自分と言う人間の一生を振り返れば、特に意味のある人生を送って来た訳でも無かった。
何故、一生について振り返ることができるのかと言うとつまり、私と言う人間は現状において、すでに故人だからである。
優秀さと言う意味では比類無かった私は生まれ育った環境においては政治家になることを希望していた。
特に夢としていた訳では無い。
憧れは無く、大志を抱いたこともない。
ただ、私と言う個が存在する社会を動かす仕組みに関心や興味はあった訳だ。
今、思い返して見ると当時は出世欲も多少はあったように思う。
若さというおよそやり場の無い雑多なエネルギーを向ける先としてエリート主義があり、其処にただ情熱をぶつけて生きていたのが、かつてのそう、私であった。
最終的に見て私にとって政治家になるという目標が身の丈にあったものであったのかとどうかと言う事は、実のところ、良くは分からない。
結局、私は挫折したのだから。
そう、私は挫折した。
政治家になるまでも無く挫折したのだ。
私は生前、政治家となるべく所属した政治会で、とある大先生の私設秘書として活動していた。
いずれは大先生の後を継いで政治家にと考えていたのだ。
ところが私はその志半ばにして、トカゲの尻尾きりにあう。
大先生の不正献金の泥を被って罪に問われ、政治家としては始まりすら得られないままに終わりを告げられたのだ。
これからの話にとって実にどうでもいい話ではあるが、ここであえて弁明させて貰うならば、もちろん不正献金に関して私に身に覚えなどあるはずがない。
ないのだが罪に問われ、有罪が確定してしまった。
こうなってしまうと残念ながら政治家になるという目標は断念するしかない。
このとき、私は人生を諦めた。
その当時の私をして、週刊誌にでかでかと私の名前が載っているのを見て、もはやその後の人生の軌道修正など不能な事は明確に知れたのだ。
このときの私がどれ程の諦観と、絶望と、憎しみと、怨嗟を抱いたのか実のところ良くは覚えていない。
激情とは一瞬のものであり、あとに尾を引くものでは無いのだ。
まして死んだ後にまで残っているものでもあるまい。
その後、大先生の別の使いの者がお金を握らせて私を黙らせようしに来たが、私はそれを断固として断ると粛々と身の回りの整理を始めた。
そして自死した。
わたしはこの世を去ったのだ。
ちなみに身の周りの整理の中には、私が私設秘書として握っていったあれやこれやのネタを冥土の置き土産として報道機関当てに投函とすると言うものもあった。
このような次第で、私という人間は当てつけに死んでやったのである。
私と言う人間は極めて矮小な人間なのだ。
私が死んだあとの結果になんて興味は無かった。
せいぜい満足のいく嫌がらせが出来て、それが冥土の土産としては十分であった。
それで満足して逝けた。
だから、私にとって最終的な末路はどうあれ人生なんてものはそんなものであり、良くも悪くももう十分に堪能した。
お腹一杯である。
だから、もう生まれ変わりたいだとか、やり直したいだとかいう気持ちは私の中に微塵も存在していなかった。
いや、もっと言えば、私は人間として生きる人生と言うものに大概に嫌気が差していて、もし万が一、面倒なことに生まれ変わらなくてはいけないならば、そう気楽な家猫か家犬になれれば良いのにとすら考えていた。
だから、これは罰ゲームなのだろう。
そう。
なぜか私は生まれ変わっていた。
彼のはるかなる銀河の海の下に。
産声を上げ、転生したのだ。
神もまったく馬鹿な事をしたものだ。
私は転生してまでもやりたいことも、やり残したことも無いというのに。
私は歴史に名前を残すことも英雄になることも無いだろう。
◇◇◇◇◇
難儀なものだなと私は頭を掻いた。
人の業と言うものは往々にして深い。
それは一度死んだくらいじゃ拭い切れないほどの深さのようだ。
一度死んで全てがリセットであったのならば、よかったものを、私は半端にも人間性の全てを引き継いで新たな世界に誕生してしまった。
この世界、銀河英雄伝説の世界に。
この世界において、なぜか、私は懲りもせず某政治家の政策秘書官をやっているのだ。
全く因果なものである。
まぁ、この選択は今後の予見があり、それに基づいて選択した結果なのだが。
しかし、だ。
これからわが身に降りかかるであろう物語のあれこれが容易に想像出来てしまうだけになおの事、嫌になる。
面倒になる。
私が生まれ変わった世界は私も一度は呼んだことがあるSF小説の金字塔、銀河英雄伝説の世界に非常に酷似した世界である。
というかおそらくそのままの世界であろう。
銀英伝は、生前は乱読家として鳴らした私が学生時代に呼んだ本の中の一つだ。
私の無駄極まりない記憶力によるとこの世界はあの小説の世界とまったく同じに思える。
しかし、転生するにも物語の中とは。
何故、そんな事が起こったのか大いに謎である。
あの馬鹿げた世界が実際に実在し、そして、何故かそのような世界に死んだ私が転生してしまったことは到底理解できるものではない。
しかし、残念ながら私は哲学者では無く、世界の謎を解明しようなんて気持ちは全く抱いていないので、おそらくこれからの私の人生においてこの件に関して万人が満足するような回答を得ることはまず無いのだろう。
この事に関して、私自身はもちろん理解も納得もできなかった。
が、しかし残念ながらこの状況に至ってしまっては諒解と諦観はするよりもほか無かったのだ。
一つ幸いなことは、今の私は少なくとも別世界の人間として召喚されてきたわけではなく、この世界に存在を得て、生まれ育つことができた事だろう。
さて、興味は無いかもしれないが一つ身の上話でもしよう。
私はルーアン・ヒィッドーと言う名前を授かり、この世界にまた新たな生を受けた。
私は自由惑星同盟(フリープラネッツ)の豪商の長男として育った。
父は政界進出を目論む程度には名の売れた起業家であり、そのため私は幼年期からそれなりに裕福な暮らしを得ることができた。
私が中等部に進むころには父の政界進出は失敗に終わったようだが、私の見立てでは父は有能ではあるが誠実さと人の良さが政治家には向いていないように見えた。
だから息子としては寧ろ父の政界進出は失敗して良かったと思っている。
政治家には何より人を食った性格と不誠実さこそ重要である。
それを私は文字通り、身を持って理解していた。
もちろんここで言う政治家とは悪い方の政治家の話ではある。
しかし、良い政治家になど目指してなるべきではないと言うのが、あの出来事を得て出た私の結論である。
政治家が誰かに怨まれないはずがないのだ。
人が良い政治家など何も為せない無能な政治家と大差は無いのだ。
さて、身の上話に戻るとして私の話だが、幸いにして私のこの世界に転生して来ても高い知性を保っており、そしてある程度の勉学は元の世界における知識が役にたった。
私が知る世界の常識より、より高度な技術や知識も存在したがそんなものは覚える必要がほとんど無かった。
あの時代においてですら、相対性理論を真の意味で理解している中学生などお目にかかったことは無かったのだから、相当に高度な専門知識はその道の専門家にでもならないかぎり必要とはされないのは当然だろう。
一般知識に関しては慣習が似通っているところが多々あり、元の知識で十分に通用した。
もちろん、一から勉強を必要とする学問も数多くあったのだけれど、自覚という意味において、とうに成人している私が当たり前に勉強して行けば相当に優秀な成績を修めて行くことになるのは言うまでも無い話だろう。
いくつかのクラスを飛び級し、大学入りし、若くして政治経済学の博士号を得、卒業した私は19歳という若さで最優秀と称される政治家ヨブ・トリューニヒトの陣営に参加し、23歳にして私設政策秘書官の筆頭となっていた。
両親はさぞ鼻が高かっただろうし、ゆくゆくは私自身が大先生の基盤を引き継いで政治家にとでも思い描いていただろう。
