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[31437] 【チラシの裏から】日々是ハレケ也。【日常・非日常系】
Name: オレンジ◆7a0b2894 ID:99002e0f
Date: 2012/05/09 20:40
あらすじ
持って生まれた厄介な性、青年の周りには奇人変人曲者ばかりが寄って来る。見た目ボロなアパートを舞台に、彼は今日もハレ(非日常)とケ(日常)を行き来する――そんなお話。
小説家になろうにも投稿しています。

チラシの裏からオリジナル板に移動しました。初めの三話に多少の加筆・修正を行っています。

投稿履歴
第1話 2月5日投稿
第2話 2月16日投稿
第3話 2月29日投稿
第4話 5月9日投稿



[31437] 第1話 私と鬼と後輩によるハレケな日
Name: オレンジ◆7a0b2894 ID:99002e0f
Date: 2012/05/09 15:11
 冬の河川敷近く、酒臭い香り漂わせる男に私は軟派された。

「やあ、そこな兄さん。ちょいとおいらに一献付き合わんかね?」
「いや、遠慮させて頂こう。先客がいるものでね」

 私はその誘いの声にすげなく返し、すたすた足早に歩き去った。



 # # #



「その筈だというのに、どうして私は貴方と杯を交わしているのだろうか?」
「なーに、細かいこたぁ気にするもんじゃない。酒と一緒に飲み下しちまえば、それまでのもんよ」

 隣でがっぱがっぱと鯨飲を繰り返す男を見れば、強ちその言葉も間違ってはいなさそうだ。端から何も考えていないという可能性も無きにしも非ずである。
 しかし、私は何故にこの場にいるのだろうか?
 私は確かに男の誘いを断り、後輩が待っているであろう見た目ボロいアパートの一室を目指していた筈なのに、気が付けば屋台の椅子に腰掛け、おでんを突っつき、杯を呷っている。
 男の話術に誑らし込まれたか、はたまた無理矢理に連れ込まれたか。とんと経緯が思い出せぬ私は首を捻るばかりだが、男の言うように酒を呷れば次第にどうでもよくなった。
 寒空を歩き周り冷え切っていた私の身体が、ぽっかぽっかと芯まで温まる。

「はて、私は何か大事な事を忘れているような……」
「はっは、そんな簡単に忘れちまうんだから大した事じゃあねーさ」
「そうだったろうか……」

 言い知れない不安が私の心中に巣を張ろうとする。が、流し込まれた熱燗の熱で糸は解れ溶けてしまう。私の中の不安は熱と酒に弱いようだった。
 不安が消えると思い出されたのが、自分が元々から忘れっぽかったり、物事をあまり深く考えようとしない浅慮な性格であるという事だ。
 いや、大事な事を思い出せたと胃にアルコールを流し込む作業に従事する。こうすればもっと良い事が思い出されるやもしれぬから。

「おお、兄さん。なかなか良い飲みっぷりじゃあないか」
「そうでしょうか?」
「おうよ! 鬼であるおいらが言うんだから誇っていいぜい!」

 そう言って自称鬼だという男はがははと豪快に笑い、一升瓶の中身がまるで水であるかのようにらっぱ飲みする。
 ラベルには『鬼殺し』と書かれているが、名前負けもいいところだ。殺せていないではないか。

「そこでだ、兄さんよ」
「何でしょうか、鬼さんよ」
「一つおいらと飲み比べてはみないか?」
「何ですと?」

 死ぬ予兆を一切見せぬ鬼男は、あろうことか私に飲み比べをしようなどと言ってきた。
 これに困ったのは当然私である。私は酒を嗜みはするものの、一人で静かに飲むのを好いている。飲み比べなどは阿呆のすることだと常々思うような人間だ。
 それに、多少は酒の強さに自負があるとはいえ、無類の酒好き・酒豪で名を馳せる鬼を相手に飲み勝負などは無謀にも程があるだろう。

「悪いがお断りする。それは貴方の独壇場であろう。私では相手にならん。比べをするのなら同じ鬼を相手にしたらどうだい」
「したいのは山々なんだが、時代が時代っていうのかねぇ。どいつもこいつもおいらより先に逝っちまってよぉ、陸(ろく)に比べ合いも出来ねえのよ」
「ふむ、そうか。それは残念だ、悲しい事だな。だが、それは私が巻き込まれる理由になりはしない」
「冷てえなぁ、兄さん。安心しろい、俺はまだ下戸な方だからよ!」
「はっ……」

 全くこれっぽっちも笑えぬ冗談だ。
 鬼にとっての下戸など、人間からすれば十分な蟒蛇(うわばみ)に違いない。下手に付き合い、酔い潰れたところをその大口で飲み込まれては堪らない。
 なので、私は再度お断りの言葉を口にする。だというのに、

「申し訳ないが、その勝負は受け入れられない」
「……何でぇ、ちっとは骨のある人間かと思ったら、ただの腰抜け野郎かい」
「……何だって?」

 鬼のあからさまに失望したという感じの声音に、私の頬がひくっと引き攣った。
 その反応が嬉しかったのか、鬼男は口が裂けんばかりに凄絶な笑みを浮かべて、私を挑発する言葉を投げ掛けてくる。

「お、怒ったかい? 自分は腰抜けなんかじゃあないと言い張りたいかい? だが、それは事実。事実じゃあないか。勝負を前にして逃げ出したんだ、それは腰抜けだ。腰抜け以外の何者でもねぇ。
 兄さん、おいらが鬼だって言ったから勝負を受けないんだろう? 自分が鬼に敵う訳がないって勝手に思ってんだろう? それはいけねえ。それは頭のかってえ人間の考える事だ。
 勝負なんざ何が起きるか分かったもんじゃねえ。偶然に偶然が重なって格下が格上に勝つなんてざらにあるもんよ。
 この飲み比べだってそうだ、屋台のおやっさんが耄碌して水道水を出すやもしんねえからな……っと、冗談だっておやっさん、冗談」

 ぴくっと眉尻を上げる屋台の店主に手を上げ、軽く謝る鬼男。しかし、次の瞬間には顔を憤怒に染め、盛大に声を荒げた。

「だからなぁ、逃げるが勝ち! 三十六計逃げるにしかず!? おいらはこんな言葉が大嫌いだっ!
 あんなのはただの負け犬の遠吠えだ! 向かって勝ち取ってこその勝利だろう! それ以外の勝利など名ばかりの恥と知れぃっ!!
 何時から逃げを知った? 何時から逃げを選んだ!? 何故、戦わない? どうして勝負を避けるんだっ!
 人も、神も、霊も、妖怪もっ! 向かってくるということをしやがらねぇ! 鬼はそんなことしないっ! 絶対に、絶対にだっ!!
 ……向かって来いよ。理由も何も要らん、ただ向かって来てくれ! おいらたち鬼は逃げることを許されない生き霊よぉ! 自分では死ねぬ、他者に殺される運命の化け物よぉっ!!
 殺してくれ! 箔なら幾らでもくれてやるさ。だから、頼むから逃げてくれるな。それこそが鬼にとって何よりの屈辱! おいらが未だ死にきれぬただ一つの理由よぉっ!!」

 鬼男は長い独白を終えると、先の憤怒に満ちた形相から一転、酷く澄んだ瞳で私を見た。その瞳に浮かぶ深き感情は、私ごときでは読み取れそうにない。

「もう一度だけ言うぞ、兄さん。おいらと飲み比べをしな。いいか? これはお願いじゃあねえ、命令だ。でないと、兄さんの身体を頭からぱっくりと……」
「ふぅむ、気が変わった。その勝負、受けてたとうではありませんか」
「喰らってぇ…………、本当かい、そりゃあ?」
「私は冗談は言っても、嘘は吐かないのでね」

 まぁ、その冗談も笑いを取れた試しも無いのだが。

「本当の本当に?」
「くどい。鬼を相手に嘘を吐くなんて自殺行為、私には出来ないさ」
「そうかい……。そうかい、そりゃあ、ありがてえな、ははっ……」
「嬉しそうですなぁ」
「そりゃあそうよっ! 今までの奴等は俺が鬼だと言って本性を表したらみーんな逃げちまいやがったからなぁ」
「逃げた者は頭から喰らうのではなかったのでは?」
「喰らっても良かったんだが、いざ逃げられると冷めちまって喰らう気にもならなんだわ」
「はぁ、なるほど」

 余程この鬼男、真剣勝負というやつに飢えているらしい。一気に機嫌を良くした彼は、その調子のままで私に話し掛ける。

「まぁ、兄さんは久し振りの酒の相手だ。おいらに負けても五体満足で帰してやるよ」
「ほぅ? 私が負ける? 五体満足で帰してやる? 貴方は何を言っているのですか」

 鬼男の顔に困惑が浮かぶ。

「……あ? 兄さんこそ何を言って……」
「私は勝負を受けると言ったのだ。ならば、勝ちを狙いにいくのは当然でしょう」
「兄さん、あんた……、鬼のおいらに飲みで勝てると思って……」
「私は腰抜け呼ばわりされて黙っていられる程に良い子ではありませんので」

 今になって思い出されたが、どうやら私は存外に負けず嫌いらしい。

「ははぁ……。なら、負けた時は当然」
「私の身体を喰らうとよろしい。その代わり、貴方も気を抜かないことだな。何故なら、」



 これから行われるのは真剣勝負。生死を懸けた戦いなのだから。



「くくっ……、がはっはっはっはー!!
 良いっ! 良いぞ人間っ! それこそがおいらの求めていた勝負だ! くうっ、血沸く血沸くっ! 兄さん、おいらの目に狂いはなかった! あんたは最高だっ!」
「ふむ、鬼にそうまで言われるとは。誉れと受け取ってよろしいか?」
「応とも! 末代にまで語り継ぐべき最高の誉れさぁ!」
「では、何としても生きて帰らなくてはいけない。その鬼に飲みで勝ったという箔も付けてな」
「がははっ! 黄泉路の先陣を飾るにも十分過ぎる誉れだろうよぉっ!」
「私はまだ死なんよ。何故ならこの勝負、私が勝つのだからねぇ」
「抜かせぃ!」

 そういう鬼男の顔は、にっこにっこと満面の笑みを浮かべている。
 嬉しいのだろう。私のような普通の人間が相手をするというだけなのに、明らかな役者不足だというのに。

 しかし、それならば私も全力で応えなければならない。
 それが、人も鬼も同様の境界に立っているこの場での礼儀。人妖神霊全ての代表として、己の名誉の為にも、この死にたがりを討ってやろうではないか。
 現状は正に背水の陣。逃げは当然、負けることも許されない。だが、人間とは窮してこそ力を発揮する生き物。
 逃げを捨てた人間の力、とくと見せてくれようではないか。



「「いざ!」」



 そして、私たちは並々と注がれた杯を同時に呷った。



♯ ♯ ♯



「……へぇ、それが原因で可愛い後輩との約束を反故にしたと?」
「うぅむ……。そう、なるなぁ……」
「じゃーあー、先輩の中では可愛い可愛い後輩と熱ーい夜を過ごすよりも、偶然夜道で出会ったおっさんと暑苦しく酒臭い夜を過ごす方が大事だったという訳ですか」
「そう、なるのか……?」
「肯定すんなやーっ!!」

 あ痛っ、あまり大声を上げてくれるな、自称可愛い私の後輩よ。近所迷惑だし、私の頭に響いてならん。

「はんっ! 愛しい後輩を蔑ろにした罰です、報いです。身から出た錆、因果応報、自業自得!」
「だからそれは何度も謝ったじゃあないか」
「謝られても許せない時があるんです! まったく、私に何も言ってくれないんですから……。新手の放置プレイかとちょっと期待してたんですよ!?」
「いや、その発想はおかしい」

 確かに連絡の一つも寄越さなかったのは私の責任ではあるが、その発想の飛躍は間違っていると思うのだ。

「まぁ、相手がおっさんだというのなら許してあげます」
「君は一体私の何なんだ」
「先輩の妻です」
「そんな面倒な間柄になった覚えはない」
「じゃあ、通い妻です」
「根本的に変わってないではないか。ちなみに聞くが、おっさん以外だったら私は飲みも許されないのか?」
「雌だったら例外無く許しません。刃傷沙汰もあり得ますね」

 あり得ますね、ではない。私は自分の知り合いから犯罪者が出るなど御免だぞ。あなおそろしや。

「はぁ、もう……。折角、鍋を作って待っていたというのに冷めてしまったじゃないですか」
「それは申し訳ないことをしたと思っている。だが、私は君に鍋を作ってくれと言った覚えはないのだが?」
「そりゃそうですよ。私が勝手に作ったんですから」
「それと、勝手に部屋に入って良いと言った覚えもない。どうやって入ったんだ」
「合鍵は通い妻の必需品です!」
「合鍵を渡した覚えも無いぞ?」
「そんなっ! 先輩は私と過ごしたあの一夜を忘れてしまったと言うんですか!? 激しく愛し合った後に『これを君に……』って言ってくれたじゃないですかぁっ!」
「私の記憶の中にそんな一夜の出来事は欠片も見当たらんなぁ。何処で仕入れたかは知らんが、返したまえ」

 『嫌ぁっ!』と抵抗を示す後輩から合鍵を没収する。勝手に部屋の中を物色されては堪ったものではない。
 しかし、合鍵など何時の間に手に入れていたのか。手渡していそうな人物自体は予想出来るので、今度会った時は少し灸を据えてやらねばなるまい。

「うっ、ぐすっ、ひっく……。私と先輩を繋ぐ架け橋が絶たれたぁ……」
「一方的な繋がりだったんだ。相手から橋を落とされても仕方あるまい」
「先輩の悪魔ぁ、人でなしぃ……」
「何とでも言うがいい」
「ううっ、私は傷心中なんですからねぇ……? こうなったら、もう先輩の私物で慰めるしかないじゃないっ!」

 そう言って、我が後輩は床へ無造作に放置されていたそれを掴み取った。

「うほっ! せ、先輩はこんなデンジャラスな柄をお好みでしたっけ!?」
「まるで私の物を見たことがあるかのような言い振りだな。どうでもいいが、それをどうするつもりだね」
「決まっているじゃあないですか! 嗅ぐんですよっ!!」

 そう言って彼女は頭を大きく振り被り、黄色と黒の虎柄トランクスへと突貫した。

「うっひょぉぉおぉぉおぉっ!! 先輩のカラフルパンツから先輩の匂いが私の脳へダイレクトにひゃっほぉぉぉいっ!! 何だこれ!? パンツか、先輩のパンツかぁっ!!
 シュールストレミングより濃厚で、犬の肉球の様に香ばしい芳香に私の思考回路はもうショート寸前ですっ!! 手が自然と下に行っちゃうのも仕方がねえっ!!
 うふふ……、死ねる! 今の私は幸せ過ぎてこの匂いだけで死ねるわっ! 万歳っ! 虎柄縞々パンツばんざーいっ!」
「ふむ、非常に頭の痛くなるコメントを並べ立てているところ申し訳ない。そのトランクスについてなんだが……」
「返しませんよ!? 先輩が私に操を委ねてくれない限り返さないんですからっ!」
「リスクが大き過ぎるな。いやなに、それを君が本当に欲しいと言うのなら譲ってやろうという話だ」
「マジですか!? 前は使い捨てリップだってくれなかったというのに!?」
「君は齧り付こうとしていたからな、当然の対処だ。まぁ、欲しいのならどうぞ」
「……きゃっほーいっ! 先輩のパンツ、合法的にゲットだぜっ!!」
「よくもまぁ下着一つで喜べるものだ。……まぁ、それは私の物ではないから別に構わんのだがね」
「うへへ、うへへ……、へ?」

 トランクスへ頬擦りしていた後輩の顔が途端に凍りついた。

「へ? このおパンツ、先輩のじゃなかったんですか?」
「私がそんな趣味の悪い下着を履くわけがないじゃないか」
「じゃ、じゃあ、何でこんな物が先輩の部屋に?」
「いや、さっき私が鬼と飲み比べをしたという話をしただろう? それの戦利品だそうだ」

 結局、あの鬼男との勝負は私の勝ちで終わったらしい。
 らしいというのは、私も意識が飛んでいてその時の記憶が無いからだ。目が覚めたら自分の物ではないトランクスを握って驚いていた私に、飲み屋の店主がそう教えてくれた。
 脱ぎたてだったらしい。生暖かい感触に即刻捨ててやろうとも思ったが、何となく罰当たりな様で持ち帰ってしまった。
 しかし、当然必要なく、どう処理しようか悩んでいたのだが、貰い手があるのなら喜んで譲ってあげるべきだろう。

 私がそう結論付けて満足していると、おもむろに後輩が立ち上がった。
 彼女は能面の様な無表情を張り付けて、そのまま台所の方へと向かう。そして、数瞬遅れて水っぽい『何か』が流しを叩く音が響いた。反射で耳を塞ぐ私。
 ついさっきよりも顔を青くして戻ってきた後輩は、釣られて無表情になっていた私を問い詰めた。

「どうして、あんな呪物を、持ち帰ったんですか……っ!」
「いや、捨てたら何か祟られそうでな?」
「そのお蔭で私が酷い目に遭いましたよ! これは祟り! 間違いなく祟りですよっ!!」
「鬼の下着は縁起物らしいが?」
「迷信だーっ!!」

 雄叫びを上げてそれを破きにかかる後輩。だが、流石は丈夫と謳われるだけあり、鋏を使っても切れやしない。

「くっ、忌々しいおパンツめ……っ!」
「君の勝手な自爆だと思うがねぇ。……すまないが、水を一杯持ってきてもらえないか? 話していたらまた酔いが回ってきた」
「ううっ、先輩の頼みなら仕方がないですね。大人しく待ってるといいです」

 言われずとも自分の足で水を持ってくることさえ億劫な程に酔いが回っていて、私は堪らずその場に寝転がった。
 身体が自分の物ではないかのように重い。一体どれだけのアルコールを摂取したのだろう?
 鬼に勝ってしまうぐらいなのだから生半可な量ではあるまい。急性アルコール中毒を起こしていないのが奇跡なのかもしれない。

「お待たせしましたー。って先輩、もしかして、かなり辛い状態だったりします?」
「……うーむ、辛い、なぁ」

 コップを片手に問い掛けてくる後輩に、若干胡乱に言葉を返す。口を開くのも少々辛い。
 これは早く水を摂らねばと私は後輩の方を見る。すると、彼女はチェシャ猫の様な笑顔を浮かべ、私を見ていた。
 額に汗が浮く。体温の上昇による自然な発汗ではなく、緊張による冷や汗だ。
 もしかしなくても、私は今、非常に拙い状況にいるのではないだろうか?

