<このWebサイトはアフィリエイト広告を使用しています。> SS投稿掲示板

チラシの裏SS投稿掲示板


[広告]


感想掲示板 作者メニュー サイトTOP 掲示板TOP 捜索掲示板 メイン掲示板

[31538] 【ネタ】ものまね士は運命をものまねする(Fate/Zero×FF6 GBA)【完結】
Name: マンガ男◆da666e53 ID:ac86df83
Date: 2015/08/02 04:34
  【ネタ】ものまね士は運命をものまねする(Fate/Zero×FF6 GBA)【完結】

  ~はじめに~

  このお話は、突発的に閃いたもので、話の内容に大きな矛盾が生じる可能性があります。

  『こんな話を書いてみたい』と思い立って書きました、盗作扱いされぬよう努力します。

  感想、指摘、批評など頂けましたら。今後の執筆に大きく反映させていけるよう努力致します。

  どうぞよろしくお願い致します。



  ~概要~

  ・この話はFate/ZeroとファイナルファンタジーⅥ GBAのクロス物です。

  ・ファイナルファンタジーⅥ GBAのキャラクターをFate/Zeroに登場させます。話しの本流はFate/Zeroです。

  ・捏造設定によりキャラが改変される場合があります。

  ・ファイナルファンタジーⅥ GBAには召喚獣のギルガメッシュが出てきますが、彼が英雄王と出会えるかは不明です。

  ・ファイナルファンタジーⅥ GBAの魔法は地の文で出来るだけ説明するつもりですが、判らない分は想像力とインターネットの知識で補ってください。

  ・『士』は一定の資格・職業の人の意味で、『師』は学問・技芸を教授する人。ものまねを教えている訳ではないので『ものまねし』の変換では『ものまね士』を採用します。

  ・原作では口数の少ないものまね士ですが、この作品ではたくさん喋ります。

  ・基本は不定期更新ですが。2012年7月現在、二週間に一度の更新を維持しています。

  ・しつこいようですが勝手な自己解釈による捏造設定満載です。



  それでも良いと言う方は、どうぞご覧下さいませ。



[31538] 第0話 『プロローグ』
Name: マンガ男◆da666e53 ID:ac86df83
Date: 2012/10/20 08:24
  第0話 『プロローグ』



  ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆



  全てを模倣できるのは、全ての資質を兼ね備えている事実に他ならない。



  ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆



  Side - FF6





  彼―――、いや、あるいは彼女かもしれないその存在は自分が何者であるかを判らずにいた。
  自分と言う存在を自覚した瞬間、溢れ出る膨大な知識が思考を助ける苗床となったが、あるのは知識のみでそれ以外は何もない。
  自らが存在するこの空間―――。どこかの星でもなければ、どこかの大地の上でもない、宇宙と呼んで良いのかすら定かではない場所にただ在った。
  彼あるいは彼女―――便宜上『彼』と呼ぶ生物は周囲に彼以外にはなく、光どころか闇すらもそこには無かった。
  頭の中を蠢く知識は膨大であり壮大、この知識がどこから現れたかを彼は考えたが、その答えは出ない。
  居るのは自分一人だけ。
  在るのは自分一人だけ。
  何故かある『知識』、それだけが彼の拠り所であった。それでも自覚が存在を促し、確固たる自我が存在し、彼は生物としての自分を認めた。
  『我思う、ゆえに我あり』
  知識の中に合った言葉が彼を『自分』と『それ以外』に区別する。
  その瞬間、彼が思い浮かべたのは自分ただ一人きりと言う事実―――孤独であった。
  それこそが感情の発露であり、何者でもなかった彼が自分自身を感情のある生き物として認めた瞬間なのだが、湧き出た孤独への悲しみは彼に起こった劇的な変化を打ち消していく。
  自分という存在以外は何もない孤独。
  自分だけしか存在しない空間への怒り。
  感情と呼べるものが一つ現れれば、二つ三つと続くのは容易く、彼は次々に知識と感情を擦り合わせて多くの気持ちを呼び起こしていった。
  彼は熟考する。この孤独を消すにはどうすればいいか? と。
  頭の中にある知識を元にして考えて、考えて、考え続けて。彼は答えを探し続けた。
  彼にとって流れゆく時間に意味は無く、ただ答えに辿り着けるのならばどれだけ長い時間考え続けても苦にはならない。ただ、この何もない空間では時間の認識すらあやふやだ、どれだけの時間が経過したかを測れないので、あるのは彼の思考だけである。
  彼は考えて。考えて。考え続ける。
  そして彼は一つの答えに辿り着いた。
  自分と言う存在を認めたうえで『他人』があるからこそ人は孤独から解放される。
  言葉を交わし、存在を認め合い、互いに相手の事を思う。『自分』と『他人』があるからこそ人は人として生きてゆける。
  そう考えた時、彼はもう一つ別の事も考えた。そもそも自分は人なのだろうか? と。
  空気があるのかすら怪しいこの空間の中で、唐突に自己を認識する者が知識の中にある『人間』という存在で括れるのかどうか。彼はそう疑問に思った。
  ただし、彼の内から湧き出る孤独感はその疑問をも容易に押し流し、自分自身が何者であるかの思考を許さない。
  それだけ孤独である事を彼は恐れた。
  彼は思った。自らが人であるという仮定に則り、孤独を埋めてくれる自分以外の『人』が必要だと。
  しかし一つの回答に至れても、何もない空間の中にあるのは彼一人だけ。当然ながら、彼が欲する他人の姿などどこにもない。
  彼は考えた。
  自分ではない他人と出会う為にはどうすればいいか?
  彼は思った。
  無いのならば作れば良いのではないか?
  彼はまた考えた。
  作り方は知識の中にあり、それを使えば自分ではない他人を作れる。
  それは正しく無から有を生み出す『神の所業』そのものであったが、彼にとっては、自分に出来る行動の中から一つを選んだに過ぎない。
  彼は自分の内側から光を作り出す。生命と呼べる存在を作り出す。
  彼自身の分身とも呼べる存在をそのまま三つ生み出し、それぞれに名を与え、知識を与え、形を与え、存在の意義を与えた。何故そんな事が出来るのかを問う者はおらず、彼は自分がどれだけの奇跡を積み重ねているか自覚しないまま作業を進める。
  彼が持つ力の大半を三つの存在に明け渡し、彼に出来る事が激減したとしても、後悔など微塵もなかった。
  何故ならば、彼にとっては孤独ではない事こそが最も重要だからだ。
  彼は三つの『他人』、知識の中を探れば『子供』と呼べる者達と相対し、自分とは異なる他人の存在に歓喜する。
  しかし彼は思った。まだ足りない、と。
  三人の子供たちは彼と同じように手を持ち、足を持ち、頭を持ち、人に似た形をしていた。
  一人は手が六本あって背中からは羽根が生えており、一人は彼の知識の中にある『女』の形を模して作られ、一人は紅い鎧をまとったような格好をしている。
  彼が願うとおり誰もが彼とは異なる姿をしているが、たった三つでは彼の孤独を埋めるには少なすぎた。
  彼は再び考える。
  子供達だけでは足りない、新たに作り出すのではない別の方法は無いものか。と。
  そして彼はこの場から別のどこかに移動する方法を思いついた。
  もし彼が最初に『ここではないどこか』へ移動するのを考えたのならば、彼の子供達は生み出されなかったであろう。
  孤独を癒す術を別の場所に求める考えを起こせなかったからこそ、彼の子供は生まれ出でた。
  しかし起こった事実は覆せない。
  子供達はもうこの世に生まれ出でている。
  彼には創世を選ぶこともできた。別の子供達を更に多く生み落し、多くの他人を作り出すことも出来た。
  三人の子供たちを作る時に力の大半を渡してしまったが、何かを生み出す能力は残っていたし、力を多く渡さなければ生命の想像は容易かった。
  彼には多くの選択肢と、多くの可能性。無限にも匹敵する知識の中から多くの未来を選べる立場があった。
  けれど、彼は三人の子供達とは別の選択を新たに考えてしまう―――。
  決してそれを言葉にはしなかったが、自らが生み出した子供達の存在を心のどこかで失敗と考えつつ、彼はここではないどこかへと移動する。
  三人の子供達は彼の後を追った。
  彼の孤独を癒す為に望まれたからこそ、その役目を果たす為に三人の子供達は彼を追わなければならなかった。
  彼の知識から掘り起こされた神秘の技。『魔法』と呼ばれる現象によって起こされた空間の穴を通り、彼と三人の子供達は何もない空間を離脱する。
  残されるモノは何一つなかった。





  何故、最初に別の場所に移動する事を考えなかったのか? 彼は目の前にある輝きを見ながらそう思った。
  宇宙、そして星。知識によって目の前に広がるものが何であるかを理解したが、記憶の中に存在するモノと彼の目で見る現実とでは大きな違いが合った。
  それこそが記憶と体験の違いだ。
  自分の中にある知識の中から掘り起こすのではなく、目の前から押し寄せて彼の心と体に叩き付けてくる圧倒的な存在感。
  彼は見て、感じて、聞いて、孤独を薄める驚きを覚えていった。
  背後に三人の子供達が控え、彼の背中をジッと見つめているのを感じながら、それでも目の前に広がる光景から目を離せずに前だけを見続ける。
  空気の存在しない宇宙空間の中で死なずに浮遊し続ける異質さを理解していたが、目の前に広がるあまりにも多くのモノを前にしては、全てが霞んでしまう。
  これまで周囲に何もなかったからこそ、星の輝きはあまりにもまぶし過ぎた。
  だから彼は一緒について来た三人の子供たちを置き去りにして、多くの色に輝く星に向かって舞い降りた。そうしなければならないと彼は考えた。
  彼の背中を見つめる三人の子供達の顔が憤怒の表情に彩られていると気付かぬままに―――。
  彼は舞い降りた星に広がる生命の息吹に歓喜し、そこに存在した多くの命と多くの自然に心を奪われた。
  彼は自らが持つ知識と、目の前に広がる新鮮な光景が合致するかを調べる為、喜びと共に全てを模倣し始めた。
  自分は何なのか?
  目の前にいるのは何なのか?
  自分は誰なのか?
  目の前にいるのは誰なのか?
  自分は何故存在するのか?
  目の前にある者は何故存在するのか?
  彼は自らを人と認識しながら、人間では決して到達できない高みから模倣して模倣して模倣して模倣して模倣して模倣して模倣して模倣した。
  自らの知識の正しさを証明し続け、体験と言う驚きによって孤独を埋め尽くし、ただひたすらに全てを模倣し続けた。
  いつしか彼はこう呼ばれるようになる。


  男なのか女なのか、そもそも人間なのかすらも分からない謎の存在―――ものまね士、ゴゴ、と。


  名を持たぬ彼はその瞬間、名を持つ一つの生命となる。
  そして子供達がそんな彼を見て、怒りを露わにするのは当然の流れであった。
  三人の子供達は彼―――降り立った星に住まう者達からゴゴと呼ばれるようになった存在の孤独を埋める為に生み出された生物だ。
  彼の中に合った多くのものが三人の子供に継承され、三人が力を合わせれば天地創造も不可能ではない。しかし三人の子供達の根底にあるのは『親』である『彼』の孤独を癒す渇望だ。
  それなのに彼は三人の子供達から目をそらし、どこかの星に降り立ったかと思えばそこに生きる者の行動を真似し始めた。
  三人の子供達は思った。自分達はいったい、何のために存在しているのか。と。必要とされないのならば何故、親から形と力と知識を与えられて生まれたのか。と。
  彼らの怒りは星に住まう生き物に―――自分に最も近い子供同士に―――ゴゴと呼ばれるようになった彼にすら牙を剥いた。
  それは嫉妬と呼ばれた感情が起こした破壊だった。
  砕いてしまえ。
  潰してしまえ。
  壊してしまえ。
  滅ぼしてしまえ。
  何もかもを無くしてしまえ。
  感情を制御できない子供の激情に身を任せ、三人の子供達は互いに争いを始める。
  普通の人間ならば駄々をこねると言えたかもしれないが。三人の子供達が持つ力はあまりにも大き過ぎた。
  互いに殺し合える強大な力を持った三人の子供達。多くの大地を、一つの世界を、一つの星をも軽く滅ぼせる存在、彼が生み出した三人の子供達。その絶大な力ゆえ、三人の子供達は星に住まう者達から『神』と崇め奉られるようになる。
  彼らの怒りは大地を抉り、海を割り、星を削り、親である彼を大地の奥深くへと叩き込む。
  彼らを生み出した親。ゴゴの名で呼ばれるようになった彼は子供達の手によって傷つき、傷を癒す為に深い眠りにつかなければならなくなった。
  歯止めをかける者はいなくなり、三人の子供達は止まらず争い続ける。神の名で呼ばれながら三人の子供達は争い続ける。
  彼らはいつしかこう呼ばれるようになる。
  鬼神―――。
  魔神―――。
  女神―――。
  戦いの神。三闘神。と。



  ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆



  Side - Fate/Zero





  叶うならば、一生涯この家には近づきたくは無かった。けれど間桐雁夜にはそうしなければならない理由がある。
  だから雁夜はここにいる。だから雁夜は目の前の老人と相対する。
  「その面、もう二度とワシの前に晒すでないと、たしかに申しつけた筈だがな」
  「聞き捨てならない噂を聞いた。間桐の家がとんでもなく恥さらしな真似をしている、とな」
  もし雁夜が完全にこの生家である間桐家と縁を切り、魔術にも金輪際関わらぬように生きて来たならば、そもそも『戻る』という選択すら浮かべなかっただろう。
  しかし雁夜は魔術に関わらずとも、間接的に間桐に関する情報を手に入れられる付き合いを今も残してしまった。その結果、雁夜は聞いてしまったのだ。
  「遠坂の次女を向かい入れたそうだな。そんなにまでして間桐の血筋に魔術師の因子を残したいのか?」
  遠坂桜が間桐に養子に出された―――という話を。
  「それをなじるか? 他でもない貴様が? いったい誰のせいでここまで間桐が零落したと思っておる」
  「茶番はやめろよ吸血鬼。あんたが今更、間桐一族の存続なんどに拘ってるとでも言うつもりか? 笑わせるな。新しい代の間桐が生まれなくても、あんたには何の不都合もあるまい。二百年なり千年なりと、あんた自身が生き続ければ済む話だろうが」
  雁夜は自分が魔術と金輪際関わらない様にするためには、間桐として生きてきた間に培った全ての繋がりを断ち切る事が必要だと判っていた。
  家族も、友も、愛した人も、人生も、何もかもを捨て去って全く関わらないようにする。それこそが真に『縁を切る』という事になる。
  しかし雁夜は禅城葵―――今は遠坂の家に嫁いだので遠坂葵となっているが、あの幼馴染であり今も恋い焦がれている女性との付き合いを断絶出来なかった。
  彼女の娘であり、雁夜とも何度か顔を突き合わせている姉の凛と妹の桜と接する時間は、冬木の地に戻り理由だった。
  故に雁夜は遠坂桜が養子に出された話を知ってしまい。それが自分の生み出した業であり罪だと判ってしまった。
  「相変わらず、可愛げのない奴よのう。身も蓋もない物言いをしおって」
  「それもこれもあんたの仕込みだ。くだらない御託で誤魔化される俺じゃない」
  もし雁夜が十年前に間桐から逃げなければ。遠坂桜がこの目の前にいる老人に養子に出されるなんて事態は起こらなかった。
  雁夜が間桐を捨てたから、今日の結果が起こってしまった。ならばそれは雁夜が生み出した罪科だ。
  「左様、お主や鶴野の息子よりも、なおワシは後々の世まで生きながらえることじゃろうて。だが、それも、日ごとに崩れ落ちる体をどう保つかが問題でな。間桐の跡継ぎは不要でも間桐の魔術師は必要でのう。この手に聖杯を勝ち取る為には、な」
  「・・・・・・結局それが魂胆か」
  雁夜は目の前の老人―――間桐臓硯の話を聞きながら、怒りと納得を同時に考えていた。
  間桐臓硯は戸籍上の雁夜の父であり、当然ながら兄鶴野の父となっている人物だ。しかしその本性は雁夜の毛嫌いする間桐の魔術の体現者であり、実年齢は数百歳。
  人の血肉を啜り、喰らい、我が者とする人外の怪物だ。
  「六十年の周期が来年には巡り来る。だが四度目の聖杯戦争には間桐から出せる駒が無い。鶴野程度の魔力ではサーヴァントを御しきれぬ。現にいまだ令呪すら宿らぬ有様だ」
  しかし、臓硯の語る『聖杯戦争』の賞品である『聖杯』を勝ち取るのは、あくまで人間の魔術師であり、人の肉体を捨て去った怪物には出場資格すら与えられない。今のままでは臓硯が聖杯を得て、不老不死を手にいれるのは夢でしかない。
  だから臓硯は間桐から出せる駒を欲している。
  だから本来ならば間桐の魔術に何も関係ない筈の少女を何の躊躇いもなく巻き込める。
  だから雁夜は臓硯に怒りを覚える。
  だが、そこに突破口があるのもまた事実であった。
  「・・・・・・そういう事なら、聖杯さえ手に入るなら遠坂桜には用は無い訳だな?」
  「お主、何をたくらんでいる?」
  「取引だ、間桐臓硯」
  臓硯が探る様にこちらに問いかけてくるが、雁夜はそれに返答せずに一気に告げた。
  それが俺がここにいる理由だ、と力を込めて。
  「俺は次の聖杯戦争で間桐に聖杯を持ち帰る。それと引き換えに遠坂桜を解放しろ」
  「――馬鹿を言え雁夜。今日の今日まで何の修行もしてこなかった落伍者が僅か一年でサーヴァントのマスターになろうだと?」
  「それを可能にする秘術があんたにはあるだろう? 爺さん、あんたお得意の蟲使いの技が」
  臓硯にしては珍しく、動揺を顔に出しながら言ってくるが、雁夜はそれも無視して一気に言い放つ。
  これは切り札であると同時に、十年間魔術と関わらずに生きてきた自分の頼みの綱だ。懸命にこれ以外の手が無いと悟られぬよう、臓硯の目を真っ向から睨みつけて続ける。
  「俺に『刻印虫』を植え付けろ。この身体は薄汚い間桐の血肉で出来ている。他家の娘よりはよほど馴染みがいい筈だ」
  刻印虫――。それは蟲を扱う間桐の魔術の中でも秘奥と言っても過言ではない蟲の名前であり、魔術回路を持たない人間に擬似的な魔術回路を植え付けて魔術師とする効果を持つ。
  ただの人間を魔術師に作り変える外法だ。今回のような事態が起こらなければ、関わるのはおろか口にするのもおぞましい。
  けれど、それこそが遠坂桜を救うために雁夜に残された手段だ。
  まともに戦ったところで、既に本体が蟲となった臓硯を殺すことは叶わない。一年間、修行したところで、真っ当な方法ではマスターになる事も出来ずに終わる。
  だが刻印虫を使えば話が変わる。
  「雁夜――、死ぬ気か?」
  「まさか心配だとは言うまいな、お父さん」
  少しだけ目を見開きながら臓硯がそう言ってくるのも当然だ。刻印虫には確かに魔術師を作り上げる結果があるが、その道中は常に死と隣り合わせの危険を孕んでいる。
  一匹や二匹ではなく、数十匹の蟲が体の中を這いずり回り、宿主となる人間の肉を、骨を、魔力を喰らうのだ。素養のない人間ならば一晩で発狂するのは間違いなく、内側から蟲に肉体を捕食させる痛みに耐えられたとしても、魔術師になれなければ何の意味もない。
  それでも他の人間ではなく、間桐の血族である自分ならばその可能性は上がる筈。
  雁夜が再び臓硯を強く睨むと、臓硯は少しだけ間を置いてから言って来た。
  「確かにお主の素養であれば鶴野よりも望みはある。刻印虫で魔術回路を拡張し、一年間みっちりと鍛え抜けば、あるいは聖杯に選ばれるだけの使い手に仕上がるやも知れぬ。じゃが解せぬな、何故小娘一人にそうまでして拘る?」
  「間桐の執念は間桐の手で果たせばいい。無関係の他人を巻き込んでたまるか」
  「それはまた殊勝な心がけじゃのう」
  臓硯がそう言うと、これまで見せなかった醜悪な笑みを口元に浮かべた。
  自分以外の何もかもを嘲笑っているような人外の怪物が見せる笑み。人を単なる食料としか見ていない、化生だけが作り出せる黒い嗤い。
  このタイミングで笑う意図が読めず、雁夜はつい問いてしまう。
  「・・・・・・何が可笑しい?」
  「何――、巻き込まずに済ますのが目的ならばいささか遅すぎたと思っただけじゃ。遠坂の娘が当家に来て今日で何日目になるか、お主知っておるのか?」
  「爺、まさか!!」
  聞きたくは無かった言葉だからこそ、雁夜は即座に答えへとたどり着く。それが虚言である事を強く願ったが、臓硯は笑みを深くして笑うばかりだ。
  その底なしの邪悪を思わせる顔が雄弁に雁夜の絶望を呼び起こす。
  「初めの三日はそりゃあもう散々な泣き叫びようだったがのう。四日目からは声も出さなくなったわ。今日などは明け方から蟲蔵に放り込んで、どれだけ保つか試しておるのだが――、ホホ、半日も蟲どもに嬲られ続けてまだ息がある。なかなかどうして、遠坂の素材も捨てたものではない」
  すでに遠坂桜が間桐の魔術に嬲られている。それを耳にしてしまった時、雁夜の中にはこれまでにない激情が荒れ狂った。
  憎しみを越えた殺意が体を震わせ、今すぐにでも目の前の外道に掴みかかって首を絞めて、捩じ切って、肉片一つ残らずに焼き尽くしたい衝動に駆られる。
  しかし雁夜は判っている。間桐臓硯は間桐の魔術を体現する者であり、その力は雁夜程度では遠く及ばない。もし今、臓硯の首を絞めようとしても、呆気なく返り討ちに合って殺されるだけだ。
  雁夜が作り出してしまった罪を償う為には―――遠坂桜を救おうと思うなら―――交渉しか手段はない。
  必死で怒りを抑える雁夜に対し、その全てを見透かすように薄く笑う臓硯が言う。
  「さて、どうする? すでに頭から爪先まで蟲共に犯されぬいた壊れかけの小娘一匹。それでもなお救いたいと申すなら、まあ、考えてやらんでもない」
  その嗤いが雁夜の怒りを刺激するが、間桐の家に戻った時から選択など決まっている。
  「異存はない。やってやろうじゃないか」
  「善哉、善哉。まあ、せいぜい気張るがいい。だがな雁夜、きさまが結果を出すまでは、引き続き小娘の教育は続行するぞ」
  笑いながら臓硯は続ける。
  「ひとたび我らを裏切った出戻りの落伍者なぞよりも、アレの産み落とすであろう子供の方が、はるかに勝算は高いからな。ワシの本命はあくまで次々回の機会じゃ。今度の聖杯戦争は負け戦と思って、最初から勝負を捨ててかかる。だがな、それでも万が一、貴様が聖杯を手にするようならば――、応とも。そのときは無論、遠坂の娘は用済みじゃ。アレの教育は一年限りで切り上げることになろうな」
  何度か公園で見かけた少女の姿を思い浮かべ、姉の後ろで引っ込み思案に雁夜の顔を眺めていた遠坂桜の姿が思い出せる。その少女を『アレ』呼ばわりする臓硯が憎くて憎くてたまらない。
  それでも今は堪えるしかない。
  この確約が果たされるものと信じて進むしかない。
  言質を取る為に雁夜は言う。
  「二言はないな? 間桐臓硯」
  「雁夜よ、ワシに向かって五分の口を利こうと思うなら、まずは刻印虫の苦痛に耐えて見せよ。そうさな、まずは一週間、蟲どもの苗床になってみるが良い。それで狂い死にせずにおったなら、おぬしの本気を認めてやろうではないか」
  臓硯はソファの横に置いてあった杖を取り、大儀そうに腰を上げながら言う。雁夜はそんな臓硯に対して首肯で応じ、両手を強く握りしめて間桐の魔術への怒りを自分の犯した罪の重さで拮抗させた。
  部屋を出ていく臓硯の背を見送らず、頭の中で思うのはこれからの事。
  間桐の秘術、刻印虫。生きた蟲を身体の中に植え付けて、『間桐の魔術を行いやすい様に身体を改造する』。その技は例え間桐の血を引く雁夜であっても死に匹敵する苦行となるのは間違いない。
  そして一度体内に刻印虫が入れば、刻印虫の生みの親である臓硯の傀儡となるのは判っていた。最早、その瞬間、臓硯への反逆は叶わなくなる。
  しかし、刻印虫の改造によって魔術師の資格を得れば、今代で最も間桐の血を色濃く継ぐ雁夜に令呪が宿る公算は高い。どれほど零落したとしても、自分は聖杯戦争を作り出した始まりの御三家の一つである間桐家の血を継ぐ人間なのだ。
  一年後に行われる聖杯戦争。その賞品『聖杯』を勝ち得て、臓硯に持ち替える事こそが遠坂桜を救う唯一のチャンスだ。
  生身のままでは決して届かない。
  ただ、刻印虫を植え付けて聖杯戦争への参加資格を得る代償として、雁夜の寿命は極端に削られ、他のマスターと争う以前に蟲に改造され、喰われ、侵された雁夜の肉体はほんの数年の寿命しか残らないだろう。
  だが雁夜はそれでも構わなかった。
  もし十年前―――今と同じ覚悟を、間桐の魔術に目を背けずに真正面から相対していたならば、遠坂桜が間桐家に養子に出されるなんて自体は起こらなかった。母の遠坂葵の元で今も無事に暮らしていた筈だ。
  その安寧を崩したのはかつて雁夜が拒んだ運命そのものだ。贖罪の為にこの身が必要ならば、いくらでも捧げる覚悟が雁夜にはある。
  そして聖杯戦争に参加して聖杯を獲得すると言う事は、他の六人のマスターを皆殺しにするという事でもある。
  聖杯戦争には当然、御三家は全員参加するのが判っているので、桜を間桐という地獄に叩き落とした当事者と直接対面し、殺し合う機会に恵まれるのだ。
  遠坂時臣。
  遠坂の当主にして桜の父親、古き盟友たる間桐の要請と言う名の『呪い』によって桜を陥れ、そして雁夜の幼馴染である女性を愛しながらも苦しめて悲しませた男。
  そいつを自分の手で殺せるかと思うと、臓硯に向けた殺意とは異なる、別種の情念が胸の奥から湧き上がるのを止められない。
  「遠坂、時臣・・・」
  桜を間桐という地獄から解放する為。雁夜は真の意味で間桐の魔術師に『間桐雁夜』へとなっていく。





  雁夜を部屋に置き去りにした臓硯は、扉を閉めて廊下に出た後に更に笑みを深くして口元から淀んだ笑い声を撒き散らした。
  「カカカカカ――」
  この時点の雁夜はまだ知らぬ事なのだが、臓硯は雁夜がもし刻印虫の改造に耐え、一年足らずでサーヴァントを御するマスターの資格を得たとしても、次回の聖杯戦争では勝利できぬと確信していた。
  そもそも臓硯は英霊をマスターのサーヴァントとして成立させるシステムを構築し。第二次聖杯戦争からは令呪を考案して『人が英霊に絶対命令権を持つ』と言うとてつもない偉業を成し遂げた人物なのだ。
  たとえ呼ばれた英霊が聖杯によって招かれる本物のコピーに過ぎないとしても、英霊の形を取った途方も無い力をほぼ完全に制御できるシステムの発案者と、知識としか知らず原理に至っては欠片も理解していない人間が同じ土俵に立って対立しても、叶う訳がない。
  魔術師としての経験にしても、臓硯が生き抜いてきた数百年と雁夜が知る数年の間には絶対に越えられない壁が存在する。
  これまで三度繰り返されてきた聖杯戦争を見続けてきた臓硯。その経験が、雁夜程度の人間が起こす奇跡では聖杯には到底辿り着けぬないと確信していた。
  もし万が一、いや億が一にでも雁夜が聖杯を得るチャンスがあるとするならば、それは雁夜がマスターとなり雁夜以外の六人のマスターが雁夜より格下で、呼ばれたサーヴァントが全てできそこないの場合に限る。
  だが、そんな事は決して起こらない。起こらないからこその聖杯戦争なのだ。
  二百年前に聖杯戦争を構築した一人として、間桐臓硯―――いやマキリ・ゾオルケンはそんな事が決して起こらないと知っている。
  加えて、臓硯は五十九年前に起こった第三次聖杯戦争で、アインツベルンがある反則を行い、そこから聖杯戦争そのものに異常が起こっていることも見抜いていた。
  今回の聖杯戦争で異常を見極める。そして間桐の魔術を捨てた裏切り者の雁夜が苦しむ様子を見る。雁夜が得ようとしている未来など決して届かないと知っていたからこそ、臓硯は持ちかけられた交渉に応じたのだ。
  片やそれこそが自身の贖罪であり桜を救うための唯一の手段と信じ。片やそれが決して叶わぬ事だと知りながら。二人は取引を成立させた。
  無知は罪だ。
  「カカカカカ――」
  間桐臓硯は笑う、雁夜を嘲笑う。
  雁夜には確かに間桐の魔術を継承する素養はあるが、歴代の間桐に比べれば少なく、しかも聖杯戦争までに時間が無い。
  雁夜にあるのは一度捨て去った魔術という力を手段として、叶わぬ望みを掴もうとする愚鈍な思いだけだ。
  願い、努力し、死に等しい苦痛に耐えるだけで人の身では叶わぬ奇跡が手に入るのならば、誰も苦労はしない。もしそんな事で奇跡が実現するのならば、この世の中には奇跡で溢れかえっているだろう。
  ほんの一握りの人間しか掴めないからこそ奇跡は奇跡として存在する。余人には決して手に入らないからこそ奇跡は奇跡なのだ。
  「カカカカカカカカカ」
  延命に延命を重ね既に人外の者となった魔術師は嗤う。
  身体を人のモノから蟲のモノへと置き換え、数百年の時を生き抜いてきた妖怪が嗤う。
  哂う。
  笑う。
  嗤う。
  ワラウ。



  ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆



  Side - FF6





  子供を顧みなかった親は、子供の手によって瀕死に追いやられると言う代償を味わい、休息に費やした時間は伝説に語り継がれるほどの長い時となった。
  あるいはゴゴが三人の子供たちに力の大半を渡さなければ、傷つけられた体は一瞬で完治したかもしれない。だが、元々持っていた力の大半が三人の子供たちに移されており、体を大きく損傷したゴゴが、完全に元の体を取り戻すには長い長い時を必要とする。
  自業自得とも言う。
  そう―――激情によって争い始めた三人の子供達が三闘神と呼ばれ、世界を破壊尽くしている間もゴゴは何もできずにただ体を癒し続けていた。
  長きにわたる戦いによって彼らにも自己が芽生えていき、心は成長して自らの起こした所業を罪と自覚して、破壊の過ちに気付いて、自分達が親であるゴゴにしてしまった事を後悔しても、ゴゴはずっと大地の奥で眠り続けていた。
  ゴゴは知らない。
  三人の子供達はかつて自分達の戦力を増やす為に星にいた生物を作り変え、後に幻獣と呼ばれた彼らに自分達を復活させないように命じて、元々この星に合った魔力が抑えられる神秘の場所:封魔壁の奥で自らを石化させたのを―――ゴゴは知らない。
  封印する際に、幻獣の中でも特に強大な力を持つ者達を一緒に封じ、石化後も互いに視線を向けて力を中和して、世界がまた破壊されないようにしている配慮を―――ゴゴは知らない。
  三人の子供達が長い年月をかけ、悔いを覚える大人へと成長したのを―――ゴゴは知らない。
  ゴゴは人が伝説に語り継がれるほどの時間。千年もの間、地下奥深くでただ眠り続けた。
  そして千年の時を超え、ゴゴは何者かの訴えによって目を覚ます。
  眠りにつく前、こんな人間はいなかった。
  かつて見た命の輝きを、もっともっと大きくした人間がゴゴを見ていた。
  生きる事に貪欲で、成し遂げようとする意志の強さは強大で、精一杯に今を生きて、三人の子供たちに渡した力の一角をその身に宿した人間たち。
  ゴゴは彼らに向けて告げる。
  「俺は、ゴゴ。ずっとものまねをして生きてきた」
  かつてこの星に降り立ってから、何度も何度も何度も何度も繰り返し告げてきた言葉をまた繰り返す。
  他称を自称へと置き換えながら、自らの名乗りに組み込んでゴゴは言う。
  「お前達は、久しぶりの来客だ。そうだ。お前達のものまねをしてやろう。お前達は、今何をしているんだ?」
  そしてゴゴは目の前に立つ人間の言葉に耳を傾け、自分が成すべき事を言葉にする。
  「そうか。世界を救おうとしているのか。では、俺も世界を救うと言うものまねをしてみるとしよう」
  そしてゴゴは世界を救う為、知識では知っていたが体験した事の無かった『仲間』と出会い、半ば強引に彼らと行動を共にする。
  地上に出て眼前に広がるのは荒廃した大地。それを作り出したのが三人の子供だと聞いても驚きはなく、ああそうなのか、と納得して終わった。
  ゴゴは人の認識で考えればどうしようもない育児放棄をしながら、悪びれもせずに自分の為だけに模倣を再開する。
  孤独を埋める為に―――。
  自分勝手に―――。
  独善的に―――。
  ひたすらに模倣し続ける。
  世界が滅びに向かっていようが、星が一度砕かれようが、青い海が穢されようが、多くの人の命が奪われようが、嘆きと悲しみが世界を埋め尽くそうが、ゴゴはただ模倣するだけだ。
  それこそがゴゴ。ものまね士、ゴゴだ。





  ゴゴは強引に同行した仲間達と一緒に旅を進めるにつれ、世界を救い強く生きようとする意志の輝きを見た。そして、長きに渡って洗練されてきた多くの技に羨望を感じた。
  それらをものまね士ゴゴは模倣する。
  機械の使い方を模倣した。
  刀の使い方を模倣した。
  飛空艇の操縦を模倣した。
  武道の技を模倣した。
  投擲を模倣した。
  踊りを模倣した。
  盗みを模倣した。
  人が伝える魔法を模倣した。
  魔法を封じる剣を模倣した。
  絵画を模倣した。
  幻獣の召喚を模倣した。
  ギャンブルを模倣した。
  敵を殺す術を模倣した。
  誰かを治す技術を模倣した。
  ゴゴの頭の中にある知識と現実との差異を埋めながら、ものまね士は模倣して模倣して模倣して模倣して模倣し続けた。
  その中でゴゴに努力の必要がなかったのは、魔法と幻獣召喚の模倣であった。
  そもそも魔法の力はゴゴの三人の子供達である三闘神に引き継がれ、その力が幻獣を生み出す元になったようだが、それは元々ゴゴの中に合ったモノだ。
  魔法の取得などに費やす時間は無く、幻獣の召喚に至っては意識する必要すらなく行えてしまう。
  時に落胆し、時に感動し、時に戦闘を行い、時に仲間に救われ、時に仲間を助けて、旅を続けるものまね士ゴゴ。
  そしてゴゴはかつて自分が生み出した三人の子供達と再会し、かつての面影を残しながら全く違うものになってしまった三闘神と殺し合う。
  鬼神と殺し合いながらゴゴは考える。
  魔神と殺し合いながらゴゴは考える。
  女神と殺し合いながらゴゴは考える。
  三人の子供達が持っていた力はこんなモノではなく、正しく『世界を滅ぼす力』だ。今、ゴゴの前に立ち、親を殺そうとしているのは、三人の子供達の姿そのものだが、中身は全くの別物である。
  星の表面を撫でて大地を隆起させ、海を荒らし、多くの生物を死に追いやったとしても、それは子供達の力のほんの一端に過ぎない。
  やろうと思えばこの大地―――つまりは星そのものを破壊出来るのが三闘神の力なのだ。
  人が語りついだ三闘神の伝説を聞いたゴゴは考える。
  争う愚かさに気付いた子供達は石化する時に自分の心すらも封じ込め、力の大半を表に出さないようにしているのではないか? あるいは既に三人の子供達の命は失われており、ゴゴの前にいるのはかつての三闘神の残り滓ではないか? と。
  無限に等しい知識でも、千年先に起こる出来事までは存在しない。だからゴゴは想像で起こった事実を埋め合わせながら子供達に止めを刺した。
  感慨も躊躇いもなく。
  世界を救う模倣を完遂する為にものまね士ゴゴは三闘神を破壊する。親としてではなくものまね士として三闘神を殺す。
  そしてゴゴは仲間達と一緒に、世界を破壊した敵と対峙する。
  三闘神の力を吸収し、自らを神と名乗って君臨する、この世界の王―――人工魔導士、ケフカ・パラッツォ。
  瓦礫の塔の頂上に立つ、三闘神の力のほんの一角だけを手に入れて、全てを手中に収めたと錯覚している哀れな男。
  ゴゴは自分の手で屠った三人の子供達を想い、誰にも気付かれぬ涙を流す。
  自分に悲しむ心が合ったの事に、ゴゴは驚きを覚えた。



  ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆



  Side - Fate/Zero





  「うぐあぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!」
  間桐邸の地下、蟲蔵と呼ばれる場所で間桐雁夜の絶叫が響き渡った。
  数時間前に臓硯と対峙していた雁夜はその夜、臓硯との契約に則って『一週間、蟲どもの苗床になる』を達成する為に蟲に体を食わせていた。
  現代の日本では必要不可欠な衣類は全て取り払われており、雁夜は正しく身一つで蟲蔵の中にいる。
  だが彼を覆い尽くす蟲の大軍が雁夜の腕を手を足を腿を腹を胸を顔を首を、間桐雁夜と言う人間そのものを埋め尽くしており、雁夜がそこに居ると判らなければ誰であるかを判別する事すら難しい。
  その光景におぞましさや恐ろしさを感じる者はいるとしても、そこに美を見いだせる人間がいるとするならば、よほど特殊な人間だけだろう。
  例えば醜悪な笑みを浮かべながら雁夜の苦しむ様子を眺める間桐臓硯などがそれに当る。
  「どうした雁夜? まだ修行は始まったばかりではないか。一日と経たずに狂い死ぬがお主の本気ならば、それは笑い話にもならぬ愚かさの極みよのう」
  中二階とでも言えばいいのだろうか。臓硯は雁夜のいる蟲蔵の最も低い位置から階段で少し上った位置から雁夜の苦しむ様子を眺め、そして嘲笑っていた。
  地上部分に出ている間桐邸がそのまま逆転して地下に埋められたような広大な空間がそこにあり、全く日の差し込まぬ四角形の構造が間桐邸の蟲蔵だ。
  コンクリートで四方を固めた直方体を思わせる構造に一階へと通じる階段。手すりも何もないただ階段としての機能のみを作り出すそれは、機能性や美しさと言った類のものを全て排除しており、ただただ間桐の蟲を存在させる為だけの空間である。
  中でも目を引くのは壁一面に開けられた幾つもの穴だ。一つ一つがアーチ形をしており、少し小さめの犬小屋の出入り口の様にも見える。
  それが四方の壁全てに開けられており。何十か、何百か、数えるのも億劫な数の穴が並んでいる。
  その穴の奥にいるのが間桐の蟲である事を雁夜は知っていた。蟲蔵の名が示す通り、そこが蟲の住処なのだと間桐雁夜は知っていた。
  「ぐが・・・、うがあああああああ!!」
  「この程度で悲鳴を上げるならばやはりお主の素養はたかが知れる。蟲蔵をお主の修行に明け渡し、遠坂の娘の教育を後に回したのは失敗であったな」
  「爺――!」
  雁夜の望みを無に喫するような言葉を聴いた瞬間。雁夜の悲鳴は怒りへと置き換わり、臓硯の名を呼ぶ。
  だが、雁夜の体を喰らう蟲の侵攻は止まらず、それどころか雁夜がまだまだ耐えられそうだと感じたのか、より一層雁夜の体の中へと潜り込んでいく始末。
  蟲が雁夜の体を喰らっていく。
  体の中を這いずり回っていく。
  雁夜の体が蟲の住処へと作り変えられていく。
  臓器を貪り、血管を舐め回し、間桐雁夜を犯していく。
  裂けた肉の隙間から血が滴り落ちているが、それすらも蟲の餌となってゆく。
  自分を笑いながら見下ろす老魔術師に向けた怒りは、あっという間に痛みに置き換えられ、雁夜はまた悲鳴をあげた。
  「あああああああああああああ!!!」
  体の痛みが反射となって雁夜の口から声を上げさせるが、内に宿る決意は欠片も揺るがず、止めようなどとは全く考えなかった。
  半人前にもなれていない雁夜が満足の魔術を行使できる筈も無く、聖杯戦争に勝利するどころかサーヴァントを召喚するマスターになる事すらも叶わない。
  雁夜には少ないが魔術師としての素質がある、だが今の雁夜は魔術師ではない。
  だから強く嫌悪していた間桐独自の魔術―――蟲を使役する間桐の秘術『刻印虫』を自分の体に埋め込ませる必要が合った。
  刻印虫はその名の通り生きた蟲そのものであるが、魔術師が魔術を行使するために使用する魔術回路と呼ばれるモノの代わりをこなす。だが代償として、刻印虫は寄生した人間の魔力と一緒に肉を喰らうので、その激痛に耐えなければならない。
  刻印虫は自らの寿命を通貨に魔力を得る禁断の魔術だ。
  苗床になる雁夜の骨を喰らい、血管を喰らい、臓器を喰らい、皮を喰らい、神経を喰らい、血を啜る。
  そもそも寄生虫などの極小の生き物ならばいざ知らず、雁夜の指よりも太い生き物が自分の体を切り裂き、めり込み、蠢き、這いずり回るのだ。悲鳴を上げずにそんな事が出来る人間がいるならば、それは痛覚が麻痺している人間だけだろう。
  刻印虫を身に宿す事すら困難であり、成功したとしても待ち構えているのは縮まった寿命と確実に押し寄せてくる死だけ。
  それでも雁夜は止めようなんて考えない。
  聖杯戦争に参加する為。
  十年前に自分が犯した罪を償う為。
  聖杯を臓硯に持ち帰り、遠坂桜を桜を救う為。
  魔術師、間桐雁夜となる為。
  雁夜は蟲に自分の体を食わせていた。
  「こ・・・の、てい、ど――!!」
  「善哉、善哉。せいぜい死なぬよう気張るがいい。どれ、ワシは二時間ほど家を留守にするぞ、その間に死んでくれるなよ、雁夜」
  臓硯の言葉が雁夜の耳に届いた瞬間、雁夜の顔の上に覆いかぶさっていた蟲の隙間からほんの少しだけ臓硯の顔が見えた。
  喜悦に歪んだその顔は『この程度の事も耐えられぬのか?』と言っている様で、雁夜の中にあった怒りの炎を再びたぎらせる。
  痛みと怒り。拮抗する精神と肉体が雁夜の命をつなぎ留め、拷問の様な間桐の修行を行わせ続けていく。
  耐えて、耐えて、ただ耐えて。
  体の中を別の生き物が這いずり回り、人の体を構成する肉が喰われてゆく痛みが雁夜の口から悲鳴を上げさせた。
  「ぐが・・・ががががががががが」
  それでも雁夜は耐え続ける。
  それこそが償いの道だと信じて―――。





  老魔術師、間桐臓硯。
  彼は魂を切り離して蟲に宿らせ、他人の肉や霊体を喰らって奪い形作る、おぞましい魔術の使い手であり、自分の操る蟲が人間にどんな影響を及ぼすかを熟していた。
  蟲がどれだけ人の肉を喰らえば絶命するか臓硯は知っている。
  どの箇所に蟲が潜り込めば人がより苦しむか臓硯は知っている。
  蟲に食わせる箇所を限定すれば、人は呆気なく絶命すると臓硯は知っている。
  それは繰り返し行われてきた延命の成果であり、蟲使いとして育まれてきた卓越した技術の結晶でもある。
  だから臓硯は雁夜が狂い死ぬであろう一歩手前で蟲の侵食を止めようと考えた。
  別に遠坂桜を救おうとしている雁夜の意思を汲み取った訳ではない。存分に雁夜が苦しむ姿を長く見続けるにはそれが最適だと考えたからだ。
  雁夜に言って聞かせた通り、臓硯は一年後に周期を迎える、第四次聖杯戦争に間桐から人を出すつもりはない。本命はあくまで遠坂桜が生むであろう子か孫であり、次々代の聖杯戦争だ。
  それでも雁夜の取引に応じたのは雁夜への誅罰と、打てる手は出来るだけ多く打つと言う打算に過ぎない。
  絶対に雁夜では聖杯戦争で勝てぬと確信しながら、サーヴァントのマスターになれるかどうかすら怪しんでも、可能性はゼロではない。
  だから、無茶をして雁夜を殺してしまえば、そこで楽しみが一つなくなってしまう。
  それはよくない。面白くない。望ましくない展開だ。
  加えて臓硯は遠坂桜が半日も蟲に嬲られ続けても、まだ息がある事実に驚きと喜びを感じていた。
  普通の人間に同じ処置を施せば一時間と経たずに狂い死ぬ。蟲が自分の体を犯す現実に耐え切れず、自ら命を絶つ者もいる。
  だが遠坂桜はその上を行った。
  蟲が喰らう魔力の多さ、蟲に犯されながらも壊れぬ体の頑丈さ。心の方は最早取り返しのつかぬところまで壊れているようだが、臓硯に必要なのはあくまで次代の魔術師を生み出す胎盤であり、遠坂桜としての自己は必要ない。
  あれでまだ十にも届かぬ小娘なのだから、成長すれば臓硯が望む間桐の魔術を継承する子を生み落すだろう。
  臓硯は背後から聞こえてくる雁夜の悲鳴に笑みを浮かべ、新たに手に入った遠坂桜と言う名の道具の出来の良さに、笑みをより深くする。
  人外の化け物、数百年を生きた妖怪、間桐家の実質的な当主、老魔術師マキリ・ゾオルケンは笑う。
  翌日。誰も想像していなかった事件が起きる事などつゆ知らず、間桐臓硯は笑い続けた。



  ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆



  Side - FF6





  三闘神の力のほんの一画しか手に入れていない人間が同じ力を手にした人間に敗れ去る。
  数の利が作り出す避けようのない事実がゴゴの目の前に合った。
  ケフカが敗れ去り、崩れ行く瓦礫の塔と一緒に次々と幻獣の力を封じ込めた魔石が砕け散っていく。仲間達は三闘神の力が失われた事により、世界から魔法が消失していると考えているようだが、三闘神が自分の子供だと知っているゴゴの認識は少し違った。
  元々この星の生き物に力を与え、幻獣と名を改めさせたのは三闘神だ。
  そして、その三闘神の力の消失は世界に存在する幻獣が元々あった場所へ戻っていく現象だけの話だ。
  傍から見れば消えていくようにしか見えない。だが本当は違う。
  彼らは還っているのだ。
  三闘神という楔が消え、魔法と言う力の生みの親であるゴゴの中へと還って行くのだ。


  ティナ・ブランフォードがトランス状態になるのをゴゴは見ていた。
  「私について来て。残された最後の力を使って皆を導く!!」


  カイエン・ガラモンドが笑うのをゴゴは見ていた。
  「機械オンチも何とかなるでゴザルな!」


  セッツァー・ギャッビアーニが正解を引き当てるのをゴゴは見ていた。
  「今考えてることの逆が正解だ、しかしそれは大きなミステイク。お前の口癖だったな。ダリルよ!」


  マッシュ・レネ・フィガロが鉄骨を投げ飛ばすのをゴゴは見ていた。
  「俺は、兄貴に国を押しつけた訳じゃないぜ。兄貴は国を支える。俺は、その兄貴を支える。だから俺は強くなろうとしたんだ!」


  モグがクレーンで助けられるのをゴゴは見ていた。
  「ぬいぐるみじゃないクポー!」


  ウーマロが暴れるのをゴゴは見ていた。
  「ウガー!」


  ガウが道なき道を転げる様に進むのをゴゴは見ていた。
  「ガウ! ちかみち、ちかみち」


  ロック・コールが愛する人を助けるのをゴゴは見ていた。
  「絶対に離さないぞ! 絶対に!」


  リルム・アローニィが血の繋がらぬ祖父に話すのをゴゴは見ていた。
  「でもね・・・。本当の似顔絵をおじいちゃんに一度はかいてあげたいの」


  ストラゴス・マゴスが涙するのをゴゴは見ていた。
  「リムル・・・・・・よせい、こんな時に。かすんで前が見えんゾイ」


  シャドウが全てを清算する為に命を捨てるのをゴゴは見ていた。
  「ビリーよ。もう逃げずにすみそうだ。暖かく迎えてくれよ!!」


  エドガー・ロニ・フィガロが驚くのをゴゴは見ていた。
  「最後の魔石が!」


  セリス・シェールが仲間を思うのをゴゴは見ていた。
  「ティナ! もういいわ! あなたの力はもう・・・」


  ゴゴは見ていた。
  飛空艇で脱出する間も、ずっと彼らの姿を見ていた。
  仲間の一人、ティナが体に宿らせる魔法の力が―――三闘神の力が―――父親である幻獣マディンから引き継がれた力が―――ゴゴへと還っていく様子をずっと見ていた。
  そして世界最速の船を操るセッツァーが魔法の力を失ったティナを救いだし、一人の人間として生まれ変わったのティナを仲間たちが祝福するのをずっと見ていた。
  自らの行いを悔いて、自害を選んだが為に一人欠けた仲間たちの姿がゴゴの眼前に広がっている。
  飛空艇の風を受け、戦いを生き延びた仲間たちの姿がそこにある。
  彼らの目的は世界の救済。破壊の根源であり、世界の敵でもあったケフカが彼らの手によって滅ぼされ、ゴゴが同行する理由にした『俺も世界を救う』は達成された。
  厳密に言えば『救い』をどこまでの尺度に置くかによって『世界を救う』は大きく変容するのだが、ゴゴにとってはケフカの死亡と争いの神である三闘神が自分の元に還ってきた時点で、救済はほぼ完了したと言える。
  後は世界に生きる者が自分達で新しい世界を構築すべきだ。そこに魔法の力は必要ない。
  ゴゴは自分の中に還ってきた三人の子供達の力を感じながら、今後の為にもこの世界に留まるのは得策ではないと考える。
  ゴゴは別れを選んだ。
  新たなものまねを探すという理由もあったので、これまで居なかった『仲間』という存在に名残惜しさはあったが、それでもゴゴは彼らとの離別を選ぶ。
  ものまねと言う演技を終えた役者は舞台から退場するのが筋だ。ゴゴはこの世界にあるオペラ劇場とそこで戦った八竜が一匹、アースドラゴンの事を思い出しながら、飛空艇の船尾へと移動した。
  誰もがケフカを倒した後にあるであろう明るい未来を想像しているのか、風を切って突き進む飛空艇の上で前だけを向いており、後ろに移動するゴゴに意識をむける者はいない。
  シャドウの事を余所に置いた喜びは少し不謹慎かとも思ったが、それを言ったらゴゴのやろうとしている別れもまた仲間の意思を全く考えない行動なので、五十歩百歩である。
  まだこの星に魔法と呼ばれる力が存在しなかった時。三人の子供達を生み出してからこの星へと移動するためにゴゴはある魔法使った。それが再び行使される。
  次元に裂け目を作り『ここではないどこか』へと敵を放逐、あるいは移動する、成功率が極端に低い魔法。
  しかしこの世界に居た全ての幻獣の力と、三闘神の力が戻ったゴゴに失敗はありえない。力の強大さはそのまま確信へと変わる。
  誰にも気付かれず、ゴゴは右手を上げて横に振った。
  さようなら―――、皆。
  「デジョン」
  夜の星を思わせる次元の裂け目が飛空艇の船尾に開き、そこに飛び込んだゴゴは姿を消す。
  一瞬後。飛空艇ファルコン号の船尾にゴゴの姿は無かった。



  ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆



  Side - Fate/Zero and FF6





  次元の隙間を移動する行為そのものが、人にとっては死に等しい。空気が無い場合もあるし、重力が無い場合もあるし、逆に魔力とか自然の猛威とか人にとっては危険すぎるものが溢れている場合もある。
  だが三闘神の力が還ってきて、元々持っていた全ての力を取り戻した存在に多少の猛威は問題にならない。体が切り刻まれようと、空気が無かろうと、それを覆せるだけの力が存在するのだ。
  星が一つ自分の体の中にあり、足りない分を内側から生み出していると考えればよい。
  力を三人の子供達に渡した状態でさえ、宇宙空間から生身で大気圏突入をやってのけた実績がある。かつての経験を積み重ねた、ものまね士ゴゴにとっては次元の裂け目など単なる通り道でしかない。
  今のゴゴにとって大切なのはものまね士として自分の知らぬことを物真似する事だ。
  人生の指針となる目標など存在せず、『こうしなければならない』という固定観念も無い。
  三闘神の力を手に入れたケフカが世界を壊し、その力以上の破壊をゴゴは手にしてしまった。知られれば確実に騒動の種になると知っていたからゴゴは仲間達と離れたのだ。
  今のゴゴには破壊に使える力の制限が存在しないと言い換えても良い。
  かつて過ごした大地と全く異なるであろう未知の場所に対する喜びがある。
  どんな場所に出るのだろう?
  人が地獄と呼ぶ場所だろうか?
  あるいはヴァルハラと呼ぶ場所だろうか?
  何の変哲も無い民家だろうか?
  壮大な自然が広がるどこかだろうか?
  生命の根付かぬ深海の底だろうか?
  あまりにも多くの知識を有するゴゴにとって未知とは歓喜だ。
  異次元へ通じるであろう呪文がどこに通じているのか判らない。それでもゴゴは『ここではないどこか』へ通じていると確信を持っていた。
  それがゴゴに戻った三闘神の力なのか、あるいは魔法を唱えた術者であるゴゴがそうなるように設定したからかは定かではないが。とにかくゴゴはどこかへ向かっている実感を持っていた。
  どこにいくのか? どこに出るのか? 目だけを外界に晒し、全身を覆い隠す衣装の中でゴゴはその時を待つ。
  程なく、宇宙を思わせる星の輝きしかなかった場所に光が差し、『切れ目』とでも呼ぶのが適切な出入り口がゴゴの目の前に現れた。
  空間を切り裂いて強引にそこに入り口を作ったかのような不可思議な光景。ゴゴはそれこそが次元移動の魔法『デジョン』の出口だと確信を持ち、躊躇いなくそこに飛び込む。
  常人ならば辿り着く事すら叶わない別の次元の出入り口。そこに飛び込んだゴゴの視界に写ったのは―――閉鎖された空間の中を埋め尽くす膨大な蟲の群れだった。
  まともな人間ならば、一目見た瞬間に恐れるか逃げるか立ち竦むであろう、おぞましい光景である。
  しかしゴゴの中にあったのは未知に対する新たな喜びだった。





  臓硯は雁夜との契約に則り。雁夜を蟲の苗床にする為、翌日もまた雁夜を蟲蔵へと放り込んだ。たとえ一日限りであろうと、雁夜に慣れが生じたのか、相変わらず蟲に体を嬲られて苦悶の表情を浮かべやかましい悲鳴を上げ続けているが、蟲に体を喰わせながらも気絶するまでの時間は確実に延びている。
  それは間桐の魔術を行使するための素養を感じさせる結果であり、雁夜への罰を与える時間が延びていく証明でもある。
  臓硯にとってはどちらでも喜ばしい事に変わりは無い。
  雁夜の痛みが、苦しみが、忍耐が、闘志が、後悔が、蟲を通して臓硯に伝わってくる。
  蟲蔵の中二階―――場所が地下で通路しかないからむしろキャットウォークやギャラリーと呼ぶべきかもしれないが、そこから蟲蔵の床の上に横たわる雁夜を見て、臓硯は口元に笑みを浮かべる。
  「雁夜。この調子ならばお主の望みも叶うやもしれぬぞ」
  聞かせるつもりなのかそれとも独り言なのか、臓硯自身にも意図の判らぬ呟きが言葉となって蟲蔵の中を満たす。ただ、どんな意味があるにせよ、言葉の中に喜びが混じっているのは紛れもない事実だ。
  雁夜に聞かせると言うよりも、むしろ自分の喜びを言葉にする事で再確認する。そんな呟きだ。
  その言葉が途切れた正にその瞬間、一秒前にはいなかった筈の人間が突如蟲蔵の中に降り立った。
  「ぬっ!?」
  変化はあまりにも唐突であり、前置きや予兆などと言った類のものは何一つ無かった。臓硯の工房でもあるこの蟲蔵では、臓硯こそが世界の中心といっても過言ではないので、判らない事など何一つ無い。なのに、その人間はそこにいた。
  「貴様、どこから入った」
  臓硯が声をかけると、その人間は顔だけを動かして上にいる臓硯を見た。すぐ足元に雁夜がいるのだが、現在雁夜は全身を蟲に覆い尽くされているので、予めそこに人がいると知らなければ判別出来ない。
  その人間の周囲にはおびただしい数の蟲が蠢いているのだが、そちらには見向きもせず声をかけてきた臓硯を見上げている。
  蟲などどうでも良いと言わんばかりのその反応で、余人が作り上げた常識に捕らわれる表の人間では無い事が予測できた。
  臓硯は眼を凝らしてその人間を見つめ、同時に蟲蔵の中を這いずり回る蟲の感覚も総動員してその人影の正体を探るため観察する。
  身長は160センチ程度。
  見目鮮やかな赤色のストールと目を引く黄色いマフラー、そしてと蒼と黒色の複数のマントを幾重にも重ね合わせて体格を隠しており。頭頂部には先を赤く染めた緑色の鳥の尾羽らしき物体が揺れて、左側頭部からは腕から指先までの長さに匹敵しそうな角がある。
  足の甲まで伸びたコートらしき物も相手の姿を覆い隠す役目を引き受けているが、足を覆う靴はつま先の部分だけが跳ね上がった作りで、どこかサーカスのピエロを思わせる道化染みた格好に纏め上げている。
  どこかのサーカスに登場する道化だったならば特に違和感は無いが、この人物が現れたのは間桐の蟲蔵なのだ。
  何の前触れも無くここに現れた時点で『普通』で括れる筈は無い。間違いなく、世間一般に流れるような常識とは一線を介する存在で、魔術や神秘があふれる裏の世界の住人なのは間違いない。
  故に臓硯は警戒する。
  この間桐家は聖杯戦争を作り上げた『始まりの御三家』と呼ばれる一角であり、常人の目には見えずとも魔術における防壁を幾重にも張り巡らせている。傍から見れば薄気味の悪い一軒家に見えるかもしれないが、魔術師の視点で見れば堅牢な要塞そのものだ。
  だと言うのに侵入者はその守りを素通りして蟲蔵にいた。
  蟲使いとして名高い臓硯には扱えないが、魔術の中には力の流動・転移、すなわち何かを他のものに移すことに特化した魔術がある。これは始まりの御三家の一つでもあるアインツベルンに伝わる特性だ。
  ホムンクルスの製造などで精神のコピーや物体の生成に使われる技法だが、物体をA地点からB地点まで移動させる術となると更に高度な魔術の力量が必要となる。
  魔法や大魔術とはいかないが、それでも未熟な魔術師が行えるものではない。
  忌々しい事だが、数百年の時を生きた臓硯でも場所を移動する意味での『転移』の魔術は使えない。蟲を一つの端末として操って多くの場所の情報を一度に手に入れたり、あたかもその場所に臓硯がいるような実体を持った偽者を作り出す事は可能だが、臓硯の本体がそこに移動する訳ではない。
  臓硯は警戒する。しかし、侵入者がいる場所が蟲蔵であるという事実にほくそ笑む。
  間桐の蟲蔵は臓硯の腹の中と言っても過言ではなく、そこに存在する蟲は間桐の魔術そのものと言ってもよい。
  間桐の秘術であり、魔術師が魔術を行使する場合に用いる魔術回路の代わりを成す刻印虫。
  ひとたび牙を立てれば、猛牛の骨をも砕く肉食虫である翅刃虫。
  そして桜の教育と言う名の虐待に用いている淫虫。
  その他にも蟲の種類は数多く存在し、総数に至っては間桐の当主である臓硯自身ですら把握しきれぬ量である。
  その中に紛れ込んだ人間一人。いや、相手が高位の魔術師だったとしても、蟲を総動員すれば負ける道理は無い。
  それでも延命に延命を重ねてきた老魔術師は、絶対的優位の中で微かに残る警戒心を働かせた。
  『自分に気付かれずに蟲蔵の中に入ってきた』、この事実を臓硯は重く見て、脳裏に現代において真に魔法を行使でいる使い手―――魔術師ではなく魔法使いである五人の存在を思い浮かべる。
  名をキシュア・ゼルレッチ・シュバインオーグ。そいつが操る第二魔法は平行世界の運営であり、平行世界の行き来が可能な魔法だ。
  臓硯は一瞬、蟲蔵の中に現れた結果を平行世界の移動と結びつけて考えるが、目の前に立つ人物が放った言葉により思考は否定された。
  「俺は、ゴゴ。ずっとものまねをして生きてきた」
  「何?」
  「そうだ。お前のものまねをしてやろう。お前は、今何をしているんだ?」
  突如語られる自己紹介に臓硯は間を置かずに問うが、出てきた言葉は臓硯の求める言葉ではなく問いかけだった。そこから臓硯は相手の言葉を待つために言葉を置くが、続く言葉は無い。
  男の声にも女の声にも聞こえる不思議な声音はそれ以上続かなかった。
  再び両者の間に睨み合いと沈黙が降り立ってしまう。
  この時、臓硯は知らぬことだったが、ゴゴと名乗った人物はかつてここではない別の場所、三角島と呼ばれた島の地下で、世界を救おうとしていた者達と対峙した時と同じ言葉を喋っていた。
  それは誰でもなかった者がものまね士ゴゴとして名と形を与えられてから、ものまえをする場合に必ず最初に行って来た事だ。
  ものまね士ゴゴの生誕の儀式とも言える。
  しかし、臓硯には見も知らぬ他人に起こった過去など知りようが無い。そしてその時話した言葉も、ゴゴがどんな結論を出したのかも臓硯は知らない。
  続く言葉が無かったので、臓硯は事態を動かすために蟲による攻撃を決める。いつまで睨み合っても事態は好転せず、事態のイニシアチブを取るのならば蟲による攻撃こそが有効な一打であろう。
  知らないのなれば知ればいい。
  敵であるならば屠ればいい。
  喋らぬならば喋るように差し向ければいい。
  何の益にもならぬ愚鈍な輩ならば新たな体の苗床とすればいい。
  蟲蔵という自陣が臓硯の気を大きくし、相手が何らかの動きに出る前に拘束しようと老魔術師の頭は思考する。
  「何者かは知らぬが、この間桐の蟲蔵に潜り込んだのが運の尽きよ。どんな魔術を用いてここまでやってきたかは知らぬが、全て洗いざらい吐いてもらおう」
  絶対的優位に立つ魔術師として、臓硯はゴゴと名乗った人物に命令する。
  命乞いがあろうと、臓硯を止めようとする言葉が出てこようと、全方位を囲まれた状況で戦う意思を見せようと、最早臓硯の中には相手を無力化する未来しか存在しない。
  反論の余地は無く、蟲蔵の主である臓硯がそうと決めたのならば、それは最早覆る事のない摂理なのだ。
  自分の工房を大切にする魔術師ならば、侵入された時点で罠が発動して殺されても文句は言えない。だから臓硯は、言葉を挟むだけ自分の対処が優しいものだとすら考えていた。先にあるのが数百、数千の蟲に嬲られる未来だろうと、対処そのものは穏やかだと考えていた。
  故に臓硯は自分の優しさに笑みを浮かべながら虫達に指示を出す。四肢を食い千切り動きを止めよ―――と。
  間桐臓硯は自らが持つ魔力を全て蟲の使役に注ぎ込んでおり、炎を放ったり、水を生み出したりと行った、万人が抱く目に見える形での『魔術』の行使は行えない。
  その代わり、操れる蟲の数は膨大であり、自分の体を構成する蟲に様々な条件を負荷して用途を使いこなすなど、使い勝手は幅広い。
  臓硯本体の魂を収めた蟲を破壊されない限り、何度でも他人の肉を取り込んで再生する事も可能であり、数百の蟲を犠牲にして自分を生かすという離れ業もやってのける怪物だ。
  そんな人外の者が発した命令に従い、蟲蔵にいる蟲全てがゴゴに向かって蠢いた。
  雁夜の上に乗って這いずり回っている蟲も、臓硯の足元で共に蟲蔵の中を眺めていた蟲も、壁にある穴の奥深くで眠っていた蟲も、ありとあらゆる蟲がゴゴに向けて殺到する。
  飛び上がる蟲、羽を羽ばたかせる蟲、足元から這い上がる蟲、壁の高い位置から落ちてくる蟲。蟲―――、蟲―――、蟲―――蟲蟲蟲蟲蟲蟲蟲蟲蟲蟲蟲蟲蟲蟲蟲蟲蟲蟲蟲蟲蟲蟲蟲蟲蟲蟲蟲蟲蟲蟲蟲蟲蟲蟲蟲蟲蟲蟲蟲蟲蟲蟲蟲蟲蟲蟲蟲蟲蟲蟲蟲蟲蟲蟲蟲蟲蟲蟲蟲蟲蟲蟲蟲蟲蟲蟲蟲蟲蟲蟲蟲蟲蟲蟲蟲蟲蟲蟲蟲蟲蟲蟲蟲蟲蟲蟲蟲蟲蟲蟲蟲蟲蟲蟲蟲蟲蟲蟲蟲蟲蟲蟲蟲蟲蟲蟲蟲蟲蟲蟲蟲蟲蟲蟲蟲蟲蟲蟲蟲蟲蟲蟲蟲蟲蟲蟲蟲蟲蟲蟲蟲蟲蟲蟲蟲蟲蟲蟲蟲蟲蟲蟲蟲蟲蟲蟲蟲蟲蟲蟲蟲蟲蟲蟲蟲蟲蟲蟲蟲蟲蟲蟲。
  ここで臓硯に過ちがあったとするならば、それは敵の力量をあまりにも低く見積もっていた事だろう。
  間桐の魔術を行う者にとっては聖域とも呼べる蟲蔵への侵入者で視野が狭くなってしまったのか。雁夜と桜へ向けた喜悦が臓硯の目を曇らせたのか。自陣であるが故の油断か。自分を含めた大勢の仲間―――蟲の数があまりにも多すぎたからか。
  何にせよ、臓硯は蟲に下した命令が完遂され、地に伏す不届き者が雁夜の他にもう一体出来上がると確信する。それがそもそもの間違いだったのだのだ。
  臓硯は蟲に命令を下す時に気が付くべきだった。
  淀んだ水の臭いとすえた蟲の臭いが篭る間桐の蟲蔵を包み込むように得体の知れない何かが結界のごとく間桐邸を包んだ事実に―――。


  「バニシュ」


  蟲蔵の中にいた虫の中で最初の一匹がゴゴの体に到達する直前、ゴゴは小さく呟いてシングルアクションと呼ばれる一工程のみで起動する魔法を、臓硯や雁夜にとっては魔術に分類される神秘を実現させた。
  ゴゴは体を押し潰さんと押し寄せてくる虫の壁を、波を、雨を、大群を見ながら、その向こう側にいてこちらを見下ろす臓硯を見据える。
  観察し模倣する。
  見聞し模倣する。
  想像し模倣する。
  かつて切り離した三闘神の力を取り戻しても、ものまね士はものまね士のままなのだ。
  故にゴゴはものまね士として言葉を放つ。自分を害する者に向かい、ものまね士として自らの決定を告げる。
  「そうか。俺を殺そうとしているのか。では、俺もお前を殺すものまねをしてみるとしよう」
  臓硯は奇抜な衣装など完全に見えなくなった虫の塊―――すなわち数百を超える蟲によって覆われている中から聞こえる声を聞く。
  本来であればそれはありえぬ事象だ。
  臓硯が指示を出した蟲の中には人の肉を好物にする虫もいるし、一噛みするだけで神経に入り込んだ毒が人体の動きを止める蟲もいる。かまれたら最後、痛みで苦しみもがき、落ち着いて喋るなど、絶対に出来なくなる筈なのだ。
  教義に存在しない異端を力ずくで排除する戦闘信徒、すなわち聖堂教会の代行者と言えど、一人ならば間桐の数百の蟲を前にしては一般市民と何ら変わりがない。
  今ある未来は存在しない。いや、してはならない。
  加えて、臓硯は声が聞こえてきた事実に驚きつつ、操る蟲から伝わってくるおかしな状況に疑問を抱いていた。
  臓硯の目の前で、蟲が侵入者の体を壊している。その筈なのに、蟲から伝わってくる情報には服をすり抜け、皮を裂き、肉に喰らい、骨をかじり、血をすすり、命を捕食する感触が何一つ無かった。
  何かがおかしい。
  疑問を覚えてからそう思うまでの数秒間。ものまね士ゴゴと敵対したならば決して許してはいけない時間を作り出してしまう。
  臓硯が別の策を講じるよりも早く、蠢く蟲で形成された塊の中から呪文が響いた。


  「グランドトライン――」


 再び、一工程シングルアクションの魔術が行使され、蟲蔵の中に劇的な変化をもたらした。
  臓硯は声が聞こえた一瞬後、思考に費やそうとした時間を強制的に奪われる羽目になる。
  臓硯は蟲使いだが、それは数ある魔術を知らぬと同義ではない。むしろ数百年の長きを生きる老魔術師が積み重ねた知識と経験は一介の魔術師程度の生涯では追いつけない蓄積だ。
  だが、その知識を持ってしても目の前で巻き起こっている変化の正体を即座に看過するには至らなかった。
  臓硯の眼には光としか言えない白い三角形と闇としか言えない三角形の二種類を捕捉した。
  それは薄暗い蟲蔵の中でも見違えようの無い正三角形を形作り、空中に浮かんで回転を続ける。
  重さも厚みも感じない幻影のような三角形が膨れ上がり、不規則な渦のように蟲蔵の中を隙間無く撫で回す。
  二つの三角形が蟲を通り抜けても何も起こらず、本当に目に見えるモノが存在するのかすら怪しくなる何かが蟲蔵の中にあった。そして二つの三角形も互いに接触したり、蟲蔵の中央にある蟲の塊にも触れるが何も起こらなかった。
  これは何なのか?
  何が起こっているのか?
  未知ゆえに臓硯が疑問を覚えてしまうのは無理は無く、目の前で起こる現象に眼を奪われる。その時間は三秒にも満たぬ短い時間だったが、二つの三角形は蟲も、身動き一つできぬ雁夜も、臓硯すらも通り抜ける。
  それでも起こる変化はなく、臓硯の指示によって敵を無力化しようとする蟲が敵に向けて殺到し続けていた。
  「・・・見せ掛けだけの児戯ならば無駄であったな」
  臓硯は自分を通り抜けた三角形に落胆を隠し切れず、胸の奥から湧き上がる喜悦を抑えられない。
  臓硯は人々が抱く『善』よりも『悪』を好み、他者の苦痛に愉悦を感じる破綻者だ。蟲の攻撃が実を結んでいない現状におかしさを覚えずに入られなかったが、それ以上に間桐の蟲蔵まで察知されずに侵入してきた魔術師を屈服させる姿を思い描くと喜びばかりが湧き出てくる。
  行使された魔術が見た目だけの幻ならば意味は無い。存分に弄って、嬲って、なぶって、なぶり尽そう、そう考えた次の瞬間。蟲蔵の中を埋め尽くすほどに大きくなった二つの三角形が消え―――。


  ブチッ
  、ブチ
  ブチブチ
  ブチブチ、ブチブチ
  ブチ、ブチ
  ブチ、ブチ、ブチ
  ブチブチブチブチブチブチブチブチブチブチブチブチブチブチブチブチブチブチブチブチブチブチブチブチブチブチブチブチブチブチブチブチブチブチブチブチブチブチブチブチブチブチブチブチブチブチブチブチブチブチブチブチブチブチブチブチブチブチブチブチブチブチブチブチブチブチブチブチブチブチブチブチブチブチブチブチブチブチブチブチブチブチブチブチブチブチブチブチブチブチブチ


  蟲蔵の中にいた蟲の全てが弾けた。
  「なっ!?」
  臓硯は起こった事実に驚愕を抑えられず、初めて神秘を目の当たりにした表の住人のように、驚きを顔に貼り付けて蟲蔵の中を見下ろしてしまう。
  敵全員に向け三角形のエネルギー体を放出。魔術に対する抵抗力を無視した無属性大ダメージを必ず与える攻撃など、臓硯にとっては理解の範疇外であり、起こった事実には驚き以外の何の感情も挟めない。
  驚きしかない。それでも臓硯は目の前で起こっている事実について思考していた。
  そして二度目の驚愕を味わう事になる。
  臓硯と蟲蔵の中にいる全ての蟲は臓硯自身の魔術回路を介して繋がっており、虫の全てが臓硯だと言っても過言ではない。もっとも提供している魔力と扱いの粗雑さを合わせれば精々が使い魔と同等なのだが、それでも蟲の状態は全て臓硯の知るところである。
  その反応が何一つ無いのだ。
 信じがたいことだが、一工程シングルアクションの魔術であるにも関わらず、蟲蔵の中にいた虫全てが死に絶えたと認めるしかない。
  更に、臓硯を驚かせているのは臓硯自身と床で寝転がっている雁夜が傷一つ負っていない事実だ。相手からの攻撃は蟲蔵の中にいる蟲に限定され、壁をくり貫いて作られた暗闇の中にいる蟲の全ても葬り去られている。
  それはどんな神業だろう。あるいはどんな魔技だろう。
  とてつもない威力と精度の高い攻撃を一瞬でやってのけた事実。時間をかければ並みの魔術師でも可能だし、化学兵器を持つ普通の人間でもやろうと思えば不可能ではない。だが、数秒にも満たない限られた時間ともなれば話が別だ。
  それは数百年の時を生き、様々な魔術を目にしてきた臓硯にしても初見の精密さだ。それこそ伝説で語り継がれるような英雄でもなければ不可能な所業である。
  そして蟲蔵の中央で侵入者の動きを拘束し塊となった虫たちが一斉に零れ落ちた後―――そこにいる筈の道化染みた格好の侵入者の姿が無かった時、臓硯は三度目の驚愕を味わう。
  蟲の塊の中から声を出したのは聞き違いではない、故にそこには侵入者がいなければならない。
  だが現実は臓硯の予想を大幅に裏切り、全ての蟲が死滅した蟲蔵の虚しい光景だけを写し出している。


  「お前を殺すものまねをしてみるとしよう」


  誰もいないはずの場所から、何も見えない場所から、何故か虫達の死骸で落ちない床の上から。その声は聞こえた。
  言葉が示す意味は侵入者が語った言葉をもう一度繰り返しただけに過ぎない。しかし、そこから臓硯が受ける印象は天と地ほどに変わっており、『喜悦』は一瞬で『恐怖』に切り替わってしまう。
  見えないが間違いなくそこにいる。
  魔力の欠片も感じないが蟲蔵の床に立ち、臓硯を見上げている。
  侵入者はそこに立ち、敵意を持って対している。
  臓硯も知識では不可視の魔術が存在する事を知っているが、それは人の眼から存在を消す人払いの結界を強力にしたようなもので、魔力の残滓どころか物理的な攻撃が全く効かなくなる魔術ではない。
  魔法ではないが、ただの魔術である筈も無い。そうやって、相手が行使している魔術を意識した瞬間、臓硯は自分の失策を呪った。
  「貴様!」
  大切な蟲を皆殺しにされた事実が臓硯の意識を沸騰させるが、同時に老魔術師としての思考が目の前の敵を脅威と捉えていく。
  蟲蔵に難なく侵入できた者ならば、蟲蔵の中身ごと破壊できる手段を持っているかもしれない。そう考えるべきだった。理解の範疇の外側ではあるが、数百、数千の蟲を全て破壊できる手段を持つ者かもしれないと考えるべきだった。
  聖杯戦争を作り上げた一人だからこそ、大聖杯が英霊を呼ぶ以外の手段もあると―――見えないが眼前で相対する侵入者が英霊である可能性も考慮すべきだった。
  しかし全ては遅すぎた。
  臓硯は怒りを一瞬で沈め、自分が生き残る事のみを最優先にする。そうしなければならないと思考よりも前に本能が訴えた。
  逃げなければならない。生き延びなければならない。不老不死を手に入れなければならない。もっともっともっともっと生き永らえなければならない。
  臓硯の本体の魂を収めた蟲は今現在、人の形をした臓硯の心臓の位置にあるのだ。もし蟲蔵の中の蟲に紛れ込ませていれば一撃で殺されていたので、幸運と言えば幸運だが、二度目の幸運は臓硯自身が作り出さなければならないのだ。
  逃げろ。
  逃げろ。
  逃げろ―――。


  「オーラキャノン」


  間桐臓硯と言う人間を形作る蟲の群れ、特に心臓の位置にある本体を逃がすため、人の形を捨て去った臓硯は本体を囮に紛れ込ませて、四方八方に蟲を散らばせようとした。
  だがその前に見えない場所から離れた言葉が―――次の瞬間そこから生まれた白い閃光が間桐臓硯を形作っていた全ての蟲を飲み込む。もちろん本体の魂を収めた蟲もろともだ。
  光に呑まれた瞬間、臓硯は見た。
  腰まで伸ばされた銀の髪。宝石に似た光を帯びた紅の瞳。けれど上から下までを眺めればどうしても『白色』を思わずにはいられない女性。冬の聖女と呼ばれ、今も冬木の地で大聖杯形成する魔術回路として存在し続ける魔術師ユスティーツァ・リズライヒ・フォン・アインツベルンを。
  死に際の幻かもしれないが、臓硯は確かにかつて相対した彼女の姿を眼に焼き付けた。
  その一瞬後。白い光は臓硯が声を出すよりも早く、臓硯の本体を収めた蟲も、他の蟲も一緒に焼き尽くす。
  殺されたと認識するよりも早く、邪悪を滅する聖なる波動が臓硯のいた場所を通り過ぎた。
  光が消えた時、臓硯の立っていた場所に残るモノは何一つ存在しなかった。





  雁夜には何が起こったのかさっぱり判らなかった。
  死んでもおかしくなかった激痛と消耗、そして薄れ行く意識。
  気絶しなかったのは二日目だからと言う慣れかもしれないが、雁夜は気絶一歩手前の希薄な意識の中で虫が這いずり回る音ではない別の音を耳にした。
  一時中断した虫の侵食の中、彼を覚醒へと導いたのは蟲蔵の中とは思えない蟲の徘徊とは異なる振動であり耳に届く声だ。
  本来であれば、蟲蔵の中には臓硯の蟲と自分しかいない筈。故に雁夜は真っ先にここにいてもおかしくない、もう一人の人物を思い浮かべる。
  (まさか・・・桜ちゃんが・・・?)
  臓硯は雁夜が虫に馴染むまで一時的に桜への教育―――雁夜にとっては拷問か虐待にしか思えないが―――それを一旦止めると口にしていた。だが同時に、雁夜が聖杯を持ち帰るまでに教育を続行するとも言っていた。
  臓硯は桜がどれほどまで耐えられるかを実験した過去がある。
  ならば雁夜と桜が同時に苦しむ姿を見るために、二人を一緒に蟲蔵の中に放り込む可能性はゼロではない。
  雁夜はありえる可能性を脳裏に思い浮かべながら意識を保ち、殆ど動かぬ体で首だけを動かして眼を見開いた。そうやって見た蟲蔵の中には、雁夜の想像を根本から裏切る、訳の判らない光景が広がっていた。
  自分のすぐ近くに立っているこいつは一体誰なのか?
  何か言っているようだが蟲に遮られて聞こえない。何と言っているのか?
  薄暗い蟲蔵の中に別の光が見えたがこれは何なのか?
  状況の変化に理解が追いつかない。そもそも殆ど動かない体と、か細い意識で起こっている事態に追いつけと言う方が無理だ。
  だから雁夜は起こっている事態をただ見続けた。
  いつ途切れてもおかしくない意識の中に見えるのは戸籍上の父の姿。おぞましい間桐の魔術を今に伝え続ける妖怪、その間桐臓硯が指示を出したのか、雁夜の上で蠢いていた蟲が一斉に動き出す。
  雁夜の嫌悪する魔術師という人間は、自分の工房に許可した者以外が立ち入る事を極端に嫌い、秘匿すべき魔術が外に出ると判断した場合は人の命すら容易に奪う。
  傲慢であり独善的であり、自分こそが正しいと信じ込んでいるどうしようもない生き物、それが雁夜の思う魔術師だ。
  もちろん雁夜がそうであるように、中には一般的な良識や正義感を持ち合わせた魔術師もいるだろうが、それは少数に当たる。臓硯は雁夜が忌み嫌う魔術師そのものであり、外道と言い切っても間違いない性根の持ち主なのだ。
  故に突如として現れた何者かに攻撃を加えるのは魔術師しては当然の選択だ。雁夜自身、臓硯ならば蟲を使って攻撃しようとするなど、息をする位に当たり前にやってのけると確信を持っている。
  単なる一般人と同程度の力しか持っていない雁夜だが、使い魔に造詣深い家系である間桐の魔術、その中で頂点に位置するであろう臓硯の力量の高さはよく知っている。
  見た目は年老いたひ弱な人間にしか見えないが、臓硯が本気を出せば雁夜など足元にも及ばない力を行使できる。だからこそ雁夜は武力ではなく交渉で桜を救おうと考えたのだ。
  数十か数百かに分裂した間桐臓硯を形作る蟲の集合体。それら全てを滅ぼすよりも聖杯戦争に勝利して聖杯を得る方が可能性が高いと考えたからこそ雁夜は今、蟲蔵にいる。
  人の力では臓硯を滅ぼせない。
  卓越した魔術師であっても臓硯は滅ぼせない。
  聖杯戦争で呼び出す特殊能力を有した英霊でもなければ、物量で補われた全ての蟲を滅ぼすなど不可能である。
  それが雁夜の出した結論だった。
  だが雁夜にとって越えられぬ壁と思っていた間桐臓硯が―――蟲蔵の中にいた数えきれない蟲の大群が、等しくその命を散らした。
  臓硯に至っては極太の白いレーザーらしきものが放たれたと思った次の瞬間には消滅していたのだ、全てを見ていなければ魔術で逃げたと思ってもおかしくない呆気なさである。
  雁夜には何が起こったのか判らなかった。何故こんな光景が目の前に広がっているのか判らなかった。
  冷静に考えられるならば、『臓硯が死んだ』と『桜ちゃんはもう間桐の魔術に染まらずに済む』が歓喜と共に湧き上がるかもしれないが、今の雁夜にはそこまで考えられる余裕がない。
  ただ、蟲をあっという間に駆逐して、間桐臓硯をあっという間に無力化した存在が床に倒れる雁夜の前に立っている事実は嫌でも理解できる。そいつは躯となった虫を払いのけ、埋もれていた雁夜の頭を掘り出すと、眼と眼を合わせて言ってきた。
  つい先ほどまで透明に見えていたのは雁夜の錯覚だろうか?
  「俺は、ゴゴ。ずっとものまねをして生きてきた」
  相手の声が伏した雁夜の耳に届いた。
  人の命などなんとも思わない魔術師の同類が雁夜を見下ろしている。
  蟲蔵の中に充満する鼻が曲がりそうな強烈な臭いの中で、言葉だけが響いている。
  「お前のものまねをしてやろう。お前は、今、何をしているんだ?」
  とてつもない力を持つ何者かに恐怖して、雁夜から余計な思考はすり減らされた。
  痛みによって多くを考える余裕はなくされた。
  言わなければ、殺されるという危機感もあった。
  間桐の虫達に食われた体が疲労の極限に合った。まだ死んでいないのが不思議なくらいである。
  だから雁夜は自分の中にある決意―――捨てたかった間桐の魔術をもう一度手にしてまで、救いたい存在の事だけを思い浮かべる。いや、それ以外の事を考えられなかったと言う方が正しい。
  雁夜は好いた幼馴染よりも。今、現在。近くに居る少女の事だけを思う。
  結果、問いに対する答えにもならない不鮮明な言葉の羅列が紡がれた。事情を知らなければ意味すら判らぬ戯言である。
  「俺、は・・・・・・。桜・・・ちゃん、を――・・・。救・・・・・・う・・・・・・」
  魔術の修行により磨り減った体力。突如現れた侵入者への緊張。臓硯の消失が生み出した形容しがたい衝撃。幾つもの条件が重なり合って、雁夜の言葉はところどころが掠れてしまい、口から出てきたのは耳を澄ましてようやく聞き取れる弱弱しい声だった。
  そうやって意思を言葉にした時点で遂に雁夜の体に限界が訪れ、雁夜の目の前は真っ暗になっていく。
  あまりにも衝撃的な事が多く起こりすぎて、無意識に体が無理をするのと嫌ったのか、または脳が強制的に休息を欲したのかもしれない。
  薄れ行く意識の中で雁夜は聞いた。


  「そうか。お前は『桜ちゃん』を救おうとしているのか。では、俺も『桜ちゃん』を救うものまねをしてみるとしよう」


  ゴゴと名乗った何者かの言葉をしっかりと聞いた。



[31538] 第1話 『ものまね士は間桐家の人たちと邂逅する』
Name: マンガ男◆da666e53 ID:ac86df83
Date: 2012/07/14 00:32
  第1話 『ものまね士は間桐家の人たちと邂逅する』



  ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆



  Side - 間桐雁夜





  雁夜の目の前は真っ暗になり、そのまま気絶すると思っていた。だがそれはあくまで雁夜の都合であり、他の外的要因を考慮しない雁夜だけの思考である。
  この世の中には自分一人だけが存在しているのではなく、多くの物と多くの者と多くのモノが複雑怪奇に絡み合って出来上がっている。
  どれほど無関係に見えたとしても、つながりの無い二つが別の要素によって結びつくのもよくある話。たとえば間桐に引き取られた遠坂桜と雁夜の幼馴染である遠坂葵を別々に見れば、全くの他人だが、彼女達の間には『母親と娘』という因子がある。
  別々に見れば無関係に見えるかもしれないが、別の要素が絡み合えば別の見方が生まれる。そして雁夜の意識を覚醒へと導いたモノは過程があり結果がある。別の言い方をすれば必然であった。
  雁夜の意識は雁夜の都合を無視したあるモノによって強制的に覚醒させられる。
  「う、ががががぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!」
  眠りに落ちるように気絶する自分を感じていた雁夜だが、穏やかさとは無縁の絶叫が口から出て蟲蔵の中に響き渡る。
  それはあまりにも突然すぎて雁夜自身何故悲鳴を上げているのか判らない。ただ、自分の体の至る所から激痛があがり、気絶する暇の無い痛みが雁夜を蝕んでいた。
  擦り傷や軽い捻挫程度ならば気にせずにそのまま気絶しただろう。だが、今、体から湧き上がる痛みは気絶する事を許さない激痛だった。
  唐突な痛みが雁夜の神経を燃やし、脳髄を焦がし、骨を抉り、肉を壊し、間桐雁夜を砕いていく。
  痛みには耐えられる。苦しみにも耐えられる。
  しかし、直感的に死ぬと思える恐怖とは対峙した事はない。これには耐えられない。
  雁夜が感じている痛みは、命を持つ生物が直感的に理解する『死』の匂いを放っていた。
  その痛烈な衝撃が―――激痛からの解放と言う甘美な死の誘いが、逆に雁夜にほんの少しだけ冷静な思考を与えた。通常の状態からすれば些細な量かもしれないが、雁夜が状況に予測を立てるには十分すぎる量だ。
  もっとも、今の雁夜にとっては予測するのが精一杯で、それ以上の対策やら何やらまでには到達できないので、全てが良い訳でもない。
  「こあああああ。あぐああああ、れは――ぁぁぁぁぁ」
  限りある思考を費やして雁夜は結論に至る。雁夜はこの痛みを知っていたので、思考に費やせる余裕が限りなく少なくとも、何とか答えに辿り着く事が出来た。
  雁夜は思った。この痛みは『蟲が肉体を喰らう痛みだ』と。
  何故かは判らない。だが何者かがこの蟲蔵に現れる前。臓硯の指示によって雁夜の体を苗床に作り変えようとしていた蟲達が一斉に暴れだし、雁夜の体を貪っていた。
  その時の痛みと今味わっている痛みがあまりにも似ていたため、雁夜は体が訴えかける痛みの原因に至れた。しかし、それがどうして起こっているかまでは辿り着けず、ただただ悲鳴を上げ続ける。
  蟲の苗床にと臓硯の教育で施される痛みとは比べ物にならない激痛。
  雁夜の本能が痛みを飛び越えて死ぬと考えてしまう強烈な捕食。
  この時、雁夜は知らなかったが。雁夜の体の中にいる蟲はゴゴの一撃によって消滅した本体の臓硯に変わり、間桐臓硯として雁夜の肉体を乗っ取ろうとしていた。
  臓硯の本体はゴゴのオーラキャノンによって消滅させられたが、蟲蔵の床の上で躯を晒さず唯一生き残った蟲がいた。それは雁夜の中にいて難を逃れた蟲である。
  パソコンで言うところの本体のバックアップ。だが、完全に一致する訳ではなく、『間桐臓硯』という人外の老魔術師を100とするならば蟲が持つ臓硯の欠片は雁夜の中で10にも満たない本体の残滓。
  それでも雁夜の中にいる蟲は間違いなく臓硯の一部であり、蟲は主である臓硯の意思を引き継いで、臓硯の願いを叶える為に行動を起こす。
  生きたい。死にたくない。生きていたい。不老不死が欲しい。
  おそらく生き物が全て持ち合わせている生の執着だ。特に臓硯が聖杯を用いてまで求める不老不死は最早『間桐臓硯』という存在を形作る意味そのものと言っても過言ではなく、消滅する最後の最後の瞬間まで脳裏に描いていた夢である。
  蟲はそれに従い、雁夜の体の主導権を奪い取り、間桐臓硯を作り直そうと雁夜の体の中を喰らう。
  もしこの企みが成功したとしても、出来上がるのは臓硯のほんの一部でしかなく、老魔術師、間桐臓硯の全体からすれば残りかすのようなものだ。それでも生き残った蟲達はより強く生を求めて雁夜の体を自分達のモノにしようと喰らい続ける。
  苗床にするための『居候』ではなく、人の体そのものを作り変える『改造』。雁夜の肉を喰らい、間桐臓硯を再生させようとする。
  「ぐがおあうあおああおうああぁ!!!」
  生への渇望が本気を促し、蟲達は雁夜の都合など知らずに間桐臓硯を作り出そうとする。そこには加減なんてモノは存在せず、生きようとする執着が形となって具現化していた。
  蟲の侵攻は最後に残っていた雁夜の思考力を容易く奪い、悲鳴を上げさせる以外何も出来ない木偶へと変貌させる。
  故に雁夜は何も出来ずに苦しみもがき。蟲蔵の中、数百数千の躯を晒している蟲の残骸の上で自分を掻き毟り、叫び、苦しみ、悲鳴をあげる以上の何も出来ない。
  蟲が雁夜を喰らっていく。
  (死、ぬ・・・のか?)
  雁夜は薄れ行く意識の中で思った。
  これは気絶ではない。
  失神でもない。
  卒倒でもない。
  間桐雁夜という存在の消滅―――死だ。と。
  自分で自分を掻き毟った結果、体中に爪の痕が幾つも幾つも刻まれていたが、今の雁夜に気にする余裕は無い。
  蟲蔵の中で散乱する蟲の残骸の上を転げ回ったので、服を纏わぬ体のあちこちに粘っこいモノがこびり付いていたが、やはり今の雁夜には気にする余裕が無い。
  痛みへの反抗と言わんばかりに目は極限まで見開かれ、血管が切れたのか、血走った目からは血涙が出てきたが、雁夜にはどうでもいいことだった。
  苦しみながら雁夜は生と死を実感する。他の全ての事象は今の雁夜にとって不純物であり、ただ生きている事と、死のうとしている事のみが今現在の間桐雁夜であった。
  だから雁夜は気付かない。
  殴りつけるように手を伸ばし、雁夜の体を抑え付けた誰かが居たのを気付けなかった。


  「――エスナ」


  雁夜はその言葉を聞きながら。同時に、何も聞いていなかった。



  ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆



  Side - 間桐鶴野





  間桐鶴野は間桐邸の一室で、回転椅子の背もたれに体重を預けた状態で、壁を見たまま固まっていた。
  別に金縛りにあって動けないとか、病気で体を動かせないとか、そういう理由ではない。鶴野はただ自発的に動く事を諦め、ぼんやりと時が流れるのを待っていたのだ。
  唯一動くのは口だけだ。
  「・・・・・・・・・くそ」
  間桐鶴野という人間を取り巻く環境を考慮しなければ、あるいは座禅を組んでいるとか瞑想しているとか思えるかもしれないが、鶴野にってこの部屋は自分の私室であると同時に家畜の檻と大差は無い。
  鶴野の容姿は弟である雁夜と似通った部分が多々あり、雁夜と鶴野が並んでみれば大抵の人間は赤の他人ではなく兄弟だと考えるだろう。髪質や体格など、若干雁夜の方が立派に見え、兄弟の見栄えが逆転するかもしれないが、似た二人である事実は変わらない。
  けれど鶴野は自分が弟の雁夜とは全く似ていないと考える。
  それは顔立ちや立ち振る舞いなどの表向きの話ではない。鶴野という人間を構成する為の思考―――人の目には見えない部分が鶴野と雁夜ではあまりにも違いすぎるのだ。
  表向きは間桐の当主となっている鶴野だが、その実態は臓硯の操り人形であり、自己主張などまるで存在しない。そして、鶴野自身その現状を甘んじて受け入れていた。
  だってそうだろう。
  臓硯が雁夜に語り聞かせたとおり、鶴野にも息子の慎二にも魔術回路は継承されなかった。故に、魔術師として見れば、鶴野も息子の慎二も魔術師としては同じ出来損ないだ。
  長男でありながら『二』の漢数字を与えられた息子の名は、そんな間桐家の篭絡をあからさまにする臓硯の思惑が絡んでいるのかもしれない。臓硯に問うた事は無いが、おそらく間違ってはいないだろう。
  そんな出来損ないが、数百年の長き時を生きる老魔術師に勝てる筈が無い。
  鶴野は昔、人は大体二十歳の後半まで成長を続け、そこから後はひたすら老いていく生き物だと聞いたことを思い出す。けれどそれはあくまで『人間』の範疇の話であり、『魔術師』や『化け物』を説明する話ではないのだ。
  そもそも神秘の秘匿に熱心で、表の世界で語られるような延命措置など児戯に思えるろくでもない手法が裏の世界には五万と転がっている。
  吸血種。
  死徒化。
  そして、戸籍上の父である臓硯による、他人の肉を自分に置き換える邪法。
  など―――。など―――。
  そんな人外の存在を相手にして、間桐の名は継いでも魔術刻印など殆ど継がなかった鶴野が相手になる筈も無い。
  逆らってどうなるというのか? 待っているのは弱者の死だけだ。
  けれど弟の雁夜はそんな鶴野とほぼ同じ状況にありながら、間桐の刻印虫を自分の体に植えつけて、魔術師になる選択をした。素養と言う点では雁夜の方が鶴野よりも上回っていると聞いたが、地獄に等しい苦難の果てにあるのは寿命を対価にした死の世界である。
  鶴野にはそれを選べなかった。選ぼうとする意思すらなかった。
  しかし雁夜は選んだ。
  「・・・くそ、くそ」
  鶴野は恐ろしいのだ。
  間桐の蟲が―――。
  魔術師が―――。
  間桐臓硯が―――。
  生家でありながらこの間桐邸そのものが恐ろしくてたまらず、苦痛と死傷を恐れていた。
  痛いのは嫌だ、苦しいのは嫌だ、辛いのは嫌だ、死ぬのは嫌だ。
  鶴野は人生経験という観点において、それほど多くの苦しみを味わったわけではないが、決して体験しなかった訳ではない。少ないからこそ、慣れを生じさせる事も無く、出来るだけ苦痛や苦労に関わらぬように生きてきた。
  その結果が臓硯の操り人形という立ち位置であり、間桐鶴野が選んだ生き残れる道である。
  生き残るための選択なのだから後悔はない。だが、雁夜の姿を見かけると、自分にはもっと別の選択が合ったのではないかと思えてしまうのだ。
  同じ間桐の名を持つ兄弟でありながら、雁夜は十年前に間桐と縁を切って外界へと飛び出していった。何のつもりで戻ってきたかは鶴野の知るところではないが、少なくとも雁夜には選択があり、それを選ぶだけの行動力もあった。
  選択も行動も鶴野にも与えられたものだったが、鶴野は雁夜のように行動へと移せない。
  ただ、悶々と弟に対するコンプレックスを刺激されつつ、それでも臓硯が恐ろしくて間桐の業から抜け出せない我が身の卑小さを愚痴るばかりだ。
  「くそ・・・・・・」
  同じ間桐邸の中に住んでいるが、鶴野は殆ど雁夜を顔を合わせていない。いや、それどころか息子である慎二とも近頃は殆ど会っておらず、海外へ遊学―――いや、留学させて育児放棄に等しい状態を作り出している。
  あるいは鶴野に出来なかった間桐からの離脱を慎二に託しているのかもしれないが、鶴野自身、息子を海外にやってまで何がしたいのかよく判っていない。
  まだ慎二は十にも届かない男児なのだから、日本の義務教育を考えるならば親がついていなければいけない年齢だ。しかし鶴野はほぼ自発的に間桐邸から出ない生活を続けている。
  世間一般で見れば鶴野はどうしようもない親なのだろう。人間失格だと言われても仕方ない下種なのだろう。
  それでも鶴野は死にたくなかったから生き延びえるためならば何でもやった。
  遠坂から間桐へと養子に出された子供を蟲蔵へ放り込むのに躊躇いはなく。蟲蔵から聞こえてくる子供の叫び声を聞いても、耳を塞いで見て見ぬ振りをした。
  子供を犠牲にして大人が生き残る事に罪の意識を覚えないと言えば嘘になる。出来るならば、こんな事はしたくないが、鶴野は臓硯に逆らえば自分がどんな末路を辿るか嫌になるほど判っていたので、自分の安全の為の遠坂桜を犠牲にした。
  逆らえば待ち構えているのが死ならば、逆らってはならないのだ。
  今はまだ死にたくないと言う思いによって遠坂桜を蟲蔵へと連れて行く役目を果たしているが。誰かを犠牲にして自分の安全を得ている罪悪感に怯え、酒に逃げる日が訪れるのもそう遠くないだろう。
  魔術の素養も超能力もない鶴野には未来を知るなど無理な話だが。この間桐邸で積み上げてきた経験が、極々限られた想像を予見のように映し出す。
  その間桐邸と言う狭い世界で完結する自分の姿に嫌気を覚えても、決してそこから逃げられぬ鶴野は愚痴をこぼした。
  「・・・・・・くそ」
  壊れた玩具のように同じ言葉を何度も何度も繰り返す鶴野だが、不意に部屋の外から足音が聞こえてくるのに気がついて声を潜めた。
  何も言わず耳を澄ませば、足音が鶴野の部屋に向かってくるのが判る。
  鶴野は思った。
  きっと、扉を開けて現れるのは臓硯だ――。当主でありながら、唯々諾々と命令を聞くしかない俺にまた新たな命令をするんだ。と。
  ほんの少しだけ鶴野の中に反抗心のようなものが芽生えるが、臓硯の姿を思い浮かべると同時にその心は一瞬で掻き消える。
  力なき者は強者の言う事を聞いて、事を荒立てないようにしなければ生きていけない。だから鶴野は逆らう意思そのものを自分の中から消して、考えようとする心すらも消していく。
  ここにいるのは間桐鶴野という形をした人形だ。存在するだけで生きていない、ただの人形だ。そうやって自分を騙し、偽り、誤魔化し、ただ生きようとする存在に成り果て、鶴野は部屋の戸が開くのを待ち構える。
  現在、間桐邸の中には臓硯の他にも弟の雁夜や鶴野が何度か蟲蔵に放り込んだ遠坂桜もいるのだが、鶴野の部屋に来るのは臓硯ただ一人である。
  これが雁夜が出て行く十年前の兄と弟だったならば、雁夜が鶴野の部屋を訪れる事もあったかもしれない。しかし、時間経過と共に兄も弟も等しく変わった。互いに面と向かって何を話せばいいか判らないほどに変わりすぎてしまった。
  鶴野は雁夜の事を思考の外へと押し出し、臓硯の言いなりになる人形を演じる為、ドアが開くのを待つ。
  ギギギギ、と間桐邸の暗さと古さによく似合う軋んだ音が部屋の中に響くと、部屋の扉は呆気なく開かれて部屋と廊下を繋いだ。
  そして姿を現す間桐臓硯―――ではなく。そこにいたのは鶴野が全く知らぬ赤の他人であった。
  「・・・・・・・・・・・・はっ!?」
  臓硯ではない第三者が現れる事態は想定の範疇外だ。たとえ、誰かが来ると知って待ち構えていたとしても、それが見たことの無い誰かであったならば固まるしかない。
  それでも鶴野の目は扉を開けた何者かを、サーカスのピエロの格好に似てなくもない、ものまね士ゴゴの姿を捉えていた。
  見えたとしても、突然現れた見たことの無い人間に対して鶴野が出来た事は少ない。誰かと問う前に、危険だと感じるよりも前に、何らかの行動を起こすよりも前に、ただ呆けた。
  それが鶴野に出来た精一杯の行動だった。
  扉を開けた勢いをそのままに一歩一歩部屋の中に張り込み、鶴野めがけてゴゴは歩く。それでも鶴野は近づいてくる人影を見るばかりで、他に何も出来ずにいる。
  目の前にいるのが誰か判らず、何が起こっているか判らず、思考が理解に追いつかない。
  こいつは誰だ?
  何度も何度も同じ言葉を頭の中で繰り返すが、鶴野を襲っている衝撃はそんな事では消えてくれなかった。
  これで危機察知能力の高い人間ならば、一目見た瞬間に何らかの行動を起こせたかもしれないが、あいにくと鶴野にそんな事は出来ない。唐突な事態に直面すれば、まず驚いて固まってしまう。
  一瞬で答えを導き出せる脅威の思考力も無ければ、瞬間的に何らかの行動を起こす発想力も無い。危険だと感じて、部屋の外に一瞬で飛び出す行動力も無ければ、不審者が家にいるので警察に電話しようとする一般常識も無い。
  鶴野は何も出来ず固まった。それはゴゴが鶴野の眼前に迫るまでずっと続けられた。
  椅子に腰掛けている鶴野とその前に立つゴゴの間には、見上げる者と見下ろす者の違いが現れ、今だ、何が起こっているか判らない鶴野は見下ろされる圧迫感を感じる。
  相手が鶴野よりも貧弱な体格だったならば少しは落ち着けたかもしれないが、あいにくと露出している部分は目だけで、そこ以外は衣装に覆われて全く見えない。
  正体不明。これほど鶴野の前に立つ人物を言い表す的確な四字熟語は無い。
  人外という意味での怪しさならば、蟲が集まって人の形を成している間桐臓硯ほど怪しい者はいないだろうが。鶴野の目の前にいる人物は着ている衣装が怪しすぎる。
  間桐邸は一般的な家庭とは言い難いが、臓硯でも、鶴野でも、雁夜でも、遠坂桜でも、身に着けている衣装は日常生活を過ごすのに支障のない格好だ。
  けれど目の前にいる何者かは違う。明らかに場違いな服装であり、鶴野の部屋でありながら、目の前にいる人物が一人いるだけで、全く別な異質な空間へと変わってしまったかのような錯覚を作り出す。
  「・・・だ、だ。誰だ、お前は!!」
  ここにきてようやく疑問を言葉に出来た鶴野だが、目の前に立つゴゴは鶴野の言葉など全く聞いていなかった。
  腰を少し曲げて顔を近づけながら、回答ではない全く別の問いを投げかけてきた。


  「『桜ちゃん』とは誰だ? お前か?」


  「・・・・・・・・・・・・・・・・・・何?」
  得体の知れない問い掛けに対し、鶴野は長い長い間を作り出しながら、再び混乱の只中へと放り込まれてしまう。



  ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆



  Side - 遠坂桜





  遠坂桜は間桐邸にて、与えられた部屋の床に腰を下ろしながら殆ど身じろぎせずにいる。
  部屋の中には子供用の机がある、椅子がある、ベッドもある。けれど桜は床の上に座り込み、そこが自分の居場所だと言わんばかりに動かない。
  桜がしているのは正座の状態で両足を外にして、お尻を地面にぺたんと付けたままの座り方。俗に『あひる座り』と呼ばれる座り方だ。床には濃い色のカーペットが敷かれているので体を冷やしたりする事はなさそうだが、幼い子供が一人きりで床の上に座る姿は中々シュールである。
  殆ど動かない状況は鶴野と似た部分があるが、決定的に違うところが存在する。それは鶴野は目に恐怖を浮かべて小言を口にしていたが、桜は何の感情も移さない魚か昆虫のような目で部屋の壁を見て無言を貫いている。
  もし桜の口が呼吸しておらず、時折思い出したかのように体が揺らさなければ、等身大の人形が床の上に鎮座してあると言われても納得できる無機質さだ。
  「・・・・・・・・・」
  現在、遠坂桜は間桐臓硯により『間桐寄り』の魔術師として体を作りかえられる『教育』の真っ最中である。
  桜が間桐で求められるのは次世代の間桐の魔術師を生むための胎盤としての期待であり、そこに『遠坂桜』は不要だった。
  確かに遠坂桜の魔術師としての素養は鶴野はおろか雁夜でさえ手の届かぬ高みにある。
  母親である遠坂葵―――正確には禅城葵の家系は『配偶者の血統の能力を最大限引き出した子を成す』という特殊な体質を持っているため、その体質はしっかりと凛にも桜にも継がれた。
  だが、それはあくまで『遠坂桜』の素養であり『間桐桜』に求められる素養ではない。
  臓硯は桜が間桐の家に引き取られてから、一日も休む事無く臓硯の求める『間桐桜』への処置を、間桐邸の地下の蟲蔵で教育の名を借りた虐待を行い続けてきた。
  今はまだ遠坂の家から間桐の家にやって来て日は浅く、桜は遠坂時臣と遠坂葵の娘であり遠坂凛の妹だと言われても納得できる容姿をしている。けれど、蟲による虐待は徐々に遠坂桜の体を間桐桜に作り変えていき、内側から自分の体が変わっていくおぞましさを遠坂桜に与え続けていた。
  それでも桜の幼い体が壊れずに蟲の改造に耐えられているのは、やはり遠坂桜の魔術師としての適正が優秀すぎるが故だ。ただし、体は臓硯の虐待に耐えられても、遠坂桜の心はそうはいかない。
  元々、雁夜が知る桜がそうであるように、傍から見た遠坂桜と言う少女と彼女の内面はそれほど食い違ってはいない。幼い子供では、まだ自分の内心を隠せないので、姉の背中に隠れる引っ込み思案な少女の姿は正しく遠坂桜なのだ。
  父に、母に、姉に、あまりにも多くのモノに守られてきた遠坂桜と言う少女は、周囲の人間の我の強さもあってどんな状況であっても、それを甘んじて受け入れる傾向が強い。
  大抵の子供に固い信念は無く、悲嘆を怒りに変える力も少なく、大人たちに都合に振り回されたりするのを始めから諦める場合が多い。桜の場合はそれが特に顕著であった。
  家系だからという理由もあるが、姉である遠坂凛が既に魔術師としての道を歩みだそうとしているのに対し、桜はまだ遠坂が魔術師の家系だと知っていても、それが自分の将来の選択の一つだと考えていなかった。
  そして父親が間桐との約定により桜を養子に出すと決めて、そう聞かされた時も、桜は悲しかったがそれを受け入れた。
  その結果が今だ。
  遠坂桜が間桐桜に作りかえられていく現実であり、一人の少女が心を無くそうとしていた。
  「・・・・・・・・・」
  黒髪に碧眼、勝気な遠坂凛とは対照的に引っ込み思案な様子が見えるのがかつての桜であったが、今の桜にはその引っ込み思案さすら無い。
  希望や尊厳といった精神がまだ充分には培われていない子供が、襲い来る現実から自分の身を守るため、遠坂桜は心を閉ざして表に出さないようにした。
  自分の心に鍵をかけて封殺し。目は喜怒哀楽の光を宿さず。現実を諦め、大人よりも容易く未来に絶望し、そこに在るだけの人型の物体に自らを変えていく。
  頭から爪先まで蟲共に犯されぬいた壊れかけの小娘一匹―――。なるほど蟲使いである臓硯にしてみれば、桜がどのような状況に陥っているかなど蟲と意識を繋げれば容易に会得できる。臓硯が言ったとおり。『壊れかけ』が今の桜を表す最も適切な言葉であった。
  だが、遠坂桜は『壊れかけ』ではあったが、まだ壊れてはいなかった。
  幼少期に培われた経験は遠坂桜の中から消えた訳ではなく。たとえ十年も経過していない人生でも、積み重なった感情は嘘ではない。
  遠坂桜が生きてきた、遠坂桜だけの人生は確かに彼女の中に存在し、遠坂桜と言う一人の人間をまだそこに存在させている。
  父親がいて、母親がいて、姉がいて、時々母親の実家である禅城の家に行って積み上げてきた、遠坂桜としての記憶。たとえ間桐の蟲蔵で絶望を覚えようと、心に刻まれた記憶はなくならない。
  遠坂桜には感情がある。
  思い出がある。
  希望がある。
  そして心の中に積み重ねていった様々なモノと今との繋がりを示すように、桜の髪には養子へ出された時に凜から貰ったリボンが括りつけられていた。
  遠坂桜に残った心は微々たるものかもしれない。間桐臓硯の教育により遠坂桜の存在はどんどんと希薄になっていたが、それでも遠坂桜は間違いなくそこにいる。
  ここにいるのは間桐家に養子に出された遠坂桜だ。臓硯によって間桐の魔術に染め上げられた間桐桜ではない。
  聖杯戦争が始まるまでの一年間、ずっと虐待され続けたら心も体もぼろぼろになり、遠坂桜は消えて間桐桜が生まれたかもしれないが。間桐の水の魔術に遠坂桜の体はまだ染まっておらず、幼い身体が無残な凌辱の攻めを負って傷ついても、心も体も遠坂桜として残っている。
  もちろん行われた責め苦で失ったものが無い筈はない。そうでなければ感情を宿さぬ目で部屋の中で身動きせずにい続けるなんて苦行を、いとも容易く出来る筈がないのだから。
  桜は知らぬ事だが、間桐の蟲の中で『淫虫』と呼ばれる、男性の生殖器を模して作られたかのような形をする蟲がおり、それが幼い桜の処女を奪った。
  奪われた精気は最早戻らず、年頃の女の子が好いた男性に上げるかもしれなかった『初めて』は間桐の蟲に奪われた。あまりにも多くのモノが桜の手から滑り落ち、臓硯の手によって奪われた。
  だから間桐桜は感情を殺した心でここにいる。
  けれど遠坂桜は決していなくならずここにいる。
  「・・・・・・・・・」
  感情の宿らぬ目でただ時間が過ぎるのを待っていた桜は、扉が開いた時にそちらに目を向けたが、それは開閉された扉や音に対して反応しただけで、生き物が持つ本能に従ったに過ぎない。
  自分から声をかけたり、大きな音に大げさに驚いたり、訪問者に駆け寄ったり、そう言った子供が見せる態度は一切見せなかった。
  床に座ったままそちらを見る以上の行動を起こさない。
  あまりにも空虚だ。
  そして桜は開かれた扉へと目を向けながら、内心で、そこに立っているであろう二人の人物の姿を思い描く。
  間桐の実質的な当主にして桜に教育と言う名の虐待を与える間桐臓硯か、あるいは桜を蟲蔵に連れて行く役目を負った間桐鶴野か。桜にとっては現れたのがどちらでもよく、ただ誰かが部屋に現れた、と認めるだけだった。
  桜の感情に揺れはない。もしかしたら、心の奥底深くで揺れ動いたかもしれないが、表に見える限り桜は訪問者に目を向ける以上の反応を示さない。
  扉を開けたのは臓硯でも鶴野でもなく、雁夜ですらなかった。それでも桜は驚かずにジッと開かれた扉とそこにいる誰かを見つめていた。


  「お前が『桜ちゃん』か?」


  「・・・・・・・・・はい」
  その人物は冬木の地において魔窟と言っても過言ではない間桐邸の中にあって異色な格好をしていたが、桜の心を揺さぶるほどではなかった。
  桜はただ突然現れた見たことの無い他人の問い掛けに返答した。ほんの少しだけ回答までに間があったのは桜自身も気付かない動揺が形となったからだろうか。
  その返答が気に食わなかったのか、納得したのか、単なる確認だったのか。あるいは最初から返答など考慮するつもりが無かったのか。現れた人物は部屋の中央に居る桜のところまでずかずかと乗り込んでくる。
  他人の部屋に入る時の断りは無く、我が物顔で進み来る誰か。桜はその人物を見るが、頭頂部から足元まで奇抜な衣装で身を固めているので、誰であるかは判らない。
  間桐邸にいる人間ならば桜とて全員知っており、その中で赤やら青やら黄色やらの色彩豊かな衣装で身を包む人間は存在しないので、やはり見たことの無い他人という答えにたどり着く。
  これは一体誰なのか?
  感情は表に出ないが、それでも軽い混乱を味わっていると、その人物は部屋の中央に座る桜の元にたどり着き、膝を曲げて視線を合わせてくる。
  子供の桜が床のカーペットの上に座っているので、大人からすれば屈んでも、まだ桜の視点の方が低い。その人物は屈むと言うより平伏に近い姿勢の低さを作り出し、強引に桜と視線を合わせて、複数のマントに隠された腕を伸ばしてきた。
  桜は自分に向かってくる手の動き―――マントに隠されているのでおそらく二本の手であろうと予測するしかないが―――とにかく、それの動きを目で追いつつ、突然の行動に驚いたり、怯えたり、問い掛けたり、目をつぶったり、手でガードしたりしない。
  何をされるのか? 桜が表向きは何の反応も示さず、ただ内側でそう思うと、その人物の両手が桜の顔の両側に移動する。
  そして桜の両頬が指で摘まれ、そのまま横に引っ張られた。
  ふにっ、と音がした。
  「・・・・・・・・・・・・・・・あん、でふか?」
  桜は『何ですか?』と言いたかったのだが、軽く引き伸ばされた口から出てくるのは間の抜けた言葉だった。
  固まり閉ざされた心でも予測できない事態に対して疑問に思うぐらいの動きはあったようだ。桜は突然現れた見ず知らずの他人の、突然の奇行に戸惑いを覚えるしかなく。封殺された心がほんの少しだけ軋むのを感じながらその人物の目を見る。
  スカーフで何重にもぐるぐる巻きにしているのか、顔全体は見えないが、それでも隙間から見える目はしっかりと桜の目を見つめている。
  その人物は桜の問い掛けに答えず、しばらく桜の頬を摘んだまま引っ張っていたが。三回ほど引っ張った辺りでようやく言葉を口にしてくれた。
  「よく伸びるな。子供らしい、つやのある肌だ。あの蟲爺とは全然違う」
  くぐもった声は聞き取りづらく、男の声にも聞こえるし、男勝りな女の声にも聞こえる。ただし、桜にとって目の前の人物が男であろうが女であろうがそんな事はどうでもよかった。
  感情と言うものを忘れてしまった少女にとって、目の前の人物が誰であるかは驚くに値しない。しかし、語られた言葉の中で桜が疑問を覚える単語が出てきたので、頬を引っ張られながらも桜は声を出そうとする。
  「おじひ・・・はまの?」
  桜は間桐臓硯ことお爺さまと言いたかった、ついでに言えば『知り合いですか?』と続けたかったのだが、頬を引っ張られた状態では上手く言葉が出ない。
  そして桜が問い掛けるよりも前に、頬を引っ張っている人物が桜の言葉を遮って喋りだしてしまう。
  「お爺さま? ああ、あの蟲だらけの醜悪なモンスターの事か? それだったら、グランドトラインとオーラキャノンの連続攻撃で跡形も無く焼き尽くしたやった。攻撃されたのならば攻撃し返すのが俺、ものまね士ゴゴだ。有無を言わさず攻撃してきたから、こちらも手加減せず全力で消滅させた」
  「・・・・・・・・・・・・・・・・・・え?」
  一気に語られた言葉の中には桜に判らない言葉があった。しかし判る言葉も存在し、最後に語られた『消滅』が『死』と同義であることを桜は知っている。
  けれど、桜は相手の言葉を聞きながら、『そんな事は無い』と考えた。
  桜はまだ遠坂の生粋の魔術師ではなかったし、知識についても見習いレベルにすら到達していない素人にすぎない。確かに魔術師としての素質は桁外れに大きいが、逆に言えばそれだけしかない。
  それでも間桐臓硯という魔術師が持つ力の大きさは間桐邸に連れてこられてから嫌と言うほどに理解した。何しろ桜は蟲蔵の中で臓硯の蟲に嬲られた当人である。あのおぞましい虐待が逆らえぬ力に押さえつけられた結果だとよく理解している。
  魔術の基礎すら知らぬ子供では到底太刀打ちできず、単なる一般人であったならば大人でも叶う筈が無い。
  間桐臓硯には叶わない。そう思うからこそ、桜は絶望によって諦観し、心を閉ざして自分を守っている。
  加えて、間桐臓硯は基本的に間桐邸を拠点としており、蟲蔵の中にいる場合が多い。だから、臓硯を完全に滅ぼすのならば、蟲蔵すべてを破壊するぐらいのとてつもなく大きな攻撃が必要になるのだ。
  桜の知識で言えば、大国が持っているミサイルや、数十年前に使用され日本と言う国を敗戦へと落とし込んだ原爆などが必要になる。
  大きな地震が起これば人は気付く、近くで事故があれば人は気付く。それと同じように、間桐邸の蟲蔵で何か騒ぎがあったら桜の部屋に間違いなく伝わっている筈だ。
  さすがに蟲蔵の中を蠢く虫程度の振動は伝わってこないが、それでも全ての蟲を殺すような大きな大きな力の余波―――剣戟だったり、業火だったり、氷結だったり、雄叫びだったり、振動だったり、爆発だったり―――そんな破壊があれば、桜の感覚が捉える筈だ。
  でもそんな事はなかった。
  桜は語られた言葉に僅かばかりの驚きを感じたが、即座にそれを『嘘』と決め付ける。
  そう思ってしまうほど、間桐臓硯という魔術師は圧倒的であり、逆らえぬ怪物なのだ。
  桜の心の中だけで始まって終わった問答。それは外に伝わらず。桜の頬を引っ張る誰かは桜の頬を引っ張り続けていた。
  感情を宿さぬ目で見返されるのに飽きたのか。奇抜な衣装で全身を隠す誰かはようやく桜の頬から手を離した。
  数えられるだけでも十回は引っ張られていた。
  「『桜ちゃん』は口数の少ない子供だな、こうなると事情を説明させるのは無理か。救うべき相手が誰か確かめる為に上がってきたが、判らない事が多すぎる。よし! とりあえず地下で寝てる男から事情を聞くとしよう、おい、『桜ちゃん』、地下で寝てる雁夜とか言う男の部屋はどこにある? この家は広くてどこに何があるかまだ判らんから案内しろ。アウザーの屋敷を思い出す」
  桜は目の前にいる男が言っている内容を殆ど理解していなかった。ただ、この家の中で雁夜のみが使う呼び方を聞き、目をほんの少しだけ大きく開く。
  桜に自覚は無かったが、間桐に連れてこられた桜は臓硯と鶴野には感情を殆ど出さないように接してきたが。唯一雁夜だけはさほど警戒せず、顔を合わせれば二言三言、他愛も無い言葉をかけている。
  どうして雁夜だけが特別なのかは桜にもよく判っていない。臓硯も鶴野も桜にとっては等しく『教育者』であるが、雁夜はそうではないからだろうか。
  そんな雁夜と同じ呼び方で桜を呼ぶ誰かは、立ち上がりながらも桜に手を伸ばして、案内するよう促してきた。
  知らない人間の言う事を聞くのは危険だ。けれど閉ざされた桜の心は断らない理由も断る理由も作り出せず、唯々諾々と床から立ち上がる。
  遠坂桜が間桐臓硯の消滅を正しく認識するのはもう少し先の話である。



  ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆



  Side - ゴゴ





  ものまね士ゴゴは目の前で眠る雁夜という名前の人間を見ていた。
  ベッドの上で横になり、全く動かない様子だけ見れば、死体のように見えなくもない。けれど、肌つやは良く、耳を澄ませば小さいながらも呼吸音が聞こえるので、間違いなく生きている。
  人の体にもたらされる状態異常の殆どを直す神秘の魔法エスナによって、雁夜を苦しめていた蟲は消滅した。結果、体の内側から蟲に喰われるという地獄の苦しみは既に無く、穏やかに眠る姿からは何の異常も見当たらない。
  おまけとして体力回復の魔法ケアルをかけたので、今はまだ眠ってはいるが、遠からず目覚めるだろう。
  ゴゴは雁夜の寝顔を見ながら、回復魔法の欠点について考える。そもそも状態異常を直す魔法と体力を回復させる魔法には、普通に生きる人間が持つ抗体の力を高める効果と内側に救う害に対して外側から力を注ぎ込む効果がある。
  本来、人が治癒に費やす時間を魔法で短縮する。治癒力の促進と言えば聞こえはいいが、寿命を対価にしているとも言える。まだ年若く見える雁夜がいきなり寿命で亡くなるなんて事態にはならないと思うが、万が一の危険はどこにでも誰にでも付きまとう。
  間桐雁夜には、ここで死んでもらっては困る。それはゴゴの真摯な願いだ。
  何しろ雁夜が死んでしまっては、同じ部屋の中、大人用の椅子の上に腰掛けてゴゴの背中を見ている『桜ちゃん』を救う方向性が判らなくなってしまう。
  ものまねは身振りや仕草や声音など元にするモノがあって始めて成立する。
  かつて仲間達がやっていた世界を救うものまねは、世界を滅ぼそうとしている判りやすい敵が―――正しく『世界の敵』がいたから、それを倒す事がそのまま世界の救済に繋がったのだが、これが個人を相手にした救いとなると中々難しい。
  規模の大きさは世界を救うほうがとてつもなく大きいだろうが、個人には嗜好があり、十人十色の思惑と、千差万別の答えがある。
  人によっては忌避すべき事も、誰かにとっては喜びかもしれない。
  多くの人間が正しいと信じている事も。少数の人間にとっては間違っているかもしれない。
  例えば仲間の一人であり、崩れ行く瓦礫の塔の中で自殺したシャドウなど、自らの命を絶つことを目的としてそこに『救い』を見出していた。けれど、同じ仲間で格闘家のマッシュ・レネ・フィガロはフィガロ王国国王である兄の手助けを行動の基本原理としており、生きる事に自らの立ち位置を定めていた。
  全く同じ考えに基いて行動できる者など、同一人物でなければ不可能だ。同じ物を見ながら、同じ答えにたどり着くとも限らない。そして、ものまね士ゴゴにとっての『救い』が、今回のものまねの大元になっている雁夜がやろうとしている『救い』と合致する確証がなかった。
  だからゴゴは雁夜と話さなければならない。どんな形の『救い』かは判らないが、まずは聞かねば始まらない。
  「・・・・・・・・・」
  眠っているで、雁夜は一言も喋らない。
  ゴゴはそんな雁夜から視線を移動させると、大人用の椅子に腰掛ける『桜ちゃん』をもう一度見た。
  出会ってから今に至るまで話した言葉は少なく、ゴゴは『桜ちゃん』と会話をしたつもりは無いと考えている。
  博愛精神にあふれる人間ならば、感情を表に出さない今の『桜ちゃん』を見て何か思うところがあるかもしれないが。ゴゴは『桜ちゃん』という人物に興味がある訳ではない。感情を表に出さない子供など、三闘神によって一度滅ぼされかけた世界では珍しくも無く、ゴゴにとっては普通の子供の範疇で納まる。
  それでもゴゴが『桜ちゃん』を見て、彼女を知ろうとするのは、彼女が今回のものまねの中心人物であり、ゴゴがものまね士であるために欠かせない重要な存在だからだ。
  はっきり言ってしまえばゴゴの行動原理は全て自分の為である。かつて一つの世界を救った救世主の一人かもしれないが、ゴゴには世界を救おうとする理念も決意も正義も情熱も存在しない。
  世界を救うものまねをゴゴがすると決めたから、ゴゴは世界を救うために行動した。
  かつて孤独を癒すためにゴゴは名前無き存在からものまね士になった。そして何度も何度も物真似を繰り返すうちに自分と言う存在が希薄になり、物真似をするものまね士こそがゴゴと言う存在を表す指標になっていた。
  ゴゴにとってものまねとは遊楽であり、憤怒であり、哲学であり、喜悦であり、悲哀であり、存在そのものだ。ゴゴの基準では世界を救うために強大な敵を相手にするのも、『桜ちゃん』を救うのも等しく、そこに優劣は存在しない。
  ゴゴがものまね士ゴゴとして在り続けるために必要だ物真似する。
  ゴゴが自分を認識した瞬間に頭の中にあった膨大な知識。あるいはその中には人の心を読む技術もあるのかもしれないが、今のゴゴは誰かが起こした行動を物真似する事で自分が出来る制限を広げている状態だ。
  本気を出せば、三闘神の親であるゴゴに出来ない事は殆ど無いのに、どうして出来る事と出来ない事が存在するのか?
  いつの間にか自分で自分にかけた枷を感じ取り、それにわずらわしさを感じつつも、これもまたものまね士ゴゴとしての一部だと思い返す。
  物真似と言う形で自分が持つ知識を現実のものにした瞬間。それはゴゴがものまねで得たゴゴだけの技術となる、それは本来のゴゴならば楽に出来ることだろうが、同時にものまね士ゴゴが名前の無かった何者かに戻る危険も含んでいた。
  つまりゴゴが自分をものまね士と定めた時点で、ゴゴは自分自身の形を『ものまね士』に固定し、ものまねで世界を感じ、ものまねで自分を作り、ものまねで元々の自分すらも超える存在になりえるかもしれない可能性を持った。
  ゴゴがものまね士ならば、自らに課したものまね士という形も受け入れなければならない。力の行使に多少の制限はかけられるとしても、受け入れる事こそがものまね士としての本懐だ。
  改めてゴゴは自分の事をものまね士だと自覚していると、まるでそれを待っていたかのようにベッドの上で眠る雁夜の眉間にしわがよる。
  「・・・う・・・むぁ」
  そして口からは寝言とは異なる意思を持った言葉が囁かれた。
  あるいは夢の中から完全に目覚めきってない戯言の一部の可能性もあったが、それは大きく目を開いた当人の行動によって否定される。
  彼が目覚めたのだ。
  雁夜にとって間桐邸は生家でありながらも、十年ほど寄り付かなかった赤の他人の家と言っても過言ではない部屋。雁夜の部屋だと認めていてもあるから使う、それだけの部屋。そんな部屋の中に、ものまね士ゴゴと『桜ちゃん』がいる状態で、ようやく雁夜が目を覚ました。
  ゴゴは、きょろきょろと周囲に目をやる雁夜に向けて言葉を放つ。きっと自分が今どこにいるのか確かめているのだろう。
  「目覚めたか」
  「・・・・・・・・・・・・お前は!? 蟲蔵の中にいた!!」
  「俺はゴゴ。ものまね士、ゴゴだ」
  雁夜はベッドの横にいたゴゴの存在にようやく気付き、蟲蔵の中であった圧倒的な破壊―――ゴゴにしてみれば手の一振りと対して変わらない出来事を思い出したのか、掛け布団を弾き飛ばしながらゴゴから距離をとろうとした。
  危険と認識した後の反応は素晴らしく、ゴゴの仲間だった者達がモンスターからのバックアタックを受けた時に匹敵する素早さである。
  ただし、そこがベッドの上でなければ、の話だ。
  雁夜はゴゴから距離を取ろうと力強く後ろに跳ぶが、大人一人用のベッドは雁夜の跳躍を受け止められるほど広くは無い。後ろに跳んだ雁夜を待ち構えていたのは足場の無くなった空中だ。30センチほど下に床があるが、それでも足場が消えた事実は覆せない。
  雁夜は急に無くなった足場と実際の床の高さとの調整を上手くできず、跳んだ勢いをそのままに床に転倒し、ベッドの端に腕を取られ、転げ周り、そのまま壁に激突した。
  「・・・・・・・・・・・・・・・・・・大丈夫か?」
  「うおぉぉぉぉ、痛い! 頭がすごく痛い!!」
  ドゴッ! と小気味の良い音を立ててぶつかった後頭部を抑えながら、床の上を転げ回る間桐雁夜。ゴゴは雁夜に対して聞こうとした色々な事をさておいて、無事を確認しようと声をかける。
  すると呻き声と一緒に痛みに耐えかねて反射的に返事があった。
  雁夜当人は答えている自覚は無く、自分の身に起こっていることを言葉にしているだけかもしれないが、とりあえず言葉が喋られるならば重傷ではないだろう。
  ゴゴはもう一度回復魔法をかけるべきか迷ったが、とりあえず状況が落ち着くまで見守る事にする。シリアスを漂わせた筈の雰囲気は完全に霧散してしまった。
  雁夜と話が出来るようになったのは、跳んだ拍子に頭をぶつけてから三分以上後の事である。





  「それじゃあ改めて自己紹介だ。俺はゴゴ、ものまね士ゴゴだ」
  「・・・・・・間桐雁夜だ」
  ゴゴは今のところ、雁夜も背後にいる『桜ちゃん』も、この場にはいない鶴野も、誰も傷つけるつもりは無い。ゴゴが臓硯を消滅させたのは、あくまでものまねの結果であり、臓硯がゴゴを殺そうとしたからだ。
  もし臓硯が対話を行おうとしたならば、ゴゴはものまね士の矜持に則って対話をものまねしただろう。だが、臓硯はゴゴを殺すつもりで攻撃を仕掛けた。ゴゴは鏡であり、自分の行いがそのまま自分に振り返った。それだけの話である。
  よって何もしていない相手に対して攻撃する気は欠片も無く、それどころか『桜ちゃんを救う』というものまねを行うためには雁夜から色々と聞かなければならない事が多いので、話すために何かを頼もうとすら考えている。
  万が一に雁夜の方から攻撃してきても、今はものまねの理念から外れるので、反撃するつもりはない。あくまで、今は、だが。
  だが攻撃しないゴゴの意思に反して、雁夜の方はゴゴの圧倒的な攻撃力の前に怯えてしまっているようだ。
  雁夜は後頭部を打ち付けた壁に背中を預け、しっかりゴゴから距離を取りながら、警戒心を隠さぬ声で言ってきた。
  「それで? お前は何者だ? 何故、間桐邸の中に現れた。臓硯はどうした? 一体何が目的で桜ちゃんをそこに置いてる。包み隠さず答えてもらうぞ!!」
  力の差で言えば雁夜はゴゴの足元にも及ばない。雁夜自身、力で抗っても決して叶わないと知っているのか、喋りながらも手足が小刻みに震えているのがその証拠だ。
  それでもまっすぐゴゴを睨みつけてくる目は力強く、生気に溢れた視線がゴゴを貫かんばかりに見つめてくる。
  ゴゴはその目を見ながら、かつて同じような目をした仲間達の姿を思い出す。
  その目に宿っているのは信念だ。
  かつての仲間達にはそれぞれの理由があり、確固たる意思を持ち、自らの選択に従って世界を救おうとしていた。ゴゴにとってそれは眩し過ぎる光である、ものまね士として尊敬に値する人間のあり方でもある。
  その目に引きずられ、ゴゴは気分良く質問に答える。
  「俺はものまね士ゴゴ。この屋敷の中に現れたのは時空魔法『デジョン』でどこかに移動しようとして、たまたま出口がここの地下だったから。臓硯とか言うのがあの蟲爺だったなら、お前の体の中にあった蟲も含めて全部殺した。『桜ちゃん』がここにいるのは、俺がお前のものまねをして『桜ちゃんを救う』ためにいて欲しかったからだ」
  「・・・・・・・・・何?」
  「一度に答えると判りづらいか? だったら一つずつ質問すると良い、俺は何でも答えるぞ。その代わり俺もお前から色々と教えてもらう」
  「・・・判った」
  ゴゴがいきなり全部の質問に対して回答すると思ってなかったのか、雁夜はゴゴの言葉に耳を傾けていても、話の内容については理解できないようだった。
  首をかしげてゴゴを見てくるので、仕方なくゴゴが妥協案を提示すると、自分の文章読解力を恥じるように短く肯定した。
  「仕切りなおしだ――。ゴゴとか言ったな、お前は何の目的があって間桐邸にやって来たんだ?」
  「言えるほどの理由はない」
  「無い、だと?」
  「そうだ。ここに来る前にやっていたものまねが終わったから、俺は新しいものまねを求めて別の場所に行くつもりだった。デジョンがどこに通じているか全然判らなかったから、この屋敷の地下に通じてるなんて知る筈もない。あえて理由をつけるなら『偶然やってきた』としか言いようがない」
  「・・・・・・・・・」
  雁夜がゴゴに対して警戒と敵意を抱いているのは見ただけで判るが、それでも会話の出来る相手だと判断したのだろう。
  ジッとゴゴを睨みつけながら、虚勢に見える強気を見せ、口から言葉を放ち続ける。
  「次の質問だ。さっきからお前が言っている『ものまね』とはどういう意味だ? お前がものまね士だと言った理由も聞かせろ」
  「俺はものまね士だ。ものまね士は何かを物真似しなくちゃいけない。お前が『桜ちゃん』を救おうとしている。だから俺も『桜ちゃん』を救うものまねをする」
  「桜ちゃんを?」
  「俺は『桜ちゃん』を救う、物真似をする。それがものまね士だ」
  誰かの物真似をする事はゴゴがゴゴであり続けるために必要な行為だ。しかし雁夜にとって誰かの物真似をするというのは理解しがたい理由だったらしく、答えを探るように視線はゴゴの後ろにいる『桜ちゃん』の方に視線に向けていた。
  ただし、椅子の上でジッとしている少女から戻る声はない。
  放置しておくといつまでも話が進みそうに無かったので、今度はゴゴが雁夜に問い掛ける。
  「雁夜とか言ったな。お前はどうやって『桜ちゃん』を救うつもりなんだ? そもそも『桜ちゃん』が救われなければならない理由は何だ? 何が『桜ちゃん』の敵で、何から救おうとしている?」
  「・・・・・・・・・時臣だ」
  「ときおみ? 誰かの名前か?」
  「話す前に俺の質問に答えろ・・・。爺は――、間桐臓硯はどうした? お前が蟲爺とか言ってる、あの怪物をどうした?」
  「滅ぼしたと言っただろう。信じられないなら蟲蔵とか呼ばれてる地下に行って見て来ればいい。小型のモンスターの死骸が山になってるぞ」
  「そうか――」
  雁夜がゴゴの言葉をどこまで信じているか、どこまで本気で受け止めているかは判らないが。間桐臓硯がいなくなった事を喜んでいるようで、ほんの少しだけ表情を和らげた。
  ゴゴはそんな雁夜の顔を見て両者の間に何らかの確執があったと予想するが。それよりも前に聞くべきことが語られるようなので、余計な言葉を挟めない。今はただ、雁夜の話す内容に耳を傾けるだけだ。
  「・・・・・・・・・桜ちゃんは今は間桐の家に引き取られているが、本当の名前は遠坂桜と言って、遠坂の当主である時臣と葵さん――、俺の幼馴染である女性との間に出来た娘なんだ。姉が一人いて、その子は凛ちゃんって名前だ」
  「ほぅ――」
  「俺の家『間桐』と、桜ちゃんと凛ちゃんの家『遠坂』は聖杯戦争において始まりの御三家と呼ばれ、両家の間には古くからの約定が幾つも存在する。で、お前が滅ぼしたらしい臓硯はこの間桐の当主でな、俺や兄貴が間桐の魔術師としてあまりにも落ちぶれているから、外からの血を取り込んで、間桐の因子を色濃く残した子孫を作りたくて桜ちゃんを養子にしたんだ。もっとも、あいつの狙いは聖杯で得られる不老不死であって、魔術師としての桜ちゃんには期待してなかったがな」
  「ふむ」
  「古くからの約定だかなんだか知らないが、時臣は魔術師として桜ちゃんを臓硯に差し出した。あの性根の腐った時臣は桜ちゃんの親でありながら、桜ちゃんを守らなかったんだ。そして俺が十年前に間桐から逃げ出さなければ桜ちゃんが間桐という地獄に引き取られる事はなかった!! これは間桐を捨てた俺の責任だ・・・・・・、だから俺は桜ちゃんを救わなくちゃいけない・・・。それが、俺の、義務なんだ!!」
  ゴゴに聞かせるというより独白するような叫びが部屋の中に響き渡り、壁際から放たれた大音響が辺りを揺らした。
  もしかしたら、雁夜の叫びはこれまで溜まっていて誰にも言えなかった鬱屈な気持ちそのものなのかもしれない。
  ゴゴは雁夜の言葉を聞きながら、時臣というのが『桜ちゃん』の父親で。その時臣が全ての原因を作り出した現況であり。落ちぶれているという言葉から、何らかの血統主義が存在する事を知る。
  けれど、聞いた内容の中には判らない事もあったので、ゴゴは言葉を吐き出して息を荒くしている雁夜に向けて問いを投げた。
  「聞きたい事があるんだが、こっちが聞いていいか?」
  「何だ?」
  「聖杯戦争とは何だ?」
  「はっ!? ちょ、おま。そんな当たり前のことも知らずに、間桐に――!?」
  雁夜にとっては聖杯戦争などいまさら説明されるまでも無い当たり前の事かもしれないが、事故のような移動で間桐邸の蟲蔵に出たゴゴが聖杯戦争を知る筈が無い。
  驚きのあまり壁際に預けていた背中がずるずると横に滑ってこけそうになったが、雁夜は何とか体勢を保った。彼は自分自身の怒りを静めるように、大きく大きく息を吐き出し、呆れるような目でゴゴを見る。
  そして聖杯戦争について説明を始めてくれた。
  聖杯戦争。それは万物の願いをかなえる『聖杯』を奪い合う争い。聖杯を求める七人のマスターと、彼らと契約した七騎のサーヴァントがその覇権を競い、最後に残ったマスターがどんな願いでも叶える聖杯を得る。そんな、殺し合いだ。
  だがその実態はサーヴァントとして召喚した英霊の魂が『座』に戻る際に生じる孔を固定して、そこからマスターである魔術師が世界の外へ出て『根源』に至る事。もちろん不老不死を叶える副次的な使い道もある―――。
  ゴゴは雁夜の口から聞かされた聖杯戦争の内容を聞きながら、つど、サーヴァントとは何か? とか、英霊とは何か? とか、座とか根源とは何なのか? と質問を繰り返しながら、大まかな状況を把握した。
  そして頭の中で聞いた内容を反芻する。
  「なるほど・・・。つまり始まりの御三家とか言う『間桐』『遠坂』、そして『アインツベルン』の三つが力を合わせて、聖杯戦争を作り出し、互いに聖杯を求めて争ってるんだけど、60年周期でこれまで三回も戦っているのに今だに決着がつかずに争い続けてる。と」
  「――そうだ」
  「聖杯を求めるのは、それぞれに叶えたい願いがあるからだけど。誰も彼もが聖杯こそ唯一の手段にして、他の方法を試さずにただ家を継がせる事に躍起になってる。特にそれが顕著なのが間桐臓硯だ。と」
  「ああ。そうだ!! そうだよ、畜生。言われるまでも無く判ってるんだよ! こんなくだらない魔術師の都合に桜ちゃんが巻き込まれていい筈が無い! 本当に臓硯が死んだんなら、桜ちゃんは遠坂の家に帰るべきだ。そして間桐の魔術がどんなものか判ってない、あの遠坂時臣を殺す。俺がこの手で、時臣をぶっ殺してやる!!」
  話をする上で必要最低限の知識を持ってなかったゴゴへの怒りもあるのだろう。雁夜は怒気を超える殺意を滲ませながら、再び吼えて部屋を大音響で揺らした。
  普通の人間ならば雁夜の変わりように驚いたり怯えたりしたかもしれないが、あいにくと部屋の中に入るゴゴも『桜ちゃん』こと遠坂桜も普通ではない。ゴゴは、雁夜の声を聞きながら冷静に別の事を考え、椅子の上に腰掛けて二人の会話をずっと聞いている遠坂桜は感情を露にせずにそこに居続ける。
  同じ部屋の中にいながら温度差のある二人と一人。
  雁夜が何度か呼吸をして落ち着いたころ、ゴゴはすかさず自分の考えを言葉にする。
  「その遠坂時臣が何を思って『桜ちゃん』を養子に出したかは本人しか判らないが、間桐との約定がその理由の一つになったんだな?」
  「あ・・・ああ、その通りだ。魔術師としての約定だから、たとえそれが子供であっても渡さなきゃいけないと思ったんだろう。くそったれ」
  雁夜一人が怒りに燃え滾る中、全く感情の起伏を見せないゴゴの言葉が雁夜にとって冷水のような効果を発揮する。
  もしかしたら自分一人だけ盛り上がっているのに気付いて恥ずかしかったのかもしれない。雁夜は急速に怒りを冷ましていき、ゴゴの言葉に答えた。
  「そして『間桐』と『遠坂』が争ってる原因は聖杯戦争であり、聖杯戦争がなくなれば約定そのものが不要になる」
  「それは・・・、まあ・・・・・・。そう、なのかもしれない」
  「じゃあ決まりだ」
  そしてゴゴは雁夜が聖杯戦争のシステムを考案した始まりの御三家の一人であると知りながら、とんでもない内容を語り聞かせた。


  「『桜ちゃん』を救うために聖杯戦争を破壊しよう。二度と聖杯戦争を起こせないよう跡形もなく消し去ろう。それが『桜ちゃん』を救う第一歩だ」


  「・・・・・・・・・んなにぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃ!!!」
  間桐邸に雁夜の絶叫が轟いた。



[31538] 第2話 『ものまね士は蟲蔵を掃除する』
Name: マンガ男◆da666e53 ID:ac86df83
Date: 2012/07/14 00:32
  第2話 『ものまね士は蟲蔵を掃除する』



  ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆



  Side - 間桐雁夜





  聖杯戦争を破壊しよう―――。それはものまね士ゴゴの口から出た突拍子もない言葉だ。
  その言葉を聞いた瞬間、雁夜は恥も外聞もなく思いっきり叫んでしまった。
  聖杯戦争とはこの冬木の地に根付いたルールそのものと言っても過言ではなく、魔術師にとって決して途絶えさせてはならない大切な儀式だ。
  雁夜は魔術師ではないが、それでも聖杯戦争がもたらす恩恵の大きさと、その甘い蜜に群がってくる魔術師どもの欲の深さはよく知っている。
  雁夜が嫌悪する間桐臓硯という人外の魔術師もまたその一人だったのだから、他の魔術師が同じように聖杯を求め、魔術の秘匿さえ行えるのならばどんな悪行だろうと躊躇いなくやってのけると確信を抱いている。
  そして聖杯に招かれると言われる英霊―――英華秀霊の気が集まっている人物の意味であり、生前に様々な偉業や悪行を成し遂げた人物―――聖杯戦争で召還されるのはあくまでそのコピーで本体は英霊の座とか呼ばれるどこかに保存されているらしいが、それでも人知を超えた力を持つ存在が聖杯を求めて召還されるのだ。
  魔術師も、その召還に応じる英霊もまた等しく聖杯を求めている。だからこそ聖杯戦争は『戦争』の名で呼ばれており、血で血を争う殺し合いに発展してきたのだ。少なくとも雁夜は死者が出なかった聖杯戦争は一度もないと聞いている。
  誰もが聖杯を求めて殺し、殺される。
  そんな騒動の種を、破壊する、と。雁夜の目の前にいるものまね士と名乗った何者かは言ってのけた。
  「・・・・・・正気か?」
  その返答は咄嗟に出てきた言葉だったが、雁夜はその言い方がどこか臓硯に似ているのを思い出して眉間にしわを寄せた。
  嫌っていてもどこか繋がっているのが間桐の魔術師の性なのだろうか? あるいは心を全く込めずに呼んだ『お父さん』に一欠けらでも愛情を抱いていたのだろうか? 本当のところを探り、わざわざ思い起こすと、それだけで気分が悪くなりそうだったので、雁夜はそれ以上を考えないようにする。
  代わりにゴゴからの返答に耳を傾けた。
  「それが『桜ちゃん』を救うためなら、聖杯なんぞゴミ以下だ。始まりの御三家とかいうお役目もこの代で全て終わらせよう」
  「・・・・・・・・・・・・」
  淡々と言ってのけるゴゴの言葉を聞きながら、雁夜は『こいつは本気だ』と思いつつ、同時に『こいつは聖杯戦争の重大さを判ってないんじゃないか?』とも思った。
  雁夜はある意味で矛盾しない二つの思いを抱きつつ、そもそも目の前に立つ人物が何者であるかという根本的な疑問を抱く。
  雁夜の部屋でこうしてゴゴと対面し、少し離れた場所にある椅子に桜を座らせた状態で話し出した。そして部屋の中にある時計の進みはまだ三十分も経っていないことを示している。その間に話した事は数多いが、雁夜がゴゴに対して桜の境遇と聖杯戦争に関する説明を行ったので、肝心のゴゴに対する話を聞けていない状況だ。
  何者か? という問いに対し、ものまね士ゴゴだ、と返答があったが。それは回答ではあっても雁夜の求める答えではない。間違っていないかもしれないが全てでもない。
  そもそも雁夜にとって魔術師という人種は信じるに値しない存在だ。
  『ものまね士ゴゴ』と名乗ろうと、目の前にいる人物が何らかの魔術を行使して臓硯を滅ばしたのを雁夜は見ていた。臓硯という魔術師がより強い魔術によって滅ぼされた、言葉にすればそれだけだが、強い力を有しているからこそ雁夜はゴゴを信じられない。
  表に生きる者と、世界の暗部を生きる裏の住人とでは価値観が大きく違う。魔術とは死を容認し、観念することに他ならない―――。それが雁夜の心をどうしようもなく傷つける事実だからこそ、雁夜は十年前に間桐家を逃げ出したのだ。
  たとえゴゴの言葉が全て本当で、臓硯を滅ぼして雁夜の体の中に巣食う蟲を排除してくれた恩人なのだとしても、僅かでも危険があるのならば警戒するには十分な理由となる。
  大体、始めてあったばかりの他人を。しかもいきなり家の中に侵入してきた正体不明の怪しい人物の言葉をいきなり信じろという方が無理だ。魔術という表には出てこない裏の事情にある程度は通じている雁夜でも、こればかりは容認しがたい状況である。
  「・・・少しいいか?」
  「何だ?」
  「俺はこれまでお前の言う『ものまね士』がどんな意味を持って話されたのかが判らない。お前は確かにこの間桐邸に侵入してきた理由も、ここに立って俺と話す理由も話してくれた。けど、俺はお前が何者なのか判らない、正直に言えば格好もそうなんだが、怪しすぎて訳が判らないんだ」
  故に雁夜は告げる。
  「お前の話をしてくれ。俺が桜ちゃんの事情を話したんだから、今度はお前の番だ」
  「いいぞ」
  短く、そしてあまりにもあっさりと言ってきたゴゴはものまね士の生誕と歩んできた歴史を語りだした。





  雁夜が一時間ほどかけて聞いた大まかな話は、おとぎ話か何かとしか思えない荒唐無稽な話の連続だった。
  何もない空間での自覚認識。
  生命を生み出した名前のない誰か。
  地球とは別の星への降臨。
  神と呼ばれた三人の子供。
  模倣の末に生まれたものまね士。
  子供からの反逆による封印。
  冬眠など比べ物にならない長期の休眠。
  新しいものまね。
  初めての仲間。
  一度砕かれた星の姿。
  生きる気力を失った世界。
  幻獣、魔法、科学と融合した魔導。
  世界に封印されたモンスター。
  世界の敵を倒し、新しい世界の入り口を開いた仲間達。
  異次元を超える魔法。
  たまたま出口になった間桐邸の蟲蔵。
  単なる偶然が生み出した出会い。
  ものまねの結果、滅ぼされた臓硯。
  そして雁夜の願いであり、新しく定めた『ものまね』―――遠坂桜の救済。
  「・・・・・・・・・頭が痛い」
  雁夜は理解を超える話の壮大さに、思わず右手を額に当てた。
  もし仮に、本当に仮の仮の仮にだが、ゴゴの話の全てを信じるとするならば。ものまね士ゴゴはこの世界の裏に生きる魔術師達が到達しようとしている幾つかの終着点、『根源の渦に至る』だとか、『不老不死を叶える』だとか、話でしか聞いた事のない『魂の物質化』とか、『無から有を生み出す』だとか、様々な事を、出来るからという理由だけで簡単に実現してしまっている。
  嘘だ、冗談だ! 本当の事を言え!! と胸倉を掴んで叫びたい衝動にかられたが、実際に蟲蔵の中で人知を越えた力を行使したのを目の当たりにしているし、目の前に立つ人物の得体の知れなさは相対すれば嫌でも判る。
  見た目はサーカスの道化を匂わせ、上から下までを衣装で覆い隠して正体を見せない。目元だけは露出して、二本の腕と五本の指、それから二本の足があるのは見れば判るのだが。男か女かそもそも人間なのかすらも分からない―――。
  もし顔を隠すフードを剥いで半獣半人のミノタウロスが出てきても、納得して驚かないかもしれない。
  いや、出てくればそれはそれで驚くだろうが、例え常識外れの何かがそこにいてもおかしくない奇妙な説得力を持っているのだ。ものまね士ゴゴと名乗った人物は。
  「その話、本当なのか?」
  「嘘は言ってないぞ。まあ、短く説明するために色々と省いたけどな」
  淡々と言ってのけるゴゴの言葉を聞きながら、雁夜はゴゴに対する不信感を更に高めていった。
  しつこいようだが、もし仮にゴゴの言葉を信じるのならば、別次元から到来したこの存在は、形こそ人に酷似しているが、その実態は人とかけ離れた存在だ。雁夜が持つ科学知識に沿って考えるならば、地球上のどんな生命体よりも強固な体を持っていることになる。
  エイリアン、地球外生命体、異星人、または未確認動物なんかよりも珍しく、邂逅は奇跡というよりも不可能の領域である。けれど、雁夜の目の前に立つものまね士ゴゴと名乗った存在は確かにここにいる。
  「・・・・・・本当か? 嘘じゃないのか? 俺を担いでないか?」
  「嘘じゃないぞ」
  珍しいという事すら恐れ多くなる不可能な領域に住まう奇跡の住人。それなのに雁夜と対面している相手は聞き違える事のない流暢な日本語を喋っている。
  グローバル化の進んだ今の日本では日本語以外の様々な言語が喋られてもおかしくはない。世間には中国語、韓国語、タイ語、広東語、台湾語、インドネシア語、ベトナム語、ラオス語、カンボジア語、ミャンマー語、ネパール語、ウルドゥー語、ベンガル語、ヒンディー語、マレーシア語、英語、フランス語、ドイツ語、イタリア語、スペイン語、ポルトガル語、ロシア語、ギリシャ語、オランダ語、ポーランド語、ブルガリア語、アラビア語、ペルシャ語、スワヒリ語など数多くの言語が存在し、地球という一つの括りで纏めても、膨大な数になる。
  世の中には雁夜の知らない言語だって数多くあるし、既に失われてしまった言葉もたくさんある。
  それなのに異次元の存在である筈のゴゴが雁夜と同じ日本語で話せている事実は冗談としか思えなかった。もしかしたら話している言葉すら『ものまね』して返しているのかもしれない、そんな事を考える。
  雁夜は何を信じればいいのか段々と判らなくなっていった。
  仕方ないので、判りそうな所から理解すべく、雁夜は間桐に関する問題から片付けようと意を決する。
  臓硯がいなくなったのが本当ならばこれほど喜ばしい事はない。だが目の前に立つゴゴでが桜に害する存在ならば、排除するのが間桐雁夜に与えられた使命だ。排除など到底不可能だと理解してしまうが、それでもやらなければならない。
  話のスケールが大きすぎていまいち理解し切れていない自覚を抱えながら。雁夜は誤魔化すように告げる。
  「・・・・・・お前が臓硯を殺したんなら、死体が転がってる筈だ、確かめに蟲蔵に行くぞ」
  「だから臓硯とか言う蟲爺ならオーラキャノンで完全に消滅させてやった。まあ、蟲の死骸なら大量に転がってるだろうが、見てもあまり楽しくないぞ」
  「それでもいいんだよ! とにかく行くぞ!!」
  雁夜は自分の理解力の少なさを追究されたようで、つい声を荒げてしまう。そしてこれまで背中を預けていた壁を離れて蟲蔵へと移動しようとするが、一歩も動かずに声を出したゴゴの言葉が雁夜の動きを止めた。
  「ああ、でもその前に一つ。いや三つほどいいか?」
  「・・・・・・何だ?」
  出鼻を挫かれて雁夜の機嫌は徐々に悪くなっていく。
  どうやらゴゴと名乗った人物の基本は『物真似ありき』であり、それに全て終始しており、他の事は二の次三の次になっているようだ。雁夜の苛立ちに対して、何ら思うところはないらしく、雁夜から強い視線を向けられても全く気にしていないように見える。
  それがますます雁夜の機嫌を悪くさせるのだが、臓硯を倒してくれた恩人への感謝と正体不明のものまね士に対する警戒がごちゃ混ぜになって、行動に反映される事はなかった。
  一歩踏み出した状態から再び壁に背中を預ける体勢に戻し。雁夜はゴゴの言葉に耳を傾けた。
  「俺が考えるに『桜ちゃん』を救うには解決しなければならない問題が幾つかある。聖杯戦争の破壊は第一歩だが、二歩目三歩目が必要だ」
  遠坂桜の話題ならば、雁夜が聞くのは当然だ。雁夜は黙って話の先を促した。
  「まず一つ、雁夜が毛嫌いしているらしい間桐の魔術。これを『桜ちゃん』に教えない事。憎々しいのが言葉の端々にあるからよっぽど酷いモノなんだろう?」
  雁夜はゴゴがいつの間にか自分を呼び捨てで呼んでいるのに気が付いたが、あえてその部分には突っ込まず、語られる内容に応じる。
  そもそも力の差は歴然なので言葉での応酬はできても、武力で逆らって勝てる保障は欠片もないのだから、やるだけ無駄だ。やらなければならないと決意はあるが、それでも出来ないものは無理と言うしかない。
  あるのは意地と願望と決意。
  雁夜は臓硯に相対するような心構えで話を進めた。
  「酷いなんてもんじゃない・・・・・・。あれは虐待と呼ぶのが優しく思えるほどのこの世の地獄だ。正直、お前の話を聞いて、あれがもう桜ちゃんの身に降りかからないと聞いた時は嬉しくて嬉しくて堪らなかった・・・。たとえどんな形であろうと、あれは覚悟のない人間が関わるようなものじゃない」
  「それはそれは――。その問題は教える当人がいないので一応の解決を見てるから・・・、とりあえず今は大きな問題にはならない」
  ゴゴはそう言うと、一旦雁夜から視線を外して後ろにいる桜へと視線を向けた。雁夜からは、頭だけを後ろに向けたゴゴの後頭部が見える。
  雁夜とゴゴが話している間。桜はずっと部屋の中にあった椅子の上に腰掛け、話に耳を傾けるわけでも何か別の事をする訳でもなく、ただそこに居続けた。
  普通の子供ならば、夜の静けさや昼の疲れも手伝って眠りに落ちてもおかしくない。けれど桜はずっと椅子の上に座ったまま、命令を待つかのように感情のこもらぬ目を雁夜とゴゴに向け続けている。
  その人形のような希薄さが雁夜には悲しかった。
  雁夜はゴゴと桜の両方を視界に捕らえながら、救わなければならない少女の事を強く見つめ、改めて自分に課せられた使命を意識する。
  (俺は――、桜ちゃんを救うんだ・・・)
  その考えがゴゴの言った言葉に誘発されているのが何となく判ったが、別段困る事でもないのでそのまま思考を反芻する。
  五秒ほど経った後、ゴゴはようやく後ろに向けていた頭を元に戻して、雁夜へと視線を向けて続けた。
  「二つ。雁夜の言った『遠坂時臣』という男が『桜ちゃん』の父親であり、始まりの御三家の一つの当主だから、まず間違いなく一年後に起こる聖杯戦争のマスターとして参加するらしい。で、その遠坂時臣は間桐との約定によって『桜ちゃん』を間桐へ養子に出した。でも、もし何か別の理由があったら、聖杯戦争自体を壊しても、また同じ事を繰り返される可能性がある。むしろ間桐の約定という理由が存在しない分、余計に酷い状況に追い込まれる可能性だってある。まあ雁夜の言い分が本当なら、これ以上酷くはならないかもしれないけどな」
  「あ・・・・・・・・・」
  ゴゴの口から語られるありえる未来に雁夜の思考は一時停止した。
  こうしてゴゴの口から言葉として語られるまで、雁夜はその可能性を完全に失念していたのだ。だからこそ受けた衝撃はとてつもなく大きい。
  雁夜は間桐の名が示すとおり間桐の系譜を受け継ぐ魔術師の家系の一人だが、遠坂との間に結ばれた約定についてはそれほど詳しくはない。そう言った魔術師関連の話は全て臓硯が行っていたし、関われていたのは兄の鶴野であり、魔術を毛嫌いしていた雁夜は最初から知ろうとすらしなかったのだ。
  けれど、間桐には間桐の事情があるように、遠坂には遠坂の事情がある。当たり前の事だが、魔術に限らずそれぞれの家庭には事情がある。そして雁夜はその事情を殆ど知らない。
  もしかしたら自分は聖杯戦争で聖杯を得て解放された桜の『その後』を無意識に考えないようにしていたのかもしれない。
  聖杯こそが遠坂桜を救う。けれど、そこから新しい地獄が生まれるなど、臓硯と交渉した時の自分には許容できなかった。
  いや、今でも臓硯の支配が解かれればそれだけで桜が救われると短絡的な事を考えていたのだ。
  何故、深く考えなかったのかは雁夜にも判らない。ただ、今この瞬間、雁夜はありえるかもしれない未来を想像し、思考し、決断し、選択するという分岐点を得た。それは事実である。
  ゴゴの言葉が雁夜の思考の幅を広げたのだ。無意識に避けていたのかもしれない場所をゴゴの言葉が開拓したのだ。
  受けた衝撃に放心し、思考がまだ完全に戻りきらぬ状態の雁夜だったが、ゴゴの言葉はそんな雁夜を無視して続く。
  「そして、三つ。たとえ、どんな理由があったとしても、身近の人間が争って父親が死んだとなれば、子供は救われない。それをやったのが顔見知りのお前だったなら尚更だ。だから雁夜、お前が遠坂時臣を殺そうとするなら、俺は『桜ちゃんを救う』ものまねの為に、時臣を守る。状況次第ではお前を殺す」
  「・・・・・・・・・」
  雁夜はその言葉を聞き、『殺す』と何の感情もなく言ってのけたゴゴの事を怖いと思った。
  こいつは相手に感謝しながら、殺す理由があれば、何ら躊躇せずに相手を殺せる存在だ―――とも思った。
  遠坂と間桐の約定に関する衝撃の大きさから戻ってきてないから返事を出来なかったが、目の前に立つ存在の恐ろしさが単純に雁夜を絶句させる。
  まるでボタン一つ押せば、容易く命を奪う感情のない機械だ。
  ゴゴの話が正しければ、間違いなくゴゴには感情がある筈なのだが、そこには人間の尺度を越えた大き過ぎる線引きが存在する。もしかしたら、ゴゴにとっては地を這う蟲も、大地を生きる人間も、大して変わりないのかもしれない。
  だからこそ、魔術師にとって悲願とも言える聖杯戦争を壊すなどと軽々しく言えるのではなかろうか。
  ゴゴにとって最も大切なのは『ものまね』であり、それ以外は何であっても二の次三の次となる。そう思えてしまう。
  力を持たぬ者が持つ者に感じる恐ろしさ。雁夜は体を震わせながら、思考をゴゴから時臣へと移す。これもまた一種の逃避だろう。
  確かに時臣は桜を間桐の魔術と言う地獄に叩き落した張本人だ。しかし、彼が間違いなく桜の父親であり、かつて見た遠坂の家族風景の中で桜が父親に向かって楽しそうに笑いかけている姿を何度か目にしている。
  親を殺されて子供は救われるのか?
  残された子供は救われるのか?
  臓硯と雁夜のような特殊な事例ならば話は別だろうし、日常的に児童虐待を繰り返す父親だったならば、はい、と答えるかもしれない。だが、魔術師としてではなく、父親としての時臣は間違いなく良い父親だ。
  認めたくはない。認めるのも苦痛だ。
  恋焦がれていた葵が選んだ遠坂時臣に対し、魔術師としてではなくただ一人の男として敗北したと認めるに等しいので、雁夜は決して認めたくはない。だが、それでも娘である凛と桜から見た時臣という人間は間違いなくよい父親なのだ。
  そうでなければ、これまで雁夜が見てきた凛と桜の笑みが、あんなにも晴れやかである筈が無い。ただし、もしかしたら今現在の桜は、自分を間桐へとやった父親を恨んでいるかもしれない。
  そうだとしても、彼女が自分自身の怒りを―――よくも捨ててくれたな、と―――遠坂桜の怒りを遠坂時臣へとぶつける為には時臣が生きていなければならない。死んでしまえば時臣が犯した罪の大きさを教える事も出来ない。
  雁夜は今日この瞬間、初めて、遠坂時臣に対して怒りとは別の感情を抱いた。
  初めて、時臣を殺す事と桜から親を奪うという事が繋がった。
  「殺さなくても、気に食わないんだったら叩き潰せばそれでいい。失われた命はもう戻らないぞ」
  なるほど、ゴゴの言う事には一理あり、雁夜は自分の胸に宿る遠坂時臣という人間に対する殺意を考え直さなければならないと自覚する。
  だがしかし、それでも雁夜は遠坂時臣という人間を許せない。
  たとえ凛と桜の父親として良い父親だったとしても、それでも雁夜にとって遠坂時臣は殺すべき怨敵なのだ。
  幼馴染である遠坂葵となったあの女性を自分は好いている。二児の母となった今でも、間桐雁夜はずっと禅城葵に好意を抱き続けている。桜のことだけではなく、男として遠坂時臣が許せない面もある。
  この怒りは今日出会ったばかりの他人の言葉で収められるほど軽いモノではなく、雁夜が自らを雁夜という一人の人間として認めるために必要な一部だ。
  ただ、時臣を殺そうとするたった一つの決断に、幾つかの選択肢が加わった実感はあった。
  ほぼ強制的に考えさせられた事が吉と出るか凶と出るかは判らない。それでもこの瞬間、雁夜には多くの選択が与えられた。
  遠坂時臣を殺す。殺さない。生かす。
  これまで目を背けていた『考える』という事。雁夜がしばらく沈黙を保っていると、今話しても聞き手の雁夜が聞いてくれないと感じたのか、ゴゴも沈黙を作り出した。
  ほんの沈黙のまま少し時間が経過し、雁夜とゴゴの視線が再び合わさる。そこでようやく、ゴゴはこれこそが話の主題だと言わんばかりに、少し語気を強めて告げた。
  「そしてこれが最も重要な事だ。三つじゃなくて四つだったな」
  「それは?」
  「あの『桜ちゃん』が何を持って自分が救われたと感じるか。という事だ。俺と雁夜で話している内容はあくまで大人の都合であり、雁夜の言う魔術師の都合だ。子供の『桜ちゃん』に無関係とは言わないが、『桜ちゃん』に良かれと思ってやった事も逆効果では救いにはならない」
  だろう? と短く告げてくるゴゴに対し、雁夜は何も返せなかった。
  何を『救い』と感じるか。それは人によって大きく形を変える。
  ゴゴに言われたとおり、臓硯からの解放はあくまで雁夜の尺度で考える救済であり、桜にはもっと必要な事があるかもしれない。そして雁夜の救済が桜にとっての押し付けである可能性もまた捨てきれないのだ。
  遠坂桜を葵の元に、時臣の元に、凛ちゃんの元に―――家族の元に返せば、それで救われると信じていた。けれどそれすらも間違っていたとしたらどうするのか?
  雁夜は自分の中に生まれたその疑問に、再び考えの少なさを思い知らされた。
  臓硯というとてつもない大きな壁が前にそびえ立っていたので、色々と考える余裕がなかったのは確かだが。それでも、考えようと思えば、ゴゴの話した内容はいつでも考えられた筈。それこそ、臓硯に聖杯を持ち帰る交渉を持ちかける以前に思いつこうと思えばいくらでも思いつけた筈。
  けれど雁夜にはそれが出来なかった。それをしなかった。
  雁夜はあくまで遠坂桜に罪悪感を感じて救いたいと思っても、葵や時臣のように桜の親ではない。桜を見る視点の違いが思慮の浅さとなって雁夜を縛り付けていたのだと、今更ながら思い知る。
  聖杯は手に入れた者のあらゆる願いを叶えるという願望機かもしれない。だが雁夜は元々臓硯の不老不死を叶えて桜を解放させるための手段として聖杯を求めており、それ以上の事を考えていなかった。
  人の思いとはあまりにも多くの要素が絡み合って作り上げられている。救うと言っても、方法が、結果が、目的が、到達地点が、多くの事柄が絡み合って初めてたどり着く。
  そんな雁夜の熟慮を読み取ったかのように語られたゴゴの言葉。
  それが重く雁夜の耳に届き、衝撃を与え続けた。
  「だから『桜ちゃん』が救われた。と、思える下地が必要だ」
  「そう・・・だな」
  「心を閉ざしていると言うのならば開かせよう。絶望で押し潰されそうなら希望に作り変えよう。笑い方を忘れてしまったならば思い出させてあげよう。大人や魔術師の都合で振り回され、自分の意思と無関係に物事を決められるこの世の中に反抗できるようにしてやろう」
  色々と自分に足りない部分を言葉にされ、雁夜は目の前にいるゴゴの恐ろしさとは別種の自責の念により押し潰されそうな雰囲気を味わった。
  雁夜の肩にのしかかる重みは自分に浅慮が生み出した罰の重さだ。
  考えようと思えば幾らでも考えられた。何か別の方法がある筈と考えれば、別の方法が浮かんだ。言われる前に目の前に広がっている現実をしっかりと見ていれば、本当に必要な事が何であるかは判れた筈。判らずとも、考えようとする意思は持てた筈だ。
  雁夜はその重さから逃れようと何か言おうとしたが、自分で自分を縛り付けてしまい、言葉は何一つ語れなかった。
  「ではまず救いの先駆けを、と」
  だが、ゴゴにとってはそんな打ちひしがれた雁夜すらもどうでもいいらしい。色々と言い終えて満足したのか、短く言葉を告げて体を半回転させると、椅子に座っている桜の元へと移動する。
  打ちひしがれているのと、離れていた距離が両者の間を別ち。雁夜は咄嗟にゴゴの行動を止められなかった。何をしようとしているかすら判らないので、数秒ほどゴゴの動きを注視するだけで終えてしまう。
  雁夜が何も出来ずに硬直していた数秒間。ゴゴはその数秒を使って、いとも容易く桜の元へとたどり着いた。そして桜が座っている椅子の近く、部屋の一角にある壁に手を触れると、ボンッ! とコンロに火をつけた時の音を、数倍大きくしたような破裂音を鳴り響かせた。
  「なっ!」
  その音と、ゴゴが触れている箇所から巻き起こる白煙が雁夜の意識を強制的に現実に引き戻し、考えるなら後でも出来る、と今に意識を引き戻す。
  雁夜は壁に手を付いているゴゴとその前にある椅子に腰掛けている桜の姿を認めると、即座に前に走り出した。間桐邸の部屋の大きさは日本の一般家庭に比べれば大きく作られているが、雁夜が本気で走れば二秒もかからずに端から端まで到達できる。
  何をした?
  桜ちゃんに危険が迫ってる!?
  今の音は、その煙は何だ?
  疑問を胸に抱えながら雁夜は駆ける。そして椅子に座る桜を護ろうと、ゴゴに飛びかかろうとするが、その前に白煙の中から現れた奇妙な物が雁夜の視界に飛び込んできた。
  それはギャンブルを目的とするコイン作動式のゲーム機の―――俗にスロットマシンと呼ばれる機械の一部だ。
  コイン投入口はない、ハンドルもない、絵柄や図柄が描かれているリールと呼ばれる部分が三つ、ただそれのみが壁に現れていた。
  雁夜の覚えている限り、壁にはそんな物はなかった筈。
  爆発音と白煙。そこから突如現れたスロットマシンの一角を見て、無関係だと考える者はいない。確実に、雁夜の目の前に立つものまね士が何かをやらかして壁に出現させたのだ。
  「ちょっと待て、そのスロットはどこから出した!」
  「気にするな」
  「気にするに決まってるだろう! おいコラ、俺を無視するな。勝手に話を進めるな。おい!」
  ゴゴは桜に向かって歩いたので、同じ方向から走ってきた雁夜には背を向けている。雁夜はその背中に向かって怒声を浴びせるのだが、ゴゴから返ってくるのは雁夜など相手にしていない短い返答だ。
  ゴゴの言った事を全て信じるならば、ゴゴの目的はあくまで『ものまね』であり、それに邪魔したりしない限りは雁夜にも桜にも害意を及ぼさない筈。
  けれどものまね士と名乗ったこの人物は何を仕出かすか判らない不安を常にまとっている。未知とゴゴが持つ力ゆえに雁夜はゴゴに恐怖を覚え、警戒を解けずにいる。今、こうして桜を守ろうと駆けだしたのがそのいい証拠だ。
  話を聞いた後でも警戒心の大きさは変わらない、むしろ得体の知れなさは時間経過と共に大きくなるばかりなのだ。
  不意に話し始めたときに聞いた『時空魔法デジョン』の事が頭によぎり、その事も聞いてなかったと思い出すが。目の前の展開の移り変わりの早さに忙しくて、デジョンの事はすぐに忘却の彼方へと押しやられてしまう。
  雁夜の叫びをよそに、壁に突如現れたスロットは回り、一秒と立たずに停止して三つの絵柄を映し出す。
  黄色い体毛を持った鳥のような動物の絵柄が左端に、真ん中には青色のダイヤの絵が現れ、右端には数字の『7』が並ぶ。
  外れだ。
  そう雁夜が考えた時、床の上でボンッ! とスロットが現れた時より少し小さめの爆発が起こった。
  「な・・・」
  今度は何だ、と言いたかった雁夜だが、床の上に突然現れた物体に目を奪われ、喋ろうとした意思そのものを消してしまう。
  そこにいたのはウサギだった。
  ただし、雁夜の想像する『動物のウサギ』とはいささか細かな部分が異なっており、ウサギなど滅多に見ない雁夜でも違和感を感じるおかしなウサギがそこにいる。
  大きさは雁夜の頭部よりも少し小さいので、標準的なウサギの大きさであろう。だが、ウサギは青いマントを被らない。ついでに先のとがったこげ茶色の麦わら帽子もつけていない。頭の大きさが普通のウサギより倍ぐらいは大きい気がする。
  「むぐむぐ? むぐむぐ? むぐ~」
  極めつけにウサギはこんな人間の声のような鳴き声では鳴かない。
  雁夜は児童文学の一つ、不思議の国のアリスに出てくる白うさぎを思い浮かべるが、それはゴゴによって否定された。
  「こいつの名前は『ミシディアうさぎ』だ、大抵の子供はふわふわしたものが好きだから、とりあえずこいつを抱いてろ。感触が心地よかったら思いっきり抱きしめるといい。中々、頑丈だぞ」
  ゴゴはそう言うと、どうやって出したのかよく判らない、得体の知れないウサギのマントを摘んで持ち上げる。
  そして、椅子の上でずっと事態を静観していた桜の腕の中に、ミシディアうさぎを放り投げた。
  「むぐ?」
  「ぁ・・・・・・」
  桜は咄嗟に跳んできたものを両手で受け止め、口を『あ』の形で小さく開きながら固まっていた。
  雁夜はほんのわずかな事だが、普通の子供らしく反応する様子にほんの少しだけ希望を抱く。今ならばまだ桜は壊れていない。そう思えた。
  そんな桜への喜びをとりあえず横に置いて。雁夜は何かをやらかしたゴゴに向かって罵声を浴びせる。
  「アレは何だ、アレは!!」
  「スロットだ」
  「そんな事は見れば判る。どうやって出した、何で出した、何なんだアレは、あのウサギは何だ!!」
  「だからスロットだ。ミシディアうさぎはスロットが外れると現れるウサギだ。体力を少し回復して、一部の状態異常を回復してくれるものすごいウサギなんだぞ」
  「はいぃぃぃぃ!?」
  その後、雁夜がゴゴの口から『スロットとは何か』、『ミシディアうさぎとは何か』を聞いて、とりあえずゴゴが扱える能力の一つだと納得し、使い魔のようなものだと自分を納得させるまでに十五分ほどの時間を必要とした。
  話が一段落した後、雁夜とゴゴ、そしてミシディアうさぎを抱えた桜はようやく蟲蔵へと移動する。
  ただ話をしただけなのだが、雁夜の心労はとてつもなく大きくなっていた。





  この時点の雁夜は知らぬ事だが。もしスロットの絵柄が竜の絵柄で揃った場合、間桐邸は影の形も残さずに吹き飛んでいた。
  もしくはスロットが数字の『7』で揃っていた場合、間桐邸にいるゴゴを除く全員の命はなかった。
  スロットが外れて良かったのだと。この時の雁夜は判っていなかった。



  ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆



  Side - ゴゴ





  ゴゴにとって雁夜との話は実りある時間であった。
  何しろこれまで知らなかった多くの事情を知る事が出来て、桜ちゃんこと遠坂桜を救う方法を幾つも考えられたのだ。
  もちろん足りない情報は幾つもあり、雁夜の言っていた『遠坂時臣』も、一年後に開かれるであろう『聖杯戦争』も、聖杯によって招かれる『英霊』も、ゴゴが降り立った星とは異なる『世界』も、必要だ。
  それらを知らずにいれば、『桜ちゃんを救う』というものまねを達成する為の大きな障害となるのは間違いない。知らなければならない事はまだまだたくさんある。
  一つの星に降り立って多くを物真似したゴゴ。還って来た三闘神の力によって破壊という意味では出来ない事など殆どなくなったゴゴ。けれど世界は広く、物真似出来る事、知らない事はまだまだ山のようにあった。
  この間桐邸の中ですら、かつての世界では見た事もない器具や機械があちこちにあるのだ。この世界では幼児にすら劣る今のゴゴが知れる事は数多い。
  その未知がゴゴには嬉しかった。
  物真似をやり遂げるための障害の多さに苦しみを味わいそうになるが、それでもゴゴは嬉しくて嬉しくてたまらない。
  未知とは希望。かつて名前すら無かった誰かが孤独を癒すために繰り返してきた物真似は、今のゴゴにとって存在意義そのものなのだから。
  これは物真似のし甲斐がある――。
  ゴゴはものまね士として多くの事を物真似して行かなければならない。そうやって自己を再認識しながら蟲蔵へと向かうゴゴと、背後から付いてくる雁夜と桜。そして桜の腕に抱かれてちょっと苦しそうにしているミシディアうさぎ。ゴゴが振り返ると二人と一匹の姿が目に入る。
  雁夜の部屋から直行しているので、あいにく間桐邸のもう一人の住人である鶴野の姿はここには無い。
  「むぐ~」
  桜ちゃんを救うものまね以外はするつもりが無いと断言したゴゴだが、状況によっては物真似の元である雁夜すら殺すとも宣言したので、信用されていないようだ。
  先に進んで背中を見せる危険を排除したいらしく、雁夜の私室を出てからは雁夜は常にゴゴの後ろを陣取っている。当然、桜を手の届く場所において、だ。
  だがそんな警戒はゴゴにとってどうでもよい。
  「確かめに行くと言いながら先導しないのはどうだろう」
  「いいから黙って先に行け。臓硯がまだ生きていたら、一番先頭に行く奴が危険に決まってる。滅ぼしたって豪語したんなら、先頭でもいいだろうが」
  「自分の家なのにそこまで警戒しなきゃいけないなんて――。よほど仲が悪かったんだな、お前とあの蟲爺」
  「当然だ! あんなのと仲がいい奴は最初から人格が破綻してる異常者だけだ!!」
  言葉では気を悪くしているように話すゴゴだが、語られる言葉ほど気分は悪くない。それどころか前述の通り、ゴゴの心の中は喜びの華が咲き乱れており。状況が許すならば、小躍りしたい気分だった。
  ゴゴは内心の喜びを噛み締めながら、同時に自分が話す言葉について考える。
  今、ゴゴが喋っている話し方は初めて得た『仲間』の喋り方に引きずられている部分が多く、それを悪いとは思わない。むしろ、ものまね士として誰かの物真似をして得た結果だと思えば、誇らしさすら浮かんでくる。
  元々、自分の事を『俺』と呼んでいたゴゴはどちらかと言えば男性口調だ。
  そもそも自分の性別が人間で言うところの『男』あるいは『女』に大別できるものなのか確かめた事は無い。ものまね士ゴゴはものまねをする。逆に言えば、それが出来れば自分の性別など些細な事なので、考える機会がなかったのだ。
  きっと今後も調べる気にもならず、ものまね士はものまね士として在り続け、喋り続けるだろう。
  そんな自分の喋り方すらも物真似の結果だと思い、新たな喜びを噛み締めつつ、ゴゴはもう一度振り返る。
  後ろを向いた視線の先にはミシディアうさぎを胸の前で抱えた桜がいた。
  「ミシディアうさぎは抱いてると少しずつ体力が回復するから、お休みのお供にすると丁度いいぞ」
  「・・・・・・」
  相変わらず、初めて会った時から殆ど喋らない桜だが、ゴゴは話しかけている間、桜がずっとミシディアうさぎを落とさないように腕の位置を変えたり、抱え直したりしているのに気が付いた。
  ゴゴがミシディアうさぎを抱いていろと言ったから、桜はその通りに行動しているように見えるが、ゴゴの目にはミシディアうさぎに対する執着の表れが桜自身すら気付かないうちに行動として現れていると見抜いていた。
  もし、周囲の状況に対する完全な無関心を貫くのならば、そもそもミシディアうさぎを抱こうとすらしない。そして一緒に蟲蔵に行こうとすらしない。
  一応、雁夜が連れてきたという理由はあるが、本当に感情が無くて全ての物事に無関心ならば、ここにはいない筈だ。
  唯々諾々と周囲の言葉に言いなりになっているようだが。その実、桜が桜として意思決定を行い、自分の主義主張を押し通している部分が確実に存在する。
  それは桜という人間の証明だ。
  感情を宿らせないように見える碧眼、その目を隠すように伸びた黒い髪。けれど、間違いなく壊されずに残った感情が遠坂桜という人間の中に芽吹いている。
  ゴゴは不意に仲間の一人であり、桜より少し年上だが同じ女児のリルム・アローニィを思い出すが。あれと桜を同列に見るのは色々な意味で危険だとも思った。
  リルムは武器にも出来る筆一本でモンスターを瞬時に描写し、そのモンスターが持つ固有の能力を即座に発動させられる恐ろしい技の使い手だ。『団長のヒゲ』と呼ばれるアイテムを装着すると、ヒゲを生やした十歳児というコミカルな姿とは裏腹に、モンスターを操って同士討ちさせたりも出来る。
  ゴゴは話でしか聞いてないが、何でも「似顔絵かくぞ!」と仲間を脅して強引に同行した過去があるらしい。
  ゴゴにも同様の技は使えるが、それでも十歳の女の子が大人を脅す材料に出来るかといえば、すぐには肯定できない。
  行動的で破天荒な少女がリルムだ。あれを基準にして『桜ちゃんを救う』を考えても、きっと良い答えにはたどり着けないだろう。だからゴゴは別れた仲間の事を懐かしみながら、意識を今に引き戻す。
  止まる事なく進み、歩き、通った結果。ゴゴと雁夜と桜、ついでに桜に抱かれたミシディアうさぎの三人と一匹はあっという間に蟲蔵へとたどり着いてしまう。
  地下の蟲蔵と地上部分にある間桐邸を阻む重厚な扉。ここに集まった三人と一匹が横に並んで通っても、まだ余裕がありそうな大きな大きな扉。
  ゴゴはそれに両手をあてて思いっきり開く。
  開かれた場所で三人と一匹を出迎えたのは―――大量の蟲の死骸が作り出す血の臭いと腐臭と死臭が混ざり合う、強烈な臭いだった。
  「うっ――!!」
  ゴゴの背後で、雁夜が鼻を摘む音がした。





  一時三闘神の力の一角を手に入れた、人工魔導士ケフカ・パラッツォ。彼によって人の住む世界は一度破壊され、ゴゴが強引に『世界を救うものまね』をする時には街が街として機能していない所も珍しくなかった。
  無秩序、無作為、無法地帯。かつては立法や行政の名の下に統括されていた場所もあったかもしれないが、それは見る影も無く壊され、乗っ取られ、力で奪われ、別の法則が世界を謳歌していた。
  かつて存在した清らかな水も、科学の恩恵によって整備されていた町並みも、人の生きる意志も、沢山のモノが失われた。
  と、ゴゴは仲間からかつての世界の形を話だけで聞いていたが、眠りから目覚めたゴゴにとってはケフカによって一度壊された世界こそが普通だ。
  世界を救うものまねをするからこそ、仲間達と世界の敵を倒そうと旅を続けていたが、ゴゴにはかつて存在した世界への郷愁は無い。むしろ一度破壊された世界であっても、ゴゴが三闘神に殺されそうになった時と比べれば文明は格段に発達していると思っていた位だ。
  だからゴゴにとって、生物の死骸が放つ死の香りなど珍しくも何とも無い。
  ゴゴが旅した世界の中にはここよりも強烈な臭いを放つ場所は幾らでもあった。人の出す汚物や尿、汗と体臭が混ざった強烈な臭いに比べれば、蟲蔵の臭いなどまだまだ軽い。確かに蟲蔵という限定された空間の中に数百、数千もの蟲の死骸が押し込まれている状況は、ゴゴにとっても初見かもしれないが。限定された空間の中でモンスターの死骸が山を成している況ならば別段珍しくない光景だ。
  人工物の中にあるモンスターの死骸という観点で言えば、規模の大きさこそ違えど魔法しか使えなかった狂信者の塔とそれほど違わない。ゴゴの主観では、雲にまで届きそうな巨大な建造物である狂信者の塔も間桐邸の蟲蔵も大差は無いのだから。
  「こ、こいつは――」
  「グランドトラインで死んだ蟲の成れの果てだ。言ったとおりだろう?」
  雁夜は蟲蔵の惨状に鼻を摘みながら涙目になっているが、桜は雁夜とは対照的に桜の反応も示さない。
  元々蟲蔵に関して何の感情も抱かないようにしているのか。あるいは心を閉ざして何も感じないようにしているのか。少しだけ目を細めて嫌そうな顔をしているようだが、それ以上は何もしなかった。
  だから、この中で一番被害が大きいのはミシディアうさぎだろう。
  何しろミシディアうさぎはウサギなので、自ら鼻を摘もうとしても前足の構造上それは不可能だ。加えて、桜に抱かれている状態なので、逃げようとしても逃げられず、蟲蔵の中から臭ってくる強烈な臭いにひたする我慢しなければならない次第である。
  ゴゴは後ろを振り返って雁夜、桜、ミシディアうさぎの順に視線を辿ると、雁夜に視線を戻して告げる。
  「蟲爺はそこに立って蟲蔵の中を見下ろしていた。で、下からオーラキャノンの直撃を喰らって、灰も残らず完全消滅。残ったのは雁夜の体の中にいた蟲だけで、そっちもエスナで消滅させたから『間桐の蟲』で生きてるのはもうこの世界に一匹もいない」
  「・・・・・・桜ちゃんはどうなんだ?」
  「自分と同じように体の中に蟲がいないか気にしてるのか? もし、蟲の苗床になってたら、この蟲蔵でもがき苦しんだ雁夜と同じようになってる筈だ。そうならないと言うことは桜ちゃんの体の中には蟲はいない」
  ゴゴは自分がこれまでものまねによって得た―――正確に言えば思い出した―――魔法が作り出す効果に絶対の自信を持っているので、雁夜の体を蝕んでいた間桐の蟲を消し去った効果には一部の隙も無いと考えている。
  ただし、間桐の蟲はゴゴの知識の中にない存在であり、単なるモンスターと識別するには中々特殊能力をたくさん持っていた蟲のようだ。ただの敵としてみればゴゴの障害にもならなかったが、それが桜の中で休眠している可能性はまだ合った。
  そうやってゴゴが考えた事を雁夜もまた考えたのだろう、ゴゴから視線を外して背後の桜を見る目が『本当に大丈夫なのか?』と不安を物語っており、ゴゴへの信用の無さを明確に表している。
  万が一。いや、億が一にもありえないが。可能性がゼロでないのならば、ゼロにしておくのも『桜ちゃんを救う』に繋がる道だろう。ゴゴはそう思いながら、雁夜の後ろでミシディアうさぎを抱いたままの桜に手を伸ばす。
  「心配なら、こうしよう」
  間に雁夜がいたので少し体の位置を動かさなければならなかったが、雁夜は桜を見ていたので阻む時間を作れない。
  結果、ゴゴは桜の頭の上。額から十センチほど離れた場所で手を止めると、そこからある魔法を作り出して桜全体を包み込むように展開させていく。雁夜が止める間など全くない。
  雁夜にかけた魔法は彼自身が暴れまわっていたので、押さえつけなければならなかったが。ゴゴの使う魔法―――三闘神と幻獣によって体系化された魔法の数々は、本来ならば対象者に触れる必要すら無いのだ。
  ゴゴは桜を救う道を一歩進むため、魔法を唱えた。
  「エスナ」
  すると触れられていない桜の頭頂部。正確に言えばゴゴの手がある場所に最も近い位置から、虹のような光が生まれ、頭から首へ、胸元から胴へ、下腹部から足へと上から下に流れ落ちていった。
  ミシディアうさぎを完全に避けた光の奔流は数秒と立たずに消えてしまい、瞬きしていれば見過ごしてしまいそうな淡い光だ。けれど、ゴゴの唱えた魔法は確実に効果を発揮し、桜の中に間桐の蟲が巣食っていたとしても、今この瞬間、完全に消滅したのは間違いない。
  ゴゴはエスナによって引き起こされた実感のなさを感じ取り、やはり桜の中に間桐の蟲はいなかったのだと考える。
  光が収まるのと横から雁夜の声が飛んでくるのは同時だった。
  「今の魔術は何だ? 桜ちゃんに何をした!!」
  「治癒の魔法『エスナ』だ。人の体調を正常な状態まで引き戻し、体に巣食う害意の大半を跳ね除ける魔法だ。雁夜の中にいた蟲を消し去ったのもこの魔法だから、万が一にも休眠状態の蟲がいたとしてもこれで消え去る。雁夜にも同じ魔法をかけただろう? 覚えてないのか?」
  「・・・・・・とんでもないな。――臓硯の蟲は並みの魔術じゃ殺すのも不可能なんだぞ」
  「そうか」
  どうやら雁夜は間桐の蟲を絶対に叶わない難敵と思っているようだが、ゴゴにとっては間桐の蟲など気にするほどの敵でもない。
  確かに蟲蔵の中に躯を晒している間桐の蟲の数は膨大だ、一匹一匹は小さくとも数百数千の蟲が一人の人間によって使役されて、一斉に一つの目的に邁進する状況はゴゴ一人では不可能な分業を可能にさせる。
  ただしゴゴと敵対したならば、それは有象無象の蟲と何ら変わりがない。それどころか、かつて世界を救う旅をしてきた仲間ならば、誰も脅威とは思わないだろう。
  雁夜の驚きを含んだ言葉とは裏腹に、ゴゴの心は全く揺らがなかった。出来るからやる、ものまねを完遂する為に必要だからやる。ただそれだけの話だ。蟲蔵の中に晒された蟲の屍骸がその証明だ。
  ここで問題があるとすれば、それはよく判らない光が自分の体を包み込んでも、何の反応も示さなかった桜だろう。
  エスナは確かに治癒の魔法だが、桜にとっては初見のはず。初めて見る光に何の反応も示さないのは、心と感情をかなり深い部分まで押し殺しているからこそ出来る事だ。
  感情は死んでおらず、心は壊れていないかもしれない。けれど、かなり深い部分で眠りについているようだ。
  ゴゴにとっては桜の心を解きほぐす事こそが難敵である。けれど、それは『桜ちゃんを救う』という物真似のし甲斐がある状況でもある。
  ゴゴは桜の内面と言う強敵から視線を外し、蟲蔵の中に散乱する死骸の山を見る。
  「それじゃあ、蟲爺が消えたのも確認できたところで、邪魔な物を片付けるぞ」
  「何をする気だ。何かするなら、する前に俺たちに説明しろ」
  「言うより見たほうが早いと思うが、まあいい」
  ゴゴはそこで一旦言葉を区切ると、前情報を知らなければ何を言っているのか全く判らない言葉を口にする。
  「これから雪崩を起こして、蟲の死骸を一掃する。燃やしてもいいんだが、時間がかかりそうだから埋めた方が早い」
  「何?」
  説明したのに、雁夜は首を傾げていた。
  これがかつての仲間であったならば、ゴゴの言葉がどんな意味を持っているかをすぐに察し、何をしようとしているかも即座に汲み取っただろう。
  これからゴゴがやろうとしている事は、ゴゴにとって―――物真似の元になったモーグリのモグにとっても、歩いたり息を吸ったり生きたりするのと同じぐらい、出来て当たり前の事だ。
  特殊能力であるが故に人には使えず、モーグリしか扱えない技術だが。何をやろうとしているかは判ってくれただろう。
  雁夜は知らないのだからゴゴの言葉がどんな意味を持っているか判らない。その理解力の無さに少しだけ落胆しかけるゴゴだったが、それはかつての仲間に思い入れがあった証明でもあったので、僅かに仲間達と旅した世界への郷愁を覚える。
  叶うならばいつまでも浸っていたくなる暖かい気持ち。
  けれど、今ゴゴの前にいるのは雁夜であり、かつての仲間との離別を選んだのはゴゴ自身だ。自らの選択に―――ここで手に入れた新たなものまねを行うため、ゴゴは強引に意識を切り替える。
  「もう一度言おう。今から雪崩が起こす。だから、下手に動かない方がいいぞ」
  「・・・雪崩? 何を言ってるんだ?」
  雁夜はまだゴゴのやろうとしている事に予測すら出来ていないようだが、懇切丁寧説明するよりも見たほうが早い。
  雁夜の部屋の中に急に出来てしまったスロットのリールも説明するよりも前に見せたからこそ言葉にしやすかった。この世界とかつての世界の差異があまりにも大き過ぎるので、言葉では説明しきれない部分が多くあるのも判っている。
  ならば、今回もまた、まず見せる事こそが重要だ。
  その説明不足が雁夜からの信用を損なう原因になっているのだが。ゴゴにとって大事なのは『桜ちゃんを救う』ものまねであり、それ以外の事は二の次である。極端な話、雁夜からある程度の事情を聞いた時点で、間桐雁夜という存在はゴゴにとってそれほど必要ではなくなっている。
  あっても困らないし、無くなっても困らない。雁夜の評価はその程度だ。
  まだ何か言ってくる雁夜を無視して、ゴゴは蟲蔵の中に足を踏み入れて、眼下に広がる虫の死骸の山を見渡した。蟲蔵の中にあるキャットウォーク。数時間前に同じ場所に立った臓硯はゴゴの技によって消滅し、消滅させた当人が立つ位置を奪い取って蟲蔵を見下ろしている。
  生物から命を奪う事への躊躇いはゴゴには存在しない。
  命あるモンスターを数多く殺し、仲間と共に一つの世界を救った過程でどれだけの命を奪ったのか数えてもいなかった。それは数えるのが億劫になる膨大な数に昇った。
  あるいは目の前に広がる蟲の数よりも多いかもしれない。
  生きていた物体の残滓を単なる物と定めるものまね士。敵の血で真っ赤に染まった手を思いつつ、ゴゴは雁夜に言って聞かせたとおり『後片付け』を開始する。
  手すりの無いキャットウォークでは少々危険だが、ゴゴは小さくジャンプしながら体を回転させる。そして片足を床につけた状態で右に二回ほど円を描き、技の名前を呟いた。


  「雪だるまロンド」


  その一瞬後。蟲蔵の薄暗さが暗転し、完全な闇が三人と一匹を包む。
  「お、おい!」
  背後から雁夜の声が聞こえてきたが、ゴゴはそれを無視して前だけを見つめた。
  雁夜の口から次の言葉が出てくるよりも早く、辺りに光が生まれて視界を開けさせる。回転の止まったゴゴの視線は見下ろしていた位置から一歩も動かず、蟲蔵の中に散乱する蟲の死骸を見下ろしているままだ。
  ただし、蟲の死骸は山を成したままだったが、それ以外の風景が一変した。
  「え・・・・・・え? あ? はぁぁぁぁ!?」
  ゴゴにとっては見慣れた変化。雁夜にとっては全く知らぬ変化。その違いが雁夜の悲鳴という形で現れているが、ゴゴはその声にも反応せずにただ下を見下ろす。
  蟲の死骸があった。ただし、その周囲を白一色の色彩が埋め尽くしている。
  白は雪だ―――。ほんの少し前までは間桐邸の地下がゴゴ達の周囲に広がっていたが、今は雪山の一角に佇んでいる。
  背後から聞こえてくる雁夜の声は何が起こっているか判らない混乱だと判るが。ゴゴにはモーグリのモグが使える特殊技能『踊り』によって世界を書き換える技だと知っているので驚かない。
  吹雪は無く、雪は山を白化粧で染めた状態を映し出し、周囲にある山の方が高いのでゴゴたちがいる場所を盆地のように見せている。雲が空全体を覆い隠し、天も地も等しく雪の白さに染まっているようだ。
  ゴゴ達は蟲蔵の位置関係をそのまま受け継いだかのように、蟲の死骸がある場所の上にいる。ただし、蟲蔵でキャットウォークや出入り口の扉辺りから見下ろしている状況よりも更に距離が開いており、蟲の死骸は真下ではなく斜め下に離れていた。
  直線距離で測れば400メートル以上離れたのではないだろうか。蟲の死骸が集まって塊を成していなければ、白い雪山に浮かぶ黒い点にしか見えないだろう。
  「ちょ、これ? はっ!? 寒っ! さむっ!! さむ!!」
  ただし今の状況で、死骸の位置と自分達の位置を冷静に観察できる者はゴゴ以外にはいない。
  きっと後ろには、雄大な自然にいきなり薄着で放り込まれた不条理さを呪って、それでも何とか体温を保とうと雁夜と桜が抱き合っている姿があるだろう。
  感情の起伏を見せない桜は別の意味で茫然自失になっているかもしれないが、今はそれを気にしている暇は無い。彼らを思うならば声をかけるよりも前に事を済ませるべきなのだから。
  後片付けを早く済ませよう。ゴゴはそう思いながら、雪山の上に向かって声を投げた。


  「雪崩」


  ゴゴがそう呟くと、大地がぐらりと揺れる。
  揺れは短く、余韻も少ない。けれど雪山に起こった変化は劇的であり、揺れが収まったと思えば次の揺れがゴゴたちの立つ雪山を動かしていた。
  揺れは時間経過とともに大きくなっていき、数秒経過した後で雪山の一角がずるりと動いた。雪山の一部、直径およそ50メートルほどの空間が、斜面を滑り落ちる現象へと姿を変える。
  山岳部の斜面上に降り積もった雪が重力によって移動する自然現象だ。正しく、ゴゴが言ったとおりの『雪崩』が起こり始めた。
  「はぁぁぁぁぁ!?」
  驚く以外に何も出来なくなった雁夜の声が聞こえてくる。だが、それも山の上から滑り落ちてくる大質量の雪が作り出す音によってかき消されてしまう。
  全層雪崩が作り出す自動車の速さに匹敵する時速70キロの破壊。自然の猛威に人の入り込む余地は無く、誰もが等しく起こっている現象を見るしか出来なかった。
  起こった雪崩はゴゴ達には当たらず、離れた場所にある間桐の蟲の死骸めがけて突き進むので、危険は無いように見える。
  ゴゴは後ろにいる雁夜の大きなため息を聞いた。
  雁夜が感じたのは雪崩が直撃しなかった事への安堵か?
  自然の雄大さが見せる感動か?
  この状況を意図的に作り出したゴゴへの諦観か?
  雁夜がゴゴに対し、何を思っているか少し気になったので後ろを振り返れば。雁夜と桜が一心不乱に雪崩を見ていた。
  ミシディアうさぎはいきなり雪山に放り込まれて、すぐ近くで雪崩が起こっているのに全く気にしていないようだ。ゴゴが呼び出しただけあって豪胆なウサギである。
  雪崩を目で追う雁夜。雁夜が見る雪崩という名の白い悪魔は、あっという間に蟲蔵の中にあった蟲の死骸を飲み込んで、全てを埋め尽くしていった。
  ゴゴが視線を前に戻した時、すでに雪崩は間桐の蟲の死骸に到達しており、呑み込み瞬間は見逃したが、『雪崩に呑まれた』という結果がゴゴの眼前に広がっている。
  後片付けは完了した。
  ゴゴは蟲蔵の掃除に満足しながら、この雪山を作り出した踊りを解除する。
  雪山を呼び出した時とは逆に左に二回転。片足で立って回ると、周囲の景色は黒一色に染まり、雪山が作り出す白さは跡形もなく消滅した。
  「・・・・・・これ。お? あ?」
  先程の変化を繰り返すように、もう一度背後から雁夜の驚く声が聞える。
  驚き過ぎだ。とゴゴは思ったが、初めて見る人間には少々衝撃的すぎる光景だと思い直し、無視する。
  そうこうしている内に黒一色に染まった闇の世界に灯りが生まれ、ゴゴの視界には薄暗い間桐邸の蟲蔵の光景が蘇ってきた。
  光の差し込まぬ地下、か細い光しかない蟲蔵。そこには雪山の白さは影も形もなく、雪が作り出す寒さも、凍えるような空気の冷たさも、雪山の上に開かれた白い雲の気配も、雪崩と言う自然の猛威が作り出した結果の残滓も、何一つ存在しない。
  辛うじて蟲蔵の中に残る生き物の死骸が作り出す臭いの残り香が、ここに大量の蟲の死骸が合った事を伝えているが、残っているのはそれだけだ。
  間桐の蟲はどこにもいなかった。
  間桐臓硯が存在した証は残っていなかった。
  何もかもが消えていた。
  無味乾燥に大きく広がる蟲蔵の床がそこにあった。
  「お掃除完了」
  「・・・・・・・・・・・・・・・・・・」
  軽く言ってのけるゴゴに対し、雁夜は突然の自然現象に言葉が無く。蟲蔵の入り口に膝をついて屈んだまま一言も喋らない。
  感情を殺したつもりになっている桜ですらいきなりの雪山に何か思う所が合ったのか。感情の宿らぬ目は雪山を呼び出す前と何も変わっていないように見える。だが、それでも雁夜の腕に護られ、腰を落とし、ミシディアうさぎを抱いた状態で蟲の死骸が合った場所をジッと見つめ続けているのは驚いたに違いない。
  ゴゴにはそんな桜の様子が、目に見える現実を確かめようとしている様に見えた。消えていない心の証明だと思った。
  もし魔術に精通している人間がこの場にいれば、ゴゴが起こした現象をこう呼んだだろう。固有結界―――と。
  雁夜も桜もその現象を説明できる知識を有していないので、雪山が現れて蟲の死骸を呑み込み、気が付いた時には何もかもが消えていたとしか言いようがない。
  術者の心象風景で現実世界を塗りつぶし、内部の世界そのものを変えてしまう固有結界。
  魔法に最も近い魔術とされ、魔術協会では禁呪のカテゴリーに入り、魔術師たちにとっては最大級の奥義であり、魔術の到達点のひとつとも言われる大魔術。ただし、顕現した心象風景という『異世界』には世界からの修正が働き、現在の世界を一部分壊しているので、抑止力による排斥対象となってしまう。
  結果、固有結界の維持には莫大な魔力が必要で、大魔術師でも数分しか維持することはできない。
  ゴゴはそんな固有結界をいとも容易く展開する。
  「物がなくなってみれば、結構広いんだな」
  何もなくなった蟲蔵がゴゴの前に広がっていた。



  ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆



  Side - 間桐雁夜





  雁夜は考える。目の前で起こった出来事に圧倒されて言葉はなかったが、それでも混乱を何とか抑え込んで、必死に冷静さを保って考える。
  「・・・・・・・・・・・・」
  蟲蔵がいきなり雪山に変わり、雁夜の人生の中でも実際にお目にかかった事のない雪崩を間近で見て、衝撃で思考が吹っ飛んだ。
  口からは慌てふためく言葉しか出てこなくなり、冷静さは空の彼方に消えていった。
  呆然自失状態で蟲蔵の入り口に座り込んだまま、蟲蔵の地下に散乱していた蟲の死骸が無くなったのを見ながら、どれだけそうしていただろう。
  見つめる先で自分は蟲の苗床にされていた。そこに自分の体が横たわっていた時からまだ一日も経ってないと思い出すまで、どれだけの時間が必要だっただろう。とても遠い過去の出来事の様に思えてしまう。
  蟲の死骸が山を作っていた。雪山になって、雪崩が起こって全部消えた。起こった事を言葉にすればそれで終わるかもしれないが、魔術師よりも一般人の感性に近い雁夜にとって蟲蔵の中で起こった出来事は超常現象以上の奇跡だ。あるいは夢幻だ。
  今更ながら、雁夜はようやくゴゴから聞いた『神と呼ばれた存在の親』がどれだけ莫大な力を有しているか実感する。
  言葉だけでは信じられなかった奇跡の数々。
  いきなり部屋の壁にスロットを作り出して、ミシディアうさぎなんてものを呼び出した時は驚いたが、あれはまだ手品だと言われても納得できる範疇に合った。
  言葉では説明しきれない衝撃の連続。言葉による理解ではなく、体感による認識。
  雪山の上に立っていたと認めた時、驚きと寒さで心臓が止まるかと思ったものだ。
  「・・・・・・・・・・・・ふぅ」
  それほど長い時間ではないだろうが、決して短くない時間を経て、雁夜はようやく冷静さを取り戻す。必死に混乱を抑え込んで、押しつぶして、力一杯に押し戻して、それでやっと冷静の片端が戻した。
  確実に十分以上は経過しただろう。もしかしたら三十分以上経っているかもしれない。
  雁夜は取り戻した冷静さの中で考える。
  ゴゴが臓硯を殺した時は間桐の蟲に弄られた後だったので、疲れ切った頭では上手く考えられなかった。しかし、今は違う。考えられる頭がある。
  休息を経て、ゴゴが行使する力の一端をまざまざと見せつけられた。幻覚や夢など言えず、起こった事実を事実として認めるしかなかった。
  認めよう。ゴゴは雁夜など想像も及ばぬ得体の知れない技を行使出来る存在であり、神と崇め奉られる存在を生み出すのも可能な怪物だ。
  なるほど、こんな事をいとも容易くやってのけるならば、臓硯ほどの魔術師であろうとも殺すのは容易いだろう。
  雁夜から見た臓硯の力は山のふもとから見上げる頂上だ。力の差はどうしようもないが、決して届かぬ場所ではないとも思える力である。
  しかし、ゴゴは違う。
  雁夜の前に立つものまね士は空高くどころか、成層圏も突き抜けた月に君臨する超越者だ。生身の人間では決して届かぬ存在で、何か他の力を借りなければ存在を正しく認識する事すら出来ない。
  雁夜はゴゴの強大さを思い。そして臓硯の消失を考えた。
  戸籍上の父である臓硯が消滅した事をここにきてようやく理解し。蟲蔵の中で見た、白いレーザーが夢や幻ではないと理解させられる。
  今日に至るまでの数日前や十年以上前、臓硯の事を父親として呼んだことは何度もあった。だから感傷の一つも覚えるかと思ったが、雁夜の胸の内に去来するのは臓硯が居なくなった事への喜びだけだ。
  こうして居なくなった後も『亡くなって悲しい』なんて事は欠片も考えず、『居なくなって清々した』としか思えない。
  臓硯に対しての情の薄さを考えながら、雁夜の意識は再びゴゴへと移る。
  思考があっちへ行ったりこっちへ行ったりするのも、まだ混乱の余韻が雁夜の頭の中をかき乱しているからに違いない。冷静になったつもりでも、やはり受けた衝撃があまりにも大き過ぎたのだ。
  雁夜は今だ腕の中で動きを見せない桜を認めつつ、ゴゴを見る。
  『ゴゴが起こせる事象』として、それが一つなら何とか認める事も出来よう。だが二つ、三つ、四つ、と増えていけば、それは雁夜の範疇を超える、理解不能な領域へと膨れ上がってしまう。
  雁夜はゴゴに訊きたかった。
  お前は何が出来るのか? と。
  だが訊く事が恐ろしかった。
  もし、人の意識を操れると返されたら、どういえばいいのか?
  もし、簡単に地球を壊せると返されたら、どう言えばいいのか?
  雁夜には判らなかった。判ろうとするにはあまりにもゴゴと雁夜が違い過ぎた。
  ゴゴは『桜を救うものまねをする』を目的としており、今の所の行動原理は全てそれに付随する形で行われている。
  言葉と行動に嘘偽りはない。それでも、雁夜はゴゴを信じきれない。ゴゴの力があまりにも強大過ぎるが故に、だ―――。雁夜には地を這う虫の気持ちが判らない。虫も巨人に見える雁夜の気持ちは判らないだろう。何故なら両者はあまりにも違いすぎるから。
  同じ人間であっても、環境や習慣や思考や性別の違いによって同じモノを見ても全く違う考え方をする。ならば違いすぎる者達が互いを理解し合える筈はない。
  雁夜は言いたかった。
  臓硯を殺してくれてありがとう、と。これで桜ちゃんは救われる、と。
  でもすぐに口に出来なかった。ゴゴが判らないから雁夜には言えなかった。
  感謝と警戒と理解と不可解、そして受けた衝撃と動揺が雁夜の頭の中を更にぐちゃぐちゃにかき乱す。
  その中で、雁夜は考える。
  表に住まう一般人の感性を持ち、世間の裏に巣食う間桐の魔術師であろうとする者として、間桐雁夜は考える。
  考えて、考えて、考え続けて、言わなければならない言葉を絞り出す。
  「おい、ものまね士――」
  「ん?」
  「臓硯を殺してくれて、ありがとう。その上で・・・・・・お前に頼みがある」
  間桐の忌まわしき血筋。聖杯戦争。遠坂桜の救済。臓硯が居なくなった後の未来。『救う』という言葉の意味。遠坂時臣への憎しみ。遠坂葵への恋心。ものまね士への恐怖。強大なる力。ただの人間の雁夜。間桐の魔術師――間桐雁夜。
  多くの事柄が雁夜の頭の中を駆け巡り、やがて一つの言葉となっていく
  それは起こった状況からすれば突拍子もない言葉だった。後になって雁夜は絶対に『何故、あの時、あんな事を言った?』と、確実に不思議に思う言葉だった。それでも混乱の渦中にいる雁夜にとって、今この瞬間にこそ言わなければならない言葉だった。
  その言葉を雁夜は言い放つ。


  「俺が聖杯戦争で他のマスターに勝つ為に――、俺を鍛えてくれ」


  間桐雁夜はそう告げた。
  聖杯戦争を破壊しようと言ったものまね士にそう告げた。



[31538] 第3話 『ものまね士は間桐鶴野をこき使う』
Name: マンガ男◆da666e53 ID:ac86df83
Date: 2012/07/14 00:33
  第3話 『ものまね士は間桐鶴野をこき使う』



  ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆



  Side - 間桐雁夜





  雁夜は告げる。
  「俺が聖杯戦争で他のマスターに勝つ為に――、俺を鍛えてくれ。俺に、お前の技を教えてくれ」
  床に腰を落とし、頭を下げながら告げる。
  「俺は今のままじゃ何もできないただの人間だ。桜ちゃんを救えないし、時臣を殺す事も出来ない。もちろん、俺の願いがお前の『ものまね』を邪魔しているのは重々承知している。だから俺はお前の『ものまね』が終わるまで、お前の邪魔は絶対にしない。邪魔したなら殺してくれたって構わない。それで桜ちゃんが救われるなら、俺はそれで構わない」
  ゴゴに向かって土下座をする事になり、雪山の中で一緒に震えていた桜は横へと追いやられる。
  ただ、たとえ土下座をしようとも、雁夜は告げた言葉が、非常に都合のいい話だと理解していた。別の言い方をすれば『雁夜にとって虫のいい話』だ。臓硯に持ちかけた交渉とは異なり、ゴゴにとって有益となる条件など何一つ存在しない。
  臓硯をあっけなく滅ぼして、雁夜では到底到達できない強大な力を行使できるゴゴだ。雁夜が邪魔をしたところで、力任せにやりたい事をやろうとすれば、雁夜程度の障害など軽く吹き飛ばせるだろう。敵対することすら出来ず、雁夜が殺される可能性はむしろ高い。
  ゴゴは言った。『聖杯戦争を破壊する』と。雁夜の頼みはゴゴの行動を妨げる可能性を含んでいるので、今この瞬間にもゴゴの力が雁夜に牙をむいてもおかしくない。
  それを判っていながら、雁夜は言わずにはいられなかった。
  「俺は聖杯なんぞに興味はない。それでも『間桐』の名を持つ俺はどうあっても聖杯戦争に関わりが出てくる。だから力がいるんだ」
  あまりにもゴゴという存在が強大すぎるが故に、雁夜は祈り、縋るしか出来ない。臓硯のように交渉を持ちかけるという前提すら浮かばないほど、圧倒的な力に前にして頭を下げるしかなかった。
  ただし、雁夜はものまね士ゴゴの力を恐れていたが。同時にゴゴという存在が話の通じる相手だとも考えていた。
  もしゴゴが強大な力を有するだけの話の通じない相手だったならば、そもそも雁夜と桜がこの場に居合わせることすら不可能だった。
  蟲蔵に行こうと言い出したのは雁夜で、ゴゴが来る理由は無かった。臓硯が生きている可能性を考慮して矢面に立たせたが、それだってゴゴが断ればそれで済む話だった。
  実際にその状況を覚えてはいないが、雁夜の体の中に潜り込んでいた蟲を除去したのはゴゴらしい。雁夜の命を救い、話をするために場所を移したのもゴゴだ。
  それらは全て『桜ちゃんを救う』という理由の為に行われた行動だとすれば、雁夜が桜を救おうとする望みはそのまま、ものまね士ゴゴの行動理由でもある。
  話せている、話が通じている、言葉を投げあえる。ならば、友好関係を築き上げるべきだ。敵対したところで雁夜が得られるモノは何もないのだから。
  力なき者に未来はない。何者も守れはしない。
  雁夜がそうだった。
  桜がそうだった。
  弱者は常に強者に虐げられる。力が無ければ選ぶ自由すら掴み取れず、ただ選択肢の無い道を進み続けるしかない。
  だから雁夜は力を欲した。
  その中にゴゴに告げた遠坂時臣への怒りが―――桜を間桐という地獄に叩き落した男への報復が無いと言えば嘘になるが、とにかく雁夜は力を得ようと一歩前に踏み出す必要があった。
  聖杯戦争に勝ち残り、臓硯に聖杯を持ち帰って桜を解放しようとした。その時に欲した力と似ていたが、何かが決定的に違う力への渇望。その『何か』が何であるかは、雁夜にもよく判っていなかったが、臓硯への取引とゴゴへの懇願が違うと確信している。
  「頼む」
  あるいはこの瞬間、全てが破綻してゴゴの怒りを買って殺されてしまう可能性もあったが。雁夜はそれでも構わないと潔い気持ちを抱いていた。
  元より雁夜が間桐に戻ったのは桜を救うためだ。ものまね士ゴゴがそれを成し遂げてくれるならば、そこに雁夜がいる必要はない。
  死にたい訳ではない。ただ救いたいのだ。遠坂桜という少女を。
  遠坂桜が救われれば、それでよかった。自分が間桐を逃げ出した事で作り出してしまった負の遺産を消し去れればそれでよかった。
  生きたい気持ちと死にたくない気持ち。力への恐れと力への羨望。桜を救おうとしながら、それを邪魔する雁夜の行動。矛盾する現実を自覚しながら、雁夜は額を床に擦りつける。
  「頼む――」
  桜は既に間桐の家に存在を組み込まれてしまった。
  ゴゴの言った『聖杯戦争を破壊する』という目標の一つに対しては懐疑的ではあったが、始まりの御三家である間桐の名はどうしても聖杯戦争に関わりを持ってしまう。雁夜が告げた言葉はそのまま桜へも通用してしまう。
  臓硯はもういない。
  だから、間桐臓硯という後ろ盾を失った桜個人を守る術が今の間桐家にはない。臓硯が消えた事で、『桜に手を出せば間桐臓硯が黙っていない』という状況もまた消えてしまったのだ。
  これまでの雁夜は臓硯から解放されれば遠坂家が桜を守ると無条件に信じていた。だが、ゴゴの追及により遠坂家すら桜の地獄になる可能性を考えてしまう。
  遠坂桜を救うのならば、何よりもまず彼女の身を守らなければならない。その為には力が要る。
  間桐臓硯が作り上げてきた、間桐という魔術師が持つ力。それに替わる別の力が雁夜には必要だ。
  そして桜を救うと決めた覚悟が、ゴゴという強大な力によって呆気なく終わってしまったことへの悔しさもあった。
  ゴゴを見てしまった後では自分の力だけで桜を救えるなんて大それたことは考えられない。それでも全てをなげうった決断をした雁夜は何かをしたいと思った。
  おそらくゴゴと出会う前ならばこんな事は考えなかっただろう。雁夜は自分の変わり様が少し不気味に思えたが。それでも、成すべき事を成すために―――遠坂桜を救うために―――。
  「俺を・・・、俺を鍛えてくれ」
  土下座をしているので、ゴゴに向かって言葉を投げながらも、放たれた言葉は床に反響して周囲に散らばっていく。
  一秒が一時間のように長く感じる。
  二秒が一日のように長く感じる。
  三秒が一週間のように長く感じる。
  過ぎ去ってしまえばどれも等しく『過去』なのだが、沈黙によって作り出される時間は雁夜にとって永遠に匹敵した。
  今更ながら、断られたらどうしよう、と雁夜は考え出す。頭を下げた時は死ですら選択の内だと覚悟を決めた雁夜だったが、時間が流れるたびに恐れが顔をのぞかせる。
  どれだけ覚悟を決めようと、どれだけ立派な言葉を語ろうと、間桐雁夜という人間は死に恐れを抱いてしまう。それがたまらなく嫌になり、自分が醜い人間であるのを思い返させる。
  恐れるな、と。
  成し遂げろ、と。
  意地を見せろ、と。
  雁夜は自分に言い聞かせた。
  そしてほんの少しだけ気持ちが落ち着くと、ゴゴの技は間桐の刻印虫のように伝授が可能なのか否か? という基本的な疑問にたどり着く。
  先に確かめるべきはそこだったのかもしれないが、力を欲した雁夜はそれを考えられなかった。
  しかしここで『そう言えばお前は人に技を教えられるのか?』等と言えば、間が抜けている。
  求めるならばむしろゴゴに伝授の方法すら願うべきかもしれないと、都合のいいことが雁夜の頭の中を駆け巡った。
  雁夜は自分の思慮の浅さを考えながらも、頭は上げない。お願いするにしても順番がぐちゃぐちゃだ、そう判っていながら、一度口にしてしまった言葉は覆せない。
  すると黙って雁夜の言葉を聞いていたゴゴが足音を響かせながら近づいてきた。雁夜は耳でその音を聞きながら、土下座の体勢を維持し続ける。
  見えていない雁夜の耳がすぐ近くだと感じられる近距離。おそらく雁夜の頭一つ分位の距離までつめたであろうゴゴから衣擦れの音がする。
  屈んだようだ。
  膝を曲げて頭を床につける雁夜に合わせ、ゴゴが腰を落とした。雁夜は音からそう状況を察する。
  「雁夜。お前の願いは『桜ちゃんを救う』ためか?」
  耳元で囁かれたのかと錯覚しそうな、とても近い位置からゴゴの声が聞こえた。
  雁夜自身の認識によるものだが。雁夜はこの時、初めて、ゴゴとの物理的な距離が縮まったのを感じた。
  腕の一振りで雁夜の体など軽々と消し飛ばす超常の力。数百年、間桐の当主として君臨し続けてきた臓硯すらものともしない莫大な力。それを有する者が、腕を伸ばせば雁夜に触れられるぐらい近くに居るのだ。
  恐ろしかった。
  心臓が止まるかと思った。
  呼吸が出来ないかと思った。
  それでも雁夜は自分を奮い立たせ、顔を上げながらゴゴに告げる。
  「・・・そうだ」
  回答ではなく新たな問いかけがゴゴの口から出てきたので、雁夜は僅かに逡巡を必要とした。それでも、続けられた言葉は誰にも覆せない肯定の言葉で、雁夜が真に願う雁夜の気持ちだ。
  顔を上げればやはりゴゴは雁夜のすぐ目の前におり。床についている両手を伸ばせばゴゴの後頭部にすら届きそうな近距離だった。
  隙間から見えるゴゴの目がまっすぐ雁夜を見つめており、少しでも気を抜けばそのまま呑まれて卒倒してしまいそうだ。
  とてつもなく恐ろしい。強大な力を行使する存在だと知らなければ、こんな気持ちは抱かなかっただろうが、今はとてもとても恐ろしい。
  ただし、決意を一度言葉にすれば、思いは更に強まっていった。
  雁夜は前にいるゴゴに向かって自分の思いを言葉にする。まっすぐ目を見つめ、これが俺の信念だ、と言わんばかりに言葉に力を込める。
  「お前の言葉で――、聖杯戦争があろうとなかろうと桜ちゃんを救うには力がいると気付かされた。だから頼む、俺は力が欲しい。桜ちゃんを救う力が欲しいんだ!!」
  その言葉が雁夜の中から死への恐怖を吹き飛ばす。
  死から逃げようとする心は雁夜の中から決してなくならないが、今だけ一時的に忘れ去る強さを持てた。『生きて成す結果』を求め、雁夜は言う。
  「俺に、桜ちゃんを救わせてくれ・・・」
  唾がかかりそうな近距離で目と目を合わせながら懇願する雁夜。その状態で再び沈黙が二人の間を行き来した。
  そして沈黙はゴゴが膝を伸ばした瞬間に終わる。
  「『桜ちゃんを救う』、ものまね・・・」
  ゴゴから放たれた言葉は雁夜に聞かせる類のものではなく、独り言としてゴゴがゴゴ自身に語り聞かせる言葉だった。
  もちろん近距離だから雁夜にもその言葉は届く。
  どんな意図をもってその言葉を呟いたのかはゴゴにしか判らない。雁夜には判らない。
  雁夜はただひたすらにゴゴの返事を待つ為、沈黙を続ける。すると独り言を呟いてから十秒ほど経過した後、ゴゴの口からようやく返答があった。
  「雁夜が桜ちゃんを救うために力を求めるなら、雁夜を鍛えるのも『桜ちゃんを救う』ものまねだ。教えられる技ならば存分に教えてやる、鍛えてもらいたいなら存分に鍛えてやる。お前が力を得る手助けをしてやろう」
  「ぇ・・・・・・」
  自分から言い出しておきながら、雁夜はゴゴの返答を聞いた途端、呆気にとられてしまう。
  そもそも魔術とは魔術師の家に伝わる門外不出の技術であり、基本的に誰かに教える類のものではない。
  雁夜にとっての魔術とは表に出さぬよう秘匿されるであり、各魔術師の家系は魔術刻印を継承して一族の悲願を達成する為に子々孫々に語り継いで行くものだ。
  だからこそ表で発達する科学の様に、万人に知られる事無く裏の世界で粛々と存在し続けてゆく。科学技術ほど高成長しないのは、表沙汰にならぬよう常に隠し続けているからこそだ。
  実際にお目にかかった事は無いが、イギリスのロンドンには時計塔と呼ばれるものが存在するらしい。拠点は大英博物館。魔術協会の三大部門の一角らしく、講師と生徒が存在する。
  だがそこでも、魔術師は己の研究を公表することはなく、魔術師同士の研究の交流は無いと耳にした。
  魔術とは教わるモノでも教えるモノでもない。独自に研究し、発展させていくのが雁夜の知る魔術の世界であり、頼み込んで教えてもらえるような代物ではないのだ。
  聖杯戦争において『始まりの御三家』として括られる、間桐、遠坂、アインツベルンとて、それぞれが担当する魔術の詳しい内容については別の家に教えていないのが実情だ。
  臓硯が雁夜に刻印虫を植え付けるのを承諾したのも、雁夜が間桐の魔術に精通する人間であり、間桐の血を引く人間だからこそだ。それなのにゴゴは自分の技を伝授してくれると言う。
  自分から言い出しておきながら、雁夜自身、本当にゴゴの魔術を教えてくれるとは思ってなかった。
  現実はあまりにも雁夜にとって都合が良過ぎる展開へと転ぶ。だからこそ、雁夜は自分の耳を疑う。
  「本当か? 本当に俺を鍛えてくれるのか!? 俺にお前の魔術を教えてくれるのか?」
  「いい加減、疑り深いな雁夜」
  雁夜はゴゴの言葉を聞きながら、臓硯という人外の化け物が近くにいたから疑り深くなってしまったのだと自分を思う。
  ただ、疑り深い性格は雁夜の性根と言っても過言ではないので、直す直さないの問題ではないのだ。疑り深いのが間桐雁夜なのだから、どうしようもない。
  頼む立場でありながらも、雁夜は自らをそう定め、そのままゴゴに向かって言葉を続ける。
  「いや・・・・・・、教えてくれるなら、これほど嬉しい事は無い。ただ、お前の『ものまね』と真っ向から対立するお願いだから・・・。正直、断られるとばかり」
  「俺は『誰かを鍛える』ものまねをした事がない。俺は楽しみだ、ものすごく楽しみだぞ」
  「そ、そうか――」
  顔が見えないので声音から判断するしかないが。雁夜が聞く限り、ゴゴの言葉からは楽しそうな雰囲気が微かに伝わってくる。
  そこには神秘を広める嫌悪感は無く、魔術師たちが絶対の不文律としている『神秘の秘匿』を考える気配はない。
  そこで雁夜は気付く。この世界の魔術に少しだけ足を踏み入れた雁夜と、語られた言葉を仮に全て信じるとするならば、別世界から訪れた自称ものまね士との考えは根本的に異なる、という事実に。
  ゴゴと言う存在は雁夜の考える『一般人』や『表の世界』とは異なる生き方をしており、また『魔術師』や『裏の世界』とも思想や理念が異なる。
  ものまね士ゴゴにあるのは物真似だけだ。
  人殺しは忌避すべき事だと雁夜は考える。裏の世界に生きる魔術師は表の世界に魔術の隠匿さえ行われれば人殺しであろうと容認する。だが雁夜の目の前に立つものまね士ゴゴにとっては、そのどちらも等しく関係が無いとしたら?
  まだ、ゴゴの行動理念を把握した訳ではないが。ものまねの為ならばゴゴはきっと人を殺するだろう。雁夜に淡々と告げた『お前を殺す』と言ってのけたあの言葉を偽らず、簡単に人を殺すだろう。
  また、ものまねの為なら、人を生かして救うだろう。
  その両方を体現するのが雁夜であり桜だ。ものまねの邪魔をするならばゴゴは雁夜を殺すと明言し、ものまねの為にゴゴは桜を救うと言った。おそらく、ゴゴという存在は嘘偽りなく、口にした事をやってのけるに違いない。
  故にゴゴは雁夜の願いを受け入れたのだ。それが物真似の範疇に納まるからこそ、断らなかったのだ。あくまで雁夜の勝手な想像だが、大きく間違ってはいないと思われる。
  まだ出会って一日も経過していない。ゴゴがどんな存在かなど把握しきれる訳もない。だが『ものまね士ゴゴ』が『物真似』にどれだけ心血を注いでいるかは理解させられた。
  「とにかく――。引き受けてくれてありがとう」
  今度は土下座にはならなかったが、それでも雁夜は感謝の念を胸に宿しながらゴゴに向かって小さく頭を下げる。
  雁夜の目の前に世界は大きく広がり。これまで見えてこなかった多くの選択肢が雁夜の前に開けたのを感じた。
  これは臓硯に聖杯を持ち帰り桜を間桐から解放する道筋よりも幅広く、正しい道も間違った道も増えた困難な未来だ。
  ある意味で、間桐の蟲が作り出す苦行よりも難しい。そして力の会得とは、増えた選択肢の中から選べるものを自らの力で選べるという事。
  これまでは単純に間桐臓硯から、遠坂桜を解放すれば全てが終わると思っていたが。そうならないかもしれない、と、雁夜は考えられるようになった。
  ゴゴの言った『聖杯戦争を破壊する』が、桜を救わない可能性もあると雁夜は考える。本当に遠坂桜を救うのならば力が必要だ。
  ゴゴの技を教えてくれる嬉しさと開かれた道の険しさへの葛藤。雁夜は臓硯と言う障害が無くなったことで開かれた未来の大きさに、ほんの少しだけ身震いする。
  再び頭を上げてゴゴを見ると、ゴゴは雁夜の目をまっすぐ見下ろしながらこう告げた。
  「が、まあ。今日はもう遅い。夜は更けすぎた。まだまだ話す事は山ほどあるから、続きは夜が明けてからにして雁夜も桜ちゃんも休むといい」
  「んなっ!?」
  これから先を意気込んだ所でいきなりの中止である。
  雁夜は床に付けていた手の片方が横滑りするのを感じ取り、気が付いた時には頬から床に激突していた。
  膝をついているので痛みは殆ど無いが。ゴゴの自分勝手さと言うか、マイペースな進め方に調子を狂わされっ放しだ。
  今の所、雁夜にとって不都合な状況にはなっていないが、ここ数時間で積み重ねた心労は、間桐の蟲から受けた痛みに匹敵するかもしれない。
  大体、雁夜の中にはゴゴに対する警戒心がまだ大きく芽吹いており、技の伝授をお願いしても、異質な存在が自分の家の中にいる状態に変わりは無い。
  もしゴゴの言うとおり一旦話を止めて休むにしても、ゴゴと言う非常識な存在が一緒の家の中に居て、そのまま眠れるほど雁夜は豪胆な性格ではない。
  お願いする立場に自らを置いた雁夜だったが、まだゴゴに対して信用も信頼もしていない。桜の安全の為にも、ゴゴから目を離すつもりは無かった。
  「おい、ものまね士!!」
  こんな衝撃的な事が起こりすぎたんだ、気が昂ぶって寝られるか! と続けて言おうとした雁夜だが、その前にゴゴの口から言葉が放たれる。


  「スリプル」


  その言葉がどんな意味を持っているのかを考えるよりも前に、雁夜の意識は夢の中に引きずり込まれていく。
  起こした顔は床に逆戻りして、瞼は重くなり、一瞬で視界が黒く染まった。
  眠りの魔法によって強制的に眠らされたと知るのは目覚めた後の話である。



  ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆



  Side - 間桐鶴野





  鶴野は間桐邸の中で何が起こっているのかを把握していなかった。
  雁夜と桜はゴゴが明言した『桜ちゃんを救う』ものまねの中心人物なので、必然としてゴゴの周囲に常に陣取る羽目になり、ゴゴと話さなければならない状況へと追いやられた。たとえそれが彼らの望まぬ形であったとしても、事情を知るという一点においては雁夜と桜は鶴野より抜きんでたのだ。
  いや、知らされる羽目になる。と言った方が正しいか。
  それを幸せと感じるか不幸と感じるか、理不尽と感じるか不都合と感じるかは人それぞれだが、とにかく雁夜と桜はゴゴの事情を少しだけ知り、鶴野はほとんど知らぬ状況が生まれてしまった。
  この間桐邸の中で、まともに話が通じる相手という限定でゴゴに最初に出会ったのは鶴野だ。
  臓硯は侵入者へ殺す殺されるの対処しかしなかったし、雁夜は蟲蔵の中にいた蟲に蹂躙されて話せる状況ではなかった。桜はそもそも自主的に事情を話すと状況ではない。だから鶴野はゴゴの事情を知る最初のチャンスに恵まれたのだが、鶴野はそれを自ら放棄した。
  当たり前だ。
  普段からあまり出歩かぬ間桐邸、遠坂桜を蟲蔵の中に放り込んだり食事やトイレ、風呂などの最低限の生活を送る以外はほとんど使わない場所ではあるが。それでも鶴野にとって間桐邸は生家であり住んでいる家なのだ。
  そこにゴゴと名乗った異分子が現れ、状況を一変させた。
  ゴゴは桜を救おうとしている―――。正確には救うものまねの為に『桜ちゃん』こと間桐桜を探しており、その道中で鶴野と出会った。交わした言葉は少なく、鶴野はゴゴが何者であるかなどさっぱり判っていない。
  けれど、鶴野は聞いてしまった。
  ゴゴと名乗った何者かは『間桐臓硯を殺した』と言った、それを鶴野はしっかり聞いてしまったのだ。
  表向きは間桐の当主という事になっている鶴野はその真偽を確かめる責任があり、一人の人間としても間桐という家を外敵から守らなければならないと思った。けれど、鶴野にはそれが出来ない。
  臓硯を殺したと告げ、早々と間桐桜を探しに行こうとするゴゴを止められない。
  もしゴゴの言った事が嘘ならば、あの間桐邸に侵入してきた愚か者は間桐臓硯の手によって滅ぼされる。数百年の時を生きた人外の魔術師の力は強大で、間桐に入り込んだ侵入者を黙って見逃すほどお人よしではないのだ。きっと、捕まって、弄られて、いじくられて、必要な情報を全て吐かされて、殺される。
  下手に関われば臓硯の怒りを買う可能性があり、そのまま鶴野自身が殺されてしまう可能性があった。だから鶴野はゴゴの言葉が嘘だった場合、関わり合いにならないのが得策だと考えた。
  そしてゴゴの言った事が本当ならば、今、この間桐邸の中には間桐臓硯を超える正体不明の何者かが闊歩している事になる。間桐臓硯に手も足も出ないただの人間が、それを上回る正体不明の怪物に叶う道理はない。
  立ち向かってどうなるというのか? 臓硯にすら刃向かえぬ男が、より強い存在に立ち向かえる筈はない。
  最初の邂逅は聞きたい事を聞いて、言いたい事だけを言ってさっさと居なくなってくれたのだが、あのゴゴが味方である保証はないし敵である保証もない。
  ようするに判らないから鶴野は何の行動も取れずに、自室の布団で自分を覆い隠しながらベットの上で周囲を警戒しているのだ。
  はたから見れば掛け布団が球状になって、その中央にいる鶴野が見れるだろう。
  あれが何かは判らない。それでも鶴野は、味方をしてくれる何て事は絶対にありえない、九割九分九厘、間桐に敵対する明確な『外敵』だ。と、そう考える。間桐臓硯が招き入れた外部の魔術師という可能性もあったが、それならば鶴野に一言ぐらいは説明がある筈。
  実質的な当主が臓硯の方であり、鶴野はお飾りの当主でしかない。詳しくは聞かされないとしても、『今日は来客があるぞ』ぐらいは聞かされる筈。そうでなければ、間桐臓硯が思い描く間桐のあり方に支障をきたす。臓硯の客と鶴野が諍いを起こしても臓硯には何の益もない。
  鶴野は敵でも味方でもなく賓客であるという想像を即座に打ち消し、再び周囲の警戒に当たった。
  一般人と大して変わらない鶴野程度の警戒がどれだけ役に立つかは疑問であったが。鶴野は恐ろしさのあまり、そうしなければ平静を保てなかった。
  敵か味方か判らないが、鶴野の日常を脅かす何かがいる。
  間桐臓硯という魔術師は、その性質と在り方と強大な力を知った上で恐ろしいと感じていたが、今の状況は判らないからこそ余計に恐ろしい。どちらも等しく恐怖だが、鶴野の心を削る力の強さは、今この瞬間こそが最も大きいだろう。
  もし仮に鶴野がゴゴとの対話を長引かせ、『ものまね士ゴゴ』という存在が何故間桐邸にいるかを少しでも知れたならば、鶴野の心労はいくらか軽減されたに違いない。
  しかし、鶴野はそのありえたかもしれない『もし』の可能性を自ら放棄して、嵐が過ぎ去るのを自分の部屋の中で待ち続ける選択をした。
  嫌だ、嫌だ、もう嫌だ。
  恐れが自分自身を摩耗させていき、鶴野は自分を包み込む掛け布団をギュッと握りしめる。
  そのままの状態で一分ほど経過した後だろうか。時計の秒針が作り出すカチッ、カチッ、カチッ、カチッ、という小さな音だけが聞こえる鶴野の部屋の外から、時計とは異なる足音が聞こえて来た。
  「ひぃっ!」
  コッ、コッ、コッ、と間桐邸の廊下に響く足音がしっかり鶴野の耳に届く。
  本来であれば、その足音は鶴野の知る誰か―――間桐邸の中で最も可能性が高いのは臓硯だが―――鶴野の知る誰かが部屋を訪れる時に響かせる音だった筈。
  けれど今の間桐邸の中には鶴野の知らぬ何者かがおり、もしそいつの足音だったならば、間桐臓硯を上回る力の持ち主が間桐邸を徘徊しているという予想が的中してしまう。
  何もかもが恐ろしかった。
  世界全てが鶴野の敵になってしまったかのように、この部屋を一歩出れば地獄が広がっているような恐ろしさが鶴野を包み込んでいた。
  「・・・う・・・、く」
  湧き出るうめき声は、鶴野の恐怖心を声という形にする以上の意味は無く、何の効力も持たずにただ消えていく。
  そして鶴野の恐れをそのままに、現実は新たな展開を見せてしまった。
  ギィィ、と普段なら気にもしない扉が軋む音が大きく響き、鶴野の部屋の扉を開けた者がそこに立っていた。
  そこにいたのは三時間ほど前に鶴野の部屋にやってきたゴゴと名乗った人物だ。
  色彩豊かな衣装は何も変わらず、汚れ一つ無い姿は数時間前と何も変わっていない。あるいは細部まで見れば、何かが違って見えるかもしれないが、鶴野の目には全く同じ格好でそこに立っているようにしか見えなかった。
  薄暗い間桐邸の中にあってゴゴの姿そのものが判りやすい目印になっているが、それは鶴野にとっては何の慰めにもなっていない。むしろ、目に見える判りやすい格好をしているから、『そこにいる』と見せつけられてしまい、鶴野の恐怖心を更に膨らませていく。
  未知。故に鶴野は恐れる。
  逆らおうとか、逃げようとか、行動を起こす為の意思は作り出せず。ただ縮こまって相手を見た。鶴野にはそれしか出来なかった。
  「・・・・・・・・・・・・・・・」
  鶴野の口は接着剤で固められたのではないかと思えるほどに、全く動かない。鼻が空気を欲するように呼吸しなければ、あっという間に呼吸困難に陥ってしまうのではなかろうか。
  息をするのも忘れそうな圧倒的な恐怖が鶴野を縛り付ける。
  冷静になれば目の前の人物はただそこにいるだけで、鶴野に対して何か威圧感を放っていたり、攻撃の意思を見せたり、鶴野を傷つけようとしていないと判ったかもしれないが。今の鶴野にはその判断は出来ない。
  間桐という魔術師の家に生まれながらも、鶴野の力は一般人と大差がない。だから、ただ知っているだけの一般人として、鶴野は間桐邸の中にいる侵入者を恐ろしいと感じた。
  平和を謳歌していた一般人が強盗になって硬直するかのように。
  路上を歩いていたらいきなり喧嘩が始まって恐ろしさを感じるように。
  突如発生した大地震にパニックになってしまうように。
  刃物を構えられて心拍数が普段では考えられないほど跳ね上がる様に。
  裏の世界の事情を知りながらも一般人と大差ない鶴野は恐ろしさに身を凍らせる。
  「間桐鶴野」
  「は、はい!」
  鶴野の口から出て来たのは震えた返事だったが、それが出来たのは同じような状況が前に一度あったからだ。これが最初だったならば、鶴野が返答するまで数十秒は要していたに違いない。
  その言葉を聞いたゴゴは初めて鶴野と邂逅した時と同じように、事情を知らなければ全く意味が判らない言葉を放つ。
  「俺にこの世界の事を教えろ」
  「・・・・・・・・・・・・はぁ?」
  再び行われた長い間を置いてからの呟き。これもまた鶴野の中にある慣れがそう言わせたのだろう。





  鶴野は言った。
  「この・・・世界?」
  ゴゴは返した。
  「そうだ、何でもいいからこの世界の事を教えろ」
  鶴野は続けた。
  「何故・・・・・・」
  ゴゴも続けた。
  「必要だからだ」
  その後、鶴野は『おっかなびっくり』という言葉がよく似合う言葉の応酬を何度か繰り返し、ゴゴが文字通り『この世界』に関する様々な事を欲していると理解する。
  表だとか裏だとかそういう括りではなく、広い意味においての『この世界』だ。
  たとえば、国、文化、地形、習慣、法律、宗教、食事、信仰、言語、礼儀、科学、風習、戒律、軽蔑、色彩、階級、自然、人種、星座、婚姻、差別、規則、嘲笑、人権、歴史。などなど。
  当然ながら、鶴野が知る世界は限られた一部であり、この世界の全てを説明できるほどの知識量は無い。だから鶴野はゴゴの言い分を理解すると同時に、部屋の中にあった一台のノートパソコンを使ってこの世界を説明しようと試みる。
  ゴゴの言葉に逆らおうなんて意思は微塵もなかった。
  ノートパソコン。それは始まりの御三家として冬木の地に住んでいる間桐の家において、何とも魔術師らしからぬ道具だ。けれど鶴野は苗字こそ間桐だが、魔術師ではない。
  これは臓硯が鶴野に買い与えた玩具だ。ただし、『遠坂桜を次代の間桐の胎盤とする為』という枕詞がつく―――。そしてこのノートパソコンは、間桐邸と表の世界とを細々と繋げる役目を果たしている。
  一般人と何ら変わらぬ鶴野であろうと、魔術師の素養が桁外れに大きい遠坂桜だろうと、人外の化け物の臓硯であろうと、生きればそれだけで消費と補給を繰り返さなければならない。
  臓硯には『生きた人間の肉体を乗っ取る』などと、魔術の中でも邪法になりそうな極悪な魔術を使う存在だが、奪い取った肉体を維持するためには定期的な食事が必須になる。そして鶴野も生きた人間であり、間桐の胎盤として教育するための桜も生きた人間だ。当然、食事をしなければ生きていけない。
  そこで鶴野は部屋の中に設置されたノートパソコンを使い、食料を注文して業者の人間に品物を持って来させていた。
  時折、鶴野自らが外に出て生活必需品や食料品を買ってくる場合もあるが、大抵の場合はインターネットを使うのが主流となっている。理由の大半が、臓硯のそぐわぬ事をしないように間桐の家に縛り付けられている鶴野本人の恐怖にある。
  明確にこうしろと臓硯から命令されている訳ではなく、鶴野は自主的に間桐邸の外との接点を絞っている。それは臓硯の望まぬ事をして、自分の命が危機に瀕するのが怖かったからだ。
  もし間桐邸から出て外に買い物に行った時、何かしらの理由で帰宅が遅れたりして臓硯の怒りに触れたらどうなるか? あるいは間桐邸の外に出て、臓硯の目の届かぬところで酒や女遊びなどの羽目を外し、桜の教育など、臓硯が鶴野に課している義務を怠ったらどうなるのか?
  考えるだけで恐ろしい。
  鶴野の部屋に、外界との接点となっているノートパソコンがあるのは、そうやって臓硯を恐れるが故だ。
  昨今の情報化社会により、インターネットには昔とは比べ物にならないほど、かなりの情報があふれている。時間経過と共にもっと増えていくのが予想されるが、現段階でも、鶴野が間桐邸を一歩も出なかったとしても幾らかの欲求は満たされる条件が揃っている。
  加えて、臓硯は冬木市以外に持っている霊地を他の魔術師に貸して土地収入を得ているので、間桐の中でも鶴野が使える金はかなり多い。
  あくまで鶴野が余計な事をしなければ、ノートパソコンと言う文明の利器は鶴野自身を生かす道具となっている。同時に、それが臓硯の望む『間桐鶴野』の姿であると理解しながらも、そこから僅かでもずれるのを恐れていた。
  だから鶴野は必要最低限以外に、与えられたノートパソコンを使った事がない。ちなみに鶴野の息子である慎二の海外留学の手続きなどを行ったのもこのノートパソコンである。
  「何が・・・知りたいので?」
  「出せるならまず世界地図を出せ。この星の形、この大地の大きさ、海の規模、ここがどこかを知りたい」
  鶴野は机の上に置かれたノートパソコンとそこに繋がったマウスを操作するために椅子に座る。ゴゴはその斜め後ろに立ち指示を出しており、鶴野からすればいつ後ろから攻撃されるか判らない恐怖そのものであった。
  語られる言葉は鶴野の判る日本語だが、話の通じる相手だと落ち着ける余裕は無い。ノートパソコンを開いて電源を入れる指が震え、話す言葉の一つ一つが弱弱しくなる。
  背の高さでいえばゴゴよりも鶴野の方が高いのだが、鶴野など軽く殺せてしまうであろう相手を前にして、抗う意思は鶴野の中から完全に消えてしまっている。
  後ろを振り向いた瞬間に自分を殺す何らかの攻撃が来るかと思うが気が狂いそうだ。
  前を向いたまま、後ろから聞こえてくる声に従うしかほかにやれる事が何もない。
  普段ならば何でもなく行えるブラインドタッチを行うのに数倍の時間を要し、マウスのスイッチに手を置くだけでも十秒はかかってしまった。
  何故こんな事をしなければならないのか、という疑問を考える余裕はなく。恐怖だけが、思考を埋め尽くしていく。
  震える体と聞こえてくる言葉を聞きわける為の耳、ノートパソコンに向けられたまま微動だにしない視線と鶴野の頭の中を埋め尽くす恐怖。それぞれが絡み合い、鶴野の意識を目の前のノートパソコンへと集中させる。そうしなければ狂ってしまいそうだ。
  鶴野は知らぬ事なのだが、雁夜も同じように正体不明の奇人であるゴゴを前にして恐怖を覚えていたが、雁夜の場合は『桜ちゃんを守る』という決意が心の中にあったので、その分が鶴野との対応の違いとなって現れていた。
  今だ、ゴゴが何の目的で間桐邸の中を徘徊しているかすらも知らぬ鶴野にとって、相手の言い分を撥ね退けるなどと言う選択肢は存在しない。
  臓硯を相手にした時がそうであったように、自らが生き延びるために自分より強い相手の事に唯々諾々と従うだけだ。それこそが間桐鶴野の処世術であり、自分自身を貶めて傷つける業だった。
  だから鶴野は気付かない。
  斜め後ろに立つゴゴのマントの奥から二本の腕が前に伸び、鶴野の動きを物真似して正確なブラインドタッチを行っている事を―――鶴野の恐怖が生み出す振動すらも完璧に物真似している『ものまね士ゴゴ』が、すぐ近くにいる事を鶴野は気付いていなかった。
  「こ・・・、これが。この世界の、地図です」
  「ほう。この世界はこんな形をしているのか」
  感心する言葉すら鶴野にとっては恐怖でしかない。
  恐怖が鶴野の心を埋め尽くし、体を束縛し、意識を乗っ取り、精神を犯していく。
  そして恐怖はついに鶴野の限界を超え、鶴野の意識を簡単に途切れさせる。
  心の平静を保つための失神だ。
  何が起こったか理解するよりも前に、鶴野の意識は黒一色の闇に染められた。



  ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆



  Side - ゴゴ





  ゴゴは雁夜と桜を魔法によって寝かした後、『桜ちゃんを救う』為に新たな情報を求めた。
  雁夜からある程度の事情を聴いたが、遠坂桜を救うために必要な情報はまだまだある。特に、ゴゴにとっての常識と桜にとっての常識―――この場合は雁夜の常識も含まれるが、とにかく日々の生活一つにしても違いすぎる事が多すぎる。
  魔法によって強制的に眠りの世界に落とすのは良識ある人間のする事ではないかもしれないが、ものまね士ゴゴには関係がない。だが、その『ゴゴにとっての常識』と『桜と雁夜の常識』に食い違いがあっては大問題だ。
  故にゴゴは多くの事を知らなければならなかった。ゴゴが良かれと思ってやった事が雁夜と桜にとって害悪になっては救いにはならない。『桜ちゃんを救う』ものまねの為にものまね士ゴゴは情報を必要とする。
  そこで情報源として目を付けたのが間桐鶴野だ。
  ゴゴは『桜ちゃん』こと遠坂桜を探す間に、間桐邸の中は大体回ってしまったので、間桐邸の中にいる人間が三人しかいないのは判っていた。
  そして雁夜と桜は眠りの魔法によって寝てしまい、今は雁夜の部屋にあるベッドの上に二人並べて寝かせた所だ。少々手狭で、眠りに落ちても解放されなかったミシディアうさぎが苦しそうにしていたが、数時間の辛抱なので我慢してもらう事にする。
  桜はゴゴが救わなければならない相手だし、雁夜はゴゴが物真似をする為の大本だ。寝かせてしまったので、今更起こす訳にもいかず、聞くべき相手は鶴野となる。
  そんな風に鶴野が選ばれたのは消去法だが。ゴゴにとっては間桐邸の中にいる人間の中では最も手軽に利用できる人間でもあるので、お願いする立場ではあるが命令に近い態度でも問題ないと考えた。
  結果。ものまねの為に必要だからという理由でゴゴにとっては至極当然な状況が出来上がったのだ。鶴野にとっては恐怖と困惑に満ちた不本意な状況かもしれないが、ゴゴには鶴野の都合は関係がない。
  「別名、『水の惑星』か」
  かつてゴゴがものまね士となる以前、三人の子供たちと一緒に宇宙空間から見下ろした星の姿を思い出しつつ、ぽつりと呟く。
  大陸も海の地形も大きさも何もかもが異なるが、それでも『青い星』という括りでみればどちらも巨大な星として似通った部分が見えてきた。
  ただ見るだけでは孤独は消えないので、壮大さこそ感じながらも即座へと降り立った星を再び外から見る感慨。体感時間ではそれほど昔ではないが、過ぎ去った時間は千年以上が経過してしまっている。実感は薄いが、昔を懐かしんだのかもしれない。
  そしてゴゴは鶴野の動きを物真似しながら、ノートパソコンと呼ばれた道具に関心を抱いた。
  さすがにノートパソコンはゴゴの知る世界には存在しなかったが、機械とは『人が活動を優位にする為に作り上げた、人工の道具』であり『求める結果を一定に作り出す道具』だ、と再認識する。
  かつての世界を隅から隅まで駆け抜けた飛空艇ファルコン号も、ゴゴが目覚めた時には存在しなかったガストラ帝国が魔法の力と科学を融合させて作り上げたという魔導アーマーも、今現在ゴゴの視界の中にあるノートパソコンも、それぞれがある目的の為に作られた機械で、もたらす結果は全く異なるが、それらが人の使う道具である事実に変わりは無い。
  ゴゴの子供たちである三闘神が伝えた技術ではなく、人が自分たちの為に作り出した人の技だ。
  それはものまね士ゴゴにとって物真似のし甲斐がある未知の技術の一つである。
  故にゴゴは鶴野の動きを物真似しながら、ノートパソコンと呼ばれる道具がどのようにして使われる物なのかを学び、自分の頭の中にある知識とすり合わせて機械の意味を理解していく。
  一を聞いて十を知るどころではなく。一を聞いて百を理解する。この世界でもかつての世界でも常識外れの理解力だが、ものまね士ゴゴにとってはそれこそが普通だ。
  ゴゴは目の前にある全ての情報を収集し、観察し、考察し、模倣する。
  ノートパソコンと言う機械の役目。
  間桐鶴野の動きがどんな結果をもたらすか。
  画面に映し出された検索エンジンと言うモノはどんなモノか。
  押されたボタンが作り出す結果とそこから推測される別のボタンの用途。
  それらを模倣して、模倣して、模倣する。
  そしてゴゴはその変化に気付いた。
  ノートパソコンの画面は宇宙から見た地球の姿を映し出しているが、操作して画面に出した鶴野の動きが止まっているのだ。ノートパソコンの右側に置かれたマウスの上に置かれた鶴野の右手は全く動いておらず、合わせて画面に存在するマウスのポインタも微動だにしない。
  緊張からか背筋をまっすぐ伸ばした鶴野の姿勢は変わっていないのだが、彼は小刻みに震えていたのだが、その振動がなくなっていた。
  ゴゴの体は震えの消失もしっかり物真似していたが、頭は震えが消えた意味について考える。
  人形のように固まってしまった鶴野と、それを見ながら同じ体勢で固まるものまね士ゴゴ。座っている者と立っている者違いはあるが、腕を前に出して固まる上半身の姿勢はなぞったかの様にそっくりだ。
  その状態で『どうした?』と、ゴゴが問いかけようとすると、椅子の肘かけに手を置いた鶴野が上半身を回転させてゴゴの方に振り返ってきた。
  ゴゴは物真似を一旦中断し、鶴野の顔を見る。そして、小さく笑みを浮かべながら不敵な面構えでこちらを見る鶴野の姿を見て、鶴野は気が狂ってしまったのではないかと考えた。
  マウスとノートパソコンのキーボードから手を離した鶴野の姿はただ振り返った様に見えなくもない。けれど、これまで二度ほど相対した鶴野は、笑みを浮かべてゴゴの目を見返したりはしなかった。
  慣れがあれば対人関係に変化が起こるのは判るのだが、そんな慣れはゴゴと鶴野の間には存在しない。
  何か変化を起こす劇的な要因がなければ、人は早々には変われない。けれど、ゴゴを見る鶴野の姿はこれまでにないふてぶてしさを見せており、通説を裏切っている。
  あるいはこれまでゴゴの前で見せて来た『間桐鶴野』という人間が全て演技だった可能性もある。それはそれで物真似のし甲斐があるとゴゴが考えていると、振り返った鶴野の口からある言葉が出た。
  「ゴゴ・・・・・・。ものまね士、ゴゴ。それがお前の名前か――」
  それは鶴野の声だったが、今まで聞いてきた鶴野の言葉ではなかった。正確に言えば、声の中に含まれていた恐怖が綺麗に消えていた。
  そしてゴゴはその言葉を聴いた瞬間、椅子に座ってノートパソコンを操作していた筈の『間桐鶴野』が消えている事に感づく。
  何故こうなったかは判らない。だが、間桐臓硯と蟲蔵で会った時の様に、瞬きの時間よりもさらに短い一瞬後には殺し合いに突入してもおかしくない状況がいつの間にか生まれている。
  ものまね士ゴゴと間桐鶴野、少なくとも十秒前には両者の間に行き来していた雰囲気はここまで緊迫したものではなかった。なのに今は、かつての世界で体験したモンスターと対峙している時の緊張に似た、敵を前にした時の状況に変わっている。
  ゴゴは思った。こいつは『何だ』。と。
  姿形こそ、ゴゴがものまねの元にしていた間桐鶴野なのだが。目に見えない部分―――、精神とか心か人格とか、鶴野を間桐鶴野たらしめている本質そのものが綺麗さっぱり消えているのだ。
  言葉では見えないから、説明するのは非常に難しい。けれど、ゴゴは目の前にいる何者かが鶴野ではあり得ないと確信していた。
  僅かな驚きとそれを上回る未知への探求。ものまね士ゴゴが新たな物真似を見つけた時に感じる喜びを抱きながら、ゴゴは鶴野でありながら鶴野ではない何者かに向けて問いを投げる。
  「お前は誰だ? 間桐鶴野ではないな」
  「さっすが。気付くのが早い。説明が短くなって助かるよ本当」
  ゴゴと言う存在に委縮してしまっていた鶴野の姿はそこになく、かつて共に旅をした仲間たちが見せるような気安さを見せる誰かがそこにいる。
  姿形は間違いなく間桐鶴野なのだが、そこに居るのは鶴野ではない何者かだ。
  どうして違うと判るのか? それを言葉で説明するのは非常に難しいが、とにかくゴゴには判る。だからこそゴゴは問いを投げられて、相手も間桐鶴野ではないからこそ肯定して返したのだ。
  「間桐鶴野じゃないなら名前はあるのか? 俺はものまね士ゴゴだ」
  「知ってるよものまね士。俺の名前か――。『抑止力』なんて呼ばれてるが好きに呼べ、どんな言葉でも俺を指し示す正しい言葉で間違ってる言葉だ」
  「全てを指し示す言葉ではない、という事か」
  「いや、本当。理解が早いっていいな、さすがは『ものまね士』。そっちの事情を大半は知ってるからわざわざ説明しなくていいぞ」
  椅子に座って尊大に話すその姿はゴゴがこれまで話していた間桐鶴野ではない。
  相手は正体不明の何者か。これでまともな感性の持ち主であったならば、恐れたり、敵意を抱いたり、警戒したり、困惑したりするかもしれないが、ゴゴの常識はそのどれにも当たらない。
  物真似できるだろうか? 未知と遭遇し、真っ先にゴゴが思い浮かべたのはその疑問だった。
  ものまね士ゴゴはあくまでものまね士として考え、とことんものまね士として行動する。ゴゴは間桐鶴野に見える何者かの動きを観察し、見聞し、肯定し、模倣する。
  話をしながらも、ゴゴは常に物真似を意識しながら、相手の全てを探り出そうと言葉を交わす。
  「こうして俺が出て来たのは特例中の特例さ、もしかしたら人類に歴史の中で前も次も無いかもしれない異常事態だ。俺がここにいる理由はお前に警告に来たんだよ」
  「警告?」
  「ああ。俺はお前がこの世界に現れた時から観察していた。お前が蟲蔵の中に現れた、あの時、あの瞬間。あのタイミングから俺はお前の事をずっと見ていたよ、ものまね士ゴゴ」
  ゴゴはその言葉を聴いて、相手は鶴野の意識を乗っ取って別の場所から話しかけている訳ではなく、言葉通り、あの瞬間にものまね士ゴゴの存在を認め、ゴゴの知覚出来る外から覗いていたのだと知る。
  疑り深い人間ならばその言葉を嘘だと決めて否定するかもしれない。だが、ゴゴには判る。言葉で説明するのは非常に難しく、あえて言うならば直感としか言いようがないのだが、とにかくゴゴには相手が嘘を言っていないのが判るのだ。
  いや、嘘で自らを偽る必要が無い。と言うべきだろうか。
  神の名を冠した子供達を生み出した自分と同類だ、すなわち『人知を超えた何者か』という事。
  相手は椅子に座る鶴野の体で話しているので、ゴゴを見上げる構図だが。嘘で相手を陥れる必要を全く感じない絶対的高位からの宣言を行っている。
  その予想がもし当たっていたとしても、ゴゴには敬服したり畏怖しようとは欠片も思わない。ただ、ものまね士は相手を物真似できるかどうか考えるだけだ。
  「この間桐邸だけじゃなく、ずいぶんと広い範囲を見れる目を持ってるんだな。今は俺と話す為に鶴野の体を使って、存在を固定しているのか」
  「言う前に判られると中々気恥ずかしいな、まあ、間違ってないけどよ」
  ゴゴは観察する。
  相手を見る。
  言葉を一語一句漏らさずに全て聞き入れる。
  「警告の前に説明しておくと、人は俺の存在を『集合無意識によって作られた祈り』や『星自身が思う生命延長の祈り』と説明している。今回、間桐鶴野がそうなりたいと願った形が今の俺を作ってるから、集合無意識の方だろうが。以前出て来た事があるかもしれないし無いかもしれない。ただし、前回や次回があったとしても、それは『間桐鶴野としての俺』とは同じだけど、全くの別人だ。そして、俺の役目は『抑止力』の名の通り、世界を滅ぼす要因が発生したらそいつを抹消する事。目的は世界を破滅から救い延長させることだな」
  「大層な役目を持った存在がこの世界にはいるんだな。あの世界でもお前の同類が居ればケフカに世界を壊される事なんて無かったろうに。で、俺の前に現れた理由はその世界を滅ぼす要因が俺だから、か?」
  「そうだ。その身一つで世界を滅ぼしかねない存在が外の世界からこの世界に舞い降りた。お前の事だよ、ものまね士ゴゴ。別の呼び方をするなら『かつて神を生み出した超常現象』か? お前という存在が発生してしまったから、俺の役目が果たされようとしているのさ。だから俺はここにいる、間桐鶴野の意識しない状況でありながらも、間桐鶴野としてここにいる」
  これでもし雁夜が同じ状況に放り込まれれば、自分を抹消すると言ってのけた相手に恐れおののくだろう。
  例え姿形が見知った相手だからと言って、いや、見知った相手だからこそ目に見えぬ形での変質は恐怖を呼び起こすのに十分だ。たとえ、気が触れた、と起こった状況への納得が出来たとしても、戸惑いまでは隠せない。
  ゴゴだからこそ、何も気にせずに話を続けられる。
  感情はあれど、この程度の事ならば驚くに値しないと先を促す。
  「ならば何故、俺を抹消しようとしない? 何故俺に話しかける? 『間桐鶴野』よ」
  「違うと判ってるくせにまだ鶴野の名で俺を呼ぶか? まあ、便宜上この体の持ち主だし、鶴野に同化して理想を体現してるようなものだからそれほど間違っては無いが、どうにもむず痒い」
  「好きに呼べと言ったのはお前だろう? 名前は大切だ、それがどんな名前であろうとも、存在の証明をする一つの指針だからな」
  「俺にとっては名前なんぞどうでもいいがな。そうそう、お前を抹消しない理由だったな。簡単だ、今のお前なら問題ないからだ。力を限りなく抑えてるお前は、俺の敵にはならない。あの蟲爺を殺せるだけの全力程度、お前にとっては指先を軽く振ったのと大差はないだろ? この状態なら、今のままのものまね士ゴゴなら『世界を滅ぼす要因』にはならないのさ」
  「気付いてたか。まあその広く見える目なら納得だ」
  鶴野に見えるけれど決して違う何者か。抑止力と名乗った者の口から語られた言葉は、ゴゴに驚きを与えた。
  今までこの世界でゴゴに出会った者達は、等しくゴゴの力の一端に触れれば、それを強大な力だと考え、全力だと誤解した。
  確かに間違ってはいない。だが合ってもいない。
  「お前の本来の力を言葉通りに『全力』で『本気』に『全開』すれば、この星が滅ぶ。今は手加減してるなんて、俺からすれば当たり前すぎて判る必要のない必然だ、説明されるまでもない」
  確かに目の前にいて間桐鶴野の体を使っている抑止力の言うとおり、ゴゴが間桐臓硯を殺した時に出した力は『全力』ではあったが、『相手を殺すものまねに必要な力』で制限した力だ。
  雁夜はその力ですら人知の及ばぬ途方もない力と判断してるようだが、ゴゴにとっては極限まで力を抑えた状態での破壊である。
  星の表面を撫でて、一つの世界を崩壊寸前まで追い込んだのが三闘神の力であり、今はゴゴの中に還っている。
  雁夜にはゴゴが間桐邸の蟲蔵に来るまでの話をしたので、少し考えれば、ゴゴが本気ではない事は判る筈なのだが。まだ沢山の出来事が起こり過ぎてそこまで理解出来ていないのだろう。
  ゴゴが物真似を行う為に相手を観察している様に、相手もまたゴゴを観察している。ゴゴが目の前にいる存在を『人知を超えた何者か』だと認めている様に、相手もまたものまね士ゴゴを強大な敵として認めており、今の状態を手加減した状態だと見切っていた。
  まずゴゴに確認するのではなく、いきなり断言するのがそう思ってる証拠だ。そしてゴゴはそれを否定できる材料を持っておらず、全てが正しいと認めている。
  そこには人の力が及ばぬ人知を越せた世界に生きる者同士でしか分かり合えない共感があり、ゴゴは鶴野の後押しをしている抑止力が自分を殺す敵だと認めながら、それでも人が言う『親しみ』を感じていた。
  世界を救うものまねを行う為に強引に同行した仲間達にはあまり感じなかった気持ち。仲間意識はあったが、同類だとは思えなかった彼らには抱けなかった気持ち。
  間桐雁夜が願い、遠坂桜を救うと言うものまねの為にも抱かなかった気持ち。教えを乞う為に自らをゴゴの下に位置づけた雁夜にも、そもそもゴゴを知ろうともしない桜にも思えない気持ち。
  ゴゴは目の前にいる存在を敵と見定め警戒しながらも、ずっと話していたい衝動に駆られた。
  「このまま無作為に力を使い続ければ、いつか俺とお前は戦う事になりそうだからな。あるいはその余波でこの世界が壊れる可能性もある。だから、『あまり好き勝手にやるな』と注意しに来たんだよ。俺は戦闘狂じゃないし、好んで戦いたくもない。必要なら誰であろうと抹消するが、お前だってものまねする為にはこの世界が必要だろう? 戦えばもちろん俺が勝つが、俺たちが戦ってこの星が滅んだら何の意味もない、だからそうならないようにしたいのさ。その時、俺はきっと星が思う祈りとしてお前を殺すことになる」
  「大した自信だな、戦いになって俺が真に本気を出せば、お前が勝てると思うのか? まあ、俺も俺の為のものまねを邪魔されるのは本意じゃない。今の状態が警告で済むのなら、今の状態での『全力』を行い続けるだけだ。本気の全力全開とは程遠いが、それならそれで物真似のし甲斐がある」
  ゴゴも抑止力も自分が負けるとは微塵も思っておらず、どちらもが戦えば必ず相手に勝てると確信していた。
  ただ、それはどちらの力も強大過ぎるが故に相手と自分との強さを推し量れないと言うジレンマもある。
  圧倒的に力の差があればわかりやすい。しかしゴゴには相手の力が自分同様に大き過ぎて把握しきれないのだ、自分と同等かそれ以上。戦い方によってどんな強敵だろうと殺せる自信はあるが、必ず勝てると思いながらも、それが出来ないかもしれないと考えている。
  ただし、出てくる言葉は絶対的強者のみが持つ高みからの宣言だ。そして、ものまね士ゴゴにとっては物真似こそが第一なので、勝つか負けるかなんてのはどうでもよかった。
  「いいだろう。お前の口車にとって、とりあえず制限のかかった今の状態でしばらく物真似をするとしよう。必要ならばどんな敵だろうと滅ぼしてやるが、まだ『桜ちゃんを救う』ものまねは始まったばかりだから、世界が壊れるのは少し困る」
  「そうこなくちゃ。で、それはそれとして、もしかしたらお前が救おうとしている遠坂桜が俺の後押しを受け、お前という滅びの要因を排除して英雄と呼ばれるようになるかもしれないぞ。それはものまね士ゴゴにとっての『救い』になるのか?」
  「誰の体でも扱えるのは便利だな。まだ判らないが、桜ちゃんがそう願うならそれも考慮しよう、『桜ちゃんを救う』ものまねがそうなるならば、俺は嬉しい」
  「そうか。まあ、俺も必要があればお前を殺す為に規模を膨らませてもう一度出てくるだけだ。こうしてお前と話しが出来ている時点で『抑止力』は既に働き始めているから、今では無いにしても、それほど遠くない未来にお前を殺す時が来るかもしれない。無いなら無い方がいいんだが、必要があれば俺はお前の前に立ちふさがってお前の存在を消し去るだけだ」
  「そうか、お前は俺を消そうとしているのか。ならその時、俺は『お前を消す』ものまねをするとしよう」
  「その前に間桐鶴野じゃない俺がお前を消すさ。今の内に覚悟しておくんだな、ものまね士ゴゴ」
  二人とも決して自分が負けるとは思っていない自信に満ち溢れた言葉で話し続ける。
  ただし、一応この場での戦いが起こらないと言う暗黙の了解が両者の間に生まれたので、ゴゴは抑止力に向けた警戒心を解いていった。
  敵を前にした状況で気を抜くのは暴挙に思えるが、ゴゴは相手の言葉が嘘ではないと信じている。
  親しみが作り出す信用とでも言えばいいのだろうか? ゴゴ自身、うまく自分の感情を説明は出来ないが、それでもこの場は戦わないと自らを戒めた。
  そして武力による殺し合いが無いのならば、後は物真似の為に言葉による舌戦を行うのみだ。
  「ところで鶴野。街一つ滅ぼす力の行使はお前と戦う事になるのか?」
  「ならない。多くて、一万人が死ぬ程度ならば、大規模な自然災害で死ぬのと大差はない。今の世の中で起こってる紛争地帯での死人を数えれば、街一つぐらいは軽く吹き飛んでるのが実情だ。ただし、力の行使の方法によっては戦う事になるかもしれないから、そこは注意すべきだろう」
  「国一つ滅ぼす力の行使はお前と戦う事になるのか?」
  「国の規模にもよるが、かなり高い確率で戦う事になるだろう。さすがにそれは『やり過ぎ』になる。たとえ、どんな方法であったとしても、それだけ大きな力ならば人目を引いて、世界の破滅を引き起こす引き金になりかねない。その場合は事を起こした瞬間に俺が現れて、秘密裏に存在を抹殺するかもな」
  そこまで言い切った鶴野でもあり抑止力でもある存在は、これまで腰かけていた椅子から立ち上がってゴゴに相対した。
  鶴野の身長はゴゴよりも若干高いので、ゴゴからは見下ろされる状況だ。
  何故立ち上がったのか? そんな疑問が少しだけ頭をよぎるが、そこから警戒や闘争の意思が芽吹く事は無い。
  ただ相手の目を見て話を続けるだけだ。
  「ようはやり方の問題だ、既に間桐雁夜の口から少し聞いてるが、裏の世界に跋扈する魔術の世界は表の世界に出来るだけ関わらないように組み立てられている。どれだけ表にとって非常識な状況になろうとも『納得できる理由』を用意できれば、それは単なる表の世界の出来事になる。現在の世界を延長させることこそが俺の目的だから、やり方さえ違えなければ、国が一つ滅び数百万人の人間が死のうとも俺は出てこない場合もある。時間とともに発展した表の世界にもそれが可能な兵器はあるからな、近頃は破滅の線引きが昔に比べてかなり緩くなった」
  ゴゴは相手の話に耳を傾けながら、警告と言う割にずいぶんと色々と話してくれるな、と考える。
  「それに延長させるべき『現在の世界』とは常に流転するあやふやで、形があるように見えて、形のないモノだ。確たる証として『こうするべきだ』なんてものは最初から存在しないのさ。こうしてお前と話している『間桐鶴野の体を借りた俺』も、次にお前と会ったときは別の何かに変わっている。だからお前が俺と戦いたいなら、お前の望むとおり動き回り、俺が抹殺すべき対象になればその瞬間から殺し合いの始まりだ」
  もしかしたらゴゴが相手に親しみを感じている様に、抑止力と名乗った相手もまたゴゴに対して友好の様な何かを想っているのかもしれない。
  もちろんそれはゴゴの勝手な想像だ。彼が言った通り警告の為だからこそ懇切丁寧に説明している可能性だってある。
  三闘神と言う神の名を冠する者達を生み出し、強大な力でもって大抵の事は出来るものまね士ゴゴだが、今現在相手の心の奥底までを見通すような技術は無い。
  あるいはそう言った技を物真似すれば出来るようになるかもしれないが、今はまだ出来ない。
  ゴゴは想像し、観察し、相手の全てを知ろうと思い、目の前に立つ者を物真似しようとする。
  「間桐臓硯を殺す時――、いや、蟲をけしかけられて戦い始めた時。お前は蟲蔵の中を覆う結界を張ったな?」
  「前の世界で、モンスターと戦える者なら、誰でも等しく使えた力だ。俺の仲間は全員使えたぞ。そんなに珍しいものじゃない」
  「ここの世界にとってはそれだけでもとんでもない力さ。結界内で敵と味方に区別された者以外は攻撃しても破壊できないなんて、物理法則を完全に超越している。あれを破壊するとなると対人兵器じゃ不可能だ、それこそ町一つ呑み込むぐらいの破壊じゃないと難しい」
  「その言い方からすれば、あの中で戦う限りは特に制限はないらしいな?」
  「そうだな。あそこはこの世界とは別の空間を完全に切り分けて作られた『異界』のような場所だ。隔離された空間で行使され、そこで消滅する力なら、世界に与える影響は限りなくゼロに近い。だからお前が間桐臓硯と戦っている時に、奴は俺の後押しを受けられず消えていった。そうでなければ、間桐臓硯は英雄になれたかもしれない。惜しい事だ」
  ゴゴはその言葉を聴きながら、これまでに語られた内容と照らし合わせ、鶴野の体を使う抑止力と名乗った誰かは誰であっても何であっても、世界を滅ぼす存在を消滅させられるのならば、何にでも力を貸すのだと知る。
  つまり逆に考えれば、誰かか何かに力を貸さなければ世界を滅ぼす要因を排除出来ない、という事。抑止力という存在するのか今だ判らない不確かなモノだけでは敵の前には現れられず、何かを介する必要がある。
  それがどんな意図をもって行われ、どんな法則によって培われ、どんなやり方で実現されているのか見当もつかず、今だ物真似する事が出来ない。
  何らかの媒介が必要だと判ったのは収穫だが、それでも相手の強大さも一緒に再認識させられたので、先行きに暗さを思い知らされるばかりだ。
  もっとも、それすらもゴゴにとっては物真似の対象なので、ゴゴの口は出てくるのは心の中に浮かんだ一抹の恐れを完全に無視する言葉ばかりである。
  「バトルフィールドを展開すれば力に制限はない、か。それはいい事を聞いた。もしかしたら、バトルフィールドはあの世界の抑止力だったのかもしれないな」
  「判ってると思うが、剣術、武術、暗殺術のような『人の力でたどり着ける領域』の行使は問題ない。オドと呼ばれている生物が生成できる魔力とは違い、オーラキャノンは気を集めて放つ技だ、あれは魔術と違って超能力に近い。あの程度の出力ならば結界の外、お前の言葉なら『バトルフィールド』か? そこ以外でも問題ないぞ」
  「だろうな。あの程度で『世界を滅ぼす力』何て言われたら、マッシュと奴の師匠のダンカンへの侮辱だ」
  相手と殺し合いを行う事に対して臆している訳ではない。ただ、ものまね士ゴゴとして物真似を行えなくなるのが困るからこそ、こうして話をして情報を入手している。
  舌戦の中で情報を得ながらゴゴは考える。
  自分が前の世界で仲間達から物真似で得た技術の中で、世界を滅ぼす要因になりそうなモノとそうでないモノを振り分けていった。
  そして大半はバトルフィールドの外であろうとも人の目に付かない様に行使して、しかも今の手加減した状態での全力ならば、特に問題ないだろうと結論付ける。
  もし炎の初期魔法『ファイア』だとしても、三闘神の力が戻った今のゴゴが真に本気で全力で全開で使えば、間桐邸どころか家の五十戸ぐらいは楽に包める大火災を生み出してしまう。おそらくそれこそが今は鶴野の体を使っている抑止力との戦いの引き金になるのだろう。
  ゴゴは新しい遊びを見つけた時に似た嬉しい気分を味わい、喜びを含みながら相手に向けて言った。
  「今は『桜ちゃんを救う』ものまねをしているが、それが終わったらお前のものまねをするのも楽しそうだ。こうして話してる間に相手の力量を測り切れないなんて、初めてだ」
  「抑止力を真似るか。お前にはそれが出来る力もあるし、御同類が増えるのも中々面白そうだ。お前を消滅させる時がその時だろうが、もし残れたら好きにすればいいさ」
  「好きにしない時なんて今まで一度も無かったよ」
  「それはそれは――。さて、楽しくて面白い話はそろそろ終わりの時間だな、この体の本来の持ち主に限界が来る」
  鶴野の体を使い、けれど決して鶴野ではありえない抑止力はそう言うと、ゴゴの真正面に立っていた場所を動いて壁際にあるベットへと向かった。
  間桐鶴野の体を使ってゴゴと話す時間はもう終わってしまう。ゴゴの中の直感がそう事実を受け止め、理解へと到達する。
  まだ聞き足りないと思ったが、必要最低限の情報は得られたので、引き留めるような事は言わなかった。
  そもそもゴゴがそうであるように、相手もまた自分が言った言葉を覆すような事は絶対にしない。そう確信できる実感がゴゴの中にはある。
  何を言っても決めた事を覆させることは出来ない。それが出来るとしたら、力で相手を屈服させた時だけだろう。『そろそろ終わり』と言ったなら、その通りになるだけだ。
  「制限時間付きで意外と短い。拍子抜けだぞ『抑止力』」
  「間桐鶴野は知識を持ってるだけで魔術回路もないただの人間だぞ? お前と殺し合うなら、それにふさわしい誰かの背中を押して殺してやるよ」
  「そうなったら全身全霊、全力全開でこの星ごと殺してやろう。お前を理由にして、星の表面を撫でて数億の人間が死に絶えるのも楽しいかもしれん」
  「その前にお前を消すから不可能だ、『ゴゴ』」
  ゴゴも相手も互いを敵と認め、出てくる言葉は一触即発の状況ばかりを作り上げていく。それでも決して武力を使っての殺し合いにはならず、今この瞬間だけは言葉だけがそれぞれの武器であった。
  「またな。ものまね士」
  「ああ、またな――。次会う時にどちらかが居なくなるのが残念だ」
  淡々と言ってのけた言葉に余韻は無く、感情のこもらぬ言葉は別れの挨拶には到底聞こえぬモノだった。
  それでも鶴野の口から告げられた言葉とゴゴの口から放たれた言葉は一つの区切りをつけてしまう。
  ベットへと移動した鶴野は別れの言葉をきっかけとし、開かれていた目が閉ざされ、四肢は力を無くし、体は布団の上へと倒れ込む。
  出会いが突然ならば決別もあっさりとしており、言葉の渦が蠢いていた鶴野の私室は一瞬で静寂を取り戻した。
  ゴゴは動かなくなった鶴野への興味を無くし、天井へ―――何もない虚空へと視線をやる。
  最初は判らず、今もゴゴの認識できる中にはいないが、間違いなく『抑止力』と名乗ったモノはここにいる。見えないだけで確実にこの世界のどこにでも存在するのだ。
  「本当に・・・、物真似のし甲斐がある。この世界は宝の山だ」
  ゴゴは喜びを噛みしめながらそう呟いた。
  そしていつまで何もない場所を見つめていても事態は進行しないので、数秒ほど天井を見つめるが、それ以上は何もせずにこの世界を知る為の行動を再開した。
  鶴野はベットの上で横たわっているので新たに何かの情報を聞き出すことはできない。そこでゴゴは少し前まで鶴野が座っていた椅子に腰かけると、鶴野がやっていたノートパソコンの操作を物真似して、指をキーボードの上において片手をマウスに伸ばす。体格の違いと姿形の違いは合っても動きそのものは鶴野を完全に模倣していた。
  二十分も必要とせず、ノートパソコンを道具として扱う意味を理解したゴゴは、いくつかのアプリケーションの使い方こそ判らずとも、検索エンジンを起点にして多くの情報を仕入れられるようになった。
  ページにある振り仮名の書かれた漢字を見て、模倣する。
  料理の動画を配信しているページを見て、模倣する。
  観光名所を説明したページに書かれた世界各地の名所を見て、模倣する。
  文字だけしかない六法が書かれたページを見て、模倣する。
  ものまね士ゴゴは目から取り込む情報の全てを模倣する。
  一台のノートパソコンが生み出す多くの情報を物真似して、物真似して、物真似して、ものまね士ゴゴはその全てを自分の中へと取り込んでいった。



  ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆



  Side - 間桐雁夜





  「ん・・・・・・む・・・・・・」
  眠りから目覚めた雁夜は窓から差し込む太陽の光から、朝が来たのだと理解する。
  夜の暗さを消し飛ばす人工の光ではない。間桐と言う名を意識した後の雁夜には『心地よい朝』なんてのは無縁であり、太陽が差し込む光は所詮時間経過を伝える為の一つの指針でしかない。
  自ら生きる楽しさを一つ放棄していると判っていたが、それでも雁夜は太陽の暖かさに心地よさを覚えられなかった。
  もしかしたら、雁夜の幼馴染である禅城葵が遠坂葵となった瞬間に、世界が色あせて見えるようになったのかもしれないが、今の雁夜にはどうでもよかった。
  「あさ・・・か・・・」
  目覚めと同時に声を出しても、雁夜の感情は決して揺るがない。むしろ普通の人間ならば差し込む光の暖かさに心地よさの一つでも思えるかもしれないが、揺るがぬ自分の感情の希薄さに嫌気がさすだけだ。
  今いるのが間桐邸の中にある自室のベッドの上だと認め、雁夜は掛け布団をどけて体を起こそうとする。けれど、その道中、自分の身体に普段とは異なる加重がかかっているのに気が付いて動きを止めた。
  何かが腕を掴み、横腹を軽く突いている。
  寝起きで満足に動かない頭が何とか状況を理解して、そのまま重みがある場所へと視線を向けた。
  どうやら掛け布団に包まれた部分にそれはあるようで、雁夜は荷重がかかっていない方の手で布団を剥ぎ、そこにある何かを見た。
  「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・桜、ちゃん?」
  そこには目を瞑り、雁夜の腕に手を伸ばしている桜がいた。
  ついでに言えば、現れてからずっと桜の腕に抱かれ、今もまた桜の手と雁夜の腕に挟まれて身動き取れないミシディアうさぎの姿もあったりする。
  腕にかかる加重は桜のもので、横腹にぶつかっているのはミシディアうさぎの帽子だ。
  目視での状況確認は出来たが、何故こうなっているのかが判らずに雁夜は混乱へと追い込まれていった。寝起きの頭ならなおさらだ。
  桜の名を呼びながら、片手はそのままに空いた手は掛け布団を剥いでいる。その状態で硬直してしまい、長い長い沈黙を作り出しながら、視線は桜とミシディアうさぎに固定されてしまった。
  何が起こってこうなったのか?
  何がどうしてこんな状況になったのか?
  そもそもどうして自分は布団で横になっているのか?
  数ある疑問が雁夜の中を駆け巡り、ようやく蟲蔵でものまね士ゴゴに頭を下げた事実が雁夜の中に戻ってくる。
  わざわざ蟲蔵から移動させて部屋のベットに寝かせるなんて親切な事をしてくれる人間が、間桐邸の中にいない事は知っている。ならば、今の状況はものまね士ゴゴの仕業だと考えるべきだ。
  硬直したのは一分か、二分か、それとも五分か、十分か。
  納得できる答えに雁夜が辿り着くと、それに合わせて部屋の戸が開いてものまね士ゴゴが姿を見せた。
  もしかしたら、ゴゴが姿を見せるのが先で、姿を認めた途端に『こいつの仕業だ』と理由が後からやってきたかもしれない。
  とにかく雁夜は桜とミシディアうさぎと一緒に同じ布団の中で眠り、そこから目覚めてゴゴと相対する機会に恵まれた。
  「起きたようじゃな雁夜。もう昼近いゾイ、早く起きねばせっかく作った朝食が覚めてしまうゾイ」
  「・・・・・・・・・何だ、その喋り方は?」
  「俺の仲間に『ストラゴス』という爺さんがいてな、あいつの喋り方の物真似だ」
  雁夜の言葉を挟んで放たれたゴゴの口調は前と後ろとで全く異なっていた。
  もちろん同じゴゴの口から放たれているのだから、聞こえてくる方向は一ヶ所だ。それでもあまりにも自然に、それでいて違いすぎる話し方をされたので、聞いていた雁夜はそれぞれが別人の声だと言われても納得してしまいそうになった。
  出てくる場所は一緒にくせに、声の音域が、口調が、話す時にその人間が持ち合わせる雰囲気が、何もかもが違い過ぎるのだ。
  こいつはどれだけ多芸なのか。
  いや、そもそもゴゴが行える『ものまね』の範疇は、雁夜の考える『物真似』とは一線を介しており。人や動物の声や仕草、様々な音、様々な様子や状態を真似するのではなく、別の何かに変わっている様に思えてならない。それは物真似という言葉で括れない、あまりにも異質な変化だった。
  それこそがものまね士ゴゴ。
  寝起きの頭ながらも、頭痛がしそうな様子を見せられ、雁夜は布団を剥いだ空いた手で頭を抱える。
  「・・・・・・何で、ここに桜ちゃんがいて、俺と一緒の布団の中に入ってるんだ?」
  「大きなベットだから一人眠るも二人眠るも同じ事。そして子供は親と一緒の布団で寝るそうじゃ。この家で雁夜が親代わりのようなもんなら、大した違いは無かろう?」
  「そういうのはもっと小さい子供までだ。桜ちゃんの年齢で親と同じ布団で寝るのは珍しいんだよ! それから俺みたいなのが親代わりになれる訳がないんだ!!」
  「なんと、そうじゃったか。ならば今度からはこの部屋にベッドを二つ並べて寝かせる事にするゾイ」
  「人の話を聞けっ!!」
  全身を衣装で覆い隠しているからこそ、口調と纏う雰囲気が一致するならばそれほどおかしくは無い。それでも雁夜にとってゴゴは若い男の印象が強かったので、今の老人を思わせるゴゴには違和感しか感じなかった。
  何をとち狂っていきなり老人の物真似をし始めたのかは判らないが、ろくでもない事を考えているのは間違いない。
  二人の間を喧騒が行ったり来たりしているのだが、雁夜のすぐ横にいる桜が起きる気配はなかった。どうやら昨日の出来事で反応こそ少なかったが、見た目とは裏腹に、長い休養が必要になるくらいすり減らされたようだ。
  反対に、雁夜の横っ腹を帽子で小突く形になっていたミシディアうさぎは、ゴゴが登場したとたんに目を開いて雁夜の顔を見つめている。
  言葉も鳴き声もなかったが、何となくその顔が『うるさい』あるいは『雁夜と桜に挟まれて苦しい』と言っている様に思えた。
  「で? ストラゴスって爺さんの物真似をしてる理由は何だ? なんでいきなりそんな事をし始めた」
  雁夜は一瞬、昨日頼んだ鍛錬の一環なのかと思ったが、そんな筈はないと自分を戒める。
  「この国には戸籍と言うのがあってな、それが本人を証明する一つの指針になっておるんじゃゾイ」
  「言われるまでもなく俺にとっては常識だ。で? それがどうした?」
  「当然じゃがわしにはその戸籍が無い。じゃが、都合よく戸籍をもって、いなくなった老人が一人おる。これを利用しない手はなかろう」
  「・・・・・・・・・・・・・・・おい、まさかお前」


  「俺はものまね士ゴゴ。じゃが、これから外を出歩く時、わしは『間桐臓硯』を名乗る事にするゾイ」


  「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・冗談だろ?」
  まだ正常に動いているとは言い難い寝起きの頭の雁夜。
  考えるのは不向きな状況で聞いてしまった衝撃的な言葉に対して、そう呟くしかなかった。



[31538] 第4話 『ものまね士は魔石を再び生み出す』
Name: マンガ男◆da666e53 ID:ac86df83
Date: 2012/07/14 00:33
  第4話 『ものまね士は魔石を再び生み出す』



  ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆



  Side - 間桐鶴野





  鶴野は何が起こっているのか判らなかった。
  ずっと臓硯の指示で動いでいたお飾りの当主ではあったが、鶴野は雁夜が家出していた年月を間桐邸で過ごし、生家としてずっとずっと間桐邸で生き続けてきた。
  鶴野にとっては安心なんて言葉とは無縁の間桐邸だが、それでも間桐邸は最後に残った拠り所でもある。鶴野にとっての生家である。
  そこに突然入り込んだものまね士と言う異質な存在。
  ただいるだけだったとしても、『自分の家に見も知らぬ他人がいる』という状況が恐ろしくて恐ろしくてたまらない。
  どれほど外道な行いが日常と化していようと、間桐邸は鶴野の日常を作り出し、臓硯の機嫌を取り続ける限りは外敵とは無縁だった場所。だが、今現在、そこには臓硯すら軽く捻り潰す強大な敵が、我が物顔で居座っている。
  これが表の世界に生きる普通の人間だったならば、警察に電話したりして自分の家にいる異邦人を撃退しようと考えるかもしれない。だが鶴野は何かの行動を起こして、ゴゴと名乗った化け物の怒りを買うのを恐れ、何も出来ない。
  「・・・・・・・・・・・・」
  自室のベッドの上で目を覚ました時、鶴野は自分がいつの間にか眠っていた事を知った。
  そしてスクリーンセーバーが動いたまま、稼働状態で放置されたノートパソコンを見て、昨晩起こった出来事が夢ではないと思い出してしまったのだ。
  もしかしたら緊張のあまり気絶してしまったのかもしれないが、ゴゴの姿が既に無く、必要な情報とやらを得て鶴野の部屋から出て行ったのは判った。
  けれど、怪物の姿が目の前に無いからと言って、それは全く鶴野の安心には繋がらない。むしろ、間桐邸の中にいると、どうしようもなく判ってしまうからこそ、安全地帯の消失に恐怖しか覚えられなかった。
  何故、こんな事になったのか? 何故、こうなってしまったのか? 考えても答えは出なかった。そして鶴野が今、置かれている状況もまた、考えても答えの出ない摩訶不思議な状態だった。
  「・・・・・・・・・雁夜」
  「・・・・・・・・・・・・何だ、兄さん」
  「いや――、何でもない・・・・・・」


  何故、自分は間桐邸の食堂で、雁夜どころか桜とすら同席しているのだろう。


  鶴野には何が起こったのかさっぱり判らなかった。
  目覚めてからベッドの上で恐怖に震え、夜の闇に怯えながら布団をかぶって丸まっていた時と同じ状態を作り出して、自分の殻に閉じこもっていた。
  そうしていたら、鶴野の日常を脅かす怪物ことものまね士ゴゴが部屋の中に乱入してきてこう言ったのだ。
  「鶴野、食堂に来い。朝食にするぞ」
  「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・はぁっ!?」
  鶴野にとっては青天の霹靂。しかしものまね士ゴゴにとっては、相手がどう思おうと覆す気のない命令のようで、一言だけ告げてからさっさと部屋からいなくなってしまった。鶴野の返答も、突然の言葉を理解する猶予も待ってなかった。
  現れて、声をかけて、すぐ消える。
  ゴゴが居なくなった事で鶴野はいっそのこと全てが夢だったと思いたくなったが、疑問にこそ思っても言葉それ自体はしっかりと聞いてしまった。
  そして自分がどうしようもない弱者だと理解している鶴野は、逆らおうと言う選択肢も、聞かなかった事にしようと言う選択肢も持てなかった。
  だからどれだけ不可思議で奇妙奇天烈で脈絡のない命令であろうと、それを聞いてしまったからには従うしかない。
  そして鶴野はおっかなびっくり部屋を出て、常に周囲に気を配りながら、殆ど使わない間桐邸の食堂へと到達出来た。
  つい先日まで、何の気負いもなく歩けていた生家が、今や紛争地帯の地雷原を進むような危険地帯に変わり果てたのだ。
  そして鶴野は食卓の椅子に座って、食事が来るのを待っている様にしか見えない先客を見て。何故、こんな事になってしまったのだろう? どうして、こうなってしまったのだろう? と、もう一度、今の状況の理不尽さに疑問を覚えた。
  そこに居たのは弟の雁夜だった。
  そして遠坂から間桐へと養子に出された、桜もいた。
  二人は入り口が見える位置、つまりは鶴野にとっては丁度相対する場所に腰かけており、直方体の食卓に並んで座っている。
  当然、食堂に姿を見せた鶴野とは視線が合ってしまい、同じ間桐邸に居ながらほとんど言葉を交わさない三人が同じ場所に集まったのを自覚させられた。
  目が合った後に生まれた空気は気まずいなんて言葉では済まされない。叶うならば、即座に転進して自分の部屋に戻りたい衝動にかられた。
  桜を蟲蔵に放り込むのが鶴野に与えられた命令であり、それは『間桐の教育』という名の『子供への虐待』だった。
  臓硯は嬉々として教育という言葉を使っていたが、鶴野は決してそんな事は言えなかった。ただ桜への虐待を行う片棒を担いでいると自覚しながらも、臓硯が恐ろしくて命令に従って来た。
  だから鶴野は桜の目が『何で、蟲蔵に連れて行くの?』と責めている様にしか見えなかった。言葉にはされず、時折ジッと見つめられるだけだが、鶴野はそう思えてしまうのだ。
  そして雁夜もまたそんな鶴野の行いを知っているだろうから、鶴野を見てくる目が『この外道が!』と蔑んでいるように思えてならない。
  更に言うならば、弟とは言っても、雁夜とは十年以上口をきいていないので、ほぼ赤の他人のようなものだ。
  同席などしたくなかった。しかしものまね士ゴゴが鶴野に命令したのならば、それを聞くしかない。
  結果、出来上がったのは食卓を囲んだ鶴野と雁夜と桜―――。そして食卓の下で遠坂桜の足元にいる、うさぎに見えなくもない奇妙な生き物が同席する理解不能な状況だった。
  「・・・・・・・・・・・・」
  鶴野は恐怖故に、今の状況を何とか知ろうと、一番声をかけやすい雁夜に話しかけてみたが。返事は素っ気なく、会話にまで発展するような雰囲気ではなかった。
  何とか『兄さん』と呼ばれている事で向こうが鶴野の事を兄弟と思ってくれているようだが、皮肉と言う可能性も捨てきれない。そして本心なのか皮肉なのか知れるほど、鶴野は今の雁夜を知らないので、判断はつかなかった。
  雁夜は苛立ったような様子を見せているので、もしかしたら雁夜も鶴野同様に今の状況が作られている理由が判っていないのかもしれない。
  気まずい空気を放ちながら一つの食卓を囲み、会話なんてものが全くない重苦しい雰囲気だけが立ち込めていく。そこには『明るい食卓』なんてものは無く、ただただ険悪になりそうな土壌があるだけだ。
  そのまま三人の人間と一匹のよく判らない生き物が同席する空間は沈黙によって時間のみを流れさせた。
  一秒経つごとに鶴野は心労を更に積み重ねていくのがよく判るのだが、離脱したくてもものまね士ゴゴという得体の知れない存在がそれを許さない。
  相手は突然やって来て、唐突に命令し、鶴野を縛り付けた。
  間桐邸に住んでいる鶴野にとっては不法侵入者以外の何者でもないのだから、強気に出て相手を追い出す選択肢だってあった。いっそ、あれは何だと目の前の二人に聞ければよかった。または、当人に直接問えればそれでよかった。
  だが恐れで体を硬直させ、ただ言われるがままに行動を決めるしかない間桐鶴野には行動を起こせない。
  その結果、沈黙だけが食堂にあった。
  誰一人喋らない状態でどれだけの時間が経過しただろう。鶴野の位置からは時計が見えないから、カチッカチッカチッという秒針の音しか聞こえない。だから、流れた時間がどれほどかは判らなかった。
  一秒か、十秒か、一分か、十分か。それとも一時間か。
  少なくとも眠って起きてリフレッシュされた筈の鶴野の心労が再び失神寸前まで追いやられるぐらいの時間は経過したのは間違いない。
  そこでようやく鶴野を食堂に来るよう命じた当人が姿を見せる。
  ものまね士ゴゴ。サーカスの道化師のような奇抜な恰好でありながら、その色彩豊かな衣装の下にあるのは間桐臓硯すら軽く捻り潰す、裏の世界の常識すら覆す怪物だ。
  両手にお盆を持ち、その上に朝食と思わしき物を乗せた怪物が一歩一歩近づいてくる。鶴野は相手が何をするのか判らなかったので、ただ視線をそちらに向けるだけだ。
  するとゴゴは手に持ったお盆を食卓の上に載せて、そこにあった物を三人の前に配り始めた。
  オレンジジュースと焼きたてパン、そしてスクランブルエッグとベーコンウインナー。
  食材や食器類は元々間桐邸の中に合った物を使ったようだが、まるでホテルの朝食バイキングで用意される『これが朝食』という形をそのまま引っ張り出してきたかのような食事だ。
  鶴野と雁夜はほぼ同じ、桜の分は子供だからと分量を少なくしていた。フォークにスプーン、それから箸もしっかりと置かれ、誰がどう見ても朝食にしか見えない光景が作り出される。
  「・・・・・・・・・・・・・・・で?」
  「何がだ雁夜?」
  「俺たちをいきなりこんな所にまで連れ出して、一体これは何なんだ?」
  「見ての通り朝食だ。健康は朝食によって作られるのだから、取らないとまずいだろう」
  誰もが言葉を発さない状況で真っ先に言葉を出したのは雁夜だった。そしてゴゴの口からは淀みなく返事があり、二人の間には躊躇らしきモノを感じない。
  話しすら恐ろしくて自分からは何も言えない鶴野とは雲泥の差だ。
  何故、雁夜はそんな風に話せるのだろう? 鶴野は二人のやり取りを眺めながら、そう思った。
  臓硯がこの場にいないのを全く不思議に思ってないのならば、ゴゴが臓硯を滅ぼした事情も間違いなく知っている筈。それなのに、何故こんなにも敵意すら言葉に乗せて話しかけられるのだろう?
  そんな鶴野の疑問をよそに二人の会話は続く。
  「何が、どうして、どうなって、こんな事を仕出かしたかを聞いてるんだ。大体・・・びゃく、いや、兄貴までここに集めたのはどんな理由だ、おい!」
  「飯はみんなで食べた方が楽しい。この家の中にいる全員を集めたつもりなんだが、足りなかったか?」
  「気まずくて飯が余計に拙くなるのが目に見えてるだろうが! 集める前にそっちを気にしろ!!」
  雁夜は堂々と鶴野に向けて『お前と一緒に飯が食べられるか!!』と言っているのだが、鶴野の方もその言葉には大いに賛成だった。
  雁夜が間桐の家を出る前はもう少し友好的だったかもしれないが、十年と言う月日、全く重ならなかった別々の時間を歩み続けた二人の間に友好なんて言葉はない。
  これが歩み寄ろうとする家族の話ならば、互いに友好を温めようなんて思うかもしれないが。鶴野は間桐以外に行ける場所が無いからいるだけで、雁夜の方も必要に迫られているからここにいるだけで、互いに歩み寄ろうなんて全く考えていない。
  二人とも今更兄弟仲を復活させようなんて毛ほども思ってないので、同じ間桐邸の中にいると認めながらも、食事の席を同じくするなんて事態は起こらなかった筈。
  ものまね士ゴゴという異質で異常でどうしようもない怪物が現れなければ―――。
  鶴野にとっては雁夜だけではなく、桜と席を同じくする状況も心臓に悪い。だから雁夜がゴゴに向かって好き勝手に言える状況を見て、鶴野は思わず『よし、もっと言ってやれ』と心の中だけで応援した。
  「まあ、それは今後の改善点としよう。とにかく、飯が冷める前に食え。中国の米は冷えるとまずいらしいぞ」
  「・・・この野郎、判りやすく話題を変えやがって。この飯のどこに米があるんだ、どこに」
  黙り込む雁夜を見ると、雁夜もまたゴゴの自分勝手な行動に振り回されているのだと実感できる。
  そして言葉では強気に出ている雁夜だが、やはりゴゴと言う存在に勝てないと心のどこかで認めているようだ。ただし過程が異なる時点で、雁夜は鶴野には出来ない事をやってのける人間だと再認識させられる。
  雁夜はそうやって、鶴野には出来ない事をやってのける。
  十年前に間桐を出帆したのも、そう。
  よその家の娘の為に間桐に戻ってきたのも、そう。
  死を恐れずに刻印虫を植え付けたのも、そう。
  そして、現在、鶴野には怪物にしか見えないものまね士ゴゴに真正面から話しかけているのも、そう、だ。
  その自分と違う様子に―――兄から見た弟だからこそ、羨望を感じずにはいられない。何故、雁夜はそこまで出来るのか。と思わずにはいられない。
  「そうそう、桜ちゃん。食べる前に『いただきます』を忘れずにだ」
  「・・・・・・・・・・・・・・・いただき、ます」
  鶴野が歩んできた人生の中で、おそらく一番不幸に見舞われた朝食が開始された。





  用意された食事は三人分。食卓についている人数も三人。
  朝食を用意して後片付けの為にと台所に行ってしまったゴゴと、その後を追って桜の足もとから退散した生き物―――後に『ミシディアうさぎ』という名前の、使い魔のようなモノだと知った生き物―――は、いなくなり。食卓には気まずい雰囲気を作り出す三人が取り残された。
  「・・・・・・・・・」
  カチャ、カチャとお皿とフォークが作り出す音が鶴野に耳に届いたり、用意された食事がのどを通り抜ける音が大きく聞こえたりして、言葉は食卓に全くなかった。
  食事が始まる前は鶴野から雁夜に話しかける意欲が少しだけあったが、『食事をする』という逃げ道が用意されているので、鶴野はもう話そうという意思を持たず、ただ用意された朝食を腹の中に流し込む。
  間桐臓硯と同席してもおそらく、今ほど気まずくは無いだろう。
  とりあえずゴゴが視界から消えてくれたおかげで身体的な苦痛を味わう様な状況は無くなったが、その代わりに見えない位置にいる不安と雁夜と桜を前にした気まずさに心臓が根を上げていた。
  今ならショックのあまり心臓が止まってもおかしくない。
  用意された食事の分量そのものは皿三つぐらいで、急いで食べれば五分と経たずに腹の中に納まってしまう。
  朝食を食べると言うノルマを課せられた今の鶴野にとって、分量の少なさはありがたかった。何故ならば、食事が終わればここを離れて気まずさから逃げられるのだから。
  緊張のあまり食事を味わって食べる余裕は無く、機械のように食事を口に運んで咀嚼して呑み込んで、を繰り返す。ちらりと顔を上げて雁夜と桜の食事風景を見ると、彼らもまた鶴野と同じように朝食を終わらせる為に無言で箸を進めていた。
  カチャカチャと皿に当るフォークの音は少し箸を操るのが不慣れな桜がウィンナーを突き刺す時に出す音だ。
  言葉を離さない代わりに、気まずさを忘れる様に食べ続け。終わらせる事だけを考えて、鶴野は箸を進めていく。
  そしてようやく朝食を全て口に含みえ、オレンジジュースで胃の中に流し込むことに成功した。
  終わった。標高数千メートルの高い山の頂を目指した登山家が、頂上から下の世界を見下ろすような達成感を思いつつ、鶴野は箸を置く。
  逃げよう、すぐ逃げよう。そう考えて席を立とうとした鶴野だったが、前から放たれた言葉で立ち上がる機会を逸してしまう。
  「兄さん、ちょっといいか」
  「・・・・・・・・・・・・・・・雁夜」
  今まさにごちそう様と言いながら重い腰を上げようとしたのだが、雁夜から放たれた言葉で足に力を込めた姿勢で固まってしまった。
  単なる物音だったならば気にせず立ち上がれた。ゴゴが再び台所から現れて話しかけてきた退席しようなんて考えは消し飛ぶ。しかし弟である雁夜からの言葉では、どう対処すればいいか迷いが生じてしまう。
  結局、長い長い間を作りながら、食卓の席に座り直して応じる事にしたが、何故このタイミングで話しかけてくるのかが判らなかった。
  気まずい空気を感じているのは雁夜も同様だから、朝食を終わらせて距離を取りたいのは向こうも同じの筈。なのに話しかけてくるのはどういう了見だろう?
  鶴野は自分と同じように食事を終えて箸を食卓に置いている雁夜を見ながら。ほんの少し、あくまでほんの少しだけ気を緩ませて応対する。
  十年と言う長い間、言葉を交わす事もなかったが、相手が弟である雁夜だからこその緩和だろう。もしくは『ゴゴよりはマシ』だ。
  「話がある」
  「・・・ああ」
  正直に言えば、鶴野は今この瞬間もこの場から離れたくてしかない。席に座り直して話をするのも嫌で嫌で仕方がない。『ああ』なんて言わずに退散したいのだ。
  いつゴゴが戻ってきて命の危機に晒されるかと思うと、不安で不安でしょうがない。
  ただ、雁夜とゴゴとの間に何らかの協力関係のようなモノが出来上がっているのは、先程見たやり取りで何となく判った。
  怖いのは嫌だからここから離れたい。そう思いながらも、間桐邸で共に育った兄弟ならば、ゴゴよりも話が出来るので、今の状況を少しでも掴みたいと思えるようになれるのだ。
  雁夜にならば今起こっている事を訊けるかもしれない。そんな淡い期待がある。
  気まずい雰囲気は変わっておらず、横目で見える桜の目が自分を責めている様にしか見えない。雁夜と話すのだって、出来ればやりたくないのだが、今は仕方ないと諦めた。
  現状把握の精神が恐怖をほんの少しだけ上回った瞬間である。
  「臓硯が殺されたのは聞いたか?」
  「聞いた・・・・・・。信じ難いんだが、あのゴゴとかいう怪物が現れてから一度も姿を見ていないんだ。雁夜、本当に臓硯は・・・・・・居なくなったのか?」
  「本当だ・・・。俺も最初から最後まで全部見てた訳じゃないんだが、あのゴゴがオーラキャノンとかいう、レーザーみたいな何かで臓硯の体を全て焼き尽くしたのを見た。それから地下の蟲蔵の中にいた蟲も全部アイツが殺して、塵一つ残さず消しちまった」
  「・・・・・・」
  雁夜の言葉は間桐の魔術に関わる者ならば到底信じられるモノではない。
  臓硯の魔術は―――間桐の蟲は個人がどれだけ強大な力を持っていようとも対処できるような軽い力ではなく。数百、数千の蟲は醜悪な存在だが、数という点においてはとんでもない強みになる。
  それを全て消したと雁夜は言った。
  鶴野は雁夜の言っている事を自分の中で理解しようとするが、ありえなさ過ぎるからこそ次の言葉が出せなかった。
  「俺だって自分が言ってることがとんでもない事だって判ってる。正直、その場に居合わせてなかったら現実に起こった事なのか判らないままだ。だから兄さ・・・・・・兄貴が信じられないのも何となく判る。でも臓硯は死んだ、間桐の蟲もこの世から消えた。それは本当だ・・・本当に起こった事なんだ」
  「臓硯が・・・いなく、なった・・・」
  口に出してみるが、やはり鶴野の中には『そんな事はありえない』という気持ちが溢れている。
  だが同時に雁夜が嘘を言っていないというのも何となく理解できた。
  お飾りの当主として、そして間桐の魔術に関わる者としては到底信じられないが、ものまね士ゴゴと言う存在が雁夜の言葉を後押ししているのだ。
  あれは魔術に関わり裏の世界にある程度精通している者の目から見ても規格外の化け物だ。それこそ、物理的に対処が出来るとするならば『英雄』と呼ばれる者か、怪物退治を専門にする者達、『聖堂騎士団』とか『埋葬機関』とかでなければ不可能だ。
  臓硯がいない。代わりにものまね士ゴゴがいる。その事実を見せつけられると、考えるよりも前に頭の中に納得が刷り込まれてゆく。
  だから否定しようとしても、雁夜の言葉が本当だと受け止めてしまう。そうやって理解するしかなかった。
  間桐臓硯はもうこの世のどこにもいないのだ。と。
  「あの、臓硯が。本当に・・・」
  「正直、俺はこんな事になるなんて全く思ってなかった。神の気まぐれなのか、運命の悪戯なのか判らないが、とにかくそうなっちまった。だからこれから話す事は『臓硯がいない』って事を前提に置いて聞いてほしい」
  「ああ・・・・・・」
  昨日ゴゴが部屋の中に入り込み、ノートパソコンを操作した時から何となく臓硯が居なくなった事を予測していたので、受けた動揺はそれほど大きくなかった
  ただ、改めて言葉にされると、それはそれで動悸が早まって、呼吸が少し苦しくなる。
  何より鶴野の心を占めていたのは、『これからどうしよう』という疑問だ。
  鶴野は間桐においてお飾りの党首であり、臓硯という実質的な当主のすることを全て体現する為の人形でしかなかった。弱者の知恵として生き延びる為に自らその道を選び、教育と自分を誤魔化して桜を蟲蔵に放り込んでいたのも、必要だったからやっていたのだ。
  全ては臓硯の思惑通りに―――。
  鶴野は自分がどうしようもない下種で、人間の屑で、臓硯に逆らおうともしない弱者だと理解している。だが、それでも臓硯が指示を出してそれに従う生き方が楽だと判っていた。
  自分で考えなくていいのだ。従っていればある程度の自由と、生命が約束されていたのだ。それは、なんて楽な生き方だろう。
  もちろん日々の恐怖はあり、出来るならばこんな生活から逃げ出したいと思ってもいた。それでも楽は楽だった。それは紛れもない事実だ。
  その臓硯が、鶴野にとっては自分の意思決定を行う頭脳が消えてしまい。どうすればいいか途方に暮れてしまう。それこそが雁夜の言葉を聴いた後に、鶴野の頭の中を占めた戸惑いだった。
  「今から一年後に冬木の地で聖杯戦争が行われる事になるのは兄貴も知ってると思う。俺は臓硯に取引を持ちかけて、奴に聖杯を持ち帰る算段だった。でも、その臓硯が居なくなったから聖杯戦争に間桐から人を参加させる意義は無くなったと言ってもいい。兄貴だって好き好んで殺し合いに参加する気なんて無いだろ?」
  「それは・・・まあ・・・」
  「俺は魔術師としての『間桐家』を継続させることはもう不可能だと思ってる。間桐の魔術は臓硯自身と言っても過言じゃなかったから、奴が居なくなった時点で間桐の魔術はもうおしまいだ。兄貴が魔術師をどう思ってるか俺は知らないが、俺はもう間桐を魔術師として継承させる意義も、必要性も、目的も、何もかもが無くなったと断言できる」
  「・・・・・・」
  「臓硯が居なくなった。俺は間桐の魔術を俺たちの代で終わらせるべきだと思う。その上で、兄貴の考えを聞かせてくれ。兄貴は、これから『間桐の魔術』をどうすべきだと思う?」
  「間桐の・・・魔術、を・・・」
  表の世界に生きる一般人並みの力しか持ち合わせておらず。魔術の事情を知るからこそ、鶴野は余計に魔術を恐れる傾向が強い。
  聖杯戦争の勝利者が獲得できる『万能の願望機』なんてモノが本当にあったとしても、自分から殺し合いに参加してまで得たいとは思わない。死ぬのが怖いからこそ、鶴野は臓硯の人形としてこれまで生きてきたのだ。聖杯戦争に参加する気が無いのは大いに賛成できる。
  ただし、『これからどうする』については、即答できる問題ではないので、鶴野としては言葉を濁すしかなかった。
  臓硯が居なくなった話を聞いた時点でもかなりの衝撃を受けたのに、そこから同じ位重大な事柄を決めろと言われてもすぐに答えが出る訳がない。
  間桐の魔術が終わる。
  聖杯戦争への非参加。
  雁夜の考え。
  突然鶴野に与えられた自由。
  誰かに意思を預けていた人形が操り手を無くした事実。
  考えるべき事はあまりにも重要であり、鶴野の中でぐちゃぐちゃに混ざり合っていく。
  「聖杯戦争にあるサーヴァントに対する絶対命令権『令呪』、これは臓硯が考案して聖杯戦争に組み込んだシステムらしいが、令呪そのものは既に聖杯戦争の役割の一つとして組み込まれてるから、臓硯がいなくなってもシステムとして稼働し続ける。これでもう聖杯戦争を一から作り直す事は出来なくなったんだが・・・。もし間桐の魔術を継承させるなら、始まりの御三家として聖杯戦争をいつでも復活させるような技量が求められるだろうな」
  「・・・・・・・・・」
  「当たり前だけど、十年間、間桐の魔術から離れてた俺にはそんな事は出来ないし。俺はそもそも間桐の魔術に限らず、魔術師って奴の考え方に懐疑的だ。俺は――、『間桐雁夜』はもう間桐の魔術師じゃない、魔術師を継ぐつもりもない」
  「・・・・・・・・・」
  「それからもう一つ言っておく。もし、兄貴が間桐の魔術を継続させる気なら好きにすればいい。元々この家を出て間桐の魔術から逃げた俺が言えた義理じゃないのは判ってる。それでも、もし『間桐の魔術』に桜ちゃんを巻き込む気なら・・・・・・俺は兄貴を許さない、敵対してどんな手を使っても兄貴を殺すからそのつもりでいてくれ・・・」
  次々に雁夜の口から与えられる情報は鶴野を更なる混乱へと追い込んでいった。
  はたから見れば、黙って雁夜の言葉に耳を傾けている様に見えるかもしれないが、今の鶴野は状況を考えるだけで手一杯だ。
  何もかもがこれまでの鶴野では考えられないような事ばかりで、何か答えを一つ出そうとするだけで多大な労力を必要とする。兄が弟から『殺す』と言われても驚かないぐらい、今の鶴野は多くの情報に囚われていた。
  だから鶴野は短い言葉しか言えなかった。
  「雁夜・・」
  「ああ――」
  「少し・・・・・・・・・考える時間をくれ」
  「・・・・・・・・・判った」
  雁夜の返答を聞いた後、鶴野は何が合ったかをよく覚えていない。おぼろげながら『ごちそう様』と言った気がするし、黄色やら赤やら青やら片方だけ生えた角やらを見た気もする。
  力なく間桐邸の中を歩いた気もするし、部屋の戸を開けて閉めた気もする。
  ただ言える事は、気が付いた時には鶴野は自分の部屋に戻ってベットに倒れ込んでおり、『これからどうするか?』を脳裏に宿しながら、思考に没頭し続けている自分に気が付いた事だ。
  今までの鶴野には無かったこれから。人によっては何でもない問題かもしれないが、今の鶴野にとってそれはあまりにも壮大な問題であり。決断を下す事、それ自体に恐ろしさを感じてしまう。
  それでも鶴野は考える。
  いきなり考える事を強制させられた鶴野は気付いていなかったが、考える事でこの時の鶴野はゴゴに対する恐怖をほんの一時忘れていた。唐突に持ち込まれた疑問に考えなければならないと言う意思もあっただろうが、逃避こそが鶴野の背中を押して思考へと追いやったのだろう。
  それが幸福なのか不幸なのかは判らない。
  ただ、考える事で―――考えなければならない状況に追いやられる事で、鶴野は他の一切合財を忘れられた。それは事実だ。
  一時とは言え、恐怖から解放された鶴野は幸せかもしれない。
  この世にはどんなに考えても取り返しのつかない事が幾つも存在する。まだ考えて選べる余地のある鶴野は、やはり幸せなのだろう。



  ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆



  Side - 間桐雁夜





  気まずい雰囲気をそのままに、ゴゴの無用な気遣いによって鶴野と話す機会に恵まれてしまった雁夜は、今後の為に兄に向けて言いたい事を言った。
  同じ家の中にいたが、今朝の食卓が十年ぶりの再会の場となった。ただし、臓硯と再会した時がそうであったように、一部とはいえ間桐の魔術を体現する鶴野に良い感情は持てない。
  これが桜が間桐に引き取られる前の話だったなら、近況報告したり兄弟仲を温めたり出来たかもしれないが、遠坂桜が間桐家に養子に出された今。間桐の魔術を桜に押し付ける役目の一端を担っている兄を昔のようには見れない。
  そして言葉で『兄貴を殺す』と言った雁夜は、本当に鶴野を殺せる自信があった。魔術師が相手ではなく、同じ土俵にいる人間ならば、言った通りどんな事をしてでも殺す決意がある。
  ただ、殺したいほど憎い臓硯の手助けをしていた鶴野に対し、怒りの矛先の幾らかを向けていたのは間違いない。それなのに冷静に話が出来た自分に驚きを感じていた。
  何故、あんな風に話せたのだろう?
  臓硯に刻印虫の取引を持ちかけ、桜の教育が今も継続されている状態だったなら、鶴野と出会った瞬間に怒りにまかせて首を絞めていたかもしれない。
  なのに朝食を一緒にとって、怒りなど入る余地もなく話をした事実だけが残った。
  あまりにも想定と違いすぎる現実。今なお間桐の魔術を嫌悪している雁夜は、自分らしからぬ兄への気遣いを不思議に思う。
  臓硯がいなくなったからだろうか?
  ゴゴに怯える鶴野が、桜ちゃんと目を合わせようとしないからだろうか?
  十年と言う月日を経たが、それでも兄に対する家族愛があったのだろうか?
  桜ちゃんを救うために色々考えなければならなくなり、攻撃的な思考が少しだけ鳴りを潜めたからだろうか?
  ありえそうな理由を幾つか考えるが、どれもしっくりこない。仕方ないので、雁夜はそれ以上考えるのを止めた。
  鶴野に対して怒りを覚えると思っていたが、思ったより冷静に話せたならばそれでいい。当人は既に部屋に引っ込んでしまったので、それ以上考えても時間の無駄だ。雁夜にはゴゴに教えを乞うと言う、とんでもない苦難が待ち構えているので、即座に答えの出ない疑問をいつまでも気にしている余裕など無い。
  雁夜はゴゴに今後の事を聞くために、朝食を終えると食器を台所へと下げる。そして、洗い物をしているゴゴの所に向かった。
  「お前は食事をしなくていいのか?」
  「誰かの物真似をして食べられるが、基本的に数十日食べなくても飲まなくても問題ないぞ。人はエネルギーを口から摂取する必要があるが、俺は大気から生きる力を吸収してると思ってくれ」
  「・・・・・・まるで仙人だな」
  「凄いだろう」
  「で、朝食に俺たちを引っ張り出したものまね士はこれからどうするんだ? 俺を鍛えてくれるって約束しただろ」
  「桜ちゃんの食事が終わって、後片付けをするまではゆっくりしてるといい。いきなり血反吐をはくような鍛錬にはしないから、今は気持ちを落ち着けるのが大事だ。何なら桜ちゃんと一緒に遊んでてくれ、ミシディアうさぎが退屈そうだから、そっちも頼む」
  「判った・・・・・・」
  ゴゴにそう言って台所を後にした雁夜だが、正直桜とどうやって接すればいいのか、まだ判らなかった。
  感情を殺してかつての遠坂桜の面影を消してしまった今の桜に雁夜が出来る事は何だろう? そう考えると、ゴゴが主体としている『桜ちゃんを救う』という目標の難しさを考えずにはいられない。
  臓硯から解放されても、そこで事態は終わらない。桜が間桐に養子に出された責任を取る為に、雁夜はそれを考えなければならなかった。
  食器の洗う音を背中で聞き、頭の中では桜の事を考える。
  ゴゴが一体どこで食器の洗い方や洗剤の使い方を知ったのか非常に気になったが、きっと『――の物真似だ』と返されるに違いないと答えを出す。
  この世界とは違うが神と呼ばれる存在を生み出した超常の生き物。そいつが間桐邸の台所でゴム手袋をはめて食器を洗っている姿は中々シュールだ。その可笑しさと桜への接し方を同時に考えつつ、雁夜は食卓へと戻って桜の隣に座り直した。
  「・・・・・・・・・」
  「・・・・・・・・・」
  まだ子供の桜の手は小さく、雁夜のように上手く箸が使えない。だからフォークを使ってゆっくり食べる桜の周囲には緩やかな時間が流れている。
  だが、朝食を食べるその姿には感情の揺れは無く、好きな物を食べる喜びも、嫌いな物を食べられない苦しみもない。食事はただの栄養補給だと言わんばかりに、ゆっくりだが淡々と口に運ぶだけだった。
  食事の邪魔をするほど大した話しもないので、雁夜は桜に話しかけず、黙って桜の事を眺めた。感情をほとんど映さぬ、魚の様な目を見た。
  その目は雁夜が間桐を逃げ出したから生まれた罰の証だ。本来であれば、遠坂桜に降りかからなかったあってはならない出来事だ。
  雁夜は桜を救う為なら―――、かつて見た引っ込み時間な少女の姿を取り戻す為なら―――、何でもすると、新たに心に決意の炎を宿す。
  ただしその決意が今に反映されるかどうかは別の話なので、話題をすぐに出せない雁夜はいつの間にかゴゴの所から足元に移動してきたミシディアうさぎに救いを求めた。
  雁夜は食卓の下に手を伸ばしてミシディアうさぎの脇に突っ込むと、そのままミシディアうさぎを引き上げて膝の上へと導く。
  「むぐぅ~?」
  これが普通のウサギならば雁夜が持ち上げる前に逃げられただろうが。突然、持ち上げられたミシディアうさぎは全く動じる気配を見せず、むしろふてぶてしい態度で雁夜を見ており、その目が『何すんじゃコラッ!』と言っているように思えた。
  どうやら呼び出したゴゴと同じように周囲に対する恐怖なんぞ欠片も感じてないようだ。ついでに食事の必要もないようだ。
  見た目こそちょっと変わったウサギに見えなくもないが。やはり超常の存在であるゴゴに呼び出された動物だけあって、普通ではない。
  雁夜は目覚めた時に脇腹を小突いていた帽子に手を伸ばし、帽子の隙間から飛び出ている白い耳を避けて、ミシディアうさぎを撫でた。
  「むぐ」
  「スロットから出てきた兎・・・・・・か」
  帽子の固い感触と指先に触れる動物の毛の柔らかい感触が雁夜の手に返ってくる。撫でた感触はやはり動物の毛にしか思えず、白煙を撒き散らしながら現れた状況を見ていなければ、ただの動物と思えてしまう。
  いや、変な鳴き声なので、やはり普通の尺度で測るのは難しいかもしれない。
  雁夜はこれが桜とどうやって接すればいいか判らない逃避だと自覚しながらも、他にやれる事が思いつかなかったのでミシディアうさぎを撫で続けた。その度に『むぐ』『むぐ~』と鳴くので、少し楽しかった。
  「雁夜おじさん・・・」
  「ん? ああ、桜ちゃんも食事が終わったんだ」
  「ごちそう様、でした・・・」
  「それじゃあ。こいつをどうぞ、と」
  二十回ほど撫でた所で横から声がかかり、慌てて目を向けると用意された食事を全てたいらげてフォークを置いた桜の姿が目に入る。
  雁夜は成人男性が動物と戯れている気恥ずかしさを隠す為、椅子に座る桜の膝の上にミシディアうさぎを移動させた。
  「ぁ・・・・・・」
  「右の耳の付け根辺りが気持ちいいみたいだから、触ってあげるといいんじゃないかな。おじさんは桜ちゃんの食器を片づけるから少し待っててね」
  雁夜はそう言うと、椅子から立ち上がって桜の頭に手を乗せて軽く撫でた。
  ミシディアうさぎを撫で続けた余韻が手に残っていたからだろうか? 雁夜自身、そんな事をするつもりは無かったのだが、桜の後ろを通る時に自然と手が伸びたのだ。
  何気ない行動ではあったが、これは桜へと接する一つの手がかりになる。雁夜は桜が全て平らげた皿を揃えながら、桜の黒い髪に触れた自分の手を見つめた。
  気負わず、ただの間桐雁夜として自然に接するのがいいだろう。何の変哲もない日常の繰り返しこそが遠坂桜を元に戻す効果を発揮するだろう。そして様子を見て状況の改善が認められない場合、医療従事者や専門治療施設の事も検討しよう。雁夜はそう思った。
  全ては『桜ちゃんを救う』ため―――。
  雁夜はゴゴに聞かせた言葉を、もう一度自分の中で繰り返す。





  間桐の蟲蔵。ゴゴが初めてこの世界に降臨した時にここで居合わせた雁夜だが、今現在『間桐の蟲蔵』はその名で呼ぶには少々不向きな場所になったと考える。
  建築物としての構造は何も変わっておらず、地下に造られたそこは薄暗く、空気の流れは悪く、壁にある無数の穴は何も変わらずそこにある。けれど『蟲蔵』という名前の通り、この場所を住処としていた間桐の蟲の姿はもう一匹もいない。
  蟲の住まう蔵、故に『蟲蔵』。その蟲がいなくなったのならば、一風変わった地下に違いは無いが、ここは既に蟲蔵と呼ぶべきではない。
  蟲蔵の中から蟲がいなくなったのならば、名前を別のモノに変えても困る者は一人もいない。むしろ、雁夜にとって蟲蔵に良い思い出なんてものは一つもないので、変える方が桜の為だろう。
  間桐の魔術を自分の代で終わらせるのならば、その区切りの意味も込めて名前を変えるのはそれほど悪い事でもない。そう思えた。
  「呼び方を変えるか・・・」
  「何か言ったか、雁夜?」
  「いや。何でもない」
  間桐の魔術との決別を意味する思考が独り言になって囁かれ、それを聞きつけたゴゴが雁夜に問うた。
  けれど、雁夜にとって蟲蔵の名前を変えるのは今じゃなくてもよい雑事だ。即座に意識を切って捨てると、これから待ち構えている鍛錬へと意識を切り替える。
  かつては間桐の蟲の巣窟だった蟲蔵の床。桜と雁夜が蟲によって苦しめされたそこに居るのは雁夜と真正面に立つゴゴだ。
  「さて、これから雁夜の鍛錬を始める訳だが――」
  「その前にいいか」
  「む、何だ?」
  これまで会話の主導権を握られっぱなしになっていた雁夜がここに来てゴゴの言葉を阻む。少しだけ遮られた事への苛立ちが声音に含まれたが、雁夜としてはどうしても見過ごせない状況が蟲蔵の中に出来上がっているのだ。
  その真意を聞くまでは、鍛錬など出来る筈がない。故に雁夜はそれを言葉にした。
  「何で桜ちゃんがここにいるんだ」
  雁夜はゴゴに向かってそう言うと、雁夜から見れば右側、ゴゴから見れば左側にいる場所を指さした。
  そこにいる桜は壁に背を預けて、体育座りをして二人の様子を見ている。そして、彼女の腕の中には腕と足で拘束されたミシディアうさぎの姿があった。
  雁夜の認識ではゴゴの鍛錬を受けるのは雁夜一人であり、そこには桜が介在する余地は全くなかった。可能ならば、桜がもう間桐の魔術に関わらないよう、蟲蔵に近づける気すらなかった。
  思い出さなくてもいい位、悪い思い出しかない蟲蔵から離れて欲しかった。けれど、ゴゴによって雁夜だけではなく桜も蟲蔵の中に連れてこられ、ゴゴと雁夜と桜とミシディアうさぎの三人と一匹は蟲蔵の中に集まってしまった、
  何故こうなったのか? 何故、桜ちゃんまでがここに来なければならなかったのか? その理由を聞くために、雁夜はゴゴの言葉を遮ったのだ。
  「お前が俺を鍛えてくれるのは大歓迎だ、どれだけ感謝の言葉を積み重ねてもきっと足りない。だが、桜ちゃんをここに連れて来たのは何のためだ? ろくでもない理由だったら、俺はお前を許さない――」
  言葉では強く言えるが、正直ゴゴが何かしようとしたら物理的手段で雁夜がそれを止めるなど出来る訳がない。
  それでも雁夜は自分の意思を貫き通すと決めたので、『桜ちゃんを救う』ためならば、どんな敵だろうと立ち向かう気概を持てた。きっと自分一人だったら無理に違いない。
  するとゴゴは雁夜の堂々とした態度を面白く思ったのか、声音に楽しさを滲ませながら返してくる。
  「なぁに。雁夜を鍛えようとしてる方法はそのまま桜ちゃんの成長に直結するからな、別々にやったら二度手間になるから一緒に教えようとしてるだけだ」
  「桜ちゃんを・・・・・・成長させる?」
  「『桜ちゃんを救う』為に雁夜が自分を鍛えようとしてるわけだが、桜ちゃん本人の自立する力も必要不可欠だろう? 今から雁夜に教えようとしてるのはそのまま桜ちゃんの為にもなるからな」
  「お前は一体、何をするつもりなんだ?」
  雁夜にとって魔術師の鍛錬と言うのは、今なお記憶にこびり付いて離れない間桐の蟲を使っての教育と言う名の虐待だ。そして雁夜は間桐の家系に生まれながらも、魔術を嫌悪しており、他の家の魔術と言えば話だけ聞いている遠坂と、数代前に廃れた葵の禅城家位しか知らない。
  だからこそ『魔術の鍛錬』と言うものを一際毛嫌いしており、自分が鍛えられる為ならばどんな苦痛も苦労も困難も受け入れる覚悟はあるが、桜がそれに関わるのは合ってはならない。
  「俺と桜ちゃんに一緒に教えられるものって・・・。お前がやろうとしてるのは、一体、何なんだ?」
  雁夜は隠さない怒りを言葉に乗せながらゴゴに向かって言い放る。
  するとゴゴは雁夜の言葉を真正面から受け。
  「じゃあ説明を――のその前に、と」
  「おいっ!!!」
  あっさり雁夜の言葉を横に流した。
  これまでの話で嫌と言うほどに理解させられているが、ものまね士ゴゴは話の通じる相手だが、『我を通す』という事にかけては他の追随を許さない。自分勝手という言葉すら優しく思えるほどの傍若無人な存在なのだ。
  けれど、全てを自分の思い通りに進めようとしている訳でもなく、雁夜の言い分を聞き入れてくれたりする場合もある。
  話をする上で雁夜との相性が悪いのはもう確定してしまった事実であろう。
  今度は何を仕出かすのか? そう疑問を覚えた次の瞬間、ドン、ドンッ! と小さいながらも耳の奥に残る爆竹の破裂に似た音が聞こえ、それに合わせて目に見えないが何かが広がっていくような感覚が雁夜の体を通り抜けた。
  目に見える変化は何もない。しかし一瞬前とは確実に異なる何かが蟲蔵の中を包んでおり、僅かだが空気が重たくなったような感じもした。
  何かが変わったのだ。それをやったのは目の前にいるものまね士だ。雁夜は諦めと疑問をごちゃ混ぜにしながら、ゴゴに向かって問い掛ける。
  「何をした・・・」
  「バトルフィールドを広げた。こっちの世界で言い換えるなら『結界』って言った方が判りやすいか」
  「バトルフィールド?」
  「この中にいれば、敵と味方が大別され、基本的に建造物や自然には一切攻撃できなくなる。まあ、戦いの為に用意された、敵と味方以外が破壊不可能な結界だと思えばいい。今は地下の蟲蔵を包んでバトルフィールドを展開してるから、床を殴っても壁を蹴っても絶対に壊れないぞ」
  「・・・・・・・・・」
  雁夜はゴゴの言葉を聞きながら、もう何度目になるか判らない驚きに言葉を無くした。
  これまで嫌悪していた間桐の魔術に関わり、裏の世界において『どんな理不尽な事でも起こりうる』と、ある程度の覚悟をもって生きてきた。
  主に表の世界でいう所の『外道』やら『非道』を易々とやってのけるのが魔術師たちだ。自分達の欲求を満たす為ならば、他人がどれだけ被害を受けようと奴らは気にしない。そうやって、どんな出来事が起こっても受け止められる覚悟があった。
  だからこそ雁夜は桜が間桐に養子に出され、臓硯の虐待の犠牲者と知った時。怒りこそすれ、そうなるかもしれないと覚悟を決めていたから、それを内に押し込めて臓硯と取引を結ぶことが出来た。
  だがゴゴがやる事は一味、いや百味ぐらい違いすぎる飛び抜けた事ばかりなのだ。一つ覚悟しても、別の事でまた驚かされてしまう。
  「敵を倒すか、逃げるか、あるいは自分が死ぬか。このバトルフィールドに取り込まれたら、そのどれかしかない終わらせる道はない。とは言っても、一度設定された空間から走って逃げればそれだけで出られるし、結界は解除されるからそれほど大したモノじゃない。気が付いてないかもしれないから念の為言っておくが、臓硯を滅ぼした時もこれは展開されてたんだぞ? だからあそこに立ってた臓硯は消えても、壁とか足場とかには傷一つ付いてなかったんだからな」
  「十分大したものだ・・・・・・、何だその無茶苦茶な結界は――」
  雁夜は驚きで言葉が出にくくなっていたが、蟲蔵にあるキャットウォークの部分を指さすゴゴを見ながら、何とかそう言えた。
  そして今更ながら、ゴゴの口から語られたかつて旅した世界の恐ろしさを―――。ものまね士ゴゴが神を生み出した超常の存在だとは聞いているが、そんな神が普通に存在する世界を怖いと思った。
  バトルフィールドなんてものが普通に行われる世界。それは何と殺伐とした世界なんだろうか。
  雁夜は一瞬。ゴゴが生きてきた世界の恐ろしさを思い、一年後に始まるであろう聖杯戦争の怖さを忘れる。
  まだ全てを見せていないゴゴの力の大きさ故に、雁夜の認識の中で理解が出来る聖杯戦争という戦いが、ほんの一瞬だけだが、恐ろしくなくなったのだ。
  「本当に・・・、本当にお前って奴は・・・・・・。いかん、何もしてないのに頭が痛くなりそうだ」
  新しいモノが出てくれば出てくるほどに雁夜が受ける衝撃は強くなり、知れば知るほどに改めてゴゴという人間ではなく『存在』の大きさを思い知っていく。
  「結界を張ったんだな? そうなんだな? 必要だからやったんだな?」
  「ああ、下準備はこれで終わった。ようやく説明が出来る」
  「だったら早くしてくれ、これ以上新しい何か出て来たら頭痛で気絶しちまいそうだ。俺と桜ちゃんに何をさせるつもりなんだ、お前は」
  強気に出る事で雁夜は何とか自分を保つことに成功するが、心の中に宿った動揺は消えずに残ったままだ。
  そうやって強気な振りをして自分を誤魔化さなければ今この瞬間にでも膝を折って、床に屈してしまいそうになる。
  神の生みの親。その途方もない存在を前にして、相対するのが精一杯だ。これまで幾つも幾つも言葉を交わしてきたが、今だにゴゴに慣れるなんて事態は訪れてくれない。
  「お前が『桜ちゃんを救う』ために、させようとしてる事って何なんだ?」
  「説明を判りやすくするために実物を見せるぞ。鍛錬にはこれを使う」
  「なに?」
  ゴゴは短く言うと、右手を前に掲げて掌を上にした。
  ゴゴの手は両手とも力こぶの部分まで覆い隠した手袋で隠されており、地肌は目以外の部分が見えない状態だ。五本ある指がしっかり見えるのだが、手袋で隠されている為、その下に人間の指があるのかどうか疑問を覚えてしまう。
  そんなどうでもいい事を考えて意識を分散しなければ、気負うあまり失神してしまいそうだった。
  何をするのか? どんな驚きが飛び出すのか? 魔術の常識からも外れた、何を見せられるのか?
  雁夜は出来るだけ驚かぬように自分を律しながら、起こる出来事の全てを見極めようとゴゴの右手をジッと見つめる。
  すると、程なくゴゴの右掌に変化が現れ、手袋の中から何から浮かび上がってきた。
  「な――」
  隠していたのを出したのではない。別の場所にあったのを持って来たのでもない。言葉通り、右掌から『出現した』のだ。
  一定の高さまで持ち上がって制止したそれは、掌部分から数センチほどの高さを滞空しており。ゴゴの右掌の上で浮かんでいた。
  濃い緑色の物体で、形は円筒形に近い。氷かクリスタルを思わせるその高さは15センチほど、幅は10センチもない。が、明らかにゴゴの手よりも大きく。一体どこから取り出したのか疑問を覚えずにはいられなかった。
  バーでロックスタイルで酒を頼むと、丸くて大きい氷を使ってくる場合があり。ゴゴの掌の上に浮かぶ何かは、そんな氷に少しだけ似ている。
  ただし、ただの氷が浮かぶ訳がないし。そもそも、その緑色の物体の中央には、オレンジ色の六芒星が存在を象徴しており。ただの氷でも、クリスタルでも、ガラス細工でもない様子を作り出していた。
  雁夜は疑問を覚え、それをそのまま言葉にする。
  「・・・・・・・・・・・・それは、何だ?」
  雁夜が見たのは本当に起こった事で、間違いなくゴゴの右手から緑色の何かが現れた。
  今回もまた表の常識から外れた何かを見せられ、雁夜の心は更に傷ついていく。そんな雁夜の心労をよそに置いて、ゴゴは自分が出した何かの説明を始める。
  「三闘神が星に生きる生物に力を与えて『幻獣』に作り変えた話はしたな。この『魔石』は幻獣が死ぬ時に力のみをこの世に残した結晶で、大きな魔力を秘めている。持っていれば、この魔石に宿る幻獣を具現化させる召喚魔法が使えて、しかも鍛錬によってその幻獣が得意としている魔法を覚えることも出来る優れものだ」
  「・・・・・・・・・」
  「魔石によっては体力や魔力を底上げしてくれたりするのもあるからな。鍛錬して成長すれば、それに合わせて色々なパラメータを増やしてくれる。で、今回、雁夜の為に用意した魔石の名前は『ビスマルク』。炎と冷気と雷の初期魔法を覚えるには一番効率のいい魔石だ」
  ゴゴの言葉を聞きながら、雁夜はそれを何とか理解しようと、自分の中にある知識を呼び覚ましてゆく。
  始まりの御三家である遠坂には『宝石魔術』と呼ばれるモノがあり、実際にお目にかかった事は無いが、宝石の中で魔力を流転させ、本来保存できないはずの魔力をストックして解放することで戦闘に転用できると聞いた事がある。
  ちなみに情報元は臓硯だ。
  そう言った『魔術に由来する道具』というのはこの世に色々あり、雁夜の考える最上位は聖杯戦争に呼ばれる英雄が使う宝具であろう。
  宝具は英霊が持つ生前に築き上げた伝説の象徴だ。魔術に関わる物でそれを上回る物を所有している者は極々限られる。おそらく両手で数えられる程だ。
  そして、単なる道具の観点で見れば、ゴゴが取り出した魔石は宝具に勝るとも劣らない、とんでもない代物だ。
  特に雁夜を驚かせたのは『魔石を持てば幻獣を具現化させられる』の部分である。ゴゴの言う召喚魔法がこの世界でいう所の召喚魔術に該当するのだろうが、それを簡単に可能にしてしまう魔石は汎用性があり過ぎる。
  おそらく『魔術回路を持ち魔力を持つ者』とか扱うには何らかの制限はあるだろうが、間違いなく一級品の道具だ。
  自分を落ち着ける為、驚きを極限まで減らす為。雁夜は自分の知識の中にあって、合致する言葉を引き出してくる。落ち着け、落ち着け、と自分に言い聞かせた。
  「ビスマルク・・・? 第二次世界大戦中のドイツ海軍にあった戦艦か?」
  ゴゴがこの状況でそんな事を言う筈がないと判っているが、雁夜は鍛錬の為に出された道具の高すぎる有用性に驚いて、ついそんな事を言ってしまう。
  ものまね士ゴゴの非常識さはある程度把握したつもりだったが、こんな道具を出されるとは夢にも思わなかった。ゴゴが言った『魔法を覚えることも出来る』が本当ならば、臓硯を殺した時に見せた魔術や雪山を呼び寄せた魔術も使えるようになるかもしれない。
  規格外すぎて、今度もまた卒倒してしまいそうだった。ただし今回は、動揺以外にも喜びが多く交じっていた。
  「戦艦? 何だそれは? とにかく、この魔石を使って雁夜を鍛える。基本的に持ってればそれだけで鍛錬の補助になるし害はない。だから別の魔石を桜ちゃんにも渡そうって話しだ。何をしようとしてるかはこれで判ったか?」
  「ああ・・・。正直、信じがたい話だが、とりあえずお前が俺と桜ちゃんに何をさせようとしているかは判った」
  「それじゃあ話は早い。ほれっ」
  ゴゴはそう言うと、右手の上に浮かんで居た緑色の物体―――オレンジ色の六芒星を中心に輝かせた『魔石』を鷲掴み、雁夜の方に放り投げてきた。
  「ちょ、こらっ!」
  まだ言葉でしか聞いてないが、ゴゴの言った事が本当ならば魔石はこの世界に置いてとてつもない価値を持つ。同じ位の大きさの宝石を雁夜は見た事が無いが、同等の価値が合っても不思議はない。
  端的に言えば、庶民には一生涯、手の届かない天文学的な価格だ。それを路傍の石のように放り投げるゴゴの神経が雁夜には判らなかった。
  ただの人間でしかない雁夜には想像もつかない太い神経なのだろうが、それを気にするよりも前に雁夜の体は魔石を受け止めるべく動いた。
  絶対に、何が何でも落としてはならない。
  緑色とオレンジ色に輝く魔石の軌跡を追って、雁夜の両手はめまぐるしく動く。
  「と、ほっ、よっ! はっ!!」
  野球の守備で、ボールを掴み損ねて送球に手間取る事。俗にお手玉と言われる、それと酷似した喜劇の様な―――けれど当人の雁夜にとっては必死の行動が実を結び、何とか魔石は床に落ちずに雁夜の手の中に納まった。
  掴もうとした右手の指が持ち切れずに浮き上がる事一回。左手で抑え込もうとして、目算を外して落そうとする事一回。早鐘を打つかのような心臓が止まりそうになったのが一回。
  「はぁ、はあ、はぁぁぁぁ――」
  「ナイスキャッチ、雁夜」
  「俺をからかうつもりなら辞めてくれ。頼む。本当に頼む。心臓に悪すぎて体にも悪い」
  「雁夜――。そんな神経質だと、この先やっていけないぞ。もう少し図太くならないとな」
  「誰のせいだ、誰の!!」
  叫びながら呼吸を落ち着けた雁夜は、両手に握られた魔石の無事を確かめながら、感触を確かめるように指で撫でてみた。
  見た目通りの硬質な感触が指に返って来て、状況を説明されていなければガラス細工の一種か何かだと勘違いしてしまいそうだ。しかし、ゴゴの手から出てくるのを雁夜は見ているし、ゴゴが雁夜の常識では推し量れない事をやってのけるのは、身に染みている。
  人の体温よりは低いが、ほんのり暖かい魔石。見た目では判らない何かがこれに含まれていると確信を抱きつつ、雁夜はゴゴに言う。
  「これは・・・どう使うんだ?」
  「さっきも言ったが、基本的には持って鍛錬するだけだ。召喚魔法が使いたかったら、その魔石に魔力を注ぎ込んでそいつの名前を呼べば、出て来てくれる」
  「・・・・・・・・・それだけか?」
  「それだけだ。簡単だろう?」
  「じゃあ・・・・・・」
  雁夜は魔石の貴重さに比較した扱いの簡単さに、『そんな筈がないだろう』と『いや、ゴゴならありえる』と矛盾した気持ちを抱く。
  今だ、雁夜はゴゴを信用も信頼もしてないが、『桜ちゃんを救う』ものまねだけは信じてもいいと思っている。そう思わなければやってられないのが実情だが、ゴゴの言葉を全面的に信じてやるしか活路は見いだせない。
  そうやって自分を強引に納得させながら、雁夜は何が起こるかまだ判っていないにも関わらず、召喚魔法―――こちらの世界でいう所の召喚魔術の発動の容易さに心惹かれ、魔石の効力を詳しく確認する前に行動を起こしてしまった。
  雁夜自身気付いていないが、間桐の蟲とは異なる、別の魔術への憧れが合ったのだろう。
  「ビスマルク――」
  雁夜がそう呟いた瞬間、両手で持っていた魔石が光り輝き、両手を軸にして体の中から何かが吸い出されるような感覚があった。
  体の中を駆け巡る血流に似た何か手の中にある魔石の中へと一斉に向かっている。頭頂部から足の指先に至るまで、体の隅々から何かが吸われていく。
  間桐の家に生まれながら、魔術回路が極端に少ない雁夜はこれまでに魔術を行使したことが殆ど無い。だから、この感触こそが魔力の使用だと、魔力が魔術回路を通っているのだと即座に思い当れなかった。
  普段の生活では絶対に味わわないような、極小の蟲が体の中を這いずり回る様な気持ち悪さが、雁夜の体を駆け抜ける。
  そしておぞましさを感じた一瞬後、魔石はより一層強く輝き、中央部にあるオレンジ色の六芒星もまた大きく輝き、緑色でもオレンジ色でもない紅い三つの輝きが六芒星から放たれた。
  「うおおおおおおおおおおおおお!?」
  気持ち悪さを叫び声で打消し、動揺を叫び声で吹き飛ばす。そうすると飛び出した三つの紅い輝きは消え、その代わりに背後から迫り来る圧迫感が伝わってくる。
  何が起こってる? 疑問を頭に宿しつつ、口はそれを言う暇もない。雁夜は魔石を両側から握りしめながら後ろを振り返る。
  そこには蟲蔵の壁から現れようとしている白鯨の姿が合った。
  「くじらああぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!?」
  蟲蔵は元々間桐の蟲の住処であり、高さはそれなりに大きく作られている。しかし壁を水面に見立ててそこから現れようとしている白鯨はその全てを埋め尽くすほど巨大で、頭だけしか見えてないが雁夜など楽に呑み込めそうな大きな口が見える。
  シロナガスクジラは体長が25メートルにもなる巨大な生き物で、間桐邸の蟲蔵よりも更に大きな生き物だ。頭が見える白鯨はシロナガスクジラではなく、しかも雁夜の知る鯨とは細部が異なるので、もし冷静に状況を分析できたならば、本物の鯨ではなく魔力によって作られた『幻獣』であると判っただろう。そもそも本当の鯨がいきなり壁から生えて出てくる訳がないのだ。
  しかし今の雁夜には余裕なんてモノは存在しない。
  ゴゴが蟲蔵の中にいた全ての蟲を滅ぼした時は驚いた。雪山がいきなり現れた時も驚いた。臓硯の戸籍を乗っ取って、間桐臓硯を名乗ると聞いた時も驚いた。
  だが今この瞬間、自分の身長を大きく上回る巨大な生き物を前にしては、雁夜は竦む以上に何もできない。ただそこに突っ立って、迫り来る圧倒的な質量を前にして呆然とするしかない。
  正しく、茫然自失になって、その場に佇んでしまう。
  「あ・・・・・・ぁ・・・」
  事前にこうなると聞いていれば少しは落ち着けたかもしれない。だが雁夜はそれを怠り、いきなり魔石の持つ力の発端に触れて、超常現象を目の当たりにしてしまった。
  何かしようと思考すら浮かべられなかった。
  ただただ、壁の中から出てこようとする鯨に目を奪われ、四肢は力を無くしてそこにいるだけの物体へと変わってしまった。
  「あ・・・・・・」
  そして胸びれが見えて、雁夜が立っている場所を押しつぶそうとした正にその瞬間。力を無くした雁夜の手が持っていた魔石を取りこぼした。
  一瞬で吹き出た汗に滑って魔石が床に落ちる。ずるり、と擬音が聞こえてきそうな見事な落下だったが、雁夜は魔石が床とぶつかって固い音を出すまで、雁夜は魔石を落した事実に気付けなかった。
  雁夜は慌てて床を見る。
  けれど目の前から迫り来る鯨からも目を離せず、すぐにそっちに視線を戻してしまう。
  どうすればいい? どうすればいい? どうすればいい?
  雁夜の中には混乱しかなかった。
  そうやって、もう一度。どうすればいい? と考えたその瞬間。
  蟲蔵の壁から出てこようとしていた白鯨が霧散した。
  霧が強い風で取り払われる様に―――。
  砂上の楼閣が崩れ落ちる様に―――。
  降り注ぐ雪が掌の上で溶けるように―――。
  「はぁ!?」
  一瞬前まで目の前に合った圧倒的な存在感が、即座に消え去ってしまい。雁夜の眼前には蟲蔵の壁だけが広がっている。蟲の住処とする為に幾つも開けられた穴は確かにそこに存在するが、巨大な鯨が通ってきた痕跡は全くない。
  慌てて床に視線をやると、手から滑り落ちた魔石はあり、起こった事が夢ではないと告げている。
  床に落ちた魔石には傷一つ無かったので、とりあえずガラス細工の様な見た目とは裏腹に頑丈そうだ。魔石の固さが少しだけ雁夜に安心を与えるが、鯨が現れて消えた理由にはならない。
  何が起こったのか?
  呆然としながら鯨が現れようとして壁をジッと見つめていると、背後からゴゴの声が聞えてきた。
  「魔石を離したら駄目だろうが。あのままビスマルクを攻撃に使えば、俺に一撃喰らわせられただろうに。心臓が弱いと咄嗟の時に判断を誤るぞ」
  「・・・・・・」
  ゴゴの言葉を背中で聞きながら、雁夜は起こった出来事を何とか整理していく。
  どうやらあの巨大な白鯨が魔石から呼び出されて雁夜が召喚した『ビスマルク』のようだ、実際に見た今この瞬間でさえ信じがたい現実ではあるが、とりあえずそういう事だと強引に納得させて思考を続ける。
  雁夜は間桐の魔術師であり、他の人間に比べれば魔術を行う為に必要な魔術回路が少ない。それでも全く無い訳ではないので、おそらくその僅かな魔術回路を経由して魔力が吸い取られ、魔石から幻獣ビスマルクを召喚したのだろう。
  そして雁夜とビスマルクを繋いでいるのは魔石であり、雁夜が供給している魔力だとする。召喚主である雁夜が魔石を手放して、魔力供給を断ってしまったので、ビスマルクは現界できずに魔石へと戻っていった。
  ゴゴに聞けばすぐにでも答えが返ってきそうな考察だが、雁夜はあえて自分を落ち着ける為に、自分の中で考察を作り上げていく。
  魔石。
  幻獣。
  巨大な白鯨。
  幻獣と言うものがどういうモノかは話に聞いたが、知ると実際に見るとでは全く違った。
  「幻獣を呼ぶのが鍛錬じゃなくて、幻獣が得意としている魔法を覚える方が鍛錬の主目的なんだがな――。こんな調子じゃ先行きは不安だな。本当に鍛えてもらうつもりはあるのか?」
  「む・・・・・・、無茶を言うな。あんなのを・・・、いきなり、見せられて・・・・・・。驚かない奴がいるか。大馬鹿野郎ぉぉぉぉぉ!!!」
  結果、世の中の不条理さと目の前に突き付けられた圧倒的な力に対抗するように、叫ぶしかなかった。





  人間ぐらい一口で呑み込めそうな巨大な鯨を間近で見た衝撃、強引に吸い取られた魔力の疲労がそれに重なって、雁夜は魔石を床から持ち上げた所で腰を抜かしてしまった。
  「初めて魔石を使ったご感想は?」
  「・・・・・・改めて思い返せばとんでもない力だ。お前の言葉からの予想だけど、あの状態から更に敵に攻撃を加える為の、もう一段階があるんだろう? ただ出てきて終わりじゃないんだろ?」
  「お、正解だ。少しだけ勘が鋭くなったな」
  「ただの予想だ。それから、あれを呼び出すのに体の中の魔力が殆ど持ってかれて、もう一回同じことをやろうとしてもたぶん無理だ。呼び出せるだけでも大した事だとは思うが、今の俺じゃあ複数回使えない」
  「ふむ・・・。となると、これからは召喚魔法よりも魔法―――雁夜の言葉で言えば、魔術か。その魔術を使えるように鍛えながら、魔力の量を増やす方向で鍛錬していくか」
  床に座り込んでも話は出来る。そこで雁夜は膝を曲げて視線を合わせてくるゴゴと話をしていた。
  気持ちを落ち着かせる為にも誰かと話すのは悪い事ではない。雁夜の現状を作り出した原因の九割ぐらいはゴゴにあるのだが、それを今更言っても仕方ない事だ。
  悪態は付いても、雁夜はゴゴに修行をお願いする立場なので自分を制する。
  「魔力を増やす? 出来るのかそんな事が」
  「魔石の力なら可能だ。パラメータを上げる時だけ『フェンリル』の魔石を持ってれば効率が上がりそうだな、魔術の威力を上げるなら『ゾーナ・シーカー』にするのも良さそうだ」
  「念の為聞いておくが・・・・・・。お前が持ってる魔石はいったい幾つあるんだ?」
  「すぐに取り出せる魔石はビスマルク含めて31個だ。まだ試してないが、この世界で新しく幻獣を作り出せたなら、もっと数は増えるだろうな。いっそのこと人間を止めて幻獣になるか? 三闘神に出来たなら俺でも出来る筈だ、手っ取り早く力が手に入るぞ」
  「・・・・・・冗談と思っておくよ」
  「最後の手段だ、頭の隅にでも置いておけ」
  魔石一つでもとんでもない力が使えるのに、あれと同じモノが後30個もあると聞かされ、雁夜は今以上に心身がの疲れてゆくのを自覚した。
  そして、ゴゴが何気なく呟いた『フェンリル』。雁夜の記憶の中にあるフェンリルという名前は、北欧神話に登場する狼の姿をした巨大な怪物の事だ。
  伝説に生きる怪物が出てくるとは思えないが。先程、固い壁の中から出てこようとする白鯨を見てしまったので、巨大な狼が出てくる可能性が否定できない。そして雁夜はあの巨大な白鯨が出て来た状況で立ちすくむ事しか出来なかったので、同じサイズの狼が出てきたら、見た瞬間に気絶してしまうかもしれないと思った。
  「本当に、とんでもないな、お前の力は――」
  「これでも神様の生みの親だ。これ位は出来て当然だ」
  「・・・・・・そうか」
  何の気負いもなく淡々と言ってのけるゴゴを見て、雁夜は改めてものまね士ゴゴとただの人間でしかない自分との力の差を認める。
  いや、正確に言えば、到達しようなどと考えも出来ないほど圧倒的な高みに君臨していると再認識したと言った方が正しい。自分とゴゴとの力量の差すら測れないのだ、認める認めない以前の問題だろう。
  雁夜が色々な衝撃で打ちひしがれていると、ゴゴがゆっくりと膝を伸ばして立ち上がる。
  そしてこれまで起こった出来事の全てを見ていた壁際の桜に向かって手招きすると、「次は桜ちゃんの番だぞー」と軽く言ってのけた。
  「おい・・・、ものまね士。あんなとんでもない力を桜ちゃんに渡すのか」
  「魔術師としての素養で言えば雁夜なんかよりも桜ちゃんの方が上なんだろう? 使えるか、使いこなせるかどうかは別にして、呼び出すだけなら多分雁夜よりも楽にやってのけるぞ」
  「それは、まあ・・・。そうだが」
  「それに桜ちゃんに渡すのは雁夜に渡した攻撃用の幻獣じゃないから安心しろ。治癒を行う幻獣だから桜ちゃんに危険は及ばない」
  ゴゴが言っていると、呼ばれた桜は特に反抗する事もなく、腕にミシディアうさぎを抱いたままやって来た。
  桜が雁夜の横に立つと、丁度ゴゴと雁夜と桜の三人で三角形が出来ている。雁夜が手を伸ばせばすぐ届く位置で行われるし、既に雁夜が身をもって召喚魔術を体験した後なので、止める理由は無かった。
  あえて言えば、雁夜としては桜には魔術から離れていて欲しい気持ちが強いという事。しかし、既に間桐の魔術師として思われてもおかしくない桜の安全を思うと、間桐の魔術に変わる何らかの力を手に入れておいて損は無いと打算が働く。
  桜の為を想うなら、魔術から離れるのが正解なのか? それとも魔術の世界で生きていけるように力を得るのが正解なのか? 雁夜には答えが出せず、ただゴゴのやろうとする事を見守るだけだ。
  「桜ちゃんにはこれだ」
  「これ、は?」
  「魔石『ユニコーン』、雁夜と同じように魔石に魔力を注ぎ込めば、額の中央に一本の角が生えた白い馬が出てくるぞ」
  「そう・・・」
  ゴゴは雁夜に魔石を渡した時と同じように、掌を上にしてまた新しい魔石を出現させた。
  緑色の物体で、中央にオレンジ色の六芒星が見える。雁夜の手の中にある魔石『ビスマルク』と、全く同一の物にしか見えないので、二つを混ぜてシャッフルすればどちらが『ビスマルク』か判らなくなるだろう。
  桜は魔石に興味が無いのか、ユニコーンという言葉に興味がないのか、あるいは蟲蔵の中にいる状況含めて物事全てに興味が無いのか。ゴゴの言葉を聞いてもほとんど反応が無い。
  だが雁夜は違った。
  「ゆ・・・、ユニコーンだと!?」
  一角獣とも呼ばれるユニコーンがどれだけ今の世の中でありえない生き物か知っているから、その言葉に過敏に反応してしまう。ゴゴの言う『馬』などもっての外だ。
  確かにユニコーンと馬の姿は似ているかもしれないが、ユニコーンは先程雁夜が考えたフェンリル同様に、伝説の中でしか存在しない生き物だ。
  探せば動物園で見かけられる馬なんかとは比べ物にならない希少な存在で。少なくとも雁夜は馬なら何度か見た事があるが、生まれてから一度もユニコーンをお目にかかった事が無い。
  だから雁夜はゴゴと桜の話に横から割り込み、強引に話に加わる。
  「それは幻想種じゃないか!!」
  「幻想種? 知らない言葉だがその意味は?」
  「幻想種ってのは『伝説上の獣』に分類される生き物で、伝説とか神話で登場する生物の事だ。ユニコーンなんて、そんな幻獣・・・いや、聖獣がこんな石の中に・・・」
  「こんな石とはひどい言い草だな。魔石の効力は身をもって知ったばかりだろうが」
  「うっ・・・」
  「とにかく物は試しだ。桜ちゃんはそこに広い場所にユニコーンを呼び出すように念じながら、名前を呼んであげてくれ。名前を呼べば雁夜の時と同じように魔石が勝手に魔力を吸収して、現れるけど、体から離したり距離を取ったら魔力供給が出来なくなって消えるから注意するように」
  「うん・・・」
  さっさと雁夜との話を切り上げたゴゴは、取り出したもう一つの魔石を桜へ受け取らせると、二歩ほど下がって、空間を開けた。
  大人の雁夜なら片手で鷲掴みに出来るが、まだ子供の桜には魔石は大きく両手で持たなければならない。だから桜は腕に抱いていたミシディアうさぎを一旦床に下ろし、ゴゴから受け取った魔石をミシディアうさぎにしていた様に、両手で胸に押し付けていた。
  感情を無くしたように見える遠坂桜。あの雁夜が呼び出した鯨の姿をしっかりと見ていたにも拘らず、怯える様子を見せずに淡々とゴゴが言うとおりに物事を進めていく様子が、逆に雁夜を不安にさせる。
  そして雁夜にはもう一つ不安が合った。
  雁夜の知識にあるユニコーンは非常に獰猛な生き物で、処女の懐に抱かれて初めて大人しくなると言われている。これが間桐に引き取られる前の遠坂桜ならば何の問題もなかったのだが、既に臓硯によって―――かつてこの蟲蔵の中にいた蟲によって嬲られた桜は間違いなく処女を失っている。
  改めてそれを確かめる気はなく、それを話題にするつもりは雁夜には無い。けれど、本当に出てくるのがユニコーンで、それが雁夜の知識の中にある伝説の生き物と符合するならば、桜の身に危険が迫る。それが気がかりなのだ。
  だが、今の雁夜に出来る事は限られている。幻獣『ビスマルク』、巨大は白鯨を呼び出した代償に雁夜の体は今も悲鳴を上げており、少し休めば普通に動けるようになるだろうが、まだ満足に動けない状態だ。体の不調を無視すれば動けるだろうが、万全とは言い難い。
  ユニコーンが本当に出て来たとしても、出てくるのが単なる馬だとしても、無手の雁夜ではどうしようもなかった。
  よって、今の雁夜に出来るのはゴゴへの注意を促す事だけだった。
  「本当に危険は無いんだろうな。幻想種を呼び出せるなんて話は聞いた事が無いぞ」
  「心配性だな雁夜は、『桜ちゃんを救う』ものまねの為に、桜ちゃんを危険に晒したら意味が無いだろうが。心配するな、魔石から呼び出される幻獣は呼び出した者を主と定めて従うようになっている。いわば桜ちゃんが主人で、呼び出されるユニコーンは忠実な使い魔みたいなもんだと思えばいい。付け加えるとユニコーンの大きさは普通の馬と大して変わらん。ビスマルクほど大きくない」
  「・・・・・・本当か?」
  「見る限り桜ちゃんの魔力は雁夜なんぞとは比べ物にならないほど強力だ。雁夜はビスマルクを一回呼び出すだけでヘロヘロになってるが、桜ちゃんなら四、五回は呼び出せるんじゃないか? ユニコーンを呼び出すぐらい簡単だから、疲労の心配もない。安心しろって」
  「この野郎。人が気にしてることをズケズケと――」
  後に雁夜は、ゴゴが即座に出せる魔石の中には、幻想種の中で頂点に位置する『竜種』も含まれ。果てには北欧神話の主神と同じ名前を持つ者すらいると知り、ビスマルクを見た時以上の大絶叫をすることになるのだが―――。
  それはまだ訪れていない未来の話である。



  ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆



  Side - 遠坂桜





  体の中から何かが奪い取られていく感触が合った。話だけはしっかりと聞いていたので、おそらくこれが魔力なのだろう。
  そして目の前に白い体躯と金色のたてがみ、そして額から一本の角を生やした白馬。いや、ユニコーンが姿を現したのを見て、桜は僅かな驚きと魔力が吸い出された疲労感を感じた。
  「・・・・・・」
  「ほら。やっぱり何の問題もなく呼び寄せただろうが。こいつは呼び出した術者とその仲間の状態異常を直す力が合ってな、今なら桜ちゃんだけじゃなく雁夜も一緒に癒しの力で包まれてる筈だ。もっとも雁夜の疲労までは直せないから、疲れたままだろうがな」
  「ユニコーンの角には毒で汚された水を清める力あると聞いた事はあるが・・・。幻想種がこんな簡単に――」
  何やら横でゴゴと雁夜が話しているのが聞えたが、桜の耳にはほとんど入らなかった。
  魅せられているのだ。
  ユニコーンと言う伝説にしか存在しない生き物。確かに見た目は馬に見えるが、馬では決してありえない圧倒的な存在感があり、見ているだけで膝を折ってひれ伏してしまいそうになる神々しさがそこにある。
  桜を弄んでいた間桐の蟲が児戯に思えるその驚きを言葉にするのは難しく、桜は動揺のあまりユニコーンを見続けるしか出来なかった。
  はた目から見ればぼんやりとユニコーンを見つめている様にしか見えない桜だが。動揺しつつ頭の中を駆け巡る思考の嵐は膨大な量に膨れ上がっている。
  「本当に暴れないんだな・・・、このユニコーンは・・・」
  「幻獣にはそれぞれの意思があるんだが『魔石』はその限りじゃない。主人に害する事が無いようになってるのが道具たる由縁だ。まあ、魔石を核にしてもう一度命を吹き込めば一個の生命として生まれるから、必要なら命を与えよう」
  「そうやって何でもない事みたいに、魔術の領域を飛び抜けそうな話をしないでくれ・・・。俺は何か新しいのが出て来たら、それを一つ受け入れるのだけでも苦労してるんだぞ」
  聞こえてくる話に気付かず、頭の中から沢山の記憶が、思い出が、遠坂桜の中に溢れてくる。
  蟲が一匹も居なくなった蟲蔵を見て、何かが変わったのだと知った。
  ゴゴに見せつけられた力は壮大であり、子供の目から見ても途方もない力だと判った。
  突然現れたゴゴという人はよく判らないが、間桐臓硯がいなくなったのをようやく悟った。
  渡された魔石に体力とは違う何かが吸い取られたが、その代わりに清らかな空気が周囲を包んでいるのだと理解した。
  それこそが魔石『ユニコーン』の力。雁夜が言葉にしていた角が放つ聖なる力、ヒールホーンが桜の心身を癒しているのだが、溢れ出でた沢山のモノに思考を奪われている桜はそれに気づかない。
  心の奥底深くに沈めて沈めて、鍵をかけて決して表に出てこないように殺した筈の感情がいつの間にか蘇っていた。
  そんな奇跡に気付かぬまま、桜はユニコーンへ向けていた視線を動かし、今の状況を作り出したゴゴを見る。
  目の部分か晒さず、奇妙な恰好で全身を覆い隠したものまね士ゴゴ、この世界とは別の世界からやって来た神を生んだすごい人。
  けれど桜がゴゴを見て胸に抱いた気持ちは尊敬ではなかった。ゴゴの姿を視界に捕えた瞬間、ある言葉が桜の中から浮かんだのだ。
  何で、間桐の家に養子に出された時、来てくれなかったの? と。
  何で、もっと早くあの蟲を殺してくれなかったの? と。
  何で? 何で? 何で? と。言葉が桜の頭の中を塗り替えていく。
  気が付けば、くすくすくすくすくすくす、と。自分の口から、笑い声が漏れて止まらなかった。
  桜はその感情をうまく説明できない。心の中に宿った気持ちを説明できる言葉を知らない。
  だから端的に思いの丈を打ち明ける為、胸に宿った言葉だけを言い放った。
  「何で――」
  手に持っていた魔石『ユニコーン』は床に置かれ、手放した瞬間に一角獣の姿は霧のように姿を消した。
  それを横目で見ながら、「何で」ともう一度囁き。桜はまだ満足に動けない雁夜おじさんの所へと歩いていく。
  元々、近くに寄っていたのだから、そこまで行くのは簡単だった。
  桜は歩く。そして雁夜おじさんの手の中にある魔石『ビスマルク』に手を伸ばして奪い取る。
  雁夜おじさんもゴゴも自分がそんな事をするとは思ってなかったようで、ただ目を丸くしたまま自分を見ていた。
  桜は先程耳にした『攻撃用の幻獣』という言葉を思い出しながら、もう一度頭の中にあふれた言葉を告げる。


  「ねえ。何でもっと早く、助けに来てくれなかったの?」


  その言葉は激しい怒りによって湧き出た、桜の心だった。今まで抑えつけられていた心が、ユニコーンによって解放されてしまい、現れてしまった桜の想いだった。
  「おいで、ビスマルク――」
  雁夜が止めるよりも早く、ゴゴが次の行動を起こすよりも早く。桜は新たな幻獣を呼び出す為に、魔石へと魔力を流し込む。
  起こった出来事はゴゴと雁夜が桜の感情を理解するよりも早く進行していく。桜の言葉と共に、雁夜を上回る膨大な魔力が魔石へと注ぎ込まれ、雁夜の召喚速度を大幅に上回る召喚が行われて、桜の背後に巨大な鯨が現れてしまう。
  命を吸いだされるような苦しみが体を蝕んだが、桜は歯を食いしばって耐えた。その苦しさは頭の中に生まれた想いに焼かれ、何の意味も持たずに消えていく。
  あなたが、もっと早く来てくれたら。
  あなたと、もっと早く出会ってたら。
  あなたは、もっと早く動けた筈。
  妨げられ。虐げられ。抑え込み。封印しなければならなかった鬱屈した想い。ユニコーンによって解放された桜の想いは逃げ道を求める。
  「許せない――。許せない、許せない、許せない、許せない、許せない、許せない、許せない、許せない、許せない、許せない、許せない、許せない」
  桜はくすくすと笑みを浮かべながら、怨嗟の言葉を呟き続ける。
  幻獣ビスマルクが呼び出され、雁夜が途中で止めてしまった水属性攻撃が桜の背後から生まれてゆく。
  それは人を容易く呑み込む巨大な泡。桜の魔力でより強化されたバブルブロウ―――雁夜が呼び出した白鯨ではなく、桜の魔力に侵食されたのか、体躯を白から黒に染めた鯨が生み出す漆黒の泡だった。
  蟲蔵の壁から浮き出るビスマルク。黒い鯨は自らの存在を誇示するかの如く真っ黒に染まった体を見せびらかせている。
  桜の想いを宿し、破壊の権化となったビスマルクの力の向かう先。ビスマルクと桜の視線は―――ゴゴただ一人へと向けられていた。
  封じていた感情が蘇った時、ゴゴは桜の敵となった。



[31538] 第5話 『ものまね士は人の心の片鱗に触れる』
Name: マンガ男◆da666e53 ID:ac86df83
Date: 2012/07/14 00:33
  第5話 『ものまね士は人の心の片鱗に触れる』



  ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆



  Side - 間桐雁夜





  魔石に封じれた幻獣ビスマルク。巨大な白鯨であるビスマルクの攻撃は、バブルブロウと呼ばれる巨大な泡による攻撃だ。
  ただの泡と侮るなかれ。
  小さいものは手のひらに収まりそうな小ささだが、大きいモノは雁夜の身長を上回る巨大な球を描いている。雁夜はそんな巨大な泡を見た事が無く、単なる『泡』という現象でありながら、その雄大さに目を奪われた。
  泡の群れが蟲蔵の中を埋め尽くしている光景を見ながら雁夜は思う。これこそが自分が途中で止めてしまったビスマルクの―――魔石と言う道具が作り出す真の力なんだ、と。
  けれど、今の雁夜はそれをゆっくり鑑賞している時間は無かった。何故なら、魔石によって作り出された泡の群れは、確かな敵意を持って放たれようとしているからだ。
  「許さない――」
  蟲蔵の中に響く、怨嗟を含んだ桜の声が雁夜の耳に届く。
  その声はこれまで雁夜が接してきた『遠坂桜』のモノではなく、間桐に養子に出されてから感情を無くした少女の口から呟かれたモノでもなかった。
  雁夜が見た事のない笑みを浮かべながら、憎しみと恨みを込めて誰かが喋っている。
  雁夜の目は確実に桜の姿を認めながらも、その少女が桜であると判りたくなかった。
  黒髪に碧眼を持つその姿は桜そのものだ、けれど雁夜の知る桜はあんなにも怒りを露わにしたことは無い。だから雁夜はゴゴに見せられた超常現象に驚くのとは別に、現実を認めたくがない故に考えるのを半ば放棄する。
  「そうなるか。そうくるか。ならば、ここでは狭すぎる、場所を移すとしよう」
  雁夜の耳はゴゴの声を聞きながら、その内容については全く理解しない。
  「さばくのララバイ」
  続けられた言葉が言い終えられる同時に屋内である蟲蔵が姿を消す。そして、熱砂が吹き荒れ、地平線すら見える広大な砂漠が周囲に広がるが、雁夜の意識はその変化に何の反応も示せなかった。
  雪山に変わった時と同じように、結界が発動して別の場所に作り変えられた。目で見て、耳で聞いて、肌で異常事態を感じ取っているにも拘らず、今、雁夜が見るのも聞くのも感じるのも視界に映る桜ただ一人だけだ。
  壁が消え去って広い空間が周囲に広がり、結果、空中に浮かぶ黒い鯨とその周囲に浮かぶ黒い泡が見えるようになった。雁夜に見えるのはそれだけである。
  「ライブラ」
  今の雁夜にとってゴゴの言葉は単なる音でしかない。周囲に出来上がった広大な砂漠も意味をなさない。
  「属性、架空元素・虚数? 実在概念を捻じ曲げて、存在情報を書き換えてるのか? 色彩の変化は存在しない実物への干渉の結果か、すごいぞ桜ちゃん」
  「さ、くら?」
  長い長い空白の時を経て、雁夜はそこでようやく、目に映る桜以外の思考を蘇らせた。
  ゴゴの言った目の前に立つ少女の名前が切っ掛けになったのか。あるいはずっと見続けて、過ぎた時間がようやく思考が戻らせたのか。
  本当の所は雁夜本人にも判らず、それを気にする余裕もない。ただ雁夜が呼び出した鯨は白かったが、桜の後ろで雄大に空を泳いでいるのは鯨の色は黒い。
  色彩の違いがそのまま桜の豹変とつながっている様に思えるだけだ。
  「魔石の本来の力を更に上乗せして、『実在しないモノ』に作り替えてるのか。桜ちゃんの力は中々すごいな」
  「これが桜ちゃんの力――」
  怒りながら、それでいてしっかりと笑っている少女と雁夜の知る桜が結びつき、思考が急速に戻ってくる。
  それでも雁夜が呼び出した白鯨とは見ただけで別格と判る黒い鯨を見せつけられ、雁夜はそう呟くしかない。考えられても、目に見える以上の事が思えない。
  透明であれば大きな泡かシャボン玉が飛んできているように見えたかもしれないが、黒く染まったそれは巨大な鉄球に見えた。
  出てくるのは水が持つ特性の押し流すや呑み込む結果ではない、金属の重厚さが作り出す純粋な破壊だろう。
  それをやっているのば雁夜の知っている桜だ。姉の凛の背中に隠れて、人見知りしていた桜だ。ようやく目の前の桜と遠坂桜が雁夜の中で繋がるが、その事実に雁夜は恐怖する。
  巨大な黒い鯨を背後に従えて、鉄球を何個も何十個も何百個も用意する桜。今はゴゴが蟲蔵から砂漠に場所を移した事実に警戒して攻撃する様子は無いが、桜の目に宿る殺意の光がいつ攻撃に変化してもおかしくはない。
  雁夜の前に立つのは遠坂桜だ。しかし、彼女は何か別のモノにとりつかれたようだった。
  「こんな・・・。桜ちゃんの力は、こんなに大きいのか・・・・・・」
  あまりにも違いすぎるからこそ、認めたくなかった。しかしそこに立って、笑い、目に狂気を宿らせたのは、紛れもなく桜当人なのだ。
  考えられる状況が雁夜の中に戻ってきたが、同じ位の混乱が雁夜の頭の中を埋め尽くす。
  どうすればいいのか?
  何をすればいいのか?
  答えの出ない袋小路に迷い込み、雁夜はまた思考を放棄しそうになる。
  「何を迷ってるんだ、雁夜」
  「ぐえ!」
  それを現実に引き戻したのは、雁夜の服の襟を掴んで後ろに跳躍したゴゴだった。
  成人男性一人分を片手で引きずる膂力が発揮され、雁夜は桜から距離を取らされる。覚悟しなかったところにいきなり衝撃が襲いかかって来たので、雁夜の頭が前につんのめって首が自分の服で絞められた。
  「ぐ、げほっ! げほっ!」
  あまりに唐突かつ強烈な衝撃だったので、雁夜は考える所ではなくなってしまう。
  ただ、距離が開いたので、より広く桜の事を見れる状況が出来上がる。間近に居た筈の桜が小さく見えるようになったが、それは喜ばしい事ではなかった。
  開いた距離の分だけ桜の豹変ぶりが見え辛くなったのはありがたいかもしれないが、空中に浮かんで今この瞬間にも攻撃してきてもおかしくない黒い鯨と、その鯨の周囲に浮かぶ鉄球にしか見えない黒い泡もしっかりと見えている。
  もしかしたら大小合わせたその数は百を越えているかもしれない。一目では数えきれない膨大な数に、雁夜は『死』を考える。
  否応にも考えてしまう。
  「・・・・・・・・・」
  桜の変わり様とは異なる、別の理由での絶句。桜の怒りの矛先は間違いなく雁夜とゴゴに向かっており。あるいはゴゴ一人に向けられて雁夜はその巻き添えになっているだけかもしれないが、同じ場所に立っているが故に敵意を向けられているのは間違いない。
  救いたい相手からの拒絶の意思がそこにある。それが雁夜の生きようとする意志を削り取っていった。
  (これが俺に与えられた罰なのか・・・)
  雁夜には自責の念があった、桜への罪悪感もあった。だから当の桜に攻撃されるかもしれない現実をすんなりと受け入れた。
  むしろ、そうであるべきだとさえ思えてしまう。
  こうなるべきだったんだと、罪を背負わせてしまった者に罰せられることが正しいんだと、雁夜はそう思いながら徐々に思考を放棄していく。
  自らの意思で―――。
  忘我の境に入るのではなく、自分で自分を消していく。
  その中に力ずくで割り込んできたのはまたしてもゴゴの言葉だった、
  「雁夜、目的を履き違えるなよ。聖杯戦争が桜ちゃんを救うんじゃない、桜ちゃんを救う過程の中に聖杯戦争があるだけだ! 何をすべきか考えて、考えて、考え続けろ。桜ちゃんを救う為には聖杯戦争なんて必要ないかもしれないと心に留めろ。俺は聖杯戦争を破壊するつもりだが、必ずしもそれが必要じゃないと選択の幅を広げろ!」
  「・・・・・・・・」
  自分を消しさろうとしているからこそ、ゴゴの言葉は雁夜の頭の中に容易に入り込んだ。桜の攻撃を受け入れようとしたからこそ、真横からの言葉が雁夜の中に滑り込んでくる。
  返事は出来ない。
  けれど、ゴゴの言葉が雁夜の意識を再び『選択』へと導いていく。
  「叶わなくとも前を見ろ。一度でもやり遂げると誓ったなら、それを成し遂げる心の強さを持て。お前が求めようとしている力は何の為だ? 強者に勝つ為か? 聖杯戦争に勝つ為か? 自分の立場を強める為か? 違うだろう、間桐雁夜。お前は『桜ちゃんを救う』その為に、力を求めたんだろうが」
  「・・・・・・・・」
  「あれだ。あれこそが、お前が救おうとして桜ちゃんだ。人が持つ、表と裏という二面性の片方だ! あれも間違いなく桜ちゃんだ!」
  ゴゴが指で指し示す方向には空中に浮かぶ黒い鯨がいた、周囲に浮かぶ黒い泡が合った。そして遠坂桜が立っていた。
  雁夜が救いたいと願い、そしてその為ならば何でもすると覚悟した少女がそこにいる。
  ゴゴによって距離を取ったが、間違いなくそこに―――遠坂桜がいる。
  「今、桜ちゃんは怒りを俺たちにぶつけようとしている、これ以上ないほどの感情を露わにしてる。ここから逃げてどうする? ここから逃げてどうなる? ここだ、今この瞬間こそが桜ちゃんを救う大きな一歩だ。逃げるな、媚びるな、へつらうな、臆するな、負けるな、屈するな、立ち向かえ。今、逃げれば。今、気持で負ければ、お前は一生、桜ちゃんを救えない。あの娘の思いを受け止められない大人がどうやって子供を救うつもりだ? どれほど恐ろしくても膝をつかずに前だけを見ろ、見続けろ。お前は桜ちゃんを救うんだろうが」
  ゴゴの言葉が続ければ続けられるほどに雁夜の意識はより強く桜へと引きずられていった。何もかもを諦めて、桜からの攻撃を受けようとしていた雁夜が薄められ、それ以外の選択肢が強引に与えられていく。
  考えろ。考えろ。考えろ。―――と。誰かの声で自分の中に別人格が植え付けられていくようだ。
  雁夜はもう一度前を見て、クスクスと笑いながらこちらを見ている桜の姿を視界に焼き付けた。
  「傲慢になれ。大人として子供より上だと思い込め。俺に罵声を浴びせるように、不遜な態度を崩さず、そこに堂々と立っていろ。お前は大人だ、子供の癇癪に脅える大人がどこにいる? 肉体も、精神も、心も、命も、全てを賭けて戦え、間桐雁夜。それでようやくお前は桜ちゃんと同じ舞台に上がれる」
  そして雁夜は見てしまう。
  口元に笑みを浮かべ、目に確かな殺意を宿しながら、それでもうっすらと目尻に涙を浮かべる桜の顔を。雁夜は見てしまう。
  笑いながら―――怒りながら―――。それでも泣いている桜を見つけた。
  「救いたいと思うのは簡単だ、救いたいと言葉にするのも簡単だ。伝えるのと判ってもらうのはとても難しい。だから行動で示せ! 救いたいと、桜ちゃんを想っていると、自分は本気だと、行動で示し続けろ。お前に出来るのはそれだけだ」
  もっと他のやり方がある筈だ。ただ桜の攻撃にその身を晒す以外の方法がある筈だ。桜を救う方法が―――涙を流してこちらを見る少女の心を助ける方法がある筈だ。
  ゴゴの言葉に触発され、雁夜の中に選択が現れる。
  そして決定的な言葉がゴゴから放たれた時、雁夜は力強く二本の足で立った。
  「もう一度言うぞ、雁夜。ここで屈したら、お前は桜ちゃんを救えない――」
  「・・・・・・ふざけるな」
  臓硯に取引を持ちかけた時のように―――。どれだけ強大な力を前にしようと、桜ちゃんを救う為なら何でもすると決めたあの時のように―――。雁夜は自分の中に決意と言う名の炎を燃やす。
  強く、強く、強く。けれど冷静に、冷徹に、冷酷に。目的を達する為に自分を変えていく。
  自分からそう決めたのではなく、ゴゴによってそう誘導されたのが非常に気に食わなかったが。雁夜とて望むところであり、ゴゴへの怒りは余所へ置く。
  もう自分で自分を消そうとしていた間桐雁夜は存在しなかった。別の間桐雁夜がここにいた。
  「手を出すなよ、ものまね士。俺がやる」
  今、自分がすべき事を成し遂げる。その一点に意識を集中し、雁夜は自分を作り変える。
  劇的な変化ではない。ただ、何かを成し遂げる為にそうしようと心に決め、望む未来を掴み取ろうと決意した。ほんの少しだけ意識を切り替える、ただそれだけの事だ。
  変化とすら呼べないかもしれないほんの些細な違い。それを胸に宿し、雁夜は桜を見つめながらゴゴに向かって告げる。
  「俺が桜ちゃんの所まで行って、あの子を止める。お前は俺が桜ちゃんの所までたどり着けるようにサポートしてくれ。それ以外は何もしなくていい」
  「お前の力じゃどうやっても桜ちゃんの攻撃を避けられない。無駄に命を捨てる気か?」
  「俺がどれだけ傷つこうと、怪我を負おうと、瀕死になろうと。お前なら俺を生かし続けられるだろう? 違うか」
  魔術師の世界を知る雁夜から見てもゴゴの力は常識では測れない破格の力で、ほぼ確実に魔法の領域にどっぷり浸かっている。
  人体に巣食う間桐の蟲を消滅させられるのならば、人一人を生かすぐらい簡単に違いない。
  そんな願望意欲が強い予測の元の言葉だった。
  「よく判ったな。確かに可能だ」
  それは当っていたようだ。感心したような返事が横から飛んでくる。
  雁夜はその言葉を自分の中で理解しながら、進むべき道は前にしかないと意を決する。
  そして余計な事をしないようにゴゴに更なる釘を刺した。
  「俺の『桜ちゃんを救う』物真似をしている、ものまね士ゴゴ。お前じゃ駄目だ、前に出ないで下がってろ。これは桜ちゃんと同じ、ただの人間の俺がするべき事。桜ちゃんを地獄に落としたこの俺がやらなきゃならない義務なんだ!」
  ゴゴに引きずられて乱れた襟を直しながら、雁夜は前を見る。
  見えるのは桜ただ一人。周囲に浮かぶ黒い泡も、背後に浮かぶ巨大な黒の鯨も何も変わっていない。
  しかし、雁夜は違っていた。ほんの少し前まで桜に攻撃されてもいいと思っていた気持ちと、今、胸に宿っている思いは全く違うモノだ。
  「俺が桜ちゃんを止める。だからお前は俺を生かし続けろ」
  「それでこそ――。それでこそ、だ。そんなお前だから、物真似に値する。いいだろう雁夜、お前を支えてやる、どんな怪我でも一瞬で直してやる、たとえお前が死んでも蘇らせてやる。だから、桜ちゃんの所にまでたどり着く強い心を――、人の持つ意志の輝きを、俺に魅せてくれ!!」
  隠しきれない喜びがゴゴの声に乗っていた。
  フードに隠されて目元しか見えないのは変わってないが、きっとその奥には喜色満面の笑みが広がっているだろう。
  雁夜は見ずとも何となく判るゴゴの様子に苦笑し、足に力を込める。
  「俺は桜ちゃんを救いに行ってくる」
  「行ってこい」
  雁夜は前に出る。桜の上に浮かぶ鯨が、その動きに合わせて黒い泡を撃ち出した。



  ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆



  Side - 遠坂桜





  桜は魔石の使い方など詳しく教わってないし、言葉にして明確に説明された訳でもない。それでも、何となくこの緑色の塊に目に見えない何かを注ぎ込めば思い通りに動いてくれるのは判った。
  魔石の中から巨大な鯨が現れても、桜はそれを怖いとは思わなかった。何故なら、それは自分よりも数十倍も大きいにも関わらず、まるで自分の手足のように動いてくれるからだ。
  自分の手を怖いと思う者はいない。
  胸に秘めた思いは―――、どうしてもっと早く来てくれなかったの? この怒りだった。
  桜は目の前にいるものまね士ゴゴが許せなかった。
  こんなものすごい力があるなら、もっと早く助けに来てくれたらよかった。こんな事が出来るなら、間桐に行かされなくてもよかった。
  ゴゴが間桐邸を訪れたのは全くの偶然であり、桜を救おうと行動を開始したのは雁夜と出会ったからだ。偶然と必然と運命が重なり合って出来た奇跡のような今であり、もし間桐臓硯が生きていたら、もっと悲惨な未来が待ち構えていた筈。
  だから、ある意味、ゴゴは間に合ったのだ。
  それでも桜はゴゴを許せなかった。目に見える全てが許せなくて、許せなくて、許せなかった。
  周囲が砂漠に切り替わったので警戒したが、結局、桜がやる事は変わらない。相手が距離をとっても同じだ。桜は魔力を魔石に注ぎ込み、自分の中から見えに見えない何かが吸い出される苦しみを味わいながらも、ビスマルクに命じる。
  『壊せ』――と。桜は何の躊躇もなく命じる。
  桜を主人と定めた幻獣はその願いを受入れ、周囲に浮かばせた漆黒の泡を敵に向けて放出した。
  本来であれば海の青さを表すかのような透明度の高い泡なのだが、桜の魔力によって変質した黒い泡は別のモノに姿を変えている。着弾と同時に破裂して、爆発によって相手にダメージを与える筈のそれは、硬質な一つの塊に変わって威力を格段に増した。
  むろん、桜はビスマルクの攻撃が本来のモノから変わった事を知らない。ただ、『何となくそうだろう』と魔石を通じて破壊をもたらすモノだと理解しているだけだ。
  どれだけ打ち出しても構わない。ビスマルクは黒い泡を何個も何個も何個も撃ちだす。桜はそれを支える為に魔石を通じて、自分の上に浮かぶ黒い鯨に魔力を注ぎ続ける。
  許せない―――。
  壊せ―――。
  どこかに行け―――。
  と、心の中で絶叫した。そう思いながら、桜は攻撃を続けた。
  遠く離れた場所に立つ二人の誰か。一人が前に出るのと、ビスマルクの攻撃がその一人に集中したのはほぼ同時だった。黒い泡は全く形を変えずに突き進み、まるで鉄球のようにその人に命中する。
  何回も、何十回も。
  泡はその人にぶつかって、少しだけ方向がそれたが、基本的に前に進み続けて、その人を壊していく。
  余った黒い泡をもう一人にぶつけるが、確実に当たっている筈なのに、もう一人は立った姿勢のまま動かずにそこに居続けた。
  桜は不思議だった。一人は桜が望むとおりに見るも無残に吹き飛んで砂の上に横たわっているのに、もう一人はそうならずに立っている。
  どうして壊せないんだろう? 桜はそう考えた。
  そして桜がもう一度ビスマルクに魔力を注ぎ込み、黒い泡をもう一度作り直そうとしていると、横たわっていた人が真っ白い光に包まれ、ムクリと起き上がった。
  「・・・・・・・・・え?」
  壊した筈なのに、壊れていなかった。
  骨が砕ける音を、皮がねじれる音を、血管が裂ける音を、人の体が壊れる音を確かに聞いたのに、その人は立ち上がった。曲がってはいけない方向に曲がった腕を見た、壊れた人形のように吹き飛ぶ姿を見た、あちこちから紅い血を流す様子を見た、それなのにその人は無傷で立っている。
  桜は何で怪我が治って立ち上がれてるのか判らなかった。それでも、まだ壊せていないのを理解して、ゾンビのように蘇る姿に驚く前に、『壊そう』と思った。
  桜は起こった異常を異常と考えず、まず破壊を考える。
  「ビスマルク――」
  もう一度、黒くなった鯨に話しかけ、両手で握りしめた魔石へ魔力を注ぎ込む。
  すると空中に浮かぶ鯨の周囲に黒い泡が何個も何個も出現した。
  一つ一つが普通の人間位なら、簡単に殺せそうな威力を秘めている事が判る。自動車で撥ねられるみたいなものだと桜には判っていた。
  でも、この攻撃を受けながら、桜の視界の中にいる二人は変わらずそこに立っている。
  「許さ、ない」
  混乱しそうになった頭が再び怒りで埋め尽くされ、自分の身に降り注いできた運命と言う名の理不尽さを目の前の誰かに向けた。
  もし魔石を持ち、間桐臓硯が目の前に居れば、桜は何の躊躇いもなく臓硯を殺しに行った。しかし、臓硯はもういない。
  怒りのはけ口を求め、桜は感情に任せてもう一度攻撃する。撃ちだす泡の数を少し減らして、今度はちゃんと敵に当っているかを確認する為、それぞれに一発ずつ撃ち込む。
  風を切る音が桜の耳に届き、巨大な泡が人を吹き飛ばすのを見た。後ろに立っている人にもしっかり当たっている筈なのだが、何故かそちらは微動だにせず受け止めて横に押し退けてしまう。
  色彩豊かな衣装に身を包んだ方こそが桜が怒りを向けるべき人だ、それなのに鉄球に等しいビスマルクの黒い泡が全く効いてくれない。
  そうしたら、砂漠の砂の上に横にした筈の誰かがまた起き上がってきた。
  何で、上手くいってくれないの?
  何で、思い通りになってくれないの?
  何で、私の願いを聞いてくれないの?
  桜は目の前に立つ人達を壊したくて壊したくて仕方が無かった。それなのに桜の希望など関係ない現実ばかりが目の前に広がっている。
  桜は悔しかった。妬ましかった。苦しかった。羨ましかった。許せなかった。悲しかった。
  くすくすくすくす、と口元には笑みを浮かべながらも、頭の中はぐちゃぐちゃになって、よく判らなかった。
  何もかもを壊したくて仕方ない。
  桜は自分でも気づかない内に、目に涙を浮かべた。何故かはやっぱり判らなかった。





  桜が命じれば、ビスマルクは黒い泡で攻撃してくれた。





  何度でも、何度でも、攻撃してくれた。





  魔力を注ぎ込めば、攻撃してくれた。





  尽きる事無く、黒い泡を生み出して。目の前の敵を攻撃してくれた。





  桜の望むままに、破壊を生み出して攻撃してくれた。





  許せない大人を―――、自分を陥れた大人たちを攻撃してくれた。





  そうやって、何度、黒い泡で攻撃しただろう?
  五回は超えたと思えるし、十回はやったと思う。ただ、桜は無我夢中で攻撃していたので、これが何回目の攻撃なのかは覚えていない。
  いくら攻撃しても一人には効かなくて、もう一人は何度も何度も立ち上がって来る。そのあまりの変わらなさに数の認識はあやふやになっていき、四回目と五回目と六回目は一緒になっていた。
  右側に弧を描くように撃ち出してぶつけた事もあった。
  頭上から重力に任せて落とした事もあった。
  左斜め下から顎めがけてぶつけた事もあった。
  小さめの泡を使って拳で殴るみたいに、腹に顔に胸に腕に足にぶつけた事もあった。
  それなのに、その二人は何も変わらずにそこに立ち続けている。そしてまっすぐこっちを見て、桜を見つめているのだ。
  どんな怪我を負っても、その人は立ち上がった。
  どれだけ傷つけても、その人はもう一度起き上がった。
  壊して、壊して、壊して、壊して、壊して、壊しても、その人は止まらなかった。
  気が付けば、桜の意識は壊したくて仕方なかった攻撃の効かない方ではなく、何度でも何度でも立ち上がる誰かに吸い寄せられていた。
  何度もビスマルクに命じて、その度に魔石へと魔力を注ぎ込んで桜の意識は摩耗して行った。辛うじて、誰かを攻撃しなければならないという意識だけは残っていたが。何故? の理由を考える事も出来なくなっていく。
  疲労していく体は回復を求め、吐き出す呼気は徐々に激しさを増していく。頭の中を埋め尽くして怒りは、吐き出す息と一緒に体の中から抜け落ちていくようだ。
  桜は不意に考える。あの人は誰だろう? どうして私は壊したかったんだろう? と。
  「桜ちゃん・・・・・・」
  「ぁ・・・」
  何度も何度も立ち上がって桜を見つめてきた人が桜の名を呼ぶ。
  その声を、その顔を、その姿を、桜は知っている。
  どうして、今までその人が誰であるかを考えなかったのか。そうやって不思議に思えるほど、桜はその人の事をよく知っている。
  桜はその人を見つめ、その人の名前を呟いた。
  「雁夜、おじさん・・・」
  「桜ちゃん」
  名前を呟いた瞬間、桜は急速に『雁夜おじさん』の事を思い出し、これまで接してきた時間の全てを思い出したんじゃないかと思えるほどに、膨大な量の情報を頭の中に溢れさせた。
  同時に、ゴゴ一人に向ける筈だった怒りを、傍にいた『大人』という括りで雁夜おじさんも一緒に巻き込んで攻撃した事実に気付いてしまう。
  それどころか、雁夜おじさんの後ろに立つゴゴに攻撃が効かないからこそ、雁夜おじさんの方を重点的に攻撃してしまった節さえあった。
  知り合いを、見知った相手を、桜の事を想ってくれている人を、桜自らが傷つけたのだ。
  「わ・・・たし――、私・・・」
  徐々に『知り合いを自分の手で傷つけた』という事実が頭の中を占有し、ほんの一瞬前まで合った筈の怒りにすり替わって桜の意識を侵食していく。
  それは悪い事だ。してはならない事だ。
  桜は手を少しずらして、魔石ごと自分の体ごと抱きしめる。他の誰でもない、自分の仕出かした事を自分の中に押し込めるようにギュッと抱きしめる。
  「桜ちゃん、大丈夫――」
  雁夜おじさんはそう言うと、一歩前に出て桜に近づいてきた。何度も何度もその体を壊し、腕も足も腹も胸も頭も、全身くまなく破壊した人が桜に向かって歩いてきた。
  その声を、その姿を、その所作一つ一つを見れば見るほどに、後ろめたさと呼ぶことすらおこがましい強烈な罪悪感が桜の中を埋め尽くす。
  誰かを傷つけてしまった自責の念が桜の心を締め付ける。
  とてもとてもとてもとてもとても胸が苦しかった。
  「桜ちゃん。もう、君を傷つける奴はいないんだ――。怖がらなくても大丈夫・・・」
  「いや・・・、いや・・・」
  合ってはならない事がここにある。誰かを傷つけてしまった結果がここにある。雁夜おじさんが近づけば近づくほどに桜はそれを思い知り、一歩後ろに下がって目の前の現実から逃げようとした。
  けれど周囲に広がる広大な砂漠は消えてなくならないし、背後に浮遊する黒い鯨も、その鯨が浮かばせている膨大な数の黒い泡も変わらずそこにある。
  雁夜おじさんが近づいてくるのもそうだ。桜が起こした罪は今も目の前にある。
  「やだっ―――!!!」
  怒りではなく、現実を否定したいが為に、桜は再び魔石に魔力を注ぎ込んで攻撃を再開した。
  こんな現実は嫌だ、無くなってしまえ。と。そう思いながら攻撃してしまった。
  桜が目を閉じて、自分の体をより強く抱きしめた時。ビスマルクは桜の願いを受け止めて、雁夜おじさんにめがけて黒い泡を撃ち出してしまう。
  左右から打ち込むモノと、上から叩き落とすモノと、真正面から貫くモノ。全体の総量からすれば合計四つしかない攻撃は少ない部類に入る。
  しかし一つ一つが人を死に至らしめる威力を持っており、右から回り込んだ泡は雁夜おじさんの左手を砕きながら体を回し。左から飛ばした泡は雁夜おじさんの足から血を撒き散らしながら払い。上から落とした泡は雁夜おじさんの頭を力ずくで地面に叩き付け、残った最後の泡は雁夜おじさんの耳と腹部の一部をくり貫いた。
  「ぁ・・・あ・・・・・・」
  やってしまったと思って目を開けた時には全てが終わっていた。
  紅い血が砂の上に広がって、曲がってはいけない方向に腕と足が折れ、首の後ろからピンク色の肉と白い骨が少し見えている。
  死だ―――。
  人の体が壊され、どうしようもなく伝えているその結果を見てしまい。桜の意識は一気に冷まされ、攻撃しようとしていた意思は完全に砕かれた。
  やってしまった。
  遣ってしまった。
  殺ってしまった。
  怒りに任せた結果、自分は取り返しのつかない事をしてしまった。
  指は力を無くし、手の中に握りしめていた魔石が砂の上に落ちるが、今の桜にそれを気にする余裕はない。
  背後に控えていた黒い鯨が姿を消して、周囲に浮かんでいた全ての泡が消え去っても、桜の目は自分が殺した雁夜おじさんへと向けられたままだ。
  今、自分が殺してしまった人を―――ずっと見ていた。
  だから雁夜おじさんの全身を淡い燐光が包み込み、時間を巻き戻している様に手と足と腹と首と胸と頭が元の形を取り戻していくのもしっかりと見てしまう。
  「えっ・・・?」
  桜には何が起こっているのか判らなかった。
  ただ、雁夜おじさんの体が光ったと思ったら、怪我など無かったように起き上がったのだ。桜の方を見てくる雁夜おじさんがまたそこに現れたのだ。
  殺してしまったと思ったら、そこにいる。
  夢なのか、幻なのか、現実なのか、桜には判らない。
  「少し痛かったけど、俺は気にしてないよ。こう見えて、おじさんは頑丈なんだ」
  また近づきながらそう言ってくる雁夜おじさんの言葉を聴いて、桜は咄嗟に『そんな筈ない』と思った。
  間桐の蟲という忌まわしい『攻撃』に晒された桜は、自分の仕出かした事が人を苦しめ、傷つけ、時に死に至らしめるモノだと判っている。
  何より今、目の前で殺してしまった雁夜おじさんの姿をしっかりと目に焼き付いたのだ。それなのに雁夜おじさんは何事もなかったように小さく笑みを浮かべ、桜に近づいてきた。
  そのあまりの変わらなさが桜には苦しかった。とても苦しくて、とても悲しくて、とても辛くて、自分が嫌で嫌でたまらなかった。
  「ごめん、な、さい。ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい――」
  「いいんだ桜ちゃん」
  雁夜おじさんは桜のすぐ目の前に立っており。聞えてきた声に引きずられて顔を上げれば、膝を落して目の高さを合わせてきた。
  間近で見る雁夜おじさんの顔には怪我なんて無かった。血も流れてなかった。無傷でそこにいた。
  そんな『間桐雁夜』の姿を見た瞬間。桜の中に間桐に養子に出される前の公園の風景が蘇ってくる。
  母がいた。姉がいた。雁夜おじさんがいた。父はいなかったが、公園から帰ればいつでも会えた。
  もう戻らない景色が蘇り、桜はもう一度『ごめんなさい』と言いながら、それを口にする。
  「雁夜・・・おじさん」
  「なんだい。桜ちゃん」
  「お父さんは・・・、お母さんは・・・、お姉ちゃんは・・・。わたし、のことが・・・、きらい、なの?」
  どうして私はここにいるの?
  どうして私は遠坂の家にいられないの?
  どうして私は間桐に連れてこられたの?
  どうして私は痛くされたの?
  どうして私は―――。
  雁夜おじさんを殺してしまった気持ちと過去への疑問。膨大な量の疑惑が再び桜の中に生まれ、口に出した言葉よりもっと多くの言葉がぐちゃぐちゃになって駆け巡る。
  すると雁夜おじさんは膝をずらして前に出て、桜の体をギュッと抱きしめる。
  「そんな事無い。みんな、桜ちゃんの事が大好きだよ。もちろん、おじさんだって桜ちゃんの事が大好きだ」
  耳元で囁かれる言葉は答えを求める桜の中にじんわり染み込んでくる。だけど雁夜おじさんの言葉だけでは、今桜の身に起こっている事は説明しきれない。
  納得できない。
  感情が暴れ出す。
  「じゃあ・・・。何で・・・・・・何で・・・・・・」
  「ほんの少しボタンを掛け違えただけなんだ。魔術師だから、色々なしがらみが出来て、桜ちゃんが間桐にこなくちゃいけない状況が出来てしまった。でも、みんな桜ちゃんに会いたくて、会いたくて、仕方ないんだよ」
  「・・・・・・・・・ほ、んとう?」
  「ああ。葵さんが桜ちゃんを嫌いになる筈なんてないじゃないか」
  桜は間桐の家になんて来たくなかった。
  でも、父親がそうしろと言ったから、桜は間桐の家にやって来た。
  どうして? どうしてこうなったの?
  雁夜おじさんの言葉を聴きながらも、消せない疑問が―――怒りを容易く誘発する理由が―――桜の中で蠢く。
  すると雁夜おじさんはより強く桜の体を抱きしめてきた。互いの鼓動が聞こえてきそうだ。
  人の温かさがあった。
  「大丈夫。きっとおじさんが桜ちゃんを遠坂の家に帰してあげる。桜ちゃんは葵さんと時臣、凛ちゃんの所に絶対に帰れる――、また一緒にみんなで暮らせる――。だから安心して」
  「・・・おじさん」
  「少し寂しいかもしれないけど、桜ちゃんは帰れる。絶対に遠坂の家の帰れる。おじさんが約束しよう」
  「やく・・・そく」
  「そう、約束だ」
  雁夜おじさんはそう言うと、桜を抱きしめていた腕をほどき、右手を取って互いの小指を絡み合わせた。
  桜はその意味を知っていた。これは約束を必ず守る証だ。
  「指きりげんまん、嘘ついたら、針千本飲ーます」
  「あ・・・」
  「俺との約束だよ、桜ちゃん。少し時間はかかるけど、君は遠坂の家に帰るんだ」
  「・・・・・・・・・」
  その言葉が嬉しくて、桜は雁夜おじさんの反射的にしがみ付いてしまう。
  そして泣いた。
  ただ泣いた。
  わんわんと泣いた。
  悲しくて、嬉しくて、苦しくて、傷つけて申し訳なくて、言葉にしきれないよく判らない思いに突き動かされて―――、涙が止まらなかった。
  一体、この小さな体のどこに、こんなに涙が入っていたのかと不思議に思えるほど、泣いた。
  流す涙はいつまでも止まらなかった。



  ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆



  Side - 間桐雁夜





  ずっと泣き続けるかと思えた桜だが。ある程度時間が経つと、電源の切れた機械のように涙を止め、そのまま寝息を立てながら体重を預けて来た。
  何とも判りやすい泣き疲れだ。
  黒い鯨を呼び出した時に見せた禍々しい笑みは、眠る桜には見えない。
  あれもまた桜の中にある『遠坂桜』を作る一部分なのだろうが、長時間持続させられるほどのモノではなかったのだろう。あるいはこれまで溜め込んでいた感情が一気に爆発して、その勢いのまま消えてしまったか。
  間桐邸で変わり果てた姿を見てから、今に至るまで何の感情も見せずにいた桜がここに来て変化を見せた。あまりの変わり様に一時呆然自失に陥ってしまったが、どんな感情であれ、何もないよりはマシだ。
  今はあの桜を見ても、前向きにそう思える。
  「何度も回復したから死んでない。そして『桜ちゃんを救う』意思も折れてない。この短時間で随分と心を成長させたな、雁夜」
  「お前か・・・」
  振り返ってみると、そこには戦いが合った事など関係ない、と言わんばかりにゴミ一つ付いていないゴゴが立っていた。確実にゴゴの方にも桜の攻撃はいった筈なのだが、雁夜と違って完全に無力化したらしい。
  服が肉と一緒に千切れた雁夜とは大違いである。
  雁夜は桜の呼び出したビスマルクの攻撃で何度も何度も死にかけて、その度にゴゴの援護を受けて回復して無傷の状態に戻してもらった。
  そうでなければ、桜の説得など不可能だったので、回復させてくれた事には素直に感謝したい。だが、人を回復させる魔術の強力さには羨望と恐怖を覚えずにはいられなかった。
  色々見て来たので、ゴゴがとんでもない力の持ち主である事は判っていたが。まさか即死してもおかしくない折れ曲がった首まで一瞬で治すとは思わなかった。おそらく、桜と対する前に言っていた『死んでも蘇らせてやる』というのも本当に出来るだろう。
  治されると言うよりも、まるで起こった出来事が無かった事になるような『まき戻し』の方が説明としては適切な気がする。
  その力の強さに恐れ。けれど、その力の一端を学ぶ機会を得れた奇跡に雁夜は感謝した。
  「桜ちゃんは大丈夫なのか?」
  「ああ。魔石を使いすぎた反動が一気に来て、体が休息を求めて眠ったんだ。雁夜も体の怪我は治っても、心の疲れは消えていないから、眠いだろう?」
  「そうだな・・・。気を張ってないと、そのまま気絶しそうだ」
  「今日だけで十回は死んでるぞ。寿命とかヘイフリック限界とか、回復魔法でも蘇生魔法でも治せない場合はあるんだから、不用意に死ぬな」
  「ああ、判った」
  ゴゴの言葉を聞きながら、雁夜はやはり自分は桜に何回か殺されたのだと思い出す。
  その度に蘇らしてもらったからこうして説得できたのだが、我が身に起こった事だからこそ常識外れだとよく判る。裏の世界に限定しても、もし死者蘇生の話が広がれば、誰もがゴゴを付け狙うようになるだろう
  そうならない為にも、強くならなければならない。そう雁夜は思った。
  気を取り直して見れば、ゴゴの足もとにはいつの間にか消えていたミシディアうさぎがいた。
  どうやら桜がビスマルクを呼び出した時点で、傍にいるのが危険だと判断したらしい。戦いが始まった状況で、即座に最も安全な場所に避難したのだ、この兎は―――。
  呼び出したゴゴと同じで、人の感情など気にしない、ふてぶてしい兎である。
  「俺たちはどれぐらいここにいるんだ? いや、俺は桜ちゃんの攻撃をどれ位受けてたんだ?」
  「三十分ほどだ」
  「それだけか。随分と長い間ここにいるような気がしたが・・・・・・」
  「戦闘はそれだけ精神を削り体力を消耗する。もし聖杯戦争に参加して、遠坂時臣と戦って勝つつもりなら、もっと鍛えないとな」
  「・・・・・・」
  腕の中に桜の体温を感じながら、雁夜はゴゴの言った時臣との戦う場面を思い。そしてゴゴの事を考える。
  ゴゴは聖杯戦争を壊すと言った。雁夜が聖杯戦争に関わろうとするのをどう考えてるのだろう?
  一度その事を聞いておいた方がいいと思うが。今は横になった瞬間に眠ってしまうであろう予感が合ったので、聞く気力すらなかった。
  「どうかしたか雁夜?」
  「いや。何でもない、少し眠いだけだ」
  「そうか、眠いのか。では今日の鍛錬はこれで終了としてゆっくり体を休ませろ。次の鍛錬までに疲れを残さないようにな」
  「ああ・・・」
  ゴゴがそう言うと、周囲に合った砂漠の風景が薄れていき、足元にある砂の感触がドンドンと消えていく。
  考えてみれば、この砂漠もまたかつて見た雪山と同じで、ゴゴが作り変えた結界の一つに違いない。
  桜を説得しなければならなかったし、生きて立つのに精一杯だった。周囲の光景の移り変わりを気にする余裕なんてまるでなかったから深く考えなかったが。この一面砂漠の風景も魔術の常識から外れた超常の力の一部なのだ。
  雪山の次は砂漠。驚く暇が無かったので今回は驚けなかったが、改めて思えばとんでもない変化である。
  「俺は少し図太くなった・・・のか?」
  雁夜は誰にも聞かれる事のない独り言を呟いた。
  そして周囲に広がっていた砂漠の広大さと、天から降り注ぐ太陽の暑さが消えたかと思うと。雁夜の視界の中に懐かしさすら覚える蟲蔵の薄暗い様子が入ってくる。
  臓硯がいた時は近寄る事すら苦痛を覚えていた筈の蟲蔵に、懐かしさを覚えるとは何の冗談だろうか。雁夜は見知った風景に安心を覚え、フッ、と溜息を吐き出しながら肩を落とす。
  その瞬間、体の中に蠢いていた疲労と言う名の敵が一斉に雁夜に襲い掛かり。抗う暇もなく眠りの世界へと引きずり込まれてしまう。
  「ぁ・・・・・・」
  油断した。そう思うよりも早く、張っていた気を霧散させてしまった雁夜は眠りに落ちた。





  目を覚ました時に、眠る前の状況と大きく食い違う現状に驚くのは何度目だろう。雁夜は寝起きのぼんやりした頭で、ふとそんな事を考える。
  「またか」
  目が覚めると、間桐邸にある雁夜の私室の天井が視界に入ってくる。これが普通にベッドに潜り込んで眠った後の目覚めだったならば驚くに値しないのだが、こうなる前に雁夜は別の場所に居た筈だ。
  蟲蔵の床の上で、桜を腕の中に抱いた状態で眠りに落ちたのを覚えている。
  周囲の景色の移り変わりは、酒に呑まれて記憶が飛んだ場合と少し似ているが。今回は誰かが雁夜を私室にまで運んでくれたのだ。既に前例があるので、そうやって自分の状況に対する予測を立てるのは容易かった。
  やったのはゴゴだろう。
  何を思って、わざわざ雁夜を私室のベットの上にまで運んでくれたのかは判らないが。とにかく、雁夜を運んでくれたのはゴゴに違いない。
  「・・・・・・まあ、怒る事じゃない、な」
  雁夜が覚えている限り、間桐の家の中でわざわざ眠ってしまった雁夜をベットにまで運んでくれるような親切な人間は誰一人いない。
  だからこそ、ゴゴの行動が何ともおもはゆい。正直、どう言えば良いか判らなくなってしまうので、羞恥を隠すための怒りが前面に出てしまうのだ。
  そうやって自己分析しても、ゴゴに対する苛立ちは消えてくれなかった。
  死に瀕して。いや、ゴゴのサポートが無ければ確実に亡くなっていたであろう怪我が一日と経たずに治った。怪我一つ無く起きれたのだから感謝すべきだが、ゴゴの傍若無人ぶりにどうしても感謝の言葉が出し辛くなるのだ。
  感謝しながら憎悪を抱くという器用な真似は出来ず。怒声に似た口調ばかりで話しかけていた過去が蘇り、雁夜の中でゴゴとどう接すればいいのか判らない、悶々とした気持ちばかりが膨らんでいく。
  「・・・腹が減ったな」
  気を紛らわすために放った言葉が意味を持って雁夜の耳に舞い戻った時。グー、と唸る腹が空腹を訴た。
  窓から差し込む朝日を見て、昨日の朝から20時間近く眠ってしまったのを知る。
  それほど時間が経った実感は無いのだが。現実に流れた時間はかなり多い。それだけ桜からの攻撃が心身に響いて、休みたいと体が訴えたのだろう。
  死んでもおかしくないあれだけの事がありながらも、こうして無傷で起きれたのは行幸だ。
  無事ならばこの時間すら短すぎる位だ、と前向きに考え直す。本当ならご臨終か、一生寝たきりになってもおかしくなかったのだから―――。
  ゴゴの事とか色々と考える事はあるのだが、とりあえず空腹と言う目の前の敵を打倒する為に意識を切り替える。
  ベッドから下りて桜の攻撃でずたぼろになってしまった服を脱ぎ、間桐邸に戻ると決めた時に持ち込んだ服に着替える。
  今だ壁に出現しているスロットから目を背けつつ―――。
  空腹は解消されずとも、服を着替えればそれだけで意識は少しだけ切り替わる。新しい門出と言えるほど劇的な変化ではないが、とにかく昨日の自分とは異なる何かが胸の中にあった。
  雁夜はその心地よさにほんの少しだけ身を預けつつ、腹を満たすべく入口へと向かう。ゆっくりドアが開かれたのは、雁夜がまだドアノブに手を当てる前の事だった。
  「っと・・・」
  急に開けようとしたドアが開いたので驚いたが、その驚きはゴゴに見せられた数多くの異常に比べれば何の変哲もない日常の一つである。
  風で開いたか、立てつけが悪かったのか。即座に幾つかの予測を立てると、その答えは廊下の方から勝手にやって来てくれた。
  「あの・・・」
  「ああ。桜ちゃん」
  勝手にドアが開いた理由は廊下の方から開いた桜だ。
  雁夜は一歩下がってドアが開く空間を空けつつ、隙間から雁夜の部屋の中を覗きこんでくる桜に声をかける。
  桜はドアのすぐ近くに雁夜が立っているとは思っていなかったようで、雁夜の顔を見た瞬間、ビクッ! と体を震わせて、声を詰まらせた。
  それでも、雁夜の部屋にわざわざ来た理由―――。おそらく雁夜を起こしに来てくれたのであろう、それを完遂する為に、朝の挨拶を口にする。
  「おはよう。雁夜おじさん」
  そこには間桐邸に連れてこられ、間桐の蟲の蹂躙されて感情を無くした少女はいなかった。おっかなびっくりの言葉がよく似合う気弱さだが、それでも雁夜が求めてやまなかった桜の笑顔がそこにあった。
  二か月に一度は冬木に帰って葵と一緒に会っていた遠坂桜がそこにいる。
  引っ込み思案なかつての少女がほんの少し勇気を出した、積極的に動いて自分を変えようとしている。一言でまとめれば『成長』と呼べる変化が雁夜の目の前に広がっている。
  それが嬉しくて嬉しくて仕方なく。雁夜は胸の中に喜びが満ちていくのを感じた。
  「おはよう、桜ちゃん」
  「おはよう――」
  「それじゃあ、行こうか」
  もう一度朝の挨拶を繰り返した桜にそう返すと、桜は肯定の意味を示すように一度頷くと、雁夜の部屋のドアを大きく開いて道を開けた。
  どうやら雁夜に先に行って欲しいようだが、その目が『一緒に行こう』と物語っている様にも見えた。
  姉である凛の背中に隠れてそんな目をしていた桜を思い出し、その懐かしさに『戻って来た』と、もう一度喜びを想い。胸に宿る暖かさを噛みしめつつ、桜と一緒に間桐邸の廊下を歩きだす。
  前方から声が飛んできたのはそのすぐ後だった。
  「起きたか二人とも、よし朝食だ。今日は台所にあったコーンフレークと牛乳、そして果物の盛り合わせだ。昨日の分までモリモリ食べろ」
  「あ・・・」
  喜びに水を差すようにぶしつけに飛び込んできた声の主はゴゴだった。しかも、何故かゴゴは無地のエプロンをつけて色彩の豊かさを更に膨らませており、臓硯が支配していた薄暗い間桐邸とはとてつもなくミスマッチな光景を作り出している。
  桜との時間を邪魔された事もあり、雁夜はかける言葉につまってしまう。
  すると斜め後方に何かがぶつかる感触が合ったので、雁夜はそちらに目を向けた。
  「あの・・・・・・、その・・・・・・」
  「桜ちゃん?」
  そこには雁夜の服を掴んで、雁夜を盾にしてゴゴを見ている桜の姿が合った。
  どうやら、今に至るまで付き合いがあった雁夜に対しては多少強く出れるのだが、ほぼ初対面と言っても過言ではないゴゴに対しては、まだ内気な顔が出てくるようだ。
  そもそも桜が蟲蔵の中でビスマルクを操って最初の攻撃しようとしたのはゴゴだ。つまり、雁夜とは昔の付き合いもあってこうして和解出来ているが、桜の中ではいまだにゴゴは『敵』となっているのかもしれない。
  ほぼ知らない相手。敵と認めている者。人見知りする桜。これらが絡み合って、雁夜と同じように話せる訳がない。その結果、雁夜の後ろに隠れている今が出来上がった。
  いっそ、蟲蔵で見た不気味な笑みを浮かべて敵意を目に宿したあの桜の方が、堂々とゴゴと話せる。そんな事を雁夜は考えるが、何かの切っ掛けであっちの桜が出てくれば、それはそれで大変だ。
  もしかしたら、あれは怒った時の桜が見せる普通の顔なのかもしれない―――。雁夜はしがみ付いてくる桜のつむじを見ながらそんな事に考える。
  これがもし桜の姉の凛だったならば、ゴゴに驚きはするだろうが、すぐ後に『何なのよあんたは、そんな恰好してるなんて変態!』とでも言いそうだ。
  雁夜としては桜を救うためにゴゴの協力が必要なので、二人の仲が悪いのはよろしくない。どうやって間を取り持とうか考えると、答えを出す前にゴゴが喋り出した。
  「何だ、桜ちゃん。ビスマルクで攻撃したのを気にしてるのか? あんなもんは俺にとっては蚊に刺されたようなもんで、全く効かなかったから気にするだけ無駄だ」
  「え・・・」
  「あの程度の攻撃なら百回くらっても痛くも痒くもない。気まずくなる必要なんぞないから、雁夜と一緒に堂々としてろ。そんな事より朝食だ、俺は今から鶴野を呼びに行くから先に行ってろ」
  ゴゴはそれだけ言うと、二人に背を向けて去ってしまう。
  あまりの急展開に思考がついて行かず、雁夜も桜も呆然と見送るしかない。
  それでもゴゴの姿が見えなくなると、自分達が何をすべきか思い出せてくるので、雁夜は桜を見下ろし、桜は雁夜を見上げ、共に視線を合わせながら言う。
  「・・・・・・・・・行こうか、桜ちゃん」
  「うん・・・」
  桜を救うために大きな問題が一つ解消され、状況は大きく前進した。しかしまだまだ残る問題の多さを考えずにはいられなかった。





  間桐邸の食卓に着く。言葉にすればそれだけなのに、十年も寄り付かなかった生家では初めてやる苦行に等しい。
  もし昨日一回やってなかったら、ただ席に座るだけでにかなりの労力が必要になっただろう。今更ながら、雁夜はゴゴの図々しさが時に感謝する事態を生み出すのだと知る。
  一度やった慣れも手伝い、雁夜は桜と普通に食卓に座って朝食の準備を整えた。いつの間にか『飯はゴゴが用意する』という状況が出来上がっているので、二人は他愛もない話題ではあるが、話の華を咲かせて時を待った。
  一人だったならば待つ時間はつまらないかもしれないが、今、雁夜の隣には桜がいる。救うと決めた少女が小さく笑みを浮かべて雁夜を見ている。その何でもない事が雁夜には嬉しくて嬉しくてたまらなかった。
  何気ない光景が幸福に思えた。
  程なく、兄の鶴野が食卓に姿を見せる。宣言通り、ゴゴが呼びに行ったのだろう。
  「雁夜」
  「ああ、兄貴。おはよう」
  すぐに返した『おはよう』は、おそらく間桐邸に戻ってから、最も気持ちよく言えた『おはよう』だ。
  今までは鶴野について思うところが大量にあったのだが、それらを全て許せそうなおおらかな気持ちがある。
  兄貴にも事情があったんだ。そう思えるほどに―――心が強くなっている実感がある。
  小さい変化かもしれないが、昨日の一件で間違いなく自分は成長している。その変化が心地よく、雁夜は自然と笑みを浮かべた。
  だが次の瞬間。その心地よさを冷ます、予想外の言葉が鶴野の口から放たれる。
  「雁夜」
  「ん? どうしたんだ兄貴、早く席に――」
  「・・・・・・・・・俺は」
  「え?」


  「俺は、この家を出ていく」


  鶴野は食堂の入口に佇んで、一歩も食卓へと踏み込んでこない。
  その兄の口から語られた内容は雁夜の頭を凍らせる冷たさを含んでいた。



[31538] 第6話 『ものまね士は去りゆく者に別れを告げる』
Name: マンガ男◆da666e53 ID:ac86df83
Date: 2012/07/14 00:33
  第6話 『ものまね士は去りゆく者に別れを告げる』



  ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆



  Side - 間桐鶴野





  ここ数日間で鶴野の予想通りに事が進んだことなんて一度もなかった。いや、正確に言えば、臓硯が生きていた時はある程度は今後の展開が予測できたのだが、それが叶わなくなったのだ。
  例えそれが鶴野の望むモノでなかったとしても、これまでは未来に待ち構えているモノが何であるかを少しは知れていた。今のように見通しの全くない暗闇の中を歩かされているような恐怖はほとんどなかった。
  鶴野が望まぬ事をやらされる。それでも。先がある程度判っている道があった。けれど今はその道の代わりに恐怖だけが鶴野の前にある。
  何故こんな事になったのだろう?
  何故、こうなってしまったのだろう?
  考えても答えは出ず、鶴野はどちらであっても結局は苦難しかないのだと半ば諦める。そうしなければ今この瞬間にも発狂しそうだからだ。
  「そして俺は目の前に現れた人間にこう言った。『そうか。世界を救おうとしているのか。では、俺も世界を救うと言うものまねをしてみるとしよう』と。それから仲間達のものまねをしながら、世界を渡り歩いて、星に生きるすべての生命を根絶させようとしている悪と戦う事になった」
  「・・・・・・」
  何故こいつは俺の部屋にいるのだろう?
  何がどうなって、こんな状況が出来上がってしまったのだろう?
  鶴野はもう一度現実の理不尽さを考えてみるが、やはり答えは出なかった。
  当たり前だ。現実に起こる理不尽さの大半は自分のあずかり知らぬところで発生する不幸の連鎖の積み重ねであり、そこに個人の意思が介在する余地など無い。
  だからこそ世の中には『理不尽』という言葉が存在するのだ。誰もが自分の思い通りに事を進められる訳ではない。出来の良い兄や偉大な父など、とんでもない比較対象が側に居れば自分と言う存在は薄れ、自分で何かしようとする意志が薄い者には明るい未来など与えられる訳がない。もっとも鶴野の場合は怪物の父と自分の醜さを思わせられる弟だったが。
  鶴野は自分から何かをしようとはしなかった。そして、人知を超えた力は文字通り『降って湧いた』。これで理不尽な状況が生まれなかったら、それはそれで奇跡だろう。
  理由が合って結果がある。鶴野にはどうしようもない真理に基づき、鶴野の恐怖が目の前の現実として具現化している。
  「本来の三闘神の力は人間に納まるほど小さくは無い。元々の器の大きさが三闘神に匹敵するほど強大か、あるいは力を受け止める人間が『人』を辞めれば、あるいは三闘神の全ての力を手に入れる事も不可能ではなかったかもしれない。しかし、ケフカ・パラッツォは自分の持つ器を全て三闘神の力で満たして満足してしまった。力に取りつかれたが故に本質を見失った哀れな男だ――」
  同じ部屋の中にいるので、聞きたくなくても、相手の声はしっかりと聞こえてしまう。
  両手で耳を塞げば声を聴かずに済むかもしれないが、『聴かない』という行為そのものが相手の機嫌を損ねるんじゃないかと思うと、恐ろしくて恐ろしくてたまらない。
  猛獣と同じ部屋の中にいる恐ろしさを何倍にも何十倍にも引き上げたのが今の鶴野の心境だ。実際に体感した事は無いが、それが一番近い気がする。
  「結果はさっき聞かせた通り。人の肉体を捨てたケフカ・パラッツォは同じ三闘神の力を持つ俺の仲間によって滅ぼされた。素養は奴の方が上だったかもしれないが、十二人を一度に相手にして勝てると思ったのが奴の敗因だ。そして瓦礫の塔は崩れ去り、三闘神と言う魔法を世界に留める楔が失われて俺の元へと還ってきた。この力があの世界に存在すればまた同じことを繰り返す、だから俺は次元を超えてここに辿り着いた」
  雁夜から事情を聞いて、臓硯がいなくなったのを知って、鶴野はこれからをどうするか考えていた。
  それなのに、乱入者は鶴野の都合などお構いなしに部屋に入り込んでただただ言葉を放ち続ける。鶴野が人生の岐路に立っていると言うのにそんな事はどうでも良いと言わんばかりだ。
  鶴野は悔しかった。
  そして恐ろしかった。
  「お前が俺に怯えているのは判る。『ものまね士ゴゴ』の本質は人とかけ離れた超常の存在、膨大な力がただ人の形を取っているだけで、この体は決して人ではない。人は別格を嫌い、差異を恐れ、異端を排斥して心を平穏を得ようとする。だからこそ『ものまね士ゴゴ』をお前は恐れ、こうして話をしに来ても常に警戒して心を許したりなんかしない」
  このものまね士ゴゴと名乗った人ではありえない何者かが、怖くて怖くて仕方なかった。
  ただ、恐ろしさゆえに鶴野はゴゴが語り聞かせた内容の多くを理解してしまう。
  普通ならば一度話を聞いただけで全てを覚えるなんて出来ない筈、復習が存在するのは一度限りでは身に付かないからだ。しかし今の鶴野は違った。今までの人生の中でこんなにも集中した事は無いんじゃないかと―――片時も目を離せず、一瞬も気が抜けず、聞こえる音は全て洩らさず、ゴゴと言う存在を注視し続ける。
  結果、雁夜が聞いた内容とほぼ同じことを耳にしながら、鶴野は雁夜以上にゴゴの過去や武勇伝や歴史を自分の中に取り込んでいく。そうしなければならなかった。
  相手は部屋の壁に背を預けながら佇み、鶴野は部屋にある椅子に腰かけて対面している。ほぼ真向いの位置にそれぞれ陣取っているので距離はある、けれど同じ部屋の中にいる事実は変わらず、鶴野はどこか叱責されているような気分を味わわなければならなかった。
  有無を言わさずに部屋に入って勝手に話を始めた。聞く気など最初から無かったのに、恐ろしいから聞くしかなかった。それが強制された集中だとしても、鶴野はゴゴの歩んできた時間を知る。
  そしてゴゴが続けた言葉もしっかりと聞いた。
  「いいか鶴野。お前は正しいんだ」
  「・・・・・・・・・・・・・・・・・・え?」
  「お前はどうしようもなく『人間』なのさ。恐れ、喜び、苦しみ、笑い、嘆き、楽しんで、悲しむ、そんなどこにでもいる『人間』だ。人ではない俺を恐れるのは正しい反応で、恐れない方がどうかしている。たとえ間桐の魔術を知ろうとも、未知と自分の力が及ばぬ現象に恐怖するのは決して間違いじゃない」
  「・・・・・・・・・」
  「もう一度言うぞ。鶴野、お前の恐怖は――俺を怖いと感じる心は正しい」
  恐ろしさ故に鶴野はゴゴの言葉に返答できなかった。
  慣れ親しんだ相手ならば何の気負いもなく色々と言えるかもしれないが、鶴野にとってゴゴは天災に匹敵する疫病神だ。そこにいるだけで鶴野に恐怖を植え付けるろくでもない存在だ。
  臓硯をあっという間に殺した殺人鬼で。いつ鶴野の首を掻っ切るんじゃないかと不安で不安でたまらない。だから、ゴゴの口からそんな言葉が出てくるとは思ってもなかったので、驚きも鶴野の言葉を詰まらせる原因となった。
  ずっと言葉を聞いても、すぐに返事は出来なかった。
  何を言えば良いか判らなくなった。
  「お前が雁夜の話を聞いて、俺の話を聞いて、今の状況を考えて、どんな選択をするかはお前にしか判らない。俺はお前がどんな選択をしようと、それが『桜ちゃんを救う』邪魔にならなければ構わない。俺が恐ろしいなら『人間』として、恐怖から遠ざかればいい。何を選ぼうと誰もお前を責めたりしない」
  こいつは何を言っているのだろう?
  いつから自分史が鶴野への会話に変わったのだろう?
  音は全て鶴野の耳から入り込んで頭の中に染みわたっていくが、その言葉がどんな意味を持っているかを咄嗟に理解できない。
  けれど強いられた集中が何とかゴゴの言葉を理解しようと動いてゆく。
  「鶴野、お前は頑張ってるんだ。誰にも理解されないかもしれないが、今だってお前は現実と戦って俺の前にいる。これまでだって臓硯から強いられた多くの事に従ってきたかもしれないが、嫌だったんだろう? この苦境から逃げ出したいと、今もそう思ってるんだろう? それは間違いじゃない、むしろ『人』として正しい反応だ」
  頭はゴゴの言葉を受け止め、口はオウム返しの様な言葉しか言えない。
  「よく我慢して今まで耐えてきたな。もう嫌な事をしなくてもいいんだ、間桐鶴野。お前は自由だ――」
  「自由・・・・・・」
  「そうだ、お前は自由だ。何をするのも、どんな選択をするのも、『自分に由る』、『自由』だ。誰かに従うんじゃない、お前の主人は間桐鶴野自身だ」
  「俺の・・・・・・」
  気が付けば、恐怖こそなくなっていないがゴゴの言葉に対して少しだけ返答をしている状況が出来上がっていた。
  明確な言葉を返してないし、歩み寄ろうなんて気は全く起こっていない。それでも、相手の言葉を聞いて、それに対して何かしようと言う気持ちが鶴野の中に合った。
  ただ唯々諾々と従っていた状況とは何かが違う。
  不快ではない、愉快でもない、心地よくもない。ただこれまでと違う感覚が鶴野の中から広がっていく。
  「悪しき臓硯はもうこの世のどこにもいない。間桐鶴野の道を邪魔するモノは何もなく、大きく開かれたんだ。これまでが大変だったなら、これから取り返せばいい。先の判らない未来に不安を覚えるかもしれないが、お前なら大丈夫だ」
  ゴゴの言葉が一つ語られる事に鶴野の中から何かが生まれていく。
  これまでは恐怖しか感じなかった筈の言葉、今は切っ掛けを生み出すモノとなり鶴野の中に入ってくる。
  鶴野にはこれが何なのか判らなかった。
  説法のようであり、説得のようであり、ただの会話のようであり、叱咤のようでもある。その言葉が何なのか判らなかった。
  「これまでずっとずっと耐えてきたお前なら何だって出来る。間桐鶴野が積み重ねてきた『自分』は誰にも怪我される事のないお前だけのモノ。どうやってそんな風に『間桐鶴野』を築き上げてきたんだ? その答えがあれば何でも出来る」
  「俺・・・は・・・」
  「存分に悩め、どんな結論も俺は否定しない――。それこそが間桐鶴野だ」
  「・・・・・・・・・」
  ゴゴが言うとおり鶴野思い悩んでいると、言いたい事を全て言い終えたのか現れた時と同じようにゴゴは何の断りもなく部屋を出て行ってしまった。
  部屋からいなくなるなら止める気は初めから無いが、それでも止める気を起こす暇もない素早さだ。残されるのは部屋の中にいる鶴野一人。
  頭の中に刻まれた言葉が思考を呼び、強いられた集中は途切れることなく鶴野に色々な事を考えさせ続ける。
  そして鶴野は思った。誰も本気で相手にしてくれない、そんな存在には戻りたくはない。と。
  間桐邸の中で臓硯の指示に従っていた時はとにかく楽だった。やりたくない事を何度も何度もやらされて苦難を味わっていたとしても、自分を消し去れば何も考えずに生き延びることが出来た。
  けれど、そこに『間桐鶴野』はいない。臓硯の事情を知るからこそ生かされていたし、できそこないでも間桐の名を継ぐ者だったから生きていけた。だがそれは鶴野が思い描く『自分』ではなく、臓硯にとって都合のいい部品だ、『間桐鶴野』という名の生きた機械でしかない。
  鶴野はゴゴの言葉をすべて認めた訳ではない。むしろ思い返せば、鶴野の事を全て知っているような口ぶりには怒りすら覚える。それでも臓硯の死亡が鶴野が失ってしまった『間桐鶴野』を取り戻せる機会なのだと判れた。
  鶴野は酔いたかった。
  理不尽な境遇に追い込まれた自分を知り、思い返し、我に返って自分で自分が嫌になるのを判りたくなかった。酔って何もかもを忘れたかった。
  普段の自分など思い出したくもない。
  間桐臓硯がいた―――、だからこそ、それは叶わぬ夢として鶴野の中に常にあり続け、自責の念となって鶴野自身を押し潰していた。
  その臓硯はもういない。
  「俺は・・・・・・」
  どうすればいい? どうしたい? どうありたい?
  これまで繰り返してきた誰かへの問いかけ―――主に臓硯にしたかった疑問が、徐々に自分への反芻へと作り変えられていく。
  繰り返せば繰り返すほどに間桐臓硯がいなくなった事実が膨らんでいき、鶴野の問いかけは自分自身への問いかけになっていった。
  何がしたい?
  何をやりたい?
  どんな自分になりたい?
  不意に息子の慎二の姿が鶴野の脳裏に浮かんでくる。
  「・・・・・・・・・・・・慎二」
  親としての自覚など殆ど無いに等しかった歪な関係。何故かは判らないが、鶴野は無性に慎二に会いたくなった。
  自分を縛り付けている間桐邸は苦痛でしかない。
  臓硯の延長で魔術なんてモノに関わって、幸せなど一度も感じなかった。
  鶴野は魔術師としての才能など無いできそこないだ。しかし鶴野は間違いなく一人の人間だ。ただの人間だ。
  間桐鶴野はどんな自分でいたいのか? 少なくともそれは間桐の当主などではない。
  疑問が頭の中を駆け巡り、鶴野は一つの結論へと到達する。
  それは―――。





  「家を・・・出る?」
  「ああ。お前に言われてじっくり考えてみた。お前はまだ魔術に関わっていくのかもしれないが、俺はもう金輪際、聖杯戦争にも魔術にも関わりたくない。だから俺はこの家を出ていく。誰が何と言おうと、俺はもうこの家には近付かない」
  そうやって言葉にして雁夜に聞かせると、雁夜は真意を探る様に鶴野の目を見返してきた。
  雁夜が何を考えているかなんて鶴野には判らない。十年以上離れていた兄と弟が分かり合える筈は無く、二人にはテレパシーでの意思の疎通なんて便利な能力もない。
  だから鶴野はただ自分の言葉を雁夜に聞かせるだけだ。叶うならば、そこに至るまでの経緯も過程も苦痛も全ても言葉にして雁夜にぶつけたかったが、今は一秒でも早く間桐邸から出たくて仕方がない。
  朝食の席には雁夜と桜、そして鶴野が座る場所がちゃんと確保されており、朝食の用意こそまだされていないが、席はしっかりと作られている。昨日と一緒だ。
  それは間桐鶴野を招き入れる一つの形。けれど、鶴野はそこに入る気は無く、彼らと歩み寄ろうとは思えなかった。
  何故なら、魔術の世界にまだ関わろうとする雁夜も―――鶴野の罪の意識を強烈に呼び起こす桜も―――、今の鶴野にとっては関わり合いにはなりたくない筆頭だからだ。とりあえず彼らの足もとにいる妙な恰好をした兎は見なかった事にする。
  「間桐の魔術を存続させる気が無いならお前にとっても不都合はないだろ? 雁夜と一緒で俺にも間桐の魔術を存続させる力なんて無いんだからな」
  「・・・・・・・・・」
  昨日までの鶴野では到底考えられないほど強い物言いで雁夜に言葉をぶつける。だからなのか、雁夜は投げつけられた言葉に窮し、どう言えばいいか判らずに困惑しているようだ。
  これは本来ならば昨日の内に済ませておくべき事だった。
  しかし話をしようと部屋を出て雁夜を探してみれば、雁夜も遠坂桜も等しく眠りの世界に旅立っており、話を出来るような状態ではなかった。何が合ったのか多くを聞く気は無く、確かめる気もないが、魔術絡みで二人とも眠らなければならない状況に陥ってしまったのだろう。
  だから鶴野は雁夜が目覚めるのを待ち、その間に間桐邸を出ていく準備を進めた。
  もう既に間桐邸を出ていく準備は整っており、臓硯から渡されて鶴野が自由に使える金もしっかり確保されている。雁夜が残った間桐邸をどう扱うかは知らないが、雁夜がいなかったこの十年、鶴野が味わってきた苦難を考えれば正当な報酬と言える。
  人が一生を過ごす金額には足りないかもしれないが、それでも新しい生活基盤を築いたり、息子の慎二に会いに行って今後の事をじっくり話し合う時間が十分に作れる金額だ。散財せずに慎ましく暮らすならば生涯事足りるかもしれない。
  間桐邸から持ち出す私物は少ないが貰える物はしっかりと確保している。
  鶴野が間桐邸で過ごし、そして雁夜が寄り付かなかった十年。過ぎ去ってしまった時の流れを思い出し、鶴野はそれを言葉にする。
  「雁夜。十年前のお前と同じだな」
  「・・・・・・そうだな」
  先日雁夜は色々と鶴野に対して強く言ったが、雁夜にも負い目はある。それは『間桐から逃げた』という事実だ。既に十年間も寄り付かなかった実績があるので、それを追及されると言葉につまる。
  少し意地が悪かったか? 鶴野はそうやって自分の言葉を思い返すが、万が一にでも間桐邸に残ってほしいなんて言われるない様に釘は指しておくべきだ。
  雁夜は十年前に間桐を捨てた。ならば今、鶴野が同じ事をやったとして誰が責められるだろうか?
  とりあえず横目でちらちらと鶴野を盗み見ている桜の事は横に置き、鶴野は決定的なひと言を口にする。
  「もう一度言うぞ雁夜、俺はこの家を出る。聖杯戦争とか、間桐の魔術とか、そういうややこしい事は全部お前に任せるぞ。いいな?」
  「――判った」
  本来であれば、このやり取りは臓硯が消えたのだと判った時点で行われなければならなかった。しかし、鶴野が色々と引き延ばしたせいで一日も経ってしまったのだ。その分だけ恐怖の権化と同じ家の中にいた鶴野の心労が増えたのだが、即断即決できなかった鶴野にも原因があるのでそれはいい。
  とにかく今日で鶴野は間桐と縁を切る。
  十年前は雁夜も似たような事をしたが、今回は追っ手となる臓硯がいないので、完全に縁を切るのも難しくは無いだろう。
  後は任せた。俺にはもう関係ない。金輪際、関わらない。お前たちはお前たちで好きにやってくれ。魔術なんて物騒な世界から俺は逃げる。
  そんな無言の圧力が伝わったのか、それとも十年前に今の鶴野と同じように間桐から逃げた罪悪感が合ったのか、雁夜は承諾の言葉以上は何も言わなかった。
  隣に座る桜の姿も目に入り、つい先日見た感情の宿さぬ目ではなく、怯えた様子で鶴野の事を見ているのが判った。いつの間にか間桐邸に来た時のように戻ってしまったのかが気になったが、最早鶴野には関係のない事なので、それ以上考えるのを辞める。
  ああ、なんて清々しい気分なんだ――。関わらなくなっただけで心が軽くなる。鶴野はそう思った。
  「何だ、鶴野は間桐の家から出ていくのか。なら、この食事が三人でとる最後の食事だな」
  そう思っていた時、鶴野が見ている食卓とは別の方向から声が飛んできた。
  鶴野は心の中に刻まれた恐怖から即座にそちらに視線をやり、三人分の食事をトレイに乗せたものまね士ゴゴの姿を見つけてしまう。
  食事の用意をする為にエプロンを身に着け、黄色やら赤やら青やら黒やらの色彩の豊かさを更に膨らませているので、一見コミカルな印象を受けるかもしれないが。鶴野はその見た目を裏切る強大な力が人の形を取っているだけだと知っている。
  ゴゴの姿を見れば恐怖で足がすくみ、後ろに跳躍して距離を取りたくてたまらなかった。
  視界に入れる事も恐ろしく、後ろを振り返って脇目も振らずに走り去りたかった。
  恐怖が鶴野の足を縛り付ける。弟の雁夜には強く言えたが、ゴゴを前にすれば虚勢は軽く吹き飛んでしまう。口は接着剤で固められたように動かなくなり、立ちながら指一つ動かなくなった。
  「これが最後の晩餐か」
  「不吉な事を言うな!」
  目の前でゴゴがトレイに乗った食事を並べても動けない、雁夜と言い合いをしている姿を見ても全く動けない。
  別の料理を持って来るために視界から消えてくれなければ、鶴野はずっとそこに佇んでいただろう。
  「・・・・・・・・・」
  これで終わりだ。何もかもが終わりだ。そうやって鶴野は自分に言い聞かせ、間桐邸の最後の食事をとる為に一歩踏み出して食事の席に付く。
  同席するつもりは無かったが、ここでゴゴの機嫌を損なえば出ていくのも難しくなるかもしれないからだ。感傷など全く無いが、生き残る為に強者に逆らう愚かさは身に染みている。
  「兄貴・・・」
  「この家でとる最後の食事なんだ、俺がいても構わないだろ」
  「ああ――」
  そしてゴゴが二度ほど台所と食卓を往復して朝食の準備が完全に整った後、鶴野にとって間桐邸での最後の食事が始まった。



  ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆



  Side - 間桐雁夜





  「じゃあな雁夜」
  「じゃあな――、兄貴」
  兄弟の離別。言葉にすれば短い単語の組み合わせで表現してしまう別れ。雁夜は鶴野とのそれを体験しながら、別段悲しいとは思えない自分に納得していた。
  それもその筈。鶴野とは既に十年と言う月日を隔ててしまった者同士であり、雁夜には雁夜の十年があり、鶴野には鶴野の十年がある。
  十年―――言葉にすれば短いが、さほど仲の良くなかった兄弟が赤の他人に変わってしまうには長すぎる時間だ。
  あるいは雁夜と鶴野がとても仲の良い兄弟だったならば別れに悲しみがあったかもしれないが、雁夜が覚えている鶴野との仲はそれほど良いモノではなかった。むしろ十年以上前から臓硯の手先としての自分を受け入れていた鶴野を嫌悪すらしており、兄弟仲は険悪といってもよい。
  十年前。鶴野を理由にして間桐邸に残るほどの強い気持ちは無かった。十年もの月日、間桐の魔術から逃げ続けていた雁夜が行動で鶴野との仲の希薄さを証明したのだ。
  むしろ、憎しみ合ったり、恨みあったり、殺し合ったりせず、こうして何の愁いもなく思える別れで終わってよかったのだ。雁夜は悲しまない自分への落胆ではなく、そんな前向きな気持ちを自分の中に作り出していく。
  もっとも雁夜がさほど気にしなくても、兄:鶴野の方は大いに気にしているかもしれないが、言葉にされなかった心の所作を読み取る術など持ち合わせていないので、『そういう事』として納得するしかない。
  「行ったな・・・」
  「これで少なくとも聖杯戦争絡みで鶴野が冬木に近づく事はなくなるだろう。聖杯戦争の他の参加者が間桐への人質として鶴野を使ってくる可能性や落ち着いた先で魔術師の問題に巻き込まれる可能性はあるが、起こってない事を今言っても仕方あるまい」
  「そうだな。聖杯戦争の問題が解決したら、魔術師でもないただの兄弟として話せるかもしれないし・・・・・・、兄貴にはこれで良かったんだ」
  雁夜は玄関口でゴゴと並び立ち、鶴野が立ち去って行った方向を見つめて、そこから完全に人影が消えてしまった事を確認した。大きめのトランクを引きずってゆく姿はもうそこには無い。
  言葉にしても、やはり胸に宿る感情は別離への悲しみではなく、だからと言って喜びでもなかった。
  あえて言葉にするならば『無感動』が最も近いだろう。心は何の反応も示さず完全に間桐邸からいなくなってしまった兄を見送っても何も思えないのだ。
  だから雁夜はすぐさま意識を別の事に切り替えられた。感傷とか、余韻とか、そう言った類のモノが何一つなかったから、それが出来た。
  「なあ、ものまね士」
  「何だ?」
  「あの兄貴がお前が現れた後で進んで俺たちと食事をとるなんてただ事じゃない。俺が寝てた間に、兄貴になんて言ったんだ?」
  「大したことじゃない。人は誰だって自分のしてきた事を認められたい気持ちがある。普段恵まれぬ人生を歩んでいる人間ほどその気持ちは強い。それを言葉にして聞かせただけだ」
  ゴゴはそう言うと、小さく一歩前に出て雁夜の斜め前に位置を変えた。
  「間桐鶴野はそう望んでいた。こうありたいと――、こうしたいと――、こうなってほしいと――。俺はそれを言葉にしただけだ。間桐鶴野を『ものまね』して、鶴野自身に返したと思えばいい」
  「そうか・・・」
  ゴゴがどのような言葉で鶴野を説得したのかは定かではなく、そこで言葉を区切ったゴゴはそれ以上話す気が無いようだ。
  だから雁夜はゴゴの言葉を反芻しながら、自分だったらどんな言葉を聞けば間桐邸を出ていく気になるか考える。
  きっと自分は誰かに理解されてほしいのだろう。雁夜はそう思った。
  十年前はただ間桐から逃げたくて逃げたくて仕方なかったからこそ、間桐を捨てたのだが。鶴野のあれは雁夜の『逃亡』ではなく、自発的な『出発』だ。前提が大きく異なる。
  桜を救うのは間桐を逃げ出した雁夜自身の責任であり、本来であれば遠坂桜が間桐に来る必要など微塵もなかった。どんな理由で遠坂時臣が桜を間桐に養子に出したのかはまだ判らないが、桜は臓硯の手で地獄に引きずり込まれたのだ。
  今はまだ手を掴んで掬いだしている真っ最中。まだ桜の心は絶望に片足を突っ込んでいる状態で、完全に『掬い』、そして『救う』為にはまだまだやるべき事が多い。
  これは雁夜が生み出した業だ。誰かに認められるような事ではない。
  しかし誰かがそれを称賛したらどうだろうか? 桜を救おうとする雁夜の意思を肯定してくれたらだろうだろう? きっと雁夜は嬉しくて嬉しくてたまらない。
  桜ちゃんを救おうとしている間桐雁夜。その姿に酔って酔って酔いしれて、そして達成し、納得され、称賛された時、雁夜は何の愁いもなく間桐邸を出ていけるだろう。
  鶴野がそうであるように―――。
  この『全肯定』と似たような事が鶴野に起こったとしたら、きっと兄は晴れ晴れと間桐から出ていける。兄が聞きたかった言葉、けれど今の今まで決して誰からも言葉にされなかったモノをゴゴは言葉にしたに違いない。
  「肩の荷が下りた・・・って事か」
  「さて、邪魔者がいなくなった所で今日の修行に入るとしよう。魔石の使い方は既に判った筈、よって今日からは実戦訓練だ」
  雁夜の独り言に何も返さず、ゴゴは躰を半回転させて間桐邸へと戻って行った。
  鶴野がいなくなろうがどうなろうが知った事ではないと言わんばかりだ。切り替えが早すぎると言うべきか、それとも最初から鶴野に何の思いも抱いていなかったのか。おそらく後者だと予測しながら、雁夜はゴゴの後を追う。
  鶴野は間桐を捨てた。雁夜が十年前にした事を繰り返した。
  ならば、本当に間桐の魔術をこの世から消し去る為に―――遠坂桜を救う為に―――彼女が笑って行ける世界を作る為に―――力を手に入れよう。
  間桐の最後の魔術師、間桐雁夜として。
  「ああ。そうそう、この屋敷の周囲を取り囲んでた防護結界が合ったから、『ものまね』して俺が自由に扱えるように作り変えておいたぞ。蟲爺が張ったみたいだが、術者が消えて消滅寸前だったから『ものまね』するのは楽だった」
  「害がないなら好きにしろ。ちゃんと起こした事を教えてくれればそれでいい」
  「図太くなったな」
  「お前と話してれば、嫌でそうなる」
  ゴゴが前を行き、雁夜がその斜め後ろに付く。二人は話しながら間桐邸に戻り、雁夜は蟲蔵で鍛錬を行う為に意識を切り替えてゆく。
  玄関を潜る時、ふと周囲に目を向けて見れば、これまで見ていた間桐邸の姿がほんの少しだけ明るくなった気がした。
  間桐邸と言えば十年前から、近付く者のいない不気味な屋敷としての悪評を欲しいままにしてきた。
  間違いなく蟲の成育を目的として臓硯の趣味なのだろうが、外観や雰囲気が年中鬱蒼としており、不吉な様相はほとんど幽霊屋敷だ。大きさがそれなりにある上に、冬木でも珍しい作りの家なので尚更だった。
  それがほんの少しだが、以前と違って見えるのは。ゴゴが言った『防護結界の張り直し』が魔術師の半人前でもない雁夜でも判る変化になって表れているのかもしれない。
  少しずつ色々な事が変わっていく。
  時間の流れと一緒に変わっていく。
  ならば、それを少しでもより良い方向へと導くため邁進するのみだ。
  「おいものまね士。そろそろ俺はお前のやる事に驚かなくなってきたぞ」
  「それは何よりだ」
  雁夜は臓硯に取引を持ちかける為に間桐邸に戻った時と比べ、別人のような気持ちになりながら間桐邸に足を踏み入れる。
  もう鶴野が去った道は振り返らなかった。





  蟲蔵へと移動した雁夜は一日前と同じような状況に頭を抱えていた。頭痛になりそうな原因は壁際にいる桜である。
  当然のように、彼女の腕の中にはミシディアうさぎが陣取っており、『ここは俺の場所だ』『手前らは修行でも好きにやってくれ』と言わんばかりの視線を蟲蔵の中央に立つゴゴと雁夜に向けている。
  桜の目は一日前と同じようにゴゴと雁夜を見ているが、それは感情を宿さぬ無機質な目ではなく、今だ敵と見定めている節のあるゴゴを警戒しながら、その近くに居る雁夜を心配そうに見つめていた。この違いは大きく、今から修行が始まると言うのに雁夜の中には嬉しさが宿る。
  そのまま浸っていたい暖かさが胸の奥から湧き上がるが、ゴゴの修行が命がけになるのは胸の暖かさを生み出している桜当人から嫌になるほど教わったので、気を引き締め直す。
  人の命は本来ならば一度限りの尊いモノだ、何度も死んでは堪らない。しかしゴゴはその根底を覆す。だが、今日もまた昨日と同じである保証は無いのだ。ゴゴが直してくれるとは限らない。
  「さて、昨日は魔石の使い方が判ったので、今日から魔石を使った実戦訓練に入る」
  「いきなりだな」
  「強くなるには実戦あるのみ、聖杯戦争まで一年もないなら無駄に出来る時間は無い。そうだろう?」
  「判った・・・、始めてくれ」
  「では今日も雁夜と桜ちゃんにそれぞれ魔石を渡そう」
  ゴゴがそう言うと、左右両方の手の平を上にして、昨日と同じようにどこから出てくるのか判らない魔石を出現させた。
  雁夜は昨日と同じようにゴゴの手の動きをジッと見つめていたが、やはりゴゴの手の平から盛り上がっている様にしか見えない。
  幻想的と見るか生々しくて気持ち悪いと受け取るかは人それぞれだが、とりあえず雁夜は『ゴゴが魔石を出現させられる』と起こっている現象の原因追求ではなく結果のみを注視する。
  いちいち色々な事に驚いていたら先に進まないのはもう判っているからだ。
  「右の魔石は『ビスマルク』、これは雁夜にだ」
  「おっと」
  間違いなく同じサイズの黄金よりも価値がある魔石。神秘の結晶と言い換えてもよいそれを無造作に投げてくるので、雁夜はまた両手で飛んでくるそれをキャッチしなければならなかった。
  扱いの粗雑さは絶対に壊れないと言う確信か、それともものまね士にとっては魔石の価値など、どうでもいいのか。おそらく両方だと思いながら、雁夜は両手でしっかり魔石を掴み取る。
  緑色に光る結晶体、中にオレンジ色の六芒星が輝いているのも昨日と全く変わっていない。
  「左の方は何だ? それは桜ちゃん用だろう」
  「そうだ。こちらの魔石は『ゾーナ・シーカー』、物理的攻撃を伴わない魔力によって引き起こされるた現象を弱小化させる幻獣を呼び出す魔石だ。補助や回復には効果は無いが、敵からの攻撃ならば底上げされた防御力で大抵は効かない」
  「そいつはすごいな。魔術師相手なら天敵だ」
  「術者の魔力に比例してゾーナ・シーカーの『マジックシールド』は強力になるから、もし雁夜が使ったとしても薄いベニヤ板ぐらいの魔法防御力しか出ないな」
  「・・・・・・俺が使っても意味が無い魔石だな、それは」
  「力は等しくそういうモノだ。使いどころを見極めれば強大な武器となり、誤れば自分の身すら滅ぼしてしまう」
  ゴゴは雁夜にそう言い聞かせると、左手に魔石『ゾーナ・シーカー』を浮かばせたまま桜の元へと歩いていった。
  近付いてくる敵―――どれだけ強い感情が桜の中に渦巻いているかは知らないが、とりあえず近づいてくるだけで警戒しているのは間違いない。ゴゴは睨まれているのを判っていながら、そんな事は全く気にせずに桜に近づいていく。
  「これが桜ちゃんの分だ。落とすなよ」
  「あ・・・」
  そして桜が何かする前に、ゴゴは左手に浮かんでいた魔石を桜の腕とミシディアうさぎの体の間に出来た隙間に突っ込んでしまった。
  どうすればいいのか? いきなり渡された魔石を見つめている桜がそう言っている様に思える。
  「桜ちゃんの方が優遇されてる気がするんだが、気のせいか?」
  「雁夜と桜ちゃんの魔力量は数倍も差があるからな、桜ちゃんには桜ちゃんに合った魔石を使う方が効率がいい。昨日のビスマルクは予想外だったが、今の桜ちゃんに渡す魔石は全て補助や回復、それに防御の魔石だ、出てくる幻獣も攻撃用じゃない。昨日みたいに奪われるなよ」
  「・・・ならいいか」
  雁夜はふとゴゴが用意できる全ての魔石の名前と効果を知りたくなった。だが、魔石一つでも四苦八苦している現状で、本格的な修行に至ってはまだ始まってないのである。
  だから知りたいとは思っても、今はまだその時ではないと意識を改める。
  いつか聞く日も来るだろう。そう思いながら、腕の中で輝く魔石『ビスマルク』に視線を落とした。
  「桜ちゃん、俺と雁夜との修行が始まったらゾーナ・シーカーを呼び出せ。雁夜の放った魔法の流れ弾が飛んできても『マジックシールド』が弾き返すから、そこにいても安全だ」
  「危険だと思うなら最初から蟲蔵に呼ばなければいいだろうが」
  「若いうちから魔術の世界がどういうモノか知るのは大切だろう。危険から遠ざける為に全く教えない場合もあるが、桜ちゃんが危険を危険だと感じる為には知る方がいい。魔術に関わった者が知らずに生きていける程、甘い世界ではない」
  「俺は気が進まない」
  「だったら、お前が桜ちゃんを守れるように強くなるんだな」
  そこまで言ったところでゴゴは桜の所から雁夜の前に戻ってきた。
  雁夜はゴゴに向けて言った通り桜がここにいるのを由とはしない。しかし、ゴゴの言う事に納得できる部分がある事は確かだし、そもそも鍛えてくれとお願いしている立場なのであまり強く言えないのもまた事実であった。
  更に加えると、一度決めた事については雁夜がどう言おうと、結局は力技で押し切るのがものまね士ゴゴだ。『桜ちゃんを救う』というものまねの為、色々と理由をつけても思い通りに事を進めてしまうのは目に見えている。そして雁夜はそれに逆らえない。
  ゴゴと関わる様になって雁夜が学んだ諦観が今回もまた発揮され、雁夜はそれ以上の追及を止めた。
  「それじゃあ戦闘開始だ。魔石『ビスマルク』を使って、俺を倒せ――」
  「えっ?」
  雁夜はゴゴの言う事を一つも漏らさずに聞いており、その内容がどんなモノであっても驚かないように心構えをしていた。これまで何か新しい事が出てくるたびに驚きっぱなしだったので、いい加減慣れが生じて来たのだ。
  それなのにゴゴから聞こえてきた言葉を雁夜は理解出来なかった。
  今、なんと言った? その言葉が雁夜の口から放たれるよりも前にゴゴが次の言葉を放つ。


  「あばれる。『帝国兵』」


  その時起こった変化は劇的だった。見た目には何も変わっていない、しかし確実に目の前に立つゴゴが別の何かに変わってしまった。その結果だけが雁夜に伝わってくる。
  二本の足で立っている姿は何も変わらず、魔石を手の平から出現させた時の様な目に見える変化は何もない。それなのに何かに取りつかれたような『変わった』と判るのだ。
  何が起こったのか? 雁夜は咄嗟に話そうとした疑問を喉の奥に戻してしまう。それは何かを言おうとする意志さえ封じ込める強烈な変化だった。
  「何が・・・」
  起こった。そう続けるより早く、ゴゴが右手を雁夜へ向け、そしてある言葉を放ち―――。
  「ファイア」
  火を生んだ。
  「うおっ!!」
  雁夜はいきなり足元に生まれた炎を見て、次の瞬間横に跳んで直撃を避けた。ゴゴの変化に何かがおかしいと思っていなければ反応すら出来なかっただろう。
  しかし、直撃こそ避けられたものの、横に跳ぶ場合に最後の残る足が炎に炙られた。横に跳んで床に転がりながら、火に熱せられた強烈な痛みが足を痛めつける。
  「ぐっ」
  間桐の蟲に弄られた時とは異なる痛みは雁夜の口から苦悶の声を強制的に引き出させる。
  雁夜は床に手をついて転がる体を止めて痛む足を見た。そこにはズボンの一部が焼け焦げた結果と、その下にある自分の足の皮が裂けて、赤く腫れた肉があった。
  親指と人差し指で輪を作った大きさ位の怪我。軽傷と言ってもいい火傷がそこにある。
  雁夜は思った以上に小さかった怪我に安堵するが、それ以上に『ゴゴが攻撃してきた』という事実に混乱しそうになった。
  鍛えてくれる筈じゃなかったのか? 修行をつけてくれる筈じゃなかったのか? そんな疑問が頭の中でぐるぐると渦巻いてしまう。その疑問に突き動かされ、雁夜が顔を上げてゴゴの方を見る。
  握り拳が眼前に迫っていた。
  「お」
  ドゴンッ! と音が聞こえたと思った。しかしそれは自分の顔が殴られた音だと判った。
  雁夜は横に跳んだ勢いよりも更に強い威力で吹き飛ばされ、桜がいる場所とは正反対の壁に激突する。顔の骨が全て砕けたんじゃないかと思える痛みがジンジンと広がる。
  口の中が切れて鼻血と一緒に紅い液体を撒き散らす。壁に当った背中も骨が砕けたんじゃないかと思ってしまう。
  体のあちこちが痛かった。全てが痛かった。痛くない場所を探す方が大変だった。
  「ぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉ」
  雁夜はあまりの痛みに気絶してしまいそうになるが、この痛みは間桐の蟲に受けた痛みに比べればまだ弱い。あくまで、唐突だったからこそ驚いて何の対処も出来なかったのだ。
  何が起こってるかは判らない。だが、敵が雁夜を叩きのめそうとしているのは理解するしかなかった。
  敵はゴゴだ―――。
  何がどうしてこうなっているかは判らないが、ゴゴは雁夜を敵とみなして攻撃している。ならば雁夜は敵を倒す為に行動しなければならない。何故なら、敵に勝たなければ桜を守れないからだ。
  「おおおおおおお!!!」
  痛みへの悲鳴が徐々に自らを鼓舞する為の叫びへと切り替わっていく。
  雁夜は視界を紅く染める血の味を舌で味わいながら、体を起こして敵の姿を見た。
  敵は道化師のような奇抜であり色彩豊かな恰好をしている。そして今、右手を後ろに引いて雁夜めがけて二回目の拳を放とうとしている。
  「桜ちゃん、魔石を使うんだ!!」
  「う――、うん!」
  雁夜が今ここにいる行動の起点とでもいうべき『桜ちゃんを救う』に従い、雁夜は敵を攻撃するよりも前に桜を安全な場所に避難させる。
  ゴゴが言った事が嘘である可能性が脳裏を掠めるが、少なくとも今まで口にした言葉で嘘は無かった。だから雁夜は桜がミシディアうさぎと一緒に抱えている魔石に魔力を注ぎ込み、彼女の頭上に現れた人に見えなくもない何かが桜を絶対に守ってくれると願い、そして確信する。
  腕はあるが足は無く、雁夜と同じ位の大きさの上半身だけの人形がそこに浮かんだ。あれがゴゴの言っていた『ゾーナ・シーカー』なのだろう。
  長い顎と二本の巻き角を持つ顔は黄色一色で染められており、僅かに見える腕と尻尾の様なモノは骨で出来ているのではないかと思えるほど細い。
  下に紅いマント、その上に黒いマントの二重のマントで首から下を隠しており、空中に浮遊する姿は人形劇で使われるマリオネットの様だ。もしかしたら尻尾に見えるのは『ゾーナ・シーカー』の背骨かもしれない。
  雁夜は桜が魔石から幻獣を呼び出したのを見届けた後、空いてしまった時間で攻撃への溜めを終えて迫り来るゴゴの拳を見た。
  「喰らうかこの野郎!!」
  体は痛み、足は焦げ、時間が経つごとに全身が悲鳴を上げる。それでも雁夜は間近に迫った攻撃をぎりぎりで避ける。生まれてから誰かと殴り合いの喧嘩などした事が無かったくせに、不思議と雁夜の体は『戦闘』に向いており、普通ならば突然の戦いに混乱したり脅えたりするのに、その様子は全くない。
  あるいは気付かぬ内に戦闘に特化した意識にさせられてしまうのが、ゴゴが蟲蔵に張っているバトルフィールドの真骨頂なのかもしれない。
  そこは殺し合う者同士が、決着をつけるまで終わらない場所―――。
  思考が横に反れそうになるが、その意識すら即座に消えて、雁夜の心は戦いへと戻っていく。
  「出てこい、ビスマルク!!」
  考えるよりも前にゴゴが豹変してからもずっと離さなかった魔石に魔力を注ぎ込んでいた。敵は思いっきり拳を雁夜に当てようとしていた為、勢い余って前に進んでいる。今を逃せば攻撃の機会を作り出すのは難しい。
  敵がそこに居る。気絶するのは躯を晒すのと同じ事。
  雁夜は急激に失われていく何か―――体力だとか、魔力だとか、精神力だとか―――、とにかく色々なモノが身体から吸われていくのを感じながら、それでも敵の姿を視界から外さぬよう必死で体を支え続けた。
  今にも足の力が抜けて体が床に落ちそうだ。一秒後には卒倒してしまいそうだ。そうしない為に、雁夜は歯を食いしばって敵を見る。
  今だけは、体を蝕む痛みのお陰で気絶出来ないのがありがたかった。
  倒す―――。
  砕く―――。
  殺す―――。
  敵に対する怒りとかそういうモノを感情に乗せず、結果だけを求めて魔石に力を注いでいく。
  背後から現れているであろう白い鯨の巨体を恐れる気持ちは微塵もなかった。最初に見た時は恐ろしくて驚いて絶叫して、どうしようもなく慌てふためいたのに、今はそこにいる力の発露に頼もしさすら感じている。
  魔石を通じて大きな鯨の存在感が雁夜の中に伝わってくる。逆に雁夜の手足のように白い鯨を操れている実感もある。雁夜は自分が操れているビスマルクに、そしてビスマルクの周囲に浮かぶ大量の泡を意識しながら、敵の姿を見据え続けた。
  「いけっ!!」
  次の瞬間。桜の時のように黒く染まっていない、青い海をそのまま球体にしたような泡であり水の塊でもあるバブルブロウが、ゴゴに向かって殺到した。
  「ファイア」
  再びゴゴが呪文を唱えて炎を生み出すが、火が雁夜に到達するよりも前に青い塊がゴゴも炎も一緒に埋め尽くしていった。
  蟲蔵の中を全て埋め尽くすと思えるほどの膨大な量の泡がゴゴに殺到していく。ぶつかって、ぶつかって、ぶつかって、ぶつかっていく。
  泡は衝突と同時に衝撃を生み出し、次の瞬間には雁夜の目の前から消えていく。それでも息もつかせぬ連続攻撃が、ドドドドドドドド、と破壊の音を撒き散らしていた。
  何回当てただろう? 何十回当てただろう? 昨日、桜の攻撃によって雁夜が受けた痛みをゴゴが受けている。
  泡の破裂の余韻が収まり、周囲の視界が開けると、そこには間桐の蟲蔵にゴゴが現れてから一度として見た事の無かった床に屈するゴゴの姿があった。神すら生み出す超常の存在が雁夜の前で倒れたまま動かない。
  その奇跡の様な光景は本来ならばありえない筈だが、確かな現実となって雁夜の視界に飛び込んでくる。
  少し視線を動かして別の場所を見ると、蟲蔵の壁際で傷一つ無く事態を見守っている桜の姿が見えた。どうやら、ビスマルクのバブルブロウはほとんどそちらにはいかず、行ったとしても桜の頭上に浮かぶゾーナ・シーカーが守ったようだ。
  敵がいた、救うべき少女がいた、味方はいなかった。殴り殺されても、焼き殺されてもおかしくなかった。それでも雁夜は生きている。
  「か・・・。か・・・勝った、のか・・・」
  雁夜は荒々しい呼吸を何度も何度も繰り返し、ビスマルク召喚によって失った体力を取り戻すように空気を体へと取り込んでいく。その途中、何か温かいモノが―――ビスマルク召喚によって失われたモノのような、似ているけど違う様な何かが体の中に入ってくるのを感じた。
  気を落ち着かせる為に持っていた魔石を床の上に置く。すると雁夜の頭上に浮かんで居た巨大な鯨は姿を消し、蟲蔵は雁夜の荒々しい呼気だけが聞こえる場所に変わる。
  魔石と言う力を使い、誰かを傷つけた事実に足の力が抜けそうになるが。二本の足でしっかりと床に立ち、今も、これからも、決して屈服しない自分を証明するように立ち続ける。
  前を見ろ、前に進め、前に向かえ、前へ―――。そう心の中で自分に言い聞かせなければ、今にも崩れ落ちてしまいそうだ。
  息を整える為に30秒ほどそうしていた。そして、雁夜の決意を一切合財吹き飛ばすような軽い声が聞えてきたのその30秒が経過した後だった。
  「やったな雁夜。帝国兵、撃破だ」
  「うおっ!!」
  雁夜は何が起こったのか判らなかった。
  間違いなく雁夜の目は床に倒れていたゴゴを視界に捉えており、全く動かない状況を見ていて死体の様だと思っていた。
  動く気配はなく、立ち上がる所作も無かった。その筈なのに、今、目の前に立ち雁夜の顔を見ているゴゴはいったい何なのか?
  答えを探すべく体をずらして床に倒れていた筈のゴゴを探すと、一瞬前まで確かにそこにいた筈のゴゴはいなかった。だから立っているゴゴが、一瞬前まで倒れていたゴゴだと認めるしかない。
  「・・・・・・・・・何をやったんだ。お前はそこに倒れてた筈――、それなのに・・・」
  「普通に立って歩いただけだ」
  「嘘つけっ! 全然、見えなかったぞ!!」
  「まあ、わしが本気を出せば、ヒドゥン程度のモンスターなぞ敵ではない、ということじゃゾイ。・・・・・・・・・っと、違った違った。少し早く動いただけだから、声を荒げるなよ雁夜」
  いきなりの爺口調に面食らったが、やはり突然目の前に現れた驚きしか無い。
  息を整えて目の前に立つゴゴをもう一度ゆっくり見てみると、雁夜を殴り殺そうとしていた雰囲気は欠片も感じられず、それどころか数えきれないほどの泡をぶつけたにも関わらず傷はおろか汚れすらも見当たらなかった。
  当たり前だ―――。雁夜の呼び出したビスマルクより桜の呼び出したビスマルクは数倍強力だった。その『遠坂桜のビスマルク』の攻撃でさえゴゴには全く効かなかったのだから。雁夜が呼び出したビスマルク程度で勝てる道理はない。
  倒れたのは不可解だったが、とにかく今起こった事はゴゴにとって戦闘にすらなっていない児戯なのだろう。
  「さて、雁夜、動くなよ」
  「何をするんだ?」
  「治すのさ――。ケアルガ!!」
  ゴゴが右手を雁夜に向けてそう呟くと、淡く輝く光が雁夜を包み込んだ。
  青の様な赤の様な白の様な紫の様な緑の様な光だ。その光が雁夜の全身を覆ったかと思うと、次の瞬間には火傷した足と殴られた顔の痛みが引いていくのが判る。
  前回は桜の元に辿り着こうとしているので気に知る余裕は無かったが、今は、これがゴゴの使う回復魔法なのだと知れた。
  「回復・・・してるのか。昨日は落ち着いて見るチャンスなんて無かったから・・・、こうして見ると何とも不気味だな」
  顔の部分はどうなっているか見えないので判らないが、足の火傷は患部の焦げ目が浮かび上がったかと思うと新しいピンク色の肉が見えて皮が形成されて一気に元の状態を取り戻していくのだ。
  怪我が治っていく様子を早送りして見せられている様で、自分の体だからこそ、不思議な光景である。
  火傷は一生残ってもおかしくない傷なのに、二秒もすれば完全に消えて、焼けて炭化した服だけが燃やされた事実を伝えていた。治癒だけでも十分奇跡と言えた。
  「・・・・・・・・・ところで、さっきの豹変は何だったんだ? 帝国兵とか言ってたな」
  治療、いや復元とでも言うべき神秘を見せられたが、治ったのならば深くを追求する意味は無い。それを気にしたところで、ゴゴは『出来るからやれる』存在なので、むしろその技を学ぼうとする方が雁夜にとっては有意義だ。
  雁夜はゴゴの仕出かした全てを暴き、技術を自分のモノにする為に言葉とする。ゴゴは雁夜に向けていた手を下ろしながら告げた。
  「あれは俺の仲間だった一人ガウの得意技でな。敵だった魔物の行動を真似て、魔物に成り代われるのさ。俺の『ものまね』に近い」
  「・・・・・・で。今は『帝国兵』ってのを真似てたのか」
  「そうだ。だが、最弱と言っていい、『帝国兵』相手にこんなに時間がかかっては道のりは遠く険しいぞ。『帝国兵』は単なる人間、攻撃にせよ防御にせよ回避にせよ逃亡にせよ、相手が攻撃してくる前に行動を起こさないと取り返しがつかなくなる」
  「ああ――。骨身にしみたよ」
  雁夜はゴゴの言葉を聞きながら、既に傷の消えた自分の足に視線を移した。ゴゴの力によって傷は消えたが、焦げたズボンが変わらずそこにあって殺し合いの証をしっかりと教えている。
  もう少し避けるのが早かったならこうならなかった。
  ゴゴの豹変ぶりに驚かなかったらこうならなかった。
  魔術に関わった時点で命がけなのは間桐臓硯を見て知っていた筈なのに、それを失念していた。
  後悔が雁夜の中に蠢き、自分への落胆となって胸を締め付ける。いきなり攻撃してきたゴゴへの怒りは合ったが、自責の念の方がもっともっと強い。
  傷の消えた箇所を三回ほど撫でた後、視線をゴゴに戻す。するとゴゴはそれを待っていたのか、話しを再開する。
  「これで雁夜はどれだけ自分がひ弱で貧弱で力不足か判ったな。俺に勝てば幻獣が使う魔法を早く修得出来るようになるが、勝たないと何もしないのとほとんど変わらない。瞑想や魔力の流れに耳を傾けて、魔石の声を聞ければ魔法を学べるが。それは時間がかかりすぎるし、魔石の中にいる幻獣の意識と同調する才能がいる」
  「・・・・・・・・・」
  「聖杯戦争でどんな相手が出てくるか判らないが、雁夜の言っていた遠坂時臣とかいう男は間違いなく出てくる。そして、直接戦う機会は無いかもしれないが、敵対する英霊なんてのも出てくる。これは関わった時点で確定事項だ。よって、雁夜には魔法――魔術の鍛錬を行うと同時にこれも扱えるようになってもらう」
  「これ?」
  「そう、『これ』だ」
  ゴゴはそう言うと、下げた右腕を斜め下に伸ばした。
  「『ラグナロック』と呼ばれる、剣によく似た幻獣がいた」
  そして何も持っていなかった筈の右手が一瞬だけ燐光を放ったかと思うと、魔石を出現させた時のように何も持っていなかった右手の奥から何かが出てくる。
  それがゴゴのいう『これ』なのだろう。雁夜はゴゴが何もない場所から魔石を取り出すのを見ているので、『これ』が出てくること自体には驚かなかった。
  その代わり、さっき言われた異常に対する行動を誤らぬよう、何が出て来ても対処できるように深呼吸して心を落ち着かせる。
  何が出てくるのか? これ、とは何を指しているのか?
  「炭鉱都市ナルシェと呼ばれる場所、武器屋の爺さんがその魔石を持っていた、そしてこう言ったんだ。『武器屋をやっていて70年。この石からは不思議な力を感じる。多分この石を削り、剣を作れば素晴らしいものになるじゃろう・・・。どうじゃ? この石を剣に変えてみないかね?』、とな」
  「それで、なんて答えたんだ?」
  「仲間の一人、ロックが言った。剣『ラグナロク』にしてくれ。と。その結果がこの剣だ」
  ゴゴが『剣だ』と言うのと、手の中に『これ』が現れたのはほぼ同時だった。
  魔石を作り出した時と同じように、間違いなくゴゴの体の中から浮き上がって来た。人一人分しかない体のどこに魔石やら剣やらがつまっているのか非常に気になったが、最初の魔石が出てきた時点で既に諦めている、『そういうものだ』と納得するしかない。
  だから装飾が少なく、実用性のみを求めて作られたような無骨な剣がゴゴの手に握られていても驚かなかった。納得しながら、ビスマルクの時のようにゴゴが語った言葉と自分の記憶との差異を埋め合わせるだけだ。
  「北欧神話の世界における終末の日・・・か」
  ビスマルクがそうだったように、ゴゴが過ごした世界と雁夜のいるこの世界との間に何かしらの繋がりがあるのは確かだ。会話が何の問題もなく行えているのもその辺りが理由だろう。
  ゴゴだけが特別で、雁夜の話す日本語を物真似している可能性もあるが、今はその予想は横に置く。
  ただし、関連性は合っても全てが正しく繋がっている訳ではない。
  ゴゴの右手に握られた剣は明らかに魔石の大きさよりも数倍の長さを誇っている。それなのに『魔石を削って作った剣』とは矛盾している気がするが、そういうモノだと納得しておく。
  「剣か。俺に使えるのか?」
  「違うぞ雁夜。使うんだ――この剣を自由自在に扱えるようになって『ルーンナイト』間桐雁夜として生まれ変われ。この魔剣『ラグナロク』を自由に扱えるようになる。それを雁夜の求める力の到達地点の一つにする。魔力増強の修行も一緒に行えば聖杯戦争の為の令呪も宿る。一石二鳥にしろ」
  ゴゴはそう言うと、右手に握った剣―――銘は『ラグナロク』という、その敵を殺す武器を横にして雁夜の前に突き付けた。
  飾り気のない白い刀身。雁夜は白銀に輝くその光に吸い込まれそうになるが、懸命に起こっている事実を受け入れようと自分を制する。
  落ち着け、落ち着け、落ち着け、と何度も何度も自分に言い聞かせた。
  「ラグナロク――」
  「抜き身で持ち歩けとは言わないが、聖杯戦争で殺し合いをするなら魔石から学ぶ魔法だけじゃ雁夜の力は絶対的に足りない。勝ちたいのなら、力を得たいのなら、桜ちゃんを救いたいのなら、白兵戦も出来るようになれ」
  「・・・・・・・・・・・・判った」
  いきなり武器を渡される状況に色々と言いたい事はあるのだが、雁夜自身無手で魔術師相手に勝てるとは思ってないので、何かしらの攻撃手段が欲しいとは思っていた。
  ビスマルクを使ってみた実感したが、ゴゴのように攻撃が効かない相手が敵だったならば、別の手段が必要になる。
  逃げるにしても戦い続けるにしても、選択肢の幅は多ければ多い方がいい。大は小を兼ねるがその逆はありえないのだから。
  ただし、色々と手を出して何も身につかなかったら意味がないだろうとは思う。
  雁夜はゴゴの手に握られた魔剣ラグナロクに手を伸ばし、唯一装飾が施された唾の部分と柄頭に近い位置にそれぞれ手を伸ばす。
  「受け取れ雁夜。世界を救った剣だ――」
  「世界を・・・・・・」
  雁夜の手がラグナロクに触れ、ゴゴが手を離す。
  そして―――。
  「ぐぬぬおおおおおおおおお!!!」
  あまりの剣の重さに床に落としそうになった。
  箸より重いものを持ったことがない、なんて言うつもりはないが。同じ位の大きさの木刀と比べて、途方もない重さが手の中にある。
  一体どんな金属で出来ているのだろうか? 持ち上げるだけで精一杯で、この剣を武器として扱えるかどうかすら怪しくなってしまう。
  雁夜は元々何かしらの武器を持って戦うなんて事はやった事が無いし、刃物と言えば包丁かナイフ位しか扱った事が無い。
  いきなり刃渡りが一メートル近くある凶器を渡されて自由自在に扱える筈がない。そんな事がいきなりできる奴は刃物の扱いに長けた狂人か、刃物を扱える才能に特化した者だけだ。
  雁夜にはそんな才能は無い。だからこそ、これを扱えるようになる事も修行の一つなのだ。もしかしたら雁夜が知らなかっただけで、金属の武器は皆等しくこの重さなのかもしれない。
  咄嗟に両手で思いっきり握りしめるが、そうしても支えるだけで精一杯だ。
  「ぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉ」
  一瞬でも気を抜けば、手が剣を離して床に落してしまいそうだ。だから雁夜は歯を食いしばって自分に気合を込め続ける。落すな、持ちこたえろ、構えろ。そう自分に言い聞かせる。
  ゴゴとの殺し合いを展開して疲労したのを気にする余裕はない。手も足も腰も胸も、体の全ての力を使って、そこでようやく何とか落とさずに持てる。
  雁夜は少しずつ少しずつ手の位置を変えて、剣を持った時の構えを作り出していく。桜が見ている目の前で、何もできずに剣を落すなんて真似は出来ない。大人としてそれは格好悪すぎる。
  結果、剣道でいう『正眼の構え』にまで何とか剣を持ち上げる事に成功したが、剣の重さにバランスを崩され、今にも前のめりに倒れそうだ。
  重さゆえにゆっくりと上に持ち上げる事しか出来ず、上段まで持って行くなど今の雁夜の筋力では不可能だ。何とか剣を振ろうとするが、それは剣の重さで落としたと言った方が正しく、技術など何一つない。
  満足に構えられず、剣を武器として扱う事も出来ない。それでも雁夜は何とかラグナロクを武器として振るい、ゴゴのバトルフィールドが展開されているが故に傷一つ付かない床へと剣の切っ先をぶつけた。
  すると床が爆発した。
  「おひょぉぉぉぉぉ!!」
  変な叫び声が出て、雁夜は咄嗟にラグナロクから手を離してしまう。
  爆発の規模で言えば爆竹を少し強力にした程度の規模だったが、刀身の先がいきなり爆発するなんてのは雁夜の想定範囲外の話で、驚くなと言う方が無理だ。
  ガランと固い音を立てながら床に落ちる魔剣ラグナロク。
  ゴゴはそんなラグナロクを見つめ、雁夜を見て、もう一度ラグナロクを見ながら言った。
  「ああ、言い忘れてたが、この剣は振るって攻撃すると魔力を変換して無属性ダメージの魔法を相手にぶつける特殊効果がある。今の爆発がそれだ。ただ握ってるだけなら問題ないが、振るえば魔力を吸われるから気をつけろ」
  「そういう大事な事は先に言えっ!!」
  「だったらいきなり振る様な軽はずみな行動は慎めよ雁夜。何事も注意深く、けれど時に大胆に――、状況を見極める目を養わずに手に入る力なら、いつか自分の身を滅ぼすぞ。構えるのに精一杯のくせに出来もしない事をいきなりやろうとするからこうなるんだ」
  「ぐぬっ!」
  「爆発の規模はラグナロクを使う者の技量と魔力の高さに比例すると思えばいい。今の雁夜は全く駄目だからあの程度で済んだ。セリスが振るった時は、一撃で間桐邸の半分が吹き飛ぶ威力を出せたぞ」
  「・・・・・・・・・・・・そういう大事な事は先に言ってくれ」
  ゴゴに対して雁夜の言葉がどこまで通じるか判らなかったが、とても大事な事なので雁夜はもう一度同じ言葉を繰り返した。
  ただし、自分が突っ走ったからこそ、ラグナロクを床に落としてしまった後ろめたさがあるので、一度目に比べて語尾に力が無い。
  気を取り直して床に落ちているラグナロクに手を伸ばし、握りの部分をしっかりと両手で掴んで持ち上げていく。やはり両手にかかる加重はとてつもなく大きく、肩が抜けるんじゃないかと思った。
  あるいは雁夜が貧弱すぎるのか。
  「それじゃあ気を取り直してもう一回いくぞ。さあ雁夜、ラグナロクを持ち上げて構えろ、戦闘再開だ」
  「ちょ、待てっ!」
  「待たない。敵に待ってくれと縋る気かお前は?」


  「あばれる。『帝国兵』――」


  再び、ゴゴの声が豹変する雰囲気が伝わって来たので、雁夜はラグナロクから手を離して、傍に置いた魔石『ビスマルク』に手を伸ばす。
  そして殺し合いがもう一度始まった。



  ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆



  Side - ゴゴ





  はっきり言えば、ゴゴの求める『この世界』についての情報は現在の段階では全く足りていない。
  ノートパソコンを用いての情報収集はかつて旅した世界に比べれば容易く、正しい情報と誤った情報が入り乱れるインターネットは中々有意義な場所であった。
  しかし、情報にあふれているからこそ、一点に絞って調べるには少し不向きな場所なのだ。時が経てば経つほどに流出する情報は更に大きく幅広く多岐にわたる様になるかもしれないが、今はまだ足りない情報の方が多いと思われる。
  そしてものまね士ゴゴとしては、ノートパソコンを使うよりは『誰かの物真似をする』の情報収集の方がやり易い。これまでは短時間しか作業を見なかった鶴野のノートパソコン操作を物真似して、この世界について学んでいる真っ最中だが、他のやり方で物真似するのも視野に入れなければならない。
  そもそも、ものまね士ゴゴの存在理由は『ものまね』にある。ただ調べるだけならば、それはものまね士とは言えないだろう。
  砂漠国家フィガロの王城には図書室があり、あそこで本を読んでいた誰かを物真似して、ケフカに壊される以前の世界の事を学んだことがある。
  あれをもう一度やろう。冬木と呼ばれるこの場所で誰かの物真似をして、情報を集めよう。ゴゴはそう考える。
  目の前で床に突っ伏して満足に動けない雁夜を見ながらそう考える。ラグナロクの重さに振り回された雁夜を見ながらそう考える。帝国兵と二回戦っただけで瀕死になった雁夜を見ながらそう考える。
  とりあえず息はしているので死んではいない。
  「雁夜、お前は『桜ちゃん』を救おうとしている。俺は『桜ちゃん』を救うものまねをしている。『桜ちゃんを救う』為に聖杯戦争を破壊しよう。二度と聖杯戦争を起こせないよう跡形もなく消し去ろう」
  聞えていないかもしれないがゴゴはそう告げた。



[31538] 一年生活秘録 その1 『101匹ミシディアうさぎ』
Name: マンガ男◆da666e53 ID:ac86df83
Date: 2012/07/14 00:34
  一年生活秘録 その1 『101匹ミシディアうさぎ』



  ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆



  Side - 遠坂桜





  桜にとって間桐邸とは決して心地よい場所ではない。
  住み慣れた遠坂の家を離れ、間桐へと養子に出されたのを桜は判っている。だから間桐の家が今の桜の家だという事もちゃんと理解しているのだが、そこに安心があるかどうかは別問題だ。
  桜が間桐邸を苦手とするその理由、それはこの間桐邸にいる限り、あのおぞましく、醜く、汚らわしく、嫌悪しか思えない間桐の蟲を、そして桜を地獄の底に引きずり込んだ間桐臓硯を思い出してしまうからだ。
  ここにいる限り、触れる事も見る事も思い出す事も考える事もしたくない間桐の蟲をどうしても思い出してしまう。
  例え、現在の間桐邸には間桐の蟲が一匹もいないとしても、桜の心と体に刻まれた事実は消えずに残り続ける。侵され、汚され、犯され、穢された、その結果は覆らない。
  一か月どころか十日にすら届かない短い時間だった。それでも弄られて嬲られて玩ばれた事実は桜の中に今もある。
  忘れる事なんて出来ない。
  嫌だ―――。
  思い出したくない。
  嫌だ―――。
  無かった事には出来ない。
  嫌だ―――。
  自閉していようとも感情を表に出せるようになっても、結果は覆らず桜の中に残ったままだ。それを表に出すか自分の中に溜め続けるかの違いがあるだけで、記憶の有無については消えずにあり続けている。
  だから桜は間桐邸によい感情が持てない。子供の自分は間桐邸の庇護を受けるしかないと理解しているからこそ、耐えるしかないと悟っていた。
  「・・・・・・・・・・・・」
  「桜ちゃんはまだ子供だ『世の中にはこんな事がある』と言うのを知るのもまた勉強で、雁夜とは違った意味でたくさんの事を学ばなければならない。これは別段、魔術師の家系に限った事ではなく、人としてこの世界に生を受けた者ならば等しく課せられた使命と言ってもいい」
  そんな苦痛しか感じない日常に変化が現れたのは数日前の事。どこからともなく現れて、桜が嫌だと感じる全てのモノをこの間桐邸から消滅させたよく判らない人が出て来た。
  どうしてここにいるのか桜には判らない。でも、その人は間違いなく桜が嫌悪する全てのモノを間桐邸から無くしてくれた。間桐の蟲を―――、間桐臓硯を―――、間桐鶴野を―――、この家から追い出してくれた。
  だから桜はその人に感謝すべきだと判っていた。けれど桜の中に残り続けている事実がそれを許さない。
  その人を前にすると感情が爆発して、間桐邸の中に合った全ての嫌なモノに感じる嫌悪感とは別の感情が蠢いて止まらなくなるのだ。
  「こんな言葉があるのを知ってるか? 『無知は罪なり、知は空虚なり、英知持つもの英雄なり』、これはソクラテスと言う偉人の言葉だが、極論すれば『知らなければ何もできない』ってことを言い表してる。食べる為にも知らなきゃならない事があり、誰かと話す場合も会話を知らなきゃいけないし、ただ生活するだけでも知恵が必要になる。そうだろう?」
  「・・・・・・・・・はい」
  それでも桜にとってこの人は恩人だ。ものまね士ゴゴという名前の恩人なのだ。
  雁夜おじさんは知っている人だからどう接すればいいか判る。でも、いきなり現れて間桐邸の当主に成り代わったゴゴとはどう接すればいいか判らなかった。
  桜は不意にここにいない姉の事を思う。
  姉さんだったらこうする筈。
  姉さんだったらこうやる筈。
  姉さんだったらこう話す筈。
  そんな風にずっと背中を見てきた姉の凛を思えば思うほど、それを出来ない自分が嫌で嫌で仕方なくなり、姉と自分と比べてますますどう接すればいいか判らなくなっていく。
  一時、感情に身を任せて殺そうとしたが、今は敵意も殺意もあまりない。それでもゴゴと何を話せばいいのか桜には判らないままだった。
  結果的に感情を殺して、極力表に出ないようにしていた時とあまり変わらない接し方になってしまう。
  ゴゴはその事を全く気にしていないようだが、それが『遠坂桜がこうありたい姿』とは大きくかけ離れているので、話しているだけで自分の醜さが浮き彫りになる気がした。
  それも桜がゴゴを苦手とする理由だ。
  「そこで今日の桜ちゃんにはあるモノを見てもらう為に来てもらった。悪いが、抱いてるミシディアうさぎをその椅子の上に置いてくれ」
  「むぐ~?」
  「・・・・・・」
  ゴゴが現れた後、何故か一緒にいるようになった『ミシディアうさぎ』。今も桜の腕の中にいるその奇妙な生き物は、ふわふわで、もこもこで、ふにふにで、ふさふさだ。
  感情を表に出さないようにしていた時から一緒に居たので、どうにも離れる事に抵抗を覚えてしまう。
  けれど、ゴゴとどう接すればいいか判らず、加えてゴゴは桜と違って大人で、内に秘めた膨大な力は桜が呼び出したビスマルク程度では手も足も出なかった怪物だ。
  逆らってはならない。かつて桜が間桐臓硯に抱いていた気持ちは、そのままゴゴへと移っている。桜はミシディアうさぎを離したくなかったが、仕方なくゴゴの言う背もたれの無い椅子の上に移動させた。
  ただし、遠くに行きたくなかったので、すぐに近くの床に腰を下ろして『一緒にいる』とアピールするのは忘れない。
  ほんの少しだがミシディアうさぎを通して変化が起こっているのに、桜当人は気付いていなかった。
  「よし。それじゃあ俺の仲間だったリルムの特技『スケッチ』をお見せしよう。どうして起こるかは横に置いて『世の中にはこんな事がある』と見聞きしてくれれば、それでいい」
  ゴゴはそう言うと、部屋の中に用意されていたスケッチブックを手に取り、机の上に置かれたパレットに水性アクリル絵の具の中身を幾つも幾つも絞り出した。
  そして左手でスケッチブックを支えながら、右手で絵筆を取ってパレットの上に出された絵具をつける。
  白と青と黄色を一緒に絵筆につけたらしく、絵筆が持ち上がった時にパレットに残った絵具は互いに混ざり合って別の色に変わり始めていた。
  まるで今の桜の感情の様に―――色彩豊かな色が交じり合って、混じり合って、雑じり合って、全く別の色に変わるように―――。
  一体、何をするのか? 桜がそう考えた時、ゴゴの右手が動いてスケッチブックの上で踊り始める。
  淀みなく動き、回り、流れ、一枚の絵をスケッチブックの上に作り上げていく。
  ただ手を動かしているだけなのに、その姿は演舞の様な美しさがあり、舞踏の素晴らしさ等ほとんど知らない桜でも、目を向けずにはいられない何かを魅せた。
  綺麗だった。
  格好よかった。
  一分ほど、ゴゴの流れるような写生を見入っていた桜だが、唐突にスケッチブックの上に起こった変化に別の意味で目を奪われた。
  「むぐむぐ?」
  「え・・・」
  ゴゴの持っているスケッチブックの上にミシディアうさぎがいたのだ。
  桜は慌てて視線を横に動かして背もたれの無い椅子の上にいる筈のミシディアうさぎを探す。すると桜が抱きしめていたミシディアうさぎは間違いなくそこにおり、椅子の上とスケッチブックの上に別々のミシディアうさぎがいるのが判った。
  「え・・・え? え?」
  「これがリルム・アローニィの特技『スケッチ』だ。本当ならば数秒で書き上げるんだが、今回は完成度と持続性を高める為に入念に魔力を注ぎ込んだ。そっちのミシディアうさぎが桜ちゃん専用なら、こっちのミシディアうさぎは『量産型ミシディアうさぎ』とでも名付けようか」
  ゴゴがそう言うと、スケッチブックの上にいつの間にか出現していたミシディアうさぎが床に下り、『むぐ?』と鳴きながら桜の元へと近づいてくる。
  「あ・・・・・・」
  ずっとミシディアうさぎに触れていた桜の目から見ても、この『量産型ミシディアうさぎ』は最初からいたミシディアうさぎは何も変わらないように見えた。
  床に座り桜の横について頬を摺り寄せてくる姿も―――被っている帽子がちくちくするのも―――肌に触れるもこもこふわふわした感触も―――何もかもが同じだった。
  どうしてこうなったのかは判らない。けれど、間違いなく二匹目のミシディアうさぎが現れて桜の元にやってきたのだ。
  この時桜は新しく現れたミシディアうさぎに視線をやってたので気付いていなかったが、椅子の上に陣取っていたミシディアうさぎが『量産型ミシディアうさぎ』を目を細めて睨みつけていたりする。
  その目が『ワシの主人に何さらすんじゃ、ボケ!』と言っている様であり、『新参者の分際で、随分とデカい態度やないか』と言っている様でもあった。
  「さて、もう一匹いってみよう」



  ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆



  Side - 間桐雁夜





  聖杯戦争まで一年と言う限られた時間しかないので、雁夜としても一日も欠かさず修行を続けたいと思っている。しかしゴゴ曰く、休まずに戦い続けたら身に付くものも身に付かないらしい。
  休む事もまた修行の一環だとゴゴは言葉を続けたが、雁夜としては鍛えれば鍛えた分だけ体に身に付くと思っているので、休む事そのものを悪や怠惰だと考える。
  だが、鍛錬の主体である魔石はゴゴが管理しているので、魔術に関しては初心者の雁夜が魔術師として鍛錬できる事はほとんどない。時に魔石を貸与されたままの時もあるが、魔術師として結界など晴れない雁夜が魔石のコントロールに失敗すれば裏の世界の絶対的順守とも言える『神秘の秘匿』を犯してしまうかもしれない。たとえ間桐が始まりの御三家の一つであろうと、そうなれば聖杯戦争への参加どころではなくなる。
  だから雁夜は満足に構えられない魔剣ラグナロクを十全に扱えるようになる為、体力向上の為にランニングと筋トレをする。
  「ふぅ・・・・・・」
  意識して体を鍛えようと思った事は無いし、既に十代の若者が持ち合わせている溢れんばかりの体力など雁夜の中には無い。
  だから間桐邸を出発地点にしたランニングも、四キロほど走った所で根を上げてしまった。ここ数日の間に魔石やら魔剣やらものまね士やら、色々と常識外れの出来事に遭遇したが、やはり自分のひ弱さは変わらずにそのままだ。
  雁夜は息を整えながら間桐邸に戻り、体にへばりつく汗の気持ち悪さを拭い去る為に風呂場へと向かう。
  シャワーでざっと汗を流し、用意しておいた服に着替えて呼吸を整える。明日は筋肉痛になりそうだと想像しながら、雁夜は間桐邸の中にいる筈のゴゴと桜の姿を探し始めた。
  腹立たしい事だが、ゴゴがいるからこそ、雁夜と桜の生活は成り立っている。
  日常生活において必要な事。買い物や風呂の用意や食事や洗濯や掃除やらをゴゴがいつの間にかやってくれているからこそ、雁夜はこうして聖杯戦争に向けた修行に集中できるのだ。
  そしてあのものまね士が『桜ちゃんを救う』と高言している限り、この間桐邸での桜の安全は確実に保証されている。雁夜では到底叶わない鉄壁の守りだ。
  それが悔しい。自分の無力さを思い出してしまうので、余計に雁夜の意識は桜へと向いてしまう。逃避と言っても良かった。
  間桐邸に戻る前はフリーライターを生業に生計を立てて来たので、一人ならばそれなりに時間を潰せる。しかし、雁夜が間桐邸にいる理由の根幹はあくまで『桜ちゃんを救う』為であり、全ての事象は彼女を優先させて考えなければならない。
  フリーライター時代の事など忘却の彼方においやって雁夜は思った。桜ちゃんと遊ぼう。と
  何をして遊ぶかどうかはさておいて、とりあえず雁夜は桜を探す。
  もちろん同じ家の中にいるのだから、会おうと思えばいつでも会える。しかし、共に遊ぼうと意識して出向くのは初めてかもしれない。
  「・・・・・・・・・どうするかな」
  これまで雁夜が桜と会っていたのは公園であり、遊具があったし、間を取り持つ姉の凛や母の葵がいた。けれど、今現在、間桐邸の中にいるのは雁夜とゴゴのみ、遊ぶならば真正面から桜と接しなければならない。
  「あの年頃の子が喜ぶ事って・・・何だ?」
  今更ながら、雁夜は『遠坂桜』という少女が何に喜びを感じ、何を楽しく思い、何を趣味にしているのか全然知らない事に気が付いた。
  公園で会う時はいつもお土産を渡すばかりで、桜から何が欲しいとか言われた事が無い。悪い言い方をすれば雁夜が押し付けて桜が受け取っていたのがこれまでの図式である。
  これでは駄目だ。
  雁夜は桜を救うと決めたのだから、救う桜当人の事をもっとよく知らなければならない。
  ならば桜を知る事から始めよう―――。そう心に決めて桜を探し始め、間桐邸から出て行った鶴野の部屋の方から、何か物音がする事に気が付く。
  既に部屋の主である鶴野は家にいないので、物音がするとすればゴゴか桜のどちらかしかない。そう思って近づいてみると、聞こえてくる音が徐々に大きくなり、一人や二人の人間程度では出せない騒音へと変化していった。
  「む・・・」
  一体、部屋の中で何が起こっているのか? 元鶴野の部屋の前に辿り着き、閉ざされた扉を見ながら雁夜は考える。
  可能ならばこのまま引き返して何も無かった事にしたいのだが、部屋の中に桜がいる可能性がある以上無視してはいけない。部屋の中に桜がいないと確証が得られない以上は確認するのが雁夜の義務だ。
  それでもいきなり開けるのは失礼なので、鶴野がいた時は決してしなかったノックをする。
  コンコン、と音を響かせて中にいる誰かへと存在を示す。すると部屋の中から聞こえてきた物音は更に激しさを増し、大量に居る何かを伝えていた。
  部屋の中で何か沢山のモノが蠢いている。
  「・・・・・・何なんだ、一体」
  「雁夜か、入ってこい」
  ポツリと呟いた独り言が結果的に部屋の中にいる誰かへの問いかけとなり、返答が雁夜の耳に入ってきた。
  ゴゴの声だ。
  何をしているか判らないが、出会ってから雁夜の予想外の事しかしていないゴゴが人の常識で測れる普通の事をしている筈がない。
  またろくでもない事をやっているのだろう。もしかしたら別の魔石を使って、新たな幻獣を呼び出して同席しているのかもしれない。雁夜はとりあえずありえそうな予想を作り出しながら、どんな光景が広がっていても咄嗟に動けるよう心構えを作り出す。
  「失礼するぞ」
  どうにもゴゴに対しての言葉が無礼になってしまうのだが、最初からこうだったのでどうしようもない。師匠と弟子と言う間柄だが、言葉遣いを直せを言われた事もないし、ゴゴが全く気にしてないので今も口調はそのままだ。
  雁夜は少し軋むドアを開く。
  そこには―――。


  「むぐむぐ?」
  「むぐ~」
  「むぐっ」
  「むぐむぐ」
  「むぐ、むぐ~」
  「むぐむぐむぐむぐ?」


  「こ・・・れは・・・」
  部屋の床を埋め尽くし、足りない分は机の上やベットの上も占領する大量のミシディアうさぎがいた。
  ゴゴが呼び出す恐ろしい幻獣がいても驚かない自信はあった。物音の予想に反して何もない光景が広がっていても驚かない自信はあった。けれど、どこか間桐の蟲を思い出してしまう『大量の生き物』には足を止めて絶句するしかない。
  人の住む家という条件の中に合って、絶対に普段ならば見られない大量の動物の姿。しかも半数近くが部屋のドアを開けた雁夜の事を見上げており、『おう、誰かが来たぞ』『雁夜だ、雁夜が来たぞ』『何しに来たんじゃこいつ』『何立ち止まってんだコイツ』『へたれだ、へたれがいるぞ』と言っている気がする。
  実際にはむぐむぐしか言ってないのだが―――。
  一匹や二匹程度ならば小動物に見つめられても何も感じないが、それが数十匹ともなれば話は別だ。
  部屋の床を埋め尽くす膨大な量で、可愛いとか、柔らかいとかそう思うより前に、数の多さに圧倒されて恐ろしさが先に来る。
  さっきも考えたが、『床を埋め尽くす生き物』というのはどうしても間桐の蟲を思い出してしまうのだ。既に間桐邸の中には一匹もいないと判っているが、恐怖は納得を容易く吹き飛ばした。
  「『101匹わんちゃん』に倣って作り上げた『101匹ミシディアうさぎ』だ。壮観だろう」
  「・・・・・・いや、ただ不気味なだけだ」
  雁夜は壁際で絵筆とスケッチブックを手に持つゴゴに向かってそう言った。
  足は部屋にそれ以上踏み込もうとも後ずさろうともせずその場に釘付けになってしまう。だから雁夜は動かぬ足を無視して―――本当は一歩も動けなかったので、部屋の中を見渡した。
  そして背もたれの無い椅子の近くで横になっている桜の姿を発見する。
  「桜ちゃん!」
  「寝てるだけだ、騒ぐと起きるぞ」
  桜の姿を認めた瞬間に足の硬直は解け、床を埋め尽くすミシディアうさぎを足で軽く蹴って押し退け始める。
  一歩前に出ただけでミシディアうさぎにぶつかるので、踏まないように慎重に慎重に部屋の中へと入っていく。
  そして桜の元に辿り着くと、腕の中に一匹のミシディアうさぎを抱きしめたままの寝息を立てている状態を確認出来たので、安堵のため息を吐く。
  自分以外の何かに埋め尽くされると言う状況は間桐の蟲蔵とそう変わりないのに桜は何故平気なのだろう? 見ると、桜の手はギュッとミシディアうさぎを掴んでおり、体毛の感触を確かめるように強く握られていた。
  更に視点を広げて見れば、桜の周囲を取り巻くミシディアうさぎは、他のミシディアうさぎと違って桜に寄り添っており、羽毛布団の様に桜を包み込んで動かないのに気が付いた。
  間桐の蟲とは異なる、柔らかく、暖かく、自分を包んでくれるミシディアうさぎの心地よさに昼寝してしまったのかもしれない。もしかしたら、間桐の蟲とは異なるからこそ安心して眠れているのかもしれない。
  雁夜はとりあえず危険が無い事を確信し、桜の頭に手を伸ばしてそっと撫でた。


  「むぐっ、むぐっ」
  「むぐむぐ」
  「むぐむぐ?」
  「むぐ」
  「むぐむぐ? むぐむぐ? むぐ~」


  大きく鳴いている訳ではないのだが、小さな鳴き声も数が揃えばそれだけで十分喧しい。雁夜はこの音の中で眠れる桜の豪胆さに感心しながらゴゴに視線を向ける。
  「で? これは何の騒ぎだ?」
  「広い間桐邸で人が少ないと桜ちゃんが寂しがると思ってな、ついでに『魔術にはこういう事も出来る』って教える為にやった」
  「・・・・・・・・・もう少し減らせないのか」
  「出来るぞ」
  ゴゴはそう言うと、机の上にいたミシディアうさぎをどけて、持っていた絵筆とスケッチブックを置く。
  そして部屋の中にいる全てのミシディアうさぎに向けて手を一振りすると、ポンッポンッポンッポンッポンッポンッポンッポンッポンッポンッ、と軽い音を立ててミシディアうさぎが白煙となり姿を消していった。
  一匹が消え、二匹が消え、十匹が消え、二十匹が消えてゆく。
  部屋の中に煙が充満して視界が悪くなっていくと、それに合わせてミシディアうさぎの数がどんどんと減っていった。
  雁夜は慌てて窓辺に移動すると、白煙を外に出す為に窓を開く。もちろん移動する場合も床のミシディアうさぎを踏まないように細心の注意を払ってだが。
  窓を開け放つと白煙は出口を求めて外へと排出されていった。
  目を瞑って煙から身を護った後、もう一度目を開いて部屋の中を見る。そこには桜が抱きしめるミシディアうさぎと彼女を取り囲む数匹のミシディアうさぎだけが残っていた。
  抱かれた一匹と周囲の九匹、床を完全に埋め尽くす膨大な量のミシディアうさぎは消え失せ、今や十匹だけのミシディアうさぎが部屋にいる。
  「減らせるならあんなに増やすな!!」
  「桜ちゃんが喜んでいたから問題は無い」
  雁夜はゴゴの言葉を聞きながら、変わらず床の上で眠り続けている桜へと視線をやる。そして、とりあえず桜はもこもこふわふわしたモノが嫌いじゃないと脳裏に刻みこんだ。
  これも収穫だ、そう思わなければ色々とやってられなかった。





  後ほど。スケッチで再召喚された『101匹ミシディアうさぎ』が冬木の地に放たれ、聖杯戦争のスパイとして大いに役立つことになるのだが―――。この時の雁夜はそんな事を全く考えていなかった。



[31538] 一年生活秘録 その2 『とある店員の苦労事情』
Name: マンガ男◆da666e53 ID:ac86df83
Date: 2012/07/14 00:34
  一年生活秘録 その2 『とある店員の苦労事情』



  ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆



  Side - 服飾フロアのアルバイター





  彼は自分が平凡な人間だと自覚している。
  学校と言う閉鎖された一つの空間の中でも周囲を見渡せば自分と同じような人間はたくさんいる。
  父母がいて、弟が一人。どこにでもある家庭環境だ。
  特に生活に困った事は無いし、大きな事件に遭遇した事もない。親と死に別れた訳でもないし、たまに会う親戚や祖父母も健在だ。
  ただ少しだけ服に気を遣い、少しだけ深く関わり持ちたくなって、たまたま百貨店の服飾フロアのアルバイトを募集していたので、そこに配属されるように自分を売り込んだ。近頃の変化と言えばその程度である。
  別に被服の仕事に就きたいとか思った訳ではなく、どうせ小遣い稼ぎをするならば自分が興味のある仕事に就きたかった。それだけだ。
  アルバイトの志望動機にしても別段珍しくもなく、周囲を見渡して探せば自分と同じように考える者は大勢いる。中には将来も見据えてアルバイトをする者もいるだろうが、彼はそこまで自分の状況を重く見ていなかった。
  飛びぬけて成績が良い訳でもないし、飛びぬけて成績が悪い訳でもない。卓越した運動の才能がある訳でもないし、愚鈍と言う訳でもない。
  あえて言うならば『周囲に溶け込みやすく明るい人間』を自認できるかもしれないが、それも決して珍しい才能ではない。
  平々凡々な人間だ。
  そして彼の勤務する服飾フロアも『平凡』という枠から逸脱せず、日常の中から飛び出さないモノばかりであった。
  信頼できる先輩や馬が合わずに常に喧嘩一歩手前の接し方をする上司。客の中には着こなし上手の人がいたり、好みだからと明らかに似合っていない服を買っていく人もいる。
  別のフロアに売っている品物の事を聞いてくる客。一見の客。何故か、毎週同じ時間に見かける客など。繰り返される日々の中で同じ事は一度もないが、似たような事の繰り返しばかりであった。
  百貨店が爆弾テロに巻き込まれるような事は起こらず、外国の様に銃撃戦に巻き込まれるような非日常は存在しない。時折、帰りが遅くなって親に色々小言を言われるのを鬱陶しく感じながらも、大きな諍いに発展した事は無い。
  彼にとってはこの冬木でアルバイト店員として働くことは何の変哲もない日常だ。
  『俺はいつかビックな事をしてやるぜ!』、何て事は考えても現実になると思わない。
  『将来の夢? 会社の社長になって悠々自適な生活なんていいな』、何て事を考えても絶対に無理だと思っている。
  『宝くじを当てて一生働かずに生きるぞ』、何て事は夢であり、叶うとは思わない。
  そんな彼が思い描く『日常、あるいは平凡な人生』から逸脱する出来事が突然発生する―――。





  日が暮れ、閉店時間が近づき、彼のアルバイトとしての終業時間も近づいてきた頃。これまでに見た事のない異常な風体の人物が服飾フロアにやってきた。
  「・・・・・・・・・・・・」
  彼がその人物を最初に見た時、真っ先に思い浮かべたのは疑問だった。
  何だこいつは――?
  秋を通り過ぎて冬の寒さが辺りに立ち込める十一月、中には上から下まで完全武装で暖気を逃がさないようにする者もいるが。百貨店内は暖房が効いているので、野外ならばまだしも彼の職場である服飾フロアにまでマフラーやらコートを着けたまま来る客は少ない。
  もちろん完全なゼロと言う訳ではないが、それでも少数派だ。
  作業現場でよく見るつなぎを着て来店するお客さんを見た事はある。
  会社帰りに寄ったのか、しっかりスーツを着込んでネクタイもきっちり締めたお客さんを見た事もある。コートを羽織って暑そうだったのを覚えている。
  何処からやって来たのか、ズボンが迷彩服だった金髪の外人を見た事もある。
  だがこんな人物は一度も見なかった。
  一言でまとめれば不審者だった。怪しくて仕方ない。
  彼は咄嗟にアルバイトの緊急マニュアルに従って警備に通報しようかと思ったが、その人物は別段何か悪さをしている訳でもないので一時様子を見ることに決める。
  挙動不審ではない。ただ見た目が不審なのだ。足取りはしっかりとしており、何か目的をもって進んでいるのがよく判る。
  彼はその不審者が一直線に彼のいる服飾フロアに向かっていると気付いた時、居るかどうか判らないが、とにかく神を呪った。
  ふざけんな畜生、何でこんな面倒な客が来るんだ。と。
  通路を歩いて近づいてくると、その人物のおかしな服装が更によく見える。
  赤色のストールと黄色いマフラー。
  幾重にも重ね合わせて体格を隠す蒼と黒色のマント。
  足の甲まで伸びたコートにサーカスのピエロを思わせる靴。
  加えて頭頂部には鳥の尾羽らしき物体。左側頭部からは角があって。『私、怪しいです』と全身で語っている。
  目出し帽、フェイスマスク、バラクラバ。呼び方は色々あるが、とにかく目だけを見せる防寒具は世の中に幾つもあるが、彼は服飾フロアまでそんな恰好でやって来る人間にこれまで会った事が無い。
  彼は思った。来る場所を間違えてないか? と。
  もう一つ思った。警備員は何してるんだ、百貨店に入った時に連行しなかったのか? と。
  サーカスのテントの中で巨大なボールに乗っている方が似合っているので、来店するには場違いな服装である。
  それでも彼は何とかアルバイト店員としての根性を発揮して、出来るだけ表情が表に出ないように薄笑いを浮かべながら挨拶をした。
  「い・・・いらっしゃいませ」
  彼は最初こそつまったが、一気に挨拶できた自分を褒めた。
  学校の試験で平均点を大きく上回った時の様に『やった、やったぞ自分!』と内心で称賛する。
  これでよく判らない人物が素通りしてくれるか、あるいは警備員によって退去させられれば何も問題は無いのだが、今日の運勢はとんでもなく悪いらしい。
  「そこの店員さん、ちょっといいかの」
  「あ、はい、何でしょう」
  無視するなどアルバイト店員としてやってはならない事なので、話しかけられたら応じなければならない。
  彼は言葉にこそしなかったが、変な客とは話すのも避けたかったので、心の中だけで憎しみを込めてもう一度神を呪った。
  「ここに女の子用の子供服は売っておるか? 体長は100センチから120センチじゃゾイ」
  「あ・・・それでしたらあちらのコーナーに――」
  「あっちじゃったか。感謝するゾイ」
  「え、あ、いえ・・・」
  普通だった。
  見た目の異質さとは対照的に『店を訪れる客』という観点で見ると、ものすごく普通だった。
  彼は指で示した場所にゆっくり歩いていく背中を見送りながら、あまりの普通さに呆然としてしまう。
  口調と歩みの遅さから老人を彷彿させて、隙間から見える目もそんな風に見えた。だが、同行者はおろか子供の姿も全く見えないのだ。それなのに女児用の売り場を探しているのはどういう訳だろう?
  彼はこれまで一度も見た事のなかった奇妙な客に興味を覚えるが、触らぬ神に祟りなし―――と即座に自分を戒める。
  余計な事に関わって事件にでも巻き込まれてはたまらない。自分は単なるアルバイトであり、映画に出てくる肉体派のヒーローではないのだ。
  既に閉店近くなので店の中には人気が少ない。だから視線を動かせば、あの色彩豊かすぎる変な恰好の客が彼の視界の中に常に納まってしまうのだが、彼はそれを無視した。
  無視して、無視して、無視しまくって、脳裏に湧き上がる疑問やら興味やら関心やら好奇心やらを全て無視した。
  自分だけではなく、同じ店の中にいる仲間もその客の事を気にしており、女児用のコーナーで売り物を見て時々触って感触を確かめている、その一挙一動を注視している者もいる。
  客として来たのだったら間違いなく服を買いに来たのだろうが、彼は衣装の奇抜さゆえにそうとは思えなかった。
  何をするのか?
  何をしに来たのか?
  どうするのか?
  何を仕出かすのか?
  そんな風に疑問と緊張が入り乱れたまま十分ほど経過して、閉店時間を知らせる放送と音楽が百貨店内に流れる。
  するとその客は一度天井を見上げた。そのまま十秒ほど固まっていたが、何を思ったのかそこで歩き出して販売コーナーに背を向けると、来店した時の逆回しをするかのように悠然と立ち去って行ったのだ。
  足取りは一定だったが、歩みの遅さと歩幅の小ささから老人に特有の体力の無さを思わせる。
  彼とその場に居合わせていた同じ店の仲間は、他の客の事などそっちのけで遠ざかる背中を見入っていた。
  遠くなる。
  消えていく。
  見えなくなる。
  一分ほどかかって奇抜でおかしな衣装に身を包んだ客は姿を消し、彼も含めた誰もがホッと一息つく。
  あちこちから溜息が聞こえてきたが。もしかしたらその中には店にいた客の溜息も交じっていたかもしれない。
  「何だったんだ・・・?」
  「さぁ?」
  レジ係だった同僚が声をかけてきたが、彼に明確な答えが出せる訳がない。着ている服のおかしさを除けば、お客が来て帰った、それだけの話だ。
  彼はそう自分に言い聞かせ、今見た事を繰り返される日常に埋もれさせようと仕事を再開する。
  あんな客の応対は二度としたくない。彼はそう願ったが、数日後にその願いは木端微塵に打ち砕かれる。





  「おお、兄ちゃん。この前も会ったのう」
  「・・・またご来店頂き、ありがとうございます」
  彼は忘れようとしても忘れられない奇抜な衣装に身を包んだ客を見た瞬間、『また来たのか!?』と軽い混乱を味わった。出来れば、二度と会いたくなかった客なのだが、どんな格好であれお客はお客なので、声をかけられれば店員として対処しなければならない。
  今更ながら、前回声をかけられて覚えられてしまった事を悔やまずにはいられない。どう考えても、あれが原因で自分が接客しなければならなくなったのだ。
  何故、俺だったのか?
  何故、アルバイトの曜日に来てしまうのか?
  彼は再びいるか判らない神を呪った。
  「――本日はどのようなご要件でしょうか」
  「そうじゃそうじゃ。おーい、桜ちゃん、こっちじゃこっち」
  声がでかかった。こういう輩は自分の声が大きいという自覚はあっても、それが他人の迷惑になるなんて欠片も考えていない場合が多い。耳が遠くなっている可能性もある。
  彼は一人のアルバイトとして何とか応対するが、正直言えば、何もかもを放り出してここから逃げ出したくて仕方がなかった。
  衣装の奇抜さ故に、そのお客を見てしまった者は等しく『何だあれは?』と思いながらその客を見ている。そして声の大きさに誘導され、更に多くの視線が集まって、誰も彼もがこの奇妙奇天烈な不審人物を凝視するのだ。
  結果として、応対する彼も見られる羽目になった。
  前回は閉店間際だったので、客の数もそれほど多くは無かったが、今は昼間だ。平日だから休日に比べれば客は少ないが、それでも前回に比べれば数倍多い。
  ものすごく見られていた。
  気のせいでなければあちこちから陰口が聞こえてくる。肩身がものすごく狭かった。
  しかも今回は、前回持っていなかった黒地の傘を手荷物として持っており、雨が全く降っていない今日の天気には不釣り合いな品を携えている。これでは怪しさ倍増だ。
  「何、あの人?」「変態だ、うわぁ・・・」「警備員に連絡した方がいいかな?」とか聞こえてくるが、勘弁してほしい。どうなっても巻き込まれる未来しか想像できない。
  だが、このお客は周囲の喧騒など知った事ではないらしく。むしろ知っていながらそれを面白がるように声音を弾ませて話す。
  「雁夜。そんなに縮こまってどうしたんじゃ?」
  「判ってて言ってるだろ、この野郎・・・少しは周囲の目を気にしやがれ」
  「どうじゃ? この娘の服を探しとるんじゃが、似合うのを幾つか見繕ってくれんかのう。ワシには『今時のオシャレ』何ぞ、判らんゾイ」
  「あ・・・、わ、判りました」
  その奇抜な衣装のお客に呼ばれて、同行者らしい人が近づいてきた。大人が一人に女の子が一人。どちらも、観衆の目など集めたくなかったらしく、姿勢を低く肩を細めて歩いてくる。堂々としているのは彼の目の前に居る奇抜な衣装の客ただ一人だ。
  そして『桜ちゃん』と呼ばれた少女が彼の眼前にやってきて、その少女の後ろにもう一人の同行者が立った。
  今はまだ『可愛らしい』という言葉が似合うが、十年後には『美人』という言葉が似合うようになるだろう。既に美しさの片鱗が見えているので、着飾る素材としては素晴らしいと思わずにはいられない。
  少女は普通だった。
  ピエロを思わせる変な格好の関係者とは思えないほど普通だった。
  後ろに立つ大人―――『雁夜』と呼ばれていた大人も、訪れる客の中では普通の範疇に入る。
  一刻も早く目の前に居る不審人物から離れたかった理由もあり、彼は『桜ちゃん』と呼ばれた少女を誘導すべく、女児用の服があるコーナーに彼女を促す。
  「ではこちらにどうぞ」
  「ほれほれ雁夜、何をしておる。さっさと一緒に行かんか。桜ちゃんの為にきりきり働くんじゃゾイ」
  雁夜と呼ばれた人に声がかかると、彼は不承不承という言葉がよく似合う苦々しい顔を向けたが、異論は無いらしく付いてきた。どうやら主導権はあっちの不審者の方が握っているようだ。
  何となく、三人の関係が祖父と父と娘に思えたが、一秒でも早く離れる方を優先させて、それ以上考えるのを辞める。
  彼と『桜ちゃん』と呼ばれた少女と『雁夜』と呼ばれた大人は一緒になって距離をとる。言葉にはならなかったし、視線を合わせた訳ではないが、『近くに居たくない』という心を通わせられた気がした。
  ただし、こんな事で見知らぬ他人と共感できても嬉しくなかった。
  彼はまたいれば殴りたくなる神を呪った。





  彼はその後、『桜ちゃん』と呼ばれた少女と『雁夜』と呼ばれた大人に向けて『あんなのが近くに居て大変だな』と同情の視線を向けながらも、離れられたのを好機とみてアルバイト店員として接客を行った。
  あんな変な格好をしている人物が近くに居るとは思えない程、二人は普通の範疇に収まる人達だった。あえて言えば、自己主張が乏しく、服を買いに来ている筈なのにこちらが色々な服を進めても『こんなのが欲しい』と求めてこない点がおかしいぐらいか。
  「雁夜おじさんはどれがいい?」
  「桜ちゃんが好きなのを選べばいいんじゃないかな?」
  「じゃあ・・・・・・・・・それ」
  借りてきた猫のように恐る恐る喋る様子が彼を苛立たせるが、あのお客に接客するよりは数倍マシだと思って自制する。
  大人と子供が一緒にいたとしても、両者の関係が親子ではない場合はそう珍しくは無い。
  近所付き合いをしている親同士の縁で知り合った仲かもしれない。
  年の差は合っても同じ趣味を共有する仲間かもしれない。
  叔父と姪の組み合わせかもしれない。
  子連れの親が再婚して、新しい家族関係を構築している所なのかもしれない。
  それは普通なのだ。
  あんな傍にいたくもない奇抜な恰好の客に比べれば、親子には見えない大人と子供の組み合わせは普通なのだ。
  どう接すればいいか困っているような、距離感を計りかねているような様子は少し珍しいかもしれないが、普通なのだ。
  誰がどう言おうと、彼にとって『桜ちゃん』と『雁夜』の組み合わせは普通なのだ。
  少なくとも彼にとって二人に対する接客はこれまで何度も繰り返してきたアルバイト店員としての責務から何ら外れる事は無く、店側から進める品と客が求めている品を調整しながら服を買ってもらう様に仕向けるだけだった。
  一つの店の中に奇妙奇天烈で不可思議な人物が立っていたとしても、今の彼には関係が無い。そう自分に言い聞かせ接客を進める。
  結果、下着も含めた女児用の上着やらスカートやらの上下セットを三つほど購入させることに成功し、アルバイトとして売り上げに貢献出来た。
  レジに行くのにわざわざ付き添う必要は無く、彼は女児用の服があるコーナーから動かずに彼ら二人を見送る。そうしなければ、またあの変な人物に話しかけられそうだったので緊急避難と言えた。
  物が売れたならば在庫から補充して見栄えを整える必要がある。
  本来であれば後に回しても問題ない作業なのだが、別に今やっても問題ない作業なので、そんな風にアルバイトの仕事を自ら作り出して店の奥に引っ込んでいった。
  あれに関わり合いにはなりたくない。
  普通から逸脱する出来事なんて真っ平だ。
  お願いですから、とっとと帰ってください。
  心の中で呪詛を繰り返しながら、彼は逃げるようにその場を立ち去った。
  すると休憩でもないのに店の奥に同じアルバイト仲間の人影が一つあった。年は五つほど上で、アルバイト経験も彼に比べれば多く『先輩』と呼ぶに相応しい男だ。
  「先輩、こんな所でどうしたんですか?」
  「いや・・・・・・ちょっと変なのに絡まれたから逃げてきた」
  「もしかして――、店の中にいた変な恰好の・・・」
  「判るか? 何なんだ、あれは!!」
  「もういないと思いますよ、一緒に来た客、服買って帰ったとも思いますし」
  「今日一番うれしい知らせだぞ、それ」
  店の奥は客が立ち入れない関係者以外立ち入り禁止の区画なので、自然と雑談をする状況へと進んでしまう。まだ客足が遠のいていないので、本来ならばいけない事なのだが、彼も先輩も『変な客』という共通の話題を持ってしまったので話は止まらない。
  そして『桜ちゃん』と『雁夜』の相手をしていた彼の代わりに、あの変な客に捕まって話を聞かされる羽目になった先輩から愚痴を聞かされた。
  曰く―――。



  「あの変な客は『間桐臓硯』とかいう名前の老人で、何でも『色素性乾皮症』とかいう病気を患ってるらしい」



  「『色素性乾皮症』ってのは日光に当ると皮膚がんになる病気で、体中の他の免疫力も低下してるから雑菌とかウィルスとか感染しやすくなるんだと。んで、死亡率が高くて、若いうちに死亡する可能性が高くって、年寄りまで生きられるのは相当珍しいんだとよ」



  「指先まで完全に覆い隠してるのは陽の光を遮断して雑菌とかに極力触れないようにするための防御手段らしい。見た目は変だけと宇宙服並みの性能を誇るとか自信満々に言ってたぞ。目元が開いてるじゃん、って突っ込んだら別の話に跳びそうだったから言わなかったけどよ」



  「カラフルにしたのと角生やしてるのは趣味だって言い切られた。これまでずっと家に閉じこもった生活で、昼間出歩くなんて事してこなかったから、皮膚を隠すにしても出来るだけ派手な衣装にしたかったとも言ってたな。少しは年考えて自重しろよ!」



  そして手に持っていた黒地の傘は日傘として目元に入る太陽の光を遮断しているらしい。
  とか、なんとか―――。
  「『もう十分生きたから残りの余生は好きなように生きる』だとさ。あれで遊んでる気になってんだぜ? 信じられるか?」
  「先輩。何で病気とかそんなに詳しいんですか?」
  「いや、お前が接客してる間に世間話と一緒に色々聞かされて、知りたくもないのに知っちまったんだよ。店長にフロアで長話するなって怒られちまった」
  「フロアチーフっすよ」
  彼は先輩の話を聞いて、あの恰好はそういう事か、と納得したが。あの奇抜な衣装で店に来るのを勘弁してほしいと思った。
  日光を遮る衣装にしても、もう少し周囲の景観に溶け込めるモノが世の中には幾らでもあるだろう。そう考えたが、そこからはお客の領分なのでただのアルバイトが踏み込める領域ではない。
  関わり合いにならなければそれでいい。もうそれ以外は望まない。しかし、彼の願いは再び裏切られる。
  「また来るって言ってたぞ。その時は、接客よろしくな」
  「マジっすか」
  「マジだ」
  彼は先輩の言葉を聞いて、また神を呪う。
  入念に、執拗に、丹念に、粘り強く、強く強く強く神を呪った。



[31538] 一年生活秘録 その3 『カリヤンクエスト』
Name: マンガ男◆da666e53 ID:ac86df83
Date: 2012/07/14 00:34
  一年生活秘録 その3 『カリヤンクエスト』



  ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆



  復活の呪文を入れてください―――。



  ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆



  Side - 間桐雁夜





  間桐雁夜は変わってしまった自分に対する自問自答を繰り返していた。それをやった所で何かが変わる訳でもなく、何かが得られる訳でもない。それでも、『どうしたこうなった?』と現状を思わずにはいられないのだ。
  まず大きな変化として、一日中持ち歩いている荷物が二つ増えた事があげられる。
  真っ先に『間桐に戻ってきた自分』を考えなくなった辺り、すでに雁夜の中では間桐は過去の話として完結しているらしい。あるいは鶴野が間桐邸を出て行った時に完全に終わってしまったのかもしれない。
  とにかく、雁夜は近頃増えた荷物のうち、よく身に着けている腰ポシェットに手を触れる。
  紺色の防水タイプは見目煌びやかさを完全に排した実用性のみを追及して購入した一品だ。近くの店で購入した物なので別に珍しくもなんともないが、頑丈と言う点では気に入っている。
  ただし大事なのは腰ポシェットではない、腰ポシェットに入っている中身であり、片手で鷲掴みに出来るモノが重要なのだ。
  腰ポシェットのチャックを開けて視線を向けると、その中身が―――ゴゴから渡された魔石の一つがその存在を自己主張しており、淡い緑色の光とオレンジ色の輝きを振りまいている。
  最初は素手で触っていなければ魔石に魔力を注ぎ込めず、幻獣を呼び出すことが出来ないと思っていた雁夜だったが、色々試して肌身離さず持ち歩いていれば魔石への魔力供給と幻獣召喚が可能になる事が判明した。
  ゴゴの言葉を借りるなら『魔石を装備している』との事だが、手で持っていなくても魔石を扱えるようになったのは嬉しい発見だ。
  逆に一定の距離内に合っても足元にあったり、机の上に置いた魔石の横に手を置いても魔力供給は行えない。これを的確に表現する言葉は『手放す』だろう。
  魔石を持ち歩けるならば、複数個を同時に持って、別々の幻獣を同時に呼び出すのも可能なのかと考えた。しかしゴゴによると魔石になった幻獣は基本的に仲が悪いらしく、複数の魔石を持っていても、幻獣召喚が行える魔石は常に一つらしい。
  都度、召喚する魔石を切り替えられるようだが、これは雁夜の絶対的に少ない魔力により今だ実現できていない。雁夜は持つ魔石を常に一つに絞り、手数を増やすのではなく重点的に一つの力を高める方針を取った。ちなみにこれはゴゴの鍛錬の方向性から雁夜が導き出した結論である。
  魔術師としてなんの力も持っていない雁夜が色々な方面に手を伸ばして身に付くとは思えない、ならばゴゴが雁夜に向いていると言った力を起点として、伸ばす方向を一点に絞った方が効率的だろう。
  そこで用意されたのが、この腰ポシェットだった。
  実は桜ちゃんにも色違いの腰ポシェットをプレゼントしており、仲の良い者同士のペアルックのようで少し楽しかったりする。
  雁夜の腰ポシェットは紺色、桜ちゃんの腰ポシェットはピンク色。どちらも用途は物騒であるが、似た何かを持っていると言うそれだけで繋がりがある様に思えるのだ。
  雁夜は腰ポシェットのチャックを閉めながら、もう一つ増えた手荷物へと視線を向けた。
  それは長さが一メートルはあるアジャストケースだった。
  常に手を伸ばせば触れる位置に置いており、今も雁夜の左側に置かれ、真黒く長四角の存在感を主張している。
  アジャストケースは作図用紙や大型図面などを持ち運ぶときに用いられる品で、魔術師として聖杯戦争に参加しようとしている雁夜には無用の長物だ。けれど、その中身、雁夜がゴゴとの鍛錬を開始してから持つようになったあるモノを持ち歩く為にアジャストケースは都合がよかった。
  本来ならばアジャストケースなどに入れる様な代物ではない神秘の道具、まだ『使いこなす』等と恥かしくて言えない上等すぎる武器―――魔剣ラグナロクの納まっているアジャストケースを見て、雁夜は見た目以上に重いそれを考えた。
  アジャストケースは鞘だ。魔剣ラグナロクを収める為に少し改造を施したお手製の鞘なのだ。
  間桐邸を出てから海外に足を運んだこともあるが、人生において武器など殆ど扱った事のない雁夜にとって『剣』というのは未知の領域だ。どちらかと言えば『銃』の方がよほど武器としてはなじみ深いのだが、魔術師としてゴゴに教えを乞う者として師匠の教えを尊重するしかない。加えて、魔術師相手に銃が通用するかは未知数だ。
  間桐邸に戻る以前ならば絶対に無かったであろう今。ものまね士ゴゴが偶然蟲蔵の中に現れなければ絶対に作られなかった今。しかし、雁夜は偶然と必然とものまね士ゴゴの行動理念によって多くの力を得た。得てしまった―――。
  どうしてこうなった? 雁夜は再びその疑問を脳裏に思い描くが、答えなど最初から判りきっている。
  桜ちゃんを救うためだ。
  だから雁夜はここにいる。
  だから雁夜は間桐邸に戻った。
  だから雁夜は自分鍛えている。
  聖杯戦争に関わり、遠坂時臣と戦って勝利を収め、新たな選択肢を得て、桜ちゃんを救う為、間桐雁夜はここにいる。もたらされた力を十全に扱うようになる為にここにいる。
  力無き者は選ぶ自由すら与えられないのだから―――。
  雁夜にとって自分の行動指針を思い出すのは自分の存在を確かめると同時に、何を第一に考えるかを常に念頭に置く儀式に等しい。
  無神論者である雁夜は神に祈った事がないので、イスラム教において一日に五回も行われる礼拝など、言葉以上の意味は知らないしやった事もない。それでも雁夜が今の自分の原点を心に思い描くのは宗教の礼拝に近いかもしれない。
  間桐雁夜は遠坂桜を救う為ならば、どんな道でも突き進むと決めた殉教者だ。
  そうやって雁夜は自分で自分に言い聞かせ、アジャストケースに入った魔剣ラグナロクの重さと腰ポシェットに入った魔石の感触を確かめながら、今日も鍛錬の為に蟲蔵へと向かう。
  戦闘者になれていない雁夜の腕には、魔剣ラグナロクが収まるアジャストケースは重いままで、ずっしりと手に返ってくる重さによろけてしまう。





  雁夜はポシェットの中にある魔石の存在を確かめつつ、アジャストケースから出した魔剣ラグナロクを両手で支えてゴゴと対峙した。
  ラグナロクは構えているのではない。あくまで『持っている』だけで、剣の重さに振り回されっぱなしで、満足に扱えた事など一度もない。もちろんゴゴの『あばれる』で敵と対峙した時は武器として用いるが、素早い敵には軽く避けられるし、当てるのは一度や二度が限界で、『斬る』や『突く』など剣として使った事は一度もなかったりする。
  鈍器として使い『殴る』のが現状だ。
  雁夜はそんな自分の不甲斐なさに嫌気を覚えるが、いつもと違う蟲蔵の様子に気づいて、まずそちらに意識を向けた。
  「桜ちゃんを呼ばなかったのはどういう理由だ?」
  「今日の鍛錬は少々大事になるんでな。蟲蔵の中に俺と雁夜以外がいると不都合だ」
  「不都合?」
  そう、いつもならば雁夜とゴゴの戦いを見て『魔術師同士の戦いの恐ろしさ』を間近で見物している桜が今日はいなかった。元々、桜を蟲蔵に呼んだのはゴゴであって雁夜ではない、血生臭い戦いの傍に置きたくない雁夜としては桜がいない方が好都合なのだが、ゴゴの言う不都合とは何のことだろうか。
  「どういう意味だ? 一体、今日は何をするつもりなんだ」
  「今日は『敗北』をお前に教える日だ。今のお前じゃ絶対に勝てない敵を相手にしなければならない。これまでは雁夜ならば辛うじて勝てる相手ばかりに変わって、常に辛勝するように鍛えてきたが、絶対に敵わない相手がいると知るのもいい教訓になるだろう」
  「まさか・・・・・・、お前が直接相手をするのか?」
  「そんな事をしたら鍛錬にならない。立ち向かう敵に常に勝てるとは限らないからな、『逃げられるならば逃げる』、戦いにおいては生き延びる事も重要だと身に染みて判らせてやる。桜ちゃんがいたらお前は逃げられないだろう?」
  ゴゴの言葉を聞きながら、雁夜は『当たり前だ!』と思った。
  雁夜が臓硯亡き後も蟲蔵に来ている理由は桜を救う為だ。そんな決意を胸に抱くならば、戦いの場に桜を置き去りにして自分だけ逃げるなんて事は絶対にしてはならない愚挙だ。そんな事をした瞬間に、雁夜は雁夜ではなくなってしまう。
  自分を許せなくなってしまう。
  逃げ出した自分を殺したくなる。
  で自分を殺さなければならなくなる。
  雁夜はそう思いながらも、今日は一体どんな敵が出てくるのか? と疑問を抱いた。
  これまでゴゴが豹変した敵は『ガード』『ヴァレオル』『オリエントデビル』など、様々な種類の敵に変わったが。魔石と魔剣の力によってそれら全てに勝利を収めてきた。
  戦えば戦う程力が身についている実感があり、一足飛びで進むような劇的な変化ではないが、確実に鍛錬の成果が出ている。慢心するつもりは全くないのだが、少しだけ『俺は強いのかもしれない』と思う時すら合った。もっとも、そんな意識はゴゴが見せた常識外れの力を思い出せば軽く吹き飛ぶが。
  敗北を教えるとはどういう意味なのか?
  絶対に勝てない相手とは何なのか?
  雁夜が逃げると確信しているようだが、逃げなければどうなるのか?
  多くの疑問が雁夜の中に生まれ、そして消えていく。結局のところ、やる事はこれまでと大差がないと判ってしまったからだ。
  敵が現れたならば、相手をじっくり見てその力を分析し、勝利する為の最善を尽くし、決して止まらず動き続け、勝つ為の戦いをする。今まで蟲蔵の中で繰り返してきた鍛錬と何も変わらない。たとえ相手が誰であろうとやる事は同じだ。
  そう考えると雁夜の緊張が少しだけほぐされ、この場にはいない桜を想える位の余裕を得られた。
  以前の雁夜ならば桜を一人にする事に強い罪悪感を覚え、聖杯戦争の為に強くならなければならないと思いつつも桜と一緒に居たいと思っただろう。
  しかし今は違う。
  どういう訳かは知らないが、十匹に増えてしまったミシディアうさぎのおかげで、現在の間桐邸は寂しさとは無縁である。
  少し探せば常に見つかる位置にミシディアうさぎがいるので、今の間桐邸は雁夜が一人になる空間を探すほうが難しくなっていたりする。
  全てのミシディアうさぎが同じ格好をしているので、雁夜はそれらの見分けがつかない。辛うじて桜が常に抱いている一匹がスロットから現れた特別な一匹で、残りの九匹はゴゴが新たに呼び出した『量産型ミシディアうさぎ』だと判るのだが、区別できるのはそれ位だ。
  十匹もの多さゆえに桜が寂しがっているとは思えない、それでも誰かが傍に居ない状況で寂しさを感じてはいないだろうか。雁夜はふと現実逃避のようにそんな事を思った。
  「自分より強い相手に勝つのならば、力だけで戦おうとするな。世の中には『戦術』があり『戦略』がある。この二つを使えば、力で叶わない相手にも勝ちを拾う事は出来る。その為には逃げるのも時には必要だ。もっとも、今日の相手からは絶対に逃げられないと思ってるから準備は万端にしてやる」
  ゴゴはそう言うと、腕を大きく伸ばし。右から左へ、上から下へと動かした。手の軌跡が蟲蔵全体を指し示しているのだと判ると、ゴゴを中心にして目に見えない何かが広がっていくのが判る。
  結界だ―――。
  普段じゃわざわざ手を動かしたりはしないのだが、今日は言葉通り『準備万端』でいくらしい。いつものゴゴらしからぬ準備の周到さに、雁夜は今日何が起こるのか再び疑問を覚えたが、やる事は変わりないと同じ結論に至って考えるのをまた止める。
  ゴゴは一通り蟲蔵の中に手をかざし終えると、今度は雁夜に向けて手を伸ばして魔法を唱える。
  これまでは怪我を直したり、鍛錬の最中に攻撃の為に行う場合ばかりだった。間桐の虫を除去する時にも同じように魔法をかけてくれたが、鍛錬の前に魔法をかけるのは初めてかもしれない。
  ますます雁夜の中に疑問が膨らんでいく。しかしゴゴはそんな雁夜の葛藤を無視して雁夜に魔法をかけた。
  「リレイズ!」
  言葉を言い終えると同時に白く淡い光が―――これまでに何度か見てきた回復魔法を思わせる輝きが雁夜を包み込み、頭の天辺から足の指先までを包み込む。
  体を光が纏わりつく感触は決して不快ではない。しかし、雁夜が初めて聞く魔法なので、その用途が判らず疑問を投げつけてしまう。
  「今のは?」
  「戦闘不能に陥った時、一度だけ自動的に復活する魔法だ。今の雁夜じゃ絶対に逃げられないからな、保険をかけておく」
  「・・・・・・自動蘇生って事か。死者蘇生が出来るのは知ってたが、そんな事まで――」
  喋る前に僅かに出来上がった間は隠しきれない驚きの現れだ。
  ゴゴの力の強大さと汎用性には驚くしかないが、以前、桜に殺されて蘇らせてもらっている実績があるので、驚きの程度はそれほど大きくは無い。十秒とかからずに動揺を鍛錬への意識に切り替えられる。それ位の小さな驚きだった。
  雁夜は自分に向け、『図太くなったな』と心の中だけで独り言を呟き、魔剣ラグナロクの柄を力強く握りしめた。
  自動蘇生という奇跡に驚くのは後でも出来る。ゴゴが出来ると言うのならば、それは起こり得る事なのだろう。そうやって、雁夜は自分を納得させ、意識を完全に戦いへと切り替えた。
  「じゃあ始めるぞ」
  「よし、来い――」