しかし、残念ながら、私自身にはトリューニヒトの陣営の後を継ぎ、政治家になるなどと言う野心はまったく無かった。
ただ、この時期にトリューニヒトの側近として付き従うというのは、良い意味で極上の観客席なのかもしれないと言う気ではいた。
期は奇しくもアスターテ会戦。
銀河の歴史が動こうとしているのが私には当然と分かった。
◇◇◇◇◇
アスターテ会戦。
あの稀代の名将といって過言ではない不敗の魔術師ヤン・ウェンリーと野心に赤く燃える超新星たる常勝の天才ラインハルト・フォン・ローエングラム伯とが互いに艦隊指揮権を持って、激突したとされる最初の戦いである。
彼の激闘は燦然と輝く銀河の歴史の一ページであり、多くの人が知るところであろう。
しかし、ルーアンたちはまったく別の場所で人知れず動き始めていた。
ここは彼の輝ける銀河では無く、とある政治家の執務室の中である。
格調高い調度品に囲まれたその場所は一見して、無味簡素が基本となる一般的な執務室としてはおおよそ似つかわしくない雰囲気を漂わせていた。
ここが国防委員長ヨブ・トリューニヒトの居城である。
国防委員長の地位に似つかわしくない男が座る王座は当然、似つかわしくなどあるはずもない。
ただ、此処にある調度品の品格は疑う余地なく一級品であった。
そして、並ぶ調度品のセンスも悪くは無い。
さて、彼の銀河では、狭い銀河に艦隊が犇きあい、開戦のときを今か今かと待っているのであろうが、一方、この執務室で主の横を主な戦場とするルーアン・ヒィッドーは思案にふけっていた。
傍らに控える秘書のその様子を面白そうに国防委員長の地位にある政治家のトリューニヒトは見ていた。
「何か不安でもあるのか?」
「特には。以前、申しあげましたように、この会戦では同盟は負けるでしょうから」
ルーアンのその素っ気ない物言いに、トリューニヒトは不思議そうに眼を細めた。
「ふむ、そこが実に不思議なのだがな」
この実に聡い秘書ルーアン・ヒィッド―と言う男は今やトリューニヒトにとって重鎮中の重鎮である。
彼はすでにその類まれなる機智で何度となくトリューニヒトを救い、大金星を与えてきたのだ。
それが故に、今やトリューニヒトは同盟の国家元首たる最高評議会議長の座にもっとも近い政治家としての地位を確立している。
国民、軍部の覚えも良く、この戦時下にあって押しも押されぬ大人気政治家なのだ。
さて、このアスターテ会戦だ。
今回の会戦にあっては、ヨブ・トリューニヒトもまたある程度の支持を口にしていた。
主戦派にあって、勝ちが決まった戦いにおいてするくらいの支持表明はした。
と言う意味である。
トリューニヒトの許にフェザーン陣営のリークが真っ先に入ったのは事実だが、彼はそれは横から横に流した。
無視したのだ。
故に戦端を成した政治家は別にいるわけだ。
つまり、今回の作戦の発案自体はトリューニヒトではない。
「我らは目下2倍の兵力を今回の戦争に投入している。常識で考えれば負けることなどまずありえないのではないか?」
「連携の粗を突かれればそうもいきますまい。今回に限って言えば上手くやられてお終いです。まぁ。多少はエル・ファシル輝ける英雄ヤン・ウェンリーが盛り返すのではないでしょうか」
トリューニヒトは鼻を鳴らした。
「そのヤン・ウェンリーとか言う若造と帝国のローエングラム公の二人を出世させておくために今回の会戦における同盟の失態を見逃すというのも実に不思議だ。そこまで重要な人物なのか?」
「才能と言う意味では比類ないでしょうね。しかしラインハルトの方はともかくヤン・ウェンリーは確実に野心家ではないですよ。閣下が上手く付き合うには最適な男です」
今回の会戦を期にヤンをトリューニヒト陣営のお抱えに取り込もうという案をルーアンは取っていた。
「まぁ、今回の会戦でヤンを持ち上げるのは良く分かる。してローエングラム伯を持ち上げる理由は?」
「逆に野心家のローエングラム伯の出世は帝国にとって分かりやすい火種となってくれましょう。我々にとって彼の存在は後々間違いなく役に立ちます」
ルーアンの目が思慮深く細められるのを見てトリューニヒトは満足げに頷いた。
この男の未来予想図では彼の男こそ重要なのだろう。
トリューニヒトは自ら吟味し入れることが多いこだわりの紅茶を口に含むと舌先で回した。
「まぁ、今の政権メンバーの分かりやすい失態劇を演じるのは政権交代という新陳代謝を促す意味で重要であろう。早くも私に御鉢が回ってきそうだな」
二倍という兵力でもってして帝国に負けるという失態を犯した重責は今の無能な軍部がとれば良い。
トリューニヒトは常識的に考えて勝っていたであろう会戦を支持していたくらいで失うものなど、何もないのだから平然としていられるのだ。
まぁ、トリューニヒトもまた国防委員長の地位にあるわけではあるが、それを差し引いても、次期評議長の筆頭株として今の政権運営が揺らいで得をする立場にはある。
今の政権が失脚した後の受け皿として、最高派閥の代表としてトリューニヒトは時期を得れば、当然と最高評議会議長の椅子に座ることを確信していた。
「しかし、だ。ヤンめは私を嫌っている。それでどうやって仲良くできようか?」
「仲良くする必要などありません。有能な人間を有効な立場に祀り上げる。それだけで閣下の慧眼を皆は認めるでしょう。あとはせいぜいこき使ってやればいいのです」
なるほど傍から見て仲良く見えればそれでいいのか。
有能であり、自分の利となるのであれば、トリューニヒトとてヤンを積極的に敵視する理由などない。
今のトリューニヒトは自分の人気に100%の自信がある。
ヤンめがどんなに名をあげようと自分の名声には到底及ばないだろう。
その確信があればこそ、怖いものではない。
むしろ有能であるのなら積極的に利用してやるより他ないであろう。
「では、ヤンとはひとつ仕事上の付き合いを心がけよう。ライクでもラブでもなくビジネスライクということだ」
トリューニヒトが心得た物言いで頷いた。
使える有能な駒は一つでも多い方が良い。
何より使いこなせる自信があれば当然のことである。
◇◇◇◇◇
アスターテ会戦はおおよそ史実通りの結果を得た。
ここでヤンやラインハルトの天才性について事細かに語ることにさして意味があるとは思えないので端的に語れば、このアスターテ会戦は同盟側約4万隻、帝国側約2万隻の大規模艦隊戦であった。
指揮系統については同盟軍が第二艦隊パエッタ中将、第四艦隊パストーレ中将、第六艦隊ムーア中将の3人によって個別指揮されていたのに対して帝国はラインハルトを総大将として一本の指揮系統に良く纏められていた。
およそ二倍の兵力を持った同盟軍は3個艦隊に分れて包囲網を敷いたが包囲網完成を前にラインハルトによって3分の1分割での個別艦隊戦を強いられ、結果2倍の艦隊を率いた同盟に対して帝国は3戦して2勝1敗の結果に終わった。
同盟側は死者150万人、対する帝国側の死者は15万人程度であった。同盟側は艦隊も2万隻余失っておりこの戦い会戦での同盟の負けっぷりは常軌を逸しているとしか思えなかった。
それでも途中から負傷したパエッタ中将に代わり指揮を取り、最後には一矢報いたヤン准将の奮闘は僅かばかりの希望を同盟内にもたらしたがそれとて無いよりまし程度のものに過ぎなかった。
敗戦の勝将という微妙な立場にあるヤン・ウェンリーは戦争を終え、同盟に戻ってきていた。
ヤンは同盟の本拠地がある惑星ハイネセンにある自宅でややゆっくりとした目覚めをえて、遅すぎる朝食をとっていた。
目覚めの一杯の紅茶の香りを楽しむヤンのその様子にヤンの保護下にある少年、ユリアン・ミンツは不思議そうに尋ねた。
「どうしてアスターテの英雄である准将がこんな所でのんびりしているのですか?」
「なんだいその物言いは?ここに居て不味いみたいじゃないか」
「今日はアスターテの戦死者に対する慰霊祭があるんですよね?」
慰霊祭はもう始まっているのではないか?