「そうですかー、先輩は水を飲むのも辛いんですかー」
「いや、そこまでは……」
「しょうがないなー、しょうがないなー。しょうがないから……」

 そして、後輩はコップの水を一口含み、

「わらひがのまひぇてあげまふね(私が飲ませてあげますね)?」

 その瑞々しい唇を、私の唇へと重ねてきた。
 重なり合ったのも僅か、後輩の舌が強引に私の唇を、歯を割って入ってきた。突然の事に呆然とする私に、抵抗する力は皆無に等しい。
 同時に私の口内に後輩の口を経由して水が流れてくる。水は少々どろっとしていて、それは彼女の唾液と混ざり合った証拠だった。

「ふむっ、んっ……」

 攪拌(かくはん)されたそれをゆっくり胃に流すと、後輩は嬉しそうな顔をしてコップの中身を一口含み、また私の顔に覆い被さってくる。
 私の口内を存分に荒らし回る舌と、上半身へ否が応でも伝わってくる『女性らしさ』。それに酒の酔いが重なったことで、私の意識は蕩け切ってしまう。

「んー、はぁっ……」

 コップの中身を全て移し終えると、先の青い顔から一転、後輩は実に艶々とした顔になっていた。
 私が荒く息をしているのを横目に、大抵の男なら堕としかねない艶然とした様子でこちらを見遣る彼女。 

「むっふふふふーっ。どうでした? 愛らしい後輩の口移しで飲む水のお・あ・じ・は?」
「……少し、しょっぱかったかなぁ」
「ああ、きっとファーストキスはレモンの味ってやつですね!」
「いや、おそらく君が先程出した吐瀉ぶ……」
「いっやー、ようやく先輩の唇を奪えました! 先輩は普段からガードが堅過ぎですからね! 今日みたいにもっと緩々になって良いんですよ!? むしろ、お願いします!!」
「絶対に、緩めてやるものか……」

 一生の不覚である。何やら駄々を捏ねる後輩を無視して、もう二度と飲み比べなどしないと心に誓う。

「ううむっ……」
「どうしました、先輩? もしかして、おねむですか?」
「人を子供扱いするんじゃあない。でも、そうだな……。今は、酷く眠い……」
「そうですか。なら、私の超低反発性膝枕でお休みになるといいですよ」
「……襲わないな?」

 これだけは聞かずして眠りになど就けない。下手に隙を見せた結果がさっきのあれなのだから。

「失敬な、寝ている人を襲うような真似はしませんよ」
「ほぼ似たような状況で人の唇を奪った奴がよく言う……」
「あれはあれ、これはこれです」
「もういい、君に何を言っても無駄だと分かったから。私は寝る……」
「はい。お休みなさい、先輩……」

 そうして、後輩が私の髪を梳く感触を感じながら、私は夢の世界へと旅立った。



 # # #



 翌日、私は目が覚めると後輩の姿は既になかった。
 真っ先に着衣の確認をする辺り、私が後輩をどう思っているかがよく分かるだろう。特に乱れは見当たらなかったので、私の貞操が守られたことは確かだろう。
 しかし、何故か部屋の壁にあの虎柄のトランクスが飾ってあった。どういう事だと思っていると、後輩が置いていったであろう手紙にその理由が記されていた。
 曰く、

『私と先輩の仲が進展したのも、きっとあの鬼さんのパンツのお蔭に違いありません! お部屋に飾ることでほら、鬼は内、私と先輩の福も内って訳ですよ! 素晴らしいっ!!』

 との事らしいが、あまりにも阿呆らしかったので即刻取り外した。祟りだなんだと言っておきながら都合の良い後輩である。
 そして、次いでテーブルの上にでんと居座る一升瓶の姿を見て、更に私の気分は沈んだ。今は調理酒ですら同じ気分になれるだろう。
 誰が好意で持ってきたか知らぬが、いい迷惑である。私はそっと流しの下へ直しておいた。捨てるのは勿体無いので、何時かもっと気分の良い時に誰かと飲むとしよう。



 酒は飲んでも呑まれるな。これ程まで為になる教訓は、私の人生においてそうはないだろう。



[31437] 第2話 私と連れたちによるケな日
Name: オレンジ◆bf8e6f7f ID:a82c0673
Date: 2012/05/09 15:11
 名前を名乗るという行いを『あなた』はどう捉えるだろうか?

 大半の人は挨拶の一部や自己の存在肯定と考えるだろう。中には名乗り上げることで威圧を与える為という武道派な捉え方もあるかもしれない。
 だが、自分は違う捉え方をしているからといって慌てなくても良い。人がいればそれだけ考えも異なる、どれも間違ってはいない。
 名前を名乗るということは、それだけで多種多様な意味を持っているのだから。

 そう、名前を名乗るのは何も間違いではなく、大事なことなのは確か。しかし、何事も例外は存在するものだ。
 自分の名前を嫌っている者や名乗ると都合の悪い者は拒むだろうし、不用意に名前を出すことが出来ない者もいるだろう。
 誰しもが名を名乗るというその行為を肯定している訳ではない。

 そして、私はその否定派の一人だ。

 別に私は自分の名を嫌ってもいないし、都合の悪いこともない。ましてや名前を出しただけで恐れられたり、子供が窘められたりする様な暗い背景などある筈もない。
 名乗りたくない理由なんて、単純にして実に明快だ。
 ただ、ただただ、ただただ自分の名前を口にするのが面倒臭いだけだ。

 『何を言っている、平仮名ならば六文字、漢字にすればたったの三文字だろう』と突っ込まれるが、その六文字ないし三文字が私にとっては面倒なのだ。
 私は『私』という名乗りを好む。平仮名ならば本来の半分、漢字なら何と三分の一にまで短縮出来るからだ(『俺』はどうも肌に合わない)。
 『私』という呼称は、まるで極限にまで絞り込まれた数式の様だとは私の持論である。

 私が今後の人生において、自分の名を口にすることは数える程しかないだろう。たとえ名が出たとしても、それは他人の口からと決まっているに違いない。
 だから、私はこの場で一度だけ名乗ろうと思う。何故なら、面倒は先に済ませた方が何かと効率的だからだ。

 生雲霞(いくもかすみ)、それが私の名前だ。
 私としては他人に覚えられようが忘れられようがどちらでも構わない、そんな名前である。



 ……しかし、私は一体誰に向けて喋っているのだろう?



# # #



「試験終了の時間です。筆記用具を机に置いて、回答用紙を裏向きにして下さい」

 試験監督の声が教室の中に響く。
 すると、試験を受けていた者たちは一斉にペンを置き、一時間もの沈黙の分を取り戻すかのように隣とお喋りを始めた。
 途端に騒がしくなる教室に眉を顰めながら、私も持っていたペンを机に置く。

「ふうっ……」

 深く息を吐きながら手をぷらぷらと振る。論述式の内容だった為、どうにも手が疲れてならない。
 記述式の採点要素には二つのパターンが存在する。とにかく書き込んでいるかどうかという事と、しっかり要点を抑えているかという事だ。
 基本的に後者の場合が多い。逆に、いくら文字を稼いでいようと、蛇足となり減点されてしまう場合もある。
 だがまぁ、教員も人の子。中にはずぼらな性格の者も当然いる訳で、書き込めば書き込んだだけ点数を貰える試験も存在したりする。
 担当する教員がどのような人物か見極めるのも、試験攻略の重要な鍵なのである。

「回答用紙の確認が出来ましたので、生徒の退出を許可します」

 試験監督の言葉でより一層騒がしくなる教室。
 あまり喧しいのは好かないので、私は筆記用具をバッグに詰め、そそくさと退室しようと、

「生雲君、試験の出来はどうだった?」

 したところで呼び止められた。
 その鈴を転がすようなという慣用句の似合う声をした知り合いは、この場には一人しかいない。

「ああ、雨宮女史。問題はあれだったが、全く問題は無いよ」
「君がそう言うんなら大丈夫そうね」
「うむ。まぁ、戦争映画ばかり見せられて、試験の内容が『日清戦争から第一次世界大戦までの歴史的変遷を書け』というのにはちと驚いたがね」
「高校の授業内容を覚えてれば問題はなかったと思うけど、人によっては厳しかったかもしれないね」

 そう言う彼女問題はないのだろうが、回りからは絶望し切った声が飛び交っている。

『あー、絶対に落としたわぁ……』
『あんなのどう纏めれば良いってんだよなぁ?』
『へへっ、良い子ちゃんばっかだなお前らは。俺はこいつの横目で見ながら全部写してやったぜ!』
『カンニング乙』
『……あのさ、俺、書く事ないから最近読んだ官能小説の感想書いてたんだけど……』
『……え? 何書いちゃってくれてるんですかお前は!?』
『読んで抜け……、いや、面白かった小説を紹介したら単位くれるって噂を聞いてさ』
『何を実践しちゃってくれてるんですかお前は!?』
『大丈夫だ! あのエロ親父ならきっと単位くれるって!』
『だ、だよな!』
『そもそも、書いてる途中で何故気付かないんだ』
『ちなみにジャンルは?』
『え? 女子高生ものだけど……』
『はい、アウトー!』
『残念だったな、あの親父は熟女趣味だ。ついでに言うと、五十路くらいが熟れ時とか言う程のな』
『まぁ、何だ。来年頑張れや』
『ち、ちくしょーっ……!』

 等々。色々とこの授業を受けた学生は駄目かもしれない。

「あの、生雲君?」

 しみじみ思っていると、隣の彼女が控えめに声を掛けてきた。

「何かね、雨宮女史」
「えっと、今更だけど、その女史って呼び方やめない?」
「うん? どうして」
「そんお、私には合わないっていうか仰々しいっていうか、ねぇ?」

 私の前で顔を俯けている女性、雨宮ちうはそう言った。
 成人女性の平均を上回る長身に、腰の辺りまで伸ばされた艶やかな黒髪。男女共に惹き付ける美貌は、笑顔を浮かべるだけで春が到来したかのような暖かさを感じさせる。
 学業にも優れ、またそれに驕らない性格の持ち主でもある。容姿端麗、才色兼備。そんな言葉の似合う彼女は一見して、私の知り合いの中でも飛び抜けた人格者だ。
 私はそんな彼女の人間性に敬意を込めて女史と呼んでいたのだが、不評だったのだろうか?

「そ、そんな理由だったんだ……」
「悪気は無かったとはいえ、君の気を悪くしたのなら申し訳ない。今度からは別の呼び方を……」
「ううん、大丈夫。そんな話を聞いちゃったら変えて貰うのも悪いし」
「そうか」

 理由を説明すると、にっこり先の発言を撤回してくれた。
 私も態々新しい呼び名を考えずに済んだことに安堵する。面倒であるし、彼女ほどその言葉が似合う人物はいないと思っているからだ。

「では改めて、雨宮女史」
「あ、はい。何でしょうか、生雲君」
「この後、何か予定は?」
「うーん、今の試験で今日は終わりだから特に無いかなぁ」
「そうか、私もだ。それなら、一緒に昼食でもどうだろう?」

 今日はちょうど昼前の試験で終わりだったので、いい具合に腹が空いている。
 だが、学食で一人寂しく飯を食べるのも何なので、雨宮女史を誘ってみる次第である。

「え、昼食? その、私も一緒で良いの?」
「野郎一人でテーブルを占領するよりは断然マシだろう」

 私の視覚的にも尚良しだ。

「そういう事なら、ご一緒させてもらおうかな?」
「それはありがたい。壁を見ながらの食事は味気無いからなぁ」
「分かる分かる。やっぱり誰かと食べる方が良いもんね」
「それに、今日は他の生徒も少ないだろうから静かに食べられそうだ」
「五月蝿い所とか嫌いだよね、生雲君は」
「もう大人だというのに落ち着きが無さ過ぎるんだ、ここの連中は。そうだなぁ……」

 そして、私は一拍の間を置き、

「奴みたいに」

 とある人物のいる方を指差し言った。

「天が呼ぶ、地が呼び、風が呼び……、俺、参上! って訳で、かっすみちゃーんっ! お昼一緒に食べようぜーい!!」
「……ちっ」

 非常に暑苦しく不愉快で野太い声が人気の少なくなった教室の中に響いた。
 残っていた生徒は何だ何だと視線を向けてくるが、声の主が誰か分かると途端に興味を無くした様に明後日を向く。
 こいつとは関わりたくないという明確な拒絶。出来れば私もそちら側の態度を取りたいのだが、どうやら許されないらしい。全くもって理不尽だ。
 
「少しは声のボリュームを絞れ、日和。回りにも私の耳にも迷惑だ」
「会って早々きっついなぁ、霞ちゃん!」
「出来ないと言うのなら私がその首を絞めてやるが、どうだろう」
「やめてくれ、お前は極めるの上手いから本人に死んじゃう!」
「なに、軽く地に足が着かなくなるだけだ。心配はいらんよ」
「それって死んだも同然なんじゃ……」

 雨宮女史が突っ込みを入れるが、私は既に馬鹿の首を絞める気満々なので気にしない。
 馬鹿はそんな私に恐怖したのか距離を取った。その距離がまた逃げるには絶妙なので、無駄に高いそのポテンシャルに苛つく。

 馬鹿の名前を日和一陽(ひわかずあき)という。
 少し色黒な肌にがっしりとしたスポーツマン体型で、常に浮かぶ笑顔によって、大抵の初見の者に好青年のイメージを抱かせるそんな男だ。
 だがしかし、この男の根本には『馬鹿』という言葉がある。それによって、この男に対する人物像はあたかもダイナマイトによって支柱を失ったビルの様に崩れ去ってしまう。
 温厚で知られる私ですら一切の躊躇無く馬鹿の烙印を押してしまう程に重度の馬鹿であり、日々撒き散らされる馬鹿な発言や行動に、私やその周囲はほとほと辟易している。
 まぁ、唯一誉められる点を挙げるならば、それだけの馬鹿でありながら、誰からも本気で嫌われてはいない所か。だからこそ、私も何だかんだで付き合いを続けている。
 それにしても、私は何度馬鹿と言っただろう。私の脳内で『馬鹿』という言葉が軽くゲシュタルト崩壊を起こしてしまった。

「酷い言われようだ」
「事実だ」
「事実ね」
「酷い言われようだ……」

 馬鹿が落ち込んでいるが、私も雨宮女史も特に気にしない。最早この遣り取りは私たちにとっての様式の一つだ。

「んで、さっきの話の続きなんだけど、昼飯一緒に食べようぜ!」

 案の定、日和はあっさりと回復し話を振ってきた。日進月歩の早さで打たれ強くなっているのは気のせいではないだろう。

「昼飯か……」
「お、何か都合悪かったか?」
「いや、私は既に雨宮女史と一緒に食べる約束がだな……」
「だったら俺も入れてくれよ!? 何で今更になってハブるのさ!」
「お前がいると静かに食事が出来た試しが無いからだ」

 忘れはしないぞ、貴様の私に対する悪行の数々。
 一瞬の隙に私の丼の表面を一味塗れにしたり、カレーうどんを食べれば汁を盛大に飛ばして人の服を汚したり、飲み物を飲んでいれば無理に笑わせようとしたり……。
 義務教育の現場に送り返して再教育してもらおうかと何度思ったことだろう。手遅れな感がひしひしするが、やらない努力よりはやる努力だ。

「……何だよ、霞ちゃん。その目はよぉ」
「小学校か中学校のどちらが良いかぐらいは選ばせてやろう」
「何の話だ、それ!?」

 いちいち反応が喧しい。あと、霞ちゃんと呼ぶなと何度も言っているのに、こいつは聞く耳を持たないのか。

「とにかく! お前がちうちゃんと二人っきりで食事とか許さないんだからな!」
「貴様は雨宮女史の何なんだ?」
「味方だっ!」
「じゃあ、貴様は私の何なんだ?」
「敵だっ!」
「そうか、敵か。なら、遠慮はいらないな?」
「嘘、嘘だから! お願いだから拳を構えるのはやめてちょうだいっ!」

 私が指をぱきぽき鳴らすと、両手を振って拒否の態度を示す日和。まったく、腕一本で済ませてやるというのに大袈裟な男である。

「俺の抗議が決して大袈裟じゃない件について」
「情状酌量の余地はない」
「どれだけ彼の恨みを買ってるのよ、日和君……」

 それはもう十指じゃあ到底足らないくらいにだよ、雨宮女史。
 とはいえ、日和がそう易々と攻撃を受ける筈もないので、やるなら闇討ちの形で行うことにしようと思う。日和の知らぬ間に私の方針は固まった。

「大体、お前には涼風ちゃんっていう可愛い子ちゃんがいんだろうがよぉ」
「何故そこで大南後輩の名前が出てくるんだ」
「今更何を言ってんだ、周知の仲だろうが。……まさかお前、あれだけ言い寄られて涼風ちゃんの気持ちに気付いてないなんてことはないよな? な?」
「……馬鹿にするな、私もそこまで鈍くはない」
「だったら少しは遠慮しろよ! お前にハーレムは荷が重い! 遠慮なく俺に譲れっ!!」

 そう叫ぶ日和は、雨宮女史が一歩引いた事に気付いていない。哀れである。
 ……ああ、日和のせいで回りからまた何ともいえない視線が私に突き刺さる。本当にこの男と関わると禄な目に遭わない。

「だから、声を絞れと言っているだろう」
「ごめんなさい……。霞が相手だと、どうしても声が漏れちゃって……」
「科(しな)を作るな気色が悪い。そんなに首を絞められたいか」