  「あばれる。『ティラノサウルス』」


  「・・・・・・・・・」
  雁夜はゴゴの言った『ティラノサウルス』が遥か過去に絶滅した恐竜の名前だと思い出しながら、ゴゴの変化を見極める為にラグナロクを手に持ったまま相手の動きを凝視する。
  何が起こるのか? 恐竜の名はどんな意味を持っているのか? 何をしてくるのか?
  ゴゴを敵と見定め、何が起こっても対処できるように見て、観て、視て、ミテ、みる。
  すると雁夜は目に見えない何かがゴゴの背後から湧きあがっていくのを感じ取った。
  いや、その『何か』があまりにも大き過ぎて、魔術師としては素人同然の雁夜ですら判ってしまったのだ。
  見えないが判る。何も見えないのにそこに確かに居る。
  図鑑の絵や美術館の骨格標本しか見た事が無いが、間違いなくゴゴはそれに変わっている。
  蟲蔵の天井の高さすら狭く感じる、現在知られている限りでの史上の最大級の肉食恐竜―――ティラノサウルスがそこにいるのだ。
  雁夜の体など軽く飲み込む巨大な口が判る。
  人の肉も骨も軽く噛み砕く鋭利な歯が判る。
  成人男性の雁夜の大きさでも、一撃で吹き飛ばす強靭な尾が判る。
  人など比較対象にすらならない大型の体躯が判る。
  そして巨大な生き物の咆哮がゴゴの口から放たれた。


  「■■■■■■■■■■■■■■!!!」


  「・・・」
  それは声でありながら声でなかった。
  音でありながら音でもなかった。
  本当に生き物の口から出て来た声なのか? これは本当に自分が聞いている音なのか? あまりにも大きく、あまりにも猛々しく、あまりにも暴力的で、あまりにも破壊の意思を含んだ叫びだった。
  時に暴君竜と漢訳されるのも大いに納得できる咆哮だ。
  これまでゴゴが豹変した状態で多くの敵と戦った。間桐臓硯と言う人外の怪物を相手に真っ向から話し合いを行った事もあった。けれどそんな体験が何の役にも立たない強大な化け物が目の前にいた。
  雁夜は一歩も動けなかった。
  息をするのを忘れた。
  目を離せなかった。
  鼓膜が破けたかもしれない。
  何もできずに呆然とするしかない。
  自分が生きているのかどうかすら疑わしくなる。
  あまりの恐怖故に股の間から失禁しているのにも気づけない。
  目に見えるのはゴゴが蟲蔵に立っている状況そのままだ。それなのにゴゴから湧き上がる恐竜の圧迫感が雁夜をそこに縛り付ける。
  これが絶対に勝てない敵―――。
  「あ・・・ぁ・・・・・・」
  勝とうなんて微塵も考えられない。
  戦おうなんて思い付けない。
  逃げなければならない。
  ようやく先程ゴゴが口にした『逃亡』を思い出すことが出来たが、そこにたどり着くまでに要した時間はあまりにも多すぎた。
  これまでゴゴが『あばれる』で豹変し、別の何かに変わった時からそいつは雁夜の敵として殺そうとしてきた。ならば、このティラノサウルスもまた確実に雁夜を殺そうとしている。
  目の前に立つのは明確な敵だ、それ以外の何者でもない。
  『勝てる訳が無い』『逃げなければならない』それが意味を持つ言葉として雁夜の脳裏に浮かんだまさにその瞬間、姿形こそゴゴのままでありながら、本質を古代の恐竜へと変貌させたものまね士の口から破壊の魔法が囁かれた。


  「メテオ」


  「お?」
  声と認識できなかった強大な咆哮とは別格の言葉。雁夜の耳がしっかりと捉えてしまったその言葉が言い終わるのと、蟲蔵の天井が星空に変わるのはほぼ同時だった。
  本来そこにあるべき天井は一瞬で姿を消し、満天の星が上空に広がって小さな星の輝きで雁夜達を照らす。
  今が昼間だとか、蟲蔵の上には間桐邸があった筈だとか、そう言った類の疑問を一切合財吹き飛ばす広大な星の海がそこにある。
  雁夜は突然の変わりように思わず視線を頭上にやってしまい、その星空を目にしてしまった。
  そして気付く。
  広大な宇宙の闇の中にあって、輝く星の光を遮りながら雁夜へと向かう隕石に―――まっすぐに雁夜めがけて降り注いでくる破壊の象徴に―――気付いてしまう。
  「おおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!!??」
  逃げなければならないと頭では判っていた。勝てない敵から生き延びる為にはそれしか道が無いと悟っていた。
  それなのに、雁夜は叫ぶ以外に何もできなかった。
  隕石があまりにも早すぎたから。
  隕石が雁夜を軽く呑み込むほど大きすぎたから。
  隕石が自分めがけてまっすぐに突き進んでくると判ってしまったから。
  叫ぶ以外に何もできなかった。
  宇宙空間から飛来する隕石の衝突。雁夜の生涯の中では一生関わる事のない筈の天文学的な確率の現象が迫っている。
  一秒もかからず、巨大な岩が視界全てを覆い尽くす。次の瞬間、雁夜の意識は闇に包まれた。



  ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆



  おお、雁夜よ! 死んでしまうとは情けない・・・。そなたにもう一度、機会を与えよう。再び、このような事が無いようにな―――。



[31538] 一年生活秘録 その4 『ゴゴの奇妙な冒険 ものまね士は眠らない』
Name: マンガ男◆da666e53 ID:ac86df83
Date: 2012/07/14 00:35
  一年生活秘録 その4 『ゴゴの奇妙な冒険 ものまね士は眠らない』



  ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆



  Side - ゴゴ





  ゴゴにとって書物を読み漁り知識を吸収するのは苦ではない。むしろ『本を読む』という人が行う動作は、ゴゴが人の物真似をする場合の基礎と言っても過言ではないのだ。
  人は成長の過程で様々なモノを見聞きして、それらを知る事により『自分』を作り上げていく。本を読むという行為はものまね士ゴゴにとって『誰かの成長のものまね』に分類されると同時に、これまで知らなかった知識を吸収して『ものまね士』としての自分を更に強固なモノへと作り替えていく事だ。
  そして本と直接の関係は無く、決して表に出る事はないが、『ものまね士ゴゴ』は常に恐怖と戦っている。
  その源泉が名前すらなかったかつての自分に戻りたくないという自己存在の肯定だと判っているが、理解しても恐怖は消えずにものまね士ゴゴを束縛し続ける。
  知る事はものまね士ゴゴが物真似を行う為に必要な行為であり、『ものまね士ゴゴ』という存在を定着し続ける儀式でもある。一度覚えた事はよほどの事が無い限り忘れないと確信しているので、新しい事柄はゴゴにとって歓喜そのものだ。
  しかし喜ぶと同時に恐れてもいる。
  今更ながら、間桐臓硯をものまねする前に消滅させてしまったのは残念だ、とゴゴは考える。
  消してしまったものは仕方が無い。都合よく、新しく訪れた世界にはゴゴの知らぬ事が大量にあり、知れば知るほど『ものまね士ゴゴ』が強く大きく広がっていく。蔵書の活字一つ一つを読み進めるごとに空想と現実を行き来する新しい世界が広がってゆく。それでも悔いはある。
  ただの一般人ならば妄想で片付けられる状態なのだが、ゴゴにとって本の世界の出来事は自らの力で実現可能な事象が多々ある。つい先日、一冊の絵本を参考にしてミシディアうさぎを増やしたのも、ゴゴがそうしたかったからやってみただけだ。実現できるかどうかはとりあえず二の次で、『ものまね』してみたかったのだ。
  ゴゴはかつて一緒に旅した仲間達との別れを残念に思っている。
  しかしそれ以上に新しい世界を訪れて良かったと歓喜に心躍らせている。
  矛盾だ。
  何もかもが矛盾だ。
  ものまね士ゴゴの存在そのものが矛盾だ。
  今を生きる事が楽しくて恐ろしくて嬉しくて怖くて仕方が無い、だからゴゴは色々な事に手を伸ばしてゆく。ゴゴにとっては冬木の街にある図書館に出向いて本を読むのも、聖杯戦争を調べるのも等しく喜びであり恐れだった。





  ゴゴは雁夜から聞いた聖杯戦争をより深く知る為に、間桐邸に残された臓硯の遺品を整理し始めた。始まりの御三家である、間桐、遠坂、アインツベルン。当然ながら、聖杯戦争の仕組みの根幹は間違いなくこの三つの家で収束している。
  表の世界に流れるモノは殆どなく、裏の世界で流布される話も事実ではあるが全てを語っているとは思わない。そうでなければ『万物の願いをかなえる聖杯を求める殺し合い』なんて甘い誘いに総勢二十人ほどしか集まらぬ筈が無いのだから。
  人の欲には果てが無い。それは、かつて力を求めて世界を一つ滅ぼそうとした人造魔導士ケフカ・パラッツォが証明している。たとえ、殺し合いであろうとも―――いや、殺し合いだからこそ、その景品が願いを叶えるというのならば有象無象の輩が集まるのが道理だ。
  しかし雁夜から話を聞く限りでは、これまで三度も行われ、ある程度の情報が知れ渡っているにもかかわらず、有象無象の輩が集った事はないらしい。これを異常と呼ばずにどうすればいいのか? ゴゴはその秘密を探るべく、臓硯の残した資料に目を通し始めた。
  「・・・・・・・・・」
  言葉を一切喋らず。寡黙に、無言で、自然に、ただ行動し続けるゴゴの姿は雁夜と桜を前にした時の『ものまね士ゴゴ』とは一線を介している。これまで接してきた誰かの物真似で作り上げた集大成、人が時間とともに作り上げた『自分』で他人と接する場合に似た『ものまね士ゴゴ』も確かに自分なのだが、ゴゴは今の自分こそがものまね士ではない自分の本性ではないかと考える。
  ただ物真似をする生き物―――。
  何者でもなく、誰でもない。
  ただひたすらに自分と言う形を作り上げて、そこに自分をはめ込もうとする愚かな存在。神すら名乗れる強大な力を有しながらも、自分が何者なのかすら判っていない何者か。
  それが自分。
  それがものまね士ゴゴ。
  あの何もない空間で自己を確立した時から、自分と言う存在の中に芽吹いた孤独への恐怖は決して消えずに今も残っている。
  ものまね士ゴゴと呼ばれながらも、まだ自分が何者か判っていない。
  新たな知識や情報に喜びを感じながらも、それを無感動に自分の中に取り入れようとする。
  それを理解しながらも、最早、自分はものまね士ゴゴとしてその生き方を定着させてしまった。新しい何かを求め続けて突き進むしかない。そうするしかなかった。その生き方しか知らなかった。
  だからゴゴは何一つ言葉を発しないまま、間桐臓硯の遺品を読み解いていく。
  「・・・・・・・・・」
  間桐臓硯は蟲使いであり、彼の書斎に存在する書物には聖杯戦争に関する記載が想像よりも少なかった。あるいは臓硯が真に秘匿していた情報の多く、残すべき記録や記憶は全て蟲蔵の中にいた蟲に知識を植え付ける形で転写していたのかもしれない。
  もしそうならば、ゴゴは求める知識を自分の手で消してしまった事になる。普通ならば自ら打ち立てた予測に愕然としてもおかしくないのだが、今のゴゴにそんな感情の揺らぎは存在しない。
  ただ別の解決を探り模索し続けるだけだ。
  感情の揺らぎなど微塵もない、
  幾つか発掘された聖杯戦争の情報は、200年前の出来事に集中しており―――間桐臓硯ことマキリ・ゾォルケンが創立した最初の聖杯戦争に関する記述が多い。
  読み取った情報を統合すると、間桐臓硯はユスティーツァ・リズライヒ・フォン・アインツベルン、そして遠坂永人と一緒に聖杯戦争を作り上げ、万能の力である『根源の渦』に至る為の孔を作ろうと本気で考えていたようだ。
  雁夜から聞いた臓硯の願いは『不老不死』の筈。根源に至ってそれを成そうとしていたのか、それとも200年の時を経て間桐臓硯の心が変質してしまったのか、ゴゴには判らなかった。
  ただ、記述の多くはアインツベルンにおいて冬の聖女と呼ばれたユスティーツァに集中しており、臓硯の想いが彼女一人に向けられているような気はした。
  恋慕か。
  尊敬か。
  嫉妬か。
  畏怖か。
  文字だけでは臓硯の想いを全て知るのは不可能だが、何かしらの強い気持ちを抱いていたのは間違いなさそうだ。
  「・・・・・・・・・」
  僅かばかりに読み取れた情報と雁夜から聞いた聖杯戦争の話を統合し、聖杯戦争についてさらに詳しく調べる為には実地調査に行わなければならないと結論に至る。
  聖杯は二種類存在し、それぞれに別々の役目を持って冬木の聖杯戦争を作り上げているらしい。
  令呪は第二次聖杯戦争から臓硯が考案して組み込んだシステムで、現在は聖杯に全て任せているらしい。
  英霊を呼び出してサーヴァントとして使役し、聖杯を求めて殺し合う闘争の裏に『英霊を召喚しなければならない理由』が存在するらしい。
  らしい。
  らしい、らしい。
  らしい、らしい、らしい、らしい、らしい、らしい、らしい、らしい、らしい、らしい、らしい、らしい―――。
  臓硯が残した数少ない遺品からは予測以上の何かを得るのは不可能だった。
  ゴゴは200年前からこの間桐邸に存在していたと思われる古びた本を元の場所に戻すと、窓から見える太陽など欠片も見えない夜の暗さを見つめる。
  夜はまだ長い。雁夜と桜は既に就寝中。邪魔する者は誰もいない。
  「・・・・・・・・・」
  外へ赴かない理由は見当たらなかった。





  ゴゴにとって夜とは星のか細い輝きが世界を照らしながらも、決して闇に抗えない暗黒の世界そのものであった。
  けれど、今、ゴゴが見下ろす光景は街灯の明かりが各所を照らし、人の歩み道は太陽の明かりには及ばずとも常に光によって導かれている。
  かつて旅した世界とは大違いだ。
  もちろん街の中と言う限定された空間においては似通った部分も多々あるが、ゴゴの眼前に広がる『街』はあまりにも広大で輝いている。街を一歩出ればモンスターが常に徘徊し、前後左右は言うに及ばず上下すらも警戒して進まなければ別の場所にたどりつくのは困難であったかつての世界では考えられない。
  優劣をつけるつもりはないが、ゴゴはかつて歩んできた世界と、今、見ている世界は違い過ぎた。
  おそらくゴゴのかつての仲間達はこうやって人々が安全に暮らせる世界を作りたくて、戦い続けていたのだろう。少し視点を変えれば、この冬木の地は一年後に魔術師同士が殺し合う戦場へと変貌するし、遠くに目を向ければ同じ星の上で人間同士が争うのも珍しくないが。少なくとも、ゴゴの足元に広がる光景は争いなど無縁に見える。
  「・・・・・・・・・」
  ゴゴは空を舞う幻獣『ディアボロス』の肩の上に立ちながら、街の輝きをしばらく眺めていた。
  聖杯戦争の根幹と言ってもよい何かが、円蔵山中腹に立つ柳洞寺の地下―――厳密にいえば、地下に広がる大空洞に設置されているのまでは臓硯の残した情報から読み取る事が出来たが、それ以上は実際に見なければ何も分からない。
  そこでゴゴは間桐邸の中にあった近隣の所在を記した地図を引っ張り出し、所在を確認すると同時に柳洞寺めがけて飛び立った。
  今のゴゴに飛翔能力はないが、三人の子供たちが消えた事で還って来た魔石の中には空を舞える者が幾つかある。その中でも夜の闇に溶け込んで、空を移動しても判り難い幻獣がいたので、ゴゴは早速それを呼び出して移動手段として使用した。
  よほど目のいい者が注意深く空を見れば、ディアボロスの四肢と腹部そして背中から生えた黒い羽根の飛膜部分の紅色に気付けるかもしれない。だが、普通の人間では見抜くのも難しい。
  加えて空と言う遮蔽物が無い場所での移動なので、ディアボロスの羽根ならば間桐邸から柳洞寺までは五分とかからず到達できる。
  もし子供が見れば空を我が物顔で飛ぶディアボロス―――まさしくギリシア語での悪魔の名の通り、見ただけで震えあがって失禁して気絶するかもしれないが、ゴゴにとってはどうでもいいことだ。
  今、重要なのは、聖杯戦争の情報を得て更なる知識を獲得する事。それ以外は等しく無価値である。
  ゴゴは真正面から飛んでくる暴風を受けているが、目元を隠す衣装は強風を受けても全く揺るがない。
  そのまま幻獣ディアボロスの肩に乗って風のように早く動き、夜の闇に溶け込んで移動し続ける。
  人型の悪魔の肩の上でゴゴはただ到着を待った。
  ただ呼び出すだけならば魔力を周囲に撒き散らす怪物に変わり果てるが、今のディアボロスはゴゴによって完全に制御され、無駄な魔力の放出など全くない。
  もし魔力を感知する手段がこの町のどこか―――たとえば遠坂の家にそういう類の装置があったとしても、感知されない自信はあった。
  見つかるとしたら目視による確認だけだ。透明化の魔法、バニシュを使えばそれも解消されるだろうが。何故かそれをやる気にはなれなかった。
  移動手段とするには贅沢すぎる方法だが、それもゴゴにとってはどうでもいいことだ。『出来るからやる』それ以上の意味はない。
  結局五分とかからず何者にも見つからずに柳洞寺に到着し、身の丈が軽く五メートル以上ありそうな巨大な悪魔の肩から一気に飛び降りた。
  普通の人間ならば着地の衝撃で足の骨を折るかもしれないが、ゴゴは怪我を追う気配すら見せずに地面に降り立つ。そして、振り返ってディアボロスに右手を向けると、巨大な悪魔は初めからその存在が幻であったかのようにゴゴの掌へと吸い込まれていった。
  ディアボロスは輪郭を失って黒い霧に変貌し、そのまま十秒もかからずに完全に姿を消す。残るのは地面に佇むものまね士ゴゴたた一人。
  「・・・・・・・・・」
  周囲を見渡せば街を彩っていた光の奔流は星の輝きよりもか細くなっており、この冬木―――いや、日本と言う国に当てはめるならば『幽霊が出そう』な雰囲気である。
  ディアボロスの姿もそうであったが、怖がりの子供に限らず、警戒心の強い大人ならば近づかない。何らかの理由が無い限り山の中腹に建つ寺院、しかもそれが夜ならば近付こうと考えもしないだろう。
  だがゴゴにとってここは調べるべき場所であり、脅える必要など欠片もない。敵地かもしれないのだから警戒はするが、ものまね士は闇に脅える殊勝な性根の持ち主ではないのだ。
  ゴゴは何者にも動じず、ただひたすらに自分の知識欲を満たす為に―――名前のなかったかつての自分から少しでも遠ざかる為に―――道なき道へ入り込み、誰も近づかぬ場所へと移動する。
  今からやろうとしている事は人に見られると少し不味い。人型の悪魔の肩に乗って空を飛んでおいて何を今更とも思ったが、何もない空と聖杯戦争の根幹に関わるかもしれない柳洞寺とでは意味が異なる。
  少しだけディアボロスを隠さずに使ってしまったのを悪く思いながらも、すぐに感傷は消し去った。
  裏手に見える遊歩道と霊園から死角となる場所。表から見上げると存在する山門からも死角となる場所に立つと、ゴゴは右手を前に突き出し山の土肌に向けて言葉を放つ。
  「ミドガルズオルム」
  本来であればゴゴの背後に現れた大蛇は地を揺らし、崩し、壊し、捻じ曲げ、地面に立つ敵を地面ごと押し潰し、鳴り響く音で逃げ場を失わせる特殊能力を持っている。
  けれど、先が二つに割れた緑色の舌を見せびらかし、チチチチチチチ、と今にも地面を破壊しつくそうとする大蛇に山を壊させるつもりはない。
  魔石から呼び出す幻獣の本来の使い方は破壊なのだが、今は山の内側に用があるので壊しては意味が無いからだ。
  魔石から呼び出す幻獣は一定の法則に従い、決まった行動しか起こせなくなっている。
  しかし白い鯨が呼び出される筈の魔石ビスマルクを使って、遠坂桜は黒い鯨を呼び出した。この世界に根付く魔術は一定の法則に縛られた筈の魔石の在り方を改変したのだ。
  そしてゴゴの中から直接呼び出される幻獣は魔石を介した召喚ではなく、具現化と言ってもよい。特殊性と桜に出来た前例、それを間近で見ておきながら、物真似できなければものまね士ゴゴはものまね士ではない。
  桜が起こした『事象の変革』を物真似して、ゴゴはミドガルズオルムの役目を作り替えていく。
  人の手が触れただけで皮膚を抉り取りそうな硬質なうろこを見せつけるミドガルズオルム。
  雁夜ぐらいの大人でも丸のみ出来そうな巨躯で地面を這いずり回るミドガルズオルム。
  本当ならば、敵ごと地面を壊すしか出来ない筈のミドガルズオルム。
  ゴゴは魔石から呼び出した幻獣ではなく、一匹の大蛇に掘削を命じた。
  「・・・・・・・・・・・・」
  手をミドガルズオルムに向けて、心の中で会話を行うと。不機嫌にも似た感情がゴゴの中に戻ってくる。
  どうやらミドガルズオルムは破壊をまき散らせない事に不満を覚えているようだが、呼び出した召喚主として好き勝手暴れさせるつもりはない。
  従え―――。
  俺を山の中にある筈の大空洞へ導け。
  従え―――。
  大地を破壊するのではなく、俺が通れる通路を穿て。
  従え―――。
  俺が通った後は誰にも見咎められぬよう、穴を塞げ。
  従え―――。
  お前が出来る技を増やせ。
  従え―――。
  役目を果たせ。
  従え―――、従え―――、従え―――。
  心の中だけの言葉と共にミドガルズオルムに向けて魔力を送り。更なる力を、大いなる力を、自らを作り替える力を、魔石から召喚された現象ではなく一匹の幻獣としての力を与えていく。
  表向きはゴゴが手を向けて、大蛇はそんなゴゴを見返している様にしか見えない。けれど、両者の間を行き交う不可視の闘争が一瞬の空白も許さずに繰り広げられる。
  片や自らの役目を果たそうとする蛇、片やその役目を改変させてゆく者。
  先に音をあげたのはミドガルズオルムだった。
  「・・・・・・・・・」
  ゴゴが魔力を注げば注ぐほどに、ミドガルズオルムのうろこは黒い何かへと変貌していく。それはまるで夜の闇が具現化したような―――いや、白い鯨だったビスマルクを黒い鯨へと変えた桜の魔力そのものだ。
  黒い魔力によって大蛇が黒く染まれば染まるほどに、ミドガルズオルムから反抗心のような気持ちが薄れていく。
  ゴゴが作り出した魔力の奔流がミドガルズオルムを覆い隠すのと、ゴゴがミドガルズオルムの変化を確信するのと、黒い大蛇が地面に頭を押し付けて穴を掘り始めるのは、ほぼ同時だった。
  そこにいるのは魔石から呼び出されるミドガルズオルムとは別のミドガルズオルムだ。アースサラウンドで破壊をまき散らす幻獣ではない。最早、別の生き物になってしまった。
  巨体を駆使して斜め下に向けて地面を掘り進めていくミドガルズオルムを見ながらゴゴは満足する。また一つ、新しいものまねが増えた、と喜ぶ。
  そのまま大蛇が土を押しのけて地面をえぐり、ゴゴがその後ろを付いていく時間が流れた。
  少しばかり山の上に新しい土の山が出来てしまったが、ゴゴが命じたとおり、ミドガルズオルムは穴を掘り進めながらも、通って来た道を塞ぐという器用な掘り方で先を進む。
  掘って、閉じて、進んで。
  掘って、閉じて、進んで。
  掘って、閉じて、進んで。
  前と後ろを行ったり来たりしているので歩みはとてつもなく遅い。それでも、円蔵山の地下にある大空洞を目指しているのは間違いない。
  何回同じ動作を繰り返したのか、正確な数はずっと見ていたゴゴにも判らない。だが、ボコッ、とミドガルズオルムの頭の先が空洞に突き当たった音を奏でたのは確かな現実だ。
  ゴゴはミドガルズオルムの頭を押しのけながら、聖杯戦争の根幹であろう何かを見る為に穴をくぐる。
  そこには光としか認識できない白い輝きが広がっていた。
  「・・・・・・・・・」





  ものまね士ゴゴは『ものまね』をする。
  神域の天才の名を賜るに相応しい者達が築いた英知の結晶を『ものまね』する。
  円蔵山がその内部に擁する大空洞『龍洞』に敷設された魔法陣を『ものまね』する
  冬木の土地を聖杯降霊に適した霊地に整えていく変容を『ものまね』する。
  冬木の霊脈を涸らさないように六十年という時間を掛けてマナを吸い上げる装置を『ものまね』する。
  聖杯降霊の時期が近づくとマスターに相応しい人物に令呪を授ける現象を『ものまね』する。
  召喚された英霊を維持する為の役目を『ものまね』する。
  聖杯戦争の為に大聖杯に収まり、拡大し増幅された魔術回路を『ものまね』する。
  一つの人体によって構成された小宇宙を『ものまね』する。
  物真似して、物真似して、物真似して、物真似する。
  ものまね士ゴゴは物真似する。
  「・・・・・・・・・」
  ものまね士ゴゴは大聖杯を知り――、円蔵山地下に隠されていた大聖杯を自分の中に『ものまね』していった。
  それは間桐臓硯が強い思いを抱いていた女性。ユスティーツァ・リズライヒ・フォン・アインツベルンを物真似するに等しい。
  ここに、ゴゴ以外は知らない、もう一つの聖杯が作られた。



[31538] 一年生活秘録 その5 『サクラの使い魔』
Name: マンガ男◆da666e53 ID:ac86df83
Date: 2012/07/14 00:35
  一年生活秘録 その5 『サクラの使い魔』



  ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆



  Side - 遠坂桜





  「使い魔を持ってみないか?」
  「え?」
  桜は唐突に告げられた言葉に、机の上にあった紙から視線を外して、向かい側に座る彩り豊かな塊ことゴゴに目を向ける。
  桜がゴゴと対面している理由はいくつかあるが、最も大きな理由は聖杯戦争までの間、桜が暇になってしまったからである。
  雁夜は待ち構えている聖杯戦争に備えて修行の日々を過ごしているが、桜は直接聖杯戦争に関わる予定が無いので、魔石を使って鍛錬に費やす時間は短い。
  その雁夜は現在、二時間ほど休みなくゴゴと戦い続けた結果、魔力を完全に底をついている状態だ。体力はゴゴの魔法で戻っても、魔剣ラグナロクを扱えるように鍛錬を続ける事は出来るのだが、魔術回路は―――魔術師が体内に持つ、魔術を扱うための擬似神経の数は―――さすがの魔石でも増やせない。
  だから雁夜は体力の増強を行いながら、魔力が無くなるまで魔石を使い続け、回復したまた使うを繰り返している。筋力トレーニング後に休息をとったら起こる現象、『超回復』と呼ばれる休息と似た方法で魔術回路の太さを膨らまそうと言う目論見で修業を進めている。時として魔法を使わずに体力を回復させる場合もある。
  魔石を用いての鍛錬ではゴゴの協力が必要だが、体力トレーニングは一人で行える物が多い。そこで空いた時間、ゴゴが桜の勉強を見るようになった。
  何もせずにただ無為な時間を過ごすのはもったいない。雁夜の目標であり、ゴゴのものまねでもある『桜ちゃんを救う』の後にも日々の生活は続いているので、魔術以外の勉強でも得るモノは多い。
  そう言った理由により、臓硯が存命であれば決して間桐邸にはなかった新たな日常が作られたのだ。桜はゴゴに教わりながら一の位の足し算と引き算を勉強している真っ最中である。
  紙の上に数字を書くだけの足し算だったら難しかったかもしれないが、桜には十匹に増えたミシディアうさぎと言う心強い味方がいた。
  たとえば『3+5=』の答えを考えた時、数字だけでは判りづらくとも目の前に答えを出してくれる協力者がいるので、少し考えれば幼い桜でも答えが出せる。
  いつも桜が抱いている特別な一匹が『むぐ~』と鳴くと、机の横でミシディアうさぎ達が三匹と五匹の二つに別れて並ぶ。そして『むぐっ!』と新たな合図が出されるとその二組が一か所に並んで足し算の答えを教えてくれるのだ。
  桜が紙の上に書かれた『3+5=』の横に『8』と書くと、ゴゴが、正解だ桜ちゃん、と言ってくれて、並んだ八匹のミシディアうさぎ達が祝うように飛び跳ねる。
  ミシディアうさぎはむぐむぐとしてか鳴いてないが、桜は何となく『整列』や『集合』、あるいは『万歳!』と言っているように思えた。なお、引き算の場合は集まっているミシディアうさぎが離れて二組になり、残った方の数が正解と言う構図である。
  そうやって目に見える形で足し算と引き算を学んでいた桜だが、唐突に関係のない言葉を言われてどうすればいいか困ってしまった。これが今やってる算数の話ならば消極的ながらも何かの意見を言えたかもしれないが、いきなり関係のない話を持ち出されても困惑するだけだ。
  「使い魔、って。何ですか?」
  「こっち世界の使い魔は『術者が使役するモノ』だ。魔術師が自身の肉体の一部を使って作る分身としての使い魔と、他の生物を前身にして作り上げる手足としての使い魔二通りがある。もっとも、これは虫爺の遺品から読み取った情報だから情報の精度は不確かだ」
  「はぁ・・・・・・」
  「魔術師は大抵工房に引きこもって研究をするから滅多に外出しない。だからお使いをする使い魔を作って使役するのが通例のようだ。ただし、あくまで雑用をする為のモノだから、作りだした術者以上の実力を持つことはない。術者と使い魔はラインで結ばれ、儒者の能力が使い魔に付与される場合もあるそうだ」
  矢継ぎ早に言ってくるゴゴの言葉を聞きながら、そのほとんどを理解できなかった桜は言葉につまる。
  そもそもまだ年が二桁になっていない上に、魔術師としての鍛錬も教育もほとんど受けていない子供にいきなり使い魔の話をされてもどうしようもない。
  桜は持っていた鉛筆を机の上に転がしながら必死にゴゴの言葉を理解しようとするが、どれだけ考えても予備知識が少ない状態では『だからどうしたの?』としか考えられなかった。
  使い魔を持ってみないか?
  もう一度、問われた言葉を頭の中で繰り返すがやっぱり答えは変わらない。
  「・・・・・・・・・どうすれば、いいんですか?」
  「何、こいつを桜ちゃんの使い魔にどうかと思ってな」
  「・・・?」
  言葉こそなかったが桜の中にある疑問は更に膨れ上がるばかりだった。ゴゴは机の上から量産型ミシディアうさぎに指示を飛ばしている特別な一匹―――常に桜と共にあり、大抵の場合は桜が抱いているミシディアうさぎに手を伸ばして、帽子の上に手を乗せた。
  だから『こいつ』が『桜と一緒にいるミシディアうさぎ』だと判ったが、それといきなり言われた使い魔の話が繋がらない。すると、ゴゴはもう一度ミシディアうさぎの帽子をポンポンと軽く叩きながら言う。
  「桜ちゃんの魔術の鍛錬としてこいつの支配権を俺から奪ってもらう。いつもやってる事を少し小難しくするだけだから深く考える必要はないぞ」
  「・・・・・・」
  「桜ちゃんの特性『架空元素・虚数』はまだ測りかねてる部分があるが、存在する事象の変革を行えるのは間違いない。だから『ものまね士ゴゴからのライン』を『桜ちゃんのライン』に作り替えて、ミシディアうさぎに魔力供給を行えば桜ちゃんの使い魔が完成だ」
  そこでゴゴはミシディアうさぎの帽子に乗せていた手を外し、そのまま桜の胸に辺りを指差してきた。
  「そうすれば、こいつは桜ちゃんのミシディアうさぎになる。誰のモノでもない、桜ちゃんだけのミシディアうさぎだ」
  「私の・・・」
  桜はまだゴゴが言っている事の大半を理解していない。
  それでも、何かが自分のモノになるという響きはとても甘美に聞こえ、経緯は判らずとも結果に心を振るわせるには十分だった。与えられてばかりのモノだったからこそ、それが一つでも自分のモノになるのは嬉しかった。
  もこもこふわふわのミシディアうさぎが自分のモノになる。そう考えた後、桜は自分からゴゴに話しかけていた。
  「どうすればいいんですか?」
  これまでは間を置いてからぼそぼそと囁くように喋っていた。雁夜おじさんとは淀みなく話せるけど、ゴゴとはまだ話せない。けれど、桜の口から出てきた疑問はこれまで見せていた内気さを完全に裏切っている。
  まっすぐゴゴの目を見つめる桜の目は爛々と輝き、自覚ないままに子供らしい笑みを浮かべる。
  「簡単だ。何度かやってるから魔石に魔力を注ぎ込むイメージは出来てるな? それをミシディアうさぎにやればいい。桜ちゃんとミシディアうさぎの間に繋がりが出来るように考えながらやれ」
  「はい――!」
  桜はゆっくりとミシディアうさぎに手を伸ばして青いマントの隙間ら手を潜り込ませて脇の下と後足の下に手を突っ込む。
  途中、置いた鉛筆に洋服の袖口が触れて鉛筆が机の上を転がったが、桜の目には留らなかった。これまで何度も抱きかかえる為にやってきたが、今はミシディアうさぎを自分のモノにするという決意に固められた行動だ。
  それは習慣を特別に変える威力を秘めている。
  喜びを胸に宿しながら、桜はいつも通りミシディアうさぎを胸の前に抱く。柔らかい毛の感触を感じながら、ゴゴに言われた言葉の中の『魔石に魔力を注ぐの同じイメージ』を何とか形にしようとする。
  「む・・・うぅ・・・・・・ん・・・」
  「むぐ?」
  桜は自分の中にある魔力とミシディアうさぎとの間に繋がりを持たせようと頑張るが、魔石は桜の中にある魔力を勝手に吸っていく節があるので、自分から魔力を使おうとするのはこれが初めてだ。
  腕の中から見上げてくるつぶらな瞳に笑顔を返し、桜はもう一度繋がりが出来るように自分の中の魔力をミシディアうさぎに繋げようと努力する。
  「ん・・・・・・う・・・・・・」
  けれど何も起こらず、桜自身が感じる感触の中にも変化はない。道のりの遠さを考えながらも、桜はミシディアうさぎを使い魔とするべく頑張り続ける。
  その様子をゴゴが慈愛に満ちた目で見つめていたが、桜は気付いていなかった。



  ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆



  Side - 間桐雁夜





  雁夜は少しずつ自分が力をつけて行くのを実感していた。
  短時間の劇的な変化ではないが日が経つごとに着実に体力と腕力は上がっている。魔力の方は元々の才能の無さもあって判りやすい変化ではないが、数日前の自分を思えば僅かながらも強くなっているのが判るのだ。
  単位を一週間で考えれば、相対的な力で上昇しなかった週はない。右肩上がりのグラフのように『間桐雁夜の力』は伸び続けている。
  成長期をとうに過ぎた年であるにもかかわらず、魔術師として地道に力をつけて行く過程は雁夜にとっての楽しみであった。ただ、力の上昇具合に喜びを感じつつも、そこに至る経緯を思い出せば寒気が走るので全てが順調と言う訳でもない。
  根幹にあるのは『桜ちゃんを救う』という決意。それに近頃は必ず死ぬ場合と、死ぬ覚悟で全力を尽くす『必死』が追加されたのだ。
  変貌したゴゴ―――目には見えなかったが感じたティラノサウルスに一瞬で殺された後。生き返った雁夜は死の恐怖と真正面から対峙する事になった。太古の恐竜に殺された事は十分恐ろしかったが、本来であれば人が一度しか体験しない筈の『死』と『生』を実感した事により、雁夜の中には強く『死』の恐怖が刻まれた。
  死にたくない。
  生きていたい。
  殺されたくない。
  他の何もかもが消し飛ぶ強烈な『生』への渇望。桜ちゃんを救うためには生きていなければならず、死んでしまっては何も出来なくなる絶望。
  結果、課せられた鍛錬が『必死』の二重の意味で自分を強くしている。雁夜は自分の変化をそう結論付けた。
  魔剣ラグナロクの重さには今もまだ振り回されているが、鈍器としてではなく剣として振るう―――刃筋を正しく通して、垂直に刃を立てる感覚は徐々に掴めてきた。まだまだ剣士と呼ぶのもおこがましい見習い以下のレベルだが、今の調子で鍛錬を続ければ聖杯戦争時点ではかなり扱えるようになっているだろう。多少、希望的観測も混じっているが、雁夜が止まらずに常に強くなり続けているのは紛れもない事実である。
  そうやって今日も魔力が底をつくまで魔石を使い続け、体力向上の為に魔剣ラグナロクをアジャストケースに入れた状態で走り込みを行った。最初は剣の重さに一キロも走らないうちに路上で倒れそうになっていたが、日を重ねるごとに距離と時間は伸びている。
  実感の伴う成長は雁夜に限らず人ならば喜ぶのが当然だろう。
  間桐邸に戻ると雁夜は桜ちゃんに合わないようにまっすぐシャワーを浴びに行く。汗をかいた状態で桜ちゃんの前に出て、『雁夜おじさん、臭い』などと言われでもしたらショックのあまり死ぬかもしれない。
  頼れる大人として桜ちゃんに接したいので、格好よい自分を常に意識する間桐雁夜であった。何度か格好悪い所を見られているので、今更と言う可能性もあるが―――。
  冷水で体温を下げ、冷蔵庫の中にあるスポーツ飲料で失った糖分と水分を補給する。着ていたシャツは、後でゴゴが洗ってくれるので洗い物専用の洗濯かごに入れておくだけでいい。
  着替える前と似たような格好に着替えて準備は万端。清潔を漂わせた格好いい自分を意識しながら、勉強をしている桜ちゃんと先生役のゴゴの元へと向かう。
  「むぅ・・・・・・、うむぅ・・・・・・」
  「むぐむぐ?」
  そして椅子の上に座って何やら難しい顔をしている桜ちゃんを見つけた。
  腕の中にはミシディアうさぎ、机の上には足し算と思わしき文字が書かれた紙、壁際には残りのミシディアうさぎがいて、対面にはゴゴが座っているので勉強の真っ最中だったであろう事は判る。
  しかし今は何をやっているのか?
  どう見ても勉強中には見えなかったので、小休止していたかとも思ったが、それならば桜ちゃんが目をつぶって眉間に小さくしわを寄せている光景と繋がらない。
  何か邪魔してはいけない雰囲気を作り出していたので、雁夜は桜ちゃんではなくゴゴに近づいて話しかける。
  「勉強中じゃなかったのか?」
  「桜ちゃんが抱いてるミシディアうさぎがいるだろう」
  「ああ――」
  摩訶不思議なスロットから出てきた奇妙なうさぎ。現れてからずっと桜ちゃんと一緒にいる特別な一匹なので、今更言われるまでもない。
  ちなみに揃っていないスロットは今も雁夜の部屋の壁にあったりする。
  「それで?」
  「あのミシディアうさぎを桜ちゃんの使い魔にしようと思ってな」
  「・・・・・・・・・また何の前触れもなくいきなり決めやがって」
  次の言葉を言うまでの若干の間で雁夜はゴゴの言葉を理解する。そこにいたる経緯や過程はとりあえず横に置き、結果をまず理解するのはゴゴと話す上での重要な思考方法の一つだ。
  一度ゴゴがやると口にした事はよほどの事情が無い限りは絶対に実現される。だから、思ってる、と言われても結果に導かれるのはほぼ確定なのだ。
  桜ちゃんはミシディアうさぎを使い魔にする。雁夜はそれを確定事項とまず認識して、話を進めた。
  「あのうさぎはお前が呼び出してる使い魔みたいなモノだって聞いたが、他の術者の使い魔を自分のものにするなんて出来るのか?」
  「俺は抵抗しないし、ミシディアうさぎの方も不満はないから大丈夫だ。あとは桜ちゃんがミシディアうさぎとラインを繋げて、こっちが切り離せばそれで受け渡される」
  「そんな簡単にいくのか?」
  「雁夜の魔力なら無理だが、桜ちゃんなら大丈夫だ。もっとも、意識してラインを繋げられないから今は苦労してる所だがな」
  余計な一言を堂々と告げるゴゴに苛立ちが湧きあがるが、雁夜とて自分の不甲斐なさは重々承知している。意識して怒りを抑えながら、視線をずらせば、そこにはミシディアうさぎを抱いて見えない何かを送り込もうとしている桜ちゃんの姿があった。
  雁夜がこれまで見てきた遠坂桜の姿は姉の背中に隠れる引っ込み思案な姿ばかりだった。間桐邸に戻ってからは、感情を宿さない無機質な顔と、暗い笑みを浮かべながら魔石の力を思う存分使っていた姿も見たが、今のように何かに必死になっている姿は見た事が無い。
  遠坂桜の才能は雁夜のそれを軽く凌駕する。
  けれど目の前で行われている何かを成し遂げようとする姿は微笑ましく見える。桜ちゃんが子供だからこそ、だが、それでも新鮮な気持ちと喜びが混在した。
  使い魔を持つ。ミシディアうさぎが治癒を特殊能力とした変な動物ならばそれはメリットになるが、遠坂桜が表の世界の常識などあてにならない魔術師としての生き方を強制されかねないデメリットも一緒に付いてくる。ただし、ゴゴが魔石を与えている時点ですでに魔術師の世界に足を踏み込んでいるので今更だろう。
  加えて、ゴゴが呼び出した使い魔ならばどんな危険だろうとゴゴによって排除されるだろうが、桜ちゃんの使い魔になればその保険が消えかねない。『桜ちゃんを救う』ものまねが、桜ちゃんに渡した使い魔にまで適用されるのかは判らないが、ミシディアうさぎの方に危険が増えるだろう。
  使い魔を持つ事が正しいのか正しくないのか雁夜には判らない。良い事もあれば悪い事もあるので、正否を即決出来ないのだ。ただ、何かを成し遂げようとする桜ちゃんを見ると、それを叶えさせたいとも思う。
  間桐雁夜はどうすべきなのか?
  「・・・・・・・・・桜ちゃん」
  呼びかけても応じる気配はなく、周囲の音も耳に入らないぐらい集中しているらしい。初めて見る桜ちゃんの姿に雁夜は何も言えなくなった。
  雁夜が桜ちゃんを救うために命懸けで鍛錬しているように、桜ちゃんは自ら使い魔を得ようとしている。桜ちゃんの努力を否定する事は、それは雁夜の努力も否定するのに繋がる。
  ゴゴに任せれば雁夜は何もしなくて良かった。それでも何かをしたいと思ったからこそ、鍛錬を願い出て師事してもらっているのだ。
  同じようにゴゴから使い魔を与えられようとしている桜ちゃんを止めるなど、雁夜には出来ない。雁夜は桜ちゃんを微笑ましく見つめつつ、その固い決意に賞賛を送った。
  そのまま十数秒ほど何もない無言の時間が経過するが、ゴゴが雁夜に話しかけてきて状況が動く。
  「あのミシディアうさぎが桜ちゃんの使い魔にするなら、済ませておかないといけない問題がある。雁夜が来たなら丁度いい、さっさと終わらせよう」
  「問題? 桜ちゃんがあのうさぎを使い魔にするなら俺は反対しないぞ」
  「そうじゃない」
  ゴゴはそう言うと、腕をゆっくり動かして、桜ちゃんでも抱かれてるミシディアうさぎでも雁夜でもない別のモノを指さす。
  ゴゴの指の先に合ったのは、これまでずっと事態を静観し、壁際で待機していた九匹のミシディアうさぎ達だった。
  「あのうさぎ達がどうかしたのか?」
  「雁夜、あいつ等に名前をつけようと思うが、どんな名前がいい?」
  「はいっ?」
  思ってもみなかった言葉に雁夜は僅かに驚きながら声を荒げてしまった。
  しかし、すぐにゴゴの言葉の意味を頭の中で噛み砕き、ミシディアうさぎ達に名前をつけても何の弊害もないと考える。ただ、それに意味があるかは問わなければならなかった。
  「名前が必要なのか?」
  「使い魔契約に限らず、誰かとの間につながりを持つ場合『名前』は強い意味を持つ。今のミシディアうさぎ達には真名が無いから個が薄い、だから『桜ちゃんのミシディアうさぎ』と『量産型ミシディアうさぎ』に明確な差がないお陰で、使い魔契約の難易度が高くなっている」
  「桜ちゃんが抱いている一匹を本当の意味で特別にするために他のミシディアうさぎと区別させるって事か・・・」
  間桐の家に生まれ、今は魔術の世界に足を踏み入れて日々鍛錬を重ねている雁夜だが、知識面においてはまだまだ疎い部分が多い。だからゴゴの言う事がどこまで正しいのか判断できなかったが、名前については一応納得する。
  その代わり名付けるという行為そのものに抵抗を覚えた。
  「でもいいのか? あいつらはお前が呼び出したうさぎだろう。俺はお前が名づけた方がいいと思うが」
  「構わない。名前の有無で繋がりに多少は変化が出てくるだろうが、桜ちゃんが抱いてる一匹以外はしっかり俺が手綱を握っている。勝手に使い魔の枠から外れたり、暴れ出したりはしないから安心しろ」
  「そういう意味じゃないんだがな・・・、まあいいか」
  桜ちゃんが喜ぶという観点で色々とミシディアうさぎには世話になってるし、ミシディアうさぎにとって呼び出したゴゴは親だ。
  両者の間に強靭な繋がりがあるにも関わらず、そこに雁夜が割り込んでいいのか? と遠まわしに言ったつもりだったので、ゴゴの回答は少し的を外していた。
  それでも、名付けるのを全く気にしてないようなので、結果が同じならそれでいいかと考え直す。
  「いきなり九匹分考えるのか――。大変だな」
  「虫爺の部屋に英和辞書以外の本があったから持ってこよう、何かいい名前が思いつくかもしれん」
  そう言うとゴゴは椅子から立ちあがって部屋の外に行ってしまう。
  残された雁夜はどうしようか迷いながら、ミシディアうさぎを使い魔にしようと頑張る桜ちゃんを見る。自然と手がゴゴの座っていた椅子に伸びて、桜ちゃんの対面に腰かけた。
  邪魔しては悪いと思いながら、何かを成し遂げようと努力する姿を目に焼き付けたくなったのだ。
  その姿は遠坂時臣の真意を聞き出す為に力を得ようとする雁夜と同じだ―――。
  やっている事は全く違うが、努力し続ける方向性の一致に嬉しくなり、雁夜は小さく笑みを浮かべながら桜ちゃんの顔を眺めた。



  ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆



  Side - 遠坂桜





  ゴゴは言っていた。
  「この世界の魔術師が使う魔術は『魔術回路』と呼ばれる体の中にある疑似神経に魔力を通して発動させる。桜ちゃんには何の事かさっぱりだろうが、魔力が水、魔術回路がホース、先から出てくる水が魔術だと考えろ。そしてこの魔術回路は生まれつき数が決まっていて、魔術師としての才能の有無はこの数に左右される。雁夜の魔術回路より桜ちゃんの魔術回路の方が圧倒的に多いから、魔術師としての才覚は桜ちゃんの方が上になる」
  こうも言っていた。
  「魔石によって、桜ちゃんの体の中にある魔術回路の何本かが開いて魔力の通り道として覚醒した。だから魔術師の体内にある魔力、これを『オド』というんだが、これを魔術回路に通す事で桜ちゃん独自の魔術を使う事も出来る。単に、魔力を放出して魔石に吸わせるだけなら簡単にできるから意識する必要はない」
  いつ調べたのか判らないが、言っていた。
  「魔術を使う為の呪文があって、これは『世界に語りかけ使う魔術』と『魔術師が自分を作り替える自己暗示』がある、桜ちゃんが使うのはおそらく後者になるな。テレビでやってるのを例に挙げると『マハリクマハリタ』とか『ムーン・クリスタルパワー! メイクアップ!』とかあるが、あれも呪文の一種だ」
  判らない事ばかり言ってた。
  「桜ちゃんにいきなり魔術を使えなんて無茶を言う気はない。魔石を使って『魔術を使うイメージ』を体で覚えれば今はそれでいい。話を戻すと、ミシディアうさぎとの間に繋がりを持たせるには魔術回路を通して桜ちゃんの魔力とミシディアうさぎの魔力を繋げる必要がある。繋げた後で、桜ちゃんとミシディアうさぎとの繋がりを強めて、俺とミシディアうさぎとの繋がりを切り離せば完了だ」
  それでも、色々教えてくれた。
  「そいつも桜ちゃんの使い魔になるのは賛成らしい。早くラインを繋げてくれとせがんでるぞ」
  「むぐむぐ」
  そして桜はミシディアうさぎと自分の使い魔にする為に、繋がりを作ろうと頑張り始めた。『まりょく』とか『まじゅつかいろ』とか判らない言葉が多かったけど、ミシディアうさぎと自分との間に繋がりが出来ればいいらしいから、それをしようとした。
  けれど、繋がりを作ろうとして既に数十分が経過したが、一向に進展はない。
  魔石を使って幻獣を呼び出すのはこれまで何度もやっていたので、体の中を通り抜けて外に出て行こうとする感覚―――ゴゴの言う『まりょくがまじゅつかいろをとおる』は何となく判り、やろうとするとくすぐったくてもぞもぞするけど我慢してやった。
  そのまま腕の中にいるミシディアうさぎとその『まりょく』を結ぼうとしたのだが、ミシディアうさぎに触れた瞬間に広大な海のイメージが頭の中に浮き上がったのだ。
  桜はそれがミシディアうさぎの本質であると理解し、この海のどこかにミシディアうさぎがいて、繋がりを作る為にはここから見つけなければならないと直感で理解した。
  子供の桜の腕に収まる小さくてもこもこふわふわする体なのに、秘めた魔力の大きさは桜では測り切れないほど大きい。
  月も星もないまっ暗い海の淵に立って、その中にいる何かを見つけるような―――そこにいると確信してるのに、見えないから手探りで見つけるしかない難しさがある。
  そこにいる。でも判らない。
  何もない。でも何かがいる。
  何かいる。でも見つけられない。
  はたから見ると目をつぶって、うんうん唸ってるだけに見えるかもしれないが。その実、魔術回路から出ている魔力をミシディアうさぎに繋げようと必死だ。
  探して、探して、探し続けて―――。それでもミシディアうさぎが見つからない。
  桜の手はしっかりとふわふわの毛を掴んでいるのに、本当のミシディアうさぎに触れられない。
  もどかしかった。
  悔しかった。
  泣きたくなった。
  それでも、絶対そこにいるミシディアうさぎを見つける為に、頭の中に浮かぶ大海のイメージの中を歩き続ける。
  「そういえば、こいつらってオスか? それともメスか?」
  「決まりはないぞ。だが、名付けて『どっちかの性別』と決めて接すればオスかメスのどちらかに固定されるかもしれん。今の段階では両性具有だな」
  探し疲れて、心の中で少し休んでいると、雁夜おじさんとゴゴの声が聞こえた。
  「間桐の蟲がいたから、俺、動物を飼うってやった事ないんだよな」
  「あまり深く考えるなよ雁夜」
  「いっそのこと、数字に当てはめて名付けるってどうだ? これだけいて、しかも見た目一緒だから全然区別できないからさ」
  「帽子に刺繍で数字を縫いつけて区別すればいい」
  「お。それはいいアイディアだな。よし、『名前は数字に由来する』、この方針でいこう」
  今の桜にとって、周囲から聞こえてくる音は全て騒音にしかならなかった。
  桜とミシディアうさぎが作り出す聖なる場所に無遠慮に入り込んでくる邪魔者―――。ただの言葉で、邪魔する気なんて全くないと思えても。別の場所で話してもいいのに、と思ってしまう。
  集中を害される音は聞いていて不機嫌だった。だから桜は休憩を止めて、再びミシディアうさぎと繋がりを作る為に目には見えてないイメージの世界に入り込む。
  夜の海。深い海。そこにいる筈のミシディアうさぎ。世界でたった一匹の特別を探しだす為に桜はミシディアうさぎを抱く力を更に強めた。
  「きゅう。ナインボール。九尾のキツネ・・・。交響曲第九番――。九九、はちじゅういち・・・」
  「これなんかどうだ、ドイツ語で9が『ノイン』」
  「安直な・・・。まあいいか、それを候補にしておくぞ。決定じゃないからな」
  「なら雁夜も候補を出せ」
  「・・・・・・・・・フランス語で8は『ユイット』。さっきの『ノイン』に合わせて『ユイン』なんてどうだ」
  「こっちが候補ならそっちも候補だ。そこは譲れない」
  「ケチめ」
  「先に言いだしたのはそっちだろうが」
  桜は耳障りな音を聞きたくなかったが、二本の手は両方ともミシディアうさぎを抱くのに使われている為に耳を塞げない。
  だからより深く集中する事で何とか耳から入ってくる音を消したかったのだが、すでに『何も聞こえない位の集中』は使い果たしていた。まだ子供の桜には集中を持続させられるだけの体力はない。聞きたくない事も、聞いてしまう。
  ますます桜の不機嫌さが増していきそうな二人の会話だったが、ある言葉を切っ掛けに変化が現れた。
  「7はそのまま『ナナ』で、『ナナちゃん』とかどうだ? そう呼ぶのは珍しくないだろ」
  「6はラテン語を使うぞ、『セクス』だ」
  「だったら5はオランダ語のファイフを短くして『ファフ』だ。こっちもふわふわしてて女の子らしいだろう」
  「雁夜――。お前、全部桜ちゃんに繋げて、名付けてないか?」
  「いいだろうが別に」
  言葉が聞こえてくるたびに―――数字が聞こえて減るたびに、桜が思い描いていたイメージの大きさが小さくなっていくのだ。
  もっと正確にいえば、桜が考えていたミシディアうさぎの大きさが、別の名前で名付けられていくごとにどんどんと削られていく。全てのミシディアうさぎが作り出す大きな大きな塊の中から自分の形を作ったモノから順に出て行くような―――。そんな不思議な感覚が合った。
  最初に声のわずらわしさを感じた時はイメージの大きさに果てを感じる事すら不可能だったのに、今はおぼろげながらミシディアうさぎが作り出す輪郭が判る。
  とてつもなく大きいのは変わらないのだが、終端があると無いとでは大きな違いだ。桜は外周から中心に向かうように自分だけのミシディアうさぎ探索を続行する。
  「おい、ものまね士。この国では4は縁起の悪い数字として扱われているから、スペイン語の『クアトゥロ』はどうだ?」
  「ギリシャ数字の『テトラ』も捨てがたいな、海にあるテトラポットは元々4本足の意味だぞ」
  「3か・・・ドイツ語の『ドライ』は面白みが無い。ラテン語の『トレス』の方が呼び名としてはよさそうだな」
  「ジレンマってのは2人による板ばさみか・・・。これは止めよう」
  「だったら『ツヴァイ』、いや少しひねって『ジーノ』も候補に推すぞ」
  「赤毛の――。フランス語では1が『アン』か面白い繋がりだ」
  声が聞こえてくるたびに、形のなかった何かが形を作ってイメージの中から消えていく。
  名前を呼ばれるごとに一匹ずつミシディアうさぎが魔力を奪って、残ったモノが一つの形を作り出す。
  気がつけば、桜のイメージしていた夜の海に似た何かは一匹のうさぎに姿を変えていた。煙か雲がうさぎの形をしているのに似ているが、間違いなくその中に桜が抱いているミシディアうさぎがいると確信できた。
  桜はその中に手を伸ばすイメージを作り、自分の使い魔になってくれる一匹を手探りで探し続ける。
  最初は見つける事はおろか、いるのかすら疑った広大な心象風景だった。しかし、今は他のミシディアうさぎに削り取られ、ただ一匹のミシディアうさぎだけが残っている。
  名付けられることで、『全てのミシディアうさぎ』が作り出す莫大な魔力がそれぞれに割り振られていったのだ。
  桜は探す。
  何もないように思えるが、必ずそこにいると思って探す。
  そこに『無い』ではなく『有る』と思いながら探す。
  「あなたの名前が聞こえたの・・・・・・」
  桜はそれが他に染まらぬ力ある言葉に思えた。
  最初からその名前をつけられる為に存在するようにも思えた。
  流し込む魔力がミシディアうさぎの形をとっていくのを感じながら、桜はその名を呼ぶ。
  「ゼロ――」
  見た目の小動物のか弱さとは対照的な、その力強い名が囁かれた瞬間―――桜はミシディアうさぎとの間に繋がりが出来て行くのを感じた。
  闇の中に伸ばした自分の両手のイメージが現実と重なって一匹のミシディアうさぎを抱くのが判った。
  そして自分との繋がりを確固たるものにする為、強く強く互いを結びあうように魔力を送り込む。
  思い。
  望み。
  想い。
  頼み
  乞い。
  願う。
  「私の・・・・・・、私だけの・・・・・・」





  十匹のミシディアうさぎにそれぞれの名前が与えられた日より五日後。
  桜はゴゴとミシディアうさぎとの繋がりを断ち切り、見事、自分だけの使い魔、ミシディアうさぎの『ゼロ』を手に入れるのだった。



  ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆



  これは、ゼロに至る物語―――。



[31538] 一年生活秘録 その6 『飛空艇はつづくよ どこまでも』
Name: マンガ男◆da666e53 ID:ac86df83
Date: 2012/10/20 08:24
  一年生活秘録 その6 『飛空艇はつづくよ どこまでも』



  ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆



  Side - 間桐雁夜





  「旅行に行くぞ」
  「はぁっ!?」
  雁夜はゴゴが休んでいる時―――もっと正確に言えば睡眠をとっているのを一度も見たことが無く、24時間常に動き続けていると思っている。これが普通の人間ならば過労で倒れるのが目に見えているのか、三柱の神を生み出した頂上の存在には『休息』というものが無縁でも、むしろそれが普通に思えた。
  ただ、間桐邸で家事全般を担っている家庭的な姿も見ているので、生き物らしからぬ部分と人間らしい部分の両方を見ている雁夜としてはどう言えばいいか判断に困る。
  もっとも、ものまね士の格好にエプロンとゴム手袋を着けたシュールな格好を『家庭的』と表現するかは人それぞれだ。
  そんなこんなで、ゴゴは慣れた手つきでいつもと同じように二人分の朝食を準備した。そして雁夜と桜が並んで座り『いただきます』と言うよりも早く、訳のわからない事を言い出したのだ。
  いい加減、ゴゴの突飛な行動と常識外れの力には驚かなくなってきた雁夜だが、その言葉が世間一般の常識から何ら外れる事が無いからこそおかしく聞こえる。非常識とゴゴは同一の理由で結ばれているからこそ、奇妙奇天烈な存在が普通を語ると逆におかしくなる論法である。
  「・・・・・・・・・」
  蟲蔵での殺し合いと、慣れていない大人と言う条件も重なり、いまだに桜はゴゴに対して引っ込み思案な顔を見せ続ける。ゴゴの言葉を不思議に思って見つめても、何か尋ねたりはしなかった。
  ついでに言えば、普段は桜の腕に抱かれているミシディアうさぎは食卓の下に陣取っており、こちらの会話が聞こえている筈なのに関わる気が無いらしい。今では桜の使い魔で『ゼロ』という名前まで与えられたのに、召喚主であるゴゴに全幅の信頼を置いているのか、どうでもいいのか。そのおざなりな態度が『そっちは好きになってくれや』と言ってる気がした。
  「朝からいきなり何の話だ?」
  「いや、何。近頃は雁夜も桜ちゃんも間桐邸にこもりっきりだからな、気晴らしにどこかに出かけようと企んだ」
  「変な言い方をするな」
  「桜ちゃんの行動範囲がこの間桐邸を中心に広がってないのは雁夜にも判ってるだろう? 長く家を開けるつもりはないから日帰りの予定だ」
  同世代の幼児が親に連れられてどこかに出かけたりする話はどこにでも転がっているが、間桐邸に住まう桜にはそれがない。
  これが姉の凛ならば一人で外を快活に出歩いて縦横無尽に遊びまわる姿を想像できるのだが、内向的な桜からはあまり想像できない。事実、桜は間桐邸と言う新しい環境に馴染もうとする意欲もあり、ほとんど外出せずに一日の大半を屋内で過ごしている。
  たまに庭に出て木々に触れる機会もあるが、それを外出とは呼ばない。買い物の為に外出する場合もあるが、雁夜が知る限り桜が自主的にどこかに行きたいと言った試しは無かった。
  「・・・・・・・・・確かに」
  桜の生活習慣を思い出してみると、ゴゴの言う事には言い分があり過ぎる。もし雁夜が聖杯戦争にマスターとして参加しようとしなければ、一日と言わずに遠坂の家の桜が戻るその日までずっと傍にいてもいいのだが、雁夜には聖杯戦争のマスターになる為に自分を鍛える必要がある。
  鍛錬と遊び相手。雁夜の体が一つしかない以上、どうしても両立できなくなってしまうので、桜の為に何かしなければならないと思いながら、長期的な面で力を身につけられても目の前にある今日がどうしてもおざなりになってしまう。
  雁夜が接せない分をミシディアうさぎとゴゴが埋めているのが現状である。
  基本的にゴゴは雁夜の鍛錬の相手役を務めているので、間桐邸の中で桜は一人ぼっちになってしまう。十匹に増えたミシディアうさぎによって孤独とは無縁かもしれないが、世界は広く、大きく、間桐邸で完結するような狭いモノではないと教えるのもやぶさかではない。
  考えれば考えるほどにゴゴが言った『旅行に行く』はそれほど悪い案ではないと思えてくる。問題があるとするならば、突然過ぎる事と雁夜の修行をどうするかという二点だ。
  雁夜は思い描いた疑問をそのままゴゴにぶつけた。
  「鍛錬はどうするつもりなんだ?」
  「旅行のついでに行えるものを用意してあるから心配ない」
  「む・・・」
  即答されてしまったので雁夜は言葉を詰まらせるが、すぐにもう一つの問題に移行する。
  突然の対処に負われて被害をこうむるのは自分よりもむしろ桜だ。朝食を食べられないまま大人達の話を横で聞いて呆然としている桜に向って話しかける。
  「桜ちゃんはどうしたい?」
  「・・・・・・・・・行きたい。――けど」
  「けど?」
  「どこに行くの?」
  「あっ」
  雁夜は桜の言葉を聞き、別の問題がある事にようやく思い当たる。反対する理由ばかりを気にしてしまい、桜が賛成した場合を完全に失念してしまったのだ。
  本当ならば一人の大人として桜よりも前に気付かなければならかった。改めて自分の気遣いの無さに自責の念を抱きつつ、反省するなら後でも出来るので行動に反映させた。
  「そうだ。そういえば、お前は俺達をどこに連れて行くつもりなんだ?」
  「山か海だ」
  「・・・・・・・・・・・・・・・・・・そうか」
  確かに旅行の定番と言えば定番だが、明確に『ここだ』と言わないのに断言だけはしてる、そんなゴゴの言葉を聞いて雁夜は嫌な予感しか抱けなかった。
  何故なら、一度だって雁夜の予想内に収まるような穏便な物事の進め方をした事が無い、それがものまね士ゴゴなのだから―――。





  朝食を食べる前にいきなり騒動の種が放り込まれたので、心労によって雁夜の意欲は朝から最下層を這いずり回っている。ただし目に見える形で表わせばすぐ近くにいる桜を不安にさせてしまうので、一人の大人として必死に隠した。
  沈鬱な一日が始まるかと思えたが、腹が膨れれば気持ちが多少和らぐのもまた事実であった。
  「・・・・・・・・・ふぅ、御馳走様でした」
  「ごちそうさまでした」
  食事を終えるタイミングが早かろうと遅かろうと桜はそれを気にしてしまう。大人と子供なのだから食事の速度に差が出るのはどうしようもないのだが、雁夜は意識して桜と同じ時間に食事を終えるように調整していた。
  出来るだけ不安にさせないようにするのと、一緒に食事をする時間を出来るだけ伸ばそうという配慮である。
  雁夜の人生の中には『誰かと一緒にとる食事』という状況で喜びを感じた経験がほとんどない。全くないと言えば嘘になるが、すぐに思い出せるほど多くはなく桜と一緒にとる食事は雁夜に喜びを与えてくれた。その時間を長く味わいたいと思うのは当然だろう。
  両手を合わせて一礼する桜の姿は堂に入っており、彼女の親の躾が行き届いているのを感じさせる。そこには間違いなく親が子を想う愛情がある。その筈なのに、遠坂は桜を養子に出した。
  「・・・・・・・・・」
  食後の余韻に水を差す思考が雁夜の中に生まれそうになるが、それが膨らんで雁夜の意識を占有する前に横から飛んできた声が思考を止めさせる。
  「これが今日の旅行に持っていくお弁当だ」
  声が聞こえてきて、食事を終えた食卓に弁当箱が二つ並ぶ。片方は四角く大きめの弁当箱で、中身は『これこそが幕の内弁当だ』と言わんばかりの中央に梅干しを乗せた白米、鮭の塩焼き、卵焼き、里芋、人参、がんもどきが並んでいた。
  そちらが雁夜の弁当ならば、自動的にもう片方は桜の弁当になる。もう一方は大きさは雁夜の弁当の半分ほどで、卵型をしていた。小さな梅干しが中央に乗る白米は一緒だが、海老フライ、ポークウインナー、スパゲティー、ポテトサラダ、ブロッコリー、と、全ての品が小さめので、子供用の幕の内弁当を作り出している。
  朝食を食べたばかりなので食欲は湧かなかったが、弁当の見本のような出来栄えに目を引きつけられた。
  雁夜が知る限り間桐邸にはこんな弁当箱は存在しなかった筈なので、一体、いつどこで手に入れたのか疑問に思うが、ゴゴのやる事なのでいちいち気にしてられない。
  「わぁ・・・」
  隣で嬉しそうに自分のお弁当を見つめている桜がいたので、ゴゴに疑問を投げかけて喜びを萎ませてしまっては可哀想だ。雁夜は徐々にゴゴの思い通りに作り替わっていく間桐邸を思いながらも、桜が喜んでいるならばそれで良いかと考え直す。



  ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆



  Side - 遠坂桜





  突然『旅行に行く』と言われて、桜はひどく驚いた。しかし、徐々に落ち着きを取り戻していくうちに驚きは『行きたい』という願いに変化していった。
  桜の生家は今住んでいる間桐邸ではなく遠坂の家だ。それでも桜は子供だから大人の言う事には従わなくちゃいけないと判っている。逆らっても大人の力には叶わないと知っていた、抗ってもどうしようもないと学んでいた、泣き叫んでも誰も助けてくれない時もあるのだと悟っていた。
  雁夜おじさんは優しくしてくれるし、よく判らないゴゴも自分を傷つけたりしないと判る。それでも間桐邸にいると苦しい記憶が呼び起こされてしまうのが止められない。
  たとえば蟲蔵で雁夜おじさんの特訓を見ていると、間桐の蟲に嬲られていた気持ち悪さが蘇る。
  たとえば廊下を歩いていると、力任せに自分を引きずって蟲蔵に放り込む大人の手を感じる。
  たとえば食卓で食事をとっていると、遠坂の家で家族と一緒に食べていた暖かい気持ちを思い出してしまう。
  子供は大人の言う事を聞かなきゃならない。そう判っていても、蘇った桜の感情は容易に苦しさを呼び起こすのだ。それをとてもとても辛く感じる時がある。
  桜が旅行に行きたいと即決したのは間桐邸から離れたかったからだ。
  桜の想いとゴゴの強引さが合致したからこそ、日帰りの旅行は実現された。
  「で? 山か海に行くとか言ったが、どうやって行くつもりだ? まさかお前の奇抜な格好で普通に電車に乗るとか言わないよな、嫌だぞ俺は」
  何度かゴゴが演じる『間桐臓硯』と一緒に街に行った事はあるが、そのたびに周囲から見られてとても恥ずかしい思いをしたのを覚えている。雁夜おじさんの言葉を聞きながら、桜もまた『どうするの?』と思った。
  桜が背負っている子供用のリュックには、作ってもらったお弁当とハンカチやティッシュなどが入っているだけだ。近所を出歩く位の軽装で、日帰りとはいえ旅行に行くとは思えない荷物の少なさだ。
  雁夜おじさんも特訓するようになってから持ち運ぶようになったポシェットとアジャストケース以外の荷物は、中身がほとんど入っていない大人用のリュックを背負っているだけで、中身が自分と同じぐらい少ないのを知っている。
  どこに行くの?
  どうやって行くの?
  いつものように使い魔となったミシディアうさぎのゼロを両腕で抱きかかえながら、疑問を視線に乗せて玄関口に立つゴゴを見る。すると、ゴゴは腕を前に突き出して庭園と言ってもいい間桐邸の広い庭に向けた。
  「何のつもりだ?」
  「移動手段を出す」
  「はい? 『出す』だと?」
  雁夜おじさんがどういう意味なのか聞いたが、桜の目はゴゴの手元に向けられたまま動かなかった。ずっと見ていた筈なのに、いつの間にか空中に絵柄や図柄が描かれている何かが三つ浮かんでいたのだ。
  それはカジノなどで見かけるスロットのリールと呼ばれる部分なのだが、桜はそれが雁夜おじさんの部屋の壁に埋め込まれているモノと同じに見えた。
  腕の中でじっとしているミシディアうさぎを呼び出したよく判らない技。桜にはどうしてそれが空中に浮かんでいて、いつの間に現れたのか、どうして出したのか、全く判らず。教えて、と想いを乗せてゴゴを見つめるが、ゴゴは桜も雁夜おじさんも見ずにその空中に浮かんだスロットを回し始めてしまう。
  ぐるぐる、ぐるぐる、回転する絵。
  ぐるぐる、ぐるぐる、縦に回る絵
  ぐるぐる、ぐるぐる、回り続ける絵
  二秒ほど経過した後、三つの絵は全て卵みたいな形をした黒い何かで止まった。
  当たりだ。桜がそう思った次の瞬間、間桐邸の庭に巨大な何かが現れた。
  「え・・・・・・・・・・・・?」
  「な、お・・・あ――。えぇぇぇぇぇぇ!?」
  それは間桐邸よりずっとずっと大きかった。
  それは卵みたいな風船みたいな形をしていた。
  それは大きくて黒かった。
  それは黒い風船の下に家みたいに見える何かを吊るしていた。
  それはプロペラを回して浮かんでいた。
  それは端が見えなかった。
  それは遠くに立つ隣家にぶつかりそうだった。
  それはやっぱり大きかった。大きくて、大きくて、大きかった。
  桜は驚きながら間桐邸に来る前に絵本で見た『飛行船』を思い出す。でも実物を―――しかもこんな間近で見たことのないし、突然目の前に現れた大きな機械に驚き過ぎて本当にこれ飛行船なのか判らなかった。
  腕の中にいるミシディアうさぎをギュッと抱きしめながら、ただ見上げるしか出来ない。隣で同じように上を見ている雁夜おじさんがいる。
  「飛空艇――『ブラックジャック号』。俺の仲間だったセッツァーの愛機だ」
  驚く二人に関係なく、手を下したゴゴが何か言っている。
  でも桜の意識はずっと突然現れた大きなモノに奪われたままで、しかも回転して風を振りまくプロペラの音にまぎれてよく聞こえない。
  桜の頭の中を暴れまわる驚きは、目の前にある何かと同じぐらい、とてもとても大きなざわめきだ。何か言っていたがよく判らない。
  「だがこんなモノがいきなり街中に現れたら誰もが混乱して騒ぎ立てる。そうなると厄介だから少し細工をする」
  またゴゴが何か言ったが桜は聞いていなかった。それを人の言葉だと理解しながらも、耳から入ってくるモノが単なる音としか捉えられなかった。
  頭の中は驚きだけが満たされている。だからゴゴが放った呪文も全然聞いていない。
  「バニシュ」
  「あれ・・・?」
  誰かの声が聞こえてきたと思ったら、桜の目の前に広がっている大きくて黒くてよく判らないモノが端っこから消えていく。まるで黒板にチョークで書いた文字を黒板消しが消すような―――鉛筆で書いた文字が消しゴムで消えて、白いノートに戻るような―――たき火に水をかけて燃える炎を消してしまうような―――そんな『消失』が桜の前で行われてゆく。
  空を埋め尽くしていた大きなモノがどんどんと消えていき、代わりに空の青さと雲の白さと太陽の光が桜の視界に返ってくる。
  五秒もかからずあっという間に空の景色が広がってしまい。そこに合った筈の黒くて大きいモノ―――『飛空艇ブラックジャック号』は跡形もなく消えてしまった。
  「あ、あれ・・・・・・あれれ? 無くなっちゃった・・・」
  「そうだね――、桜ちゃん。消えちゃったね・・・」
  呆然と消え去った場所を見ながら、雁夜おじさんと現実を確かめあう。
  確かにそこに合った筈のモノは消えてしまい、桜の目には間桐邸の庭が映っていた。桜の前にあるのはただそれだけだ。
  あれは何だったんだろう?
  あれはどこにいったんだろう?
  あれはどこから出てきたんだろう?
  余韻の中で再び疑問が桜の頭の中を蠢いて埋め尽くす。
  すると、そんな桜を差し置いて、ゴゴが何もなくなった場所を見ながら呟いた。
  「効果範囲を拡張して無機物を影響下に置くも可能。元々装備も一緒に透明化していたからそれほど難しくないが、魔力さえあれば飛空艇ほどの大きさでも包み込めるとはな――。結果を固定された魔法すら改変する力か、これで『架空元素・虚数』のほんの一端なのだから恐れ入る。色の相性もあるかもしれん」
  言葉が難しくてどんな意味なのかは判らなかった。それでもゴゴが何かやったから消えてしまったのだと判った。
  だから桜は雁夜おじさんの裾を引っ張って聞いてくれるように目で訴える。驚いていなかったら直接言えたかもしれないが、突然現れた大きいモノのせいで心臓はバクバクと忙しく動き続けて、それどころではない。
  「雁夜おじさん・・・」
  「あ、おお――。任せてくれ。おい、ものまね士、あれは一体何だ! 何かやるならやる前に説明しろと前に行っただろうが」
  「移動手段を出す、とちゃんと言っただろう」
  「俺は事細かに、詳しく、ちゃんと、やる前に、説明しろと言ってるんだ!!」
  「エンジンの型式はST12UNを8基。全長は125メートル、全幅は28メートル、ついでに全高は41メートルだ。ボディータイプはフルモノコックを採用して、最高出力は186500馬力。最大速度は150キロの優れものだ」
  「・・・・・・・・・・・・何の話だ?」
  「だから飛空艇の『詳しい説明』だ、雁夜が聞いたのに文句があるのか? 贅沢者め」
  横で聞いていた桜はやっぱり何の話か判らないままだ。そして雁夜おじさんも何を言われたのか判らないらしく、真正面からゴゴを睨んでいたが、その顔が苦渋の表情を浮かべている。
  ゴゴは硬直してしまった雁夜おじさんから視線を外すと、さっきまで黒くて大きいモノが浮かんでいた庭に向かって歩き出した。そして二十歩ぐらい進んで何もない場所で立ち止まると、ポツリと呟く。
  「一度『ダイビング・ボム』で爆撃させないと飛空艇として使えない。まったく、不便な技だ」
  耳を澄まさなければ聞こえなかった小さな声が耳に届く。
  そして―――。庭に立っていたゴゴが爆発した。
  「うおっ!!!」
  「きゃっ!」
  唐突に巻き起こった破壊に何も出来ず、吹き荒れた爆風は桜の体も雁夜おじさんも一緒に後ろに吹き飛ばし、太陽が降りた来たんじゃないかと錯覚する光の奔流には目を瞑るしかなかった。腕の中にいたミシディアうさぎのゼロを反動で落としてしまう。
  咄嗟に体を丸めたが、雁夜おじさんと一緒に間桐邸の外壁に背中と肩がぶつかってものすごく痛い。
  ぶつかった場所から痛みがじんじん広がっていく。
  真っ赤な光が見えた気がして目も痛い。
  熱湯を浴びせられたみたいに体が熱い。
  苦しい。苦しい。苦しい。
  「ケアルラ」
  目を閉じてうずくまっていると遠くから声が聞こえてくる。体を包み込む熱さとは違う別の温かさが手と足とお腹と胸と顔を通り抜け、あっという間に痛みが消えた。
  ものすごく痛かった筈なのにすぐ消えた。
  幻みたいに全てが元通りになっていく。
  目を開けてみたら、心配そうに顔を覗き込んでくるミシディアうさぎのつぶらな瞳が見えた。そしてその向こうには爆心地で汚れ一つなく悠然と佇むものまね士ゴゴがいる。
  「さて、準備は整った。旅行に行くぞ」
  ゴゴは何事も無いように淡々と言う。間桐邸の壁際で苦しんでいる自分と雁夜おじさんを見ているのに、慌てた様子もなく堂々と言ったのだ。
  やっぱりこの人は苦手―――。桜はそう思った。



  ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆



  Side - 間桐雁夜





  驚かないように心がけても想定外の出来事が起これば事前の覚悟など何の意味もない。それはゴゴと接するようになって雁夜が会得した真理だ。
  この世界とは別の世界から到来したゴゴは、その世界で神の名を冠する子供達を生み出した『神の親』とでも言うべき超常の存在だ。四肢を持つ人の形をしているが、その本質は人ではなく、内に秘めた莫大な力は人の尺度で測れる大きさではない。
  出来る事、やれる事、叶えられる事、実現できる事。雁夜が見た限り、ゴゴは限りなく全知全能に近い。
  だから『何が出ても驚くな』と雁夜は常に自分に言い聞かせているのだが、それが実を結んだ事が一度もない。いっそ、ゴゴが実現可能な事を予め全て聞きたい衝動にかられるが、そこで『何でも出来る』と返されたら、自分が生きていく意味すら失いそうになるので聞けずにいる状態だ。
  雁夜が命懸けの鍛錬に身を投じて、聖杯戦争に参加しようとしているのは桜を救うために他ならない。ゴゴが雁夜を鍛えてくれているのも『桜ちゃんを救う』という雁夜のものまねの延長線上にあるからこそだと思ってる、
  しかし『桜ちゃんを救う』と言ったゴゴならば、雁夜がいてもいなくても容易に目標を達成するだろう。それこそ『何でも出来る』を行動で示し、遠坂など路傍の石と同等に扱い、どんな障害でも力任せに押しのけるに違いない。
  それが『桜ちゃんを救う』事にならないからやってないだけで、ゴゴは遠坂など歯牙にもかけない。
  だから雁夜はゴゴの行動に驚かされっぱなしでも決して『お前は何ができる?』と尋ねない。知ってしまえば、雁夜が雁夜としてここにいる意味が無くなってしまう気がする。雁夜が桜を救う意味すら消し去ってしまう気がする、それはとても恐ろしい未来だ。
  雁夜を必要とせずに遠坂時臣を叩き潰すゴゴが容易に想像できる。
  聖杯戦争を壊すと宣言したゴゴが、聖杯戦争の根幹も軽く破壊できるのが想像できる。
  全世界に生きる人間の意識に介入し『争うな――!』と強制的に意思を捻じ曲げる姿が想像できる。
  それどころか200年前に始まった聖杯戦争が最初から興らないようにするのも不可能ではない気がした。
  死者蘇生を行えるゴゴだ。宇宙空間から大気圏突入を普通にやれたと語ったゴゴだ。常に流れ続ける時間すら超越し、過去改変を行えるかもしれない。聖杯戦争を起こらなかった史実に作り替えてしまうかもしれない。
  これは単なる想像だが、ゴゴを間近で見ている雁夜にとって思い描いた空想は実現するかもしれない恐怖そのものである。
  結果、雁夜はゴゴのする事を驚かないように覚悟を決めながら、結局何度も驚かされるのを甘んじて受け入れている。多くを尋ねずに道化を演じている自覚はあったが、知りたくない真実を知るよりは何倍もマシだ。
  間桐雁夜が遠坂桜の傍にいる為に、時として真実から目を背ける必要があった。
  「だからと言ってこれはないだろう・・・・・・」
  「どうした雁夜」
  「どうもしない!!」
  魔石から呼び出した幻獣や、雁夜に貸与されている魔剣ラグナロクなどは『魔力で作り上げた』という一応の理由はつけられる。ミシディアうさぎもそうやって呼び出したのだから、納得しようと思えばで出来る。
  だがこれほど巨大な建造物を一瞬で作り出すのは何かの冗談としか思えなかった。
  ゴゴが消え去った筈の間桐邸の庭に手を伸ばし、透明なドアノブを握って開いた時は恥も外聞もなく絶叫してしまった。
  目の前の景色が割れて何もない場所がドアになった時の驚きをどう表現すればいいのか雁夜には判らない。
  開かれたドアから堂々と入っていくゴゴの後を追いかけ、そこに広がる豪華なカジノに目を奪われた。
  目に見える範囲の大きさだけならば間桐邸も劣ってないが、煌びやかさと楽しげな雰囲気は比較にならない。あえて言えば人の姿が全くないのが気にかかったが、それは間桐邸も同じである。
  雁夜はそのまま二分ほど動けずにただただ周囲の光景に目を奪われていたが、思考が蘇った後は自分達がいる場所が、ゴゴが作り出したあの乗り物―――飛空艇の内部なのだと推察できた。
  「もう一度聞いていいか?」
  「いいぞ」
  「これは、何だ・・・」
  「飛空艇――『ブラックジャック号』。俺の仲間だったセッツァーの愛機だ」
  再び繰り返された説明を聞きながら、雁夜の腕は自分にしがみ付いてくる桜の肩を抱き、もう一度カジノにしか見えない内装を見渡す。
  「急に見えなくなったのはどうしてだ?」
  「透明化の魔法『バニシュ』の効果だ、普通は触るのも不可能なんだが、術者は影響できるように調整した。元々、敵への攻撃は通るから難しくなかったな」
  「どうしてこんな物を呼び出した?」
  「移動手段だと言っただろう」
  「・・・やる前に説明してくれてもいいだろうが」
  「気にするな」
  「気にするわ!!」
  お腹の辺りに手をまわして、おっかなびっくり周囲を見回していた桜がビクッ! と震えるのが判ったが。雁夜は咆哮を止められなかった。
  ゴゴに対する理不尽な叫びだとは判っていたが、それでも叫ばずにはいられない時がある。
  ただゴゴとの会話とでも言うべき日常のやり取りは雁夜に冷静な思考を戻す役割も与えてくれた。慣れとは恐ろしい。
  ゴゴが突飛な事をする、自分が驚く、時間経過と諦めにより『そういうものだ』と受け入れる。これは何度も繰り返されてきた理解に至る手順だ。
  驚きは場合によって異なったり、時にあっさり殺される場合もあるが、思い知って強制的に納得させられて諦めるのは既に日常となっている。雁夜は慣れで驚きを抑え込み、諦観によって冷静さを取り戻す。桜をこれ以上驚かさない為の意地もあった。
  「まさかこんなモノまで呼び出せるとは思ってなかったな・・・。飛空艇――だったな、お前の仲間はこんな代物を個人所有してたのか?」
  「あっちの世界じゃブラックジャック号は世界で唯一の飛空艇で、セッツァーは『世界最速の男』として名を馳せてたらしい。仲間になった後に乗せてもらってたもう一台の飛空艇はこれじゃないが、個人所有だったのは確かだ。つまり世界で唯一と嘘をついてた訳だが――、まあそれはいい。ついでに言えばセッツァーはギャンブラーだったな」
  「・・・・・・どんな博徒だ、おい」
  雁夜は脳裏に『ギャンブルで金儲けして飛空艇を買った男』を想像しようとするが、あまりにも雁夜が生きてきた常識とは違いすぎるので予想できなかった。
  これがテレビのドキュメンタリーで紹介される海外の大富豪ならば予測も立てられるのだが、ゴゴから聞いた話の中で仲間は全員世界を救うために立ちあがった戦士なのだ。ギャンブラーが戦う光景を想像できず、雁夜はそれ以上の思考を放棄する。
  代わりに半強制的に足を踏み入れる羽目になってしまった飛空艇、名を『ブラックジャック号』というらしい―――の中を観察する。
  スロット台にポーカーなどを行うカード台、床は板敷きの部分とカーペットに覆われた部分があり、外からの太陽光を取り入れる必要ないほどに灯りが溢れている。とりあえず、目に見える範囲に居住区画や飛空艇としてのエンジンルームは見当たらないが、やはりカジノに見えた第一印象はじっくり見ても変わらなかった。
  上に昇る階段が見えたので、単純に平屋の上に巨大な風船を付けた作りではなく、何階層かに分かれた作りなのだろう。優雅さや上等さで言えば他にもっと立派なものがあるのを知っているが、肝心なのは目に見えるこれら全てはゴゴが作り出したという点だ。
  かつてミシディアうさぎを呼び出した時と同じようにスロットを回していたのを思い出したので、間違いなくこの飛空艇はゴゴの力で具現化されている。
  「・・・・・・・・・・・・・・・」
  夢か冗談ならば正気になって見なかった事にすればいい。しかし物質として雁夜の目の前にあり、足の下から返ってくる浮遊感―――電車に乗っているのとは異なる振動や左右への揺れが間違いなくこの飛空艇が対空している事実を教えている。
  驚きは既に雁夜の中から消え去っていたが、何を言えばいいか判らずに黙り込むしかない。
  気付かぬ内に桜の肩に当てた手に力がこもったが、彼女もまた何を言えばいいか判らないのか、黙って身を寄せている。
  そんな二人の沈黙を破ったのはゴゴ―――ではなかった。


  「むぐむぐ?」
  「むぐ~」
  「むぐ、むぐ」
  「むぐむぐむぐ~」
  「むぐ」


  大量の鳴き声が聞こえてきたと思ったら、雁夜達が入って来た入口からミシディアうさぎが一斉に突入してきたのだ。
  無遠慮に突き進むその姿はここが自分の家であるかのようで、トトトトトトト、と軽快な足音を鳴らしながら、立ち止まる雁夜と桜の横を通り抜けて散らばる。
  あるミシディアうさぎはポーカー台の上に陣取り。
  あるミシディアうさぎはふさふさのカーペットの上で横になり。
  あるミシディアうさぎは何が気に食わないのか壁に衝突してぶつかった箇所を睨みつけ。
  あるミシディアうさぎはゴゴに近づいて、むぐむぐ、鳴いて。
  あるミシディアうさぎは階段を駆け上がり。
  あるミシディアうさぎは呆然とする雁夜と桜を見上げ。
  あるミシディアうさぎは雁夜の位置からは見えない死角へと走っていき。
  あるミシディアうさぎは窓枠に飛び乗って外の風景を眺め。
  あるミシディアうさぎは階段を上った別のミシディアうさぎを追いかけ。
  あるミシディアうさぎは桜の前に回り込んで跳躍し、桜の上の中に収まった。こいつは使い魔のゼロだ。
  一瞬前まで初めて見る光景だった筈なのだが、そこに間桐邸を縦横無尽に駆け回る獣が加わるだけでいつも見る光景のように思えてくる。桜も腕の中にいつもの重さが戻って来たので安心したのか、雁夜に伸ばしていた手をミシディアうさぎを抱き上げる手に変化させた。
  離れた手に寂しさが無いと言えば嘘になるが、いつものように両手でしっかりとミシディアうさぎを抱きしめると表情が緩んだので、それで良しとする。
  あちこちを自由気ままに暴れまわるミシディアうさぎの件はとりあえず横に置き、雁夜はゴゴの元へと移動した。後ろから少し距離をとって桜が付いて来るのが足音で判ったが、ミシディアうさぎによって落ち着きを取り戻した彼女は後回しだ。
  三歩も進めば話すには十分な距離となる。
  「これがお前の言う『移動手段』で、これでどこかに行くのが『旅行』か?」
  「そうだ。そしてこれから雁夜の鍛錬も同時に行うから甲板に来い」
  「甲板?」
  「舵はそこにある。今のままじゃ飛空艇は浮いてるだけの風船と大差ない」
  ゴゴは手短に言うと、ミシディアうさぎが二匹ほど消えていった上に続く階段へと向かった。慌てて雁夜がそれを追い、ミシディアうさぎのゼロを抱いたままの桜も後に続く。
  一階分上がると中央にカード台を置いた広い空間に出る。見渡すと左右の壁際にドアがあり、広めのリビングのような印象を受ける。ただし、ここにも人の気配がなかったので、カジノを思わせた状況に変わりは無いが、どこか寂しさを感じさせた。
  カード台の上に乗っかって体当たりで相手を突き落とそうとしているミシディアうさぎがいたが、それは人ではないので無視。きっと、相撲をしているのだろう。内装は昇って来た場所とそう大差はないので、目新しいものは見つけられない。
  ゴゴは楕円を描きながら脇目も振らずに別の階段へと向かい、雁夜と桜がそれを追いかける。ほどなく外気の冷たさが雁夜の頬を撫で、屋外に向かっているのだと実感できた。
  そして雁夜達はついに甲板へと到達し、飛空艇ブラックジャック号の真骨頂とも言うべき、頭上に黒いバルーンを携えて周囲に遮蔽物のない壮大な景観を目撃する。
  「わぁ・・・・・・」
  その声は桜のものだったが、雁夜の口から出た声もかすかに混じった。
  間桐邸の庭現れた飛空艇、普段窓から見ている景色がほんの少し高くなっただけで、物珍しい何かが見える訳ではない。ただ『浮かんでいる』という事実が見慣れた景色を全く別のモノに変えているのだ。
  右を見ても、左を見ても、前を見ても、後ろを見ても、必ずそこには空の青さがある。間桐邸の窓からは絶対に見れない風景を作っている。
  見るモノが同じでも視点を変えれば違うモノに見える不思議。ある種の感動を感じながら、雁夜は東西南北の全方位を見渡して、流れゆく風に身を任せた。
  「すごいね・・・・・・」
  「うん・・・」
  雁夜と桜が立ち止まって呟くと、その分だけ先を行くゴゴと距離が開く。
  結果、階段から上がって甲板から周囲の景色を見ていた雁夜と桜、ついでに桜の腕に抱かれたミシディアうさぎのゼロは、ゴゴが飛空艇の操舵輪を握るのを完全に見逃した。
  現れてからずっと浮かんでいた飛空艇は飛びたてる準備を整えていた。エンジンに直結した八個のプロペラは今か今かと出発を待ちわびており、傷一つない黒いバルーンは大地から浮きあがる時を待っている。
  唯一足りなかったのは操縦者のみ。その操縦者であるゴゴが操舵輪を握り、飛空艇ブラックジャック号は空を飛ぶ為の準備を全て整えた。
  雁夜と桜の都合などお構いなしに、準備を終えてしまった。
  「では出発だ」
  「「え?」」
  一瞬のずれもなく雁夜と桜の声が重なった次の瞬間。ゴゴの操舵輪を手前に引き、ブラックジャック号は空高く舞い上がった。
  「ぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉ」
  もし近くでブラックジャック号が飛び上がる瞬間を見れた者がいたら、遠ざかる雁夜の絶叫も聞けただろう。





  「お・・・おぉぉぉぉぉ、おま、おま、おまえなぁぁぁぁぁぁ」
  雁夜はこれまで味わったことのない緊張と戦っていた。
  幻獣やら魔術やらで色々とゴゴに驚かされてきたが、それらは全て地上で起こった出来事であり、二本の足で立てる大地で起こった異常だ。しかし今、雁夜は飛空艇に持ち上げられたお陰で大地から遠く離れた空の上にいる。
  落ちたら確実に死ねる。
  恐怖の度合いがこれまでの異常とは異なり、大地に立っていない不安が雁夜を四つん這いにさせて甲板にしがみ付かせていた。
  大の大人が格好悪いなどと言える余裕はない。甲板に出る階段のところで顔だけを出した桜がいるのだが、そちらを見れる余裕もない。
  いつもは重いと感じている魔剣ラグナロク、アジャストケースに入っているそれを重しにして、必死に自分の居場所を固定する。
  「無様だな雁夜」
  「ぐ・・・、この・・・・・・ちくしょう――」
  操舵輪を握りながらこちらを見ずに淡々と言ってのけるゴゴに怒りを覚えた。しかし、その怒りは全て甲板にしがみ付くのに費やされ、怒りに任せて攻撃なんて出来ない。
  生身で空の風を感じる場所にやってきてしまった。
  寒かった。
  恐ろしかった。
  風が痛かった。
  普段、何気なく地面に立っているのがどれだけありがたいか骨身に染みた。
  可能ならば雁夜もまた桜のように屋内に引っ込みたいのだが、ゴゴがそれを阻んだのだ。じゃあ今日の鍛錬を始めるか、と言って雁夜の逃げ道を塞いだが故に―――。
  恨みがましい目をゴゴに向ける雁夜だが、操舵輪を握ってブラックジャック号の姿勢を制御し続けるゴゴには届かない。
  「この世界には三次元レーダーを使用しての対空監視を行うシステムが存在する。一定の高さまでに昇ると察知されて『正体不明機』は警告を受ける、最悪攻撃される仕組みだ」
  「そ・・・それが、どう・・・した・・・」
  「今、飛空艇ブラックジャック号はその『攻撃される危険域』を飛んでいる」
  「な!!」
  雁夜は四肢で踏ん張る体勢を維持したまま何とかゴゴとの会話を成立させていた。けれど、聞こえてきた言葉はそんな必死さを吹き飛ばし、四肢の力を緩めさせて動揺させる効果を発揮してしまう。
  ゴゴの言う事が本当ならば、自分達は魔力で飛空艇を飛ばしたから神秘の秘匿という点で裏の世界に喧嘩を売り、飛空艇で日本の上空を我が物顔で飛んで表の世界に喧嘩を売っている状態になる。
  大変だ―――そう雁夜が思った瞬間、力の抜けた四肢と横から吹いた強風で雁夜の体がふわりと浮かんだ。
  「のおおおおおおお!!」
  ほんの数センチほどの浮遊。しかも一秒と経たずに重力の恩恵で甲板に舞い戻った雁夜だったが、何も掴む場所のない空に放り出されそうな恐怖はしっかり刻まれた。
  甲板の外周には転落防止用の手すりがあって、安全面が考慮されているように見える。しかし風が吹いただけで浮かんだ事実がそんな手すりなど合って無い物にしてしまう。
  空を飛ぶ手立てを持たぬ人間が、空に放り出される―――それをとても恐ろしく感じた。
  飛空艇ブラックジャック号が危険な場所を飛んでいる聞いたのに、恐怖はその警戒をたやすく吹き飛ばす。これまで豹変したゴゴと戦ってきた経験は何の役にも立たなかった。
  乗務員や旅客を乗せるゴンドラが取り付けられた飛行船のように完全な屋内からならば空を飛ぶ浮遊感と地上では味わえない外の景色の移り変わりを楽しめたかもしれない。だが、このブラックジャック号の甲板はすぐ隣に大空が待ち構えているのだ。
  地に足を付けられぬ空中。我が身一つでは何も出来ない死の領域。いれば死ぬ、その単純さが恐ろしい。
  「お、ろせ・・・。降ろし、てくれ・・・」
  「駄目だ。聖杯戦争で空にいる敵と戦う事になったらどうする? 恐れるなとは言わないが、慣れておかないと何もできないぞ、今のお前のようにな」
  「そ・・・れは・・・」
  咄嗟に『そんな敵がいるか!』と言いたくなった雁夜だったが、ゴゴと言う異常を何度も目の当たりにしているので、そんな事は起こらないという楽観視が出来なくなった。
  ゴゴならば身一つで空を飛んでもおかしくない。いや、背中から羽根を生やしても不思議はない。そして同じ事が出来る存在が別にいないとどうして言える?
  雁夜は裏の世界について中途半端な知識しか持っていないが、それでも人間など遠く及ばない存在がこの世界にいる位は知っている。もしそいつらが聖杯戦争に関わってきたらどうするか? 恐怖の中で雁夜は思う。
  逃げるしかない。
  空にいる事実から逃げたい思考も合わせ、雁夜はすぐに答えを導きだした。
  「逃げる!」
  これまでの弱気な言葉はどこへ行ったのか、生きる為ならば四肢に力を込めたままでもしっかりと声が出せた。
  四つん這いになっている上に言ってる事が少々情けなさ過ぎるのだが、やはり雁夜にはそれを気にする余裕はない。ついでに言えば、後ろで甲板に顔だけ出している桜の視線がどんどんと冷たくなっているのだが、前だけしか向けない雁夜は気付いていなかった。
  「そうだな、その判断は正しい」
  ゴゴからも同意を得られたので雁夜の恐怖が少しだけ和らいだ。
  「そこで今回の鍛錬だ。使う魔石は『ファントム』、バニシングボディーが味方全体に透明化の魔法をかけるんだが、魔力さえ途切れなければ飛空艇にかけている魔法をそのまま継続させられるだろう。雁夜が意識する無機物を含んだ『味方』を透明にする幻獣だ、これならレーダーにも感知されず、誰にも見つからず飛び続けられる」
  「な・・・。なる、ほ・・・ど・・・」
  「つまり今回の鍛錬は飛空艇の移動で空に慣れながら、敵に見つからないようにファントムに魔力を注いで現界させ続けるのが主旨だ。魔力消費を極限まで抑えて、これまで無駄に垂れ流してきた魔力を魔石に集中させろ。魔力を魔石に注ぎ込めなくなったら戦闘機が飛んできて攻撃されると思え」
  ゴゴはそう言うと、操舵輪の中心を押した。カチンと何かが組み合う音がしたので、どうやら中央に操舵輪を固定する仕組みがあるようだ。
  四つん這いで動けずにいる雁夜とは対照的にゴゴはブラックジャック号の甲板の上を何の支えもなしに普通に歩いてくる。舵を取る者は誰もなく、飛空艇は惰性で空に浮かんでいるだけ、強風が横から吹けばすぐに何もない空に放り出されるかもしれないのに、だ。
  雁夜はこれまで以上に信じられないモノを見る目で歩いてくるゴゴを見た。
  だがゴゴはそんな雁夜の尊敬のような敬意のような怪物を見るような目に全く興味が無いらしく、雁夜の横に屈むと右手に出現させた魔石を腰にある紺色のポシェットに突っ込んでしまう。
  右手の手のひらを上にして、魔石を手の中から出現させた瞬間を見る余裕が無い。
  ポシェットのチャックを開けるのに荷重がかかって踏ん張るのが精いっぱい。
  ゴゴの行動を止めるのは不可能で、途中からは見張るのも出来なくなった。
  「さあ、準備が出来た。桜ちゃんを旅行させるためにも気張れよ雁夜」
  「む――」
  横からの突風で自分の為に頑張るのは意欲は吹き飛んだ。けれど、雁夜の中にはまだ別の理由が存在し、それは消える事のない炎として雁夜の中で燃え続けている。
  桜が間桐の家に養子に出されたと知ったあの瞬間から存在する、決意と言う名の炎。
  桜ちゃんを救う為に―――、桜ちゃんを救う為に―――、桜ちゃんを救う為に―――。暗示のように繰り返し繰り返し念じると、少しずつ恐怖の代わりにやる気が湧き出てきた。
  それは桜が黒い鯨のビスマルクを呼び出した時、挫折しそうだった自分を『桜ちゃんを救う』の決意で覆した鼓舞に似ていた。最早、遠坂桜の救済は間桐雁夜が生きる理由そのものになったと言ってもよい。
  「や・・・って、やる――。やって、やる・・・。やって、やる――。やってやる――。やってやる!!」
  ブラックジャック号の操縦に戻る為に遠ざかるゴゴの背中を睨みながら、決意を声にして昂ぶらせていく。声を出した分だけ、『桜ちゃんを救う』の言葉が頭の中で繰り返された。
  間桐雁夜はそれをやり遂げなければならない。何故なら、それは間桐雁夜が生み出し、本来ならば間桐雁夜が背負うべき罪だからだ。
  「やってやるぞ、くそったれ!!」
  勢いをそのままに立ちあがり、アジャストケースの蓋を開けて魔剣ラグナロクを引き抜いた。いつもはその重さ故にアジャストケースを下に傾けてラグナロクを降ろすのだが、普段ならば絶対に出来ない片手での抜刀を実現させたのだ。
  火事場の馬鹿力か。あるいは敵との相対ではなく、空に放り出される恐怖でおかしなハイテンションが作られたのか。
  雁夜は片手で抜刀出来た事実をさておいて、そのまま剣を甲板に突き立てて、二本の足と魔剣ラグナロクで体勢を固定する。
  両手をラグナロクの柄頭に当て、足を肩幅より大きく開く。ゴゴの姿を正面に捉えて背筋を伸ばし、すっと仁王立ちする姿はどこかの騎士を彷彿させる。
  抗うのならば堂々と―――全ては『桜ちゃんを救う』その為に―――。魔剣ラグナロクの切れ味にもしっかりと耐えたブラックジャック号の甲板で、雁夜はようやく立って前を見据えられた。
  「来い――『ファントム』!!」
  たとえ飛空艇の上だろうと、風が常に吹いて恐ろしくても、魔石に魔力を注ぎ込んで幻獣を呼び出すのは雁夜にとっては慣れた作業だ。掛け声と一緒にポシェットの中にある魔石に魔力を放出すれば、脱力と頭上に何かが現れる感覚が同時にやってくる。
  これまで間桐の蟲蔵で何度も味わった幻獣召喚の前兆だ。
  雁夜は甲板に突き立てた魔剣ラグナロクと二本の足で体を支えながらそっと上を向く。そして、そこに現れたエメラルドグリーンの幻獣―――『ファントム』を目撃した。
  「ファントム・・・。これは、まるで柳だな」
  桜を救うための奮起と空に放り出される恐怖を忘れようと、あえて四つん這いになっていた過去を無視して格好つける男、間桐雁夜。
  ファントムはそんな雁夜の言うとおり、長い笹の葉を何本も何十本も何百本も繋ぎ合せて、一つの塊を形成しているような幻獣だった。頭を下にした四本足の動物に見えなくもないが、手も足も顔も存在せずに、輪郭をあいまいにしている。
  そこにいるのに明確な形を作らないモノ。塊としてそこにいながら、明確に正体を映さない幻だ。
  ファントム、つまりは『幻影』あるいは『幽霊』から連想して、『幽霊の正体見たり枯れ尾花』の植物に行き着いたのかもしれない。雁夜はそんな風にファントムを見ながら考えるが、頭上に君臨し続ける幻獣がすぐに効果を発揮し始めた。
  「ぐ・・・」
  ファントムが全身からエメラルドグリーンの光を発したかと思えば、雁夜の感覚は腕や足で感じる質感とは異なる何かを掴み始める。
  手を伸ばして何かに触れているようで、そうでない。
  足で何かを踏みしめているようで、そうでない。
  肌に感じる風や日の光があるようで、そうでない。
  触れているようで触れていない。
  飛空艇の上に立っている自分を感じるのに、それ以外の何かが感覚として雁夜の中に入ってくる。一言で言えば気色悪かった。
  けれどもそこにあるのは間違いなく自分の感覚そのもので、見えないけれど自分の体が広がっていく実感があるのだ。
  雁夜の体を中心にして、感覚だけが風船のごとく外へ外へと広がっていく。
  「これから魔法の効果を受け渡すから透明化を継続させろ。魔法の効果を強め過ぎると『透明化させる自分達』も一緒に透明になって飛空艇が消えるから気をつけろ、逆に影響範囲を狭めると飛空艇は空に現れるぞ」
  「わ、わかった・・・」
  何とかゴゴの言葉に応じる雁夜だが、実際は何も判っていなかった。
  このファントムで何が出来るのか?
  自分が広がっていくこの感覚は何なのか?
  見えない場所に触れているような気色悪さは何なのか?
  いっそ何もかも放り出して辞めてしまえば楽なのだが、『桜ちゃんを救う』という決意が雁夜の背中を押して逃亡を許さない。
  言葉での説明ではなく感覚としては幻獣の効果を嫌になるほど実感できるのだが、雁夜が自分の目で見ている範囲には何の変化も起こっていない。あえて言う変化はファントムがエメラルドグリーンの光を微弱に放ち続けている位だが、それ以外は何も変わっていない。
  ビスマルクのように大量の泡が出てくる訳ではない。ゾーナ・シーカーのように目に見えるバリアを張っている訳でもない。現れただけならばユニコーンの時と似ているが、胡散臭さで言えば段違いだ。
  一体これは何だ? 雁夜はそう思った。
  「いくぞ」
  「あ。ああ・・・」
  いつもより弱弱しい返答を返した次の瞬間、雁夜は幻獣『ファントム』が何をしているのか強制的に悟らされた。
  「お―――」
  ファントムの感覚が雁夜の頭の中に、いや、手足の指先から脳天まで隙間なく潜り込んできて、何をしているのかを教えてゆく。
  これを結界と呼んでいいか判らなかったが、言葉で表現するならおそらく膜が一番近い。ある一定の空間を切り取って隔離する効果が感覚で判る。
  外から見てもそこに何かあるか判らず、内側から見れば何も変わってない景色が見える。この『境界』を作り出すのが『ファントム』の能力であり、はた目から見れば物体を透明にして存在を抹消しているように見せている。
  確かにそこにあるのに、決してそこにあると悟らせない隠匿の幻獣。これがファントム―――。
  「ぁ・・・あ・・・」
  言葉による説明ではなく、頭の中に直接刷り込まれるような感覚の上書き。飛空艇と空中との間を隔てる巨大な空間のずれ、それが雁夜そのものであるかのような感覚で全身を包む。
  何とも奇妙な感覚だった。
  両腕は魔剣ラグナロクの柄頭を抑えているが、飛空艇の船尾を抑え込んでいるような気もする。
  両肩は迫りくる風を常に受け続けているが、八個のプロペラの駆動音をすぐ間近で感じている気もする。
  両足は甲板の上でしっかりと体を固定しているが、飛空艇の下部にあるカジノの外壁を足の上に乗せている気もする。
  両目は操舵輪を握るゴゴの背中を見ているが、ゴゴの立つ場所よりもさらに前にいて、空を飛んでい
  一人の人間としての感覚とは別に、飛空艇を覆い隠すもう一人の間桐雁夜がいるような感覚があるのだ、しかもそのもう一人は細長い卵型をして、飛空艇をすっぽり包んでいる。
  繰り返すが、雁夜の目から見える風景に変化はない。それでも魔石から呼び出された『ファントム』は空を飛ぶ飛空艇ごと雁夜達を見えなくしている、それを感覚で理解した。
  感覚の増加におぞましさは感じなかったが、いきなり手が六本に増えたり、背中から羽根が生えたり、足が四本になったり、巨人になったり、望遠鏡並みに目が良くなった気がして落ち着かない。
  いっそ倒れて眠りたいとすら思ったが、それを止めたのはやはり桜の存在だった。
  「雁夜おじさん・・・・・・」
  本人は雁夜を呼んだ気はなく、ただ心配で呟いただけかもしれないが。その言葉は膨れ上がった雁夜の感覚にしっかりと捉えられ、意味ある言葉として雁夜の中を駆け抜ける。
  『桜ちゃんを救う』。四つん這いから立ちあがった時と同じ言葉がもう一度脳裏に繰り返され、弱気になりそうだった自分を叱咤した。
  耐えろ、耐えろ、耐えろ。と心の中で叫んだ。
  元より桜を救う為ならば間桐の蟲に体をどれだけ壊されようと耐える気概があった。それに比べれば今起こっている出来事など痛みもなければ恐れる必要もない。ただ気色悪さに屈服しそうなだけだ。
  この程度を耐えられなくて、どうして桜を救えるのか? この程度、軽く乗り越えて見せろ。
  自己暗示にも似た軽い罵声を自分自身に浴びせかけ、雁夜は全身に力を込める。
  「お・・・ぉぉぉぉ、ぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉ!!」
  「初めてにしては中々やる。まだまだ無駄が多いが及第点をやろう」
  背中を向けたままのゴゴの方から言葉が聞こえてきた時、雁夜はファントムが生み出す効果を知ろうとする余裕を得ていた。もちろん一瞬でも気を抜けば、飛空艇の周囲に展開している『外と内を隔てる膜』の維持に失敗して、透明化が解除されてしまう感覚はある。それでも、『桜ちゃんを救う』と考えると集中できて、空から落ちて死ぬかもしれないなんて余計な事を考えなくて済むのだ。
  色々と余分な事を考えていたから、判らない事が判らずにいた。それが無くなれば代わりに出てくるのは事象を知ろうとする知的好奇心だ。
  そしてビスマルクを呼び出す時に吸われる魔力よりは少ないのに気が付き。同時に、魔力を吸われ続ける状態を維持するのはビスマルクを召喚して消すのよりも難しいと思い知る。
  雁夜からは目に見える変化が無いので、目視で確認できないのもファントムを維持し続ける気力を萎えさせる原因で。感覚だけで巨大な飛空艇を覆うイメージを維持し続けるのはとても難しい。
  だが、これは戦いではない。殺し合いでもない。ただ純粋に成すべき事を成す為に思考を一点に集中し続けるだけ。どうすれば良いかはゴゴが前例を作ってくれていたので、それに倣えばいい。
  「ただ魔力を流し続ければあっという間に底をつく、必要最低限に絞って魔石に魔力を送る以外の全てを遮断するようにしろ。そうすれば少しは持続時間が伸びる。『無駄をなくす』どんな事にも通用する技の一つだな」
  目で見て確認するのではなく、感覚によって幻獣を扱うのは、これまで漠然と行っていた『魔力供給』と『自分の魔術回路』を認識する手助けをしていた。
  それは同時に今の自分の魔力操作が稚拙であり、ゴゴの言う無駄な部分を思い知らされる結果となっている。悔しさと自らの不甲斐なさに怒りがこみ上げてくるが、それ以上に桜の前で無様な格好は出来ないと思った。
  四つん這いになって死にそうになっていたのを見られたので今更とも言えるが―――。
  「船尾の透明化がほどけそうだな」
  「何っ!?」
  「後ろを意識し過ぎると今度は前が疎かだ」
  「ぐっ!」
  「で、次は左右が狭まってプロペラが露出しそうになってるな」
  「ぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬ」
  魔剣ラグナロクと両足の三点で体勢を固定したまま動いていないが、頭の中で向ける意識はあっちへ行ったりこっちへ行ったり忙しい。特にゴゴの言葉が聞こえるよりも前に、自分の感覚が展開しているファントムの境界線が弱まっているのが判ってしまうので尚更だ。
  空を飛べぬ人が空中で行う鍛錬。加えて、これまでの体を使っての戦いではなく、魔力の向上を目的としたやり方には新鮮味を感じる。
  けれどそれを喜ぶ余裕はない。まだファントムを召喚し続けていられる感覚はあるが、一瞬でも気を抜けば飛空艇を囲んでいる透明化の膜が萎んでしまうのが判るのだ。卵型を維持して飛空艇を外側に露出させないようにしなければならないので、常に集中を強いる苦難がある。
  「バニシングボディーが解除されたら全てが終わりだと思え。途中で辞めたり限界まで魔力を振り絞る気が無いなら、魔力が切れた時に手助けしてやらんぞ」
  「このサディストが!!」
  「おっと、酷い事を言われて飛空艇の操縦を失敗してしまいそうだ。どれ、このまま地上に墜落するか」
  「すみません。勘弁して下さい」
  色々な意味で前途多難であった。



  ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆



  Side - 遠坂桜




  「・・・・・・」
  桜は飛空艇の中にあった椅子を窓際まで移動させ、窓から見える壮大な景色を一人占めしていた。
  世の中には移動する手段は色々あり、物心ついた時から乗った乗り物は、自動車だったり、自転車だったり、バスだったり、電車だったり、他にも沢山ある。けれど、空を飛ぶ乗り物に乗った覚えはなく、窓から見える景色は普段見る風景とは全然違った。
  もしかしたら赤ん坊の時に飛行機に乗ったのかもしれないが、覚えている限りで空を飛ぶ乗り物には乗っていない。同じ大地に立って見上げる景色と空に舞い上がって見下ろす景色、どちらも同じものかもしれないが、空から見下すと全く違うモノに姿を変えた。
  きっとこれが絶景と言うのだろう。
  飛空艇が空に舞い上がった時、桜は怖くなって甲板へと通じる階段に避難した。頭だけを出して雁夜おじさんが甲板にしがみ付くのを見ていたが、その姿をみっともないとは思わなかった。桜だって怖かったから、一歩も動けずにその場に留まるしかなかったのだ。雁夜おじさんを責める理由はどこにもない。
  雁夜おじさんは最初は震えていたけど、持っていた荷物から剣を引き抜いて堂々と立った。あれはすごいと思った。そして一歩も動けない自分には絶対にそんな事出来ないとも思った。
  「桜ちゃん。目的地に着くまで暇なら降りてもいいんだぞ。どうせそこからじゃ雁夜の背中しか見えないからな」
  だから飛空艇を操縦しているらしいゴゴからそう言われた時、何も言わずに飛空艇の中に引っ込んだのだ。
  ここに居たって何もできない。
  勇気を出して甲板に上がろうとしても、吹き荒れる風が怖くて前に進めない。
  お姉ちゃんだったらきっと堂々と立って『来なさい、桜』と言ってくれるに違いない。
  その想像が羨ましく―――妬ましく―――苦しく―――そんな風に出来ない自分が嫌になる。
  雁夜おじさんは間桐邸の地下で頑張るみたいに特訓している。だから桜は一人でいるしかない。
  最初は屋内に戻れた安心と、窓から見える壮大な景色に何も言えない驚きを感じたが、二十分も経つと驚きは何事もなかったかのように引っ込んでしまった。
  つまらない。
  何故そう思うかは判ってる。どんなにすごい景色を見ても、一人じゃ楽しくないからだ。
  ゴゴの口から聞いた話によると、内側からは見えるけど外側からは見えない透明な膜が張られているらしい。向こうからはこちらは見えないが、こちらからは向こうが見える。そんな初めて教わるすごい出来事も、一人じゃすぐに納得して終わってしまう。
  「・・・・・・・・・おかあさん」
  桜は誰にも聞かれない独り言を呟き、会いたい人を脳裏に思い浮かべて言葉とした。
  雁夜おじさんは優しくしてくれる。ゴゴは不便が無いように色々やってくれる。それでも養子に出されてから桜は一度も『母性』に接してこなかった。だから会いたくて、会いたくて、仕方なかった。
  それでも桜は自分が『お母さんに会いたい』と言えば、間桐邸の大人達を困らせてしまうと理解していた。
  一年後に行われる聖杯戦争と言うのに参加する為に準備しているらしいが、その戦いの為に遠坂とは話すら出来ない状態らしい。
  桜はそれを知ってしまった。
  雁夜おじさんが遠坂の家に帰れるように約束してくれたけど、会いたい気持ちが溢れてせき止められない。
  会いたい―――。
  困らせたくない―――。
  会いたい―――。
  困らせたくない―――。
  決して交わらない二つの思いを胸に宿し、そのまま何も言わずに自分の胸の内だけに留めるつもりだった。ぽつりと呟いたのは誰も傍にいないからこそだ。
  自分が我慢すればいい。
  自分が何も言わなければ誰にも知られずにいられる。
  そう思ったから一人の時に囁いたのだが、その言葉を聞いていた生物がいた。
  桜の腕に抱かれているゼロだ。
  「むぐ~」
  「ぁ・・・・・・」
  普段は桜の腕が前足のわきの下に潜り込んで、桜の見る方向とゼロが見る方向は常に同じになっている。それなのに、桜が母親の事を言った後、ゼロは桜の腕の中でもがいて体を半回転させ、太ももの上に乗って顔を見上げてきた。
  桜が椅子に座っていたから出来た芸当だ。もし桜が立ったまま窓の外を見ていたら、体を動かした時に桜の腕から滑り落ちただろう。
  「何?」
  「むぐ~」
  桜はミシディアうさぎに限らず、動物が何て言っているのか判らない。ゼロは既に桜の使い魔として繋がりを持っていたが、伝わる感情は何となく判るのだが言葉は判らないままだ。
  桜は人の言葉しか知らないし、ミシディアうさぎはミシディアうさぎの言葉しか喋ってくれない。だから腕の中から見上げてくるゼロが何が言いたいのか桜には判らなかった。
  「むぐむぐ!」
  それでも、何となく慌てているような気がした。
  とがった茶色い帽子の奥、つぶらな紅い目が桜の目を見つめてくる。その目がどうしようか戸惑っている気がした。
  その考えが正しいか知る為に桜はもう一度ゼロの目をジッと見つめる。
  あなたは何を考えているの?
  どうして私を見たの?
  あなたは何を思っているの?
  どうして私を見つめているの?
  答えを探し求めて、使い魔との繋がりを魔力で強め、ゼロの紅い目を見つめる。すると、ミシディアうさぎが顔を見上げている状態から更に顔を後ろにのけぞらせ、天に向かって大きく鳴いた。


  「むぐ~~~~~~!!」


  「え?」
  掛け声、いや咆哮か遠吠えとでも言うべき大きな大きな声でゼロが鳴く。生きたぬいぐるみのように桜に抱かれるの普通になっていたので、忘れそうになっていたが、ゼロは使い魔であり、一つの生物であり、小さな鳴き声も大きな鳴き声も出せるのだ。
  相変わらずむぐむぐしか言ってないが、鳴き声の大小が合って当たり前。それでも今までに聞いたことのない大きな鳴き声に驚いて硬直していると、遠くから沢山の足音が迫って来た。
  驚きながらも聞こえてくる足音に耳を澄ませてそちらを見る。すると窓際に立つ桜めがけて、飛空艇のあちこちに散らばっていた量産型ミシディアうさぎが全速力で走ってくるのが見えた。
  十秒もかからずに、腕の中にいる一匹を除く全てのミシディアうさぎが桜の足元に集合した。帽子の部分に『1』から『9』と刺繍されているうさぎ達。
  突進してぶつかってくるんじゃないかと思ったので、少し怖かったのは桜だけの秘密だ。
  「・・・・・・ど、どうしたの?」
  基本的に間桐邸のあちこちで自分勝手に生活する量産型ミシディアうさぎだが、桜は腕の中にいる一匹が命令すれば統率のとれた一団に変貌するのを知っている。そしてそのゼロは桜の言葉なら大抵聞いてくれるが、自主的に動く事の方が多い。
  だから今度も何かするのかと考えながら、それが何なのか判らずにミシディアうさぎ達を見渡した。
  すると腕の中で大きく鳴いたゼロが桜の太ももを土台にして跳躍した。
  「あ――」
  手の中から消え去った温かさを追い、桜が手を伸ばすがゼロは捕まらない。伸ばした手がむなしく空を切ると、床に降り立ったゼロと集まった量産型ミシディアうさぎ達が一斉に鳴き出した。


  「むぐっ!」
  「むーぐむぐむ~」


  「むぐっ!」
  「むぐむぐむ~」


  「むぐっ!」
  「む、ぐむぐむ~」


  「むぐっ!」
  「むぐむぐ、む~」


  まず桜の腕の中にいたゼロが鳴く、それを合図にして一匹が後に続いた。帽子の部分に『1』と描かれているミシディアうさぎだ。
  そしてまた同じように鳴くと、別の一匹がまた後に続く。今度は『2』と描かれたミシディアうさぎだ。
  ゼロが他のミシディアうさぎの一匹目に、二匹目に、三匹目に、四匹目に合図を出している。桜はミシディアうさぎ達が一体何をしたいのか判らなかったが、その鳴き声を聞いている内にある音楽を思い出した。
  「・・・・・・・・・・・・ドレミのうた?」
  ミシディアうさぎ達の鳴き声が歌っているように聞こえて、それが聞いた事のある歌だったから呟いた。
  確証などなく、ただ漠然とそう思っただけ。しかし桜がそう呟いた次の瞬間、総数十匹のミシディアうさぎ達が喜びの声を上げながら桜の周りを飛び跳ねる。


  「むぐむぐむぐむぐ」
  「むぐむぐ!」
  「むぐっ!」
  「むぐむぐ!」
  「むぐ~」


  歓喜の舞いと楽しげな鳴き声が辺りに充満する。見ているだけで『楽しそう』と思える喜びの嵐がミシディアうさぎ達を中心に吹き荒れた。
  そして誰も彼もが喜びながら桜の事を見つめていた。
  桜の頭の高さまで跳んで視線を合わせてくるミシディアうさぎ、帽子には『7』の文字。床をぐるぐる回りながら桜を見上げてくるミシディアうさぎ、帽子には『9』の文字。壁を駆け上がり天井から落ちながら桜を見るミシディアうさぎ、帽子には『3』の文字。
  前後左右上下どこを見ても十対の目のどれかが見ているので、ちょっと怖かった。
  「もしかして・・・・・・、一緒に歌えって?」


  「「「「「「「「「「むぐっ!!」」」」」」」」」」


  桜は十匹が一斉に鳴いた瞬間、『そうだ!』と声がどこからか聞こえて気がした。きっと使い魔のゼロが繋がりを介して言ったのだろう。
  辺りを見渡してもミシディアうさぎ以外の姿はなく、ゴゴの姿も雁夜おじさんの姿もない。それでも桜は耳に残る音を探してきょろきょろして―――それがミシディアうさぎ達、全ての想いだと知る。
  「・・・うん、一緒に歌お」
  逡巡は僅か、それでも遠坂桜は自分の口ではっきりと想いを言葉にした。
  そして皆が歌い出す―――。


  


  「ドーナツのド~」
  「むーぐむぐむ~」


  


  「レモンのレ~」
  「むぐむぐむ~」


  


  「みんなのミ~」
  「む、ぐむぐむ~」


  ファ


  「ファイトのファ~」
  「むぐむぐ、む~」


  


  「あおいそら~」
  「むぐむぐむ~」

  


  「ラッパのラ~」
  「む、ぐむぐ~」


  


  「しあわせよ~」
  「むぐむぐむ~」


  「さあ、うたいましょう」
  桜の声に合わせてミシディアうさぎが歌う。
  楽しさと、喜びと、幸せと、興奮と、笑いと、愉快を乗せてミシディアうさぎが歌う。
  桜を中央に置き、周りをミシディアうさぎ達が跳ねまわる。
  桜の歌声に合わせてミシディアうさぎ達がジャンプする。


  「ドミミ、ミソソ、レファファ、ラシシ」
  「むぐむぐむぐ、むぐむぐむぐ、むぐむぐむぐ、むぐむぐむぐ」


  「ドミミ、ミソソ、レファファ、ラシシ」
  「むぐぐ、むぐぐ、むぐぐ、むぐぐ」


  「ドミミ、ミソソ、レファファ、ラシシ」
  「むぐぐ、むぐぐ、むぐぐ、むぐぐ」


  「ド――、レ――、ド――」
  「むぐ~、むぐ~、むぐ~」


  歌を歌う。
  笑みを浮かべた桜が歌う。
  ミシディアうさぎが舞い歌う。
  飛空艇ブラックジャック号の中に桜とミシディアうさぎ達との歌声が響き渡る。
  それは喜びの歌だった。



  ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆



  Side - 間桐雁夜





  「ぜぁー、ぜぁー、ぜぁー、ぜぁー、ぜぁー、ぜぁー、ぜぁー、ぜぁー、ぜぁー」
  雁夜はこれまで生きてきた人生の中でこれほど疲れたのは一度もないんじゃないかと思えるほどに疲労していた。
  立ちあがる事も、上半身を起こす事も、寝転がっている体勢を変える事も出来ない。自分にできる事はただ一つ、新鮮な空気を体の中に取り込むことだけだ。
  ゴゴによって多少の魔術を扱えるようになり、疲労回復の魔術を自分にかけて体力を回復させる術を身に付けた。ゴゴの『一瞬で完治』や『死者の蘇生』など、とてつもない力の行使はまだ出来ないが、雁夜が間桐の魔術とは異なる別の道を歩んで『魔術師、間桐雁夜』を形作っているのは確かである。
  けれど、雁夜に襲いかかっている疲労はそんな魔術を使わせない程大きく、息を整えなければ魔術を使う事も出来ない状態だ。疲労回復の魔術とて、それを使う為には必要最低限の体力と魔力が必要になるのだから。
  今の雁夜はその両方をなくしている状態なので、ただの一般人と変わらずに地面に横たわるしかない。
  雁夜はふとテレビで見る男子100メートル競走などで、ゴールした後に地面に倒れ込む選手の事を思い出す。もちろん見た場所は間桐邸ではないが、画面越しに彼らを見て『そんな疲れるのか?』と不思議に思った事があったが、今は我が身でそれを体感していた。
  「う、が、は。ぜぁー、ぜぁー、ぜぁー」
  口を大きく開いていると唾が出てくるが、それを呑み込むのすら難しい。体はひたすらに新鮮な空気を欲しており、一瞬もおかずに呼吸を繰り返さなければならない。大の字に手足を大きく広げ、背中に流れる汗と服の下に感じる砂の感触が混じった気持ち悪さを考える余裕もない。
  間桐の蟲に体を食われた時とは別の苦しみだ。痛みで死ぬような事態には陥らない安堵はあるが、体の中から色々と絞りつくされて何も残らない喪失感があった。
  何とか顔をあげて周囲を見れば青い海が広がっていた。
  自分は白い砂浜の上に体を投げだしていた。
  空から降り注ぐ太陽の光がまぶしい。
  人気のないこの場所を行楽地として訪れたならば解放感に包まれただろう。
  しかし疲れてそれどころじゃなかった。
  「ぜぁー、ぜぁー、ぜぁー、ぜぁー」
  「雁夜おじさん・・・・・・大丈夫?」
  「さぁ・・・く・・・ら・・・じゃん」
  「あ、ごめんなさい。疲れてるのに・・・」
  横に立って雁夜の顔を覗き込んでくる桜がいたが、疲労困憊の雁夜では応じる事もままならない。上げた頭はすぐに戻ってしまって天を仰いだ。
  人の名前に聞こえないうめき声を出し、その言葉が桜を不安げにさせてしまうのに悔しさを覚えても。結局、新鮮な空気を求めて呼吸を繰り返すしか出来ないでいる。桜が隣に座るのが見えたが、雁夜は彼女に何の声もかけられない。
  砂浜の上に大の字で横になっている雁夜、その隣で腕の中に生き物を抱きながら体育座りをする桜。そして少し離れた位置で自然の雄大さを確かめるように、海を眺めるものまね士ゴゴ。ついでに近くをうろうろしている九匹のミシディアうさぎがいる。
  三人と十匹が人気のない海岸にいるのは、雁夜の魔力が尽きて飛空艇が不時着したのが原因だ。
  雁夜が呼び出した幻獣『ファントム』は、術者が意識する空間を隔離して外から見れば透明になった様に見える結界を張れる。通常は人一人分の空間を断絶して外と内とを隔てるようだが、雁夜は全長は125メートルの飛空艇を丸ごと包み隠す結界を維持し続けたのだ。
  時間にして約一時間。長いと見るか短いと見るかは人それぞれで、雁夜はよくぞやったと自分をほめたい気分なのだが、きっとゴゴに聞けば『桜ちゃんならもっと持続できただろうな』と返されそうなので、何も言わないでいる。
  ゴゴが目的地をどこに設定したかは定かではないが、体の中から魔力とか体力とか気力とか色々なモノを魔石に絞りつくされて雁夜は遂に限界を迎えた。
  透明化の限界はそのまま神秘の秘匿を犯しかねない暴挙だったので、やむなく飛空艇を地面に下ろして、そこがこの人気のない海岸だったのだ。
  正直、ゴゴがどこを目指して飛空艇を飛ばしていたのか知らないので、ここがどこなのか判らない。
  「ぜぁー、ぜぁー、ぜぁー、ぜぁー、ぜぁー、ぜぁー」
  透明化が解除されて雁夜の頭上にいたファントムが魔石の中に戻った後、ゴゴの行動は素早かった。
  まず砂浜に飛空艇を着陸させた。
  そして魔剣ラグナロクに寄りかかって床に崩れ落ちる雁夜の首根っこを掴んでそのまま階下へと向かい。全てのミシディアうさぎと桜に飛空艇を出る事を告げると、そのまま十秒もかからずに外に出てしまったのだ。もちろん雁夜の荷物はしっかりと手に持っている。
  桜とミシディアうさぎが砂浜に降りると、間桐邸の庭で見た光景を再現するようにゴゴは飛空艇を消し去ってしまった。
  透明化の魔法で飛空艇を消しているのか、それとも間桐邸で呼び出した時と同じように『作り出す前』に戻したのか。疲れと飛空艇を知覚認識できない雁夜では判断付かないが、『無い』のは判った。
  残されたのは砂浜の上に寝転がらされた雁夜と、どうすればいいか判らないがとりあえず自分の傍にいる桜だ。
  ゴゴの魔法ならば雁夜の疲労など一瞬でなくなるだろうが、自発的な回復に任せようとしているのか、回復魔法をかけてくれる兆しはない。雁夜も体を蝕む苦しさはから逃れたい気持ちはあるが、限界まで色々と出しつくした壮快感があるのも確かなので、砂浜の上に寝転がるのを由とする。すぐ隣に桜がいる状況もこのままでいいと思える理由の一つだろう。
  「ぜぁー、ぜぁー」
  「・・・・・・・・・・・・」
  落ちれば命はなかった飛空艇。吹きつける風にもてあそばれて死ぬかと思った時間。疲労はそれらを全てを打ち消して過去にしていく。
  これまでの雁夜だったならば、疲れていても死んでもおかしくなかった状況に恐怖しても不思議はなかった。しかしゴゴと接するようになって、段々と現実に起こる事象に恐怖するレベルがどんどん高くなっていく気がしている。
  今なら、目の前で火事が起こっても冷静に対処できるだろう。
  今なら、大地震が起こっても桜を守る為に行動できるだろう。
  今なら、熊や虎やライオンを前にしても、呆然とせずに戦ったり逃げたり出来るだろう。
  疲れで思考に没頭は出来ないが、それでも達成感と共に自分が成長している喜びが雁夜の中にあった。
  時間が経てば徐々に呼吸も落ち着いて来て、一心不乱に新鮮な空気を求めなくてもよくなってゆく。それでも疲労は雁夜の体を蝕み続けているので、体を起こすのも億劫だ。自由とは程遠いが、全身で空気を求めようとする渇望は薄れても消えてはいない。
  出てくるのは全身を流れる汗と、砂浜に転がっているせいでこびりつく砂の感触。海の近くだから当たり前だが、漂ってくる潮の匂いとべたつく感覚が落ち着かない。しかし突如生まれた、誰かに手を握られる感触が不快感を全て吹き飛ばした。
  「お・・・・・・」
  手の中に生まれた温かい感覚がなんであるかを知る為にそちらを見ると、横で体育座りをしていた桜が自分の手を握っていた。
  正確にいえば大の字に寝転がっている雁夜の手の上に自分の手を乗せているだけだ。握っていると言うよりも合わせていると言った方が正しい。
  「雁夜おじさん・・・・・・・・・、苦しそうだったから・・・・・・」
  「そ・・・・・・そう――」
  少しだけ減った呼吸の中で桜の方を見ると、彼女は片手でミシディアうさぎのゼロを抱えながら、もう片方の手を雁夜の手に置いている。
  指を曲げて桜の手を握ると、子供特有の小さくも温かい手の感触がしっかりと返ってきた。
  ミシディアうさぎはいたが、初めての飛空艇で一時間も放置されて寂しかったのかもしれない。呼吸困難に陥りそうな自分を見て、何か出来ないと考えた末の結論なのかもしれない。幻獣ファントムにとことん吸われた魔力が触れていれば渡せると思ったのかもしれない。
  桜が何を思って行動に出たのかは桜にしか判らない。雁夜には人の心の中を覗く術など持ち合わせていないので、桜の真意は判らない。それでも、手の中に返ってくる体温の暖かさに魔石に吸われた何かが戻ってくる気がした。
  「桜・・・ちゃん・・・・・・。ありが、とう・・・・・・」
  「雁夜おじさん・・・」
  言葉は少ない、しかし見上げる者と見下ろす者は互いの心を通わせるようにただ見つめ合って時を過ごしていく。それは雁夜の呼吸が落ち着くまでずっとずっと続けられた。





  疲れは体に残っているし、少し休んだ程度で失った魔力はすぐには戻らない。それでも、普段と変わらぬ呼吸ぐらいにまで自分を落ち着かせることに成功した雁夜は、砂浜に横倒しになっている体勢から上半身を起こして周囲を見渡した。
  疲れを癒す為に費やした時間は二十分ほどだろうか。
  見ると、ゴゴが砂浜の上に青空をイメージしたらしい青と白のレジャーシートを広げて、その上に雁夜の荷物と桜の荷物を置いていた。
  雁夜は今更ながら砂浜に横になっていた時に背負っていたリュックサックが無くなっていた事に気がつく。おそらく、飛空艇をここに着陸させたゴゴが雁夜を砂浜に放り投げるまでの間に背負っていたリュックを剥いだのだろう。
  桜の背中に合ったリュックも、今は砂浜に敷かれたレジャーシートの上にある。
  それだけならば雁夜は特に何も思わなかった。最初の目的地がどこだったのかは不明のままだが、この人気のない砂浜を急遽旅行の目的地にしたとしても問題ない。むしろ、雁夜のせいでここにきてしまったので、謝らなければならないとも考える。どこから持ってきたのか、レジャーシートの四隅の内三つに置かれた大きめの石、これも問題ではない。
  雁夜が思わず大絶叫してしまいそうだったのは、レジャーシートの重しとして四隅の最後の一つを支えているある物だ。
  それは雁夜が持っていたアジャストケースだった。しかも風が吹いてもしっかりとレジャーシートを押さえつけているので、中身入りなのは間違いない。
  つまりゴゴは雁夜が砂浜の上に横になっている状況で、武器である筈のラグナロクとアジャストケースに収めて重しとして代用したのだ。世界を救ったと教えられた魔剣ラグナロクを重石代わりにするのは後にも先にもゴゴ一人だけだろう。
  「・・・・・・・・・・・・」
  魔石ほどの汎用性はないかもしれないが、それでも振るえば持ち手の魔力を吸い取って爆発へと置き換える魔剣だ。
  好事家に売却するなら、途方もない額になるのは想像しやすい。
  そんな大それた物を何の躊躇いもなく重し代わりにするゴゴに雁夜は絶句するしかない。けれどいちいち驚いていたらゴゴと相対する事すら出来ない、そう言う事だと諦めて全てを受け入れるしかないのだから。
  ゴゴは魔剣をぞんざいに扱われてショックを受けている雁夜など知った事ではないらしく、堂々と自分達の元へやってきて話し始めた。
  「さて、当初の予定とは変わってしまったが、今日はここで遊ぶぞ」
  「遊ぶ? どこか行く場所があったんじゃなかったのか」
  「山だろうと海だろうと『旅行』は間桐邸を離れて、他の場所に行く事だ。つまりここにいる時点で『旅行』の目的は達成されたと言ってもいい。大体、今の雁夜は魔力が枯渇してるから、同じ事をもう一度やって別の場所に行こうとしても不可能だ」
  「ぐ・・・・・・」
  咄嗟に反論しようとするが、この砂浜に着陸する羽目になったのは雁夜の魔力不足なのは明白であり、もっと長い時間維持できたかもしれない自分の下手さを思い知っていたので何も返せなかった。
  代わりに『旅行』に論点を当て、ゴゴに問う。
  「何もない場所だぞここは」
  「気晴らし出来ればどこだろうと問題はない。むしろ人気が無いなのは邪魔が入らないのと同じ事だから都合がいい」
  「お前みたいな変な格好してたら絡まれる可能性が高くなるからか?」
  「それもある」
  「嫌味を素で返すな!」
  ゴゴの傍若無人ぶりをやり込めたられたのは一度もなく、今回もまたマイペースでありながら我が道を行くゴゴに押し切られるのが目に見えていた。
  諦めが肝心である。
  「桜ちゃんの気晴らしが今回の『旅行』の主旨じゃなかったのか? ここじゃあ桜ちゃんも楽しめないと思うぞ俺は」
  「どこだろうと間桐邸と違う環境ならばそれでいい。それに桜ちゃんもそんなに悪い気はしてないみたいだな」
  「え?」
  雁夜が振り返ると、そこにいた桜はこれまで雁夜の手に置いていた片手で小さな山を作っていた。
  つまらなそうにしていればゴゴの言葉に反論出来たのだが、片手でミシディアうさぎのゼロを抱えながら、もう片方の手で砂遊びをする顔は、若干微笑んでいるように見える。
  思い出してみれば間桐邸にも、いつも会っていた公園にも砂場は無い。雁夜は、桜がこれまで海に出かけた事がないのかもしれないと思いながら、桜に問うた。
  「桜ちゃん。その――、楽しい?」
  「海って、初めてだから・・・」
  若干の間が大人を気遣ったように思えてならないが、桜の口からそう言われては雁夜は何も言えなくなる。
  だから雁夜は諦めてゴゴの言う『ここで遊ぶ』を受け入れるしかなかった。そもそもゴゴに『じゃあどうする?』と返されても雁夜に妙案はないのだ。魔力が回復すれば別の場所に行けるだろうが、今はそれも出来ない。
  「・・・・・・・・・判った。ここで遊んで気晴らしにする。判ったよ」
  「判ってくれて何よりだ」
  雁夜が言うと、ゴゴに即答された。そうなるように仕向けておきながら何を今更。と考えたが、それを口にしても意味はないので止めた。
  するとゴゴは雁夜が作り出した返答までの間を利用し、新たな言葉をぶつけてくる。
  「それじゃあ、まずこれだ」
  「何?」
  雁夜は自分が承諾してからゴゴから片時も目を離しておらず、彩り豊かないつものゴゴの姿をしっかりと捉えていた。
  何も持っていなかった筈だし、取り出せる荷物も近くにはなかった。けれど、『これだ』と口にしたゴゴの手にはしっかり今までになかったモノを持っていて、雁夜の目がそれを認めていた。
  どこから用意したのか? しかもそれは間桐邸から出発する時には絶対に持っていなかったし、近くに店など一軒もないのでここで購入したとも考えにくい。
  状況と季節と環境と時間が揃えばここにその物体があってもおかしくない。けれど、前提条件が全て食い違っていながら、ただ結果だけがここにあるのならばそれは単なる異常だ。しかしそれをやっているのが理不尽と非常識の塊とならば納得するしかない。
  繰り返すが、諦めが肝心である。
  雁夜はゴゴが現れてから色々と変わってしまった自分を思う。
  「何だ、それは」
  「スイカだ。見て判らないのか?」
  「いや・・・・・・。スイカは知ってるが・・・」
  緑色に深い緑色の縦縞が入った楕円形の食べ物。ゴゴが両手で抱える日本で生活する者なら大抵は知っている野菜を見ながら、力無く言う。
  「目の前に海、立つは砂浜、そこにスイカ。答えは一つだ」
  「・・・・・・・・・・・・・・・スイカ割りか?」
  「正解だ雁夜」
  ゴゴはそう言うと、雁夜と桜から距離をとって手の中に合った西瓜を砂浜の上に直接置いた。
  食べ物を地面の上に置くのはどうかと思ったが、ゴゴが何かしようとしているので今は何も言わない。堂々と『スイカ割り』と言ったのだから、その通りだろうが、ゴゴが雁夜の予想の斜めを上を行くのはいつもの事だ。
  気がつけば桜もまた山を作る手を止めてゴゴを眺めている。
  桜と一緒にゴゴの動きを見つめていると、十メートルほど離れたゴゴはそこに落ちていた木の棒を拾った。遠目から見た長さは十五センチほど、小枝としか言えないそれを拾ったゴゴは何故か右手その小枝を持ったまま斜め下に手を伸ばす。
  まるで武器を握って下段に構えているような―――。雁夜がそう考えるが、ゴゴはその体勢のまま動かず、数秒が経過してしまう。
  「・・・・・・・・・」
  何をするのか?
  何をやるつもりなのか?
  何を見せてくれるのか?
  演技を見る観客のような気持ちで全く動かないゴゴを見ていると、見えない口元からささやき声が聞こえてきた。
  「必殺剣――・・・」
  「ん?」
  遠く離れて聞こえる筈のない小さな声なのに、何故かその声がしっかりと雁夜の耳に届く。


  「断!!」


  その雄叫びの様な声が衝撃波を放ちながら全方位に広がるような錯覚を覚えた。
  だが雁夜を真に驚かせたのはゴゴの声ではなく、叫ぶと同時に砂浜に立っていた筈のゴゴの姿が消えた事だ。
  どこに行った? 雁夜はそう考えながら、スイカ割りだと言ったゴゴを思い出して西瓜の方を見る。すると西瓜の横にゴゴの姿があった。
  まるで瞬間移動だ。そう思った次の瞬間、スイカが二つに両断されて地面に転がる。
  「・・・・・・」
  「これがスイカ割りだ」
  目隠しをしていなかった。周囲の声を頼りにしなかった。
  雁夜には判らなかったが、何らかの技で斬っただけだ。
  予想しろと言う方が無理のある無茶苦茶な結果に雁夜は叫ぶ。
  「間違ってる・・・・・・。それは色々と間違ってるぞ!!」
  日本文化を知る者として黙っていられない間桐雁夜であった。



  ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆



  Side - 遠坂桜





  桜は目の前に広がる光景を眺めていた。
  「何で、お前は砂浜の上にうつ伏せになってるのに砂が全くついてないんだ」
  「魔力で薄い膜を作って、地面と服との間を遮断してるだけだ。物理防御力を高める魔法『プロテス』の応用だから、やろうと思えば雁夜にもできるぞ」
  「不条理な・・・」
  「桜ちゃん、合図を頼む」
  「あ、はい――」
  桜が、パンッ! と小さな手が音を鳴らすと、それに合わせて砂浜に寝転がっていた二人が立ちあがって振り返る。そしていつの間にか用意されていた二十メートルほど離れた場所に立っている旗に向かって走り出した。
  ミシディアうさぎよりも更に小さい旗で赤い色が砂浜の上に存在を象徴している。
  一瞬後、雁夜おじさんがまだ半分も走ってないのにゴゴの姿が旗のすぐ隣に合った。
  「ふざけるな!! いつ走った、全く見えなかったぞ!!」
  「少し力を込めただけだが・・・、全く相手にならんな」
  「勝てる訳が無いだろう。畜生――」
  「だったら桜ちゃん勝負したらどうだ? もちろん色々ハンデをつけてな」
  「わ、私?」
  「雁夜はラグナロクが入ったアジャストケースを持って、ついでに走る距離も倍にする。桜ちゃんは普通の距離で勝負する。これで対等だな」
  「・・・・・・桜ちゃんはまだ子供だぞ。俺が負けると思ってるのか」
  「負けたら恥だな。よし、準備だ」
  「え、ええええ!?」
  気がつけば桜は雁夜おじさんが横になっていた所でうつ伏せになっており、遠くに雁夜おじさんが同じようにうつ伏せになっていて、持ち歩くようになった黒いアジャストケースを背負ってるのが見えた。
  両手を顔の前に持って行って砂の上に置く。ざらざらした砂の感触が手の中に返ってきて、少しくすぐったい。
  「準備はいいな」
  「いつでも来い!!」
  「・・・はい」
  数秒後、パンッ! と手を叩く音が聞こえて、桜は何でこうなってるのかよく判らないまま、立ちあがって振り返る。雁夜おじさんよりも早く旗を取れば勝ちだと教わったが、どうして自分がそんな事をやってるのかは判らないままだ。
  この競技がビーチフラッグと呼ばれている事を桜は知らない。ただ流されるままにやる羽目になって、何故か雁夜おじさんと勝負することになっていた。
  腕の中にゼロのふわふわした感触はない。
  あまり外で遊ばなかったので、走るのは苦手だ。はっきり言えば、嫌々やっているだけだった。
  それでもやり始めたならばやり遂げなければならないと妙な使命感が桜の中に芽生える。それは旗の向こう側で横一列に並んだミシディアうさぎ達がいて、飛び跳ねたり『むぐむぐ!』『むぐ~』と応援してるみたいに鳴いてくれるからだろう。
  勝つとか負けるとかじゃなくて、誰かが応援してくれるならやらなきゃいけない。桜はそう思った。
  「おおおおおおおおおお!!!」
  後ろから声が聞こえてきたので振り返ってみると、形相を浮かべながら旗めがけて一直線に走ってきている雁夜おじさんが見えた。
  怖かった。
  逃げる為に桜は視線を前に戻し、そこにある旗めがけて走りだす。
  使命感と恐怖が混ざり合った疾走。雁夜おじさんの足音が後ろから迫って来たので、桜も必死になって旗を目指す。
  走る。
  駆ける。
  逃げる。
  取る。
  一秒後、砂浜の上に立っていた旗は桜の手の中に収まった。
  「ま・・・・・・ま、負けた・・・。桜ちゃんに・・・負けた・・・」
  「雁夜おじさん――」
  何と声をかければいいか桜には判らなかったが、声をかけるよりも前にミシディアうさぎが殺到して来て桜を取り囲んだ。


  「むぐむぐ!」
  「むぐ~」
  「むぐっ!?」
  「むぐむぐむぐ」


  「うげっ!」
  何匹かが砂浜に横たわる雁夜おじさんの頭を踏んだ気がしたが、いつも桜の腕に抱かれているゼロが跳んできたので、支えるのに忙しいから気に出来ない。
  ミシディアうさぎ達は歌う。喜びの声で歌う。桜の勝利を祝い、歌う。
  むぐむぐとしか聞こえないが、その声が『おめでとう』『すごいよ桜ちゃん』と言っている気がした。
  「もう一回! もう一回勝負だ桜ちゃん!!」
  「格好悪いぞ雁夜」





  砂浜の上に作られていく山が遂に桜の身長よりも大きくなっていった。
  最早それは『砂の山』とは呼べず、『砂の丘』と言うしかない。
  「その調子だ『ゴーレム』、桜ちゃんの山を雁夜のより大きくしろ」
  「幻獣を呼び出すなんて反則だろ! こっちは手が二本だけだぞ!!」
  「ミシディアうさぎが協力してくれるだろう」
  「十秒で飽きてあっちで走り回ってるあいつ等の事か? 嫌がらせか、おい」
  「もう少し高くすれば滑り台にもなるな」
  「人の話を聞けぇっ!!」
  背中から伸びた二本の管から灰色の煙を吐き出し、茶色く四角い木と丸い木が組み合わさっている『何か』。砂の中から現れた手足を持ったそれが桜の前にどんどんと砂を積み上げていく。
  「俺にもそれを使わせろ」
  「今の雁夜じゃ『ゴーレム』を呼び出せないだろう。大体、雁夜が呼び出しても敵からの物理攻撃を防御してくれるだけでそれ以外は何もしてくれないぞ」
  「ぐぬ――」
  「桜ちゃん、坂を作ったから滑って感想を聞かせてくれ」
  「は、はい・・・」
  桜は砂で出来た丘を登り、そこに出来ている坂を滑り降りる。
  材質が砂なのだから登ればそれだけで砂が崩れ、滑る時も一緒に砂が流れて太ももの下がざらざらした。
  微妙―――可もなく不可もない砂の山を言い表すのにこれほど的確な言葉は無く、それ以上に何を言えばいいのか判らなくなった。
  「・・・・・・・・・」
  何て言えばいいか判らない。
  どう言えばいいか判らない。
  桜が軽い混乱に陥っていると、桜が登って来た場所にあるモノたちが殺到する。


  「むぐ」
  「むぐむぐ」
  「むぐ~」


  「え?」
  ミシディアうさぎ達が砂で出来た滑り台を登っていると気がついた時、桜めがけて全てのミシディアうさぎが体当たりしてきた。
  ただ滑り台を滑りたかっただけなのかもしれないが、小さなミシディアうさぎも十匹集まれば桜より大きくなる。塊となって滑ってくるミシディアうさぎに押され、桜は頭から砂の上に転がってしまう。
  「・・・・・・」
  ぶつけたのが砂なので痛くなかった。驚いただけで、すぐに顔をあげて後ろを振り返る。
  するとそこには申し訳なさそうな顔をしながら、肩を寄せ合って身を縮めているミシディアうさぎがいた。
  頭を下げて被っている帽子で顔を隠し、時々顔をあげて桜の顔を見る。そして次の瞬間にはまだ帽子で顔を隠すのだ。その姿は怒られるのに怯える子供のようだった。
  「・・・・・・・・・怒ってないよ」
  桜がそう言うと、全てのミシディアうさぎが顔をあげて桜を見つめた。
  表情はほとんど変わってないが、まっすぐに見つめてくる目が『ありがとう』『桜ちゃんは優しい』『嬉しい、嬉しい!』と言っている気がする。
  そのすぐ後だ。全てのミシディアうさぎが跳び上がって桜にぶつかって来たのは―――。背中から砂浜の上に転がった桜だが、むぐむぐ言いながら桜に頬を寄せてくるミシディアうさぎ達を見ると、怒るに怒れない。
  視界の端に帽子に描かれている『1』『5』『9』『2』が見えた。
  「どうだ雁夜。あれを見て、まだお前は『ゴーレムを使わせろ』と言うつもりか?」
  「いいとこ取りしやがってこの野郎。その魔石借りたら同じ事が出来るようになってやるぞ」





  レジャーシートの上に広がったお弁当は今朝用意されたものだ。まだお箸を上手く使えないので、子供用のフォークに刺して食べる。
  「美味しいかい桜ちゃん」
  「うん――。雁夜おじさんは?」
  「おじさんのも美味しいよ。外で食べるといつもより美味しいね」
  桜が頷くと雁夜おじさんは嬉しそうにしながら白米をほおばった。
  レジャーシートは二人が並んで座るとそれだけで隙間が無くなって置いた荷物をつめなければならない。だからゴゴもミシディアうさぎ達もレジャーシートには乗っていない。
  ただ、ゴゴもミシディアうさぎも桜が知る限り食事をとった事は一度もない。
  今も少し離れた場所でミシディアうさぎ達の中心に立って次の遊びの指示を出している。食事とは無縁の不屈の体力の持ち主たちがそこにいた。
  「二人の食事が終わる前に浜辺での『だるまさんがころんだ』の特訓を行う。雁夜にも桜ちゃんにも負けないように各自努力するように」


  「むぐ」
  「むぐっ!」
  「むぐ~」
  「むぐ」


  「では、最初は俺が鬼だ」
  ゴゴはそう言うとミシディアうさぎから距離を取り、桜達からも背を向けた。
  衣装が派手だからこそ遠く離れてもよく判る。ミシディアうさぎ達は横に並んでゴゴの背中を眺めているが、声に誘われて桜も雁夜おじさんも一緒に見る。
  そして練習が始まった。
  「だ~、る~、ま~、さ~、ん~、が~、ころんだ!」
  言葉に合わせて何匹かのミシディアうさぎが前に出るが、これまで一定のテンポで喋っていたゴゴが『ころんだ』との所で急に速度を早めた為、何匹かが立ち止まれずに砂の上に転ぶ。
  砂に倒れながら『むぐっ!』と鳴いた。
  「トレス、セクス、ユイン、それからジーノ!! 動いたから捕虜だ、こっち来い」


  「むぐぅ・・・」
  「むぐ」
  「むぐむぐ」


  ゴゴが振り返った時に止まれなかった『3』、『6』、『8』、『2』のミシディアうさぎがゴゴの所にちょこちょこと移動する。
  青色のマントの中から前足を出して列を作る姿が可愛く、下を向いているのが落ち込んでいるように見える。
  「次だ! だ~、る~、ま~、さ~、ん~、が~、ころんだ!」
  二回目だったので慣れが出たのか、ゴゴが振り返った時に動いているミシディアうさぎは一匹もいない。全てのミシディアうさぎが『が~』の辺りで前に出るのを止めて、前足と後ろ足をしっかりと砂につけて体を固定した。
  「やるな――。だが、次はどうかな。だ~~~~~~~~~~~、るまさんがころんだぁ!」
  「むぐ!」
  「ナナ。今、動いただろう、見逃さんぞ!!」
  今度は帽子に『7』と描かれたミシディアうさぎが一匹転んで捕虜となる。
  楽しそうだった。
  面白そうだった。
  レジャーシートの上で食べるお弁当は美味しかったが、あそこに行きたくて行きたくてしょうがなかった。
  「桜ちゃん・・・・・・。もしかして、加わりたい?」
  「うん――・・・」
  「なら早く食べちゃおう」
  「うんっ!」
  これより五分後、三人と十匹が入り乱れる『だるまさんがころんだ』が砂浜の上で行われる。





  桜は砂浜の上で過ごす時間に困惑していた。
  しかし、この時間を楽しんでいる自分を認めていた。
  笑みを浮かべながらミシディアうさぎ達と追いかけっこをして、転がっても痛くない砂の上で色々な事をする。
  楽しい―――、そう、誰かと一緒に遊ぶのはとてもとても楽しい。桜はそれを思い出す。
  遠坂の家から間桐の家に養子に出され、上手く笑えなくなった。けれど、今、皆と過ごす時間はとても楽しく、意識しない内に口元に笑みが浮かび、遠坂桜と言う存在全てから喜びがあふれるかのようだ。
  楽しい。
  美味しい。
  嬉しい。
  ずっとこんな時間が続けばいい―――桜はそう思いながらまた笑った。



  ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆



  Side - 間桐雁夜





  再び飛空艇を呼び出し、もう一度透明化の魔法をかけたゴゴによって、三人と十匹は帰路についていた。
  既に夜の帳が世界を包み始め、夕焼けの赤さと夜の暗さが同居し始めている。
  少し動けば服の中から砂が零れ落ちるので、風呂で入念に体を洗わなければならないだろう。
  雁夜の魔力はほんの少しだけ回復しており、ポシェットの中にある魔石『ファントム』に魔力を注ぎ込めば、再び飛空艇と不可視の結界で包み込めるだろうと判っていた。しかし、持続時間は海にやって来た時よりも大幅に削られるのも判っていたので、無理はせずに帰りはゴゴに全てを委ねたのだ。
  ファントムを呼び出す必要すらなく、手を振るっただけで巨大な飛空艇を一瞬で覆い隠す魔術行使の精度の高さ。『バニシュ』によって姿を消す巨大な飛空艇。
  ほとんど見えないが、顔色一つ変えずに飛空艇を透明にして、その状態でなおかつ操舵輪を握って飛空艇を操る余裕の表われ。
  落ちれば命が無いのに、地上にいる時と何も変わらずに応対できる不変の態度。
  一日中魔術行使をしても尽きず絶えず無くならない膨大な魔力。
  どれもこれも雁夜には無い強さだ。
  甲板に上がって飛空艇を操作するゴゴに近づくと、雁夜から何か言いだす前に向こうから話しかけてきた。
  「桜ちゃんはどうした?」
  「下の部屋だ――。遊び疲れたんだろうな、ミシディアうさぎに囲まれてぐっすり寝てるよ」
  何とかゴゴに返事をする雁夜だが、海に行く前の恐怖が今も体の中に根付いており、足は震えて四つん這いになりたくてしょうがなかった。
  それでも目の前にゴゴと言う目標がいたので、何となく格好つけたくなったのだ。ゴゴは人の身で到達できない高みにいるのは判っていたが、そう思えた。
  虚勢でも、飛空艇の上で二本の足だけで立てられるようになったのは収穫と言える。
  「今日は楽しかったよ・・・。魔力が絞りつくされた時は死ぬかと思ったけどな・・・」
  「自分の今の限界を知るのは悪い事じゃない。それにこの世界の魔術師は微弱だが、ただ生きているだけで魔力を放出して無駄にしている。それを全て体に留めて扱えるようになれば魔法が使える時間は伸びる」
  「言わんとしてる事は何となく判る。ファントムに魔力を注ぐ時、どこかに消えていく魔力があったような気がしたから、多分あれがそうなんだろうな」
  「常に緊張を強いて体を鍛え続ければ一年でもそれなりの術者にはなれる、遠坂時臣に真っ向から戦いを挑んでも勝てるかもしれない。だが雁夜、お前は『桜ちゃんを救う』為に力を求めた。ならば破壊に費やす力だけを求めても人は救えない。心を鍛え、桜ちゃんを知らなければ救いは見つからない、喜怒哀楽あってこその人だろう?」
  「――こんな時間をこれからも作れって、そう言ってるのか」
  「そうだ。雁夜の鍛錬にもなるよう調整してやるから存分に鍛え、そして遊べ」
  「・・・・・・・・・」
  雁夜は堂々と言ってのけるゴゴの強さに―――失敗など恐れずにただ我が道を突き進む存在の大きさに羨望の眼差しを向けるしかなかった。
  しかし、ゴゴのやり方に不満があるのもまた事実であり、正直にそれを認めるのに悔しさを感じる。雁夜は誤魔化すように横に移動して、甲板の全方位を囲む手すりへと向かった。
  どれだけ歩いてもまっすぐに飛ぶ飛空艇はぶれず、安定した飛行に足取りは軽くなる。
  もちろん上空にいる恐怖も、落ちたら死ぬ恐怖も、今すぐにでも四つん這いになりたい願望も雁夜の中にある。だが、船が海を移動する乗り物であるように、飛空艇が空を飛ぶ乗り物だと認めて、受け入れる余裕がある。
  中心部分から外に向かう程に歩幅が小さくなっていくのが判ったが、それでも足を止めずに手すりまで移動すると、そこに手を当てて体を固定して地上を見下ろす。
  身を乗り出して下を見る勇気はまだ無かった。
  「・・・いい、景色だな」
  夕焼けの赤さと夜の闇に染まろうとする地上は普段雁夜が見る景色と同じでありながら、全く別物に見えた。
  感動という言葉すら霞んでしまう衝撃が雁夜を襲い。目の前に広がる雄大な景色に言葉を続けられない。
  普段見る事のない山の影。
  徐々に灯り始める街の明かりが作る人の息吹。
  雲が消えていく地平線。
  大地からは見えない空の景色。
  恐怖と感動をごちゃまぜにした良く判らない思いが雁夜の中を蠢いた。
  「この世界の魔術は無駄にしてる部分が多い。臓硯として出歩いて、雁夜以外にも何人か魔術師を見かけたが、どいつもこいつも『検知される魔力』を作り出して外に漏らしている。少なすぎて一般人にも同じ魔術師にも気付かれないからそれで良いと思ってるのかもしれないが、俺から見れば夜の太陽だ。神秘の秘匿とかのたまってるが、自分達で自分達の首を絞めてるな、あれは――」
  聞かせているのか独り言なのか、背後から聞こえてくるゴゴの言葉もほとんど耳から入ってこない。目の前の景色に心奪われてそれどころではなかった。
  飛空艇に乗らされた時は見る余裕なんてなかった。ファントムを呼び出している時は甲板の中央に立って魔石から幻獣を呼び出し続けるので精一杯だった。だから、雁夜は初めて見る飛空艇からの景色を存分に堪能する。
  今しかないチャンス。ようやく訪れたチャンス。これを無駄にしたら一生後悔する。
  そのまま十分ほど飛空艇から見える景色をずっと眺めていた雁夜だが。吹きつける風の寒さに身を震わせ、言っておかなければならない事を思い出す。
  「なあ・・・一つ言っていいか」
  「何だ?」
  最初は驚いたが、飛空艇なんてとんでもないモノを呼び出したゴゴには幾ら感謝しても足りない。
  結果として見ればゴゴは『雁夜を鍛える』と『桜ちゃんを救う』を同時にやってのけたのだ、雁夜一人ではこうはいかなかっただろう。
  だがそれでも―――それでも雁夜はそれを言わなければならなかった。
  「あのなぁ・・・」


  「今日はまだ四月だ!! こういう事は夏になってからやれ!!」


  「もちろんやる。今回は予行演習と思え」
  「予行演習なら先に言え、何度も何度もそう言ってるだろうが!!」
  「最初は緑豊かな山で新鮮な空気を吸わせようと思っていたからな、予定変更を余儀なくされたのは雁夜の魔力運用の未熟さだと知れ」
  「う・・・痛い所を突きやがって」
  雁夜も桜もこの『旅行』で色々と得たモノは多い。それでも季節外れの『旅行』を容認する事は出来なかった。
  雁夜が感謝しながら怒る。ゴゴはそれを受け流す。そのやり取りが雁夜とゴゴの変わらぬ接し方だ。
  そうこうしている内に飛空艇は高度を下げて行く。
  ゴゴが呼び出して、操縦している飛空艇が冬木市に―――間桐邸に到着しようとしていた。



  ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆



  野をこえ、山こえ。谷こえて―――。
  はるかな町まで、ぼくたちの―――。
  たのしい旅の夢、つないでる―――。



[31538] 一年生活秘録 その7 『ものまね士がサンタクロース』
Name: マンガ男◆da666e53 ID:6a0d9b18
Date: 2012/12/22 01:47
  一年生活秘録 その7 『ものまね士がサンタクロース』



  ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆



  Side - 間桐雁夜





  桜ちゃんが間桐の家に養子に出されて一ヶ月。俺が聖杯戦争にマスターとして参加して桜ちゃんを救うと決めてから一ヶ月。間桐邸の中から兄:鶴野の姿が消えて、俺と桜ちゃん、そして奇抜と言うのもおこがましい奇妙奇天烈な格好をしたものまね士ゴゴとの生活が始まってから一ヶ月が経過した。
  間桐邸の広さは核家族化が進んでいる現代の日本の一軒家と比較すれば巨大な部類に入る。たった三人が暮らすにはあまりにも広く、俺にとっては広々とした静けさは子供のころから馴染みのある冷たさだが、子供の桜ちゃんにとっては寂しさしか感じないだろう。
  けれど俺はその静けさが気に入っていた。
  何しろ俺の中で固まった間桐邸は、人の気配が極端に少ない代わりにあちこちで蠢く小さな間桐の蟲がいるイメージなのだ。
  実際に家中にはびこっている訳ではないが、耳を澄ませばあちこちから手の平サイズの蟲が這いずり回る音が聞こえる時もあった。
  蟲の大半は蟲蔵にいたが、臓硯の体を構成する蟲共が部屋のどこかにいる時もあった。
  いまでもたまに夢に見る。あの忌まわしいかつての間桐邸。だからこそ間桐の蟲がいない状況こそが俺の心を落ち着かせる。しかも、そこに桜ちゃんがいるとなれば俺の幸運はうなぎのぼりだ。
  家の広さが桜ちゃんを寂しくさせていると判っているのに、俺は今の間桐邸で安心を感じている。
  それでも桜ちゃんに少しずつ笑ってくれるようになったのは、俺達との生活に慣れが出てきた事と、この間桐邸の中を縦横無尽に動き回るあの獣共のお陰に違いない。
  一時、101匹にまでその数を増やしたミシディアうさぎ。今は十匹にまで落ち着いているが、間桐邸の中を動き回る獣たちは俺の代わりに桜ちゃんの寂しさを埋めてくれる。
  この調子で『間桐邸の徘徊する蟲』が『間桐邸で暴れまわるミシディアうさぎ』で感覚が上書きされれば良い。桜ちゃんもたった数日とは言え、あの間桐の蟲に弄ばれた忌々しい記憶があるのだから、さっさと忘れてしまうに限る。
  そんな一般人とは異なる新しく生まれ変わった間桐邸の日常がこの一ヶ月繰り返されてきた。
  今日は12月24日。世間ではクリスマス・イヴと呼ばれるイエス・キリスト誕生を祝うクリスマス前夜だ。もっとも、今の日本でどれだけの人間が正しくそれを自覚しているかは怪しい。キリスト教圏内ならば、正しくクリスマス・イヴの意味を判った上でお祝いをしているかもしれないが、日本では商業的な意味でクリスマスを利用する者が多いので、生誕祭を意識する者は少ないだろう。
  そして俺はクリスマスに良い思い出が無い。
  何しろ世間一般では『家族で一緒に祝う日』だとか、『サンタクロースが子供にクリスマスプレゼントを運んでくれる日』だとか言われているが、あの自分の魔術にしか興味が無かった蟲爺がそんな祝い事をやる筈がない。
  間桐臓硯に支配された間桐邸の中にはクリスマスなんて存在しなかった。
  俺にとってのクリスマスとは―――、繰り返される日常の中で世間が輝いているからこそ余計に寂しくなる日だった。
  だから桜ちゃんには良い思い出を作ってほしいと願う。これまでに遠坂の家でどんな祝い事をしていたかは知らないが、少なくとも間桐邸のクリスマスでは笑顔でいて欲しいと思う。
  俺の様に、窓から見える外の景色を眺めつつ、楽しげに笑い合う家族連れを羨ましがりつつ、時折見かけるイルミネーションを憎しみで睨みつける、そんなすさんだ子供時代を過ごしてほしくない。
  だが、俺は窮地に陥っていた。
  何かしらのクリスマスの祝い事をして桜ちゃんを喜ばせたいと思いながら、迫り来る聖杯戦争の修行に自分の時間など殆ど取れない状況が続いている。
  朝から晩まで修行修行修行修行。
  体力が尽きて床に倒れ込むなど当たり前で、時には一日の間にゴゴに複数回殺されるのも珍しくない。
  眠っている間にゴゴが強制的に回復させるので、起きたり蘇ったりした後は疲れが残ってないが、まだ修行できるならばとゴゴが隙間なく鍛えてくるのだ。
  確かに一年で熟練の魔術師と対等に戦えるようになる為にはそれなりの無茶をしなければならないと判っているが、この一ヶ月死ななかった日は一日も無い。
  毎度毎度ゴゴに殺されて、空いた時間は回復に費やされてきた。
  それでも自分の時間が無かったわけではないのだが、そこは桜ちゃんと遊ぶ時間につぎ込んでおり、俺個人が自由に出来る時間は皆無となる。
  俺が間桐邸に戻って、ゴゴと修行を始めてから一ヶ月。この生活で俺がやった事はいくつかの単語で言い表せてしまう。『修行』『睡眠』『死亡』『回復』『食事』『蘇生』『遊び』。
  気が付けばクリスマスイブだ―――我ながら度し難いほどに愚かとしか言いようがない。
  何もできずに一ヶ月が過ぎてしまった。
  魔術師としての力は日が経つごとに強力になっていくが、日々の生活の点においては一ヶ月前から進展が無い。桜ちゃんとの時間を作っておきながら、祝い事への準備を怠った愚かな男。それが俺、間桐雁夜だ。
  俺はこの時、異世界を旅してきたゴゴが今の日本が作り出す『季節ごとのお祭り』について疎いと思っていた。たかが一ヶ月、この世界の情勢を知るには少々時間が足りな過ぎる。
  だからゴゴも俺と同じように祝い事に関して何も手を打ってないと思っていた。ゴゴは俺に修行をつけるのに加えて家事全般を請け負っているから、忙しさで言えば俺よりもきついのもその理由だ。
  しかし俺はゴゴを侮っていた。判っていなかった。非常識の塊がこの世界の常識を考えてないと、そう思い込んでいた
  ゴゴは人間が普通にやる『睡眠』の時間も普通に活動している異常者だ。休む必要が無い力の塊だ。だからその時間を使って色々画策してたなんて―――考えもしなかった。





  俺の修行は基本的に魔剣ラグナロクを使って剣士の修行が行われる。時にこれに魔石を使った魔法の修行が加わるのだが、やはり魔剣ラグナロクを使っての修行が本流だ。
  ゴゴから渡された異世界の魔剣。とてつもなく重く、正確な重さは測った事はないが俺自身の感覚では100キロを超えている気がする。それを使えるようになるのに精一杯で、使い始めてから一ヶ月経った今でも『使う』ではなく『振り回される』という印象が強い。
  この一ヶ月で見た目には変化が無くても筋力は大幅に増えた。それでもまだ足りない。
  だから俺はゴゴから何か新しい道具を与えられると言う考えそのものが浮かばなかった。
  魔剣ラグナロク。
  魔石。
  魔法。
  すでにこの時点で修行の材料として十分すぎる物が与えられている。聖杯戦争に関する戦力を与えられすぎている。多すぎて今の俺には扱いきれないほどに。
  故に新しい何かを求める事それ自体が考え付かなかった。もし新しい何かをゴゴに求める時が来るとするならば、それは今与えられているモノを全て自分のものにした後の話だ。
  「今日は雁夜に新しいアイテムを渡す」
  「め・・・ずら・・・しい、な、そん――な、事。言うなんて・・・よ」
  深呼吸を繰り返す中で俺は驚いていた。
  今はゴゴとの一対一の修行の休憩を取っている時で、時刻は日が変わる時間に限りなく近くなっている。
  食事の前に体力が尽きるまで修行を行い、俺が回復するまでの間に午後は夕食の準備を済ませる。近頃は夕食の準備が整うよりも俺が呼吸を落ちつける方が早くなったので、その場合は桜ちゃんの所に行って夕食までの時間をつぶすのが通例になってきた。
  そして眠る前にまた修行。文字通り血反吐を吐くまで鍛えられて、溢れた汗とか血を洗い流して俺の一日は終わる。なお、翌日まで疲れが残る場合はゴゴが強制的に癒すので、何も気にせず修行が続けられるのだ。
  強くなる為にはかなり恵まれた環境と言える。
  ついさっき、ゴゴの脳天を叩き割るイメージを持って魔剣ラグナロクで上段から思いっきり振り下ろしたのだが、ゴゴは受け止めもせず避けもせず拳で魔剣ラグナロクの刃の部分ごと俺を殴り飛ばしやがった。
  何でもゴゴの仲間の一人『マッシュ・レネ・フィガロ』が得意とした技で、単体に必中かつ防御力無視の物理ダメージを与える『爆裂拳』という奥義らしいのだが、大抵のモノはすっぱりと斬れる剣を拳ではじき返すとは何の冗談だろう?
  少しは鍛えられたのだから、一撃入れられると思っていた俺が甘かったようだ。
  蟲蔵の壁まで吹き飛ばされ、背中からぶつかって数秒息が止まった。追撃の代わりに飛んできたのが今のゴゴの言葉だった。
  いつもだったらここで投石の『石つぶて』で俺の頭が叩き割られるか、『ファイラ』で燃やされるか、『ブリザラ』で凍らされるのだが、それが一つもない。殺されて蘇らせてくれるのがいつものパターンなのだが、今日はいつもと違った。
  修行の最中に話しかけてきた事にも驚いたし、ゴゴが何かを新しくくれると言う事にも驚いた。もしかしたら魔剣ラグナロクを授かって以来初めてかもしれない。
  俺は息も絶え絶えになりながら、こっそり小声で『ケアル』と呟いて体の怪我を癒す。修行中、蟲蔵の中はバトルフィールドが常に展開されているので、俺の体はボロボロなのに激突した後ろの壁がヒビ一つ無いのが無性に悔しかった。
  「勘違いするなよ雁夜。まだ魔剣ラグナロクを満足に扱えず、初級魔法を数回使うだけで魔力切れを起こす。お前の修行に使う新しいアイテムはまだ早い」
  「ぐ・・・」
  「このアイテムは雁夜の修行に使うアイテムじゃない。『桜ちゃんを救う』為の一環として必要だから渡すだけだ」
  未熟者とは言われなかったが似た言葉に反抗する心に火が灯る。けれど、ゴゴが口にした『桜ちゃんを救う』の言葉が耳から入って頭の中に浸透した時、その火はすぐに鎮火された。
  代わりに出てくるのは、どういう意味だ? と疑問のみ。
  平時ならすぐに問いかけられるのだが、今は背中の痛みが酷くて声を出すのも億劫だ。回復までもう少し時間がかかるので、ゴゴの話を聞く状況を崩せない。
  「俺がこの世界に渡る時にアイテムの大半は仲間達に渡したままだった。物真似に道具は不要だったし、必要だと思えるアイテムもほとんどなかったから持ってくる必要性を感じなかった。この国でいう『着の身着のまま』に近いが、全く無いわけじゃなかった」
  俺は今にも気絶しそうなのにゴゴは魔剣ラグナロクを拳ではじき返した状況など感じさせない穏やかな雰囲気を纏いながら話す。
  さっきまで修行で殺し合っていたのが嘘のようだった。もっとも、殺す気だったのは俺だけで、ゴゴは片手で俺をあしらえる強さの持ち主だから、雰囲気が軽いのは当たり前だ。
  「あいつらが飛空艇を手にいれてからはあそこが活動拠点になったからな、大半のアイテムはファルコン号―――ブラックジャック号の後の飛空艇だが、そこに置いて、敵の所に行く時や町に出かける時は最低限の装備とアイテムだけ持った。それでもあいつらがそれぞれに持ってた個人的なアイテムもあってな、それぞれが肌身離さず持ってたアイテムが幾つかある」
  言葉を続けるゴゴに郷愁を感じるのは、たかが一ヶ月とはいえ多くの時間を接してきたからだろう。目元しか見えない格好で、表向きは何も変わってないように見えるのだが、何となく感覚で判る。
  ああ。こいつは今、昔を懐かしんでるな、と。
  「セリスはロックのバンダナを肌身離さず持ってたし、モグは装備しなくても『モルルのお守り』を持ってた。カイエンは家族の肖像が入った懐中時計を持ってたな・・・」
  そう言いながらゴゴは蟲蔵の壁にある小さな窪みへと近づいた。かつては間桐の蟲を飼育する為に使われていた場所で、蟲の住処そのものだった凹みだ。今は使い道が無くなったので、修行の為の道具置き場として使われているが、九割は使い道が無くただそこにあるだけの小さな洞窟でしかない。
  その内の一つに近づいてゴゴは光の届かない闇の中に手を突っ込んだ。
  「そこに、何か、あったか?」
  少しだけ呼吸が落ち着いたので、問いかける。
  俺が覚えている限り、そこには何も入っていなかった筈だが、ゴゴは何も言い返さずにそこを探っていた。
  三秒ほど手を動かして中にあったであろう何かを握りしめる。それを引き抜きつつ、俺に背中を向けたままゴゴが言う。
  「結果、あの世界から移動する時も俺が持っていたアイテムも幾つかこの世界に持ち込んでしまった。雁夜に渡した魔剣ラグナロクや魔石みたいに、ここで新たに生成したアイテムじゃない。正真正銘、別の世界のアイテムだ」
  「まさか・・・。それを――俺に?」
  「そうだ」
  驚きを隠せず、疑問を浮かべながらゆっくり言うと、間を置かずにゴゴの回答が戻って来た。
  魔剣ラグナロクと魔石、そしてものまね士ゴゴの存在そのものがこの世界における奇跡であり、十分すぎるほどに俺は恩恵を受けている。この世界では魔術と呼ばれ、別世界では魔法と呼ばれる奇跡の技を見た時に言葉に出来ない衝撃を味わった。その一端を伝授してもらっているだけでも、ありがたいと言うのに更に新しい何かをくれるらしい。
  それが『桜ちゃんを救う』為に費やされるならば、むしろ望む所だ。断る理由など欠片もない。
  ただ、そうなると『雁夜の修行に使うアイテムじゃない』の一言が気になってくる。別世界のアイテムと言うだけで価値は計り知れず、けれど修行には関係のないアイテムとは一体何を示しているのか?
  別世界のアイテムへの不安と期待。そして喉の奥に魚の骨が引っかかったような、拭いきれない違和感を考えていると、ゴゴが振り返る。
  「ストラゴスは自分のアイテムの大半は誰にも触らせずに大事にしてたんだが、これはいらないから譲ってもらった。持たなくてもよかったんだが、貰い物を粗末に扱うのは失礼だから、結果、こっちの世界にまで持ってきてしまった」
  そう言いながら手のひらに収まる小さなモノを掲げ、そして一気に広げた。
  最初、畳まれた状態から広げられたので、風呂敷のような布製の何かかと考えた。大きな風呂敷でも、限界までたためばかなりの小ささになるので、そう思ったのだ。
  しかしゴゴが手にしたモノが広げられ、俺の頭がその正体に辿り着いた時。真っ先に考えたのはまた疑問だった。
  何だ、それは? と。
  この一ヶ月で異常事態に対する耐性はかなり鍛えられた。雷雲など全くない場所から雷が降ってくるのは当たり前。一瞬前まで単なる棒だったモノが俺を貫く槍に変化するのは普通。四肢をもった人間に見えるゴゴが野獣の牙で攻撃してくる事もあった。
  だから目の前で意表を突く何かが発生したとしても、体の動きや思考を止めたりしないように努めてきた。戦いの場での制止は死に直結するからだ。
  そうやって修行を積み重ねて来た筈なのに、目の前にあるモノは俺の鍛錬の成果を木っ端みじんに打ち砕いて呆けさせた。
  見間違いであってほしい。俺はそう願いながら一度目を瞑ってから、もう一度それをじっくり見る。だが、やはりそのアイテムはゴゴが広げた状態から全く変化していなかった。
  「まさか・・・。『それ』を俺に?」
  「そうだ」
  俺は一語一句違わずに同じ言葉で問いかけると、ゴゴもまたもう一度同じ言葉で返してきた。たが、俺の心は見る前と後とで大きく変化している。
  取り乱してはいない。
  恐ろしい訳でもない。
  ただ、意外過ぎて呆気にとられている。
  同じ言葉を繰り返してしまったのも、あまりの意外さ故に頭が理解に追いつかなかったからに違いない。
  「さあ、これを雁夜にくれてやる。ありがたく身につけろ」
  ゴゴはそう言いながらそれを広げたままゆっくりと近づいてきた。
  あれを俺が身につける? 着る? 着飾る? 同じ意味の言葉が頭の中でぐるぐると渦巻いて止まらない。
  俺は魔剣ラグナロクを構えるのも忘れ、気付かないうちに後ずさっていた。しかし、ゴゴが迫る早さは俺の速度を呆気なく上回り、すぐに壁際に追い詰められてしまう。
  弾かれた場所が階段の近くだったならば階上へと逃げられたかもしれないが、場所が悪くて階段には遠い。いっそ、壁際に幾つもある小さな穴を足場にして逃げるか?
  修行では逃げる選択肢など最初からなかった上に、呆気にとられて『逃げる為の手順』を忘れていた。その方法に辿り着くと同時に俺は魔剣ラグナロクを握りしめたまま後ろを向いて壁に手をかける。
  魔剣ラグナロクを収める為のアジャスタケースは離れた場所に置いてあるので取ってくる時間はない。
  とにかく今は逃げろ―――。自分に言い聞かせながら床を踏み出そうとした。だが、俺の体が持ちあがるよりも早く、ゴゴの手が俺の肩に置かれる。
  「雁夜、どこに行く?」
  「う・・・腕の鍛錬に、ちょっと上まで・・・」
  「その前にこれを着ろ」
  肩に置かれたゴゴの手は万力のように俺の体を蟲蔵の床に縛り付ける。引き離そうとしても、五本の指ががっちり肩に食い込んで離れない。
  そしてもう片方の手に握られたそれが俺に近づいてきた。
  ゆっくりと。
  ゆっくりと。
  ゆっくりと―――。


  「や・・・、やめろぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉ!!!」


  叫んでもそれは俺に迫る。
  離れようとしてもゴゴが俺を逃がさない。
  逃げられない!
  俺の頭の中で絶望を告げる言葉が浮かんだ。
  俺は桜ちゃんと暮らし始めてから初めて迎えるクリスマス・イヴを忘れない。クリスマスを忘れない。多分、死ぬまでずっと―――忘れないだろう。



  ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆



  Side - 遠坂桜





  目を覚ました私の隣に使い魔になったゼロがいた。ミシディアうさぎの皆がいた。間桐邸の私の部屋の天井が見えた、壁が見えた、いつもと変わらない景色が見えた。
  今日はクリスマス。
  でも雁夜おじさんとゴゴを困らせちゃいけないと思って、一言も口にしないで今日を迎えた。
  雁夜おじさんとゴゴは私の事を気にかけてくれる、優しくしてくれる、怖い事をしない。二人は私の為に一生懸命頑張って、強くなろうとしてる。
  だからわがままを言っては駄目。怒らせて見捨てられるのが怖い。二人を困らせちゃ駄目。
  だから駄目―――。
  「・・・・・・・・・」
  我慢は慣れてる。でも、私は淋しいと思ってる。もっと雁夜おじさんと遊びたい、もっと二人にかまってほしい、もっと一緒にお話がしたい。もっと―――もっと―――。
  でも私は我慢する。
  我慢しなくちゃいけない。
  覚えていないけど、きっと嫌な夢を見て、それが嫌な気持ちを呼んでるんだ。
  私は枕元にいるゼロに手を伸ばした。
  「むぐぅ!?」
  ゼロが目を開けて私の目を見つめる。
  私はいつものようにゼロを両手で抱き締める。強く、ギュッと、暖かさを確かめるように抱きしめる。
  そうしたら他のミシディアうさぎの皆が寄り添ってきた。布団から出て少し肌寒かったけど、皆の毛が暖かくてすぐに寒くなくなる。でも、帽子がちょっとちくちくして痛かった。
  「あったかい・・・」
  「むぐっ」
  小さく呟くとゼロが力強く鳴いた。
  なんて言ってるかは判らなかったけど、何となく『当然だ』と言ってる気がする。ゼロが使い魔になってから、他のミシディアうさぎの皆より言ってる事が判る気がする。
  私はもう一度ゼロを抱きしめた。
  ちょっと苦しそうなのが伝わってくる。





  私は寝間着から部屋着に着替えて部屋の外に出た。間桐邸は広いけど人が少ない、だから廊下から感じる静けさが私はあまり好きじゃない。
  遠坂の家はお手伝いさんやお姉―――。ちょっと悲しくなるからそれ以上考えるのは辞めた。
  とにかく広い家に人が少ないからどうしても寂しくなる。
  「むぐっ!」
  私が両手で抱き上げてるゼロがそう鳴くと、他のミシディアうさぎの皆が部屋から出てきてぞろぞろと付いてくる。
  きっと私が淋しくないようにゼロが気を利かせてくれてるんだと思う。後ろから『むぐむぐ』と小さく鳴き声が聞こえてきて、沢山の足音が聞こえてくる。
  ミシディアうさぎは人じゃない。でも私と一緒にいてくれる。
  少しだけ淋しくなくなった。
  廊下を歩いていると、前からゴゴがやってくるのが見えた。赤と黄色と蒼と黒、左に角があるのもいつもと一緒。昨日も一昨日もその前も見たゴゴがそこにいた。
  私が起きるとゴゴはいつもどこかで出迎えて朝の挨拶をしてくれる。廊下だったり、食堂だったり、部屋の前だったり、階段だったりするけど、いつも起きてる。
  「おはよう、桜ちゃん」
  「おはよう――ござい、ます」
  「いつまで経っても他人行儀だな。その礼儀正しさが桜ちゃんらしい」
  私は起きてるゴゴしか見た事が無い。いつ寝てるんだろう?
  私はいつも同じ格好のゴゴしか見た事が無い。別の着替えは持ってるのかな?
  この頃、そのなぞなぞを聞こうと思うけど、何だか聞いたら困らせてしまう気がして聞けてない。
  「今日は朝ご飯の前にやる事がある。ちょっと蟲蔵に来てくれ」
  「・・・・・・はい」
  蟲蔵って聞いて、私はゼロを抱く力を少しだけ強めた。あの場所は嫌い、あそこで起こった事が嫌。近づきたくない。雁夜おじさんもゴゴも酷い事をしないって判るけど、あそこが嫌い。
  そう言えば雁夜おじさんはどこかな? また寝坊してるのかな?
  いつもだったら雁夜おじさんと一緒に蟲蔵に行くけど、今日は何があるんだろう?
  私は少しだけ『クリスマス』を思いだしたけど、そんな筈はないと思い直す。だって、雁夜おじさんもゴゴもそんな事一言も言わなかったし、間桐邸は昨日まで繰り返されてきた日常と何も変わらない。
  雰囲気もいつも通りで、特別な何かが起こる気配なんて何にもない。人気のない間桐邸はいつもと一緒。
  だから違う、クリスマスなんて関係ない。じゃあ、蟲蔵には何があるの?
  ゼロを抱きしめてゴゴの後をついていく。ずっとずっと考えていたらすぐに蟲蔵についてしまい、足を踏み入ると嫌な思い出が出てきそうになるから、思いださないように我慢する。
  我慢して、考えないようにして、ただ歩く。
  痛い事をしたあの人はもういない。
  私をここに連れてきた嫌な人はもういない。
  雁夜おじさんもゴゴも痛い事も辛い事も苦しい事もしない、私が嫌がる事をしない。だから大丈夫。
  私は自分で自分にそう言い聞かせた。
  階段を降りて何もない床の上に到着する。後ろからぞろぞろとミシディアうさぎの皆が付いて来る音が聞こえた。
  「桜ちゃん」
  「はい――」
  「今日は何の日か知ってるか?」
  「え・・・?」
  ゴゴが何を言ってるのか判らなかったので、小さく返す。そうしたらゴゴは私の方を振り返りながら、もう一度同じ事を言った。
  「桜ちゃんは今日が何の日か知ってるか?」
  「・・・・・・・・・クリスマス?」
  さっきまで『そんな筈はない』と考えていたから答えるまで少し時間がかかった。他に何かあるかも考えてみたけど、やっぱりクリスマス以外に思いつかない。
  本当にこれでいいのか判らなかった。自身が無かった。どうしてゴゴがそんな事を聞いてくるのかも判らなかった。
  「その通り。12月25日――今日はクリスマスだ」
  でもゴゴは私の事なんて全く気にしないで、こっちを振り返りながら片手を上にあげた。右手をあげる格好は何だか『自由の女神』みたい。
  何をするんだろう? そう思ったら、ゴゴが魔法を唱えた。
  「ファイア」
  ゴゴの右手から小さな炎が現れて、蟲蔵の天井に向けて登っていく。ゆっくりゆっくり登って行くから、私は思わずそれを目で追う。
  ゆらゆらと揺れて炎が登る。
  ゆらゆらと動いて炎が昇る。
  ゆっくりと炎は天井の近くまで上がった。
  そして、パンッ! と小さな音を立てて散ってしまった。ずっと見ていた私は炎が破裂した時にビクッ! と震えて、ギュっとゼロを抱きしめる。
  今のは何だったんだろう? まるで何かの合図みたい。そう思ったら、蟲蔵の壁にある穴から一匹のミシディアうさぎが現れた。
  「むぐ」
  「――あれ?」
  ゼロは私が抱いてるし、他の『1』のアンから『9』のノインまで、九匹のミシディアうさぎは私の後ろにいる。じゃあ、あのミシディアうさぎは何?
  新しい謎を考えていたら、別の穴からまたミシディアうさぎが出てきた。
  「むぐむぐ?」
  「え・・・? え、ええ?」
  そっちを向いたら、別の穴からまたまたミシディアうさぎが出てきた。
  「むぐ~」
  「むぐ」
  「むぐむぐ」
  「むぐむっぐ」
  「むぐ!?」
  「むぐ~、むぐ~」
  他の穴からも沢山出てきて、気が付いたら蟲蔵の壁にある穴の全部にミシディアうさぎがいた。
  体と同じ大きさ位の金色の星を持っているミシディアうさぎがいた。
  リンゴの形をしたガラスを穴の淵に並べているミシディアうさぎがいた。
  ゴゴが撃った『ファイア』の炎をろうそくで受け止めて点すミシディアうさぎがいた。
  雪みたいに白い綿を上から垂らして床まで伸ばすミシディアうさぎがいた。
  左の壁から右の壁に縄みたいな何かを放り投げるミシディアうさぎがいた。その縄がピカピカ光っていて、電飾だって気付いたのは少し後。
  ミシディアうさぎがいた。沢山いた。どこを見てもミシディアうさぎばっかりだった。
  呆然としていたら、いつのまにか蟲蔵の中がピカピカ光っていて、にぎやかで、騒がしくて、見てるだけで楽しい場所に変わってた。
  これは何? そう思ったら、ゴゴの楽しそうな声が蟲蔵に響き渡った。


  「メリィィィィィー!! クリスマス!!!!」


  ゴゴがそう言うと、ミシディアうさぎ達が一斉に騒ぎ出して、飛び跳ねて、喜んで、持ってる物を光らせて、蟲蔵をクリスマス一色に染め上げる。
  クリスマスツリーは無いし、サンタクロースもいない。でも、今の蟲蔵はクリスマスだった。
  ほんの少し前まであった蟲蔵の暗いイメージは跡形もなく消し飛んで、右を見ても左を見ても後ろを振り返っても前を向き直しても、どこを見ても『クリスマス』がそこにある。驚いて、驚いて、驚き過ぎて、抱いていたゼロを落としそうになった。
  私がぼんやり辺りを眺めていたらゴゴがくるりと一回転しながら何かを上に投げた。思わず目で追うと、それは緑色に輝いているのが見える。
  魔石だ。それも三つ。
  私から見て、右と左と前の三方向。天井より少し低い位置に放り投げられた魔石の一つを見ていると、そこからハープを持った綺麗な女の人が現れた。
  びっくりしていると他の二つの魔石にも変化が起こり、真正面の上に投げられた魔石からは白い羽根を大きく広げた天使が―――、そして最後の一つからは水みたいに透き通った布で体の大事な部分を隠しながら、今まで感じたどんな光よりも強く暖かい光を放つ女の人がいた。この人達も綺麗。
  「わぁ・・・・・・」
  私は驚いてただ見ている事しか出来なかった。
  沢山のミシディアうさぎが作り出す『クリスマス』に驚いて、見る以外に何もできなかった。
  腕の中にいるゼロの重さも忘れて、ただあちこちを見て、見て、見て、見続けた。
  そのままどれだけ時間が経っただろう。呆気にとられていた私を引き戻してくれたのは、ゴゴの声だった。
  「桜ちゃん、間桐のクリスマスにようこそ。では最初の曲は『We Wish You a Merry Christmas』、セイレーンの音色と皆の合唱をお聞き下さい」
  「え、あ・・・あ、はい――」
  いきなりの言葉に私は頷くしかなかった。
  何が始まるの?
  尋ねるよりも前に蟲蔵の中に私の声を押し戻す音が生まれる。
  「・・・・・・」
  音を綺麗だと思ったのは初めてかもしれない、心を奪われたのも初めてかもしれない、他の何も考えられず音にだけ没頭するのも初めてかもしれない。私はその『音』が、『音楽』が聞こえてきた瞬間、何も言えずに音を出している人―――さっき魔石から出てきたハープを持った女の人に釘づけになった。
  すごくて、すごくて、ものすごくて。音しか考えられない。
  「We wish you a merry Christmas! We wish you a merry Christmas! We wish you a merry Christmas! and a Happy New Year」
  耳に届いた歌声が音楽と混じり合って新しい感動を作り出す。
  魔石から出てきた他の女の人が歌っているのか、ゴゴが歌っているのか、それともミシディアうさぎが歌っているのか、判らなかった。音楽と歌声が蟲蔵を満たしている事は判ったけど、それ以上が判らない。
  あまりにもすごくて、判らない。
  でもすごくてすごい。
  クリスマスおめでとう! 声にされない思いが伝わってくる。
  私が―――遠坂桜が蟲蔵の中に立って、周囲から聞こえてくる様々な音を聞いて、目の前にある『クリスマス』を楽しんでいると自覚した時、離れていた場所に立ってたはずのゴゴが目の前にいた。
  意味は判らなかったけど、英語の歌声を聞いていた気もする。ものすごく長い時間、聞こえてくる音に耳を傾けていた気もする。蟲蔵には時計が無いから、どれだけ没頭していたのか判らない。とりあえず正気に戻った私の前にゴゴがいただけは判った。
  そしてこう言ってきた。
  「さあ、桜ちゃんも一緒に―――」
  「え・・・え!?」
  よく判らない内に、よく判らない事を言われた。
  でも断るよりも前にもう一度歌声が聞こえてきて、止めるタイミングなんてなかった。
  「We wish you a merry christmas!」
  その言葉がどんな意味か判らない。でも、その言葉は私の心の中にしっかりと刻まれていた。
  「うー、うぃっしゅ、うにゃむにゃ、めりーくりすます」
  聞くのに没頭して、聴くのに集中して、聞いてばかりいたから耳が覚えてる、頭が覚えてる、体が覚えている、心が覚えてる。
  口を開けば音楽に合わせて私の口から歌声が現れる。
  「We wish you a merry christmas!!」
  「うぃー、うぃっしゅゆあー、メリーくりすます――」
  蟲蔵にいる皆が歌っていた、ゴゴが歌っていた、魔石から出てきた女の人が歌っていた、ミシディアうさぎの皆は『むぐむぐ』としか言ってないけど、それでも歌ってた。
  皆と一緒に歌う喜びが私を包む。皆と歌で繋がっていく一体感が生まれていく。私は楽しんでる。大声を出すなんて普段はやらないけど、歌声を大きく大きく響かせる。
  「「We wish you a merry christmas!!!」」
  私の歌声が蟲蔵の中の歌声と一つになり、別の歌声と混じり合って溶けていく。
  「and a Happy New Year――」





  何度も同じ歌を口ずさみ。くるくる回りながら歌い。時に魔石から出てきた女の人の声に耳を傾けて、音楽と楽しい雰囲気に没頭した。
  クリスマスおめでとう! おめでとう! おめでとう!
  どれだけ時間が経ったか判らないけど、不意にゴゴが手を振って、魔石で呼び出した女の人の音楽を止めた。
  「では次の曲『ジングルベル』を――。そして特別ゲストから桜ちゃんへのプレゼントをどうぞ」
  ゴゴはそう言うと、私たちが降りてきた蟲蔵の階段の方に手を向ける。そう言えばゴゴの話し方がいつもと違って聞こえる。何だか、別人みたい。
  私はゴゴの手に導かれてそっちを見ると、両手を前に出して何か持っている人影がいた。
  違った、人影じゃなかった。
  目を凝らしてよく見ると、それは大きな猫さんだった。
  二本足で立ってる猫が階段を降りてる。私よりも大きな大きな猫さんが両手に四角い箱を持って近づいて来てる。
  「ジングルベル、ジングルベル、鈴が鳴る――。鈴のリズムに光の輪が舞う」
  音は聞こえてたけど聞こえていなかった。そこにいる大きな猫さんに目を奪われて、私はずっと見続けた。
  大きな猫さんは両手に箱を持っていた。白い紙に包まれて赤いリボンでラッピングされたプレゼントが二つあった。
  私は見ていた。
  ずっと見ていた。
  「ジングルベル、ジングルベル、鈴が鳴る――。森に林に響きながら」
  歌声が途切れるのと大きな猫さんが私の前に立ったのはほぼ同時。九匹のミシディアうさぎの皆が道を空けて私と猫さんの間に道を作っていた。
  声は無くなったけど、まだ蟲蔵には音楽が鳴っている。その中で私は大きな猫さんを見上げた。
  見上げなきゃ頭が見えない。
  大きくてちょっと怖い。
  でも見られて恥ずかしいのか、猫さんが少し顔を横に背けた。その仕草がある人と重なる。
  「もしかして・・・。雁夜、おじさん?」
  それはただの思い付きだった。確証なんてない、ただそう思っただけ。
  そうしたら大きな猫さんは顔を横に背けたまま人の言葉を喋った。
  「うう。こんな姿の俺を見ないでくれ、桜ちゃん・・・」
  大きな猫さんが喋った。雁夜おじさんの言葉で喋った。私の思いつきは間違っていなかった。目の前にいるこの大きな大きな猫さんは雁夜おじさんだ。
  「どうしたの? それ・・・」
  「ゴゴに、こんな着ぐるみを――、ううう・・・」
  そう言うと、大きな猫の格好をした雁夜おじさんはうずくまってしまった。手に持っていたプレゼントを床に置きながら、膝を抱えて小さくなる。
  何だかその落ち込んでる姿がすごく可愛くって、私はゼロを抱えたまま雁夜おじさんに抱きついた。
  ただ抱き着きたくてしょうがなかった
  きっと、いつもの雁夜おじさんじゃなくて、大きな猫さんの格好をしてるからだと思う。
  「さ、桜ちゃん!?」
  うずくまる雁夜おじさんの背中に回り込んでゼロと一緒に乗っかる。
  ゼロや他のミシディアうさぎ達とはふっかふかな感触が帰って来た。ものすごくふわふわして気持ちいい。
  私は大きな猫の格好をした雁夜おじさんに向けて言う。
  「ありがとう、雁夜おじさん」
  そして顔をあげて、こっちを見ているゴゴにも言う。
  「ゴゴ。ありがとう」
  もう一度言う。
  「ありがとう」
  楽しくって、嬉しくって、気持ちよくって、面白くって、幸せ。
  私は笑った。
  心の底から笑った。



  ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆



  Side - 間桐雁夜





  蟲蔵は普段の薄暗い様子とは打って変わってクリスマス一色に染め上げられている。雰囲気だけでここが『間桐邸の地下にある蟲蔵』と判断出来る奴はおそらくいない。普段、ゴゴとの修行に使ってる俺でさえあまりの変わりように『ここはどこだ?』と疑ってしまったのだから。
  そもそも蟲が一匹もいない。
  今の俺はゴゴから渡された―――、いや、強制的に着せられた『ゴロネコスーツ』で、二本足で立つ大きな猫の姿になっている。
  単に猫を巨大化させただけなら不気味なのだが、この『ゴロネコスーツ』は不気味さと可愛さの微妙なラインの上を立っており、『ゴロネコスーツ』を着た後に鏡を見た俺は『誰だっ!?』と思わず叫んでしまった。
  大きくなっても猫が持つ可愛らしさを保ち、加えて毛深い動物特有のふかふかした感触もちゃんと備えている。
  正直、こんな猫の着ぐるみを持っているゴゴの仲間の正気を疑ったが、かなりの完成度の高さで、一目で着ぐるみだと看破出来る奴はいないだろう。これ一つだけでも一財産築けるんじゃないかと思えてくる。
  「お前はゴロネコスーツを着てるだけだ、本当に装備出来る奴ならどんな毒でも無効にして、決して中身が人であるのを悟らせない。お前の未熟さが浮き彫りになったな、雁夜」
  と、ゴゴは言っていたが、俺は正直でかいだけの猫はただ不気味だと思う。
  中に人が入っていると思わせる着ぐるみ程度の印象であればそれでいいんだ。猫は人よりも小さいから可愛く思えるので、大きければそれは肉食獣で同じネコ科の虎、ヒョウ、ジャガーと変わらない。
  しかし桜ちゃんが喜んでくれるならそれでいい。装備出来ずにただ着てるだけでも構わない。
  そう自分で納得しなければ今の状況に押しつぶされそうだった。
  とにかく『クリスマス。サンタの代わりに猫がプレゼントを運ぶ』というサプライズイベントに強制的に巻き込まれた俺は、ゴゴが用意したプレゼントを桜ちゃんに手渡した。
  いきなり現れた大きな猫に泣き叫ぶんじゃないかと心配になったが、桜ちゃんはすぐにこの猫が俺だと気付いてくれた。嬉しくもあり、猫の姿をやらされている俺は複雑な心境である。
  俺とゴゴ、大量のミシディアうさぎ、そしてゴゴがクリスマスの為だけに魔石から呼び出して合唱隊に仕立て上げている幻獣達に見守られる中、桜ちゃんは二つのプレゼントを開けた。
  箱から出てきたのは二つのアイテム。これもゴゴが『ゴロネコスーツ』と同じように別世界からこの世界に持ち込んだアイテムらしいのだが、正直、俺はそれを見た時に『これをお前が持ってたのか?』と強い疑問を抱いた。
  何だか、昨日から謎に振り回されてばかりだ。
  一つは長さが三十センチほどで先端に白い球が付いた杖だった。後で知る事になるのだが、それは『ヒールロッド』という武器で、攻撃した相手の体力を回復する効果がある。
  桜ちゃんが振り回して誰かにぶつかったとしても、その相手を傷つけずに逆に癒してしまう。何ともおかしな道具だ。
  そしてもう一つは白一色のマントを短くした物―――桜ちゃんの体型に合わせると足まで隠れてしまうので、大人から見るとそれは『ケープ』なのだが、桜ちゃんにとっては『クローク』になる。
  楽しげにそれを着たままくるくる回る姿は見ているだけでも嬉しさがこみ上げてきたが、白さからてるてる坊主みたいだと思ったのは絶対に秘密だ。桜ちゃんに知られれば怒りを買うのは間違いない。
  そのもう一つのアイテムは『ホワイトケープ』と呼ばれ、特定のステータス異常を緩和して防御力や魔術による耐性を高める効果があるらしい。
  使い魔のゼロ、魔法使いの杖、そして白いマント。何だか桜ちゃんが着々と魔法少女への道を突き進んでいる気がするのは気のせいだろうか? 見た目だけの遊びならば問題ないんだが、桜ちゃんには魔術師としての才能が十分あり、しかも身につけているのは魔術的なアイテムだ。
  子供のおもちゃにしてはあまりにも上等過ぎる。
  喜んでいる桜ちゃんに水を差すのは悪いので口にしないが、桜ちゃんには魔術と関わってほしくないと願っている俺としては、あまり喜ばしい状況ではない。
  今日は見逃して、明日以降の桜ちゃんとの接し方を考えなければならない。そう思いつつ別の事に意識を割いて、プレゼントを用意したゴゴの事を考える。
  お前にはこのアイテムいらないだろ! それが俺の抱いたゴゴへの疑問だった。
  圧倒的な魔術で回復どころか蘇生も行えるゴゴには『ヒールロッド』は不必要。そして『ホワイトケープ』もサーカスのピエロを思わせるゴゴがつけても着膨れして不格好なだけだ。むしろ今着ている色彩豊かな衣装こそがケープだと思う。
  何でお前はこんなアイテムを持ち歩いてたんだ? そう思いながら、俺は更に考え続ける。
  そう言えば――そもそもゴゴはこれらアイテムをどこに持っていた?
  俺が最初にゴゴに出会った時、持ち運ぶような手荷物は何一つ持っていなかった。持ち運べるなら精々ポケットに入る位の小さい物に限られる。
  俺が今着ている『ゴロネコスーツ』も謎だ。最初は手のひらに収まる位の小さな塊だったのに、広げてみれば俺の全身を包めるぐらいの巨大な着ぐるみになった。物理的におかしくないか?
  羽毛が痛むから絶対にやってはいけない手法だが、羽毛布団を圧縮袋にいれて圧縮すればかなりの小ささになる。
  しかしそれでも『かなり』であって、手のひらサイズまで小さくなる訳じゃない。広げられた『ゴロネコスーツ』の毛並みは丸めていたのが嘘のようにふかふかだったし、縮めていたら絶対に付く筈の折り目もなかった。
  おかしい・・・。何かがおかしい。
  それを尋ねたい強烈な衝動に駆られたが、桜ちゃんが喜んでくれるならばそれでもいいかと思って、意識から外す。
  もし聞いて『異空間に圧縮して物理接点のみこっちの世界に置いている。必要に応じて異空間から取り出して使う』なんて言われたら、またゴゴの不条理さに驚かされて屈服してしまいそうだ。
  何度も何度も驚かされ続けるのは勘弁してもらいたい。知りたい気持ちはあるが、望んで驚かされるつもりはない。
  だから俺は聞かない。聞けるとしたら、驚きに耐性が出来てからだ。魔剣ラグナロクを自由に扱えるようになって、どんな異常事態でも対処できるぐらいになったらその時に改めて訊くとしよう。
  「どうした雁夜、気力がなえてるぞ」
  「・・・・・・こんな格好にもなれば、やる気も無くなる」
  色々考えているとゴゴが話しかけてきた。俺は内心の葛藤と疑惑を力ずくで押し戻して応対する。
  事実、いきなり着せられた猫に精神的な疲れを感じていたのも確かなので、口から出まかせでもない。
  ここでゴゴから気遣う言葉が出てこないのはいつもの事。そして驚きの耐性をつけようとしている俺に対して、突拍子もない事を言い出すのもいつもの事だ。
  「しばらく騒いで昼食を終えたら雪山に遊びに行く予定だ。既に上にはクリスマスケーキと七面鳥を準備済み。誰も邪魔がいない雪山に『雪だるまロンド』で移動するぞ。桜ちゃんの防寒具は準備してあるが、そこで雁夜は寒さに耐える訓練をするからそのまま猫の格好で行くぞ」
  「はぁ!?」
  「クリスマスをただ祝って終わらせる筈がないだろう。凍死したくなかったら不慣れな『ファイア』を唱え続けて暖を取れ、これも修行だ。子供用のそり以外にもスキー板とスノーボードを用意してある、余裕が出来たら凍りつかない程度に遊べ」
  そう矢継ぎ早に言うと、ゴゴは桜ちゃん所へと移動した。
  桜ちゃんの足元にいるミシディアうさぎの最初は蟲蔵の変わりように面食らっていたようだが、今は壁の穴から現れた同類―――ゴゴがまた呼び出した101匹ミシディアうさぎと一緒になってむぐむぐ言いながら歌ったり踊ったりしている。
  桜ちゃんはホワイトケープを翻し、ヒールロッドを振り回しながら一緒に踊ってる。
  次の曲は『もろびとこぞりて』だった。ゴゴが腕を振るうと曲が変わって歌が蟲蔵の中を満たしていく。
  耳を澄ますと、どう聞いてもゴゴの肉声とは違う別人の声が聞こえてきたので、ゴゴがテレビかラジオで仕入れた声を物真似してるのだろう。今更、声帯模写程度では驚かないので、それ以外の事に目を向ける。
  歌の一節、『主は来ませり』。訳すと『神様はおいでになりました』になるが、別世界で三闘神を生み出した神と言ってもおかしくないゴゴが歌うのはおかしくないか? 自分が来たと歌ってるようなものだぞ。
  『桜ちゃんを救う』俺の願いを物真似してる、ものまね士ゴゴ。俺はお前の事を判っていなかった。
  救うと豪語したお前が祝い事に無関心の筈が無かった。むしろ、これ幸いとばかりに騒ぐんだな、今の状況を見れば嫌になるほどよく判るよ。
  でも。これはちょっとやりすぎじゃないか?
  桜ちゃんは楽しそうに笑って嬉しそうにしてるからいいと思うが、この蟲蔵の様子を俺たち以外の魔術師が―――いや、一般人が見たとしても卒倒するかもしれない。
  お前が、歌を歌って場をにぎわせる為に伴奏を呼んだな。魔石を使って幻獣を呼んだな。あれは確か『セイレーン』だな、修行で二回ほど見掛けたから覚えてるぞ。
  今は音楽を鳴らすのに忙しくてそれしかやってないが、あのハープから奏でられる音色が敵対する術者の魔術を全て封じる効果があるのを俺は知ってるぞ。
  蟲蔵が薄暗い上に、電源を引っ張ってきて準備する時間が少ないから、これまた魔石を使って幻獣を呼んだな。天井の辺りに浮遊して光を生み出してるのは『セラフィム』だったな。
  天使だぞ天使―――。背中に作り物の羽根をつけた紛い物じゃない、本物の天使だ。
  蟲蔵の中を騒がしくも清らかな場にする為に別の魔石で幻獣を呼んだな。壁際で神々しく輝いてる幻獣は『ラクシュミ』だったな。
  セラフィムと同じように魔石を使った術者の味方の体力を回復する効果が合った筈だ。
  セラフィムで十分すぎる程回復されているから、俺も桜ちゃんも回復できる上限まで到達してる。むしろ回復過多でちょっと気分が悪いぞ。
  桜ちゃん、知らないってことは時に幸せなんだね。
  俺の拙い知識でも判る、判ってしまう。ゴゴが呼び出せる幻獣に限定されるけど、伝聞で残る知識だけなら俺でも色々と判ってしまう。
  俺は思った。ここは普通の人間が立ち入っていい場所じゃない―――、と。
  ギリシア神話に出てくる伝説の生き物。キリスト教やユダヤ教の熾天使。その上に、ヒンドゥー教の女神だと!?
  世界の至る所から引っ張って来たごちゃ混ぜは何だ。この混沌をどう説明したらいい。ゴゴが呼びだした幻獣だって判っていても、目の前に降臨した奇跡の数々は何だ!?
  もしここに敬虔な信徒がいたら、奇跡の大安売りに卒倒するかショック死してもおかしくないぞ。
  違うぞ桜ちゃん。断じてこれは『普通の家庭の楽しいクリスマス』なんかじゃない、魔術師の家系だってここまでやる奴はいない。嬉しそうに笑ってくれるのはいい、喜んでくれるのはいい。
  ホワイトケープはてるてる坊主みたいだけど似合ってるよ。ヒールロッドを楽しそうに振り回す姿は可愛いね。
  でも、これが普通だと思うのはやめてくれ。
  こんな、世界の大富豪でも味わえないような奇跡の連発を『普通』の尺度だと思わないでくれ。これが普通のレベルだと思って成長したら、確実に不幸になるぞ、桜ちゃん。
  普通のクリスマスはもっと小規模だよ。
  天使もいないし、神様もいないし、家族で楽しんだり仲間内で楽しむのが普通なんだよ。
  そりゃあ仮装して天使の格好する奴はいるかもしれない。けど、天使も神も本物なんて出てこないんだよ。空想だよ、幻だよ。
  今のところは予定だけど雪山に旅行に行く場合は普通にある。だけど、わざわざ固有結界を使って貸切の雪山に行くなんて普通じゃないんだよ。
  判ってくれ桜ちゃん。これは普通じゃない、普通じゃない!!
  ゴゴが現れて俺たちは色々な意味で救われた。ゴゴはまだ『桜ちゃんを救う』ために色々とやって、ゴゴなりの『救い』を完遂しようとしているが、今の状態でも色々な事が救われたと思ってる、少なくとも俺はそう考える。臓硯がいなくなって桜ちゃんが笑ってくれているのは俺にとっての救いだ。
  でもこれはやり過ぎだ。下手をすると、今の桜ちゃんは救われ過ぎて不幸になりかねない。そこいらの魔術師より一般常識から離れて育つのは決して良いとは思えない。魔術師の家と、表の世界に生きる普通の人間の家の両方を知ってる俺だから判る。
  これからも俺は桜ちゃんと一緒にゴゴに驚かされるだろう。だから俺は桜ちゃんに『普通』を教えよう―――、そう硬く心に誓う。
  だが、余所から見ると今の俺は二足歩行する人間大のネコにしか見えないのでシリアスが似合わない。
  桜ちゃんを喜ばせる為にクリスマスの準備なんて何もできなかったし、俺、格好悪いな。
  「にゃあ・・・」
  何となく鳴いた。



[31538] 第7話 『間桐雁夜は英霊を召喚する』
Name: マンガ男◆da666e53 ID:ac86df83
Date: 2012/07/14 00:36
  第7話 『間桐雁夜は英霊を召喚する』



  ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆



  Side - 間桐雁夜





  魔術師は表の世界に流通する大勢の大衆が手にいられる技術よりも裏の世界に闊歩する魔術を選択する場合がほとんどだ。新たに生まれ世の中に溶け込んでいく技術を軽視していると言ってもよい。
  それは魔術師の属する裏の世界が表に比べて数倍も抜きん出ているからに他ならず、一般人の常識では夢物語のような話でも、魔術師たちにとっては常識といっても良いことが山のようにあふれているからだ。わざわざ不便な方法を選ぶ者は表の世界でも裏の世界でも少数に違いない。
  間桐邸は魔術師としての例に漏れず、調度品や内装、器具の一つ一つを見れば時代がかった物が多く、魔力がこめられた品も珍しくない。
  しかし他の魔術師の家系に比べれば、そう言った『魔術に伝来する品物』というのは間桐邸にはあまり無い。他の家と細かに比較したわけではないが、雁夜はそう思っている。何故か? それは間桐の実質的支配者であった臓硯が『蟲使い』の魔術師であり、魔術の探求に対する道具の使用が極端に少ないからだ。
  何か作業を行う場合、臓硯は道具よりも先に蟲を使って結果を生み出す。もちろん全てを間桐の蟲で補える訳も無いので、必要に迫られれば臓硯も魔術の道具を扱っただろうが、他の魔術師に比べれば使用回数は激減する。それが間桐邸に魔術師としての道具が少ない理由となる。
  逆に考えれば、間桐臓硯あってこその間桐の魔術であり、あの人外の化け物が間桐の魔術そのものと言っても過言ではない。
  そして、他の魔術師の家に比べれば世の中に出回る技術の多くを間桐に持ち込んでいるのも紛れも無い事実だ。それは今はいない鶴野の部屋のコンピューターが証明している。
  一年前、雁夜はなんとも魔術師らしからぬ道具を持ち込んだな、と臓硯の行動を怪しんだが。今では、臓硯が外を出歩くのをできるだけ止めて外界の情報を得ようとしたのではないかと考えている。
  臓硯は他人の体をのっとって我が物にする外法の使い手だ。冬木で何人もの行方不明者が続出すれば、それだけ神秘の秘匿が行えなくなる危険を孕む。だから獲物を物色する為にわざわざ魔術師らしからぬ表の世界の技術を取り入れたのではないかと考えている。ただ、それも臓硯亡き今となって考えるだけ無駄な話なので、雁夜は臓硯の思惑をそれ以上考えないようにした。
  古き魔術と新しい技術の混在。その点で言えば、臓硯の造り上げてきた間桐の魔術も、雁夜がこの一年で形にしてきた新しい魔術形態も大差はない。
  「・・・・・・・・・」
  雁夜は蟲蔵の床にうつぶせになって倒れこみながら、薄暗い蟲蔵と石造りの床、そして自分の手の甲に刻まれた令呪を視界に納めながら過去を振り返る。
  今の間桐雁夜は戦士であり殉教者であり愚者であり罪人であり、聖杯戦争の参加資格を得た魔術師だ。
  だからなのだろうか、自分の立ち位置を考えればどうしても付きまとう戸籍上だけの父親のことを思い出し、それが間桐の魔術にまで至るのは―――。
  それは感傷なのかもしれない。
  または郷愁なのかもしれない。
  かつての間桐を心の底から嫌悪していたが、それでも雁夜自身気づかなかった想いがどこかにあったのかもしれない。今更それを想った所で、何かが変わるわけではない。臓硯はすでにいないし、臓硯が体現していた間桐の魔術はもうこの世のどこにも存在しない。
  今だ蟲蔵の名を使っているここも薄暗さと造りと閉塞感は一年前からまったく変わっていないが、間桐の蟲はもう存在しないし、淀んだ沼の様な腐臭もしない。固有結界によって生み出されたここではないどこかの雪山、そこで白く大量の雪に覆い隠されてしまったのだから。
  あの雪山に時間経過が存在するかは不明だが、一年も前の話なのですでに間桐の蟲は腐るかミイラ化するか土壌の養分になってしまったのだろう。
  ただそれを確かめる気は雁夜には無い。
  もう終わってしまった事を意識しないように忘れ去った。
  「ギリギリ間に合ったではないか。聖杯に選ばれたという事は貴様もそれなりの術者と認められたという事、ひとまずは褒めて取らすぞ雁夜」
  「・・・・・・・・・」
  「じゃがな。無様な姿よの」
  蟲蔵の床に寝転がっていた雁夜の耳が自分のものではない別人の声を拾う。とっさに起き上がって臨戦態勢を作り出そうとするが、その声に聞き覚えがあったのですぐに取り消した。
  いちいち応対するよりも今は体力を取り戻すほうを優先させなければならない。それでも頭だけを動かして、声がする方向―――地下にある蟲蔵にやってくるための階段へと視線をやる。
  そこには人影があった。
  階段を一歩一歩下ってくる誰かがいた。
  雁夜を侮蔑するような口ぶりについ反抗心が芽生えそうになるが、雁夜はこの一年でそれが見せかけであり演技であり遊んでいるだけだと思い知った。
  普段ならばそれに付き合うのもやぶさかではないが、今は付き合えるほどの体力は無い。少し前まで聖杯戦争に備えた最後の鍛錬と称して、体の中にある全ての力を絞りつくしていたのだ。
  ただし喋られる位の体力はすでに戻っていたので、冷めた目で淡々とその人影に向けて話す。床に寝転がりながらだったのであまり見られた格好ではないと思った。
  「何だその喋り方は」
  「いや、あの蟲爺が生きていたらこんな風に話すんじゃないかと思ってな。さすがの俺も消えた存在の物真似は難しいから、色々試したんだが、似てるか?」
  「一瞬。臓硯が蘇って突っ立ってるんじゃないかと本気で思ったぞ」
  「それは何より。だが、こんなのは見せ掛けだけの児戯で『ものまね』じゃない。これ以上やると気分が悪くなるから止めておこう」
  だったらやるな! と雁夜は言いたくなったが、言ったところで自分を見下ろす人物は決して自分のペースを崩さないと知っている。だから文句はそのまま自分の中に戻した。
  雁夜の視線の先には色彩豊かな塊があり、黄色やら青やら赤やら黒やらが人の形を成して歩いていた。
  名をものまね士ゴゴ。一年前にこの間桐の蟲蔵に突然現れて、臓硯を滅ぼし、雁夜の『桜ちゃんを救う』という決意をそのまま物真似して居座り続けた雁夜の師匠だ。
  雁夜は魔石というとんでもない品を使ってこの一年多くの技を身につけた。ゴゴという超常の存在が目の前にい続けたので、自分が最強だなどと言うつもりは無いが、それでも戦闘者としてはそれなりの力を得たと思っている。
  桜ちゃんを救いたいと願った自分の決意。ものまね士ゴゴが授けた魔石の力。強くならなければゴゴに殺されていた可能性が非常に高い一年。事実、何度か死んで蘇った一年。遠坂の家に帰す目的があっても、この一年、ずっとそばにいてくれた桜ちゃんの存在。それらが良い方向に絡み合って雁夜を強さの高みへと昇華させた。
  雁夜は痛む体を無視して起こすと、見下ろしてくるゴゴの視線と自分の視線をぶつけ合う。
  一年も同じ釜の飯を食ってきた仲だが、今だに目元以外のゴゴの地肌を見たことが無い。雁夜はふとそんなことを考える。
  「それで何の用だ? 今日の鍛錬はもう終わってるだろう?」
  「あの蟲爺の遺物を色々漁って、ようやく手に入れた聖遺物のことを話しにきた」
  「聖遺物・・・。サーヴァント召還の触媒か――」
  「そうだ。この英霊の強さなら雁夜も納得する。そして、もし期待通りの能力を持っているとしたら、俺にとっても有益な英霊だ」
  「お前がか?」
  雁夜が知る限り、この一年、ゴゴはものまね士として何かを求めたことが無い。あるいは雁夜が知らぬ所で色々と得ていたのかもしれないが、雁夜の前でそれを言葉にしたのはこれが初めてだ。
  多分―――。
  色々あり過ぎて雁夜が忘れてるだけかもしれないが、とにかく思ってもみなかった言葉に雁夜は小さく驚く。
  基本的にものまね士ゴゴは目に付くもの、肌で感じるもの、この世にあるモノ、それら全てを物真似して自分のモノにしてしまう。だから何かを欲したことなど一度も見たことが無い。
  ゴゴ自身気づいていないのかもしれないが、雁夜に聞かせるほどワクワクしているとしたらそれも納得できた。
  雁夜は自分に呼び出させようとしている英霊が何なのか非常に気になった。それは聖杯戦争を破壊しようと語った存在が、前言撤回するほどの意味あるモノなのだから―――。
  「お前がそこまで言う英霊・・・・・・。いったい誰の聖遺物を用意したんだ?」
  「それは――」


  「雁夜おじさん!!」


  ゴゴが聖遺物の事と英霊に関することを口にしようとしたまさにその瞬間、蟲蔵の入り口から大きな声が聞こえてきたゴゴと雁夜の話を分断した。
  おそらくそれが囁き声であったとしても聞き間違えないだろう。
  この一年、間桐邸の中で雁夜が最も気にしてきた声だ。雁夜は一瞬も必要とせずにそれが誰の声であるかを聞き分け、遠坂桜のものだと結論付ける。
  桜の前では無様な姿は見せられない。雁夜はこの一年で学んだ技術よりもむしろ心の在り方を強く意識して、傷を癒して体力をある程度回復させる魔術を行使する。
  「ケアル――」
  間桐邸に戻る前は考えもしなかった魔術。しかもそれが間桐の魔術とまったく関係ないモノであれば想像する事すら不可能だった。けれど雁夜はこうしてこの世界の魔術体系とは似て否なる技術を自分の中に取り込んだ。
  ほんの少しだけ体を癒すこの魔術だけでは全快には程遠い。それでも階段を下りてくる桜を前に、しっかりと二本の足で立てる位には回復させられる。
  彼女が雁夜とゴゴの元にたどり着いた時。雁夜はちゃんと立って、床に倒れこんでいた事実をなかった事にする。
  ミシディアうさぎの群れが、桜の後ろにつき従っており、喧しい足音を奏でながら雁夜の元にやってきた。
  「やあ、桜ちゃん」
  「雁夜おじさん」
  まだ話している途中で、ゴゴの口から英霊のことが聞けなかったので残念に思えた。しかし話すだけなら後でも出来るし、雁夜にとって優先すべきは他の何よりも桜だ。
  まだ少し痛む体を笑顔で包み隠し、何事もなかったかのように振舞う。そして桜の服装が普段とは異なることに気がついた。
  黒髪を小さくまとめたリボンはいつもと一緒なのだが、首から下の服装はこれまで見たことのないものだった。
  袖の無い白地のシャツ、お腹の辺り英単語の『V』に似た紺色に近い青色の太いラインが走っており、丈の短いスカートは桜の膝を丸見えにしている。極めつけは桜が両手に持っている、俗に『ポンポン』と呼ばれる応援器具だ。ちなみに色は黄色。
  工作道具で作ったらしく、本物に比べれば完成度の点においてかなり劣る代物だったが、子供の桜の手にあると『拙いながらも必死に作った』という目に見えない何かが伝わってくる。
  初めて見る桜の姿にチアガールを真っ先に思い浮かべる雁夜だが、今の桜を見た誰もがそう思うに違いない。
  「桜ちゃん・・・その格好」
  「似合う?」
  「あ、ああ――。とっても可愛いよ」
  ほほを赤らめながら話す姿は臓硯がいなくなってから今日に至るまでの一年間で培われたものだ。まだ引っ込み思案な部分が時々見えるし、初対面の人に対しては言葉少なくなるのは昔と変わらない。しかし、雁夜には慣れがあり、まるで家族のように接してくれる。
  感情を宿さず、人形のように雁夜を見ていたかつての目が嘘の様だ。その姿が嬉しくて、雁夜は口元に浮かべた笑みをさらに深くした。
  ずっと桜の嬉しそうな顔を見ていたい衝動にかられたが、その暖かさを横から飛んできた声が無残に消し飛ばした。


  「整列!!」


  「むぐ」
  「むぐむぐ?」
  「むぐ~」
  「むぐむぐむぐむぐ」


  無遠慮に雁夜の心地よさに水を差したのは桜の声ではなかった。何を思ったのか、雁夜の前に立っていたゴゴが蟲蔵の中を満たす大声を発したのだ。
  それが何の意味を持って放たれた言葉なのかは雁夜には判らなかった。咄嗟に『何だ?』と疑問を問いかけようとしたが、その前に雁夜を除く全ての者達が行動を開始する。
  整列と言い放ったゴゴは横にずれて雁夜と桜の間に空間を作り、桜は両足を揃えてきちんと立って、桜の後ろで控えていたミシディアうさぎは横一列に並んだ。明らかに雁夜以外の全員が示し合わせていた。
  雁夜は何が起こるのか不思議に思いつつ、渦中にいるのが目の前にいる桜だと知って止めなかった。
  何かは判らない。けれど桜が何かしようとしているのならば、それで雁夜が止める理由は消える。それだけで十分だ。
  雁夜は視線を桜に向けたままジッと見つめる。すると視線から外れて横に移動していたゴゴが再び声を出した。


  「間桐雁夜の英霊召喚成功を祈って――!! 三・三・七拍子!!!」


  ピッピッピ、ピッピッピ、ピッピッピッピッピッピッピ


  覆い隠されたゴゴの口元からホイッスルの軽快なリズムが聞こえてきた。
  いつの間に用意したのか。あるいは、この音すらも物真似して出しているのか? ありえない音の出現に雁夜の頭が疑問で多い尽くされそうになるが、桜の姿を見てすぐ忘れた。
  なんと、桜はゴゴが鳴らしたホイッスルに合わせ、手に持った右手のポンポンを下から上へ、左手のポンポンも下から上へ。そして七拍子に部分で両手で円を描くように動かしたのだ。
  桜の動きに合わせて、彼女の後ろに並んでいたミシディアうさぎの群れが飛び跳ねて蟲蔵の床を鳴らす。ただしミシディアうさぎは桜でも持ち上げられる程に軽く、必死で足音で三・三・七拍子を鳴らそうとしているのだが。ふに、ふに、ふに、と耳を澄ましても小さな音しか聞こえなかった。これでは飛び跳ねた時に出るマントの衣擦れの音のほうがよほど大きい。
  雁夜は桜の動きを見つめながら、いつも桜の腕に抱かれている特別な一匹を探した。すると、視界の隅に映るそいつはいつの間にかゴゴの横に並んでいてミシディアうさぎの群れを見つめていたのだ。雁夜からは青いマントを羽織っている背中ばかりが見えるが、何となく目で威圧して指揮を執っているように思える。


  ピッピッピ、ピッピッピ、ピッピッピッピッピッピッピ


  ピッピッピ、ピッピッピ、ピッピッピッピッピッピッピ


  ワァァァァァァァァァァァァ!!!


  大観衆の声に聞こえる『物真似の音』がゴゴの方から聞こえてきたが、雁夜の視線は二つのポンポンを上に掲げて揺らす桜に固定されたままだ。
  いきなりの出来事に面食らっているといってもよく。驚き半分、困惑半分、疑問を桜へと投げかける。
  「桜ちゃん? これは一体・・・」
  「雁夜おじさんが、大変な事をするって聞いたから・・・その・・・。応援しようって、思って・・・」
  「そう、なの? ・・・応援してくれてありがとう、元気が出たよ」
  お礼を言われてポンポンで恥ずかしそうに口元を隠す桜は非常に可愛らしかった。そしてその笑みは雁夜の記憶に刻まれたある女性の顔を思い出させる。
  その女性は桜の実の母であり、遠坂に嫁いだ葵その人だ。
  やはり桜は葵の娘であり、雁夜が想っていた女性の血を継いでいる。改めてその事実を思い知りながらも、雁夜はそれ以上、何かの想いを抱くことはなかった。
  罪悪感はあったが強く思うほどではない。かつては葵の姿に心を震わせていたが、今は驚くほどに平静だ。
  あえて言うならば、『桜ちゃんを救う』という決意が脳裏に宿り。そうしなければならない、と再認識するのが一番強い。
  桜ちゃんの可愛さの前に他のモノが霞んでいく。
  「ところで桜ちゃん。その格好は・・・」
  「これ? 雁夜おじさんを応援するって相談したら、『応援するならこれしかない!』って教わって――」
  「ほほう」
  桜が横目でゴゴの方を見たので、それだけで桜に応援する格好を吹き込んだのが誰かが判った。
  確かにチアガールは誰かを応援する格好としては適切であり、スポーツなどで観客席でこういう格好をした人たちが並ぶのは雁夜でも知っている。しかし、少し飛び跳ねれば下着が見えてしまいそうな裾の短さはどうにかならなかったのだろうか。
  桜には寒色よりも暖色系の服のほうが似合う。ポンポンの色にしても黄色より、女の子らしいピンクの方が『桜』の名のもじって似合うだろう。
  雁夜は父性にも似た保護者意識を発揮しながらゴゴに向かう。入れ違いにゴゴの足元にいたミシディアうさぎが桜の胸元めがけてジャンプしていたが、雁夜の意識には残らなかった。
  「お前の入知恵か?」
  「そうだ。良かったな雁夜、桜ちゃんが応援してくれて」
  「ああ。良かった――、本当に良かったよ」
  色々と言いたいことがあったので可能ならばゴゴに言いたかったが、桜の目の前で口喧嘩を始めれば彼女の心遣いに水を差してしまう。
  だから雁夜はそれ以上の文句を続けられず、精々『何で教えなかったこの野郎』と敵意を織り交ぜながら、桜に見えないようにゴゴを睨むのが精一杯だった。
  それでも告げた言葉に嘘はない。とても聖杯戦争を―――殺し合いをしようとしている様には見えない朗らかな光景だが、桜の楽しげな姿を見て喜びを感じたのは紛れもない事実だ。
  たとえ、ゴゴが画策し。桜の為を考慮して準備した遊戯で。雁夜に内緒で進められたとしても。桜の笑顔が見られれば、雁夜にはそれでよかった。
  振り返れば、『やったね、みんな!』と輪を作って取り囲むミシディアうさぎの一匹一匹に話しかける桜がいる。それに比べれば雁夜が感じた疎外感と理不尽な怒りなどゴミ屑以下である。
  桜が笑顔なら、幸せなら、楽しそうなら、喜んでいるならば、それでいい。
  「良かったよ・・・・・・。本当に――」
  「そうか」
  雁夜はもう一度同じ言葉を繰り返した。





  桜からの激励によって、雁夜は心身ともに復活を果たした。精神的な面ではまだ完全に復活してるとは言い難いが、それでもゴゴと相対して話すには問題無い。
  地下の蟲蔵は話をするには不向きな場所なので、雁夜への私室へと移動した二人は聖杯戦争についての話し合いを再開する。なお、桜にはまだ聞かせられない話もあるので、チアガールの衣装から着替えさせるという名目で離れてもらっている状態だ。今頃はミシディアうさぎ達がここに桜が来ないよう足止めしている筈だ。
  「さて、雁夜が聖杯戦争に参加するに辺り、事前情報を幾つか入手したから教えておこう」
  「手短に教えてくれ」
  「今のところ判明しているマスターの情報だ。さすがに外来の魔術師に関しては調査しきれなかったが、御三家を中心にしたマスターの情報は入手できた」
  そう言ってゴゴが差し出してきたのは、どこにでもある白い印刷紙にゴシック体で書かれた文字の羅列だった。おそらくパソコンに付属のプリンターで印字したのだろうが、この超常現象がそのまま人の形に具現化している存在が、文明の利器を使いこなしている事実は何とも不可解だ。
  ついでに言えば、雁夜が知る限りゴゴの移動範囲は雁夜のそれと大差はなく。基本的に桜を中心に形成されている。
  外では間桐臓硯として振る舞っているとしても、ゴゴは本当の意味では間桐臓硯ではない。それなのに、始まりの御三家の情報でも聖杯戦争のマスターに関する情報を得られるとはどんな手段を使ったのだろう。少なくとも雁夜にはそんな事は出来ない。
  表の世界に生きる者たちならば探偵などを雇って調査させたと考えるのが普通だが。裏の世界に生きる魔術師にはその『普通』が通用しない。
  さらに加えれば、蟲蔵で聞いた『聖遺物の準備』も伝手もコネも無いゴゴには不可能の筈。雁夜と桜が寝静まった夜間に色々と行動して得た可能性もあるが、それでも限度がある。しかし疑問を話したところで、すでに事実として目の前に存在している以上、考えても意味はなかった。
  ゴゴの非常識ぶりはこの一年で嫌というほど味わったので、まず目の前にある事実を受け入れる事こそ重要だ。雁夜には予想すら出来ないとんでもない方法で情報や品物を手に入れている可能性もあるのだから―――。
  雁夜は意識を切り替え、ありのままの事実を受け入れようとする。
  「俺以外のマスターか・・・。まさかお前がマスターに選ばれるなんて冗談は言わないよな」
  「ある訳ないだろう。聖杯戦争のマスターに選ばれるのは『魔術師』であり『人間』だ」
  「そうだな」
  人の形に似ているが、ものまね士ゴゴの本質はこの世界でいう『神霊』に近い。だから、聖杯戦争のマスターになる訳が無い。雁夜はゴゴが得た情報の異常さと自分の中の常識を少しずつすり合わせて、目の前の事実を受け入れようとしていった。
  この一年で雁夜が学んだ諦観により、紙片を受け取った時にはもう気持ちは落ち着いており、ゴゴがどうやって他のマスターの情報を得たのかは気にしなくなっていた。
  「言峰綺礼・・・? 聞いたことのない名前だな」
  二十枚はありそうな紙を一枚ずつめくり、そこに書かれている記述を読み進めていく雁夜だったが、そこに書かれた人物の名に心当たりは全くない。どうやら魔術師の世界では有名な者らしいが、十年以上魔術とは疎遠になっていた雁夜には知る由もなかった。
  ただし、次に出てきた名前は聖杯戦争のマスターとして調査する以前から知っていた男だったので、雁夜は憎悪を込めてその名を呼ぶ。
  「遠坂・・・時臣――!!」
  やはりと言うべきか、遠坂時臣は今代の遠坂の当主として聖杯戦争に参加するようだ。
  間桐のように零落した訳ではないので、始まりの御三家である遠坂が参加しない訳が無い。ある意味想像通りの展開なのだが、予測通りの流れに雁夜が抱いた思いは歓喜ではなく憎悪だった。
  気付かぬ内に紙を握りしめる手に力がこもり、魔剣ラグナロクを扱う為に鍛えた腕と握力が握っただけで紙に亀裂を刻んでいく。
  一年の鍛錬と桜と接する事でかつての自分とは色々変わってしまった。しかし、遠坂時臣への怒りは色褪せることなく今も雁夜の中に業火として燃え続けたままだ。
  『桜ちゃんを救う』という願いを常に抱きながら、同時に『遠坂時臣を許さない』と考え続けてきた。娘である桜が父親の死を喜ぶ筈は無い、だから殺してはならないと納得はしても、胸の内から湧き出でる激情に染まってしまう。
  「怒るのは勝手だが、戦っても殺すなよ」
  「・・・・・・・・・ああ」
  目の前にいるゴゴと言うストッパーが無ければ、即座に爆発して時臣への怒りだけで聖杯戦争に挑んでいただろう。雁夜は急激に冷めていく時臣への怒りと自覚しながら、書かれた文字を読むことに集中して自分を誤魔化していった。
  時臣への怒りが消えない炎として自分の中に残っているのを感じながら、それでも表面的には何でもない風を装う。そんな雁夜に向けてゴゴが言葉を発する。
  「この一年。『桜ちゃんを救う』ために色々と調査してきたが、肝心の情報が判らないままだ。それは『遠坂時臣が何を思って桜ちゃんを養子に出したのか』。俺は冬木の地では『間桐臓硯』で、遠坂とは不可侵の条約を結んでいるから行動に制限がかかるので、遠坂時臣の真意を探る機会がこれまでなかった」
  「だろうな」
  「忍び込もうと思えば遠坂邸程度は楽に忍び込めるが、遠坂時臣の真意はあの男の胸の内に仕舞われたまま表には出ない。聖杯戦争が始まる直前に間桐の者として話せば、敵の探りだと本心を虚言で包み隠すだろう。ついでに言えば、葵とかいう桜ちゃんの母親も時臣の決断の意図までは知らぬようだ」
  「・・・・・・」
  葵の名前が出てきた時、雁夜は一年前に公園で話した葵との会話を脳裏に思い浮かべた。
  あまりにも衝撃的だったからこそ、決して忘れられぬ記憶として雁夜の脳髄に刻み込まれた悪しき記憶。一語一句どころか、あの時の公園の景色の細部に至るまで思い出せそうな、苦々しい記憶だ。
  あの言葉を聞いたからこそ、今の雁夜が存在すると言ってもよかった。


  「あの人が決めたことよ。古き盟友たる間桐の要請に応えると、そう遠坂の長が決定したの。・・・私に意見できるわけがない」


  「遠坂の家に嫁ぐと決めたとき、魔術師の妻になると決めたときから、こういうことは覚悟していたわ。魔導の血を受け継ぐ一族が、ごく当たり前の家族の幸せなんて、求めるのは間違いよ」


  「これは遠坂と間桐の問題よ。魔術師の世界に背を向けたあなたには、関わりのない話」


  「もしも桜に会うようなことがあったら、優しくしてあげてね。あの子、雁夜くんには懐いてたから」


  葵は元気だろうか? 凛は元気だろうか? この一年、出会う事はおろか一目見ることすらやらなかった二人の姿を思い描き、ほんの少しだけ懐かしさを思う。
  桜が養子に出されたのが遠坂と間桐の問題だというのならば―――間桐雁夜が間桐の魔術師として解決してみせる。そう自分に言い聞かせながら、雁夜はゴゴの言葉に耳を傾ける。
  「雁夜が聖杯戦争に何を思ってるか俺には判らない。ただ最終的に俺は聖杯戦争というシステムそのものを破壊して、遠坂と間桐を巻き込んだ聖杯戦争が二度と起こらないようにする。あれがある限り遠坂と間桐の確執は消えず、盟約と言う呪いに両家は縛られたままだ」
  雁夜が聖杯戦争に参加するのを後押ししながら、闘争そのものを破壊しようとするゴゴが雁夜の目にはまぶしく映る。
  雁夜はこの一年鍛錬に明け暮れ、間桐の魔術では確実に至らなかったであろう高みへと到達した自負がある。魔術の探求と言う点においては間桐の魔術の方が優れているかもしれないが、魔術を戦いに用いるのならば確実にゴゴの方が上だ。
  そんなゴゴだからこそ、強大な力を持つゴゴだからこそ、神と呼ばれた子供達を生み出したゴゴだからこそ、雁夜には辿り着けない遥か高みにいるからこそ、羨望を抱かずにはいられない。
  雁夜には出来ない事でもゴゴには出来る。単純にそれが羨ましかった。
  意気消沈しそうな雁夜だが、続けられたゴゴの言葉が意識を強引に引き止めた。
  「その紙に書かれているのはあくまで『確定』であり、これから俺が話すのは『予測』で、本当である保証はどこにもない。信じるか信じないかは雁夜の自由で、選択の幅を広げる材料程度に考えろ」
  「何の事だ?」
  「まず一つ。遠坂時臣は生粋の魔術師であり、元々、聖杯戦争が興された理由でもある『根源の渦に至る』を悲願としている。この一年で急造の魔術師となった雁夜とは根本的な考え方がそもそも異なると思っておけ。そして二つ目、秘匿してたのだから当然だが、遠坂時臣は『間桐の魔術が何であるかを正確に知らない』、つまり、もし蟲爺が生きていて桜ちゃん間桐の教育を施した場合、どんな状況に陥るか――蟲爺が桜ちゃんを魔術師として育てるつもりが全くないのを知らなかった可能性が非常に高い。蟲使いだとは知ってたかもしれんが、蟲爺の真意までは興味が無かったんだろう」
  「何だと!?」
  「遠坂時臣は始まりの御三家である間桐も根源の渦に至るために聖杯を欲していると考えたのかもしれないな。養子に出された家でどんな境遇に陥るか考えもしなかった時点であの男は罪深い。魔術師として零落している間桐の魔術を存続させて、聖杯戦争を続けようとするこの判断は正しいかもしれないが、桜ちゃんの親としては最低最悪だ。もし間桐の魔術を知った上で養子に出したなら人にも劣る獣以下の畜生だな」
  淡々と告げるゴゴの言葉を聞きながら、雁夜は『遠坂時臣』という人間について考えを巡らせた。
  自分の記憶の中にいる遠坂時臣の情報、紙面に書かれた聖杯戦争のマスターの情報、ゴゴから聞いた桜の父親の情報、それらを統合して必死に時臣の思考を理解しようと試みるが、嫌う相手の心理を想像するのは苦痛でしかなかった。
  それでも『桜ちゃんを救う』為に、雁夜は時臣を考える。しかし。魔術師としてあの男がなにを考えているかさっぱり判らなかったので、思考を放棄した。
  予測することすら出来ない雁夜が嫌悪する『魔術師としての考え』。ゴゴの言うとおり、根源の渦に至る手段として桜を利用したのならば、時臣を許すわけにはいかない。魔術師として悲願を成就する為に咎を背負うならば、自分だけで背負えと言いたい。
  ゴゴは聖杯戦争において時臣を殺さないように、死なせないように画策しているようだが、死んだ方がいい外道も世の中にはいる。もし時臣がその外道に当たるのならば、ゴゴが敵になったとしても雁夜は真っ向から戦う決意をした。
  問わなければならない。
  確かめなければならない。
  殺してはならない。
  言わせなければならない。
  一年前にも考えた遠坂時臣の真意の追究。『桜ちゃんを救う』為、雁夜は自分がなすべき事を考えた。
  「確かめる為には同じマスターとして相対しつつ、相手の口を軽くするのが都合がいい。そこで雁夜の為に用意した聖遺物が役に立つ」
  「聖遺物・・・。さっきは聞けなかったからな、教えてくれ。お前は俺に誰を召喚させるつもりなんだ」
  「それは――」
  そして雁夜はゴゴの口からある英霊の名を聞く。
  驚きは少なかった。そして、その英霊ならばものまね士ゴゴが求める宝具を持っているだろうと納得した。


  その英霊の名は―――。



  ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆



  Side - 遠坂桜





  ゴゴの助言によって雁夜おじさんを応援してからしばらく経った後。
  桜はいつものようにミシディアうさぎを腕に抱いたまま廊下を歩いていた。今日は抱いているゼロと量産型ミシディアうさぎ達を合わせた十匹と一緒に童謡の『アルプス一万尺』を歌い、踊り、手遊び歌で遊んだ。
  ミシディアうさぎの短い前足と桜の手では上手く手遊びは出来なかったが、ミシディアうさぎ同士が行う手遊びは見ていてとても楽しかった。
  むぐ、むぐ、と鳴きながら桜が歌う『アルプス一万尺』に合わせて動くのを見ていると、自分よりも小さな子供が必死にやろうとしているのを微笑ましく眺める気分になる。
  歌う速度が上がって手遊びが出来なくなったミシディアうさぎの可愛らしさを見たのは桜だけ。桜が抱いているゼロは他のミシディアうさぎに比べて特別らしく、他の九匹が出来なかった速度で手遊びをやりきったのも桜だけが見ていた。
  他の誰も見たことのない桜だけの秘密、桜とミシディアうさぎ達とで共有する喜びだ。
  今は間桐邸のあちこちに散らばって、遊んでいた余韻すら消し去ったミシディアうさぎ達だが、楽しかった時間は桜の胸の中に暖かいモノを残した。
  「ちゃんとお風呂に入って汚れを落とさなきゃね」
  「むぐ!」
  ミシディアうさぎは魔力によって存在する普通の動物とは異なる生き物で、基本的にこびり付いた汚れもゴゴが魔力を注ぎ直せば自らを再構築して一瞬で消し去る事が出来る。
  風呂に入る必要など皆無なのだが、いつからか桜は自分が抱いているゼロと一緒にお風呂に入るようになった。そして桜が抱いているミシディアうさぎが合図を出すと、残りの九匹が風呂場に飛び込んでくるのも今では間桐邸の日常の一つである。
  これが普通の猫や犬だったならば湯船に毛が浮かんでとんでもない事になるのだが、ミシディアうさぎ達は抜け毛に無縁らしく汚れらしい汚れは残らない。
  あくまで『一緒にお風呂に入る』という過程を楽しんでいるのだ。普通の動物にはない手のかからなさを物足りなく感じる時はあるが、それでも一緒に楽しめるならばそれでいいと桜は考えている。
  それどころか頭を洗う時に桜の目にシャンプーが入ったら、短い前足でシャワーを出す手伝いまでしてくれる頼もしい友達なのだ。
  どれだけ抱きしめようと常にそこにあるふさふさの感触。抱きあげればその分だけポカポカと温かいモノが胸の中に宿る気がして、桜は少し力を込めた。
  「むぐ~?」
  急に力がこもったので何事かとゼロが首を動かして桜の顔を見上げてくる。桜はそんなミシディアうさぎに『何でもないよ』と思いながら笑みを返す。そのままお風呂に入る準備をする為に部屋に向かい廊下を歩く。
  すると、前から歩いてくる雁夜おじさんとばったり出くわした。
  「やぁ、桜ちゃん」
  「雁夜おじさん」
  雁夜おじさんは『これが俺のトレードマークだ』と言わんばかりにいつも着ている紺色のフード付パーカーを今日も着ている。フードが取り払われているので顔が良く見えて、そこに浮かぶ表情は朗らかな笑みだ。
  一年を通して雁夜おじさんと接してきた桜は、一年前―――この間桐邸で雁夜おじさんが浮かべていた表情と今の違いに少し驚いた。
  同じ家の中で過ごし、同じ物を食べ、同じ時間を生きてきた二人の距離は間違いなく縮んでいる。だからこそ、一年前には見えなかった変わりように驚きを隠せなかった。
  もっと陰鬱な空気を纏っている人だった。
  自分に自信がなく、力無く喋る人だった。
  どこかを見つめたまま、そこに向かう為に周囲を見ない目をしていた。
  でも今は違う。
  「雁夜おじさん、どんどん違う人みたいになっていくね」
  「ハハ、そうかもしれないね。この一年で何回死んだか判らないし、色々教わったからもう完全にあの時とは別人になっちゃったよ。これじゃあ、間桐の魔術師としては失格だ」
  この一年で楽に持ち歩けるようになったアジャストケース、そして魔石が一つ入った紺色のポシェットに手を当てながら雁夜おじさんは朗らかに言う。
  確かに変わった。桜は素直にそう思う。
  桜は一年以上前から母や姉を介して雁夜おじさんと接してきた。だから『雁夜おじさんはこういう人』という人物像を自分の中に作り出していたのだ。
  それがこの一年で崩れた。
  成長か進化とでも呼ぶべき劇的な変化は一年前に抱いていた『雁夜おじさん』と目の前にいる『雁夜おじさん』とを別々に把握する。もちろん、桜はこの間桐邸の中で雁夜おじさんの変貌を誰よりも近くで見ていた。だから両者が異なって見えても、別人と言う事にはならない。ただ変わっただけだ。しかも良い方向に―――。
  元々細身の体だったので、服の上からでは判り難いが。再生と破壊を数え切れないほど繰り返した肉体は回を追うごとに鍛えられ、見た目は一緒でも内包された筋力は比べ物にならない程増えている。
  一年間鍛えた自信が作り出す堂々とした佇まい。まっすぐ伸びた背筋は『好青年』と呼ぶにふさわしく、服の趣味は一年前から全く変わらない着た切りすずめで、特訓で服がちぎれて新しいのを買いに行っても同じような服しか買わない。だが外を歩けば、内側からあふれ出る生気に声をかける女性もいるだろう。
  フード付きのパーカーがこれで何着目か桜はもう覚えていなかった。確実に二桁に到達している。
  「今夜はね、わたし、ムシグラへ行かなくてもいいの。もっとだいじなギシキがあるからって――」
  「今夜はおじさんだけが地下に行くんだ。サーヴァント召喚の儀式はおじさん達にとっては初の試みだから、何が起こるか判らないしね。危険はないだろうけど、念には念を入れなきゃ」
  桜はその言葉を聞きながら、この一年間ときどき耳にしていた『聖杯戦争』の事を脳裏に浮かべた。
  奇跡を叶える『聖杯』の力を追い求め、七人の魔術師が七人の英霊を召喚して殺し合う。そして最後の一人が『聖杯』を手に入れる究極の戦い。それに桜の生家でもある『遠坂』も、目の前にいる雁夜おじさんこと『間桐』も出場するのだ。
  つまり雁夜おじさんと桜の父の時臣が殺し合うと言う事―――。
  「カリヤおじさん、どこか遠くへ行っちゃうの?」
  「これからしばらく、おじさんは聖杯戦争で忙しくなるんだ。こんな風に桜ちゃんと話していられる時間も、あまりなくなるかもしれないから残念だね。でも、何度か帰ってくるつもりだから時間が合えば話せるよ」
  「そう・・・」
  にっこりと笑う雁夜おじさんの顔が見れなくなる寂しさから引き止めるような事を言ってみたが、雁夜おじさんの決意は固く、桜の言葉で揺らいだりしない。
  雁夜おじさんの笑みはこれから殺し合いに参加しようとする人には見えなかった。これもまた一年前の雁夜おじさんにはなかった顔だ。一年間鍛え抜き、時には死に物狂いの修練に身を捧げて会得したモノだ。
  その顔には恐怖は見えず、自分が殺されるとは思って無いように見える。
  「なぁ桜ちゃん。おじさんのお仕事が終わったら、また皆で一緒に遊びに行かないか? お母さんやお姉ちゃんも連れて」
  「――お母さんと、お姉ちゃんに、また、会えるの?」
  「約束しただろ、桜ちゃん。君は遠坂の家に帰るんだ。おじさんが聖杯戦争に参加するのはその準備を整える為なんだから。おじさんは負けないし、誰も殺さない。桜ちゃんはお母さんとお姉ちゃんに会えるよ」
  雁夜おじさんはそう言うと、頭に手を伸ばしてきて、リボンでまとめられた髪を軽く梳きながら撫でてくれた。そのまま腕が後ろに回り、桜の体と腕に抱えるミシディアうさぎを一緒に抱き、ポンポン、と軽く背中を叩く。
  ほんの数秒、軽い抱擁を済ませた雁夜おじさんは桜から離れ、肩に背負ったアジャストケースを背負い直す。
  その中に入っている武器を桜は知っている。
  ものすごく重くて、桜の腕じゃ持ち上げられないのを知っている。
  昔は雁夜おじさんも持ち運びに苦労したのを知っていて、今は軽々と持ち歩いているのも知っている。
  「じゃあ、おじさんはそろそろ、行くね」
  「・・・うん。いってらっしゃい、雁夜おじさん」
  雁夜おじさんは笑みを浮かべたままそう言ってくれるが、桜の胸の中にちくりと痛みが走った。
  遠坂の家に帰りたい。家族にまた会いたい。それは確かに桜の願いであり、雁夜おじさんがその為に頑張っているのもよく判っている。
  だからこそ胸が痛むのだ。
  雁夜おじさんとゴゴは桜に色々なモノを与えてくれた。
  色々は事を教えてくれた。
  色々な場所に連れて行ってくれた。
  色々な世界を見せてくれた。
  桜は考えてしまう。それが雁夜おじさんの望まぬ想いだったとしても、考えてしまう。
  この一年間お世話になった間桐邸―――温かくも騒がしく、驚きに溢れたびっくり箱のような楽しい場所―――『ここを離れたくない』、そんな気持ちがあるなんて、雁夜おじさんには知られたくなかった。
  それはお世話になった雁夜おじさんの決意に泥を塗るに等しいから。
  聖杯戦争。
  遠坂邸と間桐邸。
  魔術師と魔術師。
  聖杯戦争に参加する者同士。
  殺そうとしている者と戦おうとしている者。
  子供の桜ではどうしようもない大人のルール、魔術師のルール、沢山の欠片が絡み合って今を作り出す。
  起こるは殺し合い。
  どうして仲良く出来ないんだろう―――。魔術なんて無くなればいいのに―――。ミシディアうさぎのゼロをギュッと抱きしめながら桜はそう思った。



  ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆



  Side - 間桐雁夜





  「召喚の呪文は覚えてきたな」
  「ああ、準備は万全だ」
  「そう言いきるんなら魔石と魔剣を下して横に置いておけ、それがサーヴァント召喚の触媒になったらどうするつもりだ」
  「・・・・・・・・・すまん」
  雁夜は蟲蔵の中でゴゴと対峙しながら二人の間に書かれた魔法陣を見下ろした。サーヴァント召喚のために用意された魔法陣は淡い光を放ち、薄暗い蟲蔵の中を照らしている。
  壁際まで下がってポシェットを外し、背負っていたアジャストケースと一緒に置く。そして戻る途中に蟲蔵の中をぐるっと見渡した。
  一年前はあった腐臭とすえた水気の臭いなどこの一年で綺麗さっぱり消えている。『壊れたら危ないから』という理由で電灯を新たに設置していないので薄暗さは変わっていないが、最早間桐の蟲蔵は名前が一緒の全く別物になっていた。
  雁夜自身が変わった様に色々なモノが一年前とは別の何かに変わってしまっている。雁夜はふと、もしゴゴが間桐邸に現れず臓硯が生きていたらこんな風にはならなかっただろうと思った。
  戻る間に何気なく魔法陣を見るが、他の聖杯戦争の参加者がこの魔法陣を書くのに使った材料を知ったら激怒するかもしれない。
  絵具なのだ。
  かつて101匹ミシディアうさぎを呼び出した時にも使った、ゴゴの魔力が込められた逸品だが。元は近くの雑貨店で普通に売っている絵具である。
  雁夜は魔法陣を描くのが絵具でも気にしないのだが。聖杯戦争に限らず、魔術と言う力そのものを神聖視する者がいたら聞いた瞬間に殺しに来るかもしれない。
  もっともそうなったところで逆に撃退される姿が容易に想像できてしまうのだが―――。
  「雁夜。ものは相談だが、呪文の途中にもう二節、別の詠唱を差し挟まないか」
  「どういうことだ?」
  滅多にないゴゴの『お願い』に雁夜が問い返すと、ゴゴはまっすぐ雁夜の目を見ながら言う。
  「なに。召喚呪文のアレンジで先決めできるクラスが二つ合るだろう。俺は全てのサーヴァントを見て『ものまね』するつもりだが、その中でも『狂化』がどんなモノか知りたくてな。あの蟲爺は雁夜の力不足を懸念してたらしく、遺品の中に追加する詠唱がしっかり残っていたぞ」
  ゴゴが調べて雁夜が尋ねて聞いた結果、雁夜は聖杯戦争についてある程度の知識を得ている。その中にはクラスの情報も入っており、通常は呼び出される英霊が属性に応じてサーヴァントのクラスに押し込まれるのだが、ゴゴが言ったように例外のクラスが二つある事も知っていた。
  一つは常に同じ英霊――ハサン・サッバーハの名を襲名した一群の暗殺者たちのうちの一人が常に呼び出されるアサシンのクラス。
  そしてもう一つはあらゆる英雄に『狂化』の属性を付加することで、誰であろうと該当させることが出来るクラス。
  すなわち―――。
  「『狂化』? あの英霊を『バーサーカー』のクラスを呼ぶつもりか?」
  「他のサーヴァントがどんな英霊であれ、狂ってるのはバーサーカーただ一人。じっくり見れるならチャンスがあるなら、俺は間近で見てみたい」
  思ってもみなかったゴゴの言い分を聞きながら、雁夜は話を止めて熟考する。
  ゴゴが用意した聖遺物で呼び出そうとしているサーヴァントの特性は間違いなく『セイバー』だ。しかし雁夜は一年前の自分に比べれば強大な力を手に入れたと思っているが、それでも元々の素養の問題で魔術師としては一人前に成り立てだと思っている。
  戦いに関して言えば現代の魔術師に後れを取るつもりはないが、英霊を相手に真正面から戦うのは力不足だと判っており、ついでに魔力の少なさから他のマスターほど英霊を現界させていられないだろう。
  恥ずかしい話だが、英霊を呼び出してサーヴァントとして使役するマスターならば、桜の方が英霊を現界させ続けられる。どれだけ呼び出す英霊が強力だろうと、それを支えるマスターがへっぽこでは宝の持ち腐れである。
  雁夜はこの一年で様々な技術を身につけた。しかしそれでもまだ足りないと判っている。
  そして雁夜はゴゴの使う魔法の中で、攻撃力を引き上げて戦い続ける狂戦士―――まさしく聖杯戦争における『バーサーカー』のクラスを人為的に作り出す魔法『バーサク』があるのを知っていた。
  力不足の自分が英霊を弱体化させては戦力半減だ。しかしサーヴァントを制御できなければ、遠坂時臣との邂逅すら叶わないかもしれない。
  もしゴゴの言い分をはねのけて機嫌を損ねては一年の努力が水泡に帰すかもしれない。
  雁夜は突然の難題に頭を抱えるが、ゴゴから告げられた言葉を聞いて、選択の幅が急激に狭まっていくのを感じた。
  「最初は見物して『ものまね』して、遠坂時臣にだけ関わるつもりだったが――。英霊がどんな形で呼び出されようと、俺の申し出を受け入れてくれるなら聖杯戦争に協力してやる」
  「本当か!?」
  「雁夜が呼び出す英霊に『狂化』の属性を付加して、バーサーカーのマスターになってくれるなら。な」
  「・・・・・・・・・」
  これまで一方的にゴゴから与えられ、甘んじてそれを受け入れていた雁夜だったが、今回の『交渉』あるいは『取引』には驚きを隠せなかった。
  この一年で色々と体験したせいでよほどの異常事態でもなければ驚かなくなってしまったが、ゴゴの言い分はまさにその異常事態に入る。
  何せゴゴは『聖杯戦争を破壊する』と言った張本人だ。この一年、静観を保っていたのは間違いなく聖杯戦争に現れるサーヴァントが目当てだ、普通の生活では見られない英霊たちを『ものまね』するのが目的で、聖杯を勝ち取るつもりは無いだろう雁夜は考えている。
  ゴゴならば『ものまね』と『桜ちゃんを救う』を同時にやってのけられる。そのゴゴが積極的に聖杯戦争に関わろうとしている。これは間違いなく異常事態と言えた。
  全面協力してくれる何て甘い期待は抱かないが、僅かでも協力してくれるなら、それだけ一騎当千の力を得たに等しい。代償に雁夜では制御しきれないサーヴァントを呼び出す事になるかもしれないが、雁夜の見立てでは伝説で語り継がれるどんな英雄であろうとゴゴの力には劣る。
  いかに英霊を招く聖杯であろうと、神は呼べないからだ。
  どうすべきか―――。
  黙っていても話は進まないが、五分ほどじっくり考えて結論を出した。
  「判った。その二節を教えてくれ。召喚の呪文に組み込もう」
  「悪いな」
  「その代わり、聖杯戦争では色々と協力してもらうぞ。もちろん『桜ちゃんを救う』ために、だ」
  「言われるまでもない」
  普段ならば絶対なかった話の主導権を握れて、驚きながらも抑えられない喜びが雁夜の中を動き回る。
  バーサーカー召喚はもう目の前に迫っていた。





  本当にこんな単純な魔方陣で英霊が召喚できるのか?
  雁夜は知らぬ事だが、遠い異国の地でアインツベルンの姫君が思った事を雁夜もまた考えた。おそらく両者がそう考えたのは、どちらも聖杯戦争についてそれほど詳しくなかったからに違いない。
  魔術に対する考察や理解はあったとしても聖杯戦争に関しては門外漢だからこそ同じ疑問に辿り着いたのだ。
  ただし雁夜の場合は準備を進めたのがゴゴなので即座に疑念は諦観へと姿を変える。
  信頼―――いや、人の域を軽く凌駕する神の親に対する盲信とでも言うべき思考が、即座に考えるだけ無駄だと結論に至らせたのだ。
  ゴゴが準備を進め、出来ると言っているならばそれは出来る。そして思ってもみなかった『取引』を持ち出して、嘘偽りを準備する意味はゴゴには無い。
  伊達に一年間接してきた訳ではないのだ。ゴゴには今も驚かされっぱなしだが、準備期間が多ければ多いほどに冗談がありえないと判っている。
  だから雁夜はその魔法陣が半径二メートルで収まる小さなモノだとしても英霊召喚を行うには十分なモノなのだと理解した。
  魔剣ラグナロクを構え、魔方陣と自分とを魔力でもって繋ぐよう集中する。それは敵と対峙する時に似た気持ちに似ていた。もっとも、これまで戦ったその『敵』は壁際で雁夜の事を見ているゴゴだけなのだが。
  「・・・・・・・・・ふぅ」
  一度、深呼吸をして、英霊召喚の為に意識を切り替える。無駄な雑念は戦いにおける無駄と一緒で、今考えるべき事ではない。今だけは桜ちゃんの事も忘れ、目の前の大仕事に集中する。
  十秒ほど目を瞑り、手の甲に刻まれた令呪と蟲蔵の地面に描かれた魔方陣を感じながら、魔力の流れに身を投じる。
  そして英霊召喚を開始した。


  「素に銀と鉄。礎に石と契約の大公。降り立つ風には壁を、四方の門は閉じ、王冠より出で、王国に至る三叉路は循環せよ」


  令呪が刻まれた右手を前に突出し、自分と令呪と魔方陣の三つが繋がるよう意識する。
  囁くと同時に魔方陣が輝きだし、その光は蟲蔵全体を輝かせるほど強くなっていく。咄嗟に目を瞑りたくなったが、一度始めてしまったならばやり遂げなければならない。
  たとえ令呪が右手に刻まれていようとも、ここで英霊召喚に失敗すれば全ては水泡に帰してしまう。
  敵を前にして目が見え辛くなる状況などこれまで何度もあった。明る過ぎて目が痛くなろうと、後で何とでもなる。そう自分に言い聞かせながら、雁夜の口は淀みなく呪文を続ける。


 「閉じよみたせ閉じよみたせ閉じよみたせ閉じよみたせ閉じよみたせ。繰り返すつどに五度。ただ、満たされる刻を破却する」


  御世辞にも『才能がある』等とは言えない自分の魔力回路が詠唱を続けるごとに蠢いてゆく。それは魔石を介して幻獣を召喚する時に少し似ていたが、魔力を根こそぎ吸われていくような感覚に限定すれば、今の方が強い。
  当然だ。たとえ英霊召喚が過去の偉人が成し遂げた偉業であろうとも、それは人の御業に他ならない。ゴゴが―――神を生み出したあの存在が―――人の身に余る幻獣を召喚させる為に用意したのが魔石だ、人の作ったモノと神の作ったモノに違いを感じるのは当たり前なのだ。
  本来ならば雁夜に英霊を召喚する事などできない。聖杯が雁夜に令呪を授け、そうさせようとしているからこそ英霊召喚は成し遂げられる。
  気を抜けば失神してしまいそうな荒行であろうとも、これは『出来る事』だ。


  「告げる――汝の身は我が下に、我が命運は汝の剣に。聖杯の寄るべに従い、この意、この理に従うならば応えよ」


  右手の甲に刻まれた令呪が輝くのが見える。
  床に描かれた魔方陣もまた輝いているのが見える。
  蟲蔵全体を見通せるほどの莫大な光が溢れているのが見える。
  壁に背を預けて雁夜を見ているゴゴの姿が見える。
  そして自分の体が英霊を呼ぶための魔力炉に切り替わっていくような感覚が合った。
  令呪を介してここではないどこかにいる英霊と自分とが繋がっていく。


  「誓いを此処に。我は常世総ての善と成る者、我は常世総ての悪を敷く者」


  魔術の才能にあふれた者ならばこれほど苦しまないだろう。魔力回路の数が多い者ならば、もっと簡単に英霊召喚を行えるだろう。
  零落した間桐を象徴するような雁夜にはそれがない。他の魔術師ならば簡単に行える魔術も雁夜にとっては難業だ。
  しかし、だからこそ雁夜はここにいる。
  魔術の才能が無かったからこそ、魔術回路の数が少なかったからこそ、間桐雁夜はここにいる。
  もし雁夜に魔術の才があったならば、『桜ちゃんを救う』と考えて英霊召喚を行おうとする間桐雁夜はいなかったかもしれない。臓硯はまだ存命だったかもしれない。ゴゴに一年教授しなかったかもしれない。
  師匠であり恩人。ゴゴから聞いた、本来の召喚には無かった二節を加える。


  「されど汝はその眼を混沌に曇らせ侍るべし。汝、狂乱の檻に囚われし者。我はその鎖を手繰る者――」


  聖杯戦争を熟知しているとは言えない雁夜でも、バーサーカーが特に扱いが難しいクラスとして知られているのは知っている。
  パラメーターの低下が起こったとしても、クラス補正にあるステータス強化によって、魔術師としては半人前の雁夜がマスターになったとしても、英霊としての力を維持できるだろう。
  だが呼び出されるのは理性を失った『狂戦士』。一部、能力が使用不能になったり、魔力消費量が膨大になるなど問題も多い。魔力回路の数が少ない雁夜でどこまでバーサーカーを制御できるかは疑問だ。
  それでも雁夜に不安は無かった。
  何故なら、ゴゴが協力すると言ってくれたからだ。
  全面協力はしないだろうが、それでも有言実行し続けてきたあのものまね士は、『桜ちゃんを救う』のに不都合な状況が発生すれば、こちらの意図を汲まずに好き勝手に動き回るだろう。
  良い意味でも、悪い意味でも。
  マスターとしての雁夜に大き過ぎる保険がかかったならば、もう心配する事など何もない。


  「汝三大の言霊を纏う七天。抑止の輪より来たれ、天秤の守り手よ――」


  令呪を通し、魔力を解放し、聖杯戦争の為だけに用意された魔方陣に魔力を注ぎ込み、光の奔流と術者の魔力が絡み合う。するとこれまで以上に強烈な輝きが魔方陣から生まれ、蟲蔵の中が閃光で満ちた。
  照らしているのではない。光の爆発が視界を全て白で埋め尽くし、何も見えなくなったのだ。
  けれどその光もすぐに消えていき、数秒も経てば雁夜の目は光が消えた蟲蔵を―――絵具で書かれた魔方陣から漏れ出でる白煙と、魔方陣の中央に立つ一人の英霊の姿をしっかりと捉えていた。
  召喚の為に奪われた魔力は雁夜の体を著しく消耗させ、意識する前に荒い呼気が新鮮な空気を求める。それでもの体は両足でしっかりと立ち、真正面からその英霊を見据える。
  太陽の光も吸いこみそうな漆黒のフルプレートで全身を包む戦士がいた。
  鎧のあちこちから黒い煙を立ち上らせ、全容を覆い隠す狂戦士がいた。
  サーヴァント『バーサーカー』。ここに英霊召喚は成し遂げられた。



  ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆



  Side - ゴゴ





  雁夜が無事にとある英霊をバーサーカーのクラスで召喚した夜。いきなり膨大な魔力を持ってかれた為、雁夜は体調を崩して蟲蔵の中で倒れてしまった。
  召喚した瞬間は何事もない様に見えたのだが、気を抜いた瞬間にぶっ倒れたのだ。
  不甲斐ないとは思うが、殆ど素人だった状態から一年で一介の魔術師にまで成長したのは見事と言える。雁夜は才能と言う点では桜ちゃんに遠く及ばないが、戦士として見ればそれなりの力を得た。かつて共に旅した仲間と比較すると成長速度も一年で至った力も遠く及ばないが、それでも何もない所から成長を続けて聖杯戦争のマスターになったのは大したものだ。
  今頃は放り込んでおいた雁夜の私室に桜が付き添っており、ついでとばかりに九匹のミシディアうさぎが纏わりついて体力を回復させ、軽い病気などの状態異常を治している頃だろう。
  ゴゴは間桐邸の一室から夜空に浮かぶ月を眺めながら―――今は霊体化しているので、人からは視認できなくなったサーヴァント、バーサーカーの姿を思い出す。
  闇をそのままフルプレートの形にした様な黒い化身。放出される魔力が微量の煙となって鎧の隙間から溢れ、小刻みに震える体は常に敵を探している様だ。
  雁夜が気絶する直前に霊体化させなければ間桐邸を壊して回ったかもしれない。
  凶暴化の魔法『バーサク』をかけた時、対象者はひたすらに敵に攻撃するしか無くなるのだが、バーサーカーに付加された『狂化』の属性はそれとは少し異なるように見えた。
  まだバーサーカーが戦っている所を見ていないので細かい部分までは判らないがゴゴが知る魔法と違う時点で知るに値する。
  その差異を埋めるのが魔石であり、ものまね士ゴゴが『ものまね』するべき技術なのだ。
  「・・・・・・・・・」
  目元しか見えないゴゴの服装はいつもと変わらず、日々の生活を繰り返して街に赴く時も常に同じ格好だ。周囲からゴゴの表情の変化を見破るのは事実上不可能であり、声音によって人はゴゴの感情を判断する。
  だから黙りこんで月を見上げている今のゴゴが何を思っているか判る者は一人もいない。
  ゴゴが歓喜に満たされて、今この瞬間にも大声で笑いたいなど誰も知らぬ事だ。
  渡した聖遺物によって雁夜はゴゴが目当てにしていた英霊を見事に引き当てた、あの黒いフルプレートの騎士は間違いなくゴゴが呼び出したいと思っていた英霊だ。
  もっと正確に言えば、あの英霊はゴゴが目当てにしていた宝具を確実に持っている。
  英霊が生前に築き上げた伝説の象徴、伝説を形にした物質化した奇跡、英霊が有する伝説上の能力―――宝具。
  あの英霊がそれを使い、ゴゴが眼に焼き付けて『ものまね』した時、ゴゴはものまね士としての自分を更に高められると確信していた。
  自己変化。
  自己改革。
  自己進化。
  名前のなかった何者かがものまね士ゴゴになっていく。ものまね士ゴゴを確定させていく。
  これほどの喜びがあるだろうか? 自分と言う形を得て、更に高みへと持ち上げて行く喜びに勝るモノはない。
  ただ聖杯戦争を壊すだけなら今でも出来る。かつて鶴野の体を操って会いに来た『抑止力』が現れるのを承知の上で、広範囲の破壊魔法か幻獣を呼び出して、大聖杯ごと円蔵山を壊せばそれで終わる。
  魔石を使ってもっと強力な英霊を呼び出すのも出来ただろう。この世界と魔石との間には何らかの繋がりがあるので、やろうと思えば狂化など使わずとも強力な手札を呼び寄せられた。
  例えば、魔石『オーディン』で北欧神話に繋がる何者かを―――。
  例えば、魔石『ディアボロス』で悪魔に連なる何者かを―――。
  例えば、魔石『フェニックス』で不死に関係する何者かを―――。
  例えば、魔石『バハムート』で竜種に関わる何者かを―――。
  例えば、魔石『アレクサンダー』でアルゲアデス朝のマケドニア王を―――。
  だがそれでは駄目だ、それでは『桜ちゃんを救う』ものまねは達成できず、ものまね士ゴゴが得るモノが何もない。
  それに強力すぎて雁夜が制御できなければ意味はない。それでは『誰かを鍛える』ものまねの成果を見届けられない。
  たとえ最終的に聖杯戦争を壊すとしても、その過程で得るモノは数多い。あのバーサーカーを見ただけでそう思える。あれほどの素材があと六人もいる―――。ゴゴは興奮と感動と喜びで打ち震えるそうになる体を抑えるので精一杯だった。
  「・・・・・・・・・くふ、ふふ」
  誰の物真似をしていない。ただここに生きる一つの存在としてゴゴは笑った。
  ゴゴは間桐邸の一室から大聖杯が収められている円蔵山のある方向を見る。普通ならば望遠鏡でも使わなければ見えない距離なのだが、ゴゴはそこから流れる魔力を感じ取った。
  人の目には見えない魔力の奔流。ゴゴの目でも見えないのだが、そこから溢れる魔力の一つが間桐邸に伸びてきているので、見えずとも感覚で理解出来る。
  すなわち英霊を呼び寄せた大聖杯とサーヴァントとの間に出来上がった繋がりだ。
  円蔵山から間桐邸に伸びている魔力の繋がりが、別の場所にめがけて何本も伸びている。目には見えなくてもゴゴはそれを感じ取る。
  ゴゴが自分の中に取り入れたもう一つの聖杯―――円蔵山の地下大空洞に敷設された魔法陣を物真似した成果である。
  ただし、ゴゴは一度円蔵山の地下にある大空洞に侵入して、そこに敷設された巨大な魔術回路を目撃し。見て、観て、診て、視て、看て、みて、多くの情報を『ものまね』して自分の中に取り込んだが、全てを解読した訳ではない。
  あの時はまだサーヴァント召喚は行われていなかったし、雁夜の手にも令呪は宿っていなかった。召喚された英霊も見ていなかったし、六十年かけて七騎のサーヴァントを召喚するのに充分な魔力を蓄える機能ばかりを目にしたせいだ。
  しかし今、その楔は消えた。
  地球上のどこにいても行えるサーヴァントの召喚、令呪の譲渡、魔力の貯蓄、魔力を様々な形に変換する機能は思う存分発揮された。それらが一斉に解放され、聖杯戦争を形作っている。
  真に着目すべき大聖杯の機能は、コンピュータで言う所とプロセッサーとマンマシンインタフェースに相当する部分、莫大ではあるが単なる魔力を様々な用途に作り替えて運用する箇所。それこそが大聖杯の真骨頂だ。
  ゴゴはそれを知りたかった。そしてそれが今、聖杯戦争を巻き起こす為に散らばっている。
  ならば、この機を逃す手は無い。宝具と一緒に全てを物真似する絶好のチャンスだ。
  莫大な力ならゴゴの中にもあるので、魔力をため込むだけの大聖杯に用はない。
  大聖杯から雁夜とバーサーカーに伸びている魔力の繋がりが、遠坂邸に二つ伸びているのに気がついたが、今そんな事はどうでもよかった。
  海を越えた海外にまで伸びているのを感じたが、それもどうでもよかった。繋がりの内一本が近隣の森から街中へと移動しているのが判ったが、それもどうでもよかった。
  戦わないのならばサーヴァントはただ霊体化しているだけの存在でしかない。戦ってこそ、ゴゴは彼らの宝具を物真似出来るチャンスに巡り合えるのだ、その時までは英霊だろうとゴゴにとっては路傍の石と変わらない。大聖杯をもっと深く知る為の餌でしかない。
  知らなければならない。
  確かめなければならない。
  判らなければならない。
  物真似しなければならない。
  何故ならゴゴは『ものまね士ゴゴ』なのだから―――、全てを『ものまね』しよう。
  「よくやったな――、雁夜」
  当人の耳には届かないが、ゴゴは初めて心の底から雁夜を称えた。



[31538] 第8話 『ものまね士は英霊の戦いに横槍を入れる』
Name: マンガ男◆da666e53 ID:ac86df83
Date: 2012/07/14 00:36
  第8話 『ものまね士は英霊の戦いに横槍を入れる』



  ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆



  Side - ゴゴ





  聖杯戦争に協力する―――。協力の度合いによって関わり方は大きく変動するが、ゴゴはまず事前に手に入れた聖杯戦争の情報と現実との差異を埋めるべく、冬木に斥候を放った。
  他の魔術師や雁夜に言わせればそれは『使い魔』なのだが、ゴゴにとってスケッチで新しく作り出したミシディアうさぎは使い魔ではない。あえて言うならばゴゴの手足だ。まあ使い魔と表現しても別段問題ないのでそれでもいいが。
  リルム・アローニィの『スケッチ』。描かれた絵を具現化して実体化させるこの特技によって、間桐邸のいる十匹のミシディアうさぎ以外の新たなミシディアうさぎが出現する。
  「むぐ!」
  「バニシュ」
  水性アクリル絵の具によってスケッチブックの上にミシディアうさぎが一匹描かれると、二次元に描かれたうさぎが三次元の体をもってゴゴの前に現れる。
  桜に渡してしまった特別なミシディアうさぎ。今では『ゼロ』と名付けられて桜の使い魔となったあれは既にゴゴの手を離れているし。桜の孤独を癒す為に用意された九匹は桜の傍に居させるので、基本敵に間桐邸から離せない。あくまで基本は、だが。
  よって、ミシディアうさぎを斥候にするならば、新たに作らなければならない。
  「むぐ~」
  「バニシュ」
  スケッチブックから新しいミシディアうさぎが出現する。指示を出して、間桐邸から冬木の各所へと出陣させる。
  別の一匹を描いて、またスケッチブックからミシディアうさぎを出し。これまた冬木の各所へと出陣させる。
  英霊召喚の以前から聖杯戦争の前哨戦が始まっているので、間桐邸の周辺に他のマスターが放った使い魔が右往左往している事は既に気付いていた。
  侵入しようとして撃退された使い魔は今の所いない。間桐邸の周囲はゴゴが張り直した結界によって守られているので、そこに踏み込む危険を承知して、監視に留めているのだろう。
  ミシディアうさぎが出ていけば『間桐が使い魔を放ってる』と知られてしまう。他のマスターもやってる事なので今更とも言えるが、こちらの情報は出来るだけ明かさず敵の情報を多く仕入れるのは戦いの基本だ。
  これはかつて旅した世界も、この世界でも変わらない。わざわざミシディアうさぎが間桐に関わりがあるのと、冬木に放たれるミシディアうさぎの数を馬鹿正直に教えてやる義理は無い。
  「むぐむぐ」
  「バニシュ」
  スケッチブックの上に新しいミシディアうさぎが出てくるたび、ゴゴは透明化の魔法『バニシュ』をかけてミシディアうさぎ達を透明にした。
  魔力に焦点を絞って注意深く見れば気付かれるかもしれないが、ミシディアうさぎに限らず、ゴゴが呼んだモノ―――幻獣とか飛空艇とかミシディアうさぎとかは、余剰魔力を外に溢れさすほど柔な作りではない。
  これが雁夜や桜の呼び出したモノならば、余分な魔力が外に漏れて感知されてしまうかもしれないが。今のミシディアうさぎは外に漏れる魔力の無い『兎の形をした魔力』そのものだ。
  見たり触れたりしたら魔力を内包したうさぎだと判るだろうが、一度でも見逃せば絶対に知られない自信があった。
  「むぐむぐ?」
  「バニシュ」
  今頃、スケッチで作り出した新しいミシディアうさぎ達は、間桐邸の裏の窓から外に出て行ってるだろう。
  透明になって―――。
  冬木市は深山町の高台に建つ遠坂邸と、深山町の西側郊外に広がるアインツベルンの森は言うに及ばず、冬木市全体を網羅するようにあちこちに散らばってゆく。
  「むぐ」
  「バニシュ」
  また一匹、新しいミシディアうさぎを描き終えた所で、真っ先に遠坂邸に向かわせた一匹から異常を伝える合図が届いた。
  ゴゴは急いでそのミシディアうさぎと意識を同調し、間桐邸の中でスケッチブックを片手に持つ視界ではなく、月光に照らされる遠坂邸を見る。
  ミシディアうさぎ達の視界は監視カメラに近い。
  人の感覚に置き換えれば、呼び出したミシディアうさぎの数と同じ数のテレビが一斉に並び、ゴゴがそれを見ているようなものか。高層ビルや大規模な百貨店に必ず設置されている中央監視室が一番近い。
  この繋がりは『1』から『9』に関連して名付けた九匹のミシディアうさぎも同様で、例外は桜の使い魔になった『ゼロ』だけだ。
  ミシディアうさぎの視界を通して遠坂邸を見ると、ドクロの仮面を被った長身痩躯の何者かが遠坂邸の庭を横断している姿が見えた。
  各所でサーヴァントが召喚され、もう聖杯戦争が始まっている状況で遠坂邸に接近する者。しかも深夜に潜入する者が単なる一般人ではありえない。初めて見るが、おそらくあれがアサシンなのだろう。
  ゴゴはミシディアうさぎの目を通して見る光景と、自分の中に取り込んだ『ものまねの聖杯』を意識して感覚でサーヴァントの位置を把握する。
  冬木の各所に伸びている聖杯とサーヴァントを繋ぐ感覚、その内、二本が遠坂邸に伸びており、ミシディアうさぎが片方を捉えているので、やはりあれは『アサシン』に相違ない。もう一つは遠坂邸の中にありそうなので、遠坂時臣が召喚したサーヴァントだろう。
  そのままミシディアうさぎに監視を続けさせていると、アサシンが更に遠坂邸の奥深くに入り込もうとしているのが見えた。
  サーヴァント召喚の時にアサシンが遠坂邸のすぐ近くにいたのは既に確認済みなので、アサシンのマスターと遠坂は共闘している可能性が非常に高い。
  そうなるとアサシンが遠坂邸に潜入しようとしている状況と合致しないのだが、仲違いする何かが起こったのかもしれない。この場でミシディアうさぎを遠坂の結界に察知させて、アサシンの存在を教えるのも面白いかもしれないが、とりあえず傍観を選択する。
  結果―――。遠坂邸の結界を作っていると思われる紅い要石に手を伸ばしたアサシンが、真上から飛来した槍で手の甲を貫かれる瞬間を目撃できた。
  「ほぅ・・・」
  アサシンこと『ハサン・サッバーハ』は間違いなくサーヴァントとして呼ばれた英霊だ。刀や剣、重機などの兵器では傷一つ付けられないだろう神秘の存在だから、手を貫いているあの槍はただの槍ではない。
  これまで沈黙を保っていたアサシンが苦悶の声を漏らすのが聞こえた。
  ミシディアうさぎに命じて槍の発射地点に視線を向けさせると、遠坂邸の屋根の頂きに人影を見つける。
  壮麗にして偉大、黄金の輝きが人の形を作っていると思える、神々しく佇むその威容の前には満天の星空も月光も霞む。
  「地を這う虫ケラ風情が、誰の許しを得ておもてを上げる?」
  魔術の秘匿など欠片も考えていない絶対的強者から弱者に向けて放たれる『決定』、遠く離れた位置で観戦している使い魔の耳にも届く壮烈な声。
 「貴様はオレを見るにあたわぬ。虫ケラは虫らしく、地だけを眺めながら死ね」
  黄金の人影がそう言うと、その人影の背後に―――何もない空中に別種の輝きが生まれて、そこから無数の輝きが現れた。
  それは剣であり、矛であり、斧であり、槍であった。一つとして同じ物はなく、全てが煌びやかな装飾を施された宝と見間違う武具だ。その全ての切っ先がアサシンに向けられている。
  ゴゴはミシディアうさぎの視線を通して状況を見つめながら、もう一度『ほぅ・・・』と感嘆のため息を漏らす。
  あの黄金の人影が何のサーヴァントかはまだ判らないが、膨大な武具を呼び出している現象はほぼ間違いなく宝具であろう。ならば、それもまたゴゴにとっては物真似の対象であり、この世界で得るべき技術だ。
  残念なことにミシディアうさぎを介しての見物だけではものまねには至れない。この身で実際に体感し、模索し、経験し、解析し、物真似して、それは初めてものまね士ゴゴの技となる。
  今回は調査だけに止めようと決め、ゴゴはミシディアうさぎの視界を通して状況を見つめる。
  風を切る音が鳴り響いた瞬間、無数の輝く刃がアサシンに降り注ぎ、斬り裂き、砕き、壊し、貫いた。
  アサシンが身に着けていたドクロの仮面が砕けて離れるのが一瞬だけ見えたが、新たに降り注ぐ武具によって巻き起こる爆炎と噴煙に紛れて見えなくなる。
  そして黄金のサーヴァントは姿を消してしまい、残るのは消えたアサシンと見るも無残に姿を変えた遠坂邸の庭である。まるで手榴弾をばら撒いて破壊した様な有様だ。
  ゴゴはミシディアうさぎの視界から間桐邸の自らの視界に戻しつつ、聖杯から伸びるサーヴァントの繋がりを確認する。そして遠坂邸に合った二つの繋がりのうち片方が消えているのは確認し、サーヴァントの繋がりそのものはまだ七つ以上を保持しているのも一緒に確認する。
  どうやってそれを成し遂げたかは定かではないが、黄金のサーヴァントによって消滅させられたアサシンのクラスは今だ消えずにこの冬木の地に残っている。間違いない。
  ゴゴが雁夜を蘇らす時に使用した『リレイズ』のように自動蘇生の宝具か、あるいは分身して一体を遠坂邸に差し向けただけか。
  起こった状況と、見た現実だけでは、まだ正解には至れないが、事前の状況を考えて一つの結論を導く事は出来る。


  これは茶番だ―――。


  どうやってアサシンを残留させたかはさておいて、サーヴァント召喚の時から繋がっているアサシンのマスターと遠坂時臣との連携は今も継続されているのだ。
  こうやって『アサシンが敗退した』という状況をあえて見せつけて、聖杯戦争の中をアサシンが自由に動き回る算段なのだろう。
  マスターがこれからの聖杯戦争を考える場合、アサシンがいないと決めつけて考えれば、それだけアサシンが敵マスターの背後から忍び寄って暗殺を遂行する確率が上がる。そうなれば、遠坂時臣とその協力者は聖杯を得る可能性を格段にあげられる。
  二人のマスターと二体のサーヴァントが結託している状況はゴゴにとって嬉しくない状況だ。何しろ遠坂時臣と対峙する為には、あの黄金のサーヴァントだけではなくアサシンとそのマスターも一緒に倒さなければならなくなる。それは面倒だ。
  聖杯戦争の参加者たちにとってあの黄金のサーヴァントの宝具は脅威に値するだろう。しかし、ゴゴにとっては少し大きな障害程度でしかなく、『面倒だ』とは思っても『不可能だ』とは思わない。幾つも武具を呼び出してアサシンを瞬殺した宝具だが、ゴゴにとっては単なる物真似の対象である。
  「むぐ!」
  「・・・・・・バニシュ」
  ゴゴは桜ちゃんを救うための障害を思いながら、スケッチブックに新しいミシディアうさぎを描いていく。そして新しいミシディアうさぎを透明にして、別の場所に行くように命じる。
  雁夜に敵が増えた事を教えないとな―――そう思った。



  ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆



  Side - 間桐雁夜





  バーサーカー召喚によって数時間寝込む羽目になったが、それでも目覚めると同時に桜ちゃんの顔が見れたのは嬉しかったので、憂鬱は眠気と合わせて一瞬で吹き飛んだ。
  「おはよう・・・桜ちゃん」
  「おはよ――。雁夜おじさん」
  天井を見上げれば蛍光灯の灯りが部屋の中を照らし、少し顔を動かして窓から外を見れば夜の暗さが広がるばかりだ。どうやらまだ時刻は夜らしいので、目覚めの挨拶にしてもおはようは少し間違っていたかもしれない。
  何となくそんな『日常』の事を考えたのは、自分が既に聖杯戦争のマスターとしてサーヴァントを召喚しながら、それでも桜ちゃんとの生活を繰り返したいと願ったからかもしれない。
  だが雁夜は約束したのだ。桜ちゃんを遠坂の家に帰す、と。
  遠坂の事情も、聖杯戦争の事情も、魔術師の事情も全て調べ、桜ちゃんが幸せになれるよう、命をかけると誓ったのだ。
  「ついててくれたんだ、ありがとう」
  「ううん」
  ミシディアうさぎの『ゼロ』を胸の前で抱えたままベッドの横に立つ桜ちゃんに向かい、雁夜は手を伸ばして彼女の頭を撫でた。
  友愛の証、しかし、同時に彼女との決別を惜しむ未練でもある。
  雁夜はすぐに手を桜ちゃんの頭から離し、ベッドから起き上がって体をほぐす。サーヴァント召喚の為に失った体力やら魔力やらはほとんど回復しており、全快ではないが普通に動き回れるまでには戻っている。
  倒れて自室で目を覚ますのはこれまでにも何度かあった。魔剣ラグナロクが収まるアジャストケースとポシェットが置かれているのもこれまでと変わりないが、今回は大きく違うモノがある。霊体化して姿は見えないが、サーヴァントの気配を部屋の中に強く感じるのだ。
  ゴゴの手引きによって雁夜が呼び出した英霊『バーサーカー』、この世の全てを破壊してもまだ足りぬ暴走の気配がひしひしと伝わってくる。
  「・・・・・・」
  自分でも自覚しない内に神妙な顔つきになり、聖杯戦争に参加するマスターとしての重圧が沈黙となって部屋の中に生まれた。
  バーサーカーの重圧はゴゴに比べれば軽く感じるが、それでも魔術師として半人前の雁夜にとっては手に余る存在に感じられる。
  制御できるかは判らない。制御できないかもしれない。あと半年、いや、三か月修行して更に力をつければ、バーサーカーであろうと制御できる自信が持てたのだが、今の段階ではサーヴァントとしてのバーサーカーを御する自身は無かった。
  良くて半々。悪ければバーサーカーを現界させる為だけの魔力炉としての役目しか果たせないだろう。
  「雁夜おじさん?」
  「ん。ああ、いや、何でもないよ桜ちゃん」
  重苦しい雰囲気が伝わってしまったのか、こちらを見てくる桜ちゃんに対し、慌てて何でもない風を装った。
  おそらく『何でもある』のは既に伝わってしまっているだろうが、それでも大人として意地を張る。
  「桜ちゃん、ゴゴは間桐邸にいるかな? 外に出かけちゃったか知ってる?」
  「多分――、奥の部屋にいると思う。外に行くって言わなかったから・・・」
  「そっか」
  どうやら、聖杯戦争に協力すると言った我が道をゆく師匠はまだ間桐邸の中にいるらしい。一度決めたら、誰であろうと道を阻むのは無理なので、もう外に出て行っているかと思った雁夜には少し意外だった。
  いるなら話をしなければならない。主題はもちろん聖杯戦争の事だ。
  「それじゃあちょっと、おじさんは行ってくるね」
  「うん・・・」
  ベットから起き上がり、雁夜はゴゴを探す為に部屋を出る。後ろから桜ちゃんの視線が突き刺さるのを感じたが、振り返らずにそのまま歩いた。





  以前は臓硯の部屋だった場所でゴゴを発見し、その部屋から廊下へと続く奇妙な痕跡を見つけた雁夜は入室した直後に問いかけた。
  「・・・・・・これは何の跡だ?」
  「冬木市のあちこちに出したミシディアうさぎの足跡だ」
  人差し指と親指で作った輪ぐらいの大きさの跡が幾つも幾つも幾つも幾つも幾つもカーペットの上に出来上がっているのだ。
  一つや二つならば気にしなかったかもしれないが、それが数十、数百ともなれば話は変わる。気にするなと言う方が無理な大量の痕跡である。
  「ミシディアうさぎ? 『ゼロ』は桜ちゃんと一緒にいたし、『アン』から『ノイン』まではここに来る前に見たぞ」
  「101匹ミシディアうさぎをもう一度やってな、斥候として働いてもらう為にあちこちに出てもらった。おかげで色々判った事もあるから蟲蔵に行きながら話そうか」
  「・・・バーサーカーの事か」
  「他にないだろう? その為にわざわざ召喚してもらったんだ、俺は早く宝具を見たくて仕方がない」
  ゴゴはそう言うと、手に持っていたスケッチブックを机の上に置いて立ち上がる。
  『三尺下がって師の影を踏まず』ではないが、何となく行き先が判っても雁夜はゴゴの後を追うのが常になっている。今も斜め後ろでゴゴの肩口を見ながら、蟲蔵に向けて共に歩き始めた。
  「バーサーカーの霊体化と実体化については俺が把握してる。ただ、一度実体化させると暴走する予感があるから、そこから制御できるかどうかはやってみないと判らない」
  「こっちは聖杯戦争の状況変化だ。雁夜が寝ている間にアサシンが遠坂邸に強襲をかけて撃退された」
  「アサシンが?」
  「だが、サーヴァントの気配はまだ残ってる。どういう理屈かまだ分からないが、アサシンは消滅したように見せかけて、まだこの冬木に潜伏してる。つまり敗北者はまだゼロ、そしてアサシンのマスターと遠坂時臣はこうなるように仕向けて裏で結託してる可能性が高くなった」
  「そうなるとアサシンのマスターは遠坂に師事した『言峰綺礼』だな」
  「おそらく」
  「他には何か判ったか?」
  「全てのサーヴァントが召喚されたのを確認したが、まだ冬木に乗り込んでない英霊がいる。かなり遠方に聖杯と英霊との繋がりを感じるから、おそらくドイツのアインツベルンだ」
  ゴゴと情報を交換しながら歩いていると、あっという間に蟲蔵に辿り着いてしまった。
  それだけ話すことが多かったという事だが、戦いの為に準備が必要だという事でもある。雁夜は背負った魔剣ラグナロクの重さが僅かに重くなった様な気がして、少し声をつまらせる。
  「アサシンの宝具は判らなかったが、遠坂のサーヴァントは無数の武具を撃ち出す宝具を発動させていた。魔力で具現化した武器を撃っては消してを繰り返す宝具かもしれん。ミシディアうさぎの視線を通して見ただけだから、詳細はまだ不明だ」
  「そうなると遠坂の魔力が続く限り攻撃は止まないって事か。弾切れなしの機関銃かよ・・・」
  「今の雁夜の腕なら真正面限定で二回は防げるな。奇襲なら一撃でお陀仏。確実に二回以上攻撃されるから、あの黄金のサーヴァントに出会う様な事態は避けろよ」
  「言われるまでもない。英霊と対峙して勝てるなんて、そんな無茶、言えるか!」
  「アサシンの方なら、ラグナロク使って先に一撃入れたら多分雁夜が勝つぞ。向こうの宝具を出される前に決着をつけられればの話だがな」
  「・・・・・・・・・」
  雁夜はゴゴの言葉を聞いて、高々一年修行しただけで勝てると断定されたアサシンの強さに落胆すべきか、ゴゴの修行によって英霊でも勝てる位に力をつけた自分を増長させるべきか判断に迷う。
  けれども、遠坂のサーヴァントに対しては確実に負けると断定されたので、単なる力量差の一つとして判断し、感情を揺らさぬように努めた。
  聖杯戦争において、雁夜は遠坂時臣の真意を探り、そこから『桜ちゃんを救う』に展開を持って行かなければならない。自分の力を誇らず、一つの障害を突破する材料の一つにすることで、自分の気持ちを落ち着けた。
  遠坂とアサシンのマスターである言峰綺礼が共闘しているなら、間違いなく彼らは雁夜の敵だ。それを撃退する為に、炎よりなお熱い怒りを燃やしても、冷静に状況を判断しなければならない。
  アサシンと真正面から対峙した場合に勝てたとしても、それは誇る事ではない―――そう、自分に言い聞かせた。
  「遠坂時臣のサーヴァントは強いか?」
  「サーヴァントを基準で考えれば破格の強さだな、あれは。今回の聖杯に招かれたサーヴァントの中では最強かもしれん。だが戦い方によっては負けは無いから安心しろ、いざとなれば俺が戦って殺してやる」
  「・・・・・・判った」
  バーサーカーがどれだけ強力なサーヴァントかまだ分からないが、ゴゴが強いと断定するのはよほどの事だ。雁夜は正直、時臣もサーヴァントもどちらも自分の手で滅ぼしたいと願っているが、この一年のゴゴの強さを目の当たりにして自分に出来る限界を知ってしまっている。
  悔しく思いつつも、果たすべき目的のためには時に過程を捨てなければならない。雁夜は不承不承頷き、ゴゴの背中に弱々しい声を投げた。
  そして他にもいろいろな事を話している内に二人は蟲蔵へと到達し、いつもの鍛錬の時と同じように距離を取って対峙する。サーヴァント召喚の為に床に書かれた魔方陣は既になく、いつもと変わらぬ薄暗い雰囲気が立ち込めていた。
  「早速、バーサーカーの宝具を使って見せてくれ、令呪を使ってもいいぞ」
  「それを決めるのは俺なんだけどな・・・」
  堂々と告げてくるその姿になんとなく雁夜は暴君をイメージするが、ゴゴの自分勝手は今に始まった事ではないのすぐに諦める。
  それにゴゴがバーサーカーの宝具を求め、その召喚と宝具を条件に聖杯戦争に協力を要請したのは雁夜だ。例えゴゴから言いだした事でも、雁夜は間違いなくそれを受諾した。
  そして、雁夜が言う前に聖杯戦争の情報収集を始めていたようなので、どうやら積極的に関わってくれるらしい。ならば、バーサーカーの宝具を見せるだけでこの状況を維持できるのならば安い買い物であろう。
  正直、バーサーカーではなくても、いきなり呼び出した英霊と協力して目的を達成できるか、今更ながら自信が無い。
  その点、ゴゴはこの一年接してきたので、『こんな時はこうする』と行動の予測を立てやすい。大体、単純な戦闘力で考えれば、ゴゴは星すら破壊できる力の持ち主だ。考えるまでもなく英霊より強い。
  英霊より頼もしい協力者と言える。
  「ちょっと待ってろ・・・」
  雁夜はそう言いながら、霊体化しているバーサーカーに向けて実体化するように指示を出した。
  他の英霊に関わった事が無いので比較対象が無いのだが、バーサーカーはその名の通り『狂戦士』だ。霊体化している時は命令を待つ機械のように思えた。
  銀行のATMや自動車のように、機械はそれのみでは何も起こさず、使う人の手が入って初めて意味を持つ。バーサーカーもまたそんな機械と同じように、霊体化は待ちの状態になっているらしい。そして実体化した瞬間、『狂う』、確証はないがそんな気がした。
  霊体化して姿の見えなかったバーサーカーに命令すると、不気味なほどあっさりと実体化して蟲蔵の中にその姿を現す。
  漆黒のフルプレートで全身を包む騎士、隙間のあちこちから黒い霧に似た魔力を吹き出して全体像を隠すサーヴァント。目で見てバーサーカーが誰なのかを知るのは非常に困難で、令呪を介した繋がりが無ければマスターである雁夜にも正体は判らないだろう。
  聖杯戦争のマスターにはサーヴァントを視認するとステータス数値を看破出来るのだが、湧き出る黒い霧魔力それを阻害していた。
  「ア・・・ァァァァァ・・・」
  ゴゴと雁夜とバーサーカーの三人で三角形を作っているのだが、その中でバーサーカー呻き声を上げる。
  武器を持たない『狂戦士』は敵の姿を探すように蟲蔵の中を見渡すのだが、首を左右に振りながら呻き声を上げるだけでゴゴにも雁夜にも攻撃を仕掛ける素振りは無い。
  狂戦士と言う言葉から、無作為に誰にでも攻撃する印象を抱いていた雁夜だが、マスターである自分に攻撃してこないのは良いとして、ほんの少しだがゴゴには攻撃すると思ってたので、この結果は少々意外だった。
  あるいは雁夜がゴゴを味方だと考えている、マスターの敵でないならばサーヴァントにとっても敵ではないと認識しているのかもしれない。マスターとして完全にバーサーカーを制御できればその辺りも判るのだろうが、今だ、雁夜にとってバーサーカーは夜の闇よりも深い場所にある未知そのものだ。
  「どうだ?」
  「『誰かを攻撃しろ』とか『あそこに迎え』とか、簡単な命令なら受け入れてくれる感覚はあるんだが、宝具の発動となると難しいな。命令しても全然応じない」
  「そうなると令呪を使うしかないなぁ?」
  「やっぱりそうなるか・・・まだ一戦も交えてないのに、いきなり令呪の一画を使う羽目になるとはな・・・。バーサーカーとして召喚したの失敗じゃないか?」
  「これはこれで俺には得るモノがある。だから、諦めろよ雁夜」
  「ああ。仕方ない――仕方ないんだ・・・」
  既にバーサーカーのマスターとしてここにいるので、過去を悔いても何も始まらない。作るべきは未来であり、この状況下での最善を作って邁進するのみだ。
  雁夜は右手を横に伸ばし、手の甲に刻まれたサーヴァントに対する三つの絶対命令権に意識を向けた。
  「間桐雁夜が令呪をもって命ずる――」
  すると令呪が輝きだし、熱湯に手を突っ込んだ時の様な痛みが右手に走る。耐えられなくはないが、あまり長く味わいたくない痛みだ。
  「宝具を使い、『間桐雁夜』に変身せよ!」


 己が栄光の為でなくフォー・サムワンズ・グロウリー


  雁夜は右手の甲から令呪の一画が消費されると、頭の中でバーサーカーの声を聴いた気がした。
  錯覚か、あるいはマスターとサーヴァントにだけに通用する繋がりが声なき声を響かせたのか。
  「ァァァァァァァァァァァァ・・・」
  不思議な感覚を味わっていると、バーサーカーが呻き声を変化させて、鎧の各所から出す黒い魔力の放出を更に強めた。
  バーサーカーの周囲のみを覆っていた筈の黒い魔力が勢いを増し、そのまま竜巻の様に渦巻いてバーサーカーを隠してゆく。そして黒い魔力に包まれた人型が鎧の形状から変化していき、雁夜より頭一つ分大きい身長も縮んでいく。
  黒い魔力の奔流が消えたかと思った次の瞬間。雁夜の目の前に雁夜が立っていた。
  「こいつぁ・・・・・・すごいな」
  自分で命じたからこそ、黒い鎧の騎士の変わり様にそう呟くしかない。そこに居たのは間違いなく間桐雁夜当人であり、まるで鏡を映したかのように細部に至るまで全てが同じだった。
  紺色のフード付パーカーを着た顔は言うに及ばず、魔剣ラグナロクを収めたアジャストケースも紺色のポシェットの何もかもがそっくりそのままだ。
  自分と同じ姿をした者が目の前に立っている光景はとてつもなく気持ち悪かったが、雁夜はその正体がバーサーカーであると知っているので、気持ち悪さを抑え込む。代わりに出て来たのは身長すらも自由に変えられる宝具の凄まじさ、英霊への畏怖と敬意であった。
  「これが宝具か――」
  もし人の力で同じような事をするならば、整形やら骨延長手術やらで長い時間と多大な労力と財産が必要になる。しかしサーヴァントには一瞬の出来事だ。
  雁夜が雁夜を見ている。何とも奇妙な光景だった。
  自分と同じ姿をしているサーヴァントに意識を向けっぱなしになってしまい、雁夜に変装しているバーサーカーを凝視しているゴゴの姿を見逃した。
  その姿はこれまで雁夜が見た事のない真剣なモノだったのだが。雁夜はそれに気付けない。



  ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆



  Side - ゴゴ





  ゴゴは冬木に存在する英霊に加えて、外国からも集ってくる英霊の存在を感じ取っていた。
  間桐邸の地下でバーサーカーの宝具を見物し、その後で力試しと称して、雁夜とバーサーカーを相手に一対二で戦ったのが一日前の話。少しだけ本気を出したゴゴに叩きのめされたマスターとサーヴァントは、現在、回復に時間を費やしている。
  が、殆ど疲れないゴゴには関係が無い。
  むしろ一年間みっちり鍛えておきながら、今だゴゴの足元にも及ばない雁夜の不甲斐なさに落胆すら思えてしまう。せめてバーサーカーと協力して一太刀浴びせる位はしてほしかったが、結果はバーサーカーを制御できずに鍛錬の成果すら出しきれない自滅に終わった。
  体力と怪我はゴゴの魔法で一瞬で直せるのだが、魔力を消耗して回復が必要なサーヴァントがどんなものかを知る為に自然治癒に任せている状態だ。雁夜にとってもサーヴァントと言う戦力を知るのは悪い事ではない。
  敗北を教訓としてバーサーカーと折り合いをつけながら戦えるようになってほしい。ゴゴはそう思った。
  続々と冬木に集結してくる魔力の塊を読み取りながら、ゴゴは考える。いよいよ本格的な聖杯戦争が始まるのだ、と。
  ミシディアうさぎの一匹を遠坂邸の周辺に置いた結果、遠坂と言峰の協力関係がほぼ確実なものになった。おそらく遠坂のサーヴァントは『武器を撃つ』という攻撃からアーチャーのサーヴァントだろう。
  少し前に間桐陣営に言峰綺礼がアサシンのマスターであり、監督役の保護下に置かれた情報が告知された。これで遠坂時臣と言峰綺礼だけでなく、監督役するもあちらに協力している事がほぼ発覚した。
  ますます今回の聖杯戦争は茶番だ。
  中立を保つはずの監督役が特定のマスターに肩入れするとは馬鹿じゃなかろうか? 神父のくせに嘘つきでいいんだろうか?
  アサシンの陣営とアーチャーの陣営は表向き敵対関係を維持して、勝利と敗北を演出したようだが、柳洞寺の地下大空洞にある聖杯を『ものまね』したゴゴには偽りは通じない。
  何やらアサシンの存在を数多く感じるが、それもゴゴにとっては大したことではない。今のゴゴにとって重要な事は、雁夜がバーサーカーとして呼び出したあの英霊―――正確にいえば、英霊が持っていた宝具を見れた事だ。
  「・・・・・・・・・」
  ゴゴはバーサーカーを呼び出した雁夜との会話を思い出しながら、蟲蔵で横になって体力回復に努めているであろう彼の元へと向かう。ゴゴの傍らにはミシディアうさぎが一匹控えており、主君の行動を待つ臣下のようにゴゴを見上げていた。
  カツン、カツン、カツン、と鳴り響く足音。


  「これがバーサーカーか・・・。正直、こんなすごい騎士が俺のサーヴァントだなんて実感が湧かないんだが――。魔石に魔力を吸われた時と同じように、魔力がもってかれるな。鍛錬した時も思ってたんだが、魔石ってのは魔力効率が良すぎるのが難点だ。マスターになって魔力供給してると、燃費の悪さを考えちまう」


  「令呪を使ってまで宝具を使ったんだから、交換条件でまずお前に先陣を切ってもらうぞ。表向き『間桐臓硯』だから、問題ないだろ。そう決めたぞ、やれよ、絶対だぞ」


  「ところでバーサーカーってどれだけ強いんだ? 正直、比較対象がお前しかいないから判らないんだが・・・・・・。何? だったら一緒にかかって来いだと? 上等だ、この一年だてにお前にしごかれた訳じゃない、修業の成果を見せてやる!!」


  そしてゴゴは雁夜とバーサーカーを同時に相手にして、呆気なく勝利をおさめた。
  そもそも元は騎士の英霊であるバーサーカーが敵と対峙しながら無手で挑む時点で色々と間違っているのだ。
  戦った場所が武器など何一つない蟲蔵だと言うのも悪かった。あの場でゴゴに挑むならば、雁夜がもつ魔剣ラグナロクをバーサーカーに渡し、雁夜はバーサーカーの援護に全力を注ぐべきだ。補助用の魔法も幾つか学んでいるので、あそこで雁夜が自らゴゴに斬りかかる意味はあまりない。
  けれど、この一年間ずっと一人で戦ってきた男にいきなり連携しろというのも難しい。
  采配の難しい所である。
  無手でもゴゴには戦い方があるので、迫りくるバーサーカーに対して、力に依存する防御無視の必殺技『爆裂拳』を三回ほど叩き込んで無力化させた。
  一撃喰らって壁に吹き飛び、もう一度向かって来たので二発目を容赦なく喰らわした。
  三度目はまだ動きそうだったので、風に押し付けながら叩き込んで鎮静化させたのは記憶に新しい。
  そして魔術の防御力は一般人とさほど変わらない雁夜に対しては、混乱をおこす魔法『コンフェ』で動きを乱し、がら空きの腹部にバーサーカーと同じように『爆裂拳』を叩き込んで失神させた。以前は攻撃を受けただけで嘔吐していたので、ただ失神しただけでも成長であろう。
  こうして蟲蔵に横たわるマスターと霊体化を余儀なくされたサーヴァント、悠然と立つ勝者の構図が出来上がったのだ。
  あれからかなり時間が経過しているし、桜によって食事も運び込まれた。全快とはいかずとも、バーサーカーに消費された魔力も八割は回復しているだろうから、気負わずにゴゴは蟲蔵へと向かう。
  地下へと通じる扉を開けて蟲蔵に入ると、床の中央で左側を横にした雁夜がいた。丁度、サーヴァント召喚の為に蟲蔵の中央に描いた魔法陣の辺りだ。規則的な呼吸が聞こえてくるので死んではいない。
  「雁夜」
  「おー・・・」
  声をかけると、雁夜は右手を揺らして生存を伝えてくる。けれど、返事に力はない。どうやら回復にはもう少し時間がかかるらしい。
  ゴゴはそんな雁夜の右手を見る。そこに刻まれた令呪は既に一画消費されており、ゴゴのものまねの為に消費された結果を目に見える形で表していた。
  「先に行ってるぞ」
  「判った・・・。こっちも後から追いかけるからなぁ・・・」
  どこか近場に出かけるような気安さで話すが、向かう先は殺し合いの場―――聖杯戦争の渦中である。そこには間違いなく遠坂時臣とアーチャーも関わってくるので、雁夜にとっては不倶戴天の敵へと向かうに等しい筈。それなのに怒りを欠片も見せないのは、それだけ疲れている証拠だ。
  先陣を切るのは雁夜との約束である。今の雁夜では使い物にならなそうなので、ゴゴは蟲蔵に雁夜を置き去りにして階上へ向かう。
  そして桜ちゃんの部屋にたどり着いた。
  「桜ちゃん、いるか?」
  「はい――」
  ノックすると部屋の中から応対があった。ゴゴが扉を開けると部屋の中央で床に何枚か紙を敷いて色鉛筆片手に持つ桜がいて、その周囲にミシディアうさぎ達がたむろしていた。
  どうやら絵を描いていたらしい。
  「前から話してた聖杯戦争に行ってくる」
  「・・・・・・」
  大まかだが聖杯戦争の事は桜に話してある。だから出向くのが『殺し合う』という事だと判っているようで、返事はなかった。
  あるいは間違いなく、そこに関わる遠坂の家族に思う所があるのかもしれない。桜ちゃんは絵を描くのを止めてこちらを見上げていた。
  「早ければ数時間、遅くとも一日で帰ってくる予定だ。チャイムが鳴っても出ない事。もし宅配便が来たら『大人がいないから、後でもう一度持ってきて下さい』と言う事。それから三食分、冷蔵庫に入れといたからお腹が空いたらそれを食べて、食器は台所の流しに置いといてくれ、後で洗っとく。もし背が届かなかったら脚立かミシディアうさぎに協力してもらえ。面倒だったら今日はお風呂は入らなくてもいいぞ、俺が許す」
  連続して言われた内容を桜ちゃんがどれだけ理解しているかは甚だ疑問であったが、途中で絵を描いていた紙に『れいぞうこのなか』『チャイムでない』と拙い字で書いているのが見えたので、判っているようだ。
  そして『桜ちゃんを救う』為に重要な事も忘れずに告げる。
  「もし火事とか地震とか怪しい人とか危険な事が起こったら、ゼロ以外のミシディアうさぎに言え。そうすれば俺に伝わる。判ったな?」
  「・・・はい」
  殺し合いに出向く大人を見送るのは気が進まないのだろうが、それでも桜ちゃんは返事をしてくれた。
  ゴゴはそんな桜ちゃんを少しだけ見つめ―――。
  「それじゃあ留守は頼んだぞ」
  心残りを断ち切るように言って扉を閉める。
  閉ざされた扉の向こう側から、むぐむぐとミシディアうさぎの鳴き声が聞こえたが、ゴゴは振り返らずにその場を後にした。





  遠坂邸と間桐邸、そして冬木市深山町の西側郊外に広がる森―――別名『アインツベルンの森』。聖杯戦争を始めた始まりの御三家のそれぞれの拠点として知られるこれらには、絶対に居ないと確信されない状況を除いて、必ず使い魔が放たれる。
  これは情報戦の観点から見れば当然の行為であり、聖杯戦争の参加者ならば敵を知る為に誰でもやる事だ。むしろやらない方が異常にあたる。
  間桐臓硯が生きていた頃よりも更に強固に作り直された結界によって間桐邸に侵入出来る使い魔は皆無である。しかし『監視』ならば結界の範囲外からでも行える為、間桐邸に突き刺さる視線はかなり多い。
  ゴゴは使い魔が跋扈する間桐邸の周辺を想像しつつ、玄関の前に佇んだ。
  まだ玄関は開かれていないが、開けて外に出ればその瞬間から他のマスターが放った使い魔達の視線が集中するに違いない。
  煩わしかった。
  鬱陶しかった。
  しかし、ゴゴの心はそんな使い魔達の視線など気にならない程、晴れやかだった。
  まだ敵のマスターともサーヴァントとも戦っていないにもかかわらず、雁夜に貴重な令呪を一つ使わせて、新しい技を手にいれた。それがゴゴを歓喜の海に浸らせているのだ。
  雁夜と桜ちゃんにそれぞれ声をかけた時は平静を装えたが。今は喜びのあまり踊り出しそうである。
  バーサーカーがどれだけ伝説に謳われる英雄であろうともゴゴには興味が無い。しかし、この技は―――、バーサーカーのクラスで現界した英霊が持つ宝具にだけは強く興味を惹かれた。だからわざわざ聖杯戦争参加の条件を付けてまで雁夜に召喚させたのだ。
  間桐臓硯は聖杯戦争を作り上げた始まりの御三家の一人であり、当然ながら呼び出す英霊とその聖遺物については広く深く調査を行っていた。そして、残された遺品の中からこの記述を見つけた時は思いっきり喜んだのをよく覚えている。
  姿を隠蔽するだけではなく、他人に変装―――いや、ゴゴの力で後押しすれば『変身』すら可能とするバーサーカーの宝具。
  ゴゴはずっと『桜ちゃんを救う』という目的に従って行動していたが。この宝具を知った時は、これを手に入れる為に動いた気がする。
  ものまね士ゴゴの『ものまね』を更に高みへと押し上げる神秘の技。令呪の後押しによってバーサーカーが宝具を使った時、ゴゴは全身全霊をかけてその宝具を物真似した。
  解析した。
  吟味した。
  検分した。
  調査した。
  検証した。
  討究した。
  講究した。
  検討した。
  研究した。
  点検した。
  分析した。
  考察した。
  そして、ものまねした。
  あの宝具を自分の技にした喜びをどう表現すればいいだろう。歓喜という言葉すらも軽く思える幸せだ、狂喜と呼んでもいい。それは口から出る言葉にはならなかったが、強烈な感情となってゴゴの中を暴れまわった。
  手に入れた・・・。
  手に入れた―――。
  手に入れた!!!
  ゴゴはもう一度その技を取得した喜びを思い出し、目の前にある玄関に視線を向ける。
  思えば雁夜に呼び出させる英霊によって、この世界をもっと深く知り『ものまね』する事も出来た。たとえば、この世界の英霊をものまねする場合がこれに該当する。
  ゴゴがバーサーカーとなって聖杯戦争に参加してもよい。
  だが、ゴゴはこの世界に関する『ものまね』ではなく、かつての過去を振り返る『ものまね』を選ぼうとしている。それは、自分でも気づかない郷愁が合ったからなのかもしれない。
  雁夜と桜。新しき者達と過ごした一年は楽しくもあり面白くもあったが、かつて過ごした仲間達との時間ほど、濃密で、鮮烈で、強烈で、痛快ではなかった。
  けれど三闘神の力をこの身に戻してしまった以上、もうあの世界には戻れない。だからこそ、ゴゴはこの『ものまね』を選ぶ。
  喜びを胸に宿し、気付かなかった思いを知り、新たな力を使い、雁夜との約束を守り、桜ちゃんを救う為。ゴゴはその名を口にする。


 「己が栄光の為でなくフォー・サムワンズ・グロウリー


  一瞬後。黄色やら青やら赤やらの色彩豊かだったゴゴはそこにはなく、全くの別人が立っていた。
  「行くぞジーノ」
  「むぐ!」
  男は帽子に『2』と描かれたミシディアうさぎに向けてそう告げると、玄関のドアノブに手を当てて力強く開く。
  敵陣営が放った使い魔達の視線が一斉に向くのを感じたが、男は気にせず歩き出した。
  前へ―――ただ、前へ―――。と。
  「たとえ数多の英雄に挟まれようとも、俺の力でこじ開ける!」



  ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆



  Side - アイリスフィール





  切嗣によって召喚されたサーヴァント。アーサー・ペンドラゴンであり、セイバーであり、アルトリアという少女でもある騎士王と連れ立って、アイリスフィールは聖杯戦争の地に足を踏み入れた。
  何故、アインツベルンがマスターとして雇い入れた衛宮切嗣と、サーヴァント『セイバー』が別行動をしているのか? それは切嗣が絶対的に相性の悪いセイバーの力を十全に使う為に用いた策による。すなわち『サーヴァントとマスターとの完全なる別行動』という奇策によってだ。
  聖杯戦争のサーヴァントとして呼び出された者とマスターとの契約には距離的な制約はない。どれほど距離を隔てても、マスタの令呪はサーヴァントを制御し、サーヴァントへの魔力供給も距離を関係なく行われる。マスターとサーヴァントのどちらかに何らかの問題が起こらない限り、両者の繋がりは断ち切れずに維持される。
  聖杯戦争において弱点ともなるマスターが堅牢な結界の中にこもって、サーヴァントだけが聖杯戦争を行う事も出来るが、大抵の場合はマスターはサーヴァントに同伴して共闘する。何故かと言えば、意思の疎通の問題で、慎重な判断が要求される局面においては全てをサーヴァントに委ねるマスターは限りなくゼロに近く、マスター自らが采配を振るう必要があるからだ。
  その上で切嗣がセイバーをアイリスフィールに託し、行動を共にさせているのはセイバーを信頼したからではない。もしセイバーがマスターである切嗣に叛意を持っていたとしても、セイバーがアイリスフィールを殺めないと判っているからだ。
  マスター同様に聖杯に招かれるサーヴァントには聖杯を求める理由がある。そして、冬木の聖杯を降臨させる為にはアイリスフィールが隠し持つ『聖杯の器』が必要不可欠だと誰もが知っている。だからアイリスフィールが前面に出るならば、セイバーは何があってもアイリスフィールを守らなければならない。
  加えて。騎士の英霊たるセイバーの戦い方は真っ向勝負を前提としているが、マスターである切嗣の戦い方は策謀奇策を頼みとする暗殺者のそれで、過程に重きを置くサーヴァントと結果に重きを置くマスターとの相性は最悪だ。やはり召喚以前から危惧していた予測は当たってしまっている。
  その点、アイリスフィールはアインツベルンが悲願成就の為に作り上げた人外のホムンクルスであるが、名門アインツベルンの一員として生まれ持った気品と威厳があり、騎士が忠義を尽くすべき淑女としての風格を備えている。
  召喚より数日間、寝食を共にしたセイバーとアイリスフィールはお互いの理解を深めるにつれて敬意を交わすようになり、セイバーが体現する『騎士』と、高貴さを空気のように纏ってきたアイリスフィールは『姫君』であった。両者ともに女性だという問題を除けば、この組み合わせは切嗣よりも相応しい。
  セイバーもまた、切嗣をマスターとするには協調性に不安を感じているようで、彼女はアイリスフィールが代理マスターとして聖杯戦争に参加する申し出を易々と許諾した。
  そして戦いは始まるまでの僅かな時間であったが、アイリスフィールはセイバーを共にして冬木の地を渡り歩き、生まれて初めて見る人の多さと賑わいと活気とアインツベルンとは異なる『切嗣の生まれた土地』を堪能したのだ。
  出来るならば、もっと遊覧していたかったのだが、敵を誘おうとするサーヴァントの気配によって望みは儚く断たれる。
  そしてアイリスフィールとセイバーは、敵サーヴァントであるランサーと対峙することになる。
 魔力で編まれた白銀の鎧を透過し、聖剣を隠した宝具:風王結界インビジブル・エアですら解いた、魔を断つ真紅の長槍。破魔の紅薔薇ゲイ・ジャルグ
 セイバーの左手を切り裂き、決して癒えぬ呪いを刻んだ黄色い短槍。必滅の黄薔薇ゲイ・ボウ
 堂々と『俺の出生か、もしくは女に生まれた自分を恨んでくれ』と告げた、乙女を惑わす魅了チャームの魔術がこもった左目の泣き黒子。
  「成る程・・・ひとたび穿てば、その傷を決して癒さぬという呪いの槍。もっと早くに気付くべきだった。フィオナ騎士団、随一の戦士、『輝く貌』のディルムッド。まさか手合わせの栄に与るとは思いませんでした」
  「それがこの聖杯戦争の妙であろう。だがな、誉れ高いのは俺の方だ。時空を越えて『英霊の座』にまで招かれた者ならば、その黄金の宝剣を見違えはせぬ。かの名高き騎士王と鍔競り合って、一矢報いるまでに到ったとは――、どうやらこの俺も捨てたものではないらしい」
  アイリスフィールの眼前でランサーのサーヴァントに招かれたケルトの英霊、ディルムッド・オディナは、真名を看破されたにもかかわらず、何ら臆した様子もなく、いっそ清々しい顔でセイバーに告げる。
  「さて、互いの名も知れたところで、ようやく騎士として尋常なる勝負を挑めるわけだが――それとも片腕を奪われた後では不満かな? セイバー」
  「戯れ事を。この程度の手傷に気兼ねされたのでは、むしろ屈辱だ」
 セイバーはそう言いながら、魔力で編まれた白銀の鎧で身を包んで風王結界インビジブル・エアで聖剣を隠した。構図はランサーと戦い始めた時に戻った様に見えるが、左手に癒えぬ傷を負ったのは大きな痛手である。
 セイバーの切り札にして、騎士王の名を強く世に知らしめる宝具『約束された勝利の剣エクスカリバー』。この宝具は真名を名乗りながら両手で渾身の振り抜きを行わなければならない宝具で、左手に怪我を負った状況では発動には至れない。
  呪いの槍の効力を破壊するには槍そのものを壊すかかランサー当人を倒さなければならないだろう。たった一太刀の傷だが、セイバーは圧倒的に不利な状況に追い込まれた。この戦いに限らず、聖杯戦争そのものにおいても。だ。
  それでも彼女は、眼前の敵に不足なし、と言わんばかりに剣を構える。
  その姿は伝説に語り継がれる騎士王の名にふさわしく、アイリスフィールは窮地に追いやられた状況を理解したうえで、その立ち振る舞いに一瞬見惚れた。
  「覚悟しろセイバー。次こそは獲る」
  「それは私に獲られなかった時の話だぞ。ランサー」
  武器を構え直した両者は、不敵な挑発を交わしながら、再び間合いを詰めていく。互いの必殺を敵に叩き込むための一触即発が作り出され、高まる緊張感が空気を震わせた。
  しかし、何の前触れもなく轟いた雷鳴の響きが二人の英霊の意識を目の前の敵から強制的に引きはがす。
  セイバーもランサーも、そしてアイリスフィールもまた東南方向から向かってくる轟音に、この場所めがけて一直線に空中を駆けてくるモノに視線を向けた。
 「・・・戦車チャリオット?」
  アイリスフィールは目に見えるそれを呟き言い表すが、重力を完全に無視して、もつれ合う紫電のスパークを夜空に撒き散らしながら突っ込んでくるそれが、本当に見た目通りのモノなのか自信が持てなかった。
 形だけを見るならば、それは古風な二頭立ての戦車だ。ながえに繋がれているのが逞しくも美しい牡牛なのだが、その二頭の牡牛が何もない虚空を蹴って戦車チャリオットを牽引しており、物理法則を完全に無視してそこに在る。
  車輪が空に浮かぶ稲妻を踏みしめ、牡牛たちの蹄が空に舞う稲妻を蹴り進む。雷鳴と共に徐々に近づいていくるそれが膨大な魔力を放っていると気付いたのはいつだろうか? アイリスフィールは呆然としながらも、目に見える異常と莫大な魔力の放出をサーヴァントの宝具へと結びつける。
 あれはセイバー、ランサーに続く三人目のサーヴァントだ。そうアイリスフィールが認めるのと、戦車チャリオットが到着するのはほぼ同時だった。
 着地、いや、着弾と言っても過言ではない強烈な爆発を巻き起こしながら、道路の一部を吹き飛ばして戦車チャリオットが停止する。場所はセイバーとランサーが向かい合う丁度真ん中だ。
  両者の矛先を阻む形で乱入した三人目のサーヴァント。空を照らした目映い雷光は着地と同時に収まるが、その代わりに御者台の上にたたずむ巨漢が露わになる。
  「双方、武器を収めよ。王の御前である!」
  劇的な登場とその大音響によって強制的に戦いを中断させた新たなサーヴァント。厳かに語りだした一言目から、事態はアイリスフィールの予想外の方向に突き進んでゆく。
  「我が名は征服王イスカンダル。こたびの聖杯戦争においてはライダーのクラスを得て現界した」
  「・・・何を――考えてやがりますかこの馬ッ鹿はあああ!!」
  聖杯戦争において、サーヴァントの真名は攻略の要とも言うべき重要な情報であり、セイバーもランサーも出来るだけ真名を悟らせぬように戦ってきた。
  結果としてどちらも『剣』と『槍』を晒して真名を相手に教えてしまったが、自ら名乗るのはどのマスターも想定外の出来事だ。
  この場にいる全員を呆気にとらせた巨漢のサーヴァント。いや、征服王イスカンダルの隣で、御者台に同行している男が掴みかかる。
  金切り声で喚きながら征服王のマントに掴みかかったが、イスカンダルはその男に非情のデコピンを喰らわせて沈黙させてしまう。サーヴァントと同行しているならば間違いなくマスターの筈だが、そこには畏敬の念といった類のモノは感じられない。
  自分のマスターをデコピンで沈黙させたサーヴァントは、左右にいるセイバーとランサーのそれぞれを見渡して問いかける。
  「うぬらとは聖杯を求めて相争う巡り合わせだが・・・矛を交えるより先に、まずは問うておくことがある。うぬら各々が聖杯に何を期するのかは知らぬ。だが今一度考えてみよ。その願望、天地を喰らう大望に比してもなお、まだ重いものであるのかどうか!!」
  アイリスフィールは聖杯戦争がサーヴァントとマスター同士の殺し合いであると知っているので、ランサーと対峙した時は言葉を交わしても、結局は戦いになると判っていた。
  けれど征服王イスカンダルは違う。明らかに他のサーヴァントに対する『問答』を行っているのだ、何が目的でこんな事をしているのか判らずに呆然としていると、セイバーが怒りを込めて返答する。
  「貴様――何が言いたい?」
  彼女の立場で考えればその怒りも当然だ。
  何しろランサーとの一騎打ちを横から思いっきり邪魔されたのだ。セイバーが騎士であるからこそ、不機嫌にならないほうがおかしい。
  しかしその怒りを真正面から受けながらも、征服王は何ら気にした様子もなく返す。
  「うむ、噛み砕いて言うとだな。ひとつ我が軍門に降り、聖杯を余に譲る気はないか? さすれば余は貴様らを友として遇し、世界を征する快悦を共に分かち合う所存でおる」
  「・・・・・・」
  おそらく聖杯戦争始まって以来、いきなり他のサーヴァントに『聖杯を譲れ』等と言いだしたのは、この征服王イスカンダルが最初に違いない。
  人の歴史において世界征服と言う野望に限りなく近づいてのは彼を除いてほかにはいない。だが、聖杯戦争と言う枠組みを最初から無視した物言いは英断なのか、それとも愚挙なのか。アイリスフィールには判らなかった。
  するとセイバーの怒りに同調したか、ランサーがセイバーに向けていた槍をおろして告げる。
  「先に名乗った心意気には、まぁ感服せんでもないが。その提案は承諾しかねる――。俺が聖杯を捧げるのは、今生にて誓いを交わした新たなる君主ただ一人だけ。断じて貴様ではないぞ、ライダー」
  「そもそも、そんな戯言を述べ立てるために、貴様は私とランサーの勝負を邪魔立てしたというのか? 戯れ事が過ぎたな征服王。騎士として許し難い侮辱だ」
  ランサーの後から続くセイバーの言葉が、状況を二対一の構図に変えた。
  怒気を隠さずに言う二人に共通しているのは『戦いを邪魔された』という敵に対する怒りだ。両者とも似通った騎士道に準ずる者たちなので、言わずともこの場の敵が誰か察したらしい。
  そんな二人のサーヴァントからの覇気をぶつけられたライダーは、『むぅ』と唸りながら拳を自分のこめかみに押し付ける。
  「・・・待遇は応相談だが?」
  「「くどい!」」
  再び勧誘してくる征服王に向かい、セイバーとランサーの声が一瞬も違わず重なった。この状況だけ見れば、ほんの少し前まで殺し合っていた者同士の姿には見えない。
  そしてセイバーは憮然としたまま更に言葉を付け加える。
  「重ねて言うなら――私もまた一人の王としてブリテン国を預かる身だ。いかな大王といえども、臣下に降るわけにはいかぬ」
  「ほう? ブリテンの王とな? こりゃ驚いた。名にしおう騎士王が、こんな小娘だったとは」
  セイバーの正体に興味が退かれたのか、ライダーは嬉しそうに喋り、物珍しそうにセイバーを見つめているが、当の本人にとってそれは侮辱以外の何者でもない。
  一瞬前に『一人の王』と名乗りながらも、すぐ後に『小娘』と言われて怒らぬ者がいるだろうか? 近くで聞いていたアイリスフィールでさえセイバーの怒りが容易に想像できる。
  彼女はライダーに向かって低く抑えた声を出して、ランサーに向けていた剣をライダーに向けて構えなおす。
  「――その小娘の一太刀を浴びてみるか? 征服王」
 風王結界インビジブル・エアによって聖剣は隠されてままだが、セイバーから湧き上がる闘志はランサーと対峙した時よりも強いかもしれない。
  ライダーはもう一度セイバーとランサーの両者を見ながら、深くため息をついて後頭部に手を当てた。
  「こりゃー交渉決裂かぁ。勿体ないなぁ。残念だなぁ」
  「ら、い、だぁあぁ――!!」
  そこでセイバーでもランサーでもライダーでもない声が、この場に響き渡った。声はライダーの足元から出て来ており、先程のデコピンで沈黙させられたマスターがようやく復帰してきたようだ。
  恨みに満ちた声を響かせながら、けれどまだ赤みがかった額を片手で抑え、ライダーに掴みかかる。ただし、マスターとサーヴァントの間には圧倒的な身長さがあるので、駄々をこねる子供に対して大人が諭しているようにしか見えなかった。
  マスター本人には不本意だろうが、セイバーのマスターであり夫の切嗣の姿を知るが故に、アイリスフィールはマスターらしからぬその姿に苛立ちすら感じてしまう。聖杯戦争に参加するマスターならばもっと毅然とした態度はとれないのか、と思う。
  「ど~すんだよお。征服とか何とか言いながら、けっきょく総スカンじゃないか! オマエ本気でセイバーとランサーを手下にできると思ってたのか?」
  「いや、まぁ、『ものは試し』と言うではないか」
  「ものは試しで真名バラしたンかい!?」
  ライダーのマスターと思われるその男は、非力な両手で拳を作りながら、ライダーの胸鎧に向けてポカポカと連打して泣きじゃくった。
  アイリスフィールはその姿に再び苛立ちを覚えるが、同時に憐れみすら誘う様子なので、軽蔑と同情が一緒になってどちらを考えればいいか迷ってしまう。
  サーヴァントが聖杯戦争から逸脱しているならば、マスターの方も聖杯戦争の常識では語れない。いっそ武器を構えて向かってきてくれた方がやり易いとさえ考えていると―――、虚空から声が聞えてきた。
  「そうか、よりにもよって貴様か。いったい何を血迷って私の聖遺物を盗み出したのかと思ってみれば――よりにもよって、君みずからが聖杯戦争に参加する腹だったとはねえ。ウェイバー・ベルベット君?」
  出所の判らぬその声は、ランサーに宝具の開放を命じてからこれまで黙していた彼のマスターの声だった。
  魔術によって姿を消し続けているのは変わらないが、これまでと違い、声の中に間違いなく怨嗟を含ませている。そして隠す気のない剥き出しの憎悪が、ライダーのマスターに向けられていた。
  「あぅ・・・」
  唐突に話しかけられたライダーのマスター、聞こえてきた言葉が本当ならば、ウェイバーという名前なのだが。彼はライダーへの攻撃を止めて、御者台に上に座り込んでしまった。
  頭を抱え、体を震わせて縮こまる姿は明らかに恐怖を感じている。
  「残念だ。実に残念だなぁ。可愛い教え子には幸せになってもらいたかったんだがね。君のような凡才は、凡才なりに凡庸で平和な人生を手に入れられたはずだったのにねえ。致し方ないなぁウェイバー君。君については、私が特別に課外授業を受け持ってあげようではないか。魔術師同士が殺し合うという本当の意味――その恐怖と苦痛とを、余すところなく教えてあげるよ。光栄に思いたまえ」
  どうやら両名には何らかの関係があり、平時においてはランサーのマスターの方が上位に立っているようだ。『課外授業』と言っていたので、アイリスフィールはアインツベルンの城で見た、時計塔の講師である『ケイネス・エルメロイ・アーチボルト』の事を思い出す。
  教師と生徒。知識だけは知っているアイリスフィールにはその言葉が持つ意味以上は理解できなかったが、ウェイバーと呼ばれたライダーのマスターがランサーのマスターを苦手に、いや、恐れているのは間違いない。
  ランサーのマスターの声が聞えるたびに少年の姿が小さくなっていくが、そんな恐怖に震える少年の肩を優しく叩く者がいた。
  彼のサーヴァントの征服王イスカンダルだ。
  彼は自分のマスターに向け、大らかな笑顔を見せる。そして、どこかに潜んでいる姿の見えぬランサーのマスターに向け、底意地の悪い笑みを浮かべながら堂々と告げた。
  「おう魔術師よ。察するに、貴様はこの坊主に成り代わって余のマスターとなる腹だったらしいな。だとしたら片腹痛いのう。余のマスターたるべき男は、余と共に戦場を馳せる勇者でなければならぬ。姿を晒す度胸さえない臆病者なぞ、役者不足も甚だしいぞ」


  「鳳凰の舞―――」


  突然聞こえてきた声はまるで姿なきランサーのマスターが怒りによって魔術を行使したかのようにも思えた。
  しかしそれはあり得ない。何故なら、その声はこれまで聞こえていたランサーのマスターの声ではなく、しかも肉声だったからだ。片一方から聞こえてきた声と、出どころの判らない声は紛れもなく別種。難聴ではないアイリスフィールは聞き違えたりしない。
  それでも、あまりのタイミングの良さに、ランサーのマスターからの攻撃だと思ってしまう。
  アイリスフィールは見た。迫りくる炎を―――自分の背丈よりもほんの少し大きな紅い塊が、この場に居あわせた全員めがけて飛んでくるのを―――それはまるで人の様に四肢をもっており、炎だと認めながらも、まるで生き物のように向かっていた。
  「アイリスフィール!!」
 セイバーが自分の名を呼びながら、迫りくる炎の間に割って入る。そして風王結界インビジブル・エアをほんの一瞬だけ解放し、再び黄金の宝剣を晒しながら、吹き荒れる暴風と一緒に炎の塊を両断した。
  まさしく吹けば飛ぶようなか弱い炎だったが、それでもこの場にいる全員に向けられた攻撃なのは間違いない。
  ついにランサーのマスターが姿を現したのか? そう思っていると、トットットット、と軽快な足音を響かせて人影が近づいてくるのが見えた。
  ランサーのように魔力を放出して誘いをかけている訳ではない。ライダーのように空を切り裂く轟音と共に現れた訳でもない。その人影は何の変哲もない疾駆によって、この場に現れたのだ。
  「ここで争うのは止めろ!」
  「むぐ!」
  その男は逆立てた金髪は短く刈りながらも後ろでまとめており、両手にはそれぞれ虎の牙を模したらしい鉤爪を装着していた。小さな宝石らしきものが埋め込まれた額当てをつけ、紅いジャケットを羽織り、その下に見えるタンクトップに収まらない筋肉の厚みが腕力の強さを自己主張している。
  身長はライダーの方が頭一つ分高く見えるが、それでも肉の厚さは征服王イスカンダルに匹敵するのではなかろうか。
  そして何故か肩に帽子とマントを羽織ったうさぎを乗せており、ふざけているのか真面目なのかよく判らない構図を作っている。
  だがアイリスフィールにとって驚きだったのは見た目ではない。最も驚くべきはこの人物からは全く魔力を感じない点だ。英霊が放つ桁外れの存在感を間近で味わって感覚がマヒしている可能性はあったが、それでも注意深く間隔を広げても結果は同じである。
  たまたまここを訪れてしまった一般人? そんなあり得る可能性がアイリスフィールの脳裏によぎった。
  「お主、何者だ? 見た所、この場にそぐわない者のようだが、どのような理由があってここにやって来た」
  アイリスフィールの疑問を代弁するようにライダーが男にそう告げる。見れば、ライダーは右手に無骨でありながら立派な作りの剣が握られていた。おそらくイスカンダルがキュプリオト族の王から献上されたと言われる剣で、あれで迫りくる炎を薙ぎ払ったのだろう。
  それを構えながら、男からは一瞬も視線を外さない。ライダーのいる場所から十メートルほどの所で男が立ち止まり、この場にいる全員に向けて堂々と告げてきた。
  「俺か? この街の平和を守るモンクだ」
  「――はい?」
  その呟きは誰のモノだっただろう。自分かもしれないし、三人の英霊の誰かかもしれないし、ライダーのマスターであるウェイバーと言う男かもしれないし、まだ見ぬランサーのマスターかもしれない。
  誰にせよ、その予想外の言葉を聞いて三度唖然としそうになる状況の中、男は言う。
  「この冬木でよからぬ事を企ててる輩が大勢いるって話を聞いてな。騒がしいから来てみれば、好き勝手に騒いで街を壊してる馬鹿がいる。迷惑だからどっか遠くでやってくれないか。具体的に言えば、兄貴が口説きそうなそっちのお姉さんの地元辺りで」
  「え、わ、私?」
  男は左手の鉤爪を持ち上げ、自分を指した。
  セイバーの背に守られながらも突然の話し合い参加に狼狽を隠しきれない。もしかしたら、この場にいて唯一『戦いに加わっていない部外者』のように見えたのかもしれない。代理マスターとしてセイバーに同行している身としては不本意でしかないが、自分自身、戦いとは無縁に見えるのも仕方ないと認めてしまっている。
  意図して話したのならば『冬木ではなくアインツベルンで戦え』とも聞こえるが、そんな遠まわしに言っている様には見えなかった。
  するとこれまで事態を静観していたランサーが、右手に持つ真紅の槍を向けながら言う。
  「我らは誇りある戦いの最中。無用な介入は寿命を縮めるだけだ――、即刻立ち去るといい」
  ランサーもまたアイリスフィールと同じように聖杯戦争とは無関係の者がたまたま立ち入ってしまったと思ったらしい。最初の炎が何なのかはまだ判らないが、剣の一振りで薙ぎ払えて、しかも魔力を全く感じられないとなると聖杯戦争の関係者とは思えない。
  再び、無関係な者が来てしまった? とアイリスフィールが考えた時。男は槍の英霊に向かって言い放つ。
  「馬鹿かお前は?」
  相手がケルト神話に語られる誉れ高き英雄だと判っていないのか、話す言葉に敬意はない。むしろ侮蔑だけが合った。
  「誇りを持って戦うのは尊いとは思うが。お前らのせいでここにある誰かの物が壊れてるんだろうが? これじゃ、路上で殴り合うチンピラと一緒だ。そんな戦いたいなら誰にも迷惑のかからない山奥なり砂浜なり樹海の奥深くにでも行って戦え。責任ある大人だろうがお前ら、『人のものを勝手に壊したらいけません』って教わらなかったのか?」
  それはライダーとは別の意味でこの場に居あわせた全員を絶句させる言葉だった。
  ただの一般人であろうとも、英霊が作り出す強烈な闘気が肌をちりちりと焼くのが判る筈、常人では向けられる威厳と迫力に耐える事すら出来ないだろう。そもそもランサーは宝具にまで昇華された伝説の武具を両手に持っているのだ、自分が同じ状況に遭遇したら真正面から説教するなんてしない。あくまで聖杯戦争で、セイバーに守られているからこそ対峙できるのであって、一対一で遭遇すれば恐怖を真っ先に感じて言葉を詰まらせる。
  それなのにこの魔力を欠片も感じない男は真っ向からランサーに罵声を浴びせた。肝が座っているのか、目に見えない威圧を感じない鈍感な人なのか。
  「まあ、それはそれとして。とりあえず、これ以上、街を壊させないようにしないと、な!!」
  男はそう言って右手の鉤爪を地面に叩きつけた。そこには何もなく、セイバーとランサーの戦いの余波で壊れた道路しかない。そう思うのと、男が叩きつけた地面を中心にして何かが広がるのを感じたのは同時だった。
  「これは――!」
  周辺の空気が変わるのを敏感に感じ取る。動揺が口から言葉となって出てしまった。男の肩の上に乗るうさぎが落ちないようにしがみ付いているのを見る余裕はない。
  アインツベルンの城にも常に張られているので、この『外界と内界を隔てる空間』の違和感には覚えがあった。これは結界だ―――、どんな効力があるか判らないが、何の魔力も感じなかった男が地面を叩いて広範囲に結果を張り巡らせたのだ。
 結界の用途よりも前に、まず、魔力が無い筈の一般人が結界を張れたと言う事実に驚いてしまう。見ると、セイバーもまた結界の存在を感じ取ったのか、風王結界インビジブル・エアを纏わせた剣を構えたまま油断なく男を見ている。
  もちろんセイバーはこの場にいるランサーとライダーにも注意を向けたままだが、どちらかと言えば正体不明の男に一番集中している様に思えた。
  「ほぉ・・・こりゃ面白い」
 近くから聞こえてきた声にアイリスフィールがそちらに視線を向けると、ライダーが牡牛に繋がる手綱を操って戦車チャリオットを小刻みに動かしていた。それが何を意味するから咄嗟に判らなかったが、よく見ればライダーの視線は牡牛の足元と車輪の部分に向いている。
 不思議に思いながらそこを見ると、ライダーを乗せて相当の重量がある戦車チャリオットが壊れた道路の一部を踏んでいるのだが、そこにある砂利も小石も重みに抗って形を維持し続けている。間違いなく砕ける筈の爪程度の砂利も位置が動くだけで破壊には至らない。
 合わせて、カツン、と何かを叩く音が聞こえてので、そちらに視線を向ければ。セイバーの風王結界インビジブル・エアを解き、白銀の鎧をいとも容易く突破した破魔の紅薔薇ゲイ・ジャルグを地面に突き立てようとして、刺さらずに止められているランサーの姿が見えた。
  余波だけで路面に街灯、倉庫の外装などを軽々と破壊した宝具でありながら、同じ武器で同じ道路を壊せない不思議がそこにある。
  光景は何一つ変わっていないのに、『壊れる』という現象そのものが消失してしまったようだ。
  男がゆっくり地面にぶつけた右手を持ち上げながら立ち上ると、この場にいる全員を見渡しながら言ってくる。
  「バトルフィールドの中ならどれだけ暴れても建築物には影響が無いから好きに暴れていいぞ。勝敗を決したいのなら勝手に戦って、勝手に死ね。これ以上、ここに住んでる人に迷惑をかけるな、まったく」
  「むぐむぐ!」
  そして近くにある倉庫の一つに近づくと壁に背を当てて腕を組んだ。『もう関わらないから好きにやってくれ』と言わんばかりの不遜な態度だが、戦いに加わろうとかそう言う雰囲気はない。
  ただ、苛立った目をこちらに向けているので、この倉庫街で戦うと状況を快く思って無いのは明白だ。肩の上に乗っているうさぎも『その通りだ!』と言わんばかりに鳴いている。
  ライダーの登場。そして正体不明の男によってセイバーとランサーの戦いは大きく水を差された。闘争の空気は若干薄れてしまい、まだ両者の間にはライダーが陣取っているので、仕切り直すにしても色々と問題がある。
  どうすべきか? これはアイリスフィールだけではなくこの場にいる全員が等しく思った疑問に違いない。その中で真っ先に動いたのはライダーこと征服王イスカンダルだった。
  「お主、中々面白い事が出来るな。どうだ、余の配下にならんか? 待遇は応相談だぞ」
  「なぁぁぁ!?」
  突然の申し出に困惑の叫びをあげたのは、ライダーの隣にいるウェイバーだった。
  先ほどのセイバーとランサーに告げた勧誘と異なるのは、聖杯戦争と関わりが無さそうだと思ったからかもしれない。あるいは先程のセイバーとランサーに断られた事で手法を改めたか。
  敵のサーヴァントならば名のある英雄だと一応は理解できるが、それでも一般人なのか聖杯戦争の関係者なのかも判っていない相手をいきなり勧誘するとはどういう神経をしているのか?
  「悪いな。あんたがどれだけ偉い王様だとしても、俺が誰かの下につくとしたら、それは兄貴の下だけだ。ついでに言うと俺は『世界を征する快悦』なんて全く興味が無い。それにあんたもそこで道路、壊してるだろうが。飛べるなら壊さずに、ずっと飛んでろ」
  「そうか――。そりゃあ、残念だ」
  壁に背中を預けたままの男に向かって、残念そうに言うライダーだが、表情は明るく楽しげに笑っている。
  何がそんなに楽しいのか? アイリスフィールにはライダーが何を考えているのかまるで判らなかったが。男が聖杯戦争とは無関係だとしても、決してただの一般人では無い事は判った。
  無関係の第三者だったならば、聖杯戦争の―――裏の世界に生きる者の決まりとして記憶操作なり証拠隠滅なりを行わなければならない。敵か―――味方か―――どちらに転ぶかによって対応は変わる。しかし相手はこれ以上、セイバーにもランサーにもライダーにも関わる気が無いようだ、判断材料が少なすぎてどうすればいいか迷いばかりが膨れ上がる。
  すると男は組んでいた腕を解き、まっすぐライダーを見つめた。
  「そう言えばまだ名乗ってなかったな。あんたの堂々とした名乗りが聞こえてきちまったから、こっちも名乗るしかない」
  「ほぉ。それでは貴様の名、聞かせてもらおうか」
  一転して表情を引き締めるライダー。それは相手の出方を伺っているからか、それとも一人の武人として対峙しているからか。何にせよ、相手がライダーと同じように名乗るならば、そこから聖杯戦争の関係者かどうか判るかもしれない。
  セイバーもランサーも、自分のサーヴァントを驚き見つめていたウェイバーも含め、誰もが男の名乗りに耳を傾ける。


  「俺の名はマッシュ――。マッシュ・レネ・フィガロだ」


  それはアイリスフィールの聞いた事のない名前だった。



[31538] 第9話 『間桐雁夜はバーサーカーを戦場に乱入させる』
Name: マンガ男◆da666e53 ID:ac86df83
Date: 2012/09/22 16:40
  第9話 『間桐雁夜はバーサーカーを戦場に乱入させる』



  ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆



  Side - ウェイバー・ベルベット





  事態は何もかもがウェイバーの想定を大きく逸脱し、書物から得た聖杯戦争の事前情報など何一つ役には立たない渦中へと放り込まれていた。
  一体、何がいけなかったのだろう?
  ライダーに連れられて冬木大橋の鉄骨の上で無様な姿を晒したのがいけなかったのか。
  遠坂邸を監視してアサシンとアーチャーと思わしきサーヴァントを目撃しながら、その正体に至る有益な情報を何一つ手に入れられなかったからか。
  マスターをマスターとも思って無いライダーのデコピンで吹き飛ばされたのが悪かったのか。
  言われるままに世界地図と古代ギリシア詩人ホメロスが記した詩集を盗み出したのがいけなかったのか。
  あるいは時計塔でケイネスに届く筈だった聖遺物を盗み出した事がそもそも失敗だったのか。
  慙愧の念が生誕まで遡りそうだったのでウェイバーは慌ててそれを差し止める。後悔ならば後でも出来る。ウェイバー・ベルベットは諦めてはならない。何故なら、ここで何もかも放り出しては自分の主義主張を時計塔の連中に何一つ訴えられないからだ。
  恐ろしい。
  逃げ出したい。
  怖い。
  それでもここにいなければならない。
  この勇気の根幹に暖かく肩を叩いてくれたサーヴァント、ライダーの存在がある事を何となく判っていたが。それを認めるのは悔しかったので決して表には出さなかった。
  ただし、自分を保てても、それが精一杯なウェイバーが状況の中心に立って事を進めるなんて芸当は出来ない。今のウェイバーに出来るのはライダーのマスターとして同行しながらも、刻一刻と姿を変える状況に必死に付いていく事だけ、それのみだ。
  起こる事象を目の当たりにしながらも、それについてどうこう出来る力がない。マスターに仕える筈のサーヴァントは最初からウェイバーの手を離れている。予想しようと思えば考えられた筈だが、憎きケイネス・エルメロイ・アーチボルトは敵マスターの一人となった。
  事態はウェイバーを差し置いてどんどんと先に進む。それを止める術はウェイバーには無かった。
  「おい、ライダー。お前、何でそんなに嬉しそうなんだ」
  「決まっておろう。あやつが何者かは知らぬが、この英雄豪傑が出揃ういくさ場に出向き、真っ向からの宣言。あれほど肝の据わった男がおる世なら征服のし甲斐があるというもの、心躍るであろう?」
  聖杯戦争など世界征服の道中としか思って無い宣言だが、事実、ライダーが聖杯戦争の先を見据えているのはこれまで接した時間で嫌と言うほどに判っている。
  ウェイバーにとっての死活問題を軽く流されて苛立つのは確かなのだが、それを言葉にしてもデコピンで封殺されるのでほとんど口にしないのが現状だ。
  どこからか、この場を見据えているランサーのサーヴァントにしてウェイバーの怨敵であるケイネスへの恐怖を誤魔化す為、ウェイバーは続けてライダーに話しかける。
  「アイツが聖杯戦争と無関係だったらどうするんだよ! 大体、お前がいきなり真名を明かすなんて無茶苦茶なこ――ぎゃんっ!」
  「少し黙っとれ」
  一度目は言えたのだが、二度目の文句は再び額に叩き込まれたデコピンによって封じられた。
  戦いの場にいる緊張感がそうさせるのか、これまで受けてきた中でも一際強烈な痛みが頭をかき乱し、穴が開くんじゃないかと本気で思う。痛みはケイネスへの恐怖を薄れさせてくれたが、代わりにこの場の状況を見渡す余裕も一緒に吹き飛ばしてくれた。
  嬉しいが、嬉しくない。
  「おいこら! ランサーのマスターの他にもおるだろうが、闇に紛れて覗き見をしておる連中は!」
  ケイネスの言葉を聞いて蹲っていた時と同じように蹲ってしまうが、今回は額に両手をあてて悶絶しながらだ。聞こえてくるライダーの声が耳に届いて『周囲に話しかけている』という状況は知れるのだが、それ以上は痛みで見聞きする余裕がない。
  「どういうことだ? ライダー」
  「セイバー、それにランサーよ。うぬらの真っ向切っての競い合い、まことに見事であった。あれほどに清澄な剣戟を響かせては、惹かれて出てきた英霊が、よもや余一人ということはあるまいて。あの者のように耳聡い者ならば決して聞き逃さぬ見事な戦いぶりよ、英霊ならば聞き逃すなどあってはならぬ」
  何やらセイバーがライダーに向かって話しかけ、ライダーがそれに応じてるようだが額の痛みはそのままだ。
  それでもライダーの話が長かったので、何とか起き上がって周囲を見渡せる位には復帰できた。
  姿が見えないランサーのマスターにして憎きケイネスの姿が見えないのは変わらない。
  セイバーが見えない剣を構え、その後ろにマスターと思われる女性がいるのも変わらない。
  ランサーがセイバーとの戦いに割って入ったこちらを鋭い視線で見ているのも変わらない。怖いので目が合わないように顔をそらしておく。
  そして倉庫街の壁に背中を預けた乱入者も変わっていなかった。両手に鉤爪をはめた戦いの準備が万端のくせに、『やるなら勝手にやれ』と言わんばかりの態度でそこにいる。
  帽子とマントを着けたウサギが肩に乗っているのが非常に気になったが、とりあえず状況に劇的な変化が起こってない事は確認できたので由とする。
  「情けない。情けないのう! 冬木に集った英雄豪傑どもよ。このセイバーとランサーが見せつけた気概に、何も感じるところがないと抜かすか? 誇るべき真名を持ち合わせておきながら、コソコソと覗き見に徹するというのなら、腰抜けだわな。英霊が聞いて呆れるわなぁ」
  するとライダーは両手を大きく両側に広げ、この場にいる全員ではなく、より遠くに声を届かせるように少し上を向いた。
  ウェイバーが隣に居ながら普通に両手を広げられる巨大さに、ますます大男が嫌いになりそうだ。
  「聖杯に招かれし英霊は、今! ここに集うがいい。なおも顔見せを怖じるような臆病者は、征服王イスカンダルの侮蔑を免れぬものと知れ!」
  耳を塞ぎたくなる大音響が周囲に響き渡り、鼓膜が破れるんじゃないかと本気で心配になる。
  しかし両手は額を押さえるのに使っているので咄嗟に耳を塞ぐ頃にはライダーの大声が頭をぐらぐらと揺らした後だ。二重の頭痛を味わいながらウェイバーは見る。
  大声の余韻が静まる頃、ランサーがいる場所ともセイバーとそのマスターがいる場所とも違う場所から強烈な魔力の波動が生まれた。ウェイバーとライダーの位置からでは背後になる。
  倉庫街の街灯のポールの頂上―――。そこに突如として現れた、眩いばかりに輝く甲冑の立ち姿に、ウェイバーは思わず息を呑む。
  挑発に乗ってきたランサーとセイバーとライダーに続く第四のサーヴァント。常人ならば立っていることすら覚束ないであろう地上十メートルほどの高さに、悠然とたたずむその黄金の人影には見覚えがあった。
  「あいつは・・・」
  ようやく痛みが引いて来たので、そこにいる黄金のサーヴァントが何者であるかを考える余裕が戻ってくる。見たのは使い魔の目を通した一瞬だけだったが、あれほど強烈な存在を見違える訳がない。
  ライダーと言う心強い味方がいるからこそ何とか居竦まずに見れるが、間近で対面すればその瞬間に膝を屈するであろう強烈な圧迫感を放っている。
  昨夜、遠坂邸に侵入したアサシンを圧倒的な破壊力で殺したサーヴァントに間違いない。今ばかりはケイネスの事など考えている暇は無かった。
  ランサー、セイバー、ライダーが既にこの場に居合わせ。アサシンは既に無く、黄金の甲冑姿で堂々と姿を晒す様子からキャスターには見えず、狂っている様には見えないので狂化したバーサーカーも除外される。
  よって消去法であの黄金のサーヴァントはアーチャーのサーヴァントになる。三大騎士クラスの最後の一つだ。
 「オレを差し置いて『王』を称する不埒者が、一夜のうちに二匹も涌くとはな」
  「難癖つけられたところでなぁ・・・、イスカンダルたる余は、世に知れ渡る征服王に他ならぬのだが」
 「たわけ。真の王たる英雄は、天上天下にオレただ独り。あとは有象無象の雑種にすぎん」
  街灯の灯りが黄金のサーヴァントを下から照らしているが、元々、街灯は下にある道路の照らす為の道具だ。夜の暗さもあって黄金のサーヴァントの顔はよく見えないが、見下ろしながら告げる言葉にはライダーの尊大さとは全く違う冷酷と無慈悲が込められていた。
  ライダーは自分以上に高飛車な相手が現れるとは思ってなかったのか、困惑顔で顎の下を指で掻いているのが見える。
  セイバーにもランサーにも一目置いたライダーとは異なる価値観。初見から自分以外の存在を全て『雑種』と言い切る尊大さ。そして語る言葉からセイバーの『騎士王』、ライダーの『征服王』と同じように、どこかの王なのはほぼ確実である。
  「そこまで言うんなら、まずは名乗りを上げたらどうだ? 貴様も王たる者ならば、まさかおのれの威名を憚りはすまい?」
 「問いを投げるか? 雑種風情が、王たるこのオレに向けて? ――我が拝謁の栄に浴してなお、この面貌を見知らぬと申すなら、そんな蒙昧は生かしておく価値すらない!!」
  そしてアーチャーは言葉に徐々に怒りを滲ませ、剥き出しの殺意をこの場にいる全員に向けて放つ。
  当然、話していたライダーが最も強くその影響を受け、横にいるウェイバーは気絶しないように自分を保つのが精一杯だ。
  怖い。
  少し考えればライダーの言い分の方が正しく思えるのだが、アーチャーの観点では自分を知らぬ事が罪であるらしい。
  ランサーとセイバーのように真名を隠すのではなく、誰もが自分の真名を知っているのが当然だと言わんばかりの不遜な態度。ウェイバーには理解できない英霊のあり方だが、黄金のサーヴァントの背後に生まれた輝きがそれ以上の思考を許さなかった。
  アーチャーの輝きと同種かそれ以上に眩しい黄金の光が円状に光ったかと思うと、次の瞬間、その中央から武具が現れたからだ。数は二つ。片方は剣、片方は槍のように見えるが、一部がその円形の輝きの中にまだ収まったままなので、全容を見るには至らない。
  「なるほど、あれでアサシンをやったのか」
  ライダーの呟きに触発されてもっと注意深く見る。宝具の名前もアーチャーの正体もまるで判らないが、あの武具を『発射』する事があの英霊がアーチャーとして招かれた由縁なのだろう。
  遠坂邸で見た武具の射出がここで再現されようとしている。
  セイバーやランサーの様に武器を自らの手に持って戦うのではなく、撃ち出す英霊だとしたら。距離を取っている今の状態でもアーチャーにとってここは攻撃範囲内だ。
  いつでもアーチャーはこちらを攻撃できる。その様子を見せつけるように、現れた二つの武器がライダーのいる方向、つまり自分にも向けられ、背後の光によって見えるようになったアーチャーの禍々しい笑みが一緒に見えた。
  狂喜。冷笑。喜悦。嘲笑。状況によっては一人で地上にいる他の三人のサーヴァントを相手にする状況すら出来上がりそうなのに、アーチャーの顔に浮かぶ笑みは自分の勝利以外に何もないと確信している笑いだった。
  誰かが動けばそこから状況も一緒に動く。ただし、戦いにおいて初心者以下のウェイバーにはどうするのがこの場においての最良か判らず、ライダーの判断に委ねるしかない。
  どうなるのか?
  どうするのか?
  どうすべきなのか?
  疑問ばかりがウェイバーの頭の中に蠢いていると四人のサーヴァントがにらみ合う状況に更なる変化が訪れた。
  セイバーのいる場所ともランサーのいる場所とも、道路の真ん中に陣取っている自分達のいる場所とも、アーチャーの立つ街灯の上でもない五ヶ所目―――。突然やって来て、倉庫街の壁に背中を預けたまま状況を黙って見ている何者か―――マッシュと名乗った男のすぐ目の前に黒い煙が湧き出したのだ。
  「アアア、ァァァァァァァァァ――」
  まき上がる黒い魔力が形を成し、長身で肩幅の広い何者かが姿を見せる。そいつは一分の隙もなく黒い甲冑で身を包んだ騎士の姿をしていた。
  セイバーの白銀の鎧とも、アーチャーの黄金の鎧とも異なる漆黒の鎧。ただひたすらに黒く、闇が四肢をもった人の形をしているようにも見えて、兜に細く穿たれたスリットの奥に見える紅い輝きだけが黒以外の輝きをもっている。
  アーチャーの登場と同じく途方もない魔力の奔流を感じたので、あいつがサーヴァントであるのは間違いない。地肌が全く見えず、鎧兜で武装しているので騎士であるとは思うのだが、要所要所から湧き上がる煙に似た黒い魔力の奔流が細部を隠してしまっている。
  姿から英霊の正体に至るのはほぼ不可能。ウェイバーは咄嗟にこの場にいないサーヴァントで、あそこにいる黒い騎士に合致するモノが何かを考えた。
  アサシンは既になく、聞こえてきた雄々しい叫びがあまりにもキャスターとかけ離れている。そうなれば後は一つしかない。
  「バーサーカー・・・」
  結論に至るのは早かった。
  乱入に次ぐ乱入。どんどん現れるサーヴァントにウェイバーの頭はパンク寸前だ。他人事のようにそう思った。



  ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆



  Side - 衛宮切嗣





  切嗣はセイバーとランサーが戦いを始めた時より、岸壁間際の集積場に積み上げられたコンテナの山の隙間から状況を監視していた。
  セイバーとアイリスフィールを囮として、戦いに集中する敵のマスターを背後から暗殺する。勝利のためには手段を選ばない衛宮切嗣の持論によって構成された戦いは、ほぼ切嗣の予想通りに展開していた。
  一つ目の予想的中として。切嗣はまずワルサー狙撃銃につけられた熱感知スコープと光量増幅スコープによって、セイバーとランサーの戦いを倉庫の屋根から見る人影を発見した。
  状況からほぼ間違いなくランサーのマスターであり、相手は幻影や気配遮断といった魔術的な迷彩で自分の位置を隠匿しているようだが、切嗣が好んで使う機械の目を欺く術までは行使していない。人の目には何も映らないとしても、機械仕掛けのカメラアイにはしっかりとその姿が映し出されている。
  『魔術師殺し』の衛宮切嗣にとっては絶好の標的だ。
  そして二つ目の予想的中は、戦場を監視する絶好の場所であるデリッククレーンという最良の監視ポイントに自分達以外の監視者が現れた点だ。
  衛宮切嗣という機械を、より機械らしく動作させるための人の形をした補助機械。その久宇舞弥と共に最良の監視ポイントを放棄した切嗣は、そこに別の誰かが現れるであろう事態を予測して、わざわざコンテナの山に自らを潜ませた。
  自分達以外の監視者が現れ、もしそれが別のマスターであったならば、標的は一気に二つに増え、聖杯戦争を優位に進めることが出来る。
  正しく、新たな監視者は切嗣と舞弥が放棄した絶好の監視ポイントに現れたが、ここで予想外の事態が起こった。
  デリッククレーンの上に現れたのが、遠坂邸にて殺された筈のアサシンだった事だ。
  遠坂時臣と言峰綺礼との共闘―――あるいは本来中立である筈の監督役すらも疑っていた切嗣にとって死んだ筈のアサシンがそこにいる事実は驚くに値しなかった、けれど敵としてそこに現れた事態は中々まずい。
  アサシンは決して戦闘力に秀でたクラスではないが、それでも英霊に属する者なのは確かで、ただの魔術師でしかない切嗣にとっても舞弥にとっても手に余る相手だ。
  加えて、今は対サーヴァント用の装備を用意していない。
  ここでランサーのマスターを狙撃すれば間違いなくアサシンにこちらの居場所を掴まれ、真っ向から戦わなければならなくなる。令呪によってセイバーを呼び出して相手をさせる事も出来るが、その場合はランサーの眼前にアイリスフィールを置き去りにする上に、セイバーのマスターがアイリスフィールであると見せかけるこちらの策を露見する事にもなる。
  状況から切嗣はランサーのマスターを葬る絶好の機会ではあるが、今夜の所は見送るしかないと結論を下し、敵サーヴァントとマスターの監視を続行した。
  ただし、ライダーの出現といきなりの大熱弁で真名を名乗った展開には、さすがの切嗣も呆気にとられてしまう。こんな状況は予想外にもほどがある。
  口元のインコムを通じて、別の場所で戦場を監視している舞弥にむかって愚痴ってしまうのも致し方ない事であろう。
  「・・・・・・あんな馬鹿に、世界は一度征服されかかったのか?」
  そしてライダーの登場から事態は切嗣の予想を遥かに上回っていった。
  道路の上にいる四人に向かって炎を浴びせ、肩にうさぎを乗せて現れた乱入者の存在だ。
  「あの男は何者でしょう。マスターともサーヴァントとも思えませんが」
  「確かにマスターではない。が、あの男が間桐邸から出て来たのをこちらで確認している。魔術をかじった単なる一般人が興味本位で首を突っ込んだん訳じゃない」
  間桐邸から出て来たのだから、何らかの形で聖杯戦争に関わっているのは間違いない。もしかしたら、切嗣にとっての舞弥がそうであるように、聖杯を得る為に間桐が呼び込んだ助っ人の可能性もある。
  だが今は情報が少ないので、あの男の正体が何であるかを知るには至れない。
  更に監視を続けていると、ライダーの挑発に乗って遠坂のサーヴァントであるアーチャーが現れ、そしてバーサーカーまでもがこの場に実体化した。
  ライフルの照準を頭上へと向ければ、変わらずデリッククレーンの上から戦場を監視するアサシンの姿が合った。つまり聖杯戦争が始まったばかりだと言うのに、七騎のサーヴァントのうちキャスター以外の六騎のサーヴァントがここに集まってしまったのだ。
  表向きはアイリスフィールをマスターとして矢面に立たせているが、切嗣は正真正銘セイバーのマスターであり聖杯戦争においてマスターに貸与される特殊能力もまたしっかりと渡されている。
  すなわち『他のサーヴァントのステータスを読み取る透視力』だ。真名を即座に看破できるほど強力なモノではないが、それでも戦いを優位に進める為に敵のステータスは切嗣の目にしっかりと見えており、ランサーもライダーもアーチャーのステータスもスコープ越しに見えていた。
  しかしバーサーカーはそれが何一つ見えない。
  おそらく、自らの素性を幻惑させるような特殊能力―――つまりは宝具か、英霊でありながらも呪いを帯びている可能性があった。
  ランサーとセイバーとの一騎打ちの形ならば、その間にマスターを暗殺してセイバーの初戦を勝利で収めることが出来ただろう。だが、次から次へと切嗣の予想外の事態ばかりが巻き起こり、戦場は混沌の坩堝へと姿を変えた。
  「何故、この場に実体化を」
  「まともな思慮のあるマスターであれば、こんな戦略もへったくれもない混沌の直中に敢えてサーヴァントを放とうとは思うまいがな・・・」
  インカムの向こう側から舞弥の声が聞えてくるが、遠坂の真意もこの場に見えないバーサーカーのマスターの真意も判り様がない。
  「舞弥。アサシンの監視を続けろ、こちらでバーサーカーのマスターを探す」
  「了解」
  敵が何を思ってサーヴァントを戦場に送り込んだのかは知り様がないが、敵の姿が無くてはどうしようもない。
  サーヴァントを退けるにはマスターを殺すのが手っ取り早いので、そちらを探し当てる事が急務である。
  バーサーカーのマスターを探しながら、スコープを通して戦場を様子をもう一度見ると。五人のサーヴァントが向かい合って一触即発の状況を作り出していると言うのに、変わらず倉庫街の壁に背を預けて腕を組んでいる男の姿が一瞬見えた。
  マスターでは無いようだが、何らかの形で間桐に関わり、聖杯戦争にも関わりを持っている誰か。切嗣はその男もまた敵と定め、状況をこちらの望む展開に引き込むために敵の姿を探し続ける。





  ランサーのマスターであり、ウェイバーを恐怖に陥れたケイネスは確かに魔術的な隠匿を行っていた。しかし、機械的な隠匿を怠ったが故に切嗣に発見された。
  そして狙撃兵として暗殺も行える切嗣は敵に狙いを定めた時こそが自分の背後に最も注意しなければならない時だと判っている。
  だからこそ切嗣はケイネスと同じように魔術的な隠匿を行いながら、同時に機械的な隠匿も行って敵に見つからぬように努めている。一度でも、戦場に銃弾を撃ち込めばこちらの位置を探らせてしまうだろうが、その一度が無ければ誰にも見つからぬ自信がある。
  事実、そうやって『傭兵』であり『魔術師殺し』の衛宮切嗣は形作られていった。これは九年前にアインツベルンに雇われる以前、世界各地の紛争地を生き抜いた経験に基づく知恵である。だからこそ切嗣は―――魔術的な隠匿を乗り越え、機械的な隠匿も突破し、切嗣が持つ経験を上回る監視者に気付けない。
  もっとも予測出来たとしても、アサシンのスキル『気配遮断』に匹敵するかそれ以上の、魔術的にも物理的にも見えなくなる。『消滅』と言っても過言ではない隠匿を行える敵に気付けと言う方が無茶な話だ。
  遠坂邸や間桐邸の様に魔術的な要塞として構築された場所ならば発見は可能かもしれないが、切嗣がいる場所はアイリスフィールが持つ発信器によって導かれた場所で、現場の下準備は無いに等しい。
  『魔術師殺し』の衛宮切嗣は気付かない。
  コンテナの山の隙間から状況を監視する切嗣を更に監視する存在に―――おそらく他のマスターの陣営と比較しても、冬木の町に放たれた使い魔の中で最も大量であろう、その中の一匹に―――透明になったミシディアうさぎに―――。
  監視者を監視する切嗣は、自分もまた監視されている事に、全く気付いていなかった。



  ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆



  Side - 間桐雁夜





  雁夜は自分の無力さをよく知っている。
  たとえ一年間ゴゴによって鍛えられて、別人と見間違えるほど成長したとしても。サーヴァント『バーサーカー』と契約して聖杯戦争に参加するマスターとなったとしても。常に『ものまね士ゴゴ』が巨大な壁として立ち塞がっていたので、増長する暇は全くなかった。
  諦観と自制。雁夜がこの一年で身につけた最も大きな力はこの二つかもしれない。だからこそ雁夜は、自分の視界ではない別の生き物の視界を通して戦場を見つめながら、自分の内側から沸き立つ激情に身を任せずにいれた。
  葵の夫でありながら、桜の父でありながら、母と娘の幸福を踏みにじった男への―――、遠坂時臣への怒りがあった、憎しみがあった、恨みがあった、妬みがあった。それでも、自分が成すべき事を成す為に―――『桜ちゃんを救う』ために、雁夜は自分を抑え込めている。
  現在、雁夜はセイバーとランサーから倉庫街の外れに身を潜めており、単純な距離で考えればおそらく一キロ近く離れているだろう。
  間桐の蟲が全てゴゴによって殲滅されたので、代わりにゴゴをミシディアうさぎを使い魔としてこの第四次聖杯戦争に放った。その内の一匹が雁夜に貸し与えられ、今は間桐の使い魔として役立っている。
  全てのミシディアうさぎを統括できるのはゴゴただ一人だが、雁夜の所にいる数字の『6』が帽子に描かれたセクスとゴゴの肩に乗って状況を監視しているミシディアうさぎとの間に繋がりを作り、近づかずとも状況を把握出来ている。
  桜のミシディアうさぎ『ゼロ』ほど深い繋がりではないが、ミシディアうさぎに魔力のパスを通して別の場所にいるミシディアうさぎの視界を借りる位は造作もない。
  雁夜は、暗がりに身を潜め、アジャスタケースを背負い、フード付きパーカーで顔を隠し、着飾ったうさぎを両腕で抱えている。傍目から見ると、果てしなく怪しい姿だと自覚しながらも、これが今できる最善なので深くは気にしない事にした。
  これでは日々、色彩豊かで奇抜な衣装で外を出歩くゴゴに何も言えないではないか。
  何とか気を持ち直しつつ、桜が使い魔のゼロにしている様に、腕の中に抱かれてくれているセクスを通して戦いの場に意識を向ける。そして街灯の上に立って、悠然と見下ろす―――いや、全ての事象を『見下す』サーヴァントをもう一度じっくり観察した。
  ゴゴから聞いた時は『黄金のサーヴァント』という言葉だけで明確な姿を思い浮かべられなかったが、あれを見ればその説明が最も判りやすいと理解できる。
  「むぐむぐっ!?」
  ミシディアうさぎ特有の鳴き声を耳にして、雁夜は慌てて敵サーヴァントから意識を切り替える。セクスからゴゴの所にいる『2』のジーノに向けて、『少し横を向いてくれないか』とお願いすると、ゴゴの肩の上に乗っているミシディアうさぎは雁夜の願いを聞き入れてゴゴの横顔を見た。
 そこにいるのは間桐邸で見る奇抜な衣装で身を固めたゴゴではない。バーサーカーの宝具の一つ『己が栄光の為でなくフォー・サムワンズ・グロウリー』によって変身した全く別の誰かだった。
  英霊の宝具をいとも容易くものまねした常識外れの理解力に色々と思う所はあるが、今は考えるべき事ではないので横に置く。
  精悍な顔つきの男の顔は見た事が無い、が、その顔は紛れもなく『ものまね士ゴゴ』が変身した姿なので、見た目こそ変わっていても力の本質は何一つ変わっていない。こいつはバーサーカーすら楽々あしらったゴゴなのだ。
  危険だと考えるよりも前に、あのゴゴならば戦いの渦中にいても他のサーヴァントに後れをとる姿が想像できず、姿こそ違えど、堂々と立つ姿に安堵すら思える。
  雁夜は思った。ならば、バーサーカーとと他のサーヴァントとを比較した場合はどれほどのモノなのか。
  今の雁夜の力でバーサーカーを完全に制御できるのか否かを知るには丁度いい状況だ。と、そう思った。
  遠坂時臣から桜を間桐にやった真意を聞く為に、奴には生きてもらわなければならない。そして、雁夜にとっては最早『聖杯』なんて物は、手に入れる価値のある賞品ではない。
  戦略として考えれば、聖杯を得る為の最善は何の手も出さずに敵同士が殺し合ってくれる事だ。けれど雁夜の目的は他のマスターとは違う。
  聖杯戦争に参加したサーヴァントの力を推し量る為、バーサーカーがこの状況下でどれほど戦えるか見極める為、戦いにおいて最も重要な『観察』を行う為の調査を行おう。雁夜はそう決める。
  彼らには試金石となってもらおう―――。
  どうにもゴゴと言う強大かつ常識外れな協力者がいるためか、思考がバーサーカーを軽んじる傾向に陥っている。そう自己解析できるのだが、遠坂への怒りも手伝って自分を止めようとは思わなかった。
  「行け、バーサーカー。目標はアーチャーだ。殺せ」
  理性のあるサーヴァントならば事細かな指示を出せるのだが、複雑な命令は狂ったサーヴァントには逆効果であろう。
  端的に。それでいて雁夜の怒りを具現化する望みの一部を黒い騎士に命じる。
  時同じく、呼びかけられたと勘違いしたのか。腕の中にいたミシディアうさぎのセクスが『むぐ?』と小さく鳴いた。



  ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆



  Side - ライダー





  セイバーとランサーの戦いを力ずくで止めた征服王イスカンダルは、五人ものサーヴァントが出揃った事に歓喜しながら、同時に不用意に動けない状況に微かな苛立ちを覚えた。
  異なる時代の英雄豪傑と矛を交える機会に恵まれたのは喜ばしい事なのだが、さすがに一度で四人も相手にするのは少々骨が折れる。自分で呼んでおきながら何を今更とも思ったが、もしかしたら、いきなり切り札を使わねばならなくなりそうだ。
  加えてライダーの機嫌を損ねる原因は、新しく出てきたサーヴァント『アーチャー』と『バーサーカー』のどちらもランサーとセイバー以上に説得出来そうにない事である。言葉をかける以前から断る空気が―――あるいは話が通じない雰囲気が湧き出ている。
  「なぁ征服王。アイツには誘いをかけんのか?」
  「誘おうにもなぁ。ありゃあ、のっけから交渉の余地なさそうだわなぁ」
  敵の出方を伺いながらも、こちらを揶揄してくるランサーに軽口を返すが、名残惜しさは消えずにそのままだ。
  けれど会話で勧誘出来ないのならばそれはそれでやりようがある。
  今のところ、ライダーは明確に誰かを標的に見定めているわけではなく、この聖杯戦争にはせ参じた英霊たちの顔触れが見れればそれでよかった。いざとなれば誰の挑戦でも受けて立つ覚悟はあるが、まだ様子見に留めておく段階だ。
  「で、坊主よ。サーヴァントとしちゃどの程度のモンだ? あれは」
  「・・・判らない。まるっきり判らない」
  声をかけるが、ウェイバーはこちらを見向きもせず、ただひたすらにバーサーカーの方を見続けている。
  「何だぁ? 貴様とてマスターの端くれであろうが。得手だの不得手だの、色々と『観える』ものなんだろ、ええ?」
  「見えないんだよ! あの黒いヤツ、間違いなくサーヴァントなのに・・・ステータスも何も全然読めない!」
  ライダーには見えないのだが、聖杯戦争のマスターに敵サーヴァントのステータスを数値化して見れる特殊能力が備わるのは既に周知の事実。その能力を駆使して尚、見えないと言うのならば、あのバーサーカーはステータスと隠す何らかの能力を用いているのだろう。サーヴァントの宝具か、あるいはマスターの魔術か。甲冑の隙間から湧きあがる黒い魔力もその恩恵に違いない。
 アーチャーの方は見せつけるように背後から武具を撃ち出そうとしているので、アサシンを殺したあれが攻撃手段なのは確実だ。けれどバーサーカーの手にはセイバーの剣やランサーの槍、そしてライダーの戦車チャリオットに該当する武器が見当たらない。
  黒い騎士に見えるサーヴァントがまさか無手で戦うとは思えないので、サーヴァントのステータス同様に何らかの手立てで武器を隠しているのかもしれない。
  自然とライダーだけではなくここに集まったサーヴァント全員が正体不明のバーサーカーに意識を向ける事になるが、当のバーサーカーの視線が向かう先はただ一点。
 「誰の許しを得てオレを見る? 狂犬めが――」
  地肌は見えずとも、兜の向きとスリットの奥から光る紅い輝きが、アーチャーただ一人に視線を固定している。
  卑賤なる者は眼差しすらも卑しく汚らわしい。それを浴びせられるのは貴人として耐え難い屈辱。そう言外に語るアーチャーにとってバーサーカーは既に咎人と確定している。
  アーチャーは呟きながら、背後に浮かばせた二つの武器の方向を変えた。切っ先が新たに向かうは当然ながらバーサーカーだ。
 「せめて散りざまでオレを興じさせよ。雑種」
  冷厳なる決定とともに槍と剣とが撃ち出され、風を切る音が聞こえた次の瞬間にはバーサーカーのいる場所が爆発した。
  常人では見切るのも不可能な超高速の射出。これこそがアサシンを殺した。ただし、英霊にとって象徴ともいえる宝具を石礫か何かのように無造作に撃ち出すのは、周囲を驚かせ続けるライダーすらも僅かに驚く攻撃だった。
  セイバーの剣とランサーの槍もクラスを象徴する宝具だからこそ手放したりはしない。
  そしてライダーは刹那の時の中で繰り広げられた幾つもの攻防に更なる驚きと喜びを抱く。
  第一撃として飛来したアーチャーの剣―――、これをバーサーカーは何の苦もなく掴み取り、すぐさまそれを自分の武器として、続く第二撃の槍を打ち払ったのだ。この剣技の冴えに昂ぶらずにはいられない。
  巻きあがる爆煙はアーチャーの槍が爆発した結果だ。おそらく敵の衝突すると爆発し、敵を爆死させる何らかの能力が付加された武器なのだろう。が、驚くべきはそこではない。
  真に驚くべきは、バーサーカーが叩きつけた地面が何一つ壊れてないと言う点である。
  「・・・奴め、本当にバーサーカーか?」
  「狂化して理性を無くしてるにしては、えらく芸達者な奴よのう」
  張り詰めた声で呟くランサーに対して応じるが、ライダーの目はバーサーカーが槍を叩きつけた地面に注がれ。そしてバーサーカーの後ろで今だ腕を組んだまま状況を静観している男に向けられる。
  この『無機物の破壊を許さない結界』があの男が張ったのをライダーは見ていた。男の見た目は両手にはめた鉤爪から格闘家に見えるが、芸達者と言う点ではバーサーカーにも決して劣らない。
  バーサーカーが見せた、アーチャーの撃ちだした宝具を難なくつかみ取って、鮮やかに自分の武器として使いこなす神業めいた剣技。
  手を伸ばせば届く位置でそんな英霊同士の戦いが行われているにも関わらず、肩にうさぎを乗せたまま動じない胆力と、ライダーには決して出来ぬ強力な結界を張る技量の高さ。
  今は周辺にのみ展開されているようだが、もしこれがあの男の防御に使われれば、アーチャーの攻撃では突破できない事が証明された。
  征服王イスカンダルの胸の内に今まで以上に歓喜が湧きあがりそうになるが、それよりも前にアーチャーの怒りが周囲の空気を揺らす。艶やかな美貌からはあらゆる表情が削げ落ちて、ただ殺意のみを浮かべていた。
  「その汚らわしい手で、我が宝物に触れるとは――。そこまで死に急ぐか、狗ッ!」
  むき出しの殺意を言葉に乗せて言うと、アーチャーの背後に再び円形の黄金の輝きが生まれた。その数、実に十六―――。その全てから槍、剣、斧、槌、矛、そしてライダーには使い方の判らない奇怪な刃物が現れてバーサーカーに照準を合わせた。
  どれもこれもが痛烈な輝きを持ち、膨大な魔力を漲らせ、宝具である事を証明している。
  「そんな、馬鹿な――」
  マスターであるウェイバーの呟きは英霊がもつ宝具の『群れ』に対するものであるか。それとも、無数の武具の切っ先を向けられながら、全く動じずにアーチャーを見るバーサーカーと、間違いなくアーチャーの攻撃の射程範囲に入ってしまっていながら、こちらも動じずに腕を組んだまま動かない男を見たからか。
  周囲の喧騒を無視して、アーチャーはバーサーカーに向けて言い放つ。
  「その小癪な手癖の悪さでもって、どこまで凌ぎきれるか見せてみよ!」
  無慈悲な宣告と同時に十六の輝きから武具が放たれた。
  槍、剣、三叉鉾、斧―――。息もつかせぬ宝具の射出が、鋭い雨になってバーサーカーに突き刺さらんとするが。バーサーカーは迫りくる武器を掴み、叩き落とし、持ち直した武器で払い、避け、武器と武器とがぶつかり合う甲高い音をまき散らしながら応戦する。
  ライダーにはその全ての攻防がはっきりと見えているが、マスターであるウェイバーの目には文字通り『目にも止まらない』戦いだろう。
  ただし、ライダーの目には見えていても、それを全て避けたり迎撃できるかどうかはまた別問題だ。単純な剣技と言う点では自分よりもバーサーカーの方が勝っている。
  時間経過と共に武具の嵐は更に勢いを増していくのだが、それでもアーチャーの攻撃はバーサーカーには届かない。
  両刃の曲刀『ショーテル』、騎兵用突撃槍である『ランス』、それらが空を切り裂きながらバーサーカーに襲いかかり、バーサーカーはそれを全て迎撃する。
  フルプレートの鎧をまといながら、その重さを感じさせない俊敏さを見せつけ。敵の宝具をいとも容易く自分の手足のように操っている。一瞬すらかからずに取捨選択を行い、状況に応じて奪い取った武器を投げ、払い、捨て、全ての攻撃に対処した。
  大型の武器を掴みとれば、勢いに任せて後ろに押される事もあるが、それでもバーサーカーを傷つけるには至らない。
  これはアーチャーとバーサーカーによる殺し合い。しかし、息の合った舞のようにも見えるその戦いにこの場にいた全ての目が向けられる、ライダーもまた魅せられる一人だ。
  「あっ!」
  その呟きはすぐ隣にいるウェイバーのものだが、驚きのあまり出てきた叫びにはライダーも無条件で同意する。
  アーチャーの攻撃によって後ろに下がらされたバーサーカーが迫りくる武器を打ち払っているのだが、その内の一本―――バーサーカーが屈んで回避した槍が後ろに流れてしまったのだ。
  攻撃するアーチャーにとってバーサーカーに当たらぬ攻撃に意味はない。バーサーカーも避けた武器にはもう意味がない。しかし観戦する立場でその槍が向かう先に誰かがいたら問題に様変わりする。
  聖杯戦争に関わりが有るのか無いのかまだ推し量れないが、英霊に一歩も引かぬ在り方はライダーの好む気性だ。その男に向かって、アーチャーの槍が飛んでしまう。ライダーの目は、男の脳天めがけて飛来する槍の軌跡を捉えた。
  死ぬか?
  刹那の思考の後、ライダーは目の前で起こった出来事に感嘆の声をあげる。
  「ほう――。あ奴、中々やりおる」
  信じがたい事ではあるが、ライダーの眼前で男は組んでいた腕を解いた瞬間。飛んでくる槍の刃に右手の鉤爪をぶつけ、そのまま頭上に払ったのだ。
  ガン、と甲高い音を立てながら、力をなくした槍が空を舞う。まっすぐ向かってくる槍の力を逸らしたのでも、避けたのでもない。片腕一本で槍の突進力を完全に封殺し、アーチャーの射出を無力化してしまった。
  「え? あ、はっ!?」
  一瞬遅れて、ウェイバーの動揺が聞こえるが、ライダーは目の前で起こる神技を見るのに夢中でそれどころではない。
  アーチャーが新たに撃ち出した十六挺の宝具が止まると、道路の上には無傷で立つバーサーカーがいた。足元には打ち払い、捨て去り、避けたアーチャーの武具が無造作に散らばっており、それでも壊れていない道路と合わせて奇妙な粗雑さと作り出している。バーサーカーの右手には戦斧が、左手には剣が握られており、傷一つない様子と相手の武器を持ち、声なき姿が『それで終わりか?』と物語った。
  そしてアーチャーを仰ぎ見るバーサーカーの背後には、右手を上に掲げた姿勢で同じようにアーチャーを見る男の姿があった。こちらもバーサーカー同様に怪我はなく、肩に乗るうさぎもそのままだ。
  真空のような静寂がアーチャーとバーサーカーの間を行き来する中。最初に動いたのはアーチャーの宝具を弾き飛ばした男だった。
  倉庫街の壁から背中を離し、一歩前に出ながら両腕を合わせて印を組む。そして―――現れた時に聞こえた声を再び口にした。
  「鳳凰の舞!!」
  起こった変化は劇的だ。
  男が現れた時はライダーの剣:スパタで軽く払えばそれだけで散ってしまう貧弱な火でしかなかったが、同じ言葉で巻き起こった今度の炎は、同じ『火』に属しながらも次元の違う別物だ。密度、威力、速度、熱気、何もかもが最初と違う。
  炎の数、実に十六。アーチャーの宝具に対抗したのは間違いなく、男が生み出した炎は男の姿をそのまま模倣してアーチャーへと襲いかかる。
  炎の形が『殴りかかる格好』の男の姿そのものなので、ライダーは男が生み出した炎が命を持っているのではないかと錯覚してしまう。
  アーチャーが背後に生み出した十六の輝きに対し、男の形をした炎がそれぞれに向かう。ただの炎ならばアーチャーの宝具には傷一つ負わせられないだろうが、十六の炎は寸分の狂いもなくアーチャーが呼び出した円形の光に衝突し、ガラスが割れるような甲高い音をまき散らして消滅させてしまった。男の姿をした炎も一緒に消えたので痛み分けと言えるが、宝具を破壊する威力を作り出せたの技は驚愕に値する。
  男は更に言葉を続けた。
  「オーラキャノン!!」
  両足を大きく開きながら腰を落とし、両手を前に突き出しながら頭上にいるアーチャーに向ける。すると両手に白い輝きが収束し、それが極太の光となって放たれた。
  炎の余韻が収まる前の連続攻撃だ。アーチャーが撃ち出した宝具の速さと同等か、それ以上の速度をもって白い輝きがアーチャを狙う。
  ライダーはその輝きがアーチャーを射抜く姿を想像したが、アーチャーは街灯の上から跳躍してその輝きを避けた。
  一瞬でも遅れれば白い輝きに呑み込まれていたであろう刹那の回避。アーチャーの全身を包み込むほどの巨大な攻撃は、そのまま街灯を通り過ぎて消えてしまう。
  黄金の輝きも炎の明かりも白い輝きも全て消滅し。残ったのは攻撃を避けた為に道路に降りるしかなかったアーチャーのみ。
  だが傷一つないアーチャーにとっては『避けて地面に立つ』という行為そのものが憤怒の臨界を突破する理由になったようだ。眉間に刻まれたしわが、アーチャーの美貌を凶相に変えた。
 「痴れ者が――。天に仰ぎ見るべきこのオレに牙をむき、同じ大地に立たせるかッ!! そこの雑種もろとも消えるがよい」
  そう言うと、アーチャーは三度目となる円形の黄金の輝きを背後に浮かび上がらせた。その数はあまりにも多く、一見で数えるのは多すぎる量だ。
  五十には届いていないが、軽く見ても三十は超えている。まき散らす光は膨大で、夜に太陽が現れたのではないかと思える莫大な輝き空を埋め尽くしていた。当然、その一つ一つから武具が現れ、男とバーサーカーを射殺さんとばかりに向けられていた。
  アーチャーはどれだけ膨大な宝具を有しているのか? ライダーは咄嗟にそう思いつつ、この状況下にあってもなお、全く動じていない男とバーサーカーに感心する。
  バーサーカーは狂っているのだから『脅える』あるいは『構える』という人ならば見せる何らかの対処を忘れている可能性があるが、男はそうではない。
  直接向けられた訳ではないにもかかわらず、隣にいるウェイバーなど全身を震わせている。だが男はアーチャーの方を見ながら、両手を下に垂らしながら自然体を維持していた。
  「下手くそ」
  それどころか、ランサーに向けた暴言をそのままアーチャーにもぶつけた。
  「な、に――?」
  攻撃の前に言葉が出たのはまさかそんな悪口を言われるとは思ってもなかったからだろうか? アーチャーは背後に黄金の空を背負いながら、憤怒の表情をそのままに男を見ていた。
  「聞こえなかったか? お前がそいつに当てられずに外すからこんな羽目になってるんだろうが。全弾命中させる技術が無い上に、他を巻き込むなら、ただ迷惑なだけだ。修行して出直して来い。これでもまだ加減した『鳳凰の舞』と『オーラキャノン』だ、ここで留めてやったのをむしろ感謝しろ。全力でやれば避ける間もなく脱落してたぞ」
  不遜な態度には見えなかったが、それでも男がアーチャーを挑発しているのは確実だ。
  元々、凶相を浮かべるアーチャーの顔に大きな変化は見られなかったが、その代わりに爆発した怒りを表すように円形から新たな輝きが生まれた。
  男は、最初の炎は手加減されたモノで、今も全力ではないと豪語した。アーチャーが武人かどうかは難しい所だが、敵に手心を加えられて怒らぬ者はいない。
  空を照らす光は変わらなかったが、そこから撃ちだされようとする武具の数が増していった。その数は円形よりも多く百に届いているかもしれない。
 「雑種。オレに対してその暴言――、挑発には死を以て遇するぞ」
  「そっちから巻き込んどいて何を今更。そういうのは『自業自得』って言うんだぞ、覚えとけ」
  一瞬後にはアーチャーの攻撃が行われてもおかしくない。そして空を埋めすくすほどの武器ならば、男とバーサーカーだけではなく、『流れ弾』でこちらにも被害が出る可能性が高い。
 これまでアーチャーとバーサーカーの攻防を観戦していたが、攻撃範囲が広がるのならば強制的に戦線加えられる事になる。ライダーは片手でスパタを、もう片方の手で神威の車輪ゴルディアス・ホイールの手綱を握りしめる。
  ライダーにとっては望まぬ展開ではあるが。状況によってはアーチャー対他全員という構図にもなりかねない。セイバーもランサーもまた同様に自分達の武器を握りしめ、アーチャーの攻撃に備えていた。
  すると何があったのか―――これまで男とバーサーカーに向けて憎悪の眼差しを向けていたアーチャーが、敵のいない方向に視線をやったのだ。光に照らされながらもそこには夜の闇しかない。だが、アーチャーはその方角に向けて、忌々しげに口元をひくつかせた。
 「貴様ごときの諫言で、王たるオレの怒りを鎮めうと? 大きく出たな、時臣・・・」
  どうやらここにはいないアーチャーのマスタ―。始まりの御三家の一つである遠坂の当主『遠坂時臣』がアーチャーに攻撃を止めるよう指示を出したようだ。
  アーチャーは押し殺した声で吐き捨てると。背後に現れた莫大な円形の輝きも、バーサーカーによって地面に横たわった無数の宝具も、今にも撃ち出されそうだった数々の武具も、その全て消し去ってしまう。
  空の闇に解けてゆく黄金の粒子。五秒も経たず、爆発的な光が消えて闇が夜の暗さを取り戻す。
  ただいるだけで傲岸不遜にして唯我独尊を体現する男が攻撃を止めたのだ、遠坂時臣は単なる言葉だけではなく令呪を使って命令したと思われる。
  「命拾いをしたな、狂犬共。だがな雑種、次にまみえた時、語る間もなく貴様は死ぬ。覚えておくがよい」
  今だに凶相を浮かべたままのアーチャーだが、場を見回す真紅の目からは殺意の炎は消えている。武器を収めたのも戦う意思のない表れであろう。
  アーチャーはぐるりとここに集う全てのサーヴァントを見回すと、今、自分が見た何もない方角へと歩き出して、こちらには背を向けた。
 「雑種ども。次までに有象無象を間引いておけ。オレとまみえるのは真の英雄のみで良い」
  実体化を解き、黄金の甲冑を纏ったアーチャーが質感と輪郭を失ってゆく。あっという間に残滓だけとなり消えてしまう。
  誰一人として予想しなかった形で黄金のサーヴァントは姿を消し、呆気なくアーチャーとバーサーカーとの戦いは終結してしまった。けれど、この場にはアーチャーの宝具の射出に晒されながら、無傷で切り抜けたバーサーカーがいる。そして、まだ健在のサーヴァントが四騎いる。戦いそのものが終わった訳ではない。
  「フム。どうやらアレのマスターは、アーチャー自身ほど剛毅なたちではなかったようだな」
  軽口を叩きながらもライダーの意識は面妖な技で英霊に対抗する男へと向けられていた。
  誰が動くにせよ、今の状況で戦いの中心になるのはあの男かバーサーカー、あるいは両方だ。動きを見せるとしたらセイバーやランサーよりもあの二人に注意を向けるべきである。
  「アア・・・、アアアアアアアアアア!!!」
  ライダーの思惑に呼応するようにバーサーカーの雄叫びが周囲に響き渡る。そして煙に似た黒い魔力をより強く放出し、距離で言えば近くにいる男やライダーの方が近いにも関わらず、一直線にセイバーへと向けて駆けだした。
  その両手には、アーチャーが消した筈の戦斧と剣がしっかりと握られており、葉脈のような黒い筋に覆われていた。



  ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆



  Side - 間桐雁夜





  雁夜は現在、ゴゴの肩の上に乗っているミシディアうさぎの目を通して戦場を眺めていた。
  バーサーカーの力がアーチャーの攻撃手段に非常に有効だと判ったのは大きな収穫だ。アーチャーを殺せなかったのは残念だが、初めて見ただけで『こいつは誰の命令も聞かない』と思えるサーヴァントが撤退した状況こそが、遠坂陣営の戦略の一端を教えている。それもまた収穫であろう。
  既にゴゴによって遠坂時臣と言峰綺礼が組んでいるのはほぼ確実だと明かされており、アーチャーに殺された筈のアサシンがしっかり残っている事も判っている。
  間違いなく時臣はアーチャーに対して令呪を使った。サーヴァントに対する絶対命令権を行使してでも戦いを止めたのは、アーチャーの力だけでは勝てないと判断したか、あるいは聖杯戦争の常道である情報収集を優先させたかだろう。
  アサシンが遠坂陣営に味方しているとなると、隠密に長けたサーヴァントが情報を仕入れ、時臣はアーチャーをひたすら温存する構えなのではなかろうか?
  これは単なる予想だが、雁夜は時臣と同じく始まりの御三家の一人だ。聖杯戦争の進め方では他のマスターよりも予測を立てやすい。
  間桐雁夜は考える。セイバーに向かって暴走したバーサーカーに魔力を吸われながら考える。
  サーヴァントを現界させる為にも魔力は消耗され、全力でセイバーを殺そうとしているバーサーカーに吸われる魔力は通常よりもかなり多い。けれど、この感覚は、魔石を使って幻獣をこの世に呼び出し続けるのによく似ていた。
  バーサーカーは魔力消耗の激しいクラスだと事前に予備知識があったが、これならば魔石を使い続けているのと大差はない。
  飛空艇を隠し続ける為に魔石『ファントム』を使い続けたのは今となっては懐かしい思い出だ。雁夜にとってはこの一年で慣れ親しんだ感触なので、苦しくはあったが決して耐えられないモノではない。遠坂陣営の戦略を考える余裕もある。
  昔の自分ならば、起こった状況からここまで推理するなどありえず。ただひたすらに遠坂時臣へと怒りを衝動に変えていたに違いない。そしてバーサーカーの暴走に魔力を吸い出されて、あっという間に限り合う魔力を枯渇させただろう。
  だが今の自分は違う。
  「これがお前の願いなのか、バーサーカー?」
  聞こえているかどうか判らないが、ここにはいないサーヴァントに向けて話しかける余裕があった。ゴゴの肩の上にいるミシディアうさぎの目で戦場の様子を見つめながら、自分の腕の中にいるミシディアうさぎの毛並みを確かめる事も出来た。
  バーサーカーの手にはアーチャーが射出した宝具がある。敵の武器を奪えたと言う禍々しい情念が雁夜の内側から湧き出そうになるが、雁夜が背負っている魔剣の方が強力に見えたので、一気に萎える。
  何故、ゴゴがあそこまでアーチャーを挑発したのかは判らないが、何か策あっての事なのだろう。どの道、遠坂陣営がこの場から退散してしまった以上、雁夜が出来る事はほとんどない。
  正直に言えば、さっさと撤退したい所なのだが、バーサーカーの暴走はマスターとしての雁夜の制御を上回っており、命じても退く気配がない。
  それだけセイバーを恨んでいるのか?
  それほどまでに憎み、殺したい相手なのか?
  憎悪だけに明け暮れた一年前の自分を見ているような気分だ。
  仕方なく、バーサーカーの力を確認する為、とあまりにも弱すぎる理由をたてに、サーヴァントへの魔力供給に意識を集中する。意識して放出を抑えた魔力がバーサーカーの行動のみに使われていった。
  「魔力が少なくなるか、形勢が不利になったら令呪を使ってでも撤退させる。それまでは好きに暴れろ、バーサーカー」
  狂ったサーヴァントに返事が出来るのか判らないが、それでも雁夜は遠い場所で戦う己のサーヴァントに向けてそう告げる。





  バーサーカーの戦いぶりは同じ騎士であるセイバーに比べれば確かに狂っていると言われても仕方がなかった。そして、顔は見えないが、兜のスリットから見える紅い光と、言葉を交わす気の一切ない様子は『狂戦士』の名に相応しい。
  けれど己のサーヴァントの戦い方を見て雁夜は気付く。バーサーカーは狂っているが狂っていない。人としての対話や応対に観点を置けば、確かに狂っているかもしれないが、バーサーカーに刻み込まれた騎士としての戦い方は何一つ色あせていないのだ。
  むしろバーサーカーというクラスを得た事によって、枷が外れたと言ってもよかった。そこには加減とか躊躇とかそういう類のモノはなく、ただ一人の騎士として敵を滅ぼさんとしているだけだ。
  自分もまたこの一年で剣を使う戦士になろうとしていたから、バーサーカーの強さがよく判る。
  漆黒のフルプレートを纏いながら、野獣のごとき勢いと騎士としての強さを同居させた苛烈さ。ゴゴにものまねされた宝具とは別の宝具によって、アーチャーの宝具を奪い取り、右手の戦斧と左手の剣でセイバーを追い詰めている。
  人の形をした英雄―――。ゴゴとは別の意味で雁夜には到底辿り着けない高みにバーサーカーはいた。
  雁夜はミシディアうさぎを介してそれを見ながら、バーサーカーとセイバーが対し、他全員が観戦に回っている状況を思う。
  別の誰かに変身したゴゴはアーチャーに対して攻撃したが、あれは向こうがゴゴに攻撃しようとしたからこそ起こった例外だ。今はバーサーカーを登場させた時と同じように倉庫街の壁まで戻って事態を見守っている。そして突然始まったバーサーカーとセイバーの戦いをランサーとライダーが観戦しているのも見えた。
  邪魔する者はいない、限界まで思う存分戦え。雁夜は声に出さなかったが、心の中だけでバーサーカーに声援を送る。その間にも魔力をどんどん吸われているのだが、まだ限界には遠い。
  そうこうしている内に、バーサーカーの攻撃によってセイバーが徐々に追い詰められていく。どうやらセイバーは左手を負傷しているらしく、見えない剣を扱う精彩を欠いているようだ。ゴゴがこの場に到着する以前、ランサーとの戦いで傷ついたのだろう。
  「いける・・・か?」
  誰に聞かせるでもなく独り言を呟くと、雁夜の言葉に呼応したようにバーサーカーの戦斧が横からセイバーの顔を薙ぐ。
  一瞬だけ左手を気にしたセイバーの隙をついた渾身の一撃だ。不可視の剣を防御に回して間に合ったとしても、顔の一部を抉り負傷させられるだろう。
  が、突然セイバーとバーサーカーの間に割って入ったランサーによってバーサーカーの一撃が阻まれる。ランサーが右手に持つ真紅の長槍で戦斧を上に跳ね飛ばして、セイバーを守ったのだ。
  バーサーカーの宝具によって支配権を強奪された武器を跳ね飛ばしたなら、おそらくあの紅い槍は宝具の強制力を排除する効果を持っているのだろう。アーチャーが消した宝具と同じように虚空へと消えて行く戦斧を見ながら、雁夜はランサーの宝具の力の一端を知る。
  「悪ふざけはその程度にしておいてもらおうか、バーサーカー。そこのセイバーには、この俺と先約があってな。これ以上つまらん茶々を入れるつもりなら、俺とて黙ってはおらんぞ」
  「ランサー・・・」
  ミシディアうさぎを通して戦場の声が雁夜にも聞こえるが、ランサーの呟きを聞いた瞬間、『何様のつもりだお前は』と考えた。
  セイバーとランサーが戦い、その状況下にライダーもアーチャーもバーサーカーもゴゴも乱入した。この事実は否定しない。だが、これは聖杯を求める七人のマスターと、彼らと契約した七騎のサーヴァントがその覇権を競う殺し合いだ。
  決して共感できない生き方だが、確かに『騎士道』という観点から見ればランサーの言い分は正しいだろう。だが、それは騎士道の生き方を貫き通せる強者の言い分であり、そんな生き方を選べない弱者には関われない世界である。
  何故、わざわざお前たちの勝敗を待ってやらなければならないのか?
  そんなに決着をつけたかったのならば、邪魔者が割り込む前に決着をつければよかっただろうに。
  世界は自分達を中心に回っているとでも表いるのか?
  こちらがそっちの流儀に合わせてやる義理はない。
  状況を全て支配する神にでもなったつもりか?
  雁夜はランサーの生き方と、それに感激しているようなセイバーに苛立ちを覚える。故に、続けて戦場に聞こえてきた言葉には絶対的な賛成とまでは行かずとも、容認して同意できる部分が多々あると思えた。
  「何をしているランサー? セイバーを倒すなら、今こそが好機であろう」
  それは姿を見せないランサーのマスターの声だ。
 「セイバーは! 必ずやこのディルムッド・オディナが誇りに賭けて討ち果たします! そこな狂犬めも先に仕留めて御覧に入れましょう。故にどうか、我があるじよ。この私とセイバーとの決着だけは尋常に――」
  「ならぬ」
  姿の見えぬランサーのマスターとサーヴァントのやり取りは主従の信条の食い違いを明確に現していた。どちらかと言えば雁夜はランサーのマスターに近い思考なので、バーサーカーに『様子を見ろ』と指示を出す。
  マスターである雁夜の言う事を聞いてくれているのか、それとも武器が一つになった上にランサーの真紅の槍を突きつけられて動きづらいのか、バーサーカーは戦斧を失った時から沈黙を保っていた。
  するとランサーの嘆願を断ち切る命令が下される。
  「令呪をもって命ずる――。ランサーよ、バーサーカーを援護して、セイバーを殺せ」
  そこからの変化は劇的であった。
  ランサーは望む望まざるとに関わらず、令呪というサーヴァントに対する絶対命令権の強制により、ランサーはそうしなければならなくなった。
  左手に持つ黄色い短槍を背後にいるセイバーに向けて突き、セイバーはそれを後ろに下がって避ける。ランサーは怒りと屈辱で歪んだ悲痛きわまりない表情を浮かべており、バーサーカーは脅威が無くなったと判断したのか、ランサーの隣に並び立って右手にアーチャーの剣を持ち替え直す。
  「アイリスフィール、この場は私が食い止めます。その隙に――、その隙に、せめて貴女だけでも離脱してください。出来る限り遠くまで!!」
  「大丈夫よセイバー。あなたのマスターを信じて」
  どうやらセイバーのマスターと思わしき女性にはランサーとバーサーカーを相手にしながら、それでも状況を打破できる秘策があるようだ。貴人としての気品を漂わせる彼女の姿はどうにも殺し合いである聖杯戦争に相応しくない雰囲気を感じてしまうのだが、あれが雁夜の―――というより現段階、バーサーカーの邪魔をするならばただの敵である。
  繰り返すが、雁夜はここで他のサーヴァントと戦う意義を見出していない。セイバーとランサーが体現しようとする『騎士道』に若干の苛立ちを覚えているので、私怨で二人のサーヴァントを殺したいとは思うが、本命の遠坂陣営が既にここから消えているのでわざわざ消耗しなくてもよい。
  バーサーカーの性能確認と、雁夜が消耗する魔力の確認。そしてサーヴァントである彼がそうしたいからそうしているだけだ。たとえ敵が女性であろうと、立ちふさがるなら容赦しない。
  ランサーとバーサーカーがセイバーに襲いかかる正にその瞬間―――。
  「アァァァラララララィッ!!!」
  周辺を埋め尽くす大音響が響き渡った。
  「避けろ! バーサーカー!!」
 ランサーとバーサーカーの二人めがけて突進するライダーの戦車チャリオットを見た時、雁夜は暗がりに潜んでいる事実を忘れて大声で叫んでしまった。
 しかし、令呪を用いた訳ではない単なる言葉ではバーサーカーの攻撃は止まらない。ランサーは咄嗟に向かってくる戦車チャリオットに気付き、跳んで逃げたが、バーサーカーは強烈な攻撃を思いっきり受けてしまった。
 二頭の神牛によって踏み倒され、続く後ろ脚でも踏み潰されるバーサーカー。ライダーが戦車チャリオットを急停止させて反転させる頃には、過ぎ去った跡に力無く転がる己がサーヴァントの姿があった。
  ライダーがそんなバーサーカーに声をかける。
  「ほう? なかなかどうして、根性のあるヤツ」
  ライダーの宝具による蹂躙劇を直接受けながら、それでもバーサーカーは健在だ。けれど、立ち上がれない深刻なダメージを負ったようで、起き上がろうとしながら叶わず、地面に這いつくばっている。
  「ァァァァァ――、ァァァァァ!!」
  弱々しく痙攣しながらも、尽きる事のない怒りをまき散らすバーサーカー。雁夜はバーサーカーがまだ現界できている事実に安堵しながら、マスターとして命じる。
  これ以上の戦いは不可能だ。と。
  「退け、バーサーカー。仕切り直すぞ」
  すると、バーサーカーもまた今の状態ではセイバーを倒せないと判断したのか、黒い粒子となって消えてゆく。霊体化して退散したのだ。
  雁夜はミシディアうさぎを通してその状況を見ながら。とりあえずあの場は残ったゴゴに任せればいい、と考える。
  英霊に狙われたら自分一人ではどうしようもないので、まず優先すべきは守護者としてサーヴァントを復帰させる事だ。自分の所に戻って来た黒のサーヴァントの気配を感じながら、雁夜は急いで治療を施す。
  「実体化しろ、バーサーカー。魔力供給は休まないと無理だけど、体の怪我はここで治すぞ」
  雁夜の言葉に合わせ、黒い騎士の姿が目の前に浮かびあがる。雁夜は両手で抱えていたセクスを一旦地面に降ろし、顔を覆っていたフードを取り払いながらバーサーカーに両手を向けた。
  サーヴァントの実体化で魔力がかなり吸われていたが、ゴゴから習った軽い回復魔法をかける位ならば問題はない。
  自力で戦う力の温存と、バーサーカーを完全復活させるとすぐにセイバーの元に向かうであろう危険性。そしてマスターを守るサーヴァントとしての戦力。これらを計算して回答を導き出す。
  選ぶのは全回復でも大回復でもなく小回復させる魔法だ。全快させたら、またセイバーに挑みかかるだろうから、そうなっては雁夜の魔力が吸い尽くされてしまう。
  「ケアル――」
  バーサーカーの地肌は鎧に覆われて見えないが、フルプレートの鎧の内側に負った怪我が治っていく感触が魔力を通して伝わってくる。
  見れば、バーサーカーの右手にはまだアーチャーから奪った宝具の剣が握られており、バーサーカーの戦力増強を教えていた。元々が敵の宝具とはいえ、武器が得られたのも情報と合わせて大きな収穫であろう。
  アーチャーとバーサーカーが撤退し、残った戦場で三騎のサーヴァントは何をするのか? 見る余裕がないので、後でゴゴに話を聞こう。雁夜はそう思った。



  ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆



  Side - ゴゴ





  肩の上に乗っているミシディアうさぎ、数字の『2』が帽子に描かれたジーノを介して、さっきまで雁夜が状況を見ていたようだ。しかし、今は繋がりが切れているので、バーサーカーの治療を行っていると思われる。
  もしゴゴが雁夜の傍に居れば、覚えさせた魔法の一つ『アスピル』を使って魔力を吸わせて簡単に回復できるのだが、今は離れているので叶わない。
  ただ、バーサーカーが傍にいるだろうし、危機察知能力はここ一年で格段に跳ね上がったので、放置しても大丈夫だろう。気を取り直しながら、かつて一つの世界を救う為に旅した仲間『マッシュ』の姿をしたゴゴは、戦場の状況を観察する。
  「と、まぁこんな具合に、黒いのにはご退場願ったわけだが――」
 バーサーカーが姿を消した後、ライダーが戦車チャリオットの上から空に向けて呼びかけている。
  「ランサーのマスターよ。どこから覗き見しておるのか知らんが、下衆な手口で騎士の戦いを穢すでない――などと説教くれても通じんか。魔術師なんぞが相手では。ランサーを退かせよ。なおこれ以上そいつに恥をかかすというのなら、余はセイバーに加勢する。二人がかりで貴様のサーヴァントを潰しにかかるが、どうするね?」
  状況によっては乱戦になってもおかしくなく、この『マッシュ』もまたアーチャーと戦った時と同じように巻き込まれる可能性はあった。バトルフィールドを張らずに全力全開の鳳凰の舞など放ったら、この一帯が焦土になるし、まだ全てのサーヴァントの宝具を見てないので、戦う気はあっても倒す気も負ける気もなかった。
  けれど、バーサーカーの暴走によって事態は二対一を繰り返した。最初はランサーとセイバーでバーサーカーの相手して、次はバーサーカーとランサーでセイバーの相手をして、その次はライダーとセイバーでランサーを相手にする状況が生まれた。各サーヴァントの思惑と令呪が絡み合って混沌の坩堝である。
  時間経過と共に状況は刻一刻と変化しているのだが、わざわざ自分が関わらなくてもよい状況がどんどん出来上がるのは喜ばしい限りだ。
  そもそも彼ら聖杯戦争に参加するサーヴァントにとって明確な敵は、敵対するマスターとサーヴァントであってこちらはまだ『正体不明の何者か』という立ち位置を崩していない。使い魔どもに間桐邸から出た所を見せたし、無機物を壊せなくなる結界も張ったし、必殺技を二つ使って力も少しだけ見せた。少なくとも『ただの一般人』とは思われていない筈だが、令呪のない自分はマスターではないし、サーヴァントでもない。
  ならば、明確な敵よりも優先順位が後になるのは当然である。最初の一回は別にして、こちらから強力な攻撃を仕掛けなかったのも、静観を許されている理由の一端だろう。
  「・・・・・・撤退しろランサー。今宵は、ここまでだ」
  虚空からランサーのマスターの声が聞こえてくるが、令呪と言う聖杯との間に繋がりを持ったマスターの位置は見ずとも大体判る。サーヴァントほど強烈な気配ではないので、見つけるのに難儀するが、近くにいて意識すれば闇の中の光に同然だ。
  必死に魔術で隠れているようだが、近くの倉庫の屋根の上から周囲を観察しているのがばればれである。倒すつもりがないので好きにさせているが、『どうぞ狙って下さい』と言わんばかりの位置に陣取るとは、馬鹿なんじゃなかろうか。
  自分の魔術に絶対の自信があるのか、それとも戦いや殺し合いに不慣れな者か、自分が狙われる立場にいる事を判っていない愚者か? 何にせよ、ランサーを退かせてくれるならばゴゴにはありがたい。まだまだサーヴァントもマスターも見物し足りないのだ。
  目の前で戦うサーヴァント達はやはり『英雄』なのだと改めて思う。ゴゴは状況を見るだけに止め、攻撃したのは最初の一回とアーチャーに対する反撃のみで、今は両手に装備されたタイガーファングを構えてもいない。
  彼らは攻撃する意思の持たぬ者を攻撃しようとはしてこない。つまり今の自分だ。
  この高潔さこそが彼らを『英雄』にしているのだろう。特にセイバーとランサーはそれが顕著だ。かつて旅した世界のモンスターではこうはならない、彼らの場合は出会った瞬間に誰であろうと殺し合いになってしまう。
  もっとも、この『英雄』の気高さを戦いに持ちこめて、ゴゴが数ある戦いの多くを目撃できたのはバーサーカーの活躍があってこそだ。雁夜にもバーサーカーにもそんな意図は無かったかもしれないが、状況をここまで引っ掻き回してくれたおかげで不用意な戦いを行わずに済んだ。色々な戦いを観戦できた。
  バーサーカーがいたからこうなってくれた。
  自分一人だけではほぼ確実にどれかのサーヴァントと戦う羽目になっただろう。この場合、最も確率が高いのはアーチャーで次点が最初に挑発したランサーである。
  マッシュの力ならば撤退したアーチャーを含めて、この場に集ったサーヴァント達を全て相手に出来る自信はある。まだ見ぬ宝具を展開されたとしても、だ。
  けれど、ゴゴにとってはこちらから積極的に関わるのは本意ではない。どうせ最後に聖杯戦争そのものを破壊するとしても、まだ見てないサーヴァントはいるし、まだまだ物真似出来そうな宝具を見物してないし、遠坂時臣を引きずり出す為に他のマスターとサーヴァントの存在は必要不可欠だ。
  ゴゴにとっては『観戦』の果ての『ものまね』こそが最優なので、バーサーカーにはどれだけ感謝してもし足りない。ほんの一時だが『桜ちゃんを救う』という最初の目的を忘れてしまいそうになるほどの歓喜が心の中で暴れまわる。
  喜びを噛みしめながら見ると、セイバーを殺せという令呪の縛りが消えたようで、ランサーが二本の槍の切っ先を降ろすのが見えた。
  「感謝する――。征服王」
  「なぁに、戦場の華は愛でるタチでな」
  笑みを返すライダーと、すまなそうにしながら霊体へと転移して退いていくランサー。一瞬、セイバーの方を見て、『決着は、いずれまた』と目で語ったようだ。
  アーチャーが去り、バーサーカーが消え、ランサーも撤退し、残るサーヴァントはライダーとセイバーの二人だけ。ただし、デリッククレーンの上にアサシンと思わしきサーヴァントがいるので、まだまだ見物のし甲斐がある状況だ。
  黙って見ていると、セイバーがライダーに話しかける。
  「結局、お前は何をしに出てきたのだ? 征服王」
  「さてな。そういうことはあまり深く考えんのだ。理由だの目論見だの、そういうしち面倒くさい諸々は、まぁ後の世の歴史家が適当に理屈をつけてくれようさ。我ら英雄は、ただ気の向くまま、血の演るまま、存分に駆け抜ければ良かろうて」
  「・・・それは王たる者の言葉とは思えない」
  「ほう? 我が王道に異を唱えるか。フン、まぁそれも必定よな。すべて王道は唯一無二。王たる余と王たる貴様では、相容れぬのも無理はない。いずれ貴様とは、とことんまで白黒つけねばならんだろうな」
  「望むところだ。何となれば今この場でも――」
  そう言うと、セイバーは見えない剣を構えた。どうやら風を剣に纏わせて不可視の剣を作り出しているようだが、透明化の魔法『バニシュ』に比べれば、見えなくするという点では少々劣る。
  風なので他にも使い道があるだろうから、あれが宝具ならその『別の使い道』に期待するしかない。
  するとライダーは剣を向けられながらも堂々と言い放った。
  「よせよせ。そう気張るでない。イスカンダルたる余は、けっして勝利を盗み取るような真似はせぬ。セイバーよ、まずはランサーめとの因縁を清算しておけ。その上で貴様かランサーか、勝ち昇ってきた方と相手をしてやる」
  相手が万全の状態で正々堂々と戦う。何とも潔い生き方だ。今のところゴゴの興味はサーヴァントの宝具と、他のマスターの魔術に重きを置いているが、状況によってはあのライダーをものまねするのも面白いかもしれない。
  「では騎士王、しばしの別れだ。次に会うときはまた存分に余の血を熱くしてもらおうか」
  ライダーはそう言うと、手綱を握り締めて撤退の準備を進めた。どうやら、この場で自分と戦うような真似はせず、宣言した通りにセイバーとランサーとのどちらかと戦う算段らしい。
  「おい坊主、貴様は何か気の利いた台詞はないのか?」
  隣にいるライダーのマスター。虚空から聞こえてきたランサーのマスターの言葉が正しければ『ウェイバー・ベルベット』という名前らしいが、その少年からの応答はない。
  ライダーが襟首を掴んで御者台から持ち上げてみると、少年は白目をむいて気絶していた。どのタイミングで気絶したかは見ていなかったので判らないが、戦いの場に出てくるには少々経験不足だったのではないかと心配になる。
  「・・・もうちょっとシャッキリせんかなぁ、こいつは」
  すると、自分のマスターを御者台に下ろしながら、ライダーがこちらを向く。
  武器を手にしてないので戦う気が無いのは判るが、この状況で何の用か?
  「お主、これからも我らの戦いに関わるつもりであろう」
  「当然だ。お前らにこの街を壊されちゃ堪らないからな、見つけてこの結界の中に閉じ込めてやるから覚悟しておけ。それから、結界には出たり入ったりの制限はないから、出ようと思えば簡単に出られるぞ」
  「ほう? そいつは何とも面白い。ますます余の臣下に加えたくなったわい」
  かつての仲間たちと出会った瞬間に同行したゴゴが考えるべき事ではないかもしれないが、敵か味方もまだ判別できていないだろう相手をいきなり勧誘するのはどういう神経をしているのか。
  どんな相手であろうと自分の中に取り込もうとする―――。それがライダーこと征服王イスカンダルの器の大きさかもしれない。
  「ならば我が雄姿をその眼に収めるがよい。いずれ、お主の方から申し出るのを楽しみにするとしよう」
  そして相手がだれであっても『王様』としての自分の生き方を崩さないのだ。もし、かつての世界にこんな男がいたら、ケフカに三闘神の力を奪われて世界を壊されかける何て事はなかったかもしれない。
  言うだけ言って満足したのか、ライダーは再びセイバーの方に視線を向け、もう一度こちらを向いた。
  そして雄々しい二頭の牛に合図を出す。
  「では、また会おうぞ――さらば!」
 道路から空へと舞い上がっていく戦車チャリオット。その雄姿は見ているだけで中々爽快だ。
 普通に考えれば信じがたい事なのだが、あの戦車チャリオットは空を飛んでいるのではなく駆けている。二頭の牛、いや、雷牛が雷を生み出して、それを土台にして空を走っているので間違いない。
  現代の航空産業に真正面から喧嘩を売っている飛行宝具だが、あれは今はまだ空を舞えないゴゴの新しい境地になる切っ掛けだ。『空に展開される魔法の上に乗る』という構想が目の前で行われたので、後は『ものまね』して試せばいい。
  また一つ得るモノがあった。心の中だけで嬉しさを噛みしめ、ふと残ったセイバーに自分が攻撃したらライダーはどうするつもりだったのか? と考える。
  おそらくセイバーと戦う気が無いのを完璧に見抜かれ、撤退しても問題ないと看破されたのだろう。だからこそ、あれだけ堂々と退いたのだ。
  さすがは世界の半分を征服して、誰よりも戦いに明け暮れた征服王イスカンダル。人を見る目は透視の領域に達している。
  残るはセイバーとその同行者―――。マスターのふりをしているが、聖杯とマスターとの繋がりは白い女からは感じられないので、別の場所でこちらの様子を見守っている誰かが本当のセイバーのマスターだろう。
  念の為、透明にしたミシディアうさぎに見張らせているので、間違いない。
  壁から背を離してセイバー達の方を見ると、見えない剣を構えてこちらを警戒していた。
  「さて・・・・・・、セイバーとかいったな」
  今の所、ゴゴにセイバーと戦う意思はない。むしろサーヴァント同士の戦いが意外な形で終局へと向かってくれて感謝したいぐらいだった。よくぞ、バーサーカーに攻撃されてくれた。と。
  ただし、セイバーと殺し合う気は無くても、舌戦する気はあった。過去の英雄がどんな人物であるか知るには良い機会である。
  「お前はこの惨状を償う気があるのか? これだけ壊しておいて、『私には関係ない』とか言って退散するつもりじゃないよな?」
  ゴゴは相手に問いかけを行いながら。一年前の自分ならば絶対に言わないであろう言葉に戸惑いを感じていた。
  かつて旅した世界は殺伐とした世界で、モンスターが普通に徘徊して街の中も退廃と堕落が普通に蔓延していたので、物が壊れる方が当然だった。ものまね士ゴゴとして旅に同行していた時は物真似するのに忙しかったから、物が壊れようと人が死のうとあまり気にしなかったが、この世界で過ごしてから自分は少し変わった。
  たとえ殺し合いの渦中になると判っていたとしてもこの穏やかな地方都市で、一年過ごしてしまったからだろうか?
  その間に毒されてしまったのか?
  命を奪う戦いから離れすぎたか?
  この街には戦前までの日本にあった『物を大切にする教育』が行き届いている箇所が多く、間桐臓硯としてこの街の中を色々渡り歩いた自分がその影響を受けた。この変化が悪いとは言わないが、戸惑いは感じてしまう。
  もしかしたら、桜ちゃんと接する事で『物を大切にする』と教える為、ゴゴ自身もまたそう意識して過ごすようになったのかもしれない。
  「何かを成し遂げる為に――犠牲は避けられない」
  「答えになってないぞ。答えないならお前は償う気が無いと判断するぞ」
  「・・・・・・・・・」
  聖杯戦争で戦うのは英霊であり魔術師だ。故に物が壊れるのは当たり前であり、今更『物が壊れるから戦いません』等と言いだす者は一人もいない。
  それに聖杯戦争で起こった騒動は表の世界に知られぬよう、聖堂教会から派遣された監督役が後始末と証拠隠滅を行うのが決まっている。今回の倉庫街の破壊も何らかの理由が付けられて、事実を捻じ曲げて表の世界で納得される状況に作り替えるだろう。
  セイバーに限らず、英霊ならば戦って周囲に被害をまき散らしたなんて事態は一度や二度では済まない。そのたびに申し訳ないと思ったかもしれないが、彼らは決して戦いを止めなかった。だから彼らは『英霊』なのだ。
  セイバーが改めて聖杯戦争と英霊としての『常識』を問われ、言い淀んだのだとゴゴには判っていた。もし後ろにいるセイバーのマスターを装っている女に同じ質問を投げても、きっと答えられないだろう。何故ならこの問いかけは聖杯戦争に参加するマスターとサーヴァントの戦いからは逸脱した問題なのだから。
  ただしゴゴにはそんな事情は関係ない。
  かつて旅した世界で、ゴゴは周囲に迷惑をかけないで戦う術を得ていた。だから、それを材料に英霊よりこちらが格上だと思い知らせる事が出来る。
  一年間、間桐邸で過ごした事で性格が悪くなった気がしたが、とりあえずそれは余所に置く。
  「自分達を優先させて、この地に生きる者達の都合は無視か。自覚がない所はケフカよりタチが悪いな。とんだ暴君様だ――」
  侮蔑を隠そうともせず、セイバーに向けていうと、『暴君様』の辺りでセイバーの顔に怒りが滲んだ。
  それでも、自分達が仕出かした惨事は目に見える形で周囲にあり、ゴゴがバトルフィールドを展開する前の破壊がしっかりと残っている。これは間違いなくセイバーの引き起こした損害である。
  だからセイバーは何も言わなかった。いや、言えなかった。
  これでは止める気もなく、むしろ何度でも来い、と言わんばかりに宣言したライダーの方が潔い。どうせ、聖杯戦争が終わるまで他の被害など関係なく戦うのは判っているのだから、せめて『聖杯を得る為にどんな犠牲もいとわない』と即答できる位の気概を見せてほしかった。
  これが高潔であるが故のセイバーの限界であろう。
  ためらいを一瞬でも見せた時点で戦う者として減点だ。けれど、聖杯戦争の事情を知りながら、知らぬ風を装って問いかけるのは少し反則かな、とは思う。
  それでも口撃は止まらない。
  「精々、好きに暴れればいいさ。勝手に殺し合って勝手に死ね、犯罪者共が」
  ゴゴはそう言いながらセイバーと白い女性に背を向ける。
  セイバーが真に『騎士道』を体現する者ならば、まさか背後から敵か味方も定かではない者を斬りつける訳がない。激昂して斬りかかってくればそれはそれで面白いが。ゴゴの予想通り、攻撃はなかった。
  これ以上この場にいても戦いはもう起こらないので、留まる価値はない。話せば得られるモノがあるかもしれないが、近くから見られてる状態で話し続けるのは気疲れするのでこれ以上続けたくなかった。
  左手につけたアクセサリ『ダッシューズ』の力を使い、ゴゴは全力でこの場から退散する。ついでにバトルフィールドを解除しておくのも忘れない。
  走り出すと同時に背後からセイバーと思わしき誰かの声が聞こえたが、無視して一気に駆けだした。





  ただ走る場合と、アクセサリ『ダッシューズ』を装備して走る場合とでも、駆ける速さに変化はない。よって、短い距離なら『ダッシューズ』を装備する意味は全くないのだが、遠距離になると多大な効力を発揮する。
  その効力とは、このアクセサリを装備している限り、どれだけ全力疾走しても疲れない点だ。普通の人間ならば、百メートルも全力で走れば疲れてしまうが、『ダッシューズ』を装備している限り、距離が数倍、数十倍に延びても変わらない速さで走れてしまう。体力疲労がまるで無いので、これは移動において大きな利点であろう。
  さすがに空を飛ぶ相手や機械仕掛けの自動車を相手に競争すれば負けるだろうが、相手が同じ『二本の足で移動する人間』ならば、負けはない。
 己が栄光の為でなくフォー・サムワンズ・グロウリーによって、かつての世界の仲間に変身できたのと同時に、彼らが装備していた品も一緒に魔力で編めるようになったのは嬉しい誤算だ。
 この世界の言葉を借りるなら『投影魔術』が近いが、バーサーカーの宝具を用いて同じモノを複製しているので、ゴゴの使う己が栄光の為でなくフォー・サムワンズ・グロウリーは『投影宝具』とでも言うべきか。
  肩の上に乗るミシディアうさぎのジーノが真正面から来る風圧を耐えているが、今は我慢してもらおう。
  ゴゴはマッシュの姿をしたまま倉庫街を抜けて、新都の更に奥―――峠道を走って郊外を目指していた。この調子で走れば隣の市に入るまで三十分もいらない。
  戦いが一段落ついたのだから、間桐邸に戻って桜ちゃんの無事を確かめ、雁夜と情報を共有して今後の聖杯戦争の進め方を話し合うべきなのだが。走る方向は間桐邸がある深山町とはまるで逆方向だ。
  何故、間桐邸に戻らないのか? その理由は道路の脇にある木々の中。常人では潜り込んだら出てくるのも面倒なその中を突き進むサーヴァントにあった。
  物音一つ立てずに一定の距離を保ちながら追いかけてくる存在。見えずとも聖杯の繋がりを強く感じるので、敵サーヴァントであるのは間違いない。そして倉庫街のデリッククレーンの上にいた者と同種の気配を感じるので、ほぼ間違いなくアサシンが自分を尾行している。
  既に間桐陣営とゴゴとの間に何らかの繋がりがあるのはばれているので、まっすぐ間桐邸に戻っても問題なかったのだが。こうしてサーヴァントの一人がわざわざゴゴの前に現れてくれたのならば物真似の為に逃がしてはならない。
  どうやらあの倉庫街での戦いを監視していた者、おそらくマスターは言峰綺礼であろうが、使い魔ではなくアサシンをつけさせる程、自分を高く評価してくれたらしい。
  アサシンとキャスターはまだゴゴが直接見ていないサーヴァントだ。今後の為にも、ここでアサシンに接触するべきだろう。たとえ、このアサシンが冬木市の至る所に散らばっているアサシンの中の一人だったとしても、その身は紛れもなくサーヴァント。必ずゴゴが得る何かを、『ものまね』に足る何かを持っている。
  余談だが、夜の闇にまぎれて空を飛ぶコウモリも確認したので、アサシン陣営とは別に自分の正体を探る使い魔も放たれているようだ。使い魔の中でも地を這う動物は引き離したようだが、さすがに空を飛ぶ使い魔までは対処しきれない。
  マスターの放った使い魔とアサシンを同時に相手にする。ゴゴはそれを成し遂げる為、峠道の中で特に脇の木々が密集する箇所を目指して走り続けた。別の言い方をすれば、上から見ても木に邪魔されて見えない場所を探した。
  そして、少し遠い場所に状況に合致した場所が見えたので、そこで仕掛けようと心に決める。
  たどり着くまでの間、ゴゴはアサシンと使い魔の動向に気を配りながら、自分が変身したマッシュの事を思う。バーサーカーの宝具によって姿形は紛れもなく『マッシュ・レネ・フィガロ』になっており、元々使える必殺技も寸分違わぬ、彼の技そのものだ。
  今の状態で、かつての仲間であるマッシュと戦えば、鏡に映したように同じ格好、同じ姿、同じ体勢で、同じ必殺技を放てる自信がある。
  だが、ゴゴの変身したマッシュはあくまでゴゴから見たマッシュであり、当人そのものではない。忌々しい事ではあるが、ものまねは物真似でしかなく本物との間にはどうしてもズレが発生してしまっている。
  湧き出る魔力は完全に自分の中に取り込んで、魔力を使わない格闘家としてのマッシュを完全にものまねした。それでも、心や感情などの内面はその限りではない。
  マッシュを知るからこそ、ものまねしている自分と本物との間に出来た僅かな差異が判ってしまう。
  これは一年間、冬木市で生活し、雁夜との鍛錬はあったが戦いのないこの街の平穏さに浸り過ぎて、記憶を風化させてしまった罰なのだろうか?
  魔法や必殺技、スケッチに必殺剣など。技術に関する事柄ならば、何の制限もなくものまね出来る。しかし、これが今までやった事のない『生きた人間の完全なものまね』だから、物真似しきれない部分が出てきてしまう。マッシュとして彼をものまねしている時、不意に『マッシュならこんな言い方はしない』と自分自身が考えてしまう。
  ゴゴが、ものまね士を名乗り続けるならば、その人間の内面もまた真に物真似しなければならない。
  ものまねは一日にして成らず―――。ゴゴは間桐邸で生活するようになってから得た知識を参考に、そんな言葉を思い浮かべた。
  そうこうしている内に、仕掛けようとした地点へと到達する。ゴゴは肩の上に乗るミシディアうさぎの重さを確認しつつ、走っていた勢いをそのままに峠道から脇の木々が密集している中に我が身を躍らせた。


 「己が栄光の為でなくフォー・サムワンズ・グロウリー


  上空からの死角に潜り込むと同時に、バーサーカーを物真似して得た宝具を発動し、マッシュになった時と同じように自分の姿を変えていく。
  バーサーカーの正体を隠す黒い魔力と似た漆黒の魔力がマッシュの体を完全に包み込み、一瞬後には黒い塊が四肢をもったような別人へと変わっていた。
  190センチあった身長は10センチ以上小さくなり、100キロを超える肉厚の体は細くなり、金髪は消える。
  黒頭巾と黒装束で全身を包み込み、本来のゴゴと同じように目元以外を隠す格好だ。人が黒い格好をしていると言うより、黒い色が人の姿をとっている様にも見える異質な姿である。
  黒装束の下には『源氏の小手』と『ダッシューズ』に変わる『スナイパーアイ』と『ガントレット』を作り直して、つけ直し。必中の準備を整える。
  なお、『スナイパーアイ』は物理攻撃が100%命中するアクセサリで、『ガントレット』は一本の武器を両手で持って攻撃力を倍にするアクセサリだ。
  唯一肩の上に乗っているジーノだけが変わっておらず、ミシディアうさぎだけが変わる前と変わった後を同一人物に結び付けているが。黒い人影に対して、白いうさぎが肩に跨っているので、色の対比で非常に目立っている。
  はたから見ればさぞ目立つに違いない。
  特殊効果が付加された小刀『影縫い』を右手に握りしめ、黒い人影となったゴゴは肩の上のジーノに声をかけた。
  「インターセプター。行くぞ!」
  「むぐっ!?」
  「――間違えた」
  やはりどこかでズレが起こってしまう。もしこれが本物だったならば、漆黒の忍犬とミシディアうさぎを言い間違えたりしない。
  聖杯戦争のサーヴァントのクラスとは異なる『アサシン』のシャドウになったゴゴは、自分の失態を無かった事にしながら、魔力で編んで作りだした『風魔手裏剣』を左手に持ち、木の上で飛んでいる誰かの使い魔に向けて投げつける。
  『スナイパーアイ』のおかげで見ずとも判る必中だ、あっさりしているが、空の上の敵はこれで片がついた。
  残るはこちらを尾行してきたサーヴァントただ一人。
  さあ、アサシン同士で互いを暗殺しよう―――、早く来い―――、暗殺者。



[31538] 第10話 『暗殺者は暗殺者を暗殺する』
Name: マンガ男◆da666e53 ID:4b532e19
Date: 2012/09/05 21:24
  第10話 『暗殺者は暗殺者を暗殺する』



  ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆



  Side - 言峰綺礼





  倉庫街の顛末を見届けたところで、綺礼は現地のアサシンに帰還を命じて、知覚共有を断ち切った。
  『アサシンの視覚』によりデリッククレーンの上から風景が綺礼を倉庫街に居させたのだと思わせたが、意識を分断すれば元々立っていた教会にいる自分を思い出せる。
  目を開けば見えるのは倉庫街を見下ろすアサシンの視界ではなく、薄暗い教会の地下室の光景だ。いつ現れたかは判らないが、そこには父の璃正も佇んでいた。
  どうやら、綺礼がアサシンと視界を同調しながら、目の前にある魔導機を通じて時臣に宛てて語っていた実況に父もまた聴き入っていたらしい。自分の口で話していたが、目は倉庫街に向かわせたアサシンの一人に預けていたので、教会の地下の風景が見えていなかった。
  「神明二丁目、そう、海浜倉庫街だ。損壊は広範囲で甚大。・・・ああ、それでいい。都市ゲリラの線で処理しよう。Dプランに沿って、あとは現場の判断で頼む――」
  携帯電話を通じて指示を出す監督役としての父の姿を見ながら、綺礼は倉庫街で起こった戦いと、乱入してきたよく判らない男を思考する。
  セイバーとランサーとライダーの真名を知れた事は大きな収穫であり、ランサーのマスターが十中八九ロード・エルメロイであろう予測には容易く辿り着けた。
  アーチャー、いや、時臣が呼び出した英雄王ギルガメッシュが盛大に宝具をひけらかす羽目になり、時臣が令呪を一画失ったのは痛手と言えば痛手だが。真名までは露見せずに済んだし、アサシンが健在であるのも気付かれていない。状況だけ見れば、綺礼のアサシン陣営と遠坂のアーチャー陣営は聖杯戦争において断然優位な立場になったのだ。
  しかし判らないのは、突然、乱入してきた男だ。未知と言う点では他のマスターやサーヴァントよりも得体が知れない。
  これが単なる一般人だったならば、監督役である父が記憶操作の魔術を施して事態を隠蔽するか。現在、倉庫街の後始末をしている聖堂教会のスタッフによって秘密裏に排除されなければならない。
  その辺りは監督役として冬木に派遣された父の仕事なので、綺礼は関われない領分だ。
  ただし、間桐邸からあの男が出てきたのが確認されているので、間桐の関係者であると確定すれば話は変わってくる。
  無関係の者ならば聖堂教会のスタッフによる隠蔽の対象となるが、魔術の関係者であるならばそれは聖杯戦争においての『敵』だ。既にマスターの資格を失ったと思わせている綺礼か時臣の領分となる。
  世界には『魔術』という神秘に根ざした技術ではなく、魔術回路とは似て非なる『超能力の回線』をもって生まれる人間がいる。それは『混血』のように人以外の魔の力を取り入れた結果ではない。
  脈々と血統に受け継がれる魔術と違って、先天的な資質が不可欠。基本的には一代限りの突然変異で、あの男が使った炎、そして魔術とは明らかに異なる結界はこれに該当する可能性がある。
  綺礼はそう考え、デリッククレーンの上にいたアサシンではない、別のアサシンの一人に倉庫街から逃亡した男の追跡を命じた。
  アーチャーの宝具を弾き飛ばした上に、真っ向から英霊に一太刀浴びせた力量は測り切れないが、『気配遮断』を持つアサシンが尾行に留めるならば一人で十分。そう判断がしたが故だ。
  歴代のハサン・サッバーハのうち、綺礼のアサシンとして招かれたハサンは多重人格障害であり、『百の貌のハサン』と呼ばれるアサシンだ。
 宝具『妄想幻像ザバーニーヤ』によって、複数の人格を持った魂がその数だけ肉体を持ち、綺礼のサーヴァントとして冬木市のあちこちに散らばっている。アーチャーに殺させたと見せかけたアサシンはその内の一人だ。
  綺礼は別の場所にいるアサシンと知覚共有したり聴覚共有したりして、状況を常に把握できる利点を持つのだが。その反面、現場での判断を全てアサシンに委ねなければならなかった。
  サーヴァントが一体限りならば、マスターからの五感共有は常に一ヶ所に限定されるのだが、アサシンは複数いるのでそれが出来ない。
  だから綺礼は異常であれ報告であれ、『何かあったら知らせろ』とアサシン達に命じて。綺礼から動くのではなく、アサシンから情報が送られるのを待つ体勢を整えた。
  もしアサシンが一人限りだったならば、デリッククレーンの上からセイバーとランサーの戦いを監視していたように、綺礼が常にアサシンと視覚を共有して状況を探ればいい。だが、アサシンの数は多く、それら全ての視覚共有を行えるほど、綺礼の情報処理能力は高くない。
  一人の人間が数十ヶ所を同時に見ろと言われても、それが可能なのは世界でも一握りで、綺礼はそれに該当しない。だからこそ平時では『何かあったら』アサシンが綺礼に状況を伝えてくる方針をとるしかない。
  正体不明の男の動向を探ると命じながら、今だ、自分で考える以上が出来ないのはその為だ。
  バーサーカーのマスターを探すアサシン。
  空を飛んで行ったライダーを追いかけるアサシン。
  倉庫街から移動を開始したセイバーとそのマスターと思わしき女性を追いかけるアサシン。
  ランサーのマスターの所在を確認する為に動くアサシン。
  今だ姿を現さぬキャスターとそのマスターを探すアサシン。
  間桐邸を監視するアサシン。
  そして、超能力を使っていると思われる男を追跡するアサシン。
  綺礼はこれら全てを同時に監視できないので、大部分のアサシンとの連絡は受け身になる。
  冬木の各所ではなく、教会の地下室に直接報告してくるアサシンもいるので、綺礼の意識は全てのアサシンに向けられなかった。
  「――恐れながら、綺礼様」
  そんな『綺礼に直接報告してくるアサシン』が綺礼の傍らに現れた。
  倉庫街での斥候を務めたアサシンとは異なるアサシンだ。髑髏の仮面と黒いローブは一緒だが、体つきは男のものではない。女性のアサシンである。
  「・・・何だ?」
  「はい。教会の外で気になるものを見つけましたので、ご報告を」
  女のアサシンが差し出したのは首をねじ切られたコウモリの死骸で。今さっき殺したのか、まだ生前の暖かさを残している。殺したのは間違いなくこのアサシンだ。
  「――使い魔か?」
  「はい。結界の外ではありましたが、明らかにこの教会を監視する意図で放たれたものかと」
  アサシンの報告を聞きながら、綺礼は状況のおかしさを思う。この教会は聖杯戦争における中立の不可侵領域として定められており、もし不用意に干渉しようものなら、監督役によって令呪の削減や一定期間の交戦禁止といったペナルティが課される。
  そんなリスクを冒してまで監視する意図を考え、他のマスターがアーチャーとアサシンで作り上げた狂言に気付いている可能性に辿り着いた。
  だが綺礼の意識を最も強く惹きつけたのは、自分が作り上げた予想ではなく、アサシンから受け取ったコウモリの足につけられたワイヤレスのCCDピンホールカメラだ。
  魔術師らしからぬ機械的手段。中立地帯となっている教会すらも疑う注意深い神経の持ち主。それが使い魔の主人である。
  綺礼は、聖杯戦争に参加している最も大きな理由―――衛宮切嗣の存在を、息絶えた使い魔から強く感じとり、冬木のあちこちに散らばったアサシン達から意識を離して思考に没頭する。
  今ばかりは正体不明の男の事など欠片も考えていなかった。





  この日、もし間桐の関係者と思わしき男を追跡しているアサシンに対し、綺礼が最初から最後まで視覚共有していれば、起こった出来事から敵の正体の一端を知れたかもしれない。
  だが起こるかもしれなかった『もし』はなく、アサシンの一人が消滅するまで綺礼は異常に気付けなかった。



  ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆



  Side - アサシン





  アサシンは自分が与えられた任務を完遂すべく、冷徹に、冷静に、ただ任務を全うする一人の暗殺者として金髪の男を追跡していた。
  感情など不要。ただひたすらに目的を達する為の道具であれ。それが『暗殺者の英霊』である、ハサン・サッバーハの在り方だ。
  しかしアサシンに喜怒哀楽が無いと言えばそんな事は無い。アーチャーに射殺されたアサシンが一人『ザイード』はアーチャーの宝具に狙われた時、確かに恐怖を感じていたし。自分もまた『自分も同じように使い捨てられるのではないか?』とほんの少しだけ恐れを感じている。
  いくらザイードが取り立てて得手の無いハサンの一人とはいえ、その身は間違いなく聖杯戦争に招かれたアサシンだったのだ。サーヴァントと言う枠組みでは、自分もまた同じアサシンでしかない。
  一度起こった事が二度起こらない確証はなく。マスターである言峰綺礼が自分達を使い捨てる目論見なのではと考えてしまう。
  いかに聖杯戦争に招かれるアサシンのクラスが常に暗殺教団の指導者と定められているとは言え、自分達にもまた聖杯に求める願いがあるからこそ、こうしてサーヴァントとして召喚されたのだ。
  現状、自分のマスターは遠坂と結託し、他のマスターとサーヴァントの情報を集めている真っ最中。これで、マスターが権謀術数が長け、手段を選ばず策略を巡らす御方だったならば、個別の肉体を得たアサシン達が聖杯を勝ち取る事も不可能ではない。
  しかしマスターが補助に徹するならばアサシン達の願いは叶わない。考えるべき事ではないと判っていながら、アサシンは望みが叶わない未来を考えてしまう。
  「・・・・・・」
  熟考するあまり、目標を見失いそうになったので、アサシンは意識を切り替えて尾行を再開した。
  アサシンのスキル『気配遮断』によって完全に存在が隠匿されているが、それでも暗殺者としての本能が人の目に触れるのを避け、道なき道を進ませる。
  舗装された道路を走ればもっと楽に追跡できるのだろうが、見つからないに主点を置くならば仕方ない事だ。
  相手は道路を、こちらは脇の死角を進んでいる。すると追跡していた男が突然、木々が密集した脇に飛び込んだ。丁度アサシンが進んでいる方向とぶつかる位置である。
  アサシンは自分の追跡が気付かれたと仮定しながら、それでも『男を追跡し、正体を突き止めよ』というマスターからの命令を遂行する為、更に尾行を続行する。
  これまでのように目標を視界に捉えられていないので、進み方には慎重が求められる。物音一つ立てず、速度を緩めて木々の中にいる目標を探し始めた。
  すると目標がいると思われる地点から何者かが魔術を使った魔力の乱れがあり、何かが空に向けて放たれた。
  追跡する男が何らかの形で魔術に関わりがある者と確信を抱き。空に向かって飛び出した何かを目撃した瞬間、闇の中から何かが飛んできた。
  何かが、何かが、何かが。
  「!!」
  驚きながらも声には出さず、刃の部分が黒く染められた短刀を腰から引き抜き顔の前に構える。それが迫る何かを弾き飛ばした。
  もし構えるのが遅れたら脳天に直撃したであろう一撃だ。金属同士がぶつかり合う硬質な音を立て、飛んできた何かが脇に逸れる。
  アサシンはサーヴァントとして召喚される際に、聖杯戦争や現代の知識を幾つも刷り込まれているが、飛来物が『手裏剣』と呼ばれる武器である事までは知らなかった。それでも、卍型の武器であるのはしっかり見て確認する。
  ただの金属ならば英霊でありサーヴァントでもあるこの体を傷つけるには至らないが、短刀で弾いた感触は紛れもなくアサシンの肉体を害する武器の一撃だった。
  敵が攻撃してきている。
  そう認識した瞬間、更に真横から二個目と三個目の手裏剣が飛んできた。
  一秒すら経過していないにも関わらず全く同じ武器で別の場所から攻撃してきた。脅威を感じつつ、それでもアサシンは冷静に短刀を構え直し、そちらもまた同じように逸らして致命傷を避ける。
  弾き飛ばした武器が近くの木に刺さると、また別の場所から四個目と五個目が飛んでくる。こちらを牽制する為ではなく、殺す為に放たれた攻撃だ。僅かな狂いもなくアサシンの頭部を目指している。
  アサシンは再びその凶器を見つめ、短刀を構えて何とか直撃を避ける。
  追跡から一転して殺し合いに突入してしまったので、マスターに異常を知らせなければならない。それこそがアサシンの本分なのだ。
  しかしマスターに連絡を取る暇が無かった。いや、それをやるか霊体化して逃げようと目の前から迫る武器から一瞬でも意識を切り離せば、その瞬間に自分が死ぬとアサシンの直感が告げていた。
  サーヴァントのクラス補正云々は別にした暗殺者としての感覚がそう教えているのだ。
  むろんこれが単なる想像に過ぎず。単なる夢想と割り切る事も出来るのだが、アサシンにはそれが出来なかった。
  暗殺者として―――暗殺を『遂行する者』として、アサシンは自分の誇りを投げ出して殺される立場になってはならない。自らを暗殺者から別のモノに貶めてはならない。
  なにより、消えてしまえばその瞬間に聖杯に捧げる祈りもまた無になってしまう。
  死んではならない。
  生き延びなければならない。
  暗殺する者でいなければならない。
  アサシンとしての誇りとサーヴァントとしての願いを胸に宿しながらも。最早、敵の正体を探る等と悠長なことを考えている暇は無かった。戦わなければ殺される、ならば殺さなければならない。
  アサシンは動きを止める危険性を考え、武器が飛んできた方向と正反対の方向に向けて一気に駆けだす。が、何の冗談か、六個目と七個目の攻撃はその正反対の方向から飛んで来たのだ。
  しかも武器が飛んでくる位置は、駆けだす為に体勢を低くしたアサシンの頭部をしっかり捉えている。慌てて、短刀を前にかざして攻撃を逸らすが、一瞬でも遅れれば、頭蓋に突き刺さる光景が容易に想像できた。
  これは物理的な移動の枠を乗り越えた瞬間移動だ。どういう理屈でそれを成し遂げているかは不明だが、常に移動するアサシンを中心にして、円を描くように移動しながら攻撃している。それは『逃がさない』と『ここで殺す』を明確に現しており、上下左右どこに逃げようとアサシンの体は敵の武器によって貫かれるだろう。
  手荷物を一つも持っていなかったにも関わらず既に七発―――、いや、八個目と九個目が斜め後ろから飛んできたので、振り返りながら慌てて攻撃を逸らす。風を切り裂く音が耳に届かなかったら、気付く間もなく絶命していた。
  予め持っていなかったのだとすれば、この場所に用意していたと考えるべきだ。つまりアサシンはここに誘い込まれ、刈り場の中にまんまと足を踏み入れてしまった事になる。
  迂闊だった。
  敵の目的がアサシンかどうかは定かではなく、おそらく敵は『害意ある何者かが罠にかかった』それだけで攻撃する理由にしたのだろう。
  攻撃は全て頭部に集中し、しかもアサシンがただひたすらに敵からの攻撃にのみ集中しているからこそ何とか生き延びられている状況だ。横から飛んでくる十個目と十一個目を弾き飛ばしながら、懸命に打開策を考えるが、ここで敵を殺す以外に生き延びられる道を思いつけない。
  霊体化する時間すらない攻撃の嵐。
  左前と真正面と右前の三方向からほぼ同時に飛んでくる十二個目と十三個目と十四個目。何もしなければ両眼と眉間に突き刺さっていたであろうそれを短刀を構えながら屈んで避ける。すると一回分増えた弊害か、アサシンの目は闇の中を動く何かとそれに付いて回る白い塊を見つけた。
  何かが敵だとすれば、白い塊は肩に乗っていた白いうさぎだろう。つまりあのうさぎがいる場所に敵はいて、そこを攻撃すれば突破口と成りえる。
  そして間髪入れずに真横から飛んできた十五回目の攻撃はこれまでと威力が異なる一撃だった。
  これまでの攻撃は全て木々の隙間を縫って攻撃してくる小さいものだった。けれど今回は、生木を丸ごと粉砕しながら飛んでくる巨大な武器だ。大きさはこれまでの飛来物の四倍近く、形状が同じである分、威力の違いが浮き彫りになっている。
  構えるだけでは短刀ごと頭を叩き割るだろう。完全に避けるか、弾き飛ばさなければ頭がもっていかれる。
  アサシンは粉砕された木々の向こう側に白い塊を見つけながら、一瞬だけ考えた。
  そしてアサシンの目はしっかりと飛んできた方向にいる白い塊を認めて、あれが男の肩に乗っていたウサギだと看破しながらも、斜め後ろから迫り来る音も一緒に聞いた。
  敵は一人。
  ならば後ろから迫り来る誰かは、うさぎを囮に見せかけて後ろに回り込んだ敵。
  これまで同じような攻撃を繰り返し、肩の上に乗っていたウサギをこちらに見せたのは『自分はここにいる』と見せつけて背後から強襲する為。より大きな武器を選んだのはここで勝負を決すると言う意思表示の表れに違いない。
  単に避けるだけでは隙を晒すことになり、敵の武器を利用して後ろを攻撃しようにも、聞こえてきた位置は真後ろではないので避けても後ろの敵には当たらない。
  逡巡はなく、闇に生きる暗殺者は防御をそのまま攻撃につなげる決断を下す。
  ほんの少しだけ短刀を下げ、迫り来る巨大な卍型の凶器を下から上に弾き飛ばす。短刀で殺し切れなかった勢いに右腕が強烈な悲鳴を上げるが、それを強引に無視する。
  顔につけた髑髏の仮面の一部が抉られるが、これも想定内。
  振り上げた短刀の勢いをそのままに体を反転させて、敵が来る位置に短刀を移動させた。
  そしてアサシンは見る。闇の中から駆けてくる、この国で『忍者』と呼ばれる者達に酷似した、黒装束を纏った何者かの姿を―――。
  今まで追跡した男とは似ても似つかない何者か。しかし攻撃してくる以上、殺すべき敵であり、脳天目がけて伸ばした短刀を止めたりはしない。簡単な意匠の額当てで頭部は守られて、口元も布で覆い隠しているが、目元はしっかり露出しているので。こちらが散々狙われた眉間に狙いを定める。
  何者であるかを考えるよりも前に殺す。
  敵もまたこちらと同じように小刀を右手に持って構えているが、既に攻撃態勢に入っているこちらの短刀の方が先に相手の脳天を貫く。
  向かってくる敵に対するカウンターだ。異常な早さを見せるからこそ、もう敵は逃げられない。まっすぐこちらの短刀目がけて駆けてくる。
  敵の眉間に吸い込まれる短刀の一撃は、アサシンとしての経験が教える回避不可能の一撃であった。例え敵が他のサーヴァントであったとしても霊体化する時間も避ける時間もない。この一撃は致命傷を作り出し、確実に敵を死に追いやる。
  殺した!
  「影分身――」
  必勝の言葉と目の前の敵から聞こえてきた言葉が不協和音を作り出した時。アサシンの短刀は突き刺す筈だった敵の眉間を通り過ぎた。
  「なっ!?」
  追跡を開始してから一度たりとも言葉を発しなかったが、ありえない現象につい驚きの声をあげてしまう。
  双方、敵に向かっていたので、こちらの手が当る筈だった相手の頭も、体の各所のどこかでもとにかく衝突する筈。それなのに、『衝突しなければおかしい』現実は何一つ起こらず、アサシンが構えた短刀は、指は、手は、腕は、胸は、腰は、足は、頭は、何者にもぶつからなかった。
  そもそも敵が六文字の言葉を口にできる時間など無かった筈なのに、しっかりと声が聞えたのも異常だ。
  何が起こった!?
  隠しきれぬ動揺が言葉となって口から出た後、ありえない混乱が頭の中で暴れまわる。その困惑がアサシンの行動を一瞬止めてしまう。
  背中に刃物が突き刺さる感触を感じた次の瞬間―――。アサシンは停止した。



  ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆



  Side - ゴゴ





  ゴゴの眼前には短刀を前に突き出した体勢のまま、彫像の様に固まっているアサシンがいた。身動き一つ出来ないのは、シャドウの武器『影縫い』が効果を発揮させ、サーヴァントの動きを停止させているからだ。
  アサシンの動きを止めているのは、敵を停止させる魔法『ストップ』の効果である。
  自分の魔法がこの世界でも通用する事は雁夜の鍛錬によって証明されているが、サーヴァントにも効き目があると判ったのは嬉しい収穫と言える。
  「『手裏剣』で事足りるかと思えば、まさか二本目の『風魔手裏剣』を使わせるとはな。最弱と言われるアサシンでもさすがに英霊と言ったところか――。ほんの少しだけ手間取ったぞ」
  聞こえていないだろうが、サーヴァントに対する感嘆がどうしても言葉を喋らせた。
  ゴゴは差し向けられた追手がアサシンであると知った時から、逃がすつもりも殺すつもりもなかった。この聖杯戦争に関する情報を得る為に生け捕ろうと、そう決めたのだ。
  そうやって投げる威力を弱めて手加減していたら、なんと手裏剣を十五回も投げる羽目になった。最初の一手か二手で勝敗がつくと考えていたので、敵のしぶとさには驚かされる次第である。
  今更だが、装備するアクセサリに物理攻撃が100%命中する『スナイパーアイ』を選んだのは失敗だったかもしれない。これは確実に敵に攻撃が当たる効果を発揮するが、逆に外したり別の場所を狙ったりしてフェイントが作り出せない難点がある。手裏剣を誰もいない方向に投げても敵の顔面めがけて飛んでいってくれるのだが、攻撃が一辺倒になってしまうのでサーヴァント相手には二度と使わない方がいいだろう。
  自分を追跡してきた飛ぶ使い魔を、藪の中からの攻撃で落す為にこのアクセサリを選んだが、敵を生け捕りにするには不向きなアクセサリだ。
 バーサーカーの宝具、己が栄光の為でなくフォー・サムワンズ・グロウリーでシャドウになった自分を解除して元のものまね士の姿に戻ると、少し離れた場所に置き去りにしたミシディアうさぎのジーノに声をかける。
  「囮、ご苦労様」
  「むぐむぐ!」
  アサシンが驚異的な反応速度でこちらの攻撃を看破した所は流石と言えるが、実体と幻によって一時だけ攻撃を回避する『分身』までは想定の範囲外だったようだ。髑髏の仮面で表情はほとんど見えないが、隙間から見える口が大きく開いているので、驚いたのだろう。
  ゴゴは動かずに硬直しているアサシンの姿に満足しながら語りかける。
  聞こえてないと判っていながら、またサーヴァントに関する新たな情報が得られるかと思うと、嬉しくて嬉しくて饒舌になってしまう。やはりこの一年でこの冬木の町と間桐邸の面々に毒されたようだ。
  「すまんの、アサシン。ストップが解除されるまでの時間じゃが、ありがたく頂かせてもらうゾイ」
  ヒドゥンの隠れ住むエボシ岩へ向かったストラゴスのように、ゴゴはアサシンに向けて言い放つ。
 ゴゴにとってバーサーカーはお目当ての宝具の持ち主であり、極端に言えば、宝具『己が栄光の為でなくフォー・サムワンズ・グロウリー』以外にあの黒い騎士に求めるモノは無い。他の宝具も中々使えそうなモノはあったが、最も目をつけていたモノを手に入れてしまったので、あまり英霊としての価値を見い出せないのだ。アーチャーの武器を難なく自分のモノとして使いこなした、もう一つの宝具は少し気になるが、『己が栄光の為でなくフォー・サムワンズ・グロウリー』には及ばない。
  そこでアサシンについて『サーヴァントとはどのような存在か?』という疑問解消に主点が置くことにした。調べる中で物真似のし甲斐のあるモノが見つかればいい、優先すべきはものまねに限らず知る事だ。
  「ライブラ」
  完全に停止したアサシンに向けて右手を掲げて魔法を唱えると、頭の中にアサシンに関する情報が次から次へと流れ込んでくる。
  アサシンの真名はハサン・サッバーハ。属性は『秩序・悪』。筋力と魔力がCランク、耐久と幸運は少ないが、その代わりに敏捷性はセイバーに匹敵する高さだ。
  スキルは『気配遮断』に多重人格による記憶の分散処理を可能とした『蔵知の司書』、そして多重人格の利点を生かした生前のスキルを使い分ける『専科百般』。
  生前のスキルを使い分けると言うのならば、すでにゴゴは『ものまね』によって、それ以上の効果を生み出している。特に目を見張るものは無かったので、更に奥深くを探る為にライブラの魔力を高めて行くと、アサシンの中にある宝具へとたどり着く。
 名を『妄想幻像ザバーニーヤ』。その効果は生前の多重人格を原点とした能力で、自分自身を『分割』して別個のサーヴァントとして活動する宝具だ。
  最大数は八十人にもなるが、個体数が増えて行くごとに一個体の能力が落ちて行くデメリットがある。
  ゴゴはこの宝具を知りながら、目の前のアサシンを観察し。ここにいるアサシン一人は単なるサーヴァントではなく、存在する事で宝具を発動し続けている『アサシンの中のアサシン』なのだと知る。
  これこそがアーチャーに殺されながらも、今だ残っていられる理由だ。一人が分裂しているのではなく、アサシンと言う枠の中で各々の人格を『分割』して、それそれに肉体を与えている。
  ただ存在するだけならば興味はなかったが、アサシン大量発生の理由が宝具にあるのならば話は別だ。見て、観て、視て、みて、ミテ。見続ける事に意義が生まれる。
  武器や武装ではない固有の能力としての宝具が物真似出来る事は既にバーサーカーの宝具で立証済み。ならばアサシンを知りながら、同時に宝具もまた、ものまねして、ものまねして、ものまねしてゆく。
  ただし『サーヴァントとはどのような存在か?』という最初の疑問を解消するのも忘れない。敵が無防備な姿を晒しているのならば、普通の人間とも魔術師とも異なるサーヴァントにゴゴが知る魔法がどれだけ効果を発揮するかを確かめるのも一つの手だ。
  これほど上質で無防備な実験台は、なかなか手に入らない。
  ゴゴは観察とものまねと攻撃を同時に行う為、一撃で殺さぬよう次の魔法を唱えた。
  「死の宣告」
  アサシンの顔を覆い隠す髑髏の仮面ではなく、アサシンの体すらも覆い隠す巨大な頭蓋骨がアサシンを包み込んだ。聞く者を震えさせる笑い声は単なる音ではなく死へと誘う道標だ。
  本来は一定時間を経過すると死ぬ―――相手に死までの時間を体感させる拷問まがいの凶悪な魔法だが、アサシンはストップの効果で停止しているので、頭の上に現れた『30』の文字は変化しない。
  数字変化が起こらないのは予め判っていた事なので問題はない、重要なのはアサシンに魔法が効いたその一点だ。
  雁夜の協力の元、バーサーカーにどの魔法が通用してどの魔法が通用しないか調べる事も考えたが。それをやった場合、狂戦士の名の通り暴走して聖杯戦争に支障をきたす可能性が高い。
  宝具を見せる交換条件として協力する立場となったのだから、弟子から協力者になった雁夜の負担だけを増やすのは極力避けるべきだ。
  だからこそ試す。
  色々と試す。
  限界まで試す。
  アサシンに即死効果のある魔法が効いたのを確認しながら、次の魔法を試す。
  「臭い息」
  傍目から見れば、ゴゴの口があると思われる箇所から色々な色を混ぜ合わせたよく判らないモノが噴き出たのが見えるだろう。それは霧となって目の前にいるアサシンを包み込み、サーヴァントの体を浸食していく。
  この魔法は敵に対して『毒』、『暗闇』、『眠り』、『混乱』、『沈黙』、『カッパ』のステータス異常を巻き起こす魔法で、殺す為ではなく弱らせる、あるいは無力化させるのに非常に役立つ魔法だ。
  残念な事に、ストップの効果が発揮されているのでアサシンにどれだけステータス異常が発生しているか、目に見える形では判らない。ただし、注意深く見れば、髑髏の仮面から見える隙間の奥が黒く染まっている様に見えるので、『暗闇』の効果は発動しているようだ。
  それ以外はストップの効果が解除されて動いてくれないと判別できないので、判らない。
  もう一度探査の魔法『ライブラ』をかければ状態異常が判るが、効いたと判ればそれでよい。
  これで河童になれば効果が一目瞭然なのだが、ゴゴが魔法に失敗したのか、アサシンの対魔力がカッパーの効果を撥ね退けたのか、目の前にいるアサシンはアサシンのままだ。髑髏の仮面を被った河童の姿をお目にかかりたかったので、少しだけ残念な気持ちがある。
  とりあえず『ステータス異常には効果のあるモノとないモノがある』と結論付け、更に魔法を唱えて行く。
  「グラビダ」
  魔石『ディアボロス』から学ぶ、即死耐性の無い敵には通用しない魔法だが。アサシンを構成する魔力で出来た肉体が削られていくのが判る。
  ストップで身動き一つ出来ていない状態で、表向きは何ともない様に見える。だれがこれで、既に瀕死の状態に陥っており、もう一押しするだけでこの世界で現界出来なくなるだろう。
  サーヴァントの中には飛び道具に対する絶対防御スキルや、危機的局面において幸運を呼び寄せることのできるスキルがある事は臓硯の残した遺作から読み取る事が出来た。よって、目の前にいるアサシンは『即死に対する加護』は持ち合わせていないと判断する。
  もし加護があったならば、グラビダはおろか死の宣告も通じないのだから。
  サーヴァントによって耐性がある者とそうでない者はいるだろうが、魔法全般が通じると判ったのは大きな収穫だ。全ての魔法が通用するのではなく、耐性によっては魔法を使い分ける必要が出て来たと予め判れば戦い方に幅が出来る。
  可能ならば更に別の魔法をアサシンに浴びせかけたい所なのだが、ストップの効果時間がそろそろ終わりに近づく感覚があった。あと一度か二度攻撃する間に効果は解かれてしまうだろう。
  もしストップの効果が切れれば、『臭い息』で巻き起こるステータス異常がアサシンを苛むだろうが。代わりにアサシンのマスターにこちらの情報が多く知られてしまう可能性もある。既に幾らか知られている情報があるだろうが、ここで相手に有利な状況を遠坂時臣を引きずり出す為にも、出来るだけこちらの手の内は明かさないように努めるべきだろう。
  マッシュの姿、シャドウの姿、そして今のものまね士ゴゴの姿。それが一人だと教えてやる義理は無い。
  もっとも、一つや二つばれたところで、それを上回る技が大量にあるので大丈夫とも思えるが。
  「これで終わりか、残念だ――」
  魔法をかけながらも、アサシンの宝具に関するものまねはしっかり行った。
 アサシンの宝具『妄想幻像ザバーニーヤ』は、魔力によって自分の分身を作り出す宝具と言い換えてもよい。自己が複数あるからこそ成り立つ宝具であり、多重人格者でなければ宝具を持っていても意味が無い。
  英霊であろうと自己は一つだ、英霊として確固たる自分を意識できる者には宝具を持っていたとしても発動すら出来ないだろう。あくまでこの多重人格のアサシンだからこそ意味を持つ宝具なのだ。
  けれどゴゴは違う。
 この体はかつて別の世界で三柱の神を生み出し、各々の存在に意義と意味と自分と力を植え付けた。宝具『妄想幻像ザバーニーヤ』とは少し事情が異なるが、『自分を分割して別の存在にする』というのは既に経験済みである。
  この世界の宝具としての成り立ちの違いはあっても、起こした結果と宝具が至る結果に大きな差はない。
  故にものまねは容易であり、武具とは異なる特殊能力の宝具がまた一つゴゴのモノになった。バーサーカーに続く二つ目の宝具の物真似にゴゴの心が躍る。しかし、アサシンを束縛しているストップの効果が解除されそうなので、喜びに浸っている余裕はない。
  「『鳳凰の舞』に少ししか戦いえなかったからな。最後はマッシュへの手向けに使わせてもらおう。恨むなら、一人で俺の元に寄越したマスターを恨め。力の差を見抜けなかったマスターを、な」
  ストラゴスの口調に似た呟きは消え、強者の位置から弱者への語りかけに変わる。
  魔力を通じてアサシンの頭上に浮かぶ数字がもうすぐ減るであろう感覚を知りながら。ゴゴは最後の止めをさす為にある言葉を呟いた。それはマッシュが師匠のダンカンから教わった奥義の名前だった。


  「夢幻闘舞」


  呟き終えた次の瞬間、アサシンを中心にしてゴゴの体は円を描き、残像を生み出しながら超高速の攻撃を叩き込んでいく。
  この技に目新しいモノなど何もない。ただ速く、ただ強く、ただ大きく、ただ猛々しく、ただ素早く、ただ雄々しく、ただ多く。鍛えに鍛えた武術を目にも留らぬ速さで敵に叩き込むだけだ。
  あまりの速さに残像が幾つも残り、叩き込む打撃の大きさゆえに閃光が走る。
  上からの攻撃には至れずとも、前後左右からほぼ同時に攻撃されて対処できる人間はいない。移動する音も稲妻に似た爆音となり、攻撃を叩き込んでいく。
  殴り、蹴り、抉り、潰し、突き、極め、折り、壊す。
  およそ素手で闘う者が相手に叩き込める攻撃手段を超速で叩き込む奥義、それこそが『夢幻闘舞』だ。あまりの早さゆえに敵の輪郭すらも霞ませる究極の必殺技がアサシンを破壊していった。
  アサシンの周りを三回転半移動しながら数十発の攻撃を終え、アサシンに残っていた全ての力を削り取った。
  ゴゴはアサシンから失われた生命力を感じながら―――、マッシュの鍛えられた肉体と両手に武器をはめた状態ならば威力は数倍か数十倍に膨れ上がるだろう、と思った。技そのものはものまねできても、やはり生身の威力はマッシュには及ばない。
  一瞬の魔を置いた後。黒に似た紫色の粒子を残しながら、アサシンが無散していく。
 それでも、冬木市の中に感じるアサシンの気配はまだ数多く残っているので、殺したアサシンは妄想幻像ザバーニーヤで分裂した一体に過ぎないと今まで以上に確信を抱く。
  もし一人でもアサシンが残り、マスターに魔力があれば復活できる可能性があるので。真にサーヴァント『アサシン』を聖杯戦争から敗退させる為には、全てのアサシンを葬り去るか、マスターを殺さなければならないようだ。
  ゴゴはそう思いながら、ジーノを呼んで肩に乗せる。
  「きっと桜ちゃんも雁夜も首を長くして待ってる。急いで間桐邸に戻るぞ」
  「むぐむぐ~」
  ミシディアうさぎ特有の鳴き声を聞きながら、ゴゴは本日三度目となるバーサーカーの宝具を使用する。


 「己が栄光の為でなくフォー・サムワンズ・グロウリー


  再び腕に『ダッシューズ』をつけたマッシュの姿になり、ミシディアうさぎを肩に乗せたまま、間桐邸を目指して走り出す。
  もう道路を走る自分達を監視する目はなかった。



  ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆



  Side - 間桐雁夜





 ライダーの戦車チャリオットによってバーサーカーが負傷した後。雁夜は残った魔力でバーサーカーを回復させた。
  英霊同士の戦場は魔剣を一本携えた雁夜が乱入するにはあまりにも激し過ぎる場所で、竹槍をもって戦車に挑むぐらい無謀な状況であった。
  もちろん必要があれば誰であろうと戦うし、相手が遠坂時臣なら他の誰にも渡さずに真っ先に出向くつもりだ。しかし、あの場に割り込む意味も、ここに留まる意味もない。
  だから撤退を選んだのだが、雁夜の決断とは裏腹にバーサーカーが怪我が治ると同時に再びセイバーに向かおうとしたのだ。現界するだけで雁夜の魔力がどんどん吸われていくので、少々辛い。
  そこで雁夜は暴れようとするバーサーカーに対し、魔力供給の量を調節して抑え込む方針をとった。
  魔石を介して魔力の訓練を数多く行ったのは伊達ではない。魔力の総量は一般的な魔術師に比べても劣るし、半人前にすら届いていないと思っている。それでも限られた魔力だからこそ出来る運用方法は『器用貧乏』の称号に相応しい。
  別の言い方をすれば、吸われる魔力を制限して『今、戦おうとすればもう新しい魔力はやらんぞ』と脅し、それを餌にバーサーカーの手綱を握っている状態だ。
  ただし狂戦士の名に相応しく、バーサーカーは供給される魔力が少なくなったのを感じた瞬間、標的を戦場にいるセイバーから雁夜へと切り替えた。長身の黒い騎士が雁夜の頭上から怒りを滲ませて見下ろし『魔力を寄越せ!』と声なき声で訴えかけてくる。
  右手に握られたアーチャーの剣がいつ雁夜の首を落とすか判らない緊張が生まれたが。敵ならまだしも、自分が呼び出したサーヴァントに怖気づいて何が成せると言うのか? 兜のスリットから見える紅い輝きに対し、雁夜は真っ向から睨み返した。
  ここで退いたらバーサーカーに戦いも聖杯戦争も今後すらも主導権を握られる。どんなに不甲斐なかろうと、あまり望んでなった訳ではないが、それでも雁夜はバーサーカーのマスターだ。
  俺がお前のマスターだ。負傷して、疲労した今は撤退するのが正しい選択だ。お前はセイバーと戦って勝ちたいんだろう? だったら体調を万全にする為にここは退け!!
  言葉が通じているかは定かではないが、そう心の中で強く思った雁夜に対し、バーサーカーは霊体化という返答で応じた。
  そんな予想外のハプニングがあったが。これもバーサーカーの妄執とも言うべきセイバーへの執着を思い出せば、むしろ必然かもしれない。
  とにかく雁夜は何とか戦場から遠ざかり、戦線から撤退して間桐邸へと戻って来た。
  「おかえりなさい――、雁夜おじさん」
  「ただいま、桜ちゃん」
  聖杯戦争のマスターとして他のマスターと戦う。サーヴァントに全ての戦いをゆだねるマスターでもなければ、同行するのは当然であり、拠点に閉じこもるマスターの方が珍しい。
  特に雁夜のサーヴァントであるバーサーカーは間近で命令しなければ、好き勝手に暴れまわるのが目に見えている。完全に制御してるとは言い難い状況だが、それでも完全に暴走させない程度に抑えられているのは近くにいるからだ。
  だからこそ、聖杯戦争がはじまると同時に間桐邸に戻る機会が失われるかと思ったが、予想に反して雁夜は帰る選択をした。
  何故か? 雁夜は玄関口にて出迎えてくれた桜ちゃんの顔を見ながら自分の行動を振り返る。
  間桐邸の周囲は既に多くの使い魔が跋扈する情報戦の坩堝と化しており、一人のマスターとしてその中を通って帰宅するのは『間桐のマスターはあいつだ』と教える危険が非常に高い。
  もう少し考えれば、間桐邸の結界の範囲外に敵のサーヴァントが待ち構えていた場合、吸われた魔力が戻ってない状態で迎撃できるかは非常に怪しい。それを考えると今日は幸運だったと言える。
  間桐邸は元々、冬木における第三位の霊脈、聖杯戦争の基点と言っても過言ではない冬木教会の建つ丘の上に建っていたのだが。間桐臓硯が土地の霊気が合わないと言う理由でこの場所に間桐邸を移築したのだ。
  臓硯が間桐の蟲を飼育する為の土地に適しているこの場所に間桐邸を立てたのは偶然ではない。そして雁夜にとっては忌々しい事だが、雁夜の中に流れる『間桐』の体質がこの場所によく馴染むのだ。ここが間桐の魔術属性である『水』と相性がいいのはどうしようもない事実である。
  霊地としてはさほどの効果は発揮しなくても『間桐雁夜』が失った魔力を取り戻すのにこの場所ほど最適な場所は無い。
  更に、聖杯戦争の舞台として危険地帯となってしまったこの冬木市の中で、最も雁夜が安全だと思えるのがこの間桐邸なのだ。
  臓硯が存命だったら絶対に戻ろう等とは考えなかっただろうが。あの蟲爺は一年前にゴゴによって殲滅されている。今の雁夜にとって間桐邸はこれ以上ない程に強固な拠点であり、雁夜が体を休めるのにこれ以上の場所は存在しない。
  そして間桐邸には桜ちゃんが待っており、雁夜が帰れば『お帰りなさい』とミシディアうさぎのゼロを腕に抱えながら出迎えてくれるのだ。
  それもまた臓硯がいたら絶対に叶わなかったであろう光景だ。間桐の魔術を毛嫌いしている雁夜にとって、この何気ない日常は何者にも代えがたい宝である。
  たとえそれが桜ちゃんを遠坂の家に戻すまでの時間制限付きの眩い宝石だとしても、この時間と空間を惜しむからこそ、雁夜は間桐邸に戻ってきたのだ。そう思えてくる。
  十年も寄り付かなかったのに、家で待つ人がいるだけで帰りたくなるのだから、我ながら現金な男だ。
  「ゴゴはもう帰ってる?」
  「ううん」
  「そうか・・・、まあ、ジーノが一緒にいる筈だから、後で『視て』みるよ。ありがと、桜ちゃん」
  聖杯戦争と言う殺し合いから戻ってきたにも関わらず、雁夜の心の中は不気味なほどいつもと変わらなかった。桜ちゃんの前でいつも通りの自分を演じていたいからなのか、それともゴゴと一年間戦いすぎて、『殺し合い』という枠組みですら普通の範疇に納まってしまったのか。判断できない。
  雁夜自身が戦った訳ではなく、この手が人の血で穢れた訳でもない。それでもバーサーカーを介して、闘争の空気を間近で感じたのは事実。それでも雁夜には高揚も恐怖も動揺も絶望もなかった。
  もう、アーチャーを見た時に感じた遠坂時臣への怒りはどこかへ消え去っており、自分のあまりの変わらなさが我が事だからこそ余計に不気味に思える。
  ただし、多くの諦観を学んだ雁夜にとって、それはそれ、だ。帰宅した後にいつもやる手洗いを終えて、桜ちゃんと接する時間の方が大切なので、すぐに自分の変わらなさについては忘却の彼方へと追いやる。
  聖杯戦争が始まれば桜ちゃんと会う時間は少なくなると思っていたが、これまで鍛錬につぎ込んでいた時間が聖杯戦争に置き換わっただけで、実際に接している時間に大きな変動はない。
  むしろそうする為に桜ちゃんの部屋へと赴いた。
  「桜ちゃん、ちょっとセクスを借りていい?」
  「セクス? 今、戻ってきたばっかりなのに・・・」
  「ごめんごめん、ちょっとジーノと『繋げて』ゴゴの様子を見るだけだから。セクスなら、バーサーカーと一緒にいた時に何度か『繋げた』から、慣れたかなって」
  部屋の中で大量のミシディアうさぎと戯れている桜ちゃんに声をかけ、部屋の中にいるうさぎの中から戦場から一緒に帰ってきた奴を探す。
  十秒ほどかかったが、ようやく帽子の所に『6』と描かれているミシディアうさぎのセクスを見つけ、他のうさぎを踏まないように部屋の中を横断した。
  「ちょっと協力してくれ。頼んだぞ」
  「むぐ!」
  桜ちゃんからの回答を聞かない内にやるのは悪いと思ったが、連れ出すのではなく部屋の中でやるのだから我慢してもらおう。
  桜ちゃんがいつもゼロを抱いているのと同じようにセクスを両手で抱き、ミシディアうさぎを構成する魔力を通じて、ゴゴと一緒にいるであろうジーノに視界を繋げる。
  ミシディアうさぎと接する時間は桜ちゃんの方が圧倒的に多いのだが、魔力を用いた戦闘やら諜報やら行動やらにおいては、まだ雁夜の方が一日の長がある。もし桜ちゃんが本格的に魔術の鍛錬に励めば、その才能の大きさ故にすぐに追い抜かれる気がしてならないが、今はまだ雁夜の方が魔力の扱いは上手い。
  大人の意地を考えながら、セクスに魔力を送り、ジーノの感覚を掴むためにミシディアうさぎの意識へと潜っていく。程なく、間桐邸の雁夜の見た光景ではない別の景色が脳裏に浮かんできた。
  一定間隔で上下に揺れるそれはゴゴの肩の上に乗っているミシディアうさぎの視点だ。どうやら走っているようだが、よく見れば周囲に映るのは間桐邸から五分ほど離れた位置にある住宅街の風景で、青信号を渡っている所らしい。
  「こっちが少し早かっただけか・・・」
  視点はあちらに、口と耳は間桐邸に置いた状態で喋ると、当然ながら声は部屋の中にいる桜ちゃんに届く。
  「雁夜おじさん?」
  「あ、いや。ゴゴはこっちに戻ってて、あと五分ぐらいで着きそうだよ」
  「そう――」
  「あんまり夜更かしすると体に悪いから桜ちゃんはもう寝たら? あいつも無事だって判ったしさ」
  目はゴゴの肩に乗っているミシディアうさぎの目を借りながら、口と耳で見えない桜ちゃんと会話する。目を瞑った状態で誰かと話をしているような違和感が付き纏うが、相手が桜ちゃんならば雁夜は気遣いすら起こせる。
  そこで黙り込んでしまった桜ちゃんが何を思ったのか雁夜には判らない。視点は相変わらずミシディアうさぎを通した冬木市の光景を見ているので、間桐邸の桜ちゃんの部屋の中ではない。
  何か悪い事を言ってしまっただろうか? そう思いながら、ミシディアうさぎとの繋がりを切って、視界を間桐邸に戻すと、眠たそうに眼をこする桜ちゃんの姿が見えた。
  「あ・・・、眠いのに邪魔しちゃったか」
  「ん――」
  肯定の言葉か否定の言葉かすら判らない呟きが聞えて来て、満足に応対すらできないほど眠いのがよく判った。もう、夜十時を回っているので、桜ちゃんが眠らずにここまで起きれていた方が珍しい。
  これまでの間桐邸は24時間常に起きているゴゴがいたし、雁夜も暇を見つけては桜ちゃんと接する時間を作ってきた。その大人二人がいきなりいなくなって心配させてしまったのだろう。
  いつもならば眠るのも我慢して、自分達を待っていてくれたのだろう。
  遂には舟をこぎ始めた桜ちゃんを見て、申し訳ない気持ちが浮かんでくる。
  「寝るんならベットで寝なきゃ」
  「ん・・・・・・」
  本当ならば、寝間着に着替えさせてベットで寝てもらいたい所なのだが、それをやれる体力が今の桜ちゃんにあるとは思えなかった。仕方ないので、服はそのままでせめてベットに運ぶくらいはしなければならないと決める。
  再びミシディアうさぎ達を踏まないように部屋を横断し、床の上に寝転がりそうになっている桜ちゃんを支える。
  「むぐ?」
  「むぐむぐ」
  「むぐー」
  近くに居たミシディアうさぎ達が一斉に雁夜を見上げ、何事かと声をかけてくる。
  彼らを使い魔として扱うのは慣れてきたが、今だ何と言ってるかの判別は付かない。何となく『おう、雁夜、ご苦労じゃのう』『桜様を運ぶんだ! 丁重にな』『重いとか言ったら殺すぞ』と呟いているような気がしたが、所詮雁夜の予想である。
  もし本当だったら中々恐ろしいが、似たような状況は何度もあったので今更だ。
  魔剣ラグナロクを武器として扱えるようになる為に鍛えたので、桜ちゃんは羽根のように軽い。重いと感じるのは今背負っているアジャスタケースの中身だけで十分だった。
  「遅くまでありがと、桜ちゃん」
  「・・・・・・」
  余程眠いのか、声をかけても目がうっすら上下するだけで応対は無い。
  再び申し訳なさが雁夜の中に生まれるが、それを言葉にしても今は意味が無いし、せっかく眠ろうとしている桜ちゃんの邪魔をするのはもっと悪い。
  ベットの上に寝かせて掛け布団をかけると、音をたてないように部屋の外に向かう。
  去り際。指を口の前に当てながら、部屋の中に居るミシディアうさぎ達に声をかけるのを忘れない。
  「お休み、みんな――」
  「むぐむぐ」
  代表して枕元からゼロの声が聞えてくる。もちろん、主人である桜ちゃんを気遣って声は小さくだ。
  雁夜はその微笑ましい様子を見ながら、部屋の灯りを消して廊下に出た。扉を閉めながら足音を出来るだけ立てない様に歩く。
  なんだか泥棒か間男の様だ―――。そんなどうでも良い事を考えつつ玄関近くへと向かい、部屋の椅子に腰かけてゴゴの帰りを待つ。
  少しでも魔力回復を行う為に一切何もせず、ただ黙って時が過ぎるのを待っていると。玄関が開閉する音が聞こえてきた。
  ゴゴが帰ってきたのだ。
  「今、戻ったぞ」
  「むぐっ!」
  「ん?」
 聞き慣れない男の声とミシディアうさぎの声が一緒に聞こえて来たので、雁夜は思わず声を出してしまった。そして、ゴゴがバーサーカーの宝具『己が栄光の為でなくフォー・サムワンズ・グロウリー』によって姿を変えている事を思い出す。
  赤の他人が間桐邸に入ってきた事態を想像したが、姿は違えども間違いなくゴゴなのだ。
  そう自分に言い聞かせていると、部屋の入り口に金髪の男が現れた。ミシディアうさぎの視界を通して見たので初見ではないが、雁夜の肉眼で見るのはこれが初めてである。
  「・・・・・・ゴゴだよな」
  「そうだ。しかし、今は『マッシュ』と呼べ」
  「マッシュ・・・・・・」
  「マッシュ・レネ・フィガロ。以前話したかつて旅した仲間の一人で、フィガロ王国の王弟にしてモンク僧だ。城を跳び出してから十年間修行に明け暮れてたから、『出て行った』ところは雁夜と似ているな」
  姿形は違うが、話し方はゴゴに近く、何より雁夜の事情など知った事ではないと言わんばかりにどんどん情報を寄越してくるところ等そのままだ。
  それでも姿が違うので、感じる違和感はどうしようもなく。『本当にこいつはゴゴか?』と疑念が残り続ける。
  するとそんな雁夜の戸惑いを感じ取ったのか、肩の上に乗っていたジーノを床に下ろしながらゴゴが言ってくる。
  「外の使い魔共に間桐邸に戻る様子を見せたから、もうマッシュでいる必要はない」
  そう言うと。バーサーカーが常に放出している黒い魔力と似たようなモノを体にまとわせ。人の形をした黒い何かになってしまった。一瞬後、その黒さは消失し、殻を破る様に下から現れたのは何度も雁夜が見ている色彩豊かなものまね士だった。
  背丈はさっきまでそこに居た『マッシュ』から頭一つ分小さくなっており、金髪の男とはまるで似つかない異相がそこに在る。一瞬だけ、金髪の男が黄色やら青やら黒やらの衣装を着ただけかもしれないと想像するが。目元に見えるゴゴの姿は先程の『マッシュ』とはまるで別物だ。
  怪しさの観点で言えば、冬木市で『間桐臓硯』として振舞っている今のゴゴの方が数倍怪しい。それでも、雁夜にとっては見も知らぬ他人よりもこの一年接してきたのは、目の前に立っている奇人なので、おかしさと慣れとを一緒に感じてしまう。
  魔術の世界から離れた十年間だったが、ゴゴと接した一年で再び魔術の世界に浸り始めたようだ。
  「確かにゴゴだな」
  「そうだ俺はゴゴ。ずっとものまねをして生きてきた、ものまね士ゴゴだ」
  ゴゴと接する事で色々な事を諦められるようになったので、今更バーサーカーの宝具を『ものまね』しても驚くには値しない。
  ゴゴは姿を変えられる様になった。そうやって自分を納得させた雁夜は、話を聖杯戦争へと変えていく。色々と諦めるのが悪いと自覚していたが、ゴゴを相手にしては最早、修復不能である。
  「帰ってくるのが遅かったじゃないか。てっきり俺より先に帰ってると思ったぞ」
  「途中でアサシンに尾行されてるのに気が付いてな、わざわざ間桐邸にまで連れてくるのも鬱陶しかったから始末しておいた」
  「アサシンが!?」
  「捕まえて色々情報収集して最後には消滅させたが、あれも遠坂邸で消えたアサシンと同じように『分身した一体』だった。どうやらアサシンのマスターは敗退していると見せかけて、聖杯戦争に関する情報を徹底的に集めるつもりらしい」
  「情報が集まり次第、仕掛けてくる――か。もしかして家の外にもアサシンが・・・」
  「いるな、間違いなく」
  堂々と断言しながら『だからどうした』と言わんばかりの態度を貫けるのがゴゴの強さの一因だ。雁夜は同じ状況に陥っているにも拘らず、敵が間近に居る緊張でそれどころではない。
  けれど、間桐邸は結界と言う鉄壁の守りがあり、やったのがゴゴなのでその点は非常に安心できる。
  帰宅した時に攻撃されなかったのはやはり幸運と思い。今は敵は居ても間桐邸に入り込める者はいない。そう思い直して会話を続ける。
  「バーサーカーが退いた後は見てないけど、アサシン以外のサーヴァントはどうだった?」
  「セイバーとランサーはその名の通り卓越した剣と槍の使い手で、両方とも聖杯戦争とは別に自分達の決着をつけるのを願ってるな。ライダーの在り方も『正々堂々』だと思えばいい。アーチャーは見て目通りでいう事が無い、あれは自分以外は全員ゴミだと思ってるぞ」
  そこでゴゴは一旦言葉を区切る。
  「キャスターはまだ見てないが、アサシン以外のサーヴァントは見た目通りの『英霊』と考えていいぞ。だが、マスターの方はそうでもない曲者揃いだ。どいつもこいつも陰謀、策謀、情報操作が大好きな奴ばっかりだ」
  「そんなにか?」
  「アーチャーのマスターの遠坂時臣と、アサシンのマスターの可能性が一番高い言峰綺礼とが組んでるのはほぼ間違いなく、ランサーのマスターはサーヴァントと違って騎士道なんぞ蚊帳の外。ついでにセイバーのマスターを倉庫街で見つけたが、他のマスターを狙撃しようとしてたな」
  「セイバーの? 後ろにいた髪の長い女じゃないのか?」
  「あれはそう見せてるだけの偽者だ。雁夜の手にあるのと似た令呪も確認したから間違いない。つまり、セイバーが高潔であろうとしても、マスターの方は味方を囮にして横から勝利を掻っ攫う男だって事だ。後で似顔絵をスケッチしておくから見といてくれ」
  「ああ・・・」
  「こうなるとライダーのマスターが一番判りやすい。あの男は征服王イスカンダルに引っ掻き回されて苦労してるみたいだが、他のマスターより裏表がない。その代償か? 相当、幸運に恵まれてるぞ」
  「そうなると今後の聖杯戦争の進め方としては他のマスターに重点を置いて情報収集に努めるべきか・・・。遠坂時臣はまだ遠坂邸から出てないんだよな」
  「一歩も自陣から出る気は無いらしい。奴が出てくるまでは持久戦の構えか、バーサーカー以外のサーヴァントを全て潰して、出てくるしかない状況を作るのが妥当だ。楽なのは後者なんだが、そうなると他の英霊の宝具が見れなくなるからな」
  雁夜はミシディアうさぎ越しとは言え、あの航空爆撃機に匹敵しそうなアーチャーの攻撃を見ている。
  だからこそ敵わないと素直に認めるしかないのだが、ゴゴは容易く『英霊など敵ではない』と言ってのけた。
  そんなゴゴを羨ましく思いながらも、積極的に聖杯戦争に関わってくれそうな状況には頼もしさを感じてしまう。
  「雁夜の言うとおり、今後はマスターの情報収集が最優先。遠坂時臣が出てくるまでは、殺されないのを第一に考えて行動すべきだな。他のマスターとサーヴァントと戦うのは雁夜の勝手だが、俺が側にいない時に殺されるなよ? あまり時間が経ちすぎると蘇られなくなるからな」
  「この年になって保護者付の子供みたいな気分を味わうとは思わなかったぞ・・・」
  「仕方ないだろう。恨むなら、まだ『リレイズ』が習得できなかった自分自身を恨め」
  淡々と言ってのけるゴゴに対し、これまで何度も蘇生させてもらっている立場として何も言えなくなってしまう。
  ゴゴが聖杯戦争に関わる様になり『自分には何が出来る?』というのを強く思う様になった。協力体制は嬉しいのだが、これでは雁夜の方が一方的にゴゴに頼ってばかりである。
  当人はそれでも全く気にしてないようだが、雁夜が気にするのだ。
  けれど自分の力不足は自分が一番よく判っており、サーヴァントはおろか、他のマスターとも戦えるかどうか怪しい。鍛錬で戦う力を身につけたのは判っているが、比較対象が巨大すぎて判断できないのだ。
  さすがにセイバーの後ろにいたマスターと見せかけていた女性と戦えば勝てると思うが、マスターでないならば戦う選択がそもそも無い。
  ゴゴの言った『狙撃』が本当ならば、本当のセイバーのマスターが魔術師らしからぬ拳銃を持ち出した事になる。
  武力で叶わないのならばそれ以外の力で圧倒するしかない。幸いか不幸か、バーサーカーという手札もあるので、自分に無い力を補う術はあるのだ。
  状況が判らないまま動くのは自殺行為。敵と戦う時に最も大切なのは『観察』だ。ゴゴと修行する時に嫌になるほど実感したそれを聖杯戦争に当てはめるしかない。単なる人間で、魔術師半人前以下の雁夜に出来る事など限定されているのだから。
  「ところで、ゴゴ」
  「何だ?」
  「アサシンから情報収集したって言ってたな」
  「言ったな」
  「何が判ったんだ? お前の事だから、色々と掴んだんだろう?」
  「そうだな――真名とか、俺の魔法がサーヴァントにも効果があるとか、アサシンのスキルやら色々判ったが。面白かった事から説明しよう」
  ゴゴはそう言うと、三歩ほど下がって距離を取った。
  蟲蔵で鍛錬する時に何度か見た光景だ。これは『ゴゴが何かする』時の合図であり、大抵の場合は物騒な状況に陥る。
  おもむろに距離を取り、結果、ゴゴに殺されたのが何度合っただろう? 死なずとも重傷を負って回復魔法で治っていく自分の体を何度見ただろう? 注意して、観察して、警戒して、身構えても、予想外の攻撃で何度も殺された。
  自然と雁夜はゴゴの動きを注視してしまう。だがゴゴは雁夜の警戒などどうでもいいようで、距離を取りながら自然と語るだけだ。
 「雁夜とバーサーカーのおかげで特殊能力としての宝具を『ものまね』出来る事が判った。アサシンのまた同じように特殊能力としての宝具を持っていてな、それを物真似できたのが己が栄光の為でなくフォー・サムワンズ・グロウリーに続く大きな収穫だ」
  「アサシンの宝具?」
 「自我を肉体を与えてその数だけ自分を現界させる宝具、『妄想幻像ザバーニーヤ』だ。他にもこんな事も出来るようなったぞ」
  ゴゴはそう言いながら右腕を掲げて人差し指を立てた。紅い小手の下を白い手袋で覆っている指が向かう先は間桐邸の天井。
  そこには天井が広がるだけで、目新しい物など何もない。
  一体、何をしているのか?
  雁夜は疑問を抱えたが。一瞬の後、巻き起こった変化に疑問は動揺へと変わった。
  「これは!!」
  この一年で大抵の事は驚かなくなった雁夜だったが、ゴゴが指さした先に浮かぶモノには目を見開いて凝視するしかなかった。
  天井とゴゴの指の間に出来上がったモノ。いや、ゴゴの背後にある壁も巻き込んで部屋の中に浮かび上がったモノは雁夜も見た事のあるモノだった。
  それは空中に浮かぶ黄金の輝き。水面に出来た波紋の様に円を描くそれは、間違いなく倉庫街で見たアーチャーの宝具だった。
  その数五つ。部屋の中を照らしていた証明の明るさよりも、なお強力な輝きが虚空に出来上がっている。
  「お前、これ・・・」
  「宝具の名は判らず、全力を見た訳でもない。これはまだ完全にものまねしきれてない見た目だけの仮初めだ。それでも似た結果を作り出す『出来そこない』なら、あれを見ただけで十分作れる」
  ゴゴが右手人差し指を下ろして、雁夜に向けて指さすと。円の輝きの中から一目で武器と判る品物が現れた。
  刃を前に突き出して、撃ち出される時を待つかのような待機状態も、アーチャーの宝具と同じように見える。
  刃の大きさが雁夜の腕よりも太い槍と、突き刺すに特化した先が尖った白い槍が一本ずつで計二本。銀色の刀身から紫色の魔力を漂わせる日本刀に、柄の部分に紅い宝石が埋め込まれた両刃の剣があった。これだけならば倉庫街で見たアーチャーの宝具にそっくりと思えるのだが、最後の一つが、何故かチェーンソーで、そこだけ現代風であるが故に不調和を作り出している。
  五つの輝きから撃ち出されそうな五つの武器、矛先は自分だ。
 「パルチザンにホーリーランス、斬魔刀とファルシオン、おまけで回転のこぎりだ。軽く撃っても雁夜ごと間桐邸の半分を消し飛ばすだろう。バーサーカーの己が栄光の為でなくフォー・サムワンズ・グロウリーのおかげで『魔力で何かを作る感覚』が判ってきた。楽しいなぁ」
  相変わらずゴゴの衣装は目元しか見えないので、表情の大部分は隠されたままだ。それでも声音と言葉から、ゴゴが楽しんでいる様子が伝わってくる。
  雁夜がここ一年接してきたゴゴとの会話の中で、こんな楽しそうに話すのは片手で数えられる程度だった。
  雁夜は遠坂時臣の真意を聞き出して、桜ちゃんを遠坂の家に戻す為に力を尽くし、他のマスターたちは聖杯を得て願いを叶えるために必死で戦っていると言うのに、ゴゴは享楽に耽っている様にも見えるので不謹慎ではないかと思えてくる。
  もっとも、ゴゴがそれを出来るのは雁夜も他のマスターも持ち合わせていない『強さ』を持ち合わせているからこそだ。強いからこそ余裕が出来る。強いからこそ、誰かに優しく出来る。強いからこそ、自らの選択の幅を広げ、雁夜を鍛え。無関係である筈の桜ちゃんを救うものまねが出来る。
  超常の高みにいるからこそ可能な絶対的自己中心。雁夜には出来ないそれを出来るのがものまね士ゴゴだ。
 「この調子でランサーとセイバーの宝具を観察し続ければ、あの槍も剣も『ものまね』できるかもしれん。ライダーの戦車チャリオットを『ものまね』出来たら、あれで空を駆けるか」
  雁夜は今更ながら、ゴゴがバーサーカーの宝具で『マッシュ』になった時、衣装の変化とは別の両手に鉤爪をはめていたのを思い出す。
  大体、聖杯戦争に呼び出されるサーヴァントとて現界する為に貯えられた魔力を元にして作り上げられたコピーであり、宝具もまた貯えられた魔力を元にして作られているのだ。
  そう考えれば、生きてきた世界こそ違えども、けた違いの魔力を内包しているゴゴがやり方を学んでしまえば同じ事が出来ても不思議はない。
  聖杯戦争が始まる以前から、単身で星一つ壊せる位の強大な力を持った存在が、聖杯戦争を経て更に強くなっていく。
  もう、羨むとか妬むとかそういう次元を超越しており、雁夜は黄金の輝きを見せられながら色々な事を諦めた。考えても仕方ないとも言える。
  ただし、強気な態度で挑むのは忘れない。
  「蟲蔵でもなく、バトルフィールとも張ってない部屋の中だぞ。こんな危ない武器はとっとと引込めろ」
  「それもそうだな」
  ゴゴは雁夜の言い分をあっさり呑み込むと、腕を下ろしながら空中に浮かぶ黄金の輝きを消していった。撃ち出されるのを待っていた武器は円の中に吸い込まれ、円は中央に向けて光を収束させていく。
  一秒も経たずに五つの光は完全に姿をけし、元の部屋の風景が戻ってくる。
  今のゴゴは新しく手にいれた玩具を見せびらかす子供のように見えたので、すぐに引込めるのは少々意外だった。が、このお披露目が本命の前のほんの前哨戦に過ぎず、楽しそうなゴゴがまだ続いていると気付けなかった。
  続くゴゴの言葉に雁夜は戸惑いを更に強くする。ゴゴのおかげで驚きに対する耐性は出来たつもりになっていたが、未知と言うのはいつまでたっても驚きに値するようだ。
  「さて次はアサシンの宝具だ」
  「何っ!?」
  「アサシンが複数に存在するサーヴァントとして活動している時点で宝具を展開し続けている。これは諜報活動にはもってこいの宝具だが、分割された分だけ力が弱まる。あの状態のアサシンならば雁夜でも倒せる見立ては正しいな――。そして、アサシンの宝具がこれだ」
  そしてゴゴはその名を口にした。


 「妄想幻像ザバーニーヤ


  そこから巻き起こった変化は非常に説明しがたいモノであった。何しろアサシンの宝具らしき名を呼んだゴゴ当人には何一つ変化が無かったのだ。
  剣のサーヴァントや槍のサーヴァントの様に神秘的な武具を手にする訳でもなく、バーサーカーの様に黒い魔力の霧を生み出して吠える訳でもない。
  だからと言ってアーチャーの宝具の様に、空に生まれた輝きは無く。魔石を用いての幻獣召喚の様に、何か別の生き物が現れる訳でもなかった。
  正しく『何も起こってない』ので、説明できない。
  雁夜はゴゴがどうやってアサシンの宝具を手にいれたか判らない。雁夜にとってゴゴの『ものまね』は理解の範疇外だからだ。それでもバーサーカーの宝具をしっかりとものまねして自分のモノにしてしまっている。
  宝具とは人間の幻想を骨子に作り上げられた武装であり、魔術と言う神秘の結晶と言ってもいい。魔術師の中には宝具を代々伝える家が存在するが、ここまで簡単に『作り出す』のは世界でも一握りに違いない。
  もしこんな存在が他にもいて、裏の世界の魔術師どもに見つかれば。一生追われるか、一生幽閉されるかのどちらかだろう。もっとも、ゴゴならばその全てを撃退しそうな気はするが。
  何も起こらないからこそ拍子抜けした。そう言えればよかったのだが、変化は間違いなく起こっている。
  「中々面白い。アサシンの別人格程はっきり別れてないが。同じ自分でありながらも、別の自分だと認められる」
  そう告げたのはゴゴだった。
 ただし、妄想幻像ザバーニーヤと唱えたゴゴではない。その隣に立つ、もう一人のゴゴが雁夜に向けてそう言ったのだ。
  赤色のストール、黄色いマフラー、蒼と黒色のマント、頭頂部にある緑色の鳥の尾羽らしき物体、左側頭部から伸びた角、足の甲まで伸びたコートらしき物、つま先の部分だけが跳ね上がった靴。何もかもが『ものまね士ゴゴ』であり、写真を見ながら当人と比較する様な見た目だが、現実に同じ存在が二つ並ぶとただただ無気味であった。
  双子ではない。
  似ているのでもない。
  全く同じなのだ。
  もしかしたら細部が違うのかもしれないが、雁夜の目には同じゴゴが二人並んでいる風にしか見えなかった。
 「「体が別の場所にあるのも中々面白い。聖杯戦争もそれ以外も、一人じゃ出来なかった事が色々出来る。これに己が栄光の為でなくフォー・サムワンズ・グロウリーを重ねれば、もっと楽しくなる」」
  二人が一斉に同じ言葉を喋った。
  そう思うと、今度は互いが同じ存在であることを証明するように別々に話し出す。
  「若干、力が落ちたな」「それでも『ものまね』には支障が無い」
  同一人物が別の場所に移動しながら話しているようだ。
  「鍛錬で色々な技を見せられて奇怪な奴だとは思ってたが・・・。本当にお前って出鱈目だな」
  「褒め言葉として受け取っておこう」「俺は『ものまね士ゴゴ』、例え宝具であろうとも、この世界に存在する理なら物真似してみせる」
  こちらは一人、けれど相手は二人。しかし相手が一人であるかのようなおかしさが合って、頭が変になりそうだった。
  それでも自分の中に刻み込んだ諦観によって『そういうモノだ』と状況を諦めながら把握し、強制的に納得させて話を進める。
  「なあ、ゴゴ」
  「なんだ?」
  「『ものまね士ゴゴ』が増えた事については宝具だからって納得したんだが。何をするつもりなんだ? 正直、お前が本気出せば出来ない事なんて何もないと思ってるぞ」
  「肉体が一つじゃ別々の事を同時には出来ないな」
  「それは、まあ・・・そうだけど」
  若干、声のトーンが落ちてしまうのは、納得はしても驚きがまだ頭の中をかき乱しているからだろう。
  そうやって自己分析できる余裕はあるが、頭の中に刻み込まれた驚きは簡単には消えてなくならない。
  滅茶苦茶で、不可解で、奇妙で、奇怪で、摩訶不思議な怪物。それがものまね士ゴゴ。この間桐邸に彼が現れてから何度考えたか判らない、存在の大きさを何度も何度も考える。
  少しだけ間を置いた後、右に立つゴゴと左に立つゴゴが交互に言ってきた。
  「雁夜、覚えてるか?」
  「ん?」
  「俺は――『桜ちゃんを救う』ために、二度と聖杯戦争を起こせないよう跡形もなく消し去ろう――、そう言った。覚えてるか?」
  「ああ・・・、忘れようとしても忘れられない衝撃的な言葉だったからな。今もたまに聞いてるから、覚えてる」
  話すたびに両方のゴゴに顔を向けるのが面倒だった。
  左のゴゴへの返答は左を向き、次は右、その次はまた左とわざわざ顔を動かすのだ。五回ほど首を動かした所で首に鈍痛が走ったので、雁夜は二人のゴゴの中心に視点を置いて、両方のゴゴを一緒に見ながら話をする。
  「聖杯戦争は間桐と遠坂とアインツベルンの御三家が編み出したシステムであり、蟲爺がいない今、聖杯戦争のシステムが破壊すれば、もう聖杯戦争は起こせない。それでも、残りの二つの家が、間桐の代わりを果たす可能性はあるだろう? それどころか、誰かが今起こってる、聖杯戦争のシステムを理解したら、そもそも御三家すら不要になる」
  「理屈の上ではそうだな」
  ゴゴの言葉に返しながらもその可能性は低いと雁夜は思っていた。何しろ今回の第四次聖杯戦争に至るまで既に聖杯戦争は三回繰り返され、時間で見れば200年は経過している。
  それでも似たような事態が起こらないのは、それだけ魔術が隠匿され、御三家が聖杯戦争の仕組みを外部に漏らさぬよう細心の注意を払って来たからだ。
  聖杯戦争の表向きの形は裏の魔術の世界に知れ渡っているようだが、元々御三家が考えた『根源に至る』という真の目的は知られずに秘匿され続けた。
  間桐の零落が証明するように時間の流れは時として衰退を招くが、遠坂とアインツベルンが聖杯戦争の情報を外部に漏らす可能性は限りなくゼロに近い。
  それでもゴゴと言う前例を―――『世の中何が起こるか判らない』の実体験を雁夜自身が味わっているので、ゴゴの言葉を完全に否定できないのもまた事実だ。
  200年前に魔術師達が結託して聖杯戦争を作り上げたのならば、今代の魔術師たちが結託して新しい聖杯戦争を作り上げないとどうして言える? 雁夜はそれほど魔術師の世界に詳しくないので、知らないからこそ可能性は無限に広がっていく。
  そもそも、ここにいるゴゴ一人でも聖杯戦争を『ものまね』できるだろう。確証など一つも無く、言葉にして聞いた事もないが、おそらくゴゴはやってのける。
  「遠坂時臣にはまだ聞きたいことがあるから、生きてもらわないと困る。アインツベルンは聖杯戦争に関する情報を数多く持ってる。そして聖杯戦争に協力する『ものまね士ゴゴ』と、自由に動ける『ものまね士ゴゴ』ができた。ほら、結論は一つだ」
  「まさか・・・・・・」
  ゴゴの言葉を頭の中で吟味していくと、ある一つの可能性が浮かび上がってきた。
  雁夜に協力して聖杯戦争に関わるゴゴと聖杯戦争に関わらずに動き回れるゴゴがいる。前者が遠坂時臣に対して行動すると言うのならば、もう一人は話しに出て来たアインツベルンをどうにかする。
  そしてゴゴは言った。『聖杯戦争を消す』と。
  それらを全て結ぶとある答えに辿り着く。
  雁夜は脳裏にその可能性を浮かべながら、それを意味ある単語にして頭の中で反芻した。すると左に立つゴゴが、それと全く同じ内容を言葉にした。


  「俺はアインツベルンを消す」


  やはり、と思ったか? それとも、まさか、と思ったか? 雁夜には咄嗟に判断できなかった。
  ただ、そう言うだろうと納得はしていたので驚きは少なく。かつて聖杯戦争を消すと宣言された時の様に絶叫を轟かせたりはしない。
  今回の聖杯戦争を壊す為には今いる全ての参加者と聖杯そのものを破壊すればいい。そして次回の聖杯戦争を起こさなくするためには、システムそのものとそれを復旧できる全ての魔術師を滅ぼせばいい。
  御三家としての遠坂をどうするかが非常に気になったが、それとは別にアインツベルンを潰せば、既に聖杯戦争のシステム復旧など絶対に出来ない間桐と合わせて復活はありえないだろう。
  何もかもを消せば聖杯戦争自体は起こせなくなる。直す者が全ていなくなれば全て消える。消滅に至る簡単な理屈だ。
  有るから無くす。単純な引き算の果てにある根絶である。
  「元々、聖杯戦争の後で聖杯と一緒に消えてもらう算段だったからな。アインツベルンが何代続いた魔導の名家か知らないが――、『他のマスターの襲撃』によって跡形もなく消えてもらおう」
  堂々と他の魔術師の家に喧嘩を売ると宣言し、何の躊躇いもなく『消す』と言える強さがゴゴにはある。その在り方が雁夜には眩しく見えた。
  二人に増えた異常事態だからこそ、ものまね士ゴゴの胡散臭さと強大さを同時に思う。
  「殺すんだな」
  「ああ。殺す」
  ゴゴは言った。
  「聖杯戦争は殺し合い。命を奪うならば、奪われる危険を常に意識しないとな。殺生を忌み嫌うのは勝手だが、200年前から続けてるのなら、殺される覚悟もあって当然だろう。その覚悟、叶えてあげようじゃないか」
  まるで雁夜に言い聞かせるようにゴゴは言った。
  それが雁夜には『必要なら躊躇わず人を殺せ――』と言っている様に思えた。



[31538] 第11話 『機械王国の王様と機械嫌いの侍は腕を振るう』
Name: マンガ男◆da666e53 ID:4b532e19
Date: 2012/09/05 21:24
  第11話 『機械王国の王様と機械嫌いの侍は腕を振るう』



  ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆



  Side - 衛宮切嗣





  切嗣は冬木ハイアットホテルの屋外駐車場に誘導された宿泊客に紛れ込みながら、宿泊客名簿と実際の人数とを確認しているホテル従業員の姿を視界に捉えた。
  事前に冬木市を徹底的に調べ上げた切嗣にとって、ランサーのマスターであるケイネス・エルメロイ・アーチボルトが、冬木ハイアットホテルの客室最上階、地上32階のフロア一つを丸々借り切ったと調べ上げるのは難しい事ではない。
  冬木市に存在する建物の中で魔術師が根城に選びそうな建物は全て把握している上に、ランサーのマスターは金額にものを言わせて、最上階を貸し切り状態にしたのだ。
  少しでも疑ってかかれば『どうぞ見つけて下さい』と言わんばかりの愚挙である。おそらく切嗣でなくとも、『目立つ怪しい外国人は居ませんでしたか?』と周囲の人間に聞けば、一般人でもケイネスを見つけ出せるだろう。
  敵は借り切ったワンフロアを全て自身の工房に作り変え、入念な魔術結界と罠をしかけて待ち構えているに違いない。その魔術に絶対的な自信を持っているからこそ、見つかっても問題が無いと堂々と振舞える。
  だが、切嗣にとってそれは絶好の獲物でしかない。どれだけ敵の守りが堅牢であろうとも、居場所さえ知れてしまえば戦い方は幾らでもある。
  「アーチボルト様! ケイネス・エルメロイ・アーチボルト様! いらっしゃいませんか?」
  切嗣は宿泊客の所在を確認している従業員へと近づいていった。
  今、他の客が全て屋外駐車場に集まっているのは、切嗣が舞弥と共に引き起こした火事が原因だ。火元を何か所に分散させたが規模は小さい、消火より客を避難させた方がいいとホテル側を誘導させた結果が作り上げられた。
  当然ながら、最上階を借り切っているケイネスと彼の協力者と思われる妻のソラウもこの場に居なければいけないのだが。聖杯戦争の只中で、しかもこの火事騒ぎが敵の襲撃だと予測しているランサー陣営がこの場に現れる訳がない。自陣の魔術結界の中に閉じこもっている姿が容易に想像できる。
  「――はい私です」
  つまり、切嗣がケイネスに成り代わり、宿泊客の所在を確認している従業員に話しても本人は邪魔できない。
  金髪をオールバックにした海外の貴族を思わせる風貌のケイネスと、くたびれたコート姿の冴えない日本人男性の切嗣は似ても似つかない。
  普通ならば、ホテル従業員が切嗣とケイネスを見間違える筈は無いのだが、切嗣には暗示の魔術と言う便利なモノがある。自分の姿をケイネスに見せかけるのは不可能ではなかった。
  「ケイネス・エルメロイ・アーチボルトは私です」
  「え・・・・・・」
  言葉と共に視線を介して従業員に暗示をかけ。話している自分の姿がケイネスに見えるよう誤魔化してゆく。
  暗示の魔術は得意分野ではないが、一般人の魔術抵抗力などはたかが知れているので、今夜のランサー陣営への襲撃が終わるまでは破られるはしない。
  「ケイネス・エルメロイ・アーチボルトは、妻のソラウともども避難しました」
  もう一度強く暗示をかけると、切嗣の目をまっすぐ見るホテル従業員は、視点の合わぬ目を泳がせた。その後に手に持った宿泊名簿に視線を落とすと、そこに書かれたケイネスとソウラの所に『避難済み』のチェックを入れる。
  「・・・そうですか。ああ、はい」
  視線を切嗣に戻し、話しかけてくる姿には何の違和感もない。
  今、彼の目には切嗣は映っていない。目は確かにコート姿の切嗣を捉えながらも、頭の中ではそれが外国人のケイネスに置き換わっている。
  もし暗示がかかっていなかったら、何らかの違和感が生まれるが、その気配は微塵もなかった。
  成功だ。
  「ケイネス様、ソウラ様・・・は避難されましたか。結構です」
  「はい」
  他の避難客たちへの対処に奔走する為、別の場所に向かう従業員を見送った後。切嗣は屋外駐車場から移動を開始した。背後から『全員、避難しました』と声が聞えてきたが、既にそれは切嗣の意識の外に放り出される。
  ホテルから一区画ほど離れた場所には誰の物陰もなく、これから切嗣がやろうとしている事を見る人間は誰もいない。いや、もしいたとしてもポケットから出した携帯電話を見て、誰かに電話をかけるとしか思わないだろう
  事実、それは大きな間違いではないのだから。
  「準備完了だ。そちらは?」
  「異常なしです。いつでもどうぞ」
  冬木ハイアットホテルのはす向かいにある高層ビルの上階。今だ建設中のその場所で待機している舞弥に報告したのだから、『電話をする』のは紛れもない事実である。
  しかし次に切嗣のやろうとしている事はその限りではない。ハイアットホテルの最上階を監視している舞弥との通話を切り、片手でポケットの中から煙草の紙箱を取り出した。
  電話が終わった後の一服に見えるかもしれないが、空いたもう一方の手は携帯電話にある番号を打ち込み、今夜のランサー陣営への攻撃を実行する。
  数秒後、冬木ハイアットホテルのとある一角に閃光が走り、鉄筋コンクリートが軋む不気味な音が響き渡った。
  突然聞こえてきた異音、そしてホテルを照らしていた灯りが全て消え去ったのを見た宿泊客の戸惑いが聞こえてくる。
  切嗣はそれを耳にしながら、全高150メートルに及ぶ高層ホテルが崩落する瞬間をしっかりと見た。
  四方の外壁は全て内側に折り畳まれる様に崩れていき、周囲に破片一つ撒き散らさず内側へ内側へと折り畳まれていく。
 爆破解体デモリッンョン。そう呼ばれる最小限の爆薬で、効率よく確実にビルなどの高層建築を破壊する技術だ。
  「ホテルが!!」
  宿泊客の叫びが起こった崩壊を明確に表していた。支柱を失った冬木ハイアットホテルは、重力の存在を思い出したかのように倒壊し、三十秒とかからずに瓦礫の山へと作り変えられてしまう。
  崩壊で押し出された大気が粉塵を巻き起こし、膨大な煙幕となってホテルの周囲一帯を撫でまわしていく。
  屋外駐車場に避難した宿泊客に煙幕が押し寄せたが、身体的被害は皆無に等しい。しかし、火事だと思っていた誰もがいきなりホテル崩落を目の当たりにしたのだ。驚かない筈はなかった。
  我先にと逃げ出していく客がいた。
  必死にそれを止めようとする従業員がいた。
  その場に蹲り、泣きじゃくる子供がいた。
  その子供のあやす母親らしき女がいた。
  切嗣はそれを見ながら、手に持った紙箱から煙草を取り出してくわえる。突然現れた危険から逃れる為、方々に散っていく人影が増えていく頃には起こった風圧も弱まっている。
  切嗣はそれを見計らって煙草に火をつけ、今まさに冬木ハイアットホテルを崩壊に導いた携帯電話で、もう一度舞弥に電話をかけた。
  「舞弥、そっちは?」
  「最後まで32階に動きはありませんでした。標的はビルの外には脱出していません」
  「そうか」
  短い通話を終えて電話を下げ、通話状態を維持したまま煙草を深く吸い込んで煙を吐き出した。
  切嗣がやった事は聖杯戦争の観点から見れば別段珍しくもない『敵陣営への攻撃』である。
  まだ他のマスターとサーヴァントを一人も打ち取ってない状況では『アイリスフィールをセイバーのマスターと見せかける』という奇策を継続させる必要があり、敵を仕留めるのに切嗣がセイバーに命じて戦わせる方針は行えない。
  ライダーのマスターはあの飛行宝具によってどこかに行ってしまったので追跡は不可能であり、遠坂陣営と間桐陣営は強固な結界に守られているので、切嗣が舞弥と協力しても攻め込むには少々大き過ぎる相手だ。
  そこで切嗣が狙いを定めたのがランサーだった。セイバーの左腕に癒えぬ傷を残した呪いの魔槍を破壊し、戦力としてのセイバーを万全の状態に戻す。その為にも真っ先にランサーのマスターを排除する必要がある。
  セイバーが同じ選択に迫られれば真っ向から戦ってランサーを倒そうとするだろうが、サーヴァントの消滅か宝具を破壊する為に、わざわざサーヴァントを狙うなど切嗣には理解の範疇外だ。もっと狙いやすい『マスター』という目標が傍にいるならばそちらを狙うべきである。
 ただ一人の人間を殺す為に建築物を丸ごと破壊する。暗殺にしてはあまりにも堂々としすぎている方法だが、切嗣にとっては爆破解体デモリッンョンも敵を殺す手段でしかない。
  準備は万端だったので、倉庫街の戦いを監視し終えてからの小一時間もあれば十分だった。もちろん魔術的な隠匿も万全で、ホテルの監視カメラには支柱を破壊するC4プラスチック爆弾を準備する姿は録画されておらず、これが切嗣の仕業だと世間に知られる事は無い。
  舞弥からの報告でケイネスと同行者のソラウが地上32階から脱出していない事が確認できた。これで彼らは無残に散らばったホテルの残骸の仲間入りを果たしたのである。
  どんな強固な魔術結界であろうとも、地上150メートルの高みから叩き落とされる室内の人間を守る術は無い。もし仮に魔術結界が無事だったとしても、中の人間は遥かな高みから叩き落とされて重力の洗礼を味わう。
  サーヴァントならばいざ知らず、不意打ちだからこそ生身の魔術師は生き残れない。これでセイバーの左腕に残った呪いの槍の傷は癒えるだろう。
  「・・・・・・」
  煙草の煙をもう一度吸い込みながら、切嗣はアインツベルンに雇われる以前の自分と今の自分を比較して、衰えを強く感じた。
  往年の冷酷さと判断力を一刻も早く取り戻さなくてはならない。そうでなければ聖杯戦争を勝ち残れない。自分の力の無さを改めて実感し、より冷酷に、より冷徹に、より冷静に、最良の結果を瞬時に導き出せるように過去の自分に戻さなければならない。
  切嗣は意識を切り替えるべく煙草の煙を吐き出した。丁度そこで、間桐邸に放った使い魔から異変を伝える合図が送られてきたのは何かの偶然だろうか?
  本来であれば切嗣は、冬木の各地に放った使い魔の全てにカメラを取り付けており、全ての映像と音声を録画して後でも状況を確認できるよう準備を整えている。
  ただ、倉庫街で見た得体の知れない男が間桐と何らかの関わりがあると考えたので、今夜だけは間桐邸で何らかの異常が合ったら使い魔の方から合図を送る様に指示を出しておいたのだ。
  例えば、間桐邸から誰かが出て来た時や、逆に誰かが入っていく時などが該当する。これも九年のブランクが生んだ無駄な行為である。
  使い魔に情報収集を徹底させて、監視のみに留めるのならば、よほどの緊急でもない限りリアルタイムで使い魔の目を通して状況を確認する利点は無い。聖杯戦争に関わりが有ると確証しながらも、他のマスターでは無いから気にかかっただけに過ぎない。
  これがもし何らかの集中を強いられる場面で、使い魔からの連絡で失敗したらどうするのか?
  敵マスターと交戦している時に使い魔からの情報で気が逸れたらどうするのか?
  監視のみに徹底するならば、そんな命令を出すこと自体しなければよかった。乱入してきたあの男の訳の判らなさは確かに不気味だが、一筋縄ではいかない相手が増えただけの話。今のところ言峰綺礼以上に『異質な相手』ではない。
  後で間桐に放った使い魔の映像を検証する必要が出来た。異常の発生に対し、そう結論付けた切嗣は、意識を使い魔から切り離してランサー陣営の攻撃へと戻そうとする。
  だが、異常を知らせて来た使い魔は更なる情報を切嗣へ送ってきた。視覚共有していない切嗣には間桐邸の様子は見えないが、単なる言葉として送られてくるそれは間桐邸から聞こえてくる人の声だった。
  切嗣が聞いているのではない。使い魔が聞いた声を文字にして、切嗣の頭の中に送ってきているのだ。頭の中で強制的に文字を思い浮かばされた気色悪さがあった。
  切嗣はより強く使い魔の扱い方を徹底しなければと思いながら、送られてしまった言葉を頭の中で思い描く。
  それは聖杯戦争と結び付けづらい、あまりにも場違いな言葉であった。


  俺が死んだら世界中のレディが悲しむからな


  「なに?」
  実際に言葉が聞こえてきた訳ではない、あくまで切嗣の頭の中だけに浮かんだ文字なのだが。聖杯戦争の真っただ中で聞こえてくる声とは到底思えない言葉だ。
  切嗣はあまりのありえなさに呟いてしまうが、即座に間桐邸の近くを通りがかった何者かが自画自賛しているのではないかと、ありえる可能性を思い浮かべる。
  使い魔に命じているのはあくまで間桐邸に起こる異常で、間桐に関連があるか否かの判断はさせていない。
  余計な情報が送られてくる前に完全に使い魔との同調を断ち、カメラによる監視を徹底させよう。そう切嗣が思い使い魔との繋がりを切ろうとした、その瞬間―――。


  オートボーガン


  「・・・・・・」
  新たな言葉が送られてきて、間桐邸に放ったコウモリの使い魔の繋がりが断ち切られた。
  こちらが切ったのでは無く向こうに何らかの問題が発生して繋がりを保てなくなったのだ。おそらく何らかの攻撃を受けて絶命したのだろう。
  新たな問題が発生した瞬間だが、同時に間桐邸に余計な気を揉む必要が無くなった。その点だけは望ましい。
  そして使い魔の一匹がいなくなったところで、また新しい使い魔を用意すればいいだけの話だ。
  あるいはコウモリの使い魔で間桐邸の監視が不可能になったなら、別の手立てを考えればいい。
  他のマスターを相手にするのと同様に―――これまで『魔術師殺し』の衛宮切嗣が行ってきたように―――敵の情報を仕入れ、必勝の策を作り、状況を招き入れ。正義の為に、始末する。ただ、それだけ。
  意識を完全に間桐邸から切り離した後。冬木ハイアットホテルの異変を聞きつけた町の人々が集まり始めているのを確認した。ホテル火災でも人が集まるのに、ホテル倒壊と言う大惨事が起こったのだ、野次馬が集うのは自然な流れである。
  切嗣は完全に意識をランサー陣営への攻撃に戻し、舞弥に撤退を指示する為。まだ通話状態を維持したままの携帯電話を耳元に寄せる。
  自分の衰えを考え込んでしまった時間、間桐邸に放った使い魔に割いてしまった時間。その分だけ、時間を無駄にしてしまったと考えながら指示を出す。
  「舞弥、撤退を――」
  だが携帯電話から返ってきたのは舞弥からの応答ではなく、闘争の音だった。



  ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆



  Side - ゴゴ



  人は睡眠をとらなければならない。特に魔術師としては魔力不足の欠陥をもつ雁夜にとって、サーヴァント使役は多大な労力を要する。
  雁夜が武器を用いた戦士として戦えばアサシンの一人程度倒せるだろうが、魔力総量の少なさはこの一年の鍛錬でも満足のいく結果には至れなかった。
  失った体力と魔力をゴゴの魔法で回復しても、精神的な疲労は雁夜当人が休んで直すしかない。何より雁夜本人が、桜ちゃんを家に残して夜の街に出歩くのを由としない。
  これは聖杯戦争が始まってしまったからこそ、桜ちゃんとの時間を大切にしようとする雁夜の願いだ。雁夜の『桜ちゃんを救う』を物真似しているゴゴは賛同するしかない。
  結果。間桐邸に張られた堅牢な結界の中で雁夜と桜ちゃんが眠り。休息の必要のないゴゴがマスターの情報収集の為、外に出る事となった。もちろん眠る前の雁夜とは話し合い済みである。
 「己が栄光の為でなくフォー・サムワンズ・グロウリー
  ものまね士としてのゴゴを更なる高みの昇らせるこの宝具。使えば使うほどにゴゴの中に歓喜が蠢き、別の姿に変わるたびに懐かしさが広がっていく。
  背中まで伸びた金色の髪をの二か所で束ね、青い瞳が間桐邸の中の景色を映し出す。紫色に近い紺色の衣装の上に水色のマントを羽織り、空の青と水の青を表すかのような瑞々しさを描き出す。
  ただし両手に持っているのはチェーンソーとクロスボウ、『回転のこぎり』と『オートーボーガン』で、両手に装備した武器の極悪さが衣装の爽快さを完全に打ち消していた。
  アクセサリの『竜騎士の靴』を履き、『エドガー・ロニ・フィガロ』の姿になったゴゴはマッシュの時と同様に玄関から出て、堂々とその姿を晒す。
  マッシュが倉庫街に向かった時と同じように使い魔たちの視線が体にぶつかってくるのを感じる。今は真夜中なので、玄関口の灯りを消してしまえば月の輝きと道路にある街灯の灯りしかない。
  使い魔たちも夜の見辛い風景を見極めようと必死になっているのだろう。ご苦労なことだ。
  ゴゴはそんな強い視線を感じる中、玄関を閉めて外に出る。
  そして通常の攻撃をジャンプへと変える『竜騎士の靴』の力を使い、普通の人間ならば絶対不可能な飛翔と見間違う跳躍で、間桐邸の屋根の上に飛び乗った。
  着地音を大きくすれば桜ちゃんと雁夜を起こしてしまうかもしれないので、出来るだけ繊細に、ただし垂直跳びで10メートルほどを軽々と跳ぶ。攻撃手段としても使えるが、移動手段にすれば間桐邸の屋根ぐらいは行動範囲内だ。
  ゴゴは屋根の上に立って両手の武器を構えながら、体を回転させて全方位を観察した。
  観られている。
  木の枝にぶら下がって、木々の隙間からこちらを見る使い魔がいる。
  見られている。
  地面の上の草むらに潜み、屋根の上を見上げる使い魔がいる。
  視られている。
  ついでとばかりに物陰に潜んで気配遮断スキルを全開にしてこちらをみるアサシンがいる。
  どいつもこいつも屋根の上に立ったゴゴ―――今はエドガーの姿をしているので、あちらから見れば正体不明の人物その2を注視している。
  マッシュの姿を物真似した時に兄の存在をほのめかしたので、もしかしたら顔立ちが似ている今の姿をマッシュの兄だと看破した者もいるかもしれない。だが知られようと知られまいとゴゴには関係が無い。
  「俺が死んだら世界中のレディが悲しむからな」
  あえて聞こえるように言葉を放ち、より強く監視者たちの視線を自分に集中させる。
  向こうから見えているという事はこちらからも見えているという事。体の大部分を死角に隠して、目だけを晒しているかもしれないが、眼球は攻撃の的になってそこにある。
  ならば狙うしかない。手に持った武器はその為の機械なのだから。
  「オートボーガン」
  ゴゴは矢を放ちながら、体を回転させて東西南北のあちこちに散らばって監視者たちに矢を叩き込んでいく。
  撃ち出して、貫いて、射抜いて、突き刺して、ぶち抜いて、命を刈る。
  機械技術を誇るフィガロ国が建造した、敵の姿がある限りに新たな矢を生成して撃ちだす特異な機械。今はゴゴの魔力によって常に新しい矢を作り出すが、どちらも限りなく無限に近い有限であるのは変わりない。
  的に向かって矢を射るだけなのでバトルフィールドを展開する必要すらなかった。
  避けられる前に射殺す。
  弾かれる前に射殺す。
  逃げられる前に射殺す。
  間桐邸を監視しようなどと不埒な事を考える不届き者に命をもって償わせる。
  ただし、全開でオートボーガンから矢を発射すれば、間桐邸の周囲が穴だらけになってしまうので、目標を射抜くだけの力に抑えておいた。
  十秒とかからずに間桐邸の周囲からゴゴを見ていた目が全て潰れ、放たれた計89本の矢は全て敵の体を射抜いた。敵が多ければ多いほどにオートボーガンの矢は数を増すので、もっと多い敵を相手にすれば数百、数千も夢でない。
  その時を夢見つつ、ゴゴは屋根から飛び降りる。
  「敵がいるのに射抜かない。そんな失礼な事ができると思うかね?」





