冬の河川敷近く、酒臭い香り漂わせる男に私は軟派された。
「やあ、そこな兄さん。ちょいとおいらに一献付き合わんかね?」
「いや、遠慮させて頂こう。先客がいるものでね」
私はその誘いの声にすげなく返し、すたすた足早に歩き去った。
# # #
「その筈だというのに、どうして私は貴方と杯を交わしているのだろうか?」
「なーに、細かいこたぁ気にするもんじゃない。酒と一緒に飲み下しちまえば、それまでのもんよ」
隣でがっぱがっぱと鯨飲を繰り返す男を見れば、強ちその言葉も間違ってはいなさそうだ。端から何も考えていないという可能性も無きにしも非ずである。
しかし、私は何故にこの場にいるのだろうか?
私は確かに男の誘いを断り、後輩が待っているであろう見た目ボロいアパートの一室を目指していた筈なのに、気が付けば屋台の椅子に腰掛け、おでんを突っつき、杯を呷っている。
男の話術に誑らし込まれたか、はたまた無理矢理に連れ込まれたか。とんと経緯が思い出せぬ私は首を捻るばかりだが、男の言うように酒を呷れば次第にどうでもよくなった。
寒空を歩き周り冷え切っていた私の身体が、ぽっかぽっかと芯まで温まる。
「はて、私は何か大事な事を忘れているような……」
「はっは、そんな簡単に忘れちまうんだから大した事じゃあねーさ」
「そうだったろうか……」
言い知れない不安が私の心中に巣を張ろうとする。が、流し込まれた熱燗の熱で糸は解れ溶けてしまう。私の中の不安は熱と酒に弱いようだった。
不安が消えると思い出されたのが、自分が元々から忘れっぽかったり、物事をあまり深く考えようとしない浅慮な性格であるという事だ。
いや、大事な事を思い出せたと胃にアルコールを流し込む作業に従事する。こうすればもっと良い事が思い出されるやもしれぬから。
「おお、兄さん。なかなか良い飲みっぷりじゃあないか」
「そうでしょうか?」
「おうよ! 鬼であるおいらが言うんだから誇っていいぜい!」
そう言って自称鬼だという男はがははと豪快に笑い、一升瓶の中身がまるで水であるかのようにらっぱ飲みする。
ラベルには『鬼殺し』と書かれているが、名前負けもいいところだ。殺せていないではないか。
「そこでだ、兄さんよ」
「何でしょうか、鬼さんよ」
「一つおいらと飲み比べてはみないか?」
「何ですと?」
死ぬ予兆を一切見せぬ鬼男は、あろうことか私に飲み比べをしようなどと言ってきた。
これに困ったのは当然私である。私は酒を嗜みはするものの、一人で静かに飲むのを好いている。飲み比べなどは阿呆のすることだと常々思うような人間だ。
それに、多少は酒の強さに自負があるとはいえ、無類の酒好き・酒豪で名を馳せる鬼を相手に飲み勝負などは無謀にも程があるだろう。
「悪いがお断りする。それは貴方の独壇場であろう。私では相手にならん。比べをするのなら同じ鬼を相手にしたらどうだい」
「したいのは山々なんだが、時代が時代っていうのかねぇ。どいつもこいつもおいらより先に逝っちまってよぉ、陸(ろく)に比べ合いも出来ねえのよ」
「ふむ、そうか。それは残念だ、悲しい事だな。だが、それは私が巻き込まれる理由になりはしない」
「冷てえなぁ、兄さん。安心しろい、俺はまだ下戸な方だからよ!」
「はっ……」
全くこれっぽっちも笑えぬ冗談だ。
鬼にとっての下戸など、人間からすれば十分な蟒蛇(うわばみ)に違いない。下手に付き合い、酔い潰れたところをその大口で飲み込まれては堪らない。
なので、私は再度お断りの言葉を口にする。だというのに、
「申し訳ないが、その勝負は受け入れられない」
「……何でぇ、ちっとは骨のある人間かと思ったら、ただの腰抜け野郎かい」
「……何だって?」
鬼のあからさまに失望したという感じの声音に、私の頬がひくっと引き攣った。
その反応が嬉しかったのか、鬼男は口が裂けんばかりに凄絶な笑みを浮かべて、私を挑発する言葉を投げ掛けてくる。
「お、怒ったかい? 自分は腰抜けなんかじゃあないと言い張りたいかい? だが、それは事実。事実じゃあないか。勝負を前にして逃げ出したんだ、それは腰抜けだ。腰抜け以外の何者でもねぇ。
兄さん、おいらが鬼だって言ったから勝負を受けないんだろう? 自分が鬼に敵う訳がないって勝手に思ってんだろう? それはいけねえ。それは頭のかってえ人間の考える事だ。
勝負なんざ何が起きるか分かったもんじゃねえ。偶然に偶然が重なって格下が格上に勝つなんてざらにあるもんよ。
この飲み比べだってそうだ、屋台のおやっさんが耄碌して水道水を出すやもしんねえからな……っと、冗談だっておやっさん、冗談」
ぴくっと眉尻を上げる屋台の店主に手を上げ、軽く謝る鬼男。しかし、次の瞬間には顔を憤怒に染め、盛大に声を荒げた。
「だからなぁ、逃げるが勝ち! 三十六計逃げるにしかず!? おいらはこんな言葉が大嫌いだっ!
