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[31326] WHITE ALBUM2雪菜trueアフター「雪菜のいない日々」
Name: RCL/i8QS0◆fe1ad663 ID:9766d1b6
Date: 2012/10/06 22:13
 ギャルゲー『WHITE ALBUM2』の2次創作、いわゆるcoda雪菜trueエンドの後日譚です。
 主人公北原春希と、メインヒロインの一人、小木曽雪菜が結婚して数年後(大体8年後あたり?)、二人の子宝にも恵まれて順風満帆な日々を送っていたところ、不慮の交通事故で雪菜が亡くなり、春希が二人の娘を抱えた男やもめになるところから、お話は始まります。
 主人公は北原春希と、もう一人のメインヒロイン、冬馬かずさです。二人がゆっくりと気持ちと暮らしを立て直し、周りをやきもきさせながら、不器用によりそっていく話です。

・注意
 タイトルにありますとおり、メインヒロインの一人の、ハッピーエンド後数年を経ての死亡、から始まる物語ですので、そのような展開が許容できない方には、大変申し訳なく思います。
 基本的にはシリアスなお話で、キャラ崩壊もさせず、極力原作のイメージを大切に作っていきますが、かずさが(比較的)真人間になってしまう、というあたりは、人によっては重大なキャラ崩壊と思われるかもしれません。
 春希と雪菜の子どもたちをはじめとして、オリキャラが若干登場します。その中には、原作に名前だけ登場する橋本健二も含まれます。

「WHITE ALBUM2 SS まとめwiki」にミラーがあります。

2012年1月25日、第1話「通夜」投稿。
2012年10月5日、表紙(このページ)作成。



[31326] 通夜【WHITE ALBUM2雪菜trueアフター「雪菜のいない日々」】
Name: RCL/i8QS0◆17a7a866 ID:26038740
Date: 2012/02/01 19:12
「WHITE ALBUM2」雪菜trueエンドの数年後という想定です。

=============================

「母さん? ……あたし。うん、今日は大体終わった……。今夜最後のお客も帰ったんで、小木曽家のみなさんもついさっき、いったんおうちに帰られた。また明日、朝早くこられるって……。北原のお母さんは、今夜はこっち。」
「……。」
「……あたし? あたしはさっきまで、ちびちゃんたちを寝かしつけてたところ。」
「……。」
「――うん、なかなか泣き止まなくて、2時間近く歌ってあげた。でももう泣き疲れたのかな、今はぐっすり寝てるよ。だからもう、今日はあたしもこっちでやることはない。遅くなったけど、今から帰るよ――?」
「……。」
「何? 何だって?」
「……。」
「――でも……。う、うん……。」
「……。」
「――わかった。何かあったらすぐ電話して。……明朝、またこっちから電話するよ。大丈夫だよね、こっちこられるよね? ……でも無理はしないで。」
「……。」
「――ああ、ピアノだったら向こうにあるから。ヤ○ハの安物だけどね。調律さえしてあれば問題ないよ。それじゃお休み。××さんによろしく。」

 玄関先からリビングに戻ると、北原親子はまだそこに、棺の中で眠る北原雪菜の枕もとに並んで座っていた。彼女の夫、北原春希は目を見開き、じっと雪菜の顔を見つめたまま。そして彼の母親は、軽く猫背気味に俯き、目を閉じたままであった。もともと小柄な女性であったが、こうしてみると一回り小さくなったような気がした。
 冬馬かずさは春希をよけて、あえて彼の母から先に声をかけた。
「お母さん――北原のお母さん。あちらの客間にお布団を敷きました。もうおやすみになってください?」
 春希の母は、少しばかりの間を置いてかずさを振り仰ぎ、小さくわらった。
「……ありがとう、ございます……でも……。」
「――母さん。」
 何時間ぶりになるだろうか。春希が口を開いた。
「今日は、ありがとう。でも、これ以上はからだに悪いよ。小木曽のお義父さんお義母さんもお帰りになったし、今夜はもうやすんでください。」
 あくまでも静かな春希の声に、母はかぶりを振って、ひとつため息をついた。
「――そう……わかった。あなたも早くおやすみなさいね。冬馬さん、ありがとうございます。それでは、私は先に……。」
「ええ、おやすみなさい。明日も、よろしくお願いします。」
 春樹の母は立ち上がり、客間へと消えた。そうして薄暗い居間には、かずさと、春希だけが残された。
「……。」
 かずさは春希のかたわら、いましがたまで彼の母が座っていた場所に、静かに腰を下ろした。そしてそのまま、春希の方を向かず、雪菜を見つめた。

 しばらくして、春希が口を開いた。かずさの方を見ないままに。
「――今日はありがとう。でも……お前も、そろそろ帰ったらどうだ? 曜子さん、心配じゃないのか?」
「――うん、そのことだけど……今日は帰ってくるな、って言われた。側にいてやれ、と。」
 やはり彼の方を見ずに応えたかずさに、春希はかすかに肩を震わせた。
「側に……?」
「うん……ちびたちも寝たし、片づけも大体済んだし、もうあたしがいても役に立つことなんか今夜はないんだけどさ。でも――そういうことじゃないんだって。」
「……。」
「あたしは、お前のことなんか心配していない。」
 かずさは強がったようないつもの切り口上でいった。
「お前のことを心配してやる義理なんかあたしにはない。でも、雪菜だったら、心配するだろうから。」
 言ってしまってから、「しまった」という顔をしたかずさに、春希は気付いていたのかいなかったのか。
「あ……ごめん。何もあたしに、雪菜のかわりができる、なんていうつもりはないんだ。――できるはずがない。あんなすごい奴になんて……。」
 それでもかずさは、緊張がほどけてしまったのか、次々に墓穴を掘る。
「あ、あたしなんて自分のことだけで、ピアノを弾くだけで精いっぱいで、マネジメントもいまだに母さんと美代子さんにまかせっきりで……ほんとならあたしの方が母さんの面倒を見なけりゃいけないのに……。」
「かずさはよくやってるよ。りっぱに曜子さんのケア、してるじゃないか?」
 春希の声に、ほんのわずかに笑いが含まれていたのは……。
「そんな……美代子さんやヘルパーのみんながいなきゃ、高柳先生がいなきゃ、あたしなんか……。」
「それに、いつもいつも、子供たちの相手をしてくれて、感謝してる。今日だって、お前がいなかったら、どうなっていたか……。」
「あ、あれはあたしが好きでやってるんだ。息抜きさ。小木曽のお母さんの方が、ごはんだって作ってくれて、よっぽど……それに雪菜にはいつもいつも「甘やかすな!」って怒られて――! ……ご、ごめん。」
 いつのまにか重ねすぎた「雪菜」という一語に、今更ながらかずさは絶句し、口ごもった。春希は依然うつむいたまま、雪菜の顔を見つめたままだったが、かすかに微笑んでいるようではあった。その証拠に、春希は愉快そうに言った。
「――そんなにテンパるなよ。お前、今日はかっこよかったのにさ、台無しだぞそれじゃ。」
「……かっこ――いい?」
 虚を突かれたかずさは、春希の方を向いた。そしてかすかに笑みを浮かべたその横顔に釘づけられた。
「――うん、コンサートの時みたいに、さ。背筋まっすぐ伸ばして、上品に、でも全然嫌味じゃない笑顔で、お客様に挨拶してくれて。子供たちが落ち込んだときには、しっかり抱っこしてくれて。ほんと、俺や家族が余裕がないところで、お前なんかに苦労かけちゃって……ごめん、本当にごめん。感謝している。」
「――あた……しは……」
家族じゃないのか、と言いかけて、かずさはその言葉を呑みこんだ。
 ――そうか、当たり前だよな……。
「いいんだよ、だから。もう無理しなくていいんだ。――かずさ。いいんだ、泣いても。」
「――!」
「今日はお前、一度も泣いてないだろう? 涙ぐんでさえいない。」
「――お前……ずっとあたしのこと、見張ってたのか? そんな暇があったら……。」
「――そんなわけないだろう。……でも時々は見てた。それに、お前、全然化粧崩れてないし。」
「……それだけの観察力があるくせにどうしてお前は――。」
女心が、とかずさは言いかけたが辛うじてこらえた。
「――だから、いいんだ。もう、いいんだ。雪菜のため……でなくていい。雪菜がいなくなって悲しい、自分のために。泣いても、いいんだ。」
「――! お前――! それじゃお前は――お前こそ!」
泣いてないじゃないか! ――とかずさは叫びだしたかったが、そこからは声にならなかった。その代わりに、今日一日全力で押さえつけていた涙腺が、一気に緩んで、涙があふれ出した。
「――いいんだ、かずさ。俺の分まで、お前が泣いてくれるから、きっと。」
「――春希、お前、お前は――!」
この卑怯者! 嘘つき! 偽善者! と全力で叫びだしたかったが、声にならなかった。言葉にする力が出なかったし、もうやすんでいる子供たちや母への配慮も、どこかではたらいていることを、かずさは冷静に感じとっていた。
 ――あたしは雪菜のかわりにはなれないし、お前のかわりにだってなれないんだぞ! 
そう叫んで春希につかみかかるかわりに、かずさは春希から目をそらし、眠る雪菜の顔を見つめながら、声を抑えて嗚咽し続けた。
 幸福な人生を不慮の事故で断ち切られた雪菜のために。彼女のいない世界にのこされた春希と、子供たちのために。そして彼女のいない世界にのこされた自分、春希と子供たちがかわいそうでならない、自分のために。

 春希のかたわらで、しずかに泣き続けたかずさだが、1時間ほど泣いてようやく落ち着いてきた。春希はあいかわらず、身じろぎもせず雪菜を見つめ続けていた。
「……さっきも言ったけど、さ――明日は、さ。」
 すすり上げながら、かずさは口を開いた。
「――うん。……。」
「柳原さんがボーカルで、雪菜のかわりに歌ってくれる。ピアノはもちろんあたしが。そうやって雪菜を送る。来てくださった皆さんと一緒に、雪菜を送る。」
「――うん。ありがとう。……俺も――。」
「――大丈夫か? できるか? ギターなしのバージョンも、あたしならできるぞ。いや、なんだったらピアノじゃなく、あたしがギターを――お前の」
かわりに、と言いかけてかずさは軽く苦笑した。
「大丈夫だ。――そこまで卑怯者じゃないさ、おれも。」
「――! もう、言うなぁ! ――「時の魔法」で、いいよな?」
「――うん……頼む。」

 なあ、雪菜。
 お前の、言ったとおりだった。
 お前がいなくなって、とてもつらい。世界が急にまるごとひとつの色を失ったかのようだ。お前の顔が見られなくてつらい。おしゃべりできなくてつらい。抱きしめられなくてつらい。でもそれ以上に、お前を失った春希を見るのがつらい。側にいるのがつらい。
 ――それでも……世界は終わらない。あたしも、春希も、ちびちゃんたちもまだ、ここにいる。そして、笑うことだってできる。
 だからこそ、つらいんだけれど。



[31326] アラサー3人の家呑み【WHITE ALBUM2雪菜trueアフター「雪菜のいない日々」】
Name: RCL/i8QS0◆17a7a866 ID:129b0297
Date: 2012/02/01 19:12
「通夜」の大体1年後くらいです。
========================================

「難しいもんだな……。」
 ビールのグラスを下ろして武也がひとりごちた。
「うん? 何が?」
 依緒が問い返した。
「いやなに、あの二人のことだよ。……春希と、冬馬。」
 飯塚家のリビングで、座卓を囲んでいたのは武也と依緒の飯塚夫妻と、後輩の柳原朋だった。
 学生時代の延長で、機会さえあれば杯を交わし、わいわい騒いでいた仲間たち――かつては末次界隈の居酒屋がホームグラウンドだったが、皆社会人となり、そして家庭人となるにつれ、若者向けの居酒屋からは自然と足が遠のいた。それよりはそれぞれの家に互いを招き、ホームパーティーとしゃれ込む――いつの間にやら彼らの選択は、そこに落ち着いていった。そこにはもちろん、仲間内にメディアでの露出が激しい有名人――キー局アナでスポーツ紙や写真週刊誌をにぎわす柳原朋と、気鋭の美人ピアニスト、冬馬かずさが混じっている、という要因も強くはたらいていた。
 しかし今日の集まりには、当の冬馬かずさはいない。そしてまた、いつも彼らの中心にいた、北原春希と雪菜のカップルもいなかった。

 十余年来の仲間である北原雪菜が、不慮の事故で世を去ってから、もうそろそろ1年になる。むろん夫の春希、そして二人のもっとも近しい友人であったかずさも健在である。だがこの夜の集まりには春希もかずさも、顔を出してはいなかった。
 だからこそ武也は、酔いの勢いも手伝って、ついついこんな話題を切り出してしまうのだった。
「難しいよ……。」
 武也は繰り返すと、かぶりを振った。
「だから何がよ?」
 依緒はいつも通り、わざと物わかり悪く問い返した。いい加減酔いが回ってきたらしい二人を、唯一のゲストである朋はウーロン茶のグラス越しに見つめていた。少しばかり意地の悪い笑みを浮かべつつ。
「あの二人は想い合ってる。今ではお互いがお互いにとって一番大切な存在だ。あの二人はくっつくのが自然なんだよ。」
「ハイハイそれで?」
「なのにその自然な成り行きをたどるということがこんなに難しいなんて!」
 武也はガン! とグラスを卓に叩きつけた。といっても割れない程度に、酒がこぼれない程度に。
「……っ!」
 依緒は目をむいたが、無言を通した。グラスのビールがちょっとでもこぼれていれば、怒鳴りつけてやったものを。少しだけ口惜しかった。
 夫の――武也の言いたいことはわかる。わかるが、その虫のよさも今の自分にはわかってしまう。口を開いてそれを指摘すれば、喧嘩になってしまうだろう。「喧嘩するほど仲がいい」のが自分たち夫婦だと承知してはいるものの、それでもわかっていて、好き好んでするものではない。特に酒が入っていて、客もいる今。隣の部屋で小さな子供がすやすやと眠っている今は。
 その客――柳原朋はいよいよ意地の悪い笑顔で二人をねめ回して、言った。
「飯塚さん――いえ武也さん、ちょっと焦りすぎじゃないですか? まだたったの1年、言ってみれば喪が明けたばかりなんですよ? そんなに二人ともがつがつしてるわけじゃないんですよきっと。」
「ああ?」
「そもそもが気の長い人たちじゃないですか。北原さん――春希さんが雪菜を振り回して引っ掻き回したのって、3年間でしょう? それに何より冬馬さんなんて、5年も春希さんのこと、たった一人で引きずってたんですよ? それに比べればどうってことないじゃないですか、こんなの。」
 当の本人たちがいないこともあってか、今日の朋はいつもにもましてあけすけで、毒舌だった。
 ――それでも、一番きつい一言は、言わないでくれてるよね……。
 依緒は心の中で朋に頭を下げた。実際朋の言うことももっともであるし、そもそも10年以上腐れ縁を引きずった自分たちが、あれこれ言えるはずは本当はないのだ。

 ――と、ところが。
「――ま、実は雪菜の後釜に入るのは、実はこの私なんですけどね……って言ったら、どうします?」
と朋が爆弾を落とした。
「――!?」
「……なッ!」
 狼狽し、激昂して腰を浮かせた飯塚夫妻に、しかし朋は涼しい顔だった。
「ふふふ、あわてないでくださいよう。後釜ってのは、あれです。「冬馬かずさの〈親子のための〉ピアノコンサート」の司会を、私が引き継ぐってことです。雪菜の後をついで、私が「うたのおねえさん」をやるんです。」
 ドヤ顔で胸を張る朋に、武也が詰め寄った。
「本当か? ――ていうか、再開するのか! あいつら、やる気になったのか!」
「もちろんですよ。あの二人にはもともと、やめる気なんかさらさらなかったんです。ただ、今後どうするかでなかなか決めかねていただけ。それでも、あんまり愚図愚図してたもんだから、雪菜の元マネージャーとしましては、さすがに堪忍袋の緒が切れて、怒鳴り込んでやったんです。そしたら、いろいろ相談してるうちに、私も参加するっていうことになっちゃいました。」
「……そうか……そっかー。よかったあ。」
 武也は再び、ぺたんと座り込んだ。
「――そうか……結局、今度もあんたが、動かしたんだね。春希の奴を。」
 依緒も安堵のため息を漏らす。しかし朋はそこでもまだ止まらなかった。
「違いますよ。――「今度も」じゃありません。前とは違います。」
 気が付くと朋は真顔になっていた。
「依緒さんが言いたいことは、こういうことでしょう? ――雪菜がまた歌いだしたのは、そして北原さんと結ばれることになったのは、お二人の励ましがあったからじゃなくて、私の悪意あるいたずらがあったからこそだ、って。そして今回も、私の無遠慮で暴力的な突込みがあったから、北原さんと冬馬さんは動き出せたんだって。」
「朋……。」
「前者については否定しません。あの時あの二人に必要だったのは、肉親や友人の善意とか理解とかじゃなくて、外側からの暴力だったってこと。――まああたしはそこまで親切だったわけじゃ、ないんですけど。」
「――。」
「お二人は結局、あの二人に優しすぎた。甘すぎた。だから雪菜の抱える一番の問題、北原さんよりもずっと大きな問題、歌の封印に気付くことさえできなかった。あの二人の気持ちなんかどうでもよかった私の方が、それに気付けた。これって笑えますね。」
 久しぶりに朋は容赦なかった。だが、依緒はもちろんのこと、武也も黙って聞いていた。
「――でも、でもね。今回は違うんです。……今の私はもう、ここにはいない雪菜はもちろんのこと、北原さんに対しても、冬馬さんに対しても――あの時の雪菜と北原さんに対してのようには接することができない。あの時のあなた方お二人に近いんです。……どうも甘やかしちゃうんですよ。弱ったなあ……。」
 そう言って朋はかぶりを振り、ウーロン茶のグラスを空けた。
「あたしもお二人のことを言えないな。ほんと。でも、でもね、あの二人が一緒に動き出せば、きっとそのうち何かがある、と思うんです。外から何かが、隕石でもなんでもいいから降ってきて、二人の世界を揺り動かしてくれるんじゃないか、って。」
「隕石……?」
「そう、隕石とか、とにかく何でもいい。否応なしに走り出さなきゃならないような状況――ねえ、武也さん、依緒さん。お二人は、雪菜の、なんていうのかなあ、「本質」ってなんだったと思います?」
「本……質?」
 藪から棒に朋の口から出てきた言葉に、飯塚夫妻はきょとんとした。
「ううん、なんか変な言い方になっちゃったなあ。つまりね、雪菜はね、ただただ北原さんのことが好きで、愛してて、大切にしてて、ってだけの女じゃなかったってことです。ちびちゃんたちの母親だってことを抜きにしても。きっと雪菜は、たとえばあの時冬馬さんに北原さんを盗られちゃったとしても、つぶれちゃったりはしなかったと思う。落ち込んで、散々泣いて、何日も寝込んだかもしれない。でもきっとまた立ち上がって、歌い始めたと思うんです。北原さんのためにじゃない、他の誰のためでもない、自分のために。」
「……。」
「でね、冬馬さんの「本質」はやっぱりピアノ。――まあこれはさる人の受け売りなんですけれど。あの人は何をしても、何を思っても、何を経験しても、最終的にはそれが全部ピアノに跳ね返ってくる人なんですって。じゃあ……北原さん――春希さんの「本質」って、なんだと思います?」
「…………仕事?」
 しばらく考えてからこぼした依緒に、夫の武也は
「馬鹿かお前。」
と身もふたもなく切り返した。
「――っ! じゃあなんだってのよ!?」
 武也は酔いで濁った眼を精一杯見開き、ゆっくりとしゃべり始めた。
「もちろんあいつは、「社畜」って皮肉りたくなるほどの仕事の虫で、サラリーマンとして有能だ。今やってる仕事は編集で企画立てたり文章書いたりだけど、あいつなら経理でそろばん弾いても、営業やっても、トップを張れるだろう。人並み以上に稼いでくれる奥さんがいりゃ、専業主夫だってばっちりこなすだろうさ。――でもそういうのは違う。人から言われたこと、人に頼まれたことを一所懸命、誠実に確実にこなす、っていうのは、立派なことだけど、なんか違う。」
「で、でもさ、あいつさ、付属のころから、そうやって周囲のみんなのために身を粉にしてたじゃん? そういうところ、ずっと変わってないじゃん?」
「――もしそれがあいつの「本質」だっていうんなら、それは「あいつには自分ってものがない」ってことになっちまう……。」
「武也、あんた……。」
 武也はかぶりを振った。どうやら酔いは醒めてきたらしい。
「誤解すんな依緒。俺は何も、春希がそういう「空っぽの人間」だって言いたいわけじゃない。本当にそうだったら、雪菜ちゃんと冬馬の間であんなに苦しんだりしない。あいつが本当にそういう意味で「空っぽ」の聖人君子だったら、誰も好きになったりせず、坊さんになるか政治家でも目指してるさ。」
 真剣な顔つきで聞き入っていた朋がうなずいた。
「そうですよね。絶対あの人にも、何かあるはずなんです。でもそれがなんなのか、ひょっとしたら自分でもわかってないんじゃないかなあの人。だから他人に振り回されちゃうんじゃないか。でも、人並み外れて有能だから、大概の場合はそれでも何とかなる、というか、振り回す相手のために良かれと何でもしてあげて、それで丸く収まる。でも、恋愛の場合には、それじゃだめなんです。だからあの人の周りは、これまでこんなにもめてきたんですよ……。」
「語るねあんた。」
 依緒が茶化すように言ったが、目は笑っていなかった。
「男と女の間のことでしたら、この中じゃ私がきっと一番よくよくわかってますよ?」
 朋がいつもの意地悪な笑いに戻った。この顔にほっとさせられた自分が、依緒は悔しかった。
「今まではそんな感じだったけど、北原さんもいい加減、そういう自分の問題、わかってると思うんです。そこん所を解決しないと、先に進めないんじゃないかな……なあんてね? おかわり、いただけます?」
 朋はウーロン茶を一気にあおり、空になったグラスを振った。
「あいよ。ウーロンでいい?」
「ワインをください。1杯だけ。」



[31326] はじめての夕食当番【WHITE ALBUM2雪菜trueアフター「雪菜のいない日々」】
Name: RCL/i8QS0◆17a7a866 ID:129b0297
Date: 2012/11/21 18:54
「家呑み」と同じころの出来事。季節的には晩秋かと。

========================================

 冬馬かずさはテンパっていた。

 ケチのつき始めは、定例の電話を、今日に限って入れ損ねたことからか。それとも、そもそも電話し損ねる結果を生み出した、自主練習の不調と延長のせいか。あるいは、練習中はスタジオに引きこもるのはもちろん、スタジオ外においた携帯の電源さえ切ってしまうという、己の貧乏性が悪いのか。電源さえつけておけば、自分が取らずとも母親かあるいは通いのナースかハウスキーパーが取ってくれた可能性もあったのだが。
 とやかく言っても仕方がない。いつもより30分長引いた自主練習を無理やり切り上げ、冬馬かずさは母とハウスキーパーへのあいさつもそこそこに、そして定例の電話を入れる余裕もなく、愛車のBMWに飛び乗った。そしていつにもまして華麗なハンドルさばきで住宅街を突っ切り、タイムカードの打刻に定刻30秒前のぎりぎりで成功した。
「すみません、おそくなりました、北原の代理の者でーす!」
「はーいご苦労様でーす。春華ちゃん、雪音ちゃん、お迎えですよー! 今日はかずさおばちゃんだよー。」
 保育士の先生がにっこりと呼ばわると、プレイルームの奥から二つの塊が突進してきた。
「おばちゃーん!」
「かずちゃーん!」
 かずさは飛び込んでくるちびたちをしゃがんで受け止めようとした。しかし二つの塊のうち大きな方、姉の春華はかずさの1メートル手前でいきなりジャンプし、そのままかずさの顔面に飛びついた。そして一拍遅れて妹の雪音が、バランスを崩したかずさのまたぐらに飛び込んできた。
「うわあああっっ!」
 必然的にかずさは後ろに倒れこむ羽目となった。おまけに齢のわりには大柄な春華に顔に飛びつかれたものだから、外出用の伊達眼鏡もふっとばされてしまった。しかし春華は委細構わずかずさの頭にすりすりし、アップにした髪をくしゃくしゃにした。
「おばちゃん、おばちゃん!」
「かずちゃん、かずちゃん!」
「う、ううわわわわ、わかった、わかったから春華、放してくれ、そこからどいてくれ!」
「やだあ!」
「やだあ!」
 ケタケタ笑いながら拒否する春華に、お腹の上の雪音も唱和した。
 悪戦苦闘するかずさを助けてくれる人は、もちろん誰もいなかった。いつもながら定刻前後の保育園というものは、先生も保護者もみんな忙しいのである。

 二人を落ち着かせ、着替えさせ、お荷物をまとめ、連絡事項を確認して保育園を引き上げるまで、結構な時間がかかった。ようようのことで二人を後部座席のチャイルドシートに落ち着かせ、自分はドライバーズシートにたどりついたかずさは、そこでようやく気付いた。
 ――まずい。小木曽のお母さんに、いつもの電話を入れてなかった。
 あわてて携帯を取り出し、雪菜の母をコール――しようとしてかずさは、そこで初めて、携帯の電源を切ったままだったことに気が付いた。あわてて電源を入れて画面が明るくなると、そこには「留守電」サインが赤々と灯っていた。

 1信目。
「冬馬さん……小木曽です。ごめんなさい、私今日、風邪をひいて熱を出してしまって……季節柄、インフルエンザかもしれないので、おちびちゃんたちにうつすわけにはいかないし、今日は行けません。代わりに孝宏をやりますから、お夕飯はそちらにまかせておいてください。――ただ、孝宏の方も少し遅くなってしまうかも……。春希さんにもお電話しておきましたから、予定よりは早く出張先から戻ってくださるはずです。」
「うっわー……。お母さん……。」
 ――大丈夫だ、孝宏君が来てくれれば何とかなる。少なくともあたしよりはましなはずだ。そう自分に言い聞かせてかずさは、次のボタンを押した。
 2信目。
「冬馬さん? 小木曽の孝宏です。先ほど母さんから連絡ありましたよね。それでですね、大変申し訳ないんですけど、ぼくの方で、勤務先の研究室でちょっと事故が発生しまして……いや、怪我人とかは出てないんですけど、後始末とか警察消防とかの事情聴取がありまして――本当に申し訳ない! できるだけ急ぎますけど、具体的に何時になるかは……とりあえずこちらで義兄さんにも連絡しときますので、よろしくお願いします。」
「――っっ?」
 まじかよ……「マーフィーの法則」という文字が頭にちらついたが、かぶりを振って最後の望みをつなぐ。
 3信目。
「かずさ? 俺だ。春希だ。お義母さんや孝宏君から聞いたと思う。俺はすぐにこっちで事情を説明して、新幹線に飛び乗る。何とか9時くらいにはそっちにつけると思う。もし何だったら、夕飯は外食にしてくれてもいいし、インスタント食品とか、パンとか果物の類で済ませちゃっても構わない。お風呂も今日はいいから。とにかく、無理はしないでいい。いや、するな。本当に、いつもいつもすまないが、よろしく頼む。」
「あっちゃー……。」
 絵に描いたようにアレな状況に、どっぷりはまってしまった。
 彼女の手元にあるのは、預かっている北原家の合鍵だけである。

 春希が言ったように、ここで素直に外食にしておけばよかったのだ。グッディーズあたりに連れ出して、お子様用メニューをあてがい、デザートになめらかプリンでもつければ、子供たちはむしろ大喜びだったろう。
 しかし今日のかずさはテンパっていた。だから、後部座席から
「どうしたのかずさおばちゃん?」
と問いかけてきた春華に、にっこり笑って、
「ごめんな、今日おばあちゃん、ご病気で来られないんだって。だから今日の夕ご飯は、おばちゃんがつくってやる。――カレーでいいよな?」
と答えてしまったのである。

 結婚、そして雪菜の出産後も、ずっと共稼ぎを続けていた春希と雪菜の北原夫妻は、小さな二人の子供を近所の保育園に預けていた。幸い雪菜の実家小木曽家は、夫妻の新居のマンションからは「スープの冷めない距離」にあり、孫たちを目に入れても痛くないほど溺愛する雪菜の母は、二人がとりわけ忙しいときには送り迎えや夕飯に尽力してくれていた。
 しかし当然ながら雪菜亡きあと、春希と小木曽家の負担は増えていた。三十を過ぎて、管理的業務が増えたうえに、自分の手を動かす現業の負担も減らない春希の忙しさはおそらく今がピークであり、子供たちの世話のために早く帰っても、子供らを寝かしつけた後で徹夜で持ち帰った仕事をこなすこともたびたびだった。
「――あの年増のいかず後家、もっと部下の家庭事情に配慮してくれないと困る……!」
 ある時ふと漏らした、自分を棚に上げたかずさの暴言に、春希はさすがに苦笑して、
「お前それセクハラだぞ……ともかく、麻理さんは十分に配慮してくれている。それでも抱え込んでしまう俺の問題だよ。」
と上司の風岡女史をかばったものである。
 そうなれば、同じ沿線に居を構え、雪菜が健在の頃からずっと互いの住まいを行き来していたかずさ、特にちびたちが生まれてからは、週に1、2回は訪れてピアノを弾いてやり、雪菜と一緒にお歌を歌ってやり、取っ組み合って転げまわってやっていたかずさが、もう一歩踏み込んで一肌脱いでやろう、となるのは当たり前のことであった。
 ――問題はかずさが、家事全般について人並み外れて無能だったことである……。

 ――問題は、だ。
 北原家の台所で、かずさは頭の中でやるべきことを整理していた。
 いつもならこの時間は、うまくいっていれば雪菜の母が作ってくれた夕飯をみんなで囲んでいるか、まずくとも、雪菜の母が台所で夕飯の用意をしている間に、子供たちと遊んでやっているか、あるいはお風呂に入れてやっているかのどちらかであるはずだった。
 かずさの北原家での仕事は、当面は週に2、3回、春希の代わりに子どもたちを保育園にお迎えに行って、家まで送り届けること、そして春希が帰ってくるまで子供らの相手をすること、である。(下の雪音はピアノに興味を示しつつあるが、まだレッスンを云々することもあるまい、とかずさは自分なりの教育的判断を下していた。)そのためかずさは、起床時間を朝5時に繰り上げ、夕方5時には練習を切り上げるようにしていた。
 肝心要の夕飯は、さすがにかずさには荷が重かった。そこで「スープの冷めない距離」にいる雪菜の母が、ほとんど毎日夕飯を作りに来るか、あるいは作ったおかずを届けてくれるか、のどちらかだった。(かずさも米のとぎ方くらいは覚えた。)
 しかしながら今夜はそうもいかない。子どもたちの夕食がどうなるかは、かずさの双肩にかかっていた。もちろん、夕飯を作りながら子供たちの相手をする、などという超人的な真似は、雪菜ならぬこの身にできようはずもない。(実際には雪菜にだってそれほどできていたはずはないのだが、かずさの視点からすればそうなる。)
 というわけで、大変心苦しいのだが、かずさは春希と雪菜の教育方針(テレビはなるべく見せない)をあえて破り、ちびたちに(春希と雪菜認定の)アニメDVDを見せておき、その間に夕飯を何とかすることにした。
 問題は、その夕飯をどうやって作るか、である。

 ――問題は、だ。あたしには味付けができないということだ。
 いつだったか春希の奴が「この世で最も手先が器用な人間の一人であるはずのおまえが、どうしてこんなに云々」と無礼千万なことをぬかしやがったことがあるが、あたしや母さんが料理が苦手――というよりできない理由は、手先や指先の問題なんかではない。
 言っちゃあ悪いが、あたしの手は、あたしの指はこの世界でもトップクラスの精密機械であり、あたしはそれを意のままに動かす訓練を日夜怠らない。そして手先の器用さがものをいう仕事であれば、ある程度の訓練さえ積めば、あたしはなんだってこなせる自信がある。
 昔のあたしが、何にもできなくて春希や雪菜や母さんにいろいろ迷惑をかけたのは、あたしが根性なしで臆病者の甘えっこだったからであって、あたしが不器用だったからじゃない。今のあたしは、車の運転は誰にもひけはとらない(そんなことはあのクリスマスの温泉旅行でわかっていたことだ)し、母さんのケアプランだって、みんなと相談しながらではあるが何とかやりくりしている。事務所全体のマネジメントはまだまだだが、コンサートやCD収録の取り回しといった個別事項については、少しずつ分かってきた。
 だからあたし(と母さん)が料理が苦手である理由は、手先の器用さの問題ではない。段取りの悪さのせいでもない。刃物を扱うことも、火加減を見ることも、タイミングを計ることも、本気になったあたしの不得手であるはずはない。結局問題は、あたしがどうやら世間標準から言えば相当ひどい味音痴である(らしい)、ということだ。あたしの舌と鼻は、少なくとも食べ物に関しては、ひどく偏ったはたらきしかしてくれない(らしい)。
 そんなあたしでもなんとかなる料理がある。それこそ、昔春希がよく作ってくれた「男の料理」の真骨頂たる鍋物であり、日本の子供が最初にその作り方を覚える料理(要調査)にして近代日本文明の精華、日本式のカレーである。出来合いのカレールーを放り込めば、あとは味付けの必要なんかない。肉や野菜とぐつぐつ煮込めばそれで終わり。阿呆にだってできる。いつ何を入れるかという順番や、どれくらい煮込めばいいかといったことは、ルーの箱に書いてあるから、知らなくても問題ない。
 そして、日本の子供は大体においてカレーが大好きだ。北原家のちびたちも例外ではない。二人の通う保育園には毎週必ず「カレーの日」があって、みんなそれを楽しみにしていることは、かずさも知っていた。

 ――カレーなら何とかなる。

 かずさのその判断は、それなりに正しかったとはいえる。しかしだとしても、なぜ帰りにスーパーかコンビニで、日本科学技術の粋であるレトルトカレーを買おうとはしなかったのか。いやそもそも、春希の許可が出ていたのに、外食しようとは思わなかったのか。
 やはりこの日かずさは、明らかにテンパっていた。そしてその結果は、しかるべきところに行き着いてしまうのである。

 もちろん現存人類の中でもトップクラスの精妙な指先を誇る美人ピアニスト冬馬かずさのことだから、しかるべき訓練を受けさえすれば華麗な包丁さばきを見せるであろうことは間違いない。しかるべき訓練を受けさえすれば。で、果たして、彼女はしかるべき訓練を受けていたか? 
 過保護な彼女の母、曜子は、彼女に料理を教えるどころか(自分もろくにできないんだからしようがないともいえるが)、ろくに刃物さえ持たせようとはしなかった。今でさえ、見舞いに来てリンゴを剥いてやろうとする彼女の手から、問答無用でリンゴとナイフを取り上げ、ぎごちない手つきで自分で剥いてしまう母親に、いったい何が期待できるというのか? 
 そんな母親の影響のせいで彼女自身も、学校の家庭科の調理実習は手抜きとずる休みでやり過ごしてきた。もちろん趣味で料理をすることもなかった。
 つまり彼女には、徹底的に訓練が欠けていて、これがぶっつけ本番だったのである。結果は推して知るべし。
 カレールーの箱には、「乱切りにした野菜と肉・魚介類を炒める」とは書いてあっても、「乱切り」とは何かまでは普通は書いてない。まあ大体の日本語を使える人間は、「乱切り」と言われればなんとなく正解にたどり着ける。かずさもそうだった。実際カレーを食べたことがあれば、あんな風に切ればいいんだ、とわかる。
 しかし「あんな風」とはあくまでも結果として野菜が「あんな風」になっている状態のことであって、刃物をどう使えば「あんな風」な結果が生まれるのかという過程、手順は全く別の問題だ。(それならば、今どきのスーパーならどこでも売っているであろう、カレー用のカット済み野菜セットを買えばいいのに、という意見もあるかもしれないが、そんなものの存在自体彼女は知らない。)
 開始10分でそのことに思い至ったかずさの成長を、まずは褒めてやるべきだろう。とにかく彼女は最初の10分間、どうすればうまくジャガイモの皮がむけるのか、懸命に試行錯誤していた。しかしどうにか結果が得られる前に、それは起こるべくして起こった。
「――っ、痛ーーっ! ……。」
 ぐらぐら頼りなく揺れる彼女の右手の包丁が、剥きとられたジャガイモの皮とともにするっと滑り、ジャガイモを握る左手親指の横腹に切り込んだのである。むろんおっかなびっくりで握りこまれた包丁のことであるから、大して深く切れたわけではない。翌日の練習にも差し支えはないだろう程度のかすり傷である。それでもれっきとした切り傷には違いない。痛みと、出血への戸惑いに思わずかずさは声を上げた。
 するとその声に
「なに? おばちゃん、だいじょうぶ?」
とリビングから春華が駆け込んできた。遅れて雪音も、
「おねえちゃん、かずちゃん!」
と台所に飛び込んできた。

「おばちゃん、だからね、ジャガイモやニンジンのかわをむくときは、このピーラーをつかうと、じょうずにできるんだよ。」
「……うん。」
「それでね、ほうちょうをつかうときはね、こうやって、ひだりてはまんまるねこちゃんにするんだよ。」
「……うん。こうかな。」
「うんうん、じょうずじょうず! ――たまねぎはそれくらいでいいよ、おはながつーんとしちゃうでしょ?」
 ――と結果こんな風に、かずさは姉娘、保育園の年長さんの春華の手取り足取りの指導の下、懸命にカレーに取り組んでいた。春華は踏み台を持ってきてかずさの横に立ち、自分も「左手はネコの手ニャン」の子ども用包丁を手にかずさを手伝っていた。
 ちなみに妹の雪音は、二人の後ろで「がんばれっ、がんばれっ!」とお気に入りのアン×ンマンと一緒にエールを送っていた。
「ねっ、かんたんでしょ? だからほうちょうをつかうときはきをつけてね。おばちゃんのてはせかいいちのてなんだからね。」
「――うっ……。」
「どうしたのおばちゃん?」
「……何でもない。玉ねぎが目に沁みた。――さっ、できた。じゃあお肉と一緒に炒めるよ。どうしたらいいのかな? 春華せんせい、かずさおばちゃんに教えてくーださい。」
「はーい。じゃあね、いつもおとまりほいくのときにえんちょうせんせいがやってるように、たまねぎとおにくからいきまーす……。」
 二人で協力してのカレーの完成までには、大体1時間半ほどかかった。春華はともかく、雪音もお腹がペコペコだったろうに、ハイテンションで応援を続けてくれた。その間リビングでは、もちろんテレビがつけっぱなしで、ジ×リの名作長編アニメはとっくに終わってしまっていた。

 ようようのことで春希が出張先から我が家に帰り着いたときには、時計の針は10時を回っていた。いつもであれば、子供たちはもう床に就いている時間である。マンションの玄関口にたどり着いてみると、リビングからの明かりが漏れていたが、特に物音はなく静まり返っている。子どもたちを寝かしつけたかずさが、一人でくつろいでいるのだろうか? 
 しかし10分ほど前に義弟の孝宏から届いた電話によれば、玄関口でチャイムを鳴らしても、誰でも出てこなかったらしい。自分は合鍵を持っていないから中に入れない、もうやすんでいるとしたら、起こすのもはばかられるしどうしようか……と聞いてきた孝宏には、自分がもうすぐ着くから帰ってよい、と言っておいた。たぶん孝宏とは帰路に鉢合わせするだろう、と予想していたのだが、どういうわけかすれ違ってしまったようだ。
 一息をついて、どのような惨状にも目を背けまいと覚悟を決め、春希はドアの鍵を開け、「ただいま」と小声で挨拶して中に入った。
 ――リビングは何というか、中途半端に片付いていた。食卓の上にも食器はない。しかし何だか小汚い。布巾をつかってないのだろう。おもちゃもちらかってはいない。
 ――台所も同様。流しにはカレーを食べた後の皿とシルバーが、まだ洗わないままに置きっぱなし。コンロの上にはカレーの入った鍋が、ふたを開けたままでのっていた。
 ――風呂は――使った形跡なし。
 となればいよいよ子供部屋である。春希は意を決して、子供部屋のドアをゆっくりとあけた。
 ルームライトの鈍い明りの向こうに、子供たちのベッドがある。一つのベッドを姉妹二人で使っている。二人とも大きくなってきて、そろそろ二段ベッドを導入しようと思っていたのだが、雪菜が亡くなってから軽く赤ちゃん返りして、甘えん坊になった雪音がいやがるので、そのままになってしまっている。
 こんな風に遅い時間に帰ってきたときには、以前は雪菜が、そして最近ではかずさが、ベッドの脇、散らばる絵本の中で、二人の枕元に寄り添って居眠りをしていることがしばしばだった。今日もそんなところだろう。どうやら無理やり夕ご飯を自力で作って、くたくたになったんだろう。
 ――ところが今日はちょっと様子が違った。かずさは確かに子供たち二人と一緒にいて、眠っていた。ただし枕元にではない。狭いシングルの、というより子ども用のベッドに、子供たちと一緒にぎゅうぎゅう詰めになっていた。ベッドからはみ出た右手の下には、春華お気に入りのビネッテ・シュレーダーの絵本が落ちていた。
 眠るかずさの頬にはうっすらと涙の跡があったが、唇は軽く笑みを浮かべていた。
 ――これでは起こせない。今日何があったか話を聞いて、丁寧に礼を言って、お土産のスイーツとコーヒーを振舞ってやる予定だったのに……。
 春希はため息をついた。とりあえず、曜子さんには電話を入れておかなければならない。

 なあ、春希――。
 今日は大変だった。
 あたしが、悪いんだけどな。自分で夕飯を作ってやろうなんて、考えたのがまずかったんだ。それについては言い訳しない。
 なんでそんなことしたんだ、って?
 よく、わからない。とにかく、なんでかわからないけど、あたしがやらなきゃ、って思い込んでしまったんだ。でも、その結果、ちびたちに迷惑をかけた。
 しかし、子供ってすごいな。
 ――あたしは、勘違いをしてた。
 日本に戻ってから、雪菜に救われてから、あたしは、自分さえその気になれば、何でもできる、って思ってたんだ。
 でも、違ってた。
 その気になっても、子供みたいに謙虚な気持ちがなければ、ダメなんだって。
 あたしは今日、ちびたちを助けてやろうと思った。でも、反対に、ちびたちに助けてもらったよ。
 お前、知ってたか? お前の――雪菜の子どもたちは、すごいって。
 それとも、子供ってみんな、こんなにすごいのか?
 子供の頃のあたしも、そうだったのか? 
 ――なあ、春希。



[31326] 女優(前篇)【WHITE ALBUM2雪菜trueアフター「雪菜のいない日々」】
Name: RCL/i8QS0◆17a7a866 ID:26038740
Date: 2012/02/01 19:12
2chかずさスレのSS職人Jakobさんの「猫」からヒントを得ています。

====================================

「瀬之内晶、ですか……?」
 北原春希はかぶりを振って聞き返した。
「そう、瀬之内晶。私が日本に帰ってくる直前に、独占インタビューに成功した、あの瀬之内晶だ。久々の凱旋帰国と新作公演にあたって取材を申し込んだら、今度は向うさん、お前を御指名だよ。」
 開桜社雑誌編集部門のトップ、風岡麻理がダメ押しした。
「俺を、ですか……? 何でまた……?」
 まあ大体予想はつくが、あえて聞き返してみた。
「お前、私がやったインタビュー記事、読んでないのか?」
「え、ええ、そりゃ読みましたが……。」
「彼女の経歴、わかってるよな?」
「ええ、峰城大付属卒、峰城大文学部中退、劇団ウァトス等での活動を経て渡米、ですか……。」
「それだけで、お前に振る十分な理由になってるわけだが、そもそも向うさんが「貴社の北原春希を」と御指名だ。お前、彼女と昔接点があったんだな? ――冬馬かずさといい、よくよくお前、天才(しかも女、そのうえ飛び切りの美女)と縁があるな……。」
「――いや、そんな……そもそも俺、麻理さんの記事を読むまで、瀬之内晶のこと自体知らなかったし、あまつさえその天才女優が、おれの同窓生だったことも知りませんでしたよ!」
 3年ほど前に麻理の手になるグラフの記事を読み、写真を繰り返し見て、ようやく気が付いたのだが、それでも半信半疑――いや正直今でも信じられない。
「ほう、覚えてない、と。……前から思ってたが、お前とことん薄情でひどい男だな――その調子でいったい何人の女を泣かせてきたんだ? ここはひとつ冬馬かずさと相談して、被害者同盟でも作るか。案外、瀬之内晶も乗ってきてくれるかもしれん……。」
「麻理さん……。」
 麻理はくすっと笑って肩をすくめた。
「――冗談だ。……そんな、にやけ半分の困り顔されて、こっちとしても少し安心したよ。冬馬さんとは、仲良くやってるのか?」
「――ええ、うまくやってます。「冬馬番」としては。」
「そんなのは当たり前だ。――前にもまして、家族同然の付き合いだ、と聞いたが?」
「……え、ええ。……。」
「――おいおい口ごもるな北原。私はお前には、幸せになってもらいたいんだ。本当だぞ。――まあ、その辺のことは、これくらいにしておいてやる。本題に戻ろう。」
 どうやら最近私生活が充実してきて余裕がでてきたのか、それとも逆に開き直ったのか、このモーレツ上司は春希を弄るのが趣味になってきたらしい。そのどちらかは春希にはわからなかった。
「ともかくだ、今回のインタビューは、向うさんからの直々の逆指名で、ぜひともお前に、ということだ。確認しておくが、お前、彼女とは面識があるんだな?」
「あ、はい、大学時代のゼミ仲間でした。しかし――付属時代には交流はありません。少なくとも記憶にはない。それに俺、そもそもあいつが演劇やってるなんて知らなかったんです。あいつも一言だって言わなかった。」
――今にして思えば、いろいろと思わせぶりなことを言ってなくもなかったが。そもそもあいつ、高校は都立とか言ってなかったか? なぜ、何のために俺に嘘をついたのか? ――まあ、昔街で一度だけすれ違った時もらったプラチナチケット、多忙にかまけて行かずじまいになったことが、今にして思えば痛恨のミスだったということか。
「そうか。しかし、高校のことはともかく、大学でゼミの同窓とあらば、結構いろいろ積もる話もあるだろう。それだけでもあう価値はあるんじゃないか? ――もちろん、それ以上の客観的な成果を期待しているがな。」
「ええ、それはもちろんです。」
「よろしい。それでだ、向うさんが親切にもお前のために少しばかり資料を用意してくださっている。私的メッセージ同封、とのことなので開封してはいないがな。もちろん、それに甘えずに、お前も自分の足でいろいろ調べておけ。高校、大学時代のこと、出身劇団のこと、日本でのキャリアのこと――あまり時間はないぞ。先方が帰ってくるのは来週、そして即座に次の舞台の稽古に入るそうだからな。――何しろ今回は久々に、彼女自身がオリジナルの脚本を書きおろすそうだ。彼女の真骨頂はそこでこそ発揮されるそうだしな。」
「――わかりました。」
 ――瀬之内晶、いや、和泉千晶……。
 懐かしさと同時に、胸騒ぎが襲ってきた。

 夕刻、麻理のブリーフィングの後一仕事終えた春希は、自分のデスクで問題の資料を開封した。今日はかずさに子供たちのお迎えを頼んでいる日なので、少しばかり余裕がある。今のうちに資料とやらを瞥見しておこう、と春希は思った。
 資料、というのは2枚のDVDだった。そのうち1枚は自分も持っている。あの付属祭のステージの記録DVDだ。そこには当然あの、軽音楽同好会3人のライブ・パフォーマンスも収録されている。
 ――だからと言ってもちろん、先方が資料として指定してきたのはそれではないだろう。
 まずは信書の方を読んでみる必要がある。小封筒の表書きには、手書きでそっけなく
――開桜社 北原春希様
とだけあり、中にはホテルのレターヘッド付の便箋が1枚。やはり手書きでメッセージが書かれていた。

 前略、北原春希様――

 久しぶりだね。10年近くも音信不通だったところに、こんな突然の話でさぞ驚いたかと思います。
 駆け出し風情が逆指名なんて、大物ぶった真似をして実に申し訳ない。
 しかしこの際ですが正直に言います。まずは同封した資料をご覧ください。そのうえでまだ、私に会っても構わない、とお思いでしたら、以下までご一報ください。

                             瀬之内晶 こと 和泉千晶

 「以下」とはメールアドレスではなく、明らかに携帯の番号だった。
 一読、「らしくない」というフレーズが頭を駆け巡った。もちろん10年も会わなければ人は変わるものだ。それにしてもこの、そっけないような、それでいて妙に気を使った文面は、春希の知る彼女ではない。
 そもそもが変な話だ。インタビュー申し込みを受けたのは向こうで、許可を得るべく気を使うのはこちらのはずなのに、これではまるで逆だ。インタビューアーの逆指名というオファーを反対に仕掛けてきたことを考慮に入れても、全体として向こうが下手に出てくる、というのは腑に落ちない。
 それに何より、こんなの、あいつらしくない……。
「私に会っても構わない、とお思いでしたら」――だって? 
 ――あいつなら、自分が「会いたい」と思えばこちらの都合なんかお構いなしに、それこそ会社にだって押しかけてきそうなものだ。

 付属祭のDVDの非読み取り面には、印刷されたタイトルの脇に
「第1トラック参照のこと」
とじかにマジックで書き込みがあった。
 第1トラック、トップバッターは演劇部の公演である。もちろん自分たちは見ていない。
「和泉のやつ、演劇部にいたのか――?」
 首をひねりながらチャプター選択し、再生を始める。
「――瀬能、千晶――?」

 数十分後、春希は圧倒されていた。素人目に見ても高校、いやアマチュア演劇のレベルを逸脱したパフォーマンス。しかもそれが、主演女優自身の筆になるオリジナル脚本で、しかもひとり芝居。一人四役で変幻自在の妙技を見せるその少女――「脚本・主演 瀬能千晶」には、たしかに自分の知る和泉千晶の面影があった。よくよく見れば顔も背格好も、確かに和泉千晶とよく似ている。しかしそこから受ける印象は、いかに舞台の上の演技とはいえ、圧倒的に別物であった。
「――あいつ、なのか?」
 あいつは文学部に正式に学籍があった学生なのだから、「和泉千晶」は本名、少なくとも戸籍名ではあるはずだ。だとすればなぜ「瀬能千晶」なのか? 「瀬之内晶」と同様、一種の「芸名」なのかもしれない(だが、言われてみれば、同学年にそういう名前の生徒がいたような気もする)し、もちろん家庭の事情で苗字が変わるというのもありうる話だ。
 いや、問題はそんなことではない。別に隠すような秘密でもないはずの、「演劇人・瀬能千晶/瀬之内晶」という自分の顔――というより正体を、なぜあいつは隠していたのか? 
 その答えは、この2枚目のDVDの方にあるのだろうか? そう考えてディスクを手に取った春希は、そこにやはり手書きで書きこまれたタイトルに息を呑んだ。

――「届かない恋」

 付属祭の舞台が伝奇SFだったのに対して、こちらはいかにもありそうな、普通の若者たちのラブストーリー。ちょっとばかりトレンディドラマ風の気恥ずかしさを伴った、ロマンティックな、しかしその奥底に何もかもを吹き飛ばしそうな情念をたたえ、時折それが噴出しては、ほとんど物理的な圧力をもって見る者を圧倒する緊張感に満ちた舞台が、ひとり芝居ではないものの、二人のヒロインを主演女優一人が出ずっぱりで演じ分けるという形で展開されていた――といつもの春希なら軽くまとめていただろう。もともと演劇への素養は深くはなかったが、冬馬かずさとの仕事以降、なんとはなくに「文化担当の何でも屋」的な扱いを受けるようになって、ハイブラウなものからキャッチーなエンターテインメントまで、それなりの見聞は積んできたので、どんなものを見せられても、それなりに言語化できるだけの訓練はできていた。
 ――しかし、今度ばかりは言葉を失わざるを得なかった。
 そこに展開されていたのが、明らかに、自分たち三人の――春希と、亡き妻雪菜と、そしてかずさの物語だったからである。
 無理に第三者的に突き放してみるならば、自分たちのあの疾風怒濤の5年間も「よくある、とは言わないまでもありそうな話」なのかもしれない。そう考えてみれば「偶然の一致」もあり得ない話ではない。しかしこの舞台に限って、それはあり得なかった。――タイトルが「届かない恋」だったから。あの3人のナンバーが、全編を導くテーマソングに他ならなかったから。

 付属祭の舞台の倍以上の長尺の芝居を、息をもつかずに一気に見終わった春希は、震える手で携帯をとり、ボタンをプッシュした。呼び出し音の後に、深く落ち着いた声音で応答があった。
「――もしもし? 春希?」
「――お世話になっております。開桜社の北原と申します。――瀬之内晶様ですね?」
 わざとビジネスライクに春希は切り出した。少し間をおいて返答があった。
「はい、瀬之内です。――お電話いただいた、ということは、当方がお送りした資料を、ご覧いただけた、ということでよろしいでしょうか?」
「はい、拝見しました。――大変、感銘を受けました。――それで、インタビューの日程ですが……。」
「――ちょ、ちょっと待って! ――え、いや、お待ちください。よろしいんですか? お会いして、いただけるんですか?」
 急に相手の声の調子が上ずってきたことに、春希は軽く昏い満足を覚えた。
「――お会いするも何も、インタビューをお申込みさせいていただいたのは、当方ですよ?」
「あ? ――あー、ああ。わかった。わかりました。……いいです、もう結構です、わかりました。私としては策を弄したつもりはなく、虚心坦懐にやってきたつもりなんですが、いいです、単刀直入に申し上げます。北原さん――
 いや、春希。実はインタビューしたいのは、あたしの方なんだ。あたしが、あんたたち三人に、インタビューしたいんだ。あんたと、小木曽雪菜――いや、いまは北原雪菜か――と、そして冬馬かずさに。必要なら、こちらの事情はいくらだって説明する。怒ってるだろうけど、あたしなんかの頭でよければいくらだって下げる。でも、あんたたちに、今のあんたたち三人に、どうしても会いたいんだ。あの、付属祭の頃からの、あんたたちの一ファンとして――。」
「和泉。」
と春希は遮った。
「申し訳ないが、それはできないんだ――。雪菜は、去年亡くなった。」
「――っ。」
 電話の向こうで、息をのむ気配があった。
(続く)



[31326] 女優(中篇)【WHITE ALBUM2雪菜trueアフター「雪菜のいない日々」】
Name: RCL/i8QS0◆17a7a866 ID:26038740
Date: 2012/05/07 07:10
(承前)
 あの電話から一週間後――。

 夕刻、瀬之内晶――和泉千晶は、北原家のマンションを訪れた。冬馬かずさも合わせられる時間帯、となると、夕方以降にせざるを得なかった。仕事――というより「大人の話」になるから、子供たちのいる時間帯の自宅は避けたかったのが春希の本音だったが、「本題とは別に、どうしても雪菜に手を合わせておきたい」との晶/千晶の強い希望から、とりあえずこういうことになってしまった。
 時間をおいてくれたので、事前にかずさに事情を了解してもらい、資料に目を通してもらうことは十分にできた。とはいえ、春希は戦々恐々だった。

「了解はするが、理解はできないね――。」
 前日、子供たちが寝静まった後をみはからって、北原家を訪ったかずさは、劇甘のコーヒーをすすりながら春希に言った。
「ごもっとも……。」
「――あたしはその時日本にいなかったから、何とも言えないが……これ雪菜が見てたら、どうなってたかね?」
 いつも以上に悪い目つきで、かずさが睨んだ。
「――さあな。わからん。そもそも、その質問だが、いつの時点での話だ?」
「――なるほどな。じゃあ、質問を変えよう。お前は今回これを見て、どう思った? そして、もしリアルタイムで見ていたら、どう思っただろうな?」
「……。」
「――それを聞かせてくれたら、あたしの感想も聞かせてやる。今の時点のも、仮にリアルタイムで見ていたとしたら、という観点からのも。」
 春希は一息ついて、言った。
「――良くも悪くも、すごかった、としか言いようがない。今も、そして多分、あの時見せられていたとしても。」
「――あたしも同じだよクソッタレ。まったく悪趣味な女だ。最低最悪だ。赤の他人の心理を当て推量でここまで掘り下げたうえで、しかもそれを昇華し、浄化してやがる。――ここまでやられたら、誰だってこのクソ馬鹿な三人を愛さざるを得ないじゃないか。――そして雪菜もそう言うだろう。いや、単純に大絶賛かもしれないな。どうやらこの脚本家、大の雪菜派のようだし……ひょっとしたら、お前以上に。」
 音楽のみならず芸術や娯楽全般についての手厳しい批評家であるかずさにしてみれば、大絶賛というところであった。春希もかぶりを振った。
「――お前も、愛さざるを得ない、か?」
「――ああ、愛さざるを得ないね。雪菜――雪音はもちろん、けったくそ悪いことに、あたしがモデルの榛名までだ。あたしはあの頃のあたしが大嫌いだってのに。――ああ、和希は別だぞ。お前同様虫唾が走るね。」
「お前ついさっき「誰だってこの三人を愛さざるを得ない」って言わなかったか?」
「――幻聴だ。忘れろ。」
「それにしても、ずいぶん高い評価なんだな、お前。」
「勘違いするな――作品として高い評価を与えることと、個人として、それも勝手にモデルにされた身として、作者に対してどういう感情を抱くかは、まったく別の問題だぞ……。」
「いやまあ、それは俺も同じ――」
「違うだろお前! 嘘つくんじゃない! もうお前許してる、ってか降参してるだろこの女に!」
「――いや、そんなことは……。」
「――まあ仕方ないよな、お前マスコミだし。社畜だし。あーあ、「すまじきものは宮仕え」だよなあほんと……。」
「い、いや、気に食わないところもしっかりあるぞ。「雪音」って名前にはちょっとぞっとしたな。」
「春華に「榛名」って名前付けてたら、目も当てられなかったなお前――。」

 さて、気鋭の女優らしからぬ、学生時代のようなジャンパーコートに身を包み、手土産に老舗のミルクレープをホールで1個と、高級シャンパンを持参した晶/千晶は、案の定北原家の娘たちの心をがっちりとつかんだ。6時から9時まで、夕食を含めてたっぷり3時間子供たちにサービスした挙句、絵本を読んで寝かしつけるところまでやってのけたのは、さすがと言わざるを得なかった。
「――あーあ終わった、っと。眠ったよお嬢ちゃんたち。やれやれだあ。」
 子供部屋から引き揚げてきた晶/千晶はうーんと伸びをした。
「――ありがとう。結構早く寝たな子供たち。俺たちが寝かしつけるときは、もうちょっと時間がかかるんだけど。」
「――フン!」
 春希が晶/千晶に向けた礼の一言に、かずさは不満げに鼻を鳴らした。
「いやなに、コツってもんがあるんだよ。人の目を覚ますにも、眠くさせるにも、ね。」
「さすがは天才女優だな。」
 ミルクレープをつつきながら、かずさはとげとげしく言った。
「まあね?」
 晶/千晶は悪びれずに応え、改めて、リビングの隅にある、雪菜の写真立てに正対した。そして目をつむり手を合わせて一礼した。
「雪菜さん、本当にお久しぶり。ご挨拶が遅れて、本当に申し訳ない。お元気なうちに今一度、お会いしたかった――。」
 その身ぶりは芝居がかった、まさに「演技」ではあったが、しかし同時に、「嘘」ではない、まぎれもなく真実の弔意の表明だった。そこに込められた確かな感情に、春希も、かずさも、やや気圧された。そんな二人に晶――いや、千晶は向き直って、笑った。
「こんなことなら、もっと早く言っとくべきだったな――あたしさ、付属祭以来の、あんたたちのファンだったんだよ。飯塚君と同じクラスだったからさ、音源分けてもらって。それから、放送研に「届かない恋」売り込んだのも私。」
 ――放送研の件を別とすれば、大いにうなずける話だった。三人に対する、ほとんどストーカーじみた執着がなければ、あの舞台が成立したわけがない。しかしその気持ちを、これほどてらいなく真っ直ぐにぶつけられると、やはり驚きに似た感覚を覚えずにはいられなかった。その驚きに背中を押されて、春希もまた、素直な気持ちを口に出さざるを得なかった。
「いや、こちらこそ、お前に言い忘れていたことがあった。――ありがとう、和泉。お前のおかげであの時、おれは雪菜に再び向かい合う勇気が持てたんだ。――たとえお前が俺に付き合っていた理由が、単なる「取材」にすぎなかったんだとしても。」
「モデル料としちゃ、安すぎない?」
 千晶がいたずらっぽく言った。
「――いや、そんなことはない。」
 それに、キャンパスに流れる「届かない恋」に二人が散々苦しめられたことは確かに事実だった。しかしそれがなければ、柳原朋の暴力的介入によって、二人が再び歌に正面から向き合うこともなかっただろう。その意味でも、千晶が引いた伏線に、二人は助けられていたのだ。
「かもね。実はあたしあの頃、雪菜さんにも会ってたんだよ? 医学部の連中の魔の手から彼女を救ったのも、実はあたしだったのだ――! へへ、どう、見直した?」
「そ、それはまたどうも……。」
「おい、春希、前からわかってたことだが、いくら何でもお前お人よしすぎるぞ!」
 業を煮やしたかずさが声を荒げた。
「――すまん。」
「あーそうだねえ、冬馬さんはただネタにされただけで、何にも得してないからねえ……でもマジな話、あなた何かあたしの芝居から実害を被った? スキャンダル記事でも書きたてられた?」
「――マジむかついた。神経を逆なでされた。とてつもなく不愉快な気分にさせられた。それで充分だろ。――法的には勝てないし、そもそも時効だってことくらい、あたしでも理解してる。」
「――そっかー。たしかにあの芝居じゃ、雪音が強すぎるからなー。でもリアルでは、どっちかというとあたし、冬馬さんびいきなんだけどね――判官びいきってことで。」
「――なっ……!」
「ふふっ、からかってゴメン。――まあそろそろ冬馬さんもほぐれてきてくれたようだし、本題に入ろうか。」
 千晶が真顔になった。――そう、あの年の暮れ、最後に春希の部屋に訪れたときのように。

「ほんとに、ひとめぼれだったんだよ、あんたたちのユニットに、あたし。」
 シャンパンのグラスを振りながら、千晶は言った。
「すっごく面白かった。雪菜さんも冬馬さんも、舞台の上で春希の気を引こうと、一所懸命なんだもん。すっごいバトルだったよ――。」
 かずさはシャンパンのグラスで顔の下半分を隠していた。切れ長の瞳が、いつも以上の鋭さで千晶を睨みつけていた。
「でも、あの舞台の上では、結局冬馬さんの圧勝だったなー。だって、雪菜さんが歌ってる後ろで、二人とも何度も目配せして、イチャイチャしてるんだもの。――そもそもあの「届かない恋」って歌からして、どう考えても冬馬さんに向けての歌じゃない。それを雪菜さんに歌わせてんだから、どんだけだよ――って。」
 言葉の上辺だけをとってみれば、幼稚な男女の愚かな恋を切り刻む、低級な淫魔の嘲笑とまがうばかりである。しかし、不思議と春希は、腹が立たなかった――かずさは、肩をぶるぶるふるわせてはいたが。
「あたしってさ、舞台の下では男に惚れたことがないんだよ。ってか実際問題、今でもバージンだしね。ふふっ、いいトシしてキモいでしょ? ――まあ自虐はさておき、恋愛なんて他人がやることか、あるいはフィクションでしかないあたしにとって、あんたたちもその例に漏れない――はずだったんだけど、なんでだろうねえ、リアルでもフィクションでも、あんたたちの恋だけが、妙に引っかかったの。理由はわかんないんだけど。」
 ――お前、仮にもマスコミ相手に無防備すぎるぞ……とは春希は言わなかった。
「――舞台の上でなら、それまでにもたくさんの恋をあたしはしてきた。ただ、舞台が終われば冷めるだけ。ただそれら舞台の上での恋は、他の作家が書いてあたしに与えてくれたものか、そうでなきゃ、お話の都合上持ってくる必要がある付随的な「仕掛け」以上のもんじゃなかった。恋そのものを真正面から主題にしたホンを書いたの、あたし、今のところあれが最初で最後、なんだ。変な話、あたし、あんたたちに、あんたたちの関係そのものに、リアルに恋をしてたんだな――いや、今でもそうなんだ。」
 ここへきてかずさが、ふっと肩の力を抜いたことに、春希は気付いた。
「とは言っても、このネタ、最初の2年は、純然たる構想段階を出なかった。急速に形をとってきたのは、春希、あんたが政経から文学部に転部してきてから。あんたの実物に身近に接することができて、急速に構想が具体化してきた。だから思い切って、偽名を使って雪菜さんに接触することまで、やってのけたよ。」
「お前それ犯罪臭いぞ……。」
「ストーカーですから。」
「――それで……。」
 ずっと押し黙っていたかずさが、口を開いた。
「あれが、お前の解釈なのか――あたしたちの恋への。」
「――うーーん、解釈っていうかなー。何だろう。介入――? アプローチ? 割り込み? ――いいや違うな、うーん。」
 千晶は腕を組み、首を散々ひねった。
「なんだかんだ言ってホン書きは難航してね――いつものこととはいえ、全部上がったのはそうだな、本番の3日前だよ。特に2週間前まで難渋しててね――一気に筆が進んだのは、2月14日、バレンタインコンサートで、二人がまた歌ったのを聞いてからだよ。あれではっきり終わりが見えてね。あー、わかったー、やったー、って感じだった。それで2月28日、初日にどうにかこぎつけた。まあ根詰めすぎて、初日でぶっ倒れちゃって、その後は代役立てる羽目になったけどね。あんたたちにお見せしたのは、その貴重な初日の記録。」
「そりゃどうも。」
「ほんとはチケットをモデルの皆さん、少なくとも雪菜さんと春希にはお送りするべきだったんだけどね……とにかくド修羅場だったんで、そんな余裕なかったんだ。返す返すも申し訳ない。――うん、これは痛恨のしくじりだな。本当、一番見てもらいたかったのはあんたたちにだったんだよ。そうやって、あんたたちを応援したかった。あんたたちに、あたしの想いを伝えて、力づけたかったんだよ……。」
「――お前、それはただのひとりよがりじゃないか……わからなくは、ないけど。」
 かずさが怒ったように――というより、拗ねた感じで言った。
「おっしゃる通りです。一言もない。ちゃんとチケット送って、見てもらって、直接たたきつけなきゃ、何にもならないよねえ。怠けてました。――というより、勇気が足りなかったのかな。――それにまあ、冬馬さんはともかく、雪菜さんと春希はそのころラブラブで、力づけなんか不要だっただろうしねえ。」
 ――そう言えば千晶の芝居の初日は、ちょうど雪菜の2週間遅れのバースデーパーティーだったな……と春希は今更ながら思い出す。
「――て言うかさ、お前、人外の化け物のくせに、変に優しすぎるよ。」
とここでかずさは、実質初対面の相手に言うにはあまりにもとんでもないことを言った。
「――?」
「お前の描いた三人の中で、雪菜――雪音が一番タフで、まっすぐだ、というのはわかる。現実でも、実際その通りだった。あたしはただの臆病者で、春希は卑怯者だ。でもさ、榛名はちがうじゃないか。榛名は確かに弱虫だったけど、それでも逃げなかった。まっすぐさでは、雪音といい勝負だった。あんなのはあたしじゃない――きれいすぎるよ。」
「――違うよ。」
 強い語調で千晶は言った。
「雪菜さんの中にも、どろどろと黒いものはあった。あたしはそう思っている。そして冬馬さん、あなたの中にも、いったん噴出すれば何もかもを焼き尽くしかねない狂気が、しっかりと眠っている――。」
「――違う、あたしはそれをしっかり押さえつけている! 今だって――」
「今だって、何?」
 穏やかな気持ちで二人のやりとりを聞いていた春希の背筋が、その千晶の一言でぞわっと寒気に襲われた。
(続く)