  鬱陶しい目を全て潰すつもりだったのだが、一際大きく感じる気配がまだ一つ残っていたので、エドガーの姿をしたままそちらに向かう。
  目を瞑っても判る巨大な魔力の繋がり、聖杯に繋がったサーヴァントの気配を感じとり。そちらに歩いけば磔になったアサシンの姿があった。
  どうやら周辺に被害が出ないように威力を抑えたオートボーガンではアサシンを一撃で殺すには至らなかったようだ。腹部や胸部には刺さった矢はいいのだが、脳天を貫こうとした一撃がアサシンの髑髏の仮面に阻まれてしまったのが大きな原因だろう。ひび割れているが貫かれてはいない。
  直撃させるつもりが、寸前に回避行動をとられてしまい。結果、髑髏の仮面を抉って終わったか。それとも弱めすぎたか。アサシンだけに狙いを定めれば、全力で撃てば避ける間もなく眉間に一撃叩き込めただろうが、今は殺し切れていない。
  シャドウとしてアサシンと戦った時を考慮にいれて、絶対に殺せるようにしたが上手くいかなかった様だ。
  気配遮断のスキルを持つアサシンは、隠れ潜んでいる状態で『どうして攻撃できた?』と今の自分を疑問に思っているようだが。ゴゴにとっては自分の中に物真似した大聖杯を通じてサーヴァントの位置は大体わかる、アサシンが気配を断っていても所在は丸わかりである。
  使い魔の多さとアサシンの俊敏さを少しだけ甘く見た故の殺しそこない。そして、敵の位置が判っても漠然としているので一点を射抜くには不向きだった状況がアサシンを生き長らえさせた。
  もっとも、魔力が続き敵がそこにいる限りオートボーガンから無尽蔵に矢は撃ち出される。既に十発ほどがアサシンの体を射抜いている。五、六本で木に磔にしているので、敵としてのアサシンは最早死んだも同然だ。
  ただし、今のまま放置すれば力ずくで矢を抜くか、霊体化して逃げられる。そうさせない為に、ゴゴはもう一方の手に持った武器を構えた。
  見た限りではシャドウとなって戦ったアサシンと磔になったアサシンに大差はない。体つきの違いや身長の違いはあっても、サーヴァントとしてのアサシンとして見れば同一だ。もう物真似する価値はない。
  「私の機械のテクニックも錆びついたかな?」
  殺し損ねた結果をエドガーらしく語りながら、オートボーガンではないもう一つの機械をアサシンに近づける。
  複数を相手にするには不向きだが、残ったアサシン一人を相手にするには最適の機械。外歯をチェーン状にして、動力によって回転。対象物を容易く斬れる自動式の鋸。
  「回転ノコギリ」
  ゴゴは回転を始めた殺戮の機械をアサシンの口の中に突っ込んだ。
  「!!!!!!!!!!!!」
  髑髏の仮面で正確な口の位置は判らなかったが、仮面には上歯が並んでいたのでその下近くに差し込めば、そこに口がある筈だ。
  回転のこぎりの騒がしい機械音が辺りに鳴り響き、これにアサシンの悲鳴も合わされば確実に通報される。だからこそ敵に悲鳴を上げさせないようにまず口を潰そうとしたのだが、倉庫街で少し見た『人払いの結界』をものまね出来るようにした方が得策だったのかもしれない。
  磔になりながら苦しげに暴れようとするアサシンを見て、ゴゴはそう思った。
  オートボーガンの矢で固定され、サーヴァントすら破壊するエドガーの機械によってアサシンが解体されていく。
  かつて多くのモンスターと戦った時もそうであるように、ゴゴは差し込んだ回転のこぎりを横に動かして回転を加える。
  ブチリと人の頬が千切れる音が鳴り響き、回転のこぎりのグリップ部分とハンドル部分とエンジン部分にアサシンの紅い血が飛んだ。
  肉は千切れ、骨が露出し、白と赤が混ざり合ってピンク色の肉と交じり合う。口の奥まで差し込まれた回転のこぎりがアサシンの顔を砕き、喉の奥から漏れ出でる悲鳴を封殺する。
  アサシンが磔になって攻撃できないので、存分に相手に背を向ける一回転を行えた。
  だからゴゴは回転する。
  頬を裂いた勢いに回転の速度を乗せ、アサシンの首めがけてチェーン状の外歯が襲い掛かる。一瞬後には、アサシンの首が飛び、更に多くの鮮血を辺りにぶちまけた。
  紅い血が残った胴体から流れ落ちる。空中に舞ったぐちゃぐちゃの頭部が地面に落下する。
  ボトンと、頭だったモノが落ちた時。もう一回転した回転のこぎりの外歯がアサシンの胴を薙いだ。
  肉が千切れ、骨が砕け、血が溢れ、人の形をした者が別のモノのなってゆく。
  最後の回転でアサシンの右足と切断し。アサシンだったモノから紅い血がどくどくと流れ落ち、地面を真っ赤に染めていった。
  もう動かない。
  もう動けない。
  もう生きていない。
  もう死んでしまった。
  アサシンの四肢に力はなく、辛うじてサーヴァントを構成する魔力が身震いに似た振動を起こさせるが、最早、このアサシンの復帰は不可能だ。
  ビクッ、ビクッ、と胴に繋がった左足が動いている。
  回転のこぎりの威力は大きく、アサシンを磔にしていた木も一緒に切ってしまい。首と銅と右足が分断された死骸と一緒に地面に倒れてしまう。
  人気のない深夜。木々をぬらす鮮血と、矢で固定された人の死体。そして凶器を手にした犯人は血まみれになって殺した相手の前に佇んでいる。
  片手には磔にしたオートボーガン、もう片方の手にはアサシンを惨殺した回転のこぎり。地面に出来上がった紅い血の跡は肉と一緒におぞましい臭いを放っていた。
  この場面だけ見れば、ホラー映画かスプラッター映画のような有様である。
  御世辞にも闘っているとは言い難かった一方的な虐殺シーンだ。この世界ではないが、一国を背負う王の見栄えが悪くていいのだろうか? ゴゴはそう思ったが、元々、エドガーが扱う機械は見た目の格好良さから遠くかけ離れた部分があるので諦めるしかない。
  あちこちに飛んだ血と肉の塊が、紫色の粒子となって消えて行く。殺され消えてゆくアサシンの姿を見送りながら、ゴゴは周囲から間桐邸を監視する目が完全に消えたのを確認した。
  そして回転のこぎりの回転を止め、深夜の静寂を作り出していく。いきなりの騒音だったので、人が集まってくる危険があった。雁夜からの追及で後が少々怖いが、今は逃げる以外に選べる道が無い。
  「ここで見つかる訳にはいかないな」
  周囲から監視の目が消えたが、これはほんの一時の開放だ。
  すぐに使い魔が殺された事に気付いたマスター達が再び別の使い魔を放つだろう。だが、その間、この間桐邸で行われる何もかもが他のマスターにもサーヴァントにも監督役にも関知されない。
  ゴゴは振り返って間桐邸の中で休む雁夜と桜ちゃんを思いながら、新たな宝具の名を口にする。
 「妄想幻像ザバーニーヤ
  それはアサシンを物真似して得た宝具であった。



  ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆



  Side - 久宇舞弥





  衛宮切嗣という機械を、より機械らしく動作させるための補助機械。それこそが舞弥の存在理由であり、生きている証そのものである。
  だが『機械』という自覚はあっても、感情が欠落している訳ではない。常に冷静さを失わぬように振舞っても、久宇舞弥は機械になり切れていない人間なのだ。
  完成すれば冬木センタービルの名を冠する建設中の高層ビルの中で、舞弥は柱となる予定の鉄筋コンクリートの一本に背を預けて隠れていた。ほんの少し前までは冬木ハイアットホテルに暗視装置付きAUG突撃銃で監視を行っていたのだが、今、その銃は『黒鍵』と呼ばれる聖堂教会の代行者たちの正式武装によって貫かれて床に転がっている。
  舞弥は腰のホルスタから9mm口径のグロッグ拳銃を抜き放ち、神経を尖らせて物陰からその攻撃を成し遂げた人物を最大限警戒する。
  この場に居合わせた何者か、それも明らかに殺意ある攻撃をくわえて来た時点で、舞弥にとって射殺の対象となった。しかし、こちらの攻撃が相手に通じるかどうかは別の問題だ。
  「それにしても──建物もろともに爆破するとは。魔術師とは到底思えんな。いや、魔術師の裏をかくのに長けているということか」
  存在を隠そうともしない堂々とした言葉は男のもので。冬木ハイアットホテルが合った場所を照らす大量の光で、漆黒の僧衣姿が浮き彫りになる。
  舞弥はその男を知っていた。
  「言峰、綺礼・・・」
  「ほう? 君とは初対面なはずだが。それとも私を知るだけの理由があったのか? ならば君の素性にも予想はつくが」
  舞弥は呟き漏らした結果、相手に情報を与えてしまった事を悟って心の中で舌打ちする。その後、真っ先に舞弥が考えたのは『何故?』という疑問だった。
  衛宮切嗣が放った使い魔により、遠坂時臣と言峰綺礼―――更には監督役である言峰璃正すらも協力関係にある事が予測できている。
  だからこそ、言峰綺礼は聖杯戦争でサーヴァントを失ったマスターとして聖堂教会に保護される立場であり、他のマスターの戦いに参入する様な事態は最も避けなければならない筈。
  言峰綺礼は教会から一歩も出ず、アサシンを冬木市に放って他のマスターの裏をかく。それが切嗣の導き出した結論だが、状況はその予測を裏切って舞弥の窮地を作り出した。
  「私にばかり喋らせるな、女。返答はひとつだけでいい。──おまえの代わりにここに来るはずだった男はどこにいる?」
  そう言った言峰綺礼は何かを舞弥が隠れた鉄筋コンクリートの傍に投げつける。それは蝙蝠の死骸だった。
  しかも腹にCCDカメラを取り付けたそれは切嗣が教会を監視する為に放った使い魔で、現在、所在不明になっていた一匹である。
  舞弥はこの時点で言峰綺礼がどうしてこの場にいるのかを考えるのを止め、殺すしかないと結論に至る。
  相手の真意が何であれ、言峰綺礼は衛宮切嗣を狙っている。ならば補助機械たる自分にとって言峰綺礼は明確な敵だ。
  鉄筋コンクリートの柱から腕だけをだし、舞弥はグロッグ拳銃の三連射を言峰綺礼に向けて撃った。
  遮蔽物がある場合はそれを盾にするのが鉄則。舞弥が言峰綺礼の腹を狙ったのは即死を狙ったからではなく、重傷を負わせて後に殺す為―――殺人術としての射撃を実行したからだ。
  けれど舞弥が撃った弾丸は言峰綺礼を抉らず貫かず掠りもせず。ただ堅く脆いコンクリートの床面に当たる。
  信じ難い事だが、言峰綺礼は鉄筋コンクリートから片腕だけを出した舞弥の視線と腕の動きから、銃弾を避けたのだ。
  どれだけ人が早く動こうと。超音速で発射される弾丸よりは早く動けない。だから言峰綺礼は発射される前に舞弥がどこに向かって撃つかを瞬間的に判断し、驚異的な速度で見極めて移動した。
  恐るべき戦術判断だ。最早、常人になせる業ではない。
  そして舞弥の銃弾を避けた言峰綺礼は、暗視装置付きAUG突撃銃を壊した黒鍵とは別の黒鍵を放ち。舞弥の手からグロッグ拳銃を落させた。攻撃と回避を同時に行う、その一撃の精密さはすさまじい。
  手に握られた拳銃を叩き落とした一撃は致命傷には程遠く、舞弥には戦える余力が十分残っている。狙おうと思えば、片腕そのものを貫く事も出来ただろうが。それをしなかったのは舞弥に用があるからだ。まだ言峰綺礼の問いに答えてない舞弥に―――。
  「なかなかに悪くない動きだ。相当に仕込まれているようだな」
  舞弥は手の中にべったりと残る自分の血糊の感触と痛みを味わいながら、敵の能力を分析し、言峰綺礼の戦闘能力は自分のそれを凌駕していると認めるしかなかった。
  言峰綺礼を相手にするのならば、万全の装備を整え、策略と地の利を使い、そんな状況下でようやく対峙出来る相手だ。今の様な準備も策略も地の利もない状況で戦っていい相手ではない。
  舞弥はこのまま戦えば間違いなく自分が負けると確信する。
  ゆっくりと迫り来る足音を耳にしながら、この状況を打開する為にはどうすべきかを考えた。


  「おぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉ!!」


  奇妙な声が聞えてきたのはそのすぐ後だった。
  冬木ハイアットホテルだった場所から聞こえてくる喧騒とは別の大声。徐々に大きくなっていく事実が音源が動いているのを教えていたが、音の出所がどこかは判らない。
  ただ言える事は、その声は間違いなく舞弥が危機に瀕している、ここにめがけて向かってきている、という事。
  言峰綺礼もまた突然聞こえてきた声を警戒してか、向かう歩みを一旦止めた。
  何かが接近していると認識した一秒後。それはやって来た。
  「ぬおおおおおおおおお!!」
  どうやって声の主がここにやって来たのかは判らない。舞弥の様に建設中の階段を上がってきた訳でもなく、ヘリなどの航空機を利用して上から下ってきた訳でもない。しかし声の主は間違いなくここにやって来て、両足で床を滑りながら勢いを殺した。
  ザザザザザザザザ、と床を削る音が響く。
  あえて移動方法の可能性を上げるならば、スキージャンプなどの『跳躍』でこの建設中の高層ビルの中に『跳んで来た』のが最も近いであろう。ただし、周辺にはこの場所に跳んで来れるジャンプ台など存在しない。
  質量操作と気流制御の魔術とは異なる別の魔術を行使してやって来た可能性もあるが、重要なのはどうやって来たかではなく、何をしに来たか。という点だ。
  敵か、味方か、それとも無関係の第三者か。自分と言峰綺礼と何者かの三人で正三角形を作る位置取り。鉄筋コンクリートの陰から様子を窺うと、日本刀を手にした知命の男の姿が見えた。
  「拙者はカイエン。ドマ王国の戦士、カイエン・ガラモンドでござる」
  そう言った男は手にした日本刀をこちらに向けて続ける。
  「お主。今し方、冬木ハイアットホテルを爆破した者の関係者でござるな。無辜の民を犠牲にする許し難き所業、成敗してくれよう!」
  物理的な攻撃が放たれた訳ではない。しかし、無視しようとしても決して無視できない人の作り出す気配、言峰綺礼が舞弥に向けて放っている『闘気』とでも言うべき、濃密な戦いの気配がこの空間を満たしていく。
  出所は新たに現れた三人目の男からだ。
  敵の増加は舞弥の窮地を絶体絶命に変えた。



  ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆



  Side - 言峰綺礼





 カイエンと名乗った男が何者であるか綺礼には興味が無かった。大切なのは綺礼が目的にする衛宮切嗣に繋がる駒―――必滅の黄薔薇ゲイ・ボウで癒えぬ呪いを受けた怪我を治す為、ランサー陣営に攻撃を仕掛けるセイバー陣営への足掛かりだけだ。
  何を思って男がこの場に割り込んできたなどどうでもいい。だが衛宮切嗣に会おうとする自分の邪魔をするならば、誰であろうと敵に変わりは無い。
  綺礼は右手と左手に黒鍵をそれぞれ三本ずつ構え、いつでも投擲できる準備を整えながら言葉を投げる。
  「貴様。私の邪魔をするか?」
  「拙者の目的はそこの女子だけ。お主と争うつもりは無いでござる」
  言葉こそ即座に返ってきたが、男の意識は衛宮切嗣の仲間に向けられている。構えられた刀もこちらには向いておらず、黒鍵で狙い撃てば簡単に当るであろう姿を晒していた。
  だが、代行者として数多くの敵と戦ってきた経験が、この男の強さを綺礼に教えている。
  見た目は父の璃正に近く老いを感じさせるが、その間にどれだけ苛烈な修練を積み重ねて来たのか。黒鍵を投擲した瞬間に全て叩き落とされて斬りかかってくる男の姿を幻視する。
  銃で応戦してきた女よりも厄介な敵の出現に綺礼の動きが止まった。男は横目でそれを確認しながら、女に向けて一歩踏み出す。カラン、と音を立てて何かが床に転がったのは丁度その後だ。
  一秒もかからずに煙が辺り一面を埋め尽くし、強烈な刺激臭が鼻についた。
  「煙幕――」
  「面妖な!!」
  視界を奪われながらもいきなり現れた男の方から声が聞こえて来たので、あの男がしでかした事ではないと一瞬で判断する。
  自分でもなければ残るは一人。綺礼は咄嗟に逃げ去ろうとする足音を頼りに黒鍵を投げ放とうとしたが、投げる姿勢のまま思いとどまる。
  もしここで武器を減らせば、別の黒鍵を準備する前に男から攻撃を受ける可能性がある。この世界は虚言に満ちており、『争うつもりはない』等と話をして襲い掛かってくる者が腐るほどいる。初対面の相手の言葉を額面通りに受け取るほど、綺礼はお人よしではないのだ。
  迂闊に動いてはならない。そう結論付け、両手の黒鍵を構えながら、もし敵が向かって来れば即座に対処出来るように、油断なく周囲の気配を探る。
  「ぬうんっ!!」
  聞こえてきたのは逃げる女の足音を上回る男の声だ。
  次の瞬間、建設中であるが故に剥き身のビルの中を吹き抜ける強風が更に勢いを増し。猛烈な速度で充満する煙を払っていく。
  攻撃か? と綺礼は思ったが、風は風でしかなく、物理的な威力を持った攻撃ではない。二秒ほどであっという間に煙は消え去ってしまい、刀を振り抜いた姿勢でそこに居る男と綺礼だけが残った。
  「『風切りの刃』の前にはこのような煙は意味をなさぬ!」
  何やら男が喋っているが、綺礼にとっては『女に逃げられた』という事実の前には男の声など霞んでしまう。ただし、敵が残っているので追いかけることも出来ず、この場で戦うしか道は無い。
  綺礼は刀を振り抜いた姿勢の男に黒鍵を叩き込むチャンスと捉え、こちらから攻撃を仕掛けようとした。
  だが綺礼が黒鍵を投げる前に、何と綺礼の目の前で男は日本刀を鞘に戻して、綺礼に向かって頭を下げてきたのだ。
  攻撃しようとしたところにいきなり不戦の構図を見せつけられ、綺礼は動きを止めてしまう。
  「拙者はあの女子を追うでござる。これにて失礼仕る」
  男はそう言うと、何を考えているのか綺礼に背を向けて女が逃げたと思われる方向に歩き出してしまった。
  紛れもなく相手は綺礼の目的を阻む敵なのだが、あまりにも無防備に背中を晒し『どうぞ狙ってください』と見せつけられると逆に攻撃できなくなる。
  これがどんな状況であろうと結果を求める者ならば、背中めがけて躊躇なく攻撃できるのだが。綺礼には聖堂教会の代行者としての戦いが身についており、『異端の排除』と『悪魔退治』を生業とする代行者には男が倒すべき敵と映らなくなってしまった。
  男が魔術を公にしようとする者ならば背中からでも攻撃できただろう。あるいは男が吸血種であったならば、躊躇なく攻撃できただろう。
  しかしこの男はそうではない。ただ乱入してきて刀を振るっただけだ。
  まだ建設途中の階段を下って女を追いかけるのを見送ると、綺礼だけがこの無人のフロアに取り残されてしまった。
  男の恰好は紫色の胸当てと体の各所を守る黒い甲冑姿。ただし黒髪黒目に顔立ちは日本人の様に見えた。冬木の安全を守る警察官や自衛官には見えなかったが、けれども単なる一般人にも見えない。
  そもそも冬木の地に限らず、日本には銃砲刀剣類所持等取締法が存在し。一般人が軽々しく日本刀を所持できない国なのだ。
  風を生み出した刀が何らかの概念武装の可能性はあるが。本人がそれを理解した上で使っているのかそうでないかで関わり具合は大きく変動する。
  そして綺礼が知る限り、男が告げた『ドマ王国』という名は世界にある国の中に存在しない。
  「ぬおー! どこに行ったでござるかー!?」
  階下から男の声らしき音が聞えたが、綺礼はそれを追おうとは思わなかった。
  綺礼は既にサーヴァントを失って聖杯戦争を降りた事になっているので、あまり堂々と立ち回れない事情がある。ここに赴いたのは衛宮切嗣に相対出来るかもしれないと言う目算があったからだ、何の関係もない男を追いかけて、自分の姿を他のマスターに見せるなど愚の骨頂である。
  綺礼はすぐに男の事を意識から外して、アサシンに命じて調べる事が増えたと思い直した。敵ならば殺す、それだけの話。
  あの倉庫街に現れた正体不明の男に対し、アサシンの一人に追跡を命じたが、何かが起こってそのアサシンが殺された。
  間桐がサーヴァントとは異なる何らかの力を手にいれた可能性があり。先程の男もそれに関わっているかもしれない。
  まだ周囲に香る刺激臭に対し、綺礼は鼻を鳴らす。敵がいなくなったのを再確認して黒鍵を収納した。
  そして床に転がっていた使用済み発煙筒に近づいて持ち上げ、それが女を逃がした煙の出所だと結論を下す。米軍の装備品で手投げ式のタイプ、目新しい物ではなく、コネさえあれば誰にでも調達可能な一品だ。
  誰かがあの女を逃がす為にこの場に投げ入れた。
  周囲にこの高層ビルに匹敵する建物は無く、かつて合った冬木ハイアットホテルは既に瓦礫の山となっている。ならば地上から投げ入れられたのだと判断するしかない。
  地上から150メートル以上離れたこの場所目がけて、地表から放り込まれたのだ。
  そしてあの男もまた、この場所に『跳躍』してきたのだろう。表の世界では悪夢のような常識の埒外だが、代行者として数多くの魔術師と戦ってきた綺礼にとっては、物事の範疇外の出来事は驚くに値しない。
  綺礼は女が逃げたと思われる建設中のエレベータシャフトまで近づいて下を覗き込み、そこに誰もいないことを確認する。どうやら完全に逃げられてしまったらしい。
  「まあいい。あの女を助ける存在がいると知れただけでも、今夜の所は収穫だ」
  階下から女を探していると思われる男の声が聞えてきたが、綺礼はそれを再度無視する。可能ならば今すぐにでもアサシンに命じて男を追跡したいところだが、冬木教会の外でアサシンを使役すれば見つかる可能性は高くなるので、今は距離を取っている。
  他のマスターはサーヴァントを霊体化させて自分の守りにつけているかもしれないが、今の綺礼の周囲にはアサシンの気配はない。
  その筈だったが―――綺麗の感覚は、斜め後ろから忍び寄る異形の気配を察知した。
  「綺礼様」
  本来ならばここに現れてはいけない筈のアサシンだ。
  「表ではみだりに姿を晒すなと言っておいた筈だが?」
  「恐れながら――。早急に御耳に入れておかねばならぬ議がございました故・・・。遂にキャスターを捕捉致しました」
  綺礼はアサシンの言葉を聞きながら、聖杯戦争の状況がまた一つ動いたのを感じた。そして命令に背いたアサシンを罰する代わりに、階下にいるであろう男の追跡を命じた。



  ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆



  Side - ゴゴ





  アサシンの宝具で自分を分割させることに成功したゴゴは、カイエンとなって別の場所で戦っている自分を冬木市の上空5千メートルで認めていた。
 妄想幻像ザバーニーヤによって分かれ、己が栄光の為でなくフォー・サムワンズ・グロウリーによってゴゴ以外の姿に変える。宝具の二重掛けが可能にした別の場所に自分を配置する離れ業だ。
  そして寒風吹きすさぶ極寒の中、アサシンの宝具によって分かれた『ものまね士ゴゴ』は二人だけではない。間桐臓硯として冬木を出歩く通常のものまね士ゴゴもいるのだが、ゴゴの前に立つもう一人は違う。ただし、相手の姿形こそ異なるが、相手の中身もやはりゴゴなので、自分で自分に向けて話す不可思議な状況である。
  自分で自分に話しかける。双方共に実体を持つ生身なので、頭の中で反芻するのとは訳が違う。慣れるまで多少時間が必要だとゴゴは思った。
  相手の格好は黒いスタイリッシュコートに白いネッカチーフ。背中まで伸びた白銀の長髪が風になびいて後ろに流している。
  鎌を持った骸骨―――死神が描かれたカードをもてあそぶ、セッツァー・ギャッビアーニの姿をしたゴゴに対し、ものまね士の色彩豊かな恰好をしたゴゴが話しかけた。
  「アインツベルンは任せたゾイ」
  「帝国とケフカに比べれば楽な相手だ、久々に楽しませてもらうぜ」
  空中に浮遊する飛空艇、ブラックジャック号の操舵輪を握るギャンブラー、セッツァー。
  これが本当にセッツァーだったならば、久方ぶりに出会った旧知の仲間と会話を弾ませるのだが、ゴゴの目の前にいるセッツァーはあくまで『ゴゴの記憶の中のセッツァー』であり当人ではない。
  何をするかなど言葉を交わす必要すらなく周知の事実であり、改めて確認するまでもない。それでも別人であるかのように話をするのはものまね士として物真似の成果を確かめたいからだろうか? 我が事ながら、理解しきれない部分がある。
  セッツァーであるゴゴから視線を外して横を見ると、桜ちゃんの身長よりも若干高めの白い塊と身長22メートルの巨大な白い塊が合った。
  「風が気持ちいいクポー」
  「ウー・・・、親分の・・・言うとおり・・・」
  片方は背中に赤く小さな羽根を持ち、何故か頭から黄色い球を生やしている『モーグリ』と呼ばれる種族のモグ。そしてもう片方はモグの子分である雪男で、名をウーマロと言う。
  彼らもまたかつてゴゴと一緒に旅した仲間なのだが、そちらも宝具の二重掛けが実現させた物真似の成果で本物ではない。
  そもそもゴゴが仲間になった後の飛空艇はファルコン号であり、ウーマロが仲間になったのもケフカによって世界が一度破壊された後の話。ブラックジャック号の甲板に彼らが集う事は無かったので、見える光景はかつて存在した光景ではない。
  それでも宝具の力によって似た風景が作り出され、まるで本人達の様に振舞う姿に懐かしさが浮かんでくる。
  もしかしたら、もう一度会いたいのかもしれない。
  ゴゴは姿を変えた自分を見ながら、そう思った。
  現在、飛空艇ブラックジャック号が冬木市の上空に滞空しているのは、間桐邸から排除した監視の目をかいくぐってドイツにあるアインツベルンに向かう為だ。
  もちろん透明化の魔法『バニシュ』によって飛空艇は外部から見えなくなっており、外に漏れ出でる魔力は全て内側の空間に収束している。注意深く空を見て、そこに魔力の塊があると知ったうえで見れば見極められるかもしれないが、何も知らずに見ても看破するのは不可能であろう。
  なおバニシュを使っているのはブラックジャック号の真の持ち主であるセッツァーである。何しろこのブラックジャック号、ゴゴがスロットで呼び出したのではなく、セッツァーになったゴゴが呼び出した正真正銘の彼の愛機であり、物真似の精度を更に高めた飛空艇なのだ。魔法を唱えるのはセッツァーであるのが相応しい。
  可能ならば、寄り道などせずに一気に上空に舞い上がってそのままアインツベルンを目指したかったのだが、移動途中に高層ビルが破壊される騒動を見つけてしまったのだ。
  今の冬木市では騒動があれば、それはほぼ確実に聖杯戦争に絡む。事が大きければ大きいほどにそれは可能性を増す。
  そこでカイエンとなったゴゴはブラックジャック号の最大速度150kmを利用して、敵がいると思わしき場所目がけて跳躍した。
  空を舞う飛空艇から飛んで建築中の高層ビルの中に着地する。一歩間違えればそのまま地面に落下しただろうが、歴戦の侍のジャンプは見事に成功し、五十歳とは思えぬ健脚で勢いを殺した。
  騒動の渦中を見つけるのには少し苦労したが、場所の特定は聖杯との繋がりである『マスターの誰か』を頼りに行い。そしてカイエンとして聖杯戦争を戒める為に言葉を放った。
  居たのはアサシンのマスターである言峰綺礼で、狙われていたのは魔術師ではないただの人間。女がどのサーヴァント陣営の者か判らなかったから、語った言葉のほとんどは当てずっぽうで、堂々と言っていたが実は確証など何一つなかったりする。
  そしてその二人しかいないのを確認した後。サーヴァントの気配が全くなかったので、その時点でゴゴは物真似のし甲斐が無いと退屈を感じて戦う意義も見いだせなかった。
  聖杯戦争では言峰綺礼は重大なルール違反をしているので罰するべきなのかもしれないが、背を向けて去った。雁夜がいれば話は変わったかもしれないが、彼は今、眠りの世界に旅立っている所だ。
  間桐邸を監視していたアサシンを葬り去ってから一秒も無駄にしないでやった強行策。姿を消しているが、巨大なブラックジャック号が作り出す衝撃波が地上を破壊していないか少し気になった。
  バニシュの効果が空気にも影響を出していないのを信じるしかない。
  ゴゴがカイエンとなった自分自身の事を考えていると、ブラックジャック号に乗り込んだ最後の一人が階段を上がり甲板に姿を見せる。
 もっとも、その人物もまたゴゴが己が栄光の為でなくフォー・サムワンズ・グロウリーで変身した姿なので、ブラックジャック号の甲板にいるのは全てゴゴだ。
  「ガウガウ、これをかりやにわたす!」
  そう言ったのは短い黄色いケープを羽織、膝までしかない緑色のズボンをはいた野生児だった。
  名をガウ。
  着ている服はケープとズボンのみで、それ以外は全て地肌を晒しており、靴など履いていない裸足である。腰まで伸びた緑色の髪は森の緑を思わせるが、手入れなど完全にやった事がないようでぼさぼさだ。
  背の高さはゴゴとそう変わりないが、顔立ちの幼さが彼をまだ『少年』にしていた。事実、彼の年齢はまだ15歳には届いておらず、日本では中学生の年齢なのだから。
  ガウの―――正確には宝具によってガウになったゴゴの―――手の中には二等辺三角形の小瓶が山ほどあり、その小瓶は蒼い液体で満たされていた。
  ゴゴが生み出した飛空艇も、今のセッツァーが生み出した飛空艇も。結局はどちらもゴゴの力で生み出しているのだが、宝具による後押しがあったお陰か。セッツァーが操縦する真のブラックジャック号は、ゴゴが生み出したモノよりも再現の精度を格段に上げた。
  その最たるモノはブラックジャック号の中に道具屋とリフレッシュおじさんがいる事だ。不要だったからか、何故か装備引っぺがしおじさんはいなかったが。こうなると最早『ものまね』の範疇を超えた『創世』である。
  ただし、彼らを明確に『生きている』と定義できるかは難しい。何しろ常に特定の会話しか出来ず、人の形をしているが彼らには確固たる自己が無い。あえて言うならば『ロボット』が彼らを表す最も的確な言葉であろう。
  宝具を物真似してから、どんどんと自分を高みへと引き上げている実感を持ちながら、同時に物真似しきれない部分へのジレンマを抱える。
  ゴゴは今すべき事を思い出し、物真似しきれなかった部分を意図的に考えないようにすると、ガウの手の中にある多数のアイテムを受け取った。
  小瓶に納まった液体の名前は『エーテル』、魔力回復を道具で可能とした品物だ。この世界にも魔力を回復させる方法は何種類か存在するが、これはただ飲むだけで良い。
  「わたす、わたす」
  「ありがとう、ガウ。ちゃんと雁夜に渡しておくゾイ」
  背丈がほぼ一緒なので十個ほどのエーテルを受け渡すのはそう難しくは無い。
  その代わり、ガチャガチャガチャと荒っぽく渡された小瓶が音を立て、割れるんじゃないかと不安になるが。エーテルを入れる瓶は傷一つ付かずにゴゴの手の中に納まった。
  かつての世界ではどの町の店にでも普通に売っていた品物だが、現状、この世界で手にする為にはゴゴの力が無ければ不可能だ。これもまた貴重さで言えば魔石に匹敵するだろう。
  そもそもこのアイテムが雁夜に効果があるかが未知数なので、その辺りも確かめなければならない。
  冬木に残るゴゴと、カイエンとなって冬木市を移動するゴゴ、そしてアインツベルンに向かうゴゴ達。手に入るとは思ってなかったアイテムの入手等、準備は整ったので、あとは甲板の上にいる四人に任せるだけだ。
  「そっちは任せたゾイ」
  かつての仲間たちの姿をした自分に別れの挨拶をすると、ゴゴは右掌を上に向けて魔石を呼び出す。
  緑色の結晶が掌から浮かび上がり、魔力を注ぎ込めば、魔石『ケーツハリー』から巨大な紫色をした鳥が姿を見せた。
  本来であれば、ケーツハリーは味方全員で敵にジャンプ攻撃を仕掛ける為、上空に術者を含んだ仲間を移動させるだけの幻獣だった。しかし桜ちゃんの魔力『架空元素・虚数』によって、本来魔石が発揮する単純な攻撃にも変化を作り出せるようになった。
  攻撃手段を移動手段へ。攻撃のソニックダイブを発動させず、空の上から地上へと舞い降りる為に利用する。
  ケーツハリーが羽根を大きく広げると、黄色と緑色と赤色の青色の色彩豊かな羽根が広がった。紫色の体躯と合わせてブラックジャック号の甲板に虹が見える。
  ゴゴは姿勢を低くしたケーツハリーの背中に乗って空に飛びだす。
  すると甲板の上で感じた風をより強く感じるが、宝具によって得られた多くの物真似の成果に体は昂っており、むしろ冷たさが心地よい。
  程なくセッツァーが唱えた『バニシュ』の影響下から離脱し、ゴゴの視点からでは飛空艇ブラックジャック号を見る事は叶わなくなった。そこに魔力の塊があるとは感じられるのだが、目で見ても夜の闇が広がり、か細い星の輝きが見えるだけだ。
  ゴゴはケーツハリーと自分にバニシュをかけ直し、透明になって地上へと降りていく。目指すは間桐邸である。
  「・・・・・・・・・」
  ゴゴが飛空艇から下りると同時に、セッツァーとモグとウーマロとガウ。この四人を乗せたブラックジャック号はドイツのアインツベルンを壊滅させる為に発進しただろう。
  そして法の番人に見咎められれば、持ってる日本刀で逮捕される危険はあるが、カイエンならば上手く逃げおおせられるだろう。
  方々でそれぞれの役目を果たす自分の分身を思いながら、ゴゴはマッシュの姿になって英霊に語った言葉を思い浮かべた。


  「誰にも迷惑のかからない山奥なり砂浜なり樹海の奥深くにでも行って戦え。責任ある大人だろうがお前ら、『人のものを勝手に壊したらいけません』って教わらなかったのか?」


  「勝敗を決したいのなら勝手に戦って、勝手に死ね。これ以上、ここに住んでる人に迷惑をかけるな、まったく」


  「自分達を優先させて、この地に生きる者達の都合は無視か。自覚がない所はケフカよりタチが悪いな。とんだ暴君様だ――」


  聖杯戦争に関わりが無い様に見せかけて、その実、一年前から思いっきり関わっているゴゴ。冬木に住む一般人の苦悩をそのまま相手にぶつけたが、ゴゴにも人の事は言えない。
  この世界にはかつての世界に無かった国境やら排他的経済水域やら入国審査やらが存在する。
  世界がケフカに壊される前はガストラ帝国という国が顕在し、その辺りの法律もあったようだが、ゴゴが目覚めた時はそんなモノはなかった。
  聖杯戦争で表の世界に迷惑掛けまくってるのがマスターとサーヴァント。だがゴゴが不可視の飛空艇を飛ばすのも十分な罪だ。
  ブラックジャック号はドイツのアインツベルンに向かっているのだが、少し考えただけでも領空侵犯と違法入国、それからアインツベルンの消滅は殺人と器物損壊に該当する。
  マッシュやカイエンの口を借りてサーヴァント達が悪であるようになじったが、結局、『ものまね士ゴゴ』である自分自身も彼らと同じ穴のムジナだ。実被害の大小は別にして、『他人の迷惑など考えない』という点においては何も変わらない。
  表の住人に気取られぬよう、裏の世界を暗躍して秘密裏の処理する。そもそも表立った事態が起こらないように見せかける。これではゴゴも神秘を秘匿する魔術師と同類だ。
  罪人だ。
  咎人だ。
  無法者で、犯罪者で、人でなしで、悪党で、化け物で、神を三柱生み出した超常の存在だ。
  しかし自分はやろうとしている事が罪だと自覚しながらも、ものまね士ゴゴは止まれない。『ものまね』は自己の存在証明であると同時に、自分が自分である為に必要なのだ。『桜ちゃんを救う』物真似をやると定めていながら、それを止めた瞬間、ものまね士ゴゴはものまね士ゴゴでは無くなってしまう。
  そして聖杯戦争に関わっている限り、物真似の題材が山を成す。これを逃す手は無い。
  改めて自分の立ち位置を考えていると、ケーツハリーはあっという間に間桐邸の庭へ降り立ってしまった。周囲から受ける監視の目が感じられなかったので、どうやらオートボーガンと回転のこぎりで殺し尽くした使い魔とサーヴァントはまだ補充されていないらしい。
 これなら己が栄光の為でなくフォー・サムワンズ・グロウリーを使ってマッシュが外の出歩いて帰ったのだと擬装する必要はない。ゴゴはケーツハリーへの魔力供給を断ち切って魔石に戻し、透明化も一緒に解除して、間桐邸の玄関を開けた。
  家人の寝静まった真夜中だ。人の動く気配は無く、ミシディアうさぎ達も桜ちゃんの元で一緒に眠りについている。間桐邸で過ごした一年の間に何度も何度も見た静かな光景だった。
  「・・・・・・・・・」
  ゴゴは通路を歩きながら、他のマスターの情報を探るべく冬木に放った101匹ミシディアうさぎに意識を切り替える。
  きっとどこかにまだ見ぬ獲物がいる筈。そう願って―――。



[31538] 第12話 『璃正神父は意外な来訪者に狼狽する』
Name: マンガ男◆da666e53 ID:4b532e19
Date: 2012/09/05 21:25
  第12話 『璃正神父は意外な来訪者に狼狽する』



  ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆



  Side - 間桐雁夜





  雁夜はこの一年間、ゴゴに師事して力をつけながら、同時に別のことを考え続けてきた。それはどうやって『桜ちゃんを救う』か? だ。
  一年前、臓硯の消滅によって桜ちゃんは間桐の家にいる理由を失った。だが、ゴゴの言葉により、本当に遠坂の家に戻すことが桜ちゃんの救いになるのか判らなくなってしまったのだ。
  今は間桐の家にいない兄の鶴野、そして臓硯と言う戸籍上だけの父親との生活を知っている雁夜だからこそ。桜ちゃんが父母と姉の元に帰るべきだと強く思っている。
  今でも、それが最も的確な解決策だと考えているのは確かなのだが、疑念が混じっているのもまた確かだった。その辺りが『判らない』を拍車にかけていた。
  ただ遠坂の家に桜ちゃんを返すだけならば一年前でも出来た。しかし雁夜はそれをしなかった。
  遠坂時臣の真意を知る為、何故、桜ちゃんが養子に出されなければならなかったのか、それを見極める為に様子見したと言える。
  桜ちゃんの安全が確認出来るまで、保留にしたとも言える。
  今も恋い焦がれているあの女性の面影を残す少女との生活に、執着が無かったと言えば嘘になる。
  とにかく雁夜は一年間、桜ちゃんと過ごし。ずっと桜ちゃんを救うためにはどうすべきかを考えてきた。
  臓硯が生きていたらこうはならなかった。きっと『遠坂の家の桜ちゃんを戻す』が唯一絶対の解決策だと考え、臓硯に聖杯を持ち帰る為に刻印虫に体を喰わせていただろう。
  それもこれも全てはゴゴのおかげだ。ただし、改めて『桜ちゃんを救う』という話をゴゴとしたことは無い。何しろゴゴは『聖杯戦争を破壊する』と明確な目的を宣言し、その為に色々と準備を整えて来たのだ。バーサーカーの召喚もそう、聖杯戦争に協力するのもそう、アインツベルンを消す為に動き出したのもそう。
  ゴゴが桜ちゃんを救おうとしているのは、あくまで雁夜が口にした『桜ちゃんを救う』のものまねでしかない。主体は自分にあるのだが、その過程を雁夜とは別の形で作り出している。力無き雁夜には到底出来ない方法を幾つも考え、それを実行している。
  だから雁夜は余計に考える。考える事こそが自分のしなければならない事だと定め、桜ちゃんと接してきたこの一年の中で考え続けてきた。おそらく、この一年間、雁夜の頭の中でずっと浮かび続けてのは桜ちゃんだ。寝ても覚めても桜ちゃんの事ばかり考えている。
  ゴゴとの鍛錬で自分が死ぬことではない。
  こことは別の世界で神を生み出した、ものまね士ゴゴでもない。
  聖杯戦争の事でもない。
  他の全てを差し置いて、雁夜は桜ちゃんの事を考え続きた。どうすれば桜ちゃんを救えるのか―――と。
  そして雁夜はある結論にたどり着く。その答えにたどり着いたのは今ではない、聖杯戦争の直前でもない、もっと数ヶ月前に答えは出ていた。それでも、桜ちゃんにその答えを語り聞かせなかったのは、それを口にしてしまえば何かが変わると―――本来ならばあり得なかった筈の間桐邸での暖かい生活が消えてしまうと思ったからだ。
  他にも幾つか理由はあるが最も強いのはそれだ。問題を先送りにした許し難い所業だと自覚しながらも、桜ちゃんがいて、家事全般を担いよりよい生活を作ってくれるゴゴがいて、自分がその輪の中に加わって時間が過ぎゆく。この暖かさをずっと味わっていたかった。
  しかし聖杯戦争が、魔術師の家系が、自分も桜ちゃんもまた始まりの御三家である事実が、この平穏を破壊する。
  雁夜は遂に言うべき時が来てしまったのだと悟る。そして朝食を終えて一段落ついた後、ゴゴによって片付けられた食堂の机の上で、桜ちゃんと向い合せになって座った。机を挟んだ向こう側には桜ちゃんの他にも奇抜な衣装のゴゴがいる。さすがに間桐邸の中でまで宝具で姿を変えていなかった。
  雁夜は数ヶ月間、自分の胸の中だけに秘めていた想いを言葉にした。





  「桜ちゃん。俺は蟲を使い人を人とも思わない間桐の魔術が嫌いなんだ――。だから十一年前、俺は二度とこの家と関わらない為に縁を切って外に出た、連絡なんて一度もしなかったし、桜ちゃんに葵さんと凛ちゃんの事が無ければ冬木にだって近づかなかったと思う」
  そんな言葉から雁夜は語り出す。
  「でも、俺が間桐の魔術を継承していれば、桜ちゃんが間桐に養子に出されるなんて事は起こらなかった――。だから桜ちゃんが怒りをぶつけるべき人間は俺だ。俺が間桐に残っていれば、こんなことにはならなかった・・・」
  大切な話があるからと桜ちゃんは黙って聞いてくれた。
  ただし、その隣に座るゴゴは黙っていなかった。
  「あの虫爺がそんな殊勝な決断を下すとは思えないがな。雁夜が居ようと居まいと、遠坂から養子の話が来たら『魔術の選択肢が増える』って嬉々として受け入れたと思うぞ。いきなり俺に攻撃してきた位だ、自分以外はどうでもいいと思ってるだろ」
  「黙ってろ」
  ゴゴの横槍が入って思わず怒鳴ってしまうが、雁夜も内容についてはその通りだろうと思っていた。
  どうして遠坂時臣が桜ちゃんを養子に出したのかは今だ謎だが。臓硯が養子を受け入れたのは間桐の血筋が零落したが為だ、兄の鶴野も甥の慎二も雁夜自身も魔術回路が無いかほんの数本だけ。そんな状態で間桐を復興させる為に『自分たち以外』の方法があるならば、それに飛び付くのは自然な流れと言える。
  実に忌々しくも魔術師らしい決断だ。
  けれどそれはそれとして、雁夜が間桐の魔術師として修練を積んでいれば、桜ちゃんが間桐に引き取られる事態は起こらなかったかもしれない。こればかりは実際に養子を受け入れた臓硯に聞くしかない仮定の話だが、雁夜にとっては『かもしれない』で十分すぎるほどの罪科である。
  雁夜は償わなければならない。
  「だからもし、これから話す内容で桜ちゃんが誰かを殺したいと思ったなら、その罰を真っ先に背負うべきは俺だ。桜ちゃんには人を殺すなんてことはしてほしくない、それでも誰かを許せないのなら、まず俺を許さないでくれ、望むならこの命ぐらい桜ちゃんにあげるよ」
  「・・・・・・・・・」
  桜ちゃんはただ黙って話を聞いている。
  何も言わずに真っ直ぐこちらを見ている。
  気のせいでなければミシディアうさぎのゼロを抱きしめる両手に力がこもっている様に見えた。どれだけ雁夜の言葉を理解しているかは判らないが、真剣な表情からは一語一句聞き逃さないような決意が見える。
  だから雁夜は続ける。
  懺悔の様に―――。
  「俺は『桜ちゃんを救う』その為には何だってやる覚悟が合って、桜ちゃんが遠坂の家に戻るのが一番、桜ちゃんにとっての救いになると思ってる。だけど、そうならないかもしれないんだ」
  「・・・・・・」
  「俺たちはいまだに『遠坂時臣がどうして桜ちゃんを間桐へ養子に出したか』が判ってない。だからもし桜ちゃんがただ遠坂の家に帰ったら、その理由でまた桜ちゃんが別の家に養子に出されるかもしれない。間桐よりももっと酷い場所かもしれない。だから遠坂の家に戻る事が桜ちゃんにとって良くない事なら、それは救いじゃなくい、地獄に落とす手助けになってしまう」
  「・・・・・・」
  「俺はずっと考えて来た。『救い』は人によって意味が変わる。俺には俺の、ゴゴにはゴゴの、そして桜ちゃんには桜ちゃんの『救い』があって、俺が良かれと思ってやった事が桜ちゃんにはいらない事かもしれない。だから俺はこう思った、本当に『救われた』って桜ちゃんが感じる為には、桜ちゃんの気持ちが必要なんだ。たくさんの選べる道から桜ちゃんが自分で選んだ答えこそ、『救い』じゃないか―――ってな。後で後悔するかもしれないし。誤った道を選んでしまうかもしれないし。それでも桜ちゃんが『自立』しないと、『救い』はないと、俺は思うんだ」
  矢継ぎ早に話した言葉を桜ちゃんはどれだけ理解しただろう。
  出来るだけ簡単な言葉を選んだつもりだが、どれだけ判ってくれただろう。
  もしかしたら全然伝わらなかったかもしれない。それでも自分の気持ちを相手に伝えるためには、まず言葉にしなければ始まらない。
  行動に起こさなければ何も変わらない。何も始まらない。何も変えられない。雁夜はそれを嫌になるほど判っている。
  だから告げる。
  「この一年で桜ちゃんはたくさん成長した。親離れ、子離れ、いつかは訪れる選択だとしても、その時に桜ちゃんが『自立』して、自分で道を選べるようになっていた欲しいんだ。俺は押し付ける善意が悪意と何も変わらないって判ったんだ。繰り返すけど、俺は桜ちゃんがこんな間桐の家じゃなくて遠坂の家に戻った方がいいと思ってる、葵さんと凛ちゃんの元に還るべきだって、そう思ってる。でも桜ちゃんの前にはそれだけじゃないたくさんの道が広がってるのを判ってほしいんだ」
  そこで一旦言葉を区切ると、桜ちゃんの目をジッと見つめながら少し間を置く。
  「――桜ちゃん」
  「・・・・・・はい」
  ここでようやく桜ちゃんは言葉を出したが、快活さとは無縁の弱々しい言葉が彼女の戸惑いを強く表している様だった。
  悲痛とまではいかないが、それでも悲しげに見えるその顔を見て、雁夜の中に罪悪感が芽生える。
  それでも言わなければならないのだ。桜ちゃんが救われる為に―――。
  「君は遠坂の家に戻ってもいいんだ。このまま間桐の家に残ってもいいんだ。両方欲しいなら、遠坂の家に戻って間桐と交友を持ってもいいんだ。魔術と関係のない表の世界で生きてもいい。魔術に関わる裏の世界に染まってもいい。怒りに任せて俺を殺したっていい。魔石の力でゴゴに魔法を学んでもいい。学ばなくてもいい。遠坂の家で葵さんと凛ちゃんに甘えてもいい。少し様子を見る為に、遠坂と間桐の家を往復したっていい。沢山の道が桜ちゃんの前に広がってるんだ。君はどれでも選べるんだ。魔術師の――、大人の都合に振り回されなくたっていいんだ」
  そして雁夜は肝心の言葉を桜ちゃんに言う。
  「だから桜ちゃんが救われるために、桜ちゃんがこれからどうしたいかを――選んでほしいんだ。難しく考える必要は無いよ、桜ちゃん。どうしたいのか、何をしたいのか、素直に考えてしたい事をおじさん達に言ってほしい。ただそれだけだよ」
  最後だけは優しく囁きかけながら、雁夜は少し前のめりになった自分の躰を後ろに戻した。
  椅子に腰かけているのでアジャスタケースに入った魔剣ラグナロクは横に置いてある。重心が軽いのが逆に物足りない感覚だが、頭の中は桜ちゃんの思いで埋め尽くされているので、それもすぐ気にならなくなった。
  雁夜は桜ちゃんに告げた言葉がどれだけ残酷な事かよく判っていた。もしかしたら桜ちゃん自身の決断で、遠坂の家を見限らせる可能性だってあるのだ。
  あるいは遠坂の家に戻りたいと願いながら、父の時臣に捨てられたのだと思い知ってしまう可能性だってありえる。
  未来の選択は子供に選ばせるにはあまりにも重すぎる問題だ。年齢としては既に大人と言える雁夜だって、いきなり目の前に重要な選択が現れたら竦んでしまう。
  それでも選択を押し付けるような真似はしたくなかった。間桐で地獄を見せられた桜ちゃんだからこそ、選べる自由があるのだと知っていた欲しかった。
  大人は子供の未来を考え、子供が正しい道を進んでほしいと願うものだろう。しかしその『魔術師の正しさ』によって桜ちゃんは地獄にたたき落とされたのだ。
  それに雁夜は知っている。
  遠坂葵は言っていた、魔術師の家の嫁いだ女が当たり前の家族の幸せなんて求めるのは間違いだと。その言葉を絞り出すように告げたその時の顔は、明らかに桜ちゃんの無事を祈り、幸せを願う母の顔だった。
  雁夜は遠坂時臣を殆ど知らない。しかし幼馴染である遠坂葵の事は―――妹を心配する凛ちゃんの事を知っている。
  だからきっと大丈夫。あの二人は桜ちゃんの事を大切に思ってる、叶うならばまた家族として一緒に住みたいと思っている。その筈だ。
  もし遠坂時臣がその幸せを阻む障害ならば、雁夜がこの手で砕くまでの事。聖杯戦争のマスターとして間桐が遠坂を叩き潰すのだ。
  「いきなりこんな話をされても戸惑うし、よく判らないことだってあると思う。だけど、桜ちゃんには考えて欲しいんだ『これからどうしたい?』って・・・」
  「・・・・・・」
  桜ちゃんはこちらに向けていた視線を下ろし、腕の中にいるゼロの帽子を見つめていた。
  困っているのだろう。
  戸惑っているのだろう。
  もしかしたら怒っているのかもしれない。
  もし桜ちゃんが間桐に養子に出されたのを雁夜が原因だと思い、そのはけ口を自分に求めるならば、甘んじて受け入れる覚悟が雁夜にはあった。たとえ殺され生き返れなかったとしても、ゴゴが雁夜の物真似をして『桜ちゃんを救う』筈。
  だから不安はあったが無かった。矛盾しているが、それでも不安は合って無いのだ。
  雁夜は桜ちゃんに選んでほしかった。子供だからと、大人の決定を押し付けたくはなかった。
  魔術師と言う外法の家に生まれ、生きながらにして自らの意思を封じられて、間桐のおぞましい魔術の犠牲者になった桜ちゃんだからこそ自分で選んでほしかった。
  桜ちゃんが望んでそうなったのではない。大人の、魔術師の、自分勝手な者達の思惑に押し流されたからこうなった。
  いっそ間桐の魔術の片鱗を知ったからこそ、十年前の雁夜が思ったように、魔術なんて金輪際関わり合いにならないよう生きて欲しい―――。そう願ってしまう。
  桜ちゃんの決断が自分との今生の別れを意味していたとしても、それが桜ちゃんの為になるならば後悔は無い。そう、雁夜は自分に言い聞かせた。
  「朝からこんな重い話を聞かせてごめんね。それでも俺は桜ちゃんに考えて欲しい、答えを出して欲しいんだ。もし俺が言った事で判らない事が合ったら何でも聞いてくれ」
  「・・・・・・・・・」
  小さく首肯する桜ちゃんはこちらの話を聞いてくれたように見えたが、ただ項垂れている様にも見えた。
  とりあえず言わなければならない事は全て言ったつもりなので、この後どんな決断をするか、どんな疑問を持ちかけてくるかに少し期待しながら、桜ちゃんとの話を終わらせる為に隣のゴゴに話しかける。
  大人同士の話に同席しても楽しくは無いだろうが、とりあえず話が終わったと伝わればそれでよかった。
  「――ところでゴゴ」
  「何だ?」
  「あれから何か聖杯戦争で変化は合ったのか? 疲れて寝ちまったから何か起こってもさっぱり判らないんだが・・・」
  あまり出来のいい話の変え方とは思えなかったが、それでも言ってしまった言葉は消えない。
  桜ちゃんに向けていた視線をゴゴに移し、『桜ちゃんを救う』話しから聖杯戦争の話へと話題をずらしていく。
  「マスターはまだ全員確認してないが、二人が寝てる間に最後のサーヴァント『キャスター』を確認した。霊体化して逃げられたから拠点までは判明してないのが悔しいが、その代わりにセイバーと同行者がアインツベルンの森に入ったのを確認したぞ」
  「確か深山町の西にある森だったな――」
  「そうだ。主が入ると同時に強力な結界が張られたから、透明になったミシディアうさぎでも見つかる危険が高い。お陰で、外から眺めているだけだ」
  セイバーとゴゴが呟いた時、ほんの微かだが霊体化しているバーサーカーが反応したように思えた。
  現在、敵の姿が目の前にないので、バーサーカーは大人しく。魔力供給を行っている限りは静観を保っている状態だ。ただし『狂戦士』が聖杯戦争以外の何に反応するのか全く分からないので、油断は禁物である。
  ありえる事態とは思いたくないが、雁夜が外を出歩いた敵サーヴァントに似た人物を見かけたら、いきなり実体化して斬りかかるなんて事が起こるかもしれない。先行きの不安も感じながらゴゴに先を促すと、予想だにしなかった言葉が放たれる。
  「それからセイバーのマスターを見張ってたミシディアうさぎによると、冬木ハイアットホテルが倒壊した」
  「・・・・・・何だって?」
  「どうやらセイバーのマスターが、敵のマスターを拠点ごと潰す為にホテル丸ごと破壊したようだ。客は避難してたし、がれきの山からランサーのマスターの魔術と思わしき銀色の大玉が見つかったから誰も死んでないと思うが――。被害総額は数百億に達するだろうな。森を丸ごと所有できるアインツベルンに弁償させてやろうと考えてる」
  ゴゴは淡々と言ってのけるが、聞いた内容に雁夜は強く動揺した。
  聖杯戦争だからと言うより、魔術師と言う生き物は何を考えて生きているのだろうか。
  まさか敵を倒す為には何をやっても構わないと思っているのか? もし本当にそう考えているのならば、そいつは人格が破綻した異常者か、手にした力の大小によって世界を滅ぼしかねない怪物だ。もし自分がすべき事に世界を滅ぼす必要があり、その力があるとすれば、何の躊躇いもなくやってのけるだろう。
  ゴゴの力ならばホテル一つぐらい軽く破壊できるだろうが、ゴゴはそれをやらない。それどころかむやみやたらに自分の力を使わない強固な『自制』がある。雁夜を鍛える為に何度も何度も殺してくれたが、無辜の民にその力が向けられた事は一度もない。
  そんなゴゴに師事したからこそ、雁夜は力を振るう意味を考える。
  力は振るうべき時にのみ使われるべきであり、鞘に収まった刀の様に封印されてなければならないモノだ。そして力は敵にのみ向けられるべきで、関係のない者を巻き込んではならないとも思っている。表の世界でよく言われる『他人に迷惑をかけないように』――だ。
  しかし魔術師はそんなマナーやエチケットを完全に無視して、自分達の都合を優先させる。魔術の秘匿さえ行えていれば、他はどうでもいいと思っている輩ばかりだ。特に雁夜が忌み嫌う間桐臓硯がその筆頭である。死してなお彼の存在は雁夜の中の怒りの権化として存在している。
  雁夜は聖杯戦争ではなく魔術師そのものがますます嫌いになり、ゴゴの話に耳を傾けながらも自分の顔が苦虫をかみつぶしたような顔になっていくのがよく判った。
  「それと、『ものまね士ゴゴ』の一人を冬木市に潜り込ませておいた、聖杯戦争とは無関係を装う様にしてるから、戦力として充てにするなよ。もう四人ほど『ものまね士ゴゴ』が増えてるが、そっちはアインツベルンの拠点を潰す為にドイツに向けて航行中だ」
  「――飛空艇か」
  「その通り」
  ゴゴが生み出した巨大な飛空艇には何度か乗ったので、あれが海外に向けて飛んでいる姿は容易に想像できた。しかし目の前になく、飛び立つ瞬間もみなかったから『アインツベルンを消しに行く』と『そこにいる人間を全て殺す』という実感はあまり湧かなかった。
  誰かが死ぬ。
  それを知りながら止めなかった時点で片棒を担いでいるのは明白で、しかもゴゴの行動理念の根幹には雁夜の『桜ちゃんを救う』があった。別の言い方をすれば、アインツベルンの者が死んでいくのは雁夜の罪で、雁夜の業だ。
  それでも止めようとは思わなかった。
  直接アインツベルンの者と対面した事が無いので、彼らの人となりは知らないが、聖杯戦争を既に四回も繰り返している時点で魔術に固執している様子がありありと予測できる。仮にアインツベルンと手を取り合えるとしたら、それは雁夜と同じように聖杯戦争に何の意義も見いだせない者でなければならない。
  それは不可能と言うしかない。
  始まりの御三家として―――魔術師として―――の観点から見れば、雁夜の方がむしろ異常者なのだ。対面して、言葉を交わしたとしても、彼らと理解できるとは到底思えなかった。
  自分勝手なのは重々承知している。ゴゴに任せて自分の手が汚れないようにしている時点で、人でなしである事も判っている。
  それでも魔術師たちが聖杯を求めるように、雁夜もまた『桜ちゃんを救う』という目的の為にまい進するのみだ。どちらも退かぬのであれば衝突は必然である。彼らに桜ちゃんの事を語り聞かせても、きっと間桐臓硯の様に『小娘一人と聖杯を天秤にかける愚かさ』を説いてくるに違いない。
  だが雁夜にとっては聖杯よりも、魔術師の都合も、誰かの願いよりも、桜ちゃんの方が大切なのだ。桜ちゃんの前では出来るだけ敵を殺さないように努めようと考えていたが、時としてそれを破らなければならないと心に決める。
  真意を聞かなければならない、だから遠坂は生かそう。聖杯戦争はもう起こさせない、だからアインツベルンは殺そう。
  雁夜はもう一度、身勝手な自分の考え方に嫌気を感じながらも、成し遂げる為に覚悟を決めた。
  「それにしても桜ちゃんの『架空元素・虚数』は凄まじい能力だ、ほんの一端を物真似して使わせてもらってるが、それだけで既存の魔法効果を捻じ曲げて全く新しい能力に作り変えてゆく。まだ秘めた才能をよく判ってないかもしれないが、魔術師として大成するのも難しい事じゃない。ちゃんと鍛えれば一年もかからずに魔術師としての腕前は雁夜を超えるな」
  ゴゴはそう言いながら隣に座って大人たちの会話に耳を傾けている―――。あるいは黙って雁夜の言葉を反芻して自分なりの答えを出そうとしている、桜ちゃんの頭に手を乗せた。
  ゴゴが手を動かして桜ちゃんの頭をなでると、リボンをつけた黒髪がほんの少しだけ乱れる。しかし、桜ちゃんは聞くのに忙しいのか、考えるのに忙しいのか、両腕の中にミシディアうさぎを抱いた状態で、されるがままになっていた。
  眼を開いて机の上を見ていなければ、座ったまま寝ていると言われても納得してしまいそうな反応のなさだ。
  ゴゴはそのまま五秒ほど桜ちゃんの頭をぐりぐりと撫でまわす。
  「やっぱり桜ちゃんの才能は、俺なんかより上か・・・」
  「桜ちゃんは成長途中の子供、お前は魔石の力を借りても肉体的な成長はもう終わってる大人だ。才能を抜きにしても伸び代に差が出来るのは当たり前だろう」
  「それは――まぁ、そうなんだが」
  一年間鍛えたからこそ『すぐに追い抜ける』と断言されると少し落ち込んでしまう。
  そのままずっと落ち込んでしまいそうになるが、何はともあれ桜ちゃんに大切な話が出来たのだから、それで由とする。零落した間桐の雁夜と、今だ成長を続ける遠坂の桜ちゃんを比較する時点で間違っているのだと強引に自分を納得させる。
  それに魔術師としての技量の高さと戦いでの優劣はまた別問題だ。雁夜は魔術師として大成したいのではないのだから、桜ちゃんに才能で負けていても由とする。





  この話し合いより二時間ほど後。冬木教会から打ち上げ花火に似た呼び出しの合図が放たれる。



  ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆



  Side - 言峰璃正





  璃正は監督役としての責務を完遂すべく、起こりえる全ての例外を排除して聖杯戦争を行わなければならない。だが遠坂時臣を聖杯戦争に勝利させるという利己的な理由が最も強く絡んでいるので。本来であれば、どのマスター陣営にも中立の立場として接しなければならない監督役として重大な規律違反を犯している事になる。
  だが璃正はこの行いを裏切りとは思っていない。
  遠坂陣営に協力して、彼に聖杯を会得させようとしているのは彼の祖父との誓いが発端だ。聖杯戦争の賞品である『聖杯』がイエスと弟子たちの最後の晩餐に使われたものと信じられている聖杯―――真の聖遺物とは異なると突き止めているので。彼に協力することは聖堂教会の方針には反せず、聖堂教会の教義に抵触しない『根源の渦に至る』という彼の願いで聖杯戦争を終わらせることは璃正にとっては道理にかなっている。
  もし聖杯が聖堂教会に縁のある聖遺物だったならば、そもそも聖堂教会から監督役が派遣されるなどと言う事態は起こらない。教会は魔術協会との休戦協定を反故にしてでも魔術師たちの手から聖杯を奪い取ろうとするだろう。その結果、大規模な殺し合いになったとしても、だ。
  しかし、息子の綺礼にも三年前に聞かせた事の繰り返しになるが、冬木の聖杯はただ放置するにはあまりにも強大で危険すぎる代物だ。万能の願望機と謳われるのは伊達ではなく、世界の破滅を望む様な輩の手に渡れば、どんな災厄を招くか判らない。
  異端として排除すれば魔術協会と真正面から矛を構える事になり、犠牲はとてつもなく大きくなる。だからこそ、璃正は次善の策として、遠坂時臣に聖杯を渡すよう尽力しているのだ。今回のマスター招集もその為の措置である。
  監督役の責務と聖杯を望ましい者に託す為、双方を両立させる為に璃正は全てのマスターに合図を送った。
  全ては聖杯戦争の理を大きく逸脱しているキャスターとそのマスターを止める為。そして遠坂時臣に聖杯を渡す為に必要な措置だ。
  すでにキャスターの居場所は綺礼のサーヴァントであるアサシンによって補足されており、璃正もまたキャスターとそのマスターの正体を知り得ている。
  此度の聖杯戦争でキャスターとして召喚された英霊は英仏百年戦争のフランス軍の元帥にして、青髭とも呼ばれる『ジル・ド・レェ』。そしてマスターの名は雨生龍之介だ。
  キャスターの拠点もまたアサシンの諜報活動によって知り得ており、この情報を元に遠坂時臣がサーヴァントに命令を下せば、容易く打ち取れるだろう。
  だが時臣の呼び出したサーヴァント『アーチャー』こと英雄王ギルがメッシュは。マスターの命令を甘んじて受け入れるような英雄ではなく、それどころか冬木で起こっている連続誘拐事件にも何ら興味を示していない。
  令呪を使えば今すぐにでもアーチャーの手によってキャスターは討てるだろうが、貴重な令呪をこのような状況で浪費するのは愚策。だからこそ策を要する必要が出てきたのだ。
  マスター招集の信号を打ちあげてから待つ事一時間。
  予想通り、堂々と冬木教会に姿を現すような無防備なマスターは一人もいなかったが、マスターの目となり耳となる使い魔が冬木協会の中を右往左往し始めた。その数はきっちり五体。
  マスター招集の意味すら知らぬキャスターのマスターと表向きは敗退した事になっている綺礼を除けば全てのマスター陣営の使い魔が揃った事になる。だがその中の一体が―――正確にはその使い魔を引き連れてこの場に現れたとある人物が異彩を放っていた。
  彼は聖堂教会に登録された第四次聖杯戦争のマスターではない、しかし聖杯戦争において最も関係が深いと言っても過言ではない魔術師だ。彼が聖杯戦争に関わった時間は璃正よりも長く、聖杯戦争が始まって以来常に何らかの関わりを持ち続けた。
  他のマスターより聖杯への執着が桁違いに強い。
  彼は肩に使い魔を乗せて聖堂教会に表れ、こちらが言葉を放つ前に堂々と言い放った。
  「60年ぶりじゃな、言峰璃正。久しぶり――、と言っておくゾイ」
  「・・・貴殿は間桐臓硯で相違ないかな?」
  璃正は60年前に第三次聖杯戦争の監督役としてこの冬木の地に足を踏み入れたが。第三次聖杯戦争において、間桐臓硯は表だって戦いには参加しなかった。
  間桐臓硯と璃正との直接対面は無く、『間桐の実質的支配者』として遠坂時臣の祖父―――我が友から話は聞いた程度でしかない。間違っても『久しぶり』等と言う間柄ではないのだが、向こうは見知った相手の様に語りかけてくる。
  「然り。もっとも、60年の長きを経て、ワシもお主も変わり果てたものよ。それでも再びこうして相まみえたのは、お主が信じる『神の思し召し』と言うべきかのう。」
  間桐臓硯と実際に対面して話した覚えはなく、璃正は文字としての情報でしかない間桐臓硯を知らない。
  そもそも60年の長き時を隔てた過去と今との間に差異が出来るのは当然だ。時の流れによって風化してしまった記憶もあり、綺礼と時臣が調べ上げた、別のマスター陣営の要注意人物としての間桐臓硯の方がよく知っている。
  一年前より道化師のようなおかしな衣装で外を出歩くようになった人外の魔術師。格好の奇抜さとは裏腹に、魔術の隠匿については完璧と言ってもよい。それが璃正の知る、間桐臓硯だ。
  けれど向こうは昨日の出来事のように60年前を語る。
  「あの若造が再びこの地に足を踏み入れるとは、よほど聖堂教会は人手不足のようじゃな。一度、聖杯の降臨を仕損じたお主に監督役など任せてよいものか――、ワシは心配で心配でたまらんゾイ」
  そう言うと、間桐臓硯は肩の上に載った動物に手を伸ばし、毛並みを確かめるようにそっと撫でた。
  「今のワシはこやつと一緒に不肖の息子の目となり耳となる為じゃ。まさか招集をかけておきながら、この場で門前払いにするつもりかのう?」
  「事は一刻を争うので、ここで言葉を交わす時間は惜しい。間桐氏の参席は問題なく、すぐに本題に入りたいのだがよろしいかな?」
  可能ならば、間桐臓硯がどんな意図をもってこの場に現れたのかを探りたい所だが、既に冬木協会には他のマスター達の使い魔が揃っている。言外に『他のマスター全てを敵に回すならそれでもよいが?』と告げながら、相手の口を塞ぐ。
  すると間桐臓硯は唯一見える目元を楽しそうに歪めて言ってきた。
  「精々、気張るがよい。お主の企み――聞かせてもらうとしよう」
  そう言うと、間桐臓硯は教会の中に並ぶ椅子の中で、前から三列目の部分の中央側の椅子に腰を下ろした。話を聞く気があると言うよりも、この場に集った全ての者に自分の姿を見せびらかすような堂々とした振舞いである。
  他の使い魔達は物陰に隠れて他のマスターに見つからない位置に陣取っているが、間桐臓硯は―――肩の上に乗る帽子とマントを着た兎と思わしき使い魔と共に自分を見せびらかしている。
  一体、何が狙いでここに現れたのか? 璃正は強くそう思ったが、監督役としての自分を思い出し、それ以上考えるのを止める。
  今すべき事は聖杯戦争を円滑に進め、遠坂時臣に聖杯を受け渡すように段取りを整えるべき時だ。心の中に湧き上がる動揺と狼狽を微笑によって覆い隠し、璃正はこの場に居合わせる全てのモノに―――使い魔の視線を通して見ているであろう各々のマスターに向けて語りかける。
  「今、聖杯戦争は重大な危機に見舞われている」
  璃正の予測では太陽光の差し込む教会の中に自分以外の人影は全くない筈だった。
  息子の綺礼は脱落した元マスターとして保護されているので、この場に居合わせる理由は無く。他のマスター達も敵の情報を渡さぬ為に全て使い魔を放つだけで留まる。
  例外があるとすれば冬木教会に礼拝に訪れる一般人が来てしまう事だが、これも全てのマスター陣営が招集した時点で人払いの結界を張ったので、邪魔者は入らない。
  その筈だったのに、何を思ったのか間桐の実質的当主であり、影の支配者でもある間桐臓硯がこの場に姿を見せた。
  「キャスターのマスターは昨今の冬木市を騒がせている連続誘拐事件の犯人であることが判明した。よって私は非常時における監督権限をここに発動し、暫定的ルール変更を設定する」
  間桐臓硯は全身を奇抜な衣装で隠しているが、相手が魔術師であるならば格好の異質さは物珍しいモノではない。もっと可笑しな恰好で闊歩する魔術師を璃正は知っている。
  ただ、肩に乗っている兎は間違いなく倉庫街の戦いで見た、正体不明の男が肩に乗せていたモノと同じだ。
  この時点で間桐邸に戻ったあの男と、間桐臓硯の間に何らかの繋がりが出来ている確証は得られたが。それを監督役である璃正が罰する事は出来ない。
  監督役は儀式としての聖杯戦争を円滑に遂行させる為に聖堂教会から派遣され、マスターへのペナルティや今回の様な暫定的ルール変更を行える。けれどあくまで形式上の物であり、マスターが監督役に従う義務は無いのだ。
  そもそも聖杯戦争は七人のマスターと七騎のサーヴァントが聖杯を得るために競い合い儀式だが、『協力者を募ってはならない』というルールは無い。聖杯が叶える祈りはただ一人のみに限られているが故に、マスターが自分以外の誰かに協力させる事はほとんどない。
  だから監督役が『協力者がいる間桐にペナルティを与える』等と出来る筈が無かった。
  「全てのマスターはただちに互いの戦闘行動を中断し、各々キャスター殲滅に尽力せよ。そして見事キャスターとそのマスターを打ち取った者には特例措置として追加の令呪を寄贈する」
  間桐臓硯に先手を打たれた感覚は合っても、予め打ち立てた策に変更は無い。
  璃正は礼拝堂の中に集まった使い魔と、まっすぐにこちらを見つめる間桐臓硯に見えるように右腕の袖をまくって、肘までを外に晒した。
  そこには各マスターの手の甲に刻まれた聖痕と似たモノが刻まれているが、その数は三画どころではなく二桁に届いている。
  手首から肘までびっしり刻まれた令呪だ。
  「これは過去の聖杯戦争で脱落したマスターたちが使い残した令呪である。諸君らにとってこれらの刻印は貴重極まりない価値を持つはずだ。キャスターの消滅が確認された時点で改めて聖杯戦争を再開するものとする」
  そう言いながら璃正は袖を直して右手に刻まれた令呪を隠した。
  これで今回の招集に応じた全ての陣営に説明を終えたのだが。先程述べた通り、マスターが監督役の言葉に従う義務はない。特に『互いの戦闘行動を中断し』の件でどれだけ戦闘行動を中断するマスターがいるだろう。
  倉庫街で戦ったセイバーとランサー、それにライダーは英雄としてキャスターの討伐に尽力するかもしれないが、マスターがサーヴァントの願いを聞き入れるとは限らない。
  マスターの魔力によって現界しているサーヴァントだ。『英霊』としての敬意はあるかもしれないが、むしろ魔力供給なしでは存在すら出来ないサーヴァントを自分より下に見るマスターもいるだろう。
  一般人がどれだけ殺されようと、表の世界でどれだけ被害が出ようと、『神秘の秘匿』さえ行えていれば故意にキャスターを見逃して、他の陣営の力を削ごうとするマスターもいるかもしれない。
  最も望ましい展開は全てのマスターとサーヴァントがキャスター討伐に尽力し、疲弊したキャスターをアーチャーが打ち取って遠坂時臣に新たな令呪を寄贈する事だ。
  そうさせる為にも、この話が終わったらもう一度遠坂時臣と話さねばならないと考えつつ。璃正は話を打ち切ろうとする。
  「さて、質問がある者はこの場で申し出るがいい。もっとも、人語を発音できる者に限らせてもらうがね」
  もし冬木教会に集まったのが使い魔だけだったならば、ここで全ての使い魔が冬木教会から移動しただろう。だが、璃正の目の前には予測とは反した異物が椅子の上に陣取っている。
  この中で唯一『人語を発音できる者』。何の意味もなくこの場に現れた訳がないのだから、何らかの反応があるだろうと思い、璃正はそこを見た。
  椅子の上からゆっくりと立ち上がり、こちらを見つめる間桐臓硯が。そして彼の肩の上で同じようにこちらを見る兎がいる。
  「ならば問わせてもらうゾイ、言峰璃正」
  やはり間桐臓硯は何かしらの目的があってここに現れたのだ。璃正はどんな問い掛けであろうとも監督役として冷静に応じられるように気を引き締めた。
  冬木教会の中に集まった使い魔たちも自分と間桐臓硯のやり取りを監視するようで、外に出ていく生き物の気配は一つもない。
  中央の通路に立ち、まっすぐこちらを見ながら、間桐臓硯が言う。
  「もしキャスター討伐の際。――いや、聖杯戦争においてこの冬木市が壊滅に追いやられた場合。おぬしら聖堂教会はどのように事を隠匿するつもりか。それを聞かせてもらうゾイ」
  語られた内容は魔術に関わりがある者―――、いや、裏の世界に身を置く者ならば誰もが考えている事であった。
  直接、聖杯戦争には関係ないかもしれないが、間接的には関係がある。しかし、間桐臓硯の口から出てくる問いかけにしてはあまりにも当たり前すぎる内容だ。『1+1=2』という方式の不変さを改めて確認する様なものである。
  「神秘の秘匿については、私よりも長生きしている魔術師の貴方がよくご存じの筈ですが?」
  「今の聖堂教会の意向は管轄外じゃよ。第八秘蹟部に所属しとるお主の考えを聞かせてもらえるかのう。ワシら魔術師は『魔術の秘匿』さえ行われれば人がどれだけ死のうと知った事ではないが、聖堂教会の対処を聞きたがっている者がおってな」
  「それはあの――」
  「答えを聞かせてもらうゾイ」
  間桐臓硯の言葉に中にある『聞きたがっている者』が倉庫街に現れた男だとすれば、臓硯がこの場に現れたのはわざわざその男の為に出向いた事になる。
  倉庫街に現れた男は『冬木市を守る』と堂々と宣言しており。使った力は魔術とは違う何らかの力で、生き方もまた魔術師とは一線を介していた。
  間桐臓硯が一方的に使う立場にいないのか、対等な協力者としての立場ではないのか、表の世界の対処について何らかの行き違いがあるのか。
  こちらが問い直す前に間桐臓硯が改めて問うて来たので、質問に応じる者として答えを返さねばならない。
  少しだけ考える為に使った間を置いてから、璃正は答えを返す。
  「・・・・・・ご存じとは思いますが、聖堂教会は『人の手に余る神秘を正しく管理すること』を目的としている。この町を壊滅に追い込む理由が神秘の行使にあるのならば、聖堂教会に身を置く者として、そして監督役としても見過ごせませんよ。何としてでもその力を抑え込むでしょう」
  「行使された力の結果、罪なき民がどれだけ死んでも聖堂教会は関知せず。あくまで『神秘の管理』と『後始末』は行っても。『被害の補填』や『残された者の配慮』は行わない。これで合っとるかのう?」
  「――全ては神の思し召しのままに」
  璃正は間桐臓硯の問いかけに対し、聖堂教会が掲げる教義から逸脱しない範囲で回答を行った。間桐臓硯の問いかけには幾つもの回答があり、中には聖堂教会の根幹にかかわる部分も存在する。
  しかし、他のマスターの目があるこの状態でそれを言う訳にはいかない。どんな組織であれ、外部の人間に知られては困る事が一つや二つや三つや四つ、存在するのだ。
  それに聖堂教会は全世界に広がる一大宗教の裏側に存在する組織だが、『異端狩り』に特化しており、誰かを救う事は専門外だ。
  残された者が教義を心酔する者ならば、聖堂教会はその手を差し向けるかもしれないが。この冬木の地は国際色豊かな町であるが故に、教義を受け入れる者が少ない。
  だから璃正は明言はしなかったが、冬木市が壊滅に追いやられても、間桐臓硯が言った通り被害を被った者へのケアは行わないだろうと考えていた。もちろんこれは仮定の話であり、実際に事が起こればその時の最善を選ぶので、仮定の通りになるかもしれないし、そうならないかもしれない。
  「なるほど。それが聖杯戦争にお主を寄越した聖堂教会の総意か。人が作り出した組織でありながら『人の手に余るモノ』を『正しく』管理しようとする矛盾。60年前から何も変わってないようで安心したゾイ」
  すると間桐臓硯は言葉を濁した璃正の言い分に喜びを交えながらそう言った。
  璃正としては可能であれば遠坂時臣を勝利に導くために間桐臓硯に色々と問い質したい所なのだが。特定のマスターに干渉する事は本来中立である監督役から逸脱する行為だ。遠坂陣営に協力しているのは非公式であり、他のマスターには知られていないが。この場での会話は全てのマスターに見られ、中立性を疑われる材料になりかねない。
  それでもほんの僅かでも間桐臓硯の真意を探るために問いを投げる。
  「間桐氏。私からも聞きたい事があるのだが、よろしいかな」
  「断るゾイ」
  ある意味で拒絶は予想できた反応だが、間髪入れずに返ってくると言葉につまってしまう。
  ほんの僅かに出来上がった空白。その隙をついて、間桐臓硯が更なる言葉を放ってくる。ただし今度は監督役への問いかけではなかった。
  「余計な詮索をするようなら、ぬしら聖堂教会がこの第四次聖杯戦争に施した企み――。今、この場で暴露しても良いのじゃぞ? そして、お主の目は60年前より曇ったままじゃな。一度はワシよりも間近で聖杯戦争を目の当たりにしておきながら、今だ答えにたどり着けず、在りもしない幻想を追い求めておる」
  間桐臓硯の言葉を聞き、璃正は咄嗟に『遠坂との繋がりを知っているのか?』と思ってしまう。だが璃正にとって遠坂時臣との連携は絶対に秘密にしなければならない事柄であり、欠片でもそう感じられる素振りを見せてはならない。
  仮に遠坂との繋がりを言葉にされたとしても、そんな訳がない、と居直る為には表向きそう見せない事も重要だ。
  間桐臓硯が何を考えてそんな事を言いだしたのか判らないが、目に見える形での証拠は何一つ残していない。あるのが疑念だけならば、そんな事実は無いと押し切るだけだ。
  璃正は湧き出た動揺を微笑によって押し戻していく。
  そして続いた間桐臓硯の言葉で思い出してしまったのは、60年前に起こった第三次聖杯戦争だった。
  まだ若輩者だった璃正が体験した第三次聖杯戦争。結局は『聖杯の器』が途中で破壊されてしまい、聖杯戦争そのものが無効となって終わってしまった忌まわしい記憶。その時に未使用の令呪が大量に出て、その全てが璃正の右腕に刻まれている。
  実現しなかった奇跡の成就。『ありもしない幻想』とは何を指すのか? お前は何を知っているのか? 温和に見える笑みを浮かべながら、その奥で疑問が渦巻いてゆく。
  間桐臓硯は振り返り、もうこれ以上話す事は無いと背中で語りながら最後の言葉を放ってきた。
  「言峰璃正よ、監督役としての己が分を弁えるがよい。キャスター討伐は範囲内としても、過度の干渉は死を招くゾイ」
  「・・・・・・」
  警告に聞こえる内容だったが。それよりも璃正はこれで話が終わる事にホッとした。
  遠ざかる背中を見て、冬木教会の中から移動を始めた使い魔たちの音を聞きながら、璃正は頭の中で考える。
  息子のサーヴァントであるアサシンの一人が間桐邸を監視して、そのアサシンが顔立ちの似た男に殺された事は知っている。つまり、間桐臓硯に協力する人物は一人ではなく、最少でも二人、あるいはもっと大勢いる可能性がある。
  更に考えを深めていくと、間桐の魔術へと辿り着いた。
  間桐の魔術は蟲使いの魔術として有名だ。魔術の構成や術式については間桐の中だけの秘密だが、それでも表に出てくる部分は幾らかある。
  それに始まりの御三家と言う繋がりがあるので、遠坂の家にも間桐の魔術はある程度伝わって、そこから璃正も間桐の魔術を知るに至った。
  その『間桐の魔術』と去りゆく『間桐臓硯』がどうしても繋がらないのだ。
  肩の上に乗るのが既存の昆虫とは異なる醜悪な蟲であったならば、あれは間桐臓硯だと心置きなく断言できる。しかし格好の異質は別にして、肩に跨る兎は間桐の魔術師らしからぬ印象を受けた。
  しかしその反面、話した内容は確かに間桐臓硯を思わせる。
  そこで璃正は二つの仮説を作り出した。
  一つ。間桐臓硯は何らかの神秘を会得して、それはこれまで積み重ねてきた間桐の魔術を捨て去ってでも得るに匹敵するモノだった場合。
  怪しいのは一年前に突如豹変したと言う事前情報で、その時に何らかの神秘を手にいれた可能性がある。
  そしてもう一つ。あの人物は間桐臓硯ではない、という突拍子もない予測だ。
  間桐邸に出入りしているのは確認しているのであの男が間桐と何らかの繋がりがあるのは間違いない。しかし身体的特徴を九割以上隠しているので、見た目であの男が間桐臓硯だと判断できなかった。
  もしかしたら間桐臓硯は協力者以外にも自分の身代りを作って、影から聖杯戦争に関わるつもりなのかもしれない。
  間桐臓硯が自分をもう一人作って、暗躍するパターン。あるいは何者かが間桐臓硯に成り代わって間桐を乗っ取ったパターン。
  どの予測が正しいにせよ、その予測の全てが間違っているにせよ。間桐が遠坂の敵であり、聖杯を遠坂時臣に渡す障害である事には変わりない。
  璃正は思った。
  綺礼のアサシンによる情報収集だけではなく、冬木市に散らばっている聖堂教会のスタッフも使い、間桐臓硯の調査および監視を行う必要が出て来た―――と。
  そう結論付けるのと冬木教会の扉が開かれ、間桐臓硯が外に出ていくのはほぼ同時だった。



  ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆



  Side - 間桐雁夜




  ゴゴの肩の上に乗ったミシディアうさぎの視線を通じて、雁夜は冬木教会の説明を見て聞いていた。
  ただし、ミシディアうさぎとの繋がりを切って、目に見える光景を間桐邸の自分の肉眼へと戻すと、不気味さと言うか気持ち悪さと言うかありえなさと言うか、よく判らないモノが見えてくる。少なくともいい気分ではない。
  「これで間桐雁夜だけではなく間桐臓硯とそれ以外の大多数が聖杯戦争に深く絡んでいる、と各々のマスターに印象付けられた。下手に動かれるよりこちらに狙いを絞ってくれた方が動きやすいからな。遠坂時臣もこちらに注意を向けざろうえないだろう」
  そう話すのはゴゴだ。
  冬木教会に赴いている『間桐臓硯』ではなく『ものまね士ゴゴ』が雁夜の目の前にいて、雁夜に話しかけているのだ。
 同じ存在が別々の場所にいて、それら両方を見ている雁夜の気分はあまりよくない。アサシンの宝具『妄想幻像ザバーニーヤ』によって別れていると頭では納得しているし、昨夜、同じゴゴが隣り合っている状況を見ているので多少の慣れはある。
  それでも全く同じ人間を別の視点で見ると、どちらが本物なのか? とつい考えてしまう。
  どちらも本物だが―――。
  この一年でものまね士ゴゴの異常には慣れ親しんできたが、これまでのゴゴは一人きりだった。それが二人三人四人と倍々に増えていくので、薄気味悪さも一緒に倍増していく感覚である。
 赤の他人がうろついている様であまり望ましくは無いが、これならばバーサーカーの『己が栄光の為でなくフォー・サムワンズ・グロウリー』で別人に変わってもらった方がまだマシだ。
  意識を切り替えるべく、雁夜は椅子に座りながら、置いてあった二つの紙を手に取った。
  これまで抱いていたミシディアうさぎのテトラ―――帽子の部分に『4』と描かれているウサギを床に降ろし、代わりに紙に描かれている二人の人物像に視線を落とす。
  二人のものまね士ゴゴを見た後なので、別々の人物が描かれていると言うただそれだけで何故か安堵を覚えてしまった。
  協力者として考えるならば冬木教会から戻るものまね士ゴゴと肩に乗っている『5』のファフの安全を気遣うべきなのだろうが、ゴゴの強さは雁夜と比較にならないほど強力であり。心配するだけ無駄である。
 話を聞く限りでは『妄想幻像ザバーニーヤ』で分裂した結果、ゴゴの力は弱体化しているそうだが、雁夜には弱まっているとは到底思えなかった。
  海の広さをバケツで測ろうとしても測れる訳がないのと一緒だ。ゴゴの力があまりにも強すぎて雁夜の力では上限すら見えないのだろう。
  これ以上ものまね士ゴゴについて考えると色々と頭が痛くなりそうだったので、雁夜は強引に意識を目の前の紙に向け直す。
  「これがセイバーのマスターと、協力者と思わしき人物か・・・」
  雁夜の手の中にある紙に描かれている人物。それは倉庫街の戦いに狙撃と言う形で乱入しようとした男と、冬木ハイアットホテルを爆破した時に言峰綺礼と交戦していた女だ。
  女の方はまだセイバーのマスターの協力者と確定していないが、言峰綺礼と戦っていたのならば何らかの形で聖杯戦争に絡んでいるのは間違いない。どんな意図があれ、関わっている時点でこちらと敵対する可能性が非常に高い。
  雁夜はまだ肉眼で冬木ハイアットホテルの惨状を見てないから実感が湧かないが、テレビをつければ朝からそのニュース一色で、今、冬木を騒がせている連続誘拐事件の報道が霞むほどだ。
  絵具で描かれた二人の姿は写真の様に正確で、101匹ミシディアうさぎが現れた時の様に紙の上から肉体をもった人間が現れる様な錯覚を覚える。
  雁夜の目から見たこの二人はアジア圏の人間にしか見えず、セイバーとそのマスターに見せかけていた女性とは似ても似つかない。
  彼女らはヨーロッパ圏の白人、コーカソイドとも呼ばれる日本人とはまるで異なる人種であったので、二枚の紙に描かれた似顔絵との間に共通点は何一つ見つけられなかった。
  「・・・・・・・・・」
  彼ら彼女らは一体どうやって知り合ったのだろう? 雁夜はふとそんな事を考えた。
  雁夜が十一年前に間桐を出て行ったのと同じように彼らには彼らの人生があり、時間の流れだけ積み重ねてきた何かがある。
  楽しさだったり、嬉しさだったり、悲しさだったり、辛さだったり、苦しさだったり、喜びだったり、苦悩だったり、歓喜だったり、絶望だったり、信念だったり。
  当たり前の話だが、人の数だけ人生がある。そして聖杯戦争に関わるという事は、聖杯に求める何らかの願いがあるのだ。
  雁夜の願いはもうほとんど叶っているが、『桜ちゃんを救う』ためにはまだまだやらなければならない事が沢山ある。ただしそれは聖杯を必要としない願いなので、他の六人のマスターとは根底から挑む理由が異なるのだ。
  雁夜がやろうとしている事は彼らの願いを踏みにじった先にある。
  ものまね士ゴゴの協力は聖杯の奇跡を破壊に繋がり、聖杯を求める者達の想いを消し飛ばすに等しい。
  雁夜は考える。
  ものまね士ゴゴが演じている『間桐臓硯』ではない、一年前に没した本物の間桐臓硯に契約を持ちかけた時から、相手が何者であっても押し退けて願いを叶えると決意した。
  それなのに今になって躊躇う様な感情を抱いてしまうのは何故だろう? 雁夜は思わず自問自答するが、すぐに答えは出なかった。
  生まれも、育ちも、何もかもが違って見える人たちが協力し合っている姿に感銘を受けてしまったのか?
  桜ちゃんに自分の想いを語り聞かせた事で、願いが叶わないかもしれないと怖くなったのか?
  アインツベルンを消す為に動いているものまね士ゴゴの話を聞き、人を殺す事が嫌になってしまったのか?
  それとも、別の何かか?
  自分のことながら、雁夜には判らなかった。
  それでも『桜ちゃんを救う』ために何でもすると決めた想いは何も変わらない。たとえ紙を握るこの手が多くの人の血で穢れようと、必ず成し遂げてみせると決めたのだ。
  誰かの不幸の上に成り立つ救いであろうとも、その為ならば何でもする―――。雁夜は紙を握りながら、魔術師の間桐雁夜の原点を思い出して気を引き締めた。
  遠い親戚より近くの他人、だ。
  「なあ、ゴゴ・・・」
  「何だ?」
  「アインツベルンに向かった方のお前は・・・どうなんだ?」
  「太平洋を横断してドイツに向かってる所だ。アインツベルンに到着するよりも第四次聖杯戦争の決着がつく方が早いかもしれないが、どの道、アインツベルンには消えてもらう。決定に変わりは無い」
  「そうか――」
  意識を切り替える意味も込めた問いかけに対し、ゴゴはいつもと変わらず淡々と返してきた。
  その一度決めた事柄を成し遂げようとする意思の固さは雁夜には無いモノだが、これまでの付き合いの中で全く変わらなかった部分でもある。
  その変わらなさが今はありがたい。目標に向けて邁進する自分を思い出せるのだから。
  「さて、外を出歩いてる俺は『間桐臓硯』に任せて、こっちは他のマスター捜索を再開するか」
  「見つけるのに苦労してるのは冬木市を駆けまわってるのはミシディアうさぎだろうが」
  「判断するのは俺だ」
  「――マスターがいたら教えてくれるか。俺も繋げて見るぞ」
  雁夜はそう言うと、紙を机の上に置いて、帽子に『4』と描かれているミシディアうさぎのテトラを抱き上げる。
  元々、雁夜に協力するつもりだったのか。それとも朝から悩み始めた桜ちゃんの邪魔をしない為にここにいたのか。テトラは特に嫌がる素振りを見せず雁夜の腕の中に納まった。
  「むぐむぐ?」
  ただし、一度雁夜の顔を見上げて、目をジッと見つめてくる。その目が『協力してやっから感謝せえ』と言っている様に思えた。



  ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆



  Side - ケイネス・エルメロイ・アーチボルト





  結界24層、魔力炉3基、猟犬代わりの悪霊、魍魎数十体、無数のトラップ、廊下の一部は異界化させている空間もある。そんな冬木ハイアットホテルのフロア一つを丸ごと借り切って作り上げた渾身の工房は、ホテルごと工房を破壊すると言う非常識極まりない方法ですべて瓦礫と化した。
  ケイネスは肌身離さず持ち歩いている最強の切り札たる『礼装』によって生き長らえたが、生存を喜ぶよりも前に敵の魔術師らしからぬ戦いぶりに憤慨した。
  状況を考えれば生きていたことが奇跡なのだが、ケイネスにとっては生き延びる事など当たり前であり、聖杯戦争で聖杯を勝ち得る事もまた当たり前なのだ。
  イギリスから持ち込んだ魔道器の数々はホテルの倒壊によって失い、防御の要とでもいうべき魔術工房は藻屑と化した。
  結果、この手に残った戦力は最強の切り札である『礼装』とサーヴァントが一人。そして二画の令呪のみ。冬木市のあちこちに放った使い魔は何一つ失っていないが、戦力低下は覆しようのない事実である。
  ケイネスは瓦礫処理を行っていた作業員の一人を操って脱出し、今は郊外の廃工場を仮の隠れ家として、そこに婚約者のソラウを匿った。しかし、いきなりホテル住まいから崩れ落ちてもおかしくない廃工場で『隠れ潜む』等と言う状況にソラウが満足する筈もなく、表立って非難しなかったが、それでも機嫌はすこぶる悪い。
  ケイネスが怒り苛立つのも、こんな環境に潜まなければならない状況に追い立てられ、プライドを傷つけられたからこそだ。
  そんな時、冬木教会から招集の合図があがり、キャスターの討伐と褒賞の令呪を聞いた。
  堂々と冬木教会に姿を見せ、旧知の中である様に監督役の神父と話す間桐臓硯と言う人間。間桐からの参加したマスターではなく、マスターを裏から支援する実質的な間桐の支配者。それがケイネスの知る間桐臓硯だ。
  わざわざ姿を見せた間桐陣営の思惑を探らなければならないと思った。
  キャスターを討伐した者に渡される令呪に心惹かれたのもまた事実。
  ただし令呪はまだ二画残っているのだ。倉庫街の戦いではランサーの不甲斐なさにより無駄に一画消費したが、今すぐにでも絶対に必要なモノではない。
  確かにサーヴァントへの絶対命令権が増えるのは戦力増加の面と、あのサーヴァントを御する意味でも利点しかない。それでも今のケイネスにとって必要なのは、婚約者であり愛するソラウの機嫌を取る事。それ以外の事象は全て二の次となる。
  そこで冬木教会でのキャスター討伐の話を聞いた後、仮の拠点である廃工場に変わる良い場所が無いものかと、使い魔に命じて冬木市のあちこちを調べ始めた。
  事前の調査によって当たりを付けていた箇所は幾つかあるが、冬木ハイアットホテル以上の場所で、、即座に使える場所は無い。
  冬木ハイアットホテルの魔術工房の敷設にイギリスから持ち込んだ資材のほとんどを費やしてしまったので、魔術工房と生活圏を両立させる最良の場所は無かった。
  しかしあまり時間をかけ過ぎればその分だけソラウの機嫌はますます悪くなり、彼女に苦労をさせてしまう。それだけは避けなければならない。
  どこかで妥協して新たな拠点を設けるしかない。そう考えた時、冬木市の空は夕暮れに染まっていた。極東の島国が作り出す風流も、今のケイネスにとっては煩わしさを感じる以上の効果をもたらさなかった。
  そんな使い魔の一匹とのリンクを切って、廃工場から移動を開始しようとした矢先―――。使い魔の目を通して信じ難いモノを見つけた。
  夕暮れ時の住宅街を、時代錯誤な漆黒のローブを着た男が平然と闊歩していたのだ。
  「・・・・・・・・・」
  使い魔の目を通しても判る強烈な魔力な波動は明らかにサーヴァントのもので、倉庫街で見たどのサーヴァントとも違うその姿がキャスター当人であることを伝えている。
  ケイネスは堂々と冬木市の住宅街に姿を見せているキャスターに呆れて言葉を失いながらも、おそらく他の陣営よりも早くキャスターを捕捉した自分には運があると思い直した。
  もしくはこの出会いはケイネス・エルメロイ・アーチボルトを聖杯戦争の勝利に導こうとする運命の導きだ。
  即座にランサーを差し向けてキャスターを討ち取ろうと考えたが、サーヴァントに戦いを挑むとなれば神秘の秘匿の面から考えて人目につかない場所を選ぶしかない。住宅街のど真ん中では人の目が多すぎるので、キャスターを打ち取る代わりに監督役から懲罰が下される危険がある。
  そこで新たな拠点の確保を一旦注視して、キャスター討伐に意識を切り替え、使い魔にキャスターを追跡させた。
  キャスターの後ろをついて行く幼児たちの姿が少々気にかかったが、虚ろな目をしながら何も言わずについて行く様子から暗示をかけられているのだと理解した。
  どうやら冬木教会で聞いた『連続誘拐事件』をまだ行うようだ。しかし、ケイネスにとって重要なのは極東の島国の子供の命ではなく、キャスター討伐によって得られる令呪一画である。
  子供を引き連れて道を歩く姿は幼稚園の引率のようで、先頭に立つキャスターの姿に目を向ける人間は居ても、彼の後ろにいる子供達を見て『仮装した幼稚園の先生』だと勘違いしてすぐに興味を失っている。
  使い魔の目を通してその様子を観察していると、前から来た男がキャスターに声をかける。
  紫色の胸当てと体の各所を守る黒い甲冑姿をした奇妙な男だ。キャスターのローブ姿と合わせて見ると、ますます仮装行列のように見える。
  ただしその男の筋骨隆々の体つきは誰の目から見ても明らかであり、鍛えた体からは何らかの武道を嗜んでいるように見えた。この男の方が年は食っているが佇まいがどこかランサーに似ている。
  「そこの御仁」
  「おや。私の事ですかな?」
  見た目の怪しさとは裏腹に、キャスターは温和な物言いで応じた。
  その立ち振る舞いからは冬木教会で見た監督役の神父と似た空気を漂わせており、そうと知らなければキャスターが連続誘拐事件を起こしている等とは判らないだろう。
  話しかけてきた男も相手が殺人鬼だと気付いていないのか、話しかけた用向きを語りだす。
  「そうでござる。そなた、この辺りで黒のシンプルジャケットに黒の細身のゴムパンツ、ついでの髪も黒の女子を見かけなかったでござるか? 髪は肩にかからぬおかっぱで、背は拙者より頭一つ分小さいでござる」
  ただ人を探していているだけ。
  キャスターを怪しんでいる様子は無く、少しでも情報を求めて誰かに聞いて回っている様にしか見えない。
  そんな男の言い分にキャスターも納得したのか、一泊置いてから淡々と告げる。
  「残念ですが、貴方の言う女性は見かけませんでしたね。お力になれず申し訳ない」
  「むむむ、そうでござったか。お忙しい所、呼びとめてしまい、こちらこそ申し訳ないでござる」
  時代がかった物言いで、男はキャスターに向けて頭を下げた。
  「では失礼するでござる」
  そして顔を上げると同時に別れの言葉を口にして、キャスターの横を抜けて小走りで去ってしまった。
  どうやらキャスター討伐に他のマスターが差し向けた刺客とかそういう類ではなく、本当にただ人を探しているだけのようだ。
  探している女とあの男の関係が何なのか少しだけ気にかかったが、ケイネスは即座にそれを無駄な思考と切り捨ててキャスターの追跡を続ける。
  このままキャスターが人目につかない場所に移動してくれれば好都合だ。そう思っていると、キャスターが片側一車線の十字路に差し掛かり、そこに停めてあったワンボックスタイプのライトバンに近づいた。
  少し早い夕食をとっているのか、車の中にはドライバーが一人いる。
  キャスターは運転席側からライトバンに近づいて窓を軽く叩くと、ドライバーと視線を合わせて小さく呟いた。
  距離を取って監視する使い魔の耳にはその言葉は聞こえなかったが、ドライバーが降りて後ろのドアを開けたので、何らかの暗示で縛ったのだろう。
  キャスターの意図は判らないが、幼児を車に乗せて連れて行こうとしているのは間違いない。子供達は開け放たれた後ろのドアから何の文句も言わずに乗り込んでいった。
  そしてドライバーが運転席に戻り、最後の子供が乗り込んだ丁度その時、車に乗り込んだ子供と同じ年ごろを思わしき子供が歩いてきた。
  その子供は向かう先に居るキャスターが冬木市を騒がせている連続誘拐事件の犯人だと知らない。何の躊躇いもなく横を通り過ぎようとしたが、助手席に乗り込もうとしたキャスターを目が合ってしまった。
  その瞬間、たまたま居合わせてしまった子供は、キャスターが引き連れていた子供と同じように虚ろな目をして、通り過ぎる筈だった歩みを止めてしまう。
  暗示にかけられたのだろう。
  他の幼児と同じように、ライトボックスの後ろから乗り込む子供の姿を見ながら、ケイネスは巡り合わせの悪さを考えた。
  もしあの男がキャスターを呼びとめなければ、キャスターは車で移動を開始してこの場にはいなかった筈。キャスターとその子供は出会いもせずに、見知らぬ他人として終わっただろう。
  だが一分にもキャスターと男との邂逅が、本来ならば無かった筈の変化を生みだした。
  東洋人は実年齢よりも幼く見えると聞いた事があるが、赤毛を短く刈った少年の年齢はおそらく十歳にも届いていない。キャスターが何を思って子供を車に乗り込ませたのかは判らないが、連続誘拐事件の犯人ならば、あの少年を含めた子供達の行く末は決まっている。
  死だ。
  ケイネスは確実に待ち構えているであろう殺戮を予想しながら、それを止めようとは考えなかった。
  極東の島国の子供が十人や二十人死んだところでケイネスの胸は痛まない。それどころか、あのサーヴァントが何らかの理由で子供を用いた魔術を行うのならば、そこから対策を構築する事も出来るのだ。ケイネスが聖杯戦争を勝ち抜く為に殺されると考えれば、あの子供達の死にも意味がある。
  むしろ自分にキャスターの魔術を教える為に殺される事を光栄に思うべきであろう。ケイネスはそう考えた。
  キャスターの行動を傍目から見れば、待ち合わせた運転手に幼稚園の先生が合流し、子供達を家に送り届けようとしている―――。そんな風に説明できる光景を作りながら、ついに子供達を乗せたライトバンは出発する。
  使い魔はそれを追いかける。ケイネスはその使い魔の目を通して追跡を行う。
  キャスターが人目につかない所にいけば、ランサーを向かわせて討ち取らせる。そして追加の令呪を得て、新たな拠点もまた確保して、聖杯を勝ち取るのだ。
  ケイネス・エルメロイ・アーチボルトの経歴に『戦歴』という新たな箔が付く。
  そんな輝かしい未来を想像しながら、ケイネスは使い魔を通してキャスターを追いかけた。



[31538] 第13話 『魔導戦士は間桐雁夜と協力して子供達を救助する』
Name: マンガ男◆da666e53 ID:4b532e19
Date: 2012/09/05 21:25
  第13話 『魔導戦士は間桐雁夜と協力して子供達を救助する』



  ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆



  Side - セイバー





  冬木市市街より、直線距離で西へ30キロほど移動した場所にある森林地帯。そこには鬱蒼と生い茂る木々以外にも霧が立ち込めており一度潜り込めば出る事は困難と言われている。
  魔術師の間では『アインツベルンの森』と呼ばれるこの場所は、アインツベルンが始まりの御三家でありライバルでもある遠坂家に対抗し、富に物を言わせて土地ごと買い占めた拠点である。
  基本的に聖杯戦争でしか使われず、聖杯戦争以外は放置される。
  ただし、広大な原生林は丸ごと結界として外界から隔離され、そこにアインツベルンの地元から支城の一つが丸ごと移築されたりする。
  冬木市で行われる聖杯戦争においてこれ以上ない拠点と言えるのだが、セイバーこと騎士王、つまりはアーサー王にとって、アインツベルンの森の中で流れゆく時間は屈辱以外の何者でもなかった。
  アイリスフィールが冬木に訪れる以前、先行して冬木に入り準備を整えたメイドたちによって、この森に移築された城は住居として拠点として城として完璧な状態を取り戻している。もっとも、そのメイドたちは『聖杯戦争は危険だから』という理由で今は退去している。
  飾り付けられたテーブルクロスには染み一つ無く、用意されたティーカップは新品同前。花瓶に活けてある瑞々しい花を見て、この城が60年間放置された物だと見破れる者はそうはいないだろう。
  ここはアインツベルンから派遣されたメイドたちの手腕を褒める部分だ。
  しかしセイバーの胸中は城の煌びやかさとは裏腹に、怒りで煮えくり返っていた。王として多くの民を率いていた経験を持つ自分は、表情を出来るだけ表に出さない術を心掛けている。
  例えどれほど苛立っていても、笑みを浮かべて心に鍵をかけられる。しかし、自身の内側から湧き出る怒りによって、その表向きの仮面すら剥がれ落ちそうだった。
  「疲れてきたかい? アイリ」
  「いいの、何でもないわ。先を続けて」
  そう話すのは騎士王ではなく『セイバー』として召喚されたこの身を現世にと固定する為に魔力供給を行っている本当のマスターである切嗣。そして、仮初めのマスターであり護らなければならない姫君でもあるアイリスフィールだ。
  話し合いの場所は城のサロン。自分はアイリスフィールの斜め後方で壁を背にして立ち、騎士として彼女の護衛をしている。
  切嗣とアイリスフィールは机を挟んで向かい合って座っており、机の上にはこれまでの説明に要した冬木市の地図や他のマスター情報と、倉庫街の戦いで得られたサーヴァントの情報が並んでいる。
  写真と多くの文字が書かれた紙が無造作に置かれているが、事、聖杯戦争においての重要さで言えば他の紙面などとは比べ物にならない重要度だ。
  広がった地図には冬木市の霊脈がマーキングされており、サーヴァントの数が減って戦いが終局に近づけば、そのどこかを拠点として制圧しなければならないとの注意事項もあった。
  切嗣が調べた情報の貴重さは判っている。
  戦いを勝ち抜くためには敵を知らなければならないという事も判っている。
  昨夜のキャスター遭遇からこのアインツベルン城で合流を果たし、間を置かずに始まった教会の招集では、切嗣が一睡もせずに使い魔を放って尽力した事も判っている。
  それでも一切言葉を交わさず、こちらからの問いかけに対しては黙殺で応じ。視線が合った事は一度もなく、自分を拒絶し続けているマスターに形容しがたい怒りが込み上げていた。
  極端に言えばセイバーの怒りは聖杯戦争において最も近しいマスター当人によって引き起こされている。
  「切嗣、他のマスターも全員がキャスターを狙うと見ていいかしら?」
  「まぁ、間違いないだろうね。だが、キャスターに関する限り、僕らには他の連中にはないアドバンテージがある。よりにもよってジル・ド・レェ伯とはね・・・、何を血迷ったかセイバーをジャンヌ・ダルクと勘違いして付け狙っているんだから」
  そこで切嗣は一旦言葉を区切るが、その目がこちらを向く事は無い。明らかに話題はセイバーを中心にしているのだが、それでも切嗣の目は机の上の地図かアイリスフィールにしか向かわない。
  「こいつは好都合だ。僕らは待ち構えているだけでいい」
  アインツベルンの森は冬木市に置いて最も強固な拠点と言っても良い。だからこそ切嗣が籠城を選ぶのは戦術としては間違ってはいない。
  そう考えられるのだが―――、それだけでは足りないとも同時に考える。
  だから一度もこちらに視線を向けてこないマスターに向けてセイバーは自らの言葉で言い放つ。
  「マスター、それでは足りない」
  応じる言葉は無い。
  それでもセイバーは続けた。
  「キャスターの出方を、手をこまねいて見守っていたのでは、無辜の民の犠牲が増えていくばかりです。奴の悪行は容認しがたい。これ以上被害が拡がる前に、こちらから討って出るべきです」
  だが切嗣はその言葉に何の反応も示さず、アイリスフィールに向けていた視線を欠片も動かさなかった。
  そしてセイバーなど初めから存在しないと言わんばかりに話を続ける。
  「アイリ、この森の結界の術式はもう把握できたかい?」
  「・・・ええ、大丈夫」
  そう言いながらアイリスフィールが振り返ってこちらを見てくれなければ、自分の存在の怪しさを疑ってしまいそうになる。
  一瞥してくれたアイリスフィールの気遣いがありがたかったが、それは同時に本当のマスターに無視され続けている自分を思い知らされる事にもなる。
  更なる怒りが内側からじわじわと滲み出ていく中、切嗣とアイリスフィールの話は続いた。
  自分を置き去りにして進んでいく。
  「それよりも問題はセイバーの左手の呪いよ。あなたがケイネスを仕留めて十八時間経つけれど、セイバーの腕は完治しないままよ。ランサーはまだ健在なんだわ。キャスターを万全の態勢で迎撃するためにも、まずはランサーを倒すべきなんじゃないかしら?」
  「それには及ばない。君は地の利を最大限に活かしてセイバーを逃げ回らせ、敵をかく乱してくれればいい」
  切嗣の言葉を聞いた瞬間、セイバーは自分の怒りを抑え込むために両手を強く握りしめなければならなかった。
  聖杯戦争におけるサーヴァントとは、聖杯を勝ち得る為に契約を結ぶ英霊であり、戦う為に呼び出された戦士である。
  七つのクラス。すなわちセイバー、アーチャー、ランサー、ライダー、キャスター、バーサーカー、アサシンが、全て戦いに特化したクラスであるのはそうであるからに他ならない。逆説的に考えれば、戦えぬサーヴァントに意味は無いのだ。
  けれど切嗣はその無意味さをセイバーに求めてくる。
  「キャスターと・・・、セイバーをキャスターと戦わせないの?」
  「キャスターは放っておいても誰かが仕留めるさ。むしろキャスターを追って血眼になっている連中こそ格好の獲物なんだよ、僕はそいつらを側面から襲って叩く。それにキャスター以外にも調べる事が増えたからね、キャスターだけにかまけている暇は無いんだよアイリ」
  セイバーとアイリスフィールは教会からの招集より前にキャスターと対峙しており、あのサーヴァントの狂態が真性であることを思い知っている。
  むしろ教会の申し出はその裏付けでもあり、自分にとってキャスターは他のサーヴァントよりも前に倒さなければならない敵なのだ。
  聖杯戦争は抜きにしてもキャスターという存在そのものが明確な『悪』であり、存在そのものが容認できない。
  直接対面しながらも、キャスターを一人の敵とみなした場合の攻撃手段や防御手段、宝具などの有益な情報は何一つ手にいれていない。それでも、だがそれでも、騎士王として、英雄アーサー王として、セイバーとしての直感がキャスターを倒さねばならないと告げている。
  未来予知にも匹敵するセイバーの直感だ、そこに疑うが混じる余地は無い。それなのに切嗣はそれを無駄だと切り捨てる。
  「マスター、貴方という人は・・・いったいどこまで卑劣に成り果てる気だ!!」
  気が付けば激昂が口から飛び出していた。
  これまで耐え忍んでいた怒りが一気に噴き出していく。敵に向ける闘気とまではいかないが、それでも肌を刺すような強烈な気合が切嗣に向けて放たれる。
  「貴方は英霊を侮辱している。なぜ戦いを私に委ねてねてくれない? 貴方は自身のサーヴァントである私を信用できないというのか?」
  だがそれでも、切嗣は無反応を貫き通してこちらの声に全く応じなかった。
  アイリスフィールが振り返るどうすべきかと迷う顔が見えたが、今、自分の目は切嗣に一人に向けれている。
  何か言え―――。そう念じながら強い視線を向けるが、切嗣の目はアイリスフールに固定されたまま動かない。
  そのまま数秒間、時間が経過して。サロンの中には沈黙が満たされた。
  「・・・・・・キャスター以外とは休戦のはずでしょ?」
  場を和ますようにアイリスフィールがそう言うと、自分が出した強い問いかけには全く応じなかった筈の切嗣が間髪入れずに答えた。
  「構わないよ。今回の監督役はどうにも信用できない。なにせ素知らぬ顔でアサシンのマスターを匿っている奴だ。遠坂ともグルかもしれない。疑ってかかった方がいいだろう」
  ドイツのアインツベルン城で召喚された時から、切嗣が自分を徹底的に無視するのは判っていたが。ここまで無反応を貫き通すとは思っていなかった。
  自分と切嗣との相性が悪い事は判っており、間にアイリスフィールが入ってくれなければ聖杯戦争に参加する事すら怪しかった。
  そして、アイリスフィールと切嗣が『聖杯の力によって世界を救済したい』と願っているからこそ、真のマスターから信用を与えられない現状を耐える事が出来た。
  娘であるイリヤスフィールと戯れる父親の姿を見たからこそ、冷酷だけに見える切嗣の人物像がほんの少しだけ壊れている。しかし今、セイバーの胸中にはそれが幻だったのではないかと疑ってしまう気持ちが芽生えている。
  それほどまでに切嗣の反応の無さに怒りを覚えるのだ。
  ドイツの地で、かつてアイリスフィールはこう言った。


  「たぶんあの人は、あなたの時代の、あなたを囲んでいた人たちに対して腹を立てているのね。小さな女の子に『王』という役目を押しつけて良しとした残酷な人たちに――」


  「そんな風にあなたが運命を受け入れてしまったのが、なおのこと腹立たしいのよ。その点についてだけは、他でもないアルトリアという少女に対して怒っているかもしれないわ」


  「衛宮切嗣と、アルトリアという英雄とでは、どうあっても相容れないと――そう諦めてしまっているのね。たとえ言葉を交わしたところで、互いを否定し合うことしかできないと」


  あの時はアイリスフィールの手前、それ以上の追究はしなかったが。聖杯を手に入れるためには、必ず本当のマスターとサーヴァントとの繋がりが必要になってくる。
  今の状況を変えなければならないと思いながらも、マスターの意地は言葉だけでは壊せぬほど固い。
  どうすべきか?
  何をすべきか?
  何が必要なのか?
  自分を置き去りにして行われる切嗣とアイリスフィールの話は一旦区切られ、情報の共有は出来ても、マスターとサーヴァントとの連携は何一つ改善されないまま終わってゆく。
  「それじゃぁ解散としよう。僕とアイリはしばらくこの城に留まってキャスターの襲来に備える。舞弥は街に戻って情報収集に当たってくれ。異変があったら逐一報告を、特に間桐には注意しろ。あのご老人は確実に何かを企んでいる」
  「わかりました」
  セイバーは屈辱的な怒りとやりきれない思いを胸に宿しながら、切嗣の言葉に応じた女に視線を向けた。この女性の存在もまたセイバーの怒りを増長させる原因となっている。
  名を久宇舞弥。
  切嗣の弟子であり、聖杯戦争の準備を進める為に切嗣のエージェントとして外界で動いていた。セイバーはその話をアイリスフィールを通じて聞いていたが、肝心なのは聖杯戦争が始まってから、切嗣が妻であるアイリスフィールよりも舞弥の方を重要視している風に見える点だ。
  舞弥はアイリスフィールと自分の関係の様に、切嗣の斜め後ろで壁を背にして沈黙を保っていた。自分の様に激昂する事もなく、淡々と切嗣の言い分を受け入れている。
  その姿を見ると、切嗣に最も近い女性は妻であるアイリスフィールではなく舞弥なのではないかと思えてしまう。セイバーはその切嗣の―――アイリスフィールの夫としての気遣いの無さに、つい苛立ちを積み重ねてゆく。
  だがセイバーは―――性別を偽って、男として生きたアーサー王は、この男女の関係を責める資格は無いと考えた。
  騎士として、王として、サーヴァントとして、セイバーとして、英雄として。様々な思惑が絡み合いながら渦巻いていく。
  そしてセイバーはサロンから去りゆく己がマスターの背を見送る。今はそうするしかなかった。





  騎士とは、弱き乙女を救い、正義のために剣を振るい、邪な者には鉄槌を下し、常に公正であることである。騎士とは生き方そのものだ。
  誉れ高き騎士王である自分はそれらを体現する英雄であり、決してその道を違えてはならない存在だ。
  故にアイリスフィールが切嗣の後を追い、舞弥が諜報活動の為に冬木市に戻る準備を整え始めてから、セイバーはそのどちらにも関わらずアインツベルン城の中を散策した。
  マスターとの理解を深めるのならば、切嗣と話をするべきだろう。あるいは切嗣に話をしに行ったアイリスフィールに同行して会話の場を強引に作るべきだろう。
  しかしそれはアイリスフィールの邪魔をするに他ならず、向こうに気付かれぬ距離まで接近して話を聞くなど盗み聞き以外の何者でもない。騎士としてやってはならない愚行だ。
  もしかしたら二人の会話の中に切嗣と自分とが判り合う為のヒントがあるかもしれないが、騎士としてセイバーはそれを行わない。代わりに思考する事でマスターとの距離を縮めようとする。
  だが、すぐにセイバーが知る『衛宮切嗣』の情報の少なさに辿り着いてしまい、諦観が頭の中を支配した。
  直接、マスターと真正面から対面したのはサーヴァント召喚の儀式の時だけで、それ以降は接点と呼べるモノを殆ど作らぬまま今を迎えた。
  これまでにセイバーが知った切嗣の情報はアイリスフィールからの伝聞であり、切嗣と直接話して得た情報ではない。もちろんドイツで娘と戯れる切嗣の姿や、先程のサロンで話した切嗣の卑劣さも見ているが、それは切嗣が自分と言う第二者を徹底的に排除した故の第三者視点から見た情報でしかない。
  そこには確かに切嗣がいるが、自分を含めた『衛宮切嗣』ではないのだ。
  人は接する相手によって行動を変える。だからこそ切嗣を知る為には自分が話の輪に加わったり、行動を共にする間柄である『自分達』として考えなければならない。
  その情報が圧倒的に不足していた。
  仕方なく、セイバーは『道は違えど目指す場所は同じ』そして『アイリスフィールが切嗣を信じている』からこそ、マスターが信じるに値すると自分を納得させる。
  それが強引すぎる納得だと判っていたが、それでも今は情報の少なさからそう納得するしかなかった。
  切嗣は聖杯によって世界を救済する。そして自分の目的にもそれは合致する。だから、聖杯を勝ち取ってマスターに譲り渡さなければならない。
  そうやって自分を納得させ、それ以上マスターの目的については考えないようにした。
  「・・・・・・」
  気を紛らわすように考え出したのは倉庫街の戦いだった。初戦の相手であり、同じ騎士の誇りを貫くランサーは戦う相手としては極上と言える。
  ただひたすらに自分達が培ってきた腕前を披露し合い、そこに余計なモノが混じる余地は無い。強い者が勝つ、単純明快にして技量を競い合う戦いはセイバーとして剣を振るうに値する。
  ランサーの真名はディルムッド・オディナ。敵であると同時に、騎士道精神を体現する同志でもある。
  あの戦いに乱入して自分達の誇りを汚したライダーは許し難いが、それでも敵として見たライダーは征服王イスカンダルの名乗りに相応しく堂々としていた。
  語る言葉に嘘偽りは無く、あまりにも堂々としすぎているが故に呆気にとられる事が多々あったので、毒気を抜かれたと言える。
  聖杯戦争において想像外の行動ばかりとるライダーだが、一人の人間として見れば見た目通りの判り易さがあり、戦う時は真正面から剣を交える確信が合った。騎士としての誇りは彼に無いかもしれないが、武を競い合う相手ではある。
  しかしアーチャーは駄目だ。あの男はライダー同様に行動理念を堂々と体現しているが故に、自分以外の全ての存在をゴミ以下―――アーチャーの言葉を借りるならば『雑種』と切り捨てている。
  戦いになればもちろん負ける気は無いのだが、そこには騎士の誇りなど入る余地は無い。おそらく語り聞かせたところで『くだらん』と一蹴されて終わるだろう。
  バーサーカーに至っては、何故、自分をあそこまで目の仇にするのかは判らないが。言葉が通じるとは思えなかった。
  雄叫びを上げ続け、人の言葉を一度も発しなかったあのサーヴァントに対話と言う方法があるのかがそもそも疑問だ。
  そしてセイバーの脳裏に蘇るのは倉庫街の戦いに中途半端に加わり、暴言を吐いて去っていった男の姿だった。
  もし聖杯戦争においてサーヴァントのクラスに『ファイター』なんてモノがあれば、アーチャーの攻撃を弾いたあの男は間違いなくそこで召喚されるだろう。
  ただ、あの男は魔術とは異なる奇妙な力を使ったが、最初から最後まで自分から戦いに加わろうとはしなかった。自分達『英霊』に―――結果的に戦いの余波で壊れてしまう冬木市を愁いている様ではあったが、こちらを倒して戦いを止める気配はなかった。言葉と行動が食い違っている、そんな印象を受ける。
  英霊を咎人と呼ぶ言葉には怒りを覚えるが、あの程度の暴言で戦いを辞める筈が無い。もし今後も立ち塞がるならば、敵の一人として無力化するだけだ。関わり合いになれば、それはもう無関係ではないのだから。
  それよりも頭の中に強く残っているのは、アイリスフィールと公道で遭遇したキャスターであり、彼の錯乱した物言いだった。
  物静かな姫君と思っていたアイリスフィールの暴力的とも言える運転に驚き、路面に膝をついて臣下の礼をとったキャスターにも驚いたのをよく覚えている。
  キャスターの真はジル・ド・レェ。
  何を勘違いしているのか、自分の事を『聖処女』と呼び。女傑ジャンヌ・ダルクが悲運の末路を辿るのと同時に宿らせた狂気をそのままぶつけてきた。
  話しの通じない相手との会話は疲れるが、キャスターが纏っていた不穏な雰囲気と対峙して、左手を満足に使えぬ今の状態では少々心もとないと考えた。今でもキャスターを真っ先に倒せねばならないと心に決めているが、戦えばこちらも無事では済まない予感がある。
  一通り接してきたサーヴァントについて思い返してみたが、どうしても接し方の大小にマスターである切嗣を持ち出してしまう。
  判りにくさと言う点ではバーサーカーと切嗣に遜色は無いが、バーサーカーは敵として自分を殺しに来ている判り易さがある。だが切嗣は徹底して無反応を貫き通しており、反応が無いので何を考えているのかが全く判らない。
  別の事を考えても、やはり当初の問題である『マスターとの意思疎通の不備』に突き当たってしまう。
  セイバーは再び時間を思考に費やそうとしたが、それが実現されるより前に角を曲がってこちらに走ってくる仮初めのマスターの姿が見えたので、意識をそちらに向けた。
  「アイリスフィール」
  どうかされましたか? と言葉を続けるよりも前に、接近する彼女の顔が緊張で強張っている事に気が付き、それ以上の言葉を止める。
  あの顔は倉庫街で見た顔と同じだ。敵サーヴァントを前にしながらも、セイバーのマスターとして毅然とあろうとする姫の顔だ。
  「セイバー!」
  「敵襲――、ですね」
  「そうよ。遠見の水晶球で様子を見るからサロンに」
  「判りました」
  言葉が途切れるよりも前に応じ、セイバーはアイリスフィールと歩調を合わせた。そして先程まで話していた場所に戻るべく駆け足を始める。
  考えるべきは後でも出来るが、敵が来たのならば全神経をそちらに集中させなければならない。よって、セイバーは一瞬前まで考えていたマスターの事はとりあえず横に置いた。
  力ずくで迫り来る敵に意識を切り替える。
  教会からの通達が合った後でアインツベルンに強襲を仕掛けるとすれば、それは十中八九キャスターだ。セイバーは聖杯戦争のサーヴァントが一人として、そう結論付けた。



  ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆



  Side - 間桐雁夜





  他のサーヴァント陣営には無く、自分達にある強烈なアドバンテージ。それを言い表すならやはり『ものまね士ゴゴがいる』に集約される。
  もし仮に。既に今更となっているので仮定として考える意味すらないのかもしれないが。とにかく、もし仮に本物の間桐臓硯が存命であり、聖杯戦争を勝ち抜くために全力を尽くし、雁夜と協力関係を築いたとしても、現状には遠く及ばないと想像できる。
  あの自分の願望にしか興味が無い怪物に『協力』なんて言葉が存在するとは思えないが、それでもゴゴには及ばない。
  雁夜は飛空艇ブラックジャック号の甲板で、全方位を覆う手すりに片手をついて冬木市を遠くに見ながらそんな事を考えた。
  最初は落下がすぐ死に直結していたので、下を見る余裕など欠片もなかったのだが。今は一年間鍛えられた図太さによってさほど恐怖は無い。
  何度もゴゴに殺されて死に対する恐れがマヒしてしまったのかもしれないが、無様に何もできない状況に比べれば格段にいい。
  考え事が出来る余裕の中で、ゴゴの存在に感謝しながら雁夜は更に思う。
  ゴゴがいなかったら満足に使い魔すら操れない自分は、敵の姿すら見つけられなかっただろう。と。
  振り返れば操舵輪を握るゴゴがいた。
  そして船尾に立ち、ブラックジャック号の後ろに流れていく風景を見つめるゴゴがいる。
 妄想幻像ザバーニーヤによって、二人に分裂していると頭では理解しているのだが。いまだに同じ存在が別々の場所にいるのは慣れない。早く、己が栄光の為でなくフォー・サムワンズ・グロウリーで姿を変えてくれないかと考える。
  「おいゴゴ、キャスターの現在位置はアインツベルンの森で間違いないのか?」
  「既に公道から森の中に侵入したな。結界の外側を見張らせてたミシディアうさぎの視点だと、乗り捨てられた車が見える」
  「そうか・・・、いよいよだな」
  「名乗るのもおこがましい力足らずの状態だが、それでも『ルーンナイト』間桐雁夜の初めての実戦だ。気張って行けよ」
  「ああ」
  普通ならば使い魔を放ったり、人を使って調べたり、独力で調査したりして敵の居場所を突き止めるのだが、ゴゴの調べ方はそのどれでもない。
  信じ難い事で雁夜にはやろうとしても一生涯出来ないだろうが、聖杯戦争が始まる前に『聖杯戦争を成すシステムそのもの』を物真似して、ゴゴは聖杯に招かれたサーヴァントの位置を知れるようになっているのだ。
  始まりの御三家が数百年前に構築した神技と言ってもよい魔術をいとも容易く物真似してしまう異常性。それでも味方であるならばこれほど頼りになる存在はいない。
  雁夜は船尾にいるゴゴと話しながら、今この瞬間に至る前の経緯を思い出してゆく。





  事の起こりは冬木市に散らばっているミシディアうさぎの一匹がキャスターを捕捉した所から始まった。
  ゴゴによってサーヴァントの位置は大体把握できるので、『マスターとサーヴァントは同行している』という前提条件に従い、マスター捜索はサーヴァントの周囲を監視するところから始められた。
  ただし、場合によってサーヴァントとマスターが同じ位置にいない時もある。遠坂などそれが顕著な例で、マスターの遠坂時臣は拠点の遠坂邸から一歩も出ていないのに対し、何故かサーヴァントのアーチャーは普通に街を出歩いたり、璃正神父がいる教会へと赴いたりもしている。
  そして教会でキャスター討伐の号令が発せられた後のキャスターの行動もまた、マスターと同行していない場合で、キャスターは捕捉できたがその周囲にマスターと思わしき者の姿は見受けられなかった。
  ゴゴから話を聞いた雁夜は早速ミシディアうさぎの目を通してキャスターを見た。けれど教会からのキャスター討伐については自分から動くつもりは毛頭ない。
  既にバーサーカーに宝具を使わせる為に令呪を一画消費してしまっているのだが、令呪を補充するよりもゴゴに味方してもらった方が旨味が多い。
  そして、まだ試してもらってないが、ゴゴならば令呪そのものを真似る事すら不可能ですらないかもしれないのだ。よって褒賞の為にキャスターと戦うつもりはない、それが雁夜の出した結論だ。
  しかしキャスターが冬木市の連続誘拐事件の犯人であるならば桜ちゃんの教材に出来ると思い直し、キャスターの事を桜ちゃんに話そうと考えを改める。
  「桜ちゃん。ちょっといい?」
  「なぁに、雁夜おじさん」
  キャスターの騒動が、桜ちゃんに話した『自分で決断してもらう』の予行演習になる。そう考えた故の問いかけであった。
  「実は魔術師絡みの話でちょっと面倒な事が起こってね。桜ちゃんが今後どうしたいかの練習として、桜ちゃんの答えを聞かせてほしいんだ」
  「え・・・?」
  当初、桜ちゃんは何を言われたのか全く分かっていなかったが。雁夜は懇切丁寧に一つずつ冬木市で起こっている誘拐事件の事を語り聞かせた。
  ニュースで何度も報じられている連続誘拐事件の犯人は聖杯戦争に参加しているマスターの一人で、どうやらサーヴァントの方も協力して一緒に事件を巻き起こしてる。
  既に被害は一人や二人では収まらず、あまりにも多くの人間が犯人達によって殺された。
  その中には桜ちゃんと同じ位の年頃の子供達もたくさんいる。
  被害にあった人たちは同じ冬木市に住んでいるだけで、桜ちゃんとは縁もゆかりもない。ただし、自分とゴゴは聖杯戦争という繋がりがあるので全く無関係でもない。
  そう前置きしてから、雁夜は桜ちゃんに向けて言う。
  「俺とゴゴには犯人を止められる力がある。でも俺達は警察じゃないし正義の味方でもない、だから犯人たちを停めなきゃいけない理由は無いんだけど、止めようと思えば止められる。そこまではいい?」
  「うん――」
  「こんな状況を知ってしまった桜ちゃんはどうしたい? まあ答えとしては『助けたい?』か『無視する?』のどちらかなんだけどね」
  我ながら酷い問い掛けだと自覚しながらも、魔術師の世界に関わるならばもっと酷い問題が山の様に押し寄せてくるのだと心を鬼にする。
  聞かせなければ知らずに済んだのだが、知ってしまえばそこで関連性が出来てしまう。そして心優しい少女がほぼ無関係でありながらも、その希薄な関連性にでも罪の意識を感じてしまう事を雁夜は知っていた。
  この一年の付き合いで、自分に何かできるのならば、桜ちゃんが起こっている問題について無視できなくなってしまう事も知っている。
  案の定、桜ちゃんは雁夜の問いかけに対し迷いを抱き。自分にはほぼ関係が無い事でありながら、我が事の様に表情を重くした。
  責任なんて何一つない。それでも桜ちゃんは小さな関わりに罪の意識を感じている。
  桜ちゃんは引っ込み思案であっても感受性は豊かなのだ。
  十秒ほど間を置いてから、自分の体を抱きしめるように両腕の中にいるミシディアうさぎのゼロをギュッと抱きしめ、桜ちゃんが言った。
  「・・・雁夜おじさんとゴゴは、犯人を捕まえられるの?」
  「捕まえられるね」
  「皆を助けられるの?」
  「もう殺されちゃった人達は無理だと思うけど――、まだ無事な人達なら助けられるよ」
  一年前の雁夜だったならば、こんな会話をする事すらそもそも不可能であっただろう。何しろあの当時は間桐臓硯というとてつもなく大きな壁が目の前に立ちふさがっており、桜ちゃんを救う以外に何も考えられない状況だったのだ。
  他の事に目を向ける余裕など欠片もなく、聖杯戦争に巻き込まれた他人に手を差し伸べる思考そのものが存在しなかった。
  これもまたゴゴのおかげと言える。
  そして『思うけど』と断言を避けたのは、死んでしまった者の中には蘇生可能な者がいるかもしれないからだ。
  何しろこちらには今の世の中では奇跡と言うしかない死者蘇生を何の代償も負わずにやってのけるゴゴがいる。キャスターとそのマスターの魔の手にかかった者の中には、殺されても尚まだ間に合う者がいるかもしれない。
  ちなみに雁夜自身はその魔法を習得していないので、自力では不可能である。
  何度も殺されて、その都度生き返らせてもらった雁夜だからこそ判る解決策の一つだった。
  ゴゴが自発的に誰かを生き返らせるなんてありえないかもしれないが、それが『桜ちゃんを救う』に関連するならばやってくれる可能性はある。
  「ねえ、桜ちゃんはどうしたい?」
  もう一度同じ問いかけを行うと、桜ちゃんは真っ直ぐこちらの目を見た。
  姉の凛ちゃんの背中に隠れていた妹の姿はそこにはなく、間桐邸の暮らしによる慣れと盾にしてきた『誰か』がいない事実が彼女の心を強くした。
  雁夜の目をしっかり見て、桜ちゃんが言う。
  「助け、て――。助けられるなら、助けて・・・・・・。お願い」
  桜ちゃんの言葉を聞きながら、雁夜の頭の中にあったのは『やはり』という納得であった。人間、よほど追い詰められた状況でもなければ、自分以外の他人を気遣う余裕が幾らか存在する。
  そして自分以外の事はどうでもいいと思っている人間ならば、その余裕が合っても見知らぬ誰かを見捨てるかもしれないが、桜ちゃんはそういう人間ではない。
  答えを二つに絞ったならば、桜ちゃんの口からどちらかが出てくるなど明白なのだ。それでも雁夜は桜ちゃんの口からその言葉が聞けた事を嬉しく思った。
  間桐臓硯のように、魔術師という生き物は基本的に他人がどうなろうと構わないと言う考え方をする。おそらく自分以外の他の聖杯戦争の参加者もそう思う筈だ。教会からキャスター討伐の申し出があったのは、このままだと聖杯戦争そのものが破綻しかねないからこそで、冬木市に住む住民の心配をした訳ではない。
  冬木市で誰が何人死のうと、聖杯を獲得できればそれでいい。きっと、そう考える輩ばかりだ。
  だから雁夜は嬉しかった。桜ちゃんはそんな魔術師たちとは違い、見知らぬ誰かを気遣える心の持ち主であることが嬉しかった。例え桜ちゃんの決断が偽善と言われようと、迷い、考え、決断してくれただけで雁夜には満足だ。
  桜ちゃんの決意を聞いた大人として、聖杯戦争のマスターとして、戦う力を得た戦士として、雁夜は言う。
  「判った。俺達に任せてくれ――」





  そして雁夜とゴゴ、そして今は船室に入って吹き付ける外気の寒さから身を護っている桜ちゃんは、飛空艇ブラックジャック号でキャスター討伐の為に出陣した。
  本来であればゴゴの守る間桐邸は冬木市で最も安全であり、雁夜たちの帰りを待つ『家』の役目を果たしているので、桜ちゃんを外に連れ出すのは愚かな決断とも言える。
  しかし雁夜にとって聖杯戦争は魔術師の本性を見せつける格好の教材であり。魔術師になるという事はこういった戦いに巻き込まれると桜ちゃんに教えたかった。
  これで桜ちゃんが魔術師を嫌えばそれこそが雁夜の望むところである。
  使い魔のゼロを介してミシディアうさぎ達の五感とリンクして、その場の状況を桜ちゃんが知る事は出来るだろうが、安全圏からの観察よりも実体験の方が多くの事を思い知れる。
  だから桜ちゃんには、助けてとお願いしたならば最後まで見届けて欲しい。と懇願して付いて来てもらった。
  そしてゴゴに対しては、桜ちゃんに選ばせる俺の決断に反対しないなら桜ちゃんを守ってくれ。と説得し、同行してもらってる状況だ。
 間桐邸には妄想幻像ザバーニーヤによって分裂したゴゴを残して、間桐臓硯が残っていると見せかけている。結界によって内部の状況が窺い知れないので、敵は新しく寄こされた使い魔たちの目を通して、倉庫街に乱入したマッシュと昨晩間桐邸の周囲に潜むすべての使い魔を抹殺したエドガーという男が一緒に残っていると思っているだろう。
  表向きは雁夜だけが間桐邸から出たように見えていたかもしれないが、後ろには透明化の魔法で姿を消したゴゴと桜ちゃん、それに桜ちゃんの使い魔のゼロに率いられた他のミシディアうさぎ達も姿を消して同行した。
  間桐邸からある程度距離を取り、こちらを監視する使い魔たちは透明になったゴゴが全て抹殺する。後はゴゴが飛空艇を呼び出し、キャスターのいる場所目がけて移動するだけだ。
  そろそろ他の陣営も使い魔を間桐に派遣する無意味さと、間桐臓硯に見せかけているゴゴの尋常ではない力に気付くに違いない。
  間桐邸に戻るのは聖杯戦争が終わるまで中断した方がいいかもしれない。そう考える。
  雁夜一人だったならばキャスターを見つけるのは至難の業で、他の陣営がキャスターを発見する為には使い魔を利用したりサーヴァントを使ったりしなければならない。だが、ゴゴは物真似した聖杯戦争のシステムによってサーヴァントの位置を大まかに知れる常識外の探査方法を持っている。
  だからこそ出来たキャスターの早期発見だった。教会で神父から話を聞いて、一時間程度で発見してしまう呆気なさに思わず呆然としてしまったのをよく覚えている。
  ただし、キャスターと戦うのはゴゴではない。
  桜ちゃんに話を持ちかけたのはあくまで雁夜であり、一人の大人としての責任を果たす為に、間桐雁夜が結果を作り出さなければならない。
  キャスターが暗示をかけられていると思わしき子供達を連れているイレギュラーがあったが、ゴゴがそちらを対処してくれると言いだしたので懸念事項は消えた。
  「子供達は任せろ。お前は何も気にせずキャスターを倒す事だけを考えて戦えばいい。この一年の鍛錬の成果を実戦でしっかりと見せろ、無様な戦い方は師匠として許さんぞ」
  「判ってるさ――」
  言外に『死ぬなら死んで来い』と言われているのだが、ゴゴにそれを追及したところで、だからどうした? と返されるだけだから何も言わなかった。むしろ雁夜の策に乗って同行してもらい、その上で死んだとしても助けてくれるのならば感謝するべきだ。恨むなど筋違いである。
  聖杯戦争をただ勝ち抜くだけならばゴゴ一人に任せるのが最も安全だ。けれど結果は同じでも仮定には多くの道が用意されている。むしろその仮定こそが間桐雁夜と言う人間を作り上げ、遠坂桜と言う少女の決断を引きずり出す。
  それこそが雁夜の戦う理由。
  それだけが全てではないが、その理由があれば雁夜は戦える。
  「雁夜。もうすぐキャスターがアインツベルンの結界に触れるが、馬鹿正直に突っ込むとは思えん。子供達の無事を考えると限界が近いな、そろそろ仕掛けるぞ」
  「よし」
  いよいよキャスターと戦う事になった。相手は伝説に謳われる英霊に間違いないのだが、不思議と雁夜の中に動揺や困惑、あるいは恐怖と言った戦いを躊躇する感情は少なかった。
  霊体化して目には見えないが、すぐ近くに強力な戦力であるバーサーカーがいるからか?
  聖杯戦争においてゴゴが協力してくれると判っているからか?
  甲板にはいないが、これまでと違ってすぐ近くに桜ちゃんがいると知っているからか?
  この一年、ずっと常識外れのものまね士ゴゴを相手にし続けたから、そろそろ別の相手と戦いたいと思っているのか?
  セイバーとランサーの戦いを見て騎士を相手にするには力不足だと判っているが、魔術師のサーヴァントならば戦い方によっては戦えると、自分でも気づかぬ自信があるのか?
  あるいはその全てが理由か?
  雁夜は背中に背負っていたアジャスタケースから魔剣ラグナロクを引き抜き、持ち始めた当初は持ち上げる事すら出来なかった剣の重さを確かめる。そして手すりに空いた方の手を当てながら、アインツベルンの森を見下ろした。
  どうやら戦場に到着したようだ―――、この真下にキャスターがいる―――。
 「己が栄光の為でなくフォー・サムワンズ・グロウリー
  すると横から声があがり、今まで話していたゴゴの姿が輪郭を失って別の形に変わっていく。
  一秒もかからず、ものまね士ゴゴではなく別の人間が立ち、飛空艇の操舵輪を握る方のゴゴとは別人の姿を映し出す。
  どちらも同じゴゴであると判っていながら、見た目が違えばそれだけで別々に考えられる。雁夜は二人のものまね士ゴゴが同じ場所にいる苛立ちから解放された事に喜びを感じながらも、新たに現れた人物を見て絶句してしまう。
  「・・・・・・・・・・・・ゴゴか?」
  思わずそう問いかけてしまうのも無理はない。何しろそこに立っていたのは、ゴゴがバーサーカーの宝具を物真似してから変身した誰とも違っていたのだ。
  初めて見る人間であっても、それがゴゴであると言う意識が働くので、驚かないと思っていた。それなのに雁夜の前に立つ人物は、そんな雁夜の気構えを木端微塵に吹き飛ばした。
  「そう――。私の本質は『ものまね士ゴゴ』。けれど今の私はみんなの未来を守るために、そして新しい命をこの世界に育むために戦う」
  その人物は女性だった。
  男口調であり、これまで一貫して男にしか変身しなかったし、聞いた話でも男に変身した事しか聞いてなかったので、雁夜の中ではゴゴが男だと認識が凝り固まっていた。だが、そもそも人間ですらないゴゴに性別があるかどうかすら不明だ。
  そう考えればゴゴが女性になったのは別におかしくない、それでも口調が一変してゴゴに見えない女性がそこにいると雁夜の中には動揺ばかりが広がっていく。
  別に禁欲しているつもりは無かったが、この一年『女』から離れた弊害かもしれない。
  雁夜の目の辺りにつむじがあり、年のころはおそらく20歳ぐらい。アッシュブロンドの髪の毛を後ろで纏めてポニーテールにして、雁夜を見つめてくる目は淡いブルーだ。
  頭には帽子として用いる薄い布、つまりはヴェールを付けているのはいいのだが、肩を露出させて胸元の開いた服装は水着と言うよりも下着をそのまま見せているような淫靡さがある。
  ヴェールと同じ位薄手のマントを羽織っているが、それも艶めかしい女性の肉体を隠すには至っていない。決して豊かとはいえない胸のふくらみだが、間違いなく雁夜の目の前にいるのは大人の女性であった。
  ただし、魔剣ラグナロクとは異なる白銀の輝きを見せる剣が片方の手に握られているので、怖さと美しさが同居しているような奇妙な光景を見せている。
  黙り込む雁夜に向けて、ゴゴである筈のその女性が話しかけてくる。
  「今の私の名前はティナ。ティナ・ブランフォード・・・」
  「ティナ・・・か」
  「雁夜は先に行って、隙が出来ても出来なくても子供達は私が何とかするから」
  「あ、ああ。判った・・・」
  辛うじて声を縛りだすことに成功したが、まだ頭の中はゴゴが女になったと言う衝撃的な事実で爆発したままだ。
  ゴゴ、いやティナは二の腕までを覆う赤の花柄のアームカバーの上に人魂を模した様なアクセサリーを付けているのだが、雁夜の目はそれを見ながら認識できなかった。
  正しく茫然自失をそのまま体現する様な時間が流れてゆくが、キャスターを倒さなければ状況は何一つ変わっていない。
  「キャスターをお願いね」
  そうティナの口から語られた次の瞬間。雁夜が倒さなければならない相手の名前を囁かれた瞬間。雁夜は自分の手が握る魔剣ラグナロクの重さと、桜ちゃんとの会話を急速に思い出す。
  今やるべき事は女にうつつを抜かす時ではない。迷い、悩み、戸惑い、本来ならば関わらなかったであろう赤の他人に胸を痛めた少女の想いに応えるべき時なのだ。
  彼女は言った、助けてくれと。
  ならばそれを実現させなければならない。
  戦うべき状況を思い出して、頭が殺し合いの緊張へと戻っていく。その実感がじわりじわりと雁夜の頭と言わず全身を包み込んでいくと―――。


  雁夜はブラックジャック号から突き落とされた。


  「へ?」
  誰かに背中を押されたと理解するよりも早く、飛空艇に自分を縛り付けていた二本の足と一本の腕が全ての支えを失った。
  何が起こったのかまるで判らず、ただ自分の体が得体の知れない浮遊感に包まれる。そして次の瞬間。地球が持つ重力に従って、雁夜の体は地上目がけて一直線に落ちていく。
  「おおおおおおおおおおおぉぉぉぉぉ!?」
  半回転した体のおかげで今まで自分がいたブラックジャック号の甲板が見えて、そこで手を振る女性の姿をしっかりと肉眼で捉えることが出来た。
  早く行けと急かして突き落としたのか? 時間が無いから落としたのか? たまたま手がぶつかっただけか? 理由は判らないが、すぐさま身を乗り出して雁夜が落ちていく軌跡をしっかりと見ているので、ティナと名乗った実質ゴゴが突き落としてくれたのだと理解してしまう。
  ゴゴと付き合う限り、普通の常識など考えるだけ無駄である。この一年で学んだ常識の埒外に向ける思考が強制的に雁夜に冷静さを取り戻させ、落下している状況でありながら落ち着くと言う不可思議な結果が生み出された。
  だがこのままでは―――聖杯戦争の参加者、間桐雁夜。仲間の手によって上空から落とされた転落死―――。などと不名誉な終わり方で桜ちゃんの記憶に残ってしまう。そんな事は許せない、許してはいけない。
  雁夜はこの一年でゴゴから学んだ魔法の一つを発動させる為、自分の体の中に巡る魔術回路にと魔力を張り巡らせていく。
  出来ればキャスターと戦う前には少しも魔力を損ないたくないのだが、今、この魔法で対処しなければ単なる人の肉体しか持ってない雁夜では、アインツベルンの森に到達すると同時に死んでしまう。
  ただしこの魔法、地面から一定距離に常に浮かぶ効果を発揮するのだが、この『一定距離』に到達するまでは自由落下と何も変わらない欠点がある。
  落下の衝撃を全て別の場所に逃がす驚異的な魔法で、おそらくどれほどの高所であっても地面に着地できるだろう。
  試す勇気は無いが―――。
  飛べる訳ではない、自由自在に浮かべる訳でもない。あくまで地面から離れた部分に自分を固定させて浮遊するだけの魔法だ。落下の衝撃の多さが魔法の効果を上回れば、雁夜は地面に叩き付けられて死ぬ。
  覚悟を決めろ。そう自分に言い聞かせて、雁夜は魔法を唱えた。
  「レビテトォォォオオォォオォォォォォオォ!!!」
  叫ぶのとブラックジャック号に張り巡らせてある透明化の魔法の効果範囲を抜けるのは同時だった。雁夜の目に映る景色から飛空艇が消え、何もない空に切り替わる。
  後で一発ぶん殴ろう。女であっても本性はゴゴなんだから問題ない。雁夜はそう思いながら地上に向けて落ちていく。
  魔剣ラグナロクを手放さずにずっと持っている自分を褒めてやりたい気分になった。



  ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆



  Side - アイリスフィール





  凶悪とも呼べる魔力の波動はアインツベルンの森に張り巡らされた結界によって感知され、アイリスフィールに侵入者の存在を強く教えていた。
  ただし森に張り巡らされている結界には、『探査』の結界と『防護』の結界があり、両者は城を中心にして範囲が異なる。そして敵の襲来をアイリスフィールに教えたのはあくまで『探査』の結界が感知した異常で、『防護』ではない。敵の襲来を知らせはしても、迎撃するには敵にもっと城に近づいてもらわねばならない。
  故にアイリスフィールは切嗣が命じた通り、まず遠見の水晶球を用いて敵の様子を探る事から始める。
  ほんの少し前まで状況を話し合っていたサロンに再び四人が集う。ただし険悪な空気の復活は無く、代わりに敵の接近に伴う緊迫した雰囲気が部屋の中に立ち込めていた。
  切嗣と舞弥は迎撃の為に重火器の準備を進めており、セイバーは斜め後方から机に片手を置いてアイリスフィールが見ている遠見の水晶球を一緒に覗き込んでいる。
  「いたわ」
  映る景色は自分達がいる城から北西に2キロほど離れた場所。水晶に映し出される異相のローブ姿の男は間違いなく公道で遭遇したキャスター当人、つまりジル・ド・レェ伯その人だった。
  そしてアイリスフィールはキャスターの姿を捉えると同時に周囲にいる子供達の姿も一緒に捉える。皆、虚ろな表情を浮かべながらキャスターの歩みに合わせて進んでおり、その顔には正気と呼べるモノは何一つ見られない。
  子供達は軽装で、夜のアインツベルンの森を歩くにはあまりにも不向きな恰好だ。
  斜め上から見下ろす形でキャスターと子供達を監視していると、これまで直進してきたキャスターの歩みが『防護』の結界に沿って真横に移動している事に気が付いた。
  何らかの手段で魔術師のサーヴァントはアインツベルンの結界を見抜き、実害の有る無しを完璧に把握した上でこちらの結界の境目に踏み込まぬようにしているのだろう。
  その結論に行き着くのとセイバーが話しかけてくるのはほぼ同時だった。
  「アイリスフィール、敵は誘いをかけています」
  「人質・・・でしょうね。きっと」
  「罠や仕掛けを発動すれば、あの子供たちまで巻き込みます。私が直に出向いてキャスターを倒し、救い出すしかありません」
  セイバーの言葉に断る理由は何一つない。
  仮とはいえアイリスフィールは聖杯戦争のマスターだ、見も知らぬ子供など見捨てるのが正しい選択なのかもしれないが、アイリスフィールはその考えを切り捨てる。
  何故ならホムンクルスとしてのこの体はアインツベルンの悲願を成就する為の道具であると同時に、切嗣を愛し、イリヤスフィールを生み、妻として母として生きた人間そのものなのだから。
  キャスターに暗示をかけられたと思わしき子供達とドイツに残したイリヤスフィールの姿が重なり、アイリスフィールの頭の中には『助けなければならない』という決意が生まれる。
  それでも同じ部屋の中にいる切嗣ならば、セイバーからどんな圧力を向けられようと『見捨てろ』と言うに違いない。
  セイバーと切嗣。両者の間にいるからこそアイリスフィールはセイバーへの即答が行えなかった。
  するとそんなアイリスフィールの逡巡を狙い澄ましたかのように、キャスターが斜め上を向いて、遠見の水晶で見ている自分達を見つめた。
  「千里眼を――見破られてる!?」
  ただ振り向いただけならば偶然の可能性はある。しかしキャスターは水晶を通して見るアイリスフィールとセイバーに向かって笑みを浮かべたのだ。
  敵陣に乗り込んでいる筈なのに、緊張など全く思わせない柔和な笑み。明らかにこちらが見ていると気付いた上での行動だ。
  それを裏付けるように、仰々しく頭を垂れながらキャスターが話しかけてくる。
  「昨夜の約定通り、ジル・ド・レェ、まかり越してございます。我が麗しの聖処女ジャンヌに、今一度、お目通りを願いたい」
  仰々しく頭を垂れる姿は、やはりセイバーの事をジャンヌ・ダルクと勘違いしている様にしか思えない。
  彼の狂想は何一つ変わらず、頭の中に出来上がった事実を真実と思い込んで目の前の本当から目を背けているのだ。
  歴史に刻まれた凶行。幼子に対する拉致と虐殺を巻き起こす破壊の権化が、遠見の水晶の向こう側にいるという事でもある。
  数百人もの犠牲者を出して歴史に名を刻んだ悪徳の英霊。キャスターとして聖杯戦争に召喚されたジル・ド・レェが顔を上げて言う。
  「まぁ、取り次ぎはごゆるりと。私も気長に待たせていただくつもりで、それなりの準備をして参りましたからね」
  キャスターが右手を横に伸ばして人差し指と親指でパチリと指を鳴らした。
  するとそれが子供達の暗示を解く合図だったらしく、これまで呆然と物言わぬ人形の様にキャスターを取り囲んでいた子供達が目に生気を取り戻してキョロキョロと周囲を見渡し始める。
  アインツベルンの森の木々を見上げたり、動揺に声を上げたりしている。
  自分が置かれている状況が全く分かっていないのが、遠見の水晶越しでもよく判った。
  「さぁさぁ坊やたち、鬼ごっこを始めますよ。ルールは簡単。この私から逃げ切ればいいのです」
  すぐ近くから話しかけられていながらも、子供達は誰一人としてキャスターの話を聞いていないだろう。
  冬木市のどこか、あるいは家にいたり自分達の生活をしていたであろう状況から、いきなりアインツベルンの森の中に放り込まれたのだ。
  自分の身に何が起こっているのかを確かめようとするのに精一杯、ここがどこだか知ろうとするのにも精一杯。語りかけられながらも、その言葉を聞く余裕はない。
  だがキャスターには子供達の心象など関係なかった。
  「さもなくば──」
  そう言ってキャスターはローブの裾から手を伸ばし、近くに居た赤毛の子供の頭を片手で持ち上げる。
  突然の事態に子供は悲鳴を上げて暴れ出すが、聖杯戦争に召喚されたサーヴァントの膂力は一般人の子供程度の力で振りほどけるものではない。
  軽々とこちらに見せつけるように片手で子供を掲げる。徐々にキャスターの指が閉じていき、子供をどうするつもりなのかをこちらに教えてくる。
  「やめろっ!!」
  アイリスフィールの背後からセイバーが遠見の水晶に向けて叫ぶが、キャスターが言葉で制止する筈がない。
  そもそもこの道具は向こうの映像や音声を水晶に映し出す事は出来るが、こちらの音を伝えるようには設定していない。そうする為には別の魔術の術式を組み込まなければならないのだが、敵の監視には不要だったので組み込まれていないのだ。
  セイバーもそれが判っている筈なのだが、それでも叫ばずにはいられなかったのだろう。
  「が・・・ぁ・・・」
  水晶の向こう側には、苦悶の表情を浮かべながら呻き声を上げる子供の姿が見える。こちらに見せつけているのは明らかだ。
  このままでは子供は殺される。しかも2キロも離れた場所にいるキャスターを止める手段はアイリスフィールには無い。
  キャスターがもう少し結界の内部に侵入してくれれば、『防護』の結界を発動させて攻撃できた。子供にも危険があるだろうが、それでも攻撃は出来る。
  あるいはアイリスフィールがセイバーの真のマスターであったならば、令呪を使ってあの場所に一瞬でセイバーを送り込むことも出来るだろう。
  しかしそのどちらも叶わない。
  「あぁ・・・うぇ・・・」
  子供は口からよだれと泡を吹きだして苦しさを明確に表している。キャスターの指が子供の顔にめり込み、肉を潰し骨にまで至ろうとしている。
  死ぬ、殺される、命が消える。
  次の一瞬には確実にそうなるであろう光景が水晶に映し出されているので、アイリスフィールは咄嗟に目を閉じて顔を横に背けてしまった。
  だから見逃した。
  奪われる筈だった子供の命を救った天からの飛来物に―――。
  「なっ!?」
  すぐ近くでセイバーの声が聞えたが、それはキャスターの凶行に対する悔しさや歯噛みではなく、動揺を強く表す叫びだった。
  何が起こったのか判らなかったので、アイリスフィールは恐る恐る目を開く。そして水晶に映し出された光景に我が目を疑った。
  キャスターの手に掴まれていた子供が苦しみながら地面に横倒しになっていたのだ。
  あのまま行けば、確実にキャスターの手によって頭を握り殺されていた筈の子供。しかし、痛みに悶絶しながらもキャスターの手から解放されている。
  キャスターが手心を加えたのか、苦しみを長く続かせる為に一時的に開放したのかとも思ったが、子供のすぐ横に立つ見知らぬ男の存在がそれを否定した。
  ほんの一瞬前にはその場所には誰もいなかった。しかし今、そこに男が立ち、サーヴァントの殺戮を阻んでいる。
  「何者だ、貴様!?」
  「間桐雁夜だ。お前には何の恨みも無いが、ここで死ね」
  男はそう言うと、手にした剣を掲げてキャスターに斬りかかる。アイリスフィールはそこでようやく男が剣を持って戦っている事に気が付き、そして『間桐雁夜』という名前は切嗣からも聞いていたので、自分と同じ始まりの御三家である『間桐』の人間だと知った。
  だがその『間桐』の人間が何故アインツベルンの森にいるのだろう? 今は結界がキャスター以外にも間桐雁夜の存在を教えているが、間違いなく一瞬前までは確認できなかった。
  いつ現れたのか?
  どうやって現れたのか?
  子供が殺されずに無事になった事で少し気が緩み、子供達の救出が最も急がなければならない事柄から外れていく。
  間桐がキャスターを狙う理由は褒賞の令呪一画だろうが、どうやってこの場に現れたかの疑問が膨れ上がる。
  「セイバー。何が起こったの?」
  気が付けば後ろにいるセイバーにそう問いかけていた。
  「あの男がどこからともなく現れてキャスターに斬りかかったのです。キャスターは子供を手にしたままでは避けられないと判断したようで、子供を手放しました」
  「そう・・・」
  もしセイバーがキャスターと直に対面していたのならば、もっと細かな情報が得られただろう。けれど、いかにセイバーと言えども、アイリスフィールが操る遠見の水晶越しでは判らない方が多い。
  目を背けなければもっと多くの事柄が判ったかもしれないので、後悔がアイリスフィールの中を満たしていくが、その代わりに子供が無事だった安堵も一緒にあふれてゆく。
  何故、間桐の人間がこの場に現れたのかは判らないままだが、結果的に子供達が守られているのは間違いない。
  けれどジル・ド・レェは聖杯戦争にキャスターとして召喚されたが、軍人となると百年戦争を戦い抜いたフランスの英雄だ。キャスターでありながらもその身体能力は高く、間桐雁夜の振るう剣をギリギリで避けていた。
  同じ剣の使い手であるセイバーならば、キャスター程度の動きならば一撃で切り捨てられるだろうが。ただの人間が振るう剣では英霊には届かない。
  倉庫街でセイバーの戦いを見たからこそ、間桐雁夜の使う剣の稚拙さがアイリスフィールにも判る。
  これから、どうすべきか?
  もしキャスターの手で子供達が殺されていれば、アイリスフィールは何の迷いも抱かずにセイバーに討伐を命じただろう。
  切嗣が何と言おうと、この場でキャスターを倒すことが正しいと思い、そう決断した筈。
  だがキャスターの手から子供は解放され、自分達の代わりに他人が戦っている。
  子供達は相変わらず自分達の身に何が起こっているか判っていなかったが、キャスターが自分達に害すると理解し、そして間桐雁夜の存在が自分達を傷つけないと直感的に判断したようだ。遠巻きに二人の戦いを見つめ、どうすべきか迷っている様に見える。
  キャスターと間桐雁夜の戦いを見て、子供達の一応の無事を見て、アイリスフィールは迷う。迷ってしまった。
  キャスターがセイバーをおびき出す為にわざわざ出向いたのは明白で、遠見の水晶だけでは判らない何らかの罠が待ち構えている可能性がある。そもそも魔術師のサーヴァントが何の準備もなしに敵の前に現れる筈がない、キャスター自身『それなりの準備をして参りましたからね』と言っている。
  セイバーの考えを優先させるのならば、セイバーを間桐雁夜の援護に回らせるべきである。
  ただし間桐雁夜もまた聖杯戦争のマスターであるならば、割り込んだセイバーと敵対する可能性は十分にある。間桐陣営が持つサーヴァントが十中八九バーサーカーである事は間違いないので、倉庫街でバーサーカーがセイバーに斬りかかった状況が再現させるのはありえる話だ。
  そして切嗣の考えを優先させるならばここは子供達に危険があると判っていながら放置するべきだろう。
  今は間桐雁夜が何故か直接キャスターと戦っているが、危険になれば間違いなくバーサーカーを現界させてキャスターと戦わせる。そうなればこちらが加わらなくとも敵陣営の力を消耗させられる。
  もしかするとこの場で二人のサーヴァントを倒す事も不可能ではないかもしれない。
  騎士の生き方を体現するセイバーに守られながら、それでもアイリスフィールは切嗣の妻であり彼と共に戦うと誓った女なのだ。
  切嗣は言った。必死に自分と出会う前の非情さを取り戻し、戦いに勝とうとする苦しみを味わいながら言った。


  「もし僕が今ここで、何もかも放り投げて逃げ出すと決めたら──アイリ、君は一緒に来てくれるか?」


  「それから先は──僕は、僕の全てを僕らのためだけに費やす。君と、イリヤを護るためだけに、この命のすべてを!!」


  「僕は、負けるかもしれない。君を犠牲にして戦うのに、イリヤを残したままなのに、僕は・・・」


  言峰綺礼が舞弥を狙い、その奥にいる切嗣に標的を定めたのは既に聞いている。そして切嗣がその事実に恐怖を覚えているのもしっかりと聞いてしまった。
  だからこそアイリスフィールは子供達を守るべきか、切嗣の意思を尊重すべきか即断できない。
  切嗣に聖杯を渡す。その想いがアイリスフィールの心を強く縛り付ける。
  彼の背中にしがみついて語り聞かせた言葉を覚えている。『私が守る。セイバーが守る。それに舞弥さんもいる』自分は切嗣に向けてそう言った。
  その気持ちは、久宇舞弥という女性が自分よりも切嗣の近くに居たとしても、『闘争』ならば許容できる、そう女としての意思を封じ込められるほどの強い気持ちだ。
  答えを求めるように水晶玉から顔を上げて切嗣の方を見るが。彼はアイリスフィールを一瞥しただけでそれ以上は何も言わなかった。
  一瞬だけ動きを止めたが、舞弥と共に武器の準備を再開し、手榴弾や短機関銃のポーチなどと次々にコートの下に収めていく。その物言わぬ行動こそが何よりも切嗣からの回答であった。
  静観だ。
  敵が潰し合うのならば自分達から手を出す必要はない。切嗣は何も言わずにそう告げている。
  「アイリスフィール!!」
  後ろからセイバーの責める様な声が聞え、それには『私をあそこに行かせてください』という懇願が混じっていた。
  仮のマスターとして、切嗣の妻として、イリヤスフィールの母親として、一人の女として。答えを導き出そうとして頭が爆発しそうだ。
  アイリスフィールはセイバーに言えなかった。セイバー、キャスターを倒して―――と言えなかった。
  水晶玉の向こう側では、間桐雁夜の振るう剣をキャスターが紙一重で避けていた。



  ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆



  Side - 間桐雁夜





  魔剣ラグナロクを振るいキャスターに斬りかかりながら、敵の挙動の全てを見逃さぬよう集中する。
  サーヴァントとしての身体能力で見れば、キャスターの動きは他の英霊に比べて格段に劣る。しかし、人でしかない自分の動きに比べれば速く、ラグナロクの攻撃はまだ一度も当たってはいない。
  2メートルはある長身のくせにとても俊敏だ。
  ただし雁夜はその力の差に絶望など感じていないし、強大な敵に対する脅威も感じていない。何故なら、まだ本気どころか半分ほどの力しか出していないからだ。
  「この私の邪魔を――」
  キャスターが何か言ってきたが、雁夜は言葉で応じる気は全くなかった。ゴゴとの戦いにより『喋ってる暇が合ったら攻撃しろ』が身に染みたので、言葉を交わす無意味さをよく判っている。
  これで話術に長けた人間だったならば、話から相手の趣味嗜好や性格や戦い方を分析できるかもしれないし、言葉で相手を窮地に追いやることも出来るだろう。だが雁夜にはそんな力は無い。
  ゴゴとの戦いによって得た観察眼。ただひたすらに敵の挙動を見て、視て、観て、診て、見極める。それだけが雁夜に出来る戦い方だ。
  観察。それこそが戦いにおける最も重要なファクターである。
  頭上からの強襲を避けられた時点で、雁夜はキャスターの危機察知能力が高いと認め。出来うる限り体力を温存し、敵の出方を見極める為に観察を開始した。
  もしかすると落下する時に当った木の音でこちらの存在に気付いたのかもしれない。
  今は解除しているが、飛空艇から落とされて死なない為に使った、浮遊の魔法の魔力を感知されたのかもしれない。
  「貴様!!」
  何にせよキャスターが強敵である事には変わりは無く、自分一人では負ける可能性の方が多いのを認めるしかなかった。
  最初の一撃で子供の無事を確認したので、雁夜の意識は全てキャスターに向けられている。いや、体力を温存しながらも意識全てをキャスターへと向けなければ、満足に戦う事すら出来ないのが判るのだ。
  ゴゴは言った。子供達は任せろ、と。ならば自分は敵を倒すそれのみに集中するだけだ。
  もしかしたらゴゴは子供を救うために、自分では間に合わないと判断したから雁夜に攻撃に向かわせたのかもしれない。あるいは子供が頭を握りつぶされても治せると確信があったのか。
  浮かぶ可能性は幾つもあるが、それを考えるのは後でも出来る。今はキャスターを倒す為に尽力するだけだ。
  キャスターもまた突然の乱入者である自分の正体を探ろうとしているのか、魔術を行使しようとする気配はない。
  サーヴァントとして召喚された肉体一つでこちらの攻撃を全て捌いており、ギリギリのところで魔剣ラグナロクの刃筋から体を逸らしている。
  この一年で爆発的に跳ね上がった身体能力で、キャスター相手ならば辛うじて速度を上回っている。今は攻撃が当たっていないが、速度をあげればいつかは敵に届くだろう。
  だがキャスターは魔術師のサーヴァントである、その真骨頂は行使される魔術にこそある。敵が本気を出した時はこちらも本気を出さねばならない。全力前回の剣戟に加えて、バーサーカーも投入する必要があるだろう。隙が出来たら腰のポシェットの中に入っている魔石で幻獣を召喚する必要もあるかもしれない。
  そう結論付けた後、ちょうどキャスターに六回目の攻撃が避けられた。
  「許さぬぞ・・・、我が祈りを邪魔する神の走狗めが!」
  「・・・・・・」
  裂けてばかりで四肢を使っての攻撃に移らないのは、こちらと同じように観察に徹しているからか。それとも魔術師のサーヴァントだけあって、肉体を使っての攻防はやる気が無いのか。
  理由は判らないが、とりあえず今の所はどちらも様子見の段階である。擦り傷すら負っていない。
  何か戯言を喋っているようだが、そんな物は雁夜にとっては雑音と同じ。その怒りや狂気より、これからどんな行動を起こすかの方が重要だ。
  背後に跳んで距離を取ったキャスターに向け、ラグナロクを前に構えたまま、すり足で近付いていく。
  じわり、じわり、と。
  「むっ!?」
  あと二歩ほど進めば一足飛びで攻撃できる位置まで近づいた時、何故かキャスターが雁夜から視線を外して頭上を仰ぎ見た。
  理由は判らない。だが武器を構えた敵を前にして絶対に見せてはならない隙を作り出したのだ、ならばこれを逃す手は無い。
  雁夜は視線を外したキャスターめがけ、大きく踏み込んでラグナロクを上段に掲げた。可能ならば真直斬り―――唐竹割りとも呼ばれる脳天からの一撃で真っ二つにする算段だ。
  一秒もかからず視線を逸らしたキャスターに肉薄する。そして魔剣ラグナロクの特殊効果である超高熱と光の破壊魔法を発動させる為、手を通して魔力が吸われていく。
  「きさっ!」
  ま。とキャスターは続けたかったのかもしれないが雁夜はそんな事を聞いてやる義理は無い。
  斬りかかってくる敵を前にしながら、隙を見せる方が悪いのだ。
  「死ね」
  言葉を渾身の一撃にのせて、思いっきり振り下ろした。
  魔剣ラグナロクが生み出す強力な破壊が大地を抉り、暴風を撒き散らし、ついでに発動した魔法防御無視の無属性魔法が破壊の規模を更に広げていく。
  雁夜の目の前を中心にして半円の爆発が作り出され、木々は薙ぎ倒されて、色々なモノが焼け焦げる匂いが鼻についた。
  周囲から見れば、剣の先に手榴弾を括り付けて地面に叩き付けた様に見えたに違いない。
  当たり所が良ければ英霊だろうと一撃で粉砕できる凶悪な剣、それが魔剣ラグナロク。だが、雁夜は振り下ろした時の手ごたえの無さを感じとり、すぐに剣を構え直してキャスターの攻撃に備える。
  見ると十メートルほど離れた場所にローブのあちこちを焦がしたキャスターがいて、四つん這いになって恨みがましい目をこちらに向けていた。左側の裾の部分がごっそり抉り取られ、剥き出しになった足から紅い血が滴り落ちている。
  どうやら攻撃が当たるギリギリの所で横に避け、脳天への直撃だけは回避したようだ。しかし、剣の一撃も追加の破壊魔法も完全に避ける事は出来ず、ラグナロクがローブと左足を浅く斬り、生み出された爆風によってあれだけの距離を吹き飛んだのだろう。
  ダメージを負わせられたのは間違いないが、キャスターはまだまだ健在だ、手負いの獣こそ油断してはならない相手なので、雁夜はラグナロクを構えてキャスターを睨み返す。
  すると真横から声がかかった。
  「雁夜おじさんっ!」
  その声はこの場に合ってはならない声であり、そして雁夜が決して聞き間違えない少女の声だった。
  これまで子供達の存在を完全に無視してキャスターだけに意識を集中していたが、この声だけは無視できない。
  雁夜は剣を構えたまま視線だけをそちらに向け、そこに居る筈のない少女―――遠坂桜の姿を視界に捉える。
  もし視界に入ったのが桜ちゃんただ一人であったならば雁夜はキャスターとの戦いなど放棄してすぐに駆け寄ったに違いない。だが、桜ちゃんは一人ではなく、桜ちゃんよりも大きく視界に写る巨大な鳥の上に跨っていた。
 しかも鳥の上に乗っているのは桜ちゃんだけではなく、すぐ横には雁夜をアインツベルンの森に叩き落とした張本人のゴゴが―――今は己が栄光の為でなくフォー・サムワンズ・グロウリーで女の姿に変わっているが、その実体は間違いなくゴゴで、桜ちゃんを守る様に手を繋いでいる。
  そしてミシディアうさぎのゼロを抱えていない桜ちゃんの背後に、キャスターに連れてこられた子供達の姿が見える。
  雁夜は子供達を乗せる大きな鳥を知っていた。
  紫色の体躯、黄色と緑色と赤色の青色をそれぞれ彩った、色彩豊かな羽根を持つ幻獣。ゴゴが作り出す魔石の中の一つ『ケーツハリー』から生み出される鳥で、あれだけの人数が背中に乗っても重力など感じないような飛翔を行える常識外れの巨鳥である。
  今はアインツベルンの森の木々が作り出す場所の狭さに苛立っているようだが、羽根を広げて軽く滞空する姿からは空を飛ぶ問題は見当たらない。
  「桜ちゃん・・・。それにティナか――」
  雁夜は視線を動かして周囲を見ると、子供達の姿は鳥の背中以外に全くなかった。最初にキャスターに殺されそうになった赤毛の子供の姿もない。
  何をどうやってこんな状況になったのかは見ていない雁夜には判らないが。おそらく雁夜がキャスターと戦っている間に魔石『ケーツハリー』で飛空艇から舞い降りて来て、隙をついて子供達を鳥の背中に退避させたのだろう。
  雁夜の耳は羽音を一度も聞いてないし、アインツベルンの森に鬱蒼と生える木々の間には『ケーツハリー』が通る様な大きな隙間は無い。
  もし『ケーツハリー』の接近とキャスターが見せた隙が同じタイミングだとしたら、最初にキャスターに殺されそうになった子供を他の子供と一緒に回収する時間は無かった筈。地面に下りて巨鳥の背中に乗せる手順が必要だが、雁夜が距離を詰めてラグナロクを振り下ろすまでの刹那の時間にそこまで出来るとは思えない。
  そもそも子供達は自分達を取り囲む様に別々の場所に散らばっていて、一か所に集めるのにも時間が必要だ。
  ゴゴと桜ちゃんはどうやって子供達を集めた?
  疑問が頭の中に湧き上がるが、キャスターに連れてこられた子供達を全員救出して、今まさに戦場から撤退しようとしている姿が事実としてそこにある。
  ならば子供達の問題は解決した。
  雁夜はそれ以上考えるのを止め、子供達がゴゴの手によって救われたと言う事実のみを重要視する。飛空艇で待っている筈の桜ちゃんがこの場に居合わせたおかしさも合ったが、これも考えるだけ無駄だ。
  ゴゴが側にいるならば、それだけでこの冬木市のどこよりも安全になるのだから。
  「子供達は私に任せて、あなたはキャスターを倒すのに集中して」
  「判った。ティナ、子供達を頼んだぞ」
  「雁夜おじさん――。ありがとう!!」
  ゴゴではなくティナ・ブランフォードとして女性口調で話しかけてくる言葉に感謝で応じ、桜ちゃんの言葉に対しては笑みでもって応えた。
  ティナの姿をしたゴゴは『ケーツハリー』の首元を素手で軽く叩く。するとそれが空に舞い上がる合図だったようで、紫色の巨鳥は羽根を大きく広げて空高く舞い上がった。
  背中に子供達全員の体重がかかり、ゴゴたちの分も合わせれば300キロ近い荷重がかかっている筈なのだが、魔石から生み出された幻獣はそんな事をお構いなしに上へ上へと飛んでいく。
  すぐにアインツベルンの森に立ち込めた霧によって見えなくなってしまうが、あそこにゴゴがいる以上、子供達が行く先がアインツベルンの森の上を透明になって滞空する飛空艇であるのは間違いない。
  最早、桜ちゃんの思いを邪魔する者は誰一人としていない。それは雁夜と共にこの場に残されたキャスターであっても例外ではない。
  「よくも大切な賛を・・・。思い上がるなよ匹夫めが!!」
  キャスターはそう言うと、立ち上がりながら懐に手にいれて分厚い装丁本を取り出した。
  その本は魔術師であるならば誰でも圧倒される膨大な魔力を放っている。キャスターの魔力とは異なる別の魔力が脈動し、本そのものが生き物であるかのように強い存在感を見せびらかせていた。
  遠目からでも判る禍々しさ、あれこそがキャスターの宝具。
  雁夜は本気で戦わなければならない状況を思い、魔剣ラグナロクの柄を両手で強く握りしめた。



[31538] 第14話 『間桐雁夜は修行の成果を発揮する』
Name: マンガ男◆da666e53 ID:4b532e19
Date: 2012/11/03 07:49
  第14話 『間桐雁夜は修行の成果を発揮する』



  ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆



  Side - ゴゴ





  自分はものまね士ゴゴ。だが今はティナ・ブランフォード。
  性別の壁すら楽々突破して自分を女性だと認識した瞬間に『ティナとしての自分』が次々に積み上げられていく。
  それでも根幹にあるのは『桜ちゃんを救う』と宣言した雁夜の物真似をしているゴゴだ。雁夜が桜ちゃんに魔術師の闘争を見せる事を望むのならば、それを物真似するのがゴゴであろう。
  結果、飛空艇から雁夜をつき落として戦場に放り込んだ後。すぐに階段を下りて、中で待っていた桜ちゃんに子供たちを救出する協力をお願いした。
  最初はティナになった―――女性へと変身したゴゴの姿に面食らっていた桜ちゃんだが、雁夜同様この一年でものまね士ゴゴが仕出かす常識外れの出来事を何度も何度も味わっているので、すぐに納得してくれた。
  諦めたと言っても良い。
  雁夜と色違いでおそろいのポシェットに魔石『ケーツハリー』を入れ、手を繋いで甲板へと出る。そして桜ちゃんが紫色の巨大な鳥を呼び出すと、二人でその巨鳥に跨った。
  なお飛空艇の操縦をしている方のゴゴはずっと無言である。
 幻獣と人の混血児でもあるティナ。彼女の魔力は高く、己が栄光の為でなくフォー・サムワンズ・グロウリーでティナに変わった時、一緒に作り出したアクセサリが非常に役に立つ。
  一応変身した時に武器も一緒に作りだしたが、ティナの本領はやはり魔法で発揮される。だから狂信集団の塔の頂上で守られていた神秘のアクセサリ。一回の動作で魔法を二度操れる『ソウルオブサマサ』を準備したのだが、このアクセサリは連続魔法の代償として幻獣の召喚ができなくなってしまう欠点がある。
  だからこそ、桜ちゃんの協力が必要不可欠になる。ついでに半強制的に戦場に連れていけるので、魔術師の戦いを見せるチャンスがあって悪い事ばかりでもない。
  ただ、桜ちゃんが遠坂桜である限り、彼女の魔術師としての才能はどうやっても捨てられない。だからゴゴとしては自発的に魔術の世界に関わらないようにするのではなく、思いっきり魔術の世界に浸って、どんな悪意からでも身を守れるように自衛の力を身につけた方がいいと思っている。桜ちゃんの才能を考えるならば、魔術の家門の庇護かそれに変わるモノが必要だろう。
  間桐雁夜は魔術回路の少ない人間だったが、たった一年間鍛えただけで英霊相手に戦える力を得た。真正面から戦えばセイバーやランサーにあっさり返り討ちにあうだろうが、搦め手を使えば戦えるだろう。
  もちろん驚異的な成長の裏には魔石と言う超強力なドーピングがあった、魔石がなければいくら鍛えても雁夜程度では英霊相手では足元にも及ばない。
  別の世界で神と謳われた者達の力を雁夜は継いだのだから、英霊相手に戦える位には成長して当たり前である。同じ事を桜ちゃんがやれば、十歳に届く頃にはキャスターの英霊として招かれるぐらい強大な力を得る事も難しくは無い筈。
  聖杯戦争を破壊した後の事を少しだけ考えるゴゴだが、今すべきことはキャスターに連れられた子供達の救出だ。
  桜ちゃんが呼び出した『ケーツハリー』は、たとえ場所が密閉された洞窟だろうと、鳥が飛べぬ海の中だろうと、樹が生い茂る森の中だろうと、無風の砂漠地帯であろうと、羽を広げれば壁にぶつかる城の中だろうと、問答無用で味方全員を背に乗せて空高く舞い上がる神秘の生き物だ。
  本来であればそこからジャンプ攻撃を仕掛ける幻獣なのだが、今は桜ちゃんの属性『架空元素・虚数』によって子供達を救う為の移動手段として変わっており、ほんの少しだが羽根の一部が魔力の浸食によって黒く染まっている。
  アインツベルンの森がどれだけ入り組んでいようとも、奇跡の鳥はそこから子供たちだけを救いだす。発動と同時に因果律を歪めて、『味方を背中に乗せる』という結果だけを確定させる。
  こうしてティナとなったゴゴと桜ちゃんにより、子供たちは全員『ケーツハリー』の背中に乗って戦場から救出された。
  桜ちゃんが幻獣を操る姿には淀みがなく、かつてビスマルクを変質させて呼び出した時と同じように完全に操っている。やはり桜ちゃんの魔術に対する才能は大きく、本人が関わろうとしなくても魔術の方からすり寄ってくる事が予測できた。
  キャスターとの遭遇は一瞬限り。真に魔術師の戦いを体験するにはあまりにも時間が足りな過ぎて、桜ちゃんに多くの事柄を伝えられなかったが、おどおどとこちらを見る子供たちの姿から少しでも恐怖を感じてくれればそれでいい。
  子供たちはいきなり空の上に連れてこられた事態に脅えているようだ。無理もない、キャスターの手でアインツベルンの森の連れて来られ、気がつけば殺されそうになっていた。怖がるなと言う方が無茶である。
  「驚かせてしまってごめんなさい。でもあなた達をあそこから救い出す為にはどうしても急がなきゃいけなかったの」
  ゴゴは紫色の巨鳥の背中の上でティナとして語る。
  モブリズの村で親を失った子供たちと暮らし、戦う力を失いながらも古代の怪物フンババと戦った―――『愛する』という気持ちを胸に宿しながら語りかける。
  「何が起こってるか判らない子もいると思う。でも今は逃げてる所だから多くを話せないの。安全な場所まで逃げ延びたらちゃんと説明するから今は私たちを信じて、私たちは絶対あなた達に危害を加えない、傷つけない、あなた達を守ってみせる。約束するわ」
  力強く語りかけた言葉を子供達が理解しているかは判らない。あるいは『巨大な鳥の背中に乗って空を飛ぶ』という夢見ても生まれてから一度も経験した事のない異常事態に脅えて聞いてない子供もいる。
  それにキャスターの殺戮が行われるのを雁夜が止めたのだが、苦しげにうめき声を上げる赤毛の子供がいて、その子供の在り方が恐怖を伝播させている。話を聞くどころではないのだ。
  死んではいない。けれど無傷でもない。頬と額に走る赤い裂傷はキャスターの指の形をしており、力任せに握り潰される寸前だった様子をありありと伝えている。荒い呼気は新鮮な空気を求めていると言うよりは、ショック症状を起こして呼吸する以外に他の事が出来なくなってしまったのだろう。
  この一年冬木市で色々な情報を集めて物真似したが、基本的に聖杯戦争に関する事柄が多く専門的な医療に関する情報は物真似していない。体の傷は魔法で直せるが、心の傷はまだ専門外だ。
  聖杯戦争を破壊したら医療に関する技を物真似するのもいい。そう思いながら、ティナは横たわる子供に近づいていく。
  「桜ちゃん。飛空艇までの移動はお願いね」
  「――うん」
  これで話しかけているのがものまね士ゴゴだったならば、桜ちゃんは『はい』と言った筈。少しだけ気安さを感じるのは、やはり話している姿がティナだからだろう。年の違いはあっても、同性ならば話せる事もある。
  桜ちゃんと繋いでいた手を離し、魔石『ケーツハリー』で呼び出された巨大な鳥の背中から落ちないようにしゃがんだまま移動する。途中、子供たちの何人かがこちらの動きに合わせて距離を取ろうとしたが、鳥の背中はそれほど広くない上に空から落ちたら危険だと判っているので、こちらから距離をとりながらも落ちないぎりぎりのラインに体を置いている。
  出来れば脅えている子供への気遣いも行いたい所だが、今は怪我をしている子供の方が優先だ。『ソウルオブサマサ』を使う必要はないだろうが、体力回復の魔法で傷を治さなければならない。
  「・・・あれ?」
  そうやって手を伸ばし、横たわる子供に魔法をかけようとした所で異変に気がついた。
  ゴゴのままだったならばわざわざ声を出してまで自分の戸惑いを言葉にしないのだが、ティナとしての意識に体が引きずられて言葉がでてしまう。
  言葉を囁きながらティナの目で横たわる赤毛の子供を見つめる。すると横たわるその子から強い魔力が感じるのだ。
  これは明らかな異変だ。
  桜ちゃんがそうであるように、子供のころから魔術師としての素養を開花させる者はいる。だから魔力を感じる事は別段、異変でも何でもないのだが、その魔力が聖杯を通して感じるキャスターのモノであれば話は別だ。
  手をかざしたまま周囲を見渡すと、子供たちは全員こちらを見ている。注意深く子供達の魔力を探ると、何人かからキャスターの魔術の波動が伝わってきた。
  それはかつて仲間たちと世界を旅した時にも味わった事のある感覚だった。子供たちはステータス異常に陥っており、何らかの魔術がキャスターの手によって施されている。
  例を挙げるならば、カッパ、暗闇、石化、毒、ゾンビ、そして再起不能である。
  子供達をもっとよく見ると、初めて雁夜に出会った時、雁夜の体の中に救っていた間桐の蟲を彷彿させた。見た目には何の異常も見られないが、これは何らかの術式を体の中に仕込まれている可能性が高い。
  そして何の躊躇いもなく子供の頭を握り潰そうとしたキャスターが子供達をこのままにしておくとは考えにくかった。
  「ッ!!」
  こちらの思惑を読み取ったかのように、子供の中に仕込まれた魔力が変化を起こす。それは目に見えない魔力から別のモノへと変質し、横たわる子供の腹を破らんと膨張した。
  間違いない、キャスターの仕業だ。
  それが何なのか一瞬で判断できる程情報を持っていない、しかしここで呆然と状況を見続けていれば子供は内側から腹を裂かれて死ぬ。ティナは命を守る為に力を振るう魔導戦士だ。ならば、ここで子供の命を救う事こそがティナの存在意義でもある。
  考えるよりも前に口が動き、この場に最も相応しい呪文が紡がれる。
  「クイック!!」
  ストップの魔法は対象者の体感時間を止めて硬直させる魔法だが、この魔法は術者の体感時間を極限まで引き上げて、光に近い程の超高速で動く魔法だ。その早さゆえに、術者からは他のモノが止まって見える。
  ゴゴが知る限り、現在この魔法が発動した後で、自分と同じ速度で動けた者はいない。発動したが最後、敵と対して一撃で殺せる手段があるのならば、絶対に負けない必勝を誇る。
  以前、間桐の蟲蔵の中で同じように苦しみ悶える雁夜を見たので、この世界の魔術によって構成された生物に有効な魔法がある事は確認されている。
  後の問題は、その魔法が聖杯戦争に招かれたキャスターのサーヴァントの術式にも有効か否かと言う点だけ。やらない理由は無く、効果が無ければ別の手を試すまで。
  子供を救うティナの意識を前面に押し出し、かざした手から魔法を発動させる。
  「エスナ――!」
  手の平から放出される魔力が横たわる子供の全身を覆い尽くしている様に見えるが、子供の方は全く動いていない。
  見た目によっては効果があるのかどうか疑わしい光景だが、『エスナ』の波動が子供の全身を覆い尽くすのと、内側から子供を殺そうとする何かが消えるのはほぼ同時だった。
  体の中から生まれ出でて子供たちを殺そうとする何かは『エスナ』で消滅させられた。『エスナ』の効果はキャスターの魔術さえも打ち消す。これは大きな収穫と言える。
  ただし『エスナ』では子供の中に残るキャスターの魔力の波動までは消さずに残っている。もしかすると一度失敗したらもう一度同じ術式が発動して、間に合ったと思わせたところに絶望を与える仕込がしてあるのかもしれない。
  『エスナ』では仕込まれた魔術を消すには至らない。ならば『ソウルオブサマサ』の効力を存分に使い、対象者にかけられた魔法効果そのものを打ち消す魔法を重ねがけするだけだ。
  「デスペル――!」
  ありとあらゆる魔法効果を消す対消滅の魔法『デスペル』。エルナに合わせた二重の魔力の波動が赤毛の子供を包み込み、内側に巣食うキャスターの魔力を消していく。
  ゴゴは制止した時の中を自分一人だけが動いているような錯覚を覚えながら、腹が膨れ上がった子供の安全を確かめる為に腹に手を当てて撫でる。
  あと一秒遅れたら、この膨らみが魔力とは別の何かに変わって腹を突き破り現界しただろう。だが最早、この膨らみは中身のない風船と変わりない。ゴゴ、いや、ティナは魔法の重ねがけによってキャスターの魔術が消滅したのを確認すると、他の子供たちに向けて魔法を放つ。
  赤毛の子供以外にもキャスターの魔力が仕込まれているのを感じるので子供達を救うためには全員に魔法をかけるしかない。
  しかもエスナとデスペルの効果範囲は一度で一人に限定されるので、対象が複数人だと何度も唱えるしかないのだ。
  「エスナ、デスペル、エスナ、デスペル、クイック、エスナ、デスペル、エスナ、デスペル、クイック、エスナ、デスペル――」
  腕をぐるりと回しながら、途中で『クイック』をかけ直すのを忘れずに魔法を唱え続ける。同じ言葉を繰り返してのどが渇きそうになるが、魔法を唱えた分だけ子供たちの中から実害あるキャスターの仕込みが消えて行くので、疲れすら心地よい。
  一瞬すらかからない刹那の時間で合計二十回以上の魔法を行使した結果、子供達は完全にキャスターの魔術から解放された。子供たちは何が起こったか判らないだろうが、支えの少ない鳥の背中に乗って空を飛んでいる今でさえ恐怖なのに、『今、死にそうだったんだよ』と、更に怯えさせる必要はない。あえて教えなくてもいいだろう。
  『クイック』の持続時間が切れ、周囲の時間と体感時間が同じになっていく。超高速で動いた反動で少しだけ気持ち悪さが喉の奥からこみ上げてくるが、それは嘔吐せずに我慢できる程度だ。
  横たわる赤毛の子供にとっては腹が強烈に痛んだ一瞬後。子供は内側から自分の体を破られる急激な痛みを味わっただろうが、最早それは存在しない。
  キャスターに殺されそうになった恐怖と突然の苦しみに顔面蒼白になっていたが、もう安心していいのだ。
  だから、大丈夫だよ―――、痛くないよ―――、安心して―――。語りかけるようにティナの手が何度も何度も子供の腹をさする。
  「もう痛くないから安心して・・・。あなたを傷つける人はもうここにはいないから・・・」
  初めて見る巨大な鳥の上で落ち着けと言う方が無理だ。
  初めての場所に連れて来られ、殺されそうになったから、冷静になれと言う方が無理だ。
  まだこちらが敵なのか味方なのか判ってない筈だから、警戒するなと言う方が無理だ。
  彼ら、彼女らはまだ子供だ。大人ほど成熟した精神の持ち主ではないのだから、すぐに落ち着く筈もない。
  だからこそティナは落ち着かせるように何度も何度も子供のお腹を撫でる。落ち着いてほしいと願いながら、子供たちの事を想う。
  『ティナ・ブランフォード』を―――。モブリズの村で子供たちと暮らしていた彼女の姿を―――、子を産んだ事などなかったとしても『ティナママ』と呼ばれ上がら慈しんでいたあの姿を―――。ものまね士ゴゴは物真似して。子供達を安心させようとする。
  「大丈夫だから・・・。もう大丈夫だからね・・・」



  ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆



  Side - 間桐雁夜





  キャスターに手傷を負わせたが、それは軽い傷でしかない。撤退を促す事も、消滅をもたらす事も出来ない。だから懐から取り出した膨大な魔力の塊を見た時、雁夜は『やはりな』と自分の未熟さと一緒に戦いの継続を強く実感した。
  もし雁夜の剣の腕がもっと高かったならば、キャスターが見せた隙をしっかりとついて一撃で戦いを終わらせていた。しかし未熟であるが故に仕損じて、立て直す機会を与えてしまった。
  こちらは魔力を消耗し、敵に魔剣ラグナロクがもつ特殊能力を知られてしまう。
  若干不利な状況に追いやられながらも、雁夜は十メートルほど離れた場所にいるキャスターを観察し続ける。魔剣ラグナロクの特殊効果によって足元が大きく抉れているが、足場が少々変形しただけだ。そう自分に言い聞かせた。
  見るべきはキャスターがもつ本。魔力を放つその魔導書がキャスターの宝具である事は明白なのだが、その正体にまでは至れない。分厚く重厚な装丁の表紙には人の頭部がそのまま貼り付けられており、万人受けはしないだろう様子を作り出しているのは見ただけで判るの。けれど、それがどんな能力を持った宝具かは判らなかった。
  雁夜はバーサーカーのマスターとして、サーヴァントのステータスを読み取る能力を得た。だからキャスターのステータスが見えるし、ゴゴからの情報によってキャスターの真名が
  ジル・ド・レエである事は知っている。
  しかし雁夜は魔術師として経験も知識も不足しているので、多くの情報を知りながらそこからあの宝具が何を仕出かすモノなのか推測すら出来ない。
  ステータスからキャスターが宝具能力のみに特化したタイプのサーヴァントであり、自ら魔術を行使するのではなく何らかのモノを呼び出すであろう召喚魔術師であるのは予測できるが、そこから思考を進められない。
  何を召喚するのか?
  雁夜はもう少し歴史の勉強をしておけばよかったと後悔しながらも、観察を続けて答えを得ようとする。
  そしてキャスターが魔導書を開き、何かの呪文を呟いた次の瞬間―――前後左右全ての空間に見た事のない怪物が姿を現した。最初から地面の下で待機していたと錯覚しそうな素早さで、膨大な量の怪物が雁夜の視界の中のどこにでも現れた。
  前を見ても、右を見ても、左を見ても、後ろを振り返っても怪物がいる。
  見た目は海にいるヒトデに似ているが、体長は雁夜と同じ程の大きさで、しかも中央には歯ではなく刃と言うべき物騒な凶器を備えた口がある。大きさはさて置いて、地面に這いつくばっているのならば何とかヒトデに見えたかもしれないが、太い触手を足の様に使って起き上がっていれば最早ヒトデではない別の生き物だ。
  少なくとも雁夜はこんな生物を見た事がない。
  見た目の醜悪さも手伝って、昔の雁夜ならばまず怯えたかもしれないが。ゴゴと言う常識外の存在と関わり過ぎて見た目が気持ち悪かろうとあまり意味は無い。むしろ、まず柔らかそうな見た目からラグナロクならば斬れるだろうと考える。
  ざっと見まわしただけで百匹はいる。さすがは聖杯戦争にキャスターとして招かれる英霊だ。宝具の手助けはあっただろうが、これほどの数を一瞬で呼び出す技量は見事と言うしかない。
  「我が盟友プレラーティの遺したこの魔書書の力。死を持って知るがいい!!」
  傷つけられた痛みも手伝って、キャスターは容赦がなかった。
  どうやって操っているのかは判らないが。周囲を覆う全ての怪物が一斉に雁夜めがけて向かってくる。近くにいる奴は5メートルと離れていないので、1秒とかからずにこちらの間合いに入ってくるだろう。
  一匹や二匹を切り捨てた所で、それ以外の怪物が自分めがけて殺到するのだから、圧倒的な数の差で押しつぶされるのが簡単に予測できた。
  余力を残そうとして戦える相手ではない。一対一が一気に一対百にまで膨れ上がったの状況をそう結論付け、雁夜はラグナロクを横に薙ぎ―――そのまま回転した。
  「スピニングエッジ!!」
  この技は本来であれば、真の『ルーンナイト』であり、ゴゴの仲間である『セリス・シェール』が瀕死の時に使う必殺技だ。自分を中心に剣を構え、超高速で回転して敵を切り刻む剣術である。
  ゴゴから話を聞いて、技の一つとして練習した結果。何とか技と呼べる状態にまで持って行けた。ただし、魔剣ラグナロクの切れ味に助けられているだけで、必殺技と呼ぶのもおこがましいのが実情である。きっと本家本元の必殺技に比べれば威力も速さも十分の一程度だろう。
  それでも前後左右から迫りくる怪物に対して『全方位に向けた攻撃』は有効だ。前から来る敵を斬って、すぐに後ろの敵を斬って、右から来る敵を斬って、前から来る別の敵も斬る。
  遠くからキャスターの驚く声が聞こえた気がしたが、全力で戦っている今、敵の言葉に耳を貸す意味はない。
  十回転ほどして、迫りくる怪物を二十匹ほど斬り捨てた後。雁夜は回転速度がゆっくりになるのを感じた。目が回りそうだが、何とか横目で足元を見れば紅色の血と怪物の肉片がぶちまけられている。
  雁夜は転がる怪物の死体を足場にしてキャスターがいる方角めがけて駆け出した。
 動きを止めればそれだけ死ぬ可能性が高くなるのはゴゴとの戦いで嫌という程味わった。動きを止めてはならない。自分とキャスターとの間にいて肉の壁として蠢いている怪物めがけ、雁夜は一工程シングルアクションの魔術を解き放つ。
  「ブリザラッ!」
  キャスターの怪物召喚に負けぬ速度で、そこにいた怪物の内、四体が二メートルほどの氷山に包まれる。
  ゴゴから教わった魔法―――、この世界で言う所の魔術の中で氷属性の術を効率よく習得できた理由に間桐の魔術属性である『水』が関係しているのは間違いない。だからこそ雁夜はこの魔術を自分の手足のように操ってそこにいる全ての怪物に向けて放つ事が出来るのだ。
  ただし、本来ならば敵全体にかけられる魔法なのだが。雁夜の未熟さか魔力不足か魔術体系の違いからか、雁夜には視界に移る近くの敵数体にしか使えない制限がある。
  ゴゴの世界の魔術はこの世界の魔術よりも極悪であり。バトルフィールドの中に放り込まれた敵であれば、それが何人であろうと一人の時と同じように攻撃できる特性を持っている。
  一人を攻撃する魔法も、複数人を攻撃する魔法も一緒。
  きっとゴゴならば、数体の怪物程度ではなく、この場で雁夜を取り囲む全ての怪物とキャスターすら含めて一斉に攻撃するだろう。けれど雁夜にはそれが出来ない。
  ゴゴに対する嫉妬心が湧きあがりそうになるが、それを戦いの高揚で強引に打ち消す。キャスターを眼前に見据えながら、使える手札の中で最善を尽くすしか方法は無い。二歩前に踏み出した場所にある氷山の隙間をかいくぐり、雁夜は前へ前へと駆けて行く。
  魔剣ラグナロクで切り裂いた怪物は見事に命を散らしていたが、放ったブリザラの感触は怪物の消滅を教えていない。これも雁夜の魔力不足が原因だろうが、一撃で死に至らしめるほどの効果は無かったようだ。もう一度ブリザラをかけて追い打ちをかければ殺せるだろうが、今のまま放置すれば、しばらく経って氷を砕いて出てくる予感がある。
  「ちっ!」
  この状況でもう一度同じ怪物にブリザラを使ってもあまり得るモノは無い。ゴゴならば間違いなく一撃で殺すので、自分の力不足に思わず舌打ちしてしまう。その苛立ちを敵への怒りに置き換え、更に足を早めた。
  自分がこれほど戦える敵だと思って無かったのか? 怪物の二割ほどが呆気なく粉砕されたからか? 怯える顔では無かったが、キャスターの驚く顔が雁夜の目に飛び込んできた。
  たとえ驚いていようとも、キャスターの存在が桜ちゃんを傷つける、悲しませる、心を痛める。それだけで雁夜にとっては十分に殺す理由となる。
  向こうには向こうの都合があるし、何らかの意図でセイバー陣営に踏み込もうとしているのは判っている。聖杯戦争のマスターとしてサーヴァントが同士打ちするならば横槍を入れる必要はないと思っていた。
  それでもキャスターがいる限り冬木市に住む人達が何の意味もなく殺されていく。結果、桜ちゃんが悲しんでしまう。
  雁夜自身が名前も知らぬ彼らと桜ちゃんとを結びつけた自覚があるが、とにかく桜ちゃんを救う一つの手段としてキャスターを殺さなければならない。自分勝手だと罵られようと、雁夜は自分でそう決めたのだ。
  キャスターは動揺に足を止めている。あと三歩も踏み出せばそこで魔剣ラグナロクの間合いに入る。もうさっきの様な無様な失敗は見せずただ一刀で斬り殺す。
  雁夜がそう考えた次の瞬間。
  雁夜の足が―――腕が―――全身が―――その場所に縫い付けられた。
  「ぐがっ!?」
  走る速度がそのまま停止のダメージに置き換わり、雁夜は口から悲鳴を吐き出してしまった。
  何が起こったのか? 瞬間的に考えた時、右の二の腕と腹、そして左足首が何かに締め付けられる様な痛みが走っている事に気がつく。
  一瞬前までは無かった痛み。そこに目をやると、青黒く色のぬめぬめとした肉の塊―――つまりは雁夜に向けて殺到していた怪物の触手が雁夜の体に巻きついて動きを止めたのが見えた。
  後ろから迫りくる怪物が追いついたのかと思ったが、肩に巻きつく触手は雁夜が作り出した小さな氷山の奥から伸びている。どうやら斜め前にいた怪物が、空いた隙間から触手を伸ばして雁夜を掴んだらしい。
  伸縮自在である事を失念していたが故の捕縛だった。
  続けて、右足首と左手首が別の怪物の触手で拘束される。巻きつく様子は見れたが、触手を伸ばす怪物の本体は見えなかったので、雁夜の後ろにいる怪物のどれかの触手だろう。
  「どうやら、そこが限界のようですね。叶わぬ希望を胸に抱き、絶望を噛みしめながら無様に死になさい」
  雁夜の動きが止まった事で絶対的優位を確信したのか。キャスターの顔が歓喜を染まる。
  雁夜が怪物に生きたまま食い殺されるのがよほど楽しみなのか。嬉しそうに、楽しそうに、笑みを浮かべながらこちらを見ていた。その顔を見れば見るほどに怒りが湧きあがってきて、桜ちゃんの為にも自分の為にも生かしてはおけないと思えてくる。
  このまま怪物に拘束され続けると、自由に動き回れる他の怪物が雁夜を食べにくるか生きたまま四肢を力任せにねじ切られるだろう。魔剣ラグナロクを満足に振るえぬ状況に追い込まれてしまったので、触手を斬って自由になる前に別の触手が雁夜の動きを奪うのが予測できる。
  圧倒的な数の差が作り出すピンチ。
  ならば出し惜しみは無しだ―――。
  雁夜は動きを拘束されながらもキャスターに攻撃できる最大の手段を開放した。


  「キャスターを殺せ。バーサーカー」


  次の瞬間、キャスターの真横に夜よりも暗い漆黒の魔力が噴き出して形を成した。
  上から下までを覆い隠す黒いフルプレートアーマー、右手にはアーチャーから奪った宝剣、鎧の隙間から溢れる黒い魔力は聖杯戦争にマスターに与えられるステータス透視能力から自らの素性を覆い隠す。
  それは間桐雁夜のサーヴァント、それは間桐雁夜が扱える最高戦力。黒き騎士、バーサーカー。
  「アアアアアアアアアアアアアアアア!!!」
  その咆哮がバーサーカーの兜の奥から聞こえてきた瞬間、雁夜は激しい怒りをバーサーカーに向けた。
  いっそ激情が形を成したならば、拳の形を作り出してバーサーカーに向けて容赦なく放っただろう。それでも、起こってしまった事実は覆せず、キャスターは突然聞こえて敵の声に反応して横に跳ぶ。
  ドガンッ! と魔剣ラグナロクが作り出す破壊よりは小さいが、それでもアインツベルンの森の静寂を破壊する大きな音が響き渡る。それはバーサーカーが持っていたアーチャーの宝剣が地面を抉った音だ。間桐邸では馴染み深いバトルフィールドがここでは展開されていないので、サーヴァントの一撃が容易に自然を破壊した。
  上段から大きく振り降ろされた一撃。先程、自分がキャスターめがけてやった攻撃と似ていたが、その速度も勢いも軌跡も練度も何もかもが違う。
  「貴様ッ!!」
  雁夜の一撃と大きく異なる証拠として、横に跳んで避けようとしたキャスターの左腕と左足が地に落ちた。
  腕は肘から先、足の方は足首が見えたが、強烈な剣戟の衝撃で『斬り落とされた』ではなく『叩き潰された』と言う方が正しく、原形をとどめていないので判別が難しい。
  キャスターは片足を失って膝をつく。しかし片手片足を粉砕されたにも関わらず、痛がるよりも前にバーサーカーに敵意を向けるのは流石だ。痛みにかまけて、敵の前で隙を見せれば死がすり寄ってくる、それは何度も何度もゴゴに殺された雁夜が戦士として得た真理の一つ。
  間違いなくキャスターは激痛を味わっている筈。それでも隙を見せない姿はやはり『英霊』だ。
  キャスターのダメージが操る怪物にも伝わったのか、拘束がほんの少しだけ緩む。雁夜はその隙をついて自分の体にまとわりついていた全ての触手を切り刻む。
  そしてキャスターへの攻撃が一時中断されたので、前後左右にいる怪物へと注意を向ける。ただし、雁夜の中に渦巻くのはバーサーカーへの怒りだった。
  「不意打ちする奴が叫んでどうするんだ、この大馬鹿野郎!!」
  自分のサーヴァントへの苛立ちは、怪物の触手に締めつけられた痛みを容易く凌駕した。
  まだ数多く残る怪物を注意しながら横目で見ると、バーサーカーはキャスターに一撃くらわした地点で佇んでおり。アーチャーから奪った宝剣を右手に持ったまま下げている。
  戦場で周囲に気を配っている様ではあるが、剣を構えている訳ではない。キャスターを肉薄している訳でもない。そして雁夜の言葉に反応する気配もない。
  バーサーカーは確かに雁夜が命じる通りキャスターを殺そうとしたが、それは雁夜の望む姿から大きくかけ離れていた。倉庫街で見せたバーサーカーの動きならば、間違いなくキャスターを葬れる確信があったが、結果としてそれは叶っていない。
  雁夜としてはバーサーカーがキャスターの背後か右斜め後方で限界するのを望んだ。後ろからならば不意打ちしやすく、キャスターの右側から攻撃したとしても、宝具と思わしき魔術書ごと一緒に攻撃できる筈だった。たとえ避けられたとしても、宝具を破壊すれば怪物が増える事態は避けられた。
  それなのにバーサーカーはキャスターの左側から攻撃した。狂ったサーヴァントと意思疎通など出来ないが、何となく雁夜はバーサーカーが『不意を突く』という行為そのものを躊躇ったように思えるのだ。バーサーカーとして狂う前の英霊の気質がそうさせたのか、雁夜の命じ方が悪かったのか判らないが、とにかく不意打ちは失敗した。
  そもそもバーサーカーが叫ばなければキャスターが気付くのをもっと遅らせられた筈だ。
  狂っているくせに、あちこちに狂化の属性が付加される前の英雄としての在り方を残している感じだ。はっきり言ってその部分は雁夜にとって邪魔でしかない。キャスターを殺しきれなかったのがいい証拠である。
  完全にバーサーカーを制御できていたのならば、こんな失態は起こさなかっただろう。雁夜は自分に向けそう思いながら、それでも、仮に『英霊』のカテゴリに入っているにもかかわらず、結果を作り出せないバーサーカーの在り方に怒りと苛立ちを覚える。
  「アアアアアアアアアア!!!」
  そうこうしている内に再びバーサーカーが雄叫びをあげ、キャスターではなく雁夜の近くにいた怪物めがけてアーチャーの宝剣を振り下ろした。
  キャスターへの攻撃ではない、雁夜を助けようとしてるのでもない。ただ、手短にいた『敵』に対して攻撃しているだけだ。
  バーサーカーの一撃は苛烈ではあったが、同じく剣を扱う者の視点では美しさすら感じてしまう見事な腕前だった。倉庫街の戦いでは、ミシディアうさぎの目を通して遠くから見ているだけだったが、こうして間近で見ると、その剣の振るい方に、足さばきに、体重移動に、無駄のない動きに、目を奪われてしまう。
  だが雁夜が命じたのはキャスターを殺せだ。怪物を屠れではない。
  「キサマ、貴様、きさまぁぁぁぁぁぁ!!!」
  攻撃されなくなったキャスターの怒りの声が雁夜の耳に届く。
  雁夜はバーサーカーに向け、アーチャーを攻撃する時にも同じような命令を下したが、あの時は心の奥底深くで遠坂時臣への憎しみが消えぬ炎となって燃え盛っていた。
  あの時と違い、キャスターを倒すべき敵と認識しながらも、あの時ほどの怒りは無い。桜ちゃんを救うためと言う後付けの理由はあるのだが、キャスター当人には恨みがない。だから怒りを覚えても、それは遠坂時臣へのそれと比べると格段に落ちる。
  雁夜の怒りにバーサーカーが呼応出来なかった。だから、バーサーカーがキャスターを打ち損じ、追い打ちをかけず、キャスターへ攻撃せずに怪物の方を攻撃しているのかもしれない。
  何となく予測を立ててみるが、所詮、予測は予測でしかなく、確信ではない。狂い暴れるバーサーカーの真意が判らぬ以上、予測は願望の域を出ない。
  結果としてバーサーカーもキャスターに手傷を負わせたが、それも決定打には至らなかった。まだまだ戦いは終わらない。そう思いながら、雁夜は魔剣ラグナロクを振り上げて、自分を拘束しようとする怪物を両断する。
  不気味な悲鳴を上げ、紅い飛沫が地面を汚した。



  ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆



  Side - 衛宮切嗣





  キャスター迎撃の準備を整えながらも、切嗣の意識はアイリが使っている遠身の水晶に強く引き付けられた。
  キャスターがセイバーをジャンヌ・ダルクと勘違いしてつけ狙うならば、アインツベルンの森に罠を張って出迎えればいい。セイバーがキャスター討伐を申し出るのは予測できていたが、受諾する必要性など皆無だ。
  聖杯戦争に招かれるキャスターは他のサーヴァントに比べて体力的に一歩劣り、その不利を覆す為に『陣地作成』というキャスター特有の能力を持っている。これは魔術師として自らに有利な陣地、つまりは『魔術師の工房』を作成し、体力的に劣るサーヴァントステータスを補う為のモノなのだが、自分から工房の外に出てくれば一気に意味を失う能力だ。
  だからこそキャスターがわざわざこちらに出向くのならば、その状況を最大限利用するのは当然の結論である。
  セイバーの英雄様はその辺りの『勝利の為に利用する事柄』を卑怯と罵っているが、結果として敗北してしまえば何の意味もない。負けて得るモノなど何もなく、残るのは敗者の戯言と勝負に敗北したと言う結果だけだ。
  勝利し、聖杯を得る。その為に舞弥と共に多くの重火器と対サーヴァント戦の準備を整えていた。
  それなのに、その『戦闘機械としての衛宮切嗣』が準備の為に動かしていた手を一旦止めるほど衝撃的な光景が、水晶玉に映し出されている。
  切嗣が調べ上げた他のマスター陣営の情報は数多いが、それでも調べられなかった部分は存在する。特に切嗣にとって他のマスターが『何故、聖杯を求めるのか?』という理由は不要な情報であり、あえて調査対象から外した為に調べていない部分となった。
  そして魔術師と言う生き物は魔術に関して徹底的に秘匿を行う存在であり。ランサーのマスターであるケイネス・エルメロイ・アーチボルトが風と水の二重属性を持ち、魔導の名門であるアーチボルト家の嫡男だという情報は得られても、彼自身がどんな魔術を扱い得意とするかは知らない。
  切嗣が持つ魔術礼装―――トンプソン・コンテンダーに収まった銃弾のように、敵もまた同じように自身の魔術礼装を保有している可能性はある。だから間桐雁夜に―――聖杯戦争に参加する間桐陣営に調べられない部分が出てくるのも敵が使用する魔術礼装が初見になるのもどうしようもない事実なのだが、それでも水晶玉の向こう側に見える間桐雁夜の在り方はあまりにも異質であった。
  間桐雁夜が一年前まで魔術と欠片も接しない生活をしてきたのは既に調べがついており、一年前から聖杯戦争の為に準備を整えてきた事も知っている。
  だから切嗣にとって間桐雁夜は『急造の魔術師』であり、『魔術師殺し』の衛宮切嗣がわざわざ魔術師として相手をする必要はないと考えていた。サーヴァントの存在は脅威だが、それでも間桐雁夜一人を相手にするならば、切嗣どころか舞弥でも勝てるだろう。
  たとえ聖杯戦争に参加するマスターの資格を得て、令呪をその身に宿したとしても。魔術師としての力量は下の下、それどころか見習い魔術師以下の最底辺に位置する。少なくとも切嗣が知る魔術の世界はそうあっていて、どれほど才能に恵まれた魔術師であろうと、どれほど魔術回路の数が多い魔術師であろうと、たかが一年で急激な力を手に入れるなどあり得ない。
  世の中には劇的な変貌によって休息に力をつける者もいる。例えば『死徒』がこれに該当し、切嗣にとっては忌まわしい記憶の一つであるが、人間から吸血種に成った者たちであれば、一年で劇的に変化してもおかしくはない。
  だが間桐雁夜は間違いなく人間だ。聖杯戦争のマスターに選ばれるのはあくまで『人間』であり、『死徒』ではマスターにはなれない。
  間桐雁夜の変貌に教会で見た間桐臓硯の変わりよう―――地肌を全く見せずに正体を隠すような奇抜な装いが無関係とは考えられない。自分達が知る始まりの御三家である『間桐』に何らかの変化が起こり、これまでにない『間桐』が聖杯戦争の一大勢力となっている。切嗣はそう認めるしかなかった。
  「どうかしましたか?」
  「・・・・・・いや、何でもない」
  時間にして五秒ほど経ってしまったか。
  舞弥の呼びかけを聞いた所で、準備の為に動かしていた手を止めて水晶玉を見入っていた自分を自覚する。切嗣は慌てて意識を間桐から切り離し準備を再開した。
  教会の呼びかけに間桐臓硯が堂々と姿を見せた時点で、切嗣の中にある間桐とは何かが違うと判っていた。いや、それ以前の倉庫街の戦いの時から、これまでの聖杯戦争にない何らかの異変が起こっていた事は判っていた。
  それを理解しながら、問題の大きさを読み違えてしまったのは―――後回しにしてしまったのは切嗣のミスだ。
  キャスターの接近に気付いたアインツベルンの結界を突破してきた手段。
  間桐雁夜の手にあるセイバーの宝剣に劣らぬ魔力を放つ剣。
  子供たちを一瞬で救い出した巨大な鳥の使い魔。
  その鳥の上に乗っていた間桐雁夜の協力者と思われる女。
 『水』の魔術を得意とする間桐の魔術をより強力にした、一工程シングルアクションで作り出す巨大な氷塊。
  自分が殺されそうになる状況下で、バーサーカーを現界させてキャスターを攻撃させる胆力。
  切嗣の中に出来上がって来た『魔術として未熟な間桐雁夜』は欠片も存在せず、その代わりにキャスターと互角に渡り合う魔術師がそこにいる。
  そして重要なのは、間桐陣営という括りで考えた場合、あそこにいる間桐雁夜とバーサーカーだけが敵ではないという事。最も厄介な敵と定めた言峰綺礼を上回る、始末の悪い敵達が『間桐』の括りで現れる。
  「アイリ。他のマスターが森に入ってきた反応はないのかい?」
  その言葉は状況の確認の為ではなく、むしろ自分自身の戸惑いを誤魔化す為に放たれた言葉だった。
  表向きは能面のような感情を全く見せない顔で問いかけたように見えるかもしれないが、内心は正体不明の『間桐』という敵に対する戸惑いが溢れている。
  ただアイリにそんな心の機微を悟れず、言葉を額面通りに受け取って返してくる。
  「いいえ。反応はキャスターとあの間桐雁夜と言う人だけ・・・。鳥に乗った女の人の反応はもう消えてるわ」
  「そうか」
  即答する時には少しだけ落ち着きを取り戻していた。お陰で間桐が脅威であることを再認識しながらも、今は敵が城に攻めている可能性を考慮して準備を進めるだけだと思い直せる。
  どんなモノであろうとも全てを目的を遂行するための手段と定めて行動する―――。
  再び重火器の準備を進めて手持ちの武器を装着していくと、視界の片隅にアイリの横から水晶玉を強く覗き込むセイバーの姿が見えた。
  あの剣の英霊は自分をキャスターを討伐に向かわせない切嗣を目で責めていたが、子供たちが戦場からいなくなり、間桐雁夜が戦いだしてから切嗣と同じように水晶玉が移す光景に目を奪われていた。
  こちらがほんの少しだけ視界の中に収めている事実など全く気付いていないようで、今もまた戦場で戦うバーサーカーを注視している。
  間近に迫った敵の癖や弱点を探ろうとしているのかもしれないが、今の所はこちらの邪魔をする素振りは見せていないので好きにさせても問題ない。
  切嗣はアイリとセイバーから意識を切り離し、ラップトップ式のコンピューターを起動させて、この城の中に仕掛けておいたCCDカメラの映像を確認する準備を進めて行く。全ての戦力がここに集まり、唯一セイバーを出陣させようとするアイリがそれを命じないのならば、戦いはアインツベルンの城の中で行われる公算が高い。
  その時、城の中に仕掛けた機械の目が切嗣に代わって敵の情報をもたらしてくれる。
  CCDカメラの映像をチェックして、全てのカメラが問題なく機能している事を確認する。その確認作業が終わった正にその時、これまで両手を水晶玉にかざしていたアイリが胸に手をやった。
  大きく目を開いた後、苦しそうに顔は歪めるその姿は明らかな異常だ。
  「どうした? アイリ」
  切嗣がそう言うと、アイリは顔をあげて言う。
  「切嗣――。どうやら新手がやってきたみたい」
  キャスターとバーサーカーが争っているこの状況下で、アインツベルンの森に入ってくる物は他のマスター陣営である可能性が高い。
  だが、敵が間桐陣営の誰かであったならば―――、たとえば子供達を救い離脱したあの女だったり、倉庫街の戦いに乱入してきたマッシュとかいう男だったならば状況はキャスターの不利だけではなく、こちら側の不利にも繋がる。
  間桐がどれだけの戦力を保有しているか判らないからこそ、未知が切嗣の心を蝕んでいく。
  アインツベルンの森に張り巡らされた結界に加え、城の中にいくつも張り巡らされたトラップ。こちらが待ち構える場所として最適であると確信しながらも、『新手』という言葉に切嗣の心が揺れていた。



  ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆



  Side - 間桐雁夜




  バーサーカーのお陰で自分はまだ生きている。
  だが、バーサーカーのせいで、キャスターが倒せていない。
  確かにバーサーカーは『狂戦士』と名のつくサーヴァントだけあって、キャスターが呼び出した怪物を『戦士』として何の苦もなく斬り捨てて行く。咆哮を上げながら、アーチャーから奪った宝具を振るうその姿はまさしく『狂戦士』に相応しかった。
  雁夜が命じた殺す相手であるキャスターを二の次にして、近くにいる怪物をまず狙う辺り、確実に狂っているのだろう。
  バーサーカーが雁夜の近くにいる怪物を倒してくれるからこそ、雁夜は数少ない怪物の相手をして生きていられる。もし相手にする怪物の数がもっと多かったならば、あっという間に四方を囲まれて物量で押しつぶされていたに違いない。
  「アスピル!」
  それどころか、怪物を対象にして魔力を吸収し、再び魔術を放つまでの繋ぎにする余裕など作れなかった。
  ゴゴから教わったこの魔法は、雁夜が貯め込める最大の魔力から自分の中に残る魔力の差分しか吸収できない制限がある。だが、消耗した魔力を一気に回復できるメリットもあり、敵から魔力を奪って自分のモノに出来る貴重な魔法だ。そして怪物はキャスターの宝具によって召喚された魔力の塊であり、魔力を吸収するには格好の獲物である。
  「ブリザラッ!!」
  魔剣ラグナロクを振るいながら魔力吸収魔法の『アスピル』で怪物から魔力を補充し、再び氷属性の魔術『ブリザラ』で怪物を凍らせて叩き割る。バーサーカーがいるから、この戦術が可能で、一人ならば怪物一体から魔力を吸収している間に他の怪物に殺されてしまう。
  バーサーカーの近くで戦い続ける為、『スピニングエッジ』は使えないが、魔力の消耗を気にせず戦えるのは嬉しい誤算だった。
  しかしバーサーカーがキャスターに向かわないので、敵サーヴァントは今も健在だ。それどころか、今も右手に持っている宝具が大きく魔力を放つたびに怪物が新たに呼び出され、バーサーカーが怪物の数を減らしても、雁夜が怪物の数を減らしても一向に総数が減る気配がない。
  雁夜の魔剣ラグナロクの爆発で焦がされ、バーサーカーによってキャスターは片方の手足を失った。結果、最初ほど召喚に勢いは無く、現状の数を維持するので精一杯の模様。
  戦いながら距離をとって離れたキャスターを見ると、恨みがましく殺意を目に宿しながらこちらを見ていた。よほど自分の歩みを邪魔する自分とバーサーカーが許せないらしい。
  ただ、バーサーカーに足を斬られて膝をついたキャスターはそこにはなく、今は斬られた左手左足の箇所をローブの下に隠しつつ、しっかりと立っている。
  ローブに隠れて足そのものは見ないのだが、もしかしたら召喚している怪物を極小サイズで召喚し直して脚の代わりにしたり、血止めの蓋にして手を止血しているのかもしれない。
  「・・・・・・」
  あのローブの奥で、怪物の触手がキャスターの手足の代わりをしている光景を思い浮かべると少し寒気がした。
  とにかく、腕一本、脚一本失っても自分達を殺して先に進もうとする意欲は失っていないのがよく判る。それどころか、時折、頭をかきむしって怒りをより強く露わにする様子から、最初に上空から浴びせた不意打ちの時よりやる気になっているらしい。
  腕を足を斬られたショックで呼気が荒くなっているがこっちを殺す気が満々だ。
  決定打がない状態でも常には観察は続けられる。結果、キャスターが召喚しているこの怪物の攻撃方法は二つに大別されると判った。触手を伸ばして人の手の代わりをするか、鋭い牙を見せる口で喰らうかのどちらかだ。
  もちろん人の手の代わりをする触手が五本の指を備えている訳ではないので、捕縛の自由度は一歩劣る。それでも力は並みの大人よりも大きく、たった一体で雁夜の腕力と互角か少し強い。
  そしてキャスターの戦い方だが、新しい魔術を行使しない所を見ると、基本的に怪物を召喚させて自分の代わりに戦わせる戦術だけのようだ。単に余力がない為に他の手を打てない可能性はあるが、戦い方の大原則は召喚による使役であろう。
  やはりバーサーカーがいるからこそ硬直状態を保てる。しかし、バーサーカーが雁夜の望む通りに動いてくれれば状況が固まる以前にキャスターを殺せていた。この状況で、自分一人がキャスターに向かったとしても、怪物の壁がキャスターの前に作られて行く手を阻まれるだけだ。
  雁夜は自分のサーヴァントに向けて感謝しつつも激怒していた。
  「ケアル!」
  時に敵を攻撃し、時に失った体力を回復させ、時に敵から魔力を奪い、時にバーサーカーを盾にして緩急をつける。
  キャスターはいつまでも殺せない自分とバーサーカーに怒りを増大させているようだが。敵をさっさと殺したいのはこちらも同じだ。
  何せバーサーカーを現界させて戦っていると、それだけで魔力を多量に消耗する。時として、バーサーカーに供給する魔力を補充する為だけに、怪物相手に『ラスピル』を放たなければならない場合もあるのだ。
  雁夜の目的はあくまでキャスターを殺すことであり、キャスターの召喚する怪物ではない。バーサーカーに命を救われている状況には感謝するが、硬直状態を長引かせるのは得策ではない。
  何よりここはゴゴの展開するバトルフィールドではなく、アインツベルンの手の内である。いきなり森ごと吹っ飛ばされる事態もありえるかもしれない。それどころか、もしこの場にセイバーが現れたら、倉庫街の戦いのときのようにバーサーカーが暴走する可能性が非常に高い。あの時は魔力に余裕があったから好きにさせていたが、今の状況では非常に危険だ。
  こんなにも時間がかかると思わなかったので、後悔ばかりが頭の中に浮かんでしまう。
  すでに自分とバーサーカーで斬り捨てた怪物の数は百を軽く突破していたが、細かい数までは判らない。ただし、いい加減、この勝負に決着をつけてもいいぐらい戦っているのは確かである。
  キャスターを殺して撤退する。万が一、ゴゴが助けにこなくても、自力で逃げられる位の余力は残さなければらない。
  雁夜は怪物の一体をラグナロクで切り捨てながら、この場を乗り切る必要条件を頭の中で作り出す。最低条件ではないが、十全で生き延びる為には必要だった。
  故に雁夜はバーサーカーをより正確にコントロールする為、魔力供給以外に必要な『何か』を形作っていく。
  対話が行えればもっと円滑にその『何か』にたどり着けたのだろうが、狂化の属性が付加されたバーサーカーとの話し合いは不可能だ。故に、敵に向ける観察の目をバーサーカーにも向け、『何か』を必死に探した。
  おそらくそれは雁夜の感情―――それも怒りだ。
  マスターである雁夜の怒りに反応すればするほどに、バーサーカーは雁夜の望む形で動いてくれる。もちろんバーサーカー自身が勝手に行動する場合もあるので、全てそうなる訳ではないが、ある程度の方向性を与えてやる事は可能と思われる。確証はないが、それほど間違っている仮説とも思えない。
  だから遠坂時臣と奴のサーヴァントであるアーチャーに向けた感情をそのまま再現すればいい。雁夜はそう結論付けた。
  キャスターを殺す。
  絶対に殺す。
  桜ちゃんの敵を殺す。
  桜ちゃんを悲しませるサーヴァントを殺す。
  殺す―――。
  「おおおおおおおおおっ!!!」
  バーサーカーの咆哮よりもより強く、バーサーカーの怒りよりも更に大きく。周囲から聞けば、狂戦士のサーヴァントには遠く及ばない声かもしれないが、それでも雁夜は自分の心の中に自身のサーヴァントに対する『従えっ!』と強い意思を作り出す。
  殺す、従え、殺す、従え、殺せ、従え、殺せ、従え、キャスターを殺す、従え、キャスターを殺せ、従え、殺せ殺す殺せ殺せ―――。
  言葉による命令ではなく、サーヴァントとマスターの間にある魔力的な繋がりに訴えかける激情。令呪ほどの拘束力がないからこそ、バーサーカーはそれを受諾しないが、徐々に怪物を攻撃する方向がキャスターの方に切り替わっていく。
  近くにいた怪物を切り捨てながらキャスターの方に一歩踏み込んだ。
  そこにいた別の怪物を斬り捨てた後、更にキャスターに向けて進んだ。
  雁夜は叫びつつその歩みを見て、バーサーカーと背中合わせになる様に位置を移動する。
  自分のサーヴァントを盾にしているのではない。今からやろうとしている事を目の前にいる怪物達に邪魔されない為、数瞬の時間を作り出そうとしているのだ。
  キャスターもバーサーカーが自分の方に向かって来ているのが判ったのだろう、怪物たちが殺そうとする対象がバーサーカーに集中して、雁夜の方に向かってくる怪物の数が減る。気を抜ける状況ではないが、ほんの少しだけ余裕が出来上がる。
  好機だ。
  雁夜はキャスターに向けた怒りを出来るだけ維持しながら、魔剣ラグナロクを右手に持って左手を空ける。
  左手に魔力を集中し、さっきから何度も怪物に向けて打ち出している氷属性の魔術を更に上へと高めて行く。
  この一撃は雁夜が使える攻撃の中で強力な部類に入る一撃だが、その代償として雁夜の魔力の大半を奪い取ってしまう。バーサーカーを現界させて戦っている状態なので、魔力の大半どころか根こそぎ消耗する可能性は非常に高い。
  それでも一進一退の攻防をいつまでも続けるよりはいい。
  バーサーカーがまた新たに怪物を二匹斬り殺したのを音で聞きながら雁夜は思う。急がなければならない。急いで、殺さなければならない。だからキャスター、死ね、死んでくれ。と。
  怪物達の大半がバーサーカーに向かったお陰で出来た数瞬の間。触手を伸ばして雁夜の脳天を握り潰そうとしてくる怪物の攻撃を斬って回避しつつ、雁夜は半回転してバーサーカーの広い背中を見た。
  瘴気の様に噴き出す魔力が見える。日の光すら吸収しそうな黒い鎧が見える。アーチャーから奪った宝剣を自由自在に扱う技が見える。雁夜は己がサーヴァントの様子を見つめながら、左側に一歩踏み出して、バーサーカーの脇下に出来た隙間から左手を前に向けた。
  そしてゴゴから教わった氷属性上位魔法を唱える。


  「ブリザガァ!!」


  雁夜の口から放たれた言葉が意味ある呪文として世界に溶け込むと同時に、左手の前に雁夜の頭部より一回り大きい氷の球が出来上がる。
  氷の球。いやこれから起こる事態を知る雁夜にとってそれは巨大な氷の弾丸だ。
  氷の弾丸は瞬きよりも早くバーサーカーの行く手を阻んでいる怪物に向けて打ち出された。拳銃の砲口初速である亜音速には届いてないだろうが、それでも驚異的な速度で打ち出される氷の弾丸が怪物を次々に貫いていく。
  一匹、二匹、三匹。
  危険を察知してキャスターが後ろに跳んで更に距離をとるが、雁夜の魔法では最初からキャスターにまで攻撃が届かないから問題は無い。
  次々に怪物が中央にある口を丸ごと粉砕され、次々に怪物が撃ち抜かれて行く中、五匹目の怪物の所で『ブリザガ』の限界が訪れた。
  雁夜の今の腕前では、近くにいる敵に対してしか魔術の効果範囲を広げられない。ゴゴならば直接キャスターに向けて攻撃できただろうが、雁夜にはそこが限界だった。
  出来るだけ遠くの敵に照準をつけた一撃。それが最後の一匹を中心にして、直径五メートル、高さ八メートルの巨大な氷柱へと激変する。
  効果範囲にいた全ての怪物を凍結封印するほどの強力な一撃。自然界では決して見られないであろう完全な円柱の形を作り出した魔術。怪物も地面も木々も空気すらも巻き込んで、それは一つの建造物となって現れる。
  「キャスターを殺せ! 殺すんだ、バーサーカー!!」
  「アアアアアアアアアア!!!」
  明確な怒りに呼応して、バーサーカーの咆哮が更に強さを増す。これまでバーサーカーの前にいて進攻を邪魔していた怪物は『ブリザガ』によって躯と化しており、斜め前方にいた怪物がバーサーカーの行く先を阻むよりも狂戦士が突進する方が早い。
  雁夜はバーサーカーが剣を構えて突撃するのを見計らった後。バーサーカーの前方に出来上がっている氷柱への魔力供給を力ずくで切断する。
  あの巨大な氷柱は氷で出来た本物ではなく、雁夜の魔力によって形を維持している紛い物だ。アインツベルンの森に落下した時に使った浮遊魔法と同じように、使うのを辞めてしまえば一緒に結果も消滅する。この世界に存在する自然の法則の前に、雁夜程度の魔術の腕前では簡単に『なかった事』にされてしまう。
  『ブリザガ』の発動と共に体の中からごっそり魔力を失ったのを感じながら、雁夜の目は空気に溶けて行くように消える氷柱を見た。
  もっと魔術の腕前が高ければ、自然現象として氷柱をそのまま維持できるのだが、雁夜では叶わない。だが、すぐに消える事はむしろ今の雁夜にとってはメリットである。
  バーサーカーの突進を邪魔する障害物をすぐに溶かせるから、だ。
  怪物の屍骸を足場にして、バーサーカーが突き進む。
  氷柱発現の効果範囲の中に巻き込まれて、消えると同時に解放された怪物が何匹かいたが。それらは突然の冷凍に動きを鈍くしており、今すぐバーサーカーを迎撃するほどの元気は無かった。
  バーサーカーはそんな鈍重な怪物には目もくれず、横をすり抜けて奥にいるキャスターめがけて突き進む。
  氷柱があった場所を抜けてただひたすらに駆けて行く。
  殺せ、進め、殺せ、進め、殺せ、進め―――。
  声なき雁夜の想いがバーサーカーの背中を押し、漆黒のサーヴァントは前に剣を突きだした一つの弾丸へと変貌する。
  「おのれ、おのれ、おのれぇぇぇぇぇぇ!!!」
  するとバーサーカーの接近に合わせてキャスターからこれまでにない強力な魔力が放出された。見ると、キャスターは右手に持つ魔術書の宝具を見せつけるように前方に突き出していた。
  そこから溢れる魔力の奔流は今まで感じた中でもっとも凶悪であり、本来不可視である筈の魔力が紫色の霧として漏れている様に感じる。
  こちらが賭けに出たように、キャスターもまた限界ぎりぎりの攻撃に打って出た。そう雁夜が感じ取った次の瞬間、バーサーカーの目の前の地面から隙間なく怪物が生えてきた。
  おそらく防衛の為にあの宝具の力を限界まで引き出したのだろう。正に『肉の壁』と言うしかない醜悪な物体が、バーサーカーの行く手を阻む。
  あまりの多さに地面が見えなかった。
  それでもバーサーカーは止まらない。
  「アアアアアアアアアアアアアア!!!」
  目の前に怪物の群れがあろうとも、キャスターが遥か彼方の安全地帯で嗤っていようとも、手に持つ武器がアーチャーから奪った宝剣一本であろうとも、雁夜からの援護など殆ど期待できない状況であろうとも、バーサーカーは止まらない。
  一秒とおかずにバーサーカーが怪物達の作りだした壁に激突し、剣を振るって拳を振るって足を動かして潜り込んでいく。
  斬って、殴って、蹴って、潰す。
  勢いは激突と同時に一気に衰えたが、それでも『進む』という経過そのものは全く損なわれずに怪物達の壁を切り開いていく。
 その突進を見て、雁夜はライダーが操縦していた戦車チャリオットを思い出した。あの宝具は、何が前にあろうとも、どんな敵がそこにいようとも、ひたすらに我が道を突き進む凶悪な武器だった。
  そしてセイバーに襲いかかったバーサーカーを吹き飛ばしたのもあの宝具だ。
  雁夜の魔術とゴゴによる回復であの時の怪我は綺麗さっぱり消えているが、『突進してきた物に攻撃を止められた』という事実はバーサーカーの中に刻まれている筈。もしかしたら、あの無謀とも思える突進はライダーへの意趣返しなのかもしれない。
  一瞬だけ思考が戦場からよそに飛ぶと、それに合わせたようにバーサーカーめがけて怪物達が一斉に殺到した。同族が下敷きになろうとも構わずバーサーカーめがけて跳んでいき、一匹二匹が斬り殺されようがそんな事は知らぬとばかりに怪物が山を作り出す。
  砂山の様に三角錐が作り出されるが、雁夜の人生の中でこれほどなまめかしくもおぞましい肉の山は見た事がない。キャスターのなりふり構わない命令の成果だと予測しつつも、そのあまりの気持ち悪さに思考が真っ白になりそうだ。
  中央にいて押しつぶされそうなバーサーカーの安否を気遣う余裕はない。
  ほんの少しだけ雁夜が呆けた次の瞬間―――。バンッ! と何かが爆発するような音が鳴り響き、山を成していた怪物達が一斉に吹き飛んだ。
  「え?」
  それは雁夜自身の声だったかもしれない。キャスターの声だったかもしれない。あるいはその両方かもしれない。
  何が起こったか理解できず、吹き飛んだ山の跡地を見る。すると剣を横に伸ばして回転するバーサーカーがいた。
  一瞬後には回転を止めてキャスターに斬りかかっていたので正確には判らなかった。だが、雁夜はそれが自分がついさっき使ってみせた『スピニングエッジ』に非常に酷似している気がした。
  サーヴァントがマスターの技を奪い、更にレベルを上げて使った。バーサーカーも同じく剣を使う者であるが故に、ありえる予想が浮かんだが。それを強引に消す。
  そんな事を考えている暇は無い。今はキャスターを肉薄したバーサーカーに意識を向けるべき時だ。
  バーサーカーはすでにキャスターに迫り、正面から剣を振り下ろして両断できる位置まで近づいている。さっきの不意打ちとは違い、今度こそキャスターを葬り去れる。そう確信できる位置だ。
  殺した!!
  雁夜がそう思った瞬間―――。


  雁夜の両足から力が抜け、合わせてバーサーカーもまた膝を曲げて転倒した。


  辛うじて振り下ろされたバーサーカーの剣がキャスターの宝具を浅く斬りつけたが、キャスター本人へ攻撃は通っていない。
  召喚の媒体としていた魔術書が傷ついた結果、怪物たちは紅い血へと変わっていく。バシャン、バシャン、と怪物の形をした血の塊となり、それら全てが地面に落下して紅い水たまりを作っていく。
  自分を取り囲んでいた敵が消えたのは喜ばしい。だが何かの異変が起こって体から力が抜けた。
  何が起こった? 雁夜はそう思いつつ、力の抜けた足で地面に膝をつきながら考える。そして一瞬遅れて心臓がこれまで以上に激しく早鐘を打ち、別の生き物のように暴れまわるのを感じた。
  反射的に左手で胸を抑えるが、激しさは増すばかり。収まる気配などまるでなく、今はもういない間桐の蟲が雁夜の体を内側から食い破ろうとしてる様だ。
  「く・・・そ・・・」
  痛む胸を抑えながら、紅い地面の向こう側にいるバーサーカーを見る。バーサーカーは突進の勢いをそのまま転倒したようで、豪快にキャスターの後ろに転がっていった。それでもキャスターの後ろ側で立ち上がろうとしていたが、全身を震わせて力無く立つ姿は先ほどの剣を振るう姿とはまるで別人だ。
  その光景を見て雁夜は確信する。これは雁夜の魔力が枯渇して、バーサーカーに送っていた魔力の供給が寸断されたが故の結果だと。
  『ブリザガ』を放って、怪物を殺しまくるバーサーカーに魔力供給を行ったから、雁夜の魔力が底をついてしまった。あくまで予測だが、心臓が戦いの疲れとは別に激しく動くのは、バーサーカーが現界の為の魔力を要求しているからだ。
  魔術回路を通じて、雁夜の中にある魔力を供給するのは不可能。ならば、魔力ではない別のモノを魔力の代わりにして、強制的にバーサーカーを現界させるしかない。
  たとえば体力、たとえば気力、たとえば生命力、たとえば命。無いものをあるモノで代替するのは正しく命を削る行為。それをマスター側からではなく、サーヴァント側がマスターに強要しているのだ。
  無いものを別のモノで補おうとしている。
  魔力吸収魔法の『アスピル』で魔力を回復する事は可能だが、あれは魔力を吸える対象がいなければ役に立たない。これまで吸っていた怪物は全て紅い血になって地面に広がってしまい、キャスターが自分にかけられる魔術を甘んじて受ける筈もない。
  今の状況は怪物の触手に四肢を拘束された時よりもピンチだ。
  この状況を打開する為、雁夜は左手を動かしてポシェットへと手を伸ばす。そこには魔石と一緒にこの戦いの為にゴゴから渡された切り札の一つが入っている。
  敵を前にしながらあまりにも遅い動きでようやくポシェットにたどり着くと、遠くからキャスターの声が聞こえた。
  「貴様ら――、我が麗しの聖処女ジャンヌへの目通りを邪魔した罪、決して許さぬぞ!!」
  何を思ってキャスターがそんな事を言ったのか判らず、雁夜は顔をあげてキャスターのいる場所を見る。
  するとキャスターは実体化を解いてアインツベルンの森の中に立ち込める霧と同化するように消えてしまったのだ。霊体化したキャスターの位置を判別する術が雁夜にはないので、キャスターがどこに行ったかは判らないが、視界の中から完全に消えてしまった。
  雁夜はこのまま戦えばキャスターが勝利するだろうと考えていたし、今攻撃されたら反撃できないとも考えていた。だから敵が撤退してくれた事に安堵を感じながらも、疑念も一緒に浮かんでくる。
  もしかしたら『ブリザラ』に続いて『ブリザガ』で攻撃した雁夜に更なる隠し玉があると思ったのかもしれない。
  あるいは守りの為に開放した魔力が多すぎて、こちらを倒せても次の戦い―――セイバーの待つ城へと攻め込むには力足らずだと計算したのかもしれない。
  捨て台詞を残す余力はあったのでまだ戦えただろう。膝をつきながら少しだけ考え込むが、キャスターが退いた真の理由は判らなかった。
  生き残ったと言う安心。しかし、あれだけバーサーカーを思い通りに動かしておきながら結局は仕損じた後悔。桜ちゃんが望みながら、それを果たせなかった屈辱がぐちゃぐちゃした想いとなって雁夜の頭の中を蠢く。
  「戻、れ・・・。霊体化しろ、バーサーカー・・・」
  ここはアインツベルンの森で敵陣の真っただ中だ、それでもとりあえず周囲から敵の気配が消えたので、雁夜はバーサーカーへの魔力供給を最低限に抑える為に命じる。
  そうしなければ雁夜の方が先に参ってしまう。
  敵がいなくなったのでどうでもよくなったのか、バーサーカーは特に文句を言うような素振りは見せずに黒い霧となって消えて行く。
  倉庫街の戦いを見ていたから判るが、もしここにセイバーがいれば雁夜の言う事など完全に無視しただろう。間違いなく同じ森の中にいるので、アインツベルンの拠点めがけて突進してくれなくて良かったと安堵する。
  雁夜は十秒ほど深い呼吸を繰り返して心を落ち着けると、ポシェットの中から一緒に入っていた小瓶を取り出す。魔石も入っているが、用があるのはそっちではない。
  あれだけ激しく動きまわったにもかかわらず小瓶には傷一つなかった。
  「本当に、これで、魔力が・・・、回復するの、か・・・?」
  これはゴゴから念のためにと渡された魔力回復のアイテム『エーテル』だ。どれだけ効果があるのか疑わしい代物だが、この状況でアインツベルンから攻撃を受けたら間違いなく負ける。
  背に腹はかえられないので、雁夜は小瓶の蓋をあけて、中に入った液体を一気に飲み干した。
  今この状況で敵が来ない事を切に願いながら―――。



  ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆



  Side - ゴゴ





  アインツベルンの森の上、透明になった飛空艇ブラックジャック号を滞空させているゴゴは『ティナ・ブランフォード』に変身した自分が近づいてくるのを感じた。
  ついでにアインツベルンの森の近くにサーヴァントの気配を二つほど感じていたが、どちらも雁夜とキャスターとの戦いではなく、もう一つのサーヴァントの気配のする場所。つまりはセイバーがいると思わしきアインツベルンの拠点を目指しているので、両方とも無視する。
  もしキャスター以外のサーヴァントの気配が雁夜に近づいていたら、操舵輪を握る自分をさらに分身させて救援に向かわせたのだが、今のところ雁夜の戦いに新たに加わるサーヴァントの気配はない。
  相変わらず冬木市のあちこちでアサシンの気配を感じるが、こちらに実害がなければ放置しても問題は無かった。感覚を頼りに考えると、セイバーの所に向かっているのはランサーと、アサシンのようだ。
  子供と言う枷がなくなり、相手がキャスターだけならば雁夜にも十分勝機がある。敵は宝具を始めとして隠し玉を幾つも持っているだろうが、敵が隠し持つ奥の手の対抗策はこの一年でみっちり雁夜に教えたので、初見の相手であっても敵の隙にさせる事態は避けられる筈。それに雁夜にも隠し玉は幾つもある。
  何もやってないと見える時は裏で毒をまき散らしていると思え。
  見えなくとも魔術師ならば感じられる魔力の奔流を掴みとれ。
  貯めの時間があるならば、自分を一撃で吹き飛ばす強力な攻撃が来ると思え。
  敵に強力な攻撃手段があったとしても、それが放たれる前に斬り捨てろ。
  ありとあらゆる状況に備えさせ、考えるよりも前に体が動くように数ある危険を骨の髄まで叩き込んだ。おそらくこの一年で雁夜が死んで蘇った回数は三ケタを突破する。
  人の細胞には分裂回数の限界があり。雁夜の死と再生はその数を劇的に増やした。ヘイフリック限界と呼ばれる解剖学の言葉で、明確な時期までは判らないが雁夜の寿命がかなり削られただろう。
  雁夜にもその事は説明したのだが、それで桜ちゃんを救えるなら安いもんだ。と気にしないと言ってのけた。ものまね士としてのゴゴはその雁夜の在り方に何の痛痒も感じていないのだが、師匠としてのゴゴ―――マッシュを鍛え上げた格闘家のダンカン・ハーコートを少しだけ物真似するゴゴは、雁夜の鍛え方について『もっと他のやり方は無かったのか』と少し罪悪感を感じる。
  一年と言う限られた時間で、魔術師としての才能がない雁夜を一人前に近づけるには普通の方法では駄目だった。故に『死から学ぶ』という離れ業で戦い方を教えてきたが、良い点もあり悪い点もあった。
  考えれば別の方法があったかもしれない。そんなゴゴらしからぬ後悔を思い浮かべていると、桜ちゃんが呼び出した幻獣『ケーツハリー』が飛空艇の前に姿を見せる。
  巨大な鳥の背中には十人弱の子供が乗っており、ティナの姿をした自分がその中の一人に手を当てている。
  『ケーツハリー』は羽根を動かして位置を微調整しながら、難なく飛空艇の甲板へと舞い降りてきた。ティナとなったものまね士ゴゴに桜ちゃん、他にも沢山子供が背中に乗っているとは思えない優美さだ。
  羽根をたたみながら滑り台の様に首を降ろすと、まず桜ちゃんが一番手で降りる。その次に、横たわる子供の脇と膝の下に手を突っ込んで抱きあげたティナが降りた。
  他の子供たちはキャスターに連れてこられた恐怖に加えて、目の前に突然現れた飛空艇ブラックジャック号にびっくりしてどうすればいいか判らないようだ。桜ちゃんに倣って降りて欲しいのだが、得体のしれない場所に自分から降り立つ図太い子供はいないらしい。
  まだ雁夜が戦っているので、必要であればティナと桜ちゃんには手助けしてほしい。だからこそ、子供達を誘導する手が圧倒的に足りないのが少々痛い。
  子供たちから見れば、大人はブラックジャック号を操縦するゴゴとティナの二人だけ。まさかゴゴが操舵輪から手を離して誘導する訳にもいかないので、人手を増やす事にする。
 「妄想幻像ザバーニーヤ
  ゴゴがアサシンを物真似して得た宝具の名を呼ぶと、自分と言う存在が二つに分裂していく感覚が体の中を駆け巡る。何もない場所を触れているような―――、何もない場所を見ているような―――、何もない場所の匂いを嗅ぐような―――、何もない場所を通る風の音を聞くような―――、何もない場所にもう一人の自分がいるような不思議な気分を感じる。
  それが収まった時、操舵輪を握るゴゴの隣にもう一人のゴゴがいた。
  「子供たちの世話を頼むゾイ」
  「飛空艇を任せたゾイ」
  鏡に反射させたかのように全く同じ存在が別々の場所にいる。一瞬前まで同じ場所にいた同一人物が改めて声で確認する必要はないのだが、それぞれが別個の存在であると言う認識の為に、言葉での確認は合って困るものではない。
  飛空艇を操縦する自分を背後に置き去りにして、ものまね士ゴゴは『ケーツハリー』の背中に乗る子供たちへと向かう。その矢先、子供の一人がゴゴを見ながら言ってきた。
  「――分身の術だ!!」
  「ほんとだ、すっげぇ」
  ほんの一瞬前まで自分達が置かれている状況が判らずにおたおたしていた筈なのだが、子供達の中から男の子が二人声を出して喜んだ。ゴゴにとってアサシンを物真似して手に入れた宝具は聖杯戦争の象徴の一つであり、闘争の一部分でもある。
  だからこそ『子供が喜ぶ』なんて事は想定外であり、きらきらした目で見られるなんて事態は考えもしなかった。
  ゴゴは思わず言いそうになった。おい、お前ら怯えてたんじゃないのか? と。それでも子供達の緊張がほんの少しでもほぐれたのなら、むしろ望ましい展開である。
  自分はものまね士ゴゴ。しかし冬木市で人の目がある所で『間桐臓硯』であり、口調は『ストラゴス』だ。しっかりとした足取りで子供達に近づきながらも、放たれる言葉は老人の雰囲気を漂わせる。
  「さて、お主らはよく判らん事態に巻き込まれて、何が起こってるのかさっぱり判っとらんと思う。じゃが、話をする前にその鳥から降りてくれんかの? 『ケーツハリー』の奴もお嬢ちゃんお坊ちゃんを長い間乗せては疲れてしまうゾイ」
  ゴゴがそう言うと、子供達は互いに顔を見合わせてどうしようかと不安げな表情を浮かべる。
  怪しげな自分の風体を見て言う事を聞くべきか戸惑っているのがよく判る。だが、ゴゴに対して『分身の術だ』と言った男の子達がまず巨鳥の背中から降りて、後に続いて全員が飛空艇の甲板の上に立ち並んだ。
  怯えてゴゴ達を見つめる女の子がいた。
  分裂したゴゴを興味深く見つめる男の子がいた。
  毛並みが気に行ったのか、『ケーツハリー』の羽毛を撫でる女の子がいた。
  夜の空に浮かぶ飛空艇をおっかなびっくり眺める男の子がいた。
  千差万別である。
  ゴゴはとりあえず、幻獣『ケーツハリー』が自由になったので、まだ男の子を抱えているティナの姿をした自分に向けて話しかける。
  「ティナ――、その子供を下に寝かせたら雁夜の援護に向かってくれんか。バーサーカーもおるので心配はいらんと思うが、念には念を入れんとな」
  「判ったわ」
  そして視線を横にずらして、桜ちゃんにも話しかける。
  「桜ちゃんはティナと一緒に雁夜を助けに行ってもらえんかの。ゼロが一緒に行けなくてふてくされとるから、連れて行くと良いゾイ」
  「・・・わかりました」
  ほんの少しだけ戦場の空気に触れたからか、あるいは同世代の子供達の緊張や恐怖が伝わったのか、桜ちゃんの言葉は普段より固い。どこか戦いに対する忌避感の様な何かを匂わせているので、戦いから―――魔術師の闘争から桜ちゃんを引き離そうとする雁夜の目論見は少しだけ成功しているようだ。
  桜ちゃんの事はティナに任せ。戸惑いとか怯えとか興味とか色々な雰囲気を漂わせている子供達に向けて説明する。
  「まずは自己紹介をしておこうかの、ワシの名前は『間桐臓硯』、お主らの中にはワシの名前を知ってる者もおるかもしれん。おるか? おったら手を挙げてくれんか?」
  ゴゴがそう言って子供達に挙手を求めるが、残念な事に上がる手は一つもない。
  訳も判らない状況に追い込まれ、恐怖故に手を上げられないのかもしれないが、本当に知らない可能性の方が高い。
  間桐臓硯の名はさほど知られていないし、地域の著名人ではない。それでも、この『ものまね士ゴゴ』の奇抜な衣装が知られていないのは少しショックだった。
  誰一人として手を上げない子供達に向かい、ゴゴは語りかける。
  「誰も知らんのか・・・。この一年、冬木市を練り歩き『奇人変人・間桐臓硯』の名を知らしめ、警察にも要注意人物として振りまわるよう助言までしたのじゃが、お子様たちが知らぬとは嘆かわしいゾイ。まあ、知らぬならそこも含めて説明するゾイ」
  そこでゴゴは一旦言葉を区切ると、子供達に背を向ける
  「ここは寒いからブラックジャック号の中に案内するゾイ、ついて来るんじゃ」
  片手を上に掲げて誘導のために揺らすと、子供達は最初は動かずに『ケーツハリー』の周りに留まっていた。けれど、ゴゴが一歩踏み出して階段へと向かうと、ここにいても事態の好転は無いと思ったのか、ゆっくりついてくる。
 先頭に立つのはゴゴの妄想幻像ザバーニーヤを分身の術だと言った男の子達。それ以外の子供が彼らの後に続き、ゆっくりゆっくり歩いてくる。
  歩みが止まらなければ、階段にたどり着くのはあっという間だ。飛空艇の操舵輪を握るものまね士ゴゴの横を通り過ぎる時に、物珍しそうに見物する子供がいたが。足を止める者は一人もいない。
  ゴゴが階段を下っていくと、それに合わせて子供達がついてくる。三メートルほど距離をとって、ぴったり後に続く姿は親カルガモの背中を追いかける雛を連想させる。
  一番後ろにいた子供が階段を下って床に立つのに合わせ、ゴゴの前からティナと桜ちゃん。それに桜ちゃんの両腕にしっかりと抱かれたミシディアうさぎのゼロの組み合わせがやって来た。
  「あの子の外傷は治したけど、心の傷はまだ治せない・・・。今はショックで話を聞ける状態じゃないの。雁夜の問題が片付いたらすぐに戻ってくるから、それまであの子をお願いね」
  「任せるゾイ」
  ティナを物真似するゴゴ、間桐臓硯を名乗りストラゴスの話し方を物真似するゴゴ。本質はどちらも同一人物でありながら、全く違う別人としてそれぞれ振る舞う。
  横をすり抜けながらティナは二言三言子供達に声をかけた。そして『ケーツハリー』の待つ甲板に向かい、足早に行ってしまう。
  桜ちゃんが慌ててその後を追いかけ、ゴゴはそんな桜ちゃんに声をかける。
  「いってらっしゃい、桜ちゃん」
  「いってきます――」
  間桐邸で共に暮らすようになってから何度も何度も何度も何度も繰り返されたやり取りだ。挨拶を交わし合う間には躊躇はなく、習慣として成り立った言葉のやり取りが互いの間を行き来する。
  少しだけ笑みを浮かべた桜ちゃんはすぐにティナの後を追いかける。三十秒と経たずに桜ちゃんが呼び出した『ケーツハリー』が再び空を待って雁夜の元に舞い降りるだろう。こうしてアインツベルンの森の心配はとりあえず消えたので、ようやく子供達の方の集中できる。
  ただし、何人かは緊張でがちがちになっており、震え過ぎて卒倒してもおかしくない者もいた。仕方ないので、話す前に桜ちゃんを救うためにやったある事を子供たちにもやろうと決めた。
  「アン、ジーノ、トレス、テトラ、ファフ、セクス、ナナ、ユイン――。手伝ってくれんか、ちょっと来てほしいゾイ。ノインはその子の傍におるのじゃ」
  カジノをそのまま持ってきたようなブラックジャック号の内装。ティナが抱きあげていた子供はその中の一室に寝かされているのだが、その部屋に向けて声をかける。
  すると一秒とおかずに部屋の扉が内側から開かれ、その中にいた沢山のモノが溢れだしてきた。
  「むぐむぐ?」
  「むぐ~」
  「むぐむぐ」
  「むぐ、むぐ~」
  「むぐっ?」
  現れた、というよりも。溢れた、という方が正しく、白い塊が続々飛び出してくる。それは間桐邸では馴染み深い生き物だが、自然界には存在しない神秘の生き物だった。
  青いマントを被り、先のとがった茶色い麦わら帽子をつけたウサギ。ただし頭の大きさは普通のウサギよりも倍近い大きさなので、見方を変えるとうさぎではない別種の生き物に見える。
  「こいつらはミシディアうさぎじゃ。ワシが怖いならこいつらを抱きしめるといいゾイ。もこもこふわふわ、柔らかくて中々気持ちいいゾイ」
  いきなり現れたうさぎっぽい生き物に驚く子供が大半だったが、足元から見上げてくるミシディアうさぎを見て、まず女の子がそっと腕を伸ばす。
  一人が動けば二人目が続き、三人目が動けば後は雪崩の様に広がっていく。
  中にはミシディアうさぎに触らない男の子もいたが、きっと毛並みのいい動物が嫌いなのだろう。重要なのは彼ら彼女らが聞ける体勢を作る事で、こちらの話が通じる状況があればそれでいい。
  あっという間に『ふれあい動物の森』のようになってしまい、大人向けのカジノを思わせるブラックジャック号の内装とは異なる空間が形成された。いきなりギュッと抱きしめる強者は居なかったが、それでも撫でて撫でて撫でて撫でて撫でて楽しそうに笑みを浮かべる子供が何人かいる。
  そのまま一分ほどミシディアうさぎに子供達を落ち着かせる役目を任せ、ゴゴは何も言わずにただジッと待つ。子供達がいたのは薄暗いアインツベルンの森の中だ。電灯の光も太陽の輝きも何一つなかったあの暗い場所に比べれば、ここは天国だろう。
  子供達は共に初対面のようだが、ミシディアうさぎを介して笑い合っている。
  そろそろいいか―――。ゴゴはそう思った。
  「これから色々説明するゾイ。皆、こっちを向いてくれんか」
  ゴゴは両手を叩いて、パン、パン、と音を出して注意を向けさせる。
  ミシディアうさぎを撫でるのに忙しかった子供は少し驚いていたが、大半は自分達が置かれている状況を教えてくれる大人の声に素直に反応する。何が起こっているのか知りたいと言う気持ちが子供達の顔の中に浮かんでいた。
  「まずお主らに起こった出来事を説明する前に大切な事を言っておくゾイ」
  そう言うと、ゴゴは『分身の術だ』と言った男の子二人の丁度中間に視線を向ける。
  ミシディアうさぎに撫でる為に子供達は床に腰を下ろしていたので、ゴゴからは見ると言うよりも見下ろすと言った感じになっていた。
  「そこの坊主――」
  「ぼ、僕?」
  「そうじゃ。お主、ワシの技を見て『分身の術』じゃと、そう言ったのう?」
  「う――うん」
  怒られるとでも思ったのか、言葉に力がない。
  「お主ワシの事を忍者と思うてないか?」
  「・・・違うの?」
  「違うゾイ。まずそこを勘違いしとる。確かにあれは『分身の術』と呼べるかもしれんが、ワシは忍者では無いゾイ。手裏剣は投げられる、黒装束も着れる、どこかに忍び込んで諜報活動もお手のもの。じゃが、ワシは忍者よりもっともっとすごいのじゃ」
  そう言いながらゴゴは胸を張る。
  本来ならば感情を乗せて話す必要も、それに合わせるリアクションを取る必要もないのだが、子供に説明する時には身振り手振りを合わせると効果的だとこの一年で知った。
  桜ちゃんと何度も何度も話した経験を生かし、ゴゴは続けた。
  「聞いて驚くがよい。何とこのワシ、『間桐臓硯』は魔法使いなのじゃ――」



[31538] 第15話 『ケイネス・エルメロイ・アーチボルトは衛宮切嗣と交戦する』
Name: マンガ男◆da666e53 ID:6a0d9b18
Date: 2012/09/22 16:37
  第15話 『ケイネス・エルメロイ・アーチボルトは衛宮切嗣と交戦する』



  ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆



  Side - ゴゴ




  アインツベルンの森の上空に滞空するブラックジャック号、その飛空艇から雁夜がつき落とされる一時間ほど前―――間桐邸で事は起こった。
 間桐邸に残ったものまね士ゴゴは思案する。アサシンの宝具、『妄想幻像ザバーニーヤ』によって分裂している自分自身と連携が取れると気付いたのはいつだろうか? と。
 おそらく間桐邸で使い始めた最初から『妄想幻像ザバーニーヤ』は本来の持ち主である英霊の使うそれとは別のモノに変質していたのだ。
 分裂した相手もまた自分であるが故に、改めて何をするか確認する必要がなかった。同一人物でありながらも『己が栄光の為でなくフォー・サムワンズ・グロウリー』で別人を装って言葉を交わしたから、心の中で自問自答する必要もなかった。
  だからこそ気付くのが遅れたのだが、現在、分裂した全てのゴゴは誰もが等しく同一であり、全ての思考が並列で繋がる『全にして個、個にして全』に近い状態である。これは物真似したアサシンの宝具の能力を超えた事象だ。
  その上で、ものまね士ゴゴは更に思案する。『ものまね士ゴゴ』が『物真似』の領域を超え、操れる事象に変質が起こったのはいつだろうか? と。
  おそらく鬼神、魔神、女神の力を―――元々はゴゴから分け与えられた三闘神の力を全て取り戻した時であろう。
  三闘神の力を我が物にしようとしたケフカ・パラッツォは破壊にのみ三闘神の意義を求めた。事実、三闘神とは破壊の神であり、互いが互いを封じ合わなければ星を一つ破壊してしまうほど、強大な力を有している。
  しかし三闘神の力とは―――ゴゴが本来持っていた力とは―――『与える』に本質があるのではないかとものまね士ゴゴは考える。
  かつての世界では三闘神と言う楔を失い、魔石は砕かれて全ての魔法が世界から姿を消した。実際はゴゴの中に全て戻って来ただけなのだが、その総力は星一つを破壊する力が可愛く思えるほど膨大だった。
  三闘神は、幻獣に、モンスターに、人々に、魔法という力を貸し与えて数千年維持してきた。
  星に生きる者達に力を分け与え、それを数千年続けさせた。それが『力』としてゴゴと言う存在の中に戻って来た時、『ものまね士ゴゴ』はものまね士ゴゴだけではなくなってしまったのではないか。
  ものまね士ゴゴは確かに自分と言う存在を定着させる一つの名前であり、何者でもなかった自分が『ゴゴ』という名前で一つの存在になれた喜びでもある。だが『力』を取り戻した時にそれだけではなくなった。
  ものまね士ゴゴとしての在り方を維持しながら、内包する力は桁外れに膨れ上がった。きっとその時、『ものまね士ゴゴ』は変質してしまったのだ。
  扱う力もまたその影響を受け、本来であれば物真似の範疇に収まっていた起こせる事象に変化が現れてしまった。
  これはもう『物真似』ではない。基本的に誰かの起こした現象に対する『物真似』で現象をそのまま再現できるが、それを変質させて全く別の何かに作り替える事も可能になってしまった。
  あえて言えば『創造』が近い。
  当初、桜ちゃんの属性『架空元素・虚数』のものまねで変質が起こったのかと考えたが、出会う以前にものまね士ゴゴは既に別のモノになっていた。
  ものまね士ゴゴはもっと思案する。現状を喜ぶべきなのか? 悲しむべきなのか? と。
  ゴゴは無知故にものまねを繰り返し、恐れ故にものまねを繰り返した。孤独ゆえにものまねを繰り返した。
  自分と言う存在が何者であるかを知る為に、自分が何であるかを知る為の指標として物真似に答えの道しるべを求めた。
  その結果が今であり、ものまね士ゴゴが誕生して、別のモノになってしまった。
  何も分からず、唐突に存在のみを許された自分が多くの事柄を行えるようになったのは喜ぶべきだろう。
  しかしこれまで積み上げてきたものまね士ゴゴとしての証が『莫大な力』というただそれだけで否定されてしまった気がするのは悲しむべきだろう。
  意思ある者が動く時、目的があり、仮定があり、原因があり、思惑があり、存在がある。ゴゴはものまね士として目的を定め、その経過を物真似によって成そうと行動してきた。
  ものまね士であるのならば、『物真似』こそが本来行うべき事象だ。しかしその在り方を『力』を取り戻したゴゴが自ら破壊している。
  ものまね士ゴゴは思案する。
  ものまね士ゴゴは熟考する。
  ものまね士ゴゴは考慮する。
  ものまね士ゴゴは憂慮する。
  ものまね士ゴゴは問いかける。間桐邸でマッシュ・レネ・フィガロの姿をした自分自身に問いかける。
  「気付かなかった俺を馬鹿だと笑うか?」
  「元々、お前の『物真似』は常識じゃ計れなかった。ダンカン師匠は俺に夢幻闘舞を授けてくれたけど、あの必殺技は俺が師匠の癖をよく知ってるからこそ会得できたんだ。それなのにお前は見ただけで物真似しやがった。威力は俺の方が上かもしれないが、正直、格闘家として嫉妬したぜ。言わせてもらえば、軽々と新しい技に発展させられるのを羨ましく思ってるよ」
  エドガー・ロニ・フィガロの姿をした自分にも問いかける。
  「それでもこれは『ものまね』じゃない、ものまね士ゴゴが使うべき技じゃない。そう思わないか?」
  「大抵のモノは先人達の積み重ねの上に成り立ってる。俺だって親父からフィガロ王国を受け継いだだけで、一から国を作った訳じゃない。同じモノだったとしても誰かに引き継がれた時点でそれは違うモノだと俺は思うがね。さっきマッシュが言った『夢幻闘舞』を例にすれば、お前の夢幻闘舞がマッシュの夢幻闘舞を物真似したとしても、それは同じモノじゃない、物真似した時点で別物さ」
  ものまね士ゴゴは自問自答を繰り返す。
  間桐邸で物真似の尺度を乗り越えてしまった存在は『ものまね士ゴゴ』として自分に問いかける。
  今の自分は正しいのかと訴える。
  「『ものまね』は『同じ』じゃない、か?」
  「全く同じならそれはもう『ものまね』じゃない、違うからこそ物真似は成り立つんだよ」
  「ものまね士ゴゴが使えるようになった技はもうお前だけの技になった。それに『自分が何者か?』と問い続けるなら、絶対に『他人とは違う自分の道』が必要になるぞ」
  「兄貴の言うとおりだ。ダンカン師匠は強くなる方法を俺に教えてくれたが、猿真似しろとは言わなかった。自分の技を作り上げろ、そう言ってたな」
  「ものまね士ゴゴの――『物真似』した技もそこから発展させた技も、等しくものまね士ゴゴの技か・・・」
  「こだわり過ぎるなよ、ゴゴ」
  「そう言う事だ、あんまり悩み過ぎるとレディに嫌われるぞ」
  目の前に立つマッシュもエドガーも本人ではなく、ゴゴがそう見せかけているだけの偽りに過ぎない。それに話している言葉すらゴゴと言う総体の一つであり、改めて言葉にする必要もなく、何を言うかなど判り切っている。
  自分の頭の中で問いかけるのと何も変わらない。
  それでもかつての仲間の姿でそう言われると、少しだけ心が洗われる。
  マッシュとエドガーの姿をした自分がものまね士ゴゴに向けて言ってきた。
  「俺達の技は敵がいて初めて成り立つ、せっかく聖杯戦争なんて物騒な催しがあるんだ。色々試そうぜ」
  「俺の仲間はただの『物真似』に収まる程度の『ものまね士ゴゴ』じゃなかったぞ、ここで立ち止まるなんてみっともない真似はするなよ」
  もっと大きく、広く、沢山の技を物真似して昇華しろ―――。
  結局、自分が何者であるかと言う根本的な結論には殆ど近づけていないが、それでも『ものまね以上の技を使う何者か』でも構わないという結論に落ち着いていく。それでいい、構わない、そう思えるだけで心は軽くなる。
  莫大な力を取り戻したものまね士ゴゴ以上の何者か。ものまね士ゴゴではあるが、それ以上でもある誰か。
  それは小さな答えであり、謎が更に広まった事でもあるのだが、その回答にたどり着いた瞬間。目の前に立つマッシュとエドガーの姿が消えて、間桐邸の部屋の中に三人のものまね士ゴゴが並ぶ。
 『己が栄光の為でなくフォー・サムワンズ・グロウリー』を解除したこれが自分。
  この姿が自分。
  この形が自分。
  これこそが自分。
  ものまね士ゴゴの形に定着しながら、決してそれだけではない存在。もっと大きな存在。もっと別の存在。
  それでも『ものまね士ゴゴ』は一度『桜ちゃんを救う』と決めた。ならばそれをやり遂げなければならない。たとえ、『物真似』の範疇を超えた多くの技を扱おうとも、それでもいいと自らを定めた。
  むしろ、多くを知る為に、多くを得る為に、多くをものまねして、多くを試さなければならない。今まで以上に―――、この一年で溜まりに溜まった鬱憤を晴らすように―――、もっともっともっともっと行動を起こさねばならない。
  「俺は、ゴゴ。ずっとものまねをして生きてきた」
  「俺は今、『間桐臓硯』として、沢山の人間を騙してる」
  「ならばもっと多くの技を使って『間桐臓硯』を物真似してみるとしよう」
  三人のゴゴがそれぞれ言った。





  ゴゴの中にある膨大な魔力を別の形で現界させる為の技術。それこそが101匹ミシディアうさぎを作り出した『スケッチ』であり、今は桜ちゃんの使い魔となったゼロを呼んだ『スロット』であり、雁夜をたった一年で戦士にまで鍛え上げた『魔石』なのだ。
  少し考えれば、かつての世界で使っていた『スケッチ』『スロット』との違いに気づき、自分が勘違いしていた事を思い知れた筈。いや、むしろその自分の変化を認めるのが怖くて、『ものまね士ゴゴ』である自分を否定するのが恐ろしくて、一年間、目を背け続けたのかもしれない。
  しかし一時の答えを得て、ものまね士ゴゴを制限していた楔が一つ外れる。
  結果、ゴゴは『間桐臓硯』として振る舞う為に、ものまねして得た技から全く別の結果を作り出す。
  本来であれば『スケッチ』は戦闘時において対象となる敵をスケッチして、幻影を具現化させて攻撃させるモノだ。ゴゴはこの『敵』という括りを外し、『幻影』を更に実体に近づける為、注ぎ込む魔力の量を増やす事でミシディアうさぎを大量に生みだした。
  つまり一年も前に既にゴゴは『ものまね士』としての領分を乗り越えてしまっていたと回答を得られていたのだ。ただ考えなかっただけで―――。
 『己が栄光の為でなくフォー・サムワンズ・グロウリー』を解除した為、間桐邸に残った三人のものまね士ゴゴは全員が元の姿に戻っている。ファッションと呼ぶには少し奇抜すぎる用途不明な鳥の尾羽に片方だけの角。道化師を思わせる姿は一度見たら忘れられない衣装は強烈な色彩を放っている。
  だがゴゴにとってそれは慣れ親しんだ自分自身の姿。たとえ鏡を介して映した訳ではないのに、当人そのものが目の前に立っていたとしても、それは間違いなく自分なのだ。
  「――スケッチ」
  その『ものまね士ゴゴ』を自分で描く。
  本来の用途とは異なる『ものまね』を実行し、スケッチブックの上に自分が描かれていく。
 ただし、真に自分の分身を生み出すのでは、アサシンの宝具『妄想幻像ザバーニーヤ』と何も変わらない。それでは興醒めだ。
  同じであっては困るので、込める魔力を極小に―――正しくオリジナルコマンド『スケッチ』が本来なすべき用途で、ただし全く別物の『スケッチ』で幻影を作り出していく。
  「・・・・・・・・・」
  五秒ほどかけて目の前に立つ自分を描いた結果、間桐邸の中に四人目のものまね士ゴゴが誕生した。しかしこれは幻影に過ぎず、自分がそこに居るように見せかけるだけの張りぼてでしかない。魔力供給を止めてしまえば消えてしまう現の夢だ。
  それでも『スケッチ』を更に幅広いものへと変えて行った成果だ。上々の結果と言える。
  世の中には監視カメラという、自分がその場に居なくても出来事を映像として捕えられる機械がある。世の中には電話という、自分がその場に居なくても声を届けられる機械がある。そして魔術の中には使い魔と五感を同調させて術者がそこにいるように錯覚させる技術がある。
  ミシディアうさぎとものまね士ゴゴとの繋がりがある。桜ちゃんとミシディアうさぎのゼロとの間に繋がりがある。雁夜でさえ、ミシディアうさぎを介して繋がりを作り出した。ならばものまね士ゴゴが自分の幻影との間に繋がりを作れない筈がない。
  間桐雁夜と遠坂桜、そして沢山のミシディアうさぎと一緒に居るゴゴ。
  間桐邸に残り、拠点に残る間桐臓硯で振る舞うゴゴ。
  カイエン・ガラモンドとして冬木市を闊歩するゴゴ。
  セッツァー・ギャッビアーニとして、ガウとして、モグとして、ウーマロとして、遥か彼方のドイツへと向かっているゴゴ。
  その全てと繋がっているのならば、今更一つ増えた所で大した意味は無い。故に幻影として新たに存在を確立させたゴゴを操って行動を開始する。



  ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆



  Side - ケイネス・エルメロイ・アーチボルト





  ケイネスがキャスター討伐よりもアインツベルン強襲を優先したのはそれなりの訳がある。
  自分が使い魔を通して追跡していキャスターを横から掻っ攫われるのは気分が良くない。加えて監督役の申し出にあった『キャスターを討伐した者には令呪一画』という報償にも心動かされたのは事実。それでもキャスターを素通りしてアインツベルンの城に攻撃を仕掛けたのは、自分が今すべきことの優先順位の最も上にあるモノが何であるかを再確認したからに他ならない。
  冬木ハイアットホテルを破壊された今、ケイネスの婚約者であるソラウに生活苦を与えてしまっている。
  だからこそ、何よりもまず―――失った令呪一画や自分の苛立ちよりも、まずソラウの為に行動を起こさねばならない。そう結論に至った時、ケイネスはキャスターの問題と後回しにした。
 ランサーは子供達を殺そうとするキャスターに我慢がならず、言わずとも判る『あるじよ、私にキャスター討伐をお命じ下さい』という雰囲気を醸し出しているのだが、極東の島国の子供の命がいくつ消えようとケイネスには関係ない。
  それに監督役は『互いの戦闘行動を中断し』と宣言してきたが、聖杯戦争の参加者はその言葉に従う義理は無い。そもそも、キャスター討伐の報償については明言されているが、積極的に参加しない場合の罰については何もないのだ。ケイネスにとってそれだけで戦闘行動を中断しない理由は無くなる。
  そしてこれも重要な事なのだが、ケイネスはソラウに語り聞かせた言葉を事実として証明しなければならない立場にいる。


  「貴様は一度ならず二度までもセイバーを圧倒しておきながら二度とも決め手を逃した。この私の令呪を一つ削いだ上でも、なお、だ」


  「あれはとりわけ強力なサーヴァントだ。総合力ではディルムッドを凌いで余りある。あの場で、着実に倒せる好機を逃すわけにはいかなかった!」


  そうソラウに語り聞かせた言葉を確固たる形で証明する為にも、まずセイバーを倒さねばならない。
 もしセイバーが万全の状態であったならば、わざわざアインツベルンの城の中にいるであろうセイバーの前に姿を見せようとは思わなかった。だが、今のセイバーはランサーの必滅の黄薔薇ゲイ・ボウによって片腕に大きな制限をかけられており、真正面から戦えばランサーに分がある。
 加えて自分の魔術礼装、『月霊髄液ヴォールメン・ハイドラグラム』を使えば、セイバーのマスターが戦いに加わったとしても負けは無い。ケイネスはそう戦況を読んだ。
  厄介なのはアインツベルンの森に張り巡らされた結界だったが、かつて冬木ハイアットホテルのフロア一つ丸ごと借り切って作り上げた自分の結界に比べれば、お粗末かつ穴も多い。
  これが始まりの御三家と謳われるアインツベルンの本気であるならば興醒めもいい所である。むしろ幾つかある結界の穴が『誘い込ませる為』だと願いながら、ケイネスはアインツベルンの城を目指した。聖杯戦争は魔術師と魔術師の戦いであり、自分の腕を存分に披露する場でなければならない。
  その為に倒すべき敵は強大でなければならないのだ。格下の魔術師相手に勝つ等と当たり前の事をやり遂げても、ケイネスにとっては何の意味もないのだから―――。
  当初はキャスター陣営とセイバー陣営の戦いの趨勢を見極めてから仕掛けるつもりだったが、間桐陣営が―――正確にはバーサーカーがキャスターの相手をし始めたのを使い魔の目を通して確認した後、アインツベルンへの攻撃が確定した。
  ランサーの宝具がバーサーカーの『どんな物でも手にした物を宝具とする』その能力に非常に有効であるのはケイネスも認めている。ならばセイバーを倒し、この城を新たな拠点とした後に改めて間桐陣営を排せばいい。キャスターの方が生き残ったならば、そちらも改めて殺すだけだ。
  ランサーを含めて四体のサーヴァントが集まった新たな戦場。ここでケイネスがまず倒すべき相手はセイバー陣営だ。
  ケイネスはいっそ無造作とも言える歩みでアインツベルンの森の中を歩き、一直線に結界の基点を目指す。キャスターの戦場に遭遇しないように通る場所を選び、進んだ先にあったのは石造りの巨大な城だった。
  おそらくは聖杯戦争が始まった時よりこのアインツベルンの森の中で時を刻み続ける城、冬木市の中でも個人の住居としてこれに比較する建造物は無いだろう。ただし、アーチボルト家の御曹司であるケイネスにとっては物珍しい建造物ではない。歴史はあるだろうがそれだけだ。
  遮蔽物であり結界の一部でもあった木がなくなって視界は開かれている、左右を見渡せば城が一望できたので、ケイネスはアインツベルンの城をじっくり見つめ―――、この拠点ならばソウラに苦労をかけないで済みそうだ。と満足する。
  拠点として自分が使う為にも、建物の破壊は最小限に抑えなければならない。
  ケイネスの斜め後方には実体化したランサーが控えており、敵の襲撃や結界の罠が発動すればすぐ対処できるように身構えている。けれど、ケイネスにとってセイバー陣営への強襲は魔術師としての自分を腕前を披露する為の場であり、サーヴァントがではなくマスターが敵の拠点を奪ったと言う状況を作る為の餌だ。
  もちろんセイバーの相手はランサーに任せるが、アインツベルンのマスターと対峙して屈服させるのはあくまでケイネス当人でなければならない。今もケイネスの耳に、冬木ハイアットホテルでソラウから言われた言葉が残っている。


  「どうして貴方、セイバーのマスターを放っておいたの? あんなに無防備に突っ立ていたアインツベルンの女。ランサーがセイバーを引きつけている隙に、貴方は敵のマスターを攻撃できたんじゃなくて? なのに貴方がしたことはといえば・・・最後までただ隠れて見てただけ。情けないったらありゃあしない」


  他の何よりもまず―――ケイネスはソラウの事を優先させる。だからアインツベルンの城の大きさに満足しつつ、小脇に抱えてきた陶磁製の大瓶を地面に置いた。
  軽く持ち運んでいる様に見えるかもしれないが、その重さは実に140キロ。ケイネスが使う魔術の一つで『重量軽減の術』をかけなければ持ち歩くのは不可能な重さである。
 「沸き立てFervor,我がmei 血潮Sanguis――」
  ケイネスが呪文を唱えると、大瓶からドロリと銀色の液体―――水銀が姿を見せて外に溢れだす。
 「自律Automatoportum 防御defensio自動Automatoportum 索敵quaerere指定Dilectus 攻撃incursio――」
  続けて呪文を重ねて行くと、液体は大瓶の中におさまっていた流動的な液体から、全く別の形を成していく。一言で言えばそれは銀色の楕円を形作り、ケイネスの足元に跪くように展開されて、中型犬ほどの大きさを維持した。
  形状から人によっては『可愛い』と思える代物かもしれない。
 だが、これこそが冬木ハイアットホテルでケイネスの命を救った魔術礼装であり、ケイネスが持つ数ある礼装の中でも最強の名を冠する逸品。魔術師として稀有な『水』と『風』の二重属性を持つケイネスが得意とする流体操作の術式。その粋を究めて作り出した魔術礼装『月霊髄液ヴォールメン・ハイドラグラム』だ。
  形を持たぬ液体であるが故に水銀は自由自在に姿を変える。矛にもなる、盾にもなる、剣にもなる、壁にもなる。ケイネスの魔力によって何にでもなるそれを率いて前に進む。
 歪な球形の水銀はケイネスの後をしっかりついて来て、前から見れば月霊髄液ヴォールメン・ハイドラグラムとランサーを両側に従えている様に見える筈。
  「ランサー」
  「──は」
  「貴様の騎士の誇りにとやらに賭けて、今度こそセイバーを殺せ」
  似た問答は冬木ハイアットホテルで既に行っているので、あの時に比べればランサーに向ける怒りは幾ばくか少ない。だが決して無くなった訳ではなく苛立ちは怒声に似た言葉となって背後に控えるサーヴァントに向けられる。
  それでもかつての状況を繰り返さなかったのは敵の姿がすぐそこにある事と、ソラウの為に一秒でも早く結果を作り出さなければならないからだ。
  ここでランサーへの怒りを言葉にして浴びせかけても何の意味もない。
  「必ずや、あのセイバーの首級を御約束いたします」
  そう返すランサーにケイネスは何も言わなかった。ケイネスにとってランサーが残る六人のサーヴァントを全てを斬り伏せる事は契約を結んだ時に定められた聖杯戦争の大前提だ。故に、セイバーを倒すなど当たり前に起こる未来であり、予定調和の中のほんの一幕に過ぎない。
  ランサーが倉庫街の戦いでセイバーとの戦いを愉しみなどしなければ、そもそもこんな状況には陥らなかった。
  もう一度それを言葉にしてランサーにぶつけたい衝動にかられたが、優先すべきはセイバー陣営の打倒であり、目の前にあるアインツベルンの城を新たな拠点とする事だ。
 更に大きく一歩踏み出し、ケイネスは月霊髄液ヴォールメン・ハイドラグラムに命じた。次の瞬間、鞭のように唸りを上げた超高速の一撃が城の扉を閂ごと破壊する。
  ケイネスは戦いを開始した。
  全てはソラウへの愛ゆえに―――。



  ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆



  Side - 衛宮切嗣



  「アーチボルト家九代目頭首、ケイネス・エルメロイがここに推参仕る。アインツベルンの魔術師よ! 求める聖杯に命と誇りを賭して、いざ尋常に立ち会うがいい!」
  セイバーとアイリが出迎えるホールの扉が轟音と共に崩れ落ち、土煙が収まる前にその中から三つの影が姿を見せる。
 先頭に立つのは堂々と名乗りを上げた時計塔からやって来たケイネス・エルメロイ・アーチボルト。そして彼のサーヴァントであり、倉庫街でセイバーに手傷を負わせたランサー、今は二槍の宝具、破魔の紅薔薇ゲイ・ジャルグ必滅の黄薔薇ゲイ・ボウをそれぞれを両手に持っており、臨戦態勢を整えている。そして最後に目に入ったのは銀色に輝く楕円の塊だった、大きさはケイネスの太もも程の高さだ。
  切嗣はその様子をアイリの後ろ側―――つまりはホールに至る通路の壁から目視で確認し、同時にホールの階段上でケイネスを待ち構えているセイバーとアイリの両名の背中も見た。
 踊り場に立つセイバーは既に風王結界インビジブル・エアで聖剣を隠し、ダークスーツから白銀の鎧へと武装を変えている。その隣に並び立つアイリが事前に打ち合わせた通りの言葉をランサーのマスターに向けて言い放つ。
  「始まりの御三家が一角。セイバーのマスターにして今代の聖杯の守り手。アイリスフィール・フォン・アインツベルンが受けて立ちましょう」
  気品を漂わせながらも、何の躊躇いなく堂々と言う姿はまさしく『姫君』に相応しく、騎士として守るセイバーと合わせてみれば物語の一幕の様な光景だった。
  背中しか見えずとも二人の組み合わせの良さが判る。だが、そんな美しさすら感じる光景など切嗣にとっては何の意味もない。
  ケイネスの視線が間違いなくアイリに向けられている事を確認すると、切嗣は手の中にあったスイッチ―――、クレイモア対人地雷と呼ばれる残忍な設置式爆弾の起爆ボタンを押した。
  炸薬の破裂によって直径1.2ミリの鋼鉄球を扇状に、しかも700個あまりの膨大な数を撒き散らす兵器だ。それが広いホールの四隅にそれとなく配置された四つの花瓶から中央にいるケイネスにめがけて一斉に放たれる。
  鳴り響く轟音。
  標的は避ける間もなく極小の鋼鉄球の嵐を喰らい、人の体を粉微塵へと作り変えるだろう。ただし、それは敵が普通の人間だったならば、だ。
  クレイモア対人地雷が鋼鉄球を放つと同時にケイネスの足元にあった銀色の塊が形を変えて、彼の周囲を円形に覆い尽くしたのだ。切嗣はその瞬間を目で確認できなかったが、合計2800発の鋼鉄球の嵐が止むと同時にそこに現れた銀色の球体を見て『防がれた』と理解する。
  切嗣は起こった事象から敵の魔術礼装を分析し、人の反射神経では防げない超速の攻撃を『自律防御』で防いだと読む。予め術式を設定すれば、迫り来るすべての攻撃に対して防御するのは難しくない。
  そして手に持つ武器が何もない所を見ると、扉を破壊したのはランサーではなくあの銀色の塊である事は間違いないだろう。あの魔術礼装は攻撃と防御を共に行える兵器なのだ。
  ランサーはその銀色の球体の外にいたが、サーヴァントは元々霊体なので通常攻撃は効果が無い。設置されたクレイモア対人地雷が何らかの概念武装だったならば話は変わるが、あれはただの兵器でランサーに手傷を負わせられる効果は無い。
  銀色の防御膜が解かれてケイネスが再び姿を現した時、攻撃の余波でホールのあちこちに大小様々な破壊跡が刻まれていた。壊した扉の前に立つケイネスとランサー、そして銀色の球体の構図は変わっていない。全員、無傷だ。
  「切嗣っ!!」
  事前にアイリには重火器による攻撃をしかけると説明していたが、まさか口上を述べるタイミングで実行されるとは思っていなかったのだろう。後ろを振り返り、攻めるような顔でこちらを見ている。セイバーもまた自分の戦い方を責めたいのだろうが、生憎とすぐ目の前にサーヴァントがいて隙は見せられないのでセイバーは振り返れない。
  アイリが伏兵の存在を敵に知らしめるのは汚点でしかない。そういう意味ではアイリスフィール・フォン・アインツベルンは正しく『姫君』であり、『戦士』ではなかった。
  ただしそうやってアイリが切嗣の存在を敵に教えてしまう事もまた予測の範囲内であり、切嗣は自分が持つキャレコ短機関銃を見せびらかすように掲げつつ、物陰からゆっくり姿を見せる。
  そしてケイネスがこちらを見ている事を確認した後、アイリに向けて言い放った。
  「――僕が依頼されたのは『他のマスターの抹殺』だ、君たちは君たちで勝手に戦えばいい。それに僕の依頼主はアハト翁であって君じゃない、僕のやり方に口出ししないでもらえるかな?」
  暗に協力関係は無いと言いながらも、アインツベルンと言う枠組みの中では間違いなくアイリと切嗣は協力者であるとケイネスに教える。
  あえて自分が敵陣営の一人であるとほのめかすと、悠然と佇むケイネスの顔が少しだけ怒りで歪んだ。
  「聖杯戦争でこのような機械仕掛けのカラクリの力を借りるとは――。そこまで堕ちたか、アインツベルン!!」
  おそらくケイネスはクレイモア対人地雷の攻撃と自分が持っているキャレコ短機関銃で、冬木ハイアットホテルを爆破したのが切嗣であると見抜いただろう。
  魔術礼装も銃もまた等しく『武器』の括りでありながら科学を軽視する魔術師の思考そのままだ。切嗣はケイネスが攻撃ではなく言葉によりこちらを威嚇してきたのを喜びながら、表向きは表情を変えずに淡々と言ってのける。
  それはケイネスの意識を完全に切嗣一人に向けさせる魔法の言葉だった。
  「傷一つ無いとは大した礼装だな――、魔術師。それのおかげであの高さから落ちて無事だったのか」
  単なる錯覚だろうが、切嗣がそう言った次の瞬間。ケイネスの方からブチンッ! と何かが切れる音が聞こえた気がした。
  時計塔の教職についているとは言え、イギリス人であるケイネスが日本のことわざなど知らぬだろう。それでもケイネスは今、『堪忍袋の緒が切れた』を体現してみせたのだ。無論、切嗣の勝手な想像だが。
  わざわざ教えてやる必要などないのだが、これで自慢の工房をホテルごと爆破した犯人が切嗣だと完全に理解したに違いない。
  「宜しい。ならばこれは決闘ではなく誅罰だ!」
  切嗣の確信を裏付けるように、ケイネスが朗々と語る。
  「仮にも魔術の薫陶を受けながら、下賎な小細工に頼る卑劣漢めが。死んで身の程を弁えろ」
  ケイネスの意識がこちらに向いた事を確認すると、切嗣はまだこちらを睨んでいるアイリに背を向けて城の奥に向けて駆けだした。
  アイリをあの場に放置する危険性は重々承知しているし、セイバーだけではケイネスとランサーの組み合わせを相手にするには力不足だと判っていた。それでも、事前に仕入れた情報から名門アーチボルト家の家風を引き継いでいる魔術師のプライドの高さを刺激してやれば、ケイネスの意識を切嗣だけに向けさせられると踏んだ。
  聖杯戦争に限らず、『戦い』とは単なる力と力をぶつけ合うものではない。多くの情報と多くの選択肢、それらの中から最善を導き出して、敵の命を奪う事なのだ。
  その辺りをあの魔術師は判っていない。
  「あのネズミを殺したら次は貴女の番だマダム。精々、少ない余生を楽しむといい」
  背後から小さく聞こえてくるケイネスの声を聞き取った瞬間、切嗣はケイネスが戦士として二流以下だと判断する。
  敵を前にしながら攻撃せず、前後から挟み打ちされる危険性をそのまま残す馬鹿がいたようだ。
  「ランサー、その女は殺すな。聖杯の器の持ち主だ、『器』の場所を秘されたまま死なれては面倒だからな」
  「はっ!」
  そんな話し声が聞こえた。





  ホールから早足で移動を開始して、幾つか角をまがった後。切嗣はスーツの内側からインカムを取りだして装着し、別の場所に陣取っている舞弥へと呼びかける。
  「状況は?」
  「ランサーのマスターは二人を素通りして貴方を追っています、ランサーはホールにてセイバーと交戦状態に入りました」
  「予定通りか」
  舞弥の声が教える情報はほぼ切嗣が思い描いた予測そのままだ。ランサー陣営は気付いていないだろうが、サーヴァント対サーヴァント、マスター対マスターの構図を作り出している。
  現在、舞弥はケイネスがやって来た方向とは別の場所―――アインツベルンの城の外に並び立つ木々の影に潜んでおり、外からアインツベルンの城の情報を切嗣に送っている。
  もっとも、外側から城の中を見通すのには限界があって、ホールや通路の様子は予め設置しておいたCCDカメラや聞こえてくる音からの予測となる。現場にいる当人たちよりもどうしても情報の精度は落ちてしまう。
  加えて、舞弥に渡してある折り畳み式ラップトップ式のコンピュータにはCCDカメラからの映像が常に送られるが、コンピュータを開いて画面を覗き込む時は画面の明かりが外に漏れて、舞弥の居場所を察知される危険を増やしている。
  もっと時間があれば、隠密の為に時間を費やせて、舞弥を完全に隠した状態で出迎えられたのだが、今は舞弥が上手く隠れている事を願うしかない。
  状況に応じて、外部からの狙撃でケイネスを暗殺する事も考慮したが、あの魔術礼装がある限り視覚外からの攻撃も無意味となる。今の所、舞弥には情報収集を徹底させるしかない。
  「引き続き状況を監視して、異常があれば伝えろ」
  「了解」
  状況はあまり芳しくないが、切嗣の中に不安はなかった。
  銀色の魔術礼装―――ケイネスの魔術属性を考えるにおそらく水銀を操っていると思われるその姿は、これまで『魔術師殺し』の衛宮切嗣が殺してきた魔術師と何も変わらないからだ。
  誰もが自分の操る魔術を最上のモノと思っており、こちらが重火器で攻撃すれば魔術と科学の間に存在する強固な壁を意識して、こちらを格下と決めつける。
  一度防げば調子に乗り、二度防げば自分の優位を疑わない、三度防げば完全にこちらを見くびってくれる。戦術としては最も貧弱に見えるアイリから始末するのがこの場での最良の戦い方だと言うのに、魔術師はそれをしない。ケイネスもそうだった。
  弱い者から殺すのは兵法の基本なのに、後でも出来るからと自分の感情をまず優先させるのだ。今のケイネスの行動はこれまで切嗣が殺してきた魔術師たちのパターンから何一つ外れていない。
  それはつまり『魔術師殺し』の必勝パターンに見事にはまってくれたと言う事。切嗣よりも先にアイリが攻撃された場合の備えもしていたが、どうやら杞憂に終わったようだ。
  セイバーがランサーの足止めをしている隙にマスターを殺す。間桐とキャスターの戦いは今だ未知数だが、アインツベルンの城の中での戦いは全て手の中に収まるだろう。まずは手中の問題から片づける。
  切嗣は頭の中で城の見取り図を検討しながら、獲物を殺す最良の場所へとケイネスを引きずり込む算段を立て始めた。



  ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆



  Side - ???





  声が聞こえた。

  「無様だな雁夜。もう少し上手く戦えなかったのか? 限界ぎりぎりの戦いに挑むのはいいが、魔力消耗を計算に入れずにバーサーカーへ供給する魔力も底をつくなんて馬鹿としか言えないぞ。あそこでキャスターが退かなかったらバーサーカーごとやられてたか、バーサーカーに魔力を吸い尽くされて廃人になってたな」
  「やかましい! 言われなくたって自分の失敗ぐらいよく判ってんだよ。『ブリザガ』の魔力消耗があんなに大きいと思わなかった・・・。訓練の時はもっと少なかったからキャスターに一太刀浴びせるまではもつと思ったんだよ」
  「実戦で力を入れ過ぎて込める魔力の調整に失敗したな。表向き平常心を装いながらも、殺し合いで急いた結果だ」
  「雁夜を責めないで。あの状況でよくやったと思うわ」
  「お前もゴゴだろうが! 紛らわしいからその姿とその声で喋るのは辞めてくれ――、頭が混乱しそうだ」

  聞こえるけど判らない。

  「確かに私の本質は『ものまね士ゴゴ』だけど、今の私は『ティナ・ブランフォード』でもあるの。だから別人として扱って」
  「無理だ!」
  「女を前にすると別人だな雁夜。確かに『誓いのヴェール』と『ミネルバビスチェ』の組み合わせは目の毒だが、殺し合いの熱気にやられて発情したか? 戦場では性欲が溜まりやすく、本能剥き出しの性行為になるらしいが、そうなってるのか?」
  「ゴゴ、桜ちゃんの前で変な事言うな! 同じゴゴから別々の説得って・・・、どんな拷問だこれは」

  聞こえるのに聞こえない。

  「桜ちゃん。別におじさんはそこのティナの色気に参ったんじゃなくて、正体がゴゴなのに見た目女性で女言葉を話すのがおかしいと思ってるだけだからね。本当だよ」
  「浮気した時の弁解みたいだな、雁夜」
  「横から余計な事を言うな!」
  「雁夜おじさん・・・」

  何を言ってるのか判らない。

  「皆を助けてくれて、ありがとう――」
  「桜ちゃんの頼みだからね。おじさんに出来る事なら何だってするよ」
  「子供達を助けたのは桜ちゃんだがな」
  「だから余計な事を言うな! ここは黙って俺と桜ちゃんの話を聞く場面だろうが!!」
  「事実を曲解するのは良くないぞ雁夜。お前だって桜ちゃんに助けられたからこそ、こうしてブラックジャック号まで戻ってこれた」

  どうして聞こえるのかも判らない。

  「・・・・・・子供達は大丈夫なのか?」
  「全員は眠ってるだけよ。もうしばらくしたら起きるから心配しないで」
  「どうにもティナと話すと調子が狂う。同じゴゴだからだな、面倒な」
  「慣れろ」

  それでも、近くに誰かが居るのは判る。

  「俺はてっきりお前が子供達に事情を説明してるんだとばかり思ってた。戻ってみたら皆寝てるから何があったのかと思ったぞ」
  「途中までは話をちゃんと聞いてたんだがな、安全だと判ると途端に図々しくなって話を聞かなくなった。女の子の方は良かったんだが、男の子の方が『魔法を見せろ』と言うからバトルフィールドを張って一発使ったら、威力に目を回したぞ」
  「・・・・・・何を使った?」
  「『レベル4フレア』だ、都合よく誰にもダメージを与えられない状況だったから、向けて撃ってやったんだが、爆発した瞬間に倒れて寝た。殺せない魔法で『グラビガ』にしようか迷ったんだが、『レベル4フレア』なら痛みは無い」
  「子供に向かって何してやがるこの野郎! せめて『ファイア』を誰もいない場所に撃つ位にしておけ!!」

  すぐ傍に誰かが居る。

  「女の子は男の子が倒れたのを見て半狂乱。下手をすると甲板まで上がってブラックジャック号から飛びおりそうな雰囲気だったからな、『スリプル』で眠らせた」
  「だから皆寝てるのか・・・・・・」
  「魔法使いの存在については懐疑的だったが、お前に助けられた事は感謝してたぞ。よかったな雁夜」
  「あれを見ると複雑な気分だ。集団昏倒なんて見るもんじゃない」
  「でも雁夜おじさんのおかげで助かったんだよ」
  「桜ちゃんは優しいなぁ・・・」

  声が聞こえる、誰かが喋ってる。

  「あとの問題はその子か――」
  「体の傷は治したわ。余程怖かったのか・・・、起きてるのに目覚めようとしない――」
  「普通だったら聖杯戦争に関わった一般人は教会に預けて記憶処理が施される。あっちの子供達は後で璃正神父の所に連れて行って後始末は任せよう。『間桐臓硯』はまだ間桐邸に居る事になってるから、雁夜とティナで行ってくれ」
  「だったらわざわざ説明しなくても、魔法を見せる必要もなかったんじゃないか?」
  「子供の知的好奇心は成長に必要不可欠だからな。記憶は消されても魔法――いや、魔術に対する恐怖が刷り込まれたら二度と関わろうとはしないだろ。危ないと思ったら逃げてくれる大人になるといいな」

  話している。語っている。

  「『ケーツハリー』が聖堂教会に知られると面倒だが仕方ないと割り切るぞ。何か言われたら『新しく手に入れた力』とでも言って誤魔化しておけ」
  「聖杯戦争の間はそれでいいかもしれないが、後が面倒になるな――」
  「今更だぞ雁夜。もう聖堂教会は『間桐臓硯』が何かしらの新しい力を手に入れた事を掴んでる。ほんの少しだけ小出しにして意識を誘導させないと、力任せで全部暴こうなんて無茶をやりかねないぞ、人の欲には際限がない」
  「それじゃあ私と一緒に子供達を連れて行きましょう」
  「あ、ああ・・・」
  「やっぱりティナが相手だと別人だな雁夜」
  「これで同じ『ものまね士ゴゴ』なんだから――、詐欺だ」

  声が聞こえる。沢山の声が聞こえる。

  「それじゃあ桜ちゃん、この子の手を握っていてくれない?」
  「私?」
  「出来れば私が付いて上げたいけど、教会に桜ちゃんを連れていけないの。だから『ケーツハリー』の魔石は私が使うわ。代わりに桜ちゃんには少しの間、この子を見ていてほしいの。この子が落ち着けるように――」
  「・・・・・・うん、わかった」
  「『ソウルオブサマサ』は外して行け。それにしても綺麗と可愛いが一緒になると絵になるな。そう思わないか雁夜?」
  「自画自賛か? 片方はお前だろうが」

  暖かい何かが手を握った。



  ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆



  Side - 言峰綺礼





  冬木ハイアットホテルを破壊して、ランサー陣営を丸ごと敗退させようとした衛宮切嗣が次に打つ手は何か? 綺礼がそう考えた時、すぐに答えは得られた。
  何しろ『キャスターがセイバーをつけ狙う』という行動理由について、セイバーとキャスターが邂逅したその瞬間から分裂したアサシンによって捕捉しているのだ。他のマスターにはキャスターの目的を連続誘拐事件を引き起こすマスターの手助けと思わせているが、キャスターの狙いはセイバーただ一人。
  むしろ連続誘拐事件の方が余興である事は綺礼にとって周知の事実である。
  ならばアインツベルンは強固な拠点で守りを固め、キャスターが来るのをひたすら待てばいい。セイバーが自分から打って出てキャスターを倒しに行く可能性は考慮したが、あくまで綺礼の目的は衛宮切嗣ただ一人であり、必ず同様の戦略に行き着くであろうと確信する。
  ならばこそ、衛宮切嗣はアインツベルンの森の中にいる。
  目標の居場所を定めた綺礼は、アインツベルンの森の西側―――キャスターの根城がある冬木市とは反対の方角に身をひそめ、機が訪れるのをひたすら待ち続けた。
  あの狂気をそのまま形にしたようなサーヴァントがわざわざ遠回りするとは考えにくい。だからこその冬木市とは逆方向で待機して、情報収集と斥候の役目は霊体化させたアサシンに任せてある。
  遠坂邸では事前の打ち合わせで見つかる事が前提だったので、アーチャーには呆気なく捕捉されてしまったが、元々アサシンの気配遮断スキルを惜しみなく使えば誰にも気づかれることなく結界の内部を行き来できる。
  流石に結界の中心に近づけば近づくほど察知される危険は高まるが、綺礼はキャスターが仕掛けた状況を利用してアインツベルンの拠点に仕掛けようとしているので、結界の奥深くにアサシンを潜り込ませるよりも、何者かがアインツベルンを強襲するタイミングを知る方が重要だ。
  そして綺礼の目論見通り、キャスターが森の東側から結界内部へと侵入した。
  隠れようとする気が無いので見つけるのは容易かった。
  衛宮切嗣がセイバーと共にキャスター討伐に赴くなら自分もその場にはせ参じる。キャスターが結界の最奥部にまで侵入しようとするなら、足並みをそろえて仕掛ける。そしてセイバーが迎撃に出るならば、拠点に残る衛宮切嗣に向かって赴く。
  状況を見極める為にアサシンに監視を続けさせていた所、どこからともなく間桐雁夜が降って来た。
  そして見た事のない紫色の巨鳥が表れ、キャスターが引き連れていた子供を救いだしてどこかに飛び立ってしまう。さすがのアサシンにも飛行能力は存在しないので、空へと逃げる敵を追うのは断念するしかない。
  可能ならばアサシンを接近させて得体の知れない『間桐陣営』の情報を集めたい所だが、既に間桐の手によって何人ものアサシンが殺されている。無暗に近づけば、殺されたアサシンの二の前になるのは目に見えていたので、あえて距離を離して監視を続行させた。
  聖杯戦争のサーヴァントが持つスキルの中には『千里眼』と呼ばれるモノがあり、それは視力と動体視力を向上させ遠方の標的をいち早く捕捉する為のスキルだ。
  しかし第四次聖杯戦争で召喚されたアサシン達にそのスキルは備わっておらず、肉眼で見える距離以上のぎりぎりまで離すのが良策となった。
 そして綺礼は間桐雁夜が使う一工程シングルアクションの魔術に感心しながらも、ただの魔術師であるならば自分が求める答えを持ち合わせていないだろうと落胆する。
  他のマスターならば間桐雁夜があそこまで力を付けた理由に食いつくかもしれないが、綺礼はそうではない。
  やはり狙うべきは衛宮切嗣ただ一人。
  そして間桐雁夜の戦いを監視するアサシンとは別のアサシンが、アインツベルンの森へと入り込むケイネス・エルメロイ・アーチボルトとランサーの姿を捕捉した。
  遠坂氏が手に入れた情報と倉庫街の戦いで得た情報を統合して。ランサー陣営の戦力では衛宮切嗣がいるセイバー陣営は倒せないだろうと分析している。しかし世間に流布されぬよう魔術は徹底的に隠匿されるので、綺礼が予測した勝敗を覆す切り札をランサー陣営が持っていても不思議ではない。
  ランサー達が衛宮切嗣を倒してしまう可能性はある。故に綺礼は今が動くべき時だとアインツベルンの森への潜入を決心した。
  これまで隠れ潜んでいた結界外周部の更に外側に佇み、目の前に広がる大森林を目視する。一歩踏み込めばそこはアインツベルンの領域、アサシンの気配遮断スキルなど持ち合わせていない綺礼の存在はすぐに感知されるだろう。
  だが、それでも構わない。
  意を決して森の中に踏み入れようとしたその瞬間―――、森の中にぼんやりと浮かび上がる人影が見えた。
  「むっ!?」
  その人影はこちらに向かって歩いて来ているらしく、徐々に輪郭が形を成して足音を響かせていく。しかし左右の手に二本ずつ、合計四本の黒鍵を構えた綺礼は目に見える何者かの存在の希薄さに首をかしげる。
  見えている。そこにいる。しかし肌で感じる存在感とも言うべき、気配が妙に薄いのだ。
  幻覚か―――?
  ありえない話ではない。まだ、アインツベルンの森の中に踏み込んではいないが、目の前に広がるのは始まりの御三家の一つが莫大な財を駆使して作り上げた巨大な拠点なのだ。森に張り巡らされた結界の効果の中に『誰かが居ると思わせる』術式が合っても不思議はない。
  獲物をあえて結界の中におびき寄せて一気に殲滅する方法もあれば、結界の中にそもそも立ち入らせない方法もある。入り込もうとする者に弱い存在を匂わせて侵入させ、あえて攻撃を仕掛ける場合もありえる。
  罠とは二重三重に仕掛けるのが普通であり、見える事柄だけが全てとは限らない。敵はここにいるぞ―――と、意図的に情報を流して、結界の外に居て油断している敵に別方向からの攻撃をしかける可能性もあった。
  少なくとも何も関係のない者がいきなりそこに現れるなどという事態は除外する。アインツベルンの森に居ると言うだけで、間違いなくその人間は聖杯戦争の関係者だ。
  綺礼は黒鍵を構えたまま様子を探る。
  そして森の中からやって来た人影が完全に森の外に現れると、天から降り注ぐ月光によってその姿が露わになる。
  綺礼がその人影を見て真っ先に思ったのは、ありえない―――という動揺だった。敵が居る状況は驚くに値しないのだが、そこに立つ敵はあまりにもこの場にそぐわない人物であるからだ。
  アインツベルンの者ではない。綺礼とは別の場所から侵入したランサー陣営の者でもない。そしてキャスターでもキャスターのマスターでもなかった。
  「てっきりアサシンの目を通してワシの接近に気付いておると思ったゾイ。その顔を見るとワシがここに居ると判ってなかったようじゃな。歴戦の代行者の勘も当てにならず、拍子抜けじゃ」
  薄暗い夜でも色あせない鮮やかな衣装の派手さが見る者を圧倒する。
  盲目の人間でもない限り、一度見れば決して忘れない異相。それは冬木市に住まう一般人、あるいは聖杯戦争に参加する魔術師やサーヴァントと比較しても明らかに異質な格好だった。
  綺礼も一度、全てのマスターに対して父が教会に招集をかけた時、その姿を目撃している。
  「間桐、臓硯――か?」
  「いかにも。ワシが間桐臓硯じゃ」
  アインツベルンの森の中に居る筈のない存在。道化師のような格好をした老魔術師が目の前に立っていた。



  ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆



  Side - 衛宮切嗣





  ケイネスが使う魔術礼装の全容は時が経てば経つほどに暴かれていく。敵があの水銀の塊を使えば使うたびに切嗣の中に新たな情報が積まれていって、魔術礼装の強さと弱点が組み上がっていった。
  だがもちろん代償なしに得られる情報ではない。
 「固有時制御タイム・アルター――二倍速ダブルアクセル!」
  迫りくる水銀の一撃―――まともに喰らえば切嗣の体などすぐに切り刻まれてしまう攻撃を交わす為、切嗣は使える数少ない魔術の中で代償の大きな『時間操作』の魔術を使わなければならなかった。
  魔術の中でも『時間操作』は固有結界の一種に大別され、魔法には及ばずとも大魔術に分類される。衛宮家は代々この時間操作についての魔術探求を継承し、切嗣もまた背中にある魔術刻印によりその恩恵を受けている。
  ただし時間操作は元々消耗する魔力がとてつもなく大きく、儀式の複雑さも干渉する時間に比例して大きくなっていく。そこで切嗣はその『魔術行使の大きさ』を減らす為、体内に時間操作の固有結界を展開すると言う術式を考案し、自分の体の中にそれを組み込んだ。
 血流、ヘモグロビンの燃焼、筋肉組織の運動、反射速度、それら全てを二倍速にして、背後から忍び寄る水銀の攻撃を避ける。それこそが切嗣の魔術『固有時制御タイム・アルター』である。
  魔術の複雑さを自身の体の中に収めた代償として、切嗣の肉体にかかる負荷は通常の魔術よりも膨大になった。元々、時間操作の魔術は行使する魔術の外側と内側に時間差が出来てしまうので、その反動―――いわゆる『世界による修正』を必ず受けてしまう。大規模な術式はその反動を極限まで抑え込む為のものだが、切嗣の体がその反動を補っているのだ。
  作り出した時間差は切嗣の体を容赦なく切り刻み、倍速を一度使っただけで心臓は早鐘を打つように暴れまわり、筋肉は軋んで、骨が悲鳴を上げる。
  それは背後から迫りくる攻撃を回避する為に使うにはあまりにも大きな代償と言えるが、切嗣にとっては分の悪い勝負ではない。むしろ、ケイネスが無造作に攻撃を放ち、初手で切嗣を殺せなかった時点で勝機がよりいっそう近づいている。
  敵は調子に乗っている。いつでもこちらを殺せると高を括っている。それは『魔術師殺し』の衛宮切嗣にとっては格好の的となる。
  たとえどんな攻撃であれ、それを破る方法は必ず存在する。それを探る為、切嗣は予めCCDカメラを設置していた廊下でケイネスを待ち構えて、そこで魔術を発動させて敵の初撃を避けつつ、映像を舞弥へと送った。
  背後に鳴り響くアインツベルン城の破壊音を耳にしながら、切嗣は更に角を曲がって敵の死角へと移動する。
  「舞弥」
  「敵の魔術礼装の基本種別は三種類。『索敵』『攻撃』『自律防御』この三つです。攻撃には必ず術者の指令があり、自律防御の膜状防御は一定の厚みで広がっています」
  久宇舞弥は衛宮切嗣という戦闘機械を完成させるパーツだ。一語一句が切嗣の求める情報になり、無駄な言葉は一切挟まない。
  舞弥からの報告を聞き、自分が体感した情報を上乗せして、切嗣は必勝の構図をくみ上げて行く。既に切嗣に向けるケイネスの怒りは尋常ならざるものに膨れ上がっているが、それでも万全を期するならばもう一手挑発する必要がある。
  切嗣は更にアインツベルン城の奥に向けて走り、背後から迫りくるケイネスから死角になる柱へと身を隠した。一瞬だけ顔を出して見れば、背後からだけではなく自分が今向かおうとしていた廊下にも銀色の輝きが、糸のように細長く伸びている。
  おそらく『索敵』を行うため、網目状に伸ばした水銀を城の至る所に向かわせて退路を塞いでいるのだろう。
  あの水銀がもし人の目と同じ役割をしていれば、今この瞬間にも切嗣の居場所はケイネスに感知される。しかし水銀はあくまで水銀でしかなく、使い魔の様に目を持った生き物ではない。魔術師が操る単なる道具でしかない。
  空気振動から音を探り、気温の変化から生物の熱源を探る。視覚、聴覚、味覚に関してはどれだけケイネスが優れた魔術師であろうとも、水銀と言う道具を介している以上、再現は不可能である。水銀に命を与えて五感を持たせればそれも叶うが、あれはそう言った類の道具ではない。
  まだこちらの存在を感知できていない水銀を見つつ、このまま何もしなければあと数秒後には確実に発見されるであろう状況で切嗣は先程唱えた倍速ではなく、逆に停滞の呪文を唱える。
 「固有時制御タイム・アルター――三重停滞トリプルスタッグネイト!」
  生体機能を本来の三分の一にまで減速させ、呼吸を遅らせて、心拍も脈拍の速度も遅らせる。結果、代謝の止まった全身から体温が一気に失せて、すぐに外気温と大差ない状態まで冷却された。
  三倍に膨れ上がった外界の光が切嗣の網膜に強烈な光を映し出すが、その向こう側に見える水銀の蠢きは切嗣の存在を感知できていない動きだった。
  もし発見されていたとしたら、自分の顔の10センチ横を通り過ぎるなどと言う状況は決して起こらない。切嗣の浅くなった呼吸と微量の血流は自然界に発生する音に紛れこんでしまい、水銀の向こう側に居るケイネスには見破れないのだ。
  そして水銀が切嗣を見失い、この周辺には敵はいないと判断したケイネスによって引き戻されていく。
  三倍に引き伸ばされた外界の状況が切嗣の脳を焼き尽くさんとするが、切嗣は迫りくるケイネスの足音を聞きながら機会をジッと伺い続けた。
 切嗣が待ち構える廊下を無人と思い込んだケイネスが何の警戒も抱かずに接近してくる。そして自分の魔術に絶対的な自信を持ち、何の警戒もしていないケイネスが姿を見せたその瞬間、切嗣は固有時制御タイム・アルターを解除してキャレコ短機関銃を構えた。
  まだこちらに気付かないケイネスに向けて一気に9ミリの銃弾を浴びせる。
  装填し直した50発の銃弾が一斉にケイネスに襲いかかるが、水銀に付与された『自律防御』によって球状に展開された防御膜がケイネスを守る。
  「馬鹿めが。無駄な足掻きだ」
  切嗣がここにいるのを判っていなかったからだろう、多少驚きを含ませながらも、同じ攻撃を繰り返す切嗣への侮蔑が銃弾の嵐の中で僅かに聞こえる。だがキャレコ短機関銃から放たれる弾幕を防御するのは切嗣の計算の内だ。
  左手に持ち替えたキャレコ短機関銃から撃ち出される弾幕が途切れるよりも前に、切嗣は空いた右手でスーツの内側からトンプソン・コンテンダーを引き抜く。
  そして球状に展開した防御膜のど真ん中―――その向こう側にいるケイネスに向けて発砲した。
  一度広がった水銀の防御は強力無比であり、キャレコ短機関銃に収まった50発の9ミリの銃弾程度では貫通出来ない。しかし、より強い攻撃があれば広がった水銀では対処できなくなる。
  広がってしまった水銀の防御膜の一部を強化させる為には別の場所から水銀を補給しなければならない。もしケイネス自身が水銀の防御を自分の意思で行っているならば難しくはない。しかし今、人では反応できない超高速の攻撃から身を守る為、予め仕込んだ術式に全て任せている状態だ。
  9ミリの銃弾を上回り、ケイネスの防御を突破する切嗣の武装の一つ。トンプソン・コンテンダーから放たれた30-06スプリングフィールド弾がケイネスの守りを易々と突破する。
  弾丸初速は9ミリ拳銃弾の実に3倍弱。その破壊力は7倍にまで相当するので、水銀の守りで全てを防げると過信していた獲物の一部を大きく抉った。
  水銀の膜に空いた大きな穴、その向こう側から聞こえてくるケイネスの悲鳴を聞き、切嗣はとりあえず30-06スプリングフィールド弾が標的に当たった事実をほくそ笑む。水銀の防御膜が展開される前のケイネスが立っていた構図を元に照準をつけたが、ちゃんと狙いをつけて撃った一撃ではなかったから当らない可能性もあったのだ。
  これで頭部や心臓を破壊できれば戦いは終了するのだが、今だに敵の魔術が―――水銀がまだ形を成したままなので、打ち込んだ弾丸の高さから肩か腕の一部を貫く程度で終わったようだ。
  殺しきれなかったのは残念だが、ケイネスがこちらの攻撃手段の中に水銀の自律防御だけでは守りきれない武装があると教えただけで十分である。
 「Scalp!!」
  怒りに満ちた詠唱が鳴り響くと同時に水銀が形を変えて切嗣に襲いかかってくる。しかし不意を突いた訳でもなく、ケイネスとの距離は10メートル以上離れている。
  拳銃と言う遠距離攻撃の為の道具が作り出した絶対的な距離。
 固有時制御タイム・アルターを使用する必要すらなく、紙一重でその攻撃を避ける。水銀の攻撃は確かに強力だが、操るケイネスの戦い方は単調で、近接戦闘に長けた切嗣にとっては避けるのは難しくない。
  確かに水銀の攻撃は早いが、攻撃が来る場所が判っていれば人の反射速度でも避けられる。
  切嗣は迫りくる一撃をスーツの一部を削られるだけで避ける、そのまま逃走を再開した。ケイネスは今の一撃で単なる自立防御だけでは不足すると気付いた筈、もし同じ攻撃が行われれば、その時は今まで以上に魔力を注ぎ込んで、どんな弾丸でも防ぐ鉄壁の壁を作り出すだろう。
  装填数一発のトンプソン・コンテンダーに新たな弾丸をセットしながら切嗣は考える。そうでなければ困る、と。
  状況は『魔術師殺し』の衛宮切嗣の思惑通りに進んでいた。





  「アイリの方はどうなってる?」
  「セイバーとランサーの戦いは今の所拮抗しております。なお、戦闘の余波でカメラは残り一つになりました。状況から二分ともたずに使用不能に陥ります」
  「判った」
  時折聞こえてくる破壊音はケイネスが怒りにまかせてアインツベルン城を壊しているものなのか、それともホールでセイバーとランサーが戦っている音なのか判別できなかった。
  微かに足元が揺れるも、駆け足で逃走する今の状況では戦闘の影響か、大自然の地震なのか判断できない。
  全ての神経を集中すれば城の中で何が起こっているか判るかもしれないが。『魔術師殺し』の衛宮切嗣が、獲物をしとめる最終段階に入った時、ケイネス以外への気配りはどうしても散漫になってしまう。
  その為の舞弥だ。インカムを通して伝わってくる情報をもう一度整理して、最良の狩猟場を頭の中で思い描く。
  「・・・・・・」
  切嗣が事前調査で知った『ケイネス・エルメロイ・アーチボルト』という人間は生粋の魔術師であり、名門の血統と生まれ持った才によって挫折知らずの人生を歩んできた。そのプライドは非常に高く表の世界の人間が惜しみなく広げる『科学』などに『魔術』が負けるなど合ってはならない、そう考えている輩だ。
  本人にその自覚があるかどうかは不明だが、切嗣によって手傷を負わされたケイネスの意識は間違いなく怒りに支配され、何があっても『魔術』で切嗣を殺そうとするだろう。切嗣はそう分析する。
  一度標的を見失った経験を生かしてか、今は水銀による『索敵』を行わず、ただひたすらに破壊の限りを尽くして切嗣を追いかけている。
  行く手を阻むドアは水銀の重みで叩き壊し、花瓶も絵画も家具も、壁と一緒に破壊しているようだ。さすがに床を壊せば自分を追えないので、足元を破壊する暴挙には出てないようだが、絶えず聞こえてくる破壊音がケイネスの怒りを教えている。
  もしかしたら中にはセイバーとランサーの戦いの音も含まれているかもしれないが、それを確かめる余裕はない。
  ケイネスが迫りくる廊下には幾つかトラップが仕掛けられており、ワイヤーをひっかければ設置した手榴弾が炸裂したり、カーペットの下に置いた地雷が敵を焼き殺さんと破裂したりする。
  迫りくる破壊音が途切れない所を考えると、水銀の自動防御は健在のようだが。トラップの目的はあくまでケイネスを挑発する意図で作動させており、殺す為のモノではない。
  お前が盲信する魔術はこんな近代科学の武器に貫かれたんだぞ。そう言葉なき声で語りかける。
  治癒の魔術を施したり、止血したりしても、時間と共に『手傷を負わされた』という事実がケイネスのプライドを傷つける。魔術師特有の自尊心が屈辱によって上書きされていくだろう。
  「舞弥、仕掛けるポイントに到着する。そこから僕は見えるか?」
  「いいえ。私の位置からは死角になっています」
  「・・・ランサーのマスターはこちらで始末する。引き続き、セイバーとランサーの戦いを監視してくれ」
  「了解」
  出来れば、これから行おうとしている攻撃の補佐を舞弥に行わせたかったが、不可能ならば仕方がない。切嗣は意識を切り替えて自分一人でケイネスを始末する方法を組み立てて行く。
  大筋は既に戦う前から組み上がっており、ケイネスが城に入って来た瞬間からそうなるように導いてきた。
 前には行き止まりの廊下、振り返れば今まさに角を曲がってこちらを発見したケイネスの姿があり、彼の足元には水銀の塊が歪な球形の形を維持しながら脈動していた。必死に抑え込もうとしているあるじの怒りを体現しているようだ。
  二人の距離30メートル弱。廊下の幅は6メートル余り。遮蔽物はなく、切嗣には退路はない。
  予定通りだ―――。
  「まさか同じ手が通じるなどとは思ってはいるまいな? 下種めが」
  切嗣は左手に弾丸を再装填したキャレコ短機関銃を持って、右手にはトンプソン・コンテンダーを持って対峙している。はた目から見れば、なるほどケイネスの言うとおり『同じ手』に見えるかもしれないが、今、トンプソン・コンテンダーに装填されている弾丸は先程の30-06スプリングフィールド弾と同じではない、切嗣の切り札たる『魔弾』が装填されている。
  「もはや楽には殺さぬ。肺と心臓を治癒で再生しながら、爪先からじっくり切り刻んでやる」
  拳銃と言うのは持ち手の体調や精神状態に左右されず、常に強力な破壊をまき散らす強力な武器だ。しかしその反面、攻撃は常に限定されてしまい、銃弾を撃つという攻撃以外の方法を行えない。
  そんな『科学の素人』であるケイネスが禍々しい笑みを浮かべながら一歩一歩近づいてくる。手に持つ拳銃を見ただけで銃弾を別の物に入れ替えているなど予測すらしていない歩みで、その隣に水銀の塊も並び迫る。
  「悔やみながら、苦しみながら、絶望しながら死んでいけ。そして呪うがいい。貴様の雇い主の臆病ぶりを――聖杯戦争を辱めたアインツベルンのマスターをなぁ!!」
  今だにアイリの事をセイバーのマスターと勘違いしているケイネスに思わず切嗣の口元が緩みそうになった。しかし意識はしっかりと獲物を捕える狩人のそれを維持しており、ケイネスが15メートルまで近づいた所で最後の狩りを実行する。
  左手のキャレコ短機関銃を構え、言葉を交わす間もなく装填し直した50発の銃弾の嵐をケイネスに浴びせる。それは先程の状況の再現だが、受けるケイネスは先程と違い、自律防御に任せずに自分から動く。
 「滾れFervor,我がmei 血潮Sanguis!!」
  切嗣の左手が動いた瞬間、ケイネスは呪文を唱えて水銀の防御を展開した。先程はケイネスを中心にした球形の防御だったが、今回はケイネスの前に何十本もの柱―――いや、床から天井までを埋め尽くす刺を生やしたのだ。
  密集した竹林の様に隙間なくケイネスの姿を隠す銀色の刺。それは飛来する弾丸の全てをはじき返す鉄壁を固持している。
  おそらく渾身の魔力を注ぎ込み、水銀の防御力を格段に跳ねあげているのだろう。結果、廊下に生えた銀の林が切嗣とケイネスを両断しているが、別方向の防御は無防備になっていると思われる。
  もし舞弥が城の外から狙撃できる状況だったならば、ここでケイネスの脳天に銃弾を叩き込めばそれで終わっていた。
  切嗣は叶わなかった『もし』を切り捨て、右手のトンプソン・コンテンダーも前に構えて二つの銃を並ばせた。程なく50発の全ての銃弾が撃ち尽くされ、弾幕の嵐に隙間が出来ぬよう右手で引き金を絞って新たな銃弾を叩き込む。
  その一撃は刺上に並び立つ水銀の群れも破壊する威力が込められている。しかしその弾丸が水銀の刺の一つに触れると同時に、一斉に全ての刺が銃弾を包み込んで一本の太い柱へと変形した。
  強大な破壊力を誇る30-06スプリングフィールド弾を包んで止める。運動エネルギーの全てを水銀の巨大な重量によって押しつぶす。その見事な流体操作の魔術の手並みは、アーチボルト家が名門と名乗るに相応しい冴えだった。
  ケイネスが全身全霊をかけて作り出した魔術。だがそれこそが狙いであった切嗣は、この瞬間に自分の勝利を確信する。


  「坊やの起源は切断と結合、切って繋ぐ・・・。破壊と再生と呼ぶには些かニュアンスが違う。一度切れて結び直した糸は結び目だけが太く変わるだろ? そんな風に『不可逆の変質』という意味合いを込めてある」


  「この弾丸には坊やの肋骨を粉状にすり潰して入れてある。これで撃たれた対象には坊やの起源が具現化する」


  「こいつは魔術師には脅威だ、何しろこの弾丸に魔術で干渉すると坊やの起源のせいで魔術回路が壊れてデタラメに繋がる。魔術師として優秀であればある程、魔術回路は暴走しショートする。当然、相手は再起不能だ、魔術師としても、人間としてもね。これが坊やの霊装『起源弾』だよ。全部で66発――、大事に使うんだね」


  一瞬すらなかった刹那の時、かつてこの弾丸を受け取ったその瞬間の光景が浮かんで消えた。
  衛宮切嗣の大別は『火』と『土』の二重属性。詳細は『切断』と『結合』の複合属性。それこそが切嗣の生まれ持った魂の形、即ちケイネスの魔術目がけて撃ち出した『起源弾』の由来そのものである。
  ケイネスは切嗣の銃弾から身を守る為、水銀に渾身の魔力を注ぎ込んで切嗣からの攻撃を防御してしまった。魔術によって切嗣の『起源弾』に干渉してしまったのだ。
  結果、衛宮切嗣の起源『切って繋ぐ』に則り、ケイネスの魔術回路はズタズタに引き裂かれて全く別の形で繋ぎ直され、一秒前には存在した本来あるべき魔術回路の姿を別物に作り替えられてしまう。
  絶叫よりも前に血反吐をまき散らし、全身の筋肉は痙攣し、歪に蠢く血管が顔の上に浮かびあがる。一瞬遅れて、柱上に展開されていた水銀が単なる液体になって床に零れた。
  今のケイネスには初歩の魔術を行使する力すらない。いや、そもそも自分の身に何が起こったかを理解していないだろう。
  自分の意思とは無関係に躍動する筋肉により、奇怪で不気味なダンスを強制的に踊らされたケイネスはそのまま水銀と自分が吐いた血反吐が広がる廊下へ突っ伏した。
  再起不能。切嗣はその言葉を思い浮かべる。



  ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆



  Side - ランサー





 時はあるじが魔術師らしからぬ風体の男を追いかけた所まで遡る。
 アインツベルンに雇われたと思わしきその男はとても魔術師とは見えず。こと『聖杯戦争』に限り魔術を駆使した戦いにおいて我があるじが負ける姿など想像できなかった。間違いなく魔術の腕は勝っているのだから―――。
  そしてマスターから仰せつかった『セイバーを殺せ』という勅命を完遂する為、セイバーとの一騎打ちを行う。
 「我があるじは貴様の首級を望みだ、セイバー。今度こそ、獲らせてもらう」
  「私は騎士として尋常なる勝負を挑むだけだ。ランサー、そう易々とこの首が獲れると思うなよ」
 そして破魔の紅薔薇ゲイ・ジャルグ必滅の黄薔薇ゲイ・ボウを駆使した二槍での戦いが行われる。
 セイバーは必滅の黄薔薇ゲイ・ボウにより片腕の動きを制限されるも、魔力を噴射してその制限を補い、互角の戦いを演じた。
 我があるじとの戦いをあの男に任せたらしく、輝く宝剣を隠す風の結界は解除された。
  見えぬ剣が見える剣に変わったが、倉庫街での戦いを再現するように、共に決定的な決め手を作り出せぬまま時間だけが経過していく。
  だがこのまま戦い続ければ勝利するであろう予測はたった。
 あるじはマキリが完成させた本来の契約システムにアレンジを加え、サーヴァントとマスターとの間に本来ならば一つしかない繋がりを二つに増やし、令呪の縛りと魔力供給のパスを分割して別々の魔術師と結び付ける荒技を成功させた希代の術者なのだ。
  この身を現界させている魔力供給はマスターの婚約者であるソラウ殿から行われており、扱える魔力の総量は他のマスターよりも格段に多い。
  そしてセイバーは左腕の不利を補うため、魔力噴射で足りない膂力を継ぎ足して戦っている。倉庫街の戦いよりも余計な魔力を消耗しており、マスターから供給される魔力をこちらより多く使っている。
  共に扱える魔力が有限であるならば、戦いに魔力を使わないこちらが有利。
  剣を隠す風を使わない分、魔力消耗は減っているが、それでもこちらより多い。
 無論、セイバーにもこちらの破魔の紅薔薇ゲイ・ジャルグ必滅の黄薔薇ゲイ・ボウ同様に宝具があるのは判っている。
  倉庫街の戦いで見せた超高速の踏み込みに使った風以外にも、別の宝具を持っているのは明らかだ。何せ相手は世に名高き騎士王―――その手に握られた金色の宝剣が『セイバー』の宝具だと強く訴えている。
  油断は出来ない。戦いは一瞬の油断で死を招きいれる。敵を前にして気を緩めるなど相手にも自分にも失礼だ。
  ただひたすらに槍を振るい、騎士として敵に勝つ。そう思いながら変幻自在の槍術を繰り出し、その攻撃をことごとくを捌くセイバーとの戦いに心が躍らせる。
 倉庫街で見せた技は一度使った技なので、セイバーもそれに対処してくる。だから長槍である破魔の紅薔薇ゲイ・ジャルグを使うと見せかけてそれを囮とし、あえて必滅の黄薔薇ゲイ・ボウで攻撃するなど攻撃のパターンを更に増やして戦った。
 それでもつき崩せない見えぬ剣の守り。時に破魔の紅薔薇ゲイ・ジャルグがセイバーの頬をかすめるが、必殺には届かず、二本の槍のどちらもセイバーには届かない。
  どんな状況に追い込まれても騎士の誇りを貫いてきたのだろう。
  どれほど危機的状況に陥ろうとも、その剣に全てを託してきたのだろう。
  その小さな体で、どれだけの修練を積み、どれだけの苦悩を重ね、どれだけの力を蓄えてきたのか?
  戦いの向こう側に騎士王の生き様が見えるようだ。
  こちらも二本の槍も防御で容易に敵を懐に踏み込ませないが、後一歩が果てしなく遠く感じる。長期戦ならばこちらに分があると判りながら、それでもそこに至るまでの時間がとてつもなく長い。


  「そんなにも愉悦だったか? セイバーとの競い合いは。みすみす決着を先送りにしたくなる程に?」


 脳裏に一瞬だけ我があるじより責められた言葉が通り過ぎるが、それを否定出来る材料を持ち合わせていない。認めよう―――攻め切れぬ状況に歯噛みし、長期戦に持ち込まねば勝てないであろう状況でありながら、自分は喜びを感じている。
  セイバーの剣技の冴えはこちらと互角、二本の槍―――長物の武器に対して長さで劣る剣一本で匹敵するその強さは見事の一言に尽きる。
  こんなにも存分に戦える戦場はどれだけあるか?
  こんなにも互いの力を引き出し合える戦場に巡り合えるか?
  英霊となる以前の数ある戦いの中でも、こんなにも心躍る戦場は合っただろうか?
  おそらくこんなにも騎士として戦える戦場は片手で数えられる程度だ。そもそも聖杯戦争という戦場に出会えた幸福を喜ばずにはいられない。
 あるじの為にセイバーを倒す。そう認めながらも、こんなにも強大で曇りなき闘志を誇る敵と戦える喜びがあふれて止まらない。
  人外のパワーとスピードで駆使される宝具と宝具がぶつかり合う、倉庫街の再演でありながら、城と言う限られた空間の中で衝突の余波が周囲をどんどん破壊していく。速度は時間経過と共に早くなり、剣戟の音は間を置かずに鳴り響く。
  最早、常人の目では追い切れぬ速度にまでこちらもあちらも入り込み、命を獲り合う瀬戸際にまで踏み込んでいく。
  戦況は一進一退を繰り返す。何度も何度も繰り返す。
  叶うならばこのまま一生戦っていたい。そう思ってしまうほどの接戦が続き―――、唐突にセイバーに向けた意識を強制的に引き剥がされた。
  「な──ッ!!」
  敵を前にして、互いの武器を合わせている時に他の事を意識を割くなど自殺行為だ。特に相手が自分の力量と拮抗している場合、隙を見せればそれは『殺してくれ』と相手に語っているに等しい。
  これが武器を合わせている時だったなら、自分の命はなかっただろう。
  一旦距離を取り、再び武器の間合いに踏み込もうとした、正にその瞬間だったからこそ、眼前の敵から意識を逸らしつつもセイバーからの攻撃を受けずに済んだ。
  幸運なのだろう。
  しかしここではない別の場所で起こっている事態はとても幸運とは言い難い。
  「ランサー、どうかしたのか?」
  唐突な戦闘の停止に思わずセイバーが問いかけてきた。当然だ、自分が逆の立場だったならば、いきなり敵とは全く別の方向を見るそのおかしさの真意を問わずにはいられないのだから。
  そして自分が見つめる方向がホールの壁と天井の境目―――特に注目すべきモノなど何もないであれば、尚更いぶかしむ。
  問いを投げながら、それでも宝剣を構えたままのセイバーに対し。同じく二槍を構えたまま、しかし視線は全く別の方角に向いたまま返す。
 「――我があるじが危機に瀕している」
  「・・・・・・・・・」
  短く語られた言葉を聞き、セイバーはこちらが見つめる方向に何があるかを察したに違いない。
 令呪の束縛によって結ばれた者同士であれば、どちらか一方が命に関わるほどの窮地に追いやられれば、気配が乱れてそれを察知する事が出来る。だからこそ、あるじの窮地を―――あの魔術師には見えなかった男の勝利を感知する事が出来てしまったのだ。
 自分が聖杯戦争への招きに応じたのは『あるじへの忠節を果たし、勝利を捧げる名誉を――』という願いを果たす為に他ならない。
 故にセイバーとの戦いに心躍らせたとしても、あるじが危機に瀕しているのならば救わなければならない。それはランサーとしての―――ディルムッド・オディナとしての存在意義そのものなのだから。
  しかしその為には目の前に居るセイバーという名の障害を排除しなければならない。
 令呪による繋がりがまだあるじの生存を伝えているが、敵があるじを瀕死に陥らせたのならば間違いなく殺すだろう。聖杯戦争とはそういうものなのだから。
 あるじが殺されるより早くセイバーを倒し。そしてあるじの元へとはせ参じて救助する。しなければならない。
  出来るのか? 今まで、決め手に欠けて戦いを長引かせていた自分に、そんな奇跡が起こせるのか?
  「ランサー」
  迷う自分に向けてセイバーの声が届く。おもむろに顔を向けてそちらを見ると、何と構えを解いて剣を下げた姿が視界に入って来た。
  黄金の宝剣は右手と一緒に下がっており、体勢は闘う者のそれではなくなっている。何の真似か? そう問いかけるよりも早く、セイバーが行動の真意を言葉にした。
 「急ぐがいい。己があるじの救援に向かえ」
  「騎士王・・・」
  この場を見逃す、と―――。戦いは一時中断だ、と―――。構えなき姿がそう語っている。
  淀みない声が意味を成して頭の中に飛びこむと同時にまず目を見開き、そしてセイバーはこのような形での決着を望んでいないと知る。
  セイバーの行動は聖杯戦争のサーヴァントにあるまじき行為だ、自陣営の味方に対する造反も同然の判断なのだから。
  「セイバー!」
  「いいのです、アイリスフィール」
  そのセイバーの決断を暴挙と受け取ったのか、セイバーのマスターであるアイリスフィール・フォン・アインツベルンと名乗った白い女性が声を荒げる。見ると、戦いの余波でホールは無残な有様になっており、まだ城の内部の形を保っているのが奇跡と思えるほどボロボロになっていた。
  女性はすぐに物陰に隠れられる位置に立っていたが、セイバーを諌める為にその身をさらけ出している。
  戦力を削る好機ではある。
  しかし、セイバーが騎士として互いの決着を後に回すのならば、このような形での決着を望まないのだならば、同じ騎士として応じなければならない。
  それが騎士の誇りだ。
  自分達は聖杯戦争にサーヴァントして招かれた。しかし同時に自分達は英霊であり、騎士の誇りを貫く同志でもある。たとえ敵であろうとも、戦場に立つ上での譲れない信念がある。
  こちらも武器を収め、女性から視線を外し、セイバーに向けて深く頭を下げた。
  「――かたじけない」
  「良い。我ら二人は騎士としての決着を誓ったのだ。共にその誇りを貫こう」
 心地よい騎士の言葉を聞きながら、自らの体を霊体化して一陣の旋風へと姿を変える。向かうは己があるじが待つ戦場―――、今この瞬間にも殺されてもおかしくない絶体絶命が起こる場所だ。





 あと一秒遅ければあるじは銃弾の雨に晒されて命を奪われていただろう。破魔の紅薔薇ゲイ・ジャルグを回転させて、襲い来る銃弾とあるじとの間に割って入ったランサーはそう考える。
 あるじの身に何が起こったかは定かではないが、礼装である『月霊髄液ヴォールメン・ハイドラグラム』はただの水銀となって床に広がっており、その上に横になってビクビクと痙攣していた。
  敵はこちらが現れると思っていなかったのか、現代の武器―――まだ余韻の煙を残す拳銃を構えたままこちらを見ている。その手の甲に刻まれた三画の聖痕を見返した瞬間、ランサーは敵の正体にたどり着く。
  「貴様を串刺しにするのがどれだけ容易いか判っていような? セイバーのマスターよ」
  一見すると目の前で銃を構える男は魔術師には見えないが、それでも手の甲に刻まれた令呪が聖杯戦争のマスターである事を教えている。
  城のホールでは意図的に見せないようにしていたが、今は拳銃を構えているが故にしっかりと見える。
 マスターであるならば、そうは見えずとも魔術師である可能性は高い。だからこそあるじに瀕死の重傷を負わせられたのだ。
 男は動揺しながら自分を見ているが、氷の様な眼差しでそれを見返しつつ攻撃には出ない。まず救うべきはあるじの命であり、敵の首級ではない。もしここで、この男の命を奪えば、それはこの場に導いてくれたセイバーの騎士道を踏みにじる事にもなる。
  共に騎士としての決着を誓ったのだ。
 破魔の紅薔薇ゲイ・ジャルグ必滅の黄薔薇ゲイ・ボウをぞれぞれ右手で束ね持ち、空いた左手であるじを肩に抱え上げる。それは無防備な姿に見えるかもしれないが、敵がサーヴァントでないならば恐れるに足らない。
 心臓の鼓動が命ある証として動いているのを確認しつつ、床に広がる血反吐とあるじの損傷を見比べる。
  少なくとも見える地肌の部分には外傷らしいモノは見当たらず、衣類も何かの外的衝撃で破けたり千切れたりしていない。何か魔術的な攻撃を受けたのか、どうやら内側から体を破壊されたようだ。
  これでは令呪によって自分を召喚する事も出来なかっただろう。
  ただし、自分はランサーでありキャスターではない、魔術に関しては素人といってもいいので、それ以上何が起こっているかは判らなかった。
 一秒でも早くこの場を離脱し、あるじの婚約者であるソラウ殿の元に送り届ける。それこそがこの場で行うべき最善だ。
  「俺のマスターは殺させない――。セイバーのマスターも殺さない――。俺も彼女もこのような形での決着は望まない――。ゆめ忘れるな、今この場で貴様が生き長らえるのは騎士王の高潔さ故であることを」
  言葉に刺を込めてそう告げると、傍らの窓を突き破って城外へと身を躍らせる。
 何者が襲いかかろうとも必ずあるじを拠点にまで送り届ける。そう行動指針を定めながら、アインツベルンの森に降り立ち、キャスターが居たであろう場所とは別方向に向けて駆けだした。
  急げ、急げ、急げ。
  心が叫んでいた。



[31538] 第16話 『言峰綺礼は柱サボテンに攻撃される』
Name: マンガ男◆da666e53 ID:6a0d9b18
Date: 2012/10/06 01:38
  第16話 『言峰綺礼は柱サボテンに攻撃される』



  ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆



  Side - 言峰綺礼





  単に間桐臓硯がこの場に現れただけならば綺礼はそれほど驚きはしなかった。代行者として数多くの敵と戦ってきた経験の中には神出鬼没の敵など珍しくもなかった。そして、魔術の中には人間というi意識の装置の入力先を移し変える『転移』と呼ばれる魔術も存在する事を知っている。
  サーヴァントへの五感共有、遠見や憑依などはこの応用とされる。
  故に間桐臓硯がこの場に居合わせる事象そのものは問題ではない、重要なのは間桐臓硯がアインツベルンの森の中から現れたと言う点だ。
  綺礼は結界の外に陣取り、アインツベルンの森の中の様子を探る為にアサシンを斥候として放った。アインツベルンの広大な森の中を全て網羅できるほどの人数は放っていないが、それでも森の中に異常があれば即座に感知できる数を送り込んだのだ。
  唯一結界の中央に位置するアインツベルンの拠点を除いて、森の中に起こる異常で綺礼の知らぬものは無い。
  その筈だった。
  「迫り来る未知に対するはまず警戒で対処する。妥当な所じゃな。しかし敵を前にして呆けとる暇があるとはのう、代行者の名が泣くゾイ」
  「・・・・・・」
  語られた言葉が綺礼の頭を冷やし、意識を強制的に戦いのそれに切り替える。
  両手に持った計四本の黒鍵を構えた体勢は何も変わっていないが、意識は一秒前とは全く別物へと変わっていた。
  その上で綺礼は更に考える。
  確かに間桐臓硯の出現には驚いた。しかし、同時に目の前に立つ間桐臓硯と言う存在の希薄さが消えぬ違和感をドンドンと生み出すのだ。それをどうしても考えてしまう。
  敵を前にして戦い以外の事を考えるのは愚策かもしれないが、肌に感じない目の前の敵の『存在の薄さ』は戦いの趨勢を左右しかねないものだと思えてならない。
  何故? 強く疑問を抱き、まずは言葉による牽制を行う。
  「意外だな、間桐臓硯。貴様は間桐邸に閉じこもったままだと思っていたぞ」
  「外にうろつく監視の目を潜り抜ける方法などいくらでも存在するわい。お主とてアサシンのマスターでありながら脱落したと見せかけて他のマスターを欺いておるではないか」
  「気付いていたか」
  「当たり前じゃ。間桐邸を見張るアサシンを殺したのは誰だと思うておる。ワシの手の者が遠坂邸で死んだアサシンとは別のアサシンを殺した報は届いておるゾイ」
  距離を取って対峙しながらも会話は成り立っている、綺礼にとって離れた距離は黒鍵の射程範囲内であり、そして間桐臓硯を観察するには十分な距離と言える。
  それでも攻撃よりも前に言葉を交わす。
  「――用件は何だ? まさか世間話をする為にこの場に現れた訳ではない筈だ」
  「何、大したことではない。一度お主の顔を見ておこうと思ってな」
  いつでも攻撃できる状況を維持しつつ、出来るだけ情報を引き出そうとするための舌戦。そこから現れた言葉は綺礼が無視できない内容であった。
  「・・・・・・私の?」
  「サーヴァントを分裂させて全てのマスターを見張りながらも手を出さずに監視のみに留めておる。おそらくあれはアサシンの宝具じゃな。そして聖杯戦争のマスターに選ばれながら、遠坂の小倅に協力する奇特さ、何より60年前より変わらぬ堅物の息子がどのような人物か興味が湧いての。この目で見ようとを思うたゾイ」
  人は嘘をつく。それは代行者として多くの任務を全うする以前から綺礼が掴んだ真理であり、本人のその意思が無くても無意識に嘘をつく人間もいる。
  だから間桐臓硯が語る言葉の全てを鵜呑みにするのは危険だ。そう思いながら話していると言うのに、放たれた言葉に綺礼は動揺してしまう。
  聖杯戦争において他のマスターは敵でしかない。自分と時臣氏の様な異常な組み合わせならいざ知らず、綺礼は間違いなく間桐陣営にとって敵でしかない。
  間桐のマスターは雁夜だが、今回の聖杯戦争に目の前にいる間桐臓硯が関わっているのは間違いない。
  その敵を『知ろうとする』、明らかに戦略面の調査とは異なるこれは何の冗談だろうか。
  戦いを優位に進めるためではなく、敵を屠る為の情報収集でもない。ただ『知りたい』という欲求に後押しされたその理由は聖杯戦争に関わる者としては異質であり、どこか綺礼の行動原理に―――生きる意味そのものに繋がる部分があった。
  「見ただけで人の本質が全て判るなどと妄言を吐くつもりはないゾイ。じゃがお主の在り方はどこか歪んでおる。あの男の息子にしてはいささか『面白い』、やはり直に見て正解だったようじゃ」
  攻撃してくる気配はないが、その代わりに言葉の雨を幾つも幾つも撒き散らす。
  綺礼はその言葉を聞きながら、アインツベルンの森に訪れる前に冬木教会で交わしたアーチャーとの会話の一部を思い出す。


  「ともかく綺礼。お前は、まずは娯楽というものを知るべきだ」


 「お前は他の五人のマスターに間諜を放つのが役目であろう? ならば連中の意図や戦略だけでなく、その動機についても調べ上げるのだ。そしてオレに語り聞かせろ」


  「条理を捻じ曲げ、奇跡にまで縋ろうとする度し難い願望の持ち主が五人も雁首を揃えておるのだ。きっと中には面白味のある奴が一人か二人は混じっているさ」


  アーチャー、いや英雄王ギルガメッシュとの会話が蘇り、そこから聖杯戦争への方針が少しだけ変化したのを思い出す。
  あくまでアサシンを動かすのは時臣氏への助勢のためであり、たとえ機が訪れようともマスターの暗殺は行わない。暗殺者のサーヴァントにはそれが不服かもしれないが、綺礼は指示がなければアサシン達に敵への攻撃を命じるつもりはないのだ。
  もちろんアサシン当人達に危機が訪れれば反撃するのは許可しているが。
  情報を持ち帰る前に殺されては意味がない。結果、綺礼の元には今まで以上に情報が集まり、各々のマスターが抱える諸事情まで知る運びとなった。
  秘めたる野望、願望、欲望。当人の胸の内にのみ存在する言葉は知りようがなく、特に他の五人のマスターの望みについては予測できても確信を持つには至らない。一番判りやすいのはキャスターのマスターである雨生龍之介だが、あの者は連続誘拐事件の行為そのものが目的となっており『聖杯に託す望み』などそもそも存在しない可能性が高い。
  しかし間桐陣営だけは違った。
  今、目の前にいる間桐臓硯を初めとして、間桐雁夜もまたアサシンによる諜報活動に実りない一人だ。そして間桐陣営に協力している者達が一体何人いるかも掴みきれてないので、意図や戦略どころか全容の大きさすら判らない状況となっている。
  底が見えない。
  真正面から戦うのは得策ではない。
  そう思わせる何かを間桐臓硯は持っている。
  蘇るアーチャーの言葉とそこから派生した警戒心。綺礼が黒鍵を投げるか迷いを抱いている時も、間桐臓硯は言葉を投げてくる。
  「どうやら何かを問い、答えを求めている様じゃな。真理か? 魔術か? 神か? 世界か? いや――自分自身が何者であるかの問いを自分に投げ続けておるようじゃな。なるほどワシが気にかかったのはそこじゃ、お主からは儂と同類の匂いがするぞ」
  「・・・・・・」
  時間が経てば経つほどに『言峰綺礼』が暴かれていくおぞましさがあったが、間桐臓硯の口から語られる言葉は決して無視できぬものだ。
  勝手に話すならば一語一句逃さずに聞く。そう綺礼は自分に言い聞かせるが、徐々に間桐臓硯の言葉は綺礼の神経を逆なでするモノに変わっていった。
  「自分を知るのが恐ろしいか? 求める答えは何よりも近くにあると言うのに目を背けるのは愚か者のする事よ。例えそれが『決して許されぬ事』であり『過去に積み上げた自分自身への否定』に繋がろうとも、自分は偽れぬ。だが、まだ熟しておらぬ青い果実であったとはな、二重の意味で拍子抜けじゃゾイ」
  いや、もっと正確に言えば、綺礼はその言葉を聞いてはいけないと直感で理解した。
  言葉は単なる言葉であり、嘘だと断じる事も、耳を塞ぎ聞かずに済ませられる。しかし綺礼の中には間違いなく聞こうとする意志があり、同時に聞いてはならないと思う感覚も存在する。
  姿勢は何一つ変わっておらず、体に刻み込まれた代行者としての経験が一瞬後には攻撃に移れる状況を維持している。それでも頭の中は間桐臓硯の語る言葉で埋め尽くされそうだ。
  「璃正の息子よ――」
  綺礼は返事をしない。
  けれど間桐臓硯はそれを気にせずに続ける。
  「いや、人格破綻者と言うべきじゃな。しかし、お主は自分の空虚さを埋める術を掴んでおる。美しさや喜びを感じる対象が余人と異なるのを既に知るのであれば『それ以外』にこそ答えはある。道徳と倫理感がお主の答えを妨げるモノであると判っておるはずじゃゾイ。つまりお主は――」
  続く言葉が間桐臓硯の口から放たれるよりも早く、綺礼は手にした黒鍵を敵の脳天目がけて投擲した。
  示威はなく、警告もなく、躊躇もない。ただ『奴の口を封じなければならない』という思いに駆られ、気が付いた時には黒鍵を四本すべて間桐臓硯の顔に目がけて撃ち出した。
  黒鍵は投擲武器であるが故に、当たる部分は限定される。故に普段ならば胴体など大きな部分から狙い、人体の中でもよく動く腕や頭部は動きを止めてから狙うのがセオリーとなる。
  だが今はその常識を覆し、黒鍵は全て頭部へと殺到させた。
  一瞬後、パンッ! と人の肉体を破壊する音にしてはあまりにも軽すぎる音が鳴り響き、四本の黒鍵はそれぞれ間桐臓硯の両眼と鼻と口を貫いた。
  目元以外を隠しているので正確に貫いたかどうかは判らないが、とにかく黒鍵は間桐臓硯の顔を射抜いた。が、鳴り響いた音と一緒に、間桐臓硯の頭は風船のごとく破裂して黒鍵を素通りさせてしまったのだ。
  首から上が全て消えてなくなり、頭の横にあった角らしき物と上についていた鳥の羽が地に落ちる。
  「話を遮るとは無礼な若造じゃな、言峰綺礼よ。そんなにも知るのが恐ろしいか? 知りたがっていると思うたが、ワシの見立てもあてにはならんゾイ」
  そんな頭の無い間桐臓硯から声がする。
  やはり存在の薄さが幻覚であると見立てたのは間違いではなかった様だ。少なくとも実体をもった人間であったならば頭を消し飛ばされて生きている筈はない。
  頭を失いながらもなお話し続ける間桐臓硯。綺礼は首のない老魔術師に向けて更に警戒を強め、僧衣の裾から新たな黒鍵を抜き去って構えた。
  「それ以上、見当違いな言葉を囀るな。間桐臓硯」
  「お主がそう思いたいのならば好きにするがよい。どうやらまだ自覚しておらぬ様子――」
  更に続いた言葉が意味ある単語になるよりも前に、綺礼は新しく握った黒鍵をもう一度投擲した。
  今度の狙いは腹部と胸と両足の太もも。人体を破壊して動きを止める為の攻撃であり、首のない人体に向かって真っすぐ伸びていく。
  今度もまた間桐臓硯は避ける素振りを見せず、黒鍵は狙った場所にしっかりと突き刺さる。そして先程と同じように風船が破裂する様な音を立てて、胸と腹と太ももが円形にくり貫かれた。
  しかし、それでも間桐臓硯はそこに立ち続け―――いや、間桐臓硯は足と胴体を分断されながらも、空中に映し出される映像の様にそこに在り続けた。
  「無駄じゃよ。お主が言ったとおりワシの本体は間桐邸におる。幻をどれだけ攻撃した所で、ワシには何の痛みも無いゾイ。どれだけ魔術的効果を付与してもお主程度の腕前では意味をなさん」
  「幻覚か」
  「さよう。これは存在を極限まで減らした現身よ。じゃが、こういう事は出来るゾイ」
  既に人体を構築する多くの個所が黒鍵によって抉り取られており、胸と腹に大穴を空けて、膝から下しか残っていない足と腰は繋がっていない。
  それでも間桐臓硯に見える幻覚は変わらずそこに居る。そして口の無いまま喋り続け、残った四肢の内、右腕を肩の高さまで掲げた。
  綺礼が三度黒鍵を取り出して構えると、時同じく間桐臓硯が掲げた右手から魔力の流れを感じ取る。
  サーヴァントが見せる強烈な魔力には及ばないが、それでも目の前で魔術を行使されれば嫌でも判る。
  こいつの言葉を聞いてはならない。この場で何としてでも殺さなければならない。聞いてしまえば引き返せなくなる。
  そんな思いに後押しされ、この場に在る間桐臓硯の残り滓に目がけて黒鍵を投擲した。両手両足、この場に残った全ての存在を消し去る様に放たれた黒鍵がまっすぐ敵に向かって殺到する。
  しかしここで今まで回避運動を全く見せなかった間桐臓硯が動きを見せた。掲げた右腕はそのままだが、左腕を動かして右手に迫る黒鍵を掴み取ったのだ。
  結果、両足へと向けられた黒鍵はしっかりと標的を破壊したが、左腕を狙った黒鍵は目標を失って通り過ぎる。そして掲げられた右腕は左手に守られて変わらずそこに在り続けた。
  首は無く、両足を失い、胴体に穴を穿たれ、まともに残っているのは両腕だけ。歪な死体を見ているような気もするが、そう思えないのは血が一滴も出ていない事と力強い魔力を感じるからだろう。
  今も現れた時の存在の希薄さを保ち続けているのに、溢れる魔力が魔術師の力の奔流を証明している。
  「来るゾイ――、『サボテンダー』」
  頭なき間桐臓硯からそんな言葉が聞えてきた瞬間。掲げた右掌に魔力が集約していった。目に見えるほど強烈ではないが、目の前で見ていれば判る莫大な魔力の流れが一ヶ所に集まっていく。
  何が起こるのか? 疑問と危機感が同時に発生し、四度目となる黒鍵を取り出して構えようとした。だが、綺礼が構えるよりも前に間桐臓硯の魔術が形を成す。
  綺礼が潰し切れなかった間桐臓硯の残った体が右掌に吸い込まれていき、残った人の形を攻勢する全てのモノが失われていく。そしてほんの一瞬だけ緑色に輝く塊が見えたかと思った次の瞬間、そこには間桐臓硯の右手の代わりに全く別のモノが現界していた。
  どこかサーヴァント召喚と似た空気を感じさせる現象。気が付けば黒鍵を左右の手に二本ずつ構える綺礼と、草原に生い茂る青々とした緑色を彷彿させるモノが対峙していた。
  「・・・・・・」
  綺礼がまず考えたのは、間桐臓硯が幻を通して何かをして、目の前にいるモノを呼び出した―――つまりは敵であると言う再認識だったが。その自覚と同じく『何だこれは?』という疑問もまた抱いた。
  間桐臓硯の出現の時に感じた疑問とは少々異なるが、人ではない別のモノがいる。間桐臓硯の言葉にを情報の一つとして捉えれば、なるほどその緑色の塊は確かに柱サボテンに見えなくもない。どちらかと言えば緑色の埴輪に近いが―――。
  しかし柱サボテンには手は無い、足は無い、目もない、口もない。先端には突き出した棘があるが、二足歩行している柱サボテンなど綺礼はこれまでの人生の中で見た事も聞いた事も無い。
  大きさは猫位で、間桐臓硯の右手が合った位置から地面に降りると、綺礼の膝の高さ程度しかなかった。
  非常口の誘導灯に描かれているピクトグラムのようなポーズを取っているのには何か意味があるのだろうか? 敵である事は間違いないのに、ほんの一瞬だけそのコミカルな姿に手が緩み、黒鍵を投げるタイミングを失う。
  「はりせんぼん」
  「むっ!?」
  その隙を突いて柱サボテンは頭頂部をこちらに向けて来た、そして頭の先から『針を千本』撃ち出した。
  綺礼は咄嗟に両腕で頭をガードして、足元から上に向かって放たれる攻撃をガードする。
  綺礼の僧衣は袖まで分厚いケブラー繊維で出来ており、教会代行者特製の防護呪札によって隙間なく裏打ちを施されている一品だ。貫通力の低い銃弾程度ならば貫通を防げるのだが、迫り来る攻撃が『針』だと少し分が悪い。
  大部分はケブラー繊維製の法衣によって阻まれるが、人が動くためのを前提に作られる僧衣には必ずどこかに穴がある。
  拳銃などの大きな物体ならば通れない極小の穴なのだが、針では通り過ぎてしまうのだ。
  上から下までみっちり全身に放たれた『針千本』、その内のたった十本程度だったが、一部が僧衣を通り抜けて綺礼の肉体にまで到達する。
  緊張と防御によっていつもより硬直している筋肉が針を肉の部分で抑えるが、攻撃が通った事実は消えない。手足の関節に僅かな痛みが走った。
  「くっ――」
  痛みと攻撃を防ぎきれなかった屈辱に表情を少しだけ歪めると、『針千本』の射出が止まる。
  そしてピクトグラムのようなポーズのまま横向きになった柱サボテンから声がした。
  「どうじゃ? 話を聞かぬ若造には、この『サボテンダー』の御仕置きで充分じゃゾイ。ありえんとは思うが雁夜めの救援など向かわれては困るからのう」
  それは間違いなく間桐臓硯の声であり、柱サボテンに空いた黒い穴から出ていた。
  姿形は違うが間桐臓硯の意識はそこにある。そう認めると同時に不可解な間桐臓硯の言葉に問い返す。
  「――間桐雁夜をみすみす見殺すというのか? 貴様の息子だろう」
  「雁夜を? 見殺すじゃと? ここでキャスター殺されるようならただそれだけの話しじゃ。奴にはこの狂った聖杯戦争の中で存分に踊ってもらわねばならんのでな。生き残るなら由、望み叶わず朽ち果てるならそれも由よ」
  柱サボテンから聞こえてくる間桐臓硯の言葉は、先程の体を何か所も抉られて顔無しの状態で喋っていた時よりも異質に見えた。
  だが状況は変わり『言葉』に『物理的な攻撃』が付加されている。
  間桐臓硯と間桐雁夜との間に何らかの確執があるのを匂わせる言葉は気にかかったが、考えるのは敵を倒した後でも出来る。
  もう舌戦は消え、殺し合いに状況は変わっているのだ。
  そもそもこちらから攻撃しておいて間桐臓硯が反撃しなかった事態が異常だった。柱サボテンだが緑色の埴輪か知らないが、衛宮切嗣へ到達する為の邪魔者であるならば排除するだけ。
  綺礼は意識を敵の排除に切り替え、腕を一旦下げて黒鍵を新しく指の中に二本追加する。計六本の概念武装が綺礼の手の中に握られた。黒鍵は投擲に特化した武器だが、標的の大きさが激減してしまったので離れた位置から撃てば外れる可能性が高い。ならば八極拳による近接戦闘も考慮してまずは距離を詰める。
  頭頂部から放たれる針の嵐は脅威だが、撃ち出される個所と銃弾の様にまっすぐしか飛ばない攻撃ならば、タイミングを見て避けるのも難しくはない。
  綺礼は即時即決で次の行動を作り上げ、黒鍵を顔の前に構えて防御を行いながら、緑色の埴輪に向けて駆けだした。
  そう言えば、間桐臓硯の左手に掴み取られた黒鍵がいつの間にか消えている―――。敵に向かって走り出した綺礼は、頭の片隅でそんな事を考えて、すぐに消去する。



  ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆



  Side - セイバー





  ランサーをわざわざ切嗣の所に向かわせて、敵のマスターを助けさせるのは―――。
  愚挙であろう。
  浅慮であろう。
  暗愚であろう。
  粗末であろう。
  判っている。これがどれだけ愚かな決断であり、聖杯戦争と言う殺し合いにおいてやってはならない事柄だという事は―――誰に言われずとも判っている。
  しかしセイバーには別の事もまた同時に判っていた。
  衛宮切嗣と言う男は決してランサーのマスターに負けない、そしてランサーもまた衛宮切嗣と言う男がセイバーのマスターである事を認めながら、決して殺さない。と。
  「セイバー・・・」
  「アイリスフィール。ランサーは決して切嗣を殺しません、私が保証します」
  ランサーが消えた空間を見つめる中、背後から聞えてくる声に振り返り、不安の中に一抹の怒りをにじませるアイリスフィール向け、セイバーは堂々と言い放つ。
  判っていた。
  未来予知に近い、研ぎ澄まされた第六感。固有スキル『直感』。ランサーとの戦いが始まってから、このアインツベルンの城の中で起こった全ての戦いはセイバーの肌が感じ取っている。
  本来であれば自分自身にとってのみ最適な展開を感じ取る能力ではあるが、衛宮切嗣がセイバーのマスターである事と城の中と言う限定された空間の中での戦いが何らかの繋がりを持たせたのだろう。
  戦いの結果を起こる以前に感じ取れた。
  その結果が敵への助勢に繋がった。
  これは単なる自己満足だ。
  衛宮切嗣の思い通りに動いている―――そんな自分を認めたくないから、目の前にある勝利を無に帰した。
  聖杯戦争におけるサーヴァントは敵を葬るが為に召喚される。故にマスターの魔力供給なしには現界することも出来ず、マスターの敗北はそのまま自身の消滅に繋がる。
  それでもセイバーは衛宮切嗣の戦い方を認められない。あの場はアイリスフィールと共に対峙した自分達の戦場であり、そこに衛宮切嗣の入る余地は無かった。
  だが切嗣は城の中に設置した罠を起動させて、名乗りを上げた決闘に横やりを入れた。倉庫街の戦いで征服王が割り込んできた時よりも酷い。


  「キャスターは放っておいても誰かが仕留めるさ。むしろキャスターを追って血眼になっている連中こそ格好の獲物なんだよ、僕はそいつらを側面から襲って叩く」


  脳裏に蘇る衛宮切嗣の言葉。騎士としての在り方を真っ向から否定する暗殺者のような男が自分のマスターである事実を何度呪っただろう。
  衛宮切嗣の勝利とは非道の上に積み上げられたおぞましい勝利だ。
  セイバーとて、かつて生きた王としての戦いの中で、苦渋の選択を強いられることは合った、全てにおいて尊き騎士の生き方を貫き通せた訳ではなかった。
  選択の中には『騎士』としての生き方を否定するモノもあったが、それでも国や民、臣下を守る『王』としての決断を下さねばならない時は必ずあった。
  だから切嗣の戦い方の正当性を認める部分もある。それでも納得は出来なかった。
  しかし今、聖杯戦争にサーヴァントとして招かれたこの身はセイバーであり、ただ一人の騎士として存在している。
  アーサー王として胸に刻んだ苦悩を忘れた事は無い。
  聖杯に託す望みを忘れた事は無い。
  王としての生き方を忘れた事は無い。
  それでも自分はただ一人の騎士としてこの場にいる。
  同じ騎士として―――何者にも邪魔されない勝負によりランサーとの決着をつけたい。セイバーの心はそう叫んでいる。他のマスターやサーヴァントの妨害なく、自身のマスターすらも関わりのない戦いを望む。
  セイバーは衛宮切嗣の在り方を認められない。けれども衛宮切嗣がランサーに負けない事も直感で理解してしまう。
  そして衛宮切嗣が決闘に割り込む無遠慮さをその目で見てしまったからこそ、余計に苛立ちが募り、戦いにおいて勝敗を決する時に重要視する『直感』に身を委ねた。
  最初からセイバーのマスターとして並び立ち、ランサーとそのマスターを出迎えたならば、敵を助けようなどと考えなかった。ランサーとの決着も敵マスターの敗退もここで作り出すと考えただろう。
  だが結果として、自分の愚かさを認めながらも、『ランサーとの再戦』を作り出す為、敵を助けてしまった。
  セイバーは後悔していたが、後悔していなかった。矛盾していたが、それがセイバーの本心であった。





  この時、ランサーを送り出したセイバーは気付いていなかった。
  セイバーはランサーと共に騎士としての決着を誓った。しかし、騎士には騎士が守り倣うべき戒律があり、騎士の誇りとはその戒律に殉ずる事でもある。
  ランサーはケイネスを救出する時に切嗣の姿を見た。そしてアイリスフィールがケイネスと対峙した時の名乗りもその耳でしっかりと聞いていた。
  セイバーにはそんなつもりはなかったのだろう。
  衛宮切嗣を聖杯戦争のマスターと認める事が出来なかったのだろう。
  アイリスフィールが真にセイバーのマスターであればいいと願ったのだろう。
  だがセイバーは結果として騎士の誇りの一つである『真実と誓言に忠実である事』を汚した。アイリスフィールがセイバーのマスターだと名乗った時、それを弁明しなかったのだ。
  アイリスフィールが自らがマスターであると名乗らなければそれは虚偽にならないかもしれないが、すぐ隣で偽りの口上を述べた者の嘘を撤回しない事が果たして真実と言えるだろうか?
  聖杯戦争においてマスターとサーヴァントは他の何よりも強い契約によって結ばれている。無関係の他人がその場に居合わせただけとは訳が違う。
  ランサーは切嗣の右手に刻まれた令呪を見て、切嗣こそが真にセイバーのマスターである事を知った。たとえ、騎士としての決着を望んだセイバーの計らいでケイネスを助けられたのだとしても、ランサーは誰がセイバーの真のマスターであるかを知ってしまった。
  アイリスフィール・フォン・アインツベルンが名乗った時にセイバーが真実を口にしなかったのを知ってしまった。
  それは状況によっては無視できてしまう微々たるモノだったかもしれない。『マスターを敵のサーヴァントの前に晒す』という、互いに敵でありながらも全幅の信頼を寄せるその輝きは僅かな嘘が消えてしまう程に強烈だ。
  強大な敵に向ける信頼の現れだ。
  セイバーがランサーを信頼したからこそ、自分のマスターを決して殺さないと判っているからこそ、ランサーはケイネスを助けられた。
  だが、この出来事がランサーの胸に小さいながらも癒えぬ傷として刻まれる。騎士の誇りを汚した出来事として、小さく小さく刻まれる。
  それをセイバーは気付いていなかった。



  ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆



  Side - アイリスフィール





  アイリスフィールは結界の中に敵の存在が無いのを確認しつつ、切嗣を探す為にホールから移動した。
  切嗣がどこにいるか? それは判らなかったが、いるであろう場所は城の中に出来た破壊の後を辿ればそれでよかった。
  敵のマスターが通ったであろう場所をなぞって移動すると、程なく切嗣の姿を発見する。
  「無事かい、アイリ」
  「ええ大丈夫よ。切嗣、貴方は?」
  「無傷だよ。城は随分壊れたけどね」
  そう言いながら周囲を見渡す切嗣の体には傷らしい傷は全く見当たらず、コートの一部がほんの少しだけ切れている程度で外傷はなさそうだ。
  こちらに気を遣ったり、強がって嘘を言っている可能性を少しだけ考えたが、切嗣の言うとおり無傷で勝利したらしい。
  しかしアインツベルンの森の中から撤退していくランサーの気配と、彼に担がれたマスターの姿を感じ取っているので、この場の勝利は決して敵陣営の脱落に繋がらない。
  敵を退けただけだ。敵が調子を取り戻せば再び殺し合いが繰り広げられるであろう事は容易に想像できる。
  間桐雁夜とキャスターもこちらの戦いが終わる前にそれぞれ撤退したようで、結界の中に反応は無かった。
  アイリスフィールは切嗣に倣って無残に壊された城を見渡しながら、誰一人として死ななかった事実に安堵する。ただし、ぐるりと見渡した時に後ろにいるセイバーの姿が視界に入ると、視線に剣呑な空気が混じるのが判ってしまう。
  セイバーの言うとおり切嗣は生きていた。ランサーは切嗣と対峙しながら、自分のマスターの救助を最優先させたようだ。
  セイバーの言った事は間違っていなかった。しかし、セイバーは切嗣の命よりもランサーとの決着を優先させた。それは紛れもない事実として存在する。
  セイバーは堂々と『ランサーは決して切嗣を殺さない』と語り、その言葉の中には確信よりも強い何かが合った。もし自分がセイバーの本当のマスターであったならばその『何か』が判ったかもしれないが、相手の心を読む術がない自分には判らない。
  英霊であるセイバーとホムンクルスの自分とは生まれも育った環境も、今の立ち位置も、全てが違いすぎて相手の言葉と状況から心の中を想像するしかない。
  当たり前だが、セイバーにはセイバーの考えがある。
  もし生まれた時から一緒にいる双子だったならば言わずとも通じる何かが互いにあるだろうが、アイリスフィールにはセイバーの心が判らない。
  そう―――、聖杯戦争において言えば、他の誰よりも切嗣と彼の心を優先させるアイリスフィールにとって、セイバーの決断とそこに至るまでの経緯は未知の領域だった。


  「そういう決意は、私にも理解できる。決断を下す立場に立つのであれば、人間らしい感情は切り捨てて臨まなければならない」


  「聖杯の力によって世界を救済したい――そうアイリスフィールは言いましたね? それが貴方と切嗣の願いだと」


  「私が聖杯に託す願いもまた同じです。この手で護りきれなかったブリテンを、私は何としても救済したい。貴女と切嗣が目指すものは正しいと思います。誇って良い道だと」


  そうドイツで話した言葉を信頼していたからこそ、アイリスフィールはセイバーの行動を全て肯定してきた。
  何一つ語る言葉と行動にずれがない。切嗣を聖杯を手にするマスターにするアイリスフィールの願いと重なるから、これまで共に歩んできた。
  しかし今更な話ではあるが、アイリスフィールとセイバーは数日前に初めて会っただけの他人であり、アイリスフィールの知る『セイバー』は英雄譚として語られる人柄であったり、ここ数日で知ったものばかり。別の言い方をすれば浅い付き合いの上辺に過ぎない。
  姫君としての自分と、騎士としてのセイバーは相性がいいかもしれない。だがそれは互いの認識や考え方を知ると同義ではない。
  九年間一緒に過ごした切嗣ですら、『魔術師殺し』という顔を持っており。イリヤスフィールの父親としての顔や、自分の夫としての顔とは別の顔も持っている。アイリスフィールはその顔を今日に至るまで知らずにいた。
  セイバーについてはもっと知らないのだ。
  アイリスフィールは考える。
  もしかしたら、セイバーは聖杯戦争の土壇場になって切嗣を見殺しにするかもしれない、と。
  もしセイバーが切嗣の命と引き換えに聖杯を手にいれられる状況に陥った場合、無いとは思いたいが、聖杯の方を選ぶかもしれない。
  アイリスフィールが同じ状況に遭遇すれば間違いなく切嗣を選ぶが、セイバーは自分ではない、別の考えで行動しているのだから、絶対にないとは言い切れない。
  今までの自分だったならばそんな疑心暗鬼を考えなかった。だが、セイバーがランサーを見逃す暴挙を目の前で見せたので、ありえるかもしれないと考えてしまう。
  信じていたモノが、鉄壁だと思っていたモノが、不動と感じていたモノが、音を立てて崩れていく感覚が頭の中を通り抜ける。
  自分はどれだけ薄い氷の上を歩いているのか?
  知った気になっている相手を妄信して自分の考えを放棄してないか?
  真実から目を背けて、有りもしない偶像を真実と見間違えてないか?
  そんな恐ろしさが浮かんでくる。
  「舞弥。これからの話し合いをするから一旦サロンに集合しろ」
  「了解」
  考えに没頭するあまり周囲の景色が見えているが見えていなかった。それでも聞こえてくる音がアイリスフィールの頭の中に滑り込んでくる。
  切嗣の耳に着いたインカムから小さな声が漏れて、アイリスフィールの耳にも届いたのだ。
  もし周囲が雑音だらけだったり、戦いの最中であったならば絶対に聞こえなかった。だが、切嗣を心配して手を伸ばせば触れられる近距離にいたのが幸いし―――いや、災いし、ここにはいない女の声をしっかりと聴いてしまう。
  もし仮に―――起こらなかった『もし』を考えても仕方のない事だが、もし仮に間桐雁夜の乱入が無く、セイバーをキャスターの元に送り出していれば、おそらくアイリスフィールは舞弥と接点を結べただろう。
  ランサーとそのマスターがどう出るかは『もし』の部分なので予測で補うしかないが、少なくとも今の状況とは異なる何かが合った筈。
  キャスターを倒す為にセイバーを送り出し、最大の守りを欠いた状態のアイリスフィールが切嗣の指示によって城を出たかもしれない。
  そこでアイリスフィールの護衛にと舞弥をつけ、そこにランサー陣営とは異なる別の敵が現れて舞弥と共闘する事になっていたとしたら―――。アイリスフィールは切嗣に最も近い女性と思っている舞弥と、心の距離を近づける機会に恵まれたかもしれない。
  だが起こったかもしれない『もし』は無く、起こった事実は無くならない。セイバーがランサーと戦いを繰り広げている間に、切嗣は久宇舞弥と一緒にランサーのマスターを迎撃したのだ。
  妻である自分と、ではない。
  助手である舞弥と、だ。
  女としての、妻としての、代理マスターとしてのアイリスフィール・フォン・アインツベルン。その意志とセイバーの行動との間には決して交わる事のない大きな壁があるのだと気付いてしまった。
  そしてその壁は久宇舞弥と言う女性の間にも存在すると判ってしまった。
  たった数日間しか付き合いのないセイバーの事すら判らないのに、今も接点が全くない久宇舞弥について知れと言うのは無理がある。
  衛宮切嗣が戦いにおいて最も近くに置く女性。久宇舞弥。
  その女の事を考えながら、アイリスフィールは疑いと共に考える。もしかしたらセイバーは切嗣の願いを邪魔する『敵』なのではないか? と。





  召喚したサーヴァントを信頼しないマスターの在り方が―――。
  信頼されないマスターへ向けるサーヴァントの心が―――。
  聖杯戦争において愚挙としか言いようのない決断が―――。
  当の本人にしか判らない『直感』という理由なき結論に至る道筋が―――。
  人によって異なる大切なモノへの想いが―――。
  各々の中に様々な感情を呼び起こしてゆく。
  これまで積み上がっていたと思っていた信頼は虚像であり、剥き出しになったのは互いをの心を隔てる巨大な壁の存在が見えた。相手の事を判ったつもりでいた実態は暴かれ、微かに築かれようとしていた信頼は山を成す前に崩れ落ちていく。
  まだ誰一人として失わず、同じ陣営の中で大きな怪我を負った者は一人もいない。セイバーの片腕がまだランサーの槍の魔力で傷つけられたままだが、傷と言えばそれだけだ。
  拠点はボロボロになったが、結界などは正常に動いており、冬木ハイアットホテルの魔術拠点を丸ごと失ったランサー達に比べれば大きな被害は無いと言っても良かった。
  しかし、胸の内に宿る心は大きく傷ついていた。
  疑心と言う刃がアイリスフィール自身を傷つけていた。
  「・・・・・・・・・」
  アイリスフィールはこの先の戦いへの不安を思いながら、切嗣の妻であり一人の女でもある自分の前に現れた新たな敵を睨みつける。
  その名は久宇舞弥。そしてセイバー。
  相手と視線が合った時には既に『聖杯戦争の仮のマスター』としての意識が柔和な笑みを浮かべさせる。それでも心の中に生まれた敵意は消えぬ炎となって燃え続けていた。



  ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆



  Side - ゴゴ





  ものまね士ゴゴの意識はどこにあるのか? あえてそう問いかけられたなら、ゴゴはこう返すだろう。全ての自分がいる場所だ―――と。
 総体の中の単一がゴゴなのではなく、妄想幻像ザバーニーヤによって分裂した全てがゴゴであり、本体と呼べるモノはどこにも存在しない。
  雁夜に同行して気絶した子供達を冬木教会へと送り届ける『ティナ・ブランフォード』。間桐邸に残りスケッチで描いた自分の幻を操って言峰綺礼と対峙する『間桐臓硯』。遥か彼方のドイツ目指して空を旅している『セッツァー・ギャッビアーニ』と他三名。そして桜ちゃんと一緒に冬木市の上空に滞空している飛空艇ブラックジャック号で残っている『ものまね士ゴゴ』。全ての意識は繋がって、ものまね士ゴゴを作り出している。
  だからこそ増えた分だけ分裂の利点である『並列作業』の数もまた増大する。一人では出来なかった事が二人では出来て、それが三人、四人とどんどん増えて行けば作業能率は格段に跳ね上がる。聖杯戦争をしながらドイツに向かうのがその顕著な例と言える。ただし、本来の宝具の持ち主であるアサシン同様に分裂すればするほどの一体の力は低下する欠点もあったが。
  全てのゴゴの中には柳洞寺の地下大空洞にある大聖杯―――200年以上前に始まりの御三家が敷設したこの術式が『ものまね』によってゴゴの中に取り込まれているが、まだ機能の全てを真に理解した訳ではない。
  何しろ大聖杯の効果には『冬木の霊脈からマナを吸い上げる』『冬木の土地を聖杯降霊に適した霊地に整えていく』『マスターへの令呪の分配』『英霊の座へのアクセスと英霊召喚』など、幾つもの機能が存在する。
  ものまね士ゴゴの本質と言ってもよくなった『物真似』は、事が起こらなければ物真似が出来ない欠点がある。そして大抵の場合は一度見聞きすればその全てを模倣するのが可能だが、世界の違いが二度三度と複数回の検分を必要とさせた。
  バーサーカーの宝具はじっくり見る機会に恵まれたので一度でその全容を理解できたが、アーチャーの宝具はまだ物真似しきれてないのがその良い証拠だ。
  柳洞寺の地下大空洞に眠る大聖杯とは同じでありながら別物。それがものまね士ゴゴの中にある『大聖杯』。けれど機能そのものは同一であり、起こしえる結果もまた同様のモノが起こせる筈。
  そこでゴゴは聖杯戦争が始まると同時に、それを破壊する目的に沿って動きながら、聖杯戦争の本質の理解もまた深めて行った。別の言い方をすれば聖杯戦争のものまねだ。
  色々な機能を持つ大聖杯をものまねして、可能ならばアインツベルンが用意すると言われているもう一つの聖杯、『小聖杯』の方も物真似しておきたい。
  無論、大聖杯の物真似がゴゴの行動の全てではなく、それ以外にもいろいろな事をやっている。現段階の最終目的である『桜ちゃんを救う』を完遂する為、手立ては多ければ多いほど良い。幻を介して言峰綺礼と戦っているのもその一つ。
  雁夜と一緒にキャスターの魔の手から救い出した子供達の後始末を言峰璃正に押し付けようとしているのもまた一つだ。
  現在、柳洞寺の地下大空洞にある大聖杯は呼び出された七体のサーヴァントをこの世界に現界させる為に英霊を現界させ続けている。維持については各マスターの魔力供給によって成されているが、サーヴァントが現界出来ている最も大きな理由は大聖杯があるからだ。
  そして令呪もまた大聖杯から各マスターに割り振られた魔力の塊であり、サーヴァントも令呪も形を変えながら魔力と言う縄で大聖杯に繋がっている。
  そこで間桐邸に残ったゴゴ―――エドガーの姿を借りていたゴゴは、雁夜の手に刻まれた令呪と同じように、外側からサーヴァントへの命令行使を行えないかと考えた。
  何しろ令呪の元である大聖杯はゴゴの中にも存在するのだ。既に柳洞寺の地下の方の大聖杯とは別のモノとなっているが、それでもサーヴァントへの干渉は何らかの形で行えるのではないかと予測した。
  大聖杯から伸びてサーヴァントへと繋がる魔力の跡。見えないが感じるそれに手を伸ばし、令呪のように命令すればどんな事が起こるか?
  アサシンやバーサーカーの宝具がそうであるようにゴゴが聖杯戦争で得るモノは多く、非常に有意義と言える。全てのサーヴァントを物真似するまでどの陣営も脱落してもらっては困る。そこでゴゴはこう命令する―――。
  敵のマスターおよび敵サーヴァントを殺すな。と。
  そうやって物真似した大聖杯を通じて各サーヴァントに訴えかけて様子を見た所、令呪ほど強力な絶対命令とはならない事が判明する。
  ただし、サーヴァントの無意識化に僅かながら干渉する事は出来たようだ。
  もしかしたらバーサーカーがキャスターを殺せなかった理由は雁夜の魔力不足よりもこちらが大きいかもしれない。
  「あれはバーサーカー用に調整された令呪だから、セイバーへの干渉は不十分か。自己意識に訴えかけて無意識での行動改悪は可能だったが、令呪ほどの拘束力はないな。一度、他のマスターが令呪を使用するところを見る必要があるか」
  本人は自らの遺志で物事の全てを決めているかもしれないが、サーヴァントは大聖杯によって作り出した『令呪』という鎖に繋がれている。つまりサーヴァントには大聖杯が維持する肉体に自意識以外の介入があるのだ。
  今更ながら、英霊をサーヴァントとして成立させるシステムや、第二次聖杯戦争から採用した『令呪』を考案した間桐臓硯は魔術において偉人であった。人間性は考えなければ、大聖杯を通じて人を超える英霊に抗えぬ命令を下せるようにしたのは見事と言うしかない。
  飛空艇ブラックジャック号の一室で横たわる子供を見つめるゴゴが呟くと、すぐ近くから声がする。
  「――どうしたの?」
  「いや、何でもない。ただの独り言だ」
  桜ちゃんだ。
  間桐邸の方のエドガーとして話すつもりが、あちらには自分以外に喋る相手がいないので、意識がこちらに移ってしまった。
  もしかしたらさっきまで、子供達に説明したり、雁夜と会話した余韻が残って引きずられたのかもしれない。
  雁夜の方はティナとしての女口調。言峰綺礼の方はストラゴスの喋り方と間桐臓硯の喋り方を合わせた爺口調。そして桜ちゃんの前ではこの一年接してきた男口調。無節操と思いながら、ゴゴはアインツベルンの森の中にまだ存在するセイバーとランサーの事を思う。
  サーヴァントへの干渉の大元にと試したのは、雁夜がバーサーカーに命令する時に使った令呪だ。ケイネス・エルメロイ・アーチボルトがランサーへ命令する為に使った令呪は倉庫街で見ているが、衛宮切嗣がセイバーに使う令呪はまだ見ていない。
  各マスターが自分のサーヴァントへと命令する令呪は大聖杯から離れた時にそれぞれ形を変える。だから全てのサーヴァントに等しく命令するならば、その全ての令呪を目にしなければならない。
  とりあえずセイバーとランサーを脱落させない事には成功したようだが、『サーヴァントに対する絶対命令権』と呼ぶには程遠い。バーサーカーとランサーならそれも叶うかもしれないが、『令呪の物真似』などとても言えない出来栄えだ。
  まだまだ改良の余地がある。そう思いながら、ゴゴは桜ちゃんの傍にいる自分の意識を言峰綺礼と戦っている方のゴゴに移す。





  リルム・アローニィ のオリジナルコマンド『スケッチ』、そして砂漠に生息する巨大な柱サボテンで何故か髭を生やしている『ジャボテンダー』を倒した証として手に入る魔石、この二つの効果を融合させて、ゴゴは物真似を超えて全く別の『サボテンダー』を生み出した。
  大部分は『針千本』を打ち出すモンスターとしてのサボテンダーで、魔石で召喚される効果も大差はない。最も違う点は呼び出された『サボテンダー』が間桐邸にいるゴゴが遠隔操作で動かしている点だ。
  魔石からの召喚は一定の行動しか起こせない制限があるが、今はその枷が外れている。サボテンダーなので攻撃手段は限られるが、言峰綺礼と戦っているのはサボテンダーの姿をしたものまね士ゴゴだと言えるだろう。
  ただし本物ではないのでバトルフィールドが張れなかったのは痛手である。
  自分の存在を薄めて、アインツベルンの森の中に存在する自然の魔力と錯覚させなければこの場に来れなかった。それでも魔力だけの幻だけではなく本物が来ればよかったと少し後悔する。
  「はりせんぼん」
  文字通り『極小の針を千本撃ち出す』その技こそがサボテンダー唯一の攻撃であり最大の攻撃だ。針の一本一本が確実なダメージを作り出して、全ての針が突き刺さった時莫大な効力を発揮する。
  必殺必中。その筈だったのだが、物真似の尺度を超えて全く新しい別のモノに作り替えてしまった弊害が合ったようで、必中はどこかに消えてしまった。
  サボテンダーの頭から放たれた千本の針―――魔力によって編まれたそれが言峰綺礼の全身めがけて飛んでいくが、撃ち出すと同時に言峰綺礼が横に避け、虚空へと素通りしてしまう。なお、当たらなかった針はすぐに消して周囲に被害が及ばないようにしている。
  バトルフィールドが無い故に周囲への影響を最低限にしなければならなかった。
  認めよう、言峰綺礼は強い。
  完全に幻獣として呼び出せば撃ちだした千本の針が敵めがけて追尾するだろうが、今はまっすぐにしか撃てない。一目で今のサボテンダーの弱点を看破して、守るよりも避ける方が有効だと即決して行動に反映させている。
  事前に得た情報から言峰綺礼が八極拳の使い手だと知っていたが、敵が使ってくるそれは正道から少々外れた人体破壊術であった。何の躊躇もなく道路ごと踏み潰そうとしてくる足は巨人に押しつぶされるような圧迫感を持っていた。
  その場に留まり攻撃するだけならば呆気なく終わっただろう。
  モンスターとして現れるサボテンダーならばすぐに殺されただろう。
  しかしこの身はものまね士ゴゴであると同時にサボテンダー。防御力の高さと回避の速さは他の幻獣を凌駕する。
  「甘いゾイ!」
  ほんの数センチ先に言峰綺礼の足の裏があるのを確認した後、ゴゴは綺礼に向かって捨て台詞を吐いてからサボテンダーとして横に動いて攻撃を避けた。
  一瞬後には、サボテンダーが居た位置に言峰綺礼の足が突き刺さって地面を凹ませ小さく揺らすが、サボテンダーの回避能力の高さによって踏まれる前に数メートルの距離を移動している。
  足音を立てず、非常口のピクトグラムの体勢を維持したまま、高速で地面の上を移動する姿はどこか滑稽に見えるかもしれない。あるいはフィギュアスケートのように見えたかもしれないが、移動したサボテンダーから放たれるの美しさではなく千本の針だ。
  「奇怪な――」
  足元から高速で移動して逃げるサボテンダーに向かい、言峰綺礼が目で追ってくる。視線が合うよりも前に次の攻撃を放った。
  「はりせんぼん」
  言峰綺礼は迫りくる千本の針を見るよりも前に動く。視線はこちらに向けようとしながらも、体は迫りくる危機に反応して位置を移動しているのだ。
  再び千本の針が全て虚空へと消えて行く。もう少し撃ち出す針の範囲を広げて絶対に避けられないようにするか―――そんな風に考えていると、黒鍵が飛んできた。
  足で踏み潰すには速度が足りないとでも思ったのか、指と指の間に握られていた黒鍵の一本が黒い穴にしか見えない目と目の間に迫っていた。
  だが甘い。
  サボテンダーの小ささはただ早く移動する為の小ささではないのだ。
  ゴゴはほんの少しだけ横に移動しながら、非常口のピクトグラムのごとく見えるよう構えた体勢を九十度回転させた。結果、襲いかかる黒鍵はサボテンダーの体のすぐ目の前を通過して道路に突き刺さるが、サボテンダー自体は無傷だ。
  黒鍵に魔剣ラグナロクの様な爆発の付加効果があれば避けてもダメージを喰らったかもしれないが。先程、サボテンダー召喚の時にこっそり盗った黒鍵からはそんな効果は無いと確認した。
  どれだけ強力な攻撃だろうと当たらなければ意味がない。
  「はりせんぼん」
  仕返しだ! と言わんばかりに間髪いれずに次の攻撃を行い、言峰綺礼を更に避けさせる。
  相手から見ると非常口のピクトグラムに見えるような横向きの体勢に戻すと、横に跳んで避ける言峰綺礼の姿が見えた。
  動きを止めているとまた黒鍵が飛んでくるので、攻撃される前に後ろに向かって全力ダッシュ。体勢を維持したまま滑るように後方へと移動して再び言峰綺礼との間に距離を空ける。
  遠くには黒鍵を顔の前でクロスさせて盾の様に構える敵の姿が見える。防御をしながらすぐに攻撃に移れる体勢を維持して、こちらの攻撃の隙をつくのか。
  そう考えて少しだけ動きを止めた次の瞬間、複数の黒鍵が一気に向かってきた。サボテンダーの小さな体でも避ける隙間のない密集した攻撃、一瞬白銀の壁が迫って来たのではないかと錯覚を覚えながらも、攻撃範囲外に向けて再び全力ダッシュ。
  一本、二本、三本、四本と何とか避けるが、一瞬の間を置いて放たれた五本目の黒鍵が直角に掲げた腕に命中した。
  胴体への直撃ではなかったが。動きを読まれていたか、誘導されたのではないかと思える見事な一撃だ。サボテンダーの腕は肘に見える部分を直角に曲げているが、その直角部分がごっそり抉り取られてしまう。
  片手になってしまいバランスが悪い。サボテンダーの体は三回ダメージを負うと維持できなくなる。
  だが、まだ失ったのは片手だけで敵の攻撃を二回受けられる。実体ですらないのでゴゴに痛みは無い、まだまだ戦える。
  アサシンをものまねしてサーヴァントの宝具は手に入れた、だから次はマスターの言峰綺礼の番だ。
  もっと見せろ。
  もっと魅せろ。
  もっと診せろ。
  もっとみせろ。
  マッシュにはない八極拳の技を見せろ。
  投擲や剣戟以外の黒鍵の使い方を見せろ。
  全身全霊を持って敵を殺す姿を見せろ。
  そして、ものまね士ゴゴに物真似させろ―――。
  「はりせんぼん」
  「私の邪魔をするな!」
  攻撃する時だけはどうしても動きを止めてしまうサボテンダーに向け、言峰綺礼が叫びながら再び黒鍵を取り出して投擲した。





  言峰綺礼に乱入されたら、せっかく子供達を助けた雁夜が殺されてしまうかもしれない。セイバー陣営とランサー陣営の一騎打ちの形が崩されてしまうかもしれない。どこかのマスターかサーヴァントが殺されてしまうかもしれない。
  雁夜を鍛える師匠としての観点で見れば、雁夜がキャスターを仕留められなかったのは残念だ。しかしものまね士ゴゴの観点で見れば、今後もキャスターの物真似を出来る機会が残るのは喜ばしい限り。キャスターが宝具を使って怪物を召喚し続ける以外にも何か奥の手があればと願うばかりである。
  言峰綺礼と戦っている自分。
  二隻の飛空艇ブラックジャック号を別々の場所で操縦する自分。
  間桐邸に残って敵が来るのを待ち構えている自分。
  有事に備えて冬木市にカイエン・ガラモンドとて潜入している自分。
  その全ての自分を自覚しながら、ティナ・ブランフォードとしての自分は幻獣『ケーツハリー』に跨って、冬木教会を目指している。
  言峰綺礼に告げた『雁夜が死んでもかまわない』の発言は真っ赤な嘘で、こと『攻撃魔術』に関して言えば、他の追随を許さない魔導戦士の守りがついている。雁夜を生かす為の守りは万全である。
  嘘も方便とはよく言ったものだ。
  雁夜には別の場所にいるゴゴの言葉など聞こえていない。それでも堂々と人を騙す自分の在り方に、自分は変わった、と思い描くと口元に小さな笑みが浮かぶ。
  ゴゴとしてではなく、ティナの顔に笑みが出来た。
  「どうかしたのか?」
  「今のところ順調だな・・・って思ったの」
  「――そうだな」
  ティナの姿をした自分に対し、短く返してくる雁夜。現在、ティナと雁夜は背中を合わせている状態だ。
  桜ちゃんから返してもらった魔石『ケーツハリー』、色合いの大部分を紫色が占める巨大な鳥に向かって、冬木教会に向かってくれ、と指示を出す為にティナは常に前を向かなければならない。
  幻獣召喚の為に透明化の魔法『バニシュ』が使えない状態なので、ライダーの飛行宝具の様な敵襲がある可能性が捨てきれない。そこで、ティナが前方と幻獣の操作に注意して、雁夜が後ろの監視と子供達の安全に注意する構図が出来上がった。
  背中をぴったりと合わせた状態が雁夜の気に障ったのか、あるいは気にし過ぎるのか。会話はあまり無い。
  唐突に話は変わるが、ティナの趣味はモーグリをふかふかすることだ。ミシディアうさぎのもこもこふわふわした感触とは異なる、モーグリという種族の絶妙な柔らかさがティナの心を惹きつけてやまない。
  しかし、背中に感じる雁夜の人肌も、手に返ってくる巨大な鳥の羽根の感触も、どちらもがモーグリの感触には遠く及ばない。
  ものまね士ゴゴとしての自意識がありながら、同時にティナとしての意識も間違いなく存在する。結果、今頃は飛空艇でドイツに向かってるモグがいなければもうあの感触が味わえないと考えて、ほんの少しティナは不機嫌になる。
  小さな喜びと小さな怒り。その両方を噛みしめながら、ものまね士ゴゴはティナとして雁夜に話しかける。
  「ねえ、雁夜」
  「何だ?」
  「まだ魔力は完全に回復してないでしょ? エーテルだけじゃ足りないんだから今のうちに私から魔力を補給して」
  そう雁夜に話しかけると、背中越しにビクッ、と震えたのが判った。
  そんな事を言われると思って無かったのか。それとも話が極端に少ない鳥の背中の上が地上が恋しくなったのか。
  少しだけ間を置いてから雁夜が返事をした。
  「・・・・・・・・・それは、悪いだろ。何かあった時は多分ティナに頼むのに、貴重な魔力を貰うのは」
  「さっきの戦いで頑張ったのは雁夜と桜ちゃんで私は何もしてないわ。だから大丈夫よ。私の魔力は雁夜よりも桜ちゃんよりもずっと多いんだから――心配しないで」
  単純に年だけで考えるならば雁夜はティナよりも上だ。それでも、一年間戦いの師匠として接してきた経験に毒され、どうしても上からの目線で話してしまう。
  雁夜は姿形が違うのに同一人物であるゴゴを掴みかねているのかもしれない。もしくは性別不明のゴゴには強く出れても、『誓いのヴェール』と『ミネルバビスチェ』の組み合わせが作り出す衣装の薄さにティナと言う女性を感じて強く出れないのかもしれない。
  思春期の小僧でもあるまいし、とティナではなくものまね士ゴゴの思考が小さく笑う。
  それでもこの場で言えば雁夜と背中合わせに座っているのは紛れもなくティナなのだ。年上でありながらも、子供を諭すような想いを胸に抱いて話しかける。
  「教会につくまでしばらくかかるわ、あなたも戦う者としての心構えがあるなら万全の準備を整えるのが大事だって判るでしょ? 今のうちに『アスピル』で魔力を回復させて。ね?」
  「――判った」
  対象の魔力を吸収する間接魔法の名を呟くと、僅かばかりの躊躇の後に肯定の言葉が飛んでくる。
  前を向いたままなのでティナの視線では雁夜が何をしているか判らないが、合わせたままの背中が少しだけ動いて、右斜め後ろに空気の流れが変化するのを感じ取った。
  どうやら雁夜が右手を前からぐるりと回り込ませ、左側でティナへ手のひらを向けているようだ。雁夜には左側でもティナから見れば右側となる。
  卓越した使い手になればわざわざ魔法を使う時に手を向ける必要はないのだが、今の雁夜は『魔法を使う方向』を意識する為の手のひらを向けなければならない。
  キャスターと戦った時もそうだった。
  ティナは雁夜の未熟さを微笑ましく思いながら、向けられた手と―――すまなそうに聞こえる魔法を耳にする。
  「・・・・・・・・・アスピル」
  「んぅ――」
  直接雁夜の手が地肌に触れた訳ではないのだが、魔力が吸い出されていく時に少し艶っぽい声が出た。



  ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆



  Side - 言峰綺礼





  忌々しい―――。問い続ける人生だからこそ滅多に怒りを感じる事など無いのだが、それでも消滅した敵の残滓を見つめながら感じたのは怒りであった。
  小さな敵は脅威足りえず、二手三手攻防を繰り返した所で戦えば必ず勝つと予測がついた。綺礼の目の前にある結果はまさしくその通りであり、綺礼の勝利と言う形で決着がついた。
  緑色の物体は既にどこにもおらず、魔力で形作られていたであろう体は影も形もなく消え失せている。
  あれは使い魔の一種だろうか? 蟲使いである間桐臓硯らしからぬ柱サボテンと言う奇異に見えた敵の姿を思い出しながら、綺礼は考える。
  そして考えても消えぬ怒りに後押しされ、拾い上げた黒鍵の柄を強く握りしめた。
  綺礼が道路から拾い上げると同時に魔力で編まれた黒鍵の刃の部分が消え、残った柄の部分が十字架のように見えた。
  まだ使える黒鍵を全て回収するが、整備なしに何の問題なく使える黒鍵の残数は半数にまで減っている。僧衣の下に刻まれた傷の多さと消耗した体力も確かな損失として綺礼の体を蝕んでおり、戦力の大幅な低下を認めるしかない。
  「――くっ!」
  間桐臓硯が何を考えてこんな『時間稼ぎ』をしたのかは判らないが。途中から、敵の目的が自分を殺す事ではないと気付いた。
  気付きながらも、冗談の様な『針千本』の攻撃は凶悪であり、無視してアインツベルンの森に踏み込めば背後から脳天を貫かれる危険があった。だから排除しなければ先には進めないと判ってしまったのだ。
  そもそも自分と互角かそれ以上の速さで動き回る物体に対して振り切るのは困難を極める。
  その結果、綺礼はアインツベルンの森の結界の外側で間桐臓硯の刺客との死闘を演じ、勝利を収めながらも当初の予定である『衛宮切嗣との邂逅』を諦めるしかない状況に陥ってしまった。
  これでアインツベルンの森の中で各々の陣営が乱戦が繰り広げられているのならばまだ機会はあるのだが、斥候として潜り込ませたアサシンからの情報で、バーサーカーを加えたキャスターと間桐雁夜との戦いは収束してしまい、ランサーとそのマスターもまた間桐雁夜同様にアインツベルンの森から撤退していると聞く。
 妄想幻像ザバーニーヤによって数の差は無いが、流石に綺礼とアサシンだけでセイバー陣営に攻撃を仕掛けるには少々荷が思い。もし衛宮切嗣の戦力が全く減っていないのであれば、綺礼がセイバーと直接相対する危険もある。さすがにそれは勝率の悪い賭けに出過ぎている。
  「今回はここまで――か」
  アサシンからの情報でキャスターがまだ健在であるのを知った。ならば再びアインツベルンの森への強襲を仕掛け、そこに割り込む隙が出来るかもしれない。
  そうやって自分を納得させ、綺礼はアインツベルンの森の中に送り込んだアサシンの一部に撤退を命じる。残ったアサシンには引き続き状況を監視させる手筈だ。
  「・・・・・・」
  自分もまたこの場から退避しなければならず、痕跡を出来るだけ消す為に壊れた黒鍵を拾い集めた。その途中、既にこの場から消え去っている敵の存在―――何故かこの場に現れた間桐臓硯の事を考えた。
  サボテンダーという名前らしいあの柱サボテンを完全に消滅させると同時に、間桐臓硯の薄い気配もまた一緒に消えた。語られた言葉から予測するに、本体は間桐邸にいて使い魔を遠隔操作したのだろう。
  しかし、それにしても力があまりにも強すぎた。
  見た目のおかしさとは裏腹に小回りのきく移動速度は脅威だった。
  綺礼の感覚で、あの柱サボテンは使い魔の中でも位としてはかなり上だ、最高ランクに位置する聖杯戦争のサーヴァントには匹敵しないが、それでもかなり高位の使い魔と推測する。
  おそらく事前情報で手に入れた『間桐臓硯』と、冬木教会に現れ、幻越しに綺礼の前にも姿を見せた『間桐臓硯』との食い違いの原因に、あの柱サボテンもまた関わりがある筈。
  そして実際に戦ったからこそ綺礼には判る。
  間桐臓硯は本気ではなかった。
  自分相手に時間稼ぎ出来る余力を残していた。
  ならば間桐臓硯が本気を出して聖杯戦争に関わった場合、大きな障害になるのは確定だ。全容が見えないので確たる判別は出来ないが、あるいは時臣氏のサーヴァントである英雄王ギルガメッシュですら上回る奥の手を持っている可能性がある。
  自分と同類である衛宮切嗣、その男が辿り着いた答えを問わねばならない。障害が現れるのならば全て排除する。
  間桐雁夜との間に何らかの確執がある様に聞こえた言葉もまた判断材料として更に調査を進めていく。
  もっと情報を集めなければならない。
  もっと力をかき集めなければならない。
  もっと破壊と殺戮を―――。
  「――ん?」
  何か、無関係な事柄まで浮かんできそうだったので、綺礼は慌てて自分の思考を止めた。そして無心で黒鍵の柄を拾い続け、壊れた物も含めて一分もかからずにその全てを回収する。
  残るのは戦いの後を教えるひび割れや穴のあいた道路だけ。ただしすぐに修繕が必要なほど大きな被害でもないので、このまま放置しても問題は無い。冬木ハイアットホテルの様な大規模災害に比べれば僅かな損害だ。
  人によっては近くの雑木林からの木の根に侵食された壊れたと思うだろう。
  まだ機はある。綺礼はそう自分に言い聞かせながらアインツベルンの森に背を向けた。



  ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆



  Side - ゴゴ




  ものまね士ゴゴは問いかける。
  ものまね士ゴゴは話しかける。
  ものまね士ゴゴは語りかける。


  「この戦いは始まる前から狂ってる。あの蟲爺は誰よりもそれを理解していた」


  「お前は――。いや、形なき状態で『お前』と言うのは語弊があるが――、とにかく便宜上、俺は『お前』の事を『お前』と呼ばせてもらう。そうしなければ話が進まないからな」


  「柳洞寺の地下に潜った時。まるで広大な芸術品にも見えたあの見事な術式を物真似した時から気付いていたよ。お前はそこにいる。この大聖杯には何らかの意思があるとな」


  「サーヴァントへの干渉が不十分だったのはお前のせいか? それともお前の意思がサーヴァントへの干渉になって、こっちの命令が十分に届かなかったのか? まあどちらでもいいが、中々面白い事が出来るじゃないか。サーヴァント本人に自覚は無いかもしれないが、あれは『悪』の因子が顔を覗かせてるぞ、『正』が輝きを増せば増すほどに膨らんでいく」


  「いちばん強く影響を受けるのはサーヴァントか? マスターか? 監督役か? 聖杯の器の持ち主か? お前が形を成して、存在を確定させれば、お前を中心に影響は広がっていくだろうな。やはり興味深い」


  「そもそも、この聖杯戦争の賞品――。聖杯は『無色の力で願いを叶える』『万能の願望機』なんて言われてるが、そんな事はありえないんだよ。令呪は聖杯が選んだマスターに分配されるが、令呪を考案したあの蟲爺が自分達『間桐』に都合の良いように進める算段を立てない筈がない。始まりの御三家が令呪を優先的に授けられるのもそれが原因だろう?」


  「つまり、大聖杯にはお前の存在以外にも『聖杯の意思』と呼べる何かが既に存在する。ユスティーツァ・リズライヒ・フォン・アインツベルンの魂を完全に殺したつもりになってるかもしれないが、魂の残滓を消滅させて機械的に機能させようとしてもお前みたいな何者かの意思は残る。無色の力なんて幻想にすぎないぞ」


  「真に万能の力である『根源』へたどり着く為の聖杯――。聖杯その物が『万能の願望機』と改悪して後世に伝えるように情報操作したツケが回ってきたな。大筋は間違って無いが、全て正しくもない。お前がその責め苦を関わった者全てに負わせる為の役割を担った、と言った所か」


  「お前を殺すのかって? そんな勿体ない真似をする筈ないだろう。あっちのお前はどうなるかしらないが、こっちのお前は何をしてでも現界してもらうからな。お前が『悪』を世界にばらまいてくれるなら、むしろ望む所だ。『桜ちゃんを救う』為には、これ以上ない教材じゃないか。『悪』があっての『正義』、『不幸』あっての『幸せ』、『見限る』『切捨てる』『見捨てる』あっての『救い』だ」


  「本来の道標――つまり鍵となるもう一つの聖杯を物真似したらお前の出番は近いぞ。好きなだけこの世界に生まれてくればいい。いっそお前が現れる前に俺がお前を呼び出そう。まあ、桜ちゃんがそれを望まなかったら死んでもらうが、恨まないでくれよ」


  「本当にこの世界は宝の山だ。お前みたいな奴がいると物真似のし甲斐がある。待ってろ。この聖杯戦争が終わる前に、お前は別の形を持って――俺と会う」


  「俺はゴゴ。ずっとものまねをして生きてきた。お前と出会った時、俺はお前のものまねをしてやろう。だからお前の名を聞かせてくれ」


  自分の内側に向けて―――ものまね士ゴゴは話をする。





  冬木市は他の地方都市に比べれば幾らか国際色が豊かな場所だ。故にセイバーとアイリスフィール・フォン・アインツベルン、そしてランサーのマスターであるケイネス・エルメロイ・アーチボルトなどが滞留してもそれほど驚かれない。
  明らかに日本国外からの訪問者だが、冬木市にとっては日常風景の一つである。
  おそらくその理由に冬木市が200年前から続く聖杯戦争の地である事に関係しているのは間違いない。始まりの御三家である『アインツベルン』はドイツが本拠地であり、今は亡き間桐の魔術そのものであった間桐臓硯ことマキリ・ゾォルケンは冬木に定住する以前はロシアに居を構えていたらしい。
  つまり聖杯戦争と言う餌に食いついた魔術師が世界中から集まるのが冬木市なのだ。他の地方都市に比べて様々な人種が入り乱れるようになるのはむしろ必然と言える。
  ゴゴの目の前で横になっている子供もそんな魔術がらみで海外から移住した二世あるいは三世なのだろう。魔術と全く関係ない可能性もあるが、とにかく黒髪が多い日本の地で、赤い髪は非常に目立つ。
  奇異な視線を向けられ閉じこもるか、友好の輪を作る切っ掛けとするかは人それぞれだが、子供の頃から他人よりも苦労する姿が想像できる。
  冬木市に住む数多い子供の中で、たまたまキャスターの魔の手に捕まってしまった運の悪さもあり、ゴゴはつい薄幸という単語を思い浮かべる。
  いや、殺されそうになった所を助けられたのだ、もう少し遅ければキャスターの腕力に頭をぐちゃりと握り潰されていたのだから、運が良いと思うべきかもしれない。
  「う・・・ぁ・・・あ・・・」
  目を閉じて悲鳴に似た声を言葉をあげる様子は夢にうなされているようだ。飛空艇ブラックジャック号の一室の長椅子の上に寝かされ、桜ちゃんに手を握られながらも、根本にある『殺されそうになった恐怖』がこの子供を蝕んでいる。枕元にミシディアうさぎを何匹か並べて状態異常を治すように促してみるが、あまり効果は無い。
  「むぐむぐ?」
  「むぐむぐ!」
  「むぐ~」
  むしろ、耳元で騒がれて逆効果かもしれない。
  キャスターに殺されそうになった子供達と言う括りで考えるならば、雁夜とティナになってる自分が冬木教会に送り届けている子供達に加えるのが妥当な所。
  たまたま巻き込まれた一般人をいつまでもブラックジャック号に乗せる訳にはいかない。もし敵陣営のどこかに『あの子は間桐に何らかの繋がりがある』とでも思われれば、せっかく助かった命が再び危険に晒される。
  ランサーを葬り去る為に衛宮切嗣がホテルを一つ丸ごと爆破したのは既に知っており、サーヴァントの誰も彼もが周囲の被害など考えない事も判っている。被害が聖杯戦争の継続に関わり、その上で魔術の秘匿をしっかりと行うのならば一般人を捕えて拷問にかけて情報を引き出す程度、軽くやってのけるに違いない。
  他人を意のままに操る魔術を使えるならば、『実被害がない』という理由で簡単に使う。
  それが判っていながら一人だけまだブラックジャック号に置いているのは、今のままでは、子供達を助けてほしいと乞い願った桜ちゃんの気持ちを踏みにじる可能性が高いからだ。
  他の子供はキャスターから救い出され、その上時間を置いて気持ちを落ち着けられた。魔術がどんなものか見たかったので少し見せてやったら気絶してしまったが、『救助』は既に完遂していると言ってよい。
  だがこの子だけは違う。明らかに異常をきたしている状態で放り出せば、桜ちゃんはきっと『あの子は大丈夫だったの?』と胸を痛めるだろう。そして助ける手立てを持ちながら、半ば責任を放棄するこちらに非難の目を向けてくる。
  それは駄目だ。
  ゴゴは最終的に『桜ちゃんを救う』に状況を持って行ければそれでいいので、別に桜ちゃんに嫌われようとどうなろうとあまり関係がない。しかし雁夜と桜ちゃんとの間に亀裂を作り出しては、あまりにも雁夜が不憫だ。
  そして雁夜をもう少し早くブラックジャック号からつき落としていれば、この子が強い恐怖を感じる前に助け出せた―――。ゴゴにもそんな後ろめたさがある。
  だからゴゴはとりあえず子供が起きるまで看病の真似事をしている。
  雁夜に同行しているゴゴ、つまりはティナの方はもう冬木教会に到着してしまい、監督役である言峰璃正に子供達を預けている所だ。視点を少し変えれば、見える景色がブラックジャック号のゴゴから冬木教会の前に佇むティナへと切り替わる。
  「言峰神父。この子たちはキャスターに誘拐された子供達だ。俺には記憶操作の魔術は使えないから、聖堂教会に後始末を頼みに来た」
  「監督役の責務に則って、言峰璃正があなたの申し出を受諾する。子供達を無事日常へと返す事を約束しよう」
  雁夜は幻獣ケーツハリーを誘導し、冬木教会の前に巨鳥を止めさせた。
  ティナは雁夜の協力者であり、ケーツハリーを呼び出した術者であるが、聖杯戦争に直接関わっている訳ではない。少し離れた所に佇んで、雁夜と監督役の様子を眺めている。
  雁夜が一人ずつケーツハリーの背中から子供を降ろして言峰璃正に手渡し、彼は一人ずつを教会の中へと運んでいく。この後、教会の中で暗示か記憶操作を施し、キャスターに誘拐された事実そのものを消してしまうのだろう。
  その運び入れる作業の途中、巨大な鳥を初めて見るのか言峰璃正は興味深くケーツハリーを見つめていた。そして最後の一人を教会の中にと運び終えると、不意に視線をこちらに向けてくる。白髪の目立つかなりの老体の筈だが、子供達を運び終えた後でも息一つ乱れていない。
  「ところで間桐雁夜殿。あちらにいる女性はどなたかね?」
  「――今の状況と何か関係があるのか」
  「もし彼女が貴殿の協力者であるならば、間桐の戦力増強に疑問を抱かずにはいられないのだ。聖杯戦争は七人のマスターと、彼らの契約した七騎のサーヴァントがその覇権を競う闘争。部外者による多少の協力は認められても、それがあまりにも逸脱し過ぎていては聖杯戦争そのものが瓦解しかねない。聖堂教会のスタッフにより『間桐』の協力者が他にも確認されているので、この調子で増え続けるのであれば若干のルール変更も考慮しなければならない」
  聞こえてくる声は監督役としての責務を全うする聖職者のそれに聞こえるかもしれないが、裏でアサシンのマスターであり息子でもある言峰綺礼をかくまって、遠坂陣営とも協力関係にあるのはほぼ確実なのが言峰璃正その人だ。
  事情を知った上で言葉を聞けば、敵勢力を削ろうとする意思が透けて見える。
  ティナが咄嗟に反論しようとするが、その前に雁夜が言峰璃正の口を封じた。
  「そんな事を気にする前に聖堂教会のスタッフを総動員してキャスター討伐に尽力したらどうだ? 別に報償の令呪がなくても、監督役のあんたは『聖杯戦争の被害を最小限に抑え、存在を隠蔽して、魔術師たちには暗闘の原則を遵守させる』、その責任がある。魔術が露見しそうな状況で、打てる手を全て試さないのは怠慢じゃないのか?」
  「むっ――」
  「神の教えを広める神父が子供達を見殺しにした――、なんて言われたくないなら、さっさとキャスターの居場所でも調べろ。それとも聖堂教会のスタッフってのは、あんな目立つ人相のサーヴァント一人見つけられない無能揃いなのか? だったら残念だ、俺はあんたの評価を底辺まで下げないといけない」
  聖堂教会と魔術協会が不倶戴天の敵同士である事は魔術師ならば誰でも知っている。それを念頭に置いたうえで『聖堂教会に話す事は無い』という態度を作りながら、雁夜は情報を秘匿する。
  生きて死んで、蘇って殺されて、勝って負けて、戦って戦って戦った間桐雁夜の一年。
  昔とは比べ物にならない程、度胸が付いており。キャスターの戦いの余波が作り出す練り上げられた胆力は言峰璃正では崩せない強固な作りをしていた。
  もっとも、雁夜とて独力でキャスターを見つけ出すのは至難の技で、ゴゴが察知できるサーヴァントの気配と冬木市に散らばった大量のミシディアうさぎが居るからこそ捜索が容易になっているだけだが、水を差すのも悪いのでその事は黙っておく。
  表向き、監督役として振る舞っている言峰璃正が力ずくで情報を聞き出そうとするとは考えにくい、この場は雁夜一人に任せても問題ないだろうと考えていると、ブラックジャック号の方で変化が起こる。
  慌てて桜ちゃんの傍にいるゴゴに意識を戻すと、横たわる赤毛の子供の目がゆっくり開いていくのが見えた。
  どうやら長い長い恐怖から解放されて現実世界へと戻って来たようだ。
  「あ・・・・・・」
  ゴゴが見ている光景と同じものを桜ちゃんも見ている。握りしめた手をより強く握る為、桜ちゃんの両手が赤毛の子供の片手を包み込む。
  その感触に触発されたのか、赤毛の子供は目を開きながら顔を横に向け、長椅子の横にしゃがんでいる桜ちゃんを見た。そして顔を動かしてゴゴの方も見る。
  すぐ隣にいる桜ちゃんを見た時は反応らしい反応は見せず、ただ目に映る景色を確かめているような―――ここがどこなのか探るような目をしていたが、ゴゴの方を向いた時、その目が大きく揺れた。
  そして恐怖を色濃く表情に乗せ、ひっ――、と短く悲鳴を上げた。
  キャスターとゴゴとの間に接点は何もないが、『自分よりも背の高い人』『複数のマントに似たローブ』『見下ろしてくる目』と、強引な関連付けをすれば似た部分が幾つかある。
  もしかしたら、殺されかけた状態でキャスターの手を思わせる『大人』というだけで恐怖の対象なのかもしれない。桜ちゃんに手を握られている状態でありながらも、赤毛の子供はゴゴから遠ざからんと体を動かして長椅子の背もたれへ移動した。
  「むぐー!」
  「むぐっむぐっ!?」
  「むぐむぐ」
  その途中、枕元に居たミシディアうさぎを何匹か巻き込んで吹き飛ばすが、ゴゴへの恐怖がよほど強いのか勢いは止まらない。ただし、赤毛の子供が寝かされていた部分は長椅子の座面、しかも椅子自体が壁際にあったので、ゴゴから離れようとしても移動できる距離は限られる。
  結局、桜ちゃんが少し動いて手を伸ばす程度の距離しか移動できず、背もたれに手を当てながらこちらを見ていた。
  その目が明確に『恐れ』を語っていて、今更ながらティナを雁夜に同行させたのは失敗だったかもしれないと考える。
 己が栄光の為でなくフォー・サムワンズ・グロウリーを発動させて二人目のティナとして振る舞おうかとも考えたが、既に見られている以上、ここで姿を変えたら余計に驚かせてしまうだろう。事前に『これから手品を見せます』と言って見物させるのとは訳が違う。
  仕方なく、ゴゴはものまね士ゴゴとして話を始める。
  「さっきまで寝ていたのに元気だな。悪いが、お前と椅子でミシディアうさぎが一匹サンドイッチになってるから、解放してやってくれないか」
  「え・・・・・・?」
  赤毛の子供がゴゴの言葉を聞いてゆっくり後ろを振り返ると、そこには帽子の部分に『1』が描かれたアンがいて、椅子の背もたれに押しつけながら『むぐむぐむぐ』と鳴いていた。
  子供の力で押しつけられているだけなのでダメージは負って無いが、麦わら帽子が潰れて身動きが取れない状況は中々苦しそうだ。
  「あ、あの。ごめん――」
  アンに向かって短く謝りながら、少し前に動いて解放する。ミシディアうさぎのアンは空いた空間を利用して椅子の背もたれを駆け上がると、赤毛の子供を上から見下ろすような位置に陣取った。
  そして『むぐむぐ、むぐむぐ』と短く告げる。
  怒るような素振りから『何すんじゃボケ、骨が折れたやないか、慰謝料払わんかい!』と言ってるように見える。
  子供は何を言われているか判らないだろうが、アンが怒っている事は伝わったようで、申し訳なさそうにまた頭を下げた。
  「むぐむぐ!」
  何となく『判ればいいのよ、判れば』と言っている気がしたが、いつまでもミシディアうさぎと子供の会話にならないやり取りを眺めていても先に進まない。
  五秒ほど何とも言えない沈黙が流れたが、ゴゴは気を取り直して赤毛の子供に向けて話しかけた。
  「さて。訳のわからない状態に放り込まれて驚いてるな。そこで俺がお前の身に何が起こったか説明してやるんだが、その前にお前の名前を聞かせてもらおうか」
  言峰綺礼の方で『間桐臓硯』を物真似したせいか、雁夜との会話でティナを物真似したせいか。普段、間桐邸で雁夜と桜ちゃんに話すゴゴの口調で話してしまう。話しかけると同時にビクッ! と体を震わせたのが見えたが、話を止めれば先に進まないので気にせず続けた。
  「俺はゴゴ、ものまね士ゴゴだ。お前の名前は何だ?」
  ただ説明するだけなら名前の交換など必要ないのだが、説明される方が恐れていては幾ら語り聞かせた所でどこまで理解しているか怪しい。相手の名前を知る、それは恐怖を少しでも和らげるための処置だ。魔術的な意味など全くない。
  ゴゴが自分の名前を告げた後に子供を見ると、桜ちゃんに握られた手が強く握り返されるのが見えた。
  桜ちゃんに助けを求めるか? 一瞬、そう思ったが、子供はまっすぐにゴゴを見つめて名前を言う。
  「シ・・ロ、ウ・・・・・・。士郎、です」
  「士郎か、中々勇ましい名前だな」
  こんな異常な状況に追い込まれながらちゃんと返事が出来たのは大したものだ。名前だけではなくむしろその行動を褒める意図で『勇ましい』と評する。
  名前の交換が終わってもまだおどおどした様子は消えないが、話の通じる大人という印象をほんの少しだけ与えるのには成功したようで、顔に浮かぶ恐怖が少しだけ和らいだ。
  これなら本題へと入っても大丈夫だろう。
  「何が起こってるか判らなくて怖いだろう? 自分がどこにいるか判らなくて怖いだろう? 俺が誰なのか判らなくて怖いだろう? だから説明してやる、何でも教えてやる。とりあえず理解出来なくても聞け。いいな?」
  「・・・・・・・・・う、うん」
  赤毛の子供:士郎という名前の子供はおどおどして長い長い間を置いたが、それでも肯定の意を示す言葉を呟きながら頷いた。
  ゴゴはそんな恐怖に染まった士郎に向け、冬木教会に預けた子供達にした説明をもう一度口にする。



[31538] 第17話 『ものまね士は赤毛の子供を親元へ送り届ける』
Name: マンガ男◆da666e53 ID:6a0d9b18
Date: 2012/10/20 13:01
  第17話 『ものまね士は赤毛の子供を親元へ送り届ける』



  ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆



  Side - ゴゴ





  士郎と名乗った赤毛の子供は桜ちゃんの年と同じぐらいか、少し上。年齢はおそらく7歳か8歳だろう。そんな子供に事前情報なしでいきなり裏の世界の出来事なんて話して、どれだけ理解できるか怪しい。
  大体、子供と言うのは基本的に自分の好きなものに関しては驚異的な集中力を発揮する生き物だが、つまらない話だと一度でも感じてしまえば大抵飽きる。
  桜ちゃんがその辺りの事情をある程度知って、こちらの話を聞くのは、この一年で裏の世界―――主に魔術の秘匿に関する事柄を口を酸っぱくして教えたからに他ならない。
  強大な力とはそれだけで騒動の種になり、本人に力を振るう意思がなかったとしても周囲が巻き込んだり、狙ったり、滅ぼしたりしてくるモノだ。
  特に『間桐臓硯』が関わる間桐の魔術だけならばそれほど危なくは無いのだが、雁夜も桜ちゃんもこの一年で『ものまね士ゴゴ』の魔法に深く関わってしまった。雁夜に至っては、幾つかの魔法を取得して使えるようになり、学者としての魔術師と比べれば出来は悪いが、戦士としての魔術師ならばかなりの腕前になっている。
  無論、ゴゴとかつての仲間達を元に考えると遠く及ばないが、この世界の魔術師を基点に考えればそれなりの腕前ではある。
  そんな、この世界の魔術と体系が異なる魔法を知られれば確実に誰かが探りに来るだろう。もしかしたら誘拐しやすく見える桜ちゃんに危害が及ぶかもしれない、そうならない為に秘匿である。
  桜ちゃんが一年かかって学び辿り着いた域に何も知らなかった士郎がこの場で追いつけと言うのは不可能だ。冬木教会に送り届けられた子供達は話をしている最中に飽きてしまい、話しの大半は理解していないと思われる。
  安全だと判ってしまうと子供は中々図々しくなるとゴゴは学んだ。桜ちゃんからそれを学ばなかったのは、彼女が自分と雁夜を『保護者』として見ていたからに違いない。機嫌を損ねても良い事は無いと常日頃から考えているのだろう。聡い子供だ。
  だから士郎がこちらに怯えてくれるのならばむしろ喜ばしい事態である、おそらく士郎はこちらの話の内容を理解できるかどうかは別にして、一語一句聞き逃さぬよう耳を澄ます。
  話し終えるまでは恐れてくれる状態が維持されれば良いと願いながら、ゴゴは話を進めた。
  「まず聞け。理解しがたいと思うが、俺は魔法使いだ――」
  そして説明が始まる。


  「士郎。魔法使いと聞いてお前はきっとほうきで空を飛んだり、動物に変身したり、炎を出したり――立って歩くハツカネズミがほうきに魔法をかけて掃除する、なんてのを想像したか? もしかしたら『魔法なんてある訳ない』って考えたかもしれないが、まあそれはどうでもいい。信じる信じないは勝手だが、話の前提としてまず俺が魔法使いだと知っておけ、そうしないと話が進まないからな」


  「お前はテレビや本の中で『魔法』を知ったかもしれないが、本当の意味で魔法を見た事は無い筈だ。何しろ俺達が扱う魔法は徹底的に秘密にする。テレビや噂話で語られる魔法とは全く違う秘密の中の秘密、それが俺達の『魔法』だ。これは血の繋がった家族ぐらいにしか話してはいけない決まりだからお前が知る筈がない。士郎が魔法使いの家系だって言うなら知ってるかもしれないが――。何? うちは普通の中流家庭だって? 小さいのに難しい言葉を知ってるなお前」


  「どうして秘密にするのかだって? いい質問だな。返されて怖がるなら始めから言うなよ・・・・・・。話を続けるぞ。たとえば士郎がどんなテストでも100点を取れる方法を知ったとする、お前はそれを友達やクラスの誰かに教えるか? 内緒にするだろ? 自分だけの秘密にして大事に大事にするだろ? 判りにくかったら大好きなお菓子でもいいぞ。一人分しかない大好きなお菓子、お前はそれを前に誰かに食べられる前に食べようとする。それと同じだ、人に知られたら自分の取り分が減る―――自分だけの大事な秘密、魔法っていうのはそういうものなんだよ。それこそ知られたら相手を殺すぐらい普通にやる大事で大切で大きな秘密だ」


  「士郎は親から『火は危ないから遊びで使っちゃいけません』と教わらなかったか? 魔法はそういう『危ないモノ』を簡単に起こせる危険な技でな、近所の悪ガキが手も触れずに火を起こせるようになって、いたずらに使ったら困るだろう? お前の家がその悪ガキの気まぐれで燃やされたら困るだろ? 魔法はそういう事が簡単に出来る危険な代物なのさ」


  「そしてお前が巻き込まれたのは、『魔法で戦って一番の人がもらう賞品』を求めた殺し合いだ。さっきも言ったが、魔法は基本的に物騒で優劣を決める場合は大抵殺し合う。さっき森の中に居たローブの男――お前を握り潰そうとしたあいつはこの催しの参加者だ。店で何か買う時はお金を払うだろう? それと同じで『強いモンスターを召喚する為』の代価としてお前を殺そうとした。よかったな、あのままだったら殺されてたぞ」


  「怖いか? 思い出したら怖いよな。それでも話は続けるぞ、聞けよ、聞けよ? 覚えてるか知らないが、雁夜――降って来て、あのローブの男から士郎を助けた男なんだが、雁夜もこの殺し合いの参加者の一人だ。本来なら士郎は全く無関係で、この殺し合いに全然関わり合いがないんだが、運が悪い事にお前はあのローブの男――キャスターっていうんだが、あいつに目をつけられた。本当に運が悪いな」


  「ついでに説明しておくとここは飛空艇ブラックジャック号の中だ。士郎が殺されそうになったあの森の上に滞空してる。判るか? 揺れが少なくてこんな内装だから実感が湧かないかもしれないがここは空の上だ。疑うんならそこの窓から外を見てみろ、冬木市の夜の灯りが見えるぞ」


  「訳が判らないだろう? 士郎が知らない事ばかりだろう? それでもこれは本当に起こってる事だ。運悪く巻き込まれて、殺されそうになって、助けられて、驚いて、よく判らない俺から説明されて、飛空艇で空を飛んでいる。全部本当の事だ」


  「それでもまだ信じられないなら俺が一つ魔法を見せてやろう。何がいい? 火か、氷か、雷か、風か、透明になるか、分身するか、鯨を呼ぶか、悪魔を呼ぶか、狼を呼ぶか、竜を呼ぶか。一目で判る魔法がいいな。よし、キャスターの魔術にかかったなら士郎の対魔力は低いな、運も悪いとなるとあれが判りやすい」


  ほとんど口を挟まず―――あるいはゴゴの話がこれまでの常識とは全く違う事なので、そもそも何を聞けばいいのか判らなかったのか。士郎は何も言わずに黙って話を聞いていた。
  だからこそ、ゴゴがする事もどんな結果をもたらすか判らないから、とりあえず何をするのか見届ける姿勢を見せる。話しをする間に今の所は自分を害する事は無いと少し落ち着いたが、それでもキャスターによって刻まれた恐怖はしっかりと残っているのだろう。
  ただし、こちらの邪魔をしないのならば逆に好都合。たとえ一部であっても、存分に魔法とはどんな事が出来るのかを教えられる。
  ゴゴはまだ桜ちゃんと手を繋いだままの士郎に向けて手をかざすと、物理的な実害はないが目に見える形で非常に判りやすい魔法の一つを放つ。


  「カッパー」


  次の瞬間、士郎の胸元辺りを中心点として、緑色の球が膨らみ始めた。これはキャスターが子供達の体の中に仕込んだ術式とは異なり、相手に害意を与えるモノではない。太陽の光や電灯の光と同じように、目で捉える事は出来るが人の手では触れられない単なる光だ。
  自然の草木や大樹が作り出す緑とは異なる、純色の薄緑。いきなり現れたその光に士郎がビクッ! と体を震わすが、膨らんだ緑色の球体は一秒も経たずに膨張を止めて収縮していく。
  何が起こったの? 緑色の光が完全に消えた後で士郎の隣にいた桜ちゃんの目がそう物語っている。
  そんな桜ちゃんが見る士郎の姿は別のモノに変わっていた。
  「え・・・?」
  戸惑いの声をあげたのは士郎ではなく桜ちゃんの方だ。桜ちゃんの手は緑色の光が発生してから消えるまでの間ずっと士郎の手を握っていたが、光が消えると同時のその感触が変わっていたのに気がついたのだろう。
  何よりすぐ隣に居る同年代と思わしき男の子の姿がいきなり変われば気にするなと言う方が無理だ。
  桜ちゃんと士郎の手は今も繋がれたままだが、桜ちゃんが見ていた士郎の顔があった位置には今は何もない。
  士郎の顔はもっと下―――二頭身半で緑色の河童になり、これまで見下ろしていた桜ちゃんを逆に見上げている。
  「あ、あれ? 緑、の・・・え? ええっ!?」
  自分に起こった出来事を士郎が理解するよりも前に、傍から見ている桜ちゃんの方が起こった事象そのものをしっかり見てしまった。当然、慌てふためくのも桜ちゃんの方が先で、繋がれた手をそのままに口から出てくるのは狼狽だった。
  士郎の姿はこの世界、つまりは日本で言う妖怪や伝説上の動物として分類される『河童』になっている。頭の上の皿に、周りを覆う髪の毛、紫色のくちばしと背中には甲羅があり、空想上の『河童』の姿をそのまま見せているのだが、全体的に丸みを帯びてしかも桜ちゃんの身長よりもミシディアうさぎの小ささの方に近づいてしまい、加えて二頭身半のデフォルメ体型だ。
  見ようによってはぬいぐるみにも見えるので、あまり恐ろしいとは思えない。
  ゴゴにとって『カッパー』はかけた相手の特技を封じる魔法であり、物理的な攻撃ではなくステータス変化による状態異常の一つでしかない。これで恐ろしかったら『カッパー』の魔法に意味がなくなる。あくまで『封じる』のが主体の魔法だ。
  なお、魔法に耐性のある者ならば効果は無く、特別な敵に同じ魔法をかけると体色の異なる河童が出来上がるが、士郎の場合は赤毛の河童とはならなかった。キャスターの魔術にまんまとはまった士郎の魔術耐性は無いに等しいのだろう。
  見た目の変化でならこれ以上ない判りやすさを誇る状態変化の魔法『カッパー』。
  士郎の前に説明した子供達は複数で、『カッパー』は一度に一人にしか効果を発揮できないなかったので前回の説明では使えなかったが、今回は相手が士郎ただ一人なので使える。「・・・か、可愛い、よね?」
  動揺を必死に押し隠しながら、それでも相手を気遣う様に桜ちゃんが言うが。疑問すら滲ませたその言葉に説得力は無い。
  士郎はそこでようやく空いている方の手を顔の前に持って行き、自分の手が全く別のモノに変わっている事を知る。
  頭を下げて自分の体を見る。そして、服が消え、緑色の赤ん坊のようになってしまった自分の体ではない別のモノを凝視する。
  見て。
  看て。
  診て。
  視て。
  視る。
  ずっと桜ちゃんの手を握りしめるのは出来るだけ不安を消し去ろうという現れだろうか? そのまましばらく無言と沈黙が辺りを支配して―――。
  「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・なんでさ」
  子供らしからぬ疲れた口調で士郎がそう呟いた。



  ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆



  Side - 言峰璃正





  急遽、冬木教会へと招いた聖堂教会のスタッフにより、キャスターに攫われた子供達の記憶処理が行われる。
  監督役である璃正でも子供から特定の記憶を消して、不法投棄された汚染物質の近くを通り立ち眩みを起こして倒れたてしまった―――というありえそうな理由をでっち上げて偽りの記憶を埋め込む事は可能だ。
  けれど子供の数は多く、璃正一人で行うには少々荷が重い。聖杯戦争の調査の為に多くのスタッフに指示を出すリーダーとしての仕事もある上に、間桐への再調査の必要もあったので、人の手を借りる必要があった。
  ただし璃正はここで聖堂教会のスタッフに『子供達の身に何が起こったのか?』を正確に報告させるよう追加の指示も出した。
  本来であれば記憶の上書きだけで事足りるので、暗示や催眠で子供達から情報を聞き出す必要はない。しかし璃正はあえてそれを行う。
  表向きの理由はキャスターの凶行を続けさせない為の情報収取であるが、本当の狙いはこれまで情報を掴ませなかった間桐の秘密を探る為である。
  間桐雁夜が連れて来たあの子供達は確実に表に出てこない間桐の秘密に触れている。間桐臓硯の変化の理由にいきなりたどり着けるとは思ってないが、それでも何らかの手がかりを得られるならば行幸と言える。
  璃正は本来ならば中立であるはずの監督役だ。しかし時臣の祖父との誓いに従い時臣くんに助力している立場でもある。
  傍から見れば監督役として許し難い裏切りに見えるかもしれないが、これは聖堂教会の方針には反していない。聖杯が教会の教義とは無関係の贋作であると既に知っており、教義に抵触しない願いで聖杯戦争を終わらせる為―――そう言った理由に裏付けされた情報収集は必要な措置である。
  必要であれば人を欺こう。
  必要であれば異端者を葬ろう。
  必要であればそれが教義に抵触しない限りどんな事でもしよう。
  確かに間桐雁夜に子供達を日常に戻すと約束したが、結界に至る経緯までは確約していない。それに子供達は間違いなく記憶処理を施されて日常に帰っていくので、何も間違った事は口にしていない。
  ただ語られない部分が存在しただけだ。
  「奇怪な」
  そうやって璃正は子供達の視点から見たキャスターの誘拐から冬木教会に至るまでの経緯で何が起こったのかを知り、遠く離れたアインツベルンの森周辺にいる息子の綺礼と全く同じ言葉を口にした。
  しかし、そう口にしてしまうのも仕方ない。
  キャスターに殺されそうになった子を助けた剣を持った人。
  気が付いた時には大きな鳥の背中の上に乗っていた。
  小さな女の子と綺麗なお姉さんが助けてくれた。
  捕まる所のない空の旅、怖くて怖くて震えていた。
  一緒にいた子の中で一人が体調を崩して寝込んでしまう。
  突然、現れた鳥よりももっともっと大きな空飛ぶ船。
  そこに居た『間桐臓硯』。分裂して増えた『間桐臓硯』。
  沢山いたウサギみたいなペット。
  聞かされた魔法の存在、その秘匿の重要さ。
  冬木市にいる連続誘拐事件の犯人。
  安心したら何が出来るのか聞いてみた。
  そして目の前が真っ赤になって、その後は覚えていない―――。
  子供の口から直接聞き出した情報を統合した今でも信じ難い事だが、冬木市の上空を透明になって飛んでいる巨大な飛行物があり、その中に間桐臓硯がいるのだ。
  空飛ぶ船の名は飛空艇ブラックジャック号。
  間桐陣営がこちらをかく乱する為に子供達に嘘の記憶を植え付けて送り込んだと言われた方が納得のいく話ばかりだった。しかし、子供達の様子から暗示をかけられた痕跡は発見されず、加えて一人や二人が口にした話ならばまだしも、全員が同じ話をそれぞれの視点で語ったので真実と考えるしかない。
  何を考えて子供達にわざわざ状況を説明したのかは判らないが。話の内容が全て嘘だと断言するには早計と言える。
  間桐臓硯は間桐邸にもその存在を確認しているので、おそらく子供達の方に説明したのは精巧な偽者か『分身の術』とやらで別れた実体をもつ当人である可能性が高い。蟲使いである間桐臓硯の技の中には、自らが操る蟲で他人の肉体を乗っ取るモノもあるので、分身した別の間桐臓硯はおそらく蟲を用いて作った別人だろう。
  しかし自分も含めた聖堂教会の全スタッフ、それに聖杯戦争のマスター二人に大人数のアサシン全員に気付かせない隠密性とは何の冗談か?
  今も冬木市の上空を飛んでいる飛空艇の事を考えると璃正の背筋に冷たいものが走る。
  綺礼のサーヴァントであるアサシンの諜報能力を上回る隠密性。情報を徹底的に秘匿する魔術師の在り方も手伝い、今の間桐の情報はほとんど表に出てきていない。
  これまで調べ上げた『間桐』ではなく、ピエロを思わせるあの間桐臓硯が作り替えた『間桐』が隠匿しているからだ。始まりの御三家として知られてきた間桐に何かの変化が起こっているのは間違いなく、間桐邸から間桐の協力者と思われる男が現れた時から、その『何か』に比重を置いて調査を進めてきた。
  だが聖堂教会のスタッフも、マスターである綺礼と時臣くんも、サーヴァントであるアサシンですら、誰一人として冬木市上空の飛空艇の存在に気付かなかった。
  間桐臓硯が蟲使いとしての技術や、間桐の魔術属性『水』に変わるモノを手にいれ、そこから更に魔術を発展させたのかと考えていたが。漏れ出でる魔力を完全に遮断した透明な飛空艇となると新しい魔術の次元の話ではなくなる。
  飛行船はパイロットだけでは運航できず、冬木市に散らばっている聖堂教会のスタッフの総数を上回る多くの人員が必要不可欠だ。
  安全のために定期点検や整備は欠かせず、間桐臓硯が一人で行える筈もなく、息子の雁夜を含めても人手は全く足りない。
  倉庫街に現れた男、間桐邸を監視していた綺礼のアサシンを葬った男、そして雁夜に協力している女。間違いなく間桐臓硯に協力あるいは雇われている組織が存在する。
  聖堂教会ではない、魔術協会でもない。どちらも飛空艇を一台用意して冬木市に送り込むなど大掛かりな動きがあれば察知できる。表向きは不可侵であるが、両者は不倶戴天の敵として互いを探り合っているのだから。
  時計塔がある魔術協会の本拠点から離れたアメリカ圏、あるいは間桐臓硯―――マキリ・ゾォルケンの故郷と言われているロシア圏に存在する組織と接触して聖杯戦争の為に呼び込んだ可能性がある。
  璃正は飛空艇を直接見てないし子供の口から語られた内容からの推測なので、本当に冬木市の上空に飛行物体があるのかはまだ不明だ。しかし、これが真実ならば巨大な飛行物を完全に隠蔽できるだけの魔術を常に使い続けている事になる。
  表の世界にはSF作品などで語られる『光学迷彩』なるものが存在するが、科学技術での実現にはまだ至っていないのが現状。ならば確実に魔術を使って透明になっていると考えるべきだ。
  明らかに個人で出来る魔術の範疇を越えている。消耗される魔力は冬木の聖杯が60年かけて溜め込む膨大な魔力に匹敵するだろう。
  「厄介な事態が起こっている――」
  起こっている事態を大まかに口にすれば、璃正の頭の中に飛空艇以外の事柄も触発されて浮かび上がってきた。
  子供達の口から語られた間桐臓硯と一緒にいた小さな女の子はおそらく遠坂から養子に出された桜だ、正体が判っているのだからそちらは後に回す。
  だが子供達を助けた綺麗なお姉さん―――間桐雁夜に同行して教会に現れた女の正体は全く判らない。璃正もみた巨大な鳥は膨大な魔力を放っており、サーヴァントには及ばずとも使い魔の格はかなり高位であるのが見て取れた。
  おそらくあれで上空と地上を行き来しているのだろう。
  ますます間桐が持つ戦力が増強されていくのを感じながら、間桐雁夜に語り聞かせたようにキャスター討伐の為のルール変更を更に変更しなければならないと本気で思案する。
  間桐臓硯はこの第四次聖杯戦争で今まで以上に表立って活動し、第三次聖杯戦争が比べ物にならないほど自発的に動いている。同時期に別々の場所に存在する幻だか蟲で作った別物で動き回り、他のマスター達の目に我が身を晒しても構わないと見える。
  冬木教会に現れた時に聞いた『在りもしない幻想』の言葉が何を示すのかはまだ判らない。だが間桐陣営が本気で聖杯を奪いに来ている事は行動から嫌でも判る。
  「・・・・・・・・・」
  璃正は考える。
  綺礼のアサシンと聖堂教会のスタッフが仕入れた間桐陣営の情報を他のマスターに流し、共倒れを狙いつつキャスター同様に『聖杯戦争、継続の危機』で間桐に関わる全ての事柄を排除する必要がある。
  まだ草案の段階だが、これは時臣くんに聖杯を託すために必要な措置だ。綺礼が戻り次第、詳細な情報のすり合わせを行い、魔導機による話し合いの場を設ける必要がある。璃正はそう考えた。



  ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆



  Side - 間桐雁夜





  ティナが呼び出した幻獣『ケーツハリー』に跨り、雁夜は空飛ぶ間桐の拠点―――飛空艇ブラックジャック号へと帰還している最中だ。
  帰りも行きと同じように、ティナと背中合わせに腰かけて前方と後方をそれぞれ注意する構図は変わっていない。違いは子供達の有無と雁夜がポシェットの中に入れてある魔石からエメラルドグリーンで実態があやふやな幻獣『ファントム』を呼び出している事。
  雁夜が以前この幻獣を呼び出した時。飛空艇ブラックジャック号を丸ごと包み込む巨大な効果範囲を作り出した。けれどあの時に比べればこの大きな鳥でも比べ物にならない小ささとなる。ゴゴの、いやティナの魔力で自分を回復させた為、この調子なら丸一日魔石から幻獣を召喚し続けられるだろう。
  夜の闇に紛れると同時に発動させて監視の目をかいくぐる為だけなので、そんなに長時間召喚し続けるつもりはないが、それでも自分の魔力復活と一緒に消耗の低さを感じる。
  まさかキャスターから生き延びる為の最後の手段として用意しておいた魔石を単なる帰還の為に使うとは思っていなかった・・・。雁夜は自分の上に浮かぶ緑色をした笹の葉を何本も何十本も何百本も繋ぎ合せたような『ファントム』を見上げながらそう思う。
  「・・・・・・・・・」
  言葉少なくなるのは背中を合わせて後ろにいる女と何を話せばいいか判らなくなっているからだ。
  ブラックジャック号から突き落とされた時は出会いがしらに一発殴ってやろうと思っていたし、ゴゴがこの姿に変わった時は何も気にせず話せていた。
  けれど今は違う。
  いっそものまね士ゴゴの姿に戻ってくれれば悪態の一つや二つどころか百個ぐらい言えるのだが、相手の見た目が自分より年下の女であると調子が狂う。
  言峰璃正を言葉で欺いた高揚感は既になく、周辺の監視を行う緊張感はあっても戦っていた時の昂ぶりはもう消えている。今の雁夜にあるのは間桐邸に戻ってから一年間全くなかった見知らぬ女と二人きりになる状況への困惑だけだ。
  中身がゴゴだと判っている筈なのに、背中から伝わる柔らかい感触は間違いなく女のそれだ。子供の桜ちゃんが持っている暖かさとも、歴戦の戦士の様なゴゴの固さとも大きく異なる。
  一年前に葵さんと会った後なら耐性は出来ていたかもしれないが、この一年ほぼ修行ばかりの毎日だったので、異性に会う機会など桜ちゃんを除けば時折出かける時にすれ違うどこかの女かどこかの店の店員ぐらいである。


  気まずい。


  これほど今の状況を言い表す判りやすい言葉が合っただろうか? いや、ない。
  いつ襲ってくるかもしれない敵に対して緊張を維持しているくせに、その反面、感情はぐちゃぐちゃによく判らないテンションを作り出している。
  「・・・・・・・・・」
  結果、背中に感じる暖かさに翻弄されそうになるのを耐える時間が過ぎてゆく。
  幻獣ケーツハリーの下。眼下に見える冬木市では今も戦いがどこかで起こり、キャスターを逃した結果どこかでまた暴威が振るわれるかもしれないと判っていながら、自分の余裕とも思える感覚は何だろうか?
  雁夜はふと自分の事を考えた。
  自分はこの一年。いや、間桐邸に戻り桜ちゃんを救うために奮闘し続けていながらも、『間桐雁夜』という人間そのものについては全く変わってないと思っている。
  今も遠坂時臣への怒りは健在であり、間桐を捨てた自分がいたから桜ちゃんが地獄を味わう羽目になったのだと罪悪感もある。
  『桜ちゃんを救う』、ゴゴと出会った時に行動の指針としたあの言葉は何も変わらず雁夜の中にも存在するが、今は後ろにいる―――ゴゴの変身した姿だが―――ティナへの接し方をわざわざ考える緊張の中のゆとりがある。
  間桐臓硯がいなくなったからか?
  兄が間桐邸から出て行ったからか?
  ものまね士ゴゴが協力してくれているからか?
  桜ちゃんを救う手立てを多角的な観点から見ているからか?
  一年前には無かった自分の技術の向上故か?
  御しているとは言い難いが、バーサーカーと共に聖杯戦争を戦っているからか?
  それとも、もっと別の何かか?
  答えが自分の中にある気はするのだが、その答えが言葉にならず喉の奥で留まっている。戦いにおいて緊張しすぎて自然体でいられなくなるのはむしろ喜ばしい事だ、けれどその理由に至れないのは少々気味が悪い。
  どうして自分は目的以外の事に目を向けられるのか?
  場合によっては間桐雁夜にとって害悪にしかならない事を自らがやってしまう矛盾。戦いにおける適度な脱力と言う観点では問題ないが、自意識の中では罪となる。
  何故か?
  この心は何なのか?
  もう一度その答えを探ろうと思考の海に自らを投げ出そうとしたが、耳に届いた囁きが雁夜の意識を強制的に現実へと引き戻した。
  「あ・・・・・・」
  声の出所は後ろのティナだ。
  少なくとも雁夜の見える範囲に異常は見当たらず、何でもない独り言のようにも聞こえた。それでも意味のない呟きだと確認できるまでは安心できない。
  サーヴァントの中には自ら飛べる者はいないようだが、ライダーの飛行宝具の様な代物を有しているサーヴァント、あるいはマスターがいるかもしれないのだから。
  ゴゴと同じ事が出来る化け物がいるとは思えないが、ただ飛ぶだけなら魔術師でも可能だ。そして璃正神父にこちらの手の内を知られ、セイバー陣営とキャスター陣営にも『空の上』という新たな拠点を知られてしまった。雁夜の未熟な透明化ではこの状況すら看破されている可能性もあるので、察知されている可能性も考慮しなければならない。
  「どうかしたか?」
  答えを求めてティナに問いかけると、要領を得ない回答が返ってくる。
  「飛空艇の方でちょっと問題が起こったみたい――」
  「敵か?」
  「ううん。そうじゃないけど・・・・・・」
  ティナ、いや、ゴゴにしては歯切れの悪い物言いだったので、余計に気にかかる。
  少なくとも雁夜が接してきた『ものまね士ゴゴ』という存在は言い難い事だろうと歯に衣着せずに何でも言うし、その言葉で雁夜が傷つこうと全く気にしない。
  間桐臓硯として外に出る時は『ストラゴス』という爺の物真似をして、外向けの口調で喋っているが、主に鍛錬の時など二人きりの時は言い淀む事態そのものがありえなかった。
  おそらく『ティナ・ブランフォード』を物真似しているからなのだろうが、この人格からして全く別人にしか思えない様子が雁夜の中に盛大な違和感を作り出す。
  いっそ、姿は違っても話し方はいつものゴゴであって欲しいとすら思えてしまう。
  「けど?」
  「あっちの私が子供に『カッパー』をかけたの」
  「・・・・・・おい」
  「怒らないで。怪我はしてないし、もう一度『カッパー』をかけてすぐに戻したから」
  「そういう問題じゃないだろうが!!」
  思わずいつもゴゴと話す調子で後ろのティナに話して、一瞬だけ、強く言い過ぎたか? と後悔が浮かび上がるが、ゴゴに話す調子はそのままだったので口は止まらない。
  「あれだろ? あのよく判らないデフォルメされた河童になる魔法だろうが?」
  「そうね・・・」
  「俺だって最初に喰らった時は半狂乱したんだぞ。殺されかけて気絶してた子供にそんなもんかけたらショック死してもおかしくないぞ、おい」
  「そうなの、今その子――士郎って名前みたいなんだけど、泣いちゃったのよ・・・」
  「それだけで済んで良かったと思うべきか、最初っから『カッパー』なんてかけるなと怒るべきか・・・」
  「ごめんなさい。もうしないわ」
  「二度とするな」
  背中を合わせているのでティナの表情は見えないが、心なし触れ合っていた背中の部分が小さくなった気がした。
  後ろを振り返って見ると、肩を落として少し前屈みになっているアッシュブロンドの髪が見える。
  風に乗って流れたポニーテールと身に着けているヴェールが頬をくすぐり、露出した肩がしっかりと目に焼き付いてしまう。
  「・・・・・・・・・」
  実際に見た訳ではないが、悪いのは飛空艇の方で無茶をしたゴゴだ。つまりここにいるティナの本家本元が仕出かした事なのだから自分にこそ正しさがある。
  だが、目の前で落ち込まれると困るのも確かだ。
  今からでも前言撤回すべきか・・・。何とも女々しい事を考えている自覚はあったが、ティナの見た目が大人であっても『女』であるだけで、何かこちらが悪い事をしている気になってしまう。
  どうする?
  どうする?
  どうする?
  「と、とりあえずブラックジャック号に戻ってからだな」
  「・・・・・・」
  前を向きながらそう言ってみるが、ティナからの返答は無かった。音や声は聞こえないが、もしかしたら涙ぐんでいたりするかもしれない。


  ものすごく気まずい。


  これほど今の状況を言い表す的確な言葉が合っただろうか? やっぱりない。
  雁夜は先程考えていた余裕の有り無しをもう一度考えられず、ひたすら周囲の景色を見ながら早く飛空艇に到着してくれと祈り続けた。
  もし敵の襲撃があったら呆気なく撃沈されたかもしれない。





  結局、ブラックジャック号に到着するまで二人の間に会話は無かった。
  甲板に降り立つと同時にティナはケーツハリーを消してしまい、雁夜は甲板の上に放り出されるところだった。
  言葉無く行われたその行動がティナの『話したくない』という意思の現れのように思えて、雁夜はますます気まずくなる。
  ティナの顔はよく見えなかったが、もし目尻に涙を浮かべていたりしたら謝るべきだろうか? 敵との戦いは『敵は殺す』を最終目的にしてひたすら行動すればいいのだが、これは数ある選択の中からそもそも回答があるのかどうかすら判らない難題だ。
  二本の足で甲板の上に降り立ちながら、話しかけると言う選択肢を最初から放棄するようにファントムの方に意識を向けて、魔石へ戻す。
  魔力供給を止めると実態があやふやな幻獣はポシェットの中へと吸い込まれていき、緑色に輝く魔石の中に納まっていった。
  甲板の中央にある操舵輪を見ればものまね士ゴゴがそこにおり、片時も手を離さずに飛空艇を冬木市上空に滞空させている。だが階段を下りた屋内にもう一人ゴゴがいるのを知っているので、あれもまた同一の存在でありながら別のゴゴなのだと改めて認識する。
  ティナもまたその『別のゴゴ』の一人であるように―――。
  「え、と・・・」
  恐る恐るティナを探してみると、階段を降りてゆく彼女の後ろ姿が見えた。助け出した子供の様子が気にかかるのだろう、きっとそうだろう。そうやって自分に言い聞かせながら、雁夜もまたその後を追う。
  「無事、子供達を送り届けたようだな。雁夜」
  「アサシンとの交戦ぐらい覚悟してのに、何もなくて拍子抜けだ」
  「そうか。次に備えてしっかり休めよ」
  途中、操舵輪を握るゴゴが話しかけて来たのでいつもの調子で返した。
  間違いなくこの姿からティナの姿に変身しているのを見ているのに、どうしても別人のように話してしまう。雁夜は見た目の違いと言うより、ゴゴが複数人いられるこの状況の不条理さに少しだけ怒りを覚えながら、階段を下りて子供の姿を探す。
  ティナ曰く、名前を士郎という。
  キャスターに殺されそうになった不運な子供、結果的に雁夜の攻撃が間に合って死なずに済んだが、それでも殺されかかった記憶がしっかりと刻まれてしまった子供。
  桜ちゃんが間桐邸で間桐臓硯に虐待の記憶を刷り込まれたように―――。
  間に合ったのだからいいだろうという納得と、自分の未熟さが招いた不甲斐なさを同時に味わい。雁夜はティナの事は別にして沈黙してしまう。
  もっと自分が強ければ。
  もっと自分の運命に抗えていたら。
  もっと自分に勇気があれば。
  頭の浮かぶのは後悔ばかり。一応は『それでいいだろう』と思えても、やはり後ろめたさの方が強く雁夜を蝕んでしまう。
  「・・・・・・・・くそっ!」
  その後悔しない為の一年間鍛えてきたにもかかわらず、湧き出る心は決して止められない。キャスターと真っ向から戦う力を手にいれても、璃正神父を煙に巻く度胸を持ったとしても、決して消えない間桐雁夜の罪。それこそが今の自分の源泉だ。
  沈みそうな気持ちをそのままに、けれど足はしっかりとした歩みで子供の姿を探し続ける。すると雁夜の耳が飛空艇の中ではあまり聞かない声を捉えた。
  泣き声だった。
  間桐邸ならごく稀に桜ちゃんの泣く声を耳にする事はあるが、男の子の泣き声はしばらく耳にしていない。街を歩けば時折、耳にする事もあるが、手を伸ばせば届くような近くから聞こえてくるのは稀、そして自分がそこに向かっているのも稀だ。
  その音に誘われてブラックジャック号の一室へと向かい、そして中途半端に開かれたドアから中を覗くと―――。
  「ひっく、ぐすっ・・・。うう・・・ふっ、ぐすっ」
  椅子に座りながら目に片手を当て、もう片方の手を隣に座った桜ちゃんに握られ。逆方向に腰かけたティナに肩を抱かれている赤毛の男の子の姿が目に入ってきた。
  大人の女性と自分より小さい女の子、大人の視点で見ればその二人に心配されている微笑ましい光景なのだが、ここにゴゴが居る以上理由の大半は確実にゴゴへと集結していく。
  雁夜はただ一人つっ立って、椅子に座る三人を眺めているゴゴへと近づく。
  壁近くにはミシディアうさぎが群れを成していたが、桜ちゃんがゼロを離しているからか、輪を作って何やらむぐむぐ言っている。
  ミシディアうさぎ同士で情報交換でもしているのだろうか?
  ゴゴはただ宝具によって分裂しているだけのようで、立っているゴゴは操舵輪を握っていたものまね士ゴゴと全く一緒だ。
  ティナの話と今の状況。『カッパー』を受けたから泣いているのだと推測しながらゴゴの隣に並び、同じように椅子の上の三人を眺めつつ話しかける。
  「何をした、ゴゴ?」
  「戻ってきていきなりそれか」
  「ここで何かするならお前しかいないだろうが」
  ティナの言質もあるので、キャスターの恐怖よりゴゴの破天荒さに振り回された結果が今だと考えた方が納得がいく。
  少しだけ怒気を込めて告げると、ゴゴはいつもと変わらぬ淡々とした口調で返してくる。
  「大した事じゃない。少し河童になっただけだ」
  「本当だったのか・・・・・・」
  ゴゴの―――正確に言えばこの世界とは別の魔術体系の中にある魔術ならば、聖杯戦争に備えて覚える必要が無い。だから雁夜は『カッパー』の取得をすぐ諦めたのだが、その魔術の凶悪さはよく知っている。
  何しろ修行の中でゴゴが魔法を使って、その魔法を耐える場合もあったのだ。雁夜が覚えた『ブリザガ』もまたそうやって覚えた魔法の一つで、間桐邸の地下を埋め尽くす氷の柱の中で意識が遠のいていったのをよく覚えている。そして『カッパー』を喰らって河童になったのも実体験済みであり、自分の体が別のモノに変わってしまった恐ろしさもよく覚えていた。
  はたから見れば二頭身半の河童はぬいぐるみの様で可愛らしいと言えるかもしれないが、自分の体への愛着から、変化した状況には寒気しか湧かなかった。
  物理的な攻撃は何一つ受けていないにもかかわらず、自分の体が別のモノに変わってしまう。しかも恐ろしいのは、その二頭身半の体を自分の体だと認めてしまっている状況にこそある。
  同じ魔法をかけられたらすぐに戻る魔法だが、あの変わった後の河童が自分の体である違和感が存在しないのだ。『カッパー』をかけられた後、頭のどこかでこれは紛れもなく自分の体だと認めてしまう。
  人の手も、腕も、胸も、腹も、腰も、腿も、足も、指も、首も、頭も、何一つ元の造形が無いにも関わらず、河童の自分を認める自分が存在するのだ。あの時ほどゴゴが旅した世界の魔法を恐ろしいと感じた事は無い。
  なお、ゴゴの話では河童状態でのみ装備できる特殊な武器防具があるらしいが、名前は『沙悟浄の槍』『皿』『アーマーガッパ』『甲羅の盾』と雨合羽をひっかけた武装もあるらしく冗談にしか聞こえなかった。
  とにかく『カッパー』の魔法は使えないが、この魔法の精神的ダメージがとてつもなく大きいのは雁夜もよく知っている。無力感を人に与えると言う意味で拷問向きの魔法だと考えている位だ。
  ゴゴの魔法で何度か殺されて幾らかの耐性が出来ていた雁夜だからこそ、最初に喰らった時はすぐに復活できたが。何も知らない子供がいきなり河童に変身させられた衝撃はどれほどのものか?
  あまりのショックにこのまま廃人になるんじゃないか―――。少なくともトラウマになるのは間違いない。きっとこの子は河童にされた自分を夢に見るだろう。
  「で、この状況――。どうするつもりなんだ?」
  「最初は他の子供と同じように冬木教会に連れて行くつもりだったが、あの姿を見るとさすがに心が痛む。自分の魔法が作り出した後始末はつけないといけないな」
  「一方的にお前が悪いんだから当然だろうが」
  「巡り合わせの悪さだ。雁夜も裏の世界、特に魔術が関わると理不尽が山のように押し寄せるのをよく知ってるだろう?」
  「それは、まあ」
  ゴゴの言う『心が痛む』がどこまで本気か判らないが、とりあえず往復してきたばかりの冬木教会にもう一度行く事態は起こらないようなので、それは安堵すべき事柄だった。
  あそこは雁夜が敵と認めた勢力の拠点なのだ。今回は突発的な訪問だったので何の問題もなく終えられたが、再訪問した時に罠の一つや二つや三つや四つ張られている可能性がある。アサシン陣営が一つで遠坂時臣のアーチャー陣営がもう一つ、ついでに言峰璃正も敵に回れば合計三つほど罠が合っても不思議はない。もう一度行けと言われるのは御免こうむる。
  しかも璃正神父に見られているのだから高確率でもう一度ティナと組み合わせられるだろう。
  気まずさ故に、更に御免こうむる。
  「迷子札でもあれば話は早かったが士郎は持ってない。落ち着いて話しを聞けるようになったら、住所を聞いて送り届ける」
  「記憶操作はしなくていいのか? 魔術の事を話されるとあの子の身が危険になるぞ」
  「まだその魔術は物真似してないから不得手でな。秘密を厳守させれば大丈夫だろう」
  「あれだけ怯えて泣かれるとな・・・・・・言う気も無くす、か」
  そう言いながら雁夜がもう一度子供―――士郎を見ると、桜ちゃんに手を握られた状態で泣くだけではなく小刻みに震えてもいた。どう見ても話しを出来る状態ではなく、秘密は守るだろうがキャスターとは別の意味で心に傷を負ったのは確実だと判る。
  ただ、今日初めて会うのに甲斐甲斐しく世話している様に見えてしまう桜ちゃんとティナの姿に少し羨ましさを感じてしまう。
  きっと雁夜に助けを求めた時と同じで『助けなければならない』と義務感が働いているのだろう。
  決して嫉妬ではない。
  そのまま桜ちゃんが士郎の手を握り、ティナが士郎の肩を抱き、自分とゴゴは案山子の様につっ立って、ミシディアうさぎ達はむぐむぐ話し、士郎が泣き止むまでしばらく時間を要した。
  30分か40分ほどだろう。ただ待ち続けるだけの時間は中々苦痛だった。
  子供の泣き声がブラックジャック号の中に響き渡った時間。
  これまでに感じた事の無かった長い長い時間。
  時を隔て、ようやく士郎が落ち着きを取り戻すが、雁夜から見た子供の目にはしっかり恐怖が刻まれていた。
  「さて!」
  いきなり大声でそう言いだしたゴゴが一歩前に踏み出すと、士郎はビクッ! と体を震わせてゴゴを見上げる。
  縋る様に肩にあるティナの手と桜ちゃんの手をそれぞれ握り、助けを求めるようにギュッと握りしめている。
  明らかに河童にされたゴゴに怯えているのだが、当人は全く気にせず近づいていく。そして大人の背丈と座る子供が作り出す身長を使い、上から見下ろして告げる。
  「士郎。これから言う事をよーく聞け」
  「う・・・・・・うん」
  「さっきも言ったが魔法は秘密にしないといけない。だけど士郎は知ってしまった。魔法が行きかう裏の世界は物騒でな、魔法の存在が人に知られないように口封じに人を殺すなんて普通にやってのける危ない場所だ。あの『河童』が優しいと思えるほど残酷な殺され方をされる時もある」
  「――ひっ!」
  「だがお前が黙ってくれれば特に問題は無い。せっかく助かった命だ、余計な事を言って殺されたくないだろう?」
  ゴゴが見下ろしながらそう言うと、士郎は首が飛ぶんじゃないかと思える位に高速で頷いた。
  何回も何回も何回も何回も。
  「よろしい。じゃあ、お前を家に送り届けるから住所を教えろ。警察に届けてもいいんだが、この格好は怪し過ぎてこれまで何度も職務質問されててな、俺は警察にはよく思われてない。町の外れに下ろしてやってもいいが、子供の足じゃ帰れないだろう?」
  今度の頷きは前回に比べて数が少なかったが、目に浮かんでいる恐怖はそのままだ。この調子でどんどん追い詰めていけば折角泣き止んだのにまた泣くに違いない。
  雁夜としては桜ちゃんとの付き合いで『女の子』ならば、ある程度は対処できる自信はあるが『男の子』は少し苦手だ。何故なら、周囲に対象がいなかったからだ。判らないからどう接すればいいかも判らない。
  こっちの言う事を何でも聞いてくれそうな今の状況は望ましいのだが、泣かれたら困るので下手に口も手も出さずに見るだけである。
  黙って二人のやり取り―――ゴゴが一方的に喋ってそれに対して士郎が恐る恐る答えているのを黙って聞いていると、どうやら士郎の家は現在建設途中の冬木市民会館の近くにあるようだ。
  間桐邸は深山町にあり、新都に行くためには冬木市の中央を分断する未遠川にかかる冬木大橋を渡って行かなければならない。そう、ついさっき冬木教会に出向いたように―――、目的が無ければそもそも近付かないのが冬木市の新都だ。
  雁夜は同じ冬木市の中にあっても接点のない冬木市民会館の事など殆ど知らない。それでも地理上の場所を知識として知っていたのは、そこが冬木にある霊脈の中で聖杯降臨に適した四番目の場所だからに他ならない。
  一番目は言うに及ばず、地下に大聖杯が設置された円蔵山。
  遠坂邸は二番目で、先程、璃正神父と話した冬木教会は三番目になる。
  そしてたまたま冬木市民会館建設予定地として選ばれたのが、四番目の霊脈がある場所だ。
  雁夜が知る限り、冬木市で聖杯降臨の儀式を行うならば、このどこかでやるしかない。これは間桐臓硯の遺物を漁っている内にゴゴが発見した情報だ。よって、士郎の家はどこにあるか? という疑問はすぐに解消される。
  冬木市郊外にあるアインツベルンの森からは距離はあるが、今乗ってきた『ケーツハリー』よりは早く移動できるだろう。届けて終わり。そんな言葉が脳裏に浮かんだが、物事を複雑怪奇にして余計な事を色々仕出かすのがゴゴである。
  それは士郎を新都の家に送り届けようと行動指針が固まった所で起こった。
  「あ・・・、の・・・」
  これまで問われるまでは言葉一つ吐かなかった士郎が初めて自分から言葉を言いだしたのだ。
  脇に居る桜ちゃんへの言葉ではなかった、同じく隣に居るティナに向けての言葉でもなかった。状況から話しかけてくるゴゴをこの場所でいちばん偉い人だとでも思ったのか、無謀にも今の今まで自分を脅していたゴゴに向けて話しかけたのだ。
  無謀だ、絶対痛い目にあうぞ―――。そう言いたくなったが、部屋から去ろうとしたゴゴは既に振り返って聞く体勢に入っており、ここで自分が横槍を入れても会話は成立してしまう。
  こうならないようにする為には自分から士郎に話しかけてゴゴとの接点を減らすべきであった。しかし巻き込まれた子供でしかない士郎がこの状況下でどんな事を言うのか気になったのも紛れもない事実。
  雁夜は息をひそめ、まだ涙目の士郎の言葉を待つ。
  「あ・・・、の――。あの・・・。たすけて、くれ・・・て。ありがとう、ございました」
  雁夜はこれまで『桜ちゃんと同じぐらいの男の子』と接する機会が皆無であった。だから、聞こえてきた言葉をしっかりと胸に刻んで、その意味を理解すると同時に、まず驚いてしまった。
  最初に飛空艇の中に連れてきた十人ほどの子供達は調子に乗っていたかもしれないが、少なくとも目の前に居る士郎は助けられた事に対して礼を言える子供だった。
  この状況でありがとうと言える子供がどれだけいるだろう? 少なくとも雁夜が同じ状況に陥ったら礼を言うなど到底不可能だ。
  もしかしたらこの世の中は雁夜が思っているよりもしっかりとした子供が沢山いるのかもしれない。今までは桜ちゃんの事ばかり気にかけていて、一年以上前はそこに凛ちゃんが加わっていたが、他の子供の事など考える機会すら無かった。
  改めて士郎を眺めると、恐れを目に宿しながらもまっすぐゴゴを見上げている。
  『カッパー』で魔法の恐ろしさを十分に味わっておきながら、それを必死に隠そうとしている。大した男の子だ。
  予想外の言葉に感嘆の声をあげそうになったが、続く士郎の言葉で事態は一変した。
  「こわい、けど。その・・・、正義の味方、みたい、で・・・」
  士郎がそう呟いた次の瞬間、ゴゴの手が士郎の胸倉に伸びていた。
  止めるとか、阻むとかそう言った制止の行動を脳裏に思い浮かべるよりも早く、結果だけが目の前に存在する。意識を士郎の方に向けていたから、ゴゴの動きを見逃したのだが、例えずっと見続けていても反応できなかったかもしれない驚異的な速度だ。
  そして雁夜の目の前でゴゴは士郎の胸倉を掴み、力任せに持ち上げる。
  「聞け、小僧――。俺を正義の味方と呼ぶな」
  「う、ぐ・・・」
  これまで士郎の手は桜ちゃんの手とティナの手をそれぞれ握っていたが、ゴゴが持ち上げた事でその両方から解放されてしまった。
  士郎はただ一人でゴゴに胸倉を掴まれており、天井に当たりそうな高さに持っていかれている。ゴゴの手は首を絞めるほどの強さではないようだが、それでもいきなりの暴挙に子供の体力では苦しそうだ。
  子供でもかなりの重量はある筈だが、ゴゴはそんな事を気にせずに片腕で士郎を持ち上げている。
  「覚えておけ小僧。俺は正義の味方なんかじゃない――、それが得になる事なら俺は何だってする。人の物を壊そう、裏から人を操ろう、騙しもしよう、他人の願いを踏みにじろう、知られたくない秘密を暴こう、人を殺そう。法が悪と断じる事柄であろうと何のためらいもなくやってのける。いいか、士郎。お前はただ運が悪くて運が良かっただけだ。断じて『正義』に助けられた訳じゃない、冗談でも俺を『正義の味方』なんて呼ぶな。不愉快だ」
  ゴゴはそう言うと胸倉をつかんでいた手を開いて士郎を解放した、支えを失った士郎の体は呆気なく元の椅子の上に落下して、ドスン、と音を立てる。
  喉の苦しさと椅子に当たった腰の痛みに悶絶し、士郎は荒い呼吸を何度も繰り返す。ゴゴの方を見上げる余力を完全に失ったようで、喉に手を当てながら下を向いていた。
  目の前でいきなり起こった出来事で雁夜がまず思ったのは、あまりにもゴゴらしからぬ行動の真意がなんであるかの疑問だった。何故、ゴゴはあんな事をした? 真っ先にそう考える。
  怒気を放ったように見えるが、言葉とは裏腹に雁夜は全くゴゴを恐ろしいとは思わなかった。言葉では怒っている様に見せていたが、ゴゴが本気で怒ればあの程度で済まない。
  鍛錬の間、巨大な野生の獣を前にしたような感覚で足がすくみ、殺気と呼ぶしかない強烈な気迫に何度も何度も晒されたからよく判る。本気でゴゴが怒れば士郎は既に死んでいる、雁夜がこれまで何度も殺されたように呆気なく死んでいる。
  だから、あれは演出だ。
  児戯と言ってもいい。
  とにかくゴゴはそう『見せかける』ことで、士郎の言葉を封じ込めた。その行動が何の意味を持って行われたのか? 雁夜はそれを必死で考えるが、答えは出ないまま各々が行動を起こしてしまう。
  ゴゴは再び踵を返して部屋の外へと向かい、ティナはもう一度士郎の肩を抱きながら背中をさする。桜ちゃんはティナの抱擁と言ってもよい世話に士郎に声をかけたりする機会を逸し、代わりに部屋を出て行くゴゴへと向かって走り出す。少しだけ眉間に皺が寄っているのが見えたので、桜ちゃんは怒っているようだ。
  雁夜はティナと桜ちゃんの両方を見比べ、ティナがティナのままでいるならばゴゴとしての話しは聞けないと諦める。一秒ほど遅れて桜ちゃんの背中を追い、甲板に出ようとするゴゴを一緒に追いかけた。
  「あんなこと言うなんて――ゴゴ、ひどい」
  そして部屋の外でゴゴに向かって静かに怒鳴る桜ちゃんに追いついた。
  部屋からは若干距離があるが、それでも扉が開いていれば士郎達に聞こえてしまうだろう。そう思っていると、ミシディアうさぎの一匹が雁夜の後ろから出てきた扉を押していた。
  帽子の部分に『0』と描かれていたので、桜ちゃんの使い魔になったゼロだと判る。主の後を追いかけるゼロ、残った九匹は部屋の中で士郎を慰めているのかもしれない。
  人の為に作られた扉をミシディアうさぎの小ささで閉めるのは困難の様で、雁夜はそっと扉を押してゼロの手助けをする。扉が完全に閉まると下からゼロが見上げてきて、むぐむぐ、と鳴いた。何を言ってるのか判らなかったが、何となく『なんたる抜け目のなさ、でかしたぞ雁夜』と言ってる気がする。
  視線を合わせていたのは一瞬で、すぐにゼロは主人の元へと走ってゆく。雁夜はそのゼロの動きと対峙するゴゴと桜ちゃんを全て視界に収めながら傍観した。
  「お礼を言ってたのに、あんなことするなんて――」
  「桜ちゃん」
  「なに!?」
  桜ちゃんはずいぶんとご立腹のようで、間桐邸ではほとんど見ない不機嫌さを表情にして、ゴゴを睨んでいた。どんな感情であれ、無感情よりはいい。表に出るのは喜ばしい事だ。
  けれど、桜ちゃんが怒っている姿など見たくは無いと言う矛盾を考える。
  雁夜は下手に関われば桜ちゃんの怒りがこちらに向くと思えたので、傍観を続けた。
  するとゴゴは士郎の時とは違い、しゃがんで桜ちゃんと頭の高さに視線を動かして静かに告げる。
  「『憧れ』とか『希望』なんてモノは魔術に見るべきじゃない」
  それは何の感情も込められていない言葉だったが、不思議と反論できない妙な雰囲気を持っていた。桜ちゃんもその奇妙な力強さに気付いたようで、怒りながらも言葉を詰まらせている。
  「正義は『人として行うべき正しい道』として使われる言葉だ。でも人によって『正しさ』なんてモノは簡単に形を変えて、全く同一の『正しさ』はどこにも存在しないあやふやで不確かなものなんだ。『正義』は存在しない。あるとすればそれは人によって違う自分だけのモノだ」
  ゴゴの言葉には怒りも喜びも悲しみも楽しみもなく、ただ事実だけを淡々と語っていく。
  「桜ちゃんには桜ちゃんの正義があり、雁夜には雁夜の正義がある。もちろん俺にも俺の正義があって、物事を決める時に正しいと思う何かを自分の中に持ってる。たとえば桜ちゃんはキャスターに浚われた子供達を助ける為に俺と雁夜に協力してとお願いした、それは桜ちゃんの『正義』だろう?」
  「・・・うん」
  徐々にゴゴの言葉に桜ちゃんの怒りが圧倒されていく。
  「だが、雁夜以外の聖杯戦争のマスターの中には目の前で子供が殺されようと聖杯さえ手に入れられればそれでいいと思ってる奴もいる。そういう輩にとっての『正しい行い』っていうのは敵であるキャスターを倒して自分達が聖杯を手に入れる事で、キャスターの行動はどうでもいいんだ。もっと極端に言えば、子供が殺された結果で聖杯が手に入るなら、見殺すのが『正しい』のさ」
  「そんな――」
  「桜ちゃんがそれを間違ってると思っても、人によってはそれが『正義』だ。人は生まれや環境が違うし、性別も考え方も何もかもが違う。同じ『正義』なんてどこにもないんだよ、桜ちゃん」
  そしてゴゴは士郎に怒鳴りつけた言葉の真意―――そうすべきだった事柄を桜ちゃんに説明する。
  「士郎の目は『魔法』の力を恐れてたが、憧れてもいた。しかも助けられた状況をどこかのヒーロー戦隊と被らせて、俺達を一緒にしようとしてる。だが『魔法』は単なる技術でしかなくて、『正義の味方』なんてのはテレビの中にしかいない作り話だ。ありもしない幻に振り回されるより、本当の事を知っておいた方がいい。ただ『魔法』を知っただけの一般人が関われば、殺される可能性の方が強い。せっかく拾った命――、魔法とか魔術とかに関わらず、大事に使ってほしいんだよ」
  「・・・・・・・・・・・・」
  これ以上、士郎が関わるのを防ぐ為。つまり、助ける為にああ言ったのだと言われてしまい、桜ちゃんはそれ以上を言えなくなってしまった。
  不満げな顔が感情に任せて色々言いたい様子を表していたが、自分達と巻き込まれただけの一般人とでは状況が違いすぎる事は桜ちゃんが誰よりも一番よく知っている。大人の都合で振り回され、間桐臓硯に地獄を見せられた桜ちゃんだからこそ、魔術が作り出す暗い部分に触れれば不幸しか生み出さないと判ってしまう。
  大人と子供では主義主張で同じテーブルにつく事すら出来ないと桜ちゃんは知っている。
  多くの体験が桜ちゃんを聡い子供にしてしまった。それは姉の凛ちゃんの背中に隠れていた時と比べれば成長と呼べるかもしれないが、多くの不幸を知る事で世界に絶望しているからではないだろうか?
  黙り込んでしまい、足元に居るゼロを持ち上げながらギュッと抱きしめる桜ちゃんを見て、雁夜は自分達の行動が本当に『桜ちゃんを救う』に繋がるのか不安になった。
  桜ちゃんには笑っていてほしい。
  喜んでいてほしい。
  楽しんでいてほしい。
  けれど、たくさんの真実も知っていて欲しいと願う。世界は苦しい事も楽しい事も一杯あるんだと判ってほしい。
  魔術、聖杯戦争、争い、人の欲望、戦い、正義、殺し合い、悪、愛情、幸福、不幸。普通の人間ならば目を背けるような事でも知って、楽しい事もたくさん知って、その上で幸ある道を選んでほしい。雁夜はそう願った。
  「――桜ちゃん」
  「・・・・・・」
  雁夜が桜ちゃんに声をかけるが反応は無い。
  すぐ目の前で立ちあがるゴゴを見ても、桜ちゃんは何も言わない。
  打ちひしがれているようであり、ゴゴの言葉を考えているようでもある。ゼロを抱きしめながら今にも泣き出しそうな雰囲気がしたので、雁夜は黙って桜ちゃんの頭の上に手を置いた。
  そして少し強めに撫でた。
  悲しまないで―――そう願いながら。



  ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆



  Side - ゴゴ





  冬木市の中に散らばっている101匹ミシディアうさぎは全て健在だ。一匹も欠けることなく、ものまね士ゴゴの目となり耳となり鼻となって情報を集めて行く。さすがに人と話して情報収集なんて芸当は出来ないので、主に物陰に潜んでの動くカメラの様な役割をしてもらっている。
  サーヴァントの気配から拠点の予測を立て、見つからないよう注意しながら接近する。
  『スケッチ』によって作り出したミシディアうさぎは魔力の塊で、透明化の魔法『バニシュ』も魔法が行使された残滓をほんの僅かだが残している。厳重な結界の中に下準備もなく踏み込んだり、そこに何かが居ると思われながら魔術師にじっくり見られれば位置を見極められるだろう。だから、見つからないように細心の注意を払いながら行動し、絶対に見つかる状況に陥ったら、間桐邸に居るゴゴが魔力供給を止めて消滅させ、後に新しい一体を生み出して数を揃える。
  24時間片時も休まずに動き続けるミシディアうさぎ。
  新都にある士郎の家に移動しつつ、操舵輪を握るゴゴは彼らの目を通しながら冬木市の状況を把握していた。
  「・・・・・・多いな、それに行動が早い」
  ブラックジャック号を操りながらも誰にも聞かれない独り言を呟く。今、ゴゴの視点はとあるミシディアうさぎに同調させており、その視点の向こう側には夜の空に向けて双眼鏡を向ける男の姿が合った。
  ラフな格好で少し厚着をしている青年だ。見た目だけなら路上でたむろしていても問題は無いのだが、行動に問題があった。
  何故、この男は何もない夜の空に向けて双眼鏡を向けているのか? 今が昼間で森の中を見ていたらバードウォッチングだと説明できただろう。あるいはどこかの一軒家かマンションにでも双眼鏡を向けていたら覗きだと説明できるだろう。
  しかし男が双眼鏡を向ける先は何もない空。星すら無いそこで何を探しているのか。男の姿を見た者が居れば等しくその疑問を抱くだろうが、ゴゴにはその予測が付いていた。
  こいつは冬木市の中に潜り込んだ聖堂教会のスタッフの一人、言峰綺礼のアサシンが行う諜報活動を言峰璃正が補填する為の偵察を行っているのだ。聖杯戦争の存在を表に知られぬよう秘密裏に処理する実行部隊の一人にして、言峰璃正の思惑によってアーチャー陣営とアサシン陣営以外の手勢を調べている。
  あちこちに散らばったミシディアうさぎの目を通して見ると、この男と同じように空に向けて双眼鏡を向ける者が少なくとも十人は見つかった。冬木市のあちこちに散らばっているので、道行く人が見かけても天体観測でもしているのだろうと納得して終わるだろうが、複数人が同じ行動を同時期にやっていると判るゴゴから見れば何らかの意図があるとしか思えない。
  言峰璃正が雁夜の届けた子供達から飛空艇の存在を知って調査に乗り出したのだろう。どうやって透明になった飛空艇を見つけるかは判らないが、情報があちらに漏れてしまったのは確かだ。
  「綺礼のアサシンと璃正が使う聖堂教会のスタッフ。数だけならこちらを上回り、璃正の方は人だからこそ冬木市に溶け込んで実体を隠す――か。少し厄介だな」
  少しでも高所にいればそれだけ発見は遅くなるので、ゴゴは操舵輪を手前に引いて高度を上げた。もっとも、魔術師が聖堂教会のスタッフと同じ事をやって、注意深く探せばその内発見されるだろうから、高度上昇以外にも別の手を考えなければならない。
  現段階、ライダーに見つかるのが一番厄介だ。
  こちらの位置を捕捉されてあの空飛ぶ戦車に突進されたら、一度目は魔法解除で留まるが、二度目は確実に交戦となる。そうなった場合は力づくで固有結界―――かつて旅した世界では仲間のモグが使う『踊り』に引きずり込んで戦うのが的確だろう。
  だが昼だろうと夜だろと遮蔽物のない空の上は目立ち過ぎる。下手に騒ぎ立てられれば、『神秘の秘匿』として聖杯戦争に関わる者以外がここにやってきて敵対するかもしれない。それは面倒だ。
  どれだけ大軍が押し寄せようと負けるつもりは全くないが、今は聖杯戦争で色々と手に入れたいので他の瑣事に労力は費やしたくない。
  それはそれとして高さで考えればどんどんと冬木市から離れて行くのだが、地図上の二次元的位置関係では既に士郎の家のほぼ真上にまで移動していた。自動車ならば信号機やカーブなどに邪魔されてもっと時間がかかっただろうが、飛空艇ならば風と気流の影響を多少受けても移動時間は短くて済む。
  時同じく、甲板に上がってくるもう一人の自分―――士郎に説教して、その言葉をあえて桜ちゃんに聞かせる事で『自発的な考えを促す』をやらせたゴゴが上がって来た。
  成長する為に障害は必要不可欠だ。
  「到着したか?」
  「ああ、この下のどこかが士郎の家だ」
  目の前に別の自分が居る。鏡を間に挟んで話しているような奇妙な光景である。
  ただ、この世界の魔術を知るまでは自分が自分のままで分裂するなど考えもしなかったので、自分が目の前にいる違和感と一緒に多少の面白さを感じている。
  「士郎とはここでお別れか」
  「その通りだ」
  ある種の遊びの様なやり取りを経て、ゴゴは操舵輪を握る方の自分と身を乗り出して士郎の家があると思われる住宅街を見下ろす方の自分に意識を分ける。
  同じ位置にブラックジャック号を滞空させていると、程なく階段から複数の人影が現れた。雁夜の斜め前を歩きながら、悩む様な怒るような微妙な表情を浮かべた桜ちゃん、彼女の両手の中にミシディアうさぎのゼロがしっかりと抱かれている。そしてその後ろには手を繋ぐ士郎とティナの姿が合った。
  更にその後ろに残った全てのミシディアうさぎが付いて来てたが、ブラックジャック号に乗っている人間が全員甲板に集まった方が重要なので無視。
  操舵輪を握っている方ではなく、自由に動ける方のゴゴが歩いて士郎の方に向かう。途中、桜ちゃんから強い視線を向けられたが、ゴゴの言い分に一応は納得しているらしく、先程の様な怒声は無い。
  助けられた良い人だと思っていたらいきなり胸倉掴まれて持ち上げられた。士郎にしてみればゴゴを良い人と思えばいいのか悪い人と思えばいいのか判らないのだろう。
  勧善懲悪なんてモノは子供の夢想の中にのみ存在するもので、完全な善意も完全な悪意も非常に存在は限られる。そもそも人の受け取り方によって良いも悪いも、善も悪も姿を変える。
  その辺りは人生経験を積めばある程度は判ってくるのだが、まだ幼い子供にそれを理解しろと言うのは酷だ。それにもうお別れの時間なので、わざわざ説明してやったり、自分が『良い人』などと思わせなくてもいい。
  「士郎。お前の家の『上』についたぞ」
  上から見下ろして士郎の旋毛を見ながらそう言うと、またビクッ! と体を震わせる。一度は小康状態になった落ち着きが再び恐怖に染まっているようだが、もうゴゴには関係ない。
  ただし、念には念を入れる。
  「いいか、魔法の事も今日起こった事も誰にも言うなよ。『魔法使いに殺されそうになった』なんて親御さんに言ったら、他の誰よりも早く俺がお前を含めた家族全員の口を塞ぎに行くからな。何事もなく帰りたかったら、ここで何も言わないと約束しろ」
  そんな風に脅すと士郎は言葉なく何度も頷いた。もうお礼を言えるほどの余力は無く、『うん』と肯定の意を示す言葉すらない。
  もしこれで士郎が魔法や魔術の事を世間に流布するようならば、こちらが手を出さずとも魔術師や聖堂教会のスタッフがかけつけて処理してくれる。この冬木市は聖杯戦争の開催地でもあって他の場所より神秘の秘匿について厳しい。
  死にたくなければ黙ってろ―――。そう言外に語ると、士郎は何度も何度も頷いた。
  「それでいい」
  悪役の様な言い回しだと理解しながら、ゴゴは手を士郎に向ける。
  『カッパー』をかけられた前例があるので、士郎は咄嗟に隣にいるティナの背中に回り込む。だがゴゴの魔法は―――魔術とはそんな人の壁を隔てた所で回避できる程甘い技ではない。
  「いい夢をみろ――、スリプル!!」
  ゴゴが魔法を唱えると同時に、士郎の体が力を失って床の上に落ちて行く。
  強制的に相手を眠らせる睡眠魔法『スリプル』。対象者の魔法に対する耐性が高ければ絶対に効かない魔法だが、子供の士郎には絶対にかかる。しかも緊張の連続で体力的にも精神的にも疲労している。この年の子供なら眠っているであろう夜も手伝って、『スリプル』はよく効いた。
  「よし、じゃあこのまま送り届けるぞ」
  「怪我させちゃだめよ」
  「判ってる、心配するな」
  ものまね士の姿をしたゴゴ、そしてティナの姿をしたゴゴ。どちらも自分でありながら、別人であるように振る舞う。
  ティナの手が士郎を抱き上げ、こちらに委ねる。そしてゴゴは士郎を横にして抱いたまま、雁夜のいる場所に移動した。
  雁夜の隣にいる桜ちゃんが不安げに士郎の様子を眺めていたが、そちらを無視して雁夜に話しかける。
  「俺は『間桐臓硯』として士郎の親と話すから、お前は士郎を背負って付いて来てくれ」
  「一人で十分だろ」
  「この格好でいきなり『息子さんを届けに来ました』なんて現れたら、誘拐犯扱いされて警察に通報されるぞ。この中で一番まともに見えるのは雁夜だ」
  「・・・・・・・・・確かに」
  桜ちゃんは士郎より小さい女の子で、ティナは扇情的な衣装に加えてどう見ても日本人には見えない。そしてものまね士ゴゴの格好が日常から逸脱した格好であるのは間桐邸に住む者ならだれでも知っている。
 ゴゴが他の誰か―――例えば町ですれ違う単なる一般人に己が栄光の為でなくフォー・サムワンズ・グロウリーで変身して相対する案もあるが、もし当人と士郎の親が出会ってしまえばややこしい事になる。かつての仲間に変身するのもいいが、彼らは冬木市では異邦人だ。やはりここは同じ冬木市の中で一年過ごした大人―――つまり雁夜が妥当である。
  「それと時間短縮の為に『レビテト』で一気に降りる」
  「『レビテト』か・・・・・・ケーツハリーじゃいけないのか? 俺の魔力もある程度は戻ったから召喚出来るぞ」
  「聖堂教会が面倒な事を仕出かしてくれてな、透明になっても見つかる危険があるからゆっくり移動してる暇が無くなった」
  「何があった?」
  「どうやら言峰璃正が聖堂教会のスタッフを総動員して『間桐』を調べ始めた。上空にこのブラックジャック号がいるのを知ったらしく、空を見上げる監視の目が一気に増えたぞ。遠坂時臣と言峰綺礼の二人も合流次第動きだすな」
  「子供達からこっちの情報を探ったのか・・・・・・」
  「口封じに殺すなんて馬鹿な真似はしないと思うが、こっちの情報が幾らかあっちに流れたのな」
  雁夜は魔剣ラグナロクの入っているアジャスタケースを肩から外して横にする、そして後ろに回して土台にすると、そこに士郎を乗せて背負わせた。
  淀みなく子供を背負う姿からは手慣れた様子がうかがい知れ、どれだけ雁夜が桜ちゃんとの時間を大切に過ごしてきたかを思わせる。ゴゴは知らないが、間桐邸で眠る桜ちゃんを寝どこまで背負う雁夜がいたのだろう。けれど、自然と動いた体とは裏腹に、雁夜の表情は暗い。
  言峰璃正の元に子供達を預けたのを失敗だったと悔いているのか。あるいはこちらの情報を敵に与えてしまった行動の是非を自分自身に問うているのか。どちらであれ、起こってしまった結果は変わらない。
  「まずは士郎の件を片付ける。『レビテト』を全員にかけるから、雁夜はそのまま降りてくれ」
  「・・・落ちてくれ、の間違いだろうが」
  浮遊魔法『レビテト』。アインツベルンの森の中に着地する時に雁夜が使ったこの魔法は、落下の衝撃を全て別の場所に逃がす驚異的な魔法で、どれほどの高みからの落下であっても一定距離の高さに到達すれば無傷で着地できる魔法だ。
  ただしその『一定距離』に至るまでは自由落下なので、地球の大気圏ほどの高さから落ちれば流石に摩擦熱で死ぬし、高所特有の極寒も防いでくれない。しかもパラシュートなしの落下なので、人の恐怖がそれに勝てる事が前提だ。
  士郎にやれと言っても気絶するか、泣き叫んで小便漏らす。
  雁夜とてアインツベルンの森で一度体験しているから少しだけ耐性が出来ているが、進んでやりたいとは思わない筈。それでも空を見張られる状況を作った原因が雁夜にもあるので、拒否はしない。もし言峰璃正に『子供達には何もせず、日常に送り返せよ』と言っておけば、あるいはこちらの情報は洩れなかったかもしれないのだから。
  「さて、行くか――」
  「俺には『逝くか』、に聞こえるよ」
  雁夜の愚痴には耳を貸さず、無造作に横に移動する。
  そして手すりに手を当てつつ振り返り、後ろについて来ている雁夜を確認しながら操舵輪を握る自分とティナになっている自分に話しかける。
  「俺達が降りたらブラックジャック号は一旦冬木市から離れろ。ここに留まり続けるのは危険だからな」
  「言われるまでもない」
  「ティナ。桜ちゃんを頼んだぞ」
  「判ったわ」
  誰も彼もがものまね士ゴゴ。わざわざ口にして確認するまでもない事を言い終えると、手すりに足をかけた。
  「雁夜、先に行くぞ」
  「お、おお――」
  地上数百メートル弱。いや、先程から上昇を続けているので、おそらく二千メートル近くにまでブラックジャック号は上がっているので、気温は地上に比べて格段に低くなっていく。
  これ以上待たせると桜ちゃんの体調に大きく影響するし、高すぎて雁夜が飛び下りない可能性もある。
  「――レビテト」
  ゴゴがそう呟いた時、ものまね士はパラシュート無しのスカイダイビングを行っていた。





  結論から言えば、ブラックジャック号から降りたゴゴ、雁夜、士郎の三人は無事に士郎の家にたどり着いた。ただしブラックジャック号から飛び降りてから二時間ほど経過している。
  既に時刻は日を跨いでおり、丑の刻参りが適した時間になってしまった。
  この原因の最たる理由はブラックジャック号の高度を上げ過ぎたからだ。
  雁夜がアインツベルンの森へ着地した時はそれほど高くなかったので、狙った場所めがけて降りる事が出来た。しかし、現在ブラックジャック号は敵の監視の目を少しでも遠ざける為に高度を上げており、地上までの距離をどんどんと離している。
  だから風に翻弄されて強制的に位置を移動させらてしまった。
  士郎の家らしき場所に着地するつもりが、流れ流れて遥か遠方へと着地する事になってしまったのだ。
  浮遊魔法『レビテト』の効果と、背負った士郎を離さないように力を込めた雁夜の努力によって無事に新都にたどり着けたが、降りた場所はどこかの民家の屋根の上。家人に気付かれないようにこっそり降りるのに時間を使い、流された分だけ移動するのにまた時間が浪費された。
  士郎から聞いていた苗字を頼りに家を探し、発見するまでにも時間が必要になり。結果、当初の予定から大幅に遅れての発見となったのだ。
  「ここか・・・」
  「そう、みたいだな」
  返事をする雁夜の声には力は無く、一年で鍛えた体力はまだまだ残っているが、精神的な疲労が色濃く表に出ている。キャスターとの殺し合いを終えてからろくに休まず、自由落下で神経をすり減らして、新都を歩き回ったのだ。
  今更ながら、『ダッシューズ』を魔力で作り出して貸せばよかったと思う。
  表札を見ると士郎から聞いた苗字がしっかりと刻まれており、夜遅くだと言うのに家の中からは灯りが溢れている。周囲を見渡せば、電信柱の街灯ぐらいしか灯りが付いていないのに、目の前にある家だけは煌々と輝いている。きっと士郎の帰りを待っているのだろう。
  後ろを振り返れば高所から落ちたとは思えない程穏やかに眠る士郎の寝顔が目に入った。雁夜に背負われて人の体温を感じて安心しているのか、飛空艇の中で見た恐怖にひきつる顔は無い。
  どこにでもある二階建ての家―――、魔術的な結界などどこにも見当たらない。やはり士郎は聖杯戦争に巻き込まれただけの単なる一般人なのだと再確認した後。指を伸ばしてチャイムを押す。
  夜の静けさもあって、ピンポーン、と家の中からチャイムの音が聞こえてくる。一秒と経たずに部屋の中を全力疾走しているような騒がしい音が聞こえてきて、チャイムのマイク部分から『はいっ!』と男性の声が聞こえてきた。
  「夜分遅くに申し訳ないゾイ。ワシは深山町に住む間桐臓硯と申す者じゃ、この家は士郎とかいう坊主が住んでおる家か? 道路で眠ってる所を連れて来たんじゃが、お宅のお子さんで間違いないかのう?」
  一気にそう言うと、家の中がこれまで以上に騒がしくなった。余程慌てているらしく、家の中を走る、いや、ドタバタとやかましく駆ける音が外にまで聞こえてきた。
  5秒もかからずに玄関が開き、家の中から玄関の灯りに照らされた大人二人がゴゴ達の前に姿を見せる。
  「士郎っ!!」
  母親と思わしき女性が雁夜に背負われている士郎を見て、開口一番そう言った。そして短距離走のスタートを思わせる『発射』で門扉を飛び越え、背後に父親と思わしき男を置き去りにして雁夜に跳びかかる。
  単なる一般人の筈なのだが、サーヴァントに匹敵しそうな身体能力を見ると予測が間違っていたのかもしれないと思えてくる。
  雁夜は向かってくる母親に対し、士郎を斜めに傾けて息子を抱きあげられるに体勢をずらす。母親はすぐに眠る士郎の脇腹に手を突っ込んで、抱きあげながら思いっきり抱きしめた。
  雁夜どころかゴゴの姿も見えているのに、母親の目は士郎しか見ていない。
  「士郎・・・、士郎――・・・」
  誰にも渡さない、どこにも行かせない。名を呼びながら強く抱きしめる姿にはそんな決意が見えている。結果的に士郎を奪い取られてしまった雁夜は呆然としており、ゴゴは気を取り直して門扉を開いた男に相対する。
  玄関の灯りに照らされる男の髪の毛は士郎と同じく赤毛で、士郎があと20年も育てばこんな男になるんじゃないかと思える精悍な顔つきだった。筋肉隆々ではないが、細身でもない、適度に引き締まった体は何かスポーツをやっている恩恵だろう。
  母親の腕に抱かれる息子の姿に柔らかい笑みを浮かべ、ゴゴ達の方を向きながら頭を下げる。
  「ありがとうございました。本当に――本当に、ありがとうございました」
  間違いなくゴゴの怪しげな格好は見えているのだが、何よりもまず礼を告げる姿に士郎の躾の原点を見た気がした。
  父親が頭を下げた姿勢で数秒が経過し、ゆっくり顔をあげた顔とゴゴの目があう。父親の目はまだ感謝の色に染められていたが、感激の後に押し寄せてくるのは冷静さ。いや、ものまね士ゴゴの異質さへの疑問だ。
  「気にしなくていいゾイ。さっきも言うたが、あの坊主が道路の脇で眠っている所にたまたまワシらが通りかかっただけの事じゃ。この家の場所を聞き出すまでに少々時間がかかってしもうた。むしろ謝らなくてはならんゾイ」
  「いえ。そんな――。士郎を送り届けてくださって、どれだけ感謝の言葉を並べても足りません」
  「警察か病院にでも連れて行けば話は早かったんじゃが、そこの雁夜と深山町から用があって新都に訪れたんじゃが、この辺りは不慣れでのう。警察も病院も判らんし、坊主から話しを聞く限りではそれほど離れておらんかった。こうして送り届ける方が早いと思うたのじゃが、こんな時間になってしまったわい。お主らを不安にさせてしまったようじゃ、すまんゾイ」
  「いえ、いいえ。そんな事はありません」
  父親は賢明に礼を告げようとするが、徐々にこちらを見る目に猜疑心が含まれていく。
  子供を送り届けてくれた恩人を疑うなんていけない事だ―――。そう自分に言い聞かせているようだが、ものまね士ゴゴの奇妙な格好はその思考を壊していく。
  言葉にこそされなかったが、ものまね士の格好を見る父親の目が『何、この怪しい人?』と小さく物語っていた。
  「よろしければ。何かお礼をさせて頂けませんか?」
  「いやいや、人の出会いは『縁』のもの。たまたまその坊主とワシらの縁が合っただけ。わざわざ礼をされるほど大した事はしておらん。それにワシは家の場所を聞いて歩いて来ただけじゃ。真に礼を受け取るべきは坊主を背負ってここまで連れてきたそこの雁夜めじゃよ」
  「そうですか――。じゃあ、雁夜さん」
  「は、はい?」
  いきなり矛先を向けられて雁夜が生返事をする。
  士郎の父親はものまね士ゴゴに向けていた怪しむ視線を完全に隠して頭を下げる。
  「士郎を送り届けて頂いて、ありがとうございました」
  「爺も言っただろ? 俺たちはそんな大した事はしてないって」
  「私達にとっては士郎を送り届けてくださった事がもう『大した事』なんです。本当に――、本当に、ありがとうございました」
  士郎は母親に抱かれた状態で眠っており、母親はそんな士郎を抱きしめ続けている。
  父親の方や雁夜に何度も礼を言って、雁夜は思ってもみなかった感謝に気恥ずかしそうにしていた。
  三者三様の様子を見ながらも、いつまでもここに留まっては周囲の目を引きつけてしまう。隣家の住人に見られるのは問題ではないのだが、聖堂教会のスタッフや綺礼のアサシンが来る前に引き上げなければならない。
  だからゴゴは半ば強引に話題を変えてゆく。
  「さて、ワシらはここに長居する気は無いのでこれで失礼させてもらうゾイ。家に残した桜ちゃん――お宅の坊主と同じくらいの年の女の子がおってな、あまり家を開けたくはないんじゃ」
  「そう、なんですか――」
  「これ以上の礼をしたかったり、もっと坊主の詳しい詳しい話を聞きたければ深山町の山の方に行って『間桐臓硯と言う方はどこにお住まいでしょうか?』か『間桐邸はどこにありますか?』と尋ねれば大抵の者は知っておるからワシらの家を探してみるといいゾイ。この見た目じゃから、ワシはあの辺りでは有名人でな、大抵は家におるのでアポイントメントを取る必要はないゾイ。おお、それとこの格好じゃが『色素性乾皮症』の予防として太陽の光を遮る為の物じゃ。夜と安心して夜明けで痛い目を味わった事があっての、見た目の怪しさは勘弁してほしいゾイ」
  父親は士郎の事でもっと話しを聞きたいだろうが、見た目の怪しさと子供の無事を確かめたくて話しを辞めたがってもいる。
  ならばそれを後押ししてやるだけでいい。
  夜は遅い、家に子供を待たせている、話なら後日。そう幾つか理由を作り出すと、士郎の父親は申し訳なさそうに言ってきた。
  「――ではご厚意に甘えさせて頂きます」
  その言葉を切っ掛けにして、これまで路上で士郎を抱きしめていた母親が父親の元へと移動していく。横顔にはうっすらと涙が浮かんでいたので、息子と再会できたのがよほど嬉しかったのだろう。
  何かお礼の言葉を言いたそうだったが、嬉しくて嬉しくて嬉し過ぎて、語る言葉が口から出てこない。それでも父親の横に並び、士郎を抱いたまま頭を下げた。
  ありがとうございます。
  ありがとうございます。
  ありがとうございます。
  言葉は無かったが、母親の雰囲気がそう言っていた。
  「近頃は物騒じゃ、子供から目を離してはいかんゾイ」
  「はい」
  「叱るんなら理由を聞いてからにしてやってくれよ。俺も何でそいつが道路脇で寝てたのか知らないんだ」
  「――判りました。ちゃんと話を聞きます」
  ゴゴと雁夜の順に言葉を投げると、父親は僅かな逡巡の後でしっかりと返事をする。
  両親と息子。三人は門扉をくぐり、今までずっと開け放たれていた玄関を通って家の中に入っていく。そして振り返ってゴゴと雁夜の方を向くと、また頭を下げて『ありがとうございます』と小さく呟いた。
  ガチャン、と玄関が閉まる音が鳴り響き家の中と外が分断される。
  家の内側は魔術とは何の関係もない一般人の家庭、家と言う住処によって守られた暖かい場所。そして家の外側は聖杯戦争という殺し合いの中に身を投じ、願いを叶える為に戦い続ける血生臭い場所。
  ゴゴが歩き出すよりも早く、深山町がある方向に歩き始めた雁夜の背中に向けて、声をかける。
  「どうした雁夜。ああいう普通の暮らしに憧れたか?」
  「・・・・・・臓硯は教育に熱心とは言えない最低の男だったからな。心配してくれる親が居るのは少し羨ましいさ」
  「そうか」
  「でも俺が『間桐雁夜』だからこそ、魔術師の家系に生まれたからこそ。俺は葵さんに出会えて、桜ちゃんと凛ちゃんに出会えて、お前に鍛えてもらえる事が出来た。俺があの時――、臓硯の蟲に喰い尽されそうになっていたあの時、あそこでお前に会えたから今の俺がある。憧れてるかもしれないが、今の自分に後悔は無い。俺は絶対に桜ちゃんを救ってみせる」
  「その意気だ雁夜」
  二人は横に並んで歩き、徐々に士郎の家から遠ざかっていった。





  記憶操作こそ行われなかったが、魔法に、魔術に、サーヴァントに、裏の世界に、自分の知らなかった危険な出来事に関わる事がどれだけ恐ろしいか骨身に染みた筈。目を覚ました後で、士郎が両親にどんな事を聞かれるか判らないが、恐怖を呼び起こしてまでわざわざ説明しないだろう。
  父親がゴゴに向けた目は胡散臭い人物を見る目だったので、お礼にと一度間桐邸を訪れるかもしれないが、それ以上の関わりはないと予測される。そして、もし士郎が怪しい場所に近づこうとしても、親の目は今後は厳しくなって出来ないに違いない。
  故に士郎とは出会いは今日限り。二度目が合っても三度目は無い。この時、ゴゴはそう考えた。
  その予測が裏切られるのはほんの少しだけ後の話。
  世界を救う旅に最後まで同行したリルム・アローニィのように―――子供の行動力を甘く見た結果を思い知らされるのも、ほんの少しだけ後の話である。



[31538] 第18話 『ライダーは捜索中のサムライと鉢合わせする』
Name: マンガ男◆da666e53 ID:6a0d9b18
Date: 2012/11/03 07:49
  第18話 『ライダーは捜索中のサムライと鉢合わせする』



  ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆



  Side - ウェイバー・ベルベット





  ライダーに連れられて冬木大橋の鉄骨の上に生身でしがみ付いていた恐怖。強制的に連れて行かれた五人のサーヴァントが集う戦場。何やら奇妙な闖入者がいたが、とりあえず無事に終わった殺し合い。
  途中で気絶してしまい、起きたのはライダーの飛行宝具で空を飛んでいる途中だった。
  ウェイバーは冬木市で調達した拠点。自分をそこに住んでいる老夫婦の孫だと暗示をかけてまんまと潜り込んだマッケンジー宅の二階の寝室に戻ると同時に横になり、戦いの高揚とか、緊張とかそう言った類のモノよりも前に休む事を優先させた。
  そしてすり減った心を癒すように昼近くまでしっかりと寝てしまい、目を覚ましたのは空に上がった教会からのマスター緊急召集の合図が聞こえてきた後だ。
  何が起こっているか判らないが、とりあえず感覚を同調させたネズミの使い魔を冬木教会に放った。そこでマスターではないが、敵陣営の一つ、始まりの御三家の一画である『間桐』の関係者―――、間桐臓硯が堂々と姿を見せ。サーヴァントの一人であるキャスターが冬木市での連続誘拐事件の犯人である事を知る。
  魔術の秘匿、そして聖杯戦争の瓦解を防ぐために戦いを中断し、六組のマスターとサーヴァントはキャスター討伐へと動き出す。そういう話を聞いた。
  ウェイバーは魔術師だ。
  だがウェイバーの知る魔術師の多くは血統の古さばかりを鼻にかける時計塔の優待生達と、そんな名門に纏わりつく取り巻き共でほぼ埋まる。時計塔の講師達とて例外ではなく、名門出身の弟子ばかり優遇して、ウェイバーには見向きもしない。それがウェイバーの知る魔術師という存在だ。
  そう、あの憎たらしいケイネス・エルメロイ・アーチボルトもまた例外なく! だ。
  おそらくまっとうな魔術師ならば、自分達の真理の探究ばかりに目を向けて、聖杯戦争の瓦解を問題視しても、キャスターの連続誘拐事件など自分達に影響が無ければ見向きもしないだろう。ウェイバーはそんな魔術師たちの鼻を明かす為に聖杯戦争に参加したので、あえて連続誘拐事件を止める方に着目して動こうと決める。
  ライダーも聖杯戦争に招かれたサーヴァントでありながら、関係ない者達を次々と手にかけるキャスターに怒りを覚え、討伐に関しては文句を言わないだろう。
  ただしキャスターの対抗手段として今の自分が有している戦力もまた、そのライダーのみ。
  教会に放った使い魔を呼び戻しながらそのライダーの事を考えると、ウェイバーの脳裏には昨夜聞いたある言葉が浮かび上がってくる。


  「おう魔術師よ。察するに、貴様はこの坊主に成り代わって余のマスターとなる腹だったらしいな。だとしたら片腹痛いのう。余のマスターたるべき男は、余と共に戦場を馳せる勇者でなければならぬ。姿を晒す度胸さえない臆病者なぞ、役者不足も甚だしいぞ」


  結果としてそうなってしまったのだが、ウェイバーは望んであのサーヴァントが集う戦場に行った訳ではない。あのまま冬木大橋の鉄骨の上で待っていたら、ライダーが戦いを終える前に自分が力尽きて川に落ちて死んでしまう可能性の方が高いと計算しただけだ。
  状況はどうあれ、今の冬木市でライダーの傍以上に安全な場所は存在しない。たとえ他のサーヴァントに囲まれていようと、自分が呼び出したサーヴァント:征服王イスカンダルは最強だ。
  大きな手で守られ、あの言葉を聞いた時―――。心の中に浮かんだ面映ゆい感覚を言葉にするのは非常に難しい。しかもそれはきっとこの世でウェイバーただ一人にしか判らない感動に違いない。
  坊主と呼ばれようと、どんな形であろうとも。あの時、ライダーは自分をマスターと認めてくれたのだ。
  図に乗るといけないし。自分はライダーのマスター、つまりは使役する立場にあるのだから絶対に言わないが、あの巨漢のサーヴァントに軽蔑されたくないという思いが存在し『認められたい』と思うのだ。
  だからこそ他のマスターとサーヴァントの事は一旦横に置いて、キャスター討伐に尽力しようと心に決める。
  そう言えばそのライダーはどこ行った? 考えつつ使い魔との同調を切って部屋の中を見渡すが、あの巨漢の姿はどこにもない。
  疲れて眠ってしまったのでライダーの動向に気を回す余裕が無く、教会の呼び出しや今後のやり方などを考えるあまり身近への注意が疎かになってしまった。とてつもなく嫌な予感が背筋を凍らせながら階下へと向かうと、食堂から物音が聞こえる。
  マッケンジー夫妻か? ライダーか? あるいはその両方か? 最後だったらこれまで見つからないようにライダーを隠してきたウェイバーの苦労は無駄となる。
  何しろマッケンジー夫妻にかけた暗示はウェイバーが二人の孫であるそれだけで、古代マケドニア王国の武装で身を固めたライダーの事は何一つ伝えていない。
  サーヴァントは冬木市の日常とも常識とも大きく異なる存在で、そこに感じる違和感は強烈だ。下手をすれば催眠暗示が一気に解ける可能性もあったので、これまで徹底的に秘匿してきた。
  せめて家人とライダーが出会っている光景がそこにありませんように。と祈りつつ、ウェイバーは廊下から食堂を覗きこむ。
  そこには、両腕を上に曲げた状態で上腕二頭筋を見せ、その体勢を前から見せる―――。俗に『ダブルバイセップス・フロント』と呼ばれるポージングをとるライダーがいた。
  「ふははははは!! この胸板に世界の全図を載せるとは――。うむ、実に小気味良い!」
  「・・・どうしたんだ? その恰好」
  とりあえずマッケンジー夫妻の姿が無い事を安堵しつつ、予想とは違った光景に思わず問いてしまう。
  見ると食卓の上にはライダーがいつも身に着けている重厚な胴鎧が置かれており、その代わりにライダーは白いTシャツを身に着けている
  XLサイズの、いかにも安っぽい半袖プリントシャツで、胸には世界地図をからめたタイトルロゴで『アドミラブル大戦略Ⅳ』と印刷が施されていた。
  「余の荷物が届いたんでな」
  「――お前、外に出たのか!?」
  ライダーの言葉を理解すると同時に、胴鎧と同じく机の上には宅配便の伝票が貼られた小包を見たウェイバーはそう叫ぶ。
  マッケンジー夫妻の姿が無く、ライダーの手に小包があるならば、受け取ったのはライダーという事になる。そして受け取り手と同様に送り手もいるのだから、ウェイバーが聖堂教会へ使い魔を放っている時に宅配便がやって来たのだろう。
  つまりライダーの重厚な胴鎧をしっかりと配達員に見られてしまったという事だ。
  マッケンジー夫妻の様に毎日顔を合わせる同居人ではなく、ただ一度荷物を送り届けるだけの他人である事がせめてもの救いだ。ライダーの異様さを目の当たりにした人間が呆気にとられつつも客に対する悪い風評を流さないのを祈るばかりである。
  頭痛がしそうな状況を認めると、ライダーが嬉しそうに小包を持ち上げて見せてくる。
  「通信販売とやら試してみたのだ。『月間ワールドミリタリー』の広告欄に、中々そそられる商品があったのでな」
  その宛名書きには『冬木市深山町中越2-2-8 マッケンジー宅 征服王イスカンダル様宛』と冗談のような内容が書かれていた。
  通販なんてどこで学んだ?
  いつ手紙を出した?
  代金はどこから調達した?
  聖杯がサーヴァントに与える知識にそんなものがあったのか?
  色々と疑問が湧き出るが、何よりも前に言わなければならない事があったのでそれを言葉にする。
  「お前――、二階から出るなって言ったろ!」
  「家主も外出中、貴様も使い魔にかまけているとなれば余が代わりに出るしかなかろう? 届け物を預かってきた使者を、労う事なく帰らせる訳にはいかんだろうが」
  「し、仕方ないだろ。聖堂教会からの呼び出しなんて異例なんだから」
  即答されたライダーの言葉に対し、逆にウェイバーは言葉をつまらせてしまった。
  確かにライダーが宅配便に応対したのはウェイバーが聖堂教会からの呼び出しに対して使い魔を放ち、全神経をそちらに集中して気付かなかったからだ。
  おそらくマッケンジー夫妻も―――暗示の成果だが―――孫が家にいるならば、外出しても訪問者の対応をしてくれるだろうと信頼したに違いない。
  そうなると宅配便の応対が出来なかったのはウェイバーの落ち度だ。
  ただしこの場合の一番の解決策はライダーが自分の言う事を聞いて自分宛の荷物が届こうと二階に留まってくれる事なのだが、ライダーが自分の命令を聞いてくれないのは最早諦めるしかない。
  言い聞かせる為には令呪を使うしかないのだが。まさか、『マッケンジー夫妻に見つからないよう、二階から出るな!』なんて命令で聖杯戦争の切り札とも言える令呪を使う訳にもいかず、ライダーの言葉の正しさを認めるしかなかった。
  「ま、細かい事はいいではないか。昨夜のセイバーを見てな、余も閃いたのだ。当代風の衣装を着れば実体化したまま町を出歩いたって文句はあるまい?」
  ウェイバーの葛藤を知ってか知らずか、小包を机の上に戻したライダーは笑みを崩さずに堂々と言ってのける。
  ええい、余計な切っ掛けをこいつに与えやがって。と、ここにはいないセイバーを呪いたくなったが、意気揚々と食堂から外に出ていくライダーを見て怨嗟は止まる。
  「おいライダー。待て、ちょっと待て!!」
  ライダーの進む先にあるのは二階への階段ではなく、逆方向の玄関だ。
  廊下を三歩程歩いた所でようやくライダーは立ち止り、振り返りながらこちらを見た。
  「お前、今、どこへ行こうとした?」
  「無論、町へ。征服王の新たなる偉容を民草に見せつけねばならん」
  ふざけるな! とライダーを怒鳴りたくなった。
  聖杯戦争では情報を隠すのが常道であり、実体化して町を出歩くなど暴挙でしかない。倉庫街の戦いとてランサーが魔力を小さくばら撒いて獲物が引っかかるのを待っていたのだ。自分から姿を晒して『敵はここにいるぞ』見せる馬鹿は一人もいない。
  けれど、ウェイバーが言ったところでライダーは無視して町へ出向くだろう。忌々しいが、そこはもう諦める。
  それでもライダーの恰好だけは見過ごせなかった。
  「外に出る前にズボンぐらい穿け!」
  今のライダーの格好は重厚な胴鎧からTシャツに着替えただけ―――つまり、ズボンはおろかパンツすらも穿いておらず、見たくもない男を象徴する巨大なモノがウェイバーの視界に収まっているのだ。何を食ったらここまで巨大になるのか? 一瞬だけ、そんなどうでもいい事を考えるが、すぐにそこが視界の外になる様にライダーの顔を見上げる。
  下を見ない限りそれが視界に入る事は無い。
  「ん? ああ、脚絆か。そういえばこの国では皆が穿いておったな。ありゃ必須か?」
  「必要不可欠だっ!」
  下半身を見事に晒しているサーヴァントはやや困った風に額に拳を当てた。
  本気で『必須か?』と問いかけてくるライダーに再び頭痛の兆しを覚えつつ、こんな奴を何の準備もなく表に出したらこの国の警察にお世話になる可能性が非常に高いと予想できる。
  その場合、ライダーが大暴れして冬木市の警察署の一つや二つぐらい簡単に破壊してしまうだろう。そうなれば今度は他のマスター達のキャスターに殺到する状況がこっちに向けられる。
  ウェイバーはこの非常識な存在に対して僅かでも『認められたい』などと考えてしまった少し前の自分に怒りを覚えた。そしてその怒りはこれまでにない原動力となり、ライダーと対してからおそらく初めてになるやる気を発揮させる。
  「先に断わっておくが、僕はお前の為に街まで出向いて特大ズボンを買って来るなんて事は絶対しないからな」
  「何だと!? 坊主。貴様、余の覇道に異を唱えると申すか」
  「覇道とお前のズボンとは一切合財、金輪際、全く持って、関係ない!! 外を遊び歩く算段をなんぞする前に敵のサーヴァントの一人でも討ち取ってみろ! 今やれ、すぐやれ、とっととやれ、誰か倒してこい! そしたら、ズボンでもなんでも買ってやる」
  これまでにない気勢に圧倒されたのか、珍しくライダーは上体を後ろに少しだけ逸らした。そして『むうっ』と唸りながら沈黙し。笑みを消して真剣な表情を作り出す。
  ここでウェイバーのいう事を聞いてくれればありがたいのだが、ライダーは真っ直ぐにこちらの目を見下ろしながら堂々とウェイバーの予測の斜め上を行った。
  「なるほど、あい分かった。とりあえず敵の首級をあげさえすれば、その時は余にズボンを穿かすと誓う訳だな」
  呆気なく譲歩した状況が逆にウェイバーを脱力させる。
  いつもならこちらの言い分などデコピンの一発で黙らせるくせに、この珍しい物分かりの良さは何なのか。
  「お前・・・、そんなに現代の恰好で外を出歩きたいのか?」
  「騎士王の奴めがやっておったのだ、余も王として遅れを取る訳にはいかん。この服の柄は気に入った――覇者の装束に相応しい」
  おそらくこの国に限らず、征服王イスカンダルの伝説が伝わる地域に行って今のライダーの姿を見せたとしても、Tシャツを『覇者の装束』と崇める奴は一人もいないだろう。
  だがライダーは至極真面目に世界地図がプリントされたTシャツを誇っており、自分の在り方に何一つ疑問を抱いていないようだ。
  大物なのか、馬鹿なのか。きっとこの英雄は両方だろう。
  征服王イスカンダルとは並外れた特大の馬鹿者で、超大物の英霊なのだ。
  「キャスターの居所を突き止めなきゃいけないってのに――、何やってんだよ・・・」
  肩を落としながら呟いた言葉は、マッケンジー宅の廊下でライダーと議論している自分に向けられた言葉でもあった。



  ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆



  Side - ライダー





  脚絆を手に入れる為には敵サーヴァントの首級をあげなければならない。そう話し合って妥協してから三時間後、XLサイズのウォッシュジーンズを身につけて意気揚々と深山町を練り歩いていた。
  敵の首級をあげた訳ではない。坊主が考える『キャスター捜索方法』を実現させる為に外を出歩く必要が出てきたのだ。
  そうなると脚絆の入手は必須であり、胴鎧やマントを羽織って出歩けば不用意に敵の目を引きつけてしまう。考えた策とそれを実行する為に必要な道具、この両方を天秤にかけて坊主は酷く苦々しい顔をして悩んでいたが、結局『外を出歩かせる為には仕方ない』と折れてわざわざジーンズを買いに出かけた。
  『絶対しないからな』と言ったすぐ後に前言撤回しなければならなかったのだ、その心中で深く思い悩んだに違いない。
  が、まあ、それはそれとして、これ幸いにと胸板の世界全図を見せびらかせながら深山町を横断していく。道行く人々は征服王の新たな偉容に目を奪われ、誰も彼もが振り返る。
  視線の中にはこちらを探るような不快なモノも含まれていたが、さすがに街中でいきなり仕掛けるような馬鹿な真似をしてくる者はいない。
  時に溢れ出てしまう雄の匂いに引きつけられた、艶っぽい女の視線を感じる事もあるが、今は坊主の頼みごとを聞いている最中なので、目的地への遠回りはしても寄り道はしない。
  坊主が余に頼んだ仕事は『未遠川にて、地図につけた目印の場所にある水を採取する』だ。魔術師ではないライダーの我が身にはこの水汲みがどんな意味を持って行われるかは判らない、だが、新たな偉容を民草に見せる機会があるのならば細かい事はとりあえずどうでもよい。
 神威の車輪ゴルディアス・ホイールを使えば移動も水汲みもすぐに終わるのだが、せっかく外を出歩いているのだからじっくり散歩するのも悪くはなかった。
  外を出歩く機会はこの一度限りではないのだ。この冬木の地でサーヴァントとの戦いがあるならば、二度目、三度目は必定となる。今、この瞬間に敗北して次回が消えるなどと言う弱気は最初から考えない。
  まだ日は高く、夕暮れを通り越して夜の闇が冬木市を覆いつくすまでには時間がある。だからこそ、胸板に輝く世界全図のTシャツとXLサイズのウォッシュジーンズを自慢げにひけらかしながら、悠然と、堂々と、存分に征服王イスカンダルの姿を見せつける。
  「ふむ、この街は活気があって実によい」
  次回の外出に備えて地形や地理、店舗の位置や道路の状態までも把握していく。都合よく、渡された地図は冬木市を全て網羅する地図なので、細道などの細部までには至れないが、それでも大まかに把握するには事足りる。
  後は自分の目で見ながら確認すればよかった。
  街の様子を確認しながら、頭の中でマスターである坊主の事を考える。
  策には徹底さが無く、どうしても粗が出来てしまう。その粗は聖杯戦争そのものへの詰めの甘さになって、勝利者となるには不足した部分である。
  もっともライダー、いや、征服王イスカンダルにとって聖杯戦争とは自分自身の存在意義である『征服』を再び推し進める為の第一歩であり、聖杯そのものへの執着は薄い。だから策略の粗すら楽しめる要因になるのだ。
  無論、負ける気など毛頭なく、聖杯もしっかり手に入れる。
  だが必ず勝てる戦いほどつまらないものはない。
  負けるかもしれない―――心のどこかでそう思いながらも、強大な敵に全身全霊をもって挑み戦い征服する。それこそが征服王イスカンダルが通るに相応しい王道だ。その意味では坊主の戦い方は中々面白く、むしろ数多くの戦場を渡り歩いてきた余にとっては微笑ましくもある。
  表向き、マスターとサーヴァント。つまりは『主人と奴隷』の関係を保っている様に見せているが、実際にその関連性が形作られた事は一度もない。この冬木の地に英霊の一人として召喚された瞬間から、ウェイバー・ベルベットは征服王イスカンダルの主人にはなっていない。
  それでも今の環境を受け入れているのは、聖杯戦争を勝ち抜く為にはマスターからの魔力供給が必要不可欠である事と、この生活に楽しさを見出しているからに他ならない。極東の島国である『日本』には多くの情報があふれ、与えられた最低限の知識以外にも知る事は山ほど存在する。
  生前は考えもしなかった知識を得る事で落胆を味わう事もあったが、それでも征服王イスカンダルの世界は今この瞬間も広がり続けているのだ。
  坊主の生き方は自分の殻を小さくまとめてしまうモノで、いっそ『勿体ない』と考えてしまう小ぢんまりだ。余もまた、大英雄などと持てはやされていても、王でありただ一人の小さな人間でしかない。感じる世界の大きさに大差はない。
  ただ自らの世界を大きくしようとするか、小さな世界で満足してしまうか。だ。
  ならばこそ、自らの小ささを自覚して尚、大きく広く在ろうとする生き方を教えたい。そう思ってしまった。それだけが理由の全てではないが、少なくとも余は今の状況に納得している。
  殺し合いも娯楽も等しく生を謳歌する材料だ。既にこの身は死者、聖杯戦争のサーヴァントの枠に収まる幻のようなモノだが、それでも全ての楽しむ心は生前と何ら変わらずここに存在する。
  そうやって道行く民草の視線が突き刺さるのを感じながら歩いていると、進んでいる方向に奇妙な男を見つけた。
  「むむむむむむ・・・」
  その男は専用の箱形居住空間内に設置された電話―――つまりは電話ボックスのドアを開いた状態で、前かがみになって、何かを手に持っていた。かなりの高齢に見えるが、髪の黒さと筋肉の躍動が老いを感じさせない。
  手のひらに収まるほど小さい何かを持ち、こちらとは別の意味で人の目を集めている。
  これがただ困っているだけの一般人だったならば気にも留めなかったに違いない。しかし、その男は隠そうとしても隠しきれない強者の佇まい―――、真っ直ぐに伸びた芯が背中に埋め込まれているかのような雰囲気が見えるのだ。何らかの武道を極めているのが見て取れる。
  身長二メートルを超える余からすれば頭二つ分ほど下に見下ろせる低さだが、それでも直感がこの男は強いと教えていた。
  強者は強者を知る。
  聖杯戦争に招かれたサーヴァントは皆等しく、『英霊』と呼ばれるに等しい者ばかりだ。故に現代の世に生きる魔術師の隠れ潜む様子には落胆と怒りを覚えていたが、この世には英雄豪傑の雰囲気を漂わせる者が市井にも紛れている。
  それが嬉しくてたまらない。
  「おう。お主、何か困っているようだが、どうかしたか?」
  気が付けば、その男に話しかけていた。
  紫色の胸当てと体の各所を守る黒い甲冑姿をした奇妙な男。手荷物と思わしき布にくるまれた棒状の何かが電話ボックスに立てかけてあって、ますます目立っている。
  道行く人は奇異なモノを見る目でその男を見るが、進んで声をかけようとする者は一人もいなかった。皆、この国に伝わることわざの一つ『触らぬ神に祟りなし』に則り、遠目から見るだけだ。
  しかし征服王イスカンダルにそれは通じない。むしろありとあらゆる物事に関わりを持って、時に向こうから騒動がやって来るからこそ王は王なのだ。
  王とは常に渦中にいなければならない。
  「さっきから何をうんうん唸っておる?」
  「おお――、どこのどなたかは知らぬがかたじけない。実はこのテレホンカードなる物の使い方が判らないのでござるよ」
  男はそう言うと、手にしたカード状の小さな物体を見せてきた。
  聖杯から与えられる現代の知識の中にその物体に対する情報はなかったが、それでも様々な媒体から新たな情報を手に入れたので、それが何なのかを知っていた。目の前にある緑色の公衆電話で電話をかける為に必要な代物だと言う事は周知の事実である。
  「なんだ、そんな事か。ほれ、受話器を取って、そこのでかい矢印が描いてある所に差し込むだけでよい。あとは相手の電話番号を押せば勝手に通じるぞ」
  「何と、この矢印はそのような意味でござったか。御仁、しばし待つでござる。すぐに用向きを済ませるので、礼を言わせてほしいでござる」
  「中々よい心がけではないか。よかろう、待っておるから用件を済ませるがよい」
  見た目の年では間違いなくこちらの方が若いのだが、男は聞きようによっては慇懃無礼にも聞こえる話し方を気にせず返してくる。
  感じる空気は間違いなく強者のそれなのだが、話している間にどこか『誰かに仕える者』という空気を感じ取った。道行く、冬木市の人間とはどこか異なる在り方もまた征服王イスカンダルの目を引き付けた要因の一つだ。
  男はテレホンカードを差し込むと、恐る恐るという言葉が似合う速度でボタンを一つ一つ押していった。慣れた者ならば二秒もかからない作業だろうが、公衆電話の次のボタンを押すまでに一秒以上かかる時もあり、触れる事を恐れている様に見える。
  たかが機械に何をそんなに怯えているのか? 興味と疑問が一緒に湧き出る頃、ようやく男は電話番号を押し終えて受話器に耳を当てた。
  「・・・・・・・・・。エドガー殿!? ようやく通じたでござる!! ――小銭を使った電話の仕方は理解したが、テレホンカードの使い方は専門外でござる。あ、それは後にして、今は定時報告でござった。――黒髪の女は山の様にいてまだ本命は見つけられぬ、冬木ハイアットホテルなる建物の周囲をくまなく調べたが見つけられなかったでござる。こちらに大きな問題はなく、引き続き捜索するので今日は戻らぬ予定だと伝えて下さらぬか? 夕餉の準備は結構でござるよ。――何と!? 既に人数分を買ってしまったでござるか!? しかも急な変更に怒っている、と・・・・・・。エ、エドガー殿、何とか怒りを治めるよう取り持ってほしいでござる。拙者、まだ死にたくないでござるよ! ああ、テレホンカードの残りが少なくなってるでござる。エドガー殿、後は頼むでござる。う、嘘ではござらん、本当でござる。もう切れ――」
  男が受話器を公衆電話へと戻すと、ガチャン、と盛大な音を立てて通話が切れる。一瞬後、ピピーピピー、と軽快な電子音が鳴り響き、つい先程差し込んだテレホンカードが出てきた。
  なおテレホンカードが出てくる前、残り度数を表示する場所には『53』としっかり数字が表示されており、残りがまだまだ合った事を知らせている。
  その様子を全て後ろで眺めて、喜劇のようなやり取りに思わず口元を緩めてしまう。
  「ふははははは!! お主、中々面白いではないか」
  「拙者、機械は苦手でござる」
  おそらくその言葉に嘘はないだろうが、それを逆手にとって話を切り上げる狡猾さも持っている。まだ笑っていると、男は電話ボックスから出てきて、立てかけてあった細長い棒の様な物を手に取った。
  そしてこちらに向けて頭を下げる。
  「テレホンカードの使い方を教えて下さって、感謝するでござる」
  「気にするでない。それほど大した事ではないからな」
  事実、わざわざ礼を言われるほどの事をしたとは思っていない。たまたま余がここに通りかかり、たまたま話しかけただけ―――その根底にこの男の強さを感じ取ったからという理由もあるが、単なる偶然で片付けられる些細な事だ。
  テレホンカードの使い道ぐらい、別に余でなくても知っているだろう。
  だが男にとっては誰でも知っている事を教えてもらうのは多大な感謝に匹敵するようで、しばらく頭を下げ続けていた。
  十秒ほどが経過した後で、ようやく男は頭をあげて視線を合わせてくる。
  「拙者の名はカイエン――。カイエン・ガラモンドでござる。よろしければ、貴殿の名を聞いてもよいでござるか?」
  「余の名か?」
  カイエンと名乗った男の話し方に倣い、堂々と真名を名乗った。
  「我が名はイスカンダル。征服王イスカンダルだ」





  「この町に限らず、世の中には機械が溢れすぎて困っているでござる。拙者とて、日々精進しているが故、機械オンチもなんとかなるでゴザル」
  「ならば問題ないではないか」
  「世間の移り変わりは拙者の精進を大きく上回っているから問題なのでござる。このままでは、拙者は・・・・・・世間に置いていかれるのではなかろうか」
  「後ろめたい男じゃのう。もう少し、気を緩めて大きく受け止められんのか?」
  「こればかりは性分でござる」
  「ならばそこの店に入って慣れるのはどうだ? 今なら、余が付き合う時間も少しばかりあるぞ」
  「こ、これが噂のゲームセンターというものでござるか。敷居が高く、入った事はないが・・・」
  「何事も経験だ。ほれ、行ってみるか」
  「無理でござる! そ、それにイスカンダル殿の用件もござろう? ゲームセンターは次の機会にするでござる」
  隣に並び立つ男―――カイエン・ガラモンドと名乗った男との会話を楽しみながら、全く別の事を考えていた。
  サーヴァントとして招かれたこの体は並みの人間より余程頑丈だ。しかもライダーのクラスのステータスは『筋力:B』と中々高く、たとえ無手であろうとも普通の人間が太刀打ち出る者ではない。事実、坊主はライダーのデコピン一発でのされている。
  だから横に並び立つカイエンに殴りかかる、あるいは絞め技を仕掛けようとするのだが、仕掛ける前段階でどれもこれもが頓挫してしまう。
  隙が無いからだ。
  カイエンが持つ棒状の何か―――まだ巻かれた布が一度も解かれていないので確証には至ってないが、おそらく刀剣の類だろうと当たりをつける。槍にしては短すぎ、木刀にしてはそれを持った手に込める力が強すぎるからだ。
  つまり相手は武器を持ち、こちらは無手。ライダーのクラス、つまりは『騎乗』こそが真価を発揮するので、武器もなく馬もない状態で仕掛ければ少々分が悪いと言うしかない。
 念の為、神威の車輪ゴルディアス・ホイールを呼び出す為のスパタは坊主に渡された道具と一緒に手荷物として持っているが、相手が武器を引き抜いて構える方が確実に早い。どうやっても先手を取られてしまう。
 神威の車輪ゴルディアス・ホイールとは異なるもう一つの宝具、切り札とも言えるそれを使えば初手を取った上に圧倒出来るだろうが、この男と好んで敵対したい訳ではない。今はまだ相手の力を図りたいだけだ。
  もし今の状況で敵対すれば苦戦を強いられる。それが判っていながら、脳裏に浮かんでくるのは喜びであった。
  「強情な奴だな。仕方ない、次の楽しみにとっておくとして、今は水汲みに専念するか」
  「それがいいでござる、テレホンカードの御礼に拙者も手伝うでござるよ」
  「次の機会は逃がさぬから覚悟しておくがよい」
  「誓って『次』はゲームセンターに入って機械を使いこなしてみせるでござる。『これで機械オンチが治る!!』と『機械の全てがわかる本』を熟読した拙者に敵はござらん」
  戦いへの楽しさはそのまま会話への楽しさに発展し、つい先程会ったばかりの他人とは思えない程、話に華が咲く。
  カイエンがかつてこの日本に存在した『武士』を彷彿させるのも盛り上がる理由の一つだろう。
  セイバーやランサーとは違うが、現代ではお目にかかれない英雄豪傑の空気を漂わせるカイエン。言葉を交わす機会に恵まれ、そう遠からず矛を交える機会にも恵まれるであろう予感がある。
  まだ話題にも上げていないので、カイエンが聖杯戦争の関係者かどうかはまだ不明だが。その内『お主、聖杯戦争に関わっておるか?』と堂々と聞こうと思い、別の話題で楽しさを更に膨らませていった。
  「それはそうとお主。電話で言っておったな、誰か人を探しておると。余の知ってる者かもしれんぞ」
  「・・・イスカンダル殿は冬木ハイアットホテルが爆破された事件を御存じか?」
  「うむ、知っておる」
  「拙者はその犯人の一味と思わしき女を探しているでござる。黒のシンプルジャケットに黒の細身のゴムパンツ、髪は肩にかからぬ黒のおかっぱで、背は拙者より頭一つ分小さい女でござる」
  「残念だが知らんな」
  「そうでござるか――」
  少しだけ沈黙が二人の間を行き来するが、すぐに会話は再開される。
  「イスカンダル殿は見事な身体つきをしてるでござるが、何か武道を嗜んでおられるか?」
  「余はいくさ場で先陣を切る王であるが故、体は勝手に鍛えられた」
  「戦いにて鍛えられた肉体でござるか。王ならばエドガー殿もそうでござった。エドガー殿もやはり強靭な体つきをしておったでござる」
  「ほほう。王が友におるのか」
  「つい先程電話した相手がそうでござる。エドガー殿は機械を手足の様に使いこなす機械の国の王でござるよ」
  「機械を武器とする王か。余の生きた時代には考えられぬな」
  話している間にも足は進み、歓談に湧く時間はあっという間に流れてしまう。気がつけば西の空は徐々に夕暮れに近づいており、二人が歩く場所も未遠川の河口付近にまで移っていた。
  並び立ち話しながらも手荷物から地図を取り出し、地図に描かれた『A』の地点こそ今自分達が立っている場所だと確認する。
  歩いてきた道路と未遠側の間にはコンクリートで固められた傾斜の大きい斜面があり、水を汲みに行くにはここを下る必要があった。
  「ここが一つ目じゃな」
  「用向きの理由までは深くは知らぬが手伝うでござる。その試験管に水を汲めばよいのでござるな?」
  「ならば一つ目は任せるとしよう。すまんがあそこまで行って汲んで来てくれ」
  「心得た、でござる」
  『A』と書かれたシールが貼ってある試験管を取り出してカイエンに渡す。カイエンは布に包まれた長物を持つ手とは逆の手で受け取ると、未遠川の川辺に向けて斜面を下っていった。
  距離にすれば余が立っている道路から未遠川までは二十メートルもないが階段など無い斜面はただの人間が降りるには少々急過ぎる。もし坊主が同じ事をやろうとすれば、両手足を使って四つん這いになりながらゆっくりじっくり降りる羽目になる。
  だがカイエンは違った。
  コンクリートでしっかりと固められた斜めの地面を二本の足でしっかりと下り、足の上にある体は不安定な足場を滑っているにもかかわらず全く前後左右にぶれない。
  強靭な足腰と常日頃から鍛えているバランス感覚が合って初めて成せる移動だ。ただ滑り降りているようにしか見えるかもしれぬが、何気ない行動の中に鍛錬の成果が見える。
  「うーむ。あやつ、やはり只者ではないな」
  あっという間に水際まで移動して腰をおろし、水汲みを行っているカイエンの背中を見ながら、独り言を呟いた。
  川辺まで行って試験管に水を汲んで蓋をする。あとは戻ってくるだけなので、下るよりも少しだけ時間はかかったが、結局全ての工程を終えるまでの二分もかからず、カイエンはすぐに元の場所にまで戻ってくる。
  「これでいいでござるな」
  「うむ、ご苦労であった」
  呆気なく一つ目の採取が終わってしまい、もう一度地図を見直して次のポイントである『B』の位置を確認する。
  未遠川の脇には隣接する道路があり、上流へと向かうそれに沿って進めばどの採取ポイントも簡単に到達する事が出来る。上流まで移動しなければならない手間はあるが、作業としてはそれほど難しくない事が、カイエンによって改めて証明された。
  時間はかかるが、他のサーヴァントの襲撃でもない限りは水汲み自体は楽に終わるだろう。だからこそ今この瞬間、これまで聞かなかった言葉をカイエンに投げる。
  「カイエン――。お主、『マッシュ・レネ・フィガロ』という名に心当たりはあるか?」
  これまで決して呼ばなかった相手の名前を呼びつつ、聖杯戦争に関わっているのならば間違いなく知っているであろう男の名前も口にする。
  水の入った試験管を手渡してくる動きが一瞬だけ歪み、ピクッ! と体が震えた。
  そのまま斬りつけてくる可能性も考慮して手荷物の中にあるスパタに手を伸ばす―――。が、カイエンから帰って来たのは攻撃ではなく返答だった。
  「マッシュ殿でござるか? もちろん知っているでござるよ、何しろマッシュ殿は先程話したエドガー殿の弟、肩を並べて多くの戦場を渡り歩いた拙者の仲間でござる」
  「やはり知っておったか」
  「むしろイスカンダル殿がマッシュ殿を知っておったのが驚きでござる。もしやイスカンダル殿は『聖杯戦争』なる催し物の関係者でござるか? 拙者もマッシュ殿も訳合ってこの地に住まう無辜の民を傷つける輩を成敗する為にやって来たでござるが、まさかイスカンダル殿がその悪漢――」
  「聖杯戦争の関係者と言うならばその通りだ。しかし余はこの冬木に住まう民草を傷つけるつもりは全くないぞ」
  「・・・誠でござるか?」
  こちらは手荷物の中にあるスパタを握りしめ、あちらは布に包まれた刀剣の柄の部分を握りしめる。真意を探るような目で見てきたが、今も昔も先も全ての目的は『征服』に帰結するので、無暗にそこに住む住民を傷つけるのは征服王イスカンダルの本意ではない。
  「征服王イスカンダルの名に誓って」
  「・・・・・・・・・」
  共に武器を引き抜いて攻撃できる体勢を維持したまま十秒ほどの沈黙が出来上がった。
  ほんの僅かでも攻撃の意思が見えれば、その瞬間に互いの武器が唸りを上げる永遠にも等しい時間。一瞬前にはなかった緊張と集中が体感時間を引き延ばし、目の前にいる敵に向けた意識が膨れ上がっていく。
  先に武器から手を離したのは向こうか、あちらか、あるいは両者同時にか。
  構えを解きながらカイエンが告げてくる。
  「・・・イスカンダル殿の目は嘘をつく者の目ではござらん。かたじけない――、拙者は先走り過ぎたようでござる」
  「細かい事は気にするでない。繰り返すが、余が聖杯戦争の関係者である事は否定できんのだからな」
  武器から手を離しながら頭を下げてくるカイエンを見て、こちらもまた同じように武器から手を離す。とりあえずこの場で戦いにならなかったのが少し残念だが、状況によっては目の前にいる男どころか、あの倉庫街でアーチャーと真っ向から対峙したマッシュと言う男とも戦える機会に恵まれるかもしれない。
  更なる楽しみを見つけ、抑えられない喜びについ口元が緩んでしまう。
  「お主らは聖杯を得る為にこの戦いに参加しておるのか?」
  「それは酷い誤解でござる。拙者もマッシュ殿もエドガー殿も誰一人として聖杯など求めてはござらん。ただ、ある少女を救う為に――悲しみをこれ以上増やさぬ為に邁進しているでござる」
  「ある少女?」
  「それは秘密でござる。だが、聖杯など興味はない! これは秘密ではござらん、誓って真実でござる」
  武器から手を離したカイエンを見つつ、こちらもまた相手が嘘を言っていないのだと理解する。
  多くの人間を見て培われた直感がそう教えていた。
  先程話した『探し人』も、その少女をこれ以上悲しませない為の行動なのだろう。
  今回の聖杯戦争はマスターとサーヴァントだけではなく、他の勢力もまた関わっている。聖杯をめぐって直接対峙する事態にはならないだろうが、この世界で征服すべき強者達が集っているのならば好都合だ。
  「判った、判った。我らに聖杯を求め剣を交える理由はない。それでよいな?」
  「判ってくれて満足でござる」
  その言葉を切っ掛けとして、戦う意欲を消失させてゆく。ただし、カイエンが強者である見立ては間違って無いと判ったので、時期を見計らってランサーとセイバーの様に勧誘してみようと思った。
  次の水汲みのポイントである『B』地点に向けて歩き出しながら、また会話を再開させる。
  「拙者の探している女は冬木ハイアットホテルを爆破した犯人でござる。確証には至っておらぬが、聖杯戦争に何らかの関わりを持っているのではないか・・・、と」
  「ありえる話だな。今の冬木市で騒ぎが起これば大なり小なり聖杯戦争が関わりを持っておる。その女もどこかのマスター陣営の者かもしれん」
  「イスカンダル殿もそう思うでござるか」
  「単なる予測だがな。今、坊主が追いかけている『キャスター』など、この街で起こった連続誘拐殺人事件の犯人だそうだ」
  「何とっ!?」
  「別口であろうが、この街が色々と騒がしくなっているのは間違いなかろう。ほんの少しだが責任を感じるわい」
  その後、会話は地図に記載された全てのポイントで水を汲み終わるまで続けられた。



  ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆



  Side - ウェイバー・ベルベット





  どうやってキャスターを探すか? ウェイバーはサーヴァント討伐の問題を解消する為、当たり前の疑問にぶつかった。
  そこで考えたのが冬木市の中央に流れる未遠川を調べ、『水』から魔術師の所在を確かめようとする方法だった。
  使い魔を多く放って目で探す方法、大気中の『風』に混在する魔力を追って探す方法など、他にも敵の所在を調べる方法が沢山あるが、一番簡単なものから実行した。
  やり方はまず地図を用意して未遠川の上流から河口までにアルファベット順に二十六箇所の地点に印をつける。そしてその地図をライダーに持たせ、その場所の水をイギリスから持ち込んだ試験管で採取させた。
  探すのは魔術の術式残留物だ。川は絶対不変の原則として『高所から低所に注ぐ』もので、その水の中にもし魔術の痕跡が含まれていればキャスター発見の手がかりになるかもしれないと考えたのだ。
  風もまた同じように術式残留物を残すのだが、風の流れを完全に見極められる技量でもなければ出所を掴むのはほとんど不可能。だからこそウェイバーは『水』に目を付けた。
  冬木市は始まりの御三家が根を下ろしている土地なので、無論、他の魔術師の痕跡が見つかる可能性だってある。むしろそちらの方が高いだろう。それでも遠坂邸や間桐邸以外にも『魔術師の誰か』がいる場所を発見できるならば、それはそれで聖杯戦争において有益な情報となる。
  そして配合を終えた試薬―――魔術の痕跡が見つかれば色の変化によって結果を知らせる薬―――を、試験管に入ったライダーが河口から採取した水に垂らし。想像していなかった劇的な変化に『うわっ・・・』と思わず呻いてしまう。
  少し汚れていたが、それでもほぼ無色透明だった筈の水がいきなり赤錆色に染まったのだ。
  その色は上流に遡れば遡るほどに濃くなっていき、一番濃い反応を示した試験管の色はまるで墨汁だ。
  試験管にスポイトで一滴一滴試薬を垂らしていく作業は、時計塔の初等部に戻ったかのような不愉快さと憂鬱さを生み出した。『僕は何をやってるのか?』そう思ってしまう地道な作業だったが、それでも得られた結果はとてつもなく大きい。反応が大きかった場所に自分以外の魔術師が、敵がいる。
  冬木教会で知らされたキャスター討伐の告知から既に一昼夜が経過しており、行えた調査は一つ限り。しかもライダーが実体化して『イギリスに留学していた孫』と見せかけたウェイバーの『渡航先で知り合ったアレクセイさん』として、まんまとマッケンジー宅へ入り込んでしまった問題もあった。
  ただ、ライダーの人柄がそうさせるのか、それともマッケンジー夫妻の人が良過ぎるのか。ライダーはアレクセイさんとしてマッケンジー夫妻に受け入れられたので、その問題は一応解消された。
  残っているとすれば。ええい、また勝手な真似を!! と怒りにまみれたウェイバーの心の傷ぐらいだ。


  「霊体化したらコレを持ち込むことができんだろうが。コイツを持ち帰るのが今日の余の務めだったわけだろう? そのために晴れてズボンも手に入れたのだ。そもそも命じたのは坊主、貴様ではないか」


  そう言ったライダーは採取した水が入った巨大なハンドバックを家の中に持ち込むため、架空の人間をでっち上げて見事にその役を演じた。
  今の所、マッケンジー夫妻の暗示が解けた様子は無く、二人はライダーを偽りの孫であるウェイバーの知人として家の中に招いている。
  だから問題など何もないのだが―――、自分の与り知らぬ所で状況がどんどん進んでいくのが非常に気に食わないのだ。誰がどう見てもマスターよりサーヴァントの方が色々な意味で役に立っているのだから。
  未遠川から採取した情報からキャスターの工房と思わしき場所が特定出来た。ウェイバーは万全の準備を整えてから工房を襲撃するつもりだったのだが、ここでライダーが即時攻撃を提案した。


  「よおし。居所さえ掴めりゃこっちのもんだ。なあ坊主、さっそく殴り込むとするか」


  「戦において陣というのは刻一刻と位置を変えていくもんだ。位置を掴んだ敵は速やかに叩かねば、取り逃がした後で後悔しても遅いのだ」


  「我がマスターがようやっと功績らしい成果を見せたのだ。ならば余もまた敵の首級を持ち帰って報いるのが、サーヴァントとしての心意気というものだ」


  ただの魔術師でもその工房は要塞と言っても過言ではない防衛力を秘めており、魔術師のサーヴァントであるキャスターにはクラス特典として『陣地作成』のスキルも付加されているので、その工房の堅牢さは普通の工房を遥かに上回るだろう。
  いかなる地形条件においても最善の効果を発揮する工房を形成できるこのスキルが相手では、いかにライダーと言えど分が悪い。工房に対して真正面からの強行突破を試みる等、暴挙でしかないのだが、ライダーは全く気にしていなかった。
  ウェイバーが『功績らしい成果』と褒められる言葉に少し照れていると、ライダーは既に鞘からスパタを引き抜いて肩に当てながら出撃準備を整え始めてしまう。


  「そう初っ端から諦めてかかるでない。とりあえずブチ当たるだけ当たってみようではないか。案外何とかなるもんかもしれんぞ?」


  そのライダーの言葉に触発された訳ではない。それでも堂々と言ってのける征服王イスカンダルの姿を見ると、本当に何とかなってしまうのではないかと思えてくる。
  時計塔にいた時は予測に裏付けられた確実性を重視して、願望としか言えないそんな考えは微塵も抱かなかった。
  それなのに今はライダーの言葉に耳を傾けて、賭けに出ている。
 毒されてきたのかもしれない―――。ウェイバーはそう思いながら、キャスター討伐に向けてライダーが操る神威の車輪ゴルディアス・ホイールに乗り込んだ。





  こうして空飛ぶ宝具で再び冬木市上空を移動する羽目になったのだが、二度目になれば多少の慣れは発生する。
  無論、落下すれば命は無いので、恐怖がウェイバーの心を強く縛り付けているが、泣き叫んだ初回に比べれば、今、自分がどの辺りを移動しているか見れるぐらいの余裕はあった。
  目尻に浮かぶ水滴など知らない、心の汗が目から流れただけだ。
 神威の車輪ゴルディアス・ホイールで冬木大橋から倉庫街に連れて行かれた時は余裕など欠片もなくただしがみ付いてばかりだったが、今回は御車台の堅牢さ―――空を飛んでいるとは思えないしっかりとした走行にある種の感動すら覚える。
  ライダーの宝具は空を飛ぶと言うより、空を駆ける宝具で、見えない地面が二頭の雷牛と車輪の下にある様に思えた。御車台から少し身を乗り出して下を見れば何もない空があり、眼下には夜の冬木市が作り出すか細い光がちらちら見える。
 見えない。けれど地上と上空を格別する『何か』がそこにあり、神威の車輪ゴルディアス・ホイールはそれに乗って進んでいるのだ。
  この世界にいるどれだけの魔術師が英雄の宝具に同乗できる機会に恵まれるだろうか? 聖杯戦争に関わらなければ、生涯触れる事すら叶わなかった『今』。他の魔術師とは一線を介する貴重どころか奇跡に等しい体験に体が震えた。
  きっと自分は幸運なのだろう―――。
  「どうした坊主。身を乗り出し過ぎて落ちても知らんぞ」
  「ばっ。そんな馬鹿な事、僕がする訳ないだろ!」
  視界を下から上に動かせば、前で手綱を握るライダーが後ろを振り返ってこちらを見ていた。
  その目が自分の心象を見透かしたような気になってつい語気を荒げてしまう。
  何とか気を取り直し、キャスター討伐の為に全アルファベット二十六文字が描かれた地図を小さく広げる。地図は風になびいて、指の力を抜けば一気に空の彼方にまで飛んでいきそうだった。
  少し強めに指の力を込めながら、夜の闇で見え辛くなっている地図に顔を近づけて地形を確認する。頭の中に今見たばかりの地図が残っている内に御者台から身を乗り出して見下ろし、実際の未遠川の地形と頭の中の地図を比較した。
  夜の川は僅かに月光を反射するだけで、何もかもを呑み込む巨大な鏡の様に見える。意識しながら、その暗さを頭の外に追いやり、川の脇にある建造物の多くから漏れる光を頼りにして位置を確認し続ける。
  まだ日が変わるには数時間かかる、そして夜釣りをする人間の姿は見えない。
  けれども夜遅くとも人の姿が無い訳ではない。
 ライダーの宝具が人の目や、他のマスターの目に触れない内に、最短のルートで一気にキャスターの工房に奇襲を仕掛ける。そう考えながら神威の車輪ゴルディアス・ホイールの進行方向眺めていたウェイバーだったが、思惑はライダーの言葉によって覆された。
  「おい坊主、ちょっと寄り道をするぞ」
  「は――? え?」
  ライダーはそう言うと、手綱を操って進行方向をずらしてしまう。これまで一直線にキャスターの工房があると思わしき箇所目がけて進んでいたので、急な方向転換に思わず御者台の一部を強く握りしめた。
  こいつは何をしてる?
  「ライダー、どうしたんだよ」
  「水汲みをしておる時に面白い奴に出会ってな、ついでだからそいつにも手伝わせる」
  「はぁっ!?」
  思ってもみなかった言葉に一瞬呆けてしまった。少なくとも聖杯戦争が始まって以来、ライダーは一度たりとも誰かへの手助けを口にしていない。
  ランサーとセイバーを臣下に誘う状況は合ったが、『手伝わせる』と言うのは事態が確定していなければ言えない言葉だ。
  そしてキャスター討伐に関わらせるならば、間違いなく裏の世界の魔術に関わっている人物になる。
  「・・・まさか他のサーヴァントとか、マスターとか言わないよな?」
  「安心せい、あやつはただ人を探しているだけだと言っておった。共に戦えばあやつの力も知れる。状況によっては我が軍門に加えようと思っておる」
  「誰なんだよ、一体」
  「カイエンと名乗っておった、後は知らん」
  「・・・・・・・・・」
  方向転換しながら未遠川の川辺へと向かうライダーの言葉を聞き、ウェイバーは必死で言葉の真意を探ろうと考える。
  そして『水汲みの時』『後は知らん』が繋がって、出会ったばかりの赤の他人なのだと予測できてしまった。しかもサーヴァントでもマスターでもないのならば、聖杯戦争の関係者ならば出来る行動予測が全くできなくなる。
  信じ難い事だがこの男は会ったばかりの他人を自分達の戦いに巻き込もうとしているのだ。ランサーとセイバーを臣下にと誘った時も正気を疑ったが、根本的な考え方が自分と違いすぎる。
  それとも征服王イスカンダルが生きた古代マケドニアではこれこそが王の在り方として正しい姿だったの? こいつの治世の時代に生まれなくてよかったと心の底から安堵しながら、ライダーが巻き込もうとしている正体不明の何者かについて考える。
  この時は知らされていなかったのだが、ライダーは一つ重要な事を言いそびえており、後に聞いて卒倒しそうになる。それは『倉庫街に現れたマッシュと言う男の仲間』という重要な事柄だ。
  もし知っていれば単なる一般人ではなく、何らかの形で聖杯戦争に―――しかも使い魔の目を通して知った、協力者がいるであろう間桐に関わりを持った人間だと知れたはず。
  だがこの段階ではライダーの言葉以上の推測が出来なかったので、正体不明の男と間桐を繋げられなかった。
  ただただ得体の知れない何者かへの警戒が膨らんでいく。
  「敵の罠だったらどうするんだよ! お前、そいつの事、全然知らないんだろ!?」
  「貴様――、余の目が節穴だと? 嘘を見抜けぬ愚昧だと、そう申す気か?」
  「い、いや。そんな事は無い・・・、けど・・・」
  「ならば信用せい。余には判る、あやつは聖杯なんぞ興味は無い。そしてセイバーにも負けぬ強者よ」
  風に吹かれながら聞こえてくる声には自身に満ち溢れており、王として数多くの人間を見て磨かれた眼を感じさせた。
  ライダーは前を向いているので斜め後ろにいるウェイバーからは表情は見えないが、きっといつもの様に自信に満ち溢れた顔をしているに違いない。
  今の冬木市にいる魔術に関わりのある者は間違いなく聖杯戦争にも関連性があると思っていた。だが、ライダーのいう事が本当ならばそうでないのかもしれない。
  ライダーは自信満々に言ってのけるが、ウェイバーは赤の他人をいきなり信用する事は出来ない。今の冬木市で誰かに会うならば、まず疑ってしかるべきだ。
  ウェイバーはまず正体不明の男が出会った途端にいきなり攻撃される可能性を念頭に置いた。自分はライダーのマスターだ。ほぼ強制的にだが、サーヴァントと共に戦場を駆け巡ると決めた故に、降りかかる危機は他のマスターよりも確実に多い。
  だから疑って、見極めて、知ろうとする。
 警戒を怠らずに降下していく御者台にしがみ付いていると、程なく神威の車輪ゴルディアス・ホイールは川辺へと到着した。
  短い草が辺り一面に生えており、車輪の跡がくっきり刻まれていく。雷牛の唸りが夜の静けさを破壊していった。
  恐る恐る周囲を見渡すが、昼間ならばしっかりと見える光景も夜では途端に見辛くなる。街灯は少し離れた位置に通る道に沿って設置されており、宝具が着陸した場所は光に乏しく、もし誰かがいてもウェイバーの目にはよく見えない。
  「で、そいつはどこにいるんだよ?」
  「聞いた話ではこの辺りに――。ほれ、あそこだ坊主」
  そう言ってライダーが指さしたのは自分達がいる場所よりも更に川に近い場所だった。人工の明かりなど全くなく、月夜も丁度雲に隠れたらしく、弱々しい。
  懐中電灯やロウソクなどで自発的に存在を強調しなければ、人がいる事すら判らない。本当に人がいるのか? そう思いながら目を凝らして闇の中を見つめ続ける。
  「見えんのか? もっとよく見てみろ」
  そう言われて今まで以上に目を凝らすと、ようやく草の上に立つ人影を見つけられた。
  一度見つければ徐々に輪郭が『何もない』から『人の形をした物体』に変わっていくので、目の見える光景が四肢と頭を揃えた人の形に変わっていく。
  そしてウェイバーは剣先を相手の目に向けて構える―――構えの名を知らなかったが『正眼の構え』と呼ばれる体勢で静かに佇む男を発見した。さすがに暗いので表情までは見えないが、それでも鍛え抜かれた筋肉の厚みは女性にはないものだ。御者台から見下ろしているのだが、頭一つ分ウェイバーより高い身長が見える。
 神威の車輪ゴルディアス・ホイールの接近で誰かが来たと向こうも気付いたようで、構えを解いてこちらに向かってくる。ザッザッザッザッ、と足音が聞える。
  ウェイバーの目はまだ人影を輪郭位にしか見極められないのだが、ライダーにはしっかりと見えているようで、その人影に向けて気軽に話しかけ始めた。
  「カイエン」
  「イスカンダル殿ではござらぬか、かのような夜分遅くにいかが致した」
  草を踏みしめる音に混じって聞こえてくる声を聞いて、『イスカンダル』と相手が言った瞬間ウェイバーは卒倒しそうになった。
  通信販売の宛名に『征服王イスカンダル様』と指定した時もそうだったが、この男は真名を名乗るのを全く躊躇わない。倉庫街の戦いで既にライダーの真名が他のマスターに知られているので今更とも言えるが、情報は出来るだけ秘匿するのが勝負の鉄則だ。
  それなのに自分の知らぬ所で次々に自分の正体を―――名前を―――存在を露見させて広げて行くサーヴァントに目眩を覚える。だが、ライダーはウェイバーの苦悩など知らぬとばかりに歩いてくる男に向けて堂々と言い放つ。
  「我らはこれよりキャスター討伐に赴く所だが、お主も一緒に来るか?」
  「キャスターとは冬木市で誘拐と殺人を行っている下手人でござったな」
  「うむ、その通り」
  「ならば同行するで――いや、同行させてほしいでござる。是非こちらからお願いしたい」
 気がつけば、カイエンと言う名前らしいその男は神威の車輪ゴルディアス・ホイールのすぐ近くに立っていた。おそらく年は四十から五十、まだ二十歳になっていないウェイバーにとっては父親に近い年齢に見える。
  ただ、紫色の胸当てと体の各所を守る黒い甲冑の隙間から見える肉厚の筋肉は老いを感じさせず、それどころかまだまだ先陣を切る戦士の風格を漂わせている。
  手に持った棒状の物はおそらく武器だろう。つい先程はこれを構えていたのだと理解しながら、目の前にいる人間から微かに感じる魔力に聖杯戦争に関わりがある者だろうと考える。裏の世界と無関係とは考えなかった。
  浮かぶのは敵意と警戒。ライダーは相手を敵と見なしてないようだが、ただの人間でしかない自分はまず相手を疑う所から始める。
  するとその男:カイエンはライダーからこちらに視線を動かして短く告げてきた。
  「お主、イスカンダル殿の仲間でござるな。拙者、カイエン・ガラモンドと申す」
  「あ・・・、その――。ウェイバー・ベルベット、です――。どうも」
  これまで聖杯戦争に関わって対峙した人間はマスターでもサーヴァントでも等しく殺気やら敵意やら殺意やらを含んでいたので、堂々と挨拶されたのはこれが初めてだ。
  目の前にいるカイエンという人間は聖杯戦争に関わっていると思えるのに、その在り方はあまりにも普通だった。時計塔にいた時には自分より年上の人間―――講師や先輩に多く接してきたが、彼らはウェイバーの血統の浅さを軽んじて、軽蔑の視線を向けたり見下す態度を言葉の端々に織り込んでいた。
  マッケンジー夫妻がウェイバーに対して普通に話しかけてくるのは、彼らの中ではウェイバーが孫だからと誤認しているからに他ならない。
  ただ唯一のウェイバー・ベルベットとして、何の蔑みもなく挨拶されたのはいつ以来だろうか? そんな事を考えながらしどろもどろに返答すると、カイエンの口から予想外の―――あくまでウェイバーの主観でありライダーにとっては決定かもしれないが―――とにかく、予想外の言葉が出てきた。
  「イスカンダル殿には先日助けてもらった恩があるでござる。キャスターなる悪党を討伐するのならば、拙者、どんな事でも協力するでござるよ」
  「助けた? おい、ライダー。お前、一体何をしたんだよ」
  「なぁに、公衆電話の使い方が判らなかったようなので教えただけよ」
  「はぁっ!? 公衆電話ぁ!?」
  日本の公衆電話とは少々形は異なるが、それでもイギリスにも公衆電話は存在する。そしてその使い方は子供でも知っているお手軽なもので、表の世界とか裏の魔術とかそう言った類の問題ではなくその土地に生きる者ならば常識として知っている事柄だ。
  魔術に精通している忌々しくも憎たらしいランサーのマスターこと、ケイネス・エルメロイ・アーチボルトでも公衆電話の使い方ぐらい普通に知っている筈。
  お前はどこの原始人だ! と初対面でしかも年上の男に向けて言いたくなる衝動に駆られたが、大真面目に言ってくるカイエンの言葉にその衝動を押し戻す。
  「拙者、機械の扱いは苦手でござる。あそこでイスカンダル殿が手を差し伸べて下さらねば、きっとテレホンカードを手にまだ迷っていたでござるよ」
  「テレホンカードって・・・」
  ウェイバーとて聖杯戦争に参加する為、事前知識として日本については調べている。『忍者』『侍』『寿司』『芸者』『富士山』など無知な外国人が思い浮かべる日本の歪な光景などウェイバーの頭の中にはない。
  武士の時代も忍者が居た時代もとっくに終わっているし、寿司はどの町にもあるだろうが芸者や富士山など日本の限られた地域でしか見れないので、日本のどこからでも見れる訳ではない。そして冬木市は他の地方都市に比べれば国際色豊かな土地で、イギリスで見かける風景に似た箇所も少しだけ見える土地なのだ。
  ここに住む人間は近代日本の変化を受入れて、徐々に古い時代の産物を新しい物への交換している。
  物も、者も、モノも。
  だが、このカイエンと名乗る男はあまりにも古風であった。遥か古代に生きた征服王イスカンダルをサーヴァントにしている自分が考えるのは何か間違っている気もするが、それでもカイエンの在り方は今の日本には少々不釣り合いに見える。
  古風で珍しくしかも自分のサーヴァントが強者だと認めてる上に魔力も僅かに感じる者とたまたま出会う確率がどれだけあるか? 偶然などではなく、何らかの意図が働いた結果だと考えた方がよほど可能性が高い。
  だからこそライダーに敵の罠の可能性を示唆したのだが、ライダーはこちらの思惑など知った事ではないようで、キャスター討伐の同行者にする気満々だ。
  カイエンという男もまた異論はないらしく、静かに呼吸を整えながら堂々と御者台に乗り込んでくる。
  「しばし肩を並べ、共に戦おうぞ。悪党を刀の錆にしてくれる――で、ござる」
  ライダーを挟んでウェイバーとカイエンが御者台の両脇に並ぶ。
 神威の車輪ゴルディアス・ホイールは戦車であり御者台もかなりの大きさを誇る。だからカイエンが乗り込んできて尚まだ余裕はあるが、それでも男が三人並べば少々暑苦しい。ウェイバー以外の二人が立派な体つきであれば尚更だ。
  今もカイエン・ガラモンドという男が敵の罠なのか本当に味方してくれるのか判断がつかないが、ライダーの中では共闘が既に決定しているようで、今更『本当に連れて行くのかよ?』と言っても『当り前であろう』と軽く返される雰囲気だ。
  そしてライダーの行動を阻められた事など一度もない。
  体格の貧弱さも手伝い、自分一人が場違いであるような思いを脳裏に抱いてしまう。
  すると、反対方向に乗りこんでいるカイエンが持っていた棒状の物―――正確にはそれを覆い隠していた布を解き始めた。
  「それは何で・・・何だ?」
  何です? と敬語になりそうだったのを強引に押し戻し、立場は対等だと意思表示する為にあえて言いなおす。
  初対面の年上の人間に対して少し無礼かなとは思ったがカイエンは全く気にせず返事をする。
  「拙者の武器でござるよウェイバー殿。戦いになるのでござったら、準備せねばならぬ」
  そう言って布を解き終えると、そこには鞘に包まれた刀が合った。ウェイバーは知識だけ、しかも話でしか聞いた事のない浅い情報しか持ち合わせていないが、それでもその武器がこの国特有の製造法によって作られた刀剣、『日本刀』と呼ばれる物だと気付く。
  カイエンは鞘と柄をそれぞれの手で持って、横に構えて刀を引き抜いた。イギリスではほとんど見ない刃渡りの長さと輝き―――宝石の輝きを思わせる眩い光を見て、ウェイバーの目は刃の輝きに吸いこまれていく。
  「中々見事な刀ではないか」
  「銘を『風切りの刃』――、拙者の愛刀でござる」
  二人のやり取りを耳にしながらも、目は片時も刀から離れなかった。数秒後にカイエンが刀を鞘に戻さして腰に差さなければ、ずっとずっと見入っていたかもしれない。
  「では出陣だ」
  ライダーがそう言いながら手綱を打ち鳴らす。
 二頭の雷牛はその合図を受けて短く吼え、神威の車輪ゴルディアス・ホイールを再び空へと舞い上がらせるのだった。
  「見事な疾駆でござるな」
  ウェイバーは吹き荒れる風を肌で感じながら、そんな呟きを耳にした。



  ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆



  Side - ゴゴ




  セイバー陣営の協力者と思われる女を探すと言う名目で、カイエン・ガラモンドとなり冬木市にゴゴが存在している。
  全てのゴゴは同時に存在し、分身でありながらも全てがものまね士ゴゴだ。故に冬木ハイアットホテルを爆破した一味と思われる女が既にアインツベルンの森から出ている事も、冬木市に戻っている事も確認している。だから、ものまね士ゴゴの観点から見ればカイエンの目的はもう達成されている。
  それでもカイエンとして冬木市に留まり続けているのは、透明になって散らばっている101匹ミシディアうさぎとも、間桐邸に残ったゴゴとも、雁夜や桜ちゃんと一緒に行動しているゴゴとも違う、別の観点が何らかの役に立つだろうと思ったからだ。
  既にカイエンの姿は聖杯戦争関係者の何人かに見られているが手札は多ければ多いほどいい。
  仮にカイエンの姿をしたゴゴが何の役目も負わずにこのまま聖杯戦争が終わっても特に問題ではない。そう思っていたのだが、何の因果かライダーが目の前に現れ、こちらに興味を示し―――紆余曲折を経て共にキャスター討伐に赴いている。
  もし間桐臓硯として彼の前の現れたならば、間桐陣営、つまりはバーサーカーのマスターである雁夜の関係者としてほぼ間違いなく戦闘になっていただろう。既に倉庫街で『勧誘される』という選択肢をこちらから蹴っているのだからほぼ間違いない。
  だがライダーの前に立ったのはカイエンとしてだ。これは征服王イスカンダルが持つカリスマの為か、あるいは驚異的な高さの幸運がそうさせたのか?
  ものまね士ゴゴとしての正体を明かせるのならば、大聖杯から伸びた今現在のキャスターの所在は未遠川の近くには無い事を教えてやれただろう。拠点、あるいは工房と呼ばれるものがここにあるかもしれないが、当人はまだ冬木市の住宅街をうろついている、と。
  だが、ゴゴはものまね士としてまだまだ多くの情報を―――宝具を―――存在を物真似したいので、わざわざ正体を明かさない。それに聖杯戦争の賞品である聖杯に興味が無いのは本当だし、桜ちゃんを救う為にキャスターの存在が邪魔なのも本当だ。嘘は言っていない。
  おそらくキャスターが工房に戻らない理由は、アインツベルンの森に連れてきた子供達の代わりを調達する為だろう。
  そんな事を知らないライダーとそのマスター。倉庫街の戦いから『ウェイバー』と名前は知っていたが、ここで『ウェイバー・ベルベット』と本名を全て知れたのは小さいながらもまた収穫の一つだ。
 ライダーの宝具、どうやら『神威の車輪ゴルディアス・ホイール』という名前の様だが、それを間近で触れて、見れて、感じられたのは行幸だ。まだ宝具の全力は見ていないが、それでも戦車としての機能は余すことなく見物出来て、物真似して呼び出す事も不可能ではなくなった。
 バーサーカーの宝具『己が栄光の為でなくフォー・サムワンズ・グロウリー』でかつての仲間達に変身する時、化けると同時に武器もまた顕現出来ているし、『スロット』で飛空艇ブラックジャック号を呼び出す事も出来ている。ならば戦車の一つや二つ程度呼び出せなくて、何がものまね士か。
  カイエンとして冬木市の中を散策している時、いきなり声をかけられた時は驚きのあまり絶叫しそうだったが、何とか『事情を少し知ってるだけのカイエン』を演じ切ってみせた。
  そして今―――。ライダーの宝具に乗った自分はカイエンとしてキャスターの拠点へ特攻を仕掛けている。
  「うわわわわわわわわわわわわ」
  御者台の反対方向に乗っている、いや、しがみ付いているウェイバーの叫び声を聞きながら、カイエンとしてのゴゴは同じ光景を見入っていた。
 未遠川へと通じる下水管の奥、そこがキャスターの拠点であるのは、突入後一秒で証明された。下水管の大きさはライダーの神威の車輪ゴルディアス・ホイールが満足に通れる幅があるのだが、その一面をキャスターが生み出した怪物が埋め尽くしているのだ。
  雁夜がアインツベルンの森で戦ったあれが下水管の中に隙間なくびっしりと覆い、生きた壁となって蠢いている。無数の触手を備えた怪物の巣窟、人外魔境あるいは醜悪と呼ぶにふさわしい光景が広がっている。
  だがライダーとってそれは障壁になりえず、手加減した状態でもバーサーカーを軽々と吹き飛ばした宝具の突進が怪物達を引き裂いていく。
  宝具から溢れる雷撃によって怪物が焼かれ。雷牛の衝突によって怪物が粉砕され。車輪によって怪物が踏み潰され。殺される瞬間、怪物が断末魔の雄叫びをあげる。
 神威の車輪ゴルディアス・ホイールは常に見えないシールドを展開しているので、ライダーはおろかウェイバーにも自分にも怪物の血飛沫や肉片はぶつからない。そして下水管の中を走っているのではなく、ライダーの宝具は少しだけ浮いた上空を駆け抜けていた。周囲の建造物を何一つ傷つけていないので、バトルフィールドを展開する必要はない。
  ただし、生き物が殺されていく臭いだけはどうしようもなく、下水管の不快な臭いと合わさって鼻が曲がりそうだ。
  臭いのひどさは仕方ないとして、ここの防壁としての強固さはアインツベルンの森の結界に比べて大きく劣っている。カイエンとしての出番のなさに少々物足りなさを感じながらも、易々と突破されていく光景に落胆すら覚えてしまった。
  「なあおい坊主、魔術師の工房攻めってのは、こんなにも他愛ないもんか?」
  「いやそんな筈は――。これが本格的な工房だとしたら、ああも無防備に廃棄物を垂れ流してたのは変だし・・・。まともな魔術師だったら、あんな失態はありえない――。おい、ライダー、もしかしたら今回のキャスターは、正しい意味での魔術師じゃないのかもしれないぞ」
  「ああん? そりゃどういう意味だ?」
  「たとえば──生前の伝承に、悪魔を呼んだとか、魔道書の類を持ってたとか、そういう逸話が語り継がれているだけで、本人が魔術師として知れ渡っていたわけじゃない。そういう英霊だとしたら、キャスターとして現界しても、その能力は限定的なものになるんじゃないか?」
  怪物の群れに当初は怯えていたウェイバーだったが、あまりにも目の前にある光景が変わらなかったからか、あるいはライダーの宝具に乗っていれば恐れるに足らないと判断したのか、声を張り上げながら自分の考えを返事に混ぜ込んだ。
  分析することで自分を落ちつけようとしているのかもしれないが、横で聞いていてウェイバーの予測がほぼ的を射ていたので、少し驚く。
  どうやらキャスターの真名『ジル・ド・レェ』にまではたどり着いていないが、ウェイバーは宝具の力でとてつもない数の怪物を召喚できるだけの英霊だと看破している。いっそジル・ド・レェの名を教えてあげたくなる分析能力は見事と言えた。
  「そんなもんかい」
  ただしライダーにとってはウェイバーの分析もさほど重要ではないようで、一言で終わらせてしまった。
  そうこうしている内に怪物の密度が徐々に減っていって、下水管を上から下まで覆い尽くしていた肉の壁は地面に立つ数だけとなってゆく。
  数が減れば尚の事ライダーの宝具の疾走は止められない。どうやら減少した理由は工房への到着だったらしい。
  「ん? そろそろ終着点か――」
  そう呟くと同時に通っていた下水管の視界が一気に開かれた。どこかの貯水槽に通じていたようで、広々とした空間ながらも、太い柱が床と天井を繋いでいるだけで、人が住む考慮は全くされていない。
  人が住む場所ならばありえる太陽光を取り込む天窓など全く見当たらず、外の光は入り込んでいなかった。微かに非常灯と思われる光源が遥か彼方に見えるが、明かりはそれだけだ。生身ではこの中を見渡す事すら困難に違いない。
  だがゴゴには僅かでも光源があるならばそれで十分だ。キャスターが居ない事を知りながらも、他に何かないかとカイエンの目で周囲を観察する。
  そしてそこに広がる無残な光景を見てしまった。
  「──ふん、生憎キャスターめは不在のようだな」
  「・・・・・・外道が」
  時同じく、自分が見た光景をライダーもまた確認したようで、キャスター不在の落胆とは違う低い声音が聞こえてきた。
  つられて、カイエンとしての心がライダーに合わせて言葉を放ってしまう。
  ただ、一人だけ見えていないウェイバーが目を凝らして辺りを窺うのも一緒に見えた。
  「貯水槽か何かか、ここ――」
  周囲への警戒と敵が待ち構えていたかもしれない集中がそうさせるのか、ウェイバーはこちらの言葉を聞きながらも聞いていなかった。
  ライダーの言葉を聞いて敵を不在と知っただろうが、カイエンの言葉をしっかり聞いていたなら見えない部分に何かがあると気付いた筈。
  情報収集の為か、ウェイバーが御者台から降りようとしたがライダーの言葉がそれを阻む。
  「あー、坊主? こりゃ見ない方がいいと思うぞ」
  御者台の後ろから飛び降りようとするウェイバーに向けてライダーがそう言うと、ウェイバーが即座に返す。
  「何言ってんだよ! キャスターがいないなら、せめて敵の居場所の手掛かりぐらい探し出さなきゃ始まらないだろ!」
  「そりゃそうかもしれんが――止めとけ、坊主。こいつは貴様の手に余る」
  「うるさい!」
  二人のやり取りはマスターとサーヴァントの間にある信頼関係の是非を少しだけ浮き彫りにしていた、戦術や戦略、それに力量という点で見ればウェイバーは雁夜にも劣る魔術師だ。その上、ライダーに対して何らかの反抗心でも抱いているらしく、言葉の真意を探る前に行動に移してしまう。
  飛び下りてしまったウェイバーを追い、仕方なく自分もその後を追う。キャスターが居ないからと言って、下水管を埋め尽くしていた怪物がここにはいないと言う保証はない。ライダーにはまだまだ色々見せてもらわなければならないので、マスターに死んでもらっては困る。
  おそらくライダーへの強がりがウェイバーの意識を散漫にさせているのだろう。そうでなければ、出会ったばかりの他人―――つまりはこの自分に背を向けて先に行くなんて事は、僅かでも警戒心を抱く人間ならば絶対にやらない筈。
  ライダーの様に自力で戦えるならば背後を取らせても問題ないかもしれないが、ウェイバーは違う。
 そんな風に気遣っていると、神威の車輪ゴルディアス・ホイールで力ずくで通り抜けてきた下水管の方から迫るある魔力の波長が敵の接近を明確に伝えてきた。ウェイバーだけではなく、そちらにも気を配らなければならない。
  キャスターが戻って来たのではない、キャスターを監視していたある存在がライダーの特攻に乗じて潜入してきているのだ。
  自分達が通って来た道がそのまま新しい敵の接近を許しているのに全く気付いて無いようで、ウェイバーは御者台の後ろ側から回り込んで前に進む。ポケットに手を突っ込んだと思ったら、薬を封入するカプセルらしき物体を二つ取り出した。
  急いで追いかけながら、いつでも風切りの刃を抜けるように鞘に手を当てる。横を歩きながら彼の挙動を観察していると、ウェイバーはその二つを握り込んで潰し、そのまま上に放り投げる。
  どうやらカプセルらしき物は照明弾と同じような効果を発揮する魔術の道具のようで、五メートルほど頭上で淡い緑色の光を一気に放出した。太陽光と比べると弱い光だが、周囲の観察をするには十分な明るさが生まれる。
  「なっ・・・」
  そしてウェイバーの驚く声を耳にした。
  カイエンの目で既にそこに何があるか見ていたが、改めて明るい場所で見るとより強く怒りが湧き出てくる。
  そこにあるモノを一言で纏めるならば美術用語として用いられる『オブジェ』が最もふさわしい。
  家具、衣料品、楽器、食器。辛うじて、そう、見えるモノが床の上に、机の上に、あるいはそれ自身が机となって置かれていた。
  だがそれを真にオブジェと理解できる者は作った者か、作り手と似た考え方をする相手に限定される。
  何故ならばそれらは等しく材料を『人』だったからだ。
  握りの部分から伸びた骨組みは傘の一部だが、雨や日を遮る為の傘布の部分を人の肋骨と皮膚で作り上げている『傘のようなモノ』があった。
  体の中から腸を引きずり出され、机の上に広げられ。『ド』『レ』『ミ』と付箋紙を付けられた『ピアノのようなモノ』があった。
  首から上を力任せに引き抜かれ、頭部へと繋がる頚椎とそれに沿ってねじ込んだコードがある。眼球の代わりに埋め込まれた電球が光を宿せばきっと枕元を照らす『照明器具のようなモノ』になるだろう。
  背骨と並行して肩から腰まで二本の棒を通し、仰向けにした状態で両手両足を足にした『四本足の机のようなモノ』もあり、後ろにのけ反った頭は全く動かず白目をむいている。
  乾いてもまだ赤黒い血の色を残した人の皮膚、上半身だけをはぎ取られた『Tシャツのようなモノ』。
  頭蓋骨を真横に斬り落とし、脳みそを取り除いて半球の器にした『杯のようなモノ』。
  肘から先の両腕を計四本切り落とし、十字に並べて繋ぎ合わせた『扇風機のようなモノ』。
  死体を弄り、死を冒涜し、奇怪なオブジェへと変えられてしまった人だった残骸。
  しかも並ぶモノは子供であろうモノばかりが目について、大人と呼べるモノは一つもない。穏やかな表情を浮かべるモノは一つもなく、どれもこれもが生きながらにオブジェへと変えられた事実を示している。
  それは暴力により破壊と殺戮とは異なる、芸術としての創作の証だった。けれどそれをオブジェと見れる人間は限りなく数少ない。大半の人間はそこにあるモノを見てまずおぞましさを抱くに違いない。
  そして目に見える光景を更に恐ろしく見せているのは、肉体を極限まで壊されて尚、生きている者もいる事だ。
  おそらく治癒再生魔術によって生かされているのだろう。ゴゴが使う回復魔法の中には僅かながら常に人を回復させていく『リジェネ』と呼ばれる魔法があるが、あれと似た効果を発揮している。
  だが『リジェネ』と決定的に違うのは回復はあくまで治癒を目的にしているが、目の前に広がる魔術は死を許さず生かし続ける拷問の為だ。
  紅い血がピチャリピチャリと滴り落ちる。
  苦しみ悶えながらも、声を上げる気力すら失ってただ生かされている者がいる。
  腐臭と臓腑の臭いが交じり合い、強烈な『死』の臭いを撒き散らしている。
  地面は元々合った汚れと人から流れ出した血と肉と骨の残骸が合わさってどす黒い赤色に染まっていた。
  ウェイバーはそんな事を気にする余裕もなく胃の中身を逆流させて盛大に吐き出す。
  足元に子供のモノと思わしき臓腑がいくつか転がっていたが、それを見る余裕もない。そこに広がった光景に『気持ち悪さ』を抱き、嘔吐する以外に何も出来なかった。
  ウェイバーの嘔吐、そして目の前に広がる人の命を愚弄して蹂躙して嬲り尽くす光景の両方を見ながら、ゴゴは特に何の感慨も湧かなかった。
  物真似してもあまり得るものはない―――。そう思う程度だが、カイエンとしての意識は強く怒りを覚えていた。
  カイエンならきっとこう言う。
  カイエンならきっとこうする。
  カイエンならきっと怒りを宿す。
  「許さん・・・。このような非道、決して許さんぞ・・・」
  鞘に当てた手とは反対の手が強く握りこまれ、あまりの強さに皮膚が裂けて血が滴り落ちそうだった。口は言葉を語りながらも、歯は手と同じように強く強く食いしばり、激昂を力ずくで抑えなければ爆発してしまいそうだ。
  話でしか聞いていないが、かつてガストラ帝国がドマ王国を壊滅させる為に飲み水に毒を仕込んだ時の様に―――『敵』と認めた存在を全て斬り捨てなければ心を鎮める事すら出来ない。衝動が、狂奔が、圧倒的な感情の爆発が体の中を駆け巡る。
  耐えろ、耐えろ、耐えろ―――。敵が迫っている、怒りに身を任せるのは待て。そう自分自身に訴えかけなければならなかった。
  ウェイバーが胃の中身どころか胃酸すらも吐き出すと、少しだけ落ち着いたであろう彼に向けてライダーが声をかける。
  「だから、なぁ――。止めとけと言ったであろうが」
  「うるさいッ!」
  ライダーはゆっくりと戦車から降りて、ウェイバーが通った箇所をそのままなぞる様に歩く。そしてウェイバーの傍らに立ちながら、深くため息を吐いた。
  気遣うような呟きだったがウェイバーは別の意味で受け取ったようで、ライダーの方を振り返りながら怒りの表情を浮かべている。
  ただし、えずいた事実は消えずに残っており、目元に浮かぶ涙が確たる証拠としてそこにある。
  「畜生。馬鹿にしやがって・・・畜生!」
  「意地の張りどころが違うわ、馬鹿者。いいんだよ、それで。こんなもの見せられて眉一つ動かさぬ奴がいたら、余がぶん殴っておるわい」
  そう語るライダーの目が一瞬だけこちらに向くが、すぐにウェイバーへと戻る。
  どうやらウェイバーはライダーの心遣いを余計なものと感じているようだが、ライダーはキャスターへ攻撃しようと決定したウェイバーに賞賛すら抱いているようだ。カイエンがキャスターに怒りを覚えるのと同じように、ライダーもまたキャスターの行いに腹を立てているのは間違いない。
  喝采はなかったが、それでもキャスターへの攻撃を決断したウェイバーを評価していた。
  そんな褒め称えるライダーの言葉が届かなかったのか。それとも届いた上でウェイバーなりの事情があったのか。涙目にながらも浮かべた怒りの表情をそのままにウェイバーが言う。
  「何が・・・ぶん殴る、だよ! 馬鹿ッ! オマエら、全然平気な顔して突っ立ってるじゃないか!」
  途中からウェイバーの矛先がこちらにも向いて来て、状況が許すならば少しは反論したい気分が生まれた。
  だが今、この場に限って言えば、ウェイバーと舌戦を行う余裕はない。
  気持ちを落ち着ける時間もなければ、怒鳴り声に応対している暇もなかった。
  「だっておい――」
  そう言いながら、視線をウェイバーとも自分とも違う方に向けるライダーを見て、彼もまた自分と同じように、この場に現れた新たな気配を察知していると気付く。
 ならばわざわざ声をかける必要はない。自分もまた敵に対して応じるまで。神威の車輪ゴルディアス・ホイールが作り出してしまった障害のない下水管を通って来た別の敵に備えるだけだ。
  「今は気を張っててそれどころじゃないわい」
  「へ?」
  そのウェイバーの呟きが―――えずき、弱まり、気を抜いた一瞬が始まりとなった。
  常人の耳には空気を切り裂く刃の音など聞こえなかったかもしれないが、大量にある柱の影の一本からそれは放たれて、ウェイバー目がけて一直線に飛んできた。
  極限まで投擲の時に出る音を殺した一撃。威力でも、早さでもなく、どれだけ相手に気付かれずに攻撃できるかに重きを置いたそれは、ウェイバーの脳天に向かって突き進む。
  もしこの場にいたのがウェイバーただ一人であったならば、それは間違いなくウェイバーの頭蓋を叩き割って絶命させていただろう。だがこの場には自分も含めてウェイバーを守る盾が二つも存在する。
  「やらせんっ!!」
  腰に備えた鞘から一気に風切りの刃を引き抜き、迫りくる攻撃を弾き飛ばす。
  見てないので確たる証拠はないが。敵の襲撃を察知して位置を変えたので、自分、ライダー、ウェイバーの並びで一直線が出来上がっているだろう。だからその攻撃―――投げられた短刀を認めると同時に、真ん中にいるライダーへと渡す武器へと変える。
  威力が強ければ狙った場所に落とすのは難しい。あるいはもっと早ければ防ぐのに精一杯。けれど、無音の攻撃を意識してか、上に弾き飛ばして狙った場所に落とすのはそう難しい事ではない。飛んでくる方向にライダーが居るならば、威力を弱めればそれでいいのだから。
  多少、上に跳ね上がり過ぎた気はするが、あとは受け取る方が調整すれば済む話。
  「イスカンダル殿」
  「おうっ!!」
  野太いライダーの声が後ろから聞こえてきた。どうやら予想通り敵とウェイバーの間に立っているようで、目の前の闇の中に潜む敵に意識を向けたまま、ライダーの邪魔にならぬよう少しだけ横にずれる。
  ライダーなら渡した短刀を投擲武器に変えて攻撃してくれる筈。
  それはライダーがほんの少しだけ攻撃を横にずらせば背後から斬り殺されてもおかしくない状況だが、ライダーは、征服王イスカンダルはそんな事をする人間ではない。
  一瞬後、カイエンの顔のすぐ横を敵の短刀が通り過ぎて、ウェイバーを狙って投げられた武器が逆に投擲者を殺す武器へと変わってしまった。
  投擲する為には物影からでなければならず、サーヴァントと言えど人の手によって行われたのならば、発射地点の根元には必ず胴体がある。
  武器を投げた事で敵の位置は割れた。そして逃げられる前に放たれ、威力だけを重視したライダーの渾身の投擲は見事にそこに突き刺さり、ウェイバーを殺そうとした敵を逆に殺し返す。
  首元に突き刺さった短刀の刃が後ろにまで抜けたのが見えたので、たとえサーヴァントであろうとも即死だろう。
  キャスターとそのマスターが作り出した醜悪な床の上に敵が転がってゆく。
  「――なんせ余のマスターが殺されかかってるんだからな」
  ライダーの忠告と一緒に鞘から剣を引き抜く音が聞こえてきたので、後ろの臨戦態勢は整ったようだ。
  この調子ならライダーの本気が見れるかもしれない。
  あるいは真に驚くべき事はライダーが何の躊躇いもなく敵を殺した、その一点に尽きるかもしれない。令呪ほどの強制力はないが、それでも大聖杯からサーヴァントへと通じる魔力の縄のようなモノに干渉し『敵のマスターおよび敵サーヴァントを殺すな』と全てのサーヴァントに向けて命令を出している。
  セイバーへの効果は上々だったので、他のサーヴァントにも有効かと思ったが、ライダーはその干渉をいとも容易く無視した。絶対命令権の令呪ではないので、サーヴァントによっては何の意味も持たないだろう予測はしていたが、こうもあっさり振り切られると落ち込んでしまう。
  敵を殺したくないと心の中で思っているサーヴァントには効果があるが、敵を倒す事に何の躊躇いも感じていないのであれば効果が薄い可能性もある。
  この調子では他のサーヴァントにもどれだけ効果があるか怪しいので、魔力による意識への干渉など最初から無いものとして扱った方がいいかもしれない。
  一瞬の思考の後、闇の中から床の上に引きずり出された敵―――ライダーに殺されたアサシンの姿が見えてくる。
  「アサシン!? そんな、馬鹿な?」
  「前に出てはいかん。敵がまだいるでござる」
  突然の敵の出現に驚いたウェイバーが動く気配がしたが、この場で『守られるべき存在』である彼に余計な事はしてもらいたくない。
  戦いは自分とライダーに任せるでござる。そんな強い意志を込め、大聖杯に繋がるサーヴァントの位置を言葉にした。
  「斜め後方にまだ二人敵が居るでござるよ」
  前にいる敵はライダーによって絶命したので、残りは後ろにいる敵だけ。どうやら追跡してきた敵―――宝具にって分裂しているアサシンは大きな三角形を作ってこちらを全方位から取り囲んでいるらしい。
 ウェイバーはアサシンの宝具『妄想幻像ザバーニーヤ』を知らないので、アサシンが複数いるのに驚いているようだが、こちらにとっては周知の事実。むしろその宝具を利用して色々やってるので、分裂は今更の話だ。
  アサシン以外の伏兵も考慮しつつ、振り返りながらライダーと肩を並べてウェイバーを守る。そしてゴゴとしての意識を働かせながらも、キャスターの凶行を目にしたカイエンとして共闘した仲間へと話しかける。
  「アサシン・・・? ウェイバー殿、つまりこの者共はキャスターではござらぬのか?」
  「あ、ああ――」
  アサシン側にとってカイエンは聖杯戦争のマスターでもサーヴァントでもない。だが、サーヴァントの投擲を呆気なく弾き、しかもそのまま攻撃に繋げる実力の持ち主だと伝わった筈。
  それが理由か、短刀を手にした二人のアサシン―――どちらも白い燭腰の仮面で顔の上半分を覆い隠しているが、片方は女性でもう片方は二本の短刀を持つ違いが合った―――は、投擲によってウェイバーを攻撃せず、短刀を構えて隙を窺っている。
  きっとこちらの強さを警戒しているのだろう。
  「何でアサシンが四人もいるんだよ!?」
  「何故もへったくれもこのさい関係なかろうて」
  並び立つライダーの手にはスパタが握られており、こちらも風切りの刃を構えて斬り合う準備は整っていた。ウェイバーを戦力に数えられないので、数の上では二対二と互角なのだが、アサシンは真正面からの戦いに向いておらず、しかも宝具によって力を分散されているので力が減退している状況だ。
  奇妙な硬直状態が作り出された。ゴゴは、いや、カイエンは戦いが始まってもまだ消えない怒りに後押しされ、不穏な空気の中で目の前の敵に向けて言い放つ。
  「何が理由で我らに狼藉を働くかは知らぬが、アサシンよ。拙者、キャスターのせいで非常に機嫌が悪いでござる。何もせず引き返すなら殺さぬ、だが――」
  戦うなら慈悲なく殺すでござる。
  そう言葉を続けない代わりに、カイエンの手が風切りの刃を少し下げる。正眼の構えでアサシンの仮面に向けられていた刀が喉元へと向きを変える。
  そしてリンッ―――と短い音が鳴った次の瞬間、カイエンを中心に微風が生まれ、流れてゆく。
  「この『風切りの刃』に切り刻まれたくなければ、下がるでござる」
  時間が流れて行くごとに風はどんどんと強さを増し、範囲もまた少しずつ少しずつ大きくなっていった。
  最初はカイエンが持つ風切りの刃を中心にして風が生まれていたが、徐々に範囲は広がってライダーの外側を通り抜けて、ウェイバーの外側も通っていく。
  風そのものは見えないので体感するしかないが、アサシン達の目の前に風の壁が生まれているのは判るだろう。
  台風の目の中心、無風状態の中に自分とライダーとウェイバーがいて、アサシンは風の中だ。
  もっと威力を強めれば、アサシンを吹き飛ばす事も、風を刀の代わりにして斬る事も出来る。そんな気配を漂わせながらカイエンとしてアサシン達を睨みつける。
  そもそもアサシンが奇襲に失敗した時点で戦況は圧倒的にこちらが有利となっている。暗殺者として聖杯戦争に招かれたサーヴァントが真っ向から対峙して戦う状況こそ異常なのだ。
  戦うならライダーの力を発揮させるように戦え、戦わないならさっさと逃げろ。お前達から知りたいモノはもう何もない。そんな落胆が伝わったか、アサシン二人は一瞬だけ互いに目配せすると、霊体化して姿を消した。
  目には見えず、魔力もほとんど感じない。しかし大聖杯に繋がったサーヴァントとしての存在が、下水管を逆走して撤退していく様子を明確に伝えてくれた。
  だから風を弱め、元の無風状態へと戻していく。
  「逃げた、のか?」
  「気をつけろ坊主。二人死んでも、なおまだ二人。この調子じゃ、一体何人のアサシンが出てくるやら知れたもんじゃない。ここはまずい。奴ら好みの環境だ。さっさと退散するに限る」
  先程のウェイバーも言っていたが、遠坂邸で殺されたアサシンとこの場に現れたアサシンを合計して四人となる。実際には三桁には届かないが数十人のアサシンが冬木市に散らばっているので、ライダーの見立てはそれほど間違いではない。
  いっそ、『アサシンの気配は完全に消えた』そして『ここには今、敵はいない』と言えれば楽なのだが、そうなると大聖杯を物真似したゴゴまで話さなければならないので、言えなかった。
  「二人とも余の戦車に戻れ。走りだせば連中とて手出しはできん」
  「ここは・・・このまま放っとくのか?」
  「調べりゃ何か判るかもしれんのだろうが――諦めろ」
  まだ闇に潜む敵を警戒するからこそライダーの言葉は重くても短い。けれどカイエンは敵がいない事を判っているので、まだここに留まれるだけの時間がある事を知っている。
  そしてカイエンの心はこの場をこのまま放置する事を強く拒んでいた。
  キャスターの許し難い悪行に静かな怒りを燃やしていたライダーもまた同じように考えている筈。そう思ったカイエンはライダーに向けて話しかける。
  「イスカンダル殿はここを破壊するつもりでござるな?」
  「そうだ。ここを破壊すればキャスターの足を引っ張る戦果にはなる」
  「そしてあの者達も――」
  「・・・ああ、まだ息がある奴なら何人かおるが。あの有様じゃ、殺してやった方が情けってもんだ」
  確かにライダーの言うとおり、もし言葉が話せるのならば『いっそ死なせてくれ』と悲痛な叫びをあげるであろう者達がいるのは予測できる。
  苦しみからの解放。
  死という名の救済。
  まだ生きていたとしても、心の方が完膚なきまでに壊されている者もいるだろう。
  だがそれでもカイエンは自分の手で幼子を手にかける事は躊躇われた。それが苦しむ者への介錯だと理解しながらも、命を絶つ重さをカイエンは知っている。
  妻ミナと晩婚の末に生まれ、そしてケフカの流した毒によって妻と一緒に逝ってしまった息子。
  死して幽霊になっても『パパ・・・大好きだよ』と告げたシュン・ガラモンドの姿が忘れられない。
  だからカイエンは救えるのならば救いたいと思い、その言葉をライダーに向けて言い放つ。
  「ならばその役目、拙者に任せてほしいでござる」
  「――お主にやれるか?」
 まだ命ある者を殺してやれるのか? そして自分には神威の車輪ゴルディアス・ホイールがあるが、お前にはこの場所を破壊するだけの力があるのか? そんな二重の意味がこもった問いかけだった。
  それでもカイエンは躊躇わずに首肯する。
  躊躇いながらも冥土へと送る。生かしたいと願いながら殺す。今からやろうとしている事は矛盾している。
  それでもカイエンとして出来る事をやる。
  死ねば立ち直れる奇跡すら失われる、だから子供達を救う為に―――。
  「拙者は救わねばならぬ。救える命がそこにあるのならば、ただ己の信ずる道を行くのみでござる!!」
  そう宣言しながら五歩ほど大きく前に踏み出して、様々なオブジェへと作り変えられてしまった者達へと近づいていった。
  完全に命を失った者は最早ものまね士ゴゴの強大な魔力をもってしても、蘇らない。
  数ある蘇生魔法の中で、生き返らせられるのはまだ生者として呼び戻せる者に限る。そして目の前にいる子供達の何人かは死して数日が経過した後の者もいて、どれだけ魔力を込めても生き返らせられない状態まで逝ってしまった。
  肉体の死、精神の死、霊魂の死、生命の死、存在の死。
  呼び戻せる者がいて欲しいでござる。そう願いつつ、カイエンは風切りの刃を鞘に戻す。そして代わりに腰の後ろ側にある僅かな荷物しか入れられない袋の中に手を突っ込んだ。
  あたかもそこから取り出したように―――その実、差し込んだ手の平から出現させた緑色の物体を、強く強く握りしめて外に出す。
  そのまま空高く掲げ、自分の中にある魔力をそれに注ぎ込んだ。
  マッシュの時は魔力を完全に内側に封じ込め、自分の体だけで戦った。けれど、この場ではどうしてもこの力が必要だ。魔力が必要だ。
  「バトルフィールド展開! 来るでござる――『フェニックス』」
  緑色に光る結晶体、中央にあるオレンジ色の六芒星、それは幻獣が封じ込められた神秘のアイテム、名前を『魔石』。
  これまで聖杯戦争に関わる者の中で、雁夜と桜ちゃん以外に召喚する瞬間を見た者はいない。出来るだけ秘匿してきたが、今この瞬間、カイエンの決意を形に出来るのはこれだけだ。
  中央部のオレンジ色の六芒星部分から紅く輝く三つ六芒星が出現し、幻獣召喚の予兆のごとく外へ外へと広がっていく。
  紅い輝きはカイエンの持つ魔石を中心にして、巨大な三角形へと変化していった。貯水槽の内側に展開したバトルフィールドの端まで到達する大きな三角だ。
  同時にカイエンは頭上に紅い鳥が出現しているのを感じたが、それこそが求めていた幻獣だったので、視線は動かさない。ただひたすらに別のモノにされてしまった子供達を見続ける。
  腹と頭そして地に降り立つときに使う足だけを見れば普通の鳥と変わらぬ姿に見えるかもしれないが、羽根と尾羽は紛れもなく燃え盛る炎そのもので、その姿は普通の鳥とは全く異なる別の生き物だ。
  大きく広げた羽根に見える炎が空間の中に熱気を生み出していく、床についた尾羽に見える炎がそこにある穢れを押し退ける。炎の息吹が痛いほど伝わってきた。
  幻獣にして不死鳥フェニックス。


  「転生の炎――」


  炎が幻獣となり、言霊となってこの空間の中に響き渡った後。仮定の全てを一切合財省いて、金色の炎が空間の中を全て埋め尽くした。。
  床一面に広がった人の残骸を炎が燃やしていく。
  飛ばないと届かない高所の天井を炎が撫でていく。
  何十本と佇む柱の全てに炎がぶつかっていく。無論、カイエンからは死角となる箇所も炎は燃え広がる。
  もしライダーあるいはウェイバーに、辺り一面を焼き尽くす炎の細部を見れる余裕があったならば、この空間の隅から隅までを撫でていくその炎が目玉模様のある羽根が幾重にも積み重なって出来ていると見れただろう。
  羽根が炎となり、炎が羽根となって、世界を燃やす―――。
  ただし、その炎はライダーもウェイバーも傷つけず。そしてこの貯水槽そのものも全く傷をつけずに、持ち込まれた道具やモノになってしまった者だけを焼き尽くしていく。
  柱も天井も全く焼かれておらず、炎が衝突した部分は傷一つ付いていない。ただ余計なモノだけを焼き尽くす浄化の炎だ。
  本来は味方全員の蘇生にのみ行う『転生の炎』だが、今は少しだけその効果に破壊を含ませた。何故なら、再生と破壊を同時に行う事こそがカイエンの望みなのだから。
  癒されよ。
  清められよ。
  救われよ。
  祈りを込めてフェニックスが作り出す光景を見入っている間にも、掲げた魔石にドンドン魔力が吸われていく。
  苦痛と脱力、疲労と虚脱が体を蝕んでいくが、歯を食いしばり見届ける。
  床の上に広がったあまりにも多くの残骸が炎に燃やし尽くされた。それでも、残ったモノが合った、残った者がいた。
  彼らこそが『転生の炎』で呼び戻せる者、蘇らせられる者だ。
  キャスターとそのマスターの凶行によって満足に四肢を残した者など一人もいない、口から泡を吹いて、腹部から臓腑を露出させ、死ぬのを許されずに魔術によって強引に延命されている。
  けれど、間違いなく生きているのだ。もしかしたらまだ間に合うかもしれない、体だけではなく心も蘇らせてキャスターの地獄から現世へと戻ってこれるかもしれない。
  『転生の炎』によって傷つけられた体は癒えていく、引き千切られた腕や足や元の場所に戻り繋がっていく、失われた血は再生されていく、蘇っていく。
  炎で燃やされていく惨状の中で、炎に包まれて癒されていく子供。
  例えその数がたった二人だけだったとしても、それだけの数しか生き残っていなかったとしても、生きていてくれた子供の姿にカイエンの気が緩む。
  結果、掲げた魔石はそのままだが、膝の力が抜けてしまい。綺麗に焼かれて浄化された床の上に膝をついてしまった。
  何とか背筋を伸ばすが、子供達を治そうと願えば願うほどに魔石はカイエンの魔力を吸い取って力へと変えていく。
  この体の中にある僅かな魔力を使い、救われる命があるのならば。存分に持って行け。
  意思が脳裏をよぎるのと、残留魔力が魔石に完全に吸われるのとはほぼ同時だった。姿勢を維持するのも叶わなくなり、意識が遠のいていく。
  どうしようもなく眠かった。
 カイエンとしての魔力は少なく、比較した事はないがもしかしたら雁夜にも劣るかもしれない。己が栄光の為でなくフォー・サムワンズ・グロウリーで変身しているゴゴとしての自覚を持てば、カイエンの肉体に魔力を補充させる事など容易いのだが、この場にいるのはゴゴではなくカイエン・ガラモンだ。不死鳥を呼び出すのに侍の魔力では足りないから、消耗し過ぎて気絶するのは必然となる。
  聖杯戦争においてライダー陣営は間違いなく敵である。その敵の前で気絶して自分自身の全て委ねるのは戦略も戦術もないただの暴挙だ。
  それでも侍は自分の信念に従って行動し、その結果を受け入れる。
  「・・・イスカンダル殿、ウェイバー殿。どうか命ある子供達を――、助けてやってほしいでござる」
  振り向く気力は無かったが、後ろにいる二人に向けて最後の言葉を絞り出せた。薄れゆく意識の中で辺り一面を燃やしていた炎が急激に無くなっていくのが見えたので、きっと頭上に現れていた幻獣の姿も消えるだろう。
  そして意識が落ちる直前、カイエンは四肢だけではない全ての部位を完全に取り戻し、眠る様に横たわる二人の子供達を見る。
  よかった―――。
  一瞬すらない刹那の間に喜びを感じた後。カイエンの意識は闇に包まれた。





  だからカイエンは聞けなかった。
  「な・・・な・・・」
  「こんな事が出来るとは、さすがの余も予想外だ。こやつ中々面白い事が出来るな」
  「確かに魔力は感じるけど――。なんでこんな事が出来るんだよ!! 魔法、いや・・・違う。でも、僕たちを攻撃対象から外して、しかも治す炎なんて、大魔術の域に・・・」
  「そんなもんは起きてから直接聞けばいいではないか。おい、坊主、その道具を掠め取ろうなんて考えるなよ。余のマスターが盗人に成り下がる様は見たくないぞ」
  「んな? 誰がするか!!」
  「イリアスと一緒に持っておれ」
  「触っても大丈夫だよな・・・これ」
  「あの炎のおかげか? 坊主、調子が戻っておるではないか」
  「あ・・・、そう言えば――」
  「随分と見通しが良くなって、アサシンもあの炎に焼き殺されたと思うが、まだ安心は出来ん。折角カイエンが助けた子らだ、連れてさっさと退散するぞ」
  「判ったよ・・・」
  「ここまで見事に根城を洗われたら、キャスターは逃げも隠れもできんわな。奴らに引導を渡すのも、そう遠い話じゃないぞ」
  「ちょ、撫でるな──おい!」
  「それにしても、今夜はひとつ盛大に飲み明かして鬱憤を晴らしたいのう」
  「言っとくけどボクはオマエの酒になんて付き合わないからな・・・。って子供ってこんなに重いのかよ」
  「ふん、貴様のようなヒヨッコの相伴なんぞ最初から期待しとらんわ」
  「おも・・・、重い・・・」
  「おお、そうだ!」
  気絶した後に行われたウェイバーとライダーの会話を聞けなかった。



[31538] 第19話 『間桐雁夜は一年ぶりに遠坂母娘と出会う』
Name: マンガ男◆da666e53 ID:6a0d9b18
Date: 2012/11/17 12:08
  第19話 『間桐雁夜は一年ぶりに遠坂母娘と出会う』



  ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆



  Side - 間桐雁夜





  ゴゴから聞いたアサシンの宝具はあくまで『別人格に体を与える』であり、『自分自身を分身させる』ではない。だからこそ、この疑念はゴゴがアサシンの宝具で分身した時に考えるべきだった事かもしれない。
  自分自身が増えて目の前にいる嫌悪感というモノを―――。
 自分には宝具を物真似する力が無いので想像するしかないが、もし『間桐雁夜』が同じようにゴゴが物真似しているアサシンの宝具『妄想幻像ザバーニーヤ』を使えるようになって自分を分身させた場合。おそらく同族嫌悪などという言葉が軽く思えるほど目の前の自分に憎悪するだろう。
  桜ちゃんを救うと決めたのは自分、間桐の魔術を嫌悪するのも自分、他の誰でもない世界でただ一人の間桐雁夜がそう決断して行動しているのだ。
  間桐雁夜と呼ばれる人格はただ一つだけで、他には存在しない。
  同じ考え方をする自分が他にいたとしても、それを間桐雁夜と認められない。認めてはいけない。他人ならば共感できるかもしれないが、自分では駄目だ。自分は唯一ただ一人の自分だけなのだから。
  自壊、あるいは自死、もしくは『目の前にいる自分ではない自分を殺す』の意味で『自殺』するために行動するだろう。
  ふとそんな事を考えた時、だったらゴゴはどうなのか? と新たな疑問を考えた。
  自分ならば目の前にもう一人の自分が居れば耐えられないだろう。だが、ゴゴは自分自身が別の体をもって目の前にいる状況を何の憂いもなく受け入れている。
  雁夜には全く同じにしか見えないが、アサシンの様に別人格を意図的に作り上げて宝具で分身しているのか。それとも全く同一の自分を増やして、その上で気にしていないのか。
  言葉にして尋ねる機会はこれまでなかったが、自分が複数いる状況を『便利だ』の一言で終えてしまう。そんな予感はある。
  結局、ものまね士ゴゴと呼ばれる存在は―――姿形こそ地球に生きる人間と似ているが、確実に別次元の生き物なのだ。
  宝具は雁夜が一生涯かけても届かぬ高みにあり、多くの魔術師が再現あるいは作成しようとしても軽々しく出来るモノではない。それなのにゴゴはそれをやりたいと言う欲求のみで、いとも容易く物真似してしまう。
  魔術師だとか裏の世界に生きる者だとか超能力者だとか、そう言った『人間』と同じ尺度で測るのがそもそもの間違いだ。サーヴァントとして招かれた人知を超えた英霊ですらゴゴと双璧を成す者にはならないと思えてくる。
  死を軽んじて自分達の目的の為ならどんな事だろうとやってのける魔術師より、ゴゴの在り方は異質であり、異常であり、狂気であり、奇妙であり、ありえない奇跡だ。
  むしろ自分を分身させている状況で雁夜と同じ『自死』や『自殺』に至る方が期待外れと言える。
  自分が複数いる状況、人間とは違いすぎるゴゴ。それらを纏めて脳裏に描いて、そのまま質問したい衝動に駆られたが、今はそれが出来ないので諦めた。
  何故なら今は夕方近くで、しかもここは間桐邸でも飛空艇ブラックジャック号の中でもなく、新都の一画にあるファミリーレストランの中なのだから。
  雁夜が座る位置からは店内と店外の両方が一望できて、窓の外に視線を向ければ道行く普通の人が見える。
  スーツ姿の恰好をした男もいれば、ラフな格好をする男もいる。買い物帰りと思わしき子供連れの母親もいて、高校生と思わしきジャージ姿の集団もいた。
  何の変哲もない街の風景―――。だがこの平和に見える冬木の見えない場所で聖杯戦争が行われ、キャスターとそのマスターの凶行が今も繰り返されている。
  暗鬱な気持ちになりながらも、出来るだけ平静を装い。向かいの席に腰かける男に話しかけた。
  「なあ」
  「ん?」
  「本当にこんな事してていいのか。あいつを止めるならじっとしてないで・・・」
  「余計な敵が増えたし、初めての実戦で雁夜の気も昂ってるからな。休める時に休むのも戦士の心得だぜ?」
  そう軽口で返した男は白地のシャツに黒に近い紺色のジャケットを羽織っていた。紫色のバンダナでブルネット色の髪の毛を纏めており、見返してくる目の色はヘーゼルだ。
  今はどちらも座っているのでわかり辛いが、立った時の身長は自分とほぼ一緒。ただし体格はこの一年で鍛えた雁夜の方が若干立派で、目の前の男の方が細身だ。
  ただし腕力や体力を身に着けた自分よりも細いのは間違いないが、無駄な筋肉を全て排した身軽さがある。動き回ったり戦う所は見ていないので判らないが、おそらく素早さはこちらよりも数倍上だろう。
  もし目の前の男が普通の人間として存在するならば、雁夜にとっては初対面となる。だが、雁夜はこの男の事を知っていて、正確には初対面ではなかった。
  この男は雁夜が一年間共に過ごしてきたゴゴが変身した姿なのだ。名前を『ロック・コール』といって、ゴゴがかつて旅した仲間の一人でトレジャーハンターらしい。
  トレジャーハンターは価値のある品を探し出す探検家、あるいは冒険家につけられる職業名だが、雁夜の人生の中で一度も関わった事のない人種なのでどんな事をしているのか予想すら出来ない。ただ細身の体が素早そうだと思える位で終わってしまう。
  それでもあまり年は変わらないように見える同性であるのがせめてもの救いだろう。そうでなければ、ゴゴが変身した姿だと判っているくせにティナの様に余所余所しく話さなければならないのだから。
  もっとも、その余所余所しさは同席しているもう一人に強く感じてしまっているが―――。
  「この国の言葉に『急がば回れ』とあるわ。敵の目が増えたなら対策も変えないといけないの」
  「それは・・・まあ、そうだが」
  いつかティナへの返答でも同じような返し方をしてしまったな、と雁夜は思う。
  同席している三人目にして、こちらもロック同様にゴゴが変身した姿の女性。名前を『セリス・シェール』といった。
  ゴゴが雁夜に課した修行の到達点はこの女性らしく。キャスターとの戦いで雁夜とバーサーカーが使った『スピニングエッジ』の本来の使い手であり、雁夜よりもバーサーカーよりも強力な一撃を放てるそうだ。
  何故、自分達はファミリーレストランで向かい合って座っているのか? その原因は、士郎を家に送り届けた後、自分はブラックジャック号に残った桜ちゃんとは別行動を取る事にしたからだ。
  別行動の主な理由はマスターとサーヴァントと使い魔だけではなく、聖堂教会のスタッフまでもが敵になったので、その出方を窺う事。
  幻獣『ケーツハリー』以外にも飛べる幻獣はいくつかいるのを知っているので、飛空艇へ戻るのは難しくは無い、けれどミシディアうさぎからの情報で冬木市に入り込んだ聖堂教会のスタッフが透明になったブラックジャック号を見つけ出そうと躍起になっていると知らされた。
  この状態で魔術制御が未熟な雁夜が移動して見咎められれば、最悪ブラックジャック号の所在を敵に教える事になる。ゴゴだけならば見つからずに戻れるだろうが、雁夜がいる為にそれが出来なかった。
  加えて言峰綺礼がゴゴと戦った事で、間桐邸にいる筈の間桐臓硯、つまりはゴゴが自由に出歩ける事を敵は知った。
  敵に回した場合。キャスターよりも、他のマスターとサーヴァントよりも、聖杯戦争を監視している聖堂教会と言う組織そのものの方が厄介だ。
  そこでゴゴがバーサーカーのマスターである自分を囮にして、敵の出方を窺う方策を取る事になり。自分はそれに同意して新都をうろつく事になった。
  一日の大半は休息と敵どう出るかの見極めの為に当てられ、ゴゴと桜ちゃんの二人は透明になった飛空艇ごと冬木市郊外の更に外側へと移動して滞空している。アインツベルンの森よりも更に遠くに行っているので、仮に冬木市の中に聖堂教会のスタッフがいて、彼らが『透明になった飛行物体が上空にいる』と言峰璃正から教えられていたとしても、発見するのは不可能だ。地上ならば感知用の結界をすぐに張り巡らせるだろうが、空の上に向けては時間もかかるだろう。
  ついでに言えばブラックジャック号を操縦しているゴゴ以外にもティナとミシディアうさぎが沢山いるので、桜ちゃんは寂しくない筈。
  もしゴゴが間桐臓硯として雁夜の傍にいれば、間桐邸にいる方の間桐臓硯は何だ? と敵に勘繰らせてしまう。だからゴゴは別の姿に―――しかも一人では少々心許ないからと言って、自分自身を二人に増やしてそれぞれ別人に変わってしまって雁夜と同席していた。
  最初にロックの姿になった時は『ものまね士』の衣装のインパクトが強すぎて、こんなにも普通でいいのか? と思ってしまった。しかし、セリスが現れた時は衣装の際どさに絶句してしまったのをよく覚えている。
  黄色の長ズボンはいいとして、上半身を覆うのは緑のレオタードと肩当てとヘアバンド。背中に流れる金色の髪も手伝って、どこの劇団から抜け出した俳優だ! と思わず叫んでしまった。
  ティナの時も思ったのだが、どうしてゴゴと一緒に旅した仲間の女性は露出が多いのか。
  魔剣ラグナロクを収めたアジャスタケースを持つ雁夜、これにロック一人だけ加えたならばさほど目立たないのだが、冬木市の日常から大きくかけ離れている格好のセリスがいると確実に聖杯戦争以外の衆人の注目を集めてしまう。
  だがゴゴが『聖堂教会の動向を窺う』と定め、それを雁夜だけで覆すのは非常に困難であり、最弱と言う自覚があるからこそ守り手が一人より二人のはありがたかった。仕方なく、雁夜は新都にある服飾店が開店すると同時に突貫し、女性用の上着を数枚購入してセリスに渡す羽目になった。
  緑のレオタードが作る大きく開かれた胸元はそのままだが、肩当てを外して上着を羽織れば冬木市にいる外国人と見れなくもない。セリスが美人であるが故に目立つのは避けられないが、それでも衣装の奇抜さは抑えられたはずだ。
  「俺達にはやらなければならない事がある。その為に集められる情報は集めておかないとな。だろう?」
  「ロックの言う通りよ、力は一日で回復できたかもしれないけど、戦いは力だけが全てじゃない、勝つ為には情報は必要不可欠なのよ」
  ここに来る前にも路上で幾つか話をして、並んで座るロックとセリスは恋人関係にあると聞いた。
  そしてセリスは二十歳に届いてないのだが、常勝将軍と謳われるガストラ帝国軍の将軍の地位にあったらしい。『ガストラ帝国』というのが話で聞くしかなく、その規模を想像で補うしかないのだが、『帝国』と言うぐらいだから人口も領土も桁外れに大きいのだろう。
  首都の名はベクタ。ゴゴがいた世界の南の大陸全域を支配する強力な帝政国家で、ゴゴの力の要とも言える三闘神の封印を解いたのもその皇帝だとか。
  だがゴゴがロックとセリスの仲間になった時、既に皇帝は崩御して帝国も瓦解しており、かつての栄華は見る影もないと聞いた。
  ゴゴもまたかつての『ガストラ帝国』の姿を見た訳ではないので、又聞きとなる雁夜には帝国の名を冠する国にすごさがよく判らない。そして、そこの将軍職に就いていたセリスの凄さもまた判らない。
  雁夜の目から見た『セリス・シェール』という女性は日本の土地柄では少々物珍しく見えるが、それでも幼さと美しさを持ち合わせた女の子にしか見えなかった。本当にこれが常勝将軍と呼ばれた女なのだろうか?
  聖杯戦争が始まる以前から魔法やら幻獣やら魔石やら修行やらでゴゴに色々と驚かされてきたが、聖杯戦争が始まってからは別の意味で色々と驚かされる。
  雁夜とロックとセリス。バーサーカーを霊体化させているので数には数えられないが、三人は昼過ぎから出入り口と外が見える店を転々と移動して、敵の出方を窺い続けた。
  何も知らぬ他人が見たら、日がな一日ぶらぶらしているだけに見えるかもしれないが、時間経過と共に三人を見る目は増えている。それも『聖杯戦争の関係者』と枕詞がつく監視の目だ。
  セリスの美しさをついつい目で追ってしまう男が数多くいたが、隣にいるロックとの仲睦まじい雰囲気を見て早々に諦めていた。残るのは悪意で三人を見る目だけだ。
  その中には一般人に扮した聖堂教会のスタッフと思わしき者もいて、空にある『何か』を見つけられない鬱憤を晴らすように―――。間桐邸への監視をして矢で射ぬかれて殺されるぐらいなら、外にいる間桐雁夜を監視する―――。と言わんばかりに監視する目が一日で莫大に増えた。
  時に路地裏の物陰を移動する小動物の気配や、空の上から見下ろされるような視線も感じたので、聖堂教会のスタッフである人間以外にも、他のマスターが放った使い魔の目がこちらに向いていると思われる。
  もしかしたら残ったアサシンがこちらを監視しているかもしれないが、さすがに気配を遮断した英霊までは雁夜の感覚では判らなかった。辛うじて『いるか?』と違和感を思えるぐらいで確証には至っていない。
  聖堂教会のスタッフは尾行に慣れている様で、店を変えるたびに人も変わる。けれども『見られている』という感覚は判るので、監視の目が自分に突き刺さっているのは理解出来た。
  感覚が鋭敏になったのはこの一年でゴゴに何度も殺された成果と言える。見えないモノを感じなければ生き抜けなかったからだ。
  何の結界にも守られておらず、しかも複数の監視つきで不用意な言葉を口にできない状況が出来上がってしまったので、少々息苦しい。いっそ、『これは今度演劇にしようとしているフィクションです』と開き直って、堂々と聖杯戦争の話でもしようかと思えてくる。
  するとそんな雁夜の忍耐と居心地の悪さを察したのか、ロックが話しかけてきた。
  「雁夜。監視の目がいくつあるか判るか?」
  「監視か・・・」
  ゴゴがものまね士の恰好をして冬木市へ出没するようになってから一年、それに同行してきた雁夜は人の目を集める羽目になってしまった。だからこそ『見られている』のに対する耐性はあるのだが、物珍しさで見られるのと敵意を持って見られるのとでは大きく違う。
  一日ずっと戦わずに修行も行わずにいたおかげで体は十分に休めた。けれど、気を張り続ける一日は精神をことごとく摩耗する一日でもあり、心が休めた実感はない。
  言葉にはされなかったが、この『監視の目を気にして行動する』という状況そのものが修行の一環なのかとすら思えてくる。
  改めて自分に突き刺さる視線を数えると、店の中から一つ、そして向かいの店の屋上から見下ろされる視線を感じる。更に付け加えると道行く歩行者の中で時折、物珍しさとは違った探る様なまとわりつく視線を感じるので、聖堂教会のスタッフが店の内と外からそれぞれ監視しているのだろう。
  向かいの店の屋上のはおそらく使い魔のモノだと予測しつつ。これまでは店から店に移動する時に路地裏の陰から覗いてくる視線を感じてきたので、実際にはもう少し多い筈。が、今の所、雁夜に判るのはこの三つだけだ。
  「三つだ。小さい生き物を操ってる奴も飲食店の中に潜り込ませるのは危険だと思ったみたいだな」
  そう言うと、ロックは『ほう・・・』と小さくため息に似た言葉を放って一息つくと、窓の外に目をやって向かいの店の路地裏に視線をやった。
  雁夜が見た限りではその位置からは視線を感じないので、監視の目はないと思っている。しかし、何もない場所を見るロックの目は真剣そのものだ。
  故にそこには雁夜が判らない何かがあると思えてくる。
  「いるのか?」
  「黒い人がいるわ。間桐邸でエドガーが倒したのにまだいるみたい」
  言って来たのはセリスの方だったが、やはり何かはいたようだ。
  固有名詞は出なかったが、聖杯戦争に絡んで黒い人と言えばほぼ間違いなくアサシンだろう。ゴゴが言うには雁夜の力でも真正面から対峙すればアサシンにも勝てるらしいが、気配を消す手段はあちらの方が上だから何でもありの殺し合いで隠れる場所が複数ある条件ならば、雁夜が圧倒的に不利である事が証明された。
  自分一人が暗殺者から狙われたら間桐雁夜の命は無い。
  「倒しても倒しても出てくる黒い生き物・・・か」
  見えない敵への警戒に、気を引き締める意味でそう呟いたのだが、即座にロックが言う。
  「その言い方だと誤解されるぞ」
  「う・・・」
  固有名詞が無い上に魔術と関係のない者が聞けば、真っ先に頭文字が『ゴ』でカタカナ四文字で表現できるアレを思い浮かべるだろう。
  飲食店では少々口にしてはいけない単語なので、少し離れた位置に見える店員さんに聞こえてない事を祈るばかりだ。
  慌てて話題を逸らす為、別の事を口にする。
  「と、ところで、その黒い人なんだが――。今の状況を放置しといて大丈夫なのか?」
  敵の出方を窺い、アサシンがこちらを監視する可能性は前々から判っていた。だからこそ、ゴゴが二人に増えて守りに付いているのだが、それでも敵の存在すら感知できない自分には不安しか生まれない。
  雁夜が生きていなければ囮としての役目を果たせないので、ゴゴは絶対に自分を守り抜くだろう。それでもただの人間でしかない雁夜には見えない敵への恐怖が溢れてくる。。
  「安心して、その為にロックにそれを持たせてるんだから」
  返答をくれたのはセリスの方で、彼女はそう言いながらロックのズボンについたポケットを指さした。
  ロックのポケットの中に入っている手帳のようなデザインをした品物で、二人のゴゴがロックとセリスに変わった時に見せてくれた物だ。その時に説明も受けたのだが、実際に効果を発揮した状況に陥ってないので真偽の程は判らない。
  だから呟くようにその品物の名を語る。
  「『ナイトの心得』・・・、本当に効果があるのか?」
  ロックのポケットにある品物、『ナイトの心得』と呼ばれるアクセサリは手帳に酷似しているが立派な魔術道具であり、『瀕死状態の味方に自動でかばう』という特殊効果を持っているらしい。
  だが精神疲労はとりあえず横に置くとして、雁夜の体調は非常に優れており体力もほとんど減ってない、この状態を果たして瀕死と呼んでいいのだろうか?
  攻撃を喰らう可能性も考慮された囮としては心労は積み重なるばかりだ。
  すると今度はロックがこちらを指さし、雁夜が来ている紺色のパーカーの左袖に隠れている部分を指し示した。
  「今はあの黒いのしか来てないし、距離が離れてるからこっちの話しまでは聞こえてないさ。あいつだけならその『見切りの数珠』で充分だろ。攻撃魔術には『そよ風のマント』で対処した方がいいかも知れないけど、つけると目立つから無理だぞ」
  「充分・・・なのか? 本当に――」
  「安心しろ」
  堂々と言われて少しだけ落ち着きを取り戻すが、やはり見えない敵への不安は消えずに残り続ける。
  あるいはもっと強くなれば遮断されたアサシンの気配も読み取れるようになるのかもしれないが、今の雁夜には叶わぬ望みだ。
  なお、ロックが言っていた『見切りの数珠』と『そよ風のマント』だが、前者は高確率で敵の物理攻撃を回避出来る代物で、後者は物理的な攻撃だけではなく魔術的な攻撃の回避率を共に上昇させる魔術道具だ。
  聖杯戦争でサーヴァントと戦ってるライダーじゃあるまいし、こんな街中でマントを装着すればロックの言うとおり大層目立ち、囮として以外に奇異な視線をかき集めてしまう。
  単純に敵と戦う以外にもいろいろと考えなければならない状況で心の疲れは蓄積されていくばかり。使い魔とアサシンは仕方ないが、いっそのこと聖堂教会のスタッフと思わしき人物については、警察に行って相談できないかと本気で考えてしまう。俺を追ってる変質者がいます―――と。
  その後、積極的に話に花は咲かなかったが、一定時間を置いてから軽食を頼み。ぼんやりと時間を浪費していく。
  長居する三人に店員は良い顔をしなかったが、道路に面した席に座るセリスを見て、そのまま店の中に入ってくる客もいたので口頭での注意はされなかった。
  雁夜自身、ただ時間を浪費していくのはあまり気分のいい事ではなかったが、話をしようにも魔術の深淵に迫る様な深い話は出来ないし、監視された状態では話しだけに集中しようとしても落ち着けない。
  おそらく監視している側もこちらが意図的に目を引き付けているのには気づいているだろう。そもそもこれまで間桐邸とブラックジャック号を拠点にして徹底的に引きこもっていた自分が外に出ている時点でおかしいと気付く。
  向こうもこちらも言葉にされない意図を隠しながら、相手の様子を探り合う。今ほど狐と狸の化かし合いが脳裏に強く浮かんだ事は無い。これならば自分の欲求に忠実過ぎた間桐臓硯と話していた方が幾らか楽だ。
  見えない戦いは見える戦いよりも辛い。
  アサシンや使い魔は無理でも、聖堂教会のスタッフを捕縛して口を割らせるか?
  気が付けば夕暮れの赤みは姿を消しており、月の光が世界を照らす夜の時間が訪れている。
  昼の新都が見せる耐える事無く流れていた普通の人々は激減し、窓から外を見れば街灯の明かりが夜の闇に呑み込まれそうになっていた。
  間桐邸に戻った一年前から何度か夜の街に出かける事はあったが、冬木市はここまで寂れた空気を作り出す場所ではなかった。この原因は全て聖杯戦争に集約している。
  キャスターとそのマスターが巻き起こしている猟奇殺人と誘拐事件で小さな子供を持つ親は夜間の外出を控え。倉庫街の戦いと冬木ハイアットホテルの崩壊は両方とも爆破テロとして報じられた。
  警察が市民に夜間外出の自粛を呼びかけるのは自然な流れであり、一般人と言えど冬木市に潜む危険を肌で感じ取ってしまい外を出歩かぬようにしている。
  店の中にいる客も外と同じく数を減らしており、自分達三人と聖堂教会のスタッフと思わしき尾行者を除けば一人か二人しかいない。
  そろそろ河岸を変える頃合いか―――。
  これまで監視に留めていた敵が夜の闇の乗じて攻撃してくる可能性もあるので、いつまでもここに留まる訳にはいかない。人前でいきなり攻撃を仕掛けてこないとは思いたいが、『後始末さえ完璧なら問題ない』と考える魔術師がいてもおかしくないのだ。客がいなくなればその瞬間からこのファミリーレストランが戦場になるかもしれない。
  魔術でこの店丸ごと破壊して証拠隠滅を図られる可能性とて無い訳ではない。
  そろそろ出るか? そう言おうとしたところで、ロックとセリスの両方の顔がいきなり神妙なモノに変わる。
  片方ならば気に留めなかったかもしれないが、全く同一のタイミングで二人一緒となるとただ事ではない。出しかけた声を喉の奥に戻しながら何事かと二人の顔を見る。そして彼らの言葉を待った。
  三秒ほど置いてからロックが言う。
  「まずい知らせだ」
  「だろうな、何が合ったんだ?」
  「いいか、驚かずに聞けよ」
  「さっさと言え」
  ゴゴが変身したティナには言葉にするのが非常に難しい後ろめたさが合ったのだが、ロックに限定すればそれはない。
  二人ともゴゴの変身した姿である前提はティナと一緒だが、この二人は恋人関係にある者たちで、言葉を変えれば『それぞれに相手が居る』のだ。気遣う必要など皆無であり、心おきなくゴゴとして応じられる。
  セリスの方は女性だから気後れがあるが、ロックの場合は同性同年代の気安さがある。
  悪い知らせならば早いうちに聞いた方がいい。そう思いながら先を急かすと、予想だにしなかった言葉がロックの口から語られた。


  「遠坂凛が新都に現れた」


  「・・・・・・・・・はぁっ!?」
  出てきた言葉を頭が聞き入れた瞬間、雁夜の驚きは最高潮に達した。



  ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆



  Side - ゴゴ





  桜ちゃんを救うためにはどうすればいいか? 一年前に雁夜の物真似をすると決めた時から、その問いかけは自分にとって最重要課題となった。
  成し遂げるための仮定の道を幾つも幾つも考え続け、それを頭から消し去った日は一日もない。聖杯戦争が始まってから英霊の宝具など物真似し甲斐のあるモノを幾つも見て、横道に逸れそうになった時もあるが、思考の根っこにあるのは『桜ちゃんを救う』物真似だ。
  結果に至る為の原因を幾つも探り、何をもって救済と成すかを何通りも考え、障害と目標と妨害と到達と制約と幸福を考えに考え抜いた。
  その中で遠坂時臣こそが『桜ちゃんを救う』物真似を達成する為の最大の障害であり、最大の理由であり、最大の原因でもあると結論に至る。
  彼の真意によって状況は形を変えてしまう。桜ちゃんが救われる結果は遠坂時臣に帰結していると言っても過言ではなくなった。
  だからこそゴゴが間桐邸に現れて、雁夜が目的とした『桜ちゃんを救う』ため、遠坂について調べるのは必然であった。
 一年前はまだアサシンの宝具『妄想幻像ザバーニーヤ』を習得する前だったので、一つの体で雁夜の修行やら桜ちゃんの教育やら遠坂の調査やらを同時に行うしかなかった。だから、どうしても調査が片手間になってしまうのは避けられなかったが、それでも『始まりの御三家の遠坂』に関する多くの情報を手に入れたと自負している。
  人の内面にまでは踏み込めず、秘めたる思いは彼ら彼女らの胸の中だけに収まっている。だが『深山町にある遠坂邸の間取り』『遠坂家初代当主は魔法使いの一人、キシュア・ゼルレッチ・シュバインオーグの弟子』『遠坂時臣と遠坂葵、遠坂凛の写真』『遠坂時臣は遠坂家五代目継承者で、誕生日は六月十六日、特技はチェス』『三年前に言峰綺礼が弟子入り』などなど、新旧織り交ぜて様々な情報を手に入れた。
  現在は聖杯戦争の危険から遠ざける為に、遠坂葵と遠坂凛の両名は遠坂葵の生家である禅城の家へと退避しているが、当然ながら二人の―――桜ちゃんの家族である彼女らの顔もしっかりと確認している。
  新都の冬木駅近くにある雑貨ビルの屋上から道行く人々を監視するミシディアうさぎが一匹いるのだが、その視界が紛れもない遠坂凛の姿を捉えた時に『何故?』と強い疑問を抱いてしまった。
  調査した限り、遠坂凛と言う少女は聖杯戦争とは無関係に小学校に通う生活を繰り返しており、独力で魔術の鍛錬ぐらいは出来るだろうが、聖杯戦争には全く絡んでいない。
  間桐の―――と言うよりゴゴの方針が『近くに置いて絶対に守る』で桜ちゃんを保護しているならば、遠坂凛の方は『遠くに置いて避難させる』という方針の筈。
  桜ちゃんは一年前に間桐邸に養子に出された時点で『聖杯戦争』なる魔術師の闘争については全く知らなかった。仮に遠坂凛も同じように聖杯戦争について教えられなかったとしても、生家から一時的にでも離される理由は聞いている筈だ。
  今の冬木市が魔術的に危険な地域である事を知っていなければおかしい。そうでなければいけないのだが、遠坂凛は危険地帯となった新都の冬木駅に現れている。
  そしてミシディアうさぎの耳を通って聞こえてくる遠坂凛の独り言が彼女を『裏の世界に関わる子供』と紐付けた。


  「これが、夜の冬木・・・昼間と全然違う――」


  「何これ、こんな反応見た事ない・・・。そこらじゅうに魔力の痕跡があるっていうの?」


  首からぶら下げた方位磁石に見える道具を手に持って、遠坂凛はそう呟いた。
  どうやら魔力を感知してその位置を調べる道具のようだが、冬木にやって来た意図は判らない。
  だがその次に遠坂凛の口から出て来た言葉で、ある程度の予測は立てられる。


  「――早くコトネを探さなくちゃ」


  そう呟いて遠坂凛は走り出してしまう。慌てて透明になって身を隠しているミシディアうさぎに追いかけさせながら、呟かれた『コトネを探す』へと思考が向かう。
  どうやら遠坂凛は知人を探す為に冬木へとわざわざやって来たらしい。しかも気安い呼び方と名前から同世代の少女と思われ、その人物に何かしらの事態が起こったが故に、わざわざやって来たのだろう。
  あくまで可能性だが、その『コトネ』という名前の少女はキャスターとそのマスターの毒牙にかかったのではないだろうか?
  そして聖杯戦争の危険を教えられたからこそ、遠坂凛は居ても立っても居られなくなり、独自で捜索しようと行動しているのではないだろうか?
  子供の身で何が出来るのかと思ったが、この一年で調査した限り遠坂凛は非常に行動的であり、自分が子供だからと言って諦める様な考え方をしていない。
  他の陣営から見れば、遠坂凛の存在は遠坂陣営を追い詰める為の絶好の材料だ。桜ちゃんが間桐にいる以上、遠坂凛は遠坂家のたった一人の跡継ぎ―――つまり時臣への人質として非常に役立つ。
  そんな風に遠坂凛の使い道を少し考えたが、まだ遠坂時臣の真意が掴めていない段階で、桜ちゃんが戻るかもしれない家族の一人がいなくなれば、それだけ桜ちゃんの救いは遠ざかってしまう。
  桜ちゃんが遠坂の家に帰りたいと思うなら、遠坂凛を助けなければならない。人質にするかどうかは安全を確保してからでも遅くない。
  即座に意識をロックとセリスの両名に移し、雁夜に向けて言い放つ。
  「どうも『コトネ』って名前の友達を探しに来たみたいだ」
  「その凛ちゃんの近くに大きな反応は無いけど・・・。時間が経てば経つほど敵と接触する可能性は増えるわ。危険よ」
  ロックとセリスの両名からそれぞれ状況を語らせると、対面に座っていた雁夜が席を立つ。
  「行くの?」
  「当たり前だ。凛ちゃんを危険にさらすなんて――、黙って見過ごせるか!」
  雁夜の頭の中に『遠坂時臣への人質としての価値』があるかどうかは別にして、遠坂凛を今の状況から助け出す意思は完全に固まっている。
  突然の大声に店員も含めた店の中のいる全員の目を集めているが、雁夜はそれを全く気にしていない。
  雁夜の行動の支援は、今の所『桜ちゃんを救う』と決断した雁夜のものまねを後押しして、桜ちゃんの救いにも繋がっている。ならば断わる理由はどこにも無い。
  「セリス。会計はこっちでやっておくから雁夜と一緒に向かってくれ。『ダッシューズ』を使えばここからでも間に合うだろ」
  「判ったわ、支払いはお願いね」
  何とも生活臭のある会話だと思いながらも、ここで急ぐあまり無銭飲食でもやらかして警察のお世話になっても良い事など一つもない。
  雁夜のやる気を止められないならば、ロックかセリスのどちらかが遅れるしかないのだ。
  ズボンのポケットから財布を取り出して支払いをしようとするロックを置き去りにして、セリスとしての自分は雁夜と一緒に店の外へと出る。
  「どっちだ?」
  「冬木駅よ。そこから西に向けて移動してる」
  短く問いかけて来た雁夜に必要な事だけを返すと、雁夜は脇目も振らずに走り出した。
  アジャスタケースに入った魔剣ラグナロクの重みを感じさせずに走るのは一年の修行の成果でもあるが、駅まではかなりの距離があるので到達できる前に人の体は疲労に屈服してしまう。
 だから雁夜を追いかけつつ、体力疲労が全くない神秘のアクセサリ『ダッシューズ』を―――。どれほど遠距離であろうとも最高の状態で走り続けられるそれを、己が栄光の為でなくフォー・サムワンズ・グロウリーで道具と一緒に変身する応用で作り出して放り投げる。
  雁夜は背後から跳んで来た『ダッシューズ』を振り返って受け止めた。
  「急ぐなら『見切りの数珠』をつけたまま、それを右手に装備して」
  「・・・・・・」
  走り出した所をいきなり止められたので雁夜が不満げな顔をしていたが、戦う余裕を残したまま遠坂凛の元に辿り着くには他に手段が無い。
  突然走り出した雁夜に人でしかない聖堂教会のスタッフは付いていけず、同じように走り出せば自分が尾行しているとこちらに教えてしまう。おそらく別の人間に連絡して先回りさせる方法を取るだろう。
  面倒なのは店を出てからずっと一定の距離を保ったままついて来ているアサシンだ。
  サーヴァントである限り隠せない魔力の繋がりがアサシンの存在を教えており、バーサーカーのマスターである雁夜を追いかけてくる算段だと明確に示している。
  それどころか別方向からもこちらに向かってくる別のアサシンを感じるので、セリスとロックにもそれぞれ監視をつけようという魂胆なのだろう。遠坂凛の元に辿り着く前にアサシンとの戦いになる可能性は高い。
  無論、分裂して力を落としたアサシン程度に負けるつもりはない。むしろ間桐邸で何度も撃退しているのに、変わらずアサシンで監視しようとしてくる状況に少し怒りを覚える。
  ただ何度も何度もアサシンを投入してくる状況そのものが、アサシンこそ敵にとっての最大の諜報能力である証明になっている。この程度の諜報能力ならばこちらが遅れを取る事は無い。
  だからと言ってアサシン以外に別の手を講じないのはこちらを軽んじているからではなかろうか? そっちがその気ならこっちにも考えがある。
  セリスとロックの二人をエドガーとマッシュの二人よりも格下に見ているのか。それとも捨て石にしてこちらの力を計ろうと言うのか。出来れば後者であってほしい。
  遠坂凛の事とは別にアサシンの事も考えていると、『ダッシューズ』をパーカーの右袖の下に装備した雁夜が再び走り出した。
  「あ、待って――」
  自分もまた同じように別の『ダッシューズ』を作り出して装着し、セリスの姿をしたまま雁夜に並走する。
  目指すは遠坂凛だ。



  ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆



  Side - 遠坂凛





  二日続けて、コトネが学校に来なかった。担任の先生は病欠だと言って、コトネの家に電話をしても留守番電話の音が返ってくるだけ。
  凛はすぐにコトネが冬木市を騒がせている『児童誘拐事件』に巻き込まれたのだと理解した。そして学校の先生よりも、コトネの両親よりも、友達よりも、冬木市の裏の事情を知っている凛は警察の手に捜索をゆだねても決してコトネは帰ってこないと判ってしまった。
  今の冬木市は父も含めた七人の魔術師たちの争いの場となっている。魔道の家系である『遠坂』の後継者として表の世界とは比べ物にならないほど大きく深く広がる魔術の闇を知るからこそ、凛の心は強烈な責任感に悩まされる。
  何も知らなければ大人たちに任せられたかもしれない。だが、凛は事情を知ってしまっているからこそ、魔術を知らない大人たちに任せられないと結論を出してしまう。
  本来ならば、一人前の魔術師であり、凛が誰よりも偉大で、素敵で、優しい大人である父に頼るのが正しい手段であった。しかし父は他でもない『聖杯戦争』の参加者の一人であり、禅城の屋敷に居を移してからは殆ど会っておらず、ここ数日は電話でお話しする事も出来なかった。
  お父様の邪魔をしてはいけませんよ―――そう母からも厳命されており、決して夜に出歩いてはいけません、とも言われている。
  凛はいつでも両親の言いつけに忠実だったが、今回ばかりは事情が違う。どうしてもコトネを見捨てられなかったのだ。
  そしてコトネを見なくなった二日目の夜、ついに凛は禅城の屋敷を抜けだした。
  結界に守られた遠坂邸とは比較にもならない防犯の甘い禅城の屋敷だ。寝室の窓を抜け、テラスの支柱にしがみつきながら庭に降りる。あとは生け垣の下をくぐって裏門から出ればそこはもう屋敷の外だ。
  凛は五分とかからず脱走を成し遂げ、準備した三つの武器を確かめながら早足で最寄りの駅へと向かった。
  一つ目の武器はこの前の誕生日に父から送られたばかりの魔力針で、見た目は子供の自分の手のひらに収まる小さな方位磁針にしか見えないが、強い魔力を発している方角を示し『怪しい魔力』があれば見つけられる品だ。
  そして二つ目と三つ目の武器は、宝石魔術の修行で課題として精製した水晶片二つ。少し綺麗で歪な結晶にしか見えないが、充填した魔力を一気に開放すればちょっとした爆発が起こせる武器である。
  守りの道具はないが、それでもコトネを探す道具としては十分すぎる。少なくともそれが凛にとっての『用意周到』であった。
  冬木の新都は隣駅だから、手持ちの小銭があればたどり着ける―――。コトネを探して助け出す為、幼い凛は魔術師の戦場へと旅立った。





  何故、両親の言いつけを破ってまでコトネを助けに行こうとしたのか? もし凛が行動にではなくその理由にまで考えを巡らせていたら、一年前に失った妹の桜にまでたどり着けただろう。
  今はもういない妹―――遠坂桜。
  もちろん凛は桜が間桐の家に養子に出されると聞いた時、反対したしその理由を両親に問い詰めた。
  しかし返ってきたのは『古き盟友たる間桐の要請に応える』という父が下した絶対の決定。それは子供の自分では理解できない現実であり、それでも無理に受け入れるしかない諦観そのものだった。
  子供にとって親は絶対だ。それが誰よりも尊敬する父の言葉ならば、受け入れる以外の道はなかった。
  桜は、もう、いない。
  そうやって自分を納得させるしかなかった。
  あまりにも理不尽な現実が凛を襲った。
  明るく元気に振舞わなければ悲しみを追い払えず、一心に遊びに興じていなければならない時もあった。
  確かに凛は『魔道の家系の後継者』である事実に誇りを抱き、遠坂の魔術師として完璧を体現する父を尊敬し、父のような立派な人物になりたいと願っている。
  けれど、それは妹を失って得てしまった対価でもある。妹がいなくなって遠坂の魔術を継ぐ人間が自分だけになったからこそ、凛は後継者になれたのだ。
  子供の凛には何もできなかった。
  正しい父親に従うしかなかった。
  もう後悔したくない―――。自分の手で助けてみせる―――。罪滅ぼし―――。かつて妹を失ったからこそ、コトネを救いたい。
  そう凛は願い、自分でも気づかぬうちに行動に反映させたのだ。
  もし桜が凛の心中を耳にしたならば、きっとこう言うだろう。


  「姉さん。私のこと、キライなんだ・・・」


  姉が好きだから、姉が羨ましいから、そうなりたいと思ったから。妹の自分ではなく、友達を救うために行動する凛に向け、そんな言葉をぶつけるに違いない。
  互いに幼い子供であるからこそ、大人たちの都合に振り回される遠坂の姉妹。
  まだ互いの胸の内を言葉にもしておらず、再会すらしていない。
  もし二人が出会ってしまった時。想いは複雑に絡み合って色々な結果へと向かって行くだろう。





  凛が新都の冬木駅で降りたのは、深山町まで行けば父親に見つかる可能性が増え、しかも魔力針は間違いなく遠坂邸を差してしまうと判っていたからだ。偉大な父がコトネを害するなどと欠片も考えていない凛は、コトネが深山町にはいないだろうと希望に従い、新都で下車した。
  そして魔力針を頼りにコトネを探そうとして―――どの方向も示さずにくるくると回り続ける針の軌跡を見て途方に暮れてしまう。
  コトネが聖杯戦争に巻き込まれたと言う考察はおそらく正しい。だからこそ魔力が反応する場所にこそコトネはいるだろうと思っていたのだが。自体は凛の予測を大きく上回る結果をもたらしてしまった。
  確かに反応はある。いや、有り過ぎる。
  凡人の目には単なる新都の風景にしか見えないかもしれないが、大地に、空に、空気に、水に、町そのものに染みついた僅かな魔力に反応して魔力針は回り続ける。
  凛は知らぬ事なのだが、父である時臣から渡されたこの魔力針が優秀すぎたのも予想外の出来事であった。もし魔力針が『特定の魔力に反応する品』だったり『強力な魔力に反応する品』だったならば、指し示す方角は限られただろう。
  だが遠坂の家に伝わっていた魔力針は、『より強い魔力を発している方角を示す品』であり、強弱を判断する為にどんな微細な魔力にも反応してしまう性質を持っている。
  強い魔力があればそちらに向くし、魔力が無ければ動かない。弱い魔力でも、周囲にあればその全てに反応してしまう。
  どの方向も示さない魔力針を見てしばらく呆然としていた凛だったが、いつまでも冬木駅の前で立ち止まっている訳にはいかない。人通りは昼間に比べれば激減していたが、それでも無人ではなく、すぐ近くを通る大人が子供が一人だけ佇んでいる状況に怪訝な目を向けていた。
  もし声をかけてくる大人がいたら何か言わなければならない。まさか『家出して来ました』なんて言う訳にもいかないし『友達を探しの来たの』と言っても、聖杯戦争など知らぬ一般人なら、そういう事は大人に任せなさい。と言うだろう。
  説得や説教だけならば何とかなるかもしれないが、善意で交番に連れて行こうとする人が居ても不思議はない。
  だから凛は頭を振って呆けていた自分を戒めながら、魔力針を両手に抱えた状態で走りだす。
  向かう先は判らない。魔力針は今も全ての方向を示していて、コトネの手がかりなんて一つもない。
  それでもコトネを探す為に凛は走り続けた。
  すれ違う大人と時折視線が合ったが、運よく走っている自分に話しかけて制止させる大人は一人もいなかった。もしかしたら『急いで帰っている所』と好意的に勘違いしてくれたのかもしれない。
  とにかく凛は駅から離れて目をつけた路地裏に滑り込む事に成功した。
  路上の灯りが届かなくなる一画。子供の足ではもう息が上がりそうだったので、立ち止まって呼吸を整えられる場所。一息つくには絶好だったので、三メートルほど奥に入り込んだ所で立ち止まり、大きく息を吸い込んだ。
  夜の冷たい空気が体を素早く冷ましていくが、走って火照った体には丁度いい。
  昼間と違う新都の光景への緊張、そして走った疲労で心臓がバクバク鳴っていたので、そのまま何度も何度も深呼吸を繰り返して心を落ち着ける。
  コトネを探さなきゃ―――心の中に宿したその『決意』に、改めて炎を点しながら気持ちを切り替える。邪魔する大人はここにはいない。でもいつまでも立ち止まってばかりじゃ駄目。
  時間にすれば二分も経たなかったが、強引に気持ちを落ち着けた凛は、コトネを探す為に路地の奥へ奥へと進んで行った。
  来た道を戻っても大人に見咎められる可能性が増えるだけ。それに魔術は秘匿されるべき事で、人目につかない場所の方が見つかる可能性が高い。
  幼いながらも聡明な凛は大人顔負けの度胸に後押しされて更に町の奥へ奥へと進んでいく。
  両手の中にある魔力針を見下ろしても、やはり針はぐるぐる回るだけで特定の方向を示してはくれない。場所が悪いのだと結論付けた凛はもっと奥へと進んだ。
  時に歩道と車道がある広い道に出てしまいそうな時もあったが、出来るだけ人目につかないように移動する。
  そんな調子でどれだけ移動したのか? もう当人である凛にすら判らないほど長く、そして沢山の時間を歩いた気がした。持ってきた荷物の中には時計は無く、見回しても都合よく時計は設置されていない。
  そもそも凛は人目を忍んで新都を移動していて、時間を知らせる時計は凛がいる場所とは正反対の人通りの多い大通りにこそある代物だ。
  今は何時頃かな? 凛がふとそんな事を考えながら時計を探そうと広い通りに出ようとした瞬間―――、バチンッ! と手の中にあった魔力針が今までにない反応を示した。
  「きゃっ!」
  衝撃でほんの少しだけ魔力針が浮かびあがり、慌てて両手でしっかり掴む。
  そのまま覗き込むと、裏道に入ってくる街灯の明かりが凛を示す魔力針の姿を映しだした。
  「・・・え?」
  何故、魔力針が自分を指すのか? 思ってもみなかった反応に凛がぼんやりと考えると、今、自分が通って来た路地裏から物音がした。
  ピチャ、と。
  ビチャ、と。
  ズルッ、と。
  浅い水たまりの上を強引に踏んで渡るような―――、後ろから湿った何かが這いずるような音が聞こえた。
  魔力針が示したのは凛ではない。今、凛が通って来た場所を追いかけてきた何かを示しているのだ。そうやって凛が頭の中で理解すると同時に、手の中にある魔力針が微弱な魔力を静電気の様に放ち始める。
  普通の人間には何も見えないだろうが、父から教育を受け始め、魔術師になろうとしている凛の目はその変化をしっかりと捉えてしまった。
  その間にも後ろから聞こえてくる音は少しずつ大きさを増していく。あからさまに魔力を放つ何かが凛の方に近づいて来ている。
  ようやくコトネを探す手がかりに巡り合えた。そう判っていながらも、凛の脳裏に浮かんだのは全く別の事だった。


  「こういう反応をする物は、まだ凛の手には負えないから気をつけるように――」


  魔力針をプレゼントされた時に聞いた父の言葉が頭の中に蘇る、そして体が震えて足は凍りついたように動かなかった。
  背後にコトネの手掛かりがあるかもしれない。もしかしたら運よくコトネ自身がそこにいるかもしれない。そんな楽観的な事を少しだけ考えたが、迫りくる気配がそれを簡単に押し流した。
  いやだ。嫌だ。イヤダ。
  ここにいたくない。
  近づいてくる。ちかづいてくる、チカヅイテクル。
  凛はまだ振り返っておらず、迫りくる怪異の正体を視界に収めていない。けれども触れずとも見ずとも、直感から自分がどれだけ危機に晒されているか理解してしまった。
  生きている限り決して逃れられない『死』の気配。それが形を持って凛の背後から押し寄せてくる。
  逃げたいのに足が動かない。
  走りたいのに足が動かない。
  囚われた様に足が動かせない。
  初めて味わう桁外れの恐怖に悲鳴を上げるのも忘れた。
  そして背後から押し寄せる音がすぐ後ろにまで到達し―――、太く青黒い触手が左右から凛の顔を包み込んでいく。
  「ひっ――!」
  凛の存在を確かめるようにゆっくりと、ゆっくりと、ゆっくりと、回り込んでくる。濁り腐った水に似た腐臭が鼻につくが、それを気にする余裕はない。
  湿る触手が少しずつ少しずつ周囲を覆っていき、遂には一部が凛の頬に触れる。
  そこが凛の精神の限界だった。
  目の前が一瞬で真っ暗になり、凍っていた体は全ての力を失って道路の上に崩れ落ちる。極限まで見開かれた目は閉ざされ、『遠坂凛』という少女を形作る全ての意識が消失していった。
  子供には耐えられない恐怖から逃れる為、脳が自分自身を失神させる。気絶したのだと理解する間もなく、凛の意識は闇に囚われてしまう。
  だから凛は知らなかった。


  「凛ちゃんを離せっ!!」


  一瞬後、前方から声が聞こえて―――。角材に似た細長い物体が顔のすぐ横を通り抜けて、後ろにいた何かに激突した―――。それを凛は知らなかった。



  ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆



  Side - 間桐雁夜





  後一瞬遅ければ凛ちゃんは生きたまま食べられたかもしれない―――。ありえたかもしれない想像を思い浮かべてすぐに消し、雁夜はぶん投げたアジャスタケースの後を追う。
  そこにいたのはアインツベルンの森でバーサーカーと共に散々戦った怪物だった。
  紛れもなくキャスターが呼び出した異形の生き物が形を成しており、ヒトデに酷似した姿も中央にある巨大な口も何一つ変わっていない。
  何しろあの口で雁夜は喰われそうになったのだ。バーサーカーの協力もあって生きたまま喰われるなんて事態は起こらなかったが、凛ちゃんがそうなってもおかしくなかった。
  させない。
  許せない。
  許してはいけない。
  凛ちゃんを見つけると同時に後ろから忍び寄る怪物の姿を見つけ。アジャスタケースから魔剣ラグナロクを一気に引き抜いた。
  雁夜の戦士としての腕はこの一年で格段に上がったが、それは『剣の腕』を主軸においた戦闘技術の向上であり、繊細かつ丁寧な魔術行使にはまだ自身が無い。
  魔力を練り上げて攻撃に移るまでに時間がかかるし、凛ちゃんの後ろにいる敵だけを攻撃できる自身もなかった。下手をすれば自分の攻撃が凛ちゃんに当たってしまうかもしれないからだ。
  そこで中身を抜いたアジャスタケースを『投擲武器』とした。魔剣ラグナロクが手に馴染むように、この一年で何度も使ってきたアジャスタケースは自分にとっての一部に等しい。
  夜とは言え、街中でいきなり巨大な剣を引き抜く危険は承知している。人に見られれば銃刀法違反で警察のお世話になる可能性はあるし、見られて悲鳴を上げられれば神秘の秘匿の危機に繋がるかもしれない。
  それでも凛ちゃんの危険を認めた瞬間、躊躇は消えた。
  助けなければならない。
  救わなければならない。
  守らなければならない。
  凛ちゃんは桜ちゃんと違って間桐の魔術に汚された訳ではない。しかし彼女は『妹を失った姉』であり、その理由の一端は間違いなく自分にある。
  そんな罪の意識が自分の力となって即断即決を可能にさせた。
  単なるアジャスタケース程度ではキャスターが呼び出した怪物を殺す威力は出せなかったが、凛ちゃんに取り囲んで捕食しようとしていた触手を引き離す効果は合った。
  嬲るつもりだったのか。それともじっくり味わって食べるつもりだったのかは知らないが。一瞬で喰われなくて良かったと思う。ゴゴの魔法なら傷一つなく回復出来るが、『生きたまま喰われた』という事実は記憶の中に刻まれてしまう。
  触手の隙間から飛び込んできたアジャスタケースの一撃。怪物は驚きと衝撃で触手を大きく広げて凛ちゃんを解放する。
  すると力無く床に倒れて行く凛ちゃんの姿に『何かされたか?』と思いったが、まずは敵の排除こそが最優先なので前に出た。
  アジャスタケースの一撃で怪物は一メートルほど後ろに下がったが、倒すには至らない。食事を邪魔した余計な物が憎らしいようで、尖った歯が並ぶ口がアジャスタケースを噛み砕こうとしていた。
  元は市販のアジャスタケースだったが、魔剣ラグナロクを収める為に多少の改良を施してある。それに一年間使いまわした自分の道具であり、怪物程度に壊されるのはいい気分ではない。
  口の中に在る異物など気にしないでこっちを攻撃されていたらまだ結果は違っただろう。だが、隙だらけの体をさらけ出して格好の的になっているので、思いっきり攻撃させてもらう。
  よくも凛ちゃんを喰おうとしたな―――。
  「くたばれ」
  倒れて行く凛ちゃんの横を通り抜けながら、上段に構えた魔剣ラグナロクを一気に振り下ろす。もちろんアジャスタケースには当たらないように少しだけ中央から位置をずらし、それでも怪物はしっかり左右に両断する。
  アインツベルンの森で何度も味わった生き物を切り裂く感触が武器を通して伝わってきた。
  皮が裂け。
  肉が斬れ。
  骨が砕け。
  血がばら撒かれる。
  断末魔の雄叫びを上げながら左右に別れて行く怪物。そして体を真っ二つにされながらもしばらく暴れ続け、そのまま紅い液体に変わり果てて消えてしまった。
  肉体を持った普通の生き物だったならば絶対にありえない消え方だ。改めて、消え去った怪物が魔力によって作られた儚い存在であり、それでも害意を成す異形なのだと思い知る。
  「・・・・・・」
  無言で表面部分に歯型が刻まれてしまったアジャスタケースを見下ろしていると、後ろから足音が近づいてくる。
  「雁夜――」
  聞きなれてはいないが、一度聞けば忘れない澄んだ声で名前を呼ばれる。振りかえって確認するまでもなく、それがゴゴの変身したセリスだと結論付け、アジャスタケースの方に手を伸ばした。
  セリスがいるならば―――正確にはゴゴがこの場にいるならば、凛ちゃんの安全は保たれていると言う事なのだから。
  知り合いとはいえ幼女が倒れている状況で巨大な剣を手にしているのを人に見られるのはまずい。急いでアジャスタケースに魔剣ラグナロクを収めて背負い、後ろを振り返って凛ちゃんの安否を確認する。
  見れば、セリスが地面に膝をついて凛ちゃんを抱き上げており、凛ちゃんは頭と上半身を持ち上げられても全く反応していなかった。
  「生きてるか?」
  「よほど怖い思いをしたのね、ショックで気絶しちゃったみたい。でも呼吸はしてるからしばらくすれば目を覚ますと思うわ」
  「そうか・・・、よかった――」
  間にあって良かった。万感の思いを込めながら呟かれた言葉が安堵と一緒に湧きあがってくるが、すぐにここに留まる危険性が浮かんでくる。
  落ち着くならここはまずい。あの怪物の断末魔の雄叫びを聞きつけた誰かがここに来れば騒ぎが大きくなってしまう。その前にも、剣を振り回した雁夜がいたので、見られていたら大騒ぎになるのはほぼ確定だ。
  「場所を変えましょう」
  こちらが言うよりも前に急いで凛ちゃんを背負ったセリスがそう言った。だから雁夜は大通りとは逆方向へと走り出す。
  走りながら雁夜は考える。
  士郎を送り届け、間桐邸に戻らずにそのまま新都で過ごしたのは嬉しい誤算となった。もし凛ちゃんが新都に現れた話を間桐邸で聞いたならば、凛ちゃんを助けるタイミングには間に合わなかっただろう。
  監視しているミシディアうさぎの力が普通の動物並みでしかないのを知っているので、キャスターが呼び出した怪物を相手にするには分が悪すぎる。
  ゴゴならミシディアうさぎを基点にして遠隔地への幻獣召喚ぐらい簡単にやってのけるだろうから、凛ちゃんの安否についてはあまり心配していなかったが、危機に瀕している女の子を助けに入るヒーローのような状況に喜びを見出しているのも確かであった。
  間に合ってよかったと思いながらも、何かの物語の主人公になったような夢心地を味わうのは気分がいい。ゴゴに全てを任せていては味わえなかった感動だ。
  ただし、その感動は凛ちゃんが気絶した姿を見た時にすると一気に萎えた。
  助けられた相手の賞賛が無ければ自画自賛しか残らない。そして魔術師としての自分を少なからず嫌悪しているので、とても自分を褒める気分にはなれなかった。
  振り返ってセリスの背中にいる凛ちゃんを見ると、いっそ、冬木市の外で待機しているブラックジャック号をここに呼んで、桜ちゃんと凛ちゃんと引き合わせたい衝動に駆られた。
  だがそれは現段階、叶わぬ願いだ。
  楽観的な雁夜の予測だが、二人は間違いなく互いを好きあっており、状況が許せばまた仲のいい姉妹として共に過ごせると思っている。
  けれど遠坂時臣が桜ちゃんを養子に出した理由にまだ到達できていないので、ここで桜ちゃんを凛ちゃんと引き合わせ、そのまま遠坂の家に戻すような事態を作り出しても、遠坂時臣という敵が残っているので、また間桐の養子に出されるような事が別の場所で起こる可能性が高い。
  今だ遠坂邸に引き籠って表に出てこない遠坂時臣の真意を知るまでは不用意な行動は起こせない。ここで二人を引き合わせても、また別れる事になれば、互いの心に消えない傷を刻むだけだ。
  心から桜ちゃんの―――そして凛ちゃんの救いを望むならば、二人が笑っていられる幸せな状況の下地を整えてからだ。
  今回の邂逅は偶然の作用が強く、こちらの準備はまだ整っていない。
  「遠坂・・・、時臣・・・」
  聖杯戦争という舞台ではなく、桜ちゃんを救う為の最大の仇敵の名を呟きながら、雁夜は人目につかぬ場所を走り続けた。





  運よく横槍が入る自体は避けられ、別の場所へと移動する事が出来た。人数は自分とセリスと背負われた凛ちゃんの計三人、ファミリーレストランで別れたロックとはまだ合流しておらず別行動をとっている状態だ。
  「はぁ・・・」
  走れば疲れる。人が持つ当たり前の生理反応をそのままに呼吸を整えようとするが。かなりの距離を、しかも魔剣ラグナロクのとんでもない重量を背負ったまま走ったにも関わらず、息は全く乱れていない。
  何となくパーカーの右袖に隠れたアクセサリ『ダッシューズ』に視線を向ける。
  これまで魔剣ラグナロクを背負って走った事は何度もあるが、それは筋力向上と武器の重さに慣れる為の修行であり、疲労するのも目的の一つだった。けれど『ダッシューズ』はその過去を真っ向から否定しており、疲れ果てて何度も何度も地面に突っ伏してきた一年が嘘の様だ。
  改めてゴゴの力の強大さに驚きながらも―――。もっと信じられないのは、この上手く使えば一日中戦えるであろう脅威の装備が、ゴゴの世界では『店で売っている』という事実だ。
  これまでは話しで聞く限りで信じていない部分も存在したが、自分で装備してみてアクセサリがもたらすメリットの大きさを味わった。
  これが裏の世界の魔術師が長年かけて作り上げた渾身の作とかそういうのではなく、金を持っていれば誰でも買えるのだ。しかも、他のアクセサリには『ダッシューズ』など比べ物にならない強力な物もあると聞いた事がある。
  いったい、ゴゴがいた世界はどれだけこの世界と違う世界なのか。自分の右手を見ながらふとそんな事を考えたが、今考えるべき事ではないと自分を戒めて思考の外に追いやっていく。
  何しろ雁夜には気配すら感知できないが、間違いなく自分達を追跡しているアサシンがこの場にいる筈。敵が間近にいるのだから、他の事を考えている時間は無い。
  セリスがその事について全く触れないのは、話せば向こうに聞かれてしまうからか、あえて見逃しているからか、アサシン程度ならば攻撃されても対処できる自信があるからか。どの理由でもありえそうだったので、雁夜はとりあえず考えるのを止める。セリスに背負われているならば、凛ちゃんの安全は確保されているのだからそれでいいじゃないか。
  アサシンの事も一旦思考の外に追いだすと、凛ちゃんをどうすべきか考えた。
  凛ちゃんは『コトネ』という友達を助ける為にわざわざ冬木市にまでやって来たようだが、凛ちゃん一人で探し出せるほど今の冬木市は甘い場所ではない。
  自分としては凛ちゃんの悲しむ顔は見たくないので、冬木市に散らばっている多くのミシディアうさぎを使って『コトネ』を探したいとは思う。だが、その為にはゴゴの協力が必要だ。
  『コトネ』という名の凛ちゃんの友達を助ける事が桜ちゃんを助ける事に繋がるならゴゴへの説得もしやすいのだが、今のところそんな都合のいい状況は無く。雁夜自身、聖杯戦争を生き抜いて桜ちゃんを救う為に労力を費やすので精一杯だ。
  凛ちゃんの助けが桜ちゃんの助けに繋がるのはか細いながらも確かにあるのだが、それは他のマスターと聖堂教会への監視の為に配備されたミシディアうさぎを全て動かすほど強いモノではない。
  希望はある、しかし、現段階は不可能と断言できる。だから凛ちゃんを安全な所に退避させる為にはどうすればいいかを考える。
  そして凛ちゃんが一人で冬木にやって来たのならば、葵さんは絶対に追いかけている筈だ、と思った。願望と言えばそれまでだが、一年前に桜ちゃんを間桐へやってしまったので、きっと葵さんは『娘が居なくなる』という状況に危機感を覚えている筈。
  夫である遠坂時臣が聖杯戦争に参加しているのは葵さんも重々承知しているだろうから、凛ちゃんが居なくなった状況を冬木に結び付ける可能性は高い。
  そうすると、こちらから凛ちゃんを送り届けるのではなく、葵さんと入れ違いにならないようにする為に待ち構えていた方がいいだろう。
  凛ちゃんが現れたのは新都の冬木駅。これまで経過した時間。そして子供の足で移動できる範囲内にある場所。幾つもの情報を統合して、思い出深い市民公園を考えたのは必然であった。
  何故なら川辺にあるあの場所は、雁夜にとってあまりにも沢山の記憶が刻まれている。あそこならきっと葵さんが来てくれる―――そんな望みも手伝い、雁夜の足は市民公園へと向かった。
  凛ちゃんを背負ったセリスは何も言わずに雁夜の後をついて来て、程なく三人は墓所を彷彿させる人気のない市民公園へと到着した。
  備え付けの椅子の近くに辛うじて街灯の灯りがあるが、それ以外は夜の闇に覆われて不気味さを演出している。この闇の中のどこかにアサシンが潜んでいるかと判ってしまえば、余計に闇の深さに緊張が増す。
  人の話し声は無く、風に揺られる木々の音だけが耳に届く。凛ちゃんを椅子の上に寝かせ、風除けと防御の意味で両脇を自分とセリスで固めた。
  目安として二時間ほど様子を見て、そこまで経って変化がなければ別の手を考えようと思う。その間に葵さんが凛ちゃんを迎えに来れば由、あるいは凛ちゃんが目を覚まして自発的に帰っても由。目を覚まして『コトネ』を探しに行く可能性もあったが、その場合は強制的に退出してもらうのもやぶさかではない。
  とにかく今の雁夜に出来る事は少なく、冬木市に混在する多くの怪異から凛ちゃんを守る位が関の山だ。しかも『自分が殺されない』という最低条件をクリア―した上だが、どちらもゴゴの助力合って初めて可能になる事なので、自分の力のなさに気落ちしそうになる。
  バーサーカーの制御にはまだ不安が残っているので、凛ちゃんの傍では使えないな。と、そんな事を考えながら、ただ時間が過ぎ去るのを待ち続けた。
  周囲への警戒と自問自答を繰り返していると、そう言えばロックは―――もう一人のゴゴはどうして合流しないのか? と思った。移動に必要な時間は十分すぎるほど合ったし、言わずとももう一人のゴゴが雁夜の隣に座っているのだから道に迷うなんて事態は考えられない。おそらく何かしら意図が合って自分達とは別行動をとっているのだろう。たとえば、自分達を監視しているアサシンを更に監視している、とか。
  何もせずに間桐邸やブラックジャック号に戻ったとは欠片も考えていないので、今も『桜ちゃんを救う』ために何かしらの行動を起こしているに違いない。
  時間が経つごとに思い浮かべる内容にも変化が現れる。そんな事を何度もやっている内に時間はどんどん過ぎ去っていき、一区切りつける二時間は近づいていく。
  葵さんがここに来ないのは、彼女がそもそも凛ちゃんを捜しに来ていないか、全く別の場所を探しているかのどちらかだろう。聖杯戦争で魔術師たちが戦っている状況で遠坂時臣に助けを求めるとは考えられない、魔術師が全力で挑まなければならない状況でそれを邪魔するなどあってはならないのだから。
  もし娘の為にそんな行動がとれるなら、そもそも桜ちゃんが間桐に養子に出されるなんて事態は起こらなかった。
  もう少し時間を延ばしてみようか―――。そう考えた正にその瞬間、公園の外周部分から近づいてくる足音が聞こえてきた。
  深夜の公園に近づく物好きなどこれまで一人もおらず、しかも駆け足で向って来ているようで、足音は大きく早く近づいてくる。明らかにこの場所を目指していて、走り方には迷いはない、ただ男ほど力強いモノではなかった。
  ようやく来てくれた。
  公園の街灯に照らされた訪問者、葵さんの姿を見ながら雁夜は緊張を維持したまま心の中だけで安堵を作り出す。
  「ここで待てば、きっと見つけてくれると思ってた」
  「・・・・・・雁夜、くん?」
  一年ぶりに見る葵さんの姿は全く変わってないように見えたが、よほど急いで凛ちゃんを探していたらしく、滅多に見れない焦燥感を漂わせていた。着の身着のままの格好もまた外に出る時間を少しでも短縮した原因の様に見えて、娘を気遣う母親の姿に嬉しさがこみ上げてくる。
  自分がここにいると思って無かったようで、葵さんは立ち止まってジッと見つめている。そのままずっと見つめ合っていたい衝動が湧き出そうになるが、当初の目的を果たす為に隣で横になっている凛ちゃんを抱きかかえ、葵さんの方へと連れて行った。
  「凛っ!!」
  葵さんに近づいた所で、ようやく腕の中で眠る凛ちゃんに気付いてくれた。
  出来れば自分よりも前に凛ちゃん気付いてほしいと思ったが、いるとは思わなかった『間桐雁夜』がこの場所にいればそちらに意識が向くのも仕方のない事かと考え直す。
  斜め後ろに黙ったままついてくるセリスの気配を感じつつ。止まることなく葵さんへ歩み寄って凛ちゃんを渡す。
  「大丈夫。凛ちゃんはびっくりして気絶してるだけだから」
  葵さんは凛ちゃんを手渡されると同時に力強く抱きしめ、少し高めの子供の体温と外傷の有無を調べた。そして無事を確認したらもう一度抱きしめ、少しだけ目尻に涙を浮かべる。
  母と娘の再会した状態で五秒ほど時間が流れる。そして娘の無事を完全に確認し終えた葵さんは顔をあげてこちらを見つめてきた。
  「どういうことなの? 雁夜くん。どうしてあなたがここに?」
  「・・・・・・こういう事だよ」
  そう言いながら右手の甲を葵さんに見えるように掲げた。そこにはバーサーカーに宝具を使わせる為に一画浪費してしまった令呪が刻まれている。
  実物を見たことは無かっただろうが、遠坂時臣から『令呪』について話だけは聞いている筈。すぐさま手の甲に刻まれたそれの正体に気付いた葵さんが絶句するのが見えてしまう。
  そんな表情をさせたくは無い。けれど、令呪は聖杯戦争のマスターの証であり、事情を知っている人間へは説明を不要にする。言葉以上に多くの事を教えるので、これほど都合のいいものは無い。
  そして自分が令呪を持つ意味を理解してしまった瞬間、葵さんはきっと『雁夜が間桐に復帰した』『夫と幼馴染が殺し合う』を瞬時に理解した筈だ。
  間桐雁夜は禅城葵を愛している―――。そして幼馴染として他の誰よりも葵さんの事を知っている。だからこそ葵さんが凛ちゃんを探しに来るである予測の元、市民公園で彼女を待ち構えられた。
  間桐が絡めば彼女を幸せにする事は出来ない。だから遠坂家に輿入れすることを幸福に感じている葵さんの笑顔と、『遠坂葵』になる彼女を笑顔で見送った。
  その決断が間違いだったとは思いたくない。一年前と違い葵さんが導き出した『決断』が全て間違いだったなど考えたくはない。
  たとえ、桜ちゃんが間桐の魔術に囚われ地獄を味わう事になったとしても、それは雁夜の罪であり、葵さんの罪ではない。彼女はただ一人の女として遠坂時臣のプロポーズを受け、そして一人の母親として二人の娘を愛しているだけなのだから。
  故に雁夜の怒りは遠坂時臣へと、そして自分へと向かうのだ。
  罰せられるべきは自分であり、桜ちゃんを間桐に養子に出そうなどと考えた遠坂時臣だ。
  桜ちゃんに責苦を負わせた最も罰せられるべき臓硯はゴゴによって消滅させられたので、もうどうしようもないが、残された二人は罰を背負うべきだ。償わなければならない。
  桜ちゃんと凛ちゃんにも、葵さんにも罪は無い。そう思っている―――。
  「葵さん。俺は絶対に桜ちゃんをおぞましい『間桐』の呪縛から解放してみせる、臓硯の支配は強力で今も桜ちゃんを強く強く縛り付けてる・・・。俺は聖杯戦争に勝利して――臓硯から、間桐から、桜ちゃんを救ってみせる」
  言葉なく自分の右手の甲に刻まれた令呪を見る葵さんに向け、更に言葉を続ける。
  「だから、俺が・・・、俺達が必ず・・・・・・。ああ、心配ないよ。俺達は誰にも負ける筈はない」
  「ああ──。そんな──」
  葵さんは凛ちゃんを探しに来て、予想だにしなかった真実を知ってしまった。凛ちゃんを見つけられた安心とは別種の涙が彼女の目から流れ落ちてしまったので、それを止めたいと願った。
  彼女の顔を見ながら胸に決意を宿す。
  禅城葵には、遠坂葵には、間桐雁夜の幼馴染には、何の罪もない。
  他の誰でもない間桐雁夜自身がそう思っている筈なのに―――、胸の内から湧き上がるこの衝動は何なのか?
  気付かなければ気のせいで済ませたかもしれないが、一度気が付いてしまえばそれはどんどん大きさを増していき、雁夜の心の中を埋めて行った。
  葵さんの泣き顔を見て、その思いは止まる気配を見せずにひたすら膨張していく。ほんの一瞬前までは無かった筈の気持ちがあふれて止まらない。
  葵さんが愛おしくてたまらなかった筈なのに―――。


  何故、何故、何故、途方もない怒りを胸に抱いてしまうのか?


  この怒りは何なのか?
  何故、葵さんを見て、こんな気持ちを抱いてしまうのか?
  どうして泣き顔を見ると苛々してくるのか?
  この場に留まっていれば内側から間桐雁夜を破壊して怒りが溢れ出そうだ。この怒りが、いや、激怒と呼べるほど強大な感情が出てくる原因を考える余裕もなく、この場所から消えたくてたまらない。
  このままでは間桐雁夜は遠坂葵を殺したくなる―――。
  「いつかきっと、この公園で、また昔みたいに皆で遊べる日が来る・・・。だから葵さん、貴女が信じて、祈ってくれ。桜ちゃんと凛ちゃんの未来を・・・」
  「雁夜くん、待って──」
  内側から湧きあがる激情を必死で抑え込みながら、凛ちゃんを抱きしめる葵さんの横を通り抜ける。引き止める声を無視して、先を急ぐ足を決して止めない。立ち止まってしまえば背負ったアジャスタケースから魔剣ラグナロクを引き抜いて斬り付けてしまいそうになるからだ。
  そんなおぞましい予感を考える事それ自体に薄気味悪さを覚えてしまう。
  何故、俺は葵さんを・・・?
  凛ちゃんがいるから葵さんは呼びかけ以上の事はしない、掴まれて止まらせられるなんて事にならなくて良かったと思いながら。早足で市民公園の外へと向かった。
  凛ちゃんの事は葵さんに任せればいい。自分達を見張るアサシンが彼女達に危害を加える可能性を考慮しながらも、そうやって自分に言い聞かせて離れてゆく。
  理由の判らぬ怒りはまだ収まらず、心の中で蠢き続けていた。



  ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆



  Side - 言峰綺礼





 宝具『妄想幻像ザバーニーヤ』によって、多重人格障害であった『百の貌のハサン』はその人格ごとに別々の肉体を得た。しかし、マスターである自分がたった一人である以上、五感同調によってアサシンの見聞きしている状況を知れるのは常に一人に限定される。
  それ以外のアサシンとの連絡手段は口頭となる。
  念話を使えば同調する必要無く、遠く離れた距離を気にせずに報告を聞ける利点はあるが、アサシンの主観を全て排したその場だけの情報を仕入れるにはやはり感覚を同調するしかない。倉庫街での戦いを監視していた時もそうだった。
  冬木教会にて保護されている今―――間桐雁夜の監視をしているアサシンの視覚に自分のそれを重ね合わせて、様子を窺う。
  「遠坂時臣氏の内儀とご息女、このまま放置で宜しいか?」
  感覚を同調させたアサシンの声なき声が綺礼の頭の中に響く。遠く離れたサーヴァントとの会話を行う為の念話だが、五感の内いくつかを同調させているので、自分自身が話しているような錯覚に陥りそうになった。
  アサシンがマスターである綺礼に話しかけているだけだ。改めて起こっている状況を再認識しながら、アサシンに向けて返事をする。
  「構わない。引き続きバーサーカーのマスターを監視するように」
  「承知」
  綺礼は昨日からアサシン達の諜報活動にある条件を追加した。それは敵対する全てのマスターについての私生活、趣味に嗜好、人物像についても報告せよ―――という内容だ。
 もちろんこれはアーチャーこと英雄王ギルガメッシュの『連中の意図や戦略だけでなく、その動機についても調べ上げるのだ。そしてオレに語り聞かせろ』という申し出を受諾したからに他ならない。
  冬木市に散らばった全てのアサシンは諜報活動の密度を倍増しなければならなくなったが、その甲斐あって綺礼が手に入れた情報もまた膨大になった。
  特に『間桐』に関してはアーチャーの言葉以前に明確な敵への調査として多くのアサシンをつぎ込んでおり、今回の遠坂葵と間桐雁夜との会話も綺礼の知る所となった。
  ファミリーレストランの内部で待ち構えられた時は接近できずに会話まで聞けなかったが、そこは父:璃正の手回しで聖堂教会のスタッフが情報を仕入れる手筈となっている。
  今は様々な角度から間桐を切り崩している状態だ。
  そしてアイツベルンの森から突如として現れた間桐臓硯と間桐雁夜との間には何らかの確執が存在するのを確信した。聖杯戦争に参加するマスターとサーヴァント以外に何かしらの組織から大量であり強者でもある人間が送り込まれているのも決定したと言える。
  どれだけの規模が送り込まれたのか? そもそも一体何者が介入しているのか? 詳しい情報はまだ判っていないが、聖杯戦争と無関係の者が巡り合わせによって彼らと協力している自体はありえない。
  もしかしたら同じ組織に間桐臓硯と間桐雁夜が別々に依頼をして、同じ組織の中で対立している派閥がそれぞれの勢力を削ぐ為に協力しているかもしれない。
  あくまで予測の域を出ず、確信に至る為にはまだまだ情報不足だが、少しずつ少しずつ綺礼の元に情報は集まっている。人によっては終わりの見えない諜報活動に辟易するかもしれないが、問い続ける事こそが人生と言ってもよい綺礼にとって現状は苦ではない。
  綺礼は間桐雁夜を監視するアサシンとの同調を切ると、間桐雁夜の方に味方している何者か―――会話の中から拾った『ロック』という名前の男を監視しているアサシンへと念話を送る。
  状況を報告せよ、と。
  「き、綺礼様――」
  だが返って来たのは報告するアサシンの声ではなく、切羽詰まってそれどころではない慌てふためく呟きだった。
  話している余裕すらないのか、それ以上の応答は無い。綺礼は何事かと思いながらも、ロックを監視しているアサシンの視覚と聴覚に同調させるべく意識を集中する。そして一瞬前まで見えていた冬木教会の壁が夜の屋外へと切り替わった。
  そこで綺礼が見たのは短刀を片手に持ち、自分へ向けて斬りつけてくる敵の姿だ。
  何があってこんな状況に陥っているか咄嗟に判断できなかったが、監視していたアサシンはその監視対象であるロックと交戦しているのだと知る。敵はアサシンと同じように短刀を手にしているが、こちらの刀身が闇に染まる黒ならばあちらの短刀は血に染まったような紅色をしていた。
  アサシンが見ている光景から判断するしかないのだが、敵は常に一定の距離を保ったまま対峙しており、アサシンが移動すればしっかりその動きについてくる。
  常人ならば決して出来ない筈の『壁を使っての三角飛び』や『地を這う移動』に『屋上までの跳躍』など、暗殺者としての身軽さと強靭さを兼ね備えたアサシンの動きを同じように行っているのだ。
  敵の強さは分化されて弱体化したと言ってもサーヴァントのそれに匹敵するのだと理解する。
  同調させた綺礼の視界が衝突しあう短刀を見て、敵の武器がアサシンの手を浅く斬りつけるのが見えた。掠り傷だ、そう思ったが、傷ついた部分が大きく避けて真っ赤な血が噴き出した。
  「さすが『マンイーター』。人が相手なら効果は抜群だな」
  髑髏の仮面の奥で隠しきれない動揺、暗殺者としての誇りが口から出てきそうになる絶叫する必死に抑え込む。だが出来てしまった隙をついて、敵は短刀を持たない逆の手をアサシンの喉元へとやった。
  力ずくで首が絞まる感触が綺礼にまで伝わってきそうだ。触覚まで同調させていたら間違いなく伝わって来たであろう痛みを思っていると、壁に押し付けられたのか『片腕で掲げられた』アサシンの視点から見下ろした敵の姿が見える。
  妖しく光る短刀が目の前でチラついた。
  アサシンの両手両足は自由になっているようだが、僅かでも攻撃の意思を見せた瞬間に紅い短刀が頭部を貫くだろう。
  強い―――。攻防は僅かだが、ロックという名の目の前の男は綺礼が強者だと認めるには十分すぎる動きを見せたのでそう評する。
  「こういうのはセリスの方が得意なんだけどな、試させてもらうぜ」
  死闘を演じていたとは思えないほど軽い口調でロックがそう言った次の瞬間。綺礼の視界は真っ暗になった。


  「デスペル!」


  最後に聞こえてきた敵の声。そこでアサシンとの感覚同調が強制的に切断されてしまい、綺礼の目には冬木教会の壁が映り、綺礼の耳は屋内特有の静寂を聞いた。
  再度、感覚同調を行って敵の様子を探ろうとしたが、ロックを監視していたアサシンからの応答は無い。最後に聞こえてきた言葉が何を意味するかは綺礼には判らなかったが、おそらく魔術行使の為に行われた呪文なのだろう。
  単語の中に『DEATH』つまり『死』を意味する単語が含まれて、しかもマスターとサーヴァントとの繋がりも感じられなくなったのならば答えは一つ。また一人アサシンが殺されたのだ。
  「・・・・・・・・・」
  綺礼は考える。
  アインツベルンの森で交わした間桐臓硯の会話とこの場所でアーチャーと交わした会話の内容。
  協力者たちがマスターとサーヴァントには無関係だったとしても、間桐雁夜を葬るには決して無視できない障害だ。
  バーサーカーという魔力消耗が桁外れに大きいサーヴァントを従えながらも、間桐雁夜は決して魔術師として優秀とは言えない。
  その間桐雁夜は遠坂葵と遠坂凛を気遣っていたが、マスターとして遠坂時臣を殺すならば、間桐雁夜自らが彼女らを不幸にする。
  そして諜報活動を行いながら散っていったアサシンの姿を思い浮かべ―――、綺礼は自分でも気付かぬ内に口元に小さな笑みを浮かべた。
  ああ、お前たちは―――聖杯に託した願いを叶える事無く殺された。その無念、その苦悩、さぞ辛かろう―――、と。



  ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆



  Side - ゴゴ





  アサシンがロックとセリスと雁夜の三人を監視しているのは、アサシンが接近する前から気付いていた。
  何しろ聖杯戦争に招かれたサーヴァントの位置は、例えそれが大まかだったとしても、自分にとって周知の事実であり、遠ざかろうが近づこうが実体化しようが霊体化して逃げようが、等しくその『存在』は把握できてしまう。
  雁夜を囮にして敵の出方を窺ってみたが、どうやらアサシンはこちら以外にも色々と調べる事があるらしく、三人が揃っている時はアサシンを一人だけしかつけなかった。
  単純な戦力差で考えれば十人いても足りないので、完全に戦いを度外視した監視のみに留めるつもりなのだろう。ファミリーレストランの中でただの人間から何度も視線を向けられた事もあったので、サーヴァント以外にも色々策を弄しているらしい。
  言峰璃正が透明になった飛空艇ブラックジャック号の事を知ってようやく本腰を上げてきたようだ。
  しかし監視の目があろうとなかろうと今の段階では脅威にはなりえない。僅かばかり情報が敵に漏れてしまったが、全体からみればまだ一割にも届いていない。
  偽装された間桐臓硯の死。
  神秘のアイテム『魔石』の出所。
  世界を一つ賄えるほどの魔力貯蔵。
  冬木市に散らばった沢山のミシディアうさぎ。
  魔封剣、必殺技、踊る、必殺剣、機械、あばれる、スロット、スケッチ、青魔法。
  宝具すら物真似する、ものまね士ゴゴの存在。
  まだまだ知られていない事は山ほどある。
  固有名詞のない会話と雁夜の言動によって、真実と虚偽が入り乱れた内容が敵に伝わった。手の内を全て見せていない状況では敵は慎重になり、聖杯戦争はもっともっと長引く。これでサーヴァント同士が共倒れになるなんて自分にとって困る事態には陥らない。
  例外はキャスターだが、アインツベルンの森で見せてもらった戦いを見る限り、それほど目を引く宝具ではなかった。尽きることなく湧き出でる魔力は他のサーヴァントにとっては脅威かもしれないが、自分の中で使える魔力総量はあの宝具を上回る。
  あれなら他のサーヴァントに殺されたとしてもこちらの損耗には繋がらない。雁夜の修行のために、もう少し生きていてほしい気持ちもあるが、殺されても特に文句は無い。むしろ桜ちゃんの事もあるので次の犠牲者を出す前にさっさと死んでくれとさえ思う。
  居場所は判っているのでいつでも倒しに行けるが、今の所は様子見だ。キャスターの件を強引に片付けて、意識を別の事へと振り分ける。
  『ロック・コール』としてアサシンと戦うのはそれほど難しい問題ではなかった。何しろ敵はこちらに見つからないように隠れているつもりなのだろうが、大聖杯によって召喚されたサーヴァントの枷で、アサシンの位置は丸見えだ。
  一番の問題はアサシンに逃げられてしまう事だったが、ドロボ・・・いや、トレジャーハンターとしての素早さを生かして一気に戦闘へと突入してその問題点を消す。
  逃げられる前に攻撃する。雁夜を守るために準備した『ナイトの心得』に加え、先制攻撃の確率がアップする『疾風のかんざし』を装備した時にアサシンはロックから逃げられなくなった。
  わざわざアサシンと戦ったのは、監視の目が鬱陶しいからではない。アサシンだけが、数あるサーヴァントの中で沢山いるサーヴァントだからだ。
  『ストップ』『ライブラ』『死の宣告』『臭い息』『グラビダ』そして『夢幻闘舞』。ゴゴが知る多くの技の幾つかを別のアサシンに試したが、まだまだ試したい魔法は沢山ある。
  サーヴァントにはどんな魔法が効くのか?
  沢山の敵がいて、沢山の技がある。
  ならば試すのは必然だ。
  サーヴァントによって筋力、魔力、耐久、幸運、敏捷、宝具など、ステータスに限らずスキルの違いもあるだろうが、『サーヴァント』の括りであるならば似た部分は必ず存在する。アサシンを使って別のサーヴァントへの対策とするのだ。実験とも言い換えてもよい。
  こうしてアサシンと戦闘に入り、すぐに拘束できてゴゴが使える技をロックを経由してアサシンにぶつける状況にまでもって行けた。
  使用する魔法はありとあらゆる魔法効果を消す対消滅の魔法『デスペル』だ。
  全力全開で魔法を使えばサーヴァントの一人ぐらい消滅させられるのは容易いので、今回アサシンを使ってやろうとしてるのは、どこまで魔力を込めればサーヴァントの存在そのものに影響を及ぼせるか、だ。
  サーヴァントとして現界する為には必要な霊核を中心に、それを魔力でできた肉体を纏って初めて実体化できる。『デスペル』はその構成に一体どこまで影響できるのか? それを早く知りたくて仕方が無い。
  サーヴァントが召喚される瞬間はバーサーカーが呼び出された時にじっくり見させてもらったが、魔法効果が存在そのものにまで影響を及ぼすのかは未知の領域だ。
  これを知ればものまね士ゴゴの物真似はもっと向上するに違いない。幻獣召喚とは似て非なるサーヴァントの在り方を知れば、『己が栄光の為でなく(フォー・サムワンズ・グロウリー』の精度も格段に跳ね上がって、変身の宝具は生誕の宝具にまで昇華するかもしれない。
  マスターとサーヴァントの繋がりが断ち切られるのか?
  アサシンのマスターである言峰綺礼にまで影響を及ぼすのか?
  魔法を唱えた途端、魔力の塊であるサーヴァントは消滅するのか?
  キャスターが子供達の体の中に仕込んだ魔術は打ち消せたが、サーヴァントには効果が無いのか?
  結果を知るのが楽しみになり、ついつい『マンイーター』の事まで話してしまう。慌ててロックとして魔法を唱えた。


  「デスペル!」


  セリスとして魔法を唱えればもっと込める魔力を多くできた筈。そんな思いで放たれた魔法にはティナとして子供達を救う為に放った魔法と同じぐらいの効果を作り出してしまう。ティナの魔力とロックの魔力とでは比べ物にならないのほど差があるので、ティナにとっては連発出来る威力でもロックにとっては全力と言ってもよかった。
  そしてアサシンのサーヴァントは対魔力スキルを持っていない。
  それが悪かったのだろう。
  「ぁぁぁぁぁぁぁぁあぁぁぁぁあああぁぁぁぁぁぁああぁ――!!!」
  アサシンは二秒ほど悲鳴のような雄叫びのような声を上げた後、髑髏の仮面をつけた頭の方から小さな光となって分解されていったのだ。
  徐々に『デスペル』に魔力を込めてじっくり観察したかったのだが、アサシンの体が崩れていくのは少々予想を超える。それはサーヴァントが使える『実体化』と『霊体化』に近い変化であったが、アサシンが苦しんでいる様にも聞こえる声を出している時点で別物だろう。
  頭部から首、首の根元から胸元、肩から腕、腹部から足、紫色に光る粒子となって、どんどんとアサシンが消えて行く。
  失敗ではない。
  少しやり過ぎてしまった。
  アサシンの首を掴みあげていたロックの手から感触が消え、握り拳にもならない空しい五本の指だけが後に残った。手持ち無沙汰で、指を動かしてみるが。そこにはもうアサシンを捕まえて壁に押し付ける感触は無い。
  「・・・・・・・・・」
  あまりにも呆気ないサーヴァント消失だった。
  ロックは腕を降ろしながら前を見て、サーヴァントの予想外の脆さに落胆しそうになった。しかし、そこで自分の腕が邪魔になっていて見えなかったモノがふよふよと力無く浮かんでいるのを発見する。
  淡く白い光を放ち続けるそれはロックの手の中に収まりそうな小ささであり、シャボン玉のように頼りなく、けれど重力に逆らってそこにあり続けている。
  これは一体何なのか?
  それがサーヴァントが現界する際の核―――『霊核』だと気付いたのは少し経った後だ。





  マスターを失った場合、サーヴァントを特殊な能力を有している場合を除いて、一時間ほどで消滅してしまう。だが、充分な魔力さえあればサーヴァントを現世にとどめることは可能となる。
  たとえ『デスペル』で、霊核を存在するのに精一杯なほど魔力を解いてしまったとしても。マスターである言峰綺礼からの令呪のパスと魔力供給のパスの両方が切れてしまった状態だとしても。肉体を維持できるだけの魔力供給があれば、再度蘇る事は不可能ではない。
  何故なら、肉体の消失とサーヴァントとしての消滅は同義ではないからだ。霊核だけが残っている状況をそう判断し、アサシンの霊核を透明になったミシディアうさぎに命じて間桐邸にまで持って来させた。
  大聖杯を物真似した状態で常に感じていた『サーヴァントの位置』が霊核から感じられず、今、『デスペル』の餌食になってしまったアサシンは消滅一歩手前であり、聖杯戦争のサーヴァントでもない状態だ。
  普通ならばこのまま消える。だがものまね士ゴゴは普通ではない。
  英霊が霊核を基礎にして魔力を肉体にする方法が見たかったので、ゴゴはアサシンの復活を考えた。他のマスターならばわざわざ敵を復活させようなどと考えないだろうが、ゴゴにとっては敵の復活よりも英霊の現界を間近で見る方が重要だ。それを見れば『サーヴァント召喚の物真似』も出来るかもしれない。
  そして何が起こるか判らないので街中で魔力供給を行わず、わざわざ間桐邸にまで移動させた。
  透明になったミシディアうさぎが霊核をマントの下に隠す。
  移動の間にもアサシンが消滅する危険性はあり。時間経過と共に霊核の光は少しずつ少しずつ衰えていく。ミシディアうさぎが間桐邸に辿り着いた時、霊核の光は線香花火の火の玉よりも更に小さい輝きしか放っていないかった。
  危険な兆候だ。
  それでもぎりぎり間に合った。
  ただし、一刻の猶予も許されない。
  こうなったのはサーヴァントが持つスキルも影響しているのは間違いなく、おそらく同じ事をセイバーにやったとしても霊核だけ残すなんて事態にはならないだろう。対魔力スキルを持たないアサシンだからこそ―――分裂したが故に力を落したからこそ―――『デスペル』は多大な効果を発揮したのだ。
  ゴゴはミシディアうさぎからアサシンの霊核を受け取ると、雁夜の修行場であり、かつてバーサーカー召喚の為にも使われた間桐邸の蟲蔵。間桐臓硯が使役していた蟲は一匹たりとも残っていないので、名称が不適切だと思ってしまうが、今日に至るまで変わることなく『蟲蔵』の名前で呼ばれ続けている地下へと向かう。
  マッシュとエドガーになっている自分を一階に残し、何かあった時に備えて攻撃する心構えはしっかり持っておく。
  正規のマスターではないゴゴからの魔力供給では、アサシンは現界しないか?
  聖杯戦争のサーヴァント『アサシン』として蘇り、マスターである言峰綺礼と再びパスが結ばれるか?
  ゴゴが持つ魔力とこの世界の魔術とでは差異があるので、霊核は何の反応も示さず消滅するか?
  どうなるか判らない。だが未知は未知であるが故にゴゴに喜びを与えてくれる。再びサーヴァントの一体として蘇るならば、間桐邸の情報が言峰綺麗に洩れるか逃げられる前に滅ぼすだけだ。
  どうなっても構わない―――。
  様々な結果を予測しながら、その全てを裏切ってもそれはそれで問題ないと思いつつ、手の中で弱弱しく光る霊核へと魔力を送る。
  魔石で幻獣を召喚する時の要領で、その中にいる『何か』をこの世界に引き寄せるような注ぎ方をした。先程はロックが放った『デスペル』でやり過ぎてしまったので、慎重かつ繊細に魔力を込めて行く。
  一秒が経ち、二秒が経ち、三秒が経ち、四秒が経つ。
  あまりにも何も起こらなかったので、込めた魔力が弱すぎたかと思い始める。
  魔力を込め続けて十秒が経過しても何も起こらなかったので、仕方なく注ぎ込む魔力を高めて行った。最初の注ぎ方が魔力消耗の最も少ない『ラグナロック』の召喚ならば、今度はその十数倍魔力を使う『ライディーン』を召喚する要領で行う。
  さあ、どうなる?
  高めた魔力が功を奏したのか、アサシンの霊核は徐々に輝きを増していき、消滅寸前の弱弱しかった光を目が眩むほど眩しいものに変わっていく。
  どうなる?
  どうする?
  どう変わる?
  期待に胸を膨らませながら蟲蔵の中を満たしていく光をジッと見つめる。すると程なく霊核がゴゴの手の中から浮かびあがり、ふよふよと滞空を始めた。
  そもままどこかへ飛び立ってしまうのか? あるいは床に落ちてしまうのか? どんな変化でも見逃さずに霊核を凝視していると、球形の輝きから二本の管がそれぞれ上下に伸びていく。
  そして十五センチほど伸びた所で止まり、伸びきった箇所を基点にして紫色の粒子が溢れだしてきた。
  上に伸びた方の管の先端。ゴゴの目よりも少し低い位置にあるそれが円柱型を作り出した時、ゴゴはそれが何であるかを理解する。
  首だ。そして霊核から下に伸びた方の管の先端にあるのは心臓だ。二つの部位が形作られた後、そこからの変化は劇的であった。
  ロックの手の中で消えていったアサシンが逆回しに再生されていくとしか見えないほどにサーヴァントの肉体が『編まれて』いく。
  おそらく霊核に注ぎ込んだ魔力を肉体に変えているのだろう。初めて出来上がった二か所を中心にして、人の地肌とは思えない黒い皮膚が形を成していった。
  心臓を中心にして胸元が出来上がったと思ったら、そこに出来上がっていた首が連結して肩と腹部を作っていった。紫色の粒子がどんどんと人の肉体を構成していき、それは腕となり手となり指となり腰となり腿となり足となり頭となり、下半身を包む簡素な衣装となり、手首から肘まで巻かれた布となり、口の上から額までを覆い隠す髑髏の仮面となっていった。
  最後に髑髏の仮面が途切れた額から後頭部から紫色の髪の毛が生え、首まで伸びた髪の毛がオールバックのごとく後ろに流れる。
  もしサーヴァント召喚や魔術やらを全く知らない一般人が見たら、誰かが背景と同化した布で首元以外を隠し、その布を取り去っていきなり現れたと思うだろう。
  つまりそれだけ劇的かつ急激な出現だったのだ。
  最初に魔力を注ぎ込んで全く反応を示さなかった霊核が嘘のように、変化が起こった状態から五秒とかからずロックの手の中で消滅した筈のアサシンが蟲蔵の床の上に立った。
  髑髏の仮面のせいで表情は見えなかったが、目を瞑って虚脱状態に陥っている気がする。
  蟲蔵で雁夜がバーサーカーを呼び出す時に見た『召喚』とは異なる、サーヴァントの『復元』。ゴゴはまだ反応を示さないアサシンに向け語りかけた。


  「目覚めの時間じゃゾイ、アサシン――。それともハサン・サッバーハの人格の一つと呼ぶべきかの?」


  その問いかけを切っ掛けにして、髑髏の仮面の向こう側にある目が開くのを感じた。



[31538] 第20話 『子供たちは子供たちで色々と思い悩む』
Name: マンガ男◆da666e53 ID:6a0d9b18
Date: 2012/12/01 00:02
  第20話 『子供たちは子供たちで色々と思い悩む』



  ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆



  Side - ????




  私はいつも暗闇の中に囚われている。
  黒しか見えない。真っ暗なモノしか判らない。手を伸ばしてもその手は何も掴まず、目を凝らしても黒しか見えない。
  それが私の世界。
  真っ黒な世界。
  そこが嫌で、嫌で、嫌で、嫌で、嫌で、嫌で、嫌で―――。私は何度も何度も逃げ出そうとした。
  逃げ出そうとしても、抜け出そうとしても、私はそこから動けなかった。
  自分から出ようとしても、その黒い世界は私を離してくれなかった。
  暗闇から抜け出せる時もあった。
  でもそれは新しい苦しみを私に与える。
  光が差し込んだ時、私の目は怖い男の人をいつも見る。
  黒い世界から解放された喜びを一瞬で消す憤怒の奔流。皆、怒っていた。武器を持っている人もいた。皆、私を睨みつけていた。
  怖い人達は私を蹴った、殴った、踏みつけた、掴みあげた、縛った、絞めた、針で刺した、刃物で斬った、裂いた、水に落とした、火であぶった。
  痛い。
  「さあ、とっとと吐け」
  痛い。
  「まだ耐えるのか? 大した奴だが、命がいらないらしい」
  痛い。
  「いっそ、殺してやるか」
  私は何度も言おうとした。
  そんなの知らない、って。
  私は何も知らない、って。
  あなた達は誰? 何を言ってるの? って。
  でも私の口はどんな言葉もしゃべってくれなかった。喋ろうとしても何も言えなかった。
  私は逃げた。必死で逃げた。逃げようとした。
  辿り着けたのは何もない暗闇だった、黒い世界だった。
  私はまた囚われた。
  暗闇の世界、怖い人達が沢山いる世界。どちらかが私の世界。どちらかしか無い世界。
  とてもとても辛い世界。
  とてもとても嫌な世界。
  どうして私はこんなに苦しいの?
  どうして私がこんな目にあうの?
  どうして私は逃げられないの?
  すると声が聞こえた。
  「その程度でしかお前は役に立たぬ、何度思い知ればそれが判るのだ?」
  暗闇の中から声が聞こえた。
  「言葉を持たぬ口は知られぬ為のモノ。それ以外の価値など最初から存在しない」
  別の方からも声が聞こえた。
  「諦めろ。お前に幸福など無い」
  そんなのは嫌。
  嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ―――。
  誰かが私の傍にいてくれる世界が欲しい。私に痛い事をしない人がいる世界が欲しい。私に優しくしてくれる世界が欲しい。私が私でいられる世界が欲しい。
  私はそれを求め・・・手を伸ばす。
  手は何も掴まなかった。



  ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆



  Side - ゴゴ





  状況があまりにも動かないのであれば、自分から騒動を巻き起こすのもやぶさかではない。何故なら桜ちゃんを救う為に聖杯戦争そのものを破壊すると決めたのだ、停滞など合ってはならず、停戦も中庸も穏便も許してはならない。
  戦いを嫌う者にとって平穏は望ましい状況かもしれないが、余裕があるという事は様々な事を偽れる状況の下地があるという事でもある。
  平穏で無くなれば無くなるほどに人は切羽詰まって必要な事だけをするようになる。
  極限状態にこそ人の本性は浮き彫りとなるのだ。聖杯を欲するという欲望に邁進しているからこそ普段は見せない秘めた願望も一緒に顔をのぞかせる。
  その気になれば始まる前から聖杯戦争など破壊出来た。けれど英霊たちの宝具を物真似出来るという利点があり、優雅と言う仮面を被った遠坂時臣の本性を表に出す為にも、戦ってくれなければ困る。
  だからこそ『新たな火種』の意味も込めてわざわざアサシンを間桐邸で復活させた。霊核からサーヴァントが再び実体化する確証など全くなかったが、結果としてアサシンは実体化して目の前に立っている。
  ただロックが人型の敵に対して絶大な威力を発揮する『マンイーター』で無力化させたアサシンとは少々状況が異なっている事に気がついた。
  冬木市の大聖杯を使って呼び出されるサーヴァントはあくまで英霊のコピーであり本体ではない。そのコピーは現界する為に霊核を得て、それを魔力でできた肉体を纏い実体化する、そしてマスターはサーヴァントが現界する為に必要な魔力を供給すればいい。それが聖杯戦争でのサーヴァントの仕組みだ。
  サーヴァントの維持はあくまでマスターの魔力に依存するのだが、この世界への存在の確立を行っているのは柳洞寺の地下大空洞に張り巡らされた大聖杯である。そしてゴゴはその大聖杯を物真似して、巨大な魔術式の全てを自分のモノにしてしまった。
  聖杯戦争を別々に起こせる、もう一個の大聖杯。それを自分の中に取り込んだ状態でアサシンに魔力を送り込んだのが悪かったのかもしれない。
  大聖杯から各サーヴァントへと繋がっていく魔力の反応が目の前のアサシンには存在しない上に、自分の胸元から伸びた鎖のように感じる魔力がそのアサシンへと繋がっている。目の前にいるアサシンは冬木の聖杯戦争で召喚されたサーヴァントではなくなり『ゴゴに召喚されている英霊』になっていた。
  令呪を授かったアサシンのマスターはおらず、ただ大聖杯を胸に宿したゴゴに召喚された状態。ゴゴの意思一つで魔力供給を止めた瞬間に消滅するが、サーヴァントとは異なるのは間違いない。
  魔力供給のパスはしっかり繋がっているが、令呪など自分の手には浮き上がっていない。ただし、言峰綺礼とのパスは完全に切断されているので、冬木の聖杯戦争のシステムから中途半端に逸脱した状態で現界しているようだ。
  決して望んでこうした訳ではないが、これはこれで面白い。ゴゴがそう思ったその瞬間、アサシンが後ろに跳躍して距離を取る。
  自意識が蘇ると同時に目の前にいる『敵』から距離を取ったのだろう。暗殺者の英霊は驚いたり周囲の状況を確認したりする前に、まず危機から遠ざかる為に自分の体を動かした。
  見事だ、この切り替えの早さは雁夜にはまだない。
  しかしここは間桐邸の地下、蟲蔵だ。
  アサシンだけでは間桐邸―――いや、蟲蔵という『監獄』から逃げ出せる手段は無い。霊体化して逃げようとしても、実体から霊体になる瞬間には若干の時間を必要とする為、常に目を光らせているゴゴからは逃げられない。距離を取っても限定された空間の中では目の前と大差はない。
  何よりアサシンは最早、言峰綺礼のサーヴァントではない。ゴゴによって召喚された英霊になっており、魔力供給を極限まで減らせば現界するのが精一杯で行動を制限するのも難しくは無いだろう。
  アサシンは蟲蔵の壁にある間桐の蟲の住処として利用されていた幾つもの穴まで下がり、油断なくこちらを見据えている。
  敵から距離を取りながらもこの場から撤退する為の打開策を模索しているのだろう。
  だが、どこに逃げるつもりだ? そう問いかけるようにアサシンに手の平を向けた。
  そして―――。
  「ブレイク!」
  幻獣『カトブレパス』から学ぶ石化魔法をアサシン目がけて放つ。
  アサシンは無手だったが、一瞬の油断なくゴゴを見つめていた。隙があれば霊体化してこの場から脱出するつもりだったのだのかもしれないが、対象者がいる位置に直接発動する魔法であると知らなかったのは致命的な遅れを招き入れた。
  八つの紅い球体が作り出す円と、その内側にある灰色の三角形。超高速で回転するそれがアサシンの身体に目がけて一気に収束する。
  危険だと感じ取って体が動いた時にはこの魔法はもう効果を発動していた。横に跳んで、回避しようとした姿勢のまま、アサシンの体が石に変わっていく。
  魔力で編まれた仮初めの肉体をもつ英霊が一瞬で石像に転化する。
  蟲蔵の中に新たに出来上がったオブジェを見下ろしながら、すぐに石化を解除しなければ現世での形を保てなくなるほど消耗するのを感じ取ったので、すぐに治癒の魔法『エスナ』をかける準備をした。
  ただし、対魔力スキルがないアサシンならば大抵の魔法は通じると改めて確認できたので、その結果に強い喜びを感じる。そう、意外こそがゴゴにとっての喜びなのだ。
  自分の知らなかった事を『物真似』によって自分の中に取り込む事こそが、知って取り入れる事こそが喜びなのだ。
  サーヴァントは物理攻撃が通じない存在だが、そうなるとカイエン・ガラモンドの必殺剣は効果があるのか?
  マッシュの夢幻闘舞とエドガーのオートボウガンはアサシンに通じたが、単純な殴打で痛みを与えられるのか?
  雁夜がキャスターの呼び出した怪物にアスピルを使って効果はあった。ではアサシンには効果はあるのか?
 妄想幻像ザバーニーヤで変身した状態が英霊に通じる攻撃になっているとしたら、『ものまね士ゴゴ』だけでアサシンに攻撃できるのか?
  ステータス異常は一部起こらせたが、他のモノは効果が出るのか?
  『レベル5デス』は、『怪音波』は、『レベル4フレア』は、『フォースシールド』は、『レベル3コンフェ』は、『波紋』は、間桐の蟲には効果抜群だった『グランドトライン』は通じるのか?
  『臭い息』は効いた、『ブレイク』も効いた。
  『ドレイン』は? 『ポイズン』は? 『スロウ』は? 『カッパー』は? 『スリプル』は? 『バーサク』は? 『ファイラ』は? 『ブリザラ』は? 『サンダラ』は? 『クエイク』は? 『トルネド』は? 『リレイズ』は?
  気になって、気になって、気になって、気になって、仕方がない。
  「蟲蔵を壊されるのは困るからな、バトルフィールドを張らせてもらうぞ」
  石となったアサシンに聞こえている筈はないが、一応言葉にして宣言する。
  その命尽きるまで―――心折れてもその肉体が朽ちるまで―――言峰綺礼のサーヴァントとして捨て石にされていたのが幸福だと思える程に―――物真似の生贄となってもらおう。
  聖杯戦争のサーヴァントとして招かれた英霊には『実体化』と『霊体化』を行えるが、それも物真似したい。
  期待に胸を膨らませながら、壁際で石像となっているアサシン目掛けて一歩一歩近づいていく。早く回復させなければと思う心と、極上の獲物を見つけた様な気分とが一緒になって体が破裂しそうだ。
  「――エスナ」
  再び手の平をアサシンに向け、石化を解除していく。そしてアサシンがロックに捕まった時と同じように、逃がさぬ為に首に手を添えた。
  何が効く?
  武器は無くとも攻撃してくるか?
  何を使う?
  振り払って逃げようとするか?
  何を試す?
  最速のサーヴァントライダーの敏捷さには及ばずとも、他のサーヴァントより高い素早さで逃げようと抗うか?
  徐々に魔力で編まれた肉体を取り戻していくアサシンを見ながらゴゴは思った。
  とても桜ちゃんには見せられないな―――。と。
  そして。さあ、どうしてやろう―――。とも思った。





  蟲蔵の中で色々と試しているゴゴとは別に、間桐邸の中には『エドガー・ロニ・フィガロ』と『マッシュ・レネ・フィガロ』としてのゴゴがいる。
  どちらもゴゴが変身した姿であり、本質はものまね士から逸脱していない。むしろ物真似の成果こそが二人の兄弟の姿であり、間桐邸を守る双璧を形作っている。
  今の所、倉庫街でアーチャーの宝具を弾き飛ばしたマッシュと、一度間桐邸の周囲にあった監視の目を全て潰したエドガーの力を警戒してか。監視は途切れずに存在しているが、若干間桐邸から距離を置いてに留まっている。近付けばまた殺されると理解しているのだろう。
  実際はゴゴが単独で動いた結果なのだが、バーサーカーの宝具とアサシンの宝具によって『間桐に協力する組織』なんて、ありもしない幻想が冬木市に誕生してしまった。
  ゴゴにとっても雁夜にとっても聖杯戦争の目的は勝利ではない。どれだけ多くの情報を引き出して『桜ちゃんを救う』に役立てるかどうかの戦いなのだ。
  状況を動かす為には待ち構えるだけでは不足だ。
  雁夜を囮にして、ロックとセリスの二人を護衛につけたが、得られた情報はそれほど多くない。改めて『敵は間桐を警戒している』と判ったくらい。
  これからはこちらから状況を引っ掻き回して、強制的に敵を動かす。蟲蔵で拷問に等しい攻めを受けているアサシンもその一環である。マッシュとエドガーの手が空いているならば、彼らにこそ動いてもらうべきだろう。
  故にゴゴは動き出す。エドガー・ロニ・フィガロの姿をしたものまね士ゴゴは動き出す。
  「マッシュ、留守は頼んだぞ」
  「任せろ兄貴。そっちこそやられるなよ」
  共にゴゴだからこそ、軽口を叩き合いながらも無駄口は無い。そして二人は別々の行動をとる。
  マッシュは引き続き間桐邸の防衛、そしてエドガーは間桐邸からの出撃だ。
  玄関から出る前から監視の目が集約していくのは気付いていた。間桐邸の玄関は堅牢な砦のそれとは違い、誰かが外に出ようとすれば外からでもそれが判る作りになっている。
  物音、気配、夜に玄関に移動すれば必然的に灯る明かりも一緒に移動するので、それを目印にしてもいい。とにかくエドガーとして玄関を通り抜け外に出る前から、外から見つめる気配が幾つも幾つも感じられた。
  ただしこれまでと違うのは、エドガーが外に出ると同時に幾つかの気配が遠ざかっていく。その中に感じるアサシンのサーヴァントもまた遠ざかる方の一つで、さすがに諜報活動を辞めたりせずに距離を取っただけの様だが、他のアサシンが殺されてかなり警戒しているようだ。
  それも無理からぬことだろう。何しろ今のエドガーは背中まで伸びた金色の髪を二か所で束ねて、紫色に近い紺色の衣装の上に水色のマントを羽織った姿は最初に間桐邸を監視していた全ての『目』を潰した時と変わっていないが、右手には純白と呼ばれる『白さ』を極限まで現したかのような刃が目立つ槍を持ち、頭には小さな宝石が輝く額当てをつけ、水色のマントに隠れたベストを重ね着している状態だ。
  装備は『ホーリーランス』、『ミラージュベスト』、そして『ロイヤルクラウン』。
  両手に『回転のこぎり』と『オートーボーガン』をもって現れた時ほどの極悪さは無いが、一般人の日常から遠く離れた戦いに赴く格好そのものである。これで警戒するなと言う方が無茶だ。
  攻撃されて殺された前例があるので、同じ目にあっては堪らない。構わず監視を続けている『目』は潰されても構わないと思っているか、最初から逃げられないと諦めているかのどちらかだ。あるいはエドガーが攻撃してきても対処できる対応策を練り込んできたか。
  エドガーの青い瞳が間桐邸の玄関口から周囲をぐるりと見渡す。とりあえず間桐邸に向けて襲撃を仕掛けてくる強者はいない様なので、問題なく出て行ける。
  『ホーリーランス』で足りなければ、状況に応じて『機械』を取り出すのではなく生み出して武器としよう。そう思いながら紺色の衣装に隠れた手首をそっと撫でた。
  衣装が邪魔で見えないが、右手には『ダッシューズ』が装備されており、足には『竜騎士の靴』を履いている。
  改めて装備を確認し、玄関を閉めて外に出た次の瞬間―――。
  「ふっ!!」
  エドガーの体は吐き出した呼気を置き去りにして、夜の冬木の町へと跳びだしていた。
  『竜騎士の靴』と『ダッシューズ』を装備して身体能力を爆発的に向上させたエドガーは、常人の枠を大きく突き破って英霊のそれに匹敵する所まで自分を到達させた。
  さすがに飛翔したり霊体化して移動したりするのはまだ出来ないが。マッシュが倉庫街から駆けて間桐邸に戻って来た時よりも速く大きく素早く軽快かつ自由自在に跳ね回る。
  それはフランス発祥の運動方法で、『パルクール』という名で知られている、走る・跳ぶ・登るなどの移動動作で体を鍛えるモノに似ていなくもなかったが、規模はエドガーの方が数倍上だ。
  普通の人間はいきなり路上から二階建ての家屋の屋根の上にまで跳躍して着地したりしないだろう。
  空を『飛ぶ』ではなく『跳び』ながらエドガーの口でゴゴは語る。
  「さて。私はレディを傷つけるつもりはないが・・・、レディが私の前に敵として現れたらどうすべきか?」
  冬木市に放り込まれる新たな火種となるのを願いながら、エドガーは夜の冬木市へと赴くのだった。



  ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆



  Side - 遠坂凛





  お母様の運転する自動車の後部座席で横になっていた。
  目は閉じてる、疲れも感じてる、全身が苦しいって言ってる。でも心は色々な気持ちで一杯だった。
  生きて禅城の屋敷に帰れる喜び。泣きながら抱きしめてくれたお母様の暖かさと胸に宿る罪の意識。そしてコトネを探すどころか何もできなかった自分への無力感。
  色々な思いが溢れて疲れているのに眠れなかった。
  「・・・・・・・・・」
  何もできなかった。
  何かしたかった。
  コトネを助けたかった。
  コトネを見つけられなかった。
  悔しくて悔しくてたまらなかった。
  禅城の屋敷を飛び出した時は何でも出来るつもりだったのに、ほんの少しだけ『今の自分じゃ手におえない事』に触れただけで立ち竦んで動けなかった。
  今の私じゃコトネを助けられない、そう思い知った。
  ごめんなさい。
  ごめんなさい。
  ごめんなさい。
  ただ謝って祈るしか出来ない。


  今度はもっと上手くやろう。


  ごめんなさいコトネ。
  私はまだ一人前の魔術師には程遠くて、お父様の様に戦えない。
  『今』の私には何もできないってわかった。いつか、お父様の様に私も遠坂の魔術師として戦う時が来る。『今』じゃなくて『その時』に備えるしかない。
  ごめんなさいコトネ。
  私は努力を怠らず、お父様の教えを守って、その時できることを、全力でかつ優雅にやるわ。
  だから、どうか無事でいて、コトネ。そして、ごめんなさい―――。



  ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆



  Side - ウェイバー・ベルベット





  数時間前に初めて会った『カイエン・ガラモンド』という自称サムライ。彼がやった大魔術に度肝を抜かされた。
  話でしか聞いた事のない『死者の蘇生』は魔法の領域に踏み込む神秘だが、起こった出来事を正確に見ると『死者の蘇生』ではなく特殊な『治癒魔術』の分類であると判る。キャスターによって殺された者は生き返っていない。まだ息があった者を完全に回復させただけだ。
  ただ、同じ事が出来るかと問われれば『無理!』と断言するしかない。
  懐から取り出した道具一つで簡単に出来るほど治癒魔術は簡単な魔術ではない。人間の治療に応用するのは現代医学に例えると臓器移植も同然の大手術だ。その上、カイエンは『治癒』と『焼却』と『清浄』の三つを同時に、しかも短時間で行った。
  卓越した魔術師ならばそれも可能だろうが、自分には絶対に出来ない。悔しいが、それは認めるしかなかった。
  カイエンが使った道具が気にならないと言えば嘘になる。
  ライダーに釘を刺されたけど、あの緑色に光るクリスタルが魔術道具であるのは間違いないので、欲しいと思う気持ちはある。あれがもたらす効果は間違いなく宝具に匹敵するのだから。
  それでもその魔術道具を後に回せたのは治癒を施されて欠損なく蘇った子供達の対処に負われたからに他ならない。もしライダーが宝具で貯水槽ごと全部壊してたら、心苦しさは合ってもただ撤退した筈。
  でも、突入した時には無かった余計な荷物がいきなり三つも増えたので、そちらに気を配らなければならなくなった。あの緑色のクリスタルも確かに気になるが、アサシンがいつ現れるか判らないので、この場から早く逃げなければならない。
  好奇心よりも命の方が大事だ。
  余計な荷物の一つは子供の傷を癒した後で気絶してしまったカイエン。そして他の二つは言うまでもなく完全に治された子供たち二人だ。
  カイエンの体格は自分を大幅に上回るので、ライダーが御者台に乗せる為に小脇に抱えてとっとと運んでしまう。当然、流れとして残った二人の子供を運ぶのはこの僕、ウェイバー・ベルベットの仕事になる。
  なお、カイエンの両手にはそれぞれ鞘に収まった刀と緑色のクリスタルが握られている。気絶しても離さないのを見ると、よほど大切な品なんだろうと思った。
  ライダーがカイエンを軽々と運ぶのがしゃくに障ったので、自分も同じように二人の子供を小脇に抱えて運ぼうと腹の下に手を入れる。
  一人を抱え、もう一人も同じように抱えようとした所で子供用の服が一着だけポツンと床に置かれているのに気がついた。折り畳まれたりはいなかったが、今、持ち上げようとしている子供の物だと判る。
  これもあの魔術道具が作り出した結果なのだろうか? ただ服だけが置かれているなら無視しただろうが、抱えようとしているもう片方の子供が何も身につけていないので無視できなかった。
  その子供が裸体なのは当然と言えば当然だ。キャスターとそのマスターが作り出した凶行の結果に必要だったのは『子供の肉体』であって、服そのものは邪魔でしかない。むしろ先に抱えている方の子供が服を着ている方がおかしいとさえ思えてしまう。
  準備されたように床の上にある子供用の服。あまりに都合が良すぎてキャスターの罠かと一瞬考えたが、貯水槽の中は通路を埋め尽くしていた怪物の群れが嘘だったみたいに清浄な雰囲気を放っているので、それは無いと思い直す。
  胃の中身を全部吐き出したあのおぞましい光景が無くなったのはありがたかった。キャスターに殺されてしまった子供達を炎によって浄化するしかなく、弔えなかったのは心に小さな刺が刺さったみたいに苦しかったが、仕方ないと思うしかない。
  貯水槽の作りは何も変わってないのに、キャスターの禍々しい魔力の残滓が消えただけで全く別の場所に生まれ変わったみたいだ。だから子供服の正否を怪しんだのは一瞬だけで、その服を持ち上げて子供と一緒に御者台に運ぶ。
  「お・・・重い・・・」
  ライダーもまたカイエンを脇に抱え、つまりは片腕だけで軽々と運んでいたけど、子供一人を運ぶだけでも一苦労。気絶した子供を抱きかかえる機会などこれまでなかったので、こんなにも重いなんて知らなかった。
  しかもそれが二人分。
  ライダーと同じように子供をそれぞれ小脇に抱えて運んでみるが、御者台までの数メートルでもう額から汗が滲み出た。
  一人は手に持った子供用の服の持ち主と思わしき女の子で、顔立ちは幼くとも純粋な日本人のそれだと判る。ショートヘアの髪は濃い目の茶色。本来は着るべき服を僕が持っているので隠れてない地肌が思いっきり見えてしまい、出来るだけそちらを見ないようにする。
  結果、もう一人の方に視線が向き、紫色に近い黒い髪、浅黒い肌とそれに対比した膝下まである白のワンピースを着た女の子を見る。こちらは時計塔があるイギリスの方で見かける子供の顔立ちに近いので、マッケンジー夫妻のように冬木市に移り住んだ日系二世か三世なのだろう。
  二人とも女の子だった。
  貯水槽の中に散らばった吐き気を誘発する人の残骸はもっともっともっと多かったが、たった二人しか生き残らなかった。
  二人も生き残ってくれたと喜ぶべきか。二人しか残らなかったと悲しむべきか。キャスターの凶行をついさっき目の当たりにしたばかりで咄嗟に答えを出せなかった。あれはあまりにも衝撃的すぎたから―――。
  代わりに二人の少女が生き残った意味を考える。
  男と違い、『女』は体内に命を宿せる。キャスターはその命を冒涜し、その体を弄び、その尊厳を蹂躙する。そうやってより長く『命』を苦しませる為に男の子を先に殺して女の子を生き長らえさせたのではなかろうか?
  キャスターとそのマスターの行動原理を考えれば考える程に気分が悪くなりそうだったので、それ以上考えるのを止めた。子供二人分の重さをほんの少しだけ忘れられたのは良かったが、代わりに気分が悪くなったら意味が無い。
  「ほれ坊主、さっさとせんか」
  「判っ・・・て、・・・る、よ!」
  応じながら何とか子供達を御者台の後ろから乗り込ませることに成功し、ウェイバーにとっての重労働は終わりを迎える。とっとと御者台の上で佇んで、しかも手綱を握り出発準備を整えたライダーに向けてつい恨みがましい目を向けてしまう。
  余裕があるなら手伝ってくれてもよかったのに、と。
  だがライダーが急かす理由にも納得している。何しろキャスター不在かと思えば、暗闇に潜む複数のアサシンが現れたのだ。
  この場の雰囲気こそ静謐なモノに作り替えられたが、敵がいないと決まった訳ではない。アサシンがもう一度攻撃を仕掛けてくる前に、さっさと移動しなければならない。だからこそ、緑色のクリスタルについても後に回しているのだから。
  「乗ったぞライダー。後ろに気絶してるのが三人もいるんだから、安全運転で行けよ。いいな」
  「言われんでも、わかっとるわい」
  ライダーが手綱を打ち鳴らすと、二頭の雷牛が一声いなないた。そしてキャスターの工房への突貫よりも緩やかで―――けれど人の全力疾走に近い早さで外へと向かっていく。キャスターの呼びだした魔物を蹴散らした時の凶暴さは薄かったが、それでも振動は消えない。
  揺れ動く御者台の上でも起きる気配のない三人。一番後ろに陣取って彼らが落ちないように気を配っていると、今更ながら眼を覚まさない子供の一人が裸である事実を思いだす。
  一緒に持ってきた服がそこにあるのだから、何とかその子に服を着せようと動き始めるのは自然な選択だ。いくら幼いとはいえ、女の子をいつまでも裸体のままでいさせるのは人としてどうだろう。
  自分は魔術師だが、『魔術師』のサーヴァントとして聖杯戦争に召喚されたキャスターとは違うと自負がある。あの醜悪な光景を嬉々として作り出すサーヴァントと同列にはなりたくない、そんな思いもあって女の子に服を着せる事には何の躊躇もなかった。それに夜の冬木は寒いので服の一枚があるとないとはで大きな違いだ。
  しかし、いくら自分の身長より更に小さい幼女とはいえ、気絶した人間に服を着せる経験など皆無。
  運ぶ時は体力の意味で難儀して、今度は『どうやればいい?』と未知の領域に踏み込んでしまう。服の作りが簡単な事と、上半身を起こして支える位なら片腕で出来るのが幸いし、着せるのには苦労しても判らなくなる自体は避けられた。
  ただしやった事ない作業はそれが何であれ苦難の道のりだと改めて思い知る。
  「ん?」
  まずは上着を着せよう、そう思いながら片腕で女の子を体を起こしながら、袖に手を通そうとした時。上着の胸ポケットから手のひらに収まる小さな物が零れ落ちた。
  それは御者台の上で止まって、地面に落下したりはしなかった。もし落ちたら回収する為に撤退中のライダーの宝具を止めなければならない。そんな事は出来ないので、落ちなかったのは運がいい。
  拾い上げて見ると、その小さな物体は名札だった。小学校の名前と校章と思わしきマークが描いてあり、その隣にしっかりと名前が記されている。
  学校の行き帰りに誘拐されたのか。それともポケットに入れたまま忘れていて、その状態で連れてこられたか。
  この服が女の子の物である確証はまだないが、本当の持ち主であればポケットの中にあった名札も女の子の物になる。つまり書かれている名前がこの子の名前である可能性は比較的高い。
  「・・・コトネ?」
  女の子の親はきっとキャスターに連れ去られた娘の無事を願っているに違いない。
  自分達は聖杯戦争の真っただ中、しかも、キャスターが不在だった上に、カイエンによって拠点が清められてしまったので、収穫はほとんどなかった。しかし女の子が二人助かった事実が出来上がったので、何とかしてやりたいという思いが心の中に生まれてきた。
  巻き込まれた一般人として教会に保護を頼むなら、冬木教会にいる監督役の璃正神父に女の子達を委ねればいい。あるいは、ライダーと共にこの子を家へと送り届けるのならば、この名札は重要な手掛かりとなる。
  どちらにせよ知っていると知らないとの間には巨大な隔たりがあるので、僅かな情報であろうとも今はありがたかった。名前が判ったのもある意味で収穫だ、そうキャスターの情報のなさと現状とをすり替えて誤魔化し、気絶した女の子に服を着せる作業を続行する。
  「む、と・・・よっ・・・。着る方に意識が無いと難しいな」
  僕に幼い女の子に欲情する趣味嗜好は無いが。真実がどうあれ、他人から見られた場合の絵面が非常に危険なモノだと気付いたのは少しだけ後の事―――。




  ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆



  Side - ????





  言葉を口にした事は一度もない。
  自分の名前を呼ばれた事は一度もない。
  胸を張って『これが自分だ』と堂々と言える事は一つもない。
  それでも生きてる。
  どうしてこんな事をするの?
  どうして痛い事をするの?
  どうして傷つけられるの?
  問いかけても答えは返ってこなかった。
  何度も何度も何度も何度も口にしようとして―――それでも私の口は言葉を発しない。
  問いかけそのものが出ていないと気付いたのはいつかわからない。
  それでも。それでも。私は生きてる。
  誰かが言った。
  「お前など、口を塞ぐ以外に使い道はない。存在を認められるだけで幸せに思え」
  別の誰かが言った。
  「我らの誰よりもお前は役立たずだ。だからこそ使い道があるとも言える」
  また別の誰かが言った。
  「知らぬままであり続けろ。それこそがお前がいる理由だ――、お前がこの世界に認められた証だ」
  よく判らなかった。でもそれが酷い言葉だって事は何となくわかった。
  だからすごく嫌だった。
  誰かの声を聞くのが、すごくすごく嫌だった。
  言いたかった。
  私はここにいる、って。
  言いたかった。
  私は役立たずなんかじゃない、って。
  言いたかった。
  どうして私に酷い事を言うの? って
  でも私の口は何も喋ってくれない。
  私の周りには酷い人しかいない。―――誰か助けて。
  私の周りには悪口ばかり。―――誰か助けて。
  私は優しくしてくれる人が欲しい。―――誰か助けて。
  助けて、助けて、助けて。
  ねえ、どうしてあなたは私に酷い事をするの?
  「さっさと白状しろ、貴様が―――の情報を持っている事は調べがついている」
  何の事かわからないよ。
  「爪の一本や二本、剥げば口も軽くなるか?」
  わからないの。
  「喋れないって言うつもりか? 俺達がそんな嘘に騙される馬鹿に見えるのか、この野郎!!」
  私にはわからない。
  喋りたくても私の口は何も言えないの。
  痛いのは嫌。
  苦しいのは嫌。
  辛いのは嫌。
  悲しいのは嫌。
  でも、私はここにいる。私は生きて、ここにいる。
  お願い―――、お願い―――、どうかお願い―――。私に、誰か私に、優しくして―――。
  私を一人にしないで・・・。



  ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆



  Side - 遠坂桜





  私はティナお姉さんと一緒にいる。ミシディアうさぎ達とも一緒にいる。雁夜おじさんはこのブラックジャック号じゃない別の場所で頑張っていて、私はお留守番をしてる。
  初めて会う大人の人と一緒に。
  ずっとずっと傍にいてくれたミシディアうさぎのみんなと一緒に。
  「・・・・・・」
  ティナお姉さんは微笑みながら私の傍にいてくれる。ゼロを抱きしめた時みたいに、暖かい気持ちにしてくれる。
  『1』、『5』、『7』。アンとファフとナナはそっと寄り添ってくれる。ティナお姉さんもすぐ横で一緒にいてくれる。
  初めて会う人。でもティナお姉さんはゴゴが変身した姿だから、初めてじゃない人。
  同じゴゴだって聞いたけど、私には別の人に見える。
  だからきっとゴゴとティナお姉さんは同じだけと別の人。ゴゴはゴゴ、ティナお姉さんはティナお姉さん。
  私が『3』のトレスの背中の毛を触りながらそっと横目で見ると、ティナお姉さんは微笑みながら私を見ていた。
  私を知っている目で私を見てた。
  なんだか恥ずかしくてつい目をそらしてしまう。
  目が合わせられないけど、話は出来る。
  「ねえ・・・、ティナお姉さん」
  「なあに? 桜ちゃん」
  「雁夜おじさん・・・。大丈夫かな?」
  「心配ならゼロと感覚を繋げてそこから冬木市に散らばってるミシディアうさぎ達に同調すればいいわ。雁夜たちの傍にいる子に繋げられれば、見れる筈よ」
  ティナお姉さんはそう言いながら、『8』のユインを持ち上げて膝の上に持って行った。
  右手がユインの首筋を撫でてる。
  左手が私の方に伸びて来て抱き寄せてくれた。
  暖かい。肩に触れた手が、私の頭が触れた所が全部暖かい。
  「桜ちゃんには少し難しいかもしれないけど、ゼロと触れ合った時間は誰よりも長い慣れがある。コツを掴めば、きっとすぐに出来るわ」
  「そう、なの?」
  「うん。桜ちゃんは出来る子よ、私には判るわ」
  そう言ったら、ティナお姉さんは私の肩に当てた手を頭に伸ばしてくれた。
  撫でてくれる箇所が暖かい。何度も何度も撫でてくれるのが暖かい。
  傍にいるミシディアうさぎとは同じだけど違う暖かさだった。抱いたゼロの暖かさとも同じだけど違った。人の手の暖かさだった。
  「でも今日はもう遅いから、明日にしない? 桜ちゃんも眠いでしょう」
  「うん・・・」
  ティナお姉さんの手に撫でられると段々と眠くなっていく。まるで魔法にかかったみたいに眠くなっていく。
  大きなあくびが出たから、慌てて手で隠した。
  ティナお姉さんの微笑む顔が見える。
  触れ合った所がやっぱり暖かい。だから私は考えちゃう。
  ねえお母さま、お父さま、お姉ちゃん。どうして、私を間桐にやったの? 私はいらない子なの?
  本当のことを確かめるのが怖い。お母さまから聞くのが怖い。知るのが怖い。
  でも知りたいの。
  この一年、何度も何度も考えた。
  私は―――知りたいの。





  ブラックジャック号の柔らかな椅子の上で横になった私は夢を見た。
  布団は無かったけど、ミシディアうさぎ達が一緒に寝てくれるから寒くない。
  空の上は寒かったけど、ブラックジャック号の中は寒くない。
  それにティナお姉さんがずっと傍にいてくれたから寒くない。
  私は夢を見た。暖かさに包まれながら、夢を見た。
  雁夜おじさんが士郎って名前の男の子を家に送り届けていた。雁夜おじさんに背負われている男の子は見えたけど、家の中から現れた両親の顔は見えなかった。
  だって知らないんだから見えなくても仕方ない。
  子供を心配する両親がそこにいて、私はそれを夢で見ていた。
  それは家族の姿―――。
  場面が切り替わって一年前に少し会っただけの人が現れた。
  その人の名前は間桐鶴野。もう顔も姿もどんな人だったかもほとんど思い出せないけど、夢の中ではその人が間桐鶴野だってわかった。
  鶴野おじさんは私と同じ位の男の子と手を繋いで歩いていた。
  後ろ姿しか見えなかったけど、ワカメみたいな髪の毛が似ている。
  雁夜おじさんが言ってた。俺からは甥っ子になるのか、兄貴には子供がいてな、もう会わないだろうけど・・・って。きっとあの子がそうなんだ。
  やっぱりその子の顔も見えなかった。だって私はその子の事を何も知らない。
  でもそれも家族の姿―――。
  また場面が切り替わって市民公園が見えた。
  懐かしい場所。
  一年間、近づかなかった場所。
  行けなかった場所。
  私より小さな子供を肩車するお父さんみたいな人がいた。
  草場に座ってアルプス一万尺を口ずさみながら手遊びをしているお母さんと女の子がいた。
  犬と駆けっこする私より少し大きな男の子が居て、遠くから両親みたいな人が何かを言っていた。
  沢山の家族の姿が、色々な家族の姿が、別々の家族の姿が―――見える。
  そして遠坂邸が目の前に現れた。
  市民公園と同じように一年の間に一度も見なかった遠坂邸。それでも心に思い描く風景は消えずにあり続ける。
  そこにはお父さまがいた、お母さまもいた、お姉ちゃんもいた。
  それは私が居なくても成立していた家族の姿―――。
  私はそれを見ていた。
  観ていた。


  ミ テ イ タ。


  気がつけば私の胸から黒いモノが溢れていた、それは指を切った時に出てくる小さな血みたいに私の中からどんどん溢れてくる。
  痛くない。
  冷たくない。
  苦しくない
  暖かくない。
  これは私の一部なんだって判ってた。きっと魔力ってこれの事なんだろう。
  その黒いモノはどんどんと溢れて夢の中を黒く染めて行く。遠坂邸が埋め尽くされていく、市民公園が埋め尽くされていく、冬木市が黒で染まっていく。
  私はそれを見ていた。
  ブラックジャック号から見た、空に浮かぶ視点から黒く染まる町を見下ろしていた。
  家が黒く染まった、道路が黒く染まった、灯りが黒く染まった、川が黒く染まった、橋が黒く染まった、山が黒く染まった、海が黒く染まった、空が黒く染まった、太陽も黒く染まった。
  世界が黒く染まった。
  私は一人ぼっちだった。
  何もかもが黒く染まった世界で私は右を向く。
  そこには雁夜おじさんが立っていた。
  雁夜おじさんが私の左側を指さしていたので、今度は左を向く。
  そこにはゴゴが立っていた。
  ゴゴが足元を指さしていたので、今度は下を見た。
  私は沢山のミシディアうさぎに囲まれていた。顔をあげたら、目の前にティナお姉さんがいた。
  お父さまも、お母さまも、お姉ちゃんも黒く染まった。でも、この人達は黒く染まらずに私の傍にいてくれる。
  これも家族の姿?
  そこで私の夢は急に終わる。
  まだ目は覚めなかった。



  ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆



  Side - ウェイバー・ベルベット





  貯水槽から脱出した僕たちは、向こう岸の川辺へと一旦移動した。そこはキャスターの工房に特攻するより前、カイエンがいた場所だ。
  開かれた場所の上に、遠くにある街灯の灯りや月光などが合わさって周囲がよく見通せる。距離があると遠くは見えないが、とりあえずアサシンが隠れられるような遮蔽物が周りに無いのが重要で、一息つく場所としてはそれほど悪くは無い。
  カイエンがここにいたのは誰かが接近すればすぐに気付ける場所だからではないだろうか? 何となくそんな事を考えながら御者台の上に寝かされた三人を見る。
  一人はそのカイエン。残る二人は貯水槽で治された女の子二人だ。
  「しっかし、息がつまる場所だったわい」
  「・・・全然、気にしなかったくせに、よく言うよ」
  自分はキャスターとそのマスターが作り出した凶行の結果に思いっきり嘔吐してしまったが、ライダーは意に介さずにアサシンを撃退した。ライダーの言う『息がつまる』とは到底見えなかったので、ついライダーに聞こえないように毒づいてしまう。
  「で? お前はこれからどうするつもりなんだ、ライダー」
  「言ったであろう、まずは盛大に飲み明かして鬱憤を晴らす。既に場所は選んでおるので、後は酒を調達すればよい」
  「・・・・・・念のために聞いておくけど、その酒はどうするつもり何だ?」
  「無論、征服王の略奪を――」
  「するな! それ位だったら買ってやるから、余計な騒ぎを増やすな!!」
  ライダーが場所を決めた一杯やる場所は気になったが、ライダーが一度決めたらそれを覆すのは僕にはほとんど不可能なので早々に諦める。代わりに酒の方に意識を向けたのだが、この大男は召喚された時に図書館からホメロスの詩集と世界地図を盗み出したのと同じ事をやろうとしているのだ。
  ただでさえ聖杯戦争がらみで冬木市の警戒は厳重になっている。魔術を駆使すればそんな表の世界の包囲網など簡単に抜けられるだろうが、無用な騒動など最初から起こさないに限る。
  XLサイズのウォッシュジーンズに引き続いて出費がかさむのは痛手だが、警察組織を敵に回すのに比べたらまだマシだ。
  なお―――この時のウェイバーはライダーが手に入れようとしている酒が酒樽に入った上等な酒で、XLサイズのウォッシュジーンズなど比べ物にならないほどに財布の中身が消し飛んでしまうのをまだ知らない―――。
  とにかくキャスターの工房への襲撃が失敗に終わった時点で、今回の奇襲は終わってしまった。後はライダーが余計な事をしないように『盛大に飲み明かす』の監視をして、気絶している三人をどうすべきかだ。
  「・・・・・・・・・」
  御者台の上に横たわる誰もがただ眠っているようにしか見えず。ほんの少し前まで魔術道具を使ったようにも、体を極限まで破壊されて死にかけていたようにも見えない。
  だが僕は知っている。
  一人は見た事のない強力な魔術道具を使って二人の女の子を癒し、治し、清め、燃やした。そしてその二人は傷一つない体で蘇ったのだ。
  撤退する時もそうだったが、あの魔術道具は非常に気になる。治された女の子達の経過も非常に気になる。あれは確実に『魔術によって治された』ので、その結果がどんなモノであるか魔術師であれば絶対に知りたいと思う筈だ。
  今、自分は何をすべきかを考える。
  魔術師ウェイバー・ベルベットは考える。
  「・・・・・・・・・」
  沈黙を作りながら、もう一度三人の顔を見下ろした。そして自分がすべき事を定め、ライダーへと話しかける。
  「ライダー」
  「どうした、坊主」
  「――女の子たちを家に届けるから、酒の前に協力しろよ」
  「何だ坊主。ずいぶんとあのクリスタルに心奪われておったから、てっきりその子らも調べるのかと思っとったぞ」
  「そんな事したら、僕はキャスターと同じになる。あまり僕を見縊るなよ、ライダー」
  「ほう――、坊主のくせに中々言うではないか」
  ライダーの言葉に堂々と返したが、魔術行使の結果が気になるのは紛れもない本心で、言われるまでもなく調べられるなら調べたいと思っていた。
  だが肝心のクリスタルを持っているカイエンはそこにいて、あの様子ではしばらく同行する羽目になりそうだったから、魔術道具そのものへの追究を行えるチャンスがある。何よりライダーは、いや、征服王イスカンダルの前で無様な真似をしたくない心が存在し、強くありたいと心が叫ぶのだ。
  きっと子供たちを魔術の探究目的で調べようとすればライダーは止める。そう思うからこそ、女の子たちは早く家族の元へと返すべきだと思った。
  未遠川を調べる為にライダーに渡した地図をもう一度取り出し、さっき見た名札の学校の名前を探す。夜の中で薄暗い灯りの中では探すのが難しかったが、一分もかからずに学校の場所を見つけた。
  この国の初等学校の教育は、学校の近隣地区の年齢を満たした子供が半ば自動的に入学する仕組みをとっているので、子供の家も学校の近辺にあるだろうと予測をつける。
  「ライダー。とりあえずこの辺りに向かうぞ」
  「貴様はそれでいいのか?」
  「もし誘拐された子供の親だったら・・・・・・、少しでも早く子供に会いたいって思うだろ」
  他の魔術師が聞けば、『何を甘い事を言ってるんだ?』と正気を疑われそうな事を言いながらも、それが自分の偽りのない本心だと強く自覚する。
  そして脳裏の片隅に自分が暗示をかけて潜り込んでいるマッケンジー夫妻の笑顔が浮かぶ。偽りの孫である自分に向けているあの顔が曇るのは見たくなかった。ふと、そんな気分になる。





  名札一つで所在を確かめる。これが地理に明るい地元に住人ならば簡単に行える事かもしれないが、冬木市に来て日が浅いウェイバーにとっては想像以上の難業となる。それこそ『まず何をする?』と自らの行動を振り返らなければならないほどだ。
  ライダーの飛行宝具によって、とりあえず名札から女の子が通っていると思われる学校にまではあっという間に辿り着けた。しかし、問題はここからだ。何をどうやって女の子たちの帰るべき家を探すべきか。
  これが日中だったならばそこいらにいる近所の住人に話を聞けばよかったかもしれないが、今は夜。しかもキャスターとそのマスターの凶行と、聖杯戦争の被害で、夜を出歩く人間は激減した。
  駅などの往来が激しい場所や大通りはその限りではないが、少し人通りの少ない場所に入り込めば人気のない墓所に似た様子を作り出している。何の変哲もない住宅街に全く人気のない場所になっていた。これこそが自分達がやっている聖杯戦争の作り出した暗部なのだと語りかけてくるようだ。
  ライダーの宝具が道路に降り立っても見咎められないのはありがたかったが、人がいない様子は夜の暗さをいっそう不気味なモノに作り替えている。
  貯水槽で見た暗闇とは別種の闇。それに呑み込まれそうな気持ちを味わいながら道に佇んでいると、電信柱の一本に張り付けられた紙が目に飛び込んできた。
  「ん?」
  当てもなかったのでとりあえず気を紛らわせる為にそれを見る。するとそこには『探しています』と大きい文字が書かれていた。
  更によく見れば、その貼り紙は誰かのお手製で作られた物らしく。連絡先となる住所と電話番号がしっかりと明記されている。『探しています』の文字と連絡先との間に挟まれた写真は見た事のない男児の顔が写っていたので、おそらく誘拐された子供達の親の誰かが作った物だ。
  警察にも任せているだろうが、それだけでは不足したと思った誰かが自分たちで行動を起こしたに違いない。
  彼らに直接的な繋がりは無くても、『同じ誘拐された親』であるならば、何らかの繋がりが合っても不思議はない。たとえば、もし誘拐された子供が一人でも見つかったら連絡を取り合おう、とか。
  僕は運がいい、そう思った。
  たまたま降り立った所で気絶した女の子たちを送り届ける手がかりに出会えた。それはまるで憎きケイネスの元に届く筈だった、さる英雄ゆかりの聖遺物―――征服王イスカンダルのマントの切れ端がウェイバー・ベルベットの手の中に舞い降りた時にもあった、降って湧いたような幸運だ。
  やはり僕には幸運の女神が微笑んでいる。そう確信すると同時に早速その住所に女の子たちを届けようと決める。
  再び学校の位置を調べる為の地図を広げて位置を確認し、それほど時間をかけずにライダーの宝具で移動を開始。あっという間に目的の場所に辿り着いたので、ライダーを少し離れた位置で待機させて女の子たちを届ける為に小脇に抱えた。
  貯水槽でも味わったのだが、子供と言えど、気絶した人間の重さはかなりの重量となる。それでも何とか気合を入れて、女の子たちを目的の家の柵に背中を預けた。
  後はチャイムを鳴らして『外に誰かいる』と家主に教えればいい。押すと同時にウェイバーだけ撤退、離れた位置で待機しているライダーの宝具に乗って一気に離脱すればそれで終わる。
  同じことを警察にやるのも考えたが、あちらは『個人』ではなく『組織』なので、僅かでも見咎められればこちらが誘拐犯にされて追手を差し向けられかねない。犯人はキャスターとそのマスターだが、古代マケドニアの鎧姿をしているライダーの格好も怪しさでは引けを取らない。
  早く済ませて逃げよう。そう思いながら二人目の女の子を柵にもたれかけた所で問題が発生した。
  一つの名札から一人の女の子の所在が発覚した、二人目の女の子の所在もそこである確証は無かったが、先程も考えた通り『誘拐された子供の親』ならば、起こった結果から繋がりが出来ている筈。
  自分は女の子を二人ともその『誘拐された子供の親』に委ねるつもりだった。夜の寒空の下に放置するのは非常に気は退けたのだが、早く見つけてもらえるように手を打つのでそこは勘弁してもらいたい。
  一人は問題なくコンクリートの壁に背を預けさせることが出来た。が、もう一人を同じようにやるつもりだったのだが、離れようとした時にその問題が発覚した。
  一体いつからそうだったのかは判らない。だが、二人目の女の子はウェイバーがその場を離れようとした時に上着の裾をがっちりと掴んで離さなかった。名札に書かれていた『コトネ』という名の女の子ではない、膝下まである白のワンピースを着た女の子の方だ。
  当然、僕は女の子の手を力ずくで解いてこの場を脱するつもりだった。
  握られた上着の裾に両手を伸ばして女の子の手を開こうとしたのだが―――、何故かその子の手は万力のように上着を掴んで離さない。両手掛かりで上着の裾を握る女の子の片手を離そうとしても、ビクともしない。
  女の子を二人も運ぶので体力を使い果たしたか?
  僕は女の子の力を解けないぐらい貧弱なのか?
  疑問を覚えながらも上着を脱いで逃げる方法を考えたが、そうなるとマッケンジー夫妻の孫として冬木市に入り込んでいる『いない人間』の痕跡をここに残すことになる。服一枚で所在が明るみになるとは思わないが、その上着を誘拐犯の重要な手がかりとしてもおかしくない。
  考えながらも女の子の指を解こうと必死になったが、やはり女の子の指は僕の上着をがっちりつかんで離してくれなかった。
  困った、ものすごく困った。
  見た目とは大きく異なる、人以外に何かのようだ―――。そんな疑念がほんの少しだけ浮かんだが、近くから聞こえてくる物音で考えるどころではなくなる。
  「げっ!!」
  今まさにチャイムを鳴らして知らせようとしていた家から誰かが出てこようとしている。どうやら必死になって指を外そうとする物音を聞きつけ、何らかの異常だと思ってしまったらしい。
  ここに居たら、僕が誘拐犯にされてしまう。出てくる前に女の子の指をはがして逃げられるか? そう考えた次の瞬間、ウェイバーの手は上着を掴んだ女の子を抱き上げていた。
  足は逃走の為に費やされ、全身の筋肉が『女の子を運ぶ』ために動く。疲れている筈の体は疲労など全く感じさせずに軽快に動いたが、頭の中は『何をやってるんだ僕は!!』と後悔の嵐が吹き荒れた。
  当然ながら一人で走るよりも女の子を抱きかかえて走る方が遅く、ウェイバーには誰かを抱いたまま走るなんて経験は皆無だ。
  見つかった時の恐怖に押されて女の子を抱き上げて走りだせたが。元々多くない体力が一気に消耗していく、おそらく僅かでも立ち止まればそこで走れなくなってしまうだろう。
  もう『引き返して置いてくる』なんて選択は選べず、ただひたすらにライダーが待つ通りの角の向こう側を目指すしかなかった。
  走る。
  駆ける。
  動く。
  多分、ライダーのせいで図書館から逃げ出した時よりも必死だ。
  お陰でライダーの宝具が待っている場所まで何とか辿り着けたが、御者台の後ろから乗り込んだ自分を待っていたのは、ライダーの呆れた顔だった。
  「おい坊主」
  「な、ん・・・だよ・・・」
  「貴様、あの子らを探している者達に委ねるのではなかったのか? どうしてまだ連れておる」
  「いろ、いろ――あったんだよ!」
  「さては、送り届けるつもりで失敗しおったな? 二人目を預けようとした所で邪魔が入り、連れ帰るしかなかった。といった所か」
  「う・・・」
  見てない筈なのにライダーは見事に僕の行動を言い当ててくる。何か反論したかったが、ライダーの言い分があまりにも正しかったので、逆に何も言い返せなくなってしまう。
  それでもライダーの反抗心から、口からは言葉が出た。正論だからこそ言われると余計に腹が立つ。
  「もたもたするな! とにかく今は逃げるんだよ!」
  「見苦しいぞ坊主。まるで盗人か何かのようではないか」
  「いいから出発。行け、行けぇ!!」
  女の子が本当に親元へと送り届けられたのかを確かめる余裕など無く、ライダーの飛行宝具が空に向けて飛び立った時は安堵のあまり深くため息をついてしまった。
  自分の大声が余計に周囲の注目を集める危険を犯していたのも、後になってようやく思い当たれた。つまりそれだけ考える余裕が無かったと言う事だ。
  力無く御者台の床の上に座り、抱き上げていた女の子を横に降ろす。当然ながら、上着の裾を掴む手はそのままで、全く外れる気配を見せない。
  「なん――、なん、だよ。この子は・・・」
  粗い呼吸を繰り返しながら呟いてみるが、女の子からの返答は無い。気を失っている筈なのに、その手だけが『離さない―――』と自己主張するようにしっかりと握りこまれるだけだ。
  応えない女の子の代わりに、手綱を握るライダーの声が聞こえてきた。
  「では坊主、次は余の番だ。酒を買いに行くぞ」
  「この子はどうするんだよ」
  「後にせい」
  一言でバッサリと切り捨てられてしまい、それ以上は何も言えなかった。



  ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆



  Side - ????




  私を暗闇の世界に縛り付けている何かがいる。
  私はそれに気付いたけど、その『何か』がどんな形をして、どんな生き物なのかは判らない。
  どうして私をこの世界に囚えているかもわからない。どうして私を怖い人の前に出すのかもわからない。
  でも『何か』がいる。それだけはわかっていた。
  私はずっとその『何か』に邪魔されて、二つしかない世界に囚われている。
  ずっと苦しさと、悲しさと、辛さと、不幸と、痛みを味わっている。
  その『何か』は怖い顔をして痛い事をする男の人かもしれない。
  わからなかった。
  その『何か』は時々聞こえてくる誰かの声かもしれない。
  わからなかった。
  その『何か』は暗闇の世界そのものかもしれない。
  わからなかった。
  何もかもがわからなかった。
  私はずっと暗闇の世界に囚われてる。
  『何か』が邪魔して、そこから出られない。
  ずっと。
  ずっと。
  ずっと。
  ずっと。
  ずっと。
  ずっと。
  ずっと。
  ずっと―――。





  ある時、不意に『何か』が消えたのを感じた。
  何でそうなったのかはわからない。でも『何か』は消えて暗闇の世界がほつれていくのはわかった。
  そして光が見えた。
  紅い光。
  綺麗な光。
  明るい光。
  炎みたいな光。
  その光は暗闇を消し飛ばした。私を囚えていた暗闇の世界を消し去った。
  そこには私を睨みつける怖い人達はいなかった。私を傷つける酷い人はいなかった。見た事のない大きな大きな世界が広がっていた。
  私は光に導かれて出口を目指す。
  怖い人のいない、暗い闇もない、光を目指す。
  そして私は暖かい何かに触れた。
  それはこれまで感じた事のない暖かい何かで、柔らかくてすべすべしていた。
  私はそれを逃がさないように握りしめた。
  私はもうあの怖い場所に戻りたくない。
  ねえ、これは何?
  それとも、あなたは誰?
  あの光は何?
  私はそれを離さない。
  私はそれを逃がさない。
  私はそれを―――。



  ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆



  Side - ゴゴ





  間桐邸の蟲蔵でアサシンを弄んでいる間桐臓硯でも、ブラックジャック号で眠る桜ちゃんの傍にいるティナ・ブランフォードでも、雁夜に同行しているロック・コールでもセリス・シェールでもなく。冬木市に出陣したエドガー・ロニ・フィガロとも違う別の意識が眠りから目を覚ます。
  それは一気に魔力を使いきった衝撃から目を覚ましたカイエン・ガラモンドとしての自分。
  目覚めたカイエンが見たのは夜の冬木市の街並み―――。そして街灯に照らされた長椅子の上に並んで座るウェイバー・ベルベットと見知らぬ少女だった。
  どうやら自分は長椅子の端で背もたれに肩を預けた状態で横を向いているようだ。腰にあり鞘に収まった『風切りの刃』の感触を感じつつ、体をほぐすように背もたれに背中をあずけ直し、顔だけを隣に向けた所で相手から話しかけられる。
  「起きたか」
  「ウェイバー殿・・・でござるか?」
  「他に誰に見えるんだよ」
  「――見知らぬ女子といるので、一瞬、誰かと疑ってしまったでござるよ」
  「お前が助けた子だろうが!!」
  そうウェイバーが怒鳴ると、彼は上着を少しだけ持ち上げてカイエンの目にも見えるように掲げた。そこには裾を握る娘の手があり、ウェイバーが上着を持ち上げてもしっかりとついてくる。
  目に見える限りでは眠っている様に見えるが、手だけは別の生き物のように上着を握りしめている。
  「何でかは知らないが、こうやって僕の服を握ったまま離さないんだ。自分で助けておいて顔を忘れるのはどうかと思うけどな」
  「何と、ではその女子が・・・」
  「そうだよ」
  「――はて。『フェニックス』で蘇った子供は二人ではござらぬか?」
  「も・・・、もう一人は親元に届けたから心配するなよ。運よく、その子の名札が合って家がどこにあるか判ったんだ」
  「そうでござったか・・・。拙者が気絶している間に力を尽くして頂き、かたじけないでござる」
  「わ、判ればいいんだよ、うん、判れば・・・」
  挙動不審な態度は明らかに『何か隠してます』と言わんばかりだが、言葉からは嘘を言っている風の様子は感じられなかった。何か家に送り届ける時に話に出来ない大きな失敗でもやらかしたか―――。ウェイバーのどもる言葉にそう結論付け、一応は納得しながら残った娘の方に意識を向ける。
  娘の髪の毛は肩よりも伸びた紫色に近い黒だ。
  浅黒い肌を膝下まである白のワンピースで覆い、傷一つない様子から魔石『フェニックス』の効果が十分に発揮されて、完全に治癒したのだと判る。
  だがカイエンはその娘をジッと見つめ、ある違和感に辿り着いてしまった。最初は勘違いかとも思ったが、注意深く見ればそれは決定的な違いとなって見えてしまい、強烈な危機感を生み出す。
  服を掴まれたウェイバーはそれに気付いていないのか、顔をあげて見ても動じた様子は無い。
  その違いに気付いていないのか。あるいは気付いた上で受け入れているのか。おそらく前者であろうと思っていると。唐突に顔を見上げられたからか、ウェイバーが話しかけてきた。
  「今、ライダーは酒盛りをやるからって僕の財布を持っていって買い物をしてる。さすがに街中をあの宝具で移動する訳には行かないから、待ってる所だよ」
  「宝具・・・? ああ、あの見事な戦車でござるな。近くに見当たらぬがどこでござるか?」
  「・・・・・・ライダーが、その――。別空間にしまってる――」
  「うーむ。あれだけ大きな物が出し入れ自由とは便利でござるな」
  「それだけかよ!! 宝具だぞ。別空間だぞ。空飛んだんだぞ。他に言う事は無いのかよ!!」
  「この世の中には奇妙奇天烈な出来事が数多くあるでござる。イスカンダル殿の戦車が出し入れ自由な代物であっても、大した事ではござらん。それに拙者はもっと多くの不可解な出来事を体験しているでござるよ、イスカンダル殿が戻ってくるまで聞くでござるか?」
  「いや・・・いい」
  カイエンがあまりにも気に無さ過ぎるので、逆にウェイバーは肩透かしを喰らって背もたれに背中を預けた。
  空を仰ぎ見る様子は『もうやってられない』と語っているようで、キャスターの工房への特攻以外にも、疲労が積み重なっている様に見える。
 今のカイエンはゴゴとしての知識と経験が根底にあるので、イスカンダルの宝具『神威の車輪ゴルディアス・ホイール』は初見ではない。その上、飛空艇ブラックジャック号を手軽に作り出して、楽々と空を飛んで、その上透明にするのを別の自分が普通にやっている状態なのだ。今更、ライダーの宝具が別空間に保管されていると聞いても驚くに値しない。
  カイエンの驚きが少ない理由を説明出来れば納得してくれるかもしれないが、それは他のマスターに知られては困る情報なので言えなかった。
  何となく悪い気をした気になりながら、腰の後ろ側にある袋に手を伸ばす。自分の体と椅子との間に挟まれていたそこには物が入っている感触があり、手を突っ込んで引き出してみると魔石が出てきた。
  手に握った状態で気を失ったので、わざわざ袋の中に入れてくれた者がいたと言う事。
  隣に座るウェイバーか、あるいはこの場にはいない征服王イスカンダルか。どちらでもありえそうだな―――と思いながら、魔石を握りしめていると。空を見上げたままの姿勢でウェイバーが話しかけてくる。
  「なぁ・・・」
  「何でござるか?」
  「今、手に持ってる『それ』。いったい、何なんだ?」
  この世界に生きる魔術師であれば、誰であろうとも魔石に興味を示すのは止められない。
  カイエンは子供たちを助ける為に使った『フェニックス』の魔石を握りしめながら、それでも自分から使ってウェイバーの目に晒してしまったのを後悔していなかった。
  ウェイバーの服を強く握りしめる子供に強烈な危機感を抱いたとしても、『命』が救えたのならば悔いはない。
  きっとものすごく知りたがっているであろうウェイバーに答えるべく説明を始める。それはいつでも盗れる状態で、わざわざ荷物の中に戻してくれた御礼の様なものだ。
  「これは『魔石』と呼ばれる神秘のアイテムでござるよ」
  「魔石?」
  「そう――幻獣が死す時、力のみをこの世に残したモノ。それが魔石でござる。ウェイバー殿には幻獣よりも『幻想種』と言い換えた方が馴染み深いかもやもしれぬ」
  「幻想種・・・・・・」
  ウェイバーはカイエンの言葉を聞き逃さないように聞き入っており、目は空に向けられていたが、呟かれる言葉はこれ以上ないほど真剣だ。
  自分の知識とカイエンの言葉を突き合わせて必死に理解しようとしているのだろう。カイエンはそんなウェイバーを横目で見ながら更に話を続ける。
  「まだこの世に幻獣が生きた時代。彼らは自分達の力を後世に託す為に自分達の力を凝縮し、死するその瞬間に『魔石』にしたでござる。この魔石の名は『フェニックス』。聞いた名かもしれぬが不死鳥の力が宿っているでござる。永遠の時を生きると言われる伝説の鳥が『死ぬ』とは、何とも矛盾しているでござるな」
  嘘もあり真実もある。
  だが決して大きく間違ってもいない説明が続く。
  「この魔石に魔力を注ぎ込めば誰でも『フェニックス』を召喚出来るでござる。だが、召喚には多大な魔力を必要として、拙者が使おうとすればたった一度限りで気絶してしまう――。『フェニックス』の魔石は魂を蘇らせる伝説の秘宝と言われているでござる。拙者の未熟な腕ではまだ息のある者を治すことしか出来なかったでござるが・・・、もっと優秀な魔術師であれば失われた命ですら呼び戻せるかもしれないでござるな」
  見るとウェイバーの目がいつの間にか空からカイエンの手の中にある魔石に向けられていた。
  中央にオレンジ色の六芒星を輝かせ、その周囲を緑色のクリスタルで覆った道具―――魔石。
  ただし、単なる物質として存在するのではなく、ゴゴが自分の魔力を使って生成した者だ。
  だからゴゴの意思によって出すと消すは管理される。
  ウェイバーに向けて語る事があった、秘匿して語らない事もあった。
  「魔石を手に入れる方法は大別し、三つ。幻獣を魔石化させる秘技を使い、その命を利用する―――。幻獣達の協力の元、その命が死に絶える瞬間に託される―――。そして魔石を持つ者から魔石を奪う―――。で、ござる。前二つは幻獣がいてこそ可能な選択、今この場でウェイバー殿が可能なのは三つ目でござるが、この魔石は拙者の仲間であるロック殿より借り受けた秘宝。力で奪うのであれば容赦はしないでござるよ」
  「・・・・・・・・・」
  「失言でござった。忘れてほしいでござる」
  するとジッと魔石を見つめるウェイバーがここでようやく声をだす。
  これまでの呟きや独り言の類ではなく、カイエンに向けての問いかけだ。
  「その『魔石』は・・・僕にも使えるのか?」
  「誰でも使えるでござるよ。ただし込める魔力が少なければ『フェニックス』は出てこないでござる。たとえ出てきたとしてもその効果が発揮する対象が傍にいなければ、何の意味もないでござる。不死鳥の血を飲むと不老不死になれる等と言われているでござるが、この『フェニックス』にはそんな力はござらん。ただ癒し、治し、燃やし、清めるだけでござる」
  カイエンの口から『誰にでも使える』と言葉が出た瞬間、魔石を見つめるウェイバーの視線が今まで以上に強くなった気がした。
  魔石を凝視するウェイバーの目が語っている。
  使ってみたい―――、と。
  触れてみたい―――、と。
  召喚してみたい―――、と。
  ウェイバーは新しい玩具を見つけた純粋な子供の様な目で魔石を見つめていた。そこにはカイエンから奪って自分のモノにしようとか、そう言った類の野心は全く感じられない。
  あえて言えば強烈な探究心が渦巻いている。
  カイエンは魔石を持つ手を移動させ、自分の目と魔石とウェイバーの目が一直線になる様にした。そしてウェイバーに向けある言葉を口にする。
  「持ってみるでござるか?」
  「・・・・・・いいのか?」
  「魔力さえ注がなければただの綺麗な石でござるよ」
  「じゃあ――」
  僅かに躊躇いはあったが、それでも魔石に向ける興味が圧倒的に強かったようだ。
  短く返答し、ウェイバーは右手を魔石に伸ばしてくる。触れるのを恐れるようにゆっくりと、けれど、触れてみたいと願う心が彼の腕を止めない。
  そして魔石とウェイバーの指が数センチ程の近距離まで近づく。そのままウェイバーに魔石を手渡そうとしたが、ウェイバーの指が魔石に触れる直前で急に止まる。
  「どうされたか、ウェイバー殿」
  「いや。何か・・・」
  おかしい、と彼が言葉を続ける前に、ウェイバーが下を向いた。
  つられて自分もまた同じように魔石を前にかざした状態で下を見ると―――。そこには目を空けた娘の姿があり、彼女はウェイバーの上着の裾どころか腹部全体を包み込むようにしがみ付いていた。
  いつ起きたのかは定かではないが、この娘がストッパーになっていてウェイバーがそれ以上前に出れなかったのだ。
  カイエンが使った魔石『フェニックス』によって蘇った娘。それは紛れもなくカイエンが助けたかった幼い命。けれど、カイエンの胸に宿っているのは、娘を見た時から感じていた危機感であった。



  ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆



  Side - ライダー





  余は胸板に世界全図を載せたTシャツと坊主が購入した脚絆に着替え、新たな覇者の装束を見せびらかしながら市場へと赴いた。
  既に未遠川の調査の寄り道で酒を売っている店は確認済みだったので、迷うことなくそこに向かう。坊主の財布の大部分を使い、その店にある上等な酒を樽ごと購入。試飲も行ったので、酒宴には満足できる代物だと自信がある。
  加えて、思ってもみなかった者と遭遇して誘えたのは行幸と言える。やはり余の幸運は伊達ではない。
  準備は万全、後は心地よく酔える河岸に向かうのみ―――。そう思いながら坊主共が待つ場所へと戻ってみると、ようやく起きた娘にしがみ付かれ、椅子の上であたふたする坊主がいた。
  同じく目を覚ましたカイエンは何故か椅子から立ち上って距離をとっている。
  「あー、坊主。何をしておる?」
  「お・・・、あ。も、戻ったかライダー」
  そして『助かった』と言わんばかりの困り果てた表情を向けるが、腹に娘をしがみ付かせた状態なので椅子の上から立ち上がれずに座り続けておる。
  我がマスターながらうろたえる様子は見苦しい事この上ない。
  「聞いてくれよライダー。この女の子、僕がどれだけ話しても何も言わなくってさ。失語症なのかな? こっちが言ってる事は伝わってるみたいなんだけど、何を聞いても首を横に振るだけで訳わかんないよ」
  「それがどうして、しがみ付かれる結果に繋がる」
  「カイエンの顔を見たら怖がっちゃったみたいでさ。カイエンが近づくと僕に思いっきりしがみ付いきて苦しいから、距離をとってもらってる」
  小娘に抱きつかれている状態で落ち着く暇もないのだろう。坊主はいつもの虚勢を張った話し方よりも若干幼い喋り方をしている。
  そこで少し離れた位置にまで避難したカイエンを見ると、カイエンは大きく頷いて肯定を示した。
  「その通りでござる。拙者、気付かぬ内に強面で接していたのやもしれぬ」
  「とにかくそういう訳でさっきから離れないんだよ、この子。キャスターに誘拐されて酷い事をされたから、記憶障害とか起こってるのかなぁ?」
  坊主はそう言うと娘を落ち着けるように頭を撫でた。それは坊主らしからぬ行動ではあったが、これまでに何度か繰り返したのか、ぎこちなさから硬さが取れそうであり、撫でられる小娘の方も坊主にしがみ付く力を緩めておる。
  もっとも、小娘が坊主にくっつく状態は変わらぬが―――。
  坊主は誰かの『安心』を得る為に必要とされなかったのか、頼られている状況にまんざらでもなく、顔が緩んでいる。
  キャスターの工房に到着した時に胃の中身を全て吐きだした坊主の様子を見れば、持ち直したと思える状況は喜ぶべきことであろう。
  だが余はその小娘から湧きたつ『あるモノ』を強く感じ取る。
  それは魔力。しかもそれは微弱でありながらも、無関係の第三者が放つモノではあり得ない代物であった。
  小娘からは覇気を全く感じず、見た目通りの幼女にしか見えぬが。放たれる魔力は間違いなくそこにある。
  あまりにも微弱だからこそ坊主はそれに気付いていないのか、あるいは気付いたうえで意図的に無視しているのか。どちらにせよ、この状態は望ましくないので、余は坊主に向けて話す。
  「おい坊主。余はこれよりこの酒を持ち酒宴へと出陣する。その娘を我らの傍においては危険だ、親元に届ける気がないのならばさっさと監督役とやらに委ねるかこの街の治安を守る連中にでも渡せ」
  「それは――」
  「この様な幼子に我らの戦場を共に馳せらせる訳にはいかぬ。その娘の為を思うならばこの場で手放すべきだぞ」
  「・・・・・・」
  聖杯戦争に絡めば何の関係もない子供であっても無残な最期を遂げてしまう。それはキャスターの胸糞悪くなるあの光景を見た坊主もよく知った筈。
  坊主の腕は止まらずに娘の頭を撫で続けているが、小娘を傍に置く危険性を改めて考えているようで、言葉はなく表情も厳粛さを漂わせておる。
  語った言葉が理由の全てではないが、小娘に抱きつかれている状態の坊主に向けてそれを言葉にするのは危険すぎる。何が起こるか判らぬ以上、今はまだ言葉での説得に留めるに限る。
  少しだけ力を無くした坊主を見ていると横からカイエンが近づいてきた。
  「イスカンダル殿――」
  「どうした?」
  鞘に当てた手をそのままに、いつでも刀を抜ける臨戦態勢を維持しているカイエン。
  あの炎を纏った美しい鳥を呼び出した方法が気になったが、坊主以上に真剣な表情を浮かべたカイエンがこちらからの問いかけを封じている。そして指を小さく曲げてこの場から離れるよう示唆してきおった。
  余は坊主の近くでは離せぬ事だと察し、坊主と小娘が座る椅子から距離をとり始める。
  「気付いておられるでござるか?」
  「・・・あの娘だな」
  「そうでござる」
 やはりこの男は只者ではない。こちらから言う前に、坊主にしがみ付いている娘の異常さに気がついたのだ。余は神威の車輪ゴルディアス・ホイールを呼び出す風を装いながら更にカイエンと共に坊主から距離をとる。
  注意深く聞いても坊主の耳では届かない距離、しかし何か異常があれば即座に駆けつけられる間合いを測る。そして完全に坊主からはこちらの会話が聞こえない位置まで移動すると、そこでカイエンが決定的な言葉を口にした。


  「あの女子・・・。姿形は全く別物でござるが――、アサシンでござる」


  「そうだな」
  あの娘から漏れ出している魔力は貯水槽の中で対峙した二人のアサシンの魔力と全く同じであった。
  気配を遮断されている時はほとんど感じない魔力だが、攻撃に転ずる時はどうしても表に出てくる。そして聖杯戦争のサーヴァントは余を含めて等しく魔力を放出する霊的な存在だが、吐き出される魔力はクラスによって大きく異なるのだ。
  言葉で説明するのは困難だが、あえて言うならばセイバーは『静謐』、ランサーは『疾駆』、貯水槽で感じ取ったキャスターの魔力は『醜悪』あるいは『悪徳』とでも言うべきだ。
  「どういう理屈か判らんが、余が殺したアサシンとは別のようだ。殺意どころか、敵意も害意も全く感じん。あれではただの小娘にしか見えんぞ」
  「けれど、あの女子の気配は人のそれとは異なるでござる。気を抜いていい相手ではござらん」
  「敵ならばそれも『あり』なんだがな・・・。あれはどうにもそういうのとは違う気がしてな」
  「・・・・・・実は拙者もあの女子をどうすべきか迷っているでござるよ。警戒してはいるのでござるが――、それが肩透かしを食らう気がするでござる」
  あの娘が坊主を殺したアサシンと同じであったならば、余が戻ってくる前にカイエンは一刀で敵を斬り殺しただろう。それだけの腕の持ち主である上に、暴風を呼び起こした刀は間違いなく聖杯戦争のサーヴァントすら斬れる一振りだ。
  例え相手が幼い子供の姿をしていたとしても敵ならばカイエンは斬る。何よりカイエンこそがアサシンを蘇らせた張本人なのだから、どれだけ苦渋の決断だったとしても、自らで責任をとるだろう。
  しかしそれをしなかったのは余と同じように結論を決めかねているからだ。
  「拙者の刀は敵ならば容赦はせぬが、あのような娘子を斬る刀ではござらん。困ったでござるな・・・」
  「――まずは坊主がどうすべきかそれを見極めてからだ。もうしばらく付き合ってやってくれ」
  「判ったでござる」
 椅子の上で小娘の頭の撫でながら思い悩む坊主を一瞥し、余はキュプリオト族の王からの献上品であり神威の車輪ゴルディアス・ホイールを呼び出す為の剣:スパタを引き抜いた。
  坊主、考える時間は多くはないぞ。
  声なき言葉が余の中で生まれて消えてゆく。



[31538] 第21話 『アイリスフィール・フォン・アインツベルンは善悪を考える』
Name: マンガ男◆da666e53 ID:6a0d9b18
Date: 2012/12/15 11:09
  第21話 『アイリスフィール・フォン・アインツベルンは善悪を考える』



  ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆



  Side - ウェイバー・ベルベット





  聖杯戦争が始まって以来、危険に相対した事は山ほどあった。それでも何とか生き延びている。
  聖杯戦争の目的は『七人の魔術師が七人のサーヴァントを使役して、最後の一人になるまで戦う』であり、その景品が聖杯だ。だから聖杯戦争においての目的を常に念頭に置き、敵対する者たちと相対すれば、基本的に僕の思考は『倒す』に帰結した。聖杯戦争は殺し合いであり、勝者が一人しかいないのであればその考えは当然だ。
  僕のサーヴァントであるライダーことイスカンダルは『征服』を念頭において行動して敵対するサーヴァントであろうともいきなり勧誘したりする。
  その傍若無人ぶりに振り回されて心労を重ねるのは一度や二度では済まなかったけど、何とか慣れが出てきた。慣れたのは、行動が滅茶苦茶ではあってもライダーもまた『聖杯戦争に勝利する』という目的に対して、一応は進んでいるからだ。あくまで『一応』だけど。
  聖杯戦争で死の恐怖やこれまで感じたことのない殺気に何度も何度も体がすくみ、そのたびにライダーの自由奔放ぶりに救われてきた。
  決してそれを言葉にしてライダーに感謝したりしないけど、心の中ではあの巨漢のサーヴァントを非常に頼りにしている。
  そんな状態で舞い込んできた問題は聖杯戦争に関わりはあるが、直接敵対する魔術師やサーヴァントとは関係のない事柄だった。これが、敵の問題や、戦略や戦術の問題ならば、思い悩みこそすれ、何らかの回答をすぐに導き出した。
  時間は有限。無駄に出来る時間はなく。敵に先手を取らせない為に魔術師としての未熟さを頭の回転でカバーしてきた。その自負がある。
  しかし僕は悩んでいた。ウェイバー・ベルベットは物凄く悩んでいた。おそらく聖杯戦争が始まって以来、最も悩んでいると言っても過言ではないほど悩んでいた。
  「・・・・・・・・・」
  どうすべきか?
  何をすべきか?
  何が最善か?
  迷いに揺れ動く僕の目が下を向くと、そこには僕にしがみ付いている少女がいて、見下ろす僕の目とその子の目が合った。





  ライダーが酒宴を行う為には、当然ながら場所が必要になる。僕は最初からそれに付き合う気は無かったけど、今の冬木市の中で最強の攻撃手段であり防衛手段でもあるサーヴァントから離れるのは危険すぎるから同行するしかない。
  遠坂や間桐だったなら、脈々と受け継がれてきた自分達の拠点があるから籠城できるんだろうけど。マッケンジー宅には魔術的な結界が皆無なので、籠城は出来ないのだ。
 ライダーが買ってきた酒樽を置いて、神威の車輪ゴルディアス・ホイールを呼び出した後。僕はようやくライダーがどこに行くつもりなのかを尋ねた。
  「おい、ライダー。一体どこに行くつもりなんだよ」
  「郊外にばかでかい森があったじゃろう。あそこならセイバーもおるだろうし丁度良い」
  「はぁっ!?」
  信じられない事に、ライダーは酒宴の相手をセイバーに定め。しかも敵陣の中に突っ込もうと大真面目に言いきった。
  冬木市には遠坂と間桐の館以外にも、『アインツベルンの森』と呼ばれる始まりの御三家の一画が持つ巨大な結界がある。事前情報として仕入れ、ライダーを召喚する前に使い魔を放って偵察を行ったのだが、目ぼしい情報は手に入れられなかったから後回しにしていた所だ。
  そこにセイバーとそのマスターであるアインツベルンの女性が入ったと気付いたのはつい最近で、恥ずかしながら森を囲む結界が今までとは比べ物にならない位強固になっていて初めて気がついた。
  キャスター討伐の為に別の場所に目を向けていたせいでもあるけど、広い視点で状況を見極めないと聖杯戦争ではすぐに死に直結する。自分を諌めながらライダーにその辺りの事情を教えたのがキャスターの工房に特攻を仕掛ける前の話、その情報を頼りにライダーはセイバーを酒宴に誘うつもりらしい。
  セイバーの見た目は僕と同じぐらいの背丈しかない小柄な女にしか見えないが、あれは英霊であり、サーヴァントであり、ヨーロッパ圏の人間ならば大人から子供までほとんどの人間が知ってる名高き騎士王、アーサー・ペンドラゴンその人なのだ。
  敵対した時の危険の割合で言ったら聖杯戦争でトップクラス。セイバーのクラスは『最優』とまで言われているので、絶対にお近づきになりたくない人だ。キャスターの工房に特攻した時も恐ろしかったし、工房の中は醜悪と言う意味で恐ろしかった。でもセイバーの場合は敵サーヴァントの強さと言う意味で恐ろしい。
 ランサーが敗退していないならセイバーの片腕はまだ宝具『必滅の黄薔薇ゲイ・ボウ』の呪いで動きが制限されているだろうから、万全の状態での戦いの望むライダーがセイバーに戦いを仕掛けたりはしないだろう。あの倉庫街の戦いの後、気絶から回復した後でライダーから聞いた話だけど、嘘は無いと思う。
  でもライダーに戦う気は無いかもしれないけど、相手がそれを受けるかどうかは別問題だ。特にセイバーはライダーに『小娘』呼ばわりされたので、ライダーへの心象は最悪に違いない。
  もしかしたら結界に侵入すると同時にセイバーの斬撃が飛んでくるかもしれない。キャスターの工房のように、魔術師の自陣へ侵入した場合は攻撃される方が普通なので、その可能性は非常に高い。
  嫌だ。ものすごく嫌だ。
  行きたくない。
  でもライダーの決定を覆す為の明確な材料もないし、令呪以外で僕がライダーの行動を阻めるモノはない。早々に諦めた僕を誰も責められないと思う。
  そして僕がアインツベルンの森へ行くのを最も渋らせているのは、腰の辺りにしがみ付いて離れない女の子の存在だ。
  ライダーの傍には酒宴の為の準備を手伝っているカイエンがいる。この子は、そのカイエンが持っていた魔石と呼ばれる魔法に限りなく近い大魔術を内包した魔術道具によって蘇った子供だ。
  先天的なものか、後天的なものかは判らないが。この女の子は声が出せず、目を覚ましてから一度も言葉を喋っていない。もし後天的なものだとしたら、間違いなくキャスターに捕まって人の尊厳を凌辱されたのが原因だろう。
  ただし、こちらの言ってる事が判らないと言う訳ではなく、顔を横に振ったり頷いたりして『はい』か『いいえ』を意思表示してくる。
  そこで判ったのは、女の子自身も自分が何と言う名前で、どこに住んでいるか判らず、何でキャスターの工房に居たのかも判らないと言う事。判らない事が判ったのが進展と言えるかのかは微妙な所だけど、もう一人の女の子みたいに、この子を家に送り届けて解決とはいかなくなった。
  ライダーにも言われたけど、聖杯戦争にマスターとして参加している僕の周りは常に狙われる危険が渦巻いてる。関係のない赤の他人を巻き込むのは僕だって本意じゃない。
  でもこの子は僕にしがみ付いて離れてくれない。
  言葉は無かったが、全身でしがみ付いてくるその姿が『傍にいて』と語っている。
  どうしてこの子が僕にしがみ付くのか判らない。頼りになる大人ならば僕以外にも二人いるし、力強さで言ったらライダーこそ頼るべき人物だ。認めたくないし改めて考えたくもないけど、僕は三人いる男の中で一番貧弱だ。
  女の子が力いっぱいしがみ付いて来るのを離せない力の持ち主で、力の勝負に持ち込まれるとライダーのデコピン一発で吹き飛ばされるぐらいに力が無い。
  何でこの子は僕を頼りにするみたいな行動をとるんだろう?
  僕はこの子をどうしなければならないんだろう?
  それは聖杯戦争に関わりがありながらも、全く別の問題だった。
  僕は悩んだ。考えた時間は少ないかもしれないけど、ものすごく悩んだ。
  そして答えを出した―――出さなきゃいけなかった。
  「・・・・・・・・・ごめん」
  僕はそう言いながら女の子の頭に手を伸ばし、サラサラした感触の髪の毛ごしに頭の上にそのまま手を置いた。乗せられた手に少し驚いたのか、女の子は少し目を大きく開きながら僕の顔を見上げてくる。ただし驚きの声を上げないのは変わらない。目と一緒に口も小さく開いたが、そこから声は聞こえてこなかった。
  僕は離されないように必死にしがみついて来る女の子の両手の感触を味わいながら―――頭の上に乗せた手から催眠の暗示を発動させた。
  「―――」
  女の子の口から悲鳴にも似た呼気が少しだけ洩れたが、言葉は何も聞こえなかった。
  そして一瞬後、女の子は僕がかけた暗示に従って目をつむり、四肢の力を失って地面に倒れ込んでいく。
  がっちりと僕の服を掴んでいた手が嘘のように剥がれて落ちる。咄嗟に地面に倒れそうになった体を支えなければ、この子は何の抵抗もなく地面に転がっただろう。
  相変わらず気を失った子供の体重は重い。両手でその重さをしっかりと感じながら、僕はこの子をさっきまで座っていた椅子の背もたれに預け、息をしているのを確認しながら距離を取る。
  僕はこの子をここに置いていく事にした。
  僕はこの子から離れる事にした。
  こんな誰もいない場所に放置するなんて、僕は酷い男だ。もう一人の女の子みたいに家に送り届けないなら、警察に送り届けるか冬木教会の璃正神父の手に委ねるのが真っ当な手段だと理解している。
  でも僕はこの子の傍にいれば頼られている自分を手放したくなくて、ずっと近くに置きたくなるって判っていた。
  この子の為に何とかしてやりたいと言う気持ちと、自分の優越感を満足させる為の気持ちが混ざり合って、この状況を長続きさせたいと願ってしまう。向けられた無垢な信頼に応えてやりたいと考えてしまう。
  両親と死別し、時計塔では周囲に嫌な奴しかいなかった。マッケンジー夫妻から向けられる暖かい気持ちは僕が『偽りの孫』である暗示をかけているからで、本当じゃない。
  こんなにもまっすぐ助けを請われたのは初めてかもしれない。
  でもそれは駄目だ、いけない事だ。聖杯戦争のマスターとして戦いに参加し、敵と対峙すれば命がけになるからこそ、この子を近くに置いてはいけない。
  僕だけじゃこの子の力にはなれない。僕だけじゃこの子の願いに応じられない。ライダーは最初からこの子を傍に置くのを由とはしなかった。
  だから僕はこの子をここに置いていく。決断と同時に胸が張り裂けそうな痛みと強烈な後悔が頭の中を通り抜けたけど、聖杯戦争に参加したライダーのマスターとしての意思でそれをねじ伏せる。
  もう一度言う。僕は酷い男だ。
  女の子一人の救いすら真正面から受け止められない小さな男だ。
  僕は優秀な魔術師だ。それでもどうしようもなく弱い男だ。
  「・・・・・・・・・ごめん。本当にごめん」
  僕は椅子の背もたれに体を預けて動かない女の子を見ながら、もう一度呟いた。そして未練を断ち切る様に椅子に背を向けて、ライダーとカイエンが待つ場所へと小走りで移動する。
 そこにはライダーが呼び出した神威の車輪ゴルディアス・ホイールがいて、御者台の上には手綱を握るライダーと同行するカイエンの姿があった。
  魔石で女の子を治癒したカイエンは何も言わなかった。僕の判断を責めず、肯定せず、ただ無言で僕と女の子の姿を見守っていた。僕が御者台に乗りこんでも、無言を貫いていた。
  僕はカイエンの目を見るのが怖かった。見た瞬間、何か責める言葉が出て来るんじゃないかと思って、見るのが恐ろしかった。
  だから別の方向をずっと見つめていた。
  「では行くぞ」
  ライダーの大声が今はありがたい。
 神威の車輪ゴルディアス・ホイールが空高く舞い上がり、アインツベルンの森へと向かい始めた時―――僕は一度だけ女の子が座る椅子を振り返り。そして、視線を逸らす。
  ごめん。
  僕は心の中でもう一度謝った。



  ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆



  Side - ゴゴ




  サーヴァントにとって今世の魔術師だろうと一般人だろうと敵の位置に置けばその力に大差はない。それこそが英霊の強さの証と言える。
  だからこそ聖杯戦争ではサーヴァントではなくマスターを狙うのが常道となり。キャスターの凶行が軽々と表の世界を蹂躙して行けるのだ。
  逆に考えればキャスターのような例外を除いて聖杯戦争にサーヴァントとして招かれた英霊は一般人に手を出さない。圧倒的な力の差ゆえに手を出す意味が無い。
  高潔さゆえか、手を出して人の目を集めるのを由としない戦略的な意味か、有象無象などどうでもいいと思っているか。それはマスターとサーヴァントの方針によって異なるだろうが、大抵の場合は手を出さない。
  つまりサーヴァントがその本領を発揮するのは明確に『敵』と遭遇した時に限る。例外となるキャスターを除けば、敵が現れなければ宝具が披露される事もほとんどない。
  聖杯戦争の騒動を引き起こす為にはマスターかサーヴァントのどちらかを引き合わせなければならない。ゴゴ自身が彼ら彼女らの敵となって自発的に遭遇する選択肢もあるが、それはこちらが聖杯戦争を行う障害として認識された後でも遅くは無い。少なくとも『ものまね士ゴゴ』としてでも『間桐臓硯』としてでも、サーヴァントの前にもマスターの前にも敵として現れたのは一度だってなかった。
  冬木教会に使い魔の真似事をして出向いた時はあくまで情報収集と、こちらの本気を匂わせただけだ。間桐が聖杯戦争に大きく関わっているなど周知の事実である。
  ならばこそ、エドガー・ロニ・フィガロが向かうべきは複数のサーヴァントがいる場所となる。
  現段階、感知しやすいのはゴゴ本人の傍にサーヴァントだ。言うまでもなくロックとセリスになってるゴゴの目の前にいる雁夜のバーサーカーがこれに該当する。
  そして何故か同行する羽目になってしまったカイエンの目の前にいるライダー。
  ついでに言えば、冬木市のあちこちに散らばってこちらの101匹ミシディアうさぎと同じように諜報活動に勤しむアサシンも感知やしやすいと言えばしやすい。
  他の四騎のサーヴァントは大まかな位置は把握できるので『どこにいる?』に主体を置けばすぐにでも結論を出せる。
  そして冬木市にいるすべてのサーヴァントの位置に意識を振り分けた時、これは何の冗談か―――と自分の感覚を疑いたくなった。
  間桐邸から出た自分を追跡しているアサシンを含め。冬木市のあちこちにアサシンが点在しているので非常に判りづらいのだが。意識したその瞬間からサーヴァントの気配が一点に集約されていくのが判る。もちろん全てのサーヴァントがそうではないが、少なくみても半分近くのサーヴァントの気配がある地点を目指して移動していた。
  これがアサシンだけの集合で、目的地が冬木教会だったならば、言峰綺礼がアサシンに命令を出して全てのアサシンを集結させたと思える。だが、集まる場所に向かっているサーヴァントの中にはライダーどころかアーチャーの気配すらある。
  しかも向かっている場所はアインツベルンの森。つまりはセイバーが偽りのマスターと共に籠城している場所なのだ。本物のマスターは冬木市にあるホテルの一室に場所を移動したようだが、セイバーの位置はアインツベルンの森の中だ。
  何があった!?
 滅多な事では動じないが、さすがにこの異常事態には驚いてしまう。カイエンに意識を割いてゴゴとして考えればライダーが酒宴の為に向かっていると判り、少しだけ驚きも少なくなっただろう。しかし、生憎と今の我が身はエドガー・ロニ・フィガロである。ゴゴの意識よりも、宝具『己が栄光の為でなくフォー・サムワンズ・グロウリー』で変身したエドガーとしての意識の方が強く表に出てきてしまう。カイエンとは本質において同一でありながらも、別人である。
  バーサーカーは雁夜の傍で沈黙を守っており、キャスターは街を徘徊しているが雁夜の位置からは遠く離れているので接触の危険は少ない。ランサーはしばらく前から廃工場を中心にほとんど動いていなかった。それ以外のサーヴァントが全て一点に集結していく。
  倉庫街の戦いではマッシュ一人で何とかなかったが、今回のサーヴァント集結はアサシンの数だけあの時よりも規模がでかい。この状況はカイエン一人では少々心許ないので、エドガーは進行方向をアインツベルンの森へと変えた。
  もし全てのサーヴァントが倉庫街で見せなかった宝具を解放した場合、カイエンの目だけでは観察に足りない。二対、四つの目で見れば何とかなるだろう。
  驚きはしたが、これは好都合でもある。
  「まさかいきなり淑女の元へ赴く事になろうとは――、これも私の運の強さ故か」
  二階建ての屋根の上から五件先の家まで跳躍しつつ、間桐邸を出てから背後から追跡してきているアサシンにも聞こえていない小声でエドガーは呟いた。
  エドガーとしての意識が強く働いて『女性に優しく』とエドガーの根幹を成す意識が構成されていくが、アインツベルンの森にいるセイバーとその偽りのマスターであるアイリスフィール・フォン・アインツベルンを口説く気は全くない。
  もちろん美しい女性を前にして褒め称えるのは当然なのだが、セイバーは自分が女である事を嫌悪している節があるのでいきなり口説くのはよくない。時間をかけてゆっくりと口説くのはありかもしれないが、聖杯戦争という限られた時間の中では難しいだろう。
  そしてこれが最も肝心なことなのだが、アイリスフィール・フォン・アインツベルンは既婚者なのだ。倉庫街で狙撃しようとしていたあのセイバーの本物のマスターである衛宮切嗣の妻であり、既に人のモノになっている。
  既婚者を口説くのはエドガーの主義に反する。妻がないがしろにされたり、冷めた夫婦関係でもない限り、二人の仲を割いてまで口説こうとは思わない。だからゴゴが物真似の材料を探す名目でのやる気は合っても、エドガー個人のやる気は底辺に位置している。繰り返すが、口説く女性がそこにいないからだ。
  集結するアサシンの中に女性がいれば口説く・・・か? 等と考えながらアインツベルンの森へと向かうエドガー・ロニ・フィガロ。
  その道中、動かないアサシンの気配を感じ取ってそちらに意識を割き。幼い子供の姿をしたアサシンを目撃した瞬間に方向転換した。





  エドガーが上空から少女の姿をしたアサシンを発見した時、その子は椅子の上でどうすればいいか迷っている様に見えた。
  自分は何故ここにいるのか?
  これからどうすればいいのか?
  誰を探せばいいのか?
  どこに行けばいいのか?
  見たのはほんの一瞬、しかも街灯の灯りしかない夜、表情など見えない真上に近い斜め上からだったが、多くの女性の機微を見てきたエドガーにはそれで十分だ。
  この少女は何か困っている。どうすればいいか判らずに戸惑っている。一瞬でそう判断したエドガーは相手がアサシンであるのを考慮したうえで、その少女の前に降り立った。
  「!!!」
  少女は驚きの声を上げなかったが、その代わりに大きくのけぞって椅子の背もたれに両手をあてて強く握りしめた。
  脈絡なく唐突に現れたこちらに驚いているのだろう。当然だ。もし自分が逆の立場だったならば、モンスターのバックアタックか挟み撃ちかと思ってすぐに武器を握りしめるだろう。
  中身がアサシンであっても、この少女は間違いなく『女の子』なのだ。エドガーは『竜騎士の靴』と『ダッシューズ』を装備して常人を超越した身体能力を発揮する自分を諌めつつ、初対面の少女の前に現れるやり方ではないと後悔する。
  これではまるで変質者ではないか。
  次の機会があれば強く自重しようと思いつつ、エドガーは膝を折り曲げて視線を低くする。子供から見れば大人は見上げる存在で、どうしても威圧感を感じてしまう。
  だから視点を低くすることで女の子の緊張を少しでも和らげようとしたのだ。もっとも、登場が『頭上から降ってくる』だったので、すでに驚きは最高潮に達していて、椅子の背もたれが無ければそのまま遥か彼方にまで脱兎のごとく逃げ出してしまいそうだったが。
  「驚かせて申し訳ない、リトルレディ。私はフィガロ国王、エドガー・ロニ・フィガロだ。以後お見知りおきを」
  出来るだけ優しく話しかけているつもりだったが、やはり最初の出会い方が悪かったようで。女の子は目を大きく開きながらこちらの挙動を頭の上から足の指先までじっくり眺めている。
  これで少女がこちらの行動に何らかの疑心を抱いたら、その時点で野生の猫のように逃げるに違いない。
  ただ、この少女がアサシンなのは間違いない。それは冬木市の中に感じて、アインツベルンの森へと向かっている魔力の波動と同一であることから確定だ。けれど、エドガーの目はこの少女が本当に困っているのも確かな事実として認識している。
  サーヴァントが怯えて途方に暮れるとは何の冗談だろうか。
  正体不明の何者か―――敵か味方かも判らない人間が目の前に現れても、このアサシンの応対は普通の少女がする仕草と何も変わらない。アサシンだと気付かぬ者ならば、ただの少女としか思わないだろう。
  微弱な魔力が体の中から溢れているが、魔術に対する耐性は無いに等しい。英霊でありながらも一般人と変わらない様にも見えるので、何ともちぐはぐな存在だ。
  少女は何も言わずに黙ってエドガーを見つめている。警戒している。そんな少女に向け、更に言葉を続ける。
  「声がだせないのかい? 何、声など人同士が判り合うコミュニケーション手段の一つだが、絶対に必要ではない」
  視点が下がった事と、単に話している事で、僅かながら少女の強張りがほぐれる。
  まだ異常があればすぐに逃げ出そうとする体勢は変わってないが、僅かだけ話を聞く雰囲気が生まれてきた。
  「私かい? 私はこんな寒空の中で一人でいる、未来ある君を見て見ぬふりをする事ができなかった――。そんな、ただの王様さ。人は嘘をつくから、私の言葉がどれだけ本当だと受け止めてもらえるか判らないが、私は君のようなリトルレディを傷つけるつもりはないと断言しておこう」
  どれだけ言っても、少女が警戒する限り、その警戒が完全にほどける事は無い。
  口説くつもりなど全くないが、それでも一人の大人としてエドガーは言葉を続けてゆく。
  「警戒するのはいい事だ。何しろ君にとって私はいきなり現れた不審者なのだからね。さて――、私は君の力になりたいと思っているが、君はいきなり現れた私をどうすればいいか決めかねている。時間があれば、もっと色々語り合い、私の人となりを知ってもらいたい所だが、今は時間が無い。この街の夜は物騒でね、君一人でここに留まるのは危険だと私は思う訳だ」
  アサシンだと判っているくせにどの口が語るのか。この場合『語る』ではなく『騙る』だと思いながらも、表向きの言葉は更に続く。
  「さて、リトルレディ――。君の前に現れた一人の大人として、私は君に一つ決断してもらわなければならない。理不尽と思うかね? まあ、運が悪かったと思って諦めてくれ」
  これで相手がエドガーを敵とみなし、アサシンとして襲いかかってきてくれれば話は早いのだが、少女はアサシンであるにも関わらず普通の少女のごとく応対してくる。
  無論、この場合の応対とは『いきなり現れたよく判らない人に怯える』だが―――。
  ものまね士ゴゴが間桐邸に現れてから一年。遠坂桜との接し方が世間一般の普通に該当するかどうかは非常に疑問だが、それでも初対面の少女と話す経験は既に積まれている。
  かつてエドガーがサマサの村で会い、仲間として共に旅をした『リルム・アローニィ』の例もある。
  何故、少女の姿をしたアサシンがサーヴァントとして振る舞わないのかの疑問はあるが、とりあえず初めて会う少女と会話をするのならば、エドガーが臆する理由はどこにもない。
  少女に見えるように軽く握った拳を前に持っていき、人差し指をゆっくり立てた。
  「まず一つ。君は何らかの理由が合ってここに一人でいるのだろう。その理由を私に聞かせず、そして私の助力も受け取らず、ただ自分一人で全てを解決しようとする。この場合、私としては非常に不本意なのだが、君の事を見なかった事にしてここから立ち去ろう」
  少女はエドガーが人差し指を立てた時に、ビクッ! と小さく体を震わせた。
  そんな少女に向け、アサシンとしてではなく一人の女の子だと考えながら話す。
  「君が何を思ってこの場に留まり迷っているか私には判らない。けれどそれを君が自分の力で解決できるのならば、私のやっている事はただのお節介になるからね。私は私の善意を君に押し付けるつもりはないのだよ」
  今度は中指を立て、手の形をピースサインにしながら、選択肢をもう一つ増やしていく。
  「そして二つ。常識ある大人の一人として私は迷子の君をこの街の警察の手に委ねなければならない。君が困るか困らないかは別にして、見て見ぬふりをするよりは大人として正しい行動だ」
  続いて薬指が立ち、最後の選択肢が語られる。
  「最後の三つ目。君が何をしたいのか、何故こんな場所で一人でいるのか、全てではないが私に教え、改めて私に手助けしてもらう道―――この国では君の様な子供が大人を頼るのは決して悪い事じゃない。さっきも言ったが、その場合、私は君の力になろう」
  膝を折った体勢で前に突き出した手から三本の指が立つ。
  そのまま沈黙が互いの間を行き来して、是とも否とも言わず、ただ少女はエドガーの立てた指を眺めるだけだった。
  十秒か、二十秒か、三十秒か。時間だけがただ流れて行き、一分ほど経過した所で少女はようやく別の動きを見せる。
  これまで指に向けていた目をほんの少しだけ上にずらしてエドガーの目を見返したのだ。その目には『どうして?』と疑問が浮かんでいた。
  「何故、こんな話をしてくるのか不思議そうだね。まず君があまりにも哀しそうにしているのが私の心を捕えたから。第2に一人の男として、一人の大人として、エドガー・ロニ・フィガロの正義に従ったまでの事・・・。君の表情を暗くしている原因や目的が気にかかるのはその次かな?」
  少し口説き文句を織り交ぜての説明だったが、少女がエドガーの目を見つめたまま浮かべる疑惑の目はそのままだった。
  少女の動揺がまだ強いので、口説き文句では緊張を緩和する効果が無かったか。あまりに幼すぎるので意味が無かったか。あるいはエドガーの口説きのテクニックが寂ついてしまったか。
  どれもありえそうな理由に思えてきたので、落胆もあってエドガーもまた少女と同じように口を閉ざしてしまう。
  また両者の間に沈黙が行き来してしまう。だが、そのまま無言で見つめ合った所で事態は好転せず、何かしらの返答を求めるのならば大人であるエドガーから話しかけるべきなのだ。
  信頼も信用もされていないだろうが、話を聞いてくれるならばそれだけでも十分すぎるのが現状だ。
  立てていた三本の指を拳に戻しながらエドガーは告げる。
  「さて決断してもらう為に私から質問してそれに答えてもらいたいのだがいいかな? なあに、頷くか顔を横に振ってくれればそれでいい」
  その言葉を聞いて少しだけ顔を頷かせ、少女は首肯する。
  言葉は無くてもこちらの話は通じているのは間違いない。それを確信しながら、決定的な言葉を少女に投げつける。
  「一番か、二番か、三番か。私はもう一度指を立てて君に尋ねよう。君は自分が選んだ選択肢の指が立った時に頷いて私に教えてくれ、それ以外は顔を横に振って違うと教えてくれ。いいかい?」
  「・・・・・・」
  少女は少しだけ間を空けながらも、今度はさっきより大きく頷いた。
  言葉での会話は無かったが意思の疎通と言う点でコミュニケーションは出来ている。
  その仕草を見てエドガーは満足げに頬笑みを浮かべる。そしてもう一度を人差し指を立てながら、アサシンの少女の向けて問いを投げた。
  「では君は私の一つ目の提案に賛成かな?」
  すると少女は―――。



  ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆



  Side - アイリスフィール・フォン・アインツベルン





  先日の切嗣とロード・エルメロイの戦い。そして、セイバーとランサーとの戦いもあって、アインツベルンの城は到着した時にあった優美さを完全に失って廃墟同然の有様を映し出している。
  私には建造物の補修を行う技術は無い上に、それを出来るであろうメイドたちは聖杯戦争が始まる前に全員帰国させてしまった。
  そしてロード・エルメロイとの戦いに難なく勝利した切嗣と、彼の協力者である久宇舞弥は今、アインツベルンの城にはいない。戦いの後に互いの無事を確かめあって、そのすぐ後に城を出て行ったきりまだ帰ってきていないからだ。
  おそらくセイバーの暴挙によって仕留めそこなったランサーのマスターを始末する為に追跡しているのだろう。つまり、今、アインツベルンの城の中には私とセイバーの二人しかいない。
  城から離れた森の中で行われたバーサーカーとそのマスターがキャスターと戦った。そして城の中で行われた魔術師とサーヴァントが戦った。この二つによってアインツベルンの森の結界は十全に効果を発揮できない状態に陥り、まだ修復は終わっていない。
  ただし、セイバーこそが聖杯戦争における最も強力な防御の要なのは変わらないので、拠点の不十分さはセイバーで補われている。私がセイバーと共に森の外に出て敵と戦うよりは、この場で切嗣の帰りを待つ方が得策と言える。
  住居としての機能をほとんど失ったアインツベルンの城。それはまるで私の―――アイリスフィール・フォン・アインツベルンの心の未来を暗示しているようだった。
  どれだけ堅牢堅固に見えたとしても、守りを上回る攻撃に晒されれば破壊の限りを尽くされる。絶対なんてモノはこの世の中には存在せず、どれだけ強力な守りであろうとも等しく薄氷の上の建造物のように破壊の危機を抱えている。
  キャスターとランサーの襲撃はその純然たる事実を教えてくれた。
  そう―――。これまで信じて疑わなかった思いが少し視点を変えてだけで偽りに見えるように―――。
  昨夜から経過した時間は丸一日。城に残った二人きりの状況で、騎士と姫が会話を交わす機会を作ろうと思えば幾らでも作れた。けれど私は切嗣の帰りを待つのを優先させ、あえてセイバーと話を行わずに時を過ごした。
  ランサーを見逃し、切嗣を危機に陥れたあの姿が忘れられないのだ。
  出来るだけ感情を表に出さないように努めてきたが、セイバーの顔を真正面から見てしまうと、これまで決して口にしなかった罵声を彼女に浴びせてしまう気がした。
  セイバーのサーヴァントとしてではなく、騎士としての生き方を選択して自身の決着を優先させランサーを見逃したセイバー。彼女にはランサーが切嗣を殺さないと確信していたかもしれないが、私の目から見れば、あの時のセイバーは夫を死に誘う死神にしか見えなかった。
  憎悪と言う名のどす黒い感情に支配され、そのまま夫と一緒に出て行った久宇舞弥にまで女としての感情をぶつけてしまいそうだ。当人がいないので周囲に当たり散らす事になるだろうが、聖杯戦争において仲間内での不和など良い傾向ではない。
  だからこそ切嗣とセイバーとの間にある大きな溝を取り持つ為に私がセイバーのマスターであると見せかける策に協力しているのだ。その私自身が、セイバーとの関係を悪化させてしまうのは道理に合わない。
  「・・・・・・・・・」
  しかし聖杯戦争の進め方の道理性と感情とはまた別問題。
  本当にセイバーを信じていいの?
  本当に切嗣と久宇舞弥が共にいる状態を許していいの?
  本当にセイバーの願いと切嗣の願いは同じなの?
  今日一日で何度も何度も考えた。同じ問いかけを何度も何度も繰り返した。でも、切嗣ともセイバーとも久宇舞弥とも話をしていないので、足りない情報の中では答えは出せない。
  仕方なく偽りではあるがマスターの一人として、昨夜切嗣から教わった情報と、結界越しとはいえ実際に体験した情報とをすり合わせてゆく。
  気がつけば終わっていたキャスターの戦いだが。あの戦いは夫の切嗣に久宇舞弥という協力者がいるように、バーサーカーのマスターにも協力者がいる状況を浮き彫りにさせた。
  ランサーの襲撃もあり、水晶玉を通した限定的な映像だったので全容までは見通せなかったが、それでもバーサーカーのマスターとその協力者が、巨大な鳥を使役しながら子供たちを救いだした場面はほんの少しだけ見えた。
  上辺だけで判りあった気になっていた自分達とは違う、『虐げられる弱者の救済』という正義を実行した者たち。聖杯戦争において強大な敵の出現を考えるのと同時に、あの協力し合う姿を羨ましいと感じていた。
  切嗣を通してでしか外界を知らなかったこれまで。
  冬木市に入ってから生まれて初めて手に入れた『体験』という名の宝。
  夫と目的を共にするセイバー、それが想像の産物だと思い知らされた一幕。
  裏切られたとは思わなかった。ただ、何も知らずにいた過去の自分自身に強い怒りを覚え、セイバーに強烈な疑心を抱いた。
  他の事を考えようとしても思考は切嗣とセイバーに戻ってきてしまう。別の事を考えようとして同じ所に戻ってくる、この悪循環も今日一日で何度も繰り返してしまった。もし聖杯戦争に赴く前の切嗣にこの事を相談したら、きっと親身になって相談に乗ってくれただろう。そして今の切嗣に同じ事を相談したら、考えるだけで一日を潰した自分を『時間の無駄』と断定する気がした。
  もちろん妻への気遣いは見せてくれるだろうが、それでも『アイリスフィールの妻』よりも『聖杯戦争のマスター』としての顔が強く見える気がするのは気のせいではない。
  「・・・・・・・・・」
  ふと見上げれば雲の少ない夜空に月がぽっかりと浮かんでいた。破壊を免れた城のテラスから見上げるその月が明るかったのがせめてもの救いだ。これで曇天模様だったならば、落ち込む心が更に暗闇へと沈みこんだに違いない。
  ここで昨夜、切嗣は言った。


  「もし僕が今ここで、何もかも放り投げて逃げ出すと決めたら──アイリ、君は一緒に来てくれるか?」


  「それから先は──僕は、僕の全てを僕らのためだけに費やす。君と、イリヤを護るためだけにこの命のすべてを――」


  「怖いんだ・・・。奴が、言峰綺礼が僕を狙ってる。舞弥に聞いた。奴は僕を吊る『餌』としてケイネスを張っていた。行動を読まれてた・・・」


  あの時、切嗣の震える背中に手を回しながら、優しく言い聞かせた言葉に嘘は無い。自分が切嗣に同行しても足手まといにしかならず、久宇舞弥こそが切嗣心に往年の強靱さと痛みと恐怖を封印できる冷酷さを呼び戻すことができる。それを理解した。
  そうやって認めた筈なのに、未練がましく妻として女として何度も何度も切嗣と久宇舞弥の組み合わせを考えている。もう数え切れないほど考えている。
  そしてまた同じ事を考えようとした時―――。鼓膜を突き破りそうな轟音がアインツベルンの森の静けさを切り裂き、少ないながらも残っていた森に張り巡らされた結界が侵入者の存在を強く強く強く教えてきた。
  昨夜のキャスターやランサーの時の様な『警告』ではなく、雪崩の如く押し寄せる『破壊』だ。魔術回路に強烈な負荷がかかり、目眩となって足の力を失わせていく。
  「う・・・」
  痛む頭を片手で抑えながら、轟いた音が『雷鳴』だった事に気が付き。自分を襲った強烈な衝撃は森の中に張り巡らしていた結界が破壊されたフィードバックなのだと思い当たる。
  「なんてこと・・・、正面突破ってわけ?」
  呟いて頭の中をぐるぐる渦巻く目眩を誤魔化し、足に力を込めて体を立たせようとする。今のアインツベルンの森に対して、隠れずに結界ごと森を蹂躙する存在など敵のサーヴァント以外にありえない。
  敵がここに迫っている。
  その現状を強く認識しながら、マスターの一人として振る舞う為に立ちあがろうとする。
  すると倒れそうな私の肩を、細いながらも力強い腕が助け起こした。そちらを振り返ると、甲冑姿で臨戦態勢まで整えたセイバーの姿がある。
  遠方から駆けつけたとは思えなかったので、今日一日ほとんど会わなかったが、守るべき姫の自分の傍に控えていたようだ。顔を見た瞬間に彼女に向けるどす黒い感情が湧きあがりそうになるが、敵の接近という異常事態がそれを抑え込む。今は仲間内でもめる時ではない。
  「大丈夫ですか? アイリスフィール」
  「ええ、ちょっと不意を討たれただけよ」
  「出迎えます。貴女は私の傍を離れないように」
  切嗣の元へとランサーを送った時と変わらぬ声音で話す様子が余計に腹立たしい。しかし必死でそれが表に出てこないように抑え込みながら、自分の走る速度に合わせて走り出すセイバーの背中を追いかけた。
  最初に感じた衝撃はもう消えており、目眩も一緒にどこかに行ってしまった。代わりにあるのは敵の接近を知らせ続けてすぐに消えて行く―――森の結界がどんどんと破壊されていく無残な様子だ。
  私たちが目指すはランサーを出迎えた時と同じホールだ。正面から侵入してくる敵ならば、間違いなくそこで遭遇する。
  「先程の雷鳴、それにこの出方――敵はおそらくライダーです」
  「でしょうね」
 倉庫街で見た宝具『神威の車輪ゴルディアス・ホイール』の猛威は近くで見ていたからこそ私の目に焼き付いている。同じサーヴァントであるバーサーカーを呆気なく吹き飛ばし、雷を踏み台にして空を駆け上がった戦車チャリオット
  あの対軍宝具が手加減抜きで疾走したら、森の中に残された数少ない結界だけでは対処できずに全て破壊されてしまう。キャスターとランサー襲撃前の万全の状態ならまだしも、今の状態ではライダーの突破を阻む術がない。
  相手にこちらの魔術結界のほころびが見えたかは判らないが、出迎えるタイミングとしては最も軽微で最悪でもある。
  セイバーだけならばすぐにでもホールに辿り着けるのだが、人並みの体力しかない自分が足手まといになり、ホールへの到着は遅れてしまう。
  「おぉい、騎士王! わざわざ出向いてやったぞお。さっさと顔を出さぬか」
  結果、先にホールに到着したのはライダーの方で。倉庫街で聞いた征服王イスカンダルの大音響が城の中に響き渡って、ホールに到着する前からしっかりと聞こえてきた。
  戦場において声の大きさは重要な要素で、指揮官ともなれば戦いの騒音に呑み込まれない声量が求められる。もしかしたらライダーのそれはアインツベルンの城の端から端まで届くんじゃないかと思えるほど大きかった。
  しかしその声音は間延びしており戦いに赴いた者とは思えない陽気さを含んでいる。
  何かがおかしい。違和感を感じながらも、甲冑姿で駆けるセイバーの後を追ってついにホールに到着した。
 そこにいたのはやはりライダーであり、二頭の雷牛がけん引する巨大な戦車チャリオット、宝具『神威の車輪ゴルディアス・ホイール』がホールの中にすっぽりと収まっている。ロード・エルメロイによって城の扉は完全に破壊されていたので侵入には事欠かなかっただろう。
  そこにいたライダーを見た時、私はセイバーと一緒に言葉を失った。
  「・・・・・・・・・」
  「いよお、セイバー。城を構えてると聞いて来てみたが──、何ともシケた所だのう。こう庭木が多くっちゃ出入りに不自由であろう? 城門に着くまでに迷子になりかかったんでな。ちょいと余が伐採しておいたからありがたく思うがいい」
  アインツベルンの森の結界を丸ごと破壊した『蹂躙』を『伐採』と言い切るあたり、ライダーの常人とは異なる感覚を窺わせる。
  だが二人揃って絶句しているのはライダーの物言いに驚いたからではない。彼の格好が明らかに場にそぐわなかったからだ。
  セイバーはライダーの侵入と同時に甲冑を纏い、目には見えないが聖剣を握りしめていつでも戦える準備を整えた。しかしライダーの格好はいかにも安っぽい半袖プリントシャツにウォッシュジーンズ、そして胸には世界地図をからめたタイトルロゴで『アドミラブル大戦略Ⅳ』と印刷が施している。
  更に言えば、彼が手にしているのは武器ではなかった。
  樽だ。
  どう見ても樽だ。
  剣ではなくオーク製のワイン樽を軽々と小脇に抱えているのだ。まさかあれが投擲武器に化ける訳ではあるまい。
  これで倉庫街でみかけた戦装束で全身を包んでいれば戦いに来たと思えるのだが、彼の格好は明らかに戦いに赴いた者の姿ではない。
  それにライダーはセイバーに向けて『まずはランサーめとの因縁を清算しておけ。その上で貴様かランサーか勝ち昇ってきた方と相手をしてやる』と言いきって、セイバーとの戦いを後にしていた筈。
  目の前の光景と過去を思い出すたびに、ますます疑問は膨れ上がっていく。この巨漢のサーヴァントは一体何をしに来たのだろう? そんな謎ばかりが増えてゆく。
  「イスカンダル殿。あれを伐採と呼ぶには少々豪快すぎるのではござらぬか? せめて『開通』と言うべきでござる」
  「む、そうか――」
 「道路から城門まで一本の道が出来てめでたいでござる。ここは拍手かしわでを打ち、祝うべきでござるよ」
 「拍手かしわでとは何だ?」
  「感謝や喜びを表すための拍手でござる。凶事や悲しみを表す行事の場合は合わせても音を出さないのがこの国の作法でござる」
  ライダーの後ろから恐る恐るこちらを見ているライダーのマスターであるウェイバー・ベルベットがいたが、彼の存在は私たちの混乱を増長させてはいない。むしろ『やはり』とライダーがマスターと同行しているのだと教えるだけだ。
  彼は敵視しているのか恐縮しているのか判然としない微妙な表情を浮かべながらこちらを見上げているが、その顔には『早く帰りたい』と書いてある。それでもマスターがサーヴァントと行動を共にするのは聖杯戦争の常道だ。
  問題なのは倉庫街の戦いではいなかったもう一人の同行者が御者台の上に陣取っている事。
  ライダーを『イスカンダル』と呼び、帯刀しているので何らかの形で聖杯戦争に関わっているのは間違いない。だが協力者だとしたら、倉庫街で戦った時にいなかったのはどうしてか? 隠していたとしたらどうしてこの場に同行しているのか? もしかして戦力を増強した後、攻撃を仕掛けて来たのか?
  二重三重に疑問が膨れ上がってゆく。
  「ライダー・・・。貴様、何をしに来た?」
  セイバーの問いかけはそのまま私の疑問でもあり、敵が攻めてきたと意気込む彼女の気勢が少しずつ削がれて行くのを感じる。
  「見て判らんか? 一献交わしに来たに決まっておろうが。おいこら騎士王、今夜は当世風のファッションはしとらんのか?」
  ライダーはそう言うと、持っていた樽を豪快に叩き、バチンッ! とけたたましい音を鳴らす。
  「ほれ、そんな所に突っ立ってないで案内せい。どこぞ宴にあつらえ向きの庭園でもないのか? この荒れた城の中は埃っぽくてかなわん」
  アインツベルンの城はランサーとそのマスターの襲撃によって確かに荒れ果てているが、いきなり現れて文句を言うのはどういう了見だろうか。
  繰り返しになるが戦装束を身につけていてくれれば、その言葉が戦いにおける牽制の一つとでも受け取れるのだが、これまでのやり取りを見る限りライダーに戦う意思は無い、剣を引き抜く素振りを欠片も見せない。
  彼自身が発するカリスマとでも言うべき強大な雰囲気はどうしようもなくそこにあるのだが、敵意だとか気迫だとか、そう言った戦いの空気もまた行動と同じくまるで無かった。
  「・・・アイリスフィール、どうしましょう?」
  聖杯戦争をしているのだから敵と対峙すれば殺し合うのが正しい姿だ。なのにライダーがあまりにも堂々としているが故に、戦いの意思を持ったまま出迎えたこちらの方が間違っている気になってくる。
  戦うか否か。本気で困っているセイバーの声を聞きながらとりあえず応対する。ライダーの登場で気勢が削がれ、一緒にセイバーに向けていた内なる激情もまたなりを潜めていた。
  「罠とか、そういうタイプじゃないものね――、彼。やっぱりセイバーを懐柔したくて仕方ないのかしら? それとも本当に酒盛りがしたいだけ?」
  「いいえ、これは単なる酒盛りではありません。歴とした挑戦です」
  「挑戦?」
  「はい」
  見えない聖剣を握りしめたまま、ライダーのありように一緒に気勢を削がれたセイバーだったが、彼女は険しい顔を作り出している。
  挑戦とは何なのか? そう疑問を抱えていると、セイバーが言う。
  「私も王――、彼も王――。それを弁えた上で酒を酌み交わすというのなら、それは剣に依らぬ戦いです」
  「ふふん、解っておるではないか騎士王よ」
  セイバーの声に答えたのはライダーだった。どうやらこちらが小声で話している会話を耳聡く聞きつけたようで、野獣の笑みを思わせるふてぶてしい笑いを浮かべながら、こちらを見つめていた。
  「剣を交えるのが憚られるなら杯を交えるまでのこと。騎士王よ、今宵は貴様の『王の器』をとことん問いただしてやるから覚悟しろ」
  「面白い。受けて立とう」
  風によって見えない剣を握りしめたまま、けれど両手を下げて不戦の様子を作り出すセイバー。けれど彼女が浮かべる表情は堂々としたモノに変わっており、戦いに赴く圧迫感は無くとも真剣なのは見るだけで判る。
  ここでようやく私はライダーが誘い、セイバーが応じた酒盛りが冗談ではない真剣勝負なのだと理解した。
  そうやって真剣勝負なのだと理解したからこそ、私は考える。アイリスフィール・フォン・アインツベルンは考える。
  ねえ、セイバー。もしこの『戦い』で貴女が負けたら――貴女はライダーに聖杯を譲るつもりなの? 血を一滴も流さない戦いに負けたとしても、『騎士王』としての貴女は聖杯を諦めるの? と。





 ライダーが神威の車輪ゴルディアス・ホイールを別の空間へと戻し、アインツベルンの城は更に荒れ果ててしまった様子を無残にさらけ出す羽目になった。
  当然ながら、切嗣とロード・エルメロイの戦いによって壊れた場所を酒宴の場所として提供できる筈もなく。宴をするのに適した場所とは言えないが、城の中庭にある花壇を提供することにした。
  昨晩の戦いの傷跡も中庭までには及んでおらず、一応はもてなしの面目も立つ場所だ。
  中庭の中心にはタイルが敷き詰められ、円形の形を作り出し、つめれば二十人は座れる大きな空間を作り出している。中庭を取り囲む城の形は正四角形を作り出しており、中央から東西南北へ伸びる四方への道がそれぞれの場所を繋いでいる。
  私自身の目で見た事は無いが、中庭の中心を遥か上空から見下ろしたら中心に円を置いた十字架が見えるだろう。そして中央の円と通路になっている十字架以外の部分には色取り取りの草花が中庭の美しさを更に向上させていくのだ。
  もっとも、このアインツベルンの城が解放されたのは実に六十年ぶりで、内装や調度品は本国のメイドによって整えられたが、中庭の草花にまでは手は伸びていない。いや、飾る意味を見いだせなかったのと、準備するまでに時間が足りなかったと言うべきか。
  無論、それは『荒れ果てている』という意味ではなく、中庭の花壇は一定の高さで伐採が行われており、無駄に生えた雑草など全く見当たらない。ただ草花の度合いで言えば圧倒的に草の方が多いので、ここを『花壇』と呼んでいいのか疑問が残るのは確かだ。
  聖杯戦争の殺伐とした雰囲気の中で草花を愛でる教養人がどれだけいるか判らないが、少なくとも切嗣は中庭の花壇の様子になど目もくれなかった。
  だからなのだろう、切嗣が華を愛でる価値を見出さず、また罠を張るには不向きな場所だと判断したからこそ、中庭は今も無事な姿を保っていられるのだ。
  ライダーは樽を抱え、彼のマスターは敵地に入り込んだ現状に怯えてライダーの背中に隠れている。切嗣から聞いた名は確か『ウェイバー・ベルベット』だった。倉庫街の時も見かけたのだが、彼は聖杯戦争にあってあまりにも『似合わない』マスターである。
  サーヴァントの意思は別に考え、ランサーのマスターのように堂々と命令を下す訳でもなく。
  切嗣のように私たちを囮にして敵のマスターに狙いを定めている訳でもない。
  アーチャーのマスターである遠坂時臣のように戦いをサーヴァントのみに任せ、徹底的な防衛策を取る訳でもなかった。
  サーヴァントである筈のライダーに振り回され、望まぬ状況を強いられている様に見えるのだ。
  不意にイリヤに向ける母性に似た庇護欲、あるいは母親としての顔が表に出てきて、彼の不安を少しでも和らげようかと思いが湧いてくる。だが、彼もまた他のマスターと同様に切嗣の敵であり、倒すべき相手なのだと気を引き締め直す。
  彼は敵だ。どれだけ頼りなく見えたとしても、ウェイバー・ベルベットは魔術師であり、聖杯戦争のマスターであり、切嗣の敵なのだ。
  強く敵対関係を意識してしまうのは、案内をする為に私とセイバーが前を行き、彼らが後ろからついて来ている―――つまり背中を敵にさらけ出しているからだろう。
  セイバーとライダーとの間では『剣に依らない戦い』が作られ、すでにその準備を心の中で整えている。でも偽りのマスターでしかない私には僅かな時間しか接していない彼らをいきなり信用するなんて出来ない。
  私には人の心を読む事は出来ない。
  私にはサーヴァントに勝る力は無い。
  私には相手の心が判らない。
  判った気になっていたセイバーでさえ、接してきた時間の短さと彼女が見せてこなかった『本性』の一部に触れて、私が何も知らなかっただけなのだと気付いてしまった。
  だから私は彼らを疑う。判らないからこそ疑うのだ。
  「御婦人、何度も振り返っておるが、どうかされたでござるか?」
  「え・・・」
  「先程から何度もこちらを見ているでござる。もしや――、拙者、気付かぬ内に何か粗相をしてしまったでござるか!?」
  ただ敵対するマスターとサーヴァントに注意を向けていたのだが、その男は何やら思いもよらぬ方向へと自己解釈して走り出そうとしていた。
  この男が何故ライダーとそのマスターに同行しているかは定かではないが、今のところ事を荒立てるつもりはない様子。しかし、敵陣営の情報が大なり小なり得られれば、それだけで切嗣の助けにもなると思い直す。
  あちらから話しかけてきたのは良い切っ掛けだ。私は意を決して、彼に話しかける。
  「いいえ、何の落ち度も無いわ。ただ、どうして貴方が彼らと同行しているのか――それが少し気にかかったの」
  「『何故』・・・、でござるか?」
  彼がもしライダーのマスターの協力者で、聖杯戦争の為に呼ばれた魔術師だとすれば不用意に情報を漏らしたりはしないだろう。何か判ればいいと思いながらも、相手から言葉は続けられる事は無い。
  彼が作り出した沈黙は『敵に知られるとまずい事柄』ではないだろうか? 事情を聞ければいいと思ったが、やはりそれは虫のいい話で、切嗣の力にはなれない。
  私がそう考えていると、彼が唐突に沈黙を破って話しだした。
  「実は拙者、この街に潜んでいる悪漢を倒すべくあちこちを転々としているでござる」
  「・・・・・・え?」
  「どんな理由があるか知らぬが、拙者はホテルを一つ丸ごと破壊した賊を追っていたでござる。そして賊の一味と思われる女と相対したのでござるが、仲間が居ったようですんでのところで逃げられてしまったでござる。しかたなく拙者が見た女の顔を頼りに悪漢を見つけ出そうと躍起になっていたのでござる、別の用向きで困り果てていた所をイスカンダル殿に助けられ、そのまま協力しているでござる」
  「はぁ・・・」
  聞けないと思っていた所に次々と話をされてしまい、私は生返事しか返せなかった。
  どうやら先程の間は何を話すか考えるための空白だったようだ。
  「人の出会いは一期一会、袖振り合うも多生の縁。拙者の追いかける賊の一味を見つけるのも大切でござるが、イスカンダル殿から聞いた『キャスター』なる悪党を野放しにするのも許してはならぬ。そこで拙者はイスカンダル殿とウェイバー殿に同行して悪党を討つ機を窺っているのでござるよ」
  その男の年齢は切嗣を大きく上回るが、アインツベルンのアハト翁ほど年老いてはいなかった。これまでを外界から隔離された城の中で過ごしてきた私にとって、初めて話す年頃の男性だ。
  ただ、見た目の年齢は間違いなく初老に差しかかっている筈なのだが、はきはきと話す様子には若さがあり、見た目の年の印象を十ほど若返らせている。
  「そう言えば初対面の御二方を前にして名乗らぬのは無礼であった。拙者、名を『カイエン・ガラモンド』と申す、よろしければ名をお聞きしてもよろしいでござるか?」
  「あ・・・。ごめんなさいね――、私はアイリスフィール・フォン・アインツベルン。この人はセイバーよ」
  「――おお! そう言えば聖杯戦争では『クラス名』とやらで呼び合うのが通例でござったな。イスカンダル殿から名を聞いていたので、忘れていたでござる」
  「聖杯戦争の事を知ってるの?」
  「話だけは聞いてるでござるが拙者には関係ないでござる。拙者の目的はあくまで賊と非道を繰り返す『キャスター』なる者の討伐と撲滅のみ! 何やら御婦人は拙者のことを怪しんでおられるようでござるが、心配無用でござる」
  敵の情報を探ろうとした意図を見ぬかれ、私は言葉に詰まってしまう。
  足は中庭を目指して止まらずに進んでいるが。話をする為に頭を後ろに向けたり前に戻したりを繰り返している。その繰り返す動作を途中で止め、前を向いたままにしてしまったのは中庭が近いからが理由ではない。
  ふとドイツで切嗣とイリヤの家族で過ごしている時、切嗣から聞いたあるドイツの古典文献学者の言葉を思い出した。
  怪物と戦う者は、その過程で自分自身も怪物になることのないように気をつけなくてはならない。深淵をのぞく時、深淵もまたこちらをのぞいているのだ―――。
  こちらが相手を探ろうとするならば、相手もまたこちらを探る危険を考慮しなければならない。かつて聞いた言葉と今の体験が絡み合って経験として私の中に意味を作り出す。
  振り返るのが恐ろしくなり私は前を向いたままでいた。思ってもみなかった沢山の情報を教えてもらったけど、それが全て本当だと確証は無い。そう私が私に言い聞かせる。
  「拙者はホテルが倒壊した場に居合わせてはござらぬが、崩れ落ちた瓦礫の近くで泣き叫ぶ子供や呆然とする者達をしかと見たでござる。あれは自然災害などではござらん、悪意ある何者かの意思によって巻き起こされた人災でござる。拙者は何としてでもホテルを破壊した賊を見つけ出し、その賊の仲間と思われる者も引っ捕らえ、白日のもとに引きずり出し、法の裁きを与えてみせるでござる」
  後ろから声が飛んでくる。
  「どんな理由があったにせよ、罪なき無辜の民が賊の振る舞いによって泣いたのは変わらぬ。そなた等はどう思うでござるか? それ相応の理由があればどのような『悪』であっても許されると思うでござるか?」
  「そんな事は無い!!」
  唐突にそう返したのは隣に並ぶセイバーだった。
  私が話していたから割り込むのは悪いと思っていたのか、カイエンと名乗った人が話し始めてからこれまで、ずっと沈黙を守っていたのに、ここでいきなり割り込んできた。
  けれど『理由があれば悪でも許される』というのは騎士としての彼女の在り方に―――清廉潔白を真正面から汚すような言い方は我慢できなかったようだ。立ち止まって振り返り、後ろの三人を睨みつけるような強い視線を向けている。
  「・・・つい声を荒げてしまった。すまない」
  そしてすぐに前を振り向き直し、中庭への歩みを再開する。
  いきなり出てきた大声には驚きつつ、私の考えはセイバーの否定と似ていると結論付けていた。明確な理由が合って肯定する訳ではないが、漠然と『それは悪い事だ』と頭の中で回答が出来上がる。話を聞く限りでは、建造物の解体作業などの依頼されて行った『仕事』とは異なる何者かの意思による『破壊』のようだ。
  話に出てきたホテルを経営する人物と敵対する者の攻撃か。ホテルにいた者が大規模な自殺を企んだか。あるいはもっと別の理由か。話をする彼自身どうしてそれが起こったかを判っていないが、ホテルが破壊されて泣いた者が出たのは間違いないようだ。
  もしその被害にイリヤが巻き込まれていたら? そう思うと、何者かが意図してホテルを破壊したのは許せないと思う。恐ろしくて聞けないが、全部屋が満室でしかも立派なホテルだったとしたら、死傷者は数百人以上に膨れ上がるだろう。
  どんな理由かは判らないが、破壊の行為そのものは罪だ。裁かれるべき悪だ。
  そう思った時、カイエンと名乗った人がセイバーによって高まった緊張をほぐすように言う。
  「悪を憎むその心は見事でござる、謝る事ではござらぬ。話を少し戻し、拙者が探している賊の一味に関してでござるが、黒のシンプルジャケットに黒の細身のゴムパンツを身につけ女子でござる。黒髪を肩にかかたぬおかっぱにしており、背は拙者より頭一つ分小さい。これまで冬木の至る所で聞き込みを行ったが、全く見つからないでござる。そなた等何か知っていたら教えてほしいでござる」
  その言葉を聞いた瞬間、口から心臓が飛び出しそうになった。何故ならその人物像に思い当たる節があり過ぎたから。
  言葉で説明されただけで思い出せてしまうある女性の姿。切嗣の協力者であり、私には出来ない戦闘の補助を行い、今も冬木市で切嗣と一緒に戦っている―――久宇舞弥その人だ。
  もし前を向いて背中で言葉を聞いてなかったら、大きく動揺し眼を見開いた顔を見られただろう。その人に心当たりがある事を知られたに違いない。もしかしたら、私とセイバーがその『賊の一味』の仲間だとすら見抜かれたかもしれない。
  さっきとは別の意味で怖くなり、後ろを振り向けなかった。
  もしかしたら相手は全てを判っていて。語り聞かせる事でこちらがどう反応するか見極めているのかもしれない。
  どうして私は忘れていたんだろう。切嗣からランサーのマスターを倒す為、『工房ごと建物を破壊した』と聞いていたのに、どうしてその事と今の話を繋げられなかったんだろう。
  ドイツのアインツベルン城のように、人里離れた場所ならいざ知らず。この冬木市のような人の大勢いる場所で建物を破壊すれば、周りに被害が出るのは当たり前だ。
  どうして私は市街地で聖杯戦争を行えば必ず起こる『周辺への被害』を考えなかったんだろう。どうしてランサー陣営の工房とホテルを繋げて考えなかったんだろう。どうして私は切嗣が行った『勝利の為の悪行』から目を背けていたんだろう。
  判ってる―――それを認めてしまえば、愛する夫が、彼の願いが、私の祈りが、全て『悪』に繋がると理解してしまうからだ。
  聖杯の力によって世界を救済したい。それが切嗣の願いであり、私の願い。
  セイバーは言った。この手で護りきれなかったブリテンを私は何としても救済したい、と。そしてその道はとても正しく誇って良い道だと。
  だがもしこの全てが間違っていたとしたらどうするのか。
  私の願いは切嗣の受け売りであり、その願いがそもそも『正しくない』としたら。切嗣を危険にさらしたセイバーの願いもまた、間違っていたとしたら―――『正しくない』としたらどうするのか。
  彼女は確かに歴史に多くそして根深く語り継がれるほどに騎士を表す英霊だ。けれども、万人が受け入れる『正しさ』も誰かにとっては『正しくない』かもしれない。私にはその明確な線引きを判らない、判れるほどに経験が無い。
  私は知ったつもりになっていたセイバーの思いすら気付けなかった。ならば、これまで善行だと思っていた全ての事柄が自分よがりの考えで、他人から見たらどうしようもない悪行にはならないだろうか?
  これはアイリスフィール・フォン・アインツベルンの根幹を破壊しかねない疑問であり、許容した瞬間に全てが破滅してしまいそうな予感を思わせた。
  生きる価値そのものを問いかけるようなものだ。城の中庭に向けて歩きながら出せるような簡単な問題ではなく、歩む私自身を止めずに進ませるだけで精一杯だった。
  ただ、そのお陰でカイエンの探し人が久宇舞弥である事実を少しだけ忘れ去る利点もあった。衝撃をより大きな衝撃で覆い隠したからだ。
  私は後ろを振り返らずに嘘をつく。
  「いえ・・・・・・知らないわ。ごめんなさい」
  「そうでござるか――」
  私はあの人が『悪』だと認めるのが怖かった。私自身もまた『悪』だと認めるのが怖かった。私たちのやっている事が『正しい事』だと思いたいから―――私は嘘をついた。
  私は何も知らなかった。
  私は何も考えていなかった。
  私は切嗣から聞かされてきた『衛宮切嗣の世界』しか知らなかった。
  私は色々な事を考えたつもりになっていて、ただ目的に向かって進む過程を考えなかった。
  私は正しい事をしているつもりになっていた。
  私は悪い事をしていると考えないようにしていた。
  私は人を傷つけた現実から目を背けていた。
  私は聖杯戦争に関わった時。もう誰かを傷つけているのだと判っていなかった。
  私は―――この聖杯戦争が終わる頃には消えている私は―――この世界に生きる誰かの事を、救われるべき世界を救う事しか考えていなかった。
  私は気付いてしまった。
  無知な私に、悪と呼ばれる私に、周りを顧みずただ自分達の為だけに行動している独善的な私に、気付いてしまった。
  正しいと思い込もうとしても、もうその自覚は私を蝕んでいく。
  「ところでイスカンダル殿、こたびの酒宴はただ呑んで騒ぐのではなく、あの『セイバー』という娘との飲み比べだと思って相違無いでござるか?」
  「ちと違うが余がセイバーと剣を持たずに戦うのは確かだ」
  「そうでござるか・・・。ならば、拙者は酒宴の客分として拝聴させてもらうでござる。『戦い』ならば拙者の敵はこの場にはおらん、次の機会にするでござる」
  「そこまで畏まる必要はないぞ。カイエン、遠慮せずにお主も飲めばよかろう」
  「イスカンダル殿の御厚意はありがたいでござるが、こればかりは性分でござる。『戦い』が終わった後、共に酒を片手に語り合えるならば、その時は同席させてもらうでござるよ」
  背後から聞こえるやり取りが一段落ついた時、私たちはついに城の中庭に到着した。
  話し声が聞こえてもその内容を考えられない位。私の頭の中では色々な思いがぐるぐる渦巻いていた。



  ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆



  Side - ウェイバー・ベルベット





  僕がライダーの行動を許容して、そのたびに令呪を使わないで同行したのを後悔してきた。最初はサーヴァントなのに僕に図書館から本を盗み出した本を持たせて勝手気ままに振る舞った時。次は未遠川にかかる冬木大橋の鉄骨の上でしがみ付いた時。その次は倉庫街の戦いに同行する羽目になった時。何度も何度も後悔して、そのたびに令呪を使ってでもライダーの行動を止めればよかったと思って来た。
  よく生きてこれたなと自分に感心する。そしてまた令呪を使ってライダーの行動を止めておけばよかったと後悔している。
  今、僕らはアインツベルンの城の中庭に移動して中央で向かい合うライダーとセイバーを遠巻きに見ている所だ。ライダーが持ち込んだ酒樽を中央に置き、それを挟んで胡坐をかいている。
  僕はライダーの後ろにいて、となりには腕を組んで仁王立ちするカイエンが立っている。セイバーのマスター、さっき名前を聞けたので『アイリスフィール・フォン・アインツベルン』、つまり始まりの御三家であるアインツベルンのマスターは僕らと同じようにセイバーの後ろにいる。
  言葉にして確約した訳ではないが、何となく流れで休戦となっていた。少し視点を上げて彼女を見ると、何か考え込んでいるような気がするけど気のせいだろうか。
  「聖杯は相応しき者の手に渡る定めにあるという。それを見定めるための儀式がこの冬木における闘争だ――。だが、なにも見極めをつけるだけならば血を流すには及ぼない。英霊同士、お互いの『格』に納得がいったなら、それで自ずと答えは出る」
  「それで――、まずは私と『格』を競おうというわけか? ライダー」
  「その通り。お互いに王を名乗って譲らぬあっては捨て置けまい。いわばこれは『聖杯戦争』ならぬ『聖杯問答』、どちらがより聖杯の王に相応しき器か? 酒杯に問えばつまびらかになるというものよ」
  ライダーがセイバーと飲み比べをするだけならこの場にいる後悔は無かった。ライダーの行動の突飛さは今更なので、もう諦めている。
  酒樽を割って中身を掬い、ライダーとセイバーが順番に飲んだ時は特に問題なかった。
  でもこの場にもう一人のサーヴァントが現れた時。ここに来るんじゃなかったと強く後悔した。
  死ぬ―――、と、本気で思った。
  「戯れはそこまでにしておけ、雑種」
  そう言いながら現れたのは黄金の鎧を身にまとって光り輝くサーヴァント:アーチャーだった。
  倉庫街で見た『宝具を何度も打ち出す』という規格外の攻撃はまだ脳裏に強く焼き付いている。あれがまたここで展開されたら逃げる間もなく僕は瞬殺だ。
 ライダーが神威の車輪ゴルディアス・ホイールを出して臨戦態勢を整えていたら互角以上に渡り合えるだろうけど、今のライダーの格好はシャツとジーンズで武器は何も持ってない。ライダーが宝具を取り出して僕が御者台に乗りこむよりもアーチャーが攻撃してくる方が確実に早い。
  傍にはカイエンがいて、いつでも抜刀出来る状況を作り出してるけど、刀一本であの莫大な数の攻撃を防げるとは思えない。あんな芸当が出来るとしたらバーサーカー位だろう。
  死ぬ。絶対死ぬ。殺される。
  僕がそうやってサーヴァントを前にした恐怖と戦っている間に話は進み、気がつけばアーチャーもまたライダーとセイバーと同じように胡坐をかいて座っている。
  ライダーが用意した酒をアーチャーが見下したような気がしたし、金色に輝く円形の歪みが現れて、そこから酒器が現れたのを見た気もする。ライダーがその酒を一気に飲み干して絶賛したような気もして、アーチャーが取り出した酒器を誇りながら王の格付けは決まったと断言した気もする。
  とにかく気がつけば、アーチャーを含めた三人のサーヴァントが向かい合って酒を飲む構図が出来上がっていた。ライダーが持ち込んだ酒樽は横にどけられ、代わりにアーチャーが呼び出した黄金の酒瓶が中央に置かれている。
  「酒蔵自慢で語る王道なぞ聞いて呆れる。戯れ言は王でなく道化の役儀だ」
  「さもしいな。宴席に酒も供せぬような輩こそ、王には程遠いではないか」
  「こらこら。双方とも言い分がつまらんぞ」
  ライダーが宝具で森の中を直進しておきながら、結局は戦いにはならなかった。アーチャーが現れた後も、ライダーがとりなして戦いにはならなかった。僕にとってはその方が都合がいいんだけど、敵を前にして少し苛立って見えるセイバーが言うと、アーチャーが軽く応じて、ライダーが仲裁に入っている。
  始まった途端一触即発の空気が作り出されるので、周りで見ている僕はいつ殺し合いになってしまうのか気が気じゃない。
  そう言えばアーチャーは僕の横に立っているカイエンにもセイバーの後ろにいるアインツベルンにも見向きもしなかった。他のサーヴァントを『雑種』と言いきってるので、一緒にいるマスターもその協力者みたいなカイエンも見る価値すらないと思ってるのかもしれない。
  結局、僕に出来る事はライダーに任せて状況を見守る事だけだ。もう何度思ったか判らない後悔をまた考えても、三人のサーヴァントが一か所に集まって宴を始めてしまった。ライダー以外のサーヴァントを一気に葬り去る超魔術なんて僕には使えないし、カイエンもライダーが開いた酒宴をわざわざ壊すなんて無粋な真似はしないだろう。
  今は意識を強く保って、可能な限り情報収集に努める時。
  折角、アインツベルンの城のど真ん中に立てる好機に恵まれたんだから、肌に感じる魔術も目に見える城の構図も何もかもを情報として手に入れるべきだ。
  呆けてる暇は無い。怯えている余裕もない。ライダーが酒宴を楽しんでいるなら、僕は勝つ為に出来る事を精一杯する。それだけだ。
  そしてライダーがアーチャーの用意した酒を褒め、そのままアーチャーが何故聖杯を求めるのかと言う問いに移った。ここでようやく『聖杯問答』は開始される。
 アーチャーは相変わらずライダーの事を『雑種』と呼び、聖杯の事を『オレの所有物だ』と堂々と言い切った。
  しかもそれだけに留まらず、世界の財宝の全ては自分に所有権があり、宝であるならばそれは全て自分の財宝だとも言った。
  セイバーはそれに対して『キャスターの世迷い事とまったく変わらない』と言い切る。アーチャーの事を錯乱したサーヴァントと決めつけたけど、僕はそうは思わなかった。
  本当に錯乱しているなら、あれだけ苛烈であり鮮烈、しかも強力で莫大な攻撃を作り出せる筈が無い。あの攻撃がアーチャーの言う『宝』だったとしたら、どこからともなく取り出した酒器も同じ場所にあるとしたら、アーチャーの言葉はセイバーにとっては世迷言かもしれないけど当人にとってどうしようもなく正しいのかもしれない。
  少なくとも僕にはアーチャーの言葉が嘘には聞こえなかった。本当に錯乱しているのは、あの貯水槽の中で見た醜悪な光景を何の躊躇いも生み出せるキャスターとそのマスターだ。
  アーチャーが語った言葉の意味を考えていると、合わせて倉庫街でアーチャーが口にした言葉が脳裏に蘇る。


 「たわけ。真の王たる英雄は、天上天下にオレただ独り。あとは有象無象の雑種にすぎん」


  考える事だけの時間を費やし、それでも目と耳はしっかりと酒宴の状況を全て観察している。
  今浮かんできた言葉とすぐ後にセイバーへ向けて語られたライダーの言葉が混ざり合いある一つの予測を作り出していく。
  「なんとなーく、この金ピカの真名に心当たりがあるぞ余は。まぁ、このイスカンダルより態度のでかい王というだけで、思い当たる名は一つだったがな」
  ライダーもまた僕と同じようにアーチャーの真名に辿り着いたらしい。
  先程、アーチャーが言った『世界の宝物は一つ残らず、その起源を我が蔵に遡る』という内容も合わせて、幾つもの情報が一つの答えに向けて集約していった。
  自らを王と名乗るアーチャーが嘘をついて場を惑わすとは思えなかったので、全てが本当だと仮定する。その場合、僕が導き出される英霊は一人しかいなかった。正しいかもしれない、間違っているかもしれない、でも、正しかった場合はこの酒宴に同席した価値はある。
  浮かぶ名は歴史に刻まれた人類最古の王―――。
  もちろんそれを言葉にして場の雰囲気を壊すような恐ろしい真似は出来なかったので、答えはとりあえず心の中で反芻するだけで終わらせておく。
  その間にも三人のサーヴァントの話は続き、聖杯問答は互いの言葉が往来する戦いの場になった。
  ライダーが言う。
  「じゃぁ何か? アーチャー、聖杯が欲しければ貴様の承諾さえ得られれば良いと?」
  アーチャーが応じる。
 「然り――。だが、お前らの如き雑種にオレが報償を賜わす理由はどこにもない」
  酒を一口含んだアーチャーに向けてライダーが『もしかしてケチか?』と言った時は、驚きのあまり失神するかと思った。
  相手の事を雑種呼ばわりしている英霊に対してケチなんて言ったらそのまま戦いになだれ込みかねない。だが、アーチャーは特に気を悪くした様子も無く、むしろ最初からずっと他の二人のサーヴァントを見下しているので、変わらずにライダーに告げた。
  アーチャーの恩情を受けるべきか王としてのアーチャーの臣下と民だけで、ライダーはそれに当たらない。そしてライダーがもしアーチャーの下に付くと言うのなら聖杯を使わせてやってもいい、とも言った。
  その時に使った言葉が『下賜』、つまり高貴の者が身分の低い人に物を与える意味で使われる言葉だったので、明確な上下関係を作り出している。
  ライダーの、いや、征服王イスカンダルの誰にも屈せずに我が道を進み続ける在り方を見てきた僕にとっては、次にライダーが何を言うかは想像がついた。
  「まぁ、そりゃ出来ん相談だわなぁ」
  やっぱり断った。
  大体、あの巨漢のサーヴァントが、僕の事を全然マスターと扱ってくれないあの憎たらしくも図々しい男が、誰かの下に付く様子が想像できない。アーチャーの言葉に屈して聖杯の為に負けを認める姿なんて見たくなかったので、僕は少しだけライダーの変わらない様子に嬉しさを思う。
  するとライダーはアーチャーに向けて聖杯戦争で殺し合う意義を続けて質問した。叶えたい望みがあって聖杯戦争に参加している訳じゃないなら、どうして戦いに加わっているのか? と。
  そこから語られた内容は僕にはさっぱり理解できない考え方だった。アーチャーが答えてライダーが納得するけど、僕には全く判らなかった。
 「オレの財を狙う賊には然るべき裁きを下さねばならぬ。要は筋道の問題だ」
  「つまり何なんだアーチャー? そこにどんな義があり、どんな道理があると」
 「法だ――。オレが王として敷いた、オレの法だ」
  ライダーはアーチャーの言葉に対して『完璧だな』と絶賛し、自らの法を貫いてこそ王だと言いきる。
  僕は魔術師として、表の世界にある法律を破るのに何の躊躇も無い事がある。それでも僕にとって法律とは既に定められてそこにあるモノであり、自分で定めたりするものじゃないと思っていた。
  でもアーチャーもライダーもその『誰かに決められた法』に従うのではなく、『自らが定めた法』に則って行動している。
  改めて『王』としての生き方や考え方が余人とは大きく異なるのだと思い知る。だからこそ彼らは『王』なのかもしれない。
  アーチャーが雑種と言ったように、有象無象が簡単に辿り着けるような極致など最初から突破しており、苦難の末に辿り着ける道ですら軽々と乗り越えて『人間』としての大きさをとてつもなく大きく見せる。
  人は『王』を見て、そして魅せられる。行いが善であろうと悪であろうと、その人物が『王』であるだけで、人はそこに惹きつけられてしまう。
  ライダーを前にして『こうありたい』と願った僕のように―――。
  ライダーとアーチャーの話は更に続き、ライダーが欲するなら略奪するのが流儀だと告げる。するとアーチャーはライダーが犯すならばこちらが裁くだけだとこれまた言い切った。
  どちらにも等しく王道があり、譲らぬ道が接触すればそこに生まれるのは戦いだけ。ライダーが『うむ。そうなると後は剣を交えるのみだ』と言い終えた後、僕はこのままアーチャーとライダーが戦いに突入するんじゃないかと本気で考えた。
  しかしアーチャーは厳かでありながらも手にした黄金のコップを離さず、ライダーは清々しくも豪快な笑みを浮かべたままだった。そして二人とも聖杯問答後の戦いを思ったのか、小さくもしっかりと頷いて合意を表す。
  いきなり戦いの突入するような事態にはならなくて、僕はホッとする。
  ライダーが中央に置かれた黄金の酒瓶を手に取りながら、殺し合うのは後でも出来るからこの酒は飲みきるぞ、とアーチャーに言うと。
  アーチャーは当然だ、と返す。
  間違いなく二人は聖杯戦争において敵対するサーヴァント同士の筈なのだが、笑みを浮かべながら酒を間において話し合う姿からは友情を思わずにはいられない。
  もしかしたら二人とも譲れぬ王道があっても、それでも互いに認める何かを感じ取ったのかもしれない。その『何か』が僕には全く判らなかったけど、アーチャーとライダーとの間にただ殺し合い敵対する以外の関係が生まれたのは間違いないと思う。
  上機嫌で残った酒を自分用のコップに注ぐライダーの背中を見ながら、僕は戦いの中にあっても殺し合う以外の何かがある事に小さくない衝撃を受けていた。敵対するからと言って殺し合うだけではない。お互いに譲れないモノがあったとしても、敵意ではなく称賛を胸に宿しながら戦う道もある。
  聖杯戦争を単なる殺し合いと捉えていた僕にとっては目の前で行われている全てが驚きの連続だ。
  この時点でライダーとアーチャーとの問答は一応の決着を見て、どちらも戦い以外の選択肢は無いと改めて認識した。戦う選択は何も変わって無いが、互いの胸中が少しでも知れたことで確実な変化があると言える。
  おそらく次はこれまで沈黙を保っていたセイバーに話の流れが傾くだろう。セイバーから話しだすか、それとも主宰のごとく振る舞っているライダーがセイバーに話しかけるか。
  今まで以上にこの場にいる全員の一挙手一投足と語られる言葉に意識を向けなければならない。そう考えた時、セイバーとライダーが同時に横を向いた。
  それは少し首を動かしただけで、注意深く観察していなければ判らない僅かな変化だったが、僕は他の二人のサーヴァントに向けられていたセイバーの目が別の場所に向けられているのをしっかりと確認する。
  ライダーは背中しか見えないけど、それでもさっきより数センチ首が横を向いて、アーチャーと話していた時の顔の向きとは明らかに違っていた。
 二人が見ている方向は僕たちがやって来た方角、つまりはアインツベルンの城の正門がある場所で。ライダーが神威の車輪ゴルディアス・ホイールで一直線に道を作って来た方角でもある。
  アーチャーは他の二人のように顔を動かしたり視線を向けたりしてないが、堂々と座る様子から判っていながらあえて無視している様にも見えた。
  横を見れば、隣に立っているカイエンもまた同じ方向を見つめている。ライダーもセイバーもカイエンも何かに意識を向けているのだが、それが何なのか判らない。セイバーの後ろにいるアインツベルンと僕の二人だけが事態を判っていないようで、部外者の様な気分になった。
  そこに何がある? 疑問を抱きながらも、とりあえず他の皆と合わせて同じ方向に目を向けてみる。けれど、そこにあるのは荒れ果てた様子を見せるアインツベルンの城と月光と欲しの光が降り注ぐ夜の闇が広がっているだけだ。
  誰もいない。何も異常は無い。そう思ったが、かつて貯水槽の闇の中から現れた『いなかった筈の英霊』の事を思い出し、もしかしてアサシン? と予測を作り出す。
  あの場で逃げ延びたアサシンが再び闇に紛れて仕掛けてきたとしたら―――。セイバーとライダーがそれに気付き、警戒しているのだとしたら―――。アサシンの固有スキル『気配遮断』で僕では見えないとしたら―――。それは大いにありえる可能性だ。
  ただしその場合、セイバーとライダーが臨戦態勢を取らず、今だ胡坐をかいているのが不可解だ。特にライダーは貯水槽で僕を守ってくれたし、隣にいるカイエンも抜刀して身構えそうな気がする。
  僕には判らない何かが起こってる。魔術師としての未熟さを追及されたような悔しさが胸の中に宿ったが、それが感情に直結する前に視界の中に変化が現れた。
  新しい人影が見ていた方向から現れたのだ。しかし僕はその人影を見た時、今まで以上に混乱する羽目になった。
  その人物はアインツベルンの城の屋根の一角に現れた。窓からよじ登った訳ではない、質量操作と気流制御の二重呪法による自律落下で空から舞い降りた訳でもない。僕の視界の中に現れたその人影は間違いなく屋根の向こう側から『跳んで』現れたのだ。
  これでその人影がこの場に居ないランサーだったり、白い髑髏の仮面を顔につけたアサシンだったり、倉庫街で見た全身甲冑姿のバーサーカーだったなら、敵が現れたと思えた筈。驚いて、恐ろしくなると思うけど、疑問は抱かなかった違いない。
  でも月明かりに照らされたその人物は僕が見たことのない何者かで、僕は咄嗟に誰だ!? って思った。
  何の意図が合って現れたのかは判らないけど、闖入者の出現によって聖杯問答が中断されたのは紛れもない事実。気のせいで無ければ、その人影の方を向いているセイバーとライダーから圧迫感の様な雰囲気が伝わってくる。
  直接、サーヴァントの気迫をぶつけられていない僕でさえ息苦しさを感じるのだから、直接見られているその人にとっては物量を持った敵意をぶつけられているのに等しいだろう。
  けれどその人影は現れた時の跳躍の勢いを全く緩めることなく、立ち止まる気配を見せずに屋根の上から跳躍した。
  遮蔽物が無くなった近づいて行くうちにその人影の全容が見えてくる。地面に落下しながら頭上に延びるのは背中まではある長い金髪で、ライダーが戦う時につけているマントのようにその人影―――がっしりとした体格から髪は長いけど男だろう人物もマントを付けていた。
  ただしライダーのマントが朱色なのに対して、あちらの男は水色のマントを羽織り。落ちる時の風を受けながら後ろに大きく広がっていた。そしてマントの下には夜の中でも判る紫色に近い紺色の衣装。見た目は多彩なのだが、それは間違いなく『鎧』であり、戦いに赴く者のそれだ。
  男が着地しながら膝を曲げると、合わせてマントがふわりと地面の上に広がる。そこで僕は男が両手を後ろにやっているのに気がついた。
  その手に持っているのは槍だ。縦に持たずに、後ろに回した両手で横に持ち、肩幅よりも更に大きく左右に延びた長い槍が男の後ろにある。
  ランサーの紅色と黄色の槍とは違う、木製の柄に刃が付いた簡素な槍だが。刃の白さが夜だからこそ余計に際立っている。
  兜はつけていないが、鎧と槍の二つが揃えばそれで十分だ。何者かは知らないが、この男は戦える状況でこの場に現れた。僕は咄嗟に危険を感じ取ってライダーの方に向かおうとしたが、それが行動に反映されるより前に隣から声が出る。
  「おお、エドガー殿ではござらぬか」
  「・・・・・・はっ!?」
  いきなり現れた男に対して、親しげに語りかけたのはカイエンだ。
  旧知の間柄に話しかけるような気安さがあり、声に誘われてカイエンの方を見れば、抜刀の為に鞘に当てていた手を離しているのが見える。
  僕はもう一度その男の方を振り返りながら、カイエンに向かって、誰なんだよあいつは? そう質問しようとした。言葉にしようとしたまさにその瞬間、エドガーと呼ばれた男が羽織っているマントがもぞもぞと動く。それは、どう見ても当人が手を動かした訳ではない不自然な挙動だった。
  質問するよりも突然現れた何者かの方に意識が働いてしまう。だから僕は口から言葉を出す前にまず観察する方を優先させてしまった。
  だから僕は気付いた。
  どうしてあの男は両手を後ろに回しているのか?
  どうしてあの男のマントは勝手に動いているのか?
  どうしてあの男は中庭の中央にいて剣呑な視線を向けるセイバーとライダーじゃなくて、こっちを見ているのか?
  最初は知り合いのカイエンを見ているのかとも思ったが、男の目は間違いなく僕に向けられていた。
  そう言えば、あの格好は誰かを背負ってる構図と同じじゃなかろうか? 後ろに回された手は誰かをおぶっているからじゃないか? 誰かが男に背負われているのに気が付いてしまう。
  水色のマントが更に激しく動き、男の右肩からその『背負われている誰か』の顔が現れる。
  「げっ!」
  僕はこれまでは聖杯問答にも突然現れた男にも観察にのみ全神経を注いでいたけど、背負われた人影を見た瞬間に思わず呻いてしまった。驚きのあまり、口から勝手に出てくる言葉を止められなかったのだ。
  僕はその顔に見覚えがあった。
  「な・・・・・・。何で、ここに・・・・・・」
  「さて、リトルレディ。あの男が君の探していた人かい?」
  男は僕の問いかけに応じず、顔を背中の方に回して言う。
  すると背負われてた人物が―――ついさっき別れた筈の少女が力強く頷いて僕を見た。



[31538] 第22話 『セイバーは聖杯に託す願いを言葉にする』
Name: マンガ男◆da666e53 ID:6a0d9b18
Date: 2013/01/07 22:20
  第22話 『セイバーは聖杯に託す願いを言葉にする』



  ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆



  Side - ウェイバー・ベルベット





  おかしい。
  何がどう間違ってこんな事態に陥った? 僕は苦渋の決断を下して、危険からあの子を遠ざけた筈。
  もうあの子は聖杯戦争に関わり合いになる事なく、別離と引き換えに安全があの子の元に舞い降りた。そう願って決断したのがアインツベルンの城を訪れるより前の話。
  僕がどれだけ優秀な魔術師だったとしてもそれはあくまで『個』の力であり、『多』に通用する力じゃない。ライダーは聖杯戦争において最高の戦力だから最初から除外するけど、誰かを護って戦うなんて事は僕には出来ない。
  だからこそ別れた。
  その筈だった。
  なのに今―――、もう会う筈の無かった女の子は僕の腰にしがみ付いている。しかも、一度離れたのがよほど嫌だったのか、二度と離さないと言わんばかりの強力な束縛でより強くしがみ付いた。あまりの力強さに僕の服の方が破けるかもしれない。
  気のせいでなければ腰が結構痛い。
  「リトルレディが喜んでくれて何よりだ。それでこそ私の苦労も報われる」
  混乱する僕の耳に誰かの声が聞えてくる、声に導かれて顔をあげてそこを見ると、何度も頷きながら『私は満足だ』と言わんばかりに笑みを浮かべる男がいた。
  手に持っていた槍は不戦を表すように刃を地面に突き刺しており、アインツベルンの中庭を構築するタイルの一枚に無残な穴をあけていた。でも僕は凶器になる武器より男の方が気になって仕方がない。
  そもそもこいつ誰だ?
  置いてきたはずの女の子が現れて呆けていたけど、正気に戻ってくれば浮かんでくるのは正体不明の男への疑いだ。
  ただカイエンが『エドガー殿』と呼んだことを一緒に思いだせたので、カイエンの知り合いである事は間違いない。カイエンが刀に当てていた手を外して、構えも解いたので、友好的な関係を築いているようだ。
  聖杯戦争のサーヴァント同士みたいにいきなり斬りかかってくるような険悪な間柄ではない。それは僕にとって好ましい状況だ。
  僕は腰にしがみ付いてる女の子をとりあえず後にして―――あまりに力が強すぎて今すぐどうにもできないので―――、男に向かって問い掛ける。
  満面の笑みを浮かべて達成感を全身で表現しているのが妙にむかついた。
  「あんた――、誰だ?」
  いつもの僕だったらライダーが言った『聖杯問答』の重い空気に押し潰されて、誰かに問うなんて事は出来なかった。
  でも、男からは戦いに来たのではない穏やかな雰囲気が放たれ、サーヴァントに感じる強烈な圧迫感や魔術師から感じる魔力の残滓を全く感じない。
  だから僕は少しだけ強気になってるんだと思う。
  こいつはサーヴァントじゃない。マスターでもない。
  するとエドガーと呼ばれた男が僕の方を見て返してきた。
  「おや? リトルレディがそこまで執着するのだから、女性に好まれる君はもう私が『誰』であるかのある程度の予測をしていると思ったのだがね。それとも判ったうえで聞いているのかな?」
  男は笑みを少しだけ収めて真っ直ぐこっちを見る。その目に見つめられた時、僕は言い様の無い悪寒に背筋を凍らせた。
  何が起こっているのかを言葉にすれば『見られている』、ただそれだけなのに僕は動けなくなって、言葉をしゃべった口は閉ざされてしまう。
  怖くて動けない? 何かが僕をここに縛り付ける? 離そうとしても目が離せない? 全部が正しく思えてくる。そんな得体の知れない何かが僕の動きを止めた。
  それはどこかで感じた事のある感覚で、すぐにはそれが何なのか判らなかった。
  必死で考えて、考えて、考えて、無言のまま考えようとする行為そのものを働かせる為だけに自分を動かそうとして、僕はようやく答えに辿り着けた。経った時間はほんの数秒だったかもしれないが、僕にとっては永遠に等しかった。
  これはライダーを召喚して、征服王イスカンダルから見下ろされた時にも感じた。あの時の、自分など簡単に呑み込む存在を前にした感覚だ―――。あれが僕の中を通り抜けていた。
  僕は何も出来なくなってしまった。
  女の子に腰にしがみ付かれてる状況も忘れた。
  「カイエンと同行しているなら、ある程度の事情は聞いているんだろう。そちらの御婦人から問われたなら何においても答えるんだが、私はこの場にリトルレディを届けに来ただけの部外者だ。早々に退散させてもらうとするよ」
  そう言うと男はセイバーの後ろにいるアインツベルンのマスターに視線を動かした。
  僕の方を見なくなった瞬間に体が拘束を抜け出して、動けるのを思い出せた。けど、まだ僕は満足に動けず、足をすくませて立ち続けてる。
  恐怖のような畏怖のような心酔のような何か。それが僕の中にまだ蠢いている。
  「お主、ちょっと待て――」
  男は槍を引き抜いてこの場から立ち去ろうとした。
  それを阻んだのはライダーの声だった。
  いつもと変わらないその言葉に引きずられて僕の顔がそっちを向くと、アーチャーが取り出した黄金の酒器を手に持って、中庭の中央から上半身だけを回して男の方を見るライダーの姿が合った。
  そのいつもと変わらないふてぶてしい様子に僕の中にある何かが少しずつ消えていく。聖杯戦争と言う名の物騒ではあるけど今の僕の日常を少しずつ取り戻していく。
  「ん? 貴殿は確か征服王イスカンダルだったな、私に何か用かな?」
  「お主、我らの事を弟から聞いているのだろう? だったら、余が語る言葉に予測がついているのではないか?」
  「意趣返しのつもりかね? 君のマスターは事情を理解していないようだが、君を含めてそちらの三人は判っているようだ。さすがは『王』を名乗る者達だ、慧眼恐れ入る」
  もう男は僕には見向きもしなくなった。代わりに話の相手をライダーに定め、初めて会った者同士の筈なのに、なんだか色々と判り合ってる風に話し始めた。
  「この程度、聡い者なら誰でも気付くわ」
  ライダーの言葉を聞いている内に気持ちが落ち着いてくる。
  状況に対する思考が戻ってくると、僕はライダーを中心にして語られた言葉の意味を考え始める。そしてライダーが言わんとする事が判った。
  嫌、倉庫街でいきなりセイバーとランサーの戦いに乱入したあの様子を見た奴なら誰だって、ライダーが何を言いだすか予想出来る筈。ライダーはこの男を部下に誘うつもりだ、と。
  どれだけの強さをもっているのか判らないけど、アインツベルンの城を跳んできたなら、常人とは異なる強さを持ってるのは間違いない。魔力は感じないけど、それ以外の何かをこの男は持ってる。
  カイエンと一緒だ。
  ライダーはサーヴァントとして呼ばれた英霊には簡単に誘いをかけたくせに、今の世の中の魔術師には全く興味を示さない。
  まあ、会ったのが坊主呼ばわりしている僕と、臆病者呼ばわりしてるあのケイネスで、しかも声だけだから、仕方ないと言えば仕方ない。他の魔術師に会ったら同じように勧誘するかもしれないけど、今の所その兆候は無かった。
  そのライダーが見ただけで勧誘しようとしてるなら、槍使いの男は僕にはわからない強さを秘めているに違いない。
  ただ、ライダーが男を勧誘する僕の予測が合っていればの話しだけど。
  とにかく、十中八九、勧誘する未来が僕の頭の中で固まった。もしかしてライダーは生前もこんな風に出会った強者に対して同じように勧誘し続けたのかもしれない。
  「何を言おうとするかの予測はあるが、それが言葉にされるまでは真に正しいとは限らない。私を引き留めるなら、場合によって余計な騒動を巻き起こすことになるぞ。それでもいいのかね」
  「この場に集った猛者共は騒動の一つや二つで慌てはせん。何ならお主もこの酒宴に加わったらどうだ?」
  「やれやれ・・・、美しい女性からのお誘いではなく、こんなむさ苦しい男からの誘いとは・・・。残念だが、これが聖杯を求める宴ならば私個人として加わる訳にはいかんよ。私が誰かの代理ならばその限りではないがね、今は止めておこう」
  僕個人に向けられた言葉ではなく、男の意識は完全にライダーに向けられている。だから居合わせた第三者のポジションで僕はどんどんと思考を巡らせられた。僕だけで向かい合ったなら、考える行為そのものを封じられていただろう。
  さっきのように。
  僕はライダーに感謝しつつ、絶対にそれを言葉にはしないと決める。そして耳は二人の会話へと傾け、目は状況を見極めるために広い視点を維持しようと努めた。
  気のせいでなければアインツベルンもまた僕と同じように唐突に現れた男の素性を探る目で見つめていて、セイバーとアーチャーは聖杯問答を邪魔されて不機嫌になってる気がする。
  「弟と一緒で融通の利かん奴じゃな」
  「無関係ではないが、ここでの私は関係が薄い。邪魔にならぬ様、筋は通すべきだろう。私への用向きは後にすればいい、私は私の予測の正しさを――ここで話を聞かせてもらいながら楽しみに待とうじゃないか」
  「うちの坊主には手を出さんでくれよ」
  「言っただろう? 私はただリトルレディをこの場に連れて来ただけだと。私の名にかけてこれ以上の事を起こすつもりはない、ただし誰かが手を出すなら話は別だがね」
  男はそう言ってもう一度槍を地面に突き刺した。大理石が敷き詰めていると思われる硬い地面にドスッ! と鈍い音を出しながら、それでもしっかりと槍が突き刺さる。
  「エドガー殿・・・」
  僕が槍の鋭さを確認していると、隣に立っていたカイエンが男に話しかけた。
  「そういう訳だカイエン。少々事情が変わってしまった」
  「まさかこんな所で会うとは思ってなかったでござる」
  「私もそう思う」
  男はカイエンとの話を切り上げ、両手を組んで、中庭の中心に陣取っているライダー、セイバー、アーチャーの三人の方を向いた。
  マントが微風になびいてゆらゆらと揺れ、体格の違いと色彩の違いは合ってもその姿が戦いの時のライダーを彷彿させる。
  いや、考える以前に男はあの三人と同じで紛れもなく戦う者だ。しかもライダーが戦う前から強さを感じ取られるほどの強者なのだ。
  ますます状況は混沌としていき、状況観察しか出来ない僕の頭はパンクしそうだった。
  それでも考え続け、観察し続け、思い続け、予測し続け、答え続けるしか今の僕に通れる道は無い。
  僕が離した筈の女の子をここに連れて来た男。
  カイエンの正体も目的も不透明な部分も多いけど、友好関係は築いているような男。
  サーヴァントにも魔術師にも見えないけど、魔術とは違う何らかの力を操っている男。
  ライダーの事を征服王イスカンダルだと知ってる男。
  エドガーという名前の男。
  槍を使う男。
  「そうそう、ウェイバー・ベルベット君だったね。その様子じゃカイエンから詳しい話は聞いてないようだ、君のサーヴァントの心意気を汲んで判り易く私の事情を一つ言葉にしておこう」
  僕が色々と考えていると、それを察知したように男が話しかけてくる。
  ただし、視線は中庭中央に向けられたままなので、さっきみたいに動けなくなるような感覚は僕の中に生まれない。
  何を言うのか?
  幾つもの疑問を思い浮かべ、それが答えに結びつく前に男が答えの一つを僕に言う。


  「私の名は『エドガー・ロニ・フィガロ』。倉庫街でこの場に集まった君たち全員に横やりを入れた、『マッシュ・レネ・フィガロ』の兄さ」


  「・・・・・・・・・」
  名乗った後に続けられた言葉を聞いて僕は思った。
  ああ、だから色々と事情を知っていたのか。と。
  ライダーは倉庫街に現れた男の兄だと気付いてたんだ。だからあの場に居合わせた様に話して、男の方もライダーの事とか僕たちの事とか色々と知ってたんだ。
  そうなるとこの男もバーサーカーのマスターであり始まりの御三家である間桐に関わりがある可能性が非常に高くなった。その男と友好的な関係を結んでいるならカイエンもまた間桐と何らかの繋がりがあると考えるべきだろう。
  この聖杯問答が無事に終わり、尋ねる機会が出来たなら―――。カイエンと間桐の繋がりを尋ねよう。僕はエドガーの言葉の余韻の中でそう考えた。



  ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆



  Side - 言峰綺礼





  「よりにもよって、酒盛りとは・・・」
  「アーチャーは放置しておいて構わぬものでしょうか?」
  「王の中の王にあらせられては、突きつけられた問答に背を向ける訳にもいかんだろう」
  魔道通信機越しに聞こえてくる時臣師の言葉を聞き、私は即座にアーチャー、いや、英雄王ギルガメッシュの動向を口にする。
  通常ならばアインツベルンの拠点の中心とも言える城の中の様子を探るなど不可能なのだが、ライダーが結界を根こそぎ破壊した結果、今だけはアサシンの気配遮断スキルが真価を発揮して誰にも気取られる事無く侵入を可能とさせている。
  斥候はアインツベルンの森を監視させていた少数のアサシンに任せ、ライダーの移動に合わせて他のアサシンも動かした。状況によってはセイバーとライダーを一気に脱落させることが出来るので、既に多くのアサシンがアインツベルンの森に向かって集結している。
  ただし、今はまだ偵察の域を出ていない。気付かれないように闇に潜みながらアインツベルン城の中庭の様子を探っているだけだ。
  既にキャスターの根城でアサシンが勝手に攻撃を仕掛けて失敗した事は知っており、少数で同じことを繰り返してもライダーに気取られて撃退されるのが目に見えている。同じ戦略を繰り返してアサシンの健在を他のマスター達に教える程愚かな事は無い。
  体は教会に、五感のうち視覚はアインツベルンの森にいるアサシンに繋げ、聴覚は状況に応じて本体とアサシンとを交互に移してやり取りを行い情報収集に努める。
  「綺礼、君はライダーとアーチャーの戦力差をどう考える?」
 「ライダーに神威の車輪ゴルディアス・ホイールを上回るような切り札があるのか否か。そこに尽きると思われます」
  魔導通信機から聞こえてくる時臣師の言葉に即答し、私は聖杯戦争のサーヴァントにのみ観点を置いた言葉を口にした。
  倉庫街の戦いによって多くのサーヴァントの情報を得て、冬木市に散らばったアサシン達の諜報活動によって真名、拠点、マスター、その他多くの情報を時臣師は手中へと収めた。
  セイバーは片腕が満足に使えない状態ならばアーチャーの敵ではない。
  ランサーは無傷だが、マスターが復帰不可能な傷を負い、マスターの権利はロード・エルメロイから婚約者であるソラウ・ヌァザレ・ソフィアリへと移された。魔術師としての格は確実に下がったので、真正面から戦えばランサーもまたアーチャーの敵ではなくなった。
  キャスターの凶行は今この瞬間にも続けられているが、ライダーによって拠点を破壊された事で令呪に誘われた他のマスターに倒される日は近い。
  アーチャーの宝具を奪ったバーサーカーの力は厄介だが。既にアインツベルンの森でキャスターとの戦いを見せてもらって、魔力切れと言う聖杯戦争に参加するマスターらしからぬ失態もしっかりとアサシンを通じて知った。
  現段階、敵として厄介なのはバーサーカーでもマスターである間桐雁夜でもなく、間桐に協力している何らかの組織になる。
  バーサーカーとマスターである間桐雁夜にのみ焦点を合わせて考えれば、彼らは強敵とは言えない。長期戦になれば勝手に自滅するだろう。
 マスターとサーヴァントに置いての残る問題はアーチャーとライダーの戦力差だ。ライダーは今の所、戦車チャリオット以外の攻撃方法を示しておらず、別の宝具があればそれがアーチャーを倒す手札になりかねない。
  現状で時臣師が聖杯戦争を勝利する為にはライダーの全容を暴くのが急務となる。ライダーは今回の聖杯戦争に招かれたサーヴァントの中で、ある意味、誰よりも多くの逸話を持っている征服王イスカンダルだ。宝具が一つ限りだと楽観視して勝てる相手ではない。
  「この辺りで一つ、仕掛けてみる手もあるか――」
  「異存はありません」
  多くは語られなかったが、それが貴重な情報を得るために残るアサシンを使い潰す意味だと理解した私は再び、魔導通信機の向こう側に控える時臣師へ即答した。
  本来ならば結界に守られている筈だったアインツベルンの森に今は何の護りもなく、ライダーがマスターと共に酒盛りに興じているのならば、これはまたとない襲撃のチャンスと言える。
  これでライダーのマスターを首尾よく葬れれば最良、ライダーの奥の手を引きずり出せれば悪くは無い。最悪の場合はあの場に居合わせた者達によってアサシンが撃退されてしまいライダーの切り札も見えない状況だが、時臣師にとっても私にとってもアサシンは単なる一手段であり、使い捨ての道具でしかない。
  「では三分の一・・・。いえ、残るアサシンの半数を現地に集結させます。狙うはライダーのマスターのみでよろしいですね」
  「良い、アサシンに号令を発したまえ。博打ではあるが、幸いにして我々が失うものはない」
 ライダーに仕掛けようとする以前から多くのアサシンがアインツベルンの森に向けて集まっているので、十分とかからずに宝具『妄想幻像ザバーニーヤ』によって分裂した残るアサシンの半数が城に到着するだろう。
  可能ならば全てのアサシンを襲撃に送り込みたいが、間桐に協力する組織の全容が明らかになっていない今、諜報組織としてのアサシン達はまだ必要だ。
  私は中庭の様子を監視しているアサシンの視界に写る景色を観察する。そしてライダーのマスターの腰にしがみ付いている少女に―――いや、少女の姿をしているアサシンを見る。
 アサシンの宝具『妄想幻像ザバーニーヤ』はアサシンとして召喚された百の貌のハサンの別人格に、それぞれ別の個体を与えて活動させる宝具だ。
  人格それぞれに応じた体が割り当てられ。老若男女、巨躯矮躯と容姿も得手不得手も異なる様々なアサシンがいる。だが、自分をアサシンと自覚しない人格まで存在するとは思わなかった。
  僅かばかりの驚きを感じながら、様子を観察しているアサシンに念話で語りかける。
  口から出る言葉ではないの、これは時臣師に聞こえていない。


  「あのアサシンは何者だ?」


  「綺礼様。あれに名は無く、記憶も持たず、会話も出来ず、我らアサシンを名乗る資格を持たぬ単なるモノでございます。確かに我らと同列の別人格ですが、生前と同じく尋問拷問を受ける際に秘密を守り通す程度にしか使い道はありません」


  「では、あのアサシンを使い、ライダーのマスターを殺せるか?」


  「仮にもアサシンの一人なので見た目より力はありますが、ライダーのマスターを殺せるほど強くはありません。アサシンの自覚無き今、武器があっても不可能かと」


  「そうか――」


  短い会話の中である程度の状況を把握した私は、少女の姿をしたアサシンを戦力から除外していく。
  本質はアサシンだからこそ、おそらく令呪によって命じればライダーのマスターを傷つける程度は可能だろう。しかし不確定要素が強すぎるので、今はアサシンではなく無関係の一般人の位置付けとして数えてゆく。
  ライダーがあの少女をアサシンと自覚している可能性も高いので、攻撃に転ずれば一瞬で滅ぼされてしまう場合も考えられる。
  すると私の無言の思考を読み取ったかのように、時臣師が魔導通信機から話しかけてきた。
  「ところで綺礼。マスターではない二人は間桐に関わりのある者として・・・、ライダーのマスターにしがみ付いているという少女は彼の縁者かい」
  「いえ・・・。ライダーがキャスターの工房を破壊した後に現れたので、おそらく誘拐されて運よく生き残った子供の一人と思われます。ライダーのマスターに懐いている理由は不明です」
  「巻き込まれた一般人か――。記憶操作の処置を行うよう手配しなければな」
  私は嘘をついた。
  マスターはサーヴァントの目となり耳となる五感共有を行える高位の使い魔だが、英雄王ギルガメッシュは例え相手がマスター契約を結んだ時臣師だとしても許しはしない。
  一瞬であろうとも、自分の見聞きした全ての情報を他人に知られるような事態に陥れば、あのサーヴァントは自分のマスターであろうとも呆気なく殺すだろう。
  不敬だ、と。
  故に時臣師が会得した情報はアサシンからもたらされ、『言峰綺礼』というファクターを通り、精査された情報となる。
  私とてアサシンからの情報が無ければあの少女がアサシンであると気付かなかった。よほど高位の魔術師か、正体を見破る魔眼でも持っていなければ気付かないに違いない。間近で見ればあの少女が普通の人間や魔術師とは異なると気付けるかもしれないが、遠方からの監視には限界がある。
  情報の正確さはそのまま聖杯戦争の勝利に直結し、誤った情報は敗北への切っ掛けとなる。それを重々承知しながら、何故、私は時臣師に嘘をついたのか?
  これまで一度たりとも誤った情報を渡した事は無い。大勢のアサシンが作り出す諜報組織の頭脳となり、時臣師を聖杯戦争の勝者とすべく動いてきた。
  不確定な望みなど口にせず、他者が求める願望と真実が異なったとしても、正しき事象を伝えてきた。
  偽るなかれ―――。
  だが私は嘘をついた。
  あの少女がアサシンの一人であると自覚しながら、嘘をついた。自覚した上で嘘をついた。
  判らない。
  判らない。
  何故、私は時臣師に嘘をついたのか? ライダーのマスターを殺す絶好の手札になる情報の一つを隠匿したのか?
  判らなかった。


  「ともかく綺礼。お前はまず娯楽というものを知るべきだ――」


  何故か、頭の中でギルガメッシュの言葉が蘇る。
  偽る事が娯楽に繋がるとでも言うのか?
  ありえない。
  私は否定する。何度も何度も否定する。
  そしてあのアサシンはマスターである私にとっても不確定な存在であり、アサシンによる攻撃を仕掛ける今はお伝えすべき情報ではないと理由を作り出す。
  私は考えない。
  もしライダーのマスターがあの少女をアサシンと気付かずに保護し、正体を知り裏切られた時の顔を見たいと思ったなど―――私は考えない。
  そんな事はありえない。
  ありえないのだ。



  ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆



  Side - 間桐雁夜





  「さて、妙な横やりが入ったが続けるとするか」
  「・・・・・・・・・征服王よ。おまえは聖杯の正しい所有権が他人にあると認めた上で、なおかつそれを力で奪うのか? そうまでして、聖杯に何を求める?」
  視界に写るライダーとセイバーの言葉を聞きながら、俺は別方向を見る為に顔を動かそうとした。
  だが今の俺に許されているのは見ると聞くだけであり、自発的に起こせる行動は何もない。精々、自分の意思で見聞きするのを止めるかどうか決めるだけだ。
  エドガーの参入など全く気にせずに続けようとするライダーが見える。少々苛立って聞こえる声で話すセイバーが見える。
  そして何やら照れくさそうにしながら笑い、杯の中身を呷ってから『受肉だ』と言ったライダーも見えた。
  そんな酒宴の様子が二か所の視点から見えている。
  今、俺はゴゴが用意したカイエンの視点とエドガーの視点の両方からアインツベルンの城の中で行われている聖杯問答を監視していた。
  あまり深く同調し過ぎると本体の方が無防備になるので滅多にやらない。そもそも今までに修行以外に使った事すら片手で数えられる程度しかない上に、大抵の場合はミシディアうさぎを通しての五感同調なので、ゴゴが用意したこの状況は初めてだ。
  ただし間桐雁夜の肉体と精神がゴゴに同調している訳ではなく、ゴゴが用意した魔力の繋がりを通り抜けて五感を拝借しているだけだ。人には説明し辛い感覚だが、ゴゴが自分と自分の分身を繋ぐ魔力に俺が通れる道を用意してくれて、そこを歩いている、とでも言えば良いのだろうか。
  俺一人の魔力で同じような事をしても決して出来ない。魔術師には大なり小なり魔術に対する耐性があるので、使い魔が術者と五感を同調させるのと人のそれとは訳が違うのだ。
  普通の魔術師ならば他人に感覚を預けるなど決してやらない。
  そもそも魔力波長の異なる『自分』と『他人』の壁を易々と突破できる者はそうはいない。今は亡き臓硯の様に他人の肉体を全て自分のモノにしてしまえば出来るかもしれないが、完全に別人として確立している状態では不可能と言うしかない。とりあえず拙い俺が持っている魔術の知識ではそう結論付けられる。
  俺は視界の向こう側でライダーに詰め寄るマスターの姿を見て、デコピン一発で吹き飛ばされる哀れな様子もしっかり見ながら、見る意識とは別の思考で考えを巡らせていた。
  ライダーのマスターは腰にしがみ付いた女の子を上にして、地面に擦らないように気遣っていたが、今はどうでもいい。
  凛ちゃんを葵さんの元に送り届けた俺は合流してきたロック―――いや、変身したゴゴと合流し、再び二人分のゴゴに護衛される状況に戻した。
  そして公園から場所を変えた。
  一日過ごして敵がどう出るか判明してきたので間桐邸に戻っても良かったのだが、今の間桐邸にはゴゴしかおらず、桜ちゃんは冬木市から飛空艇で離れているので拠点以上に利用価値を見いだせない。
  安全と言うならば二人に別れたゴゴに守られている状況こそ安全であり、わざわざ間桐邸に戻る意味もない。
  間桐邸に戻らず、とりあえず場所を移動した俺にロックとセリスの二人がアサシンの大集結を告げて来たのが少し前。
  そして今、ゴゴが用意してくれた五感同調の為の魔力経路を通り抜けて、俺の意識はアインツベルンの森の中に飛んでいる。
  ただし同調しているだけで行動の決定権は全てアインツベルンの城にいるゴゴ、『カイエン・ガラモンド』と『エドガー・ロニ・フィガロ』の二人に委ねられている状況で、繰り返すが俺に許されているのは見ると聞くだけだ。
  俺の本体は凛ちゃんを葵さんに預けた公園とはまた別の公園にあり、人気のないそこの公園の長椅子に座って、両隣を固めるロックとセリスの手の甲に両手を乗せている筈。
  今更ながら、自分の体の中に俺という他人が通る為の魔力経路を簡単に作ってしまうゴゴの異常さを思う。軽々とやってのけているが、これもまた高度な魔術の一つだ。触媒なしに身一つしかない俺には絶対に出来ない。
  「身体一つの我を張って、天と地に向かい合う――。それが征服という『行い』の全て。そのように開始し、押し進め、成し遂げてこその我が覇道なのだ」
  アインツベルンの城にいる二人のゴゴ、そして俺の本体の両隣に座っている二人のゴゴ。何とも変な状況だと思いながら、聞こえてくるライダーの言葉を聞く。
  俺を含めた他のマスターが聖杯戦争に目的を持って挑んでいる様に、サーヴァントにもサーヴァントなりの事情が存在する。
  アーチャーが自らの法に則って他のマスターとサーヴァントを罰しようとしている様に、ライダーにもライダーなりの理由と目的と願いがある。
  それが受肉―――。そして征服王イスカンダルが生前成し遂げられなかった『世界征服』を自らの肉体で成そうとしている。
  つまり俺のサーヴァントであるバーサーカーにもライダーの様に何らかの聖杯に託す目的が存在するのだ。
  なお、俺の意識だけをゴゴを通じて飛ばしている状態なので、バーサーカーの意識は俺の本体の近くに浮遊している。もし一緒にバーサーカーの意識も送っていたら、倉庫街の戦いの時の様にセイバーを見て暴走する可能性が非常に高い。
  バーサーカーに俺の見ている風景を感じさせないように気を配りつつ、俺はそのバーサーカーの事を考えた。
  あの狂ったサーヴァントと言葉を交わした事は一度もないが、セイバーに見せた執着こそが聖杯に託す望みに関係するのではないだろうか。
  今までバーサーカーの願いなど考えた事は無かったが、俺のサーヴァントとして召喚されてくれたあの英霊に報いたいという気持ちがある。
  もし臓硯が生きていて、桜ちゃんを救うために聖杯を求めていたなら絶対に思いつかなかったであろう余裕。ゴゴがいたからこそ、考えられた疑問とセイバーが結びついていく。
  バーサーカーがセイバーを見て殺そうとするのも、史実を知る者なら、なるほど、と納得できる。あのセイバーはアーサー王その人であり、バーサーカーとの関わりは非常に深い。
  もしバーサーカーの願いが復讐なのだとしたら、それを成就させてやりたい気持ちは合った。
  力ではバーサーカーに遠く及ばない俺が『させてやりたい』などと思うのはおこがましいかもしれないが、とりあえずそう思っているのは確かだ。
 「決めたぞ、ライダー。貴様はこのオレが手ずから殺す」
  アーチャーの言葉で意識がバーサーカーからアインツベルンの森に引き戻され、見える風景に気持ちが集中していく。
  表面上は何でもない風を装っているが、アインツベルンの女が時々睨みつけるような探る様な視線をこちらに向けている。つまり、あっちにいるゴゴを強く警戒しているのだ。
  ライダーのマスターも同じようにゴゴを見ているが、あちらは腰にしがみ付かれた少女の存在もあって警戒よりも狼狽の方が強い。
  三人のサーヴァントは『王』を名乗るだけあって、聞き手が増えようと全く気にしていなかった。
  ライダーのマスターの腰にしがみ付いている少女はずっとそうしている。同じような年頃の子供達をキャスターの魔の手から救出したので彼女もまた救おうかとも思ったが、あの様子ではライダー陣営と一緒にいる方が安全と考えるべきだ。
  あの少女が救いの手をライダーとそのマスターの伸ばすなら、俺の出番はない。そして俺の手は、救いを求めない者にまで伸ばせるほど広くも大きくも強くもないのだ。
  ライダーに同行しているゴゴ、そしてライダーのマスターの知己と思わしき少女を送り届けたゴゴ。
  一度間桐邸を取り囲んでいた使い魔たちは全てエドガーによって消されているので、中にはエドガーが間桐と繋がりを持つと知らないマスターもいたかもしれない。
  だがマッシュの姿をしたゴゴが間桐邸を出入りしている事実と、マッシュとエドガーが兄弟の関係である事を暴露した所でエドガーもまた間桐と関わりをもち、聖杯戦争に関わっていると知っただろう。
  もっとも、エドガーもカイエンもマッシュでさえもゴゴの変身した結果だと知ってる俺の目から見たら、ゴゴが状況を引っ掻き回して遊んでいる様にしか見えなかった。
  むしろ、それがゴゴの狙いだ。
  聖杯戦争が始まってからゴゴは積極的に戦いには参入してこなかった。接触は俺より早かったかもしれないが、戦いに限定すれば俺とバーサーカーの方が他のマスターとサーヴァントに戦いを仕掛けた機会の方が多い。
 しかしゴゴは観察によって多くの宝具を手中に収め、バーサーカーの宝具『己が栄光の為でなくフォー・サムワンズ・グロウリー』を初めとして数多くの宝具を物真似した。
 手にしたものを自身の宝具として扱う宝具能力でバーサーカーの手にはアーチャーの宝具が握られている。まだお目にかかっては無いが、霊体化しているバーサーカーといえどもすぐ近くに居るので、あの宝具『騎士は徒手にて死せずナイト・オブ・オーナー』もゴゴは軽く扱うだろう。
  そんな必要はないかもしれないが―――。
  サーヴァント同士が争っているのを観察し、漁夫の利を収めている。俺が知っているだけで、バーサーカーの変身宝具とアーチャーが空中に浮かび上がらせた宝具、そしてアサシンの自分を分裂させる宝具は全て自分のモノにしている。
 かつての仲間に変身すると同時に色々な武具を作り出しているのを見ているので、ランサーの二本の槍や、ライダーの戦車チャリオットを魔力で具現化させられるんじゃないかと思っている。
  ただ、英霊の宝具を物真似して作り出しても、きっと今の俺は驚かない。ものまね士ゴゴがそういう事を何の気負いもなくやってのける異常な存在だとこの一年で強く理解しているからだ。
  ゴゴの事でいちいち驚いていたら何も始まらない。そう思いつつ状況を観察し続けた。
  「そんなものは王の在り方ではない」
  セイバーの声が聞こえて来て、その言葉がバーサーカーに届かないように願いながら、言葉の内容に苛立ちを感じた。
  倉庫街の戦いの時から『騎士道』を貫こうとする生き方には納得がいかないし、苛立ちを感じて、怒るのは変わっていない。それでも、自分には持っていないモノを持っていて、堂々と自らの道を―――ライダーの言葉を借りるならば『王道』を突き進む姿に羨望を覚えるのもまた確かだ。
  強い者に憧れる。
  強い者を憎む。
  殺してやりたいほどに―――。
  アーチャーは自らの法に則り、ライダーは受肉を望む。ではセイバーは聖杯に何を望むのか? おそらく俺以外にもアインツベルンの城にいる誰もがセイバーの願いに意識を移したに違いない。
  ライダーが言う。
  「では貴様の懐の内――聞かせてもらおうではないか」
  そして俺はその言葉に応じるセイバーの台詞を聞いた。



  ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆



  Side - ゴゴ





  「私は我が故郷の救済を願う――。万能の願望機をもってして、ブリテンの滅びの運命を変える」
  カイエンとしてその言葉を聞き、エドガーとしてその言葉を聞き、雁夜の傍にいるロックとして、そしてセリスとしてその言葉を聞いた。
  かつてのロックならばその言葉に共感したかもしれない。自らの犯した罪によって、消えない罰を負った。その点だけは似た部分が存在するからだ。
  ただし過去を振り返る意味の愚かさもまたロックは理解してしまい、ものまね士ゴゴがあの世界から離脱した瞬間のロックは『運命を変えたい』等と願わなかった。ひび割れたフェニックスの魔石によって過去との離別を行える機会に恵まれたからだ。
  物真似して分裂して作り出している多くの人格、それらがセイバーの言葉を聞き、多くの感情を生み出した。
  では、ものまね士ゴゴとしてはどうか?
 アサシンの宝具『妄想幻像ザバーニーヤ』だけならばゴゴとしての思考が表に出てくるが、バーサーカーの宝具『己が栄光の為でなくフォー・サムワンズ・グロウリー』で別人のものまねをしていると表層意識はそちらに引きずられてしまう。
  ある意味で物真似の真骨頂とも言えるが、ゴゴ単独として考えるには不向きだ。
  ゴゴは仕方なく最も強い自意識を間桐邸の地下に移し、アサシンを素材として色々試している『ものまね士ゴゴ』に意識を移す。
  目の前には半死半生の様相を表しながら蟲蔵の床に転がるアサシンの姿があり。敵であるゴゴがすぐ隣に立っているのに逃げる気配も攻撃する気配も見せない。
  いや、出来ないでいる。
  何しろ間桐邸の蟲蔵でアサシンを復活させた後、英霊に魔法や魔術や格闘がどれだけ効果があるのか試し続けてきたのだ。
  やろうと思えば痛みを感じる時間すらない一撃で存在そのものを消滅させる事も可能だったのに、休む暇もなく壊して直して、壊して直して、壊して直して、壊して直して、壊して直した。
  経過に対する結果を事務的に集め、物真似の一環とするために、聖杯戦争にアサシンのサーヴァントとして召喚されたハサン・サッバーハを破壊し続けた。
  傷つけて治したのではない。
  アサシンをあくまでモノと捉え、壊して直し続けたのだ。
  肉体の損耗は回復魔法で直し、魔力の損失は新たに供給することで消滅を許さなかった。結果、アサシンは戦いなどとは到底呼べない一方的な拷問を受け続ける羽目になってしまった。
  経過した時間で考えればまだ一日も経っていないが、アサシンが消滅の危機に瀕して、そのたびに直されてきた回数は百回を超える。
  髑髏の仮面の奥に見える目はまだ英霊としての光を失っておらず、暗殺者としての誇りを宿している。けれど肉体的な損耗は避けられず、全快していない今の状態では満足に動けない。
  アサシンを見下ろしながらゴゴは考える。―――さて、次にアサシンに仕掛ける攻撃は何にしようか。と。
  そして目の前にある光景とは全く別の事も考える。―――セイバーはブリテンの滅びの運命を変えると言った。と。
  意識はアサシンから離さず、けれども頭の片隅で全く別の事を考えながら、ゴゴはすぐに結論を出した。
  落胆―――これほど今の感情を言い表す的確な言葉はない。
  仮にも王を名乗った人間が、同じ王に対する虚言を用いるとは思えない。つまりセイバーの言葉は全てが真実であり、あれがセイバーが聖杯に求める願いそのものなのだ。
  過去の改変。つまり自分で作り出してきた過去と言う名の自分自身を否定する願いをセイバーは叶えようとしている。
 常時見せているランサーの宝具と違い、セイバーの真の宝具はまだ表に出てこない。それを物真似したい欲求が芽生えるが、『己が栄光の為でなくフォー・サムワンズ・グロウリー』でセイバーの物真似をしたいかと考えれば、はっきりと『否』と断言出来てしまう。
  ものまね士ゴゴにとって過去とは、失われたモノであり、欲しいモノであり、積み上げていくモノであり、手放してはならないモノだ。
  三闘神によって眠りにつかなければならなかった時間など、悔いる時間は数あるが。それでもなかった事にしてやり直したいとは欠片も思わない。
  望まれても自分を否定する人間になどなりたくはない。物真似したくない。それがゴゴとしての偽りなき本心であった。
  故に落胆した。
 セイバーの宝具は物真似する価値があるかもしれないが、『己が栄光の為でなくフォー・サムワンズ・グロウリー』でセイバーの物真似はしたくない。
  思考に費やした時間は短い、それでも何度思い返しても変わらぬ結論を出すには十分すぎる時間だった。間桐邸にいるゴゴは新たな手法をアサシンに試すのを続行して、もうセイバーの事を考えないようにする。
  そして意識を再びアインツベルンの城へと戻した。
  カイエンとエドガーの意識を間桐邸のゴゴに振り分けている間に聖杯問答は進み、ライダーの憤怒とアーチャーの嘲笑がそれぞれセイバーに向けられているのを確認した。


  「えぇと、セイバー? 確かめておくが、そのブリテンとかいう国が滅んだというのは、貴様の時代の話で――貴様の治世であったのだろう?」


  「そうだ! だからこそ悔やむのだ。あの結末を変えたいのだ! 他でもない、私の責であるが故に――」


  「自ら王を名乗り、皆から王と讃えられ──そんな輩が『悔やむ』だと? これが笑わずにいられるか、傑作だ。セイバー、おまえは極上の道化だな!」


  各々の言葉を聞き、強く感情を揺らしたのはカイエンではなくエドガーだった。
  エドガー・ロニ・フィガロ。機械王国フィガロの若き国王としての意識はセイバーへの強い憤慨を生み、もしこれが聖杯を求めるサーヴァント同士の酒宴でなかったら、すぐにでも乱入してしまいそうな怒りがこみ上げてゆく。
  続く言葉の全ては耳から入って頭で理解していたが、最初に感じた怒りは消えずに残り続けた。
  エドガーはセイバーを嘲り笑い続けるアーチャーを見ている。
  あくまで聖杯問答の筋道でセイバーを否定するライダーを見ている。
  問答を続ける為に荒げた語気を収めつつも、二人の『王』から否定されて狼狽を隠しきれないセイバーを見ている。


  「ライダー。その結末に、貴様は何の悔いもないというのか? 今一度やり直せたら、故国を救う道もあったと・・・そうは思わないのか?」


  「ない」


  問いかけるセイバーに対し、ライダーは堂々と胸を張って即答した。そこから続けられた言葉にエドガーとしての心が怒りとは別の意味で大きく揺れ動く。


  「ましてそれを覆すなど! そんな愚行は余と共に時代を築いた全ての人間に対する侮辱である!」


  「滅びの華を誉れとするのは武人だけだ。民はそんなものを望まない。救済こそが彼らの祈りだ!」


  ライダーの言葉に反論したセイバーはそこから自らの王道を語り、ライダーもまたそれに応じて自らの王道を語る。
  女性が―――つまり女王が国の上に立って国を率いる事には賛同したくはないが、そういうものもあるのだと納得はする。そしてセイバーが語る王の姿―――『正しき統制。正しき治世。すべての臣民が待ち望むものだろう』、その尊き思いに共感したのは事実だ。
  ライダーは自らを暴君と認め、故にそれこそが英雄だと断じた。それもまた一つの真理だと思う。
  時代が変わり、環境が変わり、歴史が重なり、人の記憶もまた時と場合によって大きく変わる。だからこそ『正しさ』など、人の数だけ存在するし、ライダーの正しさがセイバーの正しさとは限らない。別の言い方をすれば、ライダーもセイバーも等しく正しい。
  同じ時代に生きた別の国の王ならばその時代に生きた人間か後世の者が正しさを判定するかもしれないが、セイバーとライダーがそれぞれ生きた時代はあまりにも違いすぎる。
  だからこそどちらも譲れぬ王道を掲げて問答によって言葉で決着をつけようとしている。自らの王道を突き進もうとするその点にだけはエドガーは賛同する。しかしセイバーの『滅びの運命を変える』という思惑には怒りしか湧かない。
  それでも一国を率いた王か、と―――怒りが込み上げてくる。
  彼女は判っていない。ライダーの言うとおり、やり直しなど王と共に時代を築いた全ての人間に対する侮辱だ。
  それが判っていない。
  セイバーの治世の中にも幸せがあり、苦しみがあり、楽しさがあり、辛さがあり、その時代を生きた人間の歴史がある。確かに、国が一つ滅んだ事で、多くの血が流れて、多くの人が死んで、多くの悲しみが合ったかもしれない。それでも歴史は積み重ねられて、現代に至るまでしっかりと続いている。
  過去を変えるのは、その時代を生きた人間を抹殺して、全く新しい別の何かを作り出す行為だ。セイバーの願いは王が自ら故国の民を殺すのに等しい。セイバーはそれが判っていない。
  王が従った臣下を否定する。
  王が国に生きた民草全てを否定する。
  王がブリテンという国そのものを否定する。
  それは国の頂点に立つ王ならば―――臣民の事を考えて『正しさ』を行おうとしているセイバーならば、尚更してはならない決断だ。
  そもそも人は過ちを犯す生き物だ。正しくもあれば間違ってもあり、善なる者もいれば悪なる者もいる。たとえ時代が変わろうと、統治者は清濁併せ呑む人間でなければならない。
  聖杯問答には関わらないと自らの名で宣言したからこそ、三人の王が作り出す話の輪の中にエドガーは加われない。だからこそ思考だけが暴走気味に動き回り、頭の中で色々な答えを作り出していく。


  「人は王の姿を通して法と秩序のあり方を知る。王が体現するものは王と共に滅ぶような儚いものであってはならない。より尊く不滅なるものだ」


  そのセイバーの言葉を聞いた瞬間。エドガーの意識は今まで以上に怒りと動揺に支配された。
  それが判っていながら、何故過去の改変など望むのか。そうエドガーの心が叫ぼうとする。
  ライダーはため息を吐きながら『そんな生き方は人ではない』と言い、セイバーの在り方に憐れみすら抱いている様だ。
  伝説に語り継がれるアーサー・ペンドラゴンは完璧な君主であり、理想の体現者であり、私情を捨てて人ではなく正しさを体現する為の存在になった。ならば間違いなく、その正しさに惹かれ、焦がれ、思いを馳せ、そうありたいと思った者もいただろう。
  ブリテンという国が滅んでも、そこに生きた全ての人間が死した訳ではない。
  生き延びた者がいる。助かった者がいる。王の生き様を語り継いだ者がいる。セイバーの願いはそれすらも抹消する。
  セイバーが刻んだ『正しさ』は紛れもなく今の世の中にまで続いている。だからこそ彼女は名高き騎士王として今でも語り継がれているのだ。


  「征服王、我が身の可愛さのあまりに聖杯を求める貴様には我が王道は判るまい。飽くなき欲望を満たすためだけに覇王となった貴様にはな!」


  確かにライダーにはセイバーの王道は判らないかもしれない。そもそも掲げる王道が異なる上に、それぞれの王道を進んでいるのだから、納得はしても理解は出来ないだろう。そして逆にライダーの王道もまたセイバーには理解できないに違いない。
  なのに何故、セイバーはその『王道』を無に喫するのか?
  セイバーが掲げた正義を確かな証として国に、人に、時代に、歴史に、世界に、多くを示しおきながら。過去を変えてその偉業を消そうとしている。セイバーが自らの王道を掲げながら、ブリテンの滅びの結果を覆す為に否定する。
  矛盾だ。
  とどめとばかりに恫喝するセイバーにはどうしようもない矛盾が存在し、彼女はそれに気付いていない。
  鼓膜が破れそうなセイバーの声を真正面から受けたライダーは、これまでにな強い視線をセイバーに向けて吠えた。


  「無欲な王なぞ飾り物にも劣るわい!」


  マッシュの姿で倉庫街の戦いに乱入し、ミシディアうさぎの目でライダーとそのマスターを捕捉し。結果的にカイエンとしてライダーと共闘する事になった。今ライダーが見せた怒気はそのどの状況でも見なかった凄味を含んでいて、溢れ出た気迫でライダーの大柄な体格が更に膨れ上がったかのような錯覚を感じさせた。
  数多くの戦場を渡り歩いてきたセイバーはその程度では怯えはしなかったが、ライダーに向ける顔つきに自分自身の矛盾に気付いている様子はなかった。
  結局のところ、アーチャーとライダーが問答でその結論に至ったように、互いに曲げられぬ王道があるのならば事態は戦いへと集約していく。それしかない。
  ただ問題なのはセイバー自身がその王道を否定している事だ。
  セイバーが自らの王道を進んでライダーと衝突したならば、ライダーもここまで怒りを露わにしなかっただろう。
  まっすぐにセイバーを見つめるライダーの口から新たな言葉が出る―――かと思われたが、ライダーは口を開いたままセイバーから視線を外し、後ろを振り返ってしまった。
  聖杯問答に背を向けるようなライダーの行動に違和感を覚えるのと、その理由に至るのはほぼ同時。
  「カイエン!」
  「心得たでござる!」
  エドガーとしての意識がカイエンへと移り、かつての世界でモンスターからバックアタックを受けた時の様な懐かしさが体の上から下までを駆け抜ける。
  悪寒と言い換えてもいい。
  セイバーに向けていた感情は一瞬で消え去り。意識は戦いのそれに変化した。
  ライダーの声に応じながら、体はしっかりと迫る敵の攻撃に備えて動いてゆく。ライダーに言われる前に既に手が刀を握り締め、隣に立つウェイバーへの攻撃に対処するべく動いた。
  もしこれが本当の意味でもバックアタックだったならばカイエンの速さでも間に合わなかった。何故なら、真のバックアタックは敵側が必ず先制攻撃を行える背後からの攻撃だからだ。
  かつて世界に存在した絶対にして不変の法則。敵からの攻撃は受けるか避けるか耐えるかのどれかで選択できるが、バックアタックされた瞬間に先に攻撃されるのは変わらない。
  しかし今ウェイバーを狙っている攻撃はバックアタックではない。サーヴァントの存在は魔力の繋がりによって看破され、敵の所在は遠かろうが近かろうが大体の位置を把握できる。
  だから敵が聖杯戦争に召喚されたサーヴァントである限り、絶対にバックアタックは実現されない。
  これまでは静観を保っていたが、ライダーがセイバーに怒鳴りつけたのを好機と見たのか。アインツベルンの城を取り囲むアサシンの中に一人が攻撃を仕掛けてきたのだと理解する。
  カイエンとなったゴゴは『風切りの刃』を鞘から抜いて、引き抜く勢いをそのままに刃が黒く塗られた短刀を横にはじき返した。
  ガキンッ! と金属同士がぶつかり合う鈍い音が響き、一瞬遅れ、うわぁっ! と驚くウェイバーの声が聞こえる。そして、ウェイバーが立つ位置から見て後ろの屋根の上にアサシンが姿を見せた。
  「無粋な輩でござるな」
  そう呟くカイエンの言葉が聞こえたのか、最初の一撃が失敗に終わった所で全力で仕掛けるつもりだったのか。今度は脇の花壇の中に霊体化を解いて実体化したアサシンが立つ。
  もちろんその手には刃を黒く塗った短刀が握られ、僅かでも隙があればウェイバーに向けて投擲しようとする意図を見せつけている。
  アサシンの出現はそれだけに収まらず、東西南北全ての屋根の上に―――、城の空いた窓枠に、中庭に来る時に通り抜けた通路に、柱の影に、人が立てるありとあらゆる場所にアサシンは現れた。
  十秒とおかずに三人のサーヴァントを中央に置いた中庭は、アサシンの集団が中庭にいる全ての人間を包囲する状況へと変化する。
  巨漢のアサシン。
  矮躯のアサシン。
  細身のアサシン。
  見渡せば多種多様なアサシンがいるが、髑髏の仮面をつけて表情を隠し、その手に短刀を握りしめている点だけは統一されていた。中には両手に一本ずつ黒塗りの短刀を握るアサシンもいて、誰もが攻撃できる体勢を作り出している。
  「む・・・無茶苦茶だっ!」
  貯水槽で複数のアサシンがいる事までは確認していたが、さすがに宝具で分身しているという理由までは知らないウェイバーが悲鳴のような叫びをあげる。
  どんなサーヴァントでも一つのクラスには一体分しか枠はない。アサシンはその聖杯戦争の根源とも言えるルールを逸脱しているのだ、無理もない。
  先程の攻撃で、アサシンがこの場で狙い定めているのがウェイバーであるのを証明している。自力で他のサーヴァントに劣るアサシンが聖杯戦争に勝利する為には真っ向からの戦いよりも、マスターを狙うのが常道。この場においてマスターはアイリスフィールとウェイバーの二人だけと思われているが、アイリスフィールは偽りのマスターである上に『聖杯の器はアインツベルンが用意する』という決まりごとがある為、聖杯を求めるならば不用意に殺せない相手だ。
  結果、体感している当人の温度を数段下げるほどの濃密な殺意がアサシンから放たれてウェイバーに集中する。カイエンはウェイバーを守る為、アサシンに先手を取られた状況を動かしていった。
  「ウェイバー殿、その娘を連れてイスカンダル殿の位置まで下がるでござる」
  「え、あ――、うん・・・」
  突然のアサシン出現に一瞬だけ呆けていたウェイバーだったが、カイエンの言葉を聞いて今すべき事が逃亡であると思い出す。
  視線は現れたアサシンに向けたまま、片時も目を離せずに後ずさっていくのが足音で判る。腰に少女をしがみ付かせている状態なので、後ずさる速度は歩くよりも遅い。ウェイバーがたった一人だったなら駆け足ですぐにライダーの元に行けただろうが、今は腰にアサシンの少女がいる。
  「これは貴様の計らいか? 金ピカ」
  「時臣め・・・、下種な真似を」
  ウェイバーの動きに合わせて、『風切りの刃』を構えたままカイエンは後ずさる。すると後ろからライダーとアーチャーの声が聞こえてきた。
  侮蔑を隠そうともしないアーチャーの言葉でアーチャーとマスターとの間に意識の齟齬が出来ている事が再確認できた。
  もともと、遠坂邸にこもって聖杯戦争が始まって以来一度たりとも外の出なかった遠坂時臣と、自由に冬木市の中を歩き回っていたアーチャーとの行動には食い違いが発生していた。真に守りを強固にするならば、最大の攻撃手段であり最大の防衛手段でもあるサーヴァントを傍に置く筈。
  確かに両者の間にはマスターとサーヴァントの契約が存在するかもしれないが、それが意識下においての契約かどうかは別問題だ。アーチャーの言葉で今回の襲撃を画策したのにマスターである言峰綺礼のほかにも遠坂時臣が関わっているのが確定となり、自らの法に則って聖杯戦争の参加者を罰しようとするアーチャーと、聖杯を求めて戦う遠坂時臣との間には確執が存在するのも確定した。
  これは状況によってアーチャーが遠坂時臣を殺す可能性にもなる巨大な確執であろう。
  そうなった場合、遠坂時臣に死んでもらっては困るこちらの立場として、助けなければならなくなる事態になるかもしれない。目の前にいる膨大な量の敵も少し厄介だが、浮き彫りになった問題の大きさで言えばアーチャーと遠坂時臣の不和の方が大きい。
  「厄介でござるな・・・」
  カイエンの口からアサシンと遠坂時臣の二重の意味で言葉が囁かれると、短刀を構えた前後左右のアサシンから一斉に忍び笑いが漏れる。
  「我らは群にして個のサーヴァント。されど個にして群の影――」
  単体の強さは他のサーヴァントと比較しても大きく劣るアサシンだが、数の理という強みを生かした優勢を誇る様にアサシンの一人が語る。
  言葉で気が紛れた所に短刀を投げつけるつもりか。それとも暗殺者のサーヴァントが優位に立てたことで気が大きくなっているのか。攻撃の合間に言葉を挟みこんだ本当の理由はアサシンにしか判らない。
  「まさか・・・多重人格の英霊が自我の数だけ実体化している、のか?」
  「私たち――、今日までずっとこの連中に見張られていたわけ?」
  すぐ後ろからウェイバーの囁く声が聞こえ、離れた位置からアイリスフィールの声が聞こえる。
  聖杯問答が開始された時は中央から離れた位置に陣取っていたアイリスフィールだが、アサシンの出現と同時にセイバーの元まで移動したようだ。後ろを振り向けないカイエンにとっては声から判断するしかないが、囁かれた言葉が聞こえた位置はかなり近いので間違いないだろう。
  もしアサシンがウェイバーではなくアイリスフィールを先に攻撃していたら、中庭の中心にいたセイバーでは守り切れなかった。
  もっとも、彼女が真っ先に攻撃されていたらカイエンがウェイバーを守っていたように、女性重視のエドガーの体が考えるよりも前に動いて迫る短刀をはじき返しただろうが。
  そのエドガーの目で周囲を観察してみると、アサシンの殺意がほとんどウェイバーに向けられていたが、困惑を思わせる動揺を混ぜ込んだ敵意を向ける者もいた。
  おそらくウェイバーの腰にしがみ付いている少女の姿をしたアサシンを見て、『どうしてそこにいる?』と疑問を抱えたのだろう。それでも疑問を口にしないのは、マスターである言峰綺礼から令呪で命令され、今のアサシン達には制限が設けられているのかもしれない。
  見ると、アーチャーはアサシンの出現など全く気にせずに自分のマスターへ向けた侮蔑を表情に軽く浮かべたまま沈黙を保っている。セイバーは敵の出現に対し、背後にアイリスフィールを置きながら不可視の剣を構えていた。
  エドガーとしては率先して事を構えるつもりはないし、アサシン側も間桐邸でエドガーの機械でアサシンの一人が呆気なく殺された経緯もあり、こちらを意識はしているが攻撃しようとする素振りはない。
  これはウェイバーただ一人の窮地だ。
  そしてマスターの魔力供給によって現界しているライダーの窮地でもある。
  貯水槽の戦いでアサシンが一人だったならばライダーの敵ではない事が証明されたが、圧倒的な数の差はその不利を覆す。一人が斬り殺されている間に、他のアサシンがウェイバーを殺してしまえばそこで終わりなのに、ライダーはカイエンの名を呼んだ緊迫した空気を霧散させて余裕の笑みを浮かべていた。
  セイバーに向けた憤怒はなかった。
  絶体絶命の苦境に追い込まれた男の顔でもなかった。
  「ライダー、なぁ、おい・・・」
  そんな命の危機に瀕しながら全く動じていないライダーに不安げにウェイバーが話しかけるのはある意味当然だ。その言葉の中には『何してんのお前?』という疑問も含まれている。
  けれどライダーはウェイバーとは対照的に、余裕の笑みを浮かべたまま応じる。
  「こらこら坊主、そう、うろたえるでない。宴の客を遇する度量でも、王の器は問われるのだぞ?」
  「あれが客!? 僕は殺されそうになったんだぞ!!」
  「死んでおらんではないか。細かい事は気にするな」
  「うおぉいっ!!」
  あまりにも心が広すぎるその言葉にウェイバーが叫んで詰め寄ろうとしていたが、腰にしがみ付かれたアサシンの少女がウェイバーの服をギュッと掴んだので上手く動けなかった。
  その代わりではないが、ウェイバーの突っ込みが消えた所にアーチャーが割り込む。
  「あんな奴原までも宴に迎え入れるつもりか? 征服王」
  「当然だ。王の言葉は万民に向けて発するもの。わざわざ傾聴しに来た者ならば、敵も味方もありはせぬ」
  そう言うとライダーはアーチャーが取りだした黄金の酒器ではなく、斜め後ろにどけておいた樽に手を伸ばす。周囲を敵の集団に囲まれている状況で、しかもいつ短刀が投げつけられてもおかしくない窮地でありながらも、全く気にせずに柄杓を取った。
  マスターなどどうでもいいと思っているのか。あるいはウェイバーの前に立ってアサシンを見据えるカイエンを信頼しているのか。
  後者ならばいいと思っていると、ライダーが樽から掬いだした酒を上に掲げて語りだす。
  「坊主に怪我はない、一度限りならば許そう。共に語ろうという者はここに来て杯を取れ、遠慮はいらぬ。この酒は貴様らの血と共にある!」
  返答はライダーの真正面から訪れた。
  それは言葉ではなくアイリスフィールがいた方向の屋根の上から投げられた短刀だった。
  アサシンの一人が投げた短刀はライダーが持つ柄杓の頭の部分だけをしっかりと狙い。それどころかライダーの近くに後退していたウェイバーへも殺到する。
  もしライダーが空いてる方の手でウェイバーの服を掴み横に逸らさなければ、アサシンの短刀はウェイバーの首筋に突き刺さって命を奪っただろう。
  おそらくライダーはアサシンを酒宴に誘いながらも、自分のマスターが攻撃される心構えはちゃんとしていたのだ。そうでなければウェイバーを力ずくで避けさせるなど出来はしない。
  カイエンはウェイバーの前にいるので、ウェイバーが後ろから攻撃されたらライダーが対処するしかないのだから。
  「かすった! 髪の毛が! 目の前をヒュッ! って」
  「落ち着くでござるよウェイバー殿」
  少女を腰にしがみ付かせたまま、ライダーに命を助けられたウェイバーの叫び声が辺りに響き渡る。
  そしてライダーの肩に柄杓に注がれていた酒がぶちまけられ、地面へと散らばる柄杓の残骸と合わせて無残な様子を作り出していた。アサシンの集団はその様子を見て、あざ笑うかのように再び忍び笑いを漏らす。
  「貴様ら・・・余の言葉、聞き違えたとは言わさんぞ? 『この酒』は『貴様らの血』と言った筈」
  そうライダーが言った時、彼の顔に浮かんでいた表情はセイバーに向けていた怒気とも、アサシンの集団に囲まれていた時に浮かべていた余裕の笑みとも異なっていた。
  硬質な声の響きと共に決定的に何かが変わった。憤怒のようであり冷徹のようでもあるライダーの声が辺りに響き渡る。
  「あえて地べたにぶちまけたいと言うならば・・・、是非もない――」
  ゆっくりとライダーが立ち上がり、身長二メートルを超える巨漢がその威容を存分に曝け出した瞬間。ライダーを中心にして旋風が巻き起こった。
  それは熱く乾いた焼けつくような風で、森に囲まれた夜のアインツベルンの城の中には決して起こり得ない種類の風だった。
  そして風の中には中庭にある花壇や土などとは根本的に異なる小さな物体も含まれている。
  砂だ。
  ライダーを中心に巻き起こった風は紛れもなく熱砂を含んでおり、ありえない風を起こしていた。
  「セイバー。まだまだ余は貴様に言い足りぬ事が山ほどあるが、今はこのアサシン共に罰を与えねばならん。その目でしかと見届けよ――、余が今ここで、真の王たる者の姿を教えてやる」
  明らかにライダーが引き起こしている怪異の中、風よりも大きな声でそのライダーの大声が響き渡る。
  いつの間にかライダーの姿はTシャツとジーンズから風でなびくマントを装着した戦装束に変わっており、熱砂に合わせて征服王イスカンダルのマントが大きく揺れていた。
  突如巻き起こった風か、衣装の変化か、それともライダーの言葉か。そのどれかが切っ掛けとなり、吹き荒れた風の中でアインツベルンの城の中に集まったすべてのアサシンがウェイバーへと目がけて短刀を投げつける。
  ただしウェイバーの腰にしがみ付いている少女のアサシンだけは例外で、風が巻き起こると同時にウェイバーが伏せたので、彼女はそれに便乗して一緒に地面の上で丸くなっていた。
  雄々しく吹き荒れる風の中でもしっかりと標的に狙いを定めた攻撃だ。伏せて標的は多少小さくなっているが、そんな事は気にせずに全てがウェイバーに突き刺さる軌跡を描いている。
  風程度で暗殺者のサーヴァントの一撃は狙いを外したりはしない。
  一秒とかからずにアサシンの短刀がウェイバーの体に突き刺さる。
  が、それが成し遂げられるよりも前に、吹き荒れた風と同様にライダーを中心にして閃光が全てを包み込んだ。



  ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆



  Side - アイリスフィール





  私はセイバーの願いを知っていた。
  聖杯戦争が始まる以前、彼女が召喚されてから話す機会が何度もあったので、その時にセイバーの口からその言葉を聞いていた。


  「この手で護りきれなかったブリテンを、私は何としても救済したい」


  私の願いは切嗣の受け売りだけど、―――聖杯の力によって世界を救済したい、そう願っている。
  救いが私たちの願いだったから、私もセイバーも何の疑問も抱かずにその目的の為に聖杯戦争を勝ち抜こうと決意した。
  でも私はセイバーの言葉を聞く瞬間まで、聖杯を用いて『どのように救うか?』を考えた事が無かったのに気が付いてしまう。聖杯は万能の願望機、けれど願望には形があり、切嗣には切嗣の願いがあって、私には私の願いがあって、セイバーにはセイバーの願いがある。
  確かに言葉の上でそれは等しく『救済』という『願い』によって統一されるかもしれないが、誰もが等しく同じ結論に至っているとは限らない。
  私はその事に気が付いてしまった。
  セイバーがブリテンの滅びの運命を変える、そう言った時。セイバーにとっての救いはかつて存在した国を全く別の形にして作り直す事だと知った。その言葉は私が考えなかった『救いの形』を一つ増やした。
  私が思い描く『世界の救済』とセイバーの考える『世界の救済』は大きく異なっている。確かにどちらも対象を救うと言う点では共通しているかもしれないけど、セイバーの願いはかつて治めたブリテン一国に終始して、私と切嗣の願いは今の世界全てに広がっている。
  世界を捉える尺度の違い。
  セイバーの生きた時代と現代との違い。
  救うと言う行為そのものの違い。
  私はそもそも、何を成して『世界の救済』を決定づけるつもりだったのか?
  切嗣の願いを私は叶えたい。だからこそ、切嗣こそ最後に聖杯を手にするマスターであってほしいと願い行動してきた。その願いの果てはどこにあるの?
  切嗣は何をもって世界を救ったと判断するの?
  私には私の願いに形が無い事に気が付いてしまう。
  セイバーの言葉で色々な事が連鎖的に浮かんできて、聖杯問答の事を見つめながらも他の事を考えていた。
  世界の救済―――その形を捉えようとする思いは、ライダーとセイバーの舌戦が激化していくごとにどんどんと強くなっていく。
  そして私はふと考えた。
  セイバーが滅びの運命をたどったブリテンを救う事で、切嗣が思い描く世界の救済が壊れるのではないか。と。
  切嗣がどんな未来を描いて世界を救おうとしているのか私には判らない。彼がそれを願い、それを成し遂げたいと強く思っているのは知っているが、その具体的な形を知らないのだ。
  考えてしまう。
  知らないから判ろうとする。
  思ってしまう。
  知らないと気付いてしまった。
  騎士としてランサーと再戦する為、切嗣を間接的に殺そうとしたセイバーを疑ってしまう。
  何しろ切嗣と私にとって世界とは、セイバーが救おうとしているブリテンが滅んだ後の世界なのだから。
  セイバーが過去を変える事でライダーが訝しみ、アーチャーが嘲笑う意味を考えるよりも前に、私はセイバーと切嗣の事で頭がいっぱいになった。
  聞こえてくる言葉は全てその思考を先に進めるために費やされた。
  ただし、アサシンの集団が現れた時、その思考を止めるしかなかった。聖杯戦争において敵が現れ、闘争にこの身を置いて生き延びる事に集中しなければならない。
  大勢のアサシン。
  自分だけでは英霊から身を守れないので、私はセイバーの元へと近づく。
  殺されそうになったライダーのマスター。
  そして巻き起こる暴風と閃光。
  気が付いた時、私は熱砂吹き荒れる砂漠に立ち、静けさと暗さがあった夜のアインツベルンの森の姿を探してしまった。
  一瞬前まで合った筈の目の前の風景は全て消えていて、同じなのは聖杯問答に集まった人影だけ。首を回して周囲を見渡して、遠く離れた位置に集められたアサシンの集団を見つける。
  ライダーのマスターへと放たれた山ほどの短刀も、一緒にそこに移動させられたのだろう。
  私は周囲から感じる魔力の波長と、目に見える現実の違いから起こった現象を理解し。敵の姿が遠くにやられた安堵ではなく驚愕を思った。
  アインツベルンの女として魔術を知るからこそ、これは絶対にありえない事態なのだから。
  「固有結界ですって!? そんな馬鹿な、心象風景の具現化だなんて・・・」
  「もちろん違う。余一人で出来ることではないさ」
  驚愕をそのまま口にすると、すぐにライダーが返してきた。アサシンが現れる前は距離を取っていたけど、今の私は不可視の剣を構えたセイバーの近くに居るので、呟いた独り言でもライダーにしっかり聞こえてしまった。
  どこを見渡してもそこに見えるのは砂漠だけ。夜の静けさは欠片もなく、降り注ぐ太陽の強い日差しが肌を焼く。雲一つない晴天だ。
  地平線の彼方にまで視野を遮る物は何もなく、ただひたすらに砂漠だけが広がっている。
  固有結界―――。
  術者の心象世界を形にして、現実に侵食させて形成する神秘の魔術。魔法に最も近い魔術。奇跡と並び称される魔術の極限。魔術師の到達点の一つ。本来は悪魔や精霊のみが操れる異能。たとえ英霊と言えどもそれを発動させることは容易くは無い。
  千年の歴史を持つアインツベルンと言えども、魔術の到達点の違いもあって発現には至っていない。
  それをライダーは作り出したのだ。
  「これはかつて、我が軍勢が駈け抜けた大地。余と苦楽を共にした勇者たちが等しく心に焼き付けた景色だ」
  アサシンの方を向いたライダーが雄々しくそう叫ぶのと、視界を遮りものの無かった周囲から一定の調子で音が聞こえて来たのはほぼ同時だった。
  音が聞こえて来たのは遠く離れた箇所に集められたアサシンと逆の方角。つまり私たちのいる場所からアサシンと真逆の位置でライダーが背を向けた方角から音が聞こえてきた。
  私は音に引き寄せられてそちらを振り返る、すると、ついさっきまで何も無かった筈の場所から何かが姿を現していく。
  話にしか聞いた事が無いが、これが蜃気楼と呼ばれる幻なのだろうか? 一瞬だけ、そう思ったが、浮かび上がる何かの姿に合わせて音もまた一緒に増えていくので、すぐに幻ではないと判る。
  一つや二つではない、十や二十でも足りない。そこに浮かび上がっていく何かと聞こえてくる音は時間経過と共に数を増していき。確実に百を超える数にまで膨れ上がり、なおその数を増やしていく。
  「この世界、この景観を形にできるのは、これが我ら全員の心象であるからさ」
  ライダーの言葉と共にぼんやりと形を作っていた何かが人の形を取り、それらは武装した戦士へと変わっていった。
  切嗣から教わった現代の兵士が身に着ける迷彩服や銃器とは違うけど、それは紛れもなく戦士の風体であり、戦う者の姿そのものだった。
  騎兵がいた。
  槍を持つ者、剣を持つ者、斧を持つ者。
  歩兵もいた。弓を持つ者もいた。
  人種も装備もまちまちだったが、その屈強な体躯と勇壮に飾り立てられた具足の輝きは華々しく、そして精桿だった。
  一定の調子で聞こえていたのが足音だったと気付く。それも一人や二人だけではなく、目の見える範囲にいる全ての戦士が作り出す音はまるで戦場の音楽の様に私の耳から入り込んでくる。
  「見よ、我が無双の軍勢を――」
  ライダーの言葉を聞くよりも前に、私はその『軍勢』に凝視する。
  何より私の意識を強くそこに向けさせたのは、現れた膨大な人影から溢れんばかりの魔力を感じるからだ。
  前に立つだけで屈服してしまいそうになる嵐にも似た魔力の奔流。セイバーの肩に手を当てながら寄り添うようにしなければ、膝を折って砂漠になってしまった地面に崩れ落ちてしまいそうだった。
  頭上から降り注ぐ太陽の熱気とは別に、魔力と言う名の別の太陽が地上に出来上がったような錯覚を覚える。
  視界全てを覆い尽くすほどにまで増えた大軍勢は千人を軽く越えている。
  あれは一体、何? そう思うと、少し離れた位置で地面に膝をついて、少女の頭を抱きかかえていたライダーのマスターが呟く。
  「・・・・・・・・・こいつら、一騎一騎がサーヴァントだ」
  「嘘っ!」
  本来ならばクラス一つの枠に一体しかいない筈のアサシンが複数いた事実。
  それに続き七騎しかいない筈のサーヴァントが軍勢を成す数にまで増えた事実。
  サーヴァントの召喚は人の手に余る複雑な魔術儀式を必要として、切嗣がセイバーを召喚した時は聖杯のバックアップが合ったからこそ可能な技だと口にしていた。
  それが数えきれぬ程、私の目の前に召喚されている。
  私は切嗣の様に正規のマスターではないので、本来のマスターにのみ与えられるサーヴァントの霊格を見抜き、評価する透視力を備えていない。だからライダーのマスターの呟きの正否を確かめる手段がないのだけれど、私が大軍勢から感じる強烈な魔力と、驚きながら私と同じように大軍勢を見つめているライダーのマスターの姿から、嘘をついているとはとても思えなかった。
  つまりライダーの後ろから続々と召喚されて形を成していく彼らは―――ライダーによって召喚された、紛れもないサーヴァントなのだ。
  ライダーは誇らしげに、そして高らかに隊列の先頭に立ち両腕を左右に広げ。征服王イスカンダルとして宣言する。
  「肉体は滅び、その魂は英霊として『世界』に召し上げられて、それでもなお余に忠義する伝説の勇者たち。彼らとの絆こそ我が至宝! 我が王道! イスカンダルたる余が誇る最強宝具──」


 「王の軍勢アイオニオン・ヘタイロイなり!!」


 独立サーヴァントの連続召喚。それこそが戦車チャリオットなど比較にもならないライダー、いや、征服王イスカンダルの真の宝具。
  私はイスカンダルの言葉に呼応して大軍勢から轟く鬨の声に体を震わせる。セイバーが求める救済など、もう考えていられなかった。



[31538] 第23話 『ものまね士は聖杯問答以外にも色々介入する』
Name: マンガ男◆da666e53 ID:6a0d9b18
Date: 2013/02/25 22:36
  第23話 『ものまね士は聖杯問答以外にも色々介入する』



  ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆



  Side - ゴゴ





  かつて過ごした世界から別の世界へと渡った時は驚かなかった。それが出来ると知っていたからだ。
  蟲蔵を埋め尽くす蟲の群れもモンスターの一種と捉えて済ませて終えた。小さな蟲の群れなど珍しくないからだ。
  抑止力という名の世界そのものが語りかけて来た時も驚きは少なかった。知る以前から存在を感じていたからだ。
  聖杯戦争と言う名の闘争を市街地で行う異常さも、物真似する対象以上の入れ込みは無い。闘争も平穏もものまね士にとっては等しいからだ。
  動揺などこの一年味わった事が無かった。
  しかしこれは違った。
 アサシンの宝具『妄想幻像ザバーニーヤ』によって分断された全てのゴゴの意識が力ずくでカイエンとエドガーの視界に集結しようとする。自意識を強制的に決めつけられる強力な動揺であり驚愕であり―――魅了がそこにあるからだ。
 それが、それこそがライダーの宝具『王の軍勢アイオニオン・ヘタイロイ』。
  雲一つない照りつける太陽の下、固有結界によって生み出された広大な砂漠は驚くに値しなかった。ものまね士ゴゴの目を惹きつけるのはライダーの後方から現れて、アサシンの集団を敵とみなして集った大軍勢だ。
  これだけ壮大な宝具の発動にはそれに見合う莫大な魔力が必要なようで、時間経過と共にライダーに貯蔵された自前の魔力がどんどんと減っていくのが判る。本来であれば、マスターであるウェイバーから減った分を調達するのがサーヴァントの正しいあり方なのだが、ライダーは減らすばかりで増やそうとはしなかった。
  減った分を一気に補給すればマスターに多大な影響が出るので少しずつ補給するつもりか、あるいは、マスターとサーヴァントの間で魔力供給が行えてもやる気が無いのか。何かしらの意図があるのだろう。
  とにかく起こる事実の全てを見定めようとものまね士ゴゴの目が目の前の光景を凝視する。今この瞬間に限って言えば、誰かに攻撃されたら迎撃も防御も出来ないだろう。そう確信できる程に集中して、集中して、集中してしまう。
  英霊となったかつての同胞たちを召喚し、ライダーを先頭に据えた、正しく『王の軍勢』と呼ぶに相応しい壮観な光景がそこにある。
  アーチャーの宝具は確かに強力無比で、撃ち出す弾丸である宝具が尽きない限り、大抵の敵は個人であろうと集団であろうと組織であろうと国であろうとも滅ぼせるに違いない。
  けれど極論すればアーチャーの宝具はただ強力なだけだ。まだ全てを物真似していないので、同じ結果を物真似出来るかは怪しいが、同じ結果を導き出すのはそう難しい事ではない。
  ただ破壊すればいい。
  雁夜はまだ扱えない強力な魔法の幾つかに込められるだけの魔力を込めればそれで終わりだ。それだけで冬木市全てを生きてる人間ごと一瞬で地ならし出来てしまう。
  アーチャーの宝具の物真似は決して難しくは無い、それが現段階の結論である。だがライダーの宝具は違う。
  『個人』には決して成し遂げられない『軍勢』。
  アサシンの宝具とバーサーカーの宝具の物真似によってゴゴにも似たような状況を作り出すことは出来る。だが、それは物真似ではなく贋者だ。
  ライダーのようにかつての仲間達をそれぞれ呼び出すように見せかけているだけの、物真似とは到底言えない児戯のような見せ掛けだけのハリボテだ。
  見た目だけならば同じような結果を作り出せるかもしれないが、他の誰でもないものまね士ゴゴ自身がそれを自らの物真似と認められない。出来るのは精々モグの特殊技能『おどる』でこの砂漠と同じ空間を作り出すのが関の山。
  幻獣を召喚して共に戦う事は出来る。
  ゴゴ自身が分身してかつての仲間が集まったように見せる事は出来る。
  でも、かつて共に旅して戦った同胞たちを呼び寄せられない。
 王の軍勢アイオニオン・ヘタイロイは、現段階では絶対に物真似しきれないと、ものまね士ゴゴが完敗を認めるしかないとてつもない宝具だった。
  辛うじてものまね士としてのプライドが『少なくともまだ今は』という枕詞が付けようとするが。出来ないと心の底から認める部分も間違いなく存在する。
  ライダーによって呼び出されたサーヴァント達。彼ら一人一人の顔を、形を、姿を、装備を、佇まいを、威風堂々たる様を、纏う覇気を、何もかもを見つめて、ものまね士ゴゴは結論付ける。
  これをものまね士ゴゴは物真似できない。
  ものまね士ゴゴが、ありとあらゆる事象を物真似してきたゴゴが物真似できない。
 王の軍勢アイオニオン・ヘタイロイに到達できない。
  悔しさか、羨望か、自分への怒りか、郷愁か、頭の中を通り抜けた感情がどんなモノなのか言葉にしきれなかったが、とにかくものまね士が物真似出来ないと認めるしかなかった。
  素晴らしいと思った。
  凄まじいと思った。
  圧倒的だと思った。
  どうしようもなく惹き込まれた。
  多くの感情が溢れ、想いを言葉で言い表せなかった。
  目の前の大軍勢が敵対した時に敗北するなどと欠片も思わない。力として衝突すれば圧倒できる自信はある。けれどものまね士ゴゴにとっては『物真似できない』この一点が全てを圧倒する、それはものまね士としての誇りだ。
  認めるしかない。
  この時、この瞬間、ライダーが固有結界を発動して、この世界の歴史に名を刻んだ伝説の勇者たちが現れた時―――。ゴゴは思ってしまった。
 嗚呼、こんな事を出来るライダーになら、征服王イスカンダルになら。負けてもいい・・・・・・―――微かではあるが、ゴゴはそう思ってしまった。



  ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆



  Side - セイバー





  軍神。マハラジャ。王朝の開祖。
  名を知らずとも判ってしまう彼ら英雄が作り出す壮大な空気は私の肌をちりちりと焼いた。それは天上から降り注ぐ太陽の光よりも強い。
  彼らが全員その威名の根源に同じ出自を誇っている事には察しがついた。すなわち──誰も彼もがかつて征服王イスカンダルと共に轡を並べし勇者である、と。
 迫りくる軍勢に臆した訳ではない、圧倒された訳でもない。単純な力で考えるならば、風王結界インビジブル・エアによって封じられた聖剣が真の力を解放した時、たとえ相手がどれだけ巨大な敵であろうとも大軍勢であろうとも決して負けはしない。
  それでもこの目に映る彼らの姿に私の誇りは大きく揺さぶられた。
  「久しいな、相棒」
  その声に引き寄せられてそこを見れば、子供のような笑みを浮かべながら巨馬の首を強く抱くライダーの姿が合った。
  乗り手のいない空馬だったが、その雄大さと威風は他の英霊たちが作り出す強大な雰囲気に負けていない。おそらくライダーが『相棒』と呼んだあの馬こそ、神格まで与えられ崇拝された伝説の名馬ブケファラスであろう。
  人ならざる存在すらも英霊の格を持つライダーの宝具。それは絶大なる支持の元、宝具の域にまで達した臣下との絆が作り上げたもので、理想の王で在り続けた私が生涯において、最後まで手に出来なかったモノだった。
  ライダーがブケファラスに跨り、私を含めたこの場に居合わせる全ての者達へ謳い聞かせる。


  「王とはっ! 誰よりも鮮烈に生き、諸人を魅せる姿を指す言葉!」


  「「「「「然り! 然り! 然り!!!」」」」」


  声高々に響くライダーの声はこの砂漠の端から端までを埋め、応じる英霊たちは一斉に剣を盾を槍を武具を打ち鳴らしながら、歓呼の声をあげる。
  ライダーを中心にして、声は巨大な音となって大地を揺らし、空気を割り、この空間全てを満たしていった。
  そこにあるのは圧倒的な自身と誇り。
  「すべての勇者の羨望を束ね、その道標として立つ者こそが、王!」
  征服王イスカンダルが作り出す『王の姿』そのものであった。


  「王の偉志は、すべての臣民の志の総算たるが故に!!」


  「「「「「然り! 然り! 然り!!!」」」」」


  数百、いや、数千の轟きが一つに混ざり合い、強大な『力』となって眼前に現れる。その圧倒的な力を前にしては暗殺者の集団であろうとも、路傍の石と変わらない。
  私は彼らの姿から目を離せなかった。聖杯戦争を勝利して、聖杯を勝ち得る為に打倒しなければならない敵―――それを理解しながら、彼らと共にライダーが作り出す『王の在り方』に目を離せなかった。
  私もライダーも等しく雑種と呼んでいたアーチャーですら、この大軍勢を前にして固い表情のまま沈黙を保っている。
  「さて、では始めるかアサシンよ」
  そう告げながらライダーは離れた場所に集められたアサシン達を振り返る。その顔に浮かぶ笑みは肉食獣を思わせる笑みでありながら、目に宿った光はどんな敵であろうとも許さない残酷さで輝いている。
  マスターを殺されかけ、聖杯問答を邪魔され、その上で王が振る舞った酒すら蔑ろにした狼藉者を欠片も許さぬ意思がその目に見えた。
  この後、何が起こるかを予測する必要はなかった。起こるべくして起こる事実は必然であり、そこには奇跡も偶然も貼り込む余地はない。
 今やライダーを中心にして王の軍勢アイオニオン・ヘタイロイの高揚はこれ以上ないほどに高まっており、例えどんな敵が目の前に立ちふさがっていようとも止まる選択はありえない。何より、軍勢と集団が遮蔽物も目立った地形もない砂漠で激突したら勢いのある方と数で勝る方が勝つのは戦場の理だ。
  宝具クラスの切り札でもない限り、戦況が覆る事は決してない。
  「見ての通り、我らが具象化した戦場は平野。生憎だが、数で勝るこちらに地の利はあるぞ?」
  死刑宣告にも等しいライダーの言葉が放たれると同時に、アサシン達は烏合の衆となってしまう。
  なすすべもなく棒立ちになるアサシンがいた。
  逃げる場所など砂漠のどこにもありはしないのに、軍勢と逆方向に遁走するアサシンがいた。
  無謀にもライダーと対しようと固有結界が発動した時に近くに落ちた黒塗りの短刀を拾い上げて構えるアサシンがいた。
  そこには統制と呼べる類のモノは何一つ存在せず、ライダー率いる大軍勢を前にして圧倒的な力の差を感じ取ってしまった敗者の姿しかない。
  アサシン達は戦う前から負けている。そして今のライダーはそんなアサシン達に手加減するつもりは全くない。
  馬上から剣を引き抜き、向かうべき方角へと―――アサシン達へと剣先を差し向けるライダー。そしてアサシンの最後を告げる号令が放たれた。
  「躁踊せよ!!」
  ライダーの合図と共に一斉に湧きあがる鬨の声。ブケファラスもまたライダーの声に合わせて力強く駆けだし、誰よりも早く、誰よりも前に、誰よりも強く、征服王イスカンダルを戦場へと運ぶ。
  自ら先頭に立ち、自ら馬を駆って突進する印象的かつ鮮やかな疾走。味方どころか敵すらも魅了するそれは伝説に語り継がれる征服王イスカンダルの姿そのものだ。
  私は大軍勢の進軍にアイリスフィールが巻き込まれないように不可視の剣を収めながら彼女の肩を抱く。
 巻きあがる砂塵の中でライダーが駆ける。王の軍勢アイオニオン・ヘタイロイがそれを追う。
  馬の駆ける勢いと共にライダーの剣が先頭にいたアサシンの首を飛ばした。それを切っ掛けとして、槍を持った英霊たちの何人かが、アサシン達に狙いを定めて空高く槍を放り投げる。
  弧を描いた投擲は寸分たがわずにアサシン達の体を射抜き、貫き、砂の上に磔にさせた。血があふれ、骨は砕かれ、アサシンの形をしていたモノが魔力の残滓すら残さずに消えていく。
  一息遅れて、ライダー単騎ではどうしても取りこぼしてしまうアサシン達に狙いを定めた剣士が敵に肉薄した。
  槍で貫かれて消えたアサシン達を踏み越えて、逃げようとしたアサシンの首をはねる。セイバーとして召喚されたこの身の技術には届かぬ技だったが、それでも決して大きく劣っているとは言えない英霊が作り出す剣技の冴えでアサシン達が次々と殺されていく。
  闘争とは呼べぬ有様だった。
  掃討とも言えない一方的な蹂躙劇だった。
  いや、むしろこの一方的な展開こそがライダーの命じた『蹂躙せよ』を彼らが完遂した証なのかもしれない。
  巻き起こる砂埃と大軍勢によって遥か遠くまで駆け抜けたライダーの姿はほとんど見えない。それでも元々の体格の大きさと、馬上の見やすさが辛うじて彼の姿を視界に収めていたので、アサシンが作り出す集団の最後尾まで一気に駆け抜けて止まるのが見えた。
 ライダーの制止に合わせて王の軍勢アイオニオン・ヘタイロイもまた進軍を止める。アサシンの姿は一人たりとも残っていない。
  アサシンと戦えたのは戦士は数少なく、大軍勢の大部分はただ進んだだけで戦いすらしていない。
  アイリスフィールの肩を抱く私の周りに、アサシンが現れた時も変わらず地面に座り続けるアーチャーの周りに、少女を下にして丸くなるライダーのマスターの周りに、槍を構えずにただ持って佇む男の周りに、この国の『サムライ』を彷彿させる男の周りに、進軍を止めた英霊たちが立ち並んだ。
  彼らの視線の先にはライダーがいる。例え戦えずとも、彼らの意識は征服王イスカンダルにのみ集約されていた。
  勝利を王に捧げ―――。
  王の威名を讃え―――。
  我ら王と共に―――。


  「「「「「「ウォオオオオオオオオオオッ!!」」」」」」


  一斉に湧きあがる勝ち鬨の声。間近だからこそ今まで以上に響くそれは確かな喜びにあふれていた。
  王と共に分かち合う勝利、そして王と同じ戦場で戦える喜びが、意味ある言葉ではない轟きの中に含まれ、私に理解させてゆく。
  狂喜のような勝ち鬨の声が響かせながら、役目を終えた英霊たちは現れた時とは逆に霊体へと還っていく。そしてライダーだけではなく彼らの魔力でも維持されていた固有結界は英霊たちの帰還によって解除されていった。
  熱砂吹き荒れる砂漠はアインツベルンの城の中庭の景観を取り戻し、照りつける太陽は消えて月光と静かな夜の暗さになっていく。
  私とライダーとアーチャー。中庭に集った三人のサーヴァントは固有結界が発動した時と同じ配置に戻り、遥か遠くまで駆け抜けていたライダーが相棒と呼んだブケファラスの姿も消えてしまう。
  聖杯問答の状況は復活し、あちこちに現れたアサシンなど最初からいなかったように戻されている。さっきまで肩を抱いていた筈のアイリスフィールは距離を取って背後に佇む位置にいて、ライダーのマスターもまた隣に同行者を立てた状態で腰に少女をしがみ付かせた格好に戻った。
  おそらく固有結界を解除する時に、ライダーが各々を戻す場所を指定したのだろう。そうでなければ、アサシンが現れる前の配置に戻っている説明が出来ない。
  「興がそがれたな――」
  ほんの一瞬前までアサシンを相手に問答ではなく戦争をしていた筈だが、既にライダーの空気は完全に聖杯問答のそれに戻っていた。
  床にどっしりと座りながら杯に残っていた酒を一気に飲み干すライダー。戦装束だった格好はTシャツ姿に戻り、肩にぶちまけられている酒の残りも一緒に蘇っている。
  足元を見れば、剣を握る為には邪魔になるので放り投げた筈のアーチャーの酒器が戻っていた。
  いつまでも私一人だけが立っていては折角戻った聖杯問答を台無しにしてしまう。私は他の二人と同じように座り、アサシンの横槍などなかったように振る舞う。
  私が座ると、アーチャーがライダーに向けて不機嫌そうに言い放つ。
  「成る程な――。いかに雑種ばかりでも、あれだけの数を束ねれば王と息巻くようにもなるか・・・。ライダー、やはりおまえは目障りだ」
  「言っておれ。どのみち余と貴様とは直々に決着をつける羽目になろうて」
  ライダーは涼しく笑って受け流す。そしてそのまま視線を私に向けてきた。
  「さて、セイバーよ。言わせてもらおうか」
  再び聖杯問答の幕が上がる。





  ライダーによってアサシンの妨害は終結した。ここにあるのは途中で止められた聖杯問答であり、他に割り込むものはもう何もない。
  アサシンへの警戒をかき消し、私は意識を聖杯問答に戻そうとする。だが、脳裏には先ほど見たライダーの宝具が焼きついたままだ。忘れようとしても決して忘れられない強力な印象が今も残り続けている。
  止められる前に私自身の口で語った言葉を思い出す。


  「征服王、我が身の可愛さのあまりに聖杯を求める貴様には我が王道は判るまい。飽くなき欲望を満たすためだけに覇王となった貴様にはな!」


 言葉を頭の中に思い描き、少しだけ王の軍勢アイオニオン・ヘタイロイの印象を薄れさせることに成功した。
  アーチャーが用意した酒器を再び手に取り、残っていた中身を口に含んでさらに意識を聖杯問答に引き戻していく。表向きは隙を見せぬようになんでもない風を装いつつ、その実、懸命に意識を闘争のそれから問答のそれに戻していった。
  小さく息を吐き出して真正面に座るライダーを見据える。するとライダーはその凝視を待ち構えていたように堂々と告げてきた。
  「セイバーよ、『理想に殉じる』と貴様は言ったな」
  「その通りだ。それこそが王の誉れであり、理想に殉じてこそ王だ!」
  自らの王道を言葉にした時、意識は完全にアサシンが現れる前に戻っていた。自らが歩んできた王道の正しさを誰よりも理解し、そして誰よりも悔いたかつての想いが私の中にこみ上げてくる。
  真正面からこちらを見るライダーを見返すと、ライダーは更に続ける。
  「・・・なるほど往年の貴様は清廉にして潔白な聖者であったこどだろう。さぞや高貴で侵しがたい姿であったことだろう。だがな、殉教などという茨のの道にいったい誰が憧れる? 焦がれるほどの夢を見る?」
  「何・・・?」
  「聖者はな、たとえ民草を慰撫できたとしても、決して導くことなどできぬ。確たる欲望のカタチを示してこそ、極限の栄華を謳ってこそ、民を、そして国を導けるのだ!」
  ライダーの掲げる王道には正義がない。
  聖杯問答が始まってからこれまでに感じていた思いにやはり間違いはなく、絶対に必要であるべきモノがライダーには足りない。
  やはりライダーは間違っている。強い思いを胸に宿していると、ライダーは更に言った。
  「王とはな、誰よりも強欲に、誰よりも豪笑し、誰よりも激怒する。清濁含めて人の臨界を極めたるもの。そうあるからこそ臣下は王を羨望し、王に魅せられる。一人一人の民草の心に『我もまた王たらん』と憧憬の火が灯るのだ」
  「そんな治世のいったいどこに正義がある?」
  「ないさ。王道に正義は不要。だからこそ悔恨もない」
  「なっ・・・」
  あまりにもきっぱり断言するからこそ、私は怒りを通り越して何も言えなくなってしまった。
  ライダーの王道を認めたのではない。何をもって民の幸せを作り出すかの基本原則にそもそもの違いがありすぎて、目の前にいるライダーが本当に『王』であるかに迷いが生じたのだ。
  欲望のままに征服王の道を進み続けたライダーにもライダーなりの正義があると思ったが、まさか最初から正義そのものを不要と断じていたとは思わなかった。
  私は民を苦しめる乱世を鎮めるために王となり、ブリテンを導くために王であり続けた。だが、ライダーは自ら乱世を巻き起こした王であり、繁栄への渇望は宝を求める夜盗と何も変わりはしない。
  不敵な笑みを浮かべるライダーは私が言葉に詰まったのを『口でやりこめた』とでも思っているのか。その顔に苛立ちを覚えると、ライダーは朗々と更なる言葉を続けた。
  「騎士どもの誉れたる王よ。たしかに貴様が掲げた正義と理想は、ひとたび国を救い臣民を救済したやも知れぬ。だがな、ただ救われただけの連中がどういう末路を辿ったか、それを知らぬ貴様ではあるまい?」
  「何──だと?」
  末路の言葉を耳にした瞬間、脳裏に去来したのは血に染まった落日の丘だった。
  多くの屍が山を成していた。
  多くの血が河を成していた。
  カムランの丘から見下ろした光景に私以外に生きていた者はなく、ただ膨大な数の滅んだ命だけが積み重なっていた。
  私の心に刻まれた決して忘れてはならないあの光景が私の口を閉ざす。
  「貴様は臣下を『救う』ばかりで『導く』ことをしなかった。王の欲の形を示すこともなく、道を見失った臣下を捨て置き、ただ独りで澄まし顔のまま、小綺麗な理想とやらを想い焦がれていただけよ。――故に貴様は生粋の『王』ではない。己の為ではなく、人の為の『王』という偶像に縛られていただけの・・・ただの小娘にすぎん」
  「貴様――」
  好き勝手に言うライダーに言い返したい言葉はいくらでもある。だがそれを言葉にしようとするたびにカムランの丘から見てしまった壮絶な光景が頭の中に蘇る。
  本当にあれは正義を成した末の正しき結果だったのか?
  そう考えてしまう。
  だがあの光景は選定の剣を引き抜いたときに予言されていた。覚悟も決めていた筈なのに、いざ、あの終末を迎えてしまった時に祈らずにはいられなかったのだ。
  あの日、あの時、選定の剣を引き抜いて王となった瞬間。立ち会った老魔術師が告げた予言はすべて正しかった。


  「その剣を岩から引き出したる者、すなわちブリテンの王たるべき者」


  「それを取る前にもう一度よく考えてみるがいい。その剣を手にしたが最後、君は人では無くなるのだよ」


  「奇蹟には代償が必要だ。君は、その一番大切な物を引き換えにするだろう」


  あの予言はどうしようもなく正しかった。
  正しかったからこそ、正しさすら覆す全く違う可能性を求めたのだ。そんな奇蹟があってくれたならば―――と。だから、その奇蹟を聖杯に求めた。
  ライダーの言葉が私の正しさを壊していく。
  ライダーの王道に屈服したのではない。私の王道の正しさが―――正義が崩れてしまいそうになった。
  きっとカムランの丘の光景を思い出している今の私は気弱な顔を浮かべているだろう。あの時あった臣下の死を、友の死を、肉親であった者たちの死を見てしまい、力なく泣き崩れたあの時と同じように。
  けれどライダーの語る『王』を受け入れることは絶対にできない。それは私が私自身を否定する道だ。正義なき行いなどあってはならないのだから。
 だがライダーの見せた王の軍勢アイオニオン・ヘタイロイは紛れもなく征服王イスカンダルの『王の姿』を見せつけた。
  正義なき王道をライダー自らが口にしておきながら、だ。
  何か言わなければならない。聖杯問答だからこそ、ライダーに言い返さなければならない。そう分かっているのに、口は開かない。
  脳裏に浮かび上がる絶望の光景を起点として迷いが生じてしまう。すると、不意におぞましい寒気を感じて、動揺は力づくに引き剥がされた。
  どこからか撫でまわすような視線が私に刺さっているのを感じた。
  ライダーではない。彼は真正面から私を見据えているが、その目に宿る感情は怒気が近い。向かってくるのは横からだ。
  私は横を向き、そこにいて成り行きを見守っていた黄金のサーヴァントを見る。
  私が聖杯に求める願いを口にしたときに嘲笑し、その時点から私への追及をライダーだけに任せて自分は酒を愉しんでいるアーチャー。真紅の双眸が絡みつくように私を見つめており、意図は読み取れずともそこに宿る淫靡な凝視は嫌でもわかる。
  「アーチャー、なぜ私を見る?」
  「いやなに、苦悩するおまえの顔が見物だったというだけさ」
  微笑を浮かべながら語るアーチャーは普段のアーチャーに比べればとてつもなく柔らかだ。
  しかし自分以外のすべての存在を、王である私もライダーすらも雑種と言い切るアーチャーが語れば、致命的なおぞましさを含む。
  そのアーチャーが言う。
 「まるで褥で花を散らされる処女のような顔だ。実にオレ好みだ」
  「貴様っ!!」
  その愚弄は決して見過ごせない。いや、見過ごしてはならない類のモノだった。
  倉庫街でライダーに『小娘』呼ばわりされた時とは比べ物にならない怒りがこみ上げ、手に持った酒器を地面に叩きつけて破壊し、不可視の宝剣を再び手の中に持つ。
  たとえこれが聖杯問答であろうとも、許されるべき言葉とそうでないものは確実に存在する。アーチャーはその一線を今踏み越えたのだ。
  私はそのまま不可視の宝剣でアーチャーを斬ろうと身構えるが、それが実行される前にライダーの声が飛ぶ。
  「余に何も言い返さぬのか? セイバーよ。そこが貴様の限界だ」
  その言葉を聞き、私は動きを止めた。



  ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆



  Side - ゴゴ





  セイバーが何らかの迷いを抱いているようだが、ライダーの言うとおり反論できない所がセイバーの限界だ。セイバー自身がそれを認識しているかどうかは別にして、自らの王道を貫きとおして前に進もうとしているライダーとアーチャーを前にして、その王道を誤ったモノとして捉えれば先に続く道はない。
  聖杯問答に乱入し、アサシンが出現した時も、ライダーが宝具を展開した時もエドガーとして一歩も動かなかった。宣言通り、事態を見守るだけに留めていたのだが、女性には優しくあれと囁く『エドガー・ロニ・フィガロ』としての意識がセイバーの味方をしたくなる。
  それでも根幹にあるゴゴの意識がエドガーの意思に反して行動に移させない。
 どれだけ外見を取りつくろうと、宝具『己が栄光の為でなくフォー・サムワンズ・グロウリー』で姿形を同じにしようとも、意識はものまね士ゴゴから抜け出せていないのだ。
  他人を物真似しきれない。その悔しさが心の中に生まれそうになるが、今はセイバーに対してどうするかが重要なので少しだけ横に置く。
 あるいはあの素晴らしいライダーの『王の軍勢アイオニオン・ヘタイロイ』の余韻に浸るのに忙しくて、セイバーの事など、どうでもよくなっているのかもしれない。
  アーチャーが挑発したのは間違いない。けれどセイバーが問答の中に武器を持ち込んだ所で、聖杯問答に一気に終わりに向けて加速していく。
  実質、聖杯問答を取り仕切っているライダーがどんな方向に状況を持っていくかで流れは変わるだろうが。問答を続けるのは殆ど不可能だ。
  アサシンたちが現れた時は力で排除したが、聖杯問答の根底にある『問答の余地』はまだ残っていた。
  それが今は綺麗さっぱり消えている。
  どうする?
  心の中に浮かべた問いかけに応じるように、ライダーが黄金の酒器を地面の上に置きながら言った。
  「お互い、言いたいところも言い尽くしたよな? 今宵はこの辺でお開きとしようか」
  やはりライダーもこれ以上聖杯問答を続ける無意味さに気づいていた。これ以上、この場を続ければ、それは問答ではなく闘争に姿を変える。聖杯問答としてこの場を終わらせるタイミングは今を除いて他にはない。
  ただし、ライダーとアーチャーは問題ないが、好き放題言われて反論の一つもしていないセイバーがこのまま終わるのに納得できるはずもない。
  アーチャーに向けていた敵意をそのままライダーに移し、セイバーは言う。
  「待てライダー、私はまだ──」
  「貴様はもう黙っとけ」
  突き放すような固い声だが、それはむしろライダーの温情と言える。これ以上、続けても聖杯問答はセイバーの迷いを増長させるだけだ。今ならば自らの正しさを過ちだと認めてしまう彼女のしてはならない決断を阻められる。
  だがもしセイバーがアーチャーを斬り、不可視の剣をライダーにも向けたならば、王以前に人としてセイバーは自分を許せなくなるだろう。
  祖国を思うあまり自らの王道の正しさを捻じ曲げようとしたセイバーだ。思い余って自分で自分を殺してしまうかもしれない。
  あるいはライダーはここで聖杯問答を終わらせ、セイバーが『自らの王道を貫く』のを待っているのかもしれない。セイバーの王道をライダーは認めないだろうが、それでも歴史に刻まれた偉業はライダーといえども否定できない。セイバーは紛れもなく英霊であり、ブリテンを治めた王なのだから。
  「今宵は王が語らう宴であった。だがなセイバーよ、余はもう貴様を王とは認めぬ」
  「ライダー、貴様!!」
  語気を荒げてもライダーは応じない。ただ、ゴゴはライダーの言葉の中に『今のままの貴様では』の一区切りが抜けているように感じた。
  それは真正面から対峙したわけではなく、横で互いの話を聞いているからこその余裕が気付かせたのだろう。
 立ちながらセイバーに背を向けるライダー。言葉で応じない代わりに彼はスパタを取り出して引き抜いた。あれが、神威の車輪ゴルディアス・ホイールを呼び出す為の剣であることはこの場に集った誰もが察している。
 だからこそ、ライダーが剣を一閃した後に虚空から雷鳴を轟かす戦車チャリオットが現れても誰も驚かなかった。
 アインツベルの城の中庭の半分近くを占用するライダーの神威の車輪ゴルディアス・ホイール。それは言葉以上にこの場から立ち去る意思を明確に示している。
  結局のところ、この聖杯問答は互いの『王道』を進むなら、三人の『王』が真っ向からぶつかり合うのを再確認しただけだ。聖杯を譲れぬ理由があり、王道に沿ってそこを通るならば力で衝突するのは必然。
  ただセイバーだけがその道を踏み外そうとしているだけの話だ。
  御者台に乗り込む前にライダーがこちらを振り返る。エドガーの視点からそれを見て、ライダーの口から語られる言葉を一瞬で予測する。
  「立ち去る前に一つ聞いておこう――。貴様、余の軍門に降らぬか?」
  やはり―――。ライダーの口から語られた内容を耳にした後、脳裏に宿ったのは強烈な納得だった。むしろこの状況で戦いのために口火を切ったならばセイバー以上に落胆したに違いない。
  どんな状況だろうとも征服王イスカンダルは征服王イスカンダルとして自らの道を突き進む。それに名前がついて『王道』と呼ぶようになった。
  状況が状況なので言葉こそ短かったが、それでも征服王イスカンダルらしい一言に心が奮い立つ。
  だが、この世界にフィガロという国が存在しなくても、エドガーもまた一国の王であり、突き進むべき王道が存在する。
  ゴゴとしても『ものまね士』であり続けるためには誰かの下については自由に動けない。今のエドガーがそうであるように、王ですらものまね士ゴゴにとっては物真似の対象なのだ。断じて、主君に据えるモノではない。
  「あの素晴らしい者たちを見せられた後では心揺らぐお誘いだ。けれど断らせてもらおう」
  「そうか、そりゃあ残念だのう」
  「私は君と聖杯を争う相手でない。だが私にも譲れない道があるのでね」
  ライダーの前でフィガロの国王だと名乗ってはいないが、それでもエドガーとしての王道をほのめかしながら告げる。
  ふてぶてしい笑みで持って答えれば、ライダーもまた獣を思わせる男っぽい笑みを浮かべてこちらを見た。
  交わした言葉は短いけれども清々しい別れがここにあった。
  セイバーに向けた憐れみすら漂わせる視線とは大違いだ。
  「さあ坊主、引き上げるぞ」
  「──え? あぁ、うん・・・」
  ライダーが言うとウェイバーは生返事をしながら恐る恐る御者台へと移動していった。
 放心と呼ぶに相応しいその様子はライダーの宝具『王の軍勢アイオニオン・ヘタイロイ』を見たからだろう。倉庫街で見た英霊の宝具に決して見劣りしない、あるいは最強といっても過言ではない様を間近で見せつけられたのだ。
  ライダーがあの宝具を戦場で使ったのは今回が初めて、もしマスターであるウェイバーもまた今回が初見だったならば、その驚きようは当然と言える。
  いきなり敵に真名を明かす破天荒さを見せつけながら、それでいて誰よりも強大な宝具を使いこなす征服王イスカンダル。独立サーヴァントの連続召喚が作り出す偉容に圧倒されても不思議はない。
  ゴゴと同じように―――。
  今のウェイバーは腰に少女の姿をしたアサシンがしがみ付いているのにも気づいてないのかもしれない。ずりずりと引きずっているのか引きずられているのか分からないまま動いてウェイバーが御者台に乗る。それを追って、カイエンになったゴゴもまた御者台に乗り込んだ。
 王の軍勢アイオニオン・ヘタイロイを見てものまね士ゴゴが思った気持ちは嘘ではない。それでも、いずれは物真似してみせるという向上心もまたふつふつと湧き立つ。
  逸る気持ちがゴゴを起点にしてカイエンにもエドガーにも伝播しそうだった。
  最後にライダーが業者台に乗り込んでそのままで先頭へ移動する。手綱を握り締めアインツベルンの城からの帰還準備を整えると、そこでようやくライダーを睨んでいるセイバーの方を振り向いた。
  憐れんでいるような視線は変わっていなかったが、放たれる言葉は真摯にも聞こえる。
  「なあ小娘よ。いい加減にその痛ましい夢から醒めろ。さもなくば貴様は、いずれ英雄として最低限の誇りさえも見失う羽目になるぞ。貴様の語る『王』という夢は、いわばそういう類の『呪い』だ」
  「いいや、私はっ!」
  違う、とセイバーが続けるよりも前にライダーは手綱を操って二頭の雷牛を走らせてしまう。
 神威の車輪ゴルディアス・ホイールはライダーの命じるままに一気に天高く飛翔し、雷鳴の轟きを遠雷に変えながら去ってしまった。あっという間に言葉が届かない高みへと上り詰め、夜の空の中へと消えていく。
  もっとも、あちらのカイエンに意識を移せばすぐにでも把握できるので、ゴゴにとっては隣にいるのと大差がない。
  アインツベルンの城に残るのはセイバーと彼女のマスターと偽っているアイリスフィール。そしてアーチャーとエドガーの四人だ。
  セイバーは一時アーチャーに不可視の剣を向けていたので、ライダーがいなくなって聖杯問答は形を変えた、状況によってはそのまま戦いになってもおかしくないのだが、アーチャーは撫でまわす様な視線をセイバーに向けるだけだ。
  そこに殺し合いを行う雰囲気はない。いや、この状況でセイバーだけ逸っていた。
  「耳を傾ける必要などないぞ、セイバー。おまえは自らが信じる道を行けばいい」
  「・・・私を嘲笑しておきながら、今度は私をおもねるのか? アーチャー」
  「無論だ。おまえが語る王道には微塵たりとも間違いはない。正しすぎて、その身にはさぞ重かろう」
  セイバーは再びアーチャーに不可視の剣を向けるが、アーチャーは戦う空気をまとわずに、ただただセイバーを見つめ続ける。
  見ようによっては恋焦がれているようにさえ見えた。
  「その苦悩、その葛藤――。慰み者としては中々に上等だ」
  そう言いながら笑うアーチャーはどこまでも邪悪だった。笑いの性質こそ違うものの、その姿はかつて一つの世界を滅ぼして神の力すら手中に収めたケフカ・パラッツォを思わせる。
  自分を頂点に置き、他者はどうなっても構わないという考え方は似ているので、そこに類似点があった。
  「せいぜい励めよ騎士王。ことによるとお前はさらなる我が寵愛に値するかもな」
  アーチャーはそれだけ言うと、足元から自らを零体化させていった。セイバーが剣を向けている状態で無防備ともいえる移動だが、斬られても構わないと思っているのか、今のセイバーでは斬れないと確信しているのか。隙を存分に見せつけて消えていく。
  敵意とは異なる何かがアーチャーの中に芽生えているのは間違いない。ただこの黄金のサーヴァントほど『恋』や『好』が似合わない男はいない。男女間の関係だろうと、『支配』の方が似合っている。
  どんな意図があるかは読めないが、アーチャーが敵としてではなく別の意味でセイバーに目を付けた。何がアーチャーの気を引いたのか判らずに、ついアーチャーを目で追うと。頭部が消える直前にこちらを―――つまりエドガーの視線でアーチャーと目があった。
  倉庫街の戦いでマッシュと完全に敵対したアーチャーだが、兄弟だからと言ってエドガーをいきなり葬り去る度量のせまい男ではなかった。それでもこちらを敵と認識したのか、一瞬だけ交差した視線の中に殺意があった。
  錯覚にも思える短い時間だが気のせいではない。アーチャーの全身が消え去って完全に零体化した後には何も残っていなかったが、紛れもなくアーチャーはエドガーを見て殺意を飛ばしてきたのだ。
  戦いの場が揃えば、話し合い以前に出会った途端に殺し合いになる。そう確信してしまう強い殺意だった。
  ライダーが去り、アーチャーも消えた。
  物真似するモノを見つけるためにこの場に訪れた。戦う気は最初からなく、ランサー健在で満足に宝具を使えない今のセイバーを相手にしても得るものは何もない。それに聖杯に託すセイバーの願いを知ってしまったあとでは、近くにいるだけでむしろ怒りだけが湧き上がってしまう。
  もうここにいる理由は何一つなかった。
  「では私も失敬させてもらおうか」
  あえてそう言って不戦の態度を示す。槍を手に取った時に不可視の剣を構えるセイバーとアイリスフィールの緊張が高まるのを感じたが、戦いたくない意識はこの場で誰よりも強い。
  けれど、苦悩する女性がいたら声をかけるのもまたエドガーである。ゴゴとしての意識は即時退散を求めながら、エドガーとしての意識が言うべきだと心の中で叫ぶ。
  先ほどのエドガーを物真似しきれなかったものまね士の矜持がそうさせるのか。体はアインツベルンの城の外に向かうべく跳躍の準備を進めながら、気がつけば言葉を発していた。
  「セイバー。君が聖杯に託す願いは君を『英雄』と認めた民草の思いもまた踏みにじる。悪い事は言わない、そんな願いは捨てた方が君の為だ」
  「なっ!」
  ゴゴとエドガーの意識が中途半端に拮抗していた為か、失礼とは思いつつも背中を向けたまま言葉を発した。
  ただし今の状況を考えれば悪い点ばかりでもない。
  何しろ、放った言葉はセイバーにとって挑発以外の何物でもなく、不可視の剣を構えた今の状態ではそのまま戦いに突入しても何ら不思議はないのだから。それでも『背を向けている』、なら。騎士道を体現しようとするセイバーは攻撃してこない。
  セイバーは自分の王道を否定するどうしようもない愚か者だが、まさか自分なりの正義を貫こうとしている時に背中を向けている相手にいきなり斬りかかったりはしないだろう。
  そのまま数秒待ったが、不可視の剣による攻撃も言葉での応酬もない。見えないので予測するしかないが、いきなり無関係と思われた男から忠告されて動揺しているのかもしれない。
  ただ予測が正解だったとしても、これ以上セイバーに話しかける危険性は見なくても理解できた。今ほど、火に油を注ぐ、が似合う状況は他にないのだから。
  ゴゴは話の矛先を後ろにいるセイバーではなく、横にいるアイリスフィールに変える。
  「御婦人、お子さんはいるかな?」
  「・・・え?」
  エドガーの視点で横を向けば少しだけアイリスフィールが見えたので、唐突に話しかけられた彼女がセイバー以上に困惑しているのがわかった。
  唐突すぎる。そう思ったが、セイバーとこの瞬間にも敵対して戦いになりかねない状況では、言葉を短くまとめるしかない。
  「いるだろう? 君に心に決めた人がいるか。それともいないか。誰かの妻か。子を産んだ母か。私には見ただけで判る容易い事だよ」
  こちらの言葉を聞いて絶句しているというよりも、いきなり言われてどう返せばいいか迷っているアイリスフィールに向け、エドガーの口で更に言葉を続ける。
  「セイバーにとってここに集った我々は誰もが等しく敵。そして彼女は敵の言葉をすんなり聞く女性ではないようだ。子を持ち、慈しみ、愛し、育てる貴女なら――。いや、もしかすると貴女しか、セイバーを止められないかもしれない。頑張ってくれたまえ」
  「・・・・・・」
  アイリスフィールがどんな思いでこの言葉を聞いたかはアイリスフィールにしか判らない。そして見えない位置で間違いなくこちらの話を聞いているセイバーもまたどんな思いでこの言葉を聞いたかはセイバー自身にしか判らない。
  願わくば、あんなつまらない願いを抱えてままではなく、ライダーやアーチャーのように自らの王道を突き進む一人の王として、もしくは迷いなき淑女になってほしいと願うばかりだ。
  何も言わないアイリスフィールを一瞥し、エドガーは速やかにこの場を退散するために跳躍する。アインツベルンの城の中庭に現れた時のように、常人には決して不可能な飛翔と見間違うジャンプだ。
  足に履いたアクセサリ『竜騎士の靴』が可能にした人知を超えた力。城の屋根の上に乗って、最後に一度だけ振り返ると、目を丸くしながらこちらを見ているアイリスフィールと、今にも斬りかかってきそうな殺気をぶつけてくるセイバーがいた。かなりの距離まで離れたのに剣呑な雰囲気が伝わってくる。
  もう少しあそこで長居していたらセイバーと戦いになっていたかもしれない。
  物真似したくない相手の上に、ランサーによって手傷を終わらせて十全に力を発揮できない今のセイバーには興味がない。今から向かってこられても困るので、エドガーの姿をしたゴゴはアインツベルンの森を脱出すべく、彼女らに背を向けて大きく跳躍した。





 聖杯問答を通じて一番の収穫は何か? 自分自身に問えば、やはりライダーの宝具『王の軍勢アイオニオン・ヘタイロイ』を見れたことだろう。
  ものまね士ゴゴとしての力を総動員すればあれを上回る結果は作り出せるが、宝具そのものを物真似する事は出来ない。無論『今の所は』だが。
  すべてを物真似するにはライダーと共に戦った全ての独立サーヴァントを召喚しなければならない。幻獣ならば、息を吸うのと同じぐらい簡単に呼び出せるが、かつて征服王イスカンダルと共に世界を駆け巡った英霊たちを召喚するとなると話が違う。
  これは物真似のし甲斐がある―――。
 現時点での『できない』はすぐに未来への『できる』へと変貌し、物真似への渇望へと姿を変えた。完全に王の軍勢アイオニオン・ヘタイロイを物真似するには長い時が必要になるかもしれないが、それでも出来ないとは考えずに出来ると意識を切り替える。
 そのせいか、ライダーに同行しているカイエンの意識にばかりゴゴの主体がひっぱられるが、ライダーは神威の車輪ゴルディアス・ホイールで空を駆けるのに忙しく、目新しいモノは何も見れない状態につまらなさを感じていた。
 カイエンの目で見て判るのは、あの王の軍勢アイオニオン・ヘタイロイを発動させたことでライダーの貯蔵魔力が限りなく減っていることと、アサシンの少女にしがみ付かれたウェイバーがどうすればいいかおろおろしている位だ。
 戦車チャリオットがアインツベルンの森から距離を取るまでしばらくはこのままだろう。ゴゴはアインツベルンの森の中を駆けるエドガーに意識を移し、今も魔力経路を通じて五感の幾つかを同調させている雁夜へと語りかける。
  「あれが相手ではどんな武器でも宝具にできるバーサーカーといえども勝ち目はないな」
  「・・・・・・ああ、もしバーサーカーに魔力切れの弱点がなかったとしても、単騎であれに勝つには武器が頼りなさすぎる」
  エドガーの口から出てくるのは肉声だが、応じる雁夜の声は頭の中だけに聞こえる特異な声だ。周囲から見れば、走りながら独り言を喋っているようにしか見えないだろう。
  「先陣切って突っ走ったライダーだけなら何とか出来るかもしれないが・・・。あの固有結界に取り込まれて、ライダーが不在でも残りのサーヴァントが健在なら勝ち目はないな」
  「なかなか冷静な判断じゃないか。少し前の雁夜なら『俺のバーサーカーは誰にも負けない』と言いそうだがね」
  「比較対象がお前だからな。俺がどれだけ弱くて、英霊でも太刀打ちできないか嫌になるほど思い知った。ところでこの後はどうするつもりなんだ? アサシンの監視が外れたならもう街の中にいる必要はないだろ」
  「それなんだが・・・。残念なことにアサシンはまだ二十人ほど健在でね。しかも、ライダーの宝具を見極めてサーヴァントの情報収集は完了したのか、残ったアサシンは私たちの調査に本腰を入れ始めた」
  「つまり・・・」
  「ああ、雁夜の周りにもかなり距離を取ってアサシンが一人ついてるぞ。私の後ろからも攻撃できない距離を取って一人追いかけてきている。城で同じアサシン達を殺されながらも全く動かなかった、大した奴だ」
  アサシンの健在を伝え、しかもそのうちの一人が近くにいると聞かせると、雁夜の意識がエドガーの中から遠ざかっていった。
  通常ならアサシンの一人程度慌てふためく必要はないが、今の雁夜は意識をエドガーに移している為に本体が無防備だ。その危機感から急いで戻ったのだろう。
  「やれやれ、ロックとセリスの護衛だけでは不安かね? 蟲蔵でアサシンの全容はほぼ解明された、あの程度では敵にもならんよ」
  完全に同調を切ってしまったようで、呟いても雁夜からの応答はない。
  仕方なく一定の距離を保って背後から迫ってくるアサシンを意識しつつ、アインツベルンの森を抜ける。
  離れ過ぎて攻撃は届かないが、向こうも接近し過ぎると呆気なく殺されると学んだらしい。離れれば離れるほど情報の精度は落ちて、しかもこちらの会話は聞こえないだろうが、監視できる人員を減らさずにいたいのだろう。
  ただし『アサシンが複数いて、しかもまだ生き残っている』という状況はアサシンの諜報機関がまだ健在である利点もあるが、言峰綺礼がまだマスターとして聖杯戦争に参加している事実をしっかり教えてしまった汚点もある。
  中立である筈の聖堂教会がまだサーヴァント健在のマスターを一人かくまっている。しかも言峰璃正とアサシンのマスターそれが親子関係であるならば、肉親の情があろうとなかろうと中立性を欠いた行いであるのは確たる事実である。
  キャスター討伐により令呪一画が渡されるので、ライダーやセイバーが言峰綺礼の健在に気づいても、動くならばキャスターが倒された後の可能性が高い。
  つまり聖堂教会に誰にも邪魔されずにちょっかいを出すなら今こそが好機なのだ。
  アサシンにもそのマスターである言峰綺礼にも物真似する要素が見当たらないので興味は全く無いが、『聖杯戦争を破壊する』を目的にするならばやれる事はいくつかある。
  「アサシンを使い、聖杯戦争の全てを操っていたつもりになっているようだが・・・。そろそろ自分の器の大きさを知ってもらおうか、言峰璃正」
  エドガーの口から囁かれた言葉は誰にも聞かれることなく虚空へと消えていった。



  ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆



  Side - 間桐雁夜





 夜のアインツベルンの森に出来上がった一本の道―――ライダーの戦車チャリオットが作り出した破壊の後を逆走するエドガーの視界から見ていた景色。それが一気に消えて、生身の自分の視界に戻っていく。
  理由は言うまでもなく、アサシンがまだ残っていてしかもこちらを監視しているのが不安になったからだ。
  何しろ護衛についてるロックとセリスも五感同調の魔力回路の役目をはたしているので、俺たちはいま完全に無防備なわけで―――。そう思いながら意識を完全にゴゴから間桐雁夜に戻すと、同じ夜でもアインツベルンの森とは全く違う町の景色が目の中に飛び込んできた。
  そのまま反射的に周囲を見回すと、特に異常のない夜の冬木市が広がっている。
  敵の姿はなく、ぴりぴりとした緊張を強いる空気が辺り一面に立ち込めているのは何も変わっていない。その事実に俺はほっとした。
  もっとも、俺が気付いてないだけでアサシンがこっちを監視してるんだろうが・・・。
  「異常なし・・・か」
  「危険だったらエドガーと話す前に強制的に同調を切ってるぞ」
  「心配性ね、雁夜」
  思わず呟いてしまった独り言に返してきたのは、両隣りに座るロックとセリス―――の姿をしたゴゴだ。相変わらず、完全に別人としか思えないので、他人と接しているようで何とも気まずい。
  ただしそれは表情には出さない。
  弱っている時だからこそ相手には強く見せろ。何度も殺されて、何度も戦って、可能な限り相手にこちらの手の内を悟らせないようにするやり方は生きる為の術として身についていった。
  ゴゴには俺の内情が全てが判られている気もするが、意地で気まずさを表情には出さずに話を続ける。
  「それでこれからどうするんだ? さっきも言った・・・いや、エドガーにはだけど、俺からアサシンの監視が外れたならもう街の中にいる必要はないぞ。あっちの目的がお前らなら俺がここにいる意味は無いだろ」
  「その代わり、一人で動けば遠坂時臣が本腰を入れて敵対してくるだろうな。ライダーの宝具を知ってバーサーカーを泳がせておく必要がなくなったからな、魔力消耗の早さを知られてたら真っ先に攻撃されるぞ」
  「アーチャーとは倉庫街で勝負がつかずに終わってるわ。マスターのその気がなくても、サーヴァントが自分から仕掛けてくるかもしれないの。貴方もアーチャーの保有スキル『単独行動:A』は知ってるでしょう? 位置は判るから出会わないように場所を変えられるけど」
  「そっちの問題があったか・・・」
  ゴゴという『絶対防衛』がいる為か、つい聖杯戦争について軽視する傾向が出始めたのは悪い兆候だ。いまだキャスターの悪意は冬木市の中を蠢いているうえに、バーサーカーのマスターである俺自身の敵がまだまだ残っている。
  ただ、話を聞いている間、ふつふつと遠坂時臣に対する怒りが心の中から湧き上がっていった。あの男が動くのならば、その時こそ俺の聖杯戦争が本格的に始まる時だ。
  前哨戦として倉庫街の戦いを生き抜き、桜ちゃんの願いで子供たちを何人か助けたが、真の目的である『桜ちゃんを救う』ための行動は遠坂時臣の行動なくして決して成しえない。
  この先の未来に何が待ち構えているかは俺には判らない。ただ、ゴゴの手によって聖杯戦争はこの第四次を最後に終わりを迎えるのだけは判っている。
  俺は何としてでも桜ちゃんを救ってみせる。
  その為に俺はここにいるのだから。
  「アーチャーの宝具があれだけならバーサーカーと俺だけでも何とかなるかもしれない。よくて相討ち、悪いと勝負の流れを持ってかれて一方的に殺されて終わるな・・・畜生」
  「心配しないで、ライダーの奥の手と同じようにアーチャーにも必ずあの宝具以外の武器があるはずよ。貴方は絶対に単独で戦わないで」
  「要するにアサシンがいようといまいと俺たちのガードがあるから心配するなって事だ。安心したか雁夜」
  「まあ・・・・・・頼りにはしてるよ」
  一年前にすでに結論付けてしまったことだが、いまだにゴゴの力を借りなければ聖杯戦争すら勝ち抜けない自分の力に嫌気がさしてくる。
  だが考えるまでもなく一年前の段階で見習い魔術師にすらなってない男が、生まれた時から鍛錬を行っている正規の魔術師と戦える所にまで到達できるはずがない。
  ゴゴの力がなければ、そもそも戦いの舞台にすら上がれなかったのだ。感謝こそすれ、恨むのは筋違いだろう。
  それでも自分の不甲斐なさに腹が立つのは止められなかった。
  平静を装いつつ、話題を変える。
  「一旦、桜ちゃんと合流しないか?」
  無茶な話題転換だとは自覚しつつも、桜ちゃんと随分会ってないような気がしていた。
  時間にすれば丸一日も経ってない。けれどアサシンと他の監視の目を警戒し続け、しかも聖杯問答にこっそりお邪魔してライダーの途方もない宝具を見たせいか、体感時間が強烈に引き伸ばされているような気がする。
  言葉に出来る確たる理由は無かったが、無性に会いたくなった。
  「いいんじゃないか?」
  「でもブラックジャック号は冬木市の外にあるし、桜ちゃんは寝てるわ。間桐邸に戻って休んでからにしましょう」
  「え? あ、その、いいのか?」
  「雁夜が言い出したんだろうが、何をいまさら」
  「これから冬木市が少し騒がしくなるわ。戻るのは私も賛成よ」
  ロックの言葉は聞き流せる軽さがあったが、セリスのそれは軽く告げられたからこそ聞き逃せない単語を聞きとってしまう。
  セリスは言った、『騒がしくなる』と。まるでこれから起こる何かしらの事象について知ったような口ぶりがどうしようもなく気になった。
  何しろ見た目はゴゴと全く別人のセリスだとしても、本質は人が予測できる域を軽々と突破して色々とやるものまね士ゴゴなのだ。
  その一言を軽んじるのは危険すぎると思い知ってる。
  「・・・・・・何があるんだ?」
  間を置きながらもそう問い掛けてしまうのは仕方ないことだと思う。
  悪いのはゴゴで俺じゃない。
  「聖杯問答にいなかった人たちに少し仕掛けてくるわ」
  「もしかしたらマスターの半数はこれで消えるかもしれないな。まあ、それはそれでこの先の戦いの手間が省ける」
  「・・・・・・・・・・・・・・・」
  聖杯戦争に参加したマスターを殺すなら、最大の障害となるのはそのマスターを守っているサーヴァントだ。
  倉庫街の戦いでバーサーカーを仕掛けたのでサーヴァントの恐ろしさはある程度判った。アインツベルンの森でキャスターとも直接対峙したので、戦いようによってはその厄介さも格段に跳ね上がると思い知った。
  けれどロックとセリスは―――明日の天気を語るような気安さで障害の低さを口にする。自らを高みに置いた口振りに羨望と同時に嫉妬が湧いた。
  「詳しく聞かせろよ」
  「間桐邸に戻るまでは長い、歩きながら話すか」
  ロックはそう言って立ち上がった。セリスもそれに続いて同じく立ち上がったので、横に置いておいた魔剣ラグナロクが入ったアジャスタケースを手に取りながら俺も立ち上がる。
  あと数時間もすれば桜ちゃんと会える。それ自体は嬉しい筈なのに、その数時間の間にまたゴゴが何かやらかすかと思うと気は重くなっていく。
  「で? 何をするんだ?」
  歩き出すと同時に話は始まった。



  ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆



  Side - 衛宮切嗣





  ランサーのマスター。ケイネス・エルメロイ・アーチボルトことロード・エルメロイの脱落を確認すべく、追跡を開始。冬木市の各所に放った使い魔からの情報を統合し、現在の拠点は郊外の廃工場を隠れ家として利用していると判明した。
  結界の術式の構成は甘く、冬木ハイアットホテルとは比べ物にならない粗雑な結界に守られており、単身での攻撃も可能。ただし、結界そのものに綻びは無いので解除の必要性あり。
  望遠によりランサーと会話をするロード・エルメロイの婚約者であるソラウ・ヌァザレ・ソフィアリを確認。ランサーに気づかれる可能性が高いので以後の監視は使い魔とカメラによる録音に変更。
  セイバーの片腕が完治しない状況と合わせて予測するに、現時点では彼女がランサーを統べていると思われる。アイリスフィールと同じように代行マスターとしてふるまっているのであれば、彼女を殺してもサーヴァントの無力化は叶わない。廃工場の奥でかくまわれていると思われるロード・エルメロイを同時に始末する方法が必要となる。
  「・・・・・・・・・」
  聖杯戦争開始以前に舞弥と落ち合った新都駅前の安ホテルは今でも拠点の一つとして有効活用されており、壁に張られた冬木市全域を表す地図には聖杯戦争に関するもろもろの情報が余すことなく記録されていた。
  ルームサービスの類は一切断っているので、この部屋に近づく者は舞弥を置いてほかにはおらず、ここに迫りくる者がいるとすればそれは敵でしかない。
  つい先ほど、アインツベルンの城から連絡があり、ライダーの特攻によって急遽開かれた聖杯問答なる催しの詳細が伝えられた。
  機械など殆ど触ったことのないアイリが電話をかける苦労が浮かんでくる。
  本来であればアインツベルンの城から僕の電話に直通でかけるなど愚の骨頂であり、誰かが僕と同じように無線信号を傍受する機械的な技術に長けた者ならば、すぐにこちらの居場所を知られてしまう危険を孕んでいる。
 それでも電話をかけてきたのはアインツベルンの城で起こったあまりにも多くの出来事に起因していた。ライダーの破天荒さは言うにおよばず、魔術師の常識を超える王の軍勢アイオニオン・ヘタイロイという名の固有結界。セイバーが万全の状態であれば拮抗できるかもしれないが、現状では勝ち目のない宝具を知った。
  そしてアイリが語ったもう一つの話は、少女の姿をしたアサシンがライダーのマスターと同行している点だ。見破ったのはセイバーらしいがそれはどうでもいい。もしかしたらアサシンのマスターである言峰綺礼は遠坂時臣だけではなく、ウェイバー・ベルベットとも共闘体制を結んでいるのかもしれない。
  セイバーに見破れたことを間近にいるライダーが出来ないとは思えないので、アサシンを傍に置いているのは意図的であろう。
  そうなるとアーチャー、ライダー、アサシン、この三人のサーヴァントが全て一大勢力を作り上げている可能性が出てきた。
  僕はランサーの現状についての情報整理を一旦置き、引き続き警察無線から傍受した失踪事件の情報をまとめ始める。最早、ライダーに結界を破壊しつくされたアインツベルンの城を拠点として使い続けるのは不可能、そこでセイバーとアイリをあそこから移動させる手筈を整える必要がある。
  すでに舞弥に行わせているので、そちらの心配はしていない。
  問題なのは予想外すぎるライダーとアサシンの共闘。そして今だ全容どころか片鱗すら掴ませない間桐に協力している何らかの組織の情報だ。倉庫街で乱入してきた『マッシュ』という男が間桐邸に戻ったのを確認した後、僕はすぐに調査を開始した。
  特に一年前から唐突に装いを新たにした間桐臓硯を中心に調べているが、今のところ重要かつ決定的な手がかりは何一つ入ってこない。だが、英霊の攻撃を弾き返し、真っ向からやりあえるだけの戦力を複数保持する組織など限られる。あれだけの力を持っているのならば、裏の世界でその名を轟かせても不思議はないのだ。
  それなのにまだ尻尾すらつかめていない。
  ライダーのマスターにはアサシンの少女以外にも、間桐と協力関係にある組織の人間と思わしき『エドガー・ロニ・フィガロ』という人物と旧知の間柄と思われる者もいた。
  あり得ないとは思いたいが、アーチャー、ライダー、アサシン、そしてバーサーカーすら共闘していたらどうするか?
  情報が少ないのでこれは予測にもならない妄想でしかない。しかも始まりの御三家は他の四人のマスターよりも聖杯への渇望が強いので、共闘するなど絶対にあり得ない。行き過ぎた想像は事実を曲解するので考えるのは危険だが、起こっている事実は言峰綺礼と遠坂時臣、そして聖堂教会の共闘をさらに上回る混沌を生み出している。
  まずは正確な情報を仕入れて、起こっている事実を正確に把握しなければならない。
  アインツベルン城を襲ったというアサシンの軍勢が、総戦力を動員したものだったと思いたいが。ライダーのマスターに同行しているアサシンがいるのならば、あの男がマスターとして健在なのは間違いない。
  頭の中に一瞬だけ通り過ぎた『迫りくる敵』の姿が現れて、情報収集に努めなければならないと理解しているのに、その思考は消える事無く残り続けた。
  敵の名は言峰綺礼。
  僕が聖杯を得る為の敵はあの男だけではない。それなのに言峰綺礼の名は強く僕の中に残り続ける。
  そもそも言峰綺礼は何を考えて聖杯戦争にマスターとして参加したのか? その意図が掴めない。
  遠坂邸での不可解なアサシンの敗北があり、倉庫街の乱戦で殺されたはずのアサシンが現れた瞬間から、アサシンのマスターである言峰綺礼は遠坂時臣の傀儡か協力関係にあるものと考えた。
  アサシンが宝具によって複数に分裂して行動できるようになったのか、あるいは別の何かを使ってそれを可能としたのか。複数のアサシンによる統括して諜報活動を行ったのは見事と言うほかない。
  しかしならば何故、アサシンにとっての弱点ともいえるマスター自身が冬木ハイアットホテルに隣接する舞弥を攻撃したのか?
  アインツベルンの森にキャスターが侵入した時も、言峰綺礼らしき人物が森に侵入してきたのを確認している。もし言峰綺礼が諜報役に徹するならば、狂言に従って保護された冬木教会から一歩も動いてはならない筈。
  だが言峰綺礼が出歩いている事実が存在する。
  仮に言峰綺礼の目的が僕自身だったならば、行動のおかしさの説明は出来る。だが僕がセイバーの真のマスターだと露呈した雰囲気はなく、むしろ僕個人にのみ焦点を当てた行動ばかりが目立った。
  何のために?
  言峰綺礼はアサシンのマスターとしてセイバーのマスターを追っているのではない、言峰綺礼個人として僕を追っている。
  あり得る可能性は怨恨だが、事前に調査した言峰綺礼の経歴と僕との接点は何一つ存在しない。かつて僕が殺した魔術師や、その過程で犠牲になった人の中に言峰綺礼の知人がいた可能性はゼロではないが、これも考えにくい。
  考えれば考えるほどに言峰綺礼の行動理念の根幹にあるものが判らず混乱していく。
  ただし、言峰綺礼にどんな意図があるにせよ衛宮切嗣の敵としてこれからも眼前に立ちふさがるのは間違いない。
  「言峰綺礼・・・貴様は何者だ?」
  思わず声に出して呟いてみるが、判らない状況を覆す突破口にはならなかった。むしろ焦りは募り、真実から遠ざかっていく実感ばかりが膨らんでいく。
  聖杯戦争に関する情報収集を継続し、意図して言峰綺礼の思考を外を追いやるか。あるいは判断力に曇りが出始めているので、休息を取って体調を一旦万全にすべきか。
  最後に睡眠を取ってからすでに七十時間が経過している。薬で眠気を抑えているが、無意識のうちに疲労は蓄積されて集中力を鈍らせている可能性は大いにあり得る。
  まだ集めるべき事柄は山のように存在するが、誤った判断を下しては意味はない。
  自己催眠の呪文によりストレスを意識もろともに消し飛ばす荒療治を使えば、二時間程度で十全の状態にまで復帰できる。情報収集を部屋の中に設置した機械に任せ、衛宮切嗣という一個の機械装置もまた休息させる。
  そんな風にこれからの事を考えたまさにその瞬間だった。ジリリリリリ、と部屋の中に備え付けられているルームサービス用の内線電話が音を鳴らした。
  電話をかけられるのはホテルのフロントからだけで、用がない限りは絶対にかかってこない状態を作り出している。つまりこの電話はルームサービス以外の何かしらの異常事態を知らせる電話になる。たとえば、ホテル内で火災が発生したので宿泊客に知らせる為の緊急電話をかける場合などがこれに該当する。
  いったい何が起こった?
  突然鳴り響いた電話に対し、驚くよりも前にあり得る可能性の一つを思い浮かべて動揺を強制的に消す。そして慌てる事無く、受話器を手に取った。
  「はい」
  「夜分遅くに申し訳ございません。フロントですが、『田中誠』様のお部屋で間違いございませんか」
  「そうです」
  事前に舞弥がこの部屋を借りるときに使った偽名に僕は間髪いれずに応じる。足跡を残さないために偽名を用いるのはいつもやり慣れていることなので、見も知らぬ他人の名前で呼ばれようと逡巡はない。
  「何かありましたか?」
  衛宮切嗣としての機械装置は迷うことなくそう告げた。
  「フロントにお客様のお知り合いと名乗る方がいらっしゃっているのですが・・・」
  「僕に?」
  「はい。『リルム・アローニィ』と名乗る十歳ぐらいのお嬢様です」
  聞いた事のない名だった。
  敵であろうと味方であろうと、それが知った名だったならば何らかの対処はとれるのだが、全く知らぬ第三者の名前が出ては判断に迷う。だから僕はそれをそのまま正直に告げる。
  「聞いた事の名前ですね。誰かと間違えていませんか?」
  もしこれで『遠坂』や『間桐』、最悪の可能性として『言峰綺礼』の名前が出たら、僕は即座にこの部屋を脱して外に逃げる算段を立てていた。
  窓の外にあらかじめ設置しておいた対人監視用のセンサーは作動していないので、来訪者が敵だったとしてもまだこのホテルを包囲してはいない。
  誰が何の意図で僕を訪ねたのか?
  その疑問でほんの僅かに電話口に応対する僕の言葉に空白ができると、受話器の向こうから新たな言葉が飛んでくる。
  「――失礼ですが、『衛宮切嗣』という名前にお心当りはございますか?」
  「いえ、ありません」
  「フロントにいらっしゃっているお客様は『衛宮切嗣』様に御面会を希望なのですが、仰った部屋番号は田中様の番号になっておりまして・・・」
  言葉では何の戸惑いもなく応じたが、頭の中では訪問者への危険レベルを最高値にまで引き上げる。
  このホテルには監視カメラなんて大層な物は設置しておらず、だからこそ誰にも知られずに身を隠す拠点としては有効なのだが、そのおかげでフロントに移る景色もこちらには見えない。
  アインツベルンの城のように自らの拠点とするならば監視体制を整えるべきだが、仮の拠点でしかない安ホテルでは不可能だ。
  敵が来た。セイバーのマスターとして認識しているかは不明だけど、ここにいるのが『衛宮切嗣』だと確信をもった何物かが近づいている。そう判断し、状況への楽観視はしない。
  だが不可解なのは、もし敵ならばわざわざフロントを通らずに直接外からこの部屋を攻撃すれば済むのに、わざわざこちらに接近を知らせた点だ。何か用があってこちらに接近を知らせているのか、それとも聖杯戦争とは関係のない何者なのか。
  楽観的希望が話し合いが通じる相手の可能性を浮き上がらせるが、今は正体不明の相手を『迫りくる敵』と想定する。情報もなく何も判らない状態で主導権を相手に渡せば、待っているのは僕の死だ。
  だからこの場からの即時撤退のために僕は動き出す。
  「とにかく知りません。では、失礼します」
  フロントからの回答を待たず、僕は受話器を置いた。そのまま脱出に必要な道具だけを手に取り、窓へと向かう。
  トンプソン・コンテンダー、魔術礼装『起源弾』、そしてこれまでの情報をまとめた情報でまだ情報精査が終わっていないもので重要度の高いものを幾つか。
  壁に貼り付けられた地図や、警察無線を傍受するための無線機などは移動の邪魔になるし持ち運ぶためには時間を要するので切り捨てる。整理されていない情報ばかりだが、全て僕の頭の中に入っているので、今は必要な物だけを持って撤退する。
  手が窓に触れて開いたその時。コン、コン。と扉をノックする音が耳に届いた。
  フロントから人の足で到達するにはもっと時間がかかる筈。フロントに姿を現して何者かの他に別働隊がいたのだろう。
  扉を挟んで距離にして数メートル向こう側に敵がいる。
  「衛宮切嗣? いるならここをあけろー」
  その敵はイリヤを思わせる幼い喋り方をして、女の子のような少し高めの声だった。
  僕は聞こえる声に応じず、窓枠に足をかけて一気に跳躍した。
  「むー。開けないなら似顔絵描くぞ」
  後ろから聞こえてきた声には答えない。その代わりに、こういう場合のために用意しておいたある仕掛けを発動させる。
  万が一にこの安ホテルが拠点だと敵に察知され、なおかつ逃走のために準備する時間すらない場合にのみ効果を発揮する仕掛けだ。
  地面へと落下しながら足を下にして着地に備える。そして持ち出した荷物を脇に抱えて手を開けると、コートのポケットから『それ』を取りだす。
  スイッチだ。ただし、段階を二回踏まないといけない。
  ロックするスイッチを押しながらもう一つのスイッチを押さないと効果は発揮されない。
  重力に引かれる自由落下の一瞬の間に手はその二つの手順をなんなくこなし、着地すると同時にホテルの部屋の中に仕掛けておいた傷痍爆薬がその破壊を撒き散らす。
  聖杯戦争に対する証拠隠滅と迫りくる敵への攻撃。二重の意味を持つ破壊が頭上で巻き起こり、地響きと共に飛び出したホテルの窓から炎が噴き出した。
  英霊や予め防御の魔術を施した相手には効果は薄いが、足止めぐらいの役には立つ。
  「何だ、何だ、何だぁ!!」
  見上げて爆破の確認をしていると、すぐ近くの窓から驚きわめく声が聞こえた。どうやら同じホテルに泊まっていた客が突然の騒音に驚いたようだ。留まっていては人目につく可能性があるので、すぐに走り出す。
  駆けだした態勢になったまさにその瞬間。ホテルの窓から誰かが身を乗り出した。僕が走り出す方向と一緒だったが、身を屈めれば衝突はない。
  僕は慌てずに姿勢を低くする。こちらの顔を見咎められない意味もあってのことだが、ほんの一瞬だけその人物と視線が交錯した。
  「なっ!?」
  その人物の顔を見た時、機械装置である筈の衛宮切嗣が動揺した。
  馬鹿な、何故お前がここにいる? そんな言葉が脳裏によぎり、足は地面を駆け続けても頭の中は困惑で一杯だった。すぐに僕の体は安ホテルから距離を取るが、目にした光景はしっかりと脳裏に刻まれている。
  僕は見た。見間違いなどではなく、確かに見た。
  直接肉眼で見たわけではないが、その顔は僕の知っている男の顔だった。
  何故ここにいる―――間桐雁夜。



  ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆



  Side - ランサー





  あのアインツベルンの城での戦いより、ケイネス殿を救出し、ソラウ殿が新たな我がマスターとして聖杯を勝ち取る戦いへと身を投じる。
  騎士である限り、忠義を尽くす君主はケイネス殿ただ一人しかありえない。だがその忠義に報いるべく聖杯を勝ち得るには、ソラウ殿の協力が必要なのもまた事実。
  今でも私はケイネス殿に騎士としての忠誠を誓った身。しかし、ケイネス殿が戦えず、ソラウ殿がケイネス殿の伴侶として、ただケイネス殿のためだけに聖杯を求めると誓ったからこそ、仮初ではありながらもソラウ殿と共に戦うのを承諾した。
  まだ目立った行動を起こしていないのは、敵の出方を窺うのと、ケイネス殿の容体が安定するまでに少し時間が必要だったからだ。
  ソラウ殿は言った。


  「あくまでケイネスの騎士だというのなら、ランサー、尚のこと貴方は聖杯を勝ち取らなくてはならなりません。あの体を癒すには奇跡の助けが必要だわ。それが叶うのは聖杯だけでしょう」


  「彼の負傷に責任を感じるなら、ロード・エルメロイの威信を取り戻そうと思うなら、貴方は主に聖杯を捧げなければなりません」


  「──誓います。私はケイネス・エルメロイの妻として、夫に聖杯を捧げます」


  ケイネス殿の妻として夫に聖杯をささげる為にマスターの重荷を背負う。その判断にそれ以上の他意は無いとソラウ殿は誓ってくださった。
  しかし私はソラウ殿のように涙で求め訴える女と向き合ったことがある。あの眼差しはこの身が英霊となる以前、生前の妻であったグラニア姫とあまりにも重なりすぎるのだ。
  愛に生きたが故に英雄ディルムッド・オディナに背臣の名を課した張本人。されど、苦難ばかりの私の人生に後悔は無く、自らの運命を精一杯生きた誇りがあった。
  それでも心の中に残ったしこりが再び私を現世へと導いた。
  聖杯戦争にランサーとして召喚される原因でもあるこの思い。この身に宿る信念はただ一つ、すなわち『前世では叶わなかった、騎士としての本懐に生きる道を―――』。
  曇りなき信義、忠節、たった一人の主へと捧げる勝利の名誉。
  一人の騎士として生き、一人の騎士として戦い、一人の騎士として果てる事こそが我が願い。聖杯戦争に召喚された時、私の願いの半分はすでに叶っている。後は聖杯をケイネス殿の元に持ち帰り、忠義の成果を形にするだけだ。
  だがソラウ殿が二人目のグラニア姫となって私に縋りついてきたとしたら―――。生前の君主フィン・マックールのように同じ過ちを繰り返さない保証はどこにもない。
  かつて魅了の魔眼が巻き起こしてしまった悲運は決して繰り返してはならない。それなのに繰り返す事こそが私の業であるかと言わんばかりに、運命という名の壁が目の前にそびえ立つ。
  悲運を繰り返さない為の解決策など思いつかず、ただ時間だけが過ぎ去っていった。
  どうすれば?
  睡眠の必要のないサーヴァントとしての我が身は昼夜を問わずに見張りを続行する。その中で何度も疑問を抱き、そして答えを見つけられない我が身の不甲斐なさに溜息を吐いてきた。
  どうすれば?
  どうすれば?
  どうすれば?
  何度同じ言葉を繰り返しても答えは出ない。そして時間だけが過ぎてゆく。
  ケイネス殿の容体が安定し、キャスター討伐への準備が整い次第出陣する予定だ。今の調子ならば夜が明けて数時間もすれば行動に移せるだろう。
  戦いへの予測は即座に立てられる。けれど悲運を回避するための解決策は依然として浮かばないままだ。私はもう一度小さな溜息をつく。
  「・・・・・・・・・」
  もしかしたらこの瞬間にも冬木の土地では英霊同士の戦いが起こっているかもしれない。そう思いながら遠くを見つめると―――結界で感知できない遥か遠方から迫りくる人影を見つけた。
  人の肉眼では単なる点にしか見えないが、英霊のそれは余人のそれを軽く凌駕する。
 ライダーの戦車チャリオットや、現代の機械を用いての接近ではない。人の足を使った歩行だが、目的地は間違いなくここだ。廃工場でしかないこの場所に用のある者がいるとすれば、それは人の立ち入らぬ場所で騒ごうとする輩か、ここがケイネス殿の現在の拠点と知った上で仕掛けてくる敵のどちらかとなる。
  ただし人影の歩く速度は遅いので、まだ到着には時間がかかる。私は見張りを一旦止め、ケイネス殿とソラウ殿が眠る寝所へと急いだ。
  ホテルの一室にあった豪奢なベッドなどここには存在しないので、ケイネス殿が眠るのは病人が眠るような少し高めの簡易寝台。そしてソラウ殿が横になっているのは工場の応接室と思わしき場所にあったソファーを寝床の体裁を整えて使用して頂いている。
  主君とその婚約者に気苦労を重ねているのはランサーたる我が身の不甲斐なさが招いた結果。目に見える現実を突きつけられ心が揺れるが、今はそれを無視して二人の肩をそれぞれ揺する。
  「ケイネス殿、ソラウ殿、起きてください!」
  ケイネス殿はもともと眠りが浅かったのか、すぐに目を開いてこちらを見つめる。ただし、本調子には程遠く、平時であれば体を起して命令してくださるのに、今は体を横にしたままだ。
  あの時、敵の攻撃によって内臓はほぼ壊滅し、筋肉と神経も体の至る所が破壊されて四肢を満足に動かす事も出来ない。
  「敵が・・・いえ、何者か判りませんが、この拠点に接近する者がおります」
  「――すぐに応戦しろ」
  「御意」
  すでにマスター権の譲渡については双方ともに周知の事実。しかし、私にとって主君は今もケイネス殿ただ一人であり、短く告げた命令に背く意思はかけらもない。
  たとえ聖杯戦争のマスターとして共に戦えないとしても、それはケイネス殿を見限る理由にはなりはしない。私は命じられたまま即座に行動し、零体化によって長距離を一瞬で移動する。
  ソラウ殿もすぐに起きると思われるので、結界の中で朗報を待って頂く。
 目の前におられたケイネス殿は消え、私の目は迫りくる何者かを映し出す。私は近づいてくる何者かの射程範囲外と思わしき場所で実体化し、必滅の黄薔薇ゲイ・ボウ破魔の紅薔薇ゲイ・ジャルグを下げて構える。
  その人影は白髪の老人だった。
  鼻の下と顎に貯えられた髭は真っ白に染まり、中央部分にのみ残った髪の毛も同じく白に染まっている。まがった腰がより一層小柄な体格を小さく見せ、けれど足元まで伸びた赤いマントが強烈な印象を放っていた。
  それはライダーが身に着けているマントよりも鮮明な赤で、それ自体が一つの目印になっている。私が人影をすぐに発見できたのも、夜の中でも目立つ赤さがあったからこそだ。
  マントの下、つまり老人の胸元には今にも飛び出しそうな怪物の顔があり、何らかの魔獣を模した衣装を着込んでいる。鋭い二本の角を生やし、牙をむき出しにしたその姿からは獰猛さを感じた。
  衣装に作り変えられる前は人を簡単に殺す魔獣であった事だろう。
  「止まれ――」
  突然現れた私に対し、接近していた老人は驚かない。それどころか、むしろ待ちわびていたとでも言わんばかりに笑みを浮かべる。ここで私は目の前の人物が無作為にここを訪れた無関係の第三者ではなく、聖杯戦争に関わりのある何者かだと結論付ける。
  敵か、それとも味方か。
  ケイネス殿に協力する人物はソラウ殿を置いて他にはおらず、誰かに助力を頼んでもいないのでこの状況で廃工場を訪れるのは十中八九敵となる。それでも万が一の可能性がある。そして相手の正体を知らずにいきなり攻撃するのは騎士の道に反する。
  「貴様。何の目的でここに来た」
  まずは言葉のみ、槍の切っ先を向けながら恫喝のごとく話してはならない。相手が老爺に見えるならば尚更だ。いきなり攻撃を仕掛けるなど道理に外れる外道。
  私は両手に槍は持っているが、切っ先は地面に向けたままだ。
  「答えよ」
  「なるほど、なるほど。話に聞いていた通りの御仁ゾイ」
  距離とった状態で、老人が言った。
  「ワシの名はストラゴス・マゴス。お主、少しワシと戦わんか?」
  それはある意味で予想通りの宣戦布告だった。



[31538] 第24話 『青魔導士はおぼえたわざでランサーと戦う』
Name: マンガ男◆da666e53 ID:6a0d9b18
Date: 2013/03/09 00:43
  第24話 『青魔導士はおぼえたわざでランサーと戦う』



  ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆



  Side - ゴゴ





  相手に先手を取らせてはこちらはどうしても後手に回る。そして後手に回れば、相手が全ての力を出し切っているかどうか見極める余裕を失ってしまう。
  力の差が歴然としていれば後手に回っても何とかなるが、相手の力が世界に召し上げられた英霊のそれだったならば、初手でものまね士ゴゴそのものを消滅させられる可能性も決してゼロではない。
  第四次聖杯戦争では見ていないが、髪の毛が蛇で構成されているギリシャ神話に登場するある女性にいきなり見つめられる場合などがこれに該当するだろう。あくまで予想の範疇だが。
  かつての世界でも味方が一人の時に出会うといきなり『死のルーレット』で攻撃してくる『チャーミーライド』のように、相手に先手を許すと一気に殺されるモンスターもいたので、初見の相手と力量を隠している相手に対して後手に回るのは非常に危険だ。
  そして相手の立場になって考えると、敵に先手を取られた場合はかなり高い確率で全力で応対してくる。どんな敵が相手でも全力を出す必要がないと思っている者もいるが、大抵の場合は敵に先手を取られた時は全力で戦う。こちらの攻撃が一撃で相手を殺せるほど強力ならば尚更だ。
  わざわざ『ストラゴス・マゴス』になってランサーに仕掛けたのはそれが理由である。
  現在のランサーは倉庫街で戦った時に比べ、情報戦においても物理戦においてもかなり衰えている。
 真名はディルムッド・オディナ。宝具は破魔の紅薔薇ゲイ・ジャルグ必滅の黄薔薇ゲイ・ボウ。今回仕掛けた最も大きな理由は、二本の槍以外にも彼に宝具があるか否かを見極める事。
  正規のマスターであるケイネス・エルメロイ・アーチボルトが衛宮切嗣の魔術礼装によって戦えなくなった。ランサーのマスターはケイネスの婚約者であるソラウ・ヌァザレ・ソフィアリが代行しているが、戦いにおいては素人なのでランサーに任せるしかないと思われる。
  極端にいえば、今のランサーは『忠義を捧げる主君』と『代行マスター』の二つのお守をしながら戦わなければならない状況に陥っている。これは戦力低下と呼ぶしかない。
  ランサーが守るべき者達が間桐邸や遠坂邸のような堅固な結界に守られた拠点に留まるならば話は別だが、これまた衛宮切嗣によって冬木ハイアットホテルに作り上げた魔術工房は木っ端微塵に破壊されてしまった。
  新たに廃工場に敷設した結界では英霊の侵攻を食い止めるのは不可能だ。この状況で攻めれば、ランサーは切り札を使うしかない。
  もっとも、そんなモノがあったらの話だが―――。雁夜のサーヴァントであるバーサーカーも三つ目の宝具を有し、『他の二つの宝具を封印して』と使用条件を限定される宝具がある。
  ランサーもそれと同じ可能性があれば、切り札がまだあっても不思議はない。むしろものまね士ゴゴとしては合ってほしいと願っている。そして、それを物真似させろと欲している。
  ストラゴスの見た目はどうしようもなく老人であり、ランサーが手心を加える可能性がある。だが見た目で力の優劣を判断するような英霊ならば、それこそ願い下げだ。ゴゴが物真似するほどの価値すらない。
  しかし老人だからこそ敵と見定めてもいきなり攻撃しないで、こちらが先手を取れる計算もある。これがアーチャーの攻撃を難なく弾き返したマッシュだったならば、問答無用で攻撃してくる可能性は十分あり得るのだ。
  ゴゴは言う。
  ストラゴスの姿形を借りて言う。
  「お主には恩も恨みもないゾイ。じゃが、どうしても戦ってもらわんと困るんじゃ」
  「生憎だが我が槍は無関係の御老人に向けるものではない。即刻立ち去ってもらおうか」
  「融通のきかん奴じゃな。そんな事では長生きできんゾイ」
  史実の上でとっくに死んでいる英霊に向けて強烈な皮肉だとは思いつつ、言葉通り戦ってもらわなければ困ると考える。そして倉庫街の戦いでマッシュが乱入した時も全く見向きもしなかったランサーならばそう来るだろうと納得もしていた。
  敵ならば容赦しない。
  槍が向けられる相手は決まっている。
  ならばストラゴスがその敵になればいい―――。簡単な事だ。
  「聖杯なんぞ求める輩に加担するなら、お主もまたこの冬木に害する罪人じゃゾイ」
  手にした杖をランサーの頭上に向ける。そして廃工場全体を破壊する勢いで、その言葉を口にした。


  「アクアブレス」


  「むっ!」
  ストラゴスの特殊技能『おぼえたわざ』の一つを口にしながら、同時にバトルフィールドを展開する。こうやって廃工場には傷一つ付かない状況を整えた。
 ランサーはストラゴスの背後から突然現れた膨大な泡の群れに驚きながらも、即座にそれが魔術によって編まれた擬似的な災害であると見抜く。一歩下がって立ち位置を修正し、破魔の紅薔薇ゲイ・ジャルグの切っ先を向けた。
  ランサーに殺到する無数の泡。
  だが紅い槍が突き刺さると同時に、大小問わず泡はパン、パン、パン、と軽快な音を立てて割れていった。
  結果、ランサーの後ろには『アクアブレス』は影響を及ぼせない。つまりケイネスとソラウの両名がいる寝所にもまた影響は無かった。
  ランサーが下がって場所を移動したのは、瞬時に『アクアブレス』がまっすぐにしか進めないの見抜き、廃工場の中で待つ主君とその婚約者を守る為だったのだ。
  「中々やりおる。この技には自信があったのに、くじけそうじゃゾイ」
  「貴様・・・」
  廃工場にぶつかると泡は物理的な攻撃手段として有効なのが嘘のように次々と割れていった。数秒も経たずに、百を超えたであろう泡は全て余韻も残さずに消えてしまう。
 残るのは破魔の紅薔薇ゲイ・ジャルグを構えたまま剣呑な視線をぶつけてくるランサーと、対峙するストラゴスの両名のみ。
  ランサーが気付いているかどうかは判らないが、もう廃工場に張り巡らされた結界とは別種のバトルフィールドが展開されている。だから力は抑えても、手を抜く必要は無かった。
  「これでワシが敵だと認めてもらえたかの? 防がんかったら、お主のマスターは無事では済まんかったかもしれんゾイ」
  「・・・・・・」
  ランサーは無言でストラゴスを睨みつけているが、バトルフィールドが展開されている今、廃工場には傷一つ付かず、奥深くにいるケイネスとソラウの両名に攻撃する為にはもっと接近しなければならない状況だ。
  あの二人を攻撃する為にはあちらがストラゴスの見える位置にまで移動する―――ようするに射程内に入ってくれないと攻撃しても意味がないのだ。
  バトルフィールドは彼らを含めた廃工場全体にまで広がっているが、敵と認識するにはあまりにも距離がありすぎて、場所が判らな過ぎる。
  ストラゴスの口で語る言葉は大嘘だ。『語る』ではなく『騙る』言葉だ。
 その辺りが判っていてなお、主君に向けて攻撃した事実に怒っているのか。それともバトルフィールドの効果が判らずに主君の危機に対して怒っているのか。ランサーは破魔の紅薔薇ゲイ・ジャルグを向けたままストラゴスを強く強く睨む。
  「・・・よかろう。貴様が何を思ってここを訪れたかは知らん。だが、我が主君に仇なすならば、今この瞬間より貴様は敵だ。老いていようと容赦はせん」
  「その気構えはワシが攻撃する前にするべきじゃな。冬木市を戦場に変えた愚か者よ。ついでに言っておくとワシは聖杯には興味は無いゾイ」
  言い終えると同時にランサーが前に跳んだ。





  最速のサーヴァント『ランサー』、技術の高さは超一級で、槍だけで戦った場合に勝てる相手はそうそう居ないだろう。
  世界に召し上げられた英霊、聖杯戦争に召喚されるほどの技量の高さ、それ故に『ランサー』。
  「結構早いゾイ」
  「減らず口を!」
  ストラゴスは迫りくる槍を見つめながら、それが全力とは程遠いと理解する。
  老人と青年。技量の高さ以前に脚力や腕力など人の力でより多くを練りだせるのがどちらかなど言うまでもない。圧倒的にランサーの方が有利だ。
 槍の中で最速の一撃、破魔の紅薔薇ゲイ・ジャルグの切っ先が『突き』でストラゴスの体を射抜かんと迫りくる。
  普通ならば避ける間もない一撃でストラゴスの老体は呆気なく貫かれて絶命するだろう。しかしストラゴスはランサーの弱点を狙って互角の状況を作り出そうとする。


  「石つぶて」


  呟くと同時に三角形の淡く蒼い光がストラゴスの周囲に生まれた。そして百を超える莫大な数の石がストラゴスの足元から撃ちだされる。
  それはランサーのみならず、彼の背後にいる廃工場にも向けて一斉に飛びかかり、一つ一つは拳大の大きさでありながらも莫大な数によって威力を何十倍にも増加させている。
 ランサーはその中で自分に迫りくる石を屈んで避け、頭部にぶつかりそうだった石を破魔の紅薔薇ゲイ・ジャルグで叩き落とした。
  そのまま突っ込んでストラゴスに一撃見舞えば全てが終わる。こんなにも簡単に勝敗がついてしまう接近戦での地力の差がストラゴスとランサーにはある。
  だが石はランサーだけではなく廃工場にまで雨のように降り注いでいる。
  「ちっ!」
  ランサーはストラゴスを貫ける一撃を止め、最速のサーヴァントに恥じぬ速度で全力で後退した。
  その早さは飛来物である石すらも追い抜く。
  そして一気に屋根まで飛び上がると、地面から放物線を描いて迫りくる石の中でケイネスとソラウの両名に当たる可能性がある物だけに狙いを定めて二本の槍を回転させる。
  ブンッ―――と風を割く音がした。それはヘリコプターのプロペラを思わせる防御だった。
 破魔の紅薔薇ゲイ・ジャルグ必滅の黄薔薇ゲイ・ボウはランサーの手を起点にして高速で回転して。槍の向こう側にいるランサーを隠し、迫りくる全ての石を叩き落としてしまう。
  ランサーが避けた石と、防いだ石の両方以外の石が廃工場に降り注ぐ。だがガンガンガン、と堅い物同士がぶつかり合う音を立てるだけで、廃工場の屋根も壁も全く凹まず、穴も開かなかった。
  「見事な速さじゃ。もう少し遅かったら間に合わんかったかもしれんゾイ」
  ランサーはストラゴスの攻撃が廃工場の建物を破壊する類の物ではないと気付いた筈。戦い始めると同時に展開したバトルフィールドが無機物への破壊を一切禁じていると知った筈だ。
  しかしランサーにとって廃工場の中にいるケイネスとソラウへの攻撃も同じように防ぐかどうかは未知数となる。実際、バトルフィールドを使用しているのはゴゴであり、術者が解除してしまえば呆気なく『魔術攻撃が拠点を破壊する』の状況は出来上がる。
  それにもし二人がいる場所を攻撃する技だけが建物を破壊したら? ランサーがあのまま攻撃すればストラゴスの命は取れただろうが、同時に二人の命もまた取られる可能性があった。
  ランサーはその博打を打たず、常にケイネスとソラウの二人を守りながら戦う選択をした。ストラゴスの攻撃は常にランサーだけではなく廃工場にいるケイネスとソラウの両名も含められている。それこそが最速のサーヴァントに速さでも力でも劣るストラゴスが戦える理由だ。
  「ほれほれ、どんどんいくゾイ」


  「エアロガ」


  ストラゴスが別の言葉を呟くと、何もない場所から突然暴風が巻き起こる。予兆など何もなかった局所的な風だが、その威力は人を殺すには十分すぎる威力を持っている。
  廃工場の屋根の上まで戻り、頭上から迫ってきた石を全て落としたランサーに向け、どこからともなく現れた小型の竜巻が向かう。
  そして廃工場にも向け、複数の竜巻が一気に向かった。その数、実に二十以上。一つ一つの大きさはランサーの全身を飲む込む程度の大きさしかないが、数が増えればそれは容易く脅威になる。
  竜巻を視認した後のランサーの動きはやはり素早かった。ストラゴスとランサーの位置は距離をかなり隔てていたが、一瞬の間にランサーは地上へと舞い降り、ケイネスとソラウがいる方向に向けられた他の竜巻の前に立ちふさがったのだ。
  同時に複数の竜巻は廃工場に向けて一直線に突き進み、隣り合う竜巻同士が絡み合って、混じり合って、溶け合って、その大きさを拡大させていく。
  ランサーが地面に降り立って構え直す頃には、ランサーに向けて先に飛んでいった小型の竜巻が災害と言うしかない大きさまで膨れ上がった巨大な竜巻に化けていた。当然、それは廃工場に襲い掛かろうとしている。
  「はっ!!」
 ランサーは迫りくる巨大な災害に対し、呼気を力強く吐き出しながら破魔の紅薔薇ゲイ・ジャルグを頭上に掲げた。
 紅い魔槍で天を指すランサー。そのランサーめがけて巨大な竜巻に衝突する一瞬前、ランサーは頭上に伸ばした破魔の紅薔薇ゲイ・ジャルグを振り下ろす。
  ランサーが手に持ったのが剣であれば、それは上段からの唐竹割りのように見えただろう。だが、ランサーの槍は剣よりも尚長く、尚大きく、尚早く、一気に振り下ろされた。
  迫りくる風よりも速い一撃は巨大な台風を中央から真っ二つに引き裂いていった。どんなものであろうと呑み込んでいく災害が槍一本で切り裂かれていく姿は幻想的ですらある。
 魔力によって編み出された偽りの暴風が、破魔の紅薔薇ゲイ・ジャルグによって解体されていった。それを理解しながらも、災害すら槍で破壊するのは見事だ。
  複数の小型の竜巻ならば一つが破壊されても別の台風が廃工場に襲いかかるのだが、全てが合わさって一つの巨大な竜巻になった結果、魔力をほどく槍がそれ一つ全てに効果を及ぼしてしまった。
  見れば、槍の切っ先は地面すれすれで止まり、槍を剣のように扱って振り下ろした態勢のランサーがそこにいる。
  次々に新しい攻撃を仕掛けているのに、その全てを対処する。その上で、守らなければならない者達もしっかり守っている。
  ただし、その代償としてランサーはストラゴスを殺す為の決定的な一撃が放てないでいた。
  「動けぬ我が主君を狙うとは・・・」
  「卑怯者、と罵るかの? ワシに言わせれば自力で戦えぬ者を戦場に置く方がどうかしてるゾイ」
  戦いに勝つとは―――自らに有利な条件を積み重ね、相手が好きに出来ない状況を積み重ねる事だ。相手がしてほしくない嫌な事を何度も何度もやる。
  騎士としての真っ向勝負とは大きくかけ離れた戦い方だが、『戦争』とは騎士だけに許された殺し合いではない。騎士が騎士として生きたいのならば好きにすればいい、だが他者にそれを強要するのはただ傲慢だ。ものまね士ゴゴはそう考える。
  「お主の都合で世界が回っておる訳ではないゾイ。守りたいと願うなら何が何でも遠ざけるべきじゃ」
  ゴゴはかつて仲間達からある話を聞いた。
  三闘神を祀り、彼らの像を安置した『幻獣の洞窟』。サマサの村の北にあり、ストラゴスの孫娘のリルムがいつの間にか付いて来てしまっていた洞窟での話だ。
  ストラゴスはそこで思ったに違いない。
  幻獣の洞窟はガストラ帝国を半壊させた幻獣が潜むと思われている洞窟だ、リルムをこんな危険な場所にいさせたくないと思ったに違いない。幻獣の洞窟はモンスターがうようよする洞窟だ、孫娘を想う祖父は何としてでもリルムを守り無事に帰したいと思ったに違いない。
  守るならば言い訳をせずに最後まで行動に示せ。敵は待ってくれないのだから。その時いなかったゴゴがストラゴスの形を借りてその思いを代弁した。
  「・・・・・・」
 ランサーからの返答は神速の踏み込みと破魔の紅薔薇ゲイ・ジャルグによる刺突だった。
  無言のまま一気に距離を詰めてくる。ランサーの体全てが敵を貫く為の一本の弾丸になり、槍の切っ先を中心に渦巻く風がランサーの周囲を覆った。
  横から見れば槍の先端を頂点にした二等辺三角形の形をした風が見えただろう。
  風を貫きながら突進してくるランサー。ストラゴスを射抜くその眼差しが、お前は間違っている、そう物語っている。


  「マイティガード」


  ストラゴスはとっさに手にした杖を地面に落としながら片手を前にかざし。『おぼえたわざ』の中でも最も魔力を消耗するが、物理的防御力を上げる魔法『プロテス』と魔法防御力を上げる魔法『シェル』を一回で、しかも味方全体にかけられる技を口にする。
  頭ではそれを口にしても何ら意味がない事を理解していた。相手がランサーでなければ、この技は多大な影響を及ぼすだろうが、ランサーだけは駄目だ。
 何故ならランサーにはいかなる存在であろうとそれが魔力を用いて作られたモノであれば、等しくそれを解除してしまう破魔の紅薔薇ゲイ・ジャルグがある。
  黄色い燐光が十字を、そして緑の光がストラゴスを中心にして球を作り出す。二重の防御魔法がストラゴスを覆うが、魔力で作られたセイバーの鎧すら透過した紅い魔槍はそれも突破するだろう。
  それでもストラゴスに後悔は無い。
  戦いにおける愚行をしでかしたと自覚しながら、悔いは何一つない。その理由は間桐邸の地下でアサシンに対して色々とやっているのと同じように、ランサーにもまた何が有効であるかを知りたいと思っているからだ。
  物真似とは観察であり、模倣であり、反応であり、行為そのものだ。ならば、ゴゴが物真似をより完璧なモノにする為には、ありとあらゆる事象を理解して自らのモノとするのに他ならない。
 果たしてただ発動しただけの『マイティーガード』は破魔の紅薔薇ゲイ・ジャルグに抗しうるか?
  それとも解除されてしまうか?
  この世界の魔術とは異なる魔法には宝具も意味を成さないか?
  ランサーの宝具の有無も重要だが、それも知りたかった。
  ランサーのサーヴァントとして聖杯戦争に招かれたディルムッド・オディナ。宝具である二本の槍はこの世界によって構成された伝説や神話を元にして作られている。
  そして武器に付加された効果あるいは呪いへの対抗はこの世界の魔術への対抗そのものだ。ランサーを媒体として、その背後にいる世界そのものを暴くのだ。
  たとえどんな結果であってもそれは等しく物真似の成果となる。ストラゴスの目が迫りくる槍の切っ先をしっかりと見据え―――ぱりん、と音を立てて『マイティガード』の効果がはじけ飛ぶのを見た。
  ストラゴスを覆っていた二色の光が槍の切っ先を起点としてどんどん砕け剥がれていく。ランサーの槍の勢いは衰えず、踏み込んだ勢いそのままに突っ込んできた。
 避ける余裕は無い。ストラゴスが前に突き出した手のひらをランサーの破魔の紅薔薇ゲイ・ジャルグが貫く。
  「ぐっ――」
  しわの多い年老いた手がランサーの勢いに押されて後ろへと動く。手の次は肘、肘の次は肩、遂には体全てが勢いに押されて後ろへ飛ばされる。
  足で踏ん張ろうとしてもランサーの力はストラゴスの力を容易に越え、手のひらごとストラゴスの体は吹っ飛ばされた。
  勢いは強く、手のひらが千切れなかったのが幸いであろう。
 一瞬で後ろへと吹き飛ばされたストラゴスに向け、もう片方の手に持っていた必滅の黄薔薇ゲイ・ボウをかざす。
  後ろへ吹き飛ばされて体勢を崩したストラゴスにそれを避ける術は無い。
  頭を狙う事は出来ただろう。
  首を切り裂く事も出来ただろう。
  心臓を突き刺す事も出来ただろう。
  しかしランサーは明らかに急所とは異なる箇所に黄色い槍を突き刺した。
  何故、ランサーがそこを攻撃したのかはストラゴスには判らない。ただ純然たる事実としてランサーはもう一本の槍でストラゴスのもう片方の手を貫いたのだ。
  片手を後ろに持ってかれたストラゴスの態勢は大きく崩れている。その中で動き回るもう一方の手を狙うのは、胸にある心臓を貫くより難しい筈。
  何故、ランサーはわざわざもう片方の手を攻撃したのか? それが言葉の解答となって現れるよりも早く、ランサーは地面と平行に射抜いた槍の軌道を変え、ストラゴスの体を地面へと叩きつけた。
  刺突の勢いは衰えておらず、ストラゴスは背中から地面に落とされる。そして、ザザザザザザザと強烈な音と一緒に地面に削り跡を残していった。
  ランサーの右手には赤の長槍、そして左手に黄の短槍。長さの違いからランサーの手がある高さには違いはあるが、それぞれの切っ先は正確にストラゴスの両手に突き刺さり、老いた体を地面へと縫い付ける。
  大の字に横倒しになったストラゴス。前後を貫通させられた両手からドクドクと紅い血があふれ、地面の上に少しずつ少しずつ広がっていった。
  横倒しになったストラゴスをランサーが鋭い視線で見下ろしている。
  ストラゴスはそんなランサーに向けて言い放つ。
  「一撃で殺さなかったのは弄るつもりかの?」
  「たとえ貴様が我が主に牙をむく者であろうと、我が槍は年老いた者を殺す槍ではない。ここで立ち去れば命までは取らん」
 自分を含めてケイネスとソラウを殺そうとした相手を殺さない。それがランサーの掲げる騎士道に準ずる道なのだとしても、必滅の黄薔薇ゲイ・ボウで人体に穴を開けた時点で普通ならばもう命はないだろう。
  たとえこの場は生き延びたとしても、手のひらに開けられた穴は決して塞がらず、血が流れ続けていつかは死ぬのだから。ランサーの言葉は茶番のようだ。
  それともランサーだけは傷を癒さない呪いの槍の解呪方法を知っているのだろうか? ありえる可能性ではあるが、ストラゴスにとってそんな事はどうでもよかった。
  起こった事象に対する考察で忙しい。
 破魔の紅薔薇ゲイ・ジャルグの力は『マイティガード』の効力すらも打ち消せるのだと知った。全力で魔力を注ぎ続ければ、『マイティーガード』を発動して打ち消されて発動して打ち消されてを繰り返せるかもしれないが、とりあえず単一の結果のみで発動させた技は破魔の紅薔薇ゲイ・ジャルグに消されてしまう。
 ならば必滅の黄薔薇ゲイ・ボウはどうなのか?
  ストラゴスは倉庫街の戦いでセイバーが言えない手傷を負った瞬間から考えていたある打開策を思い出す。対ランサーへの手段だったので、敵を前にすれば思い出すのに一瞬すら必要なかった。
  「甘い、甘いゾイ!」
  その対抗策の脳裏に描きつつ、この場を脱する為の手段もまた一緒に講じる。
  両手を貫かれた痛みが全身を駆け巡って頭を真っ赤にする。けれどこの程度ならば、かつて旅した世界では珍しくも何ともなかった。
  意思の力で痛がる自分を抑え込み、ストラゴスは新たな技を口にする。


  「リベンジブラスト!!」


  ストラゴスの両手は地面に縫い付けられて動かせなかった。そしてストラゴスとランサーの間には何もなかった。しかしストラゴスがその言葉を呟いた次の瞬間、地面に描かれるように蒼い三角形の光が生まれ、ランサーの体に紅い衝撃を叩き込んだ。
  「ぐがっ!」
  予備動作は無かった。
  手足を使って攻撃した訳ではない。
  魔術的な何かがぶつかった訳でもない。
  ストラゴスに言葉を口にしただけ。
  それだけで、ランサーに『物理的なダメージを喰らわす』という結果が具現化された。
 ストラゴスが負った『手のひらに開いた傷』と同列の痛みをランサーの体に叩きこむ。術者が傷つけば傷つくほどに威力を増す『リベンジブラスト』。ある意味これも必滅の黄薔薇ゲイ・ボウと同種の呪いと言える。
  ランサーが叩きこんだ痛みはそっくりそのまま彼に戻る。その威力はストラゴスの両手を射抜く状態を維持出来ないほどに苛烈だった。
  ランサーは両手に握り締めて二本の槍を決して離さなかった。だからのけぞって後ろに跳躍すると、ストラゴスの両手を貫いていた槍がズブ、と音を立てて引き抜かれてしまう。
  突然の衝撃に距離を取るランサー。ストラゴスは痛む手をそのままに立ちあがって前を見ると、ランサーはストラゴスが『マイティガード』を唱えた位置から更に向こう側まで戻っていた。
  今まで以上にストラゴスの手のひらから血が流れ続け、どくどくと、どくどくと、地面に紅い水たまりを作っていく。
  ストラゴスは距離を取ったランサーを見つめ、両手をだらりと下げた態勢で言い放つ。
  「危険なモンスターの研究を続けに続けて七十年。青魔導士ストラゴスの力を甘く見るのは間違いじゃゾイ」
  そうやって痛みを誤魔化すように力強く言う。
  その勢い継続させ、痛みなど戦いに関係ない、と言わんばかりに機敏な動作で右手を横に伸ばす。
 ランサーが左手に持っていた必滅の黄薔薇ゲイ・ボウによって射抜かれた箇所からだらだらと血が流れ続け、飛び散りながら紅い点線となった。
  そのまま、炎の魔法を口にする。
  「ファイラ」
  ランサーはストラゴスが魔法を口にする以前から、二本の槍を油断なく構えていた。
  前後左右は言うに及ばず、上空地面も含めた全ての方向から攻撃が出ても対処できるように気を配っている。もちろん、背後にそびえ立つ廃工場のケイネスとソラウを守る場合も考慮して、攻撃の為ではなく守る為の足運びをしていた。
  前を省いた横と後ろへの跳躍を可能にした体勢だ。そのランサーの足元から―――ではなく、ストラゴスが横に伸ばした右手の下から炎の柱が生えた。
  「なにっ!?」
 ストラゴスの魔力によって作り上げられた炎は呆気なくストラゴス自身の右手を焼く。手首から先が一瞬で炭化して必滅の黄薔薇ゲイ・ボウで作られた傷も、流れ落ちていた血も根こそぎ炎によって焼かれて消えた。
  突然、自分自身に向けて攻撃したストラゴスの真意が判らず。ランサーは狼狽の声をあげる。それでも構えはとかず、むしろ何を仕出かすのか判らないからこそ、より強く警戒の目を向けていた。
 ストラゴスが考えていた対抗策は、ランサーの必滅の黄薔薇ゲイ・ボウの効果範囲についてだ。
  癒えぬ傷を残る槍の効果は、傷つけた部位の治癒能力そのものを発生させない呪いである。
 人体の仕組みで考えれば傷が出来ると血小板や赤血球が集まって傷を塞ぐ。その過程そのものを許さないのが必滅の黄薔薇ゲイ・ボウの効果である。
  血中の傷を治す細胞の動きを阻害する菌や毒が付着しているのではない。これは正しく世界によって定められた槍の呪いだ。
  炎が消えるとストラゴスの右手はそこになかった。
  皮も爪も骨も何もかもが消滅している。常人ならば、焼かれたショックと強烈な痛みでそのまま死んでもおかしくない。
  けれどストラゴスはそのまま自らを回復させる為、焼けて消えた右手をランサーへと向け直す。あたかも攻撃魔法を放つような格好で―――。
  この程度の痛みで悶絶して戦いを止めたなら、かつての世界であっという間にモンスターに殺されていただろう。
  片手が消えた程度で戦いは止まらない。ストラゴスも、ものまね士ゴゴも止まらない。


  「ホワイトウィンド」


  魔法を唱えると同時に地面から白い光が湧き出でる。それは槍のように鋭く、けれどその光は暖かい。
  形状は先ほど唱えた炎の魔法『ファイラ』の火の柱に似ていたが、その光はストラゴスを傷つける事無く全身を貫いて昇っていく。
  自信の生命力と同等の生命力を味方全体に与える『ホワイトウィンド』。
  その効果は消えた右手だけではなく、紅い魔槍によって射抜かれた左手も一緒に復元していった。流れ落ちる血は止まり、再生と言うよりは時間が戻るかのように傷口は消えていく。
  神秘とも呼べる光景は一瞬で終わり、天に昇る光の柱がストラゴスを完全に通り抜ける。後に残るのは傷一つない手を見せつけるように完全復帰して構える青魔導士の姿だった。
  ストラゴスは前に向けた右手と下げた左手をそれぞれ開閉し、感触を確かめながら傷が完全に消えた事を確認する。
 必滅の黄薔薇ゲイ・ボウといえど、呪いを負わせた傷そのものが消えてしまえば効果は発揮されなかった。
  これこそが対抗策。傷が呪いで癒えぬのならば、その呪いが及ぼす範囲そのものを消滅させればいい。
  やはり―――と思いつつ、予測が当たった事と両手が元に戻った事の二重の喜びに笑みを作り出す。ただし、予測がすべて正解という訳ではなく、右手に若干の違和感があるが、今この場だけに限定するならば完治したといっても過言ではない。
  自らを焼き、それ瞬時に癒して、笑いながら敵を見る。見方によってはテレビの悪役のようだ。
 破魔の紅薔薇ゲイ・ジャルグの効果を間近で見れて、その効果を『マイティガード』を通じて味わった。必滅の黄薔薇ゲイ・ボウを自分の体に受けて、その効果がもたらす範囲も知った。
 残るはランサーに破魔の紅薔薇ゲイ・ジャルグ必滅の黄薔薇ゲイ・ボウ以外の宝具があるか否かを知るだけだ。
  「これで終いじゃゾイ」
  前に伸ばした右手に合わせて左手も前に伸ばす。ランサーは一度攻撃すると見せかけて回復を許してしまったので、今度は何かされるより前に阻止しようと攻勢に出た。
  再び繰り返される神速の踏み込み。ストラゴスの身体能力では決して対処できない最速のランサーが繰り出す攻撃だ。
  けれど英霊といえど現界している限り肉体の枷からは逃れられない。どうやった所で、距離を取った時点で敵に到達するよりもストラゴスが一言呟く方が早い。


  「クエーサー」


 この世界の魔術と、かつての世界の魔法の大きな違いは、術を発動させるのに必要な工程が一工程シングルアクションか否かである。
 ランサーにはクラス別能力として『対魔力:B』があり、魔術発動における詠唱が三節以下のものを無効化できる。だが詠唱が一工程シングルアクションである『リベンジブラスト』はランサーに効果を発揮して痛めつけた。
  つまりこの世界の魔術とかつての世界の魔法は複雑に絡み合い、どちらかが常に優位性を保つ訳ではない。魔法を発動する時に込める魔力を極限まで引き上げればどんな呪いだろうと能力だろうと粉砕できる予感はあるが、それをやるとほぼ確実に世界の抑止力を呼び込むだろうから実証には至れないのが残念だ。
  だからこそ英霊を使って色々と実験する必要があり、傷つくのも傷つけるのも必要となる。アサシンには魔法のほとんどは効果を発揮したが、対魔力の能力を持つサーヴァントには発動した魔法の威力が弱められると考えられる。
  この『クエーサー』もランサーに若干威力を弱められてしまうだろう。だが、効果が無い訳ではない。
  ランサーが肉薄するよりも早く、バトルフィールドが展開された範囲内を夜よりも深い闇が覆い尽くす。そのまま天から数十本、いや数百本の光の線が地面へと突き刺さった。
  ランサーはすぐにそれが自分を含めた廃工場すべてに向けた攻撃だと察知し、ストラゴスへの突進を止めて踵を返す。ランサーが再びストラゴスを射抜こうとするならば、こちらは再びケイネスとソラウを含めて全体を攻撃するだけだ。
  今度は両手を貫く程度では済まさないつもりだろうが、ストラゴスも遠慮しない。
  さあ、あるならば三つ目の宝具を曝け出せ―――。いっそ願いとでも呼べる思いを胸に秘めながら、ストラゴスは『クエーサー』を範囲内に全て叩きこんだ。
  この技は見た目は隕石の乱舞という無茶苦茶な攻撃だが。隕石は上空から降り注ぐのではなく、光が突き刺さった地面を範囲内として、その中を問答無用でかき回す岩石の嵐なのだ。
  光は隕石の通り道となり、バトルフィールド内を荒れ狂う竜巻の技『エアロガ』と『石つぶて』を数十倍に倍加させて重ね合わせる。それは魔法防御すら無視した極限ともいえる魔法だ。ストラゴスの『おぼえたわざ』の中では即死系の魔法を除いて最強に近い。
  ランサーは自分に迫りくる隕石とランサーとケイネスが居る箇所に突っ込んでくる隕石を迎え撃つ。
 ランサーどころかライダーの体躯すら呑み込んで余りある巨大な隕石に対しては破魔の紅薔薇ゲイ・ジャルグを突き刺して岩を魔力へと還元し。小さな石については必滅の黄薔薇ゲイ・ボウで叩き落とす。
  最速のサーヴァントが見せる迎撃は、演舞のようであり、苛烈でもあり、二本の槍がランサーを中心にして舞い踊っていた。
  しかしそれも限界を迎える。
  『クエーサー』の強みは、全体攻撃―――つまり個人ではどうしようもない圧倒的な数の攻撃で、ランサーがどれだけ速かろうと二本の槍を使って迎え撃つ以上の戦い方は出来ない。二本の槍はアーチャーの宝具のように数を増やせないのだ。
  速さよりも多さ。圧倒的物量で押し寄せる岩石を前にしてはいかに英霊であろうとも、二本の槍だけでは数が足らない。
  ランサーが消滅させ叩き落とした岩石の数が二十を超えたあたりで、頭部ほどある岩の一つがランサーの太ももに激突した。
  「がっ!」
  骨を砕く一撃が直撃し、ランサーの口から苦悶の声が漏れる。その一撃を切っ掛けとして、鈍った槍の隙間に向けて他の岩石が滑り込んだ。
  小さな石は槍を抜けてランサーの額に、肩に、腕に、足にぶつかり。最も巨大な岩石は二本の槍ごとランサーの体全てに激突する。
  投石では済まない岩石の乱打。肉を叩き骨を砕く音が鈍く鳴り響く。
  一瞬遅れ、ランサーの周囲にある廃工場に向けても隕石は降り注いだ。当然ながらバトルフィールドが展開されている限り『クエーサー』は無機物を決して傷つけない。
  だから、もしケイネスかソラウが身を乗り出してランサーの戦いを観覧していたら、確実に死に至らしめる。そういう攻撃を見える範囲全てに叩きこんだ。
  岩が降る。
  岩の嵐が暴れる。
  隕石の様に落ちてゆく。
  廃工場の至る所に岩石がぶつかり、衝突と同時に巨大な音を立てながらすぐに消えていった。ただし人が居れば確実に死ぬ。
  数秒の間に起こった数十、数百の隕石は結果を生み出すと同時に消滅し、光の柱も一緒に消えて夜よりも暗い闇もまた消え去った。
  廃工場そのものはバトルフィールドによって傷一つないが、唯一、半死半生で佇むランサーだけが攻撃の結果を如実に物語っている。
  「ぐ・・・がぁ・・・」
  しっかりと両手で二本の槍を握り、膝をつける事無く両足で立っている。けれどランサーの口から血の混じった唾が吐き出され、鎧をまとわぬ箇所には青あざが幾つも作り出されていた。
 攻撃は効いている。一工程シングルアクションである『リベンジブラスト』に引き続き『クエーサー』もランサーに効果があると実証された。
  そして自分とマスターの危機であるにも拘らず、両手に握った宝具以外を発動させなかった所を見ると第三の宝具は無いと思われる。
  「どうやら、お主にはその二本の槍以外に宝具は無いようじゃな・・・」
  切り札を今か今かと待ちわびて、その結末が見える二本の槍だけとは拍子抜けだ。
  あるいは『守りには向かない宝具』や『マスターの許可が必要な宝具』という可能性もまだ捨てきれないが、いついかなる時であろうとも騎士であり続けようとするランサーの様子から、ケイネスとソラウの窮地に切り札を温存するとは考えづらい。
  『クエーサー』が決して廃工場を破壊しないと決まっていても、ランサー自身が手傷を負い過ぎては守りが薄くなるのではなり全力を尽くさない意味は薄い。
  ランサーの宝具は二本の槍以外に存在しない―――、そう結論付けるしかなかった。
  セイバーが聖杯に託す願いを聞いた時ほど強くは無いが、それでもランサーに対する落胆がゴゴの心の中を通り抜けていく。
  残念だ。
  がっかりだ。
  幻滅だ。
  拍子抜けだ。
  ランサーでもこの程度だ。
  『リベンジブラスト』と『クエーサー』の重ねがけで、ライダーの体はかなりのダメージを負っている。
  ストラゴスが負ったダメージとそっくりそのまま同じ痛みを喰らい、その上で魔法防御無視の破壊魔法をその身で受けたのだ。英霊を死に至らしめるほどの威力ではなかったが、それでも無傷で居られるほど甘くは無い。
  これで正規のマスターが健在で即座に治癒出来るならば戦線復帰は容易いのだが、代理マスターとサーヴァントとの付き合いが浅い今では無理だろう。
  とにかく怪我を負ってランサーの『最速』が弱まっている状態ならば、逃げる時間は十分すぎるほどにある。
  ランサーの力を見定め、宝具の効果も身をもって体験した。最早、ここに留まる意味は無い。落胆と物真似の材料を仕入れた喜びとの相反する思いを抱きつつ、ストラゴスは一歩下がる。
  そしてランサーに言葉を投げつけながら撤退を始めた。
  「ワシ程度にこの有様では先が知れるゾイ。悪い事は言わぬ、主を伴いこの場を去るがいいゾイ」
  そう言われてもランサーは撤退などしないだろう。そう思いつつも、ストラゴスは―――いや、ものまね士ゴゴは廃工場とランサーに背を向けて走り出す。
  後ろから追手がかかる気配は無かった。





  目の前をパトカーの赤色灯が照らす。夜の中で光る血のような紅い光がぐるぐると回転して駅前の路地に光を撒き散らしていた。
  ゴゴはそこに立っていた。
  すこし遠くにある安ホテルの方を見ると、消防車の赤色灯が加わって路地の中を更に明るくしているのが見えた。
  それだけが光源ではなく、あちこちから人工の光が路地の至る所を照らしている。明るさでいえば昼にも劣らない輝きが散りばめられている。
  ゴゴは光りの中で目の前にいる警察官に話しかけた。
  「そうです。夜遅いし、桜ちゃんや爺に・・・って一緒に住んでる家族ですけどね、そいつらに悪いから今日はホテルで止まって朝早く帰るつもりだったんですけど。それで、何かでかい音がしたんで慌てて窓の外に身を乗り出したんですよ。そうしたらコート姿の男と鉢合わせして、そいつは一気に走り去りました」
  警察官はゴゴの言う事を耳にしながら、必要な部分のみを抜き出して紙面に書き記している。
  消防のお仕事は鎮火。つまり安ホテルの一室に起こった爆発で起こった火事を消すのが仕事。
  警察のお仕事は調査。つまり安ホテルの一室を爆発させた犯人を捕まえる為に調書を取るのが仕事。
  ゴゴは警察のお仕事に協力し、火事に居合わせた人間と犯人と思わしき見た人間として警察官に話をする。
  「何か怪しかったですねあいつ。もしかしてあいつがこの騒ぎの現況だったりして・・・。それでですね、俺、実は自前のカメラを部屋に持ち込んで自分の剣舞を録画してたんですよ。流派とかそんなものない我流なんですけど、自分の立ち振る舞いをチェックするのに使ってるんです。爺はうるさいから辞めろって不評でしてね、ホテルの一室で撮影してる時にちょうどでかい音がなりました。窓から身を乗り出す時にカメラも一緒に持って出たんで、もしかしたらあのコート姿の男が映ってるかもしれません」
  ゴゴは警察官に向けて言う。
  「あ、これです。自慢じゃないですけど我流にしては俺の剣の使い方も結構うまいつもりですよ。包丁で硬いカボチャを一刀両断出来るぐらいの腕はあるつもりです」
  「あー、それはカボチャの話はまた後日ね。それでそのカメラとテープなんだけど、証拠として押収したいんだけど、貸してもらってもいいかな?」
  「どうぞどうぞ。あ、前半分は俺の剣舞が入ってるんで、見たら感想くれませんか? ちょっと自信あるんですよ」
  「・・・・・・・・・時間があったらね」
  「見て下さいよこれ。『魔剣ラグナロク』って自分で名前付けて作ってみたんですよ、木刀に重し仕込んで色塗って本物っぽく仕上げた力作ですよ、ほら。こいつを真剣に見立てて腕を磨いてるんです」
  「いやーそうだね。よく出来てるね・・・、うん」
  警察官には嬉しそうに話しながら『魔剣ラグナロク』の刃の部分に指を滑らせるゴゴの姿が見えているだろう。
  その顔は『こいつどうすれば・・・』と困った表情を浮かべている。
  ゴゴだけではなく目の前にいる警察官が触ったとしても、手の中にある『魔剣ラグナロク』は雁夜が持つ本物とは違う紛い物だから指を切り裂いたりはしない。刃の部分を持っても、撫でても、叩いても、決して傷つけたりはしない。
  何故ならこの『魔剣ラグナロク』―――本当の名前は『エクスカリパー』と言って、競売が開催されるジドールの町で50万ギルで手に入れるなまくらなのだ。
  世界に一本しかない珍しい剣には違いないが、武器としての効果はない。だから指を滑らせても痛みはなかった。これが本当の真剣だったなら、警察官はゴゴを銃刀法違反で逮捕する筈。
  警察官の目にはゴゴの姿がものまね士の姿ではなく、全く別人に見えている。だから、いい年して玩具作りに励んでいる大人と理解してしまっているだろう。
  望むところだ。
  そう思い込むことこそが、ゴゴの望む物真似の成果そのものなのだから。
  ただの一般人のように、背中に背負ったアジャスタケースの中に『魔剣ラグナロク』こと『エクスカリパー』を入れる。
  今のゴゴは木刀よりも攻撃力が低い単なる棒を担いだだけの男だ。警察官としては酔っ払い並みに扱いには困るだろうが、話を聞く以上に拘束できる理由は存在しない。
  「カメラとテープはこれです。テープはいいですけどカメラの方はちゃんと返して下さいよ、高かったんですから」
  「判ってる判ってる」
  フィガロ城のように地底を移動する機械をゴゴは知っている。飛空挺ファルコン号のように空を飛ぶ機械も知っている。
  カメラはこの世界の機械文明とかつての機械文明との差異が気になり、今日までの一年の間で、間桐にある貯蓄の幾らかを使って手に入れた逸品だ。三脚までしっかりついた高額商品で、金額は五桁を超える。
  主に桜ちゃんの遊戯の様子―――つまり日々の生活に彩りを加える為に使われたり、雁夜の鍛錬の様子を撮影して悪いところと良いところを後でチェックする為に用いられてきた。
  当初はこんな事に使用する目的は無かったのだが、衛宮切嗣を表舞台に引きずり出す為に使わせてもらう。
  「ところでさっきから聞いて全然答えてもらってないんだけど、君の名前は?」
  「あー、あははははは。はい、失礼しました」
  ゴゴは言う
  ものまね士ゴゴは言う。
  一般人に成りすまして言う。
  セイバーの真のマスター。衛宮切嗣が止まっていた安ホテルにたまたま居合わせた人間と偽って言う。
 バーサーカーの宝具『己が栄光の為でなくフォー・サムワンズ・グロウリー』で全く別人の姿になって言う。
  「俺の名前は雁夜――、間桐雁夜って言います」





  救急車と消防車、そしてパトカーまで終結した安ホテルの前はかなりの騒動になっていた。騒ぎを聞きつけた野次馬がたかり、夜遅くは出歩かないように冬木市内に通達が出回っているのが嘘のように人が集まっている。
  むしろ連続殺人犯が冬木市のどこかにいるかもしれないと聞いているからこそ、騒動の正体を見たいと思って集まっているのかもしれない。
  雁夜の姿をしたゴゴはその中で行われる話に耳を傾けていた。
  「火災現場にあったのか?」
  「子供だ・・・、その逃げた男は事件と関わってるのかもしれないな」
  普通の人間ならば、人が集まりすぎた雑踏にまぎれ、しかも小さい声で話す警察官と消防士の会話など聞きようがない。
  だがゴゴは違う。
  駅前に配備していた101匹ミシディアうさぎの一匹が彼らの足元で透明になって耳を澄ませており、彼らの会話を聞いてゴゴに送り届けているから、何の問題もなく話を聞ける。
  重要なのは火災の犯人と冬木で起こっている別の犯人を結び付ける事―――衛宮切嗣に一般人からの追跡も加わることが何より重要なのだ。
  聖堂教会は聖杯戦争において事が表沙汰にならないように対処方法をいくつも用意している。事前に冬木市の報道や警察に話を通し、魔術的な事柄が世間に知られぬように隠匿する手筈を整えているだろう。
  だが衛宮切嗣はあくまで『放火犯』もしくは『連続誘拐事件の犯人候補』として追われるのだ。聖杯戦争とは全く関係がない。衛宮切嗣は聖堂教会にも自分がマスターである事を隠し、出来るだけ身を潜めて行動してきた。
  これで聖堂教会が衛宮切嗣に加担すれば、特定のマスターを擁護することになって中立性は失われる。もし衛宮切嗣が聖堂教会への保護や事態の収拾を依頼しなかったとしても、これで幾らか衛宮切嗣の余裕は削られ、精一杯行動しなければならなくなる筈だ。
  窮地なき戦いで全力はあり得ない。
  ミシディアうさぎを通して話を聞き、ほぼ狙い通りに事が進んだ状況に雁夜となったゴゴの口が緩む。
  警察官と消防士の会話に主語は無かったが、雁夜の姿で離した衛宮切嗣らしきコート姿の男性と今回の事件とを結びつけるのには成功したようだ。
  これで衛宮切嗣の余裕はかなり削られる。一般人に見つからないようにしながら、聖杯戦争に勝利する為、短期決戦を望んで全力で仕掛けてくるなら望む所。
  警察官に少し待てと言われたので、雁夜となったゴゴは雑踏から少し離れ、ガードレールに腰を落として周囲の様子を眺めている。
  もうしばらく警察官と消防士の話が続きそうだが、今のゴゴの状況は『居合わせた証人』でしかない。話せる事柄は余計なモノまで含めて数多く話したので、警察の立場ではそれ以上の拘束は出来ない。
  あちらの話が終わり次第解放されるだろう。
  少しだけ時間が出来たので、ゴゴは近くにいるもう一人のゴゴに意識を移す。正確にいえば、意識をしないように―――体の上半分が吹き飛んだ子供の死体の物真似をしているもう一人のゴゴの所在を感覚でつかむ。
  あちらは雁夜の姿をしているゴゴとは違い、完全に生体活動を停止させている。
  当然だ。人が腰から下だけで生きて行ける筈もなく、もし雁夜が同じような状況に陥ったら雁夜自身が『死』を意識するよりも前に世界をだまして蘇生させなければ一気に死んでしまう。
  いわゆる、蘇生魔法でも治しようのない状況だ。
  それでも体半分を消し飛ばされながらも、あっちのゴゴは生きている。生きたまま死んでいると見せかける物真似をしている。
  つまり死体の物真似だ。
  その死体の姿形は少女である。桜ちゃんよりも若干年上の少女で、参考にしたのは『リルム・アローニィ』だ。衛宮切嗣を追いかける正体不明の敵としてフロントから呼びかけたのと同じ姿形をしている。
  もっとも死体の方は上半身が吹き飛んで顔の判別は出来ないので、今頃フロントに現れたもう一人のリルムは悠々と夜の冬木市を練り歩いている。
  警察官に職務質問でもされると厄介なので、アインツベルンの森から移動中のエドガーと合流するか、透明化魔法『バニシュ』で姿を消すか考えている頃かもしれない。
  意識をそちらに移せばリルムの姿をしたゴゴの主体がすぐに答えを返すが、今は死体の物真似をしているゴゴの方が重要度は高い。
  衛宮切嗣が拠点としていて火事が巻き起こした安ホテルには三人のゴゴが居た。
  一人目は衛宮切嗣を発見した一般市民を騙る間桐雁夜の姿をしたゴゴ。宿泊客を装って、衛宮切嗣を表舞台に引きずり出す役目を果たした。
  二人目はフロントから衛宮切嗣を牽制し、何らかの動きを誘発させたリルムの姿をしたゴゴ。
  三人目はフロントの方とは別行動を取って、部屋の前で衛宮切嗣に行動を起こさせるリルムの姿をしたゴゴだ。
  三人目は現在死体の物真似をして、警察と消防の両方に発見され、連続誘拐事件の被害者と思われているかもしれない。むしろそうなるように誘導しているので、関連付けなくても、せめて怪しんでもらわないと困る。
  安ホテル故に監視カメラなど気の利いた物は衛宮切嗣の部屋の前にも廊下にも設置されていない。だから二人のリルムが同時期に別々の場所にいたと知っているのはゴゴと衛宮切嗣だけだろう。
  今のところ魔術的な証拠は何一つ残していない。―――筈。
  何しろ死体の物真似などこれまで一度だってやった事がないので自信は無い。
  もし警察の死体を操る部署で魔術的に調査する者がいたとしても、その者すら騙し通せるだけの物真似が出来たとしたら。それはものまね士ゴゴの物真似がまた一つ段階を上げた事になる。
  満足いく物真似が出来たか恐ろしさがある。
  新しい物真似を行えた楽しさがある。
  間桐臓硯を毛嫌いしていた雁夜ならば『死』の冒涜は『死者への冒涜』に繋がる可能性があるので、死者の物真似を雁夜が聞けば不謹慎と言うかもしれない。
  それでもゴゴは止まらない。
  数ある『生』を物真似するのならば、数ある『死』をも物真似する。たとえどんな事象であったとしても、それが物真似の対象であるならば、ものまね士ゴゴはそれに喜びを見出す。
  初めて物真似するモノへの不安、それをはるかに圧倒する物真似へと執着。
  物真似は嬉しい。
  物真似は恐ろしい。
  物真似は楽しい。
  物真似は悲しい。
  もしリルム本人がこれを聞けば、怒り狂ってゴゴの似顔絵を描いただろう。ゴゴはふとそう思った。



  ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆



  Side - 間桐雁夜





  「と、まあそんな感じだ。今頃、雁夜の姿をしたゴゴが警察に事情聴取されて『衛宮切嗣が誘拐殺人事件の犯人かもしれない』と、警察に思わせてる。一番気を使うのはこれまでやった事のない『死体の物真似』で死体を見慣れた本職をどれだけ騙し通せるかが問題だ。貯水槽でキャスターに壊された子供の残骸があったから参考にさせてもらったよ」
  「・・・・・・・・・」
  「ランサーの方はあの二本の槍以外の宝具がなければ興味は無いな。敵になり立ち塞がるなら全力で排除するけど、基本的には勝手に動いてもらうさ。セイバーの宝具を発動させる時には倒すかもしれないけど、今のところは放置しておく方針だ」
  「・・・・・・・・・」
  「後は遠坂時臣と言峰綺礼、それから言峰璃正も外に引きずりだそうと考えてる。アサシン健在でアーチャーの遠坂時臣は無理でも、ライダー、セイバーの両陣営はマスターの言峰綺礼が聖堂教会にサーヴァントが残っている状態で保護されたと知った筈。中立性が保たれてないと判ったなら、こっちが冬木教会に殴りこみしても見て見ぬふりをするだろ」
  勝手にやってくれ。その一言を喉の奥に呑み込む為に俺はかなり労力を費やさなきゃならなかった。
  ロックが冬木市で起こっているゴゴの所業を嬉々と語る。まるで他人のように『ものまね士ゴゴ』を語っているロックの姿をしたゴゴが自分自身を語っている。
  おかしくなりそうだ。
  正直にいえば、自分と同じ姿をしたゴゴが別の場所で色々やっているかと思うと気持ち悪さがあった。けれど俺が間桐雁夜としてセイバーのマスターを陥れられるかと聞かれれば、無理と答えるしかない。
  俺には演技の才能は無いし、セイバーのマスターがいたら確実に敵と認識して攻撃を仕掛けてしまう。『無関係な一般人』を装うなんて俺には出来ないし、そもそもセイバーのマスターの反撃を喰らって俺自身が殺される。
  悔しいが、好き勝手やってるゴゴを止められる理由を見つけられなかった。まさか『気持ち悪いから辞めろ』などと言えず、武力で止めようとしても返り討ちにあうだけだ。
  思えば、最初から聖杯戦争を破壊しようとしているゴゴを俺が止められた事など一度だってない。
  何度ゴゴのやる事を見て、諦めただろう。
  何度ゴゴのやる事を聞いて、自分の無力さを思い知らされただろう。
  何度ゴゴのやる事を知って、自分とは別次元の存在だと巨大な壁を意識しただろう。
  もう数えるのも馬鹿らしいほど数多い諦観だ。
  だから俺は今度も諦めた。
  「あ・・・そう――」
  「何だ。随分淡白だな」
  「疲れたんじゃないの? 話してる間に間桐邸に着きそうよ」
  誰のせいだ誰の! 再び叫びたい気持ちになったが、一日中気を張ってたので体力的にも精神的にも疲れているのは確かだ。敵と言えばキャスターが召喚した怪物を一匹殺しただけが、暗殺者の目が今も俺を監視しているかと思うと疲れがどっと湧き出てくる。
  だからと言って今気を抜くのは一年間の鍛錬を無に喫するのと同じなので、必死に疲れを隠しながら気を張りなおす。
  ゴゴに聞いた話では、俺を監視しているアサシンとは別のアサシンが間桐邸を張り込んでいる為、間桐邸に近づけば近づくほど俺自身の危険が倍増していく。
  ロックとセリス―――の姿をしたゴゴ二人にガードされた状態で万が一など無い。たとえ、二人の守りを抜けてアサシンの攻撃が届いて俺が死んだとしても、鍛錬の時と同じようにあっさり蘇生される。だから心配は無い。
  だが俺にも意地はある。
  もしアサシンが攻撃を仕掛けてきたら、俺には感知できない。しかしバーサーカーなら同じ英霊で察知できるだろうから、確実に先手を取られるだろうが一方的な蹂躙ではなく英霊同士の戦いには持ち込める。
  ・・・・・・たぶん。
  足は止まることなく間桐邸に向かい続け、意識は姿を変えたゴゴとの話と闇からこちらを見つめているだろう敵へと振り分けられる。
  「桜ちゃんはどうなんだ? まだ冬木市の外にいるんだろ?」
  「まだブラックジャック号で寝てるわ。夜明け前まで様子を見て起きないようだったら、ティナが透明になって連れてくる事にしたの」
  「昼前には全員そろって間桐邸に集合だ。よかったな、雁夜」
  こちらの焦燥を先読みするような言葉が忌々しい。けれど、こちらの気持ちを汲んでくれる言葉が頼もしい。
  毎度毎度、感謝すればいいのか怒ればいいのか判らなくなる存在だ、ものまね士ゴゴは。
  「そっか・・・」
  俺は溜息を小さく一つ吐き出した。
  その後はしばらく俺を含めて誰も話しをせず、無言のまま間桐邸に向けて歩き続けた。見た目には聖杯戦争開始以前と何も変わっていない夜の冬木の様子が辺りに見える。
  だが俺は知ってる。
  表面上は何も変わっていないように見えて、裏では英霊と魔術師と怪物とマスターとサーヴァントと魔力と策略と欲望と願いが入り乱れている、と。聖杯戦争の舞台に選ばれ、どうしようもない危険地帯に様変わりしていると、―――俺は知っている。
  闇の中に光るアサシンの目が見えた気がした、間桐邸を見張る他のマスター達の使い魔の目で向けられた気がした。後者は勘違いではないだろう。
  忌わしくも懐かしい間桐邸が俺の眼前にそびえ立っている。
  間桐臓硯はいない。それだけが間桐邸に何一つ良い思い出のない俺にとって唯一の救いだ。
  早く桜ちゃんに会いたい。俺はそう思った。





  「結局、一日かかって収穫なしか? まあ、間桐邸にこもってばっかの俺も似たようなものか」
  「エドガーはアインツベルンの森に向かったんだ、守りが手薄になったら元も子もない。マッシュを信頼してるんだろ」
  「守るものなんてここには無いのに・・・」
  『マッシュ・レネ・フィガロ』。『ロック・コール』。『セリス・シェール』。数ヶ月前にゴゴから聞いた昔話の中に―――ゴゴにとっては一年も経っていないのだが、この世界とは異なる別の世界の話を聞いた時にその人達の話は聞いていた。
  特に『セリス・シェール』はゴゴが俺を鍛える時に終着点と定めたので、戦い方においては結構詳しい自負がある。ただし、どんな魔法でも発動と同時に吸い取ってしまう『魔封剣』なる技を聞いた時は、ふざけんなっ!! と叫んでしまったのを覚えているので、詳しさと心象の良さは比例していない。
  むしろ妬んでいる。
  そんなゴゴのかつての仲間たちが間桐邸に集まって話に華を咲かせている、表向きはそう見える。
  だが彼らの本質は等しくものまね士ゴゴであり、三人が会話している様に見えて実質独り言を言っているだけなのだ。
  何の冗談だ、これは。
  女、三人寄れば姦しい。そんな言葉があるように、話す人数が増えて話し始めれば会話は弾む。さっきから俺は蚊帳の外で見ているだけだ。
  ゴゴの独り言を―――。
  「・・・・・・・・・」
  間桐邸に残っていたマッシュにロックとセリスの二人が合流した、そこからいきなり話が始まってしまったので、場を脱する機を逃してしまい。壮大な独り言を見せつけられてる。
  この一年の間に間桐邸になかった騒がしさが物珍しくもあるが、同時に鬱陶しいと感じてる俺がいる。
  「兄貴はそろそろ戻ってくるぞ。そうなったら間桐邸の守りは万全だ」
  「私達で周りの『目』を潰す? アサシンも一緒に連れてきたから数が多くて一人じゃ無理よ」
  「エドガーならアサシンが一人二人増えても帰ってこれるだろ。大丈夫、大丈夫」
  そろそろ近くで話を聞いているのが飽きてきた。
  特に用がないならシャワーを浴びて汚れを落とし、部屋に戻って眠るか。俺がそう思って動こうと思ったまさにその瞬間、ゴゴが声をかけてきた。
  「雁夜」
  俺の名前を呼んだのはロックの姿をしたゴゴだ。他の二人はまだ会話に見える独り言を続けている。
  話の矛先がいきなりこっちを向いたので、俺は思わず体をのけぞらせてしまう。壁に背を預けていたので転んだりする無様な恰好にはならなかったが、結構驚いた。
  ものまね士ゴゴは俺の心を読める術をもう手に入れてるんじゃなかろうか? そう思えてしまうタイミングの悪さだった。
  「何か用か?」
  格好悪さを隠すように素っ気なく言うと、ロックの姿をしたゴゴが言った。
  「休む前にもう一仕事頼もうと思ってな。まだ部屋に行くなよ」
  年の近い同性に命令されるのは慣れていない。これまであまりなかった体験だが、この瞬間、どうにも苛立つのだとよく判った。
  きっと年下の上司に命令されるサラリーマンとはこんな気分なんだろう。
  ただし、見た目こそ同じぐらいの年に見えても、本性は年齢不詳正体不明のものまね士ゴゴなのだ。そうやって苛立ちを抑えながら話を続ける。
  「仕事?」
  「そ、仕事」
  「明日に疲れが残るような事ならやらないぞ俺は。まだ、サーヴァントは一騎も脱落してないんだからな」
  「雁夜が本気を出せばすぐに終わるさ。死ぬ気でやれば、十分もかからないぞ」
  ゴゴの話には基本的に嘘がない。けれど、生み出した存在が別世界で神と崇め奉られたりするので、スケールの違いからゴゴの簡単が俺にとっての苦難である事は珍しくない。
  そのゴゴが俺に向かって『死ぬ気で』という場合、俺が殺される可能性は結構高い。これまでの鍛錬でも似たような事があり、そのたびに死んで殺されてゴゴに蘇生してもらってきた。
  不吉だ。
  一体何をやらせるつもりなのか? 俺は悪寒に身を震わせながらも、それを懸命に押し隠しながらあえて聞く。
  「何をするんだ?」
  「アサシンを一匹捕まえて蟲蔵に閉じ込めてある。キャスターの召喚した怪物だけだと英霊の強さが判らないだろ? ちょっと戦って実戦をもう少し味わってこい」
  「・・・・・・・・・」
  その辺りの公園で虫を捕まえた―――。そんな風に簡単に言われた内容を、俺の頭は理解しきれなかった。
  平静を装えたと思う。周囲から攻撃されても対処できるぐらいの警戒心は残っていると思う。この一年でいついかなる時でも戦いへの気構えを忘れないのは身に着いた、そうでなければゴゴの鍛錬で殺されるからだ。
  たとえここが間桐邸の中であろうとも体は戦いの準備をした。しかし頭はどうだろうか? 混乱して他の事が考えられない。ただゴゴが語った話を理解しようとぐるぐる動き続けるだけだった。
  アサシンが?
  蟲蔵に?
  戦え?
  ゴゴのやる事なす事が常識外れで、新しい何かをしでかす時は俺が予想しようとしても常にその上を行く。だから懸命に動揺を抑え込んで、必死で理解しようとあえて自分自身の言葉にする。
  「あー・・・その・・・、何だ? その・・・」
  「どうした雁夜」
  「アサシン・・・がいるのか? ここに――、その・・・、蟲蔵に?」
  「いるぞ」
  それはあまりにも判りやすい回答だった。判りやす過ぎてあるかもしれない他の可能性が全て吹き飛んでしまう。
  アサシンが―――間桐邸に―――蟲蔵に―――いる。
  「何でっ!?」
  「監視の目が鬱陶しかった時に一匹捕まえてな、俺達の魔法とか技とかそういうのがどれだけ効くか試そうと思った。一日使ってたっぷり『壊し尽くした』から、今は起き上がる気力もない」
  「・・・・・・危険は無いのか?」
  「アサシンはサーヴァントの核にまで衰えて消滅寸前だった。ゴゴが力を注いだら蘇ったんだけど、その時に『言峰綺礼のサーヴァント』じゃなくなって『聖杯戦争のアサシン』ではあるけど『ゴゴのサーヴァント』に作り変えられたらしい。だからこっちの情報が敵に漏れたりしないし、ゴゴが蟲蔵で常に監視してるから暴れても逃げられない、あの様じゃ俺達を攻撃できないから、安心しろよ雁夜」
  ロックの姿でゴゴが自画自賛すると、拍子抜けするほど俺の動揺は収まっていく。
  この感覚は信頼だろうか? それとも一年でどうしようもなく味わってしまった、絶対的強者がすることへの諦めだろうか?
  俺がどれだけ慌てふためいた所で、ゴゴはそれを軽々と乗り越えて俺が出来ない事をやってのける。
  これは―――。
  屈辱か?
  忘我か?
  嫉妬か?
  悲哀か?
  アサシンが蟲蔵にいる納得が、ストン、と簡単に俺の中に入ってきた。けれど一緒に生まれた感情はぐちゃぐちゃしていて、とても一言では言い表せない複雑怪奇な代物だ。
  それでも結局は俺一人の力にバーサーカーの力を合わせたとしても、ゴゴの力には遠く及ばないと判って諦めてしまう。伊達に一年間つきっきりで修業をつけられた訳ではない、剣術と魔術、双方の力を身に付けた分だけゴゴの果てのない力も一緒に理解してしまってきた。
  俺はまた諦めた。
  諦めて、俺とアサシンを戦わせようとしているゴゴの企みに乗った。そうするしかないと判っていた躰。
  「俺が死んだらちゃんと蘇らせろよ。じゃないと戦わないからな」
  「桜ちゃんが帰ってきた時に雁夜が居なかったら桜ちゃんが悲しむだろ? そんな事させないって」
  ゴゴの手のひらの上で踊るのはあまりいい気分ではなかったが、それでも最低限の命の保証だけはしっかり確保しておく。言質はとったので、俺がアサシンに殺されてもゴゴは蘇生してくれるだろう。
  俺は背負っていたアジャスタケースの―――その中にある魔剣ラグナロクの重みを感じながら、まだ終わってない戦いへ意識を切り替えていく。
  冬木市の中で一番安全だと思っていた間桐邸の中に敵サーヴァントが居るなんて冗談にしか思えない。
  黒衣をまとい髑髏の仮面を付けた英霊が足の下にいる。そう思いながら、俺は壁から離れて、アジャスタケースを背負いなおした。



  ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆



  Side - ウェイバー・ベルベット





  「どうする?」
  「坊主が連れてきたのだから、坊主が決めればよかろう。余は言ったぞ『この場で手放すべきだぞ』とな。男なら最後まで責任をもたなくてはいかん」
  「うぅ・・・」
 僕はライダーの神威の車輪ゴルディアス・ホイールに乗って空を駆けながら、腰にしがみついたままの女の子に視線を落とす。
 本気を出せばさっき見たライダーの宝具『王の軍勢アイオニオン・ヘタイロイ』と同じように、この戦車チャリオットもとんでもない破壊を撒き散らす宝具だ。けど今は出来るだけ揺れないように気遣ってるのか、ただ空を駆けているだけで雷牛が踏みしめる雷も最低限しか出ていない。
  音も揺れも殆ど感じなかった。
  だから邪魔されずに話と考え事が出来てしまう訳だ。
  便利さが今は困る。
  「どうしよう・・・」
  僕らは貯水槽にあったキャスターの工房からこの女の子ともう一人の子供を救い出した。もう一人は親元に送り届けて、この子も僕以外の誰かの手に委ねようと思っていた。
  本当なら冬木教会にいる監督役の言峰璃正神父に預けるのが聖杯戦争のマスターとしては正しい選択だ。なのに色々あって気がつけば同行させてる状況が出来上がってる。
  カイエンから聞いた神秘のアイテム『魔石』、そこから出てきた炎をまとった不死鳥で蘇った女の子。思い返してみて、この女の子の事以外にも魔石の事も知りたがっている事を思い出す。
  今更な話ではあるが、聖杯問答や、突然現れた乱入者や、ライダーの宝具やら色々あり過ぎて忘れてしまっていた。
  考える事は数多い。ただ、疑問は結局『ウェイバー・ベルベットがどうしたいのか?』へと到達して、その解答を作り出さない限り、どんな結論も導き出せないと判っている。
  これまでは聖杯戦争に勝利して、僕の才能を認めなかった時計塔の連中を見返す為に戦ってきた。けどライダーと一緒に行動するようになって方針が少しずつ変わり、最初に描いて思いを考えないようになっていた。
  転機はいくつもあった。
  ライダーを召喚した時。
  冬木大橋の上に連れられた時。
  倉庫街の戦いに一緒に行く羽目になった時。
  憎きケイネスにライダーが臆病者と言い放った時。
  キャスターの凶行を知った時。
  ライダーに賞賛された時。
  カイエンと言う男に出会った時。
  貯水槽で吐いた時。
  そのたびに色々な事が変わって、今の僕が出来上がってる。
  僕はどうしたいのか? 聖杯戦争をどうしたいのか? 何をしたいのか?
  単純でもあり複雑でもある答えを自分の中に導き出す。そこから全ては始まっていく。
  「僕は・・・・・・」
  ライダーの言葉に触発されて自分自身へと問いかける。
  「もう少し――、この子の面倒をみる」
  すると自分でも驚く位に、簡単に結論にたどり着けた。
  ライダーを召喚する前の僕だったらそんな風に考えなかった。幾つもの転機を越えて、ここにいる『僕』だから、その結論を出せたんだ。
  どうしてそんな風に思ったのか明確な理由は判らない。でもそうしなければならないと僕の心が叫んでる。
  「坊主、『もう少し』とはどの程度だ? 一時間か? 二時間か? 一昼夜か? 聖杯戦争が終わるまでか? その後もずっとか? 時間が経てばそれだけ敵と遭遇する確率は跳ね上がるぞ」
  「そんな、どの程度なんて判んないよ」
  「無責任じゃのう」
  「僕にだってよく判んないんだからしょうがないじゃないか。でも、ここでこの子に暗示をかけて放り出すのは何か間違ってる気がするんだよ!」
  「一度その手を手放したのは坊主、お主じゃぞ?」
  「う・・・・・・」
  手綱を握って前を向いたままのライダーから辛辣な言葉が飛んでくる。言葉の刃が僕の決断をぐさぐさと突き刺していく。
  でも僕の結論は変わらなかった。
  ウェイバー・ベルベットはこの女の子の面倒をみる。そう決めた。
  この子はキャスターの魔の手にかかった被害者だ、どこの子で、誰が親で、誰の元に送り返すべきかちゃんと調べて、その上でやるべき事をやる。
  一度手放しておきながらこの子は僕の元に舞い戻ってきた。あのエドガーとかいう男のせいだけど、この子は僕を僕と認めたうえでしがみ付いてくる。
  どうしてこんなにも離れたがらないかは判らない。でも向けられた気持ちには―――僕では言葉にし切れない想いには―――応えなければならない。僕はそう思ったんだ。
  この国の言葉で今の状況を言葉にすれば、『情が湧いた』になるんだろう。でも僕は構わない。そう決めたから。
  「と、とにかく僕は決めたんだよ。反論は許さないぞ」
  「ほう・・・どう、許さないつもりだ?」
  相変わらずライダーは僕に背を向けているので、直接目を見て話してない。でもライダーの背中から感じる気迫と言うか、闘気と言うか、圧力と言うか。とにかく見てないのに目の前で詰問されているような感覚を味わってる。
  怒ってるようにも感じるので、僕は息苦しくなった。
  負けてたまるか。
  「マスターとして、だ!!」
  力強くそう言うと、腰にしがみ付いている女の子が体をすり寄せてきた。大声に驚いたのか、それともライダーの飛行宝具で空を飛んでるから寒くなったのか。
  何となく僕は女の子の頭に手を伸ばして髪を梳く。すると女の子は『どこにそんな力があるの?』と疑いたくなる力強さを発揮した。しがみ付く状況は変わってないけど、僕の背骨が悲鳴をあげてる気がする。
  そう言えば僕はもう慣れてるけど、この子、空を飛んでる今の状況に全然驚いてない。それとも、僕にしがみ付いて恐怖を和らげてる?
  そんな気がしながら髪を梳き続けるとライダーがようやく言葉を発した。
  「坊主、中々言うではないか」
  ライダーの嬉しそうな声と一緒に今まで感じてた圧迫感が霧散していく。気のせいじゃない、ライダーが僕の言い分を受け入れたのだ。
  認められた―――それが嬉しくてたまらない、つい口元が緩むのを止められなかった。


  「イスカンダル殿。拙者、ここで降りるでござる」


  その喜びに水をさすように、唐突にカイエンの声が割り込んできた。
  僕は心地いい気持ちが急激に消えていくのを感じながらも、カイエンが言った『ここ』がどこなのかすぐに気になった。
  女の子の今後について一応の答えを見つけ出したのが転機になったのかもしれない。戦う力が低い僕に出来る『考える』が、僕の中に戻ってる。
  思わず御者台から少しだけ身を乗り出して下を見てみると、そこはキャスターの工房があった貯水槽の近く。と言うよりは、勝手にキャスター討伐に引きこんだライダーがカイエンを迎えに来た辺りだった。
 思えばたった数時間しか経ってないのに、僕とライダーだけだった戦車チャリオットの上は人数を倍に膨らませてる。そして手狭には感じても、それを苦痛だとは思わない僕がいた。
  カイエンが言った『ここ』とは色々な事が起こり過ぎた時間が始まった場所だ。もしライダーがアインツベルンの森からまっすぐマッケンジー夫妻の家を目指していたら絶対に通過しない場所だけど、ライダーは帰還する時にいつも尾行を警戒してまっすぐ戻らずに旋回を繰り返す。だから今回も冬木市を左右に分断する未遠川の上空を通ってる。
  「あのアイリスフィールなる御婦人は拙者の探している女と何か繋がりがあるようでござった。拙者は引き続き冬木を調べ続けるでござる。あの貯水槽で見た『キャスター』なる不届き者も成敗せねばならぬ」
  一人でキャスターと戦うつもりなのか? 思わず僕はその言葉を言いそうになる。でも、カイエンの真剣な言葉は止まらずに続いて、口をはさむ余地はどこにもなかった。
  「おそらくイスカンダル殿とウェイバー殿は本陣へと戻られるのでござろう? 拙者はまだそこに入れるほど信頼を得てはおらんでござる。それに拙者、賊を裁くまで、この狭い冬木の地から離れんでござる。縁がある限り、再び力を合わせる事になるでござるよ」
  一緒に戦っておきながら別れようとするカイエンを水臭いと思ってる僕がいた。
  話を聞いている内に、聖杯戦争ではライダー以外に絶対に思わなかった『仲間』というカテゴリの中に、カイエンを少しだけ含ませている事に気づいてしまう。
  僕はまだカイエンの事をよく知らない。敵なのか、味方なのか。行動だけで判断するならカイエンは決して僕らに敵対しないと思えるけど、時計塔で僕は他人はこちらが知らない場所で色々と仕出かすのを学んだ。
  僕は無条件に人を信じられない。信じるには世界の汚い所を見過ぎてしまったから―――。
  だからカイエンがここで別れると聞きながら、惜しんでいる僕とホッとしてる僕がいた。
  「そうか。お主、そう決めたのだな?」
  「無論――で、ござる」
  ライダーは振り向かずにカイエンに話しかける。
  でも目を合わせる必要がない何かが二人の間にあって、言葉にしなくても通じる何かを感じた。それは僕がまだ持っていないモノだ。
  「仕方ないのう」
 ライダーはそう言うと、握った手綱を少しだけ動かした。すると冬木市の上空を一定の高さで飛んでいた神威の車輪ゴルディアス・ホイールが降下していく。
  キャスターの工房に攻撃を仕掛ける時も思ったけど、夜の未遠川は昼間に見るそれとは大きく姿を変える。まるで異界への出入り口のような大穴に見えた。
  吸い込まれるような―――でも町の光を反射させて、川であり水でもある様子を見せつける。
  「だが余は必ずお主を我が軍門に降らせてみせるぞ。首を洗って待っておれ」
  「共に戦う部分だけならば、断る理由は無いでござるよ」
 二人が話している間にも神威の車輪ゴルディアス・ホイールは旋回しながらどんどんと未遠川の川辺に近づいていく。
  人工の明かりが全くなく、短い草だけが生い茂っている何もない場所。目印になるような物が何もないからこそ、それが逆に目印となってる。
  間違いない、ライダーが降りようとしているのはカイエンと初めて会った場所だ。
  このまま別れていいのか?
  何か言う事は無いのか?
  聞きたい事はたくさん合ったんじゃないのか?
  自分で自分に問いかけてみるけど、あまりにも別れが急過ぎて、すぐに言葉が出てこない。
  「ウェイバー殿」
  「・・・・・・何だよ」
  僕が黙っていると、言いたそうにしている僕の迷いを読み取ったみたいにカイエンが話しかけてきた。
  そして思いもよらない事を言ってきた。
  「次に会い、拙者の・・・いや、『フェニックス』の力が必要な時は、魔石を貸すと約束するでござる」
  「はっ?」
  「魔石に興味津々でござろう?」
  口を『あ』の形に開けたまま呆ける僕に向かって、カイエンは堂々と言った。
  僕とカイエンは御者台のそれぞれ左右に立っているので、向かい合えば自然と目があう。夜だから見辛かったけど、カイエンの目は真剣そのもので、冗談を言ってるようには聞こえなかった。
  僕は必至でカイエンの言葉を理解しようと考える。
  魔石『フェニックス』。それは貯水槽の中で見た死者蘇生に匹敵する大魔術の結晶。カイエンの口から聞いた内容と合わせても、宝具に匹敵する効果を発揮する神秘そのものだ。
  幻想種の具現化。
  奇跡の実現。
  魔術師ならば誰にでも召喚可能。
  万能の願望機と呼ばれる聖杯に比べれば一歩劣るかもしれないが、あれは間違いなく魔法に近いアイテムで、簡単に貸し借りできるような物ではない。実際に使ったのを間近で見たから余計にそう思う。
  「その・・・あの・・・、いいの?」
  貴重って言葉が軽く思えるぐらいに『魔石』は奇跡のアイテムなのだ。僕は思わずそう問いかけてしまった。
  「おいおい、カイエン。あんまりうちの坊主を甘やかさんでくれよ」
  「たとえ短い時間であろうとも、拙者はウェイバー殿もライダー殿も信じるに値する御仁だと理解したでござる。ロック殿も御二人になら魔石を使うのを承諾してくれるでござろう」
  ライダーの声が横から聞こえてきたけど、僕の意識は魔石に引きずられて、聞いてるけど聞いてなかった。
  触ってみたい。
  使ってみたい。
  あの炎の不死鳥を呼び出してみたい。
  頭の中でぐるぐる渦巻く欲求で上手く言葉が出てこない。カイエンは僕が出した問いかけをまっすぐ僕には返してくれなかった、『もちろんでござる』とは言ってくれなかったけど、ライダーへの言葉の中で承諾は確定していた。
  いいの?
  本当に、貸してもらえるの?
  嬉しくて嬉しくてたまらなかった。
 僕が色々考えている内に神威の車輪ゴルディアス・ホイールは川辺に到着し、地面から一メートルぐらい上を滞空する。
  下を見れば夜だけど地面の草の細部までしっかり見える。カイエンも僕と同じように身を乗り出して地面を確認すると、腰にある刀の鞘に片手を当てた。
  「ではまた、でござる」
  「おう」
  「あ、ちょっと!」
  ライダーはしっかりと一時の別れを口にしたけど、僕はとっさに『またね』と言えなかった。
 でもカイエンの行動は素早く、僕が言いなおすより前に神威の車輪ゴルディアス・ホイールから飛び降りてしまう。空を駆けるの速度はゆっくりだったから、わざわざライダーが着地させる必要すらなかったみたい。
  腰を落として両足で地面に踏ん張り、鞘に当てた方とは逆の手を下に向けて万が一に前倒しになった場合の保険にしていた。
 空を駆けていく神威の車輪ゴルディアス・ホイールの後ろを見れば、カイエンの足が草の上に二本の線を引いていくのが見えた。
  空いた手も使って三点で姿勢を固定する。
  カイエンは転倒する事無く、しっかりと慣性を殺し。すぐに立ち上がって、遠ざかっていく僕らに手を振った。
  遠ざかっていくうちにカイエンの姿は夜の闇の中に埋もれていく。その姿を見ながら、今生の別れじゃないけど何だか随分あっさりしてるな―――と僕は思った。
  そして聖杯戦争を続けていく限り、また会って一緒に戦うことになる。そんな確信も胸に抱く。
  「では我らも戻るとするか」
  「ライダー・・・。お前よかったのかよ。あんな、簡単に引き下がって・・・」
  「セイバー、ランサーと違い、まだまだチャンスはあるわい。坊主こそ魔石に心惹かれておったが、ここで引き下がってよかったのか?」
  「それは・・・・・・。また、会うって言ってたし・・・・・・」
  「その通り。我らは『次』を誓い合った。ならば『次』でよい。じっくり余の覇道を見せ、あちらから余の軍勢に加えてほしいと言わせてみせるぞ」
 もう一度空高く舞い上がった神威の車輪ゴルディアス・ホイールの上で僕らは話しあう。
  「ところで坊主」
  「何だよ」
  「その小娘をどうやってあの老夫婦の家にいれるかは考えておるんだろうな?」
  「・・・・・・・・・それは今から考える」
  先行きの不安が一気に湧いてきたけど、一度決めたのだから放り出そうとは思わなかった。
  僕はずっと腰にしがみ付いてる女の子の背中をぽんぽんと叩き、この子が間違いなくここにいる実感を確かめる。
  色々な事があった。悲しい事も、苦しい事も、難しい事も、簡単な事も、予想外な事も、意外過ぎる事もあった。
  きっとこの先も色々な事が起こるだろう。
  僕はそれを待ち遠しく思った。



[31538] 第25話 『間桐臓硯に成り代わる者は冬木教会を襲撃する』
Name: マンガ男◆da666e53 ID:6a0d9b18
Date: 2013/03/09 00:46
  第25話 『間桐臓硯に成り代わる者は冬木教会を襲撃する』



  ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆



  Side - 遠坂時臣





  深夜の遠坂邸、その地下工房は重苦しい沈黙によって支配されている。
  私一人だけがここにいて、英雄王ギルガメッシュが不在なのが理由ではない。話す相手ならば、魔道通信機の向こう側に綺礼がいるので、実質二人が等しく沈黙を作り出している。
  私は綺礼が放ったアサシン達からの情報を聞き、言葉を無くしていた。そして綺礼もまた言葉にした報告の内容を反芻しながら、絶句している。
  「師よ、ライダーの宝具評価は・・・・・・」
  それでも綺礼は動揺を押し隠しながら報告を続けようとする。本当に出来た弟子だ。
  私は彼が作り出した報告の間の沈黙を咎めず、ただ続く言葉を待つ。けれど、起こったすべての事象を聞いた私には綺礼が何と言うか聞かずとも判っていた。
  ランクEXの宝具を持つ英雄王ギルガメッシュだからこそ、敵は無い。そう思っていた矢先に、ライダーの宝具もまた同等の宝具であると報告が舞い降りた。
  続く言葉などそれ以外にある筈がない。
 「ギルガメッシュの『王の財宝ゲート・オブ・バビロン』と同格、つまり評価規格外――、です・・・」
  やはり綺礼の言葉は私が思っていた通りの内容であった。
  まさか英雄王ギルガメッシュと同格の宝具を有した英霊がサーヴァントに呼ばれるとは思わなかったが。しかし、確たる事実として、ライダーもまたランク付けが出来ない宝具を有しているのは純然たる事実だ。
  英霊にはその個人を英霊にする数多くの逸話が存在し、ライダー、つまり征服王イスカンダルにはその逸話に事欠かず、宝具が一つ限りではないと予感は合った。
  だが、それが英雄王ギルガメッシュと双璧を成す強力なモノとは予想外だった。
  宝具。それは人間の幻想を骨子に創り上げられた武装であり、英霊が生前に築き上げた伝説の象徴であり、物質化した奇跡。
  宝具のランク付けはA~Eによって判断され、中には規格外を示すEXがある。
  対人宝具。
  対軍宝具。
  対城宝具。
  対界宝具。
  結界宝具。
  対魔術宝具。
  聖杯戦争はサーヴァントの召喚と同時に、その宝具を数多く見れる奇跡の場でもある。だからこそ遠坂家初代当主の遠坂永人は聖杯戦争を作り上げ、他の魔術師は危険を承知の上でサーヴァント召喚を行った。
  おそらくサーヴァントとして召喚された中でも英雄王ギルガメッシュの強さは群を抜いている。その確信が崩されてしまったのだ。
  綺礼の報告を聞き、改めて現実の思いなおしてみれば、口から出てきたのは溜息だけ。
  ただし、全てが最悪の事態に向かって突き進んでいる訳ではない。むしろ、こちらにとって有利な点はまだいくつも存在する。
  それは全てのアサシンを捨て駒とせず、まだ全容の掴めない間桐調査の為に半数近くを温存出来た事だ。
  確かにアーチャーの宝具と同格の威力を秘めたライダーの宝具は脅威。しかしマスターは魔術協会の三大部門の一角『時計塔』の見習い魔術師でしかない三流の魔術師だ。英霊イスカンダルの力を存分に発揮しているとは言い難い。
  アサシンは今も間桐陣営の調査の為に多くが駆り出されているが、他のマスターへの警戒の為に今も各所へと派遣されている。キャスターとそのマスターの動向は常に掴んでいるので、今この瞬間に雨生龍之介という名のキャスターのマスターを打ち取るのは不可能ではない。
  それどころか綺礼を通じてアサシンに命じ、第四次聖杯戦争の最大の脅威となるライダーのマスター、ウェイバー・ベルベットという名の三流魔術師を葬り去る為、真っ向から対するリスクを回避して、策謀によりマスターとサーヴァントが別行動を取るしかない状況に誘い込み、暗殺を試みる選択もある。
  「馬鹿な――、そのような事を、この私が・・・」
  する筈がない。
  私は慌てて頭の中に浮き上がった可能性を消し去った。
  常に余裕をもって優雅たれ。遠坂の家訓に則り、遠坂家当主として私はそれを体現し続けなければならない。そもそもの発想として余裕とも優雅さとも程遠い思考を考えてしまう事は恥だ。
  そうやって自分を諌めながらも、頭の中にはアサシンが生き残っている優位性が理性とは別に計算されてゆく。
  聖堂教会に保護を求めた綺礼がアサシンのマスターであり、そのアサシンがまだ健在である事は知られてしまった。それでも暗殺者の英霊の隠密性は、その力の低さとは対照的に高く、『アサシンがいる』と判った上でも感知される事は無い。
  接近し攻撃を仕掛ける時には他のサーヴァントに気付かれる可能性が高いが、その一時を作り出さずに諜報に徹する限りはどのサーヴァントにも発見されない。それはこれまでの諜報活動が証明している。
 アサシンが脱落したと見せかけるためにアサシンの一人を犠牲にしたが、たった一人でも魔術的な要塞と化した遠坂邸の結界を突破できる力を持っている。偽装の為に王の財宝ゲート・オブ・バビロンによって抹殺したが、英霊の護りが無ければ英霊の攻撃を防げない。これも実証済みだ。
  それこそが今代の魔術師と英霊との格の違いとも言えるが。結界宝具などで護られていない限り、マスターだけならばアサシンだけで暗殺出来てしまう。
  これまでは多勢のアサシンが作り出す諜報機関として情報収集のみに留めてきたが。アサシン達は紛れもなく暗殺集団であり、敵を倒すにはあまりにも魅力的すぎる力だった。
  「いや・・・。暗殺など――」
  「師よ。どうかなさいましたか?」
  そのような手段を選んではならない。そう自らに言い聞かせるよりも前に、魔道通信機の向こうから綺礼の声が聞えてくる。
  ライダーの宝具評価を耳にしてから、会話ではなく独り言を囁いてしまい、見えないからこそ不審に思われてしまったようだ。
  「――綺礼、引き続きアサシンに間桐を重点的に探らせてくれたまえ。こちらでも間桐の再調査を実施する」
  「承知しました」
  魔道通信機から綺礼の低く淡白な声が応じた。どうやら私の考えは気取られていないようだが、彼の問いかけに応じなかった後ろめたさがある。
  アサシンを使い、マスターを暗殺するなど遠坂家の戦い方ではない。私は綺礼の後ろめたさも含め、全ての迷いを断ち切る様に強く思う。
 考えれば、もしライダーがロード・エルメロイのサーヴァントとして召喚されていたならば、王の軍勢アイオニオン・ヘタイロイの力は今よりも格段に跳ね上がった筈。
  サーヴァントの能力値は契約したマスターの力量によって変動し、マスターの魔力量によってはサーヴァントが持つ宝具の発動にすら至れない場合もある。同等の規格外宝具を有しているのならば、決着の要はマスターの力。つまり私とウェイバーと言う名の三流魔術師の力量そのものとなる。
 アサシンの大半を失いながらも、ライダーの切り札を事前に知れた事もこちらにとっての優位な点だ。王の財宝ゲート・オブ・バビロンこそ知られてしまったが、英雄王ギルガメッシュの真の切り札はまだ誰にも知られていない。
  真っ向からの戦いならば、生まれてから魔術師として腕を磨いてきた私が負ける筈は無い。やはり第四次聖杯戦争の運気は私に味方している。暗殺などするまでもない。
 王の軍勢アイオニオン・ヘタイロイを綺礼の口から聞いた私は動揺した。それは認めよう。
  だが私は持ち直した。それだけの事だ。
  「ここから先は第二局面だ。アサシンによって収集した情報を元に、ギルガメッシュを動員し敵を駆逐していく」
  「はい――」
  ついに遠坂邸の工房を出て、聖杯戦争の戦場に立つ時が来たのだ。私は立ち上がりながら椅子の傍らに立てかけてある樫のステッキを手に取った。
  先端に紅く光る特大のルビーには私が生涯かけて練成してきた魔力が封入されている。
  聖杯を得るために必要なのは全てのサーヴァントを打倒する事であり、間桐が割り込ませた者達を倒す事ではない。
  可能ならば聖杯戦争を作り上げた始まりの御三家の誇りを失い、外部の力を取り入れるのに何ら躊躇いも見せなかった間桐を罰し罪を償わせたいところだが。それは聖杯戦争を終えた後でも叶う。
  狙うは間桐雁夜とバーサーカーであり、その周囲に蠢く余所者ではない。
  アサシンの力で、間桐に協力している何らかの組織と間桐雁夜を分断してはどうか? そしてあくまで聖杯戦争のマスターとして間桐雁夜と対峙し、英雄王ギルガメッシュの力でバーサーカーを滅ぼすのだ。
  残ったアサシンを遠坂の余裕と優雅の苗床とする。その為の方法を何通りも考えながら、私は地下工房の階段を上り始める。
  湧き立つ闘志に魔術刻印が疹くのを感じる。もはや、アサシンを使ってのマスター暗殺など欠片も考えていなかった。



  ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆



  Side - ゴゴ





  その時、その場、何を第一の優先事項と置くかは人によって様々で、一秒前に『こうやろう』と決意した事がすぐに変わってしまうのも珍しい事ではない。
  例えば、拷問を受けている人間が何も喋らないと決めながら、剣で体を切り裂かれた瞬間に屈服したり。
  例えば、信号を守ろうと思って待っていたが、同じように待っていた数十人が歩き始めたので、赤信号で止まる事を逆に悪い事だと考えてしまったり。
  外的要因か、内的要因かは問題ではなく。大抵の人間にとって決意なんてものは常に変化し続けるモノだ。
  むしろ一度『こう』と決めた事を貫き通せる人間は少なく、そういう人間はきっと他の人間から『強い人間』と思われるているだろう。頑固とも言うが。
  言峰璃正にとっても決意は揺らぐモノで、言ってる事とやってる事が変わってしまった。現状をまとめれば、ただそれだけの話だ。
  六十年前の第三次聖杯戦争の時に出会っていた筈の間桐臓硯と言峰璃正。間桐臓硯は既に没しているので確かめようがないが、言峰璃正にはまだ確かめる術がある。
  簡潔に―――。何故、中立として役目を全うしなければならない監督役のお前が、特定のマスターに肩入れしているのだ? そう尋ねればいい。
  もっとも、人の内面と外面が一致する状況は稀であり、人は容易く嘘をつく。言峰璃正が嘘をつかないと宣言あるいは神父として宣誓したとしても、既に行動で自らを欺いているのだから信じられる筈は無い。
  最初から最後まで嘘を嘘と悟らせずに貫き通すか、あるいは嘘を全くつかずに行動で示し続けなければそこに信用は生まれない。
  もしかしたら言峰璃正には監督役として中立を守る以外の第一の優先事項があり、聖杯戦争の参加者にとっての中立を破る事はその優先事項を文字どおり優先した為で、監督役として中立を重んじる事は第二あるいは第三の優先事項なのかもしれない。
  「あの小坊主も老いた、という事かの? 役目すら全う出来ぬほど衰えてしまったようじゃゾイ」
  ゴゴはものまね士の恰好で冬木教会を目指していた。
  歩きながら独り言を喋っている様に見えるかもしれないが、ゴゴからはこの言葉を聞いているモノが近くに居ると判っていた。
  者、物、モノ。おそらく今の状態では『物』が一番近い。そんな風に今は道具でしかないアサシンが一人。物陰から冬木教会に近づく者を監視している。
  ゴゴの語る言葉はそのアサシンに聞かせるための言葉だ。
  人が少ない夜だったのが幸いだ、余計な邪魔が入らずに聞かせられる。
  見られたら、ものまね士の恰好をするゴゴを不審者として警察に通報する者もいるだろう。今の冬木市はキャスターとそのマスターの凶行によって緊張が高まっているので、ものまね士の恰好を知った者だとしても不安を覚えるかもしれない。
  この一年で冬木市のあちこちに『奇抜な恰好で出歩く老人』のイメージを植え付けて来たので、噂を知ってる者なら『ああ、この人が・・・』と納得して終わる可能性もあるが、無いなら初めから無い方が面倒が減って良い。
  歩く、進む、止まらない。アサシンの監視があると知りつつ、ゴゴは敵地へと向けて突き進む。
  「所詮、あやつは信仰に全てを捧げたつもりになっておる聖職者の真似事しか出来ぬ。神の言葉を伝える者も人である限り、どうあってもその『主観』から逃れる事は出来ぬようじゃ。曲解を信仰と勘違いしており、それに気付かぬとは哀れな男じゃゾイ」
  そしてアサシンに向けて言葉を聞かせ、アサシンのマスターである言峰綺礼に向けて語り聞かせる。
  「中立を望まれた男は自らそれを犯しおった。自覚した上での行動ならば、あやつの信じる神は偽りすら許容するゾイ。さてはて、お主はどうかの? 言峰綺礼よ」
  言峰綺礼本人が聞いている確信は無いが、アサシンが耳にしているならばゴゴの言葉は何らかの形でマスターの元へ届く筈。
  それが成し遂げられなければ、ただの道化だ。そう思いながらゴゴは冬木教会の全容を見つめる。
  夜の教会は昼のそれとは異なり。固く閉ざされた扉が何者の訪れも拒んでいる様に見えた。
  アサシンだけに限らず、冬木教会にいる言峰璃正と言峰綺礼にとって、間桐邸にいる筈の間桐臓硯―――と偽っているゴゴが現れたので、警戒して締め切ったのかもしれない。
  だが間違いなくアサシンのマスターはそこに居る。言峰綺礼は冬木教会の中にいる。
  そして監督役の言峰璃正はまだ脱落していないマスターを匿っている。
  中立が崩された時、それは襲撃の理由へと変化するのだ。
  「ワシは聖杯戦争のマスターでもサーヴァントでもない。じゃが『始まりの御三家』としての責務を全うせねばならぬ上に、雁夜めの面倒を見なければならんゾイ。お主にはこの言葉の無意味さを既に伝えたが、表向きはそういう事になっておる。今のあやつとお主の関係のように体裁は整えねばならぬ」
  聖杯戦争の監督役とそのマスター。けれども言峰璃正と言峰綺礼は実の親子。どれだけ否定しようとしてもその事実は変わらない。
  こちらは表向きの間桐の当主と実質的な当主。そして間桐臓硯と間桐雁夜の関係は実の親子だ。
  決して一つの言葉では括れないという意味では両者は似ていた。
  「このままあやつに監督役など任せておっては裏で何をされるか判らんゾイ。せめて『アサシンのマスターは脱落した』ぐらいは本当にせねば、いい恥晒しじゃ。と言う訳で、アインツベルンの森でつけられなかった決着をつけようかの、雁夜めに伝授した魔術の本家本元を見せてやるゾイ」
  ゴゴは物陰に潜むアサシンに向け―――その向こう側にいるであろう言峰綺礼に向かってそう宣言すると、閉ざされた扉に向かって右手を伸ばした。手袋が装着されて地肌など全く見えない五本の指。それを大きく開いて冬木教会へと向ける。
 そして一工程シングルアクションの魔術を―――、ゴゴにとっては魔法を口にした。
  「ブリザガ」
  全力で魔力を注ぎ込めば冬木教会どころか周囲の景観も含めて、永久凍土の中に封じ込めてしまうので、可能な限り魔力を抑え込む。
  敵にぶつかると同時に氷の柱に変化する筈の魔法だが、そうなる前に魔法を解除した。
  本来は一度発動させた魔法は途中でキャンセル出来ないのだが、この世界で色々と学んで宝具の物真似をしてバリエーションを増やすことで、かつての不可能を今の可能にした。
  直径三十センチほどの氷の塊が、冬木教会の扉を撃ち抜くと同時に消滅する。
  氷の柱に変化して冬木教会を包む前にキャンセルして消し去ったのだ。
  「魔術の発動を抑えるのは雁夜にはまだ無理ゾイ。未熟者が使えば、余計なものまで破壊してしまう」
  後に残るのは粉々に破壊された冬木教会の扉だったモノ。残骸が土煙に似た粉末を撒き散らし、ボロボロと崩れ落ちていく。
  ゴゴは立ち止まらずにそれも踏み越えて前に進む。
  邪魔者がいなければ、あっという間に冬木教会の中へとたどり着いてしまった。
  「おやおや、何とも物騒な立ち入りですな、間桐臓硯。これは私を監督役に遣わした聖堂教会への宣戦布告ですかな?」
  見れば、奥の祭壇の前に立つ人影がある。
  言峰璃正だ。
  「璃正よ、ワシは監督役であるお主に興味は無いゾイ。ワシが興味があるのはその奥で穴熊を決め込んでおるアサシンのマスターよ。中立役である筈のお主を送り込んだ聖堂協会なんぞに興味はない、お主が聖堂教会を盾に監督役として語るならば、『騙る』お主の言葉は嘘ばかり。隠匿出来なんだ聖堂教会の落ち度よのう。監督役のお主と話すつもりはないが、言峰綺礼の父として話すならば敵と見なしてもいいゾイ」
  息継ぎをせずに一気に言い終えながら、さらに歩を進めて教会の中に立ち入っていく。
  距離が縮まるにつれて言峰璃正の気配が神父のそれから戦う者のそれに切り替わっていくのを理解しながら、それでも歩みも言葉も止めずに続ける。
  「どうじゃ? お主は監督役か、それとも言峰綺礼の父親か? 回答によってワシは間桐の者として貴様を罰しなければならぬ」
  「あなたは中立の不可侵領域を侵している。間桐臓硯、私は監督役として貴方を罰しなければなりません」
  その言葉をほかでもない言峰璃正の口から聞いた瞬間、ゴゴは言葉によって言峰璃正が行動を悔い改めることはないと確信する。元から説得などする気はないし、舌戦を行う気もなかった。仮に言峰璃正が監督役として『自分は間違っていた』と認めたところで、それが偽りであれば何の意味もない。
  純然たる事実として言峰璃正がもはや『中立を義務付けられた監督役』ではなくなってしまった。それが露見してなお、監督役としてあり続けようとしている時点で言峰璃正の行動には信用がない。
  それでも言峰璃正は監督役であり続けようとすれば、両者の言葉はどこまで行っても平行線だ。
  予測が多く混じった推測だが、おそらく言峰璃正の人格を司る大半は神への信仰によって支えられ、自らが信じる道をひたすらに突き進む男なのだろう。
  たとえそれが誰がどう見ても『虚偽』であったとしても、その嘘すら信仰にすら組み込んで自分を偽り続ける。
  たしかに冬木教会は中立の不可侵領域として定められているが、その中立を最初に侵したのは他でもない言峰璃正当人である。
  全く感情を乱す事無く言峰璃正は淡々と言ってのけたのだ。これで本人が中立を侵していると理解した上で言っているなら大した役者で、本人にその自覚すらなければ根底を成す『思想』『論理』『人格』といった類のものが余人とは異なる。
  言峰璃正本人に言わせればそれこそが求道かもしれないが、ゴゴには理解できない思惑だ。
  言葉など言峰璃正の前では何の意味もない。彼はただそうと決めた道を進むだけの男。そう決め付けながら、ゴゴは言う。
  「つまらん男じゃ。やはり六十年前から何も変わっておらん」
  「言いますな。貴方の醜悪さもそう変わっていないでしょうに」
  「人の意思で信ずる神を愚弄するお主よりは幾らかマシと思うゾイ」
  その言葉を切っ掛けにして、ゴゴは両手を大きく広げた。指を完全に握りこんで拳を作りながらも、指と指との間には隙間を作る。そしてその隙間の中に小さな十字架が握りこまれた。
  一瞬前までには何もなかった筈の指の中に現れた物。十字架の一部分、手首とは逆方向の部分があっという間に刃になって伸びると、残った部分は柄となって武器を形成した。
  その名を『黒鍵』。
  もちろん本物ではない。この世界に訪れてから物真似して手に入れた幾つもの技術を集て作った『疑似黒鍵』とでもいうべき武器だ。単なる金属以上の効力はなく、何の条件付加もされていない。ただ『言峰綺礼の戦い方』を物真似するためだけの武装にすぎない。
  「むっ!?」
  ゴゴにとっては物真似以外の何物でもないのだが、言峰璃正をほんの少しだけ動揺させる効果はあったらしい。
  それもその筈。黒鍵は本来であれば聖堂教会で使われる投擲専用の武装で、魔術師である筈の間桐臓硯は決して扱わない武器だ。持っている状態すら異常と言える。
  別に驚かせるつもりはなかったが、意外と思って警戒してくれればそれでよかった。
  監督役としての責務すら果たせない男を物真似するつもりはない。それが偽りばかりであれば、物真似する価値はない。だが、その技量は別だ。
  技をふるう人間に善悪は存在するが、技術そのものには罪はない。
  もし言峰璃正の技術が物真似に値するモノだったならば、思う存分物真似させてもらおう。そう思っての黒鍵、そして魔術による攻撃ではなくあえて肉弾戦を仕掛けようとする理由だった。
  ゴゴもこの世界について色々と調べている間に黒鍵を知ることになったが、実際にお目にかかったのはアインツベルンの森で言峰綺礼と一戦交えたあの時が最初だ。試し撃ちにはちょうどいい―――そう思いながら、ゴゴは両手で六本握りしめた黒鍵を両側で扇状に開き、そのまま前に跳ぶ。
  「喰らうゾイ!!」
  黒鍵は投擲武器だが、物真似の材料を探すには敵を間近で見るに限るので、接近戦に使わせてもらう。
  改めて敵として見たところ、言峰璃正神父その人には遠隔攻撃は無い様に見える。あったとしても、綺礼同様に黒鍵になるだろう。あるいは間桐臓硯が収集していた蔵書に無い武器か、ゴゴが一年で調べ上げた情報に引っかからない武器になる。
  扇形に広げた黒鍵の内、左手の一本を指と腕を振るう力で飛ばし、右手の三本を剣のように上から振り下ろす。
  先に投げた一本が言峰璃正の脳天を貫かんと真っ直ぐ進んだ。
  銃弾やドリルのように回転している訳でもなく、投げナイフのように敵に接触する時にまっすぐ刺さる様に弧を描いている訳でもない。真っ直ぐに進んで敵を射抜く常識外れの黒鍵は言峰璃正の額に突き刺さる―――と思ったら、直立姿勢のまま左腕だけを動かして黒鍵の刃の無い横を払ってしまった。
  「私に黒鍵を投げつけるとは――、随分と舐められたものだ」
  動いたのは左腕だけ、接触した部分は手の甲だけだが。それだけで脳天を貫こうとしていた黒鍵が弾かれて明後日の方角へと跳んでいく。
  黒鍵に限らず、どんな刃物でも共通の弱点となる腹の部分。そこを叩けば素手であろうと対処できる理屈だが、頭に向かって飛んでくる黒鍵に対して易々と対処できる人間がどれだけいるだろう。
  一歩遅れて三本の黒鍵が振り下ろされるが、言峰璃正の涼しい顔は崩れない。それどころか迫り来る刃に対し、払う為に立てた左手をそのまま前に出して刃の相対させた。
  黒鍵の刃ならば言峰璃正の手を簡単に切裂いて骨も砕く。何もしなければそれは実現されただろうが、言峰璃正はその『何か』をした。
  一歩間違えれば自分の手が斬れるであろう状況で、さらに前に出てゴゴの右手を流したのだ。
  黒鍵を防ぐために根元であり起点でもある手に対して、飛んできた黒鍵と同じように手の甲で防ぐ。言うは易く行うは難しの高度な技だ、一瞬でも遅れれば代わりに自分の手が斬られたであろうそれを難なく実現させ、そのまま一気に左手を外に払った。
  「むおっ!」
  前に出る速度に言峰璃正に手を払われる速度が加算され、強制的に斜め前に引きずられながら体勢が一緒に崩れる。すると息が詰まる衝撃が体を襲った。
  衝撃はそのままゴゴの体を後ろに吹き飛ばす威力へと転化し、言峰璃正に向けた勢いが逆方向に働いたかのように吹っ飛んでゆく。
  先程壊した扉だったモノの残骸の近くまで吹き飛ばされながら、何とか前を見てその衝撃の正体を見極めた。
  そこで見えたのは言峰璃正が腰を落としながら右拳を前に突き出している体勢だ。つまりあの男は左手で迫る攻撃を流し、拳にした右手を思いっきり心臓の辺りに喰らわせたのだ。
  もしこれが普通の人間だったなら、鍛えていたとしても骨が数本は砕けただろう。
  胸の痛みを感じながら、見事な突きを決めてくれた言峰璃正に向けてゴゴは思う。こいつは本当に八十歳に到達しているであろう老人なのか、と。
  「こうなっては仕方がない、わしが自ら相手をしよう」
  言峰璃正はそう言うと、ゆっくりと両手を顔の高さまで上げ、手のひらをこちらに向けながら太ももを閉じて足の位置を左右でずらした。直立姿勢の時には頭の頂点から腹を下りて両足の間に出来ていた人体の中心をとおる線が覆い隠されてゆく。
  その上、足の外側に力をこめて、体の重心をより強く安定させていくのが判った。服装は何も変わっておらず、温和な笑みを浮かべる冬木教会の言峰璃正神父に変化はない。しかし、構えと体に力を込めて準備されたそれは紛れもなく戦士のそれだ。
  ただし、言峰璃正の武術―――これまで調査した内容と実際に一撃喰らった状況から、おそらく八極拳であろうそれは殺しあうための技術ではないと予測される。
  今の言峰璃正は武術における規範ともいうべき様子を見せており、学ぼうとする者にとっては師事したいと思う見事な様子を作り出している。
  単に拳士として見ればおそらく言峰綺礼より言峰璃正の方が上だが、敵を葬り去るための技術として考えれば息子の綺礼の方が上だ。もし言峰綺礼が先ほどと同じ状況にあって同じ技を繰り出したなら、心臓と言わずに首の骨を狙って何の躊躇もなく折って命を奪おうとしただろう。
  そして後ろに跳ばされて隙が出来たゴゴに対して追撃を加えたに違いない。
  言峰璃正はそれをしなかった。右拳での突きは技ではあるが、殺傷目的として練り上げられたものではない。
  それでも八十を超えて尚衰えない武術―――年を重ねた分だけ練り上げられた技術には物真似する価値があるかもしれない。価値の大小で落胆するならば、その技を見終えた後でもよかった。
  「本当につまらん男じゃゾイ」
  荒々しく吐き出される息を強制的に止め、ゴゴはもう一度その言葉を告げる。
  敵と定めておきながら、一撃で殺さなかった事実への失望、そして挑発を混ぜ込んだ言葉だ。
  腕を落された訳でもなく、足を貫かれた訳でもなく、骨が数十本砕けた訳でもなく、首を切断された訳でもない。確かに衝撃は大きく、聖杯戦争の監督役を任命されるだけの事はあり、人が持てる戦闘力としてはかなり高位の部分にまで踏み込んでいる。それでも、ものまね士の衣装の下に隠されたゴゴの体を破壊するには至らない。
  単なる肉体的ダメージならば回復魔法の一つでも唱えれば十分だ。
  もっと別の技術を見せてくれ。そう願いながら、敵の間合いであろう接近戦の為にゴゴは手の中に残っていた黒鍵を捨てる。
  言峰璃正同様に何も持たない二本の手を見せびらかせ、そのまま握りしめて体の前に持って行く。そして片方の足を後ろに下げて人体の中心を隠すように半身になった。
  「さあ、続けようかの」
  言峰綺礼の八極拳とは対極に位置するであろう正道の武術。それはそれで見る価値はある・・・筈。
  もし人が生み出した武術はものまね士ゴゴの体を破壊できるほどの威力を持っていたとしたら? 言峰璃正の技は神を生み出した存在を殺せるだけの技だったとしたら?
  人が到達できるであろう高みへの興奮を感じながらゴゴは再び前に出た。
  「リジェネ――」
  歩きながら、言峰璃正に聞かれないよう、そっと呟く。





  回復魔法の中で長期戦に向き、一気に回復させるには向かない魔法がある。それは生命力を活性化させ、傷を癒して体力を回復させる魔法『リジェネ』だ。
  重傷を負えばあまり効力は無く、相対する敵が強大であればあるほどに喰らうダメージに対する僅かな回復は意味を失っていく。『一度発動すれば、戦闘中は半永久的に効果が持続する』という効果は絶大だが、回復する量が少なければ一気に回復する魔法の方が必要になる。
  敵と対峙して殺しあっている時に、ゆっくり回復するなどと悠長な事を言っている暇はない。それが主な理由だ。
  しかし今、言峰璃正が相手にしたら、それで十分だった。
  「その程度かゾイ?」
  再び、冬木教会の扉だったモノの辺りに着地したゴゴが言う。少し離れた位置には教会の祭壇付近には左肘を上に突き上げた体勢から最初の構えに戻そうとする言峰璃正の姿があった。
  ほんの一瞬前に左肘による肘打ちがゴゴのあごに直撃して、のけぞる勢いそのままに後ろに跳んだので吹き飛ばされたような状況になってしまったのだ。
  ゴゴがさらに見れば言峰璃正の足元、つまりは祭壇の部分には足の形に凹みが出来て、木材建築の足場が今にも壊れそうになっている。攻撃の命中する瞬間に、地面を強く踏みつける発勁の用法。震脚と呼ばれる技であごに肘打ちを喰らわす時の威力を増したのだろう。
  まともに当たったので、普通ならば脳味噌を揺らされた結果と痛みで動きが鈍るか昏倒する。けれどゴゴが何のダメージも負った気配なく、しっかりとした足取りで立ちあがる。
  「お主程度の技では、この年老いた体でも傷はつけられん。出し惜しみする余裕はないゾイ」
  「まだ貴殿は一撃も入れてないでしょう。減らず口は閉じた方が身の為ですぞ、間桐臓硯」
  言峰璃正の言うとおり、起こった事実だけを見れば双方とも素手の状況でゴゴが相手に跳びかかってそのたびに反撃される構図が四度ほど出来あがっていた。
  初回の突きから四回目の肘打ち、その間に両手を揃えて胸を打つ掌の攻撃やらで飛ばされたりもしたので、単なる事実だけを見ればゴゴが言峰璃正に良い様にあしらわれていると見えるだろう。
  ただし、実態は大きく異なる。
  多くて二回、いや、三回もゴゴの肉体に打撃を与えれば、そこで効果がありそうに見えつつもダメージを全く与えてない事に気が付ける筈。それだけではなく、言峰璃正が殴っているゴゴの―――表向きは魔術師の間桐臓硯になっているが―――その肉体が通常の人体とは大きくかけ離れたモノだと判らなければおかしい。
  ゴゴを殴っても『効果なし』と断言してもいいほどに攻撃が利いていないと判る筈。それなのに言峰璃正は素手の戦いを継続し、またゴゴの体を彼方へと吹き飛ばした結果を作り出した。
  何か裏があるのか?
  援軍を期待しているのか?
  ゴゴの体が人のそれと異なると判っていないのか?
  あるいは―――言峰璃正にはこの武術以外の攻撃手段がないのか?
  言峰璃正の技は格闘家として自らを鍛えぬいた『ダンカン・ハーコート』に通じるものがあり、マッシュの師匠である彼と同じように積み上げた月日だけ練り上げられた技術、別の言い方をすれば『重み』があった。
  だが、繰り出される技は『武術』の域を出ていない。黒鍵を難なくはじき返したから武術以外の戦い方もあると思うが、武術だけならば人の相手しか出来ない。
  敵を破壊し、死に至らしめる威力は確かにあるが、それはあくまで対人用に限定される。まさか、魔術師である間桐臓硯が素手だけで無力化できると本気で思っているのだろうか?
  ものまね士ゴゴに至っては姿こそ人に酷似していても、内面は人間とは大きくかけ離れた存在だ。実際に攻撃すれば感触と感覚でそれが判るのに、言峰璃正は驚く素振りも、得心の兆候も見せない。
  最初の黒鍵の時以外、常に動揺を隠して平静を装っているなら大した役者だ。その場合、どんな窮地に陥っても自分自身を落ち着かせる術を体得しているのだろう。だが攻撃手段が限られているならば拍子抜けである。
  「そろそろ本気を出すゾイ」
  「負け惜しみにしか聞こえませんな」
  言峰璃正に何らかの隠し玉が在るにせよ無いにせよ、言峰璃正に合わせて二本の手だけで戦っている限り現状が変わる事はないと思われる。
  武術だけでは何の痛みも負わず、僅かな痛みがあっても『リジェネ』がすぐに回復させてしまう。このまま戦い続けても得るものは何もない。ならば戦い方を変えるしかない。
  言峰璃正の力は優れてはいても常人を超える程ではない。そもそも太古の昔から人が武器を持ち始めたのは、素手では出来ない威力を自分の物にする為だ。素手では攻撃力に限界があると太古から人は知っていた。
  黒鍵を弾き返した技術。そして武術としてマッシュの技を模倣しているゴゴと渡り合うのは称賛に値するが、悲しいまでに破壊力が欠けている。最初の一撃とて、マッシュが同じようにやれば、ゴゴの背中にまで拳が突き抜けてもおかしくなかった。
  大切なのは危機感だ。
  出し惜しみする余裕など与えてはならない。
  人並みの速度に落として戦うのは止めよう。
  言峰璃正に攻撃させるように手を抜いて戦うのは止めよう。
  魔法と魔術を併用すれば簡単に勝ててしまうので、そこまで披露する気はない。だが、マッシュが長年の修行で身に付けた『必殺技』を使わずに戦うのは止めよう。
  言峰璃正が危機感を抱き、自らが持つ全ての手札を開示して敵を攻撃しようとしなければならない。そうでなければ、ものまねの為にならず、危険を冒してまで冬木教会を強襲した意味がなくなる。
  得る物は、ものは、者は、モノは、なければならないのだ。言峰璃正が見せた武術程度ではまったく足りない。
  「では行くゾイ」
  まだ始まってもいなかった『戦闘』を、今ようやく始められる。宣言の後、ゴゴはある言葉を口にした。


  「爆裂拳」


  格闘家は自らの後継者を息子ではなく別の者に選び、実の息子は激昂して格闘家を倒してしまう。そしてその拳を後継者に向けるが、後継者は格闘家より習得した技で師の息子を撃破してしまった。格闘家の名をダンカン、息子の名をバルガス、そして技を受け継いだ男の名をマッシュと言った。
  そんな曰くがある技がこの『爆裂拳』なのだが、これは技を放つ者の腕力に依存する必殺技で、どんな防御であろうともそれが物理的な物であれば、透過して攻撃できる―――正しく必殺技と言うべき技だ。
  言峰璃正の目ではゴゴが消えたように見えただろう。
  技を放つと同時に神速の踏み込みで数メートルを一気に駆け抜ける、言峰璃正の間合いに入り込むと同時に顔と両肩とあごと心臓と腹と鳩尾とわき腹と、胸元に下がっていた小さな十字架を含めたその他数か所をほぼ同時に殴打する。
  殴られたと感じた瞬間、すでに言峰綺礼の体には殴られた衝撃で後ろに吹き飛び始めていた。
  ゴゴの攻撃に構えていたが、守りの要となるのが二本の手だけでは隙間だらけ。何やら僧服が普通の布よりも硬い気がしたが、『爆裂拳』はその硬さもすり抜ける。
  ついでとばかりに前に構えていた腕にも何発か拳を叩き込んで攻撃は完了。
  言峰璃正は弧を描かずに斜め上に向けて一直線に吹っ飛んで、そのまま壁に激突した。
  けたたましい衝突音を教会の中に鳴り響かせ、壁は言峰璃正がぶつかった場所を中心にして円形にひび割れていく。壁そのものは凹むだけで終わり完全な破壊には至らなかった。
  一息遅れ、言峰璃正がぐらりと前倒しに床へ落ちた。
  「ちょっと本気を出せばこんなもんじゃゾイ」
  パラパラと落ちてくる粉塵と木屑。床の上でうつ伏せになって倒れる言峰璃正に向けてゴゴは声をかける。
  起き上がる気配はなかった。
  「・・・ほれほれ、お主に余力を残して戦う暇はないゾイ」
  もう一度声をかけてみるが、やはり起き上がる気配はなかった。
  ピクリとも動かない。
  「・・・・・・奥の手があるならさっさと出さんと痛い目にあう。身に染みて判ったじゃろ」
  全く動かなかった。
  雁夜がバーサーカーを召喚した時にも同じように雁夜に向けて『爆裂拳』を喰らわせたが、あちらは失神しただけだったので、同じように考えてしまった。
  近付いてもう少し詳しく診ないと判らないが、老骨に鞭打って戦った無理が祟ったのか―――。殺してしまった可能性すらある。
  「・・・・・・・・・い、いかん。やり過ぎてしまったゾイ!!」
  まさかほんの少し込める力を上げただけで、こんな簡単にも決着がついてしまうとは予想していなかった。
  別の言い方をすれば、黒鍵を難なくはじき返して、老体とは思えない機敏な動きを見せたので、耐久力もまた老人とは思えない強靭さを持っていたと勘違いしていた。
  言峰綺礼とは直接戦わず、召喚したサボテンダーで足止めと物真似の為の観察をしていたが、その力は英霊とまではいかずともかなり高みにまで練り上げられていたのがよく判った。あれなら言峰綺礼自身のサーヴァントである、分裂したアサシンなら問題なく勝てると確信したものだ。さらに鍛え上げれば通常の英霊と殴りあえる位、いい勝負ができるかもしれない。
  その言峰綺礼の父親なのだから、言峰璃正もまた魔石から召喚した幻獣と渡り合える肉体的な力を持っていると考えた。ゴゴを四回も殴り飛ばせるだけの力があるのでその推察は間違っていない筈。
  しかし人間に等しく訪れる『老い』には抗えなかったという事か。
  もしかしたら、繰り返して攻撃したせいで『間桐臓硯が出せる速度』に言峰璃正は慣れてしまい、空気との摩擦熱で発火すらしてしまいそうな速さに対応できなくね、筋肉を強張らせられなかったのかもしれない。
  どれだけ鍛えていたとしても、力を抜いてしまった筋肉では守りには力不足だ。『爆裂拳』はさぞ効いただろう。
  予想外の打たれ弱さにゴゴは拍子抜けしていく。
  「――がっかりじゃ」
  前に歩きながら忌憚ない言葉を言峰璃正に向けて投げつけてみるが、うつぶせの姿勢のままの言峰璃正に動く気配はない。背中にぱらぱらと壁から剥がれた木屑が降り積もっていくが、やはり起き上がる気配どころか身じろぎする気配もなかった。
  ゴゴはゆっくりと近付いて言峰璃正の頭に手を伸ばし、後ろになで上げられた白髪を鷲掴みにする。そのまま髪の毛を引っ張って強引に頭を起こすが、やはり言峰璃正は自分から動こうとはしない。
  持ち上げた顔には喰らわした拳の跡がくっきり残っていて、頬と顎と鼻は一部が赤く染まっている。
  どうやら皮膚の下で内出血を起こしているらしい。口の中も切ってしまったのか、半開きになった口からは紅い滴がポタポタと流れ落ちた。
  息はあるようで、耳を近づけるまでもなく一定の呼吸音が聞こえていた。何らかの魔術的な力や、今使った必殺技をもう一度使うまでもなく、指を伸ばして鼻と口を塞ぐだけで呆気なく殺せる状態である。
  しかしゴゴは言峰璃正を殺すつもりはない。ここで殺すのは簡単だが、どんな理由であれ監督役を殺害したとなれば他の参加者だけではなく、言峰璃正をこの場に送り込んだ聖堂教会全体を敵に回すことになる。
  そうなれば敵対する全てを殺しつくすだけだが。危険がそばにあれば、同じくそばにいる桜ちゃんにもその危険が及ぶ可能性が高くなる。彼女がそれを望むならばそれもいいが、まだ救うための方針が完全に固まりきっていない状態では数ある選択肢の一つとして残しておくべきだ。
  だから今は物真似の為の材料の一つ、今回の聖杯戦争で唯一言峰璃正が持っているあるモノをこの目に焼き付ける為に動く。
  「どれ・・・」
  それは言峰璃正の腕に刻まれた預託令呪。過去の聖杯戦争で未使用であり、監督役が再分配できる、どのマスターの令呪にもなりえる最も汎用性を持った令呪だ。
  雁夜の手に現れた令呪はバーサーカーのマスターである雁夜の為に用意されたもので、その効力は雁夜のサーヴァントであるバーサーカーにしか効果がない。しかし言峰璃正が持っている預託令呪は誰の令呪にもなる可能性を秘めている。
  英霊を召喚した大聖杯、マスターとサーヴァントの契約。冬木市の中には魔力によって作られている繋がりが幾つも存在し、その中の一つに干渉してゴゴはサーヴァント同士が殺しあわないように魔力で訴えかけてみたが、その効果はほぼ無いに等しい。
  特定のサーヴァントには効果はあったが、令呪に比べれば拘束力などまるでなかった。だからゴゴは言峰璃正が持つ預託令呪に目を付けた。
  それだけが冬木教会を襲撃した理由ではないが、それが理由の一つなのは紛れもない事実。かつて雁夜の代行として、キャスター討伐の為の召集にはせ参じた時にも少しだけ見れたが、あの時は若干距離もあり邪魔者も多かった。言峰璃正が袖の下にある預託令呪を見せたのはほんの一瞬だけ、ものまね士ゴゴでも物真似しきるには無理がある。
  元々令呪のシステムを考案し確立したのは間桐臓硯で、令呪とは聖杯によってもたらされた聖痕が変化したものであり、その源は聖杯が数十年かけて集めた魔力の集合体である事は知っていた。
  それでも、どのようにしてサーヴァントに対する絶対命令権へと変化するか、はまだ判明していない。
  大聖杯が持つ機能の中にはそれに該当するものがあるだろうが、預託令呪を合わせればさらに令呪の本質に―――物真似へと近付けるだろう。
  ゴゴはすでに大聖杯を物真似して自分の中に取り込んでいるので、やろうと思えば聖杯戦争の参加者となるマスターに刻む聖痕と令呪へと変化する過程を分析して改めて作り出すのは不可能ではない。
  だが起こった結果を物真似するからこそ、ゴゴはものまね士ゴゴなのだ。到達する箇所が同一ならば、ものまね士ゴゴは『創造』ではなく『物真似』を選択する。
  言峰璃正の横にしゃがみ、ゆっくりと手を動かして袖をまくろうとした。が、伸ばした右手の中心にずきりと鈍い痛みが走る。
 痛いと感じるほど強くはなかったが、無視するには少々大きすぎる違和感。ゴゴはそれがなんであるかを知っている。ランサーの必滅の黄薔薇ゲイ・ボウの効果が痛みとしてゴゴを苛んでいるのだ。
  「・・・・・・中々やりおる、ゾイ」
  ランサーと戦ったストラゴス・マゴス。安ホテルで別人になり変っている間桐雁夜。そして間桐邸にいるロック・コール、マッシュ・レネ・フィガロ、セリス・シェール、この三人とそれ以外にも各所で色々と行動しているかつての仲間。
 彼らは等しくゴゴなのだが、アサシンの宝具『妄想幻像ザバーニーヤ』とバーサーカーの宝具『己が栄光の為でなくフォー・サムワンズ・グロウリー』を同時に使う事で別人に見せかけている。
  だが言峰璃正と戦ったゴゴと彼らの間には大きな違いがある。それは間桐臓硯と思わせていても、ものまね士の格好をしてものまね士として戦っている点。分裂して姿を超えたゴゴとは異なり、口調を変えた程度では変えようのないものまね士そのものだという事。
 ランサーの必滅の黄薔薇ゲイ・ボウに掌を貫かれたストラゴスは、腕そのものを一時的に抹消して呪いの効果が及ぶ箇所ごと消してごまかしたが、必滅の黄薔薇ゲイ・ボウは『ストラゴスの物真似をしているゴゴ』ではなく、別人の姿をしていてもその本質である『ものまね士ゴゴ』にしっかりと呪いを刻み込んだのだ。
  英霊の執念か。
  槍の呪いの強さか。
  世界が作る魔術というシステムの一環か。
  何にせよ、ランサーはストラゴスを通してものまね士ゴゴに攻撃したのだ。一矢報いるというには小さすぎる成果かもしれないが、それでもランサーはゴゴに手傷を負わせた。
  セイバーの傷が癒えずに残っているように、ゴゴにも傷は残っている。
 ストラゴスは分裂したゴゴで、総数から考えれば薄まった個体となる。だから、ものまね士ゴゴから遠く離れてしまったストラゴスの傷は癒えたようにごまかせたが。分裂した個体が統合し、ものまね士ゴゴの本質に近づけば近づくほどに必滅の黄薔薇ゲイ・ボウは効果を強めていく。
  ものまね士ゴゴとして『必殺技』を物真似したのが切っ掛けになったのだろう。もし、分裂した全てのゴゴが再び一人に集まった時、分裂したゴゴの一人が負った痛みをその分だけ薄めて呪いの穴が開きっぱなしになるに違いない。
  今はストラゴスの手に開いた穴の痛みを分裂した全員に分散させて痛みを拡散させて外傷を消して見せているが、ランサーの槍の呪いは確実に存在する。
  単なる目算だが縫い針が掌を貫いた時ぐらいの小さな穴が残り続けるだろう。痛みが分散しているので、気にしないようにすれば気にならない小さな痛みだが、その小ささが逆に呪いを消滅させた気になったゴゴをあざ笑っているようだった。
  「・・・・・・・・・」
  言峰璃正の服の袖をつかもうとした体勢でほんの数秒制止していた。
  呪いを解除する魔法も存在するので、宝具の呪いにどれだけ効果があるかは興味がある。けれど、今は言峰璃正の腕にある預託令呪を確認する時だ。
  右手の痛みを意識して無視しながら、その手で言峰璃正の袖を掴み破りかねない勢いで肘まで引き上げる。そこに合ったのは血にも見える紅い線の集合体だった。
  サメを真上から見たような、敵を貫こうとする矢じりのような、羽を畳んで滑空する鷹のような、刻まれた紅い線は流線型を思わせる形状を描き、左右対称となって手首から肘までに刻まれている。
  その線の一本一本が雁夜の令呪に似ていたが、躍動するように流れる魔力は全く別物だ。人の目で見れば単なる紅い線にしか見えないが、ゴゴの視界ははっきりと違いを区別している。
  魔力を色の印象で考えるならば、言峰璃正の預託令呪は純白で雁夜のは紫といった所か。
  雁夜や他のマスターに刻まれた令呪は、その個人の色に染め上げられて専用の令呪へと変質してしまっている。
  もし誰かの体に刻まれた令呪を心霊手術などの呪的手段で移植あるいは譲渡する場合は、埋め込む人間の魔力を変質させて自分の令呪だと錯覚させるか、令呪そのものを変質させる必要がある。
  このわずかな違いこそが雁夜の令呪と言峰璃正の預託令呪を隔てる壁だ。そして監督役が預託令呪をマスターへ簡単に譲渡出来る理由でもある。
  この時、ゴゴは聖杯戦争において対サーヴァント戦での強大な切り札を手にした。
  令呪の元は莫大な魔力だがそれはゴゴ個人でまかなえる。あとはセイバーならば衛宮切嗣の令呪を、アーチャーならば遠坂時臣の令呪を、ライダーならばウェイバー・ベルベットの令呪を観察して、その違いを見極めるだけで言峰璃正の預託令呪を元にしてそれぞれの令呪を物真似できる。
  ゴゴ自身の感覚で考えるに、差異はミシディアうさぎの目を通して観察するだけでも十分に理解できるだろう。雁夜の令呪ならばミシディアうさぎでも分裂したゴゴでも見れるので、間桐邸にいる雁夜を参考にすれば他のマスターとサーヴァントにも応用できるだろう。
  今この瞬間、ゴゴは成果を得た。
  言峰璃正の武術など比べ物にならないモノを手に入れた。
  物真似するべきモノを手にした。
  ゴゴは湧き上がる喜びを抑えられなかったが、決して気を緩めた訳ではない。何しろ冬木教会にはずっとこちらを監視しているアサシンがいて、そのマスターもいる。言峰璃正だけが敵ではない。
  だからしゃがんだ姿勢から一気に跳躍し、ゴゴが今の今までいた場所を通り抜けた閃光―――いや、黒鍵の軌跡を怪我を負わずに避けられた。
  その数、六本。言峰璃正の震脚で壊れそうだった床に向け、トストストス、と輝く刃が突き刺さった。
  「ようやっとお出ましか。待ちわびたゾイ」
  教会の中に並ぶ長椅子の一つに着地して、座面と背もたれにそれぞれ両足を置いて姿勢を整える。
  後ろ向きに跳んだので黒鍵が飛んできた方向を見るのはたやすい。そこには予想通りの人物がいて、ゴゴの言葉を聞いていた。
  「言峰綺礼よ――」
  応じるように、左右の手にそれぞれ三本ずつ、計六本の黒鍵が新しく現れる。



  ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆



  Side - 言峰綺礼





  合理的ではない。私はまずそう考えた。
  父、言峰璃正が務める監督役は聖杯戦争による災厄を最小限に抑え、存在を隠蔽し、マスターに暗闘を遵守させる為に存在する。
  そしてこの教会は聖杯戦争において中立の不可侵領域として定められている。不用意に干渉する場合、監督役によって令呪の削減や一定期間の交戦禁止といったペナルティが課されることもある。キャスターとそのマスターの例が最も判りやすく、他の全ての勢力を恣意的に一点に集中させる事も可能だ。
  つまり教会への襲撃は、間桐―――バーサーカーに他の六騎、いや、キャスターはありえないので五騎だが。一対五の構図を自らで作り出す事に繋がる。
  そして監督役への攻撃はそれを派遣した聖堂教会そのものに―――。あくまで可能性だが、聖杯戦争を作り上げた魔術教会すらも敵に回しかねない暴挙だ。
  何故なら、魔術師が聖堂教会の者を攻撃する。それは聖杯戦争という特殊な状況下にあっても、表向きに結ばれた強制協定を反故にしている。
  たとえ監督役が裏で暗躍し、特定のマスターに肩入れしようとも、監督役と言う肩書と聖堂教会所属という事実が消えた訳ではない。
  マスターから監督役への牽制や警告。または中立性を信じずに接触を避けて独自に行動するなどは考えられるが、直接監督役を攻撃するのはやり過ぎと言える。聖杯を得ようとするのならば、冬木教会の襲撃と監督役への攻撃はあってはならない。
  その不合理さを脳裏に描いた時、私は自身の行動の不合理さもまた一緒に思い出していた。
  何故、私は危険を冒してまで衛宮切嗣を追いかけているのか? 冬木ハイアットホテルを爆破したであろう衛宮切嗣の協力者を追い詰め、見つかるのを承知の上でアインツベルンの森に侵入しようとしたのか?
  結果として、どちらも乱入者によって満足のいく結果は得られなかったが。聖杯戦争におけるアサシンのマスター、いや、時臣師の協力者として聖杯を譲り渡すためには不要な行動を起こしているのは紛れもない事実。
  だが私は衛宮切嗣に問わねばならない。何を求めて戦い、その果てに何を得たのか? そのために私はアサシンを諜報組織として冬木に放つ役割以外にも自ら行動を起こしたのだ。
  もし間桐臓硯にも私と同じく『間桐の裏の当主』である役割以外にも行動を起こす理由があるとすればどうか?
  私は可能性の一つを模索しながら、父の袖をまくり、令呪が刻まれた父の腕を見ている間桐臓硯に向け、手加減など一切なく黒鍵を投げつけた。
  令呪が目的か? そう思ったが、続く言葉に浮かんだ想像は消えてゆく。
  待ちわびた。確かに間桐臓硯はそう言った。
  「これでようやくアインツベルンの森の続きが出来るゾイ」
  そして後ろに跳躍して呆気なく黒鍵を避けると、私が決して無視できない言葉を続けた。
  私はあの時、アインツベルンの森で間桐臓硯の言葉を止めるために攻撃を行った。衛宮切嗣へとたどり着く前の障害ではあったが、語られた内容が聞くに値するものだったのは私自身が認めている。
  だが、私はその言葉を止めてしまった。
  そして今に至るまで、問い続ける人生の答えを求める為に聖杯戦争に参加した私が、その答えにたどり着く方法の一つをあえて考えないようにした。間桐臓硯の口から語られるまで、その事を意識ながら忘我したのだ。
  ありえない。
  「何の話だ?」
  「言ったじゃろ。お主は人格破綻者じゃ――とな。もう忘れてしまったかの」
  間桐臓硯が何を言おうとするのか判りながらも、私はあえて言葉にした。そして間桐臓硯は私が持っていた通りの回答を口にする。
  確信している言葉を繰り返すのは不要であり無駄だ、そんな言葉を再び繰り返すことに何の意味があるのか。私はその無駄と知りつつも交わしてしまった会話を意識から強引に押し出し、敵戦力の計算を行う。
  敵が魔術師ならば、私とアサシンの力を合わせれば易々と勝てる。ただの人間、いや、魔術師であったとしても、暗殺者の英霊に数で圧倒されれば逃げる術はない。
  だが私は目の前に立つ『間桐臓硯』に勝つ未来を予測できなかった。
  残ったアサシンの大半は間桐に協力する何らかの組織の実態を探りだすために、間桐邸を中心にして冬木市のあちこちに出陣してしまっている。近くにいるのはこの状況を見張らせているアサシンが二体だけ。
  令呪を使えば全てのアサシンをここに集結させられるが、目の前にいるこいつに『数で押す』という力技の戦略が通用するか疑問を抱いてしまう。三対一の構図で戦い始めても勝てると理解しながら、それが実現できないであろう予測も同じく作り出してしまう。
  論理的ではない。
  いや、間桐臓硯に対して魔術師としての力量を把握しきれていないから、私の弱さがそう思ってしまうだけだ。
  バーサーカーのマスターである間桐雁夜、彼を調査する時、時臣師は『間桐臓硯』に対しても調査を行った。
  アインツベルンの調査で傭兵として雇われたであろう衛宮切嗣を調べたように、始まりの御三家であり敵でもある間桐の調査は綿密に行われた。同じ冬木市の中にあるのだから、表向きは不干渉を維持しながら、裏では聖杯戦争開始以前からの探り合いを行ってきたのだろう。
  その結果知った『間桐臓硯』と目の前に立つ人間はあまりにも違いすぎる。私の知る『間桐臓硯』は肉弾戦など行わない、間桐が飼育する多種多様の蟲を使って魔術を行使する。その筈だ。
  一年前―――。間桐臓硯がここまで変貌したのはちょうど一年前となっている。
  その時、始まりの御三家として第一次から全ての聖杯戦争に関わり続けてきた怪物が、これまで積み上げてきた『間桐の蟲の魔術』を捨て去ってまで何かを得た。
  時臣師を師事して私も数多くの魔術に触れる機会を得たが、三年かけても極めたと言える魔術は無く、どれもこれもが見習いの修了レベルでしかない。
  体系化された学問ですら短期間での習得は困難を極める。だが間桐臓硯はたった一年でこれまでの魔術とは別のモノを自らの力とした。
  この第四次聖杯戦争に関わっている部外者たち。彼らとの接触こそが間桐臓硯を変えた何かだったとしたらどうか? 間桐臓硯に対する疑念は私がこの戦いの場に現れる以前から行ってきたので、そう予測するまで数秒も必要なかった。
  ありえる可能性を脳裏に描きながら、私は黒鍵の一本を間桐臓硯の眉間めがけて投げつける。アインツベルンの森では幻覚だったが、ここにいるのは紛れもなく実体だ。何らかの動きをとる筈。
  すると間桐臓硯は、左腕だけを動かし、様子見の為に放たれた黒鍵の腹の部分を拳で払ったのだ。腕を立てる勢いで放たれた裏拳打ちが黒鍵を難なく防いでしまう。
  「容赦のなさと思い切りの良さは評価するが、いささか力不足じゃゾイ」
  弾かれて教会の壁に突き刺さる黒鍵を視界に収めると、間桐臓硯が言う。
  改めて目の前にいる『間桐臓硯』を見つめた時。これまでに考えなかった予測が私の中に現れた。
  理由はない。確たる証拠もない。突拍子もなく、見当外れだと他の誰でもない私が私自身に思う。だが、私の中で強い実感が―――必ず的中する予言のように、それを答えとして導き出す。
  こいつは魔術師とは異なる別の何か、間桐臓硯ですらない別のナニカだ。存在の違いこそが、一年前を境に変貌した理由なのだ。と。
  「貴様、何者だ?」
  「物覚えの悪い奴じゃの、間桐臓硯と――」
  「そのような戯言には興味は無い。貴様は間桐臓硯では無い!」
  投げつけた言葉は半ば賭けに近い。何物かが間桐臓硯になり代わるなどあまりにも型破りな発想で、魔術を、聖杯戦争を、魔術師を、それらを知る者ならば誰もが不正解だと口を揃えるに違いない。
  万が一に何者かが間桐臓硯になり代わっていたとしたら、その何者かは始まりの御三家として聖杯戦争のシステムを支え続けてきた間桐臓硯の代わりを務めたという事。何より、間桐臓硯を殺せるほどの実力者だという事だ。
  ありえない。
  そう思いながらも、直感で導き出してしまった答えこそが正しいと思っている私もいる。
  「ホワッ・・・」
  するとフクロウの鳴き声にも似た声が聞こえてきた。
  その声は私の前にいる間桐臓硯の口から出ていた。
  「ホワッホッホッホ、ホッホッホ!! ホーホッホッホッホ、ホホホホホホ!!」
  一瞬で笑い声へと変化し、教会の中を奇怪な笑いで埋め尽くしていく。
  「・・・何を笑う?」
  私が間桐臓硯の正体を突き止めようとする状況で、何故笑う必要があるのか?
  あまりにも突然だったが、隙あれば黒鍵での攻撃と距離を詰めての殴打を行う準備はしっかりと整っている。だが、行動の不可解さ故に私は攻撃できなかった。
  間桐臓硯は体をゆらゆらと揺らしながら高らかに笑い声を出し続ける。そして一息つくと、右手で左肩部分に触れる。
  そこにある黄色い頭巾の一部、そして青のケープ。更にその下にある衣装を丸ごと掴む様に強くそこを握りしめた。何か飛ばすつもりか?
  「中々、やるじゃなーい。ボクちん、ちょぉぉっと驚いちゃったよー」
  「ん?」
  結果だけ見るならば、間桐臓硯は攻撃を行わず。ただ言葉を私に向けて告げただけだった。
  左肩の辺りを強く握りしめる以上の行動は起こさず、むしろそれに何の意味があるのかとこちらから問い詰めたくなる。
  だが肝心なのは、これまで話していた口調が一変し。その声には誰が聞いても別人だと判る違いがある事。
  声の低音と高音の違い。そして第一次聖杯戦争が行われた二百年前から生きている間桐臓硯の老躯を匂わせる『老い』が全て消えた。明らかに別人の声が頭巾の下から聞こえている。
  「ネズミ――、いやいやいや、雁夜が教える前に気付くなんて。大した奴だねぇ、褒めてつかわすじょ」
  そう言うと、間桐臓硯は左肩に当てていた手を力ずくで動かし。破る様な勢いで頭巾もケープもマントも右手だけではぎ取った。
  ビリビリビリ、と布が避けていく音と一緒に私と間桐臓硯との間と大きく広がった布地が遮断する。
  黄色、青、赤、黒。広がる布地は虹を彷彿させる色を私に見せ、ほんの一瞬だったが、間桐臓硯の体を全て見えなくする。
  そのほんの一瞬が過ぎ去って、腕力で切り裂かれた布地が横に押し退けられた時。長椅子の上に見た事のない男が立っていた。
  「むっ!」
  その男の背中側に広がった布地が収納されていく。私は巻き起こった奇怪な現象より、むしろ見た事のない男が目の前に立つ状況に強く警戒を抱いた。
  単純に考えるならば、目の前にいる男は全身を奇抜な衣装で覆い隠していた間桐臓硯の中身。つまり間桐臓硯となる。
  肌には白い化粧を施し、首元から髪の根元までを白く見せ。口元から両頬まで笑みを描くように紫色の半円が描かれている。目元にも同じように紅い化粧がある。
  後ろで纏めた金色の髪、後頭部には小さな果物を模した髪飾りと白く大きな尾羽のような物体があり。首元は巨大な紅白の襟が広がって、肩まで伸びている。
  左の二の腕は赤い膨らみとなり、右の二の腕は紫色を元にした赤の水玉模倣。背中に流れるマントは真っ赤で、腰に巻いたパレオは黄色と赤が重なり合っている。
  その他にも右足をぴったりと包む青色や、左足はブーツまで同色にした黒色。胸元は形容しがたい多くの色が散りばめられており、統一性がまるで見当たらない。
  ピエロのような格好だ、私はまずそう思った。
  単なる色彩の豊かさだけ見れば隠されていた状況と現れた状況は似ているが、目の前にいるモノが先程とは全く別物だと私は理解する。私が考えた通り、やはりこの男は間桐臓硯では無い、どうやってかは判らないが、間桐臓硯に成り代わり今まで行動していたのだ。
  「褒美は私からの熱い一撃だ」
  間桐臓硯ではない何者かに対し、私はほんの少しだけ攻撃を躊躇ってしまった。
  それは突然現れた敵への警戒か。それとも、間桐臓硯ではないと確信していたにも拘らず、本当に別人が現れた事で驚いてしまったのか。
  とにかく私は眼前の敵に先手を許してしまう。
  「やっちゃうよ?」
  間桐臓硯のふりをしていた何者かはそう言うと、長椅子の上で横に体を半回転させ、何を思ったのか頭と足の位置を逆にした。
  不安定な場所でそんな事をすれば普通は転倒する。だがその何者かは空中に浮遊しながらへそを中心にしてその場で回転してみせて、立っていた場所から全く横に移動せずに上下を逆にしてみせた。
  両手を横に広げ、両足で輪を作る。それは惑星記号である金星を思わせる格好だったが、この状況でする意味が全く判らない。
  ふざけているとしか思えない。だが、私はその恰好から得体の知れない恐ろしさを感じ取った。
  ピエロを思わせる格好。そして変わった言動に合ったふざけた体勢。それなのにこれから放とうとして来る攻撃の意思がとてつもない悪寒となって私に危機を教えている。
  何をしてくるのかは判らない。ただ、危険だと一瞬で理解させられた。
  ここにきて、私はようやく手に持った黒鍵を相手に投げつけるという攻撃方法を思い出す。敵を前にしながら呆けるなど、代行者として戦い続けてきた日々では決してありえなかった。
  時臣師に師事した時間だけ鈍ったか? そう考えるよりも前に私は手に持った黒鍵の全てを目の前の敵へと投擲する。しかし、敵が一言呟く方がどうしても早い。


  「破壊の翼」


  間桐臓硯に成り代わっていた何者かがそう呟くと同時に背中から白い何かが噴き出した。
  あまりにも早く、そしてあまりにも大きく。あまりにも突然だったので、私はその正体に至れない。それでも、翼―――そう、囁かれた言葉から翼だと強制的に理解させられて、敵の背中から全方位に向けて広がっていく翼を見つめる。
  幾つも幾つも現れる白い翼。
  それは左右に伸びて、長椅子を粉砕していった。それは前に伸びて、敵を射抜こうとしていた黒鍵を弾き飛ばした。
  『浄化』に用いる概念武装が威力を弱める事すら出来ずに粉砕されていく。勢いは欠片も留まらず、私へと目がけて突き進んでいる。
  私は悟る。あれは私を殺す一撃なのだ、と。
  「綺礼様!!」
  長椅子が粉砕されていく音に紛れ、私の名を呼ぶ声がした。私は視界の中心にあった攻撃を収めつつも、同時に聞こえてきた声が誰のものかを知る為にそちらを見る。
  そこには教会の壁際から跳躍するアサシンの姿が合った。闇の中に紛れ込めるように地肌を黒く染めた暗殺者の英霊。白い翼で攻撃している色彩豊かな敵とは対極と言っても過言ではない黒い英霊が、私の前方を着地点にして跳んでいる。
  私は間桐臓硯の行動を探り、間桐が教会に攻撃を仕掛けるのか否かを知る為にアサシンに監視を命じた。
  その状態で留めるよう命令したが、マスターの危機を感じとり禁を破って助けに来たのだろう。今更ながら、私は周囲の光景をやけにゆっくりと認識している私自身に気が付く。常に一定に流れ続ける時の流れをゆっくりに感じていた。
  だからこそ白い何かの正体が翼である事も考えられ、アサシンの声も、彼らの行動を見て考える時間を得られたのだ。
  白い翼が私目がけてまっすぐに向かってくるのを私は見ていた。
  緩やかに流れる時の中で、アサシンが私とその白い翼との間に割り込んでいくのも見ていた。見れば、アサシンの数は二人に増えている。
  壁際から跳ぶアサシンと天井付近から落ちてくるアサシン。共に白い翼の前に降り立って、マスターを守ろうと立ち塞がる。
 耐久力では他のサーヴァントに一歩劣るアサシン。宝具『妄想幻像ザバーニーヤ』によって、その力は更に落ちているので、私を殺す一撃でも致命傷になるだろう。
  それでも彼らはマスターを守る為に行動した。
  槍と見間違えてしまう鋭さを持った白い固まりが―――白い翼が敵を射抜く武器となって突き進み、二人のアサシンを貫くのを見た。
  英霊の体を張った防御で攻撃の勢いは弱まり、衝撃で吹き飛んでくる二人分のアサシンを見た。
  敵の攻撃の勢いがそのままアサシンが私目がけて飛んでくる勢いに転化したのだ。時の流れが緩やかなものから普通へと戻ったその時。それはアサシンが私に激突した瞬間に変わる。
  苦痛を感じる暇など無く、ただ巨大な塊が私を吹き飛ばした実感だけが生まれた。
  私は呆気なく吹き飛び、教会の壁に叩き付けられた肺の中身を全て吐き出すかのような苦しみを味わう。一瞬遅れて全身がバラバラになったのかと思える痛みが指先から頭までを駆け抜ける。銃弾すら弾くケブラー繊維製の僧衣と言えど、全身を万遍なく叩き付ける衝撃は殺し切れない。
  僧衣に守られていない頭部にも衝撃はあり、壁と言う名前の硬い石で殴打されて血が噴き出た。
  気絶しそうな意識を懸命に意志の力で抑え込むが、全身を駆け巡る痛みはどうしようもない。私はぐらりと床に崩れ落ちていく体を二本の足で必死に支え、敵から目を離さぬ為に前を見る。
  まず見えたのは床に転がる二人のアサシン。
  胸元から腹部までを貫かれ、核を破壊されて現界出来なくなったサーヴァントの消滅がそこにあった。
  サーヴァントが殺されたのだ。
  つまり間桐臓硯に成り代わった者はアサシンを殺す術を持っているのだ。
  アサシン達が割り込まなかったら私もああなっていた。それを理解しながら更に視界をあげると、長椅子の上に二本の足で立つ状態に戻った敵がいた。
  「何と心地よい・・・。それもこれもお前もアイツもどいつもこいつも全部、ぜんぶ、ゼ~ンブ。ハカイ、破壊、はかい、ハカイ! ゼ~ンブ、破壊だ!!」
  両手を大きく広げて天を仰ぎ、今吹き飛ばしたばかりの私など眼前にいれずに身を震わせている。
  隙だらけではあるが、攻撃する私の状況が悪く、すぐには攻撃に移れない。
  私の怪我は致命傷にまでは至らなかったようだが、全身をアサシンと教会の壁で叩き付けられたので今にも失神しそうだ。当たり所が悪かっらしい。
  敵はゆっくり手を下ろし、肘を九十度に曲げて手を前にやる。そのまま手をぶらぶらと揺り動かしながら、私に向けて言ってきた。
  「綺礼ちゃん。僕と君って似てるよね? だから僕の正体に気付いたんじゃないかなぁ」
  「な・・・んだと・・・」
  辛うじて声は出たが、痛む体が満足に声を出させない。
  敵が攻撃してこないならば好機。もう少し呼吸を落ち着かせ、自分自身に治癒魔術をかけるか自らを誤魔化し体を動かさなければならない。
  敵の攻撃が何なのかは不明、しかし黒鍵だけでは歯が立たず、他の手段が必要になる。今は逃げるべき時。そこまで体を回復させる。
  すると敵は左手を引いて腹の横で握り拳にして、右手を広げて私に向けた。
  次の攻撃か?
  「聞けぇぇぇぇい、私の名は――」
 告げられようとした言葉が意味ある名前になる直前。教会の中をアーチャーの『王の財宝ゲート・オブ・バビロン』が黄金の輝きで埋め尽くした。
  「虫ケラが。誰の許しを得てここにいる?」
  「うきょきょ!?」
  一体いつからそこに居たのか? 掠れる目の端に教会の入り口だったモノが見えて、その中央に黄金の鎧をまとった金色のサーヴァントが悠然とたたずんでいる。
  四方ある壁の一角が全て円形の輝きで埋め尽くされ、その一つ一つから剣が、槍が、斧が、弓が、宝具である武器が撃ち出される瞬間を待ち、間桐臓硯に成り代わった者に狙いを定めていた。
  奇妙な驚く声を出しながら、そいつは私からアーチャーへと視線を移す。足元が不安定なので、首から上だけが動いたが、意識が私から外れたのは間違いない。
  「死ね」
 アーチャーが下す命令と同時に、『王の財宝ゲート・オブ・バビロン』から莫大な数の宝具が撃ちだされ、教会の床を敵ごと破壊していく。
  決して好調とは言えない今の私ではその数を見極める事も、戦いの余波を避ける事すらも出来ない。ただ目の前に起こる事実をありのままに受け止め、出来た隙を使って私自身に治癒魔術をかけるだけだ。
  私の目の前で起こる光景は場所と相手こそ違ったが、遠坂邸で真っ先に敗退したアサシン。確か、名をザイードと言ったか? あのアサシンが殺された状況とよく似ていた。
  巻き起こる粉塵。
  私とアサシンを殺した男がより強い攻撃によって死んだ。


  「シンジラレナーイ!」


  アーチャーに殺されたと思っていた私の耳に、粉塵の中から聞こえてきた声が届く。
 信じられないのは私だ。アーチャーの『王の財宝ゲート・オブ・バビロン』を何発も喰らい、それでもなお死なずに男はそこに居る。
  倉庫街で戦ったバーサーカーがそうであったように―――。それはつまり、間桐臓硯に成り代わった男の強さはアサシンを倒し、バーサーカーに匹敵する。つまり英霊の力と同等となる。
  徐々に粉塵が晴れていき、視界が広がっていく。周囲の椅子どころか、自分が立っていた椅子すらも木端微塵に破壊されていながら、その男は無傷でそこにいた。
  色彩豊かな衣装には千切れも汚れもない。射出された宝具を完全に避けたか、あるいは私が見えなかっただけで何らかの手段を使い完全に防いでみせたのだろう。
  「これは危険! まさに絶体絶命ってやつかなぁ? 逃げたほうがよさそ」
  「ま・・・て」
  「待てと言われて待つ者がいますか! 覚えてらっしゃい、この借りは必ず返してやるぞ!」
  信じ難い光景を見ながら何とか声を絞り出した私に向け、その男は両手の人差し指で私を指さした。
  アーチャーが作り出す攻撃の輝きから完全に目を逸らしてこちらを見るその姿は、ふざけている様にしか見えず。ピエロのような格好がそれの拍車をかける。
  この場にいる全てを嘲笑っている。私にはそう見えた。
 「虫ケラ風情が、オレから逃げられると思っているのか?」
  「無理無理? でもないかな。これ位ならお茶の子さいさい」
  憤怒の表情を浮かべているであろうアーチャーの声を聞き、男はそちらを見ずに応じる。そして一瞬後、今までよりも広範囲の攻撃が教会の中を埋め尽くし、その余波で私は気を失ってしまう。
  それから何が起こったのか、私は知らない。





  過ぎ去った時間はほんの十分から二十分程度。私は冬木教会の床の上で目覚め、荒れ果てた無残な様子を目の当たりにした。怪我の軽さがそのまま失神から復帰する時間に比例したのだろう。
  骨や筋肉に若干の異常が見られ、骨にひびが入るか体の中で血管が何本か千切れている可能性はある。ただし臓器が潰れたり穴が開いているような命にかかわる事態には陥っていない。
  頭から血が流れていたが、拭い去ればすぐに消えた。
  あの間桐臓硯に成り代わっていた者―――確信などまるでない私の感覚だけが頼りの問い掛けは、幸か不幸か正解を導いてしまったらしい。
  名を聞く直前でアーチャーが乱入してきたので、まだ『間桐臓硯』あるいは『何者か』としか言い表せないのが残念だ。
 冬木教会の惨状はその何者かとアーチャーの王の財宝ゲート・オブ・バビロンが作り出した結果であり、私は真っ先に、よく命が助かったものだ、と考えた。
  その理由は殺されたアサシンであり、そして無残な様子を作り出したアーチャーでもある。
  アサシンが敵の攻撃を防がなければ私は死んでいただろう。
  アーチャーの宝具が一発でも直撃していれば私は死んでいただろう。
  サーヴァントによってマスターが命を救われた。聖杯戦争では当たり前に起こる事態だが、今に至るまで私はマスターとして聖杯戦争に関わってこなかったので、サーヴァントに命を救われたのはこれが初めてとなる。
  しかし私には彼らへの感謝の気持ちはない。むしろ、邪魔をされた、とすら思っている。
  命は救われたが、その代償としてあの何者かと語り合う機会を逸してしまったのだ。まだ名すら聞いていない。
  だがとにかく私は生き延び、自らに治癒魔術をかけ直しながら辺りを観察する。そして祭壇の上に横になる父もまた生きている事を知った。
  等間隔に並ぶべき椅子は殆どが砕け散り原形を留めておらず、壁は砕け、床板は剥がれて酷い場所では教会の土台が隙間に見える。柱と天井が辛うじて無事なので、内部の強烈な破壊とは裏腹に外から見れば何事も無いように見えるかもしれない、だが内部は酷い有様だ。
  この中で壁際に吹き飛ばされた私と祭壇の奥まで移動させられていた父が無事だったのは神の恩寵だろう。
  私は何とか様子を窺えるまでに心を落ち着け、あの『何者か』の仕出かした事の大きさを考える。
  始まりの御三家の一角である間桐は他のどのマスターよりも聖杯戦争を完遂しなければならない立場にいる。中立の不可侵領域となっている教会への攻撃は重大な違反行為であり、時臣師にお伝えしなければならない重要な情報だ。
  しかし、表向き私たちは聖杯を求めあう敵マスター同士なので、共謀を悟られないように魔術的な連絡手段を持たない。冬木教会と遠坂邸を繋ぐ魔導通信機はこの例外だったのだが、時臣師が地下工房から出陣してしまったので連絡を取る術がない。
  けれども仮に遠坂師に連絡できる手段が合ったとしても。私は『間桐臓硯の襲撃』と『負傷しつつも撃退した』、この二点の事実にのみ言葉を集約し、明らかに間桐臓硯ではない何者かの存在を隠匿するつもりでいた。
  あれは衛宮切嗣とは違う形で私が求める答えを持っている。そう思えたからだ。これもまた、私がサーヴァント達に命の恩人だと感謝できない理由であろう。
  狂気。
  破壊。
  類似。
  何もかもが私とは対極に位置し、私が求める答えを持つとはとても思えない人物だ。けれど私があの男の正体を見破った時と同じように、私の中には言葉では説明しきれない何かが蠢き、それが強くあの男との対話を求めている。
  他でもない私自身が不条理と断じながら、無視できない衝動とも言うべき何か。
  必要であれば情報は開示するが、今はまだあの男の事を隠匿する心づもりであった。
  目覚めた私は父の無事を確認した後。結果として、私の命を救ったアーチャーを探し、教会に用意された私室に我が物顔で居座る金色のサーヴァントを見つけた。
 「綺礼よ。あの程度で死ぬならば、お前はその程度の男だ。死なすには惜しい男ではあるが、まだオレの手を煩わす器ではない」
  毛皮のファーをあしらったエナメルのジャケットにレザーパンツ。
  キャビネットから持ち出したワインをグラスに注いで、優雅に呷る姿は現代風であり、とても聖杯戦争に招かれた最古の王には見えない。敵に攻撃した鎧姿のアーチャーとはまるで別物だ。
  あの後、アーチャーは私が生きている事を確認しただけで、そのまま放置したようだ。
 「オレは機嫌が良い。あの程度の羽虫一匹取り逃がしても寛大になれる程に、な。無論、あの雑種が次にオレの目に入れば死ぬ。これはオレの決定だ」
  多くは語らなかったので私も多くは聞かずに会話を止めた。どんな攻防が合ったのかを私が知る術は無いが、不遜なこの英霊がその機嫌を損ねれば即座に私の首は飛ぶだろう。
  逃げられたのか? そう口にしようものならば、私が時臣師の協力者として聖杯戦争に関わっていると知った上で殺すに違いない。
  まだ私は答えを得ていない。殺されるわけにはいかないので不用意な一言は喉の奥へと戻していく。
  そして今回の騒動でアーチャーがアサシンのマスターである私を助けた事が他のマスターに知られた可能性がある。教会に不用意な干渉を行うマスターはいないが、アインツベルンの森で行われたアサシンの襲撃と、教会に匿われている私の二つを、あの場にいた者ならば確実に繋げて考える。
  間桐臓硯に成り代わっていた何者かが襲撃を仕掛けるのは極端な例だったが。監督役を不審に思い、使い魔を放っても不思議はない。
  監督役である父、アサシンのマスターである私、そしてその私を助けたアーチャー。見られていれば、この三つが全て繋がっていると結論付ける。時臣師が対サーヴァント戦において必要な情報を手にいれた今、協力関係が露見するのは諜報の観点ではマイナスにはならないが、聖杯戦争の根幹である七人のマスターと七騎のサーヴァントが聖杯を求め戦う前提が崩れてしまう可能性はあった。
  教会を見張る目を監視するアサシンが私の代わりに消滅してしまったので、あの様子を知ったのが間桐以外にあるか否かは不明だ。もしセイバー陣営や、ライダー陣営に状況を知られていたら、キャスターを除く全員と、時臣師と私、この二つの勢力に別れて戦う未来もあり得る。
  残ったアサシンに、他陣営同士が共闘関係を結ぶ動きがあるか否かを注意深く見張らせる必要が出て来た。
  私は冬木に散らばるアサシンに向け念話で新たな命令を出しつつ、教会の片づけと父の看病を行い始める。
  不慮の事態により監督役がその責務を全うできなくなった場合、後任がその役を引き継ぐ事になっている。だが監督役には聖堂教会に属する、そして第八秘蹟部の構成員である必要がある。
  今の冬木市には聖堂教会のスタッフが魔術の隠匿の為に数多く潜入しているが、その中に後任の人物がいるという話は聞いていない。
  そもそもこれまでの聖杯戦争で監督役が後任あるいは代行を必要とする事態になど陥った試しがない。今回の事態で危機管理への甘さが露見した事になる。
  ただ、父の怪我は軽く、衝撃で気絶こそしていても療養を必要とする重傷ほどではない。他の助けを借りずに私の治癒魔術でも十分に回復可能なのは幸いと言える。これならば後任が監督役を引き継ぐまでもない。
  ほんの一日。普段の就寝よりもほんの少しだけ長い数時間。次に目覚めた時、再び父は監督役へと復帰出来る。それが私の見立てだ。
  その間だけを凌げば私が監督役に関わる必要は無くなる。
  アサシンのマスターである私が冬木教会に留まるのは危険と判断する。可能ならばすぐにでも教会を出てアサシンのマスターとして聖杯戦争を続けるべきだ。
  他のマスターが襲撃せずとも、間桐は監督役を倒す意思を見せたので、留まり続ければ再び攻撃してくるだろう。そして魔術的な結界に守られていないこの冬木教会では敵を待ち構えるには少々頼りない。
  だからこそアーチャーが何度も難なく侵入できているのだが、拠点として見れば脆弱だ。
  ほんの数時間を凌ぎ切る意思を固めながら私は後片付けを続ける。脳裏にはあのピエロのような外見をした何者が浮かんでいた。



[31538] 第26話 『間桐雁夜はマスターなのにサーヴァントと戦う羽目になる』
Name: マンガ男◆da666e53 ID:6a0d9b18
Date: 2013/04/06 20:25
  第26話 『間桐雁夜はマスターなのにサーヴァントと戦う羽目になる』



  ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆



  Side - 間桐雁夜





  俺はゴゴから―――正確に言えば、自称トレジャーハンターの『ロック・コール』の姿をしたゴゴが話した、『アサシンとの戦闘』をやる為に蟲蔵へと向かっていた。正直、いつの間にかアサシンを捕獲して間桐邸で監禁しているゴゴには色々と言いたい事があるが、既にやってしまっている事については後の祭りの上に、ゴゴのやろうとしている事を俺が止められた事など一度もない。
  だから早々に諦め、目の前にある事実を受け入れる事にした。
  俺の目的になっている『桜ちゃんを救う』、それを物真似しているゴゴが桜ちゃんの不利益になるような真似はしない。行動は破天荒だが、その点だけは信頼している。ならばアサシンが間桐邸にいたとしてもそれが桜ちゃんにとっての悪い事には繋がらないだろう。
  多分そうなる。
  と、思われる。
  だから諦めた。そうするしかなかった。
  「雁夜、バーサーカーの力は借りるなよ。お前だけの力でアサシンを倒してみろ」
  付き添いなのか見張りなのか、アサシンが蟲蔵にいると俺に言ったロックは俺と並んで蟲蔵へと向かっている。
  姿だけ見るとこいつは間桐邸に初めて入った筈なのだが、迷いない足取りは勝手知ったる家人のそれで、やはり姿形は違ってもゴゴなのだと納得できる。
  が、恰好だけ見たらゴゴを知っている俺でも絶対に同一人物とは思えない。
  「そういえば、アサシンなら俺でも何とかなるって前に言ってたな?」
  「キャスターの時と違って敵はアサシンだけだからな。バーサーカーを上手く使えば、雁夜が戦わなくてもよくなっちまう」
  「暴走しないようにバーサーカーを抑え込みながら戦え、か・・・」
  「いい修行だな」
  繰り返すが、間桐邸に初めて入るのと同じで、俺がキャスターと戦った時もロックはその場にいなかった。『ロック・コール』という人間だけに焦点を当てるなら、知らない筈の出来事をまるでその場にいた当事者のように語っている違和感がある。
  だがあの場にはゴゴがいた。姿は違っていたけど同じ存在がいた。
  だからいなかった筈の男から語られるアインツベルンの森での戦いに盛大な違和感を感じつつも、意識してそれを抑え込む。
  蟲蔵が近づくに連れ、足音がカツン、カツンと鳴り響いてしまう。地上部分にある間桐邸は板敷きかマットが敷いてあるので足音はほとんど鳴らないが、地下の堅さは今も昔も変わっていない。
  「アサシンにも武器を渡すぞ、死にたくないなら絶対勝て」
  「・・・・・・」
  ゴゴがわざわざ修行目的で俺とアサシンを戦わせるのだから、相手が無手などと甘い期待は抱かない。
  だが敵に向かって普通に武器を渡し、その上で弟子―――つまり俺の事なんだが―――と戦わせようとする考え方が俺には判らない。スパルタというのも生易しい荒療治や無謀ではないだろうか。
  もっとも、修行でゴゴに殺された回数は既に両手で数えられる数を軽く突破してるので、生死に関しては今更だろう。考えるだけ無駄だ。
  正直『死んでいる』時の感覚は、生命活動そのものが停止しているから覚えている筈が無いのだけれど、死ぬ間際の体が冷たくなる感触は何度か味わっている。
  体の底から体温が抜け落ちていくような、言葉では何とも言い難い感触。あれは何度やっても慣れない。
  あれを味わう位ならば、痛みを味わって生きてる実感を得る方がまだマシだ。
  俺が色々と考えている内にとっとと蟲蔵へ到着してしまい。臓硯の蟲を思い出させる薄暗い様子に、この一年間で何度殺されたか判らない修行の有様が俺の頭の中に湧きあがってくる。
  間桐の蟲の本拠地と言ってもおかしくない場所だったし、俺も蟲に体を喰わせた経験があるのでいい思い出なんて一つもないが、ゴゴとの修行で別の苦手意識が生まれた気がする。すなわち死への恐怖だ。
  頭の中に浮かぶ恐れを跳ね除ける為にも、目に見える景色に俺は意識を集中する。そして蟲蔵の中央にいる二つの人影を見つけた。
  隣にいるロックとは違うものまね士の格好をしたゴゴがいて。―――その足元にはピクリとも動かないアサシンの姿がある。
  ゴゴの視線を借りて英霊を見る機会は何度かあったが、俺自身の肉眼でアサシンを見たのはこれが初めてだ。
  蟲蔵の薄暗さよりもなお暗い衣装と地肌。全身に黒い塗料を染み込ませて闇に隠れやすいように自分自身を改造しているようだ。蟲蔵の床に横たわる姿は本体のない影だけがそこにある様にも見える。
  よく考えてみると、臓硯が生きていた時は―――ゴゴの立ち位置が臓硯で、床に倒れたまま動かないアサシンの位置が俺じゃなかったか?
  蟲蔵の中では力なき者が力ある者から一方的に睥睨させられる。これは人が違っても、ありえたかもしれない一つの可能性。
  あのアサシンは俺だ。もしゴゴが蟲蔵に現れなかった場合、臓硯に聖杯を渡して桜ちゃんを救おうとした俺自身だ。
  「・・・・・・・・・」
  目に見える光景と、ありえたかもしれない可能性が交錯した瞬間、俺の背筋が凍った。
  もし、ゴゴが間桐邸に現れなかったら―――攻撃してきた臓硯を容赦なく殺さなかったら―――『桜ちゃんを救う』物真似をしなかったら―――俺はあのアサシンと同じようになっていた。
  今、俺が蟲蔵に立ち、倒れるアサシンを見下ろしているのは途方もない偶然と幸運の上に成り立った奇跡だ。これまで、その事を何度も脳裏に思い描いてきたが、今以上に実感が伴った事は無い。
  俺は一生涯かかっても返しきれない恩をゴゴから受けてる。無言の中で、何も言えず立ち竦むが、心の中では強くそう思えた。
  ありえたかもしれない現実への恐怖が体を縛りつけ、目が横たわるアサシンから離せない。けれど、いつまでもそうしている訳にも行かず、十秒も経てばもう冷静さが俺の中に戻っていた。
  ゴゴに呆けていた事実を正直に告げれば、『よく敵の前でそれだけ呆然としてられるな』と呆れられて、修行の密度を更に濃くされるだろう。
  だから俺は何も言わない。ただ、伏すアサシンを敵と定め注意深く観察する。
  アサシンはゴゴに痛めつけられて全く動く気力が無いらしい。今ならバーサーカーの一撃で簡単に消滅してしまいそうな感じだ。
  だがアサシンが動かないからと言って敵を近くに置いて油断してはならない。
  距離を隔てて相手が動かなくても、特に拘束してない敵を前にして呆然とすればそれはすぐに『死』へと繋がっていく。俺は少しずつ近づいても全く動かないアサシンに対し、警戒を強めながら『こっちを油断させる為に死んだ振りをしてるのか?』と考える。
  動かないからと言って無力ではない。それはゴゴとの修行で嫌になる程教わった。
  アジャスタケースから魔剣ラグナロクを引き抜いて準備を整える。敵サーヴァントが目の前にいてバーサーカーが暴走しないか心配だったが、バーサーカーはアサシンが半死半生なのを見抜いているのか、不安げな俺とは対照的に全く動く気配を見せなかった。
  もしかすると狂戦士は弱い獲物には興味が無いのかもしれない。
  余計な邪魔は入らないようなので、その点については安心できるが、俺が使える魔法と剣一本だけで英霊を相手にするには若干力不足の気もする。
  街を歩く時に身に着けていたアクセサリ『見切りの数珠』は今も俺のパーカーの左袖の下にあり、高確率で敵の物理攻撃を回避出来るこのアクセサリがあれば、アサシンの攻撃にもある程度は対処できる筈。
  ただし、明確に効果を実感した事は一度もないので本当にそうなのか自信は無い。
  死への恐怖と、ありえたかもしれない俺の末路への悪寒は少しずつ消えて行き、意識が戦いのそれに変化していく。一気に切り替えられればそれは一流の証なのかもしれないが、今の俺ではすぐに切り替えられない。
  ゆっくりと、けれど確実に意識を切り替えて、敵を倒す為に全ての意識を集中させてゆく。
  そうしていると、自然に思考が戦いの手数の少なさに移っていった。これでゴゴが相手の修行ならば、手数の少なさもまた鍛錬の一環と思えるのだが、これから俺が殺し合うのはゴゴではなくアサシンだ。
  俺か相手か。どちらか一方が確実に死ぬだろう戦いに置いて、十全に力を発揮できる状況は整えなければならない。
  これまでほとんど使う機会が無かった。その強大すぎる力故に一度発動すれば周囲に与える被害が大きく、もし英霊に通じなければ意味が無いのでこれまでほとんど使ってこなかった。けれど、今は必要だと思える物―――それが俺の頭の中に浮かぶ。
  俺はこれまで私物入れになっていたポシェットに手を当てながら、ロックに向けて言った。
  「ゴゴ・・・あの魔石を貸してくれ」
  「それはあそこで立ってるゴゴに言え」
  「どっちもお前だろうが!!」
  「物真似をしてる今の俺は『ロック・コール』だ、魔石を全部持ってるのは『ものまね士ゴゴ』だからな。間違うのは駄目だぞ。それから『あの魔石』だと判る筈ないだろう、ちゃんと何の魔石か言え」
  「この野郎・・・」
  この一年の修行の間、ゴゴから受け渡されて何度かお世話になった『魔石』。ポシェットの中に収まれば、ずっしりと重さ以上の何かを感じる神秘のアイテム。
  ロックもゴゴも本質は変わらないくせに別人のように振舞う状況に忌々しさを感じつつも、英霊相手には『魔石』が必要だし、ものまね士として別人を物真似し続けるゴゴの矜持を判らなくもない。
  仕方ないので、俺は苛立ちを隠して蟲蔵の床に立つゴゴへと話しかける。
  「ゴゴ――」
  「何だ?」
  「魔石『ゴーレム』を出してくれ」
  「これで『アレクサンダー』『バハムート』『オーディン』を願ったら、戦う前に半殺しにするつもりだったが。『ゴーレム』ならいいだろう」
  「・・・ロックが俺に修行だって言ったからな。それに俺の魔力じゃそいつらを召喚できないって判って言ってるだろ」
  「『ジハード』なら構わないつもりだった。雁夜の覚悟を知る意味でな」
  「使った途端にぶっ倒れて、その上で焼き殺されたあれを誰が使うか! この大馬鹿野郎!!」
  ゴゴに向けて怒鳴りながらも、俺は足元に転がってるアサシンから全く視線を動かさない。目を離している間に向かってくる可能性は充分にある。
  安全を考えるなら距離を詰めたくないのだけれど、修行を強要している弟子としては戦いしか選択肢が無い。そしてゴゴと話す為には敵に近づかなければならない。
  どうしようもない危険地帯の中心にいなくちゃならない我が身の不幸に息が止まりそうだ。
  「とにかく『ゴーレム』を貸してくれ」
  「いいぞ――。二分でアサシンを復活させて、戦闘場所を整える。死ぬ気で戦え雁夜」
  「言われるまでもない」
  俺にとって蟲蔵から始まる戦いはゴゴとの修行と変わらない。
  ついでにゴゴに何度も殺されてきた苦い経験を思い出させる場所でもある。
  今の敵はアサシンだが、結局ここで殺し合うのは変わらない。きっとこの蟲蔵は、生息する蟲がいなくなったとしても、俺が『間桐雁夜』でいる限り決して逃れられない場所なんだ。
  「ほれ『ゴーレム』だ」
  「っと、っとと」
  手の平を上に向けたゴゴの右手から緑色の水晶が姿を現す。中央にオレンジ色の六芒星を携えたそれは出現と同時に俺の方に投げてよこされた。
  この世界の魔術師にとっては宝具に匹敵するかそれ以上の貴重なアイテムなのに、ゴゴは相変わらず魔石を荒く扱う。
  急に投げられたそれを魔剣ラグナロクを持つ手とは逆の手で受け止めて、俺は急いでポシェットへとしまった。
  もっと魔石を大切に扱え、とゴゴに言いたい気持ちが湧き出るが。今はそれよりもアサシンの傍を離れたいのと、戦いの意識へ完全に切り替えたい思いの方が強い。
  俺はアサシンの方を向いたまま、五歩後ろに下がる。
  「それじゃあアサシンの準備を始めるか」
  蟲蔵の中心でそう言ったゴゴを見ながら、俺は魔剣ラグナロクの柄を強く握りしめて深呼吸した。
  殺し合いは近い。
  もうすぐそこまで迫っている。



  ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆



  Side - ゴゴ





 宝具『妄想幻像ザバーニーヤ』によって分裂しているアサシンは全てが同一のサーヴァントであと同時に、その個々に分割したサーヴァントである。
  それぞれのアサシンには得手不得手があり、別個のアサシンである為に似た部分は数多く存在するが、それぞれの得意分野が存在する。
  ゴゴはその得意分野を考慮して、目の前にいるこのアサシンを一昼夜かけて調べ尽くした。
  もちろんアサシン一人だけでは、英霊ハサン・サッバーハにして『百の貌のハサン』の異名をとるアサシンの全てには遠く及ばず、生前の体験や記憶や思考などを知るには時間が無さ過ぎる。人格形成の全てを物真似出来る程、まだアサシンの心を暴いていない。
  調べ尽くした内容は、サーヴァントとして聖杯戦争に招かれたアサシンの一人の技術としての『全て』だ。
  しかし今はそれで十分。
  今のアサシンは体力の全てを使い果たし、こちらからの魔力供給をほんの少しでも弱めた途端に消滅してしまいそうだ。けれど、まだ消滅には至っていないので、ゴゴはそんなアサシンへと語りかける。
  「意識は合っただろう? 聞こえてたなら判る筈。お前には雁夜と殺し合ってもらう。それとも最初のように、こう話しかければ応じるかゾイ?」
  ものまね士ゴゴとしての話し方が途中からストラゴスのそれに変化していくと、アサシンの右手の指がほんの少しだけ動いた。
  とりあえず生きてはいる。意識もある。一昼夜かけて調べ尽くす為に、傷つけたり弄ったり殺したり蘇らせたりし過ぎて、生きようとする気力が摩耗しているのだろう。
  雁夜がこの一年で味わった責め苦を一日で負ったようなものだ。いかに英霊と言えど精神の疲労はとてつもない重圧になる。
  「もしお前が雁夜に勝てたら生きてここから逃がしてやろう。こちらの情報をマスターである言峰綺礼に渡すも由、ものまね士ゴゴが存在する限り供給される魔力で一人の英霊としてずっと生き長らえるも由だ」
  「・・・」
  「ただし、敷地を一歩でも外に出た瞬間に新しい敵が生まれるからな。こちらからの追撃を逃げ切れなければお前は死ぬ。生きる為には雁夜に勝ち、間桐からの追手を振り切らなくちゃ生きるのは難しいな」
  「・・・」
  「じゃが、これまでのお主の処遇を考えれば、これ以上ない好機じゃゾイ。万が一にも逃げ切れたらお主には自由が待っておる。お主への魔力供給を止めて消滅させるなど無粋な真似はせんから安心せい。ワシが本気で逃がさなんだ、『これまで』よりは助かる確率は高いゾイ」
  ゴゴは口調を刻々と変化させ続け、アサシンに向けて語り続ける。
  聞こえる言葉をどれだけ理解しているかはアサシンにしか判らないが、わざわざ敵に聞かせてやる時点で親切なのだから、それ以上をやるつもりはない。
  聞いていなかったらそれはアサシンの責任だ。
  アサシンがもし雁夜に勝利を収めたとして、敷地外へと逃がす約束はちゃんと遂行する。そこで再び間桐邸に戻り、ものまね士ゴゴに絶対服従を誓うならば命を助けてもいいが、僅かでも逃げる素振りを見せたならば全力で排除する算段だ。
  全部説明していても、敵対するならば絶対に逃がさない心算である。我ながら意地が悪いとは思いつつ、聖杯戦争にサーヴァントとして招かれたならば殺す気も殺される気も覚悟の上と勝手に決める。
  大体、命の取り合いを覚悟できない者は戦場に出てくるべきではない。
  魔法効果を消す対消滅の魔法『デスペル』でそのまま消さなかっただけ感謝されるべきではないだろうか? 何回も殺されて、何回も蘇らされ、そのたびにサーヴァントとしての能力を模倣され尽くされたアサシンは決してゴゴに感謝しないだろうが、それでもただ死ぬよりは遥かにマシな選択が目の前にある。
  死んでしまえば何も残せない。
  消えてしまえば何も残らない。
  生きていれば機会はどこかに転がっている。
  雁夜との戦いは、色々な事を物真似させてくれたアサシンへの恩返しの面もある。
  「流石に武器無しで雁夜に挑むのは英霊と言えど苦しい。そこでお前には『エアナイフ』を渡してやるからお前が使う短刀の代わりの武器にしろ。柄の部分も刃の部分も黒く染めて似せてやるからな」
  「・・・」
  「踊って場所を・・・サーヴァントのお主には固有結界と言うた方が判り易いかの? とにかく、蟲蔵の中ではなく、別の場所で存分に戦うといいゾイ。お主の優位になる場所でなければ雁夜の修行にならん。勝てる理由がもう一つ増えたのう」
  「・・・」
  「魔力を今まで以上に送り込んでやる。いきなり逃げ出してもいいが、何度試しても無駄だったんだから思い知った筈。それでも逃げるんじゃったら好きにせい。雁夜と戦う前にもう一度ぶん殴って卒倒させてやるゾイ」
  気の短い者なら全く応対しないアサシンに『聞いているのか!?』と怒声の一つでも投げつけるかもしれないが、ゴゴはそんな事はしない。
  結局の所、ゴゴにとってアサシンがこちらの話を聞いていようと聞いていまいと関係が無い。それはどうでもいい事柄なのだ。
  言峰綺礼のサーヴァントではなく、ものまね士ゴゴのサーヴァントになってしまったアサシンへ向け、ゴゴの体内にある大聖杯を物真似した術式を利用してアサシンへと魔力を流し込む。
  ものまね士ゴゴの莫大な魔力を術式に中継させてサーヴァント用の魔力へと変換。聖杯とサーヴァントの間にある魔力の縄を通って英霊の核へと送る。
  この感覚を人に理解させるのは非常に難しいが、蛇口の栓を緩めて水を流し、飲む者に分け与えている構図が一番近い気がする。栓を緩めるか閉めるかの決定権を持つのが聖杯―――つまりものまね士ゴゴだ。
  「力が戻っていくのが判るじゃろ。あと数十秒もすればお主は完全に治るゾイ。それでも不足じゃったら、こうするだけじゃ」
  「・・・」
  「ケアルラ!」
  「・・・」
  「魔力、体力、武器。十分すぎる程の準備は整えてやった。あとはお前がどうするか、だ」
  そう言いながら、右手を下に掲げて魔石を生み出すのと同じ要領で自分の中から『エアナイフ』を作り上げていく。
  魔石の出現と異なるのは手の平に円形の輝きが起こり、そこから風属性の短剣がずぶずぶと浮き上がってくる点だろう。
 これはバーサーカーの変身宝具『己が栄光の為でなくフォー・サムワンズ・グロウリー』とアーチャーの宝具を組み合わせ、魔力によって新しいモノを編んでいく、生成宝具とでも呼べる現象だ。
  本来の『エアナイフ』は真っ直ぐな両刃の短剣で、先端の部分だけが小さな三又になっているだけの短刀だ。柄の部分に十字架の模様が描かれている程度が特色で、かつて旅した世界では正直影が薄い武器の代表だった。雁夜の魔剣ラグナロクには大きく劣る。
  ただし、作り出した『エアナイフ』は、刃の部分も柄の部分も本来の色彩とは異なる黒一色に染め上げられ、蟲蔵の床に伏したアサシンの黒さよりも尚黒い武器として仕上がっている。
  ゴゴは『エアナイフ』が出現すると同時に手で握りしめ、屈みながらアサシンの顔の横へと突き立てた。
  ほんの少し横にずれればアサシンの後頭部を叩き割る攻撃だったのだが、それでもアサシンは動かない。
  流し込んでいく魔力でサーヴァントの貯蔵魔力は満たされてる、回復魔法の一つ『ケアルラ』で体力も戻っている筈なので、動けない理由は攻撃を避けようとする意志がなかった以外に考えられない。
  さすがの英霊も一昼夜かけて壊され続けては生きる意思が萎えてしまったか。そんな風に思いながら、それならそれでしょうがないかと見切りをつける。
  この程度で終わるようならば、暗殺者の英霊などその程度でしかない。
  「生きたいのならば立ち上がるんじゃゾイ。死にたければそのままでおればいい」
  ゴゴはそう言って小さくジャンプする。そして片足を床につけた状態で右に二回ほど体を回転させる。
  これでモーグリのモグが使える特殊技能『踊り』の準備は出来た。後は技の名を呼ぶだけだ。
  「鬼火」
  そう呟いた後、アサシンを目の前に置いた状態で蟲蔵が別の場所へと変わっていく。
  滑らかな床と天井はごつごつした岩の地肌に変わり、元々は間桐の蟲が住んでいた穴は地面と同じような自然が作り出す岩になっていく。
  穴は数を減らす代わりに大きさを増し、巣としての穴ではなく人が何人も通れる洞窟になっていった。洞窟の奥に広がる闇は深く、地獄へ誘っているかのような黒さを見せている。
  あっという間に整えられた間桐邸の蟲蔵は消え、代わりにゴゴの周囲には洞窟が広がった。
  『鬼火』。これは本来ならば『踊り』の中で『闇のレクイエム』の中に該当する技で、敵に炎属性のダメージを与える攻撃手段なのだが、今はどこかの洞窟へと変わり果てたこの空間を満たす光源となっている。
  ただし洞窟全体を照らすほど強くは無く、辛うじて身の回りが見える程度のか弱い光りが辺りを照らすだけだ。
  雁夜とアサシンの戦いの場所を開けた場所にしてしまえば単なる武力の衝突になり、アサシンのクラス別能力『気配遮断』を使っても簡単に見つかってしまう。
  『森のノクターン』で鬱蒼と生い茂った森の中を戦いの場にしようかとも考えたが、あちらは『森林浴』などの技に代表される昼の森を基礎にした空間なので、死角は多いだろうが明るい場所ではアサシンの黒さが目立つ。
  だからこその洞窟―――『闇のレクイエム』となった。
  「あと一分だ。俺はここを離れるが、生きたかったら立ち上がって武器を取るんだな」
  言葉にはしなかったが、『闇のレクイエム』で作り出した洞窟の中に雁夜とアサシンを取り込んだ時、バトルフィールドも一緒に展開しておいた。これで戦闘の途中で洞窟が崩落して生き埋めになったりしないが、落盤を人為的に引き起こすような自然を武器にした戦い方も出来なくなる。
  あくまで雁夜とアサシンが持つ、肉体的精神的な能力によって勝敗は左右される。修行には好都合であろう。
  「ではよい戦いを期待しておるゾイ」
  後ろを振り返ってみれば蟲蔵では居た雁夜とロックの姿は全くない。
  幾つも出来上がった洞窟の変化に巻き込んだので、今頃はアサシンとは別の位置で戦いの準備を整えているだろう。戦闘開始の合図はあちらにいるロックに任せればいい。
  準備を整えたゴゴは戦いの邪魔にならないように壁際へと移動する。
  歩く音に紛れ、衣擦れの音が聞こえて来た時。ようやくアサシンが動き出したのだと理解した。
  見なくても判る。
  そうでなければ困る。
  このまま何もせずに雁夜が来るまで倒れていて、戦いもなく殺されるなど興醒めだ。
  平時のアサシンなら音一つ立てないだろうが、今は本調子ではないので音が聞こえる。そこに一気に起き上がる俊敏さは無かったが、それでも暗殺者の英霊の戦う意思がまだ挫けていないと教えていた。
  願わくば、アサシンが持つ高位の敏捷性を十全に発揮できるようになってほしい。
  そう出来ない様に壊し尽くしたゴゴが願うのはおかしな話だが。とにかく全力で戦ってほしい。
  歩けばすぐに洞窟の壁に到達し、鬼火の一つを天井近くにまで持って行きながら背中を壁に預ける。観客となる準備を整え終えると、離れた場所で立ち上がったアサシンを捉えた。
  手には全体が黒く染まった『エアナイフ』があり、白い髑髏の仮面の隙間からこちらを見ている。
  下半身を包む簡素な衣装、手首から肘までを巻いた布、後ろに流した紫色の髪、そして握るのは暗殺の為の武器。何もかもがアサシンのサーヴァントそのものだ。
  「俺と戦うか? それもいいが、今度は手加減してやらないぞ」
  「・・・・・・・・・」
  無言の中で視線に込められた力が強まっていくのを感じる。けれど、逆らっても勝てないのは既に骨身に染みているので、アサシンは睨みつける以上の行動は起こさなかった。
  暗殺者のサーヴァントはそのまま数秒間こちらを睨んでいたが、顔を背けて雁夜がいるであろう場所とは別の方向へと走り出した。
  ほぼ無音のまま駆けて、鬼火が届かない闇の中へと消えていく。闇に溶けてしまったので、雁夜では見つけるのは非常に難しいだろう。
  「そうそう、暗殺者は対象を密かに――そして気付かれずに殺さなくちゃな」
  この洞窟の中にいる限り間桐邸どころか蟲蔵の外すら逃げ出せない。どれだけ遠ざかっても無駄だと思い知るか? それとも早々に諦めて雁夜を殺すのに全力を費やすか? ゴゴとの戦いで失いつつある『生への渇望』を発揮して生きようとするか?
  さあ、命がけで自らの命を掴み取れ―――。
  もうすぐ始まる殺し合いに、ゴゴの心は少しだけ高揚した。



  ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆



  Side - 間桐雁夜





  いきなり蟲蔵が洞窟へと変わったが、変わる状況それ自体の驚きは無い。ゴゴが『踊る』で固有結界を作り出して異界に転移させられた―――。修行の中で何十回と味わった経験を繰り返しているだけなので、最早俺にとってはゴゴの固有結界は慣れの範疇だ。
 ライダーの宝具『王の軍勢アイオニオン・ヘタイロイ』と同じように、照りつける極悪な太陽と熱砂が吹き荒れる砂漠へと放り出された事もあったな。
  何故息が出来るのか全く不明だが、水中に引きずり込まれた事もあった。上を目指して泳いでみたが、まったく水面に到達できなかったのは世界の謎だ。
  「・・・厄介な」
  俺にとって衝撃だったのは、蟲蔵の中で片時も意識を外さなかったアサシンが、固有結界発動と同時に居なくなった事だ。
  ゴゴが発動させると同時に俺とアサシンをそれぞれ別の場所に移したんだろうが、敵の姿が見えない状況で洞窟の中にいるのは危険すぎる。
  出会い頭にいきなり殺し合いに入るのならまだいい部類。相手はアサシンで、聖杯戦争のマスターである俺にはアサシンが持つクラス別能力『気配遮断』を知っている。そしてそれを俺だけじゃ見破れない事も判っている。
  もし看破出来るなら俺を囮にして一日冬木市を出歩いた時に俺自身が監視するアサシンに気付けた筈。
  だが、俺は気付かなかった。両隣を固めていたロックとセリス―――の姿をしたゴゴ二人に教えられるまでさっぱり判らなかった。
  俺自身の力の無さを判っているから、厄介さも一緒に身に染みる。
  「あと二十三秒で開始だ、それまでに襲ってきたらルール違反で助けてやるからよ。死なないように頑張れー」
  「とりあえず黙ってくれ」
  「おお、判った」
  軽く言ってくるロックの言葉が妙に耳に障る。
  アサシンと戦うまでの猶予で、意識は完全に戦う為の覚悟に変化させられた。だから、真剣に聞こえない声は聞きたくない。これが桜ちゃんの声援だったならやる気は倍増するんだけどな。
  見えない敵、見つけられない敵、闇に隠れた敵、俺を狙う敵。アサシンを厄介だと思いつつ、俺は全く別の事も考えていた。
  それは、知る事も見る事も出来ない敵と戦うのは久しぶりだ、という体験への回帰だ。
  戦い始めるといきなり透明化の魔法『バニシュ』を使って、物理攻撃の全てを避ける『ガブルデガック』あるいは同じように現れた時から透明になってる『眠れる獅子』のように―――姿の見えない相手と戦うのはこれが初めてじゃない。
  もっともあの場合は相手は『あばれる』でそのモンスターの特性を全て発揮したゴゴだったので実物を見た訳じゃないが。それでも見えなくなった途端に背後から思いっきり攻撃されたのは苦い思い出だ。
  敵は見えないが存在が消えた訳じゃない、感知できない敵への対処法もその時に教わった。
  くるなら来い。洞窟の中に隠れ潜んでいるアサシンに向け、俺の闘志は高まっていく。
  そうこうしている内に時間は流れ続け、あともう少しで戦いが始まる時、洞窟の一つから握り拳位の青い炎がふよふよ飛んで来た。
  アサシンの攻撃ではない。近くから聞こえるロックの声でその予測は確信へと変わる。
  「ゴゴが『鬼火』を増やして色々な場所に置いたか。『ファイア』を唱え続けて灯りにする必要は無かったな」
  「・・・・・・用意のいい事だな」
  見え易くなるのはいいが、やるなら事前に言ってもらいたい。
  ロックの殻を一枚破った向こう側にいるゴゴに向けて苛立ちを込めて呟いてみるが、振り返って見れば全く動じる様子が無い。それがまた癇に障る。
  気にするな俺。
  気にするな俺。
  気にするな俺。
  そう自分に言い聞かせていると、ついに戦いの時間が訪れる。
  「時間だ雁夜。離れて見物してるぞ、勝てよ」
  「判ってる」
  頭の中で数えていた残り時間が零になると、全く同じタイミングでロックが話しかけてくる。ただし、その声に応じながらも、すでに戦いは始まっているのでロックの方は振り向かない。
  警戒すべきはロックが立つ以外の個所。アサシンが闇の中から現れるかもしれない場所だ。
  「・・・・・・・・・」
  三秒ほど周囲を警戒してみたが、とりあえずどこからも攻撃してくる気配はない。まだ遠くにいるか、あるいは闇の中からこちらを警戒しているのか。
  いきなり攻撃されるような事態には陥らないのを確認しながら、俺はポシェットの中に入っている魔石へと魔力を注ぎ込んだ。
  全身から目に見えない何かが吸い出される感覚が通り抜ける。
  俺の脆弱な魔力ではどうしても『与える』ではなく『吸われる』感覚になってしまうのは悩みの種だ。きっと桜ちゃんならそんな事はないに違いない。
  気絶しそうな感覚も一緒に襲って来たので意識をしっかり整える。仮にこの状態で敵から攻撃されてもすぐに動けるように魔剣ラグナロクを握りしめ、両足を少し開いてどの方向にも飛べるように力を込める。
  ほどなく召喚に必要な魔力が魔石に注ぎ込まれ、ポシェットの中で魔石が輝きながら脈動するのを感じた。
  「――来い、『ゴーレム』」
  幻獣の名を呼ぶと、薄暗い洞窟の中に二本の手足を持ち、背中から伸びた二本の管から灰色の煙を吐き出す『人型の何か』が現れた。
  『ゴーレム』。この幻獣はユダヤ教の伝承に登場する自分で動く泥人形の名を冠し、敵からの物理攻撃に対するダメージを召喚者の生命力の分だけ防ぐ効果を持っている。泥ではなく木造に見える人形だ。
  たとえどんな攻撃であろうとも、それが物理的な攻撃であるならば俺が痛みを負う前に代わりに受け持ってくれる。ゴゴは一時、このゴーレムを防御手段ではなく桜ちゃんの砂遊びの為の労働力にしていたことがあるが、俺の魔力では呼び出すのが精一杯で、あんな風に汎用性を持たせて命令出来ない。
  『ゴーレム』は俺がアサシンと戦う時の盾だ。肉を切らせて骨を断つ―――今の俺が感知できない敵と戦うための、唯一の方法を実現させるための盾だ。
  問題なのは、アサシンの『気配遮断』が俺の目から見ても完璧に行われた場合。つまり、目の前にいて確かに見ている筈なのに、存在そのものを認識できない可能性が一番まずい。
  そうなると骨を断ちたくても断てない。もちろん存在そのものが消えてしまった訳ではないので、斬れば当たるだろうが、その『当たる』が難しくなる。
 とにかく姿の見えない敵に対しては相手に初手を譲ってその位置を確認するしか方法がない。『ゴーレム』は俺と同じだけの耐久力しかないので、アーチャーの大量宝具やランサーの槍で貫かれたり、ライダーの戦車チャリオットで踏みつぶされたら一気に壊れてしまう。
  けれど俺の知る限りアサシンの攻撃手段は他の英霊よりかなり劣り、当たり所さえよければ数回は耐えられる。
  その筈だ。
  「行くぞ」
  短く『ゴーレム』に命じると、召喚された巨大な人形はその姿を消した。消滅したのではなく、俺の目では感知できなくなっただけで、霊体化したバーサーカーと同じように近くにいる。
  次に現れるのは俺が物理攻撃を受けた時。つまりアサシンから攻撃された時。
  今更ながら同じような霊体のバーサーカーが『ゴーレム』を敵と勘違いして攻撃しないか不安になってきた。もしバーサーカーが『ゴーレム』を攻撃したら、魔石の選択を間違えた事になる。
  「・・・・・・・・・」
  俺は無駄口を喋りたくなる衝動を抑え込みながら歩き始めた。アサシンがどこにいるか、間違いなくこの洞窟の中のどこかにいる。そして俺の目的はアサシンを倒すことで、この洞窟からの脱出は全く関係ない。
  魔石を使い『ゴーレム』を召喚したせいで、俺の魔力は平常時に比べてかなり下がってる。もし俺の魔術回路が多ければこの後も攻撃魔法を連発できる余力があるんだが、無いものは無い。
  短期決戦が望ましい。そしてアサシンからさっさと攻撃してもらわないと、あちらの位置も掴めない。
  むしろこちらを見つけてもらうために俺は前に出る。
  ゴゴが作り出したこの空間は何ヵ所かの広がった空間とそこを繋ぐ通路によって構成されていた。仮に広がった場所を『部屋』とした場合、一つの部屋の出入り口は三つから五つ。それらの洞窟あるいは通路、つまり『廊下』が全て別の部屋に繋がっている。
  もしこの洞窟が迷宮だったなら、入るのは簡単でも出るのには苦労する。何しろ比較対象となるべきモノが見当たらず、一つの部屋の中を照らすのは鬼火だけで、しかもそれが部屋毎にしっかり配備されてる。
  どの通路を抜けてもそこにあるのは似たような洞窟の光景だけ、あらかじめゴゴが作った異空間だとわかってなければ、あまりの変わらなさにここはどこだと叫びたくなる。
  四回ほど部屋を抜けたところで、途中まで後ろから付いて来ていたロックの気配が消えた。戦いの邪魔にならないように離れたか、ゴゴのところに戻ったか。
  それはアサシンが俺に近づいているのを意味している気がした。
  「・・・・・・・・・」
  魔剣ラグナロクを握る手に汗が滲む。同じような修行でゴゴに散々殺されておきながら、敵が変わっただけで緊張していた。
  俺は剣の柄の部分を両手で握りなおしながら、壁に背を預ける。逃げ道の一つを塞ぐことになるが、手の汗を拭う為に攻撃も防御もできなくなるので、相手が攻撃してくる方向を狭めて見極めに役立てる。
  部屋の中央に視線を向けながら、左手を柄から外してパーカーになすりつける。自分で思った以上に汗の粘っこい感触が返ってくるのを確認しながら、左手と右手を入れ替えた。
  攻撃が来たのは右手をパーカーにつけた正にその瞬間だ。
  視界の隅に『ゴーレム』の手が出現し、その武骨な手を黒塗りの刃が深く切り裂いた。
  「上!?」
  まだ滲んだ汗が拭えてないと判りながら、俺は剣を握ったまま横に跳んだ。一瞬遅れて、頭上に現れて攻撃を防いでくれたゴーレムの腕が消え、そこにいた黒い塊―――アサシンが見える。
  薄暗さの中に同化したような黒い存在。上から下までを全く同じ色に染め、唯一こちらに向けられた白い髑髏の仮面だけが生首のように別種の存在感を放っている。
  視線が交差したと思ったのは一瞬だけ。その一瞬を過ぎて、攻撃に失敗したと悟ったアサシンは近くに通路へと逃げ込んで闇の中に潜り込んでしまった。慌てて、部屋の中央に移動してその通路を覗き込んでみるが、アサシンの姿はもうどこにもない。
  鬼火の明かりが照らす場所からはもう移動していた。
  天井に張り付いて待ち構えていたのか、それとも横の通路から音もなく跳躍して攻撃してきたか。どちらだったにせよアサシンの攻撃は俺の警戒を簡単に抜けてきた、もし『ゴーレム』の恩恵がなければ、頭蓋を上から叩き割られて即死していた。
  遠坂邸を襲撃したアサシンは結界を破壊するために石を武器にしていたと聞いているが、どうやらゴゴに捕まったアサシンは短刀での肉弾戦を得意とするアサシンのようだ。もちろん、あの攻撃が『得意に見せるふり』の可能性もあるが、それならそれで一つの指針になる。
  辛うじて撤退する動きを目で終えたが、やはりアサシンの敏捷さは俺よりも上だ。攻撃してきた瞬間が全く見えず、逃げる速度は俺より速い。
  さすがは暗殺者の英霊。闇の中を刈り場にした暗殺の舞台では勝ち目が全くない。殺気を欠片も感じさせない隠密は殺されかけたけど見事としか言い様がなかった。魔術師としての駆け引きではなく殺すか殺されるかの勝負だったら確実に負ける。
  暗殺でアサシンに勝負を挑んでも勝ち目がないのは戦う前から判っていた。相手は俺がほんの少しだけ武器を手放した一瞬を狙ってしっかりと攻撃できる生粋の殺し屋だ。英霊にまで昇格されたその強さはただの人間でしかない俺とは違いすぎる。
  だからこそアサシンを俺が勝てる状況にまで引きずり下ろす必要があった。
  ゴゴに教わった感知できない敵と戦う方法と同じだ。相手の優位性を崩して、壊して、出来なくさせる。そうするしか俺に勝ち目はない。
  「――やっぱりこうなるか」
  キャスターが呼び出した怪物と戦った時は剣と魔法の組み合わせにバーサーカーの協力を盛り込んで互角以上の状況を作り出せたが、アサシン相手にしかも洞窟の中では真っ向勝負すらできない。
  何十種類ものモンスターを物真似するゴゴとの戦いで得た戦略が、罠が、弱者の知恵が必要だ。
  俺は部屋の中央まで進み、手からにじみ出た汗を完全にぬぐって正眼に構える。
  そしてアサシンに殺されるのではなく、逆に俺がアサシンを殺すための策を頭の中で思い描く。戦う前からすでに原形は出来上がっていたが、殺されかかった緊張と恐怖がそれをより鮮明にした。
  本当ならアサシンに攻撃される前に形にしなければならないのだが、そこは俺の未熟さだ。
  部屋の中央にいれば攻撃は前後左右になる。もしアサシンがヤモリのように天井を逆さまに進めたとしても、壁際よりは頭上から攻撃される確率は減るだろう。アサシンを倒す為には上から攻撃される状況を作ってはならない。
  ただし、前ではなく後ろから攻撃される可能性が非常に高い。その攻撃を俺が感知できなかったら、もう一度『ゴーレム』のお世話になってしまう。そうなれば、貴重な防御をまた減らすことになる。
  「・・・・・・・・・」
  俺自身の心臓の音が激しく鳴って、呼吸のペースが少し早まるのを感じた。体の力を入れ過ぎると咄嗟の時に上手く動けないのは経験で判っているので、アサシンとの殺し合いで気が高ぶっても力を抜く。
  どうせこっちから攻勢に出てもアサシンの位置は判らない。闇雲に動けばその分体力を消耗するし、この部屋がアサシンの攻撃範囲なのはもう立証された。
  だからこそ待つ。
  速く来い―――そう思いながら、ただひたすら待つ。
  過ぎてゆく一秒が永遠にも感じられる時間、俺はただ待つ。
  そう言えば、蟲蔵の中で姿を消したゴゴを待ち構えていたこともあったな・・・。と、敵を近くに置いて殺し合っている状況なのに、奇妙な懐かしさが俺の中を駆け巡り、緊張を少しだけほぐした。
  どれだけ時間が経ったかは判らない。ただ、待つ俺にめがけて攻撃はやって来た。
  それは変えようのない事実だ。
  ヒュンッ! と風を小さく切って進む音が後ろから聞こえてきたので、俺は後ろを確認するよりも前にまず横に跳ぶ。
  地面に倒れそうな勢いで跳躍しながら後ろを振り返ると、一瞬前まで俺の頭があった場所を通り抜ける何かを見た。それは親指ぐらいの大きさの小さな石だ。ただし、丸まっているのではなく先端が尖った物を選んだようで、速度もかなりあったからまともに受けていたら頭蓋骨が砕けたかもしれない。
  アサシンの姿を探すが、小石が飛んできた場所にあるのは鬼火の光で照らせない通路の闇があるだけだ。アサシンがその中から攻撃したのは容易に想像できて、中距離からの攻撃でこちらの出方を伺ってるらしい。短刀ではなくその辺りに落ちている小石を使ったのがその証拠だ。
  セイバーやランサーが見せた敵と相対する騎士の勝負とは異なる戦い。暗殺という結果を作り出すためならばどんな手であろうと行うアサシンの戦い。色々と利用しないと戦えない弱い俺と少し似てる。
  だが見た目は変わってないのに戦い方は無限を思わせるゴゴの変化に比べれば、小石程度はまだまだ予測の範囲内だ。
  アサシンが小石を撃ちだした通路の奥、そこにいるであろうアサシンの姿を見極めるために凝視すると―――別の通路からヒュンッ! と小石が飛んできた。
  「ちっ!」
  意外ではあったが、動きを止めるほど驚くことではなかった。俺は前方ではない別方向からの飛来物に対し、今度は前に跳んで避ける。
  さっきと違うのは今度の石は俺の頭ではなく胴体を狙ったようで、『殺す』ではなく『当てる』に焦点を変えた攻撃だったことだ。ギリギリのところで避けられ、パーカーの一部が小石に削り取られるが、俺自身に痛みは無い。もしかしたらアクセサリの『見切りの数珠』が効力を発揮して俺を逃がしたのかもしれない。
  もう一度、撃ちだされた方向を見極めようとするが、やはりそこにあるのは闇と死角が作り出す通路の黒さだけだった。どうやらアサシンは一発目の小石を打ち出した後、すぐに場所を移動して二発目を撃ったらしい。
  俺としては神経を研ぎ澄ませて音に敏感になったつもりだったんだが、壁の向こう側を移動する暗殺者の足音は全く聞こえなかった。
  アサシンの隠密さの高さか、俺の能力の低さか。あるいは両方か。
  アサシンの戦闘力が聖杯戦争のサーヴァントの中では弱い部類に入るとしても、その身が宝具によって分割された個体であっても、今世の魔術師と比較すればやはり高位の存在であることに変わりはない。ゴゴにぼこぼこにのされていたが、やはりアサシンは英霊なのだ。
  俺より強い。素直にそう認める。
  そう思っていたら、また別の通路の奥から音が聞こえた。バシッバシッバシッと小さく何かを叩くようなその音はこれまで聞いたことのない類の音だった。
  初めて聞く音なので避けるよりも前に確かめなければならないと危機感が働く。
  音に導かれてそちらを見ると―――、複数の小石が俺めがけて飛んできていた。
  「なっ!?」
  これまでとは異なる物量を増しての攻撃。あの音は消音を意識せずに物量を考えて放ったから漏れた音だったのだ。
  小石の大半は俺の顔面めがけて迫っていたが、中には腹やら胸やらの的の大きさが頭よりも大きい個所を狙った物もある。一瞬で看破できるほどの速度にまで落ちていたが、比較して物量が異常なほど多い。
  小石を撃ちだす音は三回か四回しか聞こえなかったのに、目に見えるだけで十以上の小石が―――、いや、回転が加えられた小型のドリルになった凶器が俺の全身を貫こうと迫ってる。
  どうやったらアサシンの二本の手でそんな事が出来るのか気になったが、今はそんな事考えている暇は無い。
  逃げ場はなかった。
  ゴゴに叩きこまれた『避けようのない攻撃の対処』に体は勝手に動き、半身になりながら魔剣ラグナロクが振るわれる。半ば無意識に急所に当たるだろう攻撃に絞って、魔剣ラグナロクで落として弾いて逸らして砕く。
  ゴゴが作り上げた固有結界の中だとしても、そこにある石は単なる無機物。ゴゴ特製の魔剣の前では呆気なく霧散してしまう。
  捌ききれなかった小石が体のあちこちにぶつかっていくが、それはまだ健在の『ゴーレム』の腕が衝突のたびに具現化して痛みを肩代わりしてくれた。撃ちだされた小石は一つも俺の体を傷つけていない。
  避けられないなら急所に喰らうな。それがゴゴから教わった対処法だ。
  最後の小石を魔剣ラグナロクで弾くと同時に、小石と同じかそれ以上の速度で駆けるアサシンを見つけた。
  暗殺者が真正面から突っ込んでくる。これまでの暗殺者の行動とは別のやり方に意表を突かれ、しかも俺は小石をはじくのに剣を動かしていたので待ち構える状況を作り出せていない。
  アサシンが握りしめている黒塗りの短刀が、蛇を思わせる動きで俺の腕をかいくぐってくる。動きは滑らかでありながらも、尋常ではない速度だ。
  魔剣ラグナロクで応戦するよりも早く、黒い短刀が俺の胸元へと突き刺さる。
  「・・・・・・」
  俺は剣を前に構えて懐に敵の侵入を許した。
  アサシンは短刀を俺の胸元に突きたてた。
  そして俺の心臓に短刀が到達するより前に、腕だけを出現させた『ゴーレム』が両者の間に割って入った。
  その態勢で各々が一瞬だけ動きを止める。
  アサシンは白い髑髏の仮面で表情が見えなかったので驚いているかどうか判らなかったが、どこからともなく現れた腕に二度も攻撃を防がれて動揺しているように思えた。
  真っ先に動いた俺は目の前にいるアサシンの顔面めがけて膝蹴りを行う。ついでに魔剣ラグナロクの柄頭の部分でぶん殴ろうかとも思い、足と腕で挟み込む形でアサシンの頭を攻撃する。
  抱きかかえる様に下ろした柄頭をしゃがみながらするりと潜り抜け、しかし代償に下から昇ってきた俺の膝を避けきれず、アサシンが顔につけている白い髑髏に俺の右膝が当たった。
  一体なんの素材で出来てるのか、こっちの骨が砕けるんじゃないかと思う固い衝撃が足に伝わってくる。自分からの攻撃なので『ゴーレム』も衝撃は逃がしてくれない。
  アサシンは下からの衝撃にのけ反りながら、まったくダメージを負ってないようだ。
  満足に力が込められない状況で、しかも俺程度の膝蹴りが英霊への致命的な一撃になる筈がない。アサシンはほんの少しだけよろけたが、それ以上の変化はなく、すぐに態勢を立て直して後ろへと走り始めてしまう。
  また闇に染まった死角満載の通路を抜けて別の部屋に移動するつもりか。逃がすか!
  「ブリザド!」
 ほんの一瞬だけの時間稼ぎだったが、俺が一工程シングルアクションの魔法を唱えて攻撃するには十分な時間だ。魔剣ラグナロクを右手だけで持ち、左手をアサシンに向けながら魔法を発動させる。
  こちらを向いたまま後ろ向きに走る器用な逃げ方で遠ざかろうとするアサシン。その目標めがけて青と白が混じり合った一直線の光が何もない空中から現われて襲いかかる。
  アサシンの足元に光がぶつかると同時にそれは氷の柱へと変化してアサシンを包み込もうとする。
  しかし『ブリザド』が作り出した氷の柱の大きさは、アインツベルンの森でキャスターが呼び出した怪物に使った『ブリザガ』とは比べ物にならないほど小さい。氷属性の低位魔法なのだから、高位魔法の『ブリザガ』と比較すれば威力が弱まるのは必然だ。氷の柱の高さは洞窟の天井に届くほど高いが、幅は半径一メートルほどしかなかった。
  更に後ろに跳躍して逃げていくアサシンの全身を捕らえるには範囲が小さすぎる。
  「ちっ!」
  俺は二重の意味で舌打ちする。
  一つは『ブリザド』で完全にアサシンを攻撃しきれず、氷の柱の向こう側に遠ざかっていくアサシンを見つけてしまった事。後ろに駆け抜けるために足に力を込めたからか、それとも『ブリザド』が下から上へ氷の柱を作り出す魔法だったからか、アサシンの右足のひざから下が氷で覆われて一撃喰らわせられたが、致命傷とは言い難い。
  そしてもう一つの意味は、アサシンの攻撃から俺を守ってくれた『ゴーレム』の腕が、寿命を迎えた枯れ木のようにぼろぼろと崩れ落ちていく事だ。
  『ゴーレム』は敵からの物理攻撃を防いでくれるが、その上限は召喚者の生命力となる。生命力が多ければ大きいほど、『ゴーレム』の耐久力もまた増大するが、俺ではアサシンの攻撃に数回身代わりになってもらう程度の力しか発揮させられない。
  頭上からの一撃、そして心臓を貫こうとした一撃。宝具でこそなかったが、英霊からの攻撃を防いでついに限界が訪れてしまったか。
  俺からアサシンを見えるのだから、逃げるアサシンからも『ゴーレム』が砕ける様子は見えた筈。ならば、次の攻撃は間違いなく俺に通ると悟られてしまう。
  俺が使える手札がどんどんと数を減らしていく。
  半ば無意識のうちに俺はアサシンを追いかけて前に出ていた、一瞬後には駆け足になってアサシンが下がった通路へに向かって飛び込んだ。
  仕切り直される前に決着をつける―――。氷の柱の横を通り抜けてアサシンを追いかける。一気に隣の部屋の中にまで入り込めば、アサシンが待ち構えていた場合に返り討ちされてしまうかもしれない。だから通路と部屋の境目で静止して、アサシンを探す。
  いた。
  足にダメージを負ったのが原因で歩みが遅い。
  人なら足が凍れば凍傷になるだろうが、英霊ならばすぐに回復してしまう軽い傷だ。この機をのがしてはならないと、俺はもう一度アサシンに向けて左手を向けた。
  部屋の中央よりも若干右に寄っているアサシンに向け、俺が独力で放てる最高の魔法を唱える。


  「ブリザガ!!」


  手のひらから現われた小さな氷の塊が弾丸となってアサシンに襲いかかる。『ブリザド』よりも若干速度が遅いのは、魔法を発動させるために俺の中にある魔力をより多く使う必要があるからだ。発動までも時間がかかり、強い魔法だからこそ隙も大きい。
  けれど一度発動してしまえばそれは破壊をまき散らす氷の魔法として具現化する。
  更に後ろに下がっても俺の手から放たれた魔法を避けられないと判断したのか、アサシンは横に飛んで『ブリザガ』を避けようとする。
  小さな氷の塊が銃弾と同じようにまっすぐ進むだけの物だったなら避けられただろう。けれどそれは大きな破壊を作り出すための切っ掛けでしかない。
  横に飛ぶアサシン、そのアサシンが立っていた場所に着弾して、僅かな閃光がカメラのフラッシュのように輝いた次の瞬間―――洞窟の一部を氷が埋め尽くした。
  『ブリザド』が作り出した氷の柱など比べ物にならない巨大な氷の塊が俺の視界をほとんど埋める。直接は見たことはないが、空気すら凍る寒い地域の永久凍土を中から見たらこんな風に見えるんじゃないだろうか。
  視界の中は氷一色だ。
  予め氷の柱だと知っていなければ―――、つまり、氷の塊がぶつかった個所を中心にして円状に広がっていると判っていなければ、洞窟の中を埋め尽くす氷としか認識できない。
  魔法を放った俺の左手のすぐ前まで氷は押し寄せて、俺自身その中に取り込まれて氷像にされそうな圧迫感があった。
  氷の層が分厚いので先を見通せないが、これだけ巨大な氷なら、逃げようとしたアサシンごと取り込んだだろう。
  少し苛々するのは、間違いなく『ブリザガ』の効果範囲内にある筈なのに、もともと部屋の中をぼんやりと照らしていた鬼火が氷の中で変わらず燃え続けている事。
  物量ではどうしようもない差があるのに、魔力で引き起こした現象ではゴゴのそれを俺では解除どころか力ずくで破壊もできない。逆に俺が作った氷を鬼火が溶かしている。
  アサシンの攻撃だったので鬼火はついでにもならない雑事だが、視界の隅に見えるゴゴとの力量の差を見せつけられていい気はしなかった。
  複雑な感情が頭の中に浮かびそうになると、それに合わせた訳ではないのだが、膝から力が抜けて正座の姿勢のように体が地面に落ちていく。まだ魔力には余裕があり、体の中を通る魔術回路に無茶をさせれば魔法は使える。ただ、一気に魔力が消耗されたので体が不調を訴えていた。
  『ゴーレム』の召喚、『ブリザド』と『ブリザガ』の発動。そして、戦いの最中にバーサーカーが暴走しないよう、霊体化したサーヴァントに少しずつ少しずつ魔力を送り続けたツケが回ってきた。すぐに回復しなければならない緊急事態ではないが、まだ戦いが終わってない状況では危険すぎる。
  アサシンは『ブリザガ』によって拘束されたのか?
  それとも氷の柱に捕まる前に抜け出したか?
  決着はついたのか?
  それが判るまで戦いは終わらない。
  左手だけパーカーの下から背中に回し―――状況を見極めるため、目の前にそびえ立つ氷の柱の向こう側を見定めようと凝視する。ゆらゆらと揺れる天井付近の鬼火のか弱さにまた苛立ちを覚えながら、前方にのみ視線を集中させた。
  見る。
  観る。
  視る。
  視線に力があれば氷が燃えるんじゃないかと思えるほど強く睨みつけた。
  そして見え辛い氷の向こう側に人型の塊があるような気がした時、後ろから音もなく衝撃がきた。
  その攻撃も音はなかった。
  空気の乱れすら感じさせない静かな一撃だった。
  風景と同化したような見事な暗殺だった。
  素早さだけなら最速のサーヴァントであるランサーの次に位置するアサシン。その早さを使い、『ブリザガ』が氷の柱になる直前に近くの通路に飛び込んで、そのまま俺の後ろに回り込んで攻撃してきた。
  それが攻撃だと理解して気がついた時にはもう全てが終わっていた。
  アサシンの短刀は俺の心臓に狙いを定め、背中から俺の体へと差し込まれていく。


  それが俺の待ち望んでいた攻撃だと考えもせず。


  「ぬっ!?」
  おれはこの時、初めてアサシンの肉声を耳にした。言葉にならないうめき声程度の単なる音だったかもしれないが、それでも間違いなく白い髑髏の仮面で顔の大半を隠した暗殺者の口から洩れた音だった。
  隠しきれない動揺が口から出てしまったのか、その一息には驚愕が色濃く含まれている。
  確かにアサシンの攻撃は前しか見てなかった俺の背中を確実に貫いた。
  そこは深く差し込めば心臓がある位置、魔剣ラグナロクは右手に握られてるので、無防備な背中への必殺の一撃になっただろう。だが俺は予めパーカーの下から左手を背中に回して、心臓がある場所で指を開いて待ち構えていた。
  後ろからでもよく見れば不自然な膨らみがそこにあるのが気づけた筈。だが、俺は部屋の中には入りこんでおらず、鬼火の明かりが影を作る場所に座り込んでいた。
  アサシンの住処とも言える暗闇の中、アサシンは俺が背中に回した左手を見逃した。もしかしたら決着をつける為に急いていたのかもしれない。
  これまで、アサシンが短刀で攻撃してきた個所はすべて人体の急所と呼べる場所だった。その全てが短刀の一撃で人を死に至らしめる場所だった。
  俺は地面に座り込むと同時にうつむいて顔を下に向けた。首や頭を狙うためには一度武器を上に振り上げる必要があって少し時間がかかる。
  だから背後から攻撃して急所を狙うなら、それは心臓部分になると予測した。
  これはアサシンが手数を減らして急所を狙う暗殺者だからこそ出来る博打だ。セイバーやランサーだと、そもそも俺が隙を見せても背後から斬りかかるなんて状況がそもそも起こらない。
  これは敵の攻撃を特定の一点に絞るなんてかなり分の悪い危険な賭けで、負ける確率の方が圧倒的に高かった。
  もしアサシンが俺の心臓を狙わなかったら?
  もしアサシンが背中に回して構えていた左手に気づいたら?
  もしアサシンの攻撃が少しでも別の場所にずれて、構えた手のひらの中心を貫かなかったら?
  もしアサシンが『ゴーレム』や『ブリザガ』を警戒して、攻撃しないで仕切り直していたら?
  可能性を上げれば俺が負ける方が普通に思える。
  だが結果は俺が求める方向へと流れ、『ゴーレム』が使えなくなった時点から意図的に作り出した俺の隙にアサシンは喰い付いた。なおこの罠の最善は『ブリザガ』でアサシンを完全に拘束して罠そのものが不要になる決着だ。
  さっき使った『ブリザド』のおかげでアサシンが実体のある敵だと確かめられた。霊体になられたらどうしようもないが、攻撃するためには実体化しなければならないので、アサシンが攻撃してくる時は俺の好機にもなる。
  俺の左手はアサシンの短刀に貫かれたが、心臓を貫かれるよりは数倍マシだ。短刀が背中の肉を抉って心臓に到達するより早く、パーカーを引き裂いて左手を後ろに押し出す。
  アサシンの短刀で切れ目が入ってたのでパーカーはあっさり破けた。
  左手は肉も骨も短刀で貫かれ、砕かれ、裂かれ、ぐちゃぐちゃになっていく。背中にも少しだけ短刀が刺さったようだが、心臓まで到達してない浅い傷なので動くのには支障がない。激痛が左手を中心にして体の中を駆け巡るが、それを無視して強引に左手を握りしめた。
  短刀の刃と鍔と柄の部分、そして武器を握りしめるアサシンの手の感触が俺の指の中にある。
  ようやく捕まえた―――。
  あらん限りの力を左手の指に集中させて、アサシンの手を短刀を一緒に握りしめる。アサシンの力が弱くても、俺よりは強いので力ずくで振りほどこうとすれば剥がされる。
  左手を後ろに押し出す勢いをそのままに右手の魔剣ラグナロクごと体を半回転させた。
  無茶な体勢で力を入れ、しかも強引にアサシンの方を向こうとしたせいで体のあちこちが悲鳴を上げた。筋肉はきしみ、骨は折れそうになり、関節が外れそうだ。見る余裕はないが、短刀が刺さったままの左手からはどくどくと盛大に血が溢れてるに違いない。
  それでも手のひらに刺さったアサシンの短刀と手を力強く握り続ける。英霊の本気であっさり弾かれるとしても、ほんの数瞬だけアサシンの筋力:Cに拮抗できる力が出ればそれでいい。
  勝負は一瞬だ。
  初めは持ち上げることすらできなかった魔剣ラグナロクを武器として扱うため、俺の握力は一年前とは比べ物にならないほど向上した。
  アサシンが俺の腕を振り払うより早く。密着した俺を投げたり殴ったりして、短刀以外の攻撃を行うよりも早く。
  この時間だけ全力を振り絞れ。
  祈るように力を絞り出した俺は、回転して抱きしめる様にアサシンの胸元に魔剣ラグナロクの切っ先を差し込んだ。ずぶり、と、生き物の肉を貫く嫌な感触が右手に返ってくる。
  余計な力を込めずとも標的を破壊する威力をもった魔剣が、骨を砕き、心臓を貫き、アサシンの背中まで抜ける感触をしっかりと伝える。
  「ぐぅ・・・」
  髑髏の仮面の奥からアサシンの悲鳴が聞こえる。
  素早さだったらアサシンは俺の上をいっていた。
  長期的に出せる腕力も英霊は俺なんかより格段に強かった。
  半死半生に近い俺よりアサシンの方が余力を残してた。
  だが殺し合いは力が拮抗していたとしても、一瞬の『揺れ』で勝敗がどちらにも傾くあやふやなモノだ。一瞬前まで優勢だったアサシンが敗北するのもまたあり得る話。
  言葉すら発してしまった動揺がもっと小さければ、アサシンはあっさり俺の手を振りほどいて距離をとったかもしれない。『揺れ』はその程度で覆されてしまう不確かなモノだった。
  姿が見えないなら、判らないなら、認識できないのなら、なりふり構わず敵を攻撃できる状況にまで引きずり込んで最大限の攻撃を叩きこむ。俺にはそういう泥臭い戦い方しか出来ない。
  その為に身を削る必要があるなら痛みに耐えよう。
  その為に命を賭けなきゃいけないのなら、逃げずに賭けよう。
  結果を作り出すために出来うる全ての過程を注ぎ込もう。
  アサシンが持つ黒い短刀は俺の手を、俺が持つ魔剣ラグナロクはアサシンの心臓を貫いて、互いの体重を支えあうようにもたれかかる。
  もしこの方法が上手くいかなかった場合、浮遊の魔法『レビテト』をアサシンにかけて体勢を崩して、そこに斬りかかって短刀と剣との戦いに引きずり込むのも考えていた。けれど、その策は必要なかったようだ。
  痛みは体を縛る。
  恐怖は心を縛る。
  しかし人は慣れる。
  何回もそれを繰り返せば、それを日常の中に組み込んで、痛みも苦しみも死んで蘇る異常すらも取り込んでしまう。
  だから何度も何度も死ねたのは俺にとって最大の不幸で最高の幸福だ。痛みで動きを止めるような、苦しみで動きを鈍らせるような、死ぬのを恐れて動かなければいけない時に止まるような無様な真似をしなくて済む。
  本当はたった一度限りの『死』も俺にとっては日常の中の一つにすぎない。もちろんゴゴがいるからこそだが。
  痛みを知れた、死ぬ恐れを知れた、何度も何度もやり直せる機会を得た。
  その結果、例え人が持つ細胞の分裂回数の上限『ヘイフリック限界』がどんどん近付こうとも、つまり治癒するために寿命が削り取られようとも、俺は後悔しない。
  ありがとう。
  ありがとう、ゴゴ。
  俺に戦える力をくれてありがとう。
  魔力消耗と手を貫かれた痛みに全身が悲鳴を上げていたが、それでも胸にあったのは多大な感謝だった。こんな事、いつもだったら絶対に考えないんだが、緊張の連続で興奮しているのかもしれない。
  心臓を貫かれたアサシンが紫色の粒子になっていくのを見ながら―――倒した、と確信を抱きながら―――俺は左手から血を流し続けながらも笑みを浮かべる。
  魔剣ラグナロクの驚異的な切れ味が無ければこの策は成功しなかった。俺は生きていなかった。アサシンを倒せなかった。勝てなかった。
  「勝っ・・・た、ぞ・・・・・・」
  薄れゆく意識の中で俺は勝利の産声を上げる。
  ついでに治療しないでこのままだったら出血多量で死ぬんじゃないか、と思った。



  ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆



  Side - ウェイバー・ベルベッド





  ずいぶんと長い間、マッケンジー宅を留守にしていた気がする。でも僕が外に出てた時間は半日以下で、夕日が沈んでから夜が明けるまでの間の出来事だ。
  キャスターの凶行と令呪一画を引き換えの討伐。
  『カイエン・ガラモンド』という名前の同盟者。
  貯水槽で見た元人間だったモノのなれの果て。
  思わず胃の中身を戻してしまった衝撃。
  脱落した筈のアサシンが複数出現。
  魔石『フェニックス』が見せた奇跡。
  蘇った子どもを親元へと届ける苦労。
  何故か僕に懐いてくる声が出せない女の子。
  アインツベルンの森での聖杯問答。
  ライダーとアーチャー、そしてセイバーの願い。
  何らかの形で聖杯戦争に絡んでる『エドガー・ロニ・フィガロ』。
  アサシン軍団の襲撃。
 そしてライダーの宝具、『王の軍勢アイオニオン・ヘタイロイ』―――。
  短い時間であまりにも多くのことが起こりすぎて、随分長い時間過ごした気になってるだけだ。
  少し思い返すだけで昔の出来事を思い出すような『遠さ』があって、そもそものキャスター討伐がを思い出すのに少し時間が必要だった。
  僕はまず不可解と思う事。僕らを取り囲んで殺そうとしたアサシンの軍団について考え始める。
  あのアサシンは多重人格の英霊が、自我の数だけ実体化している。それが宝具の効果なのかマスターの力なのかは判らない。けど、アサシンは山ほどいる。それは間違いない。
  もしマスターの魔力供給がある限り常に複数のアサシンを生成し続けられる宝具だとしたら、一人や二人アサシンを殺した所で意味はない。
  だからライダーの宝具で大量のアサシンが殺されたけど、聖杯戦争に参加するサーヴァントのアサシンはまだ存在するかもしれない―――僕はそう考えた。
 この結論に至る材料の一つとして、貯水槽で見て撤退したアサシン達はアインツベルンの森に―――ライダーの宝具であり固有結界でもある『王の軍勢アイオニオン・ヘタイロイ』の中にいなかった気がするのが挙げられる。
  貯水槽は暗かったし、城に現れたアサシンは東西南北の全方位に現れたので、僕が見ていなかったアサシンもいる。砂漠に移動した後はかなり距離を隔てていたので、アサシン達の細部まで見れなかったので絶対と言い切る自信はない。
  それでも貯水槽にいたアサシンは城に現れなかった。つまり、ライダーに倒されたアサシンがあれで全てだとはどうしても思えない。
  貯水槽で対峙するまで僕は遠坂邸で殺されたアサシンにばかり目がいって、他にもアサシンがいる可能性なんて全く考えなかった。でもアサシンがいるいないに関わらず、僕もライダーもこの冬木の地に聖杯戦争で争う敵がいると判って行動してきた。
  アサシンはその警戒をすり抜けて監視を続けていた。もしかしたら、今も僕らが気付かないだけで、マッケンジー宅もアサシンに監視されているかもしれない。
  これだけ暗躍するのに優秀な手駒は他にはいない。アサシンが全員で何人いるかは知らないけど僕だったら今後の為に何人かは残しておく。アサシンほどサーヴァントの守りをかいくぐって敵マスターを殺せる奴はいない。
  ただそうなると敗退したアサシンのマスターを匿ってる監督役の言峰璃正は『アサシンのマスターはサーヴァントを失った』と僕達に嘘をついた事になる。
  中立を前面に押し出しながら、その裏で特定のマスターに肩入れする大嘘吐きだ。もしライダーが首尾よくキャスターを倒したとしても、令呪一画が僕に与えられるかどうかは怪しくなる。
  そして言峰璃正は間違いなく聖堂教会から派遣された神父であり、この嘘を理由に冬木教会に攻め入ったとしたら、魔術協会を毛嫌いしている聖堂教会が自陣のメンバーに敵対した魔術師に対して、強硬手段をとる可能性は決してゼロじゃない。もしかしたら、聖堂教会の後ろ盾があるからこそ、特定のマスターを匿うなんて中立から遠く離れた暴挙を仕出かしているのかもしれない。
  聖堂教会が関わってない神父の独断だったらいいんだけど、それを判断できる材料が今の僕には無い。
  アサシンのマスターは冬木教会の中だ。アサシンを倒す為にはマスターを狙うのが一番だけど、その為には監督役の守りを突破しなければならない。その場合は聖堂教会すら敵に回す覚悟を持たなきゃいけない。
  聖堂教会と魔術協会は表向きは不可侵になってるけど、裏では血生臭い闘争が繰り広げられている。そこに入る覚悟を僕自身がしなくちゃいけない。
  「・・・・・・・・・」
  聖杯戦争は七人のマスターと七騎のサーヴァントが聖杯を求めて戦う。だけど、聖堂教会とか魔術協会とか、僕の気づかなかったしがらみが沢山ある。それでも戦い続けるなら僕は自分の選択が作り出す責任を負わなきゃいけない。他の六騎のサーヴァントを倒すだけで終わる簡単な問題はもうなくなったんだから。
  ただ、結局僕らのやる事は今までと大きく変わらない。聖杯戦争に参加するマスターとして他のサーヴァントを倒すのに全力を向けるだけだ。
  今回の騒動で手に入れた情報もその為に役立てよう。
  そう思いながら横を見ると、ベッドの上に座る僕の腰にしがみ付きながら、掛け布団の中に体の大半を潜り込ませて寝てる女の子がいた。
  抱き枕みたいに僕にしがみ付いてるけど、目を閉じて一定の調子で寝息を出してるので寝ているのは間違いない。ずいぶん無茶な体勢だけど、よく寝られるな、と感心してしまう。
  とりあえず直面してる大きな問題の一つは、この女の子をどうするか? だ。
  ライダーには『もう少しこの子の面倒をみる』なんて豪語したけど、何か解決策がある訳じゃない。親元に送り届けたもう一人の女の子と同じように、この子を待っている人達の所に送り届けたいと思うけど、いい方法が思いつかない。
  僕はまず、朝まで待って、すぐにマッケンジー夫妻の両名にこの女の子について事情を説明しようと心に決める。
  もちろん聖杯戦争の事は言えないし、偽りの孫でしかない僕に言えない部分は数多く存在するので、嘘と本当を混在させた作り話で乗り切るしかない。
  こうして家どころか部屋の中にまで連れてきてしまったからには家主に説明するのは当然だ。ライダーの時みたいに自分勝手に行動される前にこっちから動いた方がいい。
  夜明けまでは数時間。僕は今回手に入れた情報を元にして聖杯戦争をどう戦うか検討し時が過ぎるのを待つ。考えなきゃいけないことは山ほどあるので、一つ一つ結論を出していけばその内に冬木に朝は訪れる。
  静かに考える時間が今の僕には必要だ。
  「ぐぉぉぉぉぉぉぉぉ~~」
  「まったく・・・・・・」
  いきなり声が聞こえてきたので顔をあげてそっちを見ると、床の上に敷かれた布団の上で大の字になって寝るライダーがいた。布団からはみ出した手足を見る限り、布団の大きさとライダーの大柄な体格とが合ってないのだけれど、ライダーはそれを気にせず熟睡してる。
  ほんの少し前まで独立サーヴァントの連続召喚なんて桁違いの宝具を見せた―――いや、魅せたのが嘘みたいだ。
  でも僕は覚えてる。
  砂漠の暑さを。闘争の轟きを。固有結界の力強さを。
  征服王イスカンダルの絆によって構成されたあの宝具を思い出すだけで体の芯が熱くなる。
  その熱に浮かされた僕はライダーの宝具の使い所を考え始める。
  油断しているつもりはなかった。思考を止める気も全くなかった。
  でも僕自身気付かないうちに、肉体的にも精神的にも疲労していた。僕の自覚を簡単に越える大きな疲れが、僕自身が『眠った』と認められないぐらい唐突に眠りへと引き込んでしまう。
  すぐ横で女の子が布団の柔らかさを満喫するように眠っている。部屋の中央でいびきを立てながらライダーも豪快に眠ってる。この二人につられたのかもしれない。
  僕は眠ってしまった。
  夢を見ない深い眠りだった。
  ほんの一瞬前まで魔石のことを考えていたと思ったら、もう眠っていた。夢を見ない数時間がほんの一瞬で過ぎ去ってしまう。
  朝の到来を告げる足音が部屋の外から聞こえてきて、ここでようやく僕は眠っている自分に気がついた。妙に体が重くて、程よい布団の温かさが起きようとする意志を挫く。
  このまま目を瞑ってずっと眠っていたい。十一月の冷気に部屋の中の暖気が勝利をおさめて、僕を眠らせようとしていた。
  コンコン、と軽く部屋の扉を叩くマッケンジー夫人のノックが聞こえる。でも体は目覚めの為に動いてくれない。
  「ウェイバーちゃん、アレクセイさん、朝で・・・・」
  戸を開けながら朝の挨拶をしてくるのは僕がこの家を仮の拠点にした時からの習慣になっている。もしかしたら、彼らは本当の孫や息子たちをこんな風に起こしていたのかもしれない。
  まどろんだ意識がその声を聞き―――。


  「えぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇ!?」


  「何だぁっ!?」
  「敵か?」
  偽りの祖母の絶叫で飛び起きた。すぐ近くでライダーも同じように体を起こした。
  何事かと叫び声のした方を見ると、僕の横―――同じ布団の中で丸まって眠る女の子を指さすマッケンジー夫人がいた。





  「・・・さて、これはどういう事なのか説明してもらおうかな、ウェイバー」
  そう言ったのは僕が聖杯戦争の為に暗示の魔術を使って入り込んだマッケンジー宅に住まう老夫婦の片割れ。グレン・マッケンジーその人である。
  僕にとっての彼は聖杯戦争の拠点とする為に入り込んだ全くの他人なのだけれど。暗示がかかって僕を『ウェイバー・マッケンジー』という名前の孫だと思っている彼にとって、僕は正真正銘の孫なのだ。
  つまり向こうにとって今の状況は孫に詰問する祖父の姿そのものであり、普段から見せている温和な空気を引っ込めて、怒り狂う一歩手前の危うさを醸し出している。昨日まであった優しげな雰囲気は全くない。
  落ち着かない。
  誰がどう見ても、今のマッケンジー宅には『怒られる雰囲気』が充満してる。
  この人は異国の地で出会った僕の友人こと『アレクセイさん』のライダーを盛大にもてなした器量の大きい人なのだが、さすがに今回はその器量の多さも臨界点を超えそうだ。
  仕方ないとは思う。
  何しろ朝になって妻が孫の部屋に行ってみたら、いきなり叫び声が聞こえてきた。その叫び声に導かれて部屋の中を覗いてみれば、二人いる部屋に三人目がいて、孫はその三人目であり見知らぬ少女と一緒のベッドで眠っていた。
  これが僕と同年代の女性だったなら、夜中の内に連れこんだ恋人と一応は納得してくれるかもしれないけど、女の子の年はどう見ても十歳以下。恋人などと言うつもりは全くないけど、色々な意味で危険すぎる組み合わせだ。
  いつの間にか眠ってしまった僕は絶叫で起こされ、家の中にいる全員が食堂へと移動して一つのテーブルを囲んだ。
  そして祖父は孫に詰問した―――。
  まさかこの人は僕の事を小児性愛者か何かだと勘違いしているんじゃなかろうか? 状況からそう推察してもおかしくないのは理解するが、それは僕に対する侮辱だ。まずその誤解を解かないといけない。
  本当なら、部屋に来るのを待つんじゃなくてこっちから出向くはずだったのに、最初の一歩をつまづいたから雰囲気は最悪。しかも怒られる空気を敏感に感じ取っているようで、女の子は起きる前も後もずっと僕にしがみついたままだ。それが余計に誤解を肥大化させてる。
  「まずこの子について説明する前に、僕はこの子に対して人様に言えないやましい事は全くしてないし、金輪際する気もないから、それはちゃんと判ってね」
  本当と嘘を混ぜ込んで僕は話す。
  「僕たちは昨日、二人が寝た後に夜の冬木へ散歩に出かけたんだ。僕は出歩きたくなかったんだけど、『アレクセイ』が夜の街を出歩いてみたいって言いだしたから、付き添いで仕方なくね」
  「うむ。夜の街は昼と異なる顔を見せる。時間は有限だから是非とも見てみたかったのだ」
  「近頃物騒だけど、『アレクセイ』が一緒なら暴漢だって逃げ出すだろうから安全だと思って・・・。もう二人は寝ちゃってたから一声かけて起こすのも悪い気がしたんだ」
  ライダーは僕の作り話に乗って、話を補足してくれる。
  「あんまり遠出する気はなかったし、夜でもやってる店を一つか二つちょっと寄ってすぐに終わらせるつもりだったんだけど、移動してる途中でこの子を見つけた。もちろん、夜に子供が一人で歩くなんて危ないから僕は声をかけたよ? そうしたら何が何だか判らない内にこんな風にしがみつかれて離れてくれないだよ。僕も困ってるんだけどさ・・・」
  そう言いながら僕は女の子の頭を軽くなでる。
  「この子がどこの子で、どうして夜の冬木に一人でいて、何で僕にくっついて離れないのかは全然判らない。聞いてみたけど、口が利けないのか答えてくれないんだ。警察とか病院とかに連れて行こうって考えたけど・・・」
  そう言った途端、女の子は抱きつく力を強めて全身で僕にしがみついてくる。
  その様子が『公的機関のお世話にはなりたくない』と物語っていた。
  「とまあ、見ての通り嫌がるんだよね。まさか力ずくで寒空の下に放り出す訳にもいかないし、こんなに嫌がってるなら何か理由があるだろうからそれが判ってからでもいいと思って・・・。しょうがないから夜の内に部屋にあげて落ち着くまで待とうと思ったんだけど、出歩いて疲れてたみたいでそのまま三人ともぐっすり寝ちゃった」
  「・・・・・・・・・・・・そうか」
  本当の事もある短くない説明を終えると、長い長い間をおいてからマッケンジーさんが呟くのが聞こえた。
  その『そうか』は説明を終えた僕に対するものなのか、それとも女の子に対するものなのか。たった一言だけじゃ判らない。
  ただ黙り込んだまま、まず僕を見て、次にしがみついている女の子を見て、最後に『アレクセイさん』ことライダーを見る。
  その目が、見極めるような、見定めるような、真意を探るような。虚偽を見破ろうとしている目に見える。僕はその目をまっすぐ見返した。
  「・・・ウェイバー」
  「うん?」
  「おまえは善意でその子を助けようとして、世間様に顔向けできない様な事は何一つしてないんだな?」
  「――はい」
  外を出歩いたのは本当だけど、やったのは散歩じゃなくて聖杯戦争。一度はこの子を見捨てようとして、それが僕の後ろ暗さになって僅かに返答を遅らせたけど。今の僕がこの子の面倒を見たいと思う気持ちは本当だ。
  どんな未来が待っているにせよ、何の理由もなく向けられるこの思いに応えたいと僕は思ってる。だから肯定の言葉は短かったけど、口から力強い一言が出た。
  そのまま頭を下げ、家主に何の断りもなく騒動の種を持ち込んでしまった事を謝罪する。
  「お爺さん、お婆さん。本当ならこうなる前に言うべきでした。誤解させて、ごめんなさい――」
  暗示をかければわざわざ説明する必要すらない。この女の子を『泊まりに来ている近所の子』や『ライダーと一緒にやってきた子供』と生活の中に差し込めばそれで終わる。
  でも僕はそれをしなかった。
 真摯とかそういう類のモノを超越し、英霊になった征服王が見せた多くの絆。ライダーの王の軍勢アイオニオン・ヘタイロイを見た時から、戦術的に強力であるという考えとは別の何かが僕の中で蠢いてる。
  カイエンが別れ際に言った『魔石の貸与』。あの信頼に応えなければならないと、与えられるチャンスを甘んじて受け入れるだけでは駄目だと、心が叫ぶ。
  嘘で塗り固められた偽りではなく、嘘の中にもある本当の気持ちで理解してほしい。そう考えられる僕がいた。
  聖杯戦争に参加しようとした僕はそんな事を考えなかった。ただ冬木市に住まう老夫婦を拠点にする都合のよさで選んで暗示をかけて終わらせたその僕が、だ。
  今は魔術師の戦いである聖杯戦争に老夫婦を巻き込んでしまった心苦しさすらあった。
  この気持ちは本当なんです。
  どうか判ってください。
  そんな気持ちを込めてテーブルに額がぶつかりそうなほど深く頭を下げていると、上から声が降ってきた。
  「ウェイバー。顔を上げなさい」
  顔を上げて見ると、最初の剣呑な雰囲気とは異なる穏やかな顔を浮かべるマッケンジーさんがいた。ただ笑みを浮かべている訳ではなく、その顔は何かを誇っている様にも見える。
  何を?
  不思議に思いながらもじっと目を見つめていると言葉が続く。
  「まだ言ってない事があるね?」
  「ぅ・・・」
  僕がここにいる理由の全てと言ってもおかしくない聖杯戦争。その部分を全く説明の中に組み込まないで話したから無茶が出るのはしょうがない。
  はっきりと『説明にこれがない』とは言われなかったけど、話さなかった部分があるのは確かなので言葉に詰まった。
  「だが本気だ――。長生きしてると本気かそうでないかの違い位は見分けられるようになるもんでね、その見立てによると嘘は言ってないし、その子の為に何とかしようと必死になってる。そう思うよ」
  「・・・・・・」
  「正直、話がいきなり過ぎてその子をどうすればいいのかすぐに答えは出せそうにない。だけど・・・・・・」
  そこで間をおいて、僕の目をまっすぐ見つめてくる。
  僕は負けじとその目を見返した。強く、ただ強く。
  「何の縁もないその子の最善なるように、何かしようとしてるんだね?」
  「はい」
  「警察に任せればすぐ終わる事を、あえて自分の力でどうにかしようとしてる。そうだね?」
  「はい――」
  「ウェイバー、たとえ善意からの行動であってもお前のやってる事は誘拐でそれは犯罪だ。判ってるね?」
  「はい!」
  何度も何度も確かめるように続けられた問いかけに僕はまっすぐ応じる。
  どこの誰か判らない子供を保護していると一応の説明は出来るけど、僕がやっている事は間違いなく犯罪だ。それでも僕はこの子を何とかしてやりたいと思って、その覚悟も決めた。
  ライダーに向けて言った時の決意が蘇り、一言一言をはっきりと告げる。
  「ウェイバーがここまで決意を固めたんじゃ・・・」
  するとマッケンジーさんは隣に座っていた奥さんを見る。その顔にはさっきよりも深い微笑みがあった。
  「わし等も協力せん訳にはいかん。なあ、マーサ」
  「そうですね」
  気がつけば、マッケンジー夫妻から怒気は完全に消えて、短い言葉と視線だけで通じあう仲の良い夫婦の姿がある。
  いつの間にこんな風に空気が穏やかになってしまったのか? 自分の決意を確かめるのに忙しかった僕は、周囲の様子を見るのを完全に失念していたからビックリしてしまう。
  「え、と・・・」
  「お前の好きにしなさい。わし等もできることは協力しよう」
  耳に届いたのは僕の言葉を肯定して、なおかつ認めてくれる言葉だった。
  「だがやるからには最後までしっかりと責任を持たねばいかんぞ。それが男として、そして一人の大人としての義務だ。判ったね」
  「――はい」
  僕が喜びに舞い上がりそうになると、そうなる前に釘を刺されて止められた。これが僕にはない経験―――『年の功』ってやつなんだろう。
  マッケンジー夫妻には僕が本当の孫に見えてるので、説得される場合に身内贔屓が混じるのは避けられないと思う。けれど魔術を使わない方法での説得に、僕が使える選択肢がどんどんと増えていくのを実感する。
  ライダーを僕の知り合いとして家に招いた人の良さもある。暗示の魔術がかかっているのも説得された理由の一つだ。それでも僕はうれしかった。
  魔術師として聖杯戦争に参加する僕。だけど、それだけじゃない僕。
  少しずつ少しずつ『ウェイバー・ベルベット』の世界が広がっていく気がした。



[31538] 第27話 『マスターは休息して出発して放浪して苦悩する』
Name: マンガ男◆da666e53 ID:6a0d9b18
Date: 2013/04/07 15:31
  第27話 『マスターは休息して出発して放浪して苦悩する』



  ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆



  Side - ゴゴ





 アサシンの宝具である『妄想幻像ザバーニーヤ』は、ゴゴに物真似された瞬間からその効力を変質させられ、同一のモノでありながら全く別のモノに変化した。その結果にバーサーカーの宝具『己が栄光の為でなくフォー・サムワンズ・グロウリー』を重ねることで、ゴゴ一人ではできない様々な状況を作り出してきた。
  これまでは『仲間』と認識した相手にのみ、宝具での変身を限定していたが。敵と認めた相手に変身してはいけない理由はない。そんな制限は、ものまね士ゴゴとしての『物真似』の成長を阻害する。
  ありとあらゆる事象を自らのモノとして、自分が何者であるかを知るためには敵であろうと味方であろうと善人であろうと悪人であろうと大人であろうと子供であろうと男であろうと女であろうと、等しく物真似の糧になるのならば関係ない。好き嫌いしたら大きくなれないのだ。
  故にゴゴはケフカ・パラッツォに変身した。
  なぜかと理由を考えればゴゴの中で明確に『悪』と断定できる最も顕著な例が彼だからだ。個人の力を存分に振るう為に世界を一つ滅ぼしかけ、三闘神の力を我が物にしようとした男。ガストラ帝国の魔導実験によって力を与えられた人造魔導士で、実験で強い魔導の力を得たが引き換えに精神が破綻したらしい。彼の過去については以前セリスから聞いた。
  聖杯戦争は魔術と冬木市を結びつける大きな理由であり、間桐の庇護を受けている遠坂桜が現在もっとも縁深い魔術関連の騒動である。桜ちゃん自身の安全を考えるならば聖杯戦争を壊す為に、雁夜とバーサーカー以外のマスターとサーヴァントを全員皆殺しにして、大聖杯も、遠坂とアインツベルンも全て壊せばいい。
  だがそれだけでは駄目だ。
  桜ちゃんを救う―――。それこそが雁夜の願いであり目的であり到達点であり、物真似しているゴゴがたどり着くべき場所だ。それを成し遂げるためには多くの苦難を突破しなければならない。
  ゴゴが、ではなく。桜ちゃんが、だ。
  桜ちゃんは知らなければならない。
  味わわなければならない。
  体感しなければならない。
  身に染みなければならない。
  言葉で説明するのは容易いが、子供では理解できない言葉も数多くあるだろう。
  まだ幼い身で聖杯戦争に関わらせるのは酷だとは思うが、魔術に関わる事がどういう現実を生み出すのかを桜ちゃん自身が肌で感じ取らなければならない。
  その為にゴゴはケフカ・パラッツォとなった。
  魔術それ自体には善意も悪意もなく、この世界の中に存在する単なるシステムにすぎない。それを用いる人間が善やら悪やらを決めて行動しているのだ。もっとも、大半の魔術師は自分たちの正しさの為に邁進して善だの悪だのは考えていないだろうが。
  桜ちゃんの安全はゴゴがそばにいる限り保障される。しかし不測の事態と言うのはいつでも起こる可能性を秘めており、だからと言って桜ちゃんに闘争の余波が全く来なければ教えられない。
  桜ちゃんを死なせず、けれども恐怖を生み出す敵が必要だ。単に殺して終わらせようとする短絡的な者ではなく、恐怖そのものを持続させようとする存在が必要だ。
  そしてある意味これが最も重要なのかもしれないが、聖杯戦争を終わらせた時。始まりの御三家で間桐だけが残っていれば、魔術教会も聖堂教会の目も確実に間桐に向く。だから聖杯戦争を破壊した黒幕が―――犯人が―――間桐すら陥れた怪物が―――桜ちゃんに恐怖を教える敵が必要なのだ。
  それこそがケフカ・パラッツォ。
  ゴゴが知る限り彼以上の適任はいない。
  キャスターことジル・ド・レェ。あるいは言峰綺礼。自覚無き『悪』としたら衛宮切嗣とセイバーの組み合わせも悪くないが、そのどれもがこちらの思い通りに事を進めてくれるとは限らない。
  間桐臓硯が一年前から豹変した事実はすでにどの陣営も掴んでいるであろう情報だ。そこに『ケフカ・パラッツォ』を投入させて、『間桐臓硯を殺してすり代わった者』と答えを与える。
  間桐臓硯は既に殺されている、もしかしたらまだ生かされている。どちらを考えるかは人それぞれだろうが、今の間桐臓硯が別人だと誰もが薄々感づいていく筈。
  中には騙されずにものまね士ゴゴにまで到達できる者もいるかもしれないが、表向きにそう見える事実こそが今は必要だ。
  自作自演。今の状況を表すこれほど的確な言葉はない。ゴゴはそう思った。





 ゴゴにとっての幸運はライダーの王の軍勢アイオニオン・ヘタイロイが発動した時にその場に居合わせた事だ。
  聖杯戦争において敗北したサーヴァントがどのようにして聖杯にとりこまれるか。それを間近で見れた事こそが、聖杯問答を閲覧した立場で得られた最も大きな収穫であろう。
  アサシンは宝具によって分裂した群体であり、全てを統合し始めてアサシンのサーヴァントとなる。つまり全てのアサシンが消えない限りアサシンは残り続けるのだが、分割されていてもその身が聖杯戦争にアサシンのクラスで召喚されたサーヴァントである事には違いない。
  そして円蔵山中腹に立つ柳洞寺の地下大空洞に設置されている大聖杯の術式とは異なる、聖杯戦争の賞品としての聖杯―――便宜上『聖杯の器』または『小聖杯』とでも呼ぶべきそれはライダーの固有結界の中に取り込まれたアイリスフィールの体内に存在する。
  さすがにアイリスフィールの肉体によって阻まれている『聖杯の器』までを読み取るのは不可能で、まだ所在の確認しか出来ていないが、アサシンの魂が吸い込まれていく様子はしっかり観察できた。
  人の目、あるいは魔術師の目でも感知できないであろう特殊な波長。魔力解析に特化した魔眼でもあれば見破れたかもしれないが、あの場にいる事情を知る者知らない者全員集めても、見たのはゴゴ以外にはいない。あるいは聖杯を体内にもつアイリスフィールと同じ陣営のセイバーは敗退したサーヴァントの辿り着く先を知っているかもしれないが、アサシンの魂が喰われていく瞬間を見たとは思えない。
  現在ゴゴが持っている物真似の成果で、残る『聖杯の器』さえ揃えば聖杯戦争における全ての魔術的要素が揃う。そうなれば、サーヴァント健在でも聖杯を顕現させられるだろう。
  ゴゴは英霊の魂が喰われていく過程をしっかりと見極め、それを物真似して再現する確信をほぼ得た。『聖杯の器』に注がれる魔力は自前で充分。ただ注ぐべき器が今はまだ足りていないだけだ。
  全てが揃えば、二百年前に始まりの御三家が実現しようとして叶わなかった『聖杯生成』をゴゴ一人の力で行えるようになる。
  これまでにも少ないながらアサシンを何人か殺してきたが、彼らは分割された個であり、本来のアサシン一人分が持つサーヴァントとしての存在感が少なすぎたが故に聖杯に取り込まれる状況を見極めきれなかった。魂を吸収するアイリスフィールが間近にいなかったのも原因の一つだ。
  言峰綺礼と遠坂時臣は多くのアサシンを投入してあの場で決着をつけるつもりだったのかもしれないが、それはゴゴに新たな力を与える結果をも生み出した。あちらは気づいていないだろうが、言峰綺礼達はライダーの宝具の正体を知りながら、同時に大きな誤算も生み出している。
  ゴゴは喜びを抑えきれず、心の中だけでくすくすと笑う。
  そんなゴゴの心象とは裏腹に、一旦冬木市郊外で飛空艇ブラックジャック号を降りたティナは桜ちゃんを背負いミシディアうさぎを引き連れて間桐邸を目指している。ティナの健脚ならばずっと歩いても問題ないが、寒空の下で桜ちゃんの風邪を考えると途中でタクシーを拾うのもいいかもしれない。
  使い魔のゼロを含めてうさぎが十匹乗れるタクシーがあるのかは疑問だが。夜間料金の三倍も払えば運転者も文句は言わないだろう。間桐邸にはアインツベルンの城から帰還するエドガーも戻る予定なので、そうなれば守りは更に強化される。
  ストラゴスはランサーとの戦いを終えた後に冬木市をぶらぶらとしているが、そもそもランサーへの監視の目が少なかったのが幸いだったようで、追手や監視の目を感じられず、何事もなく孫のリルムと合流すべく歩き続けている。
  この調子なら一時間と立たずに祖父と孫は合流できるだろう。
  監視の目に晒されているゴゴ、気付かれていないゴゴ、そもそも間桐の協力者とすら思われていないゴゴ。中にはアサシンが常に張り付いているゴゴもいたが、諜報戦力として魔術師や使い魔よりも優秀なアサシンだ。貴重な人材はもう一人たりとも失いたくないようで、たくさんの場所で堂々とその身を曝け出しながらも、攻撃してくるアサシンは一人もいない。
  これならば余程の事態が起こらない限りは問題にはならない。そう、『余程の事態』でも起こらなければ―――。





  何事もなかった。
  平穏である事が悪い訳ではないが、ものまね士としては『物真似が無かった』と平穏は同義なのであまり喜ばしい事態ではない。
  もちろん、複数に分裂した全てのゴゴが同時に物真似の材料を得られなかった訳ではないが、聖杯問答でのライダーの宝具、ランサーへの襲撃で得た多くの情報、冬木教会への強襲などに比べれば、圧倒的に得たモノが少ない時間だったのは紛れもない事実。
  つまりそれだけ時間を無駄にしてしまった。
  結果だけで考えるならば、桜ちゃんを連れたゴゴ、もといティナ・ブランフォードは何の問題もなく桜ちゃんを間桐邸まで運び、ミシディアうさぎ達と一緒に帰還した。
  冬木市の中で飛空艇ブラックジャック号を探している者達は郊外で残滓すらなく消え去った幻を追い続けているだろう。
  眠る桜ちゃんと同じように、雁夜もまたアサシンとの戦いの傷を癒して休息させている。
  ゴゴを除いた二人の安全確保は行われ、桜ちゃんにはティナが、そして雁夜にはロックとセリスが常時張り付いている。
  万が一、いや億が一にもありえない事だが。もし間桐邸への襲撃があって、邸内への侵入を許した場合、雁夜と桜ちゃんを守る盾はすぐそばにいる。
  仮に侵入できたとしても。桜ちゃんと雁夜を護衛しているゴゴとは別に、戦力としてのゴゴがここには何人もいる。直接、雁夜と桜ちゃんの部屋に突入すれば話は別だが、階下から二階へと登ろうとすれば強力な門番に阻まれて先には進めない。
  間桐邸ごと破壊する様な兵器で攻撃されたとしても、間桐邸の周囲に張り巡らされた結界がそれを感知して対処するまでのほんの一瞬があれば二人を守る行動を起こせる。
  万全だ。
  極端な話。一つの世界を救った者たちの守りを突破するならば、世界を滅ぼせるだけの力を持って対峙しなければならない。とりあえずマスターの中でそれだけの力を有している者はいない。
 今のところライダーの王の軍勢アイオニオン・ヘタイロイがこれに該当しそうだが、あの英霊が闇討ちする姿はどうしても想像できない。あるとすれば、真昼間で、しかも堂々と正面突破だろう。
  ゴゴは桜ちゃんが眠るベッドの横にある椅子に腰かけ、ティナの視線から桜ちゃんを見る。そしてかつての世界ではゴゴがどうしても物真似出来なかったティナの特殊技能『トランス』が今は物真似できるのかと考えた。
  『トランス』、それは人間と幻獣の混血であるティナだけが使える技で、一定時間ティナが幻獣化する事で使う魔法の威力を格段に跳ね上げられる『変身』だ。
  ものまね士ゴゴは幻獣の元と言ってもいいが、その形はものまね士に固定されている。だが今のゴゴにはバーサーカーの宝具によってティナの物真似を可能にしており、姿形の変化もほぼ自由自在に行える状態だ。ならばティナとして『トランス』を使うのは不可能ではないと考える。
  懸念があるとすれば、それはティナの目の前で眠る桜ちゃんだ。
  今の桜ちゃんはティナの事をゴゴと同一の存在だと自覚した上で、別物である『ティナお姉さん』として扱っている。
  見た目の変化でゴゴとティナを別人と見ているようだが、『トランス』はそれを根底から突き崩す諸刃の剣でもある。
  かつてゴゴが旅した世界。ケフカが引き起こし、世界が引き裂かれたあの日。ゴゴはまだ三角島の地下で眠っていたが―――。あの時、モブリズの村では多くの人が死に、大人も死んで、残ったのは最年長16歳のディーンとカタリーナ、そして年端も行かぬ子供たちばかりだった。
  仲間たちとはぐれたティナはそこでママと呼ばれ、慕われていた。
  ティナは誰かを愛する心の発露をそこで知り、戦う意思を取り戻すためにモブリズの村を襲うフンババというモンスターと戦ったのだが、そこでティナは『トランス』を使い変身した。
  いや、魔法の効力を格段に跳ね上げる『トランス』を使わなければフンババには敵わなかったので、使うしかなかったと言うべきか。
  この世界ではバビロニア神話の『ギルガメシュ叙事詩』に登場する怪物として描かれているフンババ。その怪物を倒す為にティナは『トランス』を使い、そして勝利した。
  だがその代償として、ティナは慕われていた子供達からある言葉を投げかけられてしまう。
  子供達は言った。
  ティナを見ながら、怪物、と。
  ティナが幻獣化によって大きくその姿を変貌させ。四肢をもった人の形を作りながらも、紫色の燐光で全身を輝かせ、目は黄色と黒に変貌した。
  一糸纏わぬその姿は見知らぬ者にとってはまさしく怪物であり、初見であろう子供達がそう思うのは無理もない。子供の中の一人がその姿でもティナをティナだと考えなければ、きっとモブリズの村にいた全員が、目の前にいる怪物と自分達の慕うティナとを繋げなかったに違いない。
  桜ちゃんが幻獣化したティナをモブリズの村の子供達と同じように怪物と思い、ティナへの敬愛が絶望へと転化してしまっては『救う』どころではなくなる。
  ティナの目で桜ちゃんを見ながら、ティナはまた怪物と言われる恐れを心の中に宿してちくりと胸を痛めた。
  モブリズの村では皆が判ってくれた。けれど、桜ちゃんもそうとは限らない。
  恐れを抱きつつ桜ちゃんの寝顔を見ると、桜ちゃんの回りをいつものようにミシディアうさぎが囲んでおり、天然羽毛の暖房に暖められた様子も一緒に見えた。
  ミシディアうさぎは魔力で作り出された疑似的な生物であるが故に、本来の生物が持つ『獣臭さ』とでも言うべき匂いがない。
  快適かつ安全。しかも術者であるゴゴと、使い魔となったゼロの主人である桜ちゃんの魔力供給が続く限り存在は維持され続ける。半永久的に生き続けるので、寿命による離別の心配はない。
  この世界には悲しい事や辛い事がたくさんある。そして楽しい事や嬉しい事もたくさんある。大事なのはそれを知る事だ。
  桜ちゃんは色々と学ばなければならない。
  ティナは自らの『トランス』が見た目を異形に変える術だと理解しながら、むしろ魔導の中にはこういう存在もいるのだと判らせる為に『トランス』を使う選択肢もある、と思い直す。
  モブリズの村ではいきなり怪物が目の前に現れたので子供達を怯えさせてしまったが、桜ちゃんの場合は予め言葉で説明してから変身できる余裕がある。
  桜ちゃんに『トランス』を知らせずに過ごす選択もあるが、桜ちゃんを想い成長を望むならば、むしろ教えるべきだ。魔術に関わればこんな事もあるのだと話すべきだ。
  もっともこの恐怖はティナの姿をしているゴゴが『トランス』を使えなければ何の意味もない仮定に成り下がるが。
  とにかく間桐邸に戻ったゴゴにより、屋敷の中で桜ちゃんと雁夜には冬木市の中で最強と言っても過言ではない守りがついた。
  「ん・・・」
  眠りが浅くなったのか、暖を求めたのか。ティナの意識が別のゴゴに移ろうとした時、桜ちゃんが寝返りを打つのが見えた。
  それを見ていたティナは微笑んでいる自分を想う。ゴゴだと自覚しながら、ティナとして微笑んだ。
  その笑みは冬木教会でケフカ・パラッツォとして好き放題した後の爽快感とは違った。
  サーヴァントが聖杯に呑み込まれる様子を知れた時のゴゴの喜びとも違った。
  ライダーの宝具を見れた時の歓喜とも違っていた。
  母性を感じさせる柔和な笑み。そんな柔らかい笑顔でティナは桜ちゃんを眺めていた。
  「起きてからは大変なんだから、今はゆっくりお休み・・・桜ちゃん」



  ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆



  Side - 言峰綺礼





  夜が明け、日の光が冬木市を照らす中。私は少し前に行ったアーチャーとの会話を思い返した。


 「聖杯とやらの格はいまだに見えぬが――たとえガラクタであったとしても良しとしよう。オレはそれ以外の愉しみを見出した」


 「オレはな、傲慢なる生を好む。器の卑小さをわきまえず大望を懐く者。そういう奴は見ているだけでオレを愉しませる」


 「オレに言わせれば、そもそもその時臣の仮説こそが疑わしい。あの男が、そこまで聖杯に肩入れされるほどの器とは思えぬからな」


  冬木教会の半壊―――英霊とそれに匹敵する魔術師との戦いで全壊しなかったのが奇跡とも思えるが、その無残な有様を修復する為に聖堂教会のスタッフが駆けつけ、私の行っていた後片付けを引き継いだ。
  彼らは私がアサシンのマスターであるとは知らされていない。だが、私が何らかの形で聖杯戦争に関わっており、監督役である言峰璃正神父の息子である事は知っている。
  故に多くは問われず、異常とも言うべき冬木教会の惨状の原因については追及してこなかった。あるいは父は冬木市に潜り込ませた聖堂教会のスタッフを単なる労働力として考え、余計な詮索をしない口の堅い者に限定したのかもしれない。
  彼らは冬木教会の損壊を『表の世界でも起こり得る事件』としてもみ消す為に細工をしていくだろう。
  私は父の看病を行い、治癒魔術によって容体が安定して後は覚醒を待つまで父を回復させた。その時だ、私が私室でくつろぐアーチャーと対話する機会を得てしまったのは。
  アサシンの生存が露見し、マスターとして冬木教会に保護された私がアサシン以外のサーヴァントと話すなど危険しかない。中立の不可侵領域として設定された冬木教会を襲撃した前例が作られたのだから、別のサーヴァントが襲撃を仕掛け、私と時臣師の結託を見破り暴露する可能性は大いにあり得る。
  それでも私がアーチャーと話したのは、行きがかり上とは言え、各マスターの聖杯探究の動機を知ろうとするアーチャーへの回答を行わなければならないと思ったからに他ならない。
  例えそれが英雄王ギルガメッシュの娯楽だとしても、私はそれを成すと確約した。
  そして残るアサシンの中にはマスター自身の声と姿を見聞きした者もいるので、私はアサシンの一体を呼び寄せてアーチャーへ伝えようとした。
  隠密に特化させておけば、英霊でもない限り見破られる危険は無い。そう判断しサーヴァントを呼び寄せようとしたところで、アーチャーは言った。


  「あんな影ごときの言葉などに興味はない。綺礼、これはお前の口を介して語られなければ意味のない報告だ」


  直に情報収集を行ったアサシンではなく、『言峰綺礼』というファクターを通り抜けた情報を求めるアーチャーの真意が私には判らない。
  得られた情報の多くは聖杯戦争に特化しており、間桐に協力しているあの組織についてはまだ疑問が多く残る。
  報告とは起こった事象を客観的かつ正確に述べるものであり、中途半端な報告では私の主観が雑じってしまうので由としない。そして不足している情報があるのはどうしても否めない。
  それでも私はアーチャーとの約束を果たす為。アサシンが手にいれた情報を頭の中でくみ上げ、その一つ一つをマスターが聖杯を求める理由にのみに絞って言葉とした。
  ランサーのマスター、ケイネス・エルメロイ・アーチボルト。ライダーのマスター、ウェイバー・ベルベット。この両名は聖杯そのものを求めているのではなく、魔術師としての栄誉の為に聖杯を求めているだけだ。
  あるいは言葉にしきれぬ聖杯に託す願いが彼らにはあるかもしれないが、戦いの理由についてそれ以上の情報は無い。
  キャスターのマスター。雨生龍之介はそもそも自分の身に降りかかっている状況が聖杯戦争と呼ばれる闘争だという自覚が無い。
  よってキャスターから願望機の存在を聞き及んでいるようだが、単なる情報の一つとして処理するだけだ。雨生龍之介には願いが存在しない。
  バーサーカーのマスター、間桐雁夜については間桐の守りが堅牢な事もあり、得られた情報は他のマスターに比べて少ない。しかし、彼が間桐に戻り、聖杯の力で遠坂の次女を救い出そうとしているのは理解できた。
  本来であれば当主を継ぐのは間桐雁夜の役目だったが、その歪な魔術故に間桐の魔術そのものを毛嫌いした間桐雁夜が十年前に家を出る。その結果、遠坂と間桐との盟約により遠坂の次女は間桐へとやられた。
  間桐雁夜と真の当主である間桐臓硯との間には、聖杯と遠坂の次女を交換する取引が合ったようだ。
  そして時臣師の妻である遠坂葵とも過去に何らかの因縁があるようで、魔術師らしからぬ『贖罪』という凡庸な理由こそが間桐雁夜が聖杯戦争にマスターとして参加する理由である。
  だが間桐臓硯に成り代わる者が存在する事実が私を混乱させる。間桐雁夜の望みはあの者から遠坂の次女を解放する為に戦っているのか、あるいは間桐臓硯が残した何らかの遺物あるいは妄執を体現する何かに囚われているので戦っているのか。まだ情報の少なさゆえに結論は出せない。
  とにかく、理由が無いのはキャスターのマスターと大差は無く、彼が聖杯に託す願いもまた存在しない。脅威として見れば間桐は恐ろしい集団となったが、理由として見れば間桐雁夜のそれはあまりにも凡俗だ。
  セイバーのマスター。衛宮切嗣について、私はアインツベルンの悲願、つまりは聖杯の降臨を成し遂げる、達成そのものが理由だと偽りの話しを作り出した。
  あの男がセイバーのマスターだと確信を抱きながら、私は今に至るまでその姿を捉える事すら出て来ていない。機会は幾度かあったが、その都度、衛宮切嗣は私を含めたアサシンの監視からすり抜けて行方をくらましている。
  遠坂邸でのアサシン敗退を最初から狂言と見抜いていたとしたら、その洞察力は敵ながら称賛に値する。
  今となってはアサシンの監視対象が間桐に協力している組織に移ってしまったので、他の陣営の監視は最低限になってしまった。今に至るまで衛宮切嗣発見の報は届いていないので、これからは絶望的であろう。
  アサシンを全て動員すれば捕捉できるかもしれないが、それは時臣師との盟約に背く事になる。
  衛宮切嗣を追いかけるのは私が対談を望むが故であり、聖杯戦争とは何ら関係が無い。アーチャーに語り聞かせて興味をもたれれば厄介だ。部外者に踏み込ませるつもりは全くないからこそ虚言が必要になる。
  こうして全てのマスターに対する理由をアーチャーへと語り聞かせた。


  「所詮は雑種、期待はずれもいいところだな。どいつもこいつも凡俗なばかりで何の面白味もない」


  そしてアーチャーの口から出て来た勝手気ままな言いように、私は少なからず苛立ちを感じた。何の意味もない事柄だとばっさり切り捨てたアーチャーに対し、私は苛立ちをそのまま言葉とする。
  するとアーチャーは十分な成果があったと前言を撤回した。
  何を言っているのか判らない私に向け、アーチャーが続けて言う。


  「自覚がなくとも、魂というものは本能的に愉悦を追い求める。故に綺礼。お前が見聞きし、理解した事柄の中でもっとも多くの言葉を尽くして語った部分こそが、お前の興味を惹きつけた出来事に他ならぬ」


  アーチャーが何かしらの意図をもって私にマスターが聖杯を求める理由を調べさせている事を察していた。しかしそれがまさか私自身だったとは考えもしなかった。
  あるいは他のマスターが聖杯を求める理由を知り戦いを有利に進める為かとも思ったが、アーチャーの思惑は私の想像を超えていた。
  自らの心を解体される恐ろしさが私の中と通り抜け、即座にこの話を切り上げたい衝動にかられる。だがアーチャーはそんな私の動揺を汲み取ったかのように満足げに笑う。


  「バーサーカーのマスター。たしかカリヤとか言ったな。お前はこの男については随分と子細に報告してくれたではないか」


  間桐は今回の聖杯戦争において最大の問題点であり、調査に費やす手はどれだけあっても足りない。間桐雁夜の情報もまたそれに付随する要素であり、調べる事柄であるのは明白だ。
  何ら臆す事無くそう言った私に対し、アーチャーは淡々と返す。


  「違うな。お前はこの男についてのみ、無自覚な興味を発揮し、入り組んだ事情が見える調査をアサシンに強要してしまったのだ。綺礼、お前の言い分では調べるべきはバーサーカーとそのマスターではなく、その周囲となる。どうしてお前はこの男についてこれほどの調査を続けたのだ? 贖罪などと凡俗な理由を知れた時、理由を知る必要はなくなったのではないか?」


  アーチャーの言葉を聞き、私は内省し、判断のミスを即座に認めた。
  間桐に協力している組織が聖杯戦争においてのみの協力体制を敷いているとすれば、間桐雁夜の敗退―――間桐が戦う意味を無くす事こそが必要だと感じ、調査を行わせたが、アーチャーの言うとおり調べるべきは間桐雁夜の周囲であって戦う理由ではない。
  バーサーカーが有する能力、宝具の簒奪は恐るべき力で、現段階ライダーの宝具同様にアーチャーに匹敵しうる敵だ。
  しかし、間桐雁夜だけに焦点を絞るならば、魔術師として半人前以下のあの男の脅威は少ない。仮にバーサーカーを制御できたとしても、狂化したサーヴァントの魔力消耗は他のどのサーヴァントよりも多く、間桐雁夜では長時間の戦いは不可能。
  郊外の森の中でキャスターと戦い善戦したが、結局は魔力切れによって勝利を逃した。
  間桐雁夜はわざわざアサシンを使ってまで調べる敵ではなかった。
  間桐に与する者達の力があまりにも多いが故に私は自分の目を曇らせてしまった。間桐雁夜の過大評価がアーチャーに余計な詮索をさせてしまったのも、私のミスだ。


  「お前は間桐を脅威と考えているようだが、仮にその脅威でもってバーサーカーとそのマスターが聖杯戦争に勝利したとする。そのとき何が起こるか、お前は想像出来るか?」


  その言葉を聞いた瞬間、私が真っ先に思い浮かべたのは間桐と遠坂との対決であった。
  間桐雁夜自身がそれを成すのか、あるいは他の誰かが成すかは問題ではなく。確実にアーチャーを有する時臣師と間桐は衝突する。
  規格外の宝具を有するライダーも戦いに関わる可能性はあるが、間桐も遠坂も紛れもなく『強者』であり、聖杯戦争が戦いであるのならば衝突は必然だ。
  結果、間桐が勝てば時臣師は死ぬ。そして遠坂の次女は解放されるのだが、そこに待ち構えているのは父親を殺した男の称号のみ。間桐雁夜がそれを成す可能性は大いにある。
  間桐雁夜は負ければ死ぬ、勝利しても時臣師の妻である遠坂葵と遠坂の次女、そして今では遠坂の魔術の後継者となったあの遠坂凛からも恨まれる。
  もし間桐雁夜がそれを覚悟の上で聖杯戦争に挑んでいるとしたら、殉教者と何ら変わりない。覚悟せずに挑んでいるとしたら、間桐雁夜はどうしようもない愚か者だ。
  どちらにせよ間桐雁夜に救いは無い。私がそう考えた時、今まで以上に満足げに笑うアーチャーは言った。


  「なあ綺礼よ。もういい加減に気付いてもいいのではないか? この問いの本質的な意味に」


  アーチャーが何を言っているのか。いや、私に何を言わせようとしているのか。その意図が判らず、私は問うた。『間桐雁夜の勝利を空想して、何の意味がある?』と。
  そしてアーチャーは意味などないと言い放ったのだ。


 「このオレがいるのだ、仮定の決着を考えても何の意味は無い。だが、お前がそれを考える行為そのものには意味がある。お前は平時の無駄のない思考を放棄し、延々と益体の無いのない妄想に耽っていた。判るか? 無意味さの忘却――。苦にならぬ徒労――。即ち、紛れもなく『遊興』だ。これこそがお前の興味を何より惹きつけた。祝えよ綺礼、お前はついに『娯楽』の何たるかを理解したのだぞ」


  それこそが『娯楽』そして『愉悦』。言峰綺礼が欲するモノ。
  虚ろ気に呟く私に向け、アーチャーは『然り!』と断言した。
  私は否定した。アーチャーの言葉を否定した。
  間桐雁夜の命運には人の『悦』たる要素など皆無だ、と。
  私が欲する『愉悦』などそこには無い、と。
  間桐雁夜が遠坂の次女を解放しようとするなら、痛みと嘆きを積み重ねる責め苦しか待ち構えていない。いっそ早々に命を落とした方が救われる、と。
  私は否定した。
  強く否定した。


  「綺礼よ――。なぜそう『悦』を狭義に捉える? 痛みと嘆きを『悦』とすることは何の矛盾もなく、愉悦の在り方に定型などない。それが解せぬから迷うのだ、お前は」


  「それは許されることではない!」
  私はアーチャーにそう言った。
  叫んだ。
  そしてこうも言った。
  「英雄王、貴様のような人ならざる魔性なら、他者の辛苦を蜜の味とするのも頷ける。だが、それは罪人の魂だ。罰せられるべき悪徳だ。わけても、この言峰綺礼が生きる信仰の道に於いてはな」


  「故に『悦』そのものを罪と断じてきたか? 求め続けながら目を逸らし生きて来たか。よくそこまで屈折できたな。つくづく面白い男だよ、お前は」


  続けて発せられた言葉が区切られる。私は激昂のあまり反論するつもりだったが、二つ隣の部屋に寝かせてある父が体を起こすのを感じ取った。
  それは私とアーチャーの会話に紛れて消えてしまいそうな僅かな音。聖堂教会のスタッフは教会の後片付けはしていても、奥にまでは入り込まないので動く気配があればそれは父以外にはいない。
  けれど、会話が途切れてしまったが故に私の耳はその音を捉えた。
  これ以上アーチャーの言葉を聞くのは危険だ。そして私は父の様子を診なければならない。
  私は急いで部屋を出ていこうと扉へ向かった。


  「それが真に万能の願望機であるならば――。綺礼よ、聖杯はお前自身にすら理解の及ばぬ、心の奥底の願望を、そのままに形を与えて示すことだろう。聖杯をして祈れ。しかる後にアレのもたらしたモノを見届けて、それを自らの幸福の形と知ればよい」


  思うに、背後から投げかけられた言葉を聞きながら、そこで足を止めてしまったのが私の最大の失敗だった。
  話を途中で切り上げようとする私に対し、あの傲岸不遜が皮を被っているようなアーチャーが罰を下さなかった時点でおかしいと思うべきだった。
  自分以外の全てを雑種と蔑むアーチャーだったならば、父が目覚めたからと言って話を切り上げさせるのを許す筈がない。つまり、あの段階でアーチャーの話しはもうほとんどが終わっていた。投げかけられた言葉は単なる余興でしかなかったのだ。
  最早、アーチャーが私に言うべき言葉は全て言い終えられ、私は全てを聞いてしまっていた。
  私はその声を聞いて振り返ってしまう。聞くべきではないと心が叫んでいながら、全ての話を聞き終えてしまったが故に聞いてしまった。
  そこで私はアーチャーの目を見る。
  まるで私すら知らぬ私自身の本質を全て見極める様な目―――。その目が、それこそが正道なのだと語っていた。
  その目が私に問うていた。いや、問うているのは私自身だ。
  アーチャーが冬木教会に現れるより前。間桐臓硯に成り代わっていた何者かの声を聴いた時から、その思いは私の中に合った。
  奴は言った、『似ている』と、あの破壊を口にした男が私を見て『似ている』と、そう言ったのだ。
  あの言葉を切っ掛けとして、今に至るまで私が考えないようにしていた多くの想いが溢れて止まらない。表面上は平静を装えたつもりは合ったが、それすらもアーチャーには見抜かれていたのかもしれない。
  私が必死で押し隠そうとしていた根幹が―――罰せられるべき悪徳が土の下から息吹をあげる新芽のように成長していく。


  「求めるところを為すがいい。それこそが娯楽の本道だ。綺礼、お前の求める道は示されているぞ。もはや惑うまでもないほど明確に、な」


  私はアーチャーの最後に告げた言葉を脳裏に思い出し、考えないように自らを諌めても決して拭えぬ思いが根を張っている事に気が付く。
  父の看病に向かっている筈の男が全く別の事を考えているのだ、何と滑稽な話だろう。
  言峰綺礼が求める目的意識とは―――理想とは―――探求とは―――願望とは―――快楽とは―――、何なのか。
  ほんの少しだけ手を伸ばせばそこに手が届く、そこに触れるだけで『ああ、そうだったのか』と自分が何者であるかを知る為の大きな納得を得られると判ってしまう。
  しかし、そこに触れて知ってしまえば、これまで言峰綺礼が作り上げてきた人生全てが瓦解してしまう予感もあった。
  私は何も言えずにいた。
  私は誰にも何も言えず―――ただ考え続けながら、教会を後にした。
  父の容体が安定し、監督役としての責務を全う出来るようになったので、冬木教会に長居するのは危険だと理由が合った。アーチャーとの会話をこれ以上続ける危険も重々承知していた。けれど、それだけが私を教会の外へと導いた理由の全てではない。
  何か父と話した気はしたが、その内容が何であったのかを思い出せない。取りとめのない会話をした気もするし、これからは今まで通りに援助を行えないと、父から自責の念を聞かされた気もする。
  アサシンのマスターとして、今後とも影ながら時臣師の補佐を行うと私から父へ言った気もした。
  覚えていない理由は明白だ。
  私がそれ以外の事を常に考え続けていたからに他ならない。
  私は心の中に巣食った思いを考え続けていた。外界からの事象にほとんど反応を示さず、ただただ考え続けていた。
  もしこの状態で敵に見つかれば、反撃も出来ずに殺されてもおかしくない。そう気付いたのは冬木教会を離れてから二十分ほど後の事。それまで私はただひたすらに考えていた。
  言峰綺礼が欲する愉悦を―――、これまでにない切っ掛けと共に―――、ずっと、ずっと考えていた。



  ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆



  Side - アイリスフィール・フォン・アインツベルン





  「セイバー、運転の感想はどう? 私の楽しさが判ってくれたかしら」
  出来るだけ場の状況を和ませようとしたつもりの一言だったが運転席でメルセデス・ベンツ300SLを操縦するセイバーの表情は晴れない。
  倉庫街の戦いを終えて、アインツベルンの城へと拠点を移す時。私はこの車の運転を楽しんで行っていた。けれどその時はまだ余裕があったからこそ楽しめた。
  「・・・実に素晴らしい乗り物です。これが私の時代にもあったらと、そう思わずにはいられません」
  少しだけ間を置いてから返すセイバーの格好は、騎士ではなく男装の麗人としての黒スーツ姿だ。助手席から話しかけて、車中では誰よりも近くに並ぶ二人なのに、その心は大きく引き離されている。
  そうじゃない。
  他の誰でもない、私自身がセイバーの行動に疑念を抱いてしまっていて、それがセイバーにも判ってしまうのだろう。
  今の私じゃ運転に不安があるからセイバーに頼んだのけれど、ちょっと失敗だったかな。
  もちろん車中の重い雰囲気を作る理由はそれだけが全てじゃない。アインツベルンの森と城、結界であり拠点でもあったあの場所がライダーによって破壊され、所在を知られた後では留まるのは危険。
  だからアインツベルンの森以外の拠点に移動する為に私たちは急いで切嗣に連絡を取った。数分後に折り返してきた電話で新しい拠点を指示されて、迎えに行くまでは城に留まってくれとも言われた。
  新しい拠点に移動する為の準備として城に留まった数時間。最強の守りのセイバーが側に居てくれたけど、それでも私の感じた数時間は緊張の連続だ。
  結局は敵の襲撃なんてなかったのだけれど、何もなかったから息苦しさだけが膨れ上がった。そして、その間に私は色々な事を考えてしまった。
  新しい拠点へと誘導する為にライトバンが先を行く。けれどその中には舞弥さんだけではなく切嗣の姿もある。
  キャスターの襲撃から冬木の町へと斥候していた二人。セイバーと出来るだけ接点を持とうとしない切嗣だから、てっきり新しい拠点への移動は舞弥さんだけがするのかと思ったのだけれど、切嗣にも何らかの問題が発生して、使っていた拠点を離れなければならなくなったそうだ。
  詳しくは訊いていないから、何が起こったのかは判らない。ただ切嗣はこう言った。


  「まだ、敵には君がセイバーのマスターじゃないとばれてない」


  互いの車に乗り込む前に短く告げられたその言葉。でも、私はその中に小さな嘘が混じっていたのを感じた。
  アインツベルンに雇われる前。つまり私の夫になる以前の切嗣の仮面が剥がれ、ほんの少しだけ城で過ごした切嗣の顔が見えた気がした。
  私はずっと切嗣の妻として生きてきた、だから夫が隠している―――もしかしたら切嗣も確証が無くてどう言えばいいのか判らない『何か』があるのを敏感に感じ取った。
  もし敵に私がセイバーのマスターとして偽っている事が知られてしまったら、切嗣ははっきりとそう言う筈。私たちが優位に行える可能性が損なわれたとしたら、それに淡い期待があったとしても、今の切嗣は切り捨てる。
  きっとあのライトバンの中では私とセイバーがそうであるように、切嗣と舞弥さんが言葉を交わしている筈。切嗣はその『何か』を私ではなく、舞弥さんに話しているだろう。
  切嗣が聖杯を得る最後のマスターになる為には舞弥さんの力が必要だ。頭ではそう理解しているのに、正直に言えば、あの二人が行動を共にしている光景に強く嫉妬してる。
  どうして私は切嗣の隣に並んでいないの? 私は先を行くライトバンを見ながらつい考えてしまう。
  「・・・そ、それにしても、サーヴァントのスキルって凄いのね。初めて触る車なのに、あなたの操縦って完壁よ」
  「私も、いささか奇妙な感覚ではありますが――まるで遠い昔に腕に覚え込ませた技術を振るっているような感じです」
  今度の返答に間は無かったけど、やっぱりいつものセイバーに比べると少し硬い感じがする。
  私がセイバーに抱いている思いが―――。彼女は本当に私たちの為に聖杯を得て、世界を救済する為に使ってくれるのか―――。その疑念が伝わってしまったのだろう。
  そしてセイバーは切嗣がすぐ前にいながらも、今度もまた話を出来なかった状況に怒りを覚えてる。
  聖杯問答が始まる前、私たちは切嗣が敵を追い払う為の代償として城が半壊するんじゃないかと思える惨状は見た。あの『切嗣の攻防の結果』が街中で起こったら、その被害に合ったのが一人や二人とは思えない。
  魔術師とサーヴァントを倒す為。冬木ハイアットホテルを倒壊させた時の様に、切嗣が逃げる為に他の何人も、何十人も、何百人もの人達を犠牲にしていても不思議はない。
  切嗣に『何か』が合ったけど、切嗣は無事だった。その事を私は単純に嬉しく思う、でもその代償として犠牲にした人達がいないなんて、私には思えない。
  だって切嗣はもうたくさんの人達を犠牲にして結果を得るやり方を私たちに見せたのだから。
  でも切嗣に尋ねるのが怖くて、本当に起こった事をまだ確かめてない。
  ねえ切嗣。あなたに何が合ったの? あなたは何をしたの? あなたは舞弥さんと何を話しているの?
  私たちがやろうとしている事は、本当に正しい行いなの?
  「・・・・・・」
  「アイリスフィール? どうかしましたか?」
  「あ、何でもないの。ちょっと考え事をしてね」
  話をする雰囲気ではなかったけれど、突然黙り込んだ様にも見える私に向けてセイバーが言った。
  相変わらず車中の空気は重い。少しでも場を解そうと、私は別の事を言ってみる。
  「ねえ、セイバー」
  「はい」
  「思ったんだけど。最新型の戦車か爆撃機にあなたを乗せたら、それで聖杯戦争は一気に片付いちゃうんじゃない?」
  出来るだけ軽く言ってみたけれど、心の中にある想いは全く消えずに残り続けた。
  騎士への疑心。
  妻としての嫉妬。
  正しさそのものへの疑問。
  一言も口にしなかったけど、おそらく大部分はセイバーに筒抜けだと思う。騎士王として、多くの人間を見て来たセイバーが自分の心を覆い隠す術など全く知らない私の胸中を測るなんて簡単に出来るに違いない。
  でもセイバーは騎士としてそれを確かめない。私が口にするのを待っている。でも、それを口にしない私が悪循環を作り出して、空気は悪くなる一方だった。
  「面白い発想ではありますが、断じて言えます。いつの時代にも、私の剣に勝る兵器などない、と」
  「そう――」
  ようやく表情を緩め、いっそ誇らしげに堂々と言うセイバーには頼もしさを感じる。
  セイバーの強さを、そしてサーヴァントの戦いを間近で見たから、私はセイバーの不敵な言い分に異論を唱えない。事実そうだと思う。
  けれど、心のどこかで『それは嘘よセイバー』と彼女の言葉を否定してる私もいた。
  私は切嗣を介してアインツベルン以外の情報を手にいれて来たけれど、体験そのものはこの冬木市に来てからが全て。たくさんの事は話しには聞いているけど実物は見た事は無い。
  それでも、切嗣の願いを聞いた私が『聖杯の力によって世界を救済したい――』。そう決断させたのは、ある兵器に関する話を彼から聞いたからだ。
  原子爆弾。
  水素爆弾。
  中性子爆弾。
  核兵器と呼ばれる、一発で都市を壊滅させられる武器。
  この冬木がある日本と呼ばれる国で、かつて二発の原子爆弾がその威力を発揮した。
  世界に散らばる核兵器の中のほんの一部。けれど、たったその一部だけで町が消え、人が大勢死に、数十年経った今も消えない傷痕として核の脅威は人々の心に刻まれている。
  核に汚染されて人が住めなくなる土地があると聞いた。
  放射線被爆でかかる、完治できない重い病気もあると聞いた。
  核兵器とは人の執念が生み出した、世界を何回も何十回も壊せてしまう恐ろしい武器だ。
  全部切嗣から聞いた話だけれど、これは魔術とは何の関わりの無い表の世界で本当に合った出来事。
  世界を救わなければ―――。人は自らの手で世界を、この星を破壊してしまう。
  私はそう思った。
  だから、切嗣が教えてくれた世界の救済を共に目指そうと心に誓った。
  セイバー、あなたの剣はこの星に生きるすべての人達を斬り殺せる?
  セイバー、あなたはこの世界を壊せる?
  私は咄嗟にその言葉を呑み込んだ。もし言ってしまえば、私がセイバーの剣に勝る兵器の存在すらも口にして、騎士王の無力さを言葉にしてしまいそうだったから。
  兵器の事を考えないようにして、私は切嗣の事を思い直す。そうしないと、セイバーに向けて兵器の強弱を口にしてしまいそうだ。
  その代わり、また切嗣と舞弥さんの組み合わせを考えて、妻として二人を嫉妬する自分を思い出してしまう。
  結局、車中の重苦しい雰囲気はずっと消えなかった。





  聖杯戦争に関わるマスター達の中で、私だけに判る感覚がある。それは私の体内に封印した聖杯の脈動―――聖杯の器である私だけが感じられるサーヴァント消失の度合いだ。
  私の中にある聖杯は召喚されたサーヴァントが消滅すると、『英霊の座』と呼ばれる領域に戻る前にその魂を喰らって真の聖杯を作り出す為の糧とする。
  サーヴァントが消えれば消える程、つまり聖杯がその役目を果たす為に力を付けていけば行くほどに、私は人としての機能を失っていく。
  だから私には判る。まだアサシンは顕在だ、って。
  アインツベルンの城に現れたアサシンは大勢いたけれど、あれだけが全てじゃない。まだ『サーヴァント一体分』の魔力が聖杯に喰われていないと私には感じられる。
  教会に保護されたアサシンのマスターだった言峰綺礼はマスターの資格を失ってはない。もしアサシンの能力が分身だったとしたら、数体を残して予備戦力として、残りをこちらに差し向けた。
  ライダーの宝具によって大勢のアサシンが殺されたけれど、まだ言峰綺礼の手元にはサーヴァントが残っている。
  もしかしたら、その残ったアサシンが、私達のクラシックスポーツカーと切嗣達のライトバンの組み合わせを追跡しているのかもしれない。私には暗殺者の英霊の気配は判らず、セイバーも敵の気配は感じていないけど、もしかしたらそうかもしれない。
  アサシンの監視されてる時に移動するのは危険かもしれないけど。アインツベルンの森はもう拠点として使えないから移動は急務。結局は移動するしかないのだけれどね。
  この『アサシンの健在』も私の雰囲気を重くしている理由。だけど、拍子抜けするほど新しい拠点までの移動では敵サーヴァントの襲撃は無かった。
  二台の車は冬木大橋を渡って深山町へと入る。そして閑静な住宅が立ち並ぶ冬木市の歴史を感じさせる一角へと入り込み、ある位置で停車した。
  「この辺り・・・、トオサカやマキリの拠点に近いわ。その気になれば歩いて行けるほどの距離しかないはずよ。いくら所在を知られてなくても、こんなに近いなんて・・・」
  「おそらく切嗣は近すぎるが故に見えない盲点に入り込んだのでしょう。敵の意表をつくという点に限って言えば的確です」
  前のライトバンが動く気配を見せないので、セイバーもまた車を停車させる。程なく、舞弥さんが車を降りたので、私たちも合わせて外に下りる。
  ただ、セイバーが『切嗣』と言った時の口調は車中の会話よりもっと固かったのがどうしても気になる。
  セイバーが召喚されてから、切嗣は一度もセイバーと言葉を交わしていない。そしてセイバーは私と同じように切嗣の行動の不可解さに気付いて、その事を追求したい筈。
  問う者とそれに応じる気が無い者。両者の軋轢がより強くなるのは当然だ。
  この問題とは別に、もしかしたら今もアサシンに見張られているかもしれない。そんな思いを抱きながらも、アサシンを見抜く術を持たない私には何もできない。
  だから私は開き直り、ただ目の前の事だけに集中する。
  道路から見る新しい拠点―――ドイツどころか冬木でもほとんど見ない、純和風建築の木造平屋を見ながら、私は言う。
  「ふぅん。随分、不思議な建物ね」
  冬木市のある日本。今まで聖杯戦争が行われてきたその場所の知識を私はいくつか聞いていたので、これが日本の建造物の一種だと知識では知っていた。
  第三次聖杯戦争が行われた六十年前ならそれほど珍しい建物ではなかったかもしれないけど、新都の建物と比べると同じ『家』でありながら、全く別物に見えてしまう。
  新鮮であり異質。それが新しい拠点を見た最初の感想だ。
  アインツベルンの森の中に合った城に比べれば敷地面積は小さいけれど、周囲にある建物に比べればかなり広い。けれど、長年空き家として放置されてきたのか、塀の向こう側に見える屋根の寂れた様子が尋常ではない。塀の塗装もあちこちが剥がれ、よく原形をとどめていると感心してしまう。
  私は昔、切嗣から日本のお屋敷の話を聞いた後、それを見たいと言った事がある。
  切嗣が何を思ってここを拠点にしようとしたのか、そして、どうやってこの拠点を手にいれたのか少し気になった。住居としてはとても酷い有様だけど、もしかしたら切嗣は私の話を覚えていてくれて、ここを拠点にしようとしてくれたのかもしれない。
  もしそうだとしたら嬉しい。
  「アイリ」
  家に目を奪われていた私を呼ぶ声がする。切嗣の声に導かれてライトバンの方を向くと、そこには車から荷物を下ろす切嗣と舞弥さんがいた。
  「どうしたの切嗣」
  「すまないが僕たちは荷物を下ろさなきゃならない。結界の敷設と工房の設置準備に取り掛かってくれないか」
  「――判ったわ」
  私が返答を言い終えるより前に切嗣は荷物の中から鍵束を取り出し、その中の一つを門の鍵に差し込んで開錠する。
  切嗣が持つ鍵束の中に一つだけ古めかしい鍵があった。他の鍵は切嗣が門を開くのに使う鍵と似ているのに、その一つだけが明確に違う。私はそれが何なのか少し気になったけれど、私は切嗣がセイバーを全く見なかった事と切嗣が運ぶ荷物に意識を向けた。
  ライトバンの中に大量に入っていた荷物は、きっと切嗣が予め冬木市にもちこみ、アインツベルンの城とは別の場所に保管しておいたのだろう。いきなり拠点を変えなきゃならない事態が起こった時、例えば今みたいな事態に備えたに違いない。
  アインツベルンの城が拠点として使えなくなっただけでおろおろしてしまった私とは違う。何重にも備えを作り、常にどんな不測の事態が起ころうとも冷静にそれに対処する。
  切嗣はとても頼りになる。けれど切嗣は、セイバーに全く話しかけない。
  荷物を運び入れるならセイバーの助けを借りればすぐに終わるのに、話しかけるどころか視界にいれようともしなかった。
  話しかけるつもりのない切嗣の在り方は何も変わっていない。それはつまり、セイバーに守られて傍に居続ける私は切嗣と心の底から話す機会を持てないのと同じ。
  アインツベルンの城で切嗣が私とイリヤを連れて逃げようと言ってくれたあの瞬間。あの状況こそが、私が切嗣の本音を―――誰にも邪魔されずに夫婦だけで話し合える最後のチャンスだった。
  もう切嗣はセイバーや舞弥さんが近くにいては、決して本音を明かしてくれない。そう思えてしまう。
  私も切嗣も生きてる、まだまだ話すチャンスは幾らでもある。その筈なのに、そう思えない私が、アイリスフィール・フォン・アインツベルンがいた。
  「・・・・・・・・・」
  私はセイバーと切嗣との間に入り、二人が決定的な亀裂を生まない為の緩衝材としての役割を自らに課した。そして切嗣が世界を救い、私が最後の聖杯の器として命を終える覚悟も決めた。
  切嗣が聖杯を獲得する為の最大限の努力をし続けなければらない。そう判っている筈なのに、私は今切嗣と話がしたくて堪らない。
  振り返ってセイバーを見ると、車中での顔よりも更に表情が強張っていて、自分を無視し続ける切嗣への不平不満がありありと顔に出てる。
  もしここが人目の多い住宅街でなければ、セイバーはアインツベルンの城で切嗣に言ったように、声を荒げた筈。
  でも、ここで周囲の目を集めても得られるものは何もない。そしてセイバー自身、自分のマスターがそうやって無視するのを受け入れてしまい、会話を諦めてしまった節がある。
  私の予想もあるけれど、それほど間違ってないと思う。
  対話の可能性を切嗣とセイバーが互いに摘み取って辞めてしまった。
  私とセイバーは切嗣と舞弥さんがライトバンから荷物を家の中に運び入れる様子を眺めていた。言おうと思えばセイバーに『手伝って』と言えるけど、セイバーが切嗣に近付いても会話が無ければ険悪な空気を増やすだけだ。
  どんどんと荷物が家の中に運ばれるのを私たちはただ見ていた。結界を張り、工房を設置しなくちゃいけないと判っているのに、不仲な様子にどうしても目が行ってしまう。
  切嗣と舞弥さんの息の合った動きはそのまま手際の良さに変わり、あっという間にライトバンに積まれていた多くの荷物が家の中へと運ばれる。
  荷物の運搬が終わると、切嗣は中へ行き、舞弥さんは逆に外に出てきて私たちの方に来た。
  「マダム」
  私が返事をする前に舞弥さんはさっき切嗣が持っていた鍵の束を渡してくる。
  「お二人には、今日からここを行動の拠点としていただきます」
  事務的な口調と一緒に差し出された鍵束を受け取り、手の中で感触を確かめる。
  受け取った時に少しだけ力が抜けて鍵束を落しそうになったけれど、まだ私は人として振舞えた。
  聖杯戦争を脱落したアサシンが聖杯に喰われ、私の人としての機能は徐々に衰え始めている。まだ楽しい運転は出来るけれど、万が一にでも事故を起こしたらまずいのでセイバーに変わってもらったのだ。
  予め判っていた事だけれど、私は聖杯戦争が終わる時には死ぬ。人の形を借りた、ホムンクルス『アイリスフィール・フォン・アインツベルン』の姿はどこにもなくなっている。
  決めたはずの覚悟が恐怖になって私の動きを止めそうになるので、慌てて手の中の鍵に意識を引き戻した。
  「ねえ舞弥さん。この鍵は何?」
  そう言って、さっき見た一つだけ違う鍵を目の前に持って行く。
  「庭にある土蔵のものです。古いですが、立て付けに不安がないのは確認済みです。工房の設置にはそこをお使いください」
  また淡々と返してくる舞弥さんは機械のようだ。
  冷淡そうな顔は全く変わらず、ただ自分に課せられた役目を果たそうとしている。今になって迷いを抱いている私とは違う―――。
  「それでは、私はこれで」
  長居する理由が無いのか、それとも切嗣に何か任務を託されているのか。別れの挨拶もそこそこに、舞弥さんはライトバンに戻ろうとする。
  私はそこであるべき人の姿がここに無かったので、思わず舞弥さんに聞いてみた。
  「あ、待って」
  「――何でしょう」
  「切嗣はどうしたの?」
  「母屋の最奥部にて休息を取っています。結界の敷設には問題なく、およそ二時間後に出立の予定です」
  「そう・・・」
  私たちには一言も告げられていなかった休憩を舞弥さんの口から聞かされ、私は語気を弱めてしまう。
  私たちがここを新しい拠点として使い、結界こそ無いものの最強の守りであるセイバーがここにいれば、『休眠』という無抵抗な姿を晒しても問題ない。切嗣がそう判断したと考えられなくもないけれど、眠ることすら一言も伝えられなかったので、セイバーの守りを信頼してると思うのは難しい。
  そもそも私が舞弥さんに聞かなければ、切嗣の現状を知るには直接見るしか方法が無かった。舞弥さんの口振りでは、もう切嗣は休みに入っているので、どうして私達には言ってくれなかったのか問い質す事は出来ない。
  切嗣は聖杯戦争に勝利して、世界を救うために貴重な時間を回復に充てている。私がその邪魔をしてどうするのか。
  これまで切嗣はアインツベルンの城で合流する以外、徹底して私達とは別行動を取っていた。数時間も同じ場所に留まるのは協力者ないし切嗣がセイバーのマスターだと露見する危険があった。
  なのに切嗣は私たちと同じ場所にいる。これは切嗣らしくない行動だ。
  切嗣だったら、この場所が他の誰にも知られてない拠点だとしても、私たちとは別行動を取って別の場所で休むと思う。
  きっと何かあった。さっき車の中でも考えた『何か』が合って、今の切嗣をらしくない行動に誘導してる。
  そして私はその『何か』を聞いていない。
  舞弥さんはきっと聞いてるだろう。
  もしかして切嗣は私とセイバーを『近付かなければ問題ない要素』と考え、話す時間すら無駄と考えて休み始めたのかもしれない。もし、そうだとしたら、私たち二人は『居ても居なくてもいい』と言われたのと同じだ。
  その言葉を切嗣の口から聞いたような恐ろしさが私の中を駆け巡り、心を冷えさせる。
  ねえ切嗣、あなたに何があったの? 私たちはあなたにとって何なの?
  私たちは聖杯で世界を救うために一緒に戦ってるんじゃないの?
  「失礼します」
  舞弥さんの言葉が聞こえていたけど頭の中に入ってこなかった。
  見える景色の中で舞弥さんはライトバンに乗り、私達二人を門前に残したままさっさと走り去ってしまう。
  私はそれを呆然と見送った。
  「アイリスフィール」
  「――さて!! それじゃあセイバー、新居の点検といきますか」
  「はい・・・」
  出来るだけ努めて明るく振舞おうとしたけれど、セイバーには私の心の揺れが伝わってしまったようで、切嗣に向けていた固い表情とは別の不安げな顔を私に向けていた。
  大丈夫ですか? その顔がそう言っていた気もしたけれど、私はそれを追究しない。セイバーが何を言いたかったのか聞いてしまうと、私はその言葉を切っ掛けにとても恐ろしい事を考えてしまう。
  切嗣はもう私達の事なんでどうでもいいと思ってる、そう考えてしまう怖さがあった。





  一度車に戻った私たちはセイバーの運転するメルセデス・ベンツ300SLで門を通りぬけた。ここが新しい拠点だったとしても、いつまでも路上駐車しておくのはまずいと判断し、そして外から見ただけでも車の一台や二台は簡単に入りそうな敷地面積があるのが見えたからだ。
  長らく手入れのされていない荒れ放題の前庭へと車を進め、巨大な鉄製の道具の重さで伸び放題になっていた草を強引に押し潰して停車した。
  降りる時に少しだけ苦労して、降車した私たちの目に飛び込んできたのは平屋の母屋だ。
  「この国なりの幽霊屋敷って趣かしらね。きっと廊下は板張りで、干し草を編み固めた床に、紙の間仕切りで部屋を分けてるのよ」
  セイバーが作り出す暗鬱な空気を払拭する為に出来るだけ明るく振舞うつもりだったけれど、私の口からは勝手に言葉が出て来てしまう。
  この気持ちは新鮮―――そう、アインツベルンの城で生まれてからずっと過ごしてきた私にとって何もかもが新鮮に見えて、嬉しくて楽しくて仕方ない。
  例え荒廃が酷く、雨風が凌げるのがやっとの有様だとしても、私にとっては驚きと喜びの連続だ。いつからかセイバーへの気遣いは消えて、私自身が楽しんでいた。
  「あら? どうかしたのセイバー?」
  「――いいえ、アイリスフィール。貴女が構わないというのなら、それはそれで助かる話です」
  「ん?」
  そんな風にセイバーと話しながら首をかしげる私がいて、セイバーは後ろから一定の距離を保ちながら付いてくる。
  時折、短い会話を交わしながら、この新しい拠点の様子を隅から隅まで観察しようとあちこちを移動する。
  ただ、そんな楽しげな空気もこの建物の一角―――埃が積もった場所に出来た真新しい足跡と荷物を運んだ跡を見つけるまでの間だった。
  これでこの拠点にいるのが私達だけだったなら、足跡の主を不審者と思ったのだけれど、舞弥さんからの話しと私たちが散策した状況から切嗣が家の中に入った証拠と判る。
  つまり廊下を歩いて奥へ奥へと向かって行くこの跡を辿った先に切嗣がいるのだけれど、これは今の私にとっては切嗣の休息の邪魔をしない為の道しるべでもあった。
  見える痕跡の進む先には近付かない。けれども、結界を張る為の探索と何より私が日本家屋という物がどんな物か気になったので、別の場所の捜索は進む。
  私が口を閉ざすと、セイバーもまた応対しなくなったが、私の場合は切嗣がこの先にいると判り休息の邪魔をしたくないのが大きな理由だけれど、彼女の場合はもう少し複雑な想いが絡んでいる。
  言葉は少なく、そして囁くような喋り方に変化した。私たちは切嗣がいるであろう場所には近づかず、あちこちを歩き回った。
  その間、探索し終えた場所から別の場所に移動する間、私はセイバーとの話が無いタイミングで少しだけ考え事が出来た。
  私の胸に宿った楽しげな雰囲気を冷ましていく事実。
  声を潜めなければならない確たる理由。
  切嗣はどうして自分がセイバーのマスターだと露見する危険を承知の上で、私たちのそばで休息を取っているの?
  アインツベルンの森ではキャスター来訪と間桐の割り込みが無ければ、切嗣は舞弥さんと一緒に郊外から市内へと戻った筈。でも、今はそれをしていない。
  もちろんその理由を本当の意味で知る為には切嗣自身の口からしっかりと聞かないと判らない。ただ、切嗣が何かの理由で話したがらないのならば、私の方から理由を考えればいい。私は切嗣のお荷物になる為に聖杯戦争に関わっているのではないのだから。
  切嗣に何があったの? 戦いへの心構えの意味も込めて私は短い時間ながら、切嗣に起こった事を考えた。
  もしかしたら―――。聖杯問答でライダーが特攻を仕掛けてきた結果、城が使えなくなったと切嗣に連絡した前後、どちらかで切嗣が襲われたか、何らかの事態が起こって使っていた拠点の一つが使えなくなったのではないだろうか。
  ありえそうな可能性は何者かに襲われたであろう前者だ。言峰綺礼が切嗣に狙いを定めたように、彼か他のマスターが切嗣を強襲したとしたらどうだろう。
  聖杯戦争に関わりなく拠点の一つが使えなくなったとしたら、切嗣は私にそれを言ってくれると思うので、そう仮定を作る。
  もし仮に切嗣が誰かに襲われたとしたら、それは七人のマスターと七騎のサーヴァントだけが戦う筈の聖杯戦争に雑じりこんだ異物。特定のマスターに肩入れしている聖堂教会の言峰璃正神父より、もっと大きく別の力を関わらせているマキリ。間桐と名を変えた、あの陣営である可能性が高い。
  トオサカとマキリの拠点に近いここでわざわざ休むのは、その両者の目から自分を隠す為ではないだろうか。
  起こった出来事は偶然の邂逅か、明確な目的あっての接近なのか。私には想像しか出来ないけれどマキリが切嗣をセイバーのマスターと看破した。切嗣が私にそうと言わなかったのは、私を心配させないが為だとしたらどうか。
  空想とも言える考えだけれど、切嗣がセイバーのマスターだと露見した可能性を覚悟する事は出来た。もし他のマスター、あるいはサーヴァントが私の事を偽のマスターだと口にしても、動揺を悟られずに隠し通せると思う。
  いきなり言われれば確実に私の戸惑いは察知され、ひっかけられたと思った時は手遅れになるかもしれない。けれど、こうやって心構えを作っておけば、愛する夫の安全を増やして、少しでも手助けができる。
  ほんの少しだけ胸の中に楽しさとは違う暖かい気持ちが生まれた。
  あちこちを移動する時、廃屋だからか、木造の廊下が全てそうなのか。家の中を歩くとギシギシと足音がする。私は切嗣が眠るのを邪魔しては悪いと思って、ゆっくり歩いていたら時間はどんどんと過ぎていった。
  そしてついに切嗣が眠っているであろう場所以外の全てを捜索し終えた私たちは、結界の敷設が問題ないと判断し、いよいよ工房を設置する為の土蔵へと移動を開始した。
  これまでの移動は殆ど母屋の中ばかりだったけれど、一旦庭に出れば少し大きめの声で話しても大丈夫。私はこれまで潜めていた声を開放してセイバーに話しかける。
  「魔術師の拠点として考えると、ちょっと難しい場所ねここ」
  「結界を敷くのに不十分でしたか?」
  あの切嗣がそんなミスを犯すだろうか? そう言外に告げてくるセイバーに向けて、私は言う。
  「そうじゃないのよ。こうも開放的な造りだと、魔力が散逸しすぎて家の中に工房を作るのは難しくって。結界の敷設は何の問題もないわ」
  「マイヤの言っていた土蔵が工房の設置には適している様です、まずはそちらを見てからにしましょう」
  「それもそうね」
  そんな会話をしながら庭の一角にある土蔵に移動し、鍵束の中に合った古めかしい鍵を使って開錠する。
  どれだけ長い年月閉ざされていた扉だったのか、ギシギシと唸りをあげる扉は大きく重い作りだったにも関わらず、セイバーの力で開けた時は壊れてしまいそうだった。
  本当に大丈夫なの?
  不安を覚えずにはいられなかったけど、私の懸念は中の様子を見た瞬間に吹き飛んでしまった。
  「理想的! これならお城と同じ要領で術式を組んでも大丈夫ね。とりあえず魔法陣を敷いておくだけで、私の領域として固定化できそう」
  土蔵の中に一歩踏み込んで、私はこれまで潜めていた声を完全に開放し、歓喜を言葉に乗せて叫んでしまった。
  土蔵の中なら母屋まで声も届かない目算もあったけれど、アインツベルンで過ごしてきたこれまでとは違う『よその国にある私だけの陣地』、自分だけに与えられた玩具のような高揚感が私を叫ばせた。
  もしかしたら切嗣がここを新しい拠点にしたのは、この土蔵が―――アインツベルンの工房が作れる場所があったからかもしれない。これも日本のお屋敷を見たかった時と同じで予想でしかないけれど、夫からのプレゼントを受け取ったような気持ちが心を躍らせる。
  「じゃあ、さっそく準備に取りかかりましょう。セイバー、車に積んである資材を持ってきてくれる?」
  「はい。一通りここに運びますか?」
  「今は錬金術の道具と薬品だけで充分よ。赤と銀の化粧箱にまとめてあった筈だから、それをお願い」
  「判りました」
  今度の聖杯戦争の為に城の中には予め準備されていた道具が幾つもあった、今回はその中で持ち運べる物の幾つかをメルセデス・ベンツ300SLに積み込んでのだ。
  多くは持ち出せなかったのだけれど、ここを新しい拠点として使う為に必要な道具は揃っている。
  持ち運ぶなら、人の機能を失いかけている私よりもセイバーの方が適任。その間に魔方陣を描く場所を決める為、私は土蔵の地面に膝をついて隅から隅までを慎重に見定める。
  程なくセイバーが戻ってきた。
  「それじゃあ、悪いけどセイバー、手を貸してくれる?」
  「はい」
  セイバーが持って来た道具の中から試験管やピペットやフラスコを取り出し、切嗣がセイバーを召喚する時にも使った水銀がたっぷり入った容器も取り出す。これ一つだけでもかなりの重量になるので、私が車からここまで運んでいたら落としていたかもしれない。
  もしセイバーが魔術に関して素人だったなら、手伝ってもらおうとは思わなかったけれど。アーサー
  王の伝説から、彼女が魔術の基礎ぐらいは習得していると知っている。
  出す指示さえ間違えなければ、一人でやるよりも手早く魔方陣を描けるだろう。
  「あの場所に、六フィート径で二重の六亡星を描くの。方角はあっちを頭にするわ。最初に水銀の配合を一緒にやって、足りなくなったら同じ配分で慎重に作って頂戴」
  「判りました」
  こうして私はセイバーと一緒に土蔵をアインツベルン式の工房にする為の作業を開始した。
  私の指示に沿ってセイバーが水銀を精錬して、出来上がった順に私が魔方陣を描いていく。足りなくなればその都度、別の水銀を調合していった。
  この時の私とセイバーの様子はまるで姉妹の様に仲睦まじく、聖杯戦争で敵と殺し合う宿命も、私に待ち構える未来も、切嗣とセイバーとの間にある不和も、私が舞弥さんに抱く複雑な思いも、作業の集中によって消えていた。
  楽しい―――そう、和やかな空気の中で作業に没頭するのは私にとってもセイバーにとっても楽しい時間だった。
  けれど、楽しい時間と、大事な事に費やす時間はあっという間に過ぎ去って、気が付けば新しい拠点を拠点として使いこなす為に使った時間は二時間を軽く超えていた。
  私がそれに気付いたのは、セイバーと一緒の作業をしている最中。彼女が私の描いている魔方陣から顔をあげ、土蔵の入り口を見ていた時だった。
  「どうかしたの、セイバー?」
  水銀で魔方陣を描く作業を注意深く眺めていた彼女がいきなり視線を外した。気にならない筈がない。
  問いかける私に向けたセイバーの表情は、今まであった和やかな空気を完全に消し去っていた。だけどその顔は敵と遭遇した時のような真剣さとも違う。
  彼女は何を見ているの?
  私は彼女が告げた言葉で表情の意味を知る。
  「――マスターが休息を終え、出陣しました。幾つか荷物を持って出たようです」
  「・・・・・・・・・・・・・・・・・・そう」
  返事は短かった。けれど魔方陣を描くための手は止まってしまい、返答するまでに必要だった時間が酷く長いものだったと自分でもよく判る。
  とても即答なんて言えない時間。それが私の動揺の強さを強く表している。さっき思い浮かべた『敵が切嗣をマスターだと確信している』の心構えなんて、別の動揺で簡単に吹き飛んでしまった。
  思えば、家の中を散策していた時にかなりの時間を使ってしまった。母屋の広さもそうだが、眠っているであろう切嗣を起こさない為に、音をたてないようにゆっくり歩いていたから、かなりの時間がかかってしまった。
  工房を作るのにも時間をかけているし、舞弥さんの言っていた二時間なんてあっという間に過ぎてしまう。
  休息を終えた切嗣が私たちに―――セイバーと接したくないが為に、声をかけずに出ていくなんて予想できた事態。休み始める時でさえ、一声かけなかったんだから。
  あそこにいたのはセイバーのマスターであり、聖杯戦争に勝利して聖杯を手にいれる男。もう私だけの夫『衛宮切嗣』じゃない。
  私に一声かけてから出発してくれる切嗣じゃない。
  「アイリスフィール――」
  「・・・大丈夫よ。さっ、早く仕上げましょう」
  後になって思い返して辿り着いた私自身の考えだが。思えばこの時。私は切嗣に似てセイバーから戦い以外の何かしらの助言を聞く行為そのものを拒否していた。
  『世界の救済』という言葉こそ同じでありながら、セイバーと切嗣との間にある絶対に供用できない壁の存在。聖杯問答でそれを知ってしまった時、私はセイバーに何かを求めるのを辞めてしまったのだ。
  聖杯を手にいれて世界を救済する。その目的にだけ焦点を合わせ、私は仮定を出来るだけ考えないようにしていたからこの時は気付かなかった。
  上辺だけの会話はするし、問われ応じる話もした。けれど、彼女の生涯や切嗣の願い、私の中に封印された聖杯など、深く入り込んだ話は意識して話題にしなかった。
  そうやって彼女からの言葉を遮った私は、臨時の工房を作り上げるまでほとんど作業以外の話をしないで過ごした。楽しさは消えて、義務感だけで作業を完成させようとする。
  魔法陣を描き工房を組み立てる作業は集中力がいるので無駄話が出来ないのだけれど、私が会話そのものを拒絶していたから話は少ない。
  切嗣が同じ家の中にいるのか、それとも出て行った後なのか。この違いだけで私は工房を作る楽しさを感じられなくなってしまった。
  切嗣が居なくなってしまった寂しさを埋める様に、私は作業に没頭した。
  そして切嗣が出て行ってから約三十分弱。ようやく工房は完成し、この新しい拠点が拠点として動作する為の半分が完成した。
  後は結界の敷設だが、アインツベルンの森に合ったような強力な結界を作るのは一人では難しい。そして、郊外の森の中なら多少周囲に被害が出てもいい強力な破壊を撒き散らす結界でもよかったのだけれど、市内の住宅街にそんな結界を設置するのは危険すぎる。
  近所の子供が誤ってボールを庭に投げ入れてしまったとして、そこに侵入者を粉砕する結界が張られていてしかも発動したら、自分達で『ここに魔術師がいます』と喧伝しているようなものだ。
  とりあえずセイバーがここにいるから、まずは結界内に敵が侵入してきたらすぐに判る探知式の結界を張り巡らすべき。そう思っていると、セイバーがまた土蔵の入り口へ顔を向けているのが見えた。
  「どうしたの?」
  最初は魔方陣が完成したから次の工程に移る作業がどこか見ているのかと思ったけれど、すぐに違うと判った。
  切嗣の時と同じようにここではないどこかを見てる―――。彼女の横顔が私にはそう見えた。
  「敵・・・か、どうかは判りませんが。何者かが、屋敷の前に立っています」
  「どこ?」
  「最初に我々が停車した場所です。まだ庭内へは侵入しておりません」
  私には遠く離れた場所に誰がいるかなんて全く判らないけれど、この状況でセイバーが冗談を言うなんて考えづらい。
  何よりこの聖杯戦争では諜報に長けたアサシンがまだ残っている。工房を作っている間は手出ししなかったからと言って、それはこの場所が知られていない理由にはならなかった。
  もしアサシンのマスターである言峰綺礼が遠坂と通じているのだから、外にいるのは遠坂のサーヴァント。つまりあの黄金のサーヴァントかもしれない。
  もしサーヴァントだとしたらセイバーがその魔力で気付くかもしれないが、アサシンのように気配を遮断できるサーヴァントもいるので、油断は出来ない。まず敵だと思って対処する、それが聖杯戦争の心構えだ。
  私は魔方陣を描く為の道具を一度横にのけ、聖杯戦争のマスターとしてセイバーに告げた。
  「何者かは判る?」
  「いえ・・・敵意は無いと思いますが、直接見ない事には判りません」
  「出迎えましょう。念の為、セイバーは武装して」
  「――はい」
  もし道路に立っているのが敵だとしたら私が矢面に立つのは危険だけれど、セイバーの傍以上の護りは無い。まだ結界を全く敷いていないこの拠点の中で彼女と行動を共にする事こそが何より安全だ。
  敵だと仮定して。切嗣が出て行った後で遭遇出来たのは幸運と呼ぶべきか、それとも切嗣がいないのを戦力の低下と思い不幸と取るか、どちらで考えるかは難しい。
  とにかく私はセイバーと一緒に土蔵を出て、高く伸びた雑草を避けて庭を走った。
  これでそこにいるのが近所の人だったら拍子抜けするけど安心もする。
  長年閉ざされていた門扉が開き、その中に自動車が停めてあるのを珍しかったから見ていただけ。そうであって欲しいと思った。
  聖杯戦争なのだからサーヴァント同士が戦いになるのは仕方ないとしても、こんな真昼間に人が大勢いる住宅街の中で戦闘になるのは避けたい。
  敵陣営の誰でも無ければいい―――走りながらそう祈った私の耳に、声が届く。


  「どなたか居られるか!?」


  その声は紛れもなく私たちの拠点に向けられた声だった。
  声が聞える前に門までかなり近づいていたので、声の余韻が聞えるかどうかと言った所で、私たちはその声の主―――セイバーが感じた何者かの姿を視界に捉えられた。
  私の頭はその人物が何故ここにいるかを考える前に、知りうる限りの情報を思い浮かべて目の前に立つ男と合致させていった。
  ライダーと一緒に聖杯問答に入り込んだ人。
  聖杯に興味は無いと言っていた人。
  舞弥さんを探している人。
  サーヴァントではない人。
  マスターでもない人。
  多くは知らなくとも、何らかの形でライダーと共闘関係を結んでいる事は知っている。だから彼は紛れもなく敵。
  私達の敵、カイエン・ガラモンドがそこに立っていた。



[31538] 第28話 『ルーンナイトは冒険家達と和やかに過ごす』
Name: マンガ男◆da666e53 ID:6a0d9b18
Date: 2013/05/04 16:01
  第28話 『ルーンナイトは冒険家達と和やかに過ごす』



  ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆



  Side - セイバー




  アイリスフィールを背中に置き、私は屋敷の前に立つ何者かの正体を確かめる為、彼女より一足先を走った。
  サーヴァント特有の魔力は感じないが、倉庫街でランサーが仕向けたように意図的に魔力を垂れ流さなければ魔力そのものを感じ取るのは難しい。だが正体を明かすつもりが無いのならば、『私はここにいる』と言わんばかりに存在感を隠さずに門の前で佇むのは何故か?
  この屋敷の門は開いたままだ。いっそ興味本位で見物しているだけの一般人であれば都合がよい。
  まだ拠点の護りも満足に行えていない状態で敵からの襲撃は望ましくはない。だが戦いになるのならば、我が誇りにかけて戦うのみ。
  気配を感じるこの者は敵であるか否か?
  もし敵だとしたら、既にこの拠点が知られている可能性も考慮し、アイリスフィールを逃がす算段も立てておく。
  私はアイリスフィールと共に何者かを見極められる個所まで移動し、門を挟み道路に立つ男を見つけた。
  その男は私もアイリスフィールも見た事がある人物であった。
  名を、カイエン・ガラモンド。マスターでもサーヴァントでもない今世の人間だ。そして彼はライダーの協力者でもある。
  つまり聖杯を競い合う私達にとっては敵勢力の人間であり、聖杯戦争を勝利して聖杯を勝ち取るのならば避けては通れない倒すべき敵だ。
 私は背後に立つアイリスフィールを守りながら構え、風王結界インビジブル・エアを纏わせた聖剣を握りしめる。
  まだ太陽が照りつける昼間から街中で戦いを行えば魔術の隠匿から逸脱しかねない状況になる。だが敵を前にして『戦わない』選択肢はない。
  アインツベルンの城で行われた聖杯問答は剣を用いぬ戦いだったが、あれは聖杯戦争の中でも特例中の特例だ。サーヴァントでも、マスターでも、協力者であろうと、敵が出会えば衝突は必然。
  まだ人払いの結界も張られておらず、騒ぎを起こして観衆の目を引きつける危険は排除されていない。周囲にあるであろう人の目を考慮して、鎧の具現化までは行わなかった。
 まだ風王結界インビジブル・エアを纏った剣のみだ。
  アイリスフィールの遊び心が混じったダークスーツでは防御の面が少々心許ないが、鎧で武装するのは戦いが決定的なものとなってからでもよい。
  不可視の剣を前に構え、私は敵を見据える。
  敵はアインツベルンの城で見た姿そのままであり、紫色の胸当てと体の各所を守る黒い甲冑姿は何も変わっていない。ただ、あの時持っていた刀はなく、代わりに胸当てと同じ紫色の長い包みを右手に持っている。
  おそらくあの中に武器が収められているのだろう。
  「あなた・・・。まさかライダーがもうここを掴んだの?」
  後ろからアイリスフィールが道路の立つカイエンに向けて声をぶつける。その疑問は私も抱く思いであり、ライダーの協力者である彼がここにいるのならば、ライダーもまたここにいる可能性は高い。
  だがあの征服王イスカンダルが斥候をカイエンに任せて、自らは後ろに下がっている姿はどうにも似合わない。あの男には他の誰よりも早く敵と遭遇するために先陣を切る姿がよく似合う。
 あの熱風吹き荒れる砂漠で、王の軍勢アイオニオン・ヘタイロイの先頭を駆けた時のように―――。
  間違いなく敵が目の前にいるのに、ここにはおかしさが合った。
  そのおかしさの理由が私の中で答えになるよりも前に、カイエンが私とアイリスフィールに向けて告げる。
  「ライダー? イスカンダル殿の事でござるか? 拙者がここに立つ理由とイスカンダル殿とは無関係でござる。いや、お主らが我々を関係させた、と言うべきでござるな」
  「それはどういう意味かしら?」
  「まさかここでお主らと出会うとは・・・、可能性の一つとして覚悟していた事態ではござるが、少々『しょっく』でござる」
  二度目のアイリスフィールの問いかけにカイエンは答えず、代わりに声のトーンを落としながら囁くように告げる。
  言い終えると同時に右手に持つ長い包みを強く握りしめ、離れても判る怒気を滲ませミシミシと小さい音を鳴らした。
  抜くか?
  戦いへの意識が私の全身を駆け巡っていくが、同時に、この男は何に対してここまで怒りを抱いているのか、疑問を抱いた。
  純粋に何かへ怒りを抱き、それを必死で抑え込んでいる様に見える。殺気立っているとは違い、小さな違和感が私を困惑させた。
  無論、戦いになればそのような事は雑事と切り捨てるが、まだ戦う前なのでその違和感を考える余裕が持てたのだ。
  「まずお主らに言っておく。城で見たであろう拙者の刀はここに入っているでござる。そして――、拙者、ここでお主らと争う気は全く無いでござる」
  カイエンはそう言うと、右手に持つ細長いを横にして前に突き出す。
  距離があるのでそれが私達に何かの害を及ぼすような事態は発生しないが、そこにカイエンの刀が入っているのは間違いない。
  これで話している相手が他の誰かだったならば、その長物の中には刀以外の何かが入っており、別の場所に隠しておいた武器で不意打ちする可能性を考慮した。
  しかしカイエンはライダーの協力者であり、あの男に関わりのある者が虚言を弄するとは考え難い。私は素直にカイエンの語る言葉に耳を傾け、それが真実であると受け止める。
  騎士道の誉れを体現する私が敵とはいえ武器を抜かない相手に斬りかかる訳にはいかない。
  あちらからは全く見えていないだろうが、私は構えた不可視の剣を僅かに下ろす。カイエンが今ここで争わないと宣言したとしても、戦わない状況が出来た訳ではないのだから。場所を変えて戦う、あるいはカイエンを見張るアサシンがいて、横槍が入る可能性はありえる。
  不戦を作り出すのはまだ早い。
  そして怒りによって引き起こされた敵意をむき出しにした相手を前に、警戒を解くのは愚か者のする事だ。
  「では貴様、何の用でここに来た。ライダーの差し金か?」
  私がそう言うと、カイエンは前に突き出した長物の包みを体の横に下ろす。
  そして、ほんの数秒黙り込み―――まるでその間に怒りを抑えて呼吸を整える様に―――沈黙を作り出してから言った。
  「拙者、多くを訪ねる気はないでござる。二つ・・・、たった二つだけ問いに答えては下さらぬか」
  「何だと?」
  「たった二つ、問いに答えてもらえれば拙者は退散するでござる。お主たちもこのような街中、しかも昼間から騒ぎを起こすのは得策ではないでござろう。拙者から出向いておきながら図々しい物言いとは思うが、お主らはここで争いを望むでござるか?」
  言われるまでもなく、戦いにならないならばそれに越したことは無い。
  私以上にアイリスフィールを守れる武器は無く拠点の防護もあればいいだけの問題に過ぎない。だが殺し合って騒ぎが大きくなれば、勝ったとしても失うモノがより多くなるのでは戦術的な勝利ではない。
  一刀の元で切り捨てられる戦士ならば騒ぎが大きくなる前に殺せる。だが、もしカイエンがランサーと同格の強さを持つ者ならば、戦いは長引き、辺りは破壊され、どうあっても衆人環視を呼び込んでしまう。
  聖杯戦争が表に知られぬようにする聖堂教会なる者達が動いているのは知識として知っている。彼らは倉庫街の後始末だけではなく、他にも様々な場所で魔術が知られぬように暗躍している。
  ここで騒ぎを起こせば、最悪の可能性としてキャスターのように私とアイリスフィールが討伐の対象とされかねない。
  戦場にいない者達が戦いのルールを決めるのは我慢ならないが、聖杯を手にいれるまでは彼らとの一悶着は避けるべきだ。
  殺し合いになれば戦うのは仕方ない。だが、望まぬ戦いが行われないのならば、戦う必要はない。
  何より武器を手にしながら、実質、無手の相手を斬るのは騎士道から外れる行いだ。相手が武器を構えて戦わなければ、私もまた戦わない。
  「どうしますか、アイリスフィール。ここで戦わない道があるのならば、選ぶべきかと」
  「まだ拠点の結界を張り終えてないわ。ライダーにここを知られていたとしても、時間稼ぎが出来るならそうして頂戴」
  「判りました」
  私は前を向いたまま後ろのアイリスフィールに小声で話しかける。どうやら彼女も私と同じ結論に達したようだ。
  「でも彼――、戦うつもりが無いなら、何しに来たのかしら」
  アイリスフィールがポツリとつぶやいた後、私の頭の中に閃光が走った。
  私の直感が告げている。今、アイリスフィールが口にした疑問、それこそがカイエンが怒りを撒き散らしているその最たる理由なのだと。
  明確な言葉になった訳ではないが、『それ』こそが私達を前にしながら戦わない理由だと理解する。時間があれば『それ』が何であるかを言葉にするのだが、今は考えるより前にカイエンに告げるべき言葉を口にした。
  「了解した、問いに答えよう。答えを得て、早々に立ち去るがいい」
  「では・・・」
  カイエンはそこで一旦言葉を区切り、大きく息を吸い込んだ。
  「――拙者がある女を追っているのはお主らも知ってるでござるな? その女、ここにいるでござるか?」
  息を吐き出すのと一緒にカイエンの口からそう語られた時、私は先程考えた『それ』が何であるかを理解する。
  カイエンは疑っているのだ。
  いや、舞弥と私達との間に何らかの繋がりがあると確信してこの場に立っているのだ。
  アインツベルンの森の中、あそこで似た質問をされたが、あの時アイリスフィールは『知らない』と答え、私もまた否定しなかった。
  つまりカイエンの立場から考えると―――。舞弥を追ってみれば、いる筈だった場所にいたのは私とアイリスフィール。嘘で騙されたと感じて、怒りを覚えるのは仕方がない。
  直感が一瞬で答えを導き出し、状況の悪さも一緒に考える。
  聖杯問答の時はライダーと同じく戦う気を全く見せなかったが、今のカイエンは私達を『敵』と見ている。戦わないと誓っているが、返答によっては怒りのあまり衝動的に斬りかかってきてもおかしくない。
  だから私は真実を言葉にした。
  「ここには私達以外は誰もいない。この屋敷にいるのは私とアイリスフィールの二人だけだ」
  聞き様によっては『舞弥など知らない』と言っている様にも聞こえる言葉だが、嘘は言っていない。ただ、カイエンが知りたいであろう多くの事柄を意図的に封じたのは確かだ。
  カイエンはライダーの協力者であり敵だ。敵に対して正直に全ての事柄を開示する訳がない。
  確かに騎士には正直さと高潔さが求められる。だが同時に主君への忠誠心もまた持たなければならないので、アイリスフィールの危険に繋がる行動は抑えなければならない。
  怒りを鎮めず、苛立つ様子を隠そうともしないカイエンが目の前にいる。だが問いには間違いなく答えた。
  舞弥がここにいるか、それともいないか、問われた内容への真実は間違いなく言葉となった。
  「・・・・・・では次が二つ目―――いや、最後の質問でござる」
  カイエンは今まで以上の力強さで長物を握りしめる。
  握りこまれた衝撃でギシギシと布の内側にある武器と思わしきモノが軋み、握力だけで武器が粉砕されそうだ。私は攻撃される危険も考慮して、下げた剣をいつでも構えられるように上げ直す。
  そしてカイエンの口から問いが放たれた。


  「久宇舞弥はお主らの仲間でござるか?」


  やはりか――。カイエンの口からその言葉が放たれた後、私の中に芽生えたのは得心だった。
  やはりカイエンは舞弥の事を知った上で私達に相対している。そして私達をハイアットホテルを破壊した犯人と同列と思っている。
  私にとってそれは酷い侮辱だ。
  だが舞弥が私達の仲間であるかと問われれば、答えは決まっている。私はもう一度真実を言葉にする。
  「そうだ。マイヤは私達の仲間――、もっとも私がそう思っていても、向こうがそう思っているかは知らないがな」
  「そうでござるか・・・・・・」
  カイエンは呟きながら、長物を握りしめていた力を弱め、全身からも力を抜く。
  脱力はそのまま不戦の構図も作り出しているが、私は気を抜かない。
  カイエンは間違いなく私達と舞弥の関連性を承知の上で、ここを訪れた。つまり二つの問いは意味があるように思えて、確信している人間にとっては何の意味もない問いかけとなる。
  私達をこの場所に留める為の時間稼ぎか?
  それとも確信しておきながら一縷の望みを持って尋ねる甘さがあったのか?
  カイエンが舞弥を追っているのはすでに聞き及んでいるので何かしらの手段で舞弥の行動を知り、ここを訪れたのはほぼ間違いない。
  たとえば『何かしらの手段』がアサシンだったとしたら、私達の拠点が知られていても不思議はない。
  ライダーのマスターの近くには少女の姿をしたアサシンがいた。明確に言葉として聞いていないがライダーとアサシンが共闘関係にある可能性は高い。
  カイエンがライダーの協力者だとしたら、その伝手でここを知ったのだろう。
  アインツベルンの森で宝具を使ってまでアサシンを全滅させたのは、私達に共闘を悟らせない為だとしたらどうか。もちろん、少女のアサシンが残って一緒に行動しているので全滅ではないのだが、あれは共闘などしていないと私達に見せつける演技でないか?
  そうだとしたらアサシンを生かすのはライダーらしからぬ行動だ。あの男の堂々たる有様からは少々的外れな結論とも思うが、ありえるかもしれない可能性は捨てきれない。
  それはそれとして、答えを得たカイエンはどうするのか?
  そう考えると、背後からアイリスフィールがカイエンに向けて話しかける。
  「あなた、どこで舞弥さんの事を知ったの? それにどうして彼女がここにいるって・・・、まだ私達がここに来て半日も経って無いのに」
  アイリスフィールの疑問は私も気になるが、『アサシンから聞いた』とすればそれが全ての答えとなる。
  ライダーの特攻でアインツベルンの森は結界のほとんどを失い、侵入者を感知する効力もほとんどなくなった。だからこそ私は神経を研ぎ澄ませ、私とアイリスフィールを監視する目があれば、それがどれだけ弱い気配だろうと気付けるように警戒した。
  気配を消そうとも、アサシンが見ていれば私は気付く。そう自分に言い聞かせながら気を張り続け、今に至るまでアサシンの監視はないと確信している。だがアサシンが私達ではなく舞弥を見つけていたとしたらどうか。
  ただその場合も疑問は残る。
  舞弥だけを追いかけるならば、すでに彼女はこの新しい拠点を発ってしまった後なので、訪れる理由にはならない。
  同じ理由で、私としては不本意でしかないが、マスターである切嗣を狙うならば余計に今この瞬間に屋敷を訪れても倒すべき敵はここにはいない。
  もしやアサシンが切嗣を狙い、カイエンは私達をこの場所に留める為にやって来たのか? そうだとしても切嗣には令呪がある。一瞬でも時間があれば、令呪に命じて私を呼び寄せればいい。ただしその場合はアイリスフィールが一人になるので、私は切嗣とアイリスフィールのどちらを守るか選ばなければならなくなる、
  アサシンが切嗣を狙っているのならば、ここで私達を足止めしているカイエンを斬り、すぐに駆けつけなければならない。出立してからかなり時間が立っているが、切嗣とアイリスフィールの間には電話と呼ばれる機械で連絡を取り合える状況が確立されている、場所を聞いて自動車を走らせればすぐに辿り着けるだろう。
  「どこで知ったか・・・で、ござるか?」
  これまで聞いていた怒声に近い声音に比べれば、その言葉はいっそ上機嫌にも聞こえる声だった。
  だがカイエンの顔は笑っていない。声は歓喜を含んだモノでありながら、浮かぶ表情は間違いなく怒りそのものだ。
  カイエンは視線を動かし、私の背後にいるアイリスフィールを睨みつける。
  「追いかける相手が誰であるかを調べるのは当然の事、我が友に助勢を求め教えてもらったでござる。むしろ今まで何も知らずに追っていた過去の自分を恥じるでござる。だが、どうやって名を知り得て、ここを突き止めたかなどお主らには関係ないでござる、あの悪漢の仲間のお主らにはな!!」
  長物を封じる布を取った訳ではない。
  足を動かして直立姿勢を戦闘の構えに変えた訳でもない。
  だがカイエンは言葉と共に剥き出しの敵意を真正面からぶつけてきた。私はアイリスフィールの盾となっているので、アイリスフィールに向けて放たれたそれが私にも衝突する。
  咄嗟に剣を構え直してそのまま斬りかかりそうになった。
  道路から一歩も動いていないにも関わらず、踏み込んで刀を抜くカイエンの幻覚を見てしまう。
  「騙されたでござる。まさか貴婦人と思われた方に堂々と嘘をつかれるとは――。拙者、騙されたでござる! もう許さんでござる!!」
  私達だけではなく、周囲の民家にも聞こえるような大声でカイエンは話し続ける。
  人目を集める危険を私は真っ先に考えたが、むしろカイエンの方は人目を集めることよりも大声を出して自分の怒りを発散させているように見えた。
  アイリスフィールを見ていたカイエンの目が私も一緒に睨みつける。
  「確かお主『セイバー』とかいう名前でござったな。初めて見た時は途方もない力を持った潔き戦士であると思ったでござる。だが、拙者の目が曇っていたのでござるな。まさか悪漢の仲間で、人の悲しみを、嘆きを、苦しみを、命を、何とも思わぬ外道だったとは」
  「なっ!!」
  「拙者、どうしようもない怒りが込み上げているが、言った通りここでお主らと剣を交えるつもりはござらん、約束は守るでござる。ただ拙者はもうお主らの言う事は全てが嘘と諦めるだけでござる、軽蔑するでござる。ブリテンの滅びの運命を変える? そのような戯れ言、最早興味は無い、勝手にするがよかろう」
  いきなりの『戯れ言』に私が何か言うよりも早く、カイエンは横を向いて刀を私達から最も遠い場所に移動させた。
  合わせて正面からぶつけられた敵意が霧散する。
  「正直、ここでお主らを斬って何もかもを吐かせてやりたい気分でござる。だが拙者はお主らと違い嘘は口にせん! 例え、お主が背後から斬りかかる悪漢であろうとも、拙者は刀を抜くつもりはないでござる!」
  そして私達の言葉を待たず、カイエンは歩きだしてしまう。
  「さらばっ!!」
  門の広さはそれなりに大きく作られているが、横に移動されればすぐに消えてしまう。屋敷を取り囲む塀はカイエンの背丈より高く、塀の向こう側にいるのは気配でわかるが、止まる気配なく歩き続けているので、そう遠くない内に私が気配を捉えられる範囲を超えてしまう。
  カイエンは去った。
  言葉通り、彼は二つの問いの答えを得て、戦わずに去った。
  言いたい事を言って、私達を外道と決めつけた男は立ち去った。
  私はカイエンを追いかけて真っ向から戦い、彼の認識を改めさせたい衝動に駆られたが、それしない為に戦わない道を選んだのだと自制する。
  今、考えるべきはアイリスフィールであり。カイエンの協力者であるライダーと、ライダーと共闘している可能性があるアサシンに狙われているかもしれない切嗣だ。
  まずは切嗣の安全を確認し、この拠点が他のマスター達に知られた可能性も考慮して今後の方針を打ち合わせる。そう思いながら、後ろを振り向くと、ちょうど私の顔を見つめていたアイリスフィールと目が合った。
  「ねえ、セイバー」
  「はい」
  アイリスフィールは何かを言おうとしている。
  ならば私はその言葉を待つだけだ。
  「私達は・・・。間違っているのかしら? 聖杯を求めるばかりで、大切な事を見失ってないかしら?」
  「――そんな事はありません」
  何故、敵が迫っているかもしれないこの状況でアイリスフィールがそんな事を言うのか。ほんの一瞬だけ抱いた疑問で私の返答は遅れたが、すぐに否定が浮かんだ。
  「アイリスフィール。私はあの時、ドイツの城であなたと話したあの時の言葉が今も間違っていないと信じています。貴女と切嗣が目指すものは正しい、誇って良い道だと」
  「・・・・・・」
  「確かにマスターのしている事が全て正しい等と言うつもりはありません、しかし目指すべき道は間違っていません。我々はその道を越え、聖杯の力によって世界を救う――そうあるべきなんです」
  切嗣の所業を耳にしながら、それでも私が切嗣の語る『世界を救う』という願いを信じているのはアイリスフィールがそう信じているからに他ならない。
  アイリスフィールがいるからこそ私は聖杯戦争を戦える。その彼女が戦う意思を失くしてしまうなんて恐ろしい事態は起こってほしくない。
  世界は救われるべきだ。私という愚かな為政者によって滅んでしまったブリテンが、滅ばずに済むように―――。
  「かつて私も体験しました。敵が我々に対しありもしない戯れ言を述べ、虚言を弄して我々を追いつめようとした事があったのです。おそらく、あの男も私達とマイヤとの間に亀裂を作り出す為、わざとああ言ったに違いありません」
  言い終えると同時に敵意剥き出しのカイエンの気配が薄くなったので、十分な距離をとったか怒りを抑制しつつ離れているかのどちらかになったと察知する。一分も経てばこちらから意識を外したカイエンの存在を捕捉できなくなる。
  その代わり、周囲から好奇な視線がいくつも突き刺さるのを感じた。
  監視とは違うそれはカイエンの大声で牽きつけられた民家の者達の視線だ。こちらを見極めようとするアサシンのものではない。
  これは放置して問題ない。
  私の言葉を聞いたアイリスフィールは僅かに顔を下げ、私から視線をそらした。
  「・・・・・・・・・すぐ切嗣に連絡して今あった事を伝えましょう。それから、急いで結界を張って守りを固めなきゃ」
  「――はい」
  だが、すぐに顔を上げて、真っ直ぐ私の目を見て言った。
  その姿はあり誇らしげであり美しくもある。
  倉庫街でランサーと戦い始める一瞬前、毅然と佇み騎士が仕える姫君そのもので、先程まで見せていた気弱さはどこにも見当たらない。
  生まれ持った気品と威厳。騎士が忠義を尽くすべき淑女としての風格。これこそがアイリスフィールだ。
  私は周囲を警戒しながら、自動車に積まれている携帯電話を取りに行こうとするアイリスフィールの後を追った。



  ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆



  Side - ゴゴ



  透明になったミシディアうさぎの隠密性と莫大な数の監視網によって、雁夜とバーサーカーを除く全てのマスターとサーヴァントはゴゴの監視下にある。
  当然、ゴゴは衛宮切嗣と久宇舞弥がどこにいるかをちゃんと把握している。
  どうやらあの二人は『猟犬として追いかける自分』に慣れ過ぎているようで、自分が『追われる獲物』になる状況にはあまり慣れていないようだ。
  もちろん二人は自分達が襲われる危険を重々承知しているようで、常に周囲を警戒しているが、ゴゴから見ればまだまだ甘い。
  使い魔となりえる小動物に注意したり、尾行される可能性を考慮しているらしく常に色々な道を使って移動している。ただし、それは透明になったミシディアうさぎを見つけるほど強力な警戒ではなかった。
  同じ事をサーヴァントの誰かがやればすぐにミシディアうさぎを見つけるだろうが、幸か不幸かサーヴァントの中には衛宮切嗣と久宇舞弥ほど強く警戒する者はいなかった。
  ミシディアうさぎに物理的攻撃力が無いので監視だけに限定し、拠点への侵入や監視対象への接近を禁じているのも発見されていない理由だろう。
  むしろアーチャーやライダーなど―――。王が隠れてどうする、見せてやるから好きなだけ見るがいい! と言わんばかりに堂々としているので。監視する方は楽なのだが、発見が簡単すぎて拍子抜けしてしまう。
  とにかく、衛宮切嗣と久宇舞弥に限定するならば居場所は判っているので戦ったり捕まえたりする為に相対する事は簡単だ。駅前の安ホテルで雁夜の姿を借りて衛宮切嗣と遭遇したのが判りやすい例と言える。
  透明になったミシディアうさぎからの情報で、あの拠点に久宇舞弥も衛宮切嗣もいない事は既に確認済み。それでもカイエンの姿でセイバーとアイリスフィールに会いに行ったのは言葉通りに怒りをぶつける為だけではない。
  見極める為だ。
  ランサーの呪いによって全力を出せない今のセイバーに物真似するモノがあるか。
  騎士に守られる姫君の中に封印され融合している聖杯の元、『聖杯の器』を外側から見ただけで物真似できるか否か。
  聖杯問答の時に殆ど答えは出ていたが、それでも確信を得る為に衛宮切嗣と久宇舞弥のいない―――つまり邪魔する者がいない状況でセイバーとアイリスフィールに会いに行った。
  アサシンの一人が川辺でライダーと別れたカイエンを昨夜から追跡していたようだが、カイエンとて使える技は刀だけではなく魔石の恩恵を受けているので幾つか魔法も使える。
  よほど注意深く観察しない限りアサシンが透明化の魔法『バニシュ』で隠れたゴゴを見つけられないのは既に判っているので、カイエンは監視の目を全く気にせずに透明になり―――アサシンの監視を抜けてセイバー達の所までやってきた。これでセイバー達の新しい拠点が発見されるまで、少しは時間が稼げるだろう。
  これまでは『物真似が出来る』あるいは『物真似が出来ない』の決断で、ほぼ確信している状態で未練がましく結果を確かめるような真似はしなかったのだが。聖杯戦争の根幹の一つとでも言うべき『聖杯の器』を体内に持っているアイリスフィールがいたので、思い切りが悪くなったらしい。
  カイエンがライダーの仲間だという認識はすでにあちらに持たれているので、今更、警戒が増してもこちらが失うものはない。彼女らが置かれている状況でこちらから仕掛けなければ戦いにならないのは計算の内だ。
  カイエンはセイバー陣営の新しい拠点から遠ざかりつつ考える。
  やはりアインツベルンの森で出した答えに変わりはなく、セイバー本人には物真似する価値はない。現在、他のサーヴァント同様にセイバーにも『敵のマスターおよび敵サーヴァントを殺すな』の干渉は殆ど無意味になっている。
  敵と見定めれば間違いなくセイバーは本気で戦うだろうが、それでも価値を見い出せない。
  そしてアイリスフィールの体の中に『聖杯の器』がある限り、見るだけでは物真似するのは困難だ。
  CTスキャンのようにアイリスフィールの中にある『聖杯の器』だけを見れる目があればいいのだが、今のゴゴにはまだそれほどアインツベルンの魔術の術式に対する知識はない。
  『聖杯の器』の現状は、アイリスフィールという異物が見極めるのを阻害して、正体が隠されている状態だ。
  偽りのマスターを姫として、それを守る騎士がサーヴァント。この構図でセイバーとアイリスフィールが戦う限り、あの二人には利用価値と呼べるモノが何一つ存在しない事が改めて確認できた。
  あの二人に価値が現れるとするならば、それはランサーの呪いが解けてセイバーが全力で戦えるようになった時か、アイリスフィールの体内に封じられた『聖杯の器』が解放されて物真似できるようになる時のどちらかしかない。
  ただし、ランサーの呪いが解けた場合。現れるのはアーサー王伝説に登場するエクスカリバーである可能性が非常に高く、しかも『驚異的な破壊を生み出す宝具』だったならば、あまり物真似する価値は無い。
  その程度ならばすでにアーチャーの宝具を物真似すればいいし、使える魔法の中にはより強力な破壊を生み出すものが存在する。
  もしセイバー本人に物真似する価値があったなら、その武器にも関心を持てるのだが。ゴゴはどうしようもなく愚かな願いを抱くセイバーに嫌悪すら抱いている。よって武器を物真似するのに積極的になれないでいるのだ。
  そして『聖杯の器』が解放される場合だが。アイリスフィール本人が自主的に『聖杯の器』を体外に出すつもりが無いのなら、腹を裂いて魔術的に取り出すか、聖杯が現界してアイリスフィールという個人が消滅するまで待つ必要がある。
  ゴゴとしては『聖杯』も『聖杯の器』も両方とも物真似したいので、待たずに何か策を弄しなければならなくなる。
  聖杯戦争の賞品である聖杯―――七騎のサーヴァントの魂を喰らって完成する聖杯、その大元でもある『聖杯の器』。それを保管して聖杯戦争のたびに用意してきたので、間違いなくアインツベルンの本拠地には『聖杯の器』の本家本元が存在する。
  口伝で継承されて代々の当主が持つ秘密か。
  それとも文書や魔術で継承されてきたモノか。
  何にせよ、ドイツのアインツベルンに『聖杯の器』を作る為に必要なモノが在るのは間違いない。
  二度と聖杯戦争が行えないようにアインツベルンの拠点諸共すべて破壊するつもりだが、『聖杯の器』も『聖杯』も物真似したい欲はあった。
  全てを破壊する前に探し出して物真似すべきだ。
  カイエンの思考に欲求が芽生えた時、ゴゴの意識は冬木市から別の場所に飛んでいた。
  「・・・・・・人生とは」
  強風が吹き荒れ、前から迫りくる風にゴゴの体が吹き飛ばしそうだ。
  しかしゴゴが操縦するこの乗り物の速度を考えればむしろ前から押し寄せる風は微風と言っても過言ではなく、追い風に乗ってるから向かい風が迫っているのではなく自分から風に当たりに行っているだけだと気付く。
  ゴゴの頭上に浮かぶ幻獣『ファントム』。長い笹の葉を何本も何十本も何百本も繋ぎ合せて、一つの塊を形成しているような幻獣がゴゴの操縦する乗り物ごと周囲から隠しているので、たとえ真昼に民家の真上を通り過ぎたとしても気付かれない。
  誰にも邪魔されず。
  何物にも遮られず。
  風に乗り、空の海を駆けて行く。
  ゴゴは―――、いや、かつて一緒に旅した仲間の姿と彼の愛機を物真似した別人はアインツベルンの本拠地に迫っていた。
  『聖杯の器』を作る為に必要なモノがある場所に近づいていた。
  アインツベルンは始まりの御三家の一つであり、拠点の大きさと歴史の重さで言えば遠坂よりも間桐よりも強大だ。その本拠地にたった四人―――多少『人』ではない者達も交じっているが、魔術師の要塞へと攻め込もうとしている。
  この時、ゴゴはゴゴではなく、物真似している彼の意識で物事を考えていた。他の何よりも『賭け事』と『女性』が好きな男の気分が高まっていき、千年続く魔術師の本家を相手に死のギャンブルを挑む喜びが心の中に満ち溢れていた。
  「人生とは、運命を切り開く賭けの連続。俺の命をチップにして――、果たして勝ちを引き寄せられるかな?」
  セッツァー・ギャッビアーニは飛空艇ブラックジャック号の操舵輪を握りながら、凶悪な笑みを浮かべて東の空を見つめる。
  もしセッツァーが操縦するブラックジャック号がこの世界で作られた飛空挺だったならば、給油、整備、操縦者の体力などなど、幾つかの問題を抱え。、こんなにも短時間で冬木市から太平洋と大西洋を横断し、アインツベルンの本拠地があるドイツにまで到達できない。
  だが今のセッツァーはただの人間ではない。
  そしてブラックジャック号もまた物理的な物体で作られた空飛ぶ乗り物ではない。どちらも魔力によって作り上げられた泡沫の夢でありながら、どんな力でも破壊できない強固な加護で守られている。
  ゴゴからの魔力供給がある限り、どれだけ壊れようと何度でも治る。
  人ならば凍死してもおかしくない寒さも炎の魔法と回復の魔法を重ね合わせて簡単に乗り切ってしまう。
  昼夜問わず空を舞い続け、飛空挺の操縦ならば右に出る者はいないセッツァーの技術で風を掴んでしまう。
  風に乗ってブラックジャック号の最大速度を更に上回って飛び続け。魔力供給によって燃料を心配せず、ただひたすらに目的地へと目指して突き進む。それが今のセッツァーだ。
  単に移動するだけならば、セイバー陣営が冬木市に入った経路の逆を辿ればそれでよかった。もっと安全に、もっと快適に、もっと穏やかに、ドイツにまで辿り着けただろう。
  移動に使う飛行機に狙いを定め、透明化の魔法『バニシュ』で飛行機の客席まで移動すればいい。それだけで、ブラックジャック号で移動するよりも早く到着できた筈。
  だがそれでは駄目だ。
  ものまね士は物真似するからこそものまね士なのだ。そんな普通の人間と同じような事など、一度やってしまえばそれで物真似は終わってしまう。
  移動手段としての飛行機を使うのではなく、物真似した成果を作り出す。だからあえてブラックジャック号でこの世界を飛ばなければならない。
  この世界の飛行機技術は大きく発展し、かつては世界最速の船を誇っていたブラックジャック号も―――船の限界に挑戦して大破したと思われるファルコン号の速度も大きく上回る乗り物がいくつも作られている。
  それに身を預ければ簡単だろう。
  誰かの操る道具に同乗すれば、ブラックジャック号は玩具の様に思えるだろう。
  ゴゴはそれを物真似とは思わない。一度目は『乗り物に乗る誰か』の物真似と呼べるかもしれないが、二度目は物真似にすらならない。
  誰かが作り上げた文明の利器を利用するのではなく、それすら物真似して物真似を更なる高みへと昇華させる。それこそがものまね士ゴゴだ。
  いっそ、ブラックジャック号とこの世界の技術とを融合させ、再びブラックジャック号を世界最速の船にするのも面白いかもしれない。そうゴゴは―――いや、セッツァーは思った。
  ブラックジャック号は時速を越え、音速や光速の世界を旅するのだ。きっとものすごく面白いだろう。


  雲を抜け、世界で一番近く星空を見る女になるのよ


  「ダリル・・・」
  セッツァーの脳裏にかつてその台詞を言った友の姿が浮かんだ。
  その女はファルコン号と共に命を落とし、夢を叶えたのか確かめる術はセッツァーにはなかった。
  だからこそ友として―――セッツァーが、ブラックジャック号を『世界で一番近く星空を見る船』にするのは意味ある事だろう。
  飛空挺ブラックジャックが高性能飛空挺、もとい宇宙船ブラックジャック号にするのも、この世界の技術を取り込めば不可能ではない。
  死のギャンブル。
  懐かしき思い出。
  そして今までにない改造への意欲。
  ふつふつと心が高揚していく。
  「だが――、その前に聖杯戦争の片づけをしないとな」
  胸の中に込み上げる熱い想いに後押しされ、口元が緩みそうになるのを懸命に引き締め、セッツァーは自分がなすべき事を思い出す。
  まずするべき事はドイツまで航行してアインツベルンの本拠地を完全に破壊する事。その道中、『聖杯の器』を物真似して、他にも何か物真似する価値のあるモノが合ったら、その全てを物真似して自分のモノとする。
  ただしセッツァーの主な役目はブラックジャック号の操縦であり、潜入と交戦と物真似の大部分は他のゴゴに―――今は野性児とモーグリと雪男になってる彼らに任せる羽目になるだろう。
  願わくば、アインツベルンがブラックジャック号と戦える航空戦力を保有していてほしい。
 ゴゴは直接見た事はないが、セッツァーはブラックジャック号で戦った、ガストラ帝国の帝国インペリアル空軍エアフォース所属の『スカイアーマー』と『スピットファイア』のように。
  そしてギリシア神話に登場する神あるいは怪物の名を持つ『テュポーン』のように、そんな敵が現れてセッツァーと空で戦うのだ。
  それもきっと楽しいに違いない。
  「むっ・・・」
  心を昂らせる甘美な一時を止めたのは、セッツァーの斜め前にある何もない空間だった。
  常人では何も見えず、夜の暗さが作り出す闇しか見えない。だがセッツァーの目はそこにある風の乱れを敏感に見極めていた。このまま直視すれば十秒ほど後に横殴りの風がブラックジャック号を襲い、スピード減退が予測され、最悪の場合は墜落の危険さえある。
  セッツァーは操舵輪を回して、迫りくる風を斜め後ろから受けられるようにブラックジャック号の進行方向を変えてゆく。
  方向を変えたので目的地から方角がずれてしまったが、風を受けて更に速度が上がるだろうから、かかる時間はさほど変わらない。
  日本とドイツ近郊の時差で、間桐邸のゴゴは朝の清々しさを味わっているだろうが、セッツァーの方は夜中だ。夜でも風が見える常識外れの目と、風を肌で感じるよりも早く察知できる超感覚があるからこそ、セッツァーは星の瞬きと月の輝きしかない夜の中でもブラックジャック号を難なく飛ばせる。
  もちろん人を超越したゴゴの不屈の体力もあるが、やはりセッツァー自身が―――物真似したゴゴが表すセッツァーそのものが―――異常なのだ。
  「いい風だ――。ダリル、俺は必ず空を突き破り、満天の星空の中を航海するぞ!」
  程なく、セッツァーが感じた風が斜め後ろからブラックジャック号にぶつかった。
  ブラックジャック号は何の問題もなくアインツベルンの本拠地を目指して突き進んでいく。





  間桐邸はほんの数日前までものまね士の恰好をしたゴゴと、雁夜と、桜ちゃんの三人しかいなかった。時に101匹まで増殖して、通常は十匹で落ち着いているミシディアうさぎもいるが『人間』はあくまで三人だけだ。もっともゴゴを『人間』と分類していいのかは少々疑問が残る。
  それが聖杯戦争の開始と同時に人数が爆発的に増えてしまった。
 アサシンの分裂宝具『妄想幻像ザバーニーヤ』、これにバーサーカーの変身宝具『己が栄光の為でなくフォー・サムワンズ・グロウリー』を加える事で、ゴゴは姿を変えた状態で人数を増やせるようになった。
  間桐邸の中に限定すれば、今まで通りゴゴがものまね士の恰好をして間桐臓硯だと偽って一人でいればいい。別にやってもやらなくても聖杯戦争にも日常生活にも支障はない。
  だが、これは物真似の成果なので、ゴゴは嬉々として人数を増やし続けた。
  護衛強化の意味もある。
  戦力増強の意味もある。
  人見知りする桜ちゃんに多人数の大人がいる状況を慣れさせる意味もある。
  全て後付けの理由だが、とにかく理由はあった。
  繰り返してしまうが、一番強い理由は物真似の成果だからだ。
  「やっぱり小さい子は肌がプニプニしてるわね、確かもち肌って言うのよね」
  「桜ちゃんもモブリズの子供達と一緒ね、とっても可愛い」
  「あの、その・・・」
  「私が子供の時ってどうだったかしら。ティナは覚えてる?」
  「小さい時から『あやつりの輪』で操られてたから覚えてないの、セリスは?」
  「今の桜ちゃんより小さい時からガストラ帝国でずっと教育漬けよ、こんなに可愛い覚えはないわ」
  「あぅあぅあぅ・・・」
  「リルムはこんな風に抱かせてくれないし、モグがいないからふかふか出来ないなぁ」
  「ねえ、桜ちゃん。何して遊ぶ?」
  間桐邸の一室ではセリスとティナと桜ちゃんの三人が集まって輪を作っていた。もっと正確にいえば、ティナとセリスが奪い合うように桜ちゃんを両側から抱きしめており、一つの塊のようになっていた。
  ティナは世界が一度崩壊した後にモブリズの村で『ティナママ』と慕われて子供と過ごした時間があるが、セリスにはそう言った経験が皆無である。
  だからだろうか、それとも桜ちゃんの可愛さに当てられてしまったのか。子煩悩な様子を見せながら、桜ちゃんを抱き締めている。
  中央にいる桜ちゃんは二人の女性に両側から抱きしめられる状況に慌てふためいており、先程から意味ある言葉が口から出てきていない。
  ある意味で楽しげなそんな様子を隣の部屋から見つめる目がある。
  「あっちは随分楽しそうだな・・・」
  「セリスを取られて残念だな、ロック」
  「女性が明るく笑っているのなら、花を愛でるように見守るのも男の役目だ。諦めたまえ」
  「この腹黒兄弟が――」
  「・・・・・・・・・」
  「どうした雁夜?」
  「いや、これでいいのか。と思ってな」
  「雰囲気が暗いよりはいいだろう?」
  「それは、まあ、そうだけど・・・」
  女三人寄れば姦しいのことわざをそのまま表す隣の部屋。それを見る目は合計五つ。
  ロック、マッシュ、エドガー、雁夜、ものまね士の恰好をしたゴゴだ。
  ミシディアうさぎ達はセリスとティナに拘束された桜ちゃんに近づけないようで、使い魔のゼロを筆頭に部屋の壁際で三人の様子を遠巻きに見つめている。隣室で見つめる男達と大差はない。
  ゴゴが分裂し変身した六人分をいれて数えると、間桐邸にいる人数は八名。間桐邸の広さを考えれば敷地面積に比較してまだ少ない部類に入るかもしれないが、これまでの間桐邸を考えれば大所帯となっている。
  これまでにない騒々しさに間桐邸の住人である雁夜も桜ちゃんも圧倒され気味だが、ここには戦いの雰囲気は欠片もなかった。雁夜の背負う魔剣ラグナロクとて、アジャスタケースに収められていれば単なる荷物と変わりない。
  本当に聖杯戦争は起こっているのか?
  本当にここは聖杯戦争の当事者であるマスターがいるのか?
  霊体化しているサーヴァントもいるのか?
  事情を知っていれば、咄嗟にそう思ってしまう長閑な光景があった。
  けれど、戦いにおいて休める時に休むのは鉄則だ。冬木市の最強の守りと言っても間違いない間桐邸の中にいて、気を張って心も体も休めなければそれはただの馬鹿だ、大馬鹿の素人だ。
  一晩で十分に回復させられた雁夜もその事は判っているようで、わざわざ敵を待ち構えるような剣呑な空気は作り出さない。心を落ち着けている。
  ただし落ち着きながら同時に呆れてはいるのかもしれない。
  「さて、あちらでリトルレディが楽しんでる間に、こちらは聖杯戦争の話をしよう」
  そう言いだしたのはエドガーだった。
  「まず雁夜に説明する意味もあってこちらの戦力がどのように分散されているか改めて話そう。まず、間桐邸にいる我々六人は言うに及ばずだが、他にも冬木市の中と外でそれぞれ行動を起こしている。冬木市の中にいるのは、ライダーの協力者としての地位を確立しつつあるカイエン、ランサーとアサシンにはこちらの仲間と知られているであろうストラゴスとリルム、それから誰にも見つからないように潜んでいるケフカだ。警察に持ってかれて検死されてるのがもう一人いるが、あちらは死体の物真似の真っ最中だから戦力としては期待できないと思ってくれ。次に冬木市の外にいる戦力だが、雁夜も知っている通り飛空挺ブラックジャック号でドイツに向けて航行中の一団が四人だ。一日以内にアインツベルンの本拠地に辿り着いて、聖杯戦争が二度と行えように破壊する遊撃隊だから冬木市の戦闘には直接の関わりはない」
  そこでエドガーが一旦言葉を区切る。
  「監視は透明になったミシディアうさぎが担当して、今はどの勢力も表立って動いていないのを確認済みだ。セイバーはマスターと別行動だが、マスターの方は情報収集を行い、セイバーは新しい拠点を構築している。ライダーはマスターと一緒にアサシンの子守りをして、ランサーはストラゴスの襲撃からずっとマスターと代理マスターと一緒に拠点で守りに入っている。アサシンの監視は間桐邸に集中していて、攻撃を仕掛けてくる気配はない。アインツベルンの森で雁夜が痛めつけたからキャスターも今のところマスターと行動して療養の真っ最中だ、治癒魔術は不慣れなのか回復に手間取って、子供たちが誘拐されたり殺されるような事態はあれから起こってない。だが、あの様子ならもうすぐ完全復活して、また冬木市で悪さをするだろう」
  マスターとサーヴァントの現状を短く説明し終えた所で、エドガーはある場所に目を向ける。
  五人は輪を作るように一つの机を取り囲んでいるのだが。これまでエドガーは全体を見渡して、どこか特定の場所に視線を向けるような真似はしてこなかった。
  それが一変し、ある場所―――雁夜が座る地点に目を向けたのだ。
  「それで肝心のアーチャーなんだが・・・」
  「遠坂時臣だな、どうしてるんだ?」
  「それがな・・・」
  自分自身に向けられたような言葉で雁夜が応じない訳がない、何が起こっているのか聞きたそうに身を乗り出すが、これからエドガーが話そうとしている事は意外過ぎて言うのが躊躇われる。
  言い辛そうにしているのは、こちらの不利を作り出す行動を起こしているからではない。先程、間桐邸の和やかな様子に呆れていた雁夜が更に呆れなければいいと思っているからだ。
  けれど、話さなければ話は先に進まないので、エドガーは意を決して衝撃の事実を話す。
  「アーチャーが戦わずに好き勝手に行動しているせいで、遠坂時臣は聖杯戦争を出来ずに手持ち無沙汰だ」
  「はぁっ!?」
  「昨夜の聖杯問答で必勝の戦略でも思いついたのか、意気込んで遠坂邸から出てきたのを確認した。しかし、アーチャーに戦う気が無かったらしく、夜が明ける前に遠坂邸に戻ってまた結界の中に閉じこもってしまった。あの哀愁漂う背中を雁夜に見せてやりたかったが、出て来てもらわないと色々と訊けなくなってしまう。遠坂邸を襲撃するのは簡単なんだが、遠坂時臣は自分の自信がある状況でこそ口が軽くなると私は見ている。結界を簡単に破られた後で貝の様に口を閉ざされては意味がない――、面倒な男だよ全く」
  そう言いながらエドガーはもう一度雁夜を見た。
  雁夜は『本当かそれは?』とでも言わんばかりに目を大きく開いてエドガーを凝視していた。
  遠坂時臣は生粋の魔術師であり、聖杯戦争の対策など魔術を学び始めた時から教え込まれていてもおかしくない。急いで魔術師になった雁夜がバーサーカーを制御出来ていないのとは訳が違う。その男がサーヴァントに袖にされて戦いに参加すらできないとは何の冗談だろうか。
  雁夜の顔からはそんな心の声が聞こえてきそうだったので、エドガーは『本当だ』と言わんばかりの真剣な表情をしながら頷いた。
  「馬鹿な・・・。あの遠坂時臣が・・・」
  「英霊の強さでいえばアーチャーを呼び出したのは正解と言えるが、私から見れば相性の面では最悪の組み合わせだ。魔術師としては有能かもしれんが、指揮官としての才能は低い。あの調子ではアーチャーに反旗を翻される可能性もある。やれやれ、面倒ばかり増やす男だよ、まったく――」
  落胆すら込めてエドガーが言うのと、女性の歌う声が隣の部屋から聞こえて来たのは、ほぼ同時だった。
  少し前からテレビで聞くようになった音楽が聞こえてきたのだ。どうやらセリスとティナと桜ちゃんの三人が一緒に歌いだしたらしい。
  途中で『む~ぐぐ、む~ぐむぐ』と曲の調子に合わせるミシディアうさぎ達の声も聞こえてきたので、見れば、隣の部屋は人とミシディアうさぎとの混声大合唱になっていた。
  聞こえてくる曲の題名は『にんげんっていいな』と言うのだが、人の姿を模倣しているが内面は決して人ではないゴゴが―――ティナとセリスがその曲を歌っている光景は冗談か笑い話のようだ。
  シュールである。
  とりあえず状況のおかしさは余所に置いて、ゴゴは聖杯戦争の話を続ける。
  エドガーから話を引き継いだ形で、今度はマッシュが語り出す。
  「俺達の基本方針『聖杯戦争を破壊する』は何も変わらず今も続いてる。正直、他の六人のサーヴァント相手なら俺と兄貴が雁夜に協力すれば何とかなっちまうが、事はそう簡単じゃない。あの腹黒嘘吐き神父から聖堂教会に『間桐に協力する何らかの勢力あり』って伝達されてるだろうからな、状況が前とは変っちまってる。聖堂教会から魔術教会に向けて英霊に匹敵する力を持つ人物の情報が流れる可能性はありえるだろ? そうなったら、聖堂教会も魔術教会も眼の色変えて俺達の力を探ろうとするぞ。かといって、俺達が表立って行動しないで雁夜だけを聖杯戦争で勝たせるのは難しかったから、どうしようもないんだけどな」
  「・・・・・・悪い」
  「謝るなよ、もう俺達も聖杯戦争に関わっちまった当事者の一人なんだから。それで、これからなんだが、基本的に雁夜とバーサーカーが他のマスターとサーヴァントに攻撃を仕掛けて、俺達は援護に回る。ライダーの宝具かそれに匹敵する宝具でもない限り、バーサーカーの力だけでも十分対処できるだろ。問題は雁夜の魔力切れなんだが、それも俺達の誰かがそばについてれば解決できる。ライダーと対峙して戦う羽目になったら共闘してやるけど、出来るだけ独力で何とかしろよ。雁夜のレベルアップはそのまま桜ちゃんの安全に繋がるんだからな、実戦が一番の修行だぜ」
  「ああ――、判ってる」
  「それと余計な目を俺達以外に向ける為に用意したケフカだけどな、ケフカに聖杯戦争を引っかき回させて、騒動の黒幕と思わせて、俺達が追いかけている敵に仕立て上げて、最終的に冬木市から生きたまま逃げてもらおうと思ってる。俺達に匹敵する力の持ち主が世界のどこかにいて、そっちを追いかけ回させるのが目的なんだが、これは都合よくいった場合の理想だ。言峰親子と遠坂時臣は『間桐臓硯』の正体が『ケフカ・パラッツォ』だと思ってる可能性が高いから、『実は一年前からケフカが臓硯を監禁して、臓硯の持つ聖杯戦争の仕組みを吐かせてなり代わっていた。俺達はケフカを追いかけている仲間で、奴を倒す為に雁夜に協力してもらってる』ってサイドストーリーに持って行く予定だ。俺達の協力で雁夜と桜ちゃんは一年間ケフカによって支配されていた間桐邸から解放されたって状況を作ってるから、雁夜も表向きは臓硯と仲の良い振りをしながら裏では生殺与奪を握られてた事にしろよ」
  「その場合。俺の目的は、聖杯での桜ちゃんの解放―――俺達の命を握って状況を面白がり、たった一年程度鍛えた俺じゃ絶対に勝てない聖杯戦争に放り込んで、その苦しむ様子を楽しんでる外道を殺す為に聖杯を欲した・・・って所だな。そうなると桜ちゃんはどうするんだ? この一年、そのケフカって奴・・・ものまね士の恰好したゴゴとの間に信頼関係を作ってたんだろ? それがいきなり敵になりましたって言われても混乱するだろ」
  「ケフカがケフカだと名乗る時は違う恰好で全くの別人を装うから安心しろ。ゴゴの面影なんて影も形も消えて無くなってるぞ、見てみろよ」
  マッシュがそう言いながらゴゴの方を指さすと、つられた雁夜が同席しているゴゴを見る。
 マッシュを見ていた雁夜がゴゴへと視線を動かすほんの一瞬。その一瞬でバーサーカーの宝具、『己が栄光の為でなくフォー・サムワンズ・グロウリー』を発動させたゴゴは黒い霧に似た魔力をまとって、目に見える姿を別人へと変えた。
  さっきまで一つの机を取り囲んでいたものまね士は消え、ある意味でゴゴよりも道化師じみた恰好をするケフカ・パラッツォが椅子に腰かけていた。
  「うおっ!!」
  「こいつがケフカだ。外であったら敵だと思えよ」
  マッシュが驚く雁夜に向けて言うが、別人に変わった驚きに放心気味の雁夜が聞いているかは怪しい。
  ただし、雁夜は一年の修行の成果ですぐに驚きを消して平静さを取り戻せるようになった。すぐに落ち着いて敵の姿を見て、その地肌を隠す白い化粧を、目元を輝かせる紅い化粧を、後ろでまとめた金色の髪を、髪飾りを、紅白の襟を、赤いマントを、二の腕にある水玉模様を、黄色と赤のパレオを、ピエロに見えなくもない恰好をするゴゴをまじまじと見つめる。
  「こいつがケフカ――。こいつを敵にして聖杯戦争を壊させるのか・・・」
  「そうだじょ」
  「――じょ?」
  「この世で一番の力を取り込んだ私に叶う者など存在しない。全部、ぜんぶ、ゼ~ンブ、破壊して死の世界をつくるのだ!」
  ケフカはそう宣言すると、もう一度全身を包む黒い魔力を噴き出して、全身を覆い隠していく。
  時間を逆戻しにしたようにゴゴが現れ、一瞬後にはケフカの姿はどこにも無くなっていた。椅子に座るのはものまね士ゴゴで、統一性の無い妙な口調で喋るケフカは消えた。
  「あれを間桐臓硯だと思って怒ればいい、雁夜なら簡単だろう?」
  雁夜の目の前でものまね士に戻ったゴゴが言う。再び驚く雁夜が出来上がるが、すぐに平静さを取り戻してゴゴの顔を見つめた。
  二度目だから慣れがあった様で、意識を安定させる時間はさっきより早い。
  「まるで手品だな・・・」
  「見習い以下だとしても、魔術師が何言ってんだ?」
  マッシュの呆れた声が響き終えた後、雁夜は椅子に座り直して会話の態勢を整えた。
  「じゃあ話を続けるぞ。ケフカに騒動の責任を全部押し付けるとして、間桐臓硯を――あいつの振りをしてるゴゴをどうするか、それを雁夜に決めてもらいたい」
  「俺に?」
  「ああ。まず、間桐臓硯がケフカにやられた状況にするのはいいとして、なり代わった後に利用価値があるかもしれないから生かして捕えておいたか、それとも不要になって殺したか。どちらかを選んでくれ。もし間桐臓硯を生かしておくとしたら、始まりの御三家の裏の当主として魔術教会への説明やらなんやらでものまね士の恰好のまま過ごすのは難しくなる、強引にものまね士として居続けると敵を呼び込むことになるからな、『何かを隠している』とか『また別人ではないのか?』とかな。そうなると外に出る時は『間桐臓硯』になる必要があるんだが、雁夜も桜ちゃんも大嫌いなあの蟲爺の姿のゴゴと接しなきゃならない。結構きついぞ」
  「・・・」
  「後者の場合は間桐臓硯の存在がそもそも消えるから、この一年間過ごしてきた間桐邸での生活が終わる。もっとも、代理として俺でもいいし、ロックでもいいし、桜ちゃんと遊んでるティナかセリスでもいいが、他の姿で過ごすことになる。まあ、どっちの状況を作ろうとしても、聖杯戦争以降ものまね士の恰好をしたゴゴと一緒に生活するのは難しいと思っててくれ」
  「――そうか」
  雁夜は短くそう言うと、マッシュに向けていた目を隣室へとやって、ミシディアうさぎを含めた女性陣による合唱の様子を眺めた。
  桜ちゃんにとってこれまでの間桐邸は近しい同姓も親と呼べる人間もいなかった歪な生活の場だった。間桐に養子に出されるより前に生きてきた遠坂邸に比べれば異世界に等しい場所だ。
  そしてセリスとティナの二人に囲まれ、両手をつないで三人で輪を作って歌う様子はとても楽しげだ。
  黙り込んだ雁夜は、これまで過ごした一年間の生活と、今見えている光景とを戦わせ、どうすべきか悩んでいるに違いない。
  何が桜ちゃんにとっての最善か? そう思っているのだろう。
  「・・・・・・・・・・・・桜ちゃんに、決めてもらう」
  「それでいいのか? 本当に、それでいいのか?」
  「ああ――。俺なんかが桜ちゃんの幸せを決めるなんて分不相応だ。桜ちゃんには・・・自分で選んで欲しいんだよ」
  誰かの人生を決めてしまう決断の重さから逃れるように、これまでの行いを悔いるように、跪いて土下座しながら懺悔を絞り出すように、雁夜は言った。
  その姿は自らを咎人と定め、償いこそが生きる意味だと言わんばかりである。一気に重苦しい雰囲気が雁夜を中心にして生まれ、同席した四人は言葉を失くしてしまう。
  このまま雁夜が立ち直るまで空気を読んで黙り込んでもよかったのだが、時間は有限であり伝えなければならない情報は他にも山ほどある。
  すると、隣の部屋から流れてくる淀んだ雰囲気を感じ取ってまずいと思ったのか。あるいは単純に曲を歌え終えたので別の遊びを探していただけか。桜ちゃんが男達の話している部屋に入ってきた。
  逃げるような駆け足で飛び込んできたので、ティナとセリスの抱擁から逃げ出した可能性と、見知った相手を探している可能性のどちらか、それとも両方か。
  「雁夜おじさん・・・?」
  「あ、桜ちゃん――」
  自分の名を桜ちゃんに呼ばれた瞬間、雁夜は目に見えて明るさを取り戻し、さっきまであった重い雰囲気をかき消した。
  桜ちゃんの前で無様な姿は見せられない雁夜なりの意地なのだろう。安心させるように雁夜が笑うと、それに合わせて桜ちゃんも小さく笑う。
  「どうかしたかい?」
  「・・・折角だから、皆と一緒に、歌いたいな・・・・・・って」
  見れば桜ちゃんの後ろには歌い終えてちょっとすっきりしているティナとセリスがいて、彼女達の足元にはミシディアうさぎが列を作っていた。さりげなく桜ちゃんの足元にすり寄っているのは使い魔のゼロだ。
  桜ちゃん以外は誘いの言葉を出していないが、男達を見つめる彼女達の目が『まさか、こんな可愛い子の誘いを断ったりしないわよね?』と無言の圧力となって突き刺さる。
  「あの・・・・・・」
  後ろからの強力な援護射撃に気付いていないのか、桜ちゃんは何か言いたそうにしながら席に座るロックを見上げる。
  「ん、ああ。俺達、自己紹介してなかったな。俺はロック、そっちにいるのがマッシュ、それから――」
  「おっと、私の名は自分の口から言わせてもらおう。これは女性に対する男の礼儀だよ」
  どう呼べばいいのか迷っているのであろう桜ちゃんに向けてロックが次々にゴゴと雁夜以外の男達の名前を連ねて行くと、途中でエドガーから待ったがかかる。
  片手を前に突き出す勢いは強烈で、舞った風がロックの髪を僅かに揺らした。
  「・・・好きにしろよ」
  「言われるまでもない」
  いきなり男の美学を語りだすエドガーに少々呆れ気味なロックだったが、言われたエドガーはいかにも誇らしげに振舞っている。
  この世界には存在どころか言葉ですらない国だが、それでもエドガーは一国の王。威風堂々たる有様で胸を張り、桜ちゃんに向けて言う。
  「私はフィガロ国王、エドガーだ」
  「え、っと・・・、ロックおじさん・・・。マッシュ、おじさん・・・。それから、エドガーおじさん――」
  「おじ!?」
  ティナとセリスは18歳、ロックは25歳、エドガーは27歳でマッシュも27歳。女性二人は『お姉さん』で通じるが、逆に男三人は桜ちゃんから見たら『おじさん』となってもおかしくない。そもそもエドガーとマッシュの年齢に近い雁夜とて『雁夜おじさん』と呼ばれているので、男三人が『おじさん』でも間違いではない。
  ただ、桜ちゃんからの呼称を聞いたエドガーが大きなショックを受けただけだ。
  エドガーおじさんと言われた瞬間に肩を落とし、そのまま机に突っ伏す。
  「おじさん・・・・・・か。私も、ついにそう呼ばれてしまう年になってしまったようだ」
  「諦めろよ兄貴、まさかここで『陛下』なんて呼ばせるつもりか? そっちの方がよっぽど問題だぞ」
  「判ってる。時の流れとは残酷なモノだが万人に等しく訪れる優しいモノでもある。リトルレディがそう呼ぶのなら、私はただ受け入れるだけさ・・・ふふ」
  本人は暗い雰囲気のまま笑ってニヒルな笑みを作り出そうとしたつもりだったのかもしれないが、受けた衝撃を払拭できていない状態で作る笑いは不気味でしかない。
  気のせいでなければ、エドガーが桜ちゃんに向けてほほ笑んだ瞬間、桜ちゃんは一歩後ろに下がった。
  「おっと、怖がらせてしまったかな。ならば共に歌い、笑いあい、友好を深めようではないか」
  「手を出すなよ。犯罪だぞ、王様」
  「そんなつもりは全くない。――私はただ君に笑顔でいてほしい、それだけさ」
  ロックの茶々を軽く避けながら、エドガーは椅子から立ち上がって桜ちゃんの元へと向かう。そしてそのまま膝を曲げて桜ちゃんと視線を合わせる。『笑顔でいてほしい』―――そう言いながら、エドガーは桜ちゃんの耳にかかる髪を漉くようにそっと頬に触れた。
  喋りながら椅子から立ちあがる、そこから始まった動作は滑らかでありとても自然で素早い。
  二秒にもならない短い時間。エドガーの指が桜ちゃんの顔に優しく触れる様は『手を出している』ように見えてしまう。
  「やれやれ、女と見れば良い恰好するのは兄貴の悪い癖だな。これじゃあ、話がし辛いから俺達も行くか」
  「そうだな」
  エドガーを追いかけてマッシュ、ロックが後に続く。すると、部屋の中は『歌う為に移動しよう』という雰囲気に変わっていった。立ちあがらず椅子に座っているのは雁夜とゴゴの二人だけだ。
  雁夜は最初に桜ちゃんに話しかけられた男だが、エドガーの行動によって立ちあがるタイミングを逃してしまっている。
  「・・・いいのか? まだ話はあるんだろ?」
  そこで咄嗟にゴゴを見て聞いたのは、同じゴゴでありながらあちらとこちらで正反対の行動をとっているようにしか見えないから、問わずにはいられなかったのだろう。
  「この調子じゃ歌い終えないと再開は難しいな。それに言うならチャンスだぞ」
  「何の話しだ?」
  「さっき言っただろう。『桜ちゃんに、決めてもらう』と、丁度いいから雁夜の口から説明しろ」
  「む・・・」
  回答と一緒に反撃を喰らって、雁夜は少しだけ沈黙を作り出す。その間にエドガーとマッシュとロックの三人は隣の部屋に移動してしまい、机の周囲には『取り残された感じ』がより強く醸し出される。
  その雰囲気に耐えられなかったのか、それとも桜ちゃんに説明する決心がついたのか。雁夜もまた他の三人と同じように椅子から立ち上がって隣室へと向かった。
  「それじゃあ、一緒に歌おうか」
  「うんっ!」
  途中、桜ちゃんと合流し、足元にいるミシディアうさぎ達にも手で移動を促していく。
  ティナとセリスはロック達が移動した時点で隣の部屋に戻っており、雁夜が移動してしまえば机を囲む輪はたった一つしか残らない。いや、最早輪ではなく点だ。
  ゴゴはそこで座っていた。
  一人でむなしく座っていた。
  「俺は、ゴゴ。ずっと物真似をして生きてきた」
  ゴゴが言う。
  ものまね士が言う。
  「そうか、お前達は歌おうとしているのか。では、俺も歌う物真似をしてみるとしよう」
  置き去りにされたゴゴはそう言って立ちあがり、ゆっくり歩いて皆の後を追いかけた。



  ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆



  Side - 間桐雁夜




  俺が十年ぶりに間桐邸に戻って来た時、ここがこんなに騒がしくなるなんて想像すらしていなかった。
  あの時は聖杯戦争と間桐に養子に出された桜ちゃんの話で頭がいっぱいになって、俺が間桐を出てしまったからこそ起こった悲劇を償わなければならないと思った。
  もちろんその決意は今も変わらない。ただ俺を取り巻く状況があまりにも変わり過ぎて落ち着かない。
  かつての間桐邸と今の間桐邸は同じ建造物でありながら、そこに住む人が変わって。同じであり違うモノになった。
  悪くはない。
  俺にとって一番重要なのは桜ちゃんの幸せであり、俺が騒がしいのは好きじゃないとしても、いや、慣れていないからどうすべきか困っているとしても、この騒がしさで桜ちゃんが少しでも喜んでくれるならそれでよかった。
  臓硯を人として分類するかどうかは別にして、今はいない兄の鶴野を合わせても住んでいた人間が最も多かった時は四人。
  それが今では倍の人数にまで膨れ上がっている。たとえ俺と桜ちゃん以外の人間が全てゴゴだったとしても、見た目ではそう見える。
  正直、俺は目の前でゴゴが増えた様子も変身した様子もしっかり見てる。だから、増えた人間は男女問わずゴゴだと判っているのだが、理解した上でも別人に見えてしまう。
  そもそも似てる部分すらない男女を同一人物と括るのは俺の認識を越えている。『人間』というカテゴリで物事を全て見れる人物や、男女比など全く気にしない無関心な人間だったならゴゴと彼らを同じ存在に括れるかもしれないが、俺には無理だ。
  同じゴゴだと自覚しながら、全くの別人として扱ってる俺がいる。
  頭がおかしくなりそうだ。
  「・・・・・・ふぅ」
  小さくため息を吐きだしながら椅子に腰かけて隣の部屋の様子を見る。
  どこから持ち込んだのか指ぐらいの太さの縄を距離をとったエドガーとロックが両側で握っているのが見えた。
  ロックの脇には桜ちゃんがいて、エドガーとロックの間にある縄に入ろうと様子を窺っている。
  構図とそれが何であるかを知っていれば、誰にでも簡単に答えに辿り着ける。隣の部屋でやってるのは大縄跳びだ。
  室内でそんなもんやるな、と言いたくなるが間桐邸は『邸』の名前がつくだけあって無駄に大きい。さすがに十人や二十人が集まって大縄跳びをすれば広さが足りなくなるが、桜ちゃんと後もう二人ほどだけで飛べる広さがある。
  間桐邸は俺の生家だからあまり考えた事はなかったが、臓硯は何を考えてここまで巨大な家を作ったのか。謎だ。
  間桐が使うのは蟲の魔術。臓硯にとって重要なのは地下の蟲蔵だから、地上にある間桐邸にはそれほど広さは必要ない筈。
  臓硯がここに移り住んだ時は魔術の門弟がいたのか。それとも遠坂邸に倣って大きさでは負けてられないと巨大な屋敷を作りたかったのか。臓硯亡き今、確かめる術はない。
  別に知りたい訳でもないが―――。
  気持ちを静めて耳をすませていると『大波小波』や『郵便屋さん』と歌声が聞こえてくる。ロックとエドガーが両側に揺らす縄の間の桜ちゃんが飛んでいた。
  縄が回転し始めると、壁際で待機していたミシディアうさぎが両側から突進して、桜ちゃんの両側に陣取る。
  人間にも匹敵する強靭なジャンプ力で跳ね上がる二匹のミシディアうさぎ。一人と二匹が作り出す微笑ましい光景なのだが、むぐむぐ鳴くミシディアうさぎの声が切羽詰まって聞こえるので、『ご主人様には負けられません!』『小さくてもジャンプなら勝つ!』と言っているように見えた。
  楽しげと言うより必死だ。
  ミシディアうさぎの帽子にはそれぞれ『7』と『8』が見えたので、あいつらはナナとユインらしい。
  目に見える光景は聖杯戦争の真っ最中とは思えないほど和やかで。俺も一休みしながらその様子を見て顔が緩むのを止められなかったけど、頭の中では常に聖杯戦争の事を考え続けてる。
  桜ちゃんに誘われて遊ぶ。小休止として隣の部屋に移動して椅子に座り、そこで共に移動したゴゴの話を聞く。それを何度か繰り返して、俺はゴゴのやった事を聞いた。
  俺が寝込んでいる間に行われた冬木教会への襲撃、そこで明かされた間桐臓硯になり代わる者。
  それぞれのサーヴァントの居場所、マスターの行動。まだどのマスターも敗退していない事実の再確認。
 まだ俺が見た事の無い、ゴゴが物真似してる冬木市にいる者達―――『カイエン・ガラモンド』『ストラゴス・マゴス』『リルム・アローニィ』の姿を己が栄光の為でなくフォー・サムワンズ・グロウリーで変わってもらって直接見る。などなど、色々と新しい事も知った。
  最初に聞いた話から至る所に話題は膨らみ、補足を更に上回る多くの情報を手にいれた。
  ようやく一段落ついたころ。ゴゴが好き勝手に行動して、バーサーカーなしでもサーヴァント相手に真っ向から戦った様子を聞かされると、俺がマスターとしてここにいる意味があるのか考えてしまう。
  だが俺は桜ちゃんを救うと決め、それを成し遂げる為ならどんな事でもしようと覚悟を決めた。ゴゴがやってるのはあくまで俺がやろうとしている『桜ちゃんを救う』の物真似であり、物真似されている俺が諦めては本末転倒だ。
  それに俺はどうしても遠坂時臣と会わなければならない。そして、どんな理由があって桜ちゃんを間桐なんかに養子に出したのか聞かなければならない。
  倒すにせよ戦うにせよ殺すにせよ生かすにせよ、奴だけが知っている遠坂時臣の心の内面を聞くまで俺は先に進むのを止めてはならない。
  これは俺の義務であり責任だ。
  そうやって『桜ちゃんを救う』を形にしようと決意を新たにしているのに、俺はいまだに桜ちゃんへ『間桐臓硯の物真似をしてるゴゴを今後どうする?』と訊けていない自分を思い知る。
  表向きは間桐臓硯を存命させて気まずくなりそうな生活をするか。それとも間桐臓硯を亡くし、姿を変えたゴゴと新たな生活を作り出すか。
  俺としては両方を取り込んだ今の状況―――ゴゴが複数人を物真似して寂しさが無くなる騒々しさがある『今』を続けたいと思うが、桜ちゃんが望まないのなら、俺の希望など塵以下だ。
  結論を先の延ばしても意味はない。むしろ、長引けば長引いた分だけ聖杯戦争への終焉に近づいてしまうので、桜ちゃんから考える時間と迷う時間を奪ってしまう。
  これまで大人の都合で振り回されてきた桜ちゃんには自分で未来への道を選んでほしいと思う、けれど桜ちゃんに『決断』の重圧を押し付けてしまう罪悪感もあった。
  言わなければならない。だけど言えない。桜ちゃんが楽しく過ごす時間が俺の目の前で流れていく。


  ピーン、ポーン


  すると来訪者を告げる玄関のチャイムが鳴った。
  来訪者など滅多にいないし、間桐邸の広さに目を付けた屋根修繕の業者や宗教の勧誘などはすぐに追い返されたからチャイムが鳴る事実そのものを忘れていた。
  つまり住んでる俺が間桐邸にチャイムがある事を忘れるほど、訪れる者がいなかった訳だ。
  誰が来た?
  繰り返すが間桐邸のチャイムを鳴らす奴は限られていて、交友の意味で鳴らす奴は一人もいない。今後の方針としては、桜ちゃんが学校に通いだしたら友達を呼んで間桐邸を遊び場にするのを考えているが、現段階でチャイムを鳴らす親しい相手はゼロだ。
  聖杯戦争真っ只中の状況を考えると敵である可能性はある。
  だが敵サーヴァントやそのマスターがわざわざチャイムを鳴らすとは思えない。破天荒が人の姿をとって常識を木っ端みじんに打ち砕くライダーならやるかもしれないが。チャイムを鳴らす前に大声で来訪を告げる姿の方がライダーには似合う気がする。
  チャイムを鳴らしたのは誰だ? 考えながら横目で桜ちゃんのいる部屋を見ると、間桐邸の支配者とでも言うべきゴゴがすでに行動を起こしていた。
  いつの間に移動したのか、ものまね士ゴゴは玄関近くのドアホンまで移動して受話器を取ってる。
  「はい、間桐です」
  ゴゴの口から間桐の名が出るのは違和感があるが、ここが間桐邸でゴゴが臓硯を名乗ってるので傍目には正しい。
  受話器から何やら音が聞こえてきたが、距離が離れていた上に、ゴゴも間桐と名乗った後は声を小さくしてしまったので内容までは判らない。俺には遠くの音を聞き分ける超人的な聴力はない。
  これで二言三言ゴゴが話して話が終わると、時々やってくるセールスマンか何かだと思える。だが今回はゴゴの様子がおかしく、二言三言どころか更に話は続いて、俺の方を向いた。
  そして受話器を持たない手で玄関を何度も指差し、それが『雁夜、代わりに出てくれ』と教えてる。
  ゴゴが自分から動かないで俺にやらせるなんて珍しい事もある。
  「出ても大丈夫なのか?」
  大きめの声でそう言うと、ゴゴは受話器の送話口を手で塞いだ。
  「平気だ。結界は玄関の外側まで広がってるから確認し終えてる。訪問者に危険は無い・・・・・・んだがな」
  「ん?」
  「まあ、見れば判る」
  歯切れの悪いゴゴもまた珍しい。一度ならそれほど気にも留めなかったが、二度目となると無視してはいけない違和感となって俺の中に危機感を生みだす。
  だがゴゴは嘘は言わない。危険が無いなら本当にそうなんだろう。
  ただしゴゴの認識は人の尺度とかなり違うので、ゴゴに危険が無くても俺に危険はある可能性を捨ててはいけない。
  交渉目的でどこかのマスターがやって来たか? 聖堂教会の使いや俺以外のマスターが放った使い魔にものまね士の恰好を見られるのを避けたかったのか?
  あいにく、間桐邸のドアホンには外を見れるカメラなどついていないので、鳴らした相手がだれかを確認するためには二階から道路を見下ろすしかない。二階に上がって見える場所まで移動して、そこから確認して、また玄関まで戻ってくる必要がある。
  それをやるとその浪費した時間だけ相手を待たせてしまう。
  「・・・・・・まあ、いいか」
  敵が待ち構えているかもしれない可能性があるので、本音は誰かを確認してから応対したかったのだが。ゴゴが『危険はない』と言うなら、今の俺の力でも対処できる安全は確保されているのだろう。
  念の為、外に出る時はいつも持ち歩くようになったアジャスタケースの重さを確認して、いつでも抜けるように準備を整える。
  さて、一体、誰がやって来た?
  緊張と疑問を半分ずつ考えながら、玄関を開けて外に出た。
  ゴゴから聞いた話の中で、今も間桐邸は多くのアサシンに監視される状況らしいのだが、俺の感覚ではその監視の目を把握できない。何か、見られているような気分はあっても、それがどこから来る視線なのかは全く判らない。
  この瞬間にもアサシンが俺めがけて攻撃してきても不思議はない。昨夜、どこかの洞窟で戦ったアサシンの攻撃が脳裏に蘇る。
  あの攻撃をもう一度やられても対処できるよう、周囲からの飛来物に注意して前に進む。
  焦らず、走らず、けれど遅くもなく、無駄な力を入れない自然体で歩き続ける。ザッ、ザッ、ザッ、と地面を踏みしめる音がやけに大きく聞こえた。
  何か起こるかもしれない可能性を色々と考慮しながら、けれども結局は何事も起こらず。俺は間桐の閉塞感をそのまま体現するような大きな門の前にたどり着く。
  格子あるいは隙間でもあれば事前に訪問者を確認出来るんだけど、誰が立っているのかを確認する為にはわざわざ門を開かなければならない。
  開ける心構えは到着するまでに済ませておいた、だから俺はたどり着くと同時に門を開け放つ。
  かすかに開いた隙間から間桐邸の敷地と道路が繋がっていく。向こうも間桐邸から出てきた俺に気付いたらしい、開かれた門の隙間から俺を見ていた。
  そこにいたのは―――。


  「お、おおお、おはようございます!」


  「・・・・・・・・・・・・ああ、おはよう」
  その緊張しつつも大きな声で行われた挨拶に、俺は生返事のような挨拶しか返せなかった。そこに立っていた人物は見覚えがあり、見知らぬ他人と言う訳ではない。
  ただし、その人物はマスターではない、サーヴァントでもない。
  どうしてこいつがここにいる?
  俺は必死に動揺しないように努めるが、返事をした時に長い間を作った時点で驚きが隠せていないのが自分でも判る。
  戦いとは違う異常事態への困惑で心臓が激しく鳴り響いていた。
  どうしてこいつがここにいる? おれはもう一度頭の中で疑問を抱く。
  きっと今攻撃されたら、俺は何の対処もできずにあっさりと殺される。
  俺はもう一度目を凝らしてそいつを見た。
  俺がキャスターの呼び出した怪物と戦い、あと一歩のところで取り逃がした夜―――。
  あの日、あの時、親元へと送り届け、もう二度と会わないだろうと思った子供―――。
  見間違いではなく、紛れもない実体として士郎がそこに立っていた。



[31538] 第29話 『平和は襲撃によって聖杯戦争に変貌する』
Name: マンガ男◆da666e53 ID:6a0d9b18
Date: 2013/05/04 16:01
  第29話 『平和は襲撃によって聖杯戦争に変貌する』



  ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆



  Side - 間桐雁夜





  少し考えれば判る事だったんだが、子供が一人で間桐邸に来れる訳がない。隣の家から歩いて来るのとは訳が違い、士郎を送り届けた場所と間桐邸との間には子供ではどうしようもない距離が存在する。
  大人の行動範囲なら、ちょっと足を伸ばせば到達できる距離なんだが、子供にとっては同じ冬木市の中でも小旅行に匹敵するぐらい離れてる。
  大きく見たとしても小学校低学年程度にしか見えない士郎が独力でこれる訳がない。
  道路に突っ立っていた士郎の後ろに両親が揃って並んでいたのを見つけたのは、士郎を発見した俺が呆けてから三秒ほど経過した後だ。もし相手が敵だったら、確実に殺されていた隙を晒していた。
  不覚―――。
  驚きのあまり警戒を解いてしまう未熟さに気落ちしそうになりながらも、俺はとりあえず三人を間桐邸へと招き入れた。
  なんでもこの三人は士郎を運んでくれた事を改めてお礼する為に間桐邸を探してわざわざ訪れたそうなのだが。邪推すれば、士郎を含めた一家三人が敵サーヴァントやマスターの手先になっている可能性がある。
  だけど本当の事を言ってる可能性もある。俺にはその辺りの判断は出来ない。
  そして俺は客を家に招く経験がほぼ皆無であり、こんな時にどうするのが正しいのかが判らなかった。迷った俺に『家に上げる』と決断させたのは、ゴゴの言った『危険はない』という台詞を思い出したからだ。
  聖杯戦争の最中でなければ士郎一家が訪れた理由を額面通りに受け取ってもいいのだけれど、俺は敵の可能性を捨てきれない。だが俺よりも敵を感知する能力の高いゴゴが『危険はない』と言った。だったら士郎達を敵と思わなくてもいいじゃないか。
  それに、外で応対するよりもむしろ間桐邸―――つまり自陣で応対する方が士郎達以外の横槍を心配しなくていい。
  門の所で話していていきなり襲撃されたらかなり面倒だ。
  士郎達が敵で、内側から間桐邸を破壊される危険性は確かにある。だけど結界を維持しているゴゴは洞窟、森、雪山、草原、砂漠など、複数の固有結界を自由自在に操る、一般人からも魔術師の観点からも常識外れで桁違いの存在だ。どんな事が起ころうと対処してしまうだろう。
  だから俺は間桐邸へと招く行為が正しいか正しくないかは別にして、安全だと判断して三人を間桐邸へと通した。
  無駄に広い間桐邸には客人を相手にする時に使う応接室があったりするんだが、普段は人が立ち入らないので『ただあるだけの部屋』と成り果てている。俺も桜ちゃんも利用した事はない。
  寂れた物置になってもおかしくないんだが、一年前にゴゴが間桐邸に住むようになってから、家事の物真似と言って間桐邸の隅から隅まで掃除してしまった。そのお陰で応接室は人が入らないのは変わってないが、埃一つない清潔な部屋に変わっている。
  俺達はそこで向かい合った。
  言峰親子に間桐臓硯がケフカ・パラッツォだと偽ってる状況なので、ものまね士の恰好をしているゴゴは見つからないように隠れ、応対は俺と士郎を助けた時に一緒にいたティナ―――こいつも考えてみればゴゴなんだが、この二人で行うことになった。
  向かいに座るのは訪れた士郎一家の三人で、合計五人が応接室の中にいる。
  相手は大人二人と子供一人、こちらは大人二人。バランスは取れていると思う。
  「改めて――、士郎を助けてくださって本当にありがとうございました」
  手始めにそう切り出したのは士郎の父親だ。
  深々と頭を下げられと困るんだが・・・。俺自身、士郎を助けたくて助けた訳じゃない。俺はあくまで桜ちゃんがそう望んだから結果として士郎を助けたのであって、正直、士郎個人に関してはどうでもいいとさえ思ってる。
  まあ、礼を言われるのは悪い気はしないので軽い会釈を返しておいた。
  そこから名前と簡単な自己紹介へと続き、明るい感じで話が始まる。
  「間桐雁夜です――」
  感謝を告げる深々とした頷きじゃなかったが、俺は自分の名前を告げながら軽く頷く。そして俺の頭が元の位置にまで戻ると同時に、隣に座るティナも言った。
  「ティナ・ブランフォードと言います。初めまして」
  今のティナの服装は飛空艇ブラックジャック号に戻るまでの気まずい空気を作り出してた薄手の格好じゃなく、『シルクのローブ』を羽織って女性特有の華奢な体を隠し、髪を『金の髪飾り』で纏めている。
  当然ながら帯剣してる訳でもなく、戦う空気など欠片もない。屋内でする格好にしては厚着かもしれないが、戦う時に見た格好に比べればだいぶマシだ。
  「ティナさん、と仰るんですか。失礼ですが、こちらの御宅は『間桐』とお伺いしていたのですが――」
  「間桐は元々ロシアから移住してきた移民なので、その縁で少し――。今はこの家で少々お世話になってます」
  「そうですか・・・」
  どう見ても日本人には見えないティナに対して士郎の父親が疑問を抱くのは当然だ。
  そもそも俺だってティナになってるゴゴに会ったのはほんの数日前で、いきなり作り上げられた嘘八百の話しは俺だって初めて聞く。
  間桐が元はロシア系の魔術師でマキリと呼ばれているのは知ってたが、そこにティナの出生やら何ら屋の繋げるとは思ってなかった。
  まあ、相手が納得してくれるなら俺が口出しする事ではないので黙っておく。
  「それで・・・。士郎を助けて頂いたお礼にと――、ほんの気持ちばかりの物ですが、お受け取り下さい」
  話が途切れた所で士郎の母親が白いレディースバッグから何かを取り出してこっちに差し出してくる。
  これで相手が魔術師だったなら中身が魔術的な呪いの可能性を真っ先にあげるんだが、士郎の家はたまたまキャスターの騒動に巻き込まれた聖杯戦争とは無関係の家なので、単純に贈り物だと思う。
  ただし、何かある時はすぐに動ける様に『何か起こるかもしれない』と心の隅で常に意識しておくのを忘れない。
  受け取って見ると、包装紙の一角に『ハーブの潤いギフト』と書いてあり少し重みを感じたので、どうやら石けんか何かの詰め合わせらしい。
  子供が助けられた親の立場として、お礼の品としてこれは正しいのか正しくないのか俺には判らなかった。
  魔術師として戦う力を手に入れる為に修行に明け暮れたお陰で、一般生活における対人関係から縁遠くなってしまったのを今更悔やむ。
  ゴゴと桜ちゃんと一緒に外に出かけたり旅行したりする機会は何度もあったが、俺達は『間桐関係者の三人』で完結していたので、それ以上外に手を伸ばしたり人の輪を広げたりしてこなかった。
  俺が間桐に戻る一年以上前はこんな状況でも普通に応対できてた筈なんだが、一年間の生活の密度が濃すぎる普通の常識がどこかに消えてしまった。
  平静を装いつつ、しかし内心『俺の応対は正しいのか!?』と常に考えながら話す。
  「あの時も言いましたが、俺たちはそんな大した事はしたつもりはありません」
  改めて考えると、俺はアインツベルンの森での戦いから意識してティナのそばにいる状況を作ってこなかったのだが、二人で並んで応対する姿はまるで対面にいる夫婦のようだ。
  ティナと並んで座る今の状況を思い出してしまい、意識して考えないようにした気まずさが心の底から湧きあがって、俺の体を突き破り飛び出しそうだった。
  落ち着け、落ち着け。そう自分に言い聞かせてティナを見ないようにした。
  「それでも貴方達は士郎と私達の恩人に変わりありません。ありがとうございました」
  士郎の父親はもう一度礼を言いながら頭を下げる。
  腰の低い人だ。
  「それで――。間桐、臓硯さんはいらっしゃいませんか? あの方にもお礼を言いたいのですが」
  「爺ならちょっと用事が合って出かけてますよ。早ければ今日中に帰って来るでしょうが、遅ければ数日後になると思います。爺は年の割に行動的なんで、いつ帰るのかは判りません」
  当然だ、何しろその『間桐臓硯』こと『ものまね士ゴゴ』は俺の隣にもいるし、格好だけ同じ奴なら間桐邸の他の場所にもいるし、冬木市の至る所にも存在する。
  もう帰ってる奴がいつ帰るかなんて判るか。
  その後も色々と話は進む。
  とりあえず話された内容を額面通りに信用するなら、士郎一家はあの時士郎を届けてくれた『間桐臓硯』と『間桐雁夜』の名前と人相を頼りにこの間桐邸を突き止めたらしい。
  まあ、ものまね士ゴゴの格好で練り歩く間桐臓硯は一年前からこの近辺で出没しまくってるし、怪し過ぎて警察のお世話になりそうになったのは一度や二度じゃないから、交番で尋ねればすぐに判っただろう。
  よくもまあ、ものまね士の怪しげな恰好をしているゴゴを見つけ出して、わざわざお礼を言いに来ようなんて思う―――この士郎一家の行動力に驚かされる。
  俺だったら子供。つまり俺に当てはめれば桜ちゃんなんだが。自分の子供が無事に帰って来たのを喜びつつも、助けてくれた人はものすごく怪しいからなかった事にする。
  君子危うきに近寄らず―――だ。昔の人はいい事を言ったな。
  それだけ相手を見た目で判断しないこの夫婦は善良なのだろう。
  どんな相手だっとしても、子供を助けてくれたのならお礼を言うのは当然。あの時名乗った名前と大雑把に聞いた場所からこの間桐邸を突き止めるまで三日もかけなかったのだから、急いで俺達を探したに違いない。
  繰り返すが、俺だったら絶対にやらない。
  更に言うなら、士郎は魔術が本当にあると証明する為に河童になる魔法『カッパー』を喰らって泣いてた筈。けれど、今の士郎は間桐邸の前で挨拶してきた時と同じように子供らしくも毅然とした態度でそこにいる。
  これこそ、今泣いた烏がもう笑う。だ。やはり昔の人はいい事を言った。
  善良さと子供の切り替えの早さに感心しながら士郎を見ると、士郎の視線が俺でもティナでもなく、部屋の出入り口へと向いていた。つられて俺もそっちの方を見てみると、扉の隙間から応接室の中を覗いている目があった。
  取っ手と同じぐらいの高さにあるそれは桜ちゃんの目で、応接室の中から外を見る士郎とばっちり視線を合わせている。
  桜ちゃんが珍しいお客様に興味を惹かれたか、それともティナ以外の誰か―――と言っても間桐邸の中で桜ちゃんを唆せるのはミシディアうさぎを除けばゴゴしかいないんだが―――。ゴゴが桜ちゃんを唆して応接室を覗かせたか。
  どちらにせよ桜ちゃんは応接室を覗いて、士郎はもうそれに気付いていた。
  「桜ちゃん」
  部屋の外にいる桜ちゃんに向かって呼びかけると、気付かれてないと思ってたのか、驚きのあまり体を大きく振るわせて扉に頭をぶつける。
  ゴンッ! と聞いていると、いっそ清々しさすら覚えてしまう見事な音を立てた。その衝撃で扉が開き、部屋の外と内側が繋がってゆく。
  「あ・・・・・・」
  もしかしたら士郎のご両親は桜ちゃんの存在に気付いてなかったかもしれない。だが、俺が桜ちゃんの名前を呼んで、しかも扉が開いて姿を晒せば自然と視線はそちらに向かう。
  部屋の中の全員の目が桜ちゃんに向けられた。
  「あ・・・、の・・・」
  桜ちゃんに取っては士郎の両親は見知らぬ大人だ、桜ちゃんの気質と言ってもいい人見知りが声を引込めてしまう。
  覗いてしまい悪い事をしたと思っているかもしれない。怒られると思っているかもしれない。
  「ねえ、桜ちゃん――」
  桜ちゃんの名前を呼んだのはティナだった。
  声をかけられた瞬間、桜ちゃんはビクッ! と体を震わせる。
  「今、私達、お客様のお相手をしてる所なの。こっそり覗くなんて悪い事よ、だから気を付けなきゃ」
  「・・・・・・はい」
  「じゃあ覗いた罰として、ちゃんとこの人達に自分の名前を言ってね。言えるでしょ?」
  いきなりやって来た『他人』にいきなり自己紹介させる。
  凛ちゃんだったなら何ら臆することなくやってのけるだろうが、桜ちゃんにとってこれは確かに罰になる。
  それでもティナが優しく語りかける様子からは叱っている様に見えない。
  俺もまた桜ちゃんを見てるのでティナがどんな表情を浮かべてるか判らないが、多分微笑んで、桜ちゃんを見ているんだろう。
  桜ちゃんは士郎一家の方に体を向けて両手を前で揃えた。そして怯えながらも背筋を伸ばし、ちゃんと頭を下げる。
  この辺りは葵さん、というか遠坂家の躾けの厳しさを漂わせる。
  「・・・こん、にちは。――とおさか、さくら。です」
  「うん、よくできました」
  弱々しさと拙い感じ、そして桜ちゃんの可愛らしさが混じった見事な挨拶だった。
  ただし、嬉しそうに言うティナとは対照的に士郎の父親はその名乗りに疑問符を浮かべている。
  「遠坂? 確か間桐と・・・」
  「理由あって預かってる幼馴染のお子さんなんです。桜ちゃんは葵さんの――この子のお母さんですけど、遠坂葵さんのお子さんで間桐と直接の血縁関係はないんですよ」
  「はぁ・・・それはそれは」
  俺の説明に一応納得してくれたのか、それとも苗字も人種も何もかもが違う者達が間桐邸に集まってる状況を怪しんでいるけど表情に出してないのか。
  俺を見る目がほんの少し探る様な目に変化した気がしたので、多分後者だろう。この組み合わせに更にものまね士の恰好をした間桐臓硯が加わるんだから怪しむなと言う方が無理かもしれない。
  怪しまれっぱなしだと応接室の空気は重くなるだろうから、俺は別の話題を探す。
  そして桜ちゃんに視線を向けて最初に見つけた士郎に狙いを定める。
  大人の話しとは関係のない桜ちゃんを誰よりも先に見つけたのは、ここにいるよりも他の場所に居る事を望む―――大人たちの会話をつまらなくな感じてるからじゃなかろうか。
  「士郎君、これからおじさんは君のお父さんお母さんと難しい話をするんだけど。すっごいつまんないぞ。それでもここにいるかい? なんだったら桜ちゃんと一緒に遊んでおいで」
  俺の口から飛空挺ブラックジャック号の上で士郎を脅したゴゴの仲間とは思えない猫なで声が出た。
  自分で喋っておいてなんだが、ちょっと気持ち悪い。
  桜ちゃんと凛ちゃんになら優しく語りかけるなんて何度でも出来るけど、他の子供にも同じようにしても自分への気色悪さをまず感じる。
  表情には出さないが気持ち悪すぎて吐きそうだ。
  どうやら俺の思いやりや気遣いは基本的に桜ちゃんを中心に構成されているらしい。俺は内面をひた隠しながらも表情は笑顔にして、子供を案じる大人を演じきる。
  「それじゃあ・・・」
  やはり自分の両親といえど、大人に囲まれているのがつまらなかったのか。俺の申し出に全く断るそぶりを見せず、申し訳なさそうに呟きながらも士郎は立ち上がって部屋の外に向かった。
  その動きに躊躇いは無い。
  士郎に限らず子供が楽しいと思えない場所に留まり続けるのは難しいのだからしょうがないか。桜ちゃんでもつまらないと思った事に飽きて別の場所に行きたい事は多々あるのだから。
  そのまま士郎は一直線に部屋の外に向かうかと思ったが、俺達と桜ちゃんのいる廊下との丁度中間ぐらいで立ち止まる。
  そして俺とティナの方に振り返り、桜ちゃん程礼儀正しくなかったが、頭を下げて大きな声で言った。
  「助けてくれて、ありがとう――ございました!!」
  「ん・・・?」
  もう父親の方から何度も言われてるので、今更、お礼を言われるのはおかしくないんだが、士郎の言葉の中に引っ掛かる単語があった。
  どうして士郎は俺に向かって『助けてくれた』と言える? 『運んでくれて』や『家に送ってくれて』ならまだ判るが、その言葉はおかしくないか?
  単に礼を言った父親の真似をしただけか? それとも、士郎はゴゴが口止めされたのに両親に事件の事を話したのか?
  疑念を抱いていると士郎は早足で駆け抜けて応接室の外へと出て行ってしまう。桜ちゃんも大人の話を邪魔し続けるのはまずいと思ったようで、士郎が出ていくと同時に扉を閉めてしまった。
  これで部屋の中には大人しかいなくなった。ティナの年齢は『大人』と呼ぶかどうか微妙な所だが、ゴゴの本性は人間の年齢で測れる範疇を超えてるので問題ない。
  ただ、俺としてはこれ以上ここでやる話は無いと思ってる。子供を家に連れて来てくれた大人に親が礼をしに行く。その儀礼はもう終わったのだ。
  むしろこれ以上どんな話がある? そう思っていると、父親の方がある話を切り出してきた。
  「士郎を助けてくださった方を探るような真似はしたくありません、ですから隠し事をせずに正直にお聞きしたいのですがよろしいでしょうか?」
  「――聞きましょう」
  「実は間桐臓硯さんと貴方の御二人が士郎を送り届けてくださった後。士郎から何があったのかを聞いて、そこで興味深い話を聞いたんです」
  「ほう」
  軽く返す俺だったが、若干父親の表情が今まで以上に強張っているのに気が付いた。
  嫌な予感がする。
  「で、どんな事を聞いたですか?」
  「はい。世の中には『魔法』と呼ばれる技術が合って、冬木市ではその『魔法』を使った戦いが今も行われている――という話です」
  「・・・それはまた突飛な話ですね」
  予め士郎が両親に事件を話した可能性も考慮したおかげで、全く動揺なくそう返事が出来た。
  『大人がなに、子供の言ってる事、真に受けてるの?』と小馬鹿にするようにも言えたのは上出来だ。
  魔術を知らなければむしろこの対応は自然だ。魔術を知らない自分を賢明に演じながら俺は考える。
  結局、子供に口止めしても、安全だと思える場所に移動してしまえばそこであっさりと口を割る。士郎が被った被害はほんの少しだけ河童になって言葉で脅されただけ。物理的に痛みを伴った訳ではなく、喋らなくするには条件が不足してたらしい。
  まったく、桜ちゃんと凛ちゃん以外の『子供全般』が嫌いになりそうだ。
  喉元過ぎれば熱さを忘れる―――。昔の人はいい言葉を言った、正しく今の状況を忌々しいほど的確に表しているな、畜生。
  「まさか貴方は『魔法』が科学全般のこの時代に本当にあるなんて信じてるんですか?」
  「正直言えば子供の戯言だと思ってます。ですが、私は士郎が嘘を言う子供だとは思えません」
  はっきり告げる父親の姿を見て、俺は少し息子である士郎を羨ましいと思った。
  俺と鶴野の戸籍上の父親だった臓硯はこんな風に俺達を信頼してくれた事など一度もない。もし同じような状況であの蟲爺に言えば『何を言っておる、馬鹿が。くだらぬ事を言うでないわ』と一笑する姿が簡単に想像出来る。
  もっとも、臓硯は俺達を信頼も信用もしてなかったから、こんな話を一度だってした事が無いので、想像はあくまで想像でしかない。
  「それと――」
  続けられた言葉を聞きながら、俺は頭の中に浮かんだ臓硯の姿を消す。
  「雁夜さんはご存じないかもしれませんが、実は私達は『冬木市の悪魔』こと謎の連続殺人犯から児童を守る為の集会に参加してるんです」
  「たぶん、小さな子供を抱える親は大なり小なりこれに関わってます」
  母親の方が付け加える形で話に参加してきた。
  俺は考えた。どうして、今、その話をする? と。
  「この前、そこで気になる話を耳にしたんです――。士郎と同じように『気絶して保護された子供』が大勢見つかって、その子供達は気絶する直前にこのお屋敷の『間桐臓硯』さんとよく似た人を見たそうだ、って」
  「・・・・・・・・・つまり?」
  「はい。こんな事を言うのは失礼と重々承知しておりますが、私達は貴方達が何らかの形で殺人と誘拐に関わってるんじゃないかと思ってるんです」
  何が言いたいのかはっきりさせる為の返答は俺達をキャスターのマスターであり、冬木市に死を撒き散らしている雨生龍之介だと確かめる詰問だった。
  俺は甘かった。ついさっき、この二人を善良だなんて考えた自分を抹消したい。
  さっき考えた通り、ゴゴの口止めの甲斐なく士郎は親に起こった事を全て話したらしい。俺達がただ道を通りかかって介護した者ではなく、命が危険になる戦いに身を投じる『戦闘者』だと認識しているようだ。
  そして俺達が聖堂教会に後始末を頼んだ子供達は、士郎のように口止めではなく記憶処理を施されるだろうから無関係になったと思い込んでいたが、不十分に記憶を残したまま保護されたらしい。
  あの言峰璃正神父の策謀か、記憶を消す魔術が不確かだったのか。多分、前者だ。
  もしかしたらあの嘘吐き神父は『子供達を無事日常へと返す事を約束しよう』とは言ったが、『全ての記憶を消そう』とは確約していないから、俺達を陥れる為にわざわざ記憶を中途半端に残した状態で表の世界に戻したのかもしれない。
  聖杯戦争に関する部分の記憶はしっかり消しておいて、殺されかかった事実とゴゴの姿だけは残しておけば魔術の隠匿に関しては問題ない。
  表面上は中立を謳う監督役の仮面を被り、裏では遠坂陣営と結託してアーチャーとアサシンの共同戦線を作り上げる様な輩だ。ゴゴが宝具の物真似で実現してる『物真似集団』の実態を掴んだり、警察や一般市民の目をこっちに向けて俺達が動き辛くなるような手段はとってもおかしくない。
  今の所、犯人探しの事情聴取で警察が訪ねてきたりしてないが、この様子だと今この瞬間にも警察が間桐邸を訪れる可能性は大いにある。
  それにしてもこの夫婦は中々したたかだ。そして図々しくもある。
  まさかお礼を言われたその次に出てくるのが殺人と誘拐事件の犯人呼ばわりとは。『関わってるかもしれない』と言葉を濁しても、間桐臓硯の名と姿を出した時点で犯人だと怪しんでるのは確実だ。
  遠坂時臣に向ける殺意に匹敵する想いを抱いても誰も俺を責めないと思うぞ。この野郎共・・・。我が子が無事と判ったら命を救ってくれた相手でも敵か? 士郎を連れて行ったのは犯人だと思われない為の俺たちの狂言だと思ってるのか?
  ただ向こうも礼を逸してると承知しているようで、心苦しそうな顔をした。この顔が演技だとしたら大した役者だ。俺としてはむしろ演技である可能性の方を推称したい。
  本当にそうだったら、犯人呼ばわりされた怒りのままにぶん殴れる。怒りに任せて殺すつもりは全くないが、暴言に対して一発殴るくらいは許される筈。
  士郎は判っているんだろうか? 不用意に両親に話したことで、自分達が殺されてもおかしくない状況に陥ってると判ってるのか?
  両親の方も士郎が今、俺達のテリトリー内にいて、生かすも殺すも自由自在だって判ってるんだろうか?
  一度は助けてくれたから今度も助けてくれるなんて甘い期待をしていたら、随分と舐められたものだ。魔術師はそんなに甘い存在じゃない、もし魔術が表に知られるような事態に陥ったら、人殺しなど簡単にやってのける。
  現にキャスターが雨生龍之介と結託して殺人と誘拐を行い続けても、止める理由は『聖杯戦争に支障が出るから』でしかない。魔術が表の世界に知られる危険はもちろん考慮されてるが、もし聖杯戦争に支障が出ないでキャスターの隠匿が完璧に行われていたら、監督役も他のマスターも冬木市の住人がどれだけ死のうと放置する。
  俺だって桜ちゃんがそう望んだからキャスターと対立してるだけで、何人殺されようが対岸の火事だと思ってる。
  「爺が子供達に・・・ですか」
  俺が呟いた言葉には間違いなく殺意が込められていた。怒りのあまりそのまま殴りかからなかった自分を褒めてやりたい。
  この一年の成果としてこれまでにない自制が強く俺を縛り付けるが、怒りそのものは消しようが無かった。
  ゴゴを怪しんでいて、行動を共にしていた俺を怪しんでない訳がない。確実にこの二人は俺も怪しんでる。
  この無礼者め!!
  とりあえず心の中だけでストレス発散していると、母親の方が更に衝撃の事実を言ってきた。
  「実はご近所の奥様方に私達が戻らなかったら警察にご連絡する様にお願いしました」
  「ほぅ――ここで俺達が何かしたら警察がここに駆けこんでくる、と・・・」
  もし壁際に立てかけておいた魔剣ラグナロクが入ったアジャスタケースが手元に有ったら、俺は一気に抜いて二人とも斬っていたんじゃなかろうか。
  これが聖杯戦争の関係者―――敵マスターやサーヴァントに関連する相手だったら問答無用で斬り殺してる所だ。マスターならいざ知らず、キャスターとアサシンを除く他のサーヴァントを斬れるかは非常に疑問だが。
  脅し文句を入れてくる辺り、両親ともに肝が座っている。そこだけは称賛できるんだが、初めから俺達を犯人と決め付けている辺りがムカついて仕方がない。
  自分達の安全の為の配慮なんだろうが、こういう事をお礼と一緒にする事じゃない。そもそも、危険は警察に任せて一般市民は自分の家に引っ込んでろ。
  それともこいつら、俺が判らないだけで間桐を探る為に言峰璃正が協力者に選んだ聖堂教会の手先じゃなかろうか? 突飛な想像だが、あまりの展開にそれもあり得ると俺の中で雄叫びが挙がる。むしろそうであってくれ。
  今、俺は、こいつ等を斬りたくて仕方がない。



  ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆



  Side - ゴゴ





  闘争に観点を置けば、士郎と両親の二人はただの一般人だ。魔石を使えば桜ちゃんでさえ簡単に倒せる。
  ティナが三人に気付かれない内にこっそり探査魔法の『ライブラ』をかけてみたが、魔術師の家系でもなければ外的要因として魔術的な操作を受けた様子もない。つまり単なる一般人。素養についてはまた別の問題だが、今の段階では無手の雁夜一人でも十分対処できる。
  倒そうと思えばいつでも倒せるのだが、この二人は幾つかの保険を用意して間桐邸に乗り込んできた。
  聖杯戦争に関わる事ならどんな些細な情報も洩らさないように注意深く観察していたが、さすがに冬木市にいる一般人全てを知るには監視の目が少なすぎる。
  ただし、やろうと思えばゴゴは冬木市だけではなく地球の至る所を監視できる数のミシディアうさぎを作り出せる。事実、かつての世界では一つの星を覆い尽くすほどの魔力を蔓延させていたのだ。無尽蔵とも言える魔力があれば一般人の監視もやろうと思えばやれる、『出来ない』ではない。
  透明になったミシディアうさぎの数を101匹程度に抑えているのは、これ以上増やすと敵に発見される危険があるだけでそれ以上の意味は無い。
  それでも『やらない』は『知らない』と同じなので。現段階、一般人の監視までは行っていないから、士郎が家に辿り着いた後にどんな話をしたのかをゴゴは知らない。
  どんな会話の果てにどんな答えに辿り着き、どんな決意を抱いて間桐邸を訪れたのか。何もかもが判らない。
  自分達を犠牲にしてでも悪を裁こうとする気概は尊敬に値する。自己犠牲は状況によってはとても立派とは言えないが、それを容易くやってのける辺り『余人とは違う』とゴゴの関心を引くには十分すぎる理由がある。
  だが悲しいかな、正義感を押しとおす為には絶対的に力が不足している。確かに表の世界の悪人や、事を大きくしたくない者達にとって士郎達が打った手は中々悪くない。
  しかし、ものまね士ゴゴが選べる選択肢は表に生きる一般人の常識どころか裏に跋扈する魔術師もまた大きく上回る。一般人が仕掛けた保険など簡単に覆せてしまう。
 たとえば、この場で士郎を含めた三人を殺し、ゴゴが『己が栄光の為でなくフォー・サムワンズ・グロウリー』で三人になり代わる。
  別の手で、透明化の魔法『バニシュ』をかけたゴゴが常にそばに控え、混乱の魔法『コンフュ』をかけ続けて正常な話が出来ないようにする。
  他にも考えようと思えばいくらでも方法は出てくるが、ゴゴはそれらをする気は無い。
  今の士郎達は間桐邸に乗り込んできた敵に等しく、こちらを怪しんでいる上に聖杯戦争だけではなく魔術の世界に足を踏み込んでいる。間桐だけではなくゴゴの情報が他に知られない為に手っ取り早い方法は『死人に口なし』。だがゴゴはそれをしない。
  何故か?
  桜ちゃんがキャスターに誘拐された子供達を助けるのを望み、その願いは今も続いているからだ。
  いきなり見知らぬ大人が間桐邸に現れて、最初は接触しないように距離を取っていた。それでもほぼ同年代の子供がいるのが気になるのか、セリスやロックになっている別のゴゴが促せばすぐに応接室へと移動してしまった。
  ゴゴが間桐邸に現れてからの一年。桜ちゃんは同年代の子供と接する機会が殆どなかったので、興味が湧いたのだろう。士郎と桜ちゃんの年齢は同じか、士郎の方が一つか二つは上に見える。
  ただ、一般人の目が間桐に向くのは聖杯戦争でも魔術の秘匿でも状況が悪化しているように思えるが、この状況は決して間桐にとって悪い面ばかりでもない。
  それは『こういう事もある』と桜ちゃんに教えられる機会を得られたからだ。
  桜ちゃんが望むからゴゴは『排除』を選ばない。その代わり桜ちゃんを『教育』する為に、士郎は恰好の教材となる。
  表の世界に押しとおる『日常』とは一線を介した魔術に関わると、知らぬ者から見れば理解すら得られない状況は往々にして起こってしまう。
  疑心という名の人を蝕む毒だ。
  例え命を救われた相手だとしても、それが『魔術』という常識外れの力であれば、感謝よりも先に猜疑を抱いてしまう。
  桜ちゃんは桜ちゃんなりの正義に則って雁夜に子供達を助けてくれるようにお願いしたが、その正義が認められるかどうかはまた別の問題。
  何も言わないと約束した士郎が易々と嘘をつく姿を桜ちゃんは目の当たりにした。誰にも言わないと誓ったのに、士郎は簡単にそれを裏切った。
  命を救われた相手だろうと人は時に嘘をつく。どれだけ善良に見えようと、胸の内に巣食う本性は簡単には見通せない。
  本当なら誰よりも桜ちゃんの事を想ってくれていた筈の両親でさえ、遠坂の家から桜ちゃんを捨てたように―――。
  そんな訳で桜ちゃんをダシにしてまんまと応接室から士郎を引きずり出したゴゴは、雁夜と同席しているティナから一旦意識を外して、マッシュの方を意識する。
  「お前か、ゴゴと雁夜に助けられた奴ってのは」
  応接室の外に出た士郎に話しかけたのはマッシュで、大人が子供を見下ろす視点が見えた。
  士郎はいきなり現れた大人にほんの少しだけ委縮したが、マッシュと一緒に移動してきて桜ちゃんの元へと移動したミシディアうさぎ達に興味を惹かれたらしく。すぐに『へー、わー』など感嘆のため息をもらしながら触り始める。
  まあ、ごつい男よりもウサギの方が子供の関心を惹くのは当然か。
  いきなり現れたマッシュから逃げたかっただけかもしれないが、とりあえず桜ちゃんより人見知りはしないようだ。
  ミシディアうさぎの中で、ゼロだけは士郎に触られる前に桜ちゃんの胸元へと跳躍し、二本の腕が作り出す小さな輪の中に収まる。
  「おい坊主、大人の話は暇だっただろう。折角だからこの中を案内してやる、どこに行きたい?」
  「――色々探検したい。・・・です」
  マッシュがもう一度言うと、士郎は帽子に『2』と描かれたジーノを撫でながら返事をする。
  少しだけ考える素振りを見せたが、間桐邸に入る前から屋敷の広さが気になっていたのか、迷う時間は短かった。後に続く『です』までに間が合ったのは敬語を言い馴れてないからだろう。
  「そうなると地下が一番『探検』には向いてるな。兄貴とセリスもいるから丁度いい。よし、行くぞ!」
  マッシュはそう言うと、士郎からの返答を待たずにさっさと歩きだしてしまう。合わせて桜ちゃんも歩調を合わせ、ミシディアうさぎ達もそれについていくので、士郎は後ろから後を追う形になった。
  好奇心旺盛なのか最初から内部を見てみたいと思っていたのか、移動中に士郎は絶えず視線をあっちこっちに移動させる。
  もし士郎が桜ちゃんの学校の友達、あるいは何らかの理由で魔術とは無関係に間桐邸を訪れた子供だったならば歓迎しただろう。だが、士郎は口止めされて置きながらあっさりと魔術を両親にばらし、親を巻き込んで間桐邸へと入り込んだ敵に等しい。
  色々見るのに忙しくて話は殆どなく、士郎はマッシュ達の後を追うのがやっとの有様。そのまま何事もなく間桐邸の地下、つまりは蟲蔵へと到達してミシディアうさぎと士郎を含めた全員が何事もなく入る。
  そして地下へと下る階段を下り始めるのと、一階部分と地下とを隔てる扉がゆっくりと閉じるのはほぼ同時だった。
  「え・・・?」
  いきなり自動ドアのごとく後ろの扉が閉まったので、士郎が初めて立ち止まって後ろを振り向く。だがそこにあるのは地上部分に立つ間桐邸と地下に存在する蟲蔵を切り離す重い扉があるだけだ。
  士郎がそう望み、マッシュが叶えたので、士郎は自分の意思で蟲蔵に来たと思っているかもしれないが本当は違う。どこか別の場所に行こうと言いだしても、最終的にここに連れてくる事は士郎の両親が『魔術』を話題に出した時から決まっていた。
  何故なら、ここならばどれだけ叫ぼうと地上にまで声は届かないから―――。
  「あの・・・」
  「ここが間桐邸の地下室、通称『蟲蔵』だ」
  何か言おうとする士郎の声を遮ってマッシュが語る。その声音に今まで無かった『苛立ち』が紛れているのは子供ながらも気付いたらしい。
  言おうとする言葉を呑み込んで何も言わない。
  士郎はもしかしたらマッシュが何に対して苛立っているのか、いや、怒っているのか気付いたかもしれないが、気付いても手遅れだ。
  マッシュの言葉を聞いて動きを止めてしまった士郎の首に向けマッシュの手が伸びる。前から喉元を握るのではなく、後ろから首の骨を掴むようにしっかりと抑え込む。
  そして力任せに子供の体を持ち上げて、そのまま蟲蔵の中央に跳躍した。
  マッシュが腕と手首を曲げて持ち上げた士郎の顔を自分へと向ければ、あっという間に片腕で首を拘束して吊り上げる状況が出来上がった。
  「てめえ、ゴゴの言った事を全然理解してなかったみたいだな。魔法の事をべらべらと親に喋りやがった」
  マッシュの目から士郎を見ると、首根っこを掴んだ体勢でぶらんと垂れ下っている。ただし、士郎を掴んでない方の手には、いつどこから現れたのか判らない爪を模した武器『タイガーファング』が装着されていた。
  片手で士郎を持ち上げ、もう片方の手には『タイガーファング』。単純な腕力で吊り上げられた士郎の頬に人を殺す武器がペタペタと当たる。
  「魔術を知る奴は余程の理由が無い限りそれを秘匿する。判るか、坊主? てめえの口の軽さが両親を殺すんだよ。折角、助かった命なのに自分から死地に飛び込むとはな、何考えてんだ全く」
  マッシュらしからぬ粗野な口調で話しかけ、判り易く士郎を脅す。
  それもその筈、これは士郎が陥っている状況を―――桜ちゃんの意思が作り出した結果を判り易く表す為の演技なのだ。
  もちろん、マッシュが言ってる事に嘘はなく、状況が許せば士郎一家はここで死ぬのだが。
  「どうやら河童になる程度じゃ思い知らないらしいな、腕の一本でもなくなれば秘密にしなくちゃいけない意味の重さが判るか?」
  「待て、マッシュ」
  恐怖にひきつる士郎を吊り上げたまま、マッシュは声がした方向に振り返る。
  そこには壁に背を預け、マッシュを見ているエドガーの姿があった。最初から蟲蔵にいたのか、それともマッシュが移動すると同時にここに現れたのか、士郎には判るまい。
  「兄貴――、まさか止めるなんて言わないよな」
  「お前の『タイガーファング』じゃ鋭すぎて痛みが軽くなってしまう。『回転のこぎり』ならじわじわ削るから、痛みも多いだろう」
  そう言うとエドガーは右手を横に伸ばして手のひらを上に向けた。
  雁夜と桜ちゃんにとってはゴゴが魔石を生みだす時に見せるポーズなので、最早、見飽きている構図かもしれないが、士郎はそんな事は知らない。
  そのポーズを取れば手から何かが出てくる。その事前予測がまるでない。
  当然ながら、エドガーの手のひらにいきなりチェーンソーが出現するなんてのは予測できる訳もなく。ブルルルルル、と重低音を鳴り響かせながら回転する凶器が出てくるなんて想像すらしていなかった。
  「ひっ――!」
  「たとえフィガロ国民であろうと、男であろうと女性であろうと、罪を犯したのならば償わなければならない。士郎君、君はご両親に事情を話した時点でどうしようもなく重い罪を犯しているのだよ」
  エドガーは『回転のこぎり』がよく見えるように横に伸ばす。そのままゆっくり、ゆっくり、ゆっくり、マッシュに吊り上げられた士郎へと近づいてゆく。
  きっと士郎の目にはエドガーの姿が死神に見えているだろう。
  「あの子も可哀そうに――。でもね桜ちゃん、あの子にああしなくちゃいけないのは私達が原因なのよ、もちろん桜ちゃんもね」
  「え・・・?」
  桜ちゃんはいきなり作り出される懲罰に呆然としていたが、エドガーと同じくいきなり現れたセリスに後ろから抱きしめられると、壁際にまで下がらされて邪魔できないようにされた。
  桜ちゃんの腕の中には使い魔のゼロがいるので、ミシディアうさぎ一匹と女の子と女性の抱きかかえ三段が作られる。
  「桜ちゃんは雁夜にお願いして子供達を助けたいと思った。それはものすごくいい事だと思うわ。だけどね、助けてもらってそこで終わりじゃないの。物語は『めでたし、めでたし』で終わるかもしれないけど、現実にはああやって言っちゃいけない事を言う人が次の物語を作り出してしまう場合もあるのよ。だからただ助けるだけじゃ駄目、どう助けるかも重要なの」
  難しい話かもしれないが桜ちゃんはゼロを抱きしめたまま黙って聞いている。
  もしかしたら目の前で行われている凶行に―――見える演技から目を離せずにいるだけかもしれないが。
  「最初から助けちゃいけなかったかもしれない。もっと強く口止めしておけばよかったかもしれない。ブラックジャック号に連れて行ったのが間違いだったのかもしれない。魔術の事を教えちゃいけなかったのかもしれない。出来たかもしれない道は沢山あったわ。もちろん、桜ちゃんが全部悪いなんて言わないわ。私達だってやり方を間違えたから、あの人達は間桐邸までやって来た。『こうすればよかった』って、私達も後悔してる」
  セリスは腕の中で抱かれている桜ちゃんに向けて更に言葉を続ける。
  「私達はあの人達の事をよく知らず、善意で黙っていてくれると思ったけどそうじゃなかった。魔術に限らず、行動には責任を負う義務があるの。桜ちゃんはまだ子供だから難しいかもしれないけど、私達は魔術を内緒にする為に負った責任を果たさなきゃいけない。魔術が広まらないようにしなくちゃいけないのよ――」
  士郎は家に帰る直前にゴゴから『言うな』と脅され、頷いて了承の意を示した。桜ちゃんだけではなくそれでゴゴは黙っていると士郎を信じた。
  そして呆気なく裏切られた。
  桜ちゃんは知っただろう。今、目の前で大人達に拷問されそうになっている士郎は魔術の事を黙っていると言いながら、喋ってしまった罰を受けていると。
  桜ちゃんは悟っただろう。助けて恩義を感じた相手だったとしても、簡単に口を割ってしまうのだと。
  桜ちゃんは学んだだろう。そもそもこんな状況に陥らないようにする為には、魔術そのものを知られないようにするべきだった、と。
  経験が人を成長させる。
  士郎に魔術の事を喋ったのはゴゴだが、桜ちゃんが『助けて』と言わなければこんな状況は生まれなかった。だから桜ちゃんもまた責任を負う立場にいる。
  「『黙っていて』、そうお願いしても喋ってしまう人は大勢いるわ。言った事を正しく全部やってくれる人もいるし、そうじゃない人もいる。これは魔術だけじゃないのよ」
  「・・・・・・・・・」
  「約束を違えたらどうする?」
  「・・・・・・悪いことをしたら。罰が、当たる?」
  「そう。これはその『罰』なの。しかも、とびっきり重い、ね。あの子は言っちゃいけない事と、言っても冗談で済ませられるラインを越えた。だから罰を受けなきゃいけないの」
  セリスがそう言った瞬間、マッシュに吊り上げられた士郎に向けて、エドガーの『回転のこぎり』が襲いかかった。



  ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆



  Side - ウェイバー・ベルベット





  「ねえ、この子がどこの子か知らない? 子供の足で遠出できるとは思えないからこの辺りに住んでると思うんだけど」
  朝の『ウェイバー、ロリコン疑惑騒動』はとりあえず落ち着いて、僕はマッケンジー夫妻に向けてそう切り出した。僕は冬木市の地理に関しては戦略的観点から色々と調べたけど、さすがに住んでいる人の事までは知らない。
  東側の新都、西側の深山町に中央を流れる未遠川。その他にも遠坂邸や間桐邸、不可侵の中立地帯―――かどうかはかなり怪しくなった冬木教会など、聖杯戦争に関わりがある場所は調べたけど、さすがに一般人にまで調査の手を伸ばすのは難しい。
  だからこそマッケンジー夫妻なら何か知ってるかもしれないと聞いてみた。
  「わし等の生活じゃあまり小さな子供には接しないからなぁ。すまんが見た事はないなぁ」
  「ええ。この辺りじゃ見かけない子よねえ・・・」
  返って来た二人からの回答は否。どちらもこの子の事は全く知らず、近所に住んでいる子供ではない。
  そうなると僕やマッケンジー夫妻よりも冬木市に住む人の事をよく知ってる者達、つまりは警察に聞くのが一番早いんだけど、その選択肢を除外してどうにかしようとしてる僕は別の手を選びたい。
  そこで僕は相変わらず片時も僕から離れようとしない女の子から直接話を聞こうと考えた。
  聖杯戦争とは別の意味で朝から忙しくなる。そう思っていたら、時間経過と一緒に不可解な点ばかりが浮き彫りになっていった。
  って、そうじゃない。判らない事がどんどんと増えていったんだ。
  マッケンジー宅にあった子供服―――きっと僕じゃない本当の孫がこの家に住んでいた時の名残だろう―――、を着ようとしても女の子は身につけ方が判らなくて、マッケンジー夫人に着せてもらったり。
  実体化したライダーの偽名『アレクセイさん』と、この子の為に用意された食事じゃ箸はもちろんスプーンやフォークの使い方が判らなかったり。
  そもそも食卓に座った自分の前に出された食事に対し、『どうぞ召し上がれ』と言われたにも拘らず食べていいのか戸惑っていたり。委縮とは別、あえて言葉にするなら『未知』を前にしてるみたいだった。
  誰でも知ってる当たり前のことに対して、そもそもどうすればいいのかを知らない節があちこちで見える。
  女の子の見た目の年は十歳かもう少し下。この国では義務教育として初等部に通っている年齢で、普通に生活していれば間違いなく知ってる事をこの子は知らない。
  まるで、隔離されたどこかでずっと生活して、今時の魔術師なら誰でも普通に行える『日常生活』を何一つ知らないみたいだ。
  一つ一つを説明して、こうやるんだよ、と僕やマッケンジー夫人が教えたらすぐに覚えてくれたから学習能力が低い訳じゃない。言葉は喋れないけど、こっちの言うことを完全に理解している。
  キャスターに誘拐されて、壊されて、心を閉ざして、それで声を出せなくなったのかと思ったけど、もしかしたら最初からこの子には一般人とは違う事情があるのかもしれない。児童虐待とか何かの理由での拉致監禁されてたとか。
  この子がそれを自分から説明してくれたらいいのだけれど、言葉が喋れないからそれも難しい。絵や字で何か伝えてくれないかと、たくさんの真っ白い紙と色鉛筆―――。これもマッケンジー宅にあった子供用の道具だけど、それを渡しても『書く』あるいは『描く』を発想できず、何のための道具か判らずに十数秒首を傾げていた。
  僕にはあまり経験がない。というか、あまりに昔の事なので忘れているけど、子供なら落書きの一つや二つぐらい誰だってする。この子にはそんな経験が無いんだろうか?
  ようやく色鉛筆で紙に絵が描けるのを理解してくれたけど、『描く』のを知らなかった子供がいきなり絵で自分の事を説明するなんてのは高度過ぎる。
  案の定、女の子は色鉛筆を紙に当てて滑らせるとその色が紙に映る現象そのものに目を惹かれ、何かを表現するような事態まで到達できなかった。紙の上に描く場所が無くなる頃、そこにあったのは絵でも字でもなく、ただ色鉛筆が上から下へ、右から左へと行ったり来たりするだけの抽象画みたいな何かだった。
  これで何らかの意味がある絵だったら僕が困る。子供の落書きにしか見えないそれから意図を読み取れる技術は僕にはない。とりあえず字を書いたり絵を描いたりするのも初めてだって判っただけ収穫と思おう。
  「なんだ小娘、その訳のわからん代物は。描くのなら余の様に立派な物を描くがよい!」
  一つの机を挟んで向こう側に座っていたライダーが何をしていたのか僕は全く判ってなかった。まさか僕の意識がこの子に集中している間に同じように絵を描いてるなんて。
  ライダーの真名、征服王イスカンダルに絵心があるなんて話は聞いたことが無い。そう思いながら顔をあげてライダーが掲げる紙を見ると―――、そこには腕を組んで悠然と立つライダーがいた。
  「ライ・・・。アレクセイ、これ・・・」
  「余の姿よ。うむ、中々の出来栄えだ」
  黒の鉛筆一本で描かれたからさすがに細かい部分は省略されているけど、全体の輪郭や背後になびくマントは間違いなくライダーのモノだ。ライダーを知ってる奴なら間違いなくライダーだと判る。
  もしかしたら絵心の有無は歴史に刻まれなかっただけで、ライダーはかなりの腕前の持ち主なのかもしれない。
  ライダーの自画像に感心していると、ライダーは持っていた黒鉛筆を僕に差し出した。
  「ほれ坊主、次はお前の番だ」
  「はっ!?」
  「次は坊主自身を描けと言っておるのだ。そこの小娘が描き、余も描いた。坊主だけ加わらぬのは不公平であろう」
  歯を見せて笑うライダーが冗談を言ってるようには見えない。
  恐る恐る鉛筆を受け取って、僕は一度だって描いた事のない自画像を描こうとする。だけど、横から袖を引っ張る小さな手が僕の作業を止めさせた。
  「ん――、なに?」
  出来るだけ優しく話しかけると、僕の袖を引っ張った女の子は紺の色鉛筆を掲げて僕に見せた。
  さっきのライダーの真似かな?
  そして新しい紙の上に鉛筆を置いてぐりぐりと円を描く。
  「ほほう。どうやらその小娘は自分が坊主を描きたいと言いたいようだ」
  「――そうなの?」
  ライダーの言い分を聞きながら、僕はこの子に聞いてみた。正直、女の子が何を言いたいのかさっぱり判らない僕にはライダーの言ってることが本当かどうか確かめる材料すらない。
  頼りない自分を意識してしまうと、女の子は大きく頷いた。
  「ならば坊主、お前が小娘を描けば万事解決だ。余はこの絵を完成させるぞ」
  「なぁマーサ。わし等はお互いを描くとするかね」
  「そうですねえ――。お絵描きなんていつ以来かしら、何だか楽しくなってきたわ」
  いつの間にかはマッケンジー宅にいる全員が集まっていた一つの机を囲んでいた。机の大きさは五人が囲むには少し小さかったけど、つめれば出来ない広さでもない。
  女の子の意思を確かめるべくやり始めた事だけど、結局やってる事は遊戯以上の域を出ない。
  女の子は紺の色鉛筆を紙の上で踊らせて、ぐりぐりと丸い塊を作り出す。あれはもしかして僕の顔のつもりなんだろうか。ライダーは赤の色鉛筆で髪の毛と顎ひげとマントを塗っていて、ライダーの雄々しさをより強く表現していた。
  マッケンジー夫妻は向き合った状態で相手の顔を描いているが、その進みは遅く、むしろ同じ場所で同じことをして同じ雰囲気を楽しんでいるようだった。
  仕方なく僕も隣に座る女の子の絵を描く為に色鉛筆を手に取る。紺色は使われていたから、とりあえず紫の色鉛筆で髪の毛を描いていく。
  白い紙の三分の一ぐらいが紫色の線で埋まった時、不意に僕は女の子を何と呼べばいいのか考えた。
  言葉でも文字でも意思疎通を行えなかったので、僕はこの子の名前を知らない。何と呼べばいいのか判らないのは困る。
  今のマッケンジー宅の中ならほかに子供がいないから『この子』で通用するけど、名前は魔術に限らず普通の生活でも重要な事柄だ。たとえそれが仮に名付けられたものであっても、そこに意味が生じる。
  名前とは存在の証明。そして自分と他人を区別する。
  魔術においても、相手の名を知らなければ結べない契約は数多い。
  だけど、この子が記憶喪失だったとしたら、本当の名前がある。そうなれば仮の名と言えども、別の名前で呼ぶのは気が引けた。
  「どうした坊主、手が止まっているではないか」
  髪の毛と顎ひげの部分を真っ赤に染めて、赤いマントを描いてるライダーが言ってきた。
  「いや。この子をなんて呼べばいいのかな、って思ってさ・・・」
  「ふむ・・・そいつは中々難しい問いかけだな」
  マントを赤く塗るのを途中で止めてライダーた言う。そして紙に書かれた赤い顎ひげと同じ部分に手を当て『うーむ』と唸った。
  ライダーが何か妙案を出してくるのかな? すると、僕がそう考えるのとほぼ同時でライダーが『おおっ!』と声をあげた。
  二秒も経ってない。妙案を思いつくにしても早すぎない?
  ライダーは今まで描いていた自画像を裏返しにすると、何も書いていない無地の部分に大きく何かを描き始める。
  持っていた赤の色鉛筆が上から下まで余すことなく動いてある文字を完成させた。
  「見よ、小娘! これが余の名だ!!」
  前に突き出した紙には大きな文字で『イスカンダル』と片仮名で書かれていた。
  「お、おい・・・」
  「アレクセイさん、その名前は?」
  「うむ、余がこの衣装をまとっていた時に雄々しく名乗る名だ。どうだ、見事であろう」
  そう言いながらライダーは紙を回転させて、書きかけだけど『征服王イスカンダル』の威風堂々とした様子を見せつけた。
  マスターあるいはサーヴァントなら、一度見れば忘れられないその姿。ただ、マッケンジーさんにとっては何の事か判らないので、『アレクセイ』と『イスカンダル』は繋がらない。
  これが切っ掛けでライダーの正体を怪しむんじゃないだろうか? 『アレクセイ』が偽名だとばれるんじゃないだろうか? 僕が不安に心を蝕まれていると、マッケンジーさんは口の形を『あ』にした。
  「ああ。演劇か何かの役柄ですか――」
  「そう思ってよい」
  どうやら聖杯戦争とは無関係に自分なりの答えを出したようだ。ライダーがもう一度紙を回転させて『イスカンダル』の文字を見せつけた時にはもう、マッケンジーさんの顔から疑心は消えていた。
  とりあえず一安心。
  改めてライダーが書いた『イスカンダル』を見ると、どうやったら細い鉛筆でそんなに太い文字が書けるのかと疑ってしまう堂々とした文字があって、裏面にある絵の壮大さと合わせるとライダーが倉庫街の戦いに乱入した時の宣言を思い出してしまう。


  「我が名は征服王イスカンダル。此度の聖杯戦争においてはライダーのクラスを得て現界した」


  秘する名は無く、何者であろうと我が覇道を貫き通す。
  今は偽りの名『アレクセイ』で通しているが、あの威風堂々たる王の姿を思い出すには『イスカンダル』と書かれて紙一枚でも十分すぎる。
  今となっては懐かしさすら覚えてしまうあの顛末を思い出していると、マッケンジー夫妻はライダーが何をやりたいか察したようで、同じように紙を裏返して何か書き始めた。
  僕はライダーが何をしたいのか、そして二人が何をしようとしているのかも判らない。すると二人はそれぞれ『グレン』、そして『マーサ』と書かれた絵を掲げ、ライダーと同じように自分の前に持って行った。
  まるで、これが私の名前だ。と言わんばかりに―――。
  そこでようやく僕はライダーの意図に気付く。要するに自分の名前を文字で表して、紹介しているだけだ。
  大きな文字で書けば子供でも読みやすい。女の子が片仮名を理解しているかは判らなくても、言っている事は通じているのだから、書かれた文字が各々の名前だと理解できるはずだ。
  唯一残された僕は遅れないように急いで紫色の線しか書けてなかった紙を裏返す。そして『ウェイバー』と書いた。
  思わず、『イスカンダル』につられて『ベルベット』と続けて書きそうになったので、慌てて紙を前に突き出して誤魔化した。本来、この場では『ウェイバー』の後には『マッケンジー』と続けるのが正しい、名前を間違えるなんて簡単なミスでマッケンジー夫妻に掛けた暗示が解けたらあまりにもひどい。
  失敗しそうになった状況を誤魔化そうと力強く紙を前に出して掲げると、女の子が机の上に乗り出して僕が突き出す紙を覗きこむ。
  「ウェイバー、これが僕の名前だ。君の名前は?」
  問いかけると、女の子は皆が突き出した紙に書かれた文字を一つずつゆっくり追った。
  『イスカンダル』『グレン』『マーサ』。一つ一つを見回して僕が書いた『ウェイバー』に戻ってくると、そこでようやく納得したようで、新しい紙に何やら文字を書き始める。
  大人がやっている事に自分も仲間入りできるのが嬉しいのか、いつも表情を重くしていた女の子が少しだけ笑みを作り出しながら、紙に何かを書いていく。
  そして僕らと同じように紙を前に出して、よく判らないモノを見せつけた。
  そこに書かれた文字は下手を通り越して最早暗号にしか見えない。
  辛うじて文字の体裁を整えていて、僕でも解読できた文字はたった二つ。『ン』と『サ』だ。これ以外にも文字見たいな絵みたいな落書きみたいなよく判らないモノが書かれていたけど、解読できなかった。
  この二文字の順番を逆にすれば一つの言葉になる。
  「サ、ン?」
  僕がそう言うと、女の子は少しだけ笑顔を浮かべて頷いた。
  『サン』、呼び名をそのまま英語に置き換えると太陽を意味する『SUN』になる。それがこの子の本当の名前なのか、それとも自分が言い表したい単語をただ文字にしただけなのか僕には判断できない。
  でも女の子はまた新しい紙を取り出して、そこに『サン』と書いて僕らと同じように前に突き出した。これが私の名前! とでも言わんばかりに。
  「へぇ・・・、中々立派に書けてるじゃないか」
  「そうですねぇ。元気があって、いい名前・・・」
  それを見てマッケンジー夫妻が女の子の名前だと想像しても不思議はない。僕だってそう思う。
  この国では『サン』と聞けば『三』と数字を考えてしまうけれど、キリスト教の聖人『サン・モーリス』のように『サン』は時に人の名前に用いられる。
  「小娘。余はこれよりお主を『サン』と呼ぶが、それでもよいか」
  ライダーも同意して、女の子も『サン』と呼ばれるのを嫌がってないので、それが女の子の名前なんだと決定する空気が流れ始めた。
  僕は女の子の口から直接聞いた訳じゃないけど、嫌がって無いならそれでもいいかと思い始める。
  もし別に本当の名前があるなら、その時に考えればいい。そんな風にも思って、それ以上深くは考えず、女の子の名前は『サン』なのだと確定させた。





  僕は後になってこの時の事を何度も思い出す。
  あの子は間違いなく自分の名前を―――自分の正体を―――自分が何者であるかを書こうとした。
  ライダーは気付いていたんだろう。気付いたうえで、あえて僕が読み取れなかった部分を無視したんだろう。
  ただ僕が気付いていなかっただけなんだ。
  この時、気付いていれば何かが変わったかもしれない。
  あの子が書こうとした文字は『ン』と『サ』だけじゃなかった。
  『シ』
  『ア』
  『ハ』
  残った三つの文字も書こうとしてうまく描けず、僕の浅はかさがそれを文字と認識しなかった。
  あの子は見せられた四人分の名前の中から、耳で聞いた音を自分を表す単語から選び出して文字にした。それがたまたま『ン』と『サ』の二文字だった。
  もし片仮名そのものを全て知っていたとしたら、『シ』と『ン』はよく似ているから、最初から知っていれば『シ』を書けない筈はないと気付けた。
  でも僕はその事実を考えないようにして読めない部分を除外してしまった。
  四人分の名前の中から合致した二文字、無かった三文字。
  五つの片仮名を増やして並びかえると、ある二つの単語が浮かんでくる。
  『ア』『サ』『シ』『ン』。
  『ハ』『サ』『ン』。
  それは僕がよく知る聖杯戦争に召喚されるサーヴァントの名前。あるサーヴァントの真名。あの子が何者なのかを表すこれ以上ない言葉だった。
  気付こうと思えば、気付けた筈―――。あの子がどこの誰なのか、僕はここで判った筈なんだ。
  でも僕は・・・・・・。





  あの子、女の子、小娘。色々と呼ばれていたけど、とりあえず仮の名前として『サン』と呼ぶことで一応の決着を見た。
  マッケンジー夫妻の本当の孫は僕と同じ男だし、孫の父、つまりはマッケンジー夫妻にとっての息子もまた男だ。
  一時的に保護しているだけなんだけど、それでも小さな女の子が家の中にいるのが余程嬉しいのか、あるいは新しい刺激に飢えていたのか。僕よりもライダーよりもマッケンジー夫妻がサンを構い始めた。
  『サンちゃん』と優しく語りかけるようになったのは自然な流れ、温和な老夫婦に見えたのだけれど、いつの間にか活力というか若さを取り戻して行動的になってる。
  当然ながら男所帯で小さな女の子の姿など全くなかったマッケンジー宅に女の子の着替えがある筈ない。今は白いワンピースの上にマッケンジー夫人の服を羽織っただけの恰好で、着飾るとは言い難い。
  僕はそれでも十分だと思ったんだけど、マッケンジー夫人は強く言い切った。
  「たとえ幾つになっても女はちゃんと着飾る義務があるのよ。そうだ、折角だから一緒に買い物に出かけましょ」
  その時のマッケンジー夫人はすでに老齢にさしかかって孫もいるとは思えないほど若々しく、僕は思わず『マーサさん』と呼び、女傑を前に平伏しそうな気持ちになった。
  もちろん、そんな事態は起こらなかったのだけれど。
  そこからの展開は流れるように通り過ぎ、マッケンジー夫人はすぐに夫を抱き込んで味方を増やすと、どこからか女性ファッション雑誌を持って来て、一枚一枚ページをめくりながら丁寧に説明し始めた。
  「男はね、女が綺麗になると嬉しい生き物なのよ」
  とか。
  「サンちゃんも女だったら綺麗になりたいって思うわ、これは女の本能なの」
  とか。
  「恐い世の中になったからこそ、綺麗でいなきゃねぇ」
  とか。色々教えているのか、それとも洗脳してるのか判断がつけ辛い不穏な言葉を耳打ちしている。当然の話だが、サンが僕から離れたがらないので、すぐ近くで僕もその話を聞かされた。
  そしてあっという間に出かける準備は整えられ、総出で外出する事になった。
  アサシンが健在だと知れた今、マスターの視点からは拠点から出て敵に見つかる事態は出来るだけ避けたい。しかし、サンがどこの誰で探している人がいるなら戻してあげたいと思っているので、昼間の外出は外せない。
 それに王の軍勢アイオニオン・ヘタイロイを目撃した時から胸の中でくすぶっている思いもある。
  女の子の服を買いに行く用事のついでに本屋に行く予定を立てながら、僕らは総勢五人のグループとなって外に出かけた。
  そして冬木新都にある繁華街に到着したところで後悔した。
  「うむ。やはり異郷の市場をひやかす愉しみは戦の興奮に勝るとも劣らぬ」
  ライダーが外出したがっていたのは召喚してからずっと知っていた。だから頭二つか三つ分ほど大きな位置から周囲を楽しげを見渡すライダーを見ると騒動を引き起こす予感しかしなかった。
  未遠川の水を汲んでくる時とか、聖杯問答の為に酒を手に入れた時とか、外出するのはこれが初めてじゃないけど。初めて訪れる場所の様に喜色満面だ。
  「ライダー、判ってるのか?」
  「うむ」
  「僕らはサンの服を買いに来たんだぞ」
  「うむ、うむ」
  「アーケードからは絶対に出るなよ、今の僕らの守りはお前だけなんだからな」
  「言われんでも分かっとるわ」
  ライダーは聞いているのかいないのか、周囲を見つめるその目がギラギラと光り輝いている。
  周囲の酒屋やら玩具屋やらゲームセンターやら関西風お好み焼きショップやらに興味津々なんだろう。
  耳は間違いなく僕の言葉を聞いてるんだろうけど、意識は周囲に広がってる。多分、僕の言う事を聞いても理解してない。
  「・・・・・・・・・征服も略奪するなよ」
  「えっ?」
  小さく呟いたけどライダーはしっかり聞いていた。今まで他に向けていた目が初めて僕に向く。
  「『え?』じゃない。万引きも、無銭飲食も、一切無し。欲しいものがあったらきちんと金を払え」
  怒鳴りつければそれだけ周りの目を集めてしまう。ライダーの巨躯でもう注目の的になっている気もしたけど、これ以上目立ちたくないので、出来るだけ声を潜めた。
  そしてライダーの手に分割しておいた軍資金の一部が入った財布を渡す。
  これは一か所に軍資金をまとめてライダーに見つかったらあっという間に散財されてしまう危険があるので対策を打った成果だ。ライダーが今も着てる『アドミラブル大戦略Ⅳ』のタイトルロゴと世界地図が絡まったXLサイズの半袖プリントシャツを通販で勝手に購入したのがいい証拠だ。
  「心配するな。マケドニアの礼儀作法はどこの宮廷でも文明人として通用したのだぞ」
  現代の日本で生活する者が聞けば何のことか判らないと首をかしげる事を堂々と言い放つ。すぐ近くにいるマッケンジー夫妻に聞かれてないといいなと願ってると、ライダーは財布を手に鼻息荒く買い物客の波へと紛れ込んでしまった。
  他の買い物客と比べても頭一つ分飛びぬけている巨漢は見つけ易いが、遠ざかっていく背中を見ながらあのライダーが何か騒ぎを起こすんじゃないかと気が気じゃない。でもライダーの異文化に対する適応能力が桁外れに高いと判ってもいるから、不安と信用は丁度半分ずつ。
  マッケンジー夫妻を懐柔した『アレクセイさん』がその証明だ。
  渡した財布には残った軍資金の半分近くが入っていて、消耗は痛手だ。それでもライダーが騒ぎを起こさない代償なら仕方ないと諦める。
  あっちがあっちで好きにやってるなら、こっちはこっちで目的を果たすだけだ。
  「それじゃあ、ウェイバー。服屋に行こうかね」
  「あ、お爺さん。その前にちょっと本屋に寄っていい? 二分もかからないから」
  「そうかい? それじゃあ少し待ってようかね」
  出来れば僕は一人で本屋に向かいたかったんだけど、相変わらずサンは僕から離れたがらず、徒歩でしがみつくのが無理の場合は服の一部や手を握ったままだった。
  僕が本屋に行けば必ずサンはついて来る、サンが来ればマッケンジー夫妻二人も当然ついて来るので、目当ての本を立ち読みして情報のみを手に入れる手段は選べない。
  本を手にすれば時間を忘れるのは僕が幼い頃から変わってない気質で、文章を読み解いて把握する能力については誰にも負けない自負がある。それでも数分で一つの一冊を読み終えるのはさすがの僕も不可能だ。
  仕方なくサンを引き連れた状態で本屋に入り、目当ての本を探した。
  冬木市は外来住民の多い土地柄のためか、洋書コーナーは思った以上の品ぞろえで、探していた本は比較的簡単に見つかった。すぐに速読して中身に目を通したい衝動に駆られるけど、ここで時間を潰しても得られるものは何もない。
  一人だったらそれでも良かったけど、今は文字通り『張り付いてる』サンがいて、本屋の外にはマッケンジー夫妻が待ってる。もし立ち読みを始めればマッケンジー夫妻がいつまでも出てこない僕を心配して探しに来るのがはっきりわかる。
  それに『少女にしがみ付かれた状態で立ち読みする男』なんてのは周囲の目を集めるのに十分すぎる。折角、ライダーと離れて群衆の中に埋もれられたのに目立ちたくない。
  本に没頭して時間を忘れるのは今じゃなくてもいい。そう思いながら、僕は表紙に『ALEXANDER THE GREAT』と書かれた本を手にとってパラパラとめくる。
  ほんの少しだけ内容を頭の中に入れて、汚れやページの損失が無いのを確認した。



  ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆



  Side - 衛宮切嗣





  アイリからの連絡を受けた時、僕は聖杯戦争が始まってから最も大きな衝撃を受けた。
  魔術師としての僕の実力は決して高いとは言えない、だが『魔術師の裏をかく』に特化した僕の戦い方は聖杯戦争に関わる誰よりも秀でていると自負がある。衛宮切嗣という機械を客観的に評価した場合も結果は変わらない。
  だからこそ万全の注意を払い準備した新しい拠点が発見されるのは僕の予想の上を行った。
  アインツベルンの森は見張られていだろうたけど、移動する間に全てを振り切るか排除して新しい拠点は誰にも知られなかった。使い魔はおろかアサシンの監視もない。その上、事前に購入しておいた拠点の下準備は全て舞弥が行い、僕との間にも接点はなかった。
  時間が経てばいつかは気付かれてしまうと判っていたけど、それでもまだ時間がある。その見通しが僅か数時間で崩されてしまう。
  カイエン・ガラモンドと名乗った男が何者なのかは分からず、ライダー陣営に協力しながら、間桐にも関わりがある。これで『間桐に協力している組織』と全く関わりが無い筈はない。
  監督役の言峰璃正が聖堂教会の者として間桐を調べ、その上でぶつかり合って消耗する状況を予測したが、まだ聖堂教会すら表立った成果を出していないようだ。
  認めるしかない。この組織は僕どころか聖杯戦争に関わる全ての者たちを上回っている。
  僕は電話で応対しながら平静を装い、『わかった、新しい方針を決めるまで少し時間をくれ、こちらから電話する――』と電話の向こう側にいるアイリに言えたけど、衛宮切嗣という一つの機械が破綻しそうな動揺が渦巻いているのも認めた。
  客観的に自分を判断できるのでまだ衛宮切嗣の性能は発揮されたままだが、僕の上をいく存在を相手にするなら僕だけの力では足りない。
  そもそも僕はまだ倒すべき敵が誰なのかすら把握していない。もしこの組織の規模が聖堂教会や魔術協会に匹敵するのならば、僕と舞弥だけで対処するのは不可能。首謀者を殺して動きが止まる組織でなかったとしたら、一人や二人始末しても意味はない。
  この状況で僕が選ぶべき戦略は撤退だ。
  戦いを一旦中断し、情報収集を綿密に行い、倒すべき敵の規模と殺すべき相手が誰であるかを見定めなければならない。しかし、それは聖杯戦争の縛りが無ければの場合に限る。
  僕は聖杯を手に入れなくちゃいけない。アイリを犠牲にして戦い、イリヤを残したまま―――。何としてでも結果を手に入れなくちゃいけない。
  何をしてでも、聖杯で世界を救う。
  だから僕は賭けに出る。
  程度はどうあれ、アインツベルンに雇われる以前の『衛宮切嗣』と比較して今の僕は衰えている。だからこそ往年の冷酷さと判断力を取り戻さなくてはならなかった。
  全ての命を等価として計り、常により犠牲の少ない道を選択する。小を殺し、大を生かす。たった一人の命で地球に生きる全ての人間の命が救えるのならば、僕はその『たった一人の命』を切り捨てよう。そのたった一人の名がアイリスフィール・フォン・アインツベルンだとしてもだ。
  そう考えた時、僕は喪うモノなど何もないかつての自分を意識出来た。妻も娘もなく。痛みを感じる心すら無く。ただの暗殺者であり殺人機械でしかなかった『衛宮切嗣』が戻ってきた。
  僕だけど僕じゃない『衛宮切嗣』は考える。
  間桐に協力する組織があると判明してから、僕は下準備で用意した手段とは別の方法を探し求めた。そして拠点とは別の場所に用意しておいたある仕掛けを更に増強する事にした。
 この手段は不確定要素が多く絡むので使いたくはない方法だったが、適切な状況ならば、物理的な威力はケイネスの拠点を破壊した爆破解体デモリッンョンを上回る。ライフルによる遠距離狙撃より確実性は低いが、破壊力および広範囲での攻撃を重視した。
  同時に威力の増強だけではなく、数を増やして別々の場所を攻撃できる準備も整える。
  短時間で準備を整える為にばらまいた金は多く。アインツベルンが聖杯戦争の為に用意した金、そして僕個人の蓄えの大部分を浪費してようやく形になった。普通ならもっと格安で手に入れられる品も、時間短縮を優先した為に倍額以上が必要になってしまったからだ。
  当然、貯蓄は大きく削られ、今後の行動にも支障は出る。
  しかし重要なのは聖杯戦争で勝者となり聖杯を手に入れる未来だ。『聖杯戦争のその後』を考えるより目の前にある現実に持てる力の全てを集約させる。
  僕は携帯電話を手に取り、かかって来たアイリの番号とは別の番号を打ち込む。
  耳に当てれば聞こえるコールは一回限り。
  「――はい」
  「舞弥、アイリ達をランサーの位置まで誘導しろ。こちらは例の仕掛けを発動させる」
  「了解しました」
  ほんの僅かな逡巡すら無い肯定。五秒もかからずに通話は終わり、携帯電話からは通話が終わった無機質な音が鳴る。僕は耳から携帯電話を離して『仕掛け』を発動させる為の準備を進める。



  ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆



  Side - ゴゴ





  蟲蔵の中では阿鼻叫喚の様子が作り出されていた。
  「ああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!」
  悲鳴をあげ、紅い血を噴き出し、涙を流し、恐怖のあまり小便と糞便をまき散らす。たった一人の子供によって惨劇は作り出される。
  その子供―――士郎を痛めつけているのはマッシュとエドガーのフィガロ兄弟で、片方は『オートボウガン』『ドリル』『回転のこぎり』などの機械を使い、もう片方は鍛えられた腕力と技術によって士郎の体を破壊していた。
  骨の折れる音がする。
  皮膚が避ける音がする。
  紅い血が床を汚す。
  士郎の肉片がボトリと落ちる。
  絶叫は止まらず、攻撃も止まらない。
  殺される、殺される。
  死ぬ。
  痛みは止まらず、殺意も止まらない。
  死ぬ、死ぬ、死ぬ。
  死ぬ、死ぬ、死ぬ、死ぬ、死ぬ、死ぬ、死ぬ、死ぬ、死ぬ、死ぬ、死ぬ、死ぬ、死ぬ、死ぬ、死ぬ、死ぬ、死ぬ、死ぬ、死ぬ、死ぬ、死ぬ、死ぬ、死ぬ、死ぬ、死ぬ、死ぬ、死ぬ、死ぬ、死ぬ、死ぬ。





  という幻覚を士郎は見ている筈。
  エドガーが『回転のこぎり』で斬りかかろうとする直前、離れた位置にいたセリスがステータスを混乱にする魔法『コンフェ』をかけたのだ。
  士郎は自分を殺そうとするエドガーとマッシュしか見てなかったので。セリスが何をするか全く理解できていない。
  酷い痛みを味わっているように思ってるだろうが、実際には何も起こってない。魔法がかかると同時に蟲蔵の床に寝かされ、覚めない悪夢の中で自分を傷つけている。
  それだけだ。
  痛みも。
  苦痛も。
  鮮血も。
  嘆きも。
  骨折も。
  切断も。
  破壊も。
  死の恐怖も。
  全ては士郎の頭の中だけにある幻に過ぎない。
  「あ、あ、あ、あああああ!!」
  だけど士郎はそれに気付かない。
  ただただ痛くて辛くて苦しくて殺されそうな状況に恐怖して叫び続けるだけだ。
  魔術師の観点で見れば、これは拷問ですら無い。精神面に酷いダメージを負ってるだろうが、この程度ならキャスターに殺されかけるよりも数倍マシだ。
  ほんの少しだけ自分を殴ったり蹴ったりつねったりすれば、それだけで幻から脱出出来る。開放されれば何も起こってない事実を目の当たりにして、すぐに落ち着きを取り戻すだろう。
  悪夢と一緒だ。
  夢は覚める。混乱もまた覚めてしまう。
  本当に拷問するなら、マッシュの技をかけてすぐに回復魔法で治し、エドガーの機械で攻撃して回復魔法で治し、傷つき治すサイクルを何度も何度も何度も何度も繰り返す。
  それをやらないのは、士郎があまりにも弱すぎて手加減が難しいのと、血生臭い手段とは別にこういう事もあるのだと桜ちゃんに教える意味がある。
  桜ちゃんなら判る筈だ。
  雁夜がゴゴと修行している時はこんな軽いモノじゃなかった。雁夜が負った痛みは頭の中だけにある幻覚程度の生易しいものではなく、時に本当に死んでしまう事もある壮絶なものだった。
  もし間桐臓硯が健在で、ゴゴが来る以前に行われていた蟲蔵での教育が続行されていたら、今、士郎が味わっている痛みよりもっと壮絶な扱いを受ける羽目になったと判る筈。
  ありえたかもしれない可能性、『もしかしたら』は実際に起こるかもしれない事実だ。
  魔術に関わるのならば、士郎のようになるかもしれない、雁夜のように修行の段階で大きな痛みを伴うかもしれない。
  もっと酷い事を見たり聞いたり味わったりしなければならないかもしれない。
  本来ならマッシュもエドガーもセリスもこんな子供の精神を痛めつけるような事は決してやらない。ゴゴにとって物真似している誰かがやらない事をやるのは、その当人への侮辱だ。
  これは最早、物真似ではない―――。
  それでも。だが、それでも『桜ちゃんを救う』ために、魔術に関わるのならばこういう事が普通に起こる、と教えておかなければならない。
  魔術は単なる手段であり、それを使う者の価値観によってどんな形にも変化する。
  誰かを守る魔術にもなるし。
  誰かを傷つける魔術にもなるし。
  誰かを不幸にする魔術にもなるし。
  誰かを幸せにする魔術にもなるし。
  誰かを殺す魔術にもなる。
  「ひどい・・・」
  「そうね、私達は年端もいかない子供を傷つけてる。とても酷い大人だわ」
  桜ちゃんの呟きに抱きしめたままのセリスが返す。
  「でもね、桜ちゃん。魔術に関わるなら、この位は普通に起こることだって知っておかなきゃいけないのよ。この世界には楽しい事も優しい事もある。だけど同じぐらい辛い事も苦しい事もある。もしあの子がゴゴとの約束を守ってくれたら、私達だってこんな事はしなかったわ。あの子は自分から痛い思いをする場所に踏み込んだの。これは『知らなかったからごめんなさい』で済む簡単な問題じゃないの」
  「・・・・・・・・・」
  「私達はこれからあの子のせいで大変な思いをするわ・・・。お返しをする私達はひどい大人。そして、あの子も約束を破ったひどい子ね」
  セリスが言い終えると、士郎がまた蟲蔵の床の上で悶絶する。
  また悲鳴があがった。





  マッシュの姿をした別人。
  エドガーの姿をした別人。
  セリスの姿をした別人。
  彼らがもし同じ状況に陥ったなら、『桜ちゃんを救う』物真似をしているゴゴと違って、士郎の仕出かした罪を許しただろう。敵と戦うのは仕方ないとしても、関わり合いになっただけの子供に精神的な拷問するなんて手段は決してとらない。
  結局、姿形を物真似しようと、ゴゴは彼らの姿を借りただけの別人であり、人格や心まで物真似出来た訳ではない。限りなく彼らに近づける事は出来るけれども、その本質はものまね士ゴゴから変わらない。
  そう―――所詮、ものまね士ゴゴに出来る事は物真似でしかない。彼ら自身になれる訳ではないのだ。
  蟲蔵でやっている事が間違っていると理解しながら、ものまね士ゴゴはそれが『桜ちゃんを救う』に繋がる道だと信じて過ちを続ける。
  救済とは成長だ。桜ちゃんが一人で生きていけるような心と力を得るのが真の救いだ。
  その為に多くの体験が必要不可欠になる。言葉だけでは教えられない真実が桜ちゃんを救っていく。
  これは物真似だ。だけど物真似を侮辱する行為だ。
  「・・・・・・くそっ!」
  唯一蟲蔵に行かなかったロックは間桐邸の二階から外を見下ろし、人知れず苛立ちを言葉にした。
  全員で蟲蔵に行ってもよかったのだが、分裂したゴゴの自意識が精神的な拷問などしたくない部分としてロックの意識に干渉したのだろう。
  自分が今、ここにいる意味を考えながらロックはぼんやりと外を見る。
  雁夜の近くにはティナがいて、桜ちゃんの近くにはセリス達がいる。士郎一家の来訪によって遊びの時間が中断されてしまい、手持ち無沙汰になったし、何もせずに一人になりたい気持ちもあった。
  「ふぅ・・・」
  吐き出したため息は重く、調子が良いとは言えない。
  敵が襲いかかってくれば万全の体調で迎えうてる自信はあるけれど、ロックとして戦うやる気が落ち込んでいるのがすぐに判った。
  戦いになれば相手が誰であろうと勝てる。だが、ものまね士ゴゴが物真似に疑問を抱けば、そこで意欲は落ち込んでいく。
  殺すつもりは全くないし、あまりやり過ぎると体は無事でも子供の心が壊れてしまう。まだ混乱の魔法『コンフェ』を士郎にかけて三分も経ってないが、もう潮時だ。
  これ以上、自分で自分の物真似を汚したくない―――。願いすら含んだ想いの中で結論を出しながら、もう一度外を見る。
  少し雲があるが、晴天と言っても問題ない良い天気だ。
  キャスターのマスターである雨竜龍之介の連続誘拐殺人事件が無ければ、外で遊ぶ子供たちが沢山いたに違いない。
  そう思っていると、間桐邸の正門を破壊する暴力的な音が鳴り響いた。
  ドンッ! と大きな音が鳴り、ロックは咄嗟に空を見上げていた顔を動かして、音のした方を見下ろす。
  「――こういう手に出るか!!」
  見下ろした先にあるモノ。それは正門を破壊しただけでは終わらず、間桐邸へと向かってきた。



  ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆



  Side - ウェイバー・ベルベット





  眠っていた時に聞いたマッケンジー夫人の叫び声やサンの事、他に考えることが色々あったので今の今まで忘れていたけど、聖杯問答を終えた夜、ほんの一瞬だったけど僕は夢を見た。
  その時見えた光景を決して忘れられず。夢だと理解しながら、それでもあの光景を鮮明に思いだせる。
 僕が夢で見た景色、それは最果ての海オケアノス―――。
 どうして、あれが最果ての海オケアノスと呼ばれる海だと判るのか?
  打ち寄せる波の音の他には何もない。
  どうして、今まで忘れていたのに鮮明に思い出せるのか?
  大きく広がる海の青さは無限を思わせる。
  どうして、僕は見た事もない海を見ているのか?
 考えれば謎が幾つも湧きあがるけど、忘れようとしても忘れられない『理解』が僕の中に刻まれている。だから思い出せば、すぐに僕の頭の中に最果ての海オケアノスが浮かぶ。
 ただし、最果ての海オケアノスを夢に見ていたのは僕、つまりウェイバー・ベルベットじゃなかった。
  ライダーの目でその光景を見つめていて、僕はライダーと同じ目線でその海を見つめていた。
  でも僕は知っている。ライダーは知っている。征服王が思い描いた見果てぬ夢は叶わなかったのだと知っている。あれはきっと、記憶の中にある情景ではなく、胸に抱いて来た願いそのものなんだ。
  ほんの一瞬しか見えなかったけど、その夢は僕の心の中に強烈に刻みこまれた。
 それはライダーの王の軍勢アイオニオン・ヘタイロイを見た時。魅せられた時の気持ちによく似ていた。
  だから僕は見果てぬ夢を追い続けた王の在り方を―――歩んだ足跡を―――生き様を―――最後を―――、知りたくなった。本屋に行ったのはそれが理由だ。
  僕が知っている『征服王イスカンダル』は少ない。
  人の身でありながら、歴史上、もっとも世界征服に近づいた王だという事ぐらい。
  もちろんそれでも十分すごい偉業なんだけれど、その道中にどんな事があったのか全く知らない。ライダーの史実を詳しく調査したこともなければ、知ろうとしたことも無かった。
  でも今、僕は知りたいと思ってる。
  あんな風になりたい。
  あんな風に生きたい。
  胸に宿る炎は羨望か、共感か、激情か、熱意か、まだ判らないけど。ただ『知りたい』。僕は心の底からそう思ったんだ。
  だから僕はライダーの伝記を買って、征服王イスカンダルが駆け抜けた一生を知りたくなった。ライダーに直接聞いた方が早いとは判っていても、それをやれば僕が『ライダーの姿に心動かされてる』って知られてしまう。
  それは何か恥ずかしい。
  「ほれ! なんと『アドミラブル大戦略Ⅳ』は本日発売であったのだ。しかも初回限定版だぞ!」
  そんな僕の心境の変化なんて全然気付いてないらしく、ライダーは服屋に乗り込んでてきて購入したゲームソフトを嬉しそうに見せびらかしている。
  本屋から服屋へと移動した僕らは、最初の予定通りサンの服を購入する為に子供用の服を探した。
  本屋と同じで外来住民の多い土地柄故か、バリエーションの豊かさは被服の面でも変わらない。あっという間に沢山の子供服が見つかって、そこから小さなファッションショーが始まった。
  モデルは言うまでもなくサン。
  衣装担当は同性のマッケンジー夫人。
  僕は離れたがらないサンを何とか剥がしつつ、試着室の中で待つマッケンジー夫人の方へと連れて行くマネージャーみたいな役目。
  マッケンジーさんは服を交換してどれがいいかを検討する相談役と観客を兼任してる。そこにゲームソフトを買ったライダーが合流して、観客の数が増えた。
  ライダーが合流する前に三回も衣装交換を済ませてるのでこれが四回目だ。
  これまでは花柄がプリントされた厚手の長袖だったり。淡い水色のパーカーだったり。ドット柄でレース衿がついたワンピースだったり。
  僕とライダー、そしてマッケンジーさんは男なので女性の着替えを見る訳にはいかず、試着室の外でサンの着替えを待ってる。
  思いがけずに手に入れてしまった時間。僕は隣に立つライダーに話しかけた。
  「なあ、ライダー・・・」
  「何だ坊主? 小娘といえど女。着飾る時間を待てぬようでは男がすたるぞ」
  「違うっ! そんな事を言いたいんじゃない」
  話し始めるまで僕が心の中でどれだけ決意を鈍らせてたかこいつは判ってない。僕がどれだけ悩んで言おうとしているかをライダーは判ってない。
  まあ、話してないんだから判る筈が無いんだけどさ。
  僕はライダーへの怒りを必死で抑え込み、何度も何度も深呼吸を繰り返してしきり直す。すぐ近くに居るマッケンジーさんに聞こえないように小声で話しかける。
  「お前・・・・・・歴史だとすっげえチビだったってことになってるぞ。それがどうしてそんな馬鹿でかい図体で現界してるんだ?」
  「いきなり何の話だ? 余が矮躯とな?」
  「ペルシアの宮殿をおとしてダレイオス王の玉座に座った時、足が届かなくって踏み台の代わりにテーブルを用意したって記録があるんだよ」
  僕はさっき少しだけ見たライダーの伝記の記述を思い出して言葉にする。
  前後関係を詳しく読んだ訳じゃないけど、『ライダーはダレイオス王に比べて小さかった』って記述は見間違えじゃない。
  でも身長二メートルを超える長身のライダーを見ると、僕にはどうしても小さいなんて思えなかった。もっと小さい僕はどうすればいいのさ。
  「ああ、ダレイオスか! そりゃ仕方ねぇわ」
  そこでライダーが一旦言葉を区切る。
  「いいか坊主、知らんならよく聞け。かの帝王はなぁ、その器量のみならず体躯もまた壮大であった。強壮なるペルシアを統べるにまっこと相応しい大物であったよ」
  ライダーは僕とは別の方を向いて、そこにいる誰かを見上げる姿は様になっている。誰も居ないのに、僕はそこに居る誰かをライダーが見上げている風に見えた。
  ただ、そうなるとライダーの視線の先にある誰かの頭は軽く三メートルを超える。ダレイオス王をライダー以上に知らない僕には今の言葉から想像するしかないけど、もうこれは巨人だ。
  「なんだかすごく納得いかない・・・」
  「それ言ったら、アーサー王なんか女だぞ女。余の体格の逸話なんぞより、よほどタチが悪いわい」
  昔を懐かしみながら気をよくしてるのか、段々とライダーの声がでかくなって近くのマッケンジーさんに聞こえそうで怖い。
  でもライダーはそんな事全く気にしないで話を進める。
  「まぁ要するにだ。何処の誰とも知れんヤツが書き留めたもんなんぞ、当てにならんもんだわい」
  「違ってるなら違ってるで、怒らないのかよ? ――自分の、歴史だってのに」
  最後の問いかけは周囲に聞こえないように小さくしたけど、僕の戸惑いは膨れるばかりだった。
 ライダーの宝具、王の軍勢アイオニオン・ヘタイロイ。あれだけ痛烈な宝具を作り出して、見事な様を見せつける限り、あの猛々しさを間違って伝えるのはおかしいと思う。
  別にライダーの歴史なのだから僕が口出しすべきではないのかもしれないけど、あの有様を見せつけられた一人としては、間違った歴史を間違ったままで残すのは何かが違うと思った。
  そう、例えば、ライダーの覇道は彼が望むままの形で残したいと願う、僕の願望というか何というか。僕自身にもよく判らないもやもやした気持ちが渦巻く。
  「ん? 別に気にすることでもないが。――変か?」
  「いつの時代だって、権力者ってのは、自分の名前を後世に遺そうと思って躍起になるもんだろ」
  「そりゃまぁ、史実に名を刻むというのも、ある種の不死性ではあろうがな。そんな風に本の中の名前ばっかり二千年も永らえる位なら・・・、せめてその百分の一でいい。現身の寿命が欲しかったわい」
  「じゃあ・・・。三十そこそこで死んだって話は・・・・・・」
  「おお。そりゃあ、あっとるな」
  気が付けば僕はライダーと一緒になって周囲にいる人たちが聞こうと思えば聞けるぐらいの大きさで喋っていた。
  ライダーは他人事のように軽々しく言うけど、ライダーの伝記を見る前から征服王イスカンダルが史上最大の帝国を築き上げた偉業は知っていた。そして、僅か三十歳という若さで没した事も知っていた。
  そこにある無念はどれほどのものか。僕なんかには想像できない。
  ライダーは聖杯問答の時に『悔いは無い』って言ってたけど、やっぱり『あれがやりたかった』とか『こうしたかった』って後悔はあるんじゃないだろうか。
  「あと十年あったらなぁ。きっと西方だって遠征できたぞ」
  場を和ますようにライダーが軽口を叩くけど、僕の中にあるもやもやした気持ちはちっとも晴れない。昨夜の聖杯問答でライダーが口にした願望の意味を改めて思い知り、僕が聖杯戦争に挑んだ決意なんか軽く吹き飛ばす重さを考えてしまう。
  僕は何も言う気にならず、ぼんやりとライダーの顔を見上げていた。すると別方向から声が飛んでくる。
  「サンちゃん、次のお披露目よ!」
  気まずい沈黙を吹き飛ばすようなマッケンジー夫人の声が試着室の中から聞こえてきたのだ。
  僕はライダーから視線を外してそっちを見た。試着室のカーテンが取り払われ四度目のファッションショーが行われる。





  結局、十回以上試着を繰り返して、サンが満足いく―――というよりマッケンジー夫人を満足させる服を上下合わせて三着ほど購入した。
  二着はマッケンジー夫人の手にあるが、三着目はサンがそのまま着てる。
  とりあえず服を買う用事は問題なく終わったので後は近くの店で靴を購入すれば、上から下まで一式が揃う。今はマッケンジー宅に合ったサンダルで誤魔化してるので、足元だけが不完全な印象を受けた。
  服の時もそうだけどマッケンジー夫人がサンを嬉々として構うので、購入資金について心配しないのが良い。
  今のサンの恰好は出会った時から着てる白いワンピースに淡い色のカーディガンとズボンを合わせて子供らしくも落ち着いた様子だ。喋れないのを考えなくても、言葉少なめのお淑やかなサンに似合ってる。
  ライダーも『ほほう、中々似合っておるではないか』と褒めていた。
  サンの表情の変化も乏しく、喜んでいるのか、悲しんでいるのか、心苦しいのか、申し訳ないのか判りづらい。でも周囲にいる僕を含めた四人から一斉に褒められて、サンの口元がほんの少しだけ動いたのを僕は見逃さなかった。
  笑おうとして失敗した。僕にはそう見えた。
  喜怒哀楽。人ならば普通に出来る喜んだり、怒ったり、悲しんだり、楽しんだりを、どうすればいいのか判らないように見える時がある。
  ますますサンがどういう生活をしてきて今に至っているのかが判らなくなる。
  父親はいるの?
  母親はいるの?
  兄弟、姉妹はいるの?
  教育は受けているの?
  仲のいい友達はいるの?
  記憶を失っているから色々な事が判らないと一応の説明はつけられるけど、そうなると魔術師の僕に心身医学は専門外だ。
  記憶が失われているのと、僕が出来る魔術で暗示をかけるのとは意味が違う。とりあえず警察にはいかなくても病院には連れて行くべきか―――。
  今後の事を考えながら歩いてると、店の外が騒がしくなってるのに気が付く。耳を澄ませて聞いてみると、聞こえてくるのは悲鳴だった。
  今はまだ真昼間だけど、聖杯戦争がらみで何かが起こった? 僕はまずそう考える。
  だけどランサーが僕らを誘い入れる為に魔力を放出していた感じはしないし、空気中に含まれるマナが乱れた様子もない。見上げればそこにあるライダーの顔にも戦いの雰囲気は全く見られなかった。
  つまり魔力に関わる出来事は何も起こってない。
  そうなると外にいる人たちは魔力とは関係ない何かを体感して悲鳴を上げている。白昼堂々とサーヴァントが襲撃するとは思えないけど、もしかしたら気配を消したアサシンが仕掛けてきたのかもしれない。
  可能性は低いけどアサシンが一般人に見とがめられた、とか?
  「何の騒ぎかねぇ?」
  「お爺さん、お婆さん。ちょっと様子を見てくるからここで待ってて」
  「あ・・・、ウェイバー」
  後ろから聞こえてくるマッケンジー夫人の呼び掛けに答えず、現状を把握する為に僕はライダーと一緒に外に出た。当然ながら腰にしがみついたサンも一緒だ。
  戦いになるならマッケンジー夫妻とは離れて行動しなくちゃいけない。あの二人を巻き込んじゃ駄目だ―――。
  慣れない服に包まれて緊張してるのか、サンは今まで以上に大人しい。ついでにマッケンジー夫人の着せ替え人形になって疲れたらしく、気のせいでなければ服にしがみつく力が少し弱かった。
  急いで外に出た僕らは、アーケード内を爆走し、買い物客を吹き飛ばして進む、信じられないモノを見た。
  あ、これってきっと僕たちへの攻撃だ・・・。



  ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆



  Side - 遠坂時臣





  アーチャーとの連携がなければ、聖杯戦争への参加すら覚束ない。情報戦ではアーチャーの参加は必須事項ではないが、戦いになればサーヴァントの力は欠かせない。
  アーチャーは召喚時に与えられた特殊スキル『単独行動』によって、私の魔力供給を殆ど必要せずに出歩いている。Aランク相当の『単独行動』によって現界の維持はもちろん、戦闘から宝具の使用まで行えてしまう。
  これまでは綺礼のアサシンの情報収集のみに戦いを絞っていたが、ここからはアーチャーの力が必要だ。それもマスターである私からの魔力供給を行った上での十全の力が。
 ライダーの王の軍勢アイオニオン・ヘタイロイを知った今、王の財宝ゲート・オブ・バビロンがあろうとも私の魔力供給なくしてライダーに勝利するのは不可能だ。
  だからこそ私はマスターとして戦場へと馳せ参じる。
  しかし、いきなりライダーの拠点に乗り込んで戦う等、品の無い真似をしてはならない。
  どんな時でも余裕を持って優雅たれ―――それが遠坂に代々伝わる家訓であり、戦いにも品格が求められる。まずは聖杯戦争に無用な騒動を持ち込んだキャスターを討伐する。
  現段階、倉庫街の戦いで令呪を一画失ったが、大きな問題はない。
  遠坂家五代目継承者として、何より一人の魔術師として魔術の秘匿すら行わない無謀な輩をこれ以上のさばらせていく訳にはいかない。令呪を三画揃え直し、全てのサーヴァントを駆逐するのだ。
  そして王がようやく御帰還なされた―――。
  待ちわびた時がようやく訪れ、私は戻られた王を出迎える。
  「お戻りになりましたか、英雄王。早速ではございますが、これより獅子を狩り落としに参ります。共に出陣するお許しを頂けますか?」
  「ふむ、良かろう」
  私の自室に現れたアーチャーは毛皮のファーをあしらったエナメルのジャケットにレザーパンツの現代風の服装から一気に黄金の甲冑へと衣装を変える。
  これまで特殊スキルに物を言わせて好き勝手に物見遊山を繰り返しているアーチャーが、たった一言告げただけで武装を纏った。
  てっきり『そのような些事、野良犬共で争わせておけ』や、それに近い意味の言葉が返ってくるかと思ったので拍子抜けだ。
  「何か英雄王のお気に召されるものがありましたか?」
  言いながらも現代の世界を『度し難いほどに醜悪だ』と切り捨てたアーチャーが関心を示す何かがあるとは思えなかった。
  聖杯問答にてライダーを地に這う虫ではなく聖杯戦争で倒すべき敵だと認識した話は綺礼から聞いている。あるいはそれがアーチャーにやる気を出させているのではないかと思ったが、アーチャーからの返答はそうではなかった。
  「お前は知らずともよい事だ」
  「――そうですか」
  「知った所で時臣、お前には理解できないであろうよ」
  邪悪な笑みを浮かべるアーチャーは楽しげであり、気を良くしているのは誰の目から見ても明らかだ。
  その理由が何であるかを教えず、私への気遣いなど欠片もないその様子に苛立ちを覚えるが、私は表情には出さずに頭を垂れる。
  どんな理由があるにせよアーチャーが戦う気になってくれているのならばそれでよい。
  好き勝手に動き回れる状況を脱し、聖杯戦争のマスターとサーヴァントとして戦いに赴けるのならば小さな理由には目を瞑る。
  「では英雄王、参りましょう」
 「時臣、お前は先に行け。オレは霊体となり後から向かう」
  「はっ」
  アーチャーは私の目の前で黄金の粒子、つまりは霊体へと変化する。姿を消すと同時に黄金の威圧感もまた室内から消えたので、私は握りの頭に特大のルビーを置いた礼装のステッキを手に取った。
  カツン、カツンと足音を響かせながらゆっくりと遠坂邸を歩き、真正面の扉から堂々と外に出る。
  空から降り注ぐ太陽の光は眩しく、扉を開いた瞬間に僅かに目を細めた。
  闇に紛れて出陣するなど優雅とは程遠い。だから私は堂々と―――遠坂家の当主としての風格を持ち、毅然として態度で前に進む。
  敷地の結界は遠坂の魔術に関わる者を攻撃対象にしないので、私は結界の中を堂々と歩く。
  たとえ遠坂邸を見張る使い魔に姿を見られようと、私は真正面から出陣する。いっそ、私の属性である炎の魔術によって遠坂邸を見る下賤な輩の目を全て潰すのもよい。
  可視、不可視問わず、使い魔も魔導機も全て遠坂時臣の出陣を祝う狼煙となるのだ。
  「ふっ・・・」
  臆することなく歩み続ける中、私は今の状況への違和感を感じた。
  確かにアーチャーが言った通り、私の近くにあの黄金のサーヴァントの気配を強く感じる。言った通り、霊体化して傍にいるのだろう。
  だがそれはおかしい。
  アーチャーはアサシンが遠坂邸を襲撃した狂言も、倉庫街での戦いに乱入した時も、単独行動スキルで何の制約もなく出歩ける時も、『秘する』の言葉を知らぬかのように振舞ってきた。
  英雄王ギルガメッシュにとって隠れるなどと言う状況そのものが恥なのだろう。
  だからこそアーチャーは傲岸不遜に誰に見られようとも気にせずに行動してきたが、今はその『秘する』を行っている。
  これは先程思い浮かべたアーチャーの機嫌の良さの理由とは違う、決して無視してはならない異常だ。
  アーチャーがわざわざ霊体化している理由は何だ?
  遠坂邸を監視している使い魔たちに姿を見せない理由は何だ?
  私を先に行かせる理由は何だ?
  この異常はあの機嫌の良さに連なるかもしれない。
  そう思った時、私の足はもうアーチャーがアサシン一体を殺した時に出来たクレーターの近くにまで接近していた。
  庭の結界を作り出す要石はまだ健在なので、まだ私は結界の中にいるが、このまま歩いていけば結果を抜けて戦場へと出る。
  この異常、いや、最早『謎』とでも言うべき事態が解明されるまでは遠坂邸から出るべきではないかもしれない。
  私はアーチャーのマスターであり、令呪によってサーヴァントを従える立場にある。だがアーチャーが私を自分と同列に扱っていないのはどうしようもない事実で、私と並び立つ状況を作りたがらなかった可能性はある。
  だが事はそんな単純か?
  ほんの数秒前までは感じなかった嫌な予感が私の中を駆け巡る、背筋が凍り、この場から一秒でも早く離れろと理由なき直感が囁く。
  結果として『謎』は私の足を止めさせて、広々とした遠坂邸の庭の中に私を立たせた。
  庭の外側にある植え込みの向こう側から何かの物音がしたのは私がしばらく佇んだ後の事だ。
  「――何だ?」
  思わず呟いたその一瞬後。轟音を撒き散らすモノが植え込みを超えてくる。
  それはとてつもなく大きく、だからこそナンバープレートの横にある黒地にオレンジ色で書かれた『危』の標識が私の目に飛び込んでくる。
  真正面から見ると、必ず視界に入る位置に取り付けられているが故だ。
  植え込みを超えて来たモノの正体はタンクローリー・・・。そう考えるより早く、それは私に衝突し、爆発した。



  ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆



  Side - 久宇舞弥





  私は通信する。
  携帯電話を通し、完全なる殺人機械『衛宮切嗣』を構成するパーツの一つとして通信する。


  「遠坂邸、間桐邸、および冬木新都アーケードへの着弾を確認しました」


  「判った。使い魔にそのまま監視させて後で結果を報告しろ。今は廃工場へ向かえ」
  「了解しました」
  私は行動する。
  命令を受けた機械はその通りに行動する。
  たとえその結果に死が待ち構えいようとも、そうなる可能性が高いとしても機械は行動する。
  ただ命令のまま行動する。



[31538] 第30話 『衛宮切嗣は伸るか反るかの大博打を打つ』
Name: マンガ男◆da666e53 ID:6a0d9b18
Date: 2013/05/19 06:10
  第30話 『衛宮切嗣は伸るか反るかの大博打を打つ』



  ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆



  Side - 衛宮切嗣





  僕は聖杯戦争が始まる前。遠隔操作仕様に改造したタンクローリーを一台、隣町の貸しガレージに隠しておいた。
  危険物を運搬する危険物ローリーの中に予め人体にとって有毒の致死性ガス、あるいは可燃性の高いガソリンで満たし、爆薬を搭載すれば都市ゲリラにあつらえ向きの安価な巡航ミサイルの完成だ。
  元々これは冬木市に拠点を構える間桐や遠坂が籠城策を取った場合の切り札の一つとして用意した物だけど、間桐に協力する組織の存在が明るみに出た時点で二手目、三手目の手段として準備を進めてきた。
  たった数日でタンクローリーとそれに積載される危険物を用意するのは必要以上の金銭が必要になり、聖杯戦争の為にアインツベルンが用立てた軍資金はすぐに動かせないので、僕自身の貯えを使って準備を進めた。おかげで聖杯戦争に勝利して終えた後、日々の生活すら出来なくなるのではないかと思える程に貯蓄は減ってしまった。
  でも問題は無い。
  何故なら、僕はこの聖杯戦争で全ての決着をつけ、世界を救うのだ。聖杯によって世界が救われるのならば、その先にある僕自身の生活なんてどうでもいい。
  自暴自棄になっている訳ではなく、聖杯戦争に勝利する為に必要な諸経費ならば惜しみなく使う。
  そして新たに二台のタンクローリーの準備が整い、三台のタンクローリーをそれぞれの敵に向けて発射させた。
  一つはライダーとそのマスターに、一つは遠坂邸の遠坂時臣に、最後の一つは間桐邸の間桐雁夜に向けた。
  僕は常に慎重に慎重を重ねた上で勝利が確定した時点で行動する。文字通り必ず勝つの意味で用いられる必勝を整わせるのが僕のやり方だ。
  そこに正否は関係ない、結果こそが正否を確定させる。
  もちろん、ロード・エルメロイがそうであったように、必勝に状況を近づける為に自ら戦いの場に赴く必要があるならば行う。ただし、それは相手を殺せる状況に必ず持ち込める確証あるいはそれに近い可能性があった場合に限る。
  僕がセイバーの召喚を渋り、アイリに代理マスターを据えたのもそれが原因だ。
  はっきり言って僕の戦い方とセイバーの戦い方は逆と言ってもいい、相性の問題以前に決して交わらない水と油だ。『アーサー・ペンドラゴン』と『衛宮切嗣』の行動理念はどこまで行っても平行線で決して接する事はない。
  あるいは召喚した時にセイバーが史実とまるで異なる暴君だったならば、語り合う機会ぐらいは持てたかもしれないけど、史実をそのまま表すようなあのセイバーでは全く駄目だ。
  そんな僕が一気に敵に対して攻撃を仕掛けたのには幾つかの理由がある。
  まずこれまで飛行宝具で移動していたライダーの所在を掴めなかったが、ある偶然が二つ重なってサーヴァントどころかマスターすらも確認できた事。
  発端は未遠川の岸辺で体を動かすある男の姿を使い魔の目を通して確認した所からだった。
  布に包まれた長物を刀のように振るう姿。アインツベルンの森で行われた聖杯問答でライダー陣営に味方する何者かの情報は得ていたので、その男とライダーに与する何者かを結びつけるのは容易い。
  正直、武力で英霊として召し抱えられているサーヴァント達が問答で聖杯の行方を決定すると言う催しを僕は理解できなかった。
  求める宝は一つ。誰もがそれを欲しているのならば、争いは必然だ。
  だからこそサーヴァント達はマスターの召喚に応じた。言葉を交わした所で結局は戦いで決着をつけるのが目に見えている。何のために聖杯問答など行う? それが僕には理解できない。
  ただし、そこで得た情報によってライダーとそのマスターの拠点を知る手掛かりを得られたのだから僕にとって損は無い。
  発見当初、その男がライダーの協力者ではなく演劇に興じている芸人という可能性を考慮したが、その男から『演じる』とは異なる『本物』の匂いを感じ取った。それは人を殺した者が持つ特有の気配だ。
  使い魔の目を通しても判る、使い魔に取り付けられたCCDカメラ越しでも判る濃密な気配。一般人や人を殺した事の無い凡人には決して判らないけど、僕のように殺人を行う者とそうでない者との一線を越えた者には容易に理解できる違いがそこにあった。
  倒す為か、殺す為か、守る為か、修行の為か。
  理由は様々だろうが、あの男は間違いなく人を殺した経験を持つ。
  僕は使い魔の一匹に命じてその男を常に監視するようにした。この男を追えばこれまで不明だったライダーとそのマスターの拠点が見つかるだろうと考えたからだ。
  しかし使い魔はいきなりその男の姿を見失い、そいつがどこに行ったのか判らなくなった。録画された映像を確認したけど、男はサーヴァントの霊体化の様に消えて行くのを確認するだけだった。
  魔術を使ったかもしれないと予測を立てながら、CCDカメラにはサーモグラフィが装着されてない。だからロード・エルメロイを発見した時の様に熱源でその位置を見破れなかった。
  そこで一旦ライダーとそのマスターへの手かがりは途切れてしまう。まさかその男が僕もいた武家屋敷を訪れていたとは思わなかったけれど・・・。とにかく使い魔はそこでカイエン・ガラモンドと名乗った男を見失う。
  そして『男を監視しろ』と命令した使い魔がふらふらと監視対象を探してあちこちを飛んでいる時―――、何かの因果に導かれるようにライダーの巨躯を発見した。
  僥倖。
  天祐。
  幸運。
  好都合。
  この時の僕の気持ちは戦闘機械としての『衛宮切嗣』が波状してしまいそうな爆発的な何かだった。
  装いを古代マケドニアの戦装束からTシャツとズボンの現代風の恰好に変えているが、その顔と周囲の人間より頭二つ分ほどでかい図体を見間違える筈はない。
  アイリからもたらされた情報によってライダーとそのマスターがアサシンの少女を同行させている事は知っていたので、ウェイバー・ベルベットという名の少年と彼の腰にしがみ付くアサシンも確認できた。
  奴らに間違いない。
  八歳になるイリヤが普通の人間として成長していればあれ位の大きさになるのかもしれない―――アサシンの少女を見た時ほんの僅かな感傷が浮かんできたが、今、考えるべき事ではないと削除する。
  他にも協力者と思わしき老夫婦の姿もあったので、まず奴らの拠点をつきとめるべきだと考えた。だが、同時に拠点の外を出歩いているのならば防御は薄いとも判断した。
 一般人が周囲にいる状況で攻撃を仕掛けてもライダーの戦車チャリオットで逃げられるかもしれない。だが、あれだけ巨大な宝具ならば出現させて乗って飛び去るまでのタイムラグがある。
  それにライダーがタンクローリーの一撃を耐えても、魔術師で人間のマスターには爆風や熱、そしてタンクローリーに搭載された危険物の余波だけでも十分に死を与えられる。
  攻撃を仕掛けるメリットとデメリット。
  拠点を知るまで監視を続けるメリットとデメリット。
  僕はそれらを計算し、今仕掛けるべきだと結論を出した。
  タンクローリーによる攻撃は拠点を破壊するには圧倒的な破壊力を持つ。どれだけ強固な魔力城壁があろうとも、魔術的な結界が張り巡らされていようとも、魔術師の工房は等しく物理的な破壊に弱い傾向を持つ。
  冬木ハイアットホテルにケイネスが作り上げた工房が地上32階から地面へと叩き付けられて跡形もなく崩れ去ったように、だ。
  しかし、タンクローリーで攻撃したと他の陣営に知られてしまえば、物理的防御の強化などで対策を打たれてしまう危険があった。
  サーヴァント自身の耐久力が一定以上であれば、神秘を持たない単なる物理的な攻撃である以上、どれだけ強い攻撃もサーヴァントの守りを突破できない。
  だからタンクローラーの一台をライダーのマスターにぶつけるのならば、残った二台もほぼ同時に使って最大限の効果を発揮するのが望ましい。
  そこで僕は遠坂邸と間桐邸を監視していた使い魔からの情報を統合し、これまで不気味なまでの沈黙を守っていた遠坂邸に動きが合った事と間桐邸に何者かが訪れた事を整理する。
  遠坂についてだが、どうやらアインツベルンの森に大勢で押しかけたアサシンの襲撃を一段落にして、ようやく攻勢に出る算段を立てたようだ。
  タンクローリーを撃ち込むタイミングは遠坂時臣が出撃するその瞬間。遠坂邸の結界を過信し、開けた場所で人の足では逃げ切れない距離でタンクローリーを叩き込む。
  あの黄金のサーヴァントが接近する大型自動車に気付いて破壊する可能性はあるが、サーヴァントがどれだけ優れていようと遠坂時臣は魔術師であり、人間の制約からは決して逃れられない。
  遠坂の結界が空気にまで清浄さを求めていないのは確認しているので、吸い込む息そのものに毒性を持たせて攻撃をしかける。
  ライダーのマスターと一緒だ。
  もちろん、タンクローリーの衝突と爆発も加われば更に遠坂時臣の死の確率は増す。
  そして間桐を訪れた三人については情報が全くないので何者かは判らないままだが、外に面した窓のある部屋―――どうやら間桐邸の応接室と思わしき場所にバーサーカーのマスターである間桐雁夜を確認できた。
  タンクローリーを突っ込ませる箇所が他の二つの拠点よりも明確になり。敵が外に出てくるよりも前に拠点の中にいる油断をついて道路から一直線に突っ込ませる。間桐邸が一番成功率の低い賭けだが、対処されるより前にタンクローリーは使ってしまうべきだ。
  間桐邸に放った使い魔にはサーモグラフィが装備させてあるので、間桐邸のあちこちに協力者と思わしき者達が点在している事も確認された。他の拠点の監視よりも精度を高めたからこそ判った事実を元にして間桐雁夜を一気に殺す。
  拠点から出てアーケードへと出かけているライダーとウェイバー・ベルベットへの攻撃。
  遠坂邸にいる遠坂時臣へ向けての攻撃。
  間桐邸にいる間桐雁夜に向けての攻撃。
  三か所同時攻撃が最も理想だったが、やはりその全てが同時に行えるほど都合よくはいかない。
  ただし、各々の陣営が攻撃されてその方法が伝達されるほど時間が開かなかったのは幸運と言うしかない。同時ではなかったが、得られた結果はそれに匹敵する。
  ここで問題となったのはアイリの為に新しく用意した拠点が他の陣営―――とくにライダーとアサシンに知られてしまった可能性が高くなった事と、セイバーが僕のやり方をすれば間違いなく反発する事だ。
  セイバーはランサーとの決着を優先する為、サーヴァントへの直接対抗手段の無い僕の前にランサーを寄越した愚者だ。もし起源弾を撃ち込んだケイネスに令呪を使ってサーヴァントに命令する余裕が合ったら、奴は間違いなくランサーを差し向け僕の命を取ったに違いない。
  セイバーとランサーの間に騎士道の誓いがあった所で、サーヴァントである以上、令呪の縛りからは逃れられない。
  ランサーがどう思うと、マスターが令呪をもって命じれば僕の命はあの時消えていた。
  セイバーは『自分の掲げる正義』と僕の行動に食い違いが発生した時、サーヴァントでありながら僕の行動を邪魔する危険がある。
  だから拠点から引き離すと同時にランサーの元へと二人を送り届ける役目を舞弥に命じた。
  移動しながら使い魔のコウモリに取り付けたCCDカメラの映像を解析するのは舞弥にとっても困難な作業だったが、舞弥はそれを成し遂げた。今頃はセイバーをランサーの元へと送り届けているだろう。
  駅前の安ホテルでの情報収集を中断するしかない事態に陥ったが、冬木ハイアットホテルを爆破されたランサーとケイネスが新しい拠点に郊外の廃工場を使っているのはすでに調べている。
  起源弾をケイネスに打ち込んだ後、ケイネスの許嫁であるソラウ・ヌァザレ・ソフィアリがランサーと共に行動を開始したのも確認済みだ。どうやらランサーと再契約したようだが『偽臣の書』による代行マスターだったならばソラウを殺してもサーヴァントは健在となる。
  その辺りの調査が不十分だったからこそ攻勢に出なかったが、居場所は判明しているのでセイバーを送り届ける程度ならば問題は無い。むしろ新たなマスターを得たランサーがこちらの監視下を離れて勝手に行動される方が厄介だ。
  ならばセイバーにランサーの足止めをさせ、奴の目が僕に届かないようにする。
  その間に巻き起こしたタンクローリーの破壊はマスターの命を奪うだろう。巻き込まれる一般市民に多少の犠牲は出るが、聖杯によって救われる世界全ての人間の数に比べれば微々たる数だ。
  冬木ハイアットホテルの時のように放火を装って一般人を退避させるような甘いやり方はもうしない。
  そんな隙を見せていては、他のサーヴァント達どころかマスターにも、そして間桐に協力する組織にも逃亡を許してしまう。
  殺すべき時は一気に殺す。
  「・・・・・・・・・」
  僕はスコープの向こう側に見える景色に意識を集中しながら、改めて起こった事実を確認し直して呼吸を落ち着かせる。
  舞弥がセイバーをランサーの元に運んでいる上に、僕もやるべき事があるので三拠点に撃ち込んだタンクローリーの結果はまだ確認していない。
  最も良い結果は三人のマスターが全て死亡し、ライダー、アーチャー、バーサーカーのサーヴァントが全て敗退する事。そしてランサーの元へ向かわせたセイバーがランサーと戦っている隙に舞弥に任せた策が完遂される事だ。
  確認だけなら後でも出来るので、僕はこの場所に移動するのに使った自動車―――ジープ・チェロキーとその死角となった位置で狙撃の為に構える自分を強く意識する。
  「ふぅ・・・」
  常に『必勝』が確定しない限り行動に出ない僕がこんな不確定要素の多い賭けに―――そう、タンクローリーを用いての攻撃とは言いながら、必勝とは到底言い難い賭けに出たのには大きな理由がある。
  その理由がスコープの向こう側にいる男、言峰綺礼だ。
  冬木教会を監視させていた使い魔、その監視映像を調べていた舞弥から、言峰綺礼を発見したと報告が入った。僕はすぐに言峰綺礼を監視の継続を命令し、出来るだけ多くの情報を得る様に務めた。
  しかし暗殺者のサーヴァント、アサシンはまだ健在なのでマスターである言峰綺礼を監視した所で、アサシンに使い魔を発見されて駆逐されてしまうのは目に見えている。
  一縷の望みとでも言うべきか、情報が少なからず得られればいいと思っての監視継続だったが、僕の予想に反して言峰綺礼は周囲の観察を怠り、アサシンにも自分を見る目の排除を行わせなかった。
  まだ言峰綺礼が監督役の父親に匿われている時点で、教会が半壊するほどの何らかの騒動があったのは掴んでいたが、その理由にまでは至れない。もしどこか特定のマスターが言峰綺礼を襲撃したとしたら、聖堂教会への攻撃とみなして監督役がその措置を下すだろう。
  騒動の情報封鎖に乗り出した聖堂教会のスタッフによって、冬木教会は完全に聖堂教会の一拠点と変化した。流石に聖堂教会の手が今まで以上に入った巣窟の中を探るのは不可能だ。
  その上で言峰綺礼が堂々と姿をさらすのもまた予想外だった。言峰綺礼がアサシンのマスターであるのは最早周知の事実であり、アサシンが敗退などしていなかった事もまた知れ渡っている。
  だが監督役は『アサシンが敗退したのでマスターを保護した』と他のマスターの伝達を行っている。ならば最後までその嘘を貫き通す為、言峰綺礼をむしろ自分達の懐に抱え続けなければおかしい。
  言峰綺礼がアサシンのマスターとして存在し続けるのは奴が聖堂教会に申し立てた内容の嘘の証明であり、他の者の目につくのは避けたい事態の筈。
  言峰綺礼を冬木教会の外に出したのは罠か? そう思い言峰綺礼の監視を続けさせたが、夢遊病者の様にふらふらと移動するだけで、使い魔の監視から外れない。
  まるでマスターとしてアサシンに命じるのを忘れてしまったようだ。
  言峰綺礼の不可解さは更に増し、何を思ったのか奴は出て言った筈の教会へと舞い戻った。
  意味が解らない。
  無駄に時間を浪費し、不可解な行動を繰り返している。
  代行者としての奴の経歴を洗ってみたが、奴はこんな無駄な事をする男ではない。むしろ無駄を極限まで排斥して他人の十倍か二十倍の鍛錬を積み重ねてきた異常者だ。
  鍛錬の時間は言うに及ばず、私生活の全てに至るまで無駄など欠片もないに違いない。
  だが今はそれがある。
  父親である言峰璃正に何か用があるのか、やはり罠なのか、それとも僕の予測できない全く別の理由か。不可解な行動に意味を付けられず、次に何を仕出かすか全く予測出来なかった。
  不気味だ―――。
  いつもの僕だったなら、間違いなく手を出さずに撤退する。状況の不確かさはそのまま未知へと繋がっていく。もしその中に僕では対処できない状況が待ち構えていれば、その先にあるのは敗北―――つまりは死だ。
  状況が読めないまま事を進めても不確定要素ばかりが膨れ上がって、機械としての『衛宮切嗣』の許容範囲を超えて波状してしまう。
  それでも僕は狙撃の為に言峰綺礼を補足したこの絶好の機会を逃せば次は無いと思ってしまった。
  言峰綺礼をいつでも狙撃できる状況にある。それが僕に三拠点同時攻撃をも行わせた理由だ。
  アーケードにいるライダーとそのマスター。
  遠坂邸にいるアーチャーとそのマスター。
  間桐邸にいるバーサーカーとそのマスター。
  郊外の廃工場にいるランサーと新しいマスター。
  そして言峰綺礼とアサシン。
  つまり五ヶ所同時攻撃。これは賭け以外の何物でもない。
  普段の僕からじゃ考えられない愚挙だと理解しながら、同時に間桐に協力する組織の力を潜り抜けて聖杯戦争に勝利する為にはどこかで賭けに出るしかないと理解している。
  残る問題はキャスターだけど、アサシンが健在だったと知った今、言峰綺礼は間違いなくキャスターがどこにいて、誰がマスターで、どんな戦い方をしているか僕以上に熟知している筈。冬木教会に匿われていたなら、その情報は監督役であり言峰綺礼の父親でもある言峰璃正の耳にも届いただろう。
  そうなると聖杯戦争によって引き起こされた事件の隠蔽など、円滑に聖杯戦争を遂行するための役割を全うする為に聖堂教会そのものを動かさなければならなくなる。
  仮にそうならないとしても、アイリから聞いたキャスターの情報と僕が集めた情報を統合する限り、セイバーがキャスターを足止めしている間にマスターを暗殺するのはそう難しい話じゃない。
  だから僕は今この手で言峰綺礼を暗殺する―――。
 言峰綺礼の力は強大で、代行者としての直接の戦闘力は僕を上回る。正直固有時制御タイム・アルターを使っても互角の戦いに持ち込むのは難しい。
  それでも奴が人間である事実に変わりはない。意識外からの攻撃にはどうやっても対処できない。
  たとえば、秒速八百メートルで迫るライフルの弾丸を見た後で避けるなど不可能だ。事前予測があれば別だが、視認してから避けられる人間はいない。
  そして今回の狙撃の為に急遽用意したバレットM82はバレット・ファイアーアームズ社が試作した大型セミオート式狙撃銃で、まだ性能や重量など大きな問題はあるが、その破壊力は僕の武装の中でもタンクローリーに次ぐトップクラスで、二キロ先にある人体を上半身と下半身に両断する威力がある。
  残る問題は言峰綺礼を守るアサシンが霊体から実体化して狙撃を防ぐ可能性だ。むしろその可能性は高く、離れ過ぎているので僕には冬木教会に近づいている言峰綺礼の傍に霊体のアサシンがいるか判断できない。
  向こうから見つからない為の超長距離に陣取った弊害だ。
  暗殺者の英霊であり、同時に間諜の英霊であるアサシンが言峰綺礼を守りながら僕の監視に気付いている可能性はもちろんある。だからこそ、これまで攻撃を控えて来たのだけれど、使い魔の監視の目をそのまま放置するのは何か理由がある筈。
  二度目は考えない一撃必殺で僕はその隙を突く。
  多くのアサシンの目が間桐邸と協力している組織に向いている事は確認している。隠密ではなく監視を優先させて使い魔にすら発見されるアサシンの姿を一体だけ間桐邸の近くで確認したからだ。
  ならば言峰綺礼をガードしているアサシンの数は一体か多くて二体。
  冬木教会を狙撃できる位置、一般人の邪魔が入らない狙撃場所、人通りの少ない時間、キャスターのマスターが仕出かした事件で出歩く人の少ない現状。何より言峰綺礼が狙撃できる射線上にいる。
  幾つも重なったチャンスを僕はものにする。僕は賭けに勝ってみせる。
  僕はバレットM82に取り付けられたスコープの向こう側にいる言峰綺礼の後ろ姿を見つめながら、引き金に指をかけた。
  ここで死ね―――言峰綺礼。



  ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆



  Side - 言峰璃正





  間桐臓硯の襲撃によって私は気絶させられ、綺礼もまたかなりの手傷を負った。幸いにして綺礼の治癒魔術で回復可能な容体だったので、私は休息の後に監督役としての責務を再開させる。
  何故、間桐臓硯が冬木教会を襲撃したのかは判らない。まさか私に語り聞かせた言葉が全てではなかろう。『公平を期す監督役が中立を犯した』、一応の理由にはなっているが聖堂教会そのものを敵に回しかねない行動の理由としては弱すぎる。
  聖堂教会と魔術協会は表向きは不可侵となっており、ここまで目立った闘争は行われていない。
  綺礼もまた間桐臓硯の真意は知らぬと答えたので、襲撃に何の意味があったのかは不明のままだ。
  私は生きている。
  聖言によって守られた預託令呪は一角も欠けていない。
  綺礼もまた無傷ではないが私と同様生きている。
  教会の聖堂はほぼ全壊したが、それは戦いの余波によって出来たもので結果そのものではない。
  一体、間桐臓硯は襲撃によって何を得たのか? それは魔術協会からの離反の可能性を含めて、聖堂教会に敵対するほどの価値があるモノだったのか? 何も判らない。
  ただし、間桐臓硯が不可侵地帯である冬木教会を襲ったのは紛れもない事実。これはもはや諫言で済ませられる領域を超えている。
  私は即座に間桐に対する懲罰及び他のマスターへの褒賞を何にするか検討し始めた。
  間桐雁夜がバーサーカーのマスターであるのならば、聖杯戦争の中でのみ完結する形にするのが望ましい。
  間桐はキャスター同様に著しく聖杯戦争の遂行を脅かす危険な存在だ。綺礼からの話しと聖堂教会のスタッフからの話しにより間桐が何らかの組織から援助を受けているのは紛れもない事実。
  一人や二人ならば許容の範囲内かもしれないが、組織となれば『聖杯を求める七人のマスターと、彼らと契約した七騎のサーヴァントがその覇権を競う』、この聖杯戦争の大前提が崩れてしまう。
  聖堂教会がその力を振るうのならば、むしろこの組織にこそ焦点を絞るべきであろう。
  だがここで問題が発生した。
  昨夜の襲撃から私が回復するまでの時間。そして回復してから現状把握に努めて、厄介な状況に陥っている事を再認識するまでにかなりの時間を要してしまった。
  息子の綺礼はアサシンのマスターであり、アサシンはまだ健在だ。綺礼は、聖堂教会による身柄の保護を要求したマスターの立場が崩された結果、再度冬木教会の襲撃が行われる可能性を危惧した。
  自分が居なければ、襲撃する理由は消える。アサシンのマスターが聖堂教会を欺いたと言う一応の理由は作れる。そう言って戦場へと出向いたのだ。
  故に綺礼が再び冬木教会の前に現れた理由が私には判らない。
  アサシンのマスターである自分がここにいれば、間桐だけではなく他の陣営にも付け入る隙を与える。そう言ったのは綺礼自身であり、再びこの場所に戻ってくるとすれば、それは正しくアサシンが敗北したその時の筈。
  間桐と協力する組織をどうすべきか? 綺礼の出現はその考えを吹き飛ばす衝撃的な事実となった。
  今も教会の中にある瓦礫を片づけて元の聖堂へと戻そうとしているスタッフの報告によって、近付いてくる者がいるのは即座に私の耳に入った。それが綺礼だと知った瞬間に間桐への対処は思考の外へと追いやられてしまう。
  綺礼はこれまで実によくやって来た。たった数年のにわか仕込みの魔術師でありながら、敏腕のマスターとしてアサシンを御してきた。大量のアサシンを巨大な諜報組織に変貌させ、遠坂への助勢を行い時臣くんへと聖杯を託すために行動した。
  信仰の為に―――。
  教会の為に―――。
  時臣くんの父であり、我が亡き友との約束の為に―――。
  持ち前の有能さを遺憾無く発揮するその姿。私は綺礼を一人息子として誇りに思う。
  その綺礼が、何故、今になって冬木教会に戻ってきた? それも秘密裏の移動ではなく、他のマスターに見つかる危険を承知の上で真正面から堂々と。
  再び巡り合えた喜びよりも困惑が強い。けれど、聖杯戦争のマスターが教会を訪れたのならば、私は監督役として話を聞く姿勢を示さなければならない。
  間桐臓硯が何と言おうと、私は聖堂教会より派遣された監督役として己が責務を全うするだけだ。
  中心を巨大な塊で撃ち抜かれた両開き戸は今も修復されずに教会の一角に退けてある。おそらく新しい物を発注してつけ直した方が修繕するよりも早い。
  教会の扉は常に開かれているが、あると無いとでは大きく変わってしまう。
  聖堂教会のみならず、教会の在り方そのものを侮辱する間桐臓硯に内なる怒りの炎を燃やしながら、表向きは平静を装って佇んだ。
  教会の神父として決して取り乱さず、聖杯戦争の監督役としてマスターがやって来るのならば迎え入れる。
  さて、綺礼は何の話をしにここまでやってきたのか? 息子の口からどんな話が出てくるのかを待っていると、歩みゆく綺礼の向こう側に何かの気配を感じ取った。
  それはあまりにも微弱で何であるかを判断するには情報が少なすぎる。だが、間違いなくそこに何かがいる。見えないが何かがこちらを見つめている。
  間桐臓硯に関係のある間桐の手の者か、あるいは他のマスターが冬木教会の騒ぎを聞きつけて使い魔を放ったか。
  諸国に散った聖遺物の回収を行う内に身に着けた、見えないモノを見る感覚―――あるいは第六感とでも言うしかない何かが私の背筋を凍らせた。
  その何かは私ではなくこちらへと歩いてくる綺礼を狙っている。そう察知してしまった。
  私と綺礼の距離はほんの数歩分、十メートルどころか五メートルも離れていない。
  綺礼の代行者としての経験は私よりも苛烈であり、私は綺礼の八極拳の師であっても技術は綺礼の方が上だ。その綺礼が背後から向けられた何かに気付いていない。
  綺礼に何が合ったのか。何を思い冬木教会を訪れたのか。何のために私を訪ねようと言うのか。多くの疑問が噴き出ると同時に綺礼に迫る危機が私の体を動かす。
  『何か』の正体は今も判っていないが、ただ綺礼に危険が迫っている事だけは判る。
  何故、私がそれを察知できたのかは私自身にも判らない。それが何なのか判らないのに、何故か私はそれが危険だと判ってしまう。
  声を出すよりも早く、考えるよりも早く、他の何をするよりも早く―――私は前に駆けだして綺礼を押し退けていた。
  危ない。私はそう言おうとしたのかもしれない。
  避けろ。そう言おうとしたのかもしれない。
  けれど口から出てくる言葉は無く体が動いた。
  横に払う様に両手で引きずり倒し、綺礼が立っていた位置に私の体を割り込ませる。
  守らなければならない。
  助けなければならない。
  救わなければならない。
  私の心が私を動かした。
  そして何かが迫り―――私の体はその何かが作り出した衝撃で吹き飛んだ。





  私は死ぬ。
  何が起こったかは定かではないが、自分の身に起きる異常をいち早く理解した私は過程を超えた結果をまず理解した。
  数メートル吹き飛ばされた私の体は教会の柱の一本の激突して止まっていた。体は熱く、しかしどこか氷のように冷たい。
  目を開いた私の目に飛び込んできたのは血の赤だ。
  それも私から溢れ、止まる事無くどんどんと流れ落ちている。
  痛みは無かった。
  あるいは痛いと感じる事すらもう私には出来ないのかもしれない。
  大怪我を負って生死の境をさまよった事はある。聖遺物の回収には危険が伴い、深い傷を負った事は一度や二度ではない。
  だがこれは違う。
  死に至る傷だ。綺礼が治癒魔術を施してもどうしようもない手遅れだと判る。流れゆく血が私の命そのものだと一瞬で理解できた。
  私はここで死ぬのだ。
  私の魂は死によって、神のもとで憩う。だから死は恐ろしくない。
  しかし視界の隅に見える綺礼を残して旅立つ事がどうしても心残りである。願わくば息子を―――私の誇りをもっと見ていたいと思うが、どうやらそれは叶わない。
  ならばこそ、今の私だからこそ綺礼に残せる物を残さねばならなかった。
  ほとんど動かない腕を動かし、血だまりの中に埋もれた指を血で汚れていない道路の上へと移動させる。
  ほんの数十センチ。たったそれだけの距離を動かすだけで私の力はどんどんと抜け落ち、死の誘いがもうすぐそこまで迫っているのが実感できた。
  それでも成し遂げなければならない。
  息子の為、父として最後の仕事をやり遂げなければならない。
  右手人差し指に最後の力を振り絞り、私はある単語を道路の上に描いた。先程より道路が綺礼になった気がしたが、その違いを観察する時間が私には無い。
  運よく私から流れ落ちる血がインクの代わりを成して、指の軌跡は文字となって現れる。
  一文字。
  二文字。
  三文字。
  四文字。
  そして五文字。
  通常ならば一秒とかからないそれを書き終えるまで数倍数十倍の時間を必要とした。
  『jn424』
  今この状況で綺礼に私の意思がどれだけ通じるかは判らない。だが綺礼ならば―――私の敬虔さを受け継いだ綺礼ならばきっとこの意味は通じる筈。
  最後の数字『4』を書き終えた所で私の指が動かなくなると、綺礼は私の顔をジッと見つめる。
  そして―――。


  神は御霊なり。故に神を崇める者は、魂と真理をもって拝むべし。


  死に行く私の耳はどんな音も聞いていなかった。それなのに綺礼が呟いたその言葉は不思議と私の中に染み込んでいき、一語一句違わず私の願いどおりの言葉を口にしてくれたのだと知らせてくれる。
  この時、私の心に宿った喜びは私の人生において最上のものに違いない。
  私の腕に刻まれた監督役の預託令呪が綺礼の元へと移っていくのを感じながら、同時にかつてない喜びに身を震わせる。
  綺礼は私の願いを全て理解し、私が残そうとした物を全て受け取ってくれた。
  もう何も聞こえない。
  少しずつ綺礼の顔も見えなくなっていく。
  体から力が抜け落ちて、死が私を迎えようとしている。
  だが満足だ。
  私はここで死ぬ、それでも私は満足なのだ。
  無上の喜びを感じながら、私は目を閉じた。



  ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆



  Side - 言峰綺礼





  私は何故ここにいるのか。
  確たる理由は無く、私は冬木教会へと足を進めていた。
  父の具合を案じた訳ではない。予感とも言い難い思いに引きずられた訳でもない。ただ何かに引き寄せられるように―――。教会へと向かわなければならないと思ったのだ。
  意味が無い。
  合理的ではない。
  矛盾に満ちている。
  妥当性を欠いている。
  アサシンを率い、時臣師の助勢を行うのならば、冬木教会の前に我が身を曝け出すなど最も行ってはならない愚挙だ。一度、拠点としての冬木教会から脱したのならば、もう二度とそこには近づいてはならない。
  すでに私がアサシンのマスターとして健在である事は聖杯問答に関わりをもったマスター達ならば確実に気付いた。唯一、聖杯戦争にそもそもの興味が無いキャスターと、あの場に居合わせなかったランサーとバーサーカーは知らずにいるかもしれないが、遠坂師を除いたセイバー、ライダーの両名は確実に知り得た筈。
  そして間桐臓硯が冬木教会を襲撃した理由が私が居るからこそならばバーサーカーもまたアサシンの健在を知っている。
  誰もが脱落していないマスターを匿った父に疑心を抱くのは当然の流れだ。これまでは衛宮切嗣の物と思わしきCCDカメラを取り付けた使い魔の監視のみに留まっていたようだが、別のマスターが冬木教会に向けて使い魔を放っても不思議はない。
  アサシンのマスターである私がいるのだから。
  だからこそ私は誰にも発見されず、闇に溶けて暗躍するアサシンのように行動しなければならない。
  父を見張る目があるであろう冬木教会を訪れるなど正気の沙汰ではない。
  なのに私はここにいる。
  私自身理解できない何かに引き寄せられ、私はここにいる。
  あくまで仮定だが、私の不可解な行動の根幹を作り出しているのはあの間桐臓硯―――。いや、間桐臓硯に成り代わっている何者かが唯一正体を明かした場所がここだからこそ、聖堂教会のスタッフがそれを全て片づける前に残滓からでも何かを掴み取ろうとしているのかもしれないとしたらどうか。
  だが、そんなつもりだったならば、父の看病と同時並行で行えば済む事であり。そもそも戦闘の結果は残っていても、私を同類と呼んだあの男の痕跡など何一つ無かったのは私自身が確認している。
  やはり何かがおかしい。
  私自身説明できない何かに導かれているとしか思えない。
  そもそも冬木教会に行って何をするのか私自身が理解できていないのだ。散歩などと短絡的な答えでは決してない。
  この現象はマスターに等しく与えられている令呪に近い。サーヴァントがどれだけ抗おうとも、召喚された時点でマスターに付与される絶対命令権。サーヴァントの意思に関係なく、マスターの意思によってどうとでも操れる令呪の効果だ。
  私はサーヴァントではないので直接体感した事は無いが、それでも起こりうる事象は私の意思に関係なく遂行されているので、令呪を思わせる。
  そうなると私の意識に干渉する何らかの魔術攻撃を受けている事になるが、私にその実感は無い。あるいは実感すら湧かせないほど高度かつ綿密な魔術か?
  何かに操られていると思ったなら即座にこの場を脱しなければならない。しかし私の体は吸い寄せられるように教会の前に佇む父の元へと向かって行く。
  私の意思とは無関係に。
  それでも何かに導かれる様に。
  「・・・・・・・・・」
  そして父が突然駆け出して、私を突き飛ばし―――衝撃が走った。





  爆風。そう呼ぶしかない何かに吹き飛ばされた後、黒い塊が私の視界を覆い尽くす。
  それがアサシンの実体化した姿だと気付くと同時にアサシンが私を守ったのだとも理解する。
  「御無事ですか、綺礼様」
  呼びかけられた声で私の意識はよりはっきりとしていき、攻撃を受けた現状を明確に教えていた。
  髑髏の仮面と黒いローブの女、女性のアサシンが覆いかぶさるようにして私を守り。一瞬前まで私の立っていた位置から数メートルの距離を移動させている。
  父が私を押し退け、アサシンがより遠くへと連れて行った。アサシンに守られながら瞬時に状況を理解し、視線を周囲に向ける。そして冬木教会の壁面が一部抉り取られているのを確認した。
 アーチャーの王の財宝ゲート・オブ・バビロンの着弾後に酷似しているが、それは決して宝具による痕跡ではない、もしアーチャーの宝具ならばもっと広範囲かつ大規模な破壊を作り出す。
  「――狙撃か?」
  「はい。超長距離からの銃器による攻撃かと思われます」
  アサシンの言葉を聞きながら、私は姿勢を低くしたまま位置を移動する。一旦、冬木教会の影に入り、狙撃者から見えない位置を陣取った。
  何たる不覚か。
  敵がアサシンのマスターである私を狙っている等、聖杯戦争に関わるのならば当たり前に起こるべき事だ。
  もし父が、そしてアサシンの行動が一手でも遅れていれば私は簡単に撃ち殺されていた。
  どれだけ呆けていたのか。
  どれほど愚かなのか。
  だが悔いるならば後でも出来る。今は後悔に縛られて動きを止める時ではない。
  幸いにして狙撃は外れ、アサシンが即座に私を移動させたので爆風による被害も少ない。無傷と言ってもよい。
  使い魔の監視とは比較にならないほど遠距離からの攻撃ならば、単独犯である可能性は高い。そして銃器による攻撃ならば相手はサーヴァントではない。そうなれば相手はマスターかその協力者となる。
  そして私を銃で狙う人間に一人だけ心当たりがある。
  「――アサシン、襲撃者を警戒しろ」
  「承知しました」
  アサシンを即座に差し向ければ、たとえどれだけ距離が離れていようとも、狙撃した場所までが直線だった事実を照らし合わせれば弾丸を撃ち出した箇所を見つけるのはそう難しくは無い。
  一旦、霊体になったサーヴァントの移動速度は人のそれを軽く上回る。狙撃者を暗殺するのは容易いだろう。
  だが殺してはならない。
  マスターである私の危機をサーヴァントに守らせる意味はあるが。たとえ相手が私を殺そうとしたとしても―――もしその相手が私の予想通りの男、つまりは衛宮切嗣であったのならば、決して殺してはならない。
  私は問わねばならないのだ。その為に衛宮切嗣には生きてもらわなければならない。
  二度目の狙撃がない事を確認した私は、私を守り吹き飛んだ父の姿を教会の影から探す。
  すると教会の前で倒れた父を発見した。すぐにでも近づいて救出したい衝動にかられながら、狙撃者がまだ狙い定めている危険も予想する。
  「アサシン、父をここまで連れてこい」
  応じる声が放たれるよりも早く、アサシンは父の元へと駆けて、一瞬すら必要とせずに私のすぐ近くに父を引きずってきた。
  女の細腕でありながら、それは英霊でもある人以上の膂力を持つサーヴァントだ。
  僧衣の首根っこを掴まれて持ってこられた父の顔を覗き込んだ。そして視界の隅に下腹部と右足をそっくりそのまま失った姿が見える。
  狙撃の威力は凄まじく、父は右側の下腹部を貫かれ、足の付け根を粉砕されて右足が千切れていた。
  人体の五分の一が消失している。あるいはすぐ近くを探せば父が失った右足の先が見つかるかもしれないが、傷口から流れ落ちる大量紅い血と父の顔に浮かぶ死相がこれから訪れる未来を教えている。
  父はもう助からない。
  どれだけ手を施そうと、父の怪我が回復に向かう事は無い。
  治癒魔術を超える蘇生魔術。もしくは代行者としての私が何匹も殺してきた死徒の回復力がなければ治り様がない。
  ここにはその両方が無い。私の治癒魔術を施した所で、父が死ぬまでの時間がほんの少しが長引くだけだ。
  「くっ・・・」
  父が死ぬ。
  歯噛みした私は父の指が道路の上に何かを描いているのに気が付いた。
  それは酷く鈍重で、指がただ命を求めて動いていると言われても納得してしまう遅さだった。
  だが違う。父はどのような状況であっても自らに訪れた死を拒絶する様な人間ではない。この指は私に何か伝えようと動いているのだ。
  私は父が指を動かしやすい様に体を支え、書き終えるまでに何者の邪魔も入らないようにアサシンと共に周囲を警戒する。
  数秒とも数十秒とも数十分とも感じる長くそして短い時間を経て父の指が止まり、ある五文字の単語が道路の上に描かれていた。
  『jn424』
  信仰と無縁の者ならばそれは意味不明の暗号に思えたかもしれないが、私にはそれが意味するものが何であるかをすぐに思い当れる。
  ヨハネ福音書4:24―――。
  何故、父が今その言葉を私に伝えようとしたのか。その真意を知る為、告げる言葉すらない死に行く父の最後の願いを叶えるため、記憶の中に刻まれた言葉を謡う。
  「神は御霊なり。故に神を崇める者は、魂と真理をもって拝むべし――」
  唱えると同時に父の右腕に燐光が起こる。そして私の右腕に鋭い痛みが走り、手首から肘までに淡い光が瞬いた。
  父を道路の上にゆっくり下ろしながら私は右の袖をまくる。そこに合ったのは父の右手に刻まれていたものとは形こそ違ったが、紛れもなく監督役が持っていた預託令呪であった。
  ここで私は理解する。
  監督役の預託令呪は聖言によって保護されており、本人の許諾なしには魔術によってこれを抜き取ることは事実上不可能となっている。唯一、父が設定した聖言こそが父の意思以外で預託令呪を他者に譲り渡す手段だ。
  父は私に令呪を譲る為に私にヨハネ福音書4:24の聖言を教えた。
  「父上、これがあなたの望みなのですか?」
  私はまくった右腕をそのまま父の眼前へと持って行った。すると父は少しだけ目を開いた後、全てをやり終えたように笑みを浮かべて両の瞼を閉じる。
  やはり父は私に預託令呪を授ける為に最後の力を振り絞ったのだ。体の一部が抉れたショックでそのまま死んでもおかしくなかった。僅かでも動けばそれだけで激痛が走るのが容易に想像できる、それでも父は私の為に残すべきものを残そうとした。
  私は父の願いを叶えたのだ。
  父もそれに満足している。
  三年前に喪った女もまた同じように満足した笑みを浮かべていた。『貴方はわたしを愛している』、そう言って女は微笑んでいた。
  父も、彼女も―――言峰綺礼の妻であったあの女も、共に私を愛し信頼していた。
  そして言峰綺礼と言う人間の本質を決定的なまでに履き違えていた。
  このままでいいのか?
  このまま終わらせていいのか?
  三年前、病み衰えた女の末期の枕元で思い浮かべた言葉が蘇る。


  コノオンナヲ、モット■■■■タイ。


  モット■■■■スガタガミタイ。


  不意に『これ』こそが、父が死に行く姿こそが私の求めるモノなのではないかと直感が動く。
  敵に襲われる危険を承知の上で私が冬木教会にやって来たのは、この時の為ではないのか? 父から預託令呪を受け取るなどと言う理由ではなく、父の死に立ち会うその瞬間こそが私の待ちわびていた時ではないのか?
  これは自分が自分でなくなる恐ろしさを理解し、今に至るまで理性で封じ込めていた感情だ。
  三年前に辿り着いた真理。目を逸らし続けてきた答えだ。
  そしてまた、ここに答えがある。
  言峰綺礼が追い求めていた本性が―――アーチャーの言葉を借りるならば、魂が追い求める愉悦の形がある。
  ギルガメッシュの赤い双眸が脳裏に蘇り、告げられた言葉も共に蘇る。
  『綺礼、お前の求める道は示されているぞ。もはや惑うまでもないほど明確に、な』
  そうだ。
  これこそが、これこそが私の求めていたモノ。


  せめて、極めつけの■■■■を味わわせてやりたい。


  せめて、極めつけの『くるしみ』を味わわせて―――。


  たった四文字の言葉が欠けていた部分にすっぽりと収まった。そして三年前に思い浮かべ、今に至るまでに直視せず回避し続けてきた言葉も蘇っていく。
  この女を、もっと苦しめたい―――。
  もっと苦しむ姿が見たい―――。
  そうだ、私はあの時、自分の妻の最後を見ながらそう思った。そして今、父の最後を見届けながらそう思ったのだ。
  気が付けば、私は穏やかな笑みを浮かべたまま目を閉じた父の左目に右手を伸ばし、左手を父の首へと伸ばしていた。
  半ば無意識に行われたそれが私にとっての正しさを明確に表している。最早、止めようなどと欠片も思わない。
  「父上・・・」
  声をかけながら父の命を少しでも長らえさせるために簡易の治癒魔術を発動させる。今更、治癒魔術を行使した所で、確実に死ぬ父の苦しみを長引かせてしまうだけだ。
  そうでなければならない。
  強引に右手で父の瞼を開き、父の目を私に向けさせる。私の左手が父の首に添えられているのをしっかりと見せつける。穏やかな笑みを浮かべ、死に向かおうとしている父の目が首に手を当てた私を見た。
  次の瞬間、私は父の首の両側にある頸動脈を押さえ付ける。
  「かぁ――」
  老齢を思わせない鍛えられた父の肉体は頑強であり、首の骨を握りつぶそうかと思える勢いで抑えなければならない。
  しかし父の体は既に死体同然であり、拘束を解こうとする力も、体を揺らして逃げようとする力も残っていない。
  ただ左手に首を絞める力を込めるだけでよかった。地面に叩き付ける様に上から抑え込み、指に血の流れを感じながら締め付ける。
  父には抗う力は無かったが、見る力だけは残っている。死相は合ってもまだ死は訪れていない。
  父の目に宿る光はまだ生者の目をしており、私のしている事をしっかりと見て理解していた。
  私は絞めた。父の首を絞めた。息が出来ぬようにしっかりと締め上げた。
  「ぁ・・・・・・」
  吐息のような声が父の首から漏れ、表情が驚愕に染まっていく。
  父の顔が、目が、全てが、物語り始める。
  何故、私の首を絞める?
  何故、こんな事をする?
  何故、私を苦しめる?
  綺礼―――何をしている?
  そう言っていた。
  父が理解できないモノを見る目で私の目を見ている。
  死に向かう中でもやはり人は新鮮な空気を求める。だが首の圧迫によって窒息し、口を開いても呼吸は出来ない。
  「苦しいですか、父上?」
  私は言った。父に向けて言った。
  私の手の中で父の命が少しずつ消えていく。
  少しずつ、少しずつ、力を失って命が消えていく。
  代行者として異端を狩り続けてきたが、消えゆく命を今ほど暖かく、そして冷たく感じた事は無い。
  父の顔は苦しみに歪み。息を出来ない苦しさと私の行動の不可解さに醜く歪んでいた。
  私はこんな父の顔を見た事が無い。
  口からは血と泡と唾を拭きだし、目を大きく見開いて苦しむ父の姿を見た事が無い。
  もっと見たい。
  もっと苦しむ姿を見たい。
  もっと、もっと、もっと、もっと、もっと、もっと、もっと、もっと―――。苦しみ悶える者を見たい。
  悔いを残し死に行く者を見たい。
  信じていたモノに裏切られた絶望を感じたい。
  吐血と一緒に吐き出される耳に届く小さな悲鳴を聞きたい。
  それは美しく、快く、心地よく、目に見える全てに昂揚した。
  これこそが―――、これこそが言峰綺礼の魂の形。
  「はははっ――、何なんだ私は?」
  父の首を絞めながら、私は嗤う。
  これこそ邪悪。
  これこそ鬼畜。
  神の愛より外れた道、正しく外道。
  けれど私は父の絶望する顔にこれ以上ない喜びを感じ、血で紅く染まった景色がとても色鮮やかに見えている。
  これが私―――。父を殺そうとして、その苦しむ顔を見る私こそが言峰綺礼なのだ。
  「こんな歪みが? こんな汚物が? よりにもよって言峰璃正の息子だと? 有り得ん、有り得んだろうっ? 父上、あなたは狗にでも私を孕ませたというのか!?」
  哄笑と共により強く手に力を込めると、父は首を少しだけ後ろにのけ反らせた。
  顔がよく見えなくなったので、私は瞼が閉じ無い様に当てていた右手で父の髪を掴む。そのまま顔を起こして、私から目を逸らせないようにする。
  父と目が合った。
  充血して赤くなっていく父の目が見えた。死人の目に近付いていく目が見えた。
  殺そうとする父の顔がそこにあった。
  「父上。どうやらこれが私の本性のようです」
  苦しみ悶え、死に行く体でどこまで私の言葉を理解したかは定かではない。だが―――信じられない―――。父の目がそう言っているのが判る。
  父が私の本質をどう捉えていたにせよ、これは父がただ大きく間違えていただけの話。
  私は万人が『美しい』と感じるものを美しいと思えない破綻者なのだ。他者の苦痛に愉悦を感じる異常者なのだ。
  自身の理解へと到達すると同時に私の左腕にはより強い力が込められた。
  歓喜によって―――そう、今の私は紛れもなく自分を知った喜びによって今までにない力を発揮した。


  その力が父を殺す。


  父の首を絞める左手に込められた力は首の肉を凹ませ、血管を圧迫し、首の骨を砕くにまで至った。
  やはり父が老齢であったのは紛れもない事実であり、頑丈な僧衣も隙間を潜り抜けて人体に直接攻撃を与えられては意味をなさない。
  父は首の骨を折られ、絶命した。
  苦悶の表情を浮かべたまま死んだ。
  今、この私が殺したのだ。
  「綺礼様――」
  アサシンに声をかけられて、私はようやく自分が狙撃されて命を落とす寸前だった事を思い出す。
  父に命を救われた。
  その父の命を苦しみの中で奪った。
  何と心地よい事だろうか。
  これこそが言峰綺礼の求め続けた答え。言峰綺礼なのだ。
  襲撃者の存在を思い出すと一緒に喜びが急速に冷めていく。そして問い続けるだけの人生に答えを得ながら、それが全く何の解決にも至っていないと理解した。
  認めよう。確かに私はどうしようもない外道だが、それはあくまで言峰綺礼と言う回答であり、そこに至るまでの過程が全て抜け落ちている。
  神が真に万物の造物主であるならば、全ての魂にとって『快なるもの』こそが真理のはず。道徳とはそれを求める知恵となる。
  だが言峰綺礼は道徳の教えと全く逆の事象に歓喜を見出す魂の持ち主だ。これは善悪の定義どころか真理の在り処を揺るがす矛盾であり、決して捨て置けない謎だ。
  その過程をどのようにして作られたのか、それを理解するまで私は納得できない。
  深い信仰心を抱いた言峰璃正の息子が何故このようなモノになったのか? 言峰綺礼を作り出した過程には―――これほど怪異な答えを作り出した方程式とは何なのか?
  それを問い、探し、理解しなければならない。
  「アサシン」
  「はっ」
  「引き続き周囲の警戒に当たれ。どれほど遠方の監視だろうと、どれほど小さな使い魔であろうと、どれほど多量であろうとも、間諜の英霊の名にかけて全てを探り出すのだ」
  「・・・承知しました」
  父が亡くなり、私の手に預託令呪があるのならば、他でもない私が監督役を務めなければならない。
  監督役である父は狙撃者によって撃ち殺された。それは紛れもない真実、たとえ私が直接の手を下そうと、父が死ぬ結果には何ら変わりがない。
  そして聖杯戦争を続ける為には聖堂教会から派遣される監督役が必要になる。そもそも聖堂教会に監督役を担う要請を行ったのは魔術協会であり、その人員についても聖堂教会に委ねられている。だからこそ私のような聖堂教会の人間がその責を負うべきなのだ。
  「狙撃者はどうした?」
  「既に私の認識できる距離を離れたようです。狙撃の危険はありません」
  「そうか・・・」
  私の心は飛沫一つ無い湖面のように穏やかであった。
  私はすべき事をする。その為ならば何であろうとも利用し尽くし、何であろうとも障害は排除する。
  もう、私の中に『衛宮切嗣に問う』などと無価値な疑問は存在しなかった。狙撃者など、どうでもよくなっていた。



  ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆



  Side - アイリスフィール





  私達が新しく拠点にしようとしている日本家屋の屋敷はすぐに敵に居場所を知られる異常事態に見舞われた。
  すぐに切嗣に連絡を入れた私は、彼がどんな判断を下すか待つ時間、残った結界の敷設に労力を割いた。工房の作成はもうほとんど終わっていたのが幸いだったと思う。
  アインツベルンの森に設置された結界に比べると、住宅街の真ん中に作れる結界には限度がある。
  だから私とセイバーは拠点が既にライダー達に知られている可能性を考えて、敵が迫ればすぐに知る『探査』を入念に組み上げた。
  セイバーは攻撃の要であり防御の要でもある。だから私は拠点の内外に関わらず、常に行動をセイバーと共にして、誰かが結界内部へと侵入しても彼女の傍で守られる様に状況を作り上げた。
  切嗣から攻撃魔術の手ほどきを多少は受けているけど、セイバーの力に比べれば児戯に等しい。
  そうやって自分の力不足と、セイバーの事、切嗣の事、舞弥さんの事、聖杯戦争の事。待ってる間に色々な事を考えていたら、切嗣から連絡がきた。
  電話口の向こう側から聞いた話を纏めると―――この拠点はアインツベルンの森の結界と違ってまだ利用価値があるから、一旦外に出て敵の目をくらますのがいいんだとか。
  私達はただ拠点から出るんじゃなくて、ランサーの拠点を発見したから、セイバーの左腕を回復させる意味も込めてそっちに向かってほしいとも言ってきた。
  セイバーとしてもランサーとの決着は望むところで、私が切嗣の言葉を代弁するとすぐに賛成してくれた。
  「しかし、マスターは・・・何故――」
  セイバーがランサーの元へと向かわせる案を出してきた切嗣に疑問を覚えるのも当然だと思う。切嗣はキャスター討伐の褒賞として令呪一画を移譲される話を聞いた時、他のサーヴァント達に討伐を任せてセイバーをキャスターと戦わせようとはしなかった。
  生き方でも戦術でも、切嗣とセイバーの意思は絶対にかみ合ってこなかった。
  だけど切嗣が私達に告げた内容はランサーとセイバーを真っ向勝負させて、左腕を回復させる事だけ。作戦とも呼べないサーヴァントに全てを委ねた決闘だ。
  まさか今になって切嗣が戦い方を変えるとは思えない。だから私は切嗣から聞かされたセイバーにランサーをぶつけようとする状況以外にも何か別の真意があるんじゃないかと思った。
  私は切嗣の事を疑っている。
  妻の身でありながらも夫が裏で何をしているか判らないので、言葉での説明以上の何かがあると思っている。
  アインツベルンに雇われる以前の切嗣はそういう人だから―――。
  切嗣が言わなかった部分を尋ねようとしたけど、私が聞く前に舞弥さんがランサーの拠点まで案内すると口早に話され、そこで電話は切れてしまう。
  電話から十分と経たずに舞弥さんは現れ、私達は日本家屋へと案内された時と同じように彼女が運転する自動車をセイバーが運転するメルセデス・ベンツ300SLで追いかける。
  舞弥さんとの会話が事務的かつ簡素になるのはやっぱり変わらず、世間話なんて一つも出ない。
  セイバーはランサーと決着がつけられる状況に心躍らせている様で、舞弥さんどころか私とも話をしない。
  嫌な予感がした。
  確かにセイバーはライダーとアーチャーとバーサーカー、そしてマッシュという名の男に邪魔されて、倉庫街でランサーとの決着を付けられなかった。
  きっとサーヴァントの中で騎士として戦うセイバーに配慮できるのは、ランサーとライダーの二人だけ。拠点を訪れたカイエンに『外道』なんて言われたから、余計に騎士として戦える相手との決着を望んでいるんだと思う。
  アインツベルンの城でも戦いが長引くばかりで決着がつかなかったから、今度こそ勝敗を決したいと思っているのだろう。この国の言葉で『三度目の正直』というのがある。
  でも切嗣の姿が無いのが私はどうしても気にかかった。
  あの人は私達の知らない所で何かをする。聖杯戦争に勝利する為にどんな非道な事も辞さない覚悟を持ってる。
  もちろん私だってこの体に封印されている『聖杯の器』が聖杯となり、愛する切嗣の手に渡って欲しいと願っている。でも、その為なら何でもしていいとは思ってない。
  自分を強く保つために冷酷であろうとする。そんな切嗣を妻として守りたいと思いながら、その非道な行いを責めてる私もいた。
  舞弥さんは切嗣の行動に何の疑問も抱いてないみたいだけど。私、セイバー、そして切嗣と舞弥さん、この三種類の考え方の食い違いが何か大きな破滅を導くんじゃないかって、どうしても考えてしまう。
  それはセイバーがランサーと戦えば、決定的に浮き彫りになる―――。私の予感でしかないけど、そんな考えが止まらない。
  たとえ無駄かもしれなくても、私達は話し合うべきじゃないの?
  そう思っても、動き続ける状況の中で私が出来る事は僅かしかない。セイバーとは話せても、切嗣と話せる機会が無くて、互いを引き合わせようとしても無為に終わってしまう。
  「ここから東へ三キロほぼ進んだ位置にある廃工場がランサーの拠点です。地図を使っての説明が判り易いのは理解してますが、情報漏洩の危険を考慮して口頭で説明しますので覚えてください」
  結局、私は舞弥さんがランサー達の拠点に辿り着く直前まで、何一つ解決策を見出せずにただ悶々とする時間を過ごし終えてしまった。
  舞弥さんは一旦停車して、窓越しに助手席に座る私に話しかけてくる。
  拠点までの距離と曲がり角での目印、信号の数とそこに至るまでのおおよその時間、ランサー達の拠点の規模とそこに張られた結界の大きさ。よくここまで綿密に調べ上げたと感心する細かな情報が舞弥さんの口から語られる。
  「私はここから別行動です。マダム、あとはよろしくお願いします」
  「舞弥さんはこれからどうするの?」
  「新しい任務につきます」
  淡々と告げる舞弥さんの様子はいつもと変わりなく、その『新しい任務』が何であるかを話してくれる気配は無い。
  「その新しい任務は何か聞いてもいいかしら」
  「お答え出来ません」
  もしかしたら内容を教えてくれるかもしれない。そんな淡い期待を込めた問い掛けは一蹴される。
  私達はもっと話をするべきなのだ。今更、そんな結論に至って会話の場を作ろうとしても、舞弥さんは話を弾ませてはくれない。
  「アイリスフィール。これ以上は時間の無駄です、行きましょう」
  ハンドルを握っているセイバーがそう言ったので、仕方なく私は外にいる舞弥さんとの話を終わらせるしかなかった。
  セイバーはランサーとの戦いを待ちわびて一秒でも早くランサーのいる廃工場に向かいたいみたいだけど。急ぐ理由の中には切嗣を全面的に肯定する舞弥さんと不和があるみたい。
  でも呑気に話をする時間が無いのも判っている。時間を気にせず話が出来ていたのは、セイバーが召喚されてから聖杯戦争が始まるまでの僅かな時間だけだった。
  切嗣がどれだけ拒絶しようとも、セイバーと一緒に会話のテーブルに乗せるべきだった。聖杯戦争の準備の為にアインツベルンの外で活動している舞弥さんだって、話だけには聞いていた。やろうと思えば、セイバーを召喚する前に会おうと思えば会えた。
  まだ余裕があった時―――私はやるべき事をやらなかった。その代償に、もう話せる時間を失ってしまった。
  「・・・・・・判ったわ、行きましょう」
  「はい」
  セイバーの声と一緒にメルセデス・ベンツ300SLのエンジンが唸りをあげて冬木市の中を突き進む。
  人の足ではそれなりにかかる時間も自動車ならばあっという間。三キロなんて数分、道の込み具合に左右されても十数分で辿り着けてしまう。
  車中でセイバーと話す時間はなかった。





  舞弥さんから教えられたとおりの道筋を辿り、私達は情報通りに廃工場へとたどり着いた。
  新都区域から更に外れた場所にあるそこは人気どころか小動物も虫の気配もなく、広範囲に張られた結界によって余計なものが近づかないようにされているからなのだけれど、それだけが理由じゃない。
  新しい住居は生活区域の増設によって刻々とその姿を変える新都を通って来たからこそ、余計の寂れた様子が際立って見える。華やかな街の賑わいから忘れ去られたかのような印象がどうしても拭えなくて、まるでこの地区そのものが死した様な、墓地を思わせる場所だった。
  助手席から周囲を見渡すと、倉庫街の時に張られた人払いの結界に酷似した雰囲気が伝わってくる。
  「間違いないみたいね、確かに魔術結界の痕跡があるわ。――でも妙ね。手入れもろくにしてないのか、綻びが・・・・・・」
  あるわ。と言おうとしながら視線を前に戻すと、そこには横を見る前は確かにいなかった筈のランサーが佇んでいた。
  メルセデス・ベンツ300SLの進行方向には何もなかった。アインツベルンの森にある城の中庭を思わせる広大な空間には生物の影は何一つ無かった。
  でも今、私達の目の前には赤色と黄色、二本の魔槍を携えた槍兵のサーヴァントの姿がある。彼は槍を下ろしていたけれど、油断なくこちらを見つめていた。
  彼にとって私達は自陣へと踏み込んできた敵だ。やろうと思えば眼前に現れる前に攻撃を仕掛ける事も出来た筈。その彼が今、私達の前に立っている。
  その姿が正々堂々と真っ向から戦おうとする彼の決意を示していた。
  セイバーが一足先に車外へと出たので、私もそれを追って外に出る。
  私の前にはセイバーがいて、ランサーと対峙する構図がすぐに作られた。
  「よくこの場所を見破ったな。セイバー」
  「私の・・・・・・味方が調べ上げて、報せてきた。ここが貴方の所在だと」
  セイバーが言い淀む姿はそのまま切嗣と舞弥さんとの間にある不和に違いない。舞弥さんが単に情報を伝えただけだとしたら、調べ上げたのは間違いなく切嗣だ。
  セイバーが切嗣の事を『マスター』と言いたがらない気配が伝わってくる。
  ランサーは切嗣の事をもう知ってるから、切嗣が本当のマスターだって秘匿する方針にあまり意味は無い。私に向けて話す時は切嗣の事を『マスター』と言えても、他の人に言う時は苦手意識が働くに違いない。
  「以前こちらから仕掛けておきながら勝手な話だとは思うが、いいのか? お互いの戦闘行動は中断されている筈」
  「だからこそだ」
  「む?」
  「これまでに二度、我々は戦いの機会を与えられながら、余計な邪魔によって決着をつけられなかった。他のどのサーヴァントも今はキャスターに目を向けている。余計な横槍が入る可能性は少ないと私は読んだ」
  堂々と告げるセイバーとそれに応じるランサー。もうこの場はセイバーとランサーの戦いの場になっていて、言葉を交わしていても間違いなく戦場だった。
  もう私が入り込む余地は無い。敵対するサーヴァントが対峙すればあとはもう戦うだけだ。
  「我ら二人が心置きなく雌雄を決する好機が、次にいつまた訪れるか知れたものではない。今を逃す手はないと私は思う。どうだ? ランサーよ」
  「セイバー・・・」
  やっぱり正々堂々と戦える状況を二人は待ちわびていた。
  倉庫街での戦い、アインツベルンの森での戦い、横やりが入ったりマスターの危機が合ったりして決着に至れなかった事がよほど残念だったみたい。
  ランサーの頬が喜びのあまり緩んでいるように見えるのは絶対私の気のせいじゃない。
  聖杯戦争のサーヴァントとして呼び出された上で、尋常に戦える騎士に巡り合えた。そんな二人の喜びが少し離れた場所にいる私にも伝わってきそう。
  「ランサー!」
  その空気に水を差したのは一人の女性の声だった。
  「ソラウ殿・・・」
  セイバーを目の前に置きながら、それでも後ろから走ってくるその声の主―――これまでに直接見た事は無いけれど、切嗣から少しだけ話は聞いているので、ランサーのマスターのケイネス・エルメロイ・アーチボルトの許嫁のソラウ・ヌァザレ・ソフィアリに間違いない。
  首まである赤い髪の毛を揺らして同色で大きめの蝶ネクタイ。整った顔立ちは麗人と呼ぶにふさわしく、茶色い目がただランサーだけを見つめている。
  「ランサー、大丈夫?」
  「御下がりください、どうか我が主の元へ――」
  「いいえ。今は私があなたのマスターです。お側から援護しますわ」
  切嗣に倒されたケイネスの代わりに彼女がマスターを務めてる。彼女の手の甲に見える一角消費された令呪がその証拠だ。
  私は切嗣から少しだけ魔術の手ほどきを受けているけど、それは英霊同士の戦いに割って入れるほど強力じゃない。だからセイバーの戦いの邪魔にならないように距離を取っていたのだけれど、ランサーとソラウさんの距離は私達のそれよりも近い。
  二人の距離はライダーとそのマスターのような距離感で、彼女の言うとおり『一緒に戦う』ための近さだ。
  「ソラウ殿。セイバーとの戦い、どうかこのディルムッドに全て任せて頂きたい、この槍にかけて必ずや勝利をお約束いたします」
  「そんな!?」
  だけどランサーはそれを拒否した。
  ソラウさんの魔術の腕は知らないのだけれど、切嗣が言わなかったのは『注意する必要が無い』と判断して私に教えなかったのだと思ってる。
  そもそも今代の魔術師の中で、サーヴァント同士の戦いに割り込める魔術師なんているのかしら?
  いえ・・・、アーチャーの宝具を弾き飛ばしたあの男、そして間桐に助勢してる者達の力はきっと私の想像以上だから、あそこなら英霊と肩を並べて戦える可能性がある。
  「憚りながら、貴女にはケイネス殿のように武の心得がある訳ではありません。それともソラウ殿もまた――このディルムッドの矛先に曇りありと疑われますか? 恣意なる戦いに戯れるものと?」
  ランサーの説得を聞き、ソラウさんの表情が固まった。
  きっとランサーと今はここにいないケイネスとの間に関係がこじれる何らかの会話が合ったのだろう。それを持ち出して、ランサーはソラウさんを戦わせないようにしている。
  私もその方がいいと思う。セイバーとランサーが人の目で追うのも難しい神速の戦いに没頭するのは倉庫街での戦いで嫌と言うほど味わった。不用意に援護したつもりで味方に向けて攻撃してしまう可能性は私が考えるよりずっと高い。
  だったら助勢は回復だけに留めて、攻撃による援護なんてしない方がいい。
  「・・・・・・・・・だったら、せめてここで見守らせて。セイバーの高潔さはあなたが一番よく知っているのでしょう?」
  「――判りました」
  目を潤ませてランサーに懇願する姿はどう見ても恋する乙女のそれで、代理とは言えマスターがサーヴァントに向けるものじゃない。
  あの目は私が切嗣に向けていた目と同じだ。
  ただのアインツベルンの人形でしかなかった私に『愛する』を教えてくれた切嗣を見る私の目そのものだった。
  そうなるとソラウさんはケイネスの許嫁だけど、ランサーを愛してる・・・?
  「そこの御婦人。俺とセイバーとの戦いに手出しは無用、それでよろしいか?」
  「――判ったわ」
  何か答えを出してしまうと、すごく恐ろしい事を知ってしまう気がした。
  だからランサーの問い掛けに答えて、考えが中断されたのは都合が良かった。
  フィアナ騎士団の英雄フィン・マックールの三番目の妻となるはずだった婚約者グラーニア。彼女はディルムッド―――つまりランサーと恋に落ち、彼女とランサーは一緒に逃げ出す。
  ケルト神話に書かれたランサーの逸話。それが目の前で再現されている気がしたけど、私はそれ以上考えないようにする。
  私達は敵同士。今、考えるのは聖杯戦争であって、他人の横恋慕じゃない。
  「セイバー、そしてアインツベルンの『聖杯の器』の持ち主ですね。私はソラウ・ヌァザレ・ソフィアリ。ランサーの新しいマスターです」
  やはりランサーから切嗣の事は聞いているらしく、彼女は私の事を『マスター』とは呼ばなかった。
  でも名乗られたのならばこちらも名乗り返すのが礼儀。
  さっきまで考えていた密通を強引に消して、私は私の名前を口にする。
  「アイリスフィール・フォン・アインツベルンよ」
  応じると彼女はセイバーと私が作り出す距離を同じぐらい下がって、ランサーの戦いの邪魔にならないように離れた。
  向かい合う二人のサーヴァント。その後方には互いのマスター。私はそう見せかけているだけでも、構図はそうなる。
  「待たせたな、セイバー」
  「憂いなき戦いの為ならば、この程度の時間――無いに等しい」
  セイバーは力強くそう言いながら、英雄アルトリア・ペンドラゴンを示す宝剣―――いまだに真名開放には至っていない聖剣を構える。
 あまりにも有名すぎる宝具なので、その剣が一度でも目に触れればセイバーの正体はすぐに発覚してしまう。だからこれまで誰かと戦う時は常に風王結界インビジブル・エアで宝剣を覆い隠してきたけれど、ランサーの前では意味が無い。
  白銀の鎧で武装して、不可視の宝剣を晒したセイバーをランサーが一瞥する。
 ランサーはセイバーの武装準備に応じて持っていた破魔の紅薔薇ゲイ・ジャルグ必滅の黄薔薇ゲイ・ボウを両手で構えた。
  倉庫街ではセイバーの片腕を使えなくさせた所で邪魔が入り。アインツベルンの森では決着をつけるべく戦いながら、ランサーのマスターを切嗣が倒す寸前、セイバーがランサーをマスターの元へと向かわせた。
  思えば、あの時から私はセイバーの事が信じきれなくなった。サーヴァントであり、騎士として聖杯を切嗣にもたらそうとする協力者、でも決してそれが両立しないと気付いたのもあの時だ。
  セイバーは切嗣によって召喚された身でありながら、切嗣との確執によって彼を軽んじている。
  そして切嗣もまたセイバーとの不和によって、彼女を信じていない。
  私がいたからセイバーと切嗣は何とかやってこれた。いいえ、私がいたから、セイバーと切嗣はこれまでやってこれてしまった。
  いっそ、私が仲介せずに、心の底からの感情をぶつけ合えば何か他の結果がここにあったかもしれない。
  でも私の内心の葛藤を余所に、ここで決着をつけようとする二人の覇気が時間と共にどんどんと高まっていく。
  聖杯問答では戦いらしい戦いが無かったので、今のセイバーは消耗していないし、ランサーも新しいマスターを得た事で十分な魔力供給を受けている。
  セイバーの左腕が使えない事を除けば、二人とも気迫も魔力も体力も十分すぎる程溢れている。
  中天から舞い降りる太陽の光が熱を生む。その熱とは異なる二つの熱気が廃工場の広場の中を満たしていった。
  息を呑むのも忘れる気迫と気迫のぶつかり合い。それなのに目を離せない英霊同士の在り方。
  少しだけ視線を動かすと、ランサーの後ろにいるソラウさんの姿が見える。彼女は両手を胸の前で組んで、ランサーの事をジッと見つめている。
  そこにあるのは英霊二人が作り出す重苦しい空気への辛さや動揺やではなく、紛れもない感激だった。まるでランサーの勇姿に見惚れているみたいな――。
  間近で感じる空気の重さに立っているのも辛いのに、彼女にとってはそれすらも心地よい感覚なのかもしれない。
  更に高まる圧に倒れそうになっていると、セイバーとランサーは同時に踏み込んで互いの間合いの中に入っていった。
  踏み込んだ衝撃は強く、セイバー前に跳びだすと一緒に後ろに跳んだ砂利が少し私にかかる。
  それを痛い、と感じるよりも前に、セイバーの剣が、そしてランサーの槍が互いの命を取らんと繰り出される。
  一度間近で見たからこそ、目の前で行われる戦いが過去行われた二度の戦いよりも強烈であり苛烈、そして愚直にして凄絶なものだと判った。
  単純明快。真っ向切っての力と力のぶつかり合い。共に奇策も秘策もなく、より速く、より重く、どちらも相手の一撃を凌駕する一撃を叩き込むために武器を振るう。
  より強い者が勝つ。
  これこそがセイバーとランサーの望む決着への最短。これこそが二人が求める騎士の戦い。
  私がほんの少し考える間にも、宝剣と二本の魔槍が作り出す火花は、尽きる事無く途切れることなく咲き続けた。
  剣戟は一瞬たりとも途切れずに互いの体に一撃を叩き込もうと暴れまわる。
  ほんの数秒で打ち合った数は十合なのか百合なのか。肉眼では判別しきれない極限の領域の中で二人は戦う。
  ほんの一瞬だけ見えた戦いの中。ランサーが赤い長槍でセイバーの脳天を叩き割らんと振り下ろせば、セイバーはそれを紙一重で避ける。
  衝撃で地面が吹き飛ぶと同時に槍の穂先を踏みつけたセイバーがランサーの首筋に剣を斬りに行く。
  刃がランサーの首筋に到達する直前、黄色の短槍が柄を握るセイバーの手に襲い掛かり、セイバーは横に跳んでそれを回避した。
  私が見た様子など二人の戦いの中で繰り広げられるほんの一端に過ぎない。
  足を斬りおとそうとするセイバーの苛烈な一撃を跳躍で避けるランサー。
  襲いかかるランサーの刺突を髪の毛を数本千切れさせながら避けるセイバー。
  槍の切っ先に当らない為に、あえて間合いを詰めて赤い長槍の柄を鎧で受け止めている。
  ほんの十数秒の間に命のやり取りを何度も何十度も行う。そうやって何十回かの激突の後、二人は距離を開けて、互いの間合いから離脱した。
  位置はランサーが向こう側で、セイバーがこちら側。丁度、戦いが始まった時の踏み込む前に戻ったみたい。
  「はっ」
 破魔の紅薔薇ゲイ・ジャルグ必滅の黄薔薇ゲイ・ボウを翼のように大きく広げながら、けれどもランサー清々しい笑みを作り出す。
  私からはセイバーの背中しか見えなかったけれど、その顔にはランサーと同じように笑みが浮かんで居るのが容易に想像できた。
  何者にも邪魔されない二人だけの空間。時代の異なる英霊がサーヴァントとして召喚され、セイバーとランサーのクラスを得て巡り会えた奇跡。
  騎士と騎士との戦い。
  互いの全力を出しての死闘。
  二人にあるのは凛烈にして透明な闘志のみ。そこには油断もなければ躊躇もない。
  戦いの果てにどんな決着が待ち構えていようとも悔いは無い。そんな喜びがランサーに、そしてセイバーに合った。
  「騎士王の剣に誉れあれ。俺は――、おまえと出会えて良かった」
  「私も、貴方と出会えてよかった」
  ランサーの破顔は英雄でありながらも童子のようだ。
  後顧なく、未練なく、命を賭した刃の真価を問うに足る戦いを―――。
  喜びの後にある緊迫の面持ち。その中で二人は互いの決着をつける為、改めて宣言する。
  「フィオナ騎士団が一番槍、ディルムッド・オディナ――推して参る!」
  「応とも。ブリテン王アルトリア・ペンドラゴンが受けて立つ」
  英霊同士は名乗り合う。聖杯戦争のクラスではなく、自らの真名を改めて曝け出す。


  「「――いざッ!」」


  再び両者が強烈な踏み込みで前に出た正にその時。ヒュンッ! と、どこからか鳴った音を私は聞いた。
  セイバーとランサーが作り出す剣戟とは明らかに違うこの音は何なのか?
  答えを探し求める私の目に―――ソラウさんの腹部に開いた穴が見えた。
  「――えっ?」
  その呟きは私の声か? それとも彼女の声か? ランサーの声か? セイバーの声か?
  彼女も私もサーヴァント同士の戦いから片時も目を離さず、両足を強く大地に押し付けて崩れそうな体を必死に支えている。
  姫を守る騎士が前で戦っている。ならば姫の役目は屈せず、ただ勝利を信じるのみ。だから、その穴を作った衝撃にも彼女は耐えた。
  白い服に小さな黒い穴をあけた現実を理解しようと、姿勢を崩さずに彼女はその穴に手をやる。
  そして次の瞬間。動きを止めたソウラさんの額にもう一つの黒い穴が開いた。
  また、ヒュンッ、と音がした。
  「・・・・・・・・・」
  私は何が起こった判らなかった。セイバーもランサーも何が起こったか判らなくて、動きを止めている。
  ランサーの赤い長槍とセイバーの宝剣がぶつかったまま固定されていた。
  その中でソラウさんの頭が後ろにのけ反って崩れ落ちていく。
  「ソラウ・・・殿――?」
  ランサーは短く呟くとセイバーとの鍔迫り合いを中断して後ろに跳んだ。最速のサーヴァントが見せる移動は私の目では捉えられず、気が付いた時にはセイバーの位置からソラウさんの近くにまで移動してる。
  でも応じる声は無い。
  前に倒れたソラウさんの体が地面にぶつかる前にランサーがギリギリで手を滑り込ませたけれど、槍を持つその腕に抱かれた人は何の反応も示さない。
  力無くぐったりとランサーの手に全てを委ねてる。
  ポタリ、と紅い血が額から流れて地面に落ちた時。私はようやく何が起こったかを理解した。理解してしまった。
  今、ソラウさんは撃ち殺された。
  銃で殺された。
  私は銃を使うのを切嗣と舞弥さんしか知らない。他の魔術師は銃なんて使わない。
  でもやったのが切嗣か舞弥さんのどっちかは問題じゃない、私達の仲間が―――ランサーとセイバーとの戦いに最悪な形で割り込んだ。
  そうだ、切嗣は言ったじゃないか。冬木教会で告知された監督役によるルール変更を聞かされたあと、切嗣は確かにこう言った。
  「キャスターは放っておいても誰かが仕留めるさ。むしろキャスターを追って血眼になっている連中こそ格好の獲物なんだよ、僕はそいつらを側面から襲って叩く」
  切嗣の戦い方はセイバーとランサーが作り出す『騎士の道』『騎士の誓い』『騎士の姿』を真っ向から否定する。
  彼自身、セイバーを召喚する前に扱い易さでは『キャスター』か『アサシン』の方が、よほど切嗣の性に合っている、そう言っていた。
  切嗣がただセイバーとランサーを戦わせる訳が無かった。彼は最初から二人が戦っている間にマスターであるソウラさんの命を刈り取るつもりで私達をここに誘導したに違いない。
  ランサーはゆっくりとソラウさんの体を地面へと横たわらせた。
  お腹と額から血を流し、地面に横たわるソラウさんが見えた。
  紅い血だまりがどんどん広がっていくのが見えた。
  彼女の目は見開かれたまま何も映さない。
  ランサーの勝利を祈って組んでいて手は力なく落ちる。
  そこには愛しい人に助けられた喜びはない。
  治癒魔術を施してもどうにもならない―――即死だ。


  「――貴様らぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!」


  絶叫と共に振り返ったランサーの美貌は醜く歪み、ただ怒りと憎しみだけを浮かべていた。



[31538] 第31話 『ランサーは憎悪を身に宿して血の涙を流す』
Name: マンガ男◆da666e53 ID:b514f5ac
Date: 2013/06/30 20:31
  第31話 『ランサーは憎悪を身に宿して血の涙を流す』



  ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆



  Side - ケイネス・エルメロイ・アーチボルト





  私は最初からソラウが一時の代替とはいえ、マスターになる事は反対だった。
  ソラウは降霊科学部長の地位を歴任するソフィアリ家の息女。だが、戦いのおける魔術の腕前は決して高いとは言えず、むしろ見習い魔術師と同格と言ってもよい。
  魔術の基礎を修め、魔術回路の数も扱える魔力の多さも高位に当たる。それでも彼女は戦いに秀でた魔術師ではないのだからな。
  ソラウがサーヴァント同志の戦いに巻き込まれたどうするのか? 間違いなく危険が彼女の身に迫る。
  しかし結局、私はソラウが申し出た『聖杯の奇跡であなたの怪我を治すの』という申し出を受諾し、令呪を彼女へと譲り渡した。
  令呪は魔術回路とは別系統の魔術だから今の私でも行使は可能。彼女に降り注ぐ危険を考えるなら、最初からソラウに令呪を渡さなければよい。だが、ソラウの意思は固く、ランサーへの魔力供給を行っている彼女の機嫌を損ねても得るものはない。そう私は判断してしまった。
  忌々しい事態ではあるが、魔術回路がズタズタに引き裂かれ、生きているのが奇跡とも言える今の状況で私が出来る事は多くはない。冬木ハイアットホテルで工房ごと軍資金の多くを失い。エルメロイ家の人脈の伝手で、日本在住の優秀な人形遣いに渡りをつけ、最後に残った莫大な軍資金と引き換えに、なんとか両腕の機能だけを取り戻した。
  だが動くのはまだ両腕だけだ。
  ソラウが僅かに残った金銭を使って手に入れた車椅子が無ければ動く事すらままならない体たらくぶり。このアーチボルト家九代目頭首の無様な姿など、到底余人に見せられるものではない。
  そして魔術一つ満足に扱えない今の私では聖杯戦争に参加しても出来る事は限りなく少ない。故に、何よりもまず優先すべきはキャスターの討伐―――その褒賞である令呪を我がものとする事だ。
  私は彼女の意思を、私の為に聖杯を得ようとする彼女の行動を阻みたくはなかった。
  決して、ソラウが枯木を砕くように私の指を何の躊躇いもなく折った行動に屈した訳ではない。痛みを感じない骨折に私が恐怖した訳でもない。
  ソラウを納得させた上で、私もまた別方向から聖杯戦争へと参加する。その為のキャスター討伐だ。
  アインツベルンの森で人生の汚点を作り出した後、私は意識の大半をキャスター討伐に向け、不慣れな車椅子での移動を俊敏に行えるように努めた。
  無論、キャスターの後はアインツベルンに雇われたあの下衆を始末する。これは確定事項だ。
  体を動かして汗を流すなど見苦しいにも程がある。
  だがソラウの為にもそうしなければならない。その決意が私に力を与えた。
  車椅子に座して鈍重に動きつつ、私はソラウがランサーと聖杯戦争の段取りを話し合う光景を見つめる。
  それを見て私は再度思う、やはりソラウをマスターにするのは反対だ、と。
  ランサー。ディルムッド・オディナの不義は伝説にまで名を馳せる有様だ、主君の許嫁に色目を使わずにはいられない性があのサーヴァントにはある。
  あらゆる女を虜にするというディルムッド・オディナの『魅惑の黒子』。左目の下に黒々と輝くあれが、ソラウの呪的影響に対する抵抗力を越えていないとどうして言える?
  フィアナ騎士団の英雄フィン・マックールの三番目の妻となるはずだった婚約者グラーニアを魅惑した伝説。それがここで繰り返されぬと断言できるか?
  少し離れて見ていると、伏し目がちにランサーを眺めるソラウの眼差しに、自分に向ける視線とは別の感情が込められているような感覚を覚えてしまう。
  一時は邪推するのは愚かしい世迷い言と切り捨てたが、魔術を使えぬ身となって初めて判る事がある。
  何としてでも再びマスターとして聖杯戦争に参戦し直さなければならない。あのサーヴァントをソラウから遠ざけねばならない。アーチボルト家九代目頭首として私が持つべき全てのものを―――地位を、勝利を、栄華を、無限の未来を、ソラウを、取り戻さなければならない。
  セイバーとアインツベルンの女が仕掛けてきた状況は予測された事態であり、むしろ今に至るまでサーヴァントの襲撃が無かった事は驚くべき幸運と言える。
  それでも仕掛けてきた相手がアインツベルンだったのは当然であった。
  キャスター討伐で互いの戦闘行動を中断されている中。あの聖杯戦争を辱めたアインツベルンに雇われた男―――すでにランサーの言葉からあの男がマスターである事は知りえたので―――、あの下種が仕掛けてくるのは起こるべくして起こる事態だ。
  セイバーの真名はアーサー王だが、サーヴァント風情が『かの名高き騎士王』とは笑わせる。魔術によって現界しただけの影が語る騎士道など亡者の世迷い言でしかない。故にルールを破るなど簡単にやってのける。
  私は自動車の駆動音を聞きつけたランサーに対し、即時撤退を命じようとした。
  今、狙うべきはキャスターの首であり、私が手に入れるべき令呪なのだ。すでに左腕の力を半減させているセイバーとの決着など後でもつけられる。
  だが私が命じるよりも早く一時の代替マスターとなったソラウが『セイバーを撃退しなさい』と命じ、ランサーもまたそれに応じた。
  何を考えているのか、あの愚鈍なサーヴァントは!!
  すでにランサーはアインツベルンの城で片腕を十分に使えないセイバーとの決着が付けられなかった。
  ランサーは自らの享楽の為にセイバーとの戦いを長引かせた可能性があり、そしてランサーは今のセイバーですら勝ちえない弱さを持った英霊である可能性が大いにある。
  どちらの可能性もありえるので、私の中では焦燥ばかりが膨れていった。
  確実なる勝機がないのなら私とソラウを連れて逃げるべきなのだ。それなのにソラウを戦場へと引き連れ、ただ自分が戦いたいが為だけにセイバーの剣と自身の槍を合わせている。
  廃工場の中で行われる神話に匹敵する戦いなど何の意味もない。
  サーヴァントとして召喚された二人の亡者が作り出す騎士の誓いなど何の役にも立たない。
  今更ながら、あの愚かなウェイバーに聖遺物を掠め取られ、征服王イスカンダルの英霊を掴み損なったことが悔やまれてならなかった。
 あの空を駆ける戦車チャリオットが我がものとなったならば、今頃は全てのサーヴァントとマスターを殺し、この手に聖杯と―――輝かしい『戦歴』がついたに違いない。
  だが悔いても状況は何も変わらない。
  廃工場の奥の暗がりに身を潜め、外で繰り広げられるサーヴァントの戦いを見守っても、事態は何も好転しない。
 いっそ、この身を外に曝け出してランサーに運ばせようかとも考えたが、車椅子なしでは満足に動けない私の無力さもまた同時に考えてしまう。令呪を持たず、月霊髄液ヴォールメン・ハイドラグラムを扱えぬ私が出て行ったところで状況は悪化するだけだ。
  忌々しい。嗚呼、何もかもが忌々しい。
  時間が経てば経つほどに私の中でランサーへの苛立ちが膨らんでいく。
  何故、勝てない。
  何故、弱い。
  何故、上手くいかない。
  歯がゆさのあまり私は頭を掻きむしる。


  その時、ソラウが撃たれた。


  「ソラウッ!!」
  銃声は二回。続けざまに聞こえてきたそれがソラウの体を打ち抜いた。
  私には判る。他の誰が見ていないとしても、あのサーヴァントが戦いに熱中するあまり、背後に控えさせたソラウから意識を離していたとしても。私だけはずっとソラウを見てきた。
  だから私には判る。ソラウの身に何が起こったのかを一瞬すら必要とせずに理解する。
  やはりあのセイバーのマスターはサーヴァント同士を戦わせ、表向きは尋常な勝負を演出しながら。その実、下劣で品性を欠く手段に訴えていたのだ。
  魔術師の風上にも置けぬ屑が、卑賎な輩めが!
  だが今ならばまだ間に合う。
  ソラウの霊媒治療術は常にソラウ自身の怪我も癒すように設定されており、ソラウが魔術を行使し続ける限りその効力は発揮され続ける。
  致命傷の傷であろうと治癒できる可能性はある。
  だから、間に合う。
  間に合う筈。
  否! 間に合わなければならない。このケイネス・エルメロイにもたらされる未来はそうであるべきなのだ。
  私は両腕にあらん限りの力を込めて車椅子の車輪を回した。廃工場の奥の暗がりから一気にソラウが倒れる広場へと向かう。
  私の目にはソラウしか見えない。呆けた表情を作り出す二人のサーヴァントとアインツベルンの女など路傍の石も同然。
  故に私は車椅子が移動する途中で鳴り響いた、カチリ、という音を聴き逃す。
  それがクレイモア対人地雷と呼ばれるただの炸薬を用いた通常兵器だと理解するよりも前に―――、私の意識は真っ黒に染まった。



  ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆



  Side - ランサー





  アルトリア・ペンドラゴン、歴史にその名を刻んだ騎士の王。その高潔な在り方を改めて再認識する為に俺は戦いに応じた。
  俺の中には疑念がある。
  それはセイバーが今も背後に姫君を置いて戦っている状況そのものへの不信、つまり真に聖杯戦争でサーヴァント同士が戦うのならば、マスターもまたその姿をさらすべきではないか。という戦いの在り方への問いかけだ。
  無論、俺の勝手な言い分である事は理解している。
  一時とは言え今はソラウ殿が我がマスターだ。我が主がケイネス殿である事実は覆せないとしても『マスターとサーヴァントが同じ場所で並び立つ』、この状況はこちらの都合で出来上がってしまった。
  セイバーの背後に佇む女が真のマスターだと誤解している者が見れば、同等の条件が整っていると見えなくもない。
  だがあの男の元へと―――セイバーの真のマスターの元へと俺を行かせたのはセイバーなのだ、セイバーは俺がセイバーのマスターが誰であるかを知っている筈。
  決してセイバーの背後に控えるアインツベルンの女ではない。セイバーには姿を見せないマスターが他にいる。
  それなのにセイバーはマスターではなく姫君を前線に出してきた。まるで彼女こそが自分のマスターである、と、言わんばかりに。
  この戦いに限らず、守るべき相手を秘するのは戦術として普通に行われる。だからこそ、戦場にマスターが出てこないのは問題ではない。
  事実、初めてセイバーと剣を合わせた時、我が主は戦場の傍に居ながらも、安全のために魔術によってその姿を隠ぺいしていた。
  最早セイバーのマスターを視認した俺は事実を知っているので、今更、言葉で語る意味はない。セイバーはそう思っているのか?
  違う。そうではない―――。他の誰でもない、俺がセイバーの口からその言葉を聞きたいのだ。この方はマスターではない、と。
  堂々と見る者すべてを騙す、その虚構を破壊してほしいのだ。
  まるでマスターの様に振舞っているその関係が正しく偽りであると。俺はセイバーの言葉を聞きたかった。
  その言葉があれば何らかの理由によってマスターと別行動を取っていると理解できる。俺が、俺自身にそう言える。納得もできる。満足できる。
  だがセイバーからの言葉は無かった。
  故に、この疑念は拭えない。
  不審が俺の心に根付いている。
  どうしても疑いを晴らしたかった。
  たとえマスターとサーヴァントが同じ場所に立っていなかったとしても、事実を目に見える状況で偽っているとしても、セイバーの誇り高さは決して違えるものではない、と。
  だから―――だからこそ、俺は騎士として戦わなければならない。騎士としてセイバーの真意を確かめる為、その剣に宿る意思を見極めなければならない。その決意があった。
  我が二本の宝具とセイバーの宝剣がぶつかり合う。
  己の全てを出し尽くし、ただ目の前の敵を葬る為に武器をふるう。
  迷いなき闘志。
  曇りなき剣劇。
  一瞬の気の緩みが敗北を招く心地よい緊張。
  生と死の狭間でありながら、どうしようもなく生の実感を与えてくれる。
  片腕が満足に扱えぬセイバーを押しきれぬ悔しさはあった。しかし、セイバーから伝わる想いがそれを押しのける。
  杞憂だったのだ。
  俺達は騎士として全力で戦える相手を前にして、ただ己の全てをぶつければそれでいい。たとえマスターがそこにいなかったとしても、騎士の決着をつけるのみ。
  ただ―――戦う。
  聖杯戦争が始まってから今に至るまで、おそらくこれほど晴れやかな気持ちは無い。
  今こそ、ただ全力を尽くしてセイバーの首を取る。
  そう思い、我が二本の宝具に全ての思いを乗せ、我が主―――ケイネス殿に聖杯をもたらす為に全力の踏み込みを行った。
  俺に与えられたクラス『ランサー』は最速の英霊でなければ務まらない。つまり敏捷さに限れば、俺はどのサーヴァントにも決して負けない。
  その速さをもってセイバーの首を取る。
  全力で、全身で、全速力で、全身全霊をかけてセイバー目指して駆け抜ける。
  応じる様に前に出るセイバーの姿が見えた。以前、見せた風を後方に打ち出して飛び出す踏み込みではなかったが、その代わりに両腕へ込められた強い魔力を感じる。
  おそらく今まで以上に繊細かつ強力に魔力放出を行い、剣を自由自在に操る算段だ。俺の速さに剣の技術で、『ランサー』の速さに『セイバー』の剣で応じると言うのか。
  面白い。その守り、突破してやろう。
  速く、早く、はやく。ただ、ハヤク。
  最速のサーヴァントが繰り出す魔槍がセイバーの剣の守りを潜り抜けて命を狙う。
  後、ほんの一瞬。ほんの少しの速さを絞り出せば俺の槍はセイバーの命に届く―――。


  そして、銃声が全てを破壊した。


  セイバーとの決着をつける為に全精力を速さに注ぎ込んでいた俺はそれが何の音か気付くまでに若干の時間を必要とした。
  かつて我が主の命を奪おうとした銃撃の前に躍り出て弾丸を弾くのとは状況が違いすぎる。
  だからこそ―――最速のサーヴァントが出遅れるなどと、あり得ない失態を作り出してしまう。
  二発目の銃声を聞いて俺がセイバーから離れ、ソラウ殿を守る為に下がった時は全てが遅かった。全てが終わってしまっていた。何もかもが間に合わなくなってしまった。
  俺の前には地面へと倒れて行くソラウ殿がいた。
  人間を大きく上回る英霊の視力がソラウ殿の傷の深さを―――俺では手の施しようがない重傷だと理解してしまう。
  「ソラウ・・・殿」
  何が起こったのか理解できなかった。いや、理解したくなかった。
  ソラウ殿が攻撃された。しかもそれは他のマスターが使う『魔術』ではなく、セイバーのマスターのみが使用する『銃』によってだ。
  俺は僅かな時間呆けてしまい。そして俺がセイバーに感じていた信頼が全くの偽りだったのだと知る。


  我ら二人が心置きなく雌雄を決する好機・・・。


  俺とセイバーとの戦いに手出しは無用・・・。


  戦いの前に言葉にした確約が脳裏に蘇る。
  目の前にいるこの女は―――騎士を騙り、崇高を演じ、高潔を装いながら、その裏で俺を騙していた。アインツベルンの姫君をマスターと偽り、別行動するマスターによって俺のマスターを攻撃させた。
  何もかもが嘘だったのだ。
  俺がセイバーの剣から感じて信頼も。全盛全霊で行われた一騎打ちも。戦う前に互いに約束した言葉すらも。全てが嘘だった。
  今すぐソラウ殿を助ける為に行動しなければならないと声がする。だがセイバーへの怒りが―――騎士を汚した騎士を騙る偽善者への怒りがその声を押し流す。
  頭の奥から湧く殺意が止められない。
  体を焼く憎悪が止められない。
  地面に崩れ落ちるソラウ殿を支える手を離し、セイバーの方へ振り返った時。俺の体には怒りだけが合った。
  憤怒の形相を浮かべているだろう。騎士にあるまじき感情を曝け出しているだろう。
  だが抑えられない。騎士の名を汚した騎士の王への怒りが収まらない。
  何が騎士か。
  何が騎士の中の騎士、騎士王か。
  そうやって振り返りセイバーを睨みつけた時。カチリ、と、音が聞こえた。
  一瞬後、廃工場の中に響いた銃声より、もっと大きな爆発音が轟く。
  主よ!! そうやってケイネス殿の名を呼ぶよりも先に、俺は音の出所へと駆けていた。
  今のは少し離れた場所で物陰に隠れた何者かが機械のスイッチを押した音だ。そして、音が聞こえてきた箇所はソラウ殿が撃たれた射線上でもあり、間違いなくソラウ殿を狙撃した犯人でもある。
  この先にソラウ殿を銃撃した者がいる、この先にケイネス殿を攻撃した者がいる。この先にセイバーのマスターがいる。
  セイバーの偽りにも怒りを抑えられないが、直接、手を下した者への怒りは軽くそれを凌駕する。
  殺す。殺す。殺す。
  必ず殺す。
  何が何でも殺す。
  誰が相手だろうと絶対に殺す。
  一瞬、横目にセイバーと女が呆然とする姿が見えた。その顔が『何が起こってるか判らない』と言っているように見えたが、そんな筈はない。
  これはセイバーとそのマスター達が仕組んだ策略なのだから。
  二人とも大した役者だ。まさか全力で戦っている剣にまでこの企みを感じさせないとは―――。セイバーと女への感嘆が一瞬だけ浮かび上がるが、すぐにセイバーのマスターへの怒りに押し潰された。
  最速のサーヴァントと名高い『ランサー』。その敏捷さを全開で発揮し、爆発から数秒もかからず俺は犯人の元へと辿り着く。
  廃工場の一角、ガラスも枠すらも無くなった窓から銃身を突き出して構える女がいる。初めて見る顔だ、セイバーのマスターではない。しかしソラウ殿がいた場所に向けられた銃口と、銃を支える手とは反対の手に握られた何かの機械が犯人だと俺に教えた。
  こいつがソラウ殿を、そして我が主を・・・。
  理解するのに一瞬すら必要とせず、攻撃を開始するまでも一瞬で事足りる。
  セイバーのマスターではなかった事実など、最早俺にはどうでもよかった。
 窓枠が合った場所に乗せられた銃身を踏みつけた俺は、銃から手を離して脇に装備しているナイフへと手を伸ばす女に向け、破魔の紅薔薇ゲイ・ジャルグを突き出した。
  手のひらを貫かれて女は苦しげな表情を浮かべるが、この程度で我が主とソラウ殿へ仕出かした罪は消えぬ。
  そのまま死んだ方がマシだと思える責め苦を味わわせてやりたい衝動に駆られたが、怒りの中に残る冷徹な部分がこの女にかける時間の短さと、騎士を貶めたセイバーこそ罰しなければならない相手だと考えさせる。
  だがここで手を休めては俺がここに来た意味をなくす。
  我が主達を傷つけた罪を―――対価を支払、いや『死』払わせなければならない。
  「ぐばっ」
 考えるよりも前に俺の手に握られた必滅の黄薔薇ゲイ・ボウが女の眉間を貫いた。ソラウ殿が味わった苦しみも貴様も味わうといい。
  悲鳴が聞こえるが、それが俺の怒りを余計に膨らませる。
  もう何も言うな。
  悲鳴すら上げるな。
  ただ死ね。
 手のひらと頭、二か所に突き刺さった破魔の紅薔薇ゲイ・ジャルグ必滅の黄薔薇ゲイ・ボウを一気に引きぬいて、俺は無防備な体を曝け出す的に向かって繰り出した。
  突く、突く、突く。
  突いて、突いて、突いて、突いて、突いて、突いて、突いて、突いて、突いて、突いて、突き刺した。
  首の辺りを入念に突き刺せば眉間を貫かれた女の頭は簡単に落ちた。
  胴体を貫けば簡単に心臓を破壊して背中にまで抜ける。
  手も足も体のどこでも、貫いた箇所が無い様に丹念に突き刺してゆく。
 窓際の狭さに多少手間取ったが、最後に破魔の紅薔薇ゲイ・ジャルグを天に掲げ、崩れ落ちそうな工場の天井にぶつかりそうになる前に紅の魔槍を一気に振りおろす。
  頭を失った女の体は左右へと両断され、どれほどの治癒魔術を施しても絶対に蘇られない死体へと作り変えた。そして噴き出た血飛沫を浴びるより前に俺は後ろへと跳躍して距離を取る。
  ソラウ殿を狙撃した女の場所に到達してから今に至るまで十秒もかかっていないが、貴重な時間を浪費してしまったのは紛れもない事実。
  女を殺しても俺の中の怒りは消えるどころか更に燃え上がる。俺を殺すべき敵が待つ場所へと舞い戻らせる。
 血に濡れた二本の魔槍を構え直し、その敵―――セイバーへと向けて破魔の紅薔薇ゲイ・ジャルグを、そして必滅の黄薔薇ゲイ・ボウを繰り出した。
  「赦さん――。俺は断じて貴様らを赦さん!!」
  「止めろ、止めてくれランサー!!」
  俺が来る前まで呆然としていたセイバーだったが、俺の槍が襲いかかってくると反射的に剣を構えて攻撃を防いだ。
  一瞬、俺の槍を弾いたセイバーの顔が見える。その顔がまるで『自分は被害者だ』『何も知らなかった』『自分は悪くない』とでも言わんばかりに悲壮感を漂わせている。
  ふざけるな―――。
  ふざけるな、ふざけるな、ふざけるな!!
  「こんな決着は私の望むものでは――」
  「貴様らはっ、こんな事をして何一つ恥じることもないのかぁぁぁぁぁぁっ!!」
  俺は槍を振るいながらランサーとして召喚されたディルムッド・オディナの冴えが消えているのを理解した。
  怒りに突き動かされた体は『殺す』という結果を求めるあまり逸ってしまい。繰り出してきたフェイントが、二本の槍が作り出してきた自由自在の攻防が、舞の様な軽やかな槍捌きが全て消えている。
  ただセイバーを貫く結果を掴み取ろうと、槍を振り回すだけの稚拙な素人の様な攻撃になってしまっていた。
  ソラウ殿を攻撃した女にはそれでも良かった。けれどセイバーを相手にするには怒り任せに槍を振るっても、剣の守りを突破できない。もちろん尋常ではない速さはあるがセイバーを殺すには圧倒的に技が足りない。
  それを理解して尚、俺の槍は怒りに任せてどんどんと荒くなる。
  そんな逸る気持ちが槍を鈍らせたのかもしれない。
  ソラウ殿が死に、俺が現界する為に必要な魔力供給が無くなって、急速に力が衰えたのかもしれない。
 今の俺には理由を考えられる余裕は全くなかった。判るのは必滅の黄薔薇ゲイ・ボウが折れた。いや、セイバーの剣で斬られた事実だけ。
 俺の繰り出す槍の隙をついて、セイバーの剣はあっさりと必滅の黄薔薇ゲイ・ボウを断ち切ったのだ。
  バキリと音を立てて魔槍が無残に砕ける。
  「あああああああああああっ!!」
 それでも攻撃の手を緩めない。斬られ、宝具としての役目を果たせずに魔力へと霧散していく必滅の黄薔薇ゲイ・ボウを投げ捨て、残る破魔の紅薔薇ゲイ・ジャルグを両手で構えた。
  投げ捨てた黄色の短槍は地面に落下する前に完全に消え去ってしまう。俺の分身と言ってもいい宝具が消え去る感傷は無かい。
  あるのはただ怒りのみ。
  セイバーを殺さなければならない。
  「頼む、止めて――!!」
 まだ何か言おうとするセイバーの心臓めがけて破魔の紅薔薇ゲイ・ジャルグを繰り出す。
  神速の突き。少なくとも今の俺の全てを―――魔力を、力を、怒りを、心を、ありとあらゆる全てをつぎ込んだ捨て身の突きはこれまでにない速度でセイバーへと襲いかかった。
  俺はそう感じた。
 しかし起こった事実はセイバーの心臓を貫く破魔の紅薔薇ゲイ・ジャルグではなく、セイバーの剣が俺の心臓を抉る結果だった。
  何よりもセイバーの真名を表す、アーサー王が持つとされる宝剣、エクスカリバー。ドスッと鈍い音を立て、その剣が俺の胸板を貫いて背中まで突き抜ける。
  サーヴァントとして召喚され、この身は人の肉体とは異なる。だがそれでも心臓が砕かれたのが判った。
  どうやら俺が感じていた最速の突きは俺がそうと自覚しなかっただけで、セイバーに避けられてしまうほど遅いものだったようだ。
  「がはっ・・・」
  吐きだす息と一緒に紅い血が口から吹き出た。これは俺が負けた証明でもある。
  負けた、負けてしまった―――。薄汚い策略を持って我らを陥れ、歴史すら欺いた騎士を騙るこの女に―――、俺は負けてしまった。
  どんどんと体から力が抜けて行くのが判る。
  サーヴァントの形を作る魔力がほどけて行くのが判る。
  消えて行くのが判る。
  これはまだディルムッド・オディナが人の肉体を持っていた時。フィオナ騎士団の首領フィン・マックールが泉からすくった水を二度こぼした時にも似た感覚を味わった。
  『死』だ。
 俺は破魔の紅薔薇ゲイ・ジャルグを避け、俺の懐に飛び込んで剣で突き刺したセイバーへ言葉をぶつける。
  「名利に、憑か、れ・・・。騎士の、誇りを・・・、貶めた。亡者ども、が・・・」
  返答など期待しない。
  もし何か言ったとしても、その全てが偽りであり虚言であり戯言で世迷言で出鱈目なのだ。
  俺はただ言う。いや、呪う。
  残った最後の力を使い、口から溢れる血を吐き捨て、ただ呪う。
  呪って、呪って、呪って、呪って、呪って、呪って、呪って、呪って、呪って、呪って、呪って、呪って、呪って、呪って、呪う。