彼は養父に代わり、午後を僅かに回った時計を不安そうに見つめた。
いくら惚けたところのあるヤンとはいえここで「しまった、寝過ごしたよ!」なんて言って慌てはじめることは無いだろう。
そう信じたい。これでもユリアンにとっては自慢の養父なのだ。
不安げなユリアンに対して、彼はさっぱりした顔で、
「うん?ああ、なぜか慰霊祭への出頭は免除されたんだ。ああいう辛気くさい場所に行かなくてすむのは嬉しいことだね」
と言った。
ユリアンに何故か白い目で見つめて居心地悪そうにヤンは肩をすくめた。
ヤンに死んでいった同僚たちを悼む気持ちがない訳ではないが明日は我が身だ。
そう言う意味で言って、この非常時下に必要以上に感傷的になる必要はないだろう。
そもそも慰霊祭自体がプロパガンタ的な意味合いの強い行事だ。
あそこに参列した高級官僚の面々が本当の意味で戦死者を悼む気持ちを持っているか大いに疑問である。
しかし、今この時におけるこの部屋のこの居心地の悪さはなんだろう?
既にこの部屋の所有権が留守がちなヤンから傍らにいる戦争孤児のユリアン・ミンツに移動して二年になる。
それはもちろん分かってはいるが、しかし、本来の主にもうすこし優しさがあって良いと思う。
「呼ばれなくても出ていって武功の一つでも讃えられてくればいいじゃないですか?」
なんだ、それは厚かましい要求だな。ヤンは苦笑した。
「そんな余計なことはしなくて良い。しかし、私が出なくて良いとは思いきった判断だな…」
大胆だが決して悪い判断では無いだろう。
まぁ、軍部がヤンの精魂尽き果てた体と頭脳を労わってくれた訳ではないだろうが…。
その命はトリューニヒトが打診したものらしかった。
彼主催の政治ショーになど興味は無かったので欠席が許されるならそれに越したことはない。
参列する遺族としても、あるいは同盟唯一の勝者として評されるヤンの存在は微妙だろう。
どんなに目を背けても同盟は勝ってなどいないし、今回の大敗の責任の一端を将校の一人として参戦したヤンが担っていない訳では決してないのだ。
あの会戦を期に出世した人間がいると聞くのは遺族をして実に嫌な気分だろう。
「しかし、准将。替わりにこんなものを軍部の人間が寄こして来ましたよ」
ユリアンが封筒のようなものを差し出す。
「なんだい?給料明細か何かかい?こいつを数えるときだけだな、私が同盟に心から忠誠を誓えるのはさ…」
知性が尽きてまさに口からぽっと出たような軽口を叩くヤンに呆れた様子でユリアンは言った。
「そんなに良いものでもなさそうですよ。大体お金は使いきれないほど貰っているじゃないですか。なのになんでそんな拝金主義的なことをおっしゃるのです?」
「使いきれないって…そんなに高給取りでもないんだがね。貯蓄以外に趣味がないだけさ」
ヤンの父は守銭奴で有名だったことを果たしてユリアンには話しただろうか?
どうでもいい話なので話していないかもしれない。
まぁ、いずれにせよその貯蓄を使う前に死んでしまっては元も子もない。
独身貴族であるヤンとしてはこれが死ねない理由の筆頭にあがるのは何とも情けない話ではあるのだが。
しかし、重要なことではあろう。
お国の為ならぬお金の為にお国に命を懸けて仕事をしたきたのに死んでお金がお国の金庫に戻ってはミイラ取りがミイラになってしまうではないか。
「確かにお金のかかる趣味がないですね。お酒は嗜まれるのに」
「安酒で満足できる身の上を呪うよ。電子書籍は安く手に入るし、最近は戦争以外で外に出る必要すらもない」
休みともなれば、ヤンは日中、パソコンの前で読書に耽っている。
さすがに今日はその元気すらないが…。
ヤンは漸くユリアンの寄こした封筒に目を通した。
中には短文と食事券が入っていた。
ヤンは今夜の日付で食事券が1枚しか入っていない事に気づき、苦笑して言った。
「ディナーにご招待だそうだ。封筒の宛て名書きはルーアン・ヒィッドーってなってるな。トリューニヒトの私設秘書官?なんだこれは?」
得体の知れない男から手紙が来たものだ。
用件はなんだ?
一方、ユリアンが同封されたチケットを見て感嘆を漏らした。
「凄いですね、これ、話題の三ツ星レストランじゃないですか!予約殺到の。ソリビジョンで見ましたよ」
ヤンは若干羨ましがるそぶりのユリアンに苦笑した。
果たして使いきれないと噂のヤンの給料で、この少年をこのレストランに連れていけるのだろうか?
しかし、三ツ星レストランねぇ…。
ユリアンと違いそんなものは知らないし、興味もないヤンだったが短文に目を通して気が変わった。
料理はともかくもうひとつのほうには興味を覚えたのだ。
「アスターテの真実を魚に、美味しいディナーはどうでしょうか?だそうだ。ふむ…」
「おや、行かれるのですか?」
ヤンから見てもその文には強制力はないようだ。
であれば、極力この手の誘いには参加しないのが普段のヤンの流儀なのだが、珍しく悩んでいる様子である。
ユリアンは不思議そうに見つめた。
「あ、うん。どうしようかな…」
トリューニヒトはこの後も予定が詰まっているはずだ。今日に限っていえば政府の重鎮クラスが抜け出て来る可能性はない。
まさか、待ち構えているのは本当にこの差出人一人だけなのだろうか?
「まいったなぁ…」
ヤンのその「まいった」は自分に向けられたものであった。
実際のところ、これはどうしたって興味を引かれる。
ゆくゆくは歴史編纂を仕事としたいと考えているヤンにとって政治的な舞台裏というものは聞けるなら聞きたい興味深いお話なのである。
もしかして、ヤンがここでフリーなのもこの男の指示だろうか?
だとすれば、ヤンを待ち構える男は果たしてどういう人物なのだろうか?
会ってみようか。
「もしかして余計な事に首を突っ込もうとしていませんか?」
「今日に限っては慰霊祭に参加しなかったことで+-ゼロだ。そう言う事にしておこう」
そう言ってヤンは外行きの準備を開始した。
三ツ星レストランかぁ…もしかして、礼服を出さないといけないのだろうか?
以前使ったフォーマルをクリーニングに出しそびれたことを不安がってクローゼットを開くとヤンの服はすべてしっかりとクリーニングに出され、ビニール包装されていた。
ユリアンがやったのだろう。
まったく、齢の割に非の打ち所の無い優秀さである。
故人であるユリアンの父もさぞ優秀であっただろうに惜しまれることだとヤンは思った。
◇◇◇◇◇
完全予約制のレストランは中世風の立派な店構えだった。
しかし、看板が無い。
(おや?)
ヤンは来る場所を間違えていないかとチケットに書かれた住所と住所標示板を何度も見比べた。
間違いないようだ。
流行っているという話だったが、中に人に溢れるような様子は無く、この手の高級レストランが初めてのヤンはいささか緊張した面持ちで入っていった。
店内には品の良さそうな作りのテーブルと真白いテーブルクロス、テーブルとセットになったやや大きめの椅子が多数見えたが人はどれも座っていなかった。
ここまで見てきて、とても流行ってる店には見えないのだがどういう事だろう?
品の良い木目の落ち着いた造りのレストランを歩いて行くと一人の男が座っていた。
待っていた男はヤンの想像していたよりも遙かに若かった。
年の頃は23~4歳くらいだろうか。
髪は黒く、目も黒い、眉目秀麗だが不思議と衆目の関心を引く感じでは無い。
顔立ちから言ってヤン同様にルーツは東洋系にあるのかもしれない。
軍部において相当に若造と称されるヤン准将がまだ29歳なのだから、この若さであのヨブ・トリューニヒトの私設秘書をしているというのは
(相当な男なのだろう)
とヤンは当たりを付けた。
ヤンは男の鋭利で冷徹な瞳を見て、背筋を緊張させた。
これは考え無しにのこのこやってきたのは失敗だったかな?