 自分でも頭の悪いことをしている自覚はあるが、どうも日和相手だと乱され易い。そして、この相手にも。

「は、はい、はいっ、はぁーいっ! 私、先輩相手なら首絞められてもいいですよーっ!! 首を絞めないと愛を確かめられない関係とかなにそれ萌えるっ!!」

 くしゃみもしてないのに現れる悪魔娘の登場である。
 
「何処から涌いてきたんだ、大南後輩」
「生雲先輩の影からです」
「君は吸血鬼か何かだったのかね。初めて知ったよ」
「くっ……! 鎮まれ、鎮まるんだ私の吸血衝動……っ! あ、でも、先輩が相手なら吸われてもオーケーですよ? むしろバッチコーイ!」

 低酸素愛好(アスファイフィリア)だったり吸血症(ヴァンパリズム)だったりと忙しい少女である。
 はあはあと荒い息遣いを繰り返す少女を華麗にスルーする。すると、それが何処か彼女の感性を刺激してしまったのか、より息遣いを荒くした。
 どうやら、変態の感性は私の理解の範疇外にあるらしい。

 彼女は大南涼風(おおなみすずか)、私や雨宮女史、日和の一つ下の後輩に当たる女性だ。
 何故か私に懐いてくるのだが、その独特というか奇抜というか、とにかく変わったアプローチ手段をもって接してくるので、変人に慣れた私でも対処に手こずる要注意人物である。
 明るい茶髪のショートボブに今風のファッションを着こなす大南後輩は、贔屓目に見ても十分に美人だ。
 だのに、私のようなつまらない男に気があると言うのだから、蓼(たで)食う虫も好き好きとはよく言ったものだ。
 等と思っていると、雨宮女史が大南後輩に話し掛ける所だった。

「あらあら、相変わらず頭のネジが二、三十本くらいぶっ飛んでるのね、大南さん。何なら腕の良いお医者さんを紹介してあげるけど? 脳外科と精神科のどっちがお好みかな?」
「ああ、雨宮先輩ですか。どうも生雲先輩の傍に邪魔な木偶(でく)が突っ立ってるなあって思ってたら、まさか先輩だったとわ! 影が薄いんで全く気付けませんでしたよ、あはは!」
「視力にも問題があるみたいね。見えない物を無駄にくっ付けてるくらいなら、いっそ取り替えてみたら? 頭とか頭とか頭とかと一緒に」
「それってつまりー、雨宮先輩が私の替えになってくれるって事ですかー?」
「そんなの勿論…………、御免だわぁ」
「気が合いますねー、私も雨宮先輩のお古なんて勘弁ですよー。中古品は大人しくリサイクルショップにでも納まってれば良いのです」
「残念ながら、私は新品そのものよ。あなたも発情期が治まらないなら、街にでも出てみたら? あなた、見た目だけは良いんだから引く手も数多でしょう」
「分かっていませんね。これは生雲先輩相手限定の生理現象なんです。ドゥーユーアンダースタン?」
「アイドントアンダースタン……」

 私の目の前で二人の美女が壮絶な舌戦を繰り広げ、今回は大南後輩の勝ち(?)に終わった。この二人が顔を突き合わせると大体、何時もこんな感じだ。
 大南後輩はまだ分かるとしても、雨宮女史は普段とのギャップが著しい。彼女に気のある者が見れば、千年の恋も冷めかねない光景だ。実際に幾人もの男女が犠牲になっていたりする。
 私はそのギャップが新鮮で好ましく思っているのだが、どうやら少数派らしい。

「相変わらず、えげつねー罵り合いだ」
「これが彼女たちなりのコミュニケーションなんだろう」
「罵倒で深まる仲ってか。ギャルゲーの主人公と幼馴染みかってぇの」

 日和の例えは残念に過ぎるが、実際、罵り合う彼女たちは(指摘すれば否定するだろうが)傍目に見ても楽しそうだ。
 今も、先の罵り合いから一転して試験はどうだったかなど話しているあたり、別に相性が悪い訳ではないのだろう。気の置けない人物とは、誰しもいるものだ。

「あれ? 日和先輩じゃないですか。居たんですね、気付きませんでした」

 雨宮女史との会話に一段落したのか、自分も幼馴染みが欲しい欲しいと駄々をこねる日和の姿にようやく気付いた様子の大南後輩。
 馬鹿は酷く傷付いたという顔で私に話し掛けてくる。

「すっげー今更だな、おい。え、俺ってもしかして影薄い? 霞ちゃん、俺もうちょっと頑張った方が良い?」
「頑張る必要は無い、今の時点で濃過ぎるぐらいだ。むしろ消せるものなら貴様の影を消してしまいたいよ、私は」
「それはつまり、俺のドッペルゲンガーが生まれるフラグか!」
「何ですかそのカオス……」
「悪夢とは正にこの事か……」
「現代科学の敗北は必定ね……」
「あんたら容赦ねーなあっ!!」

 日和が叫ぶも擁護する者は誰もいない。こういった時に人徳というものは発揮されるものだが、この馬鹿の場合はさもありなんといったところだ。

「くそっ、こういう時は優しい彼女が『一陽君、大丈夫? 痛いの痛いの飛んでいけー』ってしてくれる筈なのに……っ!」
「無いものねだりしても仕方がないだろう。見苦しい奴め」
「あと、現実に目の前で痛いの痛いの飛んでいけーとかされたらイラッてします」
「歳を考えようね、日和君?」
「う、うっせーし! いいだろどうせ夢なんだからっ!!」

 夢なら別に構わないのだが、口に出すのでなく見るに留めて欲しいと切に願う私たちである。

「畜生、俺がこんな苦しい目に遭っているのは全て彼女がいない所為だ! そうだ、そうに違いないっ!」
「それが現実だ、直視しろ」
「ううっ、嫌だぁ……。こんな現実、直視したくないぃ……」

 手で顔を覆う日和。これを童女が行うならば物語の一場面の様で絵になるのだろうが、如何せん私の目に映っているのはいい歳した大男である。
 見苦しい以外の何物でもなく、手を差し伸べてやろうという私の気概の一切を残らず失わせるに十分であった。

「時間を無駄にしたな。日和は置いて学食に行くとしよう」
「それもそうですね」
「え、ちょ、待てよ。まだ終わってないし、昼飯行くなら俺も一緒に……」

 背を向ける私たちを慌てて追おうとする日和。
 はっきり言おう。この時に慌てていなければ、日和の未来はもう少しだけ安泰だったかもしれない、と。

「あっ!」
「――っと!」

 日和のがたいの良い身体に勢いつけてぶつかる小さな影。体重に差があり過ぎたのか、影の方は跳ね返されてしまった。
 あわや尻餅をつくかという所で、日和は相手の腕を掴み助けた。いや、助けてしまった。

「おい、大丈夫か?」
「は、はい。大丈夫、です……」

 日和にぶつかったのは大学生にしてはやたらと線の細い青年だった。
 背は日和の頭一つ分は小さく、腰回りなんかは(バレたら恐ろしいが)下手すれば大南後輩よりも細いかもしれない。
 そして、鼻の上にちょんと乗った眼鏡と如何にも草食動物的な雰囲気が、彼に『中性的』という印象を人に抱かせる。

「ちゃんと前見て歩かないと駄目じゃねーか。怪我するぞ?」
「あ、はい、その、気を付けます……」

 そんな見ず知らずの少年に、頼りになる部活の先輩の様な気さくさで注意をする日和。
 こういった所が奴の憎めない部分なのだろう。認めるのは若干癪ではあるが、人間味溢れる長所であると言える。
 だが、今回ばかりはその長所が裏目にしか出ていない様に思えてならない。

「おい、大丈夫か? あっちこっち見て、本当は痛いの我慢してるとかじゃないだろうな? 何なら保健室にまで連れて行ってやるけど……」
「け、結構っ! や、えっと、本当に大丈夫ですからっ! お気になさらないでくださいっ!」
「そ、そうか……」

 日和に注意を受け、今は顔を真っ赤にして怒鳴り返している青年。そんな彼の目には普通浮かんではならない感情が見て取れた。
 それを何故、赤の他人である私が読み取れるかと言うと、最近身近な人物によく向けられているからだ。
 左右を見れば、それの第一人者である大南後輩と何事にも聡い雨宮女史も同様に気付いた様子。気付いていないのは張本人、日和一人だけだ。

「ん、じゃあ今度からは気を付けて……」
「あ、あの……!」

 日和が注意を終えようとすると、青年はすかさず声を掛けた。羞恥で顔は真っ赤だが、その表情には決意が浮かんでいる。
 成り行きを見守る私たちの手に汗が浮かぶ。何故なら、彼の瞳に映っている感情の正体は、

「た、助けてくださってありがとうございます。その、お礼がしたいので、お昼でも一緒にどうですか!?」
「…………へ?」

 恋と呼ばれるものだからだ。ぽかんと大口を開けて呆ける日和と対照的に、程度は違えど笑顔を浮かべる私たち。
 こんなにも面白……、もとい喜ばしいことはそうそうないのだから、破顔してしまうのも致し方ない。すかさず祝福するように日和の肩を叩く。

「ふむ、そういう事なら仕方がない。お前はそちらの青年と一緒に食べてくると良い」
「私たちの事は気にしなくていいから、日和君は男同士水入らずでお昼を楽しんできてね?」
「へ? いや、野郎二人きりで飯食ってどうやって楽しめって言うのさ」
「ふむふむ、よく見ると可愛い顔をしてるじゃないですか。少ない運をよくぞ味方につけましたね、日和先輩」
「可愛いったって、こいつは男……」

 日和は何やらまだごちゃごちゃ言っている。こうなったら私たちで後押しするしかあるまい。

「青年、君の名前は何と言うのだ?」
「は、はい。須々木弾十郎(すすきだんじゅうろう)と言います」
「ふむ、顔に似合わず男前な名前だな。まぁ何だ、須々木君、日和の事は任せたよ」
「こう見えて日和先輩はヘタレな所がありますから、しっかりエスコートしてあげてくださいね?」
「はいっ! あの、ありがとうございます!」
「いいのいいの。人の恋路を応援するのが……」
「友人の務め、ですもんね?」
「え、恋路って何? なになに、何なの!? 何かすっげー嫌な予感がするんですけどっ!?」

 日和の心からの叫びも、『ねー?』と仲良く頷き合う女子二人には残念ながら届かない。

「さ、私たちはお邪魔みたいだし、さっさと行きましょう?」
「馬に蹴られるのは勘弁ですしねー」
「今日は定食が美味そうだったなぁ。気分も良いし、今日は私が奢ろう」
「素敵です先輩。結婚して下さい!」
「君はまた金欠なのか……」
「何だか知らんが、俺も金欠だからそっちに入れてくれよ、霞っ!」
「草でも食べていろ、と言いたい所だが、私も馬に蹴られるのは遠慮したい。まぁ、乳繰り合っていれば腹も膨れるんじゃあないか?」
「お前のセクハラ発言とか珍しいの聞けたのに全っ然喜べない! お願い助けて何かこのままじゃ俺の未来が危ういからっ!!」

 必死の想いで私に伸ばされる日和の手。しかし、それは私が掴むよりも早く(掴むつもりは微塵も無かったが)横から伸びてきた細腕が掻っ攫った。

「心配しないでください、先輩。お金は僕が払いますから! だからほら、早く行きましょう?」
「いや、俺は行くとは一言も……」
「遠慮しないで、って、うわっ、凄い立派な上腕二等筋……。あの、触ってもいいですか?」
「ちょ、ちょっと、やめて、触らないで、近寄らないで……」
「す、凄い……。固くて、脈打ってる……」
「ひいっ、どうしたの!? 何でお前いきなり積極的になっちゃってるの!? 怖いよっ!」
「怖がらなくていいですよ。あ、僕、ウェイトリフティング部でマネージャーやってるんです。だから、良い筋肉を見るとつい……」
「ついって何だ! ついって何だぁっ!!」
「怒らないでください。お詫びに僕から部の先輩に推薦しておきますから! 先輩ならきっと上を目指せます!」
「要らんわっ! 余計なお世話だ!」
「大丈夫! 僕が付きっ切りで先輩の筋肉を管理してさしあげますから! ね?」
「『ね?』じゃねぇよ! 嫌だ、助けて、皆……」
「さぁ、僕と一緒にイきましょう、先輩?」
「いぃやぁぁあぁぁあぁぁあぁぁあぁぁ……――」

 後ろから聞こえてくる悲鳴を努めて無視しながら、私たちは学食を目指す。友人の将来が幸多からんものであることを、祈るばかりだ。



 騒がしい学び舎に、個性の強過ぎる友人たち。それらに囲まれる私の日常は、なかなかどうして心地良い。



[31437] 第3話 私と白烏によるハレな日
Name: オレンジ◆5f23d08a ID:f0a9d53d
Date: 2012/05/09 15:12
 火曜日、それは私が住む地区の燃えるゴミの回収日である。

「ふむ、こんなところか」

 早朝、一人暮らしを営んでいる見た目ボロアパートの一室で、私は燃えるゴミを袋に纏めていた。
 といっても、所詮は一人の人間が出すゴミの量。定期的に出している私の部屋からは一袋分が精々だ。
 そんなぱんぱんに膨らんだ見た目よりも軽いゴミ袋を片手に、私は部屋を出た。

「はぁっ……」

 口から漏れた吐息に冷気による白い化粧が施される。冬の朝は太陽の出が遅い。時刻は6時半を回ったというのに、外はなお薄暗かった。
 私はこの朝なのに夜の雰囲気を残す時間が好きだ。身体はしっかりと目覚めていても、実はまだ夜なのではと意識が錯覚してしまう。
 もしかすると、このまま朝は来ずに夜を迎えるのでは等と夢想してしまったりもする。阿呆らしいが、もしそうなれば私には堪らなく魅力的な出来事に違いない。
 しばらく藍の色を滲ませる空を眺め、ゴミ捨てという目的を思い出した私は歩きを再開した。

 かんっかんっと所々に錆の浮いた階段を、なるべく体重を掛けないように降りる。万が一を想定してしまう程に、この階段の老朽化は酷い。ぽろぽろと錆が鱗の様に落ちていく。
 無事に階段を下り終えても、帰りにまた上らなくてはならない。それに大学の行き帰りも合わせると、最低でも一往復。憂鬱にならずにいられない。
 最近では誰が最初に階段を踏み抜くか、住民の間で賭けの種にすらされている。これには同情の念を禁じざるを得ない。当然、私のような二階住民の事である。
 階段? 耐震だのの話をする前にこっちを先に取り換えてしまえ、気が気でならんのだよ。

 だがしかし、私がここに住まう間にこの階段に穴が空く確率は低いだろう。何せ、私を除く二階住民はみな人の皮を被った『何か』だからだ。
 一応の補足をしておくが、件の住民らは人であることは間違いない。間違いはないのだが、何処か人として逸脱しているのだ。思考やら神経やら何やらが。
 その逸脱振りたるや、人外に比較的慣れた私が思わず気圧されてしまう程だ。人外よりも人外染みている住民の前では私などぴーぴーと鳴くだけの雛鳥、つまり無力なのである。
 つい先日も私の部屋(201号室)から真反対(205号室)の住民が『よっ!』という気軽な掛け声で、階段を使わずに帰宅したのを見ている。
 もし踏み抜くとしたら、やはり一般人である私だろう。

 何とか踏み抜くことなく下り終えた。この時ばかりは一階住人を羨ましく思う。とはいえ、一階の住人も陸(ろく)な人が住んでいないので上も下も大した差は無かった。
 今更ながら、ここは魔窟かと疑ってしまう。むしろ化物たちの総本山と言われた方が納得出来るだろう。そして、

「がはっははははーっ! よぉ坊主、おはようさん! お前さんも朝が早いなあっ!」
「おはようございます、大家さん」

 この寒空の下、目の前で乾布摩擦に勤しむ御老体がその総大将か。ぬらりひょんと言うよりは、むしろドワーフのイメージだが。

「何だ、お前さんも一緒にやりたくて来たのか!」
「いえ、私はゴミを捨てに来ただけです。誘うなら山門(やまかど)さんの方が良いでしょう」
「ああ、あの学者先生か。ひょろっこい身体してる癖に根性はあったもんなぁ!」

 風邪は引きたくないので、私は生け贄を捧げて乾布摩擦イベントを回避した。
 西洋妖怪めいた容姿の癖に、この御老体の実態は大和魂の塊である。 しかもそれを押し付けてくるから質が悪い。住民は個々の差はあれ、みな被害に遭っている。
 そこで、アパート住民による大家対策会議にて全会一致(大家夫妻と本人除く)で生け贄に選ばれたのが、件の山門さんだ。

 山門さんは有名な日本語学者である。ただし、枕詞に『色々と』が付いてくる。というのは、氏が重度の日本語オタク、いや、日本語フェチなのが原因である。
 『日本語大好き! ただし、それ以外全ての言語・文字は消滅してしまえ!』と言ってのける程で、会話は勿論、室内にある物全てに日本語が刻まれ、それ以外の外来語は排斥されている。
 夢は英語が敵性語と定められた時代、もしくは鎖国時代に移り住み、そこで妻を娶ることらしい。日本語の研究よりも時間旅行の研究が先では、と言うのは無粋であろう。
 そんな訳で、大家(男)に最も波長の合うだろう人間として生け贄に祭り上げられたのだが、実に嵌まり役であった。これには薦めた我々も安堵したというものだ。
 ただ、問題があったとすれば、山門さんが乾布摩擦の最中にテンションが上がり過ぎて『鬼畜米英!』だ何だと叫ぶものだがら、しばらくの間ご近所の視線が痛かった。
 翌日、塀にスプレーで大きく落書きがされていたのも嫌な思い出だ。

 意気揚々と山門さん(103号室)を起こしに行く大家に、私はやるにしてもなるべく声を抑えるように言い、ゴミ捨て場へと足を運んだ。
 ご近所の目は当然痛いのだが、あまり喧しさが過ぎると他のアパート住民も怒り出す。そうなると、こちらにも厄介が飛び火するのだから困る。
 火種はしっかりと消しておくに越したことはない。