[31326] 女優(後篇)【WHITE ALBUM2雪菜trueアフター「雪菜のいない日々」】
Name: RCL/i8QS0◆17a7a866 ID:26038740
Date: 2012/02/07 22:19
(承前)
「言うまでもないことだけど、冬馬さん、あんた今でも、春希のこと、好きなんだろう? ずっとずっと、好きだったんだろう? そうだろうなー、とは思ってたけど、今日お会いして、確信できたよ。」
「――バカな……。」
 千晶のひどく優しげな言葉に、かずさはうめいた。
「もちろんその想いは、あんたがさっき言ったように、押さえつけられている。でも、存在していないわけじゃない。
 状況証拠がそれを示している。
 凱旋公演以降、冬馬かずさは日本に活動拠点を移している。帰国時の冬馬かずさフィーバーを演出した『アンサンブル』増刊の担当は、開桜社の北原春希。ナイツレコードとタイアップした付録のミニアルバムのボーナストラックには、春希と、ナイツの小木曽――のちの北原雪菜が参加している。その後も日本でのCDは基本的に、ナイツからリリースされているし、「親子のためのコンサート」の司会は雪菜で、ナイツと開桜社がスポンサー――つまり帰国後の「冬馬かずさ」とは、つまるところ峰城大付属軽音楽同好会のことなんだ。
 ――以上はすべて、冬馬かずさの帰国に伴い、三人の友情が復活したことを意味している。では、三人の友情を壊した恋の行方は? 
 日本にいた北原春希と小木曽雪菜は、3年間の冷戦を経て、晴れて恋人同士となる。それから2年を経て、5年ぶりに冬馬かずさが二人の前に現れる。前後して凱旋公演、『アンサンブル』、ミニアルバム、冬馬かずさの大ブレイク。そしてほどなく、北原春希と小木曽雪菜は結婚し、冬馬かずさは独身のまま。――ここから推測されることは、結果的には春希と雪菜さんの絆は維持され、冬馬さんは二人を祝福できるようになり、友情は復活した……。これでいいかな?」
「――ああああまったくおっしゃる通りだよ、よく調べたもんだ。女優なんかやめて、芸能レポーターにでも商売替えしたらどうだ? ――あんたの結論の通りだよ。あたしは春希をあきらめ、二人を祝福した。結婚式でブライズメイドだって務めたし、祝婚歌を作り、ピアノだって弾いた。そしてそれ以来、家族ぐるみの付き合いを続けている――これ以上何をほじくりかえそうってんだ? お前が言ってるのは友情の状況証拠ではあっても、愛の存在証明なんかじゃない。」
 かずさは大げさに肩をすくめた。しかし千晶は続けた。
「たしかにあんたは春希をあきらめたかもしれない。でも、あきらめることと、想い続けることとは、両立しないかな?」
「――。」
「冬馬さん、あんたは春希をあきらめた。あんたが日本に、春希と雪菜さんの二人の隣にい続けたことは、それを示している。だけどね、あきらめ方にも、いろいろあるんじゃないかな?」
「――。」
「そもそもあんたが高校卒業後ウィーンに行ったんだって、一度は春希のことをあきらめたってことじゃないかな? でもあきらめたまま、幻想の中の春希への恋を、ずっと燃やし続けてきた。つまりウィーンでもあなたは、あきらめることと想うこととを両立してたんだよ。そして帰国後は、また別のあきらめ方と想い方に変わった、ってこと。
 ――何よりあんたのピアノは、あんたがずっと春希のことを想っていることを、示しているんだよ。しかもその想いは、ある意味で深まってさえいる。」
 千晶の言葉は、優しげだが容赦なかった。
「――しつこいようだけどねえ、あたしは付属祭以来のあんたたちの追っかけなんだよ。バレンタインコンサートだけじゃない。日本にいる間はSETSUNAのライブにも何度か行ったし、冬馬さんのリサイタルにも足を運んだ。あのダメダメな凱旋公演も、敗者復活の追加公演も聞いた。子供がいないから、残念ながら「〈親子のための〉コンサート」には行けなかったけど――ってありゃあたしの渡米後か。もちろん、アンサンブル増刊だって、「冬馬かずさミニアルバム」だって持ってる。それどころか、ウィーン時代のコンクールの音源だって、手に入れてるんだ。」
「そりゃまたどうも、ご熱心なことで。ピアニスト冥利に尽きるよ。」
 かずさの声は冷え込んでいたが、頓着せずに千晶は切り込んでいく。
「だからね、あたしは軽音楽同好会にも、SETSUNAにも、冬馬かずさにも一家言あるつもりだ。そのうえで言わせてもらう。
 ――聞く耳があればだれにでもわかることだが、冬馬かずさのピアノは、ウィーン時代と帰国後では、全く変わっている。あんたたちにわかりやすく言えば、ウィーン時代は「届かない恋」で、帰国以降、正確には追加公演以降は「時の魔法」だ。」
「……。」
「これはけなすつもりでいってるんじゃない。ウィーン時代の冬馬かずさは、あたしが書いて演じた榛名のほぼ延長線上にある。小さな世界で一途な恋を歌い上げる孤独の歌姫。」
「――わかった風な口をききやがって……傲慢もいいとこだな……。」
「しかし、追加公演以降、ミニアルバム以降の冬馬かずさは、わずかな間に大変な変貌を遂げている。深い喪失の哀しみと、再生への希望とが反響し合って、驚くほど深く、広い世界が姿を見せはじめる。――あたしはね、その秘密が知りたかったんだ。」
「……。」
「これは推測だが、追加公演に向けての作り込みの時期と、ミニアルバム、とりわけ「時の魔法」の制作時期とは、ほとんど重なっているだろう? となれば答えは一つ――冬馬かずさの変貌は、一にかかって、春希と雪菜との再会、「二人と一人」から「三人」への回帰によっている。」
「――。」
「だがこの変貌は、実に短期間で行われているが、決してスムーズじゃない。そこにはひと波乱あったはずなんだ。なぜなら冬馬かずさの帰国最初の公演は、ひと月後の追加公演と比べたとき、驚くべき乱調、絶不調を来していたからだ。そこからわずか1か月での復調と、しかも大きな質的変化――。」
「――もういい!」
「おっしゃりたいことはわかるよ。――人の心に土足で踏み入るな! だろ? だがここからが肝心なんだ。――冬馬かずさの大スランプの理由は不明だ。まあありがちなことだから、部外者が気にすることじゃない。しかしここであえて野次馬根性をたくましくして想像すると、以下のようなストーリーが浮かび上がってくる――つまり冬馬かずさは、帰国早々大失恋を被った、と。たった一人で瞼の王子様に向けて恋を歌っていた姫は、現実の王子によって手ひどく振られた。――ここまでは実にありがちだ。ただ、ここからがちょっと珍しい。その失恋の傷は急速に癒え、姫は生きる力を取り戻した。見様によっては以前よりたくましくなったと言えるくらいだ。不思議なのは、その傷をいやしたのが、どうやら彼女をひどい失恋に突き落とした当人――彼女をひどく振ったその当の男と、彼のハートを射止めた恋敵だったらしい、ということだ。」
「――いいじゃないかそれで、泥沼の三角関係の果てに、バカな女はついに身の程をわきまえ、潔く身を引いた、ってことで! 何しろそのバカ女が横恋慕した男と、そして何よりその彼女は、ど外れたお人よしだったから、さしものバカ女も降参したんだよ。それでいいじゃないか!」
「――もちろんそれで間違いじゃないんだけど、事態はもっとディテールに富んでいるんだよ。
 さっき、ウィーン時代のあんたは、春希を今とは違う意味であきらめていた、って言ったよねあたし。でもあれは確かに、本当の意味での「あきらめ」じゃなかった。臆病な娘が現実から目をそむけ、幻想の王国に避難しただけさ。ところがその幻想の王国が無限に広大で、その中で、何もかも焼き尽くしかねない無限の想いが発散される。そんな砂上の楼閣を、あそこまで見事に築き上げるんだから、さすがに冬馬かずさは稀代の天才だ。脱帽だよ。ただそういう芸術世界はひどく脆い――。それこそ、逃げようもない現実を突きつけられれば、あっさり揺らぐ。
 きっと、凱旋公演の惨状は、そういうことだったんじゃないかな? 
 ――でもね、追加公演以降の冬馬かずさは違う。ちょっとやそっとじゃ壊れない世界が、ゆっくりとではあるが構築され始めている。それを支えているのが、「時の魔法」の奥底にも流れている深い哀しみ、きちんと現実を前にしたうえでの、本当の意味での「あきらめ」だ。そのあきらめを教えてくれたのが、雪菜さんだったんだね?」
「――うるさい……。」
「一番大切なものは、自分の手には入らない、というあきらめ。それでも、一番大切なものが手に入れられなければ、世界は意味を失うのか、といえば決してそんなことはない――そういう、世界に対する、あきらめを伴った肯定。追加公演以降の、「時の魔法」の冬馬かずさのピアノとは、こういう世界。以前のそれが強烈な麻薬だったとすれば、いまのそれは日常の生をつなぐ普通の食事。芸術としてどっちが上等、ってことはないけど、歴然たる違いがある。
 ――ということだと思ってたんだけどね、どうやらその先があったわけだ。」
 千晶はここぞとばかりに、大仰にグラスを振った。まさに「芝居がかった」やり方で。逆説的にもそれが「真実」を告げるしるしであるとばかりに。
「一番大切なものは、あきらめられてるんだよ? だから他の、二番目とか三番目に大切なものを手に入れればいいんだ。そうやって幸せになることは、十分にできる。冬馬かずさのピアノは、それを否定してなんかいないんだよ? ――でも、でもね。冬馬かずさは、一番大切なものを、一番大切なままにし続ける――決して自分の手には入らないとあきらめて、それでもなお大事に、想い続ける……これはもはや「現実逃避としての芸術」でもなければ「生活必需品としての芸術」でもない、なんかもっとこう、変なもんだ……。」
「長々とご高説を賜り、ありがとうございました。――そこまで持ち上げていただいて、アーティスト冥利に尽きるってもんだね。」
 千晶の演説に、うつむいたままのかずさはせせら笑った。
「――実際そこまで持ち上げていただいて誠に恐縮だが、ここまでくればあんたの魂胆も見え見えだよ。――お前が今頃日本にのこのこやってきて、あたしたちに会いたいというその理由――新作「時の魔法」のための取材というわけだ!」
「――まあ、見え見えだね?」
 千晶はペロッと舌を出した。かずさは冷え冷えとした声で応えた。
「――それなら答えはわかってるだろう。あたしは一切協力しない。何を聞かれても答えない。門外不出の資料なんて、あるわけもないがあったとしてもやらない。お前みたいな人外の化け物、人の気持ちは読めても理解はできないんだろうから、やめろと言っても無駄だろう。だから「やめろ」とは言わない。勝手にするがいい。ただ法的にプライバシーの侵害になりかねないことをやらかしたら、その時は容赦しない。春希はどうするかしらないが、あたしの立場はこれだ。」
「――いやー、「取材」というならもう今ここで九分通りすんだよ。冬馬さんに直接お会いして聞くべきことは、大体もう聞いちゃった――って、あたしが一方的にしゃべり倒して、その反応を観察しただけだったけどね。失礼しました。
 というわけでね、最後に冬馬さんに、取材のお礼を兼ねて一つ。」
 ひょうひょうと笑って千晶は言う。
「冬馬さん、あえて日本に残ったあなたは、すごいと思う。本当に勇気がある。――でも、今ちょっとあなた、揺らいでないかな? あなたが大切にしていたもうひとつのもの、あなたをあんなにも苦しめ、でも救ってもくれた雪菜さんは、もういないんだよ。そして、やろうと思えばあなたは、あきらめていた一番大切なものを、春希を手に入れることが、その腕の中に抱きしめることができるんだよ?」
 ここまで気おされて黙っていた春希は、思わずかずさを見た。かずさの手はぶるぶると震えていた。
「黙れ……。」
「気持ちはわかるよ。手に入れることによって、かえってそれが損なわれてしまうんじゃないか……そんな不安があるんだよね。――ね、春希。」
 千晶が久しぶりに春希の目をまっすぐに見た。
「かずささんはこんなに苦しんでるんだよ。そりゃあんたも苦しいんだろうけどさ、苦しんでるのはあんただけじゃないんだ。あんたもちょっとは、勇気を出しなよ。もう、雪菜さんはいないんだろ。あんたたち二人で、やっていかなきゃなんないんだろ――。」
「――黙れよ。春希には、何も言うな!」
 かずさは叫ぶように言った。
「――うん、しゃべりすぎたね、あたし。いい加減遅くなったし、今日はこのくらいでお開きとしようか。――ああ春希、見送りはいいからね。表でタクシーでも拾うから。あんたの方からもっとちゃんとした「取材」をしたければ、また連絡してよ。あたし、当分はこっちにいるからさ。実家に逗留しながら、小遣い稼ぎをしつつ、ホンを書いてるよ。それじゃ、またね。」
 素早く立ち上がってコートを羽織り、千晶は出て行った。その背中にかずさは、
「二度と来るな!」
とシャンパングラスを投げつけたが、既にドアは閉まった後だった。

 最後の一言だけではない。千晶の冬馬かずさ論もまた、かずさに対してのみならず、同時に自分に向けられたものであることくらい、春希にもわかっていた。
「一番大切なもの、か……。」
 ――俺にそんな価値はない、なんてのは、逃げだよ?
 ――そしてあんたも、一度はあきらめた「一番大切なもの」に、ちゃんと向き合わなきゃならないんだよ?
 脳裏に妙にリアルに、現実には発されることのなかった千晶の声が聞こえた。
「――あいつ……こんなにとんでもない大女優だったのか――。」
 俺にそれが書けるのか? いやそれを言うなら、あいつがあそこまで高く評価する「冬馬かずさ」という芸術家のことを、俺はこれまで、どれほどきちんと書けていたのだろうか?

==========================
ここでの、つまりcc雪菜ルートでの芝居「届かない恋」は、当然に千晶ルートのいわば「完全版」とは、骨子は同じでも細部においては異なっているはずです。



[31326] ストーリーテラー(前篇)【WHITE ALBUM2雪菜trueアフター「雪菜のいない日々」】
Name: RCL/i8QS0◆17a7a866 ID:26038740
Date: 2012/02/02 19:12
「かずささん、ちょっとすいません。」
「はい、橋本さん。――何でしょう? 今日はもう終わりですが……。」
 音楽監督と打ち合わせをしていた冬馬かずさは、背後からかけられた声に振り返った。大兵肥満の影が視界の半分ほどを覆った。その男は、巨躯に似合わぬ小さな声――よく注意すればその底に、人並み外れたエネルギーが脈打つのを感じることができるとは言え――で遠慮深く切り出した。
「今日この後、開桜社の北原さんに、お会いになられますか?」
「――予定はありませんが……何かお言伝か、お届けものでもありますか? よろしければ……。」
 春希に会う口実ができたことはうれしかったが、今の彼女はそれを認めたくなかった。しかしそんな彼女の心のうちなど構わず、巨漢――橋本健二は続けた。
「――そうですか、それはありがたい。でしたらこのCDですが、北原さんのお手許に届けてください。メールでもかまわないんですが、何分大部でして……。」
 170と女性にしては上背の高いかずさでも、その顔を見るにはおとがいを上げて見上げなければならない巨躯を、申し訳なさそうに縮込めて頭をかく男のありさまに、さしもの彼女もクスリと笑った。
「わかりました、お預かりします。――お差し支えなければ、中身、教えていただけませんか?」
「ぼくの論文と、演奏のファイルです。」
「――ああ……。」
 大きな両手で「どうぞ!」と差し出された小さなディスクケースを受け取り、かずさはかぶりを振った。
「出版の話、ですか?」
 今度は巨漢――橋本の方が頭をぷるぷると振った。
「いえいえ、そんな具体的な話じゃありません――そもそも本にして売れるような代物じゃあない。『アンサンブル』の連載の方が、まだ脈がありますよ。――ただお読みになりたい、お聞きになりたい、とおっしゃっていただけです。」
「――うーん。あいつに橋本さんの研究のすごさがわかるとは、思えないんですけど……。」
と意地悪く言うかずさに、橋本は
「そんなことはありませんよ。あの方は大変な勉強家で努力家です。連載の方もとてもよくやってくださっていて、駆け出しの物書きとしては助かりますよ。――原稿料だってたくさんいただいて……。」
とあくまで腰の低さを自信をもって維持していた。
「先行投資ですよ。あいつは腹黒い奴なんです。そうやって恩に着せて、相手を身動き取れなくしてから、ゆっくりと料理にかかるんです。そのとき慌てても知りませんよ? ――ああ、なんてことだ、橋本さんのような立派な方が、あいつに食い物にされるのをみすみす見ていなければならないなんて!」
「まあまあ――あっ、それじゃ、今日ぼくはこれからバイトなんで失礼しますね。北原さんとそれから、冬馬先生――曜子先生にもよろしくお伝えください。お疲れ様でした――。」
「――お疲れ様です。あとは当日、本番までこちらにおいでになる必要はありません。ありがとうございました。」
 挨拶を返したかずさににっこりと笑って、巨漢――日本では「若手ナンバーワン」と斯界の誰しもが認めるピアニストにして、かずさの兄弟子でもある橋本健二はきびすを返し、そそくさと楽屋を出て行った。

 久々の「冬馬かずさの〈親子のための〉ピアノコンサート」の最初のリハを終えたかずさが、そのまま北原家に直行したときには、時計の針は8時を回っていた。今日は春希が早く帰ってお迎えをしているはずである。夕食も、雪菜の母が出張してきてくれていて、何の憂いもない。つまりは自分が行く必要のない日だが、橋本さんのおかげで用事ができた――以前ならそれに素直に喜べたかずさだが、今日は少しばかり心がざわついていた。
 ――わかってる。あの化け物のせいだ……。
 先週の北原家での出会いが、いまだに彼女の心を騒がせていた。
 瀬之内晶。付属時代、自分たちを物陰からじっと観察していた女。大学時代、自分の正体を隠して春希と雪菜にちょっかいを出していた女。三人の愚かで苦しい、しかしかけがえのない過去を、遠慮会釈なく解剖し、衆目の下にさらした女。
 それだけではない。今回もまた、必死に押し隠し、こらえていた自分の気持ちを、こともあろうに春希の前にさらした女。
「――空気を読めない、いや読まない奴め!」
 普段なら忌み嫌うはずの「空気」という言葉を持ち出して毒づく程度には、かずさは平常心を失っていた。
 ――あたしは相変わらず愚かな女だが、それでも、あの頃よりは少しはましになったはずだ。愚かな強がりで、相手のためではなく、自分の弱さから目を背けるために、自分を偽ったりはしない。かといって、弱さを餌に相手の心を乱すような、卑怯な真似もしない。
 あたしは自分の想いを、これ見よがしにひけらかしたりはしない。だからといって隠してもいない。それはあいつだって同じだ。あいつだってあたしの気持ちは知っている。「知っているぞ」と大声で言ったりしないだけで。
 雪菜が元気な頃から、ずっとそうだった。雪菜だって、全部わかっていた。普段は何も言わずニコニコして、折に触れてあたしを抱きしめて。そしてほんの時たま、悲しげに、詫びるような目つきであたしを見つめて。
 あたしが春希を愛していること。そして、春希があたしを愛していること。そんなことはお互いにわかっている。それどころか、周囲の誰もが知っている、わかっている。
 ――ただ二人は、お互いを愛してはいるが、愛し合ってはいない。
 そして周囲の誰もが、たぶん、あたしたちが愛し合うようになることを望んでいる。それもあたしは、そしてきっと春希もわかっている。それでも、誰も、はっきりとは何も言わない。
 わかったところで、ものごとはそう簡単ではないからだ。そのこともみんな、わかっているからだ。
 ――そんな、全部わかりきっていることを、得意げに突きつけて、あの女は、いったい何がしたかったんだ? 芝居のため? やりたきゃ、勝手にやるがいい! 
 激したあまり、つい、足元を蹴りつけそうになったかずさは、既に自分が春希たちのマンションの部屋の前まで来ていることに気付いた。自分の足元にあったのは、よりにもよって、雪音が大事にして乗っている子供用自転車だった。
「あぶないあぶない――っと。」
 かずさは深呼吸して気を落ち着け、チャイムを押した。どたどたと足音がして、インターホンから
「はーい。」
と応答があった。
「冬馬でーす。」
「はーい、待ってくださーい。」
更にドタバタ、そして子供の嬌声が響いてきた。玄関のドアが勢いよく開き、
「いらっしゃーい、おばちゃん。」
「いらっしゃい、かずちゃん!」
と、春華と雪音が出迎えてくれた。

「まあ、冬馬さん、いらっしゃい。」
「おう、どうした?」
 両脇に姉妹をぶら下げてかずさが居間に入ると、夕食はすでに終わっていたようで、後片付けをしながら雪菜の母と春希が挨拶してきた。
「お邪魔します、小木曽のお母さん。春希、今日リハで橋本さんと一緒でな。荷物を預かってきた。」
とディスクを手渡すと、春希は
「――あれかあ! ああ、リハで疲れてるだろうにありがとうわざわざ。橋本さんも、言ってくださればこちらからうかがったのに……。」
と恐縮してみせた。
「完璧なあの人が、相手に余計な苦労を掛けさせるはずはないだろう?」
とかずさは返したが、
「いや、結局お前の手を煩わせることになってるじゃないか……。」
と春希は続けた。その言葉でかずさは「あの橋本さんまでが、自分に余計な気を使った」と思い至って絶句した。「みんな」のなかに橋本健二までが入っていたとは――急にあの温顔が憎たらしくなった。
「……。」
「――どうした、かずさ?」
「なんでもない!」
吐き捨てたかずさに、雪音が
「怒っちゃやーだー、かずちゃあん。」
と甘えてきた。春華とは言えば、既に台所に駆け込んでいて、
「おばちゃん、甘い甘いミルクコーヒー作ってあげるから、待っててねー。」
と声をかけてきた。
 この状況で、怒りを持続させるのは、難しかった。
(続く)


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 若手ナンバーワンピアニスト橋本健二さんは、今回はキャラクターとしては自立せず、どっちかというと舞台装置にとどまります。多分。



[31326] ストーリーテラー(中篇)【WHITE ALBUM2雪菜trueアフター「雪菜のいない日々」】
Name: RCL/i8QS0◆17a7a866 ID:129b0297
Date: 2012/02/12 14:21
(承前)

「それにしても橋本さんという人は、すごい人だったんだな。」
「だからあたしが最初から言ってただろう、「あの人は来るぞ」って。音楽そのものについて言えば、あたしなんかまだまだかなわない。」
 娘たちが眠り、雪菜の母も引き上げた深夜の北原家は、春希の書斎。デスクの前の春希の言葉に対して、コーヒーのマグカップの向こうから、かずさがせせら笑った。
「――くやしいかな、そこんところがまだ俺にはよくわからんのだが……。」
「だからお前はセンスがないというんだ。お前がクラシックをまともに聞くようになって、優に5年にはなるだろうに。それだけあればわかるぞ普通。――というかお前、あの人のどこを指して「すごい」と……?」
 春希はパソコンのディスプレイを指した。
「橋本さんがいま用意してる、博士論文の草稿を、読ませてもらってるんだ。」
「ふーん。お前なんかにわかるのか? どう考えても「猫に小判」じゃないか。」
 かずさが憎まれ口をきいたが、春希は真剣だった。
「そうなのかも、しれない。いや実際、音楽学的なところは、そうだ。でも――」
 かずさの兄弟子であり、若手ナンバーワンピアニストの橋本健二という人には、残念ながら冬馬かずさのような派手さは全くなかった。男性である、ということもあるのだろうが、わかりやすく俗受けする要素がほとんどない。外見は武骨な大男で、風采もあまり上がらない。
 もう一つ、かずさと対照的な印象を与えるところ。感覚的で天才肌のかずさに対して、むしろ理詰めの秀才風。バランスが取れて円満な教養人で、学者肌――というより、実際に学者としての顔も持っている。
 春希が橋本健二を知ったのは、実はかずさ経由ではない。(18歳のかずさの、ピアノ生活復帰最初のコンクールでの優勝者が他ならぬ彼だったことなど、もちろん完全に忘れていた。)『アンサンブル』の先代編集長から紹介されたので、時々『グラフ』や他誌にも書評やエッセイを依頼していたのだが、これが実に読ませる。該博な知識と、やわらかい頭、そして人柄の良さが絶妙にマッチして、鋭くかつわかりやすい文章を書いてくれる。そして現在は『アンサンブル』に、ピアノを音楽史のみならず、より広いヨーロッパの社会史の中に位置づける長編エッセイを、春希の編集の下で絶賛連載中だった。音楽の魅力を、音楽そのものによってだけではなく、言葉でもって普通の人に伝えられる、稀有な存在だった。専門的な学術論文も、少数ながら国際学術誌に掲載されていて、現在はそれらを基にした学位論文を準備していた。
 そしてもう一つ、彼とかずさとの対照的なところ。いわば血統にも環境にも恵まれたサラブレッドのかずさに対して、どちらかというとつましい、クラシック音楽とも特に縁のない、一般家庭の出身者だったこと。驚くまいことか、本格的にピアノを始めて以降も、彼の実家には長らくピアノがなく、彼の才能にほれ込んだ最初の先生やその他周囲の援助に支えられていたこと。それでも、今でもその生活は決して余裕があるわけではなく、物書き稼業や大学の非常勤講師などの小銭稼ぎの仕事が欠かせないこと――。
「今の日本ではね、五本の指に入るピアニストになれれば、ようやく普通のサラリーマンと同レベルの生活が維持できるんですよ。」
 橋本さんはある時、冗談めかして春希に言った。しかしそれは冗談でもなんでもない。世界レベルの大スター(それこそ冬馬曜子のように)か、あるいはクラシック音楽家の域を超えたタレント(かずさはある意味こっち側だ)にならなければ、決して豊かな生活は望めない――それが現実だった。たとえば大学教員になる、という選択も、コンサートピアニストとしては苦しいが、生活の安定のためには仕方がない――そんな冗談(と信じたい)も、酔ったまぎれに彼の口から出たこともあった。
 それだけに、結構本気で春希は、橋本健二を物書きとしても売り出そうとしていた。それこそ「タレント」として売れてほしいと思っていた。しかしそのためには、つまり虚像の彼を売り込むためには、現実の彼のすごさを、自分で理解しなければならない――それゆえに春希は、彼の準備中の論文草稿を読ませてもらうことにしたのだ。
 しかし、春希が橋本健二にこだわる理由は、もう一つあった。
 ――橋本健二が博士論文で、そして『アンサンブル』連載で書こうとしているのは、確かに堅実なピアノ音楽史研究であったが、同時に、文化として、そして産業としてのピアノ音楽とピアノ製造をめぐる社会史でもあり、ピアノとともに生きた人々――作曲家、演奏家、職人、企業家たちの物語でもあった。明らかに彼には、歴史家としての、また物語の語り手としての才能があった。それが春希を強く引き付けていた。
 とはいえそのことを春希は、つい最近まで自覚してはいなかった。しかしちょうどこの間、春希は今ひとりの強烈な物語作家と出会っていたのである――つまりは瀬之内晶=和泉千晶と。そのことが彼に、自分が橋本健二に対して抱いている感情が、書き手を育てたいという編集者としてのそれだけではないことに気付かせたのである。

「あのさ、かずさ。」
「なんだ?」
「俺にわかる範囲でさ、お前の知っている橋本さんのすごさを、説明してくれないか?」
 春希の頼みにかずさは目を丸くしたが、少し黙り込んだのち、語り始めた。
「――技術的なことを言ってもお前にはわからんだろうから、うんと乱暴に片付ける。あたしが弾くときは何というか、勘というか、全体的な身体感覚による直観が先行する。大雑把に楽曲全体を身体全部でつかんでから、あとから細部をきちんと見て詰めていく。それに対して、あの人の場合はもっと理詰めだ。頭で考えて、細部から、下の方から一歩一歩積み上げていく。あたしからすれば、それで結果的に全体としてバランスが取れた演奏ができるってこと自体が驚きなんだがな……そういう意味じゃお前に似てるのかもしれん。頭脳先行、理論先行型って意味ではな。もっとも、橋本さんの方がお前なんかより桁違いに頭がいいことは間違いないが……。」
「――なんで俺なんか引き合いに出すんだよ……。」
 いつもの憎まれ口(という名のじゃれ付き)とわかってはいたが、今日はなんとなく傷ついた。
「――その方がわかりやすいと思ってな? それでだ、もうちょっと踏み込んだところでのあの人のピアニストとしての圧倒的な個性というのは――つまらない「個性」ってものがない、売り込みたい「自分」ってものがおよそないってことだよ。」
 少しばかりかずさの口調の真剣味が増した。
「何だって?」
「別に確固たるお手本があって、それを機械的に反復してるだけ、とか、そういうんじゃないんだ。あの人はただ、自分が演奏する楽曲に、そして自分の前にあるピアノという機械に、ひたすら忠実であろうとする。自分の気持ちとか欲望なんか二の次三の次に、楽曲そのものが持っている最高の可能性、そしてピアノという楽器の最高のパフォーマンスを引き出そうとする。それだけだ。だからあの人の演奏は、際限なく開かれている。」
「――。」
「あの人はピアノという楽器を道具として使ってるんじゃない。自分が弾きたいから楽曲を引いてるんじゃない。そうじゃなくて、自分をまさに一個の機械として、ピアノという機械、そして楽曲という機械に接続して、その全体に最高の性能を発揮させようとする。あの人はピアノや楽曲に対して主人としてふるまわない。かといって、その奴隷になるわけでもない。なんというか、同じレベルに自分を置いてるんだ。そしてそういうつながりの中に、他人を巻き込んでいく。」
「他人、をか。」
「そういう意味じゃあ、あの人のコンチェルトなんか、すごいぞ。たまにやるリートなんかもすごい。もちろんあの人はソリストとしてすごいが、伴奏家としても実は世界レベルなんじゃないか。――でも本当にすごいのは、あの人がつながろうとする「他人」というのは、同僚の演奏家なんかもそうだけど、究極的にはお客さん、聴衆だってことだ。あの人は聴衆とも同じレベルでつながろうとしている。――それが何となくでもわかるお客っていうのが、まあそんなにはいないんだが。」
 ――だからこんなにもかずさは、橋本健二のピアノにあこがれているのか。
 雪菜が、言っていた。かずさの世界は一見したところ、とても狭い。でも、ピアノという通路を通って、素晴らしく明るく、広い空間へとそれは通じている。かずさのピアノには、人と人とを結びつけ、新しい世界へと背中を押す、強い力がある、と。それは多分に、歌を封じていたあの三年間の自分と重ね合わせたイメージではあったろうが、外れてはいまい。
 ――かずさの考える橋本健二の世界とは、ある意味でかずさが目指しつつも、なかなか到達できない境地なのだろう。かずさの世界には、やっぱり「内」と「外」がある。しかしかずさの解釈では、橋本健二の世界には「内」と「外」の区別自体が存在しないのだ。
 書き手としての橋本健二に自分が感じた魅力も、同じことなのだ。橋本健二が己をむなしくして――消し去るのではなく、相手と対等な存在になることを通じてつながろうとする相手は、ピアノや楽曲、共演者や聴衆だけではない。きっと楽曲を作った作曲家たち、ピアノを作った技術者や職人たちもまた、そうなのだ。彼は世界に向かって開かれ、過去と未来に向かって開かれている。
 歴史の書き手としての橋本健二の紡ぐ物語のあの奇妙な魅力は、そういうことなのだ。あの人は、ある種の歴史家にありがちなように、自分を「ミネルヴァの梟」という無力な安全圏においていない。過去の人々を、自分と対等な存在として描くことができるのだ。
 何やら嫉妬に似た焦燥が、春希の胸を焼いた。
「……そう、か。うん、よくわかった。」
と一息ついてうなずいた春希に、
「――とか神妙な顔して、お前本当にわかってるのか?」
とかずさが覗き込んだ。
 ――たぶんかずさが思う以上に、自分としては合点がいった。しかしもう少し、突き詰めたかった――というより、自分自身が一歩を踏み出すために、もう一つ後押しが欲しかった。
 ――となればやはり、和泉千晶=瀬之内晶に、俺の方からきちんと「取材」をしなければなるまい。俺の知るもう一人の物語作家の、秘密を語ってもらうために。
(続く)

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「五本の指云々」の話はピアニート公爵こと森下唯氏の発言その他を念頭に置いています。



[31326] ストーリーテラー(後篇)【WHITE ALBUM2雪菜trueアフター「雪菜のいない日々」】
Name: RCL/i8QS0◆17a7a866 ID:26038740
Date: 2012/02/05 22:44
(承前)

「何だなんだ、こんなところでランデブーなんて、いかにも「取材」らしいじゃなーい。」
 御宿インテグラルの一室、会議やセミナー向けの個室で、瀬之内晶――和泉千晶は本気とも洒落ともつかない歓声をあげてみせた。
「一応このあとも手配はしてあるよ。懐石がいい? フレンチのコースにしとくか? それとも、取材のあと、じゃなくて、食べながら話すのがいいか?」
「あーいいねいいね、そっちの方がますます「取材」って感じで。おなかも減ってたところだしさ、とっととごちそうして頂戴。――フレンチがいいや。ちょっと脂っこいものがほしい。エネルギーいるんでね……。
 ――それにしても春希にこんなホテルでごちそうしてもらう日が来るなんて、何とも感無量だよね……。」
「おまえには昔さんざんおごってやったし、手料理だって食わしてやったのに、か?」
「――まあそれはそれ、これはこれ、ってね? だって、会社のお金なんでしょ?」
「――まあな……。」
「じゃあ、あたしにつきあって春希もおいしいもん食べられるんなら、「役得」って感じだよね?」
「――別にそれが目当てじゃない……。」
「わーかってるよう、そんなとこでマジになんないでーー。お互い大人なんだからー。
 ――と、さて、今日は何が聞きたいの?」
 がははと大笑いしてから襟を正し、笑みを浮かべつつ正対してきた千晶に、春希は一息ついてからレコーダーのスイッチを入れ、話を切り出した。
「――あれからこっちでもいろいろ、お前については調べてみた。付属時代のことも、クラスメート(飯塚武也とかな)や演劇部の仲間の話を聞いたし、大学時代については、ウァトスの「座長」――上原さんにもとりあえずメールで少し伺ったよ。今、大変らしいな?」
 千晶は大笑いした。
「――うーん、座長には今回ひっさびさに迷惑かけちゃってねー。やっとあたしなしで、自分たちのペースで芝居ができるようになってきたところに、またあたしが戻ってきて「やらせろ」でしょう? あたしのせいながら気の毒で気の毒で――でも今回は久々に日本で、しかも自分のホンでやるんだから、どうしても座長が必要だったんだ。」
「まったく――まあ、それでいろいろ材料も集まったし、映像資料だけでライブを見てないのがアレだが、NY時代も含め、もらった資料以外の旧作も少し拝見できた。それに加えてこの間、うちで聞けた話を総合すれば、ぶっちゃけ、売り物になる程度の記事だったらもう書ける――。」
「――てことは、それ以上の話を聞きたい、ってこと?」
「……うん。これから聞きたいことは、仕事、というわけじゃない。というと誤解を招くけど、少なくとも開桜社としての仕事、ビジネスの話じゃあない。北原春希という個人として、和泉千晶――瀬之内晶という表現者に、聞いておきたいことがあるんだ。」
「……。」
「まず、役者、俳優としての瀬之内晶の役作りのストラテジーについて聞きたい。」
「――うーん、そんなの一言で言えるくらいだったら、あたしはこうして自分で身体動かして、役者なんかやってないんだけどなー。っていうか、そういうのを自分で言葉にすんのが、あんたたちの仕事じゃないの?」
 千晶の声がそれとわかるほど冷えたが、予想の範囲内だった。
「質問の仕方が悪かった。――それなりにこちらでつくったイメージがあるんで、それにダメ出ししていってくれればいい。
 ――瀬之内晶はそれこそ歌って踊れて、ミュージカルもストレートプレイも、コミカルなのもシリアスなのも、大衆的な舞台も実験演劇も、なんでもござれの万能選手ではあるが、自ら筆を執って書いたオリジナルのホンを、自ら演じるところにその本領はある――ここまではいいか?」
「可もなく不可もなく、かな。」
「とはいえ、そのキャリアの初期――アマチュア時代にはひとり芝居が多かったので、ともすれば誤解されしがちではあるが、ひとり芝居を本領とするわけではない。自分の要求水準を満たす相手とならば、協力し、競演することにかんして問題は感じない。NYではミュージカルでもストレートプレイでも、コーラスラインでも準主役でも、きっちり自分の仕事をこなしている。」
「あそこの連中のレベルが、思ったほど飛び抜けて高いわけでもなかったんだけどね――まあいい、続けて?」
「これも、ひとり芝居が多く、主演が多いことから誤解されがちだが、実はナルシシズムや自己顕示欲にはとんと縁がなく、自分を含めて、あくまで突き放した演技、演出を目指している。実はノリや勢いではなく、緻密な計算の下に脚本を書き、舞台を構築し、演技する――。」
 そこまで来て千晶はようやく、ニコッと笑った。
「そこはまあ、及第点あげてもいいかな。」
「「及第点」? 「優」じゃなくてか?」
「「優」はムシがよすぎるよ。でも「可」でもないな。――「とんと縁がなく」は褒めすぎ。あたしにだって人並みのナルシシズムくらいあるよ……おーーっと、お料理が来た! ありがとうございまーす。」
「――でもあくまで「人並み」なんだろう? 少なくとも役者――というか演劇人・瀬之内晶の原動力じゃない……まあいいか、一休みしよう。」
「ええっ、いいよ。食べながらでも……(むぐむぐ)。」
「行儀悪いな――俺が落ち着かないんだよ。「食べながら」といっても「頬張りながら」じゃなくて、料理と料理の合間の手すきの時に、くらいのつもりだったんだよ――まあいい、今来た皿とっとと空けちまおう。……(むぐむぐ)。」

「あたしさ、簡単に言うと、「人の気持ちがわからない」んだよ。」
 ――スープと前菜を片付けたところで、千晶は切り出した。
「あれかな、いわゆる「自閉症スペクトラム」ってのがあるじゃん。まあ、幼稚園や学校の先生に目をつけられるとか、カウンセラーや病院に連れてかれるようなことはなかったんだよ。でもあたしね、どっちかといえば、そっちに近いんじゃないかと思う。つまり、本格的に生活に支障を来すってほどじゃあ、なかったんだけど、傾向としてそのケはあったんじゃないか。
 何となく「あたしはみんなと感じ方が違うんだな」って気は、昔からしてた。何て言うかな、「空気」は読めるんだよ。でも進んでそれにあわせる気はしなかった。不快なわけでもないの。単に客観的にそこにあって、あたしには関係ない、って感じ。だからめんどくさいときはあわせられる。でも必要がなかったら無視する。」
「つまりね、理屈抜きの共感――ってやつが、あたしには苦手だった。共感ってやつができない訳じゃないし、嫌いなわけでもないんだ。むしろ好きなんだよ、人の気持ちを理解することが。人って面白い。でも、それはあくまで、計算して、考えてのことなんだ。あたしには人の気持ちが理屈抜きにはわからなかった。人に共感するには、考えて考えて、理屈で理解してからかかる必要があった。」
 聞きようによってはとんでもなく重い話を、千晶はあくまで軽く続けた。春希はもう少し切り込むことにした。
「――それを聞いただけだと、「瀬之内晶にとっては日常生活すべてが演技であり、演技を離れた「素」などというものは存在しない。すべてが仮面であると同時に、またすべてが素顔である」ってな話になりそうだが……それはそれでわからなくはないが――じゃあなぜそこであえて普通の意味での「演技」に行かなければならないんだ? まさか「普通の人間とは違って、日常生活すべてが演技であるかわりに、舞台の上は「素」である」なんてことはないだろう?」
「ああ――そうだねえ。舞台の上も下も、どちらもリアルだよ、いまのところのあたしにとっては。じゃあ、舞台って何? ってことだよね春希が言いたいのは。それは……あああっと、メインが来た――!」
「――わかった、あとでな。」

「うーーんと、どこまで話したっけ? 結構イイ線行ってるな、って感心してたんだよ。うん、あたしにとって、瀬之内晶にとってすべてが演技だとしたら、じゃあ舞台って、演劇ってなに、ってことだよね。そうだなあ――よくわからないや。」
 デザートのスプーンを軽く振りながら、千晶は言った。
「――? ここまできてそれか?」
「うん、そうだよ。インタビューアーとしては、ここが踏ん張りどころじゃないかな? あたし以上に、あたしを理解して、あたし本人をうならせる解釈、提出できないかな?」
 千晶はいたずらっぽく笑ったが、眼は真剣だった――とまとめたいところだが、正直春希にはわからなかった。ただ、彼女が自分をからかっているのであろうがなかろうが、ここが自分にとっての正念場だということはわかった。
「わからないけど、お前は舞台の上で生きることを選ぶんだよな? 物語をつづり、それを自分の身体で、人々にぶつけることを選ぶんだよな? そういう生き方を選んできたし、これからも続けることは、確かなんだよな?」
「うん、そうだよ。」
「だけど、その理由を明確に言葉にすることが、今はできないのか、したくないのか――。」
「――それともただ記者をいじめているだけなのか。」
「でも、理由はあるんだな。」
「うん、あるね。」
「――俺が勝手に思っていることが、ひとつだけある。これはたぶん、十全な理由じゃないだろう。ただ、それもある、という意味では、外れてないと思う。」
「うん、言ってみて。」
「ひとつには、舞台の下では、普段の和泉千晶は、いわば「空気」を読んで合わせている。あまり自分の「本気」を出していない。受動的な演技をしている。それに対して舞台の上での瀬之内晶は「本気」で演技している。そこにある「空気」を読んで、それに合わせているんじゃない。自分の方で「空気」を作り、他人を巻き込もうとする。あるいは、「空気」なんかぶち壊して、積極的に他人にはたらきかけようとする。それが嘘だとか本当のことだとかはどうでもよい。とにかく、自分から何かを、他人に向けてぶつけようとする。」
「――。」
「そしてもうひとつ。それが「物語」という形をとる、ということ。和泉千晶=瀬之内晶の「本気」は物語という形をとって表される、ということ。そうやって、「物語」という形式をとることによってでなければ、和泉千晶は「本気」になれないのではないか、とね。
 ――じゃあなぜ「物語」なのか? そこにもまだ「理由」を考えなければならないんだろうけど、そこは……すまん、今はそこが俺の限界だ。」
「――どうして、そこが限界なんだい?」
 千晶の口ぶりは、ひどくやさしかった。
「それに答えを出すには、俺自身が、決めなければいけないからだ。」
「何を?」
「俺にとって、物語とはなんなのか、言葉を紡いで人に、世界に向かい合うとは、どういうことなのか、覚悟を決めなければならないから。言葉を通じて俺自身がすべきことを、見出さなければならないから。――そうしないと、俺の知っている偉大な物語作者の一人である、瀬之内晶に向かい合う資格を、持てないから。」
「――おいおい、それじゃあ敗北宣言になっちゃうよ春希。もっとがんばれ!」
 千晶はにっこり笑って、春希の顔を覗き込んだ。
 ――なぜ俺は出版というビジネスを志したのか。文章を書く仕事をしたい、と思ったのか。親しい人や、愛する人以外の、多くの人々に、言葉を使って俺は、どう向かい合いたいと思っていたのか。

 ――本当はかずさという音楽家、そして雪菜という歌い手を愛した以上、もっと早くに、きちんと考えておくべきことだったのだ。
 「届かない恋」も「時の魔法」も、俺が詞を書いたのだから。



[31326] 「見る前に跳べ」【WHITE ALBUM2雪菜trueアフター「雪菜のいない日々」】
Name: RCL/i8QS0◆17a7a866 ID:26038740
Date: 2012/02/07 22:20
 雪菜の、通夜の時。
「俺の分まで、お前が泣いてくれるから」自分は泣かないで済む、と春希は言った。
 この偽善者め! とかずさは憤ったものだが、まったくの嘘というわけではないことはわかっていた。
 自分にとっても、雪菜と春希の子どもたち、小さな春華と雪音が、かなりの程度代わりに泣いてくれた、という感覚が、正直あった。
 世界が丸ごと崩れたかのように泣き叫ぶ雪音と、姉として懸命になだめようとしながら、自分でも到底涙をこらえきれない春華を、まるごとがっと抱きしめてやって、二人の大好きなおかあさんの歌、「時の魔法」を繰り返し繰り返し歌ってやる。しっかりと歌ってやるためには、泣くわけにはいかない。大きな声でなくてもよい。ただ音程とリズムをしっかりととって、身体の中から歌を伝えてやるためには、しっかりと自分をコントロールする必要があった。歌と一緒にぬくもりを伝えてやるためには、二人の身体の震えをしっかり受け止めて、落ち着かせる必要があった。ならば、少なくとも二人が泣いているうちは、自分が涙に身を任せてしまうわけにはいかない。
 そういう思考は、たしかにはたらいていた。
 だがそれ以上に。
 二人をあっためてやるために抱きしめていると、当然、自分の身も、とてもあたたかくなった。泣きじゃくる二人は、ちょうど春希のように、そして雪菜のようにあたたかった。
 このぬくみは、ちょっと手放せそうになかった。

 というわけで今現在、冬馬かずさは北原家の二人のちび、春華と雪音のあたたかさを存分に――とは言わないまでも、相当程度満喫している。ただしそれは、無償というわけにはいかなかった。
 健康な子どもというものは、日々笑い、泣き、駆けずり回り、ものを壊し、時に自分の身体も壊す。真面目に取り合っていたら、ひと時たりとも心が休まる暇がない。かといって無視して適当に放置していたら、しばしばとんでもない結果が待っている(ことまで含めて、心が休まる暇がないわけだ)。
 よくもまあ雪菜は、勤めを続け、歌も歌いながら、この爆弾たちの世話をできたもんだ……つくづくかずさは感心する。
「そんな大したことないよう。っていうか、私なんか駄目ママでどうしようもないよ。もしこの子たちがいい子なんだとしたら、それはまず第一に保育園の先生たちのおかげ、第二に、手伝ってくれるお母さんや、かずさのおかげ、それから三番目に、保育園のママ友たちのおかげだよ!」
 昔、二人きりの時に、雪菜がそんな風に言ったことがある。
「――あれ? 春希はどこにいるんだ? 何にもしない――ってことはないよな? それとも、「別格」か?」
 かずさの問いに雪菜は笑って答えた。
「これは、感謝しなきゃいけない順番の話。私と春希君は親なんだから、子どもたちに責任があるの。だから感謝される筋合いはないの。
 それはともかく、うーん、春希くんはとってもよく頑張ってくれてるよ。保育園の送り迎えだって、ご飯作るんだって、その他の子どもたちのお世話も、半分――とは言わないまでも、会社でのポジション考えれば、最大限の努力をしてくれてる。でも……。」
 そういえば春希は、二人目の雪音が生まれた後は、雪菜が早く職場に復帰できるようにと育児休暇をとっていたはずである――それでもこっそり家に仕事を持ち帰っていて、雪菜とかずさの白い眼を浴びていたが……。それでも、几帳面で料理を除けば家事万能の(そして弱点の料理についても、結婚後は雪菜の指導で顕著な改善を遂げた)春希のおかげで、雪菜の負担は相当軽減されていたはずである。
「――なんていうかな、春希君は、時々子どもたちに「遠慮」しちゃうんだよ――。」
「遠慮?」
 ちょっと意外な一言にかずさは当惑して聞き返した。
「そう、遠慮。春希君は子どもたちを、冷たく突き放したりなんかしないし、もちろん、過度に甘やかしたりもしない。ちゃんと、バランスよくやろうと頑張ってる。ただなんかねえ、子どもたちに全身でぶつかってる感じがしないんだなー。どこか、半身を残してる感じがする。――あとねえ、私にも遠慮してる。手を動かす、身体を動かすことには物惜しみしないんだけど、判断については最終的には、責任を私に投げ出してる――っていうと言葉は悪いけど、自分より私の判断を信用し、優先してるんだよねえ。そういう意味じゃお母さんや、それこそかずさの方が、子どもたちに対する姿勢では、安心感あるっていうか……。」
 春希に関して、かなり冷徹な――ほとんど辛辣といってよい意見を開陳する雪菜は、かずさにあのホテルでの取っ組み合いを思い起こさせ、ちょっとばかり懐かしい気持ちにさせた。
「ふーん。自分のお母さんとの間のことが、なんかひっかかりになってんのかな? でも、あたしだってなんていうか、母さんとまともな親子関係築いてこなかったことについては、自信があるぞ。そもそも、親戚でもないのにただ遊びに来て無責任にやってるだけじゃないか。」
「そこはこっちの方でも遠慮――っていうか割引? お母さんだってそういう意味じゃ別に「責任」なんかないんだよ? そんな立場なのに、よくやってくれてる、っていう感謝の気持ちが入ってるかな? 逆に言うとその分、春希君に対しては点が辛くなってるかな……もっとしっかりしてほしい、って。でも、お母さんもかずさも、子どもたちに結構全力でぶつかってくれてると思うんだ。」
「――買いかぶりだよ……雪菜のお母さんはともかく。「全力」だとしたらそれは余裕がないからだ。子どもってやつにどう向かい合えばいいのか、全然わかんないから。下手すれば同じレベルで、自分も子どもになってぶつかりかねない、怖さがあるよ。」
「それでいいんだよ。園長先生はそう言ってたよ。怖くて当たり前だって。若いママパパは、子どもなんて、わけわかんないまま無我夢中で泣きながら育てるもんなんだって。ほんと、ママ友たちとはいつもそんな話ばっかりしてるよ――それに比べると、春希くんもそうだけど、パパたちは弱みを見せまいとしすぎるから、よくないよ。
 ――ああ、そう考えれば、もうじき依緒ともママ友になるんだなあ、楽しみだよ。」
 そう満面の笑みを浮かべた雪菜はしかし、無念にも飯塚夫妻――武也と依緒の赤ちゃんにまみえることはなかった。

「――無我夢中で、泣きながら、か。」
 今となればお気楽そうな落第ママであった自分の母、曜子もそうだったのかもしれぬ、と得心がいく。
 たとえば、未だに自分は、自分の生物学的父親が誰であるのかを知らない。母はその父に「振られた」と称している。いつもの韜晦だと思ってまじめに受け止めたことはないが、案外それは本当のことなのかもしれない。
 想像――というより妄想をたくましくすれば、いくらでも思い浮かぶ。
 ――あるいは自分は「子は鎹(かすがい)」とばかりに、その男をつなぎ止めるために孕まれたのかもしれぬ。
 ――あるいは母が未だに自分にその男――父の名を教えてくれないのは、未だにその男を引きずっているからかもしれぬ。見境のない男遍歴も、そのただひとりの男のことを忘れられないからかもしれぬ。
 ――そう考えれば、その男の忘れ形見である自分は、母にとって実に複雑な、愛憎半ばするアンビバレントな存在なのかもしれぬ。とすれば、女手ひとり、金はあってもノウハウはなく、頼るべき身内もいないともすれば、そのたったひとりの娘を育てるにあたって、多少の不如意があったとて仕方がないではないか……。
 ――冬馬曜子は、あくまでお気楽に、無責任にひとり娘を放任していたというべきなのか。それとも、その責任の重荷にあえぎ、娘との距離を測りかねたがゆえに、乱行に逃避していたのか。
「――なーーんて、な。」
 週末の午後、公園で近所の子供らと駆けずり回るちびたちを遠目に見つつ、日陰のベンチでかずさは背伸びとともにひとりごちた。向こう側の砂場の横では、2、3人の若い母親たちが、子どもたちを見守りつつおしゃべりに興じている。人見知りな上に「母親」ではないかずさは、さすがに談笑の輪に加わる勇気は持てなかった。もちろん季節は初冬、木陰のベンチは寒いから、本当は自分も日なたに行きたいのだが、あいにくそこは問題の井戸端会議場に他ならない。
「母さんが考えなしだったんだろうと、考えすぎだったんだろうと、今となっては、結果的には同じことなんだけど、さ。」
 かずさにしてみれば、父親のことを真剣に気に病んだことなど、一度もないのだ。生物学上の父親に会いたいとも思わないし、あるいはまた、母にまともにひとりの男と添い遂げてもらって、その男を「父さん」と呼びたい、などと思ったことも全くない。結局のところ自分が愛し、求め、憎んで、反発したのは母ひとりなのであり、他の人間はいなかったし、必要もなかった。
 そして冬馬曜子は、子どもの愛し方の下手なダメ母ではあったかもしれないが、愛し方を知らなかったわけではない。彼女はピアノを通じて、かずさに惜しみなく愛を注いだ。そして幸運にも、その愛し方はかずさにとって充分に受け入れ可能なものであった――少なくとも幼い内は。
 幼い頃は、母曜子はかずさにとってピアノの師であるのみならず、唯一の観客でもあった。あるいは、よくできた子どもにありがちなことだったのかもしれないが、幼いかずさには「師」と「客」の区別などはついていなかった。その上「親」までが重なっていたのだから、事態は実は潜在的には相当深刻だったのだ。
 ところがプロの音楽家たる曜子は、この事態の深刻さに無自覚なままに、プロの音楽家としてはある意味まっとうな選択をしてしまった。あるところまで成長したかずさに対して、「師」のためではなく「客」のために演奏しろ、と伝えようとしたのである。ところが「師」たる彼女の落ち度か、あるいは弟子たる娘の幼さのせいか、その秘儀伝授は失敗した。結局のところかずさには、「師」も「客」もなくただ母がいるのみだったのであり、「師」ではなく「客」をみよという母の教えは、自分が抱いていた母の理想像の分裂、母による自分の拒絶として映ってしまったのである。そしてこの失敗を受けて曜子は、一度は「師」であることさえ放棄してしまった。そのことがかずさにとっては、彼女がただ単に「師」であることのみならず、「客」であること、更に「母」であることさえ放棄してしまった、と映ってしまう、ということをろくに理解せずに。

 そしてかずさは、ピアニストとしてはおろか、人間としても成長することをやめてしまったわけだ。

 かずさが立ち直るきっかけを得たのは、結局は春希、そして雪菜という「客」そして共演者を得たからであり、そして幾分かは、彼らに対して「師」として振る舞ったからである。孤独な動物となっていた彼女はここで再び「人間」となった。しかしながら厄介なことに、彼女にとって、春希は「客」そして「弟子」であると同時に、いやそれ以上に「男」であった。そしてかずさのピアノは、かつての母曜子に対してと同様に、春希に対しても愛を伝える道となってしまった。「師」に褒めてもらうためではなく、「男」に愛を伝えるためのピアノ。それは結果的には、幼い頃の「師」たる母に向けたピアノとは異なり、無関係な他者に、不特定多数の「客」に、世界に届くものになり得ていた。しかしそれはあくまでも結果的、客観的にそうなっていたに過ぎない。
 かずさのピアノが主観的、自覚的に世界に開かれていったのは、結局は雪菜がいたからこそである。雪菜がかずさから春希を奪ったからこそ、そして「師」としての母が死んでしまったからこそ、かずさのピアノは愛する人である母曜子や春希に向けたものではなく、世界に対して開かれたものにならざるを得なくなった。
 もちろん、そうならない可能性もあった。「師」であることをあきらめた母曜子は、かずさに対して、ただ無限に受け入れる以上のことが、際限なく甘やかす以上のことができなくなっていた。そして雪菜が奪ったはずの春希、彼女を拒絶したはずの春希でさえ、「男」として彼女を拒絶したにもかかわらず、いやその引け目ゆえにか、かずさを残酷に甘やかすことしかできなかった。雪菜が、ただ春希をかずさから奪うだけでなく、その上でなおかずさの「友」であろうとし続けたからこそ、かずさはピアノにしがみつくことができたのである。

 結果的に見れば、愛しつつ突き放し、突き放しつつ愛する、という絶妙なバランスを保ってかずさを救ってくれたのが雪菜であり、そのバランスをとるのに失敗したのが母、曜子であった。そしてそもそも春希は、バランスをとろうとさえしていなかった。最初はコンサートから逃げるという最悪の形でかずさを拒絶し、それで壊れてしまったかずさを、今度は際限なく甘やかした。
「――なるほど、な。」
 そういう風に考えれば「春希が子どもたちに対して一歩引いている」という雪菜の不満も合点がいくような気がした。春希は、子どもたちに踏み込んでしまうと、際限なく甘やかして壊してしまうかもしれない、と恐れているんだろうか。
 ――雪菜は、怖くないんだろうか? そんなはずはない。「怖くて当たり前だ」と雪菜は言っていた。
 ――怖いから踏みとどまる、んじゃなくて、怖いからこそ飛び込むんだよ。
 ふと脳裏に雪菜の声が響いたような気がした。

 怖いから踏みとどまる、のではなく、怖いからこそ飛び込む、という決断を、あの時、自分は春希の前で行ったつもりだった。とはいえ今から思えば「あたしを選んでくれ」ではなく、「今だけでもあたしを愛してくれ」という、腰が引けたものだったわけだが……。
「――もしあの時、春希があたしを選んでくれていたら――?」
 ――詮無い問いである。それに、何より恐ろしいことに、仮にそうなっていたとしたら、あそこで元気に遊んでいるちびたちが、この世に生まれてこなかったことになる。その代わりに、春希とかずさの子どもたちが、今頃は生まれていたのかもしれない。しかしそんなものはただの可能性だ。今ある現実と引き替えにできるはずもない。
 ああ、それでも、あたしはかつて、春希の子どもがほしい、と思ったことがたしかにある。そのことを、なかったことにはできない。
 ――人を愛するということは、怖ろしいことだったのだ。そして、その怖ろしさに怯えていては、結局は、誰も愛することができず、何をなすこともできないのだ。だからこそ、飛び込んでいくしかない。
「でも、さ。結局あたしは臆病だったから。だからあの子たちは雪菜――お前の子どもなんであって、あたしの子どもじゃないんだ。」
 ――そんなこといちいち考えてたら、あの子たちを抱っこすることもできないよ?