あんなのはただの負け犬の遠吠えだ! 向かって勝ち取ってこその勝利だろう! それ以外の勝利など名ばかりの恥と知れぃっ!!
何時から逃げを知った? 何時から逃げを選んだ!? 何故、戦わない? どうして勝負を避けるんだっ!
人も、神も、霊も、妖怪もっ! 向かってくるということをしやがらねぇ! 鬼はそんなことしないっ! 絶対に、絶対にだっ!!
……向かって来いよ。理由も何も要らん、ただ向かって来てくれ! おいらたち鬼は逃げることを許されない生き霊よぉ! 自分では死ねぬ、他者に殺される運命の化け物よぉっ!!
殺してくれ! 箔なら幾らでもくれてやるさ。だから、頼むから逃げてくれるな。それこそが鬼にとって何よりの屈辱! おいらが未だ死にきれぬただ一つの理由よぉっ!!」
鬼男は長い独白を終えると、先の憤怒に満ちた形相から一転、酷く澄んだ瞳で私を見た。その瞳に浮かぶ深き感情は、私ごときでは読み取れそうにない。
「もう一度だけ言うぞ、兄さん。おいらと飲み比べをしな。いいか? これはお願いじゃあねえ、命令だ。でないと、兄さんの身体を頭からぱっくりと……」
「ふぅむ、気が変わった。その勝負、受けてたとうではありませんか」
「喰らってぇ…………、本当かい、そりゃあ?」
「私は冗談は言っても、嘘は吐かないのでね」
まぁ、その冗談も笑いを取れた試しも無いのだが。
「本当の本当に?」
「くどい。鬼を相手に嘘を吐くなんて自殺行為、私には出来ないさ」
「そうかい……。そうかい、そりゃあ、ありがてえな、ははっ……」
「嬉しそうですなぁ」
「そりゃあそうよっ! 今までの奴等は俺が鬼だと言って本性を表したらみーんな逃げちまいやがったからなぁ」
「逃げた者は頭から喰らうのではなかったのでは?」
「喰らっても良かったんだが、いざ逃げられると冷めちまって喰らう気にもならなんだわ」
「はぁ、なるほど」
余程この鬼男、真剣勝負というやつに飢えているらしい。一気に機嫌を良くした彼は、その調子のままで私に話し掛ける。
「まぁ、兄さんは久し振りの酒の相手だ。おいらに負けても五体満足で帰してやるよ」
「ほぅ? 私が負ける? 五体満足で帰してやる? 貴方は何を言っているのですか」
鬼男の顔に困惑が浮かぶ。
「……あ? 兄さんこそ何を言って……」
「私は勝負を受けると言ったのだ。ならば、勝ちを狙いにいくのは当然でしょう」
「兄さん、あんた……、鬼のおいらに飲みで勝てると思って……」
「私は腰抜け呼ばわりされて黙っていられる程に良い子ではありませんので」
今になって思い出されたが、どうやら私は存外に負けず嫌いらしい。
「ははぁ……。なら、負けた時は当然」
「私の身体を喰らうとよろしい。その代わり、貴方も気を抜かないことだな。何故なら、」
これから行われるのは真剣勝負。生死を懸けた戦いなのだから。
「くくっ……、がはっはっはっはー!!
