 その隠微を孕んだその様子をリンディは察し、小さく一度頷くとクロノに視線を移す。

 「じゃあ、話しがまとまったところで、クロノ執務官。 ユーノ君に艦内を案内してあげて。 民間協力者レベルまでの機密解除の許可をするわ」

 「わかりました。 行こう、艦内を案内する」

 リンディの命令にクロノは首肯で答え、ユーノに立つように促す。ユーノは「はい」と憔悴した声でクロノに従い、二人は艦長室を出て行った。

 艦長室に残ったのはリンディとエイミィだけになる。

 「彼のご両親とは連絡がついたの?」

 「はい。 父親の方は海外に出張していてつかまりませんでしたが、母親の方とはコンタクトがとれました。 それで……、その母親に関して報告が……」

 普段は快活なエイミィが言葉を言い淀むのを見て、リンディは嫌な予感が胃の腑にこみ上げてきた。

 「現地の警察機関を称してアポイントを取ろうとしたのですが、少年の母親の緋山亜希子は時空管理局の存在知っていました。 緋山亜希子は第97管理外世界、地球の現地協力者リストにも記載されていませんし、またかつてそうであった記録も残っていません。 もしかしたらはぐれの魔導師の可能性があります。 そうだとしたら……、確か管理局に届け出を出さずに管理外世界に逗留するのは次元法に抵触することなのでは……」

 「また面倒なことに……。 頭が痛くなってきたわ……」

 こうした嫌な予感は大抵当たるものだ。
 ロストロギアを巡って対立する謎の敵対勢力だけでも厄介だというのに、それに加えて史実が伝説へとまで昇華したデバイスの発見。そしてそのデバイスを所持していた少年が致命重傷から謎の蘇生。この時点で物語は複雑に絡み合い、報告書にどう書いていいのかと頭を悩ませているのに、それに加え少年の母親が次元犯罪者の可能性だ。
 魔法文化すらないこんな辺境の次元世界に、いったいどれほどの因果が詰め込まれているのだろうか。

 苦い唾を飲み込むと、リンディは小さく溜息をついた。

 「取り合えず、そのお母さまの資料を頂戴」

 「はい。 これです」

 眉間を指先でほぐしながらリンディが手を出すと、エイミィは持ってきていた封筒を渡す。
 中身は戸籍謄本、履歴書、免許証、アースラから地球のサーバーにハックして入手できるだけ手に入れた緋山亜希子に関する個人情報だ。
 リンディは慣れた手つきで封筒を開け、心臓が一瞬凍りついてしまったかのように固まった。

 「エイミィ……。 これ……、管理局の殉職者リストとは照合した?」

 震える、硬質なリンディの声色にただならない気配を感じたのか、エイミィは首をかしげる。

 「いえ、そこまではやっていませんけど……」

 リンディは極限まで圧迫されていた何かが音を立てて弾け、胸の中にスッと冷めたものが広がるものを感じた。

 「セキレイ・クロスフォード……。 まさか……、生きていたなんて……」

 無表情でリンディを見る免許証の写真の女は、リンディが良く知る人物だった。

 ◆◇◆


  アースラの医務室は決して広いとはいえない。
 12畳ほどの部屋に詰め込まれたラックと、その上に整然と並べられた医薬品、そして様々な医療機器が部屋を圧迫していた。
 部屋には様々な医薬品の匂いが入り混じり、白を基調としたその様式は無機質で、生の気配を感じることができなかった。
 それでも、この部屋が命を取り溢しかけている人間にとっての最後の希望であるのだと考えると、奇妙な気持ちが胸中を締める。

 医務室に整然と並べられたベッドは全部で三つあり、埋まっているのは一番左端のものだけだ。
 染み一つない真っ白なシーツをかけられ、静かな寝息を立てているのは一葉だ。
 まるで授業中に居眠りをしているかのようにその表情は穏やかで、身体を揺すれば目を覚ますのではないかと思ってしまうほどだ。
 それでも、どんなに耳元で呼びかけに声を震わせても、一葉は目を覚ますことはなかった。
 今、医務室に居るのは昏々とした眠りに捕らわれている一葉と、目元を真っ赤になるまで泣き腫らした、表情に憔悴の影を落とすなのは。そして枕元で目を覚まさない主に寄り添うベヌウだけだ。
 医務官のトルカンは、艦長と話しがあると言い残して医務室を後にしたまま戻ってきていない。

 
 掛け布団から投げ出されている一葉の左腕には、栄養を流しこむための点滴に繋がる管が差し込まれている。
 時計もなく、時間さえも停滞しているようなこの空間で点滴の落ちる水滴だけが静謐に時を刻んでいた。

 一葉がここに寝かされていから、なのはは一瞬たりとも一葉から手を離すことはなかった。
 手に触れる仄かな温もりには生があり、命があった。
 貫かれた心臓から湧水のように止まることなく吹き出し続ける血に、冬の石のように冷たくなっていく一葉の死の温度を知ってしまったなのはにとって、こうしてずっと手に触れて生の温もりを感じていないと底の見えない深い闇の恐怖に引きずりこまれてしまうような気がしたからだ。

 畢竟、なのはは何もできなかった。
 狂おしいほどに一葉の力になりたいと願い、愛情と賞賛の見返りもなくただ献身を尽くそうとした結果として、最後に手元に残ったものは凍りつく心が粉々になるほどの厳しさと残酷さ、そして魂の残滓のように昏々とした眠りにつく一葉だけだ。

 __彼を殺したのは君だ
あの時、アゼルに言われた言葉が耳の奥にこびりついて離れない。
 実際はあらゆる不慮の遭遇による結果だったのかもしれないし、あるいは一葉が強い自分を基準にして弱者への配慮を欠くような少年でいてくれていたのならば結末は違ったものになっていただろう。
 だが、非情にも時間とは撃ち放たれた矢に似ている。
 一度手元から離れてしまえば戻ってくることは二度となく、どんな結末を貫こうと止まることなくにさらなる未来へと突き進んでいってしまう。
 今回のことだってそうだ。もし、このまま一葉が永遠に目を覚ますことがなければ……、という嫌な想像ばかりが脳裏を過っては後悔となって沈澱していく。