と、雪音の泣き声が向こうから聞こえてきた。見ると、地面に突っ伏して泣く雪音を春華が懸命になだめており、周りに他の子どもたちが群がっている。井戸端会議のママたちも駆け寄ってきた。
「ケンカか? すべり台から落っこちでもしたか?」
 考えるまもなくかずさはすっ飛んでいった。

 ――そんな風に、まずは「見る前に跳べ」でいいんだよ。



[31326] ガールズトーク+1【WHITE ALBUM2雪菜trueアフター「雪菜のいない日々」】
Name: RCL/i8QS0◆17a7a866 ID:26038740
Date: 2012/11/21 19:10
 校了を目指しての作業のまっただ中、春希の携帯が鳴った。みると、保育園での春華の同級生の母からの着信だった。春希は急いで通話ボタンを押した。
「はいもしもし、北原です。」
「ああもしもし、北原さん? 春華ちゃんパパ? 鈴木です……。」
「ああはいはい、鈴木さん――陽ちゃんママ、いつもご苦労様です。今度の旅行の件ですか?」
「ええ……そうなんですけどね。ちょっと、ご相談……というか、春華ちゃんパパのご希望を聞いとかなきゃいけないことが起きて……。」
「――はい? 何でしょうか?」
「実はね、今度の旅行、水野さん――武ちゃんパパも、それからうちの鈴木も行けないことになっちゃって……。パパたちの中でお出でになるの、北原さん――春華ちゃんパパだけになっちゃったんです。」
「――えっ……。私ひとり、ですか……。」
「そう、ひとり。パパたちの中で今度こられるの、北原さんひとりなの。あとは子どもたち以外ぜーんぶママたち。唯一の成人男性。しかも、せっちゃんいないし……。」
「――それは、その……まいったな……。でも、子どもたちは楽しみにしてるんですから、行かないわけにはいきませんよ――。」
「そりゃもちろんそうですよ。でも、雪ちゃんはともかく、春ちゃんももう大きいから、何だったらあたしたちが子どもたちだけお連れしてもいいんですよ。北原さんだって、この時期お忙しいんでしょうし……。」
「ええ……その……。」
 ――正直、これは参った。

 北原家の小さな姉妹、春華と雪音が通っている保育園は、雑居ビルの1階に間借りした、いわゆる無認可保育所だった。無認可とはいっても、熱心なオーナー経営者の園長の下、都の補助を受けた認証保育所として保育の質は悪くなかったし、何といっても、割り増し料金を払えば夜遅くまで預かってもらうこともできるのが、フルタイムで共働きの若い二人には魅力だった。そのため北原家は、上の春華が1歳の頃から、もう5年近くこの保育園のお世話になっている。春華は今度の春には小学校に上がるが、下の雪音はもうあと2年はこちらに通う予定だ。
 園庭もなく、外遊びは近所の公園と路地裏を利用するしかない小さな保育所なので、園児の数も1学年数名と少なかった。それゆえ自然とアットホームな、手作り的な運営となり、行事の運営や寄付金集めなどを通じての、親同士の交流も密となった。とりわけ春華の学年の親たちの間の仲はよく、毎年1回は親子が参集して、1泊旅行に出かけることが恒例となっていた。
 忙しい働くママパパたちのこと、毎度のスケジュール調整は難航し、今年はどういう訳かみんなが忙しいはずの12月半ばの週末に、伊豆の温泉ホテルにお泊まりということに落ち着いた。しかしながらやはりこの時期は急な案件がどこでも浮上するようで、パパたちを中心に欠席の知らせがこの1週間でダダダダッと舞い込んできた。
 春希の場合は片親であるから、自分がダメなら連れて行く者がいなくなる。(いくらなんでも、こういう集まりについてまで、小木曽の義母やかずさを頼るわけにはいかない。)そこで上役の靴をなめ、部下たちを拝み倒し、担当する作家の皆さんに平謝りでスケジュール調整をお願いし、万難を排して無理矢理にその週末を空けたのだ。
 ――しかし、パパは俺ひとり……? あと全員ママさんたち? しかも、雪菜がいないのに? 
 武也ならぬ身としては、背筋を冷や汗が伝うのを止めることはできなかった。

「かんぱーい!」
 ――伊豆の温泉ホテルの1室で、5人のご婦人たちプラス1はビールのグラスを高く上げた。
 下は2歳児から上は小学2年生まで含めて9人の子どもたちを無理矢理寝かしつけた時には、10時を有に回っていた。既にママたち(プラスパパひとり)の疲労は極に達していたが、その分テンションも妙に上がっていて、まだまだ眠る気にもなれなかった。
「やー、しかしくったびれたねー! もうそろそろあたしこういうのは身体がついてかないわー。」
 ママたちの中で最年長の武ちゃんママ、水野さんが嘆息した。とある中央官庁の課長級職で、バリバリのキャリア官僚である。本人の言によれば「そこそこ地位が上がって、部下に雑用を押しつけて早くうちに帰れるようになったので、子供を作った」とのことで、仲間のママパパたちより一回り年かさだが、ママとしてはまだ新米で、こどもも武ちゃんひとりだ。
「もひとり産みたいとこだけどさー、こんなんじゃこっちの寿命が縮んじゃうかもー。それにいま産んだって、その子が成人する頃にはあたしも夫も定年だよ。このご時世じゃ天下りだってどうなることやら……。」
 冗談めかして愚痴る武ちゃんママに、
「そこはあなた、そんなけちくさいこと言わないでさ、うんと出世して、国の子育て支援政策とかもっと充実させてよ。何だったら役所おん出て、政治家にでもなるとかさ。」
と軽く突っ込んだのは陽ちゃんママ、鈴木さん。夫共々、都内の私立中高の教師をしている。明るくて面倒見がよく、このグループではリーダー格だ。北原家同様、陽ちゃんこと陽子と、妹の晴子の二人を園に通わせている。
「そうそう、初産じゃないんだし、まだ45までは余裕でいけるって。むしろここが最後のチャンスだと思って、バーンと行きなよ。」
と煽るのはともちゃんママ、バツイチのシングルマザーで、ベテラン看護師長の柊(ひいらぎ)さん。この仲間内では水野さんに次ぐ年長で、女手一つで小2の優君と、年長さんの友樹君を育てている。
「無責任なこと言って……それにあたしはたぶん出世しないよ。上に気に入られてないからね……。」
 水野さんが苦笑いを浮かべる。
「いやそれだったら、それこそ政治家にさ……。」
 亮君ママ、派遣社員の本田さんが言いつのったが、
「あたしが気に入られない「上」ってのには議員のセンセイ方もはいってんるだよ……。入れてくれそうな党を思いつかないね。」
と水野さんはグラスを振った。
 と、そこで、
「そうそう!」
と手を挙げて話の腰を折ったのはのりちゃんママの坂部さん。「生涯一「空気読めない」」を自認する彼女の職業は編集者――春希と同業だ。自分で原稿も書くフリーランスの何でも屋さんで、開桜社にも出入りしている。ちなみに連れ合いは、中堅どころの漫画家さんだ。さすがに年末進行で動きが取れなかったのだろう。
「春希君、チケットいただきました。ありがとうね! 冬馬かずささんにもよろしくね! 紀子ともども、楽しみにしてます!」
「――っ! ど、どうも……。」
 不意に名前を呼ばれて、春希はビールをこぼしそうになった。「空気を読めない」と言うよりわざと「読まない」坂部さんは、雪菜が春希を「春希君」と呼ぶのを聞いて以来、どこがツボったのか知らないが、開桜社ではおくびにも出さないが、この仲間の集まりでは「春希君!」を連発して、そのたび雪菜を爆笑させたものだった。悪気はないんだろうが心臓に悪い。しかも今回はかずさの名前まで出されたものだから、狼狽してしまった。ちなみに雪菜のことは「せっちゃん」だった。おかげでこのグループでは雪菜の呼び名は「春華ちゃんママ」でなければ「せっちゃん」になってしまった。
 まあもちろんこれは、「女の中に男がひとり(しかもほとんどは人妻で自分はやもめ)」で居心地の悪い思いをしている春希に対する、彼女一流の気の使い方であることはわかっていた。しかしこれはこれでばつが悪い……。
「ああそうだそうだ、あたしもいただいたんだ。昨日届いてましたよ、ありがとう。――今回は、みんなもらってるのかな?」
 水野さんがみんなを見回した。
「うん。」
「あたしも――。」
 皆が唱和する。
「1年半ぶりだよね、冬馬さんの「親子コンサート」……司会は、どなたにやっていただくの?」
と坂部さん。
「柳原朋さんです……雪菜の親友でしたから。」
「ああ……お葬式の時、歌ってくださってたねえ。」
と本田さんが目を細めた。

 思えば「冬馬かずさの〈親子のための〉ピアノコンサート」のそもそものきっかけは、この保育園にあったと言ってもよい。何の偶然か坂部さんはSETSUNAの、そしてクラシックオタクの本田さんはかずさのファンだった。この二人と雪菜の出会いが、ナイツレコードの「冬馬番」である雪菜に親子コンサートとそれを基にしたアルバムの企画を思いつかせ、冬馬オフィスと開桜社に持ちかけて実現させたのである。曜子社長はそれほど乗り気でもなかったが、「春華みたいな小さな子にも、ピアノを聞かせてあげる機会があると面白い」というかずさの熱意もあり、異例な企画が軌道に乗っていった。最初は小学生以上に限定し、普通のホールで行ったが、やがては対象年齢を幼稚園児にまで拡大して、防音の親子ルームや託児スペースが利用できるホールで展開するようになった。そんな中でもともとクラシックにはそれほど詳しくなかった雪菜は、「マーケットリサーチ」と称してしばしば本田さんの意見を聞き、企画を立てる際に参考にしていた。
「雪菜がなくなってから最初のコンサートですから、雪菜のママ友の皆さん全員を、今回はご招待します。ご都合がついたら、是非いらしてください。今回のホールは、親子ルームも結構広いですし。」
「今回は、橋本健二さんがゲストなんですって?」
 さすがにクラオタの本田さんは目の付け所が違った。
「ええそうです。連弾とか、用意されてます。――亮君ママ、橋本さんのファンなんですか?」
「そりゃもちろん! ――ピアニストとしちゃ言っちゃあ悪いけど冬馬さん以上だし、それにいい男じゃなーい。」
「――ご紹介、しましょうか?」
「えー、ほんと? 是非お願いします! お花もっていきます! 色紙も! あーん楽しみだなあ……。夫は置いて行こう!」
 興奮する本田さんにみんなは苦笑いした。――普段は大いにかずさ贔屓で、かずさが子どもたちのお迎えに来たときに出会うと、緊張して真っ赤になる本田さんが、かずさより贔屓にするピアニストってどんな人なんだろう? 考えることはみんな一緒だった――春希以外は。
「――っと、ちょっと冬馬さんに失礼なこと言っちゃったなー私。ごめんなさい。もちろん、冬馬さんの演奏、とっても楽しみにしてます。柳原さんの歌と司会も。」
と気を取り直して本田さんが春希に頭を下げた。
「いえ、わかってますよ――ぼくに謝られても。」
と頭を下げ返した春希に、今度は坂部さんがたずねた。
「――そういえば……春希君、今回の旅行、冬馬さんのこと、誘わなかったんですか?」
「――はい?」
 思わぬ問いかけに、春希の思考は一瞬停止した。
「――いやもちろん、冬馬さんもとってもお忙しいんだろうけど、この1年、せっちゃんがなくなってから、冬馬さん、春華ちゃん雪音ちゃんのためにとってもがんばってたから、一緒に打ち上げたいなって……。冬馬さん、春華ちゃん雪音ちゃんに対して、親友の子どもっていうより、それこそ親戚、いやほとんど家族みたいな感じだったから。――そりゃよく考えたら、こんな仲間内にいきなりお誘いするのも変なのかもしれないけど、なんだかあたしの方でも勝手に「仲間意識」みたいなものを感じちゃってたのかな。」
と意外に生真面目に語る坂部さんに、
「おーい、のりちゃんママ、ちょっと立ち入り過ぎじゃない?」
と柊さんがたしなめた。気を取り直した春希は、
「――いや、お気になさらないでください。あいつ――いや冬馬も、かなーり人見知りなもんだから、もし誘ったとしても来てたかどうか……。」
と応えたが、坂部さんは
「いや、こっちこそ失礼なこと言っちゃって、すいません。忘れてください。」
としおらしげに頭を下げた。っと、ところが、
「――いやあでも実際、今日この場に春華ちゃんパパ――北原さんがもし来てなかったら、きっと北原さんはさんざんガールズトークの餌食っていうか、酒の肴になってたと思うよ――。」
と思わぬところから爆弾を落としてきたのは鈴木さんだった。みるともうビールから焼酎に移行し、ロックを手酌でやってだいぶできあがっている。
「あちゃー、鈴木さん、もうそんななのー? 明日も早いんだよ、大丈夫?」
と呆れる水野さんに、
「大丈夫大丈夫、中学教師の朝の強さを知らないなー? あたしなんか呑んだ翌日に朝練だの試合だのつきあわされてんのよー? こんなのどってことないさー。」
と鈴木さんはグラス振り振り笑ってみせ、
「で、春希君!」
と春希を睨みつけた。
「あなた、大丈夫ー?」
「だ、大丈夫、って、何がですか?」
「のりちゃんママの言ったことの意味、わかってるー?」
「は、はあ――。」
「「はあ」じゃない! 返事は「はい」か「いいえ」!」
「は、はい。」
「じゃあ、わかってるの?」
 春希はすっかり困り果てたが、ここは適当にかわしてもあまりいいことはなさそうだ、と観念した。
「わかってる――と思いますよ。」
 すると鈴木さんは
「――んー、じゃあ、よろしい!」
と意外とあっさり引き下がった。そして
「本人がいるところじゃ、罪のないうわさ話になんないしね、今日は勘弁したげる!」
と言って一息ついた。
「――だあってさあ、せっちゃんもすっごくきれいで、かわいい人だったけど、冬馬さんもかわいいし、なんだかいじらしくて、見てると切なくなってきちゃうんだよねーわたし。冬馬さんみたいな人にあんな顔させるなんて、春希君ってもしかしたら、ものすごい悪人っていうか、ひどい男なんじゃないかなー、とか思っちゃってさー。」
「おいおい勘弁したげてないじゃない、春華ちゃんパパもう充分針のむしろだよー。」
と柊さん。
「おおっと失言失言。ってわたしきょうは失言しかしてない? ……失礼しました。――うん、大丈夫だよねー。せっちゃんの、ダンナさんだったんだもんねー。」

 ――まあ、たしかに針のむしろではあったが、どっちかというと来てよかった。

 春希はそう独りごちて、
「うん、大丈夫です。――お注ぎしますよ先生。」
と鈴木さんに向けてボトルを差し出した。鈴木さんは満面の笑みで再び、
「うん、よろしい!」
と言ってくれた。



[31326] 虚勢(前篇)【WHITE ALBUM2雪菜trueアフター「雪菜のいない日々」】
Name: RCL/i8QS0◆17a7a866 ID:9766d1b6
Date: 2012/02/15 13:46
「おとうさん!」
 夕飯の席で、春華が春希に聞いた。
「――なんだい、春華?」
「クリスマスは、おばあちゃんのうちに行くの?」
 この間はお泊りがあったばかりだというのに、今度はクリスマス。そしてすぐお正月。子どもたちにはイベントが多すぎる。
 そして北原春希は出版人。年の瀬といえば、出版業界にとっては地獄の「年末進行」の季節である。とはいえシングルファーザーたるもの、ここで弱音を吐くわけにはいかない。しかしシングルファーザーである以上、いやたとえ妻が、子供たちの母が健在であろうとも、この時期にはなりふり構ってはいられない。「立っている者は親でも使う」。
「うん、そうだよ。北原のおばあちゃんが、ごちそう作って、春華たちを待ってるよ。」
 その観点からも、母との冷戦が雪菜のおかげで解消したのは幸いであった。
「おぎそのおばあちゃん、おじいちゃんは?」
「いつも遊びに行ってるだろ? 小木曽のおばあちゃんはいつも来てくれてるし。」
「――じゃあ、かずさおばちゃんは?」
「――かずちゃんは?」
 春華のみならず、雪音も唱和した。
「うーんと、かずさおばちゃんは、クリスマスは、お仕事だよ……。」
「えー。」
「えー。」
 ――二人の娘が、北原の母はもとより、ひょっとしたら小木曽の義母よりもかずさになついているというのは、悪いことであろうはずはないが、春希にとっては少しばかり悩ましい事実であった。
 「年の瀬の第九」がいつごろから始まった習慣かはともかく、年末年始はクリスマスコンサートやらニューイヤーコンサートやらでクラシック関係者にとってはかきいれどきである。冬馬かずさの場合も例外ではない。本格的ソロリサイタルこそ春までないが、「〈親子のための〉コンサート」は年明け早々に予定されているし、クリスマスには若手の集まるイベントに客演しなければならない。新しいCDも来年中には収録する。というわけでイブもクリスマスもかずさはびっちり仕事が入っていたし、そのための練習にも熱が入っていた。
 それでもかずさは12月に入ってからも、週に2回はちびたちをお迎えして一緒にご飯を食べ、お風呂に入り、寝かしつけ――という精勤ぶりを保ち続けてくれていた。

 もともと子どもたちが生まれてから、雪菜の家事育児の負担を軽減すべく、春希は以前のワーカホリックぶりを少しは改めていた。忙しさ自体はむしろピークだったが、それでも春華の出生以降は午前様をきっぱりと止め、週に2日は夕方に仕事を切り上げ、定時に保育園にお迎えに行くようにしたし、そうでない日も夜10時までには帰宅するようにして、疲労困憊した雪菜のかわりに後片付けや翌朝の準備一切を引き受けた――その分、自宅持ち帰りの夜なべ仕事は増えたが。
 しかし、雪菜がなくなってからは、到底そんなやり方では追い付かない。保育園自体は夜間預かりもやってくれる、融通の利くところだったが、それでも夜10時が限界であるし、週の半分以上をそんな深夜までというわけにもいかない。先生たちの負担もあるし、子どもたちも寂しがる。「週に2日は定時に」ではなく、「夜間延長保育は週2日、できれば週1日にとどめる」に切り替えなければならなかった。そうすると週に大体3、4日は定時、夕方6時半には子どもたちのお迎えをしなければならない。しかし深夜はともかく、夕方を会議や打ち合わせに使えなくなるのは、たとえ週の半分でもきつかった。
 小木曽の義父・義母たちは、二人の子どもを預かろうかとまで提案してくれたが、同居しているわけでもないのに、さすがにそれはためらわれた。何より春希自身が、子どもたちとひとつ屋根で暮らし続けることをあきらめたくはなかった。春希自身の母も、ありがたいことに「なんだったら同居してもよい」と申し出てくれたが、雪菜のいない今となっては、時々預ける程度であればともかく、同居に踏み切るにはハードルが高かった。
 それゆえ当初2、3か月は、春希は極力一人で頑張ったのである。夕食の手伝いに小木曽の義母は週2回ほど来てくれて、作り置きもしておいてもらえたので相当に助かったが、それでも義父も義弟もいる一家の主婦である義母に、深夜まで付き合ってもらうわけにはいかなかった。その上で職場とも相談し、仕事の量も若干抑えてもらい、出張も当分は差し控えることとした。
 ――それでも無理はあちこちに来た。現状春希は雑誌ひとつの制作進行を取り仕切るほか、雑誌二つに深く関与し、平均して月1冊程度の単行本を担当するというペースで仕事をしており、単純に自分一人でこつこつ作業をするというスタイルは取れない。正規の会議や打ち合わせはすべて昼間に回したとしても、緊急のミーティングや調整業務の飛び込みは避けがたい。そのすべてを任せられるほどの同僚・部下もいない。いきおい深夜の夜なべ仕事も、個人作業だけでは済まず、時には電話で話し込んだり、ネットでテレビ会議をしたり――ということになった。それは当然春希個人の疲労を深めるだけではなく、周囲をも巻き込むことになった。夜中にごそごそしていては、子どもたちの睡眠の邪魔にもなる。付き合わされる同僚やライターたちにも、いろいろとしんどい思いをさせる。それへの申し訳のなさがまたストレスになる――という悪循環。

 そんな日々の中、雪菜が元気な頃から、どんなに忙しくとも週に1度は北原家を訪れて、ちびたちと遊ぶことにしていたかずさが、子供らが寝静まった土曜の夜、劇甘コーヒーを入れたマグを抱えてぽつりと言った。
「――春希ぃ、お前いい加減、もっと休め。お前のためじゃない、春華たちのためだ。」
 余計な気負いやからかいもなく、ぶっきらぼうにしかし直截に、かずさは春希を諭した。
「あたしが言う筋合いじゃないかもしれない。しかし、雪菜はいないんだし、お母さんたちはまだ遠慮しておられるから、あたしが言うしかない。――お前が無理をすると、子どもたちにしわ寄せがいく。――わかってるか、お前? ほんの少しだけだが、イラついてるぞ。そのイラつき、子どもたちにうつってるぞ。」
 ――たしかにそうだった。雪菜がなくなってから、雪音は赤ちゃん返りの気味があり、抱っこをねだる回数は格段に増えたし、指しゃぶりまで始まった。春華は春華で、普段は変におとなしいが、前はたくさんの色を使いこなして丹念に塗り込んでいたスケッチブックのお絵かきが、急に雑ななぐりがきになってきている。
「わかってるさ。わかってるけど――。」
「――このままじゃお前、身体こわして入院するまで休まない。それじゃ遅い。少しペース落とせ。周りを頼れ。」
「――しかし……。」
「――そこまで鈍いんじゃ仕方がない。わかった。はっきり言う。あたしを頼れ。頼りないとは思うが、信用ならないと言うのはわかるが、そこはお前が考えて、しっかり指示することでカバーしてくれ。そしたらあたし、頑張って覚えるから。仕事が休めないんだったら、ちゃんと仕事してくれ。それで、帰ってきたら、子どもたちの前ではすっぱり切り替えてくれ。」
「お、おい……。」
「勘違いするなよ? お前のためじゃない。雪菜のため……と言いたいところだが、もちろん頼まれたわけじゃない。ちびたちのためであるし、何より、あたしがそうしたいんだ。」
「えっ――。」
「――前はそんなことなかったんだけどな、雪音はともかく、最近は春華もわりと露骨に、あたしが帰るのをひきとめようとするんだ。「もっと歌って」「もっとピアノ弾いて」「もっと絵本読んで」「もっと遊んで」ってな。普段はそうでもないんだが、遅くなると急にわがままになる。
 ――だから、あたしは、もうちょっと定期的にこっちに来て、ちびたちの相手をしてやる。週の半分、とは言わない。でも、2、3日くらい、どうにかしてやる。ご飯はちょっとどうにもならないから、すまないけど、おかずを準備しておいてくれ。今まで通り、小木曽のお母さんが手伝ってくれれば助かる。その代り、お迎えも、お風呂も、寝かしつけも何とかする。その日はお前は、帰ってこなくても――徹夜で仕事しててもいい。いざとなったら、朝のお見送りだってしてやる。じっくり集中して仕事してこい。――そうでない日は、うちに帰ったらちゃんと子供と付き合って、ゆっくりしてやれ。」
「――ありがたいが、そういうわけには……。」
 春希は思わず声を上げたが、
「繰り返すが、勘違いするな。これはお前のためじゃない、子どもたちのためだ。ちびたちに「もっと一緒にいて」と言われたから、そしてあたしにはそれができると思うから、言ってるんだ。もちろん、お母さんたちとも、保育園ともよく相談して、頼めることはもっと頼め。いくら何でもあたしが信用できないと思ったら、そっちを頼れ。――いくらお前が何でもできるからって、男親ひとりで小さい子供を二人育てるということ自体に、そもそも無理があるんだ。」
とあまりにまっとうなかずさの言葉に、絶句せざるを得なかった。

 付属時代の、いやそれ以上に格好いいかずさが、帰ってきたかのようだった。

 (続く)



[31326] 虚勢(後篇)【WHITE ALBUM2雪菜trueアフター「雪菜のいない日々」】
Name: RCL/i8QS0◆17a7a866 ID:9766d1b6
Date: 2012/02/28 13:35
(承前)

「かずさ。」
 明日からまた定例の、そして今年最後の検査入院という晩の食卓を親子二人で囲んでいると、曜子がいきなり口を開いた。
「何だい、母さん?」
 かずさは何の気なしに聞き返した。
「――あなた、大丈夫? 無理してない?」
「――? あ、ああ。年末年始が忙しいのはいつものことじゃないか。仕方ないよ。もちろん、今年は北原のうちのこともあるけど、その分仕事の方だってちょっとセーブしたし、トータルじゃいつもとそんなには変わらないよ。平気平気。」
 あっさり応えたかずさに、しかし曜子は
「――私が言ってるのは、そんなことじゃないわ。」
と畳み掛けた。
「――うちのこと、ちょっとおろそかになってるかな? その辺、気を付けてるつもりなんだけど……といっても皆さんにお願いしてるだけだけどね。何か気づいたことがあるの? なら、何でも言ってよ。」
 あくまで平静を装うかずさに、曜子はかぶりを振った。
「――私が気にしてるのは、そんなことじゃないわ……。かずさ。あなた、そんなに北原さんに――ギター君のうちに深入りして、つらくないの?」
「――。」
 さすがにかずさも、黙り込んだ。

「あの時ね。あなたが日本に残って、私と一緒にいてくれる、って言ってくれたとき。「産んでくれてありがとう」って言ってくれた時。私は本当にうれしかった。報われたと思った。でもね、少しだけ不安も残ったの。」
 劇甘のハーブティーを啜りながら、曜子は続けた。
「私はあの時、ギター君に頼んだわ。「あの子を受け入れるか、きっちり振ってあげるか、どちらかにして」と。そしてきっちり振られたあなたは、追加公演を立派にやり遂げた。だからその意味でも、あなたが「日本に残る」と言ったときには驚いた。音楽的環境の問題以上に、ギター君と、彼女の――雪菜さんの側にいることにあなたが耐えられるなんて、思えなかったし、そんな無理をする必要もないと思った。」
「……。」
「――それでもあなたは、あれからずっと日本に、私のそば、そしてあの二人のそばに居続けた。そして驚くべきことに、結構楽しそうだった。ウィーンの時のことが信じられないくらい、友だちもできたし、ピアノ以外、音楽以外のことにも少しは関心を示すようになった。何より、あなたは子どものふり――弱い女のふりをしなくなった。」
「弱い女、の、ふり?」
 かずさは問い返した。
「――そう。元来あなたには、人並み外れたエネルギーが、気力、体力、知性がある。そうでなければ、世界のレベルでピアノで、音楽で勝負することなんかできない。そしてそれだけの力がある人間は、たとえピアノを封じられても、それどころか音楽の道を絶たれても、その力をよそに転用して、そこそこの成果を上げることができる――たとえ一流にはなれなくとも、何とかご飯を食べていく程度のことはできる。――本当は今のあなたにも、わかっているでしょう? 「自分にはピアノしかない」とか、「刃物を使う料理なんてピアニストにはもってのほか」なんて、単なる「嘘も方便」――有り余る力をたったひとつのこと――ピアノ――に集中して、高みに上るためのエクスキューズでしかない、ってこと。」
「――まあね……クルマは好きだよ。でも料理はやっぱりダメだ。刃物は使えても、味見ができない。それに「刃物を使うな」って言ったのは母さんだろ。」
と突っ込んだかずさをあっさり無視して曜子は続けた。
「――それでもあなたは、ウィーンにいたころは、ピアノ以外はあきれるほどなーんにもしなかった。まあ、私が何も言わなかったにしても、よ。「自分にはピアノしかない」と言い訳して、ほかの一切に目をつぶった。――でも「ピアノしかない、ピアノしかできないから、ほかは何もしない」なんてのは嘘だった。「ほかのことは何もしたくない、する気がない」というのが本当。そもそもその前、ギター君に会う前のあなたは、ピアノも含めて「何もしたくない、する気がない」状態だったんだから。違う?」
「――そう、だな。さすが、あたしの母親だ……。」
「嫌味は甘受するわ。そういう状況をわかってて放っておいたダメ母だから。――それにしても、元来何でもできるあなたが、そんな状態になったのは、何でかしら?」
「……。」
「――それはつまるところ「甘え」だけど、単なる「甘え」よりもうちょっと深刻な、いわば救難信号。一見、受け身の、消極的な態度に見えるけど、実はそれなりに積極的な、「悲鳴」みたいなものだったんじゃないか……まったく後知恵でしかないけど、今はそう思ってるわ。そしてその「甘え」という救難信号は、私にだけではなく、ギター君にも向けられた。その「悲鳴」が、救難信号があまりに強烈だったから、あんなに素敵なひとがそばにいたギター君も、ついふらふらと迷ってしまった――。」
 淡々と厳しい言葉を連ねる曜子に、しかしかずさは穏やかに、
「――らしくないな。」
と返した。
「――え?」
「ずっとあたしを甘やかしてきた、母さんらしくない、ってこと。どうしてそんなに、真剣なんだ?」
「――今が結構深刻な事態だ、って思ってるからよ。……それより、話の腰を折らないで。ここまではまだ伏線でしかないんだから。
 ――日本に残ったあなたは「甘える」ことをやめた。それはむしろあなたが、自分本来の姿に帰り始めたことを意味したのかもしれない。自分を振った男と、自分の男を奪った女と、それでも友だちで居続けることができたのは、無理して強くなったというより、もともとそれくらいの強さが、あなたにはあったということなのかもしれない。――そんな風に考えて、自分を納得させたこともあったわ。
 ――でもね。人間って複雑なものだから、それはそれで本当だとしても、真実のすべてであるはずもない。あなたの「弱さ」が、ひとを自分に都合よく操るための擬態でしかない、なんていうつもりはないわ。「強さ」も「弱さ」も同じように真実だったと思う。だから、あなたはあの二人のそばにいて、とても楽しい思いをして、たくさんの幸せを分けてもらったのも本当なら、日々絶え間なく傷つけられたのも本当だったと思う。」
「もちろん、母さんの言ってることは間違ってないよ。――でも、それが「人生」ってやつだろう? ――あたしももう三十路だしさ、それくらいの諦めはついてるよ。」
「もちろん、それだけのことならいいわ。でも、その奇妙で哀しい、しかし美しい三角関係の一角は、永久に欠けてしまった――雪菜さんが、いなくなってしまった……ねえ、かずさ、あなた、いったいどうしたいの?」
「……。」
「雪菜さんはいなくなってしまった。そしてギター君――北原さんは男やもめ。もう喪も明けたわよね。そしてあなたは、いま一番、彼の近くにいる女性だわ。彼のお嬢ちゃんたちも、あなたのことを気に入っている。だから、あなたたちが結ばれることは、とても自然なこと。周囲の人間は、みんなそう思っている――私も含めてね。でも、少なくとも私は、同時にそのことがあなたたちを苦しめ、縛っていることもわかっているわ。」
「……。」
「あなた、ただ彼のそばにいたい、彼の役に立ちたい、子どもたちのことも愛してあげたい――ってだけじゃあ、もちろんないわよね? 彼のことがほしいんでしょう? 彼の心も身体も、自分のものにしたい、自分の身も心も彼にささげたいんでしょう? だけど、そうしたいのに、できない。」
「……。」
「以前は、雪菜さんがいたから、彼はあなたのものにならなかった。彼女から、彼を奪うことができなかった。そして今は逆に、雪菜さんがいないから、彼を奪うことができない――奪う相手がいないから。」
「――何、だって?」
 かずさは母をにらんだ。曜子はふっ、とため息をついた。
「死んでしまった相手と勝負することはできないから。そのうえ、今のあなたがあるのはその死んでしまった雪菜さんのおかげでもあるから。雪菜さんなしの北原さん、春希君、のことを、あなたもまた考えることがほとんどできなくなってしまったから。春希君と一緒にいることが、同時に、今はもういないはずの雪菜さんと一緒にいることに、あなたの中でなってしまっているから。――だからあなたは、彼と一緒にいたいし、現にほかの誰よりも彼のそばにいるのに、彼の胸に飛び込むことができない――。
 そんなしんどい思いをするくらいだったら、いっそのこと、逃げても……距離を置いてもいいのよ? 最初にあなたが、ウィーンに逃げてきたように。」
「……。」
「――いい大人相手に、余計なことを言い過ぎたかしらね……忘れてちょうだい。」
 自嘲する曜子に、かずさは優しく微笑んだ。
「……いいよ、母さん。おかしな話で、ついこないだもほかのおせっかいなバカに、似たようなことを言われたよ。――あたしたちを見てれば、誰でも同じようなことを思い付いちゃうんだろう。仕方ないよ。」
「誰でも思いつくような、つまらない話、だと?」
「そういうこと。――なあ、母さん。
 たしかにあたしは、ちょっと無理をしてるんだろう。虚勢を張って、痩せ我慢してるんだろう。それは、認めるよ。――でも、逃げないよ。ウィーンに逃げたって、ろくなことにならなかったんだから、もう逃げない。それに……。」
「――それに?」
「虚勢を張って痩せ我慢してるのは、あたしだけじゃないから。それがわかってるから、もう少し頑張れるよ。」



[31326] 大好きなもの(前篇)【WHITE ALBUM2雪菜trueアフター「雪菜のいない日々」】
Name: RCL/i8QS0◆2e426366 ID:9766d1b6
Date: 2012/08/12 10:58
 年明け早々、1年半ぶりの「冬馬かずさの〈親子のための〉ピアノコンサート」は、ブランクも、司会者交代もものともしない成功を収めた。
 近々局を離れてフリーになる予定の柳原朋の、雪菜とはまた一味違う、しかし水際立った司会ぶりはもとより、ゲストの橋本健二が意外なまでにいい味を出して、子どもたちには大受けだった。今回の目玉は「子供向けクラシック」としてはあまりにベタといえばベタなプロコフィエフの『ピーターとおおかみ』だが、ピアノ連弾アレンジと朋のナレーションによって、華やかで愉快なステージが展開された。成人男性たる春希にとっては、日本人女性としては長身のかずさが、橋本の隣に座れば小さく可憐に見えてしまうあたりも興趣を誘った。

 コンサートがはねた後の打ち上げは、いつもとは違い、冬馬邸でささやかに行なわれた。参加メンバーは冬馬親子、橋本、朋に、飯塚家――武也と依緒と赤ちゃん、そして北原姉妹と、保育園の同級生たちとその親たち――雪菜のママ友たち。コンサートスタッフの慰労はまた別の機会に行うことにして、今回はごく内輪で、コンサートの陰の功労者?たるママ友たちをもてなす会にすることをかずさが希望したのだった。春希としても異論があろうはずもない。雪菜を引き継いだナイツの新担当も、その他スタッフたちも快く了承してくれた。柊さんは仕事が忙しくて来られなかったが、二人の子ども、優君と友樹君は鈴木家に伴われてやって来た。漫画家とフリー編集者の坂部家、キャリア官僚夫婦の水野家というご多忙組も、今回こそはと勢揃いした。
 料理の方は、主(あるじ)には不相応に立派な設備の冬馬邸キッチンを縦横に使って、依緒と春希、それに亮君のママパパ――本田夫妻が腕を振るった。妻に無情にも「置いてこよう」と言われた本田さん(夫)だが、料理の腕を買われて急遽参戦となり、バラエティに富んだオードブルを用意してくれた。その間子どもたちの相手は、橋本健二が率先して引き受けてくれていた。人並み外れた彼の巨体は、子どもたちにとってはちょうどいい遊具であった。また、近々育休明けで職場復帰を控え、保育園を探していた依緒にとっては、雪菜のママ友たちはまたとない相談相手であり、初対面とは思えないほど打ち解けて、赤ちゃんはママたちにもみくちゃにされていた。赤ちゃんに夢中のママたちにちょっと気圧された様子の武也を、ここぞとばかりにからかう春希は、珍しく意地悪い顔をしていた。そして曜子とは言えば、「一杯だけ」とかずさに厳命されたワインのグラスを片手に、滞欧経験の長い水野夫妻と何やらどこかの古都の都市行政を罵倒しては盛り上がっていた。
 ――そんな喧噪の片隅で、ポートワインのグラスを片手に、冬馬かずさはほっとため息をついてもの思いにふけっていた。
 当然といえば当然のことだが、雪菜がいない「〈親子のための〉コンサート」は、何の問題もなく、あっさりとうまく行ってしまった。何だか変な気持ちだ。今までは、舞台の上に雪菜がいた。雪菜は図々しくも「お姉さん」を名乗っていたが、れっきとした母親だった。だからこその「〈親子のための〉コンサート」だったと、自分は思っていたけれど、今日のコンサートは違った。自分も、柳原朋も、橋本健二も、ひとの子の親ではなかった。それでも今日の「〈親子のための〉コンサート」はすんなりとうまく行った。それがまあ「プロ」の仕事だということなのだが、立派にやりおおせてみるとそれはそれで妙な屈託やら感傷やらが浮上してしまう。
 ――と、そこに、
「冬馬さん。」
と声をかけてきたのは、橋本健二と並ぶ本日の功労者、柳原朋だった。
「柳原さん――今日は本当にありがとう。お見事でした。」
「こちらこそ、ありがとうございました。楽しかったですよ!」

 帰国以来の間柄ではあるが、自分としてはそれほど親しく交わってこなかったこの柳原朋という女性は、この機会に少しつきあってみて初めてわかったが、何とも味わいのある人物だった。
 生前の雪菜はよく朋を評して「辟易させられる出世主義の俗物」と罵倒していた。二人が同席した際には、ほとんどの場合一方的に朋が雪菜をからかい、いじるのが常であったから、その鬱憤晴らしだったのだろう。ただその罵倒はいつも楽しげで、親愛の情にあふれていた。
 確かに柳原朋という女性は上昇志向の塊で、決して優雅でも上品でもないのだが、かといって品性下劣とも到底いえない。彼女には嘘がなく、裏がなく、一貫して真摯だった。今回のコンサートにおいても、やる気がないわけではないがやや腰の重かった自分と春希を「でもやりたくない訳じゃないんですね? じゃあやりましょう!」と追いつめ、具体的に準備段階にはいると、自分にできることとできないこと、そしてやったことはないががんばればできそうなこと、を早々にリストアップした上で、「というわけで、こんなわたしにやらせたいことを具体的におっしゃってください。今言った範囲内でのことでしたら、きっちり仕上げて見せますから。」と言いきり、事実その通りにやってのけた。その胆力と実行力は評価しないわけにはいかない。
(雪菜だってわかってたろうけど、たぶん本当は、この人は「俗物」なんかじゃない――胸の奥に、とても大切な何かをしまっていて、そのためにはなりふり構わず、何ものをも惜しまないんだ……それはいったい、何だろう?)
 屈託なく笑う朋に笑みを返しながら、かずさは思った。
(朋の大事なもの――? そんなの決まってるじゃん、自分だよ自分。あの子は自分がだーい好きなんだ。)
 不意に脳裏に、雪菜の声がこだました。なんだかこのところ、そう、ちょうど一周忌を過ぎたあたりから、やけに生々しく雪菜の思考や息づかいを感じることがある。亡くなった直後は、雪菜のことを思い出すことは苦痛だった。そこにいるはずの雪菜がいないことの欠落感、喪失感は、時にほとんど肉体的な苦痛をかずさに与えた。ことあるたびに襲いかかってくる雪菜との日々の思い出に、胸がふさがり、涙が溢れた。しかしそういう悲しみも、当然のことながら、時が経ち、日々の雑事に追われる中で、ゆっくりと薄らいできた。そうすると今度は、時折、雪菜があたかも生きているときと同じように、語りかけてくるような気がすることがあった。
 錯覚ではもちろんないし、幻覚ではない。しかしながら「ありありと思い出す」というのでもなかった。生前の雪菜のことを思い出しているのではない。自分でも意識しないうちに「雪菜ならこう考えて、こう言うだろう」という思考が、自分の中で自動的に走り出すのだ。まるで自分の脳内に、雪菜のシミュレーターが走っているみたいだ
(――なんて、まるであたしがコンピューターオタクかゲーム廃人みたいじゃないか!)
と、かずさが脳内で一人ノリツッコミをしていることなど、もちろん朋は夢にも思わないので、急に眉根を寄せたかずさに
「どうしました?」
と怪訝な顔で問いかけた。
「――い、いえ、何でもありません!」
 かずさはあわてて応えた。
(続く)



[31326] 大好きなもの(後篇)【WHITE ALBUM2雪菜trueアフター「雪菜のいない日々」】
Name: RCL/i8QS0◆2e426366 ID:129b0297
Date: 2012/05/05 12:54
(承前)
 ちびたちと遊ぶ橋本健二をニコニコと眺めながら、朋はウーロン茶のグラスを片手に鼻歌を歌っていた。そこでひとつ、かずさはたずねてみることにした。
「今日――なんで……歌わなかったんだ……ですか?」
 問われた朋はひょい、と眉を上げ、
「前もって申し上げたでしょう? 今回は、歌えません、って。」
と、よどみなく答えた。
「う、うん――その通りです……でも……なぜ、ですか? あの時は、本番前だったから、「なるほどそんなものか」とあなたの申し入れを受け入れた。でも、終わってみると思うんだ。あなたなら、司会だけじゃなくて、雪菜みたいに歌えたんじゃないかって。」
 ――そう、あたしは、あなたの歌を知っていた。雪菜を送るとき、あたしのピアノで、あなたに「時の魔法」を歌ってもらったんだから。あれは、完璧だった。
 その思いを胸に食い下がるかずさに、朋は「えへへ」と笑った。
「――うーん、そりゃね、私もどっちかっていうと歌いたかったですよ、久しぶりに冬馬さんのピアノで。でもね、少なくとも今回は、ちょっと、準備不足かなー、って。」
「――そんなことは――それならそれで、リストをいじれば……。」
「――それじゃだめなんですよ。――もちろん、雪菜だってポップシンガーで、ちゃんとした声楽の訓練は受けてませんでしたから、アリアとか歌ってたわけじゃないことは私だって知ってます。実際2回は客席で聴いてましたから。でも――。」
「――そう、大体雪菜にだって、本格的なリートよりは、むしろミュージカル・ナンバーとか、映画音楽とか、ポップスに近いものを多く歌ってもらってたんだ。だから、柳原さんだって、十分……。」
 案外としつこいかずさに、朋は目を丸くして、ため息をついた。
「――うーん、まいったなあ。……わかりました、白状しますよ。すみません、今回「歌わない」といったのは、基本私のわがままでした。ごめんなさい。」
 頭を下げる朋に、かずさもほうっ、と、一息ついた。
「――いえ、謝っていただく必要なんか、ない。「わがまま」で、全然問題ない。そんなこと言ったら、そもそもあなたが「コンサートやれ!」って怒鳴り込んできたところから全部、あたしたちはあんたのわがままに付き合わされた、ってことになる。でも、それに結局はそれに乗っかって正解だったんだから、むしろ感謝してる。だから、わがままを責めてるんじゃあありません。ただ、何で、今回は歌いたくなかったのかな……と。」
 かずさの問いかけに、朋はグラスのウーロン茶をぐい、っとあおってから応えた。
「――そう、ですね。端的に、準備が足りないな、と思ったんですよ。雪菜の完璧なコピーをするにも、逆に、雪菜のことなんかなかったことにして、まったく新しい「うたのおねえさん」を作るにも。今回私が歌っちゃったら、雪菜の中途半端なコピーにしかならないな、と。それくらいなら、司会に徹しちゃったほうがいいな、と思ったんです。あくまでこのコンサートの主役は冬馬さんであって、「うたのおねえさん」じゃない。雪菜だって、そりゃ自分でも楽しそうに歌ってたけど、あくまでも冬馬さんを盛り上げることを眼目にしてたはずです。」
(ふふっ、相変わらず、朋らしいな。全然ぶれてないよ。自分が一番。――でも成長してる。)
 かずさの脳裏でまた、雪菜が楽しそうに笑った。
「そもそも私は、雪菜みたいな「歌バカ」じゃありません。機会さえあれば、何が何でも歌いたいってわけじゃ、ないんです。私が目指してるのはシンガーじゃありませんから。」
グラスを空にして言い切った朋に、思わずかずさは
「――そうか……つまり、マルチタレント?」
と突っ込んだ。さすがに朋は顔をしかめた。
「――間違ってないんだけど……そんな風に言葉にされると、なんかイヤですね。」
(でも、間違ってないよね。あたしが「歌バカ」なら、朋は「マルチタレント」。うん。問題ない。)
とかずさの脳内の雪菜は、反論されない強みを楽しむがごとく突っ込み続けていた。
 と、そこに
 きんこーん――
と呼び鈴が鳴った。インターホンの近くにいた春希が
「はーい?」
とたずねると、
「すみません、おそくなりましたー。」
と女性の声が応えた。
「ああ、お義母さん、わざわざありがとうございます。今開けますよ。」
「ああ、あたしも――。」
と立ち上がりかけたかずさを目で制して、
「おばさんたち、いらしたのね? いまお迎えしまーす。」
と朋は腰を上げた。

 春希に伴われてごった返していた冬馬邸のリビングに現れたのは、小木曽家の面々、雪菜の両親と弟の孝宏、そしてもう一人、若い女性だった。
「おじさん、おばさん、ご無沙汰しています。」
「ああ、お久しぶり、飯塚君。――すっかり、父親らしい貫禄がついたな。」
「えっ、俺、そんなに太りましたか?」
「大丈夫、まだそんなに目立ってないわよ。――でも気を付けた方がいいわ。」
「――まいったなあ……とにかく、お久しぶりです。お元気そうで何より。孝宏君も。」
「今晩は飯塚さん。おちびちゃんは?」
「ああ、おかげさまで。おーい、依緒?」
「はいはい。ちょっと待って……。」
 出迎えた飯塚夫妻と談笑する小木曽家に挨拶しようと、かずさは曜子に目くばせした。曜子は軽くうなずき、水野夫妻との会話を切り上げて立ち上がった。
 久しぶりに会う雪菜の父は、少し白髪が増えたようだった。しかし今日の夫妻は二人とも、雪菜が亡くなって以来の晴れやかな笑顔を見せていた。
「雪菜のお母さん、お父さん、今日はわざわざありがとうございます。」
「小木曽さん、奥様、ご無沙汰しています。娘がいつもお世話になっています……。」
と母娘そろって頭を下げると、
「いえ、こちらこそ、いつもいつも本当にお世話になっています。」
「冬馬先生、お久しぶりです。お嬢さんには感謝の言葉もありません。生前はもちろん、亡くなってからもここまで付き合って下さって……本当にありがたいことです。――先生も、おからだ、大丈夫ですか?」
「お気づかいありがとうございます。おかげさまで、何とかまだ生きておりますよ――。」
 何だか、どっちがより深く頭を下げるか、の勝負になってきつつあった。
「本当に、今日は、娘が亡くなってから初めての「子どものためのコンサート」だというのに、伺えなくて、申し訳ございません。」
 雪菜の父が改めて深々と頭を下げた。
「こうなってみると、生前、もっと雪菜のステージに足を運んでやればよかった、と悔やまれます。――まあもちろん、本人は私どもが客席にいることを、ひどく嫌がってはいましたが。しかし、こうして「コンサート」が続くことで、なんだか、あの子が生きていた証が刻まれていくようで……本当に、感謝しています。」
「ええ、主人の言うとおりですわ。朋ちゃん――柳原さんもね、本当にありがとう。」
「――やだ……おばさん……やめてください――。」
 朋は泣き笑いになった。
「――今日のコンサートに伺えなかったのは、ひとえに、ぼくたちのわがままによるものですから、ご勘弁ください。」
 そこに緊張した面持ちで割って入ったのは孝宏だった。
「はい、孝宏さんと私――いえ、私の事情によるものですから。本当はお父様もお母様も、お出でになりたかったはずです……。」
と、孝宏の隣の女性も、頭を下げた。そして、
「ご挨拶が遅れました。冬馬曜子先生、はじめまして。園田亜子、と申します。冬馬かずささん、お久しぶりです。」
と、まっすぐ前を向き、曜子とかずさに、やや緊張した面持ちで正対した。
「ああ、あなたが……。お噂は伺ってますよ。大丈夫、今日の事情は小木曽さんたちからちゃんとお聞きしてますから。」
 曜子は破顔した。かずさも、
「ああ、お久しぶり、亜子さん。――おめでとうございます。孝宏君も。」
と明るく声をかけた。
「あ、ありがとうございます!」
「……ありがとうございます!」
と亜子は、そして涙ぐみながら孝宏も、再び頭を下げた。

(まったく、肝心なところで抜けてるんだから、孝宏も、お父さんも……。)
 頭の中の雪菜がため息をついた。
(まあ、言ってやるなよ。こっちも、朋のおかげで、急にどたばたと話が進んだわけだし、向うも困ったんだろうさ。)
 少し酔いが廻った頭で、かずさは脳裏の雪菜に切り返した。
(まあね。結局、朋が悪い、としとけば、丸く収まるよね。……でも、なんだか安心したよ。お父さんもお母さんも、またあんな風に笑えるようになったんだ……。)
 今日、小木曽家の面々がコンサートに間に合わなかったのは、孝宏と、園田亜子との結納のためだった。本来であれば、もう1年以上も前に済んでいるはずだったのだが、雪菜の急逝のために延期となっていたのである。雪菜の喪が明けてどたばたと進めて、何とかスケジュールを都合してセッティングが終わったあたりで、今回のコンサートの日取りが決定したのだから、どうしようもなかった。
(死んじゃった者より、生きてる人の方が大事だもん。うん、これ以上引き伸ばさなくって正解だよ!)
(それはそう……なんだろう……けど、さ。)
(かずさ。かずさの、大事なもの、は、何?)
 軽やかに笑っていた脳裏の雪菜が、急にこちらを向いて静かにたずねた。狼狽したかずさは、つと眼を泳がせた。そこに、孝宏、亜子と談笑する春希がいた。
(そう、だよね!)
 雪菜が脳裏で再び笑みを見せた。かずさは目を閉じた。



[31326] わがまま【WHITE ALBUM2雪菜trueアフター「雪菜のいない日々」】
Name: RCL/i8QS0◆2e426366 ID:129b0297
Date: 2012/05/06 18:50
「ごちそうさま。――さて、それじゃあたしはこれで帰るから、お前も夜なべ仕事なんかせずに、さっさとやすむんだぞ? いいな?」
 二杯目の極甘コーヒーを飲み干し、かずさが立ち上がった。
「ああ、わかってる……下まで、送ろうか?」
と春希も腰を上げたが、
「いいよ、そんなこと――ここで結構。ちびたちを置いてくんじゃない。」
かずさは玄関へと続く短い廊下から振り返り、笑って首を振った。そのほんの少しの距離が不意にもどかしく、ほんの少しの時間が急に名残惜しく感じられて、立ち上がった春希も彼女を追って、つい玄関まで来てしまった。そしてこちらに背中を向けてコートを着込む姿を、声をかけるでもなく見つめていた。
 コートを着終えたかずさが、春希に向き直った。
「それじゃ、来週は、火、金でいいんだな?」
「あ、ああ、頼む。最近は、少し余裕を持って組んでるから……。」
「本当か? 年度末なんだろ? なんかいろいろあるんじゃないのか? うちなんかいま美代子さんと税理士さんとで、申告に向けててんてこ舞いだ……。お前、平気なのか?」
「お前、俺はただのサラリーマンで、副業も副収入もないんだぞ。……少なくとも今は。全部会社の総務におんぶにだっこだよ。」
「ほう、そりゃ気楽なもんだな――って、そうか。そうだよな……。」
 ふっとかずさが黙り込んだ。そこでつい春希も、自分が軽く失言をしてしまったことに気付いた。

 副業も副収入もないサラリーマン――それが現在の自分だった。いずれ実家の財産の幾分かが、自分のところに転がり込んでくる可能性はあったが、当分先のことだし、本家が面倒くさいことを言って来れば相続放棄くらいしてやるつもりはあった。問題はそんなことではない。つい一昨年までは、毎年自分にもささやかな副収入が、給料以外にも舞い込んできたのである。そう、作詞家・演奏家としての印税が、ほんのちょっとだけ。
 三人の合作である「時の魔法」は『アンサンブル増刊・冬馬かずさ総特集』付録のミニアルバムから、正規の冬馬かずさファーストアルバムにもフィーチャーされた。そしてアルバムの増刷がかかるたび、印税が春希と雪菜のもとにも律儀に振り込まれた。その後も二人はかずさのアルバムに(かずさと雪菜の共謀によって、春希の希望は意に介されずに)二回ほど動員されたので、その分まで合わせると、大体毎年コンスタントにギリギリ六ケタていどの報酬を、雪菜と春希は得ていたことになる。この他にも雪菜には、インディーズミュージシャンとしての収入も、スズメの涙程度にはあった。
 しかし、一昨年雪菜が亡くなってからは、音楽活動どころではなかった。もちろん旧作は市場に出回り続けてはいたが、なんだかんだあって昨年はどれも増刷がかかっていない。そういうわけで昨年の春希の、そして北原家の収入は、春希の給与のみ、ということになった。

 ――さて、どういってこの場を繕うか――と春希が逡巡していると、かずさが小さな声で、
「――落ち着いたらさ、また、やろうか?」
とつぶやいた。
「や、やるって、何を?」
と春希は、狼狽しつつ我ながら間抜けな反問を返した。かずさは上目づかいで少し膨れて見せて、
「決まってるだろう――歌だ。また、作ってくれ。あたしのために、詞を書いてくれ。」
と、小さく、しかしはっきりと言った。
「――しかし――ボーカルは、誰が? 雪菜は、もう、いないんだぞ?」
思わず春希は聞き返した。
「わかってる。――だから……そこは、未定だ。でも、とにかく、作ってみてくれないか? そうしたら、あたしも頑張って、曲をつける。ボーカルは――誰に歌ってもらうかは、それから決めればいい。と言うより、そうしなきゃいけない――。」
と、そこでかずさは一瞬下を向き、ぶるっと震えてから、春希に向き直った。
「だって、雪菜は、もう、いないんだから。それでもあたしは、うたっていかなきゃいけないんだから。そして、お前も。」
 まっすぐに見つめるかずさの眼を、春希もまたまっすぐに見つめ返した。少しの間をおいてかずさは視線をそらし、くすっと笑った。
「柳原さんが――朋がさ、言ってたんだよ。」
「柳原さんが? 何を?」
「今回、なぜ「司会」だけで、「うたのおねえさん」はやらなかったのか、って聞いたらさ。「雪菜の完コピか、自分の完全オリジナルか、どっちかでなければやる気になれなかった」ってさ。今回は、そのどっちも間に合いそうになかったから、一切歌わないことにしたんだって。」
「――そうか……。いかにも、あの人らしいな。」
「そうなんだ。しっかり、筋を通して、あっちにもこっちにもニコニコいい顔をしているように見えて、実はあきれるほどわがままで、自分のやりたいことしかやってない。それでいて、誰にも甘えてないんだ――すごいよ。」
 手放しで朋をほめるかずさに、春希は思わず苦笑した。
「んーー、あれで学生時代は、なりふり構わず、手段を選ばず、人の迷惑顧みず、みんなを振り回す困った奴だったんだが……。」
「ふーん。でも、甘えん坊じゃなかったんだろう?」
「――それは、な……そういうふりして誰かをだましたことくらいは、あったろうけど。」
「そうなんだよ! わがままであることと、人に甘えることとは、違うんだ! あたしは馬鹿だから、この齢になってようやくわかったんだよ! ――考えてみれば、母さんがまさにそういう人だったんじゃないか!」
 かずさは熱のこもった瞳で春希を見上げた。
「だから私も、お前にまた、わがままを言わせてもらう。だってこのわがままは、甘えなんかじゃあないからだ。――あたしのために、また、詞を書いてくれ。」
 その力強い一言に、春希はしばらく押し黙り、そして答えた。
「四月まで――年度が明けるまで、待ってくれ。そうしたら、考えてみる。」
 その答えにかずさは、簡単に納得したようだった。
「そうだな――なんだかんだ言って、年度末は忙しいだろうし、それに何といっても、春華が小学校に上がるもんな。――お前、ちゃんと準備してるか?」
「――当たり前だ。お前こそ、お祝いの方、よろしく頼むぞ。」
「ふっ――まかせとけ……っと、思わぬ長話になっちまった。じゃあ、今度こそ、お休み。またな。」
と軽く手を振り、かずさはドアの向こうに消えた。閉じたドアを見つめたまま、しばらく春希は立ち尽くしていた。それからかぶりを振ると、書斎兼寝室へと引き返して、パソコンを立ち上げた。
 ――かずさにああ言った手前、適当なところで切り上げなければならないが……。
 だがこれは会社の仕事ではない。もちろん、かずさに今しがた頼まれた作詞ではないが、しかしこれもまた――いや、これこそが彼女の言おうとしていたことに違いない――つまり「自分の歌をうたう」ことに。

 ――ディスプレイ上に開かれたテキストファイルの題名は「歌を忘れた偶像」だった。



[31326] 三文小説(前篇)【WHITE ALBUM2雪菜trueアフター「雪菜のいない日々」】
Name: RCL/i8QS0◆17a7a866 ID:129b0297
Date: 2012/05/13 01:14
 できる限り、子どもたちの相手をしてあげて、春希を支えること――それがしんどくないわけではもちろんない。母、曜子の言うとおり、痩せ我慢と言われても仕方がない。切なさに泣き出しそうになることも一度や二度ではない。
 ――だが、まだ耐えられる。というより、いくらでも無限に耐えられるような気が、かずさはしていた。そもそも、かずさは春華と雪音の小さな姉妹を溺愛していた。しかしそれだけではない。
(そりゃそうだよ、私がいないもの。)
 脳裏の雪菜がちょっと膨れっ面をしてみせた。
(そうだな――何だかすまないな。)
(それは言わない約束でしょ?)
 今度は楽しそうにケタケタと笑う。そう、この脳裏の雪菜は自分にとりついた悪霊などでは更々なかった。どちらかというと守護霊に近い、とさえいえる。我ながら都合の良すぎる妄想を抱いてしまうものだ、とちょっぴり自己嫌悪に陥ることもあるが、とはいえあの雪菜が自分に恨み言や呪いを吐きつけるなど、自分にはたとえ無意識にさえ想像できないということが、何となく嬉しかった。
(大体、かずさも春希君も大人なんだから、「さびしい」とか「つらい」とか言ってたまに泣くのはいいけど、手を休めるのはだめだよ。守らなきゃいけない相手がいるんだから。子どもたちや、曜子さんや。)
 脳内で訳知り顔で説教を続ける雪菜をそのままに、かずさは練習を再開した。既に暗譜した楽曲は、そろそろ自動的に指先から流れ出すところまで来た。ここから再び、徹底的に理詰めで考え直し、解体、再構築していかねばならない――のだが、ついつい思考はあさっての方を向いて漂っていく。
 ――つらいけど、耐えられる。それはちょうど、雪菜と出会う前に、春希に甘えてすがりつきたいのに見栄を張っていた頃と同じだった。同じ見栄を張った痩せ我慢でも、「春希を想うのは自分だけだ」と思い込んでいられたときと、雪菜と出会い、いつ春希を奪われるかわからないという不安にさいなまれるようになってからとでは、まったく違う。
 今の自分には、雪菜という「敵」はいないし、春希の自分への想いへの揺るがざる確信もある。拒絶への恐怖で身がすくむこともない。
 ――そういうネガティブな不安ではなく、どうすることが春希にとって、子どもたちにとって一番よい選択なのか……そこのところでまだ確たる方針が定まらないところが、最大の難点だった。
(だーかーらー、「見る前に跳べ」って言ったじゃない!)
(なんだよ、酔った紛れに押し倒せっていうのか?)
(そんなこと誰も言ってないよう……うーん、でも、いまみたいにぐじゃぐじゃ悩んでるだけよりはましかな?)
 勝手に動く指先を尻目に、脳内対話は続いていた。
(わかってるかなー、これってホンッッッッットにしょうもない、ぜいたくな悩みなんだよ? 春希君がかずさに告ってくれるか、かずさが春希君に告るか、それだけであっという間に全部片付いちゃうんだよ? 何を意地張って変なチキンレース続けてるのかな?)
(別に根競べなんかしてるわけじゃない。ただあたしは、まだ自分に、春希と子どもたちを支えて、守ってやれるという自信が、持てないだけなんだ。)
(だから言ってるじゃない、「見る前に跳べ」って! 結局それじゃ、ただ春希君を受け身で待ってるのと変わんないよ?)
 ――違う。
 そこのところだけは、妙な確信があった。
 おせっかいで世話焼きで有能な春希もまた、自分と同様、何が一番かずさと、子どもたちのためになるのか、ひどく悩んでいるのは明らかだった。しかしそれにとどまらない、もう少し複雑な悩みを抱え込んでいる――かずさはそうにらんでいた。とりわけあの怪物、女優の瀬之内晶に会って以来。
 少しセーブしている、と春希は言っているし、たしかにこのところ早く子どもたちをお迎えし、引き上げることが多い。しかしながらあいつは夜中に家で何やらこそこそとやっている。何かに集中的に取り組んでいる。あたしの眼はごまかせない。
(あいつはあいつで、自信がないんだ。――というより、もう一歩踏み出そうとしているところなんだ。そこで一歩踏み出せたら、きっとあたしに対しても、もう少し前向きになってくれる。というより、あたしに向き合うためにこそ、その一歩を踏み出そうとしてくれているんだ。)
 でも――それにしても、具体的には、その「一歩」とはなんなんだろう……? もちろん、作詞とかギターだとは思えない。
 つい、脳裏の雪菜にたずねかけてしまう。しかし雪菜も
(なんだろうねえ……?)
と頼りなかった。そうこうしているうちに演奏は、ツボを見失ったまま終了してしまった。
「……もういっぺんやり直しだ。」
(詞じゃなくてさあ……曲を先に作っちゃって、春希君に押し付けたら?)
(――なるほど、それもありかな?)

 結局のところ、自分にできることなどそう多くはない。
 自分は、気力や体力は人より多少は勝っているようだが、基本的には平凡な愚物である。
 それが、北原春希の自己認識だった。
 そうである以上、瀬之内晶/和泉千晶はもちろんのこと、橋本健二の真似をしても仕方がない。他人の人生を、本人以上に深く理解して劇的に表現することもできないし、終わってしまった過去の出来事を、未知の未来に開かれた現在へといったん差し戻して、かき消された可能性を発掘することも手に余る。
 ただ、彼らのどこが自分を引き付けるのか、そしてまた、彼らにとって物語とはなんなのか、を理解することは、たぶん何かの役には立つはずだ。
 ――そんな風に思いながら春希は、何度となく千晶の舞台のDVDを見直し、橋本健二の草稿を読み返していた。
 そしてもうひとつ。亡くなってから、思い出すのがつらさに遠ざけていた雪菜の歌を、また少しずつ聞き直すことを始めた。かずさと自分との合作のCDも、他のバンドへの客演のビデオもひっくるめて、生真面目に聞き込んでみた。
 ――雪菜にとって歌とは、一体何だったんだろうか。
 ひょっとしたらかずさにとってのピアノ以上の意味が、雪菜にとっての歌にはあったのではないか。
 春希と離れていた間、かずさはピアノにのめりこみ、幻想の中の春希と逢瀬を重ねた。それに対して雪菜は、春希とかずさを思い出すのを恐れて、歌を一切封印した。
 その違いはいったいなんだったのか。
 ――それを少しでも理解しようと思って春希が始めたのは結局、雪菜と、かずさの物語をつづることだった。
 それはひょっとしたら、自分などの器では足りない、それこそ千晶の物真似にすぎない作業なのかもしれない。しかしそれは同時に、自分の物語でもあった。雪菜を主人公に、自分を第三者として描くことで、ひょっとしたら自分自身をもうまく突き放して、よりよく理解することができるかもしれない。
 そう思いながら、自身の記憶、そして雪菜の思い出話を掘り返しつつ、春希はまずあの三年間の物語を、雪菜の視点から少しずつ組み立てていった。それに行き詰ると今度は、雪菜と出会う前の、自分とかずさの物語を、かずさの視点でつづっていった。
 ――正直、楽しい作業ではない。むしろ苦痛だった。しかも、そうやって自分を傷めつけながらつづるこの物語も、縁もゆかりもない他人の眼からすれば、愚かしくも甘酸っぱい、陳腐な青春ドラマにしかならないだろうことがわかるだけに、余計に気がめいった。
「あいつなら、こんな陳腐な話でも、圧倒的な説得力で表現するんだろうけれど……。」
 とはいえ、和泉千晶のアドバイスを受けるというのは、もちろん筋違いだ。同じ鼻で笑われるのなら、一応自力で作った完成品をこそ笑いのめされるべきだ。
「むしろ、意見を求めるなら……?」
 しばらく会っていない、古馴染みの顔が思い浮かんだ。
(続く)



[31326] 三文小説(中篇)【WHITE ALBUM2雪菜trueアフター「雪菜のいない日々」】
Name: RCL/i8QS0◆17a7a866 ID:129b0297
Date: 2012/05/13 18:35
(承前)

「あーあ。」
 新米編集者にして将来を嘱望される新進小説家、杉浦小春はため息をついた。目の前には文章がプリントアウトされた紙束があった。集めればちょっとした長編小説程度にはなるだろう、という程度のかさがあった。
「先輩って、こういう人だったっけなあ――? それとも、私がわかってなかった、ってだけのことなのかなあ……。」
 高校、大学の先輩であると同時に、今でも社こそ違え同業の先輩である北原春希、若手ながらも「将来は開桜社をしょって立つだろう」と一部ではその超人的なやり手ぶり――特に、ピアニスト冬馬かずさをめぐる多メディア展開の仕掛人としての――が噂になっているその春希から、久しぶりに届いたメールは、少々彼女を面食らわせるものだった。
 熱烈な恋愛の末にゴールインして、二人の子供をもうけた伴侶であり、冬馬かずさを巡ってはビジネスパートナーでもあった雪菜を、思わぬ事故でなくして、もう1年半ほどにはなるはずだ。告別式にはもちろん、彼女も参列した。なんといっても北原夫妻は、彼女にとっても因縁浅からぬ相手だったから。大学に上がる直前、優等生でまっすぐな正義漢だった自分に、人の心の哀しさ、強さと弱さについて、鮮烈な印象を与えてくれた二人だったから。そして何より北原春希こそは、自分にとっては初恋――と言ってよい、鮮烈な失恋の相手だったから。
 ――あの二人に会ってなきゃあ、ジャーナリストにはなっていたかもしれないけど、こんな風に、文学には手を出していなかったなあ。
 正直言ってあの失恋は結構、あとを引いた。高三最後の春だったし、推薦が決まっていなければ、大学入試をしくじりかねないほどのダメージを心身に食らった。その傷をいやすために――あるいは、人間というやつの複雑さについて、少し考えてみようかと、勉強家ではあったがどちらかというと明朗活発なアウトドア系、体育会系少女だった小春は、大学入学前の春休みあたりから、手当たり次第に小説を読み漁るようになった。
 初めは、試験勉強に利用するくらいだった高校の図書館の文学全集を、春休みに一通り制覇した。大学に上がってからは、けた違いにでかい大学図書館をさまよっては、いろいろ物色しては興味をひかれたものを、最初は日本語、そして語学力が向上してきてからは、英語やフランス語、スペイン語のものにまで手を出すようになった。
 人類の財産ともいうべき古典、名作ばかりではない。ゴミのようなエンターテインメント、通俗的なミステリやSF、現代のライトノベル。小説以外にも、歴史書、ノンフィクション、ルポルタージュ。ちょっとでも気をひかれたものは何でも目を通した。そして夏休みともなれば、バイトで貯めた金で、流行おくれのバックパッカーとして、年にせいぜい1~2か月と短期間ではあるが海外をふらつき、いろいろな人に会い、いろいろなものを見た。
 そしてそんな日々の中で、いつしか小春は、自分でもものを書き始めた。最初のうちは、大学の文学系やサブカル系の同人誌に、短いスケッチをいくつか寄稿する程度だったが、3年の秋に少しばかりまとまったものが書けたので、ふとした気まぐれで文芸誌の新人賞に投稿してみた。それが春希のいる開桜社の雑誌だったことは、まあ、偶然である。当然のことながら受賞は逃したが、選外佳作として誌面に名前は載った。その縁で応募作本体も、その筋ではメジャーな文芸同人誌に掲載され、地味ではあるが小春は、日本の純文学という小さなサークルの、そのまた端っこくらいにいる存在として、認知してもらえるようにはなった。少なくともその一事があったがゆえに、彼女は開桜社よりも老舗で大手の某出版社に、4年の春にはすんなりと内定を得ることができた。
 本賞を取っていれば、女子大生作家としてマスコミの取材も殺到し、華麗なデビューを飾ることもできたろうが、消耗するのも早かっただろう。世間的には無名でも、業界筋の目利きには記憶され、書いたものを発表する機会も得られる、というバランスはちょうど良いものだった。彼女はその後も小説をマイペースで書き続け、商業誌への掲載もできるようになったが、大学の勉学にも手を抜かなかった。そして「途上国における識字問題」で学部長賞に輝いた卒論を手土産に、彼女はめでたく会社員となった。就職してからも、まずは会社員として、職業的編集者としての自立を優先していた。
 それからもう5年ほどになるか。春希や雪菜ほどの華々しさはないとしても、自分なりにコツコツやってきたことの成果は、それなりに上がってきている。その成果を見込んだ上での、今回の春希の依頼があるわけだが……。
「先輩、どうせなら執筆依頼がほしかったですよ――。」
 やってきたのはごくごく個人的な依頼であり、しかも「書いてくれ」ではなく「読んでくれ」の方だった。
「まあ、他人様の原稿を読むのが編集者の仕事ではありますからね。」
とひとりごちて、一息入れてコーヒーを呑みつつ、小春は春希のメールを読み返した。

「ご無沙汰しています。

 杉浦さんのご活躍の噂は、ぼくも聞き及んでいます。昨年の『文学界隈』に寄稿された小品には、いたく感銘を受けました。機会があれば、当方の雑誌にもぜひご寄稿いただきたいと存じます。

 しかし、今日のお願いは、仕事がらみではなくごく個人的なリクエストです。
 恥ずかしながら、ここしばらく、小説のまがいもの――のようなものを書いています。何と形容したらよいのか、自分でもよくわかりません。普通に言えば「恋愛小説」なんでしょうか。
 「文学」をやっているつもりはないんです。かといってあの、ジャンルとして確立している「ロマンス」とはちょっと違う。むしろ「ライトノベル」といった方がまだ近いかもしれない。痛い、幼い若者の話ですし、ライトノベル的な意味での「わかりやすさ」はあると思う。
 でもまあ正直、自分でも何をやっているのかわからないんです。人に読ませたくて書いているのではなく(お恥ずかしい話ですが、発表についてはまるで考えていません)、あえて言えば、自分で自分のことをわかるために書いています。でも、それがきちんとしたものになっているかどうか、第三者の判断を仰ぎたい、という気持ちもある。

 気が向いた時で結構ですので、よろしければこの「三文小説」をご一読いただいて、簡単でいいから、感想を聞かせていただけないでしょうか。」

「らしくないなあ、先輩。」
 それは、自分の記憶する、ひねくれた堅物のイメージとも、また同僚から伝え聞く、辣腕編集者のイメージとも重ならなかった。
「でも、「三文小説」っていうのは、意識してないだろうけど、悪くないと思いますよ?」
 小春は思わず、にんまりとした。
(続く)



[31326] 三文小説(後篇)【WHITE ALBUM2雪菜trueアフター「雪菜のいない日々」】
Name: RCL/i8QS0◆17a7a866 ID:129b0297
Date: 2012/05/27 22:15
(承前)

 1年半ぶりに会う杉浦小春は、かつての長い髪をバッサリ切ってショートにまとめていたが、相変わらずのまっすぐな美人だった。待ち合わせのカフェに時間ちょうどに来てみると、すでに窓側の席に陣取っていて、すぐにこちらを見つけてにこやかに手を振った。
「――先輩! お久しぶりです!」
 律義者の小春は、いまだに春希を「先輩」と呼ぶ。何ともこそばゆいので、いい加減「北原」という名前で呼んでほしいのだが、そう頻繁に会う間柄でもないので、何となく言いそびれている。
「お久しぶり、杉浦。――今日は俺なんかのために、わざわざ時間を割いてくれて、ありがとう。」
とまずは礼を言うと、小春は華やかに笑った。
「――何を言ってるんですか、他ならぬ先輩のためですから、時間なんかいくらでも――それに、そもそもあんな大部なテキストをいただいた時点で、長期戦は覚悟してましたよ……。」
「その点は本当にすまない! ――しかし、そういう割にはずいぶん早く読んでくれたな――?」
 春希が首をかしげると、小春は、
「ええ、読みやすかったですからとっても。」
と笑って返したうえで、真顔になって、
「で、この原稿、どうなさるおつもりなんですか?」
と聞いてきた。
「――どう、って……メールしたとおり、とりあえずただ、書いてみただけなんだ。本当に、発表とかそういうことは、考えてない。大体、商品になるようなもんじゃないし――。」
と春希が逡巡しつつ答えると、小春はズバリと切り込んできた。
「――そうでもないですよ? 先輩、「三文小説」と卑下してらしたけど、「三文」くらいの価値は優にあると思います。つまり、「ランチ代と同じくらいなら払ってもいい」という読者が一定程度はつくとは思いますよ? ――ブラッシュアップすれば、ジュニア小説なりライトノベルなり、ひょっとしたらロマンスのレーベルでも出せるかもしれないし、出せないとしても、これだけ書ける人ならひとつ育ててみよう、って編集者もいるかと思います。――私の会社の人間、紹介できますけど?」
 いきなりプラクティカルに畳み掛ける小春に、春希は少し狼狽した。
「い、いや、さっきも言ったように、発表しようとか、これで俺も小説家デビューしようとかいう野心は特にないんだ。ただ、自分の気持ちに整理をつけるために――。」
「ならどうして――。」
 ふいに小春の声が低くなった。
「他人である私に、この原稿を見せたんです?」
 その表情は、10年ほど前、初めて会った頃の厳しさを連想させた。