内心で冷や汗をかきながら席に近づくと男はその様子に気づき、席を立った。
自然な動作でヤンの為の席を引き招く。
「よくぞ、おいで頂きました。ミスター・ヤン・ウェンリー」
「ミスターですか」
彼からの尊称にはてっきり准将がつくものだとばかり思っていたので、その物言いには面を喰らった。
「軍人扱いはお嫌いだとお聞きしております」
はたして、それは誰からの情報であろうか?
そのことはたしかに事実だが、公言しているつもりは無い。
いくらヤンでも、愚痴をこぼす相手くらいは選んでいるつもりだ。
彼らがこのような話を積極的に吹聴して回るということもないだろう。
まぁ、しかし、ヤン自身こういう発言をする際に場所を選んだ事が無かったので、相手がそのことを知っていたとしても、別に何の不思議は無いのだが…。
しかし、ヤンとしては、突然にこういうことを言われると弱みを握られているみたいで非常に不安になるのも事実だ。
すくなくとも相手に最初の段階でのペースを完全に握られたようだ。
その苦虫を噛んだようなヤンの顔を見て、少し男は苦笑した。
「心配なさらないでください。私には何の地位もございませんし、貴方を害する気もありません。私はトリューニヒト様にお仕えする、ただの私設秘書以外の何者でもありませんから」
ただの、ただのねぇ・・・その言葉を反芻して、ヤンはふと今は亡き父の言葉を思い出した。
商人として分かりやすく根っからの拝金主義者だった父が何度も口を酸っぱくしてヤンに語っていた教えの一つに、ただほど高いものはない、無償の善意ほど疑え、というものがあった。
話はまったく違うがニュアンス的なものは一緒だろう。
いや、ぜんぜん違うか。それでも良い。
とにかく『ただ』ほど厄介なものはいない。
つまりこの只ならぬ男が只の秘書な訳がない訳だ。
「私の名前はルーアン・ヒィッドーです。トリューニヒト様の元で私設政策秘書という肩書きでお仕事させて頂いております。ですからまぁ、その名の通りに主に政策関連の仕事をしております」
「その、主にとは仕事の内容にかかっているのですか?それとも…」
ヤンが何を聞いているのか分かったのだろうルーアンはわずかに目を細めて答えた。
「主にとは主にです。私がブレインなのかと聞かれれば、はい、そうですと、お答えしましょう。トリューニヒト様の提案議題を考える仕事はほぼ私に一任されています」
ヤンはルーアンのその明け透けな発言に背筋が凍るのを感じた。
この男は今、随分ととんでもないことをさらっと言ったのではないだろうか?
トリューニヒトが議会で発言した緒策は自分が考えたですと明言したようなものなのだからそれがどういう趣旨の発言か、まさか分からないで話しているなんてことはあるまい。
トリューニヒトは現状、扇動家としての才能と同じくらいに政策通ぶりや敏腕ぶりが有名なのだが、彼はつまりその部分を自分が担っていると言い切ったのだ。
ヤンは周囲を見渡した。
人の目を気にしたヤンだが、しかし、この店にはさっき程から客どころかウェイターの一人すらもいない。
「そのような発言を公言して君の立場は悪くならないのかい?」
ヤンは心持ち小さく低い声でルーアンに対し聞き返した。
今の会話の内容は少なくともヤンのようなトリューニヒトと因縁深い人間に対して話して良い内容ではないだろう。
そう思ったのだ。
彼は笑い、
「貴方はいろいろ誤解しているようですね。私はトリューニヒト様の私設秘書なのですからこの場で貴方とお話しているのも悪く言えば仕事の一環です。あのお方の意向に沿わない話は今のところしていませんよ?」
と言った。
正気か?ヤンは顔を歪めながら呻いた。
「悪いがまったくそうは思えない。説明してくれないか?」
今、此処でヤンに『あの』トリューニヒトの悪口を聞かせることがどのような理由で有益となるのであろうか?
理解できない。
「貴方はあのお方をどう考えていますか?率直に言ってもらって構いません」
その発言にヤンは一瞬ならず大いに悩んだが、悩んだすえに素直に心中を吐露した。
ヤンはこの場でトリューニヒトに媚びたい訳ではないし、この秘書の反応を試してみたかったのだ。
「・・・扇動が巧いだけのペテン師かな」
率直なヤンの発言にルーアンは満足した笑みを浮かべた。
「まぁ正解でしょう。そこに日和見主義者の厚顔無恥がつけば完璧です」
自分の雇い主に対してそこまで言うか!
とさすがのヤンですら驚愕して言葉を失う。
絶句するヤンに対してルーアンは眉一つ動かさず続ける。
「ですがつまり言い換えれば恐ろしく目鼻が効き、演説が非常に巧く、内心を出さずに誰とでも交渉や交流する事ができる神経の太い、非常に有能な政治家であるとも言えます」
この発言にヤンはまたも驚愕せざるえなかった。
「ええ…!?しかし…いや…なるほど、そうなるのか…」
トリューニヒトにその手の才能があること自体は否定のしようが無い。
まさにものは言いようと言う感じだがそれこそペテンのような話だとヤンは思った。
「あの方は利になると理解できればどんな状況でもそれに乗ることを恥とは感じない神経の持ち主ですよ。実に分かりやすい方だとは思いませんか」
そのような見解、発想は今のヤンには無いものだった。
良くも悪くもヤンはトリューニヒトには興味が無かったし、逆に興味が無いどころかその性質には嫌悪すら抱いていた。
であるからこれまでのヤンのトリューニヒト評には私情的な色眼鏡が入っていることは否定のしようがなく、ヤンの感情的な部分が正当な評価の弊害になっている可能性は大いにある。
もし、それが事実ならトリューニヒトは実はとんでもない男なのかもしれない。
もちろん、それは権力に住まう最悪の俗物にして怪物であると言う意味においてだが…。
「あのお方は権力と利益という餌さえ与えておけば、いくらでも利用することが可能です。そのことをヤン様にはぜひ理解して置きたいのです」
「その物言いは…つまり、トリューニヒトの力は彼の利になる行為であればどんな状況でも利用可能であると?」
「ええ、そうです。俗物ですから」
その断言にはヤンとしてはますます頭が痛くなる。
「悪いが毒の皿に手を出す勇気は私には無いよ。トリューニヒトなんて煮ても焼いても食えないし絶対に食いたくない」
今ですらこんなに頭が痛いのにそのうえ腹まで痛くするのは御免こうむる話である。
ルーアンは笑った。
「別に仲良くしてほしいとは言っておりません。むしろ表だって文官と武官が仲良くするなど良い話ではありませんからね。しかし貴方にトリューニヒト様に対して要望があれば私に申しつけください」
「いやでも…」
「貴方のその清廉たらんとする精神は立派ですが、トリューニヒト様の権力家としての手腕は群を抜いています。彼の権力を上手に料理するのが私の役目であり、そして貴方の役目なのです。よろしいではないですか、たとえ無能でも民衆に分かりやすいシンボルマークが居て、その下に有能な文官と武官がそれを支える。それは実に民主政治的に正しい」
「それは…」
たしかにヤンにとってもそれは分からない話では無かった。
冷静に考えてみれば、ヤン自身にも聴衆の面前に立って分かりやすく英雄になるような気位は望んでも持ちえないものである。
そういう役割を担う人材がいつの時代も必要なのは事実だ。
それがトリューニヒトなのか?