 そして、枕元で翼をたたむベヌウもまた沈痛な面持ちで一葉を見ていた。
 ベヌウが一葉と共に過ごした時間は永いわけではない。それでもベヌウは一葉がどういう少年であったのかは理解していたつもりだ。
 
誰よりも抜きんでようとしているわけではないのに自らの足を使う独力を好み、誰に持ちあげられるわけでもなく、他人の頭や背に乗ることもせず虚飾を嫌う。そして、人の領域を超える能力を持ってなお、能力を慎み、また能力を超えるようなことを欲っさない誠実を持つ少年。
 その癖、自らに不審を抱き“緋山一葉”という俳優を演じる哀れな道化でもあった。一葉の演技は他者に対してではなく自分自身に虚偽であり、それが藪睨みであるということにすら気付かずに強がりの仮面で常に己を偽る少年。

 いうなれば、無意識の誠実と、悪しき虚偽が混じり合う混沌。未熟な身体に宿った熟れた精神で、その無意識の誠実を鎖として巻きつけ、負の感情と精神を縛り封じていた。
 それはきっと耐えがたい苦痛のはずなのに、しかしそれを苦痛としなかった一葉はきっとどこかが壊れてしまっていたのだろう。
 部品が足りていなかったわけではない。作り方を間違えてしまった歪な人形のように。

 ベヌウはそんな一葉に深い憐憫の情を抱いていた。そして、一葉を救えない自分の無力を嘆いていた。
 なればこそ、ただ傍に居ようと心に決めていたのだ。
 一葉が人の心を失った獣となろうが、戦場の修羅と為り果てようが、主従の関係ではない。
 ただ、人間だった緋山一葉を知る一人の友として。
 
 だが、運命はそれさえもベヌウに許しはしなかった。
 
 もはや、いったい自分がどうしたらいいのかさえもわからない。
 ただ吹き零れてしまいそうな感情を必死に抑えつけるために、ベヌウはなのはと言葉を交わすこともなく沈黙に徹していた。

 不意に、ドアロックが解除される音が部屋に響く。
 ヒールがぶつかる高い音を響かせ、ベッドを区切るカーテンを開いたのはリンディだった。一瞬、なのはは視線を一瞥するが、すぐに一葉に視線を戻してしまう様子を見てリンディは困ったような笑みを浮かべながら、軍人らしく背筋を伸ばしながらも穏やかな気性を窺わせる柔らかな声音で尋ねた。

 「お名前はなのはさん、でいいのよね? あと、護国四聖獣の貴女も少しだけお話しを聞かせてもらってもいいかしら?」

 「……はい」

 なのはは悄然とした表情のまま一葉に視線を向けたまま、小さな声で応える。対して、ベヌウは気丈な面持ちでリンディに視線を合わせた。

 「私には、一葉から頂いたベヌウという名があります。 リンディ・ハラオウン艦長。 先の無礼をお許しください。 あの時、貴女がいてくれなければ一葉の命をあのまま取り溢してしまうところでした。 感謝いたします」

 「あの状況では取り乱してしまっても仕方ないわ。 それに、ああなってしまった原因のほとんどは私たちの不手際によるものだったもの」

 あの時、クロノの乱入で戦場の場が乱れたことは間違いはない。確かにそれによって帰結する結果が変わった可能性はあるが、どちらにしても凄惨たる結末は免れなかったはずだ。
 あの場で命を落とすのは一葉かアゼルか、どちらにしてもあの状況はどちらかが死ぬまで決着がつく事はなかった。
 それに、もしかしたらなのはという枷があの場に居た時点で既に勝敗は決していたのも知れない。
 
 それでも、リンディが自らに非があるような言葉を選んだのは、否応なしに事件に巻き込まれ、今こうして残酷な現実を突き付けられているなのはを気遣ってのことだろう。

 「一葉くんは……、いつ目を覚ますんですか?」

 なのはは哀しくなるほどに動かない、気を抜けばこのまま遠ざかって行ってしまいそうな代替の利かない命をこの場に繋ぎ止めるかのように一葉の指先に自らの指を絡めながら呟くような声でリンディに訊ねた。
 重苦しいなのは表情に、リンディは息苦しさに胸を締め付けらるような気がした。

 リンディ自身、9年前に夫を亡くしている。大切な人を失う悲しみは知っていた。それに加え、なのははまだ幼い少女だ。
 小さな胸に穿たれた大きな穴の大きさは、リンディでさえ推し量れなかった。

 「ごめんなさい……。 それは私にもわからないわ」

 「そう……ですか……」

 なのはは自分の質問の答えを分かっていたはずだ。それでも、気休めでも慰めでもいいから、すぐに目を覚ますと言ってもらいたかったのかもしれない。
 ただ、胸に圧し掛かる重みがずしりと増した。

 「私たち管理局は一葉君のご両親に今回のことを報告しなければならないの。 今後のことも含めてね。 それでね、なのはさん。 貴女はこれからどうするの?」

 どうする?というリンディの言葉が胸に差し込み、なのはは体をひと揺れさせた。顔を上げ、リンディに視線を向ける。
 視線が絡むと、リンディは答えを促すように小さく頷いた。
 
「これからの……こと?」

リンディの言葉を反芻する。自分がこれからどうするべきなのか、考えてもいなかった。それでも、このまま目の前の哀しみに暮れて、ただ辛さに俯いているだけではきっと駄目なのだということはわかった。
ジュエルシードを巡るこの物語はまだ終わっていない。もしこのまま自制や諦念に走り、哀しみを押し殺してでも今日のことを忘れてしまうことがきっと一番自分にとって安全なのだろう。
それでも、自分がこの物語の配役についていることで変わる未来があるのなら、なのははそれを見届けたかった。
そして何よりも、一葉のためにこの物語を少しでも早く終焉に導きたかった。

「私は……」

 このまま力になりたい。少しでも手伝いたい。
 なのはが桜色の唇を躊躇いがちに開こうとした時、ベヌウが二人の会話に横から口を挟んだ。

 「ハラオウン艦長。 高町嬢はレイジングハートを取り上げ、即刻家に帰すべきです」

 「……ッ!? なんで!?」

 ピシャリと言い放つベヌウになのはは声を荒げ、椅子を揺らし立ち上がった。
 ぶつかり合う視線。熱の籠るなのはとは対照的に、ベヌウの視線は理性的だった。

 「これ以上は危険だからです。 高町嬢も見たでしょう。 アゼル・テスタロッサは躊躇いも逡巡もなく一葉の心臓に槍を突き立てた。 そしておそらく、彼は既に5人は手にかけているはずです」