良いっ! 良いぞ人間っ! それこそがおいらの求めていた勝負だ! くうっ、血沸く血沸くっ! 兄さん、おいらの目に狂いはなかった! あんたは最高だっ!」
「ふむ、鬼にそうまで言われるとは。誉れと受け取ってよろしいか?」
「応とも! 末代にまで語り継ぐべき最高の誉れさぁ!」
「では、何としても生きて帰らなくてはいけない。その鬼に飲みで勝ったという箔も付けてな」
「がははっ! 黄泉路の先陣を飾るにも十分過ぎる誉れだろうよぉっ!」
「私はまだ死なんよ。何故ならこの勝負、私が勝つのだからねぇ」
「抜かせぃ!」
そういう鬼男の顔は、にっこにっこと満面の笑みを浮かべている。
嬉しいのだろう。私のような普通の人間が相手をするというだけなのに、明らかな役者不足だというのに。
しかし、それならば私も全力で応えなければならない。
それが、人も鬼も同様の境界に立っているこの場での礼儀。人妖神霊全ての代表として、己の名誉の為にも、この死にたがりを討ってやろうではないか。
現状は正に背水の陣。逃げは当然、負けることも許されない。だが、人間とは窮してこそ力を発揮する生き物。
逃げを捨てた人間の力、とくと見せてくれようではないか。
「「いざ!」」
そして、私たちは並々と注がれた杯を同時に呷った。
♯ ♯ ♯
「……へぇ、それが原因で可愛い後輩との約束を反故にしたと?」
「うぅむ……。そう、なるなぁ……」
「じゃーあー、先輩の中では可愛い可愛い後輩と熱ーい夜を過ごすよりも、偶然夜道で出会ったおっさんと暑苦しく酒臭い夜を過ごす方が大事だったという訳ですか」
「そう、なるのか……?」
「肯定すんなやーっ!!」
あ痛っ、あまり大声を上げてくれるな、自称可愛い私の後輩よ。近所迷惑だし、私の頭に響いてならん。
「はんっ! 愛しい後輩を蔑ろにした罰です、報いです。身から出た錆、因果応報、自業自得!」
「だからそれは何度も謝ったじゃあないか」
「謝られても許せない時があるんです! まったく、私に何も言ってくれないんですから……。新手の放置プレイかとちょっと期待してたんですよ!?」
「いや、その発想はおかしい」
確かに連絡の一つも寄越さなかったのは私の責任ではあるが、その発想の飛躍は間違っていると思うのだ。
「まぁ、相手がおっさんだというのなら許してあげます」
「君は一体私の何なんだ」
「先輩の妻です」
「そんな面倒な間柄になった覚えはない」
「じゃあ、通い妻です」
「根本的に変わってないではないか。ちなみに聞くが、おっさん以外だったら私は飲みも許されないのか?」
「雌だったら例外無く許しません。刃傷沙汰もあり得ますね」
あり得ますね、ではない。私は自分の知り合いから犯罪者が出るなど御免だぞ。あなおそろしや。
「はぁ、もう……。折角、鍋を作って待っていたというのに冷めてしまったじゃないですか」
「それは申し訳ないことをしたと思っている。だが、私は君に鍋を作ってくれと言った覚えはないのだが?」
「そりゃそうですよ。私が勝手に作ったんですから」
「それと、勝手に部屋に入って良いと言った覚えもない。どうやって入ったんだ」
「合鍵は通い妻の必需品です!」
「合鍵を渡した覚えも無いぞ?」
「そんなっ! 先輩は私と過ごしたあの一夜を忘れてしまったと言うんですか!? 激しく愛し合った後に『これを君に……』って言ってくれたじゃないですかぁっ!」
「私の記憶の中にそんな一夜の出来事は欠片も見当たらんなぁ。何処で仕入れたかは知らんが、返したまえ」
『嫌ぁっ!』と抵抗を示す後輩から合鍵を没収する。勝手に部屋の中を物色されては堪ったものではない。
しかし、合鍵など何時の間に手に入れていたのか。手渡していそうな人物自体は予想出来るので、今度会った時は少し灸を据えてやらねばなるまい。
「うっ、ぐすっ、ひっく……。私と先輩を繋ぐ架け橋が絶たれたぁ……」
「一方的な繋がりだったんだ。相手から橋を落とされても仕方あるまい」
「先輩の悪魔ぁ、人でなしぃ……」
「何とでも言うがいい」
「ううっ、私は傷心中なんですからねぇ……? こうなったら、もう先輩の私物で慰めるしかないじゃないっ!」
そう言って、我が後輩は床へ無造作に放置されていたそれを掴み取った。
「うほっ! せ、先輩はこんなデンジャラスな柄をお好みでしたっけ!?」
「まるで私の物を見たことがあるかのような言い振りだな。どうでもいいが、それをどうするつもりだね」
「決まっているじゃあないですか! 嗅ぐんですよっ!!」
そう言って彼女は頭を大きく振り被り、黄色と黒の虎柄トランクスへと突貫した。
「うっひょぉぉおぉぉおぉっ!! 先輩のカラフルパンツから先輩の匂いが私の脳へダイレクトにひゃっほぉぉぉいっ!! 何だこれ!? パンツか、先輩のパンツかぁっ!!