  「聖杯に呪いあれ! その願望に災いあれ! 貴様らの夢を我が血で穢すがいい!!」


  血涙を流し、最後の力を振り絞って呪いの言葉を告げた後。
  俺は『死』んだ。



  ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆



  Side - アイリスフィール・フォン・アインツベルン





  いったい、私達は何をしてるの?
  聖杯戦争に勝利して聖杯を得ようとするなら、今回の出来事は快勝と言ってもいい。
  ランサーとそのマスターは敗退。傷ついたセイバーの左腕は回復して、これでセイバーの切り札である対城宝具も使えるようになった。
  セイバーに目立った外傷は無く失った魔力も多くない。被害少なく敵の一人を敗退させた。
  けれどセイバーはランサーを倒したくなかった筈。もっと正確にいえば、こんな形での決着など望んでいなかった筈。
  何より『勝利』を収めながら、私の心だって決して晴れやかじゃない。
  この言い様の無い後味の悪さは何だろう?
  胸の中に巣食うもやもやした気持ちは何だろう?
  その理由を知る為に―――そうしなければこの気持ち悪さは拭えそうになかったから、私は必死で考える。
  豹変したランサーからは槍の扱いに関しては素人の私でも判るほど技の冴えが無くなり、攻撃の速度が遅くなっていた。
  精彩を欠いた槍でセイバーに勝つのは不可能。それでも残った力の全てを振り絞ったのか、セイバーはその槍の一撃に応戦するしかなかった。
  殺されない為には殺すしかない。
  もしかしたら、セイバーの体に染みついた『剣の使い方』や『攻撃の避け方』や『敵の殺し方』が本人にそうと意識させない内に攻撃させたのかもしれない。
  意表を突かれて雪玉を投げられた防御しようとするでしょう? 机の上からペンが落ちたら、考える前に取ろうと手を伸ばそうとするでしょう? 熱湯や火に触れてしまったら、すぐに手を離すでしょう?
  そんな類の―――剣の英霊が持つ『危機への反射』がランサーを殺した。私にはそう見えた。
  本当かどうかはセイバーに聞かないと判らないけれど、私はセイバーに声をかけられなかった。あまりにも突然に色々な事態が起こり過ぎて、現状を理解しようとするので精一杯だった。
  セイバーとランサーが戦っていたら、いきなりソラウさんが銃で撃たれた。そして廃工場が爆発して、ランサーが遠くにいる誰かの元へと跳んで、すぐに戻ってきてセイバーと戦って・・・果てた。
  サーヴァントの行動はとても素早く、短時間でたくさんの事が起こってしまった。
  私はランサーを攻撃した誰かを知る為に目を凝らす。そして廃工場の一角が赤く染まっているのを見つけてしまう。
  ランサーが槍で破壊されたのか、それとも元々そうだったのか。元々の窓枠の位置は床よりも高い場所に合ったみたいだけど、その紅さは床よりも低い位置に合って壁の向こう側から滴り落ちている。
  ランサーが攻撃に向かい、そしてすぐに戻って来たけど、その間にはほんの数秒間空きが合った。つまりその間にランサーは誰かを攻撃し、そして殺した。
  怒りに支配されたランサーが撃った人間を放置するとは思えない、たった数秒だったとしてもサーヴァントの早さなら人間なんて簡単に殺せる。
  切嗣だったらどうしよう。
  舞弥さんだったらどうしよう。
  不安に駆られながら、その紅さを凝視する。何もかもを見通すようにしっかりと見つめる。
  そこに合ったのが切嗣の身に着けるコートではなく、舞弥さんの着ていた黒い上着だと気付いた時、安堵と恐怖が一斉に襲いかかってきた。
  切嗣じゃなかった。
  舞弥さんだった。
  でもその舞弥さんが―――ランサーの手で殺された。死体となってそこに転がっている。
  息があればすぐにでも回復魔術を施すのだけれど、舞弥さんは遠目からでも判ってしまう『死』を作り出していた。
  凝視してしまったから私は知ってしまう。
  頭蓋を砕かれ、首を切り落とされ、心臓を破壊され、体の中心から左右へと引き裂かれている。人だった者が紅い血をまき散らす物に変わり果てていた舞弥さんを見てしまう。
  遠くだったので細部までは判らないのだけれど、無残な様子がそこにあるのは嫌でも判る。気のせいでなければ、ほんの僅かだけれど漂ってきた風に血生臭さが混じっている。
  その様子に私は吐き気を抑えられず、両手で口を押さえても胃の中身が喉から逆流してくるのを止められなかった。
  気持ち悪い。
  きもちわるい。
  キモチワルイ。
  聖杯戦争を行うのならば、誰かを殺すのは覚悟してた。それでも思い描いていた『死』とそこにある『死』はあまりにも違いすぎて、目の前がくらくらする。
  セイバーが負った怪我など比べ物にならない存在感。目をそらしても間に合わない圧倒的な『死』、一目見ただけでそれは私の頭の中に入り込んできた。
  目を逸らしたけれど、もう私の中に入ってしまった『久宇舞弥の死』がはっきりと私の中に刻まれた。
  舞弥さんだったモノを見たくなくて、私は他の場所を見る。
  そこには腹部と頭を射抜かれて死んでいるソラウ・ヌァザレ・ソフィアリがいた。
  別の場所にはアインツベルンの城へ攻撃を仕掛けてきた、ケイネス・エルメロイ・アーチボルトらしき物があり。体は原形を留めないばらばらの肉塊になってしまったので、私の目じゃ判別できなかった。
  『死』があった。至る所に人の躯が転がっていた。紅い血を撒き散らし、命を失ったモノが幾つも幾つもあった。
  人が死んだ。殺し、殺された。
  血が私を取り囲んでる。命が私の周りから消えていく。『死』が溢れだす。
  私には蘇生魔術は扱えない。
  だから誰一人として救えない。
  死んでしまった者はただ『死』を作り出し、命を失った亡骸を大地に晒すだけだ。
  「うえぇぇぇっ!」
  気持ち悪かった。
  吐いて、えずいて、嘔吐して。胃の中身を全部吐き出してもまだ止まらず、遂には黄褐色の苦い液体まで口からあふれてくる。
  その酸っぱい臭いがまた吐き気を誘発させて、私の体の中身が全て吐き出されるんじゃないかと思えるほど吐き続けた。
  聖杯戦争が始まる以前、ドイツのアインツベルンの城にいる時から貴婦人として振舞ってきた『私』が崩れていく。ありふれているけれど、これまでふれてこなかった『死』を見せつけられて、私はただ気持ち悪かった。
  地面に膝をついて吐いて吐いて吐き続けて―――そのままどれだけ時間が経過したのか私には判らない。
  ただ言える事は、時間の感覚が無くなるほど長い時間、私は吐き続けた。
  私はこんな事態になった理由を問う相手が欲しかった。けれど、私達の周りには物言わぬ躯だけが転がっているだけで誰も何も答えてくれない、セイバーも黙り込んだまま。
  そしてセイバーは・・・、私が吐き続けている間、ずっと傍にいてくれた。
  「・・・・・・・・・アイリスフィール、大丈夫ですか?」
  「・・・ええ。――少し、落ち着いたわ」
  地面の上に吐瀉物が撒き散らされてとても酷い状態になってる。私は何とか起き上がってそこから距離を取った。
  メルセデス・ベンツ300SLの助手席に乗り込んだのは、どこかに座りたかったから、ドアを閉めて外と内の別空間をそれぞれ隔離したかったから、何よりもこの場を離れる手段を欲したから。そしてこの状況を作り出した切嗣に連絡する為の手段があるから。
  セイバーに支えられながら今にも倒れそうな足取りで私は移動する。ほんの数メートルの距離だったのに、とてもとても長く感じた。
  何とか助手席に乗り込んで深呼吸を何度も何度も何度もする。口に残った酸っぱい臭いがまた吐き気を催すけど、目を瞑ったまま深呼吸を繰り返したおかげで何とか吐かずに済んだ。
  落ち着かなきゃ。こうなるって覚悟してた筈。だから落ち着かなきゃ。
  必死に自分に言い聞かせ、私は心を落ち着かせる。必死に必死に落ち着こうとする。
  その間にセイバーが運転席に乗り込んできてエンジンをかけた。
  「今はこの場を移動します、よろしいですね」
  「・・・・・・・・・お願いするわ」
  「――はい」
  セイバーの言葉は少なかった。だから彼女も舞弥さんの仕出かした事を―――間違いなく切嗣がそうしろと命じた狙撃を意識しているのだとよく判る。
  もし切嗣がここにいたら胸倉を掴んで問い質す位はやったかもしれない。
  でも切嗣はここにいない。居たら、マスターとサーヴァントの間にある魔力の繋がりを頼りに、セイバーが見つける。
  それをしないのはここに居ないから。そして唯一、切嗣が今どこで何をしているか知っているであろう舞弥さんはランサーに殺されてしまった。
  そう―――死んだ。
  殺された。亡くなった。命を喪った。息を引き取った。『死』んだ。
  近くで確認した訳じゃないけど、あそこまでばらばらにされたモノが生きていたら、それは吸血種だと思う。
  もし私に余裕があれば、『死』を見てしまった私が落ちつけていたら、舞弥さんの体を放置せずに一緒に連れて行こうとしたかもしれない。
  でも私にはそんな事考えらない。
  どうしてこんな事になったの? どうしてこんな事をしたの? どうして? その問いの答えを探し求め続けているばかりだから。
  セイバーが運転する間、私は全精力を気持ちを落ち着かせることに費やした。起こった事実の何もかもを見てしまったので、それを理解するのにも充てる必要があったけれど。やっぱり時間の大半は気持ちを落ち着かせるのに使わなければならなかった。
  気が付けばメルセデス・ベンツ300SLは冬木市の郊外にあった廃工場から脱して、冬木市の住宅街の中をゆっくり進んでいた。
  いつの間に移動したの? どれだけ長い時間私は呆けていたの?
  私は周りを見れる余裕がほんの少しだけ戻ってきたので、過ぎ去ってしまった時間の長さに驚く。
  驚けるだけの余裕が戻ってきたのを実感しながらすぐに後部座席に置いておいた切嗣との連絡用にと渡された電話を手に取った。
  何で、あんな事をしたのか聞きたかった。
  何で、あんな手段でセイバーの戦いを邪魔したのか聞きたかった。
  何で、舞弥さんをランサーに殺される状況に放り込んだのか聞きたかった。
  切嗣ならもっと他のやり方だって選べた筈。あんな卑劣な手段を選ばなくても勝てた筈。誰もが満足できる決着のつけ方を用意できた筈。その為にセイバーがいるんだから。
  たくさんの不信が私の中に生まれて切嗣への疑心に変わっていく。
  ねえ切嗣―――あなたは本当に、この世界を救おうとしているの? こんな事を平然とやる貴方は――本当に世界を救えるの? どうか、教えて頂戴!!
  教えられた番号を打ち込むと電話のスピーカーから呼び出し音が流れてきた。
  トゥルルルルルと電子音が鳴り、切嗣が持つ電話と私の電話を繋げようとしてる。
  でもそれだけだった。
  電子音は一定の調子で何度も何度も鳴り響くのだけれど、肝心の切嗣側の電話には誰も出ない。切嗣が意識して出ようとしないのか、それとも電話に出られる状況じゃないのか。
  真っ先に前者を想像した私はそのまま三十回ほど呼び出し音を聞いていたけれど、出る気配がまるでないので呼び出しを切った。
  「・・・・・・出ないのですか?」
  「ええ、そうみたい」
  運転しながら問いかけてくるセイバーへの返答がどうしても弱くなる。
  何度も何度も吐いたから疲れているのもあるのだけれど、問いかけるべき相手がどこにもいないのでどうすればいいか判らなくなってしまったからだと思う。
  私には判らない。
  衛宮切嗣が判らない。
  アインツベルンで共に過ごしてきた夫が判らない。
  ねえ切嗣。あなたには説明の義務があるわ。そうしないと・・・もう私はあなたを信じられない。あなたに聖杯を渡せない。渡したくない。
  会話の無くなった車中。三人の人間の死と一人のサーヴァントの消滅を苗床にして、私の中に新たな決意が生まれていた。





  この時、私は切嗣の戦略に目を奪われ、舞弥さんの『死』に驚いてしまい、喜びの無いランサー陣営への勝利を想い。ある事を見落とした。
  それはランサーが消滅したのならば必ずある筈の事。
  私の体内に封印された『聖杯の器』は敗退したサーヴァントの魂を喰らって正しい機能を発揮する『聖杯』へと変わっていく。その過程で私は人としての機能をどんどん失っていく。
  事実、アサシンがライダーの作り出した固有結界の中で何人も滅ぼされた時、私は人の機能を少し失って、僅かばかりではあるけれど体調不良という形で表れていた。
  その変化がこの時なかった。
  もし切嗣を信じられなくなった私の視野がもう少し広かったら気付けていたかもしれない。
  『聖杯の器』の機能不全。あるいはもっと別の理由。これが何を意味するか考えられたかもしれない。
  でも私は思いつけなかった。
  ランサーの壮絶な最期に、切嗣のやり方に、正義の在り方に、あまりにも多くの他の事に目を奪われ過ぎていたから。
  大切な事を見落としてしまった。



  ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆



  Side - ゴゴ





  ロックの視点で間桐邸の突っ込んできたタンクローリーを捕捉するよりも少し前。間桐邸応接室では剣呑な空気が作り出されていた。
  士郎がいなくなり、応接室の中に大人だけが残った。士郎の両親は自分達がここに来た理由の一端を明かし。士郎を助けて下さってどうもありがとうございます、と言った。
  そして彼らは間桐が冬木市で起こってる連続誘拐殺人事件の犯人と間桐に繋がりがあるのではないかと告げてきた。
  こいつらは馬鹿じゃなかろうか?
  いきなり敵地かもしれない場所に乗り込む気概はなかなか見事だが、戦略的に見れば無謀の一言に尽きる。
  もしかしたら荷物の中に盗聴器でも忍ばせてこちらの会話を外部へと発信するぐらいはやってのけているかもしれない。
  ただ、ここで『怪しんでいる』と明かす真意が判らない。もし、こちらを殺人犯だと怪しんでいながら、それでいて話が通じる相手だとでも思っているのだろうか? もしそう思っているのだとしたら、この二人は詰めが甘いどころではなく、どうしようもない愚か者だ。
  自分の行動を正義だと思っているのなら、その正義に酔いしれているのだろう。
  自分達の子供が蟲蔵で傷つき、壊され、血を流し、泣き叫び、苦しんでいる、なんて想像すらしてないに違いない。もっとも、その凌辱は士郎の頭の中だけの出来事だけれど。
  人格の面でも、戦力の面でも、かなりこちらを甘く見ている。お礼を言われるだけならば単なる一般人として対処してもよかったが、怪しむのならば話は別だ、敵として対処しよう。
  「私達が殺人と誘拐に関わってる・・・ですか? 失礼ですね、あなた達――」
  ティナが語気を荒め、目の前にいる大人二人に話しかける。
  「失礼を言っているのは重々承知してます。ですが私達以外にも被害が出て、それなのに警察は市民に注意を呼びかけるだけで犯人を捕まえてはくれないし、事件も全く収まる様子がありません。私達は切羽詰まってるんです」
  それがどうしてこちらを犯人呼ばわりする話になるのか。
  横にいる雁夜が苛立ちながら二人を見ている。そして士郎の父親は話を続けた。
  「二件目の殺人と誘拐が発覚した時、私達は近くに住む子供を持つ親同士で連絡を取り合って何が起こってるのか調べようとしました」
  「警察にも話を聞きに行きましたし、思い当る節があれば迷いなく行きました。近所の奥さんの中にはわざわざ探偵を雇って調査した人もいます」
  続けて母親の方も話しに加わってくる。
  「それでも何も判らないんです。何度、警察に言っても『今、全力で調べてます』としか言ってくれません。知ろうとしても何も判らなくて、我々は不安で・・・」
  「事件が合った家の御近所の方にも話を聞いたんですけど。その人は犯人を見た覚えがあるって言ったのに特徴や人相を何も覚えてないと支離滅裂で――」
  「まるで意図的に情報が隠されてるように思うんです。『何か』があってそれが私達に何も知られないように動いている。そんな気がしてなりません」
  「それでさっきの話に戻るんですけど、保護された子供の中の何人かが気絶する前にここの間桐臓硯さんによく似た人を見かけたんです。貴方達ならその『何か』に関わってる、私達はそう考えました」
  代わる代わるに話し続けて、士郎の両親は自分達の想いを言葉へと変えていった。
  おそらく『見たのに覚えていない』はキャスターが使う催眠の魔術で記憶そのものを操作されたのだろう。あのキャスター、ジル・ド・レェは虐殺するなら大人よりも子供の方を選ぶ傾向が強いので、見られたけれど運よく難を逃れた可能性はある。
  そもそも警察が本当に調査していたとしても、相手は表の世界に知られないようにされている魔術を何の躊躇いもなく実行できるサーヴァントとその行動に賛同するマスターだ。
  今の冬木市は危険だからと警察官に拳銃の携帯が認められているかもしれないが。セイバーのマスターである衛宮切嗣のように何の躊躇もなく人に向けてそれを撃てる奴は多くない。
  結果を求めるのは勝手だが、その性急さを警察に―――そして間桐に向けるのは筋違いだ。魔術を知らない警察官とて言葉通り全力で職務を全うしているだろう。目の前に巨大な『魔術』という壁があるのに気付かずに。
  急いている二人の話を聞いている内に、彼らの心の中にある想いが少しだけ判る。
  そうかもしれない。
  そうあるべきだ。
  そうに違いない。
  予想だったモノがいつの間にか自分本位な確信に変わるのはそう珍しいではない。大抵の人間は見たくないものからは目を逸らして、自分にとって都合のいいものを多く見る傾向にある。そして上手くいかない状況を他人のせいにする。
  それは時に『正義』と呼ばれる歪で面倒な言葉で飾られる。視野の狭さが作り出す厄介でつまらない人の想いだ。
  この二人はそれに酔っている。
  二人はただ知りたいだけ、知って納得して安全を手にいれたいだけなのだが。その為の方法で『何もしてもいい』と勘違いしている。
  それに気付いていない。
  「貴方達は冬木市で起こってる『何か』について知っている筈。お願いします、何かご存知でしたら教えてください」
  両親が揃って頭を下げるが、それがどれだけ図々しい願いか自覚しているのか。むしろ最初にそれを言うべきだろうと思った。
  自分達の行動に結果を求めるのは悪い事ではない。しかしその余波を『息子を助けてくれた恩人』に対して被せるのはどうだろう。
  これならお礼など言わずに最初から犯人呼ばわりする方がまだマシだ。助けた者と助けられた者の家族、両者の間に繋がりを作ってから話題として出すべきかと考えたのかもしれないが、心証を悪化させるだけだと二人は理解していない。
  ただ落とすより、持ち上げてから叩き落とす方がダメージが多いのだと知らないのか?
  「なるほど・・・・・・」
  雁夜がそう言った頃、蟲蔵の方では混乱の魔法『コンフェ』をかけられた士郎の苦しみが少し増えた。
  同じ間桐邸の中に居ながら、親と子はそれぞれ全く別の状況を作りだしていた。共通しているのはどちらも間桐に不利益しか作り出してない所ぐらいか。
  犯人かもしれないと言いがかりをつけた者達に士郎を預けている。想像力の欠如が状況をさらに悪化させている。結果を求めるあまり滅茶苦茶な行動に出ている。
  士郎の母親が先程告げた支離滅裂はそのまま彼らに返すべき言葉だ。
  自分達が知れない『何か』がこの冬木市にあると想像出来ているのなら、その『何か』が知る必要のない事、あるいは意図的に知らされないように内緒にされて、知ればそれだけで危険に陥るのだと想像出来る筈だ。
  それをしていない。
  冬木市は聖堂教会と魔術協会によって作り上げられた聖杯戦争の舞台であり、警察やマスコミの中にもその力は食い込んでいる。
  だからこそ聖堂教会は魔術を隠匿しながら、それでいてキャスターとそのマスターが起こしている事件を解決しようと動いている。
  もしキャスターが聖杯戦争に招かれたサーヴァントではなくただの魔術師だったならば、すぐに殲滅される。
  けれど彼は自覚の有無は関係なく聖杯戦争の参加者であり、一般人には絶対に知られないようにしなければならない立場にいて、しかも強さで言えば今生の魔術師を大きく上回る。
  あまり成果を発揮していないが、マスター達に令呪一角を報酬としてキャスター討伐に向かわせようとしているのはその為だ。一番早いキャスターへの対抗手段として他のマスター達がいる。
  この二人はそこに足を踏み込んでいる。つまり『何か』に触れる事で死の危険に逆襲されてもおかしくない立場に自分達から近づいている。
  それを理解した上で間桐を犯人あるいはそれに近い者達だと思っているなら、大した自殺志願者だ。『何か』が魔術であり、聖杯戦争であり、ゴゴだと答えを導き出したのは見事だが、士郎含めてこの一家は命がいらないらしい。
  「話はよく判りました」
  深い深いため息を吐いた後―――雁夜が言った。


  「帰れ」


  雁夜から段々『一般人を装っている自分』の殻がはがれつつあり、誰かと殺し合う時に頭の中に渦巻く破壊衝動が顔をのぞかせている。もっとも、鍛錬の時に見せていたその顔がゴゴに向けられたとしても、結局は逆に叩きのめされて終わるのだけれど。
  だが、まだ口調が荒くなった程度で自制できる範囲だ。雁夜の平常心はまだ自分を律して、攻撃するところまで自らを追い込んでいない。
  「そうね、雁夜の言うとおりだわ」
  ティナは言葉で雁夜の背中を押した。
  下手に反論されたり士郎の両親が余計な事を言えば、まだ自制出来ている雁夜が衝動的に殺人をしかねない。
  この辺りで発散させとかないと一瞬後には爆発してもおかしくない。この一年で知った間桐雁夜と言う男には『境界線を越えれば簡単に人を殺す』そんな衝動が確実に存在するのだ。
  魔剣ラグナロクとゴゴの魔法という殺人の為の手段を一年でみっちり教えてしまったので、雁夜はその境界線を越えた時に士郎の両親を簡単に斬り殺すだろう。
  「まず一つ言っておく。俺達は冬木市を騒がせてる連続殺人誘拐事件の犯人じゃないし、犯人とは全く関係ない。爺に似た奴を子供達が見たらしいが、あれは『色素性乾皮症』を患ってる余命幾許もない爺の最後の遊び心で出歩いてるアイツをどっかで見て印象に残っただけだろうが」
  いつから間桐臓硯は―――いやゴゴは残された命があとわずかになったのか? ティナの口から思わず問いかけが飛びそうになったが、雁夜が即興で作った作り話だろうと納得しておく。
  ゴゴが間桐臓硯として出歩くときは『色素性乾皮症』だと話を作ってるのは確かなので、全てが間違っている訳でもない。
  怒れる雁夜の言葉は更に続いた。
  「俺達は地球を救う銀色の巨人か? 七つの力を持った人と同等の感情を持ったロボットか? 十二月にプレゼントを配る伝説の人物か? アイテムで変身して悪と戦う正義の戦士か? 箒で空を飛ぶ魔女か? 人型機動兵器に乗り込んで敵と戦うパイロットか? 冬木に『何か』があって、人に言えない秘密があって俺達がそれを知ってたと仮定して。何で、俺がそれをお前らに言わなきゃいけない」
  雁夜は応接室のソファーから身を乗り出して、体面に座る二人に近付いていく。
  間に机が無かったら接近してそのまま頭突きしたかもしれない。
  「それともあんた等は初対面の相手に『実は私、生後間もなく捨てられた今の両親の養子なんです』とか家庭の中の踏み込んだ話題をいきなる話し始める奇特な人なのか? まだ親しくなってもいない赤の他人同然の奴に自分の抱える事情を何もかも包み隠さず言える人間なのか? 人に秘密を持つなとか言うつもりか。随分と偉いんだな、おい」
  「しかし、士郎が――。それに保護された子供達もあなた達の事を!」
  「関わりが『あるかもしれない』だろ? お礼だけだったら家に上げても良かったんだけどな。憶測で物を言って、しかも公然と侮辱されて腹を立てないほど、俺は人間が出来てないんだよ。ついでに言っておくと、お前らは俺達と同じ単なる一般人としてここに来てる。警察が法律に従って乗り込んでくるのとは訳が違うんだよ。それで世間話を超えて話を聞こうなんざ、何様のつもりだ!?」
  雁夜はそう言いながら拳で机を叩いた。
  普通の人間がただ机を叩くだけなら音が鳴って少し揺れるだけで終わる。
  だが、一年間休みなく修行し続けたおかげで雁夜の腕力は普通の人間よりもかなり強力になっている。そうでなければ普通の金属よりも重い魔剣ラグナロクを扱えない。
  剣の扱いに比べれば素人の域から少し前に進んだ程度だが、念の為に雁夜には無手の戦い方も教えてある。
  一年程度では時間が無かったので剣の腕に比べると圧倒的に劣るが、それでも姿勢のよい突きが机に激突した。
  両断には至らなかったが、それでも机の表面全てに亀裂が走った。
  「ひっ!」
  ここに来てようやく―――危険への覚悟ぐらい間桐邸に来る前に済ませろと思うが―――、ここでようやく士郎の両親は雁夜の激昂に小さな悲鳴を上げる。
  それともこの二人は自分達の思い描いていた『何か』が机の表面を割る程度の軽いものだと思っているのだろうか?
  雁夜にとって都合の悪い展開になりかねないので、ティナは雁夜を追ってソファーから腰を上げて、机に突いた手に両手を添えた。
  「雁夜、落ち着いて」
  「ティナ!?」
  「ここで手を出したら私達もこの失礼な人達と一緒よ。平和的に帰って頂くんだから手は出しちゃ駄目」
  この時点で士郎の両親に対する話を長引かせる意味は無くなっている。
  二人の心の持ちようは一般人の中に合っても異質を思わせる。士郎にもその素質が継がれている可能性は多々あるが、それは『危険の中に容易に踏み込む異端』だ。
  普通から外れるそれは容易いに危険を自らの元へと招き寄せる。これでゴゴの扱う魔法なり、間桐が扱う魔術なりの力があれば物語の主人公にもなれる存在なのだが、生憎と今の段階では一般人よりほんの少しだけ優れているだけだ。
  立ち回りや体重移動から判断すると、どうやら父親の方は少しだけ武道を嗜んでいるようだが、精々がアマチュアのレベルで雁夜にも遠く及ばない。
  もうこの二人に物真似する価値は無い。
  「もう一度言うぞ? とっとと帰れ――」
  ティナの制止で雁夜は何とかソファーに戻り、背もたれに体重を預けて言う。
  敵と認めた相手に礼儀を尽くす必要は殆どなくなったので、尊大に構えた雁夜に合わせてティナもまたソファーに腰を落ち着ける。
  ただし相手が態度を改めたり、たった一言で引き下がるようなら、目の前にいるこの二人は子供をダシにしてまで来ていない。間桐にとっては非常に迷惑なのだが、帰れと言われてすぐ帰る筈もない。
  雁夜の命令に対して応じず、黙り込んでこちらを観察する目で睨んでいた。作り出した沈黙で時間を引き延ばしたいのかもしれないけれど、単なる一般人であっても使える召喚魔法が日本には存在する。
  電話を使って1,1,0。
  「警察に電話するか」
  「そうね、事情を話せば住居侵入罪には訴えられるわ」
  その召喚魔法の内容を言う前に雁夜が察してくれたので、迷いなくそれに同意する。この世界に数多あるモノを物真似し続ける時に手にいれた刑法第130条の知識を使い、補足もしておく。
  ただし、最初に士郎含めて三人を招き入れたのはこちらなので、罪を問いきれない可能性はあるが、あちらの二人に状況を教えればそれでよかった。
  お前らは咎人だ。
  お前たちのやってる事は罪だ、犯罪人だ、悪だ、と。
  この国の法律に則った事実を突きつけ、士郎の両親の顔に驚きが張り付いた正にその時。間桐邸を攻撃する敵の巨大な一撃が巻き起こった。





  ロックがその危険をいち早く察知した時、敵の襲撃としか思えないタンクローリーはもう間桐邸へと衝突する寸前だった。
  一瞬すら必要とせずに雁夜の隣にいたティナが魔法を唱えられたのは、目の前にいる士郎の両親を敵と見なして臨戦態勢を整えていたからだろう。
  もちろん戦う気など全くなかったが、意識していたおかげで素早く行動を起こせた。
  「クイック!!」
  術者の体感時間を極限まで引き上げて、光に近い程の超高速で動く―――ある意味で究極とも呼べる魔法を発動させて、ティナは誰よりも早く行動を起こす。
  再びロックの視点で状況を見つめて、これが事故でない事を確認した。
  その理由は簡単だ。偶然起こした事故であるならば運転席に誰も乗ってないタンクローリーがまっすぐ間桐邸を目指す筈がない。
  門を破壊して間桐邸へと車をぶつける為には間桐邸の前にある道路を九十度曲がらなければならない。少なくとも目に見える範囲で運転する者がいない車がそんな器用な動きをする筈は無い。何かに衝突して偶然曲がる確率は合っても、明らかに間桐邸を狙う軌跡を描いていれば人為的な攻撃と考えるえなければならない。
  そもそも今の間桐邸には敵の襲撃を受ける理由がある。聖杯戦争のマスターである間桐雁夜が籠城しているという大きな理由が。
  ティナは門が破壊された音で驚いている二人―――。士郎の両親はとりあえず放置しておいて、隣にいる雁夜に目を向ける。すると雁夜は音が鳴ると同時に壁際に立てかけておいた魔剣ラグナロクを取りに動いており、あと十数センチの所まで迫っていた。
  あと一秒と経たずにアジャスタケースを手に取って剣を引き抜ける体勢だ。
  何かの異常があれば武器を構えて戦えるようにする。この一年の修行の成果とも呼ぶべき見事な早さを発揮している。
  「凄いね」
  雁夜の実力はゴゴには遠く及ばないし、魔石を使っての戦いならば生来の魔術回路の数と使える魔力の大きさの問題で桜ちゃんですら勝てない。
  それでもたった一年でここまで自分の力を引き上げた意思の強さと胆力は称賛に値する。だからティナは危険が迫っている状況である事を認めながらも、素直にそう言った。
  雁夜とティナとの体感時間は大きく開いているので、囁いた所で雁夜には聞こえていないのが残念だ。そう思ってしまう。
  ほんの少しだけ雁夜の指が動いて、雁夜がミリ秒の移動を続行している。時間は止まっているのではなく確実に動いている中、ティナはこの状況をどうすべきか考えた。
  どうやって事態を収拾するか?
  今も間桐邸は多くの勢力によって監視対象にあり、おそらくキャスターを除くすべての勢力に加えて聖堂教会のスタッフも監視している。表立って何もしてこないのはこちらの戦力を測りかねているのか、突破できる攻撃力が無いのでかき集めている最中なのだろう。
  今回の対処はその監視網に確実に引っかかる。
  これまで見せなかった対処をすれば、それも知られてしまう。
  そして倉庫街でマッシュがやったバトルフィールドを展開させて間桐邸に突っ込んでくるタンクローリーを真正面から受け止めて無傷で終わらせる手もある。バトルフィールドに関しては知られてしまったので方法としては悪くないが、タンクローリーが突っ込んできて爆発すれば確実に警察の捜査の手が入る。
  門が壊されているのに間桐邸そのものは無傷なのだ、あれだけ大きい衝突音なのだから、ご近所にも聞かれて人の目をかき集めるだろう。
  攻撃を仕掛けてきた者の狙いはそんな風に間桐邸に騒動を強制的に持ち込む事ではないだろうか。
  タンクローリーが雁夜を殺せば由。もし不発に終わっても騒動を巻き起こせば、警察が事態を収拾する為に家の中にいる雁夜と応対しなければならない。
  別の見方をすれば『一般人を地雷原を踏み込ませる、または肉の盾にする』だ。
  タンクローリーで堅牢な砦として待ち構えている間桐邸に穴を開ける。魔術によって突破できないのならば、表の世界の常識によって、魔術を隠匿する為にしなければならない事で突破する。
 策を弄する相手は力ずくで突破してくるよりもたちが悪い。物理的な意味ではないが、ある意味でライダーの神威の車輪ゴルディアス・ホイールの突破力を上回る攻撃だ。
  ならばその策を全て破壊する―――。
  タンクローリーは壊して、監視する者達に新しい情報は与えないようにすればいい。
  もう門扉が破壊されているので警察の調べが入るのは避けられないかもしれない。ならば必要最低限にのみ留めよう。
  その為に全てを―――文字通り『全て』を破壊する。
  『クイック』の発動時間内に何をすべきかの結論を出して、許されるべきたった二回の魔法を放つ為にティナは意識を攻撃の為に集中した。
  悔いるべきは対話の為に装備一式を外しているので、ティナが使えるのは魔法だけ。しかもアインツベルンの森で装備していた一回の動作で魔法を二度操れる『ソウルオブサマサ』を身に着けていないので、『クイック』を連続して使う禁じ手とも呼べる技が使えない事だ。
  『クイック』の効果が切れる前に使える魔法で全ての決着をつける。
  魔法を唱える準備を整えつつ、間桐邸を守る為ではなく別の理由によってバトルフィールドを展開していった。
  広く。
  高く。
  大きく。
  間桐邸を監視する使い魔が、人間が、アサシンのサーヴァントが、全ての目がすっぽり収まるほど巨大なバトルフィールドを展開する。
  もしバトルフィールドを視覚的に捉えられる存在がいて、それが遥か遠くから間桐邸を見つめていたら。間桐邸を中心にして半球状の結界が広がっていくのが見えるだろう。
  考えている間とバトルフィールドを展開している間に更に時間は経過していたので、雁夜はさっきよりアジャスタケースに迫っているし、ティナの目から見ても窓の外に迫るタンクローリーが見えていた。
  タンクローリーは市街地の中で存分に助走を取って突っ込ませてきたようだ、速度は確実に百キロ以上出ている。途中で突進に巻き込まれた乗用車がいるかもしれないと思いつつ、今はそれが不要な思考なので排除した。
  今すべき事は行動だけ。求める結果を自らの手に握りしめる為にやり遂げるだけだ。
  「デジョン」
  この世界に来るときに使った次元移動の魔法『デジョン』。結果としてそれが別の星とこの間桐邸を繋ぐに至ったが、元々は移動する為の魔法ではなく追放する為の魔法だ。
  一度そこに入ればもう出られない、次元の狭間に幽閉された命はものまね士ゴゴのような特例を除けばそこで朽ち果てるだろう。
  つまり、一度そこの放り込んでしまえば出ようとする意志のない無機物は二度と出てこれない。
  窓の外―――迫り来るタンクローリーを敵と定め、進行方向に向かって巨大な壁を作り出す。円形ではなく水たまりのようは不定型な形だ、横から見ればタンクローリーが厚みのない黒い壁の中に衝突する様に見える筈。
  運転手が居ても居なくても、高速で迫るタンクローリーにはいきなり現れた別次元への出入り口を避ける術は無い。
  窓一面どころか間桐邸の二階部分にまで届きそうな巨大な黒い穴がタンクローリーを呑み込んでいったく。制限速度の無い一般道の法定速度の時速六十キロでさえ、一秒間で十六メートル以上は進む。迫り来るトラックが間桐邸にぶつかりそうになった時に次元の裂け目が生まれれば、呑み込むまでに一秒もかからない。
  もっとも、その一秒すら『クイック』の影響下に置いては無限に等しい有限だが。
  ゴゴが直接目にした経験は無いがブラックホールに呑まれていくモノはこんな風に穴に喰われに違いない。
  ただ一人、超高速で動くティナは黒い穴の中に呑み込まれていくタンクローリーの影が完全に消えるまでを確認してから、『デジョン』を解除する。
  時限式あるいは遠隔操作でタンクローリーが間桐邸の衝突する前に爆発する可能性は考えてあったがどうやら杞憂だったらしい。
  後は仕上げを行うだけだ。
  タンクローリーが消え、それを呑み込んだ次元の狭間への入り口も消えた。
  残すは間桐邸を見張る不届きな監視の目を誤魔化しつつも警察が余計な介入をしないようにする事。
  たった一つの魔法でそれを実現させる。
  たった一度の攻撃で全てを焼き払い、そしてタンクローリーが間桐邸に衝突して爆発したと思わせる。
  後になればそれが誤解だったと判るが、何をしたか誰も認識できなければ今はそれでいい。
  ティナは半径数キロにまで膨れ上がったバトルフィールドの中にいる敵を認識する。
  使い魔、聖堂教会のスタッフ、アサシンのサーヴァント。それら全てを敵と認識し、それ以外の一般人を全員バトルフィールドの効果によって守る。
  そして味方―――間桐邸の中には分身したゴゴが多数いるが、今はただ術者であるティナ一人だけを味方と認識する。
  事実『戦い』になっているのはティナ一人なので残りの仲間も今は蚊帳の外だ。
  魔法を唱える事よりも、この敵味方の取捨選択こそが今回の最も重要な作業と言える。
  タンクローリーが爆発したであろう状況を再現するのは難しくない。だが、一番適した魔法は敵と味方を全て巻き込む魔法なのだ。無関係の一般人すら巻き込んでしまう危険があるので、集中してバトルフィールド内の隅から隅に至るまで感覚を広げていく。
  敵、敵、敵、味方、敵、敵、敵、敵、敵、敵、味方、敵、敵、敵、敵、敵、敵、敵、敵、味方。
  よくもまあ、これだけの数が間桐邸を見張っているな。といっそ感心するほどの数を一人一人敵と認識する。
  蟲蔵にいる士郎も、目の前にいる彼の両親も敵に定めても良かったのだが、桜ちゃんの願いは今も有効なので、今回だけは敵から除外した。
  狙うは敵。そしてティナ自身。『クイック』の効果がもうすぐ切れるのを実感しながらその魔法を口にする。


  「メルトンッ!!」


  この魔法は炎と風の属性を持った、魔法防御力と魔法回避率を無視する強力な攻撃魔法だ。だが、その代償として攻撃の対象は敵と味方の区別が無く、術者だろうと術者の味方であろうと問答無用で襲いかかる。
  バトルフィールド内にいるティナに敵と認識された者は等しくこの魔法に焼き尽くされる。
  青い空は大地を含めて一瞬にして紅い世界へと変貌し、頬を撫でる風がそのまま敵を焼き尽くす。
  炎に耐性のある者でも余程強力な加護を持たなければ一瞬で燃え尽きる。実際に試した事は無いので予測に過ぎないが、サーヴァントの身でもかなり強力な対魔力スキルを持たなければ凌ぎ切るのは難しい。
  そしてアサシンに限り、捕えた一体を使ってこの魔法よりも威力の弱い炎の魔法『ファイガ』で消滅一歩手前まで踏み込んだのを確認しているので、『メルトン』で確実にアサシンを抹殺できる確信が合った。
  全力で使えば世界を火の海にする事も出来るだろうが、今はバトルフィールド内の敵を殺し尽くすだけだ。下手に全力を出せば、バトルフィールドどころかこの世界に巣食う厄介なヤツを呼び込んでしまう。
  とにかく『メルトン』の炎は風にのって敵の元へと向かって行く。
  誤認せよ。
  錯覚せよ。
  惑わされよ。
  たった一瞬の出来事で、気付いた時にはもはや手遅れだ。監視カメラのように、マスターとサーヴァントの五感同調のように、この一瞬で起こった出来事を外部へと送信する手段があったとしても、その一瞬すら騙してみせよう。
  この紅い世界がタンクローリーの爆発だと思わせよう。
  敵の攻撃は間桐邸に直撃したと思わせよう。
  一般人は気付きもしない一瞬で全てを終わらせよう。
  『メルトン』を唱えてから実際にかかった時間は一秒もない。それでも、ティナはバトルフィールド内にいる全ての敵が焼き尽くされたのを感じ取り、同時に『クイック』の効果が切れたのを確認した。



  ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆



  Side - 間桐雁夜





  「何だっ!?」
  突然、道路の方から爆発音に似た大きな音が聞こえてきたので、俺は咄嗟にアジャスタケースに手を伸ばす。
  もちろん頭の中に合った『襲撃』が俺の体を動かした結果だ。
  危険だと頭で認識するよりも早く体の方を動かさないとゴゴに何度も何度も殺される。この一年で染みついた条件反射なんだが、それは見事に発揮されて俺の手にアジャスタケースを、そしてそこから引き抜いた魔剣ラグナロクを握らせた。
  一番近くに居る敵は士郎の両親二人。ただし、音は外から聞こえて来たので窓の外に何かがいる。
  剣を構えながら俺は即座に外に目をやった。
  だがそこに見えるのは何の変哲もない風景で、異常もなければ襲撃者の姿もない。窓の外を飛ぶ鳥すら見えなかった。
  「何もない・・・のか?」
  思わずそう呟いてしまうと、俺の後ろで誰かが倒れる音がする。
  「え・・・」
  俺が敵と警戒している夫婦の方から呟きは聞こえてきたが、音はそこからではない。音は俺の後ろ、さっきまで座っていたソファーがある場所だ。
  横目でそこを見ると―――呼吸を荒くして体のあちこちに軽い火傷を負ったティナがいた。
  ゴゴの魔法で燃やされた経験は数多いので、火傷の有無は即座に判断できる。ただ、音がする前はティナは紛れもなく無傷の健康体だったので、何かの異常が起こったと考えるしかない。
  俺には何が起こったか判らない。
  でも、確実にゴゴが―――俺の隣にいたティナが『何か』した。ティナはその為に火傷を負い、苦しんでいる。
  ほんの一瞬だけ窓の外に何かが見えた様な気がしたし、紅い閃光が瞬いたようにも見えた。けれど、今は何の変哲もない風景が広がっているだけで異常らしい異常はどこにもない。
  目に見える異常はティナ一人だけだ。
  「ティナ!!」
  あれがゴゴの変身した姿だと理解しながらも、女性が傷ついて倒れている様子を放置できない。俺は魔剣ラグナロクを握りながら、ティナの元へと駆けよる。
  「あ、え? 何が」
  「黙ってろ」
  士郎の父親は突然の事態に何か言おうとするが、今の俺にとっては騒音でしかない。
  何が起こってるか知りたいのだろうけど、それを知りたいのは俺も一緒だ。問われても何も答えられないんだから聞くな。
  判っていてもこの不届き共には答える気は無いけどな。
  「それ・・・剣か? いきなりそんな危ない物を――」
  「それに今の音・・・、まさか士郎に変な事したんじゃ」


  「いいから黙ってろ! こっちはお前らの勝手な探偵ごっごに付き合ってる暇はないんだよ!」


  ついほんの少し前に机を叩き割った時の怒声よりも更に強い意思―――殺意を含ませて激昂すると、二人は息を呑んで黙り込んだ。
  もしかすると俺の手にある剣を警戒しているのかもしれないが、黙ってくれるなら理由は何でもいい。
  「かり、や・・・」
  「おい、ティナ。大丈夫か!?」
  「ちょっと、痛い、かも――」
  「あ、でも何で・・・」
  これじゃあ士郎の両親が聞こうとした事と何も変わらないと思いながら、俺はその言葉を止められなかった。『何が起こってる?』より『何でこうなってる?』という疑問だ。
  ティナの本性はゴゴであり、そのゴゴの力はこの一年で嫌になるほど思い知った。
  だからこそ数多くのサーヴァントを見ても、比較対象をゴゴに据えればその凄さが薄れていく。
  この世界の英霊と呼ばれる者達、それは歴史や伝承に名を残す伝説の超人や偉人で、等しく誰もが強大な霊格の持ち主だ。それを比較対象としてもゴゴの強さが俺には測れない。
  そのゴゴが傷ついている、苦しんでいる、疲労している。ゴゴの姿では少なくともこんな状況一度だって無かった。
  腕が千切れようと足を両断されようと、どう考えても普通の人間なら即死の傷を負ってもゴゴは簡単に起き上がって自らを治してしまう。
  そのゴゴがこうなった理由は何だ? この世界ではゴゴの強さを誰よりもよく知る俺だからこそ、疑問が強烈に浮かぶ。
  「さっきの音だな、あれのせいか?」
  「そう・・・ね」
  肩を抱いて上半身を起こすが、自発的に起き上がろうとする気配は無い。俺が魔剣ラグナロクを持ってない方の手で支えなければ、また崩れ落ちそうだ。
  やはりティナは―――ゴゴは傷つき弱っている。
  益々その理由が何なのか知りたなったんだが、今は『ゴゴをここまで傷つける敵』に意識が向いてそれどころじゃない。
  この応接室から見える風景に何も変化が無いのが逆に危険だ。明らかに『何か』が起こってるのに、俺にはその片鱗すらつかめていない。
  敵が隠密に長けたアサシンだと判った状態で戦った時ですら辛勝だった。これで相手の正体も判らずいきなり間桐邸が戦場になったら、敵を見た途端に俺の首が飛んでも不思議はない。
  どうする?
  何をする?
  今の俺がする最善は何だ?
  迷っていると、廊下の方から足音が聞えてきた。しかもかなり急いているのか、足音を消す気配りなど全くない。
  ほんの数秒でその豪快な足音は応接室にまでやってくる。ノックなく扉が開き、眠る様に目を閉じた士郎の首根っこを掴んで持っているマッシュが現れた。
  「ティナ、雁夜。無事か!!」
  「それは?」
  思わず視線がマッシュの掴んでる士郎に行く。
  扱いが猫だ。
  「ああん? 両親にどうでもいい事吹き込んだ御仕置きに軽く小突いたら寝ちまった。ったく、大人が出てくると色々面倒だから言うなって言っといたのに、何考えてんだこのガキは?」
  荒々しい口調で話すマッシュには俺など比べ物にならない怒気が含まれていて、ゴゴの戦闘経験で恐れや死ぬ事に慣らされてなかったら、何も言えずに屈服しそうになる。
  だが今の俺は違う。
  何度も何度も何度も何度もゴゴに殺されて、色々な事に耐性が出来てる。話し相手が出来たので、少し落ち着けたのも悪くない。
  「なら良かった。こいつ等を士郎と一緒にここから追い出しといてくれないか? 出て行けって言ったのに聞かなくてよ」
  「よし、任せろ。その間にティナの手当てを頼むぞ」
  「へ?」
  どんな騒動が今の間桐邸に起こってるにしても、士郎と両親の三人はもう邪魔者でしかない。
  一般人は居ても邪魔になるだけだ。いるのがマッシュだけで桜ちゃんが居ないのも都合がいい。
  もし桜ちゃんに士郎をまた助けてくれと言われたら、俺には断る選択が無い。例え俺自身が邪魔だと思っても守らなければならなくなる。
  でもいないならその内に排除できる。
  「そんな、まだ私達は聞きたい事が―――」
  「俺達が優しい内にとっとと帰った方が得策だぜおっさん。ほれ、士郎は寝ちまったからあんたが持て」
  応接室に乗り込んだマッシュは、猫のように士郎を軽く扱って父親の腕の中に放り投げる。向こうにとっては俺達から話を聞くのは重要だろうが、せっかく助かった士郎もまた同じかそれ以上に重要の筈。
  本当にマッシュに小突かれて気絶したのかは判らないが、目を覚まさない士郎は会話を断ち切る役目もしてくれた。
  マッシュはそのまま父親と母親のそれぞれの手首を取って力任せに引っ張っていく。
  「ちょ、ちょっと!」
  「痛――離して」
  「その家の奴が帰れと言ったら帰るのが筋だろ。さっさと消えろ」
  あっという間に大人二人分を引きずって退去させるマッシュをありがたく思いながらも、話の流れで告げられた内容を反芻してまた俺は混乱しそうになる。
  マッシュは言った、俺にティナの手当てをしろ、と。
  俺が? 自分の傷ぐらい簡単に治すゴゴを? 治す?
  冗談のような申し出を聞き返せるなら聞き返したい。だがそれを言ったマッシュはもうどこにもいなくて、三人分の影が消えていった扉と遠ざかる悲鳴に似た声が返答できない現状を教えてる。
  本当に俺がやるのか?
  俺に出来るのか?
  ゴゴに攻撃以外の魔法をかけるなんてこの一年間一回もなかった前代未聞の出来事なので、俺は迷って迷って迷い続けて動きを止めてしまう。
  そんな俺の背中を押したのはティナだった。
  「さく、らちゃん・・・が、こんな・・・、風になっても・・・。何も、しな、い・・・つも、り?」
  「ふざけるな、やるに決まってるだろ!」
  桜ちゃんを引き合いに出されれば俺は応えるしかない。
  ティナの言葉で俺は傍にいるであろう異常と敵の事はとりあえず横に置いて、まずティナを治すことを優先させる。
  ティナ―――いや、ゴゴは間桐邸の最大戦力であり最大の防御力でもある。聖杯戦争のサーヴァントと同じで、サーヴァントの敗退はそのままマスターの敗退と同義だ。
  今更ながらここで俺はようやく『敵が来たらバーサーカーに相手をさせる』と俺に出来る方法に思い当れた。
  ゴゴが負傷するなんて事態に陥って余程混乱してたみたいだ。
  敵が迫る可能性も考慮してバーサーカーをすぐに実体化させるように準備と整える。同時に、俺の手に体を預けているティナに回復の魔法をかける為に意識を集中した。
  こいつはゴゴなんだけどティナでもある。
  物真似している時はその当人になっているので、ゴゴなんだけどやっぱりティナ・ブランフォードなんだ。
  つまり女性だ。
  回復魔法は不得手で、ゴゴが軽く使ってしまう最上位回復魔法など全く使えない。出来るのは中級、それも限りなく初級に近く、魔力操作も怪しげな魔法だけ。
  敵を殺す為の術を身につける為の修行ばかりした弊害だ。
  それでも俺はティナを治す為にその魔法を唱える。正直、どれだけ効果があるか判らないが、今の俺に出来る最大の魔法はこれしかない。
  「・・・ケアルラ」
  エメラルドグリーンとしか言いようのない燐光が輝き、ティナの体を覆っていく。
  ほんの一瞬の輝きだったが、それでも効果はある筈。
  多分―――。
  俺は俺自身を鍛える為に修行し続けて来て、戦い続ける為に自分を回復させたことはこれまでに何度もある。けれど、修行相手のゴゴは自分の傷は勝手に自分で治すし、時に俺自身よりも俺の体を完璧に回復してみせる。
  桜ちゃんが怪我する様な事態はこの一年起こってないので、誰かに回復魔法をかける状況そのものが初めてだ。
  いつもは自分に使う魔法が他人に効果を発揮するのか? 俺の不安を余所に光はとっとと消えてしまい、そこには見た目が全く変わってないティナがいる。体のあちこちに刻まれた火傷の跡は全く消えてない。
  「すこし、楽に、なって来たわ――」
  それでも俺の手の支えが不要になるぐらい回復したらしい。
  見た目は痛そうだが、全体重を俺の手に預けていた状態から上半身を起こしてソファーに座り直す余裕があった。
  座る感触を確かめ直すティナに向けて俺は言う。
  「改めて聞くが、何が合ったんだ?」
  「・・・敵が仕掛けて来たの。雁夜にも桜ちゃんにも言ってる時間が無かったから私が対処したわ。でもそのお陰で魔力がかなり消耗しちゃって・・・。ありがとうね、助かったわ」
  「ああ」
  「詳しくは後で話すんだけど、色々やっちゃって間桐邸の周りから監視の目が全部消えてるの。丁度いいから今から戦場に出るから準備して。ぐずぐずしてたらまた使い魔たちがここに殺到する」
  「何っ!?」
  「状況が大きく変わったの。だから話は後。念の為、ゴゴがここに残るけど全員で一斉に出るわ」
  「・・・・・・・・・・・・・・・」





  いきなりの出陣宣言に驚きながらも、俺は指示に従った。反対しなかったのは俺が知らない『何か』をティナは知っていて、それを知った上で判断した結果だ。
  思考放棄とも言えるが。起こった『何か』を知らない状態では俺は正否すら判断出来ない。だからその『何か』を知る為にもティナに従った。
  その後、落ち着いてから話をする機会が得られたので、俺はティナを瀕死にさせたのがティナ自身の魔法だったと聞けたのだけれど―――そこで一気に脱力する羽目になる。
  確かにゴゴ自身ならゴゴを物理的に陥れるのは可能だ。
  納得するけど何だかもやもやする。
  ティナが俺も気付かない内に使った『メルトン』の話を一年間全くしなかったのは、間桐の属性が『水』であり、炎と風の二重属性の魔法は一年程度の短期間じゃどうやって体得出来ないからだとか。
  ただし、『メルトン』の話に聞いた後で俺が思ったのは―――何だその自分も敵も一緒に攻撃する自爆技は!? と、そんな強い排斥だった。
  威力は俺が使う氷魔法『ブリザガ』より桁違いの威力らしいが、自分を含めた味方全員が痛みを負うなら覚える気すら起きない。敵と味方も巻き込む魔法なら、狙いを誤れば俺が桜ちゃんを魔法で攻撃する危険があるって事だ。
  そんな魔法は使えない。
  そんな技は使いたくない。
  そんな危険は知りたくない。
  だからこそゴゴは俺にこの魔法の話をしなかったんだろう。
  またもやもやした。
  『メルトン』を聞いて、敵の攻撃じゃなかった安堵があり。自分に痛みが伴う魔法を承知の上で使うゴゴの躊躇いの無さに恐怖した。
  やはりゴゴは俺の予想をはるかに上回る行動を起こす。改めてそれを思い知った一幕だ。
  その後、タンクローリーの話しを聞いて、門が破壊された理由も知ったが。ゴゴが自分を巻き込んで監視の目を全て一掃した話に比べれば大して驚かない。
  ただし、遠坂邸もまた間桐邸と同様にタンクローリーの襲撃を受けたと聞いた時はかなり驚いたが―――。
  こうして俺達は留守番に残ったゴゴ―――表向きは間桐臓硯を装って間違いなく訪れるであろう警察の応対をする一人を残し、戦場へと踏み出した。



[31538] 第32話 『ウェイバー・ベルベットは幻想種を目の当たりにする』
Name: マンガ男◆da666e53 ID:b514f5ac
Date: 2013/08/25 16:27
  第32話 『ウェイバー・ベルベットは幻想種を目の当たりにする』



  ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆



  Side - ゴゴ





  間桐邸を中心にしてティナが展開したバトルフィールド。そして、バトルフィールド内に巣食う敵は炎と風の二重属性、しかも魔法防御力と魔法回避率を無視する魔法『メルトン』で一掃された。
  アサシンを除いて他のマスターおよびサーヴァントの姿は確認できなかったが、死角に潜む使い魔の群れと聖堂教会から派遣され、実質、言峰璃正の私兵として行動していたスタッフもまた消滅した。
  つまり人を殺した訳だ。
  だがゴゴにとってそんな事は『敵を倒す』以上の意味を持たず、殺人への罪悪感など欠片も湧きあがらない。
  ゴゴ達が使う魔法は術者が持つ魔力―――この場合は『一度の魔法に込められる威力』の略称で『魔力』が強ければ強いほどに破壊力を増す。回復できる威力もまたそれに匹敵するので単純に壊すだけが魔力の真骨頂ではないが、アサシン程度の対魔力など簡単に突破して焼き尽くし。
  暗殺者の英霊ですら死ぬのだ、人間などひとたまりもない。
  燃やし尽くされて消滅した中には張り込み中の刑事を彷彿させる自動車での監視を行う者もいた。後部座席の窓にスモークフィルムを張り付けて車外から見え辛くして監視を行う者。大型ワゴン車に大勢で乗り込んで、旅行者を装って冬木市を観光していると見せかけて間桐邸を監視する者。
  誰も彼もが等しく灰も残さず焼け死んだが、とにかく色々なパターンが合った。
  近隣の住人が音に気付いて見に来るよりも前にその内の一台―――、大型ワゴン車を拝借して間桐邸まで運びいれる。
  ゴゴはかつて仲間と一緒に戦って世界を一つ救った。
  その時。ケフカを倒して瓦礫の塔が崩壊した時。自分の数倍もある大きながれきをマッシュは受け止め、支え、放り投げた。
  大型とは言え、車一台程度運べなくてどうするのか? 敵はサーヴァントとして召喚された英霊だ、彼らと互角に相対するならその程度は軽くやってのけなければならない。
  ゴゴは、いや、マッシュは力ずくでその大型ワゴン車を一台引きずって間桐邸に押し込み、門扉を破壊して出来たであろう凹みを体当たりで作り出す。
  後はブレーキをかけて間桐邸そのものにぶつかる前に静止したような位置に置いておけば、あたかも『聖堂教会のスタッフが運転する車が操作を誤って間桐邸に突っ込んだ』と見える状況になる。
  運転者がいないのは事故を恐れて逃げた為。そういう、魔術とは関係なく、運転者のいないタンクローリーが突っ込んできた悪意ある状況もない。表の世界でも普通に起こりえる可能性を作り上げた。
  これは悪意を持って行われた事件ではない。単なる事故に過ぎないのだ。
 間桐邸からの出陣準備を整えると同時に表向きの体裁を整える。こういう場合、アサシンの宝具『妄想幻像ザバーニーヤ』で人出が増やせるのが非常にありがたい。
  別の事をやりながら他の場所にも意識を飛ばせるのだから―――。





  冬木市の監視には101匹に増えたミシディアうさぎにほぼ任せているが、重要な監視対象には他よりも多くのミシディアうさぎを配備している。これは見つからないように万全の注意を行いながらも、監視対象を決して逃がさないようにする配慮だ。
  その中の数匹が燃え盛る遠坂邸を見つめていた。
  ゴゴはその視界を通して、同じものを見ている。
  ほぼ間違いなく衛宮切嗣の仕業であろうタンクローリーの突貫によって、巡航ミサイルに匹敵する強烈な爆風が遠坂邸の結界を一撃で吹き飛ばした。
  もちろん遠坂邸の結界が外敵―――この場合はタンクローリーだが。敵を破壊する為にタンクローリーが結界に入ると同時に反応して、繰り出された数多の魔術がタンクローリーを破壊しようとしたが、自発的な爆発までは抑えられなかった。
  むしろ遠坂時臣の属性と得意とする魔術が『火』であったのが大きな問題と言える。
  結界が繰り出した魔術の中には侵入者を焼き尽くすであろう強力な炎の魔術もあり、それがタンクローリーの爆発を招いたからだ。
  衛宮切嗣が遠坂時臣の魔術まで考えてタンクローリーの中に可燃性物質をたっぷり入れていたのかは確かめる術がないが、相性の悪さは結果が証明している。
  魔術と全く関係のないタンクローリーを引き換えにして、魔術的な要塞と化していた遠坂邸の結界を破壊した。
  結界を作る為に庭に配置されていた要石は言うに及ばず、タンクローリーが爆発した位置に面している遠坂邸の窓と言う窓は全て爆風によって吹き飛んでいる。壁も大部分が砕けるか凹んでいた。
  火の魔術を得意とするが故に遠坂邸そのものは形を保っており、タンクローリーから生まれた炎の嵐にも耐えているが、窓が無くなって内側に火が入り込んでいるので、焼け落ちる未来が容易に想像できる。
  おそらくこのまま何もしなければ一時間と経たずに遠坂邸は全焼して、地下にあると思われる遠坂の工房も使い物にならなくなる。
  聖杯戦争は原則として人目のつかない夜間に行われる。だがそれはあくまで魔術の秘匿が大原則にあるからで、魔術が知られなければ昼に攻撃するのは別に聖杯戦争のルール違反とはならない。
  周囲の配慮を全く考慮していないが、魔術の隠匿と言う意味ではタンクローリーは見事な攻撃だ。
  金銭の問題で実現可能かどうかは別にして、一般人でも考えられる攻撃方法に対処しきれない遠坂時臣の失念だ。
  ミシディアうさぎの目は聖杯戦争の裏をかいた攻撃に思いっきり晒された遠坂邸、そして燃え広がる炎の中に悠然とたたずむ黄金のサーヴァントを捉えていた。
  「あの程度の攻撃すら避けられぬとはな」
  言うまでもなく遠坂時臣のサーヴァント、アーチャーだ。
  アーチャーは傲岸不遜が人の形を保っているようなサーヴァントで、騎士王のセイバーと征服王のライダーと同じく王を自称している。
  サーヴァントがこの世界の英霊であり、今から未来の英霊でなければその正体はほぼ確定している。
  人類最古の王にして、世界の全てを手中に収めた英雄王。古代メソポタミア、シュメール初期王朝時代のウルク第一王朝の王、ギルガメッシュであろう。
  ただしゴゴにとって重要なのはアーチャーの正体ではなく、タンクローリーの爆発で遠坂邸の外壁に叩き付けられた遠坂時臣を見下している状況そのものである。
  人が作り出した炎や煙やガスなどサーヴァントの身には何の影響もないのか、炎の中でもアーチャーは普通に話している。
  その足元には気絶したのか即死したか。アーチャーの言葉に全う応じず、ピクリとも動かない遠坂時臣がいる。
  タンクローリーの衝突と同時に魔術を発動したのか、それとも予め服に防御の魔術を仕込んでおいたのか。赤いスーツは炎の中でも原形を留め、まだ『遠坂時臣』としての形を保っていた。
  普通の人間ならアーチャーが話しかけるより前に火だるまになっている。
  「時臣よ、やはりお前の仮説は間違っていたようだ――。『遠坂に聖杯を渡す為、二人分の令呪を与える』、などと吐いたらしいな。この様でよく言えたものよ」
  アーチャーの宝具から聖杯問答で酒器が出て来たのを考えると、おそらくあの宝具の中にあるのは武器だけではない。『酒も剣も、我が宝物庫には至高の財しかありえない』そう語っていたので、おそらく遠坂時臣の傷を癒す宝もあるだろう。
  けれどアーチャーは遠坂時臣を助けるつもりはないように見える。
  まだ令呪の縛りはアーチャーを束縛しているが、それも爆発の衝撃で遠坂邸まで吹き飛ばされた時臣の命が尽きればそこで終わる。このまま炎の中に放置すれば遠坂時臣は焼け死ぬか窒息して死に、アーチャーはマスターを失う事になる。
  それでも構わないと思わせる状況だ。
  アーチャーはもう新たなマスターに目星をつけているのか、それともアーチャーのクラスに与えられた特殊スキル、『単独行動』で残った時間を存分に楽しむつもりか。
  前者だとしたら、それは間違いなく言峰綺礼になる。後者はアーチャーらしからぬ行動なので、やはり残った時間で言峰綺礼を新たなマスターにするつもりだろう。
  言峰綺礼とアサシンとの主従契約はまだあるが。アーチャーならば、アサシンが言峰綺礼のサーヴァントだろうと、全てを殺すぐらい簡単にやってのける。
  召喚されたサーヴァントでありながらも、何者の束縛も受けない。正しく『人類最古の王』の威厳によって自分以外の全てを罰していくに違いない。
  「この程度で死ぬ輩には最早興味はない。このまま朽ち果てるがよい」
  アーチャーはそう言うと、マスターである筈の遠坂時臣に触れる事もなく黄金の粒子になって消えていった。
  サーヴァント消滅とも見えなくもないが、霊体化して遠坂邸を出発しただけだ。
  聖杯に召喚されたサーヴァントである事実は消えないので、魔力を追えばアーチャーがどこに向かうかは判る。しかし今気にすべきは炎の中に横たわる遠坂時臣だ。
  気絶しているなら新しい魔術が使えず、炎に炙られて死ぬのは間違いない。ミシディアうさぎと同じようにタンクローリーの爆風にも耐え抜いた根性のある使い魔が遠坂時臣と燃えてゆく遠坂邸を見張っているが、助け出そうとする者は皆無だ。
  セイバー、アーチャー、ランサー。強力なクラスとされるこの三人のサーヴァントは総称して『三騎士』とも呼ばれるので、マスターが死して敗退してくれるのならば確実に放置する。
  事実、今では演技だったと判明しているが、聖杯戦争の初戦でアサシンが遠坂邸に潜入した時は誰も邪魔をしなかった。
  自陣の消耗なく、勝手に敵が死んでくれるのだ。聖杯戦争の関係者がここで遠坂時臣を助けるのは、最初から味方だった場合か、事情がある場合に限られる。
  ゴゴは後者だ。
  この場合の前者、つまり味方である言峰綺礼とアサシンがこの場に居れば遠坂時臣を助け出すが、生憎、遠坂邸を見張るアサシンは一人もいない。
  それもその筈、遠坂時臣と言峰綺礼は結託しているのでアサシンの味方を見張らせる意味が無い。そして残ったアサシンの大半は間桐邸を見張り、間桐雁夜に協力しているゴゴの全勢力を見極めようと躍起になっている。
  ただしそのアサシンも全てティナが唱えた『メルトン』によって跡形もなく消滅させられてしまい。当初の数十人から数を減らし、残るアサシンは片手で数えられる程度の人数しか残っていない。
  自らのサーヴァントには見限られ。助けてくれる仲間は近くにいない。
  遠坂邸が燃えているのに気がついた近隣の住人が救急に電話連絡したとしても、到着して救助するまでには時間がかかる。消防車と救急車はやって来るだろうが、その間に遠坂時臣が焼死する可能性は非常に高い。アーチャーもそう思ったから何もせずに放置したのだろう。
  このままでは死ぬ。契約によって結ばれたアーチャーこそが誰よりも理解したに違いない。
  今のままでは遠坂時臣が死んでしまう。
  遠坂時臣の意識がこの世界から消えてしまう。
  遠坂桜を救うための最も重要な因子が居なくなってしまう。
  この状況はものまね士ゴゴに間桐雁夜の目的を物真似させない敵だ。
  しかしゴゴもまた遠坂邸にいない。いるのはゴゴの目となっているミシディアうさぎだけ。
  「行け――」
  故にゴゴはそう命じた。どこかにいるゴゴが間違いなく言葉を発した。
  わざわざ声に出さなくてもミシディアうさぎとの間には魔力によって繋がりが出来ており、頭の中で意思を伝えるだけでミシディアうさぎを動かすのは可能。それでも言わずにはいられなかった。
  動揺しているのか? 物真似を邪魔する敵に報復しようとしているのか? 苛立っているのか? 決意を新たに作り直そうとしているのか? 自分自身のことながら、声を出した理由が理解できなかった。
  ただ判っている事もある。
  ここで遠坂時臣を死なせてはならない。
  殺してはならない。
  生かさなければならない。
  桜ちゃんを救うものまねの為に―――。
  全てのミシディアうさぎは監視を円滑に行う為にゴゴに透明化の魔法『バニシュ』をかけられているので、遠坂邸を見張る他の監視者に存在を気取られはしない。
  だが遠坂時臣を助ける為に行動すれば、透明になった『何か』がいると敵に知られてしまう。それは警戒を強める意味で知られたくないのだが、今は仕方のない事だと割り切った。
  遠坂邸を見張っていたミシディアうさぎは計五匹。冬木市に散らばったミシディアうさぎ達の中では一割にも達しないが、それでも一ヶ所を監視する目としては多い。
  それだけゴゴの目的を達する為には遠坂邸が重要な箇所になっていると言う意味でもあるのだが、遠坂時臣を救うためには圧倒的に数が足りない。
  ミシディアうさぎ達はゴゴの魔力によって作り出された疑似生命体であり、強弱の違いが合っても三闘神に同列だ。それでも姿形が『うさぎ』である事実は覆しようが無く、五匹では遠坂時臣を運ぶ労力とはならない。
  そしてミシディアうさぎに人を治癒する力は合っても、死者蘇生を可能にするほど強力なものでもない。
  圧倒的な力不足。ゴゴは逸る気持ちを抑えながら、ミシディアうさぎに命じるのとは別に遊撃隊のような位置付けで冬木市を巡回させていたストラゴスとリルムのコンビに遠坂邸に向かうように言葉を送る。
  「やれやれ。若者はせっかちでいかんゾイ。こんな真昼間に仕掛けんでもいいじゃろうて」
  「早く行こ、おじいちゃん」
  二人は軽口を叩きながらも事の重大さと時間の無さを瞬時に理解する。すぐに二人はどれだけ走っても疲労しなくなるアクセサリ『ダッシューズ』を腕に付けた。
  そして互いに『バニシュ』をかけ、疲れを知らずに走り続ける状況を周囲から見咎められなくする。
  目指すは遠坂邸だ。
  状況を確認し合う時間すら惜しく、二人はただ走る。
  ゴゴはそんな二人の状況を確認しつつ、再び意識を遠坂邸のミシディアうさぎへと移す。同調した視界が見せるのは燃え盛る炎であり、爆発したタンクローリーの残骸であり、今にも炎への耐性が敗北して全焼しそうな遠坂邸であり、横たわったまま全く動かない遠坂時臣だ。
  間近で見るとよく判るのだが、タンクローリーに積まれていた可燃性の物質の中には液体部分と気化した部分の両方があったようで。ガソリンかそれとも他の何かが遠坂時臣にこびり付いている燃え続けている。
  炎に炙られ続けて呼吸すら満足に出来ないにもかかわらず遠坂時臣が苦しむ様子は無い。
  生きたまま焼かれているのに苦しんでいない―――痛みを上回る失神か、あるいは死んだか。
  強大な力を有しているゴゴでも出来ない事は存在する。その中の一つに『失われた命は戻せない』がある。雁夜は何度も死んで蘇ってゴゴに殺されて生き返らせられてを繰り返してきたが、それは完全に死んだ状態に到達する前にゴゴの力で現世へと引き戻しているからだ。
  老衰で死んだ者を生き返らせることはできない。
  魂を失った人間を元の人格で蘇らせることはできない。
  数千年前に死んで、保管されたミイラを元の人間に戻すことはできない。
  あるいはこの世界の魔術を更に深く知っていけば、今まで不可能だった寿命の延長や完全な死者の蘇生すら行えるようになるかもしれないが、現段階は不可能だ。
  よって遠坂時臣が完全に死んでしまえば蘇らせなくなる。
  死なせてはならない。生かさなければならない。まだ聞くべき事はこいつにはある!
  「むぐむぐ?」
  「むぐむぐ!」
  「むぐ~」
  ゴゴが物真似すべき目的を達成する為、ミシディアうさぎは特有の鳴き声を発しながら遠坂時臣に接触した。
  短い前足で突いてみるが、やはり遠坂時臣が動く気配は無い。耳元に近づいて鳴いてみても、微動だにしない。
  躯のように横たわるだけだ。
  五匹のミシディアうさぎは自分達の力不足を理解しながらも、遠坂時臣の両手両足と頭を前足で挟み込んで運ぼうとした。
  「むぐー、むぐっ!」
  「むぐー、むぐっ!」
  「むぐー、むぐっ!」
  ミシディアうさぎ達はオーエス、オーエスと掛け声のように聞こえる声をあげながら、遠坂時臣を引っ張ろうとする。けれどミシディアうさぎ達の大きさでは意識の無い成人男性一人分を運ぶのは大変な重労働で、数秒経った後で十センチも動いていなかった。
  その間にも遠坂時臣と邸宅を一緒に焼き尽くそうとする炎は更に威力を増し。ゴゴが魔力を送り続けなければ、ミシディアうさぎは焼かれて消滅してしまいそうだ。
  遠坂邸の結界がまだ残っているのか、それとも遠坂時臣自身の魔術効果か。物理的な攻撃なら何でも透過する『バニシュ』の効果を乗り越えて炎がミシディアうさぎ達に襲い掛かってくる。
  簡単に燃えてしまう帽子とマント、ウサギの白い体毛もまた燃え易く、常にゴゴがミシディアうさぎを形作る為の魔力を供給し続けなければ、あっという間に焼き兎が五匹出来上がるだろう。
  「むぐー、むぐっ!」
  「むぐー、むぐっ!」
  ゴゴからの魔力援助を受けながら、遠坂時臣を爆心地のタンクローリーから少しでも遠ざける為に、遠坂邸の中へと引っ張っていくミシディアうさぎ達。
  炎は邸宅の中にも入りこんでいるが、外よりは若干マシだ。
  引っ張りながらミシディアうさぎが持つ対象者の生命力を回復させる能力を発揮し、毒・暗闇・睡眠状態を治癒させる能力もまた存分に振るう。ゴゴが使う回復魔法に比べたら微々たるものだが遠坂時臣を生かす為に出来る手段は全て使う。
  ミシディアうさぎ達も遠坂時臣と同じかそれ以上に焼かれる苦しみを味わっているだろうが、今、遠坂時臣を救えるのは彼らしかいない。
  傍目から見ると目に見えない何かが遠坂時臣を引っ張っているポルターガイスト現象か、念力のような光景だ。
  後はストラゴスとリルムが遠坂邸に到着するまで遠坂時臣がゴゴの力で生き返らせられる状態を維持できるのを願うのみ。
  ゴゴはまた別の場所に意識を飛ばした。



  ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆



  Side - ウェイバー・ベルベット





  僕は何が起こっているか判らなかった。
  だけどすぐにそれが異常だって理解できた。
  だって僕の体は凍ったみたいに動かないのに、考える時間だけはおかしくなる程沢山あったから。
  まるで自分の周りだけ時間がゆっくり流れる様な。でも時は止まってなくて僕たちの危機は確実に迫ってる。僕の目はその危険をしっかりと見つめて、僕の頭はそれが敵の攻撃だってちゃんと理解できた。
  話だけには聞いていて、知った時には『時間操作』の魔術で同じ現象が起こせるんじゃないかって考えてのを覚えてる。本当に自分がこんな体験をするなんて夢にも思わなかった。だけど間違いなく僕は味わってた。
  僕が『死ぬ』って思った一瞬、時間がものすごく遅くなって思考だけが物凄く早くなった。
  今こうして考えている間にも危機が迫ってるのに、一瞬の間に僕はたくさんの事を考えてる、見てる、感じてる、思ってる。
  僕は見た。
  タンクローリーがアーケードの人を何人も何人も吹き飛ばして僕たちに向かってくるのを。
  僕は見た。
  沢山の人が撥ねられて腕が変な方向に曲がったり、足が千切れそうだったり、人から紅い血が飛び散るのを。
  僕は見た。
  僕と同じようにタンクローリーを見た瞬間、ライダーが僕の前に出るのを。
  マッケンジー夫人に淡い色のカーディガンとズボンを買ってもらったサンは今も僕にしがみ付いてる。前に出た大きな背中が僕たちを守ってる。僕とサンを守ってる。
  「ライダー!?」
  魔術の秘匿とか、聖杯戦争のクラス名だとか、アレクセイの偽名とか、そんな事は全然考えないで僕は叫んだ。
  これまで酷くゆっくりに思えていた周囲の光景が僕の声で元の速さに戻っていく。違う、これは僕がただそう感じてるだけで、時の流れは何も変わってない。
  隙間から見えるとんでもない速度で僕たちに向かって突進してくるタンクローリー。
  両手を大きく広げてそのタンクローリーを受け止めようとするライダーの背中。
  ほんの十分前には無かった闘争の空気。聖杯戦争が冬木市に作り出す戦いの狂騒。
  ライダーの両手がタンクローリーの前にぶつかった後。タンクローリーが爆発した。





  「ウェイバー殿!!」
  「・・・・・・・・・へっ!?」
  呼びかけられた声に間抜けな返事をした時、僕の目の前は真っ暗になってた。僕が目を瞑ってたから何も見えないのだと気付くまで少しだけ時間がかかったけど、とにかく誰かが僕の名前を呼んでいる。
  サンを庇いながら地面に出来るだけ身を屈めたような気がするし、一瞬だけ太陽みたいな強烈な光が飛び込んできたから目を瞑ったような気もする。
  でも、何が起こったのか判らない。
  ライダーは?
  タンクローリーは?
  サンは?
  この声は誰の声?
  開いた目に飛び込んできたのはアーケードの歩道にある白い塗装だった。僕はしがみ付いてたサンを抱きしめたまま俯いてる筈なんだけど、有る筈のものが何もない。
  「え・・・・・・」
  「ほほう、こりゃ面白い」
  すぐ近くからライダーの声が聞えてきた、僕は腕の中にあるサンの感触と彼女が無事なのを願いつつ振り向く。
  そして―――アーケードの歩道まで乗り上げた所で原形を留めないで爆発したタンクローリーだったモノを見つける。
  「え――。え、えっ!?」
  キロではなくトンの液体を搭載出来るタンクローリーのタンクの部分が内側から破裂したみたいに広がって、タイヤと車の底の部分が辛うじて原形をとどめてるけど、誰がどう見ても『元タンクローリー』になった無残な姿だった。
  でも僕が驚いてるのはそこじゃない。
  タンクローリーが爆発して中にあったガソリンと思わしき液体が辺り一面に散らばってる。
  しかも爆発で僕の近くのアーケードに火も一緒に飛び散ったらしく、視界のどこでも火、火、火、火、火、火、火。
  燃えてない箇所を見つける方が難しい炎の地獄が広がってた。
  僕はそれを手を伸ばせば触れられる位置で見てる。
  「おい、坊主、さっさと目を開けて周りを見ろ。こんな体験、中々出来るものではないぞ」
  「あぇ・・・・・・?」
  聞こえてくるライダーの声に導かれて、僕はより強く周囲を観察した。そこで更なる異常に気付く。
  突っ込んできたタンクローリーは僕のすぐ近くで止まってる。しかも運転席の部分に二か所の凹みが出来ていた、残骸しか残ってないからこそ、それがライダーの手形だって判った。
  なのに、タンクローリーを腕力で止めたライダーの姿がどこにも無い。
  間違いなく僕とサンを守る為に前に出たのに、僕の腰の太さぐらいはあるんじゃないかと思える剛腕でタンクローリーを力ずくで停車させたのに、そのライダーがいない。
  「お、おい。ライダー」
  「ん、何じゃ坊主」
  「お前――どこにいるんだよ!?」
  「目の前におろう」
  「はぁっ!?」
  僕の前には強制的に停車させられて、爆発して、原形を無くした元タンクローリーとそこを中心に広がる炎だけ。
  幾ら目を凝らしてもそこには誰もいない、目の前には誰もいない。
  「どこだよっ!?」
  「目の前だと言っておるではないか。何を聞いておる?」
  また聞こえてきたライダーの声はどこから出て来たの? 答えを探し求めてもう一度じっくり前を見つめるけど、新しい異常を発見するだけだった。
  まず一つ目、居なくなったのはライダーだけじゃなくって、タンクローリーが突っ込んできた時に周りにいた人全てが消えてた。
  視界の中にはアーケードとタンクローリーだったものがあるけど、動く人は誰もいない。撥ねられてた人もいない。
  そして二つ目。これが一番の異常なのかもしれないけど、燃え盛る炎が僕を取り囲んで逃げ場すら無くしてるのに、僕は全く苦しくない。ライダーと話す前からこうなってたのに、今になってようやく気付けた。
  熱くもない。
  息が出来る。
  痛くもない。
  声が出せる。
  苦しくもない。
  何が起こってるの!?
  もう一度最初に考えた疑問を思い返した時。またあの声が聞えてきた。


  「ウェイバー殿。イスカンダル殿ぉぉ!! 無視しないでほしいでござるよぉぉぉぉ!」


  「おお、忘れておったわい」
  軽く言ってのけるライダーの声が聞える。まだ姿が見えないんだけど、その声とは対照的に僕を呼ぶ声はものすごく切羽詰まってた。
  一回目は判らなかったけど二回目なら判る。この声はすぐ近くから聞こえたんじゃなくて、遠くからの呼びかけだ。しかも横からじゃなくて上から聞こえる。
  僕は誰もいないアーケードが燃える不気味さを横に置いて頭上を見た。
  そこで僕は知る。
  喫茶店らしき店の二階部分から極上珈琲って書かれた看板が突き出してる。その上にいた柳を何重にも重ね合わせた様な物体。
  エメラルドグリーンのよく判らない塊が浮かんでた。
  それを見た瞬間、僕は自分の体に何が起こって人が居ない理由を知る。僕たちに起こってる現象そのものを理解した訳じゃないけど、何が起こっているかは判った。経緯を全て飛び越えて理解させられた。
  見えない。だけど判る。
  感じる。見えなくても伝わる。
  あれが―――アーケードの一画に唐突に現れたあれが、僕たちを透明にして見えなくしているんだ。
  そうと判った上でタンクローリーの方を見ると、何もない筈なのにそこにいるライダーの存在を強く感じた。
  見えないけど、そこにライダーが居るって判る。タンクローリーに両手をあてて腕力でその場に停車させたんだって判る。巨大な自動車が前に進もうとする力を体一つで止め、それどころか押し戻そうとしたのが判る。
  その途中でタンクローリーが爆発したんだ。
  ライダーは両手でタンクローリーの突進を押さえた位置から動かずに僕と話してたんだ。
  「ウェイバー殿、これを!!」
  頭上からまた声が聞えて来て、あのエメラルドグリーンの塊の近くから何かが跳んで来た。
  最初はいきなり現れたそれが何なのか判らなかったけど、実感が伴えば理解は早い。どうやってあそこに昇ったのか、いつからあそこにいたのか。その辺りはまるで判らないけど、あそこにいるのはカイエンだ。見えないけど、この声と看板の上にいる誰かを僕は感じる。
  そして今、カイエンが投げて寄越したのは―――。
  「魔石っ!?」
  「今ならまだ間に合うでござる。『フェニックス』を呼び出し、轢かれた者達を救ってほしいでござる!!」
  無造作に放り投げられた緑色のクリスタル。中央にオレンジ色の六芒星を光らせるそれは僕の貯水槽の中で見た魔石そのものだった。
  カイエンから受け取ろうとした時にサンの事と聖杯問答の事が合ったから触れる機会は無かったけど、その輝きは見間違えない。
  伝説の鳥―――。
  不死鳥―――。
  初めて見た幻想種―――。
  あの素晴らしい光景を見せられた時、僕はあの輝きに取り込まれた。『見』せられた、じゃなくて『魅』せられた。僕もあの優美に燃え盛る炎の鳥を呼び出したい、そう思ったんだ。
  事前の説明もなくいきなり飛んでくる魔石。僕は慌てたけれど、サンを抱えていた手を解いて魔石を受け取る為に大きく広げる。
  こっちに来い。早く、早く。
  タンクローリーの爆発直前ほどじゃないけど、それでも落下してくるまでの時間を酷く長く感じた。カイエンが放り投げた魔石が僕の手に納まるまで長く数えてもほんの数秒それなのに、数十分とも数時間とも感じられた。
  僕は落ちてきた魔石を両手でしっかりと掴み、落とさないように力強く握りしめる。
  「以前言った通り、魔石に魔力を注ぎ込むだけでござる。ウェイバー殿の力ならフェニックスは必ず応えるでござる」
  「よ、よし! やってやるぞ」
  いきなりタンクローリーが突っ込んできて、今も炎が僕らを焼こうと猛威を振るってる。それなのに僕の心は手の中に納まった魔石の事ばかり考えてる。
  見えない僕の手が魔石を握ってると、空中に魔石が浮かんでるように見えるからちょっとだけ不思議だった。でもそんな事は小さな違和感であり、魔石を使えるのに比べたらどうでもいい。
  「えいっ!」
  魔術を使う時に掛け声をかける必要なんてない。必要なのは呪文詠唱で、意味のない言葉なんて口にするだけ無駄。
  でも僕は初めて使う魔石に昂ぶりを抑えられなかった。まるで危険かどうかも判らないモノに初めて触る童子のように、勇気を出すための掛け声を出した。
  一瞬後。
  心持ち、普段よりも力強く魔術回路が回って、両手の平に魔力が漲っていくのが判る。
  そうじゃない―――。魔力を使おうと意識した瞬間、透明になった手の中にある魔石に魔力がどんどん吸われていく。
  話には聞いていたけどあまり気持ちのいいものじゃない。呪文詠唱の無い魔術を使う違和感もそうだけど、僕自身が魔力を与えているんじゃなくて魔石が僕の魔力を吸ってるんだ。
  止まる事無く、どんどんと。
  僕の意思なんて関係なく、どんどんと。
  魔力の消費と一緒に全身から力が抜けていく。手の力も一緒に消えて行って、魔石を落しそうになるから慌てて力を入れ直した。
  気を張れ、ウェイバー・ベルベット!!
  僕は心の中で僕自身を叱咤する。
  すると手の中の魔石からルビーみたいな紅い光が三つ飛び出した。
  一瞬の事で、しかもその紅い光は僕の周りに広がってすぐに消えてしまう。だから、紅い光が丸い形をしていた様に見えたのも、中央に白い模様が合った気がするのも気のせいかもしれない。
  僕が自信を持って判ったと言えるのは、その紅い光を切っ掛けにして魔石が輝き始めた事だけ。
  淡い緑色の光で少しずつ光り始め、それはどんどんと大きくなって広がってく。そして僕の周りにある火が魔石へと向かって吸い込まれていった。
  僕の魔力を吸っていたのが炎を吸うのに転化したみたい。魔石『フェニックス』は燃え広がる火を、タンクローリーから生まれた火を、建物を燃やそうとする火を、爆発して多くの者と物とモノを破壊しようとした火を喰らい始める。
  魔石は魔力を、そして炎を吸ってた。
  前後左右上下。僕が見えるアーケードの至る所から炎を吸いだして、喰らってた。多分、僕の死角になってる後ろの炎も魔石に呑み込まれてるんだと思う。
  炎が集まっていく。
  一つの形を成していく。
  燃え盛る破壊ではなく、別の形に変わっていく。
  僕が見える範囲に限定されるけど、辺り一面に広がった炎は全て魔石に喰らい尽くされた。そして僕の頭上で炎の鳥となった。
  腹と頭と足だけみれば普通の鳥に見えるけど、大きく広がった羽根と地面に触れる大きな尾羽は炎。キャスターの拠点だった貯水槽の中で見た姿そのものが僕の前に現れた。
  しかも今度のフェニックスは僕が呼び出したんだ。
  幻想種を―――この僕が。
  喜びと戸惑いと動揺。それから消費された魔力の疲労感がぐちゃぐちゃに混ぜ合わさったよく判らない思いが僕の胸を暖かくしながらも迷わせる。
  「大丈夫でござるか?」
  呆然とフェニックスを見上げる僕の耳にカイエンの声が聞こえた。でも僕は現れたフェニックスに心を奪われていて、聞こえてたけど全く聞いてない。
  透明になった状態で看板から飛び降りて、僕たちの近くに駆けつけるカイエン。
  僕はぼんやりとフェニックスを見つめながら、その音を聞き、周囲の景色を眺めてた。
  タンクローリーの爆発のせいでアーケードの中は無残な有様。ハリケーンがアーケードの中を通り過ぎたみたいになってた。
  無事な窓ガラスは一枚もなく、壁や扉はひしゃげてるか凹んでるか折れてるか吹き飛んでる。タンクローリーだった物が合った場所を中心にして放射状に被害は広がってた。
  多分百メートルぐらい遠くまで破壊は及んでると思う。
  その中心近くに居るのが僕らなんだけど、相変わらず透明になった僕らには実害が何一つない。
  「転生の炎」
  フェニックス自身が囁いたと思う優しい声が響いた後。金色の光がフェニックスを中心にして広がって、アーケードの中を満たしていった。
  魔石を使った時の緑色の光とは違う別種の光。火の熱さとは違う太陽の暖かさのような光が人々を癒していく。
  僕はこの光が何なのかを知ってる。失われる命を現世に止め、死に行く命を生かす為の奇跡なのだと知ってる。
  そう思って周りを見れば、至る所に人の気配を感じた。カイエンの近くに居たエメラルドグリーンの塊がたくさんの人達を透明にしているから、僕の目はそれを見れない。
  だけど感じる。
  タンクローリーに撥ねられた人がフェニックスの光で癒されていく。
  轢かれた人達が、爆風で吹き飛ばされた人達が、炎で焼かれそうになった人達が、突然の事態に怯える人達が、誰も彼もが癒されていく。
  治っていく。
  貯水槽で見た奇跡がアーケードの中でまた作り出されてた。
  しかもそれをやってるのは僕が呼び出したフェニックスだ。誇らしさと優越感が一緒になったみたいで気分が良い。ものすごく、いい。
  治ってくのは見えないけどね―――。
  「やはり拙者が使うよりウェイバー殿の方が威力が強いでござるな。フェニックスも喜んでいるでござる」
  すぐ近くから声が聞こえるけど、そこにいる筈のカイエンはやっぱり見えない。でも、間違いなくそこにいる。
  僕、しがみ付いてるサン、ライダー。そして合流したカイエンが同じ場所に立つ。
  「ここで透明化を解除すると拙者たち全員、見られてしまうでござる。『ファントム』と『フェニックス』が見られたのは致し方あるまいが、これ以上見られるのはまずいでござるよ」
  「そ――そうだ、魔術の秘匿が――」
  「魔力を感知できる者か、勘のいい者でなければ拙者達の存在は見えないままなので、まだ大丈夫でござる。今はまずここを離れるべき時。すまぬが御二方、付いて来て下さらぬか」
  言うが早く、カイエンは透明になった状態で走り出した。
  僕らの答えを待たなかったのはそれだけ急いでいるのか、それとも付いて来ると信じているのか。どっちを考えたのか少し気になったけど、カイエンが『ファントム』と呼んだ、あの緑色の塊が僕たちを透明にしているとしたらここに留まるのはまずい。
  カイエンがこの透明化を解除した途端、タンクローリーの傍にいる僕らに注目が集まるのが容易に想像できる。
  爆発で殆ど吹き飛んだタンクローリーだけど、残骸の中にはライダーの両手の跡がくっきり残ってる部分もある。ここにいればライダーが『腕力で止めた』なんて、どれだけ大柄な人間だろうと絶対に出来ない異常を衆人の目に触れさせちゃう。
  逃げなきゃ駄目だ。
  店の中に置いてきたマッケンジー夫妻がちょっと気になるけど、あの二人に見られた瞬間に暗示が解ける可能性だってある。
  僕の頭上に舞う炎の不死鳥。普通の動物ではありえない浮遊する緑色の塊。斬られた自動車の跡と武器を持つカイエン。怪しむ要素があり過ぎた。
  だからここを離れなきゃいけない。
  「行くぞ坊主」
  「あ、ちょっと待って――」
  カイエンを追ってライダーが走り出す。ただし、僕の感覚がそう思わせているだけで、実際には全く何も見えないのだけれど、とにかく僕は先を行くライダーを慌てて追いかけた。
  「あー、もう。どうしてこうなるんだよ!!」
  聖杯戦争で戦闘になるのは暗黙の了解で夜になっている。昼間に戦えばこういう事態になるのは誰もが判っていて、魔術の秘匿に大きな問題がある。
  それなのに真昼間から僕らも周囲も巻き込んだ攻撃を誰かがしてきた。
  僕はフェニックスを呼び出した昂揚と一緒に、タンクローリーを突っ込ませてきた誰か―――僕らの『敵』に恨みを抱きながら、サンを両手で抱きかかえてタンクローリーの残骸を通り抜ける。
  女の子一人。でもやっぱり僕はサンを運びながら彼女を重いと感じた。
  その重さはまるで命そのものの重さのようで―――。





  爆心地。そう呼ぶしかないタンクローリーの爆発地点からカイエンを含んだ僕ら四人は二百メートルほど移動した。
  透明になった状態でも僕の感覚が『何となくそこに居る人』が判って、走りながら避けられたんだけど。物珍しさよりも、すぐにサンを運ぶ疲労でそれどころじゃなくなった。
  たった二百メートル位なのに、サンの重さに僕の両腕は疲労回復を求めてぷるぷる震える。
  運ぶのをライダーにお願いすれば良かったと思いついたのは人目に付かない路地裏に移動し終えた後。透明になって誰にも見られない状態を満喫してる嬉しそうなライダーの様子を感じた後だった。
  ライダーの楽しげな様子を恨みがましく思いながら。もしかして、僕はサンを運ぶのをライダーに任せたくないと思った? と思ってしまう。
  一瞬自分でもどう表現すればいいのか判らないもやもやした思いが浮き出るけど、判らないからすぐに疲労で押しつぶされて消えた。
  相変わらず僕の頭上には魔石から現れた炎を喰らい尽くしたフェニックスがいるけど、現れた時より更に上に昇ってるから、目を凝らして見ないと居場所が判らない。遠目では紅い鳥が飛んでいる様しか見えない。
  ファントムはカイエンと一緒に移動してきたから、僕らとフェニックスの間で浮かんでるけど、場所が場所だから僕達以外誰も見ていなかった。
  皆、自分達に起こってる透明化の現象と、タンクローリーが引き起こした爆発で、こっちを気に出来る余裕が無いんだ。
  「では透明化を解除するでござるよ」
  短くカイエンが言うと、ゆらゆらと浮かんで居た緑色の塊がサーヴァントの霊体化と同じように緑色の粒子になってカイエンの手の中に吸い込まれていく。
  もちろん、僕の目がその景色を見ているんじゃなくて、そう感じるだけ。見えてないけど、そこに居るのを感じるカイエンが胸の高さまで上げた手の中に集まっていった。
  数秒とかからずにさっきまで頭上にいた緑色の何かが消える。それに合わせて僕の目には路地裏に集まった全員の姿が見えた。
  そして遠くからたくさんの声が聞えてきた。
  「わ、お! あ!?」
  「居た!!」
  「見えた・・・、何がどうなってるの!?」
  「あああああああああああ――」
  ここに移動する前にもう判ってたんだけど、透明化の現象は一定の効果範囲内にいる全ての人間に対して効果を発揮してた。僕らは見えないけど判る、だけど普通の人間は魔術が引き起こした不可視にただ驚くだけ。
  誰も彼もが驚いてた。
  襲いかかってきたタンクローリー。いきなり透明になって周囲から人が消える異常。巻き起こった火災。炎を間近で見てもなんともない不思議。突如現れた幻想種―――。事情をある程度知ってた僕だって驚いたんだ。
  きっと皆の驚きは僕なんかよりずっと強い。
  でも・・・・・・。
  遥か上空で舞うフェニックスが皆を治した、癒した、救った。炎を喰らい、死を退けて、命を揺り起こした。
  僕には判る。
  『フェニックス』が『ファントム』の効果範囲にいた全ての人間に影響を及ぼしたんだと強い実感がある。僕の胸に結果が宿ってる。
  「残る問題を片づける為にもう一つ魔石を使うでござる」
  「おお、もっと別のが出てくるのか。よし! 早くやるがよい」
  「言われるまでもないでござるよ」
  その暖かさは強く。近くで聞こえるカイエンとライダーの会話も、度重なる異常に今まで以上に力強くしがみ付いてくるサンも、聞いていたけど聞こえてないし、見えていたけど見えなかった。
  炎の不死鳥が生み出した奇跡への忘我。
  顔をあげて前を見ると、目の前に白い一角獣がいた。
  「――はぁぁぁぁぁぁぁ!?」
  思わず叫んだ僕に罪は無い。と思いたい。
  だって一瞬前まで目の前にこんなのはいなかった筈。路地裏の薄暗さの中には僕らしかいなかった。
  まあ・・・緑色したファントムはいたけど、あれはもう消えて居なくなった。その代わりみたいに一角獣が―――また別の幻想種がいた。
  「うむ、見事だ。是非とも乗り回してみたい」
  「今は角から『ヒールホーン』を発動させてこの辺りにばら撒かれた毒を除去している所。イスカンダル殿、邪魔しないでほしいでござるよ。それに『ユニコーン』は獰猛で男には懐かない生き物でござる」
  「わかっておらんな。その苦難を征服するからこそ挑みがいがあるのではないか。先程のファントム、そしてこのユニコーン。必ずや余が征服してみせるぞ」
  「・・・随分と楽しそうでござるな」
  路地裏の中に現れた幻想種『ユニコーン』を挟んでライダーとカイエンが話をしてるけど、僕はそのほとんどを聞いてなかった。
  極限まで白く磨き上げられた大理石のような白さの体躯。金色に輝く鬣と尻尾。
 立派さで言ったら、ライダーの王の軍勢アイオニオン・ヘタイロイの中で見た馬―――ライダーが相棒と呼んだ、伝説の名馬ブケファラスの方に軍配が上がる。
  でもユニコーンの神々しさはブケファラスとは比較しようがなくて、僕はただぼんやりと視界の中にある伝説を見つめていた。
  数字の0と1はそれのみに意味があって優劣をつけることなど出来ない。同じ数字で括られながらも比較しようのない同じモノ。それと似てる。
  僕はライダーが呼び出したブケファラスも、カイエンが呼び出したユニコーンも凄すぎて、ただ『すごい』としか思えなかった。
  「どこもかしこも見事の一言に尽きるわい。ブケファラスに劣らぬ美しさではないか」
  「無遠慮に男が見続けると角で貫かれるでござるよ?」
  「うむ。美しいものにはとげがある、今も昔も変わらぬ真理よ。だからこそ征服のし甲斐がある」
  二人の話を耳で聞いて頭で理解しないまま、僕はユニコーンを見つめる。
  不死鳥に一角獣、看板の上にいて今はもういなくなってるあの緑色の塊も僕が知らない幻想種なのかもしれない。
  カイエンの手の中にはフェニックスが吸い込まれた魔石と同じにしか見えない魔石があるけど、出て来た幻想種が違うなら別物の可能性が高い。
  もしかしてカイエンはもっと魔石を持ってる? それとも一つの魔石で別々の幻想種を呼び出せる? 脳裏にそんな疑問がいくつもよぎったけど、ユニコーンの美しさはそれを容易く凌駕した。
  目が離せなかった。
  心を丸ごと持ってかれた。
  僕はまた魅せられた。
  でも・・・・・・。
  胸に宿るフェニックスの暖かさが少しずつ僕の中に出来た魅了を消していく。顔をもっと上げて上空で舞い続ける炎の不死鳥を見ると、胸の奥に宿った炎の暖かさがもっと強くなって燃えるのが判った。
  暖かさは形を変えて熱さになっていく。僕の中で燃えてた。
  数秒後、僕は手の中にあるフェニックスの魔石を力強く握っている自分に気が付いた。
  「おい、坊主」
  「・・・・・・・・・・・・・・・え?」
  すぐ近くからライダーの声が聞えて、応じるまでにかなり時間がかかった。
  「貴様、魅入られ始めておるぞ」
  「――何の事だよ?」
  「自覚が無いのはたちが悪いわい。坊主の持ってるそれよ、それに貴様は魅入られつつある。そう言っておるのだ」
  片方の手でユニコーンに触れようとしながら、もう片方の手でライダーは僕の手を―――僕が握り締めていた魔石を指さした。
  魅入られる? 何を言っているのか判らなくて僕はライダーを見返す。返ってきたのはライダーからの説明だった。
  「いいか坊主。確かにあの不死鳥は貴様が呼び出した。おそらくあの爆発に巻き込まれた多くの民草の命を救っただろう。全てを確認した訳ではないが、余の感覚に狂いが無ければここに来るまでの間に一人か二人は死地から救い出しておったぞ」
  そんなこと言われるまでもないよ。
  そう返そうとする前にライダーの言葉が僕の心に突き刺さった。
  「だがそれは貴様の力ではない、借り物の力に過ぎん」
  「それは・・・・・・」
  「貴様がもし同じことをやろうとしても決して叶わん。坊主、お前はその『自分には絶対できない奇跡』を自らの手で成し遂げた。その錯覚を自分のものにしようとしておる。自分で勝ち得た力ではなく、与えられた力に魅入られつつある」
  ライダーは僕がキャスターの居所を調べる時に使った錬金術の事をよく知らなかったから、僕がどれだけの事を出来るかを知らない筈。でもライダーは僕には絶対に出来ない奇跡だって断言した。
  もしかしたら貯水槽で嘔吐した僕を見て、フェニックスと同じことを絶対に出来ないって思ったのかもしれない。
  ライダーが考えてる事を予測するしかないのだけれど、ただその言葉が強烈な威力をもって僕に痛みを与える。
  「悪い事は言わん。今すぐその魔石を離すのだ」
  「なっ!?」
  ライダーの言葉を聞いて即答できなかったけど、僕の中に強烈な反発が生まれた。
  魔石を手放す、つまりフェニックスをこれ以上現界させておかないようにするのは、胸の中に宿ったこの熱さを消せと言われているのと同じ。
  それはとても嫌な気分で、とてもとても辛くて悲しい。
  僕はライダーを憎む気持ちが抑えられなかった。折角胸に宿ったこの熱さを手放せと言うライダーが憎くて憎くてたまらなかった。
  僕はライダーを睨みつける。だけどライダーは少しだけ悲しそうな目を僕に向けるだけで、僕の憎悪に何の痛痒も感じてないみたい。それが余計に僕を苛立たせる。
  「なぁ坊主、そんなに焦らんでもよかろうて。貴様は今その『フェニックス』でこれまで成し得なかった奇跡の糸口を掴んだのだ。己の領分を超え、己の埒外を向く欲望に火は灯った。願い、請い、進み続ければ、そんなものに頼らずともいつかは必ず届くであろうよ」
  ライダーの声が僕の神経を逆なでする。
  言葉の一つ一つが僕の心を抉り、そこを激しい怒りが埋めていく。
  僕は敵を見る目でライダーを見た。
  「だが今、その手を離さなければ道を違えるぞ。貴様は自ら匹夫の夜盗に成り下がるつもりか? 余のマスターは盗人などではないと思っておった余の考え違いか?」
  「え・・・・・・?」
  いっそ魔術でライダーを攻撃しようとすら思い始めた時。ライダーが言ったある言葉が冷水のように僕の心を一気に冷やす。
  倉庫街で憎きケイネスに堂々と告げた時にも同じように言っていたけど、あの時はケイネスに聞かせる為の外向けの言葉だった。でも今は違う。ライダーが、他でもないライダー自身が僕に向けてそう言った。
  『余のマスター』って。
  聞き違いじゃない。確かに僕はその言葉を聞いた。
  「今・・・、なんて・・・」
  「借り物の力を自分の力とし、自分を誤魔化すような男を余はマスターにもった覚えは無いぞ。そのような行いを征服とは言わん」
  僕の戸惑いを確信へと変える様に、ライダーはもう一度その言葉を口にする。
  やっぱり聞き違いじゃなかった。ライダーは今、はっきりと僕の事をマスターだと認めた。その評価が僕の心を今までとは別の意味で振るわせる。
  怒りじゃなかった。咄嗟にそれを表現する為の言葉が見つからない。この胸打たれる思いをなんて言えばいいのか判らない。
  でも不快な感じはしなかった、それだけは間違いない。
  「ウェイバー殿」
  「・・・・・・カイエン」
  ライダーの事しか見てなかったけど、路地裏の中には僕もいるしサンもいるしカイエンもいる。ただ僕がライダーを注視していたから隣に立ってるカイエンが見えてなかっただけなんだ。
  よく見るとさっきまで居たユニコーンがカイエンの持っている魔石の中に粒子となって吸い込まれていた。
  ファントムと一緒だ。現界は呼び出したカイエンの意思によって決定されているらしく、僕がフェニックスを呼び出す為に魔石に送り続けた魔力を止めれば、同じようにフェニックスも消えてしまう。
  カイエンが『ユニコーン』を消した後のタイミングで僕に話しかける。何を言おうとしているかは簡単に想像できた。
  魔石『フェニックス』の返却だ。
  手放したくない。それは僕の偽りない気持ちだ。
  この力が欲しい。それも僕の率直な願いだ。
  でもこれは僕自身の力じゃない。そう認めてる僕もいた。ライダーの言葉で右往左往させられた僕の心の中に宿った僕自身だ。
  そして―――他の誰でも無い、ライダーの前では自分で自分を誇れるウェイバー・ベルベットで居たい僕がいた。
 どうしようもなく雄大で、強烈で、余人には及びもつかぬ器量の持ち主のライダーだからこそ。征服王と謳われ、王の軍勢アイオニオン・ヘタイロイで見せた、あんなにも勇壮に輝く精鋭たちに死してなお忠義されるほどの男だからこそ。認められたいと、ああなりたいと、共に戦いたいと、マスターとして誇れる自分で居たいと願ってしまう。
 もしかしたら王の軍勢アイオニオン・ヘタイロイで召喚されたサーヴァント達は、誰もが今の僕と同じような願いを胸に宿したのかもしれない。誰もがこの王に魅せられ、同じ道を歩みたいと思ったのかもしれない。
  「フェニックスを・・・返してもらえるでござるか?」
  「・・・・・・・・・・・・」
  カイエンが魔石を持つ手とは逆の手を差し出しながら、僕の予想に違わない言葉を放ってくる。
  数秒間、僕は何もできずにジッとしていた。
  一生にも思える長い長い間に色々な事を思い、考え、迷った。
  葛藤が、逡巡が、苦悩が、喪失が、言葉では言い表せないような莫大な感情のうねりがある。それでも僕の手は数秒の時を経た後。ゆっくりと手を前に出して、その手の中にあった魔石をカイエンへと渡していく。
  魔石に吸われ続けていた魔力を遮断する様に意識すると、腕を通じて僕の魔術回路を流れていた魔力の感覚が急速に落ち着いていく。
  紅い光が僕の手の中にあった魔石に吸い込まれていった。魔力の流入が止まってフェニックスが現界出来なくなったからだ。
  人を救った結果は残っても、胸を暖かくさせていた熱が消えていく。大事な心が失われていくような喪失がとても辛い。体ではなく心が痛かった。
  空を見上げれば、いなくなった不死鳥を見つけてしまう。魔石の喰われた魔力を意識すると、消えたフェニックスを想ってしまう。
  苦しい―――。
  辛い―――。
  痛い―――。
  「それでいい」
  「・・・・・・・・・」
  ライダーが何か言っていたけど、僕は何も言う気が起きなかった。これが正しい行いだと思えるけど、惜しむ気持ちはどうやっても消せなかった。
  僕は僕自身の気持ちを整理するので精一杯。ライダーに返答できるだけの余裕なんて全くない。
  「落ち着いた所で拙者は御二人に言わねばならない事があるでござる」
  だから両手に『フェニックス』と『ユニコーン』の魔石を持ったカイエンが言いだした時、聞く状態にはあったけど、ただそれだけだった。
  質疑応答なんて絶対に出来ない。ただ呆然とカイエンの言葉を聞くだけの人形になってた。
  「実は此度の騒動、拙者にも一抹の責任があるでござる。拙者が犯人の一人を取り逃がさず、発見し斬り捨てていれば、此度の襲撃は起こらなかったやもしれぬ」
  「ほぉ――」
  興味深く聞くライダーが僕の目に映った。
  「拙者が追っていた下手人の名は久宇舞弥」


  「セイバーのマスターの協力者でござる」


  「え・・・?」
  聞いた事のない名前を言われた時は何とも思わなかったけど、続けられた言葉は呆けていた僕が思わず聞き返そうになる衝撃的な内容だった。
  タンクローリーの攻撃は明らかに僕らを狙っていたので、他のマスターが仕掛けた企みだと予め予想してた。サーヴァントなら現代の自動車なんて使わずに英霊としての自分達の力を使った方が早いのがその理由。
  そこでセイバーの名が出てくるのは予想外すぎた。
  僕はきっとアサシンのマスターが生き残ったアサシンを使ってタンクローリーを向かわせたんじゃないかと思ってたのに。
  でもカイエンの言葉が本当だとしたら、一般人を巻き込んで僕らを攻撃してきたのはセイバーになる。
  あのブリテンの伝説的君主、アーサー王が―――忠誠と公正と勇気を重んじる、騎士の中の騎士。騎士王セイバーが―――無関係の者達を巻き添えにして僕らに不意打ちを仕掛けた事になる。
  「――その話、余に詳しく聞かせよ」
  「無論。拙者はその為にここに来たのでござるよ」
  到底信じ難い話にライダーの口調も固くなる。
  フェニックスを呼び出した時の感動。カイエンに魔石を返した時の喪失と苦痛。その衝撃に匹敵するかそれ以上の驚きが僕の中で生まれて、カイエンの説明に耳を傾けた。



  ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆



  Side - ゴゴ





  同一の魔石を同時に別々の場所で使用する事は出来ない。
  色々な場所に分裂して存在出来るようになったゴゴだが、魔石そのものの数が増えた訳ではない。試してみれば同じ魔石を違う物として生み出す事は可能かもしれないが。現段階この制約は有効だ。
  故に魔石『ファントム』をアーケードで使用できたのは運が良かったからとしか言いようがない。
  ほんの数分前まで、その魔石は日本の冬木市から遠く離れたドイツのアインツベルンの居城近くで使われていたのだ。もし今も使い続けていれば、聖杯戦争に巻き込まれた一般人を救う手段として用いられなかった筈。
  アーケードに集まった一般人をライダー達ごと助けても、間桐とゴゴにとって有益にも無益にもならない。それでもファントムを発動させて炎から守り、フェニックスで死に行く者の命を呼び戻し、ユニコーンで体調以上を回復させた。
  何故か?
  まだ子供の士郎を精神的に拷問して追い詰めた後ろめたさが、道理に合わない正しい行いをさせようとしたからか。
  それともカイエンがライダー達に説明している通り、ゴゴではなくカイエン自身が久宇舞弥を取り逃がし続けていたのを悔いているからか。
  突き詰めれば真の理由にはたどり着けるかもしれないが、とりあえず即答できる程簡単な思いではない。
  それに今のゴゴの意識は一般人を救った冬木市ではなく、地球を半周したドイツへと移動している。別人の意識になってしまっているので、考えてもそれは予測でしかない。
  だから今は考えない―――。
  「攻撃しないとブラックジャックが押し負ける、か。無策で突っ込むのは分の悪い賭けだな」
  操舵輪を握るセッツァー・ギャッビアーニは飛空艇ブラックジャック号を旋回させながら、眼下に見える巨大な城を見つめていた。
  ゴゴがわざわざドイツまでやって来たのはアインツベルンへの攻撃が目的なので、誰にも見つからずに移動する為の透明化はもう必要なかった。あちらから視認できている筈だが、今の所は何か仕掛けてくる様子は無い。
  こちらの出方を窺っているのか、それとも城に張られた―――もっと正確に言えば城の周囲にある森が作り出している結界を信頼しているのか―――。何の動きもない。
  アインツベルンの城は上空を飛空艇に旋回されている状況ながらも、不気味なまでの沈黙を保っていた。
  周囲を覆う深い森。点在する尖塔。降り積もる雪に対抗する様な白い外壁。
  王がその権力を誇示するよりも、むしろ個人が趣味の為に作ったような―――城と言うよりもホテルのような外観。
  どこにも生き物が動く気配は無い。
  いっそブラックジャック号の攻撃手段であるダイビング・ボムを発動させて、対空手段が無さそうに見える城を攻撃しようかとすら考えてしまう。
  だがそれは出来ない。
  何故なら最終的にアインツベルンを消滅させることは確定していても、その過程に今は『聖杯の器の物真似』が追加されている。アインツベルンの魔術でゴゴが知らなかった事があるかもしれないので、ものまね士としてただ壊して物真似の機会を脱するのは愚の骨頂。
  「仕方ない――。森の結界の外側に降りるぞ」
  セッツァーがそう言いながらブラックジャック号を城の上空から移動させていくと、甲板のそれぞれの場所から三種類の返答があった。
  「ガウガウ。さむいから、はやくする!」
  「雪中行軍だクポー」
  「親分・・・。早く・・・おりる」
  ガウ、モグ、ウーマロ。
  セッツァーを含めた全員ゴゴが分身して変身した姿だけれど、それぞれがまるで本人の様に振舞っていた。ただし一般人の普通を尺度に考えると異色のパーティとしか言いようがない。
  ギャンブラー、野生児、モーグリ、雪男。しんしんと降り続ける雪の中ではウーマロの存在が合っていると言えなくもないが、雪男とて未確認動物の一種と考えられているので、やはり普通ではない。
  城の周囲を完全に覆う森は一般人にはただの森にしか見えないが、木の一本一本が結界を形作る要石の役割を果たし、城から一定距離までの木は全てが魔術的に調整が加えられている。
  人や車が通る程度の隙間はあるが、さすがに全長125メートル、全幅28メートルのブラックジャック号が降りられる場所は無い。
  仕方なく森が途切れて着陸できる場所に移動するが、城からかなりの距離があり、目算で3キロ以上離れてしまった。
  着陸しながらセッツァーがブラックジャック号のエンジンを止めると、雪の中でも元気よくまわり続けていたプロペラ音が消えていく。ヒュンヒュンヒュンと警戒に鳴り響いた音が雪が作り出す静けさに包まれていった。
  「こっちはこっちで死のギャンブルをするか。俺達の命、そっくりチップにして勝利に賭けるぜ」
  「ガウッ!」
  「クポーッ!」
  「ウガー!」
  ブラックジャック号を操縦しているのがセッツァーだからか、自然とセッツァーがリーダーとなって他の三人を導く流れが出来ていた。
  ガウとモグとウーマロがそれを全く気にしないのは誰がリーダーシップを発揮しても、やる事に変化は無いと気にしてないからかもしれない。
  完全に停船したブラックジャック号。四人―――ちゃんと数えるなら二人と二匹は連れ立って階段を下り、外を目指す。
  途中ブラックジャック号に乗る船員の健康を一手に担う男―――通称『リフレッシュおじさん』が外に出ようとするセッツァー達に声をかけた。
  「おっ? 久しぶりのお客さんだね。ちょっとリフレッシュでもするかい?」
  「ああ、頼む」
  セッツァーが軽く頼むと、リフレッシュおじさんは手を大きく振るって金色の光を生み出し、それを全員にふりかけた。
  魔法の観点から効果を見ると。体力と魔力を全快にして、ついでにステータスの異常も回復してくれている。
  物理的な意味で痛みを負ってないので、回復の意味は殆ど無い。それでも全ステータス異常を回復させる魔法『エスナ』と最上位の回復アイテム『エリクサー』との効果を一緒に発動させるのは凄まじい。
  その効力はゴゴが使える回復魔法すら凌駕するのだから。
  「じゃあ行ってくるぜ」
  ドイツまで休みなしに航行した疲れはリフレッシュおじさんによって完全な状態に復元された。
  セッツァーは四分の一の確率で即死魔法『デス』の効果を発揮するカード、『死神のカード』を軽く掲げながら雪原へと続くドアを大きく開け放った。





  水を得た魚。いや、雪を得た雪男ウーマロ。
  「ウガァァァァァ!!」
  彼は親分であるモグを肩に乗せた状態で、嬉々として雪の中を進んでいた。
  飛空艇ブラックジャック号の中で移動していた時の大人しさはどこに行ったのか、雪の中を一歩一歩進むその姿は実に生き生きとしていて、彼の好む場所が何処であるかを明確に表している。
  逆に薄着のガウは今にも凍結してしまいそうで、ウーマロのすぐ後ろで彼を風よけにしながら、両手で盛んに自分自身を擦っていた。
  セッツァーはそんなウーマロ達の後ろについて、背後と周囲に警戒しながらアインツベルンの森を観察する。
  「外周部は目くらましの結界。まっすぐ進んでも方向感覚を狂わされて来た道を戻らされる・・・か」
  森の奥にある城を目指して一直線に進んでいるが、一行はさっきから全く目的に近づいていない。ただ闇雲に進んでも結界に阻まれるだけだ。
  何らかの手を打つ必要があると判断したセッツァーは前を行く仲間にそれぞれ声をかける。
  「ウーマロ、モグ。ここは奴らの流儀に則って雪でご挨拶しようじゃないか。ガウ、お前も寒がってないで『ゴーキマイラ』で援護しろ。あいつなら寒さも平気だぞ」
  「ガウ・・・」
  セッツァーが彼らの背中に声をかけると、唯一寒さに屈服しそうなガウが後ろを振り返った。
  その顔が『寒いからやだ』と言ってるようだが、今のまま何もしなければ状況は好転しない。むしろ悪化しかしないのだからやってもらわないと困る。
  反対にウーマロとモグは自分達がやるべき事を理解したようだ。
  なお、先程セッツァーが告げた『ゴーキマイラ』はかつてゴゴが旅した世界の獣ヶ原の洞窟に出現するモンスターで、敵1体に物理ダメージの後に全体攻撃を数回連続で使用してくる厄介なモンスターだ。
  この世界のギリシア神話に登場する伝説の生物と名前が似ているのは当然で、『ゴーキマイラ』は山羊、獅子、毒蛇だけではなく、蝙蝠と竜すら混ざった姿をしている。
  ウーマロはモグを地面に下ろしながら真っ白い宝玉を握りしめた。そしてモグは雪の上に下ろされると同時に二回ジャンプして、その場でくるっと回転した。
  ガウはモグ達の行動を恨めしそうに見つめながらまた嫌々と顔を横に振る。それでも自分一人だけが怠けるのが悪いと思ったのか、両手両足を地面につけて四本足の獣のように前を睨みつけた。
  そして―――。
  「吹雪」
  「スノーボール」
  「あばれる――『ゴーキマイラ』、雪崩」
  三者三様に雪の攻撃を目の前の空間に向けて放った。
  単なる天候として振っていた雪が意志ある攻撃となり、天から降り注ぐはずの大雪がウーマロの前方から発射された。
  合わせてモグの足元から雪が盛り上がってモグの周囲に数十、数百の雪玉を形作る。一つ一つは直径十センチほどの大きさだが、莫大な数が集まればそれは容易に破壊を生み出す天災となる。
  そしてガウの前方に合った雪が生き物のように蠢き、ウーマロの作り出した吹雪とモグの生み出した雪玉の乱打を追いかけた。
  三人分の技が合流して出来上がる超巨大な雪の砲弾。局所的ではあるが、正しく大災害と呼ぶしかない強烈な一撃がアインツベルンが張り巡らせた結界を丸々呑み込んでいく。
  ズズズズズ、と雪が彼らの目の前にある木を全て押し倒して、砕き潰して、喰い尽くして行った。
  数秒後―――セッツァー達の前には雪で強制的に舗装された天然道路が出来上がり、城までの直線を見事に描く。
  「雪の中でお前らに敵う奴はいないな」
  セッツァーの視線の先にはほんの数秒前には見えなかった目的地がくっきりと映り、森の結界に大きな穴があけられた事を証明していた。
  アインツベルンの結界はおそらく現代の魔術で考えればかなり高位に位置する強固な代物なのだろうが、大魔術に匹敵する天候操作を防ぐには少々力不足だった。
  もっとも、その辺りの結界の強さとこちらの攻撃力を考慮しての合わせ技だったので、結界を突破できなかったら恥しかない。
  「見通しが良くなったクポ」
  「はやく、いく――。ガウ、さむい、いや――」
  目的地が見えた事で彼らの意欲は更に増す。ウーマロとモグは待ち構える敵と雪を堪能する楽しさ、ガウは早く暖かい場所に行きたいという思惑の違いはあるが、それでも全員足を止めずに前へ進んだ。
  足跡一つ無い真っ白な雪原。その白さを最初に壊す小さなサディズムを感じながら、一歩一歩突き進む。
  遮蔽物を完全に消し去って目的地が見えている状態ならば到着も早い。
  あっという間に二人と二匹はアインツベルンの城へと到着し、悠然とそびえ立つ城門の前に立った。
  何人であろうとも通さず閉ざされているであろう城門が固く閉ざされている。
  こちらを歓迎しているのではないのがありありと見て取れる。それは閉ざされた城門の前に並ぶ生気を感じさせない人型の何か―――アインツベルンお得意の女性型ホムンクルスがいるからだろう。
  少なくともブラックジャック号から見下ろした時に城門の前にはこんな人影はなかったので、こちらの接近に合わせて城門か別の出入り口から出てきて整列したと思われる。
  丈の長い白いワンピース、修道服を思わせる白い頭巾に髪を全て収めて顔だけを露出させている。ただし、何故か豊満な胸元だけは一枚下の衣装をそのまま露出させていて、胸元を強調させる作りになっていた。
  ホムンクルス作成者の趣味か? ここがもし敵地でなかったとしたらセッツァーは口説きに言っていたかもしれないが、人間らしさを感じさせない自我の薄さと手にした凶悪な武器が緊迫した空気を作り出している。
  槍、斧、鉤を組み合わせた複雑な形状、ハルバートと呼ばれる武器を手にして門を埋める様にずらりと並んぶ人の形をしながら人ではありえない女性たち。
  見える範囲だけで少なくとも二十人はいる。もしかしたら閉ざされた城門の向こう側には百人以上の大軍勢が同じ格好で並んでいるかもしれない。
  セッツァーは並ぶ彼女らの前に立つと、この場にいる全員に聞こえる様に声を張り上げた。
  「マキリ・ゾォルケンの使いとしてやって来た。ユーブスタクハイト・フォン・アインツベルンはいるか?」
  「当主様は無作法な振る舞いをなさるお客様とはお会いになりません。道中気をつけてお帰りくださいませ」
  「そうか――」
  ある意味で予想できた言葉にセッツァーは一泊だけ間を置いた。そして自分達の目的を達成する為、彼女たちに宣戦布告する。


 「ならば今日、今ここでアインツベルンの歴史に幕を下ろしてやろう。この世全ての悪アンリマユで聖杯戦争を台無しにした罪を償ってもらおうか」


  そう言いながらセッツァーは手に持った『死神のカード』にスペードの絵柄が描かれた十三枚を全て撃ち出した。



  ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆



  Side - イリヤスフィール・フォン・アインツベルン





  今日もお外に雪が降る。お母様と切嗣が日本に出かけてから毎日毎日雪が振る。
  変わらない雪が毎日毎日降り注ぐ。
  窓から見る雪はいつも変わらない。でも見るのはイリヤだけ、イリヤ一人だけ。
  「お母様・・・」
  お母様は言ってくれた。
  ずっとイリヤの傍にいてくれるんだって。
  だから寂しくなんかない。ずっとずっとお母様と一緒なんだって。
  「キリツグ・・・」
  キリツグは言ってくれた。
  イリヤのことを待たせたりしないって、すぐに帰ってきてくれるって。
  だからイリヤは寂しくても我慢できる。
  「早く、二週間経たないかなぁ」
  キリツグのお仕事は二週間ぐらいかかるって言ってた。朝になって昼になって夜になって、十四回繰り返したらキリツグは帰ってくる。
  その日が待ち遠しくて、イリヤは毎日お外の雪を見て夜が来るのを待ってる。
  大きなベッドの中に一人で眠るのは寂しいけど我慢する。
  朝、目が覚めたら隣にお母様もキリツグもいない。やっぱり寂しいけど我慢する。
  だってお母様はずっと一緒だって約束してくれた。キリツグはすぐに帰って来るって約束してくれた。だからイリヤは我慢するの。
  「まだかなぁ・・・」
  おじい様はお母様とキリツグのお仕事の事で色々と忙しいから、あんまり会ってない。
  城の中には沢山のメイドがいるけど、話しかけても人形みたいで面白くない。
  だからイリヤはつまらない。
  でも切嗣とお母様を待って我慢するの。
  もう少し経てばお母様とずっと一緒になれる。
  もう少し待てばキリツグは帰ってくる。
  キリツグが帰ってきたらイリヤが新しく見つけたクルミの芽を教えてあげるんだ。きっと、キリツグはイリヤの事をすごいってほめてくれる。
  だから―――イリヤはいい子で待ってるの。
  「まだかなぁ・・・」
  今日も新しいクルミの芽を探しに行こう。イリヤはそう思った。


  そうしたら部屋がものすごく揺れた。


  「え?」
  床がぐらぐら揺れて、ものすごく揺れて、立ってられない。
  「え? え? えぇぇぇ!?」
  何が起こってるの?
  何が起こったの?
  何が合ったの?
  何だかよく判らないけど、キリツグはこんな時にどうすればいいか教えてくれた。地震の時は机の下に潜りなさいって教えてくれた。
  だから良い子のイリヤはその通りに机の下にもぐるの。
  何だかよく判らなくて怖いけど、キリツグが言うんだから正しい。
  怖くて怖くてたまらないけど、イリヤはいい子で待ってるって約束したから、キリツグのいう事を守るの。
  ものすごく揺れてるから両手も床の上について机まで行く。がんばって、がんばって、がんばって、机の下に潜り込んだ。
  「――やった!」
  キリツグのいう事を守れてちょっとだけ嬉しかったけど、まだ揺れてるからすぐに怖くなった。
  どうして揺れてるの?
  どうして、どうして?
  どうして、ものすごく大きな音が何度も何度も聞こえるの?
  この大きな音は何?
  この揺れは何?
  これは何?
  何?
  キリツグに言われた通り机の下でジッとしてる。でも怖くて怖くて、イリヤはそれ以上何もできない。
  ねえキリツグ、これからイリヤはどうしたらいいの? キリツグが助けてくれるの、大丈夫だよって言って抱きしめてくれるの?
  ねえキリツグ―――。
  「キリツグぅぅ・・・・・・」
  イリヤは何も出来なくてただジッとしてた。
  何もしなくて、何をすればいいか判らなくて、机の下にずっともぐってた。
  どれだけ揺れてたの? どれだけ音はしてたの? どれだけ我慢したの? 我慢すればいいの? 全然、判んない。
  沢山、時間が経った気がする。
  でも全然経ってない気もする。
  判んない。
  「お母様ぁ・・・」
  イリヤは泣いた。ボロボロと目から涙があふれて止まらなかった。


  「これがアインツベルン本命の『聖杯の器』か」


  すぐそこに誰かが立ってた。
  驚いて顔をあげたら、見た事のない誰かがそこにいた。
  イリヤを見下ろしてた。
  頭の上から足の下まで沢山の色で隠してるよく判らない人がいた。
  誰? 誰これ? いつからそこに居たの?


  「俺は、ゴゴ。ずっとものまねをして生きてきた。お前は今なにをしたいんだ? 選ばせてやる。今ここで俺に全部ものまねされて死ぬか? それとも、ものまねされた上で父親と母親の元に行くか? どっちがいい」


  「・・・・・・・・・え?」
  その人が何か言っていたけど、いきなりだったからイリヤにはよく判らない。
  ねえ、今、なんて、言ったの?



[31538] 第33話 『アインツベルンは崩壊の道筋を辿る』
Name: マンガ男◆da666e53 ID:b514f5ac
Date: 2013/08/25 16:27
  第33話 『アインツベルンは崩壊の道筋を辿る』



  ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆



  Side - ゴゴ




  セッツァーは来訪者として間桐臓硯ことマキリ・ゾォルケンの使いを名乗ったが、最初から話し合いの場が設けられるとは思っていない。
  この世界で色々と物真似して知ったのだが、アインツベルンに限らず、魔術師と呼ばれる人種は閉鎖的な生き物だ。
  魔術教会という括りで一大組織が存在し、間桐も遠坂もアインツベルンも一応はこれに所属していることになっている。だが、各々の家が持つ秘術はそれぞれの継承者に継がせるために隠匿するのが普通。
  ロンドンの魔術協会は時計塔と呼ばれて、魔術の教育の場として存在する。それでも、教えられる内容は限られるうえに権威主義の塊で、他派閥とのいざこざや権力闘争に予算獲得競争などが常に繰り広げられている。講師、生徒共に血統の優秀さを優先し、血の浅い魔術師には魔導書の閲覧すら渋る始末。
  はっきり言って魔術師にとって自分たちの拠点に不用意に踏み込もうとする者は誰であろうとも等しく敵になる。粗茶を出して温かく迎える魔術師の家など、少数派を通り越して異常となる。
  それこそがゴゴの認識するこの世界の魔術師という生き物なのだ。
  故にアインツベルンの本拠地への訪問がそのまま闘争へ移行するのは自然な流れであり、森の結界を雪の融合技で破壊したこちらに敵意を抱くのも当然。むしろそうなるように仕向けたのだから、戦いになってもらわないと困る。ゴゴの目的は対話による会合などではなく、この世界からアインツベルンを抹消する事なのだから。
  二度と聖杯戦争を起こさせないために『聖杯の器』の作り手であるアインツベルンを消す。その為にゴゴは―――セッツァー・ギャッビアーニは、ガウは、モグは、ウーマロは、ここにいる。
  「ホムンクルスとはいえ、女を殺すのは性に合わないな」
  誰からの応対も期待していない独り言を呟きながら、それでもセッツァーの手はしっかりとアインツベルンが作り出した女性型ホムンクルスへと向けて武器を投擲していた。
  トス、トス、トス。と鳴る音は軽いが、四分の一の確率で即死効果を発揮する『死神のカード』はセッツァーの手から放たれてしっかりと頭蓋に命中する。
  眉間に突き刺さってカードの大半が皮膚の下にめり込んでいった。
  見た目は何の変哲もないトランプだが。『死神のカード』はその名の通り肉を削ぎ、骨を砕き、致命傷を与える武器なのだ。
  「ほぅ?」
  そして攻撃は敵への称賛に変貌する。
  最初に投げたカードが二体のホムンクルスの頭に突き刺さる。同時に放った残り十一枚もまた、同じように並ぶ女性型ホムンクルスの脳天に突き刺さる様に狙って放ったが、ちゃんと当たったのは二体だけで、残りは目に突き刺さったり、こめかみを抉ったり、髪を纏める白い頭巾を切り裂いたりした。
  腕を振って投げた結果、どうしても後で投げるカードは『これから攻撃が来る』と敵に教える事になる。その時間差を利用して頭を傾けて完全に避ける者がいた。
  仲間の頭にカードが突き刺さる異常を目にしても全く動揺する気配が無い。
  こちらが作り出した殺し殺される状況に放り込まれても全く動じていない。
  一瞬後、手にしたハルバートを構えてセッツァーに殺されたホムンクルスを除いた全員が前に出る。
  見た目がただの女にしか見えないからこそ、出来上がる異常は称賛となった。
  突進と言うよりもむしろ射出とでも言うべき驚異的な踏込でこちらに迫る敵の姿。ただの人間に比べると耐久力は同等のようだが、筋力は格段に強く。人で言う『心』の概念は最初から無いらしい。
  おそらく戦闘用に調整されたホムンクルスで、魔術こそ使えないが身体能力を強制的に引き上げさせているのだろう。これは人の形をしたモノだ。
  胸元から新しい『死神のカード』を取り出したセッツァーは、城壁の上から跳び下りてくる増援を視界の隅に捉えながら、こちらと同じようにあちらもやる気満々だったのだと知る。
  そうではなくては困るが―――。
  普通の人間が同じことをすれば着地と同時に足の骨を折る。けれど、あちらは何の躊躇もなく城門を閉ざしたまま軍勢を送り込んできた。
  見た目がほぼ一緒な女性型ホムンクルスが次から次へと飛び降りてくる姿は中々不気味だ。
  おそらく城壁の向こう側にもまだまだ敵が控えているだろうから、城壁の外からだけでは全体像の把握は困難。それでもいきなり三十体以上送り込んでるので、総数は百体以上になるだろう。
  対してこちらは二人と二匹。
  圧倒的な差を自覚しながら、それでもセッツァーの心に恐れは無い。
  あるのはものまね士ゴゴの喜び。これだけいれば戦いながらでもアインツベルンが作るホムンクルスの人体構成を存分に観察できる―――、そんなホムンクルスをものまねする歓喜だった。
  「来い、相手をしてやる」
  セッツァーがそう言った時。敵が大きく振りかぶるハルバートの刃が幾つも幾つも幾つも頭上から襲いかかってきた。





  肩の上、顔の横でもある空間に現れたリールと呼ばれる機械が三つ。軽快な音を立てながら回転するそれは浮遊してセッツァーの跡を追って移動した。
  ホムンクルスが振るう武器が振り下ろされ、薙ぎ、突く。前後左右から襲いかかるハルバートの群れを避け続けるセッツァーと全く同じ動きで、スロットも一緒に動き回り続ける。
  セッツァーの眉間から頭を真っ二つにしようと斧頭が襲い掛かり、上体を後ろに反らせて裂けるときも。長い柄の部分で殴りかかろうとして来た時に手を前に突き出して防ぐ時も。ハートが印刷された『死神のカード』が女性型ホムンクルスの腕に突き刺さり。その瞬間、ハートの図柄が黒衣を纏って鎌を持った死神へと変わり、一瞬で命を奪った時も。
  スロットはセッツァーと共にあった。
  そしてブリリアントカットで作られたブルーダイヤモンドの絵がスロットの中で三つ揃う。
  「セブンフラッシュ!」
  セッツァーは見なくても音だけで判るスロットの当たりを確信しながらその名を叫ぶ。すると周囲にいた全ての敵の足元から七色の光が溢れて天上に向けて伸びた。
  無属性の物理攻撃を行う『セブンフラッシュ』。スロットの当たりの中でも高確率で発生するそれはアインツベルンを破壊する閃光となって敵を吹き飛ばす。
  一撃で頑丈な戦闘用ホムンクルスを破壊するには至らなかったが、周りにいた敵を円状に外側に吹き飛ばす程度の威力はある。
  開いた間合いはそのままセッツァーに周囲を把握させる余裕となり、視界に見える戦場の様子を教える時間となる。
  「よくもまあ、次から次へと!」
  これだけの数のホムンクルスを、しかも女性型だけを量産できたな。と言わぬ言葉でセッツァーは苛立ちと共に感心もした。
  その理由は吹き飛ばす、あるいは倒したり命を奪ったりした分だけまた城壁の上から飛び降りてくる増援にある。
  敵は三十体ほどの数を常に城門の前に移動させ、数が減ればその度に城から新しいホムンクルスを飛び降りさせてくる。
  災害のように倒しても倒しても次から次へと湧き出る敵。
  ただ気がかりなのは増えるのは常に女性型ホムンクルスで、戦いが始まってから男性型の敵を一度たりとも見ていない点だ。
  まさか女性のホムンクルスを並べたのはこちらに手心を加えさせる為だとでもいうだろうか? もし本当にそんなことを考えているとしたら、アインツベルンの当主は何が戦いかを判っていない愚者の称号を与えるしかない。
  間桐臓硯が残した遺物とこの一年で手に入れた情報から当主の名がユーブスタクハイト・フォン・アインツベルンで、二世紀近く生きている老魔術師である事は判明しているが、容姿や使える魔術や趣味嗜好については何も判っていない。
  出来れば女性型ホムンクルスで足止めして、城門の前を敵味方問わず全て薙ぎ払う位の奥の手を準備していると思いたい。
  そうでなければ期待外れだ。
  「ウガァァァァァァァ!!」
  視界の隅に見えるのは戦場の中で一際やかましく雄叫びをあげる雪男のウーマロだった。
  ウーマロには『女だから手加減する』なんて気遣いが欠片も存在しない。
  そしてウーマロは親分ことモグの命令でゴゴ達の仲間にはなったが、体当たりや先ほども使用した『吹雪のオーブ』で吹雪を浴びせる以外に、味方を投げつける攻撃を問答無用で行うとんでもない雪男でもある。
  男だろうと老人だろうと子供だろうと女だろうと、親分と呼んでるモグであろうと問答無用で敵を倒すための巨大な砲弾にしてしまう。
  二メートルを超える身長と、二百キロに届く体重。誰が見ても巨獣で括られる雪男の腕力は人一人ぐらい簡単に放り投げる。その人を超越する膂力を存分に発揮し、ウーマロは近づいてくる女性型ホムンクルスを掴み取り―――別の敵に向けて思いっきり投げつけていた。
  ハルバートの一撃がウーマロの肉を抉り取るが、次の一撃が見舞われる前にウーマロはホムンクルスの頭部を掴んで別の方角へと投げ飛ばす。
  おそらく頭を鷲掴みにされて無茶な方向転換を行われた結果、衝撃で首の骨は折れているだろう。
  掴まれたホムンクルスは力なき死体となり、そして同じ大きさの味方に激突する投擲物となる。
  ウーマロが投げればそこには人と同じ大きさの空白が出来上がった。
  森の方に、城の方に、空に向け、誰も居ない場所に向け、前後左右の至る所にウーマロは敵を投げて投げて投げ飛ばす。
  「かかって、来いウー」
  人語も介する雪男は強大な体躯を武器にして、存分にその猛威を振るっていた。
  「あっちいけクポー」
  その近くで踊り続けているのはモーグリのモグだ。
  モグの身長はウーマロの約半分なので、両者が並び立つ状況になると大人と子供が一緒にいるようにも見えるが。モグはウーマロの親分であり背丈と上下関係はまったく逆だ。
  「スノーボール」
  周囲が雪原なのを利用して、戦いが始まると同時にモグは『雪だるまロンド』を踊っていた。
  目に見える範囲には何も変化は起こっていないが、今や周囲の空間は全てモグが作り出す固有結界の中に閉じ込められている。
  もちろんアインツベルンの城もだ。
  これは戦いを優位に進める為と言うよりも、敵をこの場に留めて逃がさないようにする為の牢獄の意味合いが近い。
  けれどその代償としてモグは苦戦を強いられていた
  アインツベルンの結界を破壊する時にも使った『スノーボール』。その名の通り雪玉でしかないそれは『雪だるまロンド』の中で発生する数少ない攻撃方法の一つで、効果は当たった敵の体力を半分にして、その後も徐々に体力を奪っていく呪いの雪玉だ。
  ただし一撃必殺ではない。
  「落とし穴クポー!」
  モグが叫ぶと同時に目の前にいた女性型ホムンクルスの足元に巨大な穴が出来て、敵はその中に吸い込まれて消えていった。
  善戦はしているが、一瞬後に拮抗が崩されて敵の猛攻撃に小さな体躯が晒されてもおかしくない。
  モグが使う『踊り』は固有結界を発動させる強力な技能だが、槍使いとしてのモグが武器を使えなくなる欠点がある。
  一度踊ってしまえば戦いが終わるまで踊りを強制される。今のモグは死に物狂いで踊って避けて、踊って避けて、踊って避けるを繰り返していた。
  そしてホムンクルス達は弱ろうと死にかけようと気にせずモグを攻撃し続ける。それこそが苦戦の正体だ。
  槍を使えば一撃で敵を死に至らしめる事も出来るが、今のモグでは敵を弱らせられても一回で死に至らしめるのは難しい。
  もしモグだけだったなら。ウーマロが近くで敵を引き付けていなければ。ホムンクルス達が持つハルバートはモグの体を難なく貫き、殴打し、叩き割っただろう。
  数十対四。もしくはアインツベルンの城で控えているかもしれないホムンクルスの総数を考えると、数百対四。
  圧倒的な数の差で、しかもアインツベルンのホムンクルス達は自分が傷つくことを恐れず、死を厭わず、ただ敵を殺す為だけに殺到してくる。
  物量の差はどうしようもなく、押し切られるのは時間の問題。
  それでもセッツァー達が拮抗状態を作り出し、敵ホムンクルスを物真似する為に観察する余裕すら在るのには訳がある。
  敵が常に一定の数が揃うように戦場に増援を送り込んでいるからではない。
  「・・・・・・・・・」
  最たる理由。それこそが戦場の中心で全く動かず、ただそこに居続けるガウ―――正確に言えばガウの特殊技能『あばれる』で、とあるモンスターを模倣しているガウがそこにいるから拮抗は成り立っていた。
  強力無比な魔法は必要なかった。
  魔石から呼び出される強大な幻獣も必要なかった。
  ただガウがそこに居る。それだけでよかった。
  今のガウには攻撃する手段は無い。敵を倒すに主点を置けば無力を言ってもいい。それでも今のガウは戦場の中で誰よりも強い。
  「・・・・・・・・・」
  ガウは腰を地面に下ろして、両膝を抱えて体勢で座っていた。何もせず、ただ戦場のど真ん中で座っていた。
  ホムンクルスが振るうハルバートが脳天を直撃してもガウは座っていた。
  ハルバートに取り付けられた斧の部分が体を引き裂こうとしても、斧と逆の位置にある突起が心臓を貫こうとしても、長い柄の部分で体中を力任せに打ち付けられても、ガウの体から紅い血が沢山吹き出ても、ガウはそこに座っていた。
  ガウが『あばれる』で模倣しているモンスター。それは『マジックポット』と呼ばれる壺に入った紫色のモンスターだ。
  炎氷雷毒水風地聖の全属性魔法を吸収。そして全悪性状態異常無しという付加効果まで持つ強力なモンスター。
  「・・・・・・・・・ケアルガ」
  ホムンクルス達がどれだけセッツァー達を傷つけようと、『マジックポット』となったガウが回復魔法の最上位『ケアルガ』をかければ怪我は一瞬で治ってしまう。ガウが負った怪我も死ぬ前ならすぐに治ってしまう。
  攻撃手段が何一つない代わりに味方の補助なら最強とも言える『マジックポット』。
  鉄壁ではない。無敵でもない。それでもホムンクルス程度ならば、どれだけ集まろうともガウの守りは突き崩せない。
  ホムンクルス達が全員ガウに殺到すれば、その隙をついてセッツァー達が隙だらけの敵に向かって攻撃する。
  アインツベルンの利は数。ホムンクルス達は圧倒的大軍勢となって襲い来る。
  セッツァー達の利は尽きぬ魔力。モグの固有結界も、ガウの回復魔法も、どちらも魔術とは無関係の特技故に消耗はない。
  どちらも戦う意思が挫けない限り、果ての無い戦いはただひたすらに続いていく。
  「っと、いい加減よそ見してる暇は無いな」
  セッツァーはほんの数秒で来た余裕の中で状況を把握すると自分に向かってくる敵の姿を改めて捉えなおす。
  『セブンフラッシュ』で大きく吹き飛ばされた者達が体勢を立て直し、増援と一緒になって向かってきている。攻撃が再開されるまで二秒とかからないだろう。
  腕一本へし折れてようが、腹部に致命傷らしき穴が開こうが、敵は何も気にせず攻撃してくる。
  油断できる敵ではないと厄介さを再確認しつつ、セッツァーは肩の上を浮遊するスロットを再び回し始めた。
  そしてクローバーが描かれた『死神のカード』を十三枚全て左手に、そして同じくダイヤが描かれた十三枚を右手に構え、扇状に開いて迎撃の準備を整える。
  あまり距離を取り過ぎた状態で放つと敵に避けられてしまうので、ある程度は接近させなければこちらの攻撃は当たらない。
  早く来い―――そう念じていると、戦いが始まる前に三つあるリールの一番左が竜の絵柄で止まった。



  ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆



  Side - ユーブスタクハイト・フォン・アインツベルン





  アインツベルン城にいながら周囲の状況を全て把握する為、私の立つ礼拝堂には丹念かつ多くの魔術が施されている。
  城を中心にした半球状の結界、その内部に流れる力の流動は全て私の手の内であり、見通せぬモノなど何もない。
  「馬鹿な・・・・・・」
  アインツベルンは御三家の中でも遠坂とマキリを比較対象とするならば戦いに長けた家系ではない。それは認めよう。
  だからこそ私はアインツベルンが掲げる純血の信条を曲げてまで、衛宮切嗣と言う切り札を―――コーンウォールで探索させていた聖遺物によって呼び出した最強のサーヴァントを聖杯戦争へ送り込んだのだ。
  それでも戦いの優劣がそのまま魔術師としての優劣に繋がっている訳ではない。
  アインツベルンが錬金術に特化するのは他のどの魔術師よりも『人』を知る魔術だからに他ならぬ。魔術を単なる暴力的な手段にしか使えぬ愚昧な者共とアインツベルンの間には決して越えられぬ大きな壁がある。
  奴らは決してこちら側には来れない。だが奴らは力に物を言わせる愚か者共、魔術の真髄を理解せずに我々の世界を荒らしまわる。
  何と愚かな。
 アインツベルンの正しさを証明する為にも、私は第三魔法―――天の杯ヘブンズフィールを成就させなければならない。それがアインツベルンの八代目当主たる私の務めなのだ。
  その決意が揺らぎ、忘れてしまいそうな光景が私の前に広がっている。
  遠視の魔術が私に信じ難い光景を見せていた。
  「何故・・・、何故だ・・・」
  マキリの使いを名乗った者達が天候操作に匹敵する魔術を行使して結界の一部を綻ばせたのは中々見事であった。だが結界の破壊には至らず、精々が通れるだけの通路を開けただけに過ぎない。
  無礼な訪問者への誅伐を行う為に私は彼らを向かい入れ、戦闘用ホムンクルスに相手をさせた。
  掃討が始まって状況は拮抗した時。私はマキリがこれ程の戦力を有している点と、魔獣まで率いて攻め込んできた点を予想外だと感じた。
  しかし数で押せばいずれは決着がつく。
  どれほど力を有していようとも所詮は個人。個人では決して統制された組織には叶わないのだ。
  圧倒的物量こそが勝利への道筋。
  マキリ・ゾォルケンが何を考えてここを襲撃したのか。その真意を知る為にも生け捕りにするのが最良だ。
  四肢を削ぎ落し、言葉だけは喋れるように生かし、全てを吐かせる。私が見ている光景はその目算を木っ端微塵に打ち砕いた。
  「どこから・・・」
  私は叫ぶ。叫ばずにはいられない。


  「その竜種はどこから現れたっ!?」


  私は一度たりともあの愚か者共から目を逸らしていない。あちらの戦力は増えておらず、増援の姿など一瞬前まで存在しなかった。しかし私の目は間違いなくそこに居る幻想種を―――頂点に立つ『竜種』を捉えている。
  数多くの錬金術に触れて来た私ですら感じた事のない圧倒的な力。間違いなく生物の枠に収まっていながら、その溢れんばかりの生命の躍動は魔術を通しても感じる。
  世界の空全てを軽々と飛び越えても不思議の無い深く巨大な青の羽根。
  雪の白さに浮かび上がる漆黒の体色。鱗一枚一枚が宝石のように輝いている。
  前脚と後ろ脚にはそれぞれ鋭い爪が光り。この世のどんな刃物をも凌ぐ逞しさを誇っていた。
  悠々と羽ばたき空を舞うその姿には美しさがあり、命があり、力があり、私は驚きながらもその姿から目を離せない。
  二世紀を生きたアインツベルンの生き字引と言っても過言ではない私の体験に存在せず。されど、魔術師であるならば誰もが知識として有している最強の幻想種『竜』。
  私を動揺させているのはその竜が現れた事だけではない。
  明らかにこの竜種はアインツベルンの戦闘用ホムンクルスにのみ敵意を向け、奴らには全く見向きもしていない。つまりマキリ・ゾォルケンの手の者は幻想種の頂点、竜種を従わせている事になる。
  馬鹿な、ありえん。
  紅く輝く両眼が私を見た―――、いやそうではない。あの竜種は足元にいる戦闘用ホムンクルスからアインツベルン城へと矛先を変えたのだ。
  今、私の視界は城の見張り台と同調させてある、だから竜がそこに視線を向けられたから目が合ったと感じただけ。
  そうでなければならない
  あの竜種は私を見ている訳ではない。
  そんな筈がない。
  炎よりも紅く輝く目が私を見ている等、ありえない。
  そうか、私はこのありえない光景に恐怖しているのか。
  私が私の恐れを知ったその瞬間。竜種の口が青く輝いた。





  「う・・・・・・」
  一体、起こった? 呻き声をあげながら伏した自分を自覚して、私はまずそう考える。
  そして礼拝堂に張り巡らされた探査魔術に意識を伸ばし、城の中で何が起こっているかを理解する為に発動させる。
  結界の内部ならば私に知れぬ事は無い。
  「なっ!?」
  そして私は知る。城の三分の一がスプーンでくり貫かれた様に消滅している現状を―――。
  私の意識は間違いなくあの竜種を捉えて居た筈だが、そこで何かが起こった。その結果、アインツベルン城の城門は丸ごと消え、閉ざされた門の裏側に控えていた戦闘用ホムンクルスが全員消滅している。
  城は見るも無残な姿に成り果てていた。いっそ結界が無事に機能している事が奇跡と言える有様だ、
  「馬鹿な――」
  ありえない。再びそう思うが、アインツベルンが誇る魔術はそれが決して誤認ではないと私に教える。
  私が信じるアインツベルンの魔術が真実だと告げるなら、どれだけ荒唐無稽な出来事であろうとも私は信じる。そうでなければならない。
  続いて、あの竜種の口が輝いた後、放たれたブレスによって作り出された結果なのだと結果が帰ってきた。
  だがこの惨状を作り出した竜種はいつの間にか消えていた。城門の前に居た筈の敵の姿もない。あるのは雪の大地に伏したホムンクルス達の躯の山だけだ。
  奴らはどこにいる?
  敵はどこにいった?
  あの竜種はどこから現れてどこに消えた?
  私はいったいどれだけの間、意識を飛ばしていた?
  竜のブレスが作り出す衝撃で転倒した私はより深く理解を突き詰める為に体を起こす暇も作らずに魔術行使に集中する。
  どこにいる? どこにいる? どこにいる?
  体長数十メートルと思われる竜種の姿がない、そしてマキリの手の者は間違いなくあの竜種を使役している。私はただひたすらに敵の姿を探し続ける。
  この時の私に自覚するだけの余裕があったかは判らないが、あの竜種に―――敵に―――恐怖していたのは間違いない。
  敵はアインツベルンの城を容易く半壊させる力を有している。その力は間違いなくアインツベルンに、つまり私に向けられている。あの城門を吹き飛ばした一撃が礼拝堂を直撃していれば、アインツベルンの結界ごと私は消し飛んでしまう。
  運が良かった。竜のブレスの狙いが外れたから私は生きている。だが今の私にはその幸運を喜ぶ余裕はない。
  あの力が城を直撃すれば結界など意味をなさないと私は知ってしまった。
  このままでは殺される。敵がどこにいるか知らなければならない。どこにいるか判らない敵に私は殺されてしまう。
  どこにいった? どこに隠れた? どこに移動した?
  時間にすれば数秒すら経っていなかっただろう。けれど私にとってその数秒は永遠にも等しく感じた。
  数秒の間に感じたモノ、未知―――おそらくアインツベルン当主となる以前から無縁であったその言葉がこれほどまでに恐ろしく、そして体感時間を引き延ばすものだと思い知る。
  それでも答えを得てしまえば恐怖は薄れゆく。ただし、それは新たな恐怖を呼び起こしたが・・・。
  「ユーブスタクハイト・フォン・アインツベルンだな?」
  敵がそこにいた。
  私の前に、礼拝堂の入り口から、私を見ていた。
  敵の姿を肉眼で確認した時、真っ先に考えたのは『無様に床に転がる自分』であった。あの竜の一撃によって城はこれまでにない揺れに襲われ、私はその衝撃によって床に転げ落ちて意識を飛ばしていた。竜の一撃を直視してしまった魔術のフィードバックもあったのだろう。
  その間にどれだけの時間が経ってしまったかは分からない。少なくとも敵がアインツベルン城の奥にあるこの礼拝堂にまで到達できる程度の時間、私は気絶してしまっていたのだ。そして敵と対峙した瞬間、まるで敗北者のように横になる姿を見られてしまった。
  この私が、アインツベルンの八代目当主が、二世紀近くを生きるこの大魔術師が。敵を前にして戦う前から敗者の姿を見せてしまった。
  許してはならない。
  知られてはならない。
  禁じなければならない。
  殺さなければならない。
  アインツベルンの誇りは敵への恐怖を凌駕し、私の体を一気に起き上がらせる。
  わずかばかり体が傷んだが、心の奥から湧き上がる矜持を守る想いの前には何の意味をなさない。
  一秒すらかからず私は立ち上がって敵を出迎えた。
  「いかにも、私がユーブスタクハイト・フォン・アインツベルンだ。無礼な客人よ、よくぞ参られた」
  一瞬前にはあった無様な様子など欠片も残さず、アインツベルンの当主として敵を見据える。
  「大したお出迎えだったよ、ここまで来るまで一苦労だ。まあ、俺達を止めるにはほんの少しばかり力不足だったがな」
  「貴様ら・・・・・・」
  アインツベルンの戦闘用ホムンクルスなど敵ではないと堂々と告げる敵に乱れは無い。
  戦いの余韻を全く残さずそこに佇む姿はただここを訪れただけにしか見えない。だが私は知っている。この者たちは外で私が放ったホムンクルスの大軍勢と戦闘を行い、それを突破してここまでやってきた者たちなのだ。
  返り血、髪の乱れや汗、城の外に降りしきる雪の残滓。そう言った類の『戦いの結果』を全く残さずにここに立つ状況そのものが奴らの強さの証でもある。
  腹立たしい事だが、敵は戦闘用ホムンクルスの戦闘を行ってなお、疲れ片鱗すら見せずに私の前に立ったのだ。
  あの竜の姿はなかったのが気がかりだが、使役しているのが目の前の男たちの誰かだったとするならば、ここで敵を無力化すれば竜種もまたこちらを攻撃することはない。甘い見通しとは思いつつ、今の私はそう結論付ける。
  「無遠慮に我が城の結界を破壊した無作法者にはそれ相応のもてなしが必要であろう? 過ぎた歓待とは思わぬよ」
  「そのおかげで判り易い挨拶ができたからな、むしろ丁重なお出迎えに感謝してるぞ」
  先頭に立つ銀の髪を長く伸ばした男が礼拝堂の中を一歩一歩進んでくる。それに合わせて魔獣共も後を追う。
  数は四。外で戦っていた敵の総数が礼拝堂に集っている。
  「どうやら外にいたあの女の形をしたゲテモノは俺たちの事は伝えてくれなかったらしい。だからあんたの前でもう一度言っておこう、俺たちはマキリ・ゾォルケンの使いとしてやって来た」
  「マキリ、遠坂とは同じ御三家として不可侵条約を結んでおる。貴殿の行動はその条約を侵していると理解しているか?」
  「聖杯戦争が問題なく行われている間ならその条約も有効なんだがな。マキリ・ゾォルケン―――間桐臓硯は異常に気づいて条約破棄を決意したのさ」
  「何・・・?」
  私の中には敵が迫り来る恐れと、それを弾き飛ばすアインツベルンの誇りがあった。しかし、ゆっくり近づきながら語りかけてくる敵の言葉を聞く間に三つ目の『猜疑』が加わってゆく。
  敵の目的は不明確だが、マキリの名を出した上の狼藉ならば、それは明確な敵対行為に他ならない。その理由は何なのか? 話しながら敵を殺す準備を揃えつつ、答えを得るために私は耳を傾ける。
 「この世全ての悪アンリマユ
  「・・・」
  「前回の第三次聖杯戦争でアンタが当時のアインツベルンのマスターに召喚させたイレギュラーサーヴァント、この名を知らないとは言わないよな、ご老体――」
  もちろん覚えている。それは決して忘れてはならないこの私の汚点そのものなのだから。
  「確かに知っておる。だがそれがどうした? もはや六十年前に終わった話ではないか」
  「生憎とあんたが思ってるより英霊ってのはしぶとくてな。戦いにおいてどれだけ弱い英霊だろうと、その特殊能力は人の常識を簡単に突破する」
  話を続けつつ、私はこの礼拝堂に―――魔導の式典を執り行う祭儀の間に設置されたある魔術を発動させる準備を整える。
  確かにアインツベルンは錬金術に特化するあまり、武力の面ではほかの魔術師の家系に一歩劣るが、それは攻撃手段がないという意味ではない。
  魔術特性は力の流動、転移。伝来の魔術は物質の練成と創製。そして貴金属の扱いには無類の強さを発揮する、それがアインツベルンの魔術だ。力の流動、つまり命そのものすら一つの力と捉えて使いこなせるのはアインツベルンを置いて他には存在しない。
  力を操るからこそ数多のホムンクルスを生み出せる。ならばその力、奪うこともまたアインツベルンにとっては容易い事。
  「何が言いたい?」
 「アンタの無謀な企てで呼び出された英霊が聖杯戦争を全部ぶちこわしたのさ。表向きは何でもないように見えて、聖杯に吸収されたこの世全ての悪アンリマユは全てを悪に変えた、聖杯の本質は修正不可能なほど変質しちまって、『万能の願望器』はもうどこにもないんだよ」
  「何を馬鹿な――」
 「もう冬木に設置された聖杯の汚染は今生の魔術師が数人程度集まったところで浄化できないところまで進んでる。それもこれも全ては定められた七騎のクラスにサーヴァント召喚を行わなかったお前の落ち度だ。二回も悲願達成ができなかった悔しさか? もっと前、外部の家門との協定を余儀なくされて悔しかったか? よりにもよって復讐者アヴェンジャーなんてクラスに呼び込むとはな」
  「貴様ごとき若造がアインツベルンの誇りを、我が苦悩を語るな!! 聖杯が汚染されているだと? 下らん。黙って聞いていればそのような戯言を垂れ流すだけとは」
  「否定するのはいいが、こんなドイツの山奥に一千年もこもっている血族が、遠い日本の何が知れるつもりなんだ? 実物を見てもいないでよくもまあ大言壮語できるもんだ。感心するよまったく」
  敵がそうしゃべり終えた後、先頭に立つ男と後ろに続く敵の全てが礼拝堂の中に入る。
  こちらが無手で油断しているのか、それとも攻め込んでおきながら対話を望んでいるのか。戦闘用ホムンクルスを撃退した武器を手にしていない。ゆっくりとゆっくりと近づくだけだ。
  ならばその油断、突かせてもらおう―――。
  「『聖杯の器』は我らアインツベルンが作りしモノ、マキリごときが容易く暴ける秘術ではない。異常があれば私がそれを誰よりも知っている」
  「自分を信じるのは勝手だけどな、世界は意外と広くてたかが千年続くドイツの一家系ごときじゃ知れないことも結構あるぞ。現にお前は俺達の事を知らなかったじゃないか」
  その言葉を聞いた瞬間、私は目の前にいる敵をこの世から抹消すべき廃棄物と断定する。
  私がわずかに視線を上げれば、そこには礼拝堂を見下ろすステンドグラスの群れが列を成している。そこには聖杯を求めてさまよい続けたアインツベルン家の歴史が描かれており、ステンドグラスの全てが魔術礼装なのだ。
  もはや敵にかける慈悲はない。無用な問答を正当な理由に仕立て上げた愚かなマキリに罰を与えなければならない。
  「滅せよ・・・」
  発動の事前準備として唱えれば、ステンドグラスが全て太陽より強い輝きを放つ。
  巻き起こる異常に敵共は視線を上に向けるが全てが遅いのだ。不用意にこの場所に踏み込んだ愚かさを知るがいい。
  宝具の真名詠唱、別名『真名解放』のように私はその言葉を口にする。


 「天の光炎ヘブンズ・ゼロ――」


  白い光が礼拝堂を埋め尽くした。





 礼拝堂に用意された攻撃用魔術『天の光炎ヘブンズ・ゼロ』。これはアインツベルンの魔術において数少ない敵殲滅用の魔術であり、代々のアインツベルンの当主にのみ継承される秘術の一つだ。
  ステンドグラスから放たれる光はそれ一つ一つが魔術の結晶であり、アインツベルンが得意とする力の流動を紐解く力がある。
  光に接触すれば命ある者は命が持つ力そのものを解かれ、肉体を維持できずに消滅する。
  白き光が全てのものを浄化し尽くす。
  言うは容易いが命の解析、つまりは敵そのものを壊すのではなく分解する工程を一瞬で成し遂げるのはただの魔術師には一生涯かけてもたどり着けない終着点なのだ。
  ただしこの魔術には大きな欠点があり、礼拝堂にある全てのステンドグラスに同調して発動させなければ効果を発揮せず、しかもその効果は礼拝堂の中に限定され、私が立つ祭壇を除く全ての場所を薙ぎ払う。
  効果は絶大だが、持ち運ぶにはあまりにも巨大で、使いどころを誤れば味方すらも一瞬で消滅させる。私の数代前の当主がこの魔術を完成させてから、今に至るまで礼拝堂の外に出した記録は一度もない。
  これまでは主に反逆者あるいは断罪者にのみ使われた魔術。その力が敵を消滅させた。
  「はは・・・、はははははは――!」
  全てを分解し消滅させる眩しさ故に目を閉じるしかない。けれど目を開いた時に眼前にあるのは純然たる『消滅』の結果のみ。
  敵の姿はどこにもなく、ただアインツベルンの礼拝堂の姿が広がる。不純物は全て抹消され、ここにあるべき物だけが残る。
  残るのは私、アインツベルンだけだ。
  「はははははははははははははっ!!」
  ほんの僅かであってもアインツベルンの当主たる私が恐怖を覚えていたなどと許せない。
  私は笑う。
  あったかもしれない過去を消し去り、アインツベルンの誇りを掲げながら心を昂らせる。
  そうだ、これこそがあるべき姿なのだ。我が居城で狼藉を働く愚か者は私の前から消え去る運命なのだ。
  もう私の無様な様子を知る者はこの世にいない。
  敵は死んだ、滅んだ、消滅した、消えた。
  もういないのだ。
  「はははははははははははははっ!!」


  「大した威力だ、俺が乗せたチップ程度じゃ一度『視』るだけで精一杯か」


  「はっ・・・?」
  聞こえる筈のない声が私の耳に届いた。
  馬鹿な、ありえん――。
  ありえん。ありえん。ありえん。ありえん。ありえん。ありえん。ありえん。ありえん。ありえん。ありえん。ありえん。ありえん。ありえん。ありえん。ありえん。ありえん。ありえん。ありえん。
  何故だ。
  何故、跡形もなく消えたはずの敵がそこにいる。礼拝堂の入り口からまた入ってきている!?
 どうして『天の光炎ヘブンズ・ゼロ』を喰らって生きている。
  何故、立っていられるのだ?
  「まさか・・・」
  「発動と同時に後ろに跳んで避けたと思ってるのか? 大間違いだ、確かに『セッツァー・ギャッビアーニ』はお前の魔術を喰らって消滅した。中々見事な魔術だったよ」
  「ならば何故だ! 何故だ何故だ何故だぁぁぁぁぁ!?」
  「知りたいんならもっと広い目を持つんだな。視野が狭いと大局を見失うぜ」
  決してその言葉に触発された訳ではないが、私は目の前に向けた意識の一部を探査魔術へと割り振った。
  そこで私は異常に気付く。
 いや、そうではない。敵の姿を確認する為に礼拝堂から結界の中に広がった探査魔術は『天の光炎ヘブンズ・ゼロ』が発動する前から常に稼働し続けていた。
  その結果を私が認識しなかった。魔術は常に私の望む答えを私に与え続けていたのだ、目の前の敵に集中するあまり、それに気付かなかった私の落ち度だ。
  今は悔いるべき時ではない。探査魔術が教えるこの異常の正体が何であるかを突き止めるべきなのだ。
  何が起こっている?
  何故こんな事が発生している?
  何が理由でこんな状況に陥っている?
  異常とは何だ?
  異常は―――。
  探査魔術が私に答えを教え、それが真実であるかを確かめる為。私は再び入り口から礼拝堂の中を通り近づいてくる敵に向けて言葉をぶつける。
  「貴様ら。何故――、何故、別の場所にも存在している!!」
  私の肉眼は間違いなく目の前に立つ敵の姿を捉えていた。だが、同時に私が行使し続けている探査魔術は間違いなく城の別の場所を徘徊する敵の姿も認識していた。
  ありえん。どうしてこいつらは全く同じ時間軸の中で別の場所に存在していられるのだ。まさか全員が全員双子とでもいうつもりか?
  馬鹿な、馬鹿な、馬鹿な、馬鹿な!!
  こんな事はありえん!
  あってはならない!!
  「何だ、ここにいて別の場所が見通せるのか。そこの窓から見るだけでもよかったんだがな。そんな事が出来るのに今まで気づいてなかったのか? もう少し戦術家として優秀かと思ったんだけどな・・・、思ったより視野が狭い、がっかりだ」
  そこで先頭に立つ銀髪の敵は溜息を一つ吐く。
  「どうして俺たちが沢山いるか知りたいのか? アインツベルン、お前と同じことをしただけさ。錬金術師パラケルススが残した製法とは大きく違ってたが、存分に出来上がったホムンクルスを見せてもらったし、ついでの城の外れと地下にあった工房も覗かせてもらったから途中経過も知れた、素体は十分すぎるほど提供してもらった。まだ見せかけだけ似せただけの木偶だが、それらしいモノならこの短時間でも精製可能だったぞ」
  その言葉を聞いて私は息をするのを忘れた。
  それでも聞こえてくる声の中から答えを探る。
  敵はこの短時間でアインツベルンの魔術を模倣し、ホムンクルスの精製に成功したと言ったのだ。
  ふざけるな! ふざけるな、ふざけるな、ふざけるな!
  器具も材料も時間もなしに、そんな奇跡が出来てたまるものか!!
  「馬鹿な、そんな事が――」
  「まだまだ錬金術の神髄には程遠いお遊びみたいなホムンクルスだ。もっとアインツベルンの魔道を物真似すれば、更に完成度の高い奴を生み出せるだろうな」
  「こんな! こんな短時間で・・・」
  「出来るからこうして俺たちはここにいる。別の場所にいる俺達はそれぞれ別の行動をする。もう物真似の種として見せてもらったからな、魔術発動まで待ってやる義理はないぞ。それともこの礼拝堂に設置された別の魔術を見せてくれるのか? なら早くするんだな」
  ―――そんなものは無い。
 天の光炎ヘブンズ・ゼロはアインツベルンの魔術の集大成の一つであり、それ故に敵に通じなかった状況などは考慮されていない。
  避ける方法は私のように魔術の影響範囲外に退避しているか、それともアインツベルンの魔術ですら解析できないほどの命を有しているかのどちらかになる。
  たとえ敵が英霊であったとしても殺し切る魔術。神でもなければ耐えるなど出来はしない。
  だからこそ他の攻撃手段が必要なかった。今までそんな敵は現れなかった。
  「・・・・・・・・・」
  「打ち止め・・・か。さて、出来の悪い生徒に教えてやったところで戦いの続きといこう。もっとも、お前の行き着く先は変わらないぜ。俺たちにアインツベルンの魔術を物真似され尽くしてからの死だ。死ぬ前のお前の知識のすべてを物真似させてもらおうか」
  また一歩踏み出してくる敵に合わせ、私の足が一歩後ろに下がった。
  足元がぐらつく。
  この足の震えを揺り起こす思いの源泉は怒りか、恐れか、否定か、拒絶か。それとも私自身も判らない何かか。
  何の意図がそうさせたのか、その答えにはすぐに辿り付けない。だがそれでも、意思とは無関係に私は叫ばずにはいられなかった。
  敵が迫る。向かって来る―――。
  私ヲ殺ス敵ガ。
  未知ノ敵ガ・・・。
  「やめろおおおおおおぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉ!!!」



  ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆



  Side - ゴゴ





  アインツベルンが作り出したホムンクルスには『他者と命を同調させる』という外部操作の余地があった。製作者が何を思ってそんな機能を付加させたかは判らないが、この余地は外部からのホムンクルス操作および掌握を可能にさせる。
  一人の人間、一つの命、一つの存在。それだけで完結しているならゴゴといえども簡単に操ったりはできない。混乱の魔法『コンフェ』で幻惑を見せるのは可能だが、あくまで本人が意識を惑わされて正気を失っているだけだ。
  無理を承知でやれば人間でも操作は可能だろうが、アインツベルンが作り出したホムンクルスを操作する方が容易だ。
  思うにアインツベルンのホムンクルスは作り段階で『製作者には絶対逆らえない理由』を意図的に盛り込んでいるのかもしれない。
  外部操作の余地はホムンクルスと製作者の間を隔てる絶対的な差異であり、同時にホムンクルスに自分の置かれた状況をわきまえさせる為につけられた鎖や首輪のようなモノではないだろうか。
  あくまで予想に過ぎないが、ホムンクルスを作った者―――十中八九ユーブスタクハイト・フォン・アインツベルンであろうが、その者は万が一にホムンクルスに自我が芽生え、そして反抗された場合に備えたのかもしれない。
  とりあえず作ってみた偽者は、倒したホムンクルスの中で比較的傷の少なかったものを流用したに過ぎず、何もないところからいきなり作り出した訳ではなかった。
 更に付け加えるならば、身に着けている服はバーサーカーの宝具『己が栄光の為でなくフォー・サムワンズ・グロウリー』で別人に変身する時の要領で作り出せば良かったが、肉体はそうはいかなかった。
  セッツァーの顔立ちに似せて服装でごまかしているが、実は肉体は女性型のままだったりする。
  これでは物真似ではなく転用だ。
  銀色長髪のセッツァーなら女性でも美しくなるかもしれない、モグとウーマロは人間の性別など超越した魔獣なので問題ない。けれどガウの女性型など色々な意味で恐ろしすぎる。
  礼拝堂で相対しているアインツベルンの当主様はその辺りの小さな違いに気付いているだろうか? 気付いても今の状況が変わる訳ではないが、それが少し気がかりだ。
  出来るだけ実物に似せたつもりだが、成果を詳しく調べるつもりはまだ無い。今後、作り変えるか、セッツァー達に自分の姿をした自分を殺させるかして廃棄する必要があるだろう。
  かつてここではない別の世界で戦った時、ステータス異常の『混乱』から目を覚まさせる為に味方を攻撃できたのだから、自分の姿をした他人を攻撃する位簡単にやれなくてはならない。
  それにもっともっともっともっと物真似して女性型ホムンクルスだけではなく、もっと別のホムンクルスを生み出せるようにならなければならない。
  「ウガー・・・・・・」
  それはそれとして、わざわざドイツまでやってきた本来の目的はすでに達成されそうだった。
  アインツベルンの城はいっそ恐ろしいほど人の気配が少なく、ホムンクルスは数多く居たが、その全てが自我の伴わない物ばかりで『者』になっているホムンクルスは一人もいない。
  魔術師、あるいは人の定義で考えるなら、今の所は城の中にいる生きた人間は礼拝堂にいたユーブスタクハイト・フォン・アインツベルンだけだった。
  魔術師の家は基本一子相伝であり、その一子と思わしきアイリスフィール・フォン・アインツベルンが冬木にいるのだから、人気がないのは仕方ない。だが城の維持も防衛も全てホムンクルスに任せているので、汎用性が極端に少なくなっている。
  ゴゴにとってこの世界の錬金術は中々物真似のし甲斐のある学問だが、アインツベルンの家一つで完結できるような間口の狭い研究では満足しきれない。千年続く魔導の名家であっても全く足りない。
  ユーブスタクハイトの知識か城の中でまだ探索していない箇所に更に喜べるモノがあればいいと願いながら、ゴゴはさらに奥へ奥へと進んでいった。
  最終的にアインツベルンは消滅する。その過程で物真似できるモノがあれば余すことなく物真似する。
  これはただそれだけの事。
  既に確定した未来に向かい、ゴゴは自らの欲求を満たす道を突き進む。
  もっと得るべきモノを―――。
  もっと求めるモノを―――。
  もっと知るべきモノを―――。
  もっと物真似を―――。
  物真似に心酔するあまり、いつしか城内を歩いていた雪男ウーマロはものまね士ゴゴへと戻ってしまっていた。
  身長は縮み、雪男の白い体毛はものまね士の煌びやかな衣装へと様変わりして、破壊衝動の赴くままに暴れまわるウーマロは消えてゴゴが顕現する。
 宝具『己が栄光の為でなくフォー・サムワンズ・グロウリー』すら無意識のうちに解除してしまう物真似への固執。ものまね士の性とでも言うべきモノに背中を押され、ゴゴは更に城の奥へと踏み込んでいった。
  ほんの一瞬前まで城を徘徊していたホムンクルスの一体を力任せに投げて、城の壁にホムンクルス製の立体絵画を作り上げた事などもう頭から消えている。
  ただ歩く。
  ただ進む。
  物真似する為に前へ前へと。
  「・・・・・・・・・」
  アインツベルンはそれ一つで完結している家で、外部からの救援の類が来る気配は無い。迎撃の為に用意されたホムンクルスの大軍勢はセッツァーがスロットで出した大当たりで殆ど殲滅させられてしまい、残ったホムンクルスも城のあちこちで暴れまわるセッツァー達の対処で忙しい。
  城門の外で戦っている時にセッツァーがリールに描かれた竜のマークを三つ揃えなければ戦況はもう少しアインツベルンに有利に働いていたに違いない。
  こんなにも早く礼拝堂まで攻め込まれる事は無かっただろうし、城門が跡形もなく破壊されるなんて事態にはなっていなかった筈。
  しかし結果としてスロットは大当たりを出してしまった。
  竜の絵柄―――幻獣バハムートが揃ってしまい、バハムートのブレス『メガフレア』はアインツベルン城の一部とそこに居た戦闘用ホムンクルスを軒並み消滅させた。
  竜のブレスは敵を跡形もなく薙ぎ払う。かつての世界でもこの世界でもそれは共通していたらしい。
  もしスロットが『7』『7』『BAR』の三つで揃っていれば、味方が全滅する『ジョーカーデス』が発動してアインツベルンの勝利は確定したと言うのに、バハムートが出て来てしまった為にアインツベルンの消滅はほぼ確定した。
  こちらにとって運が良かったのだ。
  あちらにとって運が悪かったのだ。
  あえて理由を探すならそう言うしかない。
  観察を怠らず、常に何かを物真似する為に城を徘徊するゴゴだったが、アインツベルンの拠点だけあって魔術の痕跡があちこちに点在しているので物真似する価値のある何かを探すのは至難の技だった。
 求めるべきは魔術の痕跡よりも魔術そのもの。城の外に敷設された巨大な結界のような、アインツベルンが作り出したホムンクルスのような、礼拝堂にあった魔術『天の光炎ヘブンズ・ゼロ』のような。物真似すべきモノこそが必要なのだ。
  アインツベルンの工房は既に同じゴゴであって別のゴゴであるセッツァー達が抑えているから存分に調べればいい。けれど、今、こうして歩いているゴゴの眼前には物真似すべきモノは現れない。
  何かないか?
  何か出てこないか?
  何か現れないか?
  制圧すべき敵地で未知や意外を求めるのは目的達成の障害でしかないが、ものまね士ゴゴは自分の性に従ってそれを求める。
  何か出てこい。
  早く出てこい。
  さっさと出てこい。
  祈りつつもあちこちを歩き回り、閉ざされた扉があれば開いて中を調べた。
  開けて観察、隅から隅まで観察、何一つ見落とさずに観察。そうやって何かを求め続けて歩きまわあった後、遂にそこに辿り着いた。
  その部屋の扉を開けてゴゴの目に飛び込んできたのは、机の下で縮こまって怯える少女だった。
  表向きには少女に見えるモノが内包する信じ難い魔力の流れがゴゴの目に焼き付いて離れない。
  これだ―――。
  これこそが、アインツベルンが聖杯戦争のために用意する『聖杯の器』なのだ。
  アイリスフィールが体内に封印しているモノなど比較にならない。この少女―――容姿からおそらくアイリスフィールと衛宮切嗣の娘であろうこの少女こそが『聖杯の器』そのものなのだ。
  外側からただ観察するだけでも判る膨大な魔力の流れ。肉体そのものが生きた魔術礼装のように魔力を帯びており、魔力の脈動は魔術回路だけに収まっていない。
  人の形を構成している皮の下には縦横無尽に魔力が流れ続け、より強大な魔力を流せばティアラやネックレスやドレスのように美しいとすら感じる文様が体に描かれるだろう。
 ホムンクルスでありながら人としての生も同時に受け持つ見事な出来栄えだ。礼拝堂で見た『天の光炎ヘブンズ・ゼロ』のように、アインツベルンがその知力と技術と執念を結集して作り上げたに違いない。
  円蔵山の内部にあった巨大な魔法陣『大聖杯』、その対となり役目を果たす為にアインツベルンが作り続けた『小聖杯』、大元である『聖杯の器』。
  ものまね士ゴゴが大聖杯とアイリスフィールを外から見て作り上げていたモノが児戯に思える正真正銘の本物が目の前にあった。
  「これがアインツベルン本命の『聖杯の器』か」
  あまりにも見事な出来栄えに思わず声が漏れる。
  すると少女はそこで初めて部屋の中に自分以外の誰かがいるのに気付いたようで、顔をあげてゴゴを見た。
  その顔が恐怖に染まっている。
  当然だ。幻獣バハムートが召喚された時からこの城の中は安全地帯ではなくなり、殺し合う者同士が衝突する戦場へと様変わりした。
  この少女がどれだけ聖杯戦争の知識を有しているかは定かではないが、机の下でぶるぶると震えて恐れをやり過ごそうとしているのだから、戦いの心構えが出来ているとは思えない。
  桜ちゃんがそうであったように、魔術師としての自覚はあると仮定しても、すぐ近くに迫った戦いに対して冷静に対処できる子供ではない。そんな奇特な子供はゴゴの知る限りリルム・アローニィぐらいだ。
  もっともリルムはゴゴと知り合った時に既に年齢が二桁以上になっていたので、目の前にいる女の子や桜ちゃんと同列に扱うのは難しいかもしれないが。
  とにかくゴゴはようやく物真似すべき事象へと出会えたのだ。躊躇う理由など全くなく、ただひたすらその少女に向けて近づいていく。
  「俺は、ゴゴ。ずっとものまねをして生きてきた」
  アインツベルン崩壊を目的にするならば名乗る必要などない。それでもわざわざ名乗ったのは、目の前にいる少女に対して礼節を重んじなければならないと思ったからだ。
  物真似するからこそ対象を軽んじてはならない。その決意がゴゴに言葉を喋らせた。
  「お前は今なにをしたいんだ? 今ここで俺に全部ものまねされて死ぬか? それとも、ものまねされた上で父親と母親の元に行くか? 選ばせてやる、どっちがいい」
  「・・・・・・・・・え?」
  もっとも人のそれとゴゴの尺度との間には大きく隔たりがあり、いきなり出会った相手から詰問されて答えられようがないとは思った。
  見た限り、この少女は自分の身に何が起こっているのか全く理解していない。今のアインツベルン城が陥っている危機を何一つ判っていない。ゴゴが自分達アインツベルンを壊す敵だと察してもいない。
  そうでなければゴゴを不思議そうに見上げる筈がないのだ。
  アインツベルンにとってゴゴは紛れもなく敵で、自分達を殺しに来るマキリの使いだ。こんな子供に敵を前にしてとぼける演技が出来るとは思えないので、知らないのだと考えるのが妥当。
  何だかよく判らない相手からいきなり『死ぬか』『生きるか』と言われて、即答できる子供はまずいない。
  「どうした? お前には言葉を喋る口があるだろう。簡単だ、どちらか選べ」
  「あ・・・、え・・・」
  だからゴゴは回答が得られるまで何度でも同じことを繰り返す。
  もちろん話している間にも常に観察は怠らず、少女の一挙手一投足に気を配っている。震える体が小さく動くたびに少女が持つ魔力が蠢いて意味を作り出す、それを見逃さずに観察し続ける。
  生きながらにして『聖杯の器』としての宿命を義務付けられた少女、その動きはただそれだけでも大きな意味を持っていた。
  腕が揺れる度に微弱な魔力が体中を駆け巡る。
  口を開けば奥に見える人の肉体に見せかけたホムンクルスとの違いが見える。
  何か喋ろうとすれば、『聖杯の器』として作られた魔術回路の根幹から魔力が漲る。
  人で言う心臓がこの少女の核を成している様で、こちらが喋るとそこから魔力が全身へと広がっていく。血管を流れる血流にも似ているが、それだけではなかった。
  時間経過と共に知れているこの素晴らしさはどんな言葉でも言い表せない。
  アインツベルンの歴史そのものが詰まっている完成品は少女でありながらも息を呑むような美しさだ。
  秀逸にして不朽。見方によってはただ破壊を作り出すだけの宝具よりも神々しい。
  いっそこの少女の体を分解して、核を初めとして手足も胴体も首も骨も臓器も血の一滴も毛先一筋に至るまで―――、全てを物真似し尽くしたいとすら思ってしまう。
  だがこの少女はホムンクルスであり『聖杯の器』であり人でもある。機能の全てを損なわずに発揮させる為にこの形を維持しているのならば、解体はそのまま魔術礼装の破壊に繋がりかねない。
  アインツベルンのホムンクルスに外部操作の余地があるのは既に解析されているので、それを頼りの外側からこの少女の中身を観察して『聖杯の器』を物真似するに留めるのが最良であろう。
  見せてくれ。
  診せてくれ。
  魅せてくれ。
  「もっと簡単に言ってやろう。ここで死ぬか、それとも父母に会いに行くか。どちらがいい?」
  「キリ、ツグ・・・? お母、様?」
  「そうだ。もう会えなくなるか、会いに行くか。どちらかだ」
  この少女が呟いた名によって、やはりこの少女が衛宮切嗣とアイリスフィール・フォン・アインツベルンの娘である事実はほぼ確定する。
  そして対話の切っ掛けもまたこの二人になるのは少女にとっては当然だろう。この世界のどこであろうとも殆どの子供にとっては両親こそが世界の全てなのだから。
  少しずつ少しずつ子供にも判り易い選択へと映っていくが、本質から徐々に遠ざかってもいく。間違ってはいないが正しくもない。それでも回答を手に入れる為に質問を簡潔にしていった。
  問いを止めないのはこの少女への敬意そのものだ。ものまね士だからこそ物真似をするモノを重んじなければならない。
  例え対象が、者であっても、物であっても、モノであっても。だ。
  「両親に会いたいか? 会いたくないか?」
  「・・・・・・・・・・・・・・・・・・会い、たい」
  長い間を置いてから答えたのは少女の中にある警戒心の現れだろう。もしかしたら答えなくても構わないと思ってるかもしれないが、今の状況では答えないのも危険と思ったのかもしれない。
  ただ外から押し付けられた言葉に対し、願望を反射的に口にしてしまった可能性もあるが、理由についてはどうでもよかった。
  会いたい。その答えが得られればそれでいい。
  「そうか。では、俺はお前の望みを叶えてやろう」
  この少女がどうするか? ゴゴにとってその言葉を聞き入れるだけで、『聖杯の器』を物真似する等価値は成り立つ。
  最終的な結論がアインツベルンの崩壊に辿り着くのならば、いずれはこの少女もまたこの世界から消滅するのは確定している。少女がアイリスフィールの持つ『聖杯の器』よりも完成度の高いモノであれば、その未来は必然だ。
  ゴゴが直接手を下すか。あるいは少女が死なねばならない状況に追い込む様に誘導するかは判らないが、ゴゴの中ではそう決まった。
  アインツベルン城の礼拝堂で今も死に向かって進み続けるユーブスタクハイトの様に―――。
  「では行くぞ」
  「え?」
  「デジョン」
  少女が応じるよりも前に、ゴゴは次元移動魔法を口にして部屋の中に次元の裂け目を作り出した。
  ゴゴの姿でこの魔法を使うのはほぼ一年ぶり。今と同じようにある地点から別の場所へと移動する為の手段として使ったきりで、後は不要な物を排除する為にしか使ってこなかった。
  この魔法で間桐邸の地下にある蟲蔵へと現れた。つまりこの地球上に置いて、蟲蔵には唯一次元の裂け目が出口が作られた痕跡が残っているのだ。
  飛空艇ブラックジャック号を呼び出してこの少女を運ぶ方が確実だと判りながらも、時間短縮とゴゴ以外の誰かが別次元を通る時にどんな経過になるのか知りたくて暴挙とも言える移動方法を選択した。
  これは少女の望みを叶えると同時に、雁夜や桜ちゃんでは試した事のない実験でもある。
  幻獣ビスマルクの技『バブルブロウ』を宇宙服のように外側に纏って移動すれば何とかなるか? 生身の人間では生きられない空間だとすれば、石化魔法『ブレイク』で石にして運んだり、停止魔法『ストップ』で少女の体感時間そのものを止めてしまうか?
  それとも別次元に入った瞬間に生命活動を停止してしまい、蘇生魔法『レイズ』『アレイズ』で復活させなければならないか? 意表をついてゴゴが通ったように少女が入っても何事もないか? 『聖杯の器』の物真似同様に興味は尽きない。
  ほんの一瞬で調度品が飾られた歴史ある趣の部屋の様子は宇宙空間を思わせる漆黒に覆い尽くされた。
  少女はゴゴが現れた時以上に慌てふためいているが、ゴゴにとっては当たり前に起こる事象の一つに過ぎない。
  ただ、この世界にやって来る時の懐かしい感触が体をくすぐり。そして、この感覚はかつて旅した仲間との別れでもあったので、胸の奥から寂しさがふつふつと湧いてしまう。
  「俺は、ゴゴ。お前の名前はなんだ?」
  ゴゴは自分の中に浮かんだ郷愁に似た想いを誤魔化すように少女に語りかける。
  だが『デジョン』が作り上げた驚きに少女からの返答は無い。あちこちを見渡して、何が起こっているかを理解しようとするのに忙しいようだ。
  ゴゴはその後、イリヤスフィール・フォン・アインツベルンの名を知るまでに少々時間を必要とした。



  ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆



  Side - ウェイバー・ベルベット





  ライダーや他のサーヴァントがやってる事に比べたら、タンクローリーの爆発はとても小規模な破壊に思えた。もちろんマスターである僕の命を狙ったそれが怖くない訳が無く、思い出すと足が震えて心臓が激しく鳴る。
 それでも倉庫街で見たアーチャーの宝具とかライダーの『王の軍勢アイオニオン・ヘタイロイ』に比べたらどうしても見劣りする。
  でもそれは事情を知っていて魔術師の僕から見た尺度で、何も知らない一般人から見たら大事件なんだ。
  『フェニックス』『ファントム』『ユニコーン』。魔石から現れた幻想種が起こった事実の内、人に害をなす部分をすべて消し去った事も混乱を広げてる。
  確かに事故は起こって、爆風も衝撃も火災も破壊も間違いなく起こってる。それなのに怪我した人も死んだ人もいない。
  誰も本当の事を理解できずにおたおたしてる。
  ただ、その騒がしさが僕らには都合が良かった。何しろ、路地裏で話し込む僕たちを誰も気に留めない。皆、何が起こったのかを話してたり、タンクローリーの爆発で店のいくつかが全壊しそうになってるから、そこにいる怪我人を引きずり出したりするのに忙しいみたい。
  僕らは周囲から聞こえてくる喧騒に紛れてカイエンの話を聞いた。そして聖杯戦争のマスターとしての僕はその話から貴重な情報を幾つも獲得した。
  衛宮切嗣と言う名のセイバーの本当のマスター。アインツベルンに雇われた傭兵で、魔術と近代兵器を融合させた攻撃手段を好んで使い、魔術師ではあるが現代の兵士でもある殺戮者。
  彼の協力者でありカイエンが追う罪人、その名を久宇舞弥。二人は共謀し、サーヴァント同士が戦う聖杯戦争の見えない位置で敵を排除していく。
  主な実例として、冬木ハイアットホテルに敷設されたケイネスの結界を突破する為にホテルを丸ごと破壊したとか―――。
  倉庫街では僕が気付かなかっただけで、遠距離から敵マスターを狙撃しようと狙いを定めていたと聞かされた時は身震いが止まらなかった。
  そしてあのアインツベルンの女性がセイバーのマスターではなく、本物のマスターの奥さんだと聞かされた時は驚きのあまり心臓が止まるかと思った。
  セイバーという最強の守りがあるのを信頼しているのかもしれないけど、自分の奥さんを戦場に送り出して矢面に立たせるその考えが僕にはさっぱり判らない。
  恋人も妻もいない独身の僕には想像もできない夫婦の絆があるかもしれないけど、矢面に立たせる方も立つ方も何を考えてるんだろ?
  戦術の観点から見れば優位なのかもしれないけど。何というか、ある意味でキャスター以上に無茶苦茶だ。それは白昼堂々タンクローリーをアーケードに突っ込ませた異常性が証明している。
  一言でまとめちゃうと『手段を選ばない』、それがセイバーのマスターとその協力者の女性のやり方らしい。何か、セイバーと相性が合う様子がまるで想像できなかった。
  カイエンから聞かされた話の中には到底信じ難い事もあって、カイエンが僕たちを惑わす為に嘘を教えてる可能性も考える。でもカイエンが嘘をいう理由が判らないし。何より僕は聖杯問答でセイバーが『自分が刻んだ歴史を無かった事にする』と、聖杯に託す願いをこの耳でしっかりと聞いた。
  極端な考え方でセイバーの願いを解釈すると、自分自身の過去を無かった事にする―――つまり自分の人生を偽りと捉え、新しく本物を作ろうとしていると思えなくもない。
  あの願いを聞いた後だと、セイバーが本当のマスターを隠して、贋者の女性を矢面に立たせるのも納得できる。
  表向きは清廉潔白を作りながら、その裏では堂々と人を偽る。セイバー本人が自分自身すらも偽りだと思ってるなら、そんな事をしても不思議はない。
  「とまあ、これが拙者の追っている『久宇舞弥』なる人物とセイバーの関係でござる。セイバーのマスターはセイバーを囮として、裏では色々と画策しているのでござる。イスカンダル殿もウェイバー殿もその片鱗は今、味わったでござろう?」
  「うむ。まさか無辜の民を巻き添えにして、あのような暴挙に出るとは思わんかったわい。しかもそれを仕出かしたのがセイバーのマスターだったとはな・・・」
  「セイバーは今回の事を知らぬかもしれぬが、久宇舞弥なる女人が自分達の仲間だとはっきりと認めたでござる。つまり、仲間の仕出かした不始末の責任は取らねばならぬ」
  仲間だから責任を被るのは当然。何の躊躇いもなくそう言ったカイエンの姿が僕にはすごく眩しく見えた。
  きっと倉庫街で見たマッシュって男や、僕にしがみ付いたまま離れないサンを連れて来たエドガーって男が何かの事件を起こしたら、仲間としてその責任を果たす為に行動するんだろうな。
  急についさっき魔石『フェニックス』を求めるあまり、自分の事しか考えてなかった僕を思い出して恥かしさが湧いてきた。
  それが僕の口から言葉を押し戻す役目もしてるから、僕なんか置き去りにしてカイエンとライダーの二人の話は続く。
  「拙者、これより悪漢を成敗する為に関わる者全てを斬りに行くでござる。最早、あの者達が何と言おうとこれだけの大乱を起こすのならばもう見逃せぬ。仲間であるならばあの者達も一緒に斬り捨てねばならんでござる!」
  そう言うと、カイエンは手の皮が裂けるんじゃないかと思える程強く握り拳を作った。
  「もっと早くに斬り捨てるべきであった。イスカンダル殿、ウェイバー殿、拙者の迷いがこのような事件を引き起こしてしまい、申し訳ないでござる」
  頭を下げるカイエンの言葉を聞いて、それは何か違うんじゃないかって思った。
  確かにカイエンの立場で考えればセイバーのマスターとその仲間を倒しておけば、こんな事態にはならなかったかもしれない。でも、敵の狙いは間違いなく僕らで、聖杯戦争を基準で考えればカイエンの方こそ関わり合いに巻き込まれた形だ。
  カイエンにはカイエンの後悔があるかもしれないけど、僕らの分まで背負うのは何かが違う。
  するとカイエンは、これにて御免―――。そう言いながら立ち去ろうとする。
  僕は頭の中で思った『違う何か』が明確な言葉になってなかったから、咄嗟に言葉が出てこなかったけど。ライダーが代わりにカイエンを呼び止めてくれた。
  「まあ、待て。そう結論を急ぐでない」
  「む?」
  「ただの夢見る小娘が道を違えようと言うのならば導くのが王の務めよ。カイエン、お主がセイバーに会おうとするのならば、我々の道がまたどこかでぶつかり合うのは必然であろう?」
  ライダーの言葉で歩き出そうとしたカイエンの動きが止まる。
  「ならば最初から共に行動すれば手間が省けるではないか」
  「それは・・・そうでござるが、これは拙者の不始末でござる。御二方を巻き込む訳にはいかんで――」
  ござる、と続く前にライダーがカイエンの言葉を封じ込めた。
  「お主に理由がある様に、余にも坊主にもそれぞれ理由はある。聖杯戦争という理由がな」
  「・・・・・・・・・僕らにはもう聖杯で縁が出来上がってるから、セイバーとは無関係じゃいられない。カイエンが一人でやりたくても僕らは絶対関わり合うよ」
  ライダーの言葉に乗っかるのはマスターとして不甲斐なさを感じずにはいられないんだけど、僕はようやく話に入れた。
  腰にサンをしがみ付かせた状態で大きく一歩前に出て、堂々と立つライダーに見劣りしないように背筋を伸ばす。
  「それに僕はまだ助けてもらった恩を返してない。何と言われても無関係だなんて言わせないよ、僕はそう決めたからね」
  「ほほう、坊主のくせに言うではないか」
  さっき聞いた『マスター』発現がいつの間にか『坊主』に戻ってたけど、とりあえずライダーの言葉は無視。
  セイバーのマスターが仕掛けてきたタンクローリーから助けてもらった恩。魔石『フェニックス』を使わせてもらった恩。力に囚われそうになった僕を引き戻してくれた恩。僕らが知らなかった情報を見返りもなしに教えてくれた恩。何もせずに見送るにはあまりにも大き過ぎる恩を僕らは受けた。
  魔術の基本は等価交換―――与えられっ放しは魔術師の品位を貶める。カイエンが何と言おうと、僕は魔術師としてこの恩に報いなきゃいけない。
  ライダーの方は虎視眈々とカイエンを配下に加えようとしてるみたいだけどね。
  「一緒に行こう。一緒に戦おう、カイエン」
  僕がそう言うと、カイエンはまた頭を下げた。
  でもさっきと違ってここから立ち去ろうと言う気配は無い。ただ真摯に、誠意を体の全てで表すように僕に向けて頭を下げてる。
  騙し合い、殺し合い、貶め合う聖杯戦争の中で、その姿はとても輝いて見える。
  「拙者の視野の狭さを気付かせていただき・・・、まことにかたじけない。拙者の剣、しばし御二方と共に歩ませていただくでござる」
  僕はカイエンが言うほど大層な理由で言ったつもりは無いんだけど、とりあえず共同戦線が張られたのは間違いない。
  カイエンだけにはやらせない。僕は受けた恩を返す為に、聖杯戦争のマスターとして戦いを勝ち抜くために、セイバーとも他のサーヴァントともマスターとも戦うんだ。
  もちろん僕一人の力なんてたかが知れてるけど、こんな僕だからこそ出来る事がきっとある。ライダーの切り札で、僕の腕に光る令呪の使いどころとか。
  「そうと決まれば早速赴くとするか」
 話を聞いていたライダーが意気揚々と叫び、荷物の中から神威の車輪ゴルディアス・ホイールを呼び出す為の剣:鞘に納まったスパタを引き抜いた。
 まだ日は高く、何事もないアーケードだったなら間違いなく人目につく。でも今はタンクローリー爆破事件で僕たちに向く目は一つもない。ほんの数秒だけ神威の車輪ゴルディアス・ホイールを見咎められなきゃ、誰にも知られないで済む筈。
  出陣の状況を考えていると、ライダーが僕の方を向いた。
  「おい坊主。もしかしたらあの夫妻とはここで今生の別れになるかもしれんぞ?」
  「はぁっ!?」
  「べつだん根拠があるわけでもないが、次の戦いで決着がつきそうな予感がするのだ。繰り返すが根拠は無いぞ、余の勘だ」
  ライダーは軽く言ってるけど、僕はその言葉に込められた意味を理解するのに忙しい。
  「その小娘の扱い、別れの挨拶、必要ならば今ここでやるべき事を済ませておけ。それが戦いに赴く者の義務だ」
  「・・・・・・・・・」
  ライダーの保有スキルの中には『直感』は無いけれど、それでもライダーが歴史に名を刻んだ征服王イスカンダルなのは間違いなく、僕が考えるよりもっと多くの戦いを体験してきてる。
  戦場で培われた危機に対する経験は僕なんかよりも太く大きい。そのライダーがわざわざ言うのは、本当にそうなる可能性が高いんだろう。
  いきなり突きつけられた戦いの終焉の予兆。僕は聖杯戦争が終わる事を驚くよりも前に、マッケンジー夫妻に何と言うべきか―――まずそれを考えた。



[31538] 第34話 『戦う者達は準備を整える』
Name: マンガ男◆da666e53 ID:b514f5ac
Date: 2013/09/07 23:39
  第34話 『戦う者達は準備を整える』



  ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆



  Side - 言峰綺礼





  「答えを得たようだな、綺礼よ」
  亡くなった―――。いや、私が殺した父の代わりに監督役の責務を引き継いでいる最中、私室で書類を整理しているとアーチャーが突然現れた。
  そして何の前触れもなく私に向かってそう言ったのだ。何のことだ? 思わずそう返そうとした私は即座に自分を制する。
  思えばアーチャーは私に常に問いを投げ続けていた。
  願望機そのものを手段とし、答えを用意させる逆説。答えを求めるために聖杯を欲する、その新たな行動理念を示したのはアーチャーであった。
  私が答えを得る以前からアーチャーは気づいていたのだろう。私の歪みに、愉悦に、欠落に―――。
  邪悪。魔性。鬼畜。毒心。神の愛より外れた道にこそ色鮮やかな喜びを感じる、正に外道。それが私。
  「満たされたか?」
  「いいや、まだだな。これでは足りん」
  「ほう?」
  確かに私は父を殺すことで一つの答えを得た。それは衛宮切嗣との邂逅によってもたらされるべきものだったかもしれないが、間違いなく私が追い求める確かな答えだ。
  しかし神が真に万物の造物主であるならば、すべての魂にとって『快なる者』である事こそが真理の筈。道徳とはそれを求める知恵でなければならない。
  しかしここに居て存在する私は到底『快なる者』とは言い難い。真理の真逆に位置する魂を有した人間だ。父を殺す以前は自分もまたその『快なる者』の仲間であり、いつかその真理に辿り着けるなどと夢想していたが、私は決してそれになりえない。
  これは善悪の定義を根底から揺るがす矛盾。決して見過ごしてはならない問題だ。
  一つの答えが出れば、また別の答えが私の中に生まれる。満たされた瞬間は確かにあったかもしれないが、アーチャーの問いに応じる今の私には確かな空白が存在する。
  「『言峰綺礼』の魂を生み出し、このような形に作り上げた方程式が、どこかに必ず、明快な理としてある筈だ。否、なくてはならない。それが一体どのようなものなのか――問わねばならん。探さねばならん。この命を費やして、私はそれを理解しなければならん」
  結局、私が何者でどんな意図によって存在するとしても、言峰綺礼の人生とは答えを求め問い続ける行為そのものに起因する。
  神の愛より外れた道への喜びは確かに私を作り出す一因ではあるが『言峰綺礼』を構成する要素はそれが全てではない。
  飽くなき探求心、それもまた紛れもない私自身なのだ。
  「どこまでも飽きさせぬ奴よ・・・・・・だが、それでいい」
  アーチャー、いや、ギルガメッシュは私の答えに満足したようで、紅い双眸に血色の愉悦を宿し邪悪な笑みを浮かべる。
  かつて私はその笑いを恐ろしいとさえ感じていた。だが今は違う、その禍々しい笑みに心地よさすら感じている。
  乱れなき心から次に浮き出たのは『何故、アーチャーはここにいる?』という疑問であった。
  アサシンが得た情報により時臣師はキャスターを排し、その後、順番に敵を間引いていく方針を打ち立てた。これまでは遠坂邸から一歩も外に出る事無く傍観を決め込んでいたが、ギルガメッシュと共に戦場へと赴いている筈。
  ならばここにギルガメッシュがいるのは道理に合わない。マスターたる時臣師の傍にはなく、私の元に現れた理由は何なのか?
  「時臣師はどうされたのだ? 行動を共にする手筈を整えたではないか」
  「あの愚か者か」
  禍々しい笑みを消し、憮然とした表情でギルガメッシュは言う。
  「魔術でもなければ宝具でもない、この醜悪な世界で作られた汚物によって襲撃を受けたのだ。魔術師ならば魔術師らしく応戦すると思い黙って見ていたが・・・興醒めな幕切れだ」
  「――死んだのか?」
 「運が良ければ生きていよう。だがあの程度の策で殺されるような器でオレを縛ろうなどとは片腹痛い、己の愚劣さに気付かぬ男などマスターどころか臣下にもならん」
  どうやら要塞と化した遠坂邸に襲撃を仕掛けた敵がいたようだ。
  マスターおよびサーヴァントの中で最も時臣師に敵意を抱いているのは間桐雁夜だ。間桐陣営はアサシンと冬木市に潜り込ませた聖堂教会のスタッフが総出で調べても全体像を把握させない組織の協力を得ている。
  単なる敵として見れば他陣営の中にも遠坂邸を攻撃する輩もいるが、現段階では間桐雁夜が仕掛けた可能性が最も高いと判断する。
  次点は魔術よりも現代兵器を好んで使う衛宮切嗣となる。
  その攻撃方法は?
  時臣師はどのような状態だ?
  サーヴァントの攻撃でも魔術攻撃でもないならば、誰かの作為を感じたか?
  情報を得れば更に真実へと近づける。私はギルガメッシュに何が起こったのかを聞こうとしたが、私が問うよりも早くギルガメッシュの視線が私から外れた。
 あらぬ方向を見つめるその姿は倉庫街での戦いにおいて令呪によって王の財宝ゲート・オブ・バビロンを止めさせられた様子を彷彿させる。
  「いや・・・」
  上げた顔を戻しながらギルガメッシュは続けた。


  「魔力供給が断たれたか――。今、死んだようだ。最早この身は令呪などとふざけた代物で縛られてはいない」


  「時臣師が・・・亡くなられた?」
  「あの状況では死んだと考えるのが自然だが、ラインが切れる程度の瀕死で蘇生の余地はまだあるかもしれん。だが生き延びたとしても奴は最早、聖杯戦争におけるマスターではなくなった」
  ギルガメッシュは肘を曲げて右手を胸の高さまで持ち上げ、体の感触を確かめる様に閉じたり開いたりしている。
  そんな様子を見つめながら、私は語られた言葉を心の中で吟味した。
  時臣師が死んだ。そう聞かされても私の中に動揺は無い。時と場合によっては揺るぎない私の感情を大きく揺らす言葉だったかもしれぬが、今の私にとっては結果を知らせる単なる言葉以上の意味は無かった。
  いや―――、その死に立ち会えず、父のように私自身の手で殺せなかった悔いはある。
  ありえない仮定の話だが、もし時臣師がこの場に居合わせ私の本性を知らずに助力を願い出たとしたら、その誤った認識を死の直前に正し、時臣師を私の手で存分に殺し尽くしただろう。
  八極拳で殴り殺したか。
  黒鍵で突き殺したか。
  それはとても甘美な空想。けれど時臣師が死んだとあっては決して叶わない夢物語だ。
  ギルガメッシュの言葉を借りるならば『無意味さの忘却』、『苦にならぬ徒労』、または『遊興』に耽りそうな自らを自覚しながら、同時に自身をも諌める。
  私は今すべき事は遊興に耽るのではないのだから。
  「時臣師が死した今となっては無意味な事だが――。ギルガメッシュ、まだおまえが知らぬ聖杯戦争の真実を教えてやろう」
  「何だと?」
  「そもそもこの冬木の儀式はな、七体の英霊の魂を束ねて生贄とすることで『根源』へと至る穴を空けようとする試みだ。七人のサーヴァントをすべて殺し尽くすことで『大聖杯』を起動させる。七人全てだ。わかるな? 我が師があれほど令呪の消費を渋っていた理由がそれだ。すべての戦いが終わった後で、自らのサーヴァントを自決させるために必要だったからだ」
 「・・・時臣がオレに示した忠義はすべて嘘偽りだったと言うのか?」
  「結局のところ、我が師は骨の髄まで『魔術師』だったというだけのことだ。突き詰めればサーヴァントという存在が道具にすぎないことを、彼は最初からよく弁えている。英霊は崇拝しても、その偶像には幻想など抱かない。前を通るときはうやうやしく目礼もするだろう、が、いざ模様替えの際に置き場がないとなれば、丁重に破棄させていただく、というわけだ」
  私の言葉を聞き終えたギルガメッシュは、納得がいったと言わんばかりに一度だけ大きく頷いた。
  そして持ち前の邪悪な微笑を浮かべて話し出す。
 「時臣め――死してようやく見所を示したか。だが生きる内にオレを楽しませられぬ時点で退屈な男に変わりは無い、か」
  「私は新たな問いの答えを求めている。そして聖杯が真にそれをもたらす物ならば・・・私には新たな協力者が必要だ。もっともマスターとして英雄王の眼鏡に敵うのかかどうかはまた別の問題だがな」
  暗にこれまでとは異なる自主的な聖杯戦争への参加と私と契約しろ、を告げつつ、時臣師の無事を確認するよりも前に叛意を口に出来る自分に小さな驚きを感じていた。
  父を殺し、時臣師が死んだと聞かされた瞬間から私の中にはこれまで作り上げてきた『時臣師の協力者である言峰綺礼』は跡形もなく消滅したのだろう。
  答えによってはここで私はギルガメッシュに殺される。
  「問題あるまい。一つの答えを得た今のお前は有望だ。貴様の求道、このギルガメッシュが見届けてやろうではないか」
  するとあっさりとギルガメッシュはそう告げた。
  だが語られた言葉の軽々しさとは裏腹にギルガメッシュの顔は邪悪な笑みを取り戻している。悪魔の笑み―――そう呼ぶに相応しい見る物を魅了して破滅させる顔だ。
  それこそが今の私には相応しい。
  そうでなければならない。
  「本当に異存はないのだな? 英雄王ギルガメッシュ」
 「お前がオレを飽きさせぬ限りにおいてはな。綺礼、神すら問い殺す今のお前は実にオレ好みだ。その進歩ぶりは褒めておこう」
  時臣師が亡くなったのならば今のギルガメッシュの位置付けは『はぐれサーヴァント』になる。
  アーチャーのクラス別能力『単独行動:A』はマスター不在の魔力供給なしでも一週間はサーヴァントのみで行動できる稀有な能力だが、宝具などの使用で膨大な魔力を使うにはマスターのバックアップが必要だ。
  聖杯に何の執着も見せないギルガメッシュだが、英雄王の財宝である聖杯を狙う賊に然るべき裁き下さねばならないと自らの法で定めている。
  それはギルガメッシュの法。はぐれサーヴァントとなり他のマスターおよびサーヴァントがまだ健在な状況で、何もせずにただ消滅を待つような男ではない。法を厳守する為には新たなマスターが必要になる。
  私がそう望んだのではなく、ギルガメッシュがそう望んだからこそ時臣師の救出ではなく冬木教会の私の元に来ることを選んだのではないだろうか?
  確かに命を託す相手としてはこれ以上に危険な存在はいない。ギルガメッシュは恩も忠節も一切無縁、利害すらも測りがたく、気まぐれで横暴な絶対者たるサーヴァントなのだから。
  けれどギルガメッシュは私が何であるかを理解し、道を示し、新たな可能性を示唆した。私が考え付くようなありふれた仁義や道徳など軽々と飛び越える人類最古の王である事には何の変りもない。
  いや、今の私には新たな疑問があり、問わねばならない真理がある。その答えを聖杯にこそ求めるのならば、ギルガメッシュとの契約はむしろ今ここで結ばなければならない。
  私が求める答えは常識の壁の更に向こう側に存在するのだから―――。
  これは偶然ではない、必然だ。
 「だが綺礼よ、忘れているまいな。暗殺者どもをオレと同列に扱うならば、その瞬間に貴様の骸が出来上がるぞ。言った筈だ、オレを他のサーヴァントどものような走狗と同列に見なすでない、とな」
  「判っている」
  ここで問題になるのは今だ私がアサシンのマスターである事実。ギルガメッシュが語り聞かせた通り、ほんの一時であろうとアサシンとギルガメッシュを『言峰綺礼と契約するサーヴァント』として同じ場所に置けば、ギルガメッシュは令呪の縛りすら乗り越えて私を殺す。
  その打開策は既に考えてある。
  もっと正確に言えば、父、璃正をこの手にかけた時から構想は既に私の中に出来上がっていた。
  『百の貌のハサン』が作り出した巨大な諜報組織は私に多大な情報をもたらし、間桐に協力する組織の全貌を暴くためにはどうしても外せない要因となっていた。
  だが今は違う。
  どんな手を使ったのか、間桐を見張る全てのアサシンは殲滅されている。アサシンの健在を他のマスターにも知られている現状では最早、諜報要員としてのサーヴァントには利用価値が薄い。
  言うなればこれは単なる優先順位の問題だ。
  時臣師の協力者として動いていた私ならば残ったのがたった数人のアサシンだったとしても情報収集の重要さ故に英雄王ギルガメッシュより価値を見出したかもしれない。しかし今の私にはアサシンとの契約よりもギルガメッシュとの契約にこそ価値がある。
  「アサシン」
  「「はっ!」」
  呼べば私室の壁際へ二体のアサシンが実体化した。
  この二体は私のサーヴァントとして自覚を持って存在するアサシン達、冬木教会から遠く離れた場所に存在する最後の一体―――ライダーのマスターと共に行動する自覚無きサーヴァントを除いた最後のアサシン達だ。
  彼らはイスラム教の伝説の暗殺教団『山の翁』の長であるハサン・サッバーハの多重人格が作り出した存在であると同時に、彼らにもそれぞれの願いが存在する。
  複数に別れた人格だからこそ願う『人格の統合』、それこそが彼らが聖杯に託す願い。そしてサーヴァントと呼ばれたならば、彼らもまた間違いなく英霊だ。
  「アサシン――令呪を以て命ず」
  その英霊が令呪の縛りにより、ただの人間の手によって思うがままに操られる。
  それはどれほどの屈辱か? アサシンの口惜しさを想像すればするほど、命令を下す前から昂揚してしまう。
  私は告げる。
  それを言葉とする。


  「自害せよ」


  「えっ?」
  何を命じられたのか判らない。そう聞こえる小さな呟きが髑髏の仮面の奥から聞こえてくるが、無意識に出た呟きとは裏腹にアサシンの肉体は令呪が命じるままに動いてゆく。
  各々のアサシンが持つ黒塗りの短剣。それを無造作に抜き取って、何の躊躇もなく己が心臓へと突き刺した。
  ずぶり、と肉が裂ける音が聞こえ、肋骨を避ける様に横に構えられた短剣が付け根までめり込んでいく。
  サーヴァントは現界する際の核である霊核を得て初めて実体化する。心臓と首はその霊核に直結した部位で、サーヴァントにとって大きな弱点でもある。
  そこを一息で破壊した。
  元々、宝具で複数のアサシンに別れた群体であり、個々のパラメータは低下している。
  全てのアサシンが集結した一体のアサシンであったならば、心臓を破壊されてもしばらくは活動出来た可能性はある。だが低下したパラメータでは弱点を破壊された瞬間に死に至る。
  心臓を貫くと同時に二体のアサシンは足の力を失い床の上に崩れ落ちる。膝が床に付いて頭がそれを追って床に叩き付けられても、反射的に腕を出して顔を守る動作すらしない。
  『自害せよ』の命じるままに、両手は心臓を射抜く短剣を握りしめたまま動かない。
  落下の衝撃でアサシンの中でも珍しい女性人格のアサシンが装着した髑髏の仮面が外れて落ちる。カランカラン、と軽い音を立てながら外れたそれが私の足元まで転がり、初めて露わになる素顔が私を見上げていた。
  「き・・・れい、さ・・・ま・・・」
  彫りの深い顔立ちは人によっては美人と感じるかもしれないが、この世の全てを呪う様な薄暗くも紅い目が彼女の印象を闇へと落としている。
  その目が語っていた。
  何故、こんな命令を―――。
  何故、このような仕打ちを―――。
  何故、我らの悲願を―――。
  そう。今、女のアサシンは紛れもなく私を憎んでいる。混乱しながらも、死に行く理由を作り出した私を恨んでいる。
  聖杯に託す願いを追い求め、時に人格の一つを犠牲にしてでも戦いながら、志半ばに朽ち果てるのだ。
  アサシンの苦しみ悶える様が私の胸を高鳴らせた。
  怨嗟を混ぜ合わせながら弱々しく私の名を呼ぶ。耳に残る後悔と破局がとても心地よい。
  死に行く者が崩れていくその一瞬が私の中に喜びを満たしていく。
  時間にすれば十秒とかかっていなかった筈。その僅かな間にアサシンは自分の心臓を破壊し、床に崩れ落ち、そして何一つ残さずに消滅していった。
  粒子となって消えていく様子を見つめていると、この『無念さ』とでも言うべき英霊が作り出した美しさが消えてしまう点が惜しまれる。
  私が悔いた所でサーヴァントは現界出来なくなれば消滅してしまうのは定められた事象だ。
  「残るアサシンは――ただ一人・・・」
  見れば、ギルガメッシュは私が令呪を使いアサシンを抹消した様子を満足そうに眺めていた。
  床の上から消え去った二体分のアサシンの残滓を振り切り、ギルガメッシュへと告げる。
  「あれはもはやサーヴァントではない。直接対して令呪で命じなければ自覚すら思い出せぬ。自分が何者であるかを知らず、駒にもなりきれぬただの道化だ」
 「その時まで貴様は残るアサシンとオレの双方に供物を捧げるつもりか?」
  「そうだ。道化には道化の役割がある」
  はっきりとギルガメッシュに語り、アサシンは一人だけ残すと明言する。
  次の瞬間、私室の中が凶悪な殺気で満ちる。
  出所はもちろん目の前にいる英雄王だ。殺意が形をもって『殺せ』と命じる様に、濃密な空気が私の頭上から圧力を加えて来た。
  令呪で自害を命じた今の感覚を参考にすると、おそらく直接対面せずとも令呪を二画用いれば、遠く離れた場所からでも自分が何者であるかを思い出させてアサシンとして使えるだろう。
  預託令呪によって数の心配は無くなったので、やろうと思えば残るアサシンも同じように抹消出来る。
  だが私はそれをしない。
  これはギルガメッシュが私を殺す理由にもなるのだが、ライダーとそのマスターがアサシンと同じ場所にいる状況を令呪だけで終わらせるにはあまりにも惜しいのだ。
  今、ここで、アサシンの汚辱に満ちた最後を私自身の目で見届けたように、残ったアサシンの最後と奴が作り出す最高の幕引きは私が直接この目で見なければならない。
  その時、あのアサシンがどんな顔をするのか?
  その時、ライダーのマスターはどんな顔を私に見せてくれるのか?
  考えれば考える程にここで終わらせてしまう勿体なさが私を制する。ギルガメッシュに殺される危険を承知の上で今は残せ、と、私が私を戒める。
  満ちる殺気に一歩も引かず、私はギルガメッシュを見た。
  「――まあよかろう。雑種一匹との繋がりを残す貴様の采配を見逃してやろうではないか。見事この笑劇に幕を引くがいい」
  ギルガメッシュが禍々しい笑みを浮かべたそう言うと、部屋の中を満たしていた殺気が引いていく。
  背筋を通り抜ける寒気を強制的に押さえつけ、私は上着の袖をまくり上げた。
  父の手に刻まれていた時は左右対称の鏃のような形を描いていた預託令呪は私の手に三年前から刻まれた令呪と交じり合い、いびつな形に変化した。
  この変わり様もまた聖堂教会の司祭として聖職者であり続けた父と、生まれながらにして歪みを抱えた私との差異を示している様に思えてならない。ただしその違いも今の私にとって大いなる喜びをもたらす福音でしかないが。
  晒した令呪をギルガメッシュへと向けながら、厳かに呪文を唱え上げる。
  「汝の身は我の下に、我が命運は汝の剣に。聖杯のよるべに従い、この意、この理に従うのなら──」
  「誓おう。汝の供物を我が血肉と成す。言峰綺礼、新たなるマスターよ」
  か細く繋がった最後のパスに加え、新しく強大な魔力供給のパスがギルガメッシュと繋がった瞬間、腕の令呪が鈍痛と共に今まで以上に強く輝く。
  ここに新たな契約は完了した。





 依然として間桐に協力する組織の全容解明には至っておらず、ギルガメッシュの『王の財宝ゲート・オブ・バビロン』と同等の規格外評価の宝具を有するライダーの『王の軍勢アイオニオン・ヘタイロイ』よりも厄介な相手だ。
 もしギルガメッシュの『王の財宝ゲート・オブ・バビロン』を弾き飛ばしたあの男と同等の使い手が聖杯戦争に積極的に関わっていたとしたら、戦争の早期決着が濃厚ではないだろうか?
  バーサーカーのマスターである間桐雁夜にそれほど積極的に協力する意思が無いのか、あるいはそもそも聖杯戦争そのものに興味が無く、もっと別の理由で冬木にいるのか。倉庫街で聞いた言葉だけでは確証には至れない。
  そこで私は、間桐臓硯を騙り冬木教会を半壊にまで追い込んだあのピエロのような格好をした何者かがカギを握っている―――。単なる憶測だがそう考えた。
  『自分は言峰綺礼と似ている』そう言ったあの男の名もまだ知らぬが、もしあの言葉がギルガメッシュ同様に私の本質を見抜いた上での言葉だとしたら、場を乱して間桐雁夜を殺す手駒となる可能性はある。
  状況が許せば共闘すら視野に入れるのだが、対話の可能性を残した私だけならいざ知らず、ギルガメッシュは既に『次に視界に入れば殺す』と決めているので、肩を並べて戦うなど不可能。
  最早、答えを得た私にとって聖杯は必ず手に入れなくてはならない物ではなくなったが、私をこの世界に作り出した理由を知る為に聖杯は合っても困らない。
  その為には間桐に協力する組織をかいくぐって間桐雁夜を殺し、バーサーカーを殺し、全ての敵を殺し尽くさなくてはならない。
  そこであのピエロの恰好をした男をカギにして対策を練るのだが、不確定な要素は薬になる可能性もあれば毒になる可能性もある。
  故にある因子を持ち込み、こちら側が優位な立場を構築する必要が出て来た。それは決して間桐には協力せず、そして間桐に対する強烈な一撃となるものでなければならない。
  もし仮に三年前に令呪を授けた時と同じように―――冬木の聖杯が真に言峰綺礼の手に渡る事を望んでいるのならば、私の先には私の望むモノが待ち構えているだろう。
  今持つ情報の全てを使い、私はこの聖杯戦争を戦い抜く。ただ自分の為に私は戦う。
  机の上に置かれた受話器を取り、ある場所に電話をかける為に回転ダイヤルを回した。
  「綺礼よ、この期に及んで何をするつもりだ?」
  ソファーの上で寝そべって楽しげに私を眺めているギルガメッシュの声が聞える。
  私はダイヤルを回しながら短く答えた。
  「遠坂葵をここに呼び寄せる」
  彼女もまた間桐を滅ぼす為のカギとなる。私にはそんな予感が合った。



  ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆



  Side - 衛宮切嗣





  言峰綺礼の狙撃に失敗した僕は一秒でも早く狙撃場所から遠ざかり安全な場所まで移動する事を目的とした。
  相手がただの人間だったならバレットM82の二発目、三発目で遮蔽物として利用している冬木教会ごと破壊しても良かったのだけれど、言峰綺礼はただの人間じゃない。代行者であり、アサシンのマスターだ。
  言峰璃正が息子である言峰綺礼を庇う。予測しようと思えば出来た事態だけど、あの位置取りじゃ絶対に間に合わない筈だった。でもあの男は息子を守る為に老齢とは思えない健脚を発揮して、僕の予測を覆した。
  息子を助ける為に肉体を、心を、命を、魂すら燃やした。
  あの僅かな時間だけ、言峰璃正の移動速度は英霊の速さに匹敵したかもしれない。
  違う―――。これは僕の予測を上回った言峰璃正に対する過剰な評価がそう考えさせてるだけだ。ただの人間がほんの一瞬だけでも英霊に匹敵する速さを作り出すなんてありえない。
  思考を戻す。
  言峰璃正はバレットM82で死ぬ。でも言峰綺礼は生きてる。
  僕はすぐにアイドリング状態にしていたジープ・チェロキーの運転席へと移ってアクセルを踏んだ。
  スキール音を喚き散らしながらの急発進。一気に時速八十キロまで加速する刹那の間にアサシンからの攻撃を覚悟した。
  言峰綺礼が生きている状態で奴のサーヴァントが追撃をしかけない訳がない。この状況を作り出さない為に僕は倉庫街での戦いの時にケイネス・エルメロイ・アーチボルトへの狙撃を行わなかったんだから。
  でも今は違う。
  敵は健在。サーヴァントも健在。
  間諜の英霊が一直線にしか進まない銃撃の発射地点を割り出すなど容易い。
  法定速度を大きく上回る速度を出しながらも、運転に失敗して事故を起こすなんて馬鹿げた事態にならないように運転を行う。その間に僕の頭の中には追手の有無と、敵からの襲撃があり続けた。
  予め想定しておいた逃走ルートを頭の中に描き、その中で追手を振り切る為の最短かつ複雑な経路を突き進む。
  アサシンならこんな『人が人を振り切る為の道』なんて簡単に乗り越えて僕を見つけると判っていたけど、今の僕にはそうするしかない。
  もしアサシンの影が僅かでも見えたなら、令呪を発動させてセイバーを召喚する。
  逃げる為だけの機械になって、異常があれば令呪を使用する警報になって、殺人機械『衛宮切嗣』はジープ・チェロキーを運転し続けた。
  そうやって撤退を始めてから決して少なくない時間が経った。
  車は未遠川を越えて新都から深山町まで移動したけど、その間に敵の姿は影も形も無い。
  車を追いかける敵は無く、英霊どころかマスターも監督役の私兵すらも来ない。
  深山町で一旦車を止めた僕はもう一度周囲を警戒するけど、僕を見ている監視の目は無い。アサシンは僕を泳がせてセイバーの弱点を掴むつもりなのかもしれない―――ほんの一瞬そんな考えが浮かんだけど、アサシンなら僕を視認した時点でセイバーのマスターだと看破して一瞬で殺しに来るから、その可能性は無い。
  セイバーを倒すなら僕から殺す方が簡単だ。聖杯戦争に勝利する為にマスターである僕を生かしておく意味は無いんだから。
  不気味だ。
  アサシンに見つかっていて僕が気付かないだけなら、何か意図があって生かされている事になり。
  アサシンに見つかっていないなら、そもそも言峰綺礼がアサシンを追手に差し向けなかった事になる。
  意味が判らない。
  戦争なら狙撃手が誰であっても、敵が手の届く位置にいるなら殺すのが当たり前。今の僕はその常道から外れてる。
  アサシンは現れない。
  言峰綺礼が何を考えてるのか判らない。
  「・・・・・・言峰、綺礼」
  貴様は何を考えている?
  得体の知れない相手を敵に回した恐ろしさが喉の奥からせり上がって僕の頭をかき回そうとする。気が付けば、僕はコートのポケットの中にある煙草を取り出して使い捨てライターで火を付けていた。
  アイリスフィールとイリヤスフィールへの気遣いから九年間止めていた喫煙の習慣。
  聖杯戦争の為に冬木市に入ってから復活した行いが肺の中に煙草の煙を流し込み、湧き出そうになる恐ろしさを奥深くへと沈めていく。
  一息ついた僕はそこで小指の皮下に埋め込んであるモノが異常を知らせていると気付いた。
  この異常が起こったのは狙撃に失敗して撤退し始めた時か、それとも運転の最中か。
  舞弥を本格的に助手として使役するようになって以来、僕は舞弥の頭髪の一本に呪的処理を施してそこに埋め込んでおいた。舞弥の指にも同じように僕の髪の毛を埋め込んであって、これはもしどちらか一方の魔術回路が極端に停滞した場合に埋め込んだ髪の毛が燃えて異常を知らせる仕組みになっている。
  意識すれば小指の中に鈍い痛みが走っているのに気が付く。僕は痛みを痛みと思えないぐらい動揺していたんだ。ただ逃げる為だけの機械になってそれ以外は考慮すらしていなかった。
  これは無線や使い魔を使って危機を伝えられないほど逼迫した最悪の状況を想定しての仕込。『手遅れの結末』を知らせるそれが発動している状況はある一つの事実を僕に伝える。
  「死んだか――」
  舞弥の頭髪が燃えてどれだけの時間が経ったかは判らない。
  どのタイミングで事が起こったかは不明だけど、マスターを狙撃する為に送り込んだ舞弥は間違いなく敵と遭遇した。
  ケイネスか、婚約者のソラウか、それともランサーか。狙撃だけではなく、敵と遭遇して戦う状況に陥り、そして誰かに殺された。そう結論付ける。
  もちろん舞弥が危機に瀕しているだけで、命そのものは助かっている可能性はゼロじゃない。僕の手にはまだ令呪があって、セイバーの健在を示してる。
  ならば、あの栄光だの名誉だのを嬉々としてもてはやす殺人者は間違いなく生きている。セイバーが生きているなら舞弥を助けても不思議はないが、期待ではなく最悪の可能性を考慮しておくべきだ。
  セイバーは生き残り、舞弥は死んだ。僕の思い通りに動かせる手駒の消費は痛手だ、ランサーの敗退ぐらいは行われていればいいと願う。
  アサシンの追撃がない理由はマスターである言峰綺礼にしか判らない。だから今はそれを考えるべきではないと切り捨て、僕は状況整理を開始する。もちろん令呪でセイバーを呼び出せる心構えだけは常に持っておく。
  舞弥との連絡用に使っている携帯電話を手に取ると、僕の行動を見透かしていた様に電話がかかってくる。
  舞弥か? そう思いながら電話に出ると、舞弥ではない別の女の声が聞こえてきた。
  「切嗣!!」
  「アイリ・・・」
  「何度も電話したのよ、どうして出てくれなかったの!?」
  「ちょっと立て込んでて余裕が無かったんだ」
  アイリから電話がかかってくる。違う、そうじゃない。アイリが僕に電話をかけられる状況にある。
  それはセイバーの健在と舞弥の危機と合わせれば必要な情報を得る為の要素となる。
  僕はまず必要な結果だけを尋ねた。
  「ランサーは倒したのかい?」
  「あ・・・・・・。そう、ランサー、ランサーよ。セイバーがランサーを倒したけど、代わりに舞弥さんが殺されて・・・」
  「そうか――」
  やはり僕が撤退している間に舞弥は死んだ。僕はその事実を一つの結果として整理する。
  舞弥の死は僕の戦い方に大きな影響を及ぼす。けれど最低限の与えられた役目は全うして果てたなら、決して無駄死にではない。アイリの口振りから舞弥はランサーのマスターへの狙撃を成功させたのだろう。
  ランサーは消え、セイバーは健在。アイリがこうして電話を使える状況は彼女の安全が確保されているのに他ならない。
  ならばあちらの危機は去ったと判断する。
  「切嗣。今回の件、あなたには説明の義務があるわ。どうして、こんなやり方を――」
  「すまないがアイリ、少し忙しくてね。追って連絡する」
  「待っ!」
  アイリが次の言葉を言う前に僕は電話を切った。何か言いたいのは判っていたが、アイリの言葉を聞くよりも前にすべき事がある。
  切ってから数秒後にまた携帯電話がアイリからの電話を受信し続けるけど、僕は応じずに放置する。
  今は五ヶ所同時攻撃の結果を確認するのが最優先で、僕の失敗とランサーの敗退が知れたなら電話に出るよりも前に他の場所を確認しなければならない。
  聖杯を勝ち取り世界を救う為に―――。
  最も相応しい手段を、最も効率的に―――。
  最小の浪費で最大の効率を―――。
  定石を超え、非情も悪辣も卑劣も呑み込んで、結果を掴み取る―――。
  ジープ・チェロキーに積み込んだ機材を使い、使い魔のコウモリに取り付けたCCDカメラから送られた映像を解析する。これは舞弥に任せていた作業だったので少し手間だったけど、何が起こったのかを確認するだけなら十数秒もあれば準備を整えられる。
  細部に至るまで調査するならもっと時間が必要だが、大まかな結果のみを掴むならこれでも構わない。
  時間短縮のために三か所の映像を全て倍速で見る。
  どうやら間桐邸と遠坂邸へのタンクローリーの特攻は上手く行えたようだ。間桐邸の方は想像以上の爆風に巻き込まれて、送り込んだ使い魔が使えなくなったので、新しい使い魔を用意しなければならない。
  そして遠坂時臣と間桐雁夜が死んだか否かを確認する為に、更に綿密な調査を行う必要がある。今だまだ『タンクローリーはそれぞれの拠点に突っ込んで爆発した』としか判っていない。遠坂邸には横たわる遠坂時臣らしき人影が見えたが、生死はまだ不明だ。
  最もおかしいのは最後の一つ、アーケードにいるライダー達に向かわせたタンクローリーだ。
  他の二か所と同じく間違いなく爆発は起きているのに、使い魔が撮影した映像には奇妙な点が幾つもある。
  そこには僕がタンクローリーで作り出した戦場の地獄が広がっている筈。そう仕向けたのだから、建物は崩れ落ちて人は死んでいなければならない。
  理想的な展開はマスター死亡によってサーヴァントがこの世に現界出来なくなる事。そう思ってライダーとマスターの姿を追って爆発の瞬間を見ていたら―――アーケードから人が消えた。
  「ん?」
  最初はCCDカメラの故障かと思った。
  でもタンクローリーの爆発は間違いなく起こってる、辺り一面に被害をまき散らしてる。それなのに爆発前にいた筈の人間だけが跡形もなく消えた。
  人の命は爆発で簡単に失われてしまうけど、肉体そのものを消滅させるほどの爆発は起こしていない。はじけ飛んだ頭部。腕。肉体の一部。臓器でもいい。とにかくそういった『人を構成する何か』は残らなければおかしい。
  注意深く撮影された映像を観察し続けると奇妙なものが映像の隅に見えた。
  柳の葉を何十枚も重ね合わせたような何かがそこにいる。路上に置かれていれば誰かが木から切り取って束ねた大きなゴミにしか見えないが、そいつのおかしさは浮いている事実にこそある。
  ビニールや枯葉が風にあおられて飛んでいるのとは訳が違う。その何かは滞空してそこに居る。映像はそいつを画面の隅に移した状態で止まり、人気のない異常を一緒に撮影し続けていた。
  爆発が起こったからアーケードのあちこちで火事が起こってる。カメラの映像でも画面の半分近くが火に覆われていた。
  その中から生まれるモノを僕は見た―――。
  最初は突風が火を動かしているのかと思ったけど、すぐに浮いた何かと同じように異常が起こっているのだと判った。
  火は燃え広がるでも風にあおられるでもなく、画面の中央に向かって集結していく。砂鉄が磁石に吸い寄せられるように、僕のような喫煙者がたばこの煙を吸い込むように、目には見えなくても確実に存在する力が炎をかき集めてる。
  画面越しからは正否の判断はできないが、起こっている事象は明らかに誰かが魔術を行使している過程を示してる。人の姿が見えない異常、緑色の何か、ライダーのマスターがそこにいた事実。これらを合わせて考えれば、この異常事態はライダーのマスターの魔術に違いない。
  僕は起こったありのまま事実を知るために画面を凝視する。
  そして見た。炎が集い、固まり、凝縮し、融合して、一つの形を成すその瞬間を―――。
  僕は画面に映る生き物を見ていた。一度目をつぶって見間違いの可能性を考慮して、声に出して自分の正気を疑ったけど、そこにあるモノは変わらぬ姿を見せつける。
  「幻想種だと!? ライダーのマスターは幻想種を使役してるのか?」
  ソロモン72柱の魔神の1柱。世界各地で語り継がれる幻想種。不死鳥、フェニックス。話だけなら聞いたことはあるけど一度だって肉眼で確認した事のない生き物がそこにいた。
  僕がこれまで殺してきた吸血鬼など比べ物にならない神秘、聖獣には到達しなかったとしてもそれは紛れもなく高位の幻獣だ。
  画面の中に納まるアーケードの中にあった炎を全て食い尽くして不死鳥は生まれた。炎が鳥の形を保ったような現実とは思えない光景を作り出しながら、顔をあげて甲高い鳴き声を響かせる。
  一瞬後、フェニックスを中心にして眩い光が広がっていった。
  今のは何だ?
  ライダーのマスターは何をした?
  どうやって幻想種を使役している?
  『衛宮切嗣』という機械が破綻しかねない数々の疑問がわき出そうになるが、僕は大きく息を吐き出して強引に自分を落ち着かせる。機械は動じない。
  続けて起こった事態を見極めたかったのだけれど、緑色の塊と不死鳥は画面の枠外へと消えてしまい、使い魔の蝙蝠に取り付けられたCCDカメラは何もない光景を写し続ける。
  可能であればCCDカメラのフレームから消えてしまった異常を追ってほしかったが、それは叶わない。
  仕方ない事だ。何しろ新しい命令を出すまで使い魔は与えられた命令を実行し続ける。僕は言峰綺礼を、そして舞弥はランサーのマスターを暗殺していたから、使い魔は最初に与えられた『ライダーとそのマスターを監視しろ』という命令を続行するしかない。
  姿が見えず見失ったら同じ場所に留まり続けるように設定したのは他でもない僕だ。
  急いでアーケードを監視させていた使い魔に新たな命令を出してライダー達とあの幻想種を探させる。どうやって使役しているかは判らないが、敵の戦力が更に増したなら調査は必須だ。聖杯戦争が始まってから僕に一度たりとも所在を掴ませなかった事も合わせて思った以上の強敵だと評価を改めなければならない。
  見た目の気弱さが演技だとしたら、起源弾を打ち込んだケイネス・エルメロイ・アーチボルトよりも厄介な敵だ。
  ライダーとそのマスターの捜索以外にも遠坂邸と間桐邸の確認作業とやることは山ほどある。舞弥がいなくなってアイリには任せられない作業だから僕一人でやるしかない。
  それに言峰綺礼の不可解な行動の真意を確かめる必要も出てきた。何か意図があって、それが罠だとしたら次の攻撃はそれを見破ってからだ。
  手を動かしながら僕は心を決める。
  五ヶ所同時攻撃なんて賭けをすること自体が間違っていた。タンクローリーなんて偶発的な要素に頼ったやり方で相手を逃がす余地を作ってしまう事がそもそも誤りだ。
  殺人機械『衛宮切嗣』の性能をもっと引き上げなければならない。
  この戦いが終わると同時に『衛宮切嗣』が壊れたとしても、戦いに勝利しなければならない。
  結果を手に入れなければ何も意味はない。
  もっと悪質に、凶悪に、邪悪に、人も魔術師もサーヴァントも英霊も、誰であっても決して避けられない死をもたらす方法を選ばなくてはならない。
  たとえ何を犠牲にしたとしても―――。僕は世界の改変を、人の魂の変革を、聖杯の奇跡で世界を救ってみせる。
  その為にたとえこの身が『この世の全ての悪』を担うことになろうとも構わない。それで世界が救えるなら、僕は喜んで『この世の全ての悪』を引き受けよう。
  僕は全てを利用して、全てを使いこなして、全てを操って、全てのマスターとサーヴァントを殺す。
  その結果、冬木が壊滅したとしても―――構わない。



  ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆



  Side - ウェイバー・ベルベット





  救急車に消防車、少し離れた位置にはパトカーもあり、アーケードは喧騒をまき散らす戦場へと様変わりしていた。もしあのタンクローリーが衝突した時に透明になっていなかったら、人の目は僕とライダーに集中していた筈。
  でもカイエンが魔石『ファントム』を使って僕たちを隠し、魔石『フェニックス』の力で死にゆく誰かの命はぎりぎりのところでこの世界に戻ってきた。
  アーケードを全て燃やし尽くす勢いだった炎は全部フェニックスに喰われて跡形もない。残っているのは何が起こったか判らないと慌てふためく人たちと、色々な場所が崩れ落ちそうな無残なアーケード。
  爆風で吹き飛んだ店とか屋根とか看板とか道路とかはそのままだから、何かの衝撃で崩れてもおかしくない。タンクローリーが爆発した時に近くにあった店なんて半壊どころか全壊してて、もう建物として機能していなかった。
  爆発が起こって火事が起こった。その筈なのに火の気配はまるでない。火の気のなさに首をかしげながらも、壊れた建物の中から怪我人を助け出そうとしているレスキュー隊員がいる。
  怪我した人やフェニックスの力で蘇ったけどまだ予断を許さない人―――僕たちのところにタンクローリーが来る前に轢かれた人が救急車に運び込まれ、パトカーから降りてきた青い制服姿の警察官が道行く人に事情を聞いてる。
  僕たちがカイエンから話を聞いている間に、アーケードの中は買い物客でにぎわっていた様子を一変させてた。
  これが聖杯戦争。
  僕たちを狙った敵の攻撃。
  セイバーのマスターが周囲の被害なんて全く考えないで仕掛けてきた爆撃。
  聖杯戦争の事を考えながらアーケードの様子を見ると、どうしても心が痛む。悪いのは周囲を気にしなかったセイバーのマスター『衛宮切嗣』って名前の男だけど、僕らがここに買い物に来ているのも原因の一端を担ってる。
  敵の目的が僕らなら、怪我をして、苦しんで、悲しんで、辛くて、死にそうになって。もしかしたら本当に死んでいた時もあったかもしれない人たちの痛みは僕とライダーがここに来たから起こった。
  だから僕はこの地獄みたいな光景を何とかしたいと思うけど・・・。ここまで人の目がある中で魔術を行使すれば魔術の隠匿の大原則から外れるから何もできない。
  もしかしたらカイエンはフェニックスみたいに蘇生させる魔石だけじゃなくて、回復させる魔石も持ってるかもしれない。そう思えても、僕はそれを言葉にできなかった。
  もうここで僕らが出来ることは何もない。むしろ、これ以上被害を出さないために、一秒でも早くここから離れるのが正しい。敵がどこにいるか判らないなら、そうするべきなんだ。
  そんな風にライダーのマスターとしての僕が今すべきことの正しさを導き出す。でも僕はアーケードの様子を見れる位置を通って、裏通りを抜けてある場所を目指してる。
  矛盾してる。
  ライダーも一緒、僕が歩くのに合わせて僕の服を掴んだまま小走りでついてくるサンも一緒。この大騒動を引き起こした犯人と、聖杯戦争に関する新たな情報を授けてくれて、しかも魔石を使わせてもくれたカイエンも一緒。
  アーケードから遠ざかってるんじゃない、一度は離れたのに僕らは騒動の中心に戻ってる。
  どうして? マッケンジー夫妻のところに向かってるからだ。
  ライダーは次の戦いで決着がつきそうな予感がするって言った。理由なんて何もないライダーが直感だけで導き出した言葉だけど、世界の半分を征服したライダーの直感は馬鹿にはできない。それにライダーの保有スキルには『軍略:B』って言うのがあって、これは多人数を動員した戦場における戦術的直感力だ。
  その直感が次の戦いで決着がつくと思ったなら、それは確定した未来にも等しい。
  もちろん、次の戦いが起こっても僕は負ける気はない。敵が誰であろうと、一般人を巻き込んで僕らごと殺そうとする相手だろうと勝つつもり。
  でも―――決着がつくなら、僕が聖杯戦争中の滞在先として選んだマッケンジー夫妻の孫として暗示をかける必要はもうなくなる。
  今のマッケンジー夫妻にとって今の僕は時計塔の学生でも、聖杯戦争の参加者でも、ウェイバー・ベルベットでもない。孫だと思い込んでる『ウェイバー・マッケンジー』なんだ。
  暗示が解けて、その間の記憶を消せば、もう二人の中から僕の存在は消える。この世界のどこにもいなくなる。
  判ってた。暗示をかけてあの二人の家に潜り込んだ時からこうなるって判ってた。それなのに僕の中に別れを惜しんでる僕がいた。
  この気持ちに気が付いた時、僕はあの二人に何か言わなきゃいけないと思った。
  最後の戦いになるならサンを一緒に連れてはいけない。戦いの後に迎えに行くとしても、今はあの二人に預かってもらいたい。言いたい事だけど、この想いはそれだけじゃない。
  いきなりのタンクローリー爆破、爆風と火災であの二人が心配になったから様子を見たい。確かめたい事だけど、この想いはそれだけじゃない。
  僕はあの二人に会って何がしたいのか判らなかった。でも僕の足はあの二人がいる場所に向けて進んでる、サンの服を買った店に戻るために止まらずに歩いてる。
  怪我が無くて騒動に巻き込まれるのも面倒だと思ってるのか、騒ぎの中心から遠ざかろうとする人がいた。
  何が起こったか判らずにおろおろして、とりあえず飲み物を飲んで落ち着こうとする人がいた。
  爆風で飛んできた瓦礫で頭を怪我したのか、命に別状はなさそうだけど額から血を流して救急車の方に向かう人がいた。
  色々な人とすれ違いながら、僕はマッケンジー夫妻が待ってると思う店に向かう。
  「拙者は部外者故、少々離れた位置で待っているでござる」
  たどり着く寸前にカイエンがそんな事を言って離れてく。知人だと紹介できるほど僕らは深い知り合いじゃない。居たら居たらで説明に困ると気づいて、僕はカイエンを呼び止めずにそのまま店に急いだ。
  そして僕達三人は店の前でタンクローリーが爆発した辺りを眺めているマッケンジー夫妻を見つける。
  僕らは来た道をそのまま戻ってきたんじゃなくて、裏通りを通って弧を描くように歩いてきた。二人は僕らとは反対方向を向いてるから、後ろから声をかける。
  「お爺さん、お婆さん――」
  声をかけると一秒もおかずに二人は振り返って僕らを見た。
  「ウェイバー!」
  「ウェイバーちゃん、サンちゃんも無事だったのね。よかったわ」
  言うが早く、マッケンジー夫人は陸上選手のスタートダッシュみたいに驚異的な速さで僕とサンを抱きしめた。
  あまりにも唐突でしかもかなり威力があったから、僕は足に力を入れて必死で堪える。そして年老いた老婆に力負けしそうになった自分を抹消した。そんな事実はない。
  これは孫の無事を想う祖父母が見せる心配の証なんだろうな。そんな偽りの孫に向けられた思いの強さを感じていると、マッケンジーさんがライダーに話しかけているのが見えた。僕達の無事が確認できたから、僕とサンの事はマッケンジー夫人に全て任せてるみたい。
  「みんな無事のようですな」
  「うむ。タンクローリーが向かってくるのが見えたので、余が二人を引きずって裏道に飛び込んだのだ。爆発の衝撃で今まで坊主が目を回しておってな、心配をかけた」
  「怪我はありませんか?」
  「跳んだ拍子に坊主が膝を擦りむいたかもしれんが問題なかろう。小娘の方は坊主がかばったらしく傷一つ無いわい」
  堂々と嘘八百を口にするライダー。僕はそれを素直にすごいと思いながら、マッケンジー夫妻が心配してるのはあくまで僕じゃない孫であって、暗示でそう思ってるだけの虚構にすぎないと思って心苦しさが増していく。
  僕が呼び出したフェニックスとカイエンが呼び出したユニコーンの影響範囲にいたのか、パッと見ただけでも二人とも怪我らしい怪我はない。
  魔石の効果が無かったら僕を殺すためにばら撒かれた爆風と毒性ガスで死んでいてもおかしくなかった。
  僕がこの二人に暗示をかけたから聖杯戦争に巻き込んだ。僕たちがここにいたからたくさんの人を聖杯戦争に巻き込んだ。
  判っていたけど改めて突きつけられた現実に僕の胸がきりきりと軋む音を奏でる。
  「お婆さん、大丈夫・・・だから。ちょ、力が強い、サンも苦しそうだよ――」
  「あら・・・あらあらあら、ごめんなさいね」
  マッケンジー夫人の枯れ木のような細い腕からは考えられない強い力が僕とサンを締め付ける。何とか言葉を絞り出し、拘束を振りほどこうともがいて、ようやく僕らは解放された。
  服を買ってもらった時もそうだったけど、マッケンジー夫人はサンを力いっぱいに可愛がる傾向がある。反対にサンはそれをあんまり好ましく思ってないので、解放されると同時に今まで以上に僕にしがみついてきた。
  その力の強さはマッケンジー夫人以上なんじゃないかと思うほど強く、僕はまた足に力を入れて堪えなくちゃいけなかった。
  「無事で何よりね・・・」
  安堵の笑みを浮かべながらマッケンジー夫人がそう言ってくる。その顔を見ていると、また僕の心が軋む。
  僕は自分の気持ちを誤魔化しながら、遠くに見える救急車を指さして言った。
  「・・・みんな、怪我は無いみたいだからあれのお世話にはならなくてもいいよね。ここじゃ落ち着いて話もできないから少し離れよう」
  ファントムとフェニックスとユニコーン。魔石が呼び出した三頭の幻想種の力で、周囲の壊れ具合とは正反対に怪我人の数はとても少ない。
  だから僕らと同じように周囲を見渡して『何が起こってるんだ?』と状況把握しようとする人であふれていて、怪我人より無事な人の方が圧倒的に多い。もちろん、今すぐ手当を受けないと危ない人もいるけどほとんどは見物人だ。
  ここにいると邪魔になる―――。言わずとも伝わる言葉を聞いて、マッケンジー夫妻と合流した僕らは喧騒から離れていった。





  もし僕たちの誰かが気絶していたり、爆風で飛ばされた衝撃で骨折していたり、瓦礫で体のどこかを切って血を流してたりしたら、それがどれだけ軽傷に見えたとしても救急車のそばから離れようなんて思わなかった。
  少なくともマッケンジー夫妻と子供のサンの観点ではそう思うはず。
  でも僕らは誰も傷一つ負ってない。だから騒ぎに背を向けてアーケードから離れられた。と言うよりもカイエンから説明されなきゃ僕も何が起こってるのか判らなかったから、正直『どうすればいいのか判らない』っていうのが今の心境だった。
  原理は判らないけど透明になった僕らは被害の大半を受けずに済んだ。爆心地になったタンクローリーから比較的に近かった店の中にいたマッケンジー夫妻に全く被害がなかったのも、僕らと同じように透明になって爆風を受けなかったんからだ。
  店自体は衝撃で壊れそうになってたけど、人の被害はまるで無い。
  あの透明化にどんな魔術的要素が絡んでいるのか。時間があればフェニックスを呼び出した魔石の原理と一緒に調べたい欲求を抱きながら、僕は同時にマッケンジー夫妻に何と話すべきか悩む。
  あれだけの騒ぎがあっても荷物は無事だった。タンクローリーが突っ込んでくる異常事態があったけど当事者じゃないから警察への説明義務はない。だから自然とマッケンジー宅への帰路ついてるんだけど、セイバーのマスターが僕らを狙っているならこのまま帰るのは危険。
  魔術戦は人気が少なくなる夜にやるのが暗黙のルールなんだけど、定まった決まりじゃないから、もうこの瞬間に聖杯戦争が再開しても不思議はない。セイバーのマスターが次の手を仕掛けてきてもおかしくない。だから僕は二人に向けてこう言うしかなかった。
  「ねえ――」
  「どうしたんだい。ウェイバー」
  「あんな事が合った後で何だけどさ・・・。僕らちょっと用事が合って、知り合いの所に行かなきゃいけないんだ」
  「え・・・・・?」
  別行動を申し出た途端に二人の顔が引きつった。
  ただの買い物帰りに同じ言葉を言ったなら二人は何も言わずに送り出したと思う。でも、今は普通じゃない。
  さっきの事が全く話題に上がらないのは二人ともどうすればいいか、何を話せばいいか、何が起こったのか、色々な事が判らないからだと思う。
  不安になるに決まってる。僕だっていきなり透明になった時は何が何だか判らなくてオロオロした。こんな何が起こってるのか判らない状態でいきなり別行動をしたいなんて言えば駄目って言うに決まってる。
  今の冬木市は聖杯戦争のせいでかなり危険な状況に陥ってる。これまで隠匿されてきた異常事態だほんの少しだけ一般人の目に触れてしまい、マッケンジー夫妻はそこに触れた。
  誰かに傍に居て欲しいって思うのは当たり前だ。起こった『何か』に僕が巻き込まれるんじゃないかって不安になるのも当たり前だ。
  でも僕らはここに居ちゃいけない。
  聖杯戦争のマスターとしてこの戦いに参加した責任を果たす為に言葉を続ける。
  「どうしても外せない用事で僕とアレクセイだけで行かなきゃいけないんだ。ほら、アレクセイが言ってた『野暮用』を片づけなきゃいけなくて。それで二人にお願いがあるんだけど――。サンを家まで連れてってくれないかな?」
  「ウェイバーちゃん・・・何を――」
  「まあ、待ちなさい。マーサ」
  言ってるの? とマッケンジー夫人が言うより早く、マッケンジーさんの声が続きを封じ込める。
  「あなた・・・」
  妻の言葉を遮った夫。マッケンジーさんは柔和な笑みを浮かべたまま僕の方を向いた。
  「ウェイバー。その用事はどうしても今じゃなきゃいけないのかい?」
  「う、うん」
  「そうかい・・・・・・」
  たった一言だけ返してからマッケンジーさんは沈黙を作り出した。
  短い問いと、それに応じた短い答え。この中に彼がどんな答えを見つけ出したのか僕にはさっぱり判らない。そもそも言っている事は間違っていないけど、言ってない事が山ほどある。
  そう、僕らは知り合いに―――聖杯戦争を通して知り合ってしまった敵に会わなきゃいけない。そしてライダーの『野暮用』―――聖杯戦争の決着を付けに行かなきゃいけない。
  明確に『何をする』をぼかして伝えた言葉に力が無いのは言ってる僕が一番よく判ってる。
  だからマッケンジーさんが何を思ってるかまるで判らない。
  「そうかい・・・・・・・」
  長い沈黙を経て、もう一度同じことを繰り返す。
  「ちょっと二人で話をしようじゃないか」
  そしてマッケンジーさんはそう言いながら道路の向かい側を指さした。
  「え・・・・・・。う、うん」
  片側一車線の何の変哲もない通り、まるでここで話すことが決定されていた様に横断歩道と信号があって、僕たちが向こうに行くのを待っている様に信号は青く光ってた。
  何を言われるの? 何を話すの? 僕は何て言えばいいの? 迷いだけがぐるぐると頭の中で渦巻く。
  僕は横断歩道を渡ろうとするマッケンジーさんの後を追おうとして、腰にしがみ付いたままになってるサンをライダーとマッケンジー夫人の方に追いやろうとした。
  でも僕が押し退けようと力を込めると、その力より更に強い力を込めて離れようとしない。
  頑張ってサンの小さな手を外そうとするんだけど押しても押してもサンは僕にしがみ付く。時間だけが過ぎていく不毛な押し合いをやってると歩行者専用の信号が点灯し始めて、見るとマッケンジーさんはもう向こうの歩道に移動し終えてた。
  「・・・仕方ないな」
  サンを連れて行ったら二人でする話じゃなくなるけど、時間を無駄にするわけにはいかない。気は進まないけど、僕はサンをしがみ付かせたまま横断歩道を小走りで渡った。
  「おや、連れて来たのかい?」
  「離れてくれなくってさ。サンが聞いててもいいかな」
  「構わんよ。どうやらその子はワシらよりもお前さんと一緒にいたいらしい」
  そう言って笑うマッケンジーさんの顔は何かの確信に満ちている気がした。まるで『ああ、やっぱりこうなったか』って言ってるみたいな、そんな感じ。
  何が? 何がどうなって、こうなった?
  疑問が氷解するよりも前に次の言葉が飛んでくる。
  「さて・・・、まず何を聞いて、何から話すべきかね・・・・・・」
  続く言葉は僕が思っていた事と全く違ってた。


  「なぁウェイバー・・・・・・。お前さん、わし等の孫ではないね?」


  続けられた言葉はこれ以上ないほど強い衝撃を僕に与えた。多分、聖杯戦争が始まって以来、ケイネスから浴びせられた怨嗟の言葉なんかよりも強烈な言葉だと思う。
  「・・・・・・・・・・・・」
  絶句――。その後に僕の胸に去来したのは危機感や動揺ではなく、途方もない恥の感覚だった。
  この老人にかけた暗示が破られた。魔術の素養など欠片もないただの一般人にウェイバー・ベルベットの魔術が破られた。
  その事実が僕の心をこれまでにないほど強烈に痛めつける。
  「どうしてワシもマーサもお前さんのことを孫だと信じ込んでたのか不思議ではあるが・・・。まぁこれだけ長生きするとな、さっきみたいに不思議な事柄はどう考えたって不思議なままだと諦めもつくもんさ。正直、何が起こってるかさっぱり判らんかったが、不思議な何かが起こってると判ったよ」
  微笑みを浮かべたまま言うマッケンジーさんには僕が偽りの孫だと知った上での怒りは見えない。
  不可解だった。
  理解できなかった。
  だから僕はそれを言葉にする。
  「怒って・・・無いんですか?」
  「まぁ、そりゃあ怒って当然のところなのかもしれんがな。マーサのやつ、ここ最近は本当に楽しそうに笑うようになったからな。お前さん方が来る以前じゃ考えられんことだ。その辺はむしろ感謝したい位でな」
  「そんな・・・」
  「お前さんも、あのアレクセイとかいう男も、珍しいぐらい性根の真っ直ぐな若者だ。だから出来ることなら、もうしばらく『このまま』を続けていてほしいんじゃ。これが夢だか何なのかは判らんが、ワシ等にとって優しい孫と過ごす時間と言うのは宝物なんじゃよ。まあ、お前さん方が良ければ、じゃがの」
  マッケンジーさんの言葉が一つ一つ紡がれる毎に僕の心は同じだけ傷ついていく。
  僕だったら自分に暗示をかけられて全く別の記憶を植え付けられたと知れば、その瞬間に激怒して犯人を糾弾して憎んで、手段さえあれば殺してやりたいと思う。
  それなのにマッケンジーさんは微笑んでそれを続けてくれと言う。
  ライダーが話術でもって可能にした『他人の中につくる自分の居場所』。僕が暗示で作り上げたそれはマッケンジーさんに簡単に暴かれてしまった。その上でこの老人は『もっと騙してくれ』と頼んでくる。
  とても愚かでお人好しな人だ。
  そして僕はそんな彼の寛容さと温情が無ければこの冬木で自分の居場所すら作れない。
  こんなに滑稽な話は無い。惨めだ――。
  ありもしない立派な魔術師の自分を作り上げて、偶像の自分の愚かさに気付かず崇拝していた。僕の魔術の腕なんて魔術師どころか一般人にだって破られてしまう程度のものなんだ。そう気付かされる。
  爆発、透明、火災、蘇生、治癒、そして過程を越えて現れた結末。数ある異常がマッケンジーさんの中にあった違和感を増幅させて暗示を破った。でも本当に優れた魔術師だったらどんな違和感を思ったとしても暗示で全て消してしまえる。
  でも僕はそれを出来ない。
  恥かしかった。
  魔術の腕を誇っていた過去の自分と今の自分がとても恥ずかしくて、この場から消えたくてたまらなかった。
  「お前さん方がやろうとしている事はワシには判らん。大変なことをしようとしてるのかもしれん。じゃが、もし――もし、続けてくれる気が少しでもあるなら・・・。もう少し付き合ってもらえんか?」
  「・・・・・・・・・」
  自分で自分を殺したくなるほどの恥ずかしさを味わいながらも、マッケンジーさんが求めているのはそんな事じゃないと思い直す。
  この僕が偽りの孫だと知って、騙されている自分を判った上で、マッケンジーさんはこう言ってる。だったら僕に残った誠実さで応えなければならない。
  これは何の関係もない一般人に暗示をかけて騙したウェイバー・ベルベットの責任だ。僕の恥とは関係ない義務なんだ。
  「・・・・・・・・・わかりました」
  長い長い沈黙を経てから僕はそう言う。
  これは贖罪? それとも達観? どちらのようでもあり、どちらでもないおかしな気持ちに背中を押されて、僕はマッケンジーさんの申し出を受け入れた。
  「僕らの『野暮用』が終わったら、必ず――」
  「そうかぁ・・・」
  今まで見た中で一番いい笑顔なんじゃないだろうか? そう思える深い笑いを作りながら、マッケンジーさんが言う。
  そして一度道の向こう側にいるライダーとマッケンジー夫人に視線をやってからまた僕を見た。
  「ところで、サンをワシらに預けようとするのは、その『野暮用』が命懸けだからなのかね?」
  「う・・・、そ、そうです」
  暗示を地力で解いたからなのか、何だかマッケンジーさんには僕らがやろうとしている事の全てを見透かされているような気がする。
  僕らがひた隠しにしている部分が何なのか判らなくても、直感で理解してる。そんな感じだ。
  同じ魔術師なら殺されてもおかしくなかったこの状況を受け入れてくれたこの人に嘘をついちゃいけない。僕は驚きながらも素直に肯定する。
  「その『野暮用』がお前さんにとってどれほど大切な事柄なのかは判らんが・・・。人生、長生きした後で振り返ってみればな。命と秤にかけられるほどの事柄なんて、一つもありはせんものじゃよ」
  「・・・・・・」
  「それにその子はお前さんについて行きたがっとる。ウェイバー、お前さんはその子の最善を見つけると決めたんじゃないのかい? だったら男として責任は取らなくてはいけないよ」
  暗示が解ける前にマッケンジー宅で行われた話し合いが繰り返される。あの時と同じように祖父と孫―――もう互いのそれが偽りのモノだと判っているのに、改めて確かめ合うように話が出来上がってく。
  命と秤にかけられるほどの事なんて一つもない。それは僕が歩んできた魔導とは真っ向から対立する考え方だ。
  魔導とは死を観念するところから始まるもの、己の命を燃やし尽くした果てにしか境地は無く、自らの存在全てを賭してそこに辿り着こうとする。
  そう思っていたのに聖杯戦争を経て僕の考え方は少しずつ変化していた。自分の身の丈に合った生き方を探すなら、マッケンジーさんの言葉にこそ真理があるんじゃないかと思える。そんな横道とも余裕とも考えらえる思いが僕の中にあった。
  「何となく・・・。何となくとしか言いようがないんじゃが、その子はワシ等と居ても良い結果にはならんと思うんじゃよ。言葉では説明し辛いんじゃが、わしが理解しようとしても仕方ない事柄がその子にはあるんだろうさ」
  「サンに?」
  「だからウェイバー。サンを連れて行きなさい。そして、やるべき事をやり遂げてから、戻っておいで」
  僕は咄嗟に何と言えばいいか判らなかった。でも何も言えない代わりにマッケンジーさんの顔を見ながら自然と頷いてた。
  誇っていた筈の魔術を破られた無力感。
  僕が負うべき責任への重圧。
  結ばれた新たな約束。
  進展と呼べるモノがまるでなかった話だったけど、それでも話している内にマッケンジーさんが僕らを送り出してくれると判っただけでも収穫があったと思いたい。
  そう思わないと今この瞬間に何もかも放り出して崩れ落ちてしまいそうだった。





  話を終えてライダーとマッケンジー夫人の所に戻って見ると、ライダーがまたお得意の話術で彼女を説得したのか、サンと離れるのを嫌がっていた筈なのに夫と一緒に望んで僕らを送り出すような雰囲気を纏ってた。
  事実、マッケンジー夫人は『気を付けて行ってらっしゃい』とまで告げ、心配しつつも別行動を取る旨をはっきりと言葉にしてくれた。
  ライダーが僕らと離れていた間にどんな会話をしたのかすごく気になる。
  こうして僕とライダー、そして話の流れで連れて行くしかなくなったサンの三人と夫妻の二組に別れて、それぞれが別々の方向へと歩き出す。
  角を曲がってマッケンジー夫妻の姿が完全に見えなくなると、そうなるのを待っていたカイエンが姿を見せた。
 聖杯問答の時と同じ組み合わせが出来上がり、僕らは神威の車輪ゴルディアス・ホイールに乗って冬木の空へと舞い上がる。



  ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆



  Side - ゴゴ





  今のところ101匹ミシディアうさぎは冬木市全域へと展開されて聖杯戦争監視網を展開し続けている。
  透明化の魔法『バニシュ』で透明になりながらも見つかりそうになって慌てて魔力へと戻って消える場面は多々あったが、まだ敵に発見される事態には至っていない。
  自分たちを見張る何らかの存在には気づいている可能性はあっても、それがゴゴの作り出した疑似生命体―――便宜上は使い魔と呼んでもいい斥候だと理解している者は一人もいないだろう。もしかしたら気づいた上で放置している可能性もあるが、監視網そのものが破壊されるほど壊滅的な事態は起こっていない。
  だからこそライダー達を見張っていたミシディアうさぎの報告によってカイエンは間に合った。
  だからこそセイバーとランサーの顛末と久宇舞弥の死も確認できた。
  だからこそ言峰璃正の死と言峰綺礼の変容。アーチャーの離脱と遠坂時臣の救出。衛宮切嗣の失敗など。多くのことを知れた。
  情報を制する者は世界を制すとは誰の言葉だっただろうか。正しくそれが真理であると思いながら、ゴゴはミシディアうさぎでは対処できない状況で監視を続けていた。
  「精魂込めて俺達が仕上げてきたアートが・・・・・。こ、これが人間のやることかよぉっー!!」
  「リュウノスケ、本当の美と調和というものを理解できるのは、ごく一握りの人間だけなのです。むしろ大方の俗物は、芸術の聖性に触れた途端、嫉妬にかられた獣と化す――。連中にとって美とは破壊の対象にしかなり得ないものなのです」
  ミシディアうさぎが作り出す監視網の利点は多くの情報を知れることに尽きるが、ミシディアうさぎではどうしても対処できない事態が発生するのもまた決して避けられない道だ。
  ゴゴの魔力によって作り出され、意思伝達はほぼ完全に行える優秀な使い魔。人語を理解し、発見される危険が迫れば自らを消滅させて自死すら何の躊躇いもなくやってのける。けれどもミシディアうさぎはどこまで行ってもうさぎであり、味方を僅かに治癒する特殊能力はあっても、戦闘力は一般人にも大きく劣る。
  だから即座に戦闘へ移行しかねない敵の監視、あるいは物真似する要素をもった対象にはゴゴが自ら出向いて監視する必要があった。
  これまではミシディアうさぎだけを敵のそばに置いてゴゴは守勢に回っていたが、ここにきてゴゴは自らも監視網の中に加えた。
  もしゴゴが前もって監視網の中に自分を置いていれば、衛宮切嗣のタンクローリー特攻をもっと早く察知して、余裕を持って対処できただろう。そして生かさなければならない遠坂時臣を殺されかけるなんて危険な事態にすら陥らなかったに違いない。
  「私たちの創造は、常に愚昧なる破壊との相克という試練に晒されているのですよ。ひとたび形を与えられた物はいずれ壊れゆく運命にあるのです。むしろ我々創造者は、創作の過程にこそ喜びを抱くべきなのでです」
  「壊れたぶんだけまた造りゃあいい――ってこと?」
  「その通り! いつもながらリュウノスケ、その端的なる理解は貴方の美徳ですよ」
  アインツベルンの森で雁夜とバーサーカーに痛めつけられたキャスター今まで回復に努めていた。
  マスターである雨竜龍之介はサーヴァントのジル・ド・レェが十全に動けない状態なので、キャスター召喚から誘拐や殺害に使い始めた魔道具を使えぬ事態に陥った。これまで二人がやっていた事を言い表す言葉は『潜伏』以外にはなく、ただただ息を潜めて機会を待ち続けていた。
  ようやく完全に回復した二人が拠点である貯水槽へと帰還し。彼らの主観では―――呼び出した海魔は全て殺され、見るも無残に自分たちの作品を破壊された結果だけが広がっていた。
  雨竜龍之介が悔しさのあまり涙を流すのも当然と言えば当然かもしれないが、彼ら以外の大多数の人間が見れば貯水槽はむしろ壊されたと言うよりも清められたと思うに違いない。
  やろうと思えば瀕死のサーヴァントに戦えないマスターなど排除するのは容易い。桜ちゃんが望んだ冬木市の子供の安全を考えるならば、ここで始末しておいた方が禍根は消える。
  そうしなかったのはキャスターの力の底をまだ見ていないからだ。
 キャスターの宝具、螺湮城教本プレラーティーズ・スペルブックは大量の海魔を呼び出す他にも自律召還魔力炉としての特性も有している。キャスターがアインツベルンの森で無尽蔵に海魔を召喚し続けられたのも宝具があったからこそだ。
 規模の違いと自立意識の有無、一人一人が歴史に名を遺した英霊であり違いを除き『大軍を召喚する』に重点を置けば、ライダーの王の軍勢アイオニオン・ヘタイロイと似た宝具である。事実、雁夜とバーサーカーはその物量と雁夜の魔力不足故に決定打を叩きこめず、まんまと逃亡を許している。
  数は力だ。
 螺湮城教本プレラーティーズ・スペルブックは死を恐れぬ怪物を召喚し続ける恐ろしい宝具だが、ゴゴの認識では『今のままでは大した事ではない』と結論が出ている。
  ライダーが呼び出す英霊一人とキャスターが呼び出す海魔一匹との間には途方もない壁が存在する。
  あの程度ならば魔石を二つほど使って強力な幻獣を召喚すればそれだけで事が足りる。幻獣『バハムート』のメガフレア、『ヴァリガルマンダ』のトライディザスター、『リヴァイアサン』タイダルウェイブで一掃できてしまう。
  もしかしたら威力が少々下がる『ラムウ』の裁きの雷と『イフリート』の地獄の火炎と『シヴァ』のダイアモンドダストの三属性の組み合わせだけでも掃討できるかもしれない。
 とにかくゴゴの中で螺湮城教本プレラーティーズ・スペルブックはさほど物真似する価値はない。雁夜とバーサーカーが戦っている間にじっくり見物させてもらったので、物真似そのものは不可能ではなかろうが、改めて試すほどの意味もない。
  だからキャスターに奥の手があればそれが出るのを待っていた。
  ただ海魔を呼び出すだけではなく、何らかの奥の手があればそれを出す前に殺すのは惜しい。そう思って生かして、監視下に置いている。
  「これだけは言っておきますよ、リュウノスケ。――神は決して人間を罰しない。ただ玩弄するだけです!!」
  ゴゴの眼下ではバチが当たったのかなぁ? と呟いた雨竜龍之介に対し、態度を一変させたキャスターが吠えている。
  そしてキャスターが刻々と自分が生きた時代に仕出かした悪徳と涜神を誇り、八年もの間放置され続けた邪悪の探求を語っていた。
  教会と国王がキャスターを処刑したのは富を領土を簒奪するための奸計だったと。背徳に歯止めをかけたのは神罰ではなく人の略奪だったのだと。キャスターは怒りと共に語り、彼のマスターはそれを黙って聞いていた。
  キャスターの演説めいた言葉が一区切りすると沈黙の中で雨竜龍之介が言う。
  「でも、旦那・・・。それでも、神様はいるんだろ?」
  そこから二人の間で繰り広げられる会話はおそらく他の聖杯戦争の参加者には決して理解されないであろう内容だった。
  神様は登場人物五十億人の大河小説を書いてるエンターテイナー。
  神は本当に人間を愛しているかの懐疑。
  愛も勇気も希望も絶望も恐怖も憎悪も何もかもを愛する神様。
  新しく瑞々しい信仰の芽生え。
  行動によってではなく、言葉によって二人は互いの胸の内をさらけ出し。おそらく今回の聖杯戦争の中では最も強い絆で結ばれたマスターとサーヴァントは、更に自分たちの繋がりを強固なモノへと作り変える。
  「よろしい! ならばひときわ色鮮やかな絶望と慟哭で神の庭を染め上げてやろうではないですか。娯楽の何たるかを心得ているのは神だけではないということを、天上の演出家に知らしめてやらねば!」
  「おお! 何かまたスゲェことやるんだね。旦那ッ!!」
  両手を大きく広げてかつてないほどの興奮を露わにするジル・ド・レェ。同調するように期待に胸を膨らませて小躍りする雨竜龍之介。繋がりをもたらすモノが常識から大きく外れた価値観だったとしても、この瞬間、雨竜龍之介とジル・ド・レェは間違いなく歓喜を共有していた。
  キャスターの不調故に冬木市から新しく調達する収穫はなく、今のところ彼らの毒牙にかかる新たな命はない。だがそれは彼らの喜びを邪魔する不純物が何一つ存在しないという意味でもある。
  二人分の哄笑、いや、狂笑は時間経過とともにより高らかに貯水槽の中に広がっていく。
  「・・・・・・・・・」
 そんな様子を彼らの真上からゴゴが―――宝具『己が栄光の為でなくフォー・サムワンズ・グロウリー』で変身したシャドウが見下ろしていた。
  生前のキャスターことジル・ド・レェはフランス王国の王位継承をめぐる百年戦争を戦い抜いた軍人であった筈なのだが、キャスターとして召喚された弊害なのか敵に対する直感は鈍いようだ。
  もし相手がライダーだったならば、貯水槽の中に潜むアサシンに気づいたように、直線距離で百メートルも離れていない場所にいるシャドウの存在を看破しただろう。
  しかしキャスターは気づかない。雨竜龍之介も気づかない。監視されている状況を予測することすら放棄したのか、ただただ前を見て自分達の信じるものを追求し続けてゆく。
 貯水槽の深い闇の中に溶け込んだ黒衣を纏うシャドウは、彼らの様子から螺湮城教本プレラーティーズ・スペルブックで呼び出した海魔だけではない切り札が現れるであろう予感を抱いていた。
  物真似をする価値あるモノがようやく顔を覗かせ始めた。やはり殺さずに放置して、監視するのみに留めていたのは正解だったらしい。
  天井に両足の裏だけを付けて監視を続ける暗殺者シャドウ。逆さになって下を見守る彼の周りだけ重力が逆になったようだった。





  ウェイバーとライダー、言峰綺礼とアサシンは間違いなくキャスターの拠点がどこにあるかを知っている。それでも彼らはキャスターを討伐出来ていない。
  その理由が間桐陣営が目立ちすぎているからだとシャドウは考える。
  キャスターと間桐。どちらが厄介な敵であるかを問えば、誰もが後者を答えに上げるに違いない。褒賞の令呪一角は確かに魅力的ではあるが、言峰綺礼は父の璃正から預託令呪を継承しているので、一角など物の数ではない。ウェイバーの腕にもまだ三画令呪が残っているので、不足がなければこれ以上増やす必要性を感じていないと思われる。
  確かにウェイバーはキャスターの拠点を突き止めたが肝心のキャスターはそこにはいなかった。それでも見張りを残してキャスターの動向を掴むぐらいは出来る筈だが、ウェイバーはそれをやらなかった。
  何故か? 限られた使い魔を間桐陣営に割り振っているからだろう。
  聖杯戦争を勝ち抜くためにはキャスターを倒さなければならない。しかしそれよりも厄介で面倒な相手がいる。だからキャスターの件は後回しにされた。言峰綺礼には見張りの不足以外に別の思惑があるだろうが、積極的にキャスター討伐を行わない状況には変わりがない。
  一般人の被害よりも魔術師として敵を倒す方を優先した結果なのだろう。
  やり過ぎたか―――。先を行く二人を追いかけながら、シャドウはそう考える。
  もしゴゴが一年前から間桐に協力していなければ、もっと間桐は軽んじられてキャスターはさっさと打ち倒されていたかもしれない。
  カイエンが魔石『フェニックス』を使う機会はなく、ライダーとキャスターとの直接対決。もしかしたら、貯水槽での戦い以前にアインツベルンの森で決着がついていた可能性だってある。
  だがありえたかもしれない『もし』は無い、無い事象にシャドウは興味がなかった。
  常に先にあるのは未来だけ。過去を振り返って教訓にしたとしても、決して過去は変えられない。列車強盗団シャドウ、相棒のビリー、本名。シャドウが亡くしてしまったものがもう戻らないのと同じように、過去は戻らない。
  だからシャドウは貯水槽から出発した二人の後を追い、挙動の全てを見逃さないように神経を尖らせた。万が一にでも襲撃があった場合に備えて周囲に気を配るのも忘れない。
  キャスターと雨竜龍之介は貯水槽から出ると川に沿って下流に歩き始めた。そして未遠川にかけられた橋の一つに近づくと、キャスターは川に向かい、雨竜龍之介は橋の方へと移動していく。
 キャスターは川の辺まで到達すると、手元から螺湮城教本プレラーティーズ・スペルブックを取り出す。
  ほんの一瞬だけ魔力が放出されると、キャスターはそのまま川の中へと足を踏み入れて水の上に立った。
  水の上に立つためには水に沈む以上の浮力か反発力が必要になる。少なくともただの人間が体一つで水の上に立つのは物理的に不可能。
  英霊あるいはサーヴァントの特殊技能か。それとも魔術を行使したのか? 疑問と共にキャスターの足元を凝視すると、薄汚れた川の中に海魔が召喚されているのを見つける。どうやら船の代わりを海魔に行わせているだけらしい。
  何ともつまらない移動方法を見ながらもシャドウは橋の方へと移動した。
  そこにいる雨竜龍之介を見やる。彼は橋の中央に向けて移動しながら視線を常にキャスターへと向けている。
  何の支えもなしに川の中を移動するキャスター。平時なら騒動になってもおかしくないのだが、冬木市に起こっている連続誘拐事件のおかげで日中でも外に出る者は少ない。キャスター自身の幸運もあるのか、誰からも見咎められずに移動を続けている。
  サーヴァントを倒すのならば、本人よりも魔力供給を行っているマスターを倒す方が簡単だ。
  シャドウは聖杯戦争の常道に従い、笑顔で橋を渡る雨竜龍之介の背後へと移動し。常に人の死角を位置取りながら橋のアーチを上へ上へと登って行く。
  攻撃に出ると決めて跳び下りれば十秒もかからずに雨竜龍之介を仕留められる。念のため、腰には一定確率で即死効果を発揮する武器『一撃の刃』を用意して、敵を殺す時を今か今かと待ちわびさせる。
  アサシンを殺す時に使った物理攻撃が100%命中する『スナイパーアイ』と『風魔手裏剣』の組み合わせでもいいが、腕を伝い命を奪う瞬間を確認する方が確実さは増す。
  「旦那ぁー!! 神様もびっくりな、すっげえ突っ込み、頼んだぜー!」
  雨竜龍之介は橋の中央まで移動した後、同じく川の中央まで移動したキャスターに向けて大きく手を振りながら声を荒げる。
  背後―――正確には斜め後方の頭上に自分の命を狙う敵が潜んでいる事など考えてすらいないらしい。
  今、攻撃すれば難なく殺せる。
  しかしシャドウはそれをしない。
  「御期待あれ、リュウノスケ。最高のCOOLをご覧に入れましょう!」
  「マジッ!? 楽しみにしてっからさー!」
  これからキャスターがやろうとする事を止めもしない。
 みると川の真ん中で螺湮城教本プレラーティーズ・スペルブックを取り出したキャスターは詠唱を唱えて何かをしようとしていた。
  橋を行く人の中には川の中央に立つという奇妙な様子を作り出すキャスターを見つける者もいた。けれど誰も彼もが見て見ぬ振りをして足早に退散していく。もしかしたらキャスターの異質な雰囲気と、彼の足元に召喚されて足場になっている異形の怪物の空気を敏感に感じ取っているのかもしれない。
  彼らの中には気づいた者もいるだろう。この異常な状況を作り出す二人こそが冬木市の連続誘拐殺人事件の犯人だと―――。
  通行者の中に警察に電話する者がいるのを願うのみだ。もっともその時にはキャスターのやろうとしている何かはもう完了しているだろうが。
  すげえ、すげえと、雨竜龍之介はお気に入りの玩具を前にして大喜びする童子のように喜ぶ。その様子を視界の隅に捉えながら、シャドウの目は―――ものまね士ゴゴの目はひたすらにキャスターの魔術を見つめ続けた。





  結局のところ、次元の狭間とでも言うべきこの場所にただの人間が何の準備もなしに入れば命を失う。
  酸素の有無を確認したわけではないが、宇宙空間で人が生存出来ないように、地上とは大きく異なるこの空間は人が生きれる場所ではない。
  重力が地球上の数百倍かもしれない。
  大気がないのかもしれない。
  気温が数百度あるいは氷点下かもしれない。
  もしかしたら人が生存できる空間がこの中にあって、ある地点からある地点まで移動できる通路のような箇所が存在するのかもしれないが、時間も距離も空間も無意味な―――物理法則がそもそもあるのかすら怪しいこの場所では人は無力。
  最低限、宇宙服を着こんで備える程度の準備は必要だ。
  ゴゴと一緒に次元の狭間に放り込まれたイリヤスフィール・フォン・アインツベルンは入ると同時に目を大きく開いて両手を口元にあてた。その姿が酸素がない危険を表していたので、ゴゴは慌てて石化魔法『ブレイク』をかけて彼女を石像にしなければならなかった。
  出来上がったのは空気を欲する苦悶の恰好をした幼女の石像が一体。こうしてイリヤスフィール・フォン・アインツベルンは石となりゴゴに運ばれていた。
  ここで発生した嬉しい誤算は彼女とゴゴとの間に魔法をかける者とかけられる者として、魔力の繋がりが出来た事だ。
  ゴゴの魔法がこの世界の生物に通用するのは既に判明しているし、英霊でもホムンクルスでも効果があるのは立証済み。ゴゴが魔法をかけたお陰で魔法によってイリヤスフィールの体に干渉している状態が作られた。
  魔力によって外側からは見えなかった少女の体の中を探索し、調査し、分析し、吟味し、接触し、考証し、解析し、研究し、物真似するために必要なモノを手に入れられる。
  ドイツのアインツベルン城から間桐邸の蟲蔵に移動するまでに『聖杯の器』の調査を行うつもりだったが、結果的にゴゴにとって最も都合のいい形でその機会を得られたのだ。
  「・・・・・・」
  はたから見ると無言で幼女の石像と一緒に移動しているだけに見えるが、繋がった魔力によって一瞬も途切れることなく物真似するための調査が続けられていた。
  石化しているので生体活動そのものは停止しているが、イリヤスフィール・フォン・アインツベルンを構成する魔術回路や人体を構成する臓器とは異なる別の部位、他のホムンクルスとも異なる部分をじっくり観察する。
  生体機能が回復した時は『聖杯の器』が本来の役目を果たすために機能するだろうが、停止している時でもそれはそれで得るモノがあった。
  アイリスフィール・フォン・アインツベルンを観察する事で手に入れていた物真似の基がどんどんと追加されていく。
  聖杯戦争の根幹を成す幾つかの要素、その中で重要度で言えばかなり高位に位置する『聖杯の器』がゴゴの中で形を成していく。
  ゴゴは喜んでいた。
  周囲からは目しか見えず、顔なんてほとんど見えないが。それでもゴゴは喜んでいた。
  もしこの体がゴゴではない別の誰か―――たとえばケフカ・パラッツォだったなら『ホ~ッホッホッホッホッホッホ!』や『ヒョ~ッヒョッヒョッヒョッヒョッヒョッヒョ!』と大口を開けて笑っていたに違いない。
  万能の願望機とされる魔術礼装。それこそが『聖杯』であり、始まりの御三家がそれぞれの英知を結集させて作り上げた今世の神秘。それを構成する微小な材料の一つ一つを理解していくごとにものまね士ゴゴに欠けていた『自分』が埋まっていくような感覚が生まれていく。
  もちろんゴゴが自覚する『自分』の総量に比べれば『聖杯の器』とて物足りなさを感じてしまうが、それでも確実に進歩があった。
  だからゴゴは喜んだ。
  とても、とても、喜んだ。
  そうやってイリヤスフィール・フォン・アインツベルンを―――正確には彼女の中にある『聖杯の器』を物真似していく間にも時間は流れてゆく。
  楽しい時間はあっという間に過ぎる。この世界にたどり着いてから時折耳にする言葉だが、これはゴゴにも当てはまる真理だ。宇宙にも見えるこの空間の中ではゴゴにしか判らない感覚で出口が近いのを感じ取ってしまう。
  どうやら『聖杯の器』を物真似するのに熱中するあまり、移動に費やした時間を失念したらしい。
  外に出てしまえばこの少女を調べるのに全力を費やす時間は終わってしまう。けれど石化魔法『ブレイク』を解除して調べなければならないこともあるので、いつまでもここにとどまっている訳にもいかない。
  仕方ない・・・。
  そう思っていると、目の前に次元の狭間の中では異質な切れ目とでも言うべき何かが現れた。
  雷をデフォルメしたマークにも見える白い線。それがこの次元の狭間からの出口なのだと感覚で理解しているゴゴは躊躇いなくそこに飛び込む。
  浮遊感と一緒に感じたのは日の光だった。
  「・・・ん?」
  一年前に出口として使った蟲蔵の中に現れるつもりだったが、どういう訳か日の光がゴゴに降り注いでいる。蟲蔵があるのは間桐邸の地下で、当然ながら太陽の光を取り込むような作りにはなっていない。
  ゴゴは足元に何もない間隔を味わいながら、周囲を観察してここがどこであるかを一瞬で理解する。
  ここは聖杯降臨の儀式を行う大本命にして第一位の霊脈。天然の大空洞『龍洞』を擁する円蔵山だ。
  外から見ると単なる山にしか見えないが、かつてゴゴが行ったように地面を掘って大空洞まで到達すると、冬の聖女の名を持ち今では大聖杯そのものになったユスティーツァ・リズライヒ・フォン・アインツベルンの術式が見れる。
  下を見ると地上からほんの二メートルほどしか離れていなかったので、石になったイリヤスフィール・フォン・アインツベルンが落下の衝撃で砕けないように掴んで音もなく着地した。
  降り立った場所は円蔵山中腹に立つ柳洞寺から少し離れた場所の雑木林のようで、周囲に人影はない。
  ゴゴは予想していた場所とは違う箇所に出てしまった理由を考えるが、『聖杯の器』を物真似するばかりに意識が向いていて『デジョン』を全く考えていなかった自分に気が付いた。
  経過があれば即答できたかもしれないが、今は結果しかないので困難を極める。
  もしかしたら同じアインツベルンの名を持つ魔力とは異なる何らかの繋がりがあり、大聖杯と『聖杯の器』の完成形である小聖杯が引かれあったのかもしれない。
  あるいは次元移動の魔法『デジョン』で移動した場合、術者の意思ではなく作った入り口によって出口の位置が変化してしまうのかもしれない。
  とにかくゴゴは広い意味で日本の冬木市には到達出来たが、目的地に設定していた間桐邸には到着できなかった。予想とは違った結果に僅かばかりの不満が浮き出るが、間桐邸に現れてしまえばそれはそれで面倒が起こると思い直す。
  何しろ今の間桐邸は運転を誤った乗用車が突っ込んだ事件の只中―――そう見せかけた騒動が巻き起こったすぐ後なので、ご近所の目と誰かが呼んだ警察に事情聴取を受けている。
  間桐臓硯のふりをしているゴゴが応対をしているが、そこに少女の石像を持った同じ姿のゴゴがいきなり現れれば確実に怪しまれる。もし見つかれば幼女の石像を持った異常者であり、連続誘拐事件の犯人と誤認される可能性は大いにあり得た。
  思惑とは違った結果だが悪い事ばかりでもない。そう思いながらゴゴはステータス異常を治療する魔法『エスナ』で石化を解除する為に石像に手を向ける。
  次元の狭間ではこの幼子の命は危機に瀕したが、日本の大気ならその心配はないだろう。ドイツの雪に囲まれた城の中からいきなり東方の島国に移動してびっくりするかもしれないが、次元の狭間に比べれば同じ地球上。多少の気温変化で体に悪影響を及ぼしたとしても、空気のない場所での死に比べればいっそ生易しい。
  「エスナ」
  石化魔法『ブレイク』、それを治癒する『エスナ』。二つの魔法によって魔力的な繋がりを作り出し、石像がホムンクルスの肉体へと戻っていく。
  新鮮な空気を求め苦しむ幼女が一人。石になっていた部位が本来の生体機能を取り戻して一気に活性化していった。それはゴゴが知りたかった『聖杯の器』を構成する最後のピースを埋めるのと同義である。
  そして全てがゴゴの中に集まった。


  「この時を待っていたんだろう? 現れたくてうずうずしてるのが判る」


  「ようやくお前に会えるな。お前がそうであったように俺もこの時を待ちわびていた」


  「呼び掛けがあったのか――。誰かがお前の名前を呼んだのか――」


  「お前は聖杯戦争に限定すればこれ以上ない究極の『悪』だ。雁夜も桜ちゃんも『善』を『良い』と思う人間だからな、対局の存在がいてこそ『救い』が際立つ」


  「その圧倒的な呪いで俺を飲み込むか? それもいい。俺はその呪いすら物真似してみせる」


  「俺はアサシンの消滅でどんな魔力が好みか知った。どんな形をお前に渡すべきかもう判ってる」


  「ここで渡せるのは複数に別れた『ものまね士ゴゴ』の中のほんの一部。それでもサーヴァント七騎分に匹敵する自負はある。存分に俺の魔力を喰らえ」


  「俺はお前のものまねをしてやろう。だから非の打ち所なく現界しろ」


  「さぁ」


  現れよ、呪われし聖杯。
 生まれよ―――、この世全ての悪アンリマユ



  ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆



  Side - 間桐雁夜





  俺達は拠点を間桐邸からブラックジャック号へと移した。
  敵の目が間桐邸に集結してるのは予め判っていた事だから、監視の目がティナの魔法『メルトン』で全て潰されたならチャンスと思うべきだ。間桐邸の結界は確かに協力で、家の中にもゴゴが変身した沢山の味方がいるので守りはほぼ完璧。それでも防戦一方では戦いの終結など望めない。
  いつかは攻めに転じないといけない事は判っていた。
  桜ちゃんに俺、そしてゴゴが変身した別人だけれどやっぱりゴゴの彼らが作り出す温かい雰囲気を壊したくないと願っても。聖杯戦争が続いているなら、穏やかさはいずれ消えてしまう。
  監視の目がなく、外に出る時に何の邪魔も無いのなら逃してはならない。いきなりの襲撃といきなりの出陣、心を切り替える時間は少なかったが、それでも俺は何とか意識を戦いのそれに作り変えて間桐邸を出た。
  表向きは自動車が間桐邸に突っ込んできて、運転者は逃げたことにする。
  人の目が集まってくる前に俺たちは透明化の魔法『バニシュ』で余人には見えない触れられもしないブラックジャック号へ飛び乗った。
  移動しながら俺は考える。
  俺達がブラックジャック号に乗り込める過程で間違いなく人が死んだ―――。ティナから話に聞くだけで実感はまるで無いけど、俺はそれを事実としてのみ受け入れる。ああ、そうなんだと―――人はこんなにも簡単に死んでしまうのだと理解した。
  間接的に関わっておきながら、人の死に何の感慨も湧かない。敵であっても死を悼まないのは異常の部類に入り、もしかしたら俺は間桐雁夜として魔術師の家系に生まれた時から人として狂っていたのかもしれない。
  聖杯戦争。戦争。殺し合い。自分が死なない為には相手を殺すしかない、けれど参加者ではなく監視のために冬木市に散らばっている聖堂教会のスタッフなら殺さずに済む方法があったかもしれない。
  そんな些細な疑問すら俺は考えなかった。
  ただ受け入れた。
  殺し合いの結果を事実として受け入れた。
  桜ちゃんにはこんな俺みたいな死を悼まない人でなしになって欲しくないと思いながら、俺自身がそれを実現できていない。簡単に人の死を受け入れる奴が『命を大事にしろ』なんて言っても、説得力は欠片もない。
  俺は桜ちゃんを救う。そう決めたけど、俺みたいな奴が傍にいると桜ちゃんにとって害悪になるんじゃないだろうか?
  そんな風に考えたせいだろうか。俺はこの頃桜ちゃんの傍に近付いていない。数メートル程度の距離を常に保ったままでいる。
  聖杯戦争が始まる前はもっと縮まっていた筈の距離が今は遠く感じる。お前はこんなにも桜ちゃんと違う―――、そう俺が俺自身に言って近付かせないようにしている気がした。
  とにかく俺達はほぼ全員でブラックジャック号に移動して、冬木市の上空でいつでも敵に攻撃を仕掛けられるように準備を整えた。
  以前は聖堂教会のスタッフが冬木市上空を旋回する飛空艇ブラックジャック号を探していたのは知ってたので、空飛ぶ拠点としての利用を控えていた。
  だがティナの魔法『メルトン』で監視する人間の大部分が消滅した。郊外に移動してしまえばより発見され難いので、こうして堂々と遮蔽物の無い上空に滞留出来る。
  そうした戦闘準備が整った時。ゴゴが―――正確にはロックになってるゴゴが唐突に言いだした。
  「ババ抜きでもやるか」
  あまりにも唐突すぎて、何を言ったのか理解するまでに少し時間がかかった。
  俺達が集まっているブラックジャック号の大ホールにはカジノにある半円型のテーブルがあって、トランプもそこに置かれてる。ルーレット台もあるから、ゲームをする事そのものはおかしくない。
  けれど、戦う為に間桐邸から出たこのタイミングで切り出す話しじゃないと思う。
  ほんの一瞬、ロックが狂ったんじゃないかとすら思ってしまった。
  俺は咄嗟に『そんな事してる時じゃないだろ!』と怒鳴りそうになったんだが、それを言う前に賛同者があちこちから続々と現れる。
  「まだ時間もあるわ・・・・・・。やりましょう」
  最初にティナがそう言った。
  「俺が力だけの男じゃないって教えてやるか。いいぜ、乗った」
  続いてマッシュが加わり。
  「大貧民じゃ桜ちゃんにはまだ難しいし丁度いいわね」
  最後にセリスも反対せず、呆気なくババ抜きをやる事になってしまった。
  ブラックジャック号にはもう一人エドガーが乗ってるんだが、彼は飛空艇の操縦の為に甲板にいるのでここにはいない。
  俺達の状況を少し考えれば誰にでも判る事なんだが、発起人のロックも賛成した全員も変身して姿を変えているが、その本性はゴゴだ。
  つまり元が一人なんだから誰かが言いだしたら、他の全員も間違いなくそれを肯定する。
  それでも見た目は全員が全員別々の他人なので、俺一人が反対しても数の差は四対一。分が悪い。
  桜ちゃんの方を見るといきなりの申し出に驚いていたけど、断る雰囲気じゃなかった。むしろ楽しみにすらしている様にすら見える。
  あっという間にエドガーを除いた全員が半円型のテーブルを取り囲み、置いてあったトランプでババ抜きをする事になった。
  桜ちゃんがディーラーが立つ場所。半円型のテーブルの直線部分にいる理由は、ミシディアうさぎ達が桜ちゃんの周りを取り囲んでいるからだ。
  足元から『むぐむぐ』と応援のような鳴き声を上げるのは当たり前、時にテーブルに乗って横から桜ちゃんのカードを覗き込んで様子を伺うミシディアうさぎ達。
  ババ抜きが始まってから全く動かずに桜ちゃんの膝の上に居続けるゼロを除けば、ミシディアうさぎ達の動きは止まらずに鬱陶しい。テーブルが湾曲している部分にいるとババ抜きの邪魔になるので、仕方なく桜ちゃんが直線部分の個所にある椅子に腰かけるしかなかった。
  そんな桜ちゃんの右側から六枚のトランプが扇形に広がった状態で伸びてくる。俺から見て左側、桜ちゃんから見ると右側にいるマッシュの手だ。
  そこにあるトランプに桜ちゃんは手を伸ばし、右へ左へ行ったり来たり。桜ちゃんが持ってるカードと同じ数字を引き当てようと真剣な表情でカードの裏地を見つめている。
  十秒ほど思い悩み、一番右端の一枚を引いて自分の顔の前に持っていく桜ちゃん。次の瞬間、両目が大きく見開かれて肩を落とした。
  ああ、あれはババを引いた顔だ。
  「よっしゃ、ジョーカーが行ったぜ」
  一年前は絶望だけしかなかった表情が今ではコロコロと変わる。とても子供らしいその様子に微笑ましさを感じると同時に、大人げなく言わなくてもいい事を喧伝するマッシュに怒りが湧いた。
  ただし、俺が何かをする必要はない。
  「むぐっ!」
  「むぐむぐ~!」
  「むぐー」
  桜ちゃんの悲しみを振り払うように、ゼロを省いたミシディアうさぎの群れが一斉にマッシュに突進したからだ。
  一匹はマッシュの頭に体当たりをして、一匹はマッシュの右ふくらはぎの辺りを噛みつきに行って、一匹は背後に回り込んで帽子のとがった部分で背中を突いた。他にも色々な攻撃方法でミシディアうさぎ達はマッシュを攻撃する。
  見間違いでなければ頭にぶつかりに行ったのは『4』のテトラで、噛んだのは『7』のナナだ。
  「ぬお! 手前ら、何しやがる! 痛っ、いてっ! 蹴るな、かじるな、ひっかくな、体当たりするな」
  少し怒るように言うマッシュだが、ミシディアうさぎ達程度の攻撃ではかすり傷一つ負わせられないと知っている。
  あれは痛がっている振りだ。そして桜ちゃんの気を紛らわせて、場を和ますための演技だ。
  そこで俺はロックがどうしていきなりババ抜きなんてやろうと言いだしたのか。その理由の一端が判った気がした。
  士郎の暴挙とその罪を自覚させるために行った蟲蔵での拷問。実際には士郎が頭の中だけで体験した体には実害を及ぼさない精神的な拷問だったらしいが、それを見た桜ちゃんは自分が言った言葉で誰かが助かるのと傷つくのを知った。
  桜ちゃんが言わなければ士郎を含めた子供たちは誰も助からなかった。
  でも桜ちゃんが助けてと言ったから、士郎は助かった上で精神的な拷問を受ける羽目になった。
  もっといいやり方があった筈。
  もっと別のやり方があった筈。
  桜ちゃんは何も言わなかったが、自分を責めているのが俺には判った。ゴゴが変身した他の皆もそれが判っていた。そしてブラックジャック号に移動すると決めた時から、誰もが戦いを―――これまでにない大きな戦いを感じ取った。
  桜ちゃんは何も言わずについて来たけど、多分、戦いが近い事を悟っている。
  こうして楽しめる時間が残り僅か何だと判っている。
  もしかしたらその先に誰かとの別れがあるのかもしれないと・・・不安を感じてる。
  だから気を紛らわすためにババ抜きが行われ、マッシュもミシディアうさぎも大げさなリアクションをしているんだ。
  「こいつは真剣勝負なんだぜ? 悔しかったらロックにジョーカーを引かせるよう念じてろ」
  「むぐ~・・・」
  ミシディアうさぎ達も桜ちゃんを気遣ってか、いつも以上に大きく泣き声を発する。
  「大丈夫、負けないから」
  落ち込んだ表情から一転、桜ちゃんは強気な言葉と一緒に毅然とした態度でもっているトランプを扇状に広げて左側へと差し出した。
  そこにはババ抜きをしようと言いだした張本人のロックがいる。
  ロックは桜ちゃんと同じようにトランプに手を伸ばすと、手を右へ左へと動かした。桜ちゃんの真似をしているように見えるが、決定的に違うのは桜ちゃんはトランプの裏を見ていたのに対して、ロックの目は桜ちゃんの顔を見つめている点。
  手が動き、指がトランプを掴もうとする時、ほんの微かだが桜ちゃんの表情が動く。ロックはその微妙な表情の変化からどれがジョーカーか見極めてるようだ。
  やはりこいつらは大人げない・・・。十歳にも達してない桜ちゃん相手に本気でババ抜きをしている。
  「大人げないわよ、ロック」
  「・・・・・・いや。トレジャーハンターとして外れを引くのはどうもな」
  横に座るセリスがたしなめるが、ロックはジョーカーの在り処を探るのを止めない。桜ちゃんと同じ位の時間をかけて、じっくりとジョーカーの位置を探った。
  遂にロックの手が桜ちゃんの持つトランプに伸びる、桜ちゃんがほんの少しだけ落胆する顔が見えたから『ああ、あれはジョーカーじゃないんだな』と思える一枚を引いた正にその時。


  「!!!!!!」


  トランプを引いたロックが、隣にいるセリスが、笑っていたマッシュが、微笑みながら桜ちゃんを眺めていたティナが、俺と桜ちゃんを除く全員が―――両目を大きく開いて壁を見つめた。
  一息遅れてブラックジャック号がぐらりと揺れ、ほんの一瞬だったが斜めになって床を滑り落ちそうになる。
  甲板でブラックジャック号を操縦しているエドガーに何か合ったのか? それとも誰かが攻撃を仕掛けてきたのか? ありえそうな可能性を思い描きながら、俺は背中にあるアジャスタケースに手を伸ばしていつでも戦えるように準備を整える。
  何が起こる?
  いや、何が起こった?
  ブラックジャック号はすぐに水平に戻ったが、確実に何かがあった。
  「何が合ったんだ?」
  思いをそのまま言葉にするとティナがこっちに振り返る。彼ら全員が向いていた方向にはブラックジャック号の壁しかなかったから、俺にはこいつらが何を見て何を驚いて何を警戒してるのかが判らない。
  もし俺がブラックジャック号の外すら見通せる位の直感を身につけたら、彼らと同じモノを見れるんだろうか?
  「困った事態が起こったわ」
  ティナがそう言う。
  彼女はブラックジャック号に移動する間に回復を済ませたから間桐邸で見た火傷の跡は一つも残ってない。凛とした雰囲気から溢れだす空気は間違いなく戦いに向けたそれで、告げられた言葉と合わせればゴゴですら手を焼く異変が起こってると判る。
  神と謳われてもおかしくないゴゴが『困った』という事態。見えなくてもとてつもない厄介な騒動が近づいてると思い知り、俺は思わず唾を呑み込んだ。
  「困った事態?」
  「ええ・・・、少し離れて話しましょう」
  桜ちゃんに聞かせられない事のようで、ティナは椅子から立ち上がって壁際を指さす。
  あそこで話すつもりらしい。
  「それじゃあ大人げないロック、後はよろしくね」
  「はぁっ!?」
  壁際に移動する途中、ティナは持っていた全てのカードをロックの手の中にあるトランプへ差し込んでしまう。
  よく見ると、ロックもセリスもマッシュもどこかを睨みつけていた状態からババ抜きの体勢に戻っていた。よく判らずにオロオロしてるのは俺と桜ちゃんだけだ。
  ミシディアうさぎ達ですら、『さあ、ゲームを続けよう』と言わんばかりの態度でむぐむぐ鳴いている。
  いきなり手持ちのカードが倍以上になったロックは口を『あ』の形にしたまま遠ざかるティナの背中を見ていた。
  俺は何となく手持ちのトランプを誰かに押し付けるのが正しく思えて、ティナと全く同じことをやった。ただし相手はロックじゃなくて桜ちゃんにジョーカーを押し付けたマッシュだ。
  「それじゃあ――後は頼む」
  「お、おい。俺もかよ!?」
  話をするのにトランプは不要、でも戦いの前の緊張を和らげる前に始めたババ抜きは続行するなら、誰かにトランプを渡さなければならない。
  俺は自分で自分を説得しながら、背中に突き刺さるマッシュの視線を無視してティナの後を追った。
  「丁度いいハンデじゃない」
  「セリスは被害が無いからいいよな・・・」
  「しょうがねえ。何枚か被ってるからよしとするか」
  「あの・・・・・・ごめんなさい」
  「いいのよ桜ちゃん。責めるならあっちの二人だから」
  「実害の無いセリスが言うな!」
  後ろから話し声が聞こえてくるけど無視。十メートルほど離れた位置で壁に背中を預けてたティナの隣に並び立つ。
  半回転して同じように壁に背中を預けると六人から四人になってババ抜きを続けてる桜ちゃんたちの姿が見えた。
  「・・・・・・で。何が合ったんだ?」
  「私達の仲間がドイツのアインツベルンに行ってるのは知ってるよね?」
  「ああ――」
  「そこでアインツベルンが作り出した『聖杯の器』を見つけたの。今、冬木に来てるアイリスフィールさんが持ってる『聖杯の器』とは別の物よ」
  「物真似した、か?」
  「そうよ」
  ゴゴは隙あらば色々な事を物真似しようとする生粋のものまね士だ。宝具ですら物真似するので、この聖杯戦争の核とも言える『聖杯の器』が目の前にあれば物真似しようとするのは当然だ。
  見ただけで魔術的な要素を持つ品を物真似できる感覚が俺にはさっぱり理解できないが、新しい何かがあれば物真似しようとするゴゴの性質はよく知ってる。
  始まりの御三家の一つ、アインツベルンだけが作り出してきた『聖杯の器』を易々と物真似して作り出すのは驚愕に値するが、ゴゴを知ってる俺が驚く事じゃない。
  「この聖杯戦争の賞品になってる『聖杯』が汚染されている話を前にしたの覚えてる?」
  「魔術師たちが必死になって探してる『聖杯』がもう無くなってるなんて信じられなかったからな、よく覚えてる」
  ついでだが、俺にとって聖杯戦争は聖杯を手に入れる為の戦いではなく『桜ちゃんを救う』為の戦いなので、全てのサーヴァントを倒して手に入れる『聖杯』にはまるで興味が無い。
  マスターとサーヴァント達がこの話を聞いたら絶望するか否定するかなんだろうが、俺にとってはどうでもいい話だ。
  「汚染されていても『聖杯の器』そのものが魔術的にとても価値のある品である事に変わりは無いわ。だからあっちのゴゴが物真似するのは当然なの」
  「それは、まあ・・・そうだな」
  「聖杯降臨に必要なのはサーヴァント七騎分の膨大な魔力。それを受け止める器。そして聖杯の召喚場所に相応しいだけの霊格を備えた場所。この三つよ。冬木には場所が四つもあるんだけど、聖杯降臨の儀式を執り行うのに相応しい場所は別にこの四か所である必要はないの。いいえ、魔力と器さえあれば冬木である必要すらないわ」
  「そうなのか?」
  俺はこれまで『聖杯』に全く興味が無かったから、その辺りの話はゴゴから詳しく聞いてなかった。初めて聞かされる話に思わず問い返してしまう。
  するとティナは小さく頷いて肯定を示す。
  「ただし魔法に匹敵する大魔術を執り行える場所はそう多くは無いの。冬木は日本でも有数の霊地だから四か所も該当する場所があるけど、他の場所じゃ該当する場所は極端に減ってしまう。世界中でもそんなに数は無いと思うわ」
  「・・・・・・」
  「だから『器』と『魔力』が揃っただけじゃ聖杯は降臨しない。そんな甘えがあったのかもしれない――」
  ティナはそこで一旦口を閉ざす。
  ほんの数秒だったが、話は途切れ沈黙だけがあった。
  「ゴゴが見つけた『聖杯の器』はアインツベルンが作った幼い女の子だった――。桜ちゃんよりもっとずっと幼い女の子が人として機能しながら『聖杯の器』としても機能してた。だからゴゴは物真似の代価としてその子の願いを叶えようとした」
  「・・・『聖杯の器』が女の子?」
  「そう。セイバーに同行しているアイリスフィールさんは『聖杯の器』を体の中に封印して、次の『聖杯の器』はその女の子そのもの・・・。アインツベルンが聖杯にかける執念がよく判るわ。そうまでして他のマスターに聖杯を奪われたくないのね」
  「・・・・・・」
  「その女の子の両親は冬木にやって来た『アイリスフィール・フォン・アインツベルン』と『衛宮切嗣』よ。二人に会いたいとその子は願った、だからゴゴはブラックジャック号を使わずに『デジョン』を使ってその子を冬木に連れてきた。急がないと二人とも死んでしまうから・・・。その途中で『器』と『魔力』を揃えたゴゴはどうなるか試そうと『聖杯の器』に自分の魔力を注ぎ込んだの」
  「まさか――」
  「ええ。聖杯は現れたわ、しかも汚染された状態の物が」
  本当なら俺のバーサーカーを含めて全てのサーヴァントが消滅した後に現れる聖杯。
  そうなるべき時系列がゴゴによって崩され聖杯は現れてしまった。それは確かに面倒な事態になりそうな材料だ。
  「でもそれはいいの。『デジョン』の移動の最中で、降臨場所は次元の狭間の中。害を成せる者も物も何もないから悪さのしようがないのよ」
  「はぁぁっ!?」
  てっきり聖杯が現れてしまった事が異常だと思ってたが、続けられた言葉に呆けてしまう。咄嗟に出た大声に驚いて桜ちゃんがこっちを見た。
  何でもない、何でもないよ桜ちゃん。
  じゃあ一体ティナ達は何を警戒した? 何を困った事態だと言ってるんだ?
  「魔力で作られた『聖杯』は濁流のように汚染を撒き散らしたわ。それは内側からゴゴの体の中にどんどんと広がって、ゴゴの全てを飲み干そうとした。ゴゴはその汚染―――聖杯の泥とでも言えばいいのかしら。それも物真似しようとして黙ってそれを受け入れ続けたの」
  「・・・・・・・・・それで?」
 「汚染された『聖杯』は触れるモノ全てが悪である事を望んで、ゴゴはそれを物真似した。その結果――二つは結びついて独立した一つの存在になったの。私達まで汚染される前に妄想幻像ザバーニーヤを解除したから私達は大丈夫だけど、あっちのゴゴはもうゴゴだけどゴゴじゃない・・・別のモノに変わってしまったわ」
  重苦しさの中でティナが言う。


  「三闘神の力を我が物として世界を支配しようとした魔道士・・・。私達の作戦の要になる筈だった男・・・。私達にとって『悪』の象徴・・・。物真似だけど物真似じゃない、ケフカ・パラッツォが――聖杯の力を得て冬木に現れたわ」


  俺はゴゴが旅した世界を体験ではなく話でしか聞いた事が無い。だから実際にその強さや道理に外れた振舞いを話以上には知らない。
  けれど―――全体から見ればほんの一部分かもしれないが、俺が一年間まるで歯が立たなかった相手が敵に回る。英霊とも互角に戦う奴が敵になる。そう考えるだけで、この困難な状況が嫌になるほど理解できた。
  間桐邸でほんの少しだけ見せられたピエロのような格好をしたケフカ・パラッツォ。そいつが聖杯の力とゴゴの力をもって俺達の前に立ち塞がる。
  勝てるのか? 俺はまずそう考えた。



[31538] 第35話 『アーチャーはあちこちで戦いを始める』
Name: マンガ男◆da666e53 ID:ee7f476f
Date: 2014/01/20 02:13
  第35話 『アーチャーはあちこちで戦いを始める』



  ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆



  Side - ゴゴ





  死ね、死ね、死ね。
  叩け、砕け。
  憤死、頓死、老死。
  革命、粉砕。
  死ね、死ね、死ね、死ね。
  腹上死、衰弱死、過労死。
  分解、圧砕。
  死ね、死ね。
  枯死、病死、焼死。
  殺せ、壊せ。
  死ね、死ね、死ね。
  打倒、制圧。
  爆死、悶死、溺死。
  死ね、死ね、死ね、死ね。
  獄死、戦死、壊死。
  破棄、爆破。
  死ね、死ね。
  敗れ、破れ。
  怪死、変死、脳死。
  破損、故障。
  死ね、死ね、死ね、死ね。
  崩せ、割れ。
  孤独死、突然死、自然死。
  死ね、死ね、死ね。
  廃棄、崩壊。
  即死、急死、圧死。
  死ね、死ね。
  潰せ、葬れ。
  轢死、餓死、毒死。
  破滅、解体。
  死ね、死ね、死ね。
  滅ぼせ、亡ぼせ。





  死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね。





  者と物。有機物と無機物。言葉によって違いはあっても、それらに対する意識は一つに集約されていた。
  『破壊』―――、今はケフカ・パラッツォとなってしまったゴゴの一部はその単語一つで完結している。
  壊して、殺して、消して、亡くして。物体は言うに及ばず、命も事象もありとあらゆるモノを壊し尽くしてもまだ足りない破壊への衝動。ほんの一瞬ものまね士ゴゴの意識を共有しようと意識をそちらに向ければ、返ってくるのは逆流と呼ぶに相応しい呪いだ。
  ものまね士ゴゴが『桜ちゃんを救う』という間桐雁夜の物真似を続行するならば、ケフカとの意識共有は危険すぎる。もし仮に全ての破壊衝動を理解する為にケフカと繋がり続ければ、『桜ちゃんが関われないように聖杯戦争を壊そう』と決めていた思いが『死ねば苦しみは無い、だから桜ちゃんを救うために殺そう』と全く異なる結論を導き出しても不思議はない。ただしそれもまた別の形での救いではあるが。
  辛うじてか細い糸がゴゴとケフカを繋いでいるが、それは意識の共有などと到底言えない。『相手に何が起こっているか辛うじてわかる』、その程度だ。
  望んで手に入れた聖杯ではあるが、少々この世界の魔術を侮っていた。
 宝具ですらゴゴにとっては物真似できる範疇に収まり、尊敬と畏怖を感じたライダーの『王の軍勢アイオニオン・ヘタイロイ』ですら諦めずに物真似する方法を模索し続ける対象に収まっている。
  一度だけゴゴの前に現れた『抑止力』ですら戦う敵に過ぎなかったが、まさかものまね士としての存在そのものを脅かす存在がいるとは思わなかった。
  物真似して手に入れたイリヤスフィール・フォン・アインツベルンの聖杯の器、つまり小聖杯と膨大な魔力が混合しなければ発動しないので、単なる魔術術式としての小聖杯は既に手に入れている状態だ。けれど、小聖杯に莫大な魔力を注ぎ込んで稼働させてしまえば、敵はゴゴを喰らいにくる。
  混ぜるな危険とはよく言ったものだ。
  聖杯の中にいたモノによってゴゴは汚染され、ものまね士としての在り方を変質させられた。
  この世界に来てからゴゴに敵は無かった。英霊と言えど倒せない敵ではなかった。敵なし、故に無敵―――そんな思惑に慢心が付きまとったのだろう、物真似への真摯な気持ちを百から九十九ほどに薄めていた。そうでなければこんな事態には陥らなかった。
  ゴゴは自分を戒める。
  ただし今の状況は最悪ではないとも考えていた。
  七人のマスターと七騎のサーヴァントを上回る敵が現れたのは紛れもない事実だが、元々ケフカとは戦う予定だったのだ。むしろ人が考える『悪』を一つの形にできたので、ゴゴの制御を離れて暴走しているケフカを倒すことは今まで考えていた演劇よりもっと正しい。
  これは正しく『正義』と呼ぶべき行いだ。
  何より、あれは聖杯の中にいてこれまで眠っていたモノに汚染されているが、物真似そのものを止めた訳ではない。
  ただほんの少しだけ形を変えて、森羅万象の物真似一辺倒から破壊の物真似一辺倒になってしまっただけだ。ケフカの姿をしているが、あれはものまね士ゴゴなのだ。か細く繋がった無意識の中の糸のような共有がその証拠である。
  おそらくゴゴとケフカの間に繋がった糸はそう遠くない内に千切れ、向こうは完全に『ケフカ・パラッツォ』として存在を固定するが、それまでは物真似をし続けている。
  もちろん気を抜こうものならそのか細い糸を手繰ってゴゴを汚染しようとするので、物真似の精度は限りなくゼロに近いが。
  ゴゴにとっての最悪とは物真似が出来なくなる事、自分が何者であるかの探求を止められる事だ。
  ゴゴの中に戻った三闘神の力をもう一度取り込み直し、その上この世界の魔術の中でもゴゴの意識すら侵食する『汚染された聖杯』の力すら取り込んだケフカは強敵だ。
  けれど厄介ではあるが最悪ではない。
  ケフカが冬木に現れた時は予想外の出来事に狼狽したが、すぐに心を落ち着かせる。
  もっとも、今この瞬間にケフカが冬木どころかこの世界そのものを破壊しようとしてもおかしくないので、時間的余裕はあまりないが・・・。
  「ねえ、雁夜」
  「何だ?」
  だからこそゴゴは―――飛空艇ブラックジャック号の壁に背を預けて雁夜に事情を説明していたティナは語るべき言葉を口にする事にした。
  「今すぐ戦いが始まってもおかしくないの。だから・・・・・・桜ちゃんと落ち着いて話せるチャンスは少ないわ、話すなら今よ」
  「・・・・・・・・・」
  間桐邸から出陣した時から時間が無い事は判っていた。それでも尚、桜ちゃんが少しでも楽しめる時間が生まれたら、それを長引かせたいと思うのは雁夜の―――そして雁夜の物真似をしているゴゴの性と言える。
  けれど楽しい時間はあっという間に過ぎ去り、直面すべき問題は常にどこかで待ち構えている。それは決して逃れられない間桐と遠坂の業だ。
  雁夜と桜ちゃんに纏わりつく魔術師の業と言い換えてもいい。
  「訊かなきゃいけない時が来た、ってことか・・・」
  「そうよ、そしてこれは貴方がやらなきゃいけないの――」
  魔剣ラグナロクが入ったアジャスタケースが雁夜と飛空艇ブラックジャック号の壁の間に隙間を作っていたので、ティナはそこで言葉を区切って隣にいた雁夜の背中へと手を置いた。
  壁に背中を預けていたのでむしろ滑り込ませたと言うべきかもしれないが、とにかくティナの手がゆっくりと雁夜を前に促す。
  事情を話すように雁夜を前へと追いやると、雁夜は最初こそ迷いを表すようにティナの手に体重を預けていたが、すぐに自分がすべき事を思い出したかのように前へと踏み出す。合わせて、ティナの手にかかる体重がどんどん軽くなっていった。
  一歩、また一歩。雁夜が前に出る。
  するとティナと雁夜の話が終わるのを待っていた様に、桜ちゃんがやっていたババ抜きも一段落した。
  結局、大人げないロックが最後まで桜ちゃんの持っていたババを引かずにゲームを進めたようで、肩を落とす桜ちゃんの姿と恨みがましくロックを見つめるミシディアうさぎ達が見える。
  ババ抜きが終わってしまった輪の中に雁夜が戻っていって、それに合わせてロックが席を立つ。大人げなく桜ちゃんに勝ってしまった後ろめたさから逃げたようにも見えるが、実際は雁夜と桜ちゃんの話しを邪魔してはならないと配慮したからだ。
  それを証明する様にセリスもマッシュもロックの後を追って席を立つ。桜ちゃんの所へと向かう雁夜とすれ違いざま『頑張れよ』『しっかりね』と声をかけ歩いていけば、残る人間は雁夜と桜ちゃんだけだった。
  もっとも、桜ちゃんの周囲は相変わらずミシディアうさぎの群れで埋まっているので、人は二人だけでも生き物は十以上いるが。
  「桜ちゃん・・・、ちょっといいかな」
  「・・・・・・・・・うん」
  聞き耳を立てる趣味はゴゴには無いのだが、ものまね士としての性質がどうしてもありとあらゆる事象を解読して自らのモノにしようとしてしまう。
  ティナもロックもセリスもマッシュも、カジノフロアの壁際へと移動して二人から距離を取ったのだが、言葉にされる雁夜の想いと桜ちゃんの気持ちを知りたくてゴゴをその場に留まらせる。
  ブラックジャック号の操縦の為にここにはいないエドガーを除いて、誰一人としてこの場から立ち去ろうとはしなかった。
  ただ黙って二人の様子を眺める。
  「もうすぐ俺達は聖杯戦争に――、戦いに出なきゃいけないんだけど・・・。そこで多分、遠坂時臣とも会う。いや、ほぼ確実に奴と戦う事になると思う」
  「お父様と?」
  「ああ・・・」
  雁夜はそこで言葉を区切るが、話を終わらせても何の意味もないのは雁夜自身が一番よく判ってる。
  遠坂時臣と戦わなければならないのはゴゴが間桐邸に現れる以前から決まっていた。雁夜自身がそう決めていた。ただ、桜ちゃんに対してそれを言葉にするのを恐れていただけだ。
  雁夜は数秒間黙っていたが、話を再開した。
  「正直、俺は遠坂時臣が許せない。桜ちゃんをあんな蟲爺の所にやって、あんな酷い思いをさせて――。あいつはのうのうと遠坂の当主として今も冬木に君臨してる。俺はそれが許せないんだ」
  ゴゴは他の誰よりも遠坂時臣の同行を把握しているので、雁夜が言うほど恵まれた状況にはいない事を知っている。
  間桐邸への襲撃があったように遠坂邸にも襲撃が合った。その結果、遠坂時臣は悲惨な目に追いやられた。
  ここでそれを告げても良かったのだが、二人の話しに割り込むのは気が引けたのでゴゴは黙っていた。
  「聖杯戦争のマスター同士、出会えば戦うのは必然だ。はっきり言って俺は遠坂時臣を殺したくて殺したくてたまらないんだ。俺はあいつが許せないんだよ、桜ちゃん・・・」
  「待って――!!」
  そこで桜ちゃんが今までにない大声を出す。
  感情の全てを言葉にするような、桜ちゃんらしからぬ力強い言葉だった。
  「待って・・・、雁夜おじさん・・・」
  桜ちゃんはそう言うと、椅子から立ち上がってテーブルの反対側に座る雁夜の元へと向かう。いきなり立ち上がった衝撃でミシディアうさぎが何匹かコロコロと床の上を転がったが、桜ちゃんは全く気にせずに進む。
  そして雁夜の元に辿り着くと、雁夜の右前腕を両手で握り締める。
  その姿は戦いの為に剣を握る雁夜の手を抑え込んでいる様だった。
  「雁夜、おじさん・・・・・・、私――」
  この一年で片時も休まずに自らを鍛え続けた雁夜と子供の桜ちゃんの腕力では拮抗すら無く雁夜に軍配があがる。やろうと思えば雁夜は桜ちゃんが押し留めようとする力を一瞬で振りほどける。
  だが雁夜はそれをしない。黙って桜ちゃんの言葉に耳を傾けていた。
  「お父様に・・・・・・、お母様に・・・・・・。聞きたいの・・・」
  桜ちゃんは言う。
  思いを言葉にして雁夜にぶつけていく。
  「どうして私は、間桐に―――、どうして、あんなひどい所に―――。どうして、どうして・・・お父様とお母様は・・・」
  桜ちゃんは全身で言っていた。殺さないで、と。
  そしてこうも言っていた。戦わないで、と。
  もしかしたらその願いが決して叶わないと知っているかもしれないが、それでも桜ちゃんは言葉と動きで雁夜をその場に抑え込もうとする。
  雁夜は遠坂時臣への憎悪で顔を憎しみ一色の表情に染めていたが、桜ちゃんの言葉を聞いている内に徐々に穏やかな表情に戻っていく。
  そして憎しみを出来るだけ消し去って桜ちゃんに告げる。
  「判った・・・。判ったよ桜ちゃん」
  右前腕に置かれた桜ちゃんの両手を更に上から左手で覆い。大丈夫、俺はもう落ち着いてる、そう言わんばかりに優しく語りかけた。
  「二人に聞こう。『どうして桜ちゃんを間桐の養子に出したんだ?』、そう聞こう。時臣に、葵さんに・・・・・・聞こう」
  雁夜は椅子から立ち上がり、今にも泣きだしそうな桜ちゃんの体を抱きしめた。
  優しい抱擁と共に、ポン、ポン、と桜ちゃんの体を軽く叩く。
  「雁夜おじさん・・・」
  「桜ちゃん――」
  互いに名を呼んでいると、桜ちゃんの目から一筋の涙が流れ落ちて雁夜のパーカーを濡らした。





 ゴゴは『妄想幻像ザバーニーヤ』と『己が栄光の為でなくフォー・サムワンズ・グロウリー』の二つの宝具を同時に使って、物真似の精度を格段に跳ね上げた。
  本質はものまね士ゴゴから変わらないとしても、表向きに演じる誰かの様子は紛れもなくゴゴとは別人だと断言できる。
  ティナは、ロックは、セリスは、マッシュは、エドガーは。
  カイエンは、ストラゴスは、リルムは。
  セッツァーは、モグは、ガウは、ウーマロは。
  誰もかれもがゴゴとは別人としてここにいる。
  だからこそ桜ちゃんには未来に向けた選択肢が幾つもあった。
  この一年の間に間桐邸で続けた生活を続行するか、それとも聖杯戦争を切っ掛けにして新しい生活を構築するか。あるいはもっと別の何かか。
  遠坂桜がどんな望む形を望むにせよ、間桐邸にそれを作り出すことは難しい事ではない。
  だがそれを『遠坂時臣と遠坂葵に尋ねたい』と結論を出してしまった今の桜ちゃんに尋ねるのは酷と言える。
  遠坂時臣と遠坂葵が桜ちゃんにどんな言葉を聞かせるかはまだ判らない。選択肢の中には『桜ちゃんは遠坂の家に戻る』も間違いなく存在するのだから、ここで答えを間桐邸にのみ縛るのは一方的な押しつけに近い。
  望み、願い、決めるのは桜ちゃんだ。救うと決めたのは雁夜であり、それを物真似しようと決めたのはゴゴだ。ならば、桜ちゃんが聞きたがっている両親の言葉を聞いた後でも『どうしたいか』を尋ねるのは遅くはない。
  ゴゴが考えたことを間違いなく雁夜も考えたはず。だからこそか、話す機会は少ないと分かっている筈なのに雁夜は抱擁以上に言葉での追究はしなかった。
  本当なら今この段階で桜ちゃんが聖杯戦争後にどんな生活を望んでいるかまでとりあえずの結論は出してほしかったが、出せない答えを求めても心から望むモノとは別の言葉になってしまう。
  「今は仕方ないわね・・・」
  他の誰でもよかったのだが、雁夜と桜ちゃんと相対する時にはどうしてもティナの意識が前面に押し出される。一年間共に過ごしたものまね士ゴゴがここに居ない場合、独り言を呟くのはティナの意識だった。
  状況は何も変わっていない。ただ自分達が何をしようとするかを再確認しただけで、好転も暗転もない。
  ただほんの少しだけ事態は進展し、桜ちゃんが自分の思いを言葉にして雁夜に小さな反抗を示してくれた。
  アインツベルンの森でのキャスターと雁夜との攻防。加えて士郎への懲罰をその目で見ているのだから、全てを理解していないとしても聖杯戦争が危険な行いだと判っている筈。
  その上で、遠坂時臣と遠坂葵の両名と話をしたいと言えるのは間違いなく成長の証だ。大人から見れば微々たる進歩かもしれないが、桜ちゃんは少しずつ少しずつ前に進んでる。
  ティナはそう思いつつ、涙を流しながら雁夜にしがみ付く桜ちゃんを見た。



  ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆



  Side - アイリスフィール・フォン・アインツベルン





  私は今ほど『夫の事を全て判っている』という自負が幻だったんだと実感した時は無い。
  九年を共に過ごした夫。娘と一緒に過ごした衛宮切嗣の事は何でも知っている。そう思っていたけれど、聖杯戦争がはじまって、舞弥さんが現れてからその確信が少しずつ薄れていった。
  そしてランサーとの戦いで私が切嗣を何でも知ってる気になっていただけなんだって知ってしまった。
  確かに私達が戦場の華になって切嗣が無防備になったマスターを倒す方針はドイツにいた時からもう決まってた。私もそのやり方に異論は無かったし、切嗣の役に立てるなら危険を承知で敵の目が私に向かうのも覚悟してた。
  でも切嗣のやり方は私が想像していたよりもっと悪辣だった。私が想像していたよりずっと無慈悲だった。
  セイバーはマスターを含めたランサー陣営を全て倒した。結果は間違いなくあるのだけれど、その過程で舞弥さんが死に、私もセイバーも切嗣のやり方に今まで以上の疑念を抱いた。それは確か。
  彼は何も言わなかった。
  反論も説明も何もなく、ただ私達の結果だけを聞いてから電話を切ってしまい。それからは何の応答もない。
  私が何度電話しても彼は出てくれない。
  もしかしたら敵に追われてたりして電話に出られない理由があるのかもしれないけど、それならそう言ってほしい。
  私からランサーとの戦いの結果を聞ける時間があるなら、電話で話せない理由を言える時間だってある筈。手が離せないから―――そんなありきたりな理由じゃなく、何故、手が離せないのか言える筈。
  でも切嗣は何も言ってくれない。
  私は切嗣が出ない電話を鳴らし続け、セイバーはランサーとの戦いで大きな遺恨を残しながらも、いつまでも敵陣の近くに居てはまずいと武家屋敷へと車を走らせた。
  私は何度も何度も電話をかけて、メルセデス・ベンツ300SLが武家屋敷に到着するまで数十回繰り返した。
  舞弥さんの壮絶な最後を思い出さないようにする為にも、何か一つの事に集中したかった。気を抜けばまた吐いてしまいそうだ。
  でも切嗣は電話に出ない。
  出てくれない。
  話してくれない。
  教えてくれない。
  「アイリスフィール、一旦降りて体勢を立て直しましょう」
  「・・・・・・・・・・・・ええ」
  辛うじてセイバーの言葉に反応できて助手席から降りられたけど、切嗣以外の事は頭の中に無かった。


  ねえ切嗣・・・。貴方が私達を裏切らない保証はあるの?


  聖杯が降臨すれば私はこの世界から消えてなくなる。私の意識はアインツベルンが継承してきた聖杯に融合して、娘のイリヤスフィールへと受け継がれていく。
  だから切嗣が聖杯の力で世界を救うなら、私が消える事に不満はない。
  でも今の私は―――切嗣が本当に私の消えた世界を救ってくれるのか自信が持てなかった。聖杯戦争が始まる前、ドイツのアインツベルン城でセイバーと話していた時は合った筈の切嗣への信頼が揺らいでた。
  たとえ電話越しだったとしても、切嗣がちゃんと説明してくれたら私は納得できる。
  それがどんな理不尽で人道に外れた行いだったとしても、彼はちゃんと結果を掴んでくれる。切嗣の声が聞けたらそう思えるのに、彼は何も言ってくれない。
  私は何を信じればいいか判らなくなった。
  セイバーに手を引かれて武家屋敷の中に入った気がするし、彼女の助けを借りて汚れた衣装を着替えた様な気もしたけど、やっぱり私の頭の中は切嗣で一杯。
  ううん。切嗣を信じようとする気持ちと、そうでない気持ちがぶつかり合って、私の頭の中でぐるぐる渦巻いてた。


  ねえ切嗣・・・。貴方は本当に世界を救ってくれるの?


  もし仮に、本当に仮の話で今の状態じゃ絶対に起こらない事だけれど。もし今この瞬間に全てのサーヴァントが消滅して聖杯が降臨したらどうなるの?
  アイリスフィール・フォン・アインツベルンを構築する人としての機能を全て消滅させて、私の中から聖杯が現れ、それが切嗣の手に渡ったらどうなるの?
  ランサーと戦う前の私だったら切嗣の手に聖杯が渡る事実を喜んだと思う。
  でも今は違う。
  考えるのが怖い。私は切嗣が聖杯を掴む未来を恐れてる。
  今でも世界を救う願いが命を賭ける価値ある願いだと思ってる、それは本当。でも切嗣が世界を救ってくれるって、自信を持って言えない。
  あんなやり方を何のためらいもなく行って、しかもそれを他の誰でも無い妻である私にも話してくれない。
  私は何度も何度も同じ答えに辿り着いて、それを打ち消す為に何度も何度も同じ事を自分に言い聞かせてる。


  ネエ、切嗣・・・。貴方ニ、世界ヲ、救エルノ?


  何度も・・・。
  何度も・・・。
  私はボンヤリして、ただ無駄に時間を過ごした。残った敵に対してどう戦うか、切嗣が電話をかけて来た時なんて言うか、このまま聖杯戦争を進めていいのか。そんな事一つも考えない。
  武家屋敷に戻って気が抜けたとかそんな事じゃなくて、切嗣の事以外、何も考えられなかった。
  そんな呆然とした私の全身を不快な寒気が通り過ぎる。意識して励起させていない筈の魔術回路がうずいて、指先がけいれんした様に震えた。
  何事かと思って周囲の空気中のマナを感じ取って見れば、一瞬前まで無かった異常な乱れがあちこちに渦巻いているのが判った。私の魔術回路がそれに同調して私の意思とは無関係に乱れる。
  今までになかったマナの乱れ。何らかの異常な魔力の発生源が合って、それが大気を乱してる。
  敵意あるものじゃなかったから拠点の結界も反応しなかった。でもこんな大規模な呪的波動は儀礼呪法クラスの多重節詠唱、しかも魔術師が数十人集まって初めて実現できる大魔術でしかありえない。
  「セイバー!」
  誰かが何かをしようとしてる。
  呆けていた私は消えて、偽りのマスターとしてセイバーを呼んだ。
  切嗣への恐れをもっと大きな恐怖が打ち消した。
  「はっ!」
  二秒もかからずにセイバーが現れる。さすがに剣と鎧で武装はしていなかったけど、一部の隙もない男装の下からは戦いの覇気に満ちていた。
  切嗣のやり方ではなく騎士としての自分を貫こうとしているみたいに見えるのは私の気のせい?
  「川の方角です。この波動はおそらくキャスターのものでしょう」
  私はこのマナの乱れの原因が間桐に協力する誰かの可能性も考えたのだけれど、魔力感知にかけては戦闘の素人の私よりもセイバーの方が信頼できる。
  そのセイバーがそう言うのなら、原因はキャスターなんでしょう。
  私達は急いで庭に停めてあるメルセデス・ベンツ300SLに乗り込んだ。
  キャスターが何をやろうとしているかは判らないけど、これだけ大規模の異変を起こすならそれに匹敵するほど大きな何かが起こる。
  助手席に乗り込んでセイバーが車のキーを回してエンジンをかけた時、不意にこの事態を切嗣に電話するべきかって考えたけど、何回も何十回もかけても出なかったからすぐに考える事それ自体を止めた。
  あの人は私からの電話に出てくれない。
  私はこの時―――言葉にしきれない何かを諦めた。
  セイバーがハンドルを握った次の瞬間、車が急発進して背中がシートに押し付けられる。
  横目でセイバーを見ながら、私はまた考える。
  セイバーは郊外の森で行われた聖杯問答の時、ブリテンの滅びの運命を変えるって言ったわ。
  でも、もし滅びの運命が変わったとしたら―――。


  貴方の収めたブリテンは、貴方の思い描く世界は、本当に救われるの?


  声には出さなかった。
  でも、私の中には切嗣への、そしてセイバーへの疑心が間違いなく合った。
  切嗣への諦めが切っ掛けになって、色々なことが変わっていく。



  ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆



  Side - ウェイバー・ベルベット





  何がどうしてこうなった? 僕は空気の重さに耐えきれなくなって前とまた同じことを考え始める。
  マッケンジーさんが僕の暗示を解いた上で『今後も孫としてワシ等を騙してくれ』とお願いされたのは驚いたけど、何とかマッケンジー夫妻を説得して別れられた。全部が全部、僕の思った通りの形じゃないけど、とりあえず僕らを狙った攻撃にあの二人が巻き込まれるような事態はもう起こらない。
  ―――と思う。
  サンを預けられなかったのは僕の失態だけど、暗示の弱さと一緒で僕の説得力の未熟さだと受け入れよう。
  だからそれはもういい。肝心なのはそれ以外の事―――合流した途中からカイエンの機嫌が急に悪くなってるんだ。
  今みたいな状況を言葉にした時、一番近いのは『殺気立ってる』だと思う。見た目は何も変わってないように見えるんだけど、鋭い視線と全身から溢れる気迫は傍で感じるとものすごく気まずい。むしろ怖い。
  サンなんてさっきから震えながら僕の足とか腰にしがみ付いてる。あんまり強く引っ付くから太ももがちょっと痛いんだよね。
  最初はセイバーとそのマスターに向けた怒りを今の内から溜め込んでるのかな? って思ったけど、それなら僕らがマッケンジー夫妻と合流する前から殺気立ってる筈。
 でもカイエンがこうなったのは僕たちと合流して、ライダーの神威の車輪ゴルディアス・ホイールで空に舞い上がった後。時期が合わないからセイバー達への怒りじゃないと思う。
  じゃあ聖杯戦争へ向けての意気込みとか? カイエンは元々聖杯が目的で僕たちと一緒に行動してる訳じゃないからそれも違う気がする。
  僕が知らない何かに対して怒ってる? 一番ありえそうな可能性はそれなんだけど、殺気立ってて何か聞ける雰囲気じゃない。
  どうしよう・・・。
  それでまた『何がどうしてこうなった?』に戻って来るんだよね。
  「どうしたカイエン。随分と機嫌が悪いではないか」
  そう言ったのは僕じゃない、御者台の上で手綱を握って前を向いてるライダーだ。
  空気を全然呼んでない言葉なんだけど知りたいのは僕も同じ、何か『聞けば斬る!』って全身で言ってそうなカイエンに僕じゃ声をかけられなかったんだよね。
  いいぞライダー。
  「機嫌が悪く見えたでござるか?」
  「溢れんばかりの怒気を漲らせておいて何を言っておる。ほれ、さっきから坊主と小娘が震えあがっておるぞ」
  「そうでござったか――、不覚・・・」
  カイエンが肩を落としながらこっちを見る。その動きに合わせて殺気立つ空気が少しずつ薄れていった。
  落ち着いて呼吸できるぐらいには雰囲気は和らぐんだけど、まだカイエンは少し殺気立ってる。
  「イスカンダル殿、ウェイバー殿・・・。聖杯戦争のマスターとサーヴァントである御二人には関係のないでござるが、少々面倒なことがこの冬木で起こったでござる」
  「面倒なことだと?」
  「そうでござる」
  前を向いた状態でライダーとカイエンが話していると、何の前触れもなく悪寒が背中を通り抜けた。
  「うっ・・・」
  いきなり冷水を背中に入れられたような強烈な違和感だ。無視しようとしても絶対に無視できない。
  気持ち悪さも一緒に出てきて思わず御者台の上に座り込みそうになる。
  「・・・・・・・・・川、だな」
  短く告げるライダーの顔が未遠川の方を向いてる。感じた違和感とライダーの眼が向いてる方向を合わせて意識を向けると、川の方から得体の知れない魔力の乱れが伝わってきた。
  空気が震えてる。
  一般人だとしても、勘のいい人なら『何かがおかしい』って気付く位の大規模な異変が起こってる。
  僕は足に力を込めて体を支える。そうして隣にいるカイエンに向かって言った。
  「カイエン。もしかしてさっきから気にしてたのってこの事なの?」
  時計塔でも感じた事のない強烈な悪寒。このタイミングで起こるなら聖杯戦争絡みに間違いない。
  カイエンがこの事を予期してたとしたら・・・。そう思っての言葉だったんだけど、僕の予想は大きく外された。
  「違うでござる」
  「・・・・・・え!? 違うの?」
  「拙者が気にした『面倒な事』とはもっと別の――、もっと邪悪でたちの悪い男の事でござるよ」
  「たちの、悪い」
  「あやつがこの状況で黙っているとは思えん。好都合とばかりに動き出すでござろう」
  ライダーが未遠川の方に進路を変更する間、カイエンは今の僕じゃ判らない事を言い続ける。特定の誰かを言っているのは判るんだけど、情報が少なすぎて判断できない。
  カイエンから話を聞いた衛宮切嗣っていうセイバーのマスターだったらそう言うと思う。じゃあカイエンは誰の事を言ってるの?
  「カイエン・・・」
  一体、誰の話をしてるの? そう聞こうとした瞬間、どこからともなく声が聞えてきた。


  「ひゃ、ひゃ、ひゃ。僕ちんも負けてられないよ。バトルゥ、フィィィールドォォ――! 展開だじょー!!」


  「はぁっ!?」
  急に聞こえてきた言葉に僕は口を『あ』の形に開いたまま辺りを見渡した。でも遮蔽物の無い空の上から見ても、異常は見つけられなかった。
  その声はどこか一ヶ所から聞こえてきた声じゃない、辺り一面の空間に響くような不思議な聞こえ方で、すぐ近くから聞こえた様な気もするし、ものすごく遠くから聞こえた様な気もする。
  見ると、ライダーどころかカイエンも今の声の出所がどこか判らないらしく、二人ともゆっくり辺りを見渡してた。
  「やはり異常に合わせて動いたでござるな・・・」
  「じゃあ、今の声がカイエンの言ってた『たちの悪い男』? 一体、誰なんだよ」
  「・・・・・・・・・」
  そこでカイエンは押し黙ったけど、言わない雰囲気じゃないかった。
  むしろ言葉にした瞬間に激昂しそうな自分を押さえてるみたいで、一旦は収まった殺気立つ空気が蘇りそう。
  少し間を置いてから吐き出されたカイエンのため息が爆発の前兆みたいで怖い。
  「・・・今の声を発した男の名は『ケフカ・パラッツォ』。拙者が仕えた王を、仲間を、国を――。そして拙者の愛する妻ミナと息子シュンの命をも奪った男でござる」
  その声は酷く冷淡に聞こえたけど、僕にはカイエンが必死で感情を抑え込んでいる様にしか思えない。
  カイエンは両手で握り拳を作ったまま、ミシミシと皮膚に爪がめり込んだような音を鳴らす。
  「拙者はセイバーとマスター、その協力者を許さんでござる。だが、あの男はもっと許せんでござる!! あの男を見つけたら、拙者はきっとこの戦車から飛び降りて斬りに行くでござる。非常に残念でござるが時と場合によってはそなた等との協力関係すら解消せねばならぬやもしれぬ」
  一気に言い終えた後、御者台の上には沈黙しかなかった。
  初めて聞く『ケフカ・パラッツォ』って誰?
  この近代にカイエンが仕えていた王様とか国とかはどこの話?
  色々と疑問は浮かぶんだけど、カイエンの言った『家族を奪った敵』の部分が僕に質問を躊躇わせた。
  それに話を聞いている内に僕は一つの仮説に辿り着いて、頭の中でそれを検証するのに少し忙しい。
  僕を完全に置き去りにしてライダーはカイエンと言う協力者を得てたんだけど、聖杯戦争に全く興味が無いくせに英霊に匹敵する位の力やら魔石やらを使いこなせる強者がそう都合よく冬木にいるだろうか?
  もしかしてカイエンは聖杯戦争絡みでさっき言った『ケフカ・パラッツォ』が現れる事を知ってたんじゃないか? ライダーに協力すれば、自分の敵が向こうからやって来る可能性が高いと踏んでたとか。
  情報が少ないからまだ予想にすらなってない仮説なんだけど、偶然で片づけるよりはありえる可能性だと思う。
  そんな風に情報を整理してるんだけど、空気が重くて一言も喋れない。それを壊したのはさっきと同じでライダーだった。
  「カイエンよ、そう気張るでない」
  「む・・・」
  「ここまで来てしまっては最早我らは一蓮托生、何があろうと最後まで付き合おうではないか。ほれ坊主、そう縮こまっては勝てる戦いも勝てなくなるぞ、貴様も胸を張って堂々と我らに比類せよ。今の貴様なら出来るであろう?」
  ライダーはカイエンに、そして僕に向けて、改めて共同戦線の形を言葉にした。
  マスターの僕を差し置いて勝手に方針を決めていくのに少しだけ腹が立ったけど、ライダーの言葉に含まれてた事実がそれを帳消しにする。
  征服王イスカンダルの覇道を共に駆け抜ける―――。
  聖杯戦争だとか、サーヴァントだとか、マスターだとか、そう言った類のものを超越した『覇道』の示し方に巻き込まれていくのが嫌じゃなくなってる僕がいる。
  だから僕は御者台の上に倒れ込みそうな自分を必死で支えながら、ライダーに反論した。
  「ふん、当然だろ! ライダー、オマエのやり方で勝てよ、絶対だぞ」
  「イスカンダル殿・・・・・・、かたじけない、でござる」
  虚勢を張る僕とは反対に、感極まったみたいにカイエンが頭を下げる。
  これは、自分の復讐に巻き込んでおきながら嬉々として肯定するライダーへの感謝、かな?
  雰囲気は一気に軽くなって、大気を揺らす強力な魔力を受けても僕はもう悪寒を感じない。まあ、気持ち悪さは変わらずにあるんだけど。
  「ところで、そのケフカとやらがどこにいるかは判るか?」
  「奴は今、冬木市全体をバトルフィールドで覆ったでござる。これほどの大きさは拙者も初めて見るでござるが、大規模故に内側からバトルフィールドを支えている筈でござる。郊外ではなく冬木のどこかであろうが、正確な場所までは・・・・・・。無念でござる」
  「ならばまずは川に向かい、問題を一つずつ片づけるか」
 ライダーがそう言いながら手綱を操ると、神威の車輪ゴルディアス・ホイールは未遠川に向けて速度を上げた。



  ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆



  Side - ゴゴ





  キャスターには『魔術の秘匿』の概念そのものが存在しないか、魔術を隠そうとする意識が限りなく薄い。
  そうでなければまだ太陽が空に輝く日中に堂々と、しかも川の真ん中に立って魔術行使するなどと暴挙を平然と行う筈は無い。
  キャスターの復帰がもう少し遅ければ、聖杯戦争の暗黙の了解である『戦いは夜行う』に則って行動したかもしれない。けれどキャスターは夜が訪れるより前に行動を開始した。
  もう昼は過ぎて夕暮れが近くなっているが、それでも日が暮れるまではまだ二時間ほどかかる。
  冬木では大層目立つキャスターの異装は異邦人だからという理由でまだ誤魔化しようがあるが、人目が多い日中に川のど真ん中で魔術を使おう等と狂気の沙汰だ。
  周囲の目を気にしない。その事実一点のみでキャスターに魔術を秘匿しようとする意識が無いのがよく判る。
  別にゴゴは魔術師たちが基本原則として意識する『魔術の秘匿』を熱心に守ろう等とは考えていないが、逆にキャスターの魔術行使に邪魔が入るのは勘弁してほしいと思っていた。
  今までにない大規模魔術はものまね士ゴゴが物真似するに値するモノに違いない―――、そう期待している最中だからだ。
  衛宮切嗣がやったタンクローリーの特攻のおかげで冬木市のあちこちは騒がしくなり、救急車やら消防車やらのサイレンが止む事無く響いてくる。
  アーケードやら間桐邸やら遠坂邸など、タンクローリー爆心地に人の意識が向いてるので辛うじてキャスターの存在は気取られていないが、放置してしまえば冬木大橋を渡る誰が気付いても不思議はない。
  一般人には空気中のマナが異常に乱れていると判らなくても、勘の良い者ならば何かおかしな事が起こってる程度は感知できてしまう。
  そこで足場のない川の真ん中に立っているキャスターを見つけたらどうなるか? 騒ぎが大きくなって、キャスターの魔術行使が止められる可能性がある。もっとも、邪魔するのが一般人だけだったならば、キャスターはそんな障害など無視するだろうが。
  英霊相手にただの人間が出来る事など殆ど無く、その行動を阻むなど不可能に近い。それでも衛宮切嗣のタンクローリーのように強烈な破壊を作り出して邪魔する位なら一般人でも出来てしまう。
  例えば、個人所有のモーターボートに未使用のスプレー缶を百本ほど積み込み、キャスターにぶつかる様に調整しながら衝突する頃にスプレー缶が爆発する様に仕掛けを施す。とか。
  名ばかりの平和を甘受してきた一般人がいきなりそんな事をする可能性は限りなくゼロに近いが、今はまだキャスターの存在も彼の魔術行使も聖杯戦争関係者以外に広める訳にはいかない。
  「・・・けむりだま」
  仕方なくゴゴは―――冬木大橋の陰でキャスターと雨生龍之介の動向を監視していたシャドウは懐から五百円より少し大きい球を取り出した。
  運よく冬木大橋はキャスターの位置から風上になっているので、シャドウはただそのアイテムを冬木大橋の下に一つ二つ三つ四つと、万遍なくばら撒くだけでいい。
  『煙玉』、これは本来、戦闘中に使えば煙を発生させてそれに紛れて敵から逃げるだけアイテムだ。もちろん、ボスや使い手より上位のモンスターなど逃げられない敵は存在するが、大抵の場合は逃亡用アイテムとして重宝される。
  そして他の人間が使えばただ敵モンスターから逃げるだけのアイテムになるのだが、シャドウだけは唯一この煙玉を別の方法で使えるのだ。
  一例として、かつてシャドウはサマサの村の一軒家が火事で燃えた時。この煙玉を使って、火事の炎を爆風で吹き飛ばして脱出路を作り出した。
  重宝すべきは煙玉の名前の通り、このアイテムが大量の煙を発生させる点。
  敵から逃げるための目くらましとしてかなり大量の煙を発生させられるので、数を増やしていけば冬木大橋からキャスターだけを覆い隠すだけの煙を発生させられる。
  シャドウだけのオリジナルコマンド『なげる』と合わせて、シャドウは次々と冬木大橋の上から未遠川に向けて煙玉を投げていき、キャスターが隠れる様に煙を発生させていった。
  煙玉が川にぶつかると衝撃で、ボン、ボン、と音を立てながら煙が発生し、あっという間に大量の煙が冬木大橋を中心にして未遠川を覆い隠していく。
  いきなり発生した霧よりも濃い大規模な煙は間違いなく調べられるだろうが、連続誘拐事件とタンクローリー爆破で警察は大忙し。実害の無いただの煙の捜査は後に回され、キャスターが魔術行使を終えるまでの時間は稼げるだろう。
  橋の下の突然発生した煙は間違いなく異常だが、水面に立つキャスターに比べれば、まだ常識の範疇だ。
  「うわ、何これ!?」
  何やら、近くで雨竜龍之介が騒いでいるが、実害は無いので無視。
  シャドウは来たるべき時を見逃さない様。煙が晴れそうになったら新しい煙玉を投げ込む準備をしつつ、ただマスターとサーヴァントを監視し続ける。





  冬木市を覆い尽くす直径十数キロの巨大な半球が聖杯戦争の舞台を覆い尽くしているのが外から見えるだろう。
  このバトルフィールドを張ったのはケフカ。つまり今の冬木市はケフカの手の上と言っても過言ではない。
  ティナがメルトンを使った時に張り巡らせたバトルフィールドを大きく上回る巨大な結界だが、敵と味方とそれ以外を区分けできるバトルフィールドの構築は破壊を望むケフカらしからぬやり方でもある。
  全てを壊すつもりなら、戦いの邪魔になるモノを物理的の壊せなくなるバトルフィールドはむしろ逆効果だ。
  何故、ケフカはバトルフィールドを展開したのか?
  わずかに繋がったケフカとゴゴとを結ぶ糸から理由が流れ込んでくる。
  これは宣戦布告なのだ、と。
  戦いが終わるまで誰も外には出さない、逃がさない、ここで決着をつける、そんな意思表示の現れだ。そして、ケフカはこうも言っている。ここで自分を倒さなければ、冬木を壊して、世界も壊す。止めてみな、遊んでやるよ。と。
  好都合の部分もあり不都合の部分もある。そしてこの時点で聖杯戦争のマスターおよびサーヴァントはケフカの事を『冬木市全体に結界を張れる魔術師』と認識した筈。
  キャスターが行おうとしている大規模魔術の方にも意識は向くだろうが、自分達以外の誰かが冬木に結界を張り巡らせたならば、それだけでそいつを敵と見定めるには十分すぎる。
  今のままでは情勢がゴゴの手を離れ、主導権をケフカに握られてしまう。
  それはまずい。都合が悪すぎる。
  「仕方ない・・・。まだ見ぬレディ達を守るのも王の務め、か」
  飛空艇ブラックジャック号の操舵輪を握るエドガーは空に広がる風景を見つめながらそう呟く。
  エドガーの前には青空が広がっていて、何の変哲もない晴れた天気がそこにある。けれど、一般人の眼では認識できないとしても、冬木市は半球状の膜で覆われており、ブラックジャック号もまたその中に取り込まれている状態だ。
  ただ結界の範囲外に出るなら簡単だ。阻む者の無い空の上なら、ただブラックジャック号をバトルフィールドの外へ移動させればそれで終わる。
  しかしケフカはこちらがそれをしない事を見抜いている、ものまね士ゴゴが物真似の種を目の前にしておきながら逃げる訳がないと判っている。
  向こうもまたゴゴなのだから当然だ。
  「そちらが私達を思いのままに操ろうとするなら、私達は状況を拮抗させる為に出来る事をやろうではないか。私にはまだやるべき事が残っているのでね、貴様の好きなようにはさせんよ」
  エドガーはそう言うと、操舵輪を握りしめたまま目を閉じた。
  一瞬後、エドガーの周囲に黒い魔力の粒子が湧いてエドガーを取り囲む。ぐるぐると渦巻くそれを傍から見れば高速回転する黒い繭がいきなり現れた様にも見えるだろう。
  三秒とかからず回転は止まり、現れた時とは逆に黒い魔力の粒子は解けて虚空へと消えていった。
 己が栄光の為でなくフォー・サムワンズ・グロウリーの解除―――。
  もうそこに居るのは砂漠の国フィガロを治めるエドガー・ロニ・フィガロではない。宝具を使わない真の姿、一度見たら決して忘れられない極彩色の衣装に身を包んだものまね士ゴゴだ。
  ゴゴは一瞬だけ操舵輪から手を離し、その場で回転して踊った。


  「愛のセレナーデ」


  モーグリのモグの特殊技能『踊り』。この世界の魔術で説明するならそれは固有結界という名になる。
  二回転してから再び操舵輪を握りしめ、踊りの名を呟いた瞬間から周囲の空気が冬木市本来のものとも、バトルフィールド内のものでもなくなっていく。
  本来、この踊りを発動すると周囲の空間は全てかつての世界に合ったサウスフィガロ地下にある屋内に作り変えられるのだが。この世界の魔術を知り、桜ちゃんの属性『架空元素・虚数』で様々な事象を変質させ、今では色々な技術は全く別のモノへと変貌させられるようになった。
  バトルフィールドがそうであったように飛空艇ブラックジャック号を操縦するゴゴを中心にして固有結界が広がっていく。
  ただし目に見える景色は何一つ変化せず、現れるべきサウスフィガロ地下の光景もそこには無い。
  広がっていくのは冬木の街並みそのものだ。
  ケフカがバトルフィールドで冬木を覆い尽くすのならば、ゴゴはその中の冬木を冬木のまま別のモノに作り変えてゆく。
  ゴゴの目はブラックジャック号の下にある冬木市のまったく変わらない姿を映し出す、けれどそこに居るべき『生物』に分類される者達がどんどんと姿を消していった。
  反対に一般人の目から見れば、固有結界が広がっていくにつれてゴゴたちの方が消えている様に見えるだろう。
  発動された踊りはサウスフィガロ地下の風景ではなく冬木市の情景を作り出す。
 ゴゴがこの一年生活してきた冬木市の具現化―――。愛のセレナーデではなく、固有結界『冬木ウィンター・ツリー』とでも名づけるべきだろうか。
  戦いに無関係のどうでもいい事を考えていると、あっという間に固有結界がバトルフィールド内の隅から隅までを覆った。
  これで今の冬木市はケフカのバトルフィールド内に囲まれていると同時に、ゴゴが発動した固有結界にも覆われている事になる。それだけではなく聖杯戦争に関連のある者だけを固有結界の中に引きずり込んだので、固有結界の外側には何の変哲もない街並みがあり、内側には一般人を排した戦いの舞台が出来上がった。
  「シャドウの苦労は水の泡か」
  固有結界を発動させて戦う者とそうでない者を別けたなら、わざわざ煙玉を使って一般人の目からキャスターを隠す必要など無かった。
  シャドウには悪い事をしたな。ゴゴはそう思いながら操舵輪を回してブラックジャック号を方向転換させる。
  バトルフィールドと固有結界、結界の二重掛けで完全に戦いの舞台が整ったならば、夜など待たずに戦いは開始される。そうなれば、今、この瞬間にケフカが攻撃を仕掛けて来てもおかしくない。
  果たすべき事を果たす為、ゴゴは冬木のある場所へと向かった。





  どうやって壊そう。
  どうやって潰そう。
  どうやって崩そう。
  どうやって殺そう。
  今のケフカ・パラッツォの頭の中は何を考える場合においても『破壊』が常に念頭に置かれていた。
  根底にあるゴゴの意識が『桜ちゃんを救う』という目的へとケフカの行動を束縛するが、その過程においては何の制限もない。
  定まった法則ではなく『救い』は曖昧な定義であり、人によって環境によって時代によって時間によって状況によって過去によって千差万別に姿を変える。
  例えば、ケフカが桜ちゃん以外の全ての人間を滅ぼしたとしたら、『もう誰も桜ちゃんを傷つけない』という意味で救いとなる。故に今のケフカには制限が有るようで無かった。
  「むほほほほ、わざわざ冬木を再現するとは猪口才な」
  円蔵山の雑木林で嬉々として笑い声をあげるケフカ。少し視線を傾けるとそこには柳洞寺があり、本来であれば住職やそこに住まう人々の姿が合ってもおかしくないのだが、そこに人影はない。
  人が消えたのではなくケフカの方がゴゴが作り出した固有結界の中に取り込まれたのだ。柳洞寺に住まう者はこことは違う通常空間で何事もなく生活しているだろう。
  「だが冬木が僕ちんのバトルフィールドで覆われている事実に変わりは無い。建造物は弄れなくても、人間なら百人単位でもってこれる」
  何もかもがケフカの思い通りではなくなったが、それでもこの空間の中で多大な影響力を持っている状況に変化は無い。
  バトルフィールドと固有結界の隙間に手を伸ばして大量虐殺する程度は簡単だ。
  「この世で一番の力を私は取り込んだ。それ以外の者などカスだ! カス以下だ! カス以下の以下だ! 破壊、はかい、ハカイ!! ゼ~ンブ、ハカイだ!!」
  「ひっ・・・」
  ケフカが喜々として叫ぶとすぐ近くで小さな悲鳴を上がる。そこに居たのはイリヤスフィール・フォン・アインツベルンだった。
  ほんの少し前までは遥か遠方のドイツにいながら、今は冬木に運ばれてきた。
  彼女はアインツベルン城を破壊した張本人に強制的に連れてこられ、空気の無い空間を通り抜ける為に石像にされていた稀有な体験をした少女でもある。
  ゴゴの姿はケフカへと変貌を遂げており、さっきまで居た『よく判らない人』が『得体の知れない奇人』にレベルアップしてイリヤスフィールの恐怖は更に増長したに違いない。
  あまりに唐突に色々な事が起こり過ぎて、彼女が許容できる精神的な出来事を軽く突破してしまった。
  これはこれで壊れる前兆と言える。
  今イリヤスフィールにできる事は震え、怯え、泣き、縮こまるだけ。この場から逃げ出したいと願っても、雪が降るドイツからいきなり晴天の冬木に連れてこられたのでどこに逃げればいいかすら判らない。
  「安心しなさーい。ちゃーんと約束は守って両親に会わせてあげるのだ」
  涙を浮かべながらケフカを見上げる顔が『本当に?』と語っている。ただし、意味ある言葉になって放たれはしない。
  言葉を口にする事すら今のイリヤスフィールには困難のようで、ただただケフカの動向を怯えて見つめていた。
  もしこの少女の目の前で父親を殺したらどんな顔を浮かべるだろう?
  もしこの少女の目の前で母親を殺したら、どんな絶望を味わうだろう?
  もしここで、この少女の心を完全に破壊し尽くして、壊れた心と体だけを両親の元に送り届けたら、どんな顔をするだろう?
  物理的な破壊ではなく、精神的な破壊を想像するとケフカの顔はより喜色を深めていく。その顔を見てイリヤスフィールの顔が更に恐怖に染まっていくのだが、ケフカにとっては喜び以外の何物でもない。
  「何かやられると面倒だじょ。盟約が果たされるまで眠るがいい」
  「え・・・・・・」
  「ブレイク」
  イリヤスフィールが何か言うより早く、何か行動を起こすより早く、恐怖のあまり発狂するよりも早く、ケフカは彼女を冬木に連れてくる時にも使った石化魔法をもう一度使った。
  英霊の対魔力スキルがあれば石化に抗しうるか、あるいは効果そのものが発揮されないが。人の要素を盛り込んだホムンクルスでしかないイリヤスフィールには対抗する術はない。
  灰色の三角形と八つの紅玉がイリヤスフィールの体目掛けて収束していき、一秒とかからずに彼女の小さな体が石像へと転化していく。
  次元の狭間を移動する間は恐怖に染まっていた苦しみの石像が出来上がったが、今度は自分の身に何が起こっているかよく判っていない動揺の石像だ。苦しんでいる様子も悲しんでいる様子もないので、それがケフカには少し不満となる。それでも邪魔をされたり余計な事をされるよりは余程いい。
  そうやって自分を説得した後、ケフカは行動を開始した。
  「奴らは閉じ込めたつもりかもしれませんが、この中なら好きにやれますのよ?」
  誰に聞かせる訳でもなく、唯一近くに居た聖杯戦争の関係者は石像になっているので、ケフカの独り言は空しく消えていく。けれどそれでも全く構わない様で、ケフカは石になったイリヤスフィールを楽しげに見つめていた。
  「ホワッ、ホッホッホッホッホ!!」
  聞く者のいない雑木林の中で高笑いを鳴り響かせた後、ケフカは右足を少しだけ上げてから地面へと落とす。
  ドンッ! と大きめの音を立てると、それに合わせて足元のケフカの影が一気に広がった。
  それは最早地面にできる人影程度の小ささではなく、ケフカを中心に広がる黒い沼地のようだ。
  本当に沼地だったならばケフカの両足と石像になったイリヤスフィールが沈んでいくのだが、沈むのは二人の周囲にある草木だけ。
  黒い沼の中に自然が呑まれていく、喰われていく、取り込まれていく。ケフカの足元から広がった何かにズブズブとあらゆるモノが吸い込まれていき、あっという間にケフカとイリヤスフィールの石像だけがそこに残った。
  「お出でなさい、魔神の名を持つ我が僕よ――」
  ケフカが両手を掲げてそう叫ぶと、足元にある黒いモノから何かが姿を現す。
  それはケフカより大きく、巨大な顔の眉間だけでケフカの開いた両足が収まっていた。そして、黒い沼から現れた状況をそのまま表すように、どんどんと巨体を出現させながらも常に体色は黒色に染まっている。
  人など丸呑み出来てしまう巨大な口には鋭い歯が何本も並んでおり。胴体に当たる部分はなく、巨大な顔の横から手が伸びていた。
  ただし、その巨大な生物の特徴を言い表せる点は、両手の下―――体の前だけではなく、後ろにも同じように巨大な顔がある点だ。
  モアイ像にも似た下あごの伸びた顔が後部にもう一つあり、その顔もまた巨大な口と鋭い歯を備えている。
  浮遊する黒一色の異形の上に立つケフカ。
  もしこの生物が黒色の体躯ではなくピンク色だったならば、それを知る者は即座に何であるかの答えに辿り着けただろう。
  この世界に置いてはギリシャ神話に登場する魔神。かつてケフカが君臨していた世界ではガストラ帝国に協力関係にあり、世界が崩壊した後は闘技場で飼われていた魔獣だ。
  その名を『テュポーン』。
  「フンガー!」
  黒色のテュポーンはケフカを頭の上に乗せたまま鼻息を荒くした。
  「さあ出陣です。まずは川の向こうにいる王様を痛い目に合わせてやろうじゃなーい」
  ケフカがそう宣言すると、テュポーンはケフカを乗せた状態で上へ上へと舞い上がる。
  テュポーンが飛び立つと同時に現れた場所にあった黒い沼は消え去ったが、代わりに草木が生い茂っていた筈の個所が更地へと変貌してしまう。
  まるでテュポーンがそこに合った生命の息吹を喰い尽くして顕現したようだった。
  「今度は短距離移動なり――デジョン!」
  嬉々として喋り続けるケフカが言い終えると、ケフカとイリヤスフィールの石像を乗せたテュポーンの前に次元の裂け目が現れる。
  それは何もかもを呑み込む異次元と同時に通り道。何の躊躇いもなくケフカを乗せたテュポーンがそこに飛び込むと、一瞬後に彼らの姿は柳洞寺近くの雑木林から全く別の場所へと移っていた。
  ケフカが見下ろせばそこにはとある建物が堂々と建っている。外観も含めて内部もかなり損傷しているが、それでも崩れる事無くそこに在った。
  その建物もまた固有結界の一部であると知りつつも、ケフカはその建物の雄大さと頑丈さに『壊し甲斐がある』と思いを馳せた。
  そして高らかに宣言する。


  「冬木にお集まりの紳士淑女の諸君。ケフカ・パラッツォはここに宣言する。私は『聖杯』を手に入れた」


  顔を向けた箇所は下にある建物、声を発する方向もそこなのだが、バトルフィールドに覆われた冬木市全てに声が届く様に魔力と肉声を混ぜ合わせて飛ばす。
  防災行政無線を発信する為、屋外に設置しているスピーカーは冬木市にもある。光化学スモッグ注意報や迷子のお知らせなどに使われる放送で、それと似たイメージを頭の中に描きながら、固有結界の中にいる聖杯戦争の関係者全員に聞こえる様に声を出す。
  聞け、聞け、聞け、と嗤いながら。


  「信じるも自由。信じないも自由。そして優しいぼくちんは関係者全員にチャンスを与えてあげるのだ。『聖杯』が欲しければここまでおいで」


  声よ、この世界に満ちよ。
  魔力に乗って広がれ。
  全ての人間に伝われ。
  私の想いを届けるのだ。


  「願い求める者は集うがいい。俺に勝てる等と妄想を抱く者は挑むがいい。七騎のサーヴァントなんぞ倒さなくても私を倒せば『聖杯』は倒した者の手に渡る。皆、壊れてしまえ! 全てはいずれ壊れゆくぅぅぅぅぅ!!」


  事情を知らない者が聞けば何が何だかわからないだろう。今、バトルフィールドの中に取り込まれている聖杯戦争の関係者でも、いきなりの言葉を理解できる者は半分以下だ。
  それでもケフカは構わない。
  何しろわざわざ移動してきたのは建物の中にいるサーヴァントを引きずり出すのが目的であり、他の者に聞かせるのは副次的な意味しか持っていない。
  声を聞かせれば必ず出てくるとケフカは確信している。何故なら、そのサーヴァントは挑発されて籠城を決め込んだり無視したり出来ない王様だからだ。
  「むむむむむむ胸騒ぎが、何か来るっ!?」
  ケフカの読み通り、固有結界内に広めた言葉の余韻が消えるより前に、ケフカが乗る漆黒のテュポーンの前方に強烈な魔力が蠢いた。
  幽体から実体化する前段階なのに隠しようのない濃密な気配がそこにある。完全に実体化した後は太陽の光すら呑み込む黄金の輝きを放つサーヴァントがいた。
  挑発に乗って来た。
  ケフカは予想通りの展開にほくそ笑みながら、見下ろしていた建物―――冬木教会から視線をあげて前を見る。
 「痴れ者が! 天に仰ぎ見るべきこのオレを見下ろすだと? 王の舞う天に昇ると戯れにしても度し難いぞ、雑種!」
  そのサーヴァント、アーチャーは空に浮かんでいた。
  正確にはケフカがテュポーンを足場にしている様に、アーチャーもまた初めて見る何かを足場にしている。
  実体化すると同時に現れた飛行機械。
  それは飛空艇ブラックジャック号のように空を舞っているのだが、今の人類の科学力では決して作り出せないであろう宝具だった。
  黄金のヨットに羽根を付けた様な形をしており、エメラルド色に輝く翼は太陽の光を吸収しているかのごとく眩しく光輝いている。
  全長と全幅はおそらく共に二十メートル弱。アーチャーが乗っている『乗り物』であると同時に、触れるモノ全てを切り裂く剣を何本も重ね合わせた『武器』としての鋭さも兼ね備えていた。
  アーチャーはその飛行機械の中央に現れた黄金の玉座に腰かけながら、テュポーンよりも少し高い位置に浮かんでケフカを見下ろしていた。
 「オレの財を手に入れた等と妄言を吐く盗人には罰を与えねばならん。貴様には王の法に則り死を遇する」
  「そう言うと思ったからお膳立てしたんだじょ。ここでの決着もまだだから丁度いい!」
  ケフカがそう言い終えるのとアーチャーの背後に円形の輝きが生まれるのは同時だった。
 剣、槍、弓、斧。武器と名のつくありとあらゆる物を異空間から取り出して発射する、宝具を撃つ宝具。王の財宝ゲート・オブ・バビロンがケフカを撃ち落とさんと発射準備を整える。
  「殺る気満々だねえ・・・。でもその前に、デジョン!」
  十数本の武器が一斉に目掛けて撃ち出されようとしているにも関わらず、ケフカはまったく気にした様子もなく右手を横に伸ばす。
  攻撃を放つ訳でもない単なる一動作に過ぎず、アーチャーにも周囲の状況にもケフカ自身にも何も起こってない。ケフカの動きなど気にせずアーチャーが攻撃しようと思えば出来た。
 しかしアーチャーは王の財宝ゲート・オブ・バビロンから武器を撃ち出さず、ケフカへ向けて武器ではなく言葉を放つ。
  「雑種。貴様、今、何をした?」
  「あれあれ、気付いたの? 気付いたの? ここに向かってる邪魔者を別の場所に送ったのだー! 教会の中にいる神父は別ね」
  「ほう、そこに気付くか――。その注意深さだけは褒めてやろう」
  「御褒めに与り恐悦至極なり」
  アーチャーが攻撃するよりも前にケフカは次の行動を起こす。


 「現れなしゃーい。帝国インペリアル空軍エアフォース!!」


  伸ばしたままの右手に合わせて、同じように左手も横に伸ばす。直立姿勢の体勢と合わせて横に伸びた両手はケフカを十字架のように見せている。
  叫び終えるとアーチャーがそうであったように、ケフカの背後にも円形の輝きが生まれた。
 ほぼ同数でありながら、円の大きさはアーチャーの王の財宝ゲート・オブ・バビロンの数倍はあり、そしてアーチャーの宝具の輝きが金色であったのに対し、ケフカのそれは夜をそのまま持って来たような漆黒だった。
  アーチャーが空の青さを上回る黄金の輝きならば、ケフカは空を削り取る闇だ。
  その円の中から黒い何かが姿を見せる。
  それは人型に見える何かが乗る機械だった。それにはプロペラがあり、機械仕掛けの指があり、垂直尾翼があった。
  ただしテュポーンと同じように色彩は全て黒一色で、乗っている人型の何かも皮膚の感触が全くないので黒いマネキンの様に見える。
 アーチャーはそれが何であるかを知らないだろうが、それは『スカイアーマー』に『スピットファイア』と呼ばれる飛行タイプの魔導アーマーだ。それらが幾つも幾つも幾つも幾つも黒い円の中から姿を現し、アーチャーの王の財宝ゲート・オブ・バビロンと同じように出撃を待つ。
 「雑種・・・。まさかオレの『王の財宝ゲート・オブ・バビロン』を真似たつもりか?」
  怒りを滲ませたアーチャーの言葉にケフカからの返答は無い。だが、ケフカの顔に施された笑い顔の化粧を上回る笑顔が雄弁にアーチャーへの嘲りを物語っていた。
  唯我独尊を体現するアーチャーの性格から、ケフカの前に現れた瞬間に一言も話さず攻撃してもおかしくなかった。それをしなかったのは一度限りとは言えアーチャーの猛攻からケフカが逃げ延びた過去があるので、ケフカの動きを警戒していたのかもしれない。
  だがケフカの嗤い顔はアーチャーの限りなくゼロに近い我慢強さを破壊するのに十分な威力を持っていた。
  ここが会話の限界―――。


  「死ね」
  「ハカイだぁ!」


  両者の口から言葉が放たれると、背後に展開されたそれぞれの円から互いの武器が発射された。



  ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆



  Side - 遠坂時臣





  「う・・・・・・・・・」
  視界の中に入ってくる景色が何であるかを理解するまでに私はかなりの時間を必要とした。
  眠りから目覚める時の夢と現の境目を歩く現実感の無さに加え、四肢に力を込めようとしても何故か力が入り難い。
  人生において一度たりとも世話になった事は無いが、話だけは聞いた事のある『医療機関での全身麻酔』から起きた時はこのような虚脱感を味わうのかもしれない。
  何が起こっているか必死に理解しようと頭と体を動かしていると、私の耳にある方の言葉が入り込んでくる。
  「ようやく目覚めたか。時臣」
  「え・・・いゆう、おう――。わた・・・しは・・・」
  「我が宝物庫よりエリクサーを一瓶用いたが、死人には効果が無い。貴様は運がいいぞ時臣、その無様な姿なりに誇るがいい」
  どうやら私は遠坂邸の奥の部屋の床の上に倒れているらしい。
  最初にそうと気付かなかったのは視界がぼやけていた事と、見慣れている一階天井の様子があまりにも普段の状況とかけ離れていたのが理由だ。
  まるで火事にでもあったように焼け、出来た穴から二階まで見通せてしまう―――。
  見える異常と合わせ、視界の中に立つ英雄王ギルガメッシュを組み合わせた瞬間、一気に私の頭は覚醒して何が起こったかを理解していく。
  「王よ!」
  私は礼を尽くさねばならない偉大に過ぎる英霊を前にして『気絶して横たわる』などと醜態を晒してしまったのだと一瞬で悟った。
  体が思うように動かせないのは承知していたが、痛む体を強引に動かして臣下の礼を取る。関節の至る所がボキボキと固い音を奏でたが、そんなものは無視しなければならない。
  「私は賊の襲撃で気絶していたのですね。王の御手を煩わすばかりかこのような醜態を・・・」
 「悔いる前に構えろ、さもなければ死ぬぞ。が、それはそれでオレを愉しませる」
  英雄王―――、いやアーチャーがそう言うと、まるでそれを待っていたかのごとく遠坂邸の壁面が爆発した。
  壁の向こう側から何者かが壁を突き破って現れたのだ。
  今更ではあるが、気絶する直前に見たあのタンクローリーが遠坂邸を結界ごと破壊して、火災で焼け落ちそうな現状を作り出したのだろう。
  火が無く焼け跡があちこちに見えるのは、おそらく私が気絶している間にアーチャーが鎮火してからに違いない。綺礼は冬木教会を拠点としているので、私を助ける者はアーチャー以外に考えられない。
 先程耳にした『エリクサー』は錬金術において、飲めば不老不死となることができると伝えられる霊薬の事だ。英雄王ギルガメッシュが私の為に王の財宝ゲート・オブ・バビロンからその秘法を使ったのはアーチャーらしからぬ行動に思えたが、おそらく魔力供給を行う為のマスターがいなくなると聖杯戦争で不利になると思ったのだろう。
  この様子では住居としての遠坂邸は使い物にならない。地下工房は上に乗る邸宅よりも頑丈な作りになっているので、魔術工房そのものには影響はないと思われるが、修繕には莫大な費用が掛かるに違いない。
  これをやったのは誰か?
  どの陣営が遠坂とアーチャーに仕掛けて来たのか?
  魔術ではなくタンクローリーなどと俗物な攻撃方法を選んだのは何者か?
  その答えは壊した壁を通り抜けてくるサーヴァントが教えている。
 「オレを僅かでも苛立たせるその意味――主に似て無礼な獣は分かっていないようだな」


  「アアアアアアアアアアアアアアア!!」


  アーチャーへの返答はなく、壁を破壊して現れた狂戦士の咆哮が辺りに響き渡る。その背後には紺色のフード付きパーカーを着込んだ男が立っている。
  そのサーヴァント、バーサーカーを盾にして我々と対峙するマスター。間桐雁夜がそこにいる。
  奴の姿を見た瞬間、私の心の中にあったのは『やはり』の得心であった。
  夜の魔術戦ではなく、昼にタンクローリーを用いての物理的な襲撃。暗黙の了解すら守れない魔術師らしからぬ方法を取るのは襲撃者が魔術師ではないからだ。
  そうなるとやりそうな人間は限られてくる。雨竜龍之介と呼ばれるキャスターのマスター、セイバーのマスターの衛宮切嗣、そして一年前に間桐に戻ったにわか魔術師の間桐雁夜のどれかとなる。
  キャスターとそのマスターは聖杯戦争そのものに興味が無いので、遠坂邸を襲撃する理由が無い。だから間桐雁夜がそこにいるのは何もおかしくはない。
  奴こそが犯人だからだ。
  七人のマスターと七騎のサーヴァントが聖杯を得るために競い合う戦い。それこそが聖杯戦争であり、外来に協力者を頼むなどと恥を知らぬやり方をする者がタンクローリーなど持ち出すのはむしろ当然であった。
  確かにあの策は遠坂邸を破損させるには多少有効だったかもしれないが、アーチャーの規格外を突破するには力不足だったのだ。故に私は生きている、敵を前にして魔術礼装であるステッキを持ち、戦う者としてここにいる。
  「時臣、後ろの男と遊んでやるがいい」
  「はっ!」
 私の言葉を切っ掛けにして、アーチャーの頭上に王の財宝ゲート・オブ・バビロンの輝きが生まれ、遠坂邸の天井までの覆い尽くす光の嵐が周囲を埋め尽くす。
  あまりの眩しさに私は目を細めた。僅かな軌跡しか見えなかったが、光の中でバーサーカーがアーチャーに向けて突進していく姿を捉えた気がする。
  バーサーカーの右手に握られたアーチャーの剣。倉庫街の戦いでアーチャーから簒奪した武器をまるで自分の物のように扱うその醜悪さに怒りを覚えていると、光は収まりサーヴァント二騎の姿が消えた。
  横に壁にはさっきまで無かった大穴があいていて、その向こう側からは激しい戦闘音が聞えてくる。
  どうやら戦場を屋内から屋外へと移し、誰にも邪魔されずにサーヴァント同士で決着をつける模様。そうなれば、残されたマスター同士で決着をつけるのは私に課せられた使命だ。
  私は右手に握りしめたステッキを確認しながら、スーツ、ズボン、シャツ、蝶ネクタイの全てが整えられているかを肌の感触で確認する。
  常に余裕をもって優雅たれ―――。
  それは遠坂家の家訓であると同時に私自身の生き方そのものでもある。
  遠坂において資質の点で私は歴代の当主たちに遠く及ばない。だからこそ十の結果を求められれば二十の鍛錬によってそれを掴み取り、課せられた試練の数々を優雅かつ余裕を抱き乗り越えるための努力を惜しまなかった。
  その徹底した自律と克己こそが魔術師として凡庸な私の強みであり、気高き自負の念なのだ。
  「剣・・・か。無様だな、間桐雁夜」
  故に目の前で背負ったケースから鋭く光る剣を引き抜く男には失望しか感じなかった。
  それでも感情を露わにはせず、戦いに臨む緊張とは異なる余裕と優雅さを持って相対する。
  「一度、魔導を諦めておきながら、聖杯に未練を残し、未熟さを武器で埋めようとは・・・。君一人の醜態だけでも間桐の家は堕落の誹りを免れんぞ。今の君は魔術師ですらない」
  「言いたい事はそれだけか、遠坂時臣」
  「うん?」
  「俺を敵と見定めておきながら随分と悠長だな。まあ、魔術師としては優秀かもしれないが、戦闘者としては三流以下のお前には戦いの機微なんて判る筈もないか」
  軽い挑発で間桐雁夜の出方を窺うつもりだったが、逆に挑発を返してくるのは少々予想外だった。
  綺礼からの報告で間桐雁夜がそれなりの武器の使い手になっていた事は知っていたが、どうやら精神面でも多少は鍛えられているようだ。
  しかしこの程度は予想の範囲内。僅かばかり間桐雁夜の評価を高めるだけに過ぎない。底辺から少し上がったところで、底にいる間桐雁夜は底に居続けるしかない。
  「遠坂時臣。なぜ貴様は桜ちゃんを臓硯の手に委ねた? 何故、養子などに出した?」
  「何・・・?」
  間桐雁夜から放たれたのは全く予想外の問いだったので、私は思わず眉をひそめる。
  「それは今、君がこの場で気にかけるべき事柄か?」
  「気にかけるべき事柄だ。貴様の愚鈍な考え方なんて知りたくもないし興味もないが、何故こうなったかの答えだけは知らなくちゃいけないんでな。言いたくないなら言わなくてもいいぞ、問い一つ応じられない臆病者に尋ねた俺が馬鹿だったって事だからな」
  どうやら私を挑発し続ける算段の様だが、間桐雁夜程度の言葉で私は揺るがない。
  ただ真実を語るのみ―――。
  「問われるまでもない。愛娘の未来に幸あれと願ったまでの事、だから私は桜を養子に出したのだ」
  「何、だと?」
  今度は私の言葉に間桐雁夜が眉をひそめる番だ。
  「二子を設けた魔術師は、いずれ誰もが苦悩する。秘術を伝授しうるのは一人のみ。いずれか一子は凡俗に堕とさねばならないというジレンマにな。とりわけ、わが妻は母体として優秀すぎた。凛も、桜も、共に等しく稀代の素養を備えて産まれてしまい、娘たちは二人が二人とも、魔道の家門による加護を必要とした。どちらか一人の未来のためにもう一人の才能を摘み取ってしまうなど、私には出来なかったのだよ」
  私の言葉を理解しようと必死になっているのか、あるいは間桐雁夜こそ私が告げた『凡俗』であるが故に理解すらできないのか。
  彼は私の言葉を黙って聞いている。
  「姉妹双方の才能について望みを繋ぐには養子に出すしかない。だからこそ間桐の申し出は天恵に等しかった。冬木の聖杯の存在を知る一族であれば、それだけ『根源』に到る可能性も高くなる。私が果たせなくても凛が、そして凛ですら到らなかったならば桜が、遠坂の悲願を継いでくれることだろう」
  「貴様・・・・・・」
  ここにきてようやく間桐雁夜の表情に『怒り』が加わる。
  私は私が信じる道に従い凛と桜の未来が明るいものとする為に桜を養子に出したのだ。
  しかし俗物に成り果てた間桐雁夜には到底理解できない道筋なのだろう。
  「凛ちゃんと桜ちゃんを――。姉妹で争えと言うのか!? 正気か、貴様」
  「仮にそんな局面が訪れたとしても、我が末裔たちは幸せだ。勝てば栄光をその手に――、負けても先祖の家名に栄光はもたらされる。これほどかくも憂いなき対決はあるまい?」
  迷いとは、余裕なき心から生まれる影。それは優雅さとは程遠い。
  だからこそ私は迷わず自らの信念と誇りに従って遠坂家の当主として在り続けるのだ。
  凛は遠坂の家督を、そして桜は間桐の家督を引き継ぐ。それが二人を守る道でもあるのだからな。
  「お前の思惑が全て正しいと本気で思っているのか? 遠坂時臣。どうして自分が間違っていると思えない? いや、お前が間桐臓硯の何を知っている。臓硯がお前の願うとおりに桜ちゃんに間桐の魔術を継承するとでも本気で思っているのか?」
  「家督を拒み、たった一年修行しただけの急増魔術師が私に魔導の真髄を語る気かね? 血の責任から逃げた軟弱さ、その事に何の負い目も懐かぬ卑劣さ――。貴様の存在そのものが魔道の恥だ、見苦しいにも程がある」
  「桜ちゃんがそれを望んだのか?」
  「何?」
  「貴様は桜ちゃんにそれを言葉にしてはっきりと説明したのか? 何故、間桐に行かねばならないのか。何故、遠坂の家を出なければならないのか、それをちゃんと説明し、納得させ、桜ちゃんの理解を得た上で養子に出したのか? 桜ちゃんは魔術師でなくとも家族と一緒に居たいと願わなかったのか!? どうなんだ、遠坂時臣!!」
  怒気を露わにする間桐雁夜の言葉を聞き、私の中に僅かばかりの迷いが生じた。
  それは魔術師として、そして父として私の最善を二人に押し付けたからに他ならない。
  無論、それが最善であると私は信じている。今でも桜を養子に出した決断は何も間違っていないと確信している。
  だがそれでも―――。
  「間桐雁夜、魔術を捨てたお前に私の苦悩は判るまい」
  応じる様に私の言葉にも怒気が混じり始める。
  「私は父より――先代の遠坂家当主より『家督を嗣ぐか否か?』と選択の余地を与えられた。だが凛と桜の才能はその選択の余地すらなかったのだ。二人の才能はただそれだけで条理の外側から魔性を引き寄せてしまう。対抗しうる術は娘達が自らが魔道を理解し、その身に修めるしかないのだ!」
  今更ではあるが、どうして私は間桐雁夜に対し語る必要のない個人的な事情を懇切丁寧に説明しているのか疑問を覚えた。
  最早、間桐雁夜が敵であるのは明白であり、アーチャーとバーサーカーの戦いが始まった時にこちらも戦い始めても良かった筈。
  だが私は間桐雁夜と話している。目の前に立つこの男を魔術ではなく言葉でもって捻じ伏せなければならないと衝動が湧いてしまうのだ。
  「遠坂の加護を与えてやれるのは姉妹のいずれか一人のみ。後継者になれぬもう一人を凡俗に堕とすだけならまだしも、『一般人』となった片一方を魔術協会が見つければ、連中は嬉々として保護の名目でホルマリン漬けの標本にするだろう。判るか? 間桐雁夜。凛の身を、桜の身を守る為にも間桐へ養子に出す選択は正しい道なのだ」
  「遠坂が最後まで守り続ける道も合っただろうが!!」
  「その為に奇跡に等しい希有の資質を潰せと言うのか? 自らに責任を負うのが人としての第一条件だ。そこから逃げ、自らの血に課せられた責任すら果たせない者は、人以下の犬。君の事だよ――間桐雁夜」
  侮蔑をもって間桐雁夜の名を呼ぶと私の中に生じた迷いは消えていった。
  言葉にする事でそれが正しい選択なのだと改めて自信を持つに至る。
  これで間桐雁夜が納得しないのならば、結局、私と彼は生き方そのものが違いすぎる別の生き物なのだ。
  私は遠坂の家に生まれ、受け継がれてきた血統の責任を果たす者。間桐雁夜は同じ魔道の家に生まれながらも、その責任を放棄し魔術師である事を捨てた者。
  魔道の尊さを理解せずに一度は背を向けた裏切り者が魔術を理解する事態そのものがありえないのだ。
  すると私の予想通り、間桐雁夜は魔術師としてではない言葉を口にする。
  「貴様は桜ちゃんの父親でありながら、幸せも不幸も魔術師としての尺度でしか計らなかったんだな。薄汚い魔術師が・・・。貴様は臓硯が何故養子を必要としたか考えもしない浅はかな人間の屑だ」
  「日常の外側にある魔性は多くのモノを呑み込む強大な力だ。魔術を捨てた君には計り知れない世界なのだよ」
  「臓硯の企みも見抜けなかった大馬鹿野郎の知る狭い世界など知ったことか!!」
  知る者と知らぬ者の乖離。それが互いの世界を別のものとする。
  間桐雁夜が片手に持っていた剣を両手に構え直すのを見て、会話がここで終わるのを感じ取った。
  出来れば言葉でもって完膚なきまでに叩きのめしたかったのだが、無知な者に言葉だけで理解させるのは難しく、間桐雁夜にそもそも理解する気が無ければ困難は無理に形を変える。
  私は魔術礼装のステッキを振りかざし、柄頭に埋め込まれた大粒のルビーから炎の術式を呼び起こした。
  虚空に描かれる遠坂の家紋を模した防御陣。触れるもの全てを焼き尽くす攻撃と防御を兼ね備えた渾身の術式だ。
  たった一年修行しただけの間桐雁夜には過ぎた備えだが、その程度でこの私の敵になった気でいる相手には力の差を見せつけなければならない。
  今の私の中には手加減など欠片も存在しなかった。


  「やはり語り聞かせるだけ無駄な話か。言葉の通じぬ犬には罰を与えなくてはならない」
  「聞くだけ無駄だった、他の道を見ようともしない魔術師が! 貴様の性根はよく判った」


  その言葉が―――会話ではなく、ただ互いの思いを言葉にしただけの独り言が―――勝負開始の合図となる。
  間桐雁夜は剣を構え、こちらに向けて駆け出した。



[31538] 第36話 『ピクトマンサーは怪物と戦い、間桐雁夜は遠坂時臣と戦う』
Name: マンガ男◆da666e53 ID:23cb9b06
Date: 2013/10/20 16:21
  第36話 『ピクトマンサーは怪物と戦い、間桐雁夜は遠坂時臣と戦う』



  ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆



  Side - セイバー





  私はアイリスフィールを助手席に乗せて異常な魔力の発生源と思わしき未遠川を目指して車を走らせた。
  普通の人間であれば道路の込み具合や制限速度などの問題で三十分はかかってもおかしくないが、セイバーのクラススキル『騎乗:B』が存分に発揮され、かかる時間を大幅に短縮させる。
  この調子ならば何事もなく川に着けるか? そう思った私の耳が何者かの声を捉えた。
  それは肉声とは異なる魔術によって作り出された音であった。おそらく拡声の魔術を使い、冬木市全てに声を飛ばしていると思われる。
  運転と同時に攻撃を警戒し、ほんの僅かだが運転速度を緩める。万が一、自動車ごと攻撃される事態になれば助手席にいるアイリスフィールと共に車外へ飛び出す気構えもしておく。
  だが攻撃はなかった。
  その代わりに何者かの声がした瞬間から周囲から人の気配は消え、賑やかな街の様子は作り物めいた何かに変わってしまう。
  いや、そうではない、彼らが消えたのではなく我々が別空間の中に捕まったのだ。明らかな異常が冬木に起こっている。声の主がこの現象を巻き起こしているのならば、大魔術師と呼ぶにふさわしい強力な使い手なのは間違いない。
  「――アイリスフィール。今、聞いた『ケフカ・パラッツォ』という名に心当たりはありますか?」
  「いいえ、聞いたことのない名前だわ。切嗣なら何か知ってるかもしれないけど・・・・・・」
  切嗣の名が出た瞬間、アイリスフィールの手が通信用の携帯電話に伸びるが、すでに何十回と試して切嗣が電話に出ない事は確かめてしまっている。
  伸ばした手を戻すアイリスフィールの姿が視界の片隅に見えた。
  正体不明の何者か。聖杯を手に入れたと宣言する者。聖杯戦争に参加した全ての者たちへと宣戦布告する敵。
  次々の起こる異常の中にあって私が最も意識を向けてしまうのは、やはり『聖杯』の件であった。
  「聖杯を・・・手に入れただと?」
  私は出来るだけ平静を装いながら呟く。
  ありえない―――そんな私の想いを裏付けたのは助手席に座るアイリスフィールだった。
  「いいえ・・・。いいえ、いいえ、ありえないわ。誰かが『聖杯』を手に入れたなんて――、そんな事はありえないの」
  アイリスフィールにしては珍しいヒステリックな話し方に虚を突かれるが、その叫びは私の否定が正しいのだと教えていた。
  注意深く周囲に気を配り、視線は常に前を向いたまま。けれど言葉は助手席のアイリスフィールへと投げる。
  「アイリスフィール。確か貴女は『器の護り手』を務めている。そうですね?」
  「そうよ。聖杯は、私にとっては自分自身も同然なの。私はそれを降臨させるための『器』を生まれてからずっと預かってきた。今も問題なく預かってる・・・、だから他の誰かが『聖杯』を手に入れるなんて絶対に不可能よ」
  「ならば今の言葉は挑発、あるいは我々を招きよせるための戯言でしょう」
  アイリスフィールを落ち着ける意味も込め、私は断言する。
  聖杯戦争は七人のマスターと七騎のサーヴァントが聖杯を得るために殺しあう闘争であり、万能の願望機『聖杯』は勝利した者の手に委ねられる物だ。
  聖杯が叶えるのはただ一人の祈りのみ―――。
  私は四六時中行動を共にしてきたアイリスフィールが一体どんな形で『聖杯の器』を隠匿しているかを知らない。お互いの信頼が確たるものならば、わざわざ確かめる必要のない事で会話にすらあげなかった。
  全ての戦いを勝ち抜いた後で、改めてアイリスフィールの手から『聖杯』を受け取ればいいだけのこと。
  どれだけ強大な力を有していようとも、自分の姿すら見せない卑怯者とアイリスフィールの言葉のどちらを信じるか? 考えるまでもない。アイリスフィールがありえないと言うのならば、事実それは無いのだ。
  何より聞こえてきた声の端々に感じる狂気は錯乱したキャスターに通じる部分があり、一方的に投げかけられた言葉を信じるのは危険すぎる。
  敵の姿も正体も目的も力量も何一つ判らない状況でむやみに動き回るのは自分から危険に飛び込むに等しい、だが敵を前にして臆するなど合ってはならない。敵がそこにいる、それだけで私が戦場へと赴くには十分な理由となるのだ。
  『聖杯』を手に入れたと挑発しただけで、まだ魔術で声を飛ばしてきた以上の行動は起こしていない。姿すら見せないケフカ・パラッツォと名乗る何者かの真意は判らないが、敵かどうかを見極めるのは相対した後でも遅くはない。
  今は明確な敵を倒すべき時だ。
  「結論を出すにはあまりにも情報が足りません。今は予定通り川に向かいましょう」
  「・・・・・・判ったわ。急いでね、セイバー」
  返答の代わりに私は緩めた速度を再び限界ぎりぎりまで引き上げた。
  人のいなくなった冬木の道路は運転手のいなくなった車が放置されており、異空間なのだと自覚しなければゴーストタウンと錯覚してしまいそうになる。
  ガードレールと車の隙間。車道に止まる車と対向車との間にできた隙間。窓から手を伸ばせば触れられるほど近い障害物をすり抜けてゆく。
  この状況で動く者がいるならばそれはほぼ間違いなく聖杯戦争関係者であり、切嗣でなければ私たちにとっては敵だ。神業に等しい運転をしながらも周囲を常に警戒し、私たちは遂に未遠川のほとりに辿り着く。
  刻一刻と変わる状況に出遅れてはならない。
  私は路地から川沿いの通りに躍り出た時点で華麗にスピンターンを決めて車を停車させ、ドアが開ききる前に車外へと躍り出た。ほんの一時とはいえ、アイリスフィールとの間に距離を作ることになるが、通りから周囲を見渡せる堤防の上までは十メートルほどしか離れていない、私なら一瞬で到達できる距離だ。
  辺りには降り注ぐ太陽光を阻むように濃霧が溢れて視界を遮っている。川を起点にして発生している霧から微弱な魔力を感じるので、おそらく大規模魔術を行使しているキャスターの余波なのだろう。
  だが、私の視界を阻むほどのものではない。
  魔力の中心点に視線を集中すれば、そこにいるキャスターの姿をはっきりと捉えた。
  以前見た姿と全く変わらぬ異相のローブ姿。川の中央にいながら、水面に立つという非常識な姿を見せつけ、その足元を見れば郊外の森で見たおぞましい異形の怪物が群れを成して足場を形成しているのが判る。
  宝具であろう魔道書を右手に持ち、左手はその本に書かれる文字をなぞるかの如く添えられている。わずかに顔を上げながら目を閉じる姿は祈りを捧げる司祭に見えなくもないが、手にした魔道書から流れ出る魔力が邪悪な波動となって伝わり『善』を否定していた。
  大気すら狂わす大魔術の発信点はキャスターの持つ宝具だ。確信と共に視線を強めると、後ろからアイリスフィールが追い付いてきた。
  「キャスターなの?」
  「はい。周囲に奴以外の人影は見当たりません」
  「それじゃあ『ケフカ・パラッツォ』とキャスターは無関係と思っていいのかしら?」
  「断言はできませんが、その可能性は高いと思います」
  短いやり取りが終わるより早く、キャスターの閉ざされた目が私たちの方を向く。こちらから見えているのならば、間違いなく向こうにも私たちが見えている筈。
  キャスターには迫り来る敵や戦いに対する緊張や気構えは無い。むしろその表情には喜びがあった。
  「ようこそ聖処女よ。再びお目にかかれたのは恐悦の至り――。ですが、ジャンヌ、申し訳ない・・・。今宵の主賓は貴女ではない」
  「外道め、今度は何をしでかすつもりだ!!」
  本来であれば肉声が届く距離ではない。
  しかし、私も奴もまた剣戟と怒声と騒乱が入り乱れる戦場を駆け巡った軍人としての顔を持つ。例え僅かばかりの経験だったとしても、声を大きく響かせなければ意思疎通すら出来ない状況を共に体験しているのだ。
  ましてや英霊としての肺活量は常人を大きく上回る。ただの人間ならば実現不可能なら遥か遠くに見える人影との会話を私達は可能とした。
  「ですが、貴女もまた列席していただけるというのなら、私としては至上の喜びですとも。不肖ジル・ド・レェめが催す死と退廃の饗宴を、どうか心ゆくまで満喫されますよう!」
  高らかにキャスターがこの場に声を響かせると同時に不可解な事象が起こった。奴の足元で足場を形成していた怪物がおぞましい触手をキャスターに向けて伸ばしたのだ。
  間違いなくキャスターによって召喚された筈の怪物たちが召喚主であるキャスターを拘束する。
 味方が味方を攻撃する不可解な状況。キャスターが行おうとしている『何か』と合わせて、それがなんであるかを見極めるために私は風王結界インビジブル・エアを纏い不可視の宝剣を構えた。
  使い魔に反逆されたように見えるキャスターの哄笑は止まらない。それどころか一層狂喜を増幅させ、誇らしげに胸を張りこちらを見つめている。
  その不可解さゆえに私は攻撃に転ずる気を損なってしまった。
  敵が何をしようと関係なく、ただ『敵を倒す』という結果の為にキャスターの姿を認めた瞬間に斬りかかる選択を除外してしまったのだ。
  キャスターが言葉を発したほんの数秒、それこそが好機であったにも関わらず、私は攻撃ではなく警戒を選択してしまった。


  「今再び――我らは救世の旗を掲げよう!!」


  その言葉を切っ掛けとして―――、大地が揺れた。
  キャスターの足元を作り出していた怪物は一斉にその数を増幅させ、青い水面は紫色の中州へと変化する。
  膨張と呼ぶに相応しい使い魔の連続召喚。キャスターに触手を伸ばした怪物を起点にして水面下から次から次へと怪物が現れてゆく。そしてキャスターの宝具によって無尽蔵に増えていく怪物はあっという間にキャスターを呑み込むが、大量の怪物に押し潰されたキャスターの声は衰える様子を全く見せない。
  それどころか勝ち鬨のように勢いを増していく。
  「見捨てられたる者は集うがいい。私が率いる! 私が統べる! 我ら虐げられたる者たちの怨嗟は必ずや『神』にも届く!」
  「キャスターが・・・吸収されていく!?」
  アイリスフィールが呟く間にも怪物の数は更に増していく。それどころか一匹一匹が新しく召喚されると同時に輪郭を無くしてキャスターを中心にして融合していくではないか。
  アインツベルンの森で水晶を通して見た怪物が一つの形を成す為に召喚され、融合し、また召喚され、集まっていく。
  まるで川底に潜んでいた巨大な化け物がそそり立つ様に怪物共はその数を増していった。
  「おぉ天上の主よ! 私は糾弾をもって御身を讃えようッ!」
  「これは――」
  「傲岸なる『神』を! 冷酷なる『神』を! 我らは御座より引きずり下ろす!!」
  キャスターの声が響き終える頃、川の中央にはこれまで見た事のないおぞましい魔性が佇んでいた。
  融合した怪物の数は十匹? 二十匹? いや、そんな数ではない。正確な数は判らないが、目算では百を軽く超えて千まで到達しているかもしれない。それが一つの塊を成して、途方もない巨体を作りだしている。
  この世ならざる領域の海を支配する悪夢の権化だ。まさに『海魔』と呼ぶしかない水棲巨獣が私達の前で圧倒的な威容を見せつける。そのあまりの禍々しさに私は思わず息を呑んだ。
  海の覇者たる鯨をも軽く上回る巨体、それが川の中央に立っている。視界の隅には対岸とこちらとを結ぶ橋が映るが、キャスターが呼び出した海魔はその橋の大きさを軽く上回る。
  一本一本が腕程の太さだった触手は巨大な丸太よりも尚太く怪物の体から伸びて、川の水とは異なる粘液が内側からにじみ出て艶めかしさとおぞましさを両立させていた。
  仮に私達が何らかの結界の中に取り込まれ、冬木に住まう者達がこの場から弾かれている状況でなければ、日の光に照らされたこの巨獣は衆人の目に晒されたに違いない。視野を遮る濃密な霧でも隠しようのない巨体だ、大地の震動に気付く勘の良い人間なら簡単に見つけてしまう。
  最早、キャスターの行いには秘して為すべしという聖杯戦争の暗黙の了解は存在しない。それが嫌になるほど判ってしまう。
  「奴を侮っていました。まさかこれほどの怪物まで召喚してくるとは――」
  「いいえ、いくらサーヴァントでも召喚して使役できる使い魔の『格』には限度があるはずよ。多分、召還後のコントロールを度外視して、ただ招き寄せただけだわ」
  「まさか・・・、あの化け物はキャスターの制御下にはない、と?」
  「そう考えておいて間違いないわ。あれは全てを喰らう渇望の概念をそのままに具現化させた真性の『魔』よ、ただ食事をする為だけに招待されただけの・・・」
  アイリスフィールの声には隠しようのない畏怖があり、魔術師であるが故に理解できてしまう恐怖が合った。
  魔術師ではない私にはあれが何であるかを正確には理解できないが、事の重大さを理解するならば彼女の言葉でも十分だ。あれはこの世に合ってはならない存在なのだと知る。
  私は手に握られた剣の重みを感じながら、真名を解放すればあの海魔を打倒できるだろうと計算する。
  私の左手にかかっていた呪いはランサーを倒してしまった瞬間から解かれている。故に両手を使っての渾身の振り抜きと真名解放を合わせれば、聖剣から放たれる斬撃はあの巨体ですら打ち砕く。
  あまりの大きさ故に一時は圧倒されたが焦燥は無い。代わりに聖杯戦争という行為そのものを破壊し無為に返そうとするキャスターへの静かな怒りとそれを支える闘志が漲っていた。
  奴を斬る為に私は前に踏み出す。その歩みを止めたのは聞き覚えのある雷鳴の轟きだった。
 背後から聞こえてくるそれは間違いなくライダーの戦車チャリオットが奏でる音で、振り向いた私の目に手綱を操って私達のすぐそばに飛行宝具を着地させるライダーの姿が映った。
  「よぉ騎士王」
  「征服王――!」
  ライダーの姿を視界に捉えた瞬間、私の中に生まれたのは聖杯問答において彼が言った『貴様は生粋の王ではない』『偶像に縛られていただけのただの小娘にすぎん』などの言葉が蘇る。
  キャスターに向ける怒りとは別種の怒りが私の背中を押すが、その想いは行動へと反映されはしない。
  何故なら、まず倒すべきはライダーではなく、全てを喰らい尽くさんとする『魔』でありキャスターなのだ。ライダーは紛れもなく倒すべき敵だが、この場においてまず滅ぼさなければならないのはライダーではない。
  無論、ライダーがこの場でキャスターではなくこちらを攻撃するならば我が聖剣でもって斬り捨てるのみが。
  そして私がライダーを攻撃しない最も重要な理由は、御者台に乗るのがライダーとそのマスターだけではない点だ。
  聖杯問答の最中にエドガーと名乗る男が連れて来た少女がライダーのマスターの腰にしがみ付いている。戦場へと女児を連れてくる異常さにライダーへの怒りがまた膨らむが、私の目が向くのはその少女ではない。
  カイエン・ガラモンドが―――新たな拠点を探し当て、舞弥の居場所を聞き去っていったあの男が御者台の上から私達を睨みつけていた。
  異常はそれだけではなく、御者台の上にはもう一人、見た事のない少女がいた。
  少女と言っても、ライダーのマスターの腰にしがみ付いている女児とは違い、身長はライダーのマスターと同じぐらい。つまり私ともほぼ同じ『女性』と言ってもおかしくないが、顔立ちの幼さから『女性』ではなく『少女』の印象が強い。
  その少女は金色の髪を紅い布でターバン状に括り、ベリーダンスの衣装に似た格好でまとめている。
  女児も数にいれて総数五人。アイリスフィールもまた数に入れるならばこちらは二人。数の利は向こうにあり、私の動きを束縛する。
  必要があれば相手の数がどれだけ多かろうと戦うが、まずはキャスターを倒す為に一時休戦を申し出るべきか。
  その想いが言葉になるより早く、ライダーが見知らぬ少女に声をかける。
  「さて、それではお主の力を見せてもらおうか」
  「任せろー、筋肉男」
  「はっはっは、言うではないか」
  ライダーが笑いながら少女に向けてそう告げる。
  「念のために確認しておくが、あのデカブツを相手にこの場をお主だけに任せていいのだな?」
  「あれは一つの『個体』じゃなくて数百以上のモンスターが一つの塊を作る『群体』だー。リルムたちの戦い方は大勢の敵と戦う方がやり易いから、大丈夫、大丈夫」
  リルムと名乗ったその少女はライダーとの仲の良い様子を見せながら、無い胸を張って御者台から飛び降りる。
  そして私達の方へと向かって来た。
  やはり身長は私と同じぐらいで目線もほぼ一緒だ。近付くにつれて腰巻に複数の絵筆が差さっているのが見える。
  敵か?
  武器は何だ?
  そもそも何者だ?
  警戒を更に引き上げているとその少女は私でもアイリスフィールでもなく、ライダー達と逆方向にいるキャスターに―――巨大海魔へと向けて歩き、私達の間を抜けていく。
  立ち止まる気配は無く、私達に見向きもしない。
  ただ悠然と歩いていた。
  「待て、何をするつもりだ」
  「あれを止めるの、邪魔しないでね」
  声をかけても止まる気配は無い。仕方なく私は少女の前に回り込んだ。
  「待てと言っている。キャスターを相手に子供に何が出来ると言うのだ!」
  「そこでボーっと、突っ立ってる年増女よりは役立つんじゃない?」
  少女は見もせずアイリスフィールを指さし、『年増』と言われた瞬間に彼女の顔が引きつるのが見える。
  この少女が何を考えてキャスターと海魔の相手をしよう等と考えているか判らない。けれど、子供が戦場に出てあの怪物を相手にするのはあまりにも危険すぎる。
  ライダーの口振りから事情を知った上でこの場にいるようだが、そもそも子供が戦場に出てくることそれ自体が間違っているのだ。
  王はそれを咎めるべき立場にいる存在。ライダーもまた私と同じように少女を止めなければならない筈が逆に煽っている。
  一体この少女は何者なのだ?
  何故こうも堂々としていられる?
  「邪魔するなら――。似顔絵、描いちゃうもんね」
  少女はそう呟くと腰巻に指していた絵筆を一本取り、私に向けて突き出した。そのまま空中に絵を描く様に筆を動かしてゆく。
  武器には見えない。だがその動きを目で追い、肌で感じ取ると冷たい何かが背筋を通り抜けた。
  ただ筆を動かしているだけにしか見えないが私の直感が危険だと教えている。何もせず、黙って好きにさせていたら、取り返しのつかない何かが起こる、と。
  咄嗟に剣で切り上げようとするが、武器を持たない子供相手に剣を振るうなど騎士にあるまじき行いだと数センチ動くだけで手が止まる。代わりに私の足が強烈な力を発揮し、少女から距離を取る為に大きく横に跳躍した。
  傍目からは逃げた様にも見える無様な姿だ。けれど武器を持たない相手と戦う選択が無いのならば、こうするしかない。
  「失敗しちゃった」
  少女はそう言って筆を腰巻の所に戻す。
  今、何かをしようとした。それは間違いなく私に対する何かであり、確実に不利益を被る何かだ。
  アイリスフィールの近くに跳んだ私の中に怒りが浮かぶ。
  「貴様――、何をしようとした!!」
  「どうでもいいでしょ。もう一度言うけど、邪魔しないでよね」
  少女はそう言うと、私という阻む者がいなくなった場所を歩いて先に進む。
  「リルムはあんたの事もあっちの年増女の事も知らないよ、でもカイエンが二人とも見定めたんだもん。カイエンが言ってたよ『セイバーもあの女も信用できない』って。だからリルムはあんたの言葉なんて聞かないし知らないし信用しないよ」
  「な、何だそれは!?」
  「見ていろー筋肉男。リルム様の力をー」
  少女の言葉がカイエンとの繋がりを証明し、続けて放たれた言葉が私達と会話をする気のない意図と敵対する意思を教えている。
  どうやらリルムと名乗ったこの少女はカイエンから話を聞いただけで私を切嗣や舞弥と同類に見ているようだ。
  違う! 私はあんな下衆な戦い方はしない。我が騎士道は決してあんなやり方を容認しない。叶うならば力ではなく言葉でこの少女を説得したい。
  けれど一度開いてしまった距離を再びゼロに戻すよりも少女が構える方が早い。キャスターの邪悪な魔力とは異なる強烈な魔力の波動が少女を中心に湧き上がる。
  ほんの一瞬前まで何も感じず、聖杯戦争に巻き込まれただけの一般人にしか見えなかったが、今は溢れる魔力が炎のように猛々しく、竜巻のように雄々しく渦を巻いて空に昇っていくのが判る。
  「え・・・?」
  突然の変貌にはアイリスフィールもまた動揺を抑えられなかったようで、口を開きながらぼんやりと少女を見つめていた。驚いたのは私も一緒だ。
  ライダーが何も言わず、カイエンの仲間だと言うのならば一般人ではない可能性は考慮した。けれどこの少女から感じる魔力の大きさが予想以上過ぎた。
  肌を焼く魔力の規模はキャスターの大魔術に匹敵し、無暗に周囲にばら撒くのではなく必要な形に納まって不用意な放出がない。完全に制御されているそれはいっそ清らかでさえあった。
  「そんな・・・」
  呆然と呟いた私の言葉を少女の詠唱が打ち消す。


  「ファイラ!」


  一節の詠唱による魔術行使。前に突き出した手に魔力が集中し、向けられた先にいる海魔へと一瞬で殺到した。
  それは紛れもなく勘の良い者なら見えずとも感じ取れる魔力の奔流であった。
  一瞬後、海魔の表面に人間ほどの大きさの炎が槍のようにそそり立ち覆いかぶさってゆく。
  海魔の表面を一部焼く同時に消えてしまう閃光。それが何本も何十本も何百本も現れ、海魔を焼いていった。
  ドドドドドドと海魔を覆い尽くす炎の雨がライダーの雷鳴にも似た爆音を響かせる。
  山一つほどの大きさの怪物が火に包まれ、炙られ、焼かれ、焦がされ、動きを止める。
  セイバーのクラスが持つ『対魔力:A』。事実上、現代の魔術で私を傷つけることは不可能の筈のそれを突破するであろう威力が私の目の前で作り出された。
  ありえない―――。
 これほどの威力を一工程シングルアクションで発揮できる魔術師が今の世にいる筈がない。この力は英霊と称される我々サーヴァントに匹敵している。
  「ほほう、言うだけの事はある。小娘でなければ我が配下に加えたいんだが・・・、惜しいのう」
  ライダーの軽口が聞えるが、私は目の前にある現実を理解するのに精一杯で応じる余裕はない。
  「どう? まだ全力じゃないから、あいつ位ならリルム達で倒せるよ。ここは任せてっ」
  「よかろう。存分に腕を振るうがよい」
  「偉そうだね」
  「うむ、何せ余は征服王であるが故に」
  山一つ燃やしかねない強大な炎を生み出す少女、その様を見ても何ら驚く様子もなく話しかけるライダー。その何事もない様子が動揺の是非となり、私とライダーを王としての優劣をつけている気がしてならなかった。
  ライダーが臆することなく対応するのならば、私も毅然とした態度を取らなければならない。自分を誤魔化すように強引に心を落ち着かせ立ち直らせると、焦げた怪物の向こう側から声が聞えた。


  「オーラキャノン!」


  肉声ではないが、間違いなく私の耳に届いた男の声。倉庫街の戦いでアーチャーを相手に発せられた声と全く同じものが再び聞こえてくる。
  白い光が頭上に見える怪物の頭頂部付近を突き抜けて空へと消える。
  「おー、すごいぞ元祖筋肉おと・・・マッシュ。あ、でもまだ、動いてる。キャスターはあそこじゃなかったんだ」
  海魔の体に円形の穴が開くのを見て、私はまた冷静さを失って驚きの中に埋没しそうになる。それは阻んだのは少女の声であり、聞こえてきた『マッシュ』の名だ。
  「それにもう回復してる。しぶといなぁ――、もう一回ファイラ!!」
  キャスターの狂喜とは異なる子供らしい笑顔を浮かべながら、自分の数百倍の体積はあろう海魔に向けて少女は再び魔術を放ち。ドドドドドドと炎の槍で海魔の全身を焼いた。
  こちら側と対岸から少なくとも二人が巨大海魔に向けて攻撃を放っている、リルムという名の少女は初見だが、聞こえてきた声と呼んだ名前から対岸にいるのは倉庫街で我々の戦いに中途半端に乱入してきたあの筋肉質の『マッシュ』と呼ばれた男だろう。
  あの男の言葉を私は覚えている。


  「お前らにこの街を壊されちゃ堪らないからな」


  「精々、好きに暴れればいいさ」


  「勝手に殺し合って勝手に死ね、犯罪者共が」


  あの男は戦いに置いて決して逃れられない犠牲すら作り出すなと無茶を言った。
  そしてあの男はこうも言っていた。


  「自分達を優先させて、この地に生きる者達の都合は無視か。自覚がない所はケフカよりタチが悪いな。とんだ暴君様だ」


  そう―――ケフカ、と。冬木を取り囲むほどの巨大な結界を作り出して、聖杯を手に入れたなどと妄言を吐く何者かの名前を告げたのだ。
  あの時は誰の事だか全く判らなかったが、今は幾らか意味を持つ名前となる。この『リルム』と『カイエン』と『マッシュ』が一致団結する集団と『ケフカ』は敵対していると考えられる。
  マッシュは冬木の住民に被害が出ない様、我々の戦いを邪魔しに来たが。それだけが目的の全てではない筈。
  奴らは何故、聖杯戦争に関わろうとする? 間桐に協力し、聖杯戦争を勝利させようとするには行動が積極的ではない。
  一つの疑問が生まれれば、それに繋がって新しい疑問が次々と湧いてくる。全ての謎に答えを出すには情報があまりにも足らな過ぎる。
  今はまだ回答を掴むために考えるべき時ではない―――。ただバーサーカーを有する間桐、目の前のライダー、ライダーのマスターの腰にしがみつくアサシンの少女、この三勢力が共闘を結んでいる可能性は非常に高く、おそらくアーチャーのマスターである遠坂とも組んでいるであろう状況がほぼ確定した。
  敵は多勢。それでも私は負けない。
  「セイバー」
  「むっ!」
  まるで私の思考が一段落するのを待ち構えていたかのように、ライダーが話しかけてきた。
 私が距離を取ったためにライダーの戦車チャリオットからも離れてしまったが、川の中央にいたキャスター同様に話すのに苦労は無い。
  「キャスターの奴は向こうに任せるとして我らは我らの決着をつけるとするか」
  「――何の話だ!」
  「なんだセイバー、もう忘れたのか? 余は言ったであろう『まずはランサーめとの因縁を清算しておけ。その上で貴様かランサーか、勝ち昇ってきた方と相手をしてやる』とな。その様子じゃ見事勝ち昇ったようではないか」
  ライダーはそう言いながら、ランサーを倒してしまったが故に治ってしまった私の腕を見る。
 必滅の黄薔薇ゲイ・ボウによって植え付けられた癒えぬ呪いは解かれ、斬られた左手の親指の腱はアイリスフィールの治癒魔術によって完治している。
  ライダーがランサーと私との決着の行方を詳細に知っているとは思えないが、問題なく動く左手を見てランサーが既にこの世にいないと察したに違いない。
  だが、あの巨大な怪物に見向きもしないその言葉が正気を疑わせる。
  「ライダー、貴様。キャスターではなく私と戦うつもりなのか?」
  「おうとも! あんなデカブツの近くでは落ち着かぬが、まあ構わんだろ。何しろ余は奴らに『倒せる力を見せたらこの場を任せる』と約束してしまったのでな。こうも都合よく邪魔者のいない戦場まで提供されたら決着をつけるしかなかろう?」
  「あのような子供にキャスターを任せると言うのか!!」
  「お主とて小娘だろうて。それに覚悟あってこの戦場に赴いているのだ、余がとやかく言う事ではない」
  確かにあの炎をもって全力ではないと言い切る力と、アーチャーの宝具を軽々と叩く男が共に海魔を相手にしているのならば、倒せないにしても足止めならば十分に行える。
  だが、子供に敵を殺させる―――必要であれば致し方のない事だとしても、幼子の手を血で汚すその事実に私は賛同できなかった。
  ここに集ったキャスター以外の全ての力を集結させて、あの化け物を討つべき時ではないのか? そう口にしようとしたが、ライダーの顔を見て、それを言ってもライダーの闘気が決してキャスターへと向かわないと悟る。
  ライダーは本気だ。
  暴君の治世を由とし、王の風上にも置けぬ外道だとして、ライダーは紛れもなく王なのだ。一度口にした言葉をすぐに撤回する様な無様な真似はすまい。
  「・・・・・・いいだろう。今ここで決着をつけてやる」
  「ようやくその気になったか」
  ライダーがそう言うと、御者台の上に乗りライダーの斜め後ろに立つカイエンが鞘から刀を引き抜いた。



  ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆



  Side - 言峰綺礼





  冬木教会の後片付けを行っていた筈の聖堂教会のスタッフは全て消えた。
  元々教会へ立ち入る一般人の数は限られていたが、周囲にいたであろうその者達も全て消えた。
  一瞬にして別の世界に迷い込んだような感覚を味わい、間を置かずして何者かの声が私の元へも届く。
  聖杯の獲得。サーヴァントが六騎健在の今、通常であれば戯言だと断言しただろう。だが私がそれを微かに正しいと感じ取ったのは、その声に聞き覚えがあったからだ。
  その声は決して嘘を言っていないと理解する。過程を飛ばし、ただ答えのみを判ってしまうかの如く―――。
  「行くのか? アーチャー」
  「当然だ、あのような戯れ言を放置しては王の沽券に関わる」
  そう告げたアーチャーは黄金の鎧を身に纏い、冬木教会から出撃した。
 外に出たアーチャーは王の財宝ゲート・オブ・バビロンを発動させ、一際巨大な黄金の円を生み出した。その中から光り輝く黄金の船が現れた時はさすがの私も驚いてしまった。
  名を『ヴィマーナ』。古代インド神話に記された飛行機械に乗って戦い始めたが、その中に私が割り込める余地は無い。
 さすがに空中で戦われては代行者として鍛え上げた肉体も、三年で培った魔術の腕も存分に発揮できない。辛うじて黒鍵での投擲による援護は行えるが、アーチャーの王の財宝ゲート・オブ・バビロンから撃ち出される宝具に比べれば威力は格段に落ちる。
  今は下手に手を出すべき時ではない。
  状況を見極める為、私は冬木教会の上空に突然現れたあの男―――間桐臓硯でありなら、決して間桐臓硯ではない『ケフカ・パラッツォ』と名乗った男とアーチャーとの戦いを観察する。
  やや、アーチャ―が優勢か。
 アーチャーの王の財宝ゲート・オブ・バビロンから宝具が撃ち出されれば、ケフカ・パラッツォの背後に現れる王の財宝ゲート・オブ・バビロンのような黒い穴から戦闘機に似た何かが現れて迎撃する。
  アーチャーの宝具ほどの威力は無く、一機一機が現れる度にアーチャーによって撃ち落されるが、どれだけ宝具を撃ち出そうとも同数の敵機が現れて自爆して威力を殺す。
  尽きぬ宝具の群れ。
  尽きぬ機械の群れ。
  辛うじてアーチャ―が優勢に見えるが、状況はほぼ互角といっても過言ではない。
 英雄王ギルガメッシュの王の財宝ゲート・オブ・バビロンに匹敵するあれはどんな魔術なのか?
  次々と地面に落ちてくる敵の残骸を視界の片隅に収めながら、何とかどんな魔術を使っているのか見極めようとするが、あれが宝具と同等の何かである以上。正体を探る為の切っ掛けすらない状態では予測すら立てられない。
  そもそもケフカ・パラッツォの足場になっている魔獣が何であるかすら私は判っていない。
 気がかりなのは、アーチャーが拮抗状態を作り出されて黙っていられる性質ではない事だ。時間経過と共に王の財宝ゲート・オブ・バビロンの砲門が次々と数を増しているが、それに応じて敵もまた同じだけの砲門を空に描く。
  最早、冬木教会の上空は個人の戦闘ではなく、軍隊での戦争へと様変わりしている。太陽の輝きを超える黄金の輝きと夜空に似た黒い穴が空を埋め尽くしていた。
  アーチャーの宝具でも、敵の兵器でも。流れ弾の一つが冬木教会にぶつかれば、その瞬間に私の命は消えてもおかしくない。
  そしてこのままいけばアーチャーがこれまで秘していた奥の手を晒す可能性も大いにある。あの対界宝具を使った時、下にある冬木教会も私ごと消滅させられるのではないか?
 マスターとなり契約を交わしたが、あのアーチャーが私の命を考慮するとは思えない。むしろ『オレの戦いの邪魔だ』と一蹴するだろう。
  監視位置を変えるべきか?
  そう迷った私の背後に―――何者かが現れた。
  「むむむむほほほほほほほほほほ――っ!!!」
  サーヴァントの実体化に似た唐突な現れ方でそこに出て来たのは見覚えがあり過ぎる男だった。
  いや、ほんの一秒前に上空にいるその男を私は肉眼で確認しているのだが、どういう理屈かその男は間違いなく私の前に立っている。
  そう―――。間桐臓硯に成りすまし、ケフカ・パラッツォと名乗った男が。
  「お前は・・・」
  「お元気そうですねい、言峰綺礼。呼ばれてないけど飛び出る、魔導士ケフカ参上!」
  ピエロと思わせる奇抜かつ色彩豊かな衣装は見間違えようがなく、化粧で地肌は見えなくとも顔立ちは私が見ていた顔と一致する。
  そして教会の窓の外からは今も戦いの音が聞こえて来て、見なくともアーチャーと戦闘している敵の存在を教えている。
  私は黒鍵を投げようとして―――ある可能性に辿り着く。
  「・・・幻覚か」
  「やはり察しがいい。流石はこの私の同族、理解が早くて助かる」
  郊外にあるアイツベルンの森で同じような事があったので、別々の場所に同時に現れる説明はついた。
  一瞬、贋者や別人の可能性を考えたのは、アインツベルンの森で対峙した状況よりも濃密な存在感を作り出しているからだ。そしていきなり変わった口調に面食らったのも理由の一つ。
  そもそもこいつは何者なのだ?
  「さてはて、本体が頑張ってる間にお誘いに来ましたよ。言峰綺礼、私とこの結界の中を巡って楽しい楽しい見物ツアーに行きませんか」
  「何だと?」
  「だ、か、ら。ハカイ、ハカイ、ハカイ、ゼ~ンブ、ハカイ。ハカイを見に行こうと言っているのだー」
  「貴様は間桐に協力していたのではないか? それが何故、今になって私の元に現れ、そんな事を言う」
  「僕ちんが? 間桐に? なーにを言ってるのかねぇ、この人はー! そーんな訳無いじゃ、あーりませんかー!!」
  笑いながら奴が言う。
  踊る様にその場で回転して笑う。
  「雁夜はこの狂った聖杯戦争の中で存分に踊ってもらう、そう言った筈だじょ。協力するなんて一言も言ってませんよ、ヒッヒッヒッヒッ」
  私は何をもって悦をするか? その回答を得る前だったならば、こんな話をする前にさっさと黒鍵を投げつけて、幻覚程度全て殺し切っている。
  そうとしないのは、私の感覚が―――これも説明のしようが無いのだが、私の全てがこの男の声を聞けと囁いている。
  私がこの世界に在る意味を知る為に聞くのではない。この男の言葉を聞いておけば、もっと面白い事が起こる。
  そんな予言めいた何かが私を突き動かすのだ。
  「何故、私にそんな誘いをかける? 聖杯を得たと言った貴様の目的は何だ?」
  「質問してばかりだね。まあ、いいでしょ。まずは本体が一番厄介な金ぴかを足止めしてる間に色々見物する。中には僕ちん達の好きなハカイもあるから見て楽しもうって言うのが一つ。御仲間がいないと一人は寂しいからねー」
  これほど『寂しい』という単語が似合わない男はいないだろう。
  私は咄嗟にそう考えたが、それは言葉にせず続きを促す。
  「目的は最初から言ってるだろう? ハカイ――壊すだけ。その道中に壊れていく楽しそうな事があるなら見なければ損じゃないか。お前も見たくないのか? 人が、物が、命が、夢が、希望が、ありとあらゆるモノが、壊れゆく様を」
  「・・・・・・ああ」
  「そうそう、自分を知ったなら素直になるといいじょ。それを見れば貴方も私も満たされていくー!!」
  アーチャーがそうであったように、この男も私が私自身の本性に気付く前からそれを察していた節がある。だからこそ肯定を即座に口に出来ず、会話の主導権をあちらに持って行かれる羽目になってしまった。
  不可解。口調の安定しないこの男を言い表すのにこれほど的確な言葉はない。
  そして欠片も信用できないこの男の言葉に耳を傾けている私自身もまた不可解だ。
  何故、私は好きにさせている? 幻覚ならば、私の黒鍵でも容易に貫ける。狭い室内ならば、逃げられる前に攻撃するのは容易い。
  だが私はそれをしない。ただ言葉で語り合うだけだ。
  何故、私はケフカ・パラッツォの言葉が全て真実であると確信している?
  その理由は何だ? この思いは何だ? 何故、私はこんなにもこの男の言葉に惹かれている?
  悪魔の誘いのようなアーチャーの言葉とは異なる何かがケフカ・パラッツォの言葉にはある。
  私を惹き付ける何かがある。
  「おっと・・・もうこんなに時間が経ってますね」
  そう言うと、この男はつけてもいないくせに手を横に曲げてそこに腕時計がある様な動きをした。
  それに何の意味がある? 不可解さは増すばかりだが、それと同じ位に語られた言葉を無視できない私が存在する。
  「ぐずぐずしていては第一演目を見逃してしまいます。さて、言峰綺礼、もう一度言おう、一緒にハカイを観に行かないか? 今なら死のある破壊も、人が壊れゆく様も、邪魔者なしで見放題だ! どうするぅ?」
  「・・・・・・・・」
  「一秒待ちます」
  「なっ!?」
  「はい、ゼロ――。時間切れなので強制的に行ってしまいましょう」


  「デジョン」


  危険を感じ取ったのではなく、私に染みついた代行者としての感覚が咄嗟に黒鍵を投げつけさせた。
  頭部と首の付け根と心臓、合計三か所に向けて投げた黒鍵が当たる直前、ケフカ・パラッツォを中心にして部屋の中に闇が広がる。
  それが何らかの魔術であると察した瞬間、私は闇に呑まれた。



  ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆



  Side - 間桐雁夜





  遠坂時臣は自分の前に魔術陣を展開し、こちらの動きを牽制するように遠坂の家紋を模したそれを俺に見せつけている。
  こいつは馬鹿じゃなかろうか――。まず俺はそう思った。
  左手に持ったステッキを振るほんの一動作で展開されるのならば、おそらくステッキに埋め込まれてある宝石の中に術式を組み込んでおいて、詠唱を必要としない魔術礼装に仕立て上げるんだろう。
  これは俺が向かってる途中で展開する必要など無い。逆に俺に対して『こういう守りがある』と教えてしまっている。
  手の内は可能な限り敵に見せない、これは鉄則だ。遠坂時臣もそれが判ってるんだから倉庫街でアーチャーを撤退させた筈なんだが、自分が戦う状況になると忘れてるらしい。
  少なくともゴゴなら俺が斬りかかるタイミングよりも一瞬早く魔法を発動させて、手の内をぎりぎりまで敵に悟らせないように戦う。俺はそれを何度も何度も味わってきた。
  例えば魔剣ラグナロクが脳天に振り下ろされ始めたところで透明化の魔法『バニシュ』を発動させ、俺の剣が空振りした所で攻撃を叩きこまれて悶絶する―――、とか。
  例えば氷属性の高位魔法『ブリザガ』を使おうと俺が『ブリザ――』とまで唱えた瞬間に魔法を跳ね返すバリアを作る魔法『リフレク』を唱え、魔法が発動した瞬間に跳ね返されて体が凍る―――、とか。
  攻撃を仕掛ければ、多種多様な防御で後の先を取られるのを何度も何度も味わった。
  そのお蔭で敵の動きを常に注視する癖がついて、おぼろげながら敵が何をやってくるかを理解できるようにまでなった。未来予知などと大層な事を言うつもりはなく、あくまで『何となく』の自分勝手な予測に過ぎないんだが、ただ攻めたり守ったりの中に攻防の読み合いが加わった。
  ただし、ゴゴが何をしてくるのか読めたとしても、そんな事は関係なく俺を一撃で殺す技を何度も何度も味わってきたんだがな・・・。『メテオ』とか『デス』とか『夢幻闘舞』とか。
  一秒もない短い時間の間に走馬灯のように過去の記憶が蘇る。その体験は遠坂時臣がうっかり手の内を見せたとしても、まだ奥の手を隠し持っているかもしれないと俺に思い出させた。守りを固めたと見せかけて、その奥に更に強力な守りを隠し持っているかもしれない。
  油断すれば死ぬ。それが戦い。
  戦いにおける重要なことは『観察』、そして相手の土俵で勝負せずにこちらが優位になるような状況へ引きずり込むこと。ただし、規格外の力を持ったゴゴが相手だと、俺が十全に力を発揮できる状態に引きずり込んでも力ずくで突破される場合があるので、その場合はもうどうしようもない。
  俺はあえて魔剣ラグナロクを上段に構えた状態で近づき、あと2メートルほどの距離まで踏み込んだところで横に跳んだ。
  遠坂時臣が展開した魔術陣がどんな効果を持ってるのか? そして他の手も使ってくる可能性を考慮して剣以外で攻撃する。
  「ブリザド」
  前に駆ける動きがそのまま横跳びに変わり、急激な変化で足の骨が悲鳴を上げる。掲げたままの右手には魔剣ラグナロク、遠坂時臣に向けた左手の先から水色のレーザーが飛び出した。
  低位の氷属性魔法『ブリザド』は遠坂時臣の前にある魔術陣の端に衝突し―――。ジュッ! と音を立てて消滅する。
  本来なら敵に衝突すると人ぐらいの大きさの氷柱になるんだが、そうなる前に術そのものを消されたらしい。
  魔術の発動そのものを封じる効果か、それとも術式そのものを焼いたか。遠坂時臣の魔術属性が『炎』なのを考えると、後者の可能性が高い。
  こうなるとあの魔術陣が発動した後の魔術に対してどれだけ耐性を持っているかが気になる。俺の魔術で突破できるのか、魔剣ラグナロクで切り裂けない強度なのか。俺にできる数少ない攻撃方法でどれほどの効果があるか、その見極めが勝敗を分ける。
  俺は足を止めずにそのまま壁際に沿って走った。遠坂邸は間桐邸に匹敵するかなりの大きさを誇ってるんだが、屋内なので走るにはさすがに狭い。転ばないように跳んだ勢いを殺さずに走り続け、俺の方を向いて魔術陣も一緒に動かす遠坂時臣に向けてまた攻撃を放つ。
  「ブリザド!」
  今度は遠坂時臣ではなく魔術陣そのものに向けての一撃だ。
  衝突する直前に『ブリザド』は威力を発揮して氷の柱に姿を変える。『凍らせる』ではなく『氷の塊をぶつける』に変化してるので、魔術というよりも鈍器に近い。
  それが遠坂時臣の前にある魔術陣に衝突し―――。また、ジュッ! と音を立てて消滅した。
  正直、こんなにあっさり消されると遠坂時臣と俺との間にある魔術の腕前の差というか、積み上げた執念というか、低位の魔法が通じないのはしょうがないとか、諦めと憎しみを混ぜ合わせたもやもやした気持ちが浮かび上がってくる。
  けれど戦いにおいてそんな考えは邪魔でしかないのでそれ以上は考えない。少なくとも遠坂時臣が展開した魔術陣には俺の魔力で作った1メートル大の氷柱を一気に溶かせる火力と魔力が込められてるのは確認できた。
  氷を一瞬で溶かす熱量から考えて魔術で熱を外には放出してないが、魔術陣を形成している炎の温度は数百度はある。無策で突っ込んで地肌が当たれば、その瞬間に黒焦げ死体が一つ出来上がるに違いない。
  ただ、ほんの数センチほどだったが、衝突と同時に魔術陣が下がったのを俺は見逃さなかった。物理的な塊に対する耐性はあっても、絶対ではない。タンクローリーの衝突で遠坂時臣が呆気なく吹っ飛ばされたのもその辺りに理由があるんだろう。
  魔術で戦えば確実に向こうに分があるので、魔術的な攻撃よりも物理的な攻撃の方が効果はありそうだ。
  時間が経つにつれて新たな情報が俺の中に集まっていく、当然向こうも同じようにこっちの情報を集めてるんだが、まだ攻撃には出てこない。
  見極めの為に意識を割いてるのか、それとも防御に徹してこちらの力を引き出そうとしてるのか、呪文詠唱を一節だけで魔術を発動できると思ってなかったのか。遠坂時臣の心情などどうでもいいので、それ以上考えるのを止めた。
  攻撃に出ないならこっちは攻撃させてもらうだけだ。
  俺は焼けた遠坂邸の中を更に速く走り始める。
  速く、速く、速く。
  ただ走るだけでなく、敵から一定の距離を保ちながらもフェイントを織り交ぜて止まりそうな動きと上下左右の動きも組み込んでいく。アサシンが見せた速さとは違う死角へと潜り込む技術を意識しながら、もっと速く、時に遅く、壁すら足場にしてあちこちを動き続ける。
  部屋の中央にいてだんだんと俺の動きを追えなくなってきた遠坂時臣を見て、俺は最初に魔術陣を展開した時にも思ったん感想をもう一度考える。
  遠坂時臣は魔術師だが戦士ではない。
  魔術を用いる戦いならかなりの強者なんだろうが、五感を用いての戦い―――魔術師連中に言わせれば『野蛮』や『下種』と言われる戦いでは達人よりも素人に近い。
  まあ、俺は全く知らなかったんだが、ゴゴが調べ上げた遠坂の悲願は『根源への到達』だから、達成のために筋力や体力より魔術への鍛錬を重視してもおかしくないから、戦士じゃなくなるのは当然だ。
  その結果が今。
  確実に俺の姿を見失い、辛うじて残滓だけを目で追ってる遠坂時臣の死角から三度目の攻撃を仕掛ける。
  「ブリザドッ!!」
  声を耳で聞いて振り返る頃にはもう遅い。魔術陣は遠坂時臣の前に展開されてるので、俺の左手から打ち出された水色のレーザーは―――途中で氷の柱に変わる鈍器は遠坂時臣の後頭部に激突する筈。
  やった!!
  胸の奥から勝利への高揚が湧き上がるが、それは一気に冷やされた。
  俺を落ち込ませたもの。それは遠坂時臣の目の前から一瞬で背後に移動した魔術陣だった。炎の魔術陣は氷柱を受け止めるとこれまでと同じように消滅させてしまう。
  術を起動させる段階で予め『自律防御』を組み込んでたらしく、術者に危機が迫れば自動的に守るように設定されている。あれが遠坂時臣の意思で動かされる魔術陣だったなら確実に攻撃が通った筈、それを阻まれた衝撃で俺は足を止めてしまった。
  止まった場所は最初に遠坂時臣と話し始めた箇所から少し横に移動した位置で、元の場所に舞い戻ったと言ってもいい。
  「君の力はこの程度かね?」
  奴はアサシンを通じて俺とバーサーカーがアインツベルンの森でやった戦い方を知ってるであろう口振りで話す。
  もっと高位の魔術を使えるのに使わないのかね? 奴はそう言ってる。
  「ヒヤッとしたんじゃないか? 振り返ったお前の目が驚きで開かれてたぞ」
  挑発には挑発を返す。
  言われるまでもなく、今まで打ち続けていた『ブリザド』は氷属性の低位魔法で、俺が使える魔術の中には更に高位の『ブリザガ』がある。この部屋ごと全て氷で閉じ込めるぐらい簡単にやってのける大きさの氷塊を作り出せるんだが、その規模に比例して消費魔力がとてつもなく多い。
  何事もなければあの魔術陣を突破できるかどうか『ブリザガ』で試してみたいんだが、一つ問題がある。それは少し離れた位置で戦ってるバーサーカーだ。もっと正確に言えば、バーサーカーが戦えば戦うほどのマスターの俺から魔力を吸い上げてるから、『ブリザガ』がそもそも使えるか怪しい。
  アインツベルンの森での実戦で、高位の魔術を使えばその瞬間にバーサーカーへの魔力供給が困難になるのが証明された。まだ使ってるのが低位の氷魔術だから何とかなってるが、長引けばバーサーカーに魔力を吸われ尽くして供給も魔術行使も覚束なくなる。
  今も『ブリザガ』を使えば一歩も動けなくなる予感があった。
  だから俺は遠坂時臣に向けて攻撃魔法を―――放たず。背後の空間に向けて別の魔法を使う。
  「アスピル――」
  「バニシュ」
  前はキャスターが呼び出した怪物から魔力を吸い取って補充したが、今は別の所に魔力補充タンクみたいな強力な奴がいる。
  魔力を吸われる対象が抵抗するか否かでもらえる魔力が変動するのか。それとも何度かの実戦で俺の技術が向上したのか。魔力吸収魔法『アルピス』は術をかけたモノから魔力を吸い上げて、俺の魔力を満タン近くまで満たしていった。
  急激な回復は体の中に一気に見えない水を流し込まれたような調子で気持ち悪かったが、失われた魔力を取り戻した事実で何とか持ち直す。これは害じゃない、と自分に言い聞かせる。
  「むっ・・・」
  いきなり持ち直した俺と、何もない場所から魔力が流れた現象、そこから声が聞こえた事実も合わせて、遠坂時臣が不可解なものを見た顔になる。
  だが目を凝らしても俺の背後に拡がる遠坂邸の庭には何もない。そこから聞こえた女性の声が何なのかを知ろうと目を凝らすが見えない。
  それもその筈、そこには肉眼で見えないモノが―――透明化の魔法『バニシュ』で隠れたゴゴが立ってるんだからな。
  物理的な攻撃に対してほぼ絶対的な無敵を誇る『バニシュ』なんだが、どんな魔法であっても効果を発揮してしまう弱点もある。
  攻撃魔術だろうと補助魔術だろうと回復魔術だろうと、一度でも喰らえば透明化は解除されて元の状態に戻ってしまう。さっき俺が使った『アルピル』もその例にもれず、ゴゴが自分にかけていた『バニシュ』は解除されてしまった。
  だから、そのすぐ後に改めて魔法をかけて、また自分を透明にし直す必要がある。
  俺の戦いの邪魔をしないために―――。
  もしかしたら遠坂時臣は透明になる寸前のゴゴの一部分ぐらいは目で捉えたかもしれないが、今はもう何も見えていない。状況を監視する為にサーヴァントの警戒すら突破して透明であり続けた魔法だ、しかも使い手が本家本元のゴゴならその効果は絶大。
  超能力に分類される『魔眼』。その中でも、本来見えないモノを視る『淨眼』や遠隔視と透視が可能な『千里眼』ならゴゴの姿を見分けられるかもしれないが、遠坂時臣にはそんな物は無い。
  「姿を隠しての協力か。到底、優雅とは言い難い所業だな、間桐雁夜」
  「攻撃に参加してないだけ感謝しろ。この場は俺一人で十分だとよ」
  見えないが間違いなくそこに敵がいる。ようやくその事実に気が付いた遠坂時臣の顔が少し歪んだ。
  だが俺に言わせれば、間桐に協力者がいるのは倉庫街での戦いを終えた後にほぼ確定していたから、俺だけがバーサーカーを引き連れて遠坂邸にいる状況そのものをおかしいと思うべきだ。
  見通しが甘すぎると言ってもいい。
  俺が一人で遠坂時臣と対峙してるように見える状況が必要だったから、俺一人が遠坂時臣の前に立ってるように見えたかもしれないが。そんな訳がない。
  俺はこれまで自分の未熟さをゴゴに助けられる形で補填してもらっていた。その状況が無ければ聖杯戦争を生き残ることそれ自体が困難を極める。そんな俺が単独行動する筈がないだろうが。
  そんなことも気づかなかったのか? 馬鹿かお前は?
  「遠坂時臣。聖杯戦争に協力者は卑怯だって言うか? 監督役に言峰綺礼、それからアサシンにしっかり協力してもらった遠坂の当主様よ!?」
  内心の侮蔑をそのまま言葉に乗せてみると反論はなかった。
  あちらがこちらを調べてるように、こちらもあちらを調べてる。少し考えれば判る筈の事を想定してなかったのか、遠坂時臣の顔が『何故、知っている?』と言ってる気がした。
  きっとアサシンの隠密性を非常に信頼していたんだろう。
  まあ暗殺者の英霊を超える超常存在なんて、俺も実際に会わなかったら絶対に信じなかっただろうけど。
 「――Einascherung炎よ、敵を葬れ
  二秒ほど間を置いた後、遠坂時臣は呪文を一節唱えた。奴の前に浮かぶ魔術陣がそれに応え、外周を作ってた火が蠢く。
  それは下を中心にして左右へと広がり、円状だった炎が一本の線へと変わる。そして、そのまま前に―――俺の方に飛んできた。
  「なっ!?」
  攻防一体と考えていた魔術が防御ではなく攻撃に変化した事実に驚きはなかった。魔術師は近距離での戦いよりも遠距離の攻撃を好むので、炎を飛ばしてくる事にも驚かない。
  俺に声を上げさせたのは、その攻撃が部屋の端から端まで広がった広範囲の攻撃であり。俺に魔力を回復させてくれたゴゴもまた攻撃範囲に入ってるのが一目で判った事だ
  ゴゴの心配はするだけ無駄だ。
  一瞬すら必要とせず動揺を激昂に変える根幹。
  驚きながらも遠坂時臣の魔術の前に飛び出す理由。
  「おおおおおおおおおおおおおおっ!!!」
  ゴゴがそこにいるから俺が行くよりも鉄壁の守りがあると理解しながら、俺は自分が何をしてるのか自覚する前にゴゴに向かう炎の前に飛び出した。
  迫り来る炎は早く、魔術を発動している時間は無い。だから俺は魔剣ラグナロクを横に構え、敵を斬る技で炎を斬る。
  「スピニングエッジ!」
  自分を中心に据えて剣を横に構え、超高速の回転で迫り来る炎を剣と風圧で薙ぎ払う。傍から見れば独楽みたいに移動しながら回る俺が出来上がってるだろう。
  ただ俺は技の失敗を悟る。
  元々未熟な俺がこの技を使いこなせてなかったのが原因か。迫る炎と比較して技を放ったタイミングが遅かったからか。遠坂時臣の炎の魔術が俺の想定よりも強く大きかったからか。
  一瞬じゃあ答えにはたどり着けないが、切り裂こうとした炎が俺の体を焼き、後ろに流れていく火を見てしまうのは一瞬でも十分すぎた。
  「熱ッ!!」
  「リフレク」
  大部分は魔剣ラグナロクで切り裂けたので直撃はしなかったが、小銭ぐらいの大きさになった火種の幾つかが俺のパーカーごと皮膚を焼いた。
  燃え易い布地を透過するように焼いた威力。やはり普通の火よりも超高温なのは間違いなく、普通の火なら手で払う程度で無くなる小ささだが、その勢いは皮膚どころか肉まで焼きそうだった。
  俺は中途半端に発動したスピニングエッジの勢いそのままに床に転がって体にまとわりつく火種を床に押し付ける。ゴロゴロゴロと回転しながら遠坂邸の壁に激突し、隙を見せないためにすぐに起き上がる。
  熱い。痛い。辛い。
  パーカーにできた幾つもの穴とその奥にある焼けた俺の肉を見て絶叫しそうになるが、この程度ならゴゴとの修行で何度も何度も味わってきた。それどころかもっと酷い目にだって何度もあってきた、俺にとってはその程度だ―――と自分に言い聞かせて意識を奮い立たせる。
  回復魔法を使ってないから痛みは全く引いてないが、痛みを押し殺し剣を構えて遠坂時臣を睨み付ける程度は出来る。
  風圧で押しのけられなかった炎、剣で切り裂けなかった炎、そして俺が守りきれなかった部分を普通に通り抜けていった炎を目で追おうとするが、遠坂邸の壁が邪魔になって炎が向かった庭が見えなかった。
  ただし、俺が転がる直前にあらゆる魔法を弾き返す反射魔法『リフレク』を使うゴゴの声が聞こえたから、何もせずに敵の炎を喰らった訳じゃない。と、不安一色ではなく軽い安堵は覚えた。
  その安堵を強固にするように、庭の方に向かった炎の一部が反射したらしく。炎の一部が遠坂時臣に向けて戻ってくるのが見えた。全体からすればほんの一部分で火力もたき火程度しかない弱まった炎だったので、遠坂時臣は魔術陣を前に突き出して炎を受け止める。
  そして跳ね返ってきた炎を吸収しやがった。
  魔術陣の一部だけ炎が足りなくなった部分に跳ね返ってきた炎が吸い込まれていく。
  打ち出された炎も、俺が消し飛ばした炎も、跳ね返ってきた炎も、消えた。
  「熱いな・・・」
  俺は呟きながらも剣を構え。遠坂時臣を前に、壁を背にしてずりずりと移動する。
  死角になってたから壁の向こう側がどうなってるか確認できない、『リフレク』の効果で無傷であろうと可能性が高い予測はあったが、この目で見たい衝動を抑えられなかった。
  主に俺よりも庭の方を見てる遠坂時臣から一時も視線を放さず、少しずつ少しずつ移動して庭が見える位置まで自分の場所を動かした。
  そんな俺が見つける者、それは俺がゴゴが作り出す絶対的な安全を理解しながら無謀に飛び出した理由―――。
  遠坂邸の庭には透明化が解除されてしまったティナ、そして桜ちゃんがいた。





  「桜・・・・・・」
  俺は遠坂時臣が桜ちゃんの名前を呟くのをしっかりと聞いた。
  どうして桜がここにいる? そんな風に驚いてるように聞こえたが、その声が、表情が、驚く佇まいが、遠坂時臣としての在り方全てが俺を苛立たせる。
  俺は横目でちらりと庭の方を見て、ティナが桜ちゃんを前に置いて両手で抱きしめている姿を確認した。
  反射魔法『リフレク』をかけたから透明化が解除されたのか。あるいは遠坂時臣の魔術が桜ちゃんとティナを傷つけて、その拍子に透明化が解除されたか。もしかしたらティナが自分から魔法を解除したか。
  経緯を見てない俺には想像しかできないが、とりあえずティナと桜ちゃんの二人とも大きな怪我のない姿を肉眼で確認した。ゴゴの強さを知ってる俺にとっては当たり前にも思える光景だが、桜ちゃんの無事はそれだけで俺にとっては朗報だ。
  遠坂時臣が見る桜ちゃんは俺の立つ位置からは少しずれているので、奴の視点では中央に桜ちゃんとティナを置いて、少し外れた位置に俺を置いて見てる筈。
  「――元気そうだな」
  そう桜ちゃんに向けて声をかける遠坂時臣の姿に更に苛立ちは増していく。
  魔術師の遠坂時臣が桜ちゃんを間桐に養子に出しておきながら、まだ父親面しようとするその性根にも苛立った。父親としてではなく、魔術師として間桐へ養子に出した時に遠坂時臣と遠坂桜との線は切れている。
  辛うじてそれを繋げているのは当人たちの意思のみ。だから余計に奴の『娘に再会した父親』の顔を壊したくて仕方がない。
  何よりこいつは判っているんだろうか? 俺に魔力を渡してくれるためにティナはそこにいてくれるんだが、遠坂時臣はそのティナを攻撃した。つまり一緒にいる桜ちゃんも攻撃したって事だ。
  今、遠坂時臣が自らの手で娘を殺そうとしたのに、どうして感動の再会を思わせる雰囲気を出せる? 元気か否か何か言う前に謝る方が先だろう。
  「お、とう・・・さん――」
  敵を前にしてるから俺はティナと桜ちゃんの方を何度も振りかえれない。それでも聞こえてくる桜ちゃんの声が決して喜びを含んでない事を察するには見なくても判る。
  俺にとってはそうでもないが、遠坂時臣にとっては予期せぬ邂逅だ。桜ちゃんを気遣う様子を見せつつも、何を話せばいいか迷っているように見える。
  だからこそ会話は桜ちゃんから始められた。
  「ど、う、して?」
  「むっ?」
  「どう――して、わたし・・・間桐に、行かなきゃ・・・、いけなかったの?」
  これも聞くだけで判る。今、桜ちゃんは涙を流しながら遠坂時臣を見つめている。
  ゴゴのおかげで今はもうほとんど聞かなくなったが、涙声は第三者の立場で聞いていても楽しいものじゃない。
  後ろから聞こえてくる途切れ途切れの声を耳にしながら、俺はただ遠坂時臣を睨みつけていた。
  「魔術なんて知らなくてよかった。間桐になんて行きたくなかった」
  少しずつ少しずつ桜ちゃんの声が大きくなっていく。
  「ずっとおとうさんとおかあさんと、おねえちゃんと・・・、いっしょに・・・。いっしょに・・・、ずっといっしょにいたかった!!」
  「桜――」
  そこまで言われた所でようやく桜ちゃんがここにいる現実を受け入れられたのか、遠坂時臣の雰囲気から動揺が消えた。
  話している間に斬りかかれば楽に倒せたかもしれないが、俺が間桐に戻った最たる理由はこの先にある。俺の願いは桜ちゃんと遠坂時臣が話す場の先にある。
  桜ちゃんは言った。遠坂時臣、お前は何を返す?
  この場にいる全員が黙り込んだ中―――遠坂時臣の言葉がこの空間の中に満ちた。


  「その考えは間違っている」


  「え・・・・・・・・・?」
  何の感情も宿さない桜ちゃんの声が後ろから聞こえた。
  「まだ子供のお前には判らないかもしれないが、お前の中に眠る魔術の才能は私を軽く凌駕する凄まじいものだ。魔術のことをお前に知らせることのないまま育てる道もあったかもしれないが――。桜、お前の才能は『知らない』で周囲の危険から守れるほど小さくは無い」
  ほんの少し前に俺に言ったように、遠坂時臣は自分の言葉に絶対的な自信を持って告げる。
  俺が背後に感じる、何を言われているか判らない―――あまりにも予想外過ぎて、理解すら出来ない思い―――。それをこの男は全く感じ取ってない。
  ただただ、自分の正しさに従って遠坂時臣は言う。
  「魔術は一子相伝であり、遠坂の魔術は凛に継がせるであろう事は以前から決まっていた。そうなれば自ら魔術を学びその才能と向き合って自分にも他人にも屈しない道は遠坂では作り出せん。間桐へ養子へやったのは、お前を守る為だ」
  そして遠坂時臣は最後の言葉で締めくくった。
  「いつかきっとお前にも判る時が来る」
  「・・・・・・・・・・・・」
  なるほど。人生を魔術に捧げ、思想の根幹を魔術師で染めた遠坂時臣らしい言い草だ。反吐が出る。
  だが俺も間桐の魔術をほんの僅かでも知る男だ。遠坂時臣の言い分の中にほんの欠片ほどの正論があるのは素直にそうと認めよう。
  それでもその言葉は愚策中の愚策と断言してやる。愚かすぎて笑いすらこみあげてきそうにある最悪の言葉を言いやがった。
  桜ちゃんは『魔術師』ではなく『遠坂の娘』として家族と一緒にいる事を望んだんだ。この一年、間桐で明るく過ごしたとしても、それは家族じゃなく似た別の何かだった。
  寂しいけど、今の桜ちゃんは俺やゴゴよりも遠坂の家族である事を望んだんだ。
  それを間違いだと?
  父親として娘から伸ばされた手を振りほどくだと?
  『遠坂の娘』と『桜ちゃんの魔術師の才能』が切っても切れない関係だったとしても、それは父親として言ったらいけない言葉じゃないのか?
  親からの否定。子供にとってこれ以上辛いものは無いと思う。捨てられた、と思ってもおかしくない。家族として共に過ごした時間が楽しければ楽しいほど、それは絶望へと変わる。
  桜ちゃんは俺のように最初から間桐臓硯に何の価値も見出してなかった男とは違うんだ。家族に希望を持った子供なんだ。
  「もういい」
  気が付けば、俺は遠坂時臣に向けて、そう言っていた。
  それ以上、囀るな。
  声を出すな。何も言うな。
  桜ちゃんを傷つけるな。
  桜ちゃんが間桐ではなく遠坂を選んだ時、ほんの少しでも『遠坂時臣が桜ちゃんを守る』なんて未来を想像した俺自身を殺してやりたい。
  「間桐臓硯が養子を欲したのが桜ちゃんの才能を伸ばして魔術師として育てる為だとでも思ってたのか? あの男には自分の延命と栄華しか興味が無い。桜ちゃんは魔術の鍛錬にもならない虐待で泣いたんだぞ」
  もしあのままゴゴと出会わなければ、桜ちゃんも俺も色々なモノを喪って今を迎えただろう。
  もしかしたら一年すら生きれずに死んでいてもおかしくなかった。折角手に入れた桜ちゃんの体は殺さなくても、間桐臓硯が桜ちゃんの心を壊しても不思議はなかった。
  間桐は地獄だ、そういう場所だ。望まずあそこに放り込まれた桜ちゃんがほんの数日でも生きたまま地獄を見たのは想像に難くない。
  俺が間桐雁夜だから―――誰よりも間桐を知るから、よく判る。
  「間桐雁夜。父と娘の話に横槍を入れるな、黙っていろ。魔術の鍛錬が過酷なのは魔道から逃げた貴様とてよく知っている筈。決して楽な道などないのだよ」
  「それ以上囀るな。貴様が黙れ、遠坂時臣! この薄汚い魔術師がっ!!」
  怒りを糧に、けれど決して激情せずに心は穏やかに。ただ遠坂時臣を殺す為だけの最善を作り出せ。
  これ以上、奴の言葉を聞いても桜ちゃんをただ悲しませるだけだと俺は悟った。
  何より遠坂時臣から答えを聞き出した今、もうこいつには何の用もない。
  こいつは『遠坂桜』も『魔術師の桜ちゃん』も救う気がない。
  「死ねぇぇぇぇぇぇ!!!」
  今までで一番強力な殺意を漲らせている様な表情を作りながら、俺は魔剣ラグナロクを両手で握りしめて背負うように掲げた。
  ただし内心は表情の苛烈さとは正反対に平静を保ち、目的を達成する為に視野を広く持ち続けている。
  激情に駆られて猪突猛進しても敵は倒せない。それもまた俺がこの一年で学んだ戦いの真実だ。
  戦いの最初と同じようにまっすぐ遠坂時臣を目指す。
  こっちを見ろ、遠坂時臣。もう貴様の視界に桜ちゃんを入れる事すら罪だ。貴様の敵は俺だ、俺が貴様を殺す敵だ。
 「Intensive Einascherung我が敵の火葬は苛烈なるべし――」
  ついさっきの一節に更にもう一節加えた二節の呪文。遠坂時臣の前に展開されてる魔術陣の炎が膨れ上がり、蛇のようにうねった。
  それは魔術陣から離れると同時に一つの球体へと変貌し、大火球と呼ぶしかない塊になる。遠坂時臣の足元から頭上までを覆い尽くす大きさなら、俺でも呑み込む大きさだ。
  それが俺に目掛けて迫り来る。
  前回の術式が防御と攻撃のそれぞれに振り分けた魔術なら、今回は魔術陣の全てを攻撃に注ぎ込んだ魔術だ。
  あまりの大きさに迫り来る炎の壁にも見えるそれを真正面から見据えながら、俺の心は不気味なほど落ち着いていた。ついでに妙に時間がゆっくり進む様にも感じた。
  袈裟懸けの要領で、構えた魔剣ラグナロクを斜め上から下に向けて思いっきり叩き付ける。
  遠坂時臣の炎の魔術なら魔剣ラグナロクで斬れるのはさっきの『スピニングエッジ』で証明されたので、多少威力が上がろうとも斬れない道理は無い。
  俺の眼は剣先からゆっくりと差し込まれていく魔剣ラグナロクと斜めに両断されていく炎の塊を映す。ただし斜めに斬れても他の部分は関係なく俺に向かって突っ込んで来ている。
  一息で剣を振り下ろせば斜めに隙間が出来上がる。そのままに俺は前に跳んで、作った隙間の中に体をねじ込んだ。
  刃風で押し退けられなかった炎が俺の腕を、足を、体を焼く。それでも作った隙間のお陰で顔や心臓などの重要な部位は焼かれずに済む。
  痛い。
  熱い。
  辛い。
  苦しい。
  だが、それだけで死なない。
  時間をゆっくり感じる分、痛みも同じぐらいゆっくり感じるが、斜めに両断された炎にはもう俺を一撃で殺すほどの威力は無い。そう強く確信する。
  炎の壁の向こう側に左手に持ったステッキを前に突き出した遠坂時臣の姿が見えた。両足を肩幅より若干広く開き、右手は下に流して左手はステッキを伸ばして埋め込まれた宝石から炎を打ち出すような体勢で俺を見ている。
  その顔が驚愕に歪む。
  俺が炎を斬って真正面からやって来るなんて思ってなかったのか? 渾身の炎の魔術が剣程度で破られると思ってなかったのか?
  力ある炎の魔術だったかもしれないが、別の世界で神と呼ばれた存在が作り出した剣と拮抗するには力不足だ。その隙、突かせてもらう―――。
  俺は振り下ろした魔剣ラグナロクを持つ手をくるりと回して下から斜めに斬り上げる体勢を作り出す。
  炎に炙られた足は一歩踏み出すごとに激痛が走った、炎で焦がされた手が魔剣ラグナロクを落としそうになる。
  それでも前へ、それでも前へ。
  足が焼けるのを感じながら、もう一歩踏み出す。そして構えた剣を下から斬り上げて、遠坂時臣の胴を斜めに真っ二つにしようとした。
  そこで俺は失敗する。
  仁王立ちのように突っ立ってた遠坂時臣なんだが、さすがに俺が炎を斬って突っ込んできたのは予想外だったらしく、体を倒すようにして後ろに下がった。
  もう剣を斬り上げていた俺はその動きに対応しきれず、剣が当たらない箇所まで動かれてしまう。せめてもう一歩前に踏み込んでいたら、後ろに下がろうと胴を斬れただろうに。
  魔剣ラグナロクの切っ先は遠坂時臣のスーツのほんの一部分だけを斬る。それでも完全に避けられた訳ではない。ステッキと一緒に前に突き出された左手は俺の剣を避けきれなかった。
  スーツの一部分を斬り終えた後、止まらず上に伸び続ける魔剣ラグナロクの軌跡が遠坂時臣の左手を切断する。肘と手首の中間あたりを通り抜けた剣が奴の手を斬りおとした。
  ブチリ、と人の肉が斬れる音がして、剣から人を斬る嫌な感触が伝わってくる。
  もう一度斬り上げた手を回転させて袈裟懸けで斬るか? そうしたかったが、次の一撃を見舞うには手足が痛み過ぎて、踏ん張りがきかない。
  焼かれたから動きが鈍い。俺は即座に剣での攻撃を諦め、剣を振り上げたままの体勢を少し落として前に突き出た肩を遠坂時臣にぶつけた。
  タックルにもならない衝突だったが、敵の体勢を崩す程度の威力はある。
  「あ・・・!?」
  痛む体を出来るだけ無視して剣を構え直す俺。
  眼前には後ろに倒れたまま、斬り飛ばされた左手が合った場所を見る遠坂時臣がいた。
  「ああああああああああ!!」
  奴の叫び声を耳にした瞬間、ゆっくり流れていた時間が元に戻っていく。
  目の前に剣を構えた俺がいるにも関わらず、遠坂時臣は無くなった左手の傷に右手を当てて叫んでる。
  痛みを紛らわす様に、現実を否定する様に、腕を探し求める様に、俺が一度だって見た事のない苦悶の表情を作りながら叫んでる。
  「どうした? まだ腕が一本ちぎれただけだ。苦しんでないで立ち上がれ、治癒魔術を使え、立ち上がって戦え、ステッキを構えろ!! この程度で、こんな軽い苦しみで貴様は膝をつくのか!? 桜ちゃんが味わった苦しみはこんなものじゃなかったぞ!」
  敵を前にして痛みを優先する無様な様子に俺は剣先を向けたまま言葉を投げつけた。足がものすごく痛むが檄を飛ばしてごまかす。
  ゴゴが相手なら、もう一回魔剣ラグナロクでの剣戟を見舞う所なんだが。何故か俺は遠坂時臣に向けて武器じゃなくて言葉を叩き付けてる。
  どうしてだ?
  「ああああああああああああああああああああ!!!」
  「・・・死ぬ覚悟もなく戦争に足を踏み入れた半端者。それが優雅で誤魔化したお前の本性だ、遠坂時臣!」
  斬られた左手に意識が集中してるから俺の言葉なんて全く聞いてないんだろう。
  聞いてない相手に聞かせる言葉には何の意味もない。それなのに俺は喋ってる。
  どうしてだ?
  もう一度、同じ疑問を抱いた瞬間、俺はただ思いを言葉にしたかっただけなんだと理解した。
  判らせるとかそういうのは関係なく、ただ言葉にしたかっただけだ。
  俺が―――間桐雁夜が遠坂時臣に言葉をぶつけたかっただけだ。
  戦いの高揚と冷静の中にある奇妙な納得。それが俺の中にあった怒りを急速に萎ませていく。
  今まで使う機会なんて無かったが、『冷や水を浴びせる』とはこういう時に使う言葉だと理解できた。
  心の中にあった炎が一気に消えて行って、言いようのない喪失感を知る。
  俺はこの程度の男をずっと憎んできたのか?
  俺はこんな男をずっと殺そうと考えて来たのか?
  俺は腕一本斬りおとされた位で戦意喪失する男を敵と思ってたのか?
  「さっきの言葉をそっくりそのままお前に返してやるよ・・・。無様だな、遠坂時臣」
  魔術師ではあるが、戦士じゃない・・・。戦場に出て傷つく覚悟も持ってなかった、こんな男を―――。俺は―――。
  俺がどれだけ声をかけても遠坂時臣は応じない。腕一本斬りおとされる体験なんてこれまでに無かったのか、治癒魔術を使う様子もなくただ左手の傷口を右手で抑えているだけだ。
  どくどくと右手の隙間から紅い血が流れ落ちる。
  遠坂時臣は叫びながら体を捻るが、それ以上は何もしない。
  その程度の痛みなら俺はこの一年で何度も味わったぞ?
  俺は遠坂時臣の心臓を貫くために魔剣ラグナロクを逆手で持ち直して、ゆっくりと振り上げていた。斬る、ではなく、心臓に向けて剣を差し込む為に持ち上げていた。
  もうこんな遠坂時臣の姿は見たくない。
  桜ちゃんの父親が無様な姿を晒すのも嫌だったし、敵と認めて居た筈に男がこの程度の存在だったと判りたくもなかった。
  戦場に出向いた時点で遠坂時臣は敵ですらなかったんだ。
  俺が間違えてただけなんだ。
  桜ちゃんの想いを受け止めてくれるだろうと勘違いしてたように、こいつなら葵さんを幸せにしてくれるだろうと勘違いしてたように、俺だけが宿敵だと勘違いしていた。
  「もう・・・・・・、消えてくれ」
  「ああ、あああ―――ああああああ・・・」
  遠坂時臣は傷口から流れる血を押し留めようと必死に腕を押さえる。そんな敵だった誰かに向けて―――俺は魔剣ラグナロクを突き刺した。



[31538] 第37話 『間桐雁夜は遠坂と決着をつけ、海魔は波状攻撃に晒される』
Name: マンガ男◆da666e53 ID:23cb9b06
Date: 2013/11/03 08:34
  第37話 『間桐雁夜は遠坂と決着をつけ、海魔は波状攻撃に晒される』



  ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆



  Side - 間桐雁夜





  遠坂時臣を倒した。
  殺した、じゃない。
  魔剣ラグナロクは土下座するような姿勢でうずくまる遠坂時臣の背中を貫いているが、心臓も臓器も動脈も破壊していない。
  肉が裂けて何本か静脈が切れてるが、切り落とした腕と合わせて治療すれば、まだ死なない状態だ。
  ・・・と思う。
  俺はゴゴを倒すために効率よく人体を破壊するにはどの場所を斬るのが最も的確か調べた事がある。心臓を貫くために、正確な位置を把握しようとした事がある。人の構造がゴゴに通用するか判らなかったが、血管の配置を全て覚えようとした事もあった。
  急所を狙うなら、それ以外の効果が薄い所も知っておかなきゃいけない。その努力の結果、俺は魔剣ラグナロクで人を突くなら、どこが最も効果を発揮しないかを知った。
  結局、ゴゴとの修行において攻撃ではほとんど意味をなさず、俺自身がどこを傷つけられないようにして長く戦うためにはどうすればいいか? という意外な形で役に立ってしまっていたりする。
  遠坂時臣は魔剣ラグナロクで遠坂邸の床に縫い付けられてビクビクと痙攣してるが。心臓は動き、脳は活動し、生命はまだ遠坂時臣の体の中に根付いてる。
  俺は遠坂時臣を倒した。貫いた。昆虫標本のように魔剣ラグナロクで固定した。
  けれど遠坂時臣を殺さなかった。
  このまま腕を斬られたショックと体を貫かれたショックで気絶したこいつを放置すれば出血死するのは間違いない。だから俺は剣を突き立てた姿勢を維持したまま回復魔法をかける。
  「・・・・・・ケアル」
  一瞬で切断された血管、神経、骨、筋肉。それらを全て接合して復元させるほどの回復魔法を俺は使えない。精々、斬れた血管からこれ以上血が流れないようにするために収縮させるのと、魔法をかけた対象者の自然治癒力を促す程度だ。
  魔法の燐光が剣を伝って遠坂時臣に降り注ぐと、斬られた腕から流れた血が止まる。合わせて遠坂時臣の腹の下にある刃先から滴り落ちていた血も止まった。
  剣を抜いて、腕を傷口に合わせて、もう何十回か同じ魔法をかければ、遠坂時臣は完全な状態に復活できるだろうが、そうなる前に俺の魔力が尽きる。
  一度はティナから補充した魔力だが、今もバーサーカーに吸われ続けているから低位の回復魔法でも魔力総量の少ない俺にとっては大きな負担となる。
  それなのにどうして俺は遠坂時臣を生かそうとしている? これまでに何度殺そうと思ったか判らないこの男を―――。
  「ケアル」
  もう一度同じ魔法をかけると、心なしか遠坂時臣の痙攣が弱まった。痛みが引いたのか、それとも痙攣する力も失ったか。医者じゃない俺が触診もしてない状況じゃさっぱり判らないが、遠坂時臣が生きてる、その事実だけがあれば今はよかった。
  一年前。いや、もっとそれ以上前から夢見ていた瞬間を自分の手で掴みながら、俺の心には達成感は無く、充実感も無く、幸福など欠片も存在しなかった。
  あえて胸の中にある想いを言葉にするなら―――無力感が一番近い。これまで間桐雁夜の人生を構築していた大半が一気に抜け落ちて胸の中が空っぽになったような気分だ。
  俺はこんな気持ち悪さを味わう為に遠坂時臣を恨んでいたのか?
  こんな何も生み出さない結果を得る為に間桐に戻ったのか?
  ゴゴに師事した一年間はこんな状況を迎える為だったのか?
  考えれば考える程、暗い気持ちが胸の中から湧き出て止まらなくなる。何もない場所を埋めようとする思いはもっと俺の心を重くする。いっそ考えるのを止めてしまえと思う位、心が闇に犯されていく。
  俺は遠坂時臣と遠坂邸の床まで貫いた魔剣ラグナロクから手を離し、全く剣が動かないのを確認してから後ろを振り返った。そこにはさっき見たティナに抱きしめられた体勢のままこっちを見ている桜ちゃんがそのままいた。
  「桜ちゃん・・・」
  救いを求める様に桜ちゃんの名を呼ぶ。
  けれど返答は無い。当然だ、桜ちゃんが味わった絶望は―――自分を救ってくれると心のどこかで信じていた父親から『虐待同然の扱いが正しい』と肯定されたんだからな。
  もしかしたら遠坂時臣は臓硯が桜ちゃんを魔術師として育てるつもりが無かったのを知らなかったかもしれないが、知ったとしてもあの男の結論が変わるとは思えなかった。
  あの男の中には自分の決断が絶対に正しいという信念がある。俺に言わせればゴミに等しい信念だが、それに固執する遠坂時臣が信念を曲げる姿を想像できない。
  父親に捨てられた。桜ちゃんがそう思っても仕方がない。
  それだけの事をあの男は言ったんだ。
  「桜ちゃん・・・」
  もう一度、桜ちゃんの名前を呼んだ時。俺は唐突に遠坂時臣を殺さなかった理由に辿り着く。
  桜ちゃんの目の前で―――もう親子の絆なんて全く無かったとしても、娘の目の前で父親を殺すのが嫌だったんだ。
  桜ちゃんがここにいなかったら、嬉々として殺したかもしれないけど、今は桜ちゃんがいる。だから殺せなかったんだ、逆に生かそうとすらした。
  矛盾してる。
  殺せなかった事実を桜ちゃんを理由にして誤魔化している。
  最悪だ。
  殺す気なのに生かしてる。
  「桜ちゃん・・・」
  一歩一歩進むごとに炎の魔術で焼かれた足が痛む。皮膚どころか肉が焼けてるから歩くごとに全身が痛んで今にも倒れそうだ。むしろ、歩くより倒れて横になりたい思いの方が強い。
  そうさせないのは桜ちゃんがそこにいるからだ。悲しんでる桜ちゃんがそこにいるからだ。
  一歩進むのにかける時間はほんの数秒のようであり、数年もかかった気がする長い長い時間になる。遠坂時臣から桜ちゃんまでの十数メートルの距離をひどく長く感じた。
  歩く、歩く、歩く、あと三歩ほど桜ちゃんとティナの所に辿り着ける、そこでついに桜ちゃんが顔を動かして俺の目を見た。
  「桜ちゃん」
  「雁夜、おじ・・・さん・・・」
  次の瞬間、桜ちゃんの目から涙が流れる。
  悲しくて、哀しくて、かなしくて。止めようとしても止まらない涙が桜ちゃんの目から溢れて止まらない。
  桜ちゃんはティナの腕を押して拘束を引きはがすと、少し前にいる俺に向かって歩いてくる。
  「う、うう・・・ううううう」
  この小さい体のどこにこんなに涙が入っていた? 一瞬、そう思ってしまう程の涙が桜ちゃんの両眼から流れ出た。桜ちゃんが歩きながら拭っても、何度も何度も拭っても、涙は決して止まらない。
  小さな滝のように涙を流し続け、幼いながらも可愛らしい端整な顔立ちはぐしゃぐしゃに乱れた。
  俺が膝を地面について出迎えると桜ちゃんは飛びかかるように俺の胸の中に飛び込んでくる。
  体力全快なら何でもない衝撃だが。傷ついて、焼かれて、疲れてる今の俺には少々キツイ。疲労を悟られないように口から洩れそうだった悲鳴を押し殺し、俺は桜ちゃんを抱きしめた。
  「うううううううううううううう」
  咄嗟にかける言葉が見つからなかった。
  どんな言葉でも今の桜ちゃんの悲しさを和らげられるとは思えなかった。
  だから俺は黙って桜ちゃんを抱きしめ、小さな頭をぽん、ぽん、と軽く叩くように撫でる。落ち着かせるように何度も何度も撫でる。
  桜ちゃんは俺のあちこちが焼け落ちたパーカーに顔を押し付けて唸り声みたいな泣き声をあげる。止まらない涙でパーカーを濡らし続ける。
  耳元で桜ちゃんの悲痛な嘆きを聞きながら、顔を上げれば視界に入るのはティナ・ブランフォードの姿をしたものまね士ゴゴ。彼女は桜ちゃんの悲しさに同調するように、もの悲しい顔をしながら俺達を見下ろしていた。
  少しの間、桜ちゃんの泣き声を聞きながら俺とティナは沈黙を保っていたが。ティナが視線を上げて遠坂邸の中にあるモノを見た後、また視線を下げて俺を見た。
  その目が言っている。遠坂時臣をどうするの? と。
  視線をそらすように顔を傾け、俺にしがみついてる桜ちゃんの黒い髪を見る。小刻みな震えと聞こえてくるすすり泣く声を聞いてから、俺は冷静にその言葉を口にした。
  「・・・・・・・・・・・・あいつを治してやってくれないか?」
  「・・・いいの?」
  「ああ――」
  確認への返答に躊躇いは無い。
  「あいつの腕を斬りおとした時、判った気がする。俺は遠坂時臣を殺したいんじゃなかったんだ・・・。あの男に勝ちたかったんだ。それに、犯した罪を自覚しないまま死んで逃げようなんて許せない、そうも思ったよ。だから、遠坂時臣を――助けてくれ」
  「・・・・・・・・・・・・判ったわ」
  ティナが―――ゴゴが『桜ちゃんを救う』と言ったとき、こいつは俺に遠坂時臣を殺すことの意味と桜ちゃんの苦しむ可能性を一緒に教えてくれた。結局はその通りに行動してしまってる俺がいるんだが、操られた実感はない。むしろこの場の采配を任せてくれたゴゴに感謝すらしてる。
  もしかしたら今、この瞬間こそがゴゴが物真似してる『桜ちゃんを救う』そのものなのかもしれない。
  返答までに要した長い間でゴゴが何を考えたのかは知らないが、遠坂時臣を助ける決断そのものへの異論はないようだ。俺と、そして遠坂時臣がいる方向にそれぞれ手をかざして、上位回復魔法を唱える。
  「ケアルガ」
  俺の使った『ケアル』とは比較にならない明るく大きな燐光がティナの手のひらから俺と桜ちゃんを一緒に包み込む。見れば、胞子みたいに遠坂邸にも光が伸びてるので、遠坂時臣にもこの魔法の効果は及んでいるだろう。
  傷口に回復魔法の光が触れると、そこで俺の魔力と技量では到底成しえない超回復が起こった。
  さすがに焼けたり焦げた服までは直せないが、焼けた肉がビデオの巻き戻しのように戻っていく。痛みしかなかった部位がくすぐったさを経て、傷一つない地肌へと変わっていった。
  これはもう再生どころか創生の域にまで達してるんじゃないだろうか? この一年で何回も何十回も何百回も見てきたが、いまだにこの奇跡を見せられる度に驚かされる。
  「・・・・・・・・・」
  凄いなと思いながら、もう体が痛まない事も思い出し。何か言うよりも早く桜ちゃんをより強く抱きしめた。
  どうか悲しまないでほしい。
  涙を流してもいい、ずっとそばにいるから。
  悲しみも涙と一緒に流れ出てしまえ。
  想いを抱擁へと変えて、俺はすすり泣く桜ちゃんを抱きしめ続けた。





  桜ちゃんが泣き止むまで抱きしめ続け、ティナが俺達の近くで周囲の様子を窺ったまま、少し時間が経過する。その間に俺はケフカ・パラッツォが現れてから遠坂時臣と戦うまでの事を思い返していた。
  ゴゴの力をそっくり引き継いだケフカは厄介。未遠川で何かしようとしているキャスターも厄介。遠坂時臣の事も何とかしなければいけない。
  敵が各所に散らばっていたので、ブラックジャック号にいた俺達は戦力を二チームに別れて行動を開始した。都合よくブラックジャック号の中には複数人がチームを組んでも十分すぎるほどの人数が集まってたので、別ける分には何の支障もない。
  ブラックジャック号が遠坂邸の上空に到着すると、透明になった飛空挺から桜ちゃんを背負った俺、そしてティナの三人は浮遊魔法『レビテト』を使いながら遠坂邸へと降りて行った。もちろんミシディアうさぎも一緒だ。
  俺達が遠坂邸へ降りていく途中、敵の攻撃を受けた遠坂邸は燃えており、周辺には他のマスター達が放った使い魔が山ほどいたらしい。
  『らしい』と断言できないのは、降りてる途中で俺達より先に遠坂邸に到着していたゴゴ―――、正確にはゴゴが分身して変身した『ストラゴス・マゴス』と『リルム・アローニィ』の祖父と孫娘が鎮火と邪魔者排除を一気にやったので、そこにあった事実が抹消されて判らなくなってしまったからだ。
  地上目指して降りていく俺の目で遠坂邸の周囲だけに雨が降った。それが水属性全体攻撃魔法の『フラッド』だと気付いた時、もう遠坂邸の火は消えて、周囲にいたらしい邪魔者は全部無力化されていた。
  こうして俺たちは敵のいない遠坂邸に降り立てた訳だ。
  俺はリルム・アローニィと同じ姿をした死体が別の場所にもあると知ってたので、そこに立つ桜ちゃんより年上の女の子に何とも言えない不気味さを感じていた。
  場をごまかすように視線を泳がせた俺は鎮火した遠坂邸を見て、そこに横たわる遠坂時臣を発見した。
  この時、遠坂時臣はもう死んでいた―――。
  もっと正確に言えば、救命処置を施さなければ確実に死ぬ状況に陥っていた。
  耐火の魔術でもかけてあったのか、着ているスーツには汚れもほつれも無かったが、遠坂時臣自身は息をしていなかった。
  手の甲に刻まれている筈の令呪がどちらの手にも無かったから、聖杯が『死んだ』と判断したのは間違いない。
  多分、この時に初めて俺は遠坂時臣に対して『怒り』ではなく『憐れみ』を抱いたんだと思う。
  自陣の筈の遠坂邸で敵の襲撃を受けて、しかも味方の筈のアーチャーに見限られ、一人ぼっちで無様に躯を晒してる。魔術師の誇りで作られてるみたいな遠坂時臣がみっともない死を遂げた様子はあまりにも情けなく。驚きつつも、咄嗟に桜ちゃんが遠坂時臣の死体を見ないように出来たのが俺に出来た精一杯だった。
  聞くべき事を聞かなければならない相手が死んでしまった。普通ならここで諦めるべきなんだが、こちらにはゴゴという反則がある。
  俺達が幸運だったのは遠坂時臣の死がまだ完全に確定してない状態だった事。聖杯は遠坂時臣を死んだと認識して令呪を回収したようだが、ゴゴが持つ死のボーダーラインは聖杯の認識とは少し異なる。
  もし遠坂時臣が『死』から戻ってこれる状況にいなかったら、そしてゴゴが蘇生魔法の使い手でなかったら。遠坂時臣は話す機会も戦う機会も持てずにあっさり死んだままだった。
  ティナは急いで遠坂時臣の蘇生処置を行って生き返らせる。そして俺達は生き返っていく遠坂時臣の横で今回の演技の概略を話し始めた。
  まず遠坂時臣に話をさせる為、自分が『死んだ』とは考えさせず、その上で自分が優位にいると錯覚させなければならない。
  そこでゴゴは監督役から物真似して手に入れた預託令呪を遠坂時臣に移植し、死んだ時に消えてしまった令呪をあたかもまだ持っている様に見せかけた。
 時臣を見限ったアーチャーがいる様に見せる必要もあったから、ゴゴの一人―――先に遠坂邸に到着していたストラゴスがバーサーカーの宝具『己が栄光の為でなくフォー・サムワンズ・グロウリー』を使いアーチャーへと変身した。
  ゴゴが間桐臓硯に成り代わる時に口調の真似をしていた老爺が傲岸不遜なアーチャーに変わっていく姿は中々恐ろしい。ついでにただ遠坂時臣を生き返らせるだけじゃなく、ゴゴが持つ秘薬の一つ『エリクサー』を使って体力と魔力を回復させたりもした。
  ブラックジャック号から降り立ったミシディアうさぎ達は遠坂邸を見張る使い魔達の役だ。やぶの中に散らばって遠坂邸を見張る。
  俺は次々と配役がそろっていく状況を呆然と眺めながら、遠坂邸を襲撃した犯人のようにふるまって奴から言葉を聞き出す役の心構えをする。
  下準備に蘇生に回復、宝具の使用に令呪の移植。作られた演劇の舞台に立つ主演は俺、間桐雁夜だ。
  準備している段階でこちらの数が多すぎると遠坂時臣が周囲が全て敵の状況を気づかれてしまう危険があったから、リルム・アローニィは姿を消してケフカとキャスターの相手をするために移動する。サーヴァントの霊体化のように消えて行ったから、多分、一度ゴゴの中に戻ってからブラックジャック号の甲板で分身と変身をし直すんだろう。
  ティナと桜ちゃんは少し離れた位置で透明になって戦いを見守る手筈になった。ついでに俺の魔力が切れそうになった場合の回復役も務めてもらう。
  そして聖杯戦争のマスターではなくなっていた遠坂時臣から本音を聞き出す為の芝居が始まった。
  バーサーカーとアーチャーになったゴゴが戦うのも芝居の一環で、これまでに暴れ足りなかった狂戦士のストレス発散の意味も含んでいたりする。
  開幕。
  発見。
  挑発。
  会話。
  戦闘。
  防護。
  真実。
  魔術。
  切断。
  決着。
  悲哀。
  涙―――。
  遠坂時臣が何を思って桜ちゃんを養子に出したのか? それは桜ちゃんを救うために絶対に知らなきゃいけない事だから避けられない道だったけど。その結果、手に入ったのが桜ちゃんの悲しさだ。喜ばしい状況じゃない。
  やはり遠坂時臣は死んで当然の人間だ―――。魔術師としては正しいのかもしれないが、桜ちゃんの親としては最低の存在だ。あの男の価値観は魔術師だけに固まってそれ以外の道を最初から除外している。
  魔術師としての生き方が桜ちゃんが望んだ家族と一緒にいる生き方よりも上だと思ってやがる。
  気が付けば俺の頭の中で行われた過去の回想は一気に進んで現代へと戻ってきていた。
  改めてあの男への怒りと憐みが俺の頭の中で一緒に溢れ、また桜ちゃんを強く抱きしめる結果へと結びつく。抱きしめた拍子にまた桜ちゃんの涙声が聞こえた。
  桜ちゃんの頭を叩くように軽く撫でながら、俺は遠坂時臣の事を思う。
  あんなにも殺したかった男だったのに、桜ちゃんと一緒にいる状況に出くわしたら、父親を目の前で殺すのを忌避する俺がいる。俺自身意外に思ってるが、それは紛れもない事実としてある。
  どれだけ最低最悪な人間だろうと遠坂時臣は遠坂桜の父親だ。桜ちゃんが遠坂時臣を憎んでも、呪っても、最後の一歩が踏み出せなかった。俺は奴を殺せなかった。
  それをやってしまえば桜ちゃんが悲しむと思ってしまったから・・・。
  望んでいたモノを手に入れたから、もうここには用は無い。長居すればするだけ桜ちゃんが悲しむだけだ。
  急速に意識が過去から未来へと進んでいく。終わってしまったことを切り捨てて、先に進もうと思えてくる。
  魔剣ラグナロクを回収してもう行こう、ここを離れよう―――。そう思いながら俺は桜ちゃんを抱き上げようとしたら、俺の耳がザリッ! といきなり聞こえてきた足音を捉えた。
  誰だ!?
  バーサーカーとアーチャーに変身したゴゴが戻ってきた可能性を考慮しながら、敵の可能性もちゃんと考えて音がした場所を向く。
  俺にとって最大の攻撃力を誇る魔剣ラグナロクが手元にないのは明らかに失敗だ。腕の中にいる桜ちゃんを守る為、攻撃魔法をいつでも発動できるように手もそっちに向ける。
  「・・・・・・雁夜、くん?」
  その『誰か』を見た瞬間、俺はありえない光景に呆然として動きを止めてしまい、攻撃しようとか防御しようとか話そうとか、俺がとるべき行動の一切合財を放棄してしまった。
  遠坂時臣を相手にした時は一瞬たりとも気を抜かなかったのに、ただ俺の名を呼ぶ『誰か』がそこにいるだけで意識が飛んだ。
  「桜・・・・・・」
  続けられた言葉の間には数秒あり、もしその間に攻撃されたら俺は桜ちゃんごと殺されていてもおかしくなかった。
  けれど、言葉以外には何もない。だから俺はその『誰か』の名前を思い出して、連想する情報も一緒に頭の中に思い浮かべられた。
  その『誰か』は遠坂時臣の夫であり、遠坂桜の母―――。
  「・・・葵さん?」
  遠坂葵がそこに立っていた。
  何故、ここに?
  どうやってここに?
  いつからここに?
  『誰か』が葵さんだと認識した瞬間、俺の頭の中で疑問が爆発する。
  ここが単なる遠坂邸なら葵さんが現れても不思議はないんだが、今の冬木市は二重の結界に覆われた堅牢な要塞のようになっている。ゴゴか結界魔術においてゴゴに匹敵する力量の持ち主がかない限りは中に入るなど不可能。
  葵さんの生家、禅城家は数世代前までは魔術師の家系だったと聞いた事はあったが、今は一般人の家系になっていた筈。仮に禅城の協力者がいたとしても葵さんがここに来れる筈がない。
  一般人がここにいる異常。
  ありえない光景に俺の頭は真っ白になった。
  「おかあ・・・さん?」
  俺の腕の中から桜ちゃんが葵さんの事を呼ぶ頃になって、ようやく俺の正気が戻ってくる。
  疑問を覚えようが、頭が真っ白になろうが、葵さんがここにいるのは確かな事実だ。現実だ。見間違いじゃない。
  とりあえずゴゴみたいに変身できる存在がいるのだから偽者の可能性を考えておく。
  本当に葵さんなのか? そんな風に考えていると、葵さんは早足で歩き出して俺達の方に向かってきた。
  そうじゃない―――。身構えた俺を見ようともせず、俺の手の中に抱かれた桜ちゃんにも見向きもせず、初めて見る筈のティナとは視線すら合わせない。隙だらけの格好をさらけ出したまま、俺達の横を素通りして行った。
  葵さんが向かったのは遠坂時臣がいる場所だった。
  振り向いた俺の視界の中には魔剣ラグナロクで床に縫い付けられたままになってる遠坂時臣がいる。
  ティナの回復魔法で死の淵からは完全に生還したみたいだが、まだ俺が突き刺した魔剣ラグナロクも切り落とした腕もそのままだ。
  とりあえず治癒されて傷口からの出血は抑えられているが、剣で貫いて床に縫い付けるなんて事をしてしまったので、流血は無くても不気味なオブジェのようになっている。
  治すなら剣を引き抜きながら回復させる必要がある。俺は一瞬で遠坂時臣を生かす為の答えにたどり着きながら、走る葵さんの背中を見ていた。
  遠坂時臣の命は魔剣ラグナロクが背中から腹まで突き抜けているからこそ保たれている。出血する傷口が剣で塞がれているから何とかなってる。
  まさか、葵さんは魔剣ラグナロクを抜こうとしている!? ありえないとは思ったが、もうすでに葵さんがここにいるありえない状況が一度起こってるから、もう一度ありえない事が起こったって不思議はないと思い直す。
  奇妙な納得で自分自身を落ち着けていると、葵さんは本当に遠坂時臣の所まで駆け寄って魔剣ラグナロクの柄に手を当てた。
  馬鹿がっ! 素人が余計な事を!!
  ここにきてようやく俺は起こった事態をどうにかしようと体を動かし始めた。けれどもう葵さんは両手に力を込めて、剣を引き抜こうとしていた。
  傷つく夫を見て原因を取り除こうとする思いは妻としては当たり前かもしれないが、けが人に対する処置としてはどうしようもない悪手だ。
  ゴゴが使う魔法の中には相手の体感時間を止める魔法もあるが、俺にはそれは使えない。あの剣は葵さんが持ち上げられるほど軽くはないが、横に倒したりして固定されている状態を崩すには葵さん一人の力でも十分だ。桜ちゃんを抱きしめたままの俺が動くよりも遠坂時臣がどうにかなる方が絶対に早い。
  間に合わない―――。


  「リベンジブラスト!」


  唐突に割り込んできた声が呪文だと知った時、衝撃が葵さんを吹っ飛ばした。
  「葵さん!!」
  「安心するゾイ」
  葵さんが現れた方角とは別の場所から声が飛んできた。俺は咄嗟にそっちの方が危険と判断して、吹っ飛んだ葵さんから目を背けて声がした方を見る。
  そこに黄金の鎧を纏ったサーヴァントが悠然と立っていた。
  屈んで桜ちゃんを抱きしめていたからどうしても立ってる奴を見上げる構図になるのは仕方ないんだが、その状況を考えないとしても一目で格の違いを感じてしまう。
  遠目だったり自分以外の視界を通して見たことはあるが、眼前にいる状況だと何も考えずに屈伏してしまいそうになる。
  人の上に立つ王。一目見た瞬間に圧倒されて跪いてしまいそうだ。
  「この技はダメージを負えば負うほど威力を増す、今のわしでは手で軽く押した程度の威力しか出んゾイ」
  「・・・・・・」
  変だ。
 傲岸不遜で自分の事をオレと言ってるアーチャーのサーヴァントが爺口調で喋っている。
  不気味だ。
  何かとんでもない出来事が起こってる。
  おかしい。
  三度疑問に思ったところで、そのアーチャーのサーヴァントがゴゴの変身している姿だと思い出す。
  そんな俺の思い出しを待っていたように、黄金のサーヴァントの周囲に黒い霧が発生して一気にアーチャーを包み込んでいった。
 次々起こる異常事態に頭がパンクしそうだったが、辛うじて『己が栄光の為でなくフォー・サムワンズ・グロウリー』を解除しているのだと思考が理解に追いつけた。
  楕円形になった黒い霧が晴れた時、もうそこにはアーチャーの姿はない。
  二足歩行の巨大な牛。紫色の皮膚の下にある強靭な筋肉。鋭い爪、雄々しい尻尾、頭ではなく首の近くから生えている大きな二本の角。動物ではなく、むしろ怪獣とでも呼ぶべき魔物―――をデフォルメした着ぐるみを被ってる爺さんがそこに立っていた。
  名をストラゴス・マゴス。俺が遠坂時臣と戦う前にアーチャーに変身してサーヴァント健在を装った爺さんだ。
  変身する前はこんな着ぐるみ姿じゃ無かった筈だが、顔は一緒だったので何とか判る。
  たしかこの爺さんはアーチャーになってバーサーカーと戦ってた筈。バーサーカーはどうした? そう聞こうとしたら、まるでその疑問を抱くのを待っていたように、霊体化したバーサーカーが俺の所に戻ってくる。
  バーサーカーが戻っただけじゃ二人の間にどんな戦いが合ったのかは判らない。
  ストレス発散のための殴り合いか、死闘か、武器を使っての戦いか、それとも単なるじゃれ合いか。ただ、アーチャーに変身したゴゴが元のストラゴスの爺さんに戻っている事と、回復するために霊体に戻ったバーサーカーが俺の所に帰ってきたのは紛れもない事実としてここにある。
  だから経過については後で考えることにした。今まで以上に魔力を吸われ続けるが、それも後回しだ。
  死ぬほどの急速な魔力消費ではないから今は吹き飛ばされた葵さんの方が大事だ。
  「葵さん!」
  もう一度名前を呼びながら、俺は桜ちゃんを抱きかかえたまま遠坂邸の方へと向かう。
  さっきは足の痛みで歩くのも億劫だったが、ティナに回復された後だから普通に走って行ける。
  そうして距離を縮める途中。ゆっくり起き上がる葵さんの―――こちらを睨む憎悪に満ちた目を見てしまい、俺は思わず足を止めた。
  「――これで聖杯は間桐の手に渡ったも同然ね。満足してる? 雁夜くん」
  耳に届く言葉には紛れもなく憎しみがこもっていた。
  初めて聞く憎悪を含んだ声が目の前にいる葵さんを別人に思わせる。
  俺は聖杯なんてどうでもいい。求めたモノはもう手に入れたんだ。それなのにどうして葵さんはそんな事を今更言うんだ? 葵さんがここにいるのと同じぐらい不可解な謎が頭の中でぐるぐると回る。
  「よりにもよって。その人を、殺すなんて・・・・・・」
  葵さんが体を起こした状態で俺と遠坂時臣を見渡す。
  よく見れば遠坂時臣の鼻と口はしっかり呼吸してるのが判る筈。それなのに葵さんは遠坂時臣が死んだと言っている。
  まだ時臣は生きてる! そう言う前に葵さんの絶叫が辺りに響いた。
  「どうして? そんなにも私たちが憎かったの? 桜まで一緒になって―――こんなひどい事を・・・」
  まるで捨てた娘が自分たちに復讐しに来たような――。隠そうともしない憎しみを目に宿して、俺だけじゃなくて桜ちゃんも一緒になって睨みつける。
  まさか養子に出された桜ちゃんが遠坂時臣を殺そうとしたなんて的外れな事を考えてるのか?
  次々とあふれ出て止まらない疑問に頭が熱を出しそうだったが、何とか言葉を絞り出せた。
  「その男が余計な事を考えなければ誰も不幸にならずに済んだ。もっと別のやり方が合ったのに――、葵さんだって、桜ちゃんだって、凛ちゃんだって――、幸せを掴めたんだ」
  「ふざけないでよ!」
  だが俺の言葉は届かない。
  必死に紡いだ言葉は一蹴される。
  まるで悲劇のヒロインであるかのように振る舞う葵さんの激昂は止まらない。
  憎しみに支配されて、敵を見る目で俺達を見ていた。
  「あんたなんかに、何が判るっていうのよ! あんたなんか――、誰かを好きになった事さえないくせにッ!! アンタなんか生むんじゃなかった!!」
  鬼の形相で葵さんが叫ぶ。その顔を見て俺は前触れなくこう考えた。


  まるで鏡のようだ。って。


  「は? ・・・・・・はぁ? あ、あは・・・ああ、そうか――。そうだったのか・・・」
  そして俺の中の想いが形を成していく。
  それは葵さんがここにいる疑問への答えではなかった。
  彼女が何を考えているか判らない―――。その疑問に対する回答予測でもなかった。
  だけど今までにない納得が俺の心を満たしてる。
  あんた、と、アンタ。俺に向けた言葉、そして俺の腕の中にいる桜ちゃんに向けた言葉を聞いて、それは現れた。
  俺の中に現れて、俺を納得させた。
  「そういう事だったのか――」
  今、葵さんは俺の幼馴染としてではなく、遠坂時臣の妻、遠坂葵として間桐雁夜に話している。
  夫を殺された妻が、加害者に向けて怒りをぶつけてる。
  誰かを好きになった事が無いから、簡単に妻から夫を奪える。父親を殺す娘なんて認めたくないから存在を否定する。
  そんな、沢山の事を判ってない女が的外れな事を言い続けてる。
  葵さんの怒りを受けた瞬間、俺は今まで気づかなかっただけでずっと心の中にあったある想いに火がついた。
  「なあ・・・・・・、葵さん」
  「何よ!!」
  それは言葉へと変わって俺の口から放たれる。
  叫ぶ葵さんに向けて自分でも驚くほど淡々と言葉が紡がれた。
  「どうして一年前、俺に『もしも桜に会うようなことがあったら、優しくしてあげてね』なんて言ったんだ? 俺が魔術師の世界に背を向けて間桐を出たのは葵さんが一番よく知ってるじゃないか。間桐に養子に出された桜ちゃんと俺が会える可能性なんて俺が間桐に行く以外無いよな」
  今ようやく俺は俺自身を理解する。
  ほんの数日前までは言葉で説明できない悶々とした感情のうねりに過ぎなかったけど、今、俺はそれに言葉を与えられる。
  ふざけるなよ―――と、心の中で声がした。
  葵さんが俺の言葉に『何を言ってるの?』と、怒りと謎をごちゃまぜにした顔をしてたけど、そんな事はどうでもよかった。
  「葵さん、もしかして俺が間桐へ戻るように仕向けたんじゃないのか?」
  「何言って――」
  沸々と心の中から燃え上がるその感情を抑えられない。何しろこれは否定したくても否定できない『間桐雁夜』の形を作る紛れもない俺の感情だ。
  それをどうして抑えらえる?
  「間桐と遠坂が聖杯戦争で殺し合うなんて最初から判ってた事だろ。それに葵さん、『魔導の血を受け継ぐ一族がごく当たり前の家族の幸せなんて求めるのは間違いよ』って俺にそう言ったよな? 時臣を死地に送り出しておいて、桜ちゃんを間桐にやって何もしなかったくせに、こうなるのを考えなかったなんて言うなよ。『戦地に赴いた夫が無事に帰ってくる』なんて、当たり前の家族の幸せを求めるなよ! 自分からその手を放しておいて何様のつもりだ!!」
  言葉が止まらない。
  想いが止まらない。
  感情が止まらない。
  葵さんが何か言う前に俺の言葉が彼女の言葉を封じ込める。
  そうだ、葵さんが俺と桜ちゃんを憎んでるように―――。俺は葵さんを憎んでる。
  葵さんの憎しみは俺の憎しみだ。彼女を見るとまるで鏡を見たような気分になるのはそのせいだ。
  「何も知らないくせに今更母親面して桜ちゃんを語るな! ここで何が起こったか何も知らない部外者が、後からきて一目見ただけで何もかも判った気になってる素人が、俺達の場をかき乱すな!!」
  この人を殴り殺したい俺がいる。この女を切り刻んで、生きた証すら残さずに灰にしてやりたいと思ってる俺がいる。
  ああ、殺したい。
  でもそれをしない俺もいた。
  「こんな所に・・・来ないでくれよ」
  この一年、間桐邸で桜ちゃんと共に過ごした時間が嬉し過ぎたから―――。ゴゴが作り出してくれた暖かい時間が楽し過ぎたから―――。何度も殺されて苦しさも山ほどあったけど、間違いなく幸せだったから――。この幸福を手放した遠坂時臣が、葵さんが許せない。
  でもこの幸せを作ってくれた桜ちゃんがいたから、遠坂時臣を殺したがっていた俺が俺を制してる。
  桜ちゃんがいるから、葵さんを憎む俺が俺の中から生まれてる。
  桜ちゃんがいるから、遠坂時臣も葵さんも赦そうとする俺が生まれる。
  矛盾してるんだけど紛れもなく桜ちゃんの存在が俺の気持ちを抑制して暴走させる。
  葵さんが好きな気持ちは俺の中にある、だからこそ余計に許せない。殺してやりたいと思うほどに、殺したくて殺したくてたまらない。
  いや。そうじゃない。
  俺には好きな人がいた。
  いた。
  いた。
  いた。
  今はもういない、それは過去の話。その人は俺の好きな人じゃなくなっていた。あの時―――公園で見た、あの姿が最後だった。もうあの人はどこにもいない、この世のどこにもいなくなったんだ。
  桜ちゃんを養子に出して、それを受け入れてしまった時。俺の中のあの人は死んでしまった。
  「な、なにを――。どの口がそんな事を!!」
  葵さんの姿をした誰かが怒りを露わにする。でも、その顔を見ても何の感情も湧かなかった。疑問はまだ残ってるがこの女に何を言っても無駄だ、そう俺は理解して、色々な事がどうでもよくなった。
  桜ちゃんに悲しんでほしくない。消え去る疑問の代わりに現れるのはそんな願い。
  小刻みに震える桜ちゃんの体を抱きしめて、俺は路傍の石を見る無関心さで大声で叫ぶ女を見た。こいつは勝手に自分の中に真実を作り上げて見当違いな事を喚き立てている。
  自分が今、愛する夫を殺しかけたんだと気付いていない。
  どうしようもない愚か者だ。
  黙らせるか?