「よいしょ、と」

 ゴミ捨て場に到着した。
 まだ朝も早いからか、そこは全くの空である。しかし、これも少し時間を置けば山となるのだ。ゴミだけに。
 そんな小さな山の礎となる重くもない袋を、態々掛け声を込めて下ろした。

「これが年をとるということか。……ん?」

 私がしみじみと世の諸行無常を愁いていると、自身に向けられる強い視線を感じた。
 前後左右を見回してみても、私以外の人影は無し。では下かと俯いても、蟻が隊を成しているだけ。当然、彼等の複眼に私は映っていないだろう。
 となると、残るは上という選択肢のみ。

「あいつか。……んん?」

 いた。私を見つめる生き物が電柱の上に。
 視線の主の正体、それは硝子めいた瞳を持ち、全体が驚く程に白い、白い……。

「鳩?」
「違わいっ! だーれが鳩ぽっぽだってんだ、このすっとこどっこい!!」

 と呟いたら違っていた。しかも、本『鳥』の口から不正解を言い渡されてしまった。悔しい。
 ……ではなくて、

「これは驚いた。ただの鳩かと思えば、人語を介する鳥だったとは」
「あーん? そういうおめえは俺っちが見えんのか。まだそんな力を持った人間がいたことの方が驚きだわ」
「そうだろうか? 私の回りでは至って普通なのだが」
「そりゃおめえの回りが異常なだけだってーの。あと、俺っちはただの鳥じゃねえ。烏(からす)の起源にして頂点、白烏の惣五郎(そうごろう)様とは俺の事よぉ!」

 白烏は自慢気に翼を広げ、自身の存在を宣言した。
 誰も名を尋ねてはいないのだが、勝手に名乗るあたり、烏の癖に頭が少々残念なのだろう。私の回りはこんなのばかりだ。

 昔から、烏という存在の霊的な格は非常に高いものとされた。
 その濡れ羽色した翼から、吉兆と凶兆の相反する遣いとして東洋・西洋問わず認知された者。世界の名立たる神話を紐解いても、登場の機会は多い。
 有名な名を挙げるとすれば、烏の最高格と言っても良い八咫烏。太陽の化身とも言われ、日本のサッカーファンであれば、三本足をした烏のシンボルマークは馴染み深いだろう。
 そんな最高格を押し退けて自身が烏の起源だと言う白烏は些か過信が過ぎるようにも思えるが、こうして会話が成立している以上は立派な霊鳥であるという事。
 だから、それなりに敬意は払っておくことにしよう。それなりに。

「はぁ、それでその白烏様が私に何の用で?」
「ばっか野郎、おめえみてえな小僧に用なんざねぇよ。俺っちが用があるのは、おめえの置いてったその袋でい」
「このゴミ袋を? 霊鳥である貴方が何故こんな物を必要とするのですか」

 別に彼等の好む様な金気の物は含まれていないのだが……。

「何でぇ、おめえは本当に馬鹿なのかい。そこにゴミ袋あれば、烏のすることなんざ一つだろう」
「……まさか」
「おう、その中身をいただくまでさ。分かったらその袋を寄越してとっとと失せな、小僧」

 惣五郎の言葉に頭が痛くなった。
 別に馬鹿だの小僧呼ばわりされる事にではない。歳をとったものがそれだけで偉そうな態度をとるなど珍しくはないからだ。
 問題は歴とした霊鳥である存在が、そこらの烏同様にゴミ漁りをしようとしている事実だ。何がどうしてそうなった。

「そりゃあ、楽に飯が手に入るからだろ」
「……伊達に長くは生きてはいないでしょう。貴方には誇りというものはないのか?」

 私は呆れてそう言ったが、烏の惣五郎は私を強く睨み返してきた。

「ふん! 長く生きてりゃなあ、それだけ学ぶ事も多いんだよ。そん中で俺っちは、今の時代は誇りで腹が膨れねえ事を学んだのさ。
 別に烏としての誇りは捨てちゃねえ。俺っちの中にゃあ今も変わらず残ってるさ。だが、それを捨てさせたのは誰だ? ……おめえら人間だろうがよ。
 山を拓いて、木を切って。どんどんどんどん俺っちの住む所、食う物を奪いやがる。そんな勝手な野郎の仲間が烏としての誇りの有無を尋ねるだぁ?」

 惣五郎は翼を、羽の一枚一枚を逆立て、言った。

「ふざけんじゃねぇ! 俺っちの誇りを一方的に奪ったのは、おめえら人間だろうがっ!!」
「……」

 これは、私の失敗。あまりにも軽率な発言だった。
 惣五郎の私に向ける視線の中に敵意が混じる。伊達に相手は霊鳥ではない。この場で私を消すことくらい造作もないだろう。
 逆に言えば、すぐにそうしないという事は、挽回の機会を失していないという事でもある。惣五郎の私へ向ける敵意は言葉ほどに強くはない。
 巧遅は拙速に如かず。私は深く考えるのは後回しにして、先ずは行動に移すことにした。

「無神経な事を言って申し訳ない。私ももう少し考えて口にすべきだった」
「はっ、口では何とでも言えらぁ!」
「確かに貴方の言う通りだ。だから、私なりの誠意をもってお詫びをしたいのだが、どうだろうか?」

 言葉と共に頭を下げることも忘れない。

「……へぇ、人間にしちゃあ殊勝じゃねえか。期待していいのかねぇ?」

 すると惣五郎の口調が一転、私を値踏みするものに変わった。試されていると分かり、私は努めて平素と変わらぬ態度と口調で返す。

「まぁ、それなりには」
「はーん? ま、いいか。精々、俺っちを満足させてみな小僧」

 こちらが下手に出ると、惣五郎はくわっくわっと笑い声をあげた。烏の癖に現金な……、いや、烏だからこそ現金なのか。
 しかし、今までの経験からこういう特殊な手合いは対応を疎かにすると、往々にして陸な目に遭わない事を知っているので強くは言えない。
 ある一つの事を除いて。

「だから、その袋を持っていくのは勘弁願いたい」

 嬉々として袋を持っていこうとする惣五郎に釘を刺す。自分の出したゴミをそこらに撒き散らされるなど堪ったものではない。

「ちっ、ケチな野郎だなぁ……」

 貴方も大概図々しいが、という言葉を私は何とか飲み込んだ。沈黙は金なり、だ。



 # # #



「何でい、この殺風景で金気の少ねえ家は。人間の家ってのはもっと物に溢れてるもんじゃねえのか?」
「いや、私の部屋が特別少ないだけです」

 所変わって私の部屋。行きと違い、私の肩には白烏の惣五郎がいる。これがまた部屋に入るなり苦言を申すのだから余計なお世話である。
 全般的に収集癖を持つ烏と違い、私は極端に物を持たない性格をしている。部屋には本当に最低限必要だと思われる物しか置いていないし、嗜好品など本が精々である。
 私がつくづく面白味のない人間だと言われる要因の一つだったりするが、ちゃんと生活出来ればそれで良いのだ。

「ま、おめえの事はどうでもいいや。それよりもほれ、さっさと誠意とやらを見せてくれや」
「現物支給で構わないか?」
「あー、何でも良いから早くしろい」

 言質は取ったので私も動くとする。それにしても、本当に現金な烏な事だ。
 一先ず惣五郎を肩から降ろし台所に向かう。そこには前日に味わった料理が少し残っていた。烏は雑食なので食べられない物はないだろうから、ある物全部を器に注いで配膳していく。

「どうぞ、お納めください」
「おう、って、何でぇ飯かよ」
「何か不満でも?」
「いや、不満ってえか、現物支給なんて言うからてっきり光物の類かとよぉ……」
「これも立派な現物支給でしょう。一杯に収めると良いかと」
「腹にってか? 頓知じゃねえか」
「では下げましょうか?」
「いや、誰も食べねえとは……、分かった! 分ぁったよ、食べるよこん畜生!」

 何か不満があるようなので料理を下げようとすると、惣五郎は慌てて器に嘴を突っ込もうとする。
 しかし、行儀が悪いので私は構わず下げる。かつんと机と嘴のぶつかる音が響いた。

「何しやがる! 食えねえだろうがっ!」
「いただきますが聞こえないので」
「な、何で俺っちが人間の真似なんか、ああもう、分かった! いただきますっ! これでいいんだろう!?」
「よし」
「てめえ、実は俺っちのこと舐めてるだろ!? 目ん玉突いてほじくり返すぞ!?」
「おお、こわいこわい」

 何やらがーがーと鶏冠(とさか)にきている様子なので大人しく料理を並べ直す。
 烏なのに鶏冠っておかしいなと思う私だった。

「おい、何だこの食い物は」
「猫まんま、ご飯に味噌汁をぶち込んだ料理ですよ。その方が食べ易いでしょう?」
「いやまぁ、そうなんだが……。烏の俺っちに猫のつく食い物ってどうよ?」
「焼き鳥の方がよろしかったか?」
「さり気なく共食いを勧めるんじゃねえよ。いや、するけどさ? あと、おめえが俺っちを舐めてるってのがよーく分かった」
「恐縮です」
「おめえはちっとばかしその口閉じてろい」

 黙ってろと言われたので、大人しく惣五郎の食事姿を眺めることにした。
 余程腹を空かせていたのか、茶碗に頭まで突っ込んで中身を食らっている。がっつきが過ぎる所為か、米粒や汁が惣五郎の漂白したかのような身体にびちゃびちゃと飛び散っていく。
 私は汚れるのを勿体なく思い、ティッシュで軽く拭いてやることにした。

「動かないでください」
「おん? おお、悪いな小僧」
「いえ。……折角綺麗な羽毛を見付けたのに、汚れてしまうのもなと思っただけです」
「おめえ、本当に俺っちに何する気だ!?」

 惣五郎はその柔らかそうな羽を逆立て、再び私を威嚇した。うむ、やはり霊鳥の羽毛は格が違う。枕に詰めれば、さぞ良い夢が見れることだろう。
 そんな私の邪念に気付いたか、惣五郎が私の手より慌て離れる。まぁ、離れると言っても茶碗からそれほど離れていないあたり、警戒心より食欲の強さの方が勝っている事が伺えた。

「ったく、油断ならねえ人間だぜ畜生……」
「いやぁ、それほどでもないですよ」
「褒めてねぇよ。ちっ、これで飯が不味けりゃあとっくに消してやってるっつーのに」
「美味しかったですか?」
「ああ。おめえに言うのは癪だが、美味かったよ」
「そうか、それは重畳。作った彼女も喜ぶだろう」
「……あん? 彼女、だぁ?」

 私がうんうんと頷いていると、何故か惣五郎が喰い付いてきた。はて?

「この食い物はおめえの彼女とやらが作ったのか?」
「彼女というか、私の後輩が作った物ですよ」

 後輩とは勿論、あの大南後輩である。彼女はふらっと私の部屋に寄っては料理を作っていくのだ。
 最初は遠慮していたが、彼女の合鍵を持ってまで作りに来る根性に、さすがの私も押しきられてしまった。最近は外堀を埋められているのではと内心で恐々としている。
 しかし、今の私の問題は目の前の惣五郎だ。

「……へぇ。嫁でもねえ雌を侍らせて飯まで作らせるたぁ、おめえさん良いご身分じゃねえか。ええ?」
「別に侍らせてなどいない。その後輩はたまに私の部屋に来ては料理を作って帰っていくだけです」
「はっ! それを聞いてどれだけの雄が納得するもんかねぇ!」

 語調を強める惣五郎に、私は内心で首を傾げるしかない。
 何故に私と大南後輩の関係に、赤の他『鳥』である惣五郎が突っ掛かってくるのか。とんと見当がつかない。
 これが単に私が馬鹿なだけという理由なら納得も出来るのだが、理由も語られずに嫌味を言われる筋合いはない筈だ。

「何を拗ねているのですか」
「別に拗ねちゃねえやい。ただ、おめえが気に入らねえだけだ」

 ぷいと私から顔を背ける惣五郎。明らかに拗ねた態度である。
 何故か私にはその態度が友人である日和の姿に重なってしまった。人間の癖に鳥類と類似点を持つとは、つくづく大した男だ。
 だからこそ、惣五郎とあの男の思考が似ているのではなどという血迷った考えを抱いてしまったのだろう。

「もしや、貴方まで私と彼女の関係が羨ましいなどとは言わないでしょうね?」
「馬鹿かおめえ。何で俺っちが二足歩行猿の色恋なんざに嫉妬しなきゃなんねえんだ」

 日和の奴は会う度会う度にその事を口にする。私はただの腐れ縁だと言うのだが、奴はまったく聞く耳を持たない。
 態度だけとはいえ、日和と似た部分を持つこの烏ももしやと思っての発言だった。
 とはいえ、あくまで私の中での類似性であり、惣五郎にそれを否定されても私は何も感じなかったし、むしろ安堵すらした。
 だからこそ、私の本日二度目の失言も生まれてしまったのだが……。

「でしょうね。貴方のような格の高い烏なら、相手にも困らないでしょうし」

 本当に私にとっては何気ない一言だった。そう、私にとっては。
 気付けば部屋の中の空気は一瞬で凍り付いていた。誰がやったか、誰の所為かは火を見るよりも明らかだった。

「おめえは馬鹿なのか?」

 底冷えするような声と共に、惣五郎の瞳が私の瞳をひたと捉えた。そこに湛えるは怒りという名の感情だ。

「馬鹿だから考えなしに俺っちを怒らせてんのか?」

 慧眼とも呼ばれるそれは私の心中を探るようで、酷く落ち着かない気分にさせられる。

「俺っちは、おめえら人間よりも劣っているとそう言いたいのか?」

 逸らしたい。しかし、一瞬でも逸らせばどうなるか分からない。だからこその膠着という判断。
 時間にすれば一分か二分か、先に逸らしたのは惣五郎だった。彼は多分に呆れを含んだ声で私という存在を断言した。

「いや、違うな。おめえは俺っちを恐れてねえだけだ、これっぽっちもな。だから、俺っちに対して無神経な態度をとるし、これでもかってほど的確に怒らせやがる」
「褒めて、いますか?」
「褒めてるように聞こえるか? ずぶてえ奴だって言ってんだよ」

 これ見よがしに溜息まで吐かれてしまった。私もこれ幸いと溜まった緊張を吐き出すとした。

「ああ、おめえ相手だといちいち怒るのも馬鹿らしい」
「私は何か怒らせるような事を言ってしまったでしょうか?」
「言ったから俺っちが怒ったんだろうがよぉ。おめえ、あれだろ? 他人を思いやる気持ちが欠けているとか言われた口だろ?」
「何故それを知っているのですか」
「そんだけ無神経な事を口にしてりゃあ思われて当然だっつうの」

 正確には他人の気持ちを汲むというのが面倒なだけである。過去にその事を話した時は『お前は生き辛い性分をしている』と評された事もある。
 惣五郎にこの短時間で二度も睨まれるあたり、私は本当に生き辛い人間なのかもしれない。

「おめえは嫁の相手に困らねえなんて言ったが、それは半分正解で半分間違いだ」
「というと?」
「確かに俺っちが適当に嫁をつくろうと思えば楽勝よぉ。何をしていなくても阿婆擦れの雌共が寄ってくるからな」
「自慢ですかそれは」

 本当だとしたら日和との類似性が薄れてしまう。奴は決定的にモテないというのに。

「自慢っつうか必然だな。強い雄に雌が惹かれるのは当たり前だろう」
「何とも自然界らしい法則な事で」
「人間の事情なんかは知ったこっちゃねえよ。ま、おめえがさっき言ったように相手には困らねえ。それは正解だ」
「では、間違いというのは何なのですか?」

 私の問いに、惣五郎は若干の憂いを込めて答えた。

「簡単なこった。適当な相手が見付からねえだけよ」

 惣五郎の言葉に私は首を傾げる。

「適当な相手が見付からないというのはどういう意味ですか」
「どういう意味って、そのまんまさ。俺っちに釣り合うだけの雌がいねえ。それも容姿云々じゃあなく、格の問題としてな」

 格の問題、そこまで言われて理解が追い付いた。

「成る程。貴方は腐っても白烏という高位存在、そこらの烏では番として不適切という訳ですね」
「腐ってもは余計だが、大方その通りよ。並みの奴じゃ結局は俺っちとの格の差に気後れしやがるし、中には俺っちが原因で命を落とす奴もいる。つまり……」
「貴方が安易な気持ちで番を選べば、番や回りを不幸にするし、自身も傷付くと言う訳ですか」
「俺っちの台詞を奪うんじゃねえやい」

 しかし、私の言葉は否定しない。もしかすると、身を以て経験したのかもしれない。何とも、何とも難儀な星の下に生まれた烏である。
 まぁしかし、ここで一つ疑問が生じる。

「貴方は適当な相手がいないと言ったが、それは本当か?」
「おう。この辺りじゃ俺っちみたいなのは一羽だって見当たらねえ」
「それは何故ですか? 現に貴方のような烏はいる。それなら一羽くらい居てもいいのでは?」
「おめえ、俺の今までの反応見てたら分かるだろう? 弱い奴は淘汰されてったのさ、時代って奴にな」

 惣五郎は諦観の籠った声でそう言った。

「時代……」
「そう、時代だ。昔は良かったって悦に浸っちまう、あの時代さぁ。俺っち、いや、俺っちみたいな奴にとっての時代ってやつは正にそれだった。
 今よりも妖怪や神共が万倍多くて、平気で人間の前を闊歩していたそんな時代でな。信じられねえかもだが、今みたいな鉄臭さなんて欠片も無かったんだぜ?
 あの時は毎日が祭みたいで良かったぜぇ? 仲間同士で馬鹿やり合って、人間を適当に襲って、ビビッて逃げる様を肴にして楽しんでたもんだ。
 俺っちは群れの中では一番力があったから纏め役でな、馬鹿共の相手に苦労したもんさ。ま、力だけは有り余ってるような奴ばっかだからな、縄張り争いじゃ何時だって一等賞だった。
 んで、調子に乗った俺っちたちは一度神に喧嘩売った事もあってな? 全員こてんぱんにのされちまった。へへっ、あん時は若かったよなぁ。ああ、爺くせえな、ったく。
 そういえば、恋なんてもんもしたな。相手は三本足の美烏だった。これがまた美しいのなんのってな! 今の餓鬼共なんざ束になったって敵わないに違えねぇ。
 んで、ある時辛抱堪らなくて俺っちの嫁になれって言ったんだが、これがまさかの親分の娘でなぁ。あん時は危うく灰にされかけるところだったぜ」