誰かが立たなければならない場所に嫌がるヤンの代わりにトリューニヒトが立つことに関して横から口を出して文句を言うと言うのもなんだか大人気ない話だ。
ことは本当にただの子供染みたわがままでしかない。
「ご安心ください。トリューニヒト様はいくら権力を握らせたところでゴールデンバウムのような独裁者にはなりませんよ。彼は君臨することに興味はあっても統治する事には全く興味を持たない男です。絶大なる称賛の中で陶酔し続けることが望みなのであって確固たる主義主張など持ち合わせていないのですから」
ルーアンのその言葉には確かな自信が見れた。
理解はできる。
彼はトリューニヒトからすでに絶大な信頼を得ているのだ。
彼は思考放棄をしたとてルーアンの指示に従うだけで絶大なる権力の中枢に苦も無く辿り着けるだろう。
煩わしい事は全てルーアンに任せればよいとトリューニヒトが思っている限り彼の暴走は起こり得ない。
「一つ聞いて良いかい。なぜ、貴方はトリューニヒトに組する?」
「トリューニヒト様の才能は私には無いものです。甘い蜜を嗅ぎわける鼻も蜂を集める花も私にはありませんから。それに私は統治・運用する事には多少興味はあっても君臨する事にあまり興味がないただの政策マニアなのです。故にトリューニヒト様とは良い関係と言えるでしょうね」
「なるほど」
確かにこの男からはトリューニヒト程の面の厚さは感じなかった。
もっとも怖さではどっこいどっこいだが。
この年で自分の限界を見切れる、見限れるとはさすがのヤンでも恐れ入った。
人間が自分の才能を最大限に生かすために必要な事は出来る事を知ることでは無く、出来ない事ことを知ることである。
限界を知れば、そうそう失敗しなくなるのは当然のことだ。
失敗することが予見できるのであれば、回避する事も容易だろう。
最もそれは賢者の選択かもしれないが若者の選択では決して無い。
チャレンジャー精神、若さとは対極にある思想的境地である。
その若さで既に人生を諦観しきっているかのような男の振る舞いはある意味、確かに賢者らしかった。
それは傍から見ればヤンにも言えることなのだが、さすがのヤンでもそこまで自分の事を客観的には見れない。
「同じことは貴方にも言えますよ。ミスタ・ヤン。貴方も外面を整える術は苦手なはずです。いや、苦手どころか嫌悪感すら覚えていらっしゃるはずだ。そんな貴方にとってもトリューニヒト様の存在はある意味都合が良い」
「私に貴方の共犯になれと?」
「まさか、ミスタ・ヤン。貴方にそこまでの自主性を期待する私ではありません。私が言いたいことはつまり、まぁ、それなりによろしくやりましょうということです」
「…なるほど、で、本題はなんだい?」
前菜はもう十分だろう。
彼のような人間が目的も無くヤンの前に現れるとは考えにくい。
こんな話がしたいだけならそもそも話さなくても良い。
勝手にヤンを利用すれば良い。
つまり本題は別に用意されている。
ヤンの透明極まる思考は本題が別にあることを既に見抜いていた。
「なるほど、さすがに切れ者ですね。では頼みたい事があります。一個艦隊を率いてイゼルローンを落としてくれませんか?」
え、ヤンは驚いた。
「そんなことができると思うのかい!?」
その要求にはヤンは驚きを隠せなかった。
「ええ、可能でしょう。貴方なら。調度良く作戦もありましょう」
確かにヤンにはイゼルローンに関してひとつの作戦があった。
それは事実だが、しかし。
「しかし、私に一個艦隊を指揮する権限はないですよ」
ヤンは准将にしか過ぎないのだ。
そもそも作戦に指揮官として参加する資格がない。
「伝達はまだでしたか…。今回の一件で貴方は中将に出世する事に決まりました」
「はぁ?」
なんだ、その異常な出世は!?
それではヤン自身をたしかに慰霊祭に参加させるのも不味かろう。
遺族がヤンに大いに憤慨することは免れない。
「この命はいずれトリューニヒト発案として正式に下ります。無事落とせれば貴方についた多少のケチも不満も一掃できましょう」
なるほど、確かに勝てばヤンに対する人事の反感を大いに黙らせることはできるだろう。
ヤンは試しに聞いてみた。
「貴方は私ならどうイゼルローンを制圧すると思いますか?」
ルーアンは目を細め言った。
「私はあれは卵だと思いますね。殻は固いが中身はそうでもない。しかも、もしかすると卵の中身は腐っているかもしれません」
その明瞭な答えにヤンはすっと背筋を伸ばした。
まさしくヤンがいずれやろうと考えたことを彼は口にしたのだ。
「私は成功すると思いますか?」
「私は保証しますよ」
ヤンは苦笑した。
まったく、どうしたものだろう。
ヤンとしてはアスターテの会戦であのラインハルトを前にした時のほうがまだ緊張しなかったのだが…。
「そう言えばアスターテの会戦の裏話をする約束でしたね。」
そう言って1枚の用紙をヤンに差し出す。
「アスターテ会戦を裏で糸を引き、起こしたのはフェザーンです。彼らが私たちに寄こした帝国の作戦決定書のコピーがそれです」
ヤンはそれを呆然と見た。
おそらくフェザーンの交渉官をもって同盟にリークされた内容の証明となるものが目の前にあることが信じ難かった。
「同盟としてはフェザーンの特に自治領主であるアドリアン・ルビンスキーは分かりやすく目ざわりなのです。あの自治区は諸悪の根源と言っても良いでしょう。だから潰したいのですがそのためにも是非、イゼルローンを落として戴きたい」
「フェザーンを落とす?そんなことが可能なのか?」
「ええ、それを含め国民感情に訴えるネタは多数所持しています。それらが公開されれば、いずれ同盟は怒りの矛先をフェザーンに向けることになるでしょう。が問題は時期ですね」
そう言って淡々とルーアンはヤンにフェザーンの寄越した計画を広げて見せた。
ヤンはルーアンの話を聴きながら、その脳内ではどのような詭計をルーアンが用意しているのかを考えて必死になっていた。
同盟の最高権力者といずれなる男の傍に立つ男からフェザーンを討つべしとのアナウンスが出たことは衝撃以外の何者でもなかった。
このことは絶対に誰にも聞かれてはならないはずだ。
「心配せずとも今後とも私にフェザーンのマークがつくことは無いでしょうね。貴方もぎりぎり現時点では大丈夫。このレストランも実は私が経営していまして、人払いは済ませてあります。ここでの話は誰にも漏れません」
「はぁ」
ヤンが気の無い返事をしたのは仕方ないだろう。
とんでもないフルコースが出てきたものである。
ふと、背中の方に人の気配を感じ、ヤンが緊張に身を強張らせた。
するとルーアンはそっちの方に目を向けながら席を立ち、ヤンに言った。
「息子さんが来られたようなので、私はここでお暇させていただきましょう。料理は彼と堪能してください。ここもなかなかに評判が良いようですよ」
その言葉にヤンが後ろを振り返れば、彼の保護するところのユリアンの姿があった。
ルーアンは言いたいことだけ言って、軽く会釈するとユリアンとも礼儀正しく挨拶を交わして去っていった。
ヤンとすれば、できれば先ほどのフェザーン陥落の計画をもっと詳しく聞きたいところではあったがユリアンが来たのではもはや聞けないだろう。
(なんという事だ)
ヤンは頭を掻いた。
ユリアンはヤンの向かいの席に座ると微妙な顔をしている保護者に対して言った。
「なんか招待券はぼくの分もあったみたいで、あとから呼ばれたんです」
「そうか、美味い只飯にありつけて良かったじゃないか」
ぜんぜんそう思っているようには見えない顔と口調でヤンは嘯いた。
「准将は目当ての話は聞けました?」
「想像していたのとは随分と違う話だったがね。あともうすぐ中将になるらしい」
その報告にはユリアンは満足気に頷いた。
「それは素晴らしい話が聞けましたね。またも異例な出世じゃないですか」