 「え……?」

 ベヌウが吐き出した衝撃的な言葉を、なのはは一瞬理解できなかった。驚愕に表情が強張る。
 しかし、そんななのはの様子に構いもなくベヌウはさらに言葉を続けた。

 「ここ数週間……、ジュエルシードが地球に墜ちてから関東圏内で不審死事件が何件か起きています。 そのいくつかには魔法の痕跡が認められました。 ハラオウン艦長。 貴女ならばこのことを把握しているはずですよね」

 なのはから移す視線に、リンディは気まずそうに眼を伏せた。
 それがリンディにとって肯定の意味であることになのはは気がついた。そして、その真実に氷の刃で切り裂かれたような痛みが胸に走る。

 なんということだろうか。
 なのはが魔法に首をつこったんだ初心は誰にも傷ついて欲しくないというあくまで善行的なものだった。一葉を目の前で失いかけた上に、それすらも自分は守れていなかったのだ。

 「そん……な……」

 喉が強く締め上げられ、脱魂した様子でなのはは崩れるように再び椅子に座りこんでしまう。
 頭の中にあった差し込むような熱が急速に失われ、知らしめられた惨禍に虚無が全身に広がった。

 「高町嬢……。 一葉が殺人を禁忌とせず命を奪うことを厭わない相手に命を張ってまで戦った最初の理由は、貴女に傷ついて欲しくなかったからです。 一葉がこうなってしまった以上、どうかその願いだけは察して下さい。 ハラオウン艦長も、お願いいたします」

 「……やだ」

 絞り出すようななのはの声に、ベヌウはリンディに向けた視線を再びなのはに戻した。そこにあったのは、思いつめたような表情の上に嵌めこまられた、哀しみと決意がごちゃまぜに混ざった大粒の瞳だった。

 「そんなのやだよ! 私はッ……、私は最後まで手伝う!!」

 「高町嬢……。 お願いですから、どうか聞き分けてください。 もし高町嬢の身に何かあれば、それこそ一葉が目を覚ました時に私は顔向けができなくなってしまいます」

 目じりに涙をため声を荒げるなのはに、ベヌウは諭すような声で言う。それでも、なのはは一葉と繋いだ手に力を込めて自らの決意を吐き出した。

 「だって……、そんな話しを聞いちゃったら尚更だよ! 一葉くんが私のために戦ってたって言うんだったら、今度は私が一葉くんの為に戦う! 一葉くんが目を覚ました時にはもう全部が終わってるようにしてあげたいの! お願いします艦長さん! まだ何も終わってないんです! 私にジュエルシード探しを手伝わせてください!!」

 いつかの夜、ベヌウに言われたことを思い出す。
 自分は無知だった。その無知を振りかざして、一葉から与えられるだけのものをもらい続けていた。
 それは安らぎだったり、温もりだったり、楽しい思い出だったりと様々なものだったが、結局自分は今日までなにも返せないままでいる。そして、なにも返せないまま一葉を失いかけてしまった。
 だが、まだ手遅れではないのだ。
 もし罪の贖いが許されるのであれば、自分にできることは一つしかない。
一葉を苦しめていたこの物語を、終末へと導く事だ。

 なのはの必死な声に、リンディの顔つきが変わる。
 それは先ほどまでの、なのはを気遣う柔和で穏やかな物腰を窺わせるものではなく、任務、責任、義務の全て背負った、軍人としての顔だ。

 「なのはさんの気持ちはよくわかったわ。 それでも、貴女のような年端のいかない子供を危険に巻き込むわけにはいかないのよ」

 「そん……な……」

 突き放すリンディの言葉に、なのはは落胆に表情を歪める。

 「だけど、なのはさんの方が私たちよりもジュエルシードにも、ジュエルシードを集めている彼らに詳しいことも事実だし、それになのはさんには力があるわ。 現地協力者の嘱託魔導師としてならば、アースラはなのはさんを受け入れる準備が出来ているわ」

 「しょくた……、え?」

 聞きなれない言葉になのはは戸惑う。それは結局のところ、協力をさせてくれるのだろうか?

 「ハラオウン艦長……」

 ベヌウはリンディがどういう話しの流れに持っていこうとしているのか察したらしく、不穏な声をリンディに向ける。しかし、リンディはわざと聞かなかったような素振りで言葉を重ねた。

 「嘱託魔導師というのは、正式に管理局に属さない魔導師に仕事を依頼して手伝ってもらう人たちのことよ。 本来だったら試験を受けて合格をしなければならない資格なんだけど、次元艦の艦長には管理局にとって有益であると判断した現地住民に一時的に資格を与える権限を持ってるの」

 「やります! お願いします!!」

 「ただし!!」

 リンディの提示に食い付くなのはに、リンディは声で制止する。

 「それには条件がいくつかあるわ。 まず第一にご両親の許可を頂いてくること。 そして、許可を得た後は私の指揮下に入ること。 他にも細々としたことはありますが、特にこの二つは厳守してもらうことになるわ」

 「ハラオウン艦長!!」

 怒声ともとれる声にリンディもさすがに無視できなくなったのか、荒げたベヌウに厳しい面持ちで視線をやった。

 「私は可能性を提示するだけであって、決めるのはベヌウさんでも私でもなくなのはさん本人よ。 どうかしら、なのはさん。 私個人としては、正直に言ってなのはさんをアースラの戦力として迎え入れたいと思っているのだけれど……」

 リンディの真っ直ぐな視線に、なのはは一瞬跳ね上がった心臓を整えるために一度深く息をつき、真剣な口調で答える。

 「私は、いつも一葉くんになにかを貰ってばかりいました。 それを……、今だったらほんの少しでも返せる気がするんです。 どんな条件でもかまいません。 私はこの物語から逃げ出したくないんです」

 「わかったわ。 だったらアースラとの合流はなるべく早い方が良いでしょう。 ご両親の許可が降りたら、今夜の0時に私たちが最初にあった場所……、海鳴公園の広場に来てちょうだい。 今、なのはさんをポートまで案内させる人を呼ぶわ」