 惣五郎は自分が生きた時代を生き生きと語る。その姿と声は本当に楽しそうで、聞いているこちらも思わず感化されてしまいそうになる。
 おそらく今の姿こそ、粗野でぶっきら棒な惣五郎の自然体なのだろう。
 しかし、時代とは常に移ろうもの。惣五郎が仲間と共に羽ばたき、楽しみ、慈しんだ時代は、今となっては既に過去のものなのだ。

「だが、そんな楽しかった時代は終わっちまった。神は姿を消して、妖怪は廃れて、俺っちの仲間も討たれていった」
「誰の手でと聞くのは愚問でしょうかね」
「ああ、おめえら人間の仕業さ」

 つい先程も似た言葉をぶつけられた。しかし、先と違いその言葉に激しさはない。 惣五郎は淡々と事実だけを吐き出していく。

「何時の時代からだったか、人間が急に強くなりだした。鉄砲だとか言う鉄の武器を使い始めて、妖怪たちを蹴散らしていった。
 何時の時代からだったか、人間は神を信仰しなくなり、存在を否定し始めた。他に信じるものが出来ちまったんだな、多くの神が人間を見捨て去った。
 何時の時代からだったか、住んでいた場所の地形が変わっていった。人間が俺っちたちの生活圏にまで手を伸ばしてきやがった。抵抗は、無駄だったなぁ。
 そして、何時の時代からだったっけなぁ、俺っちは独りぼっちになっちまった」

 外から寝坊助な烏たちの鳴く声が聞こえた。その声は一緒なれど決定的に違い、惣五郎の孤独を癒しはしない。

「人間に挑んで殺される奴がいた。昔と同じ暮らしを送ろうとして出来ない事に絶望した奴がいた。それでも足掻いて死んだ奴もいた。居場所を求めて去った奴も、沢山いた」

 惣五郎が上を向く。そのガラスの様な瞳に、彼の一生の内に出会った者たちが走馬灯の如く映っているのだろう。

「貴方は人間を恨んで……」
「恨んでるに決まってんだろ。俺の仲間をばらばらにした元凶なんだからよぉ」

 私の問いに先回りする形で答える惣五郎。当たり前と言えば当たり前過ぎる答えであり、その気持ちは本当なのだろう。
 しかし、彼は言った。自分たちを淘汰したのは時代であると。 

「では、貴方は時代というものをどう思っているのですか?」
「時代かぁ……」

 概念だしなぁと悩みながら、自分の想いについて考える惣五郎。姿は烏の割に、真剣味は人以上だ。

「あー、俺っちにとっての時代ってやつは何て言うか、恨みの対象でもあり、親しみのあるものって感じだな。
 今や少し前からの時代は俺っちに厳しいが、仲間と馬鹿やった過去の時代には確かに優しかったのも事実だ」
「しかし、時代は貴方の仲間を追いやった筈」
「それでもだよ。おめえら人間共が我が物顔でぶらつく鉄臭い今の時代になって恨みを覚えたさ。
 だが、俺っちや仲間が飛び回ったあの激動の過去も愛すべき時代だ。恨んで憎んで妬み抜いた挙句に呪詛吐き続けても、嫌いにはなり切れねえんだわさ」
「嫌よ嫌よも好きのうち、ってやつですね」
「言い得て妙だな、それ」

 惣五郎は感心したようにそう言い、卑怯だよなと笑った。

「時代は俺っちたちを見限り、人間の味方についた。今の世が人間の天下にあるのが証拠だな」
「時代が人間を選んだ訳ですか」
「ああ。とはいえ、おめえら人間も結局は時代に囚われた存在だ。俺っちたちの時代を壊したのは人間でもあり、時代そのものだ。
 俺っちは人間を恨んでいると言ったが、今の時代ほどじゃねえ。まぁ、同情みたいなもんだがな」
「それは何時か人間の治める時代が終わるという事ですか?」
「ははっ、あんだけ栄えてた俺っちたちの時代があっさりと終わったんだ。昔の神よりもやんちゃしてるおめえらなんざ一瞬かもしれねえぞ?」

 惣五郎はおどけた風に言うが、なまじ人間である私からすれば笑えない話である。
 今この一瞬にも自然を削り、争いを起こし、地球の寿命を刻々と縮め続けている私たち人間の事だ。核の一つでも地上に落ちれば、私たち人間の時代は忽ち終わりを迎えるだろう。
 それこそ、惣五郎たちの言うかつて神や魑魅魍魎らが跋扈していた時代のように。実にあっさりと。

「そうかもですね。肝に銘じておきます」
「嫌に素直だな、気持ち悪ぃ」
「人間の過去を振り返れば、貴方の忠告を与太話と一蹴するにはあまりに力不足ですから」
「忠告じゃねえよ、良いように曲解すんじゃねえ。しかし、人間の時代にも暗い闇ってか。ままならねえなぁ、おい」

 時代、時代と惣五郎は呟き、

「まぁ、俺っちも全部が全部、時代が悪い訳じゃないってのは分かってんだ。悪かったのは――っ!」

 そこまで口にして、はっと口を閉ざした。先程までの明朗な喋りが嘘であるかの様に。

「な、何でもねえ。今、俺っちが言った事は気にすんなよ!?」

 それは何か後ろめたさを感じるが故に起こり得る行動であり、人も烏も変わりはない。
 惣五郎は何かを隠したがっている。それは彼が体裁をかなぐり捨ててまで隠したい事であり、しかし、彼の話を聞いた第三者からすれば分かりそうな事でもある。
 そして、きっとそれは過去から今まで惣五郎を捕え、縛り続けている。彼に独りで生きることを強制している。
 それは余りにも救われないではないか。

「悪かったのは……」

 だから、私が言葉を引き継ぐ。びくっと惣五郎の体が震えた。それを分かっていながら、彼が隠したがっていたと思われる事実を、私は口にする。

「本当に悪かったのは、時代に適応することの出来なかった貴方たちだった。
 人間は常に変化を選ぶ生き物。何時までも貴方たちの存在に脅かされて平気でいられる性分でもない。だから、技術発展という進化の道を選んだ。
 刀や鉄砲を作ることで魑魅魍魎に対抗し、科学を発展させたことで神を敬う必要も無くなった。時代が勢いを持った人間を後押ししない筈がなかった。
 貴方たちの様な古い存在が見放されるのは必定だった。その一時だけに満足し、貴方たちは人間という存在を侮った。それが決定的な敗因だった。
 貴方は人間を、時代を恨んでいると言った。その想いは私にも分かる。しかし、聡い貴方なら気付いている筈だ。貴方の想いは、ただの逆恨みでしか……」



「言うな!」



 ない、と続けようとした言葉は、惣五郎の叫びによって止められた。

「それ以上言ってくれるな、小僧……」

 惣五郎の声は震えていた。それは何かを堪える声だ。
 その胸の内をどのような感情が渦巻いているのか。憤怒か困惑か、後悔か嫌悪か、はたまた悲哀か。彼でない私には分からない。
 分かるのは私の言葉が彼に激情を齎(もたら)したという事実と、私の言葉も大概自分勝手な発言だという事だ。
 今の時代に胡坐をかき、いつ生物の頂点から失墜してもおかしくないのは、人間も同じなのだから。

「惣五郎……」

 惣五郎は私の用意していた茶碗に頭を突っ込んでいた。先よりも深く、頭が完全に隠れる程にすっぽりと。
 見れば惣五郎の白い翼は震えている。あれだけの威勢を誇っていても、所詮は彼も時代に取り残された一羽でしかないという事だ。
 私が今抱いている感情は抱いて当然であり、惣五郎の過去を知りもしない私が抱くには分不相応なものだろう。
 だから、私は惣五郎を励ましはしない。それは彼を傷付けるだけだから。
 だから、私は代わりの言葉を送る。それは彼に欠けている事であり、何より必要な事だから。
 本当に、面倒臭がりな私には似合わない。

「今からでも遅くはない。自分自身に変化を求めよう。でなければ、貴方の誇りも尊厳も何れは地に堕ちるだけだ」

 惣五郎からの答えはない。ただ、かつかつと空になった茶碗の底を突く無機質な音だけが返ってくるばかりだ。
 窓の外で烏が『かー』と鳴いた。釣られる様に他の烏も『かー』と鳴く。かーかー、かーかー。
 彼等は何を想い、何を思って鳴いているのだろうか。



 # # #



「もう良いので?」
「おう。腹ぁ十分に膨れた」

 あの後は特に会話も無く、惣五郎が徐(おもむろ)に顔を上げた所でようやく再開した。

「そうですか。ちなみにこれからの予定は?」
「予定なぁ。烏の生活なんざその日が基本なんだが……」
「何か予定でも出来ましたか」
「まぁ、な。……いいか、特に教えてやるが笑うんじゃねえぞ? 笑ったら突っつき回してやるからな?」
「承知しました。して、その予定とは何なのですか?」
「おう、嫁探しだ」

 それを聞いて、私は笑いはしなかった。代わりに目を瞬(しばた)いた。

「嫁探し……。しかし、嫁に出来るような奴はいないとつい先程貴方は言いませんでしたか?」
「ん、まぁ、そうなんだがよぉ。確かにこの辺りで俺っちと釣り合うような雌はいねえ。いるのは大抵が超の付くへっぽこ餓鬼烏ばっかりだ。
 でも、それはあくまでこの辺りの話でしかない訳だろ? 広い世界だ、探せば俺っちみたく長生きで力のある烏もいるかもしれねぇ。俺っちはそいつを嫁にすんのさ」
「つまり、旅に出るのですか。確かに、ここへ一生留まるより可能性はありそうですな」
「だろ? だから、ちっとばかし遠出しようと思ってよ。何でそんな単純な発想が出来なかったんだろうなぁ、俺っちも……」

 どんな心境の変化があったのか、惣五郎はそう言った。先に漂っていた諦観の雰囲気は鳴りを潜め、何処となく浮わついた様子に見える。

「となると、ここを去るのですか」
「だな。ここも悪くはねえが、嫁の候補がいねえんじゃ居る意味がねえからよぉ」
「そうですか。それは寂しくなるなぁ」
「……おでれぇた。おめえの口からそんな言葉が出てくるとは思わなかったぜ」
「ええ。朝の喧しい烏たちの声が一羽分少なくなると思うと寂しさを感じざるを得ませんよ」
「んな事だろうと思ったよぉ……」

 惣五郎は疲れたような呆れたように呟くが、実際に五月蝿いのだから仕方ない。それと寂しく思っているのも本当だ。

「んじゃまぁ、喧しいだけの烏はお暇(いとま)するかぁ」
「さようなら。また会えることを今日の学食の献立くらいに楽しみにしていますよ」
「おめえは本当に淡白な野郎だなぁ。俺っちの本音も聞いたんだから、もうちっと親しみってやつを込めたって……、っとそういえば、おめえの名前は何てぇんだ?」

 私の名前を今更になって尋ねる惣五郎も大概淡白な烏だと思うのだが、どうだろう。
 それよりも、このやや尊大な性格をした白烏が、さか私の名前を聞いてくるとは予想外だった。正直言って困る。
 私はいちいち名乗るのを好まないので、惣五郎の私への興味の薄さを利用して黙っていたのだが、これ以上の黙秘は無理な様だ。本当にどんな心境の変化があったのやら。

 私はさてどうやって躱そうかと悩んでいた。すると、外から例の階段の寿命を大幅に削りかねない勢いで、かがこの部屋を目指してやって来る音が響いてきた。
 この一切の遠慮や慎みを感じさせない暴力的な足音の持ち主を私は一人しか知らない。そう、女神(後輩)の登場である。

「生雲せんぱーい、おはようございまーす。あなたの愛しの後輩によるおはようの出張サービスですよー。ギャルゲー恒例のあれですよー。羨ましいですねー、このこのー!
 まだ寝てますかー? 寝てますよねー。今から私は寝起きドッキリを敢行しますからねー。その名も、『私が目を覚ますと、視界が愛しの後輩で一杯だった作戦』です!
 白雪姫の原作者が卒倒しちゃうくらいに濃厚なキッスで、あなたを起こして差し上げるという薔薇色企画! うはっ、想像しただけで私わくわくしてきましたよ!? いざ、人情に――!」
「君はドアの前で何を騒いでいるんだ」
「ああ、先輩が起きてる! 畜生、企画倒れっ! しかし、これが現実っ! うがぁっ!」
「絶望しているところ申し訳ないが、おはよう大南後輩。上がっていくか?」
「あ、はい、おはようございます。そして、お邪魔します」

 そのままだと私の世間体に支障が出るので、一先ず大南後輩を部屋に上げることにした。当然、大南後輩の視線は惣五郎へ向く。

「わっ! 先輩、部屋の中に鳩がいますよ!? 食用ですか!? ソテーにしちゃうんですか!?」
「落ち着け、あれは烏だ」
「烏……。烏のお肉って美味しいんですかね?」
「うむ、食べられないことはないらしい」
「じゃあ!」
「じゃあじゃねえよ、ボケ人間共。揃いも揃って同じ間違いしやがるし、物騒な話してんじゃねえよ!」
「え、先輩も鳩と見間違ったんですか? うへへ、お揃いですね私たち!」
「どうでもいい所に喰い付いてんじゃねえ!」

 大南後輩の天然な発言にも律儀に突っ込む惣五郎は実にイイ烏だと思った。

「ってか、嬢ちゃん。俺っちが喋っても驚かねえのな」
「慣れてますから!」
「そうかい。嬢ちゃんも普通じゃねえのな」
「『も』とはどういう意味か。まぁ、大南後輩に関しては私の所為という部分もありますが」
「ほーん。……ん? 後輩って事は、嬢ちゃんがおめえの言ってた彼女なのか?」

 惣五郎は私たちの特徴こそ適当に聞き流したが、ややこしい言い方で質問をしてきた。お蔭で大南後輩のテンションはロケットエンジンの推進力を得たかの如く跳ね上がった。

「か、彼女っ!! 先輩、遂に私との交際を自覚してくれたんですね!?」
「ただの三人称だ。そして、君と交際に至るような切っ掛けに覚えはない」
「ううっ、まだ時間が早かったんですかねぇ? でも、大丈夫。私と先輩の絆は前世から今まで絶賛継続中です。生雲先輩、私、信じてますから!」
「……真剣に君の頭をかち割ってみたくなってきたよ」

 きっとこの軽そうな頭の中にはストロベリーのジャムやアイスが詰まっているに違いない。それも砂糖たっぷりで激甘のだ。

「だっはっはっは! おめえを手玉に取るたぁおもしれえ嬢ちゃんじゃねえか。なぁ、生雲の坊主?」
「頭痛の種でしかない気もしますがねぇ。で、何故私の名前を?」
「そこの嬢ちゃんがさっきそう呼んでたろう」
「そうではなく……」
「良いじゃねえか。俺っちが呼びたくなったんだからよぉ」

 さっきまでは小僧呼ばわりであったのに、急に名前で呼ばれるとそれはそれでむず痒い。
 惣五郎はそんな私の気持ちなど気にもせず、大南後輩の方へと顔を向けた。

「おう、嬢ちゃん。おめえの名前を教えてくれねえか?」
「私の名前ですか? 大南涼風ですよ、烏さん」
「ふむ、涼風嬢ちゃんな。先に謝っとくが、嬢ちゃんの作ってた飯、勝手に馳走になっちまった。すまねえな」
「烏さんがですか。私は別に構いませんよ? 誰かに食べてもらえれば作り手として嬉しいですし、先輩の部屋に上がり込む口実も出来ますし」
「そうかい、それなら俺っちの気も休まるってもんよ。嬢ちゃんの飯、美味かったぜ? きっと良い嫁さんになれらぁ」
「や、やっぱりそう思います!? でへへへぇ……」

 私が口を出さないでいたら余計な事を吹き込んでくれたものである。惣五郎を睨むとあからさまに視線を逸らされた。人の姿をしていれば、口笛を吹いていたに違いない。

「さーて、空気の読める烏さんはお暇すっかねぇ。長居して焼き鳥にされちゃ堪んねえ」
「出ていけ、さっさと出ていけ。でないと、塩に直接漬けてくれるぞ」
「おお、こええこええ」

 そう嘯き、器用に嘴で窓を開けた惣五郎は、

「あばよ、生雲の小僧に涼風のお嬢ちゃん。次は別嬪な嫁を連れて来てやっからよぉ!」

 ばさりと純白の翼を誇らしげに広げ、朝焼けの空へと飛んで行った。最後まで喧しい烏だった。

「で、何だったんですか? あのまっしろ白助な烏さんは」
「ゴミ捨て場で偶然会って、成り行きで部屋に上げることになった通りすがりの一匹烏だ」
「ふーん。どーせ先輩の事だから、無神経な事でも言って怒らせて、なあなあに済ませようとしてご飯を分けてあげたんでしょう?」
「何故そんな事が分かるんだ君は……」
「先輩の考えている事を読むなんて朝飯前ですよ!」

 それを出来るのはきっと彼女だけだ。この後輩には本当に敵わない、こんな時は何時もそう思い知らされる。

「あ、もうご飯ほとんど残ってないじゃないですか」
「朝に軽く残していた程度だったからなぁ。惣五郎が食べた分で尽きたんだろう」
「あの烏さん、惣五郎って名前だったんですか。仕方ないですね、私が適当に作っちゃいますから待っててください」
「時間は大丈夫か?」
「ふっふっふ! 良いお嫁さんに不可能はないのですよ!」
「ああ、そうかい。頑張ってくれ」
「はい! あ、ついでに晩御飯のリクエストもお聞きしますけど、何が良いですか?」
「晩御飯の? そうだなぁ……」