  「ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!」


  その時。俺の思いも、目の前にいる女の叫びも、近くで傍観していたティナとストラゴスも、桜ちゃんが泣き出してから集まりだしたミシディアうさぎ達も―――ここにいる全ての生き物の行動を押さえつける魂の叫びが響き渡った。
  「桜ちゃん!?」
  そう、出所は俺の腕の中にいる桜ちゃんだ。
  喜怒哀楽。言葉にし切れない感情のうねりを全て詰め込んだような絶叫が俺の体を縛った。
  見下ろした場所にある顔は悲しそうだった、苦しそうだった、泣いているようだった、笑っているようだった。声と同じようにありとあらゆる感情を宿す顔だった。大粒の涙を流しているのに笑顔にも見えた。
  そこで桜ちゃんの小さな手に握られた緑色の物体に気が付く。
  桜ちゃんの両手は俺にしがみつく為に使われていたし、ポシェットはつけてなかった。持っている筈がないのに、いつの間に俺にしがみつく桜ちゃんの手に魔石が握られていた。
  いつの間に!? 俺がそう思うより早く、俺とは比べ物にならない桁違いに強力な魔力が一気に魔石へと吸い込まれ、一秒もかからずに封じられた幻獣が姿を現す。
  そこから現れた幻獣は悪魔の名を持つモノ『ディアボロス』。俺の頭上に体長十数メートルの幻獣が一気に現界した。
  羽根をはやした幻獣ディアボロスは遠坂邸の中にいる遠坂時臣と葵さんを一瞥する。
  そして口を開き―――。


  闇よりの使者


  黒い大玉がディアボロスの口から撃ち出され、一気に膨らんだそれが遠坂時臣も葵さんも遠坂邸も覆い尽くした。



  ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆



  Side - ゴゴ





  ディアボロスが作り出した黒い球体が遠坂邸を覆う。ただし漆黒のオブジェは最初から存在しなかったかのごとく、すぐに消滅してしまう。
  後に残るのは火災で今にも崩れそうな遠坂邸だけだ。バトルフィールドが展開する限り、物体は朽ちず崩れず炭化した状態を維持し続ける。
  建造物に関して言えば、ディアボロスの攻撃を喰らう前と後では何も変わっていない。だがあの黒い球の内側に捕縛された生物は等しく生命エネルギーを喪失する。けれど必ず絶命に至る一歩手前まで吸い尽くされるだけで、動けないほど衰弱するが死にはしない。
  気絶した遠坂時臣に避ける術はなく、知識はあっても一般人でしかない遠坂葵も同様だ。どちらも遠坂邸の床の上に寝転がっているが辛うじて生きている。
  死んではいない。
  見れば、雁夜に抱きかかえられた桜ちゃんは呼気を荒くしてまた涙を流している。その顔は怒っているようにも見えるし、泣いているようにも見える。おそらくその両方に悲しさを加えた表現しがたい感情が彼女の中に渦巻いているのだろう。
  感情の矛先は遠坂時臣と遠坂葵、自分を捨てた上に憎む両親。雁夜にしがみつきながらも自分の感情を抑えられず、今さっき渡したばかりの魔石を使って攻撃した。
  起こった事実だけを見れば怒りに任せての攻撃にも見えるが、渡した魔石が『ディアボロス』であり、それをそのまま使ったのも桜ちゃんの感情の揺らぎを表している。
  だからゴゴは―――、ティナとストラゴスはこの場に居合わせた大人として話しかける。
  「桜ちゃんは優しいね」
  「うむ、その通りじゃゾイ」
  「・・・・・・・・・・・・え?」
  真っ赤な顔で目を充血させた桜ちゃんの目が見開かれ、ティナを見つめた。
  その目は怯えと戸惑いを混ぜ合わせていたので、もっと判り易く言葉を噛み砕いていく。桜ちゃん、あなたは優しいわ。と。
  「攻撃系の魔石を使えば、あの二人を殺すことだって出来た。でも桜ちゃんはあえて『ディアボロス』を選んだ・・・。相手を極限まで弱らせても、けっして殺すことのできない幻獣を――」
  「憎しみに囚われておるが、それでも心の底にある理性が衝動を制したのじゃ、その幼さでは中々出来んゾイ。リルムに見習わせたい優しさじゃな」
  ティナを見つめながらも桜ちゃんはストラゴスの言葉もしっかりと聞いているのだろう。
  無言の中でジッと見つめるその姿が放たれた言葉を吟味しているように思える。
  「あなたは優しい子――。大好きよ、桜ちゃん」
  ティナがそう言った時、桜ちゃんは雁夜の肩に顔をうずめてしまった。
  恥ずかしいのか、嬉しいのか、悲しいのか、どう答えればいいか判らないのか、色々な事が起こり過ぎて休息を欲したのか。本当の理由はゴゴにも判らない。
  判るのは遠坂邸に留まる必要がなくなってしまった事だ。
  「もうここに用は無いわ」
  「川でリルム達と合流するゾイ」
  「ああ――」
  ここでようやく雁夜も心の整理がついたのか、桜ちゃんを抱きしめたまま力強く応対した。ほんの少し前に激昂に支配されて遠坂葵を殺そうとしていたのが嘘のようだ。
  遠坂時臣の言葉を聞けたのならもう用は無い。
  遠坂葵が何故ここにいるのか? その疑問はあるだろうが、意識の上での別離は放置へと繋がる。もし雁夜と桜ちゃんの中で遠坂葵の存在がまだ助けるべき幼馴染だったり恋い焦がれる母親だったりするなら、ここで助けてと願うか行動する。
  それをしない。無視が彼らがどうなっても構わないと言う二人の心そのものだ。
  これが答え。
  これこそが桜ちゃんを救うために無ければならなかった真実。
  一歩間違えれば桜ちゃんの心が壊れてもおかしくなかったが、雁夜も桜ちゃんも互いの存在が合って辛うじて自分を保っている。
  お互いが居なければどちらも戦う意思どころか生きる意思すら失ったかもしれない。抱きしめあう二人は互いの心を補完し合っている。
  危うかった。
  遠坂葵をここに飛ばした者が誰であるかの確信を半ば得ながら、ゴゴは実害の無さゆえにあえてそれには触れなかった。
  遠坂邸でするべき事はもう何もない。結論は変わらないのだ。
  「それじゃあ・・・」
  まず桜ちゃんを前で担いだまま雁夜が動きだし、意識の無い遠坂時臣の元へと向かった。
  左手には桜ちゃん、右手を刺さった剣の柄へ伸ばし、握ると同時にじわじわと引き抜いていく。
  「――ケアルガ」
  魔剣ラグナロクが動くごとに遠坂時臣の体組織が破壊されていくので、ティナは遠坂時臣に手を向けてまた上位回復魔法を放つ。
  降り注ぐ燐光に合わせて剣が引き抜かれ、背中から胸までを貫く穴が瞬時に埋まっていった。
  雁夜が剣を引き抜き終えると、そこには穴の開いたスーツを着ながらもその下には傷一つ無い遠坂時臣が出来上がる。剣の支えを失い、横に倒れるがそんな事はもうどうでもいい。
  遠坂夫妻が遠坂邸の一室で仲良く転がっている。ただそれだけで、助ける気も殺す気も無い。
  ただし、このまま二人を放置しておけば、魔石『ディアボロス』の特殊効果、状態異常『スリップ』によって体力が減少してしまい最後には死に至る。
  優しいと言葉で少し誤魔化したが、桜ちゃんはあえて長く苦しませて殺すために『ディアボロス』を変えずに使った可能性がありえた。
  表向きにはそうと見えないとしても、桜ちゃんの心の中は遠坂時臣と遠坂葵の憎悪で満たされているのかもしれない。だが真実を知らなければ先に進め無い様に、こうなる事もまた救うためには必要だから人を憎んでも恨んでも構わない。
  苦しみがあるからこそ楽しみがある。
  助ける者がいるならそれを妨げる者がいる。
  救いは辛さが無ければ生まれない。
  「行きましょう」
  短く告げるティナに対し、雁夜も桜ちゃんも何も言わずに頷いた。
  遠坂邸を背を向ける雁夜を視界の隅に捉えながら、ゴゴは桜ちゃんを遠坂から切り捨ててくれた二人に心の中だけで礼を言う。あなた達二人が桜ちゃんが伸ばした手を振り払ったから、ゴゴが桜ちゃんを救える。雁夜の物真似が出来る―――そう喜んだ。
  「それじゃあここはお願いね」
  「むぐむぐ」
  「むぐむぐ? むぐ~」
  放置はこの二人の復活する可能性を残すので、殺しておくのが禍根を残さない最も簡単なやり方だ。
  しかし桜ちゃんがディアボロスを使って二人を生かしたなら、その意思は尊重されるべきだ。たとえ、放置すれば死んでしまうとしても生かさなければならない。
  そこでゴゴは魔石『ディアボロス』の体力減少に拮抗させる為と遠坂を監視する為にミシディアうさぎを二匹残した。微弱な回復によって二人の命は今だけ生き長らえる、運が良ければ誰かがここに来て二人の命を救うだろう。
  遠坂邸でやるべき事を終えたティナは雁夜の背中を追いかけた。見ると、魔剣ラグナロクをアジャスタケースに戻し、それを後ろに回して両手で横に持ち、桜ちゃんを背負うための土台にしていた。
  桜ちゃんを守ろうとしながら、顔を合わせたくないのだろうか?
  「この戦いが終わった後に皆で遊びに行く約束・・・。もう守れそうにないな・・・・・・」
  先を行く雁夜からそんな声が聞こえる。





  遠坂桜を元気づけるゴゴがいれば、それに苛立ちながら見つめるゴゴもいた。
  「うーん、僕ちん失敗したみたい。もう少し面白くなるかと思ったけど、誰も死んでないねぇ」
  時間が経つごとに意識は侵食されて別のモノへと変わっていく。今はまだゴゴとしての意識とケフカとしての意識がせめぎ合っているが、そう遠くない内にこの体は完全にケフカ・パラッツォへと変わり、か細く繋がったものまね士の意識も完全に途絶えるだろう。
  この世界の魔術に屈服してしまう悔しさは無い。何故なら、ゴゴ自身が聖杯の汚染に分身した体の一つを完全に明け渡そうとしているからだ。
  体の一つが『悪』に染まればどんな形になる?
  この世界の魔術とかつての世界の魔法を融合させるとどうなる?
  英霊すら比べ物にならない厄介なモノを呼び寄せない為に加減したが、その楔を外したらどうなる?
  ゴゴは自分が知っている筈の事を物真似して思い出すが、それと同時に未知なる技術もまた吸収して成長を続けていく。故に未知とは脅威であると同時に歓喜でもあった。
  無論、それが『桜ちゃんを救う』から逸脱するならば、自分すらも殺すべき対象となる。
  「申し訳ない」
  ゴゴは―――ケフカは遠坂邸から距離を取りつつ、しっかりと観察できる位置にいた言峰綺礼へと頭を下げる。ただしその顔はいつもと変わらず化粧に合わせた笑顔を作っているので、謝っているようには見えない。
  向こうのゴゴ―――ティナとストラゴスはこちらの存在に当然気づいているが、監視だけでは『桜ちゃんを救う』とは何の関わりも無いので放置された。
  遠坂時臣と遠坂葵は瀕死の状態で周囲を気にする余裕がなく、疲弊した間桐雁夜と最初から監視者を逆に見つける技能を持たない遠坂桜の二人はケフカと言峰綺礼に気づかない。
  ミシディアうさぎは術者であるゴゴの影響で気付いていたかもしれないが、独力では何もできないのでこちらも放任。
  人がいなくなったので、二人は潜めていた声を解き放って話し始める。
  「少しは面白くなると思ったが、あの程度では全く足りないな」
  「だから謝ってるじゃなーい。僕ちんが思ったより雁夜も桜も遠坂がどうでもいいみたいなんだよね、もうちょっと未練たらたらだと思ったのにぃ!!」
  様々な事象を物真似して再現できるゴゴでも人の心を物真似するのは困難を極める。
  心―――。時に人の強さとなり、時に人の弱さともなるそれはあまりにも移ろいやすく、時間経過と共に形を変えすぎる。
  ゴゴが物真似しているかつての仲間たちは内面すら当人を物真似しているように見えるが、ゴゴが自分で『何か違う』と感じて物真似しきれていない部分が常に存在する。
  それこそが心の違いだ。
  ある程度の定まった形をしていながら、一秒後には全く別のモノへと変わってしまう可能性を秘めたあやふやでありながらも強固なモノ。
  ケフカは間桐雁夜が激昂しないどころか殺しもしないとは考えていなかった。確かに遠坂葵を殺さない可能性は高かったが、遠坂時臣は一年で鍛えた腕で殺し切ると思っていたのに、起こった結果は逆だ。
  生かすどころか治療してしまうとは気が狂ったとしか思えない。
  一年前に間桐雁夜の心の中で燃えていた怒りの炎はどこへ行ってしまった?
  けれど起こってしまった事は仕方がない。ケフカが考えていた以上に間桐雁夜の心は遠坂時臣を憎んでいなかった、この一念で遠坂葵から心は離れてしまった、そう認めるしかない。
  昔は好きだったかもしれないが、今は殺す意思すら持てない赤の他人に変わってしまった。それは遠坂時臣を殺さなかった理由と一緒だ、憎んでいた男は今はもう何も感じない赤の他人となった。
  遠坂桜の行動も少々予想外で、魔石『ディアボロス』を渡されたと気づいたら、もっと致死率の高い魔石を要求すると思ったのに、遠坂桜は『ディアボロス』をそのまま発動させて攻撃した。
  長く苦しませる計算が合ったとしても、相手が気絶してしまえば合ったかもしれない苦しみは眺められない。
  ケフカの抱いていた予測かつ理想は間桐雁夜が遠坂時臣を殺して、遠坂桜の心が傷つき、そこに現れた遠坂葵もまた殺される状況だ。なお、遠坂葵を殺すのは幼馴染でも娘でもどちらでもよかった。間桐雁夜が遠坂時臣と共倒れになる状況も捨てがたい。
  けれど目の前にある事実はそのどれでもない。
  両親との離別に悲しみ、多少は苦しかったかもしれないが。間桐雁夜の存在が遠坂桜を癒し、遠坂桜の存在が間桐雁夜を癒してる。互いに傷を舐め合ってる状況だ。
  つまらない―――。こんな人間模様を見ても面白くもなんともない。
  殺戮が観れなかった。
  破壊が観れなかった。
  絶望が観れなかった。
  心の壊れる瞬間が見れなかった。
  いっそ遠坂邸に残る夫妻を殺し、間桐雁夜たちを追いかけて全員殺してしまおうかと思ってしまう。
  けれど僅かばかりに残ったゴゴの意識がケフカの破壊を食い止める。殺すなら後でも出来る、そう意識を切替させた。
  「けっ、つまらないヤツ等め。いつか痛い目にあわしてやる」
  ケフカ自身、それが負け犬の遠吠えのように聞こえてしまうと理解しながら、これ以上ここでやるべき事は無いと未練を切り捨てた。
  確かにここでは面白い破壊は見れなかったが、まだまだバトルフィールドの中に絶望の肥やしは眠っている。むしろこの場に留まり続けて、その芽が開花する瞬間を見過ごしてしまう方が問題だ。
  これが駄目なら次に行け。
  次が駄目ならその次に行け。
  本体に比べれば大きく劣るケフカの一部。それでもバトルフィールド内の事ならば結界を張った同じ『自分』の事なので手に取るように判る。
  「次だ、次」
  「またつまらない様子を見せられれば、その時が貴様の最後と思え」
  「次はきっと大丈夫さ! そう、私に失敗はないのだ」
  本体ならばまだしも、攻撃手段がほとんどない幻影では簡単に殺されてしまう。
  敵対するような不用意な行動を一瞬でもすれば、その瞬間に黒鍵が額を貫く―――。そんな緊張と気迫を漲らせた言峰綺礼を伴い、ケフカは次の場所へと移動を再開した。
  聖職者に似合わない脅しをかけてくる辺り、新しく契約したサーヴァントの影響を色濃く受けてないか? と思ったが、ケフカはそれを言葉にしないで呪文を口にした。
  「デジョン」
  次元移動の魔法が発動し、宇宙を思わせる闇がケフカと言峰綺礼を一瞬で包み込む。
  あまり次元の狭間に長居すると言峰綺礼の息が持たないので、移動は最短で行わなければならない。はるか遠方のドイツから日本まで移動するのは時間がかかったが、バトルフィールドで覆った冬木市内ならば五秒とかからずに移動できる。
  いっそ、そのまま言峰綺礼を窒息させるのも面白いかもしれない。そう思いながら、ケフカは言峰綺礼と一緒に遠坂邸から別の場所へと移動した。





  雁夜と桜ちゃん、遠坂時臣と遠坂葵。予想とは少々違った形にはなったが、求めた情報の多くが集まって知るべきことは知れた。
  極端に言えばこの時点ですでに『桜ちゃんを救う』と言った雁夜の物真似はほぼ完遂している。魔石『ディアボロス』を渡して、そうなるように仕向けたのは確かだが、最早桜ちゃんの中にある両親への愛情は限りなくゼロに近い。
  まだ会ってない遠坂凛への想いが桜ちゃんと遠坂の家との繋がりで残っているが、両親については切り捨てたと言っても間違っていない。
  桜ちゃんを救うならば両親から引き離す事こそが最良だ。それはもう叶っている。だから、ほぼ、物真似は終わっている。
  完全に終わったと断言できないのは、聖杯戦争はまだ続いており、遠坂と間桐はそれぞれ始まりの御三家として魔術的な繋がりを残しているからに他ならない。
  聖杯戦争をどうにかした所で『桜ちゃんを救う』は達成される。そこでゴゴは起こった状況を正確に理解する為、各所で行動しているゴゴと意識を繋げた。
  ケフカとなってしまったゴゴと意識を共有すれば、その瞬間向こう側からの汚染を受けるので、あちらは最小限に留める。だが別の場所で戦っているゴゴは違う。別の場所で行動した自分の記憶に同調した瞬間、それは過去の記録であると同時にゴゴが体験した事実となる。
  ロック・コールは今を戦いながら過去を思う―――。
  雁夜と桜ちゃん、それからティナを飛空挺から落とした後、未遠川に向かうグループはブラックジャック号の最大速度で遮蔽物のない空を一気に駆け抜けた。
  そしてブラックジャック号を操縦するゴゴ―――元々はエドガーだったのだが、踊って『愛のセレデーナ』が作り出す結界を維持するために今はゴゴの姿に戻っている―――を一人残して、他の全員は川の辺へと跳び下りた。
 遠坂邸にいたリルムは分身宝具『妄想幻像ザバーニーヤ』と変身宝具『己が栄光の為でなくフォー・サムワンズ・グロウリー』を解除し、一度は元のゴゴへと戻ったが、ロック、セリス、マッシュの三人が地面に着地する頃には四人目のメンバーとして現れ直した。
  かつてゴゴは仲間たちと一緒に飛空挺ファルコン号で瓦礫の塔の上から乗り込む荒技をやってのけたので、ブラックジャック号から地面に飛び降りる程度ならば浮遊魔法『レビテト』を使うまでもない。
  ゴゴの操縦するブラックジャック号はそのまま上空で旋回しつつ、万が一の予備戦力として上から冬木市を見守る。そして川の辺に降り立った四人は川の中央で何かをしようとしているキャスターの姿を捉えた。
  「足の下に『穴』が出来てるわ」
  「アインツベルンの森で見た規模と比較的にならないな・・・。どれだけ出てくるんだ?」
  「ま、あれぐらいなら大丈夫でしょ。らくしょー、らくしょー」
  セリス、ロック、リルムの順番にキャスターを見ながら言うが、マッシュだけは川ではなく別の方向を見て会話に参加しなかった。
  敵を前にして危機管理能力が欠如した訳ではない。他の三人が前を見ているなら、マッシュは別の方向に意識を割いてそこにいるモノを見ているだけの話。認識の違いだ。
  マッシュは目を細めてそこにいるモノを見つけ、接近してくるのを確認した後で三人へ言った。
  「――カイエンが来るぞ。ライダー達も一緒だ」
  「遅かったな」
  ロックの返答を切っ掛けにして、セリスもリルムもまた川から空に向けて視線を動かした。
  危険の尺度で考えれば川の中央に佇むキャスターの方が重く、敵対どころか殆ど味方のライダーを見る必要はない。
 けれど彼らは空を舞い、こちらへと駆け降りてくるライダーの神威の車輪ゴルディアス・ホイールを見る。その胸中には『キャスターから目を離しても危険は無い』という強者の視点から見た観察の結果があった。
 程なく、一般乗用車の最高速度を軽く上回る速度で空を駆ける戦車チャリオットが雷鳴を響かせながら四人の元へと舞い降りてくる。
 ゴゴがいつも見ている神威の車輪ゴルディアス・ホイールは御者台から見る搭乗者としての視点ばかりで、これまでに正面からじっくり見る機会は無かった。
  真正面から来られたら轢かれるのでほんの少し正面からはずれているが、それでも前から見る機会に恵まれた。
 内側から見ていた宝具を外側からも観察できた幸運。これでまた物真似の材料が増えると内心で喜びながら、ロックは更に神威の車輪ゴルディアス・ホイールを観察する。
  二頭の牡牛が曳く御者台は防護力場を覆われていて、それが無ければあまりの速度にマスターであるウェイバー・ベルベットは簡単に風で吹き飛ばされるだろう。
  こちらはロック、セリス、マッシュ、リルム。
 あちらはライダー、ウェイバー、カイエン、サンという名をもらったアサシン。数の上では同じだが、戦車チャリオットの分だけあちらの方が大きく見える。
  「よお、ライダーのおっさん。相変わらず元気そうだな」
  「これは予想外の珍客ではないか。どうだ? 余の配下に加わる気になったか?」
  「いや。だからそれは断るって」
  そしてマッシュの軽口から両者の会話は始まった。
  ロックが話しても良かったが、一度顔を合わせているマッシュの方がライダーとは話しやすいからだ。
  「カイエンの案内でここまでやって来たが――、初めて見る顔が多いが何用でここにおる? ここにいる時点で無関係とは思わぬが、余と一戦交える気なら存分に相手をしてやるぞ」
  「まさか――。俺達は『聖杯戦争』としてあんた等に関わるつもりは無いんだよ。『冬木の平穏を乱す馬鹿』なら相手をしてもいいんだけど、あんたはそういう人じゃない。そういう輩はあっちだろうが、戦う気は無いってカイエンから聞いてないのかよ」
  マッシュはそう言いながら右手の拳で親指だけを立て、その指で川の中央にいるキャスターを指さす。
  離れていても聞こえる雷鳴でライダーの接近に気付いている筈だが、ライダー達にもロック達にも興味が無いのかキャスターがこちらに意識を割く素振りは無い。
  「都合よく・・・っていうのはちょっと違うんだが。今、俺達が立ってる冬木市はでかい結界の中に作った偽物で、ここなら何が起ころうと大抵の事は本当の冬木市には影響を出さない」
  「やはりこれはお主らの仕業か。あの『ケフカ』とかいう声と何やら因縁があるようだが、相違ないな」
  「ああ。あいつは俺達が倒す――そうしないといけないんだ」
  「――それで? お主らは何のために余をここに招き入れたのだ?」
  ライダーはあのケフカがゴゴの分身した一人だとは知らないが、何らかの関連があるとは判ってくれたようだ。深くは追及せずただ『何をする?』を問うてくる。
  その後ろでウェイバーが冬木市を丸ごと作り出す結界の大きさとその精度に驚いているようだが、話には関係なさそうなので無視しておく。
  「今すぐにでもあいつを倒そうと思ってたんだけどな。教会の方でアーチャーと一戦やらかしてる所で、下手に横やりを入れると両方の力がこっちに向かってくる危険がある。だからまずはカイエンの用から済まそうと思ってな」
  「やはり、あの光は金ぴかの仕業か」
  「気付いてたのか?」
  「余が空からやって来たのを忘れておるまいな? あれだけ大規模の戦闘を隠しもせずやっておれば誰でも気付くわい」
  冬木教会の戦いは時間経過と共にその規模を拡大している。最終的にはキャスターがやろうとしている『何か』すら児戯に思える程の大規模な戦闘へと移っても不思議は無い。
 カイエンの意識はキャスターとそこに近づいているセイバー達に向いてたが、戦車チャリオットを操っていたライダーの視界は冬木教会上空の戦闘も捉えていたようだ。
  「話を元すぞ。キャスターが何をやろうとしているか俺達にはどうでもいいんだが、冬木市に被害が出るほどの何かだったら見過ごせない。そしてカイエンはむしろそっちに向かってる奴との決着を望んでるんだ」
  「それはセイバーの事だな」
  「そうだ。で、ここからが本題――というか頼みなんだが・・・。もし俺達がキャスターのやろうとしてる『何か』を止められたらキャスターの相手は任せてくれないか? あれを放置してると面倒な事になりそうだし、今回を逃してセイバーに逃げられでもしたら厄介だ。両方の問題を一気に済ませたいんだよ」
  「ふむ・・・」
  ライダーはそこで考え込む様に言葉を区切る。
  ただし、マッシュに向けられた視線は一度も途切れず、それどころか周囲にいるロック、セリス、リルムも巻き込んで品定めしている様ですらあった。
  ほんの数秒の間を置いた後、ライダーが話を再開する。
  「いずれセイバーの奴めとは決着を付けねばならぬし、キャスターもどうにかせねばならん。だが、お主らにそれが出来るのか? 奴が何をやろうとしているかは余にも判らぬが、あれはかなり面倒な事態を引き起こそうとしておるぞ」
  「力を見せろって事だな。倉庫街で見た俺の力だけじゃ見せ足りないのは仕方ない、か」
  ライダーがこちらの策に乗って来るであろう事は予測がついていた。
  ゴゴが物真似の事象を常に探している様に、ライダーもまた常に征服する何かを探し続けている。
  アーチャーは滅ぼし、セイバーは善悪を見極めるなら。ライダーは征服する価値があるか否かを探る。それは征服王イスカンダルとしてこの世界に固定されている彼の在り方そのものだ。
  判断をつける為の方法を提示されたなら、それに喰いついてくる。その予測は間違っていなかった。
  もしかしたら初見である程度の力の強弱については見極め終えて、もう『何が出来るのか?』に思考が移っているのかもしれないが、結果が同じならば今はそれでいい。
  「だったら一人そっちに乗っけて対岸に連れて行くってのはどうだ? セイバーも向こう側から接近してるし、俺達の力不足でキャスター相手に連携するにしても移動は必須だろ。そこで力を見せて判断してもらう」
  「――よかろう。無理を通せばまだ一人ぐらいは乗れる筈だ」
  「決まりだな」
  あまりにも順調に話が進み過ぎていくが、これはライダーの豪胆さと王としての見極めの速さがあるからこそ成せる経緯だ。
  普通の人間ならば、カイエンの縁者と言えどもまず敵か味方かを怪しむだろう。手を伸ばせば殺しあえる距離にいきなり招こう等とはしない。
  他の聖杯戦争の参加者だったとしても、ライダー以外の誰かだったなら、自分の宝具に乗せようなんて思わない。こちらも話を持ちかけようとしない。
  ライダーだからこそ、だ。
  そしてマスターがウェイバーだからこそ、だ。
  尊敬にも似た言葉にしきれない感情をもて余しながら、ロックは話し合いの様子を見守っていた。
  「余を認めさせる者は誰だ? そちらは誰を選ぶ?」
  ライダーの問いかけに応じたのはマッシュではない。
  「リルムだっ!!」
  これまでロックと同じように状況を静観していたリルム・アローニィがここで初めて声を出す。
  実年齢に比べての高身長。それでも幼さを残したその様子と子供特有の甲高い声はよく合っていた。
  だからこそ初めて見るライダーとウェイバーが首をかしげるのは当然とも言える。こんな子供が? 本当に戦えるのか? 少しだけ大きく開かれた目がそう語っていた。
  すると御者台で様子を見守っていたカイエンが後ろからライダーに話しかける。
  「ライダー殿、リルム殿は見た目通りの子供でござる――。が! 事を魔術戦に限定するならば、この場においては最強でござるよ。拙者がそこのロック殿から借り受けた魔石もリルム殿が使えば、もっと強力な威力を発揮するでござる」
  突然、後ろから投げつけられた言葉にライダーが振り返り、カイエンの言葉を確かめる様に視線を合わせる。
  殺気こそ含ませていなかったが、この場にいるだけで蹴落とされそうな強力な気配がライダーを中心に生まれていく。嘘は許さん。とでも言わんばかりの威圧感だった。
  それに呼応してマッシュが、カイエンが、ロックが、セリスが、どんな気迫にも屈しない覇気を漲らせて相対する。
  「断言するでござる。あのキャスター相手ならばリルム殿の敵ではござらん」
  「・・・・・・・・・・・・その幼さで最強か、中々面白いではないか」
  長い間を置いて、ライダーが笑いながら言う。
  カイエンどころかこの場にいる誰もがライダーの気配に全く物怖じしないのが余程面白かったのか、それとも征服する者たちが自分の周りに集まったのが楽しいのか。
  戦場にいて、しかもほんの少しだけ離れた位置に敵がいるにも関わらず、ライダーは屈託のない笑みを浮かべている。
  その笑顔とは対照的に表情を曇らせたのはウェイバーだった。
  「おい、ライダー・・・。いいのかよそんな簡単に決めて・・・・・・」
  「何だ坊主。余の眼が信じられぬのなら、ここでその小娘と一戦交えてみるか? 間違いなく坊主が完敗するぞ」
  「う・・・・・・、止めておく――」
 カイエンとはそれなりの友好関係を積み上げて神威の車輪ゴルディアス・ホイールで同行するほどの中になったが、『カイエンの仲間』の括りではまだ敵か味方かの判別は出来ないのだろう。
  倉庫街の戦いを経てマッシュとは明確に敵対した訳ではないが、敵とも味方とも言えない微妙な立ち位置だ。初めて見る者といきなり共同戦線を張るなど、ウェイバーにとっては未知の領域に違いない。
  初めて顔を合わせた時から殆ど変っていない気弱さと諦観がウェイバーの顔に見えているが、その中に『それでも構わない』とほんの少しだけふてぶてしさが見えるようになったのは気のせいではない。
  ゴゴが聖杯戦争で多くの学び物真似している様に、ウェイバーもまた経験によって成長している。
  「それじゃあ話が決まった所で行くよ。リルムの力を見せてあげる」
 リルムはそう言いながら軽い足取りで神威の車輪ゴルディアス・ホイールの後ろに回り込んで、空いている場所に体をねじ込んだ。
  そこはウェイバーのすぐ近くで、彼の腰にしがみ付いているサンが近付いて来るリルムに対してビクッ! と体を震わせて、ウェイバーの後ろに隠れてしまう。
  「リルム・アローニィ。よろしくね」
  「あ・・・、よろしく――」
  リルムとしては同じ女であるサンの方に握手を求めたのだが、結果としてウェイバーが応対する羽目になってしまう。
  最初はいきなり現れた敵だか味方だかよく判らない相手に困惑していたウェイバーだったが、目の前にいきなり現れた女の子―――、サンと違って同じ位の身長で、それなりに女性としての柔らかさや各所の膨らみも持ち合わせた異性に顔を赤らめる。
  何しろリルムの恰好は水着と同じ位の露出度なので、近距離で見るには目の毒だ。加えて御者台は巨漢のライダーが操るだけあってそれなりの大きさを誇っているが、ライダー、ウェイバー、カイエン、サン、これにリルムを合わせた五人が乗るとかなり狭くなる。
  仮にウェイバーが手をほんの少し前に伸ばせば、その手はリルムにぶつかってウェイバーに女性の柔らかさをしっかりと伝えるだろう。
  身長はほぼ一緒だがほんの少しだけウェイバーの方が高い。それが辛うじて彼の男の尊厳を守っているようだが、リルムの年齢がウェイバーの半分近いと知れば色々な意味で恥かしさのあまり死んでしまうかもしれない。
  「早く終わらせてあのうひょひょ野郎を倒しに行くよ」
  場を和ますようにリルムがそう言った正にその瞬間―――。川の中央に陣取っていたキャスターの足元から巨大な海魔が姿を現した。
  地の底から噴火のように盛り上がる怪物の群れ。それが混ざり合って一つの塊を作り出し、巨大なモンスターへと姿を変えていく。
  「話している間に先手を許してしまったようだな」
  ライダーの言うとおり、話している間にキャスターの魔術は完成し、向こう岸には戦場へと到着したセイバーの姿があった。
  セイバーはキャスターの放つ魔力の禍々しさに集中するあまり、対岸でしかも離れた箇所にいるライダー達には気付いてないようだ。辺りに立ち込める濃霧もまた原因の一つと思われる。
  「これ以上の問答は結果を見てからにするとしよう。では参るぞ!!」
 この場にいる全員に聞かせる様に声を張り上げたライダーの言葉を切っ掛けとして、神威の車輪ゴルディアス・ホイールは新たな搭乗者のリルムと一緒に再び空へと舞い上がった。
 御者台からの光景、正面からの姿、真下から見上げる勇姿。だが神威の車輪ゴルディアス・ホイールを物真似して作り出すにはあの宝具の全力を見なければならない。
 それを見た時、ゴゴは神威の車輪ゴルディアス・ホイールを作り出せるだろう―――。そうやってゴゴの意識に引っ張られそうになりながらも、ロックは自分がすべき事をする為に行動を開始する。
  「それぞれが距離を取って個別に攻撃するか」
  「あれだけ大きな敵だと離れた方がやり易いわ。賛成よ」
  「異議なしだ。オーラキャノンで貫いてやる」
  多方面から攻撃しやすい様にロックとセリスとマッシュはそれぞれ移動し始める。
  そしてリルムのファイラ、マッシュのオーラキャノンがライダーへの『力の証明』となった後、四人はキャスターを相手に各々の攻撃を叩き込み始めた。
  一瞬のようであり永遠のようでもあった長い長い思考の末、キャスターの呼び出した怪物を相手に戦う四人の外側から、シャドウが今を見る―――。
  「負けるな。やっちまえェ青髭の旦那!」
  リルムの放った中位の炎魔法『ファイラ』に対抗する様に、セリスが『ブリザラ』を放てば、雁夜とは比較にもならない強力かつ広範囲の氷塊が海魔を覆い尽くす。
  モンスターの本体から山ほど伸びる触手に狙いを定め、ロックが専用の投擲武器『ライジングサン』を放てばまるで意志ある生き物のように触手を斬りおとしてロックの元へと戻っていく。
  マッシュがオーラキャノンを連発してキャスターがいるであろう個所に幾つも穴を開け。海魔が自分の皮膚を強引に剥がして氷を削ぎ落とせば、その隙をついてリルムが放つ炎が全身をこんがり焼く。
  キャスターのマスター。雨生龍之介は冬木大橋からその全てを目撃していた。
  大きさで言えば圧倒的に劣る四人と巨大な一体のモンスターとの戦い。けれど、それは戦いにすらなっていない一方的な蹂躙だった。
  雨生龍之介がケフカとゴゴが張った二重の結界の中に取り込まれ、いつの間にか周囲から人影が消えている事に気付いているかどうかは判らない。
  何せ、彼の眼は常にキャスターに向け続けられ、召喚された巨大な魔物を最高のプレゼントを与えられた子供のように見続けているのだ。周囲の変化をどれだけ理解しているかは全く判らない。
  巨大なモンスターが召喚された時は満面の笑みを浮かべていた雨生龍之介だから判るのだろう。今、キャスターが劣勢に追いやられているのだと。
  状況だけ見れば、攻撃しても攻撃してもキャスターを内側に取り込んだ巨大海魔は何事もなく復活して、何のダメージも負ってないように見える。だがそこに縫い付けられたように、現れた川の中央から全く動けずにいる。
  動く力すら回復に回さなければあっという間に消滅させられるとキャスター自身が判っているのだろう。
  その苦悩は魔力での繋がりがなくとも見ただけで判ってしまう。
  「旦那はもっと凄ェんだ!!」
  「ライブラ・・・」
  他に目もくれず必死で声援を送る雨生龍之介の陰で、シャドウはこっそり探査の魔法『ライブラ』を使って海魔の様子を調べる。
  魔力が続く限りの自動回復。他者を食しての回復能率の向上。ただしその大きさ故に鈍重であり、敵の攻撃を避けると言った機敏な動作は出来ない。
  体力、魔力共に大きな超重量級で、相手がランサーやアサシン、バーサーカーなど対人に特化した英霊だったならば手も足も出ずにやられてしまう。中々の強敵だが、遠距離かつ圧倒的な攻撃力を有する敵には的にしかならない弱点を持つ。
  例えばロック達のような相手は天敵と言えた。今はその圧倒的な回復力で何とか拮抗しているが、僅かでも劣勢に追いやられれば、その瞬間に敗北に向かって一気に形勢は傾いてしまうに違いない。
  そんなキャスターを応援し続ける雨生龍之介の在り方は『猟奇殺人鬼』であると同時に、魔術とは無縁の世界を歩んできた一般人である。
  感性は普通の人間を比較対象にすればかなり違ったモノとなるが、それでも法権社会が構築する善悪の分別はついている男だ。聖杯戦争に関わってからも『巻き込まれた一般人』の枠組みから雨生龍之介が外れた事はない。
  キャスターへの妄信はあっても彼から学ぶのは猟奇的な殺し方であって魔術ではない模様。精神的な歯止めによってやれるかやれないかは別れるだろうが、可能か不可能かで言えば雨生龍之介の行いは武器を持つ手と腕力さえあれば誰にでも出来る行いなのだ。
  その前提を覆す出来事が起ころうとしていた。
  雨生龍之介を観察し続けていると判るのだが、彼の必死さが増せば増すごとにある変化が起こる。厳密に言えば彼の右手が徐々に彼を一般人から聖杯戦争のマスターへと押し上げようとしている。
  「旦那ー! 最高のクールを見せてくれー!!!」
  今まで張り上げていた声の中で最も大きな声援。雨生龍之介の魂の叫びとでも言うべきそれが放たれた瞬間、橋の欄干に置いていた右手が光を放つ。
  潜在的な素養は合っても、魔術師としての自覚がない雨生龍之介は自分が何をしたか理解していない。けれど、彼は今、間違いなくマスターとして令呪を使った。それは覆しようのない事実だ。
  見れば雨生龍之介の右手に刻まれていた令呪は一画が消えており、『最高のクールを見せてくれ』という願いを叶える為に消耗されたのが判る。
  シャドウは雨流龍之介から巨大海魔へと視線を動かして戦況を確認すると。現れた場所に押し留められていた巨大海魔は少しずつ動きだし、セイバーのいる方角にめがけてゆっくりと動いていた。
  もちろん動いている間にも攻撃は止まずに繰り返されているが、治癒能力もまた向上している様で、復帰するまでに数秒かかっていた回復が一秒もかからずに終わっている。
  間違いなく、雨生龍之介の令呪によってキャスターは強くなった。
  「・・・・・・・・・」
  厄介だ、とは思いつつも、シャドウは一言も喋らずに観察を続ける。
  確かに海魔は攻撃力、持久力、回復力などはパワーアップしているようだが、防御力そのものは上がっていない。魔法を叩きこめば焼けるし凍るし傷つく、そこは変わってないのだからより強い攻撃を打ち込めばそれで事足りる。
  優勢に見えるのは一時だけだ。
  ようやくキャスターが優勢になったように見えた時―――シャドウの視界の隅にいた雨生龍之介が後ろに吹き飛んだ。
  しかもその吹き飛び方は猛スピードで突っ込んでくる自動車に跳ねられたような飛び方で、足が滑ったとか後ろに跳躍したとかではない。何の前触れもなく前方から力が加わり、後方へと飛ばされたのだ。
  誰が?
  何が?
  どうやって?
  雨生龍之介とキャスターにのみ意識を集中していたシャドウの心が答えを求めて動揺しそうになるが、暗殺者はそれを力ずくで抑え込む。そして吹き飛んだ方向を逆に遡り、まっすぐに攻撃されたと仮定して川の辺から少し離れた冬木市街の一角を凝視する。
  そこでシャドウは物陰に停車させたジープ・チェロキーのボンネットを台座にしてバレットM82を構える狙撃者を見つけた。
  その人物を監視するミシディアうさぎの視点を借りれば一発で判ったのに、ケフカの登場によってゴゴ同士の意識の共有がおざなりになってしまっていた。それこそが狙撃者に先手を許した原因だ。
  気づこうと思えば雨生龍之介が攻撃される前に気づけた筈。自らの失敗を悟りながらも、シャドウはその人物が誰であるかを把握する。
  「衛宮――、切嗣・・・」
  わざわざ声に出して確認したのは、近くにいる生物がシャドウの声を聴いても意味がないと判っていたからだ。聞く者が極端に少ない上に、聞けるであろう一般人はもう虫の息となっている。
  視線を雨生龍之介に戻せば、彼は胴体を円形にくりぬかれ、肺の一部と臓器の大半を失い、下半身の二メートルほど後ろに上半身が落ちている。
  辛うじて心臓は傷ついて無いようだが、生きるために必要な臓器がいくつも破壊されれば心臓一つ残っても大した意味は無い。即死しなかっただけで奇跡に近いが、何らかの手段を講じなければ遅くても一分以内、早ければ十数秒で生命活動は停止する。
  つまり、雨生龍之介は死ぬ。
  「うわぁ・・・」
  それなのに雨生龍之介の顔はどうしようもなく喜びに満ちていた。
  おそらく雨生龍之介は自分の身に何が起こったかを理解していない。一般人の目には見えない遠距離から大型ライフルで狙撃され、上半身と下半身が分断されているなど考えてすらいない。何しろ彼にはもう顔を起こして自分の状態を確認できる力がないのだから。
  体の内側にあった赤黒いモノの大半は撃たれた衝撃で後ろに吹き飛んでいるから、彼に見えているのは偽物の冬木の景色で、自分の体に流れていた紅い血がほんの少しだけ見える程度。
  その中のどこに雨生龍之介を喜ばせる要素があるのか。表向きの嗜好や性格しか監視してこなかったので、雨生龍之介を形作る心の奥底にある歓喜の源泉は知りようがない。
  判るのは死にゆく男の顔が喜びに溢れ、至福の笑みを浮かべている事だけ。蘇生魔法でもかけない限り、一般人でしかない雨生龍之介に生きる術は無い。
  マスター同士の闘争でありながら、彼の命を奪ったのは大口径の銃弾。
  魔術とは何の関係もない。
  何とも呆気ない終わりだ。
  キャスターの巨大海魔召喚とマスターの令呪使用。
  もし彼らに更なる奥の手があるなら、ここでシャドウが現れて雨生龍之介を直す選択肢もある。けれどキャスター陣営の手札はもう出尽くしており、これ以上彼らを監視する意味は無かった。
  だからシャドウはただ彼の死に様をその目に焼き付けて見送る。
  至福の笑みを浮かべたまま自分の体の中から湧き出た血の海の浮かぶ死体が一つ。聖杯戦争のマスターの証でもある令呪の残り二画が消えていくのを見届け、雨生龍之介が完全に死んだことを確認した。
  「・・・・・・・・・・・・」
  衛宮切嗣の所在が確認できているので、セイバーを倒すつもりならばマスターである彼を襲撃すればそこで全てが終わる。
  けれどある事情によりシャドウはそれをしない。むしろ気にすべきはマスターを失ったキャスターであり、どんな変化が起こるか気がかりだった。
  死体となった雨生龍之介から川の中央へと視線を向ければ、そこには動きを止めた巨大海魔の姿があった。怪物の肉の中にいるキャスターにもマスターの死亡は伝わっているので、動揺か困惑か、それとも魔力供給が断たれて現界が難しくなったか。外側からだけでは何が起こっているか知らないが、絶えず続く攻撃の中で静止してしまっている。
  どうやら川の方で戦っている者たちはロック達に英霊達も含めて誰も衛宮切嗣の存在に気づいていないようだ。四人の攻撃で巨大海魔を破壊する音があまりにも大きすぎて、その中に銃声が埋もれてしまったのが原因と思われる。
  仮にキャスターが雨生龍之介が死んだことに衝撃を受けて侵攻を停止させていたとしても、シャドウにとってそんな事はどうでもよかった。しばらく様子見に徹したが、結局のところあの怪物は驚異的な再生能力と群体として大きな体を有しているだけだ。
  倒すには街一つ吹き飛ばす位強力な攻撃を叩きこむ必要があるが、裏を返せばその程度で事足りてしまう。やるかやらないかは別にして、規模の大きな爆薬でもあればそれで殲滅可能だ。たとえば第二次世界大戦の末期に広島に落とされたモノとか―――。
  魔術的な手段に限らない殲滅方法を模索していると、巨大海魔が活動を再開した。しかも、その動きは今まで以上に活発で、海魔の体がいくら傷つこうと削られようと抉られようと壊れようと前に進もうとしている。
  どれだけ傷つこうと岸へとたどり着く。どれだけ壊されようと前へ進む。そんな決意が見えるようだ。
  本来であればマスターを失ったサーヴァントは魔力供給を断たれて急速に消耗していく定めにある。
 だが、マスターの魔力供給なしに長時間行動できるアーチャーのスキル『単独行動』と同じように、現界に必要な魔力さえあればサーヴァントは存在を維持し続けられる。そしてキャスターの手元にはそれ単体が膨大な魔力炉である宝具『螺湮城教本プレラーティーズ・スペルブック』がある。
 螺湮城教本プレラーティーズ・スペルブックの魔力が尽きる前に海魔と自分を存在させるために必要な魔力を得る為、マスターおよびサーヴァントという餌を捕食するつもりなのだろうか。あるいは残された時間を雨生龍之介への手向けとするつもりか。
  本心は巨大海魔の中にいるキャスターに尋ねるしかないが、今まで以上にやる気になったのが判ればもう後はどうでもいい。この状況は物真似する価値あるモノがこれ以上出ないと判ってしまえる。
  ただ猛威を振るい続けるだけか―――。
  消滅するのも構わずに侵攻しようとする巨大海魔の姿を認めた瞬間。シャドウの、いや、ゴゴの中にあったのは強い落胆と憤りだった。
  すでにゴゴはキャスターが呼び寄せた巨大海魔が単にここに呼び出されただけだと看破していた。魔力を手綱代わりにしてある程度の指向性は持たせているようだが、行動に関しては全て海魔自身に委ねられており、キャスターは単なる動力源にしかなっていない。
  制御して自らのものにしてこその物真似だ。こんな制御できないモノを呼び出す技など物真似する価値は無い。
  キャスターにとってはその制御不能こそが求めた状況かもしれないが、ゴゴにとって目の前にある景色は物真似への冒涜そのものだ。表向きはそうとは見えないかもしれないが、この時、海魔を見る全てのゴゴが怒りの炎を燃やしていた。
  こんなモノが技である筈がない。
  こんな技術を存在させてはならない。
  これが『召喚』などと思われては不愉快だ。
  ケフカが現れてから少々意識が攻撃的になっているのを理解しつつ、それでもキャスターが呼び出した巨大海魔の存在そのものへの忌避がゴゴの怒りとなっていた。
  許してはならない。
  許してはならない。
  許してはならない。
  お遊びの『召喚』を本物だと思われるのは我慢ならない。
  見せてやる、これこそが―――真の召喚だ。
  ゴゴの意識が一つの目標へと進み始めると、未遠川の辺から攻撃を加えていた全員が一斉に召喚の準備を始めた。
  ただし四人の中で一人だけ魔石を用いての召喚をあまり好まない男がいたので、その男、マッシュ・レネ・フィガロは他の三人が召喚を行うための足止めをするために別の攻撃方法を選択する。
  「おおおおおおおおおおおおおおっ!!!!」
  空気を震わす雄叫びを上げると同時にマッシュはその場で回転した。
  両手を斜め上に広く伸ばして上体を反らし、左足はしっかり地面につけて右足はつま先だけを軽く地面に当てる。右足の蹴る勢いと左足の踵を軸にした回転はフィギュアスケートのレイバックスピンに少し似ていた。
  だが、芸術を作り出すスポーツ競技と全く異なるのは、マッシュを中心にして暴力的な風がどんどん巻き起こっている点だ。
  マッシュを中心に考えれば、右側にはロックがいて左側にはセリスがいる。攻撃のために各々が移動したから隣り合う者同士の間にはそれぞれ百メートル以上の空間が空いてるが、その距離さえゼロにしそうな空気の奔流がマッシュを中心に次々に巻き起こる。
  その空気の流れが徐々に形を作って固まっていく、そしてマッシュを中心にして触れるモノ全てを切り裂く風の刃が幾つも幾つも幾つも幾つも作り出された。


  「真空波!!」


  マッシュの言葉と共に役目を果たす時を待っていた風の刃が一斉に海魔へ向けて殺到する。
  モンスターの肉体など軽く切り裂く数百の風、一つ一つが鋭利な刃となって海魔へと襲い掛かり、主に水面近くにある足場付近に半数近くの風が向かう。
  スパッ! と最初の風が到達すると同時に涼やかな音を立てながら海魔の一部が切り取られ、それに続いて数百の風が海魔の全身を切り刻んでいった。
  触手の根元は水の中にあったので真空波の猛威から逃げられていたが、山ほどあった触手で水の上に出ていた分は全て風の刃によって切り取られてしまう。その上、人にとって表皮に近い部分の肉はごっそり抉り取られ、海魔の全体容量は七割ほどに減退した。
  抉られた三割部分は最早海魔としての肉体を失い、回復できずに川へ落下していく。着水と同時に川の色が海魔の体液で染まっていき、失われた命のように川の中に広がっていく。
  今まで以上に強力な攻撃を叩きこまれ、力の全てを回復に回すしかなくなった巨大海魔の動きが止まる。
  その様子を見たリルム、セリス、ロックの三人はそれぞれ別々の魔石を取り出した。ゴゴがそうであるように、手のひらを上に向けて意識を集中すれば、体の内側から盛り上がるように緑色のクリスタルが姿を現す。
  人の肉体から出てきたとは到底思えない鉱石の質感を見せつけながら、魔石の中央に光るオレンジ色の六芒星が眩い光を発する。
  魔石を握りしめながらロックは思う。
  この魔石は炭鉱都市ナルシェで見つかった氷漬けの幻獣が変化したモノだ。それだけを考えるなら魔石そのものには大した意味は無いように思えるが、あるいはロック達が『ケフカを倒して世界を救う』と行動し、ゴゴがそれを物真似する事になった全ての発端はこの魔石で呼び寄せる幻獣にある。
  魔大戦で氷づけになった千年前の幻獣がナルシェで発見されなければ、ガストラ帝国が魔導の力を求めてナルシェにティナを送りこむことは無かったし。地下組織リターナーの一員として行動していたロックがティナに出会う機会は生まれなかった。
  リターナ―はガストラ帝国と戦う為に結成された地下組織であり、『あやつりの輪』でガストラ帝国の思うがままに操られていたとはいえ帝国の為に働かされていたティナとは敵対しても不思議は無かった。いや、むしろ幻獣が『あやつりの輪』を破壊しなければガストラ帝国の尖兵として活動していたティナとリターナーが戦うのは当然だった。
  この幻獣が切っ掛けになって幻獣と人間とのハーフであるティナが本来の自分を取り戻していき。他にも飛空挺ブラックジャック号を所有していたセッツァー・ギャッビアーニと出会う機会が生まれたり、様々な運命が繋ぎ合わさった。
  何とも因縁深い幻獣だ。
  「――頼むぜ」
  ロックが短く告げて魔石に魔力を送り込むと、頭上に爬虫類と鳥類の特徴を合わせた奇妙な生き物が姿を現した。
  赤と青と緑を組み合わせた立派な羽根を羽ばたかせて浮遊しながら、長く伸びた胴体は鳥と言うよりもむしろ蛇で、四本ある足はトカゲを思わせる。
  舌は蛇のように長いが、頭頂部に生えた金色の冠羽はやはり鳥だ。
  鳥類なのか、爬虫類なのか。最初にこの幻獣を見た者は間違いなくその疑問を抱く。そしてこの幻獣が炎氷雷の複合属性攻撃を放てると知った時、更なる驚きを味わうだろう。
  ロックは頭上に現れた幻獣の確かな存在感を感じ取りながら、その幻獣が放つ技の名を口にした。


  「トライディザスター」


  七割にまで減衰した巨大海魔を炎が襲い、氷が襲い、雷が襲う。
  焼いて凍らせて破壊する様子を見ながら―――、ロックと同じく魔石を握りしめたリルムは思う。
  リルム・アローニィにとって世界とはサマサの村そのものであり、魔封壁の向こう側から幻獣が現れて西の山に辿り着くまで、サマサの村と近辺以外の世界を知らなかった。
  そして旅をし始めてすぐに世界は崩壊したが、故郷のサマサの村は残り、ほんの少し姿が変わって場所が移っただけでそこに在り続けてる。
  三闘神の力のバランスを崩した事で発生した大災害―――確かに目に見える景色の多くは変わったしまったけれど、リルムの世界はほとんど変わらなかった。
  壊れてしまった物があると理解できてる。
  亡くしてしまった者がいると理解できてる。
  消えてしまったモノが沢山あると理解できてる。
  それでもリルムの世界はほとんど変わらず、心の中にずっとずっと在り続けている。
  だからリルムは仲間たちとはぐれた後に持ち前の行動力を発揮して、十歳の幼さながらも色々な所を旅したり、アウザーの屋敷でラクシュミの絵を描いたり、自分が死んだと思って腑抜けてたじじいに喝を入れたりと元気よく生きてきた。
  手に持った魔石だってリルムからすれば、これまで知らなかった外の世界の出来事の一つでしかない。
  知らなかったことが沢山ある。辛い事も苦しい事も悲しい事だってあるけど、世界は大きくって楽しい。
  子供なのは立ち止まる理由にはならない。子供だからこそ無鉄砲に色々な事をやりたい。
  もっともっとたくさんの事を知るため、邪魔な敵を排除するため、リルムはその魔石に魔力を込めて封じられた竜を呼び出した。
  この世界ではない別の世界が一人の男によって崩壊させられた後、その世界の空をたった一匹で支配した古代の魔物デスゲイズ。
  その体内にはある竜の魔石が取り込まれていて、その竜の力の一部を取り込んで使っていたからこそ世界崩壊に合わせて蘇ったデスゲイズは世界の空を支配できた。
  その竜はロックが呼び出した幻獣よりも巨大な羽根を大きく広げる。
  鱗一枚一枚が宝石のように輝いて漆黒の体色を作り出し、ただそこにいるだけで全ての生き物はその竜に―――竜王に頭を垂れるに違いない。
  大きさでこそ巨大海魔には少々劣るが、この世界においても幻想種といわれる生物の中でも最高位に位置する竜種。その頂点に君臨する幻獣がリルムの頭上で敵を睨み付けた。
  そしてリルムが竜の口から放たれる咆哮の名を口にする。


  「メガフレア」


  放たれた咆哮は球形の形にまとまり、それは撃ち出された同時に膨らんでいく。遂には巨大海魔を包み込めるほどの大きさまで膨れ上がり、倒すべきモンスターへと着弾した。
  強力な追撃に巨大海魔の体が更に削られ抉られ損なわれ失われていく様子を見つめながら―――、セリスもまた他の二人同様に魔石を握りしめて思う。
  手にした魔石は幻獣と人間のハーフであるティナとは別の形で人と幻獣とが想い合った結果生まれた魔石だ。
  この魔石は元々千年前に勃発した魔大戦において、人の側に立って戦った幻獣『オーディン』が元になっている。この世界では北欧神話の主神であり戦争と死の神の名前だが、魔大戦が起こったかつての世界では甲冑を身に着けた戦士である。
  神獣スレイプニルに乗っている点は同じでも、北欧神話では八本脚の軍馬だが、こちらのスレイプニルの足は六本だ。
  魔大戦で亡ぼされた都市の一つ、フィガロ城が立つ砂漠の地下に眠る城の大広間、そこで行われた魔導師との戦いでオーディンは石化され、そのまま滅ぼされた城と共に千年間眠りについた。
  ゴゴ達が石化されたオーディンと出会うと石像は砕け散り魔石となったが、セリスの持つこの魔石はその魔石に新たな要素を付け加えた事でパワーアップした。
  その要素こそ、ティナとは異なる形での人が幻獣に向けた『愛』だ。
  オーディンが敗北し、一つの都市が滅ぼされた後。砂漠の下で眠り続けていた城の中には一人の王女がいた。その王女はオーディンが幻獣でありながらも深く愛し、オーディンの気高い心に強く惹かれていた。
  その想いはオーディンが石像となっていた城の一室―――おそらく王女の部屋であろう本棚にあった『王女の日記』に綴られていたが、日記の最後にはこうも書かれていた。
  「この戦いが終ったとき・・・。必ず・・・この想いをうちあけよう・・・」
  けれどオーディンは魔大戦において魔導師との戦いに敗れ、全身を石化されてゴゴ達と出会うまで千年間も城の大広間で石像で在り続けた。王女がオーディンに想いを告げられなかったであろう事は容易に想像できる。
  そして王女の部屋には隠し階段が存在し、その奥にはオーディンと同じく石化した王女の石像があった。
  オーディンの石化を解除できず、解除できる日を待つために自らもまた石化する事を望んだのか? オーディンを石化させた魔導師が王女もまた石化させたのか? あるいはもっと別の理由か?
  千年前に起こった出来事を知る者は誰もおらず、あるいは王女の石像の近くを徘徊していた伝説の八竜が一匹ブルードラゴンならば何か知っていたかもしれないが、八竜は三闘神の力をどの魔石よりも色濃く受け継いだ幻獣『ジハード』を封印する役目を担っている上に、人の言葉を介さない猛威の象徴だ。遭遇しても話す機会どころか意思疎通の機会すら無かったので、王女の身に何が起こったかは誰も知れない。
  物言わぬ魔石と石像からは何も判らない。判るのは石化した王女に魔石『オーディン』を近づけると、王女の石像が涙を流し―――その涙を受け止めたオーディンがレベルアップする事実のみ。
  もしかしたらオーディンを想う王女の心がオーディンに新たな力を与えたもかもしれない。
  もしかしたらオーディンもまた王女の事を深く愛していたのかもしれない。
  もしかしたら王女の石化は不完全で、あの涙は王女に残された最後の心だったのかもしれない。
  もしかしたら、もしかしたら、もしかしたら・・・・・・。
  幻獣『オーディン』とその幻獣を愛した王女が作り出した結晶。ある意味で、二人の子供と言えなくもない魔石に向かい、セリスは魔力を注ぎ込む。すると、幻獣『オーディン』を原形にしているが全く別の甲冑姿の戦士が姿を見せた。
  武装は『オーディン』に比べて軽装で、盾はなく、鎧もまた動きやすくモノに代わっている。だが防御を軽くした代償を全て攻撃へと注ぎ込み、繰り出す剣劇はオーディンの一撃を軽く上回る。


  「真・斬鉄剣」


  セリスが技の名を口にした瞬間、戦士は身の丈ほどある―――人の尺度で考えれば家ほどもある巨大な剣を振り上げ、スレイプニルと一緒に突撃した。
  ロックの持つ魔石『ヴァリガルマンダ』。
  リルムの持つ魔石『バハムート』。
  セリスの持つ魔石『ライディーン』
  マッシュの『真空波』によって減衰した巨大海魔は三体の幻獣が作り出す破壊の渦に揉まれ、削られ、焼かれ、抉られ、凍らされ、潰され、消され、砕かれて―――斬られた。
  局所的な大災害が川を中心に巻き起こり、巻き起こった暴風が巨大海魔の残骸を中心にして全方位へとまき散らされ、水は沸騰して凍り付いた。
  もし巨大海魔の体力魔力が共に最高潮であったならば幻獣『ライディーン』の敵全体を斬って即死させる『真・斬鉄剣』を避けられたかもしれないが、鈍重な上に『真・斬鉄剣』が発動した時にはもう半死半生と言っても過言ではなかった。
  幻獣『ライディーン』が持つ剣よりも巨大な斬撃の痕が巨大海魔の上から下まで刻まれ、何十本もの横切りが海魔を切り刻む。
  役目を終えた三体の幻獣が魔石の中に戻るのと、幾つもの肉片に別れた海魔が重力に引かれて落下していくのはほぼ同時だ。群体である巨大海魔の一部を切り裂いた所で他の部分が修復してしまう筈だが、『真・斬鉄剣』の効果は敵全体へと及ぶので、全ての群体全てが餌食となる。
 そして海魔の頭の部分にいたであろうキャスターも『真・斬鉄剣』に斬られたらしい状況を確認する。もしキャスターが健在だったなら、螺湮城教本プレラーティーズ・スペルブックで再び海魔を活動させる筈。
  キャスターのパラメーターの中で最低ランクの『耐久』と『幸運』がもう少し高ければ、巨大海魔が上から下まで斬られながらもキャスター自身は少しだけずれて斬られなかったり、あるいは体の一部分を斬られるだけで生き長らえたかもしれない。
  けれどあったかもしれない『もし』は存在しない。あるのは召喚されたモンスターが崩れゆく結果と、サーヴァント敗退の事実だけだ。
  キャスターは巨大海魔と同じ攻撃に晒され、『ライディーン』の『真・斬鉄剣』で斬られた。
  川の中に出来た破壊に呑まれてロック達の敵は呆気なく死んだ。
  召喚に特化したサーヴァントが召喚によって敗北した。
  マスターである雨生龍之介の死亡を合わせて、キャスター陣営の戦いはここで終結したのだ。



[31538] 第37話 没ネタ 『キャスターと巨大海魔は―――どうなる?』
Name: マンガ男◆da666e53 ID:23cb9b06
Date: 2013/11/09 00:11
  第37話 没ネタ 『キャスターと巨大海魔は―――どうなる?』



  ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆



  この話は第37話で行われたゴゴ達と巨大海魔との戦いで合ったかもしれないけど没にしたネタをまとめたお話です。第37話を読んだ後にお読みになられるとよいでしょう。
  当初はメモ書きレベルで感想掲示板にでも書こうと思ってましたが、没は没なりに筆が進んでしまいました。
  原作では大いに活躍したセイバーとか、ライダーとか、ランサー・・・はあんまり活躍してないか。アーチャーとか、戦闘機乗っ取ったバーサーカーとか―――。
 必滅の黄薔薇ゲイ・ボウを格好よく折ったランサーとか、約束された勝利の剣エクスカリバーの斬撃とか、ライダーの伝令で王の軍勢アイオニオン・ヘタイロイの中から唯一名前がでたミトリネスとか―――。
  彼らサーヴァントの出番は全くありません。
  あくまでこれは本編と全く関係のない没ネタです。



  ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆



  その1 『セリス・シェールの場合』





 川の中央に立つキャスターの足場を形成する為に呼び出した十数匹の海魔。宝具『螺湮城教本プレラーティーズ・スペルブック』から流れ落ちた魔力はその怪物たちの中に流れ落ちて『同族を召喚し続けよ』と命令し続けていた。
  海魔たちに自分たちの仲間を引き寄せる力はないが、キャスターが開けた召喚の為の穴から同族を招きよせるための道しるべ程度にはなる。その川底と水面のちょうど中央辺りにできた術式が魔術の常識でも考えられない大量の海魔を連続召喚させる基点である。
  彼らはそこから現れる仲間たちと混ざり合う。
  現れよ。
  溢れよ。
  満ちよ。
  喰らえ。
  キャスターの宝具と想いは融合し、おびただしい数の海魔が連続召喚される。
  「今再び――我らは救世のは」


  「魔封剣」


  たを掲げよう。とキャスターが朗々と語るよりも早く、どこからともなく聞こえてきた声がキャスターの狂騒を遮った。
  無論、他の物音があろうと無かろうとキャスターは自分の言葉を止めずに言い終えたのだが、あまりにも唐突に―――それでいて大きくありながらもその声は静謐であった。矛盾しながらも確実に人の声と判別できる音がキャスターの声を上回ったのだ。
  小さい音はより強い音によって消されてしまう。単純明快な事実によって作り出された結果は、同時にキャスターが望む結果もまた変質させていた。
  「おっ?」
  連続召喚の準備を完全に終えた筈のキャスターの足元からは何の反応も返ってこない。想定では術式の内側から海魔が何匹も何匹も何匹も何匹も何匹も何匹も何匹も何匹も何匹も何匹も何匹も何匹も何匹も何匹も何匹も何匹も何匹も何匹も何匹も何匹も何匹も何匹も現れて、見上げるほどの塊を作り出す予定だった。
  それなのにキャスターの下にあるのは十センチほど盛り上がった足場だけ。元々の数から五匹ほど増えて足場を増量したかもしれないが、キャスターの望む形とはあまりにもかけ離れていた。
  何が起こった?
 混乱の中、キャスターは何が起こっているかを確かめるために下を向く。そこで手にした螺湮城教本プレラーティーズ・スペルブックから溢れた魔力が下ではなく別方向へと流れているのに気が付いた。
  足元ではなく、聖処女のいる前でもなく、左斜め後方へ。紫色の濃密な魔力がそれ自体が意思を持った生き物のようにキャスターの背後にある川辺へと向かっていたのだ。
  慌てて振り返るキャスターの目に飛び込んできたのは剣を上に掲げる誰かの姿。
  魔力はその何者かが構えた剣に吸い込まれている。
  少なくともキャスターはその人影を聖杯戦争において雨生龍之介の召喚されてから一度も見た事のない。しかもその女性の威風堂々たる佇まいはキャスターが想う『聖処女ジャンヌ・ダルク』の姿をほんの少しだけ彷彿させており、それがキャスターの感情を一瞬で激情へと変貌させる。
  「何者だっ!? 誰の赦しを得てこのわた」
  「オーラキャノン!!」
  しを邪魔立てするか。と告げる筈だったキャスターの声が別の大声に打ち消される。
  別方向から放たれた白い閃光がキャスターの首から上を焼き尽くした。





  勝ったッ! 第3部、完!
  各々の見せ場のない呆気ない終わりなので没。
  でもゴゴが物真似の為にキャスターに好き勝手させず、速攻で倒そうとするならこうなる可能性は非常に高い。



  ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆



  その2 『マッシュ・レネ・フィガロの場合』





  マッシュは泳いでいた。
  「――フッ! ――フッ! ――フッ! ――フッ! ――フッ!」
  両手で交互に水をかき、両足を交互に上下に動かして泳ぐ。クロールと呼ばれる泳ぎ方で、右手が前に来ると同時に息継ぎは行われ、ただひたすらに川の中央にいる巨大海魔を目指し泳いでいた。
  格闘家でもあるマッシュは近距離攻撃こそ最大限の威力を発揮するが、離れた敵に対する遠距離攻撃もまた持ち合わせている。川の辺にある舗装された道路を起点として、『オーラキャノン』『鳳凰の舞』『真空波』などの遠く離れた敵への攻撃を行える。
  だからわざわざ敵に近づく必要はないのだが、それでもマッシュは敵を目指して泳いでいた。
  「――フッ! ――フッ! ――フッ! ――フッ! ――フッ!」
  マッシュが遠く離れた敵に対して一方的に攻撃できる優位性を捨ててまで巨大海魔に近づいているには訳がある。
  決して自棄になった訳ではない。
  かつて旅した世界でもほとんど見ない巨大な敵。あれに必殺技の一つ『メテオストライク』が通じるか否か試してみたくなったのだ。
  敵一体の隙をついて抱きかかえ、遥か上空までジャンプ。反撃される前に敵を逆さまにして脳天から地面に叩きつける大技。それが『メテオストライク』だ。
  この世界の動物である象よりも大きなモンスターを投げ飛ばしたこともある。例えば、獣ヶ原の洞窟をねぐらにするキングベヒーモスがこれに該当する。
  それどころか六両連結した列車、しかも走行中ですらあった『魔列車』を投げ飛ばした経験すらあった。
  あの怪物に鍛え上げた武術は通用するのか? マッシュの心はその疑問に埋め尽くされ、その証明をしたくてしたくて堪らなくなってしまった。
  結果、マッシュは巨大海魔が全身を露わにした瞬間、川に飛び込んで敵を目指して泳ぎ始めてしまった。
  投げる。
  崩す。
  落とす。
  どれほどの効果があるかどうかは二の次で、技そのものが通用するか否かに意識は傾いていく。
  格闘家とは自らの肉体を鍛え、その技を研鑽し続ける。そうやって我が身一つで問題を解決しようとする傾向が強く、マッシュもその例にもれず自分で出来ることは自分一人でやろうとしてしまった。
  結果―――、近づくと同時に巨大海魔が伸ばしてきた触手に足止めされ。その上、捕獲されて喰われそうになるのだった。
  「むぼ、う、げば!」
  かつてマッシュはフィガロ城の機関室のエンジンに絡みついていた四本の巨大な触手と戦った事があり、あの時も捕まって攻撃のチャンスを奪われた上に触手に体力を吸われて敵を回復させる羽目に陥った。
  当時は一緒に戦ったセリスとエドガーの協力によって何とか打倒したのだが、今、川の中にいるのはマッシュと触手だけだ。
  巨大海魔だけが相手だったならば足場が無い不安定な水の中だろうと戦える自信はあるが、苦戦させられた『触手』と似た相手もいるとなると少々分が悪い。あるいはマッシュが気づいていないだけで『触手』に対してトラウマになっており、心のどこかで似た系統の敵に苦手意識を作り出しているのかもしれない。
  泳ぐのではなく、魔石『ケーツハリー』で紫色の巨鳥を呼び出して運んでもらえば良かったとも思ったが後の祭りである。
  準備不足と過信、その結果がこれだ。
  「うお、手前。舐めるなっ!」
  クロールを止めて、足だけを動かして水面から上半身を出す。そのまま鉤爪を振り回して迫り来る野太い触手―――タコかイカの足に似たそれを切り裂いた。
  もっとも、捕食の為に特化したそれはタコやイカの足に比べればかなり凶悪で、あれに掴まれたが最後、どんなモノであろうと喰われてしまうだろう。かつてフィガロ城のエンジンを止めながら、マッシュの体力も吸い取った『触手』のように・・・。


  「死んでたまるかぁぁぁぁぁぁぁ!!」


  叫びと同時に両手にはめた鉤爪を振り回し、何とか数十本の触手の猛攻を何とか耐えしのぐマッシュ・レネ・フィガロ。
  触手の波がわずかに弱まった瞬間、泳いできたルートを遡って逃げたのは言うまでもない。





  格闘家、足場が無ければ、足手まとい。
  ゲーム内でたまにギャグ要素が強くなるマッシュだが、格好悪い所は見たくなかったので没。



  ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆



  その3 『ロック・コールの場合』




  ロックは右手にアクセサリ『盗賊の腕輪』を身に着けながら前に伸ばし、左手で腕輪を抑え、手を前に出す構えを作り出していた。
  「サンダラ!!」
  呪文を唱えると、前に伸ばしてロックの右手の平から雷撃が生まれ、川の中央で四方から攻撃を喰らっている巨大海魔を焼き焦がす。
  ロックがゾゾの町で最初に出会った幻獣『ラムウ』。彼はガストラ帝国の魔導研究所から逃げ出して、老人に見える姿を利用して幻獣でありながらも人に紛れて生活していた稀有な幻獣だ。
  その幻獣の力を使う雷の中位魔法はロックにとって使い慣れた魔法の一つ。けれど、ロックの職業はトレジャーハンターであり、その本質は魔法を使って敵を倒す者ではない。
  宝を掴み取る者だ―――。
  故にロックは攻撃しながらも常に左手に返ってくる右手の腕輪の感触を気にしていた。
  アクセサリ『盗賊の腕輪』、この腕輪は敵が持つアイテムを盗む確率を高める効果を持ち、トレジャーハンターであるなら決して逃してはならない宝をより高確率で手に入れられる腕輪だ。
  三闘神の『鬼神』からはエドガーとマッシュ専用の防具で炎を無効化できる『レッドジャケット』を―――。
  ガストラによって空に浮かび上がった魔大陸に現れるモンスター『ドラゴン』からは左右の手にそれぞれ武器を装備できる『源氏の小手』を―――。
  ジュラ紀の大型恐竜を彷彿させる『ブラキオレイドス』からはありとあらゆる状態異常を防ぐ神秘のアクセサリ『リボン』を―――。
  その他にも色々なモンスターから色々なアイテムを盗んできた。
  ロックにとってモンスターとは倒すべき敵であると同時に、どこに持っているのかすら判らないが様々なアイテムを隠し持っている宝箱でもある。
  だからこそ、あの巨大海魔が何を持っているか確かめたくなるのはトレジャーハンターの本能と言えた。四方からの圧倒的威力でもって海魔をその場に押さえつけている状況もロックの欲望を促す要因になっていた。
  俺一人が攻撃しなくても何とかなるんじゃないか? と。衝動に突き動かされたロックは魔石を取り出し、幻獣『ケーツハリー』を呼び出す。
  この幻獣は黄色と緑色と赤色の青色の色彩豊かな羽根を持つ巨鳥の幻獣で、アインツベルンの森で戦った時も移動の手段として用いた幻獣だ。
  地面に降り立ち、羽根を休めて紫色の体躯を存分に見せつけるケーツハリー。ロックは鳥の幻獣の羽根に手をかけ、一気に背中まで飛び上がる。そしてケーツハリーは成人男性一人分の重量をものともせず、空高く舞い上がった。
  上空への引き上げられると同時にロックの腹の底に気持ち悪さが浮かび上がるが、目の前にある宝箱への欲求で気持ち悪さを強引に押しつぶす。
  何を持ってる?
  どんな宝が出てくる?
  どうやって奪う?
  相手がモンスターとは言え、この『盗む』という行為そのものが、炭坑都市ナルシェに居を構える地下組織リターナーの同胞の老人から『泥棒』と言われる理由なのだ。けれど、ロックは意図的にその事実を黙殺する。
  ロックは投擲武器『ライジングサン』を仕舞い込み、代わりに聖なる属性を持つナイフ『グラディウス』を手に取った。その間にもケーツハリーは背中にロックを乗せたまま空高く舞い上がり、一気に巨大海魔へと向けて滑空していく。
  狙うは巨大海魔の持つアイテムだ。
  すると、お互いの距離が百メートル以内に縮まろうとした時。ほぼ真正面からやってきた巨鳥の幻獣に対して、巨大海魔は水の中から極太の触手を何本も何十本も伸ばしてきた。
  元々その長さを持っていたのではなく、体の一部を使って触手を自由自在に伸縮させているようだ。
  回復に費やして失った魔力を補充する。餌を、食料を、生贄を、魔力を寄越せ―――とでも言わんばかりにロックとケーツハリーを喰らおうと何十本もの触手が迫る。
  触手の付け根、蠢く肉の表面には数えきれないほどの眼球が合って、それら全てがロックとケーツハリーを見つめていた。飢えに支配された視線が山ほどロックに突き刺さるが、その程度では恐れない。
  召喚された場所に縫い付けられ、ただ見ているだけのモンスターが飢餓に背を押されて恨みがましく見ていたから何だというのか。
  触手の太さは一本一本がロックの体格より太い、食事をするために伸ばされた何十本もの触手は悪夢の象徴のようだが、ロックはもっと厄介で面倒な強敵と戦った事がある。
  フェイントのない手数の多さだけが自慢の直線的な攻撃―――、いや、捕食しようとする触手の動きを捉え。ロックは体勢を低くして両足をケーツハリーの羽毛に埋め、グラディウスを持たぬ手で更に体を固定する。
  伸ばされた触手から避けるために体を真横に傾けたケーツハリーから落とされないように両足と片手での三点でしっかりと体勢を整えた。
  「はっ!!!」
  空を切った三本の触手がロックの間近にある。吐き出した呼気と一緒にグラディウスを振ってそれら全てを斬り捨てた。
  刃渡りが二十センチほどしかないナイフが十数倍の大きさの物体を切り裂く。明らかにグラディウスの刃が振れていない部分も切り裂いているが、付加された聖属性が邪なる海魔の肉体を浄化させているのだろう。
  ケーツハリーが空を舞い、背中に乗ったロックが避けた触手を全て斬る。
  「ヘイスト」
  援護とばかりに川辺からセリスの声が聞こえてきて、ロックの体をスピード増加の魔法が包み込む。するとグラディウスを振るう速度は更に上がった。
  触手はロックに斬られた部分から付け根までは健在であり、残った部分を動かしてロックを押し包もうとしてくるが、速度の上がった剣劇はその肉の檻を切り裂いていく。
  滑空するケーツハリー。
  喰らおうとする触手の群れ。
  それを切り裂くトレジャーハンター。
  斬る、斬る、斬る、斬る斬る斬る斬る斬る斬る斬る斬る。
  触手が数十本斬られても海魔の体力は全く削れていないようだが。大きさでは数十倍、いや、数百倍もの違いがありながらも、巨大海魔はロックとケーツハリーの進撃を食い止められていない。
  その光景は空を飛ぶ蠅を捕まえるられない人間に少しだけ似ていた。
  そしてロックは遂に巨大海魔へと到達する―――。
  「盗む!」
  伸ばされた触手を掻い潜り、ケーツハリーが敵モンスターの脇を通り抜ける一瞬の隙を突く。
  ロックはケーツハリーの羽毛を握っていた手を伸ばし、ヌメヌメとする海魔の体の中へと手を突き刺した。下手をすればそのまま喰われてもおかしくない無謀な行為だが、それでもロックがアイテムを掠め取るためにはどうしても必要な行為だ。
  一瞬の邂逅を経て、喰われる前に引き抜かれたロックの手は―――。


  何も持っていない。


  「・・・・・・・・・・・・・・・それもそうか」
  ケーツハリーの上で体勢を立て直しながら、落胆と共にロックは呟いた。
  盗むのに失敗したのではなく敵は最初からアイテムを持っていない。ロックの手はただ巨大海魔の肉の感触しか感じなかった。
  思えば、様々なアイテムを持っていたモンスターはここではない別の世界のモンスターであり、この世界に召喚された魔物が何らかのアイテムを持っているなど空想でしかない。
  ロックはもう一度心の中で『それもそうか』と自分を納得させ、敵がアイテムを持っていない現状を受け入れる。
  仕方ない。仕方ないったら、仕方ない。
  アイテムを持っていないならもう用はなかった。
  よし、殺そう―――。
  滑空の勢いを殺さずに向こう岸へと渡り、ケーツハリーから降りて再び川辺から攻撃する状況を整えたロックはこれまで使っていた雷の魔法の威力を引き上げた。
  少し離れた場所でリルムがロックの方を見ていたが、怒りで後押しされたロックは気付かない。
  「サンダガァ!!!」
  それは幻獣『ラムウ』ですら扱えなかった雷の上位魔法。
  巨大海魔が何かアイテムを持っているかもしれない、と一方的に考え、実際には何も持っていなかったので一方的に落ち込んだ。これが理不尽な八つ当たりだと理解しつつ、ロックから放たれる攻撃はどんどん荒々しさを増していくのだった。





  これを書いて何の意味がある? 何にもならんだろう。と言う訳で没。
 『盗賊の小手』を装備しつつケーツハリーに跨って味方の攻撃を華麗に掻い潜る―――、んで『螺湮城教本プレラーティーズ・スペルブック』をぶんどるネタも考えてたけど、その場合はキャスターが自前の魔力で海魔を支えるだろう結論付けて、そっちも没。



  ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆



  その4 『リルム・アローニィの場合』





  リルム・アローニィには『スケッチ』と呼ばれる特殊技能がある。
  この技はリルムが持つ絵筆を空中を躍らせて、目の前にいる敵と全く同じ存在を疑似的に作り出す技だ。筆に何もつけていないにも関わらず空に描けるのは、描いている元になっているのが絵具ではなくリルム自身の魔力だからである。
  なお、今では101匹にまで増殖して冬木市のあちこちで包囲網を展開しているミシディアうさぎもまた、このスケッチの副産物だったりする。
  スケッチで生み出された存在は単発の攻撃しかできず、しかも役目を終えると消えてしまう難点はあるが。スケッチには召喚魔法と似ている部分が多い。
  ただし、スケッチは目の前に敵がいる状態で正確に素早く書き終えなければならない描き手の技量が要求されるので、その意味に置いては魔石に魔力を注ぎ込めば誰でも召喚できる召喚魔法よりも難易度は高い。
  絵筆の先端から魔力によって描かれる空想にして現実の存在―――それこそがリルムの『スケッチ』が生み出す創造物だ。魔力によって作り出される点は使い魔に似ているが、視点を変えれば『創生』にも匹敵する奇跡。リルムはそれを自分の感覚のみで行い、目の前にある者を『世界』という名のキャンパスに描いていく。
  たとえそれが初見だとしても、目の前に立つ敵を瞬時に自分の攻撃方法として描いてしまうリルムの特殊性は異常であると同時に天才と評されてしかるべきだろう。
  だからこそ初めて見る巨大海魔を見た瞬間、描かずにはいられなくなった。
  見上げるほど巨大なモンスターを前にした場合。圧倒的な大きさゆえに恐怖する者、殺すために自らを鼓舞する者、どうやって殺そうか検討する者、大きさだけで落胆する者、と、反応は様々だが、リルムはまず『これ描ける?』と思った。
  そして次に『じゃあ描こう』と結論付けた。
  戦いの最中、倒すことを最優先させるなら敵の弱点や動向をまず探るべきなのだが、リルムの思考は『スケッチ』があるが故に描けるか否かに移ってしまう。
  ライダーに力を見せるために一度は攻撃してみせたが、リルムの手は魔法を放つためではなく敵を描くために絵筆に伸びた。
  ただ、空に描かれた敵モンスターが攻撃をしかけるのもまた事実であり、完全に戦闘行為を中断させた訳でもないので『戦闘放棄』とも言い難い。加えてロック、セリス、マッシュの三人は対岸にいるので、リルムが攻撃の手を休めたことを咎める者は近くにいない。
  『攻撃しろ!』と誰にも言われないので、スケッチに専念できてしまう。
  リルムは敵を描くために絵筆を空中に躍らせた。


  「鳳凰の舞!」


  すると対岸からリルムが最初に放った『ファイラ』よりも強力かつ強大な炎が人型を保ちながら数百発打ち出されて海魔へと襲い掛かった。
  リルムが右から左に大きく絵筆を振り、水面から出た巨大海魔の土台を描く頃には人型の炎は敵に衝突して、あちこちを燃やす。
  至る所を焦がされたモチーフを視界に収めながらも、それでもリルムは絵筆を動かし続けて巨大海魔を創造していった。


  「メテオ!」


  触手の一本一本を正確に描き、絶えず蠢いている肉の塊を描写していると、数百発の隕石の雨が海魔目掛けて上空から降り注いだ。
  ロックの仕業だろう。
  夕暮れが近い空を切り取って、宇宙空間に似た闇が円形に染まる。その中から飛び出してきた隕石が海魔の体を削り、抉り、潰し、壊していく。
  それでもリルムは負けずと筆を動かす。


  「アルテマ!」


  そしてセリスを中心に生まれた半球状の破壊が今まで以上に海魔を切り刻む。
  半球状に膨らんでいく魔力の嵐、セリスの前に立つ敵は逃げ場のない半球に包まれて全身を破壊され尽くした。
  半球の魔力が消え去った後、辛うじて回復の兆しを見せているのでまだ中にいるキャスターが健在だと判る。だが、対岸から叩き込まれた容赦ない攻撃にモチーフである巨大海魔の姿は見る影もなく変容してしまった。
  足場であろう土台を描いて、そこから伸びた触手を全て描いて、残るは真ん中と頭上の辺り―――。そこで見ながら描いていた敵の最初の姿が消えてしまった。
  続きを描きたくても、リルムの目の前にはその『続き』がない。
  描くための対象がなくなってしまったので、リルムは絵筆を下ろしてそれ以上描くのを止めた。
  「・・・・・・失敗しちゃった」
  出現させようとした描く海魔は下半分ほどまで描かれたが、一瞬後には巨大海魔になろうとしていたモノは虚空へと消えていってしまう。
  小さいモノならモチーフの形が変わる前にすぐ描けるが、巨大なモノを描こうとすればそれ相応の時間がかかる。
  足を広げれば大型トラックほどはある『オルちゃん』こと女の子が好きで筋肉ムキムキが嫌いな蛸の『オルトロス』を描く時は一秒とかからずにスケッチを終えたが、さすがに高層ビルに匹敵する怪物を描くのには時間がかかり過ぎたようだ。
  何とか復活しようとする巨大海魔を見つめながら、リルムは持っていた絵筆を腰に戻す。
  スケッチの失敗―――。語られた言葉の軽さと裏腹にリルムの内心は途方もない悔しさで溢れていた。





  実は巨大海魔同士の怪獣大決戦とかちょっと心惹かれた。書こうとした。でも没。
  FF6といえば魔大戦、そして幻獣でしょ。見た目でも巨大海魔の召喚より幻獣召喚の方が格好いいし。
  ちなみにアルテマは本編のもっと緊迫する決戦で使う予定。



  ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆



  その5 『マッシュ・レネ・フィガロの場合 再び』




  「・・・・・・・・・」
  マッシュはキャスターにも巨大海魔にも気付かれることなく接近していた。
  マッシュには水の上を走る技能は無く、巨大海魔が岸辺に到達した訳でもない。相変わらず川の中央にその巨体を鎮座させ、両側の岸辺から放たれる攻撃に足止めさせられている。
  巨大海魔が動こうとすれば迫る魔法が土台となる水面付近にある足元らしき箇所を切り裂いて、燃やし尽くして、消し飛ばす。
  川の中央にいながら何とか岸辺にいる敵を攻撃しようと大木以上の太い触手を伸ばせば、それが到達する前に同じ攻撃で呆気なく細切れにされて、消し炭にされて、消滅させられる。
  キャスターを取り込んだ巨大海魔が敵からの攻撃でその場に固定されてしまい、近接戦闘が入り込む余地を完全に排した長距離からの一方的な攻撃が展開され続けていた。
  ただし、巨大海魔に遠くを攻撃する手段は無いが回復だけなら群を抜いているので、敵は損傷と回復を繰り返して何とか硬直状態を作り出していた。
  誰の目から見ても戦況は明らかだ、ロック、セリス、マッシュ、リルムがそれぞれ四方から放つ攻撃によってキャスターも巨大海魔も劣勢に追いやられている。
  その状況に少々不満を覚えたのがマッシュだった。
  勝敗に観点を置いて考えるならば、この状況は望むところであり、『敵を倒す』に特化した戦い方は称賛されてしかるべきだ。
  だがマッシュは『オーラキャノン』『鳳凰の舞』『真空波』などの長距離攻撃の必殺技は放ち続けるのに違和感を覚えた。
  師匠である格闘家ダンカンも言っていた。たとえ裂けた大地に挟まれようとも、ワシの力でこじあける! と。
  マッシュもそれに倣って同じことを言った。
  ようするに四肢を使っての戦いこそが格闘家マッシュにとっての真骨頂なのだ。師ダンカンより授かった究極の技『夢幻闘舞』もまた手足を使っての打撃であり、鍛えに鍛えた筋力が合ってこその必殺技となっている。
  だからこそ勝つために遠距離攻撃ばかりしている状況に焦れた。
  自分の肉体を使った攻撃をあれほど巨大な敵に対して叩きこめない状況に苛立った。
  そこでマッシュはガウの宝物の『ピカピカ』こと、元々は世界が崩壊する前のモブリズの村に合った『水中で息ができるヘルメット』を使って移動を開始する。遠距離攻撃を叩きこんでいる人数が四人が三人に減って威力が緩むが、それでも巨大海魔を川の中央に押し留めるには十分だった。
  泳いで行けば触手の嵐に見舞われて悲惨な事になるのは判っていた。行くならば水中からだ―――。
  『ピカピカ』を被ったマッシュは水中に入ると同時に下へ下へと潜り、出来るだけ水上の戦闘から遠ざかる川底をひたすら歩き続けた。
  水は空気とは比べ物にならない密度を持ち、ただ歩くだけの時間がとてつもなく長く感じる。それでもマッシュは一歩、また一歩と敵に近づくために歩く。
  幸運だったのは、巨大海魔の触手は水中にも存在していたが、川辺から襲い来る攻撃の対処に忙しくて、水流に逆らってゆっくり進む水中の物体にまで気を回す余裕は無かったらしい。水中に敵がいるなど予想すらしていないようで、水にたゆたうモンスターの一部は近づくマッシュを迎撃しなかった。
  あと少し。
  あと少し。
  逸る気持ちを懸命に抑え込み進んで行って、遂にマッシュは巨大海魔へと到達した。
  川の中で左右を見れば、あまりの大きさと見通しの悪さで全景を把握できない、遠目からでも判っていたが近くで見れば改めて常識外れの大きさだと判る。
  これこそが敵、マッシュ・レネ・フィガロが鍛えに鍛え抜いた肉体でもって打倒すべき敵だ。
  マッシュは手を伸ばして海魔の一部に触れる。すると触れた部分を中心にして、目が現れた。
  これまでは見つからないように移動していたので発見されずに済んだが、さすがに人体が接触すれば気付くらしい。中州の様に川の中央に鎮座する巨大海魔の表面に幾つもの目と目と目と目と目がマッシュを見つめた。
  ほんの一瞬前まで眼球など無かった箇所にいきなり数十、数百の目が現れる。あまりの気持ち悪さに卒倒しかけるが、マッシュは懸命に自分を抑え込んで、敵から攻撃されるより前に攻撃する自分を強く意識する。
  恐れる暇があれば技を叩きこめ。
  渾身の力で、全力を振り絞り、悔い無き心で、ただまっすぐに―――。
  出来ないとは思わない。そう思ってしまった瞬間に技は失敗し、弱い心が自分自身を破壊する。
  出来る。
  必ず出来る。
  そう信じながら、マッシュは姿勢を低くして、海魔と水底との間に両手を突っ込んだ。しゃがむ動作に合わせて数十の眼球が一斉に動くがマッシュは気にしない。
  手は柔らかい物を掴み、ぬちゃり、と嫌な感触を味わってしまうが、それでも気にしない。
  今は技を繰り出す時。必ず出来ると信じる技を発動させる時。
  出来る。
  俺ならば出来る。
  自分で自分を信じたマッシュはそこで必殺技を放った。


  「メテオストライク!!」


  必殺技を叫んだ次の瞬間―――。マッシュの体は巨大海魔ごと上空数十メートルにまで持ち上がっていた。
  そこに到達するまでは一瞬すら無い。必殺技が発動すると同時に敵を抱えて空に舞い上がっていた。
  体重は軽く数千倍。普通ならば絶対に持ち上げられないし、空に跳ばすなど絶対に不可能。
  けれど本来の『メテオストライク』がこの世界を訪れて様々な事を知った事により新しい技へと進化した。
  事象の逆転。『結果』を作り出してそこに至る『過程』を消し飛ばす。
  もはやマッシュの必殺技は『結果』を掴み取る奇跡の領域にまで踏み込んだ。
  「おぉぉぉぉぉぉっ!!」
  マッシュは新たに進化した技への喜びを捨て、この必殺技を完成させるために渾身の力を振り絞った。自らの『必殺技』が英霊が使う能力での『宝具』にまで昇華したとしても、ここで終わってしまえば何の意味もない。
  技は技として完成させて初めて必殺技となるのだから。
  マッシュはぬめる巨大海魔の一部を力強く握りしめ、ここで全ての力が途切れても構わない―――と言わんばかりに全身の力を総動員して巨大海魔を縦に回転させていく。
  地面に立っている時は支えがあるので動かそうとしても踏ん張られてしまう。だが空中にはそれがない。そして巨大海魔はいきなり空に放り出されて何が何だか判らなくなっている。
  この隙に必殺技を完成させなければ師匠に合わせる顔が無い。
  「おおおおおおおおおおおおおおおおおお!!!」
  祈りにも似た想いと雄々しい咆哮が絡み合い、徐々にマッシュの体を中心にして巨大海魔が回転していく。
  回転する前から重力に引かれた自由落下は始まっており、間に合わなければただ上空から落とすだけだ。敵を逆さまにして地面に叩きつけてこそのメテオストライク。
  体勢を崩せ。
  天地を逆転させろ。
  頭を地面に叩きつけてやれ。
  「おりゃ――!!」
  最後の叫びと共に、遂に巨大海魔が上下逆になった。
  敵を回転させるのに全力を出していたマッシュは気付かなかったが、完全に巨大海魔を回転し終えた時には地面と巨大海魔は一メートルと離れていなかった。まさにギリギリで必殺技が完成したのだ。
  下から持ち上げていた構図が上から叩き落とす構図に切り替わり、敵の頭―――と思わしき部分がマッシュの飛び上がった箇所に衝突する。
  ドンッ! と爆風に似た衝突音を鳴らし、柔かな巨大海魔が固い大地とぶつかった。
  必殺技の新たな完成だ。
  自らの四肢で敵に一撃喰らわせた感動に身を震わせながら、マッシュはぬかるんだ泥の上に着地して技をかけた巨大海魔を見やる。
  すると浜辺に打ち上げられた海洋生物が身動きを取れなくなるのと同じように、メテオストライクを受けたモンスターは一瞬だけ頭を起点にした逆立ちの様に硬直していたが、徐々に地面に向けて横たわっていった。
  巨大な体躯が重力に引きずられて地面に落ちていく。落下その衝撃に合わせてまた大地が揺れ、小規模な地震を巻き起こす。
  手応えあり!
  巨大海魔はそれほどダメージを負って無いようだが、内部にいたキャスターは巨大海魔の重量をもろに受けたのだ。いかに英霊と言えど巨大海魔の大きさでは押し潰されるには十分すぎる。
  見えないので本当かどうかは不明だが、動力源として肉の壁に守られていたキャスターを倒した実感があった。自らが召喚した海魔の重量で押し潰されるという不本意な最期だったかもしれないが、マッシュにとっては渾身の技を繰り出した結果なので非常に満足だ。
  そこでマッシュはおかしな事に気が付く。
  巨大海魔が横たわっているのは変わっていないが、そこに追撃が全くなかった。ロック、セリス、リルムが三方からそれぞれ攻撃を加えていた筈だが、それがピタリと止んでいる。
  どうした? 何かあったのか? 俺が上空に持ち上げたから目標を見失ったか? そう思いならが川の両岸を見渡した。
 そこにはロック、セリス、リルムは言うに及ばず、川辺にある草地の上で戦っていたであろうセイバーやライダー達の姿はなく。同じ戦車チャリオットに乗っていたカイエンの姿も、セイバーの偽マスターであるアイリスフィール・フォン・アインツベルンの姿もなかった。
  慌てて巨大海魔へと視線を戻し―――。
  「あ・・・・・・」
  水がほとんどなくなって、干上がった川に視線を戻した所でようやくマッシュは自分が仕出かした事の大きさに気が付いた。
  数十、あるいは数百トンの重量を持つ巨大海魔を思いっきり川に叩きつけたのだ、そこにあった水が一斉に外に弾かれて小規模ながらとんでもない威力を持つ津波へと変化しても不思議はない。
  極論すれば『メテオストライク』の名の通り、隕石が川に衝突したのに等しい。
  未遠川を形成していた大量の水は衝撃で外に向かい、川辺にいた全員へと万遍なく向かった。
  少し離れた場所にある民家や電信柱や道路や川にかかる橋などは無機物故にバトルフィールドの恩恵を受けて全く壊れていないが、そこにいた誰も彼もが突如発生した波にさらわれてしまったらしい。
  もしかしたらメテオストライクの余波は幻獣『リヴァイアサン』が放つ『タイダルウェイブ』より強力だったのかもしれない。
  「・・・・・・・・・・・」
  そもそもメテオストライクを放った直後に川の上ではなく、ぬかるんだ泥の上―――つまりは水が無くなった川底に着地した時点で気付くべきだったのだ。マッシュ自身が味方を一斉に押し流してしまったのだと。
  自覚は無かったが、メテオストライクが新たな進化を遂げて浮き足立っていたのかもしれない。
  マッシュは周囲に味方が誰一人としていなくなった状況をもう一度だけ振り返って戦いの構えを取った。足元がぬかるんで構え辛かったが、戦えない程ひどくは無い。
  敵に攻撃させずに延々と遠距離からの攻撃を続けるのも時には大切だ―――マッシュは横倒しになっている巨大海魔を見ながらそう脳裏に刻むのだった。





  大切な言葉を脳裏に刻んだ十数秒後。マッシュは上流からの鉄砲水に呑まれ、身を以て『因果応報』を知る事になる。





  昔、感想掲示板に書かれたマッシュが巨大海魔にメテオストライクを仕掛ける状況が書きたくて書いた。マッシュが絡むと何故かギャグ要素が強くなってしまうので没。
  そもそもバトルフィールド展開時に河川や海などの流水をどうするか考えてなかったし、メテオストライクの魔改造は気が引けたので、やっぱり没。魔列車は投げられても、さすがに巨大海魔は・・・。
  倉庫街で素敵に戦ったあの御方はどこに行ってしまったのやら。
 ライダーの神威の車輪ゴルディアス・ホイールは御者台が防護力場に覆われてるから、あそこだけは水に流されても大丈夫かな?
  冬木大橋で観戦していた雨生龍之介は衝撃で橋の上から落ちたかもしれない。そして水が無い上に彼は一般人だから確実に悲惨な目にあう。



  ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆



  その6 『魔法を唱える三人と傍観する一人の場合』





  キャスターが召喚した巨大海魔は川の中央から全く動けずにいた。
  巨体故の動きの鈍さに時間がかかっているのではない、動こうとする前に殺されないための回復を強いられているからだ。
  「バイオッ!」
  動こうとすればそれを許さない攻撃が四方から飛んできて、容赦なく海魔の体を切り刻んでいく。
  キャスターも海魔も知らぬことだが、川の辺から前後を囲まれた状態は『サイドアタック』と呼ばれる隊形で、後ろ側から与えられる物理攻撃は1.5倍に上昇する。
  今のところは遠距離からの魔法攻撃が主体になっているので攻撃力が極端に上昇する事態には陥っていない。けれども、動きを止めて回復に専念しなければならない状況に追い込まれているのは紛れもない事実だ。
  「ホーリー!」
  声が聞こえてくる度に、毎度違う攻撃が海魔の肉体を抉って削って消してゆく。
  聖杯戦争とは根底から異なる攻撃は巨大海魔をそこに繋ぎ止めるが、あまりの大きさ故に一度では殺し切れない。
  例えばリルムが炎の魔法を放って表面を万遍なく焼き尽くしても内側には無事な肉が残って回復のために費やされる。肉の焼き加減で言えばミディアムレアであって、ウエルダンではない。
  攻撃すれば回復する。
  回復を終えたらまた攻撃される。
  千日手となりつつある状況に焦れたロックは巨大海魔に向けて攻撃以外の魔法を放つ。
  「ライブラ」
  魔法を受けた対象のレベル、体力、弱点、ステータス異常状態などを調べる探査の魔法『ライブラ』。この魔法で巨大海魔の状況を調べると、体力は最大値より少し低下してはいるが零には程遠い数値を示していた。
  しかもゴゴ達が使う回復魔法の一つ、魔法がかかっている間は常に対象者を回復し続ける『リジェネ』の強力版がかけられているようで、攻撃してもその度に回復してしまう。
  回復を上回る攻撃を叩きこまなければ拮抗は崩せず。このままでは敵は動けないが事態が好転しない。魔力が切れるまで攻撃し続ける手もあるが、あまりにも時間がかかり過ぎる。
  どうするか? そう考えた瞬間、未遠川の辺で巨大海魔に向けて攻撃する全員の意識が繋がった。
  かつての世界に無くてこの世界にあった『携帯電話』なる物で連絡を取り合う必要はない。何故なら、彼らの根幹は等しくゴゴであり、意識を共有しようと思えば各々が何をしようとしているかなど一瞬すら必要とせずに理解できるからだ。
  再生させずに一気に消滅させる為、より強い攻撃を仕掛ける。聖杯戦争に招かれた英霊達の基準で言えば山一つぐらい吹き飛ばせる『対軍宝具』か『対城宝具』の威力を出せばいい。
  目的を作り出した彼らは一度『手段』に戻り、どんな強い攻撃を叩きこむ? を考える。
  敵を見据えたまま状況をもてあましているように見えるかもしれないが、その実、離れた場所にいる彼らは超高速で思考し続けた。
  そしてある結論へとたどり着く。
  すぐ近くでライダーとセイバーの緊迫した雰囲気に接しながら、それでも全く気にせずに川の方を向くリルム。離れた場所にいる愛する人を想い、一瞬だけ海魔から視線を外して想い人を見るセリス。向けられた視線を一瞬だけ見つめ返しながらも、自分の魔力の少なさから他の二人に合わせられるか少し自信が無いロック。
  彼ら三人は両手を前に突き出して、それぞれの手を遠くにいる仲間たちへと向けた。
  リルムの手はロックとセリスに向けられ、ロックの手はセリスとリルムに向けられる。当然ながらセリスが手を向けた場所にはロックとリルムがいる。彼ら三人を同時に見れる者がいれば、互いが手が指し示す方向で巨大な三角形が作り出されていると気づくだろう。
  すると三人が作り出した見えない三角形は人の目に見える形へと変化していった。
  変化はほんの一瞬で、ずっと見ていなければいつ『それ』が現れたかは判らない。それでも紛れもなく『それ』はそこに現れた。『それ』は山を見間違えてもおかしくない巨体を誇る海魔を覆い隠す更に巨大な三角錐であった。
  ロック、セリス、リルムが三角錐の底面の頂点となり、巨大海魔の上に伸びた魔力が四つ目の点になり三角錐を作り出している。
  「ファイガ」
  リルムがそう言うと、前に突き出した両手の間に十センチほどの大きさの火球が生まれる。それ単体では僅かな光源にしかならないように見えるが、火球の小ささとは対照的に海魔を包み込む三角錐がリルムを中心にして紅く染まっていった。
  全てを焼き尽くす灼熱の赤。
  その色が空に浮かぶ四つ目の点に到達すると、今度はセリスが魔法を唱える。
  「ブリザガ」
  セリスの口から氷属性上位魔法が唱えられると、リルムと同じように突き出した両手の間に氷柱を凝縮したような小型の氷塊が現れる。
  リルムが赤ならセリスは青。氷塊を起点として、セリスが立つ位置から三角錐は青く染まり、赤に対抗するように広がっていく。
  「サンダガ」
  最後にロックの前方に黄色にも金色にも見える握り拳ぐらいの球が現れ、バチバチと放電しながら巨大な三角錐を同色に染め上げた。
  赤、青、黄色。眩い光を放つ三色が巨大な三角錐の中で混ざり合い、溶け合い、干渉し合い、全く別の力へと昇華されていく。


  「「「ミックスデルタ!!」」」


  三人の声が合わさると、三角錐の中で光が弾け、闇が広がった―――。
  炎、氷、雷。属性の異なる三大高位魔法を掛け合わせることで全く別の属性へと変貌させる三人技。効果範囲の中を荒れ狂う破壊はそこにいる全ての敵を壊し尽くす。
  効果そのものは幻獣『ヴァリガルマンダ』の『トライディザスター』と似ているが、あちらが単発なのに対し『ミックスデルタ』の場合は敵を中に閉じ込めて何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も破壊する。
  太陽すら潰しかねない光であり闇でもある破壊の奔流が三角錐の中から消えた時、そこにいたのは微動だにしない海魔であった。食料を求めるように蠢いていた触手は動きを止め、川岸を目指していた行進はピタリと止まっている。
  彫像のようにただ佇む巨大なモンスター。
  変化は持ち上がっていた触手の一本が根元からボロボロと崩れ落ちた所から始まった。
  ほんの一瞬で体を構成するありとあらゆる要素を破壊しつくされ、自重すら支えられなくなった肉片が重力に引かれて落下する。それを切っ掛けとし、全ての触手がぼろぼろと崩れ落ちて、胴体は薙いだように横にずれ、頭頂部はぶちりと音を立てて裂けていく。
  『ミックスデルタ』で巨大海魔は隅から隅まで壊し尽くされたようで、キャスターが放つ凶悪な存在感も消えていた。亡骸と化して崩壊してゆく肉の塊の外からでは見えないが、大きな屍の中で外側の肉塊と同じように朽ち果てているだろう。
  「勝ったね――」
  三人の中でもっとも魔力が高い。つまり、他の二人に合わせて自分の力を出来るだけ抑えなければならなかったリルムがそう言った。
  そして黙って状況を見守っていたマッシュが後に続けて言う。


  「ミックスデルタは・・・、『ブリザガ』じゃなくて『アイスガ』じゃなかったか?」


  ぽつりと呟いた小さな肉声では離れた仲間たちには聞こえてないだろう。だが、意識を共有できるがゆえに判り合えてしまうその一言で世界が凍る。





  メタ発言禁止ぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃ!
  やってみたかったネタだけど、FF6の世界観にいきなりクロノ・トリガーをぶち込むのは気が引けたので没。
  ゲーム内だとミックスデルタの形状は三角柱っぽいけど、書いてて楽しかったのは三角錐だったので変更した。ついでに言うと、クロノ・ルッカ・マールの三人がミックスデルタを使う時はちょっと浮き上がるけど、その記述も除去。
  クロノトリガーの魔王のことジャキの『ダークマター』だって三角形だったし、『ものまね士は運命をものまねする』のプロローグでゴゴが使った『グランドトライン』だって三角形だし、より角張った方が格好いいよね。クロノの光の最強魔法『シャイニング』は半球だけどさ。



  ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆



  以上です。



[31538] 第38話 『ライダーとセイバーは宝具を明かし、ケフカ・パラッツォは誕生する』
Name: マンガ男◆da666e53 ID:23cb9b06
Date: 2013/11/24 18:36
  第38話 『ライダーとセイバーは宝具を明かし、ケフカ・パラッツォは誕生する』



  ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆



  Side - ウェイバー・ベルベット





  何でこんな事になったんだろう―――。僕は聖杯戦争が始まってからもう何度思ったか判らない事を考えてる。
 そう、最初はマッケンジー夫妻に一時の別れを告げて、ライダーの神威の車輪ゴルディアス・ホイールで未遠川に向けて進んでたんだ。
  途中、聞いているだけで何だか嫌な気分になる声が聞こえてきて、空を駆けていた僕らは冬木市を模倣する固有結界の中にいきなり閉じ込められた。
  人が消えた。
  車の往来がなくなった。
  街にあった筈の生活の気配が零になった。
  キャスターが作り出す異常な魔力の気配だけはそのままで、濃密な気配がここが戦場なんだって教えてた。
  人払いの結界なんて比べ物にならない、強大かつ強固な固有結界。
 ライダーの王の軍勢アイオニオン・ヘタイロイがどれだけ広い範囲に展開される固有結界なのか調べた事は無いし、冬木市そっくりなこの固有結界もどこまで広がってるか判らない。魔術の素人に暗示を破られる半人前以下の僕に判るのは、どっちの固有結界も僕なんかには理解できない大魔術だって事だけ。
  だから僕は『今』知るのを諦めた。
  知るのは後でも出来るけど、結界の中に取り込まれたならもう戦いは始まってる。一瞬後には攻撃されてもおかしくないから、知るのを諦めて戦いだけに集中するようにする。
  そして僕らはカイエンの導きで彼の仲間の所に案内された。
  正直、カイエンの仲間が一体何人いるのかものすごく興味がある。
  倉庫街の戦いに乱入してきたマッシュ。
  聖杯問答の中にサンを連れてきたマッシュの兄のエドガー。
  間桐を監視してたネズミの使い魔からの情報を統合すれば、まだまだいるのは間違いない。
  ライダーが今世の魔術師を無視してセイバーとランサーを勧誘してたから、同じ歓待を受けてたあいつらは一人一人が英霊に匹敵する位の力の持ち主なんだって判る。それがどんどんと増えていく。
  いったい何人いるんだよっ!? 僕じゃなくても魔術師だったら絶対にそう思う筈。
 でも、結界に閉じ込められた状況で呑気に話が出来るほど僕の心は強くない。ライダーはカイエンと普通に話して神威の車輪ゴルディアス・ホイールを動かしてるけど、辺りを警戒してるのが何となく判る。
  僕にはできない戦士としての気構えだ。
  だから僕はカイエンの仲間が何人いるかもとりあえず考えないようにして、敵対するか味方になるのか中立なのか見極める為に観察と思考を絶えず続けた。
  ライダーはマスターの僕を差し置いてどんどんと話を進めていくけど僕はそれを止めようとは思わない。
  征服王―――英霊イスカンダル―――、東方遠征の偉業をわずか十年足らずで成し遂げた大英雄。
  対人関係で『説得』とか『交渉』の類は僕よりもライダーの方が上手だ。英霊同士の戦いにいきなり割り込んで、物は試しでいきなり真名をばらしたりする。そんな、やってる事は無茶苦茶だけど、それを実現させるだけの強さをライダーは持ってて、正体を知られて尚、征服王イスカンダルとして君臨し続けてる。
  僕はもうそれを素直に受け入れて、自分の弱さとか小ささとかも一緒に認めた。
  好きにすればいい。
  オマエのやり方でやればいい。
  もちろん認めた所で終わるつもりは全くないし、いつかはライダーだって追い抜いてやろうと思ってる。だって今の僕はライダーのマスターなんだから、サーヴァントに負けっぱなしなんて悔しいじゃないか。
  でも今はその時じゃない。どうやったって今の僕じゃライダーの上に立つなんて不可能で、何か言ってライダーと意見が食い違えば僕の頭蓋骨を粉砕しそうなデコピンが飛んでくるのも嫌だしね。
  まずキャスターをどうにかする所から始める。その為によほどひどい選択じゃなければ、口を出す時じゃない。そうやって行動指針を決めていると、ライダーが共闘の形をあっという間に作り出して、どれだけ戦えるか確かめる為に変な格好の女の人が名乗り出た。
  何というか話し方が子供っぽい。
  僕とほとんど同じ目線でいきなり手を伸ばしてくる辺り、敵のつもりはないけど危機感が欠如してるんじゃないかと思う。
  色々な感情がごちゃまぜになって、本当に大丈夫? って思ったけど、キャスターが召喚した怪物を見て疑問は一気に吹き飛んだ。まずはあれをどうにかするのが先決、他の事は後にする。
  そうやって意識を切り替えて、対岸にいたセイバーの所に移動した。
  そこで僕は見た―――。小さな街なら、全部焼き尽くすんじゃないかと思える炎を、太陽が地上に降りてきたんじゃないかって思った輝きを。
  たった一節の魔術なのに、放たれた魔術は僕なんかじゃ絶対に使えない威力を含んでた。ビル位ある海魔の全身が炎で焼かれる。
  貯水槽に侵入した時にも思ったけど、多分、今回の聖杯戦争に招かれたキャスターは本人が魔術師として知れ渡ってる英霊じゃない。むしろ僕の目の前で大火災に匹敵する莫大な炎を生み出したこの女の人こそがキャスターに相応しいと思う。
 圧倒的だった。一人で軍隊を―――ライダーの王の軍勢アイオニオン・ヘタイロイを相手に魔術戦が出来る気がする。
  「・・・・・・・・・」
  呆然とする僕を置き去りにして、事態はどんどんと進んでいった。
  キャスターを完全にカイエンの仲間に任せたライダーは標的をセイバーに定めた。まず巨大海魔からどうにかするべきだと思うんだけど、あの炎を魅せられた後だと任せてもいいかなって思う。
  それにセイバーの方も最初はキャスターの相手を人任せにするのを渋っていたけど、ライダーの物言いが不愉快だったのか、もう戦う意識が海魔でもキャスターでもなくてこっちに向いてる。
  こっちと向こう岸から攻撃が続いて川の中央にいる巨大な海魔はそこに釘付けにされてる。正直、すぐ近くで圧倒的大火力の魔術戦が行われてて落ち着かないんだけど、周囲に意識を振りまいて目の前にいる敵の分析も出来るほど僕は強くない。
  ライダーがキャスターの相手をカイエンの仲間に任せたなら、僕らはセイバーを相手にするだけ。キャスターを打倒するまでは一時休戦って話だったけど、もう事態はそんな状況を通り越して跡形もなく消えてる。
  セイバーだって、キャスターの前にランサーを倒したみたいだし・・・。
  僕はセイバーのマスターと思ってたアインツベルンの女性を引き連れて距離を取る二人を見ていた。
  何か話してるみたいだけど開かれた距離はもう数十メートルまで広がってるので、僕の聴力じゃ何を話してるか判らない。それに川の方で大規模な魔術戦が行われてるからうるさ過ぎて人の声が聴ける状態じゃない。
  サーヴァントの人間離れした五感なら聞こえるかもしれないからライダーは聞こえているのかもしれないけど聞ける雰囲気じゃなかった。
  セイバーがこっちを見て、アインツベルンの女性が申し訳なさそうに道路の方に歩いていくから『これより戦いになります、離れてください』『セイバー・・・』とか話してたのかな?
  川の中からはキャスターが召喚した巨大海魔がいて、魔術戦を行ってる。
  水辺にはリルムって名前のカイエンの仲間がいて、巨大海魔に向けて強力な魔術を放ってる。
  僕らは草が生えてる岸にいて、セイバーと向かい合った。
  アインツベルンの女性は道路にもなってる堤防の上へと避難して、戦場から一歩引いた位置まで移動した。
  未遠川を中心にして二つの戦場が作り出されてく。時間が経つごとに緊張の度合いがどんどんと高まって、心臓の鼓動が音になって耳から聞こえてきそう。敵と対峙する状況に腰が抜けそうになるのを必死で我慢してると、僕と同じように御者台の上に乗ってるカイエンが言った。
  「イスカンダル殿、ここは拙者に任せて頂きたい。セイバーは拙者が倒すでござる」
  そう言いながらカイエンは左手を腰にやって、鞘に収まった刀の鍔の部分を押し上げて金属の光沢を一部分だけ晒した。
 神威の車輪ゴルディアス・ホイールで空を駆けてた時は手荷物みたいに布で巻いて持ち歩いてたんだけど、いつの間にか布を取り払って腰に差してる。僕が気づかないだけでライダーもカイエンもしっかり戦闘準備を整えてたみたい。
  カイエンは近くにいると息が詰まりそうな濃密な気配を漲らせてセイバーを睨んでる。そうしたらライダーが御者台の上の重苦しい雰囲気を吹き飛ばす軽さで言った。
  「そりゃあ無理な相談だ」
  「な、何ゆえ!?」
  「お主が一対一を望んでもセイバーの奴めは我々と戦う気を漲らせておる。見てみろ、あの目は我ら全員を標的にしておる。気は進まんだろうがここで決着をつけるのが吉だぞ」
  「・・・・・・」
  押し黙ったカイエンを横目で見ながら、僕はライダーの言葉の真偽を確かめる為にセイバーの方を見た。
  数十メートルの距離はやっぱり遠くてセイバーの表情なんてほとんど見えない。だけど、何となくセイバーの方から熱い空気が流れるような―――突き刺さるような視線っていうのかな? 見られてる感覚はある。
  ライダーの言うとおり、御者台にいる全員を標的にしてるのか? でもここにはサンがいる。
  いや、戦場に女の子を連れてきた僕が全面的に悪いのは判ってるんだけど、僕が思い描いてる『アーサー・ペンドラゴン』だったら『弱きを守り慈しむ』って考えて、サンを御者台に乗せたまま戦うのを嫌がると思うんだ。
  だけどセイバーからはそんな言葉は一度だって聞かない。やっぱり史実に書かれてるのと本当の姿は違って、騎士王も幻想だったのかもしれない。
  ライダーだって僕が本屋で手に入れた伝記に書かれた内容と本当の姿に食い違いがあったし、セイバーが騎士として正しい姿を見せつけたとしても、綻びがあっても不思議はない。
  ただ僕が幻想を抱いてただけなんだ。今はありのままの事実をただ受け止めよう。
 神威の車輪ゴルディアス・ホイールに乗った僕らとセイバーとの戦い。その構図でカイエンが渋々納得すると、ライダーが僕に話しかけてきた。
  「おい坊主」
  「・・・何だよ」
  やっぱりライダーが僕をマスターと呼ぶ機会が限られてるのを思い知って、声に不機嫌さが出る。
  「これより余は、聖杯を狙う必勝を差し置いて、かなり大きな博打に出る。令呪で止めようと思うなら、今のうちだぞ?」
  あまりにも唐突に放たれたその言葉はライダーの傲岸さを考えればあまりにも『ありえない』言葉だった。だから僕はその言葉がライダーの口から出てきた言葉だって理解するまでに少し時間を必要とした。
  ライダーは令呪を持ち出してまで止めさせようとする無茶無謀をやろうとしてる。そう思い立った時、僕はライダーが何をやろうとしているかをおぼろげながら理解する。
  ライダーは対峙したセイバーに向かって真っすぐに駆け抜けるつもりなんだ。ライダーのサーヴァント、騎乗兵としてただ真っすぐに―――。
  バーサーカーすら瀕死に追いやったライダーの走破が負けるとは思えないけど、セイバーが距離を取ったことで到達までの距離がほんの少し延びてる。
  だから僕はまず聞く。
  「・・・勝算はあるのか?」
  「わからん」
  「――って、おい!!」
  てっきり確率の話が出てくると思ったのに、返ってきたのは『わからない』。これじゃあ、勝率一割って言われた方がまだマシだ。
  それなら令呪を使って止めさせられるんだから。
  「仕方なかろう。何せ余はまだセイバーの宝具がどんな物なのかを見ておらんのだ。かの騎士王の宝具ならば間違いなくアレだろうが、どれほどの速さと威力を秘めた宝具かはさすがの余も見なければわからん。だがまあランサーとの戦いで片腕が使えない状態で宝具を使わなかったのを考えるに、おそらく剣を両手で振り抜く必要はあるのだろうな。ようするに余の疾走とセイバーの剣の振り抜き、今から行われるのはどちらが早いか、これに尽きる。あやつもそれが判っているから距離を取ったのであろう、余にとっては無いに等しい距離だが大博打になるのは仕方ないわい」
  もしセイバーが宝具の真名解放と共に剣を振るのが発動条件だとしたら、それをやられる前にライダーがセイバーに到達すればこちらの勝ち。逆に到達する前に宝具が発動すれば向こうの勝ちとなる。多分―――。
  僕もライダーと同じでセイバーの宝具の真の姿は見てないけど、海外でも知名度が高いセイバーの宝具が対人宝具に収まるとは思えない、対軍あるいは対城宝具の威力を秘めてても不思議はない。
  そうなるとセイバーが剣を振りぬく前に渾身の走破を叩き込まないと勝てない。ライダーの疾走の速さは他の誰よりも知ってるけど、倉庫街でセイバーの剣の速さも見てるから、確実に勝てるとは思えなかった。
  これは苦肉の策でしかない、ライダーらしからぬ愚挙だ。
  「なんで、そんな無茶を――」
  「無茶だからこそ、だ」
  「はぁっ?」
  「この状況で負けた方はそれこそ何の言い訳も面目も立たぬ、紛れもない『完敗』だ。あのこまっしゃくれた娘も、今度こそ己が不明に痛み入り、改めて余の麾下に加わる気になるかもしれん」
  セイバーと睨み合ってるライダーは僕の方を見てない、それでも斜め後ろから見える僅かな表情からは本心しか伝わってこなかった。
  結局のところ、征服王イスカンダルは聖杯を巡る殺し合いなんかよりも『征服』の方が重要なんだ。
  召喚してから今までの基本方針は何一つ変わってない。それは紛れもなく自分の中にある芯を貫く強さだ。
  「・・・お前、そうまでしてあのセイバーが欲しいのかよ?」
  「うん、欲しいな」
  間髪入れずにライダーが言う。
  「理想の王がどうとかいう戯言をほざかせるよりは、余の軍勢に加えてこそ本当の輝きを放つというもの。理想に押しつぶされる前に余がしっかりと征服してやらねばならん」
  ライダーがそう言うと、気のせいでなければセイバーから感じる圧迫感というか突き刺さる視線というか、気配が増したような気がした。
  サーヴァントの人間離れした聴覚はしっかりこっちの会話も聞いていて、自分の在り方を戯言だと言われて怒ったのかもしれない。
  今、セイバーが怒りに任せて宝具を発動するんじゃないかって思った。
  そしてライダーが生前もこうして権威も財宝にも目もくれずに相手の魂そのものを召し抱えてきたんだと納得もする。
  滅ぼさず、貶めず、立ちはだかる敵を制覇する。それがライダーの掴む勝利の形であり、彼が征服王と呼ばれる所以なんだ。
  その大きさは僕が考えるよりもずっと大きく、橋の上で聞いたライダーの言葉を脳裏に蘇らせるには十分だった。もうあれから色々な事が起こり過ぎて遠い昔の出来事みたいに思い出すけど、一語一句間違えずに思い出せる。


  勝利してなお滅ぼさぬ。制覇してなお辱めぬ。それこそが真の征服である――。


  「やれよ、ライダー。セイバーを征服してやれ」
  気が付けば僕はそう言ってた。
  自暴自棄になったんじゃなく、セイバーとの決着をつけるにしても今以上の好機があるとは思えない。キャスターを相手にしなくてもよくなったけど、まだ他にもサーヴァントは残ってて戦いはこの後も続く。
  それにセイバーが最優のサーヴァントなのは紛れもない事実なんだ。今以上のコンディションで最優のセイバーと対峙できる条件が湧いてくると思えない計算もあった。
  何だか後付けの理由で自分を納得させてるみたいだけど、僕はライダーに賭ける。他でもない『大博打に出る』とか言いながら、誰よりも必勝を信じて疑ってないライダーに賭けてやる。
  僕の諦めに似てる命令を聞いて、ライダーは何も言わなかった。代わりに雄々しくも喜色満面な顔を一瞬だけ向けて、楽しそうに僕を見た。
  「では参るぞ!」
  視線を戻したライダーの言葉を合図にして、御者台で黙り込んでいたカイエンが前に跳ぶ。
  この場はライダーに任せて降りるの? と思ったけど、その場合、カイエンは横に跳んで降りるだろうから、方向が違う。カイエンは二頭の雷牛を繋ぐ正面牽引部へと降り立って、両足を肩幅より広く開いて姿勢を低くした。
  巨大な長砲身を思わせる牽引部分だ、カイエンが乗ってもびくともしない。まあ、これが倉庫街で戦った時にバーサーカーを吹っ飛ばしたんだから、頑丈なのは当たり前だけど。
  カイエンは刀を持ったままの右手を引いて、その上から左手を添えるように置いた。刀を発射する溜めみたいな姿勢を作った時、僕はカイエンが前へ跳んだ理由を知る。
  ライダーがやろうとしてる『征服』にカイエンは『戦闘』を合わせようとしてる。一人でセイバーを倒せない悔しさはあるんだろうけど、セイバーを倒す結果を重視したのかもしれない。御者台からはカイエンの後頭部しか見えないから何を思ってるのかは判らないけど、戦おうとしてるのは嫌でも判る。
  引いた右手に宿る刀がキラリと光った気がした瞬間、ライダーが手綱を大きく唸らせた。


 「彼方にこそ栄え在りト・フィロティモ。いざかん、遥かなる蹂躙制覇ヴィア・エクスプグナティオ!!」


 今まで感じた事のない強烈な勢いで神威の車輪ゴルディアス・ホイールが走り出す。
  「風よ、集うでござる」
  ライダーの大声に合わせて声が聞こえた。見ると、カイエンの構えた刀をに向かって風が渦巻いてる。
 肉眼じゃ見えない筈の風が見える不思議、そもそも戦車チャリオットが走り出した時にただの人間でしかない僕が知覚できる状況じゃなくなってる筈なのに、周囲に起こる一つ一つの出来事が見える、聞こえる、感じられる。
  瞬き程の一瞬をものすごく長く感じる。
  ライダーが見てる景色を見ている様にさえ感じる。
  僕の体に何かが起こってる。でも、僕自身の異常を感じてるよりも、周囲に起こってる出来事が暴力的に僕の五感を刺激した。
  目を離せない、耳を塞げない、鼻を閉じれない、肌を撫でる風が鋭敏になって味さえ感じそう。
  どういう原理でそれが起こってるのかは判らないけど、カイエンが構えてる刀にどんどん風が吸い込まれてるのが判る。暴れ狂う風が刀を中心にして渦巻いて僕らの周りに何かを形作ってた。
 その間にも本当の力を発揮した神威の車輪ゴルディアス・ホイールはセイバー目掛けて突き進んで、今まで以上の放電が僕らの周囲に振り撒かれてた。
 風が舞う、雷が叫ぶ。二つが混ざり合って巨大な膜みたいに戦車チャリオットを包む。
  「必殺剣――龍!」
  正面牽引部の上に立っていたカイエンがそう言いながら刀を前に突き出した。斬るモノがない虚空をまっすぐに貫く。
 何を斬るの? 僕がそう思った次の瞬間、風と雷が一つの形を作り出して戦車チャリオットと一体化したのが判った。
  外から見ればもっとよく判るけど、内側から見ても何故だか判る。僕はその形に―――風と雷が融合して出来上がった巨大な龍を内側から見ていた。
 神威の車輪ゴルディアス・ホイールが龍の形をした大気をまとって駆けてゆく。そして僕らは大きく開かれた龍の口の部分からセイバーを見てる。
  白銀の鎧に身を包み、黄金の剣を天高く掲げた騎士王がそこにいる。
 二頭の雷牛は龍の牙。大きな車輪から横に飛び出るブレードは龍の爪。そして戦車チャリオットは龍の頭で、後ろに流れてく風が龍の体だ。
  徐々に近づいているセイバーの両腕が渾身の力を込めて柄を握りしめてる。その上に掲げられた聖剣に太陽を小さく凝縮したみたいな光が幾つも幾つも幾つも幾つも集まってるのが見えた。
  夕暮れの紅さを照らす太陽よりも大きく清らかな光、刀身の形をしたそれが邪なる者を祓い清める。
 ライダーの切り札の一つ、遥かなる蹂躙制覇ヴィア・エクスプグナティオがセイバーに到達するかどうか考えられなかった。カイエンが作り出したであろう巨大な龍の形をした何かも思考の外に追いやられた。
  僕は語る言葉を失ってただその輝きに魅せられた。あれこそが騎士王、栄光という名の祈りの結晶を振るう者、アーサー・ペンドラゴン。
  衝突まで五メートルを切った時、光を抱く手が振り下ろされ―――セイバーが奇跡の真名を謳う。


 「約束された勝利の剣エクスカリバー――!!」


  話には聞いていたけど本当の姿を知らなかったその名。真名解放と共に、僕は世界を照らす光を見た。





  何が起こってる? 視界に広がる眩い光の中で、僕はまずそう思った。
  見える光があまりにも明るすぎて他の事が何も見えない。さっきまで合った筈の肌を撫でる風の轟きが感じられない。耳は聞こえてると思うけど何も聞こえない。
  ただ光があった。
  そう―――光は消えることなく、僕の意識も紛れもなく存在してる。
  ライダーの攻撃が成功したなら僕らはセイバーを弾き飛ばして川辺の風景を見ている筈。
  セイバーの攻撃が成功したなら、あの光が僕らを消し飛ばす筈。威力を正しく把握した訳じゃないけど、剣に宿ったあの光を見ただけでそう思い知らされる。
  僕が僕として意識できることはおかしい。
  生きてる?
  死んでる?
  何が起こってる?
  もう一度同じことを繰り返しながら、別のことも考えた。
  もしかして、まだ戦いは続いてる?
  そう頭の中で疑問を抱くと、光が少しだけ晴れた。
  「おおおおおおおおおおっ!!」
 「AAAALaLaLaLaLaieアァァァララララライッ!!」
  雄叫びが聞こえた。
  もしかしたら、セイバーが宝具エクスカリバーを振るってから一秒も経っていないのかもしれない。
  もしかしたら、十秒か一分か十分か、もっと長い時間が経過したのかもしれない。
  光に包まれた永遠にも思えたあの時間がどれだけ経ったかなんて僕には判らなかったけど、ほんの少しだけ晴れた視界の中で僕は見た。
 雄叫びを上げながら手綱を打ち鳴らし、神威の車輪ゴルディアス・ホイールを前に行かせようとしているライダーがいる。
  正面牽引部の上に立って両足を前後に伸し、真っすぐに刀を伸ばすカイエンもいる。
  そして光に押し切られそうになりながら耐えてる風と雷で作られた龍―――。
  目の前にある事実を受け止めて、僕は起こった状況を瞬時に理解した。
  ライダーはセイバーの宝具が発動する前に轢くつもりだったんだけど、到達する前にセイバーの宝具が発動して振り下ろした剣から全てを切り裂く閃光が放たれた。
 だけどそこで斬られて終わったりせず、ライダーとカイエンの力は混ざり合って、本来の宝具とは全く別の新たな力が拮抗を生み出したんだ。神威の車輪ゴルディアス・ホイールを包む、風で出来た巨大な龍が迫りくる光に抗ってる。
  もしかしたらカイエンが持ってる刀は風を操る宝具なのかもしれないけど、そこは今考えるべきことじゃない。大事なのは視界を埋め尽くしてる光の量が徐々に増していってる事。
  莫大な光が今にも僕らを滅ぼさんと強さを増していってる。目を凝らしてようやく判る状況を光が押しつぶして白一色に染めようとしてる。
  拮抗じゃない。ほんのわずかだけど力負けしてる?
  僕の見通しを裏付けるように、ピシッ! って音がした。カイエンの持ってる刀から亀裂が生じるみたいなものすごく嫌な音が聞こえた。
  光が強すぎるし刀を中心に今も風が荒れ狂ってるからちゃんと見えないんだけど、しっかりと聞こえちゃった。
  押し切られる―――。
  カイエンが呼び込んだ風を上乗せしても、ライダーの蹂躙走法がセイバーの一撃に負ける。そう思った時、僕の中にあったのは周囲を覆う巨大な光とそれを放ったセイバーへの強烈な怒りだった。
  セイバーが見せかけだけの騎士道を殊更に見せつけているのも理由の一つだけど、ライダーの敗北を見たくないのが最も大きな理由だ。
  どこまでも征服し続ける王の姿を僕は見ていたい。負けるなんて許さない。許しちゃいけない。
  騎士王なんかに征服王が負けちゃいけない。
  「ウェイバー・ベルベットが令呪をもってライダーに命ずる!」
  怒りに背中を押されて、僕の口が普段じゃ考えられない速さで動いた。
  もしかしたら僕がそう言っている気になってるだけで、本当は言葉なんか口にしてなくて頭の中だけで叫んでるだけかもしれない。
  でも本当がどうだって構わなかった。大事なのは僕の手の甲にある令呪が輝いて下される命令を今か今かと待ちわびてる事だけ。命令を口にしてるかどうかなんて問題じゃない。
  行け、ライダー。征服王イスカンダル。令呪の導くままに―――。


  「突っ走れぇぇぇぇぇぇぇぇ!!」


  二つの宝具がぶつかり合う戦場。目の前から迫る『死』を振り払い、乗り越え、突き破る為に僕は叫んだ。
  二頭の雷牛の踏み込みが強くなり、光る雷撃が威力を増し、風で出来た龍の質量も増して、グンッと僕の体が後ろに吹き飛ばされそうになる。
  慌てて右手で御者台の一部を握りしめて左手でサンを抱きかかえる。腕に渾身の力を込めないとライダーの突進で後ろに吹っ飛ばされそうになった。この時、僕はずっとサンを抱きかかえた姿勢だったんだと思い知った。
 令呪で勢いが増した―――。起こった事態を理解しようとした瞬間、神威の車輪ゴルディアス・ホイールが前に出て光が霧散する。
  そしてパキンッ! と軽いけど聞き違えじゃない金属が砕ける音も聞いた。
  それは光が砕ける音。
  一瞬後、僕は払われた光の向こう側に剣を振り抜いた体勢で固まるセイバーを見つける。
  そして・・・。



  ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆



  Side - セイバー





  押し切られた。
 約束された勝利の剣エクスカリバーが繰り出した渾身の一撃を真正面から受け止め、それを打ち破り私を吹き飛ばしたのだと理解したのは―――体がばらばらになったのではないかと錯覚するほど強烈な痛みを味わいながら空を舞っていた時だ。
  衝突から一秒と経たずに私は何が起こったかを理解する。私の心がそれを否定しようとしても、起こった事実は覆せない。
  ライダーの宝具に力負けしたのだ。
  たとえ相手が二人いようとも、我が剣の輝きに敗北は無い。そう思ったからこそ私は相手の人数が多数であることを承知の上で戦いに挑んだ。
  幼子がライダーのマスターの腰にしがみ付いていた事に気づいていたが、あれは子供の姿こそしていてもアサシンである事実に変わりは無い。
  あるいは暗殺者のサーヴァントはそう見せかける事で私の剣を鈍らせるつもりだったのかもしれない。
  常勝不敗。黄金の宝剣が放つ輝きは誰にも負けない。その過去が征服王によって崩された。
  「かはぁ・・・」
  口から飛び出た血が頭で理解する痛み以上に内蔵の損傷を強く教えている。
 消滅しなかったのが奇跡に近い。おそらくほとんど相殺されてしまったが、約束された勝利の剣エクスカリバーの一撃がライダーの遥かなる蹂躙制覇ヴィア・エクスプグナティオの威力を大幅に減退させたのだろう。
  そうでなければ、倉庫街でフルプレートのバーサーカーを吹き飛ばした『単なる突進』ではなく、『宝具の真名解放』によって作り出された強烈な一撃は私の体を粉砕した筈。
  ありえたかもしれない仮定が『もし』となり、直感が私の頭の中に答えを作り出す。
  押し切られた。が、まだ私は戦える。
  まだ私は負けていない。
  地面に叩きつけられ、勢いのままにゴロゴロと回転させられていくが、握り締めた剣を地面へと叩きつけ、勢いを利用して体を強引に起こす。
  腕を動かすごとに全身が悲鳴を上げ、口から血と一緒に苦悶の声が出そうになるが、意思の力で押し戻す。
  戦う者が膝をついてはならない。
  私は決して負けてはならない。
  万能の願望機をもってして、ブリテンの滅びの運命を変えるその時まで―――。
  「ほう・・・」
 私の立っていた場所を駆け抜け、弧を描きながら反転する戦車チャリオットの音の中にライダーの声が混じる。血で滲んだ視界の中にあちこちを損傷した敵の姿が見えた。
  牽引する雷牛は健在だが、私と同じように体の至る所が裂け足元に紅い池を造りかねない勢いで血を流している。
  左右に突き出た分厚いブレードと小柄な生き物ならばそれのみで押し潰す巨大な二つの車輪。どちらにも目に見えるひびが入り、新たな衝撃を加えれば粉砕するであろう事が判る。
  牽引部の上に立ち、こちらを睨みつけているカイエン・ガラモンドの刀も無事ではない。武器は根元まで折れ、振るう者もあちこちに傷が見える。
 彼の後ろに立ち手綱を操るライダーとそのマスターが全くの無傷なのは、折れた武器と雷牛とカイエン・ガラモンドが約束された勝利の剣エクスカリバーの威力の大部分を請け負ったからだ。
  あと一撃。もう一度、渾身の一撃を見舞えば必ず私が勝利する。
  そう確信した―――。
  「まだやる気なのは結構だが、その様子では余の疾走の方が確実に早いぞ? まさか、ここまで諦めの悪い小娘だったとはな」
  「拙者の『風切りの刃』が・・・」
  「あれだけ見事にやられておきながら敗北を認めんとはな――。やはり貴様を王とは認められぬわ」
  視界の中に見える男の声が二人分聞こえた。
 落胆にも見える表情を見せている気がするが、私は再び約束された勝利の剣エクスカリバーの一撃を作り出す為にひたすら意識を集中する。
  敵が追撃を行わないのならばその隙を突かせてもらう。今にも崩れ落ちそうな両足と黄金の宝剣の三点で体を支え、深い呼吸と共に無駄な動きは一切しない。
  言葉にはしなかったが、私が吹き飛ばされた時から離れた場所に移動してもらったアイリスフィールから治癒魔術を受け取っている。
  ランサーに親指の腱を斬られた時とは違う。これはまだ『治せる痛み』だ。瀕死でもあるが、この肉体はまだ現界を保っている。あまりの重傷故に回復には時間がかかるが、その時間さえあれば治るのは間違いない。
  戦いはまだ終わっていない。私の胸に宿る戦いへの意欲は全く衰えていない。勝利はまだそこにある。
  顔を動かせばその分だけ回復に時間を取られてしまう、目をライダーに向けたままでいると、川の方で何かが光った。
 約束された勝利の剣エクスカリバーの輝きと比較すれば取るに足らない光ではあるが、何かが光ったのは間違いない。
  「どうやら向こうの決着もついたようだな、あの様子ではキャスターの奴はひとたまりもあるまい」
  ライダーが私から視線を外して川を見ている。
  何かがある。それが何なのかは回復に努めている私には判らない、それでも何かがある。
  「まさかあれも幻想種!? しかもあんなに・・・、一体何なんだよこいつ等」
  ライダーのマスターもまた同じ方向を見ているが、その目が驚愕に見開かれていた。
  何がある? 疑惑が僅かに浮かび上がる。だが、私は―――負けていない。その一心がただひたすらに私を回復に努めさせた。


  令呪を以て我が傀儡に命ず。


  決意を新たに心を再燃させた時。聖杯戦争が始まって以来、一度として聞いた事のなかった声が聞こえた。
  いや、私がそう思っているだけだ。聞こえてきた声は耳が捉えた肉声ではない。
  そして誰とも共感知覚を行っていない私が魔力の経路を通してこの声を聴くはずがないのだ。
  共感知覚は魔力の経路が繋がった契約者に対して五感を共有する魔術だが、私は誰ともその魔術使った事が無い。
  だからありえない。
  この声が聞こえる筈がない。
  しかし錯覚と呼ぶにはあまりにもこの声は明瞭すぎた。
  我がマスター、衛宮切嗣の声は。


  ライダーのマスターを―――。


  続く言葉が言い終えられる前、私の直感は猛烈な悪寒を感じ取った。
  この先を聞いてはならない。聞いてしまえば、大切なモノが失われると予感があった。
  私の騎士道の中には合ってはならないモノがその言葉の中に込められている。そう『理解』してしまう。
  もしこの身が万全であれば、備え持つ特急の対魔力でもって令呪の縛りを食い止められたかもしれない。しかし、宝具の一撃を喰らい、限りなく瀕死に近い今の状態では、サーヴァントに課せられた絶対命令権に逆らう気力を絞り出せない。
  アイリスフィールの回復は間に合わず、私の体はまだ令呪に抗う力を取り戻していないのだ。
  やめろ―――。やめろ、やめろ、やめろ!!
  だが衛宮切嗣の声は私の意思を無視して命令を下した。


  コロセ


  たった三文字の言葉。一息で伝えられてしまう単語が私の意思を消し去ってゆく。
  地に倒れこむ私の体を支えていた黄金の宝剣。私の手は令呪の命令に従い、剣を引き抜いた。
  崩れ落ちる私の体を支えていた二本の足が残り、それは大地を踏んで肉体を前に追いやる。
  地を駆ける速度は万全の状態よりもむしろ早いと感じたが、私の意識は動く体に反して『別の自分』を見ているような奇妙な冷静さで状況を見ていた。
 以前、真後ろに向けて風王結界インビジブル・エアを放ち、それに鎧を形作っていた魔力の放出も合わせて自らを超音速の砲弾へと変えた事があった。その時よりも速いかもしれない。
  これがサーヴァントへの絶対命令権であり、不可能を可能へと変える『令呪』の力。自分の体が動いていながら、私の主観はありとあらゆる出来事を客観的に捉えていた。
  川を向いていたライダーが私の方に振り向くのが見える。
  ライダーのマスターはまだ私が近づいている事に気が付いていない。
  カイエン・ガラモンドは折れた刀を握り締めて迎撃しようとしているが、予備動作は無くいきなり『結果』へと向かう私の動きに比べれば遅く、間に合わない。
  少女の形をしたアサシンが私を見ていた。まるで本当の少女のように私を見ていた。
  私は走る。
 ライダーが剣で迎撃するのを避け、戦車チャリオットの後部へと回り込む。
  そしてライダーのマスターの心臓めがけて剣を突き刺した。



  ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆



  Side - ゴゴ





  背後へと振り返ったカイエン・ガラモンドの視界の中に、心臓を貫かれたウェイバー・ベルベットがいる。
  川の方で行われていた巨大海魔と幻獣の戦い。この世界では幻想種と名前を変える神秘の生き物が三体も現れて、魔術師としてその奇跡に目を向けてしまい、ウェイバーは迫りくる敵に気づかなかった。
  セイバーの手から伸びた聖剣エクスカリバーの刀身がウェイバーの肉を裂き、骨を砕き、心臓を壊し、背中にまで抜けた。
  「「ぇ・・・?」」
  その呟きはウェイバーの口から出てきていたが、同時にセイバーの口からも出ていた。
  何が起こってる? それを理解出来ない者の口から出る動揺だった。
  自ら敵のマスターを貫いておきながら、あまりにもそぐわない言葉を呆けた表情で語るセイバー。
  黄金の宝剣を握り締めた手は敵を貫いた状態から、ギチリ、と音を立てながら捻りが加えた。
  剣がほんの僅かに動いた、結果はそうかもしれないが、その動きはただ貫かれた以上にウェイバーの心臓を破壊する。ただ突くだけではない『殺す』ための捻りだった。
  そしてセイバーは動揺を表情に浮かべ、けれど手はしっかりと敵を殺す行動を取ったまま―――。


  剣を引き抜いて逃亡した。


  剣がウェイバーから引き抜かれ、栓の役割を果たしていた黄金の宝剣がこびり付いた紅い血と共に姿を現す。
  ウェイバーの胸元に出来た傷口から一気に血が吹き出ると、それが自分に降りかかるより前にセイバーは『脱兎』という言葉が似合う猛烈な勢いで離脱していった。
  その速さは『最速』と名高いランサーの動きを上回っており、セイバーのステータスであれば決して出せない速度だった。
  あまりの素早さゆえに摩擦熱で体が燃え尽きるのではないかと錯覚しそうになるが、不可思議なのはむしろセイバーの表情がウェイバーを突き刺した時からまるで変わっていない点だろう。
  去りゆく一瞬で、しかも見えたのは横顔だけ。それでも呆けてるとしか言いようがないその表情は自らの意思でウェイバーを殺そうとしたり逃げようとしたりする者の顔ではない。
  ゴゴは―――いや、カイエン・ガラモンドは思考する。
  英霊の身でありながらも、今はサーヴァントのクラスに固定された者達がそんな表情をする理由は何か?
  令呪。
  ありえる可能性が最も戦い答えを導き出しながら、カイエン・ガラモンドは思考を一時止めて行動する。
  「リルム殿! 拙者、回復は不得手でござる。どうか御力を貸して頂きたい」
  異常な速度を発揮して距離を取るセイバー。走ってゆく方向には偽のマスターであるアイリスフィール・フォン・アインツベルンがいるので、おそらく令呪で『アイリスフィールと共に戦線を離脱せよ』とでも命じられたのだろう。
  巨大な荷物を担いで戦線を離脱しようとするなら、倒すのは容易。それでも今のカイエンにとっては怨敵を倒すよりもウェイバーを助ける方が優先順位は上になる。
  ケフカ・パラッツォが流した毒でドマが壊滅するのを見ていることしかできなかった過去が現在を縛る。
  助けられる命があるのならば救わなければならないと心が叫ぶ。
  こうも容易く敵を倒す怒りを生命の救済へと移りかえられたのは、セイバーへの怒りがケフカへのそれと比べれば軽いのが原因だろう。
  家族を殺された訳ではない、仲間を斬られた訳でもない、ただ許せないからセイバーへの闘志を燃やしていた。そしてカイエン自身、刀を砕かれて真っ向勝負では完敗したと思っているので、戦いへの意欲が急速に薄れていた。
  負けた―――。
  たとえ装備していた刀が最高の一品でなかったとしても、放った必殺剣が相手を殺す為の最高の一撃で無かったとしても。今できる全力を振り絞った上で圧倒されたのだ。
  怒りはある、それでも敗北は敗北として認めなければならない。
  そして救える命が目の前にあるならば救わなければならない。それがサムライ、カイエン・ガラモンドなのだ。
  「リルム殿ぉぉ!!」
  「そんなに大声出さなくても聞こえてるよ」
  この世界では幻想種の頂点に位置する竜種、幻獣『バハムート』を呼び出した余韻など全く残さず、本当にキャスターと戦っていたのかどうかすら怪しげなリルムの声が聞こえた。
  カイエンが振り返って見ればそこには衣服に全く乱れがなく、汗もかかず、土や砂ぼこりの汚れすらなく、散歩でここまでやってきたと言われても大いに納得できるリルム・アローニィがいた。
  「リルム殿。どうかウェイバー殿を救ってくだされ」
  「んー、まだ間に合うか」
  人が剣で体を射抜かれて、骨を砕かれて、肉を裂かれて、心臓を破壊されているにも関わらず、リルムの声に動揺は無い。
 神威の車輪ゴルディアス・ホイールの御者台の上に倒れるウェイバーの傷口と胸からは紅い血が止まる事無く溢れ、肉体から魂が抜けるようにどんどんと流れ出てしまう。
  不安げな表情を浮かべながらウェイバーの服にしがみ付くサン、ウェイバーを見下ろしつつもアイリスフィールを抱きかかえて町の中へと消えていくセイバーもしっかりと見て周囲を警戒しているライダー。
  ごぼっ、とうめき声の様な沼に湧く気泡のような音を出すウェイバーを中心にして、重苦しい雰囲気が作られていくが。状況の悪さとは裏腹に、リルムは何の気負いもなく傷口に両手を向けてある呪文を言い放った。
  「アレイズ」
  たった四文字。あまりにも軽く放たれた言葉は聞き様によっては冗談のようにも聞こえる。けれど、その言葉が言い終えられると同時に起こる現象は決して冗談では済まされない。
  雪が舞い降りるように空から降る黄金の粒子がウェイバーの体へと降り注ぐ。小さな小さな光の塊は気泡がパンッ! と破裂するようにウェイバーの上で弾けた。
  黄金の輝きがウェイバーを包み込み、それは幾つも幾つも弾けて、広がっていく物と一つの形を作り出す物へと別れていった。
  広がる物はウェイバーの全身まで行きわたり、一つの形を作り出す物は金髪の小さな男の子―――背中に純白の羽根を生やした天使へと変わる。
  桜ちゃんよりもずっと幼く見える赤ん坊の様な天使。その子は短い手をウェイバーへとかざして、黄金の輝きを更に増幅させていった。
  光が膨らむ。
  光が弾ける。
  光がウェイバー・ベルベットを包み込む。
  そしてカメラのフラッシュの様な一際大きな輝きが生まれ、パンッ! と甲高い音を立てると同時に天使も黄金の輝きも跡形もなく消え去った。
  これこそカイエンが知る中で、蘇生魔法の最高位に位置する『アレイズ』。完全に死んでいない者でまだ生きる状態に戻ってこれる者ならば、どれほどの重傷であっても癒す魔法。
  破壊の神と謳われる三闘神の力によって培われているとは思えない究極の治癒がウェイバーを蘇らせていく。
  御者台の上に止まる事無く滴り落ちていた血の流出は止まり、傷口が淡い燐光を放つ。そして時間が逆に回るようにバラバラに砕けた肉が『心臓』という名の塊へと戻っていき、血管がひとりでに動いて元の位置まで戻り繋がって、砕けた骨も人体を支える一部分としての役割に戻っていく。
  胸に空いた穴が塞がっていく。
  背中に空いた穴も塞がっていく。
  流れ出た血液こそ戻らず、破れた衣服もそのままだが、人体を構成するありとあらゆるモノが元の場所に還っていった。
  「あと二十秒遅かったら間に合わなかったかもね」
  リルムがそう言った時、ウェイバーの胸に出来た傷は塞がり、来ていたシャツに出来た二つの穴だけが攻撃されて貫かれた事実を残した。
  この世界の医療に真正面から喧嘩を売っているような事象の否定。『死』に対抗する『生』が魔力によって形作られ、ウェイバー・ベルベットの生物としての形を取り戻したのだ。
  ウェイバーを包んでいた光は消え、現れ出でた天使も消える。奇跡を作り出したモノが消えた後に残るのは奇跡によって救われた者。
  名をウェイバー・ベルベット。紅い血の水たまりの上に横たわる傷一つない男だ。
  「余の落ち度だ」
  「うぃ?」
  御者台の上には横たわるウェイバー、そのウェイバーのすぐ横にいるサン、そしてライダーの三人だけが居る。
  そんな御者台の上でライダーが自分のマスターを見下ろしながら言った。
  「セイバーの奴はな、清廉にして潔白な聖者であらんとする殉教者だ。故に戦っている余を差し置いてマスターを狙うなどと卑劣な真似はすまい、そう決めつけてしまった。これは余の落ち度だ――」
 ライダーは神威の車輪ゴルディアス・ホイールを呼び出す時に用いるスパタを引き抜いており、向かってくるセイバーを迎撃しようとした痕跡を見せつけている。
  それでも彼がセイバーにまんまとしてやられたのはライダーが告げた理由と彼の意識を強力に引き離したモノがあったからに違いない。
  ライダーに見せ過ぎた、いや『魅』せ過ぎた。
  魔石を介していたとは言え『ヴァリガルマンダ』『バハムート』『ライディーン』。『ファントム』『ユニコーン』『フェニックス』に続く幻想種のオンパレードを間近で披露させられ、征服王イスカンダルが意識を惹かれぬ訳がない。
  ウェイバーの無事に安堵しつつも、心のどこかで巨大海魔を葬り去ったあの幻想種の群れをどうにかして手に入れようと画策している事だろう。
  あれだけのモノを魅せられたら、セイバーから僅かばかりでも意識を離してしまっても仕方は無い。それもまたウェイバーの命を助けようとするカイエンの意思に反映されていた。
  だからこそリルムが言う。
  「誰にだって間違いはあるんじゃない?」
  こんな事は気にする事じゃない。
  何事もなかったんだからそれでいいでしょ。
  ―――と言わんばかりに言う。
  「これ位の『戻ってこれる大怪我』ならリルムだって何度も何度も味わってるよ。王様なら王様らしく、どーんと構えてなきゃ」
  リルムは降ろした両手をそのまま後頭部へと持っていき、右足を軽くあげて左足だけでタンッ、タンッと地面を叩いた。
  口調の軽さと合わせたその様子もまた、何事もない状況を表し。失態だと微塵も感じていない様子を見せつける。
  ライダーはスパタを鞘に戻しながらそんなリルムの様子を少しの間だけ眺めていた。
  「・・・・・・・・・坊主を頼むぞ」
  「うん。まあ、あとは目覚めるだけなんだけどね」
  「ほぅ――。そいつは大したもんだ」
  ライダーの口調もまたリルムと同じように軽いモノへと変化し終えた時、もう神妙な空気はそこには存在しなかった。あえて言えばサンだけが不安げな表情を浮かべたままでいるが、それ以外の全員がもう気負った雰囲気を放っていない。
  ここが戦場である事実は全く変わらないので気は抜いていないが、浮かべる表情は笑顔に近い。
  リルムの協力によって場を持ち直したカイエンは正面牽引部から降りて後ろに回り込んでくる。そして視線を上げて御者台の上を見ると、それを待っていたようにウェイバーが呻いた。
  「う・・・」
  心臓を貫かれた状況を考えれば、そのまま血を吐き出してもおかしくないのだが、ウェイバーの口から出てくるのは声だけだ。
  ゆっくりと見開かれた目がウェイバーを見下ろしていたライダーの視線とぶつかる。
  「坊主、気がついたか」
  「あ・・・れ・・・?」
  「覚えておらんのか、セイバーに胸を貫かれたであろう」
  「・・・・・・・・・・・・」
  ライダーに言われた事を頭の中で理解しようとしているのか、ウェイバーは横になってライダーを見上げたまま沈黙を保っていた。
  意識するかどうかは本人の意思に委ねられるが、身体的な意味での不調は完全に消え去っている。蘇生魔法の中でも死から脱するだけの『レイズ』と違い『アレイズ』は体の全てを治す魔法だ。
  数秒ほど沈黙していたウェイバーだったが、完全に治された体を使って、飛び上がるように上半身を起こして胸に手を当てる。
  バン、バン、と叩くように押しつけられた手が傷一つない肉体と穴が開いたシャツに当たった。
  「え? あれ? でも――えぇぇぇ!?」
  さっきまで死にかけていたとは思えないほど元気な声で自分の状態を確かめるウェイバー・ベルベット。『アレイズ』がどれほど強力な魔法かを身をもって表していた。
  「えーと・・・ライダー? 僕――刺された・・・んだよな?」
  「あの『フェニックス』ではないが、殺されかけた所をそこの小娘に救われたのだ」
  「やほー」
  ライダーが首を振ってリルムの方に視線を向けると、つられてウェイバーもそっちを見る。
 「大したものよ。あれだけの強力な魔法だけではなく治癒すら使いこなすとは――。王の軍勢アイオニオン・ヘタイロイの中にもこれほどの使い手はそうはおらぬぞ」
  「じゃあ、君が僕を助けてくれた・・・の?」
  「ちょっと危なかったけど治せない傷じゃなかったし。リルム様なら、らくしょー、らくしょー」
  リルムは後頭部の両手をあてたままの態勢でそのまま口笛でも吹きそうな調子で言う。
  その軽さをウェイバーがどう受け取ったかは不明だが、貫かれた結果と治された結果は間違いなくウェイバーの体に刻まれているので、否定しようとしても現実はここにある。
  自分自身の体だからこそ理解するのは当然だった。
  「そう・・・・・・。ありが、とう・・・」
  ただしあまりのも状況が早く動き過ぎたので理解に思考が追いついていないようだ。
  辛うじて理解しようとしているが、今はそこまでが精一杯。ウェイバーはぼんやりとしながら何とかリルムに頭を下げる。
  すると少々混乱気味になりつつあるウェイバーに向け、活を入れるようにライダーの声が降ってきた。
  「セイバーとの戦いは痛み分け――と言ったところか。あの様子ではそう遠くない内に復活する、その時はもっと凝らしめてやらねばいかんようだ。まさか、あれだけやっても判らん大馬鹿者とは思わんかったわい」
  「セイ、バー・・・・・・」
  ウェイバーはそう呟きながら傷口があった胸板にもう一度手を置いた。





  ゴゴにとってケフカとの繋がりは無いに等しいか細い糸だ。それでも辛うじて残っているのは、ケフカの根底にまだものまね士としての矜持が残っているからに他ならない。
  ケフカ・パラッツォを物真似するゴゴ。それが聖杯に汚染され『悪』であらんとする今のゴゴに残された最後の抵抗だ。
 この世界の魔術のように五感共有して起こった出来事を常に知るのがアサシンの宝具『妄想幻像ザバーニーヤ』で増えたゴゴ同士の繋がりだったが、今のケフカとゴゴの間にはそんなモノはない。
  大河と水滴。似ていながら比較しようのないそれは最早別のモノになっている。
  だからゴゴがケフカの身に何が起こったかを知るのは殆ど不可能で、断片的に起こっている事実を向こうから寄こされて初めて知れるのだ。
  それはゴゴとケフカとの間に合った繋がりが消えるまでずっと続いた。





  アーチャーこと英雄王ギルガメッシュにとって自分を除く全ての生物は等しく『雑種』であり、親友やライバルと言った自らと並び立つ存在がいたとしても、自分の上にいる存在を決して認めない。
  仮にそんなモノがいたとしても、ギルガメッシュはそれを即座に抹消し、自分の下に落とす。彼はそういう存在だ。
  とてつもない傲慢。けれど最古の王はそれを実現させるだけの力がある。
  力によって屈服させ、抹消し、存在し、証明する。それが英雄王ギルガメッシュ。
  本来であればゴゴはアーチャーとケフカとの戦いを微に入り細に渡って知れるのだが、ケフカの身に起こった出来事の大半はゴゴの元に届かなくなってしまった。
  判るのは断片的な情報のみ。
  それでも大勢を知るには十分すぎるのだが、ものまね士にとっては大勢程度では満足できない。特にアーチャーの宝具はその全容をまだ解明しきってないのだから。
  よってゴゴが101匹ミシディアうさぎの監視網の半数近くをケフカとアーチャーの戦いに動員するのは自然な流れと言えた。
  残るサーヴァントとマスターの大半は分裂したゴゴの本体と一緒にいるので、残る物真似の材料にこそ監視の目を集中させるのは当たり前だ。そうしなければものまね士ではない。
  断続的な情報と周囲からの監視によってゴゴはアーチャーとケフカの戦いを知る。
 「死をもって遇するがいい! 贋作者フェイカー!」
  「そちらが死ぬといい」
  アーチャーにとって自らの宝具は唯一絶対であり、それのみが至高の財であって他の追随を許さない。『似ている』と言うだけで処罰の対象であり、殺すには十分な理由となる。
  だからこそ挑発する為、ものまね士の意識をかすかに残したケフカはアーチャーの宝具を変質させて物真似した。本来の姿をそっくりそのまま物真似し返す事も出来ながら、だ。
 案の定アーチャーは王の財宝ゲート・オブ・バビロンを発動させてケフカが呼び出した帝国インペリアル空軍エアフォースを撃ち落とし始めた。
  空に浮かぶ黄金の舟から下界を見下ろし、同じ浮遊であっても上下関係を作り出しながら撃ち降ろす。
  ケフカはそれに対抗するように漆黒に染まった飛行機械の『スカイアーマー』と『スピットファイア』を上昇させて特攻を仕掛けるが、黒く染まった機械がアーチャーに到達する前に宝具の雨が撃退してしまう。
  ケフカの魔力によって多少は増強されているが、元となる『スカイアーマー』と『スピットファイア』はそれほど強い機械ではない、一直線に向かいくる宝具を受け止めるなど叶わず。それどころか貫かれて背後にいる仲間ごと粉砕されてしまう。
  飛ぶが落ちる。
  空で砕ける。
  地面へと墜ちていく。
  放たれた宝具が通った後には爆発して地上へと落下していく藻屑が残るのみ。
  もしアーチャーがテュポーンに乗るケフカも宝具で狙っていたら、そのまま全てを撃ち落としていたかもしれない。
 「どうした? その程度でオレに抗おう等と思った訳ではあるまい。精々、死ぬまで抵抗してみせよ」
  「ふふふん、まだまだ序の口。吠え面かくのはそっちだじょー」
  ケフカがそう言うと再び背後に浮かび上がる漆黒の円の中から黒く染まった『スカイアーマー』と『スピットファイア』が姿を現す。
  ただし初回の比べれば円の数は激増し、その数を倍に増やす。
 夕暮近い空に浮かぶ、夜の闇のような黒い穴。そこからケフカの僕が姿を見せるとアーチャーもまたそれに呼応として王の財宝ゲート・オブ・バビロンの数を増やした。
  「何のまだまだぁ!」
  ケフカの威勢のいい声が聞こえるが、そこから先はアーチャーが一方的に攻撃する展開が作り出された。
  いや、むしろアーチャーはたった二合の撃ち合いでケフカの物真似の底を見抜き、ケフカが戦力を作り出せばそれを圧倒できるだけの宝具を瞬時に準備するようになったのだ。
  出現と同時に『スカイアーマー』が魔導レーザーをアーチャーに向けて放てば、迎撃するように撃ち出された剣の刀身が魔導レーザーごと『スカイアーマー』を切り裂く。
  攻撃方法をミサイルへと変更すれば、空に輝く黄金の円の中から矢の嵐が降り注いでミサイルを貫いて爆発させる。
  『スピットファイア』の拡散レーザーが広範囲に撒き散らされて、アーチャーの乗る飛行機械『ヴィマーナ』ごと全体を破壊しようとしても、広範囲に広がってしまうが故に威力が落ちて、『ヴィマーナ』に当たっても撃沈には至らない。
  それどころかアーチャーが指を動かせば自由自在に動き回る『ヴィマーナ』に拡散したレーザーの大半を避けられて、撃ち終えた所に槍の宝具が発射されて木っ端微塵に消し飛んでしまう。
  必殺技と言ってもいい攻撃『絶対零度』で周囲の空気を全て凍らせても、回転しながら飛んでくる斧の宝具が空中に浮かぶ氷を粉々に打ち砕いて『スピットファイア』もついでに破壊してしまう。
  次から次へと湧いてくる宝具の雨。
  ケフカもまた負けじとばかりに増援をどんどんと送り込んでいくが、アーチャーへと届く攻撃は一つとしてない。
 どれだけケフカが『スカイアーマー』と『スピットファイア』を生み出そうと、アーチャーの王の財宝ゲート・オブ・バビロンはその上を行った。
  無残な残骸が次々と作りだされ、地に落ちていくのはケフカが呼び出したモノばかり。もし魔力によって編まれて作り出された物でなければ、空中で破壊された飛行機械の全てが地上へと落下して、その残骸だけで地上は火の海になったに違いない。
  あとも残さず消滅する物だからこそ戦場の激しさとは裏腹に地上は不気味なほど静かだった。もっとも、そうでなければミシディアうさぎ達が透明になって地上から観戦するなど出来はしないのだが。
  空中に浮遊しながらも、下に浮かぶケフカが上を舞うアーチャーを倒そうと躍起になるも、戦況は決してアーチャー優位から崩れない。
  時にアーチャーの宝具がケフカへと迫り、何とか避けても足場になっているテュポーンがその餌食となって、体を抉られて悲鳴を上げた。
  ドクドクと流れ落ちるどす黒い血。大きな怪我はケフカにしては珍しい回復魔法によって何とか修復される。
 王の財宝ゲート・オブ・バビロンでの戦闘は倉庫街でも行われたが、あの時はバーサーカーによる反撃とマッシュの迎撃があった。
  それが今は無い。
  結果、アーチャーは手を緩めた。
  もちろん殺す気であり逃がす気はないが、結果に至る過程を愉しむ算段を持ったようだ。
  ケフカ・パラッツォを弄り殺す。
 王の財宝ゲート・オブ・バビロンでいたぶり殺す。
  それがもしアーチャーが本気を出せば五分とかからず終わるかもしれない戦いが長期戦へと変わった瞬間だった。
  ケフカがどれだけ大軍勢を作り出してもアーチャーはその上をいく。
  時間が経てば経つほどにケフカに近づく攻撃は増え、直撃しそうな宝具の雨が徐々に数を増していった。
  傍から見ればアーチャーがケフカを殺しきれないようにも見えるが、禍々しい笑みを浮かべるアーチャーには焦燥の色は全くない。一秒一秒を殺すまでの過程として楽しむ残虐な王がいるだけだ。
  ほんの少し攻撃の波が勢いを増すだけでケフカは死ぬ。
  アーチャーが遊んでいるからこそ戦いは続いている。
  王に逆らった蟲は存分にいたぶってから殺す。それがアーチャーと周囲から見た状況かもしれないが、ケフカの視点で見る戦いは正反対だった。
 アーチャー優勢に見える状況などまだ序の口。王の財宝ゲート・オブ・バビロン程度ではない奥の手がアーチャーにはある筈。いや、そうでなければ困るのだ。
  そうでなければ魔力気力体力全てが最高の状態になっているアーチャーの元へ最初に訪れた意味がない。
  そうでなければわざわざ物真似の為に全力を出している様に見せかけて、アーチャーが手を抜く前から手加減する意味がない。力の底を見せているように演技する必要がない。
 王の財宝ゲート・オブ・バビロンが発動してから一度として同じ宝具が撃ち出された事は無く、使えば使うほどそこから打ち出された宝具の原典はケフカの糧となっていった。
  ありとあらゆる宝具の原典。その威力は恐ろしく、多少強化した『スカイアーマー』と『スピットファイア』程度では相手にならない。
  だからこそケフカは落胆した。周囲からはそう見えなくても、ケフカは確かに落胆していた。
 確かに王の財宝ゲート・オブ・バビロンから打ち出される宝具の嵐は脅威であり、並みの相手ならば発動と同時に死を迎えるだろう。遠坂邸に潜入しようとして呆気なく殺されたアサシンなどがそのいい例だ。
  けれど撃ち出されたモノは宝具の原典でしかなく、ただの一度も真名開放に至っていない。
  宝具とは人間の幻想を骨子に創り上げられた武装。英霊が生前に築き上げた伝説の象徴であり、物質化した奇跡なのだ。それなのにアーチャーはただ撃ち出すための物として扱っている。
  一つ一つの宝具が本来の性能を発揮すれば、作り出される破壊は今とは比べ物にならず。冬木市ぐらい簡単に滅ぼせる威力を発揮する筈。
  これでは頑丈な武器以上の意味は無い。保持している事それ自体が驚くべきことだが、これでは宝の持ち腐れだ。
  アーチャーは自分の優位を全く疑わず、そう遠くない内にケフカを殺す未来を自分の中で確定させているようだ。けれどケフカにとっては、アーチャーなど比較にもならない膨大な魔力の総量を推し量れていない愚か者の笑いにしか見えなかった。
  傲慢が目を曇らせる。
  事実、アーチャーは気付かない。あるいは気付いた上で無視しているのか、ケフカと共にテュポーンに乗っていた少女の石像がいつの間にか消えていた事や、ケフカが持っていたであろう杯がいつの間にか無くなっているのに無関心だ。
  注意深く観察すれば気付いた筈。
  敵を侮らなければ知れた筈。
  形勢は時間が経つごとにアーチャーの勝利へと近付いていくように見えるが、ケフカの内心はアーチャーへの落胆が増すばかり。
 本当に一度も真名解放に至ってない王の財宝ゲート・オブ・バビロン程度で殺しきれると思っているのか? とケフカの心がアーチャーへの侮蔑で染まっていった。
  空中に光る黄金の円から一直線にケフカめがけて剣が飛んできて、左の肩口を深く切り裂いて肉と血を撒き散らす。もしテュポーンが攻撃に気付いて斜めに下降しなかったら、剣はケフカの頭を貫いていただろう。
  「いったーい!!」
  ケフカが冗談にも聞こえる悲鳴を上げながら、右手で傷口を抑える。
  これまでは掠るような浅い傷ばかりを作ってきたが、ここにきて骨まで到達する重傷を負ってしまった。
  するとケフカはアーチャーに聞こえないようにぼそぼそと呟いて呪文を唱え終えると、淡い光が右手から傷口へと移ってあっという間に傷口を塞いでしまう。
  「・・・」
  そこで凶悪な笑みを浮かべていたアーチャーの顔が変化した。
  ほんの僅かな変化だったが、戦いが始まる前にも合った敵に対する警戒の色が少しだけ浮かぶ。
  自分が負った重傷を一瞬で癒す。これまで見せてこなかった超回復で初めて弄ぶ雑種ではなく倒すべき敵と定めたのかもしれない。
  そうだ―――その顔だ。敵を侮っていつまでたっても同じような攻撃しかしてこない裸の王様には興味がない。敵を見る目で見ろ。
  ケフカの意識と限りなくゼロに近づいたゴゴの意識とが混ざり合い、物真似への渇望となっていく。
 それはこれまで拮抗状態であった王の財宝ゲート・オブ・バビロンとそれを変質させたモノとの戦いを別のモノへの変えていく。
  ケフカは右手を左肩に当てたまま左手をケフカに向かって伸ばす。これまではどれだけ姿勢を変えても、起こる変化はケフカの背後ばかりだったが、今度は違う。
  ケフカは告げる。独立したモンスターでありながら、ケフカを構成する一部でもある『機械』が得意とする技の名を―――。
  「アトミックレイ」
 まっすぐ突き出した左手からアーチャーの背後に展開された王の財宝ゲート・オブ・バビロンにしっかり一つだけを加算した数の熱線が撃ち出された。
  最初は指の太さ程度だった紅く燃える炎の糸が、ケフカの手を離れるごとに極太のレーザーへと変化していく。
  「むっ!?」
  黒く染まった飛行機械の特攻でも攻撃でもなく、これまでにないケフカ自身からの攻撃。アーチャーはヴィマーナを旋回させて迫りくる熱線を避けるが、背後に光る円はその場に留まり直撃を喰らう。
  ドンドンドンドン、と爆発音を響かせてながら空に幾つもの花火が生まれる。これまでの状況とは一転して別の構図が生まれ、ダメージを負った側が逆になっていく。
  「うひょひょひょひょ。手加減してあげなくなったら大変じゃなーい」
  空に浮かぶ多数の爆発を楽しげに見つめるケフカ。
  「倒しちゃう? 殺しちゃう? 死んじゃう?」
  ケフカは自問自答を行いながら、『機械』と同じ状況で現れる『魔法』が得意とする攻撃の中の一つ。空に浮かぶ敵に対しては絶大な効力を発揮する雷の最高位魔法を口にした。
  「サンダガ」
  爆発の余韻がまだおさまらない中、ヴィマーナを包む炎の中に目掛けて、空から金色の雷が舞い降りる。
  ドガンッ! と『アトミックレイ』がぶつかった時に発せられた音をよりも更に大きな音が空に響いた。
  間をおかずに叩きこまれた炎と雷の二重攻撃。脆弱なモンスターか普通の人間ならば灰すら残さずに消し飛ばす威力にアーチャーはどうなっているか?
  湧き出た疑問に応じるように風が吹く。
  アーチャーがその風を生み出したのか、それとも身につける黄金の鎧の効果か。アーチャーを中心に外へ外へと広がっていく風が炎も煙も爆風も全て押し流していく。
  「雑種めが――」
  そこから聞こえてきた声は紛れもなくアーチャーの声で、そこに見えるのは黄金の鎧を身にまとい、光り輝く黄金の舟の上に降臨するアーチャーそのものだった。
  ほんの少し燻っているが、それでも健在であるのには変わりがない。
  どうやら直撃を受けながらも耐え抜いたか、アーチャーが持つ高い幸運によって避けたらしい。
  結果として残るのは、戦闘意欲を全く損なっていない英雄王ギルガメッシュ。むしろ反撃されて怒りが再燃したのか、形相と鋭い視線を組み合わせてケフカを見下ろしている。
  殺す―――。ケフカを見る目がそう物語っていた。
  「よかろう。雑種ごときに抜くまでもないと思っていたが――。その無様な姿を二度と晒さぬよう一撃で終わらせてやる。光栄に思うがいい」
  アーチャーはそう言うと、戦いが始まってから一度たりとも崩さなかった『黄金の玉座に腰かける』の態勢を捨て、ヴィマーナの上に立った。
 そして背後に輝いていた王の財宝ゲート・オブ・バビロンの輝きを全て消して、代わりに右手を胸の前に持って行って一つだけ黄金の円を横に広げる。
  アインツベルンの城で行われた時に酒器を取りだした時も似たような事をしたが、今回そこから現れたのは酒器ではない。輝きが消えると同時にアーチャーの手には一つの鍵剣が握られていた。
  柄の部分には親指ほどの大きさの直方体が幾つも絡み合い一つの形を成して、アーチャーがその中に手を入れて強く握りしめると、直方体が一斉に動いてカチカチカチカチと音を奏でる。
  そして刀身の部分にある『鍵』が光り輝き、空に血管に似た紅い網が広がった。
  その大きさはアーチャーを乗せて浮遊するヴィマーナが小さく見えるほど圧倒的な質量で、正確な大きさは判らないが、おそらく百メートルは超えている。
  広がる勢いをそのままに、広がる速さと同じ勢いでそれはアーチャーの手元に収束していった。
  紅い網が消え去ると同時に鍵剣はいつの間にか消える。そしてアーチャーの手には一振りの剣だけが残った。
  赤色と黒色を混ぜ合わせ、三段階に連なった円柱とその先端に辛うじてらせん状の刃と思わしき物が付く異形の剣。握りと柄があるので辛うじて剣に見えるが、何か別種のモノが剣の形をしているようですらある。
  いや、あれはそもそも人類が『剣』という概念を知る以前、神によって作られた概念であり奇跡そのものなのだ。むしろ人があの『剣』を見て剣を作り出したのだ。
  その『剣』を解析する為に見れば見るほど人の知る剣とは全く別種のモノなのだと判る。
  僅かに残ったゴゴの意識が訴えかけた。
  あれを物真似しなければならない。と。
  そしてこうも訴えかけた。
  あれはとてつもなく危険なモノだ。と。
  ケフカはとっさにアーチャーに向けていた手を自分へと向け、ある言葉を口にしていた。
  「リレイズ」
  あの『剣』を見た瞬間、確実に迫る危機を察知してそれ以外の動作が行えなかった。
  攻撃するとか回避するとか防御するとか迎撃するとか―――幾つもある行動の中でたった一つだけを選ぶ。
  その名は『生存』。
  ただ生き延びる為に呪文を唱え終えた瞬間。アーチャーが『剣』を掲げた。
  そして三つの円柱が勢いよく交互に回り出し、これまでどのサーヴァントもマスターからも感じた事のない強烈な魔力が吹き荒れる。
  アーチャーを起点にして魔力の台風が吹き荒れ、赤と黒の渦が空を引き裂いていった。
  「いざ仰げ!」
  そして烈風を巻き上げ旋転する神の剣が振り下ろされる。


 「天地乖離す開闢の星エヌマ・エリシュを――!!」


  アーチャーが上段からまっすぐ振り下ろした剣筋に沿って、ケフカ・パラッツォの肉体は両断された。



  ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆



  Side - ケフカ・パラッツォ





  壊そう!
  歓喜の産声と共に思考を支配する思いはその一つに集約されていった。
  壊そう!
  今まで目に見えない何かに押さえつけられていた思いが一気に爆発するが、それは爆発の勢いそのままに集結して一つの想いへと変わっていく。
  壊そう!
  あるいはこの時、私は俺は僕ちんは生まれたのかもしれない。
  破壊からの創造。
  消滅からの生誕。
  死からの再生。
  死ななければ本当の意味で解放されない。
  「ホワッ・・・・・・」
  歓喜の産声と共に―――。さあ、生まれよう。


  「ホワッ――ホッ! ホッ! ホッ! ホッ!」


  足場にしていたテュポーンごと左右に両断された肉体が、魔法効果によって元に戻っていく。
  普通の人間でも魔術師でも生きていない、サーヴァントであろうとも首の根元にある核を粉砕されたので現界するのは不可能。しかし不死身の怪物のようにケフカ・パラッツォは蘇る。
  左の目が分断された右側の肉体を見る。右の目が分断された左側の肉体を見る。真っ二つに裂かれた頭が首が体が、肉が骨が血管が、人の体を構成するありとあらゆるモノが左右に別れながら別の場所に舞い戻る。
  笑い声を上げるのは二つの口。笑いが収まる頃には再び一つの口へと戻る。
  それはおぞましくはあるが間違いなく奇跡。
  死と再生を繰り返し、プラスとマイナスを行き来してゼロへと集結する。
  「しゅんばらしい・・・。さすがの僕ちんもびっくりしたよ」
 天地乖離す開闢の星エヌマ・エリシュの効力はケフカだけに及ばず、冬木市を覆っている二つの結界もまた両断した。
  さすがに背後に目は無いので直接見ていないが、バトルフィールドはケフカの魔力によって形作られているので、どんな状況に陥っているかは何となく判る。
  そう―――ケフカと同じように二重結界もまた左右へと両断され、コンクリート道路は割れて民家は切り裂かれ、丘も山も左右に動いて空がパラパラと砕かれている。
  断裂した大地の底には奈落があり、何もかもがそこに落ちていく。
  地盤沈下。
  物が呑まれていく。
  大隆起。
  物が落ちていく。
  地滑り。
  物が喰われていく。
  天は裂け、空が落ちる。
  この場にいる人間ならば正しく『世界の終焉』を心に刻み込んでもおかしくない破滅が広がっていた。
  けれどその破壊も術者の健在によって一気に修復されていく。
  左右に引き裂かれた大地は引き裂かれた力と同等の力で左右から押し戻され、出来上がった亀裂は結界の中に充満する魔力によって瞬時に元の形へと戻っていく。
  山に立ち、なぎ倒された木々は山が元の位置に戻っていくと逆戻しのように立ち上がる。
  砕かれた天は無事な周囲が同じ色にどんどんと染め上げて、『平常』という名で逆に浸食し返し、裂けた箇所を何の変哲もない空へと戻してしまう。
  それはケフカの左肩に起こった超回復と同等の超修復だった。
  「馬鹿な――」
  「だがほんの少しだけ、殺し切るには力不足だったみたいだな」
  左右に裂かれていた肉体が元に戻ると、ケフカの視点もまた二つの目で二か所を同時に見る状況から一対の目で一つのモノを見る状況に戻っていった。
  その目が移すのはアーチャーの驚く顔。ゾンビのごとく蘇生したケフカに驚きを隠せない英雄王ギルガメッシュだ。
  アーチャーからはケフカの背後にある天地崩壊が戻っていく経過も見えているので、その光景にも驚きを隠しきれないらしい。
  おそらく聖杯戦争が始まって以来、アーチャーが驚愕を露わにするなどこの時を除いて一度たりとも現れなかったに違いない。
  常に他者を見下す王が動揺している。その狼狽した顔が心地よい。心の奥底からゴゴではないケフカの狂笑が湧き出て止まらない。
  ただし。何事も無いように見せかけているが、宝具の威力がもう少し高ければ『ケフカ・パラッツォ』を構成する全ての要素が吹き飛ばされたであろう実感があった。
 王の財宝ゲート・オブ・バビロンなど比較にもならない英雄王ギルガメッシュの宝具。天地乖離す開闢の星エヌマ・エリシュ―――。
  それは死ぬと同時に生き返る蘇生魔法『リレイズ』の効果すら吹き飛ばしかねない、世界の理を砕く恐ろしい宝具だった。
  ぎりぎりで『リレイズ』の効果が発揮され、全てのバトルフィールドが崩壊する前に張り直せた。ただそれだけで、ケフカの言葉通り『ほんの少しだけ力不足』だったに過ぎない。
 直に喰らった感触から推測すると、天地乖離す開闢の星エヌマ・エリシュはまだ本気を出していない。倍とまではいかないが、アーチャーが渾身の一撃として振るえば今の威力は1.5倍ぐらいに膨れ上がるだろう。
  おそらくアーチャーにとって雑種に対してこの宝具を使う事それ自体が不本意だったに違いない。武器を振るう者が本気になりきれないから、威力はその意思を明確に反映してしまったようだ。
 手加減した天地乖離す開闢の星エヌマ・エリシュであっても固有結界ごとケフカを葬れる、アーチャーにはそんな目算があったのだろう。
  そうなれば冬木市を模倣した『愛のセレナーデ』もバトルフィールドもケフカ・パラッツォも―――ただの一度限りの攻撃でありとあらゆる全てが破壊し尽くされた。そう思い知らされる。
  赤色灯とドリルを合わせたような武器には見えない形状ながら、繰り出される威力は聖杯戦争の中でも群を抜いている。
 カイエンの渾身の一撃を力で圧倒したセイバーの約束された勝利の剣エクスカリバーとて、真正面からの打ち合いにならば負ける。あれもまた驚異的な威力を秘めた武器だったが、同じ『武器』であっても次元が違い過ぎた。
  全力であれば負けていた。一撃のもとに粉砕されていた。
 だがケフカは負けていない、死んでいない、倒されていない。天地乖離す開闢の星エヌマ・エリシュを物真似する機会を手に入れた。
  壊そう―――壊そう、壊そう、壊そう、壊そう、壊そう、壊そう、壊そう、壊そう、壊そう、壊そう、壊そう、壊そう、壊そう、壊そう、壊そう、壊そう、壊そう、壊そう、壊そう、壊そう、壊そう、壊そう、壊そう、壊そう、壊そう、壊そう、壊そう、壊そう、壊そう、壊そう、壊そう、壊そう、壊そう、壊そう、壊そう、壊そう、壊そう、壊そう、壊そう、壊そう、壊そう、壊そう、壊そう。
  ケフカは強くそう思った。
  三闘神の力で、宝具の力で、魔法で、魔術で、かつての世界の力で、この世界の力で、何もかもを混ぜ合わせた力で、全てを壊そう―――壊そう、壊そう、壊そう、壊そう、壊そう、壊そう、壊そう、壊そう、壊そう、壊そう、壊そう、壊そう、壊そう、壊そう、壊そう、壊そう、壊そう、壊そう、壊そう、壊そう、壊そう、壊そう、壊そう、壊そう、壊そう、壊そう、壊そう、壊そう、壊そう、壊そう、壊そう、壊そう。
  そう思った。
  まだ動揺を抑えきれていないアーチャーに向け、ケフカは両手を伸ばす。
  それを合図にしてケフカの体が変化していった。
  横にあった手が斜め上に伸ばされる最中、内側から肥大化する筋肉が道化師を思わせる衣装を突き破り、白い化粧を施していた皮膚の色は変色して鍛え抜かれた紫色の肉体が姿を見せる。
  背中からは六枚の羽根が現れて人型だったケフカを別のモノへと変えていった。
  一番上にあるのは白い羽根。その下にあるのはくすんだ金色の羽根。最も下にあるのも羽根だが、上にある二対の羽根が羽毛によって構成されているの対して、その羽根は蝙蝠を思わせる骨と膜で構成された黒い羽根だった。
  天使と悪魔が融合した三対六枚の羽根。それがケフカの背中から生えた。
  衣装はびりびりと破れてしまい、残るのは下半身を覆うだけの粗末な衣のみ。けれど、晒された姿は決して粗末とは言い難く、むしろ羽根を生やした肉体を見せる事で完成している風にさえ見える。
  妖艶さと神々しさ、禍々しさと美しさ。様々な要素を詰め込みながら、全く別の存在へと昇華したケフカ・パラッツォ。ピエロの様な原型は消え、完全に別の者へと姿を変える。
  唯一、頭頂部でまとめられた金髪が元のケフカと変化したケフカとの共通部分として残っていたが、それ以外は殆ど別人と言っても過言ではなかった。
  姿だけを見るならば六枚の羽根を背に抱く大天使にも見えるかもしれないが。ケフカの本性は天使とは程遠い。
  壊そう―――。
  殺そう―――。
  消そう―――。
  死なせてあげよう―――。
  ケフカは体に巻き起こった変化に喜びを抱きながら、伸ばした両手の先に力が集うのを感じた。
  右手に宿る力はここではない別の世界を一度壊した。
  左手に宿る力は、今、この世界を壊したアーチャーの力。
  ならば二つを合わせればどれだけ多くのモノが壊せる?
  疑問の答えは力の収束となり、アーチャーに向けた攻撃となる。
  「跪け!」
  先ほどのアーチャーに対抗するようにケフカが吠える。


  「『裁きの光』の下に――!!」


  ケフカがそう言った瞬間、ものまね士ゴゴがこの世界にたどり着いてから今までの間で使った事のない力が発動した。
  一つの技に注ぎ込まれる圧倒的な魔力の総量はこれまで使ったどの魔法でも魔術でも特技でも固有結界でも宝具でもあり得ない。故にその魔力に比例して作り出される破壊もまたこれまでにない規模に膨れ上がる。
 対界宝具『天地乖離す開闢の星エヌマ・エリシュ』を物真似して得た力とケフカが元々持ち合わせていた三闘神の力が混ざり合い、汚染されていた聖杯の力によって更に増幅した。
  それも破壊!
  これも破壊!
  全部、破壊!
  破壊、破壊、破壊、破壊、破壊、破壊、破壊、破壊、破壊、破壊、破壊、破壊、破壊、破壊、破壊、破壊、破壊、破壊、破壊、破壊、破壊、破壊、破壊、破壊、破壊、破壊、破壊ぃぃぃぃぃぃぃ!!
  手から放たれた黒い光線は一気に数十メートルの太さまで膨れ上がり、ヴィマーナに乗るアーチャーを直撃する。
  そのまま冬木市を覆うバトルフィールドと固有結界をも突き抜けていった。



[31538] 第39話 『戦う者達は戦う相手を変えて戦い続ける』
Name: マンガ男◆da666e53 ID:23cb9b06
Date: 2013/12/08 03:14
  第39話 『戦う者達は戦う相手を変えて戦い続ける』



  ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆



  Side - 言峰綺礼





  なるほど、確かにある程度の『破壊』は私の中に楽しさを見出した。代行者としてこれまでに数え切れぬほどの破壊を自らの手で作り出した身として、第三者の視点から破壊を眺めるという行為そのものは新鮮ではあった。
  遠坂邸で作り出された勝者と敗者の構図。自分を絶対的優位と思いこんだ愚者の滅びゆく様。
  人知を超える巨大な怪物を呼び出しながらも、結界によって閉じ込めれ殺されていく様。
  最優のサーヴァントが宝具の真名解放まで行っておきながら敗北し、令呪によって愚鈍な操り人形へと変わり果てる様。
  遠坂邸から未遠川の上流へと移動し、事の全てを見届けていたが。セイバーがアインツベルンの女と共に撤退していく様を見て、ある思いが私の中に生まれていた。
  見ているだけはつまらない―――それは正しく落胆であった。
  そもそも移りゆく状況の中で間桐雁夜と協力する組織が常に勝利を掴んでいるのだ、私はありとあらゆる者の苦痛が見たいのであって一方的な決着を見たいのではない。
  作り出された悲鳴にも破壊にも絶望にも苦痛にも破滅にも私は胸の高鳴りを覚えている。だが、どのような形であれ、それらの事象に対し自らが関わりを持って初めて意味を成す。
  彼らの苦痛は紛れもなく私の喜びを揺り起こしているが、こんなものは表の世界に出回るテレビを通して見る虚像と何も変わらない。
  こんなモノでは満たされない。それがケフカ・パラッツォに連れられ、二度にわたり観戦した末に私が達した結論であった。
  「つまらんな」
  「――あら?」
  「ただ見ているだけでは物足りない。私はそう感じている・・・。感情とは経験に基づき初めて本物へと変わる、ならばこんなものには何の意味もない」
  「むむむむむ、お気に召さぬとは――。ならば次はちゃんと楽しめる状況をセッティングしようではないか。死ぬかもしれないけど構わない、よね?」
  斜め前に並び立つ道化師は隙だらけで、私が黒鍵による攻撃を頭蓋に叩きこめば耳を突き抜けて頭の中をぐちゃぐちゃに破壊するだろう。
  おそらく敵ではない証明の為に隙を見せ続けているのだが、この『いつでも倒せる様子』もまた私の高揚を邪魔する要因であった。
  こいつは自分が死ぬ事を何とも思っていない。その姿が死んでも構わず笑い続ける未来と、私の攻撃を受けても何事もなく復活する未来の両方を連想してしまう。本体ではない虚像であるからこそ、ここでケフカ・パラッツォの姿をした偽者を殺したところで意味は無い。
  間近に面白さを全く見出せないモノがあるが故につまらなさが増幅されていく。
  私はほんの少しの苛立ちを自覚しながら告げた。
  「私にとっての利があるならば踊らされても構わん。が、これ以上僅かでも退屈が増えるのならばこの黒鍵が貴様の頭を貫くと思え」
  「それなら心配無用だじょ。これを持って衛宮切嗣と戦うだけだからな」
  「――衛宮切嗣だと?」
  ケフカ・パラッツォはそう言うと地面を持ち上げるように下に手を伸ばし、何もない場所から石の塊を持ち上げた。
  これまで私自身も二度体験した別空間を利用しての移動。特定の地点から物質を移動させる魔術はかなり高位に位置する上に、詠唱も術具も無い状態で発動するなど正気の沙汰ではない。
  けれどケフカ・パラッツォはそれを易々とやってのける。単なる虚像、本体の一欠けらでありながらもやり遂げる。
  懐から取り出した十字架を構え、いつでも魔力の刃を形成し黒鍵として投擲出来る態勢を整えた私の前で、ケフカ・パラッツォは隙だらけの姿をさらしながらも惜しみなく魔術を行使する。
  私が最もつまらなさを感じているのは、この男の好き勝手な様子そのものなのかもしれない。
  「すんばらしい観客も用意しちゃる。精々楽しむといい」
  告げられた一言の返答にとっさに黒鍵を投げつけそうになると、まるでそれを見ていたように振り返る。
  そして足元にあった石の塊をこちらにずらしてきた。
  よく見れば、それは単なる石の塊ではなく、人の形をした石であった。
  石像―――それも片手で持ち上げられるほど幼い少女の形をした石だ。
  「それは?」
  「衛宮切嗣の娘」
  「何!?」
  「今は石化してるがアインツベルンが衛宮切嗣を雇い入れた時に作った。母親はセイバーと一緒にいるアイリスフィール・フォン・アインツベルンだ」
  あまりにも唐突に言われた為、その言葉を理解するまでの数秒間、私は呆然としてしまった。
  戦場のすぐ近くにいると自覚しながら呆然とするなど『殺してくれ』と言っているようなもの。けれど私は呆然としてしまった。
  それほどまでに告げられた言葉はとてつもない衝撃を含んでいたのだ。
  気を持ち直し、私は言葉の意味を吟味し始める。
  魔術師の家系であるアインツベルンが次代の育成のためにと子を作る事はなにもおかしくは無い。事実、遠坂も間桐も才能の有無は関係なく子を作っている。
  だが『魔術師殺し』と二つ名を持つ衛宮切嗣を父親に据えたのは意外と言うしかない。
  魔術師とそれを殺す者。仮に衛宮切嗣に遠坂葵の様な才能ある子を産む才能があり種馬としての扱いだったとしても、魔術師を殺す為ならホテル一つ丸ごと粉砕出来る男が唯々諾々と状況を甘んじて受け入れるとは思えない。
  今となっては知る優先順位は低くなったが、衛宮切嗣はやはりアインツベルンに雇われた時に何かと出会い何かを得て、そして答えにたどり着いたに違いない。
  だからこそ自分が殺す筈の魔術師との間に子供を作ったのだ。私はそれが何であるかを知りたいと思った。
  「そしてこれも渡しておく、きっと役に立つじょ」
  「これは?」
  「使ってみてのお楽しみ」
  まだ考えるべき事は山ほどあるが、思考が一段落した私の前に手が延びてくる。
  そこから私の手の上に乗せられるのは指先でつまめるほどの小さな物体。
  新たな要素を渡され、更に思考は進んでいく。
  衛宮切嗣との戦い。
  素晴らしい観客。
  衛宮切嗣の娘。
  語られた言葉が私の中で一つの形になっていった。それはとてもとても面白く、考えるだけで胸の高鳴りを抑えられない策略の形をしていた。まだまだ疑問は多々あるが、この高揚は私の中に残る疑問を超える。
  「それじゃあ行きましょう。楽しい楽しい殺し合いに」
  「・・・・・・」
  その言葉を合図にして足元にある石像も一緒に私達は移動する。



  ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆



  Side - 衛宮切嗣





  常に場所を移動しながらの攻撃は最低限の高率で最大限の効果を発揮した。
  僕ごと呑み込んだ結界の中では放てる使い魔は通常に比べて少なく、片手で数えられる程度しか残っていない。冬木大橋と冬木教会、双方とも距離があったので肉眼での確認は出来なかったけど、間違いなく戦いが起こっている場所にその内の二体を放ち状況を把握し始めた。
  ここが冬木市に見えながらも誰かが作った結界の中なのだと理解した時、隔離され一方的な攻撃が始まると警戒した。それなのに不気味なほど何もしてこない。
  マスターを襲撃された時のアサシンがそうだったように異常な静けさだ。
  この静けさは何かの前触れなのか? それとも泳がされているだけなのか? 情報が足りず判断を下せない。
  状況のおかしさを理解しながら、すでに敵の結界の中に取り込まれているなら結界を破り外に出る為に行動を起こす必要がある。
  残る使い魔は結界の全容を把握する為に放ち、敵を警戒しながら攻撃もちゃんと忘れない。
  そうやって僕は冬木大橋の上で騒ぐキャスターのマスターと思わしき男と、ライダーのマスターを殺した。
  これで二人のマスターの敗退は確定し、残るサーヴァントは四騎。仮に言峰綺礼を狙撃した時には生きていたアサシンがすでに殺されているならサーヴァントの数はさらに減るが、それは希望的観測であって事実ではないので、残るサーヴァントは四騎と考えておく。
  セイバー、アーチャー、バーサーカー、アサシン。自前の貯蔵魔力でしばらくはライダーは現界するだろうが、尽きてしまえば残るはこの四騎だけだ。
  冬木教会では何者かとアーチャーが戦っていて、どのマスターでもサーヴァントでもないなら、それは間桐に協力する何者かあるいは敵対する誰かだと推測できる。もし聖杯を手に入れた等と大ぼらを吹く男で、しかもアーチャーを倒したならば、セイバーを使ってバーサーカーを敗退させる事に全力を注ぐ必要がある。
  そして僕は状況を仕切りなおす為にこの結界を抜ける為に全力を注ぐ。
  聖杯を手に入れたなどと与太話に付き合っている暇は無い。一刻も早く全てのマスターを殺し、全てのサーヴァントを消し、聖杯を降臨させなければならない。
  二百年前に三つの家の魔術師が協力し、ようやく作り上げた万能の願望機だ。たった一人の魔術師が単独で作り出せるほど簡単な物じゃない。
  僕は虚偽を切り捨て、思考を切り替え、考えるべき事を考える―――。
  嘘と偽善にまみれた騎士王を自害させる為には最後の令呪は残しておかなければならない。僕の手にはまだ一画残った令呪があるけど、十字架の形をしていた元々の令呪の形はもう無い。
  これに頼るのは他に使える道具が無くなって、本当に追い詰められた時とする。
  じゃあ他に使える道具は何だ? 僕と一緒に結界に呑まれたバレットM82とジープ・チェロキーの中に積まれていた道具のほとんどは対マスター用の武装でサーヴァントを相手にするには力不足。時間稼ぎぐらいは出来るけど、倒せるとしたら途方もない幸運に恵まれてアサシン一人が関の山だ。
  もっと他に使える道具は無いか?
  二体のサーヴァントがアイリの体の中に封印された『聖杯の器』に喰われた事で、すでにアイリが人として生きられる限界が近付いている。マスターを殺したことで、そう遠くない内にライダーもまた『聖杯の器』に喰われるだろう。
  アイリに直接聞かなければ正しい状況を把握するのは困難だけど、全てのサーヴァントが聖杯の器に喰われればアイリは死ぬ。
  判っていた事だ。こうなると最初から覚悟していた。
  彼女を犠牲にしても、この世界を救済すると誓ったから僕はここにいる。
  だからどんな仮定を歩もうとも、アイリが死ぬ事には変わりがない。そう―――舞弥が死んだようにアイリも必ず死ぬ。
 それにもう彼女をセイバーのマスターだと見せかける必要性が殆ど無くなっている。だったら預けておいた全て遠き理想郷アヴァロンを持たせておく必要は無い。
  あれは本来の持ち主であるセイバーが持てば老化を停止させ不死に匹敵する回復力をもたらすけど、他の者が持ってもある程度は治癒力を促進させる効果がある。アイリがまだ人間としての機能を失っていないのがその証拠だ。
  あれはまだ使える道具だ。僕がそれを使う時が来た。
  アイリが死んだ後、いつかは僕が使う道具として考えていた。順序は逆になったけど、至る結果が同じなら問題は無い。
 アイリを守る奇跡の宝具。概念武装として彼女の体内に封入されている黄金の剣の鞘。全て遠き理想郷アヴァロンを僕が貰う。
  もし完全に人としての機能も失っていたなら、アイリから聖杯の器も受け継ぐ。あれは聖杯を降臨させる為に絶対必要な物だから。
  そうなるとアイリが今どこにいるかが問題だ。冬木大橋から監視させていた使い魔はキャスターが呼び出した怪物と間桐に協力する誰かとの決着を見届けさせたので、戦場を離れるセイバーは追ってない。
  僕はセイバーにライダーのマスターを殺させた後、二画目の令呪でこう命じた。
  アイリスフィールと共に安全な場所に避難せよ―――。
  セイバーはアイリを担いで来た道をそのまま逆走していたから、おそらく武家屋敷に戻ったのだろう。
  サーヴァントの脚力だけか、それとも自動車を使ったか。この結界の中で武家屋敷にどれだけ拠点としての効力が残ってるか判らないけど、二人が向かった先はそこだと予測しておく。ならば僕が向かうべき場所もそこになる。
  セイバーにライダーのマスターを殺させた後、僕はジープ・チェロキーを運転して未遠川から距離を取って物陰に身を潜めていた。襲撃を警戒しながら頭の中では次に何をすべきかの行動予定を立てて、それが今完成した。
  改めて目的を認識し直した僕はアクセルを踏み込んでジープ・チェロキーを発進させて十メートルほど進む。その時―――上空から迫りくる飛来物を視界の隅に認めた。


 「固有時制御タイム・アルター二倍速ダブルアクセル!!」


  頭の中に警報が鳴ると同時に僕の口は時間操作の魔術を発動するための呪文を紡いだ。
  感情が驚きで停止するよりも前に、迫る危険を察知した瞬間に解決すべき事柄を選択する。ただ脱出する為に移動するだけでは間に合わない、時間操作をしなければ脱出すらできない。
  一瞬で答えへとたどり着いた僕は倍速となった体感時間の中で飛来物が何であるかを知る。
  黒鍵だ。
  運転席からではどこから降ってきたのかを判断できないが、代行者たちが用いる概念武装が計四本。前輪の右タイヤに一本、ボンネットへ二本、そして僕のいる運転席に目掛けて一本向かってる。
  倍速の状況を全て脱出に費やすしかないと改めて決断し。後部座席に置いたバレットM82とその他の弾薬の大半を切り捨てる、その代わりに助手席の上にある『起源弾』が装填されたトンプソン・コンテンダーと50発の9ミリの銃弾が収まるキャレコ短機関銃を手に取った。
  着ているスーツの中には『起源弾』が何発かと幾つかの弾薬、そしてナイフしか無いけど、これ以上は持ち出せないと切り捨てる。
  黒鍵の一本がフロントガラスを突き破って僕の心臓を貫こうとしてる。急いで運転席側のドアを開けて車外へと飛び出した。
 そこで固有時制御タイム・アルターの効果が切れ、体内に設定した時間操作の結界と外界とのずれが元に戻ろうと僕の肉体を痛めつける。
  「くっ!!」
  歯を食いしばりながら道路に投げ出された僕は自分を回転させてジープ・チェロキーの運動エネルギーを殺していく。
  自動車の速度を上げる前に攻撃されたから車外へ飛び出して地面に叩き付けられる衝撃はそれほど大きくないけど、魔術の反動が容赦なく僕の肉体を壊す。痛みから察するに毛細血管がかなり破けたようだ。
  黒鍵が突き刺さったジープ・チェロキーはタイヤをパンクさせられ、エンジンを破壊され、運転者を失った。速度がなかったので横転こそしなかったが、ガードレールへとぶつかってガリガリガリと甲高い音を響かせる。
  回転しながらそれを見た僕は程なくガソリンに引火して爆発するであろう未来を予測し、車も中に残した荷物も使えなくなると結論を出す。
  地面を転がる勢いが弱まったので急いで姿勢を正し、黒鍵が降ってきた頭上を見上げた。
  「衛宮切嗣――。まさかこのような形で貴様と相見えようとはな」
  道路の斜め前にある三階建ての雑居ビルの屋上。
  そこに立つ男の姿を認めながら、僕はトンプソン・コンテンダーとキャレコ短機関銃を両手に構える。
  結界の中に閉じ込められた時点から敵の襲撃は予測された事態だったので驚きはない。飛来物が黒鍵だった時点で敵が誰であるかも予測できていたので、こちらも同じく驚きはない。
  今の僕に動揺はない。
  最も会いたくなかった敵に怯えていた過去の僕を消し去り。ただ、すべき事をして結果を掴む為に冷静に敵の名を口にする。
  「言峰、綺礼・・・」
  奴はただの標的だ。殺すだけで終わる。
  もう一度僕は僕自身にそう言い聞かせ、頭の中で言峰綺礼についての戦術面における分析を行う。
  事前の諜報の成果と僕自身が得た情報、そして今はいないが彼と交戦した久宇舞弥からの情報を統合する。
  長距離における攻撃は黒鍵による投榔を確認。一投は予備動作含みコンマ三秒以下で連投はコンマ七秒以内に四本を確認。今の攻撃がその分析の裏付けとなる。
  近接戦における攻撃は八極拳を主体とした格闘。詳細は不明だが達人の域に達しており極めて危険。
  全身を覆う僧衣には防弾加工がなされ、9ミリの銃弾が収まるキャレコ短機関銃では貫通も衝撃による制圧効果もなし。
  遠坂時臣に師事した言峰綺礼の魔術習熟度は見習い課程の終盤程度で、際立った適性は霊体治療のみ。よって魔術戦闘においては肉体機能を増幅させて戦闘技術を向上させる以外の魔術はないと思われる。
 こちらの武装は徹底的に秘匿してきたので、対ロード・エルメロイ戦に使用した起源弾は知られていない可能性は高い。ただし、固有時制御タイム・アルターはたった今見せてしまった。これらに対処する手段の用意は無いとしても、倍速で動ける事実は知られてしまった可能性が高い。
  近接戦闘は圧倒的に不利なので、奴を倒すのならば距離を取っている今の状態で起源弾を撃ち込むのが必勝の道筋だ。
  言峰綺礼は懐から新たに十字架を象った礼装を取り出し、そこに刃を形成して両手で合計六本の黒鍵を握り直す。
  来るか?
  「まず私の問いに答えてもらおうか」
  僕が両手の拳銃からそれぞれ弾丸を打ち出そうとした瞬間、言峰綺礼がまた声を出した。
  襲撃をかけておきながら言葉を発する訳のわからなさが引き金にかけた僕の指を止める。
  他の誰かだったなら問答無用で銃を撃っていたが、相手が言峰綺礼だからか、殺人機械『衛宮切嗣』の性能がわずかに鈍る。
  「貴様は何を望んで聖杯を求める? 願望機に託す祈りとは何だ?」
  「・・・・・・・・・」
  応じる必要のない質問に答える義務はない。投げかけられた言葉が呪文などの魔術的要素を含まない単なる言葉なら、戦いを初めて起源弾をさっさと奴に撃ち込むべきだ。
  「答えぬのなら、貴様にとって少々困った事態になるぞ」
  言峰綺礼はそう言うと、黒鍵を握りしめたままわずかに首を振った。
  それに何の意味がある? 僅かな疑問が僕の脳裏を通り過ぎると、言峰綺礼の横に新たな人影が現れた。
  どうやらビルの屋上の更に奥で待機していたようで、下の道路から見上げる僕からは死角になっていた場所に潜んでいたようだ。
  その人影は一人がもう一人を後ろから拘束してる二人の人影達だった。後ろにいる何者かが前にいる誰かの首を絞め、もう一方の手で口を塞いで声を出せないようにしている。
  前で拘束されている方の両腕は完全に拘束されていないけど満足に動かせない状態だ。
  こいつらは何者だ? そう疑問に抱くと同時に、前で拘束されている誰かがアイリの顔をしているのに気が付いた。
  アイリスフィール・フォン・アインツベルンがそこにいる。
  誰かに口を抑えられて、首を絞められてる。
  つまりアイリが敵に捕まってる―――。
  「なっ!?」
  ありえない事態に今度ばかりは動揺を抑えられなかった。殺人機械『衛宮切嗣』の下から人間の衛宮切嗣が現れてしまう。
  ほんの少し前にセイバーと共に未遠川から武家屋敷へと撤退したはずのアイリがどうしてここにいる?
  こんな短時間の間にセイバーが補足され、その上で敗北したのか? いや、僕の手に刻まれた令呪はまだサーヴァント健在を示しているので、セイバーが敗退した訳じゃない。
  サーヴァントが生命に関わるほどの窮地にあればマスターには気配の乱れとして察せる。それもないのでセイバーはまだ現界してこの冬木に存在している。
  そうなると敵に捕まっているアイリが見せかけだけの偽者の可能性が高まる。
  「おほほほ! 私の名前はケフカ、ケフカ・パラッツォ。今の僕ちんでも首一つへし折るぐらいの力があるのだよ。奥さんの命――。いやいや、体の中にある『聖杯の器』が壊されると困るんじゃなーい? 質問には素直に答えた方が身の為だじょ」
  「・・・・・・」
  言葉を聞いただけで、見たことのない『ケフカ・パラッツォ』がアイリを拘束している。
  アイリの後ろにいる男は道化師を思わせる衣装で、聖杯戦争が始まる以前から見たことがない。姿の異質さが聖杯の偽者を持ち込む詐欺師の雰囲気を増長させた。
  ただしアイリが『聖杯の器』を持っていることも、僕がアイリの夫である事も掴んでいるようで、何もかもが全て嘘だと断言するのは危険だ。
  今のままでは情報が足りない。言峰綺礼が何を思ってこんな状況を作り上げたのか判らないが、あのアイリが本物か偽者か確かめるだけの情報がほしい。
  僕は戦いに不利益にならない条件だけを抽出してそれを言葉にした。
  「――僕の悲願は人類の救済だ。あらゆる戦乱と流血を根絶し、世界に恒久的平和をもたらす」
  これこそが嘘偽りのない衛宮切嗣の真実。
  例えどんな敵が僕の前に立ちはだかろうと、どんな障害が僕の前を遮ろうと、ありとあらゆる手段を講じても僕は結果を掴み取る。
  「・・・・・・・・・なんだ、それは?」
  ケフカとかいう男はそれ以上会話に加わる気がないのか、奇妙な口調で喋った後は沈黙を保っている。代わりに言峰綺礼から問いかけにも似た言葉が返された。
  僕の願いを口先だけの出任せとでも思っているのか?
  「何故そんな無意味な願いを抱く」
  「無意味だと!?」
  「そうだ――。闘争は人間の本性、それを根絶するというなら人間を根絶するのも同然。これが無意味でなくて何なのだ? 貴様の理想はそもそも理想として成り立っていない。まるで子供の戯れ言だ」
  少し語気を荒めた口調で言峰綺礼が言う。その間にも僕は拘束されたアイリから視線を離さず、彼女が本物であるかを見極めようとする。
  彼女は二本の腕で首と口を押えつけられているから喋ったりは出来ない。けれど両手の拘束は不十分で、やろうと思えば力の入りきらない肘打ちでも後ろの相手を攻撃できる状態だ。
  完全に拘束しなくても女の肘打ちなら筋力で十分防げると思っているのか、それとも攻撃されないと知っているのか―――。
  思考と行動を分断し、僕は言峰綺礼に言葉を返す。
  「僕は、追い求める理想のために、すべてを失ってきた――。救いようもないモノを救う矛盾は常に僕を罰し、奪い、苦しめる。だからこそ奇跡の聖杯に願うしか他に道はない」
  弱音を発しているように聞こえるかもしれないが、語る言葉に感情や宿らない。ただありのままの真実を―――戦闘に支障のないレベルの事柄を口にするだけだ。
  例えばアイリが銀の針金を持ち出し、それを精巧な針金細工へと変化させたのならば、それは彼女が本物のアイリスフィール・フォン・アインツベルンだと証明になる。
  貴金属の形態操作はアインツベルンの真骨頂で、ドイツで見せた僕らしか知らない秘蹟は絶対に他の魔術師には真似できない。
  けれどアイリは口を塞がれているから詠唱が唱えられない。何か別の証明方法は無いかと僕は目を凝らす。
  もしジープ・チェロキーから脱出する時に携帯電話を持ち出せていたら、銃を構えながら片手で操作してアイリに電話をかけて所在を確認できたかもしれないけど。携帯電話はガードレールにぶつかった車の中にあっったから、衝撃で壊れてしまっただろう。
  他に手はないか―――。他にあのアイリが本物か偽者か確かめる術はないか?
  「その為に愛する妻を犠牲にしても、か? こうして問答に興じたのならば例え僅かであってもこの女を愛しているのだろう?」
  「僕はアイリを愛している。それでも、誰も泣かない世界の為に聖杯を掴む」
  「・・・・・・・・・・・・」
  思考から分断された本音が口から出続け、言峰綺礼は逆に口を塞いだ。
  何を考えている? 思考がアイリから言峰綺礼へと切り替わりそうだったので、僕は慌てて考えを彼女に戻す。
  そこで僕は気が付いた。ケフカと名乗った男に拘束されたアイリは現れてからずっと身じろぎして、何とか拘束から抜け出そうと躍起になってる。それでも敵の手はアイリの体をその場に拘束し続けてるが、話してる間ずっと彼女は動いていた。
  元気一杯に―――、あらん限りの力を振り絞って―――。あの女の動きはあまりにも強すぎた。
  聖杯の器を体内に宿し、サーヴァントが聖杯に喰われていくごとに人としての機能を失っていく筈のアイリが全身全霊でもがいてる。
  聖杯問答が行われたアインツベルンの森で分裂したアサシンの魂が二十体ほど聖杯の器に喰われた。
  続いて舞弥を犠牲にしてランサーの魂が聖杯の器に呑まれた。
  未遠川の戦いを最後まで見なかったけど、あの様子ではキャスターの魂も聖杯の器に吸収された筈。もしかしたらライダーすらも聖杯の器に吸収されたかもしれないけど、それはあくまで可能性であって確定事項じゃない。
  残るサーヴァントはセイバー、アーチャー、バーサーカー、そしてアサシンが僅かだけ。ライダーを考えないとしても半数近くのサーヴァントの魂を喰らえば、その分だけアイリが持っていた人としたの機能は損なわれてしまう。
  それは第四次聖杯戦争が始まる前から定まっていた事。聖杯と引き換えにアイリがいなくなってしまうのは決まっていた。聖杯戦争が起こる限り覆せない法則だ。
 いかに持ち主に不老不死と無限の治癒能力をもたらす宝具『全て遠き理想郷アヴァロン』を聖杯の器と共に体内に封入していたとしても、本来の持ち主であるセイバー以外が持てばその力は減衰する。
  こんな―――何事もなく元気一杯なアイリが見れる筈はない。
  僕は結論を出す。
  ビルの屋上にいて、力強く拘束を振りほどこうとしているアイリは偽者だ。
  「・・・・・・私が見誤っていた、それだけの事か。貴様は答えを得た訳では無かったのだな」
  言峰綺礼が何か言っていたが、アイリが偽者だと判れば銃弾を叩き込む躊躇は不要。
  聖杯戦争が始まってから得た情報で外見だけそっくりなアイリの複製を作ったのだろう。詳細は調査しきれなかったが、間桐の魔術の中には蟲を使って人を操る術があると聞いたことがある。あの『アイリスフィール・フォン・アインツベルン』はその魔術で作り上げた人形だ。
  「貴様が切り捨てた僅かな喜びと幸福すら、私にとっては命をかけて守り抜き殉ずる価値があった――。まさかこれほどまでに愚かな男とは思わなかったぞ衛宮切嗣」
  「何とでも言え」
  ただし一つの答えを得たが方針の変更を余儀なくされた。
  この場に現れた敵が言峰綺礼だけならアサシンのマスターである奴を殺すのに全力を注ぐつもりだったが、言峰綺礼以外にも敵はいる。あのアイリの偽者に戦闘技術があるのなら状況は三対一だ、サーヴァントはいなくても分が悪い。
  何より言峰綺礼以外の二人に関しては情報が全くない。未知の敵に無策で挑むほど愚かなことはない。
  令呪はすでに二画消耗してしまったので、死に瀕する状況に追い込まれでもしない限りは使うべきではないのも状況の厄介さに拍車をかける。これはあの偽善に満ちた騎士王様を自害させるために必要な鍵なのだから最後まで残しておかなければならない。
  僕はこの場からの撤退を最優先として、ビルの屋上にいる全ての人間を射撃の的に定める。もちろんアイリの偽者もその中に含める。
  これまで全く使わずにいたが、セイバーへの念話も戦略の一つとして考慮した。
  僕が立つ場所から奴らのいる場所までは目算で三十メートルほど。遮蔽物がないからいきなり起源弾を撃ち込むのも一つの手だ、ビルによって上下に隔てられた距離の大きさがスーツの中に残っている起源弾の再装填までの時間を稼いでくれる。
  銃撃を受けた場合。奴らは後ろに逃げるか、前に進むか、ビルから自由落下で降りてくるか、それとも壁を伝って駆け下りてくるか。
  僕は敵が向かう先を限定させる為、屋上に向けてキャレコ短機関銃の引き金を引いた。



  ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆



  Side - ウェイバー・ベルベット





  「生きてる・・・」
  もう一度胸に手を当てても、返ってくるのは無傷の胸板だけ。ただ、胸を思いっきり刺されたんだって判ってるのに、実感が全然湧かない。
  刺された瞬間のことも覚えてる、胸に突き刺さった硬く嫌な感触も覚えてる。剣をねじられた瞬間に今まで味わったことのないとんでもない激痛が走ったのも覚えてる。
  それなのに今、僕は無傷で生きてる。あの出来事がまるで夢のようだ。
  意識が遠のく最後の一瞬までも頭でちゃんと覚えてるんだけど、まるで他人事みたいに思ってる僕がいた。でも服に空いた穴と僕の記憶は紛れもなくあれが本当に起こった出来事だって認識してる。
  有る、と、無い。
  言葉では言い辛いもやもやした感覚を感じながら、もう一度傷があると思う場所に手を当てた。
  「でも、犠牲が無かった訳じゃないんだよね」
  「それは、どういう・・・」
  降ってきた声に導かれて視線を上げてみると、そこにはリルム・アローニィの姿があった。
  僕が刺される直前にキャスターとの決着をつけて巨大海魔を消滅させた。
  あの時見たいくつもの幻想種に目を奪われたからセイバーにサックリ刺された。ライダーに他の事に心奪われたことを言えば『戦場で気を抜く方が悪い』とでも言われそうだから、言葉にはしない。
  正直、あの幻想種の事が気になってるのは確かなんだけど、まだ『生きてる』って実感と『刺された』って実感が混ざり合って、好奇心よりもそっちの思いの方が強くなってる。落ち着けばあの幻想種の事を聞きたい気分になるかもしれないけど、今はそんな気分じゃない。
  リルム・アローニィの姿は驚く位に何の変哲もなかった。とても巨大海魔をキャスターごと完膚なきまでに滅ぼしたとは思えない。
  ここが戦場で、殺し合いを終えて、周囲に敵がいるかもしれないのに。痣も傷なくて着衣の汚れもなく、おかしい位に落ち着いてた。散歩に出かけてばったり知り合いと会ったみたいな雰囲気だ。
  そのリルム・アローニィが僕の胸を指さしてる。
  何があるの? 疑問に思いながらもその指が向かう先に目を向ける。
  そこには貫かれた僕の胸―――と、その胸に手を置いた僕の右手があった。
  貫かれた個所を確かめるなんて何度もやったから指差してるのは胸じゃない。わざわざ行動に見合うだけの『何か』、言葉を流用するなら『犠牲』がどこかにある筈。
  もしかして見えない体の中に何か異常が残ってるとか?
  「右手の甲。気付かない?」
  「・・・・・・・・・あっ!」
  そう言われて僕はようやく気が付いた。刺された個所と一緒に右手も視界に収めていたけど、殺されかけた状況があまりにも唐突すぎたから見えていたけど意識してなかった。
  僕自身が胸に当ててる右手。その手の甲にあった令呪が消えてた。
  セイバーの宝具を突破する為に一画を消耗したから、二画に減ってる筈なんだけど。手の甲には合った筈の輝きが跡形も無い。
  剣の刀身部分と左右に広がった羽根を組み合わせたみたいな僕の令呪三画。ライダーへの絶対命令権。サーヴァントにとっても切り札。それが影も形もなくなってた。
  「まあ、短い時間だったけど『死んでた』からね。令呪は生きてる魔術師に刻まれる聖痕だから――」
  「そっか・・・」
  胸に当ててた右手を下ろしながら、僕はぽつりと呟く。失ってしまったモノの大きさに衝撃を受けながらも、僕はただありのままの事実を受け止めた。
  図太くなったのか、思考を止めないようにしてたからか。それとも―――令呪が消えたって知っちゃった瞬間に諦めたか。
  受け入れても事実は変わらない。現実がただそうあるだけ。
  令呪がなくなるって事は―――。
  「僕は――ライダーのマスターじゃ無くなったんだ・・・・・・」
  そう。令呪は聖杯戦争における参加者の証明であり、マスターとサーヴァントを結ぶ契約でもある。
  その令呪がなくなったからライダーは僕の命令を聞く必要がなくなった。征服王イスカンダルの覇道を塞いでいた『聖杯戦争のマスター』という名の岩は取り払われた。
  ライダーの道を塞いでた邪魔なモノはもう無い。
  僕は令呪の消えた右手から力なく下ろしたまま振り返ってライダーを見た。
  そこには後頭部をぽりぽりとひっかきながら困った顔をするライダーがいる。
  呆れてるように見えた。マスターじゃなくなった僕を笑ってるようにも見えた。その顔を見るのが嫌になって、僕は振り返っておきながら目をそらす。
  ライダーに背を向けたまま言った。
  「もう行けよ。どこへなりとも行っちまえ。オマエなんか・・・・・・」
  僕の口から出てる言葉はすごく素っ気ない。それが判っても、口から出てくる素っ気なさを止められなかった。
  令呪の損失は諦めの発露。
  何もかもがここで終わってしまった。
  命を救われた感謝も今の僕にはない。
  僕が生き返ってからずっとそばにいるサンが不安げに僕の服を掴んで顔を見上げてくるけど応対する余裕もない。
  ほんの少しだけ僕を助けてくれたカイエン達に悪いことをしたかな、と思って顔を動かす。そうしたら曲げた中指の先を親指の腹にひっかけたデカい手が僕の顔の前に現れた。
  それがデコピンであり、ライダーの手だと気付いた瞬間。僕の額に強烈な一撃が炸裂する。
  「ぎゃおんっ!!」
  今まで喰らった中で一番強いデコピンだった。本気で頭蓋骨が破壊されるんじゃないかと思った。
  令呪の消えた右手と何事もない左手を額に当てるけど、痛みは全然引いてくれない。
  痛い。
  ものすごく痛い。
  痛い、痛い、痛い、痛い、痛い、痛い。
  もしかしたらセイバーに刺された時より痛いかも。
  「坊主、何を言っておる」
  転倒こそしなかったけど、うずくまるように丸まった僕の上から声が降ってくる。
 「貴様は今日まで、余と同じ敵に立ち向かってきた男ではないか。マスターじゃないにせよ、余の朋友ともであることに違いはあるまい? それがどうして『もう行けよ』になるのだ」
  「え・・・?」
  その声がライダーのだって気付くと、首根っこを掴まれて強引にライダーの前に持ってかれた。
  しがみついてるサンごと一緒に持ち上げてもライダーの手は全く揺るがない。サンの体重の分だけ、服と腰に回った手が肉を締め付けて僕が痛い。
  頭が痛い。
  体も痛い。
  そのままライダーと僕の視線がぶつかる。
  「世界の終りのような顔をしておるがまだ我らの聖杯戦争は何も終わっておらん。まあ、ちょいとばかり戦力が低下したのは事実だが、それだけだ。何を見当違いの決意で沈んでおるんだ貴様は」
  その言葉が紛れもなく僕に向けられた言葉なんだって理解した瞬間、心の奥底で何かが壊れる音を聞いた気がした。
  マスターと呼ばれた時にも感じた、心のつっかえ棒が壊れて歓喜が溢れだす感覚。
  無様な姿を見せたくない僕の最後のプライドが、その溢れる心を懸命に抑え込んだ。涙が出そうになるのを我慢して、鼻水が出そうになるのも我慢して、頑張って頑張って自分を抑え込む。
  真意を確かめるために何とか言葉を絞り出すけど、僕が僕自身を抑え込もうとするのに忙しくて言葉は途切れ途切れになった。
  「ボ、僕が・・・ボクなんか、で・・・本当に、いいのかよ? オマエの隣を、僕が・・・」
 「あれだけ余と共に戦場に臨んでおきながら、今さら何を言うのだ馬鹿者。貴様は朋友ともだ、胸を張って堂々と余に比類せよ」
  友―――もう一度繰り返された言葉に僕の中にあった暗鬱な気持ちが一斉に吹き飛んでいくのを感じた。
  さっき呆れたり笑ったように見えたのは、僕の曇った眼がそう見て勘違いしてただけなんだ。そう理解する。
 ただ勝ちにく。ライダーと一緒に勝ちにく。
  敗北もない。恥辱もない。僕は今、世界の半分を征服した王と共にいる。
 その覇道を信じて駆けるなら、僕なんかの頼りない足でもいつかは世界の果てにまで届く。最果ての海オケアノスにだってたどり着ける───咄嗟にそんな思いが浮かび、それを信じる僕がいた。
  「ほれ、そうと判れば、さっさと切れたパスを繋がんかい。このまま放置されては余と言えど消耗してしまうわい」
  「あ、ああ・・・」
  ライダーの剛腕に釣られてた状態から、地面に下ろされて。二本の足で何とか立ってる僕にライダーがそう言う。
  そこで僕は思い出す。確かに令呪はマスターとサーヴァントを結ぶ強力な契約だけれど、聖杯戦争のために絶対に必要な契約ではない。って。
  マスターはサーヴァントを現界させる為の魔力供給を行う必要があるけど、それは令呪とは別問題なんだ。って。
  聖杯戦争について調べてた時から知ってたけど、令呪を失ったショックで今の今まで忘れてた。
  今のライダーは僕が『死んでた』せいで、マスターからの魔力供給がなくなったはぐれサーヴァントだ。自前の貯蔵魔力だけで現界してる状態だからすぐに魔力供給を行わないとどんどんと魔力が消耗されていく。
  「――告げる」
  僕は令呪が消えた右手で溢れだしそうな涙を拭い去る仕草をして、そのまま前に持ち上げながら斜め上に突き出した。
  ライダーの首元に向けた手が向かう先はサーヴァントの霊核があると思う場所。そこに手を向けた状態で、数日前に口にした英霊召喚の呪文を短くして唱える。
  「汝の身は、我の下に――。我が命運は、汝の剣に・・・」
  涙も鼻水も溢れてないけど、途切れる言葉が抑えられない。
  まだ戦える、ライダーの在り方をこの目に焼き付けられる。殺されて生き返って令呪を失ったと知った時は絶望で目の前が真っ暗になったのに、今は嬉しくて、嬉しくて、嬉しくて溜まらない。
  心が躍ってる。思いが体から突き抜けそうだ。
  「聖杯の、よるべに従い・・・。この意、この理に従うのなら応えよ! ならばこの命運、汝が剣に預けよう!!」
  言葉に勢いをつけて途中からしっかり言えるようにしたら大声になってしまった。それでも何とか呪文を言い終えるとライダーがにんまりと笑う。
  よくぞ言った―――。ライダーの顔がそう言ってた。
 「誓おう。我が朋友とも、ウェイバー・ベルベットよ」
  返された言葉が言い終わると同時に、一瞬だけ僕の全身を猛烈な疲労感が襲った。両足を踏んばらないとそのまま倒れてしまいそうになる。これはパス通じてライダーへと吸い上げられていく魔力の消耗だ。
  令呪はもう無い。だけどまたライダーとの間に繋がりが出来たのがとても嬉しかった。





  状況だけ見るとライダーが言った通り令呪を失ったのが一番の損失だけど、聖杯戦争を行えないほど失ったものは無い。
  ただ、セイバーを取り逃がしたのはどうしようもない事実で、あのセイバーらしからぬ攻撃が衛宮切嗣とかいうセイバーのマスターに令呪を使わせた結果だとしても、こっちは三画全部失ったから向こうの方が失ったモノは軽い。
 ライダーの遥かなる蹂躙制覇ヴィア・エクスプグナティオを喰らった後でいきなり全快するとは思えないけど、回復できるだけの猶予を与えれば確実に復活してまた相対することになる。
  宝具同士の激突で『完敗』をセイバーが意識してくれたら状況は変わるのかもしれないけど、マスターによってセイバーの意思が無関係だって証明されてしまった。
  仮にセイバーが負けを認めてライダーの軍門に下ったとしても、一緒に戦おうとしたところでまたマスターが令呪を使って『隙をついてライダーを斬り殺せ』なんて指示を出したらそこで全てが終わる。
  セイバーの意思は関係なく、そうなる可能性はかなりあった。
  ライダーなら令呪の鎖つきのセイバーでも受け入れるかもしれないけど僕は嫌だ。刺されて殺されるなんて一生に一度あればそれで十分なんだから。もうあの硬い感触は味わいたくない。
  「で、これからどうするんだよ?」
  さっきまで胸にあった色々な感情はとりあえず横に置いて、平静を装える位には落ち着いてきた。
  しがみついたままのサンを逆に落ち着かせようと話しながら頭を撫でられるぐらい落ち着いてる。実感はほとんど無いけど、一度は死んだの見せちゃったから不安にさせたかな?
 ライダーとは令呪なしで朋友ともの関係。マスターとサーヴァントとの間柄じゃないけど、虚勢を張ってライダーと対するやり方が身についてたから、その調子で続ける。
 ライダーは僕との再契約を終えた後、約束された勝利の剣エクスカリバーで破損した神威の車輪ゴルディアス・ホイールの調子を確かめ始めた。
  あちこちに亀裂が入って、酷いところはただ走るだけで壊れてしまいそう。でも、二頭の雷牛は傷つきながらも戦う意欲は満点で、さっきから駆け出したがりそうに四本の足で地面を力強く叩いてる。
  宝具の修繕方法なんて判らないからライダーに任せるしかないんだけど、今後の方針を話し合うのはライダーの作業中でも可能だ。
  「ではアーチャーの奴めを見物しに行くとするか」
  「セイバーじゃないのかよ?」
  あ、やっぱりセイバーじゃなかった。
  僕は言葉ではライダーを咎めるようなことを言ったけど、心の中で納得してた。これがライダーなんだ、って。
  「坊主が寝ている間に少しこやつ等から事情を聞いてな。どうやらケフカとかいう男とアーチャーとの戦いはまだ延々と続いておるようだ。その隙を突いて勝利をかすめ取ろう等とこれっぽっちも思っておらんが、何が起こってるかは確かめねばならん」
  そう言ったライダーは亀裂が入った車輪と大きなブレードの間にあるサイドパーツをバンバンッ! と強く叩く。
  壊れそうだったけどライダーの力で叩いても原形を保っているから、思ったより丈夫なのか見た目よりも壊れてないみたい。
  宝具だから頑丈じゃないと困るんだけどさ。
  「あれだけ見事に快走されてはセイバーをすぐに見つけるのは困難であろう。ならばこの隙に恩を返そうではないか」
  「・・・・・・・・・」
  やっぱりライダーは征服王イスカンダルで王様なので。誰がいようとその場その場での意思決定権を掴み取ろうとする。
  倉庫街の戦いのときはいきなり乱入してセイバーとランサーを言葉で圧倒して主導権をもぎ取った。それと同じことをここでもやって、カイエン達の話を聞く前にさっさと方針を決めてる。
  それでいい? そんな風に思いながら恐る恐るカイエンとリルム・アローニィの二人に目を向ける。
  少し離れた位置に立っている二人は特に嫌がる気配なく、反論するような素振りもない。カイエンは僕たちの話よりも木っ端微塵に壊れた刀を気にしてるけど、リルム・アローニィは右手の親指と人差し指で小さく丸を作って肯定を表してた。
  あまりにも僕らの都合に合わせて事態が進むから、こんなにあっさり決まっていいのかと考えちゃう。
  でもその反面、こうも思う。
  僕を対象にした死者蘇生を行い、幻想種を使役して、巨大な魔術を使いこなす魔術師。ライダーの助力も合ったけど宝具と真正面から激突して勝利した剣士。この二人の力なら、多少の困難だろうと笑って乗り越える。って。
  今の僕には無い強者の余裕がライダーの決定を尊重しているのではないだろうか。って―――ほとんど僕の憶測だけどさ。
  数秒間二人を見ていると、鞘に収めた刀から顔を上げたカイエンと目が合った。彼が見ていた鞘の中には刀身の部分がなくなった刀が収まっている、それはこの場にいる者なら誰でも知ってることだ。
  「ウェイバー殿、ケフカの様子を見、状況によっては拙者が斬るでござるが、一度対岸にいる拙者の仲間たちと合流して下さらぬか?」
  「え? でも・・・」
  今だって五人乗りのせいで御者台の上は超満員状態。川の対岸を移動する手段がなかったから無茶をしたけど、五人乗りだって余裕がないからできればもうしたくない。
 「さすがに神威の車輪ゴルディアス・ホイールにこれ以上乗るのは無理だと思うけど・・・」
  「違うでござる。マッシュ殿達も乗せてほしい訳ではござらん」
  「――じゃあ、何?」
  「先ほどの戦いで『風切りの刃』が砕けてしまったので、ロック殿に預けておいた拙者の武器を返して頂くでござる」
  カイエンはそう言いながら鞘を指で撫でる。
  そう言えばカイエンが使ってた魔石『フェニックス』の本来の持ち主はロックという名前の男だ。もしかしたら、あの対岸でチラッと見ただけのロックなる人物は戦う以外にも魔石やカイエンの武器など仲間が持つ道具の保管係を担っているのかもしれない。
  魔石の事も詳しそうなので、機会があればじっくり話したいと思った。
  「邪なる者を斬る聖なる刀――『斬魔刀』。あの刀さえあれば、ケフカすら斬り捨ててみせるでござる」
  「ならばまずは対岸へと行くとするか」
  「その後であのうひょひょ野郎を倒しに行くよ」
 カイエンの言葉が言い終わらない内にライダーとリルム・アローニィの二人があっという間に神威の車輪ゴルディアス・ホイールの御者台に乗り込んでしまう。
 手綱の操り手であり戦車チャリオットの調子を確かめてたライダーがすぐに乗り込むのは判るけど、どうして話に全く参加しなかった奴が誰よりも先に乗るんだろう。
  狭い御者台の上でまず自分のスペースを確保したかったのか。それとも、長話にあきたのか。どっちもありそうな理由だし、方針が決まったなら行動は迅速に起こすべきなのも確かなので、特に理由は追及しない。
  カイエンもそんな仲間の幼い様子に少し呆れながらも咎めたりはせず、やんちゃな孫を見る祖父のような穏やかな視線を向けてた。
  冬木市を覆い尽くすほど巨大な結界を難なく作り出す魔術師とそれを相手にしているアーチャー。川で見た巨大海魔の威容すら霞む暴力が吹き荒れる戦場が待ち構えているかと思うと、怖くて怖くて仕方ない。
  でもライダー流に言うなら、これはきっと『心が躍る』ってやつなんだろうな。
 しがみついてるサンの背中を押して、僕らはカイエンの後を追って神威の車輪ゴルディアス・ホイールに乗り込む。サンの歩調に合わせて乗り込んだ時、これまで聞いたことのない宝具がきしむ音が小さく聞こえた。
 まだまだ平気そうだけど、やっぱりセイバーの宝具で神威の車輪ゴルディアス・ホイールは大きく傷ついてる。
  本当に大丈夫かな? 空を駆けてる途中で空中分解したりしないかな? 不安に思うけど、意気揚々と手綱を握るライダーがいるから多分大丈夫だ。
  そう思っておく。
  令呪が無くても僕らの関係は何も変わらない。むしろいい方向に転じた。
  セイバーの宝具を突破できた切り札が無くなったのは残念だけど、まだ僕には出来る事がある
  今はライダーを現界させるための魔力炉としてだとしても、同じ場所に立って、同じ敵を見据え、同じ戦場を駆けられる。
  心に宿るのは高揚と不安、歓喜と警戒。僕は御者台の上からライダーの合図で空へと駆け上がる二頭の雷牛の様子を眺めた。



  ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆



  Side - 間桐雁夜





  歩きながら気を失うなんて初めての体験だ―――。
  気を失う一瞬前まで俺は自分が何をしているか理解して、目の前に広がってる闇が実際に目で見てる現実の風景じゃないのを理解した。
  眠りに似ていながら全く違うもの。意識の損失。それは何度も味わってきたゴゴに殺される時が一番近い。
  俺は夢を見てる。
  歩きながら気絶した俺は自分の置かれた状況をとりあえずそう理解する。
  ここに至る理由は外的要因か内的要因か。誰も気付かない内に敵の先制攻撃を喰らっていきなり気絶させられたのが納得できる答えだ。もし殺されてたら、こうして自分を意識できない筈。
  少なくともこれまで何度もゴゴに殺されてきた時は一度だって『死んでる自分』を意識出来た時は無い。だから俺はまだ生きてる。だから俺はこの状況を夢だと判断した。
  辺りは暗く、黒一色。『間桐雁夜』は間違いなくここにいるのを理解しながら、何も見えないし何も聞こえない。もちろん俺自身の姿も見えない。
  ここはどこだ? そう思った時、理由も経過も何もかもをすっ飛ばして結果だけが俺の中に降りてきた。
  ここはどこだ、じゃない―――お前は誰だ?
  俺が見てる夢なんだが、この暗闇は単なる風景じゃなくて誰かの中だ。どうしてそれが判ったか説明のしようがないんだけど、俺には判る。
  夢の中だけど俺は誰かの中にいる。


  我は疎まれし者―――、嘲られし者―――、蔑まれし者――。


  理解すると同時に辺りから声が聞こえてきた。この空間の中全体に響き渡るようなんだけど、耳元で囁かれている様にも聞こえる奇妙な声。
  この聞き覚えのない声は誰だ? 俺がそう思うと、周囲の闇が俺の目の前に凝縮していく。そのまま前後左右の『黒』が一か所に集まって人型を作る。
  そこにいる『黒』は足元から頭のてっぺんまで黒かった。
  フルプレートの漆黒の甲冑、兜の隙間に見える紅く輝く目には見覚えがあった。あり過ぎた。
  ゴゴの願望に俺自身の怒りと呪いと憎しみも混ざって召喚された狂戦士のサーヴァント、バーサーカー。
  周囲に見えていた『黒』はバーサーカーとなり、周囲は血にしかみえない紅色に変化した。俺はその紅く見える何かの上に立っている。
  対象物がバーサーカーしかいない真っ赤な空間がどれだけ広いのか、どれだけ狭いのか、果てがあるのか、見当もつかない。


  我が名は賛歌に値せず―――、我が身は羨望に値せず―――、我は英霊の輝きが産んだ影―――、眩き伝説の陰に生じた闇―――。


  今度の声は目の前に立ってるバーサーカーから聞こえた。
  頭もすっぽり覆ってるから口の動きは見えないんだが、くぐもった声は間違いなく目の前のバーサーカーが出している。
  つまりこの空間もまたバーサーカー。俺はバーサーカーの中にいる。
  憎しみを込めて放たれた怨嗟の言葉はそれ自体が力を持つように四方から俺を圧迫してくる。それに対抗して体に力を込めて屈しないようにしていると、いつの間にか少し離れた位置にいた筈のバーサーカーが俺のすぐ近くまで来ていた。
  歩く素振りも移動する素振りも全くなかったのに、移動し終えた結果だけがここにある。そして鋼の小手を伸ばして俺の首を掴む。
  夢だからか、不思議と痛みは無かったが。そのまま英霊の膂力で俺は持ち上げられる。
  この一年でかなり筋肉質になったつもりなんだが、バーサーカーは呆気なく片腕で俺を持ち上げた。
  そこで俺は気がついた。俺がいつも身につけてるパーカーはそのままなんだが、常に背負ってる筈の魔剣ラグナロクが入ったアジャスタケースの重みが後ろに無い。
  俺は身一つでバーサーカーの中にいる。今更ながら、そう気がついた。
  顔をすっぽり覆う兜の隙間から見える紅い目が俺を睨んでる。


  故に―――、我は憎悪する―――、我は怨嗟する―――、闇に沈みし者の嘆きを糧にして―――、光り輝くあの者たちを呪う―――。


  首の骨が折れるんじゃないかと思えるほど強烈な力で俺の首が閉まる。それでも夢だからか苦しさは無く、苦しいから呻き声を出してると理解しているくせに感覚が全くついていかない。
  おかしな状況だ。苦しいのに苦しくない。
  片手で吊り上げられた状態で凝視されるのに耐えきれなくなり、俺は真正面から視線を横にずらして兜の横からバーサーカーの斜め後ろを見た。
  首が動けばもっと横が見れるんだが、バーサーカーに絞められてるから動かせない。
  それでもずらした視線の中に光り輝く剣を携えた小柄な騎士が見えた。
  バーサーカーの黒さを見ているから余計に際立ち、紅い風景を逆に白く染めていく輝きを放っている。
  あれにも見覚えがあった。直接対面した事は無いが、ミシディアうさぎやゴゴの視界を通して見た事はある。
  アインツベルンが召喚したセイバーのサーヴァント。名高き騎士王、アーサー・ペンドラゴン。
  理由は判らないが、俺はあれが夢の中に見る虚像―――絵画のような物だと理解していた。


  あの貴影こそ我が恥辱―――、その誉れが不朽であるが故―――、我もまた永久に貶められる―――。


  バーサーカーが誰であるかを考えるなら、聞こえてくる声は真っ当だ。理由があるから結果がある、仮定があるから結論がある、聖があるから邪がある。そんな『セイバーがいるからバーサーカーがいる』と当たり前の結論に落ち着く。
  そこで気が付く。これは夢だ、そしてバーサーカーの叫びでありバーサーカーの心そのものだ。
  元々霊体であるサーヴァントは夢を見ないが、マスターとサーヴァントの間には霊的な繋がりがあって、寝ている場合にサーヴァントの記憶がマスターの夢に流れ込む場合があるらしい。
  これがそうなんだろう。話に聞いてただけで一度も体験してこなかったが、俺が見ている夢にバーサーカーが途方もない大きさで割り込んでいるんだろう。
  理解に後押しされたままセイバーの虚像からバーサーカーの実体へと視線を戻すと、バーサーカーの頭を覆っていた兜が中央から割れた。
  左右に別れた兜が紅い地面に落下したから、本当ならそこにはバーサーカーの顔がある筈。だが、そこにあったのは初めてここを夢だと認めた時にあった黒い塊が頭の形のように輪郭を作っているだけだ。
  これが俺の夢だったとしたら、見た事のないバーサーカーの素顔を見れる筈がない。
 もしバーサーカーの夢だったとしても、狂っていながらも宝具『己が栄光の為でなくフォー・サムワンズ・グロウリー』を常に稼働させて正体を隠し続けるサーヴァントだ。マスターの俺にも素顔を見せるとは思えない。
  どっちみち、そこにある筈の顔は見れない。ただ紅く燃える両眼が黒い顔の中で炎のように燃えるだけだ。


  貴様は、贄だ―――、もっと貴様の命を寄越せ―――、もっと貴様の血肉を寄越せ―――、我が憎しみを駆動させるために!!


  バーサーカーが叫ぶと紅い目が浮かぶ黒い顔に口が出来た。
  キャスターの召喚する怪物の牙にも匹敵する乱杭歯がはっきりと見える。
  首から下に見える鎧姿が辛うじて騎士の風体を見せてるが、首から上だけ見ると黒い塊に紅く光る目と大きな口だ。怪物と言われても納得できる。
  俺はまた経過を飛ばして理解する。バーサーカーは俺を喰う気だ、と。俺の中にある魔力を喰らって回復する気だ、と。
  そこで俺は時臣と戦っている間にアーチャーに変身したゴゴがバーサーカーの相手をしていたのを思い出す。もしかしてその時に消費した魔力があまりにも大きかったから、俺が気絶するぐらいの勢いで魔力を吸ってるんじゃないだろうか?
  ありえそうな可能性を思い描いていると、大きく開かれたバーサーカーの口が俺の首に迫る。吊り上げてる手で俺を引き寄せ、そのまま噛み付くつもりだ。
  「ふざけるな!!」
  その時―――夢の中で初めて俺の口から声が出た。
  首を絞められて呼吸する事すら困難、声を出すなんて絶対に出来ない筈なのに声はちゃんと出た。
  サーヴァントの膂力でしっかり首を絞めているのに獲物が声を出した。あり得ない状況に驚いたのか、バーサーカーの動きが止まる。俺はその隙をついて両手でバーサーカーの小手を握り締めた。
  声を出すのも初めてなら、視線を動かす以外に体を動かすのも初めてだ。
  ただし夢だから『掴んでる』と実感はあっても感覚が無い。そのおかしさを俺は利用する。
  現実で俺程度の力でサーヴァントをどうにかできる筈がない。特にバーサーカーは七騎のサーヴァントの中で筋力が最高値。
  そして筋力が決して高いとは言えないアサシンですら俺を軽く上回るのがサーヴァントだ。ただの人間と英霊にまで昇華した存在との間にはとてつもなく大きな壁がある。だからここが現実ならバーサーカーが片腕で俺が両手だろうと勝ち目はない。
  でもここは夢だ。
  必要なのは意思だ。『そう』と決める意思の力こそが、この夢の中で力を発揮する。本当はどうだか知らないが、俺は『そう』決めた。今、『そう』決めた。
  「俺の魔力を喰らうのか? ふざけるなよ――魔力供給ならしてやる、お前の望みもかなえてやる! だが、一方的にやらせると思うなよ、この野郎!!」
  俺が両手でバーサーカーは片手、数で勝ってるなら勝てない道理はない。現実がどうだろうと、ここでは『そう』だ。
  乱杭歯が俺を喰おうとしてもその前に俺は拘束を抜ける。俺が『そう』決めた。一方的な搾取など許さない、『そう』決めた。
  「お前は俺のサーヴァントだ。俺がマスターだ! 狂ってるからって何でもかんでも好きに出来ると思うなよ。俺とお前は運命共同体だ、お前が俺から魔力を吸うんじゃない、俺がお前に与えるんだ! 間違えるな!!」
  強く強く、両手でバーサーカーの小手を握り締める。俺の筋力は一年でかなり上がったが、鎧に出来るほど頑丈な金属を握力だけで破壊できるほど強くはない。
  でも夢なら壊せる『そう』決める。心の中で強く『そう』願う。
  十本の指でぎりぎりとバーサーカーの腕を握り締める。きしむ音は鳴っていると『そう』思い込む。
  するとほんの僅かにバーサーカーの手の力が緩み、吊り上げられていた俺の両足が紅い大地に付いた。まだバーサーカーの手は俺の首を絞めてるが、最初に比べれば軽くなっている。
  足のかかとまでは付いてないが、両足の計十本の指が大地を踏みしめて今まで以上の力が出せる。バーサーカーの拘束が抜けてない状態でそんな事は出来ないとかどうでもいい、出来ると俺が『そう』決める。
  俺は右手だけをバーサーカーの小手から離して、手の中に二等辺三角形の小瓶を持つイメージを頭の中で描いた。小瓶に入っている蒼い液体の名前は『エーテル』、ブラックジャック号の中にいる男から貰える魔力回復の道具―――つまりゴゴが魔力で作り出してる道具だ。
  俺は半人前の魔術師だから魔力で何か物体を作り出す技量なんてないし、無手の状態から何か道具を取り出せるマジシャンでも無い。素手は素手、何も持たない。
  だけどここは夢だ。
  ある意味で何でもありの夢の中だ。
  俺は右手に『エーテル』があると決める、『そう』決める。
  「さあ、俺の魔力と一緒に持っていけ!!」
  俺を喰うために開かれたバーサーカーの口の中に向けて『エーテル』が入った小瓶ごと右手を思いっきり突っ込む。『そう』イメージする。
  殴る勢いで叩きこんだからバーサーカーの乱杭歯が二三本折れて、顎が砕けるかもしれないが、知った事か。
  俺は屈しない、負けない、立ち止まらない、誰が相手だろうと―――、俺の命が消える最後の一瞬まで戦う―――。『そう』決めた。





  「・・・んお!!」
  変な掛け声を出してると意識が一気に覚醒へと向かう。
  戦いに身を置くなら無茶でも自分を覚醒させて、すぐに置かれてる状況を理解する。そうでなければ殺される―――それがこの一年で何度も味わった苦い体験に基づく戦いの気構えだ。
  なお目覚めると同時にゴゴに殺され直した事は一度や二度じゃない。
  地面に横になってる状況から上半身を起こしたのは判ったから武器を捜す。十センチほど右横にアジャスタケースがあったから、すぐに蓋を外して中から魔剣ラグナロクを引き抜いた。
  武器を持ちながら辺りを見渡せば、左側には屈んで横になってた俺を覗き込んでたらしい桜ちゃん。少し離れた位置にはティナが居て、俺を挟んで正反対の位置にはもう一人のゴゴのストラゴス・マゴスがいる。たぶん、両側に立ってる二人は見張りだろう。
  そして桜ちゃんの後ろに青と茶色と白が混ざったモノが集まって山を作ってた、全部ミシディアうさぎだ。
  場所は冬木市―――に見えるゴゴの固有結界の中で、周りに俺たち以外の人影はない。戦闘は起こってなくて、援軍も、敵の姿も、味方も、正体不明の第三者の姿もいない。
  どれだけ夢を見ていたかは不明。ただ、倒れた状況と守られてる状況を理解する。
  そこで俺は夢を見る直前に何をしていたかを思い出す。
  俺を含めたこの四人で遠坂邸を出発し、そこからセイバーに標的を定めて移動を始めたんだ。
  バーサーカーの夢を見る前からセイバーに異常なまでの執着を見せてる事は知っていた。史実を知ればそれも納得できるし、倉庫街で勝手に動いたのがそのいい証拠だ。
  予測は夢を経て確定に変化した。
  バーサーカーには聖杯に託す願いが無い。いや、この聖杯戦争に招かれた時点であいつの望みを叶える為の道筋が出来上がってしまって、そこに聖杯が入り込む余地は無い。
  聖杯戦争こそが英霊の座に留まり続ける限りは絶対に叶えられない願いの切っ掛け。
  これは縁? 繋がり? 偶然? 運命? さまざまな言葉で表現できるから、俺にはどんな言葉が的確なのか判らない。判るのはバーサーカーの心は願いを叶える事を望み、それは聖杯に託すものじゃないって事だ。
  遠坂時臣と葵さんの問題がとりあえずは一段落してしまったからだろうか、俺は自分でも驚く位に心穏やかでいた。色々な事がどうでもいいと思ってると言い換えてもいい。
  だからバーサーカーの願いを叶える為に協力してもいいと思っている。断る理由が見つからないから、あいつの為に何とかしてやろうと思う俺がいる。
  だから俺達はセイバーを倒す為に移動し始めた。
  ケフカ・パラッツォをどうにかしなくていいのかとティナに聞いたら、向こうは向こうでゴゴ本人が対処してるらしいから問題ないとか。
  別の形をしていてもゴゴが自分で自分を殺す。さっきの夢のように何ともおかしな状況だ。
  セイバーの居る方向なんだが。遠坂邸から向かって左方向―――遠坂邸から見れば、キャスターが暴れてる未遠川もケフカが現れてるらしい冬木教会は向かって右方向になるので、戦場からは確実に遠ざかってる。
  本当にこっちにセイバーがいるのか?
  それもティナに聞いたら、何でもセイバーの居場所は冬木市に見える固有結界の中を監視するミシディアうさぎが常に捉えてるから、絶対に間違いないのだそうだ。
  それで納得した俺は周囲を警戒しながら歩き始めたんだが、桜ちゃんが俺から離れたがらなかった。
  そうだ、桜ちゃんが俺にしがみ付いてたから、アジャスタケースを横にしてそこに乗せながら背負った。思い出した。
  小さな手で必死にしがみ付いてくる。
  その姿を見て守りたいと思った。
  俺を掴み手に報いたいと思った。
  その思いに応えたいと想った。
  戦場にいるならゴゴと一緒の方が安全だと理解しながら―――魔石を使った戦いなら桜ちゃんの方が俺よりも強いって判っていながらも―――俺は桜ちゃんと一緒にいるのを選んだ。
  そうだ、夢でバーサーカーの中にいる時に『そう』決める前に、もう俺は『そう』決めてたんだ。
  とりあえず周囲が安全なのを確認した後に俺自身の事を確認する。胸の前が汚れ、頬が少し痛む。どうやら、桜ちゃんを背負ったまま前倒しに倒れて頭から道路に突っ伏したらしい。
  体をねじって横に倒れれば痛みは少なかったんだろうが、背負った桜ちゃんが傷つかないようにそのまま倒れたと考える。意識はなかったが自分で自分をほめてやりたい。
  「雁夜おじさん・・・・・・、だいじょうぶ?」
  「ん、もう平気だよ桜ちゃん」
  いきなり俺が倒れたなら、背負われてた桜ちゃんにも怪我があるかもしれない。心配そうに見上げてくる桜ちゃんの顔を見ながら全身も一瞥する。
  擦り傷や切り傷などの怪我は見当たらず、着てる服にも汚れは無い。ティナが治したか、それとも最初から怪我なんてしてなかったか。俺が心配するような外傷はなかった。
  俺は魔剣ラグナロクをアジャスタケースに戻しながらゆっくり立ちあがる。バーサーカーが俺の魔力を気絶するぐらい強烈に吸い取ったならふらつきや何らかの異常があると思ったが、予想に反して俺の肉体は何事もなく動いた。
  戦いの途中だから快眠からの健やかな目覚めとは言い難いが、それでも異常らしい異常はない。
  バーサーカーが魔力を吸い続ける兆候もなく、気持ち悪く感じるほど何もなかった。むしろさっきの夢が何だったのかと疑う。
  寝ている間にティナが何かしたのか? そう思ってティナの方を見ると俺の方に近付いていた。
  「大丈夫みたいね」
  「ああ・・・。俺が気絶してる間に何かあったか?」
  するとティナは意外な言葉を口にした。
  「覚えてないの? 何かしたのはあなたよ、雁夜」
  「・・・どういう意味だ?」
  「眠っている間に桜ちゃんの手を握って貴方が『アスピル』を使ったの。魔力が充実してるのは桜ちゃんから吸い取って余剰分をバーサーカーに分け与えたからよ」
  「・・・・・・・・・本当か?」
  間をおいてからティナに問いかけると彼女は無言で頷いて肯定を示した。
  この状況で嘘や冗談を言って場を和ます可能性をほんの少しだけ考えたが、ゴゴはそんな悪趣味な事を言う存在じゃないと即座に否定する。まるで実感は湧かないが、語られた言葉は全て真実と受け止めて間違いない。
  つまり欠片も覚えていないが、俺は桜ちゃんに無断で魔力を吸い取った。他の誰でもない桜ちゃんの魔力を利用した。
  遠坂時臣との戦いの時にティナから魔力をもらった時は予め決めておいた戦闘手段の一つだったが、これは状況が全く違う。桜ちゃんの意思を無視して魔力炉として扱ったんだ。
  俺は思わず桜ちゃんの方を見るが、遠坂の件の後から沈んでる表情を見た瞬間に申し訳なさと後ろめたさと罪悪感を混ぜ合わせて増量したような気持ちが俺の中から一気に湧き出た。
  俺が夢の中でバーサーカーに喰わせる魔力を求め、それが『アスピル』の形で顕現した。そう理由付けをしても、これは桜ちゃんの心を蹂躙したのと何ら変わりがない。
  次の聖杯戦争のために間桐の魔術師を生むための胎盤としか思っていなかった間桐臓硯のように―――。
  桜ちゃんの思いを踏みにじって、その身に宿る魔術師としての才能しか見なかった遠坂時臣のように。俺は無意識の内に奴らと同類になってしまった。
  「ごめん」
  いっそ自分で自分を殺してやりたいとさえ思いながら、俺は桜ちゃんに向けて頭を下げる。
  もうやってしまった事だ。謝ってすむ話じゃないのは理解しているが、それでもまずは謝らなければ始まらない。
  どんな罰でも受けよう。どんな罵りだろうと聞こう。それだけの事を俺はしてしまったんだから。
  「――いいの」
  けれど頭を下げた俺に対して、上から降り注いだ言葉は俺が予想していた言葉とは全く違っていた。
  「いいの、雁夜おじさん・・・」
  頭を上げると、まず飛び込んできたのは今にも泣きだしそうな桜ちゃんの顔だった。
  捨てられた子供が―――いや、事実、遠坂夫妻から見捨てられた桜ちゃんが言葉以外に全身で話す。
  言葉は少なく、表情は悲哀や落胆よりもむしろ無表情に近い。それでも桜ちゃんから溢れんばかりに感じる雰囲気が全てを物語っていた。
  「いいの・・・・・・・・・」
  いいの、いいから、見捨てないで―――、と。
  俺は桜ちゃんの目から涙が溢れるより早く、触れた途端に壊れてしまいそうな小さな体を抱きしめた。
  俺が桜ちゃんを見捨てる? そんな事はある筈が無い。たとえ、この世の全てが桜ちゃんの敵に回ろうと、俺は絶対に桜ちゃんの味方だ。
  「大丈夫だよ、桜ちゃん――。誰かを嫌ったっていい、悲しんだっていい、笑ったっていい、怒ったっていい。でも溜めこんじゃだめだ、俺はどんな桜ちゃんでも絶対に味方だ、約束する」
  最初は俺が間桐を捨てたせいで桜ちゃんがその犠牲になった罪滅ぼしだったかもしれないが、今はそれ以外の想いがある。
  護りたい。そう心が叫んだ。
  腕の中にあるのは子供らしい少し高めの体温。この小さな女の子を救いたいと、以前とは違う気持ちながら同じ結論に辿り着いた。
  そして。恩に、努力に、憤怒に、攻撃に、罪に、慈愛に、労に―――報いなければならない。とも心が叫ぶ。
  それは俺が胸を張って桜ちゃんの前に立つ為に絶対に曲げたらいけない摂理だ。
  桜ちゃんを守り救う。その上でやらなきゃいけない事が俺にはある。
  桜ちゃんは黙って俺の言葉を聞いてたけど、俺の胸の辺りに顔を押し付けて震え出す。それが泣いている姿なんだと見なくてもわかった。
  遠坂時臣の炎でかなり焼け焦げてるけど大丈夫かな? などと場違いな事を考えつつ、桜ちゃんが泣き止むのを待つ。
  すすり泣く桜ちゃんの体をしっかり抱きしめたまま三分から四分ほど時間が流れる。落ち着いたのを見計らった俺はゆっくりと両手をほどきながら、桜ちゃんの両肩を掴んで引き離す。
  そして桜ちゃんの両目を見つめて言った。
  「桜ちゃん・・・」
  「・・・・・・うん」
  泣いた後だから目が少し赤くて、返ってきたのは涙声だった。
  「遠坂の問題が終わって・・・。本当なら、もう桜ちゃんも俺も危ない目に合わなくていいんだけど――。おじさんにはまだやる事があるんだ」
  一度、桜ちゃんから目を離して斜め後ろを振り返る。
  マスターとしての俺がそこにいるであろうサーヴァントのバーサーカーを感じる。見えないが、霊体になってそこに浮遊しているだろうバーサーカーを感覚で理解した。
  そこにいるバーサーカーが俺を通して桜ちゃんの魔力を吸収して復活してるのを認めると、すぐに桜ちゃんに視線を戻して言葉を続ける。
  「俺はバーサーカーの願いを叶えてやらないといけない・・・。ゴゴの思惑があったとしても、あいつは俺の願いに応えてここまで戦ってくれた。だったら、俺もマスターとして応えないといけないんだ――。それが俺に出来る精一杯の義理なんだ」
  俺は聖杯なんて興味が無い。戦いに喜びを見出す戦闘狂でもない。でも義理は果たすべきだ。
  今後の方針を直接桜ちゃんに向けた言葉にしてこなかった。
  俺たちにとって桜ちゃんは戦力ではなく庇護対象。だからわざわざ言葉にしなかったけど、言わなければならない。
  「だから、もう少しだけ怖い目にあうかもしれないけど、我慢してくれるかい? 絶対に俺達が守るからさ」
  まだ郊外の森にアインツベルンが拠点を構えていた頃。桜ちゃんは見た事のない子供が聖杯戦争の犠牲者になると知って、ゴゴに救いの手を求めた。
  知ってしまった以上、誰かの犠牲の上に自分が立つことを望まない。桜ちゃんがそう思うなら、俺もバーサーカーを踏み台にして安全を手に入れるような真似はしちゃいけない。
  バーサーカーを自害させて、一足先に『聖杯戦争のマスター』なんて物騒な状況からは足を洗った方が桜ちゃんの安全を確保できると計算出来ていたけれど、桜ちゃんの前に立つ俺はその選択を除外しなければならない。
  一人の男として、一人の大人として、一人の人間として、胸を張れ。桜ちゃんがどんな選択をしても受け入れられるぐらい強くあれ、間桐雁夜。
  桜ちゃんは少しの間黙っていたけど、もうしばらく戦いが続く事を承諾してくれたようで、小さいながらもはっきりと頷いてくれた。
  その返事をしてくれると信じていた。だから俺も応えようと思える。
  結果的に俺が気絶してから時間がかなり経ち、一息ついて体調を整える位の時間は確保できた。
  思えば、ほんの少し前まで遠坂時臣と殺し合いをやっていた。バーサーカーの夢を見ていたからか、酷く長い時間が経過したように感じる。
  気を持ち直して立ち上がりながら、俺はもう一度斜め後ろを振り返ってバーサーカーがいるであろう場所を見る。
  狂戦士として召喚されたこの英霊にも意思がある。今のバーサーカーは召喚する時につけた狂化の属性に支配されて狂ってるが、それが原因で他の事を排除して渇望する願いだけを凝縮して、それだけを追求してる状態だ。
  バーサーカーは俺が『桜ちゃんを救う』に集中するのと似ていた。
  あいつの意思は俺と似ている。
  間桐臓硯の陰に生まれていた間桐雁夜。セイバーの輝きが作り出す影の中にいるバーサーカー。
  遠坂時臣の栄華に呑まれ憎悪していた間桐雁夜。光り輝く英霊となったセイバーを呪い続けたバーサーカー。
  ただの人間でしかない上に、半人前の魔剣士の俺を英霊と同格に扱うなんてありえないんだが。俺はそう思った。
  俺が寝ていた時間も含めても、遠坂邸から移動を初めてから一時間も経ってない。その間にも俺の心は劇的な変化を遂げ、元々俺の中にあった『間桐雁夜』がどんどん別の形に変わっていくのを実感した。
  いい方向なのか悪い方向なのかは別にしても、大きな経験は人を変える。それを俺は身を以て体験している最中だ。
  さあ行こう―――。
  また魔剣ラグナロクが入ったアジャスタケースを桜ちゃんを背負う土台にして、桜ちゃんを背負い直す。そして意気揚々と歩き始めた。



  ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆



  Side - ゴゴ





  しっかりと間桐雁夜の肩と首に手をまわして体を固定する遠坂桜の姿が見える―――。そんな二人の後ろを追いかけるゼロを筆頭にしたミシディアうさぎ達の姿が見える―――。
  先導するティナの視点では彼ら二人と一匹の様子は見れないが、背後からの敵を警戒するストラゴスの視点では時折その光景が見える。
  二人と一匹の様子を観察するゴゴは予め定めていた方針を変えなければならないと感じていた。
  次の標的をセイバーに定めていた点ではない、ものまね士ゴゴの根底にある物真似そのものをどうするか? という点だ。
  どう変更するか? それを定めるために間桐雁夜が何を思い、何を語り、何を決断するか。遠坂桜が何を行い、何に泣き、何と戦うか見る必要があった。
  状況は刻一刻と姿を変える。そのたびに知るべきこと山のように増える。
  結果、遠坂桜がお気に入りの縫いぐるみの様に離さずに居続けたミシディアうさぎを手放し、その代わりに間桐雁夜にしがみ付く状況を目撃できた。
  「やはり子供には頼れる大人が必要じゃゾイ」
  先を行く彼らに聞かれないようにストラゴスは小さく呟いた。
  「これも人の意思じゃな。予定は未定――、全てが思うとおりに進むとは限らんゾイ」
  ストラゴスの口調は間桐臓硯として過ごした一年間の口調そのものであり、喋れば過ぎ去った一年が一瞬前の事のように連動して思い出せる。
  雁夜にとっては何度も死んで、何度も生き返って、何度も叩きのめされて、何度も起き上がって、何度も鍛えた一年だった。きっとこれまで生きてきた人生の中で最も濃密な一年だったに違いない。
  遠坂桜にとっては遠坂から養子に出され、蟲蔵と言う地獄を見て、ゴゴとの邂逅によって激変し、間桐邸での新しい生活をはじめ、胸の中に『私は両親から捨てられたの?』と答えのない疑問を抱え続けた一年だっただろう。
  しかしゴゴにとっての―――間桐臓硯にとっての一年は常に物真似し続ける一年だった。それは今も変わらない。
  手に入れたモノは数多く、かつて生きた世界では考えられないような多くのモノを物真似した。
  物真似して、物真似して、物真似し続ける。ものまね士ゴゴとしての在り方を違えた事は一度だって存在しない。
  だからこそ一つの物真似が終わるのはゴゴにとっての当然であり、また新たな物真似を探し続けるのもまた当たり前に起こってしまう現実だ。
  ストラゴスは遠坂邸での戦いを終えてから、強く感じていた。
  かつての世界から逃げ出して、この世界にたどり着いてから物真似し続けた一つの出来事が終わろうとしている―――。と。
  「・・・・・・名残惜しいが仕方ないゾイ」
  始まりがあれば終わりがある。それは強大な力を有しているゴゴにとっても避けようのない事象だ。
  それがゴゴが成し遂げようとしていた形に収まっていないとしても、終わりは終わりとして向かってくる。ならば、それを受け入れなければならない。
  終わったら別の物真似を探して始めるだけだ。
  そうやって一応自分を納得させたストラゴスは左右を見渡し、固有結界のせいで一般人がいなくなった冬木市の静けさを目に焼き付ける。
  キャスターが巨大海魔を召喚した未遠川とそこに架かる冬木大橋。ケフカがアーチャーと戦っている冬木教会。そのどちらでもなく逆方向を目指しているのは訳がある。
  住み慣れた間桐邸の位置を知っている雁夜と桜ちゃんは遠坂邸から間桐邸に向かっていると思っているかもしれないが、目的地はそこではない。
  いや、正確に言えば移動している先に目的地は存在せず、あるのは目的の『者』だ。『物』ではない。
  二人はそれを話していないのでこの先に何が待ち構えているかは判ってない筈だが、危険な何かが向かう先にあるのは言わずとも判っているだろう。セイバーを目標に定めているとは知っているから、向かう先にセイバーがいるのは判っている筈。
  その『者』がこちらの向かう先に向かわされたのは明らかにケフカの意思が場をかき乱したからだ。ストラゴスとしては決して悪いことではなくむしろ望む状況ではあるが、ケフカの掌の上で踊っている気がして何とも気持ち悪い。
  これがなければセイバーがいた筈の未遠川に向かったのに、ケフカの意思によって向かう方向を狂わされた。
  さっさと向かう先にいる『者』との問題を片づけて、冬木市を覆っている結界の術者であり倒すべき敵でもあるケフカをどうにかしよう。
  そんな風にストラゴスが考えている内に、間桐邸の近くを通り過ぎて更に先へ先へと進んでしまう。
  先を行く桜ちゃんを背負った雁夜がティナに話しかける。
  「いいのか? 一度家に帰らなくて――」
  「いいの。私たちが向かう先はそこじゃないから」
  「・・・・・・そうか」
  短いやり取りで会話は止まり、再び、無言で歩き続ける状況が生まれる。
  時間経過と共に雁夜に背負われていた桜ちゃんを少しずつ落ち着きを取り戻し、一戦を終えていろいろな意味で感情がぐちゃぐちゃになっている雁夜も落ち着いてきた。徒歩なので肉体的な疲労は発生するが、与えられた時間は一時的に精神的な平穏を与えたようだ。
  どんな大きな感情であろうと、時間はゆっくりとそれを癒してしまう。
  無言のまま更に歩き続け、もう遠坂邸も間桐邸も肉眼で確認できないほどの距離を移動してしまった。辺りから雑木林や更地が消え、代わりにビルが立ち並ぶ街並みが増えてきた。
  そろそろ雁夜が今まで以上に『俺たちは一体どこに向かってるんだ?』と疑問に思い出すだろうが、それが問いかけとなって放たれはしない。何故なら、もうすぐそこまで待ちわびていた『者』が近づいていたからだ。
  雁夜が尋ねる前に遭遇する。
  こちらは徒歩だったので、向こうがもし自動車を使っていたら遭遇すら出来なかったが、あちらもまた現代の騎馬ではなく両足を使っての移動だったので移動距離はあまり多くない。
  いかに魔力供給があればほとんど疲れ知らずサーヴァントの足と言えど、二本の足しかないので限界はある。
  ストラゴスがそれを感知すれば時同じくティナもまたそれを感知した。
  「・・・・・・・・・来たわ」
  呟いて急に立ち止まったティナに合わせて雁夜もまた同じように静止する。立ち止まった場所は片側二車線の大通りの真ん中だ。
  そして進行方向から見て右側―――道に沿って進めばいずれは冬木大橋に到達する方向へと体を向けた。
  「バーサーカーの魔力を感知・・・、もしかして視野で動くのが私たちだけだから肉眼で確認した・・・のかな?」
  ティナが呟いているとビルの屋上から屋上へと飛び移る人影が徐々に大きさを増していった。
  最初からそこにいると認めたとしても、人の肉眼では確実に見逃す距離を隔てた向こう側から『者』がやってくる。
  「・・・ん? 何だ?」
  かなりの速度を出しているようで、十数秒が経過すればティナに釣られてその方角を見ていた雁夜も迫りくる『者』に気が付く。
  何かが驚異的な速度で近づいてくる。そう認識すると、雁夜はいったん桜ちゃんを道路へと下ろして立たせると、台座にしていたアジャスタケースから魔剣ラグナロクを引き抜いた。
  向かってくるのが誰であろうと味方だと確認するまでは警戒するのが当たり前だ。徐々に雁夜の緊張が高まっていくのが見るだけで判る。
  最も近くにある雑居ビルの屋上から『者』が跳躍し、ついに自動車も歩行者もない道路へと着地した。
  数百メートル、いや、数キロの距離を徒歩で移動してきたにも関わらず息の乱れは全くない。身に着けた武装にも身体的な異常も見当たらないので、どうやらここに移動してくる最中に回復魔術をかけてもらい、しかもいつもよりふんだんに魔力供給を行ってもらってかなり回復させたようだ。
  ただし十メートルほど離れた場所に立つ表情は体の好調とは裏腹に醜く歪んでいる。端正な顔立ちは怒りを滲ませ、敵を見る目でこちらを睨んでいた。


  「アイリスフィールをどこへやった!」


  それが遠方から接近してきた『者』が最初に発した言葉。未遠川での戦いから令呪によって撤退させられたセイバーが放った最初の怒声だった。
 肉眼では白銀の鎧を纏った彼女の両手には何も握られてないように映るかもしれないが、宝具『風王結界インビジブル・エア』を使い黄金の宝剣を隠しているだけで、抜き身の刃は敵を斬る武器としてしっかり握られている。
  誰の目から見ても戦いにはせ参じたのは明らかだ。
  「初めまして・・・」
  それでもティナは挨拶から始める。
  分身や監視網を形成するミシディアうさぎの視界越しに何度も何度も見ているが、ティナもストラゴスも、雁夜も桜ちゃんも、実際に遭遇するのはこれが初めてだからだ。
 故にティナは話しながらも油断なく構え、ストラゴスも一工程シングルアクションの魔法を放てるように敵から目を離さない。
  「私の名前はティナ・ブランフォード、いきなりの質問に答えるなら『わからない』と言うしかないわ」
  事実、この場に限って言えばセイバーが何を言っているのか理解できる者はこちら側には一人もいない。予想は出来るがあくまで予想は予想で事実とは異なる。
  ゴゴはセイバーが未遠川から撤退してここに来るまでの間に何が起こったかを正確には知らない。
  そして残るすべてのサーヴァントとマスターでセイバー陣営に害するような者は全員ゴゴの作ったミシディアうさぎ監視網に引っかかって、何らかの行動を起こしていないことを知っている。
  ゴゴ自身は知らない、ただミシディアうさぎの目を通して見ただけだ。ケフカがセイバーとアイリスフィールと共に撤退している最中にアイリスフィールだけ連れ去ったのだと―――。
  やったのはケフカ。ゴゴは見ていただけ。『どこへやったか』と聞かれれば『知らない』と返すしかない。
  「おのれ・・・どこまでも卑劣な。貴様らがアイリスフィールを連れ去ったのは判っているぞ」
  完全に『間桐陣営』がアイリスフィールを奪い去ったと確信しているセイバーの怒りを見ると、言葉で説得するのが不可能だと思うしかない。
  どうやらケフカはアイリスフィールを連れ去る時に自分が間桐に関連する者だとセイバーに言葉の毒を植えつけたようだ。
  セイバーの移動があまりにも早かったので置いてけぼりを食いそうになったミシディアうさぎは近場での監視を行えなかった。結果、どんな会話が行われたかまでは判らないので、ケフカがセイバーに何を言ったのかは知らない。
  確かに冬木教会では間桐臓硯がケフカ・パラッツォだと見せかけたし、今のケフカがゴゴの細分化された一部によって構成されて変質したモノである事実を考えると、間桐陣営がアイリスフィールを誘拐したのは間違ってはいない。
  ただし正解とも言えない。
  その辺りの込み入った事情を一から説明する気はなく、説明したとしても頭に血が上ったセイバーでは理解し納得してくれるかどうかは怪しい。そもそもカイエンがもうセイバーとは敵対関係なのだとはっきり宣言してしまった後だ。
  正しい情報を教えたとしても、敵からの言葉なので嘘だと一蹴される可能性は非常に高い。
  ならばこちらの用事を先に済ませてしまおう。
  ストラゴスがそう思うのと、雁夜の前に狂戦士のサーヴァントが実体化するのは同時だった。
  セイバーの接近時、そして二言三言の会話までは出てくるのを堪えられていたようだが、もう限界が訪れたらしい。
  「ア・・・アアア・・・、アアアアアアアアアアアアアアアアアア!!」
  後ろに立つマスターを守るように佇むのではなく、ただ目の前にいる敵を殺すために現れた狂戦士のサーヴァント、バーサーカー。何もかもを恨みつくす咆哮が形ある風のように唸り、黒い霧がバーサーカーを中心にして広がっていく。
  無骨な兜に刻まれた細いスリットの奥に光る紅い輝きがセイバーを睨みつけ、右手にはアーチャーから奪った宝具が敵を殺す武器となり黒く光っていた。
  「バーサーカー・・・」
  現れたサーヴァントに対しセイバーは不可視の剣を構えたので、そこで会話は強制的に中断される。
  戦う意思を持つものが聖杯戦争の舞台で集えば行われるのは闘争のみ。どんな意思が絡もうと、聖杯戦争の参加者として同じサーヴァントの枠で召喚されたならその業からは逃れられない。
  セイバーの目がこの場にいる全員を睨みつけ、アイリスフィールの居場所を聞きたそうにしているがもう遅い。戦いは始まった。
  「おじさん――」
  文字通り降って湧いてきた敵の出現に、雁夜の後ろに回った桜ちゃんが泣きそうな声で言う。
  雁夜は左手でしがみついてくる桜ちゃんの小さな肩を抱きしめ、魔剣ラグナロクを持った右手を前に出して言った。
  「間桐雁夜が令呪をもって命ずる」
  「雁夜?」
  「バーサーカー、お前の剣でお前が望む通りに戦え!!」
  セイバーとの戦いをどうするか? その辺りの方針はゴゴと雁夜との間で話された事はなく、どんな戦い方でどんな決着をつけるかも決めていない。
  だから雁夜が令呪を使うのはティナにとってもストラゴスにとっても予想外だった。
  今までの雁夜では考えられない自発的な行動だ。意外すぎる急展開だ。
  遠坂時臣との戦闘と、遠坂葵との邂逅を経験して、雁夜の中で今までにない何かが芽生えたのだろうか。
  魔剣ラグナロクと言えど剣の英霊に対して剣で挑めば負けるのは必然、魔法を使っても雁夜程度の使い手ではクラス別能力の高い対魔力を突破できない。そう思えばバーサーカーに本領を発揮させてすべて任せるのは悪い手ではない。
  意外な命令をした雁夜に驚きつつも、定められた道筋を辿るのではなく、雁夜自身がそう決断して未来という道を選んだ事実そのものには喜びを感じる。
  これで、ものまね士ゴゴの物真似が終焉に向けて更に進んだ―――。雁夜はティナとストラゴスが共にそんな事を考えているなど露とも知らず、ただ目の前の敵をバーサーカーの肩越しに睨みつけていた。
  二画目の令呪に従い、バーサーカーはこれまでずっと持ち続けていたアーチャーの宝具を手放し、道路へと落下させてガランと音を鳴らす。
 元々はアーチャーの宝具だった剣がバーサーカーの簒奪宝具『騎士は徒手にて死せずナイト・オブ・オーナー』から離れ、魔力の粒子となって虚空へ消えていった。
 無手となったバーサーカーの変化はそこで終わらず、今度は黒い霧でもって己のステータスを隠蔽するもう一つの宝具『己が栄光の為でなくフォー・サムワンズ・グロウリー』の効果も閉ざされていく。
  元々バーサーカーは他人を装って武勇を立てた逸話を幾つも持ってる英霊だが、狂化の属性付加のために『変身』が『偽装』にまで劣化してしまっていた。
  その偽装が消えていく。
  眼前に立つ敵を油断なく見据えるセイバー。彼女は倉庫街の戦いでバーサーカーに敗北寸前にまで追い込まれたからこそ、隙を見つけようと強く見入ってる。
  そんなセイバーの前でバーサーカーの変化は続く。
  全身を覆っていた黒い霧が晴れていき、バーサーカーが身に着けるフルプレートアーマーの細部が徐々に姿を見せていった。
  「え・・・・・・・・・」
 宝具『己が栄光の為でなくフォー・サムワンズ・グロウリー』が解除されるごとに硬質な金属で構成された甲冑の一部一部が次々と姿を現す。
  手、足、胴、肩、下腹部、胸部、上半身、そして頭部。皮膚など全く見えない黒い霧の奥に隠されていた漆黒の鎧が暴かれていく中、バーサーカーの口から雄叫びとは異なる声が轟いた。
  「ア、アア・・・、サァ・・・・・・」
  「貴方は──、そんな──」
  セイバーの顔が徐々に驚きで染まってゆく。
  その動揺を更に後押しするように、黒い霧を完全に消し去ってフルプレートアーマーを完全に曝け出したバーサーカーが右手に自らの宝具を顕現させた。
  二つの宝具がこれまでバーサーカーの正体を完全に隠し通してきたが、それらはバーサーカーの真の宝具に眠らせておくだけの能力にすぎない。簒奪と変身、これらの宝具を封印して現れる宝具こそが―――周囲を覆っていた黒い霧が凝縮したような黒色と紫色の剣こそがバーサーカーの真の宝具だ。
  それは剣の英霊であるセイバーがその剣を晒した瞬間に真名を悟られるように、その剣を晒すだけで真名を知られてしまう宝具。
  人ならざる者によって鍛えられた、決して刃こぼれしない無窮の剣。
  宝具保持者のステータスを1ランク上昇させるだけではなく、龍の因子を持つ英霊には絶対的な効果を発揮する剣。
  本来は聖剣だったが、同胞だった騎士の親族を斬ったことで魔剣としての属性を得てしまった黒く輝く剣。
  犯した罪を忘れぬように常に鍔に黒い鎖が巻き付いている剣。
 名を―――無毀なる湖光アロンダイト
  「まさか、貴方は・・・」
  その剣をセイバーが知らぬ筈はない。
  他の誰でもない、持ち主であるバーサーカーを除いて誰よりもその剣が何であるかを知るセイバーが気付かない筈がない。
  その剣を持つのが誰なのか判らない筈がない。
 セイバーの朋友ともであり、誰よりもセイバーに近かった円卓の騎士を間違える筈がない。


  「アァァァァサァァァァァァァァァァァァァ!!!」


  これまで響いていた雄叫びとは性質の異なる肉声が、ブリテンの伝説的君主アーサー王の名を呼ぶ。そして響いた大音響に合わせ傷一つ無かった筈の兜の中心に紅い線が走った。
  まるで兜そのものに自意識があるように刻まれた紅い傷に沿って左右へと別れていく。
  知れ―――、これが私だ―――、お前の前に立つ敵だ―――、私こそがバーサーカーだ―――。と言わんばかりに素顔が晒され、兜の中から現れた肩に触れる長髪がぱらりと揺れた。
  元々は長髪の美丈夫だったであろう顔の造形は狂化の属性付加によって怒りに歪み、大きく見開かれた目と口の中に並ぶ乱杭歯が鬼の形相を作り出している。
  二つに別れて落ちた兜が道路に落ちる頃、ようやくセイバーが彼の名を呼ぶ。
 「湖の騎士サー・ランスロット・・・・・・」
  セイバーはここにきてようやくバーサーカーの真名へと至るが、遅すぎる理解というしかない。
  サーヴァントのステータスを隠す能力に加え、黒い霧はフルプレートの鎧の全体像を隠していたが、全てが見えなくなった訳ではない。
  佇まい。身の丈。偽装宝具。何よりセイバーは一度、倉庫街で実際に剣を合わせている。
 無毀なる湖光アロンダイトを見る前でも予測できる材料は幾つも揃っていた、気付こうと思えばバーサーカーの真名に気付けた筈。確信はなくても、そうかもしれないと予測できた筈。
  けれどセイバーはそれをしないで、ここにきて隠しきれない動揺に打ちのめされた。
  おそらく、ランスロットがバーサーカーで召喚される筈がない等と勝手な思い込みで目を曇らせたのだろう。
  予想すらしていなかった敵の出現に不可視の宝剣を握る両手がほんの少しだけ下がる。ティナとストラゴスは戦うのを嫌がるように動いたその手の動きを見逃さなかった。
  これが召喚された英霊の宿命だ、かつての友が別々のサーヴァントとして召喚されたなら戦わなければならない。その覚悟がなければ最初から戦うな。同じ苛立ちが二人の脳裏を掠める。
  「行け、バーサーカー!」
 セイバーへの憎しみも手伝い、雁夜の声を聞くと同時にバーサーカーは無毀なる湖光アロンダイトを構えて駆け出した。



  ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆



  Side - ケフカ・パラッツォ





  「むひほほほほほ、ひゃひゃひゃひゃひゃひゃ」
  手加減しない『裁きの光』を放ったら、それは呆気なく乗る飛行機械ごとアーチャーを撃ち落とした。
  乖離剣エアを握りしめた状態ながらも何とか回避行動をとったようだが、上空に静止した状態から避けようとする試みはあまりにも鈍重だった。
 空を最高速度で動き回っていたなら直径数十メートルの黒いレーザーを避けられたかもしれないが、天地乖離す開闢の星エヌマ・エリシュに寄せる信頼と英雄王自身の慢心故に動きを止めてしまい。結果、直撃を避けられなかった。
  何と心地いい感触か。
  何と気持ちいい衝撃か。
  思った以上の威力が出てしまい。かつての世界で手に入れた三闘神の力とこの世界の宝具の力を融合させた『裁きの光』はアーチャーと飛行機械だけではなく、結界をも突き抜けてしまった。
  それもまた楽しくて、面白くて、愉快で、痛快で、愉しくて、可笑しくて可笑しくてたまらない。
  すでに足場にしていたテュポーンはアーチャーの攻撃で両断された。だからケフカは降り立った地面の上で堪えきれずに何度も何度も笑ってしまう。
  「でも今はまだ壊れちゃ困るのだー。治して、直して、なおして、その後でゼ~ンブ ハカイだ!」
  目には見えないが、『裁きの光』が通り抜けた個所は空に巨大な穴を開けてしまっている。
  それを直して、いずれ壊す。
  今は修復して、いつかは破壊する。
  結界の外側にまで飛び出した極太のレーザーが周辺の環境や空を焼き尽くしてるかもしれないが、今はそんな事を考えるべき時ではない。むしろ黒いレーザーが結界の外の何かを壊していれば面白いと思っておく。
  もしかしたら斜め上に向けて放った『裁きの光』のとおる先に飛行機がいて墜落したかもしれない。
  もしかしたら地球の重力に引かれた『裁きの光』が湾曲してして人の住む場所に直撃したかもしれない。
  もしかしたら沢山の命が『裁きの光』で消え去ったかもしれない。
  かつては世界の一つを完全に壊した『裁きの光』だ、むしろ被害が出ている方が当然と思うべきだ。
  そうなったらいい。それでいい。今はそう考えるだけでよかった。
  喜びに胸を高鳴らせていると、光を放ちながら砕けて折れて落下していく飛行機械だったモノが見えた。
  石油やガソリンが燃料の車だったならば爆発するのが普通だが、どうやらあの飛行機械は燃料そのものが既存の機械とは異なるらしく、壊れる様も現代の機械とは大きく異なっている。
  それでも壊れた事実は覆せない。地表が近づくと壊れた部分から黄金の粒子へと変わっていってしまい、溶けるように消えて行ってしまった。
  その様子はサーヴァント消滅を思わせ、あの飛行機械もまた魔力で編まれて作られた物体なのだと確信させる。
  ケフカが結界を作り直すのとは対照的に空を舞う黄金の舟は跡形もなく消え失せる。残るのはゴトン、と音を立てながら道路の上に落下して満足に着地もできなかったアーチャ―だけだ。
  身に着けた黄金の鎧が衝撃の大半を吸収したか、それとも回避行動と同時に飛行機械を上向きにして盾として防いだか。確実に『裁きの光』を喰らいながら、五体満足で現界出来ているのはケフカですら感心する頑丈さだ。
  だが黄金の鎧はあちこちが崩れて砕けて壊れてしまい、至る所から紅い血を流して起き上がる気配すら見せない様子はどう見てもサーヴァントの消滅一歩手前だ。
  悠然と佇み自分以外の全てを『雑種』と言い切っていたアーチャ―が無様に寝転がっている。
  傷つき、道路に横たわり、血を流し、泥にまみれ、起き上がれない。
  「さっき雑種と言われたのは許してあげましょう。何故なら! お前は! 雑種以下だからだー!! ホワッホッホッホッホッホッホホホホホホホ!」
  英雄王ギルガメッシュの燦然たる有様は見る影もない。その様が面白くてケフカはまた笑う。
  しかしいつまでもそんな状況が続く訳がないとケフカは理解していた。何故ならアーチャーは健在で、サーヴァントの霊格は今も元気に輝きを放っている。
  今のアーチャーはこれまで味わったことのない衝撃でほんの一瞬だけ気絶しているだけだ。
  すぐに復活する。
  すぐに立ち上がる。
  すぐにケフカ・パラッツォを殺すために蘇る。
  英雄王の辞書には雑種を前にして屈する状況など存在しないのだから。
  時間にしてたったの五秒。ケフカの笑い声の余韻がまだ残っている間にアーチャーの手がピクリと動いて蘇生の予兆を知らせる。
  そこからは一秒もかからず、一気に起き上がって英雄王ギルガメッシュの健在を示すかのように堂々と立つ。気絶して横たわっていた数秒間を見ていなければ、傷つきながらも悠然と立っていると錯覚してしまいそうな見事な佇まいだ。
  「雑種――」
  怒気と殺意が入り乱れ、放たれた言葉そのものに攻撃性が含まれていた。気弱な人間が聞けばそれだけで気絶してしまう禍々しい一言だった。
  ケフカはアーチャーが気絶していた僅かな間に彼を殺すこともできた。
  けれどケフカはそれをしない。
  自分が殺されると自覚してない状態で殺してしまう程つまらないモノはない。それも破壊ではあるが楽しく面白い破壊ではない。
  自分が殺されると、死ぬと、破壊されると、そう理解した上で死んでいく者の顔が、苦悩が、絶望が、楽しいのだ。
  それにギルガメッシュはただの人間ではない、ただのモンスターでもない。太陽神シャマシュから美しい姿、嵐神アダドに男らしさを与えられた三分の二が神で、三分の一が人間の半神半人の存在なのだ。
  もっと簡単に言えばものまね士ゴゴもケフカ・パラッツォもこれまでに出会った事のない存在だ。
  こんな面白いモノを相手にして楽に終わらせていい筈がない。
  もっと、物真似の種を見せろ。
  もっと、苦しんで苦しんで苦しんで、苦しんだ果てに破壊されろ。
  「もはや肉片一つ、血の一滴、存在の欠片すら残さぬぞ!!」
  アーチャーの顔には憤怒の表情だけが浮かんでいた。
 その意思に反映するように落下して気絶しても離さなかった剣が再び回り始め、また天地乖離す開闢の星エヌマ・エリシュを放つための準備が始まった。
 それだけではなくアーチャーの背後にはこれまでにない数の王の財宝ゲート・オブ・バビロンの砲門が浮かび上がって空を金色に染め上げる。
  ケフカの視界には黄金の輝きしか見えず、本来の空は金の光で覆い尽くされてしまう。
  ただし、さすがの英雄王と言えど、アーチャーのサーヴァントとして現代にコピーされた状態では力が制限されてしまう。宝具の全開二重起動は無茶だ。
  するとケフカを射殺さんばかりに睨み付けていたアーチャーが誰もいない上空へと視線をやった。
 「早くオレに魔力を献上せよ!」
  誰もいない場所に向けた言葉は新しいマスターへの命令なのだろう。サーヴァントがマスターへと命令するおかしな状況だ。
  冬木市どころかこの世界そのものを破壊し尽くさん勢いでアーチャーの魔力が高まっていくので、新しいマスターである言峰綺礼の腕に刻まれた沢山の預託令呪が盛大に消耗されているようだ。
  それ自体が膨大な魔力を秘めた魔術の結晶である令呪がアーチャーの宝具を全力で使わせるための燃料として消えていく。
  けれどアーチャーは判っているのだろうか?
 天地乖離す開闢の星エヌマ・エリシュ王の財宝ゲート・オブ・バビロンも他に類を見ない強力な宝具で、双方を同時に使えばすべてのサーヴァントを一気に葬り去ることも可能だ。
  だがケフカ・パラッツォはどちらの宝具も見た。ものまね士ゴゴはどちらの宝具も見た。
  宝具のランク、魔術のレベル。それらが上がれば上がるほどに物真似しきるのは中々大変だが、一度見ただけでも物真似するのは決して不可能な事ではない。もともと存在した世界の魔法とこの世界の魔術との差異を埋める必要があるので、複数回見れば物真似の確実性を高めていくが絶対に必要な要素ではない。
  極論すれば一度見ればそれはもう用済みだ。その一回限りで何もかもがものまね士ゴゴのモノとなる。
  それが出来るからこそゴゴはものまね士ゴゴなのだ。
  ケフカ・パラッツォの奥底にある『ものまね士ゴゴだった意識』はケフカの意識となり自らを結論へと導く。アーチャーが理解していない部分を言葉とする。
  アーチャーの宝具を見るために攻撃を待ってやる必要などなく、わざわざ喰らって確かめる必要もない。敵として戦ってやる必要すらないのだ、と。
  色々考えている内に英雄王ギルガメッシュではなくアーチャーのサーヴァントが放てる全力の溜めが終わったらしく、空を染める黄金の円柱から山ほどの宝具がケフカへと狙いを定め、大きく振り上げた異形の剣が攻撃の一歩手前まで準備されていた。
 あれが振り下ろされると同時に王の財宝ゲート・オブ・バビロンから数十、数百、数千の宝具も一斉に放たれる。
  出来るかどうかは別問題としてアーチャーはケフカごとこの世界を破壊するつもりだ。周囲への気配りなど関係なく、出来うる全力ですべてを破壊しようとしている。
  余人ならば躊躇するだろう破壊をその手に握りしめ、何の躊躇いもなくアーチャーの手が振り下ろされ、肉眼では数え切れない宝具の嵐が破壊を作り出すために発射された。
  何の準備もなしのあの攻撃を全て喰らえばさすがの私と言えど消滅するだろう。
  ケフカはそう淡々と状況を分析し、圧縮されて絡み合う風圧の断層が擬似的な時空断層を生み出す経過を見て、空から降り注ぐ宝具の雨もまた見た。
 天地乖離す開闢の星エヌマ・エリシュは変わりがない。王の財宝ゲート・オブ・バビロンも変わりがない。威力は今までの中で最強と言えるぐらいに跳ね上がっているが、事象そのものは何の変化もない。
  その事実に落胆を覚えながらも、ケフカはある呪文を口にする。


  「テレポ」


  それは脱出可能なダンジョンおよびバトルから脱出できる魔法であり、次元移動魔法『デジョン』とは違う形の物体転移魔法だった。
  ものまね士ゴゴにとっては仲間であり自分自身でもある、冬木市のあちこちに散らばった者たちにこの魔法は効果を及ぼさない。
  ケフカのすぐ近くで状況を観察し続けているミシディアうさぎの群れにも効果は行き渡らない。
  言峰綺礼のそばに送り込んでいるケフカ・パラッツォの力の一部すら必要ない。同士である言峰綺礼も必要ない。
  たった一人―――。ケフカ・パラッツォはたった一人だけで迫りくる攻撃を回避すると同時に固有結界の中から脱出した。





  世界そのものを亡ぼしかねない強力な一撃であっても当たらなければ意味は無い。たった一つの魔法でアーチャーの怒りと宝具を台無しにしたケフカは夜の冬木市―――戦いが始まる前と何も変わっていない冬木教会の前に忽然と現れる。
 戦っている間にすでに世界は夜を迎え入れたようだ。辺りを照らすか細い街灯の光だけが光源となり、太陽も雲に隠れた月もアーチャーの王の財宝ゲート・オブ・バビロンの輝きも全くない。
  冬木教会には聖堂教会のスタッフが何人か詰めていた筈だが、言峰綺礼が行方不明になったので探索を開始したか、それとも教会で済ませるべき用事を全て終えてしまったからか、周囲に人影は無い。
  誰かいれば天使と悪魔を融合させたようなケフカの姿に悲鳴の一つでも上げたかもしれないが、突然現れたケフカに驚いてくれる者は一人もいなかった。
  「つまらん」
  空に浮かんでいても人気のない状況は何も変わらない。
  ただし、ケフカはこの世界から隔離された別の空間では劇的な変化が起こっているのを感じ取っていた。アーチャーが作り出した宝具の最大出力で二重の結界が跡形もなく消滅しようとしていると理解する。
  穴を開けたり、斬って亀裂を入れたりするのではなく、結界そのものを破壊する暴虐の嵐が吹き荒れて結界を木端微塵に打ち砕こうとしている。
  一度は結界を修繕したケフカだったが、本体が結界の外側に出てしまったので、もう結界を不要と思っている。むしろ、早く壊れて中にいる奴らが外に出てほしいとさえ考えている。
  そう遠くない内に結界は破壊されて誰も彼もが外に出てくるだろう。そうなれば、また新しい破壊が、今度は結界など存在しない本物の破壊が、死のある破壊が産み出される。ものまね士ゴゴとしての意識に気を使って英霊の宝具を見る必要も手加減してやる必要もない。
  それを考えるとケフカは待つ時間すら楽しくて楽しくて仕方がなかった。
  翌日の遠足が楽しみで眠れない子供のような気分だ。
  ただし、結界が消滅して結界の中に囚われていたすべての聖杯戦争関係者が現実の冬木士に戻ってくるまでにはほんの少し猶予がある。楽しい時間をもっと楽しくする、この猶予を使って面白い事をしよう―――、歓喜に胸を高鳴らせるケフカはそう結論付けた。
  「ホワッホッホッホ」
  特有の笑い声を辺りに響かせながら、ケフカは地面へと降り立って右手を前に出す。
  伸ばされた右手の甲には何の痕も刻まれていないので姿勢に大した意味はない。ただ『これ』をやる時は大抵こういう姿勢を取るのだと知っているから物真似しているだけだ。
  もうケフカ・パラッツォとものまね士ゴゴは別個の存在として確立してしまったが、ゴゴとして得た知識と経験は間違いなくケフカの中に渦巻いている。
  だからその姿勢を崩さずに唱えるべき呪文も一語一句違えない。


  「素に銀と鉄。礎に石と契約の大公。降り立つ風には壁を、四方の門は閉じ、王冠より出で、王国に至る三叉路は循環せよ」


  ケフカの脳裏に蘇るのは間桐邸地下、蟲蔵での光景。
 己が栄光の為でなくフォー・サムワンズ・グロウリーを知り、ものまね士のレベルを更に引き上げるために間桐雁夜に召喚させた、あの時の風景。


 「閉じよみたせ閉じよみたせ閉じよみたせ閉じよみたせ閉じよみたせ。繰り返すつどに五度。ただ、満たされる刻を破却する」


  何度も苦しみ、何度も死に、何度も蘇り、休む間などほとんど無かった一年の修行で間桐雁夜は令呪を授かった。
  そしてマスターとなってサーヴァント召喚の権利を手に入れた。


  「告げる――汝の身は我が下に、我が命運は汝の剣に。聖杯の寄るべに従い、この意、この理に従うならば応えよ」


  間近で見ていたから昨日の事のように思い出せる。
  サーヴァント召喚時の魔力の流れ、令呪の輝き、大聖杯が召喚するサーヴァントの出現。
  何もかもを思い出せる。


  「誓いを此処に。我は常世総ての善と成る者、我は常世総ての悪を敷く者」


  バーサーカー召喚のために用いられた狂化の属性付加。
  間桐雁夜が唱えたその呪文も全てケフカの頭の中に刻み込まれている。


  「されど汝はその眼を混沌に曇らせ侍るべし。汝、狂乱の檻に囚われし者。我はその鎖を手繰る者」


  召喚に必要な魔方陣は無い。ケフカの手の甲に令呪はない。六十年魔力を貯蔵した大聖杯の補助もない。
  しかしケフカの中には全てが揃っている。預託令呪も膨大な魔力も何もかもが物真似の成果として集まっている。
  何よりアイリスフィールの体内に封印された聖杯の器に喰われる筈だったサーヴァントの魂はあの女の中ではなくここにある―――。


  「汝三大の言霊を纏う七天。抑止の輪より来たれ、天秤の守り手よ――」


  呪文を唱えると同時にケフカの周囲に闇が現れた。
  夜の暗さを更に超える極限の漆黒。黒の中にある闇ながらも見る者がなぜかそこに『闇』があると理解できてしまう究極の『闇』。
  ケフカを中心に広がったそれが半径十メートルほどの円になると、闇に覆われた地面が小さく揺れる。ドクン、ドクン、ドクン、と、鼓動のように揺れる。
  その音に合わせてケフカの周囲に広がった闇の一部が少しずつ盛り上がっていった。
  盛り上がっていく塊はその内二メートル位まで膨れ上がる。そこでようやく膨張を止め、微弱な振動も一緒に止まった。
  闇より浮かぶ幾つもの塊がパリパリと軽い音を立てて崩れていく。ただし、壊れるのはあくまで表面だけでその中にあるケフカの闇から生まれたモノは何も損なわずに闇の上に立ったままだ。
  卵の殻が割れるように盛り上がった塊の表面が全て崩れると、後に残るのは盛り上がった塊と同じ数の人影だった。
  その数、実に二十以上―――。
  その中の一人は両手に紅い槍と黄色い槍をそれぞれ持った美男子であった。長い髪を後ろに撫でつけ、整った顔立ちに左目の泣き黒子が特徴的な男だった。
  けれど整っている顔立ちよりも目を引くのはその男の全身に纏わりつく色彩に違いない。
  本来は肩から先と首から上を除いたすべてを覆う深緑の鎧は黒く変色し、血よりも紅い文様がいくつも刻まれている。加えて鎧を纏っていない両腕にも同じように紅い文様が刺青のように刻まれ、それは首の下から頬にまで伸びていた。後ろに撫でつけられた髪は元々黒色だったのだが、今は老人のような白髪に変貌してしまっている。
  特にその男を構成する人体の部分で目を引くのは目だ。鎧や肌の上を走る紅い文様に勝るとも劣らない紅い眼が怒りの表情の中で爛々と輝いていた。
  その男以外にも目を向けて見ると、別の男は黒いローブを纏って髑髏を模した白色の仮面で頭を覆い隠しているが、そのローブと髑髏の仮面に走る紅い文様は男の鎧や肌に刻まれたそれと何も変わらない。
  他にも血涙を流すような紅い文様の入った髑髏の仮面を身に着ける男がいた。
  髑髏の仮面の隙間から伸びる元々は紫色だった髪を白く染める男もいた。
  受けた傷から流れ落ちた血が紅い文様のように見えるローブを羽織る男もいた。
  知る者がいればその男が誰かを決して見間違えない、髑髏の仮面をつけた集団が何者たちであるかを理解する。何故なら、彼らの色彩は大きく変わっていても容姿は何一つ変わっていないのだから。
 ランサー。そして宝具『妄想幻像ザバーニーヤ』によって人格の数だけ別々の肉体を得たアサシン達。
  更に並び立つ人影の中には固有結界の中で幻獣三体の同時攻撃を受けて消滅した筈のキャスターの姿もあった。
  ただし彼の場合は衣装と肌に走る紅い文様などの変化はあったが、そこに見える表情はキャスターとして召喚されてから消滅させられるまでの間に常に浮かべていたそれと大差はない。両眼を紅く染めて怒りの表情を浮かべるランサーとは実に対照的だ。
  ケフカの呼びかけで集ったのはランサー、アサシン、そしてキャスター。
  それは明らかに本来のモノとは異なる形でありながら、紛れもなくサーヴァント召喚の儀式そのものだった。
  「ヒヒヒヒ、上手くいきましたよぉ」
  ケフカは辺り一面に現れたサーヴァント達を見渡しながら笑い声をあげる。その内心は口から出る笑いと同じで歓喜に彩られていた。
  今のケフカを構成する前身であったものまね士ゴゴ。ありとあらゆる事象の全てを物真似しようとするゴゴは聖杯戦争が始まる前からこの世界の魔術を数多く物真似してきた。それは聖杯戦争が始まってからも止まることなく、様々なモノと物真似して物真似して物真似し続けた。
  その結果、ゴゴは柳洞寺の真下に広がる地下大空洞に設置された『大聖杯』、アイリスフィール・フォン・アインツベルンとイリヤスフィール・フォン・アインツベルンがそれぞれ持つ『聖杯の器』、言峰璃正が保有して今は言峰綺礼に受け継がれた『預託令呪』。それら全てを物真似するのに成功した。
  ゴゴは間桐邸地下に捉えたアサシンによって、サーヴァントがどのように消滅し、どのように聖杯の器に喰われていくかも理解した。
  そこでゴゴは一度聖杯の器に喰われてしまったサーヴァントの魂を引きずり出すのは極めて困難だと悟り。けれど、聖杯の器に英霊の魂が喰われる前ならば、敗北したサーヴァントの霊核は無防備に近いと考えを改めたのだった。
  幾人かのアサシンは物真似が間に合わずに聖杯の器に喰われてしまったが、ほしかったモノは―――物真似の材料はまだまだ沢山ある。その為にゴゴはサーヴァントの霊核を求めた。ものまねを生み出す英霊と言う種を欲したのだ。
  英霊を手に入れる為、ゴゴはアイリスフィールの体内へと伸びているサーヴァントと聖杯の器とを繋ぐ魔力の鎖に迂回路を設けておいた。
  聖杯とサーヴァントの間にできている魔力のパスと似たそれをゴゴなりに構築し直すのはそう難しい事ではなかった。
  アイリスフィールは自分の中にある聖杯の器については厳重な管理をしていたようだが、そこに至る前の経路については無関心だったようだ。もっとも、その冬木の聖杯戦争を構築するシステムの一部は聖杯降臨の為に絶対に壊してはならない因子なので、聖杯の器とサーヴァントを繋ぐ魔力の鎖の存在を知っていたとしても、聖杯戦争の参加者であるならばわざわざ手を加えたりはしなかっただろうが。
  今、戦っている各々のマスターとサーヴァントは闘争の果てに聖杯を求めた。しかしものまね士ゴゴはサーヴァントの宝具を含めて令呪に聖杯の器に大聖杯にと、魔術の儀式そのものを物真似の種として求めた。
  その認識の違いが今を作り出す。
  ゴゴの一部はケフカとなり、共有された知識はケフカの求めるモノを次々に生み出していったのだ。ゴゴの言葉で語るならば、これは『英霊召喚の物真似』だ。
  ケフカの周囲に立つ闇の軍団―――間桐雁夜が使った『狂化』の属性を付加された新たなサーヴァント達は独立した個人だがケフカの手足でもあった。
  準備された正規のやり方ではない変則召喚。ケフカの中にある物真似の成果と汚染された聖杯によって召喚し直されたサーヴァント達は受肉してしまい、誰も彼もが霊体化が出来なくなっている。
  でもケフカにとってそんな事は些事だ。こだわる必要すらない、どうでもいいことだ。ただ狂ったままに暴れ回って、壊して、滅ぼして、砕いて、殺して―――最後には自らも消滅すればそれでいい。
  「ひょっ、ひょっ、ひょっ。ぼくちんのサーヴァント隊の力を見せてやるぞ!」
  夜空に向けて高らかに宣言し終えた時。ついに冬木市を覆っていた二重の固有結界が崩壊して、囚われていた者たちが現実へと帰還し始める。
  「さあ! 私を楽しませてくださいな」
  ケフカは結界から解放されたサーヴァントの魔力を―――結界の中と外でも位置そのものは変わってないので、間違いなく近くに現れるアーチャーの魔力を感じて笑った。



[31538] 第40話 『夫と妻と娘は同じ場所に集結し、英霊達もまた集結する』
Name: マンガ男◆da666e53 ID:bbf25c32
Date: 2014/01/20 02:13
  第40話 『夫と妻と娘は同じ場所に集結し、英霊達もまた集結する』



  ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆



  Side - アイリスフィール・フォン・アインツベルン





  私は何が起こっているのか判らなかった。何もかもがあまりにも急に起こり過ぎて、短い時間ですべてを理解するなんて出来なかった。
  でもたくさんの事が起こった。それは本当。だから私は出来るだけ考える。
  聖杯を降臨させ、アインツベルンの悲願と切嗣の願いを同時に叶える。私はその為に考える。
  でも―――本当はこのまま聖杯戦争を続けて切嗣やセイバーに聖杯を託していいのか迷ってる。
  いっそライダーが語った受肉を叶えて聖杯を消してしまえ、と、そんな風に心の片隅で思ってる。
  判らなくなった。
  判った気になっていた切嗣の本当の戦い方。セイバーが語った聖杯への願い。言葉でしか知らなかった殺し合い。舞弥さんの死。
  知れば知るほど、聖杯戦争に挑む時に私が胸に宿した決意が間違ってたんじゃないかって思えてしまう。
  でも私の迷いに関係なく聖杯戦争は進んでしまう。
  終焉へと向けて―――、私が持つ人としての機能を全て破壊して聖杯は生まれる―――、それは決して変わらない不変の事実。聖杯戦争があり、私がアインツベルンの女である限り変わらない未来。
  私は考える。
  私自身が納得する為にも。整理して、理解して、考え続ける。
  「おほほほ! 私の名前はケフカ、ケフカ・パラッツォ。今の僕ちんでも首一つへし折るぐらいの力があるのだよ。奥さんの命――。いやいや、体の中にある『聖杯の器』が壊されると困るんじゃなーい? 質問には素直に答えた方が身の為だじょ」
  拘束されて初めて考えられる時間を持てたのは腑に落ちないけど・・・。





  私は川の辺でセイバー達の戦いを見ていた。それは思い違いじゃない。
  私達はキャスターがやろうとしている『何か』を止めるために冬木市の中央に流れる未遠川へと向かった。そこでキャスターが召喚した恐ろしい怪物を見つけ、僅かに遅れてライダーもまた現れた。
  そこには武家屋敷へと現れたカイエン、どこかイリヤを思わせる幼さを持った女の子、ライダーとそのマスター。そして子供の姿をしたアサシンがいた。
  間桐が関わっているならバーサーカーとライダー、そしてアサシンがそれぞれ共闘を結んでいる確たる証拠が私たちの目の前に現れた。
  そこでライダーはキャスターが呼び出した怪物の相手を女の子に任せ、あろうことかセイバーとの戦いを申し出た。
  私はライダーの正気を疑ったけど、すぐに強力な炎の魔術を見せられて、あれなら任せても大丈夫かな? って思ったの。
  セイバーも私と同じことを思ったのか、ライダーの申し出を受けて、キャスターが呼び出した真性の『魔』から意識をそらして英霊同士の戦いをやり始めた。
  私はセイバーの邪魔にならないように一度土手に戻ってセイバーとライダーの戦う様子を見つめていたのだけれど。それと同じぐらいに川の中で行われている戦いにも意識を割いた。
  あれはどこまでも果てしなく貪り喰らうもの。全てを呑みこんでもまだ足りない渇望の概念を具現化させたもの。『魔』だ。
  セイバーの補佐をするためにライダーとの戦いから片時も意識を外さないで見守るべきなのは判っていたけれど、私にはどうしてもあれを無視できない。
  だからセイバーを見つめながら、川の方もずっと見つめていた。
 ライダーの戦車チャリオットが風を纏って巨大な生き物のように突撃していくのを見てた。セイバーが光り輝くかの剣を天に掲げているのも見てた。
  過去現在未来を通じ、戦場に散っていく全ての兵たちが今際のきわに懐く『栄光』という名の哀しくも尊き夢の結晶。
 セイバーの切り札にして真の宝具。其は―――約束された勝利の剣エクスカリバー
 一瞬で決まった勝負の決着は信じられないことにライダーの戦車チャリオットにセイバーが吹き飛ばされる結果を生み出していた。
  私はそれを見た。間違いなく見た。


  セイバー、ガ、負ケタ?


  満足に受け身すらとれずに地面に投げ出されるセイバーの姿を見て、私は目の前で起こっている事が信じられなかった。
  奇策は無かったと思う。真正面から互いの宝具がぶつかり合って、セイバーが力負けしたようにしか見えなかった。
  だからセイバーが吹き飛ばされている事実が信じられない。
  でも私の前で起こった事実は現実としてそこにある。
  私は呆然とした。
  でも呆然としながらも私は見た。
  川の両岸から現れた幻想種―――。そう、私は確かに幻想種を見た。
  アインツベルンの女として、そして切嗣からも魔術に関する話は聞いていたけれど、見るのはこれが初めて。伝説や神話、幻想の中にのみ生存する生物がそこにいる。
  信じられないことに、その中には幻想種の頂点と言われる竜種すらいた。
  明らかに使役されている光景を私は呆然としたまま見つめる。
  セイバーが負けて、幻想種が現れて、キャスターが呼び寄せた真性の『魔』が切り崩されて―――。セイバーがライダーのマスターを剣で貫いてた。
  私の意識がセイバーから離れた瞬間、セイバーは黄金の宝剣をライダーのマスターに突き刺して、背中まで一気に貫いた。
  ほんの僅かな間に沢山の事が起こった。全てを見ていたけど、私はただ見ているだけだった。
  目の前で起こったことが判らない。
  そこにあるのが現実だって思えない。
  聖杯戦争のサーヴァントにとって、魔力を供給してくれるマスターは弱点となる。だから切嗣は言った。狙うとしたら寝込みか背中、時間も場所も選ばずにより効率よく確実に仕留められる敵を討つ。って。
  それが切嗣が描いた聖杯戦争の常道。
  でもセイバーは違ってた。
  倉庫街で戦ったランサーがマスターと見せかけた私を狙わず、ただひたすらにセイバーと戦ったみたいに。あなたとランサーはこの聖杯戦争の中で誰よりも信じてる騎士道を貫いていた筈。サーヴァント戦において弱点のマスターを狙うなんて一度だってやらなかった。
  それなのに―――。


  何ヲ、シテイルノ、セイバー?


  また私は呆然とした。何が起こってるのか判らなくて、何もできなくなった。
  ずっとずっと何も出来ないでいた。
  そんな私の所に風のようにセイバーが駆け寄った。いつライダーのマスターを貫いた所から走り出したのか判らず、気が付けばセイバーは片手に剣を、もう片方の手で私を担ぎ上げてた。
  元々突然の事態が幾つもあって、もう何がどうなっているのか判らない。その上でいきなりの衝撃に頭の中が真っ白になる。
  セイバーは優しく抱き上げたつもりだったのかもしれないけど、人を軽く上回るサーヴァントの力が止まらずに私にぶつかったの。あまりの痛みに気絶してしまいそうだった。
  風を切るように冬木市を駆けていくセイバー。敵から、未遠川から、ライダーから、遠ざかるセイバー。一心不乱に走り続けるセイバー。
  私はそんなセイバーに担がれながらライダーのマスターの血で塗れた黄金の宝剣を横目で見る。
  ねえセイバー、教えて?
  あなたは切嗣の戦い方に激怒していたんじゃなかったの? 舞弥さんの死を悼みながら、私たちを囮にしてランサーのマスターを暗殺したやり方に怒ってたんじゃなかったの?
  ねえ、あなたは何をしてるの?
  貴女は本当に騎士の中の王、アルトリア・ペンドラゴンなの?
  負けそうになったら勝利のために道を踏み外す、それが貴女なの? セイバー?
  これがあなたの思い描く騎士なの? それがあなたの本性なの?
  声を大にして叫び、セイバーの口から本当の事が聞きたかったけど、そこで私は気が付いた。
  私を運ぶセイバーが切る鎧にはあちこちが砕け、ひび割れ、折れて、原形を留めないほど破壊されてる。砕けた鎧の隙間から見えた紫色に変色した部分、そこは剥き出しの皮膚でその奥にある骨はきっと折れてる。
  こうなるのも当たり前。だってセイバーはライダーの宝具の特攻を受けたんだから。
 白銀の鎧が威力を軽減したとしても、あの戦車チャリオットをまともに受けて無傷でいられる筈がない。あれは対人宝具の域を超えた対軍宝具。セイバーが一人で受けるにはあまりにも強力すぎる。
  私は荷物みたいに運ばれる中、必死でセイバーに向けて治癒魔術を使い続けた。
  尋ねたり、悲鳴を上げるよりも前に、セイバーを死なせたくなくて魔術を使った。
  このままではセイバーが死んじゃう。もしかしたら見た目の酷さとは関係なく、セイバーは大丈夫だったかもしれないけど、私には死んじゃう様に見えた。
  それじゃあ聖杯を託せない。
  それじゃあ話を聞けない。
  それじゃあ、それじゃあ、それじゃあ―――。
  起こった出来事が多すぎて、どんどん判らなくなる。治癒魔術をかけて私も自分を落ち着かせようとしてのかもしれないけど、本当の事は私にも判らない。
  だって何も判らないんだから。
  ただ私はセイバーを癒し続ける。魔力を使い切っても不思議はないと思える位にセイバーに魔力を注ぎ続けた。それは本当。
  サーヴァントの自己治癒能力と私の治癒魔術の併用。セイバーが私を担いだまま移動する状態でどれだけ時間が経ったのか。
  不意に一瞬だけ浮遊感感じて、その後に私の体を支えていたセイバーの細い手の感触が消えてしまい、もっと太い何かに変わってた。
  急激な横移動が縦移動に変化した。痛みに加えて急な上昇で気持ち悪さが加わり、私は何が起こってるのかまた判らなくなった。
  ねえ、何が起こったの? セイバー。
  「制限があると隙が大きいねい。この先にいる私の御仲間を倒してみなしゃーい。見事倒せれば、この女を返してあげましょう」
  私の口から問いかけが出るよりも前に、そんな声が聞こえた気がする。
  「スリプル!」
  続けられた言葉が私の耳に届くと意識が朦朧として何も考えられなくなった。考える間もなかったから、確信は持てず思い違いかも知れないと思えてしまう。
  何が起こってるか私には判らない。
  でも何かは起こった。間違いなく起こった。
  「エスナ」
  そして次に声が聞こえて覚醒した後、私はどこかのビルの屋上で拘束されてた。
  そこから何が起こったかを考えて、考えて、考え続けて、ようやく過去が今に追いつく。そう―――私は敵に捕まってしまったんだってようやく理解出来た。
  後ろから私を逃がさない誰か。多分、男だと思うけど、この男は私を抱えたままセイバーを振り切った。
  そして私たちの前にいてビルの下を見下ろす男―――言峰綺礼と合流した。
  セイバーが本調子かどうか確認する間もなかったけど、必死にかけた治癒魔術で怪我は治っている筈。そうなると完全復活した剣の英霊から逃げ切れるほどの力量の持ち主が言峰綺礼に加担している事になる。
  この二人はどうしてビルの屋上なんかにいるの? そう思いながら、言峰綺礼の視線を追って、私は道路に立ってこっちを見る切嗣を見つけた。
  他に動く人がいなかったし、あの特徴的な姿は絶対に見間違えない。あの人は私の夫、切嗣だ。
  切嗣! 拘束を振り切ってそう叫ぼうとしたんだけど、口が塞がれてるから言葉が出ない。体は少し動くけど、もう片方の手が信じられない力で私を縛りつけてる。
  必死にもがいて拘束を抜けようとしても動けない。
  何があってこんな風になってしまったの?
  切嗣は無事? セイバーは無事?
  混乱しながらも、私は切嗣を見ながら出来るだけ落ち着こうと思った。何が起こったか判らないけど、こうして捕まっているなら、それは切嗣への人質に違いない。
  私の存在が切嗣の負担になる。それはとても嫌。
  何とかこの状況を抜けられないものか。こんな場合に誰よりも切嗣の助けになるセイバーの姿を探すけど、目に見える範囲にセイバーはいなかった。
  そこで私は気付く、気付きたくなかったけど気付いてしまう―――。
  切嗣が私に銃口を向けてる、って。
  言峰綺礼と私を縛る誰かと一緒に、切嗣は私にも銃を向けてる。
  これまで一度だって見たことのない顔で、敵を見る目で私を睨んでる。
  遠くにいる切嗣の細部なんて判らない筈なのに、不思議と私は切嗣が敵意を持ちながら私を見てるって理解した。判ってしまった。
  どうして? どうしてそんな目で私を見るの? ねえ切嗣、どうして?
  考えている間に切嗣と言峰綺礼の会話は終わってしまい、切嗣は銃を撃った。何のためらいもなく撃った。
  英霊なら銃弾を捉えて避けたり防ぐのは難しくないかもしれないけど。私にはそんなことはできない。だからもう起こってしまった事実から理解するしかない。
  銃弾の多くは言峰綺礼に向けられて放たれたみたいだけど、少しだけは私の方に飛んできた。―――と思う。
  身動きできなかった。避けるなんて最初から身動きが取れないからできない。考える間もなく銃弾だと思う切嗣の攻撃が私の顔の数センチ横を通り抜けた。
  あと少し位置が違っていたら私は死んでいた。切嗣に殺されてた。
  耳の下が熱い。もしかしたらそこを掠ったのかもしれない。
  何もかもが一瞬の出来事で、私は突きつけられた『結果』から判断するしかなかった。


  切嗣、ガ、私ヲ、撃ッタ―――?。


  「家庭内暴力? シンジラレナーイ! 妻を撃つなんてひどいご主人がいたもんだ、笑いが止まらん!」
  耳元で大声が聞こえたけど、私は聞いていない。聞けない。理解できない。
  言峰綺礼が屋上から飛び降りて切嗣の所に駆けた気がするけど、目に見えることも判らない。
  起こったそれが何だか判らなくて、他の事も全然判らない。
  「この程度はまだ序の口。これからもっともっと、もぉぉぉぉぉっと、楽しくなる!」
  切嗣が私を撃った?
  これは本当? 空想? 現実? 夢幻?
  「スロウ――」
  頭の中はぐちゃぐちゃして、ただ目の前にある事しか見えてない。だから聞こえてきた声がどんな意味を持った言葉なのかまるで判らない。
  ただ見るだけ。
  いっそ夢だったらどれほど楽か。現実は私の理解を軽々と越えて加速してく。
  不意に私を縛っていた二本の手がほどかれて、何故か私はいきなり解放された。でも、力なく屋上に腰を落とす私の周囲はとても早く動いてく。
  私が叫んだり、逃げたり、へたり込むよりも前に私を拘束していた誰かが私の前に出た。斜め前に出たピエロみたいな恰好をしたその男は何かを持ってるのを見た。
  数十センチほどの大きな石。それを見た瞬間、私はそれ以外の他の全てを忘れた。
  私には判る。
  アイリスフィール・フォン・アインツベルン。第四次聖杯戦争において聖杯の器の運び手であり母親だから判る。
  石だけど判る。人の質感なんてまるで無いけど判る。
  あれは聖杯の器。
  あれはイリヤ。
  イリヤスフィール・フォン・アインツベルン。私と切嗣の娘。
  どうしてここにいるの? どうして石になってるの? どうして捕まってるの? 考える間もなく疑問が溢れて、私から考える余裕を奪い去る。切嗣が私を撃った時と同じぐらいかそれ以上の驚きで何も考えられない。
  私以外の世界は私を置き去りにしてどんどん進む。理由なんてまるで判らないけど、解放されて動けるようになったのに、何もかもが私を置いて先に進んでしまう。
  その男が石になったイリヤを掴み、前へ歩くのを止められない。
  イリヤを連れて行かないで! 止めようと動いたつもりなのに、水の中で手を動かすみたいに体がものすごく重い。
  腕は動くのにとても遅い、足も動くのにやっぱり遅い。何もかもが遅い。見ている景色は私の遅さを笑うみたいに早く動いていくのに、私だけが遅い。
  「イリヤッ!!」
  何だかよく判らない男から解放されて、初めて私は叫んだ。でも『イ』と叫んだ所でその男はイリヤを下に投げ捨ててしまう。
  慌てて屋上の縁に身を乗り出して下を見る。イリヤを投げ捨てた男がすぐ横にいたけど、そんな事はどうでもよかった。
  この時、私はイリヤの事しか考えられなかった。
  そこで見る。
  両足で立つ言峰綺礼。
  銃を構えて対峙する切嗣。
  沢山の血を流し地面に横たわるイリヤ―――。
  「ぇ・・・・・・」
  イリヤが怪我を負って倒れてる。
  あの子の白い体から紅い血が沢山、沢山、流れてる。
  切り傷や刺し傷とは違った。言峰綺礼が使う黒鍵で傷つけられたのでもなかった。あれは今、私がされたように、当たれば人を殺す銃から発射された攻撃が作った怪我。
  遠いのに、見辛いのに、怪我の具合の診断なんて出来ない筈なのに、何故か私はイリヤが撃たれたって一瞬で理解した。


  切嗣ガ、イリヤヲ、撃ッタ・・・?


  「あ・・・あぁぁ・・・、ああぁああぁぁぁぁああ――」
  また頭が真っ白になった。
  いつの間にかイリヤの石化が解除されているとか、言峰綺礼が撃たれて血を流しているとか、切嗣の口から血が出ているとか、動くものが無かった筈の道路に自動車が走っていて歩道に歩く人がいるとか、一瞬前までには合った結界が無いとか。色々なことを見てるのに判らなくなる。
  私の目はただ一つ―――イリヤだけを、撃たれたイリヤだけを、切嗣に撃たれたイリヤだけを、者じゃなくて物みたいに動かないイリヤだけを―――見つめてた。
  「イリヤァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァ!!!」



  ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆



  Side - ケフカ・パラッツォ





  「全てはいずれ壊れゆく。この私の手によって!!」
  夜中に響く歓喜の雄叫びと周囲を見渡せば闇の中に浮かぶ黒きサーヴァント隊が列を成している。
  聖杯システムの物真似。
  サーヴァント召喚の物真似。
  汚染された聖杯の物真似。
  そして宝具の物真似。
 並ぶアサシンの手には黒塗りの短剣が握られているがこれは問題外。重要なのはむき身の血管のように紅い文様を体に刻んだランサーとキャスターの手にある『破魔の紅薔薇ゲイ・ジャルグ』『必滅の黄薔薇ゲイ・ボウ』そして『螺湮城教本プレラーティーズ・スペルブック』だ。
  ぼくちんの前身が手に入れた全ての成果は『破壊』を生み出すための土壌となり、今、私の前に集っている。
  これほど喜ばしいことが他にあるだろうか?
  これほど心地よい光景が他にあるだろうか?
  今なら喜びのあまり星一つぐらい簡単に壊せる気分だ。二重の結界を破壊して現実へと戻ってきたアーチャーを見て、更に喜びは増大していく。
  「雑種・・・」
  「あれだけ息巻いた結果が空振り? こりゃあ愉快! ヒッヒッヒッヒッヒッ!」
  アーチャーが現れたのは冬木教会の前にある石造りの広場で、サーヴァント隊はその周囲を完全に取り囲んでいた。
  サーヴァントという枠に囲われた存在であるが故に、さすがの英雄王ギルガメッシュと言えど真の切り札を二回も使った消耗は激しい。生前の英霊自身ならば全力を二回やってもまだ余力を残すかもしれないが、サーヴァントはそうならない。
 元々『裁きの光』でのダメージが色濃く残ってる状態で天地乖離す開闢の星エヌマ・エリシュ王の財宝ゲート・オブ・バビロンを同時起動させた上に、込めた魔力は現界が覚束なくなるんじゃないかと思えるほど力強い。
  言峰綺礼が持つ預託令呪をいくつか使い、無茶を強引に押し通したのだろうが。故に今のアーチャーは万全とは程遠い。
  黄金の鎧はあちこちが砕け、底冷えする笑みを浮かべていた顔からは幾つも血が流れている。呼気は荒く、ただそこにいるだけで感じられていた王者の覇気が弱まっていた。
  英雄王としてのプライドがそうさせるのか。辛うじて乖離剣エアを握りしめて二本の足で立っているが、僅かに体が震えており強引に自分を立たせているのが判る。
  言峰綺礼に対サーヴァントの治癒魔術の心得でもあれば回復したかもしれないが、あちらはあちらで忙しいのか治癒される様子はない。譲渡された魔力も空振りした攻撃に全て費やしてしまったのだろう。
  こちらが本気を出す前は一方的な戦いに王者として降臨していながら、今は体力も魔力も大幅に減退して半死半生。
  つまらん!
  「その状態ではもう物真似の種は吸い尽くしたようだね――、お前はもう用なしだ! いらない!!」
  あえて挑発する言葉を放ってみるが、アーチャーはすぐに攻撃に転じなかった。
 二度目に天地乖離す開闢の星エヌマ・エリシュを放った時は一瞬すらなく殺そうとしたにも関わらず、今はそれがない。
  取り囲まれた状況とそれが敗退した筈のサーヴァントである事実を警戒しているのか、それとも攻撃を行うだけの貯蔵魔力がもう残っていないのか。どちらであろうと、予想しない三つ目の答えだろうと、最早、僕ちんにとってアーチャーは残りカス同然。ケフカにとっては敵ですらない。
 無言のまま数秒が経過して、ようやくアーチャーの背後に二十ほどの黄金の輝きが生まれ、王の財宝ゲート・オブ・バビロンの発射体制が整っていく。
 合わせて乖離剣エアも回転し始めて、三度目の天地乖離す開闢の星エヌマ・エリシュを発動させようとしていた。
  「宝具は他の追随を許さない強力無比。バランスの取れたパラメータと単独行動のクラス別能力を基にした魔力消費の少なさ。自分の土俵に引きずり込めば叶う英霊はそうはいない」
  けれど一度目と二度目を比較対象にすればそれはあまりにも遅く、ケフカからアーチャーへと声をかける余裕すらある。
  もし放たれた言葉が全て呪文だったとすれば、この冬木市そのものを更地に出来るほど長い長い間が経過した事でもある。アーチャーがどれだけ弱まり、残された魔力がどれだけ少ないかを明確に示す『間』だった。
  その時間を使い、アーチャーは放つ前から力強さに欠ける宝具を発動しようとしている。ただ、衰えていようが宝具は宝具であり、特にアーチャーのそれは一つだけでも絶大な威力を発揮する。
  「でも隙がある」
  だからケフカは短く告げながら、右手を前に出して黒きサーヴァント隊へと身振り手振りで命じた。
 言葉は無い。けれど手の動きだけでそれが何を意味するか悟ったサーヴァント隊の中の一人―――ランサーは破魔の紅薔薇ゲイ・ジャルグ必滅の黄薔薇ゲイ・ボウを構えてアーチャーへと突進する。
  そこには『輝く貌』と謳われるフィオナ騎士団、随一の戦士の姿は無く。両眼を血で紅く染め、憎しみを黒で塗りつぶしたような異色の風貌で身を固めたディルムッド・オディナがいた。
  狂気に身を委ねた槍兵の驚異的な踏み込みが作り出す速度は一瞬でアーチャーとの間合いをゼロにする。
 アーチャーが二種類の宝具を発動させるより早く、ランサーの破魔の紅薔薇ゲイ・ジャルグがアーチャーの黄金の鎧を通過して、乖離剣エアを持つ方の肩を抉る。
  「がっ!!」
  たまらず苦悶の声を上げるアーチャー。
  致命傷とは言えない一撃だったが、衝撃で後ろへと吹き飛ばされて、乖離剣エアの回転も止めてしまう。
  それは倉庫街の戦いでセイバーを相手にして白銀の鎧を透過した時の再現だった。
  倒れまいとアーチャーは両足を踏ん張り、ザザザザザ、と石造りの地面を削りながら後方へと押し流される。何とか周囲を囲むサーヴァント隊の輪に衝突する前にランサーからの衝撃を殺し切ったようだが、更にダメージを追ったのは明白だ。
  「ランサーは最速のサーヴァント。弓兵が速さで叶わないのは道理じゃありませんか? どれだけ強力な宝具だろうと発動前に止めてしまえば怖くない」
  「・・・・・・」
  怒りのあまり言葉すら失ったか。それとも返事をする余力すらなくなってしまったのか。ケフカが言葉を投げると言葉無く射殺さんばかりの強烈な視線が返ってくるが返答は無かった。
  消耗こそが最も大きな原因だとしても、この状況でアーチャーに宝具を与える隙はサーヴァント隊の一番槍にして最速のランサーが許さない。倉庫街の時と違い、敵に攻撃した場合の隙を他の誰かに突かれる心配は無いのだ。
  ここからの逆転は不可能。アーチャーは死ぬ。ケフカの意思によって殺される。
  令呪で逃げる隙すら与えない。
  ケフカは更に笑みを深くして、ランサー以外の黒きサーヴァント達へと言葉で命じた。
  「さあ行け! 悪しき方向へと反転し、暴走状態となった英霊達よ。まずはそこの英雄王を存分に痛めつけてやりなしゃーい」
 命じ終えると同時にアサシン達が一斉に動き出してアーチャーへと殺到し、キャスターもまた『螺湮城教本プレラーティーズ・スペルブック』を構え、喜々として海魔を召喚し始める。
 最速のサーヴァントはもう一度距離を詰めて、槍を棍棒の様に操ってアーチャーの上段から必滅の黄薔薇ゲイ・ボウを振り下ろした。
  全方位からアーチャーただ一人を狙った攻撃。それはアーチャーという『光』を蘇ったサーヴァント達の『闇』が喰らっていく美しい光景だった。


  筋力、耐久力、魔力、幸運はアーチャーに届かない。けれど、全てのアサシンはランサーには及ばずともアーチャーよりは素早く、全方位から攻撃を開始する。


  弓兵だからこそ白兵戦は不得意であり、ランサーに接近を許した時点で一方的に槍の嵐に晒される。


  何人かのアサシンは黒塗りの短剣『ダーク』をアーチャーの鎧目がけて撃ち出した。


 二種類の英霊が作り出した時間を利用してキャスターは螺湮城教本プレラーティーズ・スペルブックで呼び出した海魔を進軍させる。


  接近戦が得意なアサシンはランサーとは別の方角から攻撃を開始して、アーチャーの体を斬っていく。


  海魔がアーチャーの腕を縛り上げ、海魔が黄金の鎧に鋭い牙を立てる。キャスターはその様子を見ながら微笑んでいた。


 天地乖離す開闢の星エヌマ・エリシュを発動する間は無かった。王の財宝ゲート・オブ・バビロンすら宝具を発射す前にかき消された。


  聞こえるのは鎧を削る音、肉を抉る音、魔力を削ぐ音、殴打の音、そしてアーチャーの苦悶の声だ。


  その声も幾らか時が流れたら消えてしまった―――。


  乖離剣エアの回転が止まり、夜空から黄金の輝きが消え、アーチャーの宝具発動が強制にキャンセルさせられ、たった一人の英霊が数多の攻撃に晒されてから短くない時間が流れたが。広場ではまだ戦いが続いていた。
  戦いには奇妙な点があった。技が無いのだ。
  暗殺者が暗殺の為に磨いた技能は無く。
  槍兵が持っていた筈の二本の槍を舞う様に操る術は消え。
  呼び出された怪物は喰らうのではなく弱らせる為に牙でかじる。
  誰も彼もが本来の用途から外れた攻撃でアーチャーを痛め続け、死なないように気を使っていた。
  もしランサーが本気になって最初の一撃と同等の攻撃を繰り出せば決着はついていた。肩口など狙わずに鎧ごと心臓を貫けば、そこでアーチャーは死んだに違いない。
  アサシンとて攻撃力には不安が残るが、攻撃はおろか防御も怪しげな敵に対して数で押し切れば何人かは犠牲になっても、黒塗りの短剣は必ずアーチャーの命を奪った筈。
  何よりキャスターが新たに呼び出した海魔の数は五十以上。ランサーとアサシンがいない隙間を埋めるように出現しているので、数で押せる状況ならアーチャーはもう海魔によって生きたまま食い尽くされてもおかしくない。
 万全の状態ならばそんな状況に追い込まれる前に王の財宝ゲート・オブ・バビロンでこの場にいる敵の全てを撃ちぬいただろうが。今のアーチャーは全快には程遠く、宝具すら満足に使えていない今のアーチャーは単なる的にしかならない。
  お手玉のように黒きサーヴァントから他のサーヴァントへと吹き飛ばされ、斬り飛ばされ、突き飛ばされ、かじられ、あちこちを移動させられるアーチャー。
  傲岸不遜を体現した最古の英霊の姿はもうそこにはない。戦いにすらならない蹂躙があるだけだ。
  それでもアーチャーは生きていた。満足に反撃すらできず、もしかしたら気絶しており、周囲には休むことなく浴びせられる敵の攻撃がありながら。アーチャーは現界し続けていた。
  ケフカの言った、痛めつける、をそのまま実行に移しているのがよく判る光景の中で、まだアーチャーは殺されていない。
  「むほほほほ、上出来、上出来。では、最後の仕上げといきましょう」
  ケフカは一方的な状況と英雄王ギルガメッシュの無様な様子を見ながら笑う。そして背中から生えた六枚の羽根を大きく広げ、両手を前に突き出した。
  それを合図と見たのか、アーチャーを痛めつけていたサーヴァント隊の動きが止まり、アーチャーが地面に落下する。
  ピクリとも動かず、まるで死体のように横たわるアーチャー。
  ケフカは両手の親指と人差し指で小さな三角形を作りながら、歌うように叫ぶように誇るように褒め讃えるように告げた。
  「出でよ伝説の剣豪!」
  ケフカがそう言うと、指で作った三角形の中央にオレンジ色の六芒星が浮かび上がる。支えなど無い空中に浮かぶそれは魔石の中に光る輝きと全く同一で、けれど周りを覆うはずの緑色の鉱石が無いのが決定的な違いになっていた。
  そこに浮かぶオレンジ色の六芒星は回転を始め、徐々にその大きさを増して、ケフカの手の中から前に移動する。
  回転が速くなればなるほどケフカの前へと動き。最初は指先でつまめる程度の大きさだったモノが倍々に大きさを膨らんでゆく。
  「我が魔力にて幻獣の殻を破り現界せよ――」
  ケフカがそう唱え終える頃、もはやオレンジ色の六芒星だったモノは全く別の何かに変わってしまっていた。あまりの回転の速さにオレンジ色の円にしか見えなくなった。
  その円の中央から何かが現れる。
  それは片手に槍を持ち、六芒星の色と同じオレンジ色をふんだんに取り入れた鎧を着こんだ武者だった。
  ただしその大きさは大柄なライダーの体格を更に上回っており、人の範疇を超えた怪物と見る者もいるに違いない。
  頭巾の隙間から見える顔には歌舞伎における隈取のような模様が描かれており、地肌に当たる部分は全く見えなかった。
  魔石を用いての召喚とは明らかに異なるが、現れたのもまた幻獣だ。
  呼び出された彼は、幻獣でありながら強者との戦いに勝利して、戦った強者が持つ名工の武具を奪うことを最上の喜びとする武具コレクターでもある。
  その名を『ギルガメッシュ』。
  「ひょっ、ひょっ、ひょっ。魔石を持ちいらぬ召喚。十分な仕上がりですね。あとは、同じ『ギルガメッシュ』の名を持つ英雄王を殺すだけです。さあ、あんな奴なんて斬っちゃいな!」
  ケフカは地面に落下したまま動かない『ギルガメッシュ』を見ながら、呼び出した『ギルガメッシュ』にそう命じた。



  ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆



  Side - ゴゴ





 「何故だ、朋友ともよ! 円卓の騎士の内でも、第一と称されたあなたがなぜ!? バーサーカーに堕ちてまで――」
  「アァァァァサァァァァァァァァァァァァァ!!!」
  セイバーの叫びがバーサーカーの咆哮によって消される。それを切っ掛けに始まった二人の騎士の戦いは二回ほど互いの剣がぶつかり合った所で一方的な展開へともつれ込んだ。
 約束された勝利の剣エクスカリバー無毀なる湖光アロンダイト。共に人類が精霊より委ねられた宝剣で、この世界に存在する『剣』の中では最上位に位置する宝具だ。
  剣に優劣は無く、後は使い手の技量こそが勝敗を分ける―――のだが。バーサーカーが怒りの咆哮と共に打ち込んで、セイバーが応じる構図が作られてしまっていた。
  端的に言えばセイバーは一度も攻勢に出ていない。
  今のセイバーからは戦う気が全く感じられず。目の前にいる敵を斬り殺して、勝利を掴もうという気概がまるで無い。それでも剣の英霊としての在り方がそうさせるのか、斬りつけてくるバーサーカーの剣を何とか捌いてはいる。
  いっそ泣き出しそうにも見える顔の様子からは動揺を隠して平静を装うとする余力すら無くしてしまったようだ。
  セイバーは理解していなかったのだろうか? 英霊として世界と契約し、アーサー王でなくなった時からかつては味方だった者と剣を交え、かつては敵だった者と共闘しなければならないい可能性がある、と。
  自分の存在を誰かに預けるというのは自分ならば決して起こさないであろう事象を強制的に押し付けられる危険を孕んでいる。たとえ、その『誰か』が『世界』だとしても、だ。
  その事実をセイバーは理解していなかったのだろうか?
  あるいは理解した上で『騎士としての自分を貫く』と強い意思を持っていたかもしれないが、状況を超える事象が降りかかってきて意思は呆気なく瓦解したらしい。
  同じ王でも、アーチャーとライダーならばすぐに持ち直す。けれどセイバーにはそれが無い。持ち直そうとする兆候すらない。
  つまらない―――聖杯問答の時にも思ったセイバーへの落胆がまたゴゴの心に浮かび上がった。
  ただし、ゴゴの落胆があろうがなかろうが、この場で戦っているのはセイバーでありバーサーカーなのだから戦いは続く。
  狂ったサーヴァントが剣の英霊であるセイバーを圧倒する。その様子は続いてゆく。
 湖の騎士サー・ランスロットが持つ本来の宝具『無毀なる湖光アロンダイト』。それはバーサーカーとして召喚されたが故に圧倒的な膂力と速度を誇るサーヴァントのパラメータを更に1ランク上昇させる驚異的な宝具だ。
  仮にセイバーが本調子でなかったとしても、真っ向から戦えばほとんどの場合はバーサーカーが勝つだろう。けれど、バーサーカーであるが故に彼が本来持ちえた剣技よりも腕力に物を言わせた戦い方に変化してしまっている。そこに僅かばかりの隙が出来ている。
  野獣のように戦っている訳ではなく、剣を用いて相手を斬ろうとしているのだが。技を駆使するのではなく力任せな印象を受けた。
  そして、その圧倒的な力の代償が目に見える形で表れた。
  「うぐっ――」
  それはマスターである雁夜にかかる負担。圧倒的な魔力消費だ。
 セイバーが持つ黄金の宝剣。真名を解放することで所有者の魔力を光に変換、集束および加速させることで運動量を増大させ、光の断層による『究極の斬撃』として放つ宝具『約束された勝利の剣エクスカリバー』。カイエンの目で真正面から見た結果、ゴゴはすでにその全容を掴んでいた。
 バーサーカーが持つ無毀なる湖光アロンダイトはこの約束された勝利の剣エクスカリバーの真名解放を常に行っているような宝具だ。
 圧倒的な破壊力を代償として消耗する魔力がとてつもなく大きい。それこそが無毀なる湖光アロンダイトの弱点である。
  しかもバーサーカーが聖杯戦争始まって以来の張り切りを見せているので、実体化しているだけでも魔力を消耗するサーヴァントの魔力消費はこれまでの中で最も大きい筈。
  マスターの魔力を糧として現界しているサーヴァントがマスターから新たな魔力を吸い出すのは当然。今の雁夜は剣と魔法を使って誰かと戦ったりするのはおろか、立って歩くのすら億劫なほど急速に魔力を吸われている状態だ。
  「雁夜おじさん・・・」
  「ア・・・、ス、ピル――」
  辛うじて自分以外の誰かから魔力を補充してバーサーカーに渡す程度は出来ているがそれしか出来ない。
  道路に両膝をついて魔剣ラグナロクの切っ先も当て、設置する三点で倒れる体を何とか支えている。そんな雁夜の両隣には桜ちゃんとティナがそれぞれ陣取って、お互いが雁夜の片手にそれぞれ両手を添えている。
  彼女らの周囲にはミシディアうさぎ達が輪を作り、結界の様に取り囲んでいた。
  雁夜の状況は文字通りの『両手に花』なのだが、それを楽しむ余裕は今の雁夜には無い。
  魔力吸収魔法の『アスピル』を唱えると、手を伝って桜ちゃんとティナの魔力がそれぞれ供給され―――その度にバーサーカーに消耗されていく。これまで味わった事のない急激な魔力消費と幾度となく行われる驚異的な回復が雁夜の体を急激に消耗させている。
  死に瀕するほど酷いモノではないが、雁夜が感じている気持ち悪さは過去最高であろう。
  脳みそが沸騰して焼けそうになり、血管には血が濁流のように流れ、心臓は早鐘を撃ち続ける。雁夜の意識とは裏腹に人として限界を感じた脳が先に屈服して気絶してもおかしくない。
  必死で魔力を吸われる自分と気絶しそうな自分を押さえつけて『今』をひたすら保持しようとしているのが見るだけで判る。
  桜ちゃんとティナ。途方もない才能を秘めた少女と莫大な魔力を有する女性。二人から魔力を吸い取って、雁夜は何とかバーサーカーの戦いを継続させていた。
  雁夜もティナも桜ちゃんもミシディアうさぎも一か所に固まり、セイバーとバーサーカーはその近くで一方的な戦いを展開している。まるで見届け人のように佇んで状況を見届けるストラゴスだけが唯一戦いの輪のすぐ傍にいながら、全く関わりを持っていなかった。
  もちろん周囲の警戒も怠らず、セイバーとバーサーカーの戦いの余波が雁夜たちにぶつかりそうならば防御する心構えを持っているが、戦いには加わっていない。
  そんなストラゴスだからこそ、ここではない他の場所で起こった変化をいち早く察知した。
  固有結界が強制的に解除されてゆく―――。
  ストラゴスは冬木市を覆い尽くすバトルフィールドごと結界が崩壊していく様子を感じ取り、真っ先に待ち構える最悪の未来を思い描く。
  「不味いゾイ!」
  冬木教会の方に移動したミシディアうさぎ達の情報から、アーチャーの全宝具解放によって結界が破壊されてしまった事実に辿り着くが、それは結界の崩壊を止める情報にはならない。
  一つは異空間として用意された冬木市、もう一つは建造物などの無機物に分類されるモノを破壊できない状況。二つの結界が作り出す戦いに適した空間がまだ形成されているが、一分どころか十数秒後には本来の冬木市へと戻ってしまう。
  咄嗟にストラゴスからゴゴあるいはモグに変身し直して新しく結界を張り直そうかとも思ったが、破壊したのがアーチャーで、しかもまだ健在ならば破壊し直される可能性は高い。
  バトルフィールドを再度展開したり、『踊り』で別の固有結界を作るとしても、冬木市全土を覆うほどの巨大なモノはもう張るべきではない。ケフカとアーチャーはあちらに向かっているロック達と、カイエンが加わったライダーに任せ、こちらはこちらでやるべき事をする。
  そうあるべきだ。
  ストラゴスは戦っている誰よりも全体を把握した、すぐにこの場をどうにかするために思考を切り替える。
  白兵戦では最強クラスのセイバー、狂っているが故に周囲への配慮など無いバーサーカー、こんな市街地のど真ん中で二人が戦えばどんな被害が出るか判らない。
  意気消沈したセイバーに対してバーサーカーが一方的に痛めつけてる構図なので『戦い』と呼んでいいかは難しいが、サーヴァントの膂力が強すぎてセイバーが吹き飛ばされただけでもコンクリート道路は削れて、ビルの壁面は凹み、ガードレールはひしゃげて、電柱は砕けるだろう。
  優勢劣勢は別にしてセイバーとバーサーカーがいるだけで周囲の被害は大きくなる。巻き込まれた一般人がいれば容易に死ぬ。
  今はまだバトルフィールドの効果が働いているので周囲の建物などは壊れはしないが、結界が解除されると同時に被害が激増するだろう。既に時刻は夜になっているが、バーサーカーとセイバーが戦っているのは片側二車線の大道路だ。どれだけ冬木市の警察が市民に外出禁止を言い渡しても、自動車の往来が無くなる筈はない。
  そうなれば人が死に、物は壊れ、秘匿されるべき魔術は衆人の目に触れる。
  一刻も早くセイバーとバーサーカーをここから遠ざけなければならない。『ベヒーモスーツ』を着込んでいるストラゴスも周囲から見れば奇人変人に見えるのはとりあえずその点は後回しにした。
  二人の英霊をこの場所から移動させなければならない。
  成すべき事を強く思ったストラゴスは大きく息を吸い込んだ。
  言葉では二人の英霊は止まらないと理解している。セイバーの方は放たれる言葉によっては静止させられるかもしれないが、今のバーサーカーは雁夜の令呪によって望んだ戦いに没頭している状況だ。
  移動させるなら力ずく以外には無い。
  小規模な結界をここに張ろうかとも考えたが。アーチャーがそうであるようにこのサーヴァント達ならば、戦いの余波で結界が破壊される可能性と結界の外側に移動してしまう可能性がある。時間が無いならまずは人気のない場所に移すべきだ。
  人気が無い場所ならば、バトルフィールドが破壊されても周囲への被害は最小限に収まり、神秘が露見する可能性も激減する。
  ストラゴスは息を吸い込みながらこの場で使うべき技を脳裏に思い描く。
  元々、この技はかつての世界で出会った敵だけが使える技で、敵の技をラーニングできる青魔導士のストラゴスでも覚えられない部類に入っていた。
  本来であれば使えない。そう理解している。
  だがきっと使える。そうも思い込んだ。
  この世界の知識を物真似して、この世界の魔術を物真似して、この世界の魔術師の属性を物真似して、この世界の宝具を物真似した。
  その成果として手に入れた一つに『変質』がある。
  難しい筈はない。不可能な事でもない。もとよりこの身は物真似に特化した存在なのだから―――世界が広いのと同じく、物真似にも果てが無い。
  何もかもを物真似できる。それが出来るからこそゴゴはものまね士ゴゴなのだ。
  かつての世界にはあった制限がこの世界に来たことで取り払われた。そうでなければものまね士など名乗っていられない。
  ならば出来る。
  ストラゴスの友、サマサの村に住むガンホーと一緒に追い求めていた伝説のモンスター『ヒドゥン』を見つけ、若いころになくした夢を果たした様に―――。
  不可能は、無理は、実現不能は。必ず『可能』に形を変える。変えてみせる。
  これまで出来なかった事も出来る。ストラゴスはそう自分を信じた。
 アトミックレイ、帝国インペリアル空軍エアフォースの召喚、裁きの光。冬木の聖杯によって降臨したケフカ・パラッツォが味方の誰も使えない技を使いこなす前例を作り出している。ならば同じものまね士ゴゴを核とするストラゴスに出来ない訳がない。
  躍動する筋肉を物真似し。
  結果に至る指針を物真似し。
  変質する魔力を物真似し。
  仮想する未来を物真似し。
  積み重ねた修練を物真似し。
  遂には技そのものを物真似する―――。
  それはストラゴスが覚えた技ではないが、技そのものは何度も目の当たりにしてきた。かつての世界ではコロシアムで安物賭けるとテュポーンが現れ、その度に何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も味わったのだから、参考以上に見飽きている。
  ストラゴスは戦いを続ける二人のサーヴァントへと視線を向けて、二つある鼻の穴を膨らませた。
  そして吸い込んだ息を鼻の穴から一気に撃ち出す。


  「鼻息」


  鼻の穴は二つ。放たれた風も二つ。ストラゴスの鼻の穴から現れた風の球体はセイバーとバーサーカーにそれぞれ向かっていく。
  撃ちだされた風の球体は最初1センチにも満たない小さな塊だったが、ストラゴスから離れていくごとに大きさを増していって、遂には3メートルほどの巨大な大玉へと変貌した。
 突然横から飛んできた風の大玉を察知して、セイバーは約束された勝利の剣エクスカリバーを、バーサーカーは無毀なる湖光アロンダイトをそれぞれ構えて風の塊を斬ろうとするが、形を持たない鼻息は剣で斬られても切断されず、形を損なわずに二人へ激突する。
 同じ風属性の風王結界インビジブル・エアで迎撃する時間は無い。
  セイバーは言うに及ばず、フルプレートの鎧の重さも合わせれば重量100キロはあるだろうバーサーカーの体も風の塊に運ばれて空へ飛んでいった。
  「やったぞ! わ、わしは、ついに限界を超えたゾイ!」
  半ば出来ると確信していたが、それでもこれまで使えなかった技が使えてストラゴスの胸の中に喜びが満ちる。
  二人分の人影が回転しながら夜の空を舞い、柳洞寺がある円蔵山を目指して吹っ飛んで行った。






  今の冬木市は聖杯戦争などという枠の中に納まらない自体に移っていた。
  極論すればゴゴにとって聖杯戦争など最早どうでもよくなっている。
  当たり前の話だが、今のゴゴの源泉にある物真似を止めるつもりは無いし、ものまね士としての誇りを投げ出して事態を放棄しようとしている訳では無い。ただ巻き起こる舞台を『聖杯戦争』に限定させる必要はないと考えているだけだ。
  これはドイツにいたゴゴが汚染された聖杯に乗っ取られて、ケフカ・パラッツォとなった時から予測できていた事態だ。
  たとえ一部であろうとも、神の名を冠した力を持つゴゴが敵になる―――。
  その状況は一都市を舞台にした戦争で収まる範疇を軽く超えている。だからこそ聖杯戦争に対する思い入れはむしろ消えた方が正しい。もっと別の言い方をするなら、視野をもっと広く持たなければならない。
  諦めにも似たその感情を後押ししたのは遠坂時臣と間桐雁夜との決着がついた点だ。
  聖杯戦争に観点を置けばサーヴァントに見限られたマスターが現マスターの一人に討伐されただけで、聖杯戦争にとって最も意味のあるサーヴァントの決着はついていない。
  だが間桐と遠坂の関係で考えれば、雁夜と桜ちゃんが抱えていた幾つもの問題が消えて、終焉に向けて一気に加速したに他ならない。
  ただし最大の敵ともいえるケフカ・パラッツォがいるので、ゴゴの戦いに関しては終わりは見えてもまだ障害は多い。
 聖杯戦争と言う枠に押し込めていた行動範囲を更に広げる必要がある。そう結論付けたゴゴは―――宝具『妄想幻像ザバーニーヤ』で分裂はしていても『己が栄光の為でなくフォー・サムワンズ・グロウリー』で変身していない―――ロックでも、セリスでも、マッシュでも、カイエンでも、リルムでも、ティナでも、ストラゴスでもない―――ものまね士ゴゴは行動を開始する。
  かつてエドガー・ロニ・フィガロに変身して、これまではバトルフィールドと『愛のセレナーデ』で構成された二重の固有結界の片方を構成する為にずっと戦場から離れて上空に居続けたが、結界が破壊されてしまうなら維持は必要ない。
  空を飛ぶブラックジャック号は透明になってるので固有結界が解除された後の冬木市の空に居続けても問題はないが。何者にも束縛されずに行動できるゴゴは今の状況では希少だ。何もせずに滞空し続ける訳がなかった。
  ゴゴはブラックジャック号の操舵輪から手を離し、肩の上に浮遊している三つのリールに視線を送る。
  するとポンッ! と音を立てて、飛空艇の図柄が揃っていた三つのリール―――セッツァー・ギャッビアーニの特技『スロット』が消滅し、それによって作り上げられていたブラックジャック号も姿を消した。
  いきなり足場が焼失し、空の上へと投げ出されるゴゴ。重力に引かれて自由落下を始めるが、ものまね士ゴゴに焦りや恐怖は無い。
  「レビテト――」
  空から飛び降りて何事もなく着地する方法などもう知っている。ただ必要だからそれをするだけだ。
  ゴゴは冬木市の新都、それも駅前中心街から少し離れた場所にある住宅街へと降りて行った。
  冬木教会からも離れた位置にあるそこは聖杯戦争における価値ある場所ではない。霊地は無く、どこかの陣営が拠点を構えている訳でもなく、聖堂教会のスタッフの常駐場所になっている訳でも無い。
  聖杯戦争で考えるなら、何もない場所、と言うしかない。あえて価値をつけるなら聖杯降臨に必要な霊脈の一つ―――けれど一番目に格高い霊脈である柳洞寺が立つ円蔵山、二番目の遠坂邸、三番目の冬木教会。これらに比べると最も格が劣る四番目の霊脈である冬木市民会館が近くにあるのが唯一の付加価値と言えるが、『近く』であってゴゴが下りていくのは四番目の霊脈そのものではない。
  ここに何があるのか?
  事情を知らない者なら首をかしげるだろうが、落下していくゴゴの目は路上を歩くとある一家に注がれ、ただそこだけを見つめ続けていた。
  こんな夜遅くを出歩いている理由は何か? 地面にたどり着くまでにまだ時間があるので、ゴゴ最初はゴマ粒以下の小ささにしか見えていなかったその一家を捕捉しながら考える。
  間桐邸のある深山町から新都までは距離はあるが、バスやタクシーなどの交通機関を使えば早く移動できる上に、徒歩での移動だとしてもこれほど時間はかからない。
  勝手な想像になるが、あの一家は間桐邸から強制的に追い出された後、落ち着くためか何か別の理由で時間を潰したのだろう。ただ移動するだけだったならば、こんな夜遅くまで外を出歩いているのはおかしい。
  もしかしたら、彼らは冬木で起こっている事件に間桐が何らかの形で関わっている自分たちの予測を信じ続け、新しい情報を求めて知り合いの所に徘徊していたか、警察署にでも赴いて話をしたのかもしれない。
  それとも単に三人の中の一人が落ち着くまで帰らなかったのか・・・。
  彼らは彼らなりに真実に近づいて自分たちの身を脅かす危険から遠ざかろうとしたいだけなのかもしれない。何らかの行動を起こしていたのだとしても、すでに日が暮れた状態で外を歩いているのは不用心と言うしかない。
  警察は市民に夜間外出の自粛を呼びかけ、多くの者はそれに従っている。
  だからこそ冬木教会の近くで行われるケフカ達とアーチャーの一方的な戦いは誰にも見られずに継続し、自由に動けるゴゴはこうして周囲の人気のない状態でとある一家へと接触できてしまう。
  彼ら三人は自分たちは危険に出会わない等と思い込んでるのかもしれないが、巡り合わせの悪さはすでに証明されている。
  今、このタイミングで、自由に動けるゴゴが、家に戻れていない彼らと接触できてしまう。これは彼らにとっての最悪とは言えないだろうか?
  ゴゴは彼ら三人の運の悪さを思いながら、どうしてこんな事をしているのかも考えた。
  今からやろうとしている事は別段この一家を巻き込む必要など全くなく、むしろ関わらせると厄介な事態になるのはほぼ間違いない。
  彼ら三人―――正確にはその中の一人を巻き込もうとしているのは、数合わせ以上の意味はなく、別に他の者でも、ゴゴ自身でもよかった。
  けれどゴゴはここにいる。
  何故か? ゴゴはその理由を『素養を持つ一般人がいきなり強大な魔術に関わればどうなるか?』を知るための実験だと分析する。
  衝動と言い換えてもいい。ゴゴの知識欲と言い換えてもいい。
  幾つもの魔法、技、そしてこの世界の魔術、宝具。様々なモノを物真似し続けてきたが、今だにものまね士ゴゴにとっても人の心は多くの未知を残したモノであり、決して物真似し尽くしたとは言えない謎に包まれた世界だ。
  時に脆く、時に強く、時に小さく、時に大きく。
  願いを心に宿し、一年の修行を経て、敵を倒すに至るも、その敵を殺さなかった雁夜のように―――。千差万別、多種多様。常に形を変えて信じられない力を発揮する。それが心だ。
  心を知りたい。
  心を動力にした行動を見たい。
  心を物真似したい。
  それが今のゴゴの中にある願いであり衝動だった。
  色々考えている内に地面は随分と近くなり、ゴゴの魔法の影響範囲にまでその一家は入り込んだ。
  「ストップ」
  ゴゴは落下中ながらも、彼らから見たら数メートル上空から魔法を唱える。
  言葉の上では『止まれっ!』と命じたように聞こえるかもしれないが、裏の世界の基準で考えれば静止の魔法をかけたのだ。
  三人の中の一人―――息子と同じ赤毛を持つ父親の動きが止まる。
  すぐ近くで起こる静止という異変と頭上から舞い降りた声。手を繋いで一緒に歩いていた子供が起こった異常に導かれて上を見上げてくるが、その時にはもうゴゴは地面に着地していた。
  突然、目の前に現れた奇怪な人物に三人の中の一人―――母親が目を丸くして、一瞬後には悲鳴を上げそうになってるが、それが口から放たれるよりも前にゴゴはもう一度静止の魔法を唱える。
  「ストップ」
  対魔力防御など欠片も無く、そんな準備すら出来ない一般人にゴゴの魔法はよく効いた。
  横並びで歩いていた三人。その両側にいる両親が突然固まってしまい、中央にいる子供はいきなり起こった異常事態をただ呆然と見ていた。
  「こうして会うのは二度目じゃゾイ」
  ゴゴは相手の様子を全く気にせず、外を出歩く時に作っていた口調で喋り始める。
  この一年で『色素性乾皮症を患い日に当たらないよう厚手の格好をする老人』であり『間桐臓硯』を作り続けてきて、それは間桐邸がある深山町に限らず、新都に現れても問題ないよう衆人の目に晒されるように行動してきた。
  仮に誰かが周囲から話す様子を見ていたとしても、怪しまれはするだろうがすぐにそれが『深山町に住む怪しい格好のお爺さん』に切り替わる。
  一度目に出会った時はストラゴスの口調を真似せずに、ものまね士ゴゴとして話していたが、住宅街の中だからこそストラゴスの口調を物真似する必要があった。
  ゴゴは言う。
  「また会ったのう、士郎」
  ただただ目を丸くして、呆然と見上げる子供―――キャスターに誘拐され、体の内側から海魔を召喚されかけ、恐怖に怯え、河童にさせられ、眠らされ、秘密にすると言いながら両親に魔法を語り、夢の世界で何度も何度も拷問された―――赤毛の子供、士郎に向けて、ゴゴは言う。
  「怯えんでもいい。わしはお主を罰する為に現れた訳ではないゾイ。ただやってほしい事が合って頼みに来ただけじゃ」
  「ぇ・・・・・・」
  そこでようやく小さな呟きが士郎の口から出てきた。
  いきなりの申し出に驚いたのか、それとも最初から聞いていたけど頭が理解に追いついていなかったのか。行動に直結し揺れ動く心が見えない筈なのに形を持って『士郎』を作っているようだ。
  素直な人間ほど心の形は人の形になって見える。
  ゴゴはそんな見えないけど間違いなくある心を観察しつつ、ここに来た最大の目的を言葉とした。
  「悪を滅ぼす正義の味方にならんか?」



  ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆



  Side - 言峰綺礼





  もし仮に聖杯が私の求める『道徳の教えとはまるで真逆の歓喜を得た魂が実在する意味』を与えるのならば、それは聖杯を求める理由たり得る。
  これまで毛ほどの価値も見出さなかった聖杯だろうと、そこに僅かばかりの意味が生じる。
  だが私の目の前に現れた人物―――。かつてはこの男にこそ私が求める答えを見出していたが、出会う以前に私は答えを得た。そして想像していた衛宮切嗣の在り方は私の想像とは真逆の位置にあった。
  衛宮切嗣は言峰綺礼が癒しようのなかった飢えと埋めようのなかった喪失を愚弄する存在だ。どうしてそれを赦せよう? 憎まずにいられよう?
  そう考えた時、私は、聖杯に奇跡を託した男の理想を目の前で木端微塵の砕いてやるのも面白いと考えた。
  私にとっては僅かばかりの価値しかない聖杯であろうと、衛宮切嗣から奪い取り、その果てに絶望があるのならば意味はある。
  アサシンのマスターとして戦うのではない、アーチャーのマスターとして戦うのではない、父を殺したであろう男に復讐する息子として戦うのでもない。ただ私は言峰綺礼として衛宮切嗣を無力化し、叶わぬ望みを奴の眼前に叩き付けるために戦うのだ。
  ビルの屋上から飛び降りる直前、一瞬前に私の立っていた場所を弾丸が通り抜ける。
  銃についての知識は本職に遠く及ばない私でも威力よりも連射性を上げた機関銃であることは察しがついた。あれならば代行者特製防護呪札で強化したケブラー繊維製の僧衣で弾き返せる。
  自由落下では恰好の的になるので、最上階の窓枠に到達すると同時に足を引っ掛けて下に跳躍した。
  飛び降りる速度を更に加速させ、銃弾から身を守る為に両腕で頭部を保護する。
  普通の人間ならば投身自殺にしかならない速度の中、地面に到達する直前に腕と肩に衝撃が走った。銃弾が当たったらしい。だが、貫くほどの威力は無く、この程度ならば多少落下のバランスを崩すのが関の山。
  やはり衛宮切嗣の持つ機関銃と思わしき銃はさほど危険性は無い、むしろ一度も発射されていないもう一方の古風な銃こそが奴の切り札と考えるべきだ。
  どれほどの威力があるのは未知数だが、僅かに見えた銃口の大きさから機関銃の威力とは比較にならない破壊力であろう事は察しがつく。
  崩れたバランスの中で足を下に入れ替え、着地と同時に横に飛んで的を外す。速度を上げた状態でコンクリートの地面への強引な着地で足が軋むが、大勢には何の影響もないと確認。
  視界に見える衛宮切嗣は機関銃を下ろし、古風な銃を持ち上げて私に狙いを定めている。
  こちらが黒鍵での投擲ではなく力の調整がかけやすい近接戦闘に持っていこうとしているのを見抜いているのだろう。そして自らの技量ならば私の動きを考慮した上で射抜けると思っているに違いない。
  ならばその予測―――真っ向から突き崩す。
  右へのジャンプからの急停止、即座に左への転身。フェイントを入れて的を外そうとするが、衛宮切嗣は私の動きに対して完璧に狙いを定めてくる。
  撃たないのはまだ距離が開いているので更に距離が縮まれば確実に撃つ。故に私は前に出た。
  奴にとって必中の距離にまで迫る数瞬。片手に三本、両手に合計六本の黒鍵を構え、父より受け継がれた令呪を起動させる。
  奴が発砲すると同じく黒鍵に過剰な魔力を注ぎ込み、一気に刀身を倍以上に膨張させた。もともと魔力で編まれていた刀身に込められる魔力量を超えた暴発同然の魔術行使だが。ただ一度限りの銃弾を防ぐならば事足りる。
  頭と胸を起点に扇状に広げた六本の黒鍵によって視界が一時塞がれるが、真正面から迫る銃弾が着弾するのを感じとり、私の想定通りに事が進んでいるのを確信する。
  おそらく直撃すれば人体を軽く破壊するだろう威力を持つ一発の銃弾、その威力を完全に殺した黒鍵の刃が全て崩壊した。
  「なっ!!」
  魔力によって強化された黒鍵で拳銃を防ぐと思わなかったのか、あるいはもっと別な理由で驚いているのか。開かれた視界の向こう側で驚く衛宮切嗣を見つけ、戦っている状況下で驚くなどと悠長な事をやる愚かさを思った。
  隙を見せるのならば突かせてもらうまで―――。殺すためではなく生かして捕える為、頭ではなく肩を狙った右脚が轟然と振り上げられる。
  だがここで確実に衛宮切嗣を捉えた筈の右足が空を切った。追い打ちにと続けて放った左脚すらも敵を捉えられなかったのだ。
 本来は相手の頭部を狙った上段の蹴り上げ、その足を下げる反動で繰り出すもう一方の足で再び上段を蹴り上げる。多少形は変わったが、八極拳の技が一つ、『連環腿れんかんたい』が避けられた。
  いつの間にか遠く離れている衛宮切嗣を見つけ、何らかの魔術行使によって移動速度を倍速にまで引き上げたのだろうと予測する。
  避けられるとは思わなかった。その点だけは僅かな驚きに値するが、倍速で動くと判ったならばそう弁えて間合いを見計らうだけの事。
  過剰魔力の流入によって刀身が完全に消滅した六本の黒鍵を捨て去り、無手で構えを取る。目算で七歩、この間合いならば新たに黒鍵を取り出すよりも四肢を用いての攻撃の方が早い。
  次は逃げられると思うな。
  再装填のために古風な銃を開く。それを合図として、開いた間合いを何の足捌きも見せずに滑空する。
  八極拳の秘門たる歩法。更なる驚愕に目を見開く衛宮切嗣の懐へと入り込み、踏み込んだ右脚がコンクリートの地面を強力に踏みつけ、右の縦拳を心臓目掛けて発射する。
  震脚によって作り出された爆発的なエネルギーは膝を通って腰へと渡り、体の各部を渡る過程において倍加されてゆく。
  足の踏み込み、膝の屈伸、腰の回転、肩の捻り。全ての力が発射された腕を伝って拳を凶器へと変える。
  金剛八式、衝捶の一撃―――。


 オレに魔力を献上せよ!!


  全く予測していなかった言葉が脳髄を揺らす。横から体当たりさせられた様に体勢が崩れ、衛宮切嗣の心臓へと向かっていた拳が腕ごとずれてしまう。
  立ちくらみに似た酩酊感が意識を奪い去ろうとするが、自分を強く意識して技の途中で気絶するような無様な状況に陥らぬよう努めた。
  ほんの一瞬でありえた筈の未来と、想像すらしていなかった未来が入れ替わる。
  右の縦拳は敵の心臓ではなく左肩へと向かってしまっていた。強引に拳を戻そうとしても、渾身の力で放たれた打撃は容易く止められるものではなく、止めるまでに必要な一瞬を私は自分を律する為に使ってしまっていた。
  不自然な体勢から繰り出してしまった拳が衛宮切嗣の肩に衝突する。衝捶の一撃が本来持ちえた威力は大幅に削がれ、男一人の体勢を崩して多少の痛みを与えるには十分な威力を持っている。
  左肩に衝突すると同時に肩の骨を浅く砕く感触が手に伝わってくるが、それは本来持つ威力に比べれば大幅に劣った。
  衛宮切嗣が左肩を基点に後ろに持っていかれて体勢を崩すのが見える。けれど、私自身も転倒すらしかねない状況だったので、踏み込んだ両足でしっかりと大地を踏みしめる。
  次の瞬間―――。後ろに倒れてゆく衛宮切嗣の回転速度が上がった。
  倍速で動くと理解した上で金剛八式を打ち込んだ。その『倍速』を更に上回る速さで回転し、体勢を立て直し、左手に持っていた機関銃を地面に落とし、右手に持つ開かれた古風な銃が左に向かう。
  だらりと下がった左腕が弾丸を持ち、右手は肩を砕かれたが故に動けない左手に合わせて下げる。十本の指が高速で動き、各々の役目を発揮して『再装填』の結果へとたどり着くためにめまぐるしく動いていた。
  まずいっ!!
  私の目は驚異的な速度ながらも起こった事象の全てを目撃した。だからこそ接近戦では私に大幅な分があっても、射撃においては名手であろう敵の攻撃を許してしまうと理解する。
  再装填を行わせる前に追撃するか、大きくフェイントを使っての撃たせてからの回避か・・・。


  献上せよっ!!!


  再び頭の中に声が響く。
  それが誰の声であるかを理解するよりも前に私の肉体は攻撃ではなくその場からの回避を選択していた。攻撃に転じたとしても、再び頭を揺らす酩酊感が私を襲うのは判っていた。
  開かれた古風な銃が閉じられ、狙いを定めてから発射するまでの数瞬でもう一度攻撃は行えるとしても、それが必殺の一撃になる保証は限りなく薄い。
  だから私は足に渾身の力を込めてコンクリートの地面が蹴り砕かん勢いで横に動いた。的を外す為、一秒にも満たない時間の中で急制動と急停止を幾度も繰り返す。
  それでも音速に近づいた銃から放たれた弾丸を完全に回避するには速度不足であった。
  衛宮切嗣は私の挙動に合わせて銃を動かし、人体を的に見立てた場合に最も大きな胴体に狙いを定めた。
  弾丸が発射された―――。そう認識すると同時に、ケブラー繊維製の僧衣を貫き脇腹を大きく抉った。
  「ぐっ!」
  先ほど衛宮切嗣が肩を起点にして後ろに吹き飛ばされたように、今度は私が脇腹を中心に回転させられる。横移動に費やした移動速度もそれに加わり、望まぬ結果とはいえ衛宮切嗣との間に距離が開いてしまう。
  それは互いの状況を見極め、次の一手を仕掛ける為の時間を手に入れたと同義でもあった。
  正確な大きさは触診しなければ判らないが、直径数センチほどの肉をまるごと抉られ、猛烈な痛みがそこを中心にして全身へと広がる。臓器も傷ついているであろう事が容易に予測でき、僧衣を伝い流れ落ちる血が足元に大きな水たまりを作ってゆく。
  深手だ。いっそ絶叫し、膝を落とし、地面を転げまわれたら幾らかは楽になれるだろう。
  だが私はそんな事をしない。代行者として積み上げてきた経験が敵を前にしてそんな事をすれば『殺してくれ』と言っているのと同じだと理解し、痛みに悶絶するよりも早く治癒魔術で痛みを軽減させる方が先決だとも理解していた。
  私は一瞬後には気絶してもおかしくない痛みを懸命にこらえ、いつでも攻撃に転じられる構えを維持したまま、令呪によって効力を倍加させた治癒魔術を使いつつも敵を観察する。
  開かれた距離の向こう側に立つ衛宮切嗣は私と同じように両足で立ってはいたが、何も持たぬ左腕を力なく下げ、右手に私の体を貫いた古風な銃を持っている。
  新鮮な空気を求める様な荒々しい呼吸は砕かれた肩の痛みだけが原因ではない。おそらくあの時見せた倍速を超える三倍速と思わせる魔術行使で肉体が傷ついたのだろう。
  衛宮切嗣の心臓は破壊され、私の治癒魔術によってほんの僅かばかり生き長らえるだけの木偶に成り下がる筈だった。敵に命を握られる男が一人出来上がる筈であった。
  だが―――。現実に私の前にあるのは痛みを負いながらも五体満足で立ちふさがる敵。そして急所こそ傷つかなかったが深手を負った私だ。
  治癒魔術がほんの僅かだが痛みを和らげた時、私は腕に刻まれた預託令呪の何画かが消滅しているのにようやく気が付く。痛みのあまり腕を伝う魔力の感触が減っているのに気づくのが遅れたのだろう。黒鍵の強化と治癒魔術に使った令呪以上の数を失っている。
  私が令呪を使った―――。いや、あの時聞こえたアーチャーの声によって、私はアーチャーに魔力を送る為に令呪を使わされたのだ。
  本来であれば令呪はマスターが持つサーヴァントに対する絶対命令権であり、サーヴァントがマスターに対して使わせるものではない。
  しかし現実に起こってしまった事実は決して覆せない。
  あの一瞬。私は英雄王ギルガメッシュの声に屈し、無意識の内に令呪を使ってしまったのか。それとも、契約を結んだマスターが使うはずだった令呪をアーチャーが何らかの手段を用いて使わせたのか。
  目の前に敵を置いた状態で考察する意味は無い。経緯がどうであれ、遥か遠方で戦っているアーチャーが令呪による更なる魔力供給を必要とし、再び起こり得る可能性があるとだけ判れば今はそれで十分。
  敵が新たな行動を起こす素振りは無く、もしこの状態があと六秒維持されるならば最低限の治癒が完遂する。
  全快には程遠く。動いた拍子に体の中身が外に漏れだす可能性は大いにある。それでも痛みに耐えて八極拳の歩法を行い肉体を動かすだけならば事足りる。
  一秒が永遠に感じる。
  もしこの状況で衛宮切嗣が新たな銃撃を行うのならば、回避のために令呪で肉体を強化させて強引に動かさなければならない。出来ればそのような真似はしたくは無い。
  そう考え、まだ二秒も経過していない時。不意に上空から接近する『何か』を私の感覚が捉えた。
  視野の外であり死角でもある箇所から迫る『何か』。攻撃にしてはあまりにも遅く、ビルの壁面を足場にして跳び下りた私に比べれば自然に落下しているような緩やかさで近づいている。
  これは何だ?
  敵から視線を外す危険を知っているので、迫る何かを見て確認する愚挙は行わない。けれど、これが攻撃であるならば何らかの対処は取らねばならない。何しろ遅いと感じても、それは紛れもなく私を目指して落ちてくるのだから。
  前に立つ敵から意識は外さず。けれど上から降ってくる何かにも注意を向け、私は僅かに体を引いた。小さく動くだけでも直撃は回避できる。
  そして『何か』が私のすぐ前で落ちてゆく。
  何もないのであれば何も行動すべきではない。
  ただ落ちてくるだけならば、避けるだけで事足りる。
  そう理解しながら、私はその『何か』が視界の隅を通り抜けようとした瞬間、咄嗟に右手を伸ばしていた。
  放置すればその『何か』は地面に落ちてしまう。それは地面にぶつかって砕けてしまう。そんな未来を許してはならない―――受け止める為に頭よりも先に体が反応したのだ。
  何故、そんな事をしてしまったのか私には判らない。ただ、そうしなければならないと肉体が行動してしまった。
  だが回復でもなく観察でもなく攻撃ですらない行動は敵対する衛宮切嗣に対して見せてはいけない隙を見せる。そう判っていながらも、私は落ちてきた『何か』に手を伸ばし、掴むと同時にそれが幼子の石像であると理解した。
  それが衛宮切嗣との戦いの前に見た物だと考える前に、視界の中で衛宮切嗣が再装填の為に動くのを察知する。
  古風な銃の中央が開かれ、銃身は落ちて、弾き出された薬莢が空に舞う。満足に動かせない筈の左腕がいつの間にか新しい弾丸を掴み、右手だけを動かして左手の下に持っていき再装填を行っていく。
  再び倍速で動き始めた衛宮切嗣の動きを確認した瞬間、心の底から湧き上がるのは焦燥感であった。
  降ってきた石像を掴むために私は体勢を崩し、避ける為の時間も攻撃に移る為の時間も使ってしまい、見て確認する以上の行動を起こせないでいる。奴が銃身を振り上げ、薬室を閉鎖し、撃つまでに一秒もかからない。確実に向こうに先手を許してしまう。
  別の黒鍵を構え直し令呪で刀身を増幅させる時間は無い。まだ最低限の治癒を終えていない体では動いても的になるだけだ。
  そこで私は撃たれるのを覚悟の上で、生きる為に令呪を発動させる。治癒魔術を継続させながら、痛む脇腹は意思の力でねじ伏せた。
  体機能強化、反射の加速、右前腕の瞬発力増幅―――。
  強化された視力が銃から放たれた弾丸が真正面から迫るのを見て、防弾仕様の僧衣を更に強化するのは間に合わないと切り捨てる。
  掴んだ物ごと右手を振りかざし、魔装の凶器と化した肘先が螺旋を描き、弾丸を迎える。
  空気を裂き、音速に迫る弾丸を化勁―――相手の攻撃力を吸化あるいはベクトルをコントロールする身法―――によって受け流す。本来であれば人の肉体が弾丸の速度に追いつくなどありえないが、令呪によって極限まで強化された腕が超速となり迫る弾丸に対抗した。
  振った腕の勢いで戦いの前に渡され右の袖に忍ばせておいた針が右手に持つ石像へと当たった。その瞬間、石像を握る右手の感触に変化があったが、弾丸の直進を捻じ曲げる為に放った渾身の化勁を成功させる為に他の事を考える余裕はない。
  放たれた弾丸は石像の一部を砕き、私の右手にねじ込まれ。けれど貫通には至らず、超速で振り抜かれた腕とケブラー繊維の袖をレールに見立てて腕の中を直進していく。
  皮が裂け、血管が千切れ、肉が削れ、骨が抉られ。令呪で強化された生身の肉体が怪音を放ちながら銃弾の威力を削っていく。
  完全に殺し切れなかった運動エネルギーに導かれ、右手が振り抜かれるより前に銃弾は私の右肘を突き抜けた。だが、私の眉間を狙っていた軌跡は令呪によって強化された功夫と混ざり合い、私の右側へとずらされて地面を穿つに終わる。
  凌いだ―――。
  見せてしまった隙の代償は右前腕。右手事態は痛みながらもまだ動くが、ボロボロになった前腕も指も満足に動かせない。当然、右手に持っていた物は握る力すら失った右指の拘束を抜けて地面へと落下する。
  びちゃり。と音がした。
  石像が出す音とは明らかに異なる音だ。視界の隅に僅かに見えるそれが何であるかを確認すると、あったのは頭部の右半分をほとんど消失させ、そこから大量の血を溢れ出す幼い少女だった。ビクビクと体を揺らしているのでまだ辛うじて生きているようだが、そう遠くない内に死ぬ。
  あまりにも唐突に見せられたそれが私が今落としたモノだと理解すると、私の口から自然と声が漏れた。
  「針は、この為――、か・・・」
  衛宮切嗣の所へと移動する直前、私は石像を見せられ、そして金色の針を渡された。その時はこれが何のために使われる物か判らず、尋ねる気も起らなかったが、今ならば全てが理解できる。
  石化を解除させるための道具だったのだ。
  「ま、さか・・・」
  一発しか装填できないであろう古風な銃を私に向けたまま衛宮切嗣が呟いた。
  あの時、ケフカ・パラッツォは言った。
  この石像は衛宮切嗣の娘、だと。
  そして私に金色の針を渡しながらこうも言った。
  使ってみてのお楽しみ、と。
  全てはこの状況を作り出すために用意された。
  石像と化した衛宮切嗣の娘を持ってきたのも、石化を解除する為の道具を渡したのも、受け取れば私が隙を見せると判りながらわざわざ石像を落としたのも、弾丸を受け止める為に私が石像を遮蔽物として使うであろう事も。
  全ては繋がっていた。
  「親が子を殺す。何とも素敵な破壊じゃなーい」
  「イ、リヤ・・・?」
  頭上から楽しげな声が聞こえてきて、前にいる衛宮切嗣は呆然と続ける。
  銃こそ構えていても、油断なく纏っていた筈の戦闘の意思が少しずつ霧散しているのが判る。隙を見せた今ならば、距離を詰めて攻撃すればどんなものだろうと通り、死に至らしめられると確信する。
  今の私では渾身の踏み込みは出来ず。攻撃に用いれる手は左だけになった。それでも足があり、攻撃手段は幾つも残っている。戦えなくなった訳ではない。
  だが私は止まった。
  ただ衛宮切嗣の顔を見るに留まった。
  そして私は、私自身理解していなかった石像を受け止めてしまった行動の真意を知る。
  そうだ―――。至る経緯は異なり、理由もまた異なった。それでも私はお前のその顔が―――絶望する顔が見たかったのだ。
  私はこれが見たかった。だから衛宮切嗣の娘だと頭で理解するよりも前に『言峰綺礼』という存在が反応してあの少女を盾にしようとしたのだ。
  あの男の計略に乗せられていたとしても、間違いなくこれは私も見たかったモノだ。
  苦痛に歪んでいく顔が心地よい。
  戦慄と焦燥と狼狽を混ぜ合わせた心を曝け出せ。
  悲鳴へと変わるであろう吐息が快い。
  事実を受け入れた瞬間、絶望を宿すその目をもっと見せろ。
  戦いの渦中にあり、腹部と右腕の激痛が私の体をどんどんといたぶる。それでも心の中から湧き上がる愉悦を止められない。
  いっそ痛むと知りながら笑い転げたいとすら思ってしまう。


  「すんばらしい『死』を見せてくれたご褒美に聖杯を授けよう。さあ、綺礼も一緒に行っちゃいな」


  衛宮切嗣の絶望を楽しむあまり、再び頭上から聞こえてきた声が何を意味するか理解するまでに時間を要してしまう。
  その使ってしまった時間と私の肉体に刻まれた負傷が混ざり合い、その場から脱する機を逃した。
  いや―――理由はそれだけではない。いつの間にか無人であった筈の冬木市に人が戻っていたので、それに驚いてしまったのが行動を起こせなかった最も大きな理由に違いない。
  こうなったのは衛宮切嗣が撃った時か?
  それとも私が衛宮切嗣の娘を地面に落とした時か?
  いつの間にか結界は解除され、周囲には人の往来があり、道路で戦っていた我々に不審な目を向ける自動車の運転者もいた。
  まだこの場に起こった何かを理解している者は聖杯戦争の関係者以外は皆無であろうが、早ければ一秒後には衛宮切嗣が持つ銃、私の大怪我、そして私の足元にいる衛宮切嗣の娘の死体のどれかを理由に悲鳴が上がっても不思議はない。
  愉悦と現状確認の為の思考、それが私の行動を遅らせた。
  私は上空から降り注ぐ黒い何かを避けられず、私の意識は一瞬にして闇の中へと引きずり込まれてしまう。



  ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆



  Side - ウェイバー・ベルベット





 色々あったけど、とりあえず未遠川での戦いを終えた僕らは神威の車輪ゴルディアス・ホイールで移動し始めた。
  御者台にいるのは手綱を握るライダーと僕。実感はほとんどないけど一度死んだ僕を二度と死なせないようにしてるのか―――今まで以上に僕にしがみ付いてくるサンだけだ。
  身じろぎするのも一苦労なんだよね・・・。
  一緒に行動してたカイエンの姿はなくて、少し前に同乗してたリルムって子もいない。
  彼らは一旦別行動をとって、別方向から冬木教会を目指すことになってる。何でも『ダッシューズ』っていう魔術道具を使って、ライダーに負けない速さで陸路を移動できるらしい。
  ライダーの飛行宝具に匹敵するほどの速さを発揮できる魔術道具、本当かな? ものすごく気になったけど、ライダーと同行してる僕には見れない知れない判らない。
  そう言えば結果的に僕らは共同戦線を張ってるみたいな状況になってるけど、この状況はどれだけ続くんだろう。
  もし僕らがバーサーカーと戦うことになったら敵として戦わなきゃいけなくなる気もするし、単に『聖杯戦争』で括って戦う限りは手出ししてこない気もする。深く話し込んだわけじゃないから、彼らが何を考えてどんな理由で何を目標にして戦ってるのか僕には判らない。
  今敵対してないだけいいのかな? 全部見た訳じゃないけど、キャスターの呼び出した怪物をたった四人で圧倒した結果があって、それが彼らの圧倒的な強さを明確に表してる。
 比較対象が個人と軍隊になるから判定は難しいけど、王の軍勢アイオニオン・ヘタイロイと同等と見ていい。あれが敵に回るのは出来れば避けておきたい。
  何だか時間が経てば経つほど判らない事が増えて、状況がどんどん複雑になって行ってる気がする。聖杯戦争で敵のマスターとサーヴァントを倒す、なんて短絡的な答えで事態が解決できる状況はもうとっくに過ぎてる気がした。
  答えどころか問題が何かすら今の僕じゃ完全には見えてない。
  それでも考えるのを止める訳にはいかなかった。ライダーのマスターに戻ったけど、令呪を失ってる上に僕が使える魔術じゃ援護にもならない。本当に魔力炉としているだけなんだ。
  だから、どんな状況でも思考を止めずに答えを探し続けなきゃいけない。それが今の僕に出来る戦いだ。
 神威の車輪ゴルディアス・ホイールで空を移動している間に結界が解けたのを感じた。動く者どころか夜に光る日常の灯りも無かった町が普通に戻ってく。
  何か変化があったんだ。そう思いながらどんな状況が待ってようと動じないで考え続ける気構えを持つ。
  でも―――状況は僕が考えられる予測を遥かに上回ってた。
  認めたくない気持ちはあるけど、聖杯戦争に参加してるマスターの権利を持ってる魔術師はキャスターのマスター以外は僕よりも格上の奴ばっかり。
  恐れもした。怯えもした。それでも同じ魔術師としての優劣はあっても、別次元の存在だって意識した事はない。
  だけど僕の眼下にあるそれは聖杯戦争だった筈なのに別のものに変わってしまってた。
  ここは本当に第四次聖杯戦争の舞台になってる日本の冬木? 世界を司る法則すら異なる別世界に紛れ込んだみたいな悪寒が背筋を通り抜ける。ここに来る前は『考えるのを止めない』なんて決意したのに、思考を放棄したくなった。
  「あれって、アサシン? あの槍はランサーだし・・・。海魔もいるから――、まさかキャスターも!?」
  「勢揃いとはな――。中々、見事な光景ではないか」
  僕は御者台の縁から身を乗り出して下を見る。ライダーは手綱を操って上空を旋回しながら見下ろしてる。
  カイエンとライダーから話を聞いた僕は、冬木教会で戦闘が起こってるなんて半信半疑だった。聖堂教会の監督役が管理する冬木教会で、中立地帯として不可侵が保証されてるから、そこで戦う奴がいるとは思えなかった。
  だけど戦闘は起こってる。
  しかも脱落して消滅した筈のサーヴァントが揃ってた。
  さっき大魔術と幻想種の攻撃で滅ぼされた筈のキャスターもいた。何これ?
  自然にこんな事が起こる筈ない。誰かの意思が介在しないとこんな事態にはならない。
  しかもそいつは聖杯戦争を構成する魔術に干渉して作り変えられる腕の持ち主ってことになる。始まりの御三家の誰かだとしたら、この地に拠点を構える遠坂か間桐のどちらかだと思う。
  確実に言えるのは英霊の再召喚なんて僕には絶対できない。そもそも『聖杯戦争』がどんな魔術で作られてるかすら僕には判らないんだから、判らない事はやりようがない。
  魔術師の中でも天才に部類される限られた人じゃなきゃこんな事は出来ない。
  僕の理解も予測も常識も超えた何かが起こってる。でも考えるのを止めちゃいけない。僕は自分を奮い立たせて状況を把握する為に目を凝らした。
  もしかしてあのぼろ雑巾みたいに吹き飛んでるのがアーチャー?
  ランサー以外は元々黒っぽい恰好してるし、夜だから見辛かったけど。よく見ればランサーもアサシンもキャスターも衣装の色がもっと黒くなって紅い刺青みたいな何かがあった。
  サーヴァントの強大な魔力に紛れて判り難いけど、あの血みたいに紅い何かから別の魔力を感じる。
  すぐ近くにある教会は夜なのに灯りが一つも無い。人の気配も全然ないように見えるから、監督役に何かあった?
  一度殺されてマスターじゃなくなった僕には、ライダーとの繋がりは残ってるけど、もうサーヴァントのパラメータを透視する能力が無い。だからあの英霊達が誰かに召喚されたサーヴァントなのか判らない。
  もし全員の能力値が透視出来たら、誰かの召喚されたサーヴァントだって判るのに。
  周囲に一般人がいないのがせめてもの救いだ。
  構図はアーチャー対それ以外。でもアーチャーはかなり痛めつけられてるみたいで、反撃する素振りがまるで無かった。地面に落ちても全く動かない。あちこちが割れた黄金の鎧が空からでも判った。
  ただ、一方的にやられてる状態で消滅してないのが不思議だった。
  少し離れた場所に六枚の羽根を持った誰かがまるでこの状況を支配する王者みたいに君臨してる。あれがケフカ・パラッツォ? カイエンの仇? あいつが聖杯戦争をここまで変えた? あれが僕らの敵―――? あいつの前にいるオレンジ色の鎧を着てるのは誰?
  見ただけでも判る事、見ただけじゃ判らない事。たくさんの要素が絡み合って一つの戦いを構築してる。
 短い時間でものすごく色々考えて頭が沸騰しそうになってると、一定の高度を保ってた神威の車輪ゴルディアス・ホイールが少し沈んだ。
  「では行くとするか」
  「お、おい! 様子見だけじゃなかったのかよ。あれってどう見ても脱落した筈のサーヴァントが全員いるぞ」
  僕は慌てて下じゃなくてライダーの方を見て怒鳴る。
  多勢は問題じゃなくて、アーチャーの様子を見に来るだけだった話がいつの間にか戦いに切り替わってる。それが問題なんだ。
  出会った時からライダーが僕の予想を簡単に裏切るのは知ってたけど、今回のは更に特別だ。
  「うむ。何やら我らの予想を遥かに上回る事態になっとるようだ」
  「だったら!」
  「一度は決着を諦めた益荒男どもが勢ぞろいしておるのだ、これは正に余の威光を奴らに知らしめる絶好の機会ではないか」
  そこで僕は思い出す。
  倉庫街の戦いの時からライダーはこうだった。敵がサーヴァント全員だろうと、臆するなんてありえない。
  敵が強大になればなるほど、むしろ望んで戦場へと馳せ参じるのが征服王イスカンダルその人なんだ。
  「それにここであの『ケフカ・パラッツォ』とやらを倒せば、カイエン含め誰もが余に平伏す可能性もあろう? 見てみろ、奴らも追いついてきたようだ」
  「・・・倒す敵を横取りされたら怒ると思うぞ」
  ライダーが親指を立てて後ろを指し示す。その指を追って見ると、未遠川がある方向から五人ぐらいの集団が冬木教会に向けて走ってくるのが見えた。
  一人一人が特徴的な集団だから、遠く離れていてもよく判る。カイエン達が来たんだ。
 「余の『王の軍勢アイオニオン・ヘタイロイ』を、アーチャーの『王の財宝ゲート・オブ・バビロン』で武装させれば、間違いなく最強の兵団が出来上がる。西国のプレジデントとかいう奴も屁じゃあるまい」
  プレジデント、つまり大統領は役職であって人の名前じゃないだけど、そういう無粋な言葉を挟ませない勢いがライダーにはあった。
  僕はただ黙ってライダーの言葉を聞く。
  「余とアーチャーが結べば、きっと星々の果てまで征服できる。ここで死なすには惜しい男よ」
 アーチャーと並ぶ未来を想像してるのか―――。すぐ下で敵にしか見えないサーヴァントが戦いを繰り広げて、神威の車輪ゴルディアス・ホイールは少しずつ滑空してるのに、ライダーは夜空を見上げた。
  その姿からは本気しか感じられなかった。あのアーチャーすら征服しようとしている決意しか伝わってこない。
  ライダーは本気だ。いつも通り本気でアーチャーをも征服しようとしてる。もしかしたら、あそこにいてバーサーカー以上に話が通じないように見えるケフカ・パラッツォと思わしき奴も征服しようとしてるのかもしれない。
  そもそもあれは何なんだろう?
  白い羽根を見た時は天使を想像したけど、同じように生えてる黒い羽根はむしろ悪魔を髣髴させる。
  魔術の実験で意図的に作り出された生物か何かだったりして。人の素体に別の動物を組み込んで一つの生き物として完成させた―――とか? 幻想種を作り出そうとして誰かが実験して、脱走して冬木にたどり着いた―――とか?
  「それとな・・・」
  予測だけの思考に向かおうとする僕を止めたのはライダーの言葉だった。
  手綱を握りながら、右手の人差し指だけを下に向けてライダーが言う。そこにはたくさんのアサシンがいる。
  「前の酒宴はあやつ等にぶち壊しにされたが――。まずは残った酒を飲み尽くすという話であった。あの瓶酒、まだ少しばかり残っておったから、それも頂かなくてはならん」
  「それが乱入の一番の理由だったりしないよな・・・」
  僕が殺されても、令呪を失っても、一時的にマスターじゃなくなっても、やっぱりライダーはライダーだった。
 その輝き続ける在り方につい朋友ともと呼ばれた出来事を思い出す。
  今は変則的なマスターとサーヴァントの間柄になったけど、僕はライダーの隣に並び立つ立派な僕でいたい。
  気の引き締めとライダーが腰に差していた鞘からスパタを引き抜くのはほぼ同時。あの戦場に無暗に突っ込むんじゃなくて、自陣へと招きよせるためにライダーは宝具を発動させる。
  「集えよ、我が同胞! 今宵、我らは新たな伝説に勇姿を示す!」
 王の軍勢アイオニオン・ヘタイロイを―――。
  手綱を操るライダーは空いた手でスパタを高々と掲げた。剣は光り輝き、一瞬の間すらなくどこからともなく熱風が吹き荒れる。
  砂の混じった暖かい風は冬の肌寒さを完全に吹き飛ばして、星空しかなかった筈の夜空が一気に煌々と照りつける太陽と青空に変わった。
  空から見下ろす東西南北はどこもかしこも陽炎に霞む地平線が広がって、この世界全てが砂漠になったんじゃないかって錯覚する。
  いや、そうじゃない。今ライダーの固有結界に隔離されたこの空間は空と砂漠しかないんだ。
  時空の彼方より招きよせた永劫の大平原。そこに一騎、また一騎と征服王イスカンダルの呼びかけに応じた英霊達が居並んで大軍勢を作り出していく。
  二度目だから驚きは無かったけど、この英霊の連続召喚が意味する事実を知ってしまったから、畏敬の念を感じずにはいられない。
  征服王イスカンダルと結んだ主従の絆は現世と英霊が住まう『座』の隔絶すらも容易く踏み越える。時空の彼方から王が呼べば、誰も彼もが征服王の掲げる覇道へと駆けつける。
 ライダーが王の軍勢アイオニオン・ヘタイロイの先頭に降り立って、ついさっきまで真下にいた筈の敵が遥か遠くに移動させれてるのに気づいても、僕の心は背後に並んでゆく英霊達とそれを率いるライダーに引き寄せられる。
  いきなり移動して今まで以上にサンが怯えて僕にしがみついてくるけど、そこに回す意識はほとんど無かった。
  この宝具は王と共にあるという誇りの姿そのものだ。共に戦うということへの昂ぶる血潮の轟きだ。
  こうなりたい。そうありたい。僕はそう思った。
 この一時だけ、僕は他の何もかもを忘れてただ征服王イスカンダルを―――そして王の軍勢アイオニオン・ヘタイロイを見入った。
  だからいつの間にか接近していた男の存在に全く気付かないで、声をかけられるまで近くに人がいるなんて事も考えられなかった。
  「ウェイバー・ベルベット―――だな?」
  僕の主観で考えればいきなりかけられた声にビクッ! と体を震わせる。
 神威の車輪ゴルディアス・ホイールの右車輪の後ろ側辺りから聞こえてきた声。僕は恐る恐るそっちを見ると、全身を黒っぽい衣装で固めて、頭にバンダナを巻いた細身の男が立ってた。
  確かこの男、キャスターと戦う時にいたカイエンの仲間の一人だ。ロックだったっけ?
  そこでようやく僕はライダーの作った固有結界の中にさっき接近してたカイエン達も巻き込まれてる事に気づく。
 王の軍勢アイオニオン・ヘタイロイとライダーとの間に出来た微妙な空間の中で、前衛部隊みたいにロック以外の四人が横に並んでた。
  「そうだけど・・・・・・」
  「俺の名はロック。今は少しでも戦力がほしいんだが、俺はまだお前がどんな奴か全く知らない。でもカイエンが信頼してるんなら俺もお前を信用してこれを預ける」
  そこにいる男と魔石『フェニックス』の本来の持ち主だって聞いた男の名前が合致して小さな驚きが生まれるんだけど、ロックって名乗った男の手から放り投げられた物体の方に意識が向いて、小さな驚きは一気に消滅した。
  それは緑色の鉱石だった。
  中央にオレンジ色の六芒星があった。
  見覚えがあり過ぎた。
  「魔石!?」
  「今のお前に一番縁がある奴が呼べる魔石だ、大事に使えよ」
  軽く続けるけど僕はその言葉を聞いていたけど聞いてなかった。
  『フェニックス』『ファントム』『ユニコーン』。信じられない幻想種たちを数多く見せられて、キャスターとの戦いでも今まで見たことのない幻想種を見せられた。僕自身も召喚したからこの魔石の凄さはよく知ってる。
  あの中にいた竜種―――。それのせいで殺されたんだけど、僕の心にあの竜種はしっかり刻まれてる。
  渡された魔石と他の魔石の区別は出来ないんだけど、これは紛れもなく幻想種を呼び寄せる魔術道具なんだ。
  また僕の手の中に魔石が戻ってきた。その事実に軽い感動すら覚えた。
  「おいおい、あんまり坊主を甘やかさんでくれよ」
  「あんたの宝具は確かに凄いんだが、あいつを相手にするにはもう少し戦力が欲しい所なんだよ」
  すぐ近くで聞こえてきた声が僕を現実に引き戻す。そして聞いてしまった不穏な言葉に一気に頭が冷やされた。
 英霊の大軍勢、王の軍勢アイオニオン・ヘタイロイ。僕はこの宝具に匹敵する敵はいないと思ってる。倉庫街の戦いで見たアーチャーの宝具『王の財宝ゲート・オブ・バビロン』、キャスターが未遠川に呼び寄せた巨大海魔。他のサーヴァント達だって結託してもライダーの宝具には叶わない、そう思ってる。
  だけどロックは言った。もう少し戦力が欲しい、って。
 僕はあのケフカ・パラッツォって奴がどれだけの力を有してるのか知らないんだけど、僕よりも知ってるだろう人達が王の軍勢アイオニオン・ヘタイロイじゃ不足だって思ってる。
  これだけの大軍を個人で相手に出来て、まだ力不足だって思える程の敵―――。一体、どれだけ強大な力を持ってるの? そう考えると魔石を渡されて高揚した気持ちが一気に沈んでく。
  だけど考えるのを止めたりしない。
  僕は必死に自分を支えて、屈しないように頑張って耐えた。
  「『フェニックス』を召喚したんだってな、あれはかなり魔力を喰うからこれも飲んどけ」
  飛んできた声に導かれて顔を上げると魔石の時と同じように蒼い液体が入った小瓶が飛んできた。
  どう見てもガラス製だ。落としたら割れるから、僕は慌てて左手に魔石を持ち替えて右手を伸ばす。
  「――と、っと。・・・っとっと」
  放り投げられた衝撃で小瓶が手の中で少し暴れる。それでも何とか落とさずにキャッチして、両手でそれぞれ別々の物を握りしめた。
  何これ? そう聞こうとしたけど、僕が小瓶を掴み損ねてる間にさっさと移動してしまったようで、ロックはもう十数メートル離れた場所に立ってた。
  状況は二転三転して、僕が判らない事の方が多い。だけど、カイエンもライダーも合流してから話もしてないのに、いつの間にか一緒に戦おうとしてる。
  この状況下で共闘するなんて一言も言ってないのにそういう雰囲気がこの砂漠の戦場の立ち込めてる。
  僕らと彼ら。敵と味方。互いに殺しあう者同士。誰もがどちらか一方に属し、第三者の介入はこの場には存在しない。そういう明確な線が引かれてる気がした。
  「敵は一騎当千の英霊達、相手にとって不足なし!」
  ライダーがスパタをまた掲げ、先頭に立つ王として場を仕切ってゆく。
  「いざ益荒男たちよ、我らが覇道を存分に示そうぞ!!」


  「「「「「「おおおおおおおおおおおおッ!!!」」」」」」


  ライダーの雄叫びに応じて並ぶ軍勢から大喝采が飛び出した。
  間近で聞くそれはもう声からただの音に変わり、空も天も大地すらも切り裂かんばかりに弾ける。耳を塞ぐのも忘れて僕はその音に身を委ねた。
 戦いが始まるのはもう避けられない。僕の存在も王の軍勢アイオニオン・ヘタイロイの中に組み込まれてる。英霊達が王と共に戦う誇りを胸に宿すように、僕もまたその中の一員としてここに立ってる。
  それがとても嬉しかった。
  これから向かうのは何を仕出かすか判らない未知の敵。敗退したサーヴァントを召喚し直すなんて反則技すら使う相手なのに、不思議と英霊達の鬨の声を聞いた後だと恐ろしくない。
  強引に渡された両手の道具。令呪は無いけどライダーへと送れる魔力。状況を見極めるための頭脳。それが僕に残された武器だ。
 戦車チャリオットを牽引する二頭の雷牛がいななき、大軍勢と共に駆け出してゆく。間にいたカイエン達の頭上に川で見た幻想種が次々と姿を現し、軍隊の一部へと組み込まれて進んでいくのが見えた。
  砂漠を踏みしめる膨大な足音が闘争の空気を膨らませていく。
 「AAAALaLaLaLaLaieアァァァララララライッ!!」
  その中に響くライダーの雄叫び。胸一杯に満ちる『共に戦える喜び』と一緒に、僕はライダーの大声に合わせて叫ぶ。そして魔石と小瓶の二つを両手で握りしめて魔力を注ぎ込む。
  戦え。
  闘え。
  王と共に―――タタカエ。
  緑色の魔石の中にあるオレンジ色の六芒星が輝き、それを合図にして僕の魔力が一気に吸い出されてく。その感触に懐かしさすら感じてしまう。
  僕は高鳴る気分に身を委ねながら、小瓶のふたを開けてその中に入っていた液体を一息で飲んだ。
  どうしてそうしたのかは判らない。ただ僕が今できる事はこれだって心のどこかで理解していたから、それに従った。
  少し甘い液体が喉を通り抜けると、吸われた魔力に変わる何かが体を通り抜けた気がした。僕の中にある魔術回路を液体が通り抜けたみたいな不思議な感覚だった。
  もしかして小瓶に入ってた液体は魔力を回復させる道具? 見たことも聞いた事のないその効用に驚きつつも、戦いが始まった今は考えるべき事じゃないと強引に無視した。
 魔石はより一層強く輝き、中央に何か文字が描かれた紅玉みたいな何かを三つ吐き出す。それを合図にして戦車チャリオットの背後に何か巨大なモノが現れた。
  前を見てる僕に後ろは見えてない。だけど判る。
  それは白銀の装甲をまとった堅牢な城であり機械。全ての邪なる者を滅する為に存在する存在。
  名前が聞こえたからロックが言った『一番縁がある奴』の意味がようやく判った。
  その名は―――アレクサンダー。
  ライダーの真名は征服王イスカンダル。またの名をアレキサンダー、アレクサンドロスの名で知られる古代ギリシアの征服王。
  同じ名前というだけで共通項なんて全く見つからないけど、名前だけでも僕にとっては力強い繋がりを感じる。
  一人と一機。別だけど同じ『アレクサンダー』にそれぞれ僕の魔力が流れていく。僕の背後にそびえる城のような機械の額部分が開き、そこからレーザーが発射した。


  聖なる審判


  それは敵を焼き尽くす炎になってこの世界すら燃やした。



[31538] 第41話 『衛宮切嗣は否定する。伝説は降臨する』
Name: マンガ男◆da666e53 ID:bbf25c32
Date: 2014/01/26 13:24
  第41話 『衛宮切嗣は否定する。伝説は降臨する』



  ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆



  Side - 衛宮切嗣





  完全なる殺人機械『衛宮切嗣』ではなく、人である僕自身の意識が浮上する。目を開ける僕がいて、僕はそのまま周囲を見渡した。
  僕の目が見るのは光など全くない黒一色の世界だった。
  ただし足元から地面の感触が返ってきてる。二本足で立っている僕自身を理解しながら両手を広げて前後左右に振ってみた。
  けれども手の平が空気を押しのけて動くのは判っても、動かした手が何かにぶつかる様な事態にはならない。
  耳を澄ませても、僕が動かした空気の流れ以外に聞こえてくる音は無い。
  ここは、どこだ?
  僕は言峰綺礼と戦っていた筈。あの場を脱出するため、奴を撃ち殺そうとしていた筈。
  接近戦に持ち込まれた瞬間に僕は殺されると理解してた、言峰綺礼は腹に穴が開いた程度では攻撃の手を緩めないとも判ってた。確実に逃げる時間を稼ぐためにこそ、言峰綺礼の息の根を止めなければならない―――。
  奴の姿を直に見た僕は状況をそう感じ取った。
 だからこそ二倍速ダブルアクセルどころか三倍速トリプルアクセルすら使い、残された武器の中で最も威力の高いトンプソン・コンテンダーを撃ち続ける暴挙に出た。
  そうでもしなければ言峰綺礼を無力化できない。多少の無茶をしなければ逃走する前にこっちが殺される。
 僕の魔術、『固有時制御タイム・アルター』には『三倍速トリプルアクセル』のさらに上の『四倍速スクエアアクセル』があるけど、あれは数日寝込むのが確実な禁じ手だ。今でも二倍速ダブルアクセル三倍速トリプルアクセルを何度も使って体はボロボロになってる。
  その上、奴は令呪を魔力源として活用した為、使い捨ての消耗品となった令呪には起源弾が持つ本来の効力『切って嗣ぐ』は発揮されなかった。
  あくまで言峰綺礼に与えたダメージはトンプソン・コンテンダーに装填された30-06スプリングフィールド弾の持つ過剰な大火力が作り出した運動エネルギーの結果にすぎない。
  奴を殺す為に無茶を押し通し、僕はついに奴の体に二発の弾丸を撃ち込んだ。
  僕はもう一度考える。僕は確かに言峰綺礼と戦ってた―――筈。
  その仮定で言峰綺礼が『何か』を盾として使い、それすらも突破して奴にダメージを与えたならば、それは僕にとってのメリットだ。
  『何か』がイリヤの姿をしていたとしても、『何か』が僕の撃った弾丸で壊れたとしても、血を流したとしても、ぐったり横倒しになったとしても、死体になったとしても。損得で考えるなら、僕にとっては『得』になる筈。その筈なんだ。
  違う。
  違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う!!
  あれがイリヤである筈がない。
  そんな事はありえない。
  あっちゃいけない。
  ドイツから遠く離れた日本の冬木にイリヤが居るなんて―――そんな事は絶対に無い。
  あれはまやかしだ。
  アイリと同じように僕を動揺させる為に用意した奴らの策なんだ。
  でも奴らの策だとしても、奴らはどうしてイリヤの姿を知ってる? イリヤは生まれてから一度だってドイツのアインツベルンの城―――正確には周囲を取り囲む結界の外に出たことはなく、外界に接する機会は無かった。
  あのアハト翁が同じ御三家と括られていても、遠坂や間桐に情報を漏らすとは考え難い。
  だったらどうやってあいつ等はイリヤを知った?
  違う。そうやって僕に考えさせる事それ自体が奴らの策だ。僕に僅かでも『あれはイリヤスフィール・フォン・アインツベルンだ』って思わせて攻撃の手を鈍らせるのが目的なんだ。
  アイリは冬木に現れてからずっと敵の目を引き付けるための囮役を買って出てくれた。姿だけを模したアイリの複製を作り出して、より攻撃し辛いように子供の形を取らせた可能性はある。
  事前調査で間桐の実質的な党首である間桐臓硯が蟲を使役する魔術の使い手だと情報を得た。神秘を秘匿する魔術師らしからぬ奇行を行い始めたこの一年は鳴りを潜めたようだけど、蟲を使って姿が同じ傀儡を作ったのかもしれない。
  そうだ、あれがイリヤである筈がない。
  屋上にいたあれもアイリである筈がない。
  アイリは令呪で逃がしたセイバーと一緒にいる筈なんだから・・・。


  「納得し、落ち着いたか?」


  「!?」
  何の前触れもなく、暗闇の中から声が聞こえた。
  何が起こっているのかを正確に理解している訳では無いけど、誰かの意思で僕はここに閉じ込められたであろう状況は察しがついた。
  だから何者かの声が聞こえてきても不思議はない。たとえ振り回した両手に何もぶつかっていない筈なのに、すぐ耳元から声が聞こえた気がしても―――それは起こる可能性を大いに含んだ現象に過ぎない。
  殺人機械『衛宮切嗣』は驚く機能を持たない。一瞬で動揺を抑え込む。僕自身にそう認識させる。
  僕は驚きを消して闇の中にいる何者かに向けて問いかけを放り投げた。
  「ここは──どこだ?」
  すると、まるで僕の言葉が合図だったみたいに足元を中心にして弱い光が生まれ、一気に全方位へと向けて広がっていった。
  足元を含めて僕の目に飛び込んでくるのは曇天の空。壊れた機械に岩や土。他にもへし折れた木材などを一つの塊にして山積みにしてある奇妙な場所だった。
  建造物と言うよりはゴミの山とでも言うべき所だ。その頂上に近い場所に僕は立っている。
  冬木にある筈のビルや民家、道路に公園、川に橋、郊外の森とか緑豊かな山。そう言った類の人のいる気配が全く見えず、打ち捨てられたモノを混ぜ合わせて、積み上げて、また混ぜ合わせて、積み上げて。そうやって空とここしかない場所まで高く作りあげるような寒々しさを感じる。
  見下ろす僕自身はいつものくたびれたロングコートとよれよれのスーツに身を包んでいた。ただ、あちこちの隠しポケットに予め仕込んでいておいた銃やナイフなどの武器の類は無くて、言峰綺礼と戦っている時は一度も手放さなかったトンプソン・コンテンダーもこの手にない。
 もっともおかしいと思ったのは、言峰綺礼と戦っている最中に破壊された左肩が全く無傷でそこにある。思えば、暗闇の中で両手を振り回した時にも痛みを感じなかった。固有時制御タイム・アルターの連続行使でボロボロだと認識していた筈の体の痛みすら無い。
  「ホワッホッホッホッホ!!」
  また耳元で声が聞こえる。ただし今回は上から降ってくるような感じもした。
  だから僕は無傷の自分におかしさを感じるのを一旦止めて視線を上げる。
  曇天の空の中にあって僕が立つ場所よりもほんの少し高い位置。正しく頂上と言うべき場所にそいつはいる。
  背中に三対六枚の羽根を抱き、下半身だけを衣で覆い隠した紫色の体躯の持ち主。金色の髪を後ろに撫でつけ、首の辺りでまとめていた。
  「・・・お前は、誰だ?」
  初めて見る顔だ。僕がこれまで殺してきた者たちの中にも、聖杯戦争が始まってから見た者たちの中にも、こんな奴はいなかった。
  人ではない。魔術師かどうかすら怪しく、死徒の可能性もある。
  そいつは両手を大きく広げて十字架のように佇み、僕に話しかけてきた。
  「我が名はケフカ・パラッツォ。私の居城、『瓦礫の塔』へようこそ。我が子を殺したセイバーのマスター、衛宮切嗣よ」
  「――違う!!」
  この空間を構築したであろう何者か。こいつの正体。ケフカ・パラッツォと名乗った事実。それらを置き去りにして、『我が子を殺した』の件が殺人機械として機能していた筈の僕を一瞬にして人間に戻した。
  僅かな間を置いてからの否定。
  そんな筈はない、と心が叫ぶ。
  「あれがイリヤの筈が・・・」
  「お前はここはどこかと尋ねたな? ならばこう答えよう、ここはお前の願いがかなう場所。欲深きマスター共がどいつもこいつも狙っていた冬木の賞品『聖杯』の内側だ、とな」
  「・・・」
  ケフカ・パラッツォを名乗った男は僕の言葉を完全に無視して話を進めていく。
  話の通じる相手じゃないと思ったのが僕が沈黙した一つ目の理由。そして二つ目は男の語った内容があまりにもあり得なかったからだ。
  そんな筈はない。心がもう一度、奴の言葉を否定する。
  冬木の聖杯はアイリの体内に封印された聖杯の器に全てのサーヴァントの魂を喰わせて完成する。ここに連れて来られる前に僕は考えた、あれは敵をおびき寄せるための虚勢か大嘘なんだと。
  その思考が僕の背中を押す。ありえないと否定を更に強めていった。
  瓦礫の塔と言ったここは取り込んだ者の認識を狂わす結界なんだろう。聞こえてくる声が耳元で聞こえるように思うのは、ここが奴の魔術の中だからに違いない。
  聖杯の内側なんて絶対にありえない。
  否定が僕の言葉を抑えてしまっている内に男の独り言は続く。
  「お前はどのマスターよりも早くここに辿り着いた。聖杯に託す願いに誰よりも早く到達した。こんな幸運は二度と無いぞ、衛宮切嗣」
  けれど相手の言葉を否定したとしてもこちらに状況を打破する有効な手段がない。
  もしこの手にまだトンプソン・コンテンダーが握られているのならば迷うことなく斜め上に佇む男の眉間に一発撃ち込む。もしいつもはロングコートの中に忍ばせてあるナイフか手榴弾がここにあればすぐに投擲する。
  でも今の僕に武器は無い。
 有効な攻撃手段がない状態では『固有時制御タイム・アルター』も効果を十全に発揮できない。
  どうする?
  迷いは一瞬。独り言とは言え、話をしているのならば即座に攻撃してくるとは思わずにこちらも言葉を使う。
  「お前はここが聖杯の内側だと言ったな」
  「その通り」
  今度は会話の様相を成しているようで返答があった。
  「ならばこの『聖杯』はどうやって僕の願いを叶えるつもりなんだ?」
  僕は言葉を使って様子を窺いながらも、正直、ここが奴の言う『聖杯の内側』だなんて言葉は欠片も信じていない。
  話す僕ら以外に生命の息吹が無いのはまだいい。だけど、ここは世界の全てを破壊して一つに凝縮したようなおぞましい場所だ。人が『清涼』と感じる全ての要素は消し去られ、代わりに『荒涼』を惜しみなく敷き詰めて作られている。加えて、曇天模様が太陽を隠しているが、そこから降り注ぐ光は太陽とは全く異なる邪悪な光だった。
  雲に覆われて見えないからこそより強く感じる禍々しさ。この世の全ての悪が黒い太陽の形をして大地を焼き尽くす―――、そんな光景が脳裏に浮かぶ。
  そもそも『瓦礫の塔』なんて意思を持つ者がこの場所を名付けられる状況こそが不自然だ。聖杯とはただ純粋な無色の力であって、意思を持つはずも案内人がいるような都合のいい代物でもない。ただそこにある力、使い手の願いを叶える願望器なんだ―――。
  「お前の望みは『人類の救済』で間違いないか? 『あらゆる戦乱と流血を根絶し、世界に恒久的平和をもたらす』、これがお前の願いか?」
  「そうだ」
  さあ、どう出る? この聖杯と偽った世界でこの男はどんな言葉を放つ?
  「――衛宮切嗣。貴様に一つ言っておこう」
  男が言う。


  「もう、この世界はお前が望む以前に救われてる。この世界に生きる人々もすでに救われている」


  「・・・・・・・・・それは、どういう意味だ?」
  放たれた言葉の意味が判らず、少し間をおいてから僕は言う。
  この空間の中が聖杯でないとして、そう見せかける為に偽りの成果を作り出す可能性は考えてた、それにこの中に閉じ込められた僕を弄ぶ可能性も考えていたけど、僕の願いが叶えられているなんて言葉は全く予想していなかった。
  いや――、これは僕を動揺させる為の嘘だ。
  この世のすべての生命は犠牲と救済の両天秤に乗り、どちらかを救うならばもう片方を犠牲にするしかない。決して犠牲も救済も無くならない。
  より多くの嘆きをこの世界から減らすため、多数を生かすために少数を殺し続けてきた。何人も、何人も、何人も―――。犠牲を認め、不幸を増やし、だけど守られた幸福の数がそれに勝るなら世界をほんの少しだけ救済へを近づく。
  積み重なる死体の山、流れる紅い血の大河、それを代償に救われた命があるなら守られた数こそが貴い筈。
  でも僕は救われた命に数の正しさを導き出しながら、常にその正しさの片隅に切り離せない想いがあった。『もっと別のやり方があるんじゃないか』って。
  この世の誰もが幸せであってほしい。僕はいつもそう願っている。
  救われない者がいるこんな世界がもう救われているなんて―――、ありえない。
  「答えろ! お前は何を言ってる!?」
  「言葉よりも判り易く教えてやろう」
  殺人機械『衛宮切嗣』だったなら絶対に出さない怒気を含ませて叫ぶ。けれど、そいつは投げつけられた言葉の刃をいなした。
  視線は外さなかったし片時も意識を向けたままどんな動きだろうと察知できるようにしていた。その筈なのに、一瞬すら無く、十字架の様に佇んでいた男が僕の視界から消える。
  「親切だね、私は」
  そして真後ろから聞こえてきた
  ここは奴が作り出した結界の中だ、予備動作無しの移動も不可能ではない。声が常に間近で聞こえていた時点で距離の無意味さに気づくべきだった。失態を僕が考えるよりも早く―――世界は暗転した。



  ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆



  Side - 言峰綺礼





  地に伏し仰向けに倒れている事実を認識し、覚醒を頭が命ずるよりも早く体は動いて身を起こした。
  「ここは・・・」
  言葉は驚きに後押しされ口から出たが、脳裏には理解よりも周囲への警戒が色濃く映り、四肢は敵が迫り来る場合を想定し構えを取る。
  手に黒鍵を作り出すための十字架は無く、懐より取り出すよりも構える方が先決であった。
  跳び上がる勢いで伏した姿勢から戦いの体勢へと移行した私は更に周囲を見る。
  天井、壁、扉。見渡す限りのすべてが金属によって構成された無骨な部屋で、固く閉ざされた密閉空間には窓など一つも見当たらない。頭上には何本ものパイプが通り、四畳もない小さな部屋の中には備え付けの洗面台と用を足すためのトイレがある。
  牢屋だ―――。
  私がいる場所を確認し、真っ先に脳裏に浮かびあがったのは、囚人を拘束して外に逃がさぬよう閉じ込める場所であった。
  おそらくこの場所は私を捕えるための場所。そう思いながらも、倒れるより前に街中で衛宮切嗣と戦っていた筈の状況と今が符合しない。
  閉じ込めるならば予め準備が必要であり、戦っていた場所の近くに立ち並ぶビルの一角にこのような場所があるとは考え難い。私があそこで衛宮切嗣と交戦したのは奴がそこに現れたからであり、私が選んだ訳ではない。
  そもそも気を失う直前に頭上から降り注いだ黒い水のようなあれは何だったのか?
  私を一瞬で気絶させる程のモノだったとしても、逆に今こうして周囲を警戒する私の身に何も起こっていないのが不自然だ。
  何かが食い違っている。
  現実と今が噛み合わない。


  「理解が早いな、言峰綺礼。奴とは違う――」


  おかしさを強く認識し直した瞬間、私の目の前に何者かが現れた。いや―――、声を発した男がそこにいた。
  馬鹿な!? 一瞬たりとも周囲への警戒を怠らず。何より私の目は固く閉ざされた扉の前を見続けていた。
  男は現れる予兆など欠片もなく、この閉ざされた牢屋の中に突然現れた。まるで瞬間移動してきたかのように、ドアを開いての入室などの『過程』を省略し『結果』だけを作り出している。
  数瞬の硬直の後、ますます私の警戒は高まってゆく。
  扉を隠し壁一面に広がる三対六枚の羽根。外からでも判る彫刻のような美しさを兼ね合わせた紫色の肉体。ただ金色の髪を後ろでまとめた整った顔立ちはどこかで見た覚えがある。
  とっさにそれが誰のものなのか出てこなかったので、近しい相手ではないが、私はこの顔を知っている。
  男はまるで私が起き上がって周囲の状況を理解するのを待っていたかのように語りかけてくる。
  「ようこそ、私が作り上げた『聖杯』の中に」
  「――貴様、何者だ?」
  部屋の小ささゆえに男へ攻撃できる十分な間合いは詰められているが、敵意や殺意の類はない。けれどそれは敵ではないと判断する理由にはならないのだ。
  にじみ出る警戒を抑えず声に乗せて問いかける。聞き逃してはならない一言『聖杯』が告げられ、ここがどこであるかも気になった。だが、まず確かめるべきはこの男が何者であるかだ。
  するとその男は淡々と返す。一足飛びでいつでも攻撃できる間合いにいる私の構えなど全く気にしてないらしい。
  「この姿で会うのは初めてだな。名乗りを上げるならこう言おう『ケフカ・パラッツォだ――』と」
  「・・・・・・」
  何を馬鹿な、と返すより早く。私は目の前に立つ男の顔を凝視する。
  道化師の衣装に身を包んでいた時とは格好が全く変わり別人と言っても過言ではない。だが、言われてよく見れば顔の造形そのものに変化はなく、色と髪型の違いはあっても顔は変わっていない。
  何より殺意や敵意はなくとも体からにじみ出る禍々しさはしばらく行動を共にしたケフカ・パラッツォの分身体に酷似している。
  自身以外の全てをあざ笑う素振りが消えており、狂ったように変わり口調は統一され、おかしくない状況がおかしさを増す。存在の全てが異なる様子に別人と言われても納得できてしまう。
  事実、私は頭の片隅で顔は同一でも同じ名前を語る別人の可能性を考えた。しかし、同時に存在そのものが異なって見えるこの男が真実を話しているのだとも考えていた。
  勘―――。そう呼ぶしかない回答どころか過程の説明すらつけようのない感覚が私の中に渦巻いている。この男は紛れもなくあの『ケフカ・パラッツォ』なのだと名乗られた瞬間から私自身が理解してしまう。
  「それが貴様の本性か・・・」
  「最高の力を手に入れた私が人の殻を脱ぎ捨てて昇華した姿――。本性と言えば本性ではある」
  「ここはどこだ?」
  唐突に変わる口調はなくなっているが、人の話を聞いているようでほとんど聞いていない様子は変わらない。行われるのは会話ではなく一方的な言葉の投げつけ合いだ。
  問うべき事は山ほどあり、見た目の変化をもたらした『最高の力』の件も確かめなければならない事柄となる。
  だがやはりと言うべきか。ケフカ・パラッツォはこちらの問いに対する答えではなく全く別の事を口にした。
  「少し待て。今、衛宮切嗣が聖杯をどう使うか検討しようとしている所だ」
  「何!?」
  更に確かめるべき事柄が生まれる。今度ばかりは何よりもまず最優先で確かめなければならないことだったので、思わず声を荒げてしまった。
  その言葉に対し、黙り込んで動揺せずに理解するのは不可能だ。
  衛宮切嗣が?
  聖杯を使う?
  あふれ出る私自身の疑問に呼応するように、壁に新たな窓が生まれた―――。そう表現するしかない不可解な現象が起こり、向かって右側の金属の壁が円形にくり貫かれる。
  けれどそれは壁の向こう側に通じる穴ではなく、あくまで丸い窓のように見える塊が壁に現れただけに過ぎなかった。どうやら遠視の魔術でこことは別の場所を映しているようだ。
  こちらは天井と壁に閉ざされた室内であるのに対し、あちらは周囲が開けた空間が見えるので屋外のようだ。散乱するがれきに混じって曇天ながらも空が見える。
  そこに目の前にいる男と全く同じ格好をした『ケフカ・パラッツォ』が立っていた。そして、向こう側にいる『ケフカ・パラッツォ』が伸ばした右手に後頭部を鷲掴みにされ、身震いを続ける衛宮切嗣もいる。
  私を冬木の至る所に移動させたケフカ・パラッツォがそもそも分身体なので、もう一人の『ケフカ・パラッツォ』がいるのは驚きは無い。だからこそ真っ先に私が考えたのは、あの二人は何をしている? だった。
  「現実と意識だけのこの世界では時の流れが大きく異なる。現実ではまだお前たちが聖杯の泥を被ってから三秒も経過していない」
  牢屋の中にいるケフカ・パラッツォが語る言葉はあの二人が何をしているかではなかった。
  けれど、『聖杯の泥』、その言葉とこの場所に閉じ込められる前に見た黒い水のような何かが重なっていく。
  あらゆる願望を実現させるという聖杯。無色の力で満たされているはずの聖杯には似つかわしくない表現でありながら、語られる言葉と現実が重なっていく。
  「まさか・・・、あの泥を被った者が全てここにいるのか?」
  「正しいが間違っている」
  前に立つケフカ・パラッツォが喋る。
  「確かにあの時、外にいる『私』がばら撒いた聖杯の泥によって誰もがこの『聖杯』へと意識を移された。だが、自意識を持って相対しているのはお前と衛宮切嗣の二人だけだ。広範囲にまき散らしたので運悪く巻き込まれた一般人が少しいたが、触れた瞬間に発狂して死んだ。耐性を持つ衛宮切嗣の娘も死にゆく状態だったのでここに呑まれ喰われてしまい、この中で溶け合い『イリヤスフィール・フォン・アインツベルン』としての個人は消滅した」
  ケフカ・パラッツォは視線を私から壁に出来た景色へと写し、もう一人の自分と背後から頭をつかまれた状態で震え続ける衛宮切嗣を見る。
  「もっとも――。衛宮切嗣が聖杯に娘の蘇生を願えば、イリヤスフィール・フォン・アインツベルンは自らの形を取り戻し、五体満足でこの世界から脱出して現実へと帰還するだろうがな。肉体だけは―――」
  「・・・・・・」
  新たに語られた内容に驚きこそ少なかったが、小さくない衝撃を味わった。
  ケフカ・パラッツォの導きがあったのは紛れもない事実だが。私が、私自身の選択として衛宮切嗣と戦ったのは奴の存在そのものに怒りを覚えたからだ。
  聖杯に奇跡を託した男の理想を目の前で木端微塵の砕いてやるのも面白い。その為の闘争。
  もし衛宮切嗣が願い、奴の娘が蘇るような事態になれば、衛宮切嗣の顔は絶望ではなく歓喜に変わってしまう。
  そんなことを許してはならない。―――そう考えた私の思考を読み取ったかのように、遠視の魔術の先を見ていたケフカ・パラッツォが私に視線を戻す。
  「安心しろ。それは決して叶わぬ願い。衛宮切嗣は絶対にこの聖杯を使わん」
  「どういう意味だ?」
  「絶対に、な――」
  その言葉が合図だったのか。顔を動かした以上の動作はなく、魔術を発動したような素振りもなく、今度は向かって左側に別の風景が写し出される。
  何の前触れもなく作り出される二つ目の円形の窓。
  そこに映る光景が衛宮切嗣が見ているモノだと知ったのはすぐ後だ。



  ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆



  Side - ケフカ・パラッツォ





  衛宮切嗣と言峰綺礼。彼らにとって『聖杯』によって形作られたこの世界は現実と比較すれば偽物であって本物にはなりえない。夢と大差はない。
  ただしこの世界は五感の全てを錯覚させるほど強力な偽物だ。
  ここと現実との違いはどこにあるだろうか? 認識する者が自覚するか否か、差はたったそれだけでしかない。
  自覚するからこそ目の前にあるモノを偽りだと認識し、自覚するからこそ自らが登場人物の一人としてこの聖杯が作り出した世界の中にいたとしても、決してこれを本物とは思わない。
  見える物がある。
  聞ける物がある。
  触れる物がある。
  嗅げる物がある。
  味わえる物がある。
  それでもここは偽物だ。現実とは異なる偽の世界だ。
  故に彼ら二人には共通した出来事が発生する。観察である。
  互いに自分たちが今いる場所を偽者の世界だと自覚しているからこそ、全身全霊を持って空想が形作るこの世界と現実との差異を導き出す。
  衛宮切嗣と言峰綺礼がこの世界の在り方を受け入れる筈がない。何故ならここは偽物であって本物ではないからだ。けれども、彼らがこの世界の情報を『観察』によって多く取り込んでいってしまうのもまた事実である。
  その特性を利用し、ケフカは衛宮切嗣に教えていく。
  救いとは何であるか―――を。





  この『世界』には決して誰の眼にもとまらず、誰にも意識されることはないが、この『世界』を守り続けている二つの力が存在する。
  片方は地球が持つ生命延長の祈りである、人が名付けた呼び名は『ガイア』。もう片方は霊長が持つ破滅回避の祈りである『アラヤ』だ。
  互いは似て非なる別のモノだが、この二つを合わせて『抑止力』と呼ぶ場合もある。
  ただし、ガイアの抑止力は世界―――『地球』と言い換えてもよく、この星が存続するならば人が全て死滅しても構わない結果へと向かう。
  これに対してアラヤの抑止力は星さえも食い潰して人間の世界を存続させようとする。アラヤの抑止力はカウンターガーディアンとも呼ばれ、既に発生した事態に対してのみ発動する力だ。
  世界を滅ぼす要因が発生した瞬間に出現してこの要因を抹消する。殺すことが抑止力の解決方法。
  ただし抑止力それ自体はカタチのない力の渦であり、絶対に勝利できるよう抹消すべき対象を上回り、常に規模を変えて出現する。
  力の発露は何者にも観測されず、発生しても認識されず、誰にも意識されずに結果だけを作り出す。
  抑止力という名の『力』は世界を救い続け、ただひたすらに滅びの要因を作る人間を殺し続ける。
  たとえば、電力不足に悩むある国が自国民の発展を願い核実験を行おうとした。しかし実験の中で大きな失敗が発生する可能性が現れた。
  失敗の規模の大きさ故に地球に生きる全ての生命を殺しかねない事態へと発展する可能性が発生したので、それは人を滅ぼす因子と判断される。
  誰が判断する? 『世界』であり『人』がそう判断する。
  実験の責任者は殺された。
  実験に関わった者は殺された。
  実験を許可した国の重鎮も殺された。
  抑止の守護者、カウンターガーディアンによって多くの人間が殺された。
  たとえば、対立する隣国同士があり、それぞれに戦争も辞さない指導者がいた。彼らは自分たちが滅ぶのも構わず相手を滅ぼそうと考える。
  世界に百以上存在する国の中のたった二つ。けれどもその二つは超大国と呼んでも差しさわりのない国同士だった。
  二つの国は世界全体に対して、政治的にも経済的にも大きな影響力を及ぼす国だ。戦争になればそれだけ多くの人間が死に、多くの人間が不幸に陥り、多くの人間が被害を受ける。
  だから抑止力によって後押しされた一般人が滅びの要因となった指導者たちを殺した。
  戦争は回避され、指導者を殺した人間は人々を救った英雄と称された。
  たとえば―――。
  たとえば―――。
  たとえば―――。


  「な? だから言っただろう、『もうこの世界は救われている』と。この世界に魔術が存在し、それに繋がりながら全く別のシステムが構築され、人に理解できる範疇を超えて『抑止力』がいる。『抑止の守護者』もいる。それを継続させるシステムが存在する。それが人を作り替えて『世界』を常に救い続け、人が『世界』が滅びないように形を整えてゆく」


  「滅びの要因が現れようとすれば、それを排除。人の世の滅亡の可能性が生じたならば、速やかにこれも排除。壊し、殺し、消し、無くし、失い、滅し、また殺す。システムは『世界』を生かす為に人を殺し、人を殺し、人を殺す。死にゆく者も戦いも流れる血も『世界』を存続させるために必要な要素だ。そうやって人が『世界』を持続させてゆく。これが世界の救いでなくて何だって言うんだ? 人類が救われていると言えるだろう?」


 「理解できないか? それとも理解したくないのか? お前自身『固有時制御タイム・アルター』を使って体感時間を調整して、停止時に外界との修正で肉体を痛めつけてるじゃないか。『世界の在り方』を他の誰でもないお前自身が味わってるくせに、この世界の救済に異を唱える。だったらお前が救いたい『世界』はそもそもどんな形をしているんだ? どんなふうに人を救いたいと思ってるんだ?」


  「衛宮切嗣。お前は人類を救済したいと願いながら、あいまいな『救済』で自分をごまかして、どうすれば人が救われるか判ってないのか? 度し難い愚か者だな。そんな風に思っていたら、どんな救済だろうとお前自身が納得しないぞ」


  目の前に立つ―――。あちらが大地の上に立っている自分を認識しているかどうかは別にして。対面する衛宮切嗣は黙り込んでこちらを睨んでいた。
  言峰綺礼から見れば後頭部をつかまれた状態で映像と音声を流し込まれる衛宮切嗣。
  彼自身の認識ではケフカと対面し別々の映像を―――いや、体感する事実を脳に送り込まれる衛宮切嗣。
  語られた言葉と見せられた映像を理解するのに忙しいのか、それとも理解した上で投げつける言葉を選んでいるのか。
  衛宮切嗣の意識の中に送り込んだ事実の中には様々なモノがあった。それらは抑止力によって救われ続けている世界の姿であり、その方法だ。
  ガイアの抑止力は衛宮切嗣にとっては受け入れ難い存在なので、主にアラヤの抑止力が発動した場合に起こる要因と過程と結果を教えてやった。
  「違う・・・」
  なのに衛宮切嗣はこう言った。
  否定を口にした。
  「こんなものは今ある世界を存続させているだけで何も解決していない。僕は『人類を救済』したいんだ、これは――こんなものは僕が求める願いじゃない!!」
  どうやら衛宮切嗣は『既に救われている世界』がお気に召さないらしい。
  ならば彼が言う人類の救済を抑止力を抜きにした別の形にして教えてやろう。
  ケフカは衛宮切嗣は別の可能性を衛宮切嗣の中に刻み込んでいく。その度に衛宮切嗣の脳が僅かに疲労していくが、彼自身が望んだことなのでケフカは全く気にしなかった。





  その世界には『争う』という概念がそもそも存在しない。世界のどこにも戦乱は無く、大は国同士の戦争から小は子供の諍いまでありとあらゆる戦いが存在しない。
  人々はどんな些細な事であろうと争ったりはせず、対話や観念によって平和を作り出していた。
  人々は気付かない。それが当たり前だと認識しているが故に気付けない。世界が聖杯の力によって一変してしまったから、それを異変と認識できない。
  聖杯に託された願いは人の本能すら改変して争いを消した。だから異変はゆっくりと、しかし確実に人を蝕んだ。
  人々は確かに争わなくなったが、『争い』に関連する全ての事柄を放棄するようにもなってしまったのに気付かない。
  例えば一人の女がいて、その女を愛する男が二人以上いたとする。
  女を愛するなら男たちは互いに争わなければならない。その女に選ばれるために戦わなければならない。
  愛する気持ちが争いの火種になると感じた時、男は女を愛するのを止めた。それが争いになると理解してしまったから争うのを止めた。愛を止めた。
  争わない為に―――。
  例えば夜泣きする赤ん坊がいて、どれだけ母親があやしても赤ん坊は泣き止んでくれなかった。
  赤ん坊の口から出てくる泣き声が夜の静けさを破壊する。母親はそっと自分の手を赤ん坊の口に添えて、泣き声が出来るだけ小さくなるように祈った。
  人によってはそれは躾だと思えただろう、人によってそれは愛情だと思えただろう。しかしその母は子供の口を塞ぐ行為を『争い』だと思ってしまった。親という立場から無力な子供へと押し付ける一方的に暴力だと感じてしまった。
  そう思った瞬間、母親は赤ん坊の口から手を離す。暴力を振るってしまいそうな自分自身を止める。
  そして台所にまで歩いて行って、そこに合った包丁で自らの命を絶った。
  争わない為に―――。
  人は争わなくなった。
  人は戦わなくなった。
  人は傷付けなくなった。
  それが聖杯によって改変された『人』の当たり前になってしまった。
  人が人としての種を存続させる為に必要不可欠となる生殖行為だが、その過程では破瓜と呼ばれる現象が発生する。必ず起こる訳ではないが、その過程で女性に血が流れる場合もある。
  人が子を成し、種を存続させるための生殖行為。けれどそれは男性が女性を傷つけてしまう。
  だから人は生殖行為を行わなくなった。
  当然ながら、そんな事態になれば出生率は驚異的な速度で低下していく。
  それでも人は生殖行為を行わない。
  争わない為に―――。
  世界から争いは消えた。そして緩やかに人の種は死滅していった。





  「違う・・・」





  衛宮切嗣の周りには常に笑顔があった。救われた者が大勢いた。争いなんてどこにも見当たらなかった。
  彼がどんな場所に赴こうと、彼がそこに現れればありとあらゆる戦乱は終結し、流血は止み、恒久的な平和が作り出されていく。衛宮切嗣が何かしてそうなったのではない、ただ彼の周囲に『結果』が作られる。
  そういう事になっている。
  だから衛宮切嗣が見る世界は常に平和で救われた者しかいなかった。
  けれどテレビ、ラジオ、インターネット、人伝の話。自分がそこに存在しなかったとしても、自分が存在しない外の世界の情報を仕入れる手段は幾らでも存在する。
  衛宮切嗣は自分がいない場所で殺し合いの戦争が起こっている事を知る。
  だからそれを止める為に彼はそこへと赴いた。
  衛宮切嗣がそこに訪れれば争いは止まった。
  聖杯によって『衛宮切嗣の周囲では争いが起こらない』と定められた世界は、衛宮切嗣が個人で認識出来る世界を常に救済し続けた。争いを無くし続けた。戦いそのものを根絶した。
  例えば対立しあう宗教が武器を使って殺し合う地区があったとしよう。
  衛宮切嗣はその事を知り、そこに赴いてその地区に平和をもたらした。彼がそこにいるだけで誰も彼もが戦うのを止める。
  ここに争いは無い―――そう思ってそこから離れようと背を向けた瞬間、誰もが地面に落とした筈の武器を手に取って再び争い始めた。
  聖杯によって心に刻まれた『そうしなければならない』という強迫観念に対抗する人の意思が戦いをより活性化させていく。一度止まった戦いは更に激化して繰り返される。
  あったかもしれない少ない犠牲者での終結はそこにいた全員が死ぬという結果へと変わった。
  例えば子供同士が些細な理由で掴み合いの喧嘩をしていたとする。ジャンケンで負けたのが気に喰わなかったり、好きなお菓子が少なくて取り合いになったとか、そんな理由だ。
  衛宮切嗣がそこに訪れると、二人は喧嘩を止めなければならなかった。そうしなければならないと定められているからだ。
  衛宮切嗣の前では救済という結果が生まれる。しかし、喧嘩の理由そのものが消えた訳ではない。
  子供たちは笑った。
  救われた子供たちは笑い続けた
  子供たちは争わなくなった。
  衛宮切嗣がいなくなった瞬間。理由なく救われた二人の心の中に抑え込まれていた怒りが爆発し―――子供たちは近くに合った石を手に取って相手を殴り殺すまで喧嘩をした。
  子供たちは二人とも死んだ。
  衛宮切嗣がいればそこは平和になる。
  衛宮切嗣がいなくなれば、そこに争いが生まれる。
  衛宮切嗣の周りにいる者は常に救われた。例え衛宮切嗣が去った一秒後には殺し合いを始めるとしても、衛宮切嗣の周りにいる者はその瞬間だけ救われる。
  世界は衛宮切嗣がいない場所で溢れている。そこで人は叩きあい、怒鳴り合い、奪い合い、殺し合う。
  衛宮切嗣が見ている人類は救われる―――。
  衛宮切嗣が見る世界に戦乱は起こらない―――。
  衛宮切嗣が感じる世界は平和で溢れる―――。
  例え衛宮切嗣が認識できる半径数キロ範囲以外の地球上全てで戦争が起こっていたとしても、それを衛宮切嗣が知っていたとしても。衛宮切嗣が自らの五感で認識出来る世界には戦乱は無く、恒久的な平和が強制的に作り出されていた。





  「違う・・・」





  人類の救済―――。
  救済とはある対象にとって、好ましくない状態を改善し望ましい状態へと変える事だ。つまり人によって異なる『好ましくない状態』を知らなければ、そもそも救済それ自体が成り立たない。
  例えば、テストで百点を取りたい学生がいたとする。どれだけ頑張り寝る間も惜しんで勉強しても、いつも一問か二問間違って百点を逃してしまう、そんな不憫な学生だ。
  彼にとって好ましくない状態とは『百点を取れない自分』である。
  例えば、下半身不随で車椅子での生活を余儀なくされる男がいたとする。この男にとって好ましくない状態とは『健康ではない自分』である。
  ただ、この男の場合、下半身不随になった理由はバイクでの転倒事故なのだが。転倒は片手運転しようとした自業自得であり、その原因を恥ずかしさのあまり誰にも話していない。
  前者の『好ましくない状態』は人に知られたとしてもそれほど気にならないだろうが、後者はものすごく気にするだろう。
  聖杯は人類を救済するために『好ましくない状態』を知るために人の頭の中を暴いていった。
  自分以外には知られたくない秘密を持つ者はいるだろう。
  人に知られれば困る性癖を持った者もいるだろう。
  秘密にする事で保たれてた友情、家族関係、愛情などもあるだろう。
  聖杯はそれらを全て暴き出し、どれだけ隠そうとしても決して抗えない力でどんどんと吸い出していく。
  ただし、吸い出された後に『好ましくない状態』は改善された。
  多くの人はそれを気のせいだと決めつけようとした。けれど、一度ならばいざ知らず『好ましくない状態』が生まれるたびに二度三度四度五度と聖杯は人の秘密を暴いていく。『好ましくない状態』が変わっていく。
  無視できない違和感が常に頭の中にあった。
  どんな小さな事だとしても、好ましくない状況を考えれば誰かが自分の秘密を暴いてしまう。
  好ましくない状態は聖杯の力によって改善され、望ましい状態へと変わるかもしれない。人類は救われたかもしれない。
  しかしその代償として、好ましくない状態を知られてしまう。
  何度も。
  何度も。
  何度も。
  人によっては過去の傷を抉り、恥部を知られ、耐えがたいほどの屈辱となる。
  最初に自殺したのは自分以外の誰かに秘密を知られる事そのものが耐えられなかった者だった。
  次に自殺したのは好ましくない状態があまりにも小さかったが故に、望ましい状態に変わってもそれが救済だと気付けず、ただ頭の中身を覗かれ続けるのに耐えられなくなった者だった。
  人が死んでいく。
  聖杯が好ましくない状態を暴いていくごとに人が死んでいく。
  誰かによって殺されるのではなく、自分の意思で死んでいく。
  知られても構わないと強く思える人間以外が自ら命を放棄する。
  それでも聖杯は人類を救済するために『好ましくない状態』を知るのを止めない。『望ましい状態』に変化させるのを止めない。
  聖杯は人類を救済し続ける―――。





  「違う・・・」





  聖杯によって世界は改変された。
  人の魂は変革され、聖杯に託された願いは新しい人類が産み出した。
  正に奇跡―――。
  外見の変化は無くとも内面は全く別のモノに作り変えられた。人は別の『ヒト』になった。
  そこである疑問が『ヒト』の中を駆け巡る。それは新たな『ヒト』にとっての正しさの指標とはなんであるか? だった。
  聖杯による意識の変革で人は各々が抱える様々な事情を捨て去った。
  宗教問題。
  国土問題。
  愛情問題
  そこで『ヒト』は自らを改変し作り変えた聖杯に正しさを求めた。人だったならば各々が抱えている問題を他人任せにしなかったかもしれないが、聖杯という奇跡によって生み出された『ヒト』は聖杯を正しさの定義とした。
  当然だ。『ヒト』にとって聖杯は自分を導いてくれる親であり、導き手であり、神なのだから。
  むしろ聖杯が間違っているのならば何に正しく思えばいいのか判らなくなってしまう。
  『ヒト』は聖杯こそが唯一絶対の正義であると考えた。
  聖杯こそが正しい。
  聖杯の決定は間違っていない。
  聖杯の作り出した正しさに従えば何も間違わない。
  『ヒト』はそう考える。
  そこで『ヒト』は考えるのを止めた。聖杯の正しさを受け入れれば何もかもが上手くいくと思い、『ヒト』は考えなくなった。
  どれだけ幸福に満ちた世界であろうと、人はその中で更なる幸せを見つけようと行動する。
  しかし『ヒト』はそれをしない。
  人の数だけ考え方があり、問題があり、事情がある。
  しかし『ヒト』は一つの正しさに凝り固まり、他の道へと歩みだそうとはしない。
  人は消えた。『ヒト』は何もせずに人形のように聖杯に従って生きていく。
  争いは無かった。
  けれど人が生きていた世界には合った筈の活気や活力は『ヒト』が生きる世界には全く無い。
  『ヒト』はただそこにいるだけのモノだった。姿形は同じでも、人はもう誰も生きていなかった。





  「違う、違う違う違う違う違う違う違う違う違う!!」





  衛宮切嗣の脳裏には様々な『救済』が刻み込まれてゆくが、衛宮切嗣はそのたびにケフカの救済を否定していく。
  衛宮切嗣に理解しやすい形で魔術による救済の形を幾つか作り出したが、結局出てくるのは否定だけで肯定はない。
  そもそも衛宮切嗣はケフカの救済を否定はしても『こうあるべきだ』と衛宮切嗣自身の救済を言葉にしない。やはり衛宮切嗣当人がどうすれば人類が救済されるか判っていないのだろう。
  判っていないから聖杯の奇跡に救済を求めたのだろうが、判らないからこそ衛宮切嗣は結果どころか仮定にすらたどり着けない。
  衛宮切嗣の正義とは多を救うために少を切り捨てる在り方だ。そこが衛宮切嗣の限界だ。
  その正義しか知らない男が別の方法を選べる訳がない。
  理解できないモノを理解できる筈がない。
  与えられる結果を受け入れるには衛宮切嗣は自分の正義を貫き通し過ぎた。
  「これでもまだ足りないのか? だったらお前が満足するまでこの世界の『救い方』を教えてやろう。なに、ほんの数十万の選択肢を全て見て、その中から選ぶだけだ。体感時間でほんの数百年、人の頭が耐えきれず精神が崩壊するかもしれないが気合で耐えろ」
  膨大な情報を一気に頭に送り込めば耐えられずに発狂してもおかしくないが、衛宮切嗣が否定するのならばそれも仕方ない。
  肯定がないのなら、肯定するかもしれない山ほどの可能性を提示するしかないのだから。
  衛宮切嗣は抑止力による救済を否定した。聖杯による押し付けられる救済を否定した。だからケフカはこう告げる。
  「それから一つ教えてやる『救済』とは赦される事、そして自分を赦す事だ。与えられるだけの奇跡を救済とは言わない、他者が心の中に土足で踏み入って手を差し伸べるのは救済ではない。『何が救いか?』この問いかけは自分の中にしか存在しない。親、子、妻、友、どれだけ近しい人であろうとも自分の中に他人の救いは存在しないぞ」
  返答は無かった。
  それでも構わない。
  「そもそも人が生きていく上で戦いは避けられない。何かを成し遂げたいという意思が壮大な事柄であれ些細な事柄であれ、そこに困難が伴うならもうそれは戦いになる。人が生きていく上で戦争は避けられない。それをお前自身が理解してるのか? 命を繋ぐ生みの苦しみも見方を変えれば戦争だ」
  この『瓦礫の塔』の中にいるケフカは自分らしからぬ言葉を言っていると自覚していたが、そこに違和感は覚えなかった。
  何故ならここにいるケフカは『ケフカ・パラッツォ』であって本人ではないからだ。
  本当の本物はゴゴが旅したかつての世界で滅ぼされている。新しく生まれたケフカとてゴゴが映し出した虚像であり本物ではない。
  物真似が作り出したケフカのようなモノ。本物になりきれない偽者。偽りの集合体。それがこのケフカなのだから。ゴゴが物真似してきた全ての要素以外の事が混ざり合って別のモノに変わってしまったとしても、聖杯の泥とは違う全く別のモノがこっそり混ざっても、それもまたケフカの一部だ。
  「判ったか? 判ってないのか? どっちでもいいからとにかく知れ。そして、選べ――今のお前に選べるのならな」
  ケフカは衛宮切嗣の中に別の『救済』を刻んでいく。
  幾つも、幾つも、幾つも、幾つも・・・。
  そして衛宮切嗣にとってこれまでの人生より何倍も長い時間が経過した―――。





  この時、本物でもあり偽物でもあるケフカは自意識のいくつもを分散させて冬木のあちこちに『ケフカ・パラッツォ』を構成させていた。
 ゴゴがアサシンの宝具『妄想幻像ザバーニーヤ』によって分裂してその全てと知識を共有しているように、ケフカもまた同じように自分を分散させて固有結果内での闘争と、ビル屋上での拘束と、聖杯の中での教育を実現させていた。
  けれどこれまでゴゴが行ったのは魔術によって構成された肉体に自意識を定着させる方法と、召喚の応用で自分を召喚させ直した方法だけだ。
  それはものまね士ゴゴが物真似して自らのモノとしてきた魔法あるいは魔術に限定され、全く異なる魔術を物真似し終える前に使ったことはない。
 ものまね士ゴゴが変質してケフカ・パラッツォになった原因たる冬木の聖杯の中に眠っていたモノ。ゴゴの意識すら喰らいつくして同期したこの世全ての悪アンリマユの庭と言ってもよい聖杯の中に自分を送り込むのはゴゴでもケフカでもやった事がない。
  聖杯の外にいるケフカは気付かない。
  聖杯の中にいる自意識の一つが変わっているのに気付けない。
  完全に同調していると思い込んで気付かない。
  すでにケフカが別の意識として完成し直されてしまったので、ゴゴも気付けない。
  ケフカが『ケフカ・パラッツォ』に見えながら、そうでないモノに変わろうとしている。この重大な事実にゴゴもケフカも、他の誰も、気付いていなかった。



  ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆



  Side - ゴゴ





  戦端を開いたのはライダーだった。けれど最初の一撃を見舞ったのはウェイバーだった。
  「すごい・・・」
 砂漠を駆ける戦車チャリオットの音と軍団が作り出す地響きに紛れてウェイバーがそう呟く。
  ゴゴから見ても半人前でしかなく、物真似する程のモノをほとんど見せない、それが魔術師ウェイバー・ベルベット。おそらく彼の人生においてこれほど強烈な一撃を自らの魔力のみで発動したことは無いに違いない。
  魔石『アレクサンダー』の力を借りているとはいえ、生まれたのは災害と呼ぶに相応しい炎の海だ。撃ち出されたレーザーがライダーの作り出した固有結界の一区画を火の海に変えた。
  英霊といえど、アサシン程度なら一撃で跡も残さずに消滅させる一撃。普通ならこれで終わる。
  だが『聖なる審判』で強烈な一撃を喰らわせても、この程度で終わる筈がない。敵はたかが災害程度で止まる存在ではない。
 この程度で終わるケフカ・パラッツォではない、元になっているゴゴはこの程度では死なない。聖杯の中に隠れていたこの世全ての悪アンリマユはこの程度では滅びない。
 突然現れた城のような巨人に王の軍勢アイオニオン・ヘタイロイの英霊達が僅かにどよめいたが、そこで足を止めるような輩は一人もいなかった。
  他の誰でもない先頭を走る王が疾走を緩めず、むしろ勢いを増して炎へと向けて走り続けているからなおさらだ。
  天を焼き尽くさんばかりに広がる炎の壁。そこに向けてライダーは一直線に突き進んでいる。左手には手綱、右手には鞘から引き抜かれた抜身のスパタを持っていた。
 まだ全力疾走―――宝具『遥かなる蹂躙制覇ヴィア・エクスプグナティオ』にまでは至ってないが、それでも二頭の雷牛が牽引する『神威の車輪ゴルディアス・ホイール』が雄々しい唸りを砂漠に轟かせる。
  ウェイバーが魔石『アレクサンダー』を使ってから時間にして五秒も経たず、『聖なる審判』が作り出した巨大な炎の壁に変化が訪れた。
  炎の壁は何もかもを焼き尽くさんと今も燃え続けているのだが、炎の中からゆっくりゆっくり歩みだす影があったのだ。
  一つや二つではない。
  少なく見ても二十以上はいるそれらは黒い人影だった。
 先頭に立つのは漆黒の鎧に身を包み、赤い槍『破魔の紅薔薇ゲイ・ジャルグ』と黄色の槍『必滅の黄薔薇ゲイ・ボウ』を持つランサーことディルムッド・オディナ。血の涙を流す紅く染まった眼は何も変わっていない。
 その隣に並び立つのは元々の衣装が黒に近いので外見の変化こそ少ないが、衣装に走る紅い血脈が違いのキャスターことジル・ド・レェ。もちろん手には彼の宝具である『螺湮城教本プレラーティーズ・スペルブック』が握られている。
 二人の背後に並ぶのは宝具『妄想幻像ザバーニーヤ』によって分裂したアサシンの集団だ。
  魔石『アレクサンダー』の『聖なる審判』では決定的な一撃を加えられなかったか、あるいはケフカによって回復させられたか。炎の壁を背にして堂々と歩く黒き英霊たちに四肢の欠損や怪我の類は見当たらない。
  それどころか掠り傷すら見えなかった。
  傷一つない現れる黒き英霊達の代わりにキャスターが呼び出した海魔の姿はなく、サーヴァントほどの耐久力がない魔物は『聖なる審判』で焼き尽くされたようだ。
 もしかしたら、攻撃の元がウェイバーの魔力によって作られた攻撃であるので、破魔の紅薔薇ゲイ・ジャルグを前に構えたランサーには攻撃そのものが届かなかったかのかもしれない。今も燃えている炎の部分は当たらなかった余波に過ぎないのかもしれない。
  ウェイバーの呼び出した『アレクサンダー』は海魔だけを薙ぎ払ったように見えるが、炎の壁に現れる変化はそこで終わらなかった。
  砂の大地を踏みしめる黒き英霊達。その後ろから人影ではありえない大きさの塊がいくつも現れたのだ。
  ゴゴはそれらが何であるかを知っていた。そのモンスター達―――いや、竜が何であるかを知っていた。
  冬木でもよく見かける二階建ての家より倍近い位置に頭がある首長竜。茶色い体をしてティラノサウルスに似ている竜。体が青く、日本の龍のように長い体をしている竜。翼竜のように空を舞って現れる竜。深い緑色の骨だけで構成された竜。
  他と比較すれば少々小柄な印象を受ける水色の竜もいるが、地面に並ぶサーヴァント達よりは確実に大きく、体長は2メートル以上あるだろう。
  風の力を操る、ストームドラゴン。
  水の力を操る、ブルードラゴン。
  炎の力を操る、レッドドラゴン。
  氷の力を操る、フリーズドラゴン。
  聖なる力を操る、ホーリードラゴン。
  大地の力を操る、アースドラゴン。
  雷の力を操る、イエロードラゴン。
  死の力を操る、スカルドラゴン。
  伝説の八竜の名を持つ八匹の竜が英霊達の背後から炎の壁を食い破って現れたのだ。
  『聖なる審判』が炸裂する前はその影すら見えなかった竜の参戦。明らかにケフカ側、つまりゴゴたちにとっては敵の増援となる状況。
  ゴゴは瞬時にその答えを導き出す。
  魔石『ジハード』。それは三闘神の力が封じられている幻獣であり、そのあまりにも強力過ぎる力ゆえに伝説の八匹の竜の中に分散させて封印されていた力だが、ゴゴの仲間たちが冒険を進めていく道中でその八匹を全て倒してしまい封印は解かれてしまった力でもある。
  結果として魔石『ジハード』も三闘神の力もゴゴの中に戻っていった。
そして伝説の八竜とは魔石『ジハード』の対極であり最も近い位置にあった力だ。
  ゴゴには伝説の八竜の召喚など物真似の成果として考えられず、やろうとする意識すら働かなかった。やろうと思えば出来るだろうが、ゴゴ自身がそれを成す為の域に達してないと考えていた。
  これはリルム・アーロニィのスケッチとは根本から異なる。
  召喚魔法とも違う。
  ガウの特殊技能『あばれる』の訳がない。
  当然、宝具でもない。
  これは―――物真似ではない。
  本来のゴゴはものまね士としての矜持があるからこそやらなかったが、ケフカとなってしまったゴゴはためらいを難なく乗り越えて伝説の八竜を呼び出してしまった。
  ゴゴにも見ただけではあの伝説の八竜がどれほどの力を有しているのか判らない。探査魔法のライブラを直接当てなければ判りようがない。
 そもそも宝具『己が栄光の為でなくフォー・サムワンズ・グロウリー』で人を物真似していた時とは状況が大きく異なるのだ。伝説の八竜と同じ形をしていても、より強く強化されている可能性も、あるいは弱体化している可能性もある。
  そんな出来損ないになるかもしれない召喚などゴゴには出来なかった。ものまね士としてやりたくなかった。
  しかしケフカはやった。
  伝説の八竜の更に上―――天に降臨し、下界の俗物を見下ろすように、背中から生えた三対六枚の羽根を羽ばたかせて空を飛んでいるケフカ・パラッツォ。他の敵と同じように彼もまた炎の壁の内側から傷一つなく現れる。
 ウェイバーへ渡した魔石『アレクサンダー』で攻撃力は多少強化されたが、敵の守りを突破して致命的な一撃を与えるには至らなかったようだ。そしてライダーの神威の車輪ゴルディアス・ホイールが到着すれば、広範囲攻撃は逆に味方を巻き込む危険を増加させる。
  敵の数は増えたが、ライダーが到達した後は各個撃破が望ましい。ライダーが招き寄せた軍団が到達すれば尚更だ。
  数瞬で伝説の八竜が出現した理由とこれからの方針へとたどり着いたゴゴだったが、それと同時に各個撃破の結論をあざ笑うかのように敵の方から攻撃が飛んできた。
  触れるだけで人を切り裂く風が目に見える形で迫り。八竜の背後にそびえる炎の壁がいくつもの火球へと変わり集っていく。
  攻撃はそれで終わらず、進軍が作り出す大地の揺れを上回る振動が砂の大地を揺らし始める。
  ストームドラゴンの『大旋風』、レッドドラゴンの『火炎』。そしてアースドラゴンの『マグニチュード8』。
  味方の被害―――この場合、向こうにとって地面に立つ黒き英霊達のことなど全く考えていない攻撃が開始された。
 王の軍勢アイオニオン・ヘタイロイで優位になっている数の利を最大限に生かし、敵をすべて倒せ。
  ゴゴの意識は即座にこの場にいる別のゴゴ―――ロック、セリス、マッシュ、カイエン、リルムの五人に伝わり、誰もが勝利という結果を掴み取るために行動する。
  「ライディーン、今は退いて!」
  一度は出現させた幻獣だったが、敵がケフカの力で強化された者たちと伝説の八竜とでは効果はほとんどない。
  セリスは頭上に浮かぶ六本の足を持つ馬にまたがった戦士を魔石に戻しながら、大地の揺れに対抗すべく魔法を唱える。
  「レビテト!」
 味方全員―――ゴゴが元になっている五人だけではなく、先を行くライダーの神威の車輪ゴルディアス・ホイールを含め、進軍する軍隊の一人一人にまで浮遊魔法は影響を及ぼす。
  「行け! ヴァリガルマンダ!!」
  「バハムート、合わせるよ」
  まだライダーが敵に到達していないので、広範囲攻撃は有効。加えて迫りくる風と炎の猛威に対抗してロックとリルムは各々が呼び出した幻獣に指示を出す。時同じく、二人の頭上にも黄色い小鳥が小さく舞って、地属性の攻撃を無効化するための魔法が効果を発揮する。
  バハムートの口から放たれる咆哮『メガフレア』とヴァリガルマンダの攻撃『トライディザスター』。炎、冷気、雷の三属性の複合技と竜の一撃が混ざり合って炎と風に衝突する。
  「魔法を俺にやらせるなよ。――ヘイスガ!」
  大災害同士がぶつかり合って強烈な音と爆風をまき散らす中。マッシュは不満と一緒に各個撃破するための準備として加速魔法を使う。
 レビテトと同様に加速の効果は五人だけではなく王の軍勢アイオニオン・ヘタイロイの全員に及び、僅かに浮遊しながら進軍速度を上げる奇妙は軍隊が出来上がっていった。
  「英霊ならその速さにすぐ慣れろ」
  命令にも似たマッシュの文句が聞こえる中。残るカイエンは『斬魔刀』を構えたまま駆け出し、ライダーの後を追って五人の中で唯一前に出て武器を用いての攻撃を開始した。
 もっとも、敵までには距離がある上にカイエンの駆ける速度より神威の車輪ゴルディアス・ホイールの方が圧倒的に早いから。出遅れた印象は否めない。
  「うおおおーっ!! マイティガードでござるぅぅぅ!」
  だからカイエンは出来上がった時間で本来ならば使えないはずの技を口にする。
  頭上で吹き荒れる爆風と熱風に逆らって進みながら、カイエンが口にしたのは物理的防御力を上げる魔法『プロテス』と魔法防御力を上げる魔法『シェル』を同時にかつ味方全体にかける技だ。
  本来ならばこの技が使えるのはストラゴスのみなのだが、カイエンの姿をしていても原形はゴゴ。使えぬ筈はない。
  それにこことは違う別の場所でストラゴスが本当は使えない筈の技を使う奇跡を作り出したのだ、姿形が違うだけで本来ならば使える筈の技が使えなくなる訳ではない。
  出来る―――強くそう願いながらカイエンはストラゴス専用の『覚えた技』を使う。
  心の中に伝説の八竜の召喚をやってのけたケフカへの対抗心があった。
  黄色い燐光が十字に輝き、緑の光球がそこに重なり合う。二重の防御魔法が作り出す眩い光が軍隊すべてを包み込んで幻想的な光を作り出した。
  空に爆発、揺れて大地に眩い光。
  両者の余韻が収まるよりも早く、ライダーが向かう方角から白い光と黄色い光が撃ち出された。
  閃光と呼ぶしかないそれは『聖なる審判』のレーザーよりも極太で、白い光はライダーの真横を通り過ぎて駆ける軍隊の中に着弾し、黄色い光は斜め上から放たれて同じく軍隊の中に着弾した。
  白い光はホーリードラゴンが放った『セイントビーム』、首長竜の頭がある斜め上から降り注いだ黄色い光はイエロードラゴンの『波動砲』だ。二匹の竜の口は閃光を打ち出したのを誇るように大きく開かれている。
  避けるなど考えるよりも前に衝突している光が二つ。二か所で大規模な爆発が巻き起こり、舞い上がった砂塵と一緒に吹き飛ばされる兵士の姿が見えた。
  悲鳴を上げながら空に飛ばされるライダーの招きに応じた英霊達。しかし『ヘイスガ』と『マイティガード』が痛みを和らげたのか、死んではいない。
  もし『セイントビーム』と『波動砲』で消されるか死んだならば、サーヴァント達は霧が晴れるように人の形を保てずに消滅するはずだ。巻き起こった砂ぼこりの中までは判らないが、少なくともゴゴが見える範囲にはそれがない。
  それに『マグニチュード8』によって引き裂かれていく砂の大地の上を軍団は浮遊しながら駆けていく。数十人を巻き込んだ攻撃であろうとも、それは止まる理由にも戦いを止める理由にもならない。
  王が駆けるならばそれに続くのみ。強大な敵を前にしても士気は全く衰えない。


 「AAAALaLaLaLaLaieアァァァララララライッ!!!」


  そして、遂にライダーが敵へと到達する。
  時間にすればウェイバーが魔石を使って『アレクサンダー』を呼び出してから僅か十数秒ほどしか経っていないが、起こった変化は劇的だった。
  『聖なる審判』が作り出した炎の壁はレッドドラゴンの攻撃に使われて影も形も無く。海魔が減った分だけ敵の数は減少したが、新たに現れた伝説の八竜が黒き英霊達の背後に並んで強大な敵の様相を示している。
 大地、風、火。聖なる力と雷の力。竜の力は本物に劣らず、むしろ王の軍勢アイオニオン・ヘタイロイの一角を一撃で消滅させかねない威力だったので、強化されていると思っていいだろう。
 そんな敵達が作り出す壁の先頭―――神威の車輪ゴルディアス・ホイールは二本の槍を構えるランサーへ衝突する。
 最速のサーヴァントと名高きランサーならば全力疾走ではない戦車チャリオットを避けるのはそう難しい事ではない筈。けれどランサーは右手に持った紅き槍『破魔の紅薔薇ゲイ・ジャルグ』の切っ先を前に出して、巨大な長砲身を思わせる牽引部分を正面から突いたのだ。
  「あぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!」
  衝突と同時に槍もランサーも一緒に吹き飛ばされてもおかしくない。
 けれど現実にはランサーの体ごと後ろに押されていくが、狂った獣のように雄たけびをあげるランサーの腕も槍もまっすぐ伸びたまま神威の車輪ゴルディアス・ホイールに耐えている。バーサーカーすら軽々と吹き飛ばした一撃にランサーがこらえていた。
  砂の大地にランサーが踏ん張る足の軌跡と雷牛の足跡、加えて車輪の跡がどんどん刻まれていき、巻き込まれてはたまらないと背後にいたアサシン達が横に飛んで避けるが、ランサーは変わらず押されるだけで吹き飛ばされはしない。
  あるいはサーヴァントが持つ本来のステータスを大きく超える事象を巻き起こしているのはランサーの技量が合ってこそかもしれないが、信じがたい状況であるのは間違いない。
  「嘘だろ・・・」
  御者台の上から誰よりも近くでライダーとランサーの衝突を見るウェイバーがそう呟くのも無理はない。
 そのままランサーを押し続けた状態は続き、アサシン達が避けた後ろにいる八竜がいる場所にまで続いた。中央にいて神威の車輪ゴルディアス・ホイールを迎え撃とうとしているのは日本の龍を思わせる長い体の竜だった。
  青いウロコの一枚一枚が鋭く尖ったクリスタルを思わせるブルードラゴン。
 ランサーの力で僅かに突進速度を緩めた戦車チャリオットに向け、その長い体に見合った長い尾を少しだけ引いた。
  「これはいかん!!」
  「え?」
 ウェイバーが『何が?』と問いかけるより早く、ライダーは手綱を引いてランサーとの拮抗状態を意図的に崩す。そのまま神威の車輪ゴルディアス・ホイールの進行方向を少しだけ上に向け、ランサーの突きを空に駆け上がって避けていく。
  ランサーの槍が空へ登る二頭の雷牛のちょうど真ん中を通って御者台の下を抜けようとする頃―――小さいながらもしっかりと振りかぶったブルードラゴンの尾が御者台の下を潜り抜けた。
 ライダーの判断が一瞬でも遅れていたら直撃したであろう一撃。それは破魔の紅薔薇ゲイ・ジャルグを突き出した体勢のランサーだけを吹き飛ばした。
  「・・・・・・」
  ドンッ! と固い物が同士がぶつかり合う音を響かせながら、はるか遠くに吹き飛ばされるランサー。
  味方が巻き添えになっても構わない竜の攻撃にウェイバーは冷や汗を流し、ライダーは手綱を操って一度後方に抜けてから大きく弧を描く、再び突進の状況を整えていくためだ。
 勢いはランサーの突きで少し減退したが、それでも神威の車輪ゴルディアス・ホイールの速度はその場で急転回できるほど緩やかではない。
 ライダーの通る跡は大きな大きな弧となり、その間にカイエンが、そして後続の王の軍勢アイオニオン・ヘタイロイが敵に到達する。
  軍勢が上げる鬨の声は一つの思いとなる。すなわち―――王に続け!! だ。
  その中の一人となったカイエンもまた斬魔刀を構えてアサシンの一人に向けて斬りかかった。
 ライダーが横をすり抜けると同時に歓喜の表情を浮かべたキャスターは螺湮城教本プレラーティーズ・スペルブックに手を当て海魔を召喚した。
 人である黒き英霊達よりも八竜の方を脅威と見たか、王の軍勢アイオニオン・ヘタイロイの多くが竜に向けて槍を投擲し、剣を振り上げ走り、斧を担いで敵を殺さんと駆ける。
  アインツベルンの森ではアサシンを圧倒したが、ケフカに召喚され直したアサシンもまた強化されているようで。あちこちで戦士たちと暗殺者たちが互いの武器で打ち合い、足払いや頭突き等なんでもありの闘争を繰り広げ始めた。
 正しくこれは戦争だ。王の軍勢アイオニオン・ヘタイロイによって呼び出された独立サーヴァントたちとケフカによって召喚された下僕たちの殺し合いだ。
 味方にのみ効果を及ぼす魔法が発揮されたので、今やライダーもウェイバーも王の軍勢アイオニオン・ヘタイロイの誰も彼もがゴゴにとっては共にケフカを倒すための同士となっている。
  カイエンがその中に混じって一足先に乱戦の中に身を投じたように―――、ロックも、セリスも、リルムも、マッシュも、新たな戦法に変えていく。
  狙うは上空から戦争が巻き起こる地上を見下ろして、殺し合え、とでも言わんばかりに傍観しているケフカの首。
  「戻れ、ヴァリガルマンダ。飛ぶぞ、ケーツハリー!」
  「来て――ラクシュミ」
  二つの魔石を両手に持ち、頭上に浮かぶ幻獣『ヴァリガルマンダ』を左手に持つ魔石に戻しながら、紫色の巨鳥の幻獣を呼び出すロック。
  仲間がダメージを負えば常に回復するように別の幻獣を呼び出すセリス。ヒンドゥー教の女神と同じ名前を持ち、魔石を使った術者の味方の体力を回復させる女性がセリスの背後に現れた。
  「バハムート。このまま空に行こ」
  「くたばれスカルドラゴン! オーラキャノン!!」
  一旦、黒く光り輝く竜王を地上に降ろし、その背中に跨って戦場を空に移していくリルム。
  カイエンの後を追って前に走って、そのまま両手を前に突き出して白い閃光を撃ち出すマッシュ。先ほど撃たれたホーリードラゴンの『セイントビーム』への意趣返しだろうか。
  こうして聖杯戦争とは大きく異なるが、紛れも無く本物の戦争が始まった。



  ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆



  Side - ????





  殺せ―――。それが俺に与えられた至上命題だ。
  『俺』がこの世界に現界して真っ先の脳裏に思い浮かび、必ず行わなければならない使命としてそれは刻まれた。
  オレンジ色の鎧の下にある『俺』の肉体に刻まれた紅い血脈。ドクンと音を鳴らすたびにそれは黒く染まり『俺』を侵食し、殺せ―――と訴えかける。
  「気に入らねえ・・・」
  だが俺の口から出てきたのは抗いの言葉だ。
  足元にはピクリとも動かない男が一人。死んでないのが不思議なほどダメージを負って、全身の至る所に傷と怪我が山ほど出来上がってやがる。
  うつ伏せになったまま砂漠に埋もれる様子を見ると、このまま放置したら回復よりも死に近づくのは間違いねえ。
 顔を上げれば空飛ぶ牛に引っ張られて空を駆ける戦車チャリオット。雷を放ちながら空を走るそいつの上にいる城に似た幻獣がまたレーザーを撃った。
  狙いは『俺』をこの世界に呼び寄せた男だ。
 それでもレーザーが直撃して現れた火炎が包むのはその男の前に出てガードしやがった紅い竜。その竜の後ろで男は笑ったまま空を駆ける戦車チャリオットを、そこに乗ってる奴らを、この場にいる全てを、『俺』も笑ってやがる。
 紅い竜を中心にして空に大火球が生まれやがった。二つ目の太陽が空に出来た。戦車チャリオットに乗ってる奴が最初の攻撃より込めた魔力より少なかったのか、俺の周りを燃やしてた炎の海より威力が小さいのが見て判る。
  「気に入らねえな・・・」
  あの野郎は『俺』に指示を出した。
  俺にこう命じた。
  殺せ―――、斬り殺せ―――。
  抵抗する意思すら見せられないほど消耗した黄金の鎧をまとった奴を殺せと、奴は『俺』に命じた。
  それがどうしようもなく気に入らねえ。
  だから俺は叫ぶ。
  誰も『俺』を、『俺』の足元にいる男も見ていなかったとしても、『俺』が俺である為に叫ぶ。
  他の誰でもない『俺』が何をするかは俺が決める。
  宣言する。
  主張して、断言して、言い放つ。
  「こんな一方的なやり方は気に入らねえ! 手前らに加担したら格好悪いまま歴史に残っちまうぜ」
  叫んだ瞬間。『俺』の頭の中に刻まれた命令を俺が打ち消していく。
  『俺』は他でもない俺だけの存在。どんな出自だろうと、『俺』は俺の生き方を曲げない、屈しない、揺るがない、貫き通す。
  『俺』に命令できるのは俺だけだ。
  『俺』はあらゆる武器の収集に情熱を傾ける武者。伝説の剣豪。戦う強者が持つ名工の武具を奪い、その中に必ずある最強の剣を求める男。
  俺の名前は―――ギルガメッシュ。
  「状況はよく判らねえが俺は今からお前らの敵だ」
  俺は足元に転がってる黄金の鎧を着こんだ男を背負いながら、これまで収集した武器の中で特に気に入ってる日本刀の一本を抜いて構える。
  鍔に竜虎が互いに睨み合う柄が施された名工の一品、銘を正宗。
  どいつもこいつもこっちの事なんて気にしてないようだが、俺は『俺』を呼び出した男に反旗を翻す。これは決定事項だ。
  とりあえず近くにいる竜に狙いを定めて走った。
  「どけ、どけ、どけどけどけっ!!」
  途中、小さな人間が邪魔だったから空いた手でそいつらの首根っこ掴んでポイポイと放り投げて強引に道を作る。
  邪魔だ、邪魔だ、邪魔だ。
  何だか知らねえがどいつもこいつも微妙に浮かんでるから投げやすくて実にいい。
  他にも七匹いる竜の中じゃあ一番小柄、殺到する人数が一番少ないから狙いやすい。大きさは俺と同じ位、口から吹雪を吐いて、近くにいる人間を傷めつけてやがる。
  そいつは俺が放り投げたの人間どもに反応して吹雪を止めて白い球を口から撃ち出す。当たると人型の氷像が幾つか空に出来上がるが、知ったことじゃない。
  落下の衝撃で壊れるかもしれねえが運が悪かったと思って諦めろ。
  「喰らいやがれ――」
  上に口を向けて喉元を曝け出してやがる竜。俺は懐に潜り込んでそこに狙いを定め―――。


  「剣の舞」


  左肩から右脇腹にかけての袈裟切り。右肩から左脇腹への逆袈裟。右下から左上への左切り上げ。左下から右上への右切り上げ。
  正宗が描く軌跡がちょうど『×』の形になる四連撃。竜の形は人と全く違うが、他の部分より動く首が柔らかいのは生物の基本・・・の筈。
  一瞬の間に刻まれた四か所の切り傷に竜は悲鳴をあげる。
  さすがに竜だけあって耐久力はとてつもなく高い。一度で首を切断できるとは思わなかったが、『切断』にほど遠い『切り傷』にしかなっていないのはショックだ。
  中々硬いじゃねえか。
  名剣の正宗に見合うよう鍛錬を怠ったことは無いんだがな。
  突然現れた俺に周囲はやかましい。敵なのか味方なのか迷ってる雰囲気が見なくても伝わってくるぜ。
  いいか、俺はお前らの仲間になった訳じゃねえ。ただ俺がこいつ等を―――俺を呼び出したあの野郎が気に食わないだけだ。
  強者が持つ名工の武具にかけて竜の首は俺が獲る。そして空に浮かんでるあの野郎も俺がやる。
  「このギルガメッシュ様が――倒せるかな?」
  改めて痛みに悶える竜に向けて名乗った時、背負った男がピクリと動いた気がした。
  起きたか?



[31538] 第42話 『英霊達はあちこちで戦い、衛宮切嗣は現実に帰還する』
Name: マンガ男◆da666e53 ID:bbf25c32
Date: 2014/02/01 18:40
  第42話 『英霊達はあちこちで戦い、衛宮切嗣は現実に帰還する』



  ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆



  Side - 間桐雁夜





  目に見える風が球体になって、あっという間にセイバーとバーサーカーを吹き飛ばした。けれど、バーサーカーが敵意むき出しでセイバーに斬りかかろうとしているのは今も変わってないらしく、遠ざかる間にもどんどん俺から魔力を吸い上げて戦う力に変換してる。
  「うっ・・・」
  僅かでも気を抜けば気絶してしまいそうな強烈な消耗が俺の体を蝕む。体の内側を直接刻まれてるような強烈な喪失感。それでも懸命に耐え続け、握りしめた桜ちゃんの腕から魔力をもらってバーサーカーに渡していく。
  セイバーとバーサーカーが俺の目じゃ見えないぐらい遠くに吹き飛ばされたのを確認した後。俺は周りはちらほらと人影があるのに気が付いた。
  昼間に比べれば格段に数は少なく、道路を走る車も見える範囲にあるのは十台以下。昼の冬木とは全く違う姿で、無人だった戦場はもう無い。
  どんな理由でこうなったか俺には判らない。それでも、結界は解除され、元の冬木市に戻ってきた。それは理解できる。
  道を歩く人が苦しそうに呻く俺に目を向けるが、そばにいるティナとストラゴスを見て『知り合いがいるなら大丈夫だろう』とでも言わんばかりに足早に去っていった。市民に警戒を呼び掛ける今の冬木の状況を考えれば、少しでも変なことには関わり合いになりたくないのだろう。
  もしかしたら俺の右手にある魔剣ラグナロクを見て近づきたくないだけなのかもしれない。俺は体の中に蠢く痛みを堪えながら、何とかアジャスタケースに抜身の剣を戻した。
  「ストラゴス・・・。ここは任せてもいい?」
  「任せるゾイ、お主は奴らを追うんじゃ」
  歩道脇で倒れこんだ俺のそばでそんな会話が聞こえる。
  頭を動かすのも億劫になりそうな状況だ。それでも何とか体を動かして、並び立つ二人を見る。
  「どう・・・する、気だ・・・・・・」
  「もちろんあの二人を追いかけるの。ストラゴスが山の近くまで飛ばしたけど人が居ない訳じゃないから、バトルフィールドをあっちでも張り直さないと――」
  いきなり説明もなくサーヴァント二人を吹っ飛ばした時は何をしてるのか判らなかったが、ようやく『街中で英霊達が戦う時の危険』が俺の頭の中に舞い降りてくる。
  普通だったら真っ先に考え付く筈の危険なんだが、バーサーカーに魔力を吸われ続けて思考が疎かになってるらしい。
  気を引き締めろ。そう自分に言い聞かせるが、失われていく魔力と一緒に虚脱感は増すばかり。会話をする気力すら萎えていく。
  「それじゃあ・・・、行くわ」
  制止する言葉すら思いつけず、ティナがそう言い放つのを止められもしない。
  まだ危ない目に合うかもしれないのを了承してくれたが、俺に魔力を渡してくれるのに忙しく、元々戦いそのものに熱心じゃない桜ちゃんが言葉を挟める筈もなかった。
  事態は俺たち二人を置き去りにして進んでいく。
  夜の中だからこそ余計に目立つ桃色の光がティナが包む。いや、ティナ自身が発光しているんだと遅れて気付いた瞬間、ティナ・ブランフォードが変わった。


  「トランス」


  ティナの口から放たれた小さな呟きを切っ掛けにして発光はさらに強くなる。けれど一瞬後には収まってカメラのフラッシュを思わせた。
  何があった?
  これまでゴゴは俺に何度も何度も何度も世界の常識を破る事柄を見せてきて、その中に冗談や洒落の類はなかった。
  ゴゴが何かするなら、それは確実に『何か』の結果に繋がる。その多くが修行中の俺を殺す攻撃になったのを俺自身がよく知ってる。
  朦朧としかける意識の中で『間桐雁夜』の生存本能とでも言うべき何かが起こった事実を凝視させた。
  そこには『何か』がいた。
  頭の天辺から足の爪先までにきめ細かい体毛が生えて、その毛が淡い桃色の光を放つ『何か』、着ていた筈の服は無くなり体と同じ色の髪の毛は増えて腰まで伸びている『何か』。耳は尖って大きくなり、両手足はネコ科の動物のように変形した『何か』。
  まるで桃色の獣のような―――ティナだった『何か』がそこにいた。
  「・・・・・・」
  何が起こった?
  目の前にある現実に理解が追い付かない。
  全てを見た筈なのに、頭がそれを理解しようとするのを拒む。
  判っているのに判らない。判ろうとしない。これは誰だ? と頭の中で声がする。
  知っている。判ってる。何もかもが俺の目の前で行われて、それが誰かなんてずっと理解し続けてる。
  ゴゴでありティナ、これはティナ・ブランフォード当人だ。そう判っているのに俺はこれが現実の出来事だと思えず、ただ茫然とし続けた。
  一秒か五秒か十秒か、もっと長くか。目の前に立ってる桃色の光を放ち続ける『何か』を見つめ続ける以上の事が出来なかった。
  「・・・・・・」
  戦場で呆けるのが危険だなんてゴゴと修行し始めてから即座に思い知った筈なのに、頭の中はごちゃごちゃで何だ何だかよく判らない。
  そんな俺の意識を現実に置き続けていたのは、俺の手を握り続けてる桜ちゃんだ。
  そうじゃない―――いつの間にか桜ちゃんは手だけじゃなくて全身で俺にしがみついてた。両手が俺のパーカーを強く握りしめて、桜ちゃんの少し高めの体温が体の横半分に伝わってくる。
  だから余計に判る。
  桜ちゃんが震えてる。
  怯えてる。
  怖がってる。
  俺と同じようにティナの変貌を見上げて、異形の怪物を見るような目をしている。
  「そう・・・・・・」
  短いながらもしっかりと呟いたのはティナだった。全く別の姿をしているのに、聞こえる声は何も変わらない。
  同じ声が聞こえた瞬間、俺の視界の中にはほとんど変わっていない物もあるのに気が付いた。ティナの顔だ。耳の長さと皮膚の色、髪の毛はとんでもなく多くなったが、間違いなく人の顔がそこにある。
  目がある、鼻がある、口がある。
  少し細められた目が俺たちを見てる。その顔が今にも泣きだしそうに見えたのは俺の勘違いじゃない。
  悲しんでる。
  落ち込んでる。
  ゴゴが姿を変えるなんてずっと前から知ってた筈なのに、その変化があまりにも唐突すぎたから理解より前に忌避が出た。その『他人から嫌われる自分』をティナが受け入れてる。そう見えた―――。
  俺が。俺と桜ちゃんが。怖がったように見せた俺達が。ティナを哀しませた。
  「行くわ」
  絶対にやったらいけない事をやってしまった。そこでようやく俺達がしてしまった間違いが判ったが、何もかもが遅すぎた。
  ティナがもう一度同じ言葉を繰り返し終えた瞬間、ほんの少し足を曲げて屈むのが見えた。
  その僅かな動きが跳躍の為の溜めなんだと気付くよりも前にティナは空に舞い上がる。
  「うおっ!?」
  ティナが『跳ぶ』ではなく空を『飛ぶ』。飛び上がった衝撃で爆風が発生して、すぐ近くにいた俺達を強く押しのける。
  咄嗟に俺にしがみついてる桜ちゃんの頭を抱きしめた。
  ただ、俺の視線はしっかりとティナだけを見つめ続けて―――悲しそうな顔をしながら飛び上がる様子も、桃色の光を残しながら遥か上空に舞い上がる様子も、夜の闇に消えてく様子も、何もかもを見ていた。
  そうじゃない。見送るしか出来なかった。
  変わってしまったティナに一言も声をかけられず、目の前で起こった変化についていけず、怯える桜ちゃんがすぐ傍にいたからそっちを優先させた。
  俺は見るだけで何もしなかった。
  「どうやら誰にも見られんかったようじゃゾイ。運の良いことじゃ」
  聞こえてきた声はティナの隣に立っていたストラゴスの声だった。その声に導かれた訳じゃないが、夜空を見上げても、そこにティナはいない。
  飛び去ってどこかに行ってしまった。それをいつまでも見るのが嫌で、俺は視線を上から下に戻す。
  するとゴゴがそこに立っていた。
  「・・・・・・え?」
  二足歩行で紫色の牛を模した着ぐるみを着ていた筈のストラゴス・マゴスの姿は無く、一年間ずっと見続けてきたものまね士の格好をするゴゴがそこにいた。
  いつ変わった?
 いつバーサーカーの宝具『己が栄光の為でなくフォー・サムワンズ・グロウリー』を解除した?
  違う、そうじゃない。ストラゴス・マゴスの姿からものまね士ゴゴに変わったのになら、その瞬間が合った筈。俺はどうしてそれに気付けなかった?
  俺はいったいどれだけ呆けていた?
  そうやって何度も何度も唖然したから、俺は間違えて何も出来なかった。唖然とするならいつでも出来る、思考に囚われて動きを止めた瞬間に敵は俺の命をとる。それは俺の中に刻まれた真実だ。
  戦場で気を抜くな。今の冬木は戦場だ、たとえ結界が解除されて一般人が沢山いる世界に戻ってきたとしても、ここは紛れもなく敵がいる戦場だ。
  ティナは変わり飛んで行った。
  ストラゴスは消えた。
  桜ちゃんがいる。
  ゴゴが外に出る時に使っているストラゴスの口調と色素性乾皮症を患った間桐臓硯を見せかけるための姿でここにいる。
 この構図は宝具『己が栄光の為でなくフォー・サムワンズ・グロウリー』を物真似する前に作られた俺たちの日常だ。
  過去を取り込め。今を認めろ。先を見ろ。そして動き出せ―――、間桐雁夜。
  「・・・・・・・・・どうしてあいつ等を吹っ飛ばしたんだ?」
  「ここで戦えば神秘の秘匿が崩れる危険があるゾイ。一般人を巻き込むのはお主も本意ではなかろう?」
  言われて周囲を見渡せば、何の変哲もない冬木の景色がそこに広がってた。歩道には僅かばかりの人、車道には昼と比較すれば圧倒的に少ない車が通り、並びビルには僅かに明かりが灯ってる。
  ほんの少し前までこことは同じで違う場所でセイバーとバーサーカーが殺し合いをしてたとは思えないほど静かな景色だった。
  ティナの変身を切っ掛けにして、どうして結界が解除されたとか聞きたい事が山ほど出来たが、俺が今するべき事をゴゴへの質問攻めじゃない。
  俺がやらなきゃいけない事をやる為に必要なことだけに絞って話す。
  「バーサーカーの事はティナに任せていいんだな」
  「ワシ等に出来るのは邪魔が入らぬよう場所を作り出すだけじゃ。決着はバーサーカー自身がつける問題じゃゾイ。勝つかもしれんし、負けるかもしれん」
  ゴゴに改めて言われてバーサーカーとセイバーの戦いに関してはもう俺が手出しできないのだと再認識する。
  他の誰でもない、俺がバーサーカーのそう命じたから。
 ある意味で令呪に縛られた今のバーサーカーは奴自身の剣で望む通りに戦う。そこに俺の意思が入り込む余地はない、セイバーと決着をつけるために全てはバーサーカーの意思に、湖の騎士サー・ランスロットへと委ねた。
  ゴゴが場所を作り、俺は魔力を送る。その魔力も桜ちゃんから譲られてるから余計に『間桐雁夜』は入り込めない。
  「・・・アスピル」
  また魔力が消えていく感触で眩暈がしたので、全身でしがみついたままの桜ちゃんに魔力吸収の魔法をかける。
  俺なんかが溜めこめる小さな小さな魔力炉を瞬間的に満タンにする桜ちゃんの莫大な魔力。桜ちゃんが聖杯戦争のマスターになれば魔力供給に関しては敵はいないんじゃないかと思う。
  左手で桜ちゃんの頭を抱き寄せ、右手には魔剣ラグナロクを握りしめた戦場にいる自分を強く意識する。
  あっちはバーサーカー自身とティナに任せよう。そう思った。
  そうしたらゴゴが言ってきた。
  「雁夜、バーサーカーに魔力を送りながらで苦しいのは判るゾイ。桜ちゃんが多分危ない目に合うのは心苦しいのじゃが、二人とも手を貸してくれんか? ちと厄介な事が起こりそうじゃゾイ」
  「――厄介な事?」
  桜ちゃんが危険な目に合う。聞き捨てならない言葉が聞こえてきたが、ゴゴが『厄介な事態』と言う時は俺なんかじゃ事態を納められないとんでもない状況になってる場合がある。
  ケフカ・パラッツォが降臨した時のように―――。
  ゴゴが敵になった場合かそれ以上に面倒な事態が起こってるんだろうと考え、ゴゴの言葉を待った。
  「衛宮切嗣に張り付けたミシディアうさぎから嫌な情報が送られてきおった。このままだと冬木が滅ぶゾイ」
  その言葉をゴゴから聞いた後。俺はバーサーカーのマスターではなく間桐雁夜という一人の人間として桜ちゃんと一緒にある選択をする事になる。
  「がっ!!」
  でもその前に―――バーサーカーがセイバーとの戦いを再開したようで、今まで以上に強烈な衝撃が俺の体を喰らっていく。気絶してしまいそうな巨大な魔力消費。
  俺は語る言葉を失った。会話への気力も失った。ただ気を失わないように自分を保ち続けるしか出来なくなった。



  ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆



  Side - ゴゴ






  柳洞寺が立つ円蔵山。ここは聖杯戦争の参加者で事情を知る者にとって、柳洞寺の真下にある地下大空洞に設置された大聖杯の近く。そう考えた方がいいかもしれない。
  その麓にセイバーとバーサーカーの戦場は移されようとしている。
  トランス状態で全く別のモノ―――人と幻獣のハーフと呼ぶに相応しい姿に変化したティナは空を飛ばされる二人の騎士を追いかけて、冬木の街中から一息でここまで移動した。
  先に『鼻息』で飛ばされたセイバーとバーサーカーとの間に時間差が合ったにも関わらず、ほぼ同じタイミングでたどり着けるほど高速で、主に戦闘機などに発生する超音速飛行の衝撃波、通称『ソニックブーム』を巻き起こしかねない速さだった。
  肉眼でティナの移動を目視できた者はおらず。見ていた者がいたとしても、超高速で空を飛ぶそれが人の形をした生物だと確認できない。
  人の肉体を持ちながら、人では決して行えない出来事を易々と行う。これがティナの持つ幻獣の力だ。
  かつて氷漬けの幻獣『ヴァリガルマンダ』と共鳴し、ゾゾの町に隠匿していた幻獣『ラムウ』の呼びかけに応じた時のように―――。
  けれど、桃色の燐光を放ちながら人に似た別のモノに変わってしまったティナの胸中は『やっぱり・・・』と落胆に支配されていた。空を飛ぶ解放感も、人の技を超えた達成感も全く無い。あるのは自分の姿がどうあっても人にとっては嫌われる対象であるという自責の念だけだ。
  間桐邸で雁夜と桜ちゃんと一年過ごしたのはあくまでゴゴであり、ティナの姿で接したのはほんの数日間。
  あるいは雁夜と桜ちゃんに話す機会があり、もう少し長く接していれば二人もまたモブリズの村に生き残った子供たちのように、ティナを『ママ』と呼んだあの子たちの様に分かり合えたかもしれないが、状況がそれを許さない。
  今は分かり合える時間が無い。話し合える時間がない。二人の英霊達の戦いが作り出す周囲への被害を食い止めるべき時なのだ。
  打ち所が悪ければ着地どころか落下の衝撃で体中の骨が砕け散ってもおかしくないのだが、ストラゴスが使った『鼻息』で吹き飛ばされた二人は剣の英霊と狂戦士の名に恥じぬ見事な健脚を発揮して、ティナよりも先に難なく地面に着地した。
  その二人の上空数十メートル上でティナは言う。
  「バトルフィールド、展開・・・」
  ティナの胸の中に巣くう寂しさを悟ってくれる者はおらず、小さく呟いた言葉を聞く者もいない。
  いるのは人気のない夜の円蔵山の麓で改めて戦いを再開した二人の英霊だけ。
  ただしセイバーしか見えてないバーサーカーと、同じくバーサーカーしか見えてないセイバーは遥か頭上から見下ろすティナの異形など目に入って無かった。
 周囲の景観は変化していなくても、バトルフィールドが展開されれば無機物が一切破壊できなくなる。セイバーの約束された勝利の剣エクスカリバーでも、バーサーカーの無毀なる湖光アロンダイトでも、足元の道路は言うに及ばず、周囲に生えた木々どころか草木すら斬れていない。
  明らかな異常が周辺に起こってるのは明白でありながら、その異常よりも彼らにとっては目の前にいる存在の方が重要のようだ。
 着地と同時に他には目もくれずに無毀なる湖光アロンダイトで斬りかかるバーサーカー。
  「何故・・・」
 何とか約束された勝利の剣エクスカリバーを横に構えて脳天への直撃を回避するセイバーだったが。弱弱しく呟くセイバーは割れた兜の中から現れた湖の騎士サー・ランスロットの顔しか見ていなかった。
  やはりどちらもティナの事も、自分たちを取り巻く結界の事も全く見ていない。それがティナにとってはありがたく、また寂しくもあるのだった。
  令呪の後押しがあってもまだ『狂化』の属性付加から抜け出せていない狂戦士が叫びながら剣をふるう。
  「アァァァァァァァァァァァ!!」
  セイバーの名を呼ぼうとしているのか、それともただの雄叫びなのか。
 無毀なる湖光アロンダイトがセイバーの構えた約束された勝利の剣エクスカリバーを打ち据えるごとに、黒に近い紫色の燐光が火花のように散る。
  元々は端正な顔立ちだったであろう表情を憤怒一色に染め。鋭い歯を剥き出しにして暴れまわる姿はバーサーカーの名にふさわしい有様だった。
  剣術というよりもむしろ力任せに振るわれる剣がセイバーの剣とぶつかり合い、ガキン、ガキン、と甲高い音を鳴らす。
  セイバーはバーサーカーが持つどのクラスよりも強力な剛腕が繰り出す一撃によって剣を受けるのではなく剣ごと後ろに吹き飛ばされている。
  しかし、体勢を立て直しながらも、そこから反撃に出ようとはしない。
  剣は何とか構えているが、ただ兜の中から現れたランスロットの顔を見つめるだけに終わり、攻撃には転じなかった。
  「ランスロット!!」
  剣の英霊が選んだのは攻撃ではなく言葉だった。
  けれど、名を呼んだ程度でバーサーカーは止まらない。全身で憎しみに表し続けるランスロットが止まる筈がない。
 むしろ『その名で呼ぶな!』とでも言わんばかりに攻撃の勢いを更に増し。今まで以上に無毀なる湖光アロンダイトでセイバーを構えた剣ごと後ろに吹き飛ばす。
  振り抜かれた剣が起こす刃風が草木を強く揺らしていた。
  剣は構えていてもセイバーからは戦う意思を感じられない。自分を殺しに来る敵を前にして、間違いなく戦場にいながら戦おうとせず、それどころか呆けて見える表情は目の前に立つランスロットとそれ以外の事ばかりを考えているように見える。
  バーサーカーの一撃は確かに強力であるのだが、その分だけ荒く大降りになって隙も大きくなる。剣の英霊ならば、その隙を十分につける筈なのだが、セイバーは攻撃に出ない。
  心ここにあらず。今のセイバーはそう呼ぶに相応しく、どうしようもなく戦いを貶めていた。
  アインツベルの森で行われた聖杯問答の時のライダーの言葉でも思い出しているのだろうか?
  「ランスロット・・・。そうまでして――、私を恨むのか・・・」
  それともセイバーとバーサーカーの生前。つまりはランスロットがアーサー王の妻を愛してしまい、その不貞によって円卓の調和を乱して、国を滅ぼすに至る戦端をを開いてしまった過去を、『完壁なる騎士』と呼ばれた男が『裏切りの騎士』と嘲りを込めて呼ばれた過去を思い出しているのだろうか?
  ティナの原形であるゴゴは聖杯戦争において雁夜がサーヴァント召喚を行えるようになる以前から、この世界の英霊が持つ宝具に強く関心を抱いていた。
  宝具とは人間の幻想を骨子に創り上げられた武装。英霊が生前に築き上げた伝説の象徴であり、物質化した奇跡でもある。
  けれどゴゴは宝具を物真似の精度を高める為の手段として考えた。
 だからこそ他人に変身できる能力を持つ英霊を探し求め、ランスロットの持つ宝具『己が栄光の為でなくフォー・サムワンズ・グロウリー』へとたどり着いたのだ。
  一年という限られた時間の中で、この世界の英霊にまつわる逸話を幾つも幾つも幾つも幾つも読み解いた。同時に間桐臓硯として行動し、英霊にまつわる逸話の中に該当するであろう強い繋がりを持つ触媒を探し続けた。
 故にゴゴは湖の騎士サー・ランスロットが積み上げてきた物語と、そこから生まれる感情にある程度の予測をつけられるようになったのだ。
 バーサーカーが歴史に刻んだ物語。いや、湖の騎士サー・ランスロットが歴史に刻んだ物語では、彼は武勇に優れ、忠節に厚く、立ち振る舞いは優雅にして流麗。騎士道の華を体現する者であった。
  誰もがその姿に羨望を抱き、そして称賛する。それこそが騎士ランスロットの誉れであり、呪いだ。
  乱世に荒れ果てた国を救うために求められた理想の王。その王の傍らには気高く貞淑な后。そんな『完璧な王』に仕える『完壁なる騎士』それこそがランスロットに望まれたモノであり、民衆から託されモノであり、ランスロットに許された一つ限りの生き様だ。
  ゴゴの予想でしかないが、ランスロット自身がその生き方を望んだからこそ、紛れも無くそう歴史に刻まれたのだろう。だが、それ以外の生き方もまた心のどこかで望んでいたのではないだろうか?
  だからこそ彼は―――ランスロットはセイバーの妻である王妃グィネヴィアを愛してしまった。
  そして王妃もまたランスロットを愛し、歴史は一気に『裏切りの騎士』と『王妃の不義』へと動いてしまう。
  刻まれた歴史の中にセイバーことアーサー王の失墜を目論む謀略があったとしても、それは紛れもなく起こった事実であり、ランスロットが愛した女を救いたいと思ったのも間違いなく合った事なのだ。
  けれど、ランスロットは騎士であり、『裏切りの騎士』と罵られようとも、間違いなく『完璧なる騎士』でもあった。
  だからこそランスロットは恋敵であり、愛する女に苦難の道を歩ませた元凶である王に対し、怨嗟も悔恨も苦悩すらも口にしなかった。全ては王が性別を偽ったからこそ始まった悲劇であると知りながら、『完璧なる騎士』は―――誰よりも勇敢であり、誰よりも高貴であり、苦難の時代を切り拓いた王に対し、完璧な騎士だったからこそ犯意を抱かなかった。
  ランスロットは自らが貶められたとしても、どこまでも正しき王を恨まず、そして憎まなかった。
  いや―――恨めず、憎めず、ただ自分の中に押し込めるしか許されなかった。
  英霊と言えども人であり、アーサー王が自分の国を滅ぼしたのを悔いたように、ランスロットもまた決して語られぬ無念を抱え、そして愛した女に与えてしまった永遠の慟哭に己を攻め続けたに違いない。
  ランスロットは迷い、嘆き、そして誰にも知られずに心の中だけでアーサー王を憎んだのだろう。それを決して表には出さず、ただただ『完璧なる騎士』であり続けた。
  それは歴史に刻まれなかったランスロットの心であり、初戦はゴゴの予測に過ぎない。
 けれど雁夜にバーサーカーとして召喚された湖の騎士サー・ランスロットの姿そのものが、ゴゴの予測が間違っていなかったことを裏付けている。
  ランスロットはアーサー王を憎んだ。
  バーサーカーはセイバーを呪った。
  ゴゴがランスロットの宝具を求め、雁夜を聖杯戦争で生き残らせるためにバーサーカークラスでの召喚を行ったが、ランスロット自身がそう望まなければそもそも召喚それ自体が成功しない。触媒は合って召喚がしやすいとしても、応じるのはあくまでランスロットなのだから。
 もしランスロットが騎士でなかったなら。正しき王を貶められない騎士でなかったなら。愛する女を救いたいと願うただ一人の男だったなら。『完璧なる騎士』の生き方を捨て、憎悪に身を委ねられたなら―――。この思いが合ったからこそ湖の騎士サー・ランスロットは狂戦士となった。ゴゴはそう予測する。
  「ウァァァァァァァァァァァァ!!!」
  下段から掬い上げるように振るわれたバーサーカーの剣が防御のために地面に突き立てられた剣ごとセイバーを吹き飛ばす。もちろん突き立てた剣は地面に傷一つ付けていないが、その異常を気にする英霊二人ではない。
  戦う意思を無くしてしまったのが原因か、ストラゴスの『鼻息』で吹き飛ばされた時はちゃんと着地していたにも関わらず、セイバーはろくに受け身もとれずに麓に生えた木の一本の激突した。
  「うあっ――」
  衝撃で木々がへし折れればダメージは多少軽減されたかもしれないが。バトルフィールド内では揺れても決して折れない木は鋼鉄に叩き付けられたのとそう変わりはしない。
  喉が裂けたか。肺の中から空気を絞り出されるのと一緒に、セイバーの口から僅かに鮮血が舞う。そのままぶつかった木に体重を預け、崩れ落ちそうな体を何とか支えながら荒い呼吸を繰り返す。
  頑強なサーヴァントの肉体を考えれば痛みは軽いはず。それでもセイバーが疲労困憊に見えるのは、肉体的な痛みではなく精神的な痛みを負って、体よりも先に心が屈しそうになっているからだろう。
  戦う意思を持たない者がいつまでも戦場に居られる訳がない。むしろ五体満足でまだ戦場に居られるのが驚きだ。
  追い打ちをかけるべく、荒々しい呼気を打ち消すバーサーカーの雄叫びが鳴り響き、吹き飛ばされたセイバー目がけて突進する。
  狙いはセイバーの頭部。
  風を裂いて駆ける速度はバーサーカーの体を巨大な砲弾へと変え、当たればただでは済まない威力を作り出した。
  何もしなければバーサーカーが握りしめた漆黒の剣がセイバーの頭を砕き。そして止まらぬ勢いの体当たりが残った体をぐしゃぐしゃに押しつぶしたであろう。
 けれどセイバーは無毀なる湖光アロンダイトが当たる直前、自らが持つ剣をふるって僅かに軌道をそらして直撃を免れた。バーサーカーの剣はセイバーが体重を預けていた木に当たって、バーサーカーの体ごと強引に止めさせられる。
 これがもしバトルフィールド内ではなく、セイバーの後ろにある木がただの樹木だったなら、セイバーの聖剣と対をなす人が精霊から委ねられた至高の宝剣『無毀なる湖光アロンダイト』は勢いを殺さずに木を粉砕して、セイバーへと体当たりを喰らわせただろう。
  だがそうはならない。無機物を破壊不能な物体へと置き換えてしまう結界はバーサーカーの全力疾走の勢いに乗った剣ですら止めてしまった。
  木に剣を突き立てた状態で出来上がった空白の時。セイバーがここで攻撃に転じたならば、呆気なく勝敗がついたかもしれない時間に、やはりセイバーは自ら攻撃しようとはせず。それどころかバーサーカーが剣を退いてもう一度行われる掬い上げの様な一撃を待ってすらいた。
  また別の場所へと飛ばされるセイバーの様子を上空から見つめながら。ティナは不意にバーサーカーの剣を止めた木の一本へと視線を移した。
 よく見なければ判らないのだが、無毀なる湖光アロンダイトがぶつかった個所が全体の三分の一ほど抉れている。
  絶対に破壊できない筈の無機物がバーサーカーの剣によって破壊された事実。全壊とまではいかないが、間違いなく壊された結果がここにある。
  「・・・・・・・・・」
  受け身になって戦おうとしないセイバーと、一方的に攻撃を続けるバーサーカーの状態に視線を戻しながら、ティナはものまね士ゴゴとしての意識で木が抉れた結果を考える。
  バトルフィールドと言えど、この世界の魔術で壊されてしまう場合がある。と。
 アーチャーの天地乖離す開闢の星エヌマ・エリシュが二重の固有結界を破壊したように、ある一定以上の威力ならばバトルフィールドを張り巡らせたとしても壊れてしまう。そう認めるしかなかった。
  これまでバトルフィールド内で周囲の物体が全く破壊されずに原形を留めていたのは、バトルフィールドを攻撃しているのはあくまで戦いの余波だったからだろう。それが今回はセイバーに叩き付ける全力の一撃が木に集中した。
  セイバーの剣で威力は削がれても、これまでの中で最も強い剣の一撃がバトルフィールドの一部を破壊したようだ。
 ただし、天地乖離す開闢の星エヌマ・エリシュが広範囲に威力を発揮する対界宝具でありながら、無毀なる湖光アロンダイトはランクの高さこそ他の宝具よりも一歩抜きんでた宝具だが、それでも剣であり対人宝具なのに変わりはない。
  渾身の一撃でバトルフィールドに穴は開けられても、全体を崩すのは不可能だ。そう推察する。
  ティナは起こった結果から事実を受け止め終えて、二人の様子を見つめ続ける。
  途中から気付いていた事なのだが。今のセイバーとバーサーカーが純粋の剣の技量のみで戦った場合、おそらく敗北するのはバーサーカーだ。
  バーサーカーは間違いなくセイバーを殺そうとしているのだが、周囲から見ていると『殺す』ではなく、どちらかと言えば『痛めつける』に主体を置いた戦い方をしているような気がしてならない。
  今のバーサーカーは雁夜の令呪によって『お前が望む通りに戦え』と命じられている状態だ。もしバーサーカーが望むのがセイバーの死ではなく、セイバーを苦しめる今の状況そのものだとしたら、殺す戦い方をしていない事になる。
  あるいはバーサーカーの戦いは円卓の騎士を二分してしまった後ろめたさやセイバーへの思い、アーサー王という光がいる限り決して闇の中を進むのを逃れられない―――そう言ったやりきれない思いの発露なのかもしれない。思いの丈をセイバーにぶつける事こそがバーサーカーの『望み通りの戦い』なのかもしれない。
  そしてセイバーだが。こちらに戦う意思が見られないのは、戦場が移る以前から判っていた事だ。辛うじて急所への直撃を避けるために剣をふるって防戦に徹しているが、攻撃する意思がなければ勝利は掴めない。
 生前の湖の騎士サー・ランスロットの剣の腕前はアーサー王よりも上と語り継がれている。その上、真の剣が姿を現して技の冴えと威力は聖杯戦争が始まって以来、最高潮に達している。
  けれど今の彼はバーサーカーなのだ。
 令呪の強制と狂戦士の呪縛に囚われた状況がバーサーカーの剣を荒くしている。セイバーの腕前があれば本来のランスロットならば見せなかったであろう隙を突いて、約束された勝利の剣エクスカリバーで斬るのも不可能ではない。そう見える瞬間が幾つもある。
  もちろんそれらはティナの想像でしかなく、本当の事はバーサーカーとセイバーにしか判らない。観戦する立場からは判らず、当事者にしか判らない戦いの流れは確実にあるのだから。
  もしかしたら他の誰でもないセイバー自身が『ランスロットには勝てない』とサーヴァントとして召喚される以前から諦めている可能性もあった。
  聖杯戦争に招かれたサーヴァントクラス。
  戦う理由。
  マスターからの魔力供給。
  戦いへの意思。
  令呪。
  敵へ抱く思い。
  宝具。
  生前とは大きく異なってしまった二人の状況が『今』を生み出し、奇妙な拮抗を作り出していた。
  バーサーカーがセイバーを一方的に痛めつける状況が続けば、いつかはバーサーカーがセイバーを殺して終わるようは見える。けれど、何かのきっかけでセイバーが攻撃に転ずれば、まだまだ勝敗はどうなるか判らない。
  ティナはその『何か』が起こるかもしれない予感を胸に抱きながら、ずっとずっと二人を見続けた。





  前後左右を見渡しても砂漠しかない空間の中で繰り広げられる戦いは、セイバーとバーサーカーの戦いと同様に、奇妙な拮抗状態を作り出していた。
 雑兵が相手ならば一騎当千の猛者であるランサーをはじめとして、強化された暗殺者のサーヴァント達ならば十分に相手が出来ただろう。けれど相手は王の軍勢アイオニオン・ヘタイロイによって呼び出された英霊達なのだ。
  ケフカが再召喚する時に用いた『狂化』の属性。全パラメーターを一ランクアップさせるが、代償として理性の大半を奪われる。この諸刃の剣によってサーヴァント達は確かに同じ響きで別の意味の『強化』をしたが、数で勝るのはやはりライダー達だ。
  一人一人が多少強くなったとしても、圧倒的な数の差を覆すほどではない。
 黒き英霊として再召喚されたサーヴァント軍団。今ではケフカの手足となって敵を攻撃する彼らの総数は二十にも満たない。キャスターが螺湮城教本プレラーティーズ・スペルブックで海魔を召喚し、肉の壁として自分の身を守ったりもして数を増やしているが、王の軍勢アイオニオン・ヘタイロイの数を勝るほどではない。
 多人数を相手にするのに有効なセイバーの『約束された勝利の剣エクスカリバー』、アーチャーの『王の財宝ゲート・オブ・バビロン』や『天地乖離す開闢の星エヌマ・エリシュ』。あるいはキャスターが『螺湮城教本プレラーティーズ・スペルブック』で再び巨大海魔を呼び寄せる時間があれば数の差は埋まったかもしれないが、そんな宝具も無く、眼前にいる敵の援軍召喚など待ってやる義理はライダー達には無い。
  それでも戦場は拮抗していた。
  向こうが召喚した幻獣『ギルガメッシュ』がアーチャーこと英雄王ギルガメッシュを背負って裏切ったりした異常事態があったが、ケフカが新たに呼び出した伝説の八竜が―――この世界では幻想種の頂点に立つ八匹の竜種が数の差を埋めているのだ。
  そしてある意味でこれが拮抗を作り出す最も大きな理由かもしれないが、即死させかねない強力な一撃すら癒してしまう回復役が両陣営にいる。
  英霊同士に竜が関わり合ったとしても戦いはどちらかが倒されるまで終わらない、その基本原理は全く変わっていない。その終わりに到達するまでの状況を何度も何度も何度も何度も巻き戻してしまうのが回復魔法だ。
  ゴゴにとっては信じ難い事なのだが、向こうで回復魔法を使っているのは空高く舞い上がって戦場を見下ろすケフカ・パラッツォその人だったりする。
  少なくともゴゴが知る『ケフカ・パラッツォ』は誰かを癒したりするのに自分の労力を使おうとはしない。むしろ傷つく者がいたら、それが味方サイドであろうとも回復などせず、見殺しにする類の人間だ。
  それなのにケフカは自分が呼び出した黒き英霊達に回復魔法を使い、そして伝説の八竜たちにも回復を施している。さすがに裏切った幻獣『ギルガメッシュ』まで回復させたりはしていないようだが、回復魔法を使う時点でもかなり異例な事態である。
  カイエン、マッシュの両名は地上で戦い。リルムは竜種であり呼び出した幻獣でもある『バハムート』の背に乗って戦いの場を空に移した。
  残るロックとセリスの二人は戦場から一歩引いた位置で状況を見守り、この二人が戦場に居る全ての仲間たち―――ライダーが招き寄せた英霊達の回復役を務めている。
 ライダーが号令を発した開戦当初はライダーが立つ最前線の一歩手前にいたロックとセリスだが、後ろにいた王の軍勢アイオニオン・ヘタイロイが進軍してしまったので、今では最後尾にいる。
  ロックは紫色の鳥の姿をした幻獣『ケーツハリー』に跨って空から様子を見て、セリスは背後にヒンドゥー教の女神と同じ名前を持つ『ラクシュミ』を呼び寄せた状態で地上から様子を見た。
  ゴゴの意識は主にその二人を通して戦場を見つめ、異常な行動を続けるケフカも一緒に見続ける。
  「必殺剣――舞!」
  「爆裂拳」
  カイエンが斬魔剣を片手に長い体の持ち主のブルードラゴンに四連撃を叩き込み、マッシュは首長竜に似たイエロードラゴンの胴体に防御力無視の拳を叩き込む。
 二匹の竜が痛みに耐えかねて叫び声をあげると、それに合わせて王の軍勢アイオニオン・ヘタイロイの兵が槍で突き、投擲し、剣を振るい、追撃をかけた。
  少し離れた場所では全く同じ形であり違いは色だけのレッドドラゴンとホーリードラゴンがいて、二匹の竜が短く息を吸い込む。一瞬後、二匹の竜の口の中にオレンジ色の輝きが生まれた。
  それは魔石の中央にある六芒星の輝きと同じで、魔法を使った場合に現れる術者の波動に酷似していた。遅れて、声なき声が竜の口から魔法となって紡がれる。
  『フレア』。
  『ホーリー』。
  レッドドラゴンの近くにいた兵の周囲から紅く輝く光が集まって、避ける間もなく全身を焼き尽くす。
  天から純白の光球が三つ降り注ぎ、ホワイトドラゴンのそばにいた兵に衝突すると、白い爆発となって兵を吹き飛ばす。
  溶け込める闇のない砂漠の中で、更に黒さを増した暗殺者は乱戦となった隙間を縫って各所に散らばっていた。
  竜を相手に忙しい敵の背後へと回りこみ、少し離れた位置から両手にそれぞれ持った黒塗りの投擲剣『ダーク』を投げつける。
 真正面からの戦いならば王の軍勢アイオニオン・ヘタイロイが圧倒的に優位だが、背後から忍び寄る暗殺ならばアサシンこそが真価を発揮する。敵を強力に引き付ける竜が八匹もいるからこそ、アサシンは敵の背後を突く。
  目の前に竜に対するのが忙しく、首の後ろを投擲剣で貫かれる英霊が何人も出来上がった。
  真正面から突き出された槍を掻い潜って体当たりを仕掛ける暗殺者らしからぬアサシンもいる。黒塗りの投擲剣で真っ向から立ち向かったはいいが、力任せに斬られて地に伏すアサシンもいる。
  巨大な竜の手が動き、羽虫を払うような動きで英霊を吹き飛ばす光景があった。かと思えば、英霊の一人が竜の体を駆け上がり、眉間に剣を突き立てる光景もあった。
 長い黒髪と黒色の装束で身を固めた男性は剣を構えてランサーと対峙していた。どちらかと言えば武官よりも文官に見える男が『破魔の紅薔薇ゲイ・ジャルグ』と『必滅の黄薔薇ゲイ・ボウ』を持つランサーを相手に戦えば瞬殺される。
  傍から見ればそう見えてしまう。
  けれど男の剣は敵を倒すためではなく、戦いを長引かせてランサーを足止めさせる事に特化しており、柳の木のようにゆらゆらと揺れ動いて威力と速度が大幅に跳ね上がったランサーの剛の槍を柔の剣で受け流していた。
  もしランサーが黒き英霊として召喚される前の戦い方をすれば、柔らかな剣で対応したとしても貫き殺したかもしれないが、狂戦士のようになってしまったランサーからは舞うような槍遣いが消えている。
  だから男は槍に貫かれることなく、何度も剣で槍をいなせていた。
  いつかはランサーの槍が男を貫くとしても、それまでは敵をここに引きとめて味方の負担を少しでも減らそうとしている。
  別の場所ではキャスターを取り囲む十数人の近衛兵団の姿が合った。
  彼らは円を描いて四方からキャスターを取り囲んで決して逃げられない状況を作っているのだが、キャスターはキャスターで呼び出した海魔を壁にして自分の周りを埋め尽くしていた。
  海魔一匹一匹にそれほどの力は無く、しかも怪物とはいえ海の生物にとって水気がない砂漠では弱体化してしまう。
 それでも海魔が倒される毎に出来上がった紫色の血の海を媒介にして、キャスターは螺湮城教本プレラーティーズ・スペルブックの力で新たに同族を召喚し続ける。
  時間稼ぎをするのはどこも同じなのか、それとも圧倒的不利な状況にありながら自分を倒し切れていないライダーの近衛兵団の力を嘲笑っているのか。
  英霊が取り囲む怪物の円。死んでは蘇り、死んでは蘇り、キャスターを守る肉の壁としてそこに在り続ける。冬木の未遠川で召喚された巨大海魔とは別の意味で厄介な状況が出来上がっていた。
  「針千本!!」
  『重力50』。
  幻獣『ギルガメッシュ』は突き出した左手から千本の針を撃ち出して、全員にかかっている浮遊魔法の効果を打ち消す技を使うアースドラゴンに針を全て叩き込んでいく。
  「――からのエクスカリバー。おりゃぁぁぁぁぁぁっ!!」
  目に当たった一部の針に顔を背けたのを好機と見て、左手に持つ剣を思いっきり振りかぶりながら跳躍。ティラノサウルスを思わせるアースドラゴンの頭を斬りつけた。
  そして、コン、と軽い音が鳴り。斬るどころかめり込みもせず表皮で剣が止まる。
  「これは最強の剣じゃないのか? まさか、エクスカリパー!?」
  エクスカリバーとエクスカリパーの取り違え。どうしようもない失敗に気付くが、それは敵の眼前で剣を斬り付ける体勢で止まる隙だらけの格好を曝け出す以上の効果は発揮していない。
  全く痛みのない状況に斬りつけられたアースドラゴンも驚きながら、今度はこちらが好機と見てようで巨大な頭部を横に振るう。
  空を跳んでしまった幻獣『ギルガメッシュ』に避ける術は無く。横から振り抜かれた頭をもろに喰らった。
  「あーれー!!」
  何とか攻撃を体の正面で受け、吹っ飛ばされながらも足から着地して、まだ気絶している英雄王ギルガメッシュを背負い続ける幻獣『ギルガメッシュ』。
  彼はエクスカリパーを鞘に戻し、今度こそ本物のエクスカリバーを抜いて、再び戦場へと駆けだしていく。
 リルムは幻獣『バハムート』の背に跨って空を飛び、ライダーもまたウェイバーと一緒に神威の車輪ゴルディアス・ホイールで空を駆ける。
  共に狙いはケフカ・パラッツォなのだが、守護するようにケフカの周りにはストームドラゴンが飛び回り、近づこうとすれば風属性の攻撃『大旋風』や『エアロガ』が飛んでくる。風を抜けて接近すれば、三倍強化物理攻撃の『イカロスウィング』を繰り出してきて、強靭な翼が近づく者を地上へと叩き落とす。
  ウェイバーは幻獣『アレクサンダー』を召喚し続け、二度も聖なる審判を打たせた。つまりその分だけ魔力消耗が激しく、今はもう手にした魔石から城によく似た幻獣を呼び出してはいない。
  戦いをライダーに任せ傍観しながら、死なないように御者台の上で踏ん張っていた。
  幻獣『バハムート』が放つ竜の咆哮―――メガフレアならばストームドラゴンとケフカを同時に攻撃できるが、ストームドラゴンの風は強力で、爆風そのものを逸らすほどの力を有している。加えて、とある事情によりリルムはケフカを攻めきれないでいた。
  剣が光る。
  炎が焼く。
  槍が飛ぶ。
  毒が侵す。
  矢が貫く。
  水が襲う。
  斧が壊す。
  大地が揺れる。
  戦場では数々の戦いが繰り広げられる。
  アサシンの剣で後ろから首を貫かれた者がいた。
  アサシンを斬り殺す者がいた。
  傷つけばゴゴが治し、ケフカも治す。
  巨大な竜の足に押し潰される者がいた。幻獣『ギルガメッシュ』と同じように尾で弾き飛ばされる者がいた。
  竜の攻撃を避けて一矢報いる者がいた。振り抜かれた尾を斬り飛ばす者がいた。
  死にかければゴゴが癒し、ケフカも癒す。
  当たった者を凍結させる竜のブレス『フリジングダスト』によって凍らされる者がいた。
  一番小柄だからと他の竜よりも兵たちに狙われるフリーズドラゴンがいた。
  勝つためにゴゴとケフカは一時の味方を戦わせ続ける。
  位置を変え、技を変え、敵を変え、戦いは終わることなく続いてゆく。
  この砂漠の結界を保持する王の臣下達は消える事無く戦い続ける。
 ロックとセリスの視点から様子を見ていたゴゴは、ライダー自身の強さもそうだが、王の軍勢アイオニオン・ヘタイロイの連携の上手さに度々目を奪われた。
  大きさでは人を軽く上回る竜。それが八匹もいて、各々が別々の攻撃方法を使い、大きさもまばら。同じ『竜種』で括れても戦い方は竜の数だけある。―――にも関わらず、ライダーが呼び出した英霊達は即座に自分たちがどの竜を相手にするかを選択し、勝利するために戦う相手を選び抜いた。
  八匹の竜がほぼ同じ場所に固まっているので、状況によって相手が変わる場合は多いが、彼らは常に連携して竜と戦っていた。
 誰も彼もが好き勝手に戦っているように見えて、遠くから見れば王の軍勢アイオニオン・ヘタイロイそのものが一つの生き物のように動いて数多の戦術を展開しているのがよく判る。
  時折、合図も飛んだ。
  「弓兵隊、一斉射!」
  「第二投擲隊、退避!」
  敵からの攻撃を盾で防ぐ者。
  一歩引いて槍を投擲する者。
  隙をついて剣で斬り付ける者。
  常にその役目に準ずるのではなく、場合によっては攻守を入れ替えるなど当たり前に行う。
 ゴゴもアサシンの宝具『妄想幻像ザバーニーヤ』によって数を増やし、似たような事は出来るだろう。けれどそれは誰も彼もが同じものまね士ゴゴの意識によって統括される同一の存在だからこそ可能な技術であり、他人同士が声を掛け合いながら多くの戦術を用いて戦い続けるのとは訳が違う。
  ライダーの号令が合って戦い方を変えるならばまだ判るが、ライダーは開戦の号令こそ出したものの、それ以上の命令は下していない。合図を出す者も常に変わり、役目をくるくる回していたりする。
  一人一人が一騎当千の英霊であるのも紛れもない事実だが、おそらくこの連携の上手さこそが世界の半分を征服した王の軍団の強みなのだろう。
  これこそが宝具にまで昇華した征服王イスカンダルへの忠義と絆の証。
 ゴゴは最初に宝具『王の軍勢アイオニオン・ヘタイロイ』を見たときは物真似しきれないと思い、完敗を意識した。そして今、再び観察できる機会に恵まれ、畏敬の念は以前よりも更に膨らんでゆく。
 いっそ感動すら覚えながら状況を見続けるゴゴだが、『王の軍勢アイオニオン・ヘタイロイ』とは別のモノにも大きく意識を裂いていた。
  ゴゴは思う。空に浮かぶケフカ・パラッツォを見ながら思う。かつてゴゴが戦った六枚の羽根を抱いた天使にも悪魔にも見える、人であって人ではなくなってしまった者を見て思う。
  強すぎないか? と。
  確かにケフカ・パラッツォは強大な敵であり、元になっているゴゴも自分自身だからこそ大きな力を行使できる事は知っている。物真似して得た聖杯の力を融合させて、歯止めがないからケフカはある意味でゴゴ以上の事を易々とやってのけられる。
  けれどケフカの力の元になっているゴゴの力は確かに強力なのだが、ケフカ自身は数あるゴゴの力のほんの一部分にすぎない。総力から換算すれば多く見ても一割程度だ。
  ゴゴとて本気を出せば星一つ位は簡単に破壊できる力の持ち主なので、全力全壊がどれほどの効果を発揮するかは未知の領域だ。一割以下でもそれはそれで強力な力となるのだが、今のケフカから感じる力はゴゴが持つ力の一割程度とは思えない。
 ものまね士ゴゴの力、聖杯の中にいた悪の塊である『この世全ての悪アンリマユ』の力、元々物真似した技術とこの世界で獲得した技術。それらを統合できたとしても、今のケフカの力はあまりにも膨大だ。
  そもそもここではなく別の場所にいるケフカ―――言峰綺礼に同行して、かつてのゴゴと同じように状況をかき回しているケフカは単なる分身体に過ぎない筈なのだが、まるで本物かそれ以上の力を行使している。
  ミシディアうさぎの目を通しての監視なので直接その力を肌で感じた訳ではないが、力の強弱ならば見ただけでも判る。
  ここにいるケフカが力が送り込んでいるとしても強すぎる。限られている筈の力が枯渇する気配がまるでない。
  それだけ聖杯の力がゴゴの考える以上に強力だったのか。それともゴゴが知らない何かがケフカの力を増幅させているのか。
  戦いながらもその正体を探るためにどうしても攻撃の手が緩んでしまうが、気になって仕方がない。
  リルムの攻撃の手が最大まで引き上げられないのも、攻撃よりも観察に意識が向いてしまうのも、強力過ぎるケフカのおかしさが理由だ。
  けれど、この違和感の正体を突き止める事こそが戦いの終局に向かうとも思えるので、ゴゴは攻撃ではなく観察を強化させてしまう。それはゴゴがものまね士である限り、決して逃れられない定めでもあった。



  ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆



  Side - ケフカ・パラッツォ





  幻獣『ギルガメッシュ』の反乱。少々予想外の事態が起こったのは嘆かわしくも苛々するが、戦いが始まってしまえばそんな些細なことはどうでもよい。
  反乱程度がどうでもよくなる面白さが戦場には転がっているからだ。
  「ケアルガ、アレイズ――。ホワイトウィンドォォォォォォ!!」
  本物のケフカ・パラッツォには回復魔法と蘇生魔法が使えなかったとしても、この『ケフカ・パラッツォ』には出来る。
  本物よりも魔法の力に傾倒し、本物よりも三闘神の力を使いこなす。この世界の魔術を吸収し、聖杯とその中にいた悪の力すらも手に入れた。『物真似した成果』という制限すら外して何もかもを使いこなす。
  誰よりも高く舞い、空から戦場を見下ろして仲間にも使い魔にもなりきれない者どもを働かせる。
  死ぬまで戦え。
  蘇って戦え。
  死んでも戦え。
  何度でも、何度でも、何度でも、戦い続けろ。
  そして死ね。
  仮に再召喚したサーヴァントを殺せたとしても、聖杯の器に喰われる前の魂ならば再々召喚できてしまう。
  蘇ってまた戦え。
  何度も何度も何度も何度も、殺して、戦って、殺されて、死ね。
  敵が蘇れば何度でも殺す。
  弄って、殺す。壊して、殺す。焼いて、殺す。潰して、殺す。凍らせて、殺す。
  何度も何度も何度も殺してあげよう。
  癒されてしまうのが―――生き返るのが―――死ねないのが―――。嫌になるほど破壊し尽くしてやろう。
  ケフカは思う。ここは天国だ、とてもとても素晴らしい地獄という名の天国だ、と。
  この戦場には『死』という終わりがない。
  何度でも何度でも、死んで殺されて亡くなって殺して。その度に蘇る。
  もし本物のケフカ・パラッツォならば、終わりのない繰り返しにつまらなさを感じたかもしれないが。この『ケフカ・パラッツォ』はこの終わりなき殺し合いに楽しさを見出している。幻獣『ギルガメッシュ』が敵に回って、こちらを攻撃するのがどうでもいいと思えるほどに―――。
  「ホワッ、ホッホッホ!」
  三対六枚の羽根で空を舞いながら、ケフカは笑う。生と死の終わりなき螺旋渦巻く戦場を見ながら笑う。
  何度も何度も繰り返される破壊を見ながら―――笑い声を響かせた。





  バトルフィールドと『踊り』で構築された固有結界が解除され、街は元の冬木市の様子を取り戻す。
  聖杯の器を体内に宿した女が隣で叫ぶ。ビルの屋上から見下ろす先にはばら撒かれた聖杯の泥を中心に地面に伏す人影がいくつも見える。
  その中には衛宮切嗣と言峰綺礼だけではなく、たまたま固有結界が解除された時にこの場に居合わせてしまった一般人の姿もあった。しかし、イリヤスフィール・フォン・アインツベルンの姿は無く、聖杯の泥の呑まれて融合してしまったままのようだ。
  ビルの屋上から響く悲鳴と地面に倒れる人々。夜の中に現れた非日常に道をゆく人々は足を止め、道路をゆく自動車はハザードランプを点滅させて停車していく。何が起こったかを正確に理解しているのはケフカただ一人。
  それ以外の者たちは何かが起こっていると知りながら、その『何か』にたどり着けず右往左往する。
  騒動の中心にある黒い泥が死を呼び込んでいた。その周りを人の形をした虫共がうろついてる。小さな破壊ながら、それはとても面白い見世物だ。
  「ホワッ、ホッホッホ!」
  アインツベルンの女が泣き叫ぶ隣で思わず笑いが漏れた。おかげで下にいる奴らが何人かこっちを見ていたが、そんな事はどうでもいい。
  大事なのは聖杯の泥をかぶってケフカの聖杯に取り込まれた衛宮切嗣が戻ってきたことだ。
  「う・・・・・・」
  聖杯の泥に接触した瞬間に気絶して倒れた衛宮切嗣。彼は右手にトンプソン・コンテンダーを握りしめたまま、左手を地面について強引に体を起こし始めた。
  聖杯の泥が広がった地面からゆっくりと起き上がるが、焦点の合わない虚ろな目でのろのろと動く様は幽鬼かゾンビを思わせる。
  当然だ、聖杯の泥―――ケフカ・パラッツォの聖杯に触れ、それを使おうと少しでも考えた者が触れる前と後で同じで居られる筈はない。
  現実には一分にも満たない時間。まだまだ大勢が集まるには少ない時間だが、僅かばかりの人垣ができるには十分すぎる時間ではある。
  その中に声をかける者がいても不思議はない。
  「あんた・・・、大丈夫か?」
  ただし、起き上がる衛宮切嗣に近づこうとする者はいない。
  誰も彼もが遠巻きに見るばかり。衛宮切嗣が銃を持っているのも近づけない理由だろうが、最たる理由は足元にある黒い水から感じる得体のしれないおぞましさに違いない。
  触れればただじゃすまない、判らずとも見ただけで感覚が訴えるのだろう。黒い泥が作る水たまりの中にはまだ倒れている者がいながらも、駆け寄って起き上がらせようとする者もまた一人もいなかった。
  「ぅ・・・ぁ・・・」
  見守られるだけの中、衛宮切嗣はゆっくりと起き上がり、周囲からかけられる声に全く応じず天を仰ぐ。
  衛宮切嗣の正義―――。確かに衛宮切嗣がこれまで行ってきた悪を殺すやり方は手っ取り早い手段ではあるが、同時に安易な手段でもある。
  誰かを救うために敵を殺す。殺人を犯す。
  他の誰でもなくその方法をやり続けて一つの世界の敵を殺したゴゴだからこそ、その本質が誰一人として救ってないのだと知っている。殺された本人ではないが、その紛い物でも知れることはある。
  殺人こそが衛宮切嗣にとって最も確かな正義だったかもしれないが、悪を消すだけでは救済とは呼べない。
  間桐に囚われた遠坂桜が間桐臓硯を殺しただけで終わらなかったように―――。
  衛宮切嗣が求めた聖杯なら彼が求めた奇跡を叶えただろう。だがおそらく衛宮切嗣はそれを認識できないに違いない。何故なら彼自身が『救済』が何であるかを知らないからだ。
  苦しい事や悲しい事に蓋をして見ないふりをしても救済にはたどり着けない。それは優しさや愛しさと紙一重に存在し、時に同じモノへと変わる。どちらか一方だけで救済など成り立つ筈はない。
  安易な手段で結果を重視し、過程を理解しなくなった男は知らないことが多すぎた。
  衛宮切嗣が妥協する男だったならば、聖杯に願いを託した時点で全ては終わったかもしれないが。衛宮切嗣は決して妥協出来ない存在だ。
  そうでなければ、安易な手段だったとしても、殺人を生業にして正義を行い続けるなど出来はしない。妥協出来ないからこそ、衛宮切嗣は悪を殺して殺して殺し続けた。
  ケフカ・パラッツォの聖杯はそれを教えただろう。この場にいるケフカではなく、聖杯の中にいるケフカはそれを教えただろう。衛宮切嗣が願う人類の救済は衛宮切嗣自身が知らないのだから決して叶わない、と。
  例えば、北極に近いとある国で辺り一面が雪の生活をしながら雪合戦に楽しむ子供がいるとする。衛宮切嗣はそれが誰なのかを知らない。
  世界最大の河川アマゾン川の支流近くで生活する者がいて、河に住む獰猛な生き物と日々格闘しながらもその行為自体を楽しんでいたとする。衛宮切嗣はそれが誰か知らない。
  赤道近くのある島国でそれなりに裕福な暮らしをしている者がいるが、あまりの暑さにこの世界の暑さそのものを呪っているとしよう。衛宮切嗣はそれも知らない。
  衛宮切嗣は数多くの戦場を渡り歩いてこの世界が地獄そのものだと理解してしまったようだが、この世界に生きる全ての人間の総数から考えれば遭遇できた人数など一割どころか一パーセントにも到達していない。
  衛宮切嗣は自分一人が体感した事実のみで世界全てを知った気になっているだけなのだ。
  世界は広く、一人の人間が知れない事は数多く、生存するだけなら数百年は生きられるだろう死徒でも世界全てを知る者はおそらくいない。誰がが死に、誰かが生まれ、世界は常に流動し続け一度たりとも同じ形を作らない。
  世界の半分を征服したライダーこと征服王イスカンダルとて、世界の半分を『征服』したと豪語しても『理解』したとは言わないだろう。
  吸血種の中でも特異な存在の真祖あるいは神霊の類ならば世界の全てを知っているモノがいるかもしれないが、それはもう人の領域ではない。
  一人の人間が全ての人間を救うなど決して叶わない夢物語なのだ。何が起これば全ての人類が救済され、争乱が終結するのかを人は理解できない、理解するためにはあまりにもこの世界に人が多すぎる。
  衛宮切嗣はそれを奇跡の聖杯に託したのかもしれないが、世界の形そのものを―――人が作り出す世界を理解していなかったのは致命的な失敗だ。衛宮切嗣は救おうとした『世界』を知らない。
  もしかしたら理解したくなかったから目を反らしていただけかもしれない。
  その結果がこれだ―――。
  「う・・・ぁ・・・・・・あ・・・・・・」
  もう喋る言葉すら失ったか。衛宮切嗣は虚ろな目を空に向けたまま、何かを求めるように銃を持たぬ左手を伸ばした。
  現実の時間が経過したのはほんの僅か。けれど衛宮切嗣が体感した聖杯の中の時間はその数万倍、数兆倍、無限にも等しい時を旅した筈。
  人の精神が耐えられる時間ではない。
  そして現実に戻ってきた事実そのものが『冬木の聖杯』と似て非なる物真似した結果の『ケフカの聖杯』を使わなかったのを物語っている。
  ケフカの予想通り、衛宮切嗣は可能性として用意された数多の選択をどれも選ばなかった。衛宮切嗣自身が理解できないモノを何一つ選べなかった。
  聖杯にイリヤスフィール・フォン・アインツベルンの復活を願わなかったことを喜びながら、ケフカは衛宮切嗣の挙動を注視する。すると、不意に彼の視線がこちらに向き伸ばしたままの左手どころか銃を持ったまま右手もこちらに向けた。
  手を伸ばしても届かないと判ってすらいないようで、掲げた両手をゆらゆらと動かす。そして目は妻のアイリスフィールを―――正確にはその腹部を見つめた。
  「・・・・・・せ・・・い、は・・・・・・い」
  衛宮切嗣は呻き声にも聞こえる単語を口にした。
  今の衛宮切嗣を見て正気だと思える人間は一人もいない。
  麻薬中毒者。認知症患者が行う徘徊。妄執に囚われた狂人。
  聖杯の泥を被って何が起こったかを知るケフカは今の切嗣が何を求めているかを予想し、言葉によって補填した。
  冬木の聖杯だ。物真似で得たケフカの聖杯ではなく、聖杯戦争の勝者に与えられる聖杯を欲しているのだ。あの男は―――。
  その元になっている聖杯の器が妻の体内に封印されている事は覚えているのだろう。
  ただし、当人の足元には戦っていた言峰綺礼がいて、ついでに妻のすぐ隣に敵がいる事は綺麗に忘れたらしい。
  ただ妻の体内にある聖杯の器だけを見つめている。
  「つまらん。全てはいずれ壊れゆくと知りながら、まだ聖杯に望みを託すのですか? それが心に残った最後の希望ですか? こんな壊れ方じゃ、ぼくちん、すこーしがっかりだね」
  話しながら、あるいはもしかしたら外的要因か別の理由、例えば数年単位の永い眠りにつけば、衛宮切嗣の中で記憶の整理が出来るのではないかと考えた。
  何しろ彼は途方もない時間が経過したと思っているかもしれないが。ケフカの聖杯がそう錯覚させているに過ぎない。
  人が一度に受け止めきれない多くの情報を一気に流し込まれたが故に、冬木の聖杯しか覚えていないようだが。実際に流れた時間はごく僅かであり、聖杯の中で得た数ある選択肢も他の選択を迫られた時にはもう忘れてしまった場合もあっただろう。
  人は忘れる生き物だ。
  聖杯の泥に呑まれ、途方もない選択を見せつけられた事実そのものを衛宮切嗣が忘れれば、今の状態を脱して現実に戻ってこれる可能性はある。
  だが正気に戻る等とつまらない結果は見たくない。それはケフカの本心だ。よって聞こえているのか聞いていないのか定かではない衛宮切嗣に向け、ケフカは淡々と言う。
  きっとケフカの聖杯の中でも同じように語りかけたであろうと思いながら。
  「けれど、それほどまでに聖杯を求めるのならば、心優しい私は考えてやらんでもありません」
  ケフカの近くには衛宮切嗣が見続ける妻のアイリスフィールがいて、彼女は屋上から身を乗り出しており、後ろから小突けばそのまま地上へと落下しそうな格好だ。
  アイリスフィールは悲鳴を上げながらもしっかりと衛宮切嗣を中心にして聖杯の泥も一緒に見ている。状況のおかしさを除けば夫婦同士が見つめ合う光景と言えなくもない。
  ケフカはそんなアイリスフィールの肩に手を伸ばして置いた。
  「奥さんの命と引き換えだ」
  ケフカの聖杯に娘の復活を願わなかったのは衛宮切嗣だ。
  ケフカの聖杯を選ばず、妻が死ぬと知りながら、それでも冬木の聖杯を望んだのも衛宮切嗣だ。
  ケフカの聖杯を偽物と思い込み、冬木の聖杯がどんな状態にあるか知ろうとしなかったのもやっぱり衛宮切嗣だ。
  その願いが衛宮切嗣の選んだ結論なのだから―――叶えるのは紛れもなく善意となる。
 冬木の聖杯がこの世全ての悪アンリマユによって汚染され、場合によってはケフカの聖杯よりもっと酷い結果になると知りながら、ケフカはアイリスフィールの肩に当てた手から魔力を送ってゆく。
  聖杯の器に膨大な魔力を流し込む方法はすでに知っていたので、間に『アイリスフィール・フォン・アインツベルン』があっても難しくはなかった。
 さあ目覚めろ。物真似ではない、真の『この世全ての悪アンリマユ』よ―――。



  ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆



  Side - ????





  『彼』は自分が誰なのかを思い出せない。そして自分が置かれている状況が何であるかも全く判っていない。
  今はいつなのか?
  どうしてここにいるのか?
  何をしていたのか?
  自分は誰なのか?
  何をやろうとしていたのか?
  過去は無く、現在も無く、未来も無い。
  何もかもが空白であり、人ならば誰でも持っているであろう『自分』が今の『彼』には無い。主観は無く、自らを客観視できない。
  けれど死んでいる訳ではない。
  『彼』は間違いなく動いており、呼吸をして、筋肉を動かし、寝転んだ状態から起き上がった。
  その動きは非常に鈍重だったが、間違いなく人のそれであり。傍から見る限りでは『彼』の中に『自分』が無い等とは思えない光景である。
  ただし『彼』は気付いていない。『自分』が無いからこそ自分の体がどんなひどい状況に陥っているか考えようともしない。
  体を構成するあちこちの骨にひびが入り、左肩は特に酷く砕け、内出血は全身で起こって、筋肉は無事な部分を探す方が難しいほどにボロボロ。生きていたとしてもまともに立ち上がる事は殆ど不可能で、今この瞬間にも『彼』の肉体を支える二本の足が折れ曲がってしまい、地面に倒れこんでも不思議はない。
  『彼』が使う魔術を行使し過ぎたのと、敵との戦いによってこうなってしまったのだが。『彼』はそのことも思い出さない。
  『彼』の中では何かを思い出そうとする意思すら湧いてこない。
  意思なき人形。茫然自失、虚脱状態。何も思えず、思い浮かべられず、ずっと我を忘れたままだ。
  繰り返すが今の『彼』の中には『自分』がない。自分の名前も、経歴も、過去も、何者であるかも、全く思い出せない。
  しかし『彼』の心の中に何も無いかと問えば。そんな事は無い、と答えが返ってくる。今の、『彼』がそう応じるのは不可能だが、『彼』の中に『自分』は無くともそれ以外の『何か』はあった。それは間違いなかった。
  それは『彼』にとって自分よりも大事な事であり、『彼』が自分自身を見失っても『彼』の中に残り続けていた大切なモノだ。
  『彼』は忘れていない。『彼』は覚えている。『彼』の中からそれは決して消えないから。


  セ界をカイヘンすル。


  だからこそ、『彼』の中から言葉が生まれたのは―――その言葉を思い出したのは必然であった。
  言葉そのものを覚えていた訳ではない。言葉は『彼』の中に合って決して消えずに残り続けていたモノから派生した思いそのものだ。
  『彼』の中に残ったモノは核となり、その周囲を渦巻く決意の表れは言葉となる。
  その言葉が彼の中に生まれ、意味ある単語に変わっていった。


  人のタマシイヲ変カクすル。


  『彼』は自分の中に残っていたモノが何であるかを正確には理解していなかった。けれども、自分の中に確かに『何か』が残っている事だけは理解していた。
  それを語る言葉は無い。
  それが何なのか答える思考もない。
  あるのはただ思いだけだ。


  タトエ、コの世ノスベテの悪を担おウトモ。


  起こっている事象を説明するなら単なる連想だ。『彼』自身、どうしてそれを思い出したかなど確たる理由は無い。
  『彼』が自らそう念じた訳ではない。思い出そうとした訳でもない。他にも連想することは山ほどあるが、たまたまその言葉が『彼』の中に浮かんだに過ぎない。そもそも『彼』は核になった『何か』が何であるかすらまだ判っていないのだから。
  けれど何の前触れもなく蘇ってしまったその言葉は自分自身すら見失った『彼』にとって天啓にも等しい言葉だった。
  相変わらず自分の事は欠片も思い出せないので、『彼』は自分の中に残っていたモノが何なのか判っていない。だからこそ、何も無くなってしまった自分の中に蘇った言葉に強く惹かれてしまった。
  まるで雛鳥が初めて見る動くモノに付いて行ってしまう刷り込みのように―――。
  『彼』はその言葉を何度も何度も繰り返す。
  自分の中に残ったモノが何であるかを確かめる為、大切なモノが何だったのかを思い出すために何度も何度も繰り返す。
  思考はその繰り返しに没頭し、同じ場所を何度も何度もぐるぐると回り続けた。
  回して、繰り返して、回して、繰り返して、高速に回り続ける言葉の中央にあるモノに形を与えるように、何度も何度も回して繰り返す。
  何十回そうしただろう? 何百回そうしただろう? 何千回そうしただろう? 『彼』の意思はただそれのみに集約し、たった数秒の間に恐ろしく大量にループした。
  『何か』から言葉が連想させるのならば、その逆も決して不可能ではない。ただただそれが何なのかを求め続ける思考は執念によって支えられ、そして遂に一つの言葉を『彼』の中に蘇らせた。
  「・・・・・・せ・・・い、は・・・・・・い」
  そう呟いた瞬間、『彼』の中で光が生まれた。
  幾つかの言葉を連想したように、別の言葉が、形が、風景が、願いが、『彼』の中で爆発した。
  たった一つだけ残った大切なモノを言葉にして思い出すと同時に、それに付随するいくつもの情報が『彼』の中に蘇る。
  『彼』は思った。


  僕はコのフユきでナガす血ヲ、人類サイゴノ流血にシテミせる。


  そして、こうも思った。


  ボくハ―――聖杯で―――人類ヲキュウさイスる。


  一斉に蘇った言葉の中には自らを指す一人称が『僕』であったり、これまでは欠片も思い出せなかった地名『冬木』があったり、『人類』『最後』『流血』『救済』などの言葉が巻き起こったりもした。
  起点となる一つが蘇り、そこを中心にして色々な事が発生する。
  けれど『彼』の意識は一人称にも地名にもさまざまな言葉にも向かわず、たとえ自分を見失っても決してなくならずに残り続けた『何か』へと向かっていく。
  『彼』は他に何も選ばずに、ただひたすらにそれを選ぶ。
  たった一つだけ残っていた『彼』の大切なモノを繰り返す。


  聖杯で、聖杯で、聖杯で、聖杯で、聖杯で、聖杯で、聖杯で、聖杯で、聖杯で、聖杯で、聖杯で、聖杯で、聖杯で、聖杯で、聖杯で、聖杯で、聖杯で、聖杯で、聖杯で、聖杯で、聖杯で、聖杯で、聖杯で、聖杯で、聖杯で、聖杯で、聖杯で、聖杯で、聖杯で、聖杯で、聖杯で、聖杯で、聖杯で、聖杯で、聖杯で、聖杯で、聖杯で、聖杯で、聖杯で、聖杯で、聖杯で、聖杯で、聖杯で、聖杯で、聖杯で、聖杯で、聖杯で、聖杯で、聖杯で、聖杯で、聖杯で、聖杯で、聖杯で、聖杯で、聖杯で、聖杯で、聖杯で、聖杯で、聖杯で、聖杯で、聖杯で、聖杯で、聖杯で、聖杯で、聖杯で、聖杯で、聖杯で、聖杯で、聖杯で、聖杯で、聖杯で、聖杯で、聖杯で、聖杯で、聖杯で、聖杯で、聖杯で、聖杯で、聖杯で、聖杯で、聖杯で、聖杯で、聖杯で、聖杯で、聖杯で、聖杯で、聖杯で、聖杯で、聖杯で、聖杯で、聖杯で、聖杯で、聖杯で、聖杯で、聖杯で、聖杯で、聖杯で、聖杯で、聖杯で、聖杯で―――。


  「聖・・・、は・・・い・・・」
  再び同じ言葉を呟いた時、それは以前よりも意思のはっきりとした言葉に変化していた。最初は呟きというよりも呻き声に近かったが、今では明確な言葉になっている。
  繰り返された思考の中で言葉は意思に変質し、思い出そうとしていただけの思考は願いも蘇らせた。
  そして『彼』は冬木の聖杯のある場所に目を向ける。
  『彼』は思い出した。聖杯はそこにある、聖杯はあの中にある、聖杯はあの中にしかない、他は全て偽物だ、と。
  今の『彼』にとっては自分が手を伸ばす先にある聖杯の外枠が何であるか等どうでもよかった。それが人の形をして、『彼』を見ていて、誰かに付き添われていたとしても、どうでもよかった。
  そこに聖杯がある。それだけが『彼』のたどり着ける答えであり、それ以上の思考は生まれない。
  聖杯を核として連想するのならば間違いなくそれが誰であるかも思い出せるはずなのに、『彼』にとっては人の形をした膜か箱、外装、あるいは邪魔物としか思えなかった。
  物であり、者ですらなかった。
  「聖・・・杯、で――」
  その代わりに『彼』の中にはより強く聖杯が蘇っていく。
  あれが『彼』の願いを叶え、あれが『彼』の思いを形にし、あれが『彼』の存在する意義そのものになる。
  今も『彼』の中には自分は無く、『彼』は自分の名前すらも思い出せていない。ただただ聖杯だけが『彼』の中で膨れ上がっていく。
  すると『彼』の中で膨張する思いに触発されたように、『彼』が見ている光景もまた『彼』が望む形へと変わっていった。
  聖杯を体内に隠し持つモノの隣に立つ誰かが肩に触れた。
  肩に触れられた瞬間、そのモノはビクンッ! と腰から上を仰け反らせて硬直する。
  『彼』はそれを見ていた。片時も視線を外さず、ずっと見続けていた。
  「イリ、ヤ・・・」
  聖杯を体内に収めたモノが何かを呟いた。その言葉は何故か距離を隔てた『彼』にしっかりと聞こえたのだが、『彼』はその言葉がどんな意味を持ち、どんな思いで語られたのかを全く考えない。
  ただ起こった変化を見続けるのみだ。
  見つめる先にいるモノの変化は止まらず、仰け反ったままの体勢で小刻みに震えだす。
  もしこの場に魔力の流れを目で見れる者がいたら肩の当てられた手から腹部に向けて異質な魔力が送り込まれている事に気づいただろう。
  自前の魔力とは全く異なる魔力が強制的に流し込まれている。清らかな湖に汚物を注ぎ込むように、異物が肉体を犯している。それが震えの原因だ。
  けれど『彼』にとってそれは驚くどころか思考する価値すら存在しない出来事だった。口は大きく開かれ、大粒の涙を流し、痛みを伴いながら震えていたとしても、重要なのは流し込まれた魔力が腹部にあるモノに吸収され、どんどんとある形を成していく事実だけだ。
  『彼』は聖杯が完全な形に近づいていけば、魔術的に肉体に封入した聖杯の運び手が人としての機能を失うことを知っていた。人格の喪失、肉体の消滅、つまり死ぬと知っていながら、それでも僅かな意識すらもそちらに向けなかった。
  ただ聖杯が作られていくのを待ちわびていた。
  時間が過ぎ行くごとに、聖杯の器は魔力を吸収し聖杯を作っていく。
  「キ、リ・・・・・・・・・」
  助けを求めるように呟かれた言葉が最後まで言い終えられるよりも前に、遂にその時は訪れる。
  最初に起こったのは人の形をした物を焼く炎だった。それは聖杯の器を宿した腹部を中心にして湧き上がる。
  まるで人体自然発火現象のように、火の気など欠片もなかったにも関わらず、指先に灯るほどの小さな火は膨れ上がり、一気に炎となって燃え広がった。
  人の形をした物はその炎に焼かれ、瞬時に灰となる。
  悲鳴をあげる時間も、苦痛を声にする時間も、最後の言葉を残す時間も無い。体の内側で完成した聖杯の膨大な魔力の余波で、あっという間に外装は取り去られてしまった。
  『彼』は喜んだ。そして、より強くそこを凝視した。
  そこには聖杯がある。腹があった位置に浮かぶ黄金の杯がある。
  皿の部分は葉脈を思わせる意匠が施された半球。もっとも下には魔法陣のように円形の装飾があり、その下に付いた高台にも切り込み細工や彫刻が施されて握り易くなっている。
  取っ手は無く、幾つかの装飾を除けばシンプルな構図で、一般的なワイングラスの形状をそのまま大きくした黄金の塊と言ってもよかった。
  それこそが『彼』が待ち望み、欲し、願いを託すべき聖杯だ。
  『彼』は喜んだ。もっともっと喜んだ。歓喜の渦は些細な出来事を全て吹き飛ばす、それほどまでに強烈な喜びが『彼』の中から生まれた。
  その聖杯と全く同一の物が聖杯の現れた場所の近くに立つ男の手にある事実など簡単に忘れた。人の形をしたモノから現れた聖杯しか見ていなかった。
  『彼』は聖杯に近づくために更に上に手を伸ばし、前に数歩進み出る。
  するとその動きに同調するように、空に浮かんだ聖杯は『彼』の元へとふらふらと近づいてくる。
  『彼』は思った。
  聖杯は僕を選んだ。と。
  こうも思った。
  あの聖杯が僕の願いを叶える。と。
  ゆっくりと下降してくる聖杯に合わせて。もう一つ。別の何かも一緒に降りてくるのに『彼』は気付く。
  それは細長い三角形の形をしていた。黄金の地金に空の青を髣髴させる蒼色で装飾が施されていた。中央には妖精文字の刻印が彫られていた。
  『彼』はそれを知っている。知っているからこそ、見た瞬間にそれもまた聖杯同様に求めていた物だと思い出す。
  決して手に入れねばならない物ではなかったが合って損は無い物。
  剣の鞘。
  一種の概念武装。
  魔法の域にある宝具。
 名を―――全て遠き理想郷アヴァロン
  「あ・・・ああああああああああ――」
  幾つかの事は思い出しても、『彼』が喋れる言葉は今も『聖杯』のみ。ただし、彼の中に渦巻く様々な思いは普通の人間が抱くよりも強くなった。
  多くの事を思い出していないからこそ。気持ちは研ぎ澄まされ、膨れ上がり、それ以外のモノを排除する。
 伸ばした右手から銃を落とし、代わりに下降してきた聖杯が握られる。そして伸ばした左手に全て遠き理想郷アヴァロンが握られた。
  時間が流れていくと周囲の雑踏はどんどん増え、それに合わせて人の声という名の騒音が『彼』の耳にも届く。
  けれど今の『彼』にとっては両手に握られた二つのモノ以外は全てがどうでもよかった。
 聖杯がこの手にある。全て遠き理想郷アヴァロンがこの手にある。今の『彼』の思考を埋めるのはその二点のみ。
  もう聖杯がどこから現れたかなど忘れた。聖杯を体内に封じていた人の形をしたモノも忘れた。自分が誰かなど思いだそうとすらしない。聖杯をひたすらに求め続けたが故に『彼』には判らない。
  声を出していたモノが―――『彼』の愛する妻だったのだと―――最後まで気付かなかった。
  『彼』はただ聖杯を思い、そして願いを託す。


  人ルイを救済シ、あラユル戦乱トリュウ血を根絶しロ・・・。


  言葉は無い。けれど想いは合った。それに応じて『彼』が右手に握る聖杯が光り輝く。
  受諾した―――。そう言わんばかりの眩い光は太陽よりも強く、黄金の光が夜の暗さを消し飛ばして『彼』の右手を起点にして広がっていった。
  遂に『始まりの御三家』が悲願した聖杯降臨の儀式が始まった。
  本来ならば冬木に存在する四か所の霊脈のどこかでなければ執り行うことすらできない筈なのだが、『彼』はその異常さを考えられない。ただ願いが叶っていくのを喜ぶだけだ。
  ゴボッ・・・、と何も入っていなかった筈の聖杯の器から音がして、光を塗りつぶすどこまでも黒い何かが器の中を満たしていく。その異常を見ても、『彼』は何もおかしいと思えなかった。
  『彼』が立つ道路に広がっている泥と全く同じモノがどんどん聖杯の内側から現れているのに、『彼』は満足げな顔をしながら見つめるだけだ。
  だから起こる変化のすべてを見逃した。
  器の中で常に増え続けていく黒い液体はあっという間に器の総量を上回って外に溢れ出す。その溢れた部分が聖杯を握る『彼』の右手に触れるのは必然だが、『彼』はそれでも何の対処もしなかった。
  「あ――?」
  聖杯に願いを託し、聖杯はその願いを叶える。『彼』の中にある願望しか見ず、現実から目をそらし続けた『彼』はそう呟く。
  何かがおかしい。聖杯の事しか考えられていなかった『彼』がそこで初めて違和感を覚えるのだが、何もかもが遅すぎた。
  聖杯を満たす黒いモノが単なる液体だったならば、それは『彼』の手を伝うだろうが重力に引かれて下に落ちる筈。斜め上に伸ばした腕の肘の辺りで地面に向けて落下するのが普通だ。
  けれどそれは地面に落下するどころか、生き物のように『彼』の腕に纏わりついてくる。決して地面に落ちることなく、『彼』の体を這って進む。
  何かがおかしい。
  もう一度違和感を呼び起こした『彼』は掲げた聖杯を下げながら、何が起こっているかを知ろうとする。しかし『彼』が行動を起こすよりも黒いモノが心臓がある位置に到達する方が早かった。
  ブチリ、と音がする。
  激痛に苦しんでもおかしくない状況でありながら、痛みを感じる意思すら感じない今の『彼』にはそれが何なのか判らない。聖杯から溢れた黒い液体が『彼』の皮膚を裂いた音だと判らない。
  ナイフのように鋭く、けれど液体としての柔らかさも失わず、黒いモノは『彼』の胸を引き裂いた。それでも『彼』は痛いとも苦しいとも辛いとも思わず、ただ違和感を覚えるだけで思考を終える。
 起こる変化はそれだけで終わらず、『彼』が左手に持つ全て遠き理想郷アヴァロンにも起こった。
  黄金の輝きを放ち続ける聖杯の光と同種、あるいはそれ以上の強い光を一瞬だけ放ち、『彼』の左手の中にずぶずぶと吸い込まれていったのだ。
  その間にも溢れ出た黒い液体は『彼』の肉体にどんどんと覆いかぶさっていく。最初は腕から伝う一筋の黒い糸だったが、時間が経つごとにそれは太く大きくなり、その分だけ『彼』の胸を大きく引き裂いていった。
  対抗するように左手から染み込んでいく光はあっという間に胸の位置まで到達し、引き裂かれる部位を癒すように光を放ち始める。
  ブチブチと皮が避け、肉が斬られ、遂には骨まで露出し、『彼』の体が開かれていく。
  光がその近くで輝き、裂かれた肉を元の位置へと押し戻し、体を閉じてようとする。
  破壊と再生。人知を超えた事態が自分の体に起こっていながらも、『彼』は違和感以上の危機を考えようともしない。
 聖杯の中から溢れた黒い泥は、底抜けに深く、そして重い闇を湛える『孔』を『彼』の胸に穿とうとしている。全て遠き理想郷アヴァロンは伝説の通りに所有者の傷を癒そうとしている。
  『彼』の肉体を使い、今、二つの奇跡がせめぎ合っていた。



[31538] 第43話 『聖杯は願いを叶え、セイバーとバーサーカーは雌雄を決する』
Name: マンガ男◆da666e53 ID:bbf25c32
Date: 2014/02/09 21:48
  第43話 『聖杯は願いを叶え、セイバーとバーサーカーは雌雄を決する』



  ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆



  Side - 衛宮切嗣





  とても長い夢を見ていた。無限の希望を抱いて、同じ数だけ絶望を味わって。それでも諦めきれない思いを抱き直した。
 何が起こったのか僕は正確に思い出せていない。だけど、全て遠き理想郷アヴァロンが僕の中に入り込んだ瞬間、たくさんの事を思い出した。
  僕は衛宮切嗣。
  アイリスフィール・フォン・アインツベルンの夫。
  セイバーのマスター。
  イリヤスフィール・フォン・アインツベルンの父。
  聖杯戦争の参加者。
  父、衛宮矩賢を殺し。シャーレイが死徒になるのを止められず。ナタリアも殺した―――。
  魔術師殺しの衛宮切嗣。
  「がっ!!」
  僕が僕自身を自覚した瞬間、僕の身に起こってる事も少しだけ思い出す。
  聖杯が僕の願いを叶えようとしている。ただ、その為の代償として僕の命を求めてる。どうしてそんな事になったのかは思い出せない。だけど判る、経過を飛ばして結果が僕の中にある。
 アイリは命を引き替えに僕に聖杯を託してくれた、全て遠き理想郷アヴァロンも一緒に託してくれた。
  僕は聖杯で人類を救済する。世界に恒久的な平和をもたらしてみせる。
  僕はアイリを殺した。僕が聖杯を願ったから、アイリは消えた。命を賭けてまでアイリは僕に聖杯を渡してくれた。
  だから、もしここで聖杯に僕の願いを叶えさせなかったら。何のためにアイリを犠牲にしたのか判らなくなる。僕の命ぐらい捧げなきゃいけない。
  アイリの為にも、僕は聖杯で願いを叶えなきゃいけない。
  聖杯を満たすサーヴァント達の魔力が黒い泥になって僕を侵食してる。
 アイリから渡された全て遠き理想郷アヴァロンがその侵食を食い止めて治してる。
  僕が壊される。
  僕が治される。
  何度も壊されて、その度に治される。
  苦痛で意識が朦朧とする。考えが上手くまとまらない。だけど僕には判る。無限に繰り返される破壊と再生の先に僕の待ち望んでいたものが待ってるって。
  それが聖杯に託した僕の願い。
  聖杯が叶える僕の願望。
  壊されていく度に、治されていく度に、僕の胸に黒い孔が少しずつ作られていく。
  それは聖杯の作り出す門。聖杯はこの門を通る為の鍵。鍵が門を開け続けていれば、向こう側にある力をこちらに引き寄せられる。
  その力を使って聖杯は僕の願いを叶える。
  また僕が壊される。
  また僕が治される。
  その度に胸に刻まれた黒い孔が少しずつ大きくなる。
  聖杯の力は肉体を侵し、血管を巡り、心臓に到達し、孔を広げる。
  この孔が完全に開いた時、僕の肉体が聖杯に馴染んだ時、僕の命を聖杯が喰らった時。聖杯は僕の願いを叶える。
  かつて僕が志して、僕だけじゃ決して成し得なかった行いを、人の手で及ばない規模で完遂する。
  聖杯は人類を救うだろう。世界に恒久的な平和をもたらすだろう。もう二度と争いのない、誰も傷つくことのない、完成された理想郷が出来上がるだろう。
  僕は聖杯の力で―――魔術師殺しの衛宮切嗣は―――争う全ての人間を殺し尽くして―――世界を平和にする。





  もし衛宮切嗣が真に自分を取り戻していたならば、自分の体を侵食する聖杯が求め欲した願望機とは全く異なる性質の物だと一瞬で看破し、即座にその危険性を知って破壊する術を考えただろう。
  けれど衛宮切嗣はそれをせず、むしろ肯定した。
  衛宮切嗣は覚醒した時点で既に狂っていた。中途半端に自分を思い出してしまったが故に『彼』は狂っている自覚を持てなかったのだ。そして衛宮切嗣の願いを止める者はいなかった。
  衛宮切嗣は全てを間違えたまま―――聖杯は『彼』の願いを形にした。



  ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆



  Side - 言峰綺礼





  聖杯と呼ばれた空間の中で私は開示された選択肢を十ほど見た。だが、その全てが『救い』であると同時に『破壊』でもあった。
  当然だ。衛宮切嗣が求める『人類の救済』など、この世界のどこにも存在しない。
  この世界に生きる人間の意思を根絶し、排斥し、争う原因たる心を排して初めて実現される願い。その過程に人類を抹殺する規模の『破壊』があるのは明々白々たる事実。
  衛宮切嗣はケフカ・パラッツォが見せる『救い』を見せられ続け、世界を救う可能性を探し続け、永遠にも等しい時の中を放浪するつもりのようだが、私は早々に奴が見る選択肢の閲覧を放棄した。
  奴が聖杯に託す願いを見るのを全て付き合ってやる必要はない。衛宮切嗣が現実を見ない限り、どんな『人類の救済』であろうとも、徒労に終わるのが目に見えている。
  おそらくこの認識の違いが現実へと帰還した後の私と衛宮切嗣との差異となったのだろう。
  現実の時間では一分にも満たない時間しか経っていなくても、私の感覚では最早一日近くが経過していると思ってしまう。衛宮切嗣はその数十倍、数百倍、あるいは数万倍か数兆倍の時間を精神だけで旅したに違いない。
  過ごした時間の長さに比例して魂は摩耗した―――。
  「あ・・・・・・あああ・・・ああああ、あ・・・」
  聖杯の泥の中で目を覚まし、視界の中にある衛宮切嗣の無様な姿を見た瞬間。私は起こった事実をありのまま受け止めた。
  肉体そのものに変化は無く。私の腹には銃で穿たれた穴は開いたまま、右腕は前腕が骨まで粉々に砕けて使い物にならない。聖杯の泥に触れる前と何も変わっていない。
  足元を見ると地面に落とした筈の衛宮切嗣の娘の姿は無かった。
  数センチほどの浅さしかない聖杯の泥だ、幼子と言えど体の全てが沈み込むような状況には陥らぬので、聖杯の中でケフカ・パラッツォが語った通りこの泥に呑まれてしまったのだろう。
  衛宮切嗣はあの聖杯に娘の蘇生を願わなかった。
  あるいは衛宮切嗣の娘―――アインツベルンの娘でもある、イリヤスフィール・フォン・アインツベルンという名の娘にとって消滅はいっそ幸福であったのではないだろうか。
  私の手で盾にされたのは紛れもない事実であるが、『父に撃ち殺された』『父に生存を望まれなかった』この事実は私との関連性をなくしても残る。特に後者は『言峰綺礼』という要素を排除して願えばそれだけで事足りた。
  もしあの幼子が別の理由で生存し、この事実を知らされたらどうなるか? おそらく父である衛宮切嗣の今と同じように絶望に染まり、魂は摩耗し、生きる意思そのものを砕いて『生』を放棄したに違いない。
  その顔を見れぬのは残念だ。
  私は自分の状態を確認し、ありえたかもしれない『もし』を空想しながら、治癒魔術を行使する。まずは腹部の穴を塞ぐのを最優先とし、合わせて衛宮切嗣の様子もまた確認し続ける。
  衛宮切嗣があの聖杯を望まぬとしても、破壊しよう等と考え行動に至ったならば、私は腹に穴が開いた状態でもそれを防がなければならない。
  だが。意識はすり減り、魂は切り刻まれ、自分を見失った男が最初にとった行動はこの聖杯戦争の賞品となっている聖杯への執着。妻の体内に収められた聖杯を手に入れんとする妄執であった。
  私の方を見向きもせず、私が斜め後ろから見ている事に全く注意を払わない。
  あの男には判らぬのだろう。
  我々が浴び、今は足元に広がる泥を生み出した聖杯とアインツベルンの女の中で眠り、魔力の有無によって目覚めようとしている聖杯が同種であるのだと。
  魔術を知り、同じモノに喰われていた者ならば、誰であろうとも正しく『同じ物』だと認識できる。だが衛宮切嗣はそれを理解しない。
  目覚めてあの女の姿を見た瞬間、私の中に生まれた得心をあの男は全く考えていない。一時でもあの男と私が同属であると思ってしまった過去を恥じる気持ちが今の私にはあった。
  ケフカの言葉には何一つ嘘はなかった。奴が言った通り、私たちが呑まれたあれは紛れもなく『聖杯』であったのだ。
  ケフカがどうやって聖杯を手に入れたのかは今も謎のままだが、間違いなくあの『聖杯』もアインツベルンの女の体内にある『聖杯』も、どちらも等しく聖杯だ。
  令呪を授かったマスターが追い求めたものとまるで違っていたとしても。アーチャーに見限られた時臣氏の説明と違い過ぎていたとしても。万能の釜を模した魔術礼装などではないとしても。あの聖杯は冬木を舞台にした聖杯戦争の果てに作られる聖杯そのものだ。呑まれたからこそ私には判る。
  衛宮切嗣がケフカの用意した聖杯を認めず、妻を犠牲にして手にする聖杯を求めるのならば、私は奴の行動を止めはしない。
  どちらも同じモノだと理解しない愚か者を止めてやる義理は私には無く。何より衛宮切嗣が聖杯を開放するのならば、その果てに聖杯の中で見た破壊より強大な破壊がこの世に生まれるだろう。
  それは私も望むところだ。
  「聖・・・、は・・・い・・・」
  倒れた状態で治療に専念し、衛宮切嗣が夢心地に妻の腹を見る様子を監視し続ける。横向きの体勢で少々見辛いが何が起こっているかを知るならばこれでも十分だ。
  それにしても衛宮切嗣の無様な様子は見るに堪えない。
  もし私が立ち、奴が地面に伏せた状態だったとすれば。敵の様子には常に注意を払い、横たわった状態であったとしても油断するような真似は決してしない。それが出来るのは敵を殺すか無力化させた後だ。
  だが今の衛宮切嗣は銃を地面に落とし、隙だらけの姿を私の前に曝け出している。治癒魔術を使う前に攻撃していれば、難なく倒せてしまう隙だらけの姿。
  愚かな・・・。
  私は治療以上に衛宮切嗣と殺してしまいそうになる自分自身を強く自制しなければならなかった。
  その間にも状況は動き、衛宮切嗣が求め、私もまた望む構図が次々に作られていく。
  いっそ懐かしいとすら思える道化師の格好をしたケフカ・パラッツォはアインツベルンの女に魔力を注ぎ込んでゆく。アーチャーと真っ向からやりあえる魔術師の分身体は英霊以上の力を聖杯の器へと注ぎ込み、市街地の中で聖杯降臨の儀式を強制的に引き起こす。
  悲鳴を上げる間もなく絶命する女。
  現れる聖杯と見慣れぬ黄金の鞘。
  その二つを手にする衛宮切嗣。
  地面に広がる聖杯の泥と同じモノが聖杯から溢れ、衛宮切嗣に纏わりつく。
  次々と巻き起こる異常に周囲の雑踏が時間を経るごとに膨らんでゆくのが聞くだけで判る。
  冬木の夜は聖堂協会のスタッフの情報操作と現地の警察の勧告によって人通りの少ない場所に変貌していたが。目に見える形の異常ゆえに人は知ろうと集まってくる。
  証拠隠滅には聖堂教会だけではなく魔術協会へも協力を要請し、下水を流れる工業廃水の化学反応によって発生した有毒ガスという建前で報道を眩ませ、周辺に集まった者たちとこの一帯の人間には有毒ガスから発生した毒性の幻覚作用の診断という名目で病院へ送り込む。もちろん病院には暗示と洗脳の技術を習得した魔術師と代行者を待機させ、目撃証言を握り潰してはどうだろうか―――。
  父より引き継いだ監督役の責務を脳裏に描きながら、衛宮切嗣が聖杯の喰われ始めたのを確認する。ちょうど治癒魔術も一段落したので、私はようやく体を起こした。
  最早、聖杯降臨の儀式は誰にも止められない所まで来たのだ。私一人が起き上がった所で大勢に影響はない。
  周囲を取り囲む人垣の一部が私を見ている。だが、大多数の人間は異常を巻き起こし、事の発端となっている衛宮切嗣を見ている。
  おそらく私を見ているのは一人か二人程度。その視線も私が無事だと判ればすぐに衛宮切嗣へと視線を戻す。
  誰も気付かない。いつの間にか道化師の格好をしたケフカ・パラッツォが立ち上がった私の横に立っているなど―――。
  飛び降りたか、転移したのか。いつの間にか屋上から道路まで移動し、大きな異常にまぎれた小さな異常を作り出している。
  「おほほほ! あっちの僕ちんとは会えたようですね」
  ケフカは私の横に並び立ち、同じように衛宮切嗣を見る。これまで何度も繰り返した観戦の構図を再び作り出したのだ。
  敵までの距離はほんの数メートルだが、その近さと変わらぬ様子が私の中の危機感を呼び起こす。
  衛宮切嗣の願いを聖杯はどのような形で叶えるのだ? それはケフカが戦いを見るのと同じ位に危険視しているのではないか?
  危険の渦中にいる自分を意識し、私はケフカが手に持っている黄金の器を小さく指差す。それは衛宮切嗣が手にしているモノと全く同じ形をしている。
  「『あれ』と『それ』は同じ物なのだな」
  「判る? 見事だじょ」
  「私は一度それに呑まれたのだぞ? あの男が事実を判ろうともしない愚か者だとは見抜けなかったが、これは理解できる」
  「帰ってこれたのが尊敬に値するのだ。普通は触れただけで即死じゃあ、ヒッヒッヒ・・・」
  そんな危険なモノを何のためらいも無く私に浴びせる気性。
  こいつは確かに答えを得た私の同類かもしれないが、決して味方にはならない存在だと再確認する。
  自分の欲望が満たされるのならば誰であろうともその手にかける。衛宮切嗣との戦いに没頭し過ぎた私にも非はあるが、ある意味でアーチャーよりも始末が悪い。
  ならばどうする?
  これからどうなる?
  衛宮切嗣がどんな形で聖杯に願い託したかは奴にしか判らぬが、これからの展開と行動は聖杯を知るケフカが情報の大部分を握っているのは間違いない。
  こいつは聖杯の行く末を知っている。そしてわざわざこの場に現れたのは、私にも関連する何かが起ころうとしているからに違いない。それが私と敵対する事象ならば、分身体と言えども殺しておく必要がある。
  右手でまだ僧衣の中に残る黒鍵の柄を掴み、三本までなら一瞬で刃を構成し投擲する準備を整えた。狙うはケフカ、あるいは衛宮切嗣。
  「・・・・・・」
  「すさまじい魔力を感じますよ。と――、とっても激しい魔力の波動なんだな」
  私の攻撃の意思を読み取ったうえで無視しているのか、ケフカはこちらに視線を向けることなく衛宮切嗣を見つめたままそう言った。
  冬木教会から連れ出されてから幾度となく合った場面、私の忌々しさを増長させる態度だ。
  しかし語られた言葉が状況の一部分を映し出し、私が無視できないようになっているのも事実。ケフカが喋る言葉を私が聞き逃せないと知っているのならば、踊らされる私こそが道化ではないか。
  いっそ全てをゼロに帰する為にこの分身体を殺しておくべきか? そう思いながらも、ケフカの語った言葉を吟味する私もいる。
  足元に広がる聖杯の泥と、衛宮切嗣の右手に握られた聖杯から溢れる泥の禍々しさが強力過ぎて、私ではケフカがどの魔力について『激しい』と言っているのか判れない。
  私はその思考を否定した。今の状況、この場所で動きがあるとすれば、それは衛宮切嗣をおいて他にはいない。
  何かが起こる。それもケフカが警戒する程の何かが―――。
  「シンジラレナーイ!!!」
  奇妙な格好をして短くジャンプするケフカが気にならないと言えば嘘だ。けれど、私の目は離れた位置に立つ衛宮切嗣がこの世界に舞い戻ってから初めて見せる苦悶以外の動きを注視した。
  掲げた右手には相変わらず妻を犠牲にして手に入れた冬木の聖杯が握られている。黄金の鞘が消えてなくなるまで左手はその鞘を握っていたが、今は何も持っていない。
  無手の左手が動き、私とケフカが立つ場所とは全く別方向にまっすぐ伸ばす。
  小指、薬指、中指の三本が内側に軽く曲がり、親指は中指の先について小さな輪を作った。そして人差し指は前を指差すように一本だけ伸びて、何かを引くように曲がる。
  次の瞬間、銃声が鳴り響いた。
  「え・・・?」
  その呟きは衛宮切嗣が左手を伸ばしていた方向の人垣から発せられた声であった。何が起こっているか判らない戸惑いがありありと込められている。
  そう呟くのも仕方がない。
  衛宮切嗣の人差し指が曲がった瞬間、何も持っていなかった筈の左手に突如拳銃が発生したと理解できる一般人はいない。
  短機関銃のキャリコM950。魔術礼装ではなく単なる拳銃の一種だが、衛宮切嗣の武装の一つ。それに酷似した黒い塊が衛宮切嗣の左手に現れ、銃身から黒い塊を撃ち出したのだ。
  ずっと見続けている私ですら見逃してしまいそうな一瞬の出現であった。
  弾丸に見えるそれは人垣を構成する一人に直撃する。
  当たったのは脳天だ、あれでは助かりはしない。
  「世、カい・・・を――」
  この場にいる一般人は誰一人、何が起こったかを理解していない。
  ただ硬直し、唖然とする。
  衛宮切嗣の呟きなど聞いていない者ばかりだ。
  目の前にいるのは伏していた怪我人でも病人でもない。そこに現れたのは等しく破壊をまき散らす『死』の化身。
  平穏に慣れきって銃社会の危険性すら判らず。銃が日常的に出回っている状況にいる者ならば即座に逃げ出す状況でありながら、まだ放心状態を続けている。
  まるで先ほど見た聖杯に心をすり減らされた衛宮切嗣の様な愚かさだ。私のように黒鍵の柄を取り出して刃を形成し、衛宮切嗣を危険と判断して備える者など誰もいない。
  「ヘい和、に・・・」
  聞こえた衛宮切嗣の呟きを打消し、また銃声が鳴り響く。僅かに動いた人差し指が引き金を引いたままでいると、今度は銃身から黒い塊が連続で撃ち出された。
  衛宮切嗣が左手を横に流せば、弾丸に見える黒い塊は人垣を作る十数人の眉間を、肩を、腕を、腹を、心臓を、脳天を、口を、首を撃ち抜いてゆくゆく。
  「あ・・・・・・」
  知り合いだったのだろうか? 隣にいる男の頭蓋骨が粉砕されて地面に崩れ落ちる様子を見ていた女が呟く。
  その呟きを打ち消すケフカの言葉が周囲に轟いた。


  「逃げろ! 逃げろ! でないと、全員死ぬじょー!!」


  ケフカの言葉は正しく合図となる。
  「な、何なのあんた達!?」
  「ひとごろしぃぃぃ!」
  「逃げろ。逃げろ!!」
  そこでようやく『銃を構える誰か』を危機と認識し、悲鳴を上げる者、一目散に逃げる者、腰を抜かす者、と―――。混乱が生まれた。
  撃ち殺された。ここに居たら自分たちもまた同じ運命を辿ってしまう。背を向けて逃げる者たちからそんな言葉が聞こえてくるような素晴らしい光景だ。
  この見事な様子を作り出す衛宮切嗣と聖杯に感謝する。
 「固有時制御タイム・アルター・・・、二倍速ダブルアクセル!!」
  衛宮切嗣が唄うように叫び呪文を唱え終えると、奴の姿は十数メートル先にまで一気に移動した。
  我先に逃げ出した者の前に先回りして振り返る姿が見える。もちろん右手には黄金の杯を握りしめたままで、左手には銃を模した黒い塊を握りしめている。
  ここでようやく私の見る方向と奴の見る方向がぶつかったのだが、やはり衛宮切嗣は私には見向きもしない。奴はもう私を敵と見ていない―――その確信が合ったからこそ私はあの男が呪文を唱えると認識した瞬間に何もしなかったのだが、死を振りまく行いへの感謝と全く相手にされない状況への苛立ちを同時に思う。
  衛宮切嗣は銃に見える何かを構えて数発の黒く小さな塊を撃ち出す。それは突然目の前に現れた異方者に硬直する有象無象の脳天に吸い込まれ、また死を増やしていった。
  振り返ったが為にようやく見えた異常―――。衛宮切嗣の胸に黒い孔が開いている。
  直径は三十センチ弱。両腕と腹との間に僅かに残った部分が辛うじて四肢を繋ぎ止めているが、胸部は孔によって丸ごと抉られていた。
  骨も肺も心臓すらも無い巨大な孔だ。まともな人間ならば生命活動を即座に停止させるほどの重症でありながら、奴は何事も無く動いている。それこそが『孔』が目に見える物理的な空洞とは大きく異なる証明でもあった。
  奴が魔術を使う前に背後から見ていたが、背中に抜ける穴などなかった。
  大きさを考えれば衛宮切嗣の向こう側を見るのも容易いが、孔の中に見えるのは冬木の景色ではなく全てを呑み込む闇。見続ければ吸い込まれてしまいそうな極限の黒がそこにある。
  底抜けに深く重い闇を湛え続ける孔。全てを押し潰すかのような黒い太陽が衛宮切嗣の胸に輝いている。
  あれこそが時臣氏が求めたもの。七体の英霊の魂を束ねて生贄とすることで穿つ『根源』へと至る孔。
  円周部分に輝く黄金の光が孔の広がりを防ぎ、それ以上の拡張を防いでいるようだが、孔の奥から流れ出る黒い泥までは抑えきれていない。
  孔の奥から現れた黒い塊は腕を伝って衛宮切嗣の左手に登る。途切れる事無く溢れ、それは奴が持つ銃の形をした何かへ吸い込まれていく。あれが弾丸の補充だとすれば、撃ち尽くした銃は装填しなければ次の弾丸を撃てない、と。そんな人間らしい思考が衛宮切嗣に残っているのかもしれない。
  右手の聖杯から溢れる黒き泥が孔に繋がり、別種であり同種でもある黒き泥が左手を登る。もはや、奴が着るロングコートの上半分はその黒さを上回る究極の黒によって塗りつぶされていた。
  喧騒の中、おそらく最も冷静に状況を客観視している私は隣に立つケフカに話しかける。
  「あれが聖杯の答えだと言うのか?」
  「衛宮切嗣が知る最も的確かつ効率の良い『世界の救い方』。右手が塞がって一番威力があるのを具現化してないし、全力の一割にも届いてないけどな。いいぞ、死ね、死ね、死ねー!!」
  ケフカの言葉に後押しされた訳ではないだろうが、衛宮切嗣は私から距離を取り、更に遠くへと移動して死を広げていった。
  明らかに身体強化の魔術とは別種の魔術。おそらく私と戦った時にも使っていた時間操作に類する魔術であろうが、肉体を鍛えていたとしても連続行使は死に直結する。
  けれどあの男は何の躊躇いも無く魔術を使い、私から距離を取り―――死をばら撒いていく。それが面白く、そして不愉快でもあった。
  最早、この場において私は奴の敵ですらなくなってしまっているのだから。
  「それで? どうする、言峰綺礼」
  「どう――とは?」
  言葉の中に僅かな苛立ちが混じるのを止められない。半ば、ケフカの口から語られる言葉が何であるかを理解しつつ、私はあえて苛立ちと共に言葉にした。
  思えばケフカが持つ聖杯の泥に触れ、聖杯の中にいた時からケフカが何をやろうとしているかを語られる以前に知っているような気がした。
  衛宮切嗣が私に見向きもしなかった点もそうだと事が起こる以前に理解していたからに他ならない。だが、聖杯が私に何かしたのだとしてもその何かが私には理解できなかった。
  理解と不可解。相反する思いが私の中に渦巻く。
  「こっちの聖杯を使えばお前の望みは叶う。けれどその対価は大きいでしょう。知ると同時に死ぬ、これは確定ですよ」
  何故この男が私の求めるモノを知っている?
  鎌をかけた可能性を考えたが、そんな事では無いと私こそが理解している。ケフカ・パラッツォは嘘を言っていない、聖杯は間違いなく私の願いを―――『言峰綺礼』の魂を生み出し、このような形に作り上げた方程式を―――教えると確信する。
  理由も無くいきなり答えにたどり着けてしまうのは、聖杯の中で意識が繋がった影響だろう。
  ケフカが私を知る様に、私もまたケフカを知る。
  「ひょっ、ひょっ、ひょっ。それでもボクちんの聖杯を使うかな?」
  終始楽しげに話すこの男の問いかけに対し。もしこの場で断れば、こいつは生涯私に聖杯戦争によって降臨する聖杯を使わせないと確信する。それどころか嬉々として邪魔するであろう未来が共に容易に想像できる。
  私は聖杯が万物の願いをかなえる願望機などではなく、『根源』にと至る為の魔術礼装であると知っている。だが、同時に触れたことでこの聖杯は使用者の願望は歪んだ形ではあるが叶えると理解した。
  ケフカの言うとおり、私の求める知識を得れば代償として私は死ぬ。衛宮切嗣がそうであったように、人の脳では抱えきれない情報量で私の頭は破壊されて死に至る。
  既にアインツベルンが用意した第四次聖杯戦争の『聖杯の器』は使われてしまい衛宮切嗣の手の中で聖杯として存在している。あれを奪ったところで得られる結果は同じだ。
  ケフカの持つ聖杯も衛宮切嗣が持つ聖杯も諦め、別の方法を探す選択もあろう。
  だが私は自らに課した。問い、探し、理解すると。


  この命を費やすとしても―――。


  「アサシンに命ずる」
  気がつけば私は衛宮切嗣の事を意識から除外し、刃を形成した黒鍵を元の十字架への戻して、預託令呪の刻まれた腕を前に突き出していた。
  監督役代理としての責務。聖杯戦争のマスター。生きる為には逃れられない今以降の食事。大小の違いはあっても、やり残したことは山のようにある。だが『善悪の定義を根底から揺るがす矛盾の解』はその全てを天秤の片方に乗せても釣り合わない。
  私が求める『解』は命を費やしてでも得なければならない答えであり、他の何よりも優先させるべき事柄なのだ。
  故に今この場で出来る心残りを減らし。命を賭けて手に入れる。
  「ライダーのマスターを殺せ」
  預託令呪の一画が輝き消耗される。これで唯一残ったアサシン―――少女の姿をしたアサシンは常に張り付いているライダーのマスター、ウェイバー・ベルベットを殺すために行動を起こすしかない。
  令呪とはサーヴァントに対する絶対命令権。サーヴァントが持つ対魔力によってはその効力も半減し、あるいは抵抗すら叶うだろうが。あのアサシンに抗う術は無い。
  アサシンの本性を現した瞬間に呆気なくライダーに殺されるか。それともライダーが殺すか。マスターが敵サーヴァントをその手にかけるか。
  あのマスターはこれまで被害者と思って保護していた少女が敵だった事実に絶望するだろうか?
  共感知覚の魔術でアサシンの様子を知ればどうなるかを見届けられるが、求める解の比べれば塵に等しい。目先の欲に囚われた瞬間、ケフカがこの場から脱する可能性とて大いにあり得た。
  アサシンへの気がかりを即座に打消し、思考を聖杯へと向ける。
  冬木の魔術儀式によってもたらされる聖杯とは、脱落したサーヴァントの魂を一時的に留めておく器であり、根源に通じる孔を開ける手段そのものだ。
  だがおおよそあらゆる願いを叶えられるほどの魔力を満たす器である事実は覆しようがなく、願望機としての機能であれば六騎。時臣氏が求めたように、根源へと至る孔をあける為には七騎分のサーヴァントの魂が必要となる。
  始まりの御三家ならば誰もが知っている事であり、私とて時臣氏からその事実は聞いている。
  一度呑まれたからこそ理解できる。ケフカが持つ聖杯―――これには充分すぎるほどの魔力が満ちている。
  事前に聖杯を出現させるために一度目、そして衛宮切嗣が持つ聖杯を降臨させるためにもう一度。つまりケフカ・パラッツォは聖杯戦争に招かれた全てのサーヴァントの魂の倍の貯蔵魔力を持っていることになる。
  これが個人で成しえた技だとするならば、この男の魔術回路はいったい何本存在するのか? その疑問をも解き明かしたい衝動に駆られるが、アサシンの時と同じく切り捨てる。
  「まだまだ令呪は残ってる。頑張っちゃってる英雄王さまに令呪は使わなくていいのかな? 必要なんじゃなーい?」
  「必要ない。むしろ奴に『命じる』などと言おうものなら、私の身が危うい」
  「そう? 今から死ぬんだから、それ位はいいと思うけどね。ホワッホッホッホ!」
  ふと辺りを見渡せば、衛宮切嗣によって撃ち殺された死体の山が道路に点々と転がっていた。
  私と衛宮切嗣の意識を呑み、あの男の娘も喰らった聖杯の泥の上に転がる死体。それを出発点として、衛宮切嗣が駆け出した方角に幾つも幾つも死体が並んでいる。
  軽く数えるだけでも二十以上。衛宮切嗣は自分の視界に入った人間をことごとく殺しているようだ。あの男が向かった先と逆方向に逃げた者だけは生き延びたようだが、周囲から動く気配は消えている。
  静寂に包まれた死の広がる場所。道路を血で紅く染める光景をもっと見たいと思い、衛宮切嗣が作り出す死がこの世界を包む様子も見届けたいと思ってしまう。
  しかし私はその思いも振り切る。
  聖杯は道徳の教えとはまるで真逆の歓喜を得た『言峰綺礼』の魂がこの世界に実在する意味を教える。私が考えるべきはその一事のみで構わない。
  ケフカはゆっくりと体を動かし、私と相対した。
  「この世界にお別れは済んだかい?」
  「――ああ」
  「これを使ったら死ぬ。でも願いは叶う。何だか、面白くないから、ここで辞めてさっさと切り上げましょうか?」
  「その時は貴様を殺してその手に握られた聖杯を奪ってやろう」
  そう返すと、ケフカは右手を上に伸ばし、左手を右わき腹に当て、右足を左足の膝に付けて両足で数字の『4』に似た形を作った。目と口を大きく開き、私を見る。
  どうやら驚いた様子を判りやすく表したいらしいが、盛大に動いた手が聖杯を持ったままだったので、中身が零れないか不安を覚える。
  だが妙な格好からすぐに両手足の位置を戻し。その合間に中身が零れる気配は全くなかった。どうやら杞憂だったようだ。
  ケフカは聖杯を私に向けて突き出してきた。
  「その歪な在り方に僕ちんが敬意を込めて贈り物を差し上げましょう」
  見ると、聖杯の中には底が全く見えない黒い液体で満ちていた
  不味そうだ―――。すぐ目の前に死が迫っていると理解しながら。私はそんなたわい無い事を考える。
  「さあ、この聖杯より溢れるモノを飲もうではありませんか。その瞬間、お前は望むモノを手に入れるでしょう」
  そう言って渡された聖杯の手触りは何の変哲もない金属製の杯と同じであった。
  だがこの聖杯を構成するモノは見た目通りの黄金ではない。聖杯と同じ大きさの金ならば、もっと手の中にズシリと重みが返ってくる筈。聖杯の中を満たす黒き泥の邪悪な波動が見た目と全く異なる事実を私の心に直接訴えかけていた。
  これだ、これこそ私が求めていたものだ・・・。
  「さあ、さぁ。さあぁあぁあぁあぁあぁ!!!」
  ケフカの声に呷られた訳ではない。ただ、躊躇う理由などもうどこにも見当たらなかったので、私は聖杯に口を付ける。
  次の瞬間、黒い光が広がった。





  細胞。
  進化。地球。
  ■■■。■■。
  植物。動物。
  ■■■。■■。
  ■■。■■。
  単細胞生物。多細胞生物。
  海。■。光合成。
  ■■■■。■。
  ■■。■■■■。
  ■■■■。■■■。
  ■■■。■■■。
  同属。仲間。食べ物。
  海上。陸上。■■。地上。
  変異。■■。
  ■。■■■。■■。
  ■■■。■■■。
  鱗。ヒレ。砂。波。
  ■■。
  爪。牙。■■。
  巨体。角。翼。
  ■■■。■■。
  ■■。■■■■。■■。
  温暖。氷河。■■。山間。森林。
  火、水、土、風。
  ■■■■■■。■■■■■。
  ■■■■。■■■■■■。
  極小は極大へ―――。
  砂漠。熱帯。■■。火山。
  ■■■。■。
  喜。怒。哀。楽。
  ■■。
  昆虫。■。怪物。
  鳥類。茸。馬。
  ■■■。■■■。
  ■。■。■■。
  毒蛇。双頭。雄牛。
  ■■■■。■■■■。
  ■■■■■。■■■■■。
  過去は未来へ―――。
  ■■。
  知識は爆発し収斂する。
  ■■■■。
  ■■。
  経験は膨張し収束する。
  ■。
  ■■。
  ■。
  ■■■。
  ■。
  ■■。
  ■■。
  ■■■。
  ■。
  ■■。
  命は生まれ。消え。
  育ち。亡くなる。
  生きる。■■。死ぬ。
  幸福。不幸。■■。
  ■■■。■■。
  ■■。
  戦い。■。殺し合い。
  ■■。■■■■。
  ■■■■。■■■。
  怒り。■。嘆き。
  求めたモノ。■■。
  ■。
  ■。
  ■■■。
  失ったモノ。■■。
  ■。
  ■■■。
  ■。
  零れ落ちたモノ。■■。
  ■■。
  ■■。
  ■。
  手にしたモノ。■■。
  ■■■。
  ■■。
  ■。
  全てに意味■ある。
  ■■■。
  理解■果て無く広が■。
  ■■。
  一点は無限。■■。
  全て■理由が■る。
  ■■■。■。■。
  認識■終わりなく膨張■る。
  永遠■一瞬。
  ■■■。■。
  ■■。■■■。■■。
  始まり■終わり■。
  また始ま■。ま■終■る。
  ■。■。■。
  螺旋は続■。渦を巻■。
  正当であ■邪道。
  全■は肯定■れる。
  ■■■。■■■。
  ■■。■■。■■。
  根源■■。
  ■■■。
  ■。
  恒星。■■。星座。■■。惑星。
  ■■。
  ■■■。
  孔。
  ■■。
  永遠の事象。■■。
  ■■。
  ■。一瞬の存在。
  そこに■る。
  星■超え■宇宙の理。
  ■■■。
  何もか■がこ■に在る。
  ■■■。
  ■。あ■。
  ■■■■。
  森羅万象を司る法―――。


  言峰■礼の魂■作■った■■■■式。


  ■    ■■  ■
   ■ ■■■    
     そ   ■ ■
  ■ ■  ■  ■ 
  ■    ■■■ ■
  れ  ■■■   ■
  ■ ■■  ■■■ 
  ■  ■■■ ■が■
     ■  ■ ■ 
  ■ ■■■■   ■
  ■■■    ■■
    ■こ■  ■ ■
  ■ ■ ■ ■ ■ 
    ■■■  ■■た
    ■■  ■  ■
  ■  ■  ■ ■ 
       え ■■■
    ■■ ■■  ■
   ■■ ■  ■  
  ■■■■■■■■■■
  



  ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆



  Side - セイバー





  何度、吹き飛ばされたか判らない。何度、地面に叩き伏せられたのかも判らない。もはや、私にとって数など意味は無く、数えるという行為そのものが無意味になっていた。
  想うのは私を殺さんと猛威を振るう彼の事だけだ。
  反撃など出来る筈がない、挑む気すら起きない。絶望が私の胸を満たし、一片の戦意も残ってはいない。
  それでも剣の英霊としてのこの身は致命傷の直撃を避けようと寸前で身を庇い続ける。それが私の命を生き長らえさせていた。
  かつて龍の化身とまで讃えられた英雄はここにはいない。あるのは何もかも間違えた愚かな王の成れの果て。
  何と無様な姿か。
  「■■■■■■■■■■■■■■ッ!!」
 鼓膜が破けたか、無毀なる湖光アロンダイトを持つ彼の口から放たれる言葉を聞き取れない。それともこの叫びが貴方の言葉なのか? 友よ――湖の騎士サー・ランスロット。これが貴方の本心なのか?
  貴方は私を赦してなどいなかったのか?
  そんなにも運命に絶望していたのか?
  あの結末を受け入れてなどいなかったのか?
  あの悲運を、死してなお恨み。それをもたらした王と国を呪っていたのか?
  違うと言ってほしい。他でもない貴方にだけは―――。
  だが返事は無い。あるのは獣のごとき叫びと共に襲い掛かる黒き剣の嵐だけだ。そのランスロットの在り方そのものがまるで返答のように見えてしまう。
  俺は貴様が憎い、お前の全てを呪う。そう全身で物語っている。
  違うと言ってほしい。他でもない貴方の口からその言葉を聞かせてほしい。
  けれど私の祈りは届かない。
 あるのは休むことなく続く無毀なる湖光アロンダイトの猛攻のみ。そして聖剣の軋みが私の手に伝ってきた。
 当然だ。かの剣は私の約束された勝利の剣エクスカリバーと対を成す至高の宝剣。一方的に攻撃を浴び続ければどちらが先に砕けるかなど考えるまでもない。
  遂に終わりが近づいてきた。
  軋む剣の隙間から伸びてきた彼の足に蹴り飛ばされ、私の体は後ろに吹き飛ばされて何かに当たって制止する。
  起き上がる力は湧いてこない、気力そのものが私の中から消えている、体から力が抜けて地面に落ちる。もう次の一撃は防御すらできないだろう。
  或いは、救いはここにしかないのかもしれない。
  彼が私をそんなにも呪い、悔やみ、憎むのならば。その剣を受けて血を散らすのが、彼に償う術ではないだろうか?
  そうだ。他でもない性別を偽った私が正しくあろうとした事そのものが全ての間違いであった。ランスロットは何も間違えなかった、咎を受けるべきは女の身でありながら妻を娶った私こそだ。


  世界を救う―――。


 無毀なる湖光アロンダイトをこの身で受け止める覚悟を終えた瞬間。何の前触れも無く声が聞こえた。
  ランスロットの声か? そう願いながら、頭のどこかで彼の声ではないと一瞬で答えを出してしまう。
  彼は今も私を呪い、狂戦士として剣を振り上げながら叫び、私に向かっている。一秒すら必要とせず、あの剣が私を両断するだろう。
  それで全ては終わる。


  恒久的平和を―――


  また声がした。私の頭の中で声がする。
  これは想い? 記憶? 願い? 心? 何かが流れ込み――声だと思っていたモノは全く別の何かだと知る。
  何だ? これは何だ?
  私の中に膨らんでゆくこれは何だ?
  一瞬がまるで永遠のように感じる。荒れ狂う暴風のように迫る彼の姿が緩やかに―――止まっているとさえ思えるほど遅く感じた。黒き剣を私に振り下ろそうとするランスロットがそこにいる、見て判れる時間など無かった筈なのに判ってしまう。
  力が溢れてくる。
  全てを諦め、彼に償うと決めた体の底から力が湧いてくる。
  一瞬よりも短い時間で何かが私に力を与える。


  聖杯を、聖杯が、聖杯に、聖杯と、聖杯も、聖杯の、聖杯は、聖杯で、聖杯へ、聖杯よ―――聖杯、聖杯、聖杯、聖杯、聖杯、聖杯、聖杯、聖杯、聖杯、聖杯、聖杯、聖杯、聖杯、聖杯、聖杯。


  何かが起こっている。
  何かが私に力を与えている。
  聞こえてくる声に一緒に力が流れ込んでくる。
  腕が動く、足が動く、手は剣を握りしめ、足は甲冑ごと肉体を動かす。目はランスロットの姿を捉え、懐に飛び込む一瞬の隙を見極める。
 まともであれば彼の剣が私を両断する方が早い。だが、今の私に起こっている事が続くのならば、全力の風王結界インビジブル・エアを背後に放出させ、その勢いで彼の速度を勝る。
  軋む私の剣が砕かれる前に彼の鎧を貫ける―――。
  待て。私は何をしている?
  私はランスロットの剣を受け、彼に償うと決めたのではなかったのか?
  何故、私は動いている? 何故、私は立ち上がっている? 何故、私は剣を構えている? 何故、私は『魔力放出』を使っている? 何故、戦おうとしている?