 リンディは左手首に巻かれた腕時計のようなものを細い指先で操作すると、小さな透過スクリーンにエイミィの顔が浮かび上がった。
 二、三言で用件だけを手短に伝えると、すぐに医務室のドアが開く音が聞こえてきた。おそらく、医務室の外の廊下で待機していたのだろう。

 「エイミィ、なのはさんを案内してあげて」

 「わかりました」

 リンディの命令を忠実にこなす軍人の顔を張り付けたエイミィに、なのははおとなしく付いていこうと腰を上げ、名残惜しさを覚えながらも繋いでいた一葉から手を離す。すると、ベヌウに呼び止められた。

 「高町嬢はそれでいいのですか? もしかしたら、今よりの凄惨な結末と絶望を目の当たりにすることになるかもしれませんよ」

 「……、それでも私はここで絶対に逃げたくない。 ここで逃げたら、私の中の大事なものがなくなっちゃう気がするから」

 「大事なものをなくしても命までなくすことはありません。 高町嬢、今一度考えなおしてください」

 「……ごめんなさい」

 ベヌウがなのはの身を本当に案じていることはわかっている。それでも、無理を通してでも今の現状にしがみつかなければ、きっと自分は自分を許すことができなくなってしまう。二度と一葉の隣に居ることができなくなってしまう。
 そして、二度と一葉の隣で一緒に笑うことができなくなってしまう。
 そんなことは絶対に嫌だった。

 なのはは首筋に感じるベヌウの視線から逃げるように、エイミィと共に医務室を出て行ってしまった。


 ◆◇◆


 「ハラオウン艦長、私は貴女を蔑如します。 高町嬢のような幼い少女を戦場に出すなど、まともな大人のやることではありません」

 なのはの出て行った医務室にはリンディとベヌウしかいない。話し合いの最中はトルカンには席を外してもらっていた。
 ベヌウの深い蔑視にリンディは気まずそうに眼を逸らすでもなく、真っ直ぐと受け止める。

 「その通りね。 私は貴女の言う通り軽蔑されてしかるべき人間よ。 なのはさんは私たちの戦力になりえる十分な魔力を持っているし、何よりなのはさんを引き込めば……、ベヌウさん。 護国四聖獣である貴女も付いてくるとも考えていたわ」

 「悔しいですがハラオウン艦長の思惑どおりですよ。 一葉が高町嬢を守ろうとしていたのならば、私もまた高町嬢を守らなければなりません」

 ベヌウが吐き出すように言うと、リンディはなのはが座っていた椅子に腰を下ろした。

 「そうね。 だけど、私は戦うこと自体が悪いことだとは思っていないわ。 詭弁だと思うかもしれないけれど、戦うことでしか見つけられないものもあるし、守れないものもある。 なにもせずにしゃがみこんでしまうことは誰にでもできることだけど、それではなのはさんが救われないわ」

 なのはの目は、夫を失った時の自分と同じ目をしていた。
 どうすることもできず、ただ過ぎ去って行く状況を傍観することしかできずに夫を目の前で亡くしてしまった時の哀しみや苦しみ、心臓がねじ切れてしまうのではないかと思うほどの絶望をまだ幼い少女に味あわせるような真似はしたくなかった。

 「待っていることの方が辛いことだってあるのよ。 私は純粋になのはさんにこの物語の結末を見せてあげたいの。 だから、なのはさんには極力後方支援にまわってもらうようにするわ」

 「当然です。 高町嬢には才能があるとはいえ、戦闘に関してはことさら素人です。 今日まで大きな怪我もなかったのは奇跡ですよ」

 「そうね……。 きっと、この子がなのはさんを守ってきたおかげよ……」

 リンディはそっと一葉の頬に手を触れる。浅い呼吸を繰り返すだけの、物言わぬ少年の穏やかな寝顔をこうして見ると、漆黒の色の髪や切れのある目元、唇の形なども母親によく似ている。

 「本当にお母さまにそっくりね……。 それなのに……、同じような運命を辿るなんて可哀想な子」

 リンディがこぼす憐憫の声を、ベヌウは聞き逃さなかった。

 「一葉の母を知っているのですか?」

 「ええ……、昔の知り合いよ。 私の後輩であり、部隊の上官でもあったわ」

 過去を懐かしむように、リンディは長い睫毛を伏せる。
 リンディの記憶の中の一葉の母は、なにも持たない者だった。
 与えず、守らず、己すらも棄てさりただひたすらに奪い続ける悪魔のような強さを持つ女。生きては戦場の修羅でありながら、死しては一握の灰も残さないような、そんな生き方をし、赦しも救いもない壮絶な戦いの中で死んでいった。
ずっとそう思っていたのに、その女の産んだ子が、世代を超えて、こうして戦いの運命に巻き込まれているのだと思うと憐れみさえも通り越して自身も哀しみの沼に足を捕まってしまったかのような気持ちになる。

 だが、だからと言ってそのまま哀しみに流され同情に身を任せてしまうわけにはいかない理由がリンディにはあった。
 もし、運命というものが本当にあるのならば、それはきっとこの日のために用意された言葉なのだろう。
 この地球という次元世界に詰め込まれた因果の渦に自分自身も含まれていたのだと、セキレイの存在を知った時にリンディは確信にも似たものを感じていた。