「異例と言うか異様だな。あの戦役での私の働きが二階級特進に値するとは思えない。要らん勘ぐりを受けそうだ…」
しかも、ヤンとしてはその替わりに、あのイゼルローンを落とす羽目になったりもしたのだがどうしたものかな…。
う~ん。ここにこなくても辞令は下ったのだろうから来たのは正解か。
そう思っておくことにしよう。
「では、中将の輝かしい前途を祝して乾杯しましょう。同盟万歳とでも言いますか?」
「おいおい、今日は150万人の通夜だってのに随分と不敬なことだな。その乾杯の掛声もどうかと思うぞ」
その物言いにはさすがのヤンでもユリアンを嗜めた。
ユリアンは素直にヤンの出世を喜んでいるだけだろうが、ヤンとしては美味い酒が飲める心境に無い。
まぁ、残念なことに酒はいつでも美味いのだが…。
「でも中将の同盟への忠誠もますます深まったのでしょう」
「なぜそうなる」
ヤンがユリアンの主張に眉を顰めた。
「だって分かりやすく年給の額が増えたじゃないですか」
「あっ…」
ヤンは出発前に自ら叩いた軽口の内容を思い出した。
やれやれ、このようにユリアンにやりこまれているような自分ではルーアンにやり籠められても仕方ないではないか。
ヤンは頭を掻いて、苦笑いを浮かべた。
そうやって軽口を叩いてるうちに食事が運ばれてきた。
その料理はヤンの想像以上に美味しかったのだが、明らかにヤンが賓客であることを意識したヤンスペシャルなコースの内容に、それこそ、「ここまで調べあげられているのか…」と別の意味で若干肝を冷やす羽目になった。
食事していても、色々な可能性が頭をよぎる。
色々と肝を冷やしたヤンではあったが実に興味深い話を聞くことが出来た。
「フェザーンか。大変な相手を指名したものだな…」
◇◇◇◇◇
フェザーン星系の第二有人惑星フェザーン。
そこにある自治領主の官邸のそのさらに中心、自治領主のみが座ることが許される椅子の上で一人の男が今回の戦いのレポートに目を通していた。
すでに内容は秘書官ボルテックから聞かされていたがこうして紙面で確認する事にも意義はある。
「どうやら今回のアスターテはそれなりに上手く言ったようだな」
フェザーンの自治領主(ランデスヘル)アドリアン・ルビンスキーが満足気に頷いた。
フェザーンの自治領主(ランデスヘル)の大きな目標には帝国48:同盟40:フェザーン12という美しい勢力の黄金比率を保つことがある。
今回はその仕掛けは上手くいたらしかった。
フェザーンは同盟と帝国を結ぶフェザーン回廊に自治領を持つ自治国家群である。
正確には帝国に所属しているがそれでも第3勢力として確かな存在感をもってこの銀河に存在している。
「しかし、この会戦に至る前のトリューニヒトの反応は不可解であったな。この会戦の結果を予想でもしていたか?」
その可能性は無いにしてもルビンスキーをしてトリューニヒトは掴みづらい人物ではあった。
大物なのか小物なのかそれすらつかめない。
なぜか、フェザーンの者がいつも手を出せず空洞地帯で一人益を得ている。
いずれは専用の交渉官を彼に向ける事になるだろうが、こうもその本質が掴めなくては手の打ちようも無い感じではある。
ラインハルトの出兵を意図してトリューニヒトの目の届く範囲に差し出したが彼はそれを適当に流してしまった。
相当なうつけもののようにも思えるが…。
それにしては今までの実績がアンバランス過ぎる。
部下の報告からはとるに足らない扇動家(アジテーター)の類のようにも思えるが…。
「やはり読めぬな…。まぁ、良い」
必要以上に不安がる必要もないだろうが、多少は気にとめておくべきだろうと言う気にはなっていた。
今、一番、気に留めて置くべきは帝国のラインハルトとかいう小僧とヤンという男の事だろう。
「ふふふ、時代が動いているな」
動乱とは上手く踊れた者のみが分かりやすく益を得る時代のことだ。
腕の見せどころではないか。
ルビンスキーは満足げに笑った。
すると足早に執務室に入ってくる音を聞いた。
この音からして何か予期せぬ事態があったらしい。
「自治領主(ランデスヘル)。大変です。あのヤン・ウェンリーがイゼルローンを陥落するため一個艦隊を率いてハイネセンを出港しました」
「待て、どうやって准将に過ぎないヤンめが一個艦隊を指揮できるのだ?艦隊指揮は中将をもって当てるのが同盟の慣例だろう」
ルビンスキーは不可解な表情に顔を固めて、入ってきた部下に問うた。
「まず、アスターテ会戦での労に報いる形でヤン准将には少将の地位が与えられたようですが、その後すぐにイゼルローンを一個艦隊にて陥落させるべしとの辞令を受けたそうです。これにより、中将への昇格とイゼルローンへの出航が決定したのです」
まさか、武勲の前借りとはな。
そこまでして、あのヤンであれば勝算ありとみるのか?
しかし、いくらヤンであっても果たしてあのイゼルローンをそう簡単に落とせるものだろうか??
ルビンスキーはかぶりを振った。
無理だ。
そのヤンをして、既に二度イゼルローンでの戦いに参加しているはずだ。
そして、そのどちらでも苦渋を舐めている。
事はそうそう上手く行くものでもない。
「ふん、して発案者は誰だ?」
そここそ重要であろう。
大胆な案を取りつけた大馬鹿者の名は是非とも知っておくべきだろう。
「ヨブ・トリューニヒトでございます」
その時こそ、ルビンスキーは眼を見開いた。
◇◇◇◇◇
イゼルローン回廊の掌握のため、ヤンには中将の地位に加えて一個艦隊が与えられた。
ヤン一人のために第13艦隊が新設される運びとなったのだ。
「悪くない人事だけれども」
ヤンは一人苦笑した。
人材不足極まる同盟においてかなり優秀な人材がヤンの元に集まったのは間違いない。
中でも艦隊運用の名人フィッシャーの存在はヤンにとって非常にありがたいものである。
ともなれば自宅に向かう道ですら間違えて迷子になるヤンにとってフィッシャーの存在は迷わぬ先の道しるべである。
ムライ、パトリチェフも自分の仕事を全うしてくれるだろう。
ただし副官の人事には一言、物申したいのだ。
「なんで女性の副官なんだろう?」
そのヤンの呟きを耳聡く聞きいれたヤンの副官である女性――フレデリカ・グリーンヒルが不思議そうに聞き返した。
「中将は女性嫌いでしたか?それとも、まさか、女性蔑視の」
そのフレデリカの物言いが少々、乱暴であったがためにヤンはすっかり彼女を怒らせてしまったと自らの軽口を呪いつつ、必死に弁明した。
「まさか!そういう意味では無い!しかし、なんだ、その…」
この一瞬、とっさのことにさしものヤンの思考も誤作動を起こしたようだ。
柄にも無い事を口にしていた。
「君のように可憐で美しいお嬢さんがそばにいると皆の気が散るかもしれないと思ってね」
すると目に見えてフレデリカの顔が赤くなったのでヤンはこれは益々怒らせたに違いないと逆に真っ青になった。
もし、このフレデリカ嬢が性差撤廃主義者ならば、美しいとか、可憐などという形容句を使うこと自体がそもそも大きな間違いなのだ。
さっきの発言と言い、その可能性は大いに在り得る。
女だてらに軍部に染まるとそういうお淑やからしからぬ女性は増えるものだ。
レディーファーストなど旧時代の化石に等しい。
更に怒らせてしまったのだろうか?
恐縮しならがヤンは良くは知らない副官の事をおそるおそる見た。
彼女は赤い顔で
「そんなことありません。でもそう言って戴けて光栄です」
と言った。
(お、おや?)
目に見えて上機嫌なフレデリカの様子にヤンは?マークを浮かべた。
まぁ、良いか。
しかし、彼女が優秀なのは認めるし、美人なのも認めるが22歳のうら若い女性はヤンの力量的に手に余るのは事実だろう。
まして、彼女はあのドワイト・グリーンヒル大将の娘だ。
引く手数多の彼女がなんでこんな出来栄えのしないおじさん艦隊にいるのだろうか?