「恋愛下手の私が言っても説得力皆無かもしれませんけどね、」
と言って小春はショットグラスをひと息であけると、
「恋愛小説ってのは難しいんです。特に悲劇は。」
と春希をにらみつけた。
 何だか話が長くなりそうだ、と直感して移動したバーで、小春は最初から急ピッチだった。念のためにかずさが来る日に、仕事を早く切り上げておいたのは正解だった。
「そもそも悲劇っていうのはギリシア以来、運命の残酷さと、それに打ちのめされる人間を描くものです。そしてそれを通じて、打ちのめされ、破滅しながらもなお輝く人間の素晴らしさをたたえるというか、祈りをささげるものです。
 それに対して喜劇っていうのは、これもギリシア、ローマ以来、人間の卑小さ、醜さ、愚かさを描いて笑いのめすものです。でも良質の喜劇は、そういうずるくて醜くて卑怯な人間を、決してそこに居直るんじゃなしに、それでもあたたかく肯定します。」
 グラスを片手に、小春の講義は続いた。
「そういう意味じゃ、恋愛っていうのは、特に近代以降は喜劇向きの主題なんです。ですから、ラブコメが少女まんがの王道なのは正しいんです。ハーレ×インがご都合主義のハッピーエンドばっかりなのも、そういうことなんです。「残酷な運命」とか言っても今日日は説得力がないですから。
 ――じゃあ近代以降における恋愛悲劇っていうのはどういうものか? 要するに『ウェルテル』なんです。中年の不倫ものまで含めて、基本的には青春ものなの。肥大化した自我を持て余す厨二病の話なの。だから一歩間違うと、できそこないの喜劇になっちゃうの。だから恋愛悲劇を成功させるには、よほどスケールの大きな人間ドラマを用意するか、最低限でも、本質的にはつまらない話を、それでも「身につまされる話」として読者の情に訴える表現力が必要なんです。――でもまあ結局、近代の恋愛小説っていうものは、基本的に「悲喜劇」になるものなんです。」
「――はい……勉強になります。」
「誤解しないで下さいよ先輩。私は何も、けなしてるわけじゃないんです。というより、先輩が恥多き青春を、こうやって形にするのは全く正しい! と褒めてあげてるんです! ですが、」
――と既に相当できあがった気配の小春であった。
「自分を悪者とかダメなやつに描くというのは、書いてる方では冷静な自分の客観化のつもりでいても、実際には、往々にしてマゾヒスティックな自己憐憫にしかならないもんです。――その辺、わかってますか?」
 それでも、批評の内容自体は真摯なので、おとなしく拝聴するしかない。
「――はい……。」
「そういう意味では、私は、雪菜さんの話より、かずささんの話の方が好きです。あそこに出てくる春希君は、バカだけどほんとにいいやつです。それに比べて雪菜さんの春希君は、ほんとに最低です。――で、自分を最低なやつに描くのって、要するに自己憐憫で、責任からの逃げなんですよ! ――先輩はいい男なんです。モテて当たり前なんです! で、実際にモテてるんですから、その責任をきっちり自覚しなきゃ、ダメなんです!」
 ――雲行きがおかしくなってきた。
「……先輩……。」
と、小春が急に黙り込み、うつむいた。
「――どうした、杉浦?」
「……責任、とってください。」
――うつむいたまま、小声で、言った。
「――杉浦……?」
「――先輩。……先輩のこと、ずっと、好きでした。――吹っ切ったつもりでいたけど……、あれから、付き合った人もいたけど……でも、先輩のこと、ずっと、頭の隅に引っかかっていました。――そして……いただいた原稿読んで――「こいつ私のこと何とも思ってないんだな」って、なんだかすごく腹が立って――でも同時にうれしくて……何だかあのころの気持ちが、先輩と雪菜さんのことを応援しながら、先輩のこと、自分でも好きになっちゃってた頃のことが、思い出されて……。」
――消え入るような声で、少しずつ。
「――ごめん、なさいっ……。偉そうな、こと、言って、あたしが一番、みっとも、ない……、です、ね……。本当にこれが、悲喜劇って、やつ……、いや、もろに喜劇かな……?」
――時折、涙声で。

 ああ、そうか。そうだったのか。
 また俺は、間違えたのか。でも今度は何とか、間に合ったようだ。

「――杉浦、小春さん。ありがとう。――そして、ごめん。いまの俺には、大切な人が、います。」
 はっきりと、言った。本当は、順番を間違えていることは、わかっていたが。でも、みっともない悲喜劇の主人公には、臆病で根性なしの色男には、ちょうどよい。

「はい、わかっています――。」
 小春は涙にぬれた顔を上げ、ほほ笑んだ。
「原稿、頑張って、完成させてくださいね。――多分あのままでは、売り物にはなりません。でも一緒に、この先について、考えていきましょう。私が、先輩の――北原さんの最初の担当になります。」
「わかりました。お世話になります。」
 春希は深く頭を下げた。



[31326] 春の雪【WHITE ALBUM2雪菜trueアフター「雪菜のいない日々」】
Name: RCL/i8QS0◆17a7a866 ID:129b0297
Date: 2012/08/23 01:14
 雪菜を主人公とした「歌を忘れた偶像」、そしてかずさが主人公の「雪が解け、そして雪が降るまで」の執筆に春希が本格的に着手したのは、年明け早々であり、未定稿を杉浦小春に読んでもらったのは、2月も末のこと。気づいてみればその間に、雪菜の誕生日も過ぎていた。もちろん自分も娘たちも、そしてかずさも、忘れるはずはない。しかし今年は、小さなケーキをみんなでつついたくらいで、特別なことはしなかった。ただ、久しぶりにみんなで、茶の間のテレビで雪菜のライブのDVDを見た。
 それ以来春華と雪音の二人は、時折二人で雪菜の真似をして歌うようになった。雪菜が亡くなってからしばらくは、時々かずさが歌ってやるのを聴いていることはあったが、自分たちですすんで歌うことはほとんどなかった。しかし最近では放っておいても、気づくと二人で、マイク(らしきもの)を片手に腰を振り振り「時の魔法」だの「届かない恋」だのを歌っているのである。
「そろそろ、いいかもしれないな……。」
 楽しげに歌い踊る二人を眺めて、かずさが言った。
「――ん? 何が?」
と春希が問うと、かずさは
「ピアノだよ……雪音の。そろそろ「やってみたいか?」と聞いてみてもいいかな。まあ、春華にも、もういっぺん聞いとかないといけないけどな。でもたぶん相変わらず、春華はお絵描きの方が好きだろう」
と答えた。
「――そうか……頼めるか?」
「――ああ……折を見て、な。任せておけ。」

 そんな風に、少しずつ、北原家の時計の針はまた進み始めていた。

 そして、予定より2週間ほど遅れた3月半ば、劇団ウァトス、瀬之内晶の凱旋公演「時の魔法」が始まった。初日には春希とかずさも招待されていたが、かずさは
「ふざけるな。」
の一言で拒絶し、プラチナチケットが一枚宙に浮いてしまった。そしてその一枚は結局、小春の手に渡ることとなった。話を聞いてしばし逡巡していた小春だが、さすがに編集者としては、瀬之内晶に顔をつなげる機会を見逃せるはずはなかった。

 つつがなく終了した初日の舞台裏。花束を抱えて春希と小春は楽屋へと向かった。既に顔見知りの「座長」上原氏が、笑顔で迎えてくれた。
「初演のご成功、おめでとうございます。」
「あー、北原さん! お越しいただきありがとうございます。今回は本当にお世話になりまして。おかげさまで、延期したにもかかわらず、全日程、ソールドアウトです。姫の体調次第では、追加を打つことも考えてますよ。とはいえ、キャストの回復のために十分なインターバルが必要ですがね。――それはともかく、姫が、お待ちかねですよ。」
 くいっと上原が顎をしゃくった向う、鏡の前に、精根尽き果て、眼だけをぎらぎらさせた瀬之内晶――和泉千晶が、すわりこんでいた。それでも上原の声に視線を上げた千晶の顔が、春希を認めてパッと輝いた。
「――今日は、来てくれたんだね……ありがとう。」
「――ああ……。かずさは、やっぱり、連れてこられなかった。すまん。――お前の舞台を生で見るのはこれが初めてだが、見事だったよ……。陳腐な言い方ですまん。」
「――またまたあ……今回実質的な「原作者」じゃないか……まったく、ようやくホンも煮詰まったかっていうタイミングの時に、あんな原稿よこしてきてさあ――おかげでこんなに遅れちゃったじゃないか――。」
 千晶は楽しげに憎まれ口をたたいた。
「そこは、本当に申し訳ない。まさか、真面目に取り上げて、ここまで参考にしてくれるとは、思わなかったよ。」
「そりゃあね、あんなおいしいネタ、放っとくわけにはいかないじゃないか。本来なら「原作・北原春希」ってクレジット打たなきゃなんないところだよ。とにかく、おかげで、和希のキャラが一気に膨らんだ――どうだった、和希――吉田の演技は?」
と千晶は、向うで缶ビールを片手にあいさつする主演男優の方を見やった。最近テレビでもよく見かける優男だが、こうして生で見ると大した存在感である。
「素敵でした……完璧な――完璧の更にその上を行く究極のダメ男。見かけはダメ人間じゃない、社会人としても家庭人としても完璧に有能なくせに、肝心のところでヘタレで根性が捻じ曲がってるから、周りの女性全部を不幸にする――まさに先輩そのものです。お見それしました! ――あ、ご挨拶が遅れて申し訳ありません。私、鴻出版の杉浦小春と申します。本日は、北原さんにお誘いいただきました。」
 興奮冷めやらぬ面持ちで小春が激賞した。
「ありがとうねえ。あいつ、前も含めて、まさに「和希」をやることで役者になってきたんだよ。その意味で、あたし以上に、春希には恩があるわけだ。」
 千晶の言葉に、吉田は呵々大笑した。
「まったくです、初めまして北原さん、お会いできて光栄です。杉浦さんも、おほめにあずかり光栄です。」
「こちらこそ初めまして、吉田さん。堪能させていただきました。でも――おれはあなたほどイケメンじゃないですからね……。ああ、千晶、杉浦は俺たちの後輩だよ。付属上がりの峰城大卒。見ての通り編集者だが、俺と違って、すでに本物の「作家」でもあるんだ。こないだの、芥×賞候補にも残ってる。そのうち、作品集も出るよ。」
「おまけに、ここにいる作家見習いさんの担当でもあります。」
 胸を張る小春に、千晶がにっこりした。
「そうか。しっかり鍛えてやってくださいよ。」
「それより、瀬之内さん、これまでお書きになった脚本から、何か出版してみよう、というお積りはございませんか……?」
 ――早速仕事の話に入る小春の切り替えの早さは、さすがだった。

 舞台「時の魔法」の遅延の主たる責任者は、実のところ春希である、と言ってもよかった。小春の助言を入れてブラッシュアップした草稿を、かずさに読ませて許可を取ったうえで、開幕ギリギリ状況の千晶のもとにメールで送りつけたのである。それを一読した千晶は、九分どおりできあがっていたホンに徹底的に手を入れた。その作業におよそ十日間を要したのである。完成したホンは初演2日前に、「順延のお詫びと予約修正手続のお知らせ」とともに、春希とかずさの手元に、ご丁寧に一部ずつ届けられた。もちろん、許可を取るためなどではない。単なる事後報告である。
 春希の自宅にそれが届いたのは、たまたま、かずさが子どもたちをお迎えする日で、春希あての一部を郵便受けから取り出したのもかずさだった。もちろん開封はしなかったが、差出人の名を見れば中身は瞭然である。かずさがそれを思わず床に叩きつけ、春華にたしなめられたのは、まあ、仕方のないことだった。
 その後深夜に帰宅した春希が、開封して取り出した分厚い脚本を、かずさは憎々しげに一瞥して、
「勝手にしろ。」
と吐き捨てた。
「お前……やっぱり、行かないつもりだな?」
と春希が問うと、
「もちろんだ。――でもお前は行けよ。あたしには今一つ理解できてないが、お前はやつに恩義を感じてるんだろう? なら、それが礼儀ってものだ。」
とかずさは目をそらしたまま答えた。
「わかった――ありがとうな。」
「何がだ?」
「俺の原稿をあいつに送ることを承知してくれて。いやそもそも、俺が書いたことを許してくれて、ちゃんと読んでくれて。」
「――許してなんかいない。ますます、お前のことが嫌いになった。最低な男だお前は。――あれを読んで、そのことがよーくわかったよ。雪菜もまあ、かわいそうに……。」
 かずさが肩をすくめて窓を見やると、そこにはいつからか、かすかに雪が降っていた。
「――なんだ……? 道理で3月にしちゃ冷えると思った。――路面がおかしくなる前に帰るか。」
「――ああ……気を付けてな。曜子さんによろしく。」
「――ん……お前も、早くやすめよ。」

 それが初日の二日前のこと。その夜以来、弱弱しくもしかし休みなく降り続けた雪に、東京は薄く雪化粧だった。



[31326] 門出【WHITE ALBUM2雪菜trueアフター「雪菜のいない日々」】
Name: RCL/i8QS0◆fe1ad663 ID:9766d1b6
Date: 2012/06/08 01:17
 雪菜が最初の子どもを妊娠した時、春希はもちろん喜んだが、一抹の不安を感じないでもなかった。親と長い間うまい関係が結べなかった自分に、子供をうまく育てられるのか――という懸念も少しはあったが、妻、雪菜への絶大な信頼は、それを打ち消して余りあった。それよりも大きな不安はつまりは、もう取り消しようもない春希と雪菜の絆の証を前に、かずさがどうなってしまうか、であった。雪菜から妊娠の知らせを受けて無邪気に喜び、日に日に大きくなっていく雪菜のお腹に目を丸くするかずさが、しかし現実に、一個の人間としてこの世に生まれてきた春希と雪菜の子どもを前にしたとき、どんな思いを抱き、どんな反応をするのか――春華が生まれるまでの間の春希は、そんなかすかな不安をずっと胸の奥に潜めてきた。
 実際のところかずさがどう思っていたのかは、もちろん春希にはわからない。きっとかずさ自身にだって、よくはわからなかったのだろう。しかしながら、それまでどんな葛藤があったとしても、いざ春華がうまれてからのかずさは――最初の見舞いの病室で、ややくたびれつつも誇らしげな笑みで彼女を迎えた雪菜と、その腕の中、おくるみの中でうごめく赤茶色の肉の塊を見た瞬間から――もうこの小さな謎の生き物にすっかり魂を奪われてしまったのだった。
「――ああ……よく来た、よく来たねえ……おちびちゃん……お名前は――?」
 ぴくぴくうごめく新生児に向かって、かずさは小さな声で歌うように語りかけた。
「――まだ、決めてない。一応、春希君の「春」の字をもらうつもりだけどね。今の季節にも合うし。」
と雪菜。
「……そっか。うん、そっか。うんうん。かああいいねえ――うん? うん? 春ちゃんか。はるちゃん? はーるーちゃーん? ――うーん、いいにおいだねえ。なんのにおいでしゅか? うん? うん?」
 その時そばには春希もいたのだが、おそらくかずさはその存在を完全に忘れていた。彼女は全身全霊をかけて、雪菜の腕の中の小さな生き物の顔をのぞきこんでいた。
「――この子ねえ、もううんちするんだよ? でもね、まだおっぱいとミルクだけだから、うんちが臭くないんだ。うんちからごはんの香りがするんだよ?」
 雪菜が何やら自慢げに言った。
「そっかー、くちゃくないのかー。そうだよなー、あたりまえだよなー、こーんなにおちびさんで、こーんなにかわいいんだもんなー。うん、うん。はるちゃん。いいお名前をつけてもらおうねー。ママに似て美人さんになるよねー、はーるーちゃん?」
 かずさは顔をくしゃくしゃにして、小さな手をその優美で力強い指先でつん、つんと繰り返しつついていた。

 あれから7年近いときが過ぎ、今日は、その小さな生き物、北原春華の、保育園からの卒園式の日である。赤茶けたモロー反射のかたまりは、すっかり、おしゃまな美人さんになっていた。

 3月最後の土曜日。雑居ビル1階のふた間をぶち抜いて作られた小さな保育園は、普段と違う緊張感と華やぎに包まれていた。今日を最後に保育園を離れ、4月からは小学生となる年長組の子どもたちは、いつもとは違うよそいきのブレザーやドレスに身を包み、プレイルームの真ん中の特別席に緊張した面持ちで座っている。春華も、その中の一人だ。下の子たち、在園児たちは、おしゃれしたお兄さんお姉さんたちの真後ろに、くすくす笑いながら集まっている。もちろん、雪音もいる。そして後方、壁際には、卒園生たちの保護者たちが、これまたいつもより少しだけおしゃれして並び立ち、めいめい、カメラを構えたり談笑したりしている。そのなかには春希と、おばあちゃんたち――春希の母と雪菜の母、そして、冬馬かずさの姿もあった。
 シックなスーツに身を包み、いつもの伊達メガネを今日は外したかずさは、気の置けない仲間扱いをしてくれるママ友たちに、ぎごちない笑顔を返していた。どうやら、すっかり緊張してしまっているらしい。
 乳児から預かる保育所には、幼稚園などとは違って「入園式」の類はないことが多い。「新入生」は年中、五月雨(さみだれ)式に入ってくる。まとまった長期の休みもないから、「始業式」「終業式」もない。だから保育園にとっては、年1回の「卒園式」というセレモニーは、格別重要な意味を持つ。まして今年の卒園児たち6人の大半は、赤ん坊のころからこの園で育った、兄弟同然の間柄だ。付き合いは家族ぐるみでこれからも続くだろうが、進学先は4つの小学校に離れ離れになる。
 だから6人の子どもたちにとって、今日という日は最初の大きな門出であった。そして春華ら子どもたちを見守るかずさ、自分の卒業式のときは居眠りしたり、ふてくされたり、あげくのはて最後の、高校の卒業式はすっぽかした彼女は、春華のこの門出にすっかり気が動転していた。どれくらい動転していたかというと、いつもならこういうとき出てきて、軽口をいって落ち着かせてくれる「守護霊」、脳裏の雪菜シミュレーターも立ち上がらないほどだった。脳裏では子どもたちと、そして在りし日の雪菜の笑顔がフラッシュバックするばかりで、泣いたらよいやら笑ったらよいやら、どうしたらいいかわからなかった。
(――落ち着け、クールに構えろ、絶対に泣き出したりするな……。見ろ、ママたちを。みんな満面の笑顔だ。そうだよ、今日はおめでたい日じゃないか。泣くことなんかないんだ。春希だって、お母さんたちだって、にこにこして……。うう――。どうしよう、雪菜……。)

 と、事務室のドアが開き、いつもはジャージとトレーナーの先生たちが、今日ばかりはおしゃれなドレスやスーツに身を包んで現れた。いつもはくたびれたジャージに洗いざらしのエプロンの園長先生も黒いシックなスーツで、子どもたちに
「起立! 礼!」
と声をかけた。
 卒園式が始まった。

 園長先生は、みんなに向けてのはなむけの言葉のあと、卒園生一人ひとりの名前を呼んで、卒園証書と、先生たちの手作りの記念品を手渡した。それから、在園生たちからお兄さんお姉さんたちへのお別れの言葉と、元気な歌のプレゼント。
 そして、卒園生6人が一人ひとり立って、在園生たちと、お父さん、お母さんたちの方を向いて、自分の言葉で、挨拶した。みんな、立派に、先生たちと両親へのお礼を述べ、小学校で何をやりたいか、どんな大人になりたいか、一所懸命に話した。保護者たちはみんな涙ぐんだ。
 ――そして最後に、春華の番が来た。かずさがふと春希の顔を見ると、驚くまいことか、さっきまでの余裕ある笑顔はどこかに消し飛び、ものすごく真剣な目で、春華を見つめていた。それを見て逆にかずさは、ほんの少し緊張が解けるのを感じた。
(――春希くんたらあ……なんて顔をしてるんだろ?)
 脳裏で雪菜の声が響いた。
(そうか、別に、泣いてもいいんだ。)
と、春華のスピーチが、始まった。

「わたしは、あかちゃんのときから、このほいくえんにまいにちかよっていました。いもうとの雪音がうまれてからは、雪音といっしょに、まいにち、おとうさんかおかあさんにつれられて、ほいくえんにきて、みんなといっしょにあそんで、ごはんをたべて、えをかいたり、おうたをうたったり、おべんきょうもしました。ずっと、みんなと、いっしょでした。
 ――でも、年中さんのときに、わたしたちのうちには、とてもかなしいことがありました。おかあさんが、こうつうじこで、しんでしまったのです。わたしも雪音も、しばらく、ないてばかりいました。
 でも、おかあさんはしんでしまったけれど、わたしたちには、おとうさんがいました。おとうさんは、だいすきなおかあさんがしんでしまって、じぶんもなきたいきもちだったろうに、ぐっとこらえて、おかあさんのぶんまで、わたしたちのおせわをがんばってくれました。そして、おばあちゃんもいました。しょっちゅうあそびにきてくれて、ごはんをつくってくれて、おやすみのひには、いっしょにおでかけもしてくれました。
 それから、かずさおばちゃんがいました。おばちゃんは、おとうさんとおかあさんのおともだちで、ふたりのことがだいすきだったそうです。おばちゃんは、おかあさんがしんでないてるわたしたちをだっこしてくれて、おうたをたくさんうたってくれました。
 わたしたちがちいさいころから、いつもあそんでくれたおばちゃんも、がんばって、おとうさんやおばあちゃんのおてつだいをしてくれました。みんなもしってるように、週のはんぶんは、わたしたちのおむかえをしてくれたし、ときどき、がんばって晩ごはんもつくってくれました。
 そして、園のみんなと、せんせいがいました。せんせいは、園でわたしたちがないてると、だっこしてくれました。みんなも、やさしくしてくれました。だからわたしたちは、すぐにげんきになりました。
 わたしは4がつから、小学生になります。園のみんなとも、せんせいたちともおわかれです。これからもときどきあそびにきますけど、わたしがこれからまいにちかようのは、園じゃなくて小学校です。おとうさんやおばちゃんに車でおくってもらうんじゃなくて、きんじょのおともだちといっしょに、自分であるいてかよいます。これから、ちょっとずつ、自分でやれることをふやしていきます。そうして、いつか、おとなになったら、こんどは、こどもたちや、まわりのひとたちを、少しでも、たすけてあげられるようになりたい、とおもいます。がんばって、わたしたちをたすけてくれた、おとうさん、おばあちゃん、かずさおばちゃん、せんせい、そしておともだちみんなに、ありがとう、をいいます。これからも、よろしく、おねがいします。」

 両手で持った紙をちらちら見ながら、それでもよどみなく、春華は立派に自分の挨拶をやり終えた。そして顔を上げてにっこりした。

「それでは、わたしたち卒園生から、みなさんに、歌のプレゼントがあります。きいてください。わたしたちのだいすきな、おかあさんのうた、おとうさんと、かずさおばちゃんがつくってくれたうた、「時の魔法」です。」

 スピーカーから聞きなれたイントロが――自分たちの演奏(カラオケバージョン)が流れてきたことに、かずさも春希も、完全に虚を衝かれ、度肝を抜かれた。ママ友たちが歓声を上げるなか、春希は呆然とし、かずさはこらえてきた涙腺が決壊するのをおぼえた。
 すわっていた春華以外の卒園生たち5人がぱっと立ち上がり、春華と並んで立った。そして、きれいなユニゾンで歌いはじめた。

「ひとはくるしみもほほえみも つないでゆける
 あなたといるときのわたしなら そんなこともおもえる
 こんないちまいの葉もつけない かれた木にもきせきは起きる
 ほら白いたくさんの光が 真冬のさくら さかせていくよ

 きっとかなうよ ねがいは目をとじて
 時の魔法を となえよう ゼロからonce again 」

 ――あまりのことにしばし呆けていたかずさだが、一番が終わり、間奏に入ったところで猛然と行動を開始した。急いで園のおんぼろな電子オルガンに歩み寄り、スイッチを入れてピアノモードを立ち上げた。そして二番目に入るタイミングにあわせて、かぶせるように伴奏を開始した。雪音が立ち上がって手をたたき、他の子どもたちも歓声を上げた。

「いそがしく日々をすごしてた だけど今は
 やさしいまなざしで このセカイ見わたせるとおもえる
 こんないちまいの葉もつけない かれた木にもきせきは起きて
 ほらわたしの中にもかがやく 真冬のさくら さかせていくよ

 きっとかなうよ ねがいはとどくから
 時の魔法を となえたら ここからonce again 」

 ――気がつくと、オルガンの前のかずさのかたわらに、春希が立っていた。園のおんぼろギターを抱えて。そして、サビのところから伴奏に加わった。

「あなたといる未来が キラキラとふってくる
 いつまでもいつまでも大切にしたいなぁ

 きっとかなうよ ねがいは目をとじて
 時の魔法を となえよう ゼロからonce again
 ゼロからonce again 」

 ――万雷の拍手と歓声の中、こうしていっしょにセッションしたのは、雪菜の告別式以来だったことを、二人は思い出していた。そしてかずさは、春希の頬を涙が濡らしているのを見た。



[31326] 嘘つき【WHITE ALBUM2雪菜trueアフター「雪菜のいない日々」】
Name: RCL/i8QS0◆2e426366 ID:26038740
Date: 2012/07/06 12:04
 4月。春、新しい年度の始まり。北原家の長女、春華は近所の公立小学校に入学し、毎朝近所の友達といっしょに集団登校を始めた。しかし雪音の方は以前と変わらず、保育園への送り迎えをしなければならない。春華の方も近所の学童保育にぎりぎり空きを見つけることはできたが、深夜預かりは望めないから、春希も小木曽の義母も、そしてかずさも、それほど余裕ができたわけではなかった。
 それでもこの春、かずさはなんとなく浮き立つような気持ちを抑えられずにいた。近々久々のソロリサイタルが予定されているが、じっくりと長い時間をかけて調整してきただけに、仕上がりは順調である。子供向けのプログラムではもちろんないが、今回は小学生になった春華、そしていよいよピアノに触りはじめた雪音の二人を、最高の席に招待してやることに、かずさは決めていた。
 更に、それだけではなく……。

 ――一方春希も、新しいステップを踏み出そうとしていた。

 開桜社、風岡麻理のオフィスで、春希は麻理と机をはさんで向かい合っていた。おもむろに麻理が切り出した。
「――北原。例の話だが……結論は、出ているか? 7月、遅くとも10月の異動に間に合わせたいと思っているのだが――。」
「――もちろんです。本来でしたら、この4月の異動に間に合わせるべき案件でしたところを、わがままを聞き入れてくださって、麻理さん――次長には感謝しています。で、お話の件ですが、私でよければ、喜んで受けさせていただきます。7月の異動で、問題ありません。」
「――うん……。では私も、7月から、ということで調整させてもらう。これからいろいろと引継ぎで、忙しくなるぞ。――そのあとは、ちょっと、寂しくなるがな。」
「――ええ……。麻理さんの口から、その言葉を聞くと、ちょっと意外な感じもしますが。」
「――おまえ、私をいったいなんだと思っているんだ? ――まあいい。私にとっては、二度目だしな。勝手知ったるなんとやら、だ。――なあ北原。」
 と、麻理はデスクの向こうから身を乗り出してきた。
「はい?」
 春希はかぶりを振った。
「今のような時代の変わり目にはな、私たちのような出版人にも、いろいろな選択がありうる。昔ながらのエディターに徹するというのもひとつの道だが、これからの世の中、それだけで何とかなるとも思えない。ある者は、メディアの境界線を越えたプロデュースに挑もうとするだろう。ある者は逆に、むしろ自ら作家と同じ地平に降りて、コンテンツの作り手になろうとするだろう。もちろん、そうしたプロフェッショナルな職人であるよりは、「制作」の枠を踏み越えたビジネスに乗り出す、企業家たらんとする者もどんどん出てくる。――私は、まあ、職人というよりは、企業家になりたいらしい。」
「ええ。わかっている、つもりです。」
「だから今回、アメリカに私は、支社長としていく。プロデューサーではなく、単なるマネジャーとしてでもなく、経営者として、な。遅かれ早かれ、いずれはそうするつもりだった。――そして、仮に日本に戻ってくるとしたら、この会社全体のマネジメントに突っ込んでいくだろうし、あるいはひょっとしたら、向こうで転職なり、起業なりするかもしれん。」
「はい。」
「――そして私は、留守をおまえに預けていく。おまえなら、本社の雑誌部門の元締めとして、完璧にやり遂げてくれると、信じている。」
「――若輩ですが、最善を、尽くします。」
「当たり前だ。――ただ、心残りがないではない。……奥さんがあんなことになってさえいなければ、私はおまえにまずは、私の後任になるんではなく、私の代わりに、アメリカに行ってほしかったんだ。――おまえを、ただ単なるエディター、プロデューサーとしてではなく、ビジネスパーソンとして、経営者として育てたかった。――まあ、これからまだまだ時間はたっぷりあるといえばあるんだが、それでも、できるだけ早いうちに、おまえに海外を経験させてやりたかった。」
「身に余る、お言葉です。」
「――だがな、今はまだやっぱり、海外は無理だな。小さなお子さんを二人も抱えた、男やもめではな。それに……。」
「それに――なんでしょうか?」
 麻理は薄く笑った。
「私に隠し事をしても無駄だ。おまえ、生意気にも、二足のわらじを履こうとしているな?」
「――! 申し訳、ありません――お気づきでしたか?」
「当たり前だ。杉浦小春とおまえがちょくちょく会っているという情報なら、私の耳にも届いている。ところが、杉浦小春の作品がこっちの雑誌に載るとか、単行本の企画が動いているとかいう話はない。となればここで杉浦小春は、作家としてではなく、鴻出版の編集者として動いているんじゃないか、という推測が成り立つ――おまえ、小説を書いているのか?」
「――まだ、真似事に、過ぎません、が。」
「そうか……おまえは、そっちで生きるのか?」
「――わかりません。生意気な言い方ですが、編集者であることとはもちろん、ビジネスマンであることとも、ものを書くことは、決して矛盾するものではない、と思います。ただ、今はまだ――。」
「わかっている。根を詰めやすいおまえのことだ、がんばりすぎてぶっ壊れられては元も子もないからな。――しかし雑誌担当次長とならば、両立できる、というわけか? それはそれでずいぶん、思い上がった発言に聞こえるぞ?」
 麻理は心底楽しそうに笑った。
「申し訳ありません!」
 春希は改めて深く頭を下げた。
「日曜小説家、というわけだ――。まあいい、7月以降は、社では管理業務を中心にして、極力、直接に企画を担当したり、自分で取材して記事を書いたり、といった現業は減らせ。――おまえのことだ、ゼロにしろ、といっても聞くまいがな、それでも極力減らせ。意地悪上司に徹するんだ。いいな? ――だが、ミュージシャン活動の方は、どうなっている? そっちはもうしばらく、お休みか?」
「――いえ、それが……。」
 春希はばつが悪げに頭をかいた。
「――なんと、三足のわらじか……。」
 麻理はあきれたように天井を見上げた。
「別に止めやしないが、しかしおまえ、一番大切なことを、忘れるなよ?」
「もちろんです。――というより、そのためにがんばっているんです。」
 春希は真顔で応えた。

「なあ、雪菜。」
(――なあに?)
「あたしは馬鹿だから、やっとわかったんだけどさ。」
(――?)
「あたしも、いつかは、死んじゃうんだよな?」
(――そうだよ? いつかはね。誰でも、みんな、いつかは、死んじゃうんだよ?)
「――あたし、母さんが病気になってから、ようやく、「人は死ぬものだ」って、少しまじめに考えるようになったんだ。それはとっても怖かったけど、おまえがいたおかげで、立ち向かえるようになった。――でもまだ、怖がったり、考えたりするだけだった。」
(……。)
「――おまえが死んでしまったから、やっとわかったんだ。「人は死ぬものだ」って。抽象的にじゃなく、具体的に。大事な人を実際に失ってしまってから、やっと。」
(――それは仕方ないよ……私だって、かずさにえらそうにお説教したときには、頭でわかってただけで、骨身にしみてたわけじゃないし。)
「それでさ。もうひとつ、ほんのちょっとだけ、わかったんだ。あたしもいつかは死ぬって。――あの時、卒園式で、春華の歌を、聴いていたら。」
(――えええええっ? 穏やかじゃないなあ。何なのそれ?)
「春華、本当に大きくなったよ。――おまえに、見せたかった。あのしわくちゃのお猿さんみたいだったのが、あんな素敵な女の子になった。いや、それどころか、10年前には、あの子、影も形もなかったんだぞ? およそこの世に存在していなかったんだ。ところがどうだ。春華も、雪音も、あんなにかわいくて、生意気で、騒がしくて……。なあ? 不思議で仕方がないよ。」
(――そしてかずさも、30云年前には、影も形もなかったんだよ?)
「まあ、それはお互いに、な。あたしも、雪菜も、春希も、生まれる前には、存在していなかった。――そしていつかは、いなくなるんだ。実際、雪菜は、もういなくなってしまった。怖いとか悲しいとかだけじゃなくて、とっても不思議だ。でも、そうなんだ。かつてはいなかったし、いつかまたいなくなってしまう――でもその間は、いるんだよ。――おまえも、確かに、生きていたんだよ。あたしは、そのことを知っている。」
(……。)
「要するにさ、生まれてこなければ、生きていなければ、死ぬこともないってことさ。――あたしが死ぬってことは、つまり、今は生きているってこと。そういうこと!」
 その言葉を聞いて雪菜は、にっこり笑って消えうせた。

「……ずさ――。かずさ?」
 はっと気づいて目を覚ますと、そこは北原家の子ども部屋、春華と雪音のベッドサイドだった。いつものことだが、子どもたちを寝かしつけながら、自分も居眠りをしていたらしい。かたわらにはこれもいつものことだが、コーヒーマグを片手の春希がいた。
「――あ、ああ……すまない。また寝ちまってた。」
「問題ない。台所もきれいに片付いてるしな。――それよりおまえ、コンサート前なのに、大丈夫なのか?」
 春希は心配そうにかずさの顔を覗き込んだ。ややばつが悪くなってかずさは笑った。
「それこそ問題ない。ばっちりだ。これでも毎日12時間は弾いてるんだ。予定通りちゃんと進んでいるさ。」
「おまえ、それじゃ朝5時からぶっ続けってことじゃないか。――ちゃんと食べてるのか? 睡眠、足りてるのか?」
「今夜も、小木曽のお母さんのご飯を、ちびたちといただいたさ。問題ない。母さんの方は、ヘルパーさんががんばってくれている。睡眠だって、まあ、毎日4時間は寝てるよ。」
「――おまえさ、もうそんなに若くもないんだから、10年前のつもりでやってたら、からだ壊すぞ?」
「若くない」の一言に思わずかずさもカチンと来て、
「――その言葉、おまえにそっくり、返してやる。おまえこそ、節制しないと、そろそろ太るか禿げるか、それともその両方だぞ?」
と返した。
「――大きなお世話だ。」
 春希はむっつりと黙り込んだ。なんとなく気まずくなって、かずさも黙ったまま、両手でマグを抱え込んで、コーヒーをゆっくりとすすった。
 ――しばらく沈黙が続く中、コーヒーを飲み干したかずさが、
「そ、それじゃあ……。」
と立ち上がろうとすると、先に春希が
「ちょっと待ってろ。」
とかずさを制して立ち上がり、書斎へと消えた。そしてしばらくして、A4のコピー用紙を持って現れた。ふいにかずさの胸が高鳴った。
 春希はかずさの前に再び腰を下ろし、コピー用紙を差し出した。
「遅くなって、すまない。とりあえず、これを、見てくれないか?」
 差し出された用紙のその第一行目には
「春の雪」
とタイトルが記されていた。かずさは、ほうっ、とため息をついた。
「おまえ……センスは全然ないけど――馬力だけはあるよな……。」
「何だよそれ……。」
 春希は苦笑いした。
「だっておまえこれ、あの小説を書き上げてから、そして年度末のあのごたごたを切り抜けながら、つくったんだろ?」
「――ん……まあな。」
「あの小説だって、あの短期間に、昼の勤めをしながら、一体何百枚書いたんだよ? ほんと、「睡眠不足」だなんて、おまえにだけは言われたくない……。」
 泣き出しそうになるのをこらえつつ、かずさは一所懸命軽口をたたいた。
「悪かったな。――それで、ギターの方も、ちょっとだけだが、練習を再開してる。まだ、人に聞かせられるようなもんじゃないが……。」
「――あー、大丈夫だ、そっちはまったく期待してないから。」
「おまえなあ……。」
「――それに、これで十分だ。おまえは、約束を守ってくれた。あたしのわがままを、聞いてくれた。今度はあたしが、がんばる番だ。」
 かずさはきっぱりといって、春希を見つめた。
「ちょ、おま、何言ってんだ、おまえこれからコンサートじゃないか……。」
「――大丈夫、あたしを甘く見るな。あたしがその気になれば、できないことなんかない。――まあ、料理の方は、別にしてだ。とにかく、後はあたしに任せろ。この歌を、しっかり仕上げてやる。この、雪菜のための歌を。」
 その言葉に春希はうつむいた。その春希に、かずさはこの上なくやさしく、声をついだ。
「「届かない恋」は、あたしのための歌だった。それを雪菜に歌わせるなんて、おまえもあたしも、残酷な子どもだったな。思えば、それがあたしたち三人を引き裂いたんだ。でも、「時の魔法」が、その傷を癒した。あれは、あたしたち三人の歌だった。――そしてようやくおまえは、雪菜のための歌を、作ってやれたんだな。あたしたちはようやく、雪菜のための歌を、雪菜のために、歌ってやれる。――雪菜は、もう、いないけど。雪菜には、歌ってもらえないし、聞いてもらえないけれど。」
 春希は、うつむいたきりだった。この上なく残酷なことをしていることは承知の上で、それでも、あらん限りのやさしさをこめて、かずさは続けた。
「遅すぎた、とおまえは思っているかもしれない。ある意味ではそのとおりだ。でも、それは仕方がないんだ。おまえは、たった一人で、耐えてきた。子どもたちといっしょに、がんばってきた。歯を喰いしばって、この二年近くを、耐え抜いてきた。だから、もう、いいんだ。」
「違う! ――そうじゃない、俺はたった一人なんかじゃなかった! 子どもたちはもちろん、おまえが……おまえがいてくれたから……。」
 春希はうつむいたまま、叫ぶように言った。しかしかずさは、かぶりを振って、
「違うよ。」
と応えた。
「もちろんあたしたち二人は、ずっといっしょだった。あたしは少しは、おまえを支えてやれたと思う。だけどおまえは、一番肝心なところでは、一人で我慢していた。ある意味、それは仕方のないことなんだ。共通の友人としての雪菜のことなら、あたしもおまえと一緒に、その死を悼み、悲しんでやることができる。でも、あたしの親友にして不倶戴天の敵、雪菜の死を悼むことは、あたしにしかできない。実際あたしは、一人でそうしてきた。そして、おまえの最愛の妻、伴侶、半身たる雪菜のことを悼むことができるのも、おまえだけなんだ。」
「……。」
「卒園式のとき、な。おまえは泣いていただろう? あれって……あたしの知ってる限りでは、雪菜がなくなって以来初めて、だと思う。おまえ、あたしの知らないところで――雪菜のために、一人で泣いていたのか?」
 春希は、首を横に振った。
「泣いて、いない。必死で、こらえていた。子どもたちとおまえがいれば、我慢できた。」
「あきれた……。葬式のとき、「おまえたちが俺の代わりに泣いてくれる」ってあれ、マジだったのか! 馬鹿だなあ……。いいんだよ。かまわないんだよ。あたしたちの前で泣いてもいいし、たった一人、誰も見ていないところで泣いてもいい。かまやしないよ。」
「だって……泣いたら……俺が泣いたら……。」
 かずさは笑った。
「大丈夫だって。子どもたちはわかってる。春華と雪音のお父さんは、強くてやさしい、頑張り屋さんで、いつでも自分たちを守ってくれる、って。おまえが雪菜の――お母さんのために泣いたからって、なんとも思いやしないよ。第一もう遅いよ。だって卒園式のとき、もうおまえ、子どもたちの前で泣いちゃったんだから。」
「――違う! 違うんだ! 今、俺が泣いたら……雪菜を悼むだけではすまないんだ。――それだけではすまずに、おまえに甘えてしまう……。それじゃあ――。」
「――それじゃあ、なんだ? それに、繰り返すけど、もう遅いんだ。今おまえ、泣いてるじゃないか。雪菜のために、泣いてるじゃないか。」
「――! ……ち、違――。」
「いいんだよ。おまえはちゃんと、雪菜の分まで、子どもたちを守ってやっているさ。そしてこれからは、あたしがおまえを守ってやる。あたしのわがままを、聞いてくれたお礼だ。」
(あらー、嘘つきなんだ、かずさ。)
 脳裏にまた、雪菜の声がこだました。
(いいだろう、少しは、甘やかして、おだててやってもさ。雪菜だって、そうしてきただろう?)
(まあね? 男って、馬鹿な生き物だからね……。)
(違いない。)
 脳裏の雪菜とともに、かずさは心の中で苦笑した。そしてひとりごちた。
(雪菜……あたしは、春希を、おまえから奪うぞ。今度こそ、な。)
 脳裏の雪菜は、意地悪な笑みとともに掻き消えた。
「――! うう……!」
 気がつくと、春希は、突っ伏してすすり泣いていた。マグカップをようやく傍らにおいて、かずさは、春希の背中を、やさしくさすり続けた。



[31326] 関門1【WHITE ALBUM2雪菜trueアフター「雪菜のいない日々」】
Name: RCL/i8QS0◆fe1ad663 ID:129b0297
Date: 2014/02/03 16:36
 気持ちを確かめ合ったのであれば、二人ともいい歳の大人なのであるから、からだを重ねて結びつきをより強くすることをためらう理由など本当はない。だがその夜は、10分ほど泣いて春希が落ち着いた後で、いつもどおり、くちづけも交わさず、静かな笑みとともに二人は別れ、かずさは車で母の待つ自宅へと戻った。そしてそのまま、母には何も告げずにやすんだ。
 ことここにいたれば、ためらう理由もないが、あわてる理由もなかった。二人でともに生きていくために必要な、あるいは必要とは言わぬまでもクリアしておいた方が良い手順を、一歩ずつ踏んでいけばよい。
 とりあえずは、子どもたちの存在があった。

 次の週の火曜、かずさの当番の夜。早めに――とは言っても9時近くなり、小木曽の義母もとうに引き上げた後で春希が我が家にたどり着くと、リビングではかずさが一人で本を読んでいた。
「――? 子どもたちは?」
 目を上げてかずさは軽く笑い、
「お風呂だ――春華が、雪音の面倒をみてくれるとさ。いつもどおり手伝うって言うのに、頑として聞かない。せっかく、あたしもお風呂の用意をしてきてるって言うのに……。」
「ええ? ――大丈夫か?」
「まあ、さっきからたまに雪音の泣き声と、春華が叱りつけてるのが聞こえてくるが――まあ、大丈夫じゃないか?」
「ああ――俺、ちょっと見てくる。」
とそのまま風呂場に向かおうとする春希に、かずさは
「おまえ、男のくせに、レディーの入浴を覗き見るつもりか――? おとなしく座ってろ。ってかさっさとスーツを脱げ。着替えろ。」
とぴしゃりといった。
 ――まあ結局その後は、風呂場からからだを拭くのもそこそこに素っ裸で逃げ出してきた雪音、バスタオルを羽織っただけでそれを追いかける春華を、二人して取り押さえるのにひと悶着だったわけであるが。

 一通り寝巻きに着替えさせてから、子どもたち二人を春希はリビングのちゃぶ台の脇に座らせた。そしてちゃぶ台の向かい側に、かずさと並んで自分も正座した。
「今日は、おやすみの前に、二人に、だいじなお話がある。」
 春希は、緊張した面持ちでゆっくりと切り出した。かずさも黙って二人を見つめた。二人とも神妙な顔で聞いていた。
「おとうさんは、かずさおばちゃんと、結婚しようと思う。――そして、みんなで一緒に暮らそうと思う。できれば、曜子おばちゃん――かずさおばちゃんの、お母さんも一緒に。」
「……。」
「でも、春華と雪音の気持ちも、聞いておきたい。もし、ふたりのどっちかが「どうしてもいやだ」っていったら、結婚はやめる。――それでも、おとうさんはかずさおばちゃんのことが大好きだから、結婚をゆるしてくれるまで待つ。でも「いやだ」っていうのを無視して無理やりには、しない。」
 かずさも口を開いた。
「いま、おとうさんが言ったことについては、おばちゃんの意見も同じだ。おばちゃんは、春華と雪音のおとうさんが大好きだ。結婚したい。でも、ふたりのどっちかが「いやだ」って言うなら、がまんする。ゆるしてくれるまで、いくらでも――なんだったら、ふたりが大人になって、おとうさんの家を出て行くまでだって、がまんして待つ。」
「そんなにまってたら、かずちゃん、おばあちゃんになっちゃうよ?」
 雪音が口を開いた。
「――おばあちゃんってことはないけど、いまよりずっとおばちゃんになっちゃうな。」
「――そんなのだめだよ! おばあちゃんになっちゃったら、あかちゃんうめなくなっちゃうよ!」
 何やら雪音があわてだしたのでかずさは不審に思ったが、会話を続けた。
「残念だけど、しかたないな。」
「だめだよ! それじゃかずちゃん、はるちゃんとゆきちゃんのいもうととおとうとが、うめないじゃない!」
 雪音が不意に立ち上がった。
「いやだよいやだよ、そんなのいやだよ!」
 いやいやをして暴れはじめた雪音に、あわてて春華も立ち上がり、雪音をなだめ始めた。
「だいじょうぶだいじょうぶ雪音、かずさおばちゃんそんなこといってないから。だいじょうぶ。――雪音は、かずさおばちゃんに、おとうさんのおよめさんになってほしい?」
 春華がたずねると、雪音は
「うん! なってほしい! いますぐ!」
とかぶりをふった。
「わかった、おすわりしよ。」
と雪音を座らせてから、今度は春華が大人たちを振り向いた。
「雪音がああ言ってるなら、わたしもいいよ。わたしも、かずさおばちゃんのことは好きだもん。これから、ずっといっしょにいれたら、うれしいもん。――でも、かずさおばちゃんこそ、いいの?」
「――何が?」
 またしても意表を突かれて、かずさは反問した。春華は続けた。
「ほんとうに、おとうさんで、いいの? わたしたちがいて、いいの? 雪菜おかあさんの子どものわたしたちが、おじゃまじゃないの?」
「春華! ちがうよ、何言ってるんだ……邪魔だと思ってたら、はじめからこんなこと言わないよ――あたしこそ、おまえたちの邪魔にならないか、そっちの方が心配なんだよ……。あたしがおまえたちの邪魔になっちゃったら、春希だって――おとうさんだってしあわせになれないし、それだったらあたし、がまんするよ……。」
「でもね、かずさおばちゃん。かずさおばちゃんは、世界一のピアニストになるんでしょう? だいじょうぶなの? いまだって、おかあさんの、曜子おばちゃんのお世話もしなきゃならないのに、わたしたちのお世話もして……。わたしたちのおかあさんになっちゃったら、かずさおばちゃんのピアノは――。」
「春華――。」
 かずさは、泣きそうになりながら応えた。
「あたしは、そんな、おまえたちが思ってるような、ちゃんとしたおかあさんになんか、なれないよ。今だって、がんばってるけど、結局ごはんだって、いつも小木曽のおばあちゃんにお願いしてるし、無理やり作ったって、おとうさんにだってかなわない。きっと、すぐに春華にも追い抜かれちゃうよ。今だってあたしは、毎日毎日ピアノの練習と勉強で、手一杯なんだ。もしもおとうさんと結婚したって、おまえたちに今までよりちゃんとしたことをしてあげられる自信なんか、本当はないんだ。――だからさ、あたしの心配なんかするなよ! あたしも、ダメな大人だけど、それでも大人なんだから、自分の心配は自分でするよ! 春華はさ、あたしなんかよりずっとしっかりさんだけど、それでも子どもなんだから、自分のことを心配しなよ! ――で、春華……あたしが、おとうさんと結婚しても、いいのか?」
 なんだか無茶苦茶なことを言っていると自分でもわかっていたが、どうにもならなかった。そのかずさの問いかけに、春華は少しだけ考えて、それから、
「――いいよ。っていうか、おとうさんと、結婚してあげてください。わたしたちの大好きな、おとうさんをしあわせにしてあげてください。おねがいします。」
と頭を下げた。それから雪音に向き直り、
「いい、雪音、かずさおばちゃんがおとうさんと結婚するってことは、かずさおばちゃんがこれからは、わたしたちのおかあさんになるってことなんだよ? わかってる?」
「わかってるよー?」
「じゃあさ、雪音はこれから、かずさおばちゃんのこと、「おかあさん」って、呼んであげられる?」
「――んーー。」
 雪音はちょっと困り顔になった。それから
「「ママ」じゃだめかな? 「おかあさん」っていったら、やっぱり、おかあさんのことだから……。」
と大真面目に答えた。
「――んーー、いいかもね。「ママ」。」
 春華はかぶりを振って、
「それじゃ、これからもよろしくね、かずさママ。」
とにっこりした。
「――あ、ああ……ちょっ――と……待ってくれ――まだ、心の準備が……。」
とうろたえたかずさを見てクスリと笑うと、春華は
「そうだね、区役所行ってからでないとね。じゃ、おとうさん、かずさおばちゃん、おやすみなさい。雪音、今夜はお姉ちゃんがご本読んであげるからね。いこ。」
と立ち上がって雪音をせかした。
「えー?」
「えー、じゃないの。ほら、おやすみなさいは?」
「うー、おやすみなさい、おとうさん、かずちゃん。」
とぐずっていた雪音も立ち上がってぺこりと頭を下げ、二人の子どもたちは手をつないで子供部屋へと消えた。
 毒気を抜かれた大人二人、かずさと春希は、互いの顔を見合わせた。
(おい雪菜、おまえの娘たちは――。)
(大したもんでしょ?)



[31326] 関門2【WHITE ALBUM2雪菜trueアフター「雪菜のいない日々」】
Name: RCL/i8QS0◆fe1ad663 ID:129b0297
Date: 2012/11/22 19:08
「孝宏君と、亜子さんの式が、6月か――。」
「ずいぶん、引っ張らせちゃったな。謝る筋合いのことじゃないんだが、なんだか、申し訳ない気持ちが、いまだに抜けないよ。」
 小木曽家からの帰路、北原家へと向かう途上。後部座席にうとうとする春華と雪音を乗せたかずさのBMWの運転席と助手席で、かずさと春希はポツリポツリと言葉を交わした。

 4月の半ば、かずさのソロリサイタルまであと1週間という日。春華の入学祝と誕生祝をかねてという名目で、小木曽家に春華、雪音ともども夕食に招かれたその夜。ちょうどよい機会なので、春希とかずさは、小木曽家の面々に、婚約の報告をした。うきうきとはしゃぐ子どもたちに比べて、春希、そしてかずさはいやがうえにも緊張していた。

 二人とも、実の親たち――北原の母と、曜子にはすでにあいさつを済ませていた。
 涙を流して礼を言う北原の母に、かずさはひたすら恐縮するのみで、さすがに雪菜のようにあっさり距離を詰めることなどはできそうもなかった。もちろんそんなことは、春希とて期待してはいないし、する資格もない。そもそもこうやって平静に、そこそこ親しく母と自分やかずさが口をきけるようになったこと自体、雪菜のおかげなのだから。雪菜の死によって事態が後退しなかったことは、もっけの幸いだった。
 一方曜子はと言えば。北原家の冬馬邸への引っ越し、そして同居という提案も込みで行なったためもあってか、今度のあれこれに向けていやでも実務的な話をせねばならず、北原の母の場合のような愁嘆場にはならない――かと思ったが、終始ニコニコと上機嫌だった曜子がふと、
「――そっか……私、おばあちゃんになるまで生きのびられたか……。もう、思い残すこと、ないなあ……。」
と漏らしてしまったことにかずさが激昂し、次いで泣き出してしまった。半休を取ってかずさと二人、子どもたちなしでの挨拶だったことがよかったのか悪かったのか……さすがに子どもたちの前では、曜子は決してそんな弱音を吐きはしなかったろう。そして、何とか泣きやんだかずさが、
「まだ、血のつながった孫の顔は、見てないだろう……それまでは、冗談でだって、そんなこと言っちゃだめだ!」
と言い切ったのに対して、今度は自分の方が泣き崩れることもなかったろう。
 タフな闘病生活を10年近く続け、そろそろ60の声を聞こうというのに、いまだに凛とした美しさを失わない冬馬曜子の、これほど弱い姿を見るのは、春希としては初めてだった。
(そうか、俺は、子どもたちやかずさだけではない、この人も守っていかねばならないのか……。)
 家庭のことだけではない。麻理には申し訳ないが、場合によっては開桜社を退き、冬馬オフィスでかずさのマネジメントに専念することさえ、ひとつの選択肢として春希は計算に入れていた。そこまでいかなくとも、冬馬オフィスの経営に参画すること自体は、既定の方針として胸に刻んだ。

 そして迎えた今日。雪菜の母の心づくしの御馳走を前にして、春希とかずさはテーブルの向こうの小木曽夫妻に、そして孝宏と、婚約者の亜子に報告した。
「……お義父さん、お義母さん。孝宏君、そして、亜子さん。突然の話で、恐縮ですが、俺……いや、私は、ここにいる、冬馬かずささんと、再婚させていただくことに、決めました。雪菜が亡くなって、まだ、1年かそこらしかたっていないというのに、大変――。」
 息を整えてから決死の形相で切り出した春希の話を、雪菜の父はあっさり
「それはよかった。お二人とも、おめでとうございます。」
と途中で切って落とした。雪菜の母もにこやかに、
「おめでとう、春希さん、冬馬――かずささん。やっと、決心されたのね。いいえ、遅すぎたくらいですよ。1年だなんて、実際にはもうそろそろ2年になろうってところじゃないですか。そうよ、この秋には、雪菜の三回忌……。ああ、時がたつのは早いわねえ……。」
と祝福してくれた。孝宏と亜子も
「おめでとう北原さん、冬馬さん! ぼくたちも6月には式を挙げますから、むしろ頃合いですよ。」
「おめでとうございます、お二人とも。お互い、幸せになりましょうね。――春華ちゃん、雪音ちゃんも、よかったわね。大好きなおばちゃんと、いっしょに暮らせるよ。」
と明るく言った。
「それで、お式はいつに……。」
と畳み掛ける雪菜の母に、春希は
「決めてません。夏まではお互い忙しいですし、秋には、雪菜の三回忌ですし……あわてずに行こうかと思っています。いっそ、式などあげなくても……。」
と応えたが、雪菜の母は
「いけません! ――そりゃ、かずささんは有名人だし、大げさなパーティーとか開くとかえって面倒くさい、というのはわかるわ。それでも、内々の小さなものでいいから、御式はちゃんとおあげなさい、それもできるだけ早く。なにより、かずささんは初めて、バージンロードを歩くのよ……ね、かずささん?」
と厳しく言った。
「え、あ、はい、いえ、わたしは、春希がいれば別に……。」
「だーめ。こういうものはね、えてして本人たちのためというよりは、周囲のためのものなのよ? あなたのお母さまだって喜ぶし、ちびちゃんたちだって、ね?」
「うん!」
「かずちゃんのドレス、見たい見たい!」
 この辺の、子どもを小狡く味方につけるテクは、見習わねばならない――とかずさは思った。

「そりゃさ、もちろん、祝福してもらえるとはわかってたよ。わかってたけど……。」
 帰りの車中、酔いも手伝ってか、少しもつれた口調で春希がひとりごちた。
「わかってたけど、何だ?」
「何だか、申し訳なくて……。」
「気持ちは、わからないでもないけどさ――。何だか、後ろめたさを感じてるから、その分、むしろ責めてほしい、っていう気持ちもさ。それは、あたし自身の気持ちでもあるから。でもさ。」
 運転しながらかずさは続けた。
「そういうのって、おまえの――いや、あたしのでもあるな。あたしたちのエゴだよ。勝手な都合だ。」
「そう――だな……。」
 春希はため息をついた。
「責められる方が楽で、祝福の方が気が重いっていうなら、それこそ、あの人たちの祝福は、あたしたちへの罰だ。後ろめたさがあるんなら、甘んじて受けるべき罰だよ。違うか?」
 かずさは、少し意地悪な含み笑いとともに言った。春希は驚いたように
「――おまえ……性格悪くなったな? まるで――。」
「まるで、何だ?」
「付属時代に、戻ったみたいだ……。」
「――ふん。」

 かずさには、春希に話していないことがあった。
 食事の後、酒を酌み交わして歓談する春希(今日は行きは春希、帰りはかずさ、と相談して決めた)と雪菜の父、そして子どもたちとゲームに興じる孝宏と亜子を置いて、雪菜の母に誘われてかずさは小木曽家の2階に上がった。
「何でしょうか、雪菜のお母さん?」
「――そう、それそれ。もし、いやじゃなかったら、春希さんのように、これからはあなたも、私のことを単に「お母さん」って呼んで下さらないかしら。」
「えっ? そ、それは――。」
「冗談よ。いえ、冗談じゃなく、ほんとにそう呼んで下さったらうれしいんだけど、ずうずうしくお願いするつもりはないわ。これは単なる、私の願望です。それより――。」
と雪菜の母はかずさに向き直った。
「あなたがいない5年間の、二人――雪菜と、春希さんのこと。いえ、というより、大学時代の3年間のこと。ご存じよね?」
 かずさは少し絶句して、それから
「――はい……。」
と正直に答えた。
「それは、春希さんから聞いたの? それとも、雪菜から?」
「――両方……です。春希と雪菜、それぞれから、それぞれの事情を、それぞれの想いを、聞きました。」
「――そう……。」
 雪菜の母はほっ、と息をついた。
「――我が家の男性陣は、その辺のこと、全然知らないわ。わたしだって、当の雪菜からは、何も聞いていない。ただ、何となく気づいてはいた。――あとで、朋ちゃんから、少しばかり裏付けを取ったけどね……。高校を卒業して、大学に入ってから――あなたが日本を去ってから3年間、あの子は荒んでいた。友だちもつくらず、大学に行く以外は家に引きこもって――時たま、ろくにおしゃれもしていないくせに「デート」とか言って出かけては、酔っ払って帰ってきて――でも全然楽しそうじゃなくて。――でもうちの男どもは、それでもすっかり騙されて、雪菜は高校時代からずっと、春希さんとお付き合いしてる、って思い込んでいた……。」
 雪菜の母は笑った。
「――あたしの、せいです。」
 かずさはうつむいて言ったが、雪菜の母ははっきり
「違うわ。そんなのはもちろん、雪菜と、春希さん、二人の問題です。あなたに何の責任もあるわけはない。――ねえかずささん?」
「――はい?」
「私は、あなたのことを、付属の3年生のころから、知ってるわよね。あなたと、雪菜と、春希さん、3年生の後半には、いつも一緒だったことを、覚えてるわ。」
「……。」
「だから、雪菜と春希さんの間がぎくしゃくしていたその理由が、あなたにあるんじゃないか、ってことくらい、当然考えてたわ。」
「――だったら……!」
「「原因がある」っていうことと、「責任がある」っていうことは、それでも、全然別ものよ? それは恋愛についてだってそう。そうでしょう?」
「……あたしが、意気地がなかったのが、いけないんです。あたしが、逃げ出したから、二人を迷わせてしまった……。」
「それを言い出したら、そもそも最初から、雪菜と春希さんが結ばれていなければよかった、ってことになるわよ? ――もちろん、あながち間違ってもいないけど。もし早めにあなたが雪菜に引導渡してくれていたなら、あの子も、他に誰か素敵な人を見つけられたでしょうし。でも、今更そんなこと言ったって、何にもならないわ?」
「――それだけじゃありません。あたし――あの時にも――5年ぶりに日本に戻ってきたときにも、雪菜から、春希を奪おうとしたんです……。」
「――それでも、同じことよ。もちろんそこで負けた方が、雪菜の受けた傷は、より深かったでしょうけど。でも、あなたと雪菜は戦って、そして雪菜は勝った。それで、変な言い方だけど、「恨みっこなし」で友だちに戻ったんでしょう?」
「それは……。」
「――ねえ、かずささん。あなたは、雪菜に負けて、春希さんをとられて、たくさん、泣いたわよね? でも、日本に戻ってくる前と、戻ってきてからとでは、どちらが、幸せだった?」
「――それは……戻ってきてから、です。雪菜には、春希をとられたけど、それ以外にたくさんのものを――生きていく力を、もらいました。雪菜のおかげで、あたしは、母さんのそばにいて、母さんを支えられるようになったんです。」
 かずさははっきりと言った。
「雪菜も、そうよ。春希さんと結婚するしばらく前から、そう、あなたが戻ってきてから、あの子ははっきりと「大人」になった。春希さんのおかげであの子は幸せになったけど、あなたのおかげであの子は成長したの。――むしろ、春希さんがいると、あの子、子どもに帰っちゃうくらいだったわ。――ひょっとして、あなたも、そうじゃない?」
「――自覚は、あります……。」
「なら、そういうことよ。」
 雪菜の母は、いたずらっぽく笑った。
「――? どういうこと、ですか?」
「男は――いえ、春希さんは結構、バカだ、ってこと。それでも、あなたたち三人は、出会うことができて、とっても、幸運だった、ってこと。――その幸運を、これからも、大切にしていってください。お幸せにね。」
「――おかあ、さん……。」
「あら? 「お母さん」って、呼んでくれるの?」
「――いえ、あのっ、これは……。」
「どちらにせよ、私は春華ちゃんと雪音ちゃんのおばあちゃんなんだから、これからも、よろしくね。」
「はい……こちらこそ、よろしくお願いします。」

「たしかに、おまえは、バカなやつだな……よい意味でも、悪い意味でも。」
 かずさはつぶやいた。しかし、返事はなかった。ふと見やると、助手席で春希は、こくりこくりと、舟を漕いでいた。
「――ふん。三人とも、寝ちゃったのか?」
 北原家までは、あと少しだった。



[31326] 「歓喜の歌」【WHITE ALBUM2雪菜trueアフター「雪菜のいない日々」】
Name: RCL/i8QS0◆fe1ad663 ID:129b0297
Date: 2012/10/05 19:49
 小木曽家での、春華の小学校入学祝(と春希とかずさの婚約報告)から1週間後の金曜日。またしてもあの、御宿のホールで、冬馬かずさのひさびさの――親友、北原雪菜の急死以来初めての、満を持してのソロリサイタルが開かれた。

 開幕直前。
 満員の客席の中、かずさの配慮で、北原親子3人の席は最前列の更にど真ん中。既に春華と雪音は、よそいきに身を包み、それぞれ大きな花束を大切に抱え込んで父、春希とともに着席していた。
「雪音、いい子にしておとなしく聞いてるんだよ!」
と春華がお姉さん風を吹かせて言うと、
「わかってるよおねえちゃん! あたしはおねえちゃんとちがって、かずちゃんにピアノをならってるんだから!」
と雪音がやりかえした。
「なまいき、言わないの!」
「ほらほら、いい加減にしなさい、二人とも。」
 ――正直なところ、春希は気が気ではなかった。そもそもしっかりしてきたとはいえ春華はまだ小学1年生、本格的にピアノを始めたばかりの雪音に至っては保育園の年中さんである。本来ならば、家族室もあるホールであるから、そちらの方をとってもらうべきだったかもしれない。しかし
「おばちゃんと、約束したんだろう? コンサートの間、静かにしてるって。眠くなったら、寝ちゃって構わないけど、おしゃべりとか、どたばたするのはだめだって。」
 そう、二人は春希を差し置いて、かずさに直談判して、この最前列のシートを手に入れたのだ。「絶対におとなしくしてるから」と指切りして。
「だいじょうぶだよー。だいたいこんないちばんまえの席で、大きな音のピアノで、ねちゃったりできないよー。」
と雪音がとりすました顔で言った。
「――だから心配なんだけどな……。それから、二人ともおトイレはちゃんと行ったよな? 曲と曲の間は、出入りできないからな?」
「おとうさん、だいじょうぶだよ、わかってるよ。全部ちゃんとかずさおばちゃんから聞いてるから。――ほら、ブザー、なったよ?」
と春華が言うとおり、開幕を告げるブザーが響き、場内が暗くなった。ほの明るい舞台中央にはスタインウェイが1台、でんと構えるのみ。と、そこに、舞台袖から、黒いシックなドレスに身を包んだ、かずさの長身が現れた。大きな拍手がわきあがった。もちろん春希も、子どもたちも精いっぱいの拍手を送った。と、雪音が
「かずちゃーん!」
と声を張り上げ、周囲に軽いどよめきと、笑い声が起こった。春華が
「こらっ! 雪音!」
と叱りつけた。と、舞台の上のかずさも当然気づいて一瞬立ち止まり、正面に向き直った。そして、わざとしかつめらしい顔で雪音の方に向かい、右手の人差し指を唇に当てて
「――!」
と大げさに、茶目っ気たっぷりにポーズしてみせた。一瞬、一段と大きな笑いが客席を満たし、一気に場の雰囲気は和らいだ――春希を除いて。
(――ああ……無事に終わってくれ……。)
 しかし、そんな春希の気持ちなど知らぬげに、笑いも静まらぬうちにかずさはさっさとピアノへとたどり着いて、再び客席へと向き直り、聴衆に微笑んで一礼した。再び、大きな拍手が起こった。二人の子どもたちも、わくわくして舞台の上のピアノを、かずさを見つめていた。
 礼をしたのち、かずさは着席した。そして、客席のざわめきが収まるのを待ってから、背筋を伸ばして鍵盤へと向かい合い、一呼吸おいてからおもむろに弾きはじめた。

 今日の演目は、非常に保守的というか、一般受けのしやすいもので、まず出だしにショパンの練習曲、シューベルトの小品をおいて、メインはリスト編曲のベートーヴェン「田園」が予定されていた。
 まずは美しく、なじみやすい旋律が危なげなく流れ、とりあえずは子どもたちもおとなしく聞き入っていた。しかし春希は内心緊張が解けなかった。今は小品だからよいが、耳触りがよく聞きやすいとはいえ長尺、全5楽章にわたる「田園」を小さな二人が果たしておとなしく聞き続けられるものだろうか。ベートーヴェンの交響曲のピアノアレンジを全楽章休みなしに一気に弾くのみならず、その前後にも難曲を配しても屁でもない、人並み外れたかずさのスタミナに、幼い子どもたちを本当に付きあわせられるのか……。
 ――とにかく、休憩時間にちゃんとトイレに行かせ、小腹がすくようならデザートくらいは好きに食べさせておかねばなるまい。腹がくちくなって眠くなったら、かえって好都合だ……かずさには失礼ながら、はじめのうち春希はそんなことばかり考えていたので、気付かなかった。
 ――かずさの演奏が、以前から――そう、つい先だっての「親子のためのコンサート」の時に比べて、確実に変化していたことに。

 聴衆の中にいた少なからぬ同業者はもちろん、熱心なファンはすでに気づきつつあった。その熱心なファンの中には、瀬之内晶=和泉千晶も混じっていた。
(――おい、これ……何なの? いったい何があったの? どうしてこんなに、あふれてくるんだよ?)
 春希に頼んでこっそり手に入れておいた後方座席で一人、千晶は固唾をのんで演奏に聞き入っていた。
(――これは――祈りっていうより――「歌」だよ文字通り。「歓喜の歌」じゃないか? 抑えがたい喜びが、自然に歌になってこぼれてくる……何なんだこれ?)
 さすがに鋭敏な千晶の耳は、何が起こったかをほとんど誤りなく聞き取っていた。しかし、休憩時間後の展開は、その彼女の度肝をも抜くものであった。

 3曲弾いてからの休憩時間。ロビーのカフェで子どもたちにねだられるまま、大きめのアイスクリームを買ってやり、自分はエスプレッソを2杯飲んで気合を入れていた春希に、
「やあ、北原さん。」
と声をかけてきたのは、橋本健二だった。見ればその傍らに寄り添う女性は、驚くまいことか柳原朋だった。
「こんにちは、橋本さん――で、柳原さん、こんなところで、いったい何を?」
 春希はわざと冷たい声で言ったが、朋は堪えた風もなくケラケラ笑って、
「えー、いやだなあ、人聞きの悪い。あたしも冬馬さんのファンの端くれですし、この間からは仕事仲間でもあるんですよ? 当然、チケットだっていただいてますよー。やっほー、春ちゃん、雪ちゃん。ひさしぶりねー。」
「――いや、それはいいから。俺が聞きたいのは、どうして橋本さんと一緒なのか、ってことなんだけど。」
 すると橋本健二は
「いえ、仕事仲間ですから、せっかくだからご一緒しようかと思いまして、ね。」
といたずらっぽく笑い、朋も
「わたしも雪菜から例の司会を引き継いだ以上、責任ってものがありますからね。橋本さんにいろいろ教えていただいて、勉強してるんですよ……。」
と笑った。
「柳原さんは随分熱心な勉強家ですよ。北原さんに勝るとも劣らない――大したものです。」
「――いえ、それはいいんですけど、橋本さん、気を付けてくださいよ? わかってます? この人、芸能スポーツ欄、いえゴシップ欄の常連ですからね? くれぐれも、巻き込まれないでくださいよ……。」
「いやだなあ北原さん、わたしをなんだと思ってるんです?」
「柳原さん、この人は、かずさと並ぶ日本クラシック界の宝なんだから、くれぐれも、軽はずみなことは――。」
と朋に説教しようとする春希だったが、と、そこに橋本は
「――ところで北原さん、ようやく、踏ん切りをつけられたんですね。おめでとうございます。」
と爆弾を落とした。
「――っ! だ、誰に聞いたんです? 曜子さんにですか? それとも、まさか、かずさ本人から……。」
とあわてる春希に、橋本は初めて見せるいたずらっぽい顔でにやりとした。
「――おや、図星でしたか……。まあ、聞く人が聞けばまるわかりですよ。かずささんはとりわけ、感情が、気持ちがピアノに出る人ですから。ここ十年でうまくなって、精神的に不調になったり不安定になっても、それで演奏そのものが乱れたり質が落ちたりすることはなくなりましたけど、悲しいときは悲しげな、うれしいときはあからさまに楽しげな演奏になってしまう。こればっかりはどうにもなりません。――となれば、これは、語るに落ちるということかな、と……とりあえず、大変失礼かとは存じますが、カマをかけさせていただきました。」
「――まあ、やっとですか! よかった、本当によかったわあ! これは飯塚さんたちにも早く知らせないと!」
と朋は携帯を取り出してメールを打ち始めた。
「――あーいや、ちょっと待ってくれ。武也と依緒には、俺の口から言うから、勘弁してくれ――。」
「――えー? そうですかー? しかたないなあー?」
と朋は口を尖らした。と、そこに後ろから、
「おいおい春希、黙っといて欲しいんなら、口止め料ってもんがいるんじゃないの?」
と声をかけてきたのは、和泉千晶だった。
「――っと、和泉……。」
「――あら、瀬之内晶、さん?」
 ブルーのシックなドレスに身を包んだ千晶は、にっこりとほほ笑んで
「やっぱりそういうことか。おめでとう、春希。で、プロポーズしたのは、どっちからなんだい?」
「……。」
 ――そんなに、誰が聞いても明らかなほどに、かずさの演奏は色ボケてたのか?