[31098] 27!
Name: 三鷹の山猫◆b3ece1a7 ID:c70221da
Date: 2013/04/23 23:41
廊下は静かだった。暖房が利いているのか肌に纏わる空気は生温かく、人気は少ない。時々、なのはを先導する少女と同じ制服を着た乗組員とすれ違うばかりであった。
 アースラの中は、テレビや映画で見る巡洋艦とは大分違って思えた。
 身を圧迫するような狭い通路や、オイルに汚れた壁などはここにはなく、また筋肉で身を固めた屈強な男どもはここでは見られなかった。
 リノリウムを張られた白く広々とした廊下は、むしろ巡洋艦というよりも病院のような清潔さを感じさせる。
 それでも、やはり空間は限られているのだろう。
 真っ直ぐとした道は少なく、網のように曲がり角が入り混じり、さながら迷路のようなものとなっていた。
 医務室から出て、既に曲がり角に差し掛かる回数は二桁を超えていた。その都度、案内板のようなものが目に入ったが、それはやはり異世界の文字で、なのはが目の前を歩く少女とはぐれてしまえば、たちまちに道を見失ってしまうことは明白であった。
 しかしながら、なのはは俯きがちの視界に移る先導者の背中を機械的について行くだけであって、意識は自らの内にある暗澹の中に在った。
 一葉の心臓が貫かれた光景が、頬に降りかかった血の熱が、腕に圧し掛かる死の体温がどうしても忘れられないのだ。
 それは足が竦み強張る恐怖であり、自らの愚かしさを呪う恨みであり、乾坤の一切がひっくり返ってしまうような絶望であり、それらが渾然と混ざり合い、心臓を締めつける。
 そして、我儘を突き通してアースラにしがみつく事は出来たが、状況に流されることしか許されない自らの脆弱から、犠牲にしてまでもアゼルと捕まえると言う破滅的で危うい思惑が芽生え始めていた。
 自分をかばうために傷ついた一葉は、まさしくアゼルの言った通り、なのはがいなければ傷つく事はなかったのだ。
 ならば、一葉が目を覚ました時になにもかもが終わっているようにしたいという気持ちは、一葉を傷つけるきっかけを作ってしまった自らへの贖罪の意識と混ざり合い、心のどこかで二度と立ち直れないぐらいに傷つきたいという危うい願望が心のどこかに在った。
 いつかの、蜂蜜を溶かしたかのような黄昏の下で、傷ついて痛いのは傷ついた本人ではなく、周りの人間だと言われたことを忘れたわけではない。
 だが、こうして思い出を反芻させながらも、こうして一葉が傷ついたことにこんなにも傷つきながらも、なのはは自分自身が傷つことを願わずにはいられなかった。

 「あ……」

 不意に、聞き慣れた声が耳に届く。
 伏していた視線を挙げると、先導していた少女が立ち止まっていた。そして、その先には一葉とアゼルの間に割って入った黒い少年と、その隣には見たことのない少年が気まずそうな面持ちで視線を逸らした。その横では、黒い少年が、しまった、と顔に書いたように表情を少しばかり強張らせている。
 束の間の停滞。そして、なのはは一瞬だけ考えこみ、記憶の中に耳に届いた声があることを思い出した。

 「……ユーノくん?」

 「……」

 零れるような問いかけの言葉に、ユーノは今にも泣き出してしまいそうな沈黙を持って肯定した。
 同時に、古傷を指で押したような微かな痛みを胸に感じた。
 ユーノ怯えは、きっと自分と同じだ。
 体中の毛が逆立ち身体の中で黒い嵐が荒れ狂うような自己嫌悪と、心臓を捻じ切られるような恐怖。自己弁護さえも許されないことをしでかしてしまった、首筋に冷たい刃を突き付けられるような寒気はきっとこれからもずっとなくなることはないだろう。
 苦しそうな重たい沈黙が続く中、なのははユーノを見据え、これだけは言わなければならないというように、真剣な声で言った。

 「ユーノくん……。 私、アースラに残ることにしたよ」


 「え……?」

 「どういうことだ?」

 虚を突かれたその言葉に、ユーノは引き絞られるような声を出す。ユーノの前に立っていた黒衣の少年も、なのはの言葉の真偽を確かめようと真剣な面持ちでなのはを見た。
 なのははこの少年のことを知らない。アースラに乗艦しずっと、一葉の近くに居たからだ。しかし、佇まいや雰囲気、先の戦闘でも一人でアゼルと一葉の戦闘を止めようとしたことから、一見して幼く見えても実力のある魔導師で艦でもそれなりの地位に就いているのだろう。

 「えっと……、あなたは?」

 「失礼。 僕はクロノ・ハラオウン。 この艦で執務官と言う役職に就いている。 それで、アースラに残るとはどういうことなんだ?」

 「艦長の意向でなのはちゃんは嘱託としてお手伝いすることになったんだ。 つまり、しばらく同僚になるってことだよ」

 なのはは厳しい視線に臆することなく尋ねた。
 クロノと名乗った少年は、リンディ艦長と同じ姓を名乗ったことに引っかかりを感じたが、なのはが口を開く前にエイミィがクロノの疑問に答えた。

 「艦長が許可を出したのか? どういうつもりなんだいったい……」

クロノは額にしわを寄せた顔でつぶやく。

 「さあ。 私は艦長じゃないから。 でも、なにか考えがあってのことじゃないかな?」

 なのはの位置からエイミィの表情を見ることは出来なかったが、先ほどまでの張り詰めたような堅苦しい言い方ではなく、クロノに対しては噛み砕いた態度で接することから、この二人は近しい間柄だということが見て取れた。
 まるで幼い頃から一緒に居たかのような距離感に、自分と一葉を見ているようで、胸にまた少しだけ痛みが走った。

 「ごめんなさい。 でも、足は絶対に引っぱりません」

 「あ……、すまない。 そういう意味で言ったんじゃないんだ。 君の魔力は平均から見ても飛びぬけている。 手伝ってくれるのだったらこれ以上心強いことはないが……、危険なんだぞ? 特に……」

なのはは芯の通った声で言うと、クロノはハッとして焦るように言った。

クロノは言葉を濁したが、ここに居る全員が誰の名前を言おうとしたのかは簡単に予想が付いた。
アゼル・テスタロッサ。
一葉を殺害したあの少年は、一体何者なのだろうか。一葉の心臓を貫いたのは間違いなくアゼル自身なのに、その死を誰よりも悲しんでいるのもアゼルに思えた。
沈鬱な落胆。期待への裏切り。およそ言葉では言い表せないような重たい感情が、アゼルの瞳の欝屈としたものが沈殿していたような気がしたのだ。
あの二人の関係を、なのはは知らない。それでも、決して逃れることのできない鎖のような呪いがあの二人を縛り付けているのだと確信めいたものはあった。
ジュエルシードのことはもちろんだが、この事件を解決するにはアゼルは避けては通れない脅威だということをなのはは理解していた。

 「わかってます……。 でも、私は逃げたくないんです。 ちゃんと最後まで見届けて、それで……、それで一葉くんが目を覚ました時に謝りたいんです。 ちゃんと……、ごめんなさいって……」