これが同盟軍部の人事権を管轄する統合作戦本部長次席副官にしてヤンの悪友であるところのアレックス・キャゼルヌの分かりやすい嫌がらせなのだとしたら、なるほど、いずれは復讐せざるを得ないだろう。
うん、下に呼んでこき使ってやる。
しかし、ルーアン・ヒィッドーの手配なのだろうが、既に必要な物資が一通りそろっていたのは大きい。
そのため辞令が出た次の日にはヤン艦隊はそれなりの形でハイネセンを出航する事ができたのだ。
「ところで中将は出発前にソリビジョンをご覧になりましたか?新聞でも構いませんが…」
「いや、全然、全く」
まったく新設の艦隊の司令官などするものではない。
特に今回は始めも始め、ヤンの負担を軽減してくれるであろう副官や事務担当官は当初において存在していないのだから(これから決めるところであった訳だし)ヤンにしては、まぁ、よく一人で働いたものである。
故に今回の任務の準備に大忙しだったヤンにはニュースを見る暇(いとま)すらなかった。
しかし、そう言えば今までであればマスコミがうるさいくらいにヤンのまわりを飛び交うのが常だったのに、今回に限ってはその手のマスメディアの動きは何も無かったなぁ…。
ヤンが不思議がっているとフレデリカは手に持ったニュースペーパーらしきものを読み出した。
「ヤン・ウェンリーは今回、私の特命を受け、極秘の任務に就くため不眠不休で新しい作戦任務に付いている。ヤンは必ずや我らの期待に答え、輝かしい同盟の未来のため、素晴らしい成果をもたらすに違いない…」
ヤンはぽかんと口を開けた。
「その発言はトリューニヒトだな!!あの男はそうやって私を人気取りの出しに使う気か!!!」
ヤンは分かりやすく激昂し、吠えたがその様子をやんわりとフレデリカは嗜めた。
「しかし、中将の人気も上がります。中将は次の任務の為に不眠不休で働いていたと言うその事実は中将が慰霊祭をボイコットした理由付けとしては実にもっともらしいではないですか。失敗は次の軍事的成功を持って払拭すると…」
「ぐう…、確かに」
もしかしなくてもあの慰霊祭でそれらしいアナウンスがトリューニヒトから流れたのかもしれない。
あの日、慰霊祭の広場では「今。我らが英雄ヤンは~」とかなんとか。
まったくニュースペーパーの一つも読まずにいた自分自身が実に悔やまれる。
これでトリューニヒトとヤンは懇意にしていると世間さまに思われてしまった。
しかも、なんだこの状況は?
ヤンとしてはイゼルローンを落とさなければ帰れないような状況に追い込まれていないか?
トリューニヒトに、正確にはあのルーアンに確実に外掘りから状況を埋められて行っているようだ。
「まったくやるしかないか」
連中には上手くイゼルローンを落としたならば文句の一つでも言ってやらねばならないな。
ヤンはそう心に決めた。
◇◇◇◇◇
宇宙暦796年。イゼルローン攻略戦。
ヤンはこの地を陥れるため、一人の男の手を借りるより他なかった。
ワルター・フォン・シェーンコップ。ローゼンリッター隊、十三代隊長である。
かつて帝国軍に属し、同盟に亡命して来た彼らにしか出来ない詭計こそ、今回ヤンが仕掛けるものであった。
シェーンコップ大佐は旗艦にあるヤンの部屋を訪れ、ヤンから驚くべき作戦の概要を聞かされていた。
「作戦の概要は分かりました。して、私が今回の任務で裏切らないという保証は?」
「無い。けど、裏切られたら少し困るな…」
本当に困っているようには見えない口調で言うヤンをシェーンコップは不思議そうに見た。
「それはどの程度困ると言う事ですか?」
「失敗すれば退役した時の年金の額が下がる。おい、こら笑うところか?まぁ、実際、私の同盟軍に対する忠義心なんてその程度のものだよ」
その随分な答えに苦笑したシェーンコップにヤンは苦笑を返した。
「率直な方だ。好感は持てるがそれで私をその気にさせれるとは思わないでほしい」
「なるほど、ただ貴方も裏切る時はほんの少しは覚悟した方が良いと思うよ。私は正攻法でイゼルローンを落とせないとは一言も言っていない。貴方が裏切る相手は同盟の魔術師と呼ばれる男だ。肝に免じておくと良い」
眼光鋭く見やるヤンの放つ只者ならぬ気配にシェーンコップは驚いた。
「正攻法で落とせると?」
「一個艦隊と少々の小細工があればね。できなくはない。その案は君は話せないだろうけどね。私としては出来る限りの流血は避けたいところだ。上手く行くならこの案が至上だ」
シェーンコップはさすが同盟の天才はできが違うと肩を竦めた。
到底、はったりとは思えなかった。
「なるほど。確かにそれは御免被りたい事態ですね」
「うん、では、よろしく頼む」
シェーンコップは大げさな礼をしてヤンがいる執務室を去っていった。
「あるのですか正攻法?」
ヤンの傍らで副官であるフレデリカが疑問の声を発した。
「ある。正確には物量戦を仕掛ける準備が整ってる。詭計が外れれば最後には正攻法で行くしかない。トリューニヒトが分かりやすく増援をよこす手筈にあるんだ」
その程度の支援はあって良いだろう。
ヤンの力量であればイゼルローンを多大な犠牲を払う事にはなるが手にする事は可能だ。
彼の要塞が同盟にとってもその価値がある要塞なのは言うまでもない。
「ただ血は流れる。今更、善人ぶる気はないが良心と力量の範囲で上手くできることは上手くやりたいところではあるんだよなぁ…」
状況が揃っているせいもあるが、ヤンとしては困っている事と言えば、本当にその程度なのだ。
実際、あの要塞を落とせない最大の原因はイゼルローンを壊せないが故のジレンマによるものがほとんどなのだ。
同盟はあの要塞を出来れば、無傷で手に入れたい。
トリューニヒトの命令書はヤンに対してイゼルローンの最重要兵器であるトールハンマーの初期設計図を入手した旨が書かれていた。
つまり、トールハンマーはぶっ壊しても早々に直せると暗に示したのだ。
だったらやりようなどいくらでもある。
あれを無効化できれば要塞の威力は半減する。
ヤンとしてはそうなったなら、遠慮せずガンガンとぶっ壊してやる意気込みだったので怖いものなしだ。
「もう勝利の先を見ているとはいささか贅沢な悩みですね」
かもしれないな。
勝てる確定した訳ではないんだ。
肝に銘じるのは私も同じか。
しかし。
「私の仕事はイゼルローンを何とか調達して、まな板の上に乗せるまでだよ。ルーアンの奴どう料理するつもりだ?」
ヤンはにやりと笑った。
その好奇心があればこそ今回は少々やる気なのかもしれない。
今回のイゼルローン陥落は次のビジョンに先立っての一歩だろう。
どんなペテンが飛び出すやら。
◇◇◇◇◇
ヤンはイゼルローンを内部から制圧するためにゼークト大将率いる艦隊1万5千をイゼルローン要塞から引き離し、更に偽の救難信号にてシェーンコップをイゼルローン要塞内に侵入させた。
ほどなくヤンがイゼルローンに対して仕掛けた詭計は奏功し、第13艦隊はほとんど血を見ずにイゼルローンを制圧したのだった。
この一件に関してほぼ史実通りの結果に終わったのは言うまでも無いが、しかし一点において相違があったことを記述しておかなくてはならないだろう。
イゼルローンの危機を聞き付け大慌てで帰ってきたゼークト艦隊に対してヤンは手厳しいトールハンマーの挨拶を二発ほど入れてやった。
目に見えて混乱するゼークト艦隊を前にヤンは努めて冷静な声で発言した。
「降伏勧告を出してくれ。できれば帝国軍の艦隊と兵士を手に入れたい」
「おや、あの艦隊をですか?」
不思議がるシェーンコップにヤンは思慮深く頷いた。
「ああ、帝国の艦隊をまるまる手に入れることができる絶好の機会だからね。勧告文は君に任せるよ。エスプリの聞いた奴を一つよろしく」
「まったく盗人猛猛しいとはこのことですな」
シェーンコップはそういわれて少し悩み一文を敵艦隊に向け送った。