 四面楚歌の状況から春希は「子どもたちのトイレ」を口実にほうほうのていで抜け出した。二人がトイレを済ませるのと、休憩時間終了を知らせるブザーが鳴るのと、ほぼ同時だった。
 再び暗くなった会場が静かになったところをみはからって、かずさが現れた。驚いたことに、今度は目の覚めるように華やかな、カーマインのドレスに着替えての登場だった。会場が軽くどよめいた。しかしそのどよめきも、かずさの演奏開始後のそれに比べれば、ささやかなものだった。
 ――そう、本来あってはならないことなのだが、休憩後の演奏再開直後に、聴衆は意表を突かれてどよめいてしまった。演目が予告なしに変更されていたのだ。
 かずさの指から流れ出した旋律は、間違えようがなかった。それは当初予定されていた「田園」第1楽章の、あの穏やかで軽やかな出だしではなかった。リスト編曲のベートーヴェン交響曲には変わりないが、第6番「田園」ではなく、第9番「合唱」第1楽章の、あの殴りつけるような導入だった。
「――マジに、「歓喜の歌」かよ……。なんてベタな……。」
 気おされて千晶はつぶやいた。
 ――そしてようやく、鈍い春希にも、何が起こっているのかがわかりつつあった。傍らの子どもたちも、あっけにとられて舞台の上のかずさを見つめていた。
「――かずちゃん、わらってる……。」
 小さくつぶやいたのは雪音だった。
 ――さて「笑ってる」と言ってよいものかどうか。少なくともかずさの口はいま真一文字に結ばれ、笑みなど浮かべてはいない。しかし、眼はどうだ。
 上半身をリズミカルに揺らして演奏するかずさの眼は、もちろん一心に鍵盤を見つめていたが、確かにその眼は、楽しげな光を放っていた。
 ――畳み掛けるような演奏の果て、興奮が最高潮に達した第4楽章では、ついに見間違いようもなく、かずさは歓喜の笑みとともに、踊るように鍵盤をたたいていた。そして、客席の雪音と春華も立ち上がり、まるで指揮者のように両腕をテンポよく振り回していた。

 ――そして演奏が終わると、しばしの沈黙の後、耳をつんざかんばかりの喝采がホールを揺るがした。かずさは着席したまま、しばし肩を落とし、眼をつぶっていたが、ようやく立ち上がって聴衆へと一礼し、花のように笑った。
 客席のそちらこちらから花束を持って押し寄せる気配を察して、春希は子どもたちを促した。急いで花束をもって舞台に駆け寄った春華と雪音は、最前列が幸いして、真っ先にかずさのもとにたどり着くことができた。
「かずちゃん!」
「かずさおばちゃん!」
 花束を差し出した二人にかずさは笑顔で応えると、ぐいと身を乗り出し、両腕を差し伸べて花束を受け取る――かと思いきや、えいやっ、と二人を身体ごと引っこ抜いて舞台の上へと抱き上げ、そのままぐい、っと抱きしめて舞台の上でくるくると回った。
「――何だよ、柄にもない……。」
とぼやきながら春希は、それでも立ち上がって精一杯の拍手を送り続けていた。

 ――花束の山を抱えて、子どもたちとともに舞台袖へと引っ込んだかずさに、春希は一瞬逡巡した。子どもたちも一緒に行った以上、自分もとりあえず楽屋へと行くべきか――と考えたのである。しかしながら鳴り止まぬ拍手にすぐさまかずさが戻ってきたので、春希も席を立つ機を逸してしまった。
 アンコール、1曲目は春希には聞き覚えがあった。橋本健二が作曲した習作的な小品である。緻密な計算に支えられ、乾いたユーモアをたたえた無調音楽に、興奮していた聴衆の熱が、ゆっくりとさまされていくのが春希にもわかった。燃料を投じるのではなく、余韻を残しつつ落ち着かせる――悪くないアンコールだ、と春希は思った。
 しかしかずさはそこで引っ込まずに、2曲目に突入した。
「――?」
 少なくとも春希は初めて聞く曲だった。どちらかというとポップス、それもバラード調の曲が、静かに流れた。――と、いきなり、穏やかで透明な声、声量はそれほどでもないが、しっかりと落ち着いた女声――コントラルト――がホールをゆっくり満たした。また一瞬のどよめきが客席を走り、春希も思わず立ち上がりそうになった。
「――!」
 間違いようもない。「春の雪」を、ほかならぬかずさが、自分の肉声で弾き語っていた。
 ――プログラム本体が祝祭的な「讃歌」だったとすれば、このアンコールはまぎれもなく静謐な「祈り」だった。
(――ああ……雪菜――聞こえるか? 聞いてくれているか? ――おそくなったけど、やっと、おまえのためのエレジーが、できたようだ……。)
 春希の頬を涙が一筋だけ、流れた。

 春希が楽屋裏、演者控室にたどり着くと、そこにはみんながいた。――みんな? そう、かずさと、春華、雪音はもちろん、曜子と、付添ってくれたのであろう高柳教授。冬馬オフィスの工藤美代子。ナイツレコードでの雪菜の後任の「冬馬番」、澤口さんも来ていた。そして、橋本健二と柳原朋。
 子どもたちを膝に乗せたままのかずさが、噛みつくように
「遅いぞ!」
と毒づいて、それから晴れやかに笑った。春希は泣き笑いで、
「――おまえさあ、何やってんだよ……サプライズで演目丸々変えちゃうわ、アンコールでポップスを弾き語りするわ……まるっきりデタラメじゃないか――ウケりゃいいってもんじゃないんだぞ――!」
と説教で返した。
「――それが、おまえの感想か? デタラメやったあたしを、わざわざしかりつけに来たのか?」
「音楽家としてのおまえを、しかりつける資格なんか、俺にあるわけないじゃないか。俺に言えることは、たった一つだ――ありがとう。素晴らしい演奏だった。そして、素晴らしい曲だった。まさか、おまえ自身が歌ってくれるなんて……。」
「――あれはその、何だ、なんていうか、「仮歌」――にすぎないさ。これからボーカルを探さなきゃいけないし、おまえにはギターの特訓に入ってもらわなきゃならん。その辺は、何もかもこれからだ。」
と、かずさは、少し照れたように言った。
「「仮歌」とは言ってもね。」
と曜子が割って入った。
「今日のステージは、きっちり音声も映像も、とっておいたわ。もう少し検討するけど、おそらくブルーレイで出すことになると思う――アンコールも含めてね。どう、澤口さん?」
「先生がそうおっしゃる以上、私どもに異論のあろうはずはありません。お客様の反応も上々でしたし、素晴らしいライブビデオができると思います。――まあ、ボーナストラックに、「春の雪」の本番が間に合うかどうかは、これから検討させていただかねばなりませんが……。」
「――いや、それは勘弁してください……俺の出番は、あくまで音だけってことで……顔出しは……。」
「あいにくおまえの腕じゃあ、ビジュアルがあった方がごまかしがきく、ってレベルなんだがな。」
 そこに、真剣な面持ちで、朋が割って入った。
「――あの……私なんかじゃ、力不足だ、ってことは重々承知しています。でも、もしお差し支えなければ、雪菜の歌に――「春の雪」のボーカルに、挑戦させていただけないでしょうか?」
「――それは願ってもないことです。こちらこそ、よろしくお願いします。春希、澤口さん、どうだい?」
「俺としては、異論などないよ。」
「――んー、そうですね、一応、うちの方でも少し有望な若手ボーカリストを当たって、簡単にオーディションなどしてみようかと思っていたのですが、かずささんと北原さんがそうおっしゃるなら……。」
「――それでしたら、オーディションしてください。わたしも、エントリーします。」
 ひどく真剣な顔で、朋は言った。



[31326] 墓参り【WHITE ALBUM2雪菜trueアフター「雪菜のいない日々」】
Name: RCL/i8QS0◆fe1ad663 ID:129b0297
Date: 2014/01/02 20:10
「今後の私の5年生存率は、そうねえ、30パーセントってところらしいわよ?」
 定例の検査入院中の昼下がりの病室に、春希ひとりを呼びつけた冬馬曜子は、開口一番そう言ってのけた。春希としては、黙り込むしかなかった。この時間はかずさは普通は練習中で、見舞いに来るとしてももう少し後、夕方になってからである。そこを見計らって曜子は、「あなただけにいっておきたいことがあるから」と春希を呼び出したのであった。
「まあ、これはそんなに科学的根拠のある数字じゃなく、ノリ君のヤマ勘によるもので、大体の目安、でしかないんだけど? ……でも困ったことに、ノリ君のヤマ勘ってのがこれ、結構正確なんだ――あの男研究者としてだけじゃなく、臨床医としても相当に優秀なのよ……。」
「――30パーセント、ですか……。」
 少し狼狽した春希は、頭の中で素早く計算してみた。1年毎の生存率でいうと、八割弱、ってところか……。そう表現してみると、存外大きいようにも思えたが、もちろん気休めにすぎない。
 そんな春希を尻目に、曜子は軽い口調で続けた。
「そう。まあ、10年前に、最初に見てもらった時の見立てがまあ、あの時考えられる最善の治療をした上で、5年生存率が50パーセントで、10年後は25パーセントだったの。そう考えると、一応5年生きのびた後、更にもう5年生きのびる確率がだいたいまた50パーセントだった、ってことよね。ありがたいことに病状は、高い薬と万全のケアのおかげでほぼ安定しているから、次の5年も50パーセント、って思いたいところだけど、齢も齢だしね。次の5年はこれまでよりちょっとばかり厳しいだろうって。なんだかんだ言って、体力も免疫力も少しずつ落ちてるからね……合併症もいろいろあるし、ここんとこうまく押さえ込んでる、メインの症状の再発だってありうる。」
「曜子さん、その話、かずさには――。」
と問うた春希に、
「もちろんしてるわよ。ノリ君たら、最近じゃ何でも、私に言う前にかずさを呼び出して、必ず二人いっしょに聞かせるのよ――この間定年で名誉教授になったくせに、まだ大学病院で我が物顔なんだから。ロートルはさっさと後進に道を譲ってあげないと、ねえ?」
と曜子は反応に困る冗談で応えた。
「――それじゃあ、俺を呼び出された理由は?」
 少し困惑しつつ問うた春希に、曜子は、ややためらいつつ切り出した。
「――それでね……ギター君――いや、春希君にお願いなんだけど。できるだけ早いうちに、あのこを、かずさを海外に連れ出してやってもらえないかしら? ――今のように、コンクールやリサイタルでたまの遠征、とかじゃなく、年単位で欧州か、あるいはひょっとしたらアメリカでもいいけど、とにかく日本以外のところで、またしばらくじっくり音楽に取り組む機会を、持たせてやりたい。
 でも、私がこんなだから、そんなこと、かずさはたとえ思ってても決して口に出さない。あのこの今の師匠のシモーヌに「それとなく水を向けてくれ」って頼んでるんだけど、どうも反応が芳しくないらしくてね。――だから、ひどいわがままだとはわかってるんだけど、あなたの力も借りたいの。めでたく結婚して家族になったら、機会を見つけて海外赴任を引き受けるとかして、ね?」
 腰が低いようでいて、根っこのところでは相変わらずの強引さだった。春希は少し黙り込んでから答えた。
「――一度、ゆっくり、かずさとは話してみます。たしかに、海外赴任の話は、俺にもないわけではないんです。ただ、近々にあった話は、家庭の事情、ということで断りました。次に話が来るのは、2、3年後でしょう。ですから、機会自体はないわけではないんです……。ですが――いくら俺たちと一緒にとはいっても、今のかずさは、あなたを置いては行けないと思います。」
 曜子は嘆息した。
「――さっき低めの数字出しておいて、なんだか矛盾して聞こえるかもしれないけど、症状そのものは安定してるのよ? 生存率の低下は病状の悪化というより、いまいましいけど老化のせい、トシの問題よ。とにかく、私のケアについては、やるべきことはもうきっちり確定していて、それを地道に続けるだけのこと。もう十年続けてきていて、かずさ以外のみんなももう慣れてるわ? あのこがいなくなったからって、それで何か困る、ってことは具体的にはないのよ? ――それに、もし万が一のことがあったって、ヨーロッパや北米からなら、ジェット一本で直ぐに駆けつけられるじゃない。」
「それはそうです。しかしここは、気持ちの問題ですよ。」
「あのこには、もう充分、親孝行してもらったわ……。そろそろ親離れ、子離れしないと。これからはむしろそっちの方が親孝行よ。」
と、曜子はふと病室の窓を見やった。
「私もこれまでは、「少しでも長く生き延びて、あのこを見守ること」を最優先に考えてきたけど、これからはむしろ「自分がいなくなった後」のことを考えようかな、って。まあ、急には切り替えられないから、半分半分かな?」
「半々だなんて……1:9くらいにしてください。俺にも、少しくらい、親孝行させてくださいよ……。」
 言葉を詰まらせる春希に、曜子は穏やかにほほ笑んだ。

 検査もあるので曜子のもとを早々に辞した春希は、午後4時という何とも中途半端な時間に放り出された。帰社すればもちろん仕事はいくらでもあるが、今日は自分が子どもたちのお迎えと夕飯の支度をする日である。退社時には直帰と申告してあったし、1時間かそこらのためにわざわざ帰社するのもバカらしかった。
 出版人としては、こういう空いた時間には書店の店頭をウロウロして棚の様子をチェックするのが基本であるが、今日はそういう気分ではない。
 ――と言うわけで結局気づいてみれば春希は、雪菜の墓の前に来ていた。
「やあ。――お彼岸以来、だな。」
 春希は「北原家之墓」と正面に彫られた墓標に、声をかけた。
「もう、わかってるだろうけど、かずさと、結婚することにした。」
 家にある写真にもう何度となく報告してあることなのだが、あらためてつい口に出してしまってから春希は、クスリと笑った。

 ――なぜだか都心部の一等地の墓地にあるこの墓は、離婚した際に春希の母が自分のためにとわざわざ用意しておいたものだった。まさかそこに最初に入るのが雪菜になってしまうなどとは、言うまでもなく誰も予想しないことだったが、こうなってみるとたしかに便利ではあった。この1年半ほどの間、お彼岸やお盆などの節目には必ず、子どもたちとここを訪れたし、それ以外にも折に触れ、月に一度くらいは春希は一人でここにやってきて、花を供え、掃除をしていた。
 5月の、そろそろ汗ばむほどの陽気の中、草いきれの中で春希が墓の周りをきれいにしていると、
「――あ……。」
と聞きなれた声がした。
「――なんだ……偶然だな。」
「――おまえ……この時間は練習中じゃなかったのか?」
 花を片手にこちらに手を振るかずさに、春希は軽く笑って問いかけた。

「――今日は……マダムが……シモーヌ先生が帰国して、最初の呼び出しで、な。橋本さんと一緒に、お茶を呼ばれてた。」
 春希と並んでしゃがみこみ、ピアニスト特有の優美だがごつい手で、乱暴に草をむしりながら、かずさは言った。
「ああ……だから、この間のリサイタルには、先生、来られなかったんだっけな? フランスに、里帰りされてたんだっけ?」
 かずさの日本での師匠、橋本健二の指導者でもあるシモーヌ・ボンヌフォワは、かつては一流のピアニストだったが、20年ほど前に一線を退いた。夫君が日本人の実業家であることもあって以後は日本を拠点に、後進の指導に専念している。曜子と取り合ったという男がその御夫君かどうかは、春希の知るところではない。
「――それが……えいっ! ――ヨーロッパ各地と、ついでにアメリカにも回っててな……そいで、爆弾というか、お土産を持ってきたんだ。」
「――お土産って……なんだ? 何か、伝説の名器とか、それともショパンの失われた楽譜とか、そんなもんか?」
 ピントはずれな春希の問いに、かずさは鼻で笑って、
「――おまえ何子供じみたこと言ってんだ? ――そんなんじゃないよ。留学の話だ。」
といった。
「――留……学……。」
 言うまでもなく春希としては、先ほどの曜子との会話を思い出さざるを得なかった。
「――といってもとりあえずはあたしにじゃなくて、橋本さんにだがな。……っと、おまえもここんとこ、橋本さんがいろいろ留学の手づるを探してたのは、知ってるだろう?」
「――ああ、聞いてた……博士号をとれたら、とりあえずどこか行きたい、っておっしゃってたな? 文化庁とか国際交流基金とかの、若手研究者・芸術家の派遣プログラムをいろいろあたってるって……。」
「――ところがマダムがさ、アメリカの××大学の、ビジターのポストを橋本さんのためにとってきたんだ。スカラシップ付きで何の義務も無し。まあ、演奏は地元のオケなんかと交流しつつ、何度かするように勧められてるけど、オブリゲーションとしてはなし。そうやってただいるだけなら1年。でも教師としてひとコマでも授業を持つならもう1年、延長してもらえるらしい。一応「アーティスト」枠なんだけど、何でも芸術学だか歴史学だかの授業も、やれるんならやれってことなんだと……よーっ、と。」
とかずさが名前を挙げた大学は、春希でも知っている、アイビーリーグの名門校だった。ニューヨークにほど近い田舎町――というか大学町にあるはずだ。ニューヨークの開桜社にも、何とか通えなくはないだろう。
「――そりゃ、いい話じゃないか! で、橋本さんは……。」
「もちろんオーケーしたさ。でも問題は、その次なんだ……。マダムは、橋本さんの次には、あたしを押し込みたいらしい。――あたしには、人に教えたりなんかできやしないのに……ピアノ弾くだけならまだしも、授業なんかできないよ!」
「――そもそもアーティスト枠、なんだろ? 橋本さんが授業を求められてるのは、あの人は音楽学者、歴史学者でもあるからで、かずさにそこまで要求はされないさ……その辺、先生もわかってらっしゃるよ。――行きたくないのか?」
「――母さんと、おまえたちを置いては、行けないよ。」
 かずさは、うつむいて手を動かしながら、言った。
「――まだ先のことなんだから、いまからひとり決めするなよ。ゆっくり時間をかけて、みんなで相談しながら、考えればいい。せっかくのチャンスなんだから、前向きに行こうぜ。もし仮におまえひとりで行くんだったら、曜子さんのことは、俺に任せればいい。もちろん、俺たちがおまえに付いて行ったっていい。――なに、会社の方は、何とでもなるし、子どもたちに海外を経験させておくのも、悪くない。考えてみりゃ、曜子さんにはおまえや俺がいなくたって工藤さんも、高柳先生もいるけど、おまえひとりでアメリカ行ったら、いったいどうなることやら……ジャンクフードばっかで、絶対、からだ壊しちまうぞ? 」
 急に饒舌になった春希に、かずさはうつむいたまま、
「……おい、手、止まってないか?」
「――今日はこの辺でいいよ。一緒に、ちびたちのお迎えに行こう。それから、うちで一緒に夕飯にしよう……曜子さん、まだ病院だろ?」
 春希は立ち上がって、パンパン、と手を払うと、その右手をかずさに差し出した。かずさは、口をへの字に曲げたまま、その手を取って立ち上がった。
「じゃあな、雪菜……また来るよ。」
「またな、雪菜。」




[31326] マリッジブルー、そして初夜(R‐15?)【WHITE ALBUM2雪菜trueアフター「雪菜のいない日々」】
Name: RCL/i8QS0◆fe1ad663 ID:129b0297
Date: 2012/08/12 15:09
 雪菜の墓の前で、偶然に鉢合わせした、その日の夜。
 予定を変更して、通いのハウスキーパーさんにことわりの電話を入れ、かずさは春希と一緒に、保育園の雪音と、学童の春華をピックアップして、北原家のマンションに一緒に帰った。そして、春希が夕飯を用意している間に、春華と雪音と一緒にお風呂に入った。風呂から上がり、二人をパジャマに着替えさせ、自分も、いつも持ち歩いているパジャマに着替えると、春希も一緒に、4人で夕飯の卓を囲んだ。
 夕食の後は、春希が春華の宿題を見てやってから、一緒にお絵かきに付き合っている間に、かずさは少しだけ雪音のピアノをみてやった。シモーヌ先生の紹介で、とりあえず信頼できるピアノ教師のもとに、今のところ週1回通わせているが、毎日の練習についてはかずさ自身が、できる限り付き合ってやることにしていた。
(まあ、あたしと違って、この子にはピアノしかない、ってわけじゃないからな。)
 やっていることは、ひとつひとつをとってみれば、いつも通り。
 しかし今夜は、いつもとは少し違っていた。
 普段なら、春希がお迎えする日は、小木曽の義母が夕飯を作ってくれるときもあればそうはないときもあったが、基本的にはかずさはいなかった。逆に、かずさがお迎えの日には、春希の帰りは夜遅く、大体は子どもたちがとうに寝静まってからだった。かずさと子どもたちが一緒にお風呂に入っている間に、ご飯を作っていてくれるのは、いつもなら小木曽の義母だった。
 子どもたちと、そして春希とかずさがそろうことは、実はこれまではめったになかった。

 そして9時。
「おやすみなさい。おとうさん、かずさおばちゃん。」
「おやすみなさい。おとうさん、かずちゃん。」
「おやすみなさい、春華、雪音。」
「おやすみ、春華、雪音。」
 今夜も春華と雪音はそろって、ぺこり、と大人たちに頭を下げ、二人だけで子供部屋に入っていった。
 ――あの夜、春希が二人の娘に、かずさとの再婚の話をして以来、二人は、大人たちに寝る前のご本をあまりせがまなくなった。休みの日はともかく、ウィークデーの夜は大体半々の割合で、「きょうは、あたしが雪音にご本を読んだげる」と春華が宣言し、雪音も文句言わずに二人で子供部屋に引き上げてしまう。
 大人たちとしても気にはなるので、こっそり外から中の様子をうかがうが、大体は大過なく、絵本を二冊くらい読んだところで子どもたちはスタンドを薄明かりにして、9時半ころには寝入ってしまう。
 何とも見事な親離れ振りに、頼もしく思う半面、寂しくもあるし、無理をしてるんじゃないか、と心配にもなるのは、仕方のないところだった。
 というわけで、大人たち二人は、ちらりちらりと子供部屋の方を気にしつつ、他愛のない話をしてしばらく時間をつぶした。そうして30分もたったころ、意を決して春希は、子供部屋をのぞきに行った。
「――どうだ?」
 かずさが小声でたずねると、春希は右手で「OK」のサインを作った。かずさはほっ、と息をついた。春希はテーブルにもどってくると、残っていた冷めたコーヒーをひと息に飲み干した。
「お疲れ様。」
「こちらこそ、お疲れ様。――甘いものを用意するよ。それから、目覚ましにコーヒーをもう一杯、でいいか?」
「――あ、ああ……頼むよ。」
 いつも通り、深夜車を飛ばして帰宅するかずさのために、春希はカロリーたっぷりのデザートと、濃いコーヒー(ただしこれにも砂糖たっぷり)をいれてやりながら、
「でもまあ、あわてる必要はないよな。今日は曜子さんもいない……帰っても、誰もいないんだろう?」
と声をかけると、
「――ああ……気楽なもんだ。あのでっかいうちに、あたしひとり。まるで、付属時代に戻ったみたいだ。掃除洗濯もひとまかせだし、気楽なもんだよ、実に。」
とかずさは、気のない返事をよこした。
「――そうか。じゃあ、ちゃんとしたハウスキーパーを雇えば、アメリカでも、ひとりで何とかやってけるな、おまえ。……それでも食事は心配だが。」
と、コーヒーとケーキを渡す春希に、かずさは
「――ふん。」
とそっぽを向いた。春希はクスッと笑って、
「そうか……付属時代と、おんなじか……それなら、寂しいよな。」
といった。かずさはそっぽを向いたまま、
「気楽だ、って、言っただろう?」
と不機嫌に言った。
「気楽なのと、寂しいのとは、矛盾しないさ。」
と春希が突っ込むと、振り向いたかずさの眼には、少しばかり涙がたまっていた。
「なら……、さ。あたしに……「ひとりで行け」とか、言うなよ……。あたしたち、結婚、するんだろ……? ほんとの家族に、なるんだろ……? それなのにすぐ、離ればなれだなんて、あたしは、嫌だよ……。」
 話しているうちに、かずさの両眼からは、ポツリポツリと、涙があふれてきた。春希は、少しばかりあわてた。
「お、おい……。別に「ひとりで行け」だなんて、俺は言ったつもりはないよ……。あくまで「仮に」の話だ。俺としては、おまえの行くところにだったら、どこだってついてってもかまわんさ。子どもたちも小さいし、一緒に連れていける。まあ、その場合は曜子さんが気がかりだけど、な。ほんとなら、曜子さんも一緒に連れて行きたいところなんだが、こればっかりは、まあ、あの人の意志は曲げられないし……。」
と春希はなだめたが、かずさはおさまらず、
「仮に、でだって、そんなこと言わないでくれよ……あたしいま、とっても幸せだけど、同時に、とっても不安でもあるんだ……マリッジブルー、ってやつなのかな……。幸せなんだけど、その幸せが壊れるのが怖いし、結婚したいんだけど、結婚して生活が変わってしまうことが不安だし、その他いろんなことが、不安で不安でたまらないんだ……。」
と吐き出した。春希はふっ、とため息をつき、それから言った。
「――それなら、な。「気楽だ」なんて、つまらん強がりはよせ。」
「……。」
「今夜はさ、曜子さんもいなくて、帰る必要はないし、帰っても一人でさみしいだけなんだろう?」
「――それが、どうした?」
とかずさは、涙声で反問した。
「――それなら今夜は、うちに泊まっていけばいい。それで、みんなで朝飯食って、子どもたちを送り出してから、帰ったらいい。」
 かずさの肩が、一瞬震えた。それから一拍おいて、かずさはたずねた。
「あたしは、どこで寝ればいいんだ? ちびちゃんたちの部屋か?」
「ベッドがない。狭すぎる。」
「じゃ、客用布団を出してくれ。子供部屋でもいいし、何だったら、ここでもいいよ。」
「――それでもいいけど……俺の部屋じゃ、ダメか?」
「おまえの部屋って……今、仕事部屋にしてる、あそこか?」
「あー、あそこもあったなあ、それでもいいんだが、ちょっと布団敷くスペースがなあ……。俺が言ったのは、つまり、俺の――俺たちの寝室のことなんだが。」
 それを聞いて、かずさの頬が赤く染まった。
「あたし――おまえたちの寝室は――あんまり入ったことないけど……そんなに広くないところにダブルベッドが置いてあって(「いやセミダブルだけど」、と春希は内心突っ込みを入れた)、あそこも仕事部屋以上に布団敷く余裕が……。」
 そこまで言われて、今度は春希の方が少し赤くなった。
「――んーと、おまえ、俺と一緒のベッドじゃ、嫌か? 雪菜と一緒だったベッドじゃ……。」
 かずさはうつむいて、激しく頭を横に振った。
「――嫌なはず、ない……。でも、そうしたら今夜はあたし、きっと我慢できない……。」
 春希は笑った。
「安心しろ。多分、俺もだ。」

 そんなわけで、この夜が二人にとっての、十数年ぶりの二度目の夜――というより「初夜」ということになってしまった。実際かずさにとっては、そもそも男の肌に触れること自体、十数年ぶりで、人生で二度目である。事実上彼女は、処女のようなものだった。その緊張は想像に難くない。
 春希がシャワーを浴びている間に、かずさの方は念入りに歯を磨き、髪の毛を軽くブラッシングしてから、先に寝室に行ってベッドにもぐりこんで目をつぶった。いっそのことこのまま眠り込んでしまえれば、とも思ったが、心臓は早鐘のように打って、到底眠ることなどできそうになかった。
(ああ……神様……。)
 別に信心のないかずさだったが、つい頭の中でそう唱えてしまった。よりによってこんな時に、雪菜に頼るわけにもいかなかったし。
(「我慢できない」って言ったけど……我慢、しちゃおうかな。春希だって、あの時みたいに、無理にはしないだろうし……。)
 いらん考えがぐるぐると頭の中を回り始めた。
(考えてみれば、別にこうやって一緒に寝て、一緒の朝を迎えるだけで、十分すぎるほど幸せなんだし……無理にセックスする必要なんか、全然ないし……うう。いったいあたしは、したいんだろうか、したくないんだろうか?)
 ――と煩悶している間に、気が付くと、すでに春希はシャワーを終えて、寝室に入ってきていた。そしてごそごそと気配が動いた後、急にかずさの隣り、横を向いて身体を丸めているかずさの背中の側に、あたたかく大きな体が滑り込んできた。
(――!)
 そのあたたかく大きな体は、はだかだった。寝間着はおろかバスタオルもつけない素っ裸で、春希はベッドの中、かずさの横にすべりこんできたのだった。かずさは、より一層きつく目を閉じ、唇を噛んだ。
(どうしよう――!)
と、肩に大きな手が触れるのを感じ、かずさは全身を固くした。これではきっと、拒絶の姿勢として受け取られてしまう。かずさはそう思いながらも、身体の緊張を解くことができなかった。
 しかしその手はゆっくりと動き、かずさの肩から二の腕にかけて、そのあたたかさをじっくりと伝えてきた。それとともに小さく、
「……かずさ――?」
という春希の声が聞こえた。おもわずかずさは、こうべをめぐらして、春希の方を見た。
 暗がりの中、それでも目の前に春希の顔があり、ゆっくりと近づいてきた。目を開けたままじっとしていると、すっと春希は目を閉じ、かずさに顔を寄せてきた。そしてそのまま、かずさの唇に、春希の唇がふれた。
(――あっ……。)
 思い出した。そうだ。何も恐れるようなことはなかった。このひとはあたしのもので、あたしはこのひとのものだったのだ。
 何を思い出したのか? 十数年前の、あの初めての夜のことを。
 もちろん、あの、悲しくて切ない夜、それでもこよなく幸せだった夜のことを忘れたことなどない。でもあのときは、快感などはほとんどなかった。ただ痛くて、熱くて、苦しくて、切なかった。
 そうではなく、ただ痛くて、苦しかったにもかかわらず、何の迷いもなくこの人の腕の中に身体を投げ出し、貫かれて何の不安もなかったことを思い出したのだ。
 春希の唇の熱さに、その記憶が完全によみがえった。そしてかずさの唇もまた、それ以上に熱く融けた。
「――春希。春希ぃ……!」
 かずさの身体は一瞬にほどけて、春希に絡みつき、全力でしがみついた。
「――かずさ――!」
 しがみついてくるかずさを骨が砕けるほど抱きしめ、春希は再びかずさに口づけた。今度は唇だけではなく、舌を差し入れ、歯を、舌を、口内を思うさまむさぼった。そしてかずさの口をむさぼりながら、両手の方はパジャマの上から大きく形のよい尻を、細く引き締まりながらも力強い腰、そして豊かな胸を愛撫した。かずさの方も、その大きな力強い手で春希の肩を、背中を、尻を揉みしだき、硬く怒張したペニスに下腹部を擦り付け、足をからめた。そして春希が一息ついた隙を見計らって、今度は自分から彼の口をむさぼった。かすかに残る口臭さえも、彼女を陶然とさせた。
 ――なんて気持ちよいのだろう!
 そう、かつて十数年前。初めて春希に抱きしめられた時。それがあまりにも気持ちよかったので、あたしは、雪菜への嫉妬に、気も狂わんばかりとなった。
 そして今。十年以上も雪菜を身体ごと愛してきた春希が、その経験のすべてをあたしにぶちまけている。
 気が狂いそうだ。
 あたたかくて。
 気持ちがよくて。
 幸せで。
 気が狂いそうだ!

 ――無我夢中でむさぼりあった数分――それとも数十分が過ぎて、ようやく落ち着いた二人は、抱き合ったまま、それでも軽く互いの身をはがして、互いの腕を互いの首に回しながら、見つめあい、ほほ笑みあった。もみ合っている間に、かずさのパジャマの上着はどこかにいってしまっていたが、パンツの方は辛うじて足に引っかかっていた。
「今、気づいたんだが……。」
 春希が言った。
「――何だ?」
「セックスするどころか……抱き合うどころか……俺たち、そもそもキス自体、今が初めてじゃ……正確に言えば、十何年ぶりじゃないか?」
「――? 言われてみれば、そうだな?」
 かずさは応えて、ニコリと笑った。
「で、これからどうする?」
「――すまないが、あたしは初心者なんで。ここから先はおまかせするよ。おまえのしたいように、してくれ。信じてるから。」
「――うん。じゃあ、楽にしていてくれ。嫌だったり、怖かったりしたら、すぐに言ってくれ。――すぐにやめるから。」
「――わかった。」
 おまえがあたしにしてくれることで、あたしにとって嫌なこととか、怖いことがあるわけはないんだが、とはあえて口に出さなかった。
 春希はゆっくりと、汗まみれになったかずさの寝巻のパンツを脱がせ、そして汗とその他の分泌物でそれ以上にぐっしょりとなったショーツを取り去った。そしてかずさの下腹部に顔を寄せ、その中心部に最初は優しく口づけ、それから次第に激しく、時に指も交えながら、かずさの身体を楽器のようにかき撫で――奏で始めた。身体の真ん中、性器を優しく唇と舌で転がし、指、手のひらは尻から太腿、背中、腹、そして性器の周りを行き来して時に優しく、時に少しばかり乱暴に撫でさすり、つねり、叩いた。そうされているうちに、身体の内側から、激しい音楽が湧き上がるのを、かずさは感じた。思わず声が出そうになるのを、かずさは自分の二の腕を噛みつつ、必死でこらえた。
 ――優しく、力強い口と手に導かれて、身のうちから湧き上った楽曲はほどなくクライマックスに達して、そこからすぐにフィナーレとなった。声にならない叫びとともにかずさは上りつめた。しかし春希の手と口はそこで動きを止めず、緩やかだが確実にその愛撫は体中へと広がっていく。一度沈静したはずの興奮が、再び静かに湧き上がり、身体の中が熱くほぐれていく。
 気が付くと春希の口と手は、かずさの胸、二つの乳房を責め立ていていた。興奮に膨れ上がり、尖った乳首を、春希は巧みに舌先で転がしつつ、丸い乳房の方は時に乱暴に揉みしだき、かと思うとこよなく優しく、羽毛のように柔らかく、ふれるか触れないかわからないほどの微妙さで愛撫した。その巧みさにかずさが陶然となっていると、いつの間にか乳首をついばんでいたはずの春希の唇が眼の前に迫り、彼女の半開きになった唇をこじ開けてむさぼっている。そして気が付くと春希の片方の手はかずさの尻の方から性器の周りを刺激して燃え立たせ、それから――
 と、先ほどの絶頂の余韻から徐々に立ち上がり、熱くほどけはじめていたかずさの性器に、更に熱く、そして硬いものが不意にあてがわれ、そしてするり、と中にすべりこんできた。途端に尻から背骨へ、そして頭頂部へと電気のようなものが走った。熱く硬く、それでいて優しい何かが彼女の中に入ってきて、一本の芯を通した。
 ――!
 言うまでもなく、春希のペニスだった。
 かずさの身体に杭を打ち込んだまま、春希はゆっくりと、かずさの内側と外側の両方で、動き始めた。かずさはすっかりそれに身を委ねて、一緒に揺れ動いた。また、身体の奥底から楽曲が立ち上がってくるのを感じた。思い切り声を出したい。歌いたい。しかし、それを実際の声にしてしまって、子どもたちの安眠を妨げるのは忍びなかった。せめて、その声を殺さず、しかし身体の内側に押しとどめるべく、彼女は再び自らの腕を噛もうとした、と――
 ゆっくりと動いていた春希は、かずさの身体を内側と外側から支えたまま、少し動きを止めて休んだ。自分が休むためではなく、かずさを休ませるためであることは明らかだった。動きを止めた春希は、掌でかずさの頬を軽くさすり、汗ばんだ髪を撫でつけながら、少しばかり心配げにかずさの顔をのぞきこみ、ついばむような優しいキスを繰り返した。あまりの幸福感と安堵に、かずさは泣きそうになった。
「春希、おまえ……。」
「――なんだ?」
「……おまえ……下手くそじゃなくなっちゃったんだな……当たり前か……。」
「――っ。すまない……。」
「――バカ……あたしの方こそ、ごめん……変なこと言って……。本当に、本当に、気持ちよかったんだ。全然、怖くないし、痛くもなかった。とっても、大事にされて、優しくしてもらってるのがわかって、ちょっと強く、激しくされても、100パーセント安心してられて――むしろ、大丈夫なんだから、もっと強くしてほしい、って思うくらいで……。」
 しゃべっているうちに、急に恥ずかしくなってきて、かずさは目を伏せた。春希は黙ったまま、かずさの髪を撫でつけ続けた。
 しばらくして、かずさはまた口を開いた。
「――な……頼みが、あるんだけど、いいか?」
「……ああ、もちろん。何だ?」
「今すぐじゃなくていい。今夜中でなくて全然かまわない。これから、ゆっくりとでいいから――雪菜に……雪菜にお前がしてやったことを、 全部、あたしにしてくれ。――それから、雪菜がお前にしてくれたことも、全部、あたしに教えてくれ。そうしたら、時間はかかるかもしれないし、上手にできないと思うけど、同じこと全部、あたしもお前にしてやるから。
 ――そうしたら、ひとつでもいいから、雪菜にはしなかったこと、できなかったことを、あたしにしてくれ。――あたしも、雪菜がお前にしなかったことを、してやるから。」
 かずさがしゃべり終えると、春希は、しばらく沈黙していた。それに少し不安になってかずさは、
「――どうした? 春希?」
とたずねた。すると、春希はばつが悪そうに、
「――ちょっと、感動した。それから、興奮した。」
と応えた。
「……バカッ! ――それで、答えは……。」
とかずさがせっつくと、
「うん……お願いするよ。」
と春希は、ますますばつの悪そうな顔で応えた。かずさは思わず、春希にしがみついて、その顔にキスの雨を降らせた。
「――春希……! ああ、春希ぃ……あっ、そうだ、もう一つお願いがあるんだ。」
と、あわてたようにかずさは言い足した。
「――何だ?」
「……今夜は、ずっと、あたしにキスをしていてくれ――唇を離さないでくれ……。でないと、あたし――大声を出してしまう……気持ちよくて、うれしくて……。……ちびたちを、起こしたくないんだ……。」
 心配顔のかずさに、春希は少し考えて、言った。
「かまわないけど、声を殺すためのキス、ってのは、たぶん、あんまりいいアイディアじゃないと思うな。」
「――? じゃあ、どうすればいいんだ?」
「さっきおまえ、自分の腕を噛んでたろう。あの方がいい。――それよりいいのは、俺にしっかりしがみついて、俺の肩口に噛みつくことだ。吸血鬼みたいに。」
「――? バカっ!」
 かずさは真っ赤になってまた顔を伏せたが、春希はそこにまた頬を寄せ、口づけて、
「アドバイスはしたからな。じゃ、御望みどおり、少し激しくするから。」
というと、予告通りにまたリズミカルに身体を動かし始めた。あわててかずさもまた、そのリズムに身を委ねて、しがみついた。

 ――夜はまだ、始まったばかりだった。



[31326] 翌日(R‐15?)【WHITE ALBUM2雪菜trueアフター「雪菜のいない日々」】
Name: RCL/i8QS0◆fe1ad663 ID:129b0297
Date: 2012/08/13 16:27
 カサコソという気配を感じて、かずさはまどろみから覚めた。軽く目を射たきつい朝日の光に、思わずもう一度布団をかぶって、そこで、自分が今いる場所を思い出した。そして、今、自分がなにも身に着けていないことも。
「あ、悪い、起こしちゃったか?」
 春希の声が上から降ってきた。もぐりこんだ布団からそうっと顔を出すと、身支度をほぼ終えた春希と目が合ってしまった。
「――おはよう、かずさ。」
「……う――おはよう……春希。」
 屈託なく笑う春希の顔を、かずさは何だかまともに見れなかった。
(あのプロポーズ? の時からずっとこっちのペースだったのに、昨夜はすっかり手玉に取られちまった……悔しい。)
 気恥ずかしさやら何やらでなかなか布団から出られずにいるかずさだったが、春希は何を誤解したのか、急に心配そうな顔になり、
「――大丈夫か……? 昨夜はちょっと大変だったろうしな――しんどいんなら、もっと寝てていいんだぞ? 何だったら、ここに隠れててもいい。子どもたちには、おまえのことは黙っておくし――無理に起きなくてもいい。」
といろいろ気遣ってきたので、かずさは逆にカチンと来て、
「馬鹿にするな! あいにくあたしは、雪菜ほど低血圧じゃないんだ。ちゃんと起きられる!」
と布団を跳ね上げて飛び起きた……その途端に、またあわててうずくまる羽目になった。
「わかったわかった、とりあえず服を着よう――な?」
「う――それじゃ、頼みがある……ひょっとして雪菜の下着、とか、ちょっとでも、残ってないか?」
 うつむいたままたずねるかずさに、春希はため息をついた。
「――悪い、寝間着の類なら、子供らへの形見という意味も込めて、少し残してあるんだが、あいにく下着の類は……。」
「……。わかったよ。あたし着替えるから、おまえは、子どもたちの世話して来い。」
 ――つーか着替える時だけでも出てってくれ。悔しいし恥ずかしいから。
「あ、ああ、わかった……朝食、パンだけど、いいか?」
「――頼む。」
 春希が寝室を出て行ったので、ようやくかずさは上体を上げ、ほうっと息をついてあたりを、そして自分の身体をまじまじと見つめた。
「――あいつ、こんなにあちこち、キスマークつけやがって……そろそろ夏場だってのに……。」
 うれしげにぼやくかずさはもちろん、自分が春希の肩口につけた噛み傷のことも、背中に無数につけた掻き傷のことも、とりあえず忘れていた。

 とりあえず散らかった昨日のパジャマを片付け、仕方ないので汚れがましだった方の下着(昨日一日はいていた奴の方が、風呂上りにはき替えた方よりもまだましだったというのはいったい何なのか?)を緊急避難的に身に着けて、あとは一応きれいに畳んでおいた昨日の服を着込んだかずさが、寝室を出て洗面所に向かう(本当ならこのままひと風呂浴びたいところだが、せめてそれは子どもたちを送り出してからでないと……しかしとりあえず、トイレで下半身をひと拭きしておかねばならない)と、そこには一足先に春華と雪音が顔を洗っている最中だった。タオルを取り合ってなにやら言い争っている姉妹に、一声かけようとしたかずさだったが、急に胸がいっぱいになり、言葉に詰まってしまった。
 ――きっと慣れてしまえば、日常となってしまえば、生活の一部となってしまえば、ただただ邪魔で鬱陶しいばかりだろうこの情景の、なんと美しく、幸福なことか……! 
 そんなかずさに気づいた子どもたちは、最初一瞬けげんな顔をして、それからわっとばかりに飛びついてきた。
「かずちゃん! いたの?」
「かずさおばちゃん、おとまりしてたの?」
 かずさはしゃがみこんで二人を抱きしめ、
「そうだよ――おばちゃん昨日は遅くなってくたびれてたから、おとうさんにおとまりさせてもらったんだ。おばちゃんの母さんは、昨夜は病院におとまりだったしね。二人には黙っててごめんな。びっくりしたろう?」
と説明した。すると春華が、
「じゃあ、今晩はどうするの? 今日ってさ、おとうさんお仕事で遅くなって、ごはんはおばあちゃんで、おむかえはかずさおばちゃんだよね?」
といったので、かずさもふと考え込んだ。
「――んー、どうしよっかなー、かあさん帰ってくるの明日だしな――。」
「おとまりしてよ! 今夜もおとまりしようよ! いっしょにねようよ!」
 雪音が騒いだ。
 ――春希の意見も聞かなければならないが、まあ、それもよいかもしれない……が、今は――。
「うん、悪いけど、とりあえずおばちゃん、トイレに行かせてくれないかな?」
 ――でないとまた、身体の中から、春希のものがこぼれ出してきてしまう。

 ウォシュレットにビデがついていて、本当によかった。

 今晩また泊まるか泊まらないかはさておいて、子どもたちと春希を送り出して後はひとりでゆっくり、というわけにはさすがにいかない。かずさも春希たちが出たその直後に、さっとシャワーを浴び、春希に頼まれたとおり、汗やら体液やらなにやらでぐしょぐしょ(なにやら血のようなものまでもついていた――本来ならそこだけでも軽く手洗いするべきなのだが、かずさにそこまで気が回るはずもない)になったダブルベッドのシーツ(と自分のパジャマと下着)を全自動洗濯乾燥機に放り込んでスイッチを入れてから、北原家をあとにした。
 今日は何かと忙しい日で、いつものように自宅のスタジオで朝から夕方まで練習していればよい、というわけではなかった。午後いちには御宿の事務所で取材が一件はいるから、自主練は3時間ほどで切り上げねばならない。開桜社『アンサンブル』はほとんど冬馬かずさ御用達メディアだったが、かといって他社の取材をまったく受けないわけにも行かない。今日の相手は老舗の硬派雑誌『芸術音楽』だ。おまけにその後は曜子を見舞って、高柳先生のお話も聞かねばならない。となるとまた、子どもたちのおむかえは時間との戦いになる。
「道が混まないといいけどな……。」

「今日の取材、よかったですよー、かずささん!」
 冬馬オフィスの応接スペース。『芸術音楽』のライターが引き上げた後で、コーヒーのお替りを出しながら美代子がにこにこと言った。
「そうかな? あたしとしては、いつも通りのつもりだったけど……むしろ向こうが、ずいぶんフレンドリーで、気を使ってくれてなかったか? 何だか気味悪いくらいに……。」
「そんなことないです。北原さんの――開桜社さん以外の取材で、かずささんがこんなにリラックスして愛想いいなんて、初めてですよ! 驚きました。」
「――だから、特別愛想よくしたつもりは、ないんだけど……?」
 かずさはちょっと当惑した。
 『芸術音楽』は病膏肓の域に達したクラシックマニア向けのマイナーな雑誌で、辛口で衒学的なレコード評・コンサート評で定評がある。隔月刊だから、ソロリサイタルからもう1か月になろうかという今頃取材に来ても、何とかなるということなんだろうか。『アンサンブル』のペースに比べればのんびりしたものだ。しかしながらゆっくり作っている分、掲載された原稿の質は総じて高い。が、演奏家にしてみれば、あんまり愉快ではない記事ばかりだ。
「だいたいあの雑誌がさ、ちょっとくらい愛想良くしたところで、提灯記事書いてくれるわけないじゃん。あたし、あそことは相性悪いんだよ。今回だって「もともと俗受け狙いで軽薄なプログラムを、サプライズ変更で更に軽薄にしたうえ、アンコールではシンガーソングライター気取り」とか言ってせせら笑うに決まってるさ。――ま、そう書かれたって仕方がないこと、あたしはしたんだし。批判は甘んじて受けるよ。」
 ライターの手土産のスイーツをパクつきつつ、かずさはわざと乱暴に吐き捨てたが、美代子はにこにこしながら、
「その割にはかずささん、今とっても楽しそうな顔してますよ? ――今どころか、取材中からずーっと。相手の方にも、その気持ちが伝わったんですよ、きっと。ちゃんとした、いい記事になります。」
「ならいいけどね――まあ、言いたいことは言ったから、ちゃんと。」
「――それが大事なんですよ。上っ面の「愛想」なんか、どうでもいいんです。――さ、そろそろ病院に行かないと。社長がお待ちかねですよ?」
「はあい。」

「かあさん、はいるよ?」
「――どうぞ、開いてるわよ……って、あら、かずさ?」
 ベッドの上で新聞をめくっていた曜子は、はいってきたかずさを見ると目を細めた。
「何だか、今日は、ずいぶん――。」
「なんだいかあさんまで。今日はみんな、なんだか変だぞ?」
 かずさは花瓶の花を取り換えながら笑った。
「――みんな、ね……そりゃ、これだけはっきりしてれば、誰だってわかるわよね――。」
「何がだよ。――それよりかあさん、昨日春希に、なんか変なこと吹き込んでないか? ――ってだけじゃなくてさ、マダムにも、前々からなんか頼みごとしてただろ?」
 花を活け終えたかずさは、曜子に向き直った。
「変な気をつかわなくていいよ、かあさん。――でも、ありがとうな。」
 その言葉に曜子は目を丸くした。
「――やっぱり、なにか、あったわね。――まあいいわ。私は今日もこっちに泊まりだし。あなたは、ゆっくり、羽を伸ばしてなさいな……北原さんのうちで。」
「――っ! かあさん!」
「これまでは、つんとお高い感じがあなたの魅力だったんだけどね――「〈親子のための〉コンサート」だって、ギャップ萌えで売ってたようなところもあるし。でも、今のちょっと柔らかくなった感じも、それはそれでいいかもね。それに、よく見ると、色っぽさも増してるし。うん、悪くないわ。」
「……かあさん。からかってるだろ。」
「からかってるけど、うそはついてないわ。――すごく、きれいになったわよ、あなた。」
 そこへ高柳名誉教授が入ってきた。
「おやおやかずさちゃん、今日は一段と……って、本当にきれいになったな? 何かあったのかい?」
「……。」
 ――顔から火が出る思いだった。

「――ってわけでさ。何だか今日一日、きまり悪い思いの連続だったよ! ――そっちは、どうだったんだ?」
 深夜の北原家のリビングで、甘口のワインをついだグラスをゆらしながら、かずさはたずねた。そう、結局今夜も、泊まることにしたのだ。そして久しぶりに子どもたちに絵本を読んで寝かしつけた後、かずさはひとりで、春希の帰りを待っていたのだった。
「――いや……特になにも――いつも通りだったが?」
 キッチンで軽いつまみを作りながら、春希は当惑して応えた。
「――あたし、そんなに、浮かれてたのかな? 浮わついてたのかな……色ボケてたのかな? ――うっわー、恥ずかし……。」
 少し酔いが回った眼で、かずさはひとりごちた。
「俺には、よく、わからないな……おまえは、いつだってきれいで、色っぽかったし。」
「うっわーっ陳腐。――ダメだ、やっぱりおまえ、センスないわ。」
「言ってろ。――でも、「愛想良い」って言われた、ってのは、面白いな。猫のかぶり方、覚えたのか? なら、俺の前でも少しは、猫かぶってくれないかね?」
「――やあなこった。」
 かずさは春希に向かって「いーっ」としてみせた。
「やれやれ。」
 肩をすくめて春希は、つまみの皿と自分のワイングラスを手にキッチンから出てきて、かずさの隣りに座った。途端にかずさは横に倒れ、春希に身体を預けた。春希は腕を回し、しっかりと支えた。
「――こんなんじゃ、かあさんが帰ってきても、うちに帰りたくなくなっちゃうな……。」
 ポツリ、とかずさが洩らした。
「それじゃあ、できるだけ早く、結婚しようか……。遅くとも麻理さん、橋本さんが日本にいるうちに……簡単に、身内だけでなら、何とかなるだろ……。」
「――そうだな……。とりあえず、早いとこ、引っ越してきてくれ。そしたら、寂しくない……。」
「――うん。」
 ――何とも間抜けな会話のあと、かずさが上を向いてキスをねだると、春希は何も言わずに応えた。長いキスが終わると、かずさはほうっ、と息をついてから、春希の膝へと倒れこみ、股座に顔をうずめてもぞもぞやりだした。
「――こーら、おまえ、なにやってんだ?」
「うるさい――昨日の続きだ。」
「――続き?」
「――雪菜には、してもらったんだろ?」
「……うう――それは、まあ……で、でも、おまえさ――。」
 気が付くとかずさの両手は、春希のズボンのベルトをいじって、はずそうとしていた。
「――雪菜は、こわがった――びびってたか?」
「――うー……いや――最初からびっくりするほど積極的だった……。」
「――おまえ、故人の、しかも最愛の妻のプライバシーをなんだと思ってんだ。ろくでもない奴だな。」
「って、聞いてきたのはおまえだろ! ――ってこらやめろ! 俺まだシャワー浴びてないだろ! せめてそれからに……。」
「うるさい。これは罰だ。お仕置きだ。おとなしくなめられてろ。」
(かずさあ、悪乗りが過ぎるよー。)
とかずさの脳裏ではいつもの雪菜の声がしたが、知らんぷりをした。
 ――と、ようやくかずさは春希の怒張したペニスを、パンツの中から引っ張り出すことに成功した。しばし呆然と見つめていたが、おもむろに両手でそれを握り、おずおずと口づけた。
「――臭い。」
「だから言ったろう、せめてシャワーの後でって……。」
「――臭い。」
 壊れたレコーダーのように繰り返すと、かずさは春希のペニスに愛おしげに頬ずりして、今一度
「臭いよ。」
とうっとりと悪態をついて、正面からくわえ込み、最初はおずおずと、しかしやがてリズミカルにしゃぶり始めた。
 あきらめたのか春希は、しばしかずさのなすがままに任せていたが、結局意を決して無理やりに立ち上がり、
「きゃっ! ――こ、こら、動くな……!」
と怒るかずさを抱き上げて、半ばまでおろされたパンツに往生しながら、どうにか寝室までたどり着いた。そしてそのまま、かずさをベッドの上に乱暴に放り出した。
「何するんだ!」
 噛みつくかずさに、春希はにやりと笑い、
「――よくも調子に乗って好き放題やってくれたな。こっちこそお仕置きだ。」
と言いつつ、服を脱いで裸になると、かずさにのしかかり、乱暴にパジャマと下着をはぎ取った。そんな春希をかずさはまっすぐ目をそらさずに見つめ続けていた。
 いよいよ二人とも素裸になり、春希はかずさを押さえつけて、その眼をのぞきこんだ。かずさは挑むように言った。
「どうするつもりだ。」
「言うまでもないだろ。」
「前戯も、なしでか?」
「必要、なのか?」
 かずさは首を横に振って、さっと両手を広げ、蠱惑的な笑みを浮かべた。
「――来て……。」
 春希はそのまま、覆いかぶさっていった。

「うう――。まんまとのせられちまった……。」
「ふふん。今日はずいぶん、乱暴にしてくれたな?」
「――そ、それはお前が挑発するから……って、そういう問題じゃないな、ごめん。」
「――? 何で謝る?」
「って、「乱暴」だったから……。」
「乱暴だったけど、ちっともいやじゃなかったぞ? 素敵だった。――それに、あたしがイニシャチブ取れて、ちょっと気分良かったし、な?」
「……言ってろ。」
 ため息をつく春希に、かずさは言った。
「――なあ……たった二度目――いや三度目か――で生意気言うようだけど、あたし、セックスって、特別な儀式か、お祭りみたいなもんだと思ってたけど――いや、そういうセックスもあるみたいだけど――毎日の食事のようなものでも、あるんだな。」
「――んー。そうかもな。」
「――ふふっ、味音痴のあたしが言っても、説得力ないけどな……。でも、子どもたちのおかげで、前よりずっと、食事が楽しくなったよ、あたし。」
「――うん。」
「それに、目先の変わったものを毎度毎度食べても、すぐ飽きちゃう。地味でもちゃんとした食べ物を、好きな人と一緒に食べるのが、一番なんだな。」
「――そこまで言うなら、もうちょっと甘いものを控えろ。」
「そこは譲れんな。ピアニストってのは、めちゃくちゃカロリーを消費するんだ。将棋指しとアスリートを足したようなもんだ。おまけにこれからは、もう一つ、余計な運動が加わりそうだし……な。」
 かずさはいたずらっぽく笑って、春希の胸に指を這わせた。
「明日は、おまえたちは、休みなんだろう……? ――あたしは、いつも通りに弾くけどさ。」
「――この、食いしん坊め。腹八分目が、健康の基だぞ?」
と春希は苦笑いしながら、かずさを抱き寄せ、再びその身体をまさぐり始めた。



[31326] 挙式、そして引越し【WHITE ALBUM2雪菜trueアフター「雪菜のいない日々」】
Name: RCL/i8QS0◆fe1ad663 ID:129b0297
Date: 2012/11/21 18:44
「これで全部、終わりか。」
「――ああ……行きはな。とりあえず、ご苦労様。」
「――あたしは、何にも、しちゃいないけどな。」
「……まあ、子どもたちのお守り、ってことで――で、子どもたちは?」
「下で、あたしの車の中で、待ってるよ。」
 引っ越しトラックが去って、がらんとしたマンションを見渡して、春希とかずさは顔を見合わせた。
「こうなってみると、広いな。」
「――ああ……四人で暮らしてるときは、狭苦しくて仕方なかったんだけどな……それでも二人して必死で、家賃払ってたんだ――でももう、子どもたちが小学校に上がったら限界だな、って話し合ってた。で、そろそろ持ち家を購入しようか、って話も持ち上がってた。マンションにするか一戸建てにするか、無理してこの辺にするか、思い切って田舎に広い家を買うか――二世帯住宅なんて話も出たな……。」
 少しばかり遠い目をして話す春希に、かずさは、急に切なくなって、
「さあ、急ごう。引越し屋さんより先に、あたしんちについとかないと。子どもたちもしびれを切らしてるぞ。」
と促した。
「――ああ……。」

 最初は「あわてずにゆっくり」などと言っていたが、5月、ふとした拍子に二人が結ばれてからは、意外なまでにとんとん拍子にことは運んだ。二人とも忙しい身だからと(かつかずさの不調法を考慮に入れれば)、引っ越しの雑務も、思い切って金を使って業者に任せてしまえば、何ということはなかった。子どもたちの学校・保育園にしても、移動距離にして一、二駅程度でしかない引っ越しなので、当面は転校なしでしのぐことに決めた(雪音が小学校に上がる折に、春華の学校についてはまた考え直すことにした)ので、ややこしい手続きも必要なかった。つまりは、賃貸マンションを解約し、区役所に婚姻届と、住所変更届を出すだけの話だった。
 肝心の結婚式も、ごくごく内々で、ささやかに済ますことにした。かずさが有名人であること、しかしかずさ本人は基本的に人見知りであることに鑑みれば、むしろそちらが正解だった。そこで、ややせわしないが6月、孝宏と亜子の式の翌週の土曜日に、近所の教会にお願いして式を挙げ、夕方、新居となる予定の冬馬邸で、曜子お勧めの名店にケータリングを依頼してのパーティーを開くことにした。そうすることで橋本健二の、そしてとりわけ春希の上司、風岡麻理の渡米に間に合わせることが可能となった。
 そんなわけだから式も披露宴も、気心の知れた身内だけのものとなった。北原・冬馬両家の関係者を除けば、以前「〈親子のための〉コンサート」打ち上げに参集した面々、ママパパに子どもたち、飯塚夫妻に橋本健二、柳原朋に小木曽家の皆さんの他には、高柳教授をはじめとしたメディカル・ケア関係者、「マダム」シモーヌ、冬馬オフィスの工藤美代子、ナイツレコードの「冬馬番」澤口女史に、開桜社の春希の同僚たち――それに加えて春希の「担当」杉浦小春と、瀬之内晶=和泉千晶が招待されていた。
 北原家の関係者も、子どもたちと春希の母だけであり、岡山の本家からは相変わらず誰も来ない。冬馬家の方も、曜子には今となっては一人娘のかずさの他は係累もない。だから、にぎにぎしい大イベントとなった春希と雪菜の結婚式に比べれば、何とも地味でひっそりした、その分アットホームな宴となった。メディアにも、翌日新聞その他の隅っこにひっそりと「ピアニスト冬馬かずささん結婚 お相手は雑誌記者」と報じられただけだった。目端の利いたやつがいれば瀬之内晶の新作「時の魔法」に絡めて、面白おかしいゴシップ記事の一つや二つ作れたはずだが、とりあえずは何もなかった。
 だからその日のかずさの白いシンプルなドレス姿と、はにかんだ笑顔は、関係者の記憶とファイルに収められただけで、公けにはなっていない。
 ちなみにハネムーンは、とりあえずはなし。その夜は、子どもたちともども、まだ引越し前の冬馬邸に泊まっただけ。しかも夜遅くなり、後片付け等々でくたびれ果てたために、形式上はその夜こそが「初夜」だというのに、セックスせずに二人とも泥のように眠ってしまう始末だった。

 そしてその一週間後の今日、春希と二人の子どもは、雪菜との思い出が詰まったマンションを後にして、冬馬邸でかずさ、そして曜子とともに本格的に新生活を始める。大切なものは思い出も含めてみんな持っていくが、それでも、この部屋そのものは、持っていけない。
 駐車場から最後にもう一度、春希はマンションを振り仰いだ。隣近所へのご挨拶はもうとうに済ませている。それでも春希は、最後に一言、
「さようなら、ありがとう。」
と言わずにはいられなかった。かずさはそれを運転席から、泣きそうな顔で見つめていた。

 だからこそ、冬馬邸に一同がついたとき、車を降りて門の前にそろった三人に、かずさは芝居がかったしぐさとともにこう言わずにはいられなかった。
「ようこそ、お帰りなさい――。」
 玄関先には曜子も出てきて、手を振って迎えてくれた。

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 エピローグ前の箸休めです。次のエピソードで本編は終わり、あとは気が向いたら後日談など。多分エピローグ自体、一種の後日談ですが。