 「そうか……。 ならば僕から言うことはないな。 これからよろしく頼む」

 「はい。 よろしくお願いします」

 「それから……、君はいいのか? しばらく同じ艦に乗り合わせることになる仲間だぞ」

クロノがユーノに振ると、言葉を探しあぐねているように目を伏せたり、唇を結んだり、半開きにしている様子で、結局口を噤んでしまった。
なのはは、ユーノが人間であったことにさしても驚きはしていなかった。むしろ、こうして人間の姿のユーノを目の当たりにすると、人間のように振る舞うフェレットの方が遥かに不自然であったとさえ感じている。
そして、人間の姿でアースラを案内されているということは、責任感の強いユーノのことだ。ユーノもまた、自分と同じようにこの物語にしがみつく覚悟を決めたのだろう。

 なのはは、ユーノの目じりに光るものを見た気がした。もしかしたら糾弾されるかもしれないと思っていたのかもしれない。お前が一葉を殺したのだと罵られると思ったのかもしれない。
 しかし、なのはにそんなつもりは毛頭なく、またそんな資格もないと思っていた。
 ユーノとなのはは同士だ。一葉を追いつめ、一葉を壊し、そして死なせてしまった同じ罪を持つ仲間だ。
 少なくとも、なのははユーノと共犯者めいたなにか特別な絆で結ばれた気がしていた。

 「僕は……、その……」

 「ユーノくん……。 一葉くんが目を覚ました時に、一緒に謝ってくれる?」

 「なのは……」

 なのはの言葉に、ユーノは胸の内があたたかなもので満たされていくのを感じた。それは赦しではない。本来、ユーノが赦しを乞うべき相手はまだ目を覚まさないでいる。
 それでも、なのはに拒絶されなかったことに、ほんの少しだけ救われたように気持ちになれたのは間違いなかった。

 「そうだな……。 その時は、僕も一緒にいいかな?」

 クロノがいたわるようにユーノの肩を叩く。
 ユーノの顔は、今にも泣き出してしまいそうだった。

 「はい。 みんなで一緒に……」

 なのはの口調は穏やかだった。それでも、その中には揺るぎのない決意があった。


◆◇◆
 夏の帳の風が吹く。
 今年の桜は咲くのが早く、また散るのも早かった。そのせいか、まだゴールデンウィークが過ぎたばかりだというのに、例年よりも早く風に夏の息吹を感じた。
 手入れの行き届いた短く刈り込まれた草の上で、緋山亜希子は腰を下ろして海の水平のその先を眺めていた。
 耳に届くのは風が草を揺らすと音と、遥先から耳に届くウミネコの鳴き声。束の間の夜が過ぎ、海鳴海浜公園の広場には人の姿はもう疎らにしか残っていなかった。
 髪をゆらす風も、柔らかな夕日に包まれる空も、どこまでも情緒的だというのに、亜希子の表情は険しく、どこか沈鬱な影を落としていた。
 亜希子は煙草を吸おうとジーンズのポケットに手を伸ばすが、どうやら翠屋に忘れてきてしまったようだった。結局、口元の寂しさを埋めるために、自分の舌先を前歯で削ったり、甘噛んだりしていると、ふと、周囲に魔力の気配を感じた。
誰かが簡易な結界を張ったのだろう。
久しぶりに感じる外部からの魔力の刺激に、胸の裏側にあるリンカーコアが刺激される。

「時空管理局提督・・・・・・、リンディ・ハラオウンです。 お久しぶりです。 副隊長」

この地球での安寧の暮らしのうちに、夢ですら聞かなくなったはずの懐かしい声だった。

「まさか先輩を寄越してくるなんてね。 上も気の利いた嫌がらせをしてくるもんだ」

亜希子は腰を上げ、ゆっくりと振り返る。
そこには、やはり想像した通りの人間がいた。そして、同時に忘れようとしていた記憶が揺り起こされる。
隣には部下だろうか、まだ幼い顔立ちの少年がいる。しかし、亜希子の注意はかつての先輩で、そして同じ部隊の部下だった女に注がれていた。
 地面に伸びる長い影。リンディ・ハラオウンもまた、亡霊を見るかのような目つきで亜希子を見ていた。

 「信じられないかもしれませんけど、偶然です。 そもそも、貴女が生きていたなんて私は思ってもいませんでした」

 「いいや、死んだよ。 魔導師としての私は10年前にね。 今はどこにでもいる主婦をやってる、ただの緋山亜希子だよ」

 両者の間には、今にも罅割れて砕け散ってしまいそうな緊迫感があった。そこにあるのは不審か懊悩か。あるいは覗き込めば吸い込まれてしまう暗闇のような、胸の轟を感じていた。

 「艦長。 お知り合いですか?」

 そんな二人の只ならない様子に、クロノはつい口を挟んだ。亜希子の視線がクロノに向くと、そして一瞬目を丸くしてから無遠慮に距離を縮めて、クロノの顔を覗き込んだ。

 「もしかして……。 君、クロノか? クロノ・ハラオウン?」

 「え……、ええ。 どうして……?」

 「はは。 父親そっくりだ。 時間が経つはずだよ。 最後に会ったのはまだ三つか四つぐらいの時だったからね」

 クロノは、亜希子の顔を見た時からどこかで会ったことがあるような既視感を感じていた。そして、間近で亜希子のかを見て、物心がついたばかりの頃にいなくなった父親のことを出されて、胸の内にあった靄のような疑念は一瞬にして形を為す確信となった。
 しかし・・・・・・、まさか彼女がこんなところにいるわけがない。クロノはまさに自分の母と同じ心境に陥った。
 ここに来るまでの間、クロノはリンディから誰と落ち合うことになっていたのかを伝え聞いていなかった。
 いや、もちろん緋山一用の母親と会うことは聞いていたが、何かを隠している風だったので問い詰めると、実際会って確認が取れるまで待ってくれと言われたのだ。
 クロノは驚いた様子でリンディを見た。すると、リンディはあくまで冷静な面持ちのまま、亜希子が何者なのかをクロノに伝えた。