シュールストレミングより濃厚で、犬の肉球の様に香ばしい芳香に私の思考回路はもうショート寸前ですっ!! 手が自然と下に行っちゃうのも仕方がねえっ!!
うふふ……、死ねる! 今の私は幸せ過ぎてこの匂いだけで死ねるわっ! 万歳っ! 虎柄縞々パンツばんざーいっ!」
「ふむ、非常に頭の痛くなるコメントを並べ立てているところ申し訳ない。そのトランクスについてなんだが……」
「返しませんよ!? 先輩が私に操を委ねてくれない限り返さないんですからっ!」
「リスクが大き過ぎるな。いやなに、それを君が本当に欲しいと言うのなら譲ってやろうという話だ」
「マジですか!? 前は使い捨てリップだってくれなかったというのに!?」
「君は齧り付こうとしていたからな、当然の対処だ。まぁ、欲しいのならどうぞ」
「……きゃっほーいっ! 先輩のパンツ、合法的にゲットだぜっ!!」
「よくもまぁ下着一つで喜べるものだ。……まぁ、それは私の物ではないから別に構わんのだがね」
「うへへ、うへへ……、へ?」
トランクスへ頬擦りしていた後輩の顔が途端に凍りついた。
「へ? このおパンツ、先輩のじゃなかったんですか?」
「私がそんな趣味の悪い下着を履くわけがないじゃないか」
「じゃ、じゃあ、何でこんな物が先輩の部屋に?」
「いや、さっき私が鬼と飲み比べをしたという話をしただろう? それの戦利品だそうだ」
結局、あの鬼男との勝負は私の勝ちで終わったらしい。
らしいというのは、私も意識が飛んでいてその時の記憶が無いからだ。目が覚めたら自分の物ではないトランクスを握って驚いていた私に、飲み屋の店主がそう教えてくれた。
脱ぎたてだったらしい。生暖かい感触に即刻捨ててやろうとも思ったが、何となく罰当たりな様で持ち帰ってしまった。
しかし、当然必要なく、どう処理しようか悩んでいたのだが、貰い手があるのなら喜んで譲ってあげるべきだろう。
私がそう結論付けて満足していると、おもむろに後輩が立ち上がった。
彼女は能面の様な無表情を張り付けて、そのまま台所の方へと向かう。そして、数瞬遅れて水っぽい『何か』が流しを叩く音が響いた。反射で耳を塞ぐ私。
ついさっきよりも顔を青くして戻ってきた後輩は、釣られて無表情になっていた私を問い詰めた。
「どうして、あんな呪物を、持ち帰ったんですか……っ!」
「いや、捨てたら何か祟られそうでな?」
「そのお蔭で私が酷い目に遭いましたよ! これは祟り! 間違いなく祟りですよっ!!」
「鬼の下着は縁起物らしいが?」
「迷信だーっ!!」
雄叫びを上げてそれを破きにかかる後輩。だが、流石は丈夫と謳われるだけあり、鋏を使っても切れやしない。
「くっ、忌々しいおパンツめ……っ!」
「君の勝手な自爆だと思うがねぇ。……すまないが、水を一杯持ってきてもらえないか? 話していたらまた酔いが回ってきた」
「ううっ、先輩の頼みなら仕方がないですね。大人しく待ってるといいです」
言われずとも自分の足で水を持ってくることさえ億劫な程に酔いが回っていて、私は堪らずその場に寝転がった。
身体が自分の物ではないかのように重い。一体どれだけのアルコールを摂取したのだろう?