[31326] 夕餉のひとこま【WHITE ALBUM2雪菜trueアフター「雪菜のいない日々」】
Name: RCL/i8QS0◆fe1ad663 ID:129b0297
Date: 2013/01/04 21:32
「何だって? 講演? ――それも、北海道で?」
「そうよ? 何だっけ、「患者の会」「家族の会」共催の交流会で、基調講演頼まれちゃってね? ――5年前にカミングアウトしてから、ちょくちょくあったんだけど、これまではお断りしてたのよ……。」
 夕餉の席で、ふいに曜子が切り出した。
「じゃあなんだって今頃――? こないだも先生、病状は安定してるけど、体力は落ちてるから、無理するなって言ってたじゃないか!」
 かずさの反問に、曜子は苦笑しながら答えた。
「……そろそろ「有名人の社会的義務」ってやつを果たしてもいいかな……って。大してお金にもならないこんな仕事に、あなたを付き合わせるわけにもいかないし、美代ちゃんも忙しいから、これまでは断ってきたけど、ほら、ノリ君も大学退職して、名誉教授になっちゃったでしょう? おかげであの人暇で暇で、いろいろ持て余してるらしいのよ。だから、国内ならどこへでも付き添ってくれるって。だから、これからはちょいちょい、講演旅行にも出かけようかな……って。――それに今は、あなたには春希君とちびちゃんたちがいるから、安心だしね。」
 しかしなおもかずさの怒りは解けなかった。春希としては、とりあえずポーカーフェイスで子どもたちに、
「ほら、よそ見しないで食べな。」
とわざとらしく話しかけた。春華はちょっと困り顔で、雪音は興味津々で二人のやり取りを見つめていた。
「――だからってさ……こんな状況で無理して「子離れ」しようとしなくたっていいじゃないか……。」
 かずさはうつむいてこぼした。
「講演とかは、そりゃ構わない。でもさ、都内、せめて関東くらいにしておきなよ。泊りがけでってのは、ちょっとリスキーだよ……。万が一のことがあったら……。」
「その話はもう何度もしてるじゃない。「万が一」のことは、あなたの方が出かけてる場合だって同じこと。――いまはインターネットと携帯の時代、緊急連絡なら、ニューギニアの奥地にでもいない限り、どこだってつくわ。あなたが出かけるような国内や欧米の大都市なら、飛行機一本でどこからでも帰ってこれる。それと同じじゃない。しかも基本的には国内よ。飛行機どころか、大概のところは新幹線で片が付く。それにこれからは、ノリ君があたしの専属ナースになってくれる、っていうのよ。大丈夫。」
 ――ドクターじゃなくてナースなのか……とは心では思ったが、春希はあえて突っ込まなかった。
 何にしても、少しずつ、適切な距離を置いて、お互い、子離れ、親離れに持っていこう、かずさの足かせにならないようにしよう、という曜子の気持ちが痛いほどわかるだけに、春希は、どっちの肩を持ったらよいのか、なかなか肚を決められずにいた。
 と、そこで雪音が口を開いた。
「おばあちゃん、ほっかいどうには、いついくの? なんようび?」
 曜子は軽く眉をしかめて(未だに「おばあちゃん」と呼ばれることには、慣れていないらしい。しかし決してやめさせようとはしないあたりに、何ともこそばゆくもほほえましいものがあった)、
「うーん、来月の半ば、曜日は週末――土曜から日曜よ?」
と応えた。すると雪音は、
「それなら、ほいくえんおやすみだし、あたしがついてってあげようか?」
などととんでもないことを言い出した。そこにいつも通りに、
「こら、雪音!」
「雪音! なまいき、言わないの!」
とかずさと春華がこもごもに突っ込みを入れた。
「雪音はまだ年中さんじゃない! ついてったって、おばあちゃんのお世話とか、できるわけないでしょ! おじゃまになるだけじゃない! ――ひょっとして、ピアノのおけいこ、さぼりたいから、そんなこと言ってるんじゃないよね?」
と春華が言うと、かずさも、
「――雪音。ピアノのことはまあいい。それより、あんまりおばあちゃんを甘やかさないで。おばあちゃんはあんたたちがあんまり優しくするもんだから、最近ちょっと調子に乗ってる。このおばあちゃんは小木曽のおばあちゃんと違って、ひどいわがままばあさんなんだから、もっとなんていうか、ちゃんとしてもらわないと……。」
と訳の分からない小言を垂れ始めた。それに対して雪音は
「えー、おねえちゃんもかずママもひどいよー。あたしちゃんといい子にして、面倒なんかかけないよー。おばあちゃん、「雪音がいてくれるだけで元気百倍!」っていつも言ってるんだからー。」
とふくれて、
「ねー、おばあちゃん?」
とわざとらしくにこにこ笑いをしてみせた。曜子もたまらずにっこりと破顔して、
「ありがとうね雪ちゃん。でもね、北海道はちょっと遠いし、今回は忙しくて、おばあちゃんあなたと遊んであげたりする時間もないから、勘弁ね? せっかく北海道に行くんなら、長いお休みの時に、家族みんなで、もっとゆっくり楽しまないと、ね。お仕事で旅行なんて、大人になってからで十分。雪ちゃんは子どもなんだから。」
と言った。
「じゃあ結局、行かれるんですね?」
 ようやく春希は覚悟を決めて、口をはさんだ。
「春希!」
とかずさが抗議するように言ったが、春希は無視して、
「来月、でしたらもう北海道はそろそろ冬かもしれませんね。そのあたり、下調べもちゃんとして、くれぐれもお気を付け下さい。健康な人間にはどうってことなくても、思わぬことがあるかもしれませんから。行かれる前には、高柳先生とも、ご相談をしておきたいと思います。よろしいですね?」
「ハイハイ――。相変わらずね、春希君は。堅いんだから。」
「「行くな」とは言ってないでしょう――? 頭ごなしに「ダメだ」って言ったって、お義母さんが「うん」とおっしゃるはずはないんだから。――そちらの言い分を認める以上、こちらの条件もきっちり認めていただきますよ?」
 ――なにやらかずさは憮然としていたが、落としどころとしてはこの辺だろう。
 そのあとしばらくは食卓を沈黙が支配し、みんな黙々と食べ物を口に運んでいたが、ポツリ、と曜子が言った。
「――心配しなくても、無理なんかしやしないわよ。かずさのためだけじゃない。ちびちゃんたちのためにも、春希君のためにも、できるだけ、気を付けて、長生きするから……。」
「曜子さ――お義母さん……。」
「かあさん……。」

 曜子が「春希君のためにも長生きする」といった理由は、春希にもかずさにもわかっていた。
「曜子さん、今夜も――よろしいでしょうか?」
「――今夜は、何?」
「シュトゥットガルト時代の資料に、少し、わからない点がありまして……。」
「あら、そんなもの、何かあったの?」
「――ネットと、それから、橋本さんのご教示で、頑張って拾いましたが、さすがに――それで、二、三質問が……。」
「――はいはい、覚えている範囲でね。」
「――よろしくお願いします。」

====================
 エピローグ……の前振り……って感じ。



[31326] 手探り【WHITE ALBUM2雪菜trueアフター「雪菜のいない日々」】
Name: RCL/i8QS0◆fe1ad663 ID:129b0297
Date: 2012/08/17 21:14
 一杯だけのワインとともに、軽くよもやま話を交えながら、その夜もヒアリングは1時間だけで切り上げて、「おやすみなさい」の挨拶とともに春希は曜子の部屋を後にした。そして夫婦の寝室に「ただいま」の声とともに戻ってみると、そこにはかずさの気配がない。
「――? かずさ?」
 音こそしないが、寝室付のシャワールームかも、と念のために明かりをつけてのぞいてみたが、誰もいない。ウォークインクローゼットの中をあらためても、いない。
「――かずさ……どこだ?」
 いぶかしんでベッドサイドのナイトテーブルを見ると、紙片の上に乱暴な筆跡で「スタジオにいる」とだけ残されていた。
 ――やれやれ、と頭を振って、春希は寝室を出た。

 途中キッチンによって、ワインの残りの入ったボトルと、グラスを二つ持って、春希は地下のスタジオに下りて行った。親子の帰国後、何回かにわたって改造が施され、防音壁や録音機材含めて、以前にもまして個人所有のものとしては破格の設備となった冬馬邸のスタジオ――音源のいくつかは実際、ここで収録されている――のブースの中、かずさがひとりスタインウェイの前で憮然としていた。ブースのドアに手をかけてみると、鍵はかかっていなかった。
「よう――練習か?」
と声をかけると、かずさは
「――遅いぞ。」
と拗ねたように言った。

「寝室で、本でも読んでるか、なんか聞いとけ、って言ったじゃないか。」
「――ネタが尽きた……言ってるだろう? ノッてるときのあたしは、一度聞いたもの、一度読んだものは、しばらくずーっと頭の中に置いとけるんだ。今うちには新しい音源もないし、読みたい本もない。子どもたちの手前、ゲームもしたくない。――となれば暇つぶしなんて、結局これしかないだろう?」
 ――やれやれ、相変わらず、ろくでもない天才だな。
「とか言って、今来たときには、ただ座り込んでぶすっとしてるだけで、ろくに弾いちゃいなかったようだが?」
とからかいつつ、春希はグラスにワインを充たして、かずさに手渡した。
「――ひと休み、してただけだ。」
 グラスを受け取ってひと口飲んでから、かずさは愚痴った。
「――せっかく、おまえが早く帰ってきて、みんなでご飯食べる日だって、こうだもんな……休みの日にも、おまえときたら、一日中掃除と洗濯してるか、子どもたちと出かけるか、それとも原稿書いてるか、だもんな……ちっとはあたしと遊んでくれたって、いいじゃないか……。」
「――すまない。」
「――バカ、そこで謝るな……そこは「おまえもちっとは手伝え」とか逆ギレするところだろ? ――わかってるって……あたし言ってみれば「後添い」だもん。「夫婦水入らず」なんて、無理な話だ……。子どものことも、家のことも、そんなこと全部承知で、おまえのところに嫁入りしたんだもんな……。まあはたから見たら、まるでおまえが婿入りしたみたいにみえるだろうけど。」
と、旧姓・冬馬、現・北原かずさ(ただし芸名は旧姓のまま)はぼやいた。
「――おまえにしちゃ、ずいぶん頑張ってる、ってことくらい、俺にもわかってるよ。感謝してる。何もかも。――ただな、おまえが子どもたちを連れて美術館だの、コンサートに行くときのことなんだがな……もうちょっとこう、甘いおやつを、控えてもらえないかな……。何よりあの子たちの歯が心配で……。」
「――仕方ないだろう! あたしが食べるのを前に、あの子たちにだけ我慢させろっていうのか? そんなひどいこと、できるわけないじゃないか!」
「――つまりそれはだな、おまえも健康のために、いろいろ控えてほしい、ってことなんだが……。」
「くどいぞおまえ。――それとも何か、あたしが肥ってる、とでもいうのか?」
「――いや……それは……。」
「確かめてみるか?」
 急にかずさの表情が艶を帯びた。一息で空けたグラスをピアノの上に置いて、立ち上がり、春希に寄り添う。
「――ここで、か?」
「――一度、声を殺さず、我慢せずに、してみたかったんだ……。ここなら……。」

 その夜かずさは、立ったまま、着衣のままで後ろから貫かれて、こころゆくまで、声を限りに歌った。

 翌日春希は定時で退社した。さすがに上級管理職ともなれば、雑用はすべて部下に押しつけられて、開き直れば気楽なものだった。その開き直りがなかなかできない貧乏性が、自分の性分ではあったが。
 と言ってもすぐには帰宅せず、そのあとは御宿のカフェで杉浦小春と待ち合わせて、軽く会食しつつ打ち合わせを行った。
 案件のひとつは、瀬之内晶=和泉千晶の著作を巡るあれこれの綱引き。既発表の戯曲集の方は鴻出版で出す運びとなった(春希としても、自分がモデルとなった作品の出版を手掛けるのは、やはり面映ゆかった)が、千晶は「「原作料」代わりだよ」と書下ろしの処女小説の開桜社からの出版を口約束した。基本はこのラインで行くことで大体の合意は三者間でとれたが、細かい詰めはまだいろいろと残っていた。小説の方はいつできあがるという保証もないので、春希としてはせめて写真集でも出せないかと千晶を何度となく口説いていたが、なかなか色よい返事はなかった。だとしたら、せめて鴻出版に、小春に出し抜かれる愚だけは避けねばならない……。このあたりの牽制も、今日のテーマだった。
「――まあ、あの方、なかなかガードが固いですからねえ……。その件は、これくらいにしておきましょうよ。」
と小春は、アイリッシュコーヒーのグラスを開けて、春希を見やった。
「ぼちぼち、次の案件に参りましょう。――どんな塩梅です、最近?」
 ここからは、気鋭の編集者対作家見習いの対決である。
「――ずーっと続けているのは、冬馬曜子についての、過去にさかのぼっての資料収集。これについてはご本人と事務所の全面協力が得られるから、資料自体を集めるのはさほど難しいことじゃない。問題は、それをちゃんと読み込むこと。それからさすがに難しいのが、プライバシーにかかわること。――曜子さん自身はあけっぴろげな人だけど、記録が残ってるわけじゃないし、ご本人の記憶と証言が頼りだし。それに、内容だって、何分、相手のあることだし、わかっても書いていいものになるかどうか――俺としても、たとえばかずさの父親の話なんか、聞きたいのか聞きたくないのか、自分でもよくわからない……。」
 春希はとりあえず、飾らずに自分の現状を報告した。
「――それで、モデル小説を書きたいんですか? それとも、ノンフィクション、きちんとした評伝を書きたいんですか?」
「――どちらかというと、後者だ。それで、橋本健二さんの資料も、今から系統的に集めている……まあ、橋本さんはこれからの人だから、当分先のことだけど。」
「――どうして、冬馬曜子さんなんです? かずささんのお母様だから? 家族になったから?」
「――本当は、かずさの話を書きたいんだ。というか、書かなきゃならない、と思っている。それは同時に、俺自身の話にもなるはずだから。だけど、かずさのことを書くためには、どうしても、曜子さんのことも理解しておかなければならない。――そうして、一緒に暮らすようになって、話を聞くともなしに聞いていたら……あの人は優れた芸術家であるだけじゃなくて、何というか、あの人自身の人生が、何とも劇的で、一個の作品のように見えてきて……だけどあの人はただ必死に生きているだけで、自分で自分の人生をそうやってまとめたりはしないだろうから――誰か周りの、他の人間が、記録を取っておかなければ、って……。」
「――かずささんについても、記録は必要だ、って思いますか?」
「――わからない。芸術家としては、まだまだこれからだし。伸びしろはまだあるから、今の時点で「歴史に残る」どうこうを言うべきじゃないし。それに――やっぱり、自分の身内だから、最愛の伴侶だから、どうしても客観視しきれないところはあるし。逆に、フィクションにしないと、うまく書けないかもしれない。――でも、いずれにせよ、かずさが真に偉大なピアニストになるにせよならないにせよ、俺は死ぬまであいつのそばにいて、ちゃんと記録は取る。それを、誰がどう使うかは、別として……。」
(――さらっととんでもないこと言ったわねこの男……。)
 内心の動揺をおくびにも出さず、小春は続けた。
「でも、橋本健二さんについては?」
「――あの人は、すでにかずさより一段高いところにいるんじゃないか、って思う。そんな、偉そうなことを言えるほどの耳は、俺は本当は持っていないけど……、かずさのあの人へのほれ込み具合は半端ないし、それにあの人は、音楽家であると同時に、音楽の歴史学者でもあるから。今年中に、俺の手掛けたあの人の処女作が出るから、読んでください。――あんなに美しいピアノを弾くのに、あんなに突き放した目でピアノという歴史的出来事を見つめ、記述する――俺としては、そういう二つの顔を持った存在に、すごく惹かれてやまない。」
 感嘆とともにそう述懐した春希に、小春は
「――こよなく愛した女性を、なお愛しつつ、その一方で容赦なく冷酷な目で切り刻み、批評的に描き出す……それは、できませんか?」
と切り込んだ。ちょっと意地悪な気持ちだったことは否定できないが、これは聞いておかねばならなかった。
「前の習作二本のことを言ってるんだよね、わかってる。――でもあれは、君も指摘してくれたような甘さが残ってるし、何より和泉――瀬之内晶にもっと上手に料理されちゃったからなあ……。」
「――そうでも、ないですよ。」
 小春は、ポツリと言った。
「――? いや、そんなはずは……。」
「あの人のお芝居は、甘酸っぱすぎます。先輩のもともとの原稿は、もっとドロドロしていて、いやらしい。エッチです。特に、雪菜さんの描写なんか、すごいですよね。――あっ、これ、ほめてるんですよ?」
「……。」
 春希は顔を赤らめて、頭をかいた。
「評伝を書かれることに、反対はしません。冬馬曜子さんの伝記も、また、何十年後になるかはわかりませんが、橋本健二さんの伝記も、いいものができそうな気はします。ただ、そういうノンフィクションには、私の見た限りでの先輩の書き手としての魅力の一つである、エロティックな部分が、あんまり生かされないかなあ、って。」
「――そんなに、エロかった? 俺の書いたもの。」
「――変な風に、エロいです。」
 断言する小春に、春希は
「うーん。」
と唸って黙り込んだ。
「正直言いますとね、先輩が今までに『アンサンブル』なんかに書かれたかずささんの記事、私に言わせれば、あれだけでも十分、エロティックです。他の女についてあんなもの書いて、よく、奥様の雪菜さんが許されたな、と思うくらいです。――そのうえで雪菜さんのことも、あんな風に書いて……あれを雪菜さんが存命中に書かれたら、いったいどんなことに……。」
「――そ、そんなことできるわけがないじゃないか! ってともかく、雪菜が生きていたらそもそも、あんなもの書こうって気にならないよ……。」
「まあ、その辺はいいですよ。――でも、私の見たところ、書き手としての先輩の魅力のひとつは、エッチなところにあります。そこのところは、大事にしていただきたいですね。――別に「ポルノを書け」って言ってるわけじゃ、ないですけど。」
 小春は意地悪く笑った。
「だから、やっぱり、いつかは、かずささんの、そして雪菜さんの話を、きちんと書かなくちゃいけないんですよ。」

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 あれえ案外引っ張るなあ。困ったなあ。



[31326] ガールズトーク再び【WHITE ALBUM2雪菜trueアフター「雪菜のいない日々」】
Name: RCL/i8QS0◆fe1ad663 ID:129b0297
Date: 2012/08/23 19:32
「ふふーん。それでそれで?」
「もったいぶらないでくださいよー。」
「――い、いや、もったいぶってなんか、いませんよ……。」
「……いいなあ。あたしもそろそろまた、オトコつくろっかなー?」
「ほほう?」

 今年もまた、今度は三浦半島の温泉ホテルの一室で、子どもたちを寝かしつけ終わったママ友たちは、ガールズトークに花を咲かせていた。
 昨年は年の瀬になってしまった、恒例の保育園の同級会(の保護者の会)の一泊旅行は、今年はどうにか秋のうち、悪く言っても初冬の11月半ばに行われた。しかしながら相変わらずパパたちの集まりは悪く、今年は春希も含めて全員が欠席となった。――まあこういう集まりの主役はどうしたって女性陣なので、何となく居づらいというのはあったかもしれない。
 というわけで今回、春華と雪音を連れてここまでやって来たのは、新米継母たる北原かずさであった。元来人見知りのかずさだが、それでもこの面々との付き合いはもう2年ほどになる。結婚式にも招いた相手であれば、かずさにとっては数少ない友人……とは言わぬまでも「親しい知己」ではあった。
 それでも実を言えば、正直、すすんでここに来たとは言い難い。ただ春希があまりに先回りして気を使って「おまえも忙しいだろ? 申し訳ないけど、鈴木さんにお願いして連れて行ってもらうよ……。」などと言ったのに腹が立ってつい、「何言ってんだよ、今となっては、あたしはあの子たちの母親だぞ! 当然連れてくよ!」と言ってしまったのだった。
 つまりかずさは、内心結構緊張していた。

 しかし日中はそれどころではなかった。午後にホテルに着いたら、そこから子どもたちはホテル付の室内温水プールに直行である。「水につけたら子どもは弱る」とは言うが、正直言ってこちらの方が先に参った。バイキング形式の夕食の大騒ぎの後は、今度はお風呂であるが、これがまたプールと大差ない大浴場であるのだから、大人にとっては「プールの後にまたプールかよ!」という感じで不条理としか言いようがない。
 というわけで今年も、9人の子どもたちをどうにか寝かしつけて、乾杯したときには10時を回っていた。しかし疲れと解放感が重なってみんなピッチが速く、気が付いたら結構みんなできあがっていた。

「あたしが知りたいのはねー、プロポーズしたのはどっちからか、ってことなんだけどー?」
と陽ちゃんママ、鈴木さんが酔眼でかずさの顔をのぞきこんだ。
「うわっ小学生みたい! あんた先生でしょ?」
と武ちゃんママ、水野さんがたしなめると、
「いいじゃーん。ほんとは去年もさあ、もっとギリギリ春希君を責め立てたいとこだったんだけど、あたしも大人だから遠慮したんだよー。でもさあ、おさまるべきとこにおさまってめでたしめでたしなんだからー、いいじゃーん?」
と鈴木さんは手をひらひらさせて笑った。
「小学生のくせに酔っ払いかー、タチ悪りーなあ!」
「陽ちゃんママ、からみ酒はダメよー?」
 ともちゃんママ、柊さんと、のりちゃんママ、坂部さんがからかうと、鈴木さんは
「――からみ酒……? って失礼な! そんなことないわよねー、ねー、かずちゃん?」
と悪乗りするので、
「――充分からみ酒だよ……!」
と水野さんが睨みつけた。当のかずさは
「……。」
とうつむいていた。
 そんなかずさを見て坂部さんは、グラスのビールをグイッと飲み干すと、
「――でもさあ、ほんとによかったよ――。私もたまに開桜社に行って春希君に会うんだけどー、なんていうかさ、ここんとこ、ほんと見てて感じが違うんだよ。前からカッコよくて愛想良かったんだけどさあ、前はこうちょっと「切れ者」って感じだったのが、最近はすんごく安心感があるの。「何があっても大丈夫」って。」
と洩らした。それに対して亮君ママ、本田さんも、
「――私はねえ、春希君もそうだったけど、去年のかずささん見てると、いつもちょっとつらかったんだー。すっごく切なかった。いっつも必死に空元気振り起して、頑張ってるみたいでさあ。手を伸ばせばすぐそこにあるのに、でもその手を伸ばせない、って感じでさあ。でも、そんな立ち入ったこと、友達でもないのに話すわけにもいかないし……。のりちゃんママも言ってたけど、ほんとは去年、かずささんにもここに来てもらって、お話したかったんだよなあ……。でも、こっちから誘う度胸がなくてさあ……。」
と応じた。
 そこまで言われてしまえば、さすがにかずさも黙っていることはできず、
「――そんな、そんな馬鹿なこと気にしなくてもいいのに……。」
と言わざるを得なかったが、本田さんは強い調子で、
「馬鹿なことじゃないよう!」
と否定した。
「本田さん?」
「大事なことだよ。私は、せっちゃんに会う前から、ずっと「冬馬かずさ」のファンだったんだ。ただのいちファンだったのに、偶然、保育園でせっちゃんとママ友になって、「〈親子のための〉コンサート」のお手伝いもして、かずささんに会うこともできて……。とってもラッキーだ、っていつも思ってた! だから、せっちゃんが死んだときも、そのせいでかずささんがとってもつらい立場に追い込まれたときもさあ……。」
言い募る本田さんを、柊さんが
「まあまあ。」
と押しとどめた。
 そこへ水野さんが、彼女らしくない、おずおずとした口調で
「――かずささん、あたしは、鈍いもんだから、その辺のこと全然知らないしわかんなかったんだけど……、結構、あなたたち三人って、長い――複雑な、付き合いだったの?」
とたずねた。鈴木さん、本田さん、坂部さんは思わず顔を見合わせたが、かずさはあっさり、
「……ええまあ、高校時代からだから、かれこれ十何年……。」
と応えた。
「――ああ、ごめんなさい。立ち入ったこと聞いちゃった。」
「いえ、いいんですよ……。いまとなればみんな、いい思い出です。本当に。」
 謝罪の言葉を述べる水野さんに、かずさは軽く笑った。そして、自分もワインをグイッとあおると、ぼそぼそとしゃべり始めた。

「――あたしは、最初からずっと、春希のことが、好きでした。他の男に目が行ったことなんか、一度もなかったんです。――異常でしょ? ストーカーみたいでしょ? 母は「私たちは親子そろって色情狂なんだ」なんてひどいこと言いますけど、存外外れてないんです。……本来なら、人の道を外れた、痛い女なんです。そんなあたしがこうして、みなさんと仲良くにこにこしていられるような、普通の人間の振りができるようになったのも、全部、雪菜のおかげなんです。
 ――あたしは雪菜に、春希をとられました……。でも、雪菜を憎んだことなんか、ありません。あたしに勇気がなかったのが悪いんだし、それに、あたしの方でも、雪菜と結ばれたはずの春希に、何度もちょっかい出したんです――。あたしの方こそ、絶交されても、憎まれても仕方ない。――春希のやつだって、雪菜に愛想尽かされて当然なんです。だけど、ああやってにこにこして、春希のやつを許して。あたしのことだって、まるで「そっちの方がひどい復讐だから」と言わんばかりに許して、ずっとそばにいて、何くれとなく助けてくれて。
 ――あたし、二人が結婚してからも、ずーっと春希のことを、愛してました。でも、雪菜のことを憎めなかった。春希を奪おうなんて、考えられなかった。――こっぴどく負けたから、というのもあります。でも、あの二人に子どもが――春華と雪音ができたら、もうダメでした。あの子たちがあたし、大好きなんです。あの子たちがかわいくて仕方がない。あの子たちを泣かせたりするようなこと、できっこない。
 それ以上に。もしもあたしが春希を雪菜から奪っていたとしたら。そもそもあの子たちは、この世に生まれてこなかったんです。――その代りに、誰か別の子どもが、あたしと春希の間に生まれてきていたかもしれない。でも、そんな仮の話をしても仕方ありません。本当に、本当に恐ろしいこと。
 ――だのに、雪菜は死んでしまった……。春希を置いて。あの子たちを置いて。――あたし、最初はどうしたらいいか、全然わかりませんでした。「雪菜がいなくなったから、今度はあたしの番だ」なんて思えるはずがない。あたしに、「雪菜の代わり」なんかできるはずはない。そんなことは最初からわかっています。そうじゃなくて、雪菜がいなくなった後で、それでもあたしはあたしでいられるのか、それが不安で仕方がなかった――。」

 と、そこまで話して、かずさは、周囲のみんながしんとして聞き入っていることに気付き、あわてた。
「ご、ごめんなさい! 長々と、不愉快な話をしてしまって! すみません! 忘れてください!」
 しかし、水野さんは首を横に振った。
「――何言ってるんですかー。全然そんなことないよー。」
 柊さんも、
「そうそう、ありがち――とは言わないけど、十分理解できる話じゃん。」
といった。
 鈴木さんはほっと息をつき、ウィスキーのロックを作りながら、ひとりごちた。
「――あたしや亮くんママはさあ、前々からせっちゃんから少し話聞いて、何となくわかってたから……いち段落して、実務的にも精神的にもいろいろ整理できたら、春希君はかずささんと再婚するのが、自然の成り行きだ――って最初っから思ってたの。で、周囲のご親族、親しいお友達の皆さんも、きっとそんな風に思ってたんだよね? ――でも、それだからこそ、当の本人たちは、そんな風にさっさと踏み切ることが、逆にできないんだろうなー、って、歯がゆかったんだよねえ。」
 そこに柊さんが、
「そいで去年、春希君をいじめてたんだ。」
と茶々を入れると、鈴木さんは呵々大笑して、
「――そおよお! そういうときは、男が悪者になるもんだ、ってね! ま、いらぬおせっかいですが。――だから気になるの。どっちが、あえて泥をかぶって、カッコよく、カッコ悪い真似をしたのかな、って。もし春希君だったら、私、見直しちゃうんだけど。」
と蒸し返してきた。
「――そこは、ノーコメントで。」
とかずさが生真面目な顔でいうと、鈴木さんは
「……。」
と渋い顔をして、
「そんな風に言われると、ヘタレの春希君をかばっているようにしか、聞こえないんだけどね?」
と言って酒をあおった。



[31326] 眠れぬ夜【WHITE ALBUM2雪菜trueアフター「雪菜のいない日々」】
Name: RCL/i8QS0◆2e426366 ID:26038740
Date: 2012/09/20 21:25
 傍らの気配に春希が目を覚ますと、かずさが何やらうなされていた。かすかな声で、途切れ途切れにうめき、いやいやをするように首を振っている。どうしたものかと考えながら、半身を起こして見守っていると、苦悶するかずさはふいに右手を差し上げ何かをつかまえようとしたので、思わず春希はその右手をとって、自分の両掌に包み込んだ。そこでかずさはパッと目を見開いた。
「――っ! は、春……希……?」
 春希は無言でうなずき、左手はかずさの右手に預けたまま、右手で彼女の汗ばんだ頬を静かにさすった。かずさはしばらく目を見開いたまま、荒い息とともに大きく胸を上下させていたが、しかる後、下からグイッと両腕を差し伸べて春希を強引に抱き寄せ、すがりついてその肩に顔を埋めた。
「……どうした? 怖い夢でも、見たか?」
 春希は穏やかに聞いた。
「――ん……あ、ああ……。あの頃の、母さんの、夢だ……結婚してから、見てなかったんだけどな……。」
「――あの頃……か。」

 かずさがいう「あの頃」とは何なのか、説明されなくともわかった。冬馬親子が日本に帰ってきた直後の2年ほどの間、本格的な治療が始まった頃のことだ。「最初が肝心」ということで、この頃は日本で未認可の新薬を中心に、とりあえず金に糸目は付けず、多少のリスクも承知の上で、当座のQOLよりも寛解・延命を優先して結構な無茶をやっていた。おかげで曜子のストレスは相当なもので、激痩せ、脱毛はもちろんのこと、始終吐き気や悪寒、疼痛にさいなまれていた。
 「あの頃」――春希と雪菜は新婚だったが、まだ雪菜は第一子春華の懐妊前でもあり、友人として、また会社の「冬馬番」として二人してかずさと曜子のために奔走した――とは言いたいところだが、できることなど大してなかった。QOLは二の次でとにかく猛烈に力押しで治療する、となれば医者に任せるしかない。結局二人にできたことは、唯一の家族として診断と治療のすべてについていちいち説明を受け、同意を確認されるかずさを少しでも支えること、でしかなかった。
 人当たりがよく飄々とした高柳教授は、その実ひどい頑固者で、現代的な医療倫理のやりかたに完全に賛成していたとは思えないが、自分なりの筋の通し方というものを徹底する人だった。そしてこの場合高柳教授は、徹底してかずさに、曜子の家族として、後見人としての責任を負わせることを選んだ。終始にこやかに、しかし決して逃げることを許さず、徹底して情報共有を強制した。
 しかしそのストレスに、かずさは意外なほどよく耐えた。

 治療開始最初の一年、曜子はほぼずーっと入院中で、春希と雪菜の結婚式にも結局出られずじまいだった。だからかずさは、また高校時代のように、あの大きな屋敷にひとりぼっちだった。しかし今回は、掃除洗濯を委託したハウスキーパーの他に、春希と雪菜がいた。結婚式を挟んだこの最初の一年、二人は週の半分は冬馬邸に足を運んでかずさと夕食を共にし、残りの半分程度は、かずさの方を自分たちの新居に招いて飯を食わせていた――つまりこの一年はほとんど毎晩、かずさに飯を食わせていたことになる。それはもちろん、心身ともにかずさの助けになったろう。
 しかしかずさは、決して二人と夜を過ごさないようにした。自邸に二人が来てくれたときは、できるだけ早く引き取らせ、新婚家庭に招かれたときも、極力早く帰るようにした。北原家には必ず自分で車を運転して訪れ、それを理由に酒も決して口にしなかった。
 それでももちろん、人間そんなに急に強くなれるわけはない。時たま、自邸で酒を酌み交わしているときに、酔いも手伝ってかずさは泣き崩れてしまうことがあった。しかしそんなときにも、泊まってかずさをなだめてやるのは雪菜の仕事で、春希は後片付けをしてひとりで帰り、翌朝早くに――週末の場合には、少し遅めに、お昼前に――着替えを持って雪菜を迎えるだけだった。それが彼らの、線の引き方だった。
 そんな夜は、雪菜が一緒にそばで寝てやっても、かずさはしばしば、夢の中でうなされていたという。ひとりの夜も同じか、それ以上につらい夢にさいなまれていただろう。

 その一年、かずさは毎日、ほんの1時間でも、ドクターストップがかからない限りは必ず曜子を見舞った。慣れぬ手つきで持参した果物を剥いてやろうとしては曜子に取り上げられ、逆に同じように慣れぬ手つきで剥かれてしまっているところを、目ざといナースに取り押さえられるというドタバタ喜劇を、何度繰り返したかわからない。
 見舞いとはいっても、何をしてやるでもない。文字通り「見舞う」だけだ。壊滅的なまでに不調法な娘と、これもまた不調法な母のこと、ただ顔を見て、バカ話をするのが関の山だ。ただそれだけのことだったが、それがどれほど、曜子の気力を奮い起こし、治療の苦痛に耐える助けとなったかは言うまでもない。
 それでも――しばしばドクターストップはかかった。さしもの曜子も、かずさにさえ会う気力がわかない日はあった。曜子の気力があっても、スタッフがそれを許さない日もあった。ほんの時たまだが、かずさの訪問中に曜子の容態が急変し、見舞いは打ち切り、ということもあった。
 かずさが眠れぬ夜を過ごすのは、そういう日だった。

 最初の一年が過ぎれば、白血球の量も安定し、基本的に在宅での治療に切り替えることができた。そこでようやく雪菜と春希の本格的出番が来た。雪菜は高柳教授とも相談したうえで、親子のための食事を設計して毎日のように訪れた。しかしそうした日々も長くはなかった。雪菜が妊娠したからである。以後は基本的には曜子自身とかずさ、そして冬馬オフィスの工藤美代子が、高柳教授の指示をもとに、訪問看護とホームヘルパーを手配し、曜子のケアを管理することになった。――この体制が、基本的には今も続いている。

「今でも時たま、母さんがつらそうにしているのを見てしまうことがあるけど、あの頃はきつかった。あのひと、あんなたちだし、あたしもこんな風に頼りないから、いっしょうけんめい我慢するんだ。でも、きついから、我慢してるのが、こっちにも見えちゃうんだ――だから、あの頃は本当につらかった。雪菜のおかげで、本当に助かったよ。夜中に時たま、目が覚めて、不安でたまらなくなって、寝ている母さんのところにそっと、様子を見に行くんだ。――たいがいの場合は、静かに寝ていたから、そのまま戻るんだけど、時たま、苦しそうにしていることがある。だからといって、発作を起こしているわけでもないから、声をかけて起こすわけにも行かない。でも、そんな時は不安で不安で、そばを離れることができない。起こさないように、でももしもの時はすぐに対応できるように、静かになるまでじっと見守っている。――で、幸い、「もしもの時」は来なかったわけだけど、そんな風になったらもう眠れない……。」
 春希の腕の中で、かずさはぽつぽつと話した。
「――そんな時は、どうしたんだ?」
「雪菜に口止めされてたから、内緒にしてたけど――知ってたか?」
「――何となく、気づいてはいたよ。」
「――うん。ちょうど、雪菜も産休の時だったしな。春華のおかげで、夜も眠れないから、気晴らしにもなる、なんて言ってくれて。だから、時たま、夜中に雪菜と、電話で話した。おまえを起こさないようにって、あいつ春華を抱っこしながら、居間に出て。」
「――何度か、そんなことがあったな……。雪菜、ずいぶん気を遣ってくれてたけど、ごそごそしてるから、わかっちゃうんだよ。」
「――そっか……悪かったな……。」
「こっちこそ、役立たずで済まん。――まあ、雪菜も、俺に気を遣ってくれただけじゃなく、俺を役立たず認定してたんだろう。」
「――本当に、雪菜には、たくさんのものをもらった……のに、まだ何も返してないのに、何で……。」
 かずさは涙ぐみ、春希の胸に顔を埋めた。春希も目頭が熱くなるのを覚え、かずさを抱きしめた。ひとしきり泣いてから、かずさはふと顔を上げ、ぽつりと言った。
「――母さん、大丈夫かな……馬鹿げた心配とはわかってるけど、急に不安になってきた……。」
「――様子、見に行くか?」
「――起こしちゃったら、かえって悪いよ……。これは母さんのためというより、あたしのひとり勝手な取り越し苦労に過ぎないんだから……。」
 かずさはいやいやをして、再び春希の胸に顔を埋めた。
「――これまで、起こさないで様子を見てこれたんだろう? それで気が済むんなら、行ってこいよ。」
 春希は優しくかずさの頭を撫でた。
「いや。いかない。」
 かずさはかぶりを振った。
「本当に何かあったら、母さんは必ず枕元のブザーを押す。それであたしだけじゃなく、ナースにも、高柳先生にも連絡が行く。それで充分だ。」
 そういってかずさは、かたく目をつぶった。



[31326] 訓練(前篇)【WHITE ALBUM2雪菜trueアフター「雪菜のいない日々」】
Name: RCL/i8QS0◆fe1ad663 ID:9766d1b6
Date: 2012/10/10 21:50
「今夜の晩飯は、あたしが作るぞ。」
 朝、久々にかずさがそう宣言したのに対して、春希はふっと息をのんだ。かたや曜子は苦笑いしてため息をついた。
「いや、おまえ――ぼちぼちレコーディング追い込みで、忙しいんじゃないのか?」
「男がいちいち細かいことを気にするな。大丈夫だ。鍋だし。」
 胸を張るかずさに、春華が如才なく、
「じゃあかずさママ、わたし今日は学童行かずに、まっすぐ帰ってきてお買いものしとくね?」
と突っ込んだ。
「ありがとう春華。でも大丈夫。あたしに全部任せておきなよ。」
「うーん、でもおとうさんの言うとおり、かずさママはいそがしいんでしょう? 雪音のお迎えだってあるし、お買い物メモを書いといてくれれば、私がかわりに行ってあげるよ。その間かずさママは練習しててよ。」
 最近春華は急激に大人びてきた。単にけなげだというよりも、時折かずさに対して、まるで妹の雪音に対してみせるような、何とも複雑な表情をしてみせる。どうも近頃春華は、かずさに甘えるのではなく、逆にかずさを甘やかす(そう、これは「お手伝い」ではない。むしろ「お世話」「ケア」である!)ことの方に、変な喜びを見出し始めたのではないか。まだ7歳だというのに、わが娘ながら大丈夫か、と春希は少しばかり心配になった。

 再婚し、冬馬邸に引っ越してきてからの北原家プラス(単身世帯となった)冬馬家、計5人の食卓事情はといえば、引っ越し前の両家のありようの折衷であった。毎朝の朝食は、残りものや有り合わせを利用して、春希が作る。まあ大体パン主体でスープだのサラダだの卵焼きだのを添える程度の、簡単なものだ。昼は大人二人――とは言っても冬馬母娘だが――がいるだけなので、勝手にさせておく。問題は夜である。雪菜亡き後の北原家では、余裕のある日にできるだけ作り置きをしたうえで、週の半分は春希が、残りの半分は小木曽の義母が夕食を用意した。ごくごくたまに、三か月に一遍くらい、かずさが挑戦することもあったが、カレーなど極力無難なメニューを選んでもそのうち半分は失敗し――一度も火事にならなかったのは不幸中の幸い――、気落ちしたかずさを子供たちがなだめつつ、近所のグッディーズに直行と相成った。
 では、引っ越し以前の冬馬家はどうだったかといえば、これは基本的には、通いのヘルパーさん頼りであった。曜子がずっと入院中だった、帰国後最初の一年は、かずさの食事はほぼ完全に北原家――雪菜頼りで、ヘルパーに頼んだのは掃除洗濯の類が基本であったが、症状が安定し、在宅主体に切り替えてからは、そうもいかなかった。しばらくは雪菜が通って半分くらいは面倒を看たものの、残り半分は外注――ケータリング頼りとなった。そうこうするうちに雪菜が妊娠し、こちらにやってくる余裕がなくなってきたので、母娘は工藤美代子と膝を突き合わせ、侃々諤々議論した挙句に、金に糸目をつけずに本格的に食事の外注に乗り出した。何しろ曜子は病人であり、食事には質量ともに気を使わねばならない。通いのナースの指導の下、掃除洗濯担当のヘルパーとは別に、栄養士資格を持った人材を高い報酬で雇い入れ、ほぼ毎日来てもらって、食事を用意してもらっていた。
 冬馬邸におけるこの体制を、かずさと春希の結婚、北原家の引っ越し以降どうするのか、は、結構頭の痛い課題だった。
 曜子は気楽に、
「いいわよいいわよ、春希君の収入も合わさるわけだからさ、今まで通りにお願いしましょう? 人数の増える分、ちょっと割増付けて。春希君も忙しい身体だし、その方が楽でしょう?」
と言ったものだが、春希は即座には割り切れなかった。
「――うーん、それでいいんでしょうか? それは、できないことはないんでしょうけれど、合理化できるところは合理化すべきなんじゃないですか? こんな考え方、貧乏性なのかもしれませんが……でも俺としては、自分でできることを、やたらと外注することには、抵抗を覚えないではないです。」
「だから、このやり方が十分、合理的なんじゃないかしら?」
「あー、でもね、俺はせっかく身についた料理の習慣を、忘れてしまいたくないんですよ。料理でもなんでも、やらなくなったら、すぐにできなくなってしまいますから。」
 その言葉に曜子もかずさも、何やら感じ入ったようで、日々の料理を継続したい、という春希の申し出はあっさりと通った。何であれ、日々たゆまず続けていなければ、すぐにできなくなってしまう。プロの音楽家としてみれば、そういわれてみればうなずかないわけにはいかなかったのだろう。実際、病を得て、すでにひと前で弾かなくなって久しい曜子だが、家では今でも折に触れてピアノの前に座り、指を動かしている。
 ということで今迄通りに、週の半分は家族の夕食を春希が作ることとなったが、思わぬ副作用があった。かずさが前にも増して、料理に対して前向きの姿勢で取り組もうとするようになったのである。
「何にせよ、練習しなくちゃ、うまくならないからな!」
 正論ではある。しかし、独学には限界というものがある。一人勝手に変な練習をしていても、なかなか上手になるものではない。ましてや、かずさは壊滅的な味音痴である。誰かが指導してやらないことには、うまくなりようがない。
 実際、料理人春希の今日があるのも、ひとえに亡き前妻、雪菜による仕込みのたまものである。時間さえあれば春希としても、あれほどきっちり自分にギターを仕込んでくれた恩返しの意味も込めて、かずさを仕込んでやるのはやぶさかではない。
 ――しかしまあ、管理職となった春希の方がある程度時間に融通が利くようになったのに引き換え、かずさの方は、今年は久々のレコーディングに熱が入って、土日も自宅や外のスタジオで仕事ということが多くなった。つまるところ、二人が一緒に厨房に立つという余裕が、今年はほとんど持てないでいた。
 つまりは、まあ正直言って、かずさの料理は「意欲ばかりが空回り」というのが現状であった。
(続く)



[31326] 訓練(中篇)【WHITE ALBUM2雪菜trueアフター「雪菜のいない日々」】
Name: RCL/i8QS0◆2e426366 ID:26038740
Date: 2012/11/15 19:49
(承前)

 晩飯のことは気になるものの、その日は仕事が手いっぱいで、部下に仕事を押し付けたうえでどんなに急いでも帰宅は7時を優に回らざるを得ない。おまけに昼飯時にも、約束があった。

「――先輩。拝読しました……けど、これは……。」
「――どうだろう。愚作……かな。ええっと、以前からご要望の「エロ」にうまいことならなくって……。」
「うーん。」
 昼休みのサラリーマンやOLでごった返す、御宿のオフィスビル最上階のいつものカフェで、小春は腕を組んで、小首をかしげて見せた。テーブルにはきれいに平らげたランチプレートと、プリントアウトされた紙束。先に春希がメールした、新作小説の草稿だった。
 とにかく、何でもコツコツ続けないと、うまくならない。料理だけではない、ギターも、そして小説も、である。毎日少しずつ書きためた原稿がようやくまた少しまとまったので、「担当」杉浦小春に送ると、早速電話をかけてきて、本日のランチミーティングと相成った。
「何というかまた、直球の私小説、ですね。しかも素材は、何ですか、お二人が結ばれる前の、やもめ時代。――中年男女のラブコメというか、できるダメ男のウジウジ話というか……うーん。亡き妻の親友で、非常識だけどまっすぐで素敵な女性に想われていて、自分の方でも彼女のことが好きだけど、なかなか踏み切れない――こんな風に言っちゃうといかにも陳腐ですけど、でも、そういうよくある悩み、心の動きを、そこそこユーモラスに、丁寧に描いてらっしゃる。こういうの、嫌いじゃないですよ。嫌いじゃないけど……。」
「微妙、だよねえ……。何というか、試しに、ストレートに自分を、自罰的でなしに書いてみようと思ったんだけど、なんだか照れくさくって……。」
 頭をかく春希に、小春は思わず苦笑した。
「そうですか、照れますか。――まあ、結局案外自罰的になってますけどね。どうしても主人公を――ご自分を滑稽なダメ男として描かずにはいられないようで。仕事ができるし、女性にももてるし、シングルファーザーとしてがんばってるけど、でもやっぱりダメ男……。その辺のバランスが結構絶妙に書けてる、とほめて差し上げてもいいんですけど、まだまだ照れが残ってる、とクサしたい気分もありますね……。」
「――どこが、悪いんだろう?」
 春希は率直に問うた。
「――悪い、といいますか……この「照れ」は欠点であると同時に魅力にもなりえますから、一概に「悪い」とは言い切れないんですよ。――まずそもそも主人公が「ダメ男」である、ということ。これは、自覚的な、意図されてのものですよね?」
「うん。」
「――でも、ご自分を、本当に「ダメ男」だと思ってらっしゃいますか?」
「――うん。」
「――そうですか? むしろ先輩は心のどこかで、ご自分のことを「ダメ男」を通り越して、悪い男、邪悪な男だ、って、思ってらっしゃらないですか?」
「――!」
 ぴたりと言い当てられて春希は、思わずどきっとした。
「――やっぱりね。で、そう考えますとね、そういう先輩の邪悪さは、やっぱり前に書かれた二本――かずささんの話と、特に雪菜さんの話、あっちの方がよく書けてるんですよ。ただ単にダメなだけではなくて、邪悪な、恐ろしいものが、ね。」
 にこにこと容赦ない小春に、春希は感嘆を覚えた。
「そう、か――。」
「今回のお話は、ハッピーエンド、とは言い切れないけれど、何というかな、現実を反映して、未来に希望が残された、どっちかっていうと心温まる結末になってるじゃないですか。ですから、主人公も単なる、うじうじしてるけど心根のよい、やさしいダメ男になってるわけです。性根にゆがんだ邪悪さがあったら、こんな風な結末にはなりにくい……。でも、難しいけど、それができていたら、もっと面白い、って思うんです。そういう、ぞっとするような醜さ、邪悪さをどうしても克服しきれない男なんだけど、そんな彼にもやっぱり、救いは訪れる――そんな希望が描かれていたら、「ちょっといい話」を超えて、ほんとに感動する話になるんじゃないかな、とか。」
「……。」
 春希は上を向いてため息をついた。それを見て小春は、ちょっとあわてたように、
「――お気を悪く、されましたか……? 不躾すぎたとしたら、謝ります。」
「いえ、全然構わないよ。率直にズバズバ言ってもらえるのは、ほんとにありがたいから……。」
 春希は再び頭をかいた。
「ダメ男というより、悪人、か……。その通り、かもしれない。結局おれは小心者で、悪人にはなれなかった。その意味で、ダメ男っていうのは、偽らざる自画像のつもりなんだ。でも、たしかにおれには理想の自己像みたいなものが心の奥底にあって、それは一種の悪人というか、何もかもぶち壊して、破滅してでも自分の欲望を貫く――そんな生き方へのあこがれのようなものは、あったかもしれない。」
「――無礼なことを、うかがっても、よろしいですか?」
 小春が、遠慮がちに、聞いた。
「何だい?」
「――かずささんと再会されたとき、心が、動きませんでしたか?」
「――動いた、なんてもんじゃないよ。一歩間違えれば、どうなっていたかわからない。何もかも、それこそ、雪菜も、仕事も、日本も、何もかも捨てて、かずさと一緒に地獄に落ちていたかもしれない。――結局は、そうはならなかったけどね。悪人にはなれないダメ男で、雪菜にだらしなくすがりついて、救ってもらったけど。」
 何を思ったか、小春は、こよなくやさしい笑みを浮かべた。
「――それで、今回は、かずささんに、救われたんですか?」
「……うん、そうだ――そうだよ。かずさが、俺を、救ってくれたんだ。」
「――でも、先輩、かずささんに、すがりつきましたか? 甘えましたか?」
「――ん?」
「先輩、今回は、じっと黙って、痩せ我慢してたんじゃ、ないんですか?」
「――それは……ね。体にも心にも、たくさん脂肪がついた、中年男だから。――そういうとちょっと変――子供たちに悪いな。守らなきゃいけないものがある大人だから。自分の魂の救いより、家族や、仕事の方が大切な、俗物だから。……ますます、悪人からは程遠いよね。でも、そんな風に俗物だったから、我慢してたし、我慢できたよ。――そうしてたらあいつの方から、にっこりと手を差し伸べてくれたんだ……。」
「――はいはい、ごちそうさまです……。つまりはあれだ、先輩は、つまんない男になっちゃった、ってことですね。それとも、最初から、そうだったのかな。」
「うん、だから、ダメ男だって言ってるじゃないか。」
「いえ、「ダメ男」と「つまんない男」は、似てるようでちょっと違うんですよ、私に言わせれば。――「ダメ男」っていうのは、隙があって、そこが愛すべきところ、チャームポイントなんです。でも、「つまんない男」ってのは、違います。隙がなくて、非の打ちどころがない。だから魅力もない。「あたしがいて守ってあげなければ」って女に思わせない。それが「つまんない男」です。つまり先輩は、自分では、ダメ男という現実と、悪人という理想の間で引き裂かれてるつもりなんだけど、むしろ、つまんない男という現実と、悪人という理想の間で引き裂かれてるんですよ。」
「――なんだか、ややこしいな。わかるような、わからないような……。でも、そういえば俺、雪菜に「ずるくて汚くて卑怯な人」って言われてた、らしいんだよなあ。かずさが言ってた。」
「ええっ、そうなんですか? ――だとしたら、ますます納得がいきますよ。先輩、自分で思ってらっしゃるよりも、案外、本当に、悪人だったんですよ。雪菜さんも、そこんとこ、きっちりわかってらしたんですよ。先輩はダメ男として、欠けてるところ、隙を愛されたんじゃないんです。普段はつまんない男なんだけど、時々すっごい邪悪で、そういう過剰さが愛されたんです。――それとも、雪菜さんも、かずささんも、先輩を好きになる女の人っていうのは、ひねくれてて、隙のない、つまらなさが逆に最大の欠点、隙に見えちゃって、そこに惚れこんじゃうのかな? ――ああんしまった、こんなこと言ったら、墓穴掘っちゃう!」
 小春は頭を抱えた。しかし春希の方は、少しばかり頭の霧が晴れた思いであった。
「ありがとう、杉浦さん。――ちょっとばかり、次の展望が見えてきたよ。」
 快活に礼を言う春希を、小春はやや戸惑った顔で見上げて、息をのんだ。

 ――やばい。惚れ直しそうだ。イイ顔しやがって、こいつ、何を思いついたんだろう? 女の敵め……。

(続く)



[31326] 訓練(後篇)【WHITE ALBUM2雪菜trueアフター「雪菜のいない日々」】
Name: RCL/i8QS0◆fe1ad663 ID:129b0297
Date: 2013/05/06 10:55
(承前)

「……。」
 かずさが緩やかに寝息を立て始めたことを確認すると、春希はそうっと床を離れ、音をたてないように着替えを済ませて、寝室を出た。そしてそのまま地下へ、スタジオへと向かった。
 念のため、今夜もブースに入ろうかとも思ったが、スタインウェイの上に散らばる楽譜やメモにかずさの苦闘の跡が見て取れて、何となくためらわれた。
「まあ、いいか……ギターの方を消音モードにすれば、済む話だし……普通の防音ならここでも十分だからな……。」
 そうひとりごつと春希は、念のためにスタジオの外扉をきちんと閉め、調整室の隅に立てかけてあった電子ギターをとりあげた。そしてギターをサイレントに設定したうえでヘッドホンを付け、ちょいちょい、と音量、トーンをチューニングした。
「これで……よし、っと。」
 デスクの上から楽譜を探し当てて譜面台に立て、自分もパイプいすに座り込む。そして大きく息をついた。
「まずは、いつも通り、ひとりでおさらい、か……。」
 譜面台の「春の雪」のスコアをきっとにらんで、春希は練習を開始した。

 どれくらい弾いていただろうか。通して弾いては、また気になるところ、難所に戻って反復練習、を延々と続けていると、いきなりうしろから
「こらっ!」
と大声とともに抱きついてきたのは、もちろんかずさだった。
「う、うわああっ! な、なんだよ、どうしたんだ!」
 集中していた上にヘッドホンをかぶっていたので、かずさの接近に全く気付いていなかった春希は、そのあたたかさと柔らかさにすぐかずさだと気付いたが、それでも心臓が止まるかと思うほど驚いた。
「どうしたもこうしたもない! 今何時だと思ってるんだよ! 明日も早起きしなきゃなんないんだろ、さっさとやすめ!」
 ぎゅっと春希の肩にしがみついたまま、かずさは毒づいた。
「練習しろ、とは言ったけどさ……ほどほどにな? 子どもたちが、いるんだぞ?」
「あ、ああ……。すまんな。まさかおまえに、お説教されるようになるとは……。」
 春希は苦笑いして、ギターを置いた。そしてヘッドホンを外すと、かずさを振り仰いで口づけた。
「……おまえ、あせってるのか?」
と口づけの後にかずさはたずねてきた。
「わかる、か?」
「……ん――まあ、な。」
「あせる、っていうか……あてられたっていうか……俺も頑張んなきゃ、と思っちまったよ……。」
 かずさを抱きしめ返しながら、春希はつぶやいた。

 その日春希が帰宅すると、かずさと子どもたち、そして曜子は皆で夕餉の卓を囲んでいるところだった。献立はまさしく朝の予告通りの鍋。おそらくは湯豆腐かしゃぶしゃぶか、と思ったが、意表をついて豚バラと白菜の重ね鍋、とひとひねりしたものだった。たしかにこれなら簡単で、その割に格好もつく。果たしてかずさはそのアイディアをどこから持ってきたのか、気になった春希がたずねようとしたら、その機先を制するようにかずさが言った。
「ちょうどよかった! いいところに帰ってきてくれたな。――今日、ついさっき、柳原さんのテイクが上がってきたんだ……せっかくだし、みんなで聴こうと思ってたところなんだ。子どもたちも、聞きたいってさ。」
「ああっ!」
 ――自分でも意外なほどの衝撃を、春希は受けていた。

 春の「復活」コンサートを収録したBDは、突貫工事で、しかし入念な編集を経て初秋に発売され、まずまずの好評を博した。現在収録中のアルバムも、その余韻が冷めやらぬうちに出したいところだったが、ネックとなるのが結局、ボーナストラックの「春の雪」だった。
 かずさと春希がそのように言えば、ナイツとしてもそのまま、自ら志願してきた柳原朋のボーカルを通していただろう。しかしながらその肝心の朋が、何を思ったのか、コネ採用? を潔しとせず、ナイツが見込んだ他の候補ともども、オーディションを受けることを望んだのである。

「柳原さん、あなたにお願いしたところで、別にこれはアンフェアなことでもないし、ボーカルを軽視してるわけでもないんだよ?」
 北原夫妻とナイツレコードの澤口に対して、あくまで「春の雪」ボーカリストのオーディションを希望する朋に、春希は言った。
「「春の雪」は言ってみれば、遅ればせの、雪菜への哀歌だ。そして「時の魔法」同様、「峰城大学付属軽音楽同好会」作品でもあるんだ。だからこそ、作詞者とはいえプロでもない俺が、今回もギターを弾く(ことになるんだよなあ本当は誰かに代ってほしいけど)わけだし、だから雪菜の親友だったあなたに歌っていただきたい、という希望は、こちらとしては当然のものなんだ。」
 それに一時はあなたも軽音のメンバーだったし、とは、話がややこしくなっても困るので言わないことにした。
 しかし朋は真剣な顔で首を振った。
「だからって、いや、だからこそ、SETSUNAのファンをがっくりさせるような真似は、私にはできません。これまでのみなさんのトリオが達成してきたクォリティーを落とすようなことは、絶対にしたくないんです。」
(朋ってば、こうなると梃子でも動かない、頑固者だからね……。)
 かずさの脳裏で、雪菜が苦笑いした。
「歌いたくないわけじゃあありませんよ。ううん、そうじゃなくて、世界中で私以上に、この歌を歌いたいって熱望している人間がいるはずはありません。でも、「したい」ってことと、「できる」ってことは違います。「できた」ところで、「うまくできる」かどうかは、また別の問題です。」
 朋は続けた。
「雪菜のための歌だからこそ、きちんとした、クォリティーの高いものに、仕上げていただきたいんです。SETSUNAファンの勝手な気持ちとしては、そうでなければ、出していただきたくありません。だから、厳しい目で、耳で、この歌にふさわしいボーカルを選んでいただきたいんです。その結果私が選ばれるというなら、喜んで歌わせていただきます。」
 そして朋は三人に向けて頭を下げた。
「最初はこちらの方からお願いしておいて、わざわざハードルを、それもそちらの負担で設けていただきたい、なんて非常識な申し出であることは重々承知しています! それでも、どうかお願いします!」
 春希とかずさは顔を見合わせ、澤口女史は一息ついて天を仰いだ。しばしの沈黙ののち、かずさは口を開いた。
「――まったく、雪菜の言うとおり、頑固なんだから……でもそんな頑固でわがままなあなたに、結局は雪菜も、あたしたちも導いてもらったんだよね……。わかりました、ご希望に沿いましょう。いいですよね、澤口さん?」
「――あ、はい。もちろんです。こちらとしても候補者のリストは、すぐ作れますから。選考に正味1か月、ってところですが、よろしいですか? 柳原さんには改めて、事務所を通してお知らせいたします。現在の所属事務所は――××エージェンシー、でよろしいですね?」
「はい、よく御存じで……お願いしますね!」
 朋は満面の笑みで応じた。
「大見得切った以上、期待して……よろしいんですね?」
 かずさが意地悪な笑みを返した。
「それはもう。」
 動じることなくにこやかに朋は切り返した。

 かずさはスマートフォンとしばし格闘した挙句、何とかリビングのコンポにファイルを転送できたようだった。春希が食卓につくとほぼ同時に、かずさのピアノによるイントロが流れ出した。
 ――まだギターが入っていない、ピアノ一本のカラオケ音源で、今回の「春の雪」ボーカルオーディションは行われ、中堅の実力派ポップシンガーから人気アイドルグループのメンバー、はては新進声優まで幅広い人材がエントリーしてきた。しかしその厳しい競争を予定調和のようにあっさりと朋は勝ち抜いた。そしてナイツのスタッフともども、とりあえず1週間をかけて、今日ここに届いた「仮歌」を仕上げてきた。
 朋が勝ち抜くであろうことは、春希にも予想はついていた。おそらく朋こそは、SETSUNAの一番のファンであり、ひょっとしたら春希以上に雪菜の歌を愛し、骨肉化していた人物なのだから、そしてそのプライドにふさわしく、人一倍の努力家であるのだから、多少の音楽的力量の壁くらい、吹き飛ばしてくるだろう、と春希は考えていた。
 ――しかし流れてきた歌は、その春希の予想を更に裏切るものであった。
(……これ――誰だ?)
 聞いたこともない、澄んだ透明感と、それでいて深い哀調を湛えた女声が、スピーカーから流れてくる。ぎょっとしてかずさを見ると、「ドヤ顔」というやつか、何となく得意げな、いたずらっぽい笑みを返してきた。

「すっかり――やられたよ。度肝を抜かれた。うまい――前に聞いた時より、格段にうまくなっている――ちゃんとしたボーカリストになっているだけじゃない。何より雪菜と全然違う。あんなに――きれいで、しかも深くて、悲しい歌を歌えるなんて……。」
 すがりついてくるかずさの頭を撫で、髪に顔をうずめながら、春希はつぶやいた。春希の胸に顔をうずめたかずさは、もごもごと、
「男子三日会わざれば、括目して見よ、だっけか……? 女子こそだよ。」
と言って笑った。
「いったいどれだけの努力をしてきたんだか、と思ってな。」
「言ったろう? あの人はいいかっこしいのわがままなんだ、って。自分の想いを通すためだったら何でもやるって。――あたしの、お手本なんだよ……。」
「――うん……俺にも少し、わかってきたよ……。だからさ、なんだかいてもたってもいられなくなって……。」
 ふふん、とかずさは鼻で笑うと、
「三日会わざれば、と言えばさ、晩飯は、どうだった?」
と聞き返してきた。
「あ、ああ……うまかったよ。お手軽で、でもおいしくできる……うまい献立を見つけてきたな。」
と春希がほめると、しかしかずさは不機嫌に
「それだけか?」
と聞き返してぎゅっとすがりついてきた。春希はやや困惑して、何を言ったものか少し考え込んだ。そして、
「少しずつ、考えて、工夫して、できることを増やしていってるんだな。」
と言って頭を撫でた。するとかずさは
「――子ども扱いするな! ……その通りだけどさ。」
と拗ねるように言った。そして春希の腕を振りほどいて立ち上がり、
「ボーカルがしっかり仕上がったんだ。もういい加減待ってられない。いいな、おまえにはこっちから〆切を作ってやる。いつもおまえは〆切切る方なんだから、たまには切られる気分を味わえ。――いいか、来週中にはきっぱり仕上げろ。それ以上は待たない。もうそこで「春の雪」の録りに入るからな。」
と仁王立ちで宣告した。

「ただし、夜はちゃんと寝ろ。」



[31326] 本家の噂【WHITE ALBUM2雪菜trueアフター「雪菜のいない日々」】
Name: RCL/i8QS0◆17a7a866 ID:26038740
Date: 2013/06/12 17:32
 冬馬オフィスでの打ち合わせからの帰路、少しばかり時間が空いたので、かずさはふと思い立って、雪菜の墓に立ち寄ることにした。
 朋の仮歌のおかげで楽曲のイメージが安定したのか、春希のギターはこの1週間で順調な仕上がりを見せた。そこで年内には三人をちゃんとスタジオに集めて、2日ほどで一気に仕上げるスケジュール調整を行った。同時に、ことここに至れば、そろそろアルバムのリリースの時期も正式にアナウンスせねばならない。「春の雪」以外はおおむね仕上がっているので、急げば年明けにもリリース可能ではあるが、CDの生産ラインの確保という問題もある――かつてのCDは今日び2020年代にはどんどん存在感が薄れつつあるが、それでもまだ現役であるし、マニアのための高品質音源を載せたDVD、BDも、音声のみのものはつい「CD」と人々は呼んでしまうのだ――し、他のタイトルとの兼ね合いもあるので、リリース時期は慎重に検討しなければならない。
 かずさはいまだにこの手の話が苦手で、基本的には工藤美代子とナイツの澤口にまかせてしまうのだが、それでも曜子の調子が必ずしもよくない今は、話だけはちゃんと聞き、結論だけは自分が出すように心がけていた。そして
「2月、14日、ね……。」
 それはもちろん、バレンタインという意味ではない。雪菜の誕生日を記念する意味で、かずさはこの日を選ぶことにした。
「春希は、何というかな?」
 さっそく電話で知らせてもよいのだが、あわてることではない。それよりも、雪菜に一言、言っておくのもいいかもしれない。――そう思って、かずさは久しぶりに、ひとりで雪菜の墓参りとしゃれ込んだ。

 ――花束を手に雪菜の――北原家の墓の前まで来てみると、先客がいたので、かずさはなんだか既視感に襲われた。
「……あれ?」
 小柄な婦人はこちらに気付くと、微笑んで会釈した。
「お久しぶりですね、かずささん……今日は、おひとり? 春希は、一緒じゃないの?」
 春希の実母だった。

 かずさはいまだに、この女性が少しばかり苦手だった――とはいっても、人付き合い全般が苦手な彼女のこと、大抵の人間が「苦手」な部類に入るので、実際はそう大した問題ではなかったのだが。ただ、せっかく雪菜が修復してくれた彼女と春希との仲をうっかり揺るがすのが嫌で、何となく距離を置いてきたことは確かである――。
(そういう距離の置き方が、本当はよくないんだけどね? ――こわがらないで。普通の人だから。っていうか、春希君のお母さんなんだよ?)
 脳裏で雪菜が叱咤してくれるが、それでもかずさの頭の中には、かつて高校時代、出会って間もない春希から、成り行きで打ち明け話をされてしまった記憶がちょっとした重荷として居座っている。
(かずさに対してどうしたらいいのかよくわからないのは、お義母さんもいっしょなんだよ? 人付き合いが下手なのは、お互い様――。)
(だから、困ってるんだろ?)
 ――それでもまあ、ビビりながらもつい「せっかくですから、お茶でも――」と誘ったのはかずさの方であるのだから、その成長を認めてやるべきなのだろう。……たとえ、向こうから誘われたときに断れずにいたたまれなくなることを回避するためだったとしても。
 しかしながら、近くのホテルのロビーのティールームに落ち着いた二人は、何となくぎごちなく、お互いどう会話の穂を継いだものか、互いに困り果てていた。
「――冬馬先生の、お加減は、いかがですか……?」
 おずおずと、春希の母が切り出した。
「え、あ、はい、おかげさまで、最近はまずまずです……。」
 当たり障りのない話――つまりは曜子や子どもたちの話で何とか切り抜けよう、とそれぞれが方針を固めたその時、
 ――!
 「時の魔法」のメロディーが流れた。ぎょっとしてかずさが周囲を見回すと、バツの悪そうな表情で春希の母が
「失礼……私です――。」
とバッグから携帯を取り出し、画面を一瞥してふと顔をしかめると、通話ボタンを押した。
「――はい。申し訳ありませんが、いま、お客様とお話をしているところで――ええ、大切なお客様なの。というより、家族です。それに、その件につきましては、既にこちらの意向はお伝えしているはずです――。いいですか、くれぐれも、あの子に直接コンタクトはなさらないでくださいよ。――今更虫のよすぎる話は、なさらないでください。……はい、どうしてもということでしたら、後程、夜にでもまたお電話ください。――こちらの意向は、変わりませんが。はい、失礼いたします。」
 硬い表情で、冷淡な切り口上で電話を終えると、春希の母は再びかずさの方に向き直り、すまなそうに一礼した。
「お見苦しいところをお見せしました――申し訳ありません。」
 かずさはあわてて、
「――い、いえ、お気になさらないでください――みっともない家庭の事情を抱えているのは、お互い様ですから――!」
とうっかり口走ってしまって、頭を抱えた。と、春希の母の表情がふっとゆるんで、柔らかい笑みが浮かんだ。
「――いいえ、これはむしろ、いい機会でしたわ……本当、天の配剤とでもいうべきかしら? ほんの思わぬ偶然で、あなたとお会いしているときに、この電話がかかってくるなんて。ご迷惑をかけないうちに、身内の恥は晒しておけ、と神様がおっしゃってるのかも。」
 急に晴れ晴れと話す春希の母に、かずさもふと緊張が解けて、
「よろしければ、お差し支えない範囲で、お聞かせ願えますか? 「あの子」って、春希……さん、のことですよね――もしかして、岡山の――?」
とたずねた。春希の母はかぶりを振った。