 「彼女はセキレイ・クロスフォード。 名前は知ってるでしょ? この人は貴方の叔母、お父さんの妹よ」

 セキレイ・クロスフォード。それはクロノが予想した通りの答えで、父クライド・ハラオウン。旧姓クライド・クロスフォードの妹だ。
そして10年前に死んだはずの、かつて時空管理局で最強と謳われたエース・オブ・エースの称号を冠した魔道士だった。


◆◇◆


 心臓が燃え立つような衝撃的な出会いから、いくばかの時間が経っていた。
 クロノはリンディと共にアースラの食堂で食事を摂り終えたばかりだった。
 アースラの食堂は談話室と一体となっており、艦内でも最も広いスペースが確保されている。
 固定式の長テーブルとイスがいくつも設置されており、白熱灯で照らす室内は白い壁に反射していっそうに広く感じさせる様相をしていた。

 「まさかセキレイ・クロスフォードが生きてたなんてねぇ……。 クロノ君、親戚だったなんて初めて聞いたよ」

  溜息と共にエイミィが呟く。食後のコーヒーを口に含み、ホゥと息を吐いた。

 「父さんは婿養子だったらしいから名字が違うしな。 それに言いふらすようなことでもないし」

 クロノもまた、エイミィ同様にコーヒーで口を濡らす。
 リンディとクロノに連れられ、緋山一葉の母である緋山亜希子、もといセキレイ・クロスフォードがアースラに乗艦してから直ぐに、クロノは準待機を命じられた。
 今も恐らく、艦長室でリンディとセキレイが一葉が事件に巻き込まれた経緯や今後の扱いについてを協議している最中だろうが、クロノはその席に立ち会うことは許されなかった。
 不満がないわけではない。セキレイと話している時の母の言葉に裏側に感じた張り詰めた不安や、胸の奥を擦るような感傷を感じ取ったクロノは何も言えなくなってしまったのだ。

 「ふーん……。 それにしても、まさかこんな辺境の管理外世界で教科書にも載ってるような超有名人に会えるなんて……。 後でサインもらえないかなぁ」

 「どうだろうな。 僕は少ししか話しをしていないが、どうも死を装ってた風な節があった気がする。 尤も、そこら辺は僕たちが踏み込んでいい領域じゃない。 艦長の管轄だ。 でも……、もし可能なら、ゆっくり話せる時間は欲しいな」

 セキレイ・クロスフォードは、かつて天才と呼ばれる魔導師だった。
 僅か8歳で管理局に入局し、数え年が10になる頃にはその「エース・オブ・エース」と呼ばれていた。
 エース・オブ・エースとは、管理局で最も優秀な空戦魔導師にに与えられる称号で、その時代最強の魔導師の象徴ともされるものでもある。
 彼女の勲功は数え上げればきりがなく、士官学校の教科書の題材にも取り上げられており、現行で使用されている戦闘訓練のシュミレーターもセキレイの戦闘記録を基にプログラミングされている。
 晩年はエリートのみで構成された時空管理局本部遺失物対策室機動一課第一分隊強行班の副隊長に任命され、隊長ゼスト・グランガイツと共に隊を率いていた。
 尤も、機動一課強行班は別名「亡霊部隊」と呼ばれ、存在はするが一切の実務内容は非公開とされており12歳以降の戦闘記録や訓練記録は残ってはいないが、それでも局内の古株の魔導師の間では今なおその武勇伝は取り留めのない会話の間の話題に上がったりもしていた。
 そんな彼女の最期は壮絶なもので、オーバーSランクに指定されている最凶最悪のロストロギア「闇の書」を守る四体の騎士プログラムをたった一人で相手にし、道連れに自爆したとされている。
その時セキレイはまだ14歳だった。
そして、その死は今も栄誉に包まれ語り継がれている。
結果として、騎士プログラムを欠いた闇の書の主は書の暴走を起こし、追跡任務にあたっていた二隻の次元艦と、当時艦長を務めていたクロノの父親を含めた乗組員二〇〇名の尊い命が犠牲となったが、それでも次元世界が一つ亡びる程度であれば軽微な被害ととまで言われた歴代の闇の書事件に置いて、一般人を含まないこの数値は奇跡といわれている。
 その奇跡の立役者ともいえる英雄が管理局に凱旋するとなれば、それはきっと喜ばしいことなのだろうが、クロノはそれでもリンディとセキレイはそのことを望んでいないように思えていた。

 「でも、それは目の前の事件を解決してから。 なのはちゃんたちの戦闘記録の報告書出来たんだけど、今見る? 映像もあるよ」

 「早かったな。 報告書の方は僕のデバイスに送ってくれ。 後で目を通す。 映像は今出せるか?」

 「うん」

  エイミィは食べ終えたトレーを横に寄せて身を乗り出し、乗組員に支給されている半導体をテーブルの上に置いた。そして、指でいくつかの操作をすると透過スクリーンが宙に映し出される。
 それは、高町なのはとフェイト・テスタロッサの戦闘映像だ。
 時間の死んだ夜の海鳴の街を背景に、金色と桃色の魔力を交錯させている。

 「この二人の戦闘は始めてみるけど……、凄いな。 特に白い子の方は、本当に魔法を覚えて一カ月足らずなのか?」

 「ユーノ君の証言が本当ならね。 なのはちゃんの魔力値は180万、黒い子の方は200万。 最大発揮値になると、その三倍ってところかな。 二人ともAAAクラスの魔力だよ」

 「巨大な魔力タンクみたいなものか。 羨ましい限りだよ」

 AAAランクとなれば管理局でも5%程しかいない希少な存在だ。
 クロノ自身魔力が飛びぬけて高いわけではない。先天的な才能に左右される魔力値に恵まれた画面の中で熾烈な戦いを繰り広げる二人の少女に、僅かながらの嫉妬と羨望を覚えた。
 しかし、その内の一人が味方につくとなればこれほどまでに力強いことはない。

 「特になのはちゃんはクロノ君の好みっぽいしねぇ。 今から粉かけとく?」

 「そういう類の冗談は好きじゃない。 それよりも、少年たちの方はどうなんだ? 僕が駆け付ける前の戦闘記録は?」

 確かになのははエイミィの言う通り可愛らしい少女だ。クロノも十四歳という思春期の真っただ中で異性に興味がないわけではないが、流石に九歳の女の子は守備範囲外だった。
 クロノはエイミィのからかいを無視し、一葉とアゼルの映像を求めた。