 頭の中で色々な料理が踊る。料理上手な彼女のことだ、言えば和洋中問わずに作ってみせるだろう。
 しかしまぁ、たまにはこんな夕食も良いだろうと思い、私は本日の晩御飯の希望を告げる。



「今日の私は無性に焼き鳥が食べたい気分なんだ。どうだろう?」
「奇遇ですね、私もです」



 味は勿論塩のみで、お供に冷えたビールを忘れずに。



[31437] 第4話 私と妖刀によるハレな日
Name: オレンジ◆5f23d08a ID:0dd2e0a9
Date: 2012/05/09 23:31
 私の回りには不思議が溢れている。

 いや、溢れているというか、不思議が私に向かってくると言った方が正しいか。とにかく人から幽霊に魑魅魍魎まで、奇妙奇天烈な連中が雑多に寄ってくるのだ。
 しかも、自分でその良し悪しを選択出来ないから煩わしい。今まで何度、厄介事に巻き込まれたかは思い出したくもない。
 これは一種の体質で、我が家系には付き物な事らしい。なので早々に納得し、受け入れはしている。

 だがまぁ、それが面倒であり厄介である事には何ら変わりはない。
 この日もまた、何の縁があったかも知れぬ厄介事が巡り巡って私の下へとやって来た。

 それも私の命に関わる様なとびきり不吉で危険極まりない厄介事が、である。



 # # #



「生雲霞さんでいらっしゃいますね?」
「はぁ、そうですが……」

 学生生活の中で生まれる長い休みの一つ、春休み。いち学生であるそれを私もまた享受している。
 交友が広かったり遊び上手だったりする学生は、この休みを友人たちと遊びや旅行に興じたり、必要な資金を稼ぐ為にバイトに勤しんだりするのだろう。
 模範的な学生の例だ。実に学生生活を謳歌している。日和たちの言う所のリア充とやらだ。

 しかしまぁ、学生だって十人十色の千差万別。一人一人に個性が存在し、趣味趣向も休みの過ごし方だって違っている。
 そんな中で私の休みの過ごし方は随分とインドアだ。特に遊びに興じるでもバイトに勤しむでもなく、日がな一日、読書をして過ごすというもの。
 私は財布の口を緩めるのはあまり好かないし、金銭で特に不自由してもないので、労働で汗を流す必要もない。
 決して模範的な学生生活とは言えないだろうが、これも一つの楽しみ方。何と言われようが構わないし、変える気もない。
 試しに近くの図書館で借りてきた本を読み尽くそうとしたのがつい先程。その矢先、突然の来訪者に出鼻を挫かれてしまったのが今である。

「初めまして、生雲さん。私、こういう者です」

 来訪者はスーツを着こなした中年の男だった。まるで機械の様に洗練された動作で名刺をケースから抜き、私に渡してくる。
 思わず受け取ってしまったそれには、氏名と私でも知っている有名企業でのポスト名が書かれていた。どうやらエリートと呼ばれる人らしい。
 そんなエリートさんがしがない学生である私に何の用があるのか、というのは実は大体予想が出来てしまっている。不本意にも。

「今日は生雲さんに折り入ってお頼みしたい事が……」
「お断りします」
「……あの、まだ私は何も言ってないのですが」
「私に頼み事があると言ったではないですか、それで十分。あなたの様な人は大抵、厄介事を持ち込んでくる。何処で話を聞いたかは知れませんが、お引き取りください」

 素っ気なく返す私はさぞ冷血漢の様に見えるだろうが、エリートさんの手に似つかわしくない長物を見てしまっては仕方のない事だと思いたい。

「そ、そんなっ! あなたはこういった事には滅法強くて、依頼されれば決して断らない筈でしょう!?」
「だから何処でそんな話を聞いてきたか知りませんが、そんな話はデマです」

 彼の手にあるそれは俗に言う日本刀。しかも、見るからに禍々しい雰囲気漂わせる大太刀であった。
 刀身を包む鞘と握り手の柄には、これでもかとばかりに御札がべたべたと貼り付けられている。まず間違いないだろう。
 私の明確な拒絶に、エリートさんは顔を青褪めさせる。その変わり様は青の絵の具を上塗りされた様に明らかだ。

「デマですって!? しかし、その手の話を聞くと生雲さんの名前が何度も出ました。実際にあなたに助けられたという人の話も聞きましたよ!?」
「そんなのは極一部です。ほとんどの話はお断りしています」
「ほとんどという事は、受けている依頼もあるという事ですねっ!?」

 嘘でも全て断っていると言うべきだったか。エリートさんは飢えた犬の如く、私の言葉に喰らい付いてきた。

「いや、確かに受ける事もありますが、それは余程手遅れな場合だけで……」
「私も、私の周りも手遅れなのですっ!! つい先日、実家の蔵からこの刀を見付けた途端、不可解な事や酷い不幸が続いているんですっ!」

 冷静沈着という名の仮面が剥がれ、エリートさんの内心に蔓延る恐慌が沸々と露わになる。こうなると、人は止まらない。

「この刀を見付けた次の日、私の両親が病に伏せました。続くように家内とその両親も倒れ、私と娘も体調を崩しかけています。原因はどの医者を訪ねても分からないの一点張りです。
 それだけじゃない、家にいると酷く落ち着かないんですよ。常に誰かに見られているような気がして、最近では変な物音や誰もいない筈なのに人影を見たり……。
 でも、何より恐ろしいのは、この刀を持って誰かを斬ってみたいと思い始めている自分なんです!
 確かに、刀なんか持ったらそう思うのかもしれません。でも、殺したい程に思う事でしょうか!? 柔らかな肉を斬りたい、血の流れる所を見たいと、そう思いますかっ!?
 有り得ないっ! 私は一介の会社員で、侍なんかじゃない! 普通なんだ、一般人なんだっ! 身内を斬るのも死なせるのも勘弁だ! そんなのは漫画やゲームの中だけにしてくれっ!
 ああ、くそっ……! 嫌だっていうのに斬りたくて堪らない……! 鳥を、魚を、犬を、猫を、人を、親父を、お袋を、妻を、娘を、こいつを、あいつを、そいつを……」

 私を目の前にしながら見えていないかの様に独白するエリートさんは、はっきり言って怖い。傍目にも、狂気に片足を突っ込んでいるのが分かる状態である。
 どう見ても悪影響を受けている様子。一刻も早く処置をしなければ、彼が凶行に奔るのもそう長くはないだろう。
 そんな事を考えていると、幽鬼の如き迫力を放つエリートさんは風前の灯となった理性で私に再度救いを求めてきた。

「お願いします、生曇さん……。どうか私を、家族を、助けてください……」
「……はぁ、分かった、分かりました。その依頼、お引き受けします」

 こうなってしまっては仕方がない、引き受けざるを得ないだろう。
 私だって血の通った人間、困っている人がいれば助ける時は助ける。それが人情というどうしようもなく面倒なものだ。
 決して、引き受けないと今にも斬り掛かられそうだったからとかではない。とかではないのだ。

 こうして私の春休み初日は、滅多にない珍客・珍事によって潰されるのであった。



 # # #



 私の下に依頼なんて迷惑なものが飛び込んでくるようになったのは何時からだったか。
 忘れっぽい性格の私には、詳しく思い出せない程に昔だった事と当時のクラスメイトが原因だった事ぐらいしか覚えがない。
 何かに憑かれていると言ったクラスメイト。彼の言葉通り、肩の辺りには宿り木代わりに休憩をとる霊が憑いていた。
 私は昔から色々と『見える』体質なので、何の気なしにそのクラスメイトに憑いている霊と交渉し出て行ってもらった。その時のクラスメイトには今も甚く感謝されている、筈だ。
 しかし、今思えばその軽率な行いが全ての元凶となったのだろう。何処ぞの虫が噂したやら、その日を境に私へ相談する者が爆発的に増えていった。

 疲れが取れない、物が失くなる、勉強が捗らない、恋愛が上手くいかない、左腕や右目が疼く、というかお前は本当に見えてるのか、etc――。

 心底うんざりした。自分が招いた事とはいえ、知りもしない相手の相談に気安く乗れる程に私は器用ではなかった。
 だから、私が他人からの相談を断るようになったのは当然の帰結だった。元より人付き合いの得意な方ではないので尚更であり今更でもあった。
 本当に困っていたり自分に被害がきそうな相談には渋々乗ったが、その他どうでもいい相談に乗るのは止めた。
 相談するだけなら友人だろうが担任だろうが適任は他にいる。わざわざ私に頼りにする必要性は無いのだ。
 しばらくは断れば文句を吐いていく図々しい輩もいたが、時間が経つと次第に数は減っていき、最終的には年に一回二回あるかどうかにまで落ち着いた。
 本当に私を必要とした者が如何に少ないかを実感したものだ。

 とはいえ過去の実績と噂というのは中々に消えないもので、しかも本人の与り知らぬ所で尾ひれどころか、背びれに腹びれまで付けて大きくなっている事がある。
 その良い例が現状の私である。稚魚から人の手によって養殖マグロの如く肥大化した噂は、私の休日を見事に喰い潰してくれた。
 人の噂に戸は立てられぬと言うが、高い金を払ってでも戸を立てておくべきだった、と今更になって後悔している。戸は立たず、後悔だけが先に立つとはこれ如何に。



 閑話休題。



「成り行きで引き受けはしたものの、こいつはどうしたものか……」

 私の前には一振りの大太刀が畳の上に鎮座している。ボロアパートに置いておくには勿体無い意匠に、安易に手を触れればたちどころに不幸を見舞う妖刀。
 持ったのはほんの数十秒程度だったのだが、早くも食器が割れるなどの異変が起きている。若干ではあるが、部屋の空気も淀んでいる気がしないでもない。

「とりあえずは塩でも撒いて……、っと? うぅむ、これは本当に厄介な物を寄越してくれたものだ」

 用意した清めの塩は完全に黒ずんでいた。黴(かび)なんて生易しいものではなく、芯まで完全に変色し切っている。

「これは、私の手には負えないかもしれん」

 私は素直にこの妖刀の恐ろしさに白旗を振る。
 情けないと言ってくれるな。そこに在るだけでこれ程の悪影響を及ぼす呪物に、木っ端程度の力しか持たない私では文字通り太刀打ちなど出来ないのだ。
 そうなると、私が取れる手段は一つ。部屋の隅にある箪笥、その裏底から切り札を取り出す。
 正直使うのは惜しまれるが、自分の命と秤にかければどちらに傾くかなど分かり切った事。エリートさんからの見返りに期待する。
 さて、放置すれば事態は悪くなるばかり。疾く片付けるとしよう。

 ぼろぼろの御札で過剰装飾された太刀を持つ。それだけで身体にずんと負荷が掛かり、全身は総毛立ち、心が酷くざわついた。
 鞘に納まった状態でこの有り様だ。抜けば一瞬で意識を刈り取られるやもしれない。
 しかし、この事態を解決するには先ず刀を鞘から抜く事から始めなくてはならないのだから、この段階で躊躇していては話にならない。
 というのも、この妖刀の問題は刀身にあるようだからだ。おそらく、この御札塗れの鞘は少しでも妖刀の被害を抑えようと後に造られたのだろう。
 さて、推測はここまで、意識の全てを手元の刀に向ける。己の不注意などで死ぬのは勘弁である。

「……」

 眼前にまで太刀を持ち上げ、柄に右手を置く。
 刀身を晒すという事は、呪いを直接的に表へ出すも同然なので勝負はなるべく短時間で済ませたい。
 柄とは反対の左手に持つ切り札へ祈りながら、私は一息に太刀を、抜く。





 次の瞬間、私は全力で自分の腕を押さえ付けていた。





 だんっ! と太刀持つ右手と床の畳とがぶつかり音を立てた。激しい音だが、私に気にしている余裕はない。
 がたがたと震える右手を、逆の左手に全体重を掛け押さえにかかる。

「っ! ふぅ……!」

 しかし、それだけしても力関係は五分と五分。持久力を考えれば不利なのはどう見ても私だ。
 人を斬りたい、血が欲しいという物騒な想いが頭を駆け巡るも、生憎と私にそんな趣味はない。ましてや、自分の身体を斬ろうだなんて変態的な思考の持ち合わせもない。
 私はあくまで一般人(ノーマル)。ならば、次に行う事は一つだ。私に謀反を続ける右手の解放にかかる。
 強固に固められた右手。糊でも剥がすかの様に、柄から指を一本ずつ慎重に外していく。

「くぅ、これで――っ!?」

 何とか五指を柄から外して少しばかりの安堵につこうかという瞬間、まるで鎖から外れた狂犬の如き勢いで、太刀が独りでに跳ね上がった。
 幸い、本当に幸い太刀の事を意識から外さなかったお陰で、顔面が半分に割けるという猟奇的な結果に成り果てることは避けられた。
 きっとバターの様に滑らかに断ち切られていたに違いない。桑原桑原。

「っと! くぁ……っ!」

 だが、冗談を言えるのは頭の中だけ。実際は独りでに宙を飛び、斬りかかって来る妖刀を避けるのに精一杯だ。
 上段、袈裟、逆胴、突き――。あらゆる切り返しを以てこちらを攻めてくる刀。狭い部屋の中、私は無様に避け続けるしかない。お陰で部屋は傷だらけである。
 ああ、畳にまた傷が……。下の床冷暖房システムにまで被害がいってないことを願うばかりだ。大家はきっと黙っていないだろうから。

 それはさて置き、現状の斬りかかって避けての遣り取りの中で僅かながら気付いた事がある。
 独りでに浮かぶ太刀を相手にこんな言葉を当て嵌めるというのも変な話ではあるが、現状が既に変どころの話で済まないので構わないだろう。
 妖刀の太刀筋、それはふらふらと頼りなく、一般人の私が必死になれば避けられてしまう程に拙い。一言で言えば、下手糞だった。
 使い手のいない刀は一様にしてそうなのかは知らないが、私にとっては今も命を繋ぎ止める最大の要因となっている。
 そうでなければ、私はとっくに自ら生んだ血の海に沈んでいたことだろう。

 とはいえ、このままではジリ貧となるのは目に見えているし、馬鹿や素人の刃物の扱い程に危険なものはない。
 このまま部屋が傷付くのも惨殺死体へと姿を変えるのも遠慮したい私はここで一転、一度限りの攻勢に出ることにした。

「……」

 上段からの思い切りの良い振り下ろしを何とか躱した所で、私はぴたりと動きを止める。
 すると、私の動きを訝しむかのように妖刀も宙に静止した。少しは思考する能力でもあるのか、だとしたら好都合である。
 まるで飛び掛かる一歩手前の猫の様に対峙する私と妖刀。次の瞬間には一方が爪を立て、もう一方がその身で受け止める展開が繰り広げられることだろう。
 自然と額に汗が浮かび、時間が圧縮されたかの様に脳内での思考が加速する。

 さて、唐突だが、ここで一つ謎掛けをしようと思う。
 間違えた瞬間に即死、時間切れも死と同義であり、拒否権なんて生易しいものは当然の如く用意されていない危険極まりない謎掛けを。
 しかし、正解すれば『生きる』というどれだけの大金にも勝る権利を獲得する事が出来、一問でミリオネアどころかビリオネア気分を味わえるボロ過ぎる謎掛けを。
 回答者は勿論、私。



 ――では、問題。その場で動こうとしない獲物を、最速で仕留める最適な手段は何か?