「北原の家のこと、どこまで春希からお聞きになっていらっしゃいます? ――この件、雪菜さんには、ご健在の頃にだいたいお話したんですが、かずささんにはまだ、何も申し上げてませんでしたね?」
「ええ、私もそんなに詳しくは。ただ春希……さんから、会って間もないころに、大雑把な話は聞いてます――岡山の「北原」って、たしかバイオ関連の会社ですよね?」
「ええ、地元ではまあ、ずいぶん偉そうにしていますよ――たしかに岡山を代表するグローバル企業、ですから……。でも、ご存じかしら、数年前に大やけどしましてね――倒産ギリギリのところにまで追い込まれて、ずいぶん不動産を処分しました。絵に描いたような同族経営の不透明性を銀行にあれこれ指摘されて、北原家の人間も、危うく背任で摘発されるところでした。何とかしのいだそうですけど、北原家の社内での存在感もずいぶん落ちてしまったようです。以前はオーナー経営者でしたけど、今は単なる筆頭株主でしかなくて、銀行や取引先に首根っこを押さえられています。」
 春希の母はおかしそうに笑った。かずさは、こういう時はどういう顔をすればいいのか、さっぱりわからず、あはは、と力なく追従笑いをした。
「それは、また、大変でしょう……。」
「いえいえ、」
と春希の母は手を振った。
「もう、春希の養育費をもらう期間も、とっくに過ぎていますし、何よりもらうものは全部現金にしてもらっていたことが幸いしましたわ。株式の形なんかでもらったりしていたら、今頃どんなことになっていたか……。」
「ずいぶん、下がったんですか?」
「らしいですけど、それより面倒なのは、株主として、経営に無理やり絡まされる羽目になることです。春希は男の子ですから、下手に縁を残しておいたら、この先どんな面倒事を持ち込まれるかしれない。そう思って一切、後腐れないように現金でもらっていたんです。正解でしたわ。そうしておいてこのありさまなら、もしちょっとでも株式をもらっていたりしたら、今頃どうなっていたか……。」
「このありさま、とおっしゃいますと?」
 われながら間抜けな問いだ、と思いつつもかずさは聞いた。春希の母は薄く笑って、
「ありていに言いますとね、北原の家では、春希に戻ってきてもらいたい、北原家、創業家一族の一員として、経営陣にはいってほしい、とそういうことなんですよ。何だか雲行きが怪しくなってきた数年前から、それとなく匂わせてはきたんですが……この1年ほど、そう、かずささんが春希と再婚してくださった頃から、急に露骨になってきましたわ。」
 いきなりの生臭い話に、かずさは軽くめまいを覚えた。――母さんなら、ケラケラ笑って根掘り葉掘り聞きだそうとするだろうが、あいにくあたしは世間知らずの上にデリケートなんだ、勘弁してくれ……と言いたいところだったが、文句をぶつけるべき相手は眼の前の春希の母ではなく、岡山の北原家であるだけに、ストレスがたまった。
(一番ストレスなのはお義母さんなんだよ、わかってるよね?)
 雪菜の声のおかげで、どうにか気力を保ちつつかずさは聞いた。
「……露骨に――と言いますと、春希に何か?」
「いえいえ、」
と春希の母はかぶりを振った。
「もちろん、本当のところは、春希に聞いてみないとわかりませんわ。それでも、もし本家に……というより春希の父親に、恥というものが残っているのであれば、それはないはずです。別れるときに私は、あの人に誓わせましたから。養育費の件を別にすれば、今後あの子の人生に対して、北原が干渉をしてくることはない、と。誓いを立てた相手は私です。ですから、もし仮に北原の家があの子に対して何らかの形でかかわりを持とうとするならば、つまりはその誓いに触れるような何事かをしようとするならば、必ず事前に、私に相談があるはずです。そして私の知る限り、少なくとも今のところは、あの人はその誓いを守っているようです――。」
「とすると、先ほどの電話は、春希……さんのお父様からの……?」
「いいえ。その代理人です。先方の顧問弁護士ですわ。」
 春希の母はさびしげに笑った。
「たぶん、あの人には、まだ恥というものが残っているんです。だからこそ、自ら私に、ストレートに頼んでくることはできない。弁護士を介して、いかにもビジネス提案であるかのように、遠回しに、しかも依頼という形をとるのではなく、あくまでも春希の「ご機嫌伺い」として、回りくどく攻めてきてるんです。――それでも、あの人たちのやっていることが、身勝手な横車であることに違いはない……他ならぬあの人自身が、そんな横車に傷つけられた当人だというのに……。」
 かずさはふと考え込んだ。
「お義母さん――さっき、「この1年ほど」とおっしゃいましたよね? 春希……さんと私が結婚してから、と。何かそこに、意味があるんでしょうか?」
 かずさの問いに、春希の母の表情が、心なしかくもった。
「――いえ、私の取り越し苦労みたいなものですから、お気になさらないでください……。」
「気にしているわけではありません。北原本家が何を言って来ようと、春希も、私も、母も、ダメなことはダメだ、とはっきり言いますから。気にするとしたら、お義母さんに何か私たちのせいでご迷惑が掛かっていないか、です。――どういうことなんでしょうか?」
 かずさとしては勇気を奮った、断乎たる発言だった。それを察してかどうかはわからないが、春希の母はしばし黙したのち、口を開いた。
「――北原は、メセナ活動にずっと力を入れてきた会社です。クラシックについても、岡山や関西で継続的に冠コンサートを続けてきました。冬馬曜子先生にも、おいでいただいたことがあったかと思いますよ。これについては、北原本家の意向が強くはたらいていたかと思います……。経営危機に際しては当然のことながら、真っ先にリストラ対象としてやり玉に挙がりましたが、それは単に金食い虫の不採算部門というだけではなく、本家の乱脈経営の言わば象徴扱いを受けたわけです。そこへもってきて、降ってわいたように北原本家と世界的ピアニスト一家との間に、姻戚関係ができた、と……。利用できるものなら利用したい、という雰囲気を、このところの弁護士さんからのお電話には感じますね。――不愉快なお話で、申し訳ありません。」
 話し終わって一息つき、小さな頭を下げる春希の母の姿に、かずさは天を振り仰いで嘆息した。
 ――ああ、この人は……。
 かずさはしばし目を閉じ、黙り込んで、脳裏の雪菜と少し言葉を交わした。それから目を開けると一息つき、残っていた冷めたコーヒーをぐいっと飲み干してから、切り出した。
「――お義母さん。お義母さんのおかげで、春希も私たちも、北原の本家や会社から、何の迷惑もこうむってはいません。私たちはその件についてまったく関知してませんから、何の不愉快な思いもしてはいません。春希のために、私たちのためにいろいろご苦労をいただいて、本当に、ありがたく思います。――でも、お義母さん。やっぱり、それを、春希に言わないのは、よくない、と思いますよ? 
 ね、お義母さん。もちろん雪菜は、2年前に亡くなっていますから、この、最近の動きなんかはもちろん全く知らないわけですよね? それでは、ここ数年の動きは――北原の会社が怪しくなってきたあたりに関しては、どうでしたか?」
 春希の母はふ、と息を呑んだ。
「そういえば、一度だけ、お電話で一言二言、「最近岡山からは、何か?」とおっしゃってたことがありましたわ。勘の良いかただ、と思いましたが、その時は、ごまかしてしまいました……。」
「――そうですか。まあ、その辺はどうでもいいことかもしれません。大事なことは、むしろ、こっちです。今のお話をもし雪菜が聞いたら、雪菜はお義母さんに、何というと思います?」
「……。」
 いつしかかずさは、微笑んでいた。
「雪菜の奴ならきっと、お義母さんに「ありがとうございます」って言って、それから「でもお義母さん、やっぱり秘密はよくないですよ」って、言うと思うんです。お義母さんは、春希のために、あたしたちのために、秘密にして、我慢していらっしゃる。でもそうやって秘密にしていらしたら、お義母さんが私たちのために頑張ってる、春希を大事に思っていることが、春希に、あたしたちに、伝わらないんです。――そうしたらお義母さんも、きっと疲れて、だんだん辛くなってきますよ。そしてそんなお義母さんに、春希の奴、気を使うからこそ余計に踏み込めずに、なおさら距離を置いて……。」
「……。」
 春希の母は、うつむいて黙っていた。かずさは続けた。
「――もし、お嫌でなければ、今日うかがったこと、簡単に春希に伝えておきます。でも、ダメだ、というなら、黙っておきます。」
「黙っていて、くださるんですか?」
 春希の母ははっと顔を上げて、反問した。かずさは微笑んで答えた。
「だって、今日こんな話を私にしてくださるんですから、いずれは何らかの形で、ちゃんと春希にも教えてくださるつもりなんでしょう? これまでは踏ん切りがつかなかったけど、今日のことがいいきっかけになった、って。……実際もうそろそろ、お一人で抱え込むのが、しんどくなってきていたんでしょう?」
 春希の母は再び嘆息すると、
「――ああ、雪菜さんといい、かずささんといい、どうしてあの子は、こんなに素晴らしい方とばかり出会えたのかしら……本当に、ありがとうございます。」
と頭を下げた。
「お義母さん、やめてください。全部、雪菜のおかげですよ。」


================
「北原」と「林原」の類似性は気のせいです。



[31326] 再会(前篇)【WHITE ALBUM2雪菜trueアフター「雪菜のいない日々」】
Name: RCL/i8QS0◆2e426366 ID:9766d1b6
Date: 2016/01/23 21:37
 峰城大学の正門前で、北原春希は、大きく深呼吸した。

 定期的に附属病院に検査入院する義母曜子の付き添いや見舞いはもちろん、教員への取材や執筆依頼、打ち合わせなどで、母校への訪問は春希にとって日常的なことであった。しかし、今日は少しばかりわけが違った。

 商学部棟4階の教員ラウンジ入口で、にこやかに現れた学部秘書に、春希はやや緊張した面持ちで告げた。
「いつもお世話になっております。わたくし開桜社の北原と申しますが、友近先生にお取次ぎをお願いいたします――。」
「開桜社の北原、さまですね? 失礼ですが、友近先生とのお約束はおありですか?」
「――はい、メールで本日午後二時に、ということでアポイントメントをいただいております。」
「わかりました。いまお呼び出しいたします――。」
と秘書は電話をとりあげてボタンをプッシュした。
「友近先生? 学部秘書室の和田です――。いま、ラウンジに、開桜社の北原さまとおっしゃる方がお見えになってますが、どうしましょう? ――はい、はい、わかりました。では、先生の研究室に直接ご案内差し上げればよろしいですね。――はい、失礼します。」
 電話機を置いて秘書はにっこりとほほ笑み、
「それでは、友近先生が「個人研究室にお通ししてください」とのことでしたので、ご案内いたします。このラウンジを出られまして、左へまっすぐ行かれてすぐ、右側、5403号室となります。扉に先生のお名前がありますから、すぐお分かりになると思います。――なんでしたら、わたくし、お連れしましょうか?」
「い、いえ、結構です。私も峰城出身ですから、わかります。お忙しいところを、ありがとうございました。」
 秘書に深々と頭を下げて、春希はラウンジを後にした。

 目指す友近の個人研究室は、秘書が教えてくれた通りラウンジからほど近いところにあった。半透明の擦りガラスとオーク材を組み合わせた当世風のドアには小さく「専任講師 友近浩樹」と記されたネームプレートがあった。春希はその前でもう一度深呼吸してから、ドアをノックした。
「どうぞ! 空いてますよ!」
 明るく、力強い声に、意を決して春希はドアを押し開けた。
 ほどほどに乱雑で、ほどほどに片付いた部屋の奥の大きなデスクの向こう側から、ボタンダウンのシャツの男が立ち上がって右手を差し伸べてきた。
 ――十数年ぶりの、再会だった。

「雪菜さんのことは、残念だったな。あの時は、俺も同期から知らせてもらったんだが、あいにく滞米中だったもので……。」
「いや、いいんだ。弔電、いただいたこと、覚えてる。ありがとう。」
「――それと、再婚――ご結婚、おめでとう。すごい人を嫁さんにしたもんだな。――雪菜さんとも、親友だったんだって彼女? 噂はちょこちょこ聞いてるんだが、あいにく外部生だった俺は、君たちの高校時代のことは知らないもんでな……。」
 大学時代の確執のことなどなかったかのように、にこやかにしゃべる友近を前に、春希はひどく緊張していた。仕立ての良いシャツの両袖をアームバンドで留め、アスコットタイをまいたその少壮学者は、まぎれもなくあの友近浩樹だったが、何というか、印象は一変していた。と、そこへ友近は身を乗り出してきた。
「で、今日の用件だが――メールでも概略は知らせていただいたが――これは取材とか執筆依頼とかいうわけでは、ないんだな?」
「あ、ああ……ひょっとしたらそういうことにならないとも限らないが、今のところはまだそこまで具体的な話じゃない――つまりは、日本のバイオテクノロジー産業、企業についての、経済学的、経営学的研究について、教えてほしい、ってことだ。どんな研究者が、どんな本や論文を書いているのか、学界の到達水準ってのはどの辺なのか――とかな。」
 緊張を抑えつつゆっくり話す春希に、友近は何を思ったかにやりと笑った。
「――らしくないな。」
「――何が?」
 反問した春希に、友近はにやにやしながら切り込んだ。
「雪菜さんや、冬馬かずささんとのこと以外にも、少しはおまえの噂は聞いてる。まだ若いのに、開桜社きってのやり手ってことじゃないか。編集者としてだけじゃなく、記者としてもなかなかのもんだって、出版界じゃ大した顔だそうじゃないか……おまけにアマチュアミュージシャンとしても鳴らしてるってんだから、な。――まあそれはさておき、そういう噂の敏腕編集者さんが、俺のような駆け出しの経営学者風情のところに、そんな曖昧模糊とした話をしに来る、なんていうのが、ちと腑に落ちなくてな……。」
 図星をつかれて春希は軽く息を呑んだ。友近は続けた。
「これがお前、うちの学生だったら、「そんなのまず、図書館に行って自分で調べてこい! そのうえで、本に書いてないこと、先行研究にないことで、自分の知りたいこと、わかりたいことがあったら、それからおれんところへ来い」とどやしつけてるところだ。まあ実際、そういうダメな編集者もいないわけじゃないがな。で、駆け出し風情で生意気な口を叩くようだが、ダメ学生を教育する義務はあっても、ダメ編集者にはそういう義理はないから、とっととお引き取りいただく。
 メールや今の話から伺う限りでは、おまえは典型的なダメ編集者だ。でも、それだと理屈に合わないんだよ。おまえが噂通りの敏腕編集者だっていうのなら、具体的なテーマや、その想定される書き手について、きちんとしたビジョンも持たずに学者に話を聞きに来る、なんてことはちょっと想像しづらい……。」
 そこまでまくしたてて友近はふっ、とさびしそうな顔をして、
「まあ、仕事の話は口実で、実際は若造の頃、痴話げんかの果てに仲違いをしていやな別れ方をした古い友人と、ここは大人になってひとつ仲直りしよう、ということで来てくれたんなら、ありがたいんだが……。」
とこぼした。
「――そんな……俺には、おまえに許してもらう権利なんか、ない……。」
 春希がうつむくと、友近はやや語気を強めて、
「じゃあ、一体全体何で、ここに来たんだ?」
とにらみつけ、それから微かにほほ笑んだ。
「それに大体、あの時、俺のことを絶対に許さない、っていったのは、おまえの方じゃないか……。俺に会いに来てくれたってことは、俺のことを許してくれる、ってことじゃないのか?」

 母に会ってきたかずさの叱咤もあり、それまで見ないように、考えないようにしてきた北原の父とその家のことについて、真面目に考えてみなければならない――春希はそう思うようになった。もちろん、北原の家に戻ることなど問題外である。母の気持ちを汲むならば、とてもそんなことはできはしなかったし、自分としても今自分が守るべきは子どもたちとかずさ、そして二人の母であって、北原の家であるはずはなかった。
 だが、北原と正しく縁を切るためにも、今の北原がどのような存在であるのか、そしていったんはそこを逃げ出し、にもかかわらず舞い戻った父とは何者であるのか、も、きちんと理解しておかねばならないのではないか。それを経ずして、曜子の伝記など書くことはおぼつかないのではないか――根が生真面目な春希のこと、そんな風な思考にたどり着くのは仕方のないことだった。
 だがまあ、外から見る限りでは、北原という企業は、バイオテクノロジーの分野では日本屈指の大企業であるにもかかわらず、最近まで同族経営の非公開会社だったためもあってか、何とも正体のつかめない会社だった。非公開会社だから、有価証券報告書もない。だからその経営実態については、公けになっている資料が極めて少ない。税務調査などをもとにした岡山県のデータや、経済産業省など役所が散発的に行っているハイテク産業調査のデータが断片的にあるだけで、学術論文をあさっても北原本体についての本格的なケース分析はないし、経済雑誌などのジャーナリスティックな記事を探しても、お家騒動から乗っ取られかけて公開会社に移行する前の、北原家支配が盤石だった時代については、キャンペーンまがいの提灯記事や、その反対の根も葉もない?スキャンダル記事などろくなものがない。
 こうなると、素人の付け焼刃ではどうにもならない――ひと月かそこら、いつもの仕事(会社だけではなく小説、曜子の伝記も含めて)に加えて、公けになっている限りの北原の資料を読み込み、バイオ産業についてのにわか勉強にも注力した果てに、春希はそう結論した。専門家の力を借りなければ、と。
 もちろん北原の関係者ではない(そうなりたくはない)春希は、たとえば北原の社史の編纂を外部の歴史家や経営学者に委嘱するなどという立場にはないし、自らにも北原という企業を独自に研究する能力はない。かといって既存の信頼できる研究成果もない以上、誰か、しかるべき能力と見識を持った者に、北原の全貌を概略だけでも描いてもらえなければ、自分としてはどうしようもない。
 ――しかし、誰に? 
 実は「日本のバイオテクノロジー産業、企業についての、経済学的、経営学的研究」についての自分なりの見通しは、素人なりにではあれ春希も自力で既に作っていた。そしてその中で、意外な名前を発見したのである――よりによって母校の若手教員となっていた、「友近浩樹」の名を。

「正直、おまえの名前に出会った時はビックリしたよ。同姓同名の別人かとも思った。――俺の記憶では、おまえは、たしか××××に就職したはずだったからな。」
と春希は、とある外資系のコンサルティングファームの名を挙げた。
「よく覚えてるな、その通りだよ。とにかく、あの時は金が欲しかったからな……母さんのために。」
 友近はうなずいた。
「死ぬほどこき使われて、すり減らされるけど、金払いはいいからなあそこ。ちょうどあのころは、お前のおかげで母さんもすっかりよくなっていたから、そんなに介護に手を取られることはなかったけど、いつまた何があるかわからんし、それに何より老後のこともあるから、とにかく何が何でも金が欲しかった……。
 で、実際死ぬほど忙しかったけど、それでも、大学でおまえにどやされながら、医療費と学費のためにバイトと学業に精出してた頃のことを考えれば、ずっと楽だった。だから、がむしゃらに働いて、5年目には留学もさせてもらえた。せっかく会社のカネでまた学校に行かせてもらえるんだから、MBAなんてケチなこと言わず、博士号をとっちまえ、って死ぬ気でやった。幸い師匠にも恵まれて、リサーチ・アシスタントにしてもらって、4年目にはドクターをとれた。となれば、今更日本支社に戻る必要もない、場合によっては自分で起業でもして、どこまでやれるか試してみたい――と、そんな風に調子に乗ってたらさ。日本から知らせがあった。母さんがまた、倒れた、と。」
 そこで友近はふっとため息をつき、天井を見上げた。
「まあ、大したことはなかったんだけどさ、それでもしばらく入院する羽目になった。で、母さんは何にも言わないんだけどさ、やっぱり、側にいて、ついていてやりたくなったんだ。金さえあれば、何とでもなる、と思ってたし、実際それまで何とかしてきたわけだったけど、寂しそうだったしね。――だから、日本に戻ることにした。それも、日本支社に戻るんじゃなく、収入もぐっと下がるけど、時間の融通が利いて労働時間も短い、大学教員になることにね……。というわけで、学部は違うがこうして古巣の峰城に戻ってきた、ってわけだ。まあ、もうちょっと種銭があったら、自分で会社を作れてたかもしれないが……まあ、それはおいおい考えるさ。」
「――結婚は、まだ、なのか?」
 おずおずと聞いた春希に、友近は苦笑した。
「アメリカにガールフレンドを置いてきた。それ以来はフリーだ。まさか母さんを見てもらうために嫁さんをもらうわけにもいくまい?」
(続く)



[31326] 再会(後篇)【WHITE ALBUM2雪菜trueアフター「雪菜のいない日々」】
Name: RCL/i8QS0◆becead51 ID:d2ffa201
Date: 2014/01/01 21:54
「結論的に言わせてもらえば、馬鹿げてるよ。お母さんの、おまえに余計な心配をかけまいというやせ我慢を、俺は支持するね。」
 まだ日が高いというのに、地元末次の、しかし学生たちが寄り付かないようにと、開店前の古い会員制ショットバーへと春希を連れ込んだ友近博士は、バーテンの皮肉な笑みを意に介さず、ギムレットをぐいっと呷ってから断言した。
「今更、北原と関係を持つつもりなんか、ないんだろう? お母さんも、それを望んでおられる。冬馬家の方でも、北原にひょっとしたら少しくらいの義理はあるかもしれんが、それでも状況から判断するに無視してかまわん程度のものだろう。だとしたら、余計なことに首を突っ込むもんじゃない。人間、知らない方が幸せってこともある。古い親戚のゴタゴタなんぞ、こっちに火の粉がかからないうちは、知らんぷりを決め込むもんだ……泣いている子供でもいりゃ、また別だが――何より今のお前には、おせっかいをしてでも目を背けたいものが、あるわけじゃないんだろ?」
 ――どうして、十年以上も会っていないのに、この男はこうも図星をつくのか? それはもちろん、ずばぬけてできるやつではあったけれど、それはせいぜい自分と同じような意味での「キレ」であって、千晶のような正真正銘の「怪物」ではなかったはずだが。(もちろん千晶の「怪物」ぶりなど、当時の自分は気付きもしなかったわけだが。)
 春希はほっ、とため息をついて、応えた。
「もちろんそうだ。今の俺は、妻と子と、二人の母を守るので精いっぱいだ。そしてそれで満足している。だからこれは、おせっかいなんかじゃない。そうじゃなくて、必要なんだ。」
「必要? ――だから、火の粉がかからないように身を守るというだけのことだったら、別にいちいち詮索する必要なんかないさ――学者らしかならぬ物言いかもしれんがね。しかしな、情報を集めて処理するのにもコストはかかるしリスクもある。それに見合うリターンが見込めないことは、せんでもいいよ。」
 友近はかぶりを振った。そうして、しばらく黙りこんだ後、懐からシガレットケースととライターを取り出して、春希に向けて軽く振って首をかしげた。春希がうなずくと、紙巻を一本だけ取り出して火をつけ、軽く燻らしてから口を開いた。
「――まあ、俺も突っ込んで調べたわけじゃあない。報道されている程度の常識を、俺が解釈するとどうなるか、って程度の話だ。
 ハイテクベンチャーで家族企業ってのは、実のところそんなに異常な存在じゃない。極端な話、産業革命期の歴史的企業にはありふれた話だ……なんていうと極端だけどな、今だって、ぽっと出の無名人が事業を立ち上げるときに親類縁者を頼るのは普通のことで、それはハイテクベンチャーだろうと、肩書といや卒業証書か、よくてもPhDしかない若造なら当然のことだ。インドや中国みたいな新興国なら、なおさらの話さ。
 ――北原だって、はじめのうちはそれと大差ない。ただ、大概の場合は、成功してでかくなってくれば、株式を上場して、近代的な企業の体裁を整えるもんだ。そういうのがめんどくさい生粋の技術屋だったら、上場した株式を高値のところで売り抜けて、さっさと会社から手を引けばいい。儲けた金を元手にあとは遊んで暮らすか、それとも新しい事業に手を出すかは、ひとそれぞれだがな。ビジネスマンにだって、新しい事業を起こすのは好きだが、軌道に乗ったら退屈して放り出しちまう人種なんて、珍しかない。
 ところがまあ、北原の場合は、その意味じゃ中途半端なんだ。大きくなったのに家族企業のまま、非公開で延々やってきた。昔風の「家業」の意識のまま、もはやベンチャーとも言えなくなったハイテク巨大企業を、にもかかわらずそこそこうまく盛り立ててきた。そこに付け込んでうまい汁を吸おうとする禿鷹みたいなやつが、取引先や銀行筋にいたわけだし、内部の子飼いの連中の中にも、「従業員」扱いに我慢できなくなった獅子身中の虫がいて、こいつらがつるんで本家の足をすくった、ということだ。――まあ、この程度のこと、おまえだって調べてるんだろう?」
「――ああ……。まあ、おおざっぱな事実関係は。ただ、俺が知りたい、というより理解したいのは、何でそんなめんどくさいことを、ってことだ。」
「言ったろう? 少なくとも企業としての幼児期においては、家族企業はむしろ当たり前の、正常といっていいくらいの存在なんだ。だからそれにかかわる人間が、そういう意識から脱却できないのも、これまた普通のこと、正常なことなんだ。ただそういう人間的な情の常識を、容赦なく資本の論理というか、市場の常識がぶった切っていく。だから普通は、ほどほどのところで妥協して、創業家は有力株主程度の地位に納まるのが順当なわけだ。ただこれがな、なかなか割り切れない人もいる。ハイテク企業で、技術そのものに思い入れがある創業家の場合は、そうなりがちでな……。」
 友近は紙巻をもうひと口吸い、ふーっと長く煙を吐き出してから、
「お前の親父さん。北原本家の直系で、しかも技術者だったんだろ? たぶん、そこが面倒なところなんだ。」
といった。
「やっぱり、そうか……。」
 つぶやいた春希に、友近はさらに言葉を継いだ。
「データだけじゃない、おぼろげではあれ、生身の人間としての親父さんの記憶も、おまえには少しはあるんだろう? 憶測だけでも俺にもこのくらいなら想像はつくんだ……。」

 つまりは、そういうことなのだ。
 家業を継ぐことを拒み、妻とともに東京に出てきた春希の父は、純情な若者であっただけではなく、己を恃むところの大きい、野心的な研究者でもあったのだ。学部こそ北原と縁の深い、地元国立大の出だが、大学院は海外で研鑽を積み、北原なんぞとかかわらなくとも、自分は十分やっていける、という自信はあった。そこへもってきて自分の大切な女性を、北原本家は辱めたのだ。北原に頼らずとも、業界全体に十分勢いはあり、自身の能力にも自信はあった。そこで青年は生家と縁を切り、在京の製薬会社に職を求めた。
 ――北原本家はそんな若者に対し、数年後、そろそろ若くなくなってきた頃を見計らってか、今度は「経営」のためにではなく「研究」のために戻ってくることを求めたのだ、おそらくは。

「まあもちろん、おまえの記憶による補強はあっても、ここまでの話は所詮、憶測の域を出るもんじゃない。それに、この話は、北原が左前になる前の状況までをしか念頭に置いてない。だから、北原が乗っ取り同然の目に会う前後に、おまえの親父さんが何を思い、どう動いたか、そして今何を考えているのか、までは、こっからいくら想像をたくましくしてもわかるもんじゃない。それに、おまえたちにとってもっと大事なことだって、わかりやしない。」
「もっと大事なこと――?」
 反問した春希の眼を、友近はまっすぐに見つめた。
「――たとえば、北原に戻った時、結果的には親父さんはお前と、お母さんを捨てたわけだ。しかし、それは果たして、一方的なものだったのか? とかな。全くの憶測だが、最初に揉めたときはともかく、呼び戻しの時にはご本家だって「妻子を捨ててこい」なんて言わなかったんじゃないかと思うんだ。おまえという更なる跡継ぎ候補だってできてたわけだし、交換条件として「嫁としてきちんと迎え入れる」くらいのことは言ったと思う。でも実際には、おまえのご両親は決裂した。そこの問題はもう、たぶん、北原という会社や、北原の家の問題というより、夫婦の問題、おまえのお母さんと親父さん、二人の間の問題だったんじゃないかな、と思う。――おまえが本当に知りたいのは、むしろその辺なんだろう? そして意地悪く言えばだ、お母様がお前にあまり知られたくないのも、そこなんだろう。」
 そこまで言って、今一度グラスをぐいっとあけると、友近は春希をにらみつけた。
「――なあ、そんなこと今更知って、どうしようっていうんだ? おまえは今、幸せなんだろう? そしてお母さんも今、そんなおまえの幸福を喜んでくれているんだろう? 今更、過去をほじくり返して、なんになる?」
「――逆だよ。」
「ん?」
「そうじゃないんだ。きっとおれは、母や父に恨み言を言いたいから、過去を知りたいと思ってるんじゃないんだ。反対に、二人にきちっと、礼を言いたいんだ。俺をこの世に生んでくれてありがとうって、ちゃんと言いたいんだ。――そのためにも、これまで何があったのか、今何が起きてるのか、理解しておきたいんだ。」
「――よく、わからんな。」
 首をかしげる友近に、春希は苦笑いした。
「――すまん、実のところ俺も、自分でもよくわかってないんだ。ただ、雪菜が生きていたら、そうしろって……あのお人よしで、それでいて頑固者の雪菜なら、きっと「お義父さんとも仲直りしなさい!」って言ってたと思うから。――さすがに「仲直り」するつもりはないけど、理解はしてやりたいと思うんだ。」
「――へえ……雪菜さんなら、ねえ?」
 友近は空のグラスを見て、ひとりごちた。
「――こんなこと言ったら、またおまえに殴られるかもしれないけど、雪菜さんって、ほんとにいい女だったんだなあ……素敵なひとだったんだなあ……。でも俺、雪菜さんがそんなに素敵なひとだったなんて、全然知らなかったんだ――それなのに俺、口説いたりしてさ……なんて失礼なこと、したんだろう……。」
「俺だってそうだよ。――だから、殴られるべきは、今も、そしてあの時も、俺の方なんだ。」

 かずさのコンサートから逃げ出したあの時、大阪で「それでもわたし、あなたを許さないよ」といった雪菜。
 プロポーズした夜、ベッドで「誰もが幸せでないと嫌なの! 誰もが私たちを祝福してくれないと、嫌なの…」といった雪菜。
 そして今や、あの雪菜と同じくらい、強くなったかずさ。

 それに見合う男になれるなんて、いまだに……いや、今ならなおさら、思えない。
 それでも、そんな雪菜の、そしてかずさのすごさを、きちんと思い知れる男には、なっておかねばならないのだ、自分は。

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 ご無沙汰です。
 リアルで母が亡くなりまして、いろいろ思うところあって、頑張って更新しました。
 またよろしくお願いします。



[31326] 蜜月【WHITE ALBUM2雪菜trueアフター「雪菜のいない日々」】
Name: RCL/i8QS0◆fe1ad663 ID:9766d1b6
Date: 2014/02/10 19:21
「今年の、クリスマスだけど。」
と、またしても夕食時に曜子は切り出した。
「春ちゃん雪ちゃんは、去年と同じ、北原のおばあちゃんのところに行くっていうお話だったけど……。」
「ええ、それが、どうしました?」
「この間北原さんとお話しして、今年は、私もご一緒させていただくことにしたから。お宅にお邪魔するんじゃなくて、私の方で――実際には美代ちゃんにやってもらうけど、近場でゆっくりできる宿を手配して。あのこの旦那様おすすめのオーベルジュがあるのよ。それも温泉付きで。――ノリ君も、都合をつけてくれるみたいだし。」
 前回の北海道講演旅行同様、今回も前触れなしの突然の宣言だった。当然かずさは
「母さん!」
と爆発しかかったが、これまた当然のように曜子は、よどみなく切り返す。
「あなたは今年も仕事でしょう、クリスマスもイヴも。そもそもイヴは京都じゃなかったかしら? その間、子どもたちのお相手は誰がするの?」
「……!」
 顔を赤くして言い返そうとするかずさの機先を制して、春希はかわりに応えた。
「それでしたら、今年は俺が何とかしますよ。そのために管理職になったようなもんなんですから。母さんのところに、俺が一緒に行ったっていいんですから。」
 しかし曜子は相変わらずにこにこと、
「だーめ。もちろん、そうなさったら、それはそれで北原さんもうれしいでしょうね。でも、親子のきずなを深めるのは、またの機会になさいな。これはもう北原さんと、春ちゃん雪ちゃんと相談して決めたことですから。なぜなら……。」
と返して、春華と雪音に目配せした。二人はうなずいて顔を見合わせた。雪音が春華の耳に「こしょこしょ」と内緒話のポーズでささやいてから、春華の方が 春希とかずさに向き直って口を開いた。
「おとうさんは、かずさママと一緒に京都に行って下さい。おそくなっちゃったけど、しんこんりょこう、ってことで。これが、わたしたちからのクリスマスプレゼントでーす。」
「しんこんりょこう、いってらっしゃーい!」
 雪音もはしゃいで笑う。
「ええっ?」
 ――そんなベタな……とあきれる春希とかずさをしり目に、曜子が言葉を継ぐ。
「もちろん、美代ちゃんにも話は通してあるわ。京都ではスイートをとってあるから、二泊しかないけど、ゆっくりしていらっしゃいな。京都のあれは恒例のイベントなんだから、余裕でしょ?」
「い、いや、今年の京都は橋本さんがいないんだから、「客演」というより、あたしが若手のまとめ役みたいなもんなんだよ。そんな浮ついた気持じゃ……。」
「そうですよ、それに俺だって年末進行なんですから、普段通りならともかく、泊りで旅行なんか行けませんよ。」
 かずさと春希はこもごもに抗議したが、曜子はにやりと笑って、
「それくらいの根回し、わたしと美代ちゃんにできないとでも思ってるの?」

 23日の午後。半ドンでそれぞれ会社と練習を切り上げたかずさと春希は、わざわざ墓地に回って雪菜に手を合わせてから、東京駅を新幹線で発ち、夕刻には京都に着いた。とりあえずタクシーで会場となるホールに直行して、かずさはそこで降り、春希は荷物と一緒にホテルに先行することにした。
 ホールでかずさは、既に先行して京都入りしていた美代子らスタッフ、そして共演者たちとミーティングを行い、ついでに明日使うベーゼンドルファーで、軽く指慣らしをした。彼女としてはほんの軽い気持ちで手早く済ませたつもりだったが、「それじゃ、また明日!」とホールを後にしたときには、かれこれ2時間も春希をひとりで待たせていることに気が付いた。
「しまった!」
 あわててタクシーをせかしてホテルに飛び込み、フロントで
「すみません、冬馬曜子オフィスの冬馬……。」
と名乗ろうとすると、フロントマンはにこやかに
「北原かずさ様でいらっしゃいますね? ご主人様、既にお部屋でお待ちでいらっしゃいます。ただいまご案内いたしますので、お待ちください。」
と応じて、ベルガールを呼んだ。

「失礼いたします。北原さま、奥様をお連れしました。」
 天真爛漫な笑顔がまぶしいベルガールにエスコートされ、かずさは春希の待つ最上階のスイートに通された。眺めの良いリビング、窓縁のデスクでノートPCに向かっていた春希が、笑顔で迎えてくれた。
「お疲れ、かずさ。」
「――ゴメンな、遅くなって!」
「いやいや、おかげで仕事がはかどって、助かったよ――それより腹、減っただろう? 下に、飯、食いに行くか? それとも、ルームサービスでも……。」
と春希が言いかけたところで、再びドアベルが鳴った。
「はーい?」
「たびたび失礼いたします。当ホテル、コンシェルジェの嶋田と、当スイート担当のベル、安藤でございます。」
 扉を開けると、さっき案内してくれたベルガールと、ベルのユニフォームではなくスーツに身を包んだ女性がにこやかに一礼した。ベルガールはワゴンにシャンパンクーラーとバスケットを載せ、スーツ姿のコンシェルジェは両腕一杯に大きな花束を抱えていた。
「北原さま、奥様、本日は当ホテルにおいでいただき、誠にありがとうございます。ご家族様と冬馬オフィス様より、お二人の遅ればせのハネムーンと伺っておりますので、サプライズをお持ちしました。」
と、コンシェルジェはにっこりした。
「私ども、本来でしたら、お客様へのサプライズは、ご到着前にあらかじめお部屋にご用意させていただきますのですが、本日はお仕事のご都合でお二人のご到着がずれると承っておりましたので、お邪魔かとは存じますが、お二人お揃いになられるのをお待ちいたしましてから、お届けに上がることにさせていただきました。」
「こちら、当ホテルよりウェルカムシャンパンと、奥様がお好きと伺っておりますので、スイーツでございます。それからこちらのお花、ご家族様からのメッセージとともにお持ちしました。」
「――うわ……あ、ありがとうございます!」
「ありがとうございます!」
 二人がややうろたえながら花束を受け取っている間に、ベルガールはワゴンを運び込んで、リビングのテーブルの横につけた。それから花器を用意しながら、
「よろしければ、お花、こちらにお飾りいたしますので、メッセージカードをおとりになってください?」
と二人に声をかけた。
「は、はい!」
 見ると花束の中に埋もれるようにして、ピンク色の、少し大きめの封筒が二つ、差し込まれていた。二人は封筒を外した花束をベルガールに手渡し、気もそぞろに封筒を開いた。
 ひとつの封筒の方には、便箋に手書きで、寄せ書き風にメッセージがつづられていた。北原の母の几帳面な字、曜子の達筆――というよりやや悪筆、そして春華の幼いが生真面目な字と、雪音のなぐりがき。

「改めて、ご結婚、おめでとうございます。」
「二人とも、いつもありがとう。」
「お父さん、ママ、いつもありがとう。メリークリスマス! ママ、クリスマスはお父さんにたっぷりあまえてください。」
「メリークリスマス! てんごくのおかあさんも、おとうさんとかずママが、だいすきだって!」

 みるみるかずさの眼に涙があふれ、春希も熱いものがこみ上げるのを感じた。そんな二人にコンシェルジェは、少し咳払いしてから、口を開いた。
「少し、余計なことをお話しさせていただきますと――ご再婚のカップルの皆様は、やはり初婚のカップル様に比べますと、御式、新婚旅行など、御控えになられる方が多いように存じます。特に、それぞれのお子様がたとご一緒に、新しいご家族をおつくりになられる方の場合ですと、そのようなことが多いように感じます。
 ですが、私ども、長らくこのような仕事をさせていただいておりますと、お客様のようなケースにも、お目にかかることもございます。
 再婚されてしばらくたって、少し落ち着かれてから、ご夫婦水入らずで、ごく短期間ではありますが、ハネムーンにおいでになられるお客様は、存外いらっしゃいます。しかも面白いことに、そのハネムーンのおぜん立てをご夫婦ご自身ではなく、お子様方や周囲のご家族様が、お二人への贈り物としてなさることも、時たまございます。そういうお客様をお迎えできますのは、私どものホテルにとりましても、大変うれしいことでございます。」
 もうひとつの大きい方の封筒には、二枚の絵が入っていた。
 ひとつは春華の、齢のわりにはひどく達者な絵だった。クレヨンを使って、丁寧な色遣いで描かれていたのは三人の少年少女だった。画面下部を占める二人は、サックスを抱えた黒づくめの少女と、ギターを抱えた少年。そしてその上には、白いドレスに身を包んで歌う少女が、一回り大きく描かれている。
 おそらくは、春希たちが持っていた、あの学園祭ライブの記念写真を元に描かれた絵だ。しかしあの絵と違うのは、カメラに向けてポーズしているのではなく、演奏している姿が描かれていること。そしてあの写真とはちょうど反対に、歌う少女――雪菜が神妙な顔で目を閉じているのに対して、ギターの少年――春希と、サックスの少女――かずさはにこにこと笑っている。
 もうひとつは雪音の、これは齢相応のごちゃごちゃとした絵。それでも、何が描かれているかは、はっきりわかる。黒い車に乗ってドライブしているのは、運転席にかずさ、その横に春希。後部座席の三人はもちろん、春華と雪音、そして曜子だろう。車の周りには、一面に花が咲いている。そして空からは、にっこり笑う天使が手を振っている――雪菜だ。
 花をアレンジし終えたベルガールが、つ、と覗き込んで
「すてきな絵ですね……。」
とにっこりした。かずさはついにこらえきれず、春希に身を預けて泣き崩れてしまった。と、ベルガールとコンシェルジェは顔を見合わせ、
「では、私どもはそろそろ失礼いたします。ご用向きの折には、ご遠慮なくお電話でお申し付けください。それでは、ごゆっくり……。」
と挨拶して、部屋を辞した。

「二人とも、今頃、どうしてますかしらね?」
「あの子のことだから、春ちゃん雪ちゃんの絵を見て、今頃大泣きしてんじゃないかしら? ――春希く……春希さんは、やせ我慢――。」
「さあ、どうでしょう? 存外あの子も激情家なんだって、わたし、最近ようやくわかってきたんです。親として、お恥ずかしい話ですが……。」
「――そんな……私よりひどい親なんて、そうそういるもんじゃないわ。北原さんは、ご立派ですよ。」
「ねえねえ? なんで、かずママがなくの?」
「おとなはねえ、うれしいときに泣くのよ?」
「まあ、春ちゃん、よく知ってるわねえ……。」

「……かずさ?」
「……う――ああ?」
「起きてるか、かずさ?」
「――うん……。」
「――大丈夫か?」
「――う……ちょっと……疲れた――かな?」
「――一緒に……シャワー……浴びようか。それから、飯にしよう。多分まだ、ルームサービスが、頼める――。」
「――うん……ああ……でも――もう、ちょっとだけ――こうしていたい……。」
「――うん……。」
「――春希。」
「なんだ?」
「愛してる。」
「――俺もだ。」
「あたしは、おまえを愛してる。春華を、愛してる。雪音を、愛してる。母さんを、愛してる。ひょっとしたら、おまえのお母さんも、愛せるかもしれない、って、思う。……そしてやっぱり、雪菜を――もういないのに、愛してる。」
「――うん。俺も、だ。」
「あたしには、ピアノしか、できない――って、思ってた。愛する人たちを、少しでも幸せにしてやるには、ピアノしかない、って。でも、おまえと結婚して、わかった。そうじゃないんだ、って。ピアノ以外の、他のたくさんのやり方でも、いろいろ、できるんだって。――あたしは不器用だから、あんまり上手には、できないけど。」
「――うん。おまえは、頑張ってくれてる。みんな、知ってるよ。」
「本当――?」
「もちろんだ――一番よくわかってるのは、俺だけど?」
「――そうか……? おまえ意外と、鈍いからな――?」
「言ったな――? だって、こうやって」
と春希は指をかずさの背骨に沿ってかすかに走らせ、
「おまえをかわいがってやってるのは、俺だけだろう?」
とつぶやき、頬に口づけた。
「ピアノを弾いてるおまえは、世界の宝で、にこにこ笑ってるおまえは、うちじゅうみんなの宝だけど、ベッドの中のおまえは、俺だけのものだからな。」
「――言ってろ……。」
とかずさは一瞬顔を赤らめてから、
「なあ――あの時、言ったこと、覚えてるか?」
と尋ねた。
「――あの時――って?」
「初めて――じゃない、二度目の初めての時、「雪菜にしてやったこと、全部してくれ」って、あたし言ったよな……もう全部、してくれたか?」
「――ああ……たっぷり、してるよ。」
「――じゃあ、雪菜には、してないこと、は? 何か、雪菜とはしてないけど、してみたかったこと――あたしにしてみたいこと、ないか?」
「――う、ううん……初めてのことを試すには、今日は、具合悪くないか? ――だって明日は、一仕事だろ?」
「――大丈夫。あたし今夜は、とっても幸せで、気力も充実してるんだ。ちょっとぐらい冒険したって、平気さ。かえって刺激になる。――それに……今夜は、ハネムーンなんだ。家を離れ、家族を離れて、二人きりなんだ。今日みたいなときに試さないで、どうするんだ?」
「――う、うん、わかった……。とりあえず、一緒に、シャワー浴びようか?」
「――そこからが、準備なのか?」
「――うう……おい、おまえ、なんだか眼が怖いぞ。」
「――フフ……。」

=================
 結婚式も新婚旅行も自分たちではやってないので、よくわかりません。ウェルカムフラワーとか何とか、適当に調べて妄想しました。
 娘が結婚できたら、その折に裏事情を見聞することができるかしら……。



[31326] 父と子【WHITE ALBUM2雪菜trueアフター「雪菜のいない日々」】
Name: RCL/i8QS0◆17a7a866 ID:9766d1b6
Date: 2014/07/17 09:09
「――はい、お電話替わりました。北原です。」
「――お父さん。お久し振りです。春希です。今日は、電話で失礼します。」
「……。うん。久しぶりだ。本当に、久しぶりだ……。20年以上にもなるな――まさか、おまえの方から、わざわざ連絡をくれるとは、思ってもいなかったよ。」
「はい、本当にご無沙汰です。長い間ご挨拶の一つもせず、申し訳ありませんでした。」
「……なに、おまえ――いや、君が詫びる筋合いではない。これは何より、わたしと母さんと、二人の問題なのだ。君はそこに巻き込まれていたに過ぎない。――それにしても、わたしこそ、長い間放っておいて、済まなかった。」
「――でしたら、それはお互い様です。それが、お父さんとお母さんだけではなく、お父さんと私との、間合いの取り方だということでしょう。何にせよ、何不自由なく育てていただいて、感謝しています。」
「――いや……そんなのは小学生まで、いや百歩譲っても高校までの話だろう?」
「……。お母さんに、お聞きになっているのですか?」
「――まさか。岡山に戻って以来、わたしは、君の母さんとは直接言葉を交わしたことは一度もない。ただ、顧問弁護士の方には、母さんと定期的に連絡を取るように依頼してある。君が家を出たときも、就職したときにも、それから結婚し、子どもが生まれた際にも――前の奥さんが亡くなられた時にも、きちんと連絡は入れてもらっていたよ。――だから、君があれからどのように生きてきたか、最低限の事実関係くらいは、わたしだって把握している。」
「――どうして、ですか?」
「――どうして、って……親が子どもの行く末を気にするのに、理由がいるかね?」
「――それは、そうです。自然の情としては、もちろん、不思議ではありません。でも、私の方はそうじゃなかった。私にとってお父さんは、既に高校生の頃には、いないも同然であり、それどころかお母さんまで、一刻も早く距離を置きたい存在でしかなかった。」
「――それもまた君の言う「自然の情」だろう。君がそんなふうに感じること自体、わたしだって、少なくとも頭では理解している。――そんな風に見切られるなんて、さびしいことではあるが、我々二人の、身から出た錆でもあることだし、な。――そんなわたしたちの息子である君が、どうやら幸福な家庭を築いてくれているらしいことは、せめてもの慰めだよ……。」
「――俺……いや、私だって、そんな立派な人間ではありませんよ。――今なら、お父さんとお母さんの気持ちだって、少しは理解できるかもしれない……きちんとお話を伺えればね。」
「――聞きたい、か?」
「――いえ……お二人に、不愉快な思いをさせてまで、伺いたいとは思いませんよ。――ただ……ねえ、お父さん。ひとつだけ確認させていただきたいんです。――あなたが、妻や子供を捨ててまで、追い求めたもの、は……北原の家、だったんですか?」
「違う。――言い訳をさせてもらえば、もともとは、君と母さんを捨てるつもりもなかった。ただ、君も知っているだろう通り、母さんが、岡山に戻ること――北原の家に入ることを、肯んじなかったのだ。――とはいえもちろん、そこでわたしは、北原に戻るか、君たちと残るかを天秤にかけ、結局君たちを捨てたに変わりはない。――ただわたしが北原に戻ったのは、北原のためではなく、自分の夢のためだった――少なくとも、そのはず、だった……。」
「――その夢は、もう、潰えたのですか?」
「――そうだ。君も知っての通り、もはや北原家のものではなくなった北原で、そして開発担当役員の椅子からおろされ、取締役会でも文字通り末席を汚すに過ぎないわたしには、もう、そんな夢など、ない。兄貴や叔父さんは、まだいろいろと未練があるようだが、ね。――だが、わたし個人の利害を棚に上げて客観的に言えば、「普通の会社」になったことはおそらく、北原にとっては善いことなんだろうな、と思うよ。」
「――いつか、その夢のお話を、伺えたら、と思います……でも、お父さん。それでもあなたは、まだ、北原の人間なんですね?」
「ああ……そうだな。その通りだ。」
「暴露本を書いて溜飲を下げるような立場では、ない、と。」
「……君は編集者だったな? 君がどうしても、というのであれば、ダメな父の罪滅ぼしとして、ひとつやってやろうか? 別に自分の身がかわいくて残っているわけじゃない。辞めてしまえば何を言おうがわたしの勝手ではある。」
「――いえいえ、そんなことは望みませんよ。……むしろ、逆です。」
「――逆?」
「私の友人に、若手の経営学者がいます。彼はこのところずっと、バイオベンチャーの研究をしていて、北原のことも調べています。」
「――そのご友人の研究のために、便宜をはかれ、と?」
「いえ、違います。彼のためではなく――万人のために、北原の経験をできるだけ包み隠さず、公にしていただきたいのです。たとえば、これまでの、家族の記念アルバムみたいな社史ではなく、きちんとした、アカデミックな批判に耐えうるような社史を作れるような体制を、整えていただきたいのです。――そうすれば、いつか私もそこから、お父さんの夢、について少しは理解できるようになるかもしれない。」
「――その仕事を、君の会社で請け負う、というのでもなく?」
「――もちろん、正式にお話があれば、喜んで検討させていただきますけれど、それはいまの話の主題じゃありません。――どこの誰であれ……ジャーナリストであれ、研究者であれ、ためにする目的ではなく、純然たる知的探究心から北原を訪れる者すべてに対して、門は広く開かれていてほしい、ということです。知財や組織上の守秘義務にかかわること以外は、すべては公明正大であってほしい、と。」
「――ずいぶんな、注文だな。」
「見返りに差し出せるものなど、ありませんから、単なる要望にしかすぎませんが。」
「……わかった。努力、してみよう。どこまでやれるか、わからないが……CSRの名目で、やれることもないではない。」
「ありがとうござい、ます。」
「いやいや、約束はできないよ……。それでも、努力は、してみるよ。今日は、電話を、ありがとう。本当に、久方ぶりの、親孝行を、してもらった。」
「――いえ、とんでもありません。それでは、お父さん、お元気で。また、機会がありましたら。」
「うむ。君こそ、お元気で。お会いしたことはないが、奥様と、それから、お嬢ちゃんたちにもよろしく。」
「――伝えます。」

 春希が受話器を置くと、傍らのかずさと目が合った。かずさは軽くほほ笑んだ。
「――例の話、しなかったな……?」
「――うん……いきなりじゃ、喧嘩になりかねないし、な……。」
 そう天を仰いでつぶやいた春希の額を撫でながら、かずさは
「案外、お義父さんの差し金じゃ、ないのかもしれないぞ? お義母さんと話してるのは、顧問弁護士だけなんだろ? その弁護士が、北原本家に良かれと思って、勝手にお節介してるだけなのかも……な?」
と言葉を継いだ。
「お前……まるで雪菜みたいなこと、言うんだな?」
「そうか?」

「なんにしてもお疲れ様、春希。よく、頑張ったな。」

=================
 知り合いのご厚意でようやく「不倶戴天の君へ」を見ました。「かずさはやればできる子」設定はノベルで明らかでしたけど、なんだか少しうれしかったですね。



[31326] 甘え下手【WHITE ALBUM2雪菜trueアフター「雪菜のいない日々」】
Name: RCL/i8QS0◆17a7a866 ID:9766d1b6
Date: 2014/07/24 21:35
「きょうはあたし、ひとりでねるからね!」
「えー。いいよ、おはなしよんであげるよ?」
「いいの! ゆきちゃんもうじきねんちょうさんのおねえさんなんだから、ひとりでだいじょうぶなの! おねえちゃん、したにおりて!」
 雪音はそういうと、さっさと二段ベッドの上段、すでにうさちゃん(大)やくまちゃんが待っている自分のベッドによじ登り、ふとんをかぶってギュッと目をつぶった。春華はしばらく呆然としていたが、気を取り直して部屋の明かりをおとしてダウンライトだけにして、自分も『おともだちがほしかったルピナスさん』とうさちゃん(小)と一緒に下段のベッドに入った。そしてもう一度頭上に向けて一言、
「じゃあ雪音、おやすみ……ね?」
と告げて反応を見た。しかし雪音はうんともすんとも言わない。それで春華もあきらめて、ふとんをかぶって、しかし目はつぶらず、しばし斜め上の天井を見つめた。
 ――今日は、なくなったおかあさんの誕生日。そして、かずさママの新しいアルバムの発売日。そういう特別の日だったから、お客さまも来た。かずさママとおとうさんのつくった歌をおかあさんのかわりに歌ってくれた朋ちゃんが、かずさママとあたしたちにって、おっきなケーキを買ってきてくれた。それで、ごはんのあとみんなでケーキをいただきながら、朋ちゃんの歌う「春の雪」と、それからお母さんの「届かない恋」「時の魔法」のビデオを見た。
 おとなたちはまだ、お酒をのみながらお話してるけど、わたしたち子どもは明日も学校、保育園があるし、夜更かししないで8時過ぎには「おやすみなさい」を言って子供部屋にもどってきた。雪音が「もっと起きてたい」とぐずるかと思ったけど、拍子抜けするほどいい子ちゃんで、さっきもあっさりふとんに入ってしまった。

 ――なんだか、ねむれないな……。

 以前の、雪菜おかあさんが元気だったころに四人で住んでいたマンションに比べると、いまのおうち、曜子おばあちゃんとかずさママの建てたうちは比べ物にならないようなお屋敷だった。その頃も時々遊びに来て、雪音と二人であちこち、広い屋敷の隅々を、使ってない余分のお部屋までをも探検して回ったものだった。

 ――あの時は、このお屋敷に住むことになるなんて、思いもしなかったな……。

 今の子供部屋は、前のおうちの子供部屋に比べると、倍以上の広さで、天井も高い。ほんとは二段ベッドなんか必要がない広さなんだけど、雪音が「あたし、うえのベッドがいい!」と言い張って、前のおうちで雪菜お母さんが選んでくれた二段ベッドを立てることになった。おかげで、元から広いお部屋が更に広い。
 もともと、二段ベッドを買ったのは、雪音が大きくなって、ひとつふとんで姉妹ふたりが寝るのがきゅうくつになったからだ。雪音も、ひとりでひとつのベッドをもらえることを楽しみにしていた。でも、新しいベッドを買ってすぐに、おかあさんが事故で死んでしまって、雪音はまた、ひとりで寝られなくなってしまった。だから結局、新しいベッドも上段はしまいこんだまま。狭い寝床にふたりでぎゅうぎゅうづめで。時にはそこに、まだ「おばちゃん」「かずちゃん」だったかずさママまではいりこんで。
 ――でも、あれからもうだいぶ時間がたって。雪音も、ちょっぴりおねえさんになって。かずさおばちゃんは、かずさママになってくれて。だから、もう、雪音はさびしくない。
 ――さびしく、ないんだけど……。

「……おかあ、……さん。」
 さっきのビデオを思い出しながら、春華はふと、涙ぐんだ。――と、
「――ごめん……な? おかあさん……じゃ、なくて。」
 と、子ども部屋のドアがかすかに開いて、そこから、なんだか恥ずかしそうなかずさママの顔がのぞいていた。

「ママ……?」
 思わず頭をあげた春華に、かずさは黙って首を振り、あのコンサートの時のように、人差し指を唇に当てて「しーっ」とポーズした。それから、音も立てずに子ども部屋にするっと入ってきて、春華のベッドのかたわらにすべりこんだ。
「――ママ……朋ちゃんは? おとうさんは?」
「柳原さんは、さっき、帰ったよ。春希――おとうさんは、おばあちゃんとお話してる。「取材」という名の、年寄りの思い出話さ。……それより、春華こそ、めずらしく夜更かしさんだな?」
「……ご、ごめんなさい……。」
 目を伏せる春華の頭を、かずさはやさしくなでてくれた。
「――ひさしぶり、だな……こうやって、春華のこと、寝かしつけてあげるの……。」
「――ごめん……。」
「あやまることなんかない。春華はおねえちゃんだけど、それでもまだ小さい子どもなんだから、たまには、あまえたっていいんだぞ?」
「――ママ……。」
「――それより、あたしたちの方こそ、ちょっと春華に甘えてたんじゃないか、って、この間もおとうさんと話してたんだからな。あんまりおねえさんで、いい子の春華に。――だいたい春華は、がんばりすぎなんだよ。雪音ばっかりじゃなく、あたしやおばあちゃんのお世話まで焼こうとするんだから……。」
「え、そんなこと、ないよ……。」
「――あるよ。そんながんばりやさんなとこ、春華は、おとうさんと、それからおかあさんに――雪菜にそっくりだ。」
 にこにこしながらかずさは、春華のひたいにそっとキスをした。
「――そう、雪菜おかあさんに、そっくり。あたしにとことん甘くて、世話焼きだった、雪菜にな。――雪菜は、絵じゃなくて、歌が何より好きだったけど。」
「おかあさん……、に?」
「――うん。それから、おしゃまな美人さんなところも、そっくりだ。」
 そう言ってかずさは、春華の眼をのぞきこんだ。
「――それに比べると、血がつながってないんだからヘンな話だけど、雪音のほうはあたしに似ている。ああ見えてあいつ、なまいきそうなふりして、案外あまえ上手なんだよ。あたしやおとうさんにだけじゃない。おばあちゃんなんかもうメロメロだぞ。……だからさ、春華。そんなに、遠慮なんかするんじゃない。」
 その言葉に春華は、黙ってかずさの首っ玉にしがみついて、静かに泣き始めた。かずさはそのまま春華を抱き上げて、一緒のベッドにすべりこんだ。
(明日の朝、雪音が「おねえちゃんずるい!」ってかんかんになるだろうけど、な。)
 かずさはクスリとわらってひとりごちた。



[31326] 愛読者【WHITE ALBUM2雪菜trueアフター「雪菜のいない日々」】
Name: RCL/i8QS0◆2e426366 ID:129b0297
Date: 2017/05/26 19:42
「とりあえず、少し手直しして、『鴻』の今度の新人賞、出してみていただけませんか? これで。」
 このところ、だいたい月一のペースで続いている、いつもの御宿のカフェでのミーティング。紙束から目を上げた小春の一言に、春希は思わず知らず緊張した。
「――これで、か?」
 反問した春希に、小春はきっぱりとうなずいた。
「――ええ。気になりますか? これをこれとして独立させたんじゃ、本来あるべきところに収まらなくなるんじゃ、とか?」
「……そういう気持ちも、なくはない。でも、君の言いたいこともわかる。これはあくまでもフィクションで、あれとは違う、ってね。」
「ええ、そうです。大丈夫、しっかり別物として、自立できますよ、これ。――それとも、モデルのご意向を、気にされてるんですか?」
「……い、いや、そんなことはないよ。お義母さんは、これくらいのことを気にする人じゃない。むしろ手を叩いて喜ぶよ。かずさの方は……まあ、怒るだろうけど……。」
「――じゃあ、基本的に、問題はないと?」
 少しばかり意地悪に微笑む小春に、春希はうなずいて、
「わかった。おっしゃるとおりにやってみるよ。よろしくお願いします。」
と頭を下げた。小春も背筋を伸ばして、
「――はい、わかりました。ご応募、お待ちしています。ご存じとは思いますが、私も下読みに加わってはいますけど、応募作はあくまでランダムに割り振られますから、特別推したりすることは多分、できません。最終選考に残ってしまえば、あとは委員の先生方次第ですから。――でも、贔屓目かもしれませんが、結構いいところまで行けるんじゃないか、って思います。なんていうか、素材が――モデルの力に、先輩の筆が引っ張られてる感じがするんです。」
と応えた。
「いや、こちらこそ、最大限頑張るから、よろしくお願いします――で、そろそろ、時間じゃないのか?」
「そうですね、そろそろ社に戻らないと――先輩の方こそお忙しいところ、ご苦労様でした。」
 春希と小春は二人して立ち上がり、頭を下げ、そしてしばらく、このカフェの勘定をどちらが持つかで揉めた。

「はーるきくん?」
「はい、何です、お義母さん?」
 その夜、子どもたちが寝静まった後のリビングで、一週間ぶりの寝酒のワイングラスを揺らしながら、曜子がいたずらっぽく微笑みかけた。かずさは少し離れたダイニングのテーブルで、わざとらしく向こうを向いていた。
「結局、例の原稿、どうするの?」
「――あれはあれできちんと小説として仕上げて、新人賞に投稿します。……よろしいですか?」
「――わたしに聞くことじゃないわ。……ふーん……そう。やってみるの。いいわね、面白いじゃない。――ねえかずさ、モデルとして、あなたからも何か言ってあげなさいよ?」
 曜子は楽しげに笑って、向こうを向いたままのかずさに声をかけた。その声にかずさはゆっくりと顔をこちらに向けたが、何とも言い難い表情を浮かべていた。その顔に曜子はぷっと吹きだした。
「なーにあなたその顔? どうしたっての? 怒ってるの? 泣いてるの?」
 別に露骨に感情を表した、乱れた顔をしていたわけではない。あえて言うならば、「戸惑った」顔だった。その戸惑いをたたえた顔のまま、かずさは言った。
「……いや、別に怒ってるわけじゃないし、泣いてるわけでもないよ。こいつの書く小説もどきがひどいのは、今に始まったことじゃないし。あたしはもう、あきらめてるよ……まあ、雪菜のやつが、夢枕に立って、こいつのことを叱りつけてくれないかな、とか思わないでもないけどさ。考えてみれば今度の原稿なんて、あの、こいつの「出世作」か? 『アンサンブル』のあたしについての最初の記事の続きというか、書き直しみたいなもんだから、今更どうこう言っても仕方がない、って気持ちもある。でも……。」
 かずさの真剣なまなざしに、曜子は首をかしげて、
「でも、何?」
と優しく問うたので、かずさはひと呼吸おいて、
「――母さんは、平気なのか?」
と反問した。
「――平気も何も、春希君がいずれあたしの伝記書いてくれる、っていうのでずっと協力してるの、あなただってよく知ってるじゃない。今更よ。」
「――でも、今回のはきちんとした伝記じゃない。デフォルメした、ある意味面白おかしくふくらましてゆがめた、フィクションなんだぞ? その中で、母さん、結構ひどいやつに描かれてるじゃないか。――いいの?」
「なーによ、自分のことでもないのに、ナイーブねえ。私がこれまで云十年生きてきて、どれだけ面白おかしいゴシップ記事を、それこそ何か国語で書かれまくってきたと思うの? そんなのいちいち気にしてたら、やってらんないわよ。」
 言い募るかずさに、曜子は愉快そうに言い放った。しかし
「でもさ……。」
とかずさがなおも食い下がるので、曜子はぐい、とグラスを空け、一息入れてつづけた。
「――それにね、かずさ。私は、春希君の、小説、って、読ませてもらったのは今回初めてだけど、なかなかよく書けてるとは思うわよ? そりゃ、傑作……とは、思わないけどさ? でも、世に出られるかどうか、売り物になるかどうか、チャレンジさせてあげるくらいの価値は、あるんじゃないかな、って思ったわ? それにね?」
「――それに?」
「――これまでのを読んでないから、こんなこと言うのなんだけど、これまでと違って、今回、春希君は、登場してこないでしょう? ――それって、何か、新しい展開じゃないの? 春希君のなかで、何かあった、ってことなんじゃないかしら? 編集者さんも、それを感じたんじゃないの?」
 ――やはり、わかってしまうか……。自分もワインをちびりちびりやりながら、春希は内心でひとりごちた。と、かずさの次の一声に、春希は思わず顔を上げた。
「――それは、わかるよ。なんかこれまでは、やっぱり、春希は自分のために書いてたんだと思う。でも、今度のは、そういうんじゃない。自分をわかりたいとか、自分を癒したいとか、そうやって書いてるわけじゃない、って思う。あたしのことを書いていても、自分にとってのあたし、を書くんじゃなくて、なにかこう、うまく言えないけど、自分とは関係ないところで存在している、他人としてのあたし、のことを書いてると思う.そして、母さんのことも。」
 それを聞いて曜子はおかしそうに笑い、
「なーんだ、やっぱりあなた、北原春希の愛読者じゃない? ずいぶんきちんと、読んであげてるのね?」
とからかった。かずさは憮然として、再びそっぽを向いた。

(気にしてるのは、それだけじゃないでしょ?)
(……ん。んん――。)
(書き手としての春希君の成長、一番わかってるのは、たぶん杉浦さん以上に、かずさだもんね?)
(おだてても、何も出ないぞ……大体お前に何を出しゃいいんだ? お供えか?)
(――お供えしてくれたところで、全部かずさのカロリーになっちゃうもんね? ――そんなことはいいから、さ。)
(……そうだよ。お前の言う通りだ。あいつが書いた、自分が登場しない最初の小説の主人公が、あたしと母さんで、お前――雪菜じゃないことが、腹立たしくもあるし、戸惑わせもするんだ……。)
(そんなのある意味仕方のないことじゃない? そもそも春希君は、曜子さんとかずさの伝記を、言ってみればライフワークとして考えてるんだよ? 今回の小説は、そのために積み重ねてきてる準備の副産物に過ぎないんだから。自分の個人的な思い出とか印象とかを超えて、客観的な資料を総合して冬馬曜子・かずさ親子の全体像に迫ろうなんてしてれば、勢い、そうなるって……それに……。)
(それに、何だ?)
(私は結局一回も見られなかったけど、千晶さんのお芝居。あれの主人公って結局、雪音――私、だよね?)
(……。)
(悲しいかな、まだそれを超える自信がない、ってところじゃないの?)
 ――そう意地悪な笑みを残して雪菜の姿は急にぼやけ、そこでかずさは目を覚ました。ベッドの上に起き直り、かすかに酔いが残る頭を振って、それから傍らに眠る春希を見やった。安らかな寝息を立てる夫に、軽く口づけると、彼女はベッドから立ち上がった。
 ――キッチンで水を一杯飲んだら、雪菜の写真に一言、文句を言ってやろう。
(ライブで見てないのは、あたしも一緒なんだぞ?)