「勧告は無視して逃げるんじゃないですかね?」
「退路は無い。1万5千の艦隊を後方に待機させた。包囲網をしいて押し込めてやれば、相手はイゼルローンのトールハンマー圏内で戦い続ける嵌めになる。そんな状況で戦意を維持できる艦隊が果たしてこの銀河にあるかな?悪いけど無傷の艦隊を帝国側に返してやる義理はない」
最初からこれを狙っていたのだろうか。
ヤンの言うように敵艦隊を包囲するように1万5千の同盟艦隊がワープアウトして来た。
さすが艦隊運用の大名人のフィッシャーである。
第13艦隊は整然と動き包囲網を早くも完成させつつある。
「敵指揮官返答。汝は武人の心を弁えず…」
戦局は絶望的。この状況にあってなお戦うというのか。
「十分だ。馬鹿な指揮官に一撃を喰れてやれ!!」
全文は聞かずヤンは怒気のこもった瞳で艦影を睨む。
「トールハンマー発射準備。目標は敵旗艦!!狙い撃て!」
ヤンの鋭い号令に砲手が応じトールハンマーの極大の光線が敵艦隊旗艦を貫いた。
「再度全艦隊に対し伝達。降伏する艦は融合炉の炉を落とせ。従わぬものは戦闘継続の意思在りと見なす」
一度炉を落としてしまえば高性能艦は性質上戦闘可能な臨界を迎えるまでの致命的な時間ロスを抱えることとなる。
ヤンの目の前のモニターでは次々と敵艦隊の熱限反応が消えていく。
幸いなことにほぼすべての残存艦が無条件での降伏を聞きいれたらしい。
「炉を落としたとあれば空調も聞きませんね。あの中は相当にお寒いでしょうな」
宇宙服を着て鼻水を垂らし、凍える敵将校の間抜けな顔が目に浮かぶようだ。
「ああ、この戦いの結果と同様にね」
快勝しておいて、実に詰まらなそうに呟くヤンを見てシェーンコップは苦笑した。
こんなにつまらなそうに勝利を見つめる司令官も初めてだと思ったのだ。
◇◇◇◇◇
「まさか。1万近い艦隊が無傷で手に入るとはな」
分かりやすく上機嫌なトリューニヒトの横でルーアンは頷いた。
トリューニヒトはいつもの執務室で今回の戦果を並べて愉悦に浸っていた。
今回の件でトリューニヒトとヤンの名声はますます高まるだろう。
原作と違いヤンが降伏に拘った最大の理由はルーアンたちがそう命令文で指示したからに過ぎないのだが…。
あえて1個艦隊を与えたことでヤンにも余力が生まれた。
今回はその正しい活用をしたに過ぎない。
「ただ捕虜の数も相当数に上りましたが」
一隻100人計算なら単純に100万人に上る。
イゼルローンにいた50万人と合わせて良くもまぁ雁首揃えたものである。
「まぁ、私の例の提案にますます油が乗る。良いことだ」
しかし、真に驚くべきは救命艇に乗りゼークト大将を見限ったはずのオーベルシュタイン大佐が包囲網を完成させていたヤン艦隊に拿捕させてしまったことだろう。
この事態にはルーアンもさすがに驚き、眉をひとつ動かした。
「間抜けが幸運の星を逃しましたね」
捕虜交換の機会にでも上手くラインハルトに面通し願えれば復活もありましょうが…。
向こうにとってもいずれはキルヒアイスと対立する事が目に見えているだけに+とも-とも取れない微妙な男ではある。
まぁ、これからの大局に影響が出るような男では無い。
好きな運命に生きれば良い。
◇◇◇◇◇
「イゼルローンが陥落した?」
キルヒアイスの報告にラインハルトは眉を顰めた。
「ええ、今頃、王宮では軍事長官3役の皆様の顔から火が出ていることでしょう」
キルヒアイスがそう述べるとラインハルトは不敵に笑みを浮かべると歩きだした。
「どちらへ?」
「王宮へ行くぞ。そんな見ものを見逃す手はない。詳しい状況も聞けよう」
「お伴します」
王宮に行くと軍事三役は揃って辞表を出したらしい。
今回の一件の概要は誰が聞いても笑えないジョークの様な三文喜劇の題目だった。
否、帝国にとっては悲劇か。
イゼルローン要塞だけならまだしも1万五千もの艦隊を同時に全滅させれては彼らを留意することなどできまい。
否、正確には一万の艦隊は全て同盟に無傷で徴収されたのであった。
イゼルローンはどうやらとんでもないペテンに掛かって圧倒的に、壊滅的に破れたらしい。
「笑えるなぁ。イゼルローンばかりか1万の艦隊までもが全て連合に持ち逃げされてしまった、なんてなぁ…」
呆れて軽口を叩くラインハルトにキルヒアイスが真剣な面持ちで言った。
「笑えませんよ。ことはアスターテの勝利2回分以上の効果がありました。ヤンはラインハルトさまが殺した200万の将兵にかわり150万の将兵を捕虜としたのです。しかも自分たちは全く血を流さずに…」
分かりやすく戦慄した顔を浮かべるキルヒアイスにラインハルトは苦笑した。
一万隻の中古艦と鉄壁の要塞と150万の捕虜と今後の戦争のイニシアチブ。
その全てをヤンは自らは血を一つも流さず手に入れたのだ。
魔術以外の何者でもない。
帝国側も随分と安く買いたたかれたものだ。
情けない。
「ミラクル・ヤンか。私では無理だな。認めよう。彼は天才だ。ただし詐欺師のな」
そう言ってからラインハルトはやや真剣な顔で悩み始めた。
「なぁ、キルヒアイス。三役はどれがいいだろうか」
今空いた三役のポストのいずれかがラインハルトの元に転がり込んでくる予定である。
断る理由もないのでラインハルトとしては謹んでお受けする所存ではあった。
◇◇◇◇◇
「なんと言う事だ。まさかあのイゼルローンをこんな方法で落とすとはなぁ…」
ルビンスキーは眉を顰め、唸った。
彼らとしても状況は把握していたが、なんせ今回の一件は電撃戦過ぎた。
ヤンめは気づいたときには出航し、フェザーンが手をこまねいているうちにイゼルローンを落としてしまった。
なんとも手際の良い落としっぷりだ。
事前の準備や御膳立てをトリューニヒトが予めしていたのだろうか?
ルビンスキーたちがもっともらしく帝国にリークする暇すら無かったのが実情だ。
「どうしますか、自治領主(ランデスヘル)」
ボルテックのお伺いにルビンスキーは仕方無いとかぶりを振って言った。
「今の最高評議会長は我々のコネであの椅子に座った。その恩に報いるべきだな。奴に大規模侵略戦を具申させよう」
もっともらしい理由をつけて戦争を起こさせる。
同盟には勝ち過ぎたつけを払って貰わねばならない。
成功すれば同盟の国力を大いにそげるだろう。
今回の歴史的勝利を得て勝ち馬に乗る同盟の主戦派はこぞって大規模戦争を呼びかけるだろう。
故にこの詭計が成功する確率は高い。
しかし、不敵に笑うルビンスキーをやや冷やかにボルテックは見ていた。
理屈上ではその通りであろう。
しかし、今回の一件でトリューニヒトがほぼ議会の王者として光臨する事は眼に見えていた。
権威主義者のルビンスキーは最高評議長を動かせれば、全ての事が足りると考えているようだがトリューニヒト自体を動かせない今のフェザーンは同盟に対して無力に等しい。
ボルテックは自分の才にはさして自信は無かったが人を見る目は十分にあるつもりだ。
ルビンスキーの才智は疑う余地はないが、この男は木を見ず、森を見ず、山を論ずるようなところがある。
椅子に座ったままの名探偵なんて物語の中でしか通用しない事が理解できていないらしい。
肌感覚としてボルテックには当然と分かるトリューニヒトの実効支配にこの男は気がついていないようだった。
知ったような気でいる異様に頭が良い井の中の蛙。
それがルビンスキーだ。
ボルテックにはもう一つ気づいている事がある。
トリューニヒト陣営は明らかにフェザーンの勢力と距離を置いている。
いずれフェザーンは同盟のトカゲの尻尾切りに合うかもしれない。
その時、ルビンスキーはルビンスキー、ボルテックはボルテックだ。
自分の尻尾を振る相手ぐらい自分で選ぶつもりである。
「仰せのままに…」
そう言ってボルテックはルビンスキーの執務室から下がった。