 妖刀が銀閃鋭く宙を舞う。私は、



 ――答えは、突きだ。



 切り札持つ左手を前に、心の臓を目掛けて飛んでくる妖刀を迎え撃った。



 # # #



「っと?」

 気が付くと、見覚えのない場所に立っていた。
 ふむ、一瞬前まで私の目に映っていた光景は、刀身に切り札であった御札を新たに貼られ畳に転がる妖刀の筈だったのだが。
 本当に何時の間にやら慣れ親しんだボロアパートの一室などでは決してない、寂れた村に移動させられていた。
 周りには少ないながらも家が建っている様子。しかし、どの家もモダンな雰囲気など欠片もなく、時代を感じさせる造りをしている。
 流れる風景も行き交う人影も何処か虚ろで、まるで夢の中の様に曖昧な空間だ。

「ふぅむ、これは刀の持つ思念か。そういえば、久しく遭ってなかったな」

 感応という言葉がある。外部からの働きかけに心が影響を受ける事だ。そして、どうも私はその影響を受け易いらしい。
 昔からそうだ、多くの魑魅魍魎が私にしょっちゅうの事ちょっかいをかけていった。曰く、面白いからと。
 受ける側からすれば当然堪ったものではないが、長い時を生きる彼等からすれば私は格好の暇潰しの種らしい。
 今目にしている光景、これも刀の見たあるいは体験した過去を私に見せているのだろう。他の奴等にも言える事だが、せめて許可の一つぐらい取って欲しい。

「ん?」

 私が意識だけの世界で顔を歪めていると、すぐ傍を一人の少女が駆け抜けていった。
 それだけなら特に気に留める必要もないのだが、その少女の像だけが周りと比べ矢鱈と鮮明なのだ。まるで彼女が舞台の主人公であるかの様な扱い。
 それを裏付けるように私の意識は少女の方へ追い立てられ、場面は彼女を中心に展開されていった。



 # # #



 少女はとある刀工の一人娘だった。活発で笑顔の可愛らしい、何処にでもいるような普通の田舎娘だ。
 家族は刀工である父の他にはいない。母の姿は見えず、兄妹の影もない。しかし、少女はそれを気にした風でもなく、甲斐甲斐しく父の代わりに家事に努めていた。
 父はどうも無骨な刀馬鹿らしい。職人らしい気難しい顔に汗を滴らせ、昼夜を問わず刀と向き合っていた。その間、娘に気をやる様子は一切ない。
 傍から見れば明らかに冷え切った親子関係。だが、少女の献身的とも言える一方的な世話焼きが、蜘蛛の糸よりも細いそれをほんの少しの所で繋ぎ止めていた。

 少女の働きは齢を考えれば凄まじいの一言に尽きた。
 水を汲みに行くのも、火種となる枯れ木を拾うのも、解れた服を仕立て直すのも、日々の糧となる食材を取り料理するのも、少女は一人で熟(こな)した。
 誰も手助けしないのかと思われるかもしれないが、時代が時代だ。誰もが生きるのに必死であり余所の子供に気を回す余裕などはなかった。
 余程の物好きか富裕者でもいれば分からなかったかもしれないが、そんな親切な存在は少女の周りにはいなかった。
 むしろ変人の気のある父の存在故に煙たがられ、文字通りの村八分状態を味わっていた。

 彼女がこの苦境にもめげないでいられたのは、偏(ひとえ)に父の存在があったからこそ。
 たった一人の肉親、血を分けた者。例え愛情が希薄だったとしても、その事実が少女にとって唯一の支えだった。
 だからこそ、それが断たれた時の絶望は筆舌に尽くし難いものでもあった。



 『――ととさま、どう、して……』



 ある日、何の前触れもなく少女は人としての生を終えた。正確には生贄として、実の父の手によって。

 少女の父はある日突然、刀を打つことが出来なくなっていた。
 その原因は鎚を持てなくなる様な怪我を負ったでも、閨(ねや)から起き上がれぬ程の病を患った訳でもない。
 凡才非才を問わず、職人と呼ばれる者にとっては避けては通れぬ通過儀礼、スランプに陥ったのである。

 打てども打てども納得のいく刀が造られることはなく、徒(いたずら)に鋼を消費する毎日。
 それでも、少女の父は刀を打ち続けた。刀にしか興味を見出だせない男は、スランプを乗り越えるには刀を打つ以外に方法が思い付かなかったのだ。
 それは正解であり、間違いだったのかもしれない。
 スランプは別段治療が不可能ではない。ある日を境に唐突に治ったりするもので、個人差が非常に激しい事を除けば治す方法などそれこそ幾らでもある。
 男にとっての不幸は、なまじ腕が良かった事。腕が良く且つ自らの妥協を許さない性格。それ故に、男の目が異常に肥えており、スランプ完治への道を遠大なものとしたのだ。
 皮肉にも、彼自身の腕の良さが何よりの枷と成っていたのである。

 自身の事ほど分からなかったりするもので、少女の父は並の刀匠であれば十分納得するであろう出来ですら失敗と評していた。
 無論、同じ刀匠たちからすれば侮辱屈辱極まりないことであり、醜い嫉妬であると分かりながらも揃って男を非難した。
 中には『奴は気を違えたのだ!』と吹聴して回る輩も現れる始末で、ただでさえ村八分の状態であった少女の家族はこれを極めることになる。
 だがしかし、男が気を違えていたというのは強ち間違ってはいなかったのかもしれない。
 何故ならこの時点で男の目には刀しか映っておらず、有象無象がどれだけ喚き立てようとも毛ほども気にしてなどいなかったのだから。
 ただ来る日も来る日も鋼を打つ鬼と化していたのだった。

 しかし、その鬼も刀を打つ為の鋼があってこそ。遂にその鋼の素となる鉄が僅かとなる。
 残すは一本を打つのが精一杯の量、誰かに恵んで貰おうにも男の悪評は広がり過ぎていた。
 つまり、詰みの状態であり、スランプを脱する最後の機会であった。これを満足に打てねば、男は刀工として死ぬと確信した。
 何か、何か方法はないかと模索する男。そして、彼はかつて耳に挟んだとある邪法に思い至った。

 曰く、『煮え滾る炉の中に人柱を捧げよ。さすれば生まれし鋼、欠けること、錆びること、朽ちることなく在り続けるだろう』と。

 刀工ならば一度は耳にする与太話であり、同時に絶対の禁忌とされる狂気の業である。
 誰もが有り得ないと一笑に付し、あまりに猟奇的なその方法に確かめる者は無かった。それ故の与太話。
 しかし、そんな荒唐無稽な話に藁にも縋る思いで喰らい付く者がいた。刀を打つ鬼と化した、少女の父である。

 そして男は何の躊躇いもなく、実の娘を、煮え滾り、どろどろに溶けた鉄が混じり合う炉の中に、放り投げた。

 その日から男の本当の孤独な戦いが始まった。
 実の娘と鉄とが混じり合った鋼は、男が今まで手にしたことがない程に硬質かつ良質で、己の技術の全てを注ぎ込むに相応しい素材であった。
 彼はその最高の素材の質を損ねぬように何度も鍛錬を重ねた。熱して、打つ。また熱して、また打つ。呆れる程に火で熱し、聞けば呆れる程の回数打ち付ける――。
 ただひたすら、それの繰り返しである。
 この間、男は陸(ろく)に休みを取ってはいない。
 その暇さえも惜しいとばかり睡眠は最低限、飯に至っては生米を手に掴んでそのまま齧る日々。自分の身体よりも刀を優先しているのが明らかだった。
 あるいは、それが娘を人身御供に捧げた男なりの精一杯の償いであり愛情だったのかもしれない。

 約一月の時間を掛けて、刀は渾身の出来を以て完成する。最後に刀身に自分の名、ではなく娘の名を銘として打ったのは如何な思惑があったのか。
 少女の父は役目は終えたとばかりに事切れた。完全な栄養失調、もっと早くに死ななかった事が奇跡であった。
 しかし、周りの住人は元々から煙たがっていた存在が勝手に野垂れ死のうがどうでもよかったので、特に気にもしなかった。
 ただ、少女の父が打った刀だけは今までの迷惑料として没収する事だけは怠らず、厄介払いも一緒に済んだ事を素直に喜ぶだけだった。
 そうして、少女とその父は誰かの記憶に長く留まることも無く、静かに忘れ去られていった。

 だが、話はこれで終わらない。残された刀、これはこの時より父娘に代わって時代を渡り歩いていくことになる。

 少女の父が打った刀は紛うこと無い名刀であった。当然だ、彼が満足して逝ける程の出来だったのだから。
 しかし、完成された物とはとかく何かを惹き付けるもの。その最たる存在が欲に目が眩んだ賊であり、その出来に我こそがと群がり争う兵(つわもの)たちだ。
 それは必然。そも、刀とは振るわれてこそ初めて刀足り得るのだから。

 世にこの刀が出たのは、ある賊が父娘の住んでいた村を襲撃、飾られていた件の刀を持ち出したことから始まる。
 価値の分からぬ賊の手から商人の手へと移り、まるで使い手を選ぶかのように刀は常に力ある者の手に収まった。
 一度振るえば腕が飛び、二度振るえば脚が飛び、三度振るえば首が飛ぶ。屍山血河の頂点には何時だってこの刀が共にあり、使い手は時代に名を馳せた。
 自然、広まる刀の勇名。しかし、同時に悪名も広がるのが世の常でもある。

 誰かが言った。あれは自分を振るわせることで生き血を吸い、終いに使い手を死に至らしめる妖刀である、と。
 誰もがその話を笑う――ことは出来なかった。笑い話で済ますには余りに人を斬り過ぎ、血を流し過ぎていたからだ。
 使い手を選び、絶大な力を与える代わりに破滅へと導く呪われた太刀。妖刀と謡われるに十分であり、人々の恐怖や畏怖といった思念が妖刀としての位地を確固なものとした。
 こうして、刀は打ち手の一切意図しない所で妖刀へと姿を変えたのだ。

 刀は戦場での獅子奮迅振りをそのままに、ついでとばかりに夥しいまでの呪いを振り撒き始めた。
 その呪い、使い手だけに留まらず、周囲へ純粋な悪意と災厄を齎す。隣人とのいざこざなど序の口、時には謎の疫病を流行らせ村一つを死に至らしめた。
 悪名は広がる。しかし、人の欲とは限りを知らず、大なり小なりのリスクを背負ってでもこの刀を求めた。それがまた刀の悪名を広め、血を流させ、呪いを強める。
 完全な悪循環の出来上がりだった。

 そうして、妖刀は時代の影に幾度となく登場し、とある高名な術師に封じられたことでようやくその伝説に終止符を打った。
 剣戟と矢と怒号の飛び交う戦場から、誰の物とも知れぬ暗く湿った倉の中へと場を移し、固く固く封じられた。
 もう誰も触れぬように。もう誰の血も流させぬようにと……。

 幾星霜の時を経て、妖刀『初』の名はようやく時の流れの中へ埋没したのだった。



 # # #



「で」
「で?」
「何故、私に過去なんて見せた?」

 私は目の前の少女に問うた。

「なに、儂の事を知ってもらうには一番手っ取り早いと思うたからやってみただけじゃよ」
「私の意思を無視してかね?」
「『あの姿』では説明の仕様もないでな。……何じゃ、説明しなかった事を怒っておるのかぇ?」
「……別に怒ってなどない」
「ふーむ、意外に狭量なのじゃな。男ならもっと心を広く持つが良いぞ?」
「余計なお世話だ」

 少女の軽口に合わせられる程、今の私の心中は穏やかではない。

「確認するまでもないだろうが、君はあの少女本人で間違いないな?」

 我ながら少々刺のある言い方だと思う。しかし、少女は特に気分を害した風でもなく、年端に似合わぬ老獪な笑みを浮かべて私の問いに答える。

「如何にも。儂こそ大太刀『初』の打ち手が娘にして、刀にその身を捧げた者よ」

 回想の中で炉に身を落とした時と寸分違わぬ姿をした少女がそこにいた。違いがあるとすればそう、纏う雰囲気に少女特有の幼さが薄れている所か。

「何をじろじろ見ておる」
「いや、やはり姿はそのままなのだなと思ってね」
「あぁ、人の身をしていたのはあの時までじゃったからな。意識だけはこうやって残っておったから、中身は婆(ばばあ)よ」
「ほぅ」

 妙に話し方が古臭かったり、幼さが見当たらないのはそういう理由らしい。しかし、そうなると無視の出来ない事が一つ。

「聞きたいのだが、意識があったという事は、私を殺そうとしたのは君の意思によるものなのか?」

 そうだとするなら、この場での会話も油断が出来ない。
 ただでさえ現状は少女の深層意識に捕らわれている様なもの。この場で私の精神を殺した後に、廃人と化した身体の方を殺すなんて事も可能だろう。
 だが、少女はまるで心外だといった表情で言った。

「違う、あれは儂ではなく刀の意思じゃ」
「刀の? 君の意思とは違うのか?」
「うむ、儂と刀の意思はそれぞれに独立しておるから違うよ。儂はまぁ、刀のおまけみたいなもんじゃから」

 ふむ、嘘を吐いている様には見えない。自分はおまけだという少女の言葉を信じるなら、彼女に刀を動かす力は無いという事か。
 私は少しだけ警戒を緩める。

「そう構えずとも取って喰いやせんと言うに」
「悪いが、そう言って喰われかけたことが何度かある」

 その内の半分は人間の、実の後輩が相手だというのだから世の中は本当に恐ろしい。

「うむぅ、お主相手では引き込んだ儂が言っても説得力は薄か。その若さで苦労しとるようじゃのう」
「実際に味わってみないと分からんものだよ。とはいえ、君ほどでもないだろう」

 基本的にのんべんだらり自由気ままに生きている私程度が、地獄と呼んでいい日々を経験した少女に同情される資格はないと思うのだ。
 だというのに、少女は私の安い同情こそ必要のないものだと言い捨てる様に笑う。

「はっ、儂の苦労なんてちっと熱過ぎる湯につけられた事と身体が動かなくなってしまった程度さね。大した事ではないよ」
「いや、十分に大した事だと思うが……」
「抱える筈の悩みも、背負わなきゃいかん責任も無いような儂が苦労の仕様もないじゃろうて。むしろ、何時も担がれる我が身が恥ずかしくて仕方がないってもんさ」
「それは君の歳を考えればおかしくもなかったのではないか?」
「今がどんな時代かは知らんが、少なくとも儂らの時代の子供は持ってるのが当たり前だったのさ。無駄に生き永らえている儂なら尚更感じざるを得んわい」

 過去を見せられた時にも思った事だが、この少女、芯の強さが半端でない。
 父親に殺されたことさえ受け入れ、自分の生涯を嘆くのではなく、自分の不甲斐なさに嘆いている。
 少女の感性は普通でない。歪んでいると言ってもいい。そうしたのは彼女の父親か、はたまた生きた時代か。
 何れにせよ、それが私の苛立ちの原因であることは疑いようもない。

「そうか。私の短慮だった、すまない」
「うむ、よいよい。正直は美徳、失すでないぞ?」
「善処しよう。それで、だ」
「んぅ?」
「私をこの場に引き込んだ理由は何だ?」

 私に過去を見せた理由は聞いた。だが、同情を必要としない少女がわざわざ私を引き込んだ理由が分からない。

「おぉ! そうじゃった、そうじゃった」
「もしかしないでも忘れていたのか?」
「物忘れは婆の専売特許よ、あまり気にするでないさ」
「あぁ、そうかい。それで理由は?」

 存外に疲れる遣り取りに若干辟易しながら尋ねる私。

「うむ。単刀直入に言うとな、刀を壊して欲しいからお主を呼んだんじゃ」

 それに少女はまた何でもない事であるかのようにそう答えた。

「刀を? 何だってそんな事を……」
「うむ。簡単な話、儂は生き飽いた」

 見た目に似合わぬ憂いを僅かに浮かべ、視線を彼方に向ける少女。

「お主も知っておるじゃろうが、本来なら儂はとっくの昔に死んでいる筈じゃった。だが、何の因果か意識だけはこうやって死に切れなんだ。
 お陰で儂は刀として生きることを強いられた。さっきも愚痴を言ったが、刀としての時間なんてただただ暇で虚無感が募るばかりなんじゃよ」

 周りの風景が早送りで流れていく。それは莫大なまでの記憶の奔流であり、彼女が見てきた時間そのものだ。

「身体が無く意識だけがあるというのは存外に辛くてな、誰かが儂を使って人を斬る時など最たるものよ。
 儂が嫌だと思っても当然抵抗なんて出来やしない。なのに振るわれれば儂の刃は陸な抵抗も感じず叩き斬ってしまう。あの感触だけは慣れようったって慣れやしない。
 ……あぁ、身体が刀になって良かったと思ったのはその時くらいか。そうでもなければ胃ごと口から吐き捨てていただろうからのぉ」

 そう言ってからからと笑う少女だが、声には多分なまでの疲れが滲んでいた。

「だが、結局はその程度じゃ。とと様を恨んだことこそないが、鉄の身になった自分を歯痒く感じない日はないわい。
 おまけに儂の意思を他所に妖刀になってしまう始末。見ず知らずの人間に恐れられるのも、手に掛けるのもうんざりじゃ……」

 少女は溜め息を一つ。幸せというものが視覚化出来るならば、素足で逃げ出しそうなくらいに重く悲壮に満ちていた。

「唯一の救いは刀を封印してくれる者がいた事かの。お陰で儂は長い時間を寝て過ごすことが出来た。
 しかし、儂はまた世に出てきてしまった。このままでは昔と同じく人々に災厄と争いを齎してしまう、そんなことは儂の望むところではない!
 ……儂はな、もう疲れたんじゃ。儂の所為で人が争うのも、人が死ぬのも、もう、耐えられん……」

 濁流の如く流れていた記憶が緩やかになる。おそらく最近の記憶なのだろう、何処ぞの倉から刀が運び出されていく場面が流れている。

「お主が儂を抜いたのは儂に残された最後の幸運だったのかもしれぬな。お主の使った札が生半可な物でない事は分かっているのじゃろう?」
「勿論。もし使わなければ十中八九真っ二つになっていただろう」
「正直、本当に抑えられるとは思わなかったぞ? 過去の術師でさえ封をするのが精一杯だったというのに大したものじゃ」
「特別製だ、それぐらいの力を持っていてくれなければ困る」

 でなければ、私は今頃、畳を血で汚していただろう。まったく、あの人には頭が上がらない。

「お主は儂を封じてそれで終わらせるつもりなのじゃろう? それではいかぬ、何れまた誰かが封を解くやもしれぬからな。
 今世は偶々お主の様な人間がいて迅速に対処したから良かったものの、次に儂が目を覚ました時に同じことを出来る人間がいるという保証はない」
「しかし、私は依頼人に君、いや、刀を返すつもりでいたのだが?」
「気にする必要はない。彼等は刀を厄介としか思っておらぬ。壊れたからといって喜ばれはすれ、非難されることはないじゃろう」

 少女の言葉を反映するようにまた風景が変わる。
 例のエリートさんの親族と思われる人物たちが皆、憔悴し切った顔を浮かべて刀の処遇を話し合っている。
 捨てるべき、壊すべきという言葉はあれど、否定の言葉は一つも上がらない。
 そうして、自分たちで処理するのは恐ろしいので誰かの手で行ってもらおう、という結論に達したが、やはり誰もその結論に異を唱えたりはしなかった。

「……ちなみに、私が嫌だと言ったらどうする?」
「その前に、どんな理由があって断るのじゃろう?」
「ふむ。例えば、私が刀を壊すのを惜しいと感じているとかだ」
「ほぅ、それは儂としても嬉しい言葉じゃの。……だが、駄目じゃ。刀と人の命では釣り合いが取れぬ」
「なかなかロマンチシズムな考えをお持ちなのだな」
「ろま……? ともかく! 駄目なものは駄目じゃっ!」
「もう一度聞くが、もし嫌だと言えば?」
「なに、その時はこの刀に新たな意識が増えるだけよ」

 つまり私はこの世界に取り込まれ、何時消えるとも知れぬ程に気の遠くなるような時間、動くことも出来ずに過ごさねばならぬと。
 考えるだけで苦痛も苦痛、本当によくこの少女は耐えたものだと感心せざるを得ない。