[31326] 秘め事(R‐15?)【WHITE ALBUM2雪菜trueアフター「雪菜のいない日々」】
Name: RCL/i8QS0◆17a7a866 ID:7479ae4e
Date: 2015/06/26 19:15
「……今夜は――こっちに――頼む……。さっき――きれいに――しておいた、から……。」
 初めてというわけでもないのに、相変わらず真っ赤になって俯きながら、軽くお尻をこちらに差し出して乞うかずさに、春希はうなずいて口づけ、彼女のバスローブをゆっくりとほどきながら愛撫を始めた。
 あの京都でのイブ、「ハネムーン」で春希がかずさにしてやった「雪菜にはしなかった、できなかったこと」、をするのは、あの時以来というわけでもないが、それでも結構久しぶりのことだった。
 春希が亡き雪菜と送った性生活はもちろん、二人の子をなしたことを差し引いてもなおとても充実したものだったが、どういうわけかアナルセックスには――愛撫はともかく、ペニスそのもののアヌスへの挿入にはついぞ至らなかった。意識的に避けたつもりはなかったのだが、気が付いてみればそうなっていた。あるいはひょっとしたら、正式な婚約以降は二人とも、はっきりと「子づくり」への意識が固まってきていたことも手伝ったかもしれない。考えてみればそれ以降はオーラルセックスも、あくまで前戯にとどまり、射精に至ることは少なくなっていたような気がする。
 だからといって「子づくり」にかずさが消極的であるわけではもちろんない。むしろ雪菜以上に積極的である、と言えなくもない。何としても曜子が健在のうちに実の孫を抱かせてやる、というかずさの決意は揺るぎないものであったし、もとより春希としても異存はない。だから避妊など一切意に介さず、多忙な中それでも時間と体力の許す限り、二人だけの時間を作り、濃密に愛し合ってきた。そして身体をかわす度かずさは必ず、春希の精を直に膣に受けてきた。
 それでも、かずさにとって――二人にとって「雪菜にはしなかった、できなかったこと」はなにがしか特別な意味を持つことだったことは言うまでもない。ほんの少しの独占欲と、ほんの少しのうしろめたさとをスパイスとしてふりかけられたその営みを、かずさはとても大切にしていた。そのうしろめたさに加えて、普通の性交に比べて、安全に衛生的に行うには少しばかり工夫がいる面倒なものだった(かずさの腸内をできるだけきれいにしておかねばならなかったし、それに加えてなお、コンドームを避妊のためにではなく、純粋に衛生目的で使わねばならない)ので、かずさとしてもたまにしか求めなかったし、春希の方から求めることはついぞなかったが、そのごくたまにの機会には、二人とも我を忘れるほどのめりこんだ。
 そして今夜も既にかずさの身体は、春希がふれるまでもなく熱く昂ぶり蕩けていたし、春希の方でも痛いほど高まっていた。それでも春希は、かずさの懇願にもめげずにいつも通り、暴発しそうな自分を懸命に抑えつつ、ゆっくりと、かずさの身体のいたるところをまさぐり、口づけ、挿入するその前に何度も達しさせた。そしておそらくは何をされても苦痛など感じるはずもない域にまで昂らせてから、春希はそれでもゆっくりとやさしく、かずさの肛門へと久しぶりにコンドームをつけてわけいった。そしてその刹那に、かずさが軽く達したのを確かめてから、少しずつ慎重に、身体を動かし始めた。それに激しく応じながらかずさは、
「――ひ、ひどいよ……春希……こ、こんな――に、焦らす、なん、て……。」
と息も絶え絶えに訴えた。春希の方でも、決して余裕があるわけではなかったが、あちこち口づけながら、
「――何、言ってん、だ――、じっくり、ほぐして、おかない、と、身体に障る、ぞ……。」
と応じた。しかしかずさは、背後からせめる春希を無理やりに振り仰いで口づけを返しつつ、涙ぐみながら
「だって、あたしだけ何度もいかされるのは、嫌だよ――あっ……、一緒に、いきたいよ……。」
と抗議した。と同時に、意図的にかどうかは分からないが、身体の奥深く埋め込まれた春希のペニスを、ぐっと締め上げた。
 強烈な快感と、急に胸にこみ上げてきたものにこもごも襲われ、危うく達しかけた春希だったが、深く息をついて精と涙の両方を何とか抑え込んで、照れ笑いで強がってまぜっかえした。
「――バーカ、お前と違って、俺は、一辺いっちゃったら、回復まで時間がかかっちまうぞ……。ゆっくり、楽しみたいだろ……?」
 やや大げさに言ったが、まあ実際この年齢になってみれば、あの、10年ほども前の雪菜へのプロポーズのあとの夜のように、変な薬でもキメたみたいに、一晩中、空が白むまで何度となく射精しても一向に萎えない、などという気違いじみた状況に陥ることなどない。あのイブのハネムーンの時だって、さすがに3時間ほど抱き合ったあたりでちょっとひと休みしたものだった。(まああの時は、とくにかずさは、翌日に大仕事を控えていたし。)
 だがかずさはこうべを振り乱し、貫かれながらも上半身を強くねじって春希の口をむちゃくちゃにむさぼり返しつつ、一層強く締め付けてきた。
「――いいから……そんなこと、いいから――いって――! あたしで、気持ち良くなっておくれよ……春希ぃ……。」
「――かず……さ?」
 むせび泣きながら懇願するかずさに、春希の脳はふとしびれてしまって、そのあとはよく覚えていない――。

 ふと気付くと春希は仰向けに、大の字に寝そべっており、股の間にかずさが顔をうずめていた。萎えたペニスが温かく湿ったものにやわらかくつつまれていることが、なんとはなしに分かった。当然、もうコンドームははぎ取られているのだろう。(そうでないと困る!)
 こういうときはいつもなんだかすまない気持ちでいっぱいになる。もちろん春希は、女性の体液の味と匂いには何ら嫌悪感なぞ抱いたことはなかった(むしろその反対だった)が、口づけを通して間接的に自分の精液を味わったことならあり、そのまずさに内心辟易していたので、前戯としてならともかく、AV風に言う「お掃除フェラ」は、女性としてはさぞ不愉快だろうと、一度も要求したことはない。それでも、雪菜もかずさも、たまにこちらの隙を見てこの後戯を仕掛けてきた。すすんでやってくれることを「やめろ」というのも何なので、いつも春希はなすがままにまかせていたが、そのたび胸はチクリと痛んだ。
(――いっちまってから、気を失ってたのか……。)
 上半身を起こして、かずさの頭をなでてやろうと思ったが、頭を上げようとするとまだ少しふらふらした。
「――マジに、トシかな?」
 春希は胸の内で自嘲した――つもりだったが、声に出ていたらしい。股ぐらでうごめいていたかずさがふと顔をあげ、春希のものをくわえたままこちらを見つめた。そしてくわえたまま子犬のような上目づかいで
「わいりょうぶは?(最後の「は」は鼻濁音)」
と問いかけてきたので、春希は思わず吹き出してしまった。ようやくのことで上半身をあげ、左手でかずさの髪を軽くかきなでると、萎えたペニスにも少しばかり血がめぐってくるのを感じた。
「――とっても気持ち、いい……。もっと、続けてくれ――たぶんすぐまた、かたくなるから。」
 そのことばにかずさはふっ、と鼻で息をつき、目を閉じると少しばかり強く、春希のものを吸い始め、同時に睾丸を軽く握った。
(――やはり「子づくり」だからな、ちゃんと中に出さないと……。)
 できなければできない、でしかたのないことだが、何の気なしにかずさが「不妊治療」を口にしたこともあった。無論結婚1年かそこらのこの段階では、まだまじめに云々するようなことではないし、継子の春華と雪音へのかずさの愛情に一点の曇りもないこともわかっている。ただ、春希にはすでに子をなした実績がある以上「何もなかったら自分の責任だ」と案外気に病むたちのかずさが思っているのは、春希も察していた。
(そりゃ、どうしたって曜子さんの血を残したい、という気持ちはわかるよ……。)
 取り越し苦労にすぎん、と頭ではわかっていても、それでも春希としては、かずさの気持ちを思いやらないわけにはいかなかった。
 ――と、そう思っているうちに、ペニスは随分と力を取り戻してきていた。
(さて、もう一、二戦くらいはがんばるか……。)



[31326] ピアノ――未完のプロジェクト【WHITE ALBUM2雪菜trueアフター「雪菜のいない日々」】
Name: RCL/i8QS0◆17a7a866 ID:26038740
Date: 2015/08/25 18:16
 ふ、と目が覚めた。
 さんざ愛し合って、ぐったりと消耗したはずなのに、こんな中途半端な時間に目が覚めてしまった。
 どうしてだろう? 何か、気にかかることでも、あっただろうか? 
 春希はベッドの上に起き直ると、首をひねった。そして、昏々と眠るかずさを起こさないように、ゆっくりと床を離れ、バスローブを肩にひっかけただけで、デスクに向かった。
 ひょっとしたら――
 春希はふと思い当って、ノートパソコンを立ち上げ、メールをチェックした。案の定、アメリカの橋本健二からのメールが届いていた。いつも通り、〆切にはまだ間がある段階で、きっちり第一稿を届けてくれていた。

「いろいろとご苦労をおかけしましたが、ついに最終回です。最終回ということで、少し羽目を外したものになっておりますが、まずはご検討ください。」

 型通りのメッセージの後には、ベタうちのテキストで本文が入っていた。春希はさっそく読み始めた――。

「ピアノという近代 最終回 ピアノ――未完のプロジェクト

 さて、この最終回の表題には、良識ある読者のみなさんから「何を大仰な」とのお叱りを頂戴するかもしれません。それは自分でも重々承知の上ですが、しかしながらそれを言うならそもそもこの連載全体の表題が何とも大仰にも「ピアノという近代」なのですから、今更つつましく振る舞っても遅いでしょう。それに連載中でも折に触れて申しあげたとおり、この連載全体はユルゲン・ハーバーマスの『公共性の構造転換』の私なりの変奏として構想されたものです。そうである以上、いささか不遜ではありますが、その締め括りをハーバーマスのかの著名なエッセイ「近代――未完のプロジェクト」の本歌取りとしてみたところで、ばちは当たらないでしょう。

 本連載で見てきました通り、またわが国の西原稔氏のそれを含めて、多大な先行業績が明らかにしてきたとおり、ピアノの歴史はまた同時に、西洋近代音楽の歴史――18世紀~19世紀の「クラシック」のみならず20世紀以降の「現代音楽」、更にジャズ、ロックを含めたポピュラー・ミュージックを含めて――そのものである、と言えます。これは何も私自身がピアニストであるという身贔屓、ピアノ帝国主義(だけ)からくる妄言というわけではありません。ピアノは確かに西洋音楽の歴史の中で新参者であり、その豊かな広がりのすべてをそれひとつで覆いきれるものでは到底ありませんが、他面、新参者であるがゆえに西洋音楽における「近代」を体現してもいます。
 何よりもピアノは産業革命の産物です。厳密に言えばその誕生は18世紀初め、クリストフォリのアルピ・チェンバロにさかのぼるとはいえ、今日われわれが考える意味でのピアノ、すなわちピアノフォルテの確立と急速な発展は産業革命とともに開始されたのであり、その技術的な発展は楽曲、作曲思想や演奏技法そのものの発展と不可分に結びついていたことは、本連載中でもベートーベンやリストに触れつつ、つとに強調してきたとおりです。
 またピアノは、近代市民社会の発展とともにありました。それまでのほとんどの楽器と同じく動力源こそ人力ですが、それでもピアノは他の多くの楽器とは異なり、道具というよりも機械です。機械としての楽器というなら、オルガンも既にそうであったかもしれません。しかし仮にオルガンの基本型、あるいは理想像をパイプオルガンに求めるのであれば、その典型的な居場所は教会でありまた宮廷(宮廷礼拝堂)であり、ハーバーマス流にいえば「代表的具現」「具現的公共性」の楽器です。それに対してピアノの場所は、音楽家の仕事場、コンサートホール、そして市民の一般家庭にまで広がります。つまりそれは音楽家(作曲家、演奏家)にとっては固定資本設備であり、一般市民にとっては耐久消費財でした。それは教養ある市民の私有財産であることをその基本形としていたのであり、その意味で「市民的公共性」の楽器でした。あるいは「ピアノこそは資本主義の楽器である。」そう言っても間違いではありません。

 だが私はそれ以上の意味において「ピアノこそは(ハーバーマスが言った意味での)市民的公共性の楽器である。」と言いたいと思います。すなわち、19世紀末~20世紀初めの彼の言う「公共性の構造転換」前、大衆社会の到来以前の「古典的近代」の理念、実際にはまだ「画に描いた餅」以上のものではなく、実現する前に「構造転換」によって押し流されてしまった「未完のプロジェクト」としての「近代」を体現するものとして、ピアノを位置付けたいからです。

 ピアノは既に見ました通り、近代市民社会の、近代資本主義の楽器です。しかしながら近代市民社会が、実際には平等な市民たちからなる社会ではなく、エリート、支配階級たる資本家と無産階級たる労働者とに分かたれた格差社会でした。また資本家企業の典型も、その初期においては家族・親族のネットワークに支えられ、旧支配層たる貴族の信用をも受けており、その確立期においては株式会社であり、「自由な個人の経済活動」などはたぶんに神話に近いものがありました。「構造転換」以後のみならずそれ以前から、つまりはそもそもの初めから、近代資本主義、近代市民社会の主役は「自由な個人」であるよりは「(家なり組織なりの)団体」であったのかもしれません。
 そのように見たとき、近代市民社会に相応しい音楽のモデルとなるのは、交響曲でありオーケストラである、ということになります。むろんそのような観点から音楽史を通覧することも十分に可能です。多種多様な楽器がそれぞれのパートを受け持ち(分業し)、一人の指揮者のリーダーシップのもとに複雑な楽曲を奏でる、というそのありようは良くも悪くも資本主義を(そしてある程度は社会主義計画経済をも)体現しています。
 しかしながらその一方で、その集団演奏の対象たる交響曲をはじめとする楽曲の作曲者の方は、相変わらず、というよりむしろ、この市民革命を経た世界においてこそなお一層、独立独歩の個人、それも宮廷やその他パトロンに雇われた職人ではなく、市民として自立した芸術家たる音楽家であるのが当然と見なされ続けました。そしてこの19世紀において、そうした作曲者たちはほぼ例外なく同時に自らピアノ奏者であり、ピアノは彼らにとって作曲のまたとない道具であると同時に、人前で演奏するための楽器でもあったのです。
 そのように特権的な楽器として、この時代の新しいピアノが成立したのには無論理由があります。それはもちろんその性能、旋律と和音を同時に奏でるのみならず、チェンバロの弱点を超えて、音の強弱や響き方も、タッチやぺダリングによって演奏中に自在に調整できる万能楽器、野平一郎氏が万能編曲者たるリストを評しつつ言ったように「19世紀のシンセサイザー」でした。しかしながらピアノがこの時代において、ほとんど音楽そのものを象徴するアイコンとなりえた理由は、そうした実際的な機能面においてだけのことではありません。より重要なポイントは、ピアノはそのように万能であるにもかかわらず、他の楽器同様、たった一人の奏者しか必要とはしなかった、ということです。
 ピアノは最初の本格的な資本主義的機械であった(固定資本財でありかつ耐久消費財でもあった)と同時に、しかし産業革命の主役となった動力機械とは異なり、あくまで人力で動くもの、そしてそれ以上に、原則的にはたった一人の操作者=奏者によって操作される=弾かれるものでした。それは近代資本主義的機械でありながら、同時に、古典的な道具と同様、あくまでも一人の人間によって操作されるものでした。マルクスが『資本論』で描いたような、あるいはチャップリンの『モダン・タイムス』風な、人間を圧伏して自らの論理の下に服従せしめるのではなく、あくまでも人間の支配下に置かれ、人間の身体の延長として、その能力を拡張せしめる機械としてイメージすることが、可能だったのです。
 イメージとしては20世紀の自家用車、あるいは初期の木と布でできた単発機や複葉機(「レッド・バロン」リヒトホーフェン、あるいはリンドバーグやサン=テグジュペリ、そしてお好みなら『紅の豚』のポルコ=ロッソといった神話化された空の英雄たちのそれ)に比定することができるでしょう。実態よりも神話的なイメージを重視するなら、フィクションの世界では、それこそ日本のロボットアニメにおける、乗り物としての巨大ロボットのことを想起していただいても構いません。そのように、あくまでも個人が操る、個人のための楽器として、にもかかわらず他のほとんどの楽器とは異なり、個人よりも大きく重く力強い存在としてピアノは確立したのです。(むろんここでもオルガン、ことにパイプオルガンは例外をなします。市民社会の楽器たるピアノの時代到来以降、教会の楽器、そして国家の楽器たるパイプオルガンの神話性と宗教性、そして政治性はいっそ強化されたとさえ言えそうですが、ここでは深入りできません。)

 上に示しましたような、特権的な楽器としてのピアノのアウラは、ハーバーマスの言う「公共性の構造転換」以降も薄れてはいません。
 皆さんもご承知の通り、20世紀以降、西洋芸術音楽は、明らかに変容を迎えます。大衆娯楽としてのポピュラー・ミュージックと芸術音楽の分断、更に芸術音楽の世界においても、ある程度広い聴衆を得られる、コンサート・レパートリーとして定着する楽曲は、バロックから20世紀初頭までのいわゆる「クラシック」、前期近代のそれに限定され、同時代の作曲者たちのつくる芸術音楽は、「現代音楽」という奇妙な箱に閉じ込められて、悪い意味でアカデミズム化する。しかしそうした巨大な変動の中、音楽それ自体の同一性さえが解体していった中でも、ピアノの「特権性」ともいうべきものは、その断片化したそれぞれの音楽ディシプリンの中で、それぞれの仕方でしかしはっきりと維持されているように見えます。もちろん細かいことを言えば、ジャズにおいてはどちらかといえば管楽器が、またロックやフォークにおいては弦楽器(ギター、エレキギター)がそれぞれヘゲモニーを握っており、ピアノはいずれにしてもどちらかといえばバイプレーヤーの位置に置かれがちですが、それでも我々は多くの優れたソリストを、ジャズにおいてもまたフォーク、ロックにおいても容易に見つけだすことができます。
 しかしながらそうした神話的なアウラも、20世紀末ともなると、いよいよ薄れつつあるように思われます。何よりこの20世紀末から21世紀初めという我々の現在は、音楽ビジネスシーンを支配し、大衆とともにある、良くも悪くも「現在」、同時代の音楽であったはずのジャズやロック、フォークといったスタンダードなポピュラー・ミュージックにおいても、急速な「クラシック」化が進行しつつあることでも極めて興味深い時代です。作曲者と演奏者がしばしば同一であり、楽曲と演奏がともに個性の表出であるというそのスタイルにおいては、「クラシック」の演奏者よりもむしろ「クラシック」の時代の音楽家たちに近い存在であったはずのポピュラー・ミュージックにおいても、演奏者たちの興味が急激にスタンダードな「古典」の再演へと引き寄せられ、あるいはノイズやサンプリングという形で、旧来的な意味での「作家性」や「個性」への関心は明らかに変質解体しつつあります。
 「クラシック」演奏も、そして「現代音楽」もまた、そのような時代の空気とは無縁ではいられません。

 「ピアノの変容」というときに私が意識しているのは、まず、少なくとも古典的なピアノという機械は、技術的には完成の極に達し、世界的にも画一化している、ということです。――どこのコンサートホールに行っても、スタインウェイかベーゼンドルファーのどちらかがありますし、数少ない後発メーカーも、果たして既存の路線の上でのより一層の洗練を目指すにとどまるのか、あるいはまったくの新たな地平を切り開くことを目指すのか、といえば、なかなか難しいところがあると思います。
 そしてまた、優れた先達たる野平氏も指摘していますように、同時代の(いわゆる「現代音楽」の)作曲家たちもまた、かつてに比べるとピアノへの関心を薄めているように見える――新しい地平を切り開くにふさわしい楽器として、ピアノが遇されなくなってきつつある、という傾向もまた、無視できるものではありません。
 しかしながらそれ以上に私にとって気になるのは、良かれ悪しかれ、「個人の身体の延長」としてのピアノ、という展望に、ある種の限界が来つつあるのではないか、ということです。

 ピアノはあくまでも個人が支配する機械である、と先に述べました。しかしながら本当にピアノは、あくまでも人間に、個人に従属する、忠実なしもべにとどまっているのでしょうか? ピアノが『モダン・タイムス』の工場のように、演奏者を逆に支配している、などということはあり得ないのでしょうか? 
 少しでもピアノを正式に習った覚えのある方でしたら、わたしの言いたいことはお分かりと思います。どのような楽器でも程度の差はあれそうですが、しかしピアノという楽器はとりわけ、それを「道具」として意のままに使いこなすためには、尋常ならざる修練を長期間にわたって繰り返し積むことが必要です。それは言うまでもなく一種の身体改造であり、ピアノを人間の身体の延長とするというよりは、むしろ人間の方を演奏者という名の、ピアノというより大きな機械の部品へと成形していく過程である、とさえ言えるでしょう。プロフェッショナルのピアニストは、プロフェッショナルのアスリート同様、いずれもある種のサイボーグであり、その代償を大なり小なり、その身体に刻み込まれています。有名な、シューマンの指の損傷のエピソードには、今日疑問符が付きつけられていますが、そうした伝説が生まれるに足るだけの歴史的真実があったことは疑いをいれません。障害、とは言わないまでも、常人とは異なる特殊な身体の使い方、特殊な感覚のシステムを、訓練によって刻み込まれているのです。
 そのように考えると、人間がピアノの主人、ピアノが個人の下僕、というイメージは修正せねばならないかもしれません。百歩譲っても、ピアノをそのような「道具」として使いこなせる人間は、特殊な訓練を受けた、つまりは膨大な資本が投じられたエリートなのであり、例外的な存在にすぎません。あるいは逆に見ればピアノという技術の方が、一部の人間を自らに相応しく作り変え、間接的に従属させているのだ、というべきなのかもしれません。
 「ピアノの方が人間を支配している」とは言っても、もちろんそれは文字通りの意味ではなく、それこそ「人間を含め生物は遺伝子の乗り物である」というドーキンズのフレーズと同様、比喩にしかすぎません。しかしどういう種類の比喩かが問題です。ドーキンスはまさしくこの比喩を、敢えて真面目に受け取ることによって、生命という現象、進化というプロセスの本質について、極めて啓発的なヴィジョンを我々に提供してくれました。その意味で私も、この比喩を真面目に受け取ってみましょう。

 19世紀はピアノに限らず弦楽器や声楽などを含めて、超人、ヴィルトゥオーソの神話の成立の時代であったわけですが、既にその時代において、人間の限界を超えた音楽、人間には演奏不可能な音楽への夢が胚胎し、形をとっていたことは本連載でもたとえばアルカンに言及したときに論じました。そして、録音技術の普及とともに「時代のあだ花」として一時は消滅しかかった自動ピアノをはじめとする「自動演奏機械」に、ヒンデミットなど少なからぬ作曲家たちが興味を示し、そのための楽曲をものしていたこともまた、既に触れたとおりです。
 これに加えて私たちは、今日の急速なAI(人工知能)の発展のことも考慮に入れねばなりません。いわゆる機械学習技術の急速な発展の下で、与えられたプログラムとしての楽曲を自動的に演奏するのみならず、与えられた主題や曲想のデータベースを基に、自ら新しい楽曲を、誰にも指示されずに出力する「自動作曲機械」の誕生に、今まさに私たちは立ち合っています。
 ドーキンス風に――それこそ彼の「ミーム」論風に考えれば、わたしたちの音楽は、とりわけ統一的な記譜システムとともに作曲と演奏が明確に分離して以降の音楽ではなおさら、少なくとも演奏ではなく作曲の水準に注目すれば、様々なミームの集積として捉えることが容易にできます。様々な音、様々な主題、様々なモチーフが「ミーム」として漂い、それらのミームのより複雑な組み合わせとして、具体的な楽曲が出来上がる、という風にイメージすることは容易です。しかし遺伝子(ジーン)の世界とは異なり、ミームの組み合わせは全くランダムになされるのではなく、人間=作曲者の創意工夫がそこに介在します。とはいえ人間の創造力は決して万能ではなく、楽曲の創作はあくまでも既存の材料の新たな組み合わせの域を超えることは(絶無ではないにせよ)めったになく、またその成功も最初から約束されているのではなく、実際に演奏され、それがどの程度受け入れられるかを通じて、事後的に判定されるしかありません。
 古典的な音楽――西洋芸術音楽や現代のポピュラー・ミュージックだけではなく、今日までのほとんどの音楽――の世界では、言うまでもなく、実際に音楽ミームを組み合わせる=作曲する主体も、またその曲を実際に演奏する主体もまた、生身の人間でした。とは言え演奏の実際において、人々は自らの身体能力を直接に鍛えるにとどまらず、能力を部分的に拡張する様々な手段――楽器を開発していきましたし、作曲においても、場当たりの直観にとどまらず、理論的な体系――楽理を編み出し、それに則って楽曲を作っていきました。しかしながら、技術としての楽器の発展、理論としての楽理の発展が、具体的なハードウェアとしての生身の人間の扱いうる限界に到達したら、どうなるでしょうか? 
 今日の状況がまさにそれにあたる、とは言いません。しかし我々音楽家は、そのような未来をも展望したうえで、それへの準備をしておく必要があるのではないか。私はそう考えます。
 では、もう少し具体的にお話ししていきましょう――」

と、そこまで夢中になって読み進めたとき、
「こーらー。」
後ろから急にのしかかってきたのは、もちろんかずさである。よろけそうになって春希は、
「お、おおおい、ちょっとちょっと……!」
とあわてたが、意に介さずかずさは、春希におぶさる形で首っ玉にかじりつき、肩ごしにモニタをのぞきこみながら、頬にキスしてきた。
「お前ずいぶん集中してたんだな、あたしが起きたのに全然気が付かなかったのか?」
「あ、ああ、全然……わ、悪い――。」
と謝る春希に、しかしかずさはいっこう頓着せず、軽くわらった。
「フン! ――なーにも謝るようなことないって。……しかし、ま、橋本さんもずいぶん、思い切ったこと書くな……。」
 少し眉根をひそめたかずさに、思わず春希は聞き返した。
「思い切ってる――のか? 演奏家として、何かまずいことでも、書いてるのか?」
 春希の言葉に、かずさはまた笑った。
「いや、別に、そういう意味じゃ、どうってことないさ。音楽学者として見れば、まあ変わってる――かもしれないが、それでも変なこと言ってるわけじゃないし、演奏家や作曲家でも、ここまで理屈っぽくて筆が立つ人は、そんなに多くはないけど、いないわけじゃない。ただ――」
「ただ、なんだ?」
「あたしの印象じゃ、それでも、あくまでも橋本さんは演奏家で、学者として、物書きとしては、どちらかというと控えめ、抑制的で、そんな自分をさらけ出すことはなかったと思うんだ。いやそもそも演奏家としても、さらけ出すような自分、ってもの自体、否定してかかってたという感じがするし。――でも、ここでは……。」
「「さらけ出すような自分なんてものはない」という自分の考えを、はっきりさらけ出してる?」
「――そんなとこかな。」
 春希の反問にかずさはそう答え、それからつと春希から離れて、バスローブを羽織ってベッドに腰掛けて春希を見つめ、
「――よかったな、春希。橋本さん、この仕事、本気でやってくれてたんだ。」
といってにっこりと笑った。

===
参考文献
西原稔『ピアノの誕生【増補版】』青弓社
野平一郎『作曲家から見たピアノ進化論』音楽之友社



[31326] 営業戦略【WHITE ALBUM2雪菜trueアフター「雪菜のいない日々」】
Name: RCL/i8QS0◆17a7a866 ID:26038740
Date: 2015/08/24 22:52
 その四月は、とりわけ忙しい春となった。二人の娘たち、春華と雪音は今年はただ進級するだけだし、春希の方も別に異動するわけでもなかったのだが、大きな仕事を抱えることになった。ひとつには、『鴻』の新人賞への応募であるが、こちらはあくまでも私事(わたくしごと)である。むしろ重要なのは、雑誌部門責任者次長の地位にありつつも、なお直接担当し続けてきた単行本企画のいくつかが、いよいよ大詰めを迎えつつあったことだ。その中に、連載終了直後であるにもかかわらず、異例のスピードで完成稿を送り込んできた橋本健二の処女出版『ピアノという近代』もあった。
 儲かりもしない音楽雑誌を律儀に出し続けている開桜社ではあったが、さすがに単行本として出せる音楽書はどうしてもあくまで一般の音楽ファン、クラシック愛好家向けにとどめておく他はなく、橋本の学位論文それ自体の出版企画は、さしあたりペンディングとした。(事実上「公費による自費出版」である学術出版助成を活用すれば、何とかならないでもなかったが。)実際かなり本格的なピアノ演奏の技術論や、クラシックの楽理と、機械としてのピアノの技術史の交錯にかかわるテクニカルな問題が焦点である以上、専門の音楽学者やプロの音楽家以外の読者を得られるはずもない。橋本自身の関心も、学位論文それ自体の出版にはなく、むしろその一部を英語・ドイツ語で学術雑誌に投稿することの方にこそあった。
 しかしながらその学位論文のいわばおまけ、本論に対する補論が膨らんだ形のピアノの社会史、文明論的考察をもとに、二年間にわたって『アンサンブル』で続けてきた連載の方は、著作としてまとめられればより広い音楽ファン、のみならず読書人全般の関心を引かずにはいないだろう。これについては、春希には相応の自信というか、勝算があった。

 それでもまあ、営業戦略は立てねばならぬ。
 何より痛いのは、当の著者たる橋本自身が、長期滞米中で不在ということであった。販促イベントを打とうにも、著者が不在というのは何とも締まらない。コンサート・ピアニスト、それも日本の若手ではかずさをしのぐ実力トップの橋本なのだから、本来であればコンサートが何よりの販促になり、会場で直販してもそこそこ捌けるはずなのだが、その手も使えない。
 短期的に、販促のためだけに一時帰国してもらうことも不可能ではないが、そのための費用を社の方から手配するとなれば、経理がだまっているとは思えない。
「まあ、それくらいのお金なら、私の方から「貸し」にしてあげるけど――もうちょっと格好をつけるなら、うまくスケジュールさえ合えば、私たち主催で橋本君主役で興行を組む、ということもできなくはないわね? 開桜社ともタイアップということで。澤口さん――ナイツだって嫌とは言わないでしょう?」
 定例の「取材」後の雑談で春希が少しばかり弱音を吐いたのに対して、曜子は提案した。
「そういうの、前例、ありますか?」
「何言ってるの、レコードやスコアの販促目的のコンサートなんて、クラシックでもごく普通のことよ。本はまあ――ないこともないわね。あんまりあからさまにやると、みっともないけど。それにまあ、写真集とか軽いエッセイとかならともかく、一般向けとはいえお堅い本でしょう? ああ、どのみち商売としては、そんなにおいしくないのよねえ。」
 曜子は笑ったが真顔になって、
「しかし、それもこれも、橋本君本人がその気にならなければ、どうにもならないわね。あの子もこの二年は、お金の心配もなく、ゆっくり自分の勉強と練習だけしてればいい身分なんだから、そこにいきなり「あと三か月後に日本でリサイタルをやれ!」というのも、無茶というほどでもないけど、酷といえば酷よねえ……。」
と洩らした。一緒に呑んでいたかずさの方も、グラスを揺らしながら、
「あの人のことだから、「せっかく僕の本を売ってくださろうというんですから、喜んで弾きますよ。」とか言うだろうから、かえってなあ……。」
とため息をついた。
「せいぜい、この秋のあたしの巡業の時に、どっかで一回くらいゲストに来てもらう、くらいしかないんじゃないか? 少しタイミングは悪いけど……。」
「――それでも、もちろん十分ありがたいけど……。ぶっちゃけ言うと、この手のイベントは、東京と関西以外だと、はかが行かないんだよな……。」
 春希としては一応、「隠し玉」も用意してないことはなかった。担当編集者としては当然のことながら、いくつかの出版文化賞に出版社推薦枠で応募する根回しは既に済ませている。この年度の動向を踏まえれば、たぶんどれか一つくらいは受賞できるだろう、と春希は内心予想していた。しかしそんなものはあくまで「とらぬ狸の皮算用」である。短期的な売り上げに一番効くのは、何と言っても新聞の書評であるが、これも案外、工作が効く世界でもない。
「で、当の橋本君は、なんて言ってるのよ?」
 曜子が切り込んできた。
「――必要とあらば1週間くらいは、戻ってこれる、っておっしゃってくれてます。あと、7月ともなれば夏休みですから、大学に出る用事もない、と。」
「でもねえ、向うの夏休みって案外、学会とか研究会とか、あるんじゃない? それを考えればむしろ反対に、夏前かあるいは秋にちょろっとだけ来てもらう、方がいいわね? ――それに……初版、どれだけ刷るの?」
 春希は危うく酒にむせかけたが、懸命にこらえて、正直に答えた。
「――三千部です……これでも、頑張ったんですが。」
 人文書の相場は初刷り二千、というのが相場だったが、このところの出版「衰退」のせいもあってしばしば崩れがちであったことに鑑みれば、もの書きとしては無名の著者の処女出版としてはむしろ強気ともいえる。しかし橋本を知る音楽関係者にとっては、がっかりする数字かもしれなかった。しかし曜子もかずさも、別に表情を変えはしなかった。
「――ふーん。増刷がかかればあと二千、もし大台に乗れば万々歳ってとこね。まあいまどき音楽だって大差ないし、しょうがないわよね……。」
「――母さんはCD売れた時代に散々おいしい思いしてるじゃないか。文句言うなよ。あたしたちの時代は、結局人前で弾いてナンボなんだよ。」
「あら、引きこもりが言うようになったわねえ――。別に文句なんか言ってないわよ。現状の事実確認をしただけ。うん、そういうご時世なんだから、やれることは何でもやるといいわ。まして本書くなんて芸当、かずさにできるわけないものねー? それに。」
「それに、なんだよ?」
 睨みつけるかずさからわざとらしく目をそらして、曜子は春希に問いかけた。
「たとえ売れなかったとしても、いい本、なんでしょう?」
「――それは、もちろんです。……でも、いい本なんですから、売れてしかるべきだし、売れてほしいです。学術書ってわけじゃなくて、歴史好き、音楽好きの方にならきっと、興味深く読んでもらえる本ですから……。」
 言い切った春希に曜子はゆっくりとほほ笑んだ。
「造本、装幀も、高くならない範囲で、かっこよく、上品にできてる?」
「――それはもう。信頼できるアトリエと、じっくり相談しながらやっています。」
「いつも通りの営業努力も、ちゃんとやるわよね?」
「それはもちろん。うちの営業にも今から頭下げてますけど、感触は悪くないです。ジュン×堂さんや紀伊○屋さんとか、音楽書コーナーもあるような大手には、俺自身も出向きます。主要各紙の書評委員会にも、橋本さんから頂いた献本リスト以外に、俺が思いつく人たちにもお送りします。」
「――そう……。ならきっと、それだけでも、増刷が一回かかるくらいは、売れるわよ。――何か思い切って仕掛けるなら、それからでも遅くはない……いや、それからの方が効くんじゃないかしら?」
 そこでもう一口ぐいっとあおった曜子に、かずさはかみついた。
「のんびりしたこと言うなよ。二段構えっていうんなら、初手から仕掛けて、二段目でまた二発目の仕掛けを、っていうのが普通だろう? もし万が一初手がこけたらどうなるんだよ。「きっと」とか「多分」じゃダメなんだよ!」
 真剣に青筋立てるかずさに、曜子はさも楽しそうに笑った。
「あらかずさ、あなた、ピアニスト橋本健二のファンというだけじゃなく、もうすっかり、音楽学者橋本健二のファンみたいね? ――天然ピアニストかとばっかり思ってたら、案外理詰めもできるようになってきたのかしら?」
「――ば、ばかにするなあ!」

 ――実際春希もかずさも、ちょっと気負いすぎていたのかもしれない。冬馬かずさのような「アイドル」ではなくとも、同世代ではナンバーワンピアニストで、音楽エッセイストとしても知る人ぞ知る橋本健二にはすでにたくさんのファンがいて、来るその処女出版を楽しみにしていて、その中には春希同様、仕掛けを着々と準備していた者もいたことに、その時の二人は十分に思い及ばなかったのだ。そのあたり、曜子の泰然ぶりは年の功だったということか。



[31326] キャンペーン【WHITE ALBUM2雪菜trueアフター「雪菜のいない日々」】
Name: RCL/i8QS0◆17a7a866 ID:26038740
Date: 2016/07/23 23:15
「はい、それでは「アフタヌーン・ティー」本日のスペシャルゲストは、マンスリーレビュワーの柳原朋さんのご紹介で、瀬之内晶さんですー! よろしくお願いします瀬之内さん。」
 画面の中では、司会の鶴田アナウンサーの紹介に、さっぱりしたショートヘアにブルーのスーツの千晶――瀬之内晶が微笑んで頭を下げた。
「よろしくお願いします。」
「瀬之内さんは、柳原さんとは高校大学の先輩後輩とか……。」
と鶴田アナが水を向けると、千晶が応えようとするのを遮るかのように、上から下まで淡いバイオレットで固めた朋が、脇からかぶせてきた。
「ええ、ちょうど私が瀬之内さんの一こ下で、そのころから瀬之内先輩は演劇部の鬼部長として名をはせてたんですよー。大学に入ってからも劇団の看板女優で。もうブイブイ言わせてました!」
「ブイブイですか。」
 鶴田アナが目を丸くすると、朋は
「ええ、ブイブイ。」
とにやついた。しかし千晶は涼しい顔で、
「いやー柳原さんには負けるよー。グラドルやってたし、ちょうどそのころのミス峰城大も三連覇してたんじゃない? その上局アナとして内定決めちゃうしさー、ブイブイっつったら柳原さんの方がよっぽど……。あたしなんか単位落としまくりで、ほどなく中退ですよ。」と応じたが、負けずに朋も
「……で渡米して、ほどなくニューヨークでブイブイ、ですもんねー。世界ですよ世界。」
と火花を散らした。しかし悠揚迫らぬ鶴田アナは、一向困ったそぶりも見せず、丸い目をますます丸くして
「なるほどー、お二人とも峰城キャンパスに咲いた大輪の華、女王の座を争って火花を散らしていた……、というわけですねー!」
とまとめたものだから、さすがに二人とも毒気を抜かれて、顔を見合わせた。
「いや……あたしはそんなつもりは全然なくて、授業サボって部室とスタジオにこもりきりだったからどっちかっつうと隠花植物? ――て感じでしたね。人気なかったわけじゃないけど、キャンパスでっていうより芝居好きの間でのことですから、キャンパスの華って言ったらやっぱり柳原さん……。」
と頭をかきかき千晶が言うと、朋の方も
「――いやー、まあ、瀬之内先輩がそうおっしゃるなら……っていうか、実はその時は実質人気ナンバーワンの無冠の女王って人がいたんですよ。悔しいけど「キャンパスの華」って言ったらそっちじゃないかなー。……で、実は今日のお話、今日ご紹介する本も、その人と深いご縁があるんですよねー、瀬之内さん?」
と応じた。
「今日のテーマ……瀬之内さんの処女戯曲集、がですか?」
 またもや目を丸くして見せる鶴田アナに、うまく枕を振りおおせた満足感とともに千晶は、
「はい、この度鴻出版さんから出していただきました、恥ずかしながら私の最初の本ということになります、こちら、『時の魔法』ですけど、ここに収めた二本は連作をなしてまして、実在の人物をモデルにさせていただいてるんですね――無許可で。いや、その後ちゃんと謝って、今回の本のことについては関係者の許可は得ていますよ? ただ、肝心のこの「キャンパスの華」の方は、私が日本に戻るその直前に亡くなられていて、こればかりは悔やまれますが……。
 そう、遠目で見てあこがれていたその「キャンパスの華」とお友達のことをもとにイメージを膨らませたのが、この連作なんです。」
とそこで画面にクローズアップされた表紙には、舞台の上、雪音の扮装で歌う千晶の写真があった。
「私も、二部作の後半、「時の魔法」の方の舞台は拝見させていただいたんですよ。」テレビの中では珍しいしんみりした風で朋が言った。

 若くして既に大女優の風格をみせる千晶と、さすがにアナウンサーというしゃべりのプロである朋のやり取りは、『時の魔法』のモデルたる雪菜のみならず、かずさの人物像や人間関係までを、プライバシー暴露にならない範囲で浮かび上がらせていった。
「そう、この「雪音」さんと「榛名」さん、第一部の劇中では現実と反転させて、雪音の方がアイドルとして世に出て、榛名は市井の人に――という風に配されているんですが、事実は小説より奇なり、と言いますか、その後の実在の方の「雪音」さんも劇中ほどではないけれど、レコード会社にお勤めのかたわら、インディーズでボーカリストとして息の長い活躍を続けられるんです。そしてほどなく帰国されたかつての恋敵の「榛名」さん――冬馬かずささんとも、帰国直後から公私ともに二人三脚を続けました。冬馬かずささんのファンの方なら、ご記憶かもしれません、「子供のためのコンサート」のうたのおねえさん、SETSUNAさんのことを。雪音――SETSUNAさんは担当のレコード会社員としてだけじゃなく、ミュージシャンとしても榛名――冬馬かずささんの相棒であり続けました。」
 朋のナレーションの背後で、雪音役の千晶の写真と微妙にオーバーラップさせつつ、ライブハウスや「子供のためのコンサート」での雪菜の映像が画面に映し出される。
「冬馬さんのコンサートの「おねえさん」って、いま柳原さんが引き継がれてるんですよね? 雪音と榛名――SETSUNAさんと冬馬かずささんのコラボレーションを、ずっと近くで見ておられたんですね。」
「近くで――というほどではありませんけど、頑張って引き継がせていただいてます。」
「そういう方に『時の魔法』をご覧いただけたということは、光栄な半面、何というか、面はゆくもあります。第一部『届かない愛』の方は私自身の経験、ほんの少しですが実際にお元気だったSETSUNAさんとも、また和希――のモデルの方ともお付き合いして見届けた現実を基に想像を膨らませたものですが、第二部『時の魔法』の方はこれはまた全くの妄想の産物ですからね。そばにいてお二人をよくご存じの柳原さんから見ると、いろいろあるんじゃないかなー、と。」
 字面の上では控えめな発言を、それとは裏腹の自信たっぷりの笑顔で、しかし決して嫌味でなく繰り出して見せる千晶に、ここはこの路線で行く、と決めたのか朋はらしからぬ落ち着いた風情でこたえた。
「いえ、さっき「事実は小説より奇なり」とわたし言いましたけど、アメリカにおられてSETSUNAさんたちとの交流が長らくなかった瀬之内さんが想像で書かれた『時の魔法』ですけど、にもかかわらず二人の関係の一番肝心のところを抉り出してくださっていて、さすがの洞察力だ、と思いました。――『時の魔法』二部作は一見したところ三角関係、すんごい魅力的な二人の女性が、はた目からはどこがいいのかわからないしょうもない男を取り合う痴話喧嘩の話ですが、同時にこの二人の女性の友情物語であり、成長物語でもあるんですよね。」

「――プッ!」
 テレビを見ていた曜子はそこで耐え切れずに吹き出してしまったが、かずさの方は憮然たる面持ちで画面を凝視していた。いつもいつも本人に対しては悪口雑言でも、他人に春希の悪口を言われるのは、また別の話なんだろう。春希としては無論、苦笑いする以外にはなかった。それを知ってか知らずか、画面の中の千晶も苦笑した。
「――ま、しょうもない男……というのは和希のモデルの男性の方に対しては、あまりといえばあまりにも身も蓋もない話ですが――「女の友情と成長」物語であるというあたりをわかっていただけたのは幸いです。雪音と榛名――SETSUNAさんと冬馬さんとの関係について、いろいろ妄想をたくましくして脚本(ホン)を書いてたら、現実のお二人はそれ以上に、稔り多い関係を長くはぐくんでおられたようで、意外でもあり、期待通りでもあり……。
 ――でも、和希も和希なりに成長はしてるんですよ? そして現実の和希さんもまた、お二人と支えあっておられた。その辺も、柳原さんよおくご存知ですよね?」
「いやまあ、私に言わせれば、二人とも男の趣味が悪いなあ、というか、あんな堅物のどこがいいのやら、ってところですけど――でも、仕事はできるし、子供たちのいいお父さんではあるようですね。――というところでそろそろ本日の二冊目と行きたいと思います。こちらは打って変わってちょっと堅い本ですが、実は一冊目の『時の魔法』とあながち無関係でもありません。」
 と朋が取り出したのは、開桜社から出たばかりの橋本健二の処女出版『ピアノという近代』だった。
 むろん事前に朋から知らせをもらっていたとはいえ、いざテレビの画面にその表紙がアップにされると、さすがの春希も少しばかりどぎまぎした。いっぽうかずさは
「――やっとかよ……。」
と軽く毒づいていた。

「はいこちら、やはり先週出たばかりの『ピアノという近代』ですが、著者の橋本健二さんはご存知の方も多いかと思いますが、冬馬かずささんと並んで、日本の若手ピアニストの中では一、二を争う有望株というか、国際的にも注目されつつある未来のマエストロです。実際冬馬さんとも兄弟弟子の間柄で、家族ぐるみのお付き合いだとか――。で、この橋本さんは多才な方で、演奏家であるだけではなく作曲家、そして音楽学者としても活躍されています。この本はそうした、音楽学者とピアニストの二足の草鞋を履いた橋本さんの、学者としての本格デビュー作、といったところですね。」
「デビュー作、と言うのはちょっと語弊があるな……。論文ならたくさん書いてるんだから。」
 朋の紹介に思わずつぶやいた春希に
「普通の人にとってはそんなもんだろ。細かいこと言うなよ。」
とかずさはダメ出しした。
「橋本さんのピアノね、私も大好きなんですよ。柳原さんも、よく橋本さんのリサイタルにはおいでになりますよね?」
 鶴田アナの突っ込みに朋は軽く流すと思いきや、
「ええ、冬馬かずささんとのコラボがきっかけでファンになりまして。正確で丁寧ででも気持ちのいい開放的な演奏をされる方です。ご本人は大きな図体に似合わず、すっごい気配りの人で、腰が低くて。でもおしゃべりしてみるととっても楽しい方です。CDもいくつか出されてますけど、もっともっと注目されていい方だと思います――で、今日のこちらのご本、橋本さんの最初の本を紹介させていただくわけです。」
と生真面目に応じた。そのあと少しばかり意地の悪い笑みを浮かべて、
「――これがまた偶然にも、担当編集者の方が、なんと和希――のモデルさんなんですね。さっき私が「堅物」呼ばわりしちゃった方です。ね、なかなか奇妙な因縁でしょう?」

 元来ラジオやテレビという媒体は、発信力、訴求力が強い半面、非常に時間の制約がタイトで、不自由なメディアである。そうした不自由さはネットの普及以降、とみに強く意識されるようになった。出版崩壊がささやかれて久しい今日、企業側の危機感からかラジオ・テレビの書評コーナーはむしろ増えつつあるくらいだが、この時間の制約は堅めの本や変わった本の魅力を伝えるに際してはどうしてもハンディとなる。
 その中で今日の放送は、限界の中で、それでも精いっぱいの努力をしてくれていたと言わざるを得ないだろう。
 何より今日の放送は、春希が仕掛けたものではなかった。こちらから見本を送っていたわけでもない朋と千晶が、自分たちの判断で手配してくれたのである。
 公共の電波で「堅物」「しょうもない男」とののしられたことなど、それに比べればどうということはない。



[31326] 連弾【WHITE ALBUM2雪菜trueアフター「雪菜のいない日々」】
Name: RCL/i8QS0◆2e426366 ID:26038740
Date: 2018/01/12 17:23
「……そして、最後となりましたが、本書のもとになった連載をさせてくださった開桜社『アンサンブル』編集部の皆様、そして連載から単行本までの二人三脚をお付き合いいただきました北原春希様に、この場をお借りして、深甚な感謝をささげたいと思います。とりわけ本賞は「出版文化賞」であり、著者たる私のみならず、編集者、出版社、本書を世に送るにあたってご尽力くださったすべての方々への賞である、と理解しております。私からもお礼を申し上げさせてください。皆様、ありがとうございました。」
 画面上の橋本健二が笑顔で一礼してほどなく、スクリーンは暗くなった。司会席の横でパソコンをいじっていた春希は、ふっ、と息をつき、司会者からマイクを受け取って顔を上げた。
「――以上、『ピアノという近代』著者、橋本健二様より受賞のご挨拶、です。現在アメリカは××大学で客員研究員として滞在中の橋本様からのビデオレターをご覧いただきました。
 改めまして、担当編集者の私からも、そして開桜社からも、審査員の先生方、本賞主催の○○新聞社に、お礼申し上げます。光栄ある賞をありがとうございました。そして改めまして著者、橋本健二様にお礼申し上げます。新しい書き手を世に送り出すことは、私どもの使命と心得ております。音楽家、演奏家としての橋本さんの令名はつとに高いですが、書き手としての橋本さんの最初の作品をこうして世に送り出すお手伝いができて、私ども、大変光栄に存じます。素晴らしい本をありがとうございました。」

 春希が挨拶を終えると、受賞会場から拍手が沸き上がった。春希はもう一度大きく息をついて、マイクを司会者に返した。授賞式はそろそろしめくくりで、パーティーの準備が始まっていた。ホテルのスタッフたちが出席者のグラスを満たして回る中をかき分け、春希は会場で待っている社の同僚たち、そして家族の元に戻っていった。
「お疲れ様でした。」
 『アンサンブル』編集長にポンと肩をたたかれ、春希は苦笑した。
「いや、主役不在での代理受賞ですから、さすがに緊張しました……。」
「いや、ビデオとは言え橋本さん立派なスピーチだったし、北原さんの挨拶も堂に入ってましたよ。……とにかく、ありがとう。――それから冬馬曜子先生も、かずささんも、わざわざお運びいただき、ありがとうございます……しかし、本当によろしいんですか? こんなところで……?」
 編集長の気遣いに、地味目のドレスをまとった曜子が、グラスに半分ほどのシャンパンをくゆらして笑みを浮かべた。
「もちろんですわ。本来なら主役の橋本君が出てこなきゃならないところがこの通りですから、まあ師匠筋の私がそのしりぬぐいをするというのは、当たり前のことです。お父様、お母様も、健二さんの代役は、私どもがつとめさせていただきます。」
と「ドヤ顔」をして見せる曜子に、橋本健二の両親は大いに畏まって、
「いえいえ、冬馬先生に「代役」などとは恐れ多い……息子も大いに喜んでおります。役不足とは存じますが、どうかよろしくお願いいたします。」
と最敬礼した。それを横目に、やはり地味目のドレスのかずさはため息をついて、
「当たり前でもなんでもないだろ……自分がやりたかっただけだろ! ――しかし、こんなところで「復帰」だなんて、もうあれこれ言うのはあきらめたけど、逆に橋本さん、悔しがるだろうな……せっかくの母さんのプレイに立ち会えなくて。」
と肩をすくめた。
「――何言ってんのよ他人事みたいに。あんたも弾くんでしょ。ま、連弾だしね、本格的な「復帰」にはほど遠いわ。だからこういう祝い事の、いわば「お遊び」の席で肩慣らしをしておきたい、ってこと。」
「わかってるよ。これが母さんにしちゃ最大限気を使って慎重にやってる、ってことくらい。付き合ってやるから無理するんじゃないぞ?」
 肩慣らしのように軽口をたたき合う義祖母と義母を見上げて、こちらはフリフリにドレスアップした雪音が、ワクワクを抑えきれない様子で尋ねた。
「ほんとに今日、おばあちゃん、ピアノ弾くの?」
 薄笑みから大きく破顔して曜子は雪音の顔を覗き込んだ。
「そおよお。おばあちゃん、やっと病気がよくなってきたから、そろそろまたピアノ弾こうかなー、って練習してたの、雪ちゃんも知ってるわよね。まあ今日はママと一緒に、一曲だけだから、これも練習みたいなものだけどね。――でも今日はほんと、何年振りかで、「ピアニスト」として弾くからね。雪ちゃんたちには初めてよね。楽しんでね!」
「うん!」
 雪音は大きくかぶりを振った。雪音よりはおとなしめに、子どもなりにシックに決めた春華も、
「おばあちゃん、がんばってね!」
と激励した。

 橋本健二の『ピアノという近代』はテレビ効果もあってか、まずまずの売れ行きを見せ、秋の賞レースにおいてもいくつかの賞に候補作としてエントリーし、結果として老舗新聞社主催の○○出版文化賞を、大御所哲学者の大著と分け合う形で受賞した。新人への授賞はこの賞としては比較的異例のことでもあり、年末にかけて更に増刷することができて、会社として、そして春希としてもまずは満足のいく成果だった。
 ただ残念なことに橋本自身は滞米中であり、滞在延長の権利と引き換えに講義を持ち、演奏の機会も定期的に得られたばかりの身としては。正直、授賞式のためだけに戻ってくることことは、金銭的なことを別にしても(増刷もかかったことだし、それくらいは開桜社の方で持てなくもなかった)、少々負担だった。そこで今回は授賞式には会社とご家族の代理出席で、橋本の挨拶はビデオレターで、と落ち着いた。ただそこに割って入ったのが、橋本の師匠筋の一人にあたると同時に、担当編集者の義理の母である冬馬曜子だった。
 橋本の書き手としての処女作がちょっとでも余計に売れないか、と販促戦略に(もうベテランだというのにやや浮足立ち気味に)心を砕いていた春希とかずさをやんわりとたしなめつつも、自分でも何やら一枚噛むチャンスを狙っていたらしい。しかしそれがよりにもよって「主役の代わりに一席」だとは、夢にも思わなかった。
(でもお義母さん、「5年生存率3割切った」って言ってたの、たしか去年? いや一昨年?)
 春希は頭を振った。曜子の健康の急激な回復は、むろん喜ばしいこととはいえ、納得がいかないという気持ちもあった。とはいえ、「完全寛解」宣言には至らぬとも(そのあたり高柳先生は慎重居士だった)、ここ一年での血球のほぼ健常者並みの回復、その他腫瘍マーカーの類の著しい改善といった数値は疑いようもなかった。だが、それがすべてではあるまい。何か曜子のモチベーションを劇的に上げるような出来事が、どこかで起こっていた可能性が高い。だがそれが具体的にはいったい何なのか、となると、かずさも春希も、首をひねるばかりだった。
 授賞式パーティーでの一曲だけの演奏など、むろん本格的な復帰というにはほど遠い。しかし練習とか身内の席でとかいうのではなく、公の場での演奏を冬馬曜子がするなど、それこそこの十年近くなかったことである。しかも白血病のカムアウト自体、ほんの2,3年前のことだ。ここで「冬馬曜子カムバック!」ともなれば大ニュースである。
 しかしながら今回、曜子とかずさはがっちりと緘口令を敷き、今回の授賞パーティーで曜子が演奏することを前もって知っているのは、開桜社とナイツのごく少数にとどまり、賞やホテルの関係者にも「かずさともう一人が一曲だけ連弾する」としか伝えていない。
「サプライズのつもりなら、趣味が悪いぞ? というか、橋本さんにはもう教えてあるんじゃないか。」
と最初に話を聞いたかずさは文句をつけたが、
「そりゃそうよ、今回の曲は橋本君のやつなんだから。」
と曜子はしれっとしていた。
「それじゃあなんで? 母さんの復帰、ともなればちょっとした騒ぎになるぜ?」
「だからよ。今回の主役は不在とは言え、あくまで橋本君だもの。私の演奏のことを公にしちゃったら、主役を食っちゃうことになるわ?」
「それなら、最初からやんなきゃいいのに……。」
「あら、主役不在のパーティーなんて、寂しいものよ? だったらせめて少しでも盛り上げないと……。」
「主役不在って、正確に言えば、受賞者は二人いるんだけど……。」
と家族会議での抵抗もむなしく、あっさり曜子の悪巧みは実現の運びとなった。

「乾杯も済んだし、それじゃあ、そろそろ準備に入らないとね。かずさ、行くわよ?」
グラスを空けてひらひらさせる曜子にかずさは、
「わかってる。――それじゃ春希、行ってくる。子どもたちを頼むな。春華、雪音、今日はやっとおばあちゃんのカッコいいとこ見せてあげられるからな。しっかり聞いとくんだよ?」
と、母には渋面で、夫と子供たちには極上の笑顔で応えた。そして親子二人は、手に手を取って雛段へと向かっていく。
 今日ここにはプレス関係者は、ごく当たり前の数、主要各紙の学芸部とか、文芸誌、その他出版関係者くらいしか来ていない。芸能関係者やテレビは皆無だった。その辺はまあ、曜子の狙い通りである。しかし明日ともなればちょっとした騒ぎになるだろうことは予想がついた。
 そこに、
「先輩? おめでとうございます。」
とやってきたのは杉浦小春だった。
「おや、杉浦さん、来てたのか。」
「ええ、会社の方に招待状来てましたから。今日は鴻からは私と、あと編集長も来ています。あとでご紹介しますよ?」
「ああ、それはぜひお願い……それにしても今日は杉浦さん、ラッキーだったよ。」
「ラッキー?」
と、そろそろ雛段周辺から、ざわめきが始まっていた。もとよりグランドピアノは最初から会場に出動しており、招待客たちの多くはそれなりに予想はしていたかもしれない。ただ、まさかここで冬馬曜子が出てくるとは、という驚きが、ゆっくりと広がりつつあった。
 しかしそれを知ってか知らずか、小春は春希を見つめた。
「それと、これは先輩にも「おめでとう」なのかな。残念ながら「連弾」、最終選考には落ちました。それでも選外佳作二篇のうち一篇にはなりましたので、講評もつきますし、いずれ本誌に掲載できるかと思います。それも併せて、編集長から後ほどご挨拶を……なに?」
 ざわめきの高まりに小春は怪訝な顔をした。一方思わぬ吉報を聞いた春希は、存外平静な気分でいる自分に少し驚いていた。
(後になったら気分も変わってくるのかもしれないが、いまの段階では、やっぱり、自分の作品が評価されたことより、橋本さんのこの授賞の方がうれしく感じる、というのは、なんだろうな、俺は編集者頭だってことなんだろうか……今日日編集者兼作家ってあたりまえのことなんだが……。)



[31326] エピローグ
Name: RCL/i8QS0◆17a7a866◆e26df534 ID:fd84a43f
Date: 2021/08/11 15:04
「おーい、北原! こっちこっち!」
 ようやっとのことで入国ゲートを抜け、重いスーツケースを転がしながらロビーに向かう春希が懐かしい声に振り返ると、向こう側に伸びあがって両手を大きく振る小柄な女性の姿があった。
「麻理さん――いや支社長! わざわざありがとうございます! ――おいほらかずさ、開桜社アメリカの風岡さんだ。」
と妻を振り返ると、かずさは目立ち始めたお腹を突き出すようにして、スーツケースの上にちょこんとすわり、ひと休みを決め込んでいた。娘たちはどうしたのか、と頭を巡らしたが、姿は見えなかった。夫の怪訝な顔に気づいて、かずさは大儀そうに、
「ああ、あの子たちならトイレだとさ……場所はわかるからって、二人だけで走って行っちまった。あたしはこの通り、ちょっと追っかけられないから……あ、風岡さーん、お久しぶりでーす。今日はわざわざありがとうございまーす……。」
とのんびりした口調で返すものだから、春希は焦った。
「おいおい、ダメだよ、ここはアメリカなんだ。ニューヨーク州だと6歳以下の子どもは一人にしちゃダメなんだぞ。春華は9歳だけど雪音は7歳、かなりぎりぎりだ……ちょっとここで待ってろ、あそこのトイレだな、俺が迎えに行く――。」
 そこにしびれを切らしたのか、麻理の方からこちらに駆け寄ってきた。見ると、一緒に大柄なアジア系の男性もやってくる。
「いやーほんとよく来たなあ北原! ――冬馬さん、ご無沙汰しております、風岡です。ステーツにようこそ。大丈夫、今日は車も用意しましたので、ご安心ください。ニュージャージーまでまっすぐお連れしますよ……ええと、お子さんたちもお連れと伺ったんですが?」
「ありがとうございます麻理さん、子どもたちですが、すぐに連れ戻してきますから、ちょっとお待ちください……。」
 あわてて春希が言うと、麻理は眼をパチクリさせてからにっこりと、
「わかった北原、じゃあ奥様と荷物の方は、こちらに任せてくれ。」
と返して、傍らの大男を振り返った。
「じゃあマイク、頼むわね。」

 大きなRVの後部座席に北原一家四人、運転席には麻理の「ボーイフレンド」だというマイク、助手席には麻理、という一行は、ケネディ国際空港からそのままニューヨーク市を横断、ハドソン川を渡ってニュージャージー州に入り、一家の落ち着き先である大学町へと向かっていた。最初は初めての異国にはしゃいでいた子どもたちだが、長旅の疲れが出たのか、州境を超えたあたりで眠ってしまった。
「そうですか、たしか大学にはヴィジターとして1年間、ですね……?」
麻理の問いかけに、
「最低1年、ということです……。学生向けに授業や、大学関係のオケとの共演とかすれば、延長もあります……実際このお腹ですから、たった1年じゃろくなことはできませんし、大学以外にも、ジュリアードとかにも顔をつなぎますし、こちらでの活動拠点を作るつもりで、長い目でやっていこうと思います。」
とかずさは答えた。
「なるほど、実際には2年以上の長期戦で、しかも出産・子育てをしながら、ということですか。そのために北原、おまえもすっぱり会社を辞めてきたというわけだな……ずいぶん思い切ったことをするものだとは思ったが。」
「はい、社の方ではそちらの支社への出向・転籍という形もある、といろいろご提案やご配慮をいただいたんですが、はっきりした予定も立てられませんし、ここはいったん、きっぱりと退社した方がよい、と判断しました。妻の帯同家族という形で、とりあえずヴィザはおりましたし、しばらくは主夫とマネージャーを軸にしようかと思っています……いえ、もちろん風岡さんの――支社のご配慮はありがたく承ります。ニューヨークも近いですし、単発の仕事があれば、可能な限り請け負いますので。」
 春希の言葉に麻理は助手席から振り返って、
「ああ、当てにしているぞ。……なに、もし困ったら、こっちで正式にエディターとしていつでも雇ってやる。日本に戻るとなっても、どうせあっちから「戻ってこないか」と言ってくるに決まってるしな。奥様のことを優先するんだったら、とりあえず辞めて正解だ。」
と笑った。

 ――結局、当初のシモーヌの思惑通り、かずさは橋本健二の後を襲う形で渡米、留学することとなった。
 あの受賞後の橋本は文化庁の資金が終わった後も、講師を引き受けて更に大学の滞在を伸ばし、その間北米を中心にツアーも展開したが、延長は一年で帰国することとなった。そしてそのあとの枠には橋本やシモーヌの推薦もあり、冬馬かずさが早々に内定した。
 ところがちょうどその内定の前後に、かずさの妊娠が判明したのである。
 もとより産まないという選択肢はなかった。となれば問題は、渡米をどうするか、であった。この機会を逃してしまえば、少なくともこの大学についてはチャンスはなくなってしまう。もちろん他にも、留学の機会は長期的に見ればいくらでもあるといえばある。かずさのホームグラウンドはむしろ欧州で、冬馬オフィスウィーン事務所も健在なのだから、北米にこだわる理由もなかった。
 だがかずさは、あえてこの時期での渡米を選んだ。
「別にシモーヌ先生や橋本さんの顔を立てるためじゃない。子どもだってもちろん、日本で産んだ方が楽には決まってる。保育園だっていくら「日本死ね」とはいえそもそもアメリカには公営の保育がない。ベビーシッターに大枚払うしかない。日本にいれば小木曽のお義母さんも、北原のお義母さんも助けてくれる。」
「そうねえ、私もいるし。」
と口をはさんだ曜子をきっぱり無視してかずさは続けた。
「それに子育てにしても、大学に、しかも学生としてじゃなく行くのも、どっちもあたしには初めてのことだ。アメリカだって知らない土地だ。新しいことを一度に二つも三つもやるのは危険だ、というのは当然だよ。春華と雪音にも大変な思いをさせると思う。」
「それでも、行きたいんだな。お膳立てがあったからというんじゃなく、おまえの意志で。」
 念を押す春希に、かずさはかぶりを振った。
「うん。この話も元をたどれば橋本さんの渡米前にさかのぼるわけで、もう結構古い話だ。あの時は母さんのことも、おまえたちのこともあったから、正直全然乗り気じゃなかった。でも今は違う。母さんも新しい薬が効いて、ほぼ寛解だし、ありがたいことに先生もずっとついていてくれる。そしておまえたちはついてきてくれるっていう……なら、あたしも三十を回ったんだし、ここらで新しいことに挑戦したいんだ――でもおまえ、本当にいいのか? 会社とか、物書きの方は――?」
「会社は会社だ。辞めるのはこちらの自由だ。物書きは、それこそ一人でできる。お義母さんへのインタビューもオンラインで続けるさ。なに、ちゃんと主夫をやって、おまえたちの面倒を見てやるさ。――子どもたちだって、海外を経験するなら、むしろ早い方がいいだろう?」
 軽い調子で宜う春希に、かずさはやや意外そうな顔をした。
「そうか――ありがとう。正直、反対はされないにしても、もうちょっとあれこれ言われるかと思ったよ。「もう少しよく考えろ」とかさ。」
 春希は少し上を向いて嘆息して、それから応えた。
「……正直な、うれしいんだ。変なこと言うけど、おまえ、もうすっかり大人になったんだな――って。」
「えー、なんだよそれ?」
 膨れるかずさに笑って、春希は続けた。
「いやごめん、別に今までのおまえがガキっぽかったとか、そういう意味じゃないんだ。悪い意味じゃなく、つまり「孤独」っていう意味ではなしに、たった一人で立って、やっていくんだな、って――それならこっちは止めたりケチをつけたりするわけにはいかない、応援するしかないじゃないか、って、そう思ったんだ。」
「――あたしの方こそ、おまえの邪魔になってないか?」
「反対だよ。むしろ俺の方こそ、「俺も一人で頑張らないと」って覚悟ができた。ありがとうな。――さて、となるとこれからいろいろ山のような雑用が必要になるけど、そっちの覚悟はできてるのか……?」
「ま、まあ……それは、ぼちぼち、な?」

 かくして、まだ残暑も厳しい初秋、北原一家はアメリカ合衆国に降り立ったわけである。大学へのヴィジティング・アーティストたる冬馬かずさと、その帯同家族として。しかも当のかずさは、あと三月もすれば産まれてくるであろう赤子を胎内に宿したまま。
(さて、これからどうなることやら……?)
 インターステートウェイをひた走るRVの窓から青空を見上げて、かずさはひとりごちた。と、久しぶりに雪菜の声が聞こえた。
(どうにでもなるよ、がんばれ、かずさ!)
 はっとして春希の方を振り向くと、娘たちとともにすやすやと寝入っていた。
(春希くんがいてくれれば、どうにだってなるよ。がんばれ!)
 思わず知らず笑みがこぼれてかずさは、目立ってきたお腹を軽く撫でさすった。
=================
 だらだら続けても仕方がないので、ここで締めくくりとします。
 きっとこの二人は、もうあれこれにこだわりのない普通の大人として、着実に歩いていけるでしょう。


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