鬼に勝ってしまうぐらいなのだから生半可な量ではあるまい。急性アルコール中毒を起こしていないのが奇跡なのかもしれない。
「お待たせしましたー。って先輩、もしかして、かなり辛い状態だったりします?」
「……うーむ、辛い、なぁ」
コップを片手に問い掛けてくる後輩に、若干胡乱に言葉を返す。口を開くのも少々辛い。
これは早く水を摂らねばと私は後輩の方を見る。すると、彼女はチェシャ猫の様な笑顔を浮かべ、私を見ていた。
額に汗が浮く。体温の上昇による自然な発汗ではなく、緊張による冷や汗だ。
もしかしなくても、私は今、非常に拙い状況にいるのではないだろうか?
「そうですかー、先輩は水を飲むのも辛いんですかー」
「いや、そこまでは……」
「しょうがないなー、しょうがないなー。しょうがないから……」
そして、後輩はコップの水を一口含み、
「わらひがのまひぇてあげまふね(私が飲ませてあげますね)?」
その瑞々しい唇を、私の唇へと重ねてきた。
重なり合ったのも僅か、後輩の舌が強引に私の唇を、歯を割って入ってきた。突然の事に呆然とする私に、抵抗する力は皆無に等しい。
同時に私の口内に後輩の口を経由して水が流れてくる。水は少々どろっとしていて、それは彼女の唾液と混ざり合った証拠だった。
「ふむっ、んっ……」
攪拌(かくはん)されたそれをゆっくり胃に流すと、後輩は嬉しそうな顔をしてコップの中身を一口含み、また私の顔に覆い被さってくる。
私の口内を存分に荒らし回る舌と、上半身へ否が応でも伝わってくる『女性らしさ』。それに酒の酔いが重なったことで、私の意識は蕩け切ってしまう。
「んー、はぁっ……」
コップの中身を全て移し終えると、先の青い顔から一転、後輩は実に艶々とした顔になっていた。
私が荒く息をしているのを横目に、大抵の男なら堕としかねない艶然とした様子でこちらを見遣る彼女。
「むっふふふふーっ。どうでした? 愛らしい後輩の口移しで飲む水のお・あ・じ・は?」
「……少し、しょっぱかったかなぁ」
「ああ、きっとファーストキスはレモンの味ってやつですね!」
「いや、おそらく君が先程出した吐瀉ぶ……」
「いっやー、ようやく先輩の唇を奪えました! 先輩は普段からガードが堅過ぎですからね! 今日みたいにもっと緩々になって良いんですよ!? むしろ、お願いします!!」
「絶対に、緩めてやるものか……」
一生の不覚である。何やら駄々を捏ねる後輩を無視して、もう二度と飲み比べなどしないと心に誓う。
「ううむっ……」
「どうしました、先輩? もしかして、おねむですか?」
「人を子供扱いするんじゃあない。でも、そうだな……。今は、酷く眠い……」
「そうですか。なら、私の超低反発性膝枕でお休みになるといいですよ」
「……襲わないな?」
これだけは聞かずして眠りになど就けない。下手に隙を見せた結果がさっきのあれなのだから。
「失敬な、寝ている人を襲うような真似はしませんよ」
「ほぼ似たような状況で人の唇を奪った奴がよく言う……」
「あれはあれ、これはこれです」
「もういい、君に何を言っても無駄だと分かったから。私は寝る……」
「はい。お休みなさい、先輩……」
そうして、後輩が私の髪を梳く感触を感じながら、私は夢の世界へと旅立った。
# # #
翌日、私は目が覚めると後輩の姿は既になかった。
真っ先に着衣の確認をする辺り、私が後輩をどう思っているかがよく分かるだろう。特に乱れは見当たらなかったので、私の貞操が守られたことは確かだろう。
しかし、何故か部屋の壁にあの虎柄のトランクスが飾ってあった。どういう事だと思っていると、後輩が置いていったであろう手紙にその理由が記されていた。
曰く、
『私と先輩の仲が進展したのも、きっとあの鬼さんのパンツのお蔭に違いありません! お部屋に飾ることでほら、鬼は内、私と先輩の福も内って訳ですよ! 素晴らしいっ!!』
との事らしいが、あまりにも阿呆らしかったので即刻取り外した。祟りだなんだと言っておきながら都合の良い後輩である。
そして、次いでテーブルの上にでんと居座る一升瓶の姿を見て、更に私の気分は沈んだ。今は調理酒ですら同じ気分になれるだろう。
誰が好意で持ってきたか知らぬが、いい迷惑である。私はそっと流しの下へ直しておいた。捨てるのは勿体無いので、何時かもっと気分の良い時に誰かと飲むとしよう。
酒は飲んでも呑まれるな。これ程まで為になる教訓は、私の人生においてそうはないだろう。