「我が身が可愛いければ君の願いを聞かなければならない、という訳か」
「……壊してくれるだけで良いのじゃ。それでお主は解放される、簡単な話じゃろう?」
「ふむ……」
「脅す様な事を言っているのは自覚しとる。儂もお主をどうかしたいとは思ってない、頼むからうんと頷いておくれ……」

 周囲の記憶の流れは遂にその動きを止めた。今、私の目に映っているのは、畳に転がる刀とその傍で意識を失っている自分の姿だ。
 現実の私が再び目を覚ますか否かは、この回答に懸かっているらしい。答えを強制される面倒な状況、答えなければより面倒な事になる。
 面倒ここに極まれりな二者択一だが、前者の方が何百倍もマシなのは確かな事だろう。
 だから、私は答えを返す。

「確かに、私は刀に取り込まれたいとは思っていない」
「そうじゃろう? だから……」
「だからといって、あれ程の刀を壊すのはやはり惜しいとも思っている」
「……しかし、それでは儂はお主を取り込まなくては……」
「早合点してくれるな。私に一つ策がある」
「ぬ?」

 ただし、第三の選択肢を以てだ。

「もしも刀を壊すことなく、且つ、君を助ける方法があると言ったらどうする?」
「んなっ!?」

 それはとても強欲な提案。二兎を同時に追って二兎を仕留めると夢想する愚者も同然の考えだ。
 しかし、この極限の状況の中、それがリスクもほぼ存在せず、成功率も極めて高いと言われればどうだろうか。
 その場合、万人が二人共が救われる選択肢を選ぶに決まっているだろう。

「な、そ、そんな方法がある訳――!」
「ないという訳ではないのだよ、これが。君がもしも一般人に頼んでいればこの方法は生まれなかったが、生憎と私はそれを可能にする手段を持っていたりする」
「……もしや、あの札か?」
「ご明察」

 私と一般人に違いがあるとすれば、切り札である御札を有していたか否かに尽きる。
 これが無ければそもそも生き残ること自体が不可能であったろうし、第三の選択肢を思いつくこともなかったのだ。この有る無しの差は非常に大きい。
 だから、私は両者共に後味を悪くしないだろう第三の選択肢を選んで欲しいと思っている。
 ただ一つ問題があるとすれば、

「うむ、しかしじゃなぁ……」
「もしも刀の呪いについて不安があるのなら安心してくれていい。君を助けるついでに処理するつもりだからな」
「さらっととんでもない事を言ってくれるのぉ……。いや、儂が気にしているのはそういう事ではなくての?」
「一応言っておくが、私は私の提案を呑めと強制している訳ではないからな? 気に入らないと思うのなら、別に蹴ってくれても構わない」
「む、そうなのか?」
「あぁ、無理強いはしない。断るのなら君の意思を尊重して刀を壊してそれで終わりにするつもりだ。……まぁ、惜しい事をしたと後悔はするだろうがね」
「うむむぅ……」

 それは、少女が私を信頼出来るかというただ一点。
 無料(タダ)より高いものはないし、うまい話には裏があるもの。何より膨大な時間を刀を通して過ごしてきた少女だ、人の清濁も多く見てきた筈。
 私は自分が他人から簡単に信頼を得られるような高尚な人間でない事を自負しているので、無理強いはしない。

 少女は思いもしなかったであろう事態に顔を歪ませている。おそらく必死に頭を働かせているのだろうが、見ているだけの私は暢気なものである。
 正直に言うと、私はここから出られるならどんな方法でも良いと思っている。それでも新たな選択肢を作ったのは、何度も言うが刀を壊すのが勿体無いからという理由。

「なぁ、君は生き飽いたと言ったが、それは本当か?」
「へ? それはどういう意味じゃ?」
「あー、いや、すまない。私が言いたかった事をもっと簡潔に言うとだなぁ…………、そう、君は自分が消えても未練は無いのかという事だ」
「未練?」

 それと、少女があまりに救われないという想いからだ。

「君は、私に生き飽いたといった。その言葉に嘘がないのは分かっている。
 断片とはいえ、君がどれだけの時間を無為に過ごさざるを得なかった事を知っているから疑おうなんて事は露とも思っていない。
 ……いないんだが、同時に納得もしていないんだ」
「納得? 儂の何が納得いかんと言うのじゃ?」

 声に色があるとすれば、込められているのは苛立ちに僅かな畏れや不安か。
 別に少女の心を荒ませる意図がある訳ではないので、私は努めてそれを増長させない声音を心掛けて言う。

「いや、本当に単純な事なんだ」
「ふんっ、聞いてやるから言うてみぃ」
「あぁ。君は少々、いや、かなり子供らしさに欠けている。それがただただ納得がいかん」
「…………はぁ?」

 少女は私に気でも狂ったかといった視線を寄越してくる。勿論、私は頭を打つでも月に魅せられた訳でもないので、健常な精神を維持したまま話を続ける。

「君は見た目通りの子供だろう。人生の苦ばかりを味わうのでなく、子供は子供らしく人生の楽も存分に教授すべきだ」
「いやいや、前にも言ったが儂はとっくの昔に婆で、お主に子供扱いされる筋合いは……」
「子供の姿をして言われても説得力に欠けるな」
「むうっ……」
「悔しければ大きくなってから言ってくれ。そうでもなければ、私は君を大人扱いするつもりはないのでな。
 話を戻そう。君は生前を陸な目に遭わずに終えている。過酷な日々を健気に生きながら、結局はあっさりとその命を散らすことになった訳だ。
 ……おかしいではないか。君はあれだけの艱難辛苦を味わいながら何の見返りも幸せも得ていない。それは余りに理不尽だろう」
「それは時代や事情があったからで……」
「そうだな、そういった理由もあるのだろう。だが、私の納得がいかないのはその根本に理屈が伴っていないからなのだよ」

 ぶっちゃけて言ってしまうと何の事はない、私が言っている事はただの感情論だ。
 少女が少女らしい人生を送れなかった、それを見て腹が立ったというそれだけの話。
 彼女としては自分の過去を見せて同情を買い、刀を壊して貰おうという算段だったのだろうが、どうも私相手だと効果があり過ぎたらしい。
 何ともらしくないと我ながら思う。だが、悪い気もしないのは私が人間らしさを失っていない何よりの証拠だ。
 だから、私はあえて選択を増やし、彼女の望む救いを与えたいと思っている。

「……お主が儂の事を想ってくれいているのは分かった。嬉しくも思う。
 だが、わしは他人を不幸にさせ過ぎた! そんな儂が一人のうのうと幸せになるなど間違っているじゃろう!?」

 喉よ裂けよとばかりの少女の叫び。乗せられた言霊は、感情に相応しい重さを以て私に届く。それに対する私の返答は、

「それは、間違いなんかじゃない」
「――っ!」

 少女のものとは正反対、何処までも軽い調子で返された。少女の白い頬が、かっと赤に染まる。

「何故じゃ! 何故そう言えるっ!! 儂は多くの人間を斬った! 呪いも振り撒いた! そんな奴に幸せを得る権利などある筈ないじゃろう!?」
「馬鹿者、あるに決まっているだろう。刀を振るって人を殺めた者にだってある。むしろ、それは自分の幸せの権利を得る為だったと言っても良い。
 大体、君が直接人を斬った訳ではないだろう。斬ったのは使い手であって君ではない。呪いもそう、妖刀になる切っ掛けを作ったのも君ではなく他人だ。
 君だって好きで刀になった筈がない。現に今の自分を苦痛に思っているではないか。履き違えるな、君は加害者ではない。被害者だ」
「ひが、い、しゃ……? 儂は、被害者じゃったのか……?」

 呆然とそう呟く少女。当たり前の指摘を、まるで目から鱗の事であったかの様に受け取る彼女。
 誰も少女の話を聞かなかったから、聞けなかったから、彼女はこんなにも簡単な己の間違いに気付けなかった。
 少女を歪ませたのは徹頭徹尾、彼女の周囲、環境に他なら無かったのだ。

「私の言いたい事はそれだけだ。さぁ、刀を壊すことで意識を消すか、刀を残して生まれ変わるか。選んでもらおうか?」

 終始、立場が逆転した私と少女。私が問い、彼女が選択する。
 私が提示したのはどちらを選んでも少女が救われる実にイージー極まりない問い掛けなのだが、彼女はまるで双子素数に挑む数学者の如く顔を歪めている。
 私はこれは長期戦かと覚悟を決めようとした。すると、

「のぅ、儂からもお主に問いたいのだが、答えてくれるかの?」
「私に答えられる範囲であれば」

 どうぞと視線で促すと、一瞬ほっと表情を緩め、慌てて引き締め直す少女。そうして見ると、やはり年相応の子供にしか見えない。
 厳かに、少女の口が開かれる。

「儂は被害者なのか?」
「あぁ、完全無欠に君は被害者だ」

 彼女がそれでなくて誰が被害者を名乗れるだろう。

「儂は許されるのか?」
「許されるも何も、君は何も悪いことなどしていない」

 彼女に悪い部分があったとすれば、それは時の運だ。

「儂は……、幸せになってもいいのか?」
「当たり前だ。貯めに貯めた利子分の幸せを受け取るといい」

 彼女にはその権利が、ある。

「そうか、そうじゃったのか……」

 何か得心がいったのか、少女はしみじみそう呟いた。そして、あの人好きのする田舎娘な笑顔を私に向けるのだ。

「なぁ、儂は今まで自分が消えることしか願っていなんだったが、どうにもお主の言葉を聞いて生きとうなってしまった。この責任どう取ってくれるのじゃ?」
「君の今後については、私の出来る範囲で手配するつもりだから安心したまえ。それと、女性が妄(みだ)りに責任なんて言葉を使ってはいかんよ」
「おやおや、儂の事は童扱いするんじゃなかったのかぇ?」
「人の主張など二転三転するものだ。信用も過ぎれば毒になる」
「無責任な男じゃなぁ……。儂は本当にお主に頼っても良いものかの?」
「それに関しては大船に乗ったつもりでいるといい」
「本当に二転三転しおる……」

 不安じゃ不安じゃ、とぼやく少女だが、その顔に不安や悲壮は見られない。あるのは現状からの脱却が叶うことへの喜色である。
 それを見れば答えは分かったも同然なのだが、あえて私はもう一度問いた。



「さて、刀を壊すことで意識を消すか、刀を残して生まれ変わるか。……君はどちらを選ぶ?」
「儂は、今一度の生を望む! 今度こそ、悔いの無き生を!!」
「承知した」



 何処かで忌まわしい記憶の世界の崩れる音がした。



 # # #



「で」
「で?」
「どうして、先輩は、私の知らない女と、一緒に! 仲良くご飯なんて食べてるんですかねーぇ?」

 毎度お馴染み大南後輩が、私と、私の作った料理を口一杯に頬張っている例の少女を射殺さんばかりに睨み、ねっとりじっとり問い掛けてきた。
 少女は、所詮男料理でしかない野菜炒めを美味い美味いと食べ続けていて話にならない。自然、回答者は私になる。
 答えを間違えれば喰われる、そんなスフィンクスに謎かけられた旅人の如き心境で私は事情を説明する。

「……実は斯々然々(かくかくしかじか)な事があって、伸るか反るかの選択に迫られ、あれよこれよと今の状況に落ち着いた訳だ」
「なっ――! 何処ぞの男に妖刀を手渡されて、命からがら妖刀を抑え込んだら逆に取り込まれてしまって、色々と事情を聞かされてなし崩しに保護してしまったと!」
「素晴らしい理解力だ、大南後輩。で、納得はして貰えたかね?」
「はい! さっぱり納得がいきませんっ!」

 きっぱりと言い捨てられてしまった。何故だ。

「理解は出来ても納得は出来ないんですよ!
 え? 何で先輩は私に相談もなく女の子を匿ったりしたんですか? 何か私に後ろめたい事でもありますか?
 それともつい魔が差しちゃいましたです? 家出少女に声を掛ける下心満々夜回り先生気分ですか?
 ふふ、何にせよ、雌犬が先輩の庇護を受けるってのがおかしな話ですよ。先輩、その子をうちに預けてみませんか? 大丈夫、ちゃんと五体満足で返しますから。
 ただ、誰が一番に先輩の寵愛を受けるべきか教えてあげなくてはなりませんけどね」
「君は何を言っているんだ……」

 大南後輩ほどに物分りに優れない私には、彼女の言葉の本気さ加減がよく分からない。
 ただ、彼女の家に少女を預けるのはNGだという事だけは分かる。唯でさえ物騒な所だというのに、今の言葉を聞いては尚更である。

「大体、何で刀を預かった代わりに女の子が手に入るんですか! あれですか、刀が引換券変わりですか! 何というゲーム感覚、性が乱れ過ぎるぞ現代日本!」
「待て、その台詞を君が口にするのだけは聞き捨てならんぞ」
「何の事ですか。そんな事より先輩、その雌い……、女の子の名前は何て言うんですか?」

 大南後輩のナイフばりの鋭さを誇る視線が、私から未だ野菜炒めを貪る少女へと向けられる。もう完全に敵を見る目だが、しょっちゅうな事なので私は気にしない。

「うむぅっ? わひのはふぁ? わひのはふぁ(儂の名か? 儂の名は)……」
「こら、口の中の物を呑んでから話しなさい」

 行儀が悪いので一つ注意。リスの様にぱんぱんに膨らんだ少女の頬が凹むのをゆっくりと待つ。

「ほふーっ、満足じゃー。うむ、儂の名じゃったな。儂の名は初(はつ)、お初とでも呼んでくれて構わんよ」

 幸せ光線をこれでもかと発しながら、少女は自らを名乗った。しかし、私の中で一つの疑問が湧く。

「はつ? しかし、君は確か『はじめ』という名で知られていた筈ではなかったか?」
「それは単に初めて刀を使った者が読み間違えただけじゃ。そ奴が間違えたまま名を馳せてくれたお蔭で、儂の名は『はじめ』の名で広まったんじゃ」
「成程」

 ふふふと薄く笑いながらのお初先生による歴史の間違い指摘のお蔭で疑問は氷解した。
 が、代わりに何やら大南後輩の視線が強まった様子。今度は何か。

「……私は置いてけぼりで二人だけのお話ですか、ふーん……」
「何だ、拗ねているのか?」
「拗ねてませんっ! それでっ!? お初ちゃんは一体どんな理由があって先輩の家に住み着いてるんですか!?」

 段々とヒートアップしていく大南後輩の迫力に若干たじろぐ。
 そういえばまだ詳しい事情を説明し切っていなかった事に気付き、下手な説明であればよりややこしい事態になりかねない事に思い至る。
 そうして、細心の注意を以て説明せねばと口を開こうとする前に、

「なに、こ奴に一緒に住まないかと言われたのでな、儂が誑かされてやったんじゃよ」

 お初が燻っていた火へと盛大に油をぶち撒けてくれた。瞬間、私はこの事態の収拾を諦めた。

「……………………はい?」

 大南後輩の表情がすとんと綺麗に抜け落ちる。

「え? ちょ、先輩? 何をこんな小さい子に同棲迫ってるんですか? 私が頼んだ時は断ったのに?」
「待て、落ち着け」
「しかも、誑かしたってどういう事ですか。確かに先輩が魅力的な人なのは分かりますけど、魅力振り撒く相手を間違ってるんじゃないですよっ!!」
「落ち着くんだ、大南後輩。さっきの初の言葉には色々と語弊がだな……、こら、何で私の首に指を掛けるんだ?」
「先輩が間違った道へ行くというのなら、それを正すのが私の役目。逃がしません、離しません。首輪を着けてでもその性癖、矯正させていただきますからっ!」

 ぎりぎりと締まる大南後輩の指、解こうにも完全に極まっていてどうしようもない。このままでも矯正云々の前に私が生命活動を終えてしまいそうだ。
 唯一の救い人となり得るお初は、どうも私たちの遣り取りをスキンシップとでも思っているのか微笑ましいものでも見るような表情を浮かべているので役に立ちそうにない。
 薄ぼんやりとしていく視界の中、にこにこ笑顔なお初の声が聞こえた。

「いやしかし、まさか儂も付喪神になれなどと言われた時は驚いたものじゃ。長い時間を過ごしてきたが、そんな考え、思いもつかなんだったわ」
「っふふ、先ずは先輩の趣味を超年下趣味から一つ年下趣味に変更することからですかねぇ」
「妖刀の要となる呪いだけを封じることで刀本体には傷一つさえつけない。そんな芸当が出来たのは偏(ひとえ)にあの札があったからじゃろうな」
「ついでに、他の雌に目が行かないようにしとくのも良いかもですね。先輩に限ってありえない話ですけど、念には念をってヤツです」
「儂はただの刀に成り下がってしまったが、お主が示してくれた付喪神という存在、大変に心地が良い。こればかりは長く生きた事を感謝せずにはいられぬわい。
 おまけに、身寄りの無い儂を保護までしてくれて……。本当にお主には頭が上がらぬ、誠に感謝しておるぞ」
「うひひ、調教の過程を考えただけで腕が鳴りますねぇ! ……って、それは本当の話ですか?」
「うむっ、一片の嘘偽り無い事実じゃ」
「そういう言い方する人って大概嘘を吐いてるもんですけど、先輩ならありえる話かぁ。貴女は嘘も下手そうですし」
「儂は納得してくれて嬉しいぞ? それよりな、主よ。儂の恩人であるそ奴の名は何と言うのじゃ? 聞いても答えてくれんのじゃよ」
「あぁ、また先輩は名乗るのを面倒臭がったんですね? いいですか、この人の名前は……、って! どうしました先輩!? お顔が真っ青ですっ!!」
「のぅ、それはお主の手がそ奴の首を絞めているからではないか?」
「ぎゃあっ!! どどど、どうしましょう!? ええと、こういう場合は、瞳孔確認? 気道確保? 人工呼吸……、人工呼吸! それだぁっ!!」
「おぉい、こ奴の名は……、聞いておらぬな。のぅ、お主の名は何と言うのじゃ?」



 あまりに遅過ぎたお初の説明と問いをBGMに、私の意識は本日二度目の沈没を体験する。最後に見たのは、何時か見た様な急接近してくる大南後輩の顔だった。


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