 「はいはい、あるよ。 クロノ君って本当にからかい甲斐がないよね」

 エイミィは頬を膨らませながら、再び半導体を操作すると画面がつい数時間前の光景に切り替わる。
 映し出されたアゼルと一葉は、魔法がぶつかり合う空気を軋ませるような破裂音と、鉄と鉄がぶつかりああう空を裂くような剣戟を響かせる。
 この戦いは既に数時間前に過ぎ去ってしまった出来事だと言うのに、今なお戦い続けているのではないかと思ってしまうほどの生々しさと臨場感が伝わり、背筋にひやりとした汗が噴き出てくる。
 その起因となっているのは卓越した戦闘センスもさることながら、二人の有する見たこともない能力のせいだろう。
 ふと、画面が切り替わる。エイミィが予め重要な部分だけを編集していたのだろう。
 映し出されたのは一葉は剣群を出現させる瞬間と、アゼルがなのはに吹き飛ばされた自身の腕を再生させた瞬間だった。

 「改めて見ると凄まじいな……。 こんな戦いができる魔導師なんて、管理局にも数人もいないぞ。 それに、この能力は……」

 「今のところは、二人とも魔法の力じゃないってことだけはわかってるってところかな。 超能力とか霊能力とか、魔法以外の力の発見は何例か報告されてるし、珍しいことだけどあり得ないわけじゃないとは思うんだけど……。 少なくとも、この能力は現在報告されてるどの能力にも当てはまらない未知の力だよ」

 両者とも能力の解析は不可能。それが分析の結果だった。
 一葉の剣の能力は出現の原理が解明できず、さらに極微弱ながら次元震の発生が確認されている上に、アゼルに至ってはまるで時間が切り取られてしまったかのように能力の発動の瞬間すら確認することができなかったのだ。

 「それに、セキレイ・クロスフォードの息子の失われた時代の魔法と護国四聖獣か。 聖王教会が知ったら喉から手が出る程欲しがるだろうな」

 「間違いなく月の踊り子の所有権は主張してくるとは思うよ。 もしかしたら契約者の身柄もね」

 聖王教会とは数多くの管理世界に影響力を持つ、かつてベルカ王国を統治した聖王を主神として崇める有数の宗教団体だ。
 教会騎士団という独自の私設部隊を有しており、またロストロギアの保守、管理も行っているため管理局との関係も深い。
 月の踊り子はかつて聖王を守護する為に開発されたもので、また現存する唯一の護国四聖獣である「影を駆る者」も聖王教会が保管している。
 宗教的観念や文化的価値からして、教会が出張ってくるのは明白だった。

 「だろうな。 しかし、僕個人の意見としてはあの力を管理局で活かしてもらいたいな……って、なんだその顔は?」

 「いやぁ……、あんな目に遭わされたのにクロノ君心広いなぁって思って……。 成長したね。 お姉さん感心したよ」

 「頭なでるなっ! 全く……。 第一、あれには僕にも責任がある。 次元法そのものを知らない人間に法律の話しをしたところで通じるわけがなかったんだ。 もっと別のアプローチをするべきだった」

 エイミィは一瞬だけ意外なものを見るような目をすると、直ぐにからかうように目を和ませ、クロノの頭を撫でた。
 エイミィとクロノは幼馴染だった。成績が優秀で者覚えが良い分、頭が固く他者からの批判を排他的にとらえてしまう面があったが、それこそ弟の成長を垣間見たような気持ちになり、どこか嬉しさがこみ上げていた。

 「そうね。 でもどの道、結果はあまり変わらなかったと思うわよ」

 「艦長」

 クロノとエイミィがじゃれ合っていると、後ろから凛とした声が響く。
 振り返るとリンディが立っており、そこにセキレイの姿はなかった。
 二人は立ちあがろうとするが、リンディはそれをやんわりと手で抑えた。

 「そのままでいいわ。 エイミィ。 後で報告書と映像のマスターデータを私に頂戴。 コピーは全部削除して。 それから、緋山一葉とセキレイ・クロスフォードに関してのことは一切について口外を禁止します。 今までの報告書、及び航海日誌から二人の名前を消しておくように」

 「え……? それって……」

 「質問は許可しないわ。 これは命令よ」

 表情のこもらない、押さえつけるような絶対零度のような声だった。その声の響きと内容に、エイミィは戸惑う。
 リンディの命令は、管理局に対する隠蔽工作。つまり背信行為だ。もしも明るみになれば相応の罰を受けることになる。
 しかし、次元艦に置いて艦長の命令は絶対だ。後ろめたさがないわけではないが、エイミィはその命令に従うしか術はなかった。

 「わかりました……。 それで、セキレイ・クロスフォードは……?」

 「一旦帰ったわ。 設備も治療も、少なくとも地球の医療技術よりは上だろうし、心臓にデバイスが埋め込まれた状態の一葉くんを地球の病院で診せる訳にもいかない、って」

 ならば、リンディはセキレイを見送り直ぐにエイミィの口を塞ぐためにこちらに来たのだろう。
 一葉はともかく、セキレイの生存を知っているのは出迎えに立ち会ったリンディとクロノを除き、通信対応をしたエイミィだけだからだ。
 リンディは二人に視線を合わせることなく、卓上で流れっぱなしになっていた一葉とアゼルの戦闘記録を憂いを含んだ瞳で見据えていた。

 「クロノ……。 一葉君は管理局に向いてないわ。 もし局員になったとしても、それは一葉君自身も、周りの人間も苦しめることになるだけよ」

 重たいものを胃から吐き出すような、暗い呟きにクロノは眉根を寄せた。

 「どういうことですか?」

 「長いこと次元艦に乗ってると、たまにこの子のような人間に会うことがあるのよ。 力を持って生まれたせいで人を傷つけずにはいられない……、戦うためだけに産まれてきたかのような、それしかできない哀れな人間……。 一葉君の母親もそうだったわ」

 「……」

 つらそうにするリンディの言葉がどんな気持ちから派生したものなのかわからない。それでも、そこには終わりのない後悔や癒されることのない傷の疼き。そして人間の孤独と運命に嘲弄される者に対する憐れみがこもっているような気がした。


◆◇◆


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