  聖杯で―――殺せ。


  私の背中を押すように、その言葉は頭の中の一番深いところに根付くいた。
  まるで決して抗えぬ呪いだ。
  私はこの声と言葉を聞いたことがある。そうだ、この言葉は、この声は、あの時、私にライダーのマスターを貫かせたのと同じだった。
  切嗣!!
  私はここにきてようやく頭の中に響く声が誰の言葉だったのかを思い知る。
  それでも遅いとは感じなかった。時間の流れは更に緩やかになり、ランスロットの動きが止まって見えた。今の私にとって一瞬は永遠だ。
  疑問を納得に置き換える時間が私にはある。ほんの一瞬の筈なのに、思考に費やす時間がある。
  考えられてしまう。
  だから、おかしさを思わずにはいられなかった。
  マスターである切嗣が私に魔力供給を行うのは理解できる。だがサーヴァントを一瞬で回復させ、しかも失った筈の体力すら戻すほどの強烈な魔力供給などこれまで一度もなかった。
  とっさのあの忌々しい令呪の強制力かと考えたが、他でもない体感している私自身が『これは違う』と結論を出す。
  聞こえてきた声も言葉も同じだが、これは令呪とは異なる別の何かだ。
  これは何だ?
  僅かにランスロットが前に出て、その動きよりも更に早く私の体が動く。
  私の中に流れ込んでくるモノは何だ?
 剣が振り下ろされるよりも早く前に出て、約束された勝利の剣エクスカリバーを前に突き出す私がいる。
  私に力を与え、剣を握らせ、攻撃させているこれは一体なんだ? 何なのだ?
  万全の状況でランサーと戦った時ですらこれほどの速さは出せなかった。私の剣が、彼の心臓目がけて一直線に突き出される。
  私の意思に反して、私を突き動かす。これは何だ? 何が私を操っている?
  考えてしまう。一瞬すら無い筈なのに、考える時間が与えられてしまう。考えるのを止められない。私の動きも止まらない。
  剣が―――。
  「やめろッ!!」
  叫んだ瞬間、止まっていた全ての時が動き出す。振り下ろされる彼の黒い剣を避ける勢いは止まらず、私が剣の軌道を変えようとする一瞬すら存在しない。
  定められた行動をなぞる様に、私の剣はまっすぐに突き出された。
  一瞬後、何もかもが止まった。
  握り締めた剣の柄からランスロットの心臓の鼓動が伝わってくる。その鼓動が消えゆく気配もまた刃を通じて私の手に伝わってくる。
 私の剣は黒い甲冑を深々と貫いていた。背中まで貫通した約束された勝利の剣エクスカリバーがランスロットの鎧を、体を、心臓を、私を殺す意思そのものを貫き砕いていた。
  バーサーカーとなり猛威を振るっていたランスロットの動きが止まっている。私が斬ったせいで―――。
  違う。そう叫びたいのに言葉が出てこない。
  こんな決着など望んでいない、私は彼に裁かれるべきだった、償うべきだった。それなのに何故、私の手は剣を握りしめ彼を殺しているのだ?
  数多の屍の踏み越えて尚、願望機の奇跡を欲するしかないと言うのか? こんな浅ましくも貪欲な思いが私の本性だというのか?
  違う、違う違う違う違う違う。
  切嗣が何かしたから私の力が蘇った。
  こんな結末を私は望んでいない。止まらぬ涙は彼を斬ってしまった罪悪感ではない。切嗣がした何かに逆らえなかった私自身を殺したいほど恥じているのだ。
  「それでも、私は――、聖杯を獲る・・・」
  その筈なのに―――どうして私の口からこんな言葉が出てきてしまうのかが判らない。
  私はそんな事は望んでいない。こんなにも見苦しく聖杯を求めてはいない、聖杯なんてどうでもいい、全てを間違えた王は完壁なる騎士にこそ斬られて終わるべきなのだ。
  それなのに、どうして。
  「そうでなければ・・・、そうしなければ・・・、友よ。私は何一つ、貴方に償えない・・・」
  どうして私の口は聖杯の奇跡を求めようとする言葉を放ち続けるのだ。


  「──困った御方だ。この期に及んでなお、そのような理由で剣を執るのですか」


  「ランスロット・・・」
 懐かしい声に導かれ、顔を上げれば、そこには穏やかな眼差しで私を見守る湖の騎士サー・ランスロットがいた。
  彼こそが類まれなる人徳と無双の武練を兼ね備えた騎士。騎士道の峻厳なる峰に咲いた華。その姿と在り方は、同じ道を志す全ての者たちの宝であり目標でもある。
 我が朋友ともが、ここにいる。
  「ランス・・・、ロット・・・」
  流れる涙のせいでうまく言葉が出てこない。
  「・・・・・・ええ」
  どうして彼が狂戦士の呪いから解放されたかなど考える余裕はなかった。ただまっすぐに、見上げればそこにある彼の姿から目が離せない。
  言いたい事は沢山ある筈なのに、その顔を見ると何も喋れなくなってしまう。
  こんな事を仕出かした私を許すような目を見ると、私は何も言えなくなってしまう。
  「だが私も、こういう形でしか、想いを遂げられなかったのでしょう・・・」
  ランスロットの目が動き、背中まで抜けている私の剣を慈しむように見つめた。
  そして彼が苦笑した瞬間―――。
  「なっ!?」
  私の剣に光が集まっていくのを感じた。
  ランスロットを貫く刃の外気に触れている部分、剣先と柄の近くの刃に光が集まっていく。考えるまでも無く、それが究極の斬撃を放つための光の集束だと察した。
  何故だ? どうして私の剣が勝手に動き出す!? 真名を解放すらしていないのに、どうして光が集まってくる?
  迷いと共にランスロットから剣に視線を動かす、そこで私は見た。
  まるで彼の黒き鎧から『黒』を吸い出すように、剣の刀身が黒く染まっていく。それどころか集まっていく光は確かに光なのだが、夜の闇を切り取ったかのような黒く輝く光だった。
  流れ落ちるランスロットの血が黒く染まってゆく剣に流れる。それは下に落ちるのではなく、刀身部分に円を描いて文様へと変わっていった。
  白銀の籠手は剣から伝う黒さで染まり、剣で貫かれたランスロットの籠手のように鋭く尖ってゆく。
  何だ? 何が起こっている?
  驚きに同調するようにドクンッ! と一際大きな鼓動が体の中から鳴った。それを切っ掛けにして、またあの得体のしれない何かが私の中に蘇ってくる。


  殺せ、殺せ、殺せ、殺せ、殺せ、殺せ、殺せ、殺せ、殺せ、殺せ。
  殺せ、殺せ、殺せ、殺せ、殺せ、殺せ、殺せ、殺せ、殺せ、殺せ。
  殺せ、殺せ、殺せ、殺せ、殺せ、殺せ、殺せ、殺せ、殺せ、殺せ。


  切嗣の声が聞こえる。力が湧きあがる。
  心臓を中心にして白銀の胸当てもまた籠手と同じように黒く染まっていくのが視界の隅に見えた。
  それどころか剣に出来上がった紅い文様と同じように、血脈のような紅い印が鎧のあちこちに刻まれる。まるでランスロットの返り血だ。
  切嗣―――私に何をした!?
  頭の中に響く声に反論するよりも前に、黒く染まる剣に黒い極光が収束し終えてしまう。
  暗き闇でありながら輝いてもいる二律背反。黄金に輝いていたかつての剣の姿は無い。
  「王よ・・・」
  呟くランスロットの声をかき消すように剣が震える。
  本来は両手での渾身の振り抜きを行わなければ発動しない筈の究極の斬撃が剣から放たれようとしている。
  止めろ。
  違う。
  停まれ。
  これは違う。
  止めろ、ヤメロ、やめろ、辞めろ。
  「やめろおおおォォッ!!」
  絶叫と共にランスロットを貫く剣を引き抜こうとした。引き抜けば剣で塞いでいた傷跡から大量の出血が溢れると判りながらも、剣から放たれようとしているモノこそが最も危険だと察知して抜こうとする。
  たとえランスロットであろうとも、間近でこの力が直撃すれば跡形も無く消し飛んでしまう。万全ではない今は避ける術すら無い。
  私が外さなければランスロットは本当に死んでしまう。言葉を交わす事も出来なくなってしまう。
  私はランスロットに償わなければならない。彼と話し合えるかもしれないこの機を逃してはならない。私は彼と話さなければならない。
  だから、止めろ、やめろ、ヤメロ。やめてくれ!!
  だが私の手がやったのはほんの僅かに剣を引いただけ。引き抜く前に・・・夜よりも深く、闇よりも暗く、けれど輝いている、黒き極光が空に向けて放たれる。
  空を登る黒い竜。
  夜空を引き裂く黒い矢。
  何もかもを消し去る黒い炎。
  頭二つ分小さい私が彼の心臓を貫く為、斜め上に伸ばして貫くしかなかった剣から黒い光は放たれてしまった。
  「・・・・・・・・・」
  私には音すら呑み込むそれを見送ることしか出来なかった。ただ彼が―――ランスロットが光に消し飛ばされる瞬間を見るしか出来なかった。
  私の意思など関係なく光は放たれ、必死に止めようとした行いは何の効力も発揮せずに終わった。
  剣の先にはもう誰もいない。私の目はしっかりと見てしまったのだ、目の前でランスロットが黒い光に呑まれて消滅していく瞬間を、見てしまったのだ。
  何一つ残らない。彼の鎧も、彼の剣も、何もかもが光に喰いつくされ、消滅したのを見た。
  私は剣を下に降ろしながらぼんやりと自分の姿を見る。
  白銀の鎧に身を包んだ名高き騎士王はどこにもいなかった。彼が身に着けていた漆黒のフルプレートの色を引き継ぎ、黒に侵された騎士だった誰かがいた。
  辛うじて下半身を守る甲冑の『垂れ』の部分はまだ銀色の光沢を残しているようだが、上半身の殆どは黒く染まり。特に剣に近い籠手と胸当ての部分は完全に別物に作り替えられている。
  見えないので確かめる術は無いが、首元にまでこの『黒』が覆っている感触もある。
  これでは私こそが狂戦士ではないか。
  「・・・・・・・・・」
  私は前を見れなかった。ランスロットがいた場所を見るのが恐ろしかった。何もないと見てしまえば、それをやったのが私だと強く考えてしまう。
  だからランスロットの事を考えないように、私はこの事態を引き起こしたであろう切嗣の事を考えた。
  私の身に起こっている異常は明らかに切嗣からの魔力供給によってもたらされた。令呪とは異なる何かが私の心を、体を、思いを、願いを、蝕んだ。
  何のために? 切嗣は何のためにこんな事をした?
  必死に答えを探し求める。
  懸命に理由を追い求める。
  「・・・・・・」
  そうしなければ考えてしまう。
  私を呪い、憎み、怨嗟の全てをぶつけてきたランスロットの事を―――。
  忠勇のうちに散ったガウェインの事を―――。
  使命に殉じたギャラハットの事を―――。
  彼らはもしや、至らぬ王に仕えた事を後悔し、未練を残しながら果てたのではないか?
  あの『完璧なる騎士』と謳われたランスロットですら胸に絶望を抱えていた。他の誰もがそうではないと、何故言い切れる?
  もし私の王としての在り方が違っていたならば。彼らは救われたのではないだろうか?
  私の罪を。私が負うべき罰を。私が背負った咎を。いくつも、いくつも、いくつも、いくつも考えてしまう。
  「まだ、間に合う・・・・・・。聖杯が――、運命を覆す奇跡が・・・・」
  気がつけば切嗣の事を考えようとしていた私は剣の切っ先を地面に置きながらそう呟いていた。
  聖杯しかない。
  彼らに報いるためにはこの手に聖杯を掴み、その奇跡をもって全てを償い精算するしかない。
  バーサーカーに向けた言葉を円卓の騎士たちにも向ける。
  そうでなければ。
  「私は、何一つ・・・。貴方達に、償えない・・・」


  「それ以外に手向けの言葉は無いの?」


  私がすべき事を思い出すのと言葉が降ってくるのは全く同時だった。
  ランスロットの声ではない。これは女性の声だ。
  何の前触れもなく聞こえてきた声に導かれて私は顔を上げた。
  今、ランスロットを消滅させておきながら、それでも剣の英霊としての振る舞いが私の警戒を呼び起こさせる。
  聖杯をこの手にし、全てを償うまでは誰にも殺される訳にはいかない。そう思い直し、声のした方向を凝視しながら剣を構えた。
  人の形に似た異形がそこにいた。
  人に近いが桃色の燐光を全身から放ち、体のあちこちから体毛を生やした獣に見える。決して人ではない。
  そもそも空に浮かぶなど、魔術に精通しているか一般人が抱える常識の外にある力を使わなければ、実現すら出来ないのだから。
  円蔵山の上に浮かび、私の前に現れた怪物。
  「・・・・・・何者、だ?」
  「敵よ」
  短く答えが戻ってきた。空高く浮かびながらも周囲の静けさもあって声は届く。隔たれた距離は遠く、剣の間合いには入っていない。
  敵―――その言葉を頭の中で理解すると、また切嗣の声が聞こえてきた。
  殺せ、と。
  斬れ、と。
  壊せ、と。
  何度も『殺せ』と頭の中で声がする。
 川の辺でライダーと戦った時に一度、そして今、ランスロットを消し飛ばす時にもう一度。短時間で既に二回、約束された勝利の剣エクスカリバーの斬撃を放っている。
  貯蔵魔力は真名解放と共に激減し、本来であれば立っているのすら覚束ないほど疲労している筈。
  だが切嗣の声が聞こえると、それに合わせてまた体の奥底から力が湧きあがってくる。魔力が急激に回復していくのが判る。
  それほど間をおかず、あの黒き極光を放てる程の魔力が貯まるであろう未来が想像できてしまう。
  だから、これは、何なのだ?
  マスターの魔力供給とは違う、これは、何だ?
  どこからやって来る?
  「こう言えば満足? 私は間桐と協力関係にある貴女の敵よ・・・って――」
  湧きあがる疑念は怪物の発した言葉によって掻き消えていく。
  ランスロットの事も、聖杯の事も今は忘れる。忘れようとする。
  奴は怪物だ。ランスロットとは全く違う、倒すべき敵だ。そう心の中に刻みつける。
  そう思わなければ構えた剣すら落としてしまいそうだった。
  「私たちを倒すんでしょう? 探してるんでしょう? 貴女はその為に――、大切な姫君を守り救うために私たちと戦おうとしてたんだから・・・」
  「・・・・・・・・・」
  その言葉が出てきた時、大事なことを今の今まで全く考えていなかった自分を思い出す。
  そうだ―――。
  私がランスロットと戦わなければならなかったのそもそもの原因はアイリスフィールを攫った何者かにある。
  奴は言った。『この先にいる私の御仲間を』、と。その言葉を信じた訳ではないが、始まりの御三家の一つであり、倒すべき敵サーヴァントを従える間桐と遭遇したのは紛れもない事実。


  ―――今になってようやくか? そもそもアイリスフィールを救うために間桐を探し出して戦おうとしたのではなかったのか?


  バーサーカーを倒さなければならない。その戦いを私に強いたのは奴だ。
  奴こそが全ての元凶であり、私が真に倒すべき敵なのだ。
  切嗣の令呪の縛りがあったとはいえ、一瞬すら無く奴は私の手からアイリスフィールを奪った。
  あの不可解な動きは今でも鮮明に思い出せる。


 ―――湖の騎士サー・ランスロットが現れたら彼に心を奪われて、守るべき姫君の事など全く考えなくなった。違うか?


  アイリスフィールを担いで逃亡を令呪で命じられたが、全方位への注意は怠っていなかった。
  にも関わらず、奴は瞬間移動したかのようにどこからか現れ、一瞬すら無く、アイリスフィールだけを私から奪っていった。
  私には全く攻撃せず。ただ『奪う』という結果だけを作り出したのだ。
  事象そのものを作り替える超魔術。それとも、まさか奴は時を止め、その隙に接近と強奪と離脱の全てやってとでも言うのか?


  ―――それでも騎士か? それでも王か? アイリスフィールを守る誓いはどこに行った?


  私は奴を倒し、アイリスフィールを倒さなければならない。
  私は聖杯を手に入れ、全てを償って清算しなければならない。
  たとえどんな敵が前に立ち塞がろうと、もう立ち止まるのは許されない。
  怪物が相手ならば気兼ねする必要は欠片も無い。こいつを斬り、間桐を斬り、残る全てのサーヴァントを斬り、私は聖杯を掴む。


  ―――そんな脆弱な意思の持ち主が名高き騎士王? 冗談を言うな、王の名乗りすらおこがましい。


  今、成すべき事を考えながら、他人事のように頭の中に響く私自身への問いかけを聞く。
  それは切嗣の声にも聞こえたが、私自身の声にも聞こえた。
  私は改めて考える。敵を倒し、アイリスフィールを助け出し、聖杯を手に入れ、全てを償う。
  そうでなければならない。
  そうしなければならない。
  「・・・・・・・・・」
  私は無言のまま黒く染まった剣を構え、敵と戦う態勢を整え直す。敵を見据える視界の隅、そこに合って私の体を蝕んでゆく『黒』がほんの少し深まったように見えた。



  ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆



  Side - 間桐雁夜





  過ぎ去った時間を振り返れば短く、一般人の尺度で経った時間を考えれば『長い』と感じないと思う。
  だが戦い続ける時間としては長すぎる。少なくとも、同じだけの時間を俺とゴゴが戦えば、三回は殺されて蘇らされて、四回目の『死』を体感するものかと必死で魔剣ラグナロクで攻撃に転じるだろう。
  事実、ほんの数分の間に何度も殺された過去があるので、想像はしやすかった。
  それがセイバーとバーサーカーの戦った時間。そして俺がひたすらバーサーカーに魔力を送り続けた時間でもある。
  その間、ものまね士に戻ったゴゴは俺と桜ちゃんに話しかけてたんだが、これまで感じたことのない気持ち悪さに聞く余裕はなかった。
  届く言葉は幾つかあったんだが、その言葉を起点にして考える余裕が俺には無かった。
  ゴゴの力で強制的に治されるのはこの一年で慣れるしかなかったが、それは肉体の損傷に対する治療であって体の内側を燃やされる様な喰われる様な傷つけられる様な痛みとは、同じ『痛み』であっても次元が異なる。
  これほど急激に魔力が失われ、桜ちゃんの力で補充され、そしてまた消耗するのは俺の人生の中で一度も無かった。
  何度も死んでるせいでもう肉体の痛みには慣れが出てきたが、体の内側から見えない何かに喰われるような感触は慣れようがない。
  吐き気を催す乗り物酔いと、強烈な立ち眩みと、頭が沸騰しそうな重い風邪と、動くのも億劫な胃痛と、横になった瞬間に気絶しそうな眠気と、弾けそうな激しい動悸と、他に何も聞こえなくなる喧しい耳鳴りと、空気を求めながら吸い込めない息切れと、手足を縛りつける麻痺。その他にも怪我とは異なる体の内側から発生する病気の数々を全て混ぜ合わせたような―――筆舌に尽くし難い感覚に、時として呻き声すら上げられなくなった。
  体の内側から破裂して血反吐をまき散らす未来を何度も何度も想像した。胃の中身を胃液も含めて吐き出さなかったのが奇跡だ。
  耐えられた理由は何か? それは桜ちゃんが魔力を渡してくれるからこそ、だ。桜ちゃんがいたから俺はバーサーカーに魔力を送り続けていられた。その上、桜ちゃんがいたから、一人の大人として歯を食いしばって最後まで耐えようと頑張れた。
  時に長く、時に短く。今の俺にとっては永遠にも等しかった時間が唐突に終わる。
  それが意味する事実。バーサーカーの消滅だ。
  セイバーに負けて殺されて消えたか。
  相打ちになって共に消えたか。
  セイバーに勝って心残りがなくなって自害したか。
  マスターとしてサーヴァントと感覚を共有すれば何が起こったか判るんだろうが、生憎、魔力を送るのに精一杯だった俺には確かめる余裕はなかった。
  ただ、俺はセイバーが勝とうがバーサーカーが勝とうが、どっちでもいいと思ってる。バーサーカーのマスターとしてあいつには勝って欲しいと思っているのは確かなんだが、もう俺が勝敗を心配する段階は通り過ぎてる。
  俺は桜ちゃんの力を借りなければマスターとしての態勢すら整えられない半人前以下の魔術師見習い。魔剣士と名乗れるほど技量も無いから、バーサーカーと一緒にセイバーを相手にすれば確実に足手まといになる。
  マスターとしてバーサーカーに魔力を送るしか出来る事は無い。それが未熟な俺に出来る精一杯。
  後はお前の好きにしろ、バーサーカー。それが令呪を使った時に感じた俺の嘘偽りのない気持ちだ。
  贈る魔力と令呪の後押しであいつにはもう制限は無くなってる。決着をつけるのはバーサーカー自身、そこに俺の意思が入り込む余地は無い。
 狂化の属性付加があったからバーサーカーになってしまった湖の騎士サー・ランスロットを思いながら、夢の中で見た、あいつの心残りが消えていればいいなと思った。
  どんな結果であれ、もうバーサーカーはいない。それは覆しようのない事実。俺の手に一画だけ残った最後の令呪も時間が経てば消えてしまう。
  俺自身、どんな結果でも受け入れられるように感情を排して観念していられるのに驚いている。
  多分、極大の気持ち悪さを感じた後でこんなにも心穏やかでいられてたのは、遠坂の件で決着をついたせいだ。
  俺にとっての聖杯戦争は聖杯を求める為の戦いじゃない。俺自身の心にケリをつけて桜ちゃんを幸せにするための一つの方法だ。
  時臣と戦い。葵さんの気持ちを知り。桜ちゃんを守りたいと思った時。もう俺にとっての聖杯戦争は終わった。
  だからだろうか? こんな風に戦場に身を置きながら、一歩引いた感覚で冷静に物事を考えられるようになれるのは―――。
  バーサーカーが消えて俺はマスターとしての権利を失った。けれど、聖杯戦争そのものが終わった訳ではなく、むしろ戦況は時間が経つごとに激化していく。
  戦力としてのバーサーカーはもうなく、俺自身が戦いにはせ参じたところでサーヴァントを相手にして勝てる訳がない。アサシンの一人を相手にして何とか勝てたが、あれは分化して弱体化してたからこその勝利であって、まともにやれば俺は絶対にサーバントには叶わない。
  だけど桜ちゃんの為にも可及的速やかに聖杯戦争は終結させるべきだ。
  その為にどうすればいいか? 俺に出来る事なんて何も無く、ゴゴに任せるしかない。
  「・・・・・・・・・役に立てないな、俺は」
  「雁夜おじさん?」
  「ん、ああ・・・。何でもないよ、桜ちゃん。あっちの決着がついて、これ以上魔力をもらわなくてよくなったんだ」
  遠坂時臣には何とか勝ったが、他の強大な敵を相手にすると途端に役立たずに変貌する。自分の圧倒的な力のなさに絶望していると、それを桜ちゃんに感づかれそうになる。
  大人の矜持として子供に格好悪いところは見せられない。別の言葉でごまかすが、桜ちゃんに言った事も間違ってなかった。
  もう桜ちゃんから魔力をもらわなくていいんだ。そう思うと、ほんの少しだけほほが緩むけど、握ったままの桜ちゃんの手は握りしめたままだった。
  ほんの少し前までティナの手を握っていたもう片方の手を動かして、桜ちゃんの頭を撫でる。
  「桜ちゃん・・・。俺とバーサーカーに協力してくれて、ありがとう」
  突然、頭に伸ばされた手に桜ちゃんが身構えるように一瞬目をつむる。
  マスターだった俺ですらバーサーカーと『相対』した回数は数えられる程度。もしかしたら召喚した当初の一度限りかもしれない。接点が限りなくゼロに近かったが、間違いなくあいつは俺に召喚された間桐の仲間だった。
  そんなバーサーカーが消滅したことを桜ちゃんはどう感じてるんだろうか? 俺は桜ちゃんの頭を撫でながら不意にそんな事を考えた。
  ゆっくりと見開かれる目を見つめ返しながら、サーヴァント敗退によってマスターがどうなるかに思考を移す。
  これが始まりの御三家が作り出した本来の聖杯戦争だったなら、敗退したマスターは事態が収束するまで安全な場所に避難しておくのが通例だ。
  だが、そもそもこういう場合に役目を発揮する筈の監督役は聖杯戦争が始まる前から遠坂と密約を交わして、謀略と策略にどっぷり身を浸して全く中立じゃない。加えて、聖堂教会が総力を結集したところで、ゴゴに勝てるとは思えない。
  欠片とはいえゴゴの力を持つ敵がいるんだから、向こうが力任せに動けばこの冬木を更地にして住人全員皆殺しだって不可能じゃない。何しろ監督役どころか魔術師がどうこう出来る範囲の外にいるんだからな。
  今、監督役や聖堂教会は当てになど出来る筈がない。当然、俺自身と接点なんて全くない魔術教会についても同様だ。
  この冬木の中で、俺と桜ちゃんの味方だとはっきり言えるのはゴゴだけだ。もちろん変身しているゴゴも含めてなんだが―――。考える事は違っても、結論は結局そこに落ち着いてしまう。
  ゴゴに助けてもらうしかない。
  「二人の世界に入っとる所を悪いんじゃが。話を続けるゾイ」
  すぐ近くから声がして、桜ちゃんから視線を外してそっちを見ると思考の渦中にいたゴゴが立っている。
  ものまね士の姿を見た瞬間、俺の頭の中にこれまでゴゴが話してくれた内容が溢れ、混ざり、砕け、統合して、意味ある言葉になって理解へと繋がっていく。
  令呪を使ってバーサーカーの好きにさせた後。何とか会話を出来てた時もあったが、それはバーサーカーがふっとばされて魔力消耗が抑えられてた時に限る。バーサーカーが戦ってる最中は会話する余裕なんてほとんどなく、ただ一方的にゴゴから聞かされる話を言葉として聞いてるだけだった。
  聞こえた言葉は断片的だったが、一つ一つをまとめてその間を補完すれば意味ある言葉になってゆく。
  このままだと冬木が滅ぶ―――。確か、その言葉から話は始まった。
  ゴゴが話してくれた内容によると、今の冬木市には聖杯の器が二つ存在して、作られる聖杯もまた二つ存在する。
  一つは言峰綺礼の願いを叶える為に費やされ、聖杯が持つ機能『願望機』の役目を持つ聖杯。
  もう一つは別の用途である『悪』をばら撒く為の聖杯。そっちはセイバーのマスター、衛宮切嗣を依り代にして冬木の住人を殺戮して回ってるとか。
  どっちの聖杯も敵の手にある。それはどうでもいいんだが、衛宮切嗣とか言うセイバーのマスターが冬木に死をまき散らしてるのは止めなければならないと思った。
  最初に聞いた時はバーサーカーへの魔力供給で手いっぱいだったから驚く暇もなかったが、今、思い返してみると一般人にとって最悪の状況が起こってる。
  聖杯戦争のマスターは誰もが魔術師であり、神秘は秘匿されるべきだと心の中に刻まれている。
  今のセイバーのマスターにはその楔がない。タガが外れて『悪』として何でもかんでも好き放題にやってる。巻き込まれて殺される方にとってはとてつもなく迷惑な話だ。
  ただ、どうしてそんな状態になったのか細かい部分はゴゴにも判らず、ケフカ・パラッツォが何やら暗躍して色々仕出かしたせいでこんな状況に陥ったらしい。さすがのゴゴでもケフカとなった後の自分の事までは理解しようがなかったようだ。
 話はそれだけに終わらず、衛宮切嗣は自分のサーヴァントの持ち物であり、セイバーのもう一つの宝具『全て遠き理想郷アヴァロン』の体内に宿しているらしい。
  その宝具は鞘であり、持ち主のあらゆる傷を癒して災いを退ける力を持つを言われている。
  アーサー王伝説を知るに当たって魔術師マーリンが説いた鞘の重要性。剣と対をなし、時に剣を封じ、律するための力。そんなものを今の衛宮切嗣は持ってるのか。
  聖杯から供給される無限の魔力。
  鞘の宝具によって手に入れた死なぬ体。
  人間の理性を失い、思考から解き放たれてひたすら死を振りまく『悪』。
  ゴゴがよると、衛宮切嗣という男の更に厄介なの点は、冬木の至る所で行われている戦いのどこにも近づかないようにしている事だとか。
  戦場へと近づけば、殺戮に邪魔が入ると直感的に理解しているらしく。どのマスターもサーヴァントもいない方角へと移動して、今は海の方に向けて進んでいるらしい。
  しかも他のサーヴァントは衛宮切嗣を追える状況になく、唯一動けるのはここに集まってる俺達だけだと―――。
  「とまあそんな訳じゃゾイ」
  バーサーカーが戦っている間に聞かされた言葉、それに今聞かされた言葉が融合して状況理解に変化した。もう一つの聖杯を持つ言峰綺礼の事は気がかりだが、まず片づける問題は衛宮切嗣の方だ。
  ここまで聞いて俺は察した。ゴゴは何かをして、衛宮切嗣を止めようとしている。その役目にはゴゴだけじゃなくて俺自身も入ってる。
  そうでなければわざわざ悠長に説明する理由が見つからない。俺達を置いてたった一人で衛宮切嗣を倒しに行けばそれで終わる、むしろそっちの方が手っ取り早い。
  説明するならするなりの理由がゴゴにはある。それが一年で俺が知ったものまね士ゴゴだ。
  そう―――かつてゴゴは言った。
  聖杯戦争を破壊する、と。
  跡形も無く消し去ろう、と。
  聞いた時はゴゴの力をほとんど知らなかったから驚くしかなかったが、今はゴゴならそれを出来ると確信している。
  もし、その為に俺の力が必要だったら、バーサーカーのマスターですら無くなった間桐雁夜でしかない俺に協力出来る事があるのなら。俺は何を犠牲にしても協力しよう。
  桜ちゃんの為に―――。桜ちゃんを守りたいと誓った俺自身の為に―――。バーサーカーが消えた今、それ位しか俺に出来る事は無い。
  ゴゴ。お前は俺に何を求めてるんだ? 浮かんだ疑問と一緒に言葉が口から出てきた。
  「それで? その先は何だ? 俺に言うことがあるんだろ?」
  桜ちゃんに手助けてしてもらって魔力供給にかかりっきり。その時は全く出来なかった応対が出来るようになったが、失敗を隠すような気持ちで口調が少し荒くなる。
  「俺に何をさせるつもりなんだ?」
  「正確にはお主『達』じゃな」
  「・・・・・・何? たち――?」
  「そうじゃゾイ」
  息も段々と落ち着いてきて、静まる思考がようやく現実に追い付いた。それでも、ゴゴが言った言葉を咄嗟に理解できない自分がいる。
  お主達・・・。
  今、ここで、そう言える相手は俺以外に一人しかいない。
  「おい・・・。桜ちゃんに何をさせるつもりだ?」
  気がつけば、俺の口はより荒さを超えて怒りすら含ませて喋っていた。
  敵に問うような―――。俺自身の意識もそんな風にゴゴを敵と見定めながら喋っている気がする。
  勝つとか負けるとかは度外視して。ただ、敵を見る目と敵へぶつける言葉でゴゴに相対した。
  「今のワシはお主らに問うだけじゃ、やるか? やらぬか? 決めるのはお主ら自身じゃゾイ。どんな結果を選ぼうとワシは構わん」
  「何のことだ? はっきり言え」
  「ワシ等はワシ等の領分で『英霊』と決着をつける。だからお主等にはお主等で『人間』に決着をつけてもらいたい。そういう話じゃゾイ」
  そしてゴゴは―――。
  「衛宮切嗣は聖杯と宝具の力を味方に付けておる。ならば相手をするにもそれ相応の力が必要じゃ」
  その問いかけを口にした。


  「三闘神が二柱、『魔神』と『女神』――。雁夜が『魔神』を、桜ちゃんは『女神』の力を宿し、衛宮切嗣を倒してきてくれんかの?」


  「・・・・・・・・・」
  ゴゴの言葉は突拍子もない場合が多く、言われたことを理解するまでに時間を必要とする場合は数多くあった。
  この世界とは違う別の世界から訪れたゴゴとずっとこの世界で生きてきた俺。その差異に加えて、魔術師の家系に生まれただけで限りなく一般人に近い俺と神そのものと言ってもいいゴゴとの感性があまりにも違い過ぎた。
  すぐに返事を出来ないような事を言われ、その度に理解しようと努めてきた。おかげで、大抵の事には驚かなくなったし、俺自身の死すら受け止められるようになった。ただし、『死』についてはゴゴが蘇らせてくれるからこそなんだが。
  唐突な言葉に放心して、理解する為に考えて、意味を理解して驚いて、自分を落ち着かせる。そんなサイクルを何度も何度も何度も繰り返してきて、ようやく慣れた。
  それでも、今聞いた言葉はこれまで聞かされた言葉の中で最も俺を茫然とさせた。
  言葉の意味は判る。ゴゴは聖杯戦争の決着をつける為に、自分の分身であり敵になったケフカを倒しに行き、そのついでに召喚された全てのサーヴァントを倒しに行く。だから、その間に俺達『人間』が同じ『人間』を相手にしろ。ゴゴはそう言ってる。
  その部分はすぐ理解できたんだが、その前に語られた内容が理解できなかった。
  俺が? 桜ちゃんが? 神の力を宿す?
  「なぁに、魔石の力に触れ続けたお主等ならそう時間をおかずに慣れるじゃろう。ほんの少しの間、三闘神の力を借りて敵をやっつけてほしい。それだけじゃゾイ」
  ゴゴが続けて言ってたが、俺は殆ど聞いていなかった。
  三闘神の話はゴゴが間桐邸に住むようになってから少しして聞いたことがある。だからその人間の分を超えた力の大きさもよく判る。
  三闘神を実際に見たことは無いが、魔石の力とゴゴ自身の力に接してれば嫌でも判る。
  ゴゴの強大な力が手に入れば時臣を簡単に倒せるだろうと思った事はあった。ゴゴに鍛えてもらうのではなく、ゴゴの力を自分のモノにしたいと何度も願った。でも今はそんな事考えちゃいない。
  力の規模が違いすぎて人間にはコントロール出来やしない。一年接しておきながら、今もゴゴの力の底が見えない。
  太陽を肉眼で見たら目が焼ける。
  漆黒の闇の中を人の目は見通せない。
  絶対に理解できないと強制的に納得させられる力の持ち主。それがゴゴ、そして神と呼ばれていた存在だ。
  考えて考えて考えて、いつものサイクルを通過して、ようやく俺の頭は落ち着きを取り戻す。流れた時間は短いが、フル回転した俺の頭は考え過ぎて熱が出そうだった。
  「確か・・・、三闘神は互いに力を抑えあって自分たちを封印したんだったな」
  「うむ。正しいゾイ」
  「三柱のバランスが崩れたら、力が暴走するんだったな?」
  「そのおかげで世界が一つ崩壊しかけたゾイ。ワシは眠りから目覚められて幸運じゃったがのう」
  ゴゴが以前に聞いた話を繰り返すて、俺が思っていた通りの言葉を返してくる。
  だから俺はこう言うしかない。
  「そんな力をいきなり俺達に渡す? 厄介で面倒で大変ではた迷惑な事が起こるに決まってるだろうが!! 何、考えてるんだお前は!!」
  「なぁに、お主等なら出来る。ワシが保証するゾイ」
  堂々と、しかも心なし楽しげに言ってのけるゴゴからは嘘を言う気配は全く感じられず、本気でそう思ってるとしか見えない。
  事実ゴゴはこれまで言った事についてはそれがどれだけ無理難題だろうと実現してきた。
  俺一人だったら絶対に出来ない事。この世界の魔術師でも絶対に出来ない事。怪物であっても出来ない事。それらを口にして『やる』と一度言ったらそれを現実にさせてきた。
  正真正銘の有言実行の体現者。それも、俺が知るものまね士ゴゴの一面だ。
  そのゴゴが言ってるなら、本当に俺と桜ちゃんが神の力を宿すのも不可能じゃないんだろう。
  「いや―――。それでもやっぱり駄目だ。やるなら俺一人でやる」
  堂々と言っておきながら、間髪入れずに『無理だ!』と自分自身に返す言葉が頭の中で鳴り響く。
  勢いづいて魔剣ラグナロクを引き抜こうとアジャスタケースに手を当てるが、人の目があるので引き抜きはしない。それに剣を抜いて今から衛宮切嗣を追ったところで、勝てる算段など全くないと俺自身が判ってる。
  桜ちゃんのお蔭で疲労も魔力消耗も何とか抑えられて余力はあるが、俺が持つ全ての力を注ぎ込んでも、聖杯の力と宝具を使う人間に勝てるとは思えない。万に一つもないって言葉はこんな時に使うんだろう。
  それでもゴゴの言葉に頷く訳にはいかなかった。何故なら、俺だけじゃなく、ゴゴは桜ちゃんも戦場へと送り出そうとしているからだ。
  何だかこれまで接してきたゴゴらしからぬ決断だと思うが、絶対に許してはならない事象を否定するばかりでその疑問を考える余裕はない。
  とにかく駄目だ。絶対に駄目だ。
  その思いが先走る。冷静さがどこか遠くに飛んでいく。
  駄目だ、駄目だ、駄目だ、駄目だ、駄目だ、駄目だ、駄目だ、駄目だ、駄目だ。


  「わたし・・・、やる――」


  「はぁっ!?」
  だからその言葉が他の誰でもない桜ちゃんの口から出た時。俺はただただ驚きを口にする以外に何も出来なかった。
  言葉を失って、開いた口は塞がらず、ぼんやりとただ桜ちゃんの方を見る。
  「うむ。躊躇わず先に進むのは子供の特権じゃ。雁夜よりやる気がありよる、信じておったゾイ」
  「・・・・・・やる」
  俺の目と耳はどうかしたんだろうか?
  さっきまで俺に頭を撫でられて身構えていた筈の桜ちゃんはそこにはいなくて、俺に寄り添いながらもしっかりとゴゴの目を見上げて肯定する桜ちゃんがそこにいる。
  ゴゴの言葉は聞こえているが聞こえてない。けれど桜ちゃんが小さく頷きながら呟いた声はしっかりと聞こえた。
  やる、と。
  そう言ったのを聞いた。聞こえた。確かにそう聞いた。
  「ちょ、ちょ、ちょ。待て、ストップ、止まって。巻き戻し!!」
  普段なら、こんな事は絶対に言わない。自分の事ながら、錯乱してるのがよく判る。
  俺は深い深呼吸を一回して、それから桜ちゃんに向けて言う。
  「あのー、桜ちゃん?」
  「・・・はい」
  「ゴゴの言った事をやるとどうなるか・・・判って――る?」
  桜ちゃんは小さく頷いた。
  「確実に暴走するだろう力を使って、死ぬかもしれない危険な場所に行くことになるんだよ? そこの所、判ってる?」
  「ワシの見立てには間違いはない! お主ら二人なら『魔神』と『女神』に上手く同調するゾイ」
  桜ちゃんがまた頷いた。
  横から聞こえるゴゴの言葉はとりあえず無視する。
  「もう一度言うけど死ぬかもしれないんだよ? 死ななくてもほぼ痛い目に合うんだよ?」
  やっぱり頷いた。
  「じゃあ、なんで『やる』なんて事になるの?」
  間桐雁夜が被ってた筈の冷静さとか、体面とか、大人のプライドとか、心構えとか、我慢強さとか、貫録とか。そう言ったもろもろの類がすべて吹き飛んで言葉が幼くなってゆく。
  これじゃあ俺の方が駄々をこねる子供じゃないか。そうやって自己分析できる余裕は戻っても、やっぱり桜ちゃんが、やる、と言い出した不可解さがまるで判らない。
  「どうして・・・?」
  口から出てくるのはただ答えを求める問いかけだ。
  「だって・・・・・・」
  「だって?」
  「・・・だって。わたしも、いっしょに――、戦いたいって・・・。思ったから・・・・・・」
  「――」
  途切れ途切れに囁かれた言葉を聞いて、俺は絶句した。
  「わたし、戦う・・・。雁夜おじさんと、いっしょに・・・」
  無言のまま、桜ちゃんが言った内容を繰り返して、繰り返して、繰り返して、ようやく理解する。
  一緒に戦う。
  何度か繰り返して一言にまとめ終えたところで、俺は重要な事に気が付いた。
  桜ちゃんが震えている。
  戦いが怖くない筈がない。傷つくのが恐ろしくない筈がない。死ぬのは嫌に決まってる。桜ちゃんは小刻みに振動を繰り返して、体の奥底から湧き出る恐怖を懸命に抑えようとしているんだろう。
  セイバーとバーサーカーの殺し合いが目の前で起こった時にも無かった桜ちゃんの震え。だけど、桜ちゃんの大きな目は体の震えとは裏腹に、まっすぐ俺を見つめていた。
  同じ場所に居ながら、一方的に守られるのを由としない。自分にその手段があるなら、どれだけ危険だろうと行う。家族だから、仲間だから、守られたくて守りたいから、一緒に居たい。
  もう置いて行かれたくない。もう離れたくない。だから―――戦う。桜ちゃんの目がそう言ってるように見えた。
  その目を見て意思の硬さを感じ取ってしまった瞬間、俺の口から言葉が出る。
  「・・・・・・・・・判った」
  それは言った俺自身が最も驚いてる内容だった。
  子供は大人が守らなきゃいけない。単純にそう思っても、俺は桜ちゃんの言葉を肯定するしかない。
  遠坂の思惑に振り回され、間桐の欲望で地獄を見た桜ちゃん。そんな桜ちゃんが決めたことを俺が否定できる訳がない。
  否定すれば、俺は遠坂時臣と間桐臓硯の同類に成り下がる。
  説得できる時間があれば大人として言葉で説得できたかもしれないけど、今は力で押さえつける以外に桜ちゃんを諦めさせる方法が思いつけない。そんな事、絶対に、出来ない。
  「一緒に――戦おう・・・。桜ちゃん・・・」
  今の俺に許されるのは桜ちゃんの願いを叶える道を一緒に進むだけだ。
  その結果、地獄に落ちるなら、むしろ望むところ。
  「・・・・・・うん」
  俺が承諾すると、桜ちゃんは少し間を置いてから、また小さく頷いた。
  桜ちゃんを危険な目に合わせるのはほんの少しだけ―――、そう言った口で更に危険な場所に連れて行くのを了承するんだからな。我ながら主体性の無さに自分で自分を殺したくなる。
  大人として失格だと思った。
  認めてしまうなら最初から否定するなと思った。
  時臣や葵さん、むしろ間桐臓硯よりも悪質だと思った。
  それでも、これは俺が背負った間桐の罪であり業だ。俺の意思よりも大事なのは桜ちゃんの意思、それは変えてはいけない。
  それが俺の罪滅ぼしだから・・・。
  「さて、二人とも納得したようじゃし、所定の場所に送るとするかの」
  桜ちゃんの震えが少し収まり、俺が嫌々ながらも納得し終えた頃。会話から弾き飛ばされていたゴゴの言葉が戻ってきた。
  見れば手袋に覆われた左右の手をそれぞれ俺達に向けて、聞こえた声に合わせて考えれば、何か仕出かそうとしてるのが見ただけで判る。
  「ゴゴッ!!」
  「なんじゃ?」
  俺は慌ててそれを止める。まだ聞きたい事は沢山あった。
  「さっきも言ったけど三闘神の力は三方でバランスを取らないと暴走するんだよな?」
  ゴゴは桜ちゃんの物真似をするように、小さく頷いて肯定する。
  いや、さっきの桜ちゃんの動きを物真似してるんだろう。
  「『魔神』は俺、桜ちゃんが『女神』だったら・・・。最後の『鬼神』はどうするんだ? お前がやるのか?」
  「言ったじゃろう? ワシ等はワシ等の決着をつける、とな。『人間』の相手は同じ『人間』に任せるゾイ」
  「最後の一人がいるって事か・・・」
  ゴゴはもう一度小さく頷いた。
  「お主等もよく・・・は知らんが、赤の他人という訳でもない男じゃ」
  「誰だ?」
  「蟲蔵でちと痛めつけた士郎じゃよ。あやつも僅かばかりでもワシの力を受けて『慣れ』が出ておる。『鬼神』と上手く・・・は無理でも共生できそうじゃな」
  「あの子供がっ!?」
  「名残惜しいがそろそろ時間じゃ。しっかりと役目を果たすゾイ」
  「待っ――」


  「デジョン」


  会話の一部のようであり、決して言葉なんかではない呪文。ゴゴの魔法が唐突に放たれる。
  ゴゴがこの世界へ来る時にも使った別次元への穴を開ける効果が発動し。待て、と言おうとした俺も、決心を固める桜ちゃんも、一緒にその中に呑みこまれた。
  この先に『人間』の戦いが待ってる。俺は掴んだままだったから一緒に呑みこまれたアジャスタケースの重みを確かめた。



[31538] 第44話 『ウェイバー・ベルベットは真実を知り、ギルガメッシュはアーチャーと相対する』
Name: マンガ男◆da666e53 ID:bbf25c32
Date: 2014/02/16 10:34
  第44話 『ウェイバー・ベルベットは真実を知り、ギルガメッシュはアーチャーと相対する』



  ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆



  Side - ゴゴ





  本当のティナだったならこんな言葉は言わないだろう―――。


  「こんな茶番は・・・もう終わりにするべきなの」


  けれど間違いなくトランス状態で空を舞うティナの口からその言葉は放たれた。
  そして全てが終焉に向けて進んでゆく。



  ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆



  Side - ケフカ・パラッツォ





  「けっ!」
  叫ぶケフカの足元にはうつ伏せになって横たわる言峰綺礼がいた。
  道路には倒れた聖杯とそこから溢れる漆黒の泥が巨大な水たまりを形成し、それは時間経過と共に更に広がっていって周囲の全てを焼き尽くしていく。
  周囲を破壊してゆく泥の中で言峰綺礼はピクリとも動かずに沈んでいる。その隣に立ち、ケフカは叫んだ。
  「カーッ! シンジラレナーイ!!」
  現状を一言で説明するならば端的に纏められる言葉がある。
  言峰綺礼が死んでいる。
  その過程に至るまではあっという間の出来事であった。
  言峰綺礼はケフカの聖杯を握り、中を満たしていた聖杯の泥を口にした。聖杯の泥に口をつけた瞬間、言峰綺礼の体は硬直し、体勢を維持する力すら無くした死体が一つ地面に横たわった。聖杯は地面に落ち、泥は溢れて世界を壊し始める。
  その程度の説明で起こった事象の全ては説明が出来てしまう。
  傍目からには言峰綺礼の身に何が起こったかまるで判らないが、聖杯を口にして粘膜接触を起こした瞬間、聖杯に蓄えられた全ての魔力を引き替えにして聖杯は言峰綺礼の願いを叶えに行ったのだろう。
  英霊の『座』へと繋がる空間の孔だけではなく、言峰綺礼が得るために必要な知識を得るために、ここではない何処かへと精神の孔を穿った。
  その通り道から言峰綺礼は旅立ち、そして求める答えを頭の中に刻み込まれたのだ。
  今の人類が明かしていない宇宙創成にまつわるあらゆる事象を微に入り細にわたって教え込まれた筈。
  人が数十年かけて蓄積する知識を一瞬で送り込まれ、それを何度も何度も何度も何度も行った筈。
  人が一生で蓄えられる知識の総量を軽く上回っている。
  倒れる言峰綺礼の後頭部を見ただけでは判らないが、おそらく言峰綺礼の脳は圧倒的な情報量を受け止めて、一瞬で焼かれてしまったのだろう。
  ケフカは倒れる言峰綺礼の肩を掴み、力任せに半回転させる。
  「よっこいせっ、と」
  上半身だけをひねって仰向けにさせると、口と鼻と目から大量の血を流して黒い泥に呑ませていく言峰綺礼の顔が合った。
  見開かれた眼球は脳が焼かれた衝撃を裏付けるように血で紅く染まり。顔は内側から爆発したように少し膨張して、言峰綺礼の顔を別の物へと変形させている。
  揺さぶっても応じる気配は無く、やはり死体が一つあるだけだ。
  そんな変わり果てた言峰綺礼を見ながらケフカは叫びを消して小さく呟く。
  「・・・・・・楽しく死にやがって。羨ましいじゃありませんか」
  変形した顔ながらも口元に浮かぶ笑みは死を持っても消せなかった。
  言峰綺礼は笑って逝った。
  『知識』とはこの世界だけに留まらず、かつてケフカがいた世界、違う次元の向こう側、英霊の座、その他にも無限に広がり続け、言峰綺礼が触れられたのはその『知識』の総量の一割どころか一パーセントも無いだろう。
  それでも求める場所にたどり着けたのではないだろうか?
  一瞬すら無い刹那の時間でも、言峰綺礼は『知識』に触れて答えを得た。その答えに満足して、脳が焼き切れる僅かな時間に『歓喜』を口で現した。
  死は聖杯のもたらす破壊の果てに訪れて言峰綺礼を殺した。それでも彼は満足して逝った。その在り方にケフカは満足と不満の両方を抱いてしまう。
  もし出会い方が違っていれば、トモダチになれたかもしれない似た者同士。聖杯戦争という切迫した状況でなければ、お茶をしながら殺戮談議か謀殺談議にでも花を咲かせるのも、あり得た未来だったかもしれない。
  だがそれはもう叶わない。言峰綺礼は死んでしまったから―――。
  「ふん。そろそろ本体と合流して僕ちんも殺し合いに参加しましょう」
  ケフカは言峰綺礼を起こしていた手を離し、ビチャッ! と泥の上に死体を落とす。
  そのままゆっくりと立ち上がり、もう一度言峰綺礼の死体を見つめた。
  数秒ほどジッと見守るだけで何もしなかったが、ケフカは心残りを振り切るように顔を上げて周囲を見渡す。衛宮切嗣のお蔭で周囲に人気は無く、町は夜の静けさ以上にゴーストタウンに似た様相を作り出していた。
  道路からは見えないが、おそらくここから逃げたか死角に潜んで嵐が過ぎ去るのを待っている者が大勢いる。だからケフカは何も気にせず、道路どころか周辺の建造物すらも呑み込んでいく聖杯の泥に向けて語りかけた。
  「おほほほ。お渡ししたこの力、全て返してくださいな」
  ケフカがそう言うと、ただひたすらに広がり続ける黒い塊が動きを止め、ゆらゆらと揺れ始める。
  水たまりが風に呷られた様子に少し似ていたが、普通に起こる自然現象と決定的に違うのは、その揺れが立っているケフカに向けて全方位から起こっている点だ。
  波紋が広がるのではなく、ケフカが立つ一点に向けて泥が集まっていく。加えて、聖杯の泥はケフカの体に纏わりつくのではなく、立っているケフカの足元から消失していく。
  よく見れば、ケフカの体に集まっていく聖杯の泥が足から呑まれていくのが判る。
  広がる速度と同じくらいの速さで聖杯の泥がケフカに吸収されていった。
  バキュームカーを思わせる圧倒的な吸引力。一分とかからず、地面に広がっていた全ての泥はケフカへと呑まれてしまい。それどころか泥を出し続けていた聖杯もまた泥と一緒にケフカの元に吸い寄せられ、足に当たると同時に黄金の粒子となって消えてしまう。
  ケフカのすぐ近くに転がる言峰綺礼の死体が一つ。もう少し離れた場所には衛宮切嗣が作った死体が幾つか。ほんのわずかな時間だったが、聖杯の泥によって焼き尽くされ、破壊され、砕かれ、呑まれた冬木市の姿もある。
  凄惨な聖杯戦争の結果だけが残っていた。
  泥が広がったのはケフカの目に見える範囲だけなので、おそらく最長でも被害は半径百メートルほどでしかない。それでも局所的な地獄が形成されている。
  吸い込んだ泥の代わりを努めるように、死体から紅い血がじわじわと流れ出し、地獄に朱の彩りを与えるのが見える。
  ケフカはもう一度だけ言峰綺礼を見下ろして。それから衛宮切嗣が走り去った方角を見て呟いた。
  「衛宮切嗣。貴様のちっぽけな正義なんぞ私が手を下す必要も無い。少し休ませてもらいなさい。それも、ずーっと、長ーくだ! ヒヒヒヒヒヒヒヒッ!」
  その言葉を最後にして、言峰綺礼を導いたケフカ・パラッツォはその場所から消える。
  もうそこに動く者は誰一人として存在しなかった。



  ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆



  Side - ウェイバー・ベルベット





  魔石『アレクサンダー』、二回目の攻撃が全く効かなかった所で僕は自前の魔力を攻撃に回すのを諦めた。
  世界が全て炎になったんじゃないかって見えた時は僕にも出来る事があるって思えたけど、敵の強さは僕の予想を大きく上回る怪物みたいで、僕が入り込む余地なんて全くなかった。
  それに何度か魔石を使ったから判ってきたんだけど、この道具は吸い込む魔力が強ければより強く効果を発揮する気がする。
  だから僕が使ってもあんまり効果は無い。認めたくないけど、魔術師としての僕の力量が足を引っ張ってるんだ。もし最高位の魔術師が魔石『アレクサンダー』を使ったら、町どころか国一つ滅ぼすぐらいの天変地異になる。そう思えた。
  それでも僕みたいな魔術師が使ってもあれだけの威力が出るのはすごいと思う。やっぱり魔石はとんでもない。
  「・・・・・・」
  だから僕はライダーに送る分の魔力だけに意識を割いて、魔石を持ったままでいると魔力を吸われそうだからポケットの中にしまって御者台にしがみついた。ただ持ってるだけなら綺麗な石だって判ってるけどね。
  右手でしっかり柵を握って、左手はサンの支えにした。そうやって高い所から戦場の様子を見下ろしながら、僕にでも出来る観察をひたすら続ける。
  地上にある戦場。
  隙あれば未遠川でみた巨大な海魔を呼び出そうとするキャスター。
  竜の咆哮。
  人知を超える巨大な敵。
  独立サーヴァント達の死角をついて移動するアサシン達。
  大抵の場合、誰かと一対一で戦ってるランサー。時々、一対多になる。
  七騎しか居なかった筈の聖杯戦争の中に入ってきた山ほどの英霊達。
  あちこちで起こる乱戦。
  空にある戦場。
  舞って対峙する二匹の竜。片方の背中には人影。
  遥か上空まで昇って見下ろしてくるケフカ・パラッツォ。
  機を伺う睨み合い。
  そして僕ら。
  大きなことから小さなことまで何一つ見逃さない様に僕はありとあらゆる場所に視線を送り続ける。その間に頭の中では『ライダーと勝利する為にはどうすればいいのか?』を考え続けて、答えを求める為にせわしなく動く。
  そうやって考えながら、魔石に取られた分の魔力が自分の中から消えてるのを確認した時―――僕はおかしくて大事なことに気が付いた。
  敵陣営も味方陣営も傷つくたびに回復してる奇妙な点はあるんだけど、それじゃない。そんな事、戦ってる当人たちが一番よく判ってる。回復させてる奴を真っ先に倒さなきゃいけないなんて僕が改めて気付く必要はない。
  おかしなのは僕、そしてライダーの事だ。
  少し考えてみれば固有結界なんて大魔術を発動させるだけで膨大な魔力を使うって判る。
 もしこの巨大な固有結界を支えているのが、王の軍勢アイオニオン・ヘタイロイの全員だったとしても。最初に号令を発して呼び寄せる切っ掛けを作るのはライダーなんだ。その時に消耗する魔力は途方も無く、今、僕が魔石を二回使って魔力を吸われたように、発動に見合うだけの魔力量が僕の魔術回路から持っていかれなきゃおかしい。
  最初に大勢のアサシン達を倒した時に気付くべきだった、ライダーはボクが負担する分の魔力まで自前の貯蔵魔力だけで賄ってるって。
 それに気付いてこっそりライダーを見ると、心なしかライダーの存在感がいつもより希薄になってる気がした。正規のマスターとサーヴァントの繋がりじゃなくて、魔力炉としての契約だけになったけど、発動するだけで実体化すら困難になるほど魔力を消耗してるのが判る。『王の軍勢アイオニオン・ヘタイロイ』を二回、『遥かなる蹂躙制覇ヴィア・エクスプグナティオ』は僕から魔力を使ったとしても、消滅の危険に陥るぐらいに消耗するのは仕方ない。
  ライダーは何でそんな事をしてるの? すぐに答えは出せなかった。
  でも、今の僕に出来る事はライダーが思いっきり戦える環境を用意することなのは判る。失ったライダーの魔力をマスターとして肩代わりする。
  そう、しなきゃいけない。そうじゃないと僕がここにいる意味はない。
  「お」
  い、ライダー。と呼んで、消耗した分の魔力を持って行かせる意味の言葉を口にするつもりだったんだけど、ライダーだけじゃなくて他の全てにも意識を割いてる僕は言葉の途中で変なことが起こってるのに気が付けた。
  それは出そうとした言葉を咄嗟に止めてしまう程ありえない光景で―――。だけど必死に答えを出そうとしている僕は見間違えなくて。それでも理解不能なモノだった。
  「え・・・?」
  それは視界の隅にいた。腰にしがみ付いてくる暖かくも小さなモノ、僕が左手で御者台から落ちない様に支えてるモノ。サンの右手が僕から離れて、その手が短剣を握りしめてた。
  横からしがみついてくる体勢で、サンの左手は僕の背中の方に回って体を支えてる。必然、右手は僕の腹の前にあるんだけど、その右手に黒い短剣があった。
  僕は何が起こってるかまるで判らなかったけど、サンを抱えるように伸ばしていた左手を咄嗟に動かしてサンの右手首を取る。
  子供が刃物を持ったら危ない。
  何が起こってるの見極める為に止めなきゃいけない。
  ライダーに魔力を渡すのを邪魔する因子は取り除かなきゃいけない。
  色々な事を考えたみたいで、だけど、何も考えられずに頭の中が真っ白になる。多分、思いは言葉にはならず衝動止まりだと思う。
  それでも考えるのを止めちゃいけない。理解できない事だったとしても、理解する為にひたすら考え続けなきゃいけない。
  僕は起こってる事態を見て見て見て見て考え続ける。
  サンが右手は黒い短剣を持ってる、サンも僕もライダーもこんな荷物持ってなかった。これがどこから出てきたのか、いつ出てきたのか、答えは出せないけどサンの手が捕まえる僕の手を振り払おうとしてるのは判った。
  そして振り払うと手にした短剣をそのまま僕に突き刺すのが予想できた。
  もしセイバーやランサーみたいに、自分の武器の扱い方に慣れていたら、こうやって捕まえる前に刺されていたかもしれない。
  武器なんて初めて持つから、どうやって扱えばいいか判らない。そんなぎこちなさがサンに合ったから、僕の方が早くサンの手を捕まえられたんだと思う。
  握っただけで折れそうな小さくか弱い子供の手。比較対象をライダーにすると僕だってひ弱な部類に入るんだろうけど、そんな僕の力でもサンの手をそこに繋ぎ止められる力がある。
  子供のサン。出会ってから一度だって肉声を聞いたことのないサン。ずっと僕にしがみ付いて離れようとしないサン。そのサンがどうして僕を刺そうとしてるの?
  「来たか・・・」
  戸惑いに解決の糸口を差し出してきたのは顔を斜めに向けて、目の端で僕らの方を見てるライダーだった。
  ただ、その振り向きもすぐに前に戻されて、ライダーはもう敵がいる前を見てた。
  「余が言ったであろう? 『その娘の為を思うならばこの場で手放すべきだぞ』――とな」
  前を向いたままのライダーがそう言うのを合図にして、僕のすぐ近くからこれまで感じたことのない魔力を感じた。
  違う。肌を突き刺すみたいな魔力には覚えがある。人じゃ絶対に出せない濃密なそれと似たような魔力を僕は何度も感じてる。
  聖杯戦争にマスターとしてライダーと戦った時。そして今も・・・。地上で戦うサーヴァント達から感じるそれとよく似てる。特に乱戦の中を縦横無尽に走る黒い英霊達のそれと感じる魔力は似通ってた。
  僕は山ほどいる黒い英霊達―――、暗殺者たちに目を向けながら、アインツベルンの森で聖杯問答をした後に囲まれた時のことを思い出す。
  判った・・・。
  ライダーの言葉はそういう意味だったんだ・・・。
  戦いに危険は付き物。子供を連れて行けば、守りきれなくなる時がある。
  そして―――もし敵対したなら、ライダーかあるいは僕が手にかけなきゃいけなくなる。だから今の内に離れておけ―――。ライダーの『この場で手放すべき』って言葉は、そんな二重の意味を持ってたんだ。
  あの時は全く気付かなかったけど今なら判る・・・。
  「気づいてたんだな・・・、ライダー」
  サンがアサシンだったって。
  そう言う前にライダーから返事があった。
  「当たり前ではないか。余に限らずその小娘を見たマスターなりサーヴァントならほとんどが気付いておったわい」
  ライダーはそう言うけど、僕はサンから魔力を感じるまでサーヴァントと結びつける考えすら浮かばなかった。普通の人間とサーヴァントの区別すら出来てなかった。
  サンからはサーヴァント特有の圧迫感を全く感じなかったから判らなかった。ただの人間の女の子にしか見えなかった。そんな風に考えてすらいなかったから、僕がまだ正規のマスターだった時、他のサーヴァントのステータスを読み取る透視力を使おうなんて思いもしなかった。
  魔術師としての自分の未熟さ。人としての見る目のなさ。落ち込む材料が山ほど浮かんでくるけど、そんな事よりサンが僕を殺そうとしている事の方が重い。
  戦場のど真ん中にいるのに、僕の頭の中はサンの事ばっかりで埋め尽くされてく。
  自分の声だったけど、ライダーへの問いかけに力がなかったのが嫌でも判る。今の僕は死人みたいだ。
  「おっと!」
 ライダーが神威の車輪ゴルディアス・ホイールを操って右に急旋回すると、さっきまで戦車チャリオットがあった位置に黄色い光線が突き抜けた。
  地上にいる黄色の竜が撃ち出したみたいで、一瞬でも遅れてたら直撃して死んでたかもしれない。
  急に御者台の位置が動いて体勢が崩れる。だけどサンは僕から離れずにずっとしがみついたままだ。
  離れたくないから離れないんじゃなかった。離れたら殺せないからずっとそばにいた。
  裏切られた―――。そんな風に感じてるのかもしれないけど、僕自身、何を想ってるのか考えてるのかどうしたいのかよく判らないんだ。
  間違いだったって思えれば楽なんだけど、僕がほんの少しだけ抱いた期待を裏切って、サンは今も短剣で攻撃しようとし続けてる。それに、これまでなかったアサシン全員がつけてる白い髑髏の仮面がサンの頭の上にいきなり現れた。
  髑髏の仮面が現れるとより一層サーヴァントの魔力を感じる。
  仮面をつけてるんじゃなくて、頭の上に乗せてるだけなんだけど、ただの人間じゃなくてサーヴァントだって証拠ばっかりどんどん増えていく。
  認めるしかない。サンはアサシンなんだ。
  心のどこかでそうじゃなければいいって思ってたけど、現実は変わらないんだ。
  暗殺者の英霊、僕たちの敵だ。
  「・・・・・・・・・サン」
  「ぅ――」
  仮に名づけた名前を呼ぶと、声にならない吐息がサンの口から溢れた。返事じゃない、何も言わないのはもう変わってるから。
  黒い短剣を持った手を掴まれたまま、サンの顔が動いて僕を見上げてくる。
  そこで僕は見た。短剣を僕に突き刺そうとしてるんだけど、ものすごく嫌そうにしてるサンの顔を―――。
  もしかして抗ってる? この行動はサンの本意じゃない?
  そうじゃないかもしれないけど、僕はそう思いたかった。そう思えば、この不可解な状況を生み出してるのが何であるか説明できるから―――。
  令呪。僕が失ったサーヴァントに対する絶対命令権。
  サンは令呪の力で僕を殺すように命令されてる。僕はそう思いたい。
  でも、そうなると、サンの左手はどこにそんな力があるのかと疑う程に強力な力で僕にしがみ付いてきてるけど、黒塗りの短剣を持つ右手からはその力を感じない。僕が捕まえてその場に固定できてるのがその証拠だ。
  僕にしがみ付いてる力と同じだけの力を発揮すれば、僕が片手で抑え込むのは多分無理。小さい女の子に見えても、英霊の力にただの人間でしかない僕は対抗できない筈。
  何かがおかしい。
  このおかしさを作り出してるのはサンの反抗心か、命令したマスターに何かあったのか、それとも命令を受けるサン自身がサーヴァントとしておかしくてちゃんと命令を遂行できないのか。
  僕がライダーのマスターじゃなくなったから、マスターだって認識できてないのか。
  これもすぐに答えは出せない疑問だったから、とりあえず後回しにする。大事なのはこの場をどうするか、だ。早く解決して、ライダーに魔力を渡さなきゃいけない。
  考える。
  休まず考える。
  止まらず考える。
  頭の中はサンの事でいっぱいだけど、とにかく考える。
  サンを握る肉体の動きと切り離して頭でずっとずっと考える。
  そこで僕はある一つの結論にたどり着いた。自暴自棄の果てにたどり着いたって言われても納得できる、とんでもなく荒っぽい方法だったけど、僕にはこれが妙案に思えた。
  だから、やる―――。
  「ライダー」
  「ようやくその小娘のどうするか決めたか」
  「そうじゃない・・・。いや、そうなのかな? とにかく、あのリルムって子が乗ってる竜の所まで行け、その間に説明するからさ」
  「ふむ・・・」
  ライダーは僕の方を見ないでずっと前を見続けたけど、それでも考え込むような呟きは僕の聞き違いじゃない。
  僕の言葉をどう受け取ったのかは判らない。ライダーの顔が見ればもっとそれが判ったかもしれないけど、今もライダーは前を向いたままで僕の方は見てないから顔が見えなかった。
  返事はない。代わりにライダーは手綱を動かして、位置を動かし始める。
 戦いの最中、空を駆ける神威の車輪ゴルディアス・ホイールはこの戦場で一番高い位置にいて回復役を全部引き受けてるケフカ・パラッツォに狙いを定めてた。
  竜に跨ったリルム・アローニィって子も空に飛びあがって僕らと同じ敵を倒そうとしてた。
 だけどケフカ・パラッツォの周囲には翼竜っぽい風を操る竜がいて近づけない。仕方なくこっちの戦車チャリオットと向こうの竜が逆方向からケフカ・パラッツォに向けて同時攻撃を仕掛けようとしたんだけど、そうしたら今度は地上にいる竜の何匹から召喚主への接近を感じて、遠距離攻撃を放ってくる。
  さっきの黄色い光線みたいに・・・。
  戦場では敵の大ボスの守りを突破できないでいる状況がずっと続いてた。
  だから敵に邪魔されずに向こう側にいる竜に乗ったリルムの所にまで行くにはケフカを円の中心に見据えて弧を描く必要がある。
  ライダーがその軌跡を辿ってると判ると、僕は急いでライダーにひらめいた案を説明し始めた。
  「いいか、よく聞け、ライダー。今からサンに――僕を殺させる」
  「何?」
  「僕の知ってるサンは自分からこんな事をする子じゃない。もし令呪の強制力でやらされてるんだったら、令呪の縛りを解く為に『それ』をやらせて完了させるしかない。だから僕を殺させる、そしてまた生き返らせてもらうんだ」
  今も実感はないけど、僕は一度セイバーの剣に貫かれて死んで、蘇生させてもらった事があるらしい。
  ずっと気絶してたから全くその状況を知らないんだけど、カイエン達の仲間は魔石『フェニックス』を使わなくても、独力で死んだものを蘇生させる力が―――大魔術を超えて魔法の領域にまで踏み込んでる奇跡を使えるんだ。
  それを利用する。
  「敵の狙いはマスターであるお主、そう読んだか? 間違ってるとは思わぬが、『今まで何故それをしなかった?』と疑問は残るぞ。加えて言うなら一度は生き返らせてもらったが、もう一度やってくれるかどうか判らん。賭けどころか無謀に等しいわい」
  「それでもやらなきゃいけない。これは僕の観察から導き出した賭けなんだ、勝負に出るのはここまで状況を引き延ばした僕がやらなきゃいけない事なんだ。ちゃんと責任は取らないと・・・・・・」
 話してる間にも戦車チャリオットは動いて位置を動かし続けてる。
  さっきまで前にいた敵の位置が横に動いて、一定の距離を保ったまま空に弧を描いてく。
  接近に気付いて『どうしてこっちに向かってるの?』って顔をしてるリルムの姿が黒い竜の上に見えた。僕と同じ位か年下の女の子を僕の事情に巻き込む罪悪感。それから僕の案に乗ってくれるかどうか判らない不安。
  誤魔化すみたいに僕はライダーにもっと言葉を投げつける。
  「それからライダー。お前、本当はボクが負担する分の魔力まで自前の貯蔵魔力だけで賄ってきたんだろ? 実体化するのも辛い筈。絶対にそうだ、そうに決まってる」
  「なんだ・・・、気付いておったのか。気付いたなら気付いたときにそうと言え。後になって見透かされたと判るのは・・・、なんだ、うん、いささか面映ゆいぞ」
  「バカ! そんな事、言ってる場合じゃないだろ。一体全体、どういう了見だ?」
 「まぁ、正味のところ、サーヴァントとしての余は生粋の魂喰らいソウルイーターであるからしてな。全開の魔力消費なんぞすれば命すら危うくしかねんぞ?」
  「それだよ。それも僕の作戦の内なんだ」
  「どういう意味だ?」
  「僕の魔力を思いっきり吸えばそれだけライダーは力を出せる。逆に僕の力が減るんだけど、命を脅かすぐらい消耗するんなら、サンだって『殺しやすい』だろ? 上手く生き返られるんならライダーの問題もサンの問題も一気に解決出来るかもしれないじゃないか」
  自分を落ち着かせるために出来るだけ強い口調で言ってみるけど、内心、本当にうまくいくのか自身が無くて不安が一杯だった。
  ライダーに僕の全魔力を渡せたとしても、状況が好転するとは限らない。
  サンに上手く殺されたとしても、令呪の強制力が消えるとは限らない。
  死者蘇生なんて奇跡をもう一度やってくれるとも限らない。
  さっきライダーが言った通り、これは無謀な賭けだ。
  でも僕は僕に出来る事をやらなきゃいけない。どんな形でも、精一杯戦うのは戦場に居る者の義務なんだ。
  ここにいる事を選んだのは僕。だったら命を賭けて僕に出来る戦いをする。しなきゃいけない。
  「いいか、僕の魔力を思いっきり吸って全開で突っ走れ。この戦場に居る全ての敵を征服してやれ。その間に僕はサンに殺されておくから・・・、戻ってきた僕に勝利を見せてみろ!」
  ライダーの背中に向けて強く言い終えると、もうすぐケフカを中心にして半回転し終わる頃が迫ってるって気が付いた。
  移動するこっちの様子を伺う竜の視線を感じる。
  段々と距離が詰まってきて、困惑してるリルムの顔の細かい所まで見えた。
  もうすぐ話せる位にまで接近する。そんな状況再確認をし終えるのと、ライダーの声が聞こえてきたのは一緒だった。
  「よかろう」
  短いけれど、不安を大声で誤魔化そうとする僕の言葉とは全く違う、力強い返答だった。
  「策が実ればその時はちと眠っておれ、その間に決着をつけておいてやる」
  令呪はもう無いからもうライダーに命令する何て出来ないから、ただ言葉を交わす以外に確かめ合う方法はない。
  だけど征服王イスカンダルは間違いなく王の約定を口にした。それだけで何もかもが満たされる気分になる。
  一歩間違えれば死の危険満載の戦場に合って、サンの事もあって心も体もズタズタに切り裂かれた。それでも暖かい気持ちが溢れて残った部分を癒してく。
 心に満ちる暖かさを感じていると、遂に神威の車輪ゴルディアス・ホイールが黒い竜の隣にまで近づいた。ライダーの声に背中を押された僕はためらいなくお願いを口にする。
  僕が出来る事を僕の手でやるために。
  「忙しいところ悪いんだけど――。今から、ちょっと僕はこの子に殺されなきゃいけないんだ。もう一度、僕を蘇生させてくれない?」
  言いながら、何て都合のいい言葉だろうと思った。理由も、経緯も、仮定も、結果も、何一つ説明してなくて、ただ僕が求める行為だけを要求してるんだから。
  だけど敵を前にして懇切丁寧に説明してる時間はないし、向こうが聖杯戦争の事もサンの事もどれだけ熟知してるか判らないから、そこを確かめてる余裕もない。
  ライダーが移動してる最中も敵はずっと攻撃する機会を窺ってたみたいだから、接近しなくても今この瞬間に向こうから攻撃されたって不思議はないんだ。そう自分に言い聞かせて言葉短く言い終えると、すぐに返事が合った。
  「――いいよ」
  「・・・・・・・・・え?」
  「だからいいよ。よく判んないけど、また生き返らせればいいんだよね。任せて」
  僕が求める受諾があまりにも簡単に出てきたから、聞いた僕の方が『本当にいいの!?』って聞き返しそうになった。
  僕は思わず声を出しそうになったんだけど、声を止めたのは今も短剣を僕に突き刺そうとしてるサンを見たからだ。引き受けてくれたんだったら、いつまでもこの状況を先延ばしにしちゃいけない。
  賭けにすらなってない願望を形にするために―――僕は出来る事をする。
  「じゃあ、よろしく! それじゃあ、やれ。ライダー!!」
  「おお――。貴様は少し休んでおれ」
  ライダーの返事を合図にして、聖杯戦争始まって以来なかった強烈な魔力供給が開始された。
  魔石に魔力を吸われていくのと少し似ていたけど、規模はあの時の比じゃない。
 サーヴァントは誰もが等しく魂喰らいソウルイーター。今ほど、ライダーが言った言葉を実感した瞬間は無いと思う。魔術回路を通して、体の中から魔力が持って行かれるのがものすごくよく判る。
  体力とか精神力とか気力とか僕を作り出す多くの『力』が根こそぎ持ってかれた。
  力が抜ける―――。
  魔力が消える―――。
  魂が喰われる―――。
  当然、『力』の中にある腕力も失われて、サンの腕を掴んでいた手の力があっさりと消えた。拘束を抜けたサンの手が、握りしめた黒い短剣が、僕の心臓目がけて向かってくるのが見えた。
  横向きに構えられたアサシンの剣。白い髑髏の仮面の下にあるサンの顔が驚きと嘆きに染まってる。
  上手く殺されて、上手く生き返った時、この顔が笑顔になってくれたらいいな。そう思った後、肋骨の隙間をすり抜けて、短剣が僕の心臓に突き刺さった。
  サンの力というより、鋭すぎる英霊の短剣が僕の肉をあっさり貫く。
  痛い―――。
  痛い、痛い、痛い、痛い、痛い、痛い、痛い、痛い、痛い、痛い、痛い、痛い、痛い、痛い、痛い、痛い、痛い、痛い、痛い、痛い、痛い、痛い、痛い、痛い、痛い、痛い、痛い、痛い、痛い、痛い。
  ただ『痛い』としか思えなくなって意識が急速に薄れてく。
  あまりにも痛いから気絶しようとしてる。そう思える余裕も無い。それでも・・・。
 ライダー。征服王イスカンダル。僕の朋友とも―――。勝利を、世界を掴めよ―――。
  その言葉を最後に想って・・・。僕は死んだ。



  ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆


  Side - ゴゴ





  この子供は頭がおかしいんじゃないだろうか。ゴゴは自分から言い出した事でありながら、士郎を見つつ本気でそう考えた。
  三闘神の力をこの世界の生き物に宿し、魔大戦がはじまる以前の状況を小規模ながら再現する。その過程で生まれるであろう人の決断を見たかった。
  混迷。
  苦悩。
  決断。
  やるか、やらないか。どんな決断であれ、必ず答えはそのどちらかにたどり着く。
  雁夜もそうだった。桜ちゃんもそうだった。自発的な意味で決断したのは桜ちゃんの方で、雁夜の方は状況に流されて仕方なくといった風だったが、その決断は少なからずゴゴを満足させた。
  ただし彼らは一年間ゴゴと接してきた上に、裏の事情に通じる魔術師寄りの人間だ。
  だから、ものまね士ゴゴがこの世界に現れてからほとんど接してこなかった一般人がどんな結論にたどり着くのかを確かめたかった。その試金石として士郎が選ばれたのだが・・・。


  「さて、こうして相対したのも何かの縁。時間が許すのならば色々と話したいだが、今はそんな悠長なことをやってられる状況じゃないんでな。手短に話そう。前と口調が違うなんて問題は横に置け、今は話を聞いてもらう」


  「俺は今、この冬木を救うために動いてるんだが、力を貸してくれる人間を探してるところだ。しかし、全く見ず知らずの他人に協力を仰いでも受け入れてもらえる訳がない。こんな恰好をしてると理解され辛いんだが、その辺りの分別はある。何? 分別とって何だって? 常識とでも思っておけ」


  「言っておくが、士郎。別にお前である必要は無い。他の誰でも良かったんだが、たまたま協力者が必要な状況で、たまたまお前が俺の近くにいた。ただそれだけの話で、お前が運命に導かれた特別の存在って訳じゃない。偶然そうなってだけで、繰り返すが、別にお前である必要は全くないんだ。それでもこうして巡り会って縁で、俺はお前に話を持ちかけてる」


  「何をするのか聞きたそうだな。簡単に言えば『正義の味方』になって『悪』を退治してもらいたい。そう――、お前が口にして思いっきり俺が否定した『あれ』だ。正直、こんな言葉は使いたくないし、こっちの都合で考えれば利己的な選択だから、間違っても『正義の味方』なんて行いじゃないんだが、やろうとしてる事は『悪』を滅ぼすから、冬木にとっては紛れも無く正義だ。そうなると『正義の味方』と言うのも、大きくは間違ってない。細かくすれば間違ってるがな」


  「ただの人間に自分だけの力でどうにかしてもらおうとは思ってない。俺が『悪』に勝てる力を貸してやる、この力を授かれば絶対に勝てる、それは保障しよう。お前、ゲームはやるか? ゲームで魔王を倒すために必要な最強の武器が手に入ると思えばそれでいい。俺は直接動けない状況だから、代わりに動いてくれる奴がいないと困るんだよ」


  「さあ・・・どうする?」


  そうやって今の状況を簡略して説明したら、返ってきた答えもこちらの説明に合わせて手短だった。
  「やるっ!!」
  言葉こそ桜ちゃんが決意した時のものに似ているが、屈託のない言葉は元気な男の子ならではだ。その一言を聞いた瞬間、ゴゴは思ってしまったのだ、『頭がおかしいんじゃないだろうか』と。
  この世界には『喉元過ぎれば熱さを忘れる』という言葉がある。
  苦しい経験も、過ぎ去ってしまえばそれを忘れてしまう。助けてもらった経験も、同じく過ぎ去ってしまえばそれを忘れてしまう。時間が経験を消し去ってしまう状況を言葉にしたものだが、今の士郎はそれに当てはまっているような気がしてならなかった。
  聖杯戦争に関わる者にとっては実際よりも長い時間を体感しているだろうが、士郎が頭の中だけでお仕置きされてから一日も経っていない。
  子供だからこそ危機意識が薄いのは仕方がないが、これでは危機感が無いと言われても納得できてしまう。
  再会した時に怯えた素振りはどこに行ってしまったのだろうか。
  正気を疑う。だが、面白い、とも思った。
  少なくとも士郎はキャスターによって一度は殺されかけ、ゴゴによって頭の中でもう一度殺されかけている。
  それでも尚。士郎は、裏の世界への扉がそこにあると知った瞬間にもう一度通り抜けようと決断したのだ。その先に危険が待ち構えていると知らぬ筈はないのだが、嬉々として飛び込もうとしている。
  普通の子供なら魔法でいきなり固められた両親の心配をするだろう。心配できなかったとしても、話を聞こうなんて余裕はないだろうし、一目散に逃げ出しても不思議はない。胡散臭い話を怪しむぐらいは当たり前だ。
  けれど士郎はそうしなかった。
  桜ちゃんと変わらぬ幼さでありながら、精神構造がまるで違う。男の子と女の子の違いはあるだろうが、同じ『人間』でも、やはり心の在り方は一人一人が全く別なのだと改めて思い知る。
  リルム・アーロニィのように、士郎は『普通の子供』で括れる範囲からすでに飛び出してしまっている。桜ちゃんのように生まれた時から裏の世界の魔術に浸っている家ではないにも関わらず、だ。
  アインツベルンの森で助けてくれた雁夜の姿を見て、自分もそうなりたいと願ったのか?
  人ならば多かれ少なかれ誰でも持っている未知への探求心がそうさせるのか?
  過去を振り返らずに前に進み続ける人間なのか?
  それとも経験を糧としない単なる馬鹿か?
  ゴゴはもう一度思った。面白い。と。
  「じゃあ行くぞ」
  「うん!」
  まるで不審者が子供を誘拐する時の口振りだ。そう心の片隅で思いながら、ゴゴは次元の狭間への入り口を作り出す。
  「デジョン」
  初めて見る別次元に士郎の興奮は更に高まって、止める間すらなく先に飛び込んでしまう。この空間の中には空気がないと説明する間も無くて、士郎は入ると同時に呼吸が出来ないのに気が付いて苦しげな顔になった。
  この調子で私生活でも危険があると知りながら進んで近づいているとしたら、やはり単なる馬鹿なのかもしれない。固められて子供においていかれてしまった両親を不憫と思う。
  それはやってるのはゴゴなのだが。
  「ストップ」
  士郎の両親にもかけた対象者の体感時間を止める魔法をかけて、若干の余裕を作り出す。
  振り返ればそこには道路の真ん中で固まっている士郎の両親が見える。もうすぐ二人にかけた『ストップ』の効果が切れるので、その前にこの場から消えなければならない。
  居なくなった息子に二人は恐慌状態に陥るだろう。だが、そう決断したのは二人の息子だ。両親を置き去りにして自分のやりたい事を優先させた子供なのだ。
 知覚認識は出来ないだろうが―――、成長しようとしている子供の門出を見送れ。その言葉を送りながら、ゴゴは宝具『妄想幻像ザバーニーヤ』の効果を解除する。
  後は雁夜たちと一緒にいるゴゴが三人を呼吸の必要のない存在へと作り替える。もうここにいるゴゴの役目は終わった。
  人の心がそこにある。
  その心の在り方を物真似したい。
  その願いを胸に抱きながら、ゴゴは消えていった。





  意識を切り替えて雁夜と桜ちゃんがいた場所にいるゴゴに戻ってくれば、そこにはもう誰もいなかった。
  雁夜と桜ちゃんと次元の穴に吸い込まれた後だ、二人はここではない別の場所へと行ってしまった。当然、雁夜の武器である魔剣ラグナロクが入ったアジャスタケースも一緒に移動したので、残るのは二人がいたであろう気配のみ。
  「むぐ~・・・」
  「むぐむぐ」
  「むぐっ」
  そして八匹のミシディアうさぎだ。
  『1』のアン。『2』のジーノ。『3』のトレス。『4』のテトラ。『5』のファフ。『6』のセクス。『7』のナナ。
  そして、唯一ゴゴが呼び出したミシディアうさぎではなく、今では桜ちゃんの使い魔となった『0』のゼロ。合わせて八匹だ。
  それぞれが被る先のとがった茶色い麦わら帽子には自分たちを象徴する番号が刻まれ、お揃いの青いマント身に着けている。
  雁夜は自分の事と桜ちゃんの事で頭が一杯だったから気付いてなかったようだが、周囲の目を誰よりも引き付けているのは雁夜と桜ちゃんではなくミシディアうさぎの方だ。
  ゴゴは確かに夜に似つかわしくない目立つ格好をして目を引くが、姿形は人間の域から出ていない。
  雁夜が持っていた抜身の魔剣ラグナロクはアジャスタケースにしまう前に見られた可能性はある。けれど刃渡り一メートル近い剣がそもそも実在する状況を今の冬木で現実と受け止められる人間がどれほどいるだろうか。
  ナイフや銃が近代武装として浸透する昨今、日本ではほとんど見かけないそれを本物の刃物とは思われず、おそらく竹光やおもちゃの類に見られただろう。
  幼い桜ちゃんが夜に出歩いているのは物珍しい光景だが、大人が一緒にいるのでさほど目を引く事態ではない。
  だがミシディアうさぎは違う。
  話の邪魔にならないように少し離れた位置にいながらも、覆うように輪を作って囲んでいた彼らミシディアうさぎ達。
  あまり聞かない話だが、フクロウをペットにして肩に乗せたまま夜の路上を一緒に散歩する飼い主も存在する。寒いからとペットに服を着せる飼い主も存在するし、それがただ一匹だったならあまり注目はされなかっただろう。
  けれどそれが八匹。しかも明らかに統制されて列を成しているのなれば、見るなという方が無理だ。視界の隅に映ってしまえば、『あれは何だ?』と疑問がわき出てそこを見てしまう。
  これで遠坂を監視する為に残してきた『8』のユインと『9』のノインも集まればさらに周囲の目を引き付けるだろう。
  「むぐ・・・・・・」
  残されたミシディアうさぎの中で最も落ち込んでるのはゼロだ。
  今となってはゴゴとの繋がりが断ち切れてしまったので、ゼロが何を考えているのかはゴゴにも判らない。表面上に見える動きや表情で感情の揺れを推測するしかない。
  彼女の孤独を慰めるようにこれまでずっと桜ちゃんのそばに居続けたが、さすがに聖杯と宝具を相手に神の力で戦う戦場には連れて行けない。
  ミシディアうさぎには味方を回復して治療する特殊能力があるが、三闘神の力と比較すればあまりにも脆弱。一緒に居れば危険なのはミシディアうさぎの方だ。
  だから置いていかれた。
  ゴゴはゼロを見て、体を回して他の七匹のミシディアうさぎも見終えた後。全てのミシディアうさぎに聞かせるように話す。
  「お前たちは衛宮切嗣に付けたミシディアうさぎと合流しろ」
  落ち込むゼロを含めてそう言うと。一瞬だけゼロを除いた七匹のミシディアうさぎが『え? なんでそんな危ない所に行かなきゃいけないの?』と言わんばかりの目でゴゴを見上げるが、すぐに目を伏せて動き出す。
  あっという間に白い塊は路地裏や街灯の届かない闇の中へ消えていった。
  ゴゴはそれを見送りながら、一瞬だけ『悪い事をしたかな?』とミシディアうさぎがそうであったように目を細めるが、すぐにその思いは消えた。
  他の誰でもなく、ミシディアうさぎ自身が自分たちには『観る』以外に出来る事は無いと思い知っている。ミシディアうさぎに出来る事はミシディアうさぎがする。そしてゴゴはゴゴが出来る事をする。
  単なる適材適所だ。
  「『鬼神』、『魔神』、『女神』。お前たちにとって俺はいい親じゃなかった、世界を救う物真似の為にお前たちを殺した俺をきっと恨んでると思う。今はお前たちの力を奴らに継承させようとしてる、もし生きていたら俺を殺すかな? 殺されてやるつもりは全くないが、また千年ぐらいは眠ってやる程度の悔い? 罪悪感? 後ろめたさ? はある」
  誰にも聞かれることのない独り言を呟きながら、ゴゴは道路に面して建つ二つの雑居ビルの間に向かう。
  「デジョン――」
  そして独り言と同じ調子で魔法を唱え、雑居ビルに挟まれた狭い空間の中に別の道を作り出した。
  ゴゴは何の気負いも無くその中に入る。
  一瞬後には入ってきた入口は消え、ゴゴは冬木市から全く別の場所に―――宇宙空間を思わせる別次元へと移動し終えていた。
  よく見ればゴゴの立つ場所から数メートル離れた位置には三人分の人影がふわふわと浮かんでいる。それぞれが雁夜、桜ちゃん、士郎の姿をしていた。
  その姿を確認した後。ゴゴは右の手のひらを上に向けてそこから魔石を出現させる。体の内側から異物が現れる光景は手品の様であり奇跡の様でもある。
  魔石の名は『ジハード』。数ある魔石の中で最も三闘神の力を色濃く受け継いだ魔石で、この世界に転移してから一度たりとも使わなかったそれがゴゴの中から緑色の鉱石の形をとって現れた。
  「本当のお前たちとは出来なかった『生活』を一年で学んだ間桐邸での『生活』で補完する。出来なかったモノを似たモノで補完する、これも物真似なんだろう。久しぶり、初めまして――。また会った、初対面だ――。こうしてまたお前たちの欠片と出会えたのに、いい言葉が見つからない」
  浮遊しつつも石像のように硬直する三人の人影。ゴゴは出した魔石『ジハード』を右手の上に乗せたまま、三点に浮かぶ人間が作る三角形の中央へと移動した。
  そして一瞬だけゴゴの手の中で魔石が意思を持つかのように震え―――。中央に光るオレンジ色の六芒星から三つの光を外に押し出した。宇宙空間を思わせるこの空間の中だからこそ、白く輝くそれは星の輝きによく似ていた。
  人影は三つ、光も三つ。魔石から放出された光は三方へと散って、それぞれの中に入り込んでいく。
  「それでも俺はこう言う。俺は、ゴゴ。ずっとものまねをして生きてきた。さあ、物真似をしてみるとしよう」
  光は心臓がある胸から雁夜の中に、桜ちゃんの中に、士郎の中に、それぞれ入り込んでいった。
  そのまま、ドクンッ! と鼓動にしか聞こえない大きな音が一回だけ三人を起点にして鳴る。
  紛れも無くそれは切っ掛けであり合図でもあった。吸い込まれた光はそれぞれの体の中で膨らんでいき、それぞれが持つ人の形を変質させていく。
  それは魔石『ジハード』で呼び出される三闘神の化身とは違う。
  嫉妬ゆえにゴゴを傷つけて千年も眠らせ、石像となってケフカに力を奪われた三闘神の姿とも違う。
  この世界に存在する魔術とゴゴの力の源の魔法が融合した新たな姿。物真似の成果が三人の人間を別の存在へと作り替えていくのだ。
  アジャスタケースを持っていた元々の腕以外で新たに二対四本の腕がパーカーを突き破って現れた雁夜の変化も劇的だが。桜ちゃんと士郎、この二人の変化はもっと大きかった。
  身長120センチほどしか無かった子供の大きさが大人の雁夜の大きさにドンドンと迫っている。成長しているのだ。
  もちろん変化はそれだけに留まらない。大きさの合わなくなった二人の服は破け、心臓付近に入り込んだ光が士郎の赤毛より炎に近い真紅の光を生み出して士郎の全身を覆い始め、同じく心臓付近の光から薄く細い蒼色の衣が現れて徐々に大人の色香を漂わせ始める桜ちゃんの体に巻き付いた。
  腕の数を六本にまで増やした雁夜の筋肉は更に発達し、身長こそ及ばないがライダーの逞しさを髣髴させるようになっていく。耳の付け根からは角が生え、鋭い爪を生やして肥大化した足は履いていた靴を内側から軽々と突き破る。
  士郎を覆う紅い光は元々あった赤毛を呑み込んで、大人の体格になった肩から先からは色が失われて肌色から白色へと変化していった。その色に合わせた白く雄々しい羽が背中から生える。
  碧眼と桜ちゃんがいつも付けているリボンは変わっていないが、肩までしかなかった桜ちゃんの黒髪は体の成長に合わせて腰まで一気に伸びる。後光のように輝く金色の円盤が現れ、そこには魔法陣の様に文様が刻まれていった。
  鬼神であり『鬼神』ではない。士郎でもない。
  魔神であり『魔神』ではない。雁夜でもない。
  女神であり『女神』ではない。桜ちゃんでもない。
  神の力を宿した全く新しい存在が生まれようとしている。
  ゴゴはそんな三人の変身を見守りながら言った。
  「おはよう――」





  ティナ・ブランフォードは空を舞いながら地に立つセイバーに向けて言葉をぶつけていた。
  どれだけ言い方を変えようとも、それが罵詈雑言の類であるのは言っている当人が一番よく判っている。
  それでも止まらない。
  戦いを『茶番』と言い切った口でセイバーに向けて侮辱かつ挑発を言い放つ。


  「その人は夜間の外出を自粛するように言われている今の冬木でちょっとした肝試しをしようとしたわ。ただそれだけの理由で廃工場に行って、そこで無残に壊された死体を見つけてしまった――。卒倒して、死体の気持ち悪さに吐いて、それでも何とか警察に連絡してそこで起こった何かを伝えた」


  「でもその人は聖杯戦争の事も、死体があるなんて事もまるで知らなかった。でも冬木の警察は謎の連続殺人犯を捕まえる為の手掛かりを求めて、その人を問い詰めなきゃいけなかった。何も知らないのに・・・、誰かが仲間を弔わず、後始末もせず、ただ自分たちの都合だけを優先させて他の人に何もかもを押し付けた。あなた達のせいでその人は今も警察から疑われているわ」


  「ある人は大きな会社を作る製造業の社長だった。画期的新商品、社運を賭けるに値するそれを慎重に分解して、丁寧に梱包して、誰にも盗まれないように厳重に保管して、発表の場に持ち込むために準備を整えていたの」


  「そのコンテナは輸送を待つ海浜倉庫街に運ばれて――大きな刃物で斬られたみたいに誰かに壊された。製造のノウハウはあるからもう一度作り直すのは無理じゃない。損害保険があるから金銭的な損害も少ないわ。でも、同じ物を作るには時間と手間がかかって、すぐには作れない。失ったモノが沢山あり過ぎて、その人はとても辛い思いをしてる・・・」


  上空から語り聞かせるティナの言葉をセイバーが黙って聞く真意はどこにあるのだろう?
  空を跳ぶ敵に攻撃する手段がないので様子を伺っているのか。それとも不当な言い分に対して怒りを覚え、言葉すら失うほど大激怒しているのか。
  思い当たる節があり過ぎる内容に愕然としているのか。それともティナの言葉なんて最初から聞いてなくて、敵を斬る方法を模索し続けているのか。
  黒く染まった聖剣を構えて睨みつけてくるセイバーからは怒りこそ伝わっても、その心の内までは見通せない。
  けれどこちらに敵意を持って攻撃してくれなければ困るのだ。
  例え今は攻撃が届かない大地と空に別れていたとしても、ティナが地上に降り立った時に何の躊躇いも無く斬りかかってくれなければティナが―――ゴゴが望む状況へは移せない。
  ティナはまだ不足していると思いながら、セイバーに向けて更に言葉をぶつける。


  「その人は郊外にある道路をマウンテンバイクで一気に駆け降りるのを趣味にしていた・・・。落ちてる小石に道路のひび割れ、滑りやすい路面に行き来する自動車、そんな障害物に注意しながら風を切るのをとても楽しみにしていたの。でも、真っ二つに断ち割れたアスファルトなんて思いつきもしなかった」


  「誰かが道路を斬ったから大きな溝が刻まれて、その人が運転するマウンテンバイクの前輪がその溝に落ちて横転した。投げ飛ばされたその人は道路の外に飛ばされて全身を強く打ってしまったの・・・。命は助かったわ。だけど脊髄を痛めて下半身不随になるってお医者様は言った。大好きな自転車に乗れなくなった、もう、死にたい―――。そう言ったそうよ」


  「何も言わないの? これは聖杯戦争の戦禍を被った―――。いいえ、あなたが不幸にした人達の話よ。これはほんの一部だから、探せばもっといる筈。あなた達が聖杯戦争なんてこの町に持ち込まなかったら、最初から誰もこんな不幸には見舞われなかった。貴女のせいで皆が不幸になった」


  「貴女は今を生きる人にとっては過去に滅んだ英霊の一人でしかないわ。現代を聖杯の知識だけで知った気になってる操り人形なの。貴女自身の願いが尊く正しいと思ってるのなら、どうして今を生きるこの世界の人たちにそれを伝えないの? そんなに世界を救いたいのなら貴女が貴女自身の手で救えばいいじゃない。誰もあなたに世界なんて救ってほしくない。聖杯に願って過去をやり直したいなんて後ろ向きな人に誰もそんなこと望んで無いの、いい迷惑だわ」


  ティナ・ブランフォードの物真似をしながら、当人ならば言わないであろう言葉を次々と作り出す物真似への冒涜。
  それが必要な行いだと理解しながらも。言葉を重ねれば重ねるほどに心は痛みを上げて軋んでいく。
  もうこんな事は止めたい、そう心が叫んでいた。けれど止められない。
  何故なら、今、ティナが話しかけているのがセイバーで無くなってしまったのならば、ものまね士としてその真実を突き止めなければならないからだ。
  セイバーには物真似する価値あるモノはもうない。けれど、あの黒く染まったセイバーがセイバーではないのなら、物真似する価値あるモノを見せる可能性はまだ残っている。
  攻撃してもらわなければ困る。悲観的でいては困る。敵に向けた全身全霊の攻撃でなければ意味はない。それ位ではなければ、元より物真似する価値がないと断じたセイバーをもう一度物真似しようなんて思えない。
  その変貌に見合う新しい技を見せてくれ。ものまね士ゴゴが興味を引くモノを出してくれ。ティナの心の中でゴゴが叫ぶ。
  その祈りが通じたのか、地上にいたセイバーは剣の切っ先を地面すれすれまで降ろした。下段に構えられたそれが何を意味するのか? ティナが僅かにそう考えた時、セイバーは剣を力強く振り上げた。
  当然ながら当たる物がない剣は空を切るのだが―――空振りした筈の剣から黒い何かが飛んでくる。
  攻撃だ! そう認識すると同時にティナは急いで移動して、迫りくる黒い塊を避けた。
 移動が一瞬遅れていれば左右に両断されたであろう攻撃が一瞬前にいた場所を通り抜ける。どうやら黒く染まった魔力と、剣を隠す時に使っていた風王結界インビジブル・エアを混ぜ合わせて風の斬撃にしたらしい。
  見たことのない攻撃にゴゴの心は躍る。
  剣の英霊が初めて見せた遠距離攻撃。これまでのセイバーが見せなかった新たな力。
  そうでなくては困る。そうでなければ挑発した意味がない。
  するとセイバーは振り上げた剣を思いっきり振りおろし、二度目、三度目の風の刃をティナに向けて撃ち出してきた。
  当たればひとたまりもない。見ただけでそうと判る黒く鋭い風が巨大な三日月となって迫りくる。
  「シェル」
  咄嗟に魔法防御力を上げる魔法を唱えながら、再び位置を動かして回避行動をとる。
  地面を強く蹴って跳ぶのと同じ要領で空を舞う。人の体では絶対に出来なかった幻獣の力が空を大地と同じ『立つ』場所へと作り替えて。二度目、三度目の風の刃も何とか避けられた。
  当たる可能性を考慮しての魔法だったけれど、これならば必要なかったかもしれない。セイバーがまた剣を振るって四度目の黒き刃を撃ち出した時にそう思うと―――ティナの目が降りぬくと思われたセイバーの剣が途中で止めるのを捉えた。
  これまでは振りぬいてセイバーの身長よりも大きな風の刃が迫ってきたが、中途半端に止められたせいで威力は半減している。当然、小さくなった分だけ当たる範囲も狭くなったので避けるのはこれまでの三度よりも容易いのだが、ティナに向けて真っ直ぐと突き出された切っ先がこれまでと大きく異なる状況を作り出していた。
  何かある。そう考えるよりも早く、セイバーの声が空に轟いた。


 「風王鉄槌ストライク・エア!!」


  声と一緒に先に打ち出された黒い風を呑み込む台風が生まれた。それはあまりにも大きく、あまりにも早い。
  四度撃ち出した風の刃も十分早かったが、どうやらあれはこの一撃の意図的に手を抜いていたらしい。四度繰り返された風の刃の威力、速度、剣を振って初めて現れる攻撃までの間、それらに慣れた所でいきなり特大の一撃を繰り出したのだ。
  隙間のない風は空へと放たれた壁にも似ていて、僅かに位置を移動した所で避けられるものではない。
  『シェル』によって攻撃魔術の効果は半減している。そう思いながら、ティナは咄嗟に両手を前で組んで頭や心臓などの急所を守る。けれど、『シェル』の効果すら突破する黒き暴風はティナの体を切り裂く、そして毛深くて桃色になったティナの手はズタズタに裂いた。
  ティナが避けられないように攻撃を広範囲に膨らませたので攻撃はすぐに消え去り通り過ぎたが、黒い風は容赦なくティナの全身を斬っていった。
  顔と胸の前で交差させた両腕の傷が最も深く、肉が裂けて骨が見えそうだ。
  腹部や下半身は腕に比べれば軽傷だが。避けた個所から噴き出す血が決して浅くない怪我を教えている。
  トランス状態になり留めていた髪は広がり、その髪も一部がごっそり切り落とされていた。
  全身の至る所から感じる激痛。口から出てきそうな悲鳴を押し殺さなければ冬木の夜に獣の鳴き声を響かせてしまいそうだ。
 これまで使っていた風王結界インビジブル・エアにこんな使い方があった。ものまね士としての意識が喜びを覚えるが、同時に目の前にいる敵を倒せとも訴えかけてくる。
  もっとだ―――、もっとだ―――、もっとだ―――。
  「じゃあ・・・」
  私も口じゃなくて力で攻撃するわ、と続けるよりも前に、ティナは呟きの先を消した。
  もっと別のモノを見せてもらう為にも、物真似するためにも、そろそろこちらから攻撃を仕掛ける時。
  大技を放った後では次の攻撃を行うための溜めが必要なのか、ティナの怪我の具合から次はどう攻撃するべきか迷っているのか、セイバーは新たな遠距離攻撃を放とうとはしてこない。
  あるいは二者の間に出来た距離を満ち溢れる魔力を用いた『跳躍』で埋めようとでも言うのか?
  真意は判らないが確かに僅かな隙が出来上がっている。
  ティナはその僅かな時間を使い、回復魔法で自分の傷を癒すよりも前に右手を横に大きく広げた。その動きに合わせて腕に出来た傷から血がより多く噴き出すが、体を軋ませる痛みは意思の力で封殺する。
  堪えろ。
  そしてゴゴが魔石を取り出すように―――右手に意識を集中させた。
 注意して見ていれば、アーチャーの宝具『王の財宝ゲート・オブ・バビロン』の黄金の輝きによく似た光が右手の中にあるのが判るだろう。
  そこから刃が現れ、ティナの右手の中からせり上がるかのように剣が姿を見せる。
  ティナ専用の剣『アポカリプス』。神が選ばれし預言者に与えたとされる秘密の暴露の名『黙示』と同じ言葉とは繋げにくい澄んだ青色の刀身の剣だ。
  ティナはそれを獣のようになってしまった右手で握りしめ、上段に構えながら両手でしっかりと掴み直した。
  天を貫かんばかりにまっすぐに空を突く姿。そしてトランス状態のティナから溢れる魔力が桃色に輝く光となって青い刀身に収束していく様子は他でもないセイバーがよく知る構図だ。
  「馬鹿な――」
  即座にティナの構えが何を意味するか悟ったセイバーは地上からそう呟く。幾度も投げつけられた言葉には全く反応しなかったが、さすがにティナがやろうとしている事への動揺は抑えきれなかったらしい。
  ティナが持つ剣はセイバーが構えている宝具とは違う。全く異なる剣『アポカリプス』でセイバーの剣が作り出す現象と同じ事を発現させようとしているだけだ。
 これこそが物真似の成果。ライダーの戦車チャリオットに乗り、真正面から技を見る危険を冒して、その果てに作り出した物真似だ。
  目の前で起こっている信じがたい出来事に対してセイバーが抱いた動揺はほんの一瞬。
  自分こそが本物である、そう言わんばかりにセイバーもまた上段に剣を構え、魔力を光へと変換させて刀身に集めていく。ただし、未遠川の辺でライダーと戦った時と決定的に異なるのは、剣に集まっていくのが黒い光である事。
  光り輝いていながら黒色という矛盾。
  夜の闇すらも喰い尽くさんばかりの勢いで黒い輝きがセイバーの持つ剣に集まっていく。合わせてティナが持つ『アポカリプス』にも淡く輝く桃色の光と周囲から現れる白色の光が集まってくる。
  ティナが先に構えた分だけ収束は早く、セイバーの動揺も合わせて先に攻撃できる。けれどもティナはあえて待った。
  物真似に値するモノを見せてくれるだろうと心待ちにしながら、セイバーの技が準備を終えるのを待った。
  きっとこれから見れるのは前見たモノとは違う。
  違って貰わなければ張り合いがない。
  そう願った次の瞬間、セイバーの剣が振り下ろされる。その動きに合わせ、ティナも全く同じ動きで『アポカリプス』を振り下ろした。


 「「約束された勝利の剣エクスカリバー!!」」


  空に向けて放たれる黒い光。大地に向けて降り注ぐ桃色の光。
  極大の輝きが衝突する。



  ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆



  Side - 幻獣『ギルガメッシュ』





  竜に攻撃すれば傷つけた分だけ即座に回復しやがる。どうやら回復も蘇生も許さない一撃で殺し切らなきゃならねえ。
  今、使える武器の中で『エクスカリバー』じゃ力不足。『正宗』だけでも力不足。と言うか、一人じゃ無理だ。
  仕方ねえ、こっちも応援を呼ぶとするか。
  「エンキドウ!!!」
  相棒の名前を呼ぶと、空に切れ目が出来上がる。起こった異変を察知した紅い竜が息を吸い込んだ。その隙に紅い竜のそばにいた人間共が攻撃を仕掛けるが、吸い込みを止めやがらねえ。
  この野郎。新しい登場人物が出てくる時は黙って見送るお約束を知らねえのか?
  「アクアブレス」
  こっちが技を唱え終えて極大の泡を数十発撃ち出すと吸い込んだ息と一緒にどでかい炎を吐き出しやがった。しかも俺様が出した泡に対抗してるのか、首を動かして広範囲に炎をまき散らしてやがる。
  ぬおおおおおお、パンパンといい音立てて泡が割れまくるじゃねえか。やばい、このままだと全部割られちまう。
  仕方ねえから俺は切れ目の前に出て右手に『エクスカリバー』を左手に『正宗』を構える。
  「きやがれ!!」
  俺の『アクアブレス』で撃ち出した泡を全部割ってそのまま突っ込んでくる巨大な炎。両手に構えたそれぞれの名剣を十字に古い、剣で炎を断つ!
  音も無く切れる炎。
  斬った―――と思ったら残った炎が直進してきて思いっきり浴びちまった。
  「あちちちちちちちちちちちち」
  畜生、人一人背負ってるからどうしても動きが鈍くなっちまう。真正面から炎が受けとめるしかなかったもんだから、あちこちが焦げちまった。
  だが時間は作ったぜ。
  さあ、現れな。相棒。
  ちらりと横を見れば、空に出来ていた裂け目からずるりと這い出てきた頼れる相棒の姿が合った。
  生い茂る草を髣髴させる緑一色の体。大自然の化身と呼ぶに相応しいぜ。
  大空を自由自在に飛ぶ白い羽根。空の覇者と呼んでもいいぜ。
  たった今見た炎よりも紅く燃え上がる髪。天を貫く二本の角と合わせれば一層逞しいぜ。
  何一つまとわず裸体を曝け出しながら、鍛え抜かれた体躯はその在り方を芸術の域にまで達してるぜ。
  来たな、エンキドウ。ここがどこだろうと、相手が誰だろうと、俺が誰に呼び出されようと、やっぱり俺達の絆はいつでも繋がってるな。
  「手当を頼む」
  「おうっ!」
  俺の相棒、エンキドウは短く答えながら黄金の腕輪をつけた左手を俺の方に伸ばす。
  そしてエンキドウだからこそ出来る回復魔法を唱えてくれた。
  「ホワイトウィンド」
  背中の方にまで白い光が広がってた気がするが、まあ気のせいだろう。
  ホワイトウィンドの光が収まると背負ってた男がピクリと動いた気もするが、これも気のせいだ。戦場で動き続けてれば背負った怪我人も反動で跳ねたりするだろう。
  白い光に全身を撫でられ一気に体力が回復する。さっき焦げた部分もあっという間に完治した。やっぱりお前の技は最高だな、エンキドウ。
  「ついでに手を貸してくれ」
  「強敵か?」
  「おうよ」
  交わした言葉はたったそれだけだったが俺たちにとってはそれだけでも十分すぎる。
  紅い竜の周りにいる人間共が応戦してくれたおかげで俺達は回復できた。
  俺は両手に『エクスカリバー』『正宗』を構えたまま全身に力を漲らせ、四連続攻撃の『剣の舞』をも上回る二回攻撃を作り出す為の準備を整える。
  両手で一撃ずつ、この二回で奴の首を落とす。
  隣に並んで俺と同じくあの紅い竜を見てるエンキドウは両手を胸の前で交差させて、俺と同じように体に力を漲らせ始めた。
  ただしエンキドウは武器を使わない。こいつは背中に生えた羽根で局所的暴風繰り出すのさ、その為に僅かばかりの溜めが必要になる。エンキドウの白い羽根が嵐を待つように震えだした。
  回復と一緒にその隙を作り出してくれた人間共には感謝しよう。
  よし、そこを退け、後は俺達に任せな。
  それから、おい竜―――いや、トカゲ野郎。今度は頼れる相棒も揃って俺達は最強だぜ。ぶっ殺してやる。
  「行くぞっ!!」
  力が十分すぎるほど体の中を駆け巡ってるのを確認した後、エンキドウに向けて合図を飛ばす。


  「かまいたち」


  エンキドウの口から技の名前で出て、最後の『ち』を言い終わる辺りで背中の羽根が力強く暴れた。
  目に見える強力な風がエンキドウの前に現れ、無数の竜巻になってトカゲ野郎に殺到する。一瞬すら無く、風は敵にたどり着いて前も後ろも右も左も上空にも移動して取り囲んだ。
  そうだ、この風だ。
  敵に纏わりついて全身を余すことなく切り刻む風の剣でありながら、俺様と敵を繋ぐ通路にもなるエンキドウの風だ。
  いつもながら見事だぜ。エンキドウよぉ。
  俺は吹き荒れる嵐の中に飛び込んで、地面と風の両方を蹴りながら一気にトカゲ野郎に到達する。風に呷られて周囲の人間共が何人か吹き飛んでるが無視。
  全身を切り刻まれる痛みに苦悶の声を上げる敵に向けて肉薄し、溜めこんだ力を一気に開放する。
  斬られて落ちろ―――。


  「最終幻想」


  竜の生態なんぞよく知らんから、そこにあるのが胸なのか首なのか喉なのかは判らねえ。だが、そこには逆鱗がある。
  多分ある。
  きっとある。
  この辺りがあごの下だと勝手に決めて『エクスカリバー』で一撃、全く同じ個所をほぼ同時に『正宗』でまた一撃。あまりにも早すぎるから響く音が一度にしか聞こえない二回攻撃を叩き込む。
  決まった・・・。
  エンキドウの生んだ風を踏み台にしての超高速移動。きっとトカゲ野郎には斬る音と風の音が一緒になって聞こえたに違いねえ。
  だが俺様は残心を忘れずに振り返って敵を見る。まあ、落ちた首がそこいらに転がってるだろう・・・。
  と思ったら首の骨が見えて結構グロイんだが、両断には至ってない現実がそこに合った。
  馬鹿な!? 剣から返ってきた感触は間違いなく肉どころか骨まで断ち切った手応えだったぞ? まさか――首が斬れて死ぬまでのほんの数瞬の間に回復したってのか?
  絶命する瞬間に地獄からこっちの世界に舞い戻ってきたのか? 信じられん。
  これでも駄目か? 駄目なのか? くそう、この手応えに更に一歩加えて殺し切るしかねえのか。こうなったら他の人間共と足並みをそろえて『殺し切る威力』にまで引き上げるしかねえな。
  いや。こうなったら紅いトカゲ野郎の首が完全に引っ付く前に両断して息の根を止めてやろうじゃねえか。次よりも今だ、今。
  行くぞエンキドウ。もう一度『最終幻想』を―――。
  「あぁぁぁあああぁぁぁぁああああああああああああああああ!!!」
  踏み込んで斬りかかろうとしたらいきなり後ろから大声が聞こえてきた、
  冷静とか落着きとかをどっかに追いやって、ただ『激怒』を凝縮して背負ってた奴が吠えやがった。聞くだけで怒り心頭なのが判る。判るんだが耳元で騒ぐな。やかましいぞ、オイッ!
  と思ったら後ろに跳躍して、離れやがった。俺が背負い始めた時は動く気配すら見せなかったくせに元気なもんだ。
  前にはまだ瀕死状態であと一歩追い込めば殺せそうな『敵』。後ろには命を救って最後まで何とかしようと思った『味方?』。俺はどっちの問題から先に片づければいいんだ。
  「殺す――」
  とか迷ってたら見ただけで殺されそうな強烈かつ危険な目をこっちに向けやがった。表には出さねえが、ちょっとビビったのは誰にも絶対に秘密だ。
  顔は憤怒一色。これが『般若』ってやつだな、―――いやいやいや、こいつは男だから般若は違うか。
  とにかく顔には怒りしかねぇ。
  その怒りに応じて空に円状に輝く黄金の光が現れやがる。一、二、三、四、五、六・・・多すぎて判らんわ!! 百か? それとも二百か? 空を埋め尽くす黄金の光が眩しいぜ。
  そこで俺は気が付いた。
  何があったか知らねえが、これまで合った最後の一線が消えてやがる。『これ以上傷付かず、治療に集中してれば治るか?』と思ってた回復が全く無い。黄金の光が数を増やせば増やすたびに続々と消耗してやがる。
  目に見えて生命力が削げ落ちていく。
  もしかして回復に費やす為の魔力が送られてねえのか? 使った魔力とか体力はただ減るだけなのか?
  全身重い傷だらけで立ってるだけでも辛いはず。無茶をすれば確実に虫の息だ、一気に死ねる。このままだと消えるぞお前。
  「止めとけ、そのままだと死ぬぞ」
  「黙れ!! 雑種ごときが王の采配に口を挟むな」
  手前! 人がせっかく助けてやった命を無駄にして、しかも心配してやったのにその口ぶりは何だ? 助けられたらお礼を言いましょうって先人に習わなかったのか、おい!
  四体のバリアを従えた、どっかの禿げみたいな感じに言いやがって。
  やっぱり紅いトカゲよりこっちの問題を片づける方が先か? いや、しかし、一度は助けるって決めた訳だから敵対するのは本末転倒な感じがする。
  く、くそっ! 俺様はどうすればいいんだ? 何が正解だ?


  「天の鎖よ」


  また迷ってたら黄金の光の中からいきなり鎖が伸びてきて俺の手足を捕まえた。
  ぬお!? 『エクスカリバー』が『正宗』が、全く振るえねえ。手も足も出ないぜ。見れば、エンキドウの近くに現れてた黄金の光からも同じように鎖が出てあっちも全身を絡め捕られていやがった。
  おおぅ、エンキドウの羽根がもげそうだ。やばい、これはやばい。
  さすがに遠くにいる竜や空にいる俺を召喚したクソ野郎にまで鎖は届いてないが、近くにいる俺とエンキドウ以外にも竜を三匹捕まえてやがった。俺様が首を落とすはずだった紅いトカゲもしっかり捕まえてやがる。
  こら、どうして近くにいる人間共には誰にも全く纏わりついてないんだ! 不公平だろうが!
  ついでに言いたいが、その紅いトカゲは俺の獲物だ。取るんじゃねえ!
  「手前、何しやがる。これが助けてやった恩人に対する礼儀か!!」
 「オレと同じ名を騙るだけで許しがたい所行。その上、オレの友すら愚弄だと? 万死に値するぞ!!」
  俺が召喚された時の事でも覚えてたのか、そいつは俺とエンキドウの両方を睨みながらまた吠えた。
  手前こそ俺様の名前を騙るんじゃねえ。許せねえのはこっちのセリフだ! ギルガメッシュを名乗れるのはただ俺様のみ。他の奴が勝手に使うな!
  空元気でも調子が戻ってきたのは悪くは無い。それで俺達に被害が及ぶならこいつはただの疫病神だ。空に浮かぶ黄金の輝きは更に増えて太陽が沢山あるみたいになってやがる。あれはどう見てもやばい、俺達の『最終幻想』よりやばい。
  晴天の砂漠。所により凶悪な雨が降るでしょう―――。
  冗談じゃねえ、この鎖を破壊してとっとと逃げるぞエンキドウ。そっちはそっちで頑張って壊せ、一緒に逃げるぞ。
  おりゃりゃりゃりゃりゃりゃりゃりゃっ!!
  渾身の力を込めたら鎖にひびが入って・・・完全に砕ける前に空から剣とか槍とか矢とか武器の類が降り注いできた。
  やっぱりあの野郎は見殺しにした方が世のため人のためだったかもしれん。迫りくる武器を見ながら、ちょっぴり助けたのを後悔した俺様だった。



[31538] 第45話 『ものまね士は聖杯戦争を見届ける』
Name: マンガ男◆da666e53 ID:66745d12
Date: 2014/04/21 21:26
  第45話 『ものまね士は聖杯戦争を見届ける』



  ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆



  Side - ゴゴ





  戦いの場において状況の変化とは起こり続けるものであり、その大きさは平時に比べれば劇的と言うしかない出来事が幾つも起こる。
  味方が作り出した変化。敵が作り出す変化。第三者や天候や環境などが作り出す変化。
  そもそも全ての状況が個人の予測通りに進むことなど決してありえず、もし仮にそんな事が起こるとするなら、それは戦争では無く予測できる小規模な『闘い』か、あるいは予測する個人が数百年に一度の天才と謳われる稀代の軍師であるかだ。
  おそらく冬木の聖杯戦争において誰よりも情報を持つゴゴと言えど、先の展開がどうなるかの予測は出来ない。もちろん『聖杯戦争の破壊』と『物真似の達成』に沿った行動をし続けているが、その過程において何が起こるかまでは判らない。
  こういう形で決着をつける、と願望は合っても、それは結論ではない。起こり続ける変化はゴゴの予測を大きく上回り、特にこの聖杯戦争の中で変質した―――成長したと言い換えてもいい者たちは、誰も彼もがゴゴの予測を良い意味で裏切った。
  だからこそあとほんの少しでその姿を見られなくなってしまう事が残念でならない。





  幾つもの個所に点在するゴゴの意識を最も強く引き付けたのはどこだろう?
  改めてそう考え、冬木に存在する三か所の『ものまね士ゴゴ』が今の全てだと答えを作り出す。甲乙付け難く、どこもかしこもがゴゴの意識を強く引っ張るから一番を決められない。
  物真似の為に観察する。調整する。交戦する。
  物真似の為に魔法を使う。魔石を使う。魔術を使う。宝具を使う。
  そうやっている幾つかのゴゴの中で、ものまね士ゴゴの目は次元の狭間の中に浮かぶ三体の異形を見つめていた。辛うじて一部が原形を留めているが、大部分は与えられた三闘神の力によって変質してしまい、全く別の存在に変わってしまっている三つの生き物だ。
  最も人の形を色濃く残しているのは『女神』だろう。
  幼かった桜ちゃんの姿は消え、160センチほどまでに伸びた大人の女がそこに浮かんでいる。
  腰まで伸びたストレートの黒髪。スラリと伸びた足が放つ脚線美。豊満に膨らんだ胸。女の子の可愛らしさではなく、大人の『女』の顔立ち。辛うじて髪につけたままでいるリボンが彼女を桜ちゃんだと表している。
  衣服と呼べる物は薄く細い衣のみで、それも腰部や胸部の一部を覆っているだけでほとんど裸身と変わらない。現れた時は蒼色をしていた衣も今では黒く染まり、周囲にある次元の狭間に溶けてしまいそうだ。
  まるで桜ちゃんの属性『架空元素・虚数』が『何者でもある自分』を表し過ぎて、真っ黒に染まっているようにも見える。大事な部分だけを黒で隠す白い肌とのコントラストはとてつもなく淫靡であった。
  異性であれば、いや、同性だとしても、決して目を離せない美しさと妖艶さと併せ持った美の化身―――正しく『女神』がそこにいる。
  ただし背中にある細かな文様が刻まれた円盤と、角を生やした雄ライオンの頭部のような何かに乗っている状況が彼女を美しさの神ではなく戦いの神に変えていた。従えるように巨大な顔に乗るその姿は美しくはあるが、馬に跨る騎士を思わせるからだ。
  『女神』の次に人の形に近いのは『鬼神』であった。
  元々あった赤毛に鮮血の赤と炎の紅を付け足して極限まで赤色を凝縮したような―――。頭の先から足元までの全てを紅い鎧で覆った戦士が浮かんでいる。
  目元と二の腕から先と腹部の三か所は紅い鎧に覆われておらず地肌が見えているが、見えているのは男の子の逞しくも柔らかい体ではなく鍛え抜かれた戦士の肉体だ。
  白く染まった皮膚は『女神』の滑らかさを備えた皮膚とは大きく異なり、表面を硬化させた様子は貝に似ている。
  どんなに鋭い剣だとしてもその皮膚を切り裂くことは出来ない。そう思わせる硬さが剥き出しになった地肌にあった。
  体の各所を覆う紅い鎧は相手を威嚇するように全方位に伸び、首元や頭から上に伸びる様子は角のようだ。
  手には斧と槍を融合させた長柄武器の一種『ハルバード』が握られており、槍と穂先についた斧頭は単なる武器なのだが、その二つの結合部分には人の頭蓋骨があり、殺した相手の頭部を金色に染めて取り付けたと言われても納得できてしまう。
  背中に生えた羽根を考えれば有翼人―――いや、有翼『神』と呼ぶのが相応しい。それが今の士郎の姿だった。
  最後に最も人の形を失っていたのは『魔神』だ。
  人間の両手と両足を意味する『四肢』は無い。足は二本のままだが、腕は三対六本にまで数を増やし、加えて皮膚の色は人の地肌ではありえない藍色をしていた。
  筋肉は膨張して『間桐雁夜』が長年鍛え上げなければこうはならない肉体へと変わり。胸の中央と額には血の様に赤い紅玉が輝いている。
  耳があった場所からは二対四本の角が生えて、正面から見ればアルファベットの『X』にも見えた。
  更に『魔神』を人の姿から遠ざけている理由は背中から生えている蝙蝠を思わせる巨大な羽根だ。『鬼神』の白い羽根よりも禍々しいものが大きく広がっている。
  下腹部から足の先までを覆う白にも銀にも見える塊がより雁夜を人から遠ざけていた。
  骨にも見え、足と融合しているようにも見え、角にも見え、生き物にも見え、装着しているだけにも見え、『魔神』の一部のようにも見える、よく判らないモノ。それが下半分を覆い隠していた。
  隙間から僅かに見える二本の足も五本の指を備えた人の足から鳥の足に近くなってしまい、もしそれがなかったとしても、人と判断するのは難しかっただろう。
  剥き出しの顔に雁夜の面影があるからこそ、余計に人とは違う別種の異形になってしまったのがよく判る。
  人が思い描く悪魔の想像図をそのままに、同じ『魔』を担う―――むしろ今の雁夜の姿こそが上位となる『魔』の『神』。
  ゴゴは変身を終えた三人の様子を見ながら喋る。
  「この感触なら、三人が元の姿に戻って来れる限界は・・・精々一分だな」
  そして手を振るい、三人―――今の状況では三柱と呼ぶのが正しい彼らの背後にそれぞれ亀裂を生み出した。見る者が見れば次元の狭間からの出口だと判る。
  現実世界へと通じる穴をそれぞれの背後に作り出し、三柱を外へと導いていった。
  「行け。そしてお前らの敵を倒して戻ってこい、三闘神」
  それを合図にして、三闘神の力を得た三人の元人間は次元の狭間から冬木市へと旅立った。





  リルム・アーロニィの目は聖杯戦争が始まった時とは全く別人になったウェイバー・ベルベットを見つめていた。
  雁夜、桜ちゃん、士郎のように見た目に判りやすい変化があった訳ではない。心がウェイバーが大きく見せている。
  世界の半分を征服したライダーこと征服王イスカンダルと同じ場所に立っていると判り難いのだが、今のウェイバーには畏縮が無かった。躊躇も無かった。ただ自分に出来る事を精一杯やろうとする意思の強さと硬さがあった。
  これは初めて会った時のウェイバーには無かったものだ。ライダーと接し、聖杯戦争を体験し、今の自分の限界を知り、それでも何かをやり遂げようと自分を進化させた。
  全てではないが、その多くをカイエン・ガラモンドとして見たからこそ、弟子の成長を喜ぶ師匠の様な、子の発育に頬を緩ませる親の様な、そんな不思議な暖かさを感じるのだ。
  その気持ちは幻獣『バハムート』に跨るリルムにも伝わっており、自分より年上の男を上から見下ろすという不可思議な感情を生み出した。けれど、それは決して不快なものではなく、むしろゴゴがそう感じるように胸を暖かくさせる。
  例え、女の子のアサシンに短剣で胸を貫かれたウェイバーがいたとしても。感じるのは危機感ではなく、成長を遂げた男への称賛だった。
  「預かっておれ」
  心地よい思いに水を差したのは―――ここが戦場で敵は目の前にいると強制的に思い出させたのはライダーの言葉だった。
  見れば御者台の上には前の敵を見たままのライダーと、壁に背を預けてゆっくりと倒れていくウェイバーがいて、その近くには少女の姿をしたアサシンがいる。
  ここにきてようやく自分が何者であるかを思い知ってしまったのか。アサシンの象徴ともいえる、白い髑髏の仮面を頭の上に乗せながら、目を大きく見開いて、ウェイバーの血がこびり付いた自分の両手を見つめているアサシンの少女。
  ウェイバーを刺し殺した時点で令呪の拘束力は無くなったらしく、ウェイバーの胸に刺さった短剣は手放されて心臓を胸を貫いた所で止まっている。捻じ込んだり、引き抜いて傷口から血をまき散らしたり、より深く刺したりはしない。
  ライダーはそんな『刺されたマスター』と『敵の危険性があるアサシン』の二人に向かって手を伸ばし、それぞれの手で軽々と持ち上げてリルムがいる幻獣『バハムート』の背中に向けてウェイバーとアサシンを放り投げた。
  ただ浮遊しているだけだったからこそ、ほんの一瞬とはいえ手綱から手を離しても二頭の雷牛は驚かない。あっという間に御者台にはライダーだけが残り、片手には手綱、もう一方の手にはライダーが使う剣『スパタ』を握りしめて闘争の構図を整えた。
  放り投げられて空中を飛んでるウェイバーの心臓はアサシンの短剣で貫かれてはいるが、むしろ怪我の規模で言えばセイバーの剣で思いっきり砕かれた時よりは傷は軽い。
  常人であっても、心臓への手術で何とか一命を取り留められるかもしれない状況だ。
  ただし戦場において開胸術などやれる時間はないし、魔法で大抵の怪我を治せてしまうゴゴには医術の心得は無い。
  大怪我を負ったウェイバーと、ゴゴにとっては敵でしかないアサシンの少女が飛んできていると判っていながら。リルムの頭の中に合ったのは人の心を物真似するためにも、今まで以上に『人間』を知り、人体の構造や医療を知る必要がある―――そんなものまね士としての思考だった。
  そしてリルムはこうも思った。
  バハムートの上に二人が乗っかったら、ウェイバーの方に蘇生魔法『アレイズ』をもう一度かけよう、と。





 ロック・コールの目は遠くに見える王の財宝ゲート・オブ・バビロンから突き出た鎖の群れを捉えていた。
  あれもまた間違いなく宝具でありものまね士ゴゴとしての在り方が正体を探ろうと強く見てしまう。
  もちろん周囲にある戦場にも意識を割き、回復役として死にかけの者が居れば即座に治療できるように警戒は怠らない。
  時折、同じく回復役を務めているセリス共々殺そうと、四方の乱戦から飛び出る黒い塊が―――アサシンの投擲剣『ダーク』が脳天目がけて迫ってくるので、その対処も忘れてはならない。
  注意深く鎖を見ていると、その周囲で全く拘束されずにどうすれば良いか戸惑っている兵の姿を数人だけ発見できた。
 そもそも幻獣『ギルガメッシュ』を召喚したのはケフカであり、ライダーに呼び出された王の軍勢アイオニオン・ヘタイロイの兵たちにとっては敵である。
  けれど、戦うべき相手となってしまった伝説の八竜とは何故か戦っているので、単純に攻撃すればいいか迷いが生じる。敵の敵は味方なのか? そんな迷いがあった。
  言葉で敵か味方かを確かめる余裕はない。だから『敵の敵は味方』として区別を後回しにしているに過ぎないが。竜と同じように拘束されれば、やはり幻獣『ギルガメッシュ』もまた戦って倒す敵なのかと考えてしまう。
 だが、聖杯戦争の観点で考えればアーチャーも倒すべき敵なのだが、アーチャーを死なせないためにライダーは王の軍勢アイオニオン・ヘタイロイは発動した。
  明確に敵と味方に区別できるのは黒き英霊達と伝説の八竜、そしてそれらを召喚したケフカ・パラッツォのみで、幻獣『ギルガメッシュ』とアーチャーこと英雄王『ギルガメッシュ』の二人のギルガメッシュについてはどう扱えばいいか判らない。
  幾人かの兵が迷っているが、兵の戸惑いなど二人のギルガメッシュには全く関係のない。
  英雄王『ギルガメッシュ』は自分と同じ名前を持つ不愉快な存在と、敵―――彼にとっては竜種だろうと取るに足らない羽虫と同列に見ているかもしれないが―――とにかくそれらに向けて宝具を射出する。
  幻獣『ギルガメッシュ』は両手に武器を持った状態で拘束され、自由に動く顔は上空から降り注がんとしている武器を見上げている。
  「ふんぬ!」
 王の財宝ゲート・オブ・バビロンから武器が撃ち出されるのと幻獣『ギルガメッシュ』の掛け声が響くのは同時だった。
  目にも留まらぬ速さで撃ち出される山ほどの武器は鎖で拘束しているアーチャーにとっての敵のみに狙いを定めているようだが、撃ち出される宝具の数が多すぎて周囲にいる兵も軽く巻き込んでいる。
  砂漠の一角が絨毯爆撃に晒されるような無残な状況へと作り替えられていった。





  ティナ・ブランフォードの目は黒く染まったセイバーの姿を映し出していた。
  空から見下ろす先にいるのは、月の光に照らされる白銀の王―――ではなく、上から下までを漆黒に染め上げたバーサーカーと見間違う黒き騎士だった。
 約束された勝利の剣エクスカリバーを放つ前よりも更に全身に纏わりつく『黒』の侵食が進み、最早、面影は下半身の一部だけで、それ以外は黒く染まっている。
  よく見ればティナを見る瞳も右目は元の緑色を維持しているが、左目は変わってしまった状況を示すように金色に変わっていた。変わらぬ顔立ちの中に浮かぶ、おかしなオッドアイだ。
  その目が大きく見開かれ、今、目の前で起こった現象への驚きをありありと示していた。
 トランス状態になったティナが専用の剣『アポカリプス』を用いて約束された勝利の剣エクスカリバーを放ったことに驚いているのか。それとも自分が作り出した約束された勝利の剣エクスカリバーの輝きが眩い光ではなく全てを呑み込む闇色に変わってしまったことに驚いているのか。
 セイバーの真意は判らないがとにかく剣を構えながらも『風王鉄槌ストライク・エア』も『約束された勝利の剣エクスカリバー』も使ってくる気配がない。
 ある意味で隙だらけだったので、ティナはこの空いた時間を利用して、風王鉄槌ストライク・エアで傷つけられた怪我を癒す。
  「ケアルガ」
  体の至る所に出来ていた怪我が即座に塞がり、滴り落ちる血の流れが止まる。失われた血液は戻らずに万全とは言えないが、戦いに支障のない状況にまで体力が一気に回復する。
  ティナは怪我が癒えていく様子と一緒に地上にいるセイバーの異常を見つめた。そしてこの現象をもたらしている原因が何であるかを一瞬で結論付ける。
  それは他でもないセイバーのマスターである衛宮切嗣だ。
  マスターとサーヴァントの間に契約が結ばれると、本人の意思たちがどうあれ両者の間には繋がりが作られる。ライダーがそうだったように、魔力需要を一方的に行わないのが可能ならば、逆に魔力供給を一方的に行うのもまた可能だ。
  令呪がその良い例である。
  今の衛宮切嗣は『悪』に染まった聖杯と繋がって人類を救済しようとしている。セイバーへと魔力供給を行っているのはマスターたる衛宮切嗣の魔術回路だが、その魔術回路に外から魔力を供給しているのは聖杯そのものだ。
 セイバーは衛宮切嗣を通して、この世全ての悪アンリマユを内包する聖杯から魔力供給を受け、衛宮切嗣と同じように『悪』に染まりつつある。
 聖杯から直接ではなく、衛宮切嗣を介しての魔力供給だからこそか。それともセイバーの対魔力がそうさせているのか。衛宮切嗣のように完全にはこの世全ての悪アンリマユに犯されてはいないが、この様子では身に着ける鎧も剣も容姿も属性も変わってしまうのは時間の問題だろう。
  そうなればそうなったで、また物真似する新たな要素が出てくる。そんな期待がある。
  するとティナが回復したのを危険と判断したのか、セイバーは驚きを隠して無表情な顔を浮かべた。そして再び剣を空に向けて真っ直ぐに伸ばし、魔力を黒い光へと変換して刀身へと収束し始める。
  同じ技で来るならば拍子抜け。だから別の技を出してもらいたい。ティナは完全に塞がりつつある傷口を確かめながら、同じく剣を上に構える。
  ただし、今度は刀身に光を集めず、代わりに別のモノを収束し始めた。





  冬木市のあちこちに分散したミシディアうさぎ達は変わり果てた衛宮切嗣の場所を補足していた。
  聖杯戦争が始まってからはその中の数匹が透明になって各々のマスターとサーヴァントを補足し続けていたが、今は各所に散らばったミシディアうさぎが衛宮切嗣と言う目標を設定したうえで、別々に補足しなければ捉えられない状況に陥っている。
 固有時制御タイム・アルターを使用している衛宮切嗣の移動が速すぎて、一匹では対処できず。十数匹のミシディアうさぎが移動経路を先読みして移動と監視を交代で行わなければ見失ってしまいそうだ。
  ミシディアうさぎ達の監視対象は人ならば必ずある筈の疲労を全く感じさせず、魔術師であれば必ずある筈の魔力消耗を感じさせず。衛宮切嗣は走って撃ち、標的があれば撃ち、魔術を使って撃ち、人を撃ち殺している。
  一秒とかからずに数十メートルの距離を移動して言峰綺礼の死体がある場所から、冬木教会から、円蔵山から、数多の戦場遠ざかりながら、動く者を求めて徘徊し続ける。
  道に歩く者がいれば、襲撃者である衛宮切嗣に気付いても気付かなくても撃ち殺す。
  道路を走る自動車があれば、赤信号で減速しようと夜だからスピードを出していようと気にせずに運転席に銃弾を叩き込む。
  明かりが灯る民家を見つければ、照らされて出来上がる人影に向けて銃に見える聖杯の泥が形作るモノから銃弾に見えるモノを撃って次々と射殺していく。
  殺された中には冬木の街中で起こった異常事態を知る者がいたかもしれないが、今の衛宮切嗣こそがその渦中の存在だと知れる者は一人もいない。逃げ延びて生き抜いた者が警察に電話して異常を伝えたとしても、警察機関が動くよりも衛宮切嗣が殺戮を広める方が早かった。
  衛宮切嗣は誰にも邪魔されず―――衛宮切嗣の正義に従って世界を救済していた。
  雁夜、桜ちゃん、士郎。この三人が決断し、移動し、三闘神の力を肉体に取り込んで変身していく間にも殺戮は止まることなく続き。あっという間に衛宮切嗣が通った道に沿って死体の山が積み上がっていった。





  放り投げられたウェイバーと女の子の姿をしたアサシンが幻獣『バハムート』の上に落下してくる。リルムは足でバハムートの鱗を強く踏み、両手でそれぞれの体を支えた空から落ちるのを防いだ。
  ウェイバーの胸には剣が刺さったままになっているので、うつ伏せにすれば更に剣が人体を破壊するから仰向けにする。
  アサシンの方はまだ自分がウェイバーを刺した事を信じられないのか、理解した上で動揺しているのか。ウェイバーへの追撃も、リルムへの攻撃も、竜の上からの撤退も、何も選べず。ただ茫然としながらウェイバーの血がこびり付く自分の両手を見つめている。
  リルムが体を押さえても全くの無反応だ。
  放置しても問題ない。そう結論付けたリルムだったが、ウェイバーへの治療を始める前にアサシンに起こっている異常をいち早く察知した。
  サーヴァントとしてこの世界に現界する要素―――体を形作る魔力が急速に失われているのだ。
  おそらくどのマスターであっても感知できるほどの急速な衰退で、サーヴァントとしての存在感が時間と共に薄れていくのがよく判る。
  異常の原因は何か? 目の前で起こる状況とこれまで手に入れた情報から、リルムは疑問に思うと同時に答えへとたどり着いた。
  直接その場に居合わせた訳ではなく、ミシディアうさぎからの監視情報のみだが、ほぼ間違いはないだろう。
  言峰綺礼が死んだ。つまり今のアサシンには魔力供給を行うマスターがいないのだ。供給が無ければ死人であるサーヴァントは現世にはいられない。
  これが正規のサーヴァントならばマスターを失った状態でも数時間程度は現界できる。単独行動のスキルを持っているサーヴァントで、そのランクが『C』ならば一日程度は現界できて、『B』ならば二日程度は現界し続けられる。
 けれど今のアサシンは宝具『妄想幻像ザバーニーヤ』によって分裂させられた内の一体であり、当然、サーヴァントとしての力は弱い。更に、常に同行していたウェイバーに全く気付かれない魔力の弱さが現界できる時間を更に縮めていた。
  冬木の各所に散らばっていた諜報組織としてのアサシン、あるいはアインツベルンの森で殺されたアサシンだったならば、もっと現界の時間は長引いたかもしれないが。今、リルムに支えられている女の子のアサシンには元々現界出来るだけの最低限の魔力程度しか供給されていなかったのだろう。
  サーヴァントとして戦う役目すら担わなかった。
  これまでは辛うじてマスターからの魔力供給によって存在を保っていたようだが、マスターである言峰綺礼が失われた今、消滅までの時間はすぐそこにまで迫っている。
  正確な時間までは判らないが。蘇生を終えたウェイバーが目を覚ますまで持たない可能性も大いにあり得えた。
  ウェイバー・ベルベットはわざわざ自分を殺させてまでアサシンを救おうとした。その結果がマスターを失った末の消滅であると知れば絶望するだろうか? それとも事実を受け止めた上で耐えるだろうか?
  たどり着いた答えからウェイバーへの気遣いへと心が動きそうになるが、今はそれよりもウェイバーを生き返らせる方が先決だ。
  喜怒哀楽も生きているからこそ発生する。
  リルムは仰向けになったウェイバーを支える手に魔力を込めていった。





  マッシュ・レネ・フィガロは八竜が一匹スカルドラゴンに必殺技の一つ『オーラキャノン』を叩き込もうと狙いを定めている最中だった。
  死体でありながら動き続け、ただそこにいるだけで『生』を冒涜する骨だけの竜。けれどスカスカの体とは裏腹に八竜の中でも最も大きなイエロードラゴンにも匹敵する重量級の攻撃力を持ち、状態異常を巻き起こす攻撃を得意とする厄介な敵だ。
  だからこそマッシュは弱点である聖属性の攻撃―――オーラキャノンを撃ちこもうとしていたのだが、まさに必殺技を撃ち出そうとした瞬間、空から伸びてきた鎖にスカルドラゴンが捕まってしまった。
  これが味方の作り出した拘束だったならばマッシュはそのまま必殺技を叩き込んだかもしれなかったが、技の出所はアーチャーであり、マッシュ達にとってはむしろ敵側になる男の宝具である。
  マッシュは攻撃を躊躇った。
 その僅かな間にアーチャーの宝具『王の財宝ゲート・オブ・バビロン』は武器の発射準備を整えてしまい。空から武器を撃ち出す。
  自分以外は敵だろうと味方だろうと関係ない、隙間のない嵐が空から降りてきた。
  鎖を使ったのがアーチャーだと判っていたからこそ。マッシュはその攻撃の危険性にもたどり着いて、撃ち出そうとした必殺技を躊躇いと一緒に収め、アーチャーとは正反対の方角へと転進した。
  砂漠の大地に爆発音が鳴り響いたのはマッシュが走り出した一瞬後のことだ。見なくても背後から迫りくる熱気が背中を焼くのが判る、振り向く力を含めて全力疾走に置き換えたマッシュはとりあえず安全と思える位置までひたすらダッシュする。
  爆発音はまだ鳴り響いていたが、迫ってくる圧力が弱まったと感じた瞬間。マッシュは後ろを振り返って、自分がいた場所とスカルドラゴンの様子を見る。
  そこには爆発によって発生した膨大な砂ぼこりが巻き上がり、敵も味方も含めてそこにいる何もかもを包んで覆い隠してしまっていた。
  状況の見極めには砂ぼこりが晴れるまで待つしかない。
  「くそっ!」
  倒そうと思っていた敵を横取りされた悔しさから、マッシュは小さく愚痴をこぼす。ただし、ぼんやりと砂が落ち着くのを待つぐらいならば、別の敵に狙いを定めるべきだ。
  戦場で立ち止まるなど愚の骨頂―――。マッシュは別の竜を倒すべき敵と定めて別方向へと走り出す。
  セリス・シェールはそんな別方向へと駆け出していくマッシュを見ながら、巨大な砂ぼこりの中から抜け出す一つの大きな塊も見つめていた。
 あちこちを動き回り敵に殺到する王の軍勢アイオニオン・ヘタイロイの兵士ではない。両手足を持った人型なので、八竜でもない。全体的にオレンジ色の色彩だったので、ケフカに召喚し直された黒き英霊達でもない。
  幻獣『ギルガメッシュ』だった。
  ロックとは別の視点からアーチャーの敵が鎖で拘束される様子を見ていたので、あの鎖がどの様な効果を持っているかと、幻獣『ギルガメッシュ』がどのようにして脱出したのかもしっかりと見れたのだ。
 王の財宝ゲート・オブ・バビロンの中から現れた鎖―――アーチャーが『天の鎖』と呼んでいた宝具は神性を持つ相手に強力な拘束力を発揮する効果を持っているようだが。その反面、神性の無いサーヴァントや人間にとっては多少頑丈な鎖に過ぎないらしい。
  もし幻獣『ギルガメッシュ』がアーチャーこと英雄王『ギルガメッシュ』の半神半人の要素を持っていたとしたら、拘束から抜け出すのも天の鎖を引きちぎるのも不可能だったろうが、魔石から呼び出される彼はあくまで伝説の剣豪であって神性など欠片も無い。
  だからこそ宝具の雨で集中攻撃を喰らう前に何とか鎖を引きちぎり、致命的な連打を受ける前に脱出できたのだ。
  直撃は避けたが爆発と同時に生まれる余波は耐えるしかなかったらしく。マッシュと同じく全力疾走で駆けながらも、鎧のあちこちが損傷しているのが見える。
  「エンキドウ・・・?」
  幻獣『ギルガメッシュ』は走りながら周囲を見渡し、ついさっきまでいた場所も振り返って相棒の姿を探していた。
  しかし砂から抜け出して走っているのは一人だけ。
  鎖から抜け出せずに武器の嵐に貫かれて消滅してしまったか? それとも巻き起こる砂ぼこりの中でじっと息を潜めて隠れているのか? どちらにせよ幻獣『ギルガメッシュ』の目に見える範囲からエンキドウが居ない事実は覆らない。
  「置いてけぼりは無しだぜー!」
 「その口を閉じろ! それ以上オレの友を汚すな」
  悲壮感を込めてエンキドウの名を呼ぶ幻獣『ギルガメッシュ』だったが、それは英雄王『ギルガメッシュ』の怒りを更に増幅させる効果しか作り出さなかった。
 しかも天の鎖から呆気なく脱出されたのが余計に怒りを増大させているようで、空に輝く王の財宝ゲート・オブ・バビロンの輝きが更に増えていく。
  自分が消滅するよりも幻獣『ギルガメッシュ』を抹消する方が重要なのか、あるいは急激な魔力消費に気付いていないほど頭に血が上っているのか。
  ウェイバーを刺したアサシン同様に言峰綺礼が死んだので、輝きを増やすのと引き換えにサーヴァントとして現界するための魔力が加速度的に消耗されていくが、アーチャーはそんな事は全く気にせずに空に宝具の光を増やしていった。
  その輝きの幾つかからはまだ天の鎖が伸びており、宝具の雨に晒されながらもまだ消滅していない八竜の健在を示しているのだが、アーチャーは同じ名を持つ幻獣『ギルガメッシュ』しか見ていない。
  「あばよ!」
  「逃がすかぁっ!!」
 両手に武器を持ったまま走り続ける幻獣『ギルガメッシュ』に向け、アーチャーは再び空にある王の財宝ゲート・オブ・バビロンから宝具の雨を降らせた。





  ミシディアうさぎ達が監視する衛宮切嗣は殺戮を続けていたが、不意に何かに感じたかように山の方を見た。
  セイバーとティナがいる円蔵山の方角ではない。方向としては間桐邸や遠坂邸がある方角なのだが、冬木に存在するどの戦場もその方向には存在しない。
  衛宮切嗣が向いた方向を説明するのに最も適した言葉があるとするなら、それは『衛宮切嗣自身が通ってきた経路』だ。
  ほんの一瞬、殺戮を止め、その方角をジッと眺める。
  衛宮切嗣が立っている場所はビル群から民家が並ぶ住宅街へ移動しており、夜だからこそ辺りには人気は無く閑散としている。
  まだこの辺りに住む人々は家の外にいる一人の男が冬木の住人を殺しまわっている事態に気付いてないようだ。
  もし衛宮切嗣が仕出かした殺戮の状況を僅かでも見れば、この男こそが冬木を騒がせる連続殺人犯であると思い、今はもういないキャスターのマスターの残虐な所業と結びつけるに違いない。
  ミシディアうさぎは物陰から動きを止めた衛宮切嗣をジッと見る。
  殺し損ねた者でもいたのだろうか?
  衛宮切嗣を監視していた一匹のミシディアうさぎの自由意思がそう考えた次の瞬間、衛宮切嗣は向いていた方向とは逆、つまり海の方向への向けて再び走り出した。
 「固有時制御タイム・アルター・・・・・・四倍速スクエアアクセル――」
  それどころか走っている最中に使うだけで人体がボロボロに破壊されて死んでもおかしくない四倍速の魔術すら使う始末。
 これまでも固有時制御タイム・アルターを使ってきたが、それは人を殺す場合にのみ使用されてきて、走る行為だけの場合には使われてこなかった。必ず魔術と殺戮はセットになっていた。
  何をそんなに急いでいるのか?
  あまりにも移動速度が早すぎるので次の監視を別のミシディアうさぎに任せるしかない。一瞬前まで衛宮切嗣を補足していたミシディアうさぎは別のミシディアうさぎに監視を譲り、電信柱の陰から身を乗り出して衛宮切嗣が見ていた方向を同じように見つめた。
  そして気付く。通常の四倍の速度で走る衛宮切嗣の移動速度よりも更に早く―――、ジェット機の様に音速に近い速度で空を飛び、けれど人工の推進機関ではなく羽根によって飛行する生物が衛宮切嗣を追いかけるように進んでいる。と。
  初めからそこに何かいると思っていなければ、見過ごしてしまいそうな速さで移動していた。
  ミシディアうさぎがそれを発見してから上空を通り過ぎ去ってしまうまでは一秒も無かったかもしれないが。ミシディアうさぎはしっかりとそれの全景を目で捉えた。
  大きさは人の大人と同じ程度。ただし、六本ある手の一本には無骨な剣が握られ、残りの五本は威嚇するように大きく広げられていた。下半身は何らかの塊に覆われて見えなかったが、手よりも大きく広げられていたのが一番目立つ黒い羽根だ。
  ゴゴが呼び出す幻獣『ディアボロス』、あの悪魔の名を関する幻獣よりも禍々しく、恐ろしく、見ただけで凍えそうな寒さを内包する何か―――。
  別のミシディアうさぎが四倍速で駆ける衛宮切嗣を補足し、その一瞬後には空を飛んで追いかけるそれも補足してしまう。
  ミシディアうさぎからミシディアうさぎへ。
  別のミシディアうさぎからそのまた別のミシディアうさぎへ。
  そうやって衛宮切嗣と彼を空から追う何かはミシディアうさぎ達が作り出す監視網の中を一直線に進み、遂には海にまで到達してしまった。
  次元の狭間から抜け出したものまね士ゴゴはミシディアうさぎの視線を引き継いで、海の上からその様子を見つめる。
  冬木市内ならば次元の狭間の入り口から出口まで移動するのに一瞬すら必要ない。ミシディアうさぎの視線から衛宮切嗣が向かう場所を予測したゴゴは、先回りして海の上で待機していたのだ。
  浜辺を見れば、たった今到着した衛宮切嗣以外にも、少し離れた個所では夜の海でムードを盛り上げようとするカップルや夜釣りに勤しむ人々の姿もある。
  この場面だけを見れば、平和な夜の海と見えなくもない。しかし、今の冬木に地獄を死体の山を作り出そうとしている張本人がそこにいる。
  欠片も海の方を見ず、ただひたすらに走ってきた方向を振り返る衛宮切嗣はゴゴに気付いていないようだ。
  旧約聖書に登場する海の怪物レヴィアタンの英語名―――海の中をたゆたう幻獣『リヴァイアサン』の背に乗って、状況を見守っているゴゴがそこにいるなんて、考えもしないのだろう。
  しかしそれも衛宮切嗣の気持ちになって考えれば当然と言えるかもしれない。
  海とは逆方向から迫りくる何かは、紛れも無く衛宮切嗣にのみ焦点を絞り、隠そうともしない気配を存分に広げて迫っているのだ。まだ明確な敵意や殺意の類はないが、『自分を追いかける何か』が近づいていると気付いてしまえば、自然と距離を取る。
  これが警察官や野次馬など単なる人間だったなら衛宮切嗣は即座に撃ち殺そうと待ち構えた筈。けれど、今回は相手が悪い。何しろこの世界とは別の世界だが、神と呼ばれた存在の力を宿したモノが相手なのだ。
  不用意に攻撃する前に状況の見極めこそが先決。
 衛宮切嗣がそんな風に考えたかどうかは本人にしか判らないが、少なくともまだ危険を感知して一時的な逃亡を選べるぐらいの理性が残っているのにゴゴは驚いた。てっきり、精神も肉体も心も存在も何もかもを聖杯に喰われてしまったと思っていたが、同時に取り込んだ宝具『全て遠き理想郷アヴァロン』のお蔭で、まだ『衛宮切嗣』の一部は残っているらしい。
  ただし、ゴゴに気付いていない時点で周囲への警戒が疎かになっているのは間違いない。
  リヴァイアサンの巨体が海に隠れられるように海岸からかなり距離を取っているが、異質な魔力を持つ生物がそこにいるのだから見つけようと思えば見つけられる筈。
  ゴゴが観戦のみを意識して戦う意思を全く見せず、ゴゴが乗っているリヴァイアサンが水中に沈んだままでいるのも気付かない原因だろうが。もしあれが本当に衛宮切嗣だったなら、どれだけ離れた場所に居ようとも。敵がいるかもしれない、と海の方を凝視するぐらいはしただろう。
  聖杯と宝具によって、もうあれは衛宮切嗣とは違うモノになってしまったようだ。
  そう結論付けるのと時同じく。衛宮切嗣を追ってきた何かが海岸防風林の向こう側に姿を現した。
  そしてゴゴから見れば左右からも同じように人のように見える何かが空を飛んでやってきた。
  一つ。二つ。三つ。
  衛宮切嗣にとっては浜辺に沿って近づいてくるそれらは唐突に現れたように感じるかもしれないが、衛宮切嗣が自分を追ってきたモノに気付く以前から、それらはこの場所を目指していた。
  ゴゴから見て右側からは紅い鎧をまとい背中から生えた羽根で空を飛ぶ人の様で人ではない異形。
  ゴゴから見て左側からは空に浮かぶ大きな生首に乗る女。浮かぶ場所が海上である状況を考えれば黒い水着に見えなくもない薄手の衣装をまとっている。
  そしてゴゴの真正面からは衛宮切嗣を追って街中から迫る六本の手を持つ怪物だ。
  衛宮切嗣を中心にして三方から三匹、いや三柱の神が三角形の囲いを作っていた。
  自分を追ってきたモノを、右斜め後方から迫るモノを、左斜め後方から向かってくるモノを、衛宮切嗣はそれぞれ見る。
  衛宮切嗣はようやく自分がこの場所に逃げてきたのではなく追い立てられたのだと気付いたようだが、もう遅い。
  ここが、この場所こそが、多くの力を得ながらそれでも『人』である者たちが決着をつける戦場なのだ。衛宮切嗣に逃げ場はない、ここで戦うしかない。
  「バトルフィールド――展開」
  ゴゴはようやく整った舞台に邪魔物が入らぬよう海の上から衛宮切嗣と三柱の神―――『魔神』『鬼神』『女神』の力を得た人間の全てを包み込むように、半球状の結界を展開した。
  風船の口に相当する部分にいるゴゴが結界を張ると、半球状の風船がどんどんと膨らんで戦場を作り出していく。
  ただし弊害もあり、バトルフィールドの中に巻き込まれた人間たちがいて、彼らが結界の中にいれば巻き込まれて死んでしまう可能性は非常に高い。決定事項と言ってもいい。
  ゴゴが乗っているリヴァイアサンとは違う幻獣を呼び出して強制的に排除するか。それとも睡眠魔法の『スリプル』で眠らせてミシディアうさぎに運ばせるか。
  雁夜と桜ちゃんを変身させるために用いた方法をもう一度使い、次元の狭間に押し込んで安全な場所に放り出そう―――。瞬時に方法にたどり着いたゴゴは戦場の様子を観察しながら、バトルフィールドの中にいる民間人の強制退去を進める。
  ゴゴの視線の先で『魔神』の力を得た雁夜と、『鬼神』の力を得た士郎と、『女神』の力を得た桜ちゃんが衛宮切嗣の元に集結し、戦いが始まろうとしていた。





  ティナはゴゴの意識を介して海の方で始まろうとしている強大な戦いの予兆を知っていたが、それは頭の片隅にある些細な出来事であり、目の前で起こっている戦いに比べれば後回しにすべき事柄と切り捨てる。
  『悪』に汚染された聖杯から無限ともいえる魔力を供給し続けられるセイバーは他の事に意識を割いたままで戦えるほど甘い敵ではない。
 「約束された勝利の剣エクスカリバー!!」
 「風王結界インビジブル・エア!!」
  振り下ろされたセイバーの剣から再び黒き極光が放たれ、全てを切り裂く斬撃となって空に撃ち出された。
  当たれば今のティナであっても一たまり一溜まりもない。けれど、それは当たればの話だ。
 ティナは格好こそセイバーと同じく『約束された勝利の剣エクスカリバー』を放つように剣を上に構えていたが、刀身にまとわせたのは魔力ではなかった。
  風だ―――。
  ティナが構える剣『アポカリプス』は口から出た叫びとは裏腹に全く振るわれず、真上に構えられたままの状態で天上へと向けて大気の噴流を放った。
 倉庫街の戦いでセイバーが見せた風による加速。その風による強制移動を空から地上への降下へと使い、一瞬前までティナがいた場所を約束された勝利の剣エクスカリバーの黒い光が通り過ぎた時には、桃色に輝くティナの体は地上へ降り立っていた。
  技の威力が大きければ大きい程、その後に出来上がる隙もまた大きい。
 確認されているセイバーの約束された勝利の剣エクスカリバーは『所有者の魔力を光に変換』『変換の後に収束して加速』『真名を名乗りながら両手で渾身の振り抜き』と段階を踏まなければ発動しない。敵の眼前でいきなり使える便利な技ではないのだ。
  あるいは黒く変質してその点が改善されたかとも思ったが、地上に降り立ったティナの目に飛び込んできたのは剣を振り下ろした体勢で止まるセイバーだった。
  異常なまでの魔力供給によって連続発動を可能にはしていたが、段階の最後に『高い魔力消費で放った後の動きが鈍る』と追加しなければならないようだ。
  あまりの素早い移動に地面に衝突しそうになるが、その直前、ティナは真上に構えていた『アポカリプス』を後ろに反らし。撃ち出した風の勢いを前に跳ぶ推進力へと切り替える。
 風王結界インビジブル・エアを使っての着地の勢いは凄まじく。無機物が破壊できない筈のバトルフィールドの効果範囲内で、両足で踏み込んだだけで地面に亀裂が走りそうだった。
  足の骨が折れるどころか肉がひしゃげそうな衝撃には歯を食いしばって何とか耐え。空から舞い降りた勢いをほとんど殺さずに前に跳ぶ。
 そこにいるセイバーに向け、風王結界インビジブル・エアの効果を消しながら、剣の英霊に対して剣を構えて突っ込む。
  大地を駆け出した刹那、ティナは見た。振り下ろした剣を持ち上げて、迎撃の体勢を整えていく黒きセイバーの姿を―――。
  セイバーの位置からは黒い極光が邪魔になって、空の上から地上まで一瞬で降りて突っ込んでくる姿は見えていなかった筈。それなのにセイバーはティナに向けて剣を構えようとしている。この調子では、ティナがセイバーの元へとたどり着くころには構え終えられてしまう。
  さすがは剣の英霊。
  それが敵の物であったとしても、迫りくる『剣』には頭で意識するよりも前に体が反応するようだ。
 しかしティナとて無策で『約束された勝利の剣エクスカリバー』を放った後に出来る隙をついて接近戦に移行した訳ではない。剣の英霊に対して勝算あっての選択なのだ。
  ティナが握る青い刀身の剣『アポカリプス』は使用者の魔力を吸って通常の二倍の物理攻撃を放つ魔剣である。雁夜が持つラグナロクには爆裂魔法『フレア』を刀身の先に時々発動させる効果があるが、こちらは常時発動する。
  剣を振るえば振るう程に魔力は吸われるが、その代償としてティナの力は見た目を裏切る強大な破壊力を単身で生み出せる。
  目算で、セイバーを上回るほどに―――。
  もしかしたらティナが剣を用いて接近戦を仕掛けようとしたのは『間近でセイバーの剣術が見たい』というゴゴの意識が働いたが故かもしれないが、ティナ自身はセイバー相手に剣で勝てる見込みは十分にあると踏んでいた。
  少なくとも剣と魔法を併用すれば互角には持ち込めると踏んでいる。
  刀身にまとっていた風が消え、移動手段としての剣は無くなり、敵を斬り殺す武器へと変化する。応じるようにセイバーもまた剣を構えた。
 ティナは後ろに構えていた『アポカリプス』を下から振り上げ、セイバーは少し掲げた『約束された勝利の剣エクスカリバー』を振り下ろす。
  音よりも早く動いた二本の剣が衝突し、打ち合った個所を中心にして爆発に似た衝撃が生まれた。





  カイエン・ガラモンドは両手に槍を持つサーヴァントの一人と向かい合っていた。
 目の前に立つ男はついさっきまで王の軍勢アイオニオン・ヘタイロイの兵の一人と戦っていたのだが、その一人は槍で貫かれて無力化されてしまい、すぐ近くの砂の上に転がっている。
  運が良ければロックとセリスの回復が間に合って、死ぬ前に再び戦線に戻れるだろう。ただし、今のカイエンには視界の片隅にいる死体一歩手前の誰かに気を配る余裕はない。
  目の前に立つ黒き槍兵が隙あらば貫かんと対峙しているからだ。
  姿形こそフィオナ騎士団、随一の戦士、『輝く貌』と謳われたディルムッド・オディナなのだが、彼の自意識は『憤怒』や『憎悪』『激情』に呑みこまれて、涼しげな顔で聖杯戦争に挑んでいた様子はどこにも見当たらなかった。
  ケフカが彼ら黒き英霊達を呼び出すときに用いた狂化の属性付加が狂ってしまった直接の原因ではあるが、それにランサー自身が身を委ねたのも彼の心が消えてしまった大きな原因と言える。抗えばランサーのサーヴァントとしての心が僅かに残っただろう。
  カイエンの前にいるのはディルムッドでもランサーでもない。衛宮切嗣が聖杯に呑まれてしまったように、形が同じだけの別物なのだ。もう黒いサーヴァントの中には騎士としての尋常なる勝負など欠片も残っていないだろう。
  「哀れ・・・。せめて苦しまぬよう、拙者が斬るでご」
  ざる。と言い終える直前、狂った槍兵はカイエンに向かって突進してきた。
  カイエンはロックに預かってもらっていた最強の刀―――斬魔刀を構え、迫りくる敵に応えるように自分もまた前に出る。
  ランサーだったりディルムッドだったならば、話している途中で攻撃を仕掛けてくるような真似はしなかっただろう。
  ケフカに操られてしまっている今はこうなるだろうと予測していた。当たって欲しくないと思いながら、それでも考えていたからこそ驚きは無く、ただ戦うために前に出る。
  二本の槍と一本の刀。数では黒き槍兵にこそ分があるが。その程度で臆するカイエンではない。
 長さで優る破魔の紅薔薇ゲイ・ジャルグの切っ先を同じく斬魔刀の切っ先で受け、そのまま斜め後ろへと流していく。互いに敵に向けて進む勢いを利用して懐に入る算段だったが、逸らそうとした槍が徐々に元の位置へと戻されようとしていた。
  「むっ!?」
  勢いを完全に殺し切るほど桁違いの力ではなかったが、カイエンが両手で持つ刀を片手に持った槍だけで押し戻すほどの力は合った。
 強引な力で体勢が僅かに崩され。加えて、もう片方の手にあった必滅の黄薔薇ゲイ・ボウが待ち構えるようにカイエンの崩された体勢の向かう先に合った。
  カイエンは身を捻りながら更に前に跳ぶ。
  頭と首を貫かんと伸びてきた黄色の槍が首筋すれすれを通り抜けていく感触を感じながら、体をもっと捻らせて回転する。斬魔刀で斬れる体勢も崩してしまい、刀は敵を斬る為の武器ではなく身を守るための防具となった。
  横回転しながら地面と水平に飛び、黒き槍兵の後ろにまで跳んだ。
  肩から地面に落ちて、その勢いのままに回転し、起き上がって再び斬魔刀を構える。黒き槍兵もまた、突き出したばかりの二本の槍を構え直しており、再び突進の体勢を整えている。
  刹那の間を経た後。黒き槍兵は前に跳び、カイエンもまた前に跳ぶ。
  両者が到達するまでのわずかな間、カイエンはランサーならば本来は持ちえなかった膂力の出所がケフカによってもたらされた『狂化』の属性付加であると結論付けた。
  カイエンの両手持ちの刀を片腕で押し切るとは凄まじい力だ。バーサーカー顔負けである。
  元々持ち合わせていた速度は増し、腕力もまた大幅に強化されている。ただし、狂ってしまったからこそ槍術はあまり冴えていない。
  紛れも無くランサーは自分の肉体に刻み込まれた槍術で戦っているが、力押しの印象が非常に強い。
  力と速度で押し通す狂戦士を思わせるその在り方に再び憐憫の情がわき上がりそうになるが、同時にこの状況を作り出している相手があのケフカ・パラッツォだからこそ負けられないとも思った。
  カイエンの夢の中にとり憑き、魔大戦で心をなくした多くの魂が集まって生まれたモンスター『アレクソウル』。あの戦いを経て心から迷いを消し。カイエンは全ての必殺剣を極めた。
  その時、過去を振り返らぬと心に刻んだが。ドマ王国を毒でもって滅ぼしたケフカを許した訳ではない。
  むしろ、未来に進むためにここにいるケフカを斬らねばならない。手先と成り果てた黒き槍兵もまた斬らねばならない。
  殺し合うまでの一瞬で普段ならば考えられないほど多くの事がカイエンの中を行き来した。
  カイエンは前から襲い掛かってくる二本の槍を見ながら、斬魔刀を振るう。
  敵を斬る為に―――。





  「アレイズ――」
  マスターを失ったサーヴァントがどうなるかはさておいて、今にも死にそうなウェイバーを放置していたら蘇生魔法を用いても生き返れない所まで逝ってしまう。
  アサシンがウェイバーを刺した事を後悔していたとしても、それが今は亡き言峰綺礼からの最後の命令だったとしても、主体となるウェイバーが居なければ何も始まらない。
  だからこそリルムはアサシンへの警戒を行いながらも、ウェイバーを生き返らせることを優先させた。
  蘇生魔法『アレイズ』がウェイバーを包み込むと、突き刺さった剣が自然に抜けていく。
  傷口が塞がっていく。
  顔に血色が戻っていく。
  まだ刺されたばかりでセイバーの時よりも傷は浅い。これならば以前よりも早く万全の状態に戻せるだろう。
  だが、蘇生に集中しなければならないのはどうしようもなく、アサシンへの警戒が精一杯で攻撃に転じるのは不可能だとも判ってしまう。
  足場であり攻撃手段でもある幻獣『バハムート』によって守られている状態だからウェイバーの蘇生を邪魔される様なことにはならないだろうが、完璧に攻撃は封じられた。
  敵を前にしながらも手も足も出せない状況を歯がゆく思ってしまうが。それもまた仕方のない事だと諦める。
  何故なら―――今、敵に攻撃するのはリルムの役目ではないからだ。
  適任が他にいる。
  敵の攻撃は彼に任せればいい。
  そう思いながら視界の中に『彼』―――ウェイバーを放り投げたばかりのライダーを入れる。
  リルムを信頼しているのか。放り投げたウェイバーには見向きもせず、ライダーはただ敵を見つめていた。
  意識はウェイバーとアサシンに向いているので『見る』ではなく『視界に入れる』に留め、単なる風景の一部としか見れないのだが。それでもライダーの背中からはそばにいるのが苦しくなるほどの圧迫感を感じる。
  自前の貯蔵魔力だけで賄ってきたライダーが、サーヴァントとしてマスターから全開の魔力供給を受けた。
  聖杯戦争で構築されるべきマスターとサーヴァントの姿が、ウェイバーが一度殺されて正規のマスターで無くなった状態で作り出されたのは奇縁と言うしかない。
  リルムはライダーを視界の中央に置いている訳ではない。集中して見てる訳でもない。それでも、ライダーの中に力が漲っていくのが判る。
  体の中を渦巻く闘志と、ウェイバーからもたらされた魔力が絡み合って、敵を倒す意思へと変わっていく。
  敵―――この場合はケフカを守護しているストームドラゴンもなのだが、竜はしっかりとライダーを見ていた。
  ライダーもまたストームドラゴンを見て、体の中から溢れそうな力を爆発させるタイミングを計っているようだ。
  どちらかが先に動いた訳でもなく。第三者の介入があった訳でもなく。ただ空の上で向かい合った敵同士は全く同じタイミングで技を放つ。
  「トルネド」
 「遥かなる蹂躙制覇ヴィア・エクスプグナティオ
  風属性の攻撃を全て吸収するストームドラゴンが自分の特性を生かし、技の効果範囲内にいる敵味方問わず無差別に切り刻む竜巻を生み出す。
  当然、その中には幻獣『バハムート』もリルムも、蘇生中のウェイバーもアサシンも入っている。
 ライダーが叫ぶと二頭の雷牛がいななき。次の瞬間、神威の車輪ゴルディアス・ホイールは目にも留まらぬ速度で前方に現れた竜巻へと突っ込んでいった。





 ティナが持つアポカリプスとセイバーの持つ約束された勝利の剣エクスカリバーの刃が互いにぶつかり合った瞬間、二人は刀身をぶつけあったままの体勢で向かい合った。
  鍔迫り合い。
  本来ならば真剣では決してありえない構図が作り出され、ティナの目はセイバーを、セイバーの目はティナの目を見る。何故ありえないか? それは武器の衝突は常に真正面から起こるものではなく、接触箇所が僅かにずれれば相手の武器もこちらの武器も別方向へと流れてしまうからだ。
  迫りくる力に対して、力で真っ向から対抗して押し返すなんて状況は殺し合いには無い。どれほど正確に向かい合った力であっても、必ずそこにはずれが生じる。
  それが鍔迫り合いの起こらない理由だ。
  しかし現実には起こっていた。
  セイバーが振り下ろした剣と正反対の力が生まれ、正しい拮抗状態を作り出している。それどころか、セイバーが止まってしまった剣を動かそうとすると、それに合わせてティナの剣もまた動き、鍔迫り合いの体勢を続けていく。
  ティナを見るセイバーの顔は何の感情も浮かべない無表情を保っているが、内心は驚きで溢れているであろう事が容易に想像できた。
  剣だけに限らず、どう動き、どう構え、どういなし、どう流すか。その先読みがなければ鍔迫り合いは成立しない。それがほんの一時だったとしても、動きを完全に読まれていると言うことになる。
  ティナの動きの原形はゴゴが物真似したセイバー自身の動きだとは夢にも思わないだろう。鍔迫り合いが成立したのはセイバーの動きを物真似して『こう動く』と予測できていたからこそだ。
  僅かにできた空白。ティナはそれを使ってセイバーに語りかけた。
  「その程度なの?」
  「・・・」
  「これで剣の英霊?」
  聞きようによっては侮蔑とも取れる言葉への返答はなかった。
  代わりにセイバーは僅かに剣を引き―――当然、ティナのアポカリプスもそれを追って前に出るが、鍔迫り合いの体勢は強制的に終わらせられた。
  止めたのは下から伸びてきたセイバーの足。ティナの腹部に打ち込んだ蹴りが二人を強引に引き離したのだ。
  もっとも、セイバーの蹴りはあくまで状況を変化させるためと、一旦距離を取る為に行われたもので、打撃としての威力は少ない。ティナ自身もセイバーの蹴りが渾身の力を繰り出す直前に後ろに跳んで威力を殺したので、痛みは皆無に等しい。
  二人の間には数メートルの空間が出来上がるが、セイバーは瞬時に仕切り直して、前に跳ぶことでその距離をゼロにした。
  ティナから見て右側に構えた剣がティナの上半身と下半身の分断せんと迫る。ティナもまた同じくセイバーの動きに合わせて前に出て、同じように右側にアポカリプスを構えてセイバーの胴体を斬ろうと剣を繰り出す。
  全く同じ踏み込み、全く同じ構え、全く同じ軌跡を描いて二つの剣が交錯する。ぶつかったのは二人の剣の刀身ではなく、鍔の部分だった。
  時に相手の剣を引っ掛け、弾き飛ばし、直接殴りつけたりもする。そこが正面からぶつかり合って、互いの剣を自身の胴に当たる寸前で止めていた。
  『斬る』によってのみ発動するアポカリプスの力はここでは発動しなかったので、二人の剣が止まった後はセイバーの剣が徐々にティナの剣を押し込んでいく。鎧を身に着けている分、一旦、止まってしまった剣では威力が出ず、逆にピンクの体毛しか胴を守る術がない今のティナならば力で押し切った方が良いと判断したようだ。
  今度は鍔迫り合いの状況には陥りそうになかったので、ティナは自分から動いて状況を動かす。鍔迫り合いをした時のセイバーと同じように足で蹴りを繰り出し―――。
  「ファイア」
  と見せかけて僅かに足を動かしたところで、アポカリプスを握りしめた手から直接魔法を発動させた。
  澄んだ空を思わせる青い刀身から噴き出す真っ赤な炎。セイバーには当たたなかったが、体のすぐ近くを炎にあぶられ、セイバーは身を引いてしまう。
  英霊もまた人であり痛みも突発的な出来事も完全には無視できない。本能に根付いた反射が作り出す隙をついて、今度こそティナはセイバーと同じように足をセイバーの腹に伸ばし、そこにある黒く染まった鎧を足場にして後ろに跳んだ。
  再び二人の距離が開く。
  剣先をティナの目に向けて構えるセイバーがいて、オッドアイになってしまっている目が射抜かんばかりに睨みつけてくる。その目がセイバーの顔を無表情から怒りへと変化させており、『卑怯な!』と責めているようにも見えた。
  宝具を物真似し、剣の戦いと見せかけて別の技を使う姑息さ。清廉潔白の騎士であろうとするセイバーにとっては怒りに値するのかもしれないが、むしろ正しき在り方を汚しているのは今のセイバー自身だ。
  もしセイバーが本当にティナの卑劣さに怒っているとするならば。その怒りはティナではなく、語りかけてきたバーサーカーを無情に殺したセイバー自身に向けるべきだ。
  幻獣とは魔法の力の申し子であり。剣を扱うのはむしろ人としての技術であって、幻獣の血を継ぐティナの本気は魔法なしに成立しない。トランス状態のティナの姿をみて人と同じ剣しか使わないと思う方がどうかしている。
  だからティナは向けられたセイバーの視線を軽く流し、再び言葉を投げつけた。
  「本気ださないと・・・殺しちゃうよ」
  もう何度目かになるティナらしからぬ言葉だと理解しながら、それでも言葉は止まらない。ティナとして喋っているのか、それともゴゴとして喋っているのか、時折わからなくなる瞬間があった。
  ティナは思う。
 バーサーカーを消滅させた時を含めればすでに三回。宝具『約束された勝利の剣エクスカリバー』を放っていながら、魔力が途切れる気配がまるで無い。
  そもそもティナと戦える時点で、バーサーカーの時に負った怪我は回復し、体力も戻っていると考えるべきだ。鎧の下は見えないが、すでに完治しているに違いない。
  驚異的な再生力と魔力の増強。
  これは脅威だ―――。しかし、衛宮切嗣を介しての聖杯の力がセイバーへと流れ込んでいるのに、ただ宝具を連射できるようになるだけでは興ざめだ。
  そう思うティナの意識はもうゴゴの意識になっているのかもしれないが、生死をかけた戦いにおいて相手に対して『つまらない』と感じ始めてるのは間違いなかった。
  だから剣を構えたまま動こうとしないセイバーに向け、本気を出させるために魔法を唱える。セイバーが積み重なっていく異常事態に警戒しているのか、それとも別の理由かで攻撃してこないのは関係がない。
  余力を残して負けるような無様な真似はしてほしくない。全力を出してほしかった。それはティナであってもゴゴであっても偽りのない本心なのだから。
  「ファイガ!」
  炎、氷、雷。三属性の攻撃魔法の中でも、特にティナが得意とする―――魔石を介さず、独自に覚える事が出来る炎属性の高位魔法を放つ。
  右手には剣『アポカリプス』が握られ、左手はまっすぐにセイバーに向けて伸ばす。桃色に光るティナの体から球形のオレンジ色の燐光が一瞬だけ光った後、ティナの頭上から拳大にまで圧縮された炎の塊が現れ、流星のようにセイバーに襲い掛かった。
  さあ、もっと力を出し合って戦おう。怒り、驚いている時間があれば、本気を出してもっと別の技を繰り出して見せろ。
  黒く染まったセイバーに呼応するように、ティナの意識もまた黒く染まっているのかもしれない。ゴゴでもあり、ティナでもある存在はそう思った。





  「あああああああああああ――」
  叫び声と共に衛宮切嗣が銃口を向けたのは『魔神』の力を得た雁夜だった。
  追い詰められた場所にいた者たちと自分を追いかけてきたモノ。より強く恐怖を抱いたのが後者だったのか、それとも一番人間らしからぬ六本腕の怪物を一番厄介だと感じたか。
  人間らしい感情などほとんど残していない衛宮切嗣の心がどのような判断を下したかは判らない。判るのは向けられた銃口から銃弾に見える物が乱射され、空を浮かぶ雁夜に向かって殺到する事実のみだ。
  雁夜は腕の一本が握る魔剣ラグナロクを前に構え、それ以外の五本の腕を曲げて剣の周囲に置いた。
  主に頭や心臓など重要な個所を守る生身の肉体。これが普通の人間だったなら、銃弾は人の体を貫通して雁夜の急所にまで到達しただろう。
  しかし、今の雁夜は普通ではない。
  銃弾に見えるモノが殺到し、それを『魔神』の腕が弾いた。ただし、完全に弾いている訳ではなく、上腕や前腕には凹んだ個所が出来上がって、普通の人間が投石で痛みを感じる程度のダメージは負っているらしい。
 「固有時制御タイム・アルター四倍速スクエアアクセル
  海にたどり着いた時は解除した四倍速の魔術を再び行使したのは、全力で敵を粉砕するという意識の表れだろう。振り返る動作を短縮し、一旦雁夜から目をそらして、撃ち出す銃弾を斜め後方にいた士郎と桜ちゃんに向けて撃ち出す。
  士郎は雁夜と同じように持っている武器のハルバードを横に構えて顔を守り、桜ちゃんは乗っていた巨大な生首を衛宮切嗣と自分との間に出して防御した。
  『魔神』の肉体はある程度へこませた銃弾もハルバードには効果が薄いらしく、カンカンカン、と軽い音を立てて別方向へと弾かれる。ただし、『女神』が乗っていた生首には最も効果があり、当たった銃弾は見事に傷を負わせた。
  けれど生首は抉られた個所から血を流しながらも、痛がる様子も堪えた様子も死ぬ様子も無く、定位置である桜ちゃんの下に戻って、足場としてそこに居続けるだけだった。銃弾の何発かは眉間や脳に確実に当たっているが、全く気にした様子がない。
  生首に見えるが、人の首とは痛覚や急所が異なるようだ。
  ゴゴは上手く三闘神の力が雁夜と桜ちゃんと士郎に馴染んでいるのに満足しつつ、そういえば雁夜はアジャスタケースはどこに置いてきたのだろうか? と、そんな事を考えた。おそらく変身を終えた冬木市に戻ってきた時に落として放置したのだろう。
  空を飛ぶ三人に向けてそれぞれ銃弾を叩き込み、四倍にまで引きあがった時間の流れから通常の時間に戻ってきた衛宮切嗣。その反動で体はずたずたに引き裂かれ、肩の一部や腹部が内側からはじけ飛んで血と肉をまき散らす。
  手に持った聖杯から溢れる泥が即座にその個所に纏わりついて、内側から光る白銀の輝きと共に怪我を治してしまう。
  今の衛宮切嗣は英霊以上の回復力を持っている。ゴゴは海の中にいる幻獣『リヴァイアサン』に乗ったまま、そんな戦いの様子を観察し続けた。
  まだ小手調べの段階だが、圧倒的な力で制圧できないという点で両者は似通っていた。
  衛宮切嗣が使う聖杯と宝具の力が三闘神の力を突破する。つまり三人に与えた三闘神の力は紛い物の聖杯程度の力で傷ついてしまう程に弱まっているという事だ。
  三闘神が持つ本来の肉体は固有結界の中に呼び出された伝説の八竜に匹敵する巨体だ。その力を人間の肉体の中に授けたのだが、肉体の大きさと力の大きさが比例して、本来の三闘神から見れば弱体化してしまっている。
  もっと強い力を与えられもしたのだが、これ以上三闘神の力に染まってしまえば、彼ら三人は『人間』に戻ってこれなくなる可能性が高いので抑えてしまった。
  三闘神の力を行使しながら、制限時間付きでも人間に戻ってこれるギリギリのライン。今の『鬼神』『女神』『魔神』が人間の大人ぐらいの大きさに留まっているのはそんな理由からだ。
  もっとも―――。弱まっても神の力の一部である事実に変わりはない。傷つこうが何ら気にせず、雁夜と桜ちゃんと士郎は片手を前に突き出して衛宮切嗣に狙いを定めた。
  雁夜は間桐の魔術師が水属性だったので、元々扱えていたが『魔神』の力によって更に増幅された氷属性の高位魔法を―――。
  「ブリザガ」
  士郎は着込んだ鎧がそのまま表れたかの様な炎属性の高位魔法を―――。
  「ファイガ」
  最後に桜ちゃん―――、見た目だけならば成熟した大人以上の色香を備えているので、ちゃん付けで呼ぶのはおかしいかもしれないが、とにかく桜ちゃんは『女神』が得意とする雷属性の高位魔法を―――。
  「サンダガ」
  三方から衛宮切嗣に向けられた三属性複合攻撃の炎と氷と雷が衛宮切嗣に襲い掛かる。その威力は雁夜が人の体で繰り出した魔法と比べて数十倍にまで膨れ上がっていた。





  マッシュは新たな敵と戦うべく、別の八竜のいる場所へと駆けていた。言い方を悪くすると、戦場に居ながら戦っていない。
  だからこそ周囲の喧騒にいち早く気付くことができた。
  ロックとセリスが戦場から一歩引いた位置で状況を見守っているが、マッシュは戦場のど真ん中にいる。周囲への警戒はロックとセリスよりも強く、観察だけに全神経を集中することはできない。
  それでも間近で起こっている事が見れる分、起こっている事態の事細かな部分にまで知れる違いはあった。
  「おおおおおおおおおおお!!」
  掛け声だけを聞くならば雄々しく轟く声なのだが、マッシュが走る位置から少し離れた場所を全力疾走する幻獣『ギルガメッシュ』は敵と戦っている訳ではない。同じ疾走でも、マッシュと幻獣『ギルガメッシュ』の間には大きな違いがある。
  逃亡―――。
  幻獣『ギルガメッシュ』は天から降り注ぐ武器の嵐からひたすら逃げ回っているのだ。
  「おひょひょひょひょひょひょぉぉぉぉ」
  両手に武器を持ったまま奇怪な叫び声と上げながら走る鎧武者。後ろの砂を巻き上げながら全力で走る姿は喜劇の様だが、本人は真剣そのものだ。
  何しろ一瞬前まで幻獣『ギルガメッシュ』がいた場所には天から降り注ぐ武器が突き刺さって爆発したり、砂を消し飛ばしたり、方向転換して追ってきたりしてるのだから。
  時に急制動。時に急転回。常に行う全力疾走の中にフェイントを混ぜ込んで、それでもやっぱり全力疾走で逃げ続ける。
  絶対に当たりそうな気配のする武器に対しては手に握られた『エクスカリバー』と『正宗』で叩き落とし。前から飛んでくる武器に対しては軽く跳躍したりして避けたりする。
 全方位から襲い掛かってくる武器の発生元は言うまでも無く空に輝くアーチャーの『王の財宝ゲート・オブ・バビロン』だ。当の本人は一ヶ所から動かずに、同じ名前のギルガメッシュを殺すためにひたすら宝具を撃ち出し続けている。
  幻獣『ギルガメッシュ』は相棒のエンキドウの無事を確かめる余裕はなく、ただ自分が生き延びるために逃げる。アーチャーこと英雄王『ギルガメッシュ』は存在そのものを許さないとばかりに同じ名前を持つモノを抹消せんと攻撃する。
 互いに互いの姿しか見えていないのか、王の軍勢アイオニオン・ヘタイロイの兵も、伝説の八竜も、黒き英霊達も、ゴゴが『妄想幻像ザバーニーヤ』で変身した者たちも、ケフカ・パラッツォでさえも眼中にないようだ。特にアーチャーなど、王の財宝ゲート・オブ・バビロンから出している天の鎖で八竜の数匹を拘束している事実そのものを忘れているらしい。
  それは周囲からの攻撃に全く無防備であると同時に、攻撃の二次被害に遭うのが敵だろうと味方だろうと全く関係ないという事でもある。
  「死んでたまるかぁぁぁぁぁ!!」
  戦場を駆ける幻獣『ギルガメッシュ』に狙いを定めて、空から降り注ぐ宝具の嵐。絨毯爆撃に匹敵する宝具の雨の中で無傷でいるのは難しく、オレンジ色の鎧にはあちこちに亀裂が入って割れる一歩手前の状況に陥っている。
  それでも致命傷は全て回避しているようで、爆発を引き連れて戦場の中を突っ切っていた。
 幻獣『ギルガメッシュ』が避けた拍子に宝具の何本かが王の軍勢アイオニオン・ヘタイロイの兵にぶつかって爆発する。
  竜の巨体を利用して壁にすると、宝具の雨が竜に向けて突き刺さっていく。
  敵を攻撃しようとした暗殺者が間近で起こった爆発に巻き込まれて空に吹っ飛んでゆく。
  マッシュは新たな敵を探しながら、その光景を見ていた。
  「何やってるんだ、あいつ等は・・・」
  その言葉は二人のギルガメッシュが作り出す奇怪な状況を目にした全ての存在の思いを代弁していた。





  砂漠の固有結界の中は空と大地の二層の戦場を作り出し、それぞれが互いの敵を殺さんと攻撃を仕掛け続けていた。上下が繋がって下から上の層を攻撃したり、逆に上から叩き落とされて下の戦場に加わってしまう事もあるが、基本的に戦場は空と大地で二分割されている。
  リルムは空の戦場でたった今起こった出来事を反芻した。正確には、反芻しなければ今起こった出来事を理解できずにいた。
  ストームドラゴンが発した風の魔法は一瞬にして空の戦場を全て切り裂く嵐となり、ウェイバーを蘇生する為に幻獣『バハムート』の上にいたリルムもアサシンの少女も等しく攻撃の対象となっていた。
 そしてライダーはカイエンが作り出した風と、ウェイバーの令呪という助力はあったが、セイバーの約束された勝利の剣エクスカリバーすら上回る神威の車輪ゴルディアス・ホイールの蹂躙攻撃で対処。
  風の中に突っ込んでいったと思った次の瞬間。そこには完全無欠に粉砕された風の残骸と体の半分以上を失って落下するストームドラゴンの姿が合った。
  ウェイバーを蘇生させるために意識を割いていたので、事の全てを正確に理解している訳ではなく、そこにある結果から予測する部分もある。
  おそらく―――真名解放した次の瞬間、あまりの速さ故に、自分すら壊しかねない正真正銘の全力疾走を行って真っ直ぐに標的を突っ切ったのだ。
  巨大な長砲身を思わせる牽引部分から一瞬だけ発生した莫大な威力が風を吹き飛ばし、向こう側に滞空していたストームドラゴンすら粉砕した。
  セイバーの宝具によって半壊寸前まで追い込まれたとは到底思えない見事な一撃。初動などほとんどなかったにも関わらず、風と衝突した瞬間は音速を突破していたかもしれない。
  リルム達を巻き込んで発動した筈の風は無残に散ってしまい。死んでないのが不思議なほど重傷を負ったストームドラゴンは血と肉と骨をまき散らしながら地面へと落ちていく。
  撃墜されたのだから当然だ。
  遠く離れた位置まであっという間で突進し終えてしまったライダー。ほんの数秒前までは真横に居た筈なのに、遥か彼方の空を悠々と走っている。
  「やりますな」
  そんなライダーの蹂躙を見届け、そう呟いたのは戦場のもっとも高い位置にいたケフカだった。
  これまではストームドラゴンに護衛を任せ、自身は回復役を務めていたケフカ・パラッツォ。六枚の羽根を優雅に羽ばたかせて空に降臨する姿は天使を思わせるが、蝙蝠の羽根を思わせる一対の羽根もあるので天使は天使でも堕天使の方が相応しい。
  リルムが記憶する瓦礫の塔にいたケフカの姿そのままだ。
 ゆっくりと上空から降りてきて、幻獣『バハムート』とライダーの神威の車輪ゴルディアス・ホイールが走る高さで止まる。
  ライダーはようやく降りてきたケフカに攻撃を叩き込むべく、手綱を引いて同じ高さを保ったまま進行方向を修正した。
 遠ざかってしまったのでリルムの位置からは細かい所までは判らないのだけれど、戦車チャリオットが軋んでいるように思えてならなかった。
  ライダーの方を見るケフカはリルムに背中を見せた隙だらけの体勢を作り出している。
  ウェイバーを治すのに忙しくて攻撃できないと確信しているのか。それとも攻撃しても対処できると自信があるのか。
  元々が同じものまね士ゴゴだからこそ、堂々と隙を晒すその姿が逆に不気味だ。
  「次はお主の番だ」
  遥か遠くからでも聞こえるライダーの声が空に響く。
  「――よろしい、受けて立ちましょう」
  それに応じるケフカの言葉には自分が負けるなどと微塵も考えていない余裕がある。
  ライダーは先ほど感じた猛々しい魔力の高まりを再び感じさせた。
  するとケフカは背中に生えた六枚の羽根を大きく広げるだけで、待ちの体勢を作り出す。今、ストームドラゴンを完膚なきまでに粉砕した突進を見ていなかったのだろうか? あれの直撃を喰らえば、リルムが乗る『バハムート』ですらただでは済まないと思える。
  リルムの位置からではケフカの顔が見えないが、ライダーと対するその顔が笑っているように感じた。
  再び生まれる空白の時。戦う者たちが向かい合って闘気を高めていく時間。その中でケフカだけは涼しげに浮かんでいる。
  先に動いたのはウェイバーから全魔力を託され、勝利を誓ったライダーの方だった。
 「遥かなる蹂躙制覇ヴィア・エクスプグナティオ!!」
  一度目よりも猛々しい雄叫びが響き、再び二頭の雷牛がいななく。
  「破壊の翼」
 そしてケフカは大きく広がった六枚の羽根を迫る戦車チャリオットに向けて突き出した。





  ゴゴが三闘神と聖杯の戦場にしたバトルフィールド内から邪魔な人間を追い出すのと、炎と氷と雷が荒れ狂う嵐となったのは同時だった。
  直撃した衛宮切嗣を中心にして大災害が発生し、砂浜には雷が作り出した直径十メートル以上のクレーターが出来上がり、波打つ海は波の形に凍り、全ての防風林を焼き尽くさん勢いで炎が空も大地も埋め尽くす。
  余波だけでも被害は甚大だ。
  バトルフィールドが無ければ戦場は数秒で更地になるのは間違いない。ついでにゴゴが近くにいた人間を逃がしていなければ、骨も残さずに全員消滅しただろう。
  『ファイガ』『ブリザガ』『サンダガ』はかなり距離を取ったゴゴの所にまで影響を及ぼし、海の一部が凍りながら煮えたぎるという奇怪な状況を作り出す。海の中にいた幻獣『リヴァイアサン』はたまらず顔を背け、乗っているゴゴは一瞬だけ振り落とされそうになる。それでもゴゴは砂浜で行われる戦いから視線をそらさずに見続けた。
  そして三属性の魔法災害をその身一つで受けた衛宮切嗣がゆっくり動くのを確認した。
  体の外側から焼かれ、全身を凍らされ、体の内側からも焼かれる。即死しても不思議の無い天災の中で、衛宮切嗣は手にした聖杯を一度だけ大きく上に掲げ、そして自分の胸に出来た黒き孔へと押し込んだ。
  孔よりも聖杯の方が大きいので、押し込める訳がないのだが―――。胸に開いた孔は衛宮切嗣の動きに合わせて変形し、聖杯がちょうど嵌まる位にまで大きく広がったではないか。
  孔は衛宮切嗣の肩にまで広がり、炎と氷と雷の中に見える衛宮切嗣の両腕が胸に開いた黒い孔で繋がっているように見えた。
  徐々に人の形を損なっていく衛宮切嗣だが、黒い孔の中に浮かぶ聖杯は自らが心臓であるとでも言わんばかりに衛宮切嗣の正中線に陣取って。更に器の部分から黒い泥を吐き出していく。
  どんどんと。
  聖杯の泥は炎を喰らい、氷を消し、雷を呑み込んでいく。それどころか喰らった三属性の勢いをそのまま自身の攻撃に転化するように、胸の孔とほぼ一体化した聖杯はもっともっと泥を吐き出した。
  どんどんと。
  泥は衛宮切嗣の上半身のほぼ全てを覆いつくし、首を伝って頭に登り、腰から降りて足も呑み込んでいく。そして聖杯を胸に収めた事で空いた片方の手には、今まで持っていたキャレコ短機関銃と同じようにトンプソン・コンテンダーに見える黒い塊が出現した。
  「へい――、わ・・・・・・」
  焼け爛れた口から出てくる呪いの様な呻き声の様な音。それを合図にして何もなかった筈の背中が膨張し、直径十センチほどの黒い棒が出現した。
  背骨が対外に飛び出したようにも見えるし、衛宮切嗣の背中を覆っていた聖杯の泥の一部がそそり立った様にも見える。ただし、その黒い棒は衛宮切嗣の体の両側についているモノと同じ位の長さまで伸びると、同じように五指を作り出してすぐに黒い腕となった。
  右手にはトンプソン・コンテンダーに見えるモノを持ち、左手にはキャレコ短機関銃に見えるモノを持つ。そして背中から生えた人間では考えられない三本目の腕は指を大きく開いていた。
  三本の腕はそれぞれ『女神』に『鬼神』に『魔神』に狙いに定め―――。溜める動作など欠片も見せず、直径一メートルはあろう極太の黒いレーザーを射出した。
  ドンッ! と太鼓を叩くような音と共に、黒い破壊が三闘神の体を抉る。
  雁夜は魔剣ラグナロクを持つ方の腕を二本吹き飛ばされ。士郎はハルバートを持たぬ腕の肘から先を消され。桜ちゃんは乗っている生首の右上半分と右足の膝から下を消滅させられた。
  三人が三人とも、何かが来る、と感じて瞬時に動いたからこそ、黒いレーザーが発射された時にはもう直撃しない位置にまで移動できたのだ。まともに喰らっていたら肉体を全て消されていたかもしれない。
  肩から先、肘から先、膝から先。三闘神はそれぞれが傷ついたか所から紅い血を流しながら、先ほどの攻撃がそうであったように痛がる様子を全く見せずに攻撃に転じる。
  「子守歌」
  バトルフィールド内に清涼な音が響いた瞬間、音符が一瞬だけ目に見えるように辺りを舞い踊った。
  すると衛宮切嗣の足が力を失ったように折れ曲がり、砂浜の上に膝をつく。
  「メタルカッター」
  出来上がった空白を利用して、『鬼神』は持っているハルバードの斧部分から高速回転して円形に見える刃を撃ち出す。
  ハルバートについている斧が飛び出したかのように衛宮切嗣へと殺到し。肩に、足に、腹に、胸に、頭に、深々と突き刺さる。普通の人間ならばショックで即死してもおかしくないのだが、衛宮切嗣は膝をつきながらもそれ以上は倒れずに中腰の体勢を維持した。
  むしろ傷つけられる事で『女神』からの攻撃で強制的に眠らされそうになったのを覚醒させている節すらある。
  そして胸に突き刺さった筈の『メタルカッター』の一つは、黒い孔の淵で止まり、奥にある聖杯に触れた様子は無い。
  それでも衛宮切嗣に隙が出来たのは覆しようのない事実だ。『女神』と『鬼神』が技を発動しながら衛宮切嗣に近づくと、その動きに合わせて『魔神』が前に出る。
  間桐雁夜として戦うのならば持っている魔剣ラグナロクを用いて戦うのが普通だが、時間経過と共に意識も『魔神』と同調しつつあるのか。剣を構えるのではなく、武器を持っていない側で無事だった三本の手で握り拳を作り、衛宮切嗣の顔面を思いっきりぶん殴った。
  「魔神の怒り」
  『子守歌』と『メタルカッター』が牽制の役目を果たしたので、三つの拳は見事に衛宮切嗣の頭に直撃する。もし衛宮切嗣が体一つで戦っていたら、殴られた勢いだけで首が千切れてもおかしくない。
 それなのに聖杯の泥はもう衛宮切嗣の首どころか口元すら覆い隠しており、最早、敵は『衛宮切嗣の形をしたこの世全ての悪アンリマユ』と言ってもよくなっている。
  通常攻撃の四倍の威力を持つ『魔神』の攻撃にすら耐えたのであった。
  聖杯からの魔力供給と宝具から与えられる回復力、人ではありえない力を発揮し、衛宮切嗣は五体満足のまま遠くへと吹き飛ばされるだけで終わった。胴体と頭は繋がったままで、首が折れ曲がった様子は無い。
  剛腕が繰り出した三つの打撃は衛宮切嗣の体を軽く十数メートル吹き飛ばすが決定的な痛みを負わせた訳ではない。浅瀬で止まり、起き上がろうとする衛宮切嗣の姿がそのいい証拠だ。
  三闘神が作り出す三角形の外へと強制的に弾き飛ばされた衛宮切嗣。士郎と雁夜と桜ちゃんは敵が吹き飛んだ方向へと向き直り、自分たちが傷ついているのも構わずに殺すために攻撃を再開する。





 王の財宝ゲート・オブ・バビロンから放たれる宝具の嵐は基本的な五部構成を繰り返している。
  構え、撃ち、当て、壊し、消す。
  時折『撃ち』の部分が直進ではなく湾曲したり、『壊し』の部分が『当て』と一緒くたになったり爆発して結果を作り出したりするが、基本はこれだけだ。
  だが、アインツベルンの森で行われた聖杯問答の時の様に取り出す物は別に攻撃だけに特化している訳ではない。あの時出した酒器の様にこの宝具はあくまで『宝物庫』であって、そこから取り出すのはあくまで『財宝』なのだ。
  聖杯戦争にアーチャーのクラスを得て現界してしまっているので、どうしても取り出すのが武器だらけになってしまうが、財宝とは武器だけに納まらない。宝物庫の中にある物全てが財宝となる。
 途方もない数の武器が作り出す威力に紛れてしまっているが、宝具『王の財宝ゲート・オブ・バビロン』の真骨頂とはその『宝物庫に収められた財宝を全て具現化できる』ではないだろうか?
  酒器がそうであったように、宝具を使う者の意思によって財宝はこの世界に存在する物質として幾らでも出しっ放しにしていられる筈。その予測を裏付ける様に幻獣『ギルガメッシュ』に向けて放たれた武器の中には砂に刺さったままで消えずに残っている武器がいくつか存在した。
  消すか否かを決定する当のアーチャーが消すのを忘れているのか。それとも撃ち出した武器を消すよりも前に幻獣『ギルガメッシュ』を抹殺させるのを優先させているのか。アーチャーは外れて落ちた武器には全く意識を割いていなかった。
  攻撃の為にと爆発させた武器は現世には残っていないが、それでも僅かばかりの武器が砂漠に転々と残っている。しかも幻獣『ギルガメッシュ』が生きて逃げ続ける限り、残る武器の数もまた少しずつ増えていく。
  最初にそれを手に取ったのは誰か判らない。
 何故なら、王の財宝ゲート・オブ・バビロンから放たれて最初に残った武器は最初に大量の砂埃をまき散らした場所であり、その中を見通せた者は敵味方含めて誰一人としていなかったからだ。見ていた者も、ほぼ全員が砂埃から脱出して逃亡を始めた幻獣『ギルガメッシュ』とそれを殺そうとする英雄王『ギルガメッシュ』を見てしまった。
  だから足元に転がった武器を最初に拾い上げた者が誰だったかなど拾った当人にしか判らない。
  一人がやれば二人目が続いた。
  二人になれば、三人、四人と増えていった。
  次々に英霊達がアーチャーの宝具を手にしていく。
  戦場で武器を手にした兵士がやる事は戦い以外には無い。
 『王の軍勢アイオニオン・ヘタイロイ』を『王の財宝ゲート・オブ・バビロン』で武装させる。それは征服王イスカンダルが望み、星々の果てまで征服できると踏んだ最強の兵団が具現化した瞬間だった。
 もしアーチャーが幻獣『ギルガメッシュ』しか見ていない今の状況からほんの少しだけ視野を広げれば、自分の宝物を勝手に使われている状況に激情して自分以外の全ての者を殺そうとするだろう。王の軍勢アイオニオン・ヘタイロイの兵が握っている武器を一斉に爆発させるのも考えられる。
  つまり、アーチャーが気づくまでの時間制限付きの『最強』だ。僅かばかりの時間しか許されていないが、ここに二つの宝具が融合した最強の兵団は誕生した。
  いまだにアーチャーが放った『天の鎖』で拘束されている何匹かの竜に向けて、新たな武器を手にした兵が攻撃を仕掛ける。
  彼らもまたアーチャーと同じ英霊であり、使用する武器はそれぞれが生前に愛用した武器なのだが、彼らが『軍隊』である以上、支給される武器は大量に製作した粗末な代物である場合が多い。
  アーチャーの宝具はこれまで使っていた武器が鈍らに思えるほど驚異的な威力を発揮した。
  強靭であるはずの竜の皮膚が紙のように裂かれていく。
  海魔を召喚し続けて拮抗させていたキャスターが徐々に追い込まれていく。
  戦場の死角を走るアサシンにすら対処できる余裕すら生まれていく。
  ケフカが回復の手を休めたのも手伝い、ライダー陣営に優勢な展開へとなだれ込んでいく。
  「逃がすかぁぁぁ!!」
  「逃げるわぁぁぁ!!」
  すぐ近くで自分が撃ち出した武器が勝手に使われていると気づかぬまま、アーチャーは攻撃を続けていた。幻獣『ギルガメッシュ』は殺されてはたまらんと逃げ続けていた。
  が。逃げれば逃げる程に両者の距離は開いてしまい、肉眼で捕捉し続けるにはアーチャーもまた自分から動かなければならない。
  一歩引いた位置から戦場の様子を見ていたセリスが考えたことはアーチャー自身もよく判っているらしく、彼の足元から黄金の輝きが生まれる。
  眩い光が一際大きく輝いた後、ケフカによって破壊された筈の黄金の飛行機械『ヴィマーナ』がアーチャーの真下から姿を現す。
  一度破壊された宝具であっても、使い手の魔力が続く限りは復元されるのか?
  あるいはアーチャーは飛行宝具をもう一台所有しており、同じに見えるが別物なのか?
 セリスが王の財宝ゲート・オブ・バビロンとアーチャーが抱える財の大きさに驚いていると、出現したヴィマーナはアーチャーを乗せると同時に空に飛び上がってしまう。飛び立つ瞬間、アーチャーが玉座に腰掛けるのが見えた。
  一気に空に舞い上がる速度を考えれば、空に君臨するケフカとライダーの戦場にも簡単に割り込めるのだろうが。今のアーチャーは幻獣『ギルガメッシュ』しか眼中にないらしく、ある高さまで上がったら、すぐに逃亡を続ける同じ名前の敵を追い始めてしまう。
  視界の中には間違いなく自分が撃ち出した武器を拾って戦う兵の姿もある筈なのにアーチャーは全く気にしない。
 「その見苦しい姿をオレに見せるな。消えろ!」
  「手前が俺様の前から消えれば済む話だろうが!」
  幻獣『ギルガメッシュ』と共に、周囲から見ると喜劇にしか見えない命がけの追いかけっこを続けるのだった。





 リルムの視線の先でケフカの前方に突き出された六枚の羽根の先端と戦車チャリオットの巨大な長砲身を思わせる牽引部分とがぶつかったまま静止していた。
  正しくは、静止した様に見えるが、どちらも物理的な力で相手を破壊しようとしていた。
 ケフカは六枚の羽根で殴り殺す。ライダーは神威の車輪ゴルディアス・ホイールによる轢き殺す。
  空の上なので地面がない分ライダーの方が不利に思えるが。大地が無くても桁違いの威力が発揮されるのは先のストームドラゴンを粉砕したことで証明されている。
  その力とケフカは真っ向から対等に渡り合っている。
  敵を踏みつぶさんと前に前に進もうとする雷牛はいななき、歯を喰いしながら六枚の羽根を突き出すケフカは歯をくいしばり、ライダーは片手には手綱を持ってもう片方の手にはスパタを持って構え、周囲には衝突の余波が雷鳴となって響き渡っている。
  二人は相手を殺さんと強大な力をぶつけ合っていたが、雷も向こう側に見る顔には紛れも無く喜びが混じっていた。
  リルムの位置からでは片方の顔しか見えないが、相手だけを見つめるその姿は鏡のようで、見なくても互いに笑っているのが判る。ただし、『微笑み』や『にこにこ』などと軽い言い方で表現できる笑いではなく、それは獰猛な肉食獣が敵を食い殺さんとする凶暴な笑いだ。
  二つの力の衝突は時間と共に周囲への影響を更に増し、衝突地点を中心にして微風が巻き起こって少しずつ威力を高めていって、邪魔者を追い出して誰も近づかない様にする為に外へ外へと膨らんでいく。
  敵を制圧し、力で勝り、自分こそが上だと証明する。純粋な力と力の闘争が最も高い空の上で行われていた。
  飛行機械『ヴィマーナ』が同じ空の上に舞い上がろうとも気にも留めず、ただただ二人は敵だけを見つめている。
  そんな、力と力がぶつかり合う拮抗状態が続く中。蘇生魔法『アレイズ』の効果が表れたのか、手で支えるウェイバーの体がピクリと動く。
  前回蘇った時よりも早い覚醒への兆し。
  戦場に身を置く者がいつまでも自分以外の誰かになすがままを許す状態を続けてはならないと思ったのか。ウェイバーが死に慣れてしまったのか。何かを成し遂げようとする意思の力で起きようとしているのか。
  令呪を失いマスターで無くなり、二度目の死でライダーとの契約も再び消え、ただのウェイバー・ベルベットであり一人の魔術師として戦場へと舞い戻ってくる彼がどんな事を仕出かすのか。
  それがリルムは―――いや、ゴゴには楽しみで仕方ない。
 そしてリルムが見ている先でついにライダーとケフカの拮抗は崩れ、ライダーが操る神威の車輪ゴルディアス・ホイールは上に向かい、ケフカは前に突き出した羽根を後ろに戻しながらその下へと潜る。
  一瞬だけすれ違い、まるで示し合わせたかのように弧を描いて向かい合おうとする二つの力。
  「ブリザガ」
  「ぬうんっ!」
  ライダーは斜め下方から飛んでくる氷の弾丸を手綱で操って避けながらスパタで叩き落とす。
  御者台の中央にぶつかってライダーを死に至らしめる筈だった魔法はライダーの右側へと弾かれ、何もない空で巨大な氷の柱へと姿を変えた。
 「AAAALaLaLaLaLaieアァァァララララライッ!!」
  「サンダガ」
  今度は雷がライダーを襲う。
 空から降り注ぐ雷が全てを焼き尽くさんとするが、戦車チャリオットを牽引する二頭の雷牛が咆哮を轟かせると、降り注ぐ雷が吸い寄せられるように彼らへと直撃して迸る紫電を増量させてしまった。
  どうやらあの雷牛達は純粋な雷の属性攻撃ならば吸収してしまうようだ。
 新たな発見にリルムが驚いていると、より雄々しくなった神威の車輪ゴルディアス・ホイールは空を蹴って前に突き進んでいった。





  空から舞い降りる拳大に圧縮された炎。着弾と同時に周囲を消し飛ばす大爆発へと変化した炎属性の高位魔法『ファイガ』は間違いなくセイバーに着弾した。
  巻き起こる熱風は術者であり空にいるティナの所にまで飛んできて、普通の人間が喰らえば骨すら残らない超高温がセイバーを焼く。
  第四次聖杯戦争に招かれたサーヴァントの中でもセイバーは魔術への耐久力が高く、クラス別能力でも対魔力が『A』と攻撃だけではなく防御にも秀でている。
  バトルフィールドの影響下なので周囲の風景には全く影響を及ぼさず、けれども敵を焼き尽くす爆発が起こっているという摩訶不思議な状況の中、そんなセイバーすら一撃で焼き尽くさんとする力が合った。
  何もなければセイバーは焼かれて消える。
  ティナがほんの一瞬だけそう思っていると、巻き起こった爆発が奇妙な円を描きながら上方へと昇り始めた。
  いや、そうではない。唐突に巻き起こった風が目に見える黒い小型の竜巻となり、『ファイガ』の爆発を巻き込んで上へ上へと追いやっているのだ。
  発生源がセイバーの立っていた場所であることを考えれば、竜巻とセイバーを分断して考えるのは難しい。
  事実、起こった爆発が完全に上に押しやられた後。地面の上に立っていたのは多少焦げてはいても、軽傷のセイバーなのだからやったのはセイバーに違いない。
 どうやら攻撃に用いていた風王結界インビジブル・エア―――今は黒く染まる風になった宝具―――を、防護壁にして『ファイガ』の爆発を防ぐと同時に上方へと逃がしたようだ。
 剣を隠す使い方と移動の速度強化。更には攻撃にまで転じていた風王結界インビジブル・エアだったが、ここにきて更に応用を見せた。
  最初は見ただけで真名が判ってしまう聖剣を隠し、間合いを悟らせない為に用いられてきた宝具だったが。使い方によってはどんな形にもなる風は攻守共に応用力が高く、聖杯からの魔力供給によってその幅は更に広がった。
  その内、ティナが張ったバトルフィールド内の全てを切り裂く大災害に匹敵する風すら生み出すかもしれない。
  ティナが使える魔法の中でも『ファイガ』は得意とする魔法の一つだったので、ほぼ無傷で防がれたことは少なからず衝撃だった。けれども、ティナの中にあるゴゴの意識は新しい宝具の使い方に心躍らせている。
  どんな形にも変わる風の力。
  その調子だ―――もっと見せろ、魅せろ、ミセロ。一度は物真似の価値なしと諦めた思いを覆すほどの何かを見せろ。
  そうティナの中でゴゴが言っている。
  「・・・・・・」
  離れた場所で無言のまま向かい合い、少しだけ足を屈めて身を低くしたティナは次の瞬間には空の上に舞い上がっていた。
  セイバーとの間にある距離は更に開き、ティナが静止すれば大地から見上げる黒い騎士と空にから見下ろす桃色の怪物との構図が出来上がる。
  ティナはアポカリプスを持っていない手を再び地上のセイバーに向け、ある魔法を唱える。
  遠坂邸の火事を消し、監視していた使い魔を全て抹消した水属性全体攻撃魔法。
  「フラッド――」
  言い終えると同時にそばに合った円蔵山の向こう側から突如として青い津波が発生した。
  高さ二十メートルはあるだろうその津波は円蔵山にぶつかって、その衝撃で清き水を空にまき散らす。波は雨に変化して、そのまま一気にティナの下にいるセイバーに向けて降り注いだ。
  見た目は単なる雨にしか見えない『フラッド』で遠坂邸に降り注いだ時もほとんどが鎮火の為に使われたが、その実、一滴一滴に込められた魔力は当たった敵を容易く吹き飛ばしたり抉ったり貫いたりする威力を秘めている。
  水に見えるが、鋭い刃が空から降ってくると考えれば判りやすい。そして広範囲にまき散らすからこそ、遮蔽物が無い場所なら敵に避ける術は無いのだ。
 するとセイバーは襲い掛かってくる水を見上げながら、約束された勝利の剣エクスカリバーを放つように剣をまっすぐ上に構えた。
  空に伸びる黒い刀身。その姿勢のままセイバーは告げる。
 「風王鉄槌ストライク・エア――」
  小さく叫ぶと上に向けた剣から再び黒く大きな竜巻が発生し、空から降り注ぐ雨礫を横に押し流してしまう。
  セイバーの真上とティナがいる空は場所が離れているので風は襲って来る攻撃を退かしただけ。そう思っていたら、セイバーは剣を傾けて、竜巻の位置を移動させてきた。
  竜巻が向かう方向はティナがいる場所だ。回避の為に発生させた暴風をそのままティナにぶつける算段なのだろう。
  攻守が逆転した状況で、すかさずティナは右手に持っていたアポカリプスを両手で握り直し、下にいるセイバーに向けて真っ直ぐ突き出す。
  その間にも黒い竜巻はティナに迫り、もう衝突間近になっている。
  そして剣先に風の端が触れようとした瞬間。ティナもセイバーが発したのと同じ名を告げた。
 「風王鉄槌ストライク・エア!!」
  地上に生まれ、空へと舞いあがる黒い台風。空に生まれ、地上へと降り注ぐ白い台風。根元にある剣から撃ち出される二つの暴風が衝突する。





 「固有時制御タイム・アルター四倍速スクエアアクセル
  三対一の不利を埋めるべく、衛宮切嗣は時間操作の魔術を使い自分一人で四人分の働きを実現させている。
  前回使った四倍速の傷は既に宝具によって修復され、聖杯の泥に覆われて人体とは異なる別のモノに作り替えられている。背中に生えた三本目の腕のように、徐々に衛宮切嗣は聖杯の泥に侵されているのだが、侵食に抵抗する素振りは無い。
  ただありのままを受け止め、聖杯の力で世界を救う―――そんな決意が見えてきそうだ。
  『魔神』の拳骨によって位置を砂浜から浅瀬へと移動させられた衛宮切嗣は、一旦上昇して空から追いかけてくる三柱が自分の所にたどり着く前に、前かがみになって胸の聖杯から今まで以上に聖杯の泥を吐き出させた。
  ただし、これまで現れた聖杯の泥は全てが衛宮切嗣のまとわりついていたが、今度現れた聖杯の泥は重力に導かれるままに下に落ちていく違いがある。
  彼の足元にある海に泥が触れた瞬間、ジュッ、と音を立てた。燃え盛る炎に水がかかる音のように―――事実、白煙をまき散らして海の中に埋没していく聖杯の泥の様子は焼けた石のようだ。
  だがその聖杯の泥が衛宮切嗣の胸の中にある聖杯から現れたのを考えると、途端におかしな光景へと変化する。
  衛宮切嗣の体を覆っている聖杯の泥と同じならば、どうして衛宮切嗣の体は焼けない?
  温度が低いとしたらどうして海の中に落ちると冷やされた物の様になる?
  そもそも衛宮切嗣は何故こんな事をする?
  同じ場所から出てきた泥でありながら別種のモノ。これもまた、聖杯が作り出す奇跡なのだろうか。
  ゴゴはそんな事を考えながら観察を続けていると、衛宮切嗣の胸に輝く聖杯からこれまでにない多さの泥が溢れ出した。片手で持てる小さな聖杯のどこにそんなに入っていたのか? と最初に考えてしまう程その量は多く、三闘神の接近に比例してますます量を増やしていく。
  異常な早さは衛宮切嗣が使った時間操作の魔術も影響しているのだろう。
  『女神』と『鬼神』が衛宮切嗣の頭上を飛び越えて、最初と同じように三柱で三角形を陣取りながら衛宮切嗣を取り囲んだ時、浅瀬に移動した衛宮切嗣の足元は全て聖杯の泥で埋め尽くされていた。
  目算で半径十メートルほどの円。しかも、胸から溢れる聖杯の泥は取り囲まれた状態であっても溢れ続けており、どんどんその範囲を広げている。そこで四倍速の効果は一旦切れたが、泥の流出は止まらない。
  海は焼かれ、波は止まる。バトルフィールドの影響下でありながら、干潟になった元浅瀬は聖杯の泥にどんどん侵食されていった。
  ゴゴはその様子を観察するが、あの状況が更に広がり続ければ陸地から遠く離れたこの場所にも到達するのではないかと考える。リヴァイアサンもその可能性を考えたのか、僅かな動きではあったが戦場から遠ざかる様に海の中で身震いした。
  そんなゴゴとリヴァイアサンの思惑など関係なく、衛宮切嗣の胸に輝く聖杯から広がる泥はどんどんとその範囲を増やしていく。
  まさかそこを中心にして聖杯の泥で世界を覆い、全ての悪を殺し尽くすとでも言うのだろうか?
  「フラッシュレイン」
  『女神』が呪文を唱えると同時に、雲が少ない夜であるにも関わらず、どこからともなく雨が降ってきた。
 「固有時制御タイム・アルター三倍速トリプルアクセル
  応じて衛宮切嗣もまた時間操作の魔術を使い、左手に持ったキャレコ短機関銃を上に構えて迫りくる雨粒の全てに弾丸を叩き込んだ。自分に当たる個所だけに絞った乱射、しかも三倍速にまで膨れ上がった銃弾の嵐は面となり、見事に空から降り注ぐ水の刃を相殺する。
  それどころか、左手は上に掲げながらも、右手と背中から生えた三本目の腕はきっちりと『女神』とは別の場所にいる『魔神』と『鬼神』に狙いを定め、トンプソン・コンテンダーに見えるモノからと三本目の手から黒い銃弾のようなモノを撃ち出した。
  「絶対零度」
  「フレアスター」
  『魔神』は体の前に作り出した巨大な氷壁によってそれを阻み、『鬼神』はゆらゆらと揺れ動く凝縮された炎によってそれを防ぐ。三倍速になっているとはいえ、構えてから撃つ動作には変わりがなく、先に動いていればその間に防ぐのは不可能ではない。
  状況を見守っていたゴゴは衛宮切嗣がこれまでの攻防で三闘神が常に直角二等辺三角形を一度っているのを見抜いたと察する。
  この位置取りは三闘神の力が暴走しないようにするための安全装置であり、互いの力を抑え込む役目も果たしている。もし位置取りに失敗すればその途端に暴走して衛宮切嗣だけに振り分けている攻撃を無差別にまき散らしてしまう。
  力の暴走を知っているのは雁夜と桜ちゃんのみで士郎は知らない筈。それでも直角二等辺三角形の位置取りを続けるのは『鬼神』と『魔神』と『女神』がそれを覚えていて、位置を崩さない様に行動しているからに他ならない。
  先ほど、『女神』と『鬼神』が遠距離からでも使える子守唄とメタルカッターを使いながら、『魔神』が攻撃する時に一緒に近づいた時に知られてしまったのだろう。
  衛宮切嗣はそれを判ったからこそ、見なくても敵の位置が判ってそこを攻撃できる。
  冷静な思考があるように思えるが、すでに今の切嗣は人間を逸脱して別の存在へと成り果てている。
  三本目の腕もそうだが、戦いが始まってから一度たりとも弾丸を撃ち尽くして装填する動作がない。これは衛宮切嗣の頭の中から『銃で戦う』という意識がすでに消えている証明である。最早、両手に握られた銃に見えるモノは現実に存在する銃とはまるで違う別の兵器だ。
  黒い閃光は降り注ぐ雨を散らし、氷と炎にぶつかって四方へと拡散する。
  余波だけでも軽く百メートル以上先までに影響を及ぼし、直撃しなかったとしても一般人を一瞬で消滅させる力が吹き荒れる。
  バトルフィールドの効果が働いているのでまだ海岸は形を保っているが、徐々に結界内側からの流れ弾であちこちに綻びが出始めている。特に衛宮切嗣の足元から今も広がり続ける聖杯の泥は特に顕著で、戦い続けながらも海も砂浜も破壊せんと広がっている。
  この調子なら数分で防風林を超えて海沿いの車道を超えて冬木市を喰らっていく。三闘神の妨害がなければ侵攻は更に早いだろう。
  そこでゴゴは考えた。あの聖杯の泥はバトルフィールドの効果を打ち消している、と。
  セイバーから放射される宝具の『黒』にそんな効果がない所を見ると、衛宮切嗣を介すか直接聖杯から現れるかで性質が極端に変わってしまうのではないだろうか。
  そしてこうも考える。三闘神の力は予想以上に弱体化している、と。
  もし三闘神が持つ全ての力が解放されて、あの三人が正しく『鬼神』『魔神』『女神』となれば、一瞬でゴゴが張ったバトルフィールドを破壊して、外界へと脱出し。そのまま破壊を振りまく戦いの神になる。
  彼らが使った『フラッシュレイン』『絶対零度』『フレアスター』も、本当の三闘神が使えばこんなバトルフィールド一つに収まる範囲ではなく、一撃で冬木を覆い尽くすほどの自然災害にまで発展する。
  神の力とはそういうもの。それが今はこんな小規模な破壊で収まっているのは、その程度の力に弱まっているからだ。
  ゴゴが見る限り、聖杯の泥は確かに世界の人間を殺さん勢いで時間が経てば経つほどに衛宮切嗣の力を増大させて―――際限なく破壊を放出する聖杯がどんどんと力を貸し与える状況になっている。
  このままいけばいずれは『鬼神』『魔神』『女神』を上回る。
  彼ら三人も衛宮切嗣と同じくより強く力を欲して三闘神の力へと強く傾倒している。
  敵を倒すために強くなっていくのは喜ばしい事態かもしれないが、更なる力はあの三人が人間に戻れなくなる可能性を高めてしまう。今はまだ人と神の境界線を歩いている最中だが。いつ臨界点を突破して破壊の神になっても不思議はない。
  あの三人は敵に勝ったとしても自分たちが世界を壊す存在になるのは由としないだろう。ゴゴの誘導があったとは言え彼ら三人の今の立ち位置は『正義の味方』であり、守るべき冬木を壊し、そこに住まう民を殺してしまえば負けになる。
  だが、このままいけば力の増大によってバトルフィールドの崩壊と冬木の壊滅は確実に訪れる。あるいはゴゴが貸し与えた力より衛宮切嗣と力が増大する方が早いかもしれない。
  その前に決着を付けなければ、倒す倒さないの勝敗は決しなくても衛宮切嗣の勝利となる。
  雁夜と士郎と桜ちゃんにとっては敵を倒す戦いであり世界を守る戦いだが。衛宮切嗣にとっては包囲網を突破する戦いであり、人類救済の為に人類を殺し尽くす戦いだ。あの三人と戦うのは彼にとって必須ではない。
  『鬼神』『魔神』『女神』にこの場の決着は任せたが、場合によっては三柱の力を全てここにいるゴゴが取戻し、リヴァイアサンと共に衛宮切嗣を無力化する必要が出てくるかもしれない。その場合は戦う力を失った三人の人間はあの衛宮切嗣に撃ち殺されるだろう。
  あり得る未来を想像しながら、ゴゴは今はまだ黙って戦場を見つめ続けた。
  ある事をする為に―――。





  「メテオ」
  ティナがそう唱えると、星が浮かぶ夜空とは異なる別の空が円の形で出現する。意識してみなければ同じ『星が見える空』に大別されてしまうが、じっくしり見れば現れた円の方がより澄んだ黒―――空気がない宇宙空間だと見分けられるだろう。
  ただ、空に出来上がった円は宇宙の光景は静かな宇宙空間を写し出しているだけではない。そこにある隕石群を大気圏外から呼び寄せているのだ。
  間をおかず、一年の間に実に二万個も地球に降り注いでいると言われている隕石の一部が円の中から現れた。
  撃ち出す方向を誘導したそれはティナが手で指し示す方向―――つまりは地上にいるセイバーに向けて降り注ぐ。
 「約束された勝利の剣エクスカリバー
  それを受けてセイバーは頭上に浮かんでいる宇宙を映し出す円に狙いを定め。夜すら呑みこむ黒い閃光を撃ち出す。
  今回は狙いがティナ本人から逸れているので、わざわざ移動して避ける必要はなかった。だが、円の中から撃つ出された数十発の隕石は呼び出した円ごと黒い閃光に呑まれて消し飛ばされて。
  近くを通り過ぎる宝具の余波で皮膚がチリチリと痛むが、わざわざ回復するほどではない。
  ティナが『メテオ』と唱え出すと同時にセイバーもまた黒く染まった聖剣を空に掲げて黒い極光を刀身に収束させたので、隕石は一発たりともセイバーに当たっていない。
  威力だけならティナが使える魔法の中でも高位に当たる『メテオ』が不発に終わった。その事実のみを考えると、意気消沈しそうになるが、それよりもティナの意識は地上にいるセイバーへの戦力分析へと移る。
  宝具を発動させるまでの速度、威力、共にライダーへと放った時を比較対象とすれば使うごとに高まっていくのが判り。途方もない威力の宝具でありながらも疲労を感じさせずに連発しているのは驚くべき事態だ。
  魔力供給元のマスターである衛宮切嗣が聖杯によって無限にも等しい力を得た影響だろうが、間違いなくセイバーはバーサーカーと戦う前に比べて格段に強くなっている。
 ティナの予想に過ぎないが、聖杯を手に入れる前の衛宮切嗣が正しいマスターとして存在していたとしても、『約束された勝利の剣エクスカリバー』の連発は二回が限度、戦っている最中に連射できる今の状況は不可能だ。
  強さは脅威だけれど。使う技はパターン化しつつあり、目新しい宝具は無く、力には力で対抗する戦い方が目立ってきている。
  今の『メテオ』とて宝具の破壊力で発動する場所ごと破壊する力ずくで、目新しい回避方法や防御方法や攻撃手段は見せてくれない。力ずくが悪いとは言わないが、新しく物真似するモノを求めるゴゴとしては期待外れである。
  もっともセイバーは剣の英霊であり、宝具を二種類持っているだけでも多いと考えるべきなのかもしれない。加えて、炎氷雷毒風聖地水の八属性を自由自在に扱えるティナの方こそが英霊の尺度で考えても異常なので、同列に扱うのがそもそも間違っているのだろう。
  隕石召喚魔法『メテオ』の不発を素早く頭の中から追い出し、ティナは頭を下にして自由落下よりも速く地上へと舞い降りる。
  「リレイズ――」
  その道中、こっそり魔法を唱え、桃色に輝く体を更に淡い白の光で覆う。頭の天辺から足の指先までを包み込み、一瞬で光は消える。
  現在セイバーは円蔵山のふもとに立つ屋上付き一軒家の上に立っていた。ティナが頻繁に空に舞い上がる前は片側二車線ほどではないが若干広めに作られた道路の中央で戦っていたのだが、標的が空に上ると同時に位置を変えて遮蔽物を足より下に置いた。
  ティナが上空から飛来するか、真横からくるかのどちらかしか選ばないと―――セイバーの力を引き出すためにほぼ真正面から攻撃を仕掛けてくると判っているのだろうか。
 「風王鉄槌ストライク・エア
  セイバーはティナが唱えた魔法など気にも留めず、ただ屋根の上に立った状態で前に構えた剣から黒い風の台風を生み出して、そのまま横に飛ばす。
  迫り来る、黒い超高速の竜巻。
  「クイック」
  超高速に対抗する超高速が発動する。
  ティナは体感時間を極限まで引き上げて、光に近い速度で左に動いて台風を避けた。
  「スロウ」
  そのまま右手は剣の『アポカリプス』を握り直し、左手は前に突き出しセイバーに向けてスピードを下げる魔法を唱える。
  すると離れた位置にいるセイバーの周囲に灰色の泡に似た球体が浮かび上がって消える。屋根の上に立ったセイバーからは自分の周囲にいきなり頭と同じぐらいの大きさの灰色の玉が四つ現れて消えたように見え、そこから自分の体が動きが極端に鈍くなったと判る筈。
  それでも剣の英霊は欠片も動揺を見せず、まっすぐにティナを見据えていた。
  ティナがアポカリプスを構えてセイバーの首筋めがけて振り上げた時。ちょうど『クイック』の効果が切れて、超高速の世界から現実へと戻ってくる。
  するとティナの剣はしっかりと斜めに構えて首を守るサイバーの剣に当たって斜め上へと流れてしまう。
  信じられない事だが。見えていない筈のティナの超高速の動きに反応し、遅くなった動きの中で確実な防御を作り出したのだ。
  流された剣を強引に戻し―――まだ『スロウ』の効果が持続しているので、セイバーが斬るよりも早くティナの方が攻撃できたが―――、セイバーは逆方向から戻ってきた剣を先程と同じように剣の位置をずらして防御してしまった。
  ぶつかり合う黒と蒼の刀身。
  セイバーの剣技を物真似していないティナ自身の技が稚拙だったからか。答えを探り出そうとしていると、『スロウ』の効果が切れてセイバーの動きか活発になる。
  剣での斬り合いではセイバーに分がある。留まり続ける危険を察知したティナは即座に空への脱出を試みた。
  『スロウ』の効果があまりにも早く切れたのは、セイバーの対魔力がサーヴァントの中でも一際強力だからか、それとも衛宮切嗣から供給される膨大な魔力で効果を強制的に打ち消したか。その両方だろうと考えながら、ティナはセイバーがいる場所に剣を向けたまま空へと舞い上がって距離を取る。
  距離を取り終える前に跳躍して追撃するか?
  それとも黒い風で攻撃してくるか?
 また『約束された勝利の剣エクスカリバー』を放ってくるか?
  別の何かを見せてくれるのか?
  ティナはセイバーの動きを注視しながら、これまで使わなかった様々な攻撃方法を脳裏に描いた。全てはあの手この手を使ってセイバーの限界を暴く為に―――。





  リルムは蘇生魔法『アレイズ』をかけた後に二人の支えを解いて、ライダーとケフカの様子を眺めていた。
  眺めるだけでその場を動かず、幻獣『バハムート』に攻撃を命じれないのは、お荷物と言ってもいい二人が竜の背中に乗っているからだ。
  けれど、ものまね士としての意識が観察を優先させるので、リルムは戦いに加われない事を不満に思ってもゴゴに不満は無い。
  「う・・・」
  「起きた?」
  視線はライダーとケフカの戦いを注視しながら、リルムは殺された状態から生き返ったウェイバーに声をかける。
  「すごいね。こんなに早く起きれるなんて思ってなかった」
  見てはいないが、肌で感じる風の揺らぎや聞こえてくる音から上半身を起こそうとしているのが判る。幻獣『バハムート』がもし戦いの最中にあって空中で曲技飛行に匹敵する動きをしていたら、ウェイバーは呆気なく空に放り出されていただろう。
  背中を水平に保った状態で滞空しているからウェイバーも、そしてアサシンの少女も空の上に居続けられている。
  ウェイバーが生き返ったのはほんの十数秒前で、いくら『アレイズ』が対象者の体力を一気に全快にするとしても、慣れが無ければ完全に蘇生するには時間が必要だ。
  何しろほんの僅かな時間とはいえ魔法をかけられた者は間違いなく死んでいたのだから。普通の人間なら目覚めるだけでもかなり時間がかかる。
  魔力に至っては空っぽ寸前なのだから体が休息を求めて眠り続けていても不思議はない。
  事実、雁夜は訓練で死に生き返ってを繰り返して、生き返ると同時に戦場に戻れる心構えを手に入れたが。それは何十回と死んで生き返ってを繰り返した後に会得した慣れだ。それまでは数十分か一時間は昏睡していた。
  だがウェイバーはたった二回目でそこまで辿り付いた。
  ライダーと一緒に戦おうとする意志の強さか、それともアサシンの少女―――サンへの思い遣りか。とにかくウェイバーは戦いの最中に蘇生を果たして戻ってきた。
  「ぼ、くは・・・」
  聞こえてくる音と変化した風の様子からウェイバーは頭に手を当てて体を起こしたようだ。そして喋れないサンがふらふらと近づいて刺してしまった事を悔いるように抱きついたのが判った。
  「・・・・・・」
  ウェイバーは自分に何が起こったかを理解するのに忙しいようで、声を出さずに周囲を見回している。
  子供に抱きつかれてる自分。
  刺した相手。
  戦場。
  根こそぎ吸われた魔力。
  ライダーの戦い。
  それらを見て、聞いて、感じて、懸命に理解しようとしているのが見なくてもわかる。二度死んだことで度胸がついたのか、目覚めてすぐに行動に移せるのは稀有な才能とも言える。
  ただ、ウェイバーは目覚めてから周囲を見るのに全神経を注いでいるので、自分がどれだけ特異な蘇りをしたのか気付いていなかった。
  彼の手は自分を指した相手を慰めるようにサンの頭を撫でている。彼の目は戦場を見ている。彼の耳は戦場の音を聞いている。彼の鼻は戦場のにおいを嗅いでいる。そしてウェイバー・ベルベットは頭の中でライダーの不利を構築している。
  状況はケフカとライダーの大接戦のように見えるが、最早ウェイバーからライダーへの魔力供給は行えずに消耗していくばかりで、戦いが長引けば形勢は必ずケフカへと傾いていく。
  おそらくウェイバーが思い描いていた理想は自分が目覚めた時にライダーが勝利している構図だろう。
 ライダーとケフカが渡り合っているように見えるのは、ケフカがライダーを嬲り殺そうとしているからだ。今のケフカが他の者達を回復させるために使っている力を全て攻撃に注ぎ込めば、ライダーは神威の車輪ゴルディアス・ホイールごと一瞬で崩壊させられる。
  無属性全体攻撃の『ミッシング』、死にはしないが体力を大幅に削る『心ない天使』、必ず当たる魔法防御を無視する無属性の攻撃『ハイパードライブ』。ケフカがこれらの技を使わないからこそ、ライダーはまだ生きていられる。
  これは有り余る力で戦いを楽しもうとしているケフカの隙だ。
  いや? 本当にケフカは戦いを楽しむためにライダーとの戦いを長引かせているのだろうか。全力で戦わないのはケフカらしからぬ何か別の理由があるのではないだろうか?
  疑問が出てくるが、それと戦いの結末とはまた別の問題だ。
  どれだけ大きな力であろうと、どれだけ驚異的な技であろうと、発動前に倒してしまえば何も意味はない。
  今しかない―――、今を逃せばライダーに勝機は無い。
 けれど攻めきれない。単身での戦いを余儀なくされた今のライダーにとって最強の技である『遥かなる蹂躙制覇ヴィア・エクスプグナティオ』が防がれた今、ケフカに致命傷を与える技がもう無かった。
  それにウェイバーからの魔力供給が合ったとしても、宝具の真名解放を何度も行っているので、貯蔵魔力も大幅に減っている筈。
  ウェイバーはケフカの機微や使っていない技については知らないが、いずれは拮抗が崩れてライダーの不利が作られるのは想像できるだろう。
  どうする?
  リルムはそこでようやく戦場から一旦視線を外して斜め後ろにいるウェイバーを視認すると、彼は姿勢を低くして右手に魔石を持ち左手をバハムートの背中に付けて体勢を保っていた。
  それだけならば起き上がった時かリルムの意識がケフカとライダーの戦いの行く末を考えた一瞬に魔石『アレクサンダー』を再び持ち出したと思えなくもないが。サンがウェイバーの左手が作り出す隙間に潜り込んでいるのが異彩を放っていた。
  どう見てもウェイバーはそこに伏せているサンを受け入れている。
  令呪による命令であろうと、自分を殺した暗殺者を抱き寄せるなどと暴挙としか思えない。
  言峰綺礼の死は魔力供給しなくなったアサシンとアーチャーの二人には判っているだろうが、ウェイバーには与り知らぬ事。令呪がもう発動しないと知らない筈だが、何故、彼はそこまで行動を起こせるのだろうか?
  二度も殺されたことで、死ぬ自分を吹っ切ったか。それともウェイバーなりにサンはもう自分を殺さないと確信しているのか。もっと別の何かがウェイバーの中に芽生えたのか。
  もし時間が許されるのならば色々と問い詰めたい衝動に駆られるが、遥か上空を真剣な目で見つめる様子と少女を守るように支える姿が『話しかけるな』と物語っていた。
  ウェイバーは戦場を見つめていた。
  このままではライダーが不利になる戦場を勝利へと導く為、ウェイバーは無茶を押し通そうとしていた。





  単独行動スキルを最高位のランクで持つ英雄王ギルガメッシュだからこそ、マスター不在の状況で宝具を連射する暴挙を行い続けられる。むしろ今の今までよく持っていると称賛すべきだ。
  その根幹にあるのが同じ名前を持つ『ギルガメッシュ』への否定だとすれば、強烈な自我こそが今のアーチャーを支えている事になる。
 それでも宝具の発動は膨大な魔力を必要として、マスターの魔力供給が必要不可欠だ。アーチャーは『王の財宝ゲート・オブ・バビロン』を使うごとに刻一刻と消滅に向かっている。それは覆しようがない。
  そしてこの世界に現界できなくなる所にまで近づいてしまえば、宝具の発動すらままならなくなるので、幻獣『ギルガメッシュ』への攻撃すら行えなくなってしまう。
  宝具の嵐の中を懸命に逃げ続けた幻獣『ギルガメッシュ』を湛えるべきか。それとも、消滅直前に追い込まれなければ自分の状態を省みれないアーチャーの驕りを憐れむべきか。
  ひたすらに同じ名前を持つモノを消そうと躍起になっていたアーチャーだったが。ここにきて意思の力ではどうしようも出来ないサーヴァントの宿命に屈してしまう。
  自身の貯蔵魔力を大きく消耗し、霊体化を通り越して消滅の危機を迎えてしまったのだ。
  姿勢を保つことすら覚束なくなったアーチャーはヴィマーナにこしらえられた玉座の上で体を前に倒してしまう。
  両手に力を込めて膝と頭が衝突する直前に何とか動きを止められたが、無様な体勢を作り出してしまった。頭を下げて、何かに謝っているように見えてしまう姿は人民の頂点に君臨する王らしからぬ格好だ。
  もしマスターとなった言峰綺礼が健在だったならば、まだまだ宝具の雨を降らせられたかもしれないが。そのマスターも今は物言わぬ躯となって地面に横たわっている。
  圧倒的な魔力消耗と自分がしてしまった姿勢への怒り。それを意識してしまった瞬間、幻獣『ギルガメッシュ』だけを見ていたアーチャーの視線がそれ以外に向いた。
  そこで初めてアーチャーは気付く。
 これまで幻獣『ギルガメッシュ』に当て損なった宝具の何本かを『王の軍勢アイオニオン・ヘタイロイ』の幾人かが使い、それを自らの武器として振るっている事を。
  即座に上半身を起こし、幻獣『ギルガメッシュ』だけに向けていた視線を戦場の全てに向ける。そのお陰でほんの一瞬だが、アーチャーの猛攻が止まり、幻獣『ギルガメッシュ』はこれ幸いにと距離を取る。
  ヴィマーナを回転させて戦場を見渡したアーチャーの紅い目が今まで以上に怒りに染まった。地を這う虫けらが王の宝物に触れるとは―――。アーチャーの目がそう言っている。
  「雑種――!!!!!」
  アーチャーが叫んだ次の瞬間。
  武器を現界している宝具に持ち直した者の近くで。
  斬りかかられていた竜の近くで。
  今まさに砂漠におちた武器を拾おうとした者の近くで。
  紙の様に切り裂かれる海魔の近くで。
  アーチャーの宝具の近くにいる全ての者達が大爆発を味わった。
  規模だけ見ればウェイバーが魔石『アレクサンダー』を用いた時に現れた炎の海の方が大きい。
 ただ、王の財宝ゲート・オブ・バビロンから放たれたアーチャーの宝具は的確に―――アーチャーにとっての―――敵の近くにあり、一つの漏れも無く大爆発を引き起こした。
  敵のいない箇所も含めて広範囲を攻撃する場合と、敵に向けて一点に集中する場合とでは、『敵を攻撃する』という点に絞った場合の威力が大きく異なる。
  砂漠に巻き起こった局所的な爆発を見届けた後、アーチャーは機体を傾けて旋回するヴィマーナの玉座から戦場をゆっくり見下ろした。それは地上にいるカイエンからも見えている。
  カイエンはランサーとの一騎打ちの真っ最中であり、爆発したアーチャーの宝具とは無関係の戦いを繰り広げていたので二人に被害は無い。
  その変わりとして爆発と同時に大量の砂埃がまた巻き起こってしまい、近くで巻き起こる危機を察知した二人は同時に後ろに跳んで距離を取った。
  一足一刀の間合いは消えてしまい、二人が同時に前に出なければ戦いは再開されない。それは眼前の敵にだけ向けていた意識をほんの少しだけ周囲へと向けられる余裕の出現でもある。
  両者の間には砂埃が吹き荒れ、戦いの再開は更に遠ざかる。
 地上にいるカイエンからでは見上げて凝視しないとアーチャーがどんな顔をしているか判らないが。ライダーとケフカが戦っている様子を見れば、オレを無視するとは言語道断―――。とでも言わんばかりの形相を浮かべるのは容易に想像できた。
 だが、すでにアーチャーは同じギルガメッシュの名を持つ男と殺すために宝具『王の財宝ゲート・オブ・バビロン』を全力で展開してしまっている。ライダーが固有結界を発動する前からすでに瀕死の状態であったにもかかわらず、今では現界する為に必要な魔力の大部分すら使い切ってしまったのだ。
  いかに人類最古の王であろうとも今はサーヴァントとして召喚されている立場で供給が無ければ維持はありえない。
  消滅寸前なのは他でもないアーチャー自身がよく判っている筈だが、ちらりと見えたヴィマーナの玉座に悠然と腰かける姿からは半死人状態とは全く感じさせない。
  遥か遠くの空と大地。近くにいるランサーよりも格段に距離が離れていながら、強烈な存在感を理解させられる『王』がそこにいた。
  まだ巻き起こった砂埃からランサーは現れない。故にカイエンはいつかは向かってくるであろう眼前の敵とアーチャーの両方を見る。
  するとアーチャーは玉座から立ち上がり、見逃してしまいそうな小さな輝きを胸の前に出現させて、伸ばした手に鍵剣らしき何かを握った。
 そして膨大な魔力がそこから生まれた。個別に撃ち出していた王の財宝ゲート・オブ・バビロンの魔力を超える気配が一点から溢れ出る。
  何が出てくるかまでは知らないが、あれを使おうとすれば間違いなくアーチャーは現界する為の魔力すら失って消滅する。使う以前からそれが判る。
  しかしあれを使えばこの戦場にいる全ての者を葬り去るのも不可能ではないと思える。全ての者が万全でいたならば無理だったかもしれないが、アーチャーの宝具がまき散らした破壊によって多くの者が傷ついているのだ。固有結界すら呑み込んで全てを破壊し尽くすだろう。
 アーチャーは自分が消えるのを承知している。それでも幻獣『ギルガメッシュ』を、伝説の八竜を、王の軍勢アイオニオン・ヘタイロイを、ゴゴが変身したかつての仲間たちを、ライダーを、全てを、無に葬り去ろうとしている。
  無様に生き延びるのではなく、最後の一瞬まで『王』として君臨し続ける英雄王ギルガメッシュ。その姿を見続けたい欲望がカイエンの中に芽生えるが、まるでそれを見透かした上で、許さん! とでも言わんばかりに砂埃の向こう側からランサーが跳んできた。
  最速のサーヴァントを相手に別の事に意識を割いて相手を出来るほど生易しい相手ではないのはもう判っている。
  「必殺剣――烈!」
  繰り出した四連撃を二本の槍で全て受け止める技量。力任せの攻撃が増えたが、根幹にある技量そのものが失われた訳ではないのだ。一人の武人として全力で戦って初めて善戦に持って行ける強敵には違いない。
  空の上でアーチャーが何かしらの動きを見せているのは間違いないのだが、ランサーとの戦いが再開したらもうカイエンには他を観察する余裕がない。
  途方もない宝具を発動させようとしているのは判る。
  発動までに時間がかかっているのはそういう宝具だからか、それとも最後に残った力を振り絞っているからか。
  その結果、何が出てくるかまでは判らない。あれを最も知るのはアーチャーと戦ったケフカであり、ゴゴはまだ知らぬ事だから―――。
  カイエンの中に眠るゴゴとしての意識が物真似への渇望を訴えてアーチャーの方を見たがるが。目の前に迫るランサーの槍が許さなかった。
  「決着をつけるでござる・・・」
  カイエンは呟きながら、紅い槍の突きを斬魔刀で弾いた。





  「波動砲」
  『鬼神』が持つハルバートの斧の部分から直径五十センチほどもある太いレーザーが撃ち出され、衛宮切嗣に迫る。普通の人間が相手ならば骨も残さない一撃は敵の中心にある聖杯目がけて撃ち出されたが、四倍速で動き回る異質な速度で動き回る敵だ。
  致命傷になる筈だった一撃を横に動いて回避し、しかし全てを避けるには至らず右手の肘から先が持っていた銃の様な黒い塊ごと消滅する。
  『鬼神』はハルバートを動かして尚も放たれ続ける『波動砲』を動かして衛宮切嗣を追うが、一度避けられた攻撃はもう敵に当たることは無く、撃ち出し終えるまで何者にも衝突しなかった。
  代わりに衛宮切嗣に当たる筈だった攻撃は誰もいない明後日の方角へと突き進み、地面とほぼ平行線に突き進んでゴゴが張ったバトルフィールドの端にまで到達した。
  敵に当たる筈だった攻撃に詰め込まれたエネルギーが目標物を失って爆発し―――軽く見ても家一軒呑みこむ大爆発が巻き起こった。
  衝撃でバトルフィールドがまた軋み、爆発した箇所が破れそうになる。
  もう何度考えたか判らない事柄だが、バトルフィールドが無ければ流れ弾一つで冬木の一区画が消滅するのは確実だ。木々は吹き飛び、家屋は粉砕され、地面にはクレーターが出来上がり、道路へめくれ、人は死ぬ。
  そんなたった一発で局所的大爆発を起こす威力を何回も受けて原形を留める頑強さは脅威と言うしかない。もっとも、それは衛宮切嗣の力ではなく、体にまとわりついて変形も増殖も破壊も行うようになった聖杯の泥の力なのだが・・・。
  「磁場転換」
  『魔神』がそう叫ぶと衛宮切嗣の位置が強制的に崩されて、後ろから肩を押されたように前へ転げそうになる。
  当然ながら、衛宮切嗣に物理的に触れた者はおろか物すら無い。
  人の目では見えない力、人体の意識にすら干渉する強烈な磁場が衛宮切嗣の無意識化にそう命じさせて動かしたのだ。
  姿勢を崩されて前に出てしまう衛宮切嗣、その上には空から舞い降りてくる『女神』と彼女が乗る巨大な生首があった。
  『女神』は何もしておらず、衛宮切嗣に襲い掛かるのは下にある生首の方。口を大きく開き、歯ではなく牙に見える武器で衛宮切嗣の食い殺そうと迫る。
  生首から生えているたてがみだけでも『女神』の身長に匹敵するので、単純な『咬み付き』でもそれは大型肉食恐竜の捕食だ。
  口を開いただけの無表情な生首はあちこちに出来た傷跡と合わせて見ると怪談を思わせる。
  大きく開かれた口が衛宮切嗣の顔を喰らうその一瞬。マントの様になびいていたロングコートの裾部分が揺れ、まるで生き物の蠢く。
  ガキン! と音を立てながら牙のような鋭い歯が閉じた時、衛宮切嗣の顔は『女神』が乗っている生首の口の中には無かった。口の中に合ったのは銃に似た黒い何かを握る衛宮切嗣の左手の肘から先―――食いちぎる筈だった衛宮切嗣の首から上はしっかりと胴体に繋がったまま生首の横に合って、避けた勢いを利用してそのまま遠ざかっていく。
  『魔神』に体勢を崩されて絶対に避けられない筈だった攻撃を避けられた理由。それは衛宮切嗣の後ろにあるロングコートの裾。正しくはそこから伸びて地面を掴んでいる聖杯の泥だった。
  コートの裾から三本目と四本目の足の様に蠢くそれが地面を蹴って衛宮切嗣の体を動かした。
  その姿は半人半獣のケンタウルスの出来損ないのような不格好な格好だが、驚くべきは明らかに人体の構造上はありえない新たな足のようなモノが後ろに生えているにも関わらず、衛宮切嗣はそれを自分の体の一部の様に操っている点だ。
  まともな人間ならば突然自分の体に生えた異物に慣れるまでには時間を要する。
  しかし衛宮切嗣は最初からそれが自分の体の一部であるように扱う。最初に背中に生えた三本目の腕もそうで、最早、衛宮切嗣が『人間』の範疇から逸脱してしまったのは間違いない。
  それを更に裏付けるように、『鬼神』に消し飛ばされた右手と『女神』が乗っている生首に食い千切られた左手がそれぞれに傷口から新しい手となって生えてきた。
  聖杯の力と宝具の力が融合し、人では実現不可能な復元速度を可能としている。
  新しく生えてきた腕は人の肌を感じさせない漆黒の塊であり、聖杯の泥が人の手を模しているだけのようで、それを人の手と呼んでいいのかは疑問である。手の中にあった銃の様な者も一緒に現れ、手とそれは同じモノに見えた。
  もう衛宮切嗣は人ではなかった。
  聖杯に埋没した人ではない別のナニカだった。
  「■■■■■■■■■■■■ッ!!」
  幻獣『リヴァイアサン』に乗って海から状況を観察し、ひたすらバトルフィールドの維持に努めているゴゴは衛宮切嗣の口から放たれる咆哮を聞いた。
  獣の雄叫びと言うよりむしろバーサーカーの声に近い。理性や思考を全て怒りに凝縮して、狂ってしまったあの男を思わせる。
  図に乗るな―――。とでも言わんばかりのその声と一緒に、新しく生えた二本の手の背中に合った三本目の手が三闘神に向けられて、その全てから機関銃のように弾丸に似た黒い何かが撃ち出される。
  質量、速さ、個数。全てがこれまでとは比較にならないほど大きく、その全てが『鬼神』に『魔神』に『女神』に殺到する。
  「ケアルガ」
  弾幕の雨に晒されながら体が抉られていく中、『魔神』はその魔法を唱えて抉られた個所を即座に治していった。
  本来であればひたすらに破壊を求め続ける三闘神の中には一柱たりとも誰かを治療あるいは回復させる術を持った神はいない。当然、『魔神』もそんな魔法は使えなかった。
  いや―――正確に言うならば、幻獣の始祖ともいえる彼ら三柱はその強大な力故に誰かを『治す』という仲間意識も無ければ、自分たちを修復する必要性すらなく、回復魔法など使う必要が皆無だったのだ。
  本来ならば『魔神』が使わない魔法を今の『魔神』が使う。それは元となっている人間、間桐雁夜の力が『魔神』の力で増大し、全く別のモノになったからこそ実現した一つの奇跡と言える。
  『魔神』は使わない。
  雁夜は使えない。
  しかし両者が融合した別の誰かは使える。
  上位回復魔法『ケアルガ』は、当事者である『魔神』だけではなく『女神』と『鬼神』の傷をも癒す。一撃で地形を変える破壊力はそのまま回復力の増大にも繋がり、その力は『魔神』と『鬼神』の千切れた腕や足を一瞬で元の形のまま生やして、『女神』の足元にいる生首の傷をも癒すほど強力であった。
  衛宮切嗣が撃つ。
  『女神』と『鬼神』は堪える。
  『魔神』が治す。
  戦いが長引く要因ばかりが作られようとしていた。





  傷ついては癒され。倒れては蘇り。瀕死から立ち直り。生きては死んで、また生きて。戦場では敵も味方も等しく無限を思わせる戦いを繰り返してきた。
  その結果、魂そのものと比べれば少ないが―――魔力が多く宿る英霊の血が砂漠に大量に染み込んだ。伝説の八竜の血も染み込み、大地そのものが魔力を帯びた様に深く深く浸透した。
  それに目を付けた者が一人いた。
  「カ・・・カカカ!! カ、カカカカカカカ!!!」
  黒き英霊として再召喚されたサーヴァント達はランサーもアサシンも言葉を喋らなかった。それはキャスターもまた同様で、口を開いて音を吐き出しているだけだ。
  喋れない言葉を必死に押し出しているように聞こえる歪な声だったが。キャスターの顔に浮かんでいるのは紛れも無く笑顔である。
  周囲から殺到して召喚した海魔たちを切り裂いて自分の所に到達しようとしていた全ての兵が爆発によって瀕死の重傷を負った。辛うじてまだ死んでないようだが、余波ですら動けなくなる者が続出している。
  そう―――。キャスターはこの戦場に放り込まれてから、初めて誰にも邪魔されるない時間を手に入れたのだ。
  「私が行くわ」
  ヒンドゥー教の女神と同じ名前を持つ『ラクシュミ』を召喚して、常に味方全員を回復していたセリスはキャスターが作り出そうとしている危険な状況をいち早く察知して戦場へと飛び込んでいく。
  八竜に匹敵する超大型の怪物を呼び出せるのがキャスターであり、邪魔する者が誰もいなければキャスターは確実にそれをやる。
  「気を付けろよ」
  駆け出したセリスに声をかける相手は同じく戦場から一歩引いた位置で味方全員の補佐を務めていたロックだ。
  応対する時間すら惜しかったから振り向いたり返答したりは無かったが、ロックは自分の声がセリスに届いていると判っていた。だからそれ以上セリスに対して何かすることは無く、ただ残った自分がしなければならない事をする。
  「フェニックス!!」
  新たに持ち出した魔石を握りしめ、そこに向かって魔力を注ぎ込めば背後には炎の翼で空に浮かぶ不死鳥が現れた。
  セリスがキャスターの相手をする為に回復を断念し、代わりにロックがその役目を担う事になった。けれど、アーチャーの宝具の威力は絶大で、回復すら間に合わずに一気に殺害する威力を持っていた。
  中にはまだ瀕死の状態で生きている英霊達もいるだろうが、今は彼らの命を生かすのが先決。そこで対象者を死から呼び戻す不死鳥の幻獣『フェニックス』を召喚したのだ。
  まだ生きている者にはほとんど意味をなさない幻獣だが、少なくともロックの後ろで炎の不死鳥が舞っている限り、この戦場の中で死が積み上げられることは無い。
  生き返っても満足に戦えないかもしれないが、『死』という最悪の状況からは逃れられる。
  後は他の誰かが―――別の誰かに成り代わっているゴゴがセリスの抜けた穴を埋めるまでこの状況を維持して『死』を回避しつづけさせるだけだ。
  その役目は戦場を駆け回っているマッシュが担うべきだろう。
  彼もまたカイエンと同じようにアーチャーの作り出した宝具の爆発の直撃を回避した者であり、手が空いていると言えば手の空いているゴゴの一人だ。
  全ての者を全快させるならばマッシュの必殺技の一つである『スパイラルソウル』を使うべきだが、これは仲間の体力を全快させてステータス異常すらも治療できる。まさしく必殺技と呼ぶに相応しい奥義だが、必殺技を使う者がの命と引き換えにしなければならない禁断の技でもある。
  だから使うならば自分以外の味方の体力をある程度回復し、毒などを癒す『チャクラ』がこの場では最も適格だろう。
  後の問題はキャスターまでの距離はセリスよりもマッシュの方が近く。『チャクラ』を使って味方全員を回復している間に攻撃される危険と、セリス一人でキャスターが呼び出そうとしている怪物の相手が出来るかだ。
  今の今まで戦場に居ながら常に海魔を矛と盾にしてきた男、キャスター。魔術師のサーヴァントでありながら、戦い方は召喚士としか言いようのない男が自分は傷一つ負わずに、ただ勝ちだけを拾おうとしている。
 王の軍勢アイオニオン・ヘタイロイの損害を気にせずにただ攻撃だけを考えるならば、マッシュもセリスと合流して攻撃に参加するか。あるいはキャスターが召喚を終える前に攻撃してしまえばそれで終わる。
  だがマッシュもセリスも、カイエンもリルムも、一歩引いて状況を見ているロックも。ものまね士ゴゴの―――黒きサーヴァントとして再召喚された彼らがどんな新しく物真似し甲斐のある技を繰り出すのかと観察する性から逃れられない。
  キャスターを好き勝手させないだけなら、アーチャーが戦線に復帰する前に全ての決着をつければそれでよかった。
  補佐などに回らず、自分たちで全力の戦いを演じればそれでよかった。
  自分以外の誰かを戦わせて勝利だけを手に入れようとするキャスターに怒りを覚えても、何か行動を起こす前に攻撃を仕掛けて倒す真似が出来ない。起こせない。実行できない。
  本物ならば攻撃あるいは回復に使う時間を観察に割り当ててしまう。
  だからゴゴは相手が今まで見たことない攻撃や防御や回復を使えば、必ず先手を取らせてしまう。マッシュかセリスのどちらかがキャスターが召喚し終える前に攻撃できると判りながらも、まず何をするかを見届ける。
  ものまね士にとって物真似は至上命題であり、結果よりむしろ物真似をこそ優先すべき事柄なのだが。傍から見ればそれは間違いなく驕りに見える。
  敵がそこを突くのは当然と言えば当然だった。
  仮にゴゴが―――ロックがその攻撃に気付いていたとしても、ロックはゴゴの意識に従ってその攻撃を見極める為に避けたかもしれないが迎撃はしなかっただろう。
  そう・・・。ロックの足の下から突き出て、裏から足を貫いたアサシンの投擲剣『ダーク』を―――。
  「え?」
  ロックは最初何が起こっているか判らなかった。それでも起こった事象を観察し、導き出された結果は意識へと刻み込まれる。
  大地から刃が生えて、それがロックの右足を下から貫いた。
  即座にそれが敵からの攻撃だと理解したロックは驚くよりも前に魔石『フェニックス』を持たない方の手を砂の中に突き入れる。すると足を貫いている投擲剣の硬さとは明らかに異なるモノの感触が返ってきた。
  人の腕だ。
  触れると同時にその腕が地面の更に下に潜って引っ込みそうになったので、ロックは逃げられる前にその手を力強く握りしめた。
  「おおおおおおおおお!!!」
  足を踏ん張ればその分だけ剣に貫かれた足が激痛を訴える。叫びでそれを強引に誤魔化し、砂の中に潜む誰かを力で引きずり出す。
  片腕の筋肉が膨張し、ほんの一瞬だったが細身の腕が強張って元々の太さより二倍近くにまで膨らんだ。
  思いっきりその手を引き上げると―――そこには白い髑髏の仮面で顔を隠し、黒で塗りつぶされた体のあちこちに剥き出しの紅い血管の様な文様を浮かばせ、投擲剣『ダーク』を手放したアサシンのサーヴァントがいた。
  砂の中から抜き出した勢いをそのままにしてロックはそのアサシンを空に放り投げる。
  「――やるな!」
  跳ばしたアサシンに向けて、ロックは嘘偽り無く称賛した。
  これまでアサシンは一度たりともゴゴに関連する誰にも手傷一つ負わせたことは無かった。遠方からの投擲、数に頼っての強襲。その全てがロックとセリスによって撃退された。しかし、今、アサシンはこれまでの攻撃とは全く異なる方法でロックに一撃喰らわせたのだ。
  これは紛れも無く快挙と言える。
  放り投げた方の手で人型の相手にのみ劇的な効力を発揮する短剣『マンイーター』を取り出していると、踏ん張るものが何もない空中でアサシンが強引に体勢を整えながら、別の投擲剣『ダーク』を手にしているのが見える。
  アサシンの自由落下が始まり、互いの手に武器が握られ、示し合わせたかのように武器を突き出して、先端同士が接触した。
  『マンイーター』の刃が『ダーク』の刃を切り裂いて、落ちてくるアサシンの手を、腕を、肩を切り裂いて。遂には髑髏の仮面に突き刺さって頭部を砕く。
  裂かれた『ダーク』の刃がロックの腕と頬を切り裂くと同時に『マンイーター』を横に振るう。その動きに合わせてアサシンがロックの横にどさりと落ちる。
  アサシンによる奇襲の失敗とロックの勝利。そう見えていた状況が出来上がってからすぐに異常が起こる。
  「ぅ・・・」
  踏ん張った為に足から血が噴き出そうになり、貫かれた部位に強烈な痛みが走る。だが、その痛みは足だけに留まらず、全身に一気に広がっていったのだ。
  立つ事すら出来ない強烈な痛み。堪らずロックは砂の大地に膝を落として四つん這いの体勢になる。
  辛うじて魔石『フェニックス』と『マンイーター』は持ったままでいられたので不死鳥は消えずにロックの背後にいるが、少しでも気を抜けば魔石も武器も落としてしまいそうだ。
  ロックはアサシンの起こした結果を全て観察していたので、自分の身に起こった異常の原因に辿りつくのは容易かった。
  毒だ―――。
  ロックの足を貫いた刃に塗られ、そして『マンイーター』によって切り裂かれてからロックの腕と頬を浅い傷をつけたもう一本の投擲剣『ダーク』にも塗られていた強力な毒がロックの体を蝕んでいる。
  あまりにも強力な毒は状態異常『毒』を通り越して一気に『ゾンビ』か『即死』にまでロックを引きずり込もうとしている。
  魔石を握りしめて幻獣を召喚し、その状態で生きるのにしがみ付くのが精一杯。何らかの手段で治癒を行おうとするのさえ阻害していた。
  これまでに無い毒の攻撃にロックの中にあるゴゴの意識が物真似をせんと解答を求める。
  おそらく、アインツベルンの森でライダーによって消滅させられ、今回再召喚されたアサシンの中に毒の扱いに長けたアサシンがいたのだろう。その毒を投擲剣『ダーク』に塗り、ロックを攻撃した。
  思えば、ケフカの原形となっているゴゴは他のどのサーヴァントよりもアサシンについては熟知していた。
 宝具で言えば物真似に必要なバーサーカーの『己が栄光の為でなくフォー・サムワンズ・グロウリー』こそが最もよく知った宝具だが、ゴゴが一番知るサーヴァントと言えばアサシンだ。
  弱体化して消滅寸前の様子を見た。
  核だけになっても存在する英霊の姿も見た。
  魔力を注ぎ込んで核から復活させる光景も見た。
  他にも様々なアサシンのパターンも見た。
  その時に得たアサシンに関する知識はケフカへと継承されている。通常のアサシンならば『出来ない』でも、あの男がほんの少しだけ背中を押して『出来る』に変えても不思議はない。これまでゴゴが見なかった毒使いとしてのアサシンの本来の性能を引き出したとしたら・・・。
  この毒使いのアサシンが砂の大地の下を潜ってロックの元に辿りつくなどと離れ業を始めたのはウェイバーが魔石『アレクサンダー』を使って辺り一面を火の海にした時だろう。あの時、アサシンは地面の中に潜り、気づかれぬようゆっくりと地面の下を進んできたに違いない。
  下手をすればそのまま生き埋めになってもおかしくなかった。
  呼吸困難を起こす危険を承知して、土の重さに埋もれても不思議のない状況で砂の中で息を潜める。そのまま見せるかもしれない隙を待ち続け―――。毒使いのアサシンは見事にその隙を突いてロックを攻撃した。
  もしセリスが傍にいたなら回復できたかもしれないが、この場にいるのはロックただ一人。ただひたすらに『敵を殺す』のみに自分の存在を集約し、結果を掴むためには命すらも道具の一つに見立てた暗殺者に屈しそうだ。
  それがどんな行いであれ、ただ一つの目的へと向かって全精力を注ぎ込む姿は美しい。
  ゴゴが物真似に全てを注ぎ込むのと同じように、ロックが殺したばかりのアサシンは暗殺に全てを注ぎ込んだ。一心に暗殺するその姿は他の誰がどう思おうと、ゴゴの意識は『美しい』と感じた。
  命の危機にさらされながら、このままでは幻獣『フェニックス』を召喚できなくなるので慌てながら、それでもロックの奥にあるゴゴの意識がアサシンを称賛する。
  もしかしたらこのまま俺は死ぬかもしれない―――。ロックは称賛しながら、そう思った。





  リヴァイアサンの背に乗ったゴゴは固有結界の中で自分の一部が死のうとしているのを理解しながら、それでも衛宮切嗣と三闘神の力を得た人間たちとの戦いを観察し続けていた。
  ここにいるゴゴがあちらに助力すれば事態は打開できる。けれどゴゴはそれをしない。ただただ観察に没頭している。
  聖杯の力によって無限に等しい再生力を手にした者。
  三闘神の力によって破壊と再生の両方を手にした者達。
  どちらも自らで手にした力ではなく与えられた力によって削り、治し、砕き、直し、破壊して、修復する。
  互いに回避あるいは防御して致命傷には至っていないので、その決定打の無さが壊して治す硬直状態を作り出していた。
 三闘神は元が人の体であるが故の力の不足。衛宮切嗣は固有時制御タイム・アルターの魔術と宝具の力を使って一人で三人分の戦いを可能とする。
  余波でゴゴの張ったバトルフィールドが軋み、今にも崩壊しそうになっても戦いは止まらない。
  力が尽きぬ限り敵を滅ぼさんと、壊して壊して壊して壊し、治して治して治して治す。
  ゴゴはその様子を観察する。
  眺める、検分する、凝視する。
  物真似の為に全てを探り尽くそうとする。
  大抵のモノならば初見で全てを物真似し尽くすゴゴが海辺で行われる戦いを一心不乱に見入っている。
  その根幹にあるのがものまね士らしからぬ感情ではあると理解しながら、それでもゴゴはある感情を発端として見続ける。
  根幹にある感情とは怒りだ―――。
  干渉されよう。
  毒されもしよう。
  影響されよう。
  染まりもしよう。
  それでも、それら全てを呑み込んで『ものまね士ゴゴ』としてここにいる。
  そうあるべきだと自分自身を決定させるため、物真似するどころか逆に自分が呑まれそうになった過去がゴゴの怒りを奮い起こした。
  自意識の一部を乗っ取ったモノすら物真似し尽くしてみせる。その思いが怒りを呼び、そしてゴゴに観察を続けさせていた。
  全ては聖杯を物真似する為に―――。
  聖杯戦争において求めるものが物欲にせよ名誉欲にせよ、参加者の多くは聖杯を求める。その意味で、ようやくゴゴは敵と同じ立場になったと言える。
  手に入れる、ではなく。模倣する、ではあるが。確かにゴゴは聖杯を欲している。
  その為に見る。
  そして衛宮切嗣の体が更に削り取られて変容し蘇る頃。遂にゴゴは自意識の一部を乗っ取られたモノの構成を把握し、聖杯の全てを物真似し尽くした。
 途端に聖杯の中に居て、今は衛宮切嗣のほぼ同化している『この世全ての悪アンリマユ』が再びゴゴを内側から喰らいつくそうと膨らんでくるが、ゴゴはそれも含めてものまね士ゴゴを再構築していく。
  これもゴゴとなる。
  このゴゴはものまね士。
  それもゴゴとなる。
  そのゴゴはものまね士。
  あれもゴゴとなる。
  あのゴゴはものまね士。
  どれもがゴゴであり、全てがゴゴであり、喜怒哀楽も、善悪も、正邪も、理非曲直も、何もかもがゴゴである。
  傍目からは何も起こっていない様に見えるだろう。
 ゴゴが自分自身を作り替えてこの世全ての悪アンリマユすら自分の一部として取り込んでいく等と―――、見ただけでは誰にも理解できないだろう。ただ一人、ものまね士ゴゴだけを除いて誰にも理解されない破壊と再生と創造が行われる。
  喰らおうとするならば逆に喰らってしまえばいい。
  成り代わろうとするなら成ってしまえばいい。
  これまでがそうであるように、ものまね士ゴゴは物真似によって事象の全てを自分の中に取り込んでいく。
  ゴゴはゴゴだった。
 が、同時にティナ・ブランフォードであり、ロック・コールであり、セリス・シェールであり、衛宮切嗣であり、アイリスフィール・フォン・アインツベルンであり、アーサー・ペンドラゴンであり、久宇舞弥であり、イリヤスフィール・フォン・アインツベルンであり、ユーブスタクハイト・フォン・アインツベルンであり、エドガー・ロニ・フィガロであり、マッシュ・レネ・フィガロであり、遠坂時臣であり、ギルガメッシュであり、遠坂葵であり、カイエン・ガラモンドであり、ガウであり、言峰綺礼であり、ハサン・サッバーハであり、言峰璃正であり、セッツァー・ギャッビアーニであり、シャドウであり、ウェイバー・ベルベットであり、イスカンダルであり、ストラゴス・マゴスであり、リルム・アローニィであり、ケイネス・エルメロイ・アーチボルトであり、ディルムッド・オディナであり、ソラウ・ヌァザレ・ソフィアリであり、モグであり、ウーマロであり、間桐雁夜であり、湖の騎士サー・ランスロットであり、間桐臓硯であり、間桐鶴野であり、遠坂桜であり、雨生龍之介であり、ジル・ド・レェであり。ケフカ・パラッツォであり―――この世全ての悪アンリマユでもある―――。
  観察が足りないので完全にそうとは言えない者もいるが、それでもゴゴは自分で自分を作り替えて物真似してゆく。物真似しきれない者と物とものとモノがあるならば、それが出来るようになるまで自分を作り替える。
  そして全てを呑み込んで自分のモノとする。
  これまでと何も変わらない。ほんの少しだけ規模の大小が違うだけで、ゴゴの在り方は何も変わっていない。
  今更ながら、ここにきてゴゴはようやく自分が何者であるかを思い出す。ずっと間桐雁夜の物真似をしていた為に忘れてしまいそうになっていたが、ものまね士としての在り方を脅かす存在の出現と怒りによってようやく思い出す。
  全てを知りながらそれを忘れている者。
  人の形をしていながら、人では決してありえない者。
  孤独を体験で埋める者。無ければ作る者。全てを取り戻すために物真似し尽くす者。
  ものまね士ゴゴ・・・。
  「そう・・・俺は、ゴゴ。ずっとものまねをして生きてきた」
 呟くと同時にゴゴは自分が生まれ変わるのを強く実感した。姿形については何も変わっていないし、何か劇的な変化が起こったような素振りも無い。ただ、自分を占める『ものまね士ゴゴ』の一画に聖杯から湧き出るこの世全ての悪アンリマユがいるのを感じ、自分の総量がこれまで以上に広がっていくのを意識できるのだ。
  思い出した、とでも言うべきだろうか?
  人と同じように振る舞うのならば人と同じにしかならない。けれどゴゴは人ではない、人外の化け物のように変異していく衛宮切嗣を上回る、常識など欠片も無い埒外の怪物なのだ。
  それ故にゴゴは神と呼ばれた三闘神すら生み出すことができた。
  ならば出来る。
  だから出来る。
  出来ない筈はない。
  思い出した。
  自分を作り変えて納得した。
  忘れていたモノが戻ってきた。
  理解して自分の中に自分が降りてくると、ゴゴはリヴァイアサンの背に乗った状態で右手を前に突き出した。
  これまで全く戦いに加わらず、援護も行ってこなかったにも関わらず。何故、今になってバトルフィールド以外で戦いに加わろうとしているのか? それはゴゴにもよく判らない。
 物真似をより完璧に近づける為か、怒りの源泉を払拭する為か、三人が人に戻れる限界時間が近づいている為か、この世全ての悪アンリマユすら手に入れてしまったのでもう終わらせようとした為か。
  あの三人に戦いの全てを任せた筈なのだが、そう考えたゴゴと今ここにいるゴゴが違うからか?
  その全てか?
  とにかくゴゴは衛宮切嗣に向け―――三本だった腕を更に倍に増やし、三面六臂の阿修羅像に似た異形に変化して三闘神への攻撃を増す敵に向け―――手を伸ばした。
  これまでの修行や戦いの中で同じ魔法を何度か使ったが、自分が真に何者であるかを意識してからこの魔法を使ったことは無い。もし使えばどうなる? その結果を知ろうとする喜びもあり、ゴゴは躊躇いなく衛宮切嗣に向けてその魔法を放った。
  「――アスピル」
  ゴゴが使う魔力吸収魔法が衛宮切嗣の胸に光る聖杯から強烈に魔力を吸い出した。





  リルムはロックとセリスが行っていた―――戦場から一歩引いた位置で状況を把握する、の役目を受け継ぐこととなってしまった。
  ロックは瀕死に追いやられ、セリスは今にもキャスターの元へと走り、マッシュは回復の為に必殺技を使い、カイエンはランサーとの決着をつける為に刀を振るっている。
  ゴゴとしての意識が状況を見守る誰かを必要として、それがリルムに回ってきてしまったのだ。
  空の戦場にいながら、リルムは戦っていなかった。ただアサシンの少女を支えながら戦おうとするウェイバーの足場を召喚するだけになっていた。
  リルムの傍にいてライダーの手助けをしようとしている戦士が一人。ウェイバー・ベルベットが自分たちの戦いに手を出すなと全身で物語っている。
  魔法を使ってバハムートと共に戦う道がありながら、ウェイバーを理由にして戦おうとしない。戦う者としてこの場に居ながら、戦わない者としてこの場にいる矛盾がリルムの動きを縛っていた。
  苦悩しながらそれでも観察を止めないのはゴゴの性がリルムに状況を見守らせる。
 アーチャーの宝具が生み出した爆発は八竜も王の軍勢アイオニオン・ヘタイロイの兵士たちにも影響を及ぼしており、傷の大きさに違いはあっても殆どが負傷させられていた。
  つまりこの戦場で戦っていたほとんどの者に攻撃を喰らわせ、一時的な静止状態を作ったのだ。
  何とか召喚を保っているロックの『フェニックス』とマッシュの『チャクラ』によって兵士たちは回復し、八竜もまたケフカからの魔力供給によって徐々に復活を果たそうとしているが、両者が戦線に復帰するまでには少し時間が必要だ。敵側は回復魔法ではなく自前の再生なので今までよりも極端に遅い。
 その隙をついて巨大海魔の召喚―――それのみに特化した魔術師のサーヴァントであるキャスターはケフカの禍々しさに匹敵するどす黒い魔力を手に持った『螺湮城教本プレラーティーズ・スペルブック』から放つ。
  地面に染み込んだ竜と英霊達の魔力を苗床にして、人間の皮膚で装丁された本から流れ落ちる魔力が巨大な魔法陣を描いていく。
  キャスターは黒き英霊として再召喚されて力を増し、召喚の為に使う力が膨大であったので。未遠川で見せた召喚よりも早く、そして大きい巨大海魔を砂の大地に招き入れた。
  二割は膨らんで見えるそれが固有結界の砂漠の中に淀んだ水の臭いをまき散らす。
  召喚されたと言うより、元々そこにいた巨大な生き物が起き上がった、と思えてしまう驚異的な召喚速度だった。
  地響きを立てながら紫色のダイオウイカが直立するような歪な光景。砂漠の中にあってそれは一際異質であり、その巨大さゆえに誰の目にも入る。ただし足の数は十本どころではない。何十本も生えた触手がキャスターの周囲にいた兵士たちを押し潰し、握り潰し、喰らっていく。
  もっと餌を。
  もっと魔力を。
  もっと、もっと、もっと―――。
  そう言わんばかりに辺り一面に触手を伸ばす。その生き物は巨大海魔の頂点に居て、程なく巨大海魔の肉塊の中へと吸い込まれていった召喚主であるキャスター以外の全てを食料と見ていた。
  「ホーリー!!」
  駆け寄るセリスが魔法を唱えると純白の光球が空か三つ降り注いで白い爆発を巻き起こす。それでも、巨大海魔は触手での捕食を止めようとはせず、陣営としては味方であるはずの八竜にも伸ばし始めた。
 巨大海魔を砂漠の大地の上に出現させる要因を作った当のアーチャーは飛行宝具『ヴィマーナ』の上で王の財宝ゲート・オブ・バビロンを上回る攻撃を展開しようとしていた。
  さすがの巨大海魔も空を飛ぶ敵にまでは触手が届かないようで、アーチャーは誰にも邪魔される事無く着々と準備を整える。
  確実にその目はキャスターが呼び出した巨大海魔を捉えていて、しかもその発端は紛れも無く自分であると理解している筈なのだが。そんな事は知らぬ、とばかりにドリルに似た三つの円柱状の刀身を回転させている。
 あれはほぼ確実にライダーの規格外宝具『王の軍勢アイオニオン・ヘタイロイ』と同等かそれ以上の威力を繰り出すに違いない。それが理解できるからこそ余計に観察を止められず、リルムの目は特にアーチャーに向けられる。
  視界の片隅に見えるアーチャーの真名と同じ名前を持つ幻獣『ギルガメッシュ』はこれ幸いにとアーチャーからも巨大海魔からも離れようと走っていた。あれは戦場に復帰するまでには少々時間が必要だろう。
  残る力の全てを注ぎ込もうとしているようで、アーチャーが持っている剣に魔力が集結していくのが判る。
  きっと物真似し甲斐のある技が繰り出されるだろう。
  今まで見た事のない宝具が発動するだろう。
  そのままずっと見入っていたかったのだが、リルムの間近で起こった変化が遠くを見通すのを一時的に止めさせた。魔石『アレクサンダー』が再び使用されてウェイバー・ベルベットの後方に城のような巨人が現れたからだ。
  ただそれだけだったならリルムの目はアーチャーに向けられたままになったが、幻獣『バハムート』の背後でもあるそこに現れたアレクサンダーの頭部に当たる部分しか出現していない。
  そこは『聖なる審判』が発射される重要な部分なのだが、塔のような腕も城壁のような体も無く、アレクサンダーの一部だけがぽつんと空に浮かんでいる。
  魔石を使う場合。召喚するのに必要な魔力が無ければ召喚が行えず、魔力があっても召喚したら必ず幻獣はその肉体の全てが現界するようになっている。本来の魔石を使う用途以外で幻獣を呼び寄せた者はゴゴ以外には存在しなかった。
  これまで魔石を頻繁に使ったのは間桐雁夜と遠坂桜の二人だけで、どちらも才能はあってもこの世界で魔術師としての鍛練を積んだ者達ではない。ゴゴによって力を付けたが、それは別世界で使われる魔法の習得であり、この魔術とは一線を介する。
  しかしウェイバーは違う。腕は三流かもしれないが、彼は紛れも無くこの世界で修行を積んだ生粋の魔術師なのだ。
  かつて旅した世界の魔法とこの世界の魔術との違いか。それともウェイバー自身の特異性か、魔力が底を尽きそうなので全体を召喚しない様に調整しているのか。幻獣の一部召喚という信じ難い出来事が起こったので、リルムの目はついそちらに向けられてしまう。
  見られたウェイバーはリルムに一瞥もくれず、ただひたすら空の戦場を睨んでいる。
 大きく開いた目に映るのは六枚の羽根を生やした天使にも悪魔にも見えるモノと、神威の車輪ゴルディアス・ホイールを操って空を舞う征服王のみ。時に接近し、時に距離を取り、互いの命を奪おうとする強者同士の戦いだ。
  時折、ウェイバーの後ろに現れたままになっているアレクサンダーの頭部が右へ左へと動く。その先にいるのがケフカであるのは間違いなく、『聖なる審判』を発射するタイミングを計っているのだと判る。
  アレクサンダーの頭からレーザーが発射されないのは戦場までに距離があり、接近しても無様に落とされるか人質にされるとでも考えているからだろう。加えて、二人の戦いがあまりにも早すぎて、下手に撃てばライダーの方に『聖なる審判』を当ててしまう危険がある。
  それでもウェイバーは一瞬の隙を探し出そうと見つめ続けている。リルムが視線を戻して、巨大海魔に、アーチャーに、そして戦場の全てを観察し続けても気付く様子は無い。
  だからウェイバーはリルムより早くケフカの変化を発見できた。
 ケフカの背中に広がる六枚の羽根は神威の車輪ゴルディアス・ホイールをいなし、雷牛の放つ雷を受け止める。それは羽根でありながらライダーの振るうスパタとぶつかっても斬られる気配のない、羽根に見える何かだった。
 槌のように敵を打ち殺す為にある戦車チャリオットの牽引部分とその六枚の羽根がぶつかって、一時的に距離が開く。これまでに何度か見えた光景だが、そこでケフカは今までになかった動きを見せた。
  白い羽根も蝙蝠のような羽根も真っ黒な羽根も全て広げ、その場に静止したのだ。
  そのまま何もしなければ戻ってきたライダーに大打撃を受けるが、ケフカの羽根は金色の淡い光を纏って一気に放出した。
 六枚の羽根からそれぞれ放たれた六個の光はケフカ目がけて旋回するライダーと戦車チャリオットに向かいながら、白い羽根と頭の上に輪を浮かばせた天使へと変わっていく。
  元々の光と同じ金色の髪の天使は子供の姿をしていて、六人と少し多いながらも神々しさを感じる光景だ。
  だが視界の隅でそれを捉えたリルムは天使の作り出す美しさとは無縁に思える悪辣さを考えた。
  ケフカが放ったモノは敵を死に至らしめる技ではないが、当たれば必ず瀕死へとい追いやる極悪な技。これを喰らい、そしてもう一撃を喰らえばそいつは決して生きられない。
  見た目と効果がまるで異なる悪質な技。追撃がどれほど軽い傷であろうと、次の一撃によって必ず死に至る技。それこそがケフカの放った―――『心ない天使』だ。
  遂にケフカが本気になってライダーを殺しにきた。と、リルムがそう考えようとするよりも前に背後で何かが動く。
  そして起こった出来事に思考がようやく追いつくと、ライダーを見ているリルムの視界の中に黄色いレーザーが伸びる。


  聖なる審判


  遅れて聞こえてきた幻獣の声とケフカの羽根へと迫る幻獣『アレクサンダー』の攻撃。
  最初にウェイバーが使った魔石の威力に比べれば、それは一筋の光でしかなかった。接触すると同時に巨大な炎の海を作り出すでもなく、ただ当たった個所をほんの少しだけ燃やす程度の威力しか無い。ケフカの頑丈さを考えれば一瞬火で炙られた程度にしか感じず、痛いとすら思わないだろう。
  魔石を使っているウェイバーの魔力の無さが原因で、一割にも達しないか弱さしか発揮していなかった。
  敵を倒す一撃では無かったが、その一撃は間違いなく大きく羽根を広げた六枚の内の一枚に当たり。そしてケフカの意識をほんの一瞬だけライダーから引き離した。
  目の前で戦っている敵とは別方向からの攻撃にケフカの気が逸れたのだ。
  ウェイバーは見て、看て、観て、みて、遥か彼方の空で戦っている敵に点で攻撃する為に、ただ『当てる』と『隙を作る』だけに自分を特化させた。
  集中、それは程度の違いはあっても人ならば誰であろうと持つ力。それを使い、ウェイバーは人の身で怪物と英霊の戦いに一手を打ちこんだ。
  今のライダーはマスターが死んでしまった後に残るはぐれサーヴァントであり、既にライダーとウェイバーを魔術的に繋げているものは何もない。ウェイバーが何をするかライダーには何も伝わっていない。
  ケフカへと向かえば確実に『心ない天使』に当たる、当たってしまえばその時点で『後一撃で死ぬ』に追い込まれるとライダーは知らない筈だが、これまで無かった攻撃に得体のしれない薄気味悪さは感じているだろう。
  避ける選択肢はあった。すぐに方向転換して迫りくる天使に見える攻撃から離れる事も出来た。
  けれど数多の戦場を駆け抜けた征服王イスカンダルは一瞬の隙を見逃さず、そして回避を選択しなかった。
 雷牛に、肩に、牽引部分、スパタを握る手に、車輪に、首の根元に天使がぶつかっても戦車チャリオットをまっすぐケフカに向ける。
  実体化どころか霊体化すら出来なくなるのではないかと思える程、急激に体力が失われていくが。それでもライダーの目は敵を見つめていた。
  そして―――。





  ティナがいるのはセイバーが立つ大地から遠く離れた空の上。真下から見上げれば月を背にしたトランス状態のティナの全体像が見えるだろう。
  「ヘイスト」
 ティナは衛宮切嗣の固有時制御タイム・アルターほど劇的な加速ではないが、加速魔法を自分にかけて空を飛び続ける。
  真下にいるセイバーがのけ反らなければ見えなくなる位置―――体を反転させて体勢を整え直さなければならない場所に向かって移動してから一気に滑空した。
  無論、その程度のわずかな時間を利用したからと言ってセイバーの隙を付ける訳ではない。
  地上に立つセイバーに向けて剣を振り上げ、重力の勢いも利用しての重い一撃を作り出す。
  「ファイラ」
  避けさせない為。牽制の為。驚かせる為。様々な理由からティナは斬りかかる前にセイバーの足元から炎の柱を出現させて攻撃を加える。
  するとセイバーの周囲に渦巻く黒い風が竜巻となって炎を受け止める盾となった。
  唐突に巻き起こった風は『ファイガ』すら逃がす暴風だったので、威力の下がる『ファイラ』では鎧の一部を焦がすにも至らない。それでもティナとセイバーとの間に障壁を作り、互いの姿を覆い隠す。
  ティナは風の中心にいるセイバーに向け、ほんの少しだけ位置を変えながらアポカリプスの銘を持つ剣を後ろに引いてから横に振るう。
  炎を完全に上方へと退けた風が無くなり、ティナの剣が襲い掛かり、セイバーの剣が受ける。
  剣同士の衝突。
  滑空の勢いを使っての体当たり。
  ガン、ガン、ガン。と甲高い音を鳴り響かせ終えると同時にティナの体は再び空の上へと上昇していった。
  時々、セイバーから黒い風が追撃として飛んでくるが、ティナの戦い方は一撃離脱戦法によく似ている。ただしセイバー自身がどう思っているかは別にしてティナは今やっているのを戦いだとは思っていない。黒く染まったセイバーの力をより出させる為に試行錯誤を重ねている所なのだ。
  接近戦でもいい、遠距離戦でもいい。もっと違う何かを見せてみろ。そんな風にものまね士の格好をしていない中で、ゴゴの意識がティナのそれを染めていく。
  トランス状態の影響かもしれない。
  剣の英霊として聖杯戦争に招かれるだけはあり、セイバーの剣術はティナが扱える技術を軽く超えていた。動きを物真似してほんの一瞬だけ拮抗状態を作り出せたが、すぐに別の動きでティナを圧倒してしまう。
  剣術の引き出しの多さは圧倒的にセイバーの方が上で、黒き聖剣はセイバーの手の延長にあって別の生き物のように動いている。
  ティナも魔導戦士として名高い実力はあるが、剣のみに絞って考えれば完膚なきまでに負ける。だからこそ剣と魔法を融合させた一撃離脱戦法なのだ。
  負けず。
  勝たず。
  勝負を長引かせてセイバーの実力をもっともっと引き出させるために翻弄する。
  宝具が作り出す遠距離攻撃は常に警戒し、距離を取っているからと言って油断は微塵もない。
  「風王鉄槌(ストライクエア)――」
  空に舞い戻る途中で背後から迫る荒れ狂う嵐を感じ取る時もあり、そんな時は急な方向転換を行い、迫る風の直撃を避けなければならない。加速魔法の効果が続いている中ならより容易くなる。
  そのまま地上にいるセイバーに向けて、空いている手を向けて別の魔法を放つ。
  「グラビガ」
  漆黒の球体―――。対象を包み込んで弱体化させる闇の玉がティナの手から放たれてセイバーに向けて降り注ぐ。
  そのまま直撃するかと思われたが、セイバーが剣を上段に構えて一閃すると向かっていた黒い球が左右に両断されてしまった。
  セイバーは空から降り注ぐ黒い球を剣で斬ってしまったのだ。
  黒く染まった剣に魔法効果を切り裂く効果が付加されたか、あるいは単純に魔法すら斬るセイバーの技量か。
  混乱魔法『コンフュ』や停止魔法の『ストップ』、それから河童変身魔法の『カッパー』などは使わない。セイバーはクラス別能力で高い対魔力を持っているから魔法そのものが効かない可能性は高いし、万が一に効いてしまったらセイバーの戦力は激減してしまう。
  ティナの目的はセイバーを倒すことではない、セイバーが秘めた切り札を引きずり出すのが目的なのだ。
  急降下の後に剣戟。距離を取ってからの魔法攻撃。離れた場所に舞い降りてからの超低空飛行。など、など、など、など、など。
  様々な方法でセイバーに攻撃を仕掛けてきたティナだったが、その回数が十を超えた所でこの状況の無意味さを考えるようになった。
 剣の英霊であるセイバーは接近すれば剣で応戦し、離れた場所にいれば風王鉄槌(ストライクエア)か約束された勝利の剣エクスカリバーで攻撃してくる。
  一つ一つがティナの体を粉砕しかねない威力を持っているので、魔法を放って風を相殺したり、黒い輝きに呑みこまれないように全力で避けたりしなければならないが。様々な魔法でこちらが攻撃しても、大抵はその二つで打破してしまう。
  攻守兼用の風と全てを切り裂く黒い斬撃はとてつもない威力だが、今のセイバーの攻撃および防御手段はそれのみに限定されている。
  このまま似たような攻防を繰り広げていても似たような結果しか生まないだろう。
  剣の英霊の剣技を全て物真似するのも面白いかとも思ったが。剣技はどこまで行っても剣技でしかない。極端に言ってしまえば、四肢を持つ人間ならば再現可能なモノばかりなのだ。
  聖杯戦争においてゴゴが真っ先に求めた物真似の素材は宝具である。
  サーヴァントが持つ切り札。人間の幻想を骨子に創り上げられた武装。英霊が生前に築き上げた伝説の象徴。物質化した奇跡。それこそが宝具であり、ものまね士ゴゴが求めるモノだった。
  余人では再現するのも不可能な超高速な技であろうと、動きだけならば同じ人の形をする者ならば真似できる。
 そんなモノは二度、三度見ればもう不要。あるいはセイバーが繰り出す技が新しい宝具となるかもと期待したが、二桁以上繰り返しても剣技は剣技であり宝具にまでは到達しない。バーサーカーの『己が栄光の為でなくフォー・サムワンズ・グロウリー』と『騎士は徒手にて死せずナイト・オブ・オーナー』、アサシンの『妄想幻像ザバーニーヤ』のように武具ではない宝具は発動しなかった。
  闘いを長引かせようとしているティナとは対照的に、セイバーはさっさとティナを斬りたい筈。戦いを長引かせる理由は見当たらない。つまり―――これ以上の宝具は無く、物真似する価値あるモノはもう見れない。そう結論付けるしかなかった。
  気を抜けば一瞬で斬り殺されてしまう戦場で、強化され現時点では最強と言っても過言ではないサーヴァントを相手にしながら、それでもティナの中からやる気が削がれていく。
  もう終わらせよう。
  これを最後にしよう。
  そう思いながら、ティナは円蔵山を背後に置いて地上へと舞い降りた。
  頭上からの攻撃に備えているセイバーは今もとある屋上付き一軒家の上にいる。ティナが立つ位置との間に遮蔽物が無ければセイバーは移動しただろうが、桃色に光るティナの姿が見えているので動く気配はまだ無い。
  ティナは相手と自分の位置を確認しつつ、両手を前に伸ばす。するとティナ自身から放たれる桃色の燐光とは違う青い光が突き出した両手の前に集まりだした。
  ティナが使える攻撃魔法の中でも最高位の威力を誇り、その名の通り『究極』の魔法。避ける術は無く、無属性の全体攻撃が敵に分類したモノを全て破壊し尽くす―――。
  青い光は一点に収束し、丸い球に成っていった。
  これまでの魔法行使には無かった数瞬の溜めを終えた後。ティナはその魔法を放つ。
  「アルテマ」
  半球状に展開されたバトルフィールドの中を、同じく半球状の破壊の渦がティナの前を起点にして膨らんでいく。敵と認識したモノを破壊する為に広がっていくそれを回避する術は無い。バトルフィールドの中、全てを覆い隠すまでこの魔法は止まらない。
  ティナは『アルテマ』の青い光が広がっていくのを感じながら、遠くにいるセイバーを――両手で握りしめた剣を掲げるセイバーを―――見ていた。





  自分の力が目の前にいる三体の敵以外の誰かに吸われていると悟った時、衛宮切嗣は素早く反応した。
 四倍速スクエアアクセルを使って自分の周りにいる三人の敵に攻撃していたが、三闘神への攻撃を止めて海の方へ弾丸に見えるモノを撃つのを優先させたのだ。
  当然であろう。目の前にいる敵達によって受けてきた『負傷』を大きく上回る『損失』は衛宮切嗣にとって他の何よりも優先させるべき危機だ。
  幻獣『リヴァイアサン』の頭の上で衛宮切嗣に手を向けていたゴゴの元へと弾丸に見えるモノが山ほど飛んでくる。
  拳銃に見える黒い塊から発射された弾丸が有効射程の全てを埋め尽くし。下手な鉄砲も数撃ちゃ当たる、ではなく、遠くても数撃ちゃ当たる、で攻撃してきた。
 迫りくる逃げ場のない攻撃を見ながら、ゴゴは吸い取っている最中の衛宮切嗣の魔力―――元は聖杯の中にいるこの世全ての悪アンリマユから供給されている魔力を使って数には数で対抗した。
  「針千本!」
  使っていた『アスピル』の効果が消えると同時に、海から岸辺へと向けた手から黒く染まった針が撃ち出される。
  戦うには戦うで―――。魔法には魔法で―――。御返し。
  手の前から現れた針がゴゴの体を傷つけるであろう弾丸のようなモノだけを撃ち落としていく。
  同じモノを基にして作られた黒いモノ同士が衝突し、互いを粉砕し、打ち消し合う。
  ただしゴゴの体を傷つける筈だった攻撃は全て粉砕されたが、足場にしているリヴァイアサンの巨体を傷つける攻撃までは撃ち落とせなかった。
  四倍速で放たれた攻撃の数は圧倒的であり、手数ではゴゴは大敗している。だから衛宮切嗣の攻撃はゴゴには届かず、リヴァイアサンには何十発かが激突してしまう。
  体を抉られ、甲高い悲鳴を上げ、頭を振って乗っているゴゴを落としそうになるリヴァイアサン。
  ゴゴはリヴァイアサンが消滅するまでに時間があり、乗れなくなるまで数秒の猶予があるのを確認すると、再び衛宮切嗣に向けて魔力吸収魔法を放つ。
  「アスピル」
  もし衛宮切嗣が連続して弾幕の雨を降らせていたらゴゴは同じように攻撃には攻撃でお返ししたが。衛宮切嗣はゴゴを攻撃してしまった分だけ三闘神に隙を見せてしまっている。
  見れば三闘神が衛宮切嗣の腕を斬り落とし、肩に喰らいつき、足を突き刺している。
  目の前の敵を放置してでも最も危険な敵―――今の衛宮切嗣を構成する力の根源から魔力を奪おうとするゴゴに狙いを定めた代償を支払っている最中だ。二度目の攻撃をゴゴにしている暇はない。
  アスピルの効果がもう一度発揮され、圧倒的な総量へと自分を作り替えてしまったゴゴの中に黒い魔力が吸収されていく。
  三闘神と衛宮切嗣の戦いだけだったなら、相手が三人とは言え衛宮切嗣が勝利しても不思議はなかった。三闘神が圧倒的な力を有していても、それを使うのはあくまで人間であり『鬼神』も『魔神』も『女神』も本物には程遠い。
  加えて三闘神は自分たちの力を拮抗させる為に三角形の構図を作らなければならず、衛宮切嗣がその位置取りと驚異的な速度を利用して数の差を埋めていた。
  衛宮切嗣は聖杯の力をより強く求め、三闘神は人に戻る為に時間制限を設けた。状況が拮抗していたのならば、先に限界が訪れるのがどちらかなのは考えるまでも無い。
  もし、単独で三闘神を上回る力の持ち主が戦いに加わらなければ―――。
 もし、聖杯とこの世全ての悪アンリマユの物真似が出来上がる前に決着をつけていれば―――。
  ありえたかもしれない可能性は現実には存在せず。衛宮切嗣の胸にできた孔から黒い魔力が抜けて、ゴゴへの吸収され、回復に費やしていた力は減衰して三闘神の攻撃を喰らっていく。
  拮抗は呆気なく崩れた。
  もう一度、衛宮切嗣がゴゴに攻撃する余裕は無い。ただ目の前にいる敵に対処するのが精一杯。その間にもゴゴに黒い魔力は吸われ続け、どんどん力は落ちていく。




  セイバーは迫りくる究極の攻撃魔法『アルテマ』を見て、瞬時に回避不能と判断したようだ。
  もっと力を。
  もっと威力を。
  もっと破壊力を。
  もっと敵を斬る力を。
  セイバーが現界する為に必要な魔力すら消費して正真正銘の全開が構築されていく。刀身が全てを呑み込む夜よりも暗いモノに変わっていく。光の輝きを決して許さない闇よりも深いモノが集っていく。
  刀身どころか剣そのものが闇に染まったように黒一色で塗りつぶされ、その黒さはセイバーの籠手を伝わり、鎧を侵食し、遂には全身にまで浸透していくのが見えた。
  これまで辛うじて残っていたかつてのセイバーだったモノがことごとく消えていく。
  オッドアイに変わっていた目は両眼が完全な金色の瞳へと変わり、その顔を隠す不気味な逆三角形の仮面が現れて、目、鼻、口、耳、など、表情の全てを覆い隠してしまった。
  完全に聖杯の『悪』に呑みこまれた。
  いや、もしかしたら『アルテマ』の力に勝てないと感じとり、セイバーが自ら聖杯の『悪』を受け入れたのかもしれない。
  ティナの手から広がっていく青い光の向こう側でセイバーが剣を振り下ろし。これまでの中で最も強く、そしてこれまでの中で最も深い黒き光を放つ。
  「■■■■■■■!!」
 約束された勝利の剣エクスカリバー。そう叫んだのか、それとも単なる咆哮だったのかは判らない。
  セイバーが作り出した黒く輝く巨大な斬撃が見える。ティナが放ったアルテマとティナ自身に向けて撃ち出したモノが見える。
  闇を凝縮し。光を斬り。途方もない威力を秘めた黒く巨大な斬撃。
  しかしこれは今までに見た技と本質は変わらない。
  そうだ―――。これが見たかった。
  ティナはそう思った。
  ここでもしセイバーが力を温存しているようならば、もう戦う者として観察する価値はない。
  ここが終局―――。これが見られたのだからもう状況を進めよう。この茶番を終わりにしよう。
  そう思った。
 黒き『約束された勝利の剣エクスカリバー』と究極の魔法『アルテマ』が衝突し、互いに込められた意味を発揮する為に破壊を作り出そうとする。
  黒い斬撃は衝突した地点から先に進まず、半球状に膨らんでいく青い光は黒い斬撃のぶつかる部分だけ膨張を止められてしまった。
  壊す。
  破る。
  潰す。
  斬る。
  放たれた技として、発動した魔法として。二つの破壊が存亡をかけて激突し続ける。
  するとアルテマと拮抗していた筈の斬撃がその大きさを更に膨らませた。
  最早、未遠川で見たライダーに放った時の一撃の倍近くにまで膨らんで、斬撃と呼ぶには巨大すぎるモノと化した。
  セイバーの手から離れても尚、意思を受け継ぐように更なる破壊を作り出さんとしている。まるで成長する生き物のようにより強くより大きく。
  強靭な。
  全てを斬る。
  究極の一撃へと―――。
  そして遂にアルテマの一画すら引き裂く威力にまで膨張し、敵を斬る為だけに増大した斬撃が、範囲内にいる全ての敵を滅ぼすために放たれた究極の破壊を凌駕する。
  半球のたった一部だけれど、紛れも無くセイバーの力がティナの魔法を凌駕した瞬間だった。
  セイバーに衝突する筈だった部分だけが抉られ、セイバーがいる場所以外を破壊していく不格好なアルテマを切り裂いて、中央にいるティナを目がけて黒い光が迫る。
  ティナは両手を前に構えていても防御の為に動かず、魔法を新たに唱えて迎撃するでもなく、回避する素振りを見せず。ただ言葉を呟く。





  衛宮切嗣に力を与えている聖杯の力がどんどんゴゴに吸われて、弱体化は避けられない事象として確定してしまった。
  四倍速で動いて間近にいる三人の敵と戦いながら、しかも遠く離れた海にいるゴゴにも対処しなければならない。新たな敵の出現に衛宮切嗣の動きが鈍り、『鬼神』はその隙を逃さず突いた。
  「ブラスター」
  ハルバートの先端から血のような真っ赤な球が撃ち出され、衛宮切嗣の頭部を掠める。
  傷は浅い。しかし紅い球体には対象に即死効果を与える付加され、それは一瞬で衛宮切嗣の命を奪い去った。
 死ぬと同時に宝具の効果が発動し、『全て遠き理想郷アヴァロン』が同じく一瞬で衛宮切嗣を蘇生させる。
  死んで、蘇る。その死んでいた僅かな時間はこれまでにない大きな隙を作り出した。





  砂漠の空に留まる飛行宝具『ヴィマーナ』の上でようやく準備を終えたアーチャーが歪な剣を高々と掲げた。そして三つの円柱が今まで以上に回転し、その剣を起点にして魔力の暴風が吹き荒れて赤と黒の渦が巻き起こる。
  時間がかかってしまったのはアーチャーの残存魔力の少なさが故だろう。
  それは起き上がろうとする兵も、伝説の八竜も、キャスターの呼んだ巨大海魔も、固有結界そのものも、アーチャーにとって全ての敵に狙いを定めた最後にして最強の一撃だ。
  何もかもを切り裂く一撃が―――擬似的な時空断層による空間切断が―――物理的に空間を切裂く風が―――天から降り注ぐ。
 「天地乖離す開闢の星エヌマ・エリシュ!!」
  空から大地へ、大地から空へ。大きく振り抜かれた剣の軌跡は大きな弧を描いた。





  死んで蘇った衛宮切嗣の隙。状態異常の攻撃を主体にする『女神』は『鬼神』が作り出したそれを最大限に使う為、両手を前に突き出して、ある魔法を唱える。
  「クエーサー」
  夜の暗さより深い闇が三闘神が作り出す三角形の内部に作り出され、そこから数十本の光の線が降り注いで衛宮切嗣の周囲を包み込んだ。
  技が発動してから効果が発揮するまでに僅かばかりのタイムラグがあり、しかも他の二柱『鬼神』と『魔神』を傷つけてしまうかもしれなかったから広範囲で使えなかった魔法『クエーサー』。
  光が降り注いだ後に衛宮切嗣が蘇生するのが『女神』にも見えたが、避けるよりも技が発動して範囲内を攻撃する方が早い。
  起き上がって逃げようとするが、それよりも前に空に出来上がった三角形の闇から隕石群が降り注ぐ。
  殴打などとは比べ物にならない巨大質量の乱舞が蘇ってきた衛宮切嗣を再び『死』へと押し戻した。





  ライダーは六つの天使に見えるモノが当たった瞬間に自分の力が根こそぎ奪われたのを知った筈。どんな軽い攻撃だろうと、あと一撃喰らえば死ぬ、と、現界出来なくなり消滅すると理解した筈。
  そしてアーチャーがやろうとした事にも気付いていて、その攻撃がライダー自身にも襲い掛かってきていると判っている筈。
  目の前の敵に全力を注ぎつつも、指揮を執る者として周囲に気を配らない訳がない。それは軍団の大将が持つ性分のようなものだから、知らぬ筈がないのだ。
  それでもライダーはケフカを見ていた。
 ウェイバーの作り出したチャンスを手にする為、残った魔力の全てを注ぎ込んで、神威の車輪ゴルディアス・ホイールの蹂躙走法を発動させた。
 「遥かなる蹂躙制覇ヴィア・エクスプグナティオ!!」
  羽根を広げ、目の前の相手から気を逸らした敵を打ち倒さんが為に―――。ただ前へ。





  『魔神』は衛宮切嗣が死んで蘇る以前から力の中心が聖杯であり、そこから溢れ出る黒い泥をどうにかしなければならないと判っていた筈。他の二柱もそれは判っていたが、敵もそう易々と力の源泉であり弱点でもある聖杯を攻撃させてはくれない。
  『女神』が放った『クエーサー』すら丸まって耐え凌いだ。もうこの機を逃せば、衛宮切嗣は倒せない。回復し、そして三闘神には限界が来てしまう。
  ここで倒せなければ人に戻れなくなる。破壊をまき散らすだけの戦いの神になってしまう。
  だから『魔神』は、いや、間桐雁夜は、一年で肉体に刻み込んだ剣を最後の攻撃とした。
  魔剣ラグナロク―――。それは雁夜の力のよりどころであり、ゴゴから授かった力の象徴でもあった。
  丸まって聖杯を守り、回復に努める衛宮切嗣の聖杯に向け、『魔神』は肉体を覆う聖杯の泥ごと剣を突き刺した。
  倒す。そんな雁夜の願いに答えるように、衛宮切嗣に深々と刺さった魔剣ラグナロクが『魔神』の魔力を強烈に吸い込む。
  そして、低確率で発動する爆裂魔法『フレア』が衛宮切嗣の内側にめり込んだ刀身の先で爆発した。






  セイバーの放った黒く大きな斬撃を見ながらティナは呟く。
  これを喰らえば斬られると理解しながら。防御の為に手段を講じる時間があると理解しながら。避ければ腕一本ぐらいにまで被害を抑えられると理解しながら。
  動かず、ただ呟いた。
  「バトルフィールド――。解除・・・」
  と―――。





  まるで示し合わせたかのように極大の攻撃が数多の戦場で発動した次の瞬間。
  全てを台無しにする一撃がティナの体を切り裂いて、背後にそびえ立つ円蔵山にも襲来した。



[31538] 第46話 『ものまね士は別れを告げ、新たな運命を物真似をする』
Name: マンガ男◆da666e53 ID:7423a91f
Date: 2014/04/26 23:43
  第46話 『ものまね士は別れを告げ、新たな運命を物真似をする』



  ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆



  Side - ゴゴ





  爆裂魔法『フレア』はたとえ魔剣ラグナロクを持つ者が魔法を使えないとしても、魔力さえ持っていれば柄から魔力を吸い取って剣の切っ先から低確率で発動する。雁夜も『魔神』も聖杯戦争の中で一度たりともフレアを発動させなかった―――させられなかったが、絶対に倒さなければならない衛宮切嗣を相手に、しかも敵の胸に光る聖杯の所まで刺し込んだ時点で発動するとはあまりにも都合が良すぎた。
  まるで剣が雁夜の思いに同調したかのようだ。
  魔剣ラグナロクがゴゴの中から生まれた剣であろうとも、一年以上離れてすでに雁夜の物となっているので、本当に剣が応えたのかどうかは判らない。単なる偶然の可能性も捨てきれないのだから。
  とにかく『魔』の『神』が内包した強大な魔力を糧として、爆裂魔法は途方もない威力を発揮して炸裂した。
  それは衛宮切嗣の肉体を内側から破壊し、間近で起こった爆風で三闘神の全員を吹き飛ばし、海を沸騰させて浅瀬を干潟に変えて広がっていた聖杯の泥も消し飛ばし、バトルフィールドの端から端まで衝撃を響かせた。
  当然ながら全方位に広がった衝撃は海にいたゴゴにも海の中にいて足場になっている幻獣『リヴァイアサン』にも届く。リヴァイアサンは衛宮切嗣の攻撃で傷ついて耐え凌ぐ余力は無く、ゴゴは踏ん張る前に衝撃が来たので後ろに吹き飛ばされてしまった。
  「――ブリザガ」
  リヴァイアサンの頭から足が離れた瞬間。ゴゴは本来は敵に攻撃する氷属性の攻撃を下の海に放つ。
  次の瞬間、ゴゴの手のひらから放たれた氷の弾丸が海にぶつかって、海の中に巨大な氷柱を作り出す。近くにいたリヴァイアサンが氷柱に巻き込まれて一緒に取り込まれてしまうが、ゴゴは気にせず新しく作られた足場の上に降り立った。
  勢いに乗ってしばらく滑って岸辺から遠ざかっていくが、巨大な氷の塊の端に辿りつく前に勢いは弱まって立つ姿勢を作り出せた。
  見る状況を改めて作り直したゴゴ。その目に飛び込んできたのは空に出来上がった巨大な孔だった。
  衛宮切嗣の胸に出来ていた孔を数十倍にまで膨らませた巨大なモノ。本来ならば、それは聖杯降臨の儀式が行われる祭壇と、円蔵山の地下に敷設された大聖杯とを結ぶ空間のトンネルなのだが。『魔神』となった雁夜によって制御する為に用意された聖杯が破壊された為、暴走しようとしている。
  制御できない力はただの災害だ。あれはバトルフィールドを融解させ、大地を削り、邪魔するものは何でも燃やし、死と破壊をまき散らすだろう。
  ゴゴは孔から湧き出つつある聖杯の泥―――衛宮切嗣の胸から出ていたそれを穴の大きさの分だけ何十倍にも増大させた物―――を確認して、それに手を向けた。
  『魔神』は? 『鬼神』は? 『女神』は?
  三闘神は無事なのか?
  バトルフィールドは張られたままか?
  衛宮切嗣はどうなったのか?
  リヴァイアサンは氷に捕まって平気なのか?
  数ある疑問を余所に置いて、まず起ころうとしている事象を起こさせない為に魔法を唱える。
  「アスピル」
  衛宮切嗣に力を与えていたモノを吸い込めたのだ。どれだけ総量が増えようと、同種ならば吸い取れない筈はない。
  そう思って放った魔力吸収魔法は空にぽっかりと空いた孔から重力に引かれて落ちようとする黒い塊の向きを強引に変える。
  下に落ちる筈だったモノが横に動いている。まるで見えない板がそこに合って落下を防いでいるような奇怪な現象が巻き起こり、噴火口から湧き出るマグマの様に孔から流れ出た黒い泥がゴゴの手に吸い込まれていった。
  ゴゴの手のひらに『孔』と同じような『穴』が合って、そこに泥が吸われていく。
  見た目こそマグマを思わせる黒い泥だが、その実態は大聖杯が六十年の長きに渡りため込んできた魔力だ。どんどんと体の中に魔力が補充されていくのを感じながら周囲を見渡し、孔が合った個所の真下に衛宮切嗣が転がっているのを発見する。
  信じ難い事だが、発動したフレアで体の内側から破壊されたにも関わらず、衛宮切嗣はまだ人の形を保っていた。
  腕も足も食い千切られて切り取られた。胸に開いた孔は肋骨を削って確実に心臓を抉る大きさだった。フレアの爆発は人の肉体など簡単に消し飛ばす破壊力だった。それなのに着ていたロングコートは見る影も無くボロボロになっているけれど、衛宮切嗣の両手両足は健在だ。
  衛宮切嗣は生きている。
 おそらく戦っている時は聖杯の泥が衛宮切嗣の肉体の代わりを努め、全て遠き理想郷アヴァロンがそれを本来の肉体に作り替えたのだろう。三闘神が攻撃した個所は聖杯の泥の部分で、内側から吹き飛ばしたのも聖杯の泥だった―――ではなかろうか?
  彼の周りは戦っている最中に溢れ出た聖杯の泥でぐしゃぐしゃにされていたので、その中に横たわる人影だけが目立っている。
 無傷の筈はないが、肉体の損傷はまだ体内に残っている全て遠き理想郷アヴァロンが治している最中と思われる。
  本来の持ち主であるセイバーことアーサー・ペンドラゴンが所持していないにも関わらず、魔術的に繋がっているマスターだからこその無限の治癒能力。
  膨大な魔力を与える聖杯との組み合わせは極悪で、不完全な力しか使えなかった『魔神』と『鬼神』と『女神』だけでは勝てなかっただろう―――と、ゴゴは改めて宝具の恐ろしさを痛感する。
  確信は無いが一応は生存を『宝具の効力』として納得していると。孔は消え、そこから溢れた黒い泥は全てゴゴの魔力になった。
  とりあえずこの場の危機を去ったのを確認し、ゴゴは吹き飛ばされた三闘神を探すべく他の場所に目を向けた。





 セイバーが振り下ろした剣を起点にして、斜め下方へと放たれた黒い斬撃『約束された勝利の剣エクスカリバー』。今まで放たれた斬撃と見た目こそ同じだが、込められた魔力は過去最高であり、最も強力かつ強大な斬撃へと進化した。
  それがあらゆる障害物を切り裂いて―――バトルフィールドが解除されてしまえば、斬撃の通過する個所にあるのが道路だろうと、民家だろうと、樹木だろうと、人間だろうと無関係に斬って進む。
 これまでアーチャーの『王の財宝ゲート・オブ・バビロン』や『天地乖離す開闢の星エヌマ・エリシュ』など、広範囲を破壊する宝具はゴゴとケフカがそれぞれ作り出したバトルフィールドによって被害を最小限に抑えてきた。
  衛宮切嗣が望み、冬木に出現した聖杯は市街から海にかけて幾つも破壊をまき散らし、人を何人も何十人も殺し、最後は海の一画を焦土へと変えたが、広範囲を破壊させる宝具に比べれば被害は少ないと言える。
  バトルフィールドが無ければ、ケフカとの戦いが始まった時も、キャスターが未遠川で巨大海魔を呼び出した時も、ずっと被害は広がっていた。
 黒き英霊達と伝説の八竜が召喚され、ライダーが彼らを自軍と共に『王の軍勢アイオニオン・ヘタイロイ』の中に取り込まなければ、冬木市そのものが壊滅してもおかしくなかった。
  英霊同士の戦いとはそういうものだ。
  そして今、セイバーが生み出した究極の斬撃はバトルフィールドという枷から解き放たれ、最も冬木を傷つける強大な一撃となってしまった。
  込められた魔力に比例して桁違いに跳ね上がった威力は本来の対城宝具の域を脱するかもしれない。
 仮にこれまでのセイバーが放つ本来の『約束された勝利の剣エクスカリバー』が敵の城門を切り開く対城宝具だとしたら、存分に育った黒い一撃は敵の城そのものを斬る対城宝具だ。
  最早、天災の域にまで到達している。
  ティナは反撃せず、防御もしない。
  だから黒い斬撃は呆気なくティナの体を左右へと両断し、ティナの背後にそびえる円蔵山に向け―――正確には円蔵山の地下大空洞に設置された『大聖杯』に向けて突き進む。魔術的な防御機構が存在すれば、いかに宝具の一撃であったとしても威力を減衰させられただろうが、そんなものは存在しないとゴゴが確認済みだ。
  そもそも聖杯戦争の関係者にあって、この場所は聖杯降臨を行う儀式に最も適した冬木第一の霊場であり。言い換えれば聖地なので壊そうとする発想そのものが無い。それが裏目に出てしまったと言える。
  究極の斬撃は何もかもを切り裂いてしまう。
  冬木の霊脈を涸らさないよう為に六十年かけてマナを吸い上げる術式も。
  七騎のサーヴァントを召喚し、令呪を授け、英霊を現世に留める術式も。
  大聖杯の炉心、ユスティーツァ・リズライヒ・フォン・アインツベルンも。
  大空洞を支える為に存在する大地すらも。
  何もかもを斬った。
 数十トンあるいは数百トンの大地を斬ってようやく約束された勝利の剣エクスカリバーはその運動エネルギーの全てを使い果たす。結果、円蔵山の麓から地下深くまで巨大な斬撃の跡が刻まれた。
  あるべき場所に合った物が斬られて分断された。上にそびえる山がそこに落ちていくのは自明の理であり、地響きを立て、地盤沈下が起こり、土砂崩れよりも規模の大きい山崩れが起こるのもまた必然であった。
  英霊の作り出した災害が冬木の一画を押し潰してゆく。
  「・・・・・・・・・・・・」
  黒くなってしまった武具に身を包み、金色の瞳となったセイバーはティナが左右に斬られたのを確認した後。ようやく逆三角形の仮面を左手で持ち上げて、自分の仕出かしたことの重大さとこれから巻き起こる惨劇を見つめる。
  だが、山が一つ崩れる大規模な災害を作り出しておきながら、セイバーは全く表情を変えずに光景をただ見つめるだけだった。
  聖杯戦争とは全く関係のない者が災害に巻き込まれると判る筈。すでに円蔵山の中腹に建つ柳洞寺は土台である山が崩れたことで裂け始めており、そこに誰かが居れば確実に死ぬ。
  山崩れが起これば大量に土砂が発生して、それらが麓の家を呑み込めばこちらも確実に人が死ぬ。数人どころか数十人、数百人規模で、だ。
  それなのにセイバーはただ見るだけだった。敵を倒すために仕方なかったのだと苦しまず、狼狽せず、ただ崩れていく山を見つめていた。
  感情が消えてしまったのだろうか? そう思わせる反応の無さだったが、黒くなった聖剣を握る右手とは逆の左手が指先から黒い粒子になり始めると、一転して顔に驚愕が張り付いた。何の変化も見せなかった口が『あ』の形になったのがその証拠だ。
  何かが起こっている。けれど、その何かが判らずに驚いている。今のセイバーからはそんな印象を受ける。
  どうやら感情が消えた訳では無いが、今のセイバーにとって円蔵山を斬った結果はどうでもいいだけのようだ。
  セイバーの左手の指先が徐々に消えていくが、その原因を作ったのが自分の放った斬撃だとは夢にも思っていないらしく―――いや、おそらくはセイバーは円蔵山の地下にある大聖杯こそが聖杯戦争の根幹を成していて、英霊達を現世に留めているのだと知らなかったのだろう。
  始まりの御三家が渇望した根源へと至る孔の構築。それを成し遂げる為には召喚された七騎全てのサーヴァントの魂を聖杯に捧げなければならない。
  衛宮切嗣とアイリスフィールにその意思が無かったとしても、十分な意思疎通すら行われず、本心を明かしての会話も無く、正義と非道を混在させていた者達が聖杯戦争において重要な情報をセイバーごときに打ち明けているとは思えない。
  もしセイバーが多くの情報を得ていたとすれば、勝利を重ねていけば自分が守っている姫君ことアイリスフィールを殺してしまうのだと知っていた筈。その現実に苦悩してもおかしくないのだが、セイバーにそんな素振りは無かった。
  知った上で聖杯に願いを託すのではなく、知らずに戦っていたと考えるべきだろう。
  そんな風に何も知らなかった、知らされなかった、知ろうとしなかったセイバーは聖杯戦争に必要不可欠だった魔術装置を破壊したと気付いていない。自分の手で現界できなくなったのだと気付いていない。
  ただ訳も判らずに驚くばかりだ。
  だから地を這って片足に触れている桃色の光を見過ごした。
  「ニガ・・・サ、ナイ」
  声はセイバーから遠く離れた場所に居て、左右に両断されたティナの口から発せられた。
  体を切り開かれ、普通ならばそのまま死体になってもおかしくない状況だが、予めティナが自分にかけておいた魔法が命を長らえていた。前方にセイバーを、そして後方に崩れゆく円蔵山を置くティナの足元から伸びる魔力の縄がセイバーに向かって伸びている。
  桃色に光る細長い縄はよく目立ち、戦いの緊張を強いていなくても、普通の精神状態であればすぐに判ってしまう。
  しかし普通でもなければ動揺に心を揺らす今のセイバーは気付かない。気付けないまま、ティナとセイバーの二者を魔力が繋いでいた。
 全力を超える『約束された勝利の剣エクスカリバー』を使ってしまった事によって貯蔵魔力の大半を失い。その上、供給されるべき魔力源である衛宮切嗣からの魔力供給も聖杯が破壊されたことで無くなってしまった。
  程なくセイバーはその場から消えてしまう。それに合わせて、ティナもまたその場から消えた。
  残るのは山崩れが作り出す巨大な破壊。
  英霊によって人が死ぬ。聖杯戦争に巻き込まれて人が死ぬ。
  冬木の一画を埋め尽くす大災害の始まりだけだった。





  三闘神の作る三角形の中心で爆発したからか。それとも飛ばされて尚、三角形の位置取りをしなければならないと無意識に思ったのか。
  『魔神』は街の方に、『鬼神』と『女神』はそれぞれ海の方に―――。つまり衛宮切嗣をこの場に誘い込んだ時と逆方向に三柱の神は吹き飛んでいた。
  誰も彼もが間近で起こった爆風の衝撃に耐えられなかったようで、『魔神』は道路の上に仰向けになって転がり、『鬼神』と『女神』は波間でたゆたっていた。
  衛宮切嗣に力を与えていた聖杯が消えたので、宝具しか持ち合わせていないただの魔術師ならば三闘神の相手ではない。目覚めれば確実に勝つ。
  ただし、目覚めを待てない理由があったので、ゴゴは足元で氷に囚われてしまっている幻獣『リヴァイアサン』を一旦魔石に戻し、代わりの魔石を取り出して別の幻獣を呼び出した。
  魔石に戻る瞬間、リヴァイアサンから『助かった』と安堵が伝わってきた気がする。
  「ケーツハリー」
  味方を大きな背中に乗せて空高く舞い上がってから飛び降りて攻撃させる技『ソニックダイブ』を繰り出すのが鳥の幻獣『ケーツハリー』なのだが。冬木にゴゴが居ついてからはほぼ移動手段として活用されてきた。
  色彩豊かで紫色が多い羽毛を持つ巨鳥がゴゴの背後から現れ、一度旋回してゴゴの後ろに回り込み、ゴゴを乗せて空高く舞いあがる。
  今回もまた移動手段として―――彼ら三人を助ける為に鳥の姿をした幻獣は空を飛ぶ。
  三闘神が自発的に起きるのを待てない理由。それはゴゴが起こして戦わせるという事では無く、彼ら三人を三闘神にし続けていると、もうすぐ人間に戻って来れなくなってしまう。つまりは時間切れが迫っている事だ。
  ゴゴは気絶しているらしく全く動かない『女神』の所にケーツハリーを誘導させながら、三人に与えていたそれぞれの力を回収する。
  かつて旅した世界に存在していた真の三闘神が倒された後、魔法の力が人から抜け出してゴゴに集結した。
  貸し与えていた力の回収はその時とほとんど変わらなかったので今回も難しい事では無い。
  これ以上三人の中に神の力を宿していると神に馴染んで彼らは『神の力を得た人間』から『神に変わっていくモノ』に変容してしまう。
  三闘神の力はあまりにも強大だ。ただの人間に渡しておくにはあまりにも危険すぎる。それに彼らとて自分達の住む町を守る為の力を欲しても、人間を辞めたいとは思わない筈。
  ゴゴは『女神』の元へと向かいながら、ついでにバトルフィールドも解除して、彼らの中にある力を自分の元へと引っ張った。
  一瞬―――『魔神』『鬼神』『女神』との間に繋がりが出来て、戻す力と一緒に三人の思いがゴゴの中に流れ込んでくる。
  『魔神』となった雁夜は桜ちゃんへの思いに満ちていた。
  雁夜の中には遠坂時臣への怒りは無く、遠坂葵への恋情も存在しなかった。かつては合ったであろうそれは遠坂邸での闘争と対話の果てに消失し、あの二人は雁夜にとってどうでもいい存在に成り下がっている。
  格付けはすでに終わってしまっている。
  路傍の石と変わらない。殺す価値も無い。居ようが居まいが関係ない。
  その代わりに膨らんだのが桜ちゃんへの思いだった。
  間桐雁夜は桜ちゃんを幸せにする為に存在する。間桐雁夜は桜ちゃんの為に行動しなければならない。
  雁夜が間桐を出奔したからこそ桜ちゃんが養子に出されることになり、そこから罪悪感から生まれた思いであり。遠坂の二人に向けていた強い思いが新しい行き場を求めた身代わりでもあった。
  桜ちゃんが望んだから―――雁夜は『魔神』の力を受け入れ、そして戦いに馳せ参じた。
  そんな風に雁夜から強い思いを向けられている桜ちゃんは繋がりを求めていた。
  『女神』の力を手にすれば人の範疇を超えて危険な領域に足を踏み入れると桜ちゃんは判っていた。戦いが危険なものであり、痛みを伴い、殺す危険も、殺される危険も、周囲を巻き込む危険も、ちゃんと判っていた。
  幼さを感じさせない聡明な心が状況をしっかりと把握している。その上で桜ちゃんが戦おうと決断したのは離れたくなかったからだ。
  離れたくない。
  一緒にいたい。
  傍にいたい。
  捨てられたくない。
  主にその矛先は雁夜へと向けられ、親の姿が見えないと不安で泣く赤ん坊のように繋がりを求めた。
  遠坂時臣と遠坂葵が桜ちゃんを見限ったからこそ余計に感情は強まっている。
  桜ちゃんは雁夜と違って魔術師としての修業にはほとんど関わってこなかったが。もし雁夜と同じように戦う魔術師として鍛えていたら、対魔術戦では片手どころか指一本で圧勝する才能の持ち主だ。
  肉弾戦や武器を用いての戦いでは大人と子供の違いがあるので雁夜が勝つが。魔石を用いての戦いならば、桜ちゃんの才能は雁夜を圧倒的に凌駕する。おそらく瞬殺だ。
  桜ちゃんはその力を誰かと繋がる為に使おうとした。
  子供の自分が大人と一緒に居る為には同じく『闘争』に入るのが一番手っ取り早く、そしてそれを可能にする才能を持っている。
  どれだけ体が痛んでも、心が傷つくよりはずっといい―――。
  雁夜おじさんと一緒に居たい―――。
  だから桜ちゃんは『女神』の力を受け入れ、戦いの場に足を踏み入れた。
  『鬼神』となった士郎はキャスターに暗示をかけられ誘拐させられた瞬間からこれまで生きてきた短い人生の中では知りもしなかったモノと触れてしまった。
  触れてしまわなければ日常生活の中に埋もれて消えてしまうか細い思いだった。表の世界の住人として知らずに生涯を終える道もあった。
  けれど士郎は触れた。
  あの力に触れた瞬間―――。厳密には、体の内側からが肉と骨を食い破って現れようとした海魔だったのだが―――。その力こそが、生まれてから心の中でずっと求め続けたモノだと理解してしまう。
  理由なんて必要なかった。
  意味なんて考えなくてよかった。
  ただ判る。それだけで十分だった。
  心の中に空いた穴を埋める神秘の力。その名は―――魔法。
  おとぎ話の中で聞く偽物じゃない本当の力。殺されそうになったと理解しながら、河童になって大泣きしたのが恥ずかしくなったが、心の底から湧き上がる歓喜は他の全てを簡単に吹き飛ばした。
  居ても立っても居られなくなった。両親に話さないなんて考えられなかった。何があったかと聞かれたから、心赴くままに全て話した。あれがずっと求め続けていたモノだから・・・。
  桜ちゃんは魔術を知っていた。
  士郎は魔術を知らなかった。
  知らないからこそ強く求め、殺されそうになった出来事がほんの序の口でしかなかったと判れないから、そこに踏み込むのがどれほど危険か判らず。ただ心の赴くままに魔法の力を求め、『鬼神』をその身に宿した。
  自分の中に三闘神の力を戻す最中、ほんの少しだけ三人の心に触れられた。三つの膨大な思いがゴゴの中に流れ込み、それを反芻する間に三か所の救助は全て終わってしまっている。
  ゴゴはケーツハリーの背中に乗せた三人を見下ろす。彼らの姿は『魔神』『女神』『鬼神』から人のそれに戻っていて、三闘神になった時に破けた服など無かったので三人とも裸身だった。
  服を調達しなければならないな。と考えながら、ゴゴは戦いを経験して最も変わってしまった士郎を見る。
  信じ難いが三闘神として戦って痛みを知ったにも関わらず、士郎から感じた魔法への好奇心や執着と言った類の感情は全く衰えていない。むしろ時間が経てば経つごとに強まっている。
  おそらく、三闘神の力を人に与えたまま放置した場合、真っ先に人から神になってしまったのは士郎だったろう。
  士郎が恐れも無く簡単に裏の世界に飛び込めたのは、今はまだ眠ったままのとてつもない才能の行き場を知ってしまったからだろう。子供の無鉄砲な振る舞いもそれを後押しした筈。
  『鬼神』の力を戻す時に士郎の心が流れ込んできて、一瞬、大地と空以外は何もない世界が見えた。あれは士郎の心象風景に違いない。
  あれは士郎の心の中に作られ、何もない世界に創世を巻き起こす為の『基』を欲していた。あの世界は―――士郎は―――魔術という餌を与える事で強烈に育つ。
  魔術師の家系に生まれた訳でもない子供が持ち合わせるにはあまりにも桁外れの才能だ。
  今はまだ経験も人生も体験も知識も圧倒的に不足している子供なので、作られた世界はただ空虚で、『どんな形にもなれる』定まらない形だけが詰まっていて何もない。素養を積み重ねれば、士郎の世界はジャングルにも砂漠にも大都市にも天国にも大海原にも地獄にも宇宙にも作り替えられるだろうが、今はまだ何もない。
  空虚な世界が広がっているだけだった。
  後に固有結界と呼ばれる大魔術にまで発展させられるかもしれない才能を極限まで引き延ばせたならば、おそらく今回の聖杯戦争に参加したどのマスターよりも強い魔術師となれる。
  ただし、この才能が彼を幸せにするとは限らない。
  表の世界を生きてきた普通の子供が魔術師として大成する。それは表の世界との決別を意味し、魔術師の家系でもない士郎の一家は保護という名目で幽閉され、調査と言う名の拷問で体の隅々を死ぬまで調べ尽くされる危険をはらんでいる。
  知られてしまえばそうなっても不思議はない。
  士郎はキャスターに殺されかけ、幾つか魔法をかけられ、『鬼神』として戦った。それは魔術師として生きてきた者にとっても非常に稀な体験だったかもしれないが、見方を変えればただ戦っただけに過ぎない。
  魔術の世界はもっと悪質で、もっと醜悪で、もっと卑劣で、もっと憎悪と悪意と邪悪に満ちている。士郎はその世界の一端に触れただけだ。
  この世界に生きる普通の魔術師は、死を容認し、観念する存在であり、表の世界とは一線を介する人種だ。そんな人種が普通に生きる世界に表の世界の常識で生きてきた士郎が関わるのは幸福と言えるだろうか?
  心の一部―――表層意識に触れた程度では全景に辿りつけない。もしかしたら士郎はキャスターに誘拐され、体の内側から海魔を召喚されたあの瞬間に壊れてしまったのかもしれない。
  あそこで数年かけて積み上げてきた士郎の人格は壊れしまったのかもしれない。
  怖さも楽しさも悲しさも嬉しさもごちゃ混ぜになり、ただ自分の求めるモノだけに向けて突っ走る何かになってしまったのかもしれない。
 可能ならば稀有な才能を持った士郎の行く末を見届けたく、地上で寝転がっている衛宮切嗣の体の中にある宝具『全て遠き理想郷アヴァロン』も調べたい衝動に駆られる。だが別の場所にいるゴゴから伝わった情報が時間の無さを教えた。
 セイバーの相手をしていたティナではない。あちらはもうここではない別の場所に旅立った後なので、あちらはあちらで何とかするだろう。情報の出所はライダーの固有結界『王の軍勢アイオニオン・ヘタイロイ』中にいる別の姿をしたゴゴ達からだった。
  「・・・・・・デジョン」
  ゴゴはケーツハリーを降下させながら別次元への穴を作り出す。
  三人を三闘神へと作り替えた冬木とはまるで異なる空間は相変わらず宇宙空間を思わせる広大な場所だった。ゴゴは雁夜の近くに落ちていた魔剣ラグナロクと士郎掴んでその中に入り、自分が入ってきた場所と同じような出入り口を一つ作って士郎をそこに放り投げる。
  一瞬で作られて閉ざされた出入り口の向こう側では数分間消えていた息子が戻ってきたのを喜ぶ父母の姿が作られるだろうが、ゴゴはそれを確かめる間もなくもう一つの出入り口を作って通り抜けた。
  数秒後、別次元を経由して戻ってきたゴゴの手に魔剣ラグナロクは無く。代わりに雁夜と桜ちゃんのそれぞれの衣服が握られていた。
  繋がりっぱなしの穴から海岸付近の空の上に戻る頃。幻獣『ケーツハリー』は衛宮切嗣から少し離れた海岸へと着陸しており、黄色と緑色と赤色の青色の色彩豊かな羽根を器用に使って、背中に乗せていた二人を地面へと横たわらせた。
  ゴゴは魔剣ラグナロクの代わりに持ってきた衣服を手にしたまま二人の横に立つ。
  「こんな形になると思わなかった」
  そう言って、雁夜の額に手を当てる。



  ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆



  Side - ウェイバー・ベルベット





  天から地上へと、まるで落雷みたいに敵に向かって突進したライダーの動きは速すぎた。速すぎて僕の目じゃ追えなかった。
 でもすぐに地上すれすれの所を滞空する神威の車輪ゴルディアス・ホイールを見つけて、一緒に僕の視界の中に体半分を失って落ちていくケフカ・パラッツォ―――だったモノが入ってきた。
  遠く離れていたのは僕にとって幸運だった。遠過ぎるから『聖なる審判』を当てるのはものすごく難しかったけど、多分、体の左半分を失った人だったモノなんて見たくない。間近で傷口の生々しさとか見たら、今の状況を考えないで吐いたかもしれないから。
  「ライダー!!」
  一瞬の隙をついてライダーが競り勝った。
  迫ってたアーチャーの一撃を前に出て追い抜いた。
  少しでも迷ってたら競り勝てなかったし落とされてたと思う。アーチャーの一撃がこの結界の中の全てを攻撃して、ライダーへの一撃が薄まってたから避けられたんだと思う。
  僕の援護が役に立ったのがうれしくて、僕はサンを抱きしめたまま地上を見下ろした。
 そうしたら僕らが乗ってる竜種も僕の嬉しさをくみ取ってくれたみたいに、地上の近くにいるライダーを目指して降りて行ってくれた。僕らが地上に降り立って先に降りたライダーに追い付いてみると、ライダーも、神威の車輪ゴルディアス・ホイールを引っ張ってる二頭の雷牛も、全精力を使い果たしたみたいにほとんど動かない。
  雄々しく動き回る様子を知ってるからこそ、『静止』はものすごく珍しい。
  だから余計にライダーたち以外の事が際立って見えた。
  見たから―――気付くしなかった。
  砂漠が激しく揺れ動いてるんだって・・・。
  「これって・・・」
  「――アーチャーの一撃もあるが、どうやら我らを現世に繋ぎ止める『何か』が破壊されたようだ」
  疲労の為か、ライダーが言い出すまでに少しだけ間が合ったけど、もう僕の意識は揺れる大地に移ってる。
  「それ・・・、どういうことだよ?」
 「余の王の軍勢アイオニオン・ヘタイロイは消え、英霊は元の場所に戻らねばならん。そういう事だ」
  ケフカに勝利した余韻なんて感じさせないで、ライダーは僕の激昂を受け止めて淡々と言った。その間にも振動はどんどんと激しさを増していって、竜種の体を伝って僕の体も一緒になって揺れる。
  「そんな・・・・・・」
  砂漠が裂けて地割れが起こる。
  雲一つなかった空が砕ける。
  熱風に夜の冷気が混じり始める。
  壊れてゆく、消えてゆく。
  ライダーが屈んで掬い上げた砂が空気に止めるみたいに無くなったのを見て、僕にもライダーが言った意味が嫌でも理解できた。
  こんなの嘘だって思っても僕の頭は突きつけられた現実を理解してしまう。
  懸命に別の答えを探そうとしても、今、僕の前にある事実の前に妄想は空虚だった。
  傷ついた兵士が輝く粉となって空中へ消えていく。
  全身真っ黒のアサシンも黒い粉に変わって消えていく。
  いつから現れたのか気付かなかったけど、アーチャーが乗ってる空飛ぶ黄金の船も乗り手と一緒に光る粉になって消えていく。
  何もかもが消える―――僕の手の中にいるサンも・・・。
  「サン!」
  消えない様に、居なくならない様に、存在をここに繋ぎ止めようと強く抱きしめるけど。サンの頭の上にあった髑髏の仮面が最初に消え始めてしまう。次にサンの両足が紫色の粉になって空に溶けていく。
  サンはサーヴァントでアサシン。
  聖杯戦争の為に召喚された英霊で、僕たちの敵。そして僕を殺した敵。
  そう判っているのに、それでも僕はサンを敵として見れない。少しずつ体が消えていくのに恐怖して、涙目で僕を見上げてくるこの小さな女の子を嫌いになれない。
  もうすぐサンは消える。元の場所に帰ってしまう。強くそれを感じた時、僕の口は勝手に動いてた。
  「君は悪くない。嫌ってない。一緒にいて楽しかったよ!!」
  ただ感情に任せて言葉を繋げただけ、脈絡なんてまるでない一方的に叫んだだけだった。
  そんな言葉でも泣きそうなサンの顔をほんの少しだけ泣き笑いにする効果はあったみたいだ。
  サンの足が消える。
  腕が、腰が、胸が、肩が、頭が、どんどん消える。
  遂には口と喉の辺りも消える。その最後の一瞬、何かを喋るみたいにサンの口が動いた。何も喋れないから言葉は聞こえなかった。その一瞬もあっという間に過ぎてサンは消えた。
  僕の腕の中で―――影も形も残さないで消えた。
  見間違いだったかもしれない。読唇術なんて出来ないから勘違いかもしれない。だけど僕はサンがこう言った気がしたんだ。


  ありがと・・・、って。


  何もできなかった無力感が僕の体を硬直させて、サンを抱きしめた体勢のまま僕は止まることなく消えていく砂漠の上に降り立った。
  竜種の背中から降ろされたって実感はなかった。
  リルム・アローニィが付き添うみたいに降ろしてくれたって理解できる余裕も無かった。
  たった数日限りだけど、間違いなく一緒に過ごした小さな女の子が消えてしまった事実に―――呆然とするしかなかった。
  何かしたかった。だけど何も出来なかった。
  どうしようもない力の無さ。それがウェイバー・ベルベットの真実。
  「誇れ!」
  そんな僕に向けて声が降ってくる。
  ずっと、ずっと、ずっと腕の中を見下ろしたまま、動けない僕に向けて声が降りてくる。
  「貴様は最後の最後にあの小娘を救ったのだ。うつむかず、ただ誇るがいい」
  真っ白になった頭でも向けられた声に反応してしまい。顔を上げて見ればライダーがそこにいて僕を見下ろしてた。
 いつの間に神威の車輪ゴルディアス・ホイールから降りて近づいてきたのか判らない。
  どうしてライダーがここにいるのか判らない。
  判るのはサンが消えた事。
  ライダーの手が僕の額に伸びてきて―――。バチンッ! って大きな音を立ててデコピンを繰り出した。
  「あ痛ぁっ!!」
  真っ白になった意識の底から悲しみが湧いて、それが目から溢れる涙になろうとしたけど。別の意味で涙が出そうになった。
  ものすごく痛い。
  瞬間の痛みはサンに刺された時に匹敵するかもしれない。
  僕は額を抑えながら恨みがましくライダーを見る。
  「ライダァァァ!!」
  「辛気臭い別れは好かんぞ。胸を張らんか、大馬鹿者」
  頭を割りそうな痛みとライダーの言葉で僕は強制的に正気に戻された。そして僕の目は沢山の、沢山の、沢山の消滅を見てしまう。
 砂の上に立ってるライダーの後ろ。御者台が、車輪が、牽引部分が、雷牛が、神威の車輪ゴルディアス・ホイールが粉になって溶けていた。
  太陽の光が降り注ぐ青空は割れた所から少しずつ夜空に侵食されてる。
  戦場を見ればどこにでもいたライダーの臣下達はものすごく少なくなってる。
  遠くに見える竜種とは違う大きな塊はキャスターが新たに呼び出した巨大海魔だろうか? それもどんどん消えていく。
  何もかもが消えていく中で残っているのはピクリとも動かないか弱弱しく震える竜種が何匹かだけだ。僕の目の前にいるライダーにも、等しく消滅が訪れてる。
  僕の頭を弾いた指から始まって、手が、腕が、少しずつ粉になって肉体が解けていく。
  「ぁ――」
  「どうやら此度の遠征はここまでのようだ」
  「ライダー・・・」
  勝ったのに、負けてないのに、唐突過ぎる別れに言葉が出てこなかった。サンの時みたいに感情に任せて出す言葉も無い。
  こんなのってない!!
  マスターじゃなくなった時に一度は別れを覚悟した。でも今はあの時と決定的に状況が違う。
  消えるのはマスターとサーヴァントの繋がりだけじゃない、ライダーがここから完全に消えるんだ。
  だから余計に何を言えばいいのか僕には全然判らなかった。
  「なあに、こうして二度目の機会に恵まれたのだ。ならば三度目が合っても不思議はなかろう? 余はまだこの世界そのものを征服する夢を諦めてはおらんぞ」
  そう言って大らかに笑うライダーはいつものライダーだった。
  体のあちこちが消え始めて、もう間もなく消えてしまうのが判ってる筈なのに――。ものすごく消耗して立ってるのも辛いはずなのに―――。膝を折って倒れたり、気絶した方が楽だって知ってる筈なのに―――。
  出会ってから何も変わってないライダーがそこにいる。
  だったら僕はライダーに見せなきゃいけない。成長した僕自身を見せて、そして胸を張って見送らなきゃいけない。
  きっとそれが今の僕に出来る精一杯の事だから。
  悲しさと痛みで溢れそうだった涙を手で拭って、僕はライダーをまっすぐ見た。
  「だったら僕がその三度目を作ってやる」
  「ほぅ?」
  「いいや、それだけじゃないぞ。いつか僕だってお前みたいに英霊って呼ばれるくらいまで偉くなって『英霊の座』に行ってやる。そこでお前にこう言ってやるんだ『英霊なんて、大したことないな』って」
  口にして初めてそれがどれほど途方もない道なのか思い知らされた。
  英霊を現世に召喚するなんて離れ業が実現しているのが聖杯戦争だけど、ライダーと『三度目』を実現するなら、それと同じ位の魔術を極めなきゃいけない。
  始まりの御三家と呼ばれる遠坂・マキリ・アインツベルンの魔術の名家が秘技を結集させて作り上げた聖杯戦争。これと同じかそれ以上のモノを作り出さなきゃ、召喚して再会なんて出来ない。
  ライダーがさっき言った『現世に繋ぎ止める何か』が修復不可能だったら、僕はそれを一から作り出さなきゃいけない。
  英霊の座についても同様に、僕が宣言した相手は正真正銘の英雄―――征服王イスカンダル。彼の偉業に匹敵する功績を成し遂げなきゃいけない。
  この現代の世界でどれだけの偉業を成し遂げればそこに至れるのか見当もつかなかった。
  少し考えただけでも無謀どころか不可能だと思う。
  それでも僕は本気だ。本気でそう言った。ライダーに言ってやった。
  「ならば余は楽しみに待つとするかのう」
  「ふんっ! すぐに辿り付いてやるから覚悟してろよ」
  こうやって話している間にもライダーの体はどんどんと消えていく。その消滅速度がサンのそれを比較対象にして考えると遅く感じるのは、きっとこの固有結界を含めた全てがライダーを構成しているモノだからだと思う。
  見渡す限りの砂漠は時と共に消えていく。この広大な空間の消失とライダーの消滅はリンクしてるんだ。
  もう空の大部分は冬木の夜空に塗り替えられて。砂漠もほとんど残ってなくて、人が作り出す建築が代わりに見え始めてる。
 数百人以上いた兵士はもう一人も残っていなくて、神威の車輪ゴルディアス・ホイールも姿を消してしまった。
  その巨大さが理由でキャスターの巨大海魔が消えるまでの時間を長引かせてるみたいだけど、きっと十秒も残ってない。
  下半身が消えてるライダーも他の全てを追うように消えてしまう。
  それでもライダーは笑ってた。足がないから立ってはいないけど、背筋を伸ばして悠然とそこにいる。そうしてまだ消えてない方の手を開いて僕に向かって伸ばしてきた。
  僕の頭ぐらい軽々と握り潰せそうな大きくて無骨な戦う者の手。伸ばされた手が握手の為だって気付いた時、僕も急いで手を差し出してライダーの手を握りしめる。
  思えばこんな風に正面から手を握り合った事は一度だってなかった気がする。
  軽々と僕を摘み上げて、僕の頭にデコピンして、剣を握って、手綱を握って、酒器を握って、現代の雑誌も握ったライダーの手。僕はその手と―――征服王イスカンダルの手と、王の手と握手をしてるんだ。
  「また会おう、ウェイバー・ベルベット」
  「――ああ。またな、ライダー」
  咄嗟に『イスカンダル』の名前が出てこなかったのが悔しかったけど、僕はずっとライダーの事をライダーって呼び続けてたから、きっとこれでいいんだって思っておく。
  ライダーはほんの一瞬だけ僕から視線を外して後ろを見た。そこにあった眼差しにどんな意味を持ってたのかはすぐには判らなかった。ライダーはこれまで協力してくれたリルム・アローニィを見る。
  一瞬の目配せでライダーは感謝を伝えた。直視したら『カイエンに礼を言っておいてくれ』と言ってるの判ったかもしれないけど、これは妄想に近い僕の予想だ。外れてるかもしれない。
  その一瞬が過ぎ去ってライダーの視線が僕に戻る。それが―――そこが―――限界だった。
  「・・・・・・・・・」
  ライダーは僕が見守っている中で、僕と視線を合わせる中で、音も無く消えた。
 僕の視界の中にはもう神威の車輪ゴルディアス・ホイール王の軍勢アイオニオン・ヘタイロイも無くって、教会がある冬木の景色が広がってた。
  その中に相変わらずほとんど動かない竜種の姿もあったけど、僕の中には『消えた』って実感しかなくって、竜種にまで気を回す余裕なんて無い。固有結界のお陰で戦いの苛烈さと裏腹に周囲は全然壊れてないけど、僕にはそれを気にする余裕がない。
  消えた。
  ライダーも、英霊も、固有結界も。何もかもが消えた。
  肌寒い夜の空気は砂漠の熱風とはまるで違った。空に広がるのは月と星が光る夜空で、大地は砂のサラサラした感触じゃなくて石畳のごつごつした感触を返してる。
  サンも、ライダーも。皆、ここじゃない別の場所に帰っていった。
  足の力が抜けて膝がコンクリート造りの道路の上に触れる。両手がそれを追いかけて地面に当たった。
  何とか張っていた気が破ける。目から流れる涙が止められない。
  勝ったのに終わった。
  負けなかったのに消えた。
  消えた実感が作り出す、言葉じゃ言い表せない大きな大きな喪失感。
  「う・・・ぅ・・・うぅ・・・・・・うううう・・・・」
  歯をくいしばっても駄目だった。
  僕は泣いた。泣く以外に何も出来なかったから―――泣いた。



  ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆



  Side - 間桐雁夜





  激情。そうとしか言い表せない感情が俺の背中を押した。
  砕いて、焼いて、斬って、撃って、壊したい。
  払って、貫いて、捻って、潰して、殺したい。
  滅ぼしたい。
  辛うじて、三闘神は直角二等辺三角形になる様に陣取らなければならない、とか。桜ちゃんを助ける為には治すのも必要、とか。破壊以外の思いも俺の中にあったが、目の前にいる敵を含めて全てを壊したいと思っている俺がいた。
  あれが闘いの神、三闘神の一柱『魔神』のほんの一部なんだろう。
  本当の『魔神』の大きさは俺程度が使える力に収まらず、俺が使ってたのは一割にも満たない。もっと力を授かっていたら『間桐雁夜』は完全にこの世から消滅して『魔神』に乗っ取られた。確信をもってそう言える。
  与えられた力が小さかったから俺は『魔神』であり間桐雁夜として戦えた。
  あれは間桐雁夜だったのか? それとも三闘神だったのか? 膨大な力は俺の心を侵し、俺が戦っていたのか『魔神』が戦っていたのかよく判らなくなる時が合った。
  そんな時間が終わり、俺は人に戻っていく。
  『魔神』が消えていく。
  間桐雁夜が戻ってくる。
  俺か、それとも『魔神』は、まだまだ壊したりないと思っていた。
  それでも、衛宮切嗣に力を与え、三闘神を差し置いて破壊をまき散らそうとしている根源を破壊できたので、少しだが溜飲は下がっている。
  事態を思い返している俺がいる。
  ここはどこだ? 俺はそう考えた。
  俺自身の事、『魔神』の事、桜ちゃんの事、戦いの事。破壊以外の事を振り返っているのは間違いなく俺、間桐雁夜であり、俺の意識は俺として存在している。
  けれど何も見えていないのだと自覚している俺もいる。
  目を開けているとか閉じているとか、そう言った類の『感覚』が何一つなく。存在するのは間桐雁夜の意識のみ。
  見えない、聞こえない、触れない、匂わない、味わえない。五感が何も感じられないのに、不思議と自分はここにいると実感はあった。
  何だこれは? そう思った時、この事態と同じような事が前に一度あったのを思い出す。そうだ、バーサーカーと向き合ったあの時と―――夢だと自覚して、誰かの中だと理解した時もこんな風に―――。


  「そう・・・ここは貴方と私の中にしか存在しない、私達の心が作り出す夢の世界よ・・・」


  いきなり声が聞こえて、何も感じなかった世界が一変する。
  何もなかった世界に向かい合わせに腰掛けるボックスシートが幾つも現れた。俺から見て両側に現れたその椅子の外側はカーテンで覆われた窓がある。
  両側の椅子の間には長い絨毯が敷かれ、足元から聞こえてくるカタンカタンという音に合わせて振動も伝わってくる。すぐにこの景色が列車の中だと気付いた。
  けれど、椅子も絨毯の隙間に見える床も天井も多くは木製で作られているようで、古めかしい印象を受ける。
  何より椅子も床も天井も扉も柱も窓を覆うカーテンも何もかもが黄色なのが異様だ。唯一別の色を持っているのは目の前に立つ女だけ。
  アッシュブロンドの髪の毛をポニーテールにして、淡いブルーの目で俺を見ている。
  頭にはヴェール。肩を露出させた赤い服と薄手のマント。初めて見た時と全く同じ姿をしたティナ・ブランフォードがそこにいた。
  「ティナ・・・」
  桃色の怪物になって俺達の前から消えたティナが元の姿になってここにいる。
  懐かしさと周囲のおかしさと喋っている俺自身をそれぞれ思って、どうすればいいのかよく判らなくなってしまいそうだ。
  呆然としそうになる中、俺が感じた事と語られた『夢の世界』と合わせてここがどこかの答えを出す。そうやって、とりあえず自分を納得させているとティナの方から話しかけてきた。
  「士郎はちゃんと親元に送り返したわ。貴方達二人は戦いを終えて砂浜に寝転がってる・・・近くに衛宮切嗣もいるけれど、宝具の力で蘇るよりも騒ぎを聞きつけた人たちに保護される方が早いから、貴方達はもう安全よ。あれはセイバーの魔力合っての治癒能力だから、もうあんな無茶は出来ないと思う・・・」
  いきなり言われた事が何だったのか理解するまで少しだけ時間が必要だったが。すぐに三闘神の事と人間に戻った俺達の事だと理解する。
  ここが夢の世界だとするなら、現実の俺はバーサーカーの時と同じように気絶してるか寝てる筈。無防備な姿を敵に曝け出す危険を思ったが、ティナが―――ゴゴが安全だと言うなら大丈夫だと思い直す。
  「そうか――」
  俺達は勝ったのか? そう続けようとする前にティナの言葉が俺の言葉を止めた。
  「ゴゴが・・・いえ、私が貴方も桜ちゃんも間桐邸に送り届けられればよかったのだけれど。そこまで出来る時間はもう無いみたい」
  俺は戦っていた。桜ちゃんと戦っていた。
  だからそれが気になるのだけれどティナの言い回しはその懸念を押し退けてしまう不可解さを含んでいた。
  三闘神や衛宮切嗣の事、どうして俺の夢にティナが現れているのか? それらの事を聞く前に、俺はその違和感を話題にする。
  「何を言ってるんだ。まるで御別れみたいに・・・」
  「そうよ」
  ティナは言った。
  聞き違えなど出来ない明確な言葉だった。
  「お別れを言いに来たの。桜ちゃんとも話せればよかったんだけれど、こうやって繋がれたのは貴方だけ・・・桜ちゃんは夢も見ないくらい憔悴してたから――」
  ティナがそう言うと、列車の客室に見えていた風景がゆがみ始める。焦点の合わないぶれが辺りを崩していって、新しい風景がどんどんと形作られていく。
  外れていたピントが合うと、そこにはもう列車の風景も足元から伝わってきた音も振動も無い。代わりにごつごつとした岩が全方位を覆い隠し、洞窟のような有様を見せていた。
  ただし列車の中と色彩は同一で、ティナの後ろに伸びる穴も足元と横の岩肌も全てが黄色のままだ。俺とティナの立ち位置だけが変わらずに辺りだけが変わってしまった。
  俺は異様な風景から目を逸らし、ただティナが告げた『お別れ』に強く反応して言葉を投げつける。
  「何で急に――」
  「もう私達がここにいる理由がなくなってしまったの」
  「――まだゴゴは物真似を終えてないだろ? 桜ちゃんが救われてるかなんて――確かめてないし、聞いてもないぞ!」
  「いいえ」
  ティナは断言した。
  俺が何を言ってもティナの意思は変えられない。決して譲らず、すでに決まった事を俺の前で繰り返しているような、そんな風にも感じられた。
  そして俺が告げた物真似の終わりを口にする。
  「もう桜ちゃんは救われてるの。あの時・・・、遠坂夫妻の呪縛から解き放たれて、私ではなく貴方のもとに走った時。桜ちゃんは私達ではなく貴方と居るのを選んだのよ。あの時、桜ちゃんは貴方に救われた――」
  そう言うとティナは僅かに俯いて、俺をまっすぐ見ていた目を下に向けてしまう。
  その姿は物真似を自分の手で成し遂げられなかった悔しさを物語っている気がした。
  「雁夜。貴方はもう桜ちゃんを救ったの。ゴゴは貴方の物真似を終えてしまったわ・・・」
  そして目を上げながら、一瞬で姿を変えてしまう。
  俺の前にいるのは俺と桜ちゃんと別れた時の姿―――。人と同じく手足を持つ生き物だけれど、同じ『人間』とはどうしても見れない桃色の燐光を放つ異形の怪物だ。
  周囲が黄色一色だからこそ、余計のその姿が際立つ。
  「それに見たでしょう? 人と幻獣の血を引くこの姿の私に怯える桜ちゃんを――。この姿も私、人の姿も私、どちらも間違いなくティナ・ブランフォード。たとえこの姿でいなかったとしても、桜ちゃんはきっと私を怖がるわ。傍にいない方がいいのよ」
  「そんな事は――」
  無い。と言いかけたが止めた。
  俺は大丈夫だ。きっと桃色の怪物の姿だろうと、人の姿だろうと、それがティナ・ブランフォードでありゴゴだと理解している。特にものまね士ゴゴと一年接してきたので、見た目の異質さには誰よりも慣れている。
  でも桜ちゃんはどうだか俺には判らない。何故なら俺は桜ちゃんではないからだ。
  その人の気になって、不明確な事をこの場で言える筈がなかった。急な別れを嫌がっている俺が桜ちゃんをだしにして、そんな事は無い、なんて言えなかった。
  桜ちゃんの心は桜ちゃんだけのもの。俺のものでも、遠坂のものでも、間桐のものでもない。
  大人の都合で振り回された子供の心は桜ちゃんだけのもの。代弁なんてしちゃいけない。
  だから何も言えなくなった。
  「遠坂が崩壊して、アインツベルンは無くなって、大聖杯は壊れて、聖杯戦争はもう行えない。桜ちゃんの日常の中に闘争の空気を持つ私たちは相応しくない。それに知ってるでしょう? ゴゴはものまね士――、物真似を終えたらすぐに次の物真似を見つけたくなる人なの」
  子供をあやすような優しい言い方で話しながら、ティナは元の人の姿へと戻る。
  その変化に合わせてまた周囲の景色が変わり。今度は奥に立派な椅子を置いた広い空間へと変わった。
  ティナの真後ろには大きな椅子。両脇には中身のない西洋甲冑が二つ飾られ、石造りの巨大な柱が左右対称に何本も立ち並んで、最初の列車の中で見た絨毯よりもかなり上等な物と思われる敷物が床を覆っている。
  直接自分の目で見た事は一度も無いが、奥に行くにしたがって段差が上がっていく構図から何となく『玉座の間』という言葉を思い浮かべた。
  ただし色が黄色だけなのは同じままなので、豪奢な作りだと思いながら見た目だけを整えた張りぼてに見えてしまう。
  誰も座っていない玉座を背にしてティナが言う。
  「ねえ、雁夜・・・」
  「何だ・・・」
  「貴女と桜ちゃんと士郎。三闘神の力を受け止めた三人の中で貴方の魔術の才能はとても小さかった。だから、この世界の『魔術』じゃない私たちがいた世界の『魔法』を他の二人よりも受け止められる・・・。貴方がこの一年でとても大きな力を得られた理由はそれよ。雁夜、貴方の『魔術』の才能の無さはそのまま私たちの『魔法』を手に入れる為の受け皿の大きさでもあったの」
  何故そんな事を今言うのか判らなかったので、俺は黙って語られる言葉に耳を傾ける。
  出来るなら何千何万もの言葉を使って別れを止めたかったけれど。ゴゴは口にした言葉は必ず実現させると俺自身がよく知っているから、拒否する俺と諦めている俺が同居していた。
  俺が何を言ったところでゴゴは―――ティナは揺るがない。
  「桜ちゃんの才能は大きすぎるからどうしてもこの世界の魔術に傾倒してしまう。もちろん私たちの『魔法』は使えるけど、それは桜ちゃんが魔術側にアレンジし直したものだから・・・。貴方は私たちの『魔法』に『魔術』を一番近づけられる人」
  似て非なるモノ。同じに見えて全く違うモノ。
  間桐の魔術の才能の無さが作り出す、魔石によって与えられた力の強さ。
  才能の無さが有りだと言われても納得できない。俺がそう言おうとする前にティナは手を前に向けて―――俺の方に手のひらを向けたまま言った。
  「これは御守りよ・・・」
  するとティナの手のひらから一年で見慣れてしまった緑色のクリスタルが現れる。
  中央に光るオレンジ色の六芒星と人の手から現れる常識外れの出方でそれが魔石だとすぐに判る。
  何の為に魔石を出した?
  今、話している内容と何か関係があるのか?
  何か聞こうとする所にどんどんと積み上げられていく新しい疑問。俺がそれらを言葉にするよりも早く、ティナは次の言葉を放ってくる。
  「幻獣の中でただ一人だけ・・・人を愛してくれたおとうさんの力。この世界で誰よりも私たちの『魔法』を胸に宿した貴方なら・・・、きっと貴方に馴染むわ。それに『マディン』が燃え尽きそうな貴方の命をきっとこの世界に留めてくれる筈」
  そう言うとティナの手のひらの前で浮かんでいた魔石が緑色の粉となって玉座の間の中に広がっていった。
  そして風が吹いた訳でもないのに緑色の粒子となった物は渦巻いて俺を取り囲む。
  ぐるぐると俺の周りを回り。
  ぐるぐると範囲を狭め。
  ぐるぐると俺の体に付いて―――俺の中に入ってくる。
  列車の振動や音、見ている風景など五感は疑似的に感じられている筈だが、緑色の光が俺の中に入って来る時は何も感じなかった。
  夢だからか、痛いとも気持ち悪いとも思わず。ただ魔石『マディン』の力が俺の中に入ってくる結果だけがここにある。
  「それから『守る』と『過保護』は違うの、それだけは覚えておいて。貴方ならきっとおとうさんの力も使いこなせて桜ちゃんと一緒に生きていけるわ」
  俺に変化は無い。何らかの力を与えられたのだとは聞いて判ったけれど、実感を伴う程の変化は無い。ただ『幻獣の力が宿った』と言葉を見聞きしただけの結果しかなかった。
  変化はまっすぐ俺を見るティナの方に起こっている。
  伸ばした手を降ろすと表情が曇り、背後に風景の黄色を押し潰す黒い穴が広がった。
  見覚えがある。
  あれは別次元空間への穴。魔法を唱えた素振りはまるでなかったが、あれは『デジョン』が作り出す穴。
  ゴゴがこの世界に迷い込んだ時に通った穴。出口であり入り口。閉じてしまえば入った者と入らなかった者を完璧に隔絶する障壁。
  「貴方達と過ごせた時間は本当に楽しかった。長生きしてね、雁夜――」
  「ちょ――」


  「さようなら・・・」


  ちょっと待て―――、手を伸ばして捕まえてそう叫ぼうとする前に『デジョン』の穴は広がった。そして夢の世界は闇一色に染められてしまい、俺の意識はそこでぷっつり途切れた。



  ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆



  Side - ゴゴ





  自分の置かれている状況をわきまえず、ひたすらに泣き叫ぶウェイバー・ベルベットが見える。
  セイバーの一刀によって聖杯戦争は終わるしかなかった。遠く離れた場所で強制的に作り出されてしまった別れに悲しみを抱くのも理解できる。だが、敵そのものがいなくなった訳ではなく、ここが戦場のど真ん中である事実はまだ変わっていない。
  聖杯戦争の敵はいなくなった。しかし、それ以外の敵は健在だ。
  そんな中で無力を見せびらかすのは『どうぞ殺してください』と言ってるのと同じ。体験を積み重ねて間違いなく成長しているウェイバーだが、まだ戦う者としての心構えは素人に限りなく近いと言うしかない。
  この場にいる全てのゴゴは違う。一人死にかけているが、戦いへの意欲は全く衰えていない。
  敵の数は『減った』であり『無くなった』ではないので冬木教会を視界に捉えながら戦場の全てを見渡す。
  そこでゴゴは気が付く。
  俯いたり、目に涙を浮かべて号泣するウェイバーは気付いていないようだが、ゴゴにとっては気付くのが普通だ。
  大聖杯が破壊されたことにより、ライダーが、アーチャーが、アサシンが。黒きサーヴァントとして再召喚されたランサーが、こちらのアサシンが、キャスターが解けて消えた。その現象と同じように、あるモノが粒子になり始めた。
 それはライダーの遥かなる蹂躙制覇ヴィア・エクスプグナティオで瀕死の重傷を負わされ、むしろまだ生きているのが不思議なほど体を損壊させたストームドラゴンだった。
  観察を続ければ、粉になってゆくのはストームドラゴンだけではないのに気が付く。八竜の他の七匹もまたストームドラゴンの変化を追いかけるように体が粉になって解けてゆく。
  怪我を負った竜もまだ健在の竜も例外なく、八竜全てが分解される。
 それどころか地面に落下した後はピクリとも動いていなかったケフカ・パラッツォもまた同じく分解されてしまい。ケフカに召喚されてアーチャーの猛攻から逃げ切った―――さすがに『天地乖離す開闢の星エヌマ・エリシュ』のほぼ直撃を喰らって手足が片方両断されているが、それでも何とか生き残っていた―――幻獣『ギルガメッシュ』もまた同じく体が解けていく。
  「うおっ!? なんじゃこりゃ!」
  突然、体が粉になって融解していく異常事態にギルガメッシュが叫ぶが。動揺とは無関係に人型はどんどんと失われていった。
  これで粒子になってしまったモノが空に消えていくのならばサーヴァント達が辿った末路と全く同じなのだが、総数十か所以上から現れた粉はそれぞれの色で輝きながらまだそこに留まっている。
  そして全ての粉が空のとある一画へと集まっていく。


  我は力――。


  音にも聞こえる声が空に響いたのは粉が集まりだした直後だった。
  最早、冬木のどこにもケフカも八竜の姿も無く、彼らが居たであろう場所に出来上がった凹みが名残として残るのみ。
  その代わりに夜空の一部に新しいモノが生まれようとしている。


  我は命――。


  続く言葉を聞きながら、ゴゴは視界の片隅で泣き続けるウェイバー・ベルベットを見る。
  もしこの音の様な言葉がウェイバーにも聞こえているならば、間近にいる敵か味方か判別できない何かを警戒する筈。それが出来ないほど悲しんでいる可能性はあるが、積み重なった経験でそれはないと判断する。
  ウェイバーは泣くのを止めない。
  つまりこの声はゴゴにだけ聞こえているらしい。
  集まっている粉の大本がケフカとその魔力であるならば納得は出来る。何しろこの世界に現れたケフカの源はゴゴであり、ゴゴは宝具の力で分裂する以前からミシディアうさぎを介して各所に散らばった自分自身と意思疎通を可能としていたのだから。
  今から現れようとしている何かがゴゴの力を有している、本体たるゴゴにだけ声を届けてもおかしくはない。


  我は竜族を統べる者――。


  空に舞い上がった粉は徐々に一つの形を形成し、その大きさは首長竜であったイエロードラゴンを凌駕し、けれど輪郭は東洋の『龍』を思わせるブルードラゴンへと近づいてく。
  あるいはまだ形が定まっていない今の状態なら現れようとしている『何か』の出現を阻止することも可能だろう。
  大きさでは今もリルムの横に控えている幻獣『バハムート』よりも大きくなりそうだが、そこに至る前に倒してしまえば事態は収拾される。
  しかしゴゴはそれをしない。
  ゴゴにとって未知とは脅威ではない。万物を知り、自分が何者であるかを作り出そうとしているゴゴにとって、未知とは歓喜だ。自分を思い出したが故にその思いは顕著だ。
  そこに出てこようとしているモノはケフカではない。八竜でもない。当然ながら幻獣『ギルガメッシュ』でもない。全く新しいモノならば、邪魔は出来ない。したくない。


  我は救世の悪魔にして破壊の神なり――。


  ゴゴが何もせずに放置する間に変化は完了へと近づき、大地から浮かび上がり空で大量の粉が形を成していく。
  それは竜だった。
  大きさは幻獣『バハムート』を大きく上回る。目算だが体長は軽く四十メートル以上あり、絶滅した動物と現存する動物を合わせた中でも最も大きなシロナガスクジラよりも大きい。
  ただしその大きさは頭から尻尾の先までの長さなので、実物から受ける印象はもう少し小さい。それでも、滞空する高さが低いので、地上に立つ人の視点で間近に見てしまえば巨大な山がそびえ立っているように錯覚する。
  やはり西洋の『竜』ではなく東洋の『龍』を思わせる細長い体だが、元々がとてつもない大きさなのでそれを細長いとは思えない。鱗もまた一枚一枚が巨大で、人が使う大きな盾を全身にまとっているようだ。
  背中に生えた一対の羽根は空を飛ぶ機能を有しているのは間違いないが、触れたもの全てを切り裂くだろう鋭さは羽根よりも剣に近い。
  ブルードラゴンと長さとストームドラゴンの翼と配色。レッドドラゴンの頭とイエロードラゴンの体毛。
  粉になって集まった残る四匹の竜、アースドラゴン、フリーズドラゴン、スカルドラゴン、ホーリードラゴンを思わせる部分は見えなくなってしまったが、全ての力を有している事は容易に想像できる。
  ケフカの力も、幻獣『ギルガメッシュ』の力も集結したのだから。
  この世界の幻想種の中でも最強と名高い竜種。それが空の上からゴゴを見下ろしていた。


  我が名はカイザードラゴン。


  そう名乗りを上げた時、ゴゴはこの竜がものまね士ゴゴの力から派生したものではないと理解した。
  状況を考えれば間違いなくゴゴの力の一端であると判りながら、それでも違うと理解する矛盾。
 最初はゴゴの存在すら呑み込んだ聖杯かこの世全ての悪アンリマユかと思ったが、その場合は態々ケフカの姿を捨てて竜に変化する必要は無い。
  ただそこにいるだけで圧倒されそうな存在感はケフカとは対極にあり、禍々しさは無くただ大きいと感じるのだ。大自然の化身だと言われても大いに納得できる。それがこの竜―――カイザードラゴンと名乗った存在。


  全ての竜族の魂を抱き我がカイザードラゴンが貴様を滅ぼしてくれる。


  ゴゴの力を有しながら、決してそれだけではないモノ。
  そう考えた時、ようやくゴゴは矛盾の解答に辿り付く。向こうが現れるまでに時間が合った事と自らを知らしめるように名乗った事で余裕があった。もしその余裕がなければ考える時間など与えられなかっただろう。
 この世全ての悪アンリマユはゴゴの力を奪い去ったが、カイザードラゴンは変質したケフカとしての力すらも呑み込んでいる。そんな事が出来る存在などそうそう居はしない。
 疑いと確信を半々に持ちながら、ゴゴは―――ランサーとの戦いを止めざろうえなかったカイエンは―――宝具『己が栄光の為でなくフォー・サムワンズ・グロウリー』の効果を解除してものまね士に戻り、肉声でカイザードラゴンに語りかける。
  それは答え合わせであり鎌をかける為だった。
  「俺の一部がケフカに喰われた時に存在を紛れ込ませたか。気付かれぬように干渉を続け、再生に全力を注がなければならない状況を作り出して一気に乗っ取ったな。まさか、こういう手で俺の力を盗むとは思わなかったぞ――、『抑止力』」
  ゴゴがそう告げると、空に浮かぶカイザードラゴンが目を細める。
  そしてゴゴにだけ聞こえていた声ではなく竜の口から万人に聞こえる言葉を発した。
  「気付いたか――」
  「俺を甘く見るなよ。お前が俺の前に現れたあの時、俺はいつであろうともお前を警戒した。この世界で俺と渡り合うとしたら、おそらくそれはお前だけだ」
  そこで一旦言葉を区切る。
  「間桐鶴野としてのお前に『街一つ滅ぼす力の行使はお前と戦う事になるのか?』と聞いた時、お前は『ならない』『大規模な自然災害で死ぬのと大差はない』と答えたな。今はまだその段階の遥か以前にありながら、どうしてお前はここにいる?」
  「状況は変わったのだ」
  空の上から降り注ぐ声は間桐鶴野の時に聞いた声とは全く違っていた。
  重みがある、と言えばいいのだろうか。声一つに一つに力があり、聞くだけで常人ならば動きを止めて膝を折ってしまうかもしれない。
 「『天地乖離す開闢の星エヌマ・エリシュ』『裁きの光』『三闘神』『この世全ての悪アンリマユ』。貴様はバトルフィールドを行使しながらそれを超える力を獲得し、あるいは行使した。そしてお前を殺す為の力もまた増大し、力は破裂寸前の風船のように膨らんでいる。このままでは貴様が制限をかけようと、いずれは破裂するのが必然」
  「だから俺を消す、か?」
  「ここが分岐点―――今この瞬間を逃せば貴様は『世界の破滅』へと昇華する―――。始まる前の終わり―――ここで貴様を滅するが我が役目!!」
  単なる言葉が咆哮のように空に轟いた。
  カイザードラゴンの言葉を聞きながら、ゴゴが常に抑止力を警戒していたように、抑止力も常にゴゴを監視していたのだと知る。
  最初に『抑止力』が現れた時から判っていた事だが、改めて言葉にされると自分以外の誰かがいつも傍にいる気持ち悪さを覚えてしまう。もっとも、そんな気持ち悪さなど今は何の意味も無いので、覚えた瞬間に消し去ってしまうが。
  ただ敵を見据え、ゴゴは告げる。
  「こうして再び表に出てきたのは俺を殺す手段が出来上がったからか」
  「その通り。今の貴様では我には勝てん」
  初めて会った時は警告だったので長々と間桐鶴野の体で言葉を交わしたが、今いるのは互いを敵と認識した者同士のみ。
  むしろこうして話している状況こそが異質なのだ。お互いの間にあるのは殺すか殺されるかしかありえない。
  「・・・・・・いいだろう。その思い込み、真正面から叩き潰してやろう」
  ゴゴがそう言うと、少し離れた位置にいて死にそうなロックの体が、セリスの体が、マッシュの体が、リルムの体が、呼び出された幻獣たちが、回復魔法をかけた時のように全身から白い光を放ち始める。
  その輝きは冬木から遠く離れたドイツの地でも、冬木の各所に散らばっているミシディアうさぎ達にも、海岸で三闘神と衛宮切嗣との戦いを見守ったゴゴと幻獣『ケーツハリー』にも等しく起こった。
  聖杯戦争を破壊する為にアインツベルンの本拠地を強襲し、ありとあらゆる財産を物真似して破壊した者たちの一人。セッツァー・ギャッビアーニは白く光る自分の手を見ながら呟く。
  「集う時が来たか。いつか来るとは判っていたが―――こうして辿りつくと色々と名残惜しいもんだな」
  そう言いながらセッツァーが顔を上げると、彼の周りには同じように全身を白く光らせる者たちがいた。
 野生児のガウ、モーグリ族のモグ、雪男のウーマロ。誰もが宝具『己が栄光の為でなくフォー・サムワンズ・グロウリー』によって変化したゴゴだ。
  しかし、彼ら以外にもこの場に居合わせた者達が居て、その彼らは白い輝きを放っていなかった。
  セッツァーと全く同じ姿であり全く別のセッツァー。別のガウ。別のモグ。別のウーマロ。彼らは姿形こそ同じだったが、白い光に包まれていない。
  降り積もる雪の白さをかき消す白い輝き。その光に包まれながら、光っている方のセッツァーはここにいる全員の顔を見渡し、同じ顔をした自分自身へと語りかける。
  「元の場所に戻って戦う時が来た。残念ながらここでお別れだ」
  するともう一人のセッツァーは一度だけ自分の顔を見下ろして、同じ姿をした自分の目を見ながら返した。
  「もう少しでアインツベルンのホムンクルス技術を完全に物真似できたんだがな。後は残った俺達に任せておけ。ここを更地にする後始末もちゃんをやってやる」
  「頼んだ」
  輝きを放っている方のセッツァーがそう言うと、光はより強く輝いて大きく膨らんだ。人の形をした輝きが巨大な球となり、そして握り拳程の大きさまで一気に凝縮される。
  その現象はガウにも、モグにも、ウーマロにも起こり、四つの白い光球が雪深いドイツの地に現れた。
  そしてそれら光球は出来上がると同時に空へと舞いあがり、遥か遠方にある冬木へと飛んでいく。
 宝具『妄想幻像ザバーニーヤ』によって分裂したゴゴの力。あるいはゴゴによって召喚され、この世界に根付いていない幻獣やミシディアうさぎ達。彼らは等しく白い光球へと姿を変えて、冬木教会にいるゴゴの元へと集まっていった。
  ロック、セリス、マッシュ、リルム。彼らもまた例外ではなく、一人、また一人と姿を光球に変えてゴゴに吸い込まれていく。
  一つ。また一つ・・・。
  カイザードラゴンが肉声で話し始めた辺りから泣き顔を上げたウェイバー・ベルベットがその摩訶不思議な現象を見つめている。そして空に浮かぶ巨大な竜も見て腰が抜けるほど驚いていたが、ゴゴにとって視界の隅に見える人間等どうでもよかった。
  「『抑止力』。この一年、どうすればお前を物真似できるかずっと考えていた。お前はこの世界を構成するシステムの一つだが、同時のこの世界そのものと言っても過言ではない存在だ」
  見据えるのはただ敵の姿。
  空を舞う竜―――竜の姿を借りた抑止力―――カイザードラゴンだけだ。
  「だからこそ俺はものまね士として『世界を物真似すればいい』と結論を出した。まずは手はじめてにここにいるお前の一部を消す。宣言通り俺は『お前を消す』ものまねをするとしよう。そのまま世界すら物真似してやろう」
  「出来るかな? 貴様ごときに」
  「出来るさ。俺はゴゴ、ものまね士ゴゴだ」
  朗々と名乗った時、夜空を切り裂く流星のように四つの光がゴゴを直撃した。それはゴゴを害するかのように激突したが、光はただゴゴの中に吸い込まれて力を増大させる。
  この世界を訪れた時と比較すれば少々欠けてしまったが、それでも分裂させた力のほとんどが一つの肉体に集結した。
  全ての力を滅ぼさなければ意味はない。とでも言わんばかりにその集結を何もせずに眺めていたカイザードラゴン。
  空を舞う竜は自分の後ろに夜空とは違う黒い円を生み出す。
  それは宇宙空間を思わせる星の海で、カイザードラゴンの大きさをさらに上回る巨大な穴であり、『デジョン』が作り出す別次元へと移動するための通路だった。
  カイザードラゴンはこう言いたいのだろうか? お前の力すら、最早、我のものだ、と。
  背後に大きな穴を従わせながらカイザードラゴンが言う。
  「ここで我らが戦えばこの大地を滅ぼしてしまう。場所を変えさせてもらうぞ」
  「こちらの手間を省いたその余裕。命取りになるぞ」
  ゴゴは返事をしながら少しだけ背を丸めて前かがみになった。
  一瞬後、ゴゴの背中を覆う赤いショールを突き破って一対二枚の羽根が出現する。ゴゴのサイズに合わせて大きさは縮んでいるが、それは紛れも無くライダーによって倒されたストームドラゴンの翼だった。
 力の一部を継承したケフカは召喚でそれを成し遂げた。この世全ての悪アンリマユすら物真似した今のゴゴに出来ない筈はない。
 宝具『己が栄光の為でなくフォー・サムワンズ・グロウリー』を応用することで可能となった肉体の部分変化。
  ゴゴはカイザードラゴンを見つめながら、新たな力を会得したのがお前だけだと思ったか? と不敵な視線を向ける。
  するとカイザードラゴンは体を引いて『デジョン』が作り上げた空間の中へと入っていった。
  無用な問答はもう不要なのだろう。ゴゴはその移動を追って、背中に生えた翼を羽ばたかせて空に舞い上がる。
  カイザードラゴンが穴を通り、ゴゴもまたそれを追って穴の中に入る。巨大な力を有した二つの存在が次元の穴を通り抜ければ出入り口は消えた。
  別次元と冬木とを繋ぐモノは無くなり、隔離された空間の中で二つは対峙する。互いの目に映るのはただ敵の姿だけ。
  開始の合図など無く、ゴゴもカイザードラゴンも敵を消滅させるために攻撃を開始する。


  「波動砲」
  竜の口から放たれる一筋の閃光。


  「メテオ」
  全方位から敵へと殺到する隕石群。


  こうして、誰にも知りようがない戦場で、一対一の戦いでありながら規模は聖杯戦争を遥かに凌駕する闘争が始まった。
  人にそれを知る術は無い。仮定も結果も何もかもがゴゴとカイザードラゴンのものだった。



  ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆



  Side - セイバー





  空は紅色に染まっていた。
  大地は血で染まっていた。
  数多の死体は全てがかつて私を王として仰いだ者達だ。そして叛徒の逆臣であり、血を分けた息子モードレッドの心臓を槍が貫き、大地の上で死を描いている。
  どこを見ても死が広がっている。
  生きて動いている者など誰もいない。
  空も地も等しく溢れた人の血で真っ赤に染まっている。
  ここはカムランの丘。私が奇跡を願った場所。やり直しを望んだ場所。私の治世の終着であり、『世界』と契約を結んだ場所。
  二度と戻らぬと望んだここに私は戻ってきてしまった。
  「ごめん、なさい・・・」
  生者が私以外に誰もいないから、ここでは王として装う必要はない。思いのままにただ詫びる。詫びても意味がないと判りながら、それでも私には詫びる。
  それしか出来ないから。
  語る言葉が空しく響く。
  だが最早、奇跡を求められないと他でもない私こそが知ってしまっている。
  私が、私こそが、聖杯を破壊した張本人なのだから―――。
  既に鎧は白銀の輝きを取戻し、同胞たちの血に染まっても尚この武具は元の色に戻っている。
  私はこの肉体を突き動かす衝動に抗えず、ただ敵を殺す為の獣となって動き、そして殺戮のままに聖杯を破壊した。
  ここに戻される瞬間、私は聖杯を降臨させるためになくてはならない物を斬ってしまったのだと理解した。あの山に何が合ったのかは今も判らない、その筈なのに、ただ『理解』だけが私の中にある。
  最早、ブリテンの滅びを聖杯の奇跡によって覆すことはできない。
  いいや、違う! 無限に連なる可能性の世界の中のたった一つが消えてしまっただけの事。もし真に聖杯を手に入れられないのならば、私がカムランの丘に戻ってくる筈はない。
  私は奇跡の聖杯を手にするために『世界』と契約を交わした。
  聖杯を手にしない限り、何度でも、何度でも、何度でも、この場所に戻ってくる。だから戻って来れるのならば、『世界』の意志はまだ私に聖杯を与える手段があると認めているのだ。
  別の可能性の世界で私はきっと聖杯を手にする。そして奇跡によって何もかも打ち消せる。
  そう思わなければ私は壊れてしまう。
  そうでなければ私は何も出来なくなる。
  まだ―――まだ―――まだ―――。
  やり直して、最初から初めて、白紙にして、仕切り直す。
  私の心が『やり直し』を叫べば、合わせて悔いが溢れ出す。言葉が止まらない。
  「ごめんなさい・・・、ごめんなさい・・・・私が、私なんかが・・・っ」
  私なんかが王になどなるべきではなかった。
  私は一体どうすればいい?
  どうすれば私はこの死体となった彼らに償える?
  私は何をすればいい?
  答えへの求めと後悔が混ざり合って慟哭となり、カムランの丘に木霊する。返ってくるモノは何もない、ただ静寂ばかりがあった。
 何故、私は湖の騎士サー・ランスロットに斬られ、終わらなかったのか。
  何故、私は選定の剣を引き抜き、王になってしまったのか。
  何故、私は魔術師の言葉を聞き入れずに剣を抜いてしまったのか。
  どうしたらいい? 何が出来る? 何をしたらいい? 何をしなければならない? 何が間違いだった?
  心はぐちゃぐちゃに乱れていた。


  「道案内、ありがとう――。あれはもう終わった事よ、考えても無意味だわ」


  私以外の全てが死ぬカムランの丘に私ではない声が聞こえる。
  聞き違いか?
  見上げれば紅く染まる空を背にして―――。桃色に体毛を持ち、淡い光を輝かせる人に似た何かが―――。怪物が飛んでいた。
  馬鹿な? 何故、こいつがここにいる?
  間違いなく両断して殺したはずの敵が生きてここにいる。
  混乱の中に湧き上がる焦燥。あまりにも唐突過ぎる変化に頭が冷静さを保てない。
  「き、さま・・・」
  思いとは裏腹に口からは怨嗟の言葉が現れた。
  この怪物が私に聖杯を降臨させるための『何か』を破壊させた。その事実が私の心を力づくで憎悪へと導く。
  「貴様の、せいで・・・」
  「貴女のせいよ。この惨劇も、そして聖杯戦争の終結も――」
  囁かれた言葉が私の心を抉る。
  私の口から放たれる筈だった言葉は止められる。
  「今の私にはどうでもいい事だけれど・・・」
  桃色の怪物がそう告げながらゆっくりと降下し、私のいる位置から十数メートルほど離れた位置に舞い降りる。そして両足を紅い大地に着けた時、敵の輪郭がぶれた。
  その奇妙な『ぶれ』は数瞬で収まったが。終わってみれば怪物ではない別の誰かがそこに立っている。
  見覚えはあった。
  キャスターの非道を知り、アインツベルンの城で行われた話し合いの場で切嗣から見せられた一枚の写真。そこに写っていた敵の一人。
  「間桐・・・臓硯――」
  「いいや、俺はゴゴ。ものまね士ゴゴだ」
  その誰かが私には理解できない事を言った。
  「ものまね・・・し?」
  今まで一度たりとも聞いたことのない言葉に呟き、いっそ道化師と言われれば理解できただろうと思うが。重要なのは目の前にいるのが敵である点。
  武器を取らなければならない。
  しかし最も近くにあるのは私の息子の心臓を貫いた槍であり、引き抜くのは躊躇われた。何より敵は敵でも聖杯戦争における敵とカムランの丘で争って何になるのか。今更、ここで敵の一人を倒して聖杯は手に入らないというのに、戦ってどうするのか。
  戦う意味を自分自身に問うてしまった時、私の体は強張った。
  戦いの無意味さに動きは止まり、間桐臓硯だった筈の敵に語る余裕を与えてしまう。
  「俺に戦う気はない。ただ『英霊の座』へ物真似しにいくつもりだったんだが――。まさか、時間移動を物真似する機会に恵まれるとは思わなかった。予想外だが嬉しい誤算でもある」
  「貴様は何を言って・・・」
  「戦いは終わった。もうお前に用は無い。それだけだ」
  見れば見る程に不可解な姿が浮き彫りになり、間桐臓硯が男であった事実を覚えていても、目の前にいるものまね士と名乗った敵が男か女か判断できなくなる。
  それでも語られた言葉には道理があり、聖杯戦争が終わったのは確かな事実として私も理解している。
  ここで争っても意味は無い。戦ってどちらが勝とうとも、この紅く染まったカムランの丘がもう少しだけ赤くなるだけだ。
  この者が明確なブリテンの敵だったならば戦えた。斬ることでランスロットへの、グィネヴィアへの、モードレッドへの償いになるのならば戦えた。
  しかしそのどちらでもない。戦う理由が見つけられない。
  いっそ、冬木で味わった全てが黒く染まって目の前の敵を斬る事しか考えられなかったあの衝動に身を任せられれば楽になれるかもしれない。
  ただし、この者が告げた『用件』については否定される。何故、遥か遠い未来に存在する筈の者がこのカムランの丘にいる? その疑問の解が私の願いを叶える為の発端になるかもしれない。
  戦わない理由と戦う理由とが同時に存在する。
  それが大きな隙となり、敵が右手を広げて私に向けるまでの猶予を与えてしまう。
  「スリプル」
  「な――!?」
  臨戦態勢を取っていれば難なく避けられたであろう魔術が使用され、私の意識は急激に遠のいていく。
  「疲労しては対魔力も衰える――」
  耳に届く言葉はどんどんと小さくなり、遠ざかっていく背中を追う力は失われていく。まぶたは私の意思に反して閉ざされていき、遂には完全に視界を覆い隠した。
  待て! そう叫ぼうとしたが、私は沈んでいく意識に抗えなかった。



  ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆



  Side - ゴゴ





  サーヴァント召喚システムによって英霊が召喚される時、聖杯から知識とクラススキルがそれぞれの英霊に与えられる。つまりサーヴァントとして召喚された時点で英霊は生前の自分とは同じでありながら全く別の何かに変わってしまう。
  アーサー王を変質させた原因は召喚であり、それを後押ししたのはゴゴがサーヴァントの無意識に訴えかけた令呪に似た魔力干渉だった。これらによってアルトリア・ペンドラゴンはセイバーになった。
  アーチャーやライダーは強烈な自己によって生前と変わらぬサーヴァントであり続けたがセイバーは違った。
  聖杯から与えられた知識に毒されて、召喚以前に持っていた価値観と現代の価値観を混ぜ合わせてしまい、そこに迷いを生み出してしまった。
  英雄王と征服王はその迷いを切り捨てて『だからどうした』と自らの王道を突き進んだ。
  同じ王でありながら違いが生まれたのは聖杯問答の時にも合った、過去を悔いる者とそうでない者の違いだろう。その違いが意志の弱さとなり、付け入る隙を生み出してしまった。
  もしセイバーがアーサー王に戻った時。サーヴァントならば行われていた干渉が消えて変質も無くなったならば、もっと他の何かか見れるのではないだろうか? そんな期待があったのだが、裏切られてしまった。
  ゴゴにとって未知とは喜びそのものだ。その思いは自意識を覚えた瞬間から今に至るまで、例えその意識を複数に分割しようともゴゴである限り決して変わらない。
  だからこそ得るモノが何一つ無くなったセイバー、いや、絶望に打ちひしがれたアーサー王ことアルトリア・ペンドラゴンには興味が湧かない。
  変質がなくなった本物ならば物真似する価値あるモノがあるかもしれないと考えていたが、結果はむしろセイバーに抱いていた落胆を更に増大させて終わっただけだった。
  セイバーが他のサーヴァントと異なり、現世での死後に英霊となった者でなかったとしてもゴゴには関係無い。王として装わなかくなった後に残ったのは涙を流して過去を悔いる女がただ一人。聖杯問答で堂々と過去改革を宣言した王の姿すら消えていたので、もうセイバーについては何もかもがどうでもよくなった。
  わざわざ敵と認めて殺すまでもない。
  ここにやってきてゴゴが手に入れたのは体感したばかりの時間移動だけで、セイバーから手に入れたのは失望だけだ。
  カムランの丘に立つゴゴの力は分裂した元ティナ・ブランフォードであり、総体と比較すれば一割以下にまで落ち込んでいる。だから魔術の領域を超えた『時間遡行』の全てを再現して物真似するには少々時間がかかる。
  ここにいるゴゴはセイバーのことを完全に頭から追い出しながら、『時間遡行』が可能になれば更に物真似の幅が広がるだろうと喜びを抱く。そのまま周囲を見渡せば、視界に移る大地の全てを埋める死体の山が見えた。
  多くの人ならば湧き出た喜びが怯えに転化させて、目を背けたり、吐いたり、ショックで気絶したりする悲惨な光景だが、ゴゴにとっては『人の死』という単なる結果でしかなく。それを見て感情が揺り動かされることは無い。
  ゴゴが立つこの場所はほんの少し前までいた現代から遡った約千五百年前の世界、これから流れる時の中で得られる多くの物真似を思えば喜ばずにはいられない。
  力の大半は『抑止力』と戦っているゴゴが持っているが、この地点から世界を知り、ありとあらゆる場所を歩き、経験と知識を蓄えて物真似に昇華するのならば、小さい力でも充分すぎる。
  あちらのゴゴが決着をつけるのにどれだけ時間がかかるかは判らない。一日か、一か月か、一年か、十年か、それとも百年か。その間にこちらのゴゴは未来では潰えてしまった過去を存分に物真似すればいい。
  眠りに落ちたアーサー王に背を向け、ゴゴは血に染まった大地を歩きながら色々な事を考える。
  話しには聞いている真祖や死徒。幻獣とは異なる幻想種を探すのはどうだろう。
  千年の歴史を持つと言われているアインツベルンの先祖を探すのも悪くない。
  時間遡行が物真似できれば、更に時代を遡るのも面白い。
  土地によって異なる文化、言語、風土、環境を。そして在るならば宝具や魔術を物真似しよう。
  こちらのゴゴが隔たれた時間を超えて現代に到達するのが先か。あちらのゴゴが『抑止力』を倒して世界を物真似し、時間の壁を突き破るのが先か。
  どちらが先にサーヴァント達の本体がいる『英霊の座』に至れるか―――。
  それともここにいるものまね士ゴゴを抹消する為に別の抑止力が現れたりするか。ゴゴの前には未知という名の歓喜が広がっている。
  「俺は、ゴゴ。ずっとものまねをして生きてきた」
  ゴゴは誰にも聞かれない言葉を堂々と告げる。
  「全てをものまねしてみるとしよう――」



[31538] 第47話 『戦いを終えた者達はそれぞれの道を進む』
Name: マンガ男◆da666e53 ID:d050259c
Date: 2014/05/03 15:02
  第47話 『戦いを終えた者達はそれぞれの道を進む』



  ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆



  Side - 衛宮切嗣





  こいつらは何を喚き散らしているのだろう? ぼんやりとまどろむ意識の中で僕はそう思った。
  とても大事なモノを失った。胸の中にぽっかり穴が開いたみたいな喪失感がある。それでも僕はやるべき事がある、だからそのために『何をすべきか』を考えるのに忙しくて、目の前で語られる無用な言葉を頭の中に入れる暇はない。
  世界を平和にするために僕は人を殺さなくちゃいけない。
  目の前にいる男たちには理解できないだろう。最初に喪失感を感じながら、目を覚ました時、僕は紺色の制服を着た―――確かこの国の警察官で、目の前にいる男たちの仲間だった筈―――に同じことを語り聞かせたが、奴らは呆けた表情で僕の言葉を理解しなかった。
  窓には格子、扉には鍵、両手首には手錠、腹には椅子と繋がる太い縄。四畳ほどのこの部屋でさっきから僕に何か言っている男も奴らの仲間だ。僕の正義を語っても理解できないに違いない。
  だから僕は奴らに理解を求めるのを諦めた。僕の言葉を語り聞かせるのを止め、ただ必要な事をする。


  辞めろ、それは違う!!


  頭の奥から声が聞こえるけど、心臓の辺りからドクン! と鼓動とは違う別の何かが蠢いて、聞こえてきた雑音を洗い流してくれた。
  胸に宿る喪失感。だけど、全てを失ってはいない。欠片はまだ僕の中にある。
  それが何のことなのか僕には判らなかったけど僕は判っている。
  判らないけど判ってる。
  「大勢がお前が発砲している場面を目撃してるんだぞ」
  「押収された銃から出る指紋をお前と一致するだろう」
  「何を考えてこんな事をしたんだ? 老若男女区別なく・・・」
  「手口は違うが連続誘拐殺人もお前の仕業じゃないのか?」
  聞こえてくる声は左の耳から右の耳へと抜けていく。目の前に座る男は僕に対して取り調べてるみたいだけど、どうでもいいから答えない。答えようとする暇すら惜しい。
  僕はこれまでこういう事態には陥ったことがないけれど、検察庁やら裁判所と呼ばれる場所に移送されるときは動員される人数こそ多いが建物から出られる。
  手錠での拘束はあるけど、このタイミングを使って早く脱出しなくてはならない。早く世界を平和にしなければならない。
  手首の太さが邪魔で手錠が取れないが、それは肉を食いちぎるか関節を外して手を細くすればいい。今と同じように腹に縄が結ばれて、その先を紺色の制服を着た男が握るようだが、直接僕を捕えるのはその一人だけ。
 肉を食いちぎる拍子に歯が抜けるかもしれないけど、全て遠き理想郷アヴァロンが癒す。縄の拘束も後ろで握る男を殺せばすぐに解ける。
 固有時制御タイム・アルター四倍速スクエアアクセルを使えばどちらの問題も解決できる。拘束を解き、追っ手を振り切ろう。怪我はいずれ治るのだから。
  今はまだ機を伺う時だ。行動を起こすべき時が訪れたら速やかにここを抜け出そう。
  早く人を殺さないと。
  世界を平和にするために早く殺さないと。
  何人も何十人も何百人も殺さないと。
  トンプソン・コンテンダーもキャレコ短機関銃も奪われたようだ、すぐに代わりの銃を調達して殺さないと。
  でも、余分に仕入れた二台分のタンクローリーのせいで残る資金は心もとない。資金調達もかねて沢山殺さないと。
  僕は成すべき事を成す為に必要な事だけを考える。目の前にいる男の問いかけには応じる必要がないので無言を貫いた。
  そうだ、正義の為にまず手始めにこの男から殺そうか―――。





  衛宮切嗣は理解しない。
  今の彼にとって成し遂げる全ての事象は『正義』へと転化され、ありとあらゆる事柄を自分にとって都合のいい解釈へと捻じ曲げてしまう。
 あるいはまだ彼の体の中に残る規格外の結界宝具『全て遠き理想郷アヴァロン』が衛宮切嗣の肉体を完全に修復したならば、自分の解釈の大きな誤りに気付けたかもしれないが、それは叶わなかった。
  衛宮切嗣の起源『切って嗣ぐ』が回復すらも不可逆なモノへと変質させてしまっていたからだ。
  衛宮切嗣は理解しない。
  彼は銃を乱射して多くの人間を殺して回り、市民からの通報を受けた警察官によって逮捕されたのだと―――。
  今は冬木市にある警察署の取調室で刑事から取り調べを受けているのだと―――。
  この国の刑法と照らし合わせる以前に大多数の人間から見れば衛宮切嗣の方こそが正義に反しているのだと―――。
  理解しない。
  ただの肉体の損傷だけだったならば、最強の治癒宝具は全てを癒したかもしれない。
 けれど、衛宮切嗣の肉体と一時同化した聖杯は―――この世全ての悪アンリマユは―――たとえそれが僅かな欠片であったとしても、本体から切り離された残り滓だったとしても、今も衛宮切嗣の肉体を汚染し続けていた。
 衛宮切嗣の肉体はじわじわと壊され、そして全て遠き理想郷アヴァロンが少しずつ治してゆく。
  終わりのない破損と修理。繰り返される起源による変質。
  衛宮切嗣は聖杯の泥に触れた時に狂ってしまった時から元に戻れずにいた。
  もしかしたら完全に治って正気を取り戻すよりも思い出さない方が彼にとっては幸せなことかもしれない。何しろ今の衛宮切嗣は冬木に未曾有の大量殺戮を持ち込んだ殺人者だ。
  衛宮切嗣は自らの行いをしっかりと自覚しながら、それでも理解せず。ただただ正義を行おうとしていた。



  ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆



  Side - ウェイバー・ベルベット





  数日経っても戦いの熱は今も僕の中に消えない決意として燃え続けてる。
  もっと時間が経って聖杯戦争のこと、ライダーのこと、サンのことを忘れそうになっても。少しでも関わりのある事を思えば、連鎖して色々な事を一緒に思い出すんだろうな。
  そうやってまた決意って名前の炎は燃え上がるんだ。
  そんな気がした。
  今もそうだから―――。
  サンとライダーが消えてしまったあの時、僕には何が起こったのか殆ど判らなかった。決意の向こう側にある出来事の全てを思い出してみても、事象の大半が僕の理解を超えていて、見てたのに何が何だかわからない。
  聖杯戦争を台無しにしたのは誰だったのか?
  ケフカって男は聖杯を手にしたって言ってたけど、その聖杯はどこに消えたのか?
  沢山いた竜種が消えて、合体したように見えた。あの大きな竜はなんだったのか?
  いつの間にかそこにいた間桐家の当主である間桐臓硯。消えてしまったカイエン達。そもそもこの戦いに奇跡の聖杯を手にした勝者はいたんだろうか?
  ライダーも、ランサーも、アーチャーも、キャスターも、サンを含めたアサシン達も、誰もが消えてしまったから勝者どころか敗者もいない様に僕には見えた。
  僅かな間に僕じゃ判らない事ばかり起こったから、思い返しても全然判らない。いつの間にかセイバーもバーサーカーもいなくなってるし・・・。
  カイエンの無事を確かめるために間桐を訪問するのも考えたけれど、魔術師の家にただ『カイエンは生きてますか?』と聞くだけで答えてくれるとは思えなくて、サーヴァントのいない今の僕じゃ敵対してしまえば抗う術は無い。
  聖杯戦争は終わってしまったからいきなり攻撃される危険は無いと思いたいけど、可能性はゼロじゃないから止めておいた。
  でも僕はあの場所で起こった出来事を知らないままにするつもりは無い。胸に宿ったこの熱い炎がある限り、僕はきっと全ての謎を解き明かしてみせる。
  「おーい、ウェイバー。朝ご飯が出来たぞ」
  「うん。すぐ行くよ」
  でもその前に僕にはやらなきゃいけない事がある。
  マッケンジー夫妻に事のあらましを説明することだ。
  何もかもが終わってしまった後。僕はついていけない事態の大きさとライダーとサンが消えてしまった事実に打ちのめされて、呆然としながらマッケンジー宅に帰った。
  たった数日過ごすつもりだけの拠点だけど、今の冬木で戻れる場所がここしかなかったから、自然と僕の足はここに向いた。
  それにお世話になったからこそライダーのこともサンのことも話さないといけない。他の魔術師だったなら暗示の魔術をかけて忘れさせるかもしれないけど、僕の意思と未熟さの両方の意味でしなかった。
  それに一夜の間に二回も殺されて、二回も生き返って、勝利を掴むために体中からありとあらゆる魔力を絞り出し終えた後だったから、自分の足でマッケンジー宅に戻れたのが不思議なくらい消耗してたんだ。
  暗示の魔術を使う余裕もなかったし、それをやろうとする気力も残ってなかった。体を巡る魔術回路が今も盛大に動いてるけど、全快するにはもう少しかかると思う。
  玄関先でマッケンジー夫妻に暖かく迎えられた気もするし、ライダーとサンがいないのを訝しんだ気もするけど、気がつけばベットの上で寝ていた僕がいて、よく思い出せない。
  多分、辿り付いた途端に疲労が一気に溢れて寝ちゃったんだと思う。
  そういえば、持っていた魔石もいつの間にか消えてた。ケフカを撃った時に確かに手に持ってた筈なんだけど、探しても無かった。これも判らない事の一つだ。
  とにかく、今はマッケンジー夫妻にちゃんと―――全部を正直に話すわけにはいかないけど―――起こっちゃった結果をちゃんと話さなきゃいけない。それは僕の義務だ。
  特に夫のグレンさんは僕の暗示が効かなくなったと自覚したうえで『もう少しワシ等の孫でいてくれんか』と言ってくれた度量の大きな人だ。三人で一緒に帰るって約束を果たせなかったからこそ、あの人には絶対秘密厳守を条件にして聖杯戦争のことも魔術のことも僕自身のことも全て話すべきかもしれない。
  そうなると問題なのは、特にサンを可愛がってくれたマーサさんだ。こっちの説明には『国に帰った』とか『記憶が戻って親元に帰った』とか話を作りこむ必要が出てくる。
  じゃあ、サンちゃんのご両親に挨拶に行かなきゃ。と、張り切る姿が目に浮かぶから、出来れば選びたくない選択肢だけど最悪の場合はまた暗示の魔術に頼らなきゃいけないかもしれない。
  今はまだ未熟な僕だけど、魔術の腕を磨いて始まりの御三家に負けない所まで上り詰めてみせる。そしていつか英霊の座に至り、ライダーともサンとも再会してみせる。
  征服王イスカンダルの偉業に追い付くためにやらなきゃいけない事は沢山あって、無駄に出来る時間なんて無い。だけど、時には立ち止まって小休止するのもいい。僕はライダーが買って、一度も封を切られなかったゲームソフトを見ながらそう思った。
  心を燃やす決意がある限り僕は頑張れる。
  その為にもまずはマッケンジー夫妻の説得からだ。
  どう話すか考えながら僕は階下に向かった。



  ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆



  Side - 間桐雁夜




  目を開けると白い物が幾つも飛び込んできた。
  天井、壁、窓から見える雲、そして部屋の中を仕切る仕切りカーテン。どれもこれもが白に近い配色で、四方全てを白で覆われていたような錯覚を覚える。
  「お目覚めですか?」
  声がする。
  目だけを動かして見ると、白い服を着た女性が脇に立って俺の顔を覗き込んでいた。
  誰だ? そう言いながら体を動かそうとしたが上手く動かない。意識と肉体にずれがある。仕方なく、目だけを動かすのを続けて更に周囲を観察すると、最初に目に入った多くの物の中に金属の棒のような物があるのに気が付く。
  そこに吊るされている物から伸びる管が俺の手に伸びていた。
  見える範囲にある物と者を把握してから数秒後。俺は満足に動かせない体を感じながら理解する。
  ここは病室だ、と。
  俺を見ていた女性が看護婦で、吊るされた物が点滴だと気付いた瞬間に答えは出た。
  これまでの人生の中でお世話になったことは無いが、何となく病室とはこんな感じだろうとイメージだけはあった。
  そして一つの答えに辿りつくと同時に頭の中で残る疑問が一気に爆発する。
  何があって俺はここにいる? 三闘神はどうした?
  何が起こった? どうして俺はここにいる?
  衛宮切嗣は? 聖杯戦争は?
  桜ちゃんはどうなった? 士郎はどうなった? ゴゴはどうなった?


  さようなら・・・


  ゴゴの事を思った時、肉声として聞いた訳ではないけれど心の中に刻まれたあの言葉が蘇って頭の中に響いた。
  今の俺自身が眠りから覚めた事もあって、現実ではなく夢のような感覚が―――無かった事のように思えるが、あれは本当に起こった事なのだと俺の心が叫んでる。
  「少し待ってくださいね。今、担当の先生を呼んできますので」
  俺の心をかき乱す焦りやら戸惑いやらとは無関係に看護婦はそう言って立ち去って行った。最初に考えた通りここはどこかの病室で、俺はその一室に置かれたベットの上で横になっている。
  遠ざかる足音を聞きながら、もう一度周囲を見回す。
  首を大きく回して今まで以上に周りを見るが目新しい物は発見できなかった。つまり、この一年間、起きている時も寝ている時も常に傍に置いていたアジャスタケースが、その中に入っている魔剣ラグナロクが傍に無いという事だ。
  部屋の中はそれほど寒くないにも関わらず、武器の無い心細さに俺は体を震わせる。
  それでも、この一年で染みついてしまった今自分に出来る最大限を模索する習慣に基づいて、満足に動けないながらもベットの上で自分の状態を確認し始めた。
  最初は意識と肉体との間にずれが合って、何かをしようとしても体が上手く追い付いてくれない違和感が満載だったが。時が経つごとにそのずれは消えて思い通りに体は動かせるようになっていく。
  初めて魔剣ラグナロクを手にした後の盛大な筋肉痛はない。修行中、ゴゴに腕を斬り落とされた時に感じた幻肢痛も無い。あえて言うなら今の俺は『普通』だ。どこにも痛みは無く、手も足も思い通りに動かせる普通な体。
  眠っていた後に目覚めただけの心地よさすらあって異常など全くない。
  指を握りこんで手の感触を確かめてみたり、足をベットの上で動かしたり曲げたりして動きを確認したり、首を起こしてもっと周囲を観察したり、今の俺は入院患者が切る青い浴衣式患者衣を着ていたりと色々確認していると、白衣を着た初老の男性とさっきまでいた看護婦が現れた。
  初老の男はおそらく医者だろう。彼はベットの脇に立って俺の顔を見下ろしながら言う。
  「起きましたね。では、お名前を言えますか?」
  「――間桐雁夜です」
  そんな話から医者による診断は始まった。
  体調を確かめる為の幾つかの質問と聴診器による心音の確認。他にも体を起こしてもらった後に腹部や背中の触診も行われる。
  話し始める事には最初に合った筈のずれはもう完全に消えてなくなっていたおかげで、俺は手に点滴の針を刺し込まれた状態のまま普通を言葉にして診断を受け続けられた。
  心音を聞く為に患者衣の前を開く必要があり、そこである変化に気が付いた。それは俺の地肌がほんの少しだけ色黒になっていた事だ。
  冬の肌寒さを長袖のパーカーで保護してるから日焼けする機会など無かった。それなのに俺の皮膚は軽く日焼けしたかのような黒さになっている。
  今の所、夏場によくある焼けた皮を剥がせる兆候は無く。この変化の理由はあの夢の様な別れの中で渡された魔石『マディン』なのだろうと推測する。おそらく、目覚めてから普通になっていくのも、俺の体が慣れていって『異常』が『正常』になったからなのだろう。
  ついでに傷一つないのも確認した。
  「ふむ・・・。異常はないみたいだね。念のためにもう一日入院してもらうけど、これなら明日には退院してもいいよ」
  「そうですか――、ありがとうございます」
  明るく言ってのける医者と平静を装って会話をしながら、『マディン』の作り出す恩恵の大きさに驚いていた。
  本当なら俺の体はゴゴとの無茶な修行でボロボロになっていて、削ってしまった寿命はもう底をついても不思議の無い状態だった。俺の肉体を構築する細胞が持つ分裂回数の制限、いわゆる『ヘイフリック限界』に限りなく近づいているのはゴゴから聞いていたのに、今はその兆候が無い。
  聖杯戦争は俺の命の炎を燃やし尽くす最後の輝きだった筈だが、ゴゴから託された魔石が俺に活力とか気力とか生命力とか魔力とか、そういう類の力を与えて生かし続けている。
  相性の問題もあるんだろうが、不老不死を望んでいた臓硯が知っていたら是非とも欲しがった状況に到達してしまった。
  魔石が俺の心臓と同化してるのか? 俺の体のどこかに魔石が埋まっているのか? 魔石を構成する魔力が魔術回路に溶けて融合したのか? 自分の体を見下ろしても外からじゃ判らない。
  魔術的に調べれば何か判るかもしれないが、少なくとも俺を診察した初老の医者の目からは異常のない人の体であり、かつ健康体と見えているようだ。これで魔石の色を引き継いで血の色が緑色になっていたらと思うとゾッとする。
  「若いと回復が早いね。まだまだ起きない人もいるのに・・・」
  何気ない呟きを聞いた所で、俺は爆発した疑問の一つを強く意識する。
  普通の人間ならここで自分の身に何が起こったのか、とか。冬木で何が起こったのか、とかを聞くのかもしれないが。俺は他の何よりもまず聞かなければいけない事を聞く。
  「すみません」
  「ん?」
  「桜ちゃん・・・。いえ――、俺と一緒にいた女の子は無事ですか? 今、どこにいるかご存知ですか?」
  「桜・・・・・・? ああ、間桐さんと一緒に運び込まれた子ですね。大丈夫、今はまだ眠っているけどすぐ起きるでしょう。隣の病室にいますので、この後に行ってみるといいですね」
  「――そうですか」
  桜ちゃんが無事だと聞いて俺は心の底から安堵した。
  守ると決めた桜ちゃんに何かあったら俺の生きている意味は無くなってしまう。ホッとする俺に向けて医者は続ける。
  「今、あなた達は身元不明として入院していますので、後で住所氏名などを届けて下さい、詳しい事はここにいる看護婦に聞いてください。それから間桐さん、あなたが起きたらご連絡してくださいと伝言があります。――これです」
  「ご連絡・・・?」
  話しながら医者が渡してくるメモには冬木市のどこかだと思わせる番号が書かれていた。
  けれどその番号には覚えがないし、下に書いてある名前にも覚えがない。
  「・・・・・・・・・なんですか、これ?」
  「さてねぇ? 私はただ『渡してください』とお願いされただけですので」
  そこで会話は途切れ、医者は機材を片づけて仕切りカーテンの外へと出て行ってしまった。
  俺に異常がないのでいつまでも話を続けるは無いらしい。
  残った看護婦もまた手早く俺の手に刺さってた点滴を抜いて、この病室からを出てエレベーターの近くにある受付にて住所氏名やらの申し込みを行ってくださいと事細かに説明したらさっさと退出してしまった。
  流れ作業のような淡泊な印象を受けるが、病人と毎日接する職業ならば自分の意思を考えずに仕事を完遂する行動も必要なのだろう。
  俺のようにすぐ退院できる者ならばいいが、どうあっても助からない者や余命が定まっている患者と同じように接する為にそうやって自分を律する必要があると思えた。
  感情は戦うための理由であって、戦いそのものに持ち込むべきではない―――。それと一緒だ。
  残った俺は一度ベットの上に横になって、伝言だともらったメモに書かれた番号と名前をもう一度見た。
  「・・・誰だ? こいつは」
  もう一度じっくり見ても、やはり覚えのない電話番号と名前に首をかしげるだけだ。
  考えても答えは出そうになかったので、俺はメモを持ったままベットから起き上がり、看護婦が用意してくれた病院備え付けのサンダルを履いた。そして桜ちゃんがいるであろう隣の病室を目指す。
  隣ならば長くても歩く距離にすればほんの十数メートル。立ち上がった時にほんの僅かな立ち眩みは合ったが、俺の体は苦も無くその距離を歩いた。
  俺がいた部屋は仕切りカーテンによって区切られた四人部屋で、俺が寝ている位置は窓際だった。更に言うと、部屋そのものがその階の一番奥にあったので、『隣部屋』の説明で右か左かを迷うこともない。
  隣もまた俺の部屋と同じく四人部屋で、仕切りカーテンが部屋の中を区切っているのも全く同じだ。
  その中の一つ、入り口付近にあるカーテンの向こう側に俺と同じく子供用の青い浴衣式患者衣を着た桜ちゃんの姿が合った。隙間からほんの少し顔が見えただけだったが、見つけるだけなら十分すぎる。
  出来るだけ音を立てない様にカーテンを横に動かして桜ちゃんを見ると、眠った状態で点滴を受けていた。その姿を見ると、俺もこんな風に眠っていたのか。と思いながら、無事を確認を出来て良かったとも安心する。
  白い電灯に照らされる顔は血色がよく、ほんとうにただ眠っているようにしか見えない。俺と、そしてこの場にはいないようだが、士郎と同じく神の力を宿して殺し合いを行ったなど嘘のような穏やかさだ。
  「桜ちゃん・・・」
  カーテンを超えてベットの脇にあった椅子の上に腰を下ろしながら語りかける。けれども、応じる声は無く、そのまま小さな手の片方を握ってみても暖かい子供の体温を感じるだけで、握り返すような反射は全く無かった。
  俺はつい、桜ちゃんを抱き上げて、一気に謝りたい衝動に駆られた。
  戦わせてすまない。
  こんな目に合わせてすまない。
  守りきれなくてすまない。
  共に戦うのを俺自身が選んでおきながら、出てくるのは後悔ばかり。
  点滴を受けて眠っている桜ちゃんを不用意に動かすのは危険だと頭のどこかで考えていたので、抱き上げるような真似はしなかったけど、その代わりに心の中を謝罪が満たす。
  ごめんなさい―――桜ちゃん―――。
  片手を握ったまましばらく呆然としていると、背後に新たな入室者の気配が合った。
  全身全霊をかけて謝りたいのだけれど、それはそれとして周囲の気を配るのはもう消せはしない戦う者としての習慣だ。ここが病院だとしても、桜ちゃんの無事が判ったとしても、どこなのか判らず誰が敵で誰が味方なのか判っていないから、振り向いて入り口を睨む。
  すると俺よりも少し年上と思われる男女が部屋の中へと入ってきた。他の入院患者の父母がお見舞いに来たのだろうか?
  俺が見てしまっていたせいで、向こうもまた視線に気付く。
  男の視線の俺の視線がぶつかった。
  「・・・・・・・・・こんばんわ」
  見ておいてすぐ目をそらすのも失礼と思ったので挨拶をしたが、とりあえず見る限りでは武器を持っているようには見えないし危険な感じもしない。
  本当にただこの病室を訪れただけのようだ。
  「――こんばんわ。・・・・・・娘さんですか?」
  向こうも立ち止まって挨拶を返し、俺が手を握る桜ちゃんをちらりと見ながら言う。
  「ええ・・・。まあ・・・そんな感じです」
  今更ながら、危険は無いと判断して見られる前に視線を外さなかったことを後悔したが、時すでに遅し。
  煮え切らない言葉をこの夫婦らしき二人組がどう受け取ったかは定かじゃないが、何となく『ここで会話は終わり』という雰囲気が出来上がってしまう。
  そもそもこっちには話す気はなかったのだ。向こうが二人して頭を下げたので、俺も合わせて頭を下げると、カーテンに仕切られた死角―――部屋の奥へと歩いてゆく。
  やはりこの病室にいる他の入院患者のお見舞いに来ただけのようだ。
  それでも念のためにカーテンから顔を少しだけ出して見ていると、二人いるので部屋の奥にあるカーテンを退けて、その向こう側へと消えていくのがよく判る。仕切りカーテンによって二人が見えなくなる間際、ベットにつけられたネームプレートの一部に『コトネ』と書かれているのが見えた。
  おそらくそれが入院している誰かの名前なのだろう。
  それ以上見る意味がなくなったので、俺はまた桜ちゃんに視線を戻す。そしてさっき見たネームプレートと同じ位置に何か書いてあるかと思って探すが、そこには何も書かれていない白い紙が挟まっているだけだった。
  思い出して見れば、俺も桜ちゃんも自分が誰かと証明する物を何一つ持たないで戦場へと飛び込んだ。名刺も、免許証も、名札も無い。さっき医者に言われた通り身元不明と扱われたのなら名前が書かれなくても仕方のない事だ。
  俺は桜ちゃんから手を離し、その何も書かれていないネームプレートを手でなぞった。聖杯戦争が始まる前だったなら、いいや、間桐邸に戻ってゴゴに出会う前だとしても、俺はここに書かれる名前を何の迷いも無く思い浮かべられた。
  遠坂桜、だ。
  しかし、時臣と葵さんの本性を垣間見てしまった後だと、どうしても『遠坂』が忌々しい名字となって蘇ってくる。
  俺は遠い昔の出来事の様で、けれどもしっかりと臓硯に―――この場合はゴゴではなく死んだ爺の方だ―――に言った言葉を思い出す。


  遠坂の次女を向かい入れたそうだな。そんなにまでして間桐の血筋に魔術師の因子を残したいのか?


  遠坂桜が間桐に養子に出された。その事実を理解した上で、俺はずっと桜ちゃんを『遠坂桜』と見て接してきた。付き合い方もそうだが、呼び方についてもそうだ。
  俺にとって桜ちゃんはどこまで行っても遠坂の娘であり。こんな間桐のおぞましい魔術などとは無関係なのだと常に一線を引いてきた。なのに今、俺はその境界線が薄れているのを感じている。
  またネームプレートをなぞりながら、俺は誰にも聞かれないよう小声で呟く。
  「間桐・・・桜――」
  遠坂の娘ではなく間桐の娘。
  そうあるべきだ―――。そんな言葉が俺の中に響く。
  そうしなければならない―――。別だけど似ている言葉が俺の中で繰り返される。
  そう言えば、桜ちゃんの戸籍はどうなっているんだろうか? そんな風に考えながらネームプレートに当てていた手を外して桜ちゃんの顔を見る。そして視界の隅に病室の白さとは違った色を見つけた。
  それは患者衣の青さとは別種の青であり、茶色くもあり、病院の白さとは違うけど全体的に白い―――ミシディアうさぎだった。
  「ぶッ!?」
  予想すらしていなかったナマモノの出現に俺は息を吐き出した。
  もう一度よく見ても、やっぱりミシディアうさぎはミシディアうさぎだった。ただし、俺が凝視しても動く気配は無く、ベットの近くに置かれている小さな机の上に居座ったまま微動だにしない。
  この無機物の様に動かないのと、桜ちゃんに意識を向けてばっかりだったのが、気付かなかった要因だ。
  更によく見れば麦わら帽子の部分に桜ちゃんの使い魔を示す『0』が描かれている。こいつはゼロだ。正体を知った上でもう一度じっくり見るがやはりゼロは動かない。
  置物のように、はく製のように、ぬいぐるみのように、ただたあそこにいる。
  「・・・・・・・・・もしかして、ぬいぐるみのふりをして桜ちゃんの傍にいるのか?」
  改めて状況を振り返って見ると、子供の為に用意されたぬいぐるみがただそこにあるだけに思えなくもない。
  ゴゴの計らいか、それともゼロが自らそうしたのか。答えは出ないが、『そうだ!』と言わんばかりにゼロの目がほんの少しだけ動いて俺を見た。
  変化は一瞬。目線はすぐに元の位置に戻ってしまったので、ゼロを見続けていなかったら見逃していただろう。
  こいつは俺が寝ている間もずっとずっとぬいぐるみのふりをして桜ちゃんの傍にいてくれた。守っていてくれた。
  ずっと、ずっと、ずっと、全く動かずここに居続けた。
  「ありがとうな・・・」
  俺は立ち上がって机の方に行くと、麦わら帽子の上からゼロの頭を撫でた。目線を動かした一度きりが例外だったらしく、撫でても触っても突いても変化はない。
  この鉄壁の意思はうさぎながら見事と言うしかない。
  まだ桜ちゃんは起きてないし、ゴゴのことや聖杯戦争のことも殆ど判ってない。それでも普通ではない俺達の日常がほんの少しだけ戻ってきた実感が合ったので、俺はついつい笑みを浮かべた。





  桜ちゃんの無事を確認してからのゼロとの再会。そこから退院までの俺の時間は全て情報収集と考察に割り振った。
  時間の許す限りは桜ちゃんの傍にいて、見舞客や話せる入院患者、他にも看護婦が傍に通れば出来るだけ呼び止めて『何が起こったか?』を聞いて回った。
  間桐雁夜の名で入院手続きをする時も進んで話題を振って、就寝時間となって桜ちゃんの傍を離れられなくなった後は手にした情報をずっと整理した。
  灯りの消えた病室の中、ベットで横になって眠っているように見せかけながら、一睡もせず考える。
  足りない情報を予測で補ってほぼ間違いないだろう確信へと至った幾つかの事実。
  まず、俺達が三闘神の力を得て戦った時から二日が経過していた。そして冬木のあちこちで事故があり、俺達はその中の一つである連続大量殺人犯の殺戮に巻き込まれたことになってるらしい。
  俺と桜ちゃんは浜辺で気絶していて、その近くには銃を乱射して冬木の住人を殺しまわった狂人もいた。そいつは俺達二人を殺そうとした直前に力尽きて倒れたんだと考えられているようだ。
  日本では珍しいシリアルキラーの出現とこれまで起こっていた連続誘拐事件の犯人とも思われてるので、事件から数日経った今も冬木は大騒ぎ。俺の同室にいる入院患者へその話を持ち込んだ見舞客がいたので、多くの状況を把握できた。
  向こうも直接犯人を見たであろう俺を少し気にしていた。
  その狂人は十中八九セイバーのマスターである衛宮切嗣だ。そいつは今、警察に逮捕されて厳重に拘束されているらしいので、事実かどうかを確かめる術は今の俺には無い。
  その他にも、円蔵山の半分以上が崩落して死傷者を大量に出す自然災害が発生したり。空飛ぶドラゴンの幻を見たなんて話も聞いた。
  ゴゴはかつて俺に告げた言葉通りに聖杯戦争を完全に破壊したのだろう。円蔵山周辺は二次災害に備えて立ち入り禁止になってるらしいが、間桐邸がその外側にあればいいと望む。
  崩落に巻き込まれた家屋が大量にあって、死傷者がかなり出たが、正確な被害はまだ調査中との事。推定では殺戮された人数よりも多い千人規模だとか。
  今の冬木は聖杯戦争の時には合った魔力の濃密な気配がまるで無く。魔術的な霊地とは思えないほど何も感じない辺鄙な土地になってしまっていた。
  一度、病院の中にある公衆電話から間桐邸に向けて電話をかけてみたが、応じる者は誰もいない。常に間桐邸にいる筈のゴゴは電話に出なかった。
  そうやって幾つかの情報を統合し、考察し、推論し、把握している内にあっという間に朝を迎えて退院時間になってしまった。
  浴衣式患者衣から倒れていた時に着ていたらしいパーカーに着替えたんだが、パーカーには傷一つなく、新品だと言われても納得できてしまう。『魔神』の力を借りた時に破けて使い物にならなくなった筈だが、ゴゴが用意したんだろうか?
  桜ちゃんをここに置いていくのは非常に心残りなのだが、俺と桜ちゃんの入院費の支払いやら保険証の提示やら着替えを持ってくるやら―――今の冬木の状態を肌で感じるやらで病院の外に出なければ判らない事もあるので俺は急いで退院した。
  戦う力で考えるとゼロはただのうさぎと変わらないので、どうしても不安は消せない。
  出来るだけ急ごう。そう思って病院を出ると街中を絶えず巡回するパトカーの姿が目に移り、人々は皆、起こった出来事の悲惨さと犯人の残虐さを噂していた。
  俺が眠っていた数日程度じゃ、冬木に刻まれた傷を癒すには足りない。むしろ時間が経つごとに聖杯戦争で隠されていた部分が浮き彫りになっていくので、騒動は更に活発になって行く。
  病院は深山町の方に合ったので情報収集を兼ねて間桐邸を目指しながらゆっくりと歩く。ついでに、これまで慣れ親しんできたアジャスタケースの重みがないのを慣らす意味もあった。
  俺を見張る目は一つも無く、聖杯戦争の時にはあった敵使い魔の視線やらアサシンの監視も無い。もっとも後者については聖杯戦争の時から判らなかったのでほとんど予測に過ぎないが―――。
  起こってしまった多くの酷さは道行く人が話す会話に耳を傾けるだけでもよく判るが、ゴゴが聖杯戦争を破壊して完全に終わったと考えると今を平和と思ってしまう。
  病室で情報整理をしていた時から気がかりが幾つかあり、その中の一つに士郎がどうして俺達と一緒に居なかったのかがある。三闘神の力を使って俺達と同じように戦ったのだ、あいつも海辺に倒れて病院に収容されたとばかり思っていたが、看護婦の話では俺と桜ちゃんしかいなかったらしい。
  士郎はどこで何をしている?
  色々聞いたり考え込んでいると、あっという間に間桐邸に着いてしまう。数日寝たきりになって体力は落ちてると思ったが、一年で鍛えられた肉体はまだまだ健在で息は切れてない。
  戦っていた時間と眠っていた時間も合わせればしばらく見ていなかった間桐邸だ。円蔵山の立ち入り禁止区域の外側に合ったのはありがたいが、家に突っ込んでいる自動車が異彩を放っている。
  「・・・・・・・・・」
  それが俺達が最後の戦いに出る前に合った敵からの攻撃だと判っている。俺がその自動車を見て呆然としたのは、まだそこにあるという事実そのものを見せつけられたからだ。
  痕跡が丸々残っているのは誰も片づけたり、片づけを手配したりする者が居なかった証明にもなっている。
  俺は病院から電話をかけた時にも感じた胸の痛みを覚えながら、自動車に突き破られた門扉を通って玄関へと進む。そして取っ手を握った瞬間―――。
  バチッ! と火花が散るような痛みと体の中を巡る『何か』が変わる感覚を味わった。
  咄嗟に手を離しても、『何か』は俺の体の中にずっと残っていた。明確に言葉に出来るものじゃなく、説明しようとしても上手く言葉には出来ない。ただ、小さな痛みとは裏腹に不快感は無い。
  『何か』が変わった。いや、『何か』が切り替わった。そう感じる。
  もう一度取っ手を握ってみるが、もう同じ現象は起こらなかった。鍵はかけられていなくて、軽く引けば玄関は呆気なく開いてしまう。
  泥棒が居れば難なく侵入できてしまう不用心さを思いながら、切り替わった『何か』が選ばれた者以外は間桐邸へ入れなかったのだと教えている。
  俺にはそんな事は判らない筈なのに―――、何故か判ってしまう。
  こんな異常事態は俺が間桐邸に戻った一年前から無かったと思い出して、胸の痛みと嫌な予感と『何か』が混在してどんどんと膨らんでいく。
  その思いは玄関を通り間桐邸に入っていく毎にどんどん膨らむばかりだった。
  物音は俺が作り出す足音や衣擦れの音だけで、それ以外の音は全く聞こえない。
  この一年で構築されたものまね士ゴゴを起点にした生活が何一つ感じられなかった。
  桜ちゃんの孤独を癒し、ペットのように扱われた沢山のミシディアうさぎ達が居ないし見つからない、足音も聞こえない。
  空虚―――。それが今の間桐邸を表す全ての言葉だった。
  俺の目に映る家の中が全く同じだからこそ、余計に『無い』が際立っている。間桐邸はこんなに広かったのか、と、今更ながらの事実を俺は考えた。
  間桐邸のあちこちを散策してもよかった。ゴゴやミシディアうさぎ達を探して見回ってもよかった。けれど俺の足は自然と地下の蟲蔵へと向かった。
  臓硯が生きていた時は蟲蔵こそが間桐の忌むべき魔術の象徴だった。それがゴゴと生活するようになってからは一年で最も多くを過ごした修行場になり。時に桜ちゃんを交えた祝い事などでも使用されるイベント会場へと変化した。
  良くも悪くも俺にとっては間桐邸の中で最も思い入れ深い場所だ。
  地下へと向かう階段を下って蟲蔵に足を踏み入れた時、俺の目に一本の剣が飛び込んでくる。
  「ぁ・・・・・・」
  ただ『斬る』に特化した無骨な作り、装飾品の類は最低限に抑えられ、俺が何度も命を預けた魔剣ラグナロクが床に突き立てられている。
  蟲蔵の中央に刺さったその剣の近くには鞘代わりに使っていたアジャスタケースが転がっていて、その『剣』と『鞘』の組み合わせが見間違いではないと強く主張していた。隠れ蓑としても、真剣をアジャスタケースにいれるなんて可笑しな組み合わせを使うのは冬木で俺だけだ。
  最初のその二つを見て、俺はまず『なんでここに?』と疑問を感じるよりも前に『やっぱりここに』と奇妙な納得を心で感じた。
  驚きは無かった。ただ、俺の中にある『何か』に導かれるように足はどんどんと進む。近づけば近づくほどに俺の体の中で切り替わった『何か』は予感を俺に植え付けていく。
  その予感は魔剣ラグナロクに手が届く位置にまで近づくと、最早、確信に様変わりする。
  これを抜いてしまえば何かが終わる―――。それを理解しながらも。これを抜かなければならない。とも思う。
  間桐邸に入ってから真っ先に蟲蔵を目指したのは『何か』の導きであり『何か』を終わらせる為だ。その為に俺はここに立っている。この剣を引き抜いて終わらせる為に、何よりもまずここに来た。
  俺は両手でしっかりと剣の柄を握りしめる。敵を殺す武器でありながらも、俺にとっては慣れ親しんだ感触なので、少しだけ体の力が緩む。
  最初は持ち上げる事すら苦労した剣の重さが懐かしい。手の中に返ってくる剣の感触を確かめながら―――意を決して一気に引き抜いた。
  ズズズズズズ、と床から外れていく金属の感触が刃から柄を通って俺に伝ってくる。すると玄関で感じた火花のような痛みが魔剣ラグナロクを握る手に走った。
  ただし今回は痛みと一緒に体の中を巡る『何か』が切り替わる代わりに、『何か』が俺の中に流れ込んでくる。
  今の衝撃で俺の中にあった卵の様な物が割れて中身が溢れたのか? それとも玄関先で俺の中に入った『何か』と魔剣ラグナロクを引き抜いた時に入った『何か』が混ざって反応を起こしたのか? どちらでもありそうで、どちらでもなさそうな奇妙な感覚を味わいながら、俺はそれを見る。
  間桐邸だった―――。
  地下の蟲蔵に居ながら。今、俺は、間桐邸を隅から隅まで見つめていた。
  俺の中に間桐邸の景色が流れ込んでくる。間桐邸の中にいる俺が外から俯瞰する不思議な感覚だった。
  すぐに俺はこれが何なのかを知った。判る判らない以前に『理解』が最初に俺の中に流れ込んできたので、言葉で説明されるよりも前に理解していた。
  間桐邸を守る結界はこの俺、間桐雁夜の魔術回路を起点にして構成されるようになったのだ―――と。
  今なら、これまではおぼろげにしか感じられなかった結界の縫い目がどこにあるか明確に判る。
  部屋という部屋、床という床、壁という壁。全ての天井や調度品や家具を自分の手で直接触れながら見ているような全能感が合ったが、同時に一気に流し込まれた膨大な情報量に眩暈もした。
  魔剣ラグナロクを握る両手と両足にそれぞれ力を込めて、何とか床に倒れるような事態は避けられたが。俺は間桐邸のありとあらゆる場所を見通せてしまったおかげで重大な事を思い知らされる。
  間桐邸のどこにもゴゴの存在を感じない、と。
  ゴゴがいた痕跡は綺麗さっぱり消えてしまい、壁に埋め込まれたスロットも蟲蔵での特訓に使ってた道具も魔石も百匹以上いたミシディアうさぎも何一つ無い。
  間桐邸の全てを把握できて初めて知ったのだが。間桐邸の中にはゴゴの私物と呼べる物は全く無かった。あいつは間桐臓硯の部屋を自分の部屋として活用していた筈なんだが、そこにある道具はあくまで間桐臓硯の遺物であってゴゴの持ち物じゃない。
  普通の人間なら―――俺や桜ちゃんだったら発生する『人から出る汚れ』がゴゴとは無縁であり、ずっとものまね士の格好をし続けていたゴゴは着衣の交換すらしなかったので衣類も無い。
  「そう、か・・・」
  魔剣ラグナロクを握って刃を下に向けたまま持ちながら呟く。
  俺は思い知らされた。
  俺は理解させられた。
  俺は悟らされた。
  あの時、ティナの姿でゴゴが言ったセリフは紛れも無く正しいのだと、この継承と言うか置き土産と言うか、十中八九ゴゴが残したであろうこの魔術が俺とゴゴとの最後の別れの挨拶だった。
  ゴゴは俺にそれを教える為にわざわざ魔剣ラグナロクをここに配置していたんだろう。俺だったら絶対にこいつを握って抜くと確信していたから。
  本当に、さようなら、なんだ。
  間桐邸の中を全て支配できたような達成感が急速に萎んでいく。
  気がつけば、俺はそのままの体勢で涙を流していた。





  魔剣ラグナロクをアジャスタケースに収めて背負ったのは単なる習慣だ。今の俺に必要なのは保険証やら財布やら入院している桜ちゃんの着替えやらで、わざわざアジャスタケースを持ち歩く意味は無い。
  むしろ今の冬木は不審者に対して敏感になっているので、万が一にもアジャスタケースの中身が露見して『真剣を持っている男』などと思われてしまえば警察のお世話になって、銃刀法違反で罰せられてもおかしくない。
  それでも俺は必要な物の中に魔剣ラグナロクを加えた。
  今の冬木の状況が完全に把握できるまでは敵と味方の区別が出来ないのだ。
  俺にとって魔剣ラグナロクは敵と遭遇した場合の最大の武器であり、衛宮切嗣が死んだという話も聞いてないし、遠坂がどうなったのかもまだ確認していない。だから敵と遭遇して戦う羽目になったらどうしても戦力が必要だ。
  出来るだけ見つからない様にしようと思いながら色々もって外に出る。そのまま道路を歩いていると、結界の外にいるにも関わらず間桐邸の様子が把握できるのを感心した。
  ゴゴも、そして一年前に消えた爺もこんな風に間桐邸を見ていたのだろうか。そう思ったけど、すぐに間桐邸の事は考えなくなり、ランニングと同程度の速さで走って病院へと向かった。
  誰もいない間桐邸よりも、ゴゴが居なくなったと理解したこそ、俺は無性に桜ちゃんに会いたくて仕方なかったんだ。
  入院患者が退院してから数時間も経たずに今度は見舞客の立場になって病院を来訪する。俺は入院費の支払いやら何やらの諸々の手続きを終えて完全に退院した事にした後、見舞客の手続きを行い始めた。
  自分の名前や見舞う相手を紙に書いて提出するんだが、そこの患者の欄に俺は『間桐桜』と書き込んだ。
  「・・・・・・・・・」
  手が一瞬『遠坂桜』と書こうとして慌てて訂正したが、自分でも驚くほどすらすらとその名前を書けた。
  書き終えた紙を受け付けの人に渡して桜ちゃんの待つ病室へと進む。けれど、病室の桜ちゃんは昨日見た様子と全く変わらず、ベットの上で点滴をつけた状態で眠ったままだ。
  栄養剤が入った点滴が交換されている位しか見た目の違いは無く、桜ちゃんの様子も机の上でぬいぐるみのふりを続けているゼロも変わっていない。まるでここだけが時間の流れから取り残されているようだ。
  「桜ちゃん・・・?」
  小さく呼びかけてもやっぱり応答は無い。
  俺はまたベットの横にあった椅子に腰かけて桜ちゃんの手を握りしめると、早く起きてほしいと願いながらゴゴのことも考え始める。
  けれど考えられた時間はあまりなく、俺の退院やら移動やら間桐邸での継承やら準備やら手続きやらで色々と時間を使ってしまったので、あっという間に日は暮れて、面会終了時間になってしまった。
  手早く用事を済ませてここに戻ってくればもっと桜ちゃんと一緒に時間が作れたと思っても過ぎ去った時間は取り戻せない。仕方なく紙袋に詰めて桜ちゃんの為に用意した衣類やら何やらを机の脇に置いてこの場を去る。
  帰り際に受付にいた人に、桜ちゃんが起きたらすぐに電話をください、と、間桐邸の電話番号を教えた。後ろ髪を引かれる思いで病院を出る。
  まだ肌寒い冬木の夜に思わずパーカーのポケットの両手を突っ込んだ。聖杯戦争で戦っていた時は敵襲が合った時にすぐに武器が抜けないから絶対にやらなかったんだが、終わってしまえば思わずやってしまう。
  そこでポケットの中に紙片が入っているのに気が付いた。
  取り出して見れば、それは医者から渡された紙だったと思い出す。桜ちゃんの件ですっかり忘れていたが、これはこれでよく判らない事柄の一つだ。
  病院には戻れないし、今の俺に出来る最善は起こってしまった状況を出来るだけ把握して先に備える事。待ち構えているかもしれない危険を排除して、桜ちゃんが目覚めた時に安心を作り出しておかなきゃいけない。
  ゴゴが居なくなったしまったからこそ、それは俺に課せられた義務だ。
  しばらくメモに書かれていた電話番号と名前を眺めていたが、やはり番号を思い出せないし名前に見覚えも聞き覚えも無い。
  いつまで見ていても事態は動かないので、意を決して近くの公衆電話から電話を掛けた。
  呼び出し音が一回、二回、三回・・・。
  「はい――」
  受話器の向こうから名乗られた名前は紙に書かれていた物と一致する。年配の男の声に聞こえるが、機械を通しての声なのではっきりとはしない。
  とりあえず悪戯の類では無かったので話を進めた。
  「夜分遅くに申し訳ございません。間桐雁夜と申します」
  「間桐・・・?」
  「病院の医者にあなたが『電話をください』と伝言を残されたと聞きましたが、間違っていましたか?」
  「あ・・・ああ、はい、はい。まとう、間桐さんですね。いやいや、申し訳ない。この頃、電話応対に追われておりまして、伝言をしていた事をすっかり忘れておりました。真に申し訳ございません」
  「はぁ・・・」
  電話の向こう側で年配の男が何度も頭を下げる様子をイメージする。
  魔術師とか裏の世界に通じているとか、そう言った類の雰囲気ではなく一般人と話しているような感じだ。
  けれども直接対面している訳ではないので油断は禁物だ。声だけでは判らない事も多々あるので、気を抜かずに話を続ける。
  「それで貴方はどこのどちら様で俺に何か用ですか?」
  「度々失礼しました。実は私、刑事部捜査一課の刑事でして」
  「刑事・・・?」
  聖杯戦争以前も以後も関わりのなかった職業に不信感が一気に増す。
  電話の向こうがにいる刑事を名乗ったこの男は俺に何の用だ? と。
  「刑事が俺に何か用ですか?」
  敵に問いかけるように声に苛立ちが混じってしまう。すると刑事と名乗った男は俺への返答ではなく別の事を喋りだした。
  「お話の前にご確認したいのですが、間桐さんのお宅には少々奇抜な格好をしてらっしゃるお父様がいらっしゃるとお話を聞きましたが、間違いないでしょうか?」
  「・・・ええ」
  「黄色い頭巾に赤色のストール、マントを沢山羽織って鳥の羽根で着飾り、全身を覆い隠している・・・。お名前は間桐臓硯さんでしょうか?」
  「そうです」
  電話の向こう側からまるで見知った相手を眼前に据えた状態で話してくる。とっさにこの一年でゴゴが外出した時に刑事を名乗った男に見られていた可能性を考え、ついでに『あんな格好をした奴が二人もいてたまるか!!』と思った。
  分身してた時は二人どころじゃなかったけどな・・・。
  もしかしてゴゴが警察に捕まっているから保証人になって俺に迎えに来てほしいという話なのか?
  ありえない可能性は頭を振って押し退ける。そんな失態は絶対にしないのがものまね士ゴゴだ。
  「あ・・・、やっぱり、間違いないか・・・」
  唐突に言葉が止まり、言いよどむ話し方が俺を苛々させる。
  一体この電話は何のために行われているのか? 何が言いたいのか? 目的がはっきりしないから苛立ちは止まらない。
  「何ですか?」
  「――間桐、雁夜さん」
  「はい」
  「申し訳ございませんがご本人様確認の為に今から言う場所までお越し願えないでしょうか」
  「今からですか?」
  「ええ。よろしければ・・・」
  男はその後に新都にある病院の名前と住所を告げた。
  俺が桜ちゃんの傍を離れなきゃならなかったのは面系終了時間になったからで、男が告げた病院も違いは無い筈。
  そんな決まりを破ってまで夜遅くに俺を病院に呼び出す理由は何だ? 治療や通院の類なら俺が入院していた病院でも行えるからこそ意味が判らない。
  「まさか・・・爺が怪我してそっちの病院に入院してたりしますか?」
  そんな訳は無いと思いながらも、とりあえずありそうな理由を口にする。
  ただしあのゴゴがそんな当たり前の理由で病院にいる筈がないと俺がよく理解していたので、否定するだろうと確信していた。
  「いいえ――、違います」
  やっぱりか。聞こえてきた言葉にそう思ったが、続けられた言葉に俺は絶句してしまう。
  「大変申し上げ難いのですか・・・・・・・・・」


  「間桐臓硯さんは――お亡くなりになりました」


  予想すらしていなかった言葉を聞いた後。俺は公衆電話の近くを通りがかったタクシーを止めて、電話口で聞いた病院の名前を運転手へと告げて移動した。その最中、俺の頭の中には肯定と否定がせめぎ合った。
  昼の冬木は直に見れたので、夕暮れから夜にかけての―――聖杯戦争が終わった後の冬木市を見る機会に恵まれたが。俺は考えるのに忙しくて周囲の状況を観察する余裕なんて無かった。
  間桐臓硯が死んだ? つまり、ゴゴが死んだ?
  そんな筈はないと強く思いながら、死体すら物真似したゴゴが居たのを知ってるので、そうかもしれないと思ってる俺がいる。
  聞かされた言葉だけじゃ本当が判らない。推論は否定と肯定を繰り返して出口のない迷路の中をぐるぐるを回っている。
  結局、十分もかからずにタクシーは新都の病院に着いてしまい。その間に頭の中で結論は出なかった。入り口付近で待っていた男に挨拶され、頭の片隅でこの男が電話で話した刑事なのだと判っても否定と肯定は消えずに残り続ける。
  年のころは四十後半か五十前半と思われるが、今の俺にはそんな事はどうでもよかった。
  「間桐さんはご存知かと思いますが、数日前に起こった殺人事件では大量の死者が出ました。実に嘆かわしい事です」
  「・・・」
  「土砂崩れの件もありまして、身元が判明していない方が何人かおりまして、私どもは全力で身元照会に当たっております。その中の一人に――その・・・奇妙な格好をしたご老人がおりまして、何人か同僚に聞いたところ、間桐臓硯さんのことが浮かび上がりました」
  灯りの少なくなった病院の裏手へと案内される間も男この言葉は続く。
  念のために間桐邸に連絡しても誰も電話に出なかった。とか。
  死傷者への照会中に、たまたま間桐雁夜さんと思われる方を発見し、確証は無かったが念のために伝言を残した。とか。
  あの事件に巻き込まれた方は二つの病院に入院し、特に怪我の酷い方やお亡くなりになった方はこちらの病院に集められています。とか。
  心臓と頭を撃たれていて、手の施しようがなかった。とか。
  どうしてご老人があんな夜遅くに外を出歩かれていたのか判りません。とか。
  時々、尋問の様な問いかけが合ったが、俺は上の空で適当に応じながら男の背中を追って病院の中を歩き続けた。頭の中は肯定と否定が作り出すよく判らないモノでぐちゃぐちゃなままで話せる状況ではない。
  「こちらです――」
  歩いていると、ここの病院の担当者と思われる白衣の男が加わった。聖杯戦争の只中だったなら、敵か味方か判別できるまでは警戒するんだが、今の俺にはそんな事は出来ない。
  俺達は幾つかドアを通り抜け、夜の寒さよりは若干暖かさを感じるが、病院の中では肌寒く感じる部屋の中へと入っていた。そこには壁一面に取り付けられた小さな扉が幾つもあり、どこか蟲蔵の構造を思い出させる様子に少しだけ意識が現実へ戻ってくる。
  白衣を着た男が壁にある扉の一つを開け、その中にあったモノを引き出した。そして台の上に置かれたモノが寒さと一緒に現れて、俺の目に飛び込んでくる。
  胸から下を白い布で隠し、生気を無くして横たわったまま動かない間桐臓硯がそこにいた。
  俺のよく知る『間桐臓硯』に比べれば身長も体格も少し立派になっているが。その顔は―――この一年全く見ていなかったし、見たくも無かったその顔は―――紛れも無く間桐臓硯のものだった。
  「・・・・・・・・・」
  どうしてこいつがここにいる? 否定を肯定を吹き飛ばしながら真っ先に俺はそう思った。
  髪の毛が一本も無い顔は間違いなく間桐臓硯なのだが、白い布で隠れている部分の体格の違いが『これ』と『間桐臓硯』との違いとなって、別人だと伝えている。『これ』と比較すれば『間桐臓硯』は二回りは小柄だ。身長も二十センチは違う。
  驚いても出来るだけ平静を装うようにするのは慣れている。間桐臓硯がここにいる事実と別人の死体を目の当たりにする驚きを封殺して、俺はじっくりその顔を眺めた。
  「・・・・・・うちの爺です。間違いありません」
  そしてこの場に居合わせた他の二人に聞こえるようにそう呟く。
  「――お悔み、申し上げます」
  刑事か医者か、どっちがそう言ったかなど今の俺にはどうでもよく、ただひたすらに疑問解消の為に頭は答えを求めて動き続けた。
  こいつは臓硯じゃない。そうなるとこの『間桐臓硯』はゴゴだ。
  殆ど間違いないだろう予想に辿りつくと、またあの言葉が俺の頭の中に蘇る。


  さようなら・・・


  もしかしてゴゴは魔術の世界からも表の世界からも『ものまね士ゴゴ』という存在を消し去る為、さよならをするために、臓硯の死を作り上げて、自分で死を物真似してるんじゃないだろうか。
  衛宮切嗣に撃たれて死んだ状態を作り出し、この世界で生きる為に使っていた間桐臓硯を殺す。そうすれば俺達の前から堂々といなくなれる。
  答える者がいない俺の勝手な予測だが、それほど間違ってない様に思えた。そう思えば『間桐臓硯』の死体がここにいる理由が説明できる。一年見てなかった顔だが、臓硯を殺したのはゴゴだ、宝具で全身どころか能力すら物真似するあいつなら顔の造形ぐらい変化させられるだろう。
  俺はゴゴか臓硯の名を呼ぼうと思ったが、物真似に全てをかけているゴゴが呼びかけられた程度で物真似を止めて応じるとは思えなかった。ここにいるのが死体を物真似しているゴゴだったとしても、存在が消滅する最後の瞬間まで死体であり続けるだろう。
  だからもう、ここにいるのが死体じゃなかったとしても、この『間桐臓硯』は動かないし喋らないし答えない。
  また一つ、さようなら、が俺の前に姿を現した。そう思ってしまった時、また俺の目から涙が流れる。
  どれほど激痛を味わっても涙なんて流さない様に訓練してきたつもりだったが、痛みへの耐性をつけられたのは肉体だけで心までは強くなれなかったらしい。こんなに涙もろくなってしまった俺を見たらゴゴは笑うだろうか?
  『間桐臓硯』の死体の物真似をしているゴゴを前にして、俺は涙を拭った。





  臓硯の死体を物真似し尽くしているゴゴを見た後。俺は父を喪った息子の態度を作りながら医者と刑事と話し、帰路についた。
  死亡診断書無しで遺体を移動することは原則禁止されているから死体の引き取りやら葬儀の準備やらで色々と手続きがあるやら・・・。俺と桜ちゃんは殺人犯が最後に接した証人だから任意同行を求められたが、臓硯のことも他のことも色々とあるので日を改めるやら・・・。
  意外過ぎる別れの後に押し寄せてくる現実と言う名の後始末、これを済ませる為に俺がやらなきゃいけない事は山ほどある。
  刑事も仕事で話を聞かなきゃいけないのは重々承知してるんだろうが、すでに犯人は逮捕されている状況と、話しなら他の人からも聞かなきゃいけない事と、父を喪った俺を気遣ったのか任意同行の拒否には渋々ながら納得してくれた。夜遅かったのも理由だろう。
  新都から間桐邸までを徒歩で戻る気は無かったので、再びタクシーを使って間桐邸へと戻る。
  道中。少し魔術方面に意識を振り分けてみると、誰もいない間桐邸の様子が判り、やっぱりゴゴはいないんだとまた思い知らされもした。
  間桐邸に突っ込んだままになっている自動車の後始末。これはどこかの馬鹿が運転ミスで壊して逃げたことになっているが、手続きは色々としなければならない。
  他にもこれまでゴゴが一年間家長としてやってきた財産の引継ぎやら、保険やら、桜ちゃんの今後についてやら、現在無職の俺の今後やら、戸籍の問題があれば兄貴を探し出して連絡しなければならないやら、聖杯戦争に関わった魔術の家系『間桐』として魔術協会に事の次第を報告しなければならないやら、必要なら聖堂教会とも話をしなければならないやら―――。
  聖杯戦争の為にやってきた命がけの修業とは別種の苦悩が付きまとうのが容易に想像できた。
  だから俺は夜遅くに間桐邸に帰りついた後、一睡もせずに片づけるべき事柄を一つずつ消化していった。
  今の間桐邸は俺の魔術回路を起点にした結界に変わったので、全てを把握できる状況が何かを探す時は非常に役立つ。臓硯の遺物の中から必要な物を取り出したり、桜ちゃんを見舞う前に午前中で警察署に出頭して話を終わらせる準備を整えたり、他にも色々とやるべき事を済ませていく。
  窓から差し込む光で夜明けを知り、やるべき事を一個ずつ片づけていく間に俺はとある異常に気が付いた。
  病院で目覚めた時から考えてすでに二日連続で徹夜してるのだが全く疲労を感じないのだ。
  徒歩での移動、新たな結界魔術の構築、臓硯の死、などなど。肉体的にも精神的にも疲れているのは間違いないのに、何故か俺の体は休みを欲さず、すべき事をするために動き続けている。
  それまでは自分の身に起こった異常を意識していなかったが、警察署に出頭して昨日会った刑事と話している所でようやくおかしいと思えたのだ。
  刑事の話しは主に『あなた達は何を見ましたか?』『犯人と接触しましたか?』などの状況を尋ねるものばかりで、俺は三闘神の話を完全に隠匿して桜ちゃんと一緒に夜の海を散歩しに行ったと物語を作った。
  間桐邸は海から離れていて、しかも夜も更けた時間にたった二人で? と刑事は怪しんでいたが、新しい趣味として夜釣りを考えているところで、爺は俺達二人が出ていくのに気が付いて追いかけ―――そこで銃弾に倒れたのではないか。と少々巡り合わせの悪かった泣ける話をすると刑事の方が聞き難そうな顔をした。
  ついでに、午後はまだ眠ったままの桜ちゃんのお見舞いに行きたいのですが、と言ったら。またお話を聞くかもしれませんので、その時はよろしくお願いします。と、話しを終わらせてくれた。
  眠っていないから逆にやる気が出ているのではなく、疲労を感じずに受け答え出来る状況がおかしい。俺は自分の体に起こっている異常を考えて、間桐邸に住んでいた時のゴゴと全く同じではないだろうかと思った。
  つまり、俺の中に溶け込んだゴゴの力、『マディン』の力がわざわざ疲労回復しなくても大丈夫な状態に俺の体を作り替えてるんじゃなかろうかと言う予想だ。
  今のところは休まずに動き続けられるのは利点しかない。だからとりあえず、そういう事で納得しておいた。
  警察署から病院までの移動の間、ついでに市役所にも寄って片づけるべき事柄に必要な用紙を手に入れる。そして面会開始時間から少し遅れてようやく桜ちゃんが待つ病室へと辿り付いた。
  大抵の場合、面会開始時間と同時に病院は見舞客でいっぱいになるのだが、俺が少し遅れたのと桜ちゃんが眠る病室への訪問者が少ないのが重なって、部屋の中は静かだった。
  カーテンに仕切られた空間の中で小さな寝息が聞こえる、眠り続ける状況は全く変わってない。ぬいぐるみのふりをしているゼロもそのままで、何一つ変わっていない。
  話したいことが沢山あるんだ、早く起きてくれ・・・。
  「桜ちゃん――」
  祈りを込めて読んでみても、やっぱり返事はない。
  ベットの脇に置いてある椅子に座るのは入院していた時も合わせれば三度目だ。
  こうして俺が起きている事実そのものが三闘神の力を宿しても、ちゃんと人間にもどってこれる証明になっている。だから桜ちゃんも絶対に起きると理解できるが、それでも時間が経てば経つほどに不安は募る。
  もし俺にゴゴと同等の力があれば、すぐに桜ちゃんを目覚めさせられるだろう。そう思ってみても、ゴゴはもういないし、俺はゴゴじゃないから考えても無意味だ。
  聖杯戦争で勝つために攻撃魔法に重点を置いて修行していたから、ゴゴが使っていた蘇生魔法も、状態回復魔法も、高位の治癒魔法も使えない。ゴゴなら手の一振りで作り出せる奇跡も俺には出来ない。
  眠った相手を起こす方法で俺が選べるのは武器を用いて相手を傷つけて強制的に覚醒させる荒っぽい手段だけだ。
  もちろんそんな危険な事を俺が桜ちゃんに出来る訳がない。
  これまでと同じように椅子に座った状態で桜ちゃんの手を握って、生きているのを確かめるように手を繋ぎ続ける。その状態のまま数十分が経過すると、この部屋の中にいる患者への見舞客や看護婦の巡回などで少し出入りが激しくなる。
  俺が桜ちゃんに早く起きてほしいと望むのは桜ちゃんの体が心配なのもあるが、これまで話し相手として存在したゴゴがいきなり消えたので、俺自身が寂しがっているのも理由の一つだと思う。
  臓硯が生きていた時は近づこうとすらしなかった間桐邸。ゴゴが現れたことでそれは一変し、俺にとっては修行で何度も殺される地獄のような時間だったが、桜ちゃんがいて、沢山のミシディアうさぎがいて、師匠としてのゴゴが居て、同居人としてのゴゴもいた。
  たった一年で終わってしまったあの恐ろしくも懐かしい時間を俺自身も気付かない内に満喫していたらしい。
  俺はもう一度。桜ちゃん、早く起きてくれ、と思った。
  「・・・・・・・・・」
  今の状況を思えば思う程に意気消沈していくのが判る。今できる事をして気を紛らわすのも一つの手だと判っていても、桜ちゃんの傍に来てしまうと目覚めを待つ以外に何も出来なくなる。
  悪循環だ―――。そう思っていると、遠くから小さな足音が近づいてくるのが耳に入った。
  大人よりも軽い音なので、おそらく父か母を見舞う子供が歩いているのだろう。その足音は俺達がいる病室へと入って部屋の奥へと進んでいく。
  俺達には無関係の誰かのようだ。
  入院していた時は敵を警戒して訪問者の姿も全て確認したが、今では桜ちゃんの手の片手で握りながら、もう片方の手をアジャスタケースに伸ばすだけに抑えている。何か異常があれば即座に動けるよう構えるのはもう俺の習慣になっていた。
  だから聞こえてくる話し声に自然と耳を傾けてしまうのも仕方のない事だった。
  「小母さま、おはようございます」
  「まあ・・・凛ちゃん。おはよう」
  「コトネは元気ですか?」
  「それが、まだ起きないのよ・・・」
  「そうですか・・・・・・」
  女の子と思われる声とそれに応じる女性の声。そこから先も二人の話は続いて部屋の奥から聞こえてきたが、俺の意識は最初に『おはようございます』と言った女の子の声に引き寄せられた。
  返された名前、最初に聞いた小さな足音、これらが俺の中に生まれた予想を確信に変える材料になって、病室に入って話しているのが誰なのかを即座に導き出す。
  遠坂凛―――。
  まさかとは思いつつも、懐かしさを感じるその名前が頭の中に浮かぶと、確かめる為に動かずにはいられなかった。
  俺は桜ちゃんから手を離して、周りを覆い隠す仕切りカーテンを動かして退ける。だが、それだけじゃ他のカーテンの奥は見渡せないので、立ち上がって聞こえてくる話し声の発生源に向けて一歩また一歩と慎重に近づいていった。
  病室はそれほど大きくないので数歩歩いてしまえばあっという間に辿りつけてしまう。耳を澄ます必要すらなく、カーテンの向こう側から話し声が聞こえてくる。
  聞き違いの可能性も考えたが、俺は覚悟を決めてカーテンの向こう側にいる誰かに向けて声をかけた。
  「凛・・・ちゃん?」
  すると聞こえてきた会話が急に止まり、二秒とかからずにカーテンが引かれて閉ざされていた景色が暴かれた。
  そこにいたのは紛れも無く遠坂凛その人だった。
  「雁夜おじさん・・・?」
  「ああ、やっぱり凛ちゃんだったんだ」
  久しぶりに見る凛ちゃんは会わなかった一年の分だけしっかりと背を伸ばしていた。それにまだ幼いながらも品格を高めようとする心根がちらほらと見えて、見た目以上の成長を感じさせる。
  そういえば、一年間ずっとそばにいたから実感が湧き辛いが。桜ちゃんもこの一年でちゃんと成長してるんだと思い出す。
  「凛ちゃんのお知り合いでしたか・・・」
  そう言ったのは凛ちゃんと話していたと思わしき女性で、よく見れば昨日見舞いに来た夫婦と思われる二人組の片割れだった。桜ちゃんと同じように点滴を繋がれた状態で眠っているのがネームプレートに書かれている『コトネ』と呼ばれる少女なのだろう。
  状況を把握しながら返事をする。
  「ええ。凛ちゃんは知人の娘さんなんですよ」
  微笑みながら会釈をしてきたので、慌てて俺も会釈をする。
  そんな二人のやり取りに凛ちゃんが割り込んできた。
  「雁夜おじさん、どうしてここにいるの?」
  「それは・・・・・・桜ちゃんが入院しているからなんだ」
  「桜が入院してるの? 何が――」
  あったの? と続く筈だった言葉が急に途切れた。
  見ると、凛ちゃんは両手で口を押えて、何も言わない様に必死に自分を抑え込んでいた。その姿は一年前に公園で見た姿を思わせる。
  あの時、凛ちゃんは泣きそうな顔で言った。
  桜はね、もう、いないの・・・。と。
  遠坂の自分が間桐には関われない。桜ちゃんの事を聞きたいのに、それを聞こうとしない凛ちゃんの決意がよく判った。
  一年前の俺だったなら、臓硯が生きていた時だったなら、聖杯戦争を生き延びた後じゃなければ、凛ちゃんの気遣いを受けて細かい事は何も話さなかったかもしれない。
  だが今は違う。
  もう臓硯はいない。ゴゴが居なくなった今、間桐の当主はこの俺だ。桜ちゃんの為にも、俺が間桐を継がなければならない。
  間桐の魔術師として俺は凛ちゃんに向けて言う。
  「心配はいらないよ。桜ちゃんは色々あってちょっと疲れちゃってね、今、そこでゆっくり眠ってるから」
  「本当!?」
  重苦しい沈黙から一転して、凛ちゃんは驚きと喜びを半々にしたような顔になった。一年前に別の家の人になってしまった妹と病院で再会するなんて夢にも思わなかったんだろう。
  まあ、それは俺自身にも言える事で、まさかこんな場所で凛ちゃんと再会するなんて考えもしなかった。
  「本当だ。まだ眠ってるけど、よかったら会ってほしいな」
  間桐の当主として俺は遠坂との対面を許す。
  そして話し中だった状況を思い出して、『コトネ』という名前の少女の母親らしき女性に頭を下げながら言う。
  「あ・・・その、お話し中の所に割り込んでしまってすみません。少しの間、凛ちゃんと話してもよろしいでしょうか?」
  「――ええ、構いませんわ」
  何らかの事情があると察してくれたのだろう。
  理由も聞かずに許してくれた女性の懐の広さに驚きながら、俺はもう一度頭を下げた。
  凛ちゃんは多くを尋ねない代わりに、今にもここから飛び出していきそうな様子でそわそわしている。
  そんな子供らしい様子に微笑ましさを覚えながら、俺は入り口付近にある仕切りカーテンを指差した。
  「あそこだよ。あそこで桜ちゃんは眠ってる」
  その言葉を合図にして凛ちゃんは早足で向かっていく。ここが病院でなければ全力で走っていきたいのが遠ざかる小さい背中から感じられた。
  俺はまた女性に頭を下げ、凛ちゃんの後を追う。
  「桜・・・」
  行くと凛ちゃんはベットの脇から桜ちゃんの寝顔を食い入るように見つめていた。その姿は紛れも無く妹を思う姉の姿だが、遠坂の娘として間桐の娘になった桜ちゃんに深く踏み込めない線引きもあった。
  俺は椅子の位置を動かして凛ちゃんと桜ちゃんの邪魔にならない位置に座る。一分ほど経つと、凛ちゃんが振り返って俺に話しかけてきた。
  「ねえ、桜に何があったの?」
  出来るだけ他の魔術師の家に踏み込まないよう心掛けているみたいだけど、我慢できなかったようだ。
  「・・・・・・・・・『あれ』に少し巻き込まれて力を使い果たしてね、回復の為に今は寝てる所だよ。もう少ししたら起きるだろうって病院の先生は言ってた」
  「そう・・・」
  幼いとは言え、凛ちゃんは遠坂の人間。桜ちゃんが事細かに説明されているのと同じく、聖杯戦争については一部であっても知っている筈。一般人が多くいるこんな場所で聖杯戦争なんて言えないけど代名詞で通じるだろう。
  年に似合わない聡明さがそうさせるのか、すぐにここで話せることの少なさを理解したようで、桜ちゃんが眠る原因についてはそれ以上追究してこなかった。
  本当はもっと『何が起こったか』を知りたいだろうに―――。
  「――桜は、幸せにしてる?」
  そのせいで聖杯戦争からも魔術からも話題がずれていく。
  「どうかな? 俺はこの一年楽しくやってきたつもりなんだけど、桜ちゃんがどう思ったかは桜ちゃんにしか判らないよ。どうせなら桜ちゃんが起きた後で凛ちゃんが直接聞いたらいいじゃないか」
  「でも・・・、お父様が・・・」
  「遠坂の間桐の盟約か――。臓硯の実態にほとんど気付いておきながら、よくもまあ言えたもんだ」
  「え?」
  「ん、ああ、いや。何でもないよ」
  怒りをにじませて呟いてしまったので、凛ちゃんが何事かと見上げてくる。
  慌てて誤魔化し、話を元に戻した。
  「だったら俺の方から話して凛ちゃんと桜ちゃんが話せるようにしてみるよ。こう見えて、結構強くなったからね、時臣と正面からぶつかるぐらい訳ないよ」
  「・・・・・・・・・」
  すると凛ちゃんは不安げな顔を浮かべて俺の顔をもう一度よく見た。
  その目には父親である時臣への信頼と絶対視があり、父に勝てる者などいないと雄弁に物語っている。
  思わず―――。聖杯戦争で時臣を倒してのは俺だ―――。と言おうとしたけれど、聖杯戦争について話さない様に努めたのは俺もなので、何も言わずに黙り込む。そこでようやく『遠坂時臣』と『遠坂葵』の名前が脳裏に浮かんだ。
  凛ちゃんと再会してから一度も考えなかったその名前。ほんの数日前に殺し合いを行ったのだから、遠坂を考えるならむしろ凛ちゃんよりも先に考えるべき名前だけれど、俺はたった今『時臣』と凛ちゃんに言った時ですら、遠い世界の誰かを語るようで、淡泊な思いは喜怒哀楽のどれも生み出さなかった。
  自分で自分に驚くほどあの二人の事を何とも思わない俺がいる。
  黙り込んだままでいると徐々に凛ちゃんの目が俺を責めているような気がしてきたので、仕方なく話題を切り替えた。
  「そ、そう言えば時臣と葵さんはどうしたんだい? 一緒じゃないのかな?」
  唐突な話題転換に無理が出たのか、言葉遣いが少しおかしくなる。
  「・・・・・・・・・お父様もお母様も新都の病院に入院してるの。お父様はものすごく重症だってお医者様が――」
  「・・・え!?」
  凛ちゃんの言葉で今度は俺が驚く番だった。
  俺の勝手な想像だが、高貴な家柄であらんとする時臣はどこかの大病院でお抱えの医師数人を従わせ、つきっきりで治療させているイメージが合った。
  新都の病院なら、多分、ゴゴが死体の物真似をしていたあそこで、規模はさほど大きくない。
  他の負傷者に混じって一緒に治療を受ける様子が全く想像できなくて、凛ちゃんの言葉にしばらく動きを止めてしまう。
  だがそれはそれとして遠坂邸の放置した状態から二人とも救助されたようだ。
  野垂れ死んでもおかしくなかったのに、運の強い夫婦である。
  「でも――代わりに綺礼が・・・」
  「キレイ?」
  「ううん。何でもない」
  凛ちゃんが言い辛そうなのでそれ以上は聞かなかったが、ぽつりと呟かれたその名前がアサシンのマスターでもあった言峰綺礼であるのはほぼ間違いない。
  あの男は監督役の言峰璃正の息子であり、聖堂教会の者であり、時臣の弟子であり、聖杯戦争のマスターでもある―――。改めて考えれば色々な鎖に縛られながらも暗躍しやすい立場にいた。
  まだ詳しくは知らないが、凛ちゃんの言い辛い様子を見る限り、言峰綺礼は死んだのだろう。
  「そうか・・・二人がね・・・」
  今まで知らなかった他のマスターの動向を事実として受け止めつつ、口では遠坂への思いを口にしておく。
  そして頭の中で敵からの攻撃で燃えていた遠坂邸の光景を思い浮かべた。
  「二人が入院していて凛ちゃんの生活は大丈夫なのかい?」
  「今は禅城のお屋敷でお世話になってるから平気よ」
  「・・・・・・っと、あっちで入院してる子は凛ちゃんの友達かな?」
  「学校の――友達よ」
  繰り返しになるが、場所が場所なので聖杯戦争や魔術に関する詳しい話は出来ず、お互いに一年も接点がなかったし年も違うので何を話せばいいか判らなくなる。
  今までは間に葵さんを間に挟んで話していたからそれなりに話が盛り上がったりすることも合ったが、一対一で対面すると途端に共通の話題の無さに気付いてしまう。
  それに凛ちゃんは学校の友達と言った『コトネ』をお見舞いに来たのがそもそもの目的であり。俺の方は時臣と葵さんを入院させた張本人なので、どうしても後ろめたさが出てくる。
  結果、二人とも口数が少なくなってしまった。
  互いに何も言わなくなった所で会話は終わり、凛ちゃんはもう一度桜ちゃんの寝顔を見つめる。
  聖杯戦争がもう行えなくなったので、始まりの御三家として同じ冬木に住んでいる遠坂と間桐の関係は全く別なモノにならざろうえない。増えた問題を考えながら、俺は魔術によって引き裂かれた二人の姉妹の姿をぼんやりと眺める。
  願わくばこの二人が共に笑顔で居られる未来を掴みたい。漠然とそんな事を考えた。
  その後、一度途切れてしまった会話が再び行われることは無かった。元々凛ちゃんが会いに来たのは俺でも桜ちゃんでも無い上に、時臣と葵さんが揃って入院しているので、まだ子供の凛ちゃんはあまり長居できない。
  おそらく遠坂に雇われているお手伝いさんか、葵さんの生家である禅城の誰かにでも付き添いを頼んでいるのだろうが。そうなると凛ちゃんが使える時間は非常に限られる。
  凛ちゃんが去った後も桜ちゃんの容体は変化しない。悪化もせず好転も無く、ただ時間だけが過ぎ去っていく。
  昨日はただ何もせずに傍に居続けたけど、今日は『変化しない状況』に慣れが出てきて、持ち込んだ荷物やら病室を訪れる前に手に入れた物やらを使って済ますべき用事を幾つか終わらせる。
  間桐邸に戻って作業をすれば能率は更に上がると理解しながら、もし桜ちゃんが起きたら最初に目に入るのは俺でいたいと願いもあった。
  だからぬいぐるみのふりを続けるゼロが乗る机を利用して、時折、横目で桜ちゃんの様子を見ながら作業を進める。
  「桜ちゃん・・・」
  何度こうして呼びかけただろう。その度に返事のない寝顔を見て、同じ数だけ落ち込んできた。多分二十回か三十回は繰り返していると思う。
  そんな無意味にも思える言葉の投げかけを振り返りながら、俺は声をかける以上の何かをしていないと気付く。
  医者からはそう遠くない内に目覚めるらしいと聞いていたし。治癒の観点において俺の力量はゴゴを遥かに下回る。だから何もせずに今日まで来たが、もしかしたら俺でも出来る何かがあるんじゃないだろうか?
  ゴゴとの別れ、偽装された臓硯の死、凛ちゃんとの再会、生き残った遠坂夫婦。色々な事が起こって、やるべき事が沢山あったから今まで考えずに来てしまったが、思い返せば俺は何とも薄情な男だ。
  何も出来ないと最初から諦めて、何もしないのを最初に選択してしまったのだから。
  俺は仕切りカーテンが周囲の視線を完全に遮っているのを確認して、ついでに近づいてくる足音や気配がない事も確認した。少なくとも十数秒は患者も見舞客も医者も看護婦もここには来ない。
  俺は桜ちゃんに向けて右手を開いて伸ばし、桜ちゃんの心臓の辺りへと向ける。
  俺が使える魔法が桜ちゃんにどれだけ効果があるか判らない。悪くはならないだろうが、良くなるとも限らない。それでも俺は何かやらなきゃいけないと自分に言い聞かせ、魔法を唱える為に意識を集中する。
  完全に死んでない者なら蘇生すら可能にするゴゴの魔法と比較すれば効力は数十倍以下か酷ければ数百倍以下。それでも俺に出来る最大の回復魔法を使う。
  正直、この中級回復魔法は俺が使うと限りなく初級に近くなってしまい、魔力操作に関しては今も怪しげなままだ。ただ『使える』というだけで、とてもじゃないが『使いこなす』等とは言えない。
  それでも『魔神』の力を使っていた時は、もっと上位の回復魔法を手足のように扱っていた。やり方は頭と体がそれぞれ覚えている。それに魔石『マディン』の力で魔力が増大している実感がある。
  だから、きっと、大丈夫だ―――。
  「ケアルラ」
 聖杯戦争を終えたから初めて使う魔法。一工程シングルアクションで魔法を唱え終えた瞬間、心臓がドクンッ! と大きく動き、その心臓を中心にして『何か』が全身に広がってから、一気に右手に集まっていく。
  これまで感じたことのない強烈な力の流れが一点に向けて集約し、桜ちゃんに向けた手のひらから放出された。けれど、起こった現象そのものについて変化は無く、右手から放たれたエメラルドグリーンの輝きが桜ちゃんの体を覆うだけだ。
  そしてすぐに消え去る。これまで使い続けた魔法と何も変わらない。
  終わってしまえば体の中を通り抜けた力の余韻は無く、桜ちゃんを覆った光も消えて、何事もない病室の風景が広がるだけだった。
  眠ったままの桜ちゃんもぬいぐるみのふりを続けるゼロも何も変わってない。
  「・・・駄目なのか? 俺なんかの力じゃやっぱり駄目なのか? 何もしてやれないのか?」
  何も出来ないだろうとは思っていたが。改めて突きつけられた現実に全身から力が抜ける。お前は何も出来ないのだ、と、俺が俺自身に言ってしまったのだから。
  聞かれると困るので呟きは小さく、両足の力も抜けて倒れこむように椅子に腰かけた音の方が大きかった。
  やっぱりゴゴじゃないと駄目なんだろうか?
  俺程度の力じゃ快復も僅かな助けすらも出来ないんだろうか?
  また俺が俺に力の無さを思い知らせていると―――。
  「むぐ~」
  「ん?」
  明らかに人の声ではない鳴き声が聞こえた。
  その独特の鳴き声はこれまで何度も耳にして俺の耳にしっかり刻まれている。おそらくこの世界のどこを探してもこんな風に鳴く動物はいない。
  ただ唯一のミシディアうさぎを除いて。
  「ゼロ?」
  顔を机の方に向けて鳴き声の主と思われるゼロに声をかけるが。相変わらずのぬいぐるみのふりを続けていて動かない。
  空耳ではないのは確かだ。そうなると何か意味が合って鳴いた事になるが、意識を桜ちゃんに向けていたから鳴き声に込められた微妙な意味合いを読み取れなかった。
  それでも確実に意味はあって、ただそれを俺が読み取れなかっただけだ。
  ゼロが何が言いたかった?
  俺に何を伝えようとした?
  自分の力の無さに心が砕かれそうになるが、その答えを探る様に意識は広がっていく。
  「・・・・・・ん」
  だからその声を聞けた。
  病院の中で聞こえる物音とは明らかに違う声。一言にも呟きにもなっていないそれは不思議と俺の心を引き付ける。
  俺の目はその発生源を見た。そして僅かに桜ちゃんのまぶたが震えて、覚醒の予兆だと気付くと同時の他の何もかもが消え去った。
  俺の心はただひたすらに桜ちゃんだけを思う。
  これまでは小さく聞こえていた寝息以外には寝言すらも無く、何の動きも見せなかった桜ちゃんが初めて見せた別の動き。
  桜ちゃんの閉ざされたまぶたをジッと眺めていると、ゆっくりと開いて碧眼が現れる。
  その目は焦点が合わず、とろんとしたまま天井を見上げていた。上を見て数回瞬きを繰り返し、左右へと動いて遂に俺の目線とぶつかり合った。
  「桜――ちゃん?」
  「ぁ・・・」
  これまで無かった呼びかけへの反応が合った。耳を澄まさないと聞き逃してしまいそうな小さな声だったが、それでも桜ちゃんの口から出た声は俺を見た上での応答だ。
  「か・・・りや・・・、お・・・じ・・・」
  さん。と続けられるよりも前に聞こえてきた言葉が俺の名に染み込んでいく。
  桜ちゃんのだけ集中していた俺の心がその染み込みと合わさって爆発する。
  体の中が歓喜で満ちた。
  「は、っはは・・・、起きた・・・。桜ちゃんが・・・・・・」
  俺は笑っているのか確かめているのか泣いてるのか問いかけてるのか、よく判らなかった。
  ただただ嬉しくて桜ちゃんが起きて声をかけてくれた事実しか考えられない。大声で歓喜の雄叫びを上げなかったのは奇跡に等しい。
  「起きた・・・、起きたんだ――」
  俺がそこにいるのを確かめるように桜ちゃんの目がゆっくり動く。腕に刺さっている点滴の方も向いた。
  何でもないその仕草が嬉しくてたまらない。
  こういう時こそナースコールを押さなきゃいけないと気付いたのは久しぶりに桜ちゃんの声を聞いてから二分以上後だった。
  それから看護婦から医者へと話しが伝わり、俺の時と同じようにベットの上で診察が行われる。
  目を覚ました後の桜ちゃんには異常らしい異常は見つからなかった。俺を診てくれた先生が桜ちゃんの容体を見て、異常なしと太鼓判を押してくれた時に再び俺の中に歓喜が満ちたのは言うまでもない。
  様子見の為に入院していた意味合いが強かったので、退院時期もまた俺と同じくで翌日となった。
  ただし、桜ちゃんの体は回復へと向かっていたが、心については酷く傷つくだろうとは思う。何しろ俺がこれまで得た多くの情報は桜ちゃんにとっては喜ばしくない事ばかりで、モノによっては確実に悲しみの刃を桜ちゃんに突き立ててしまうと判っていたからだ。
  それでも言わない選択は無い。伝えなければならない。
  桜ちゃんには沢山の事を話した上で、大人の事情に振り回されずに自分で答えを出してほしいと願う。
  俺はベットの上で横になり、机の上にいたゼロを胸元に抱き寄せている桜ちゃんに色々な事を話した。
  ゴゴがいなくなった事。
  聖杯戦争が終わり、もう今後は行えないであろう事。
  円蔵山が崩落した事。
  三闘神の力を使って俺達が戦った敵は生きてるが、警察に捕まっている以上はまだ判らない事。
  士郎が生きているのか死んでいるのかも判っていない事。
  時臣と葵さんの生存、そして学校の友達が入院しているのでここを訪れる凛ちゃんの事。
  臓硯の死体になりきってるゴゴの件で警察に呼ばれた事など、とりあえず『今後すべき事』を除いて思いつく限りの事柄を桜ちゃんに語り聞かせた。
  堂々と話せる内容じゃないので外に聞こえない様に小さく話し、桜ちゃんはそれを黙って聞いていて、時々思い出したかのように相槌を打つ。
  ゴゴがもういないと話した時はゼロを強く抱きしめながら、声を押し殺し、目に涙が浮かばせた。我慢しているのがよく判るからこそ、俺は慰めればいいのか黙っていればいいのか判らなくなって途方に暮れてしまう。
  時臣たちの話を聞いた時は複雑そうな顔をして、凛ちゃんの話をした時は少しだけ笑ってくれた。
  「・・・・・・と、まあ。こんな所だな。今、俺が知ってるのは――」
  『マディン』や間桐邸の結界など、俺の都合に関する話はあえて避けた。
  話すならこんな場所ではなく、間桐邸に戻ってからだ。
  「・・・・・・・・・・・・」
  涙を浮かべ、苦々しい顔をして、時に笑いもした。そんな桜ちゃんは話を聞き終えてから無言だった。
  胸元にミシディアうさぎを抱きかかえたままベットの上で天井を見上げる姿からは何を考えているのか判らない。ただ、何となく心の中で聞いた話を必死で整理している気がする。
  十秒か、二十秒か、三十秒か。おそらく一分以上も沈黙を続け、桜ちゃんはゼロをギュッと握りしめながら俺に言う。
  「雁夜おじさん・・・」
  「ん? なんだい」
  「ティナお姉さんとはお別れなの?」
  「・・・・・・・・・そうだな」
  桃色の怪物が最後に見た姿。もう彼女は行ってしまったから肯定するしかない。
  「トレスも、ユインも、ジーノも・・・お別れなの?」
  「そう・・・だな」
  間桐邸の中を我が物顔で練り歩いていたミシディアうさぎ達もいないから肯定するしかない。
  「あの人たちも・・・、皆、みんな。お別れ・・・なの?」
  「そうだ」
  きっと『あの人たち』とは聖杯戦争の最中に間桐邸の中に現れた彼らの事だろう。ロック・コール、マッシュ・レネ・フィガロ、セリス・シェール、エドガー・ロニ・フィガロ、その他にも多くの人間に変身してまるで大勢が居るように見せたゴゴ。
  一時は人とミシディアうさぎの全てを合わせれば101匹やら十数人やらもいたが、今の間桐邸に帰るのはここにいる俺と桜ちゃんとゼロの二人と一匹だけだ。
  叶うなら違うと言ってあげたかった。寂しそうに聞いてくる桜ちゃんの言葉を否定してあげたかった。
  だがそれは嘘になる。
  この場だけ言い繕った所でいつかは判る。間桐邸に戻ってしまえば桜ちゃんは嫌でも判ってしまう。もう、いない、と。
  だから俺はこう言うしかない。
  「みんな――お別れなんだ」
  桜ちゃんが起きた時に体の中を満たした歓喜が消えてゆく、俺自身の別れの悲しみを言葉に乗せる。
  すると桜ちゃんは抱きかかえていたゼロを頭の方に動かして顔を隠した。そして体を小刻みに震わしながら、声を抑え込んで泣き始めた。
  桜ちゃんのすすり泣く声が聞こえる。
  ここが病院だから大きな声を出せないと気を遣っているのか、それとも俺を含めて他の誰にも涙を見せたくないのか。何を考えて顔を隠して泣いているのかは判らないけれど、泣いてる桜ちゃんの前でさっきみたいに途方に暮れるのは嫌だと思う俺がいた。
  だから俺は―――敵を前にした時によくあった『考えるよりも前に体が動く』を作り出して、何をするか考えるよりも前に手が動いてゼロの首の後ろを掴んで桜ちゃんから引き離す。
  そこには目にいっぱい涙を浮かべている桜ちゃんの顔が合った。浮かんだ涙が下に滴り落ちる光景が容易に想像できたから、俺はゼロをベットの上に放り投げて、桜ちゃんの体を起こして抱き寄せた。
  胸の辺りに桜ちゃんの顔を置いて、全身で包む。
  隠さなくていい。
  思いっきり泣けばいい。
  ゴゴはもういないから、俺が受け止める。
  驚きと悲しさで震える体を感じていると、両脇腹の辺りに桜ちゃんの小さな手が伸びてくるのを感じた。その手が俺の背中をしっかりと掴む。
  両手の中に抱かれた桜ちゃんから聞こえてくる泣き声が徐々に大きくなっていく。内に秘めた感情を全て表に出すみたいに、どんどん、どんどん、どんどん、どんどん、大きくなる。
  「あぁ・・・うわあ、あああぁぁ。ああああああああ!!!」
  それは今まで聞いたことのない大きさで、桜ちゃんがこれまで溜め込んだ全ての悲嘆を吐き出しているようだった。
  間桐に養子に出された事。
  臓硯に味わわされた虐待の事。
  家族から離されて間桐邸で生活した事。
  聖杯戦争の苦難。闘争、遠坂、三闘神―――別れ。
  もちろん楽しさや嬉しさも合っただろうが、悲しさもまた確実にあった。それを一気に吐き出しているように俺には思えた。
  何事かと仕切りカーテンの隙間から俺達を覗いてくる視線を感じたり。邪魔だったからベットの隅に放り投げたゼロの恨みがましい視線も感じたが。俺はそれらを全て無視して桜ちゃんを抱きしめ、時に背中を軽く叩いたりもした。
  今はただ他のことを考えずに桜ちゃんの悲しさを受け止めればそれでいい。





  聖杯戦争を比較対象にして考えると桜ちゃんが退院するまでの間は驚くほど何もない時間だった。別の言い方をすれば戦いの空気が全く無い穏やかな時間だった。
  一年前に間桐に戻ってからは修行修行修行で倒されたり傷ついたり殺されたり生き返ったりと気の休まる暇は無く。聖杯戦争が始まってからは常に神経を研ぎ澄まし危険を察知するようにしていた。
  それが今は無い。
  面会終了時間が訪れて俺は一時間桐邸に戻らなくちゃ行けなくなり、数時間ほど離れなければならなくなったが。それ以外のほとんどは俺と桜ちゃんとゼロ、この二人と一匹で輪を作ってのんびりを話をしていた。
  ゼロはぬいぐるみのふりを続けなきゃいけないので『むぐ~』とは鳴けないから目で訴えるだけだったが―――。とにかく桜ちゃんは一度思いっきり泣いて少しは気持ちの整理が出来たようで、物静かないつもの桜ちゃんに戻った。
  俺達は行ってしまったゴゴの隙間を埋めるように話して話して話しまくった。
  一つ残念なこともあった。
  それは桜ちゃんが退院するまでに凛ちゃんとの再会は叶わなかった事だ。
  まさか凛ちゃんが帰った後すぐに桜ちゃんが起きるとは思わなかったし、隣町にある禅城の屋敷に電話をかける機会などこれまで皆無だったので連絡手段が無かった。昔は電話ぐらいしたかもしれないが、もう番号は覚えていない。
  これまで葵さんとたまに連絡を取る機会はあったが、それは『間桐家の魔術師』としてではなく『間桐を出奔した落後者』で、しかも遠坂邸への連絡だ。お手伝いさんを介しての連絡だったから時臣とは一言たりとも話していないので、間桐と遠坂の盟約について文句を言われたことは無い。
  だから凛ちゃんへ桜ちゃんが目覚めた事と退院する事を教える術がない。直接、禅城の屋敷にまで出向いて口頭で話すのが一番確実だろう。一応俺は『遠坂葵』になる前の『禅城葵』の幼馴染なので屋敷の場所なら知っている。
  退院手続きを済ませた俺達は太陽の光が降り注ぐ冬木の空を見上げていた。
  俺は桜ちゃんよりも早く見る機会に恵まれていたが、こうして桜ちゃんと一緒に病院の外で空を見上げるのは初めてだ。
  ゴゴが居なくなっても季節の移り変わりは変わらず続き、人が何を考えようと関係なく自然はそこにある。その暖かさを少しだけ満喫した後、俺はミシディアうさぎのゼロを両手で抱えている桜ちゃんに声をかける。
  なお俺の背中にはアジャスタケースがあるが、両手は色々と手荷物で埋まっていた。
  「――帰ろうか」
  「うん」
  以前だったらここでの返事は『はい』だった。間桐に住まう遠坂の人間として一線を引いて、他人行儀な物言いをしていたのだけれど、これまでに無かった親密さがちらほらと見えるようになった。
  病室の中を泣き声で満たしたあの時からの変化だと思う。
  ただ、その根底にある原因の一つとして、時臣と葵さんから聞かされた言葉で見限ったのも大きい筈。別にそれ自体は全く問題は無く、むしろ俺にとっては喜ばしい事なんだが、その思いが凛ちゃんにまで及ぶと厄介だ。
  今更『遠坂桜』に戻って欲しいとは思わない。だけど凛ちゃんとの間にある姉妹としての絆も親の縁と一緒に斬ってしまうのは止めてほしいと願っている。
  桜ちゃんが寝ている時に心配そうに寝顔を見つめていた凛ちゃんの顔を見れば判る。遠坂夫婦はもうどうしようもないぐらい桜ちゃんに不幸を持ち込む疫病神だが、凛ちゃんは桜ちゃんの姉で共に笑いあえる筈。
  だからいつの日か遠坂とか間桐とかは関係なく、ただの姉妹として二人とも笑っていられる時を作りたいと思っている。その為にも桜ちゃんが凛ちゃんを見放さないのが最低条件となる。
  髪の一部をリボンで束ねて、両手でしっかりとゼロを抱きしめて歩く桜ちゃんが凛ちゃんをどう思っているか判らない。姉を思う妹の気持ちが残っていてほしいと願うのみだ。
  急いで間桐邸に戻るならタクシーを捕まえればそれで済むが、俺達は街を覆っていた濃密な魔力の気配の無い冬木を確かめるようにしばらく歩いた。
  一緒に歩く。たったそれだけの事なのに、それが嬉しくて仕方がない。
  すると桜ちゃんが急に立ち止まる。俺もすぐに止まったが歩く勢いに押されて二歩ほど桜ちゃんより前に出た。
  「桜ちゃん?」
  振り返ると、両手でゼロの毛並みを弄っている桜ちゃんがいた。ゼロの麦わら帽子で顔の下を隠しながらゼロの脇腹の辺りの毛を指でこすっている。
  何事かと思いながらもう一度桜ちゃんを見るが、もじもじしながら俺の顔を見上げるだけだ。
  トイレか? そう思っていたら、ようやく桜ちゃんが口を開く。
  「あ・・・・・・」
  「ん?」
  「あの・・・」
  何か言いたいけれどうまく言葉に出来ない。そんな印象を受ける。
  ただ何かを言おうとする意思もあるので、待っていればその内話してくれそうな雰囲気だ。病院で泣き出した時に合った悲壮感は無かったので、言うのが辛いのではなく恥ずかしいと見える。
  じゃあ何だ? 桜ちゃんは何を言いたい?
  俺は離れてしまった距離を縮め、歩幅一歩分ぐらいまで詰め寄ってしゃがむ。桜ちゃんと視線の高さが合った。
  「あの・・・ね?」
  「うん?」


  「かりや・・・・お父さん!!」


  桜ちゃんの口から放たれた衝撃的な言葉は耳から入って頭の中に到達した所で俺に茫然以外の全ての選択肢を奪った。
  ゴゴと出会ってからこれまで信じられない幾つもの出来事を見せつけられて、その度に驚かされてその度に固まって現実を理解しようと努めてきたが、それらを上回る衝撃かもしれない。
  言い終えると同時に桜ちゃんは顔を赤らめ、ゼロをより強く抱きしめながら小走りで俺の横を通り抜ける。
  恥ずかしそうに顔を俯かせて距離を取る桜ちゃんの姿を目で追ってはいたが、俺の意識はここではない遥か遠くへ旅立ったまま帰ってきていなかった。
  お父さん―――。俺には馴染みが無さ過ぎて、その言葉がどういう意味で使われるかを理解していながら、俺に向けられた言葉だと思えない。
  戸籍上の俺の『お父さん』は今は亡き臓硯なのだが、あれを父親などと思った事は一度だってない。だから『お父さん』は俺の中では知っていながら存在しない言葉だった。
  誰が言った言葉だ? 桜ちゃんだ。
  誰に向けられた言葉だ? 俺だ、間桐雁夜だ。
  何と言った? お父さん、と、桜ちゃんは言った。
  お父さん。
  かりやおとうさん。
  頭の中で何度も何度も繰り返している内に桜ちゃんが十メートルほど先を進んでしまい、立ち止まって振り返り、ゼロの体に顔を埋めて視線だけを俺に向けているのが見えた。ついでに歩道で固まってる俺を迷惑そうに見つめる歩行者も見えたが、こっちは無視。
  そこでようやく『お父さん』が俺の名前の後ろに付けられた言葉であり、桜ちゃんから放たれた言葉だと理解できた。
  もしかしたら桜ちゃんが考えた遠坂との決別ではないだろうか? ゴゴのいない間桐邸で作り出す『遠坂桜』ではなく『間桐桜』の新しい門出の決意だとしたら・・・。
  俺がお父さん? 理解した上でまた反芻すると、曲げていた膝と腰を伸ばそうとする力が抜けて足元がふらついた。何とか立ち上がるが胸中は恥ずかしいのか嬉しいのか驚いたのか楽しいのか、よく判らない思いでぐちゃぐちゃになっている。
  それでも幸せなのだと思えた。
  そうだ、俺は間違いなく幸せだ。
  俺は桜ちゃんを追って歩道を歩く。
  先の判らない不安は何も変わっていない。聖杯戦争とは異なる問題が幾つも残っていて、遠坂との問題、凛ちゃんと桜ちゃんとの問題、稀有な才能を持った桜ちゃんの魔術の問題、始まりの御三家と言うある意味での防衛策を喪った間桐の問題など、表も裏も解決すべき事は幾らでもある。ついでに士郎の事も確認しなければ。
  俺の中には意思が合った、元々あったけど桜ちゃんに『お父さん』と呼ばれた時、その意思が―――立ち向かい、抗い、未来を掴み取ろうとする意思がより強靭なモノに変化した。
  やる気が出てきたと言い換えてもいい。
  まだ恥ずかしげに俺を見る桜ちゃんの顔を見て俺は思う。判ったよ桜ちゃん、きっと俺が・・・『お父さん』、が君の未来に幸せをもたらす、と。
  おとうさん―――。たった五文字の言葉を聞かされただけで、表向きは何も変わっていない。けれど、内面の変化は劇的で、両手に荷物を持ったまま桜ちゃんの元に歩いていくだけなのに、これまで感じた事のない幸せが込み上げてくる。
  聖杯戦争で全てを終える事も覚悟してたが、ゴゴが与えてくれた魔石『マディン』の力で俺は今も生きている。
  だから生きる。
  今もどこかで物真似をしながら元気にやってるゴゴ。お前に感謝しながら俺は強く生きる。
  俺自身の為、そして桜ちゃんの為にも生きる。生き続ける。
  今この瞬間。俺達の物語は終わり―――そして始まる。



[31538] あとがき+後日談 『間桐と遠坂は会談する』
Name: マンガ男◆da666e53 ID:d050259c
Date: 2014/05/03 15:02
  あとがき+後日談 『間桐と遠坂は会談する』



  色々あって最後の最後で更新期間が大幅に遅延してしまいましたが、何とか完結までこぎつけました。
  張っておいた伏線を出来るだけ回収したつもりですが、もしかしたら取りこぼしがあるかも・・・。
  『これはどうした!?』とご存知の方がいらっしゃったら是非とも教えてください。よろしくお願いします。
  なんやかんやで色々ありまして、結局完結まで二年以上かかってしまいました。長々とお付き合い頂きどうもありがとうございました。
  閑話も含めれば50話以上。一話の量がそれなりに多いので、よくもまあ、これだけ続いたなと自分で書いておきながらちょっと感心します。
  ゴゴはFF6のゲームクリア後に間桐邸に迷い込んで、物真似し終えて、また新たな物真似坂を上り始めたのであった・・・と、読者にとっては不完全燃焼な結末かもしれませんが。私としては世界のシステムそのものを相手にして勝つのも負けるのも見たくなかったので、こういう形にしました。
  勝てばゴゴは世界のシステムすら物真似して人が認識できない存在へと昇華するでしょう。負ければ世界のシステムは変わらず動き続けてそのままです。つまり勝っても負けても人から見れば同じなんです。まあこれは私の勝手な解釈ですけど。
  過去に旅立ったゴゴがどうなるのか・・・。これは想像してください。千五百年の時を超えて再びゴゴは集う。最強は無敵に進化した! とかね。
  構想として頭の中だけにあるのは↓↓↓こんな感じです。
  ・過去に行ったゴゴのいる世界と現代のゴゴがいる世界は別々の平行世界なのでキシュア・ゼルレッチ・シュバインオーグに出会って融合を果たす―――。
  ・過去に行ったゴゴは聖杯戦争が終わるまで現代のゴゴに気付かれないようものまね士の性質を隠し、抑止力に勝利した所で正体を明かして融合する―――。
  途中から主人公が題名の示すものまね士ではなく間桐雁夜になっていた気がしますが、とりあえずそれは無視。
  それから私が書きたかった物語は書けたと思います、多分。



  以下、最初に考えた大筋。
  1.雁夜+桜の救済。さらば臓硯+鶴野、ついでに慎二
  2.セイバー陣営フルボッコ
  3.衛宮士郎は生まれず、むしろ士郎が衛宮を倒す
  4.TYPE-MOONの世界観 vs FF6の世界観
  5.ちびアサシンを出してウェイバーを成長させる
  6.形はどうあれ衛宮切嗣と言峰綺礼の願いは叶う
  7.ミシディアうさぎ登場
  思い返してみると最初は乱入者がゴゴである必要性は皆無だったんです。4と7のFF6要素はおまけみたいでした。やっぱり雁夜と桜の救済が最も重要でしたね。
  ゴゴが三闘神の親的存在とか無いわー、どうしてこうなった?
  きっと最初は私がギルガメッシュ vs ギルガメッシュを書きたかっただけなんでしょう。覚えてませんが―――。物語中で殆ど戦ってませんけどね、あの二人。



  感想を書き込んでいただく際。感謝と共に毎度、皆々様、投稿掲示板利用上の注意事項をよくお読みになっておりますなあ、と思っておりました。
  だからこそ一点、非常に残念と言うか筆者の力不足だったというか、心残りがありました。いつの日か・・・いつの日か・・・。と待ちわびましたが、遂にその日は訪れませんでした。
  注意事項->チラシの裏について より抜粋
  ・読者の皆様も、こいつはもう卒業だと思ったら、本板への移動を促してあげて下さい。
  下記追加の注意事項で自発的に移動しなかった私がいけないのは判っておりますが、いつの日か『促して』が来るだろうか――、とか思ってましたが、結局来ませんでした。
  ・ただし、ある程度書き慣れてきたら元作品別の本板に移動しましょう。
  無念なり。もっと修行を積んで促してもらえるような作品にしろという事なのでしょう。
  そうなると別作品を掲載する必要がありますが、どうしたものか・・・。



  以前、考えた事なのですが、『ものまね士シリーズ』とかこの話の外伝扱いで書いてみようかなと思った事があります。
  ゴゴはTYPE-MOONの世界に行きましたが、他の世界に行った場合はどうなるのか・・・と。
  『ものまね士は魔法少女をものまねする』とか。
  『ものまね士は加速世界をものまねする』とか。
  『ものまね士は王の力をものまねする』とか。
  間桐邸に辿り付かずに別の物語に漂着して物真似するパターンを色々考えました。
  でも結局『どんな話にしたいか』が上手く定まらなかったので、ほとんどお蔵入りです。一部、『これなら書いてもいいんじゃね?』と健闘した物真似はありましたが、運命を物真似し終えて物語がひと段落してしまったので、私個人のやる気の問題でこれも駄目になる可能性大です。
  誰かゴゴにこれ物真似させろ! と、ネタをくれないだろうか・・・。
  書き終えた後で思ったパターンとしては三つ。『抑止力との戦い後のゴゴが物真似』『FF6が終わった後のゴゴが物真似』『過去に行ったゴゴが時を越え平行世界の話として物真似』。ただし前者二つは潜在能力がとてつもないので、どんな物語でも力押しで何とかしてしまうでしょう。よって三つ目の弱体化したゴゴの介入なら・・・少しはパワーバランスが保てるかも。
  力を膨張させ続けてTYPE-MOON世界観の魔術も楽々物真似できるゴゴならアルティメットまどかでも破壊神ビルスでも超天元突破グレンラガンでも軽く物真似しそうだ。



  それから感想掲示板にてPALUSさんが遠坂夫妻の聖杯戦争後を気にしておりましたので、後日談をちょっと書いてみました。
  読み直してみたところ。遠坂がどうなると言うよりも、雁夜がどうなったかになってしまいました。全部雁夜視点でゴゴは欠片も出ない上に『後日談1』って感じで、この調子なら2とか3まで書かないと不完全燃焼な気分・・・。
  親の反対を押し切って間桐邸に入り浸る士郎、とか。
  脱獄あるいは脱走した衛宮切嗣との最後の戦い、とか。
  遠坂との話し合いはどうにもならず再び戦いになってフルボッコ、とか。
  アニメ最終話にあった『雁夜おとうさん』を書きたかっただけの気がしますから、それが47話で叶ってしまって少しやる気が抜けたのかもしれません。
  うーん、何か違う・・・と思いましたが、とりあえず掲載しときます。
  Fate/Zeroの時に桜は多分6歳。公立小学校は満6歳の誕生日以後の最初の4月1日から小学1年生だから。大丈夫・・・だよな? 多分・・・。
  それでは後日談(仮)をどうぞ。
  
  
  
  
  
  





  後日談 『間桐と遠坂は会談する』



  ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆



  Side - 間桐雁夜





  ゴゴという強力な庇護を失った俺はこれまで考えてこなかった『責任』を強く意識するようになった。これが俺一人だったならさほど問題はない。聖杯戦争と関わる前の生活に戻ればいいだけだ。
  魔術を嫌い、臓硯との関わりを無くすために間桐邸を出て、一年に一度はある人に会うために冬木に戻っていた。そうやってずっと一人で生きてきた。生きる為に考えるのは自分一人の事だけでよかった。
  そんな生活をしている間に兄の鶴野に息子が、つまり俺にとっては甥が出来ても全く気にしなかった。
  だが今は違う。
  今の俺には守るべき家族が―――桜ちゃんがいる。
  聖杯戦争が終わってから調べて判った事だが、ゴゴは鶴野を間桐邸から追い出した時に桜ちゃんの父親名義を俺にする委任状を作らせていたのだ。それまでは兄が桜ちゃんの父親と言う事になってた。
  いつの間にそんなもんを作っていたのか? これまでずっと黙っていた真意は何か? 多々、疑問はあったが、ゴゴはもういないので考えるのは止める。
  とにかく遠坂から養子に出された桜ちゃんは一旦兄の娘となり、今は名実ともに俺の娘と言うことになっている。
  だから俺の背中にのしかかる『責任』の重さは今までよりずっと重くなった。強く意識するのは当然と言える。考える事、やるべき事、しなければいけない事は山ほどある。
  そこで俺は一人で放浪していたこれまでの生活を捨て、ゴゴに頼り切って修行ばかりしてきた一年の生活も改め、新しい間桐邸での生活を考えることにした。周囲との調和を考え、臓硯が生きていた時は考えもしなかったご近所付き合いを検討し、町内会なるものにも顔を出そうかと思った。
  もちろんこれらの生活改変以外で桜ちゃんの事は最優先事項であり、俺と桜ちゃんについては魔術協会に届け出ても問題がない情報にまで絞って報告し、『始まりの御三家ではない間桐』の地位を少しずつ少しずつ確立していく必要がある。
  桜ちゃんの稀有な属性『架空元素・虚数』は言うに及ばず、俺の中にある魔石『マディン』の力などは絶対に秘密だ。知られれば敵が増えて、最悪、封印指定を受けるかもしれない。
  桜ちゃんのことを考えるうえで救いもあった。それは臓硯からゴゴへ、そして今は俺へと引き継がれた間桐の資産がかなり多く、日々の生活についてはいきなり困窮するような事態には陥らないという事。間桐邸の中にもかなりの蓄えがあり、これだけでもしばらくは働かなくても生活できる。
  俺は桜ちゃんに魔術師の道を強制するつもりはない。だけど昔の俺のように魔術と縁を切るにしても、魔術師として大成するのを目指すとしても、その為の準備は必要だ。
  俺が桜ちゃんを守れるように今まで以上に強くある事か、桜ちゃんが自分で身を守れるぐらいに強くなること。後者の場合は魔道の家門の庇護が無くても生きていける位の力を持たなくちゃ始まらない。
  俺自身はさほど問題はない。何しろゴゴは一年で戦いに限定すればかなりの力を俺に授けてくれて、しかも『マディン』という置き土産もあるので、成長期をとうに過ぎた俺が戦う魔術師として戦闘力を上げられる。
  けれど桜ちゃんの場合はどうやってその稀有な才能を伸ばせるのかが、俺だけじゃさっぱり判らない。今更ながらゴゴから別の魔石を一つか二つぐらい残してもらったり、桜ちゃんの属性について知っている事を話してもらったりと、やればよかった事を思うが今となってはどうしようもない。
  桜ちゃんが自立するためにも力は必要だ。その為に俺は何をしなければならない? それが現時点での最も大きな課題となるが、逆に早急に解決できる大きな問題もあったりする。
  桜ちゃんを小学校へ通わす事だ。
  ゴゴはこの一年、時間を割いて桜ちゃん専属の家庭教師をもやっていたので、学力についても問題ない。密かに同年代の中ではトップクラスの頭脳を有しているだろうと俺は考えている。
  まだまだ新米だが、決して父親の贔屓目が入っていたりはしないと思う。実に鼻が高い。
  子供は学校に行かなければならない。これは義務教育として法律で定まっている位なので子供の義務だ。
  ゴゴがこの義務をどう誤魔化していたのかは今もって謎のままだ。
  とにかく桜ちゃんが学校に行くのは義務だ。それに聖杯戦争の時に間桐邸に通された士郎―――今では元気に親元から新都の学校に通ってるらしい士郎―――今は親の目が厳しいので来てないが、近く、魔術を求めて間桐に接触してきそうな士郎―――と関わってから、同年代の友達がいない寂しさを口にするようになった。
  多分、ゴゴとミシディアうさぎ達もいなくなったのも影響してるんだろう。
  「おとうさん・・・・・・。私、学校に行きたい」
  とまあ、俯きながらそう言ってくる桜ちゃんを見てしまった時に俺の心は桜ちゃんを学校に通わせよう、と即断した。
  義務なんだから行かせるのが当然だ。
  俺は早速、凛ちゃんが通っている学校への編入手続きを進めた。
  苗字は変わってしまったし、同じ学校の中に居ても別学年で気安く会えたりはしない。それでも紛れもない姉妹の二人がそばに入れるように俺に出来るありとあらゆる手を尽くした。
  凛ちゃんのいる学校へ行くと聞いた時は驚いて悩んだけど、桜ちゃんも承諾してくれた。よって話はトントン拍子に進んだ。
  桜ちゃんの前には表の世界を歩む道が、裏の世界を歩む道が、どちらも選んで歩む道が、沢山の道が―――大きく広がっている。
  どうか幸せになって欲しい。
  遠坂から会談の申し出が来たのは桜ちゃんが凛ちゃんのいる学校に編入してから三日後のことだった。
  まあ、当然だな。むしろ遅いとすら思う。





  未遠川にかけられた橋に近く、深山町にある喫茶店。そこが遠坂と間桐の両家当主が会談を行う場所となった。
  聖杯戦争が終わった時は火災により半壊した遠坂邸だが、今では建て直しが進んで八割がたは元に戻ったと聞いている。おそらく、時臣が普通より金を積んで急ピッチで直させているのだろう。
  だからこそ話し合うなら遠坂邸でも間桐邸でもよかったんだが、魔術師になると話がややこしくなる。
  どちらの家でも代々継がれてきた魔術が別の魔術師に知られるのを恐れる。もしそれでも構わないとしても、どんな罠を仕掛けられるか判らないので疑心暗鬼により話し合いどころではなくなる。更に言えば、平日の昼間で人通りの多い場所なら魔術の秘匿を重んじてむやみに魔術を行使しないだろうと打算もあった。
  たかが話し合いでもそこまで考えなければならないのが魔術師だ。面倒この上ない。
  予定されている時間きっかりに喫茶店の前を訪れると、道向かいには時臣と葵さんの姿が合った。店の中ではなく外での待ち合わせも『先に喫茶店に入っていたら先手を打つかもしれない』と考慮した結果だ。
  こちらは一人。ただし背中には魔剣ラグナロクが入ったアジャスタケースがある。対抗してる訳ではないだろうが、時臣の手には聖杯戦争の時にも見た紅い宝石をこしらえたステッキがある。
  これから行われるのは話し合いだが、俺達が敵である事実はどうあっても覆せないので、武器持参はむしろ当然だった。
  「・・・・・・・・・」
  互いに無言のまま数秒間向かい合う。
  が、いつまでも道端に突っ立っていたら通行人に迷惑なので、俺が先んじて喫茶店のドアを通った。
  念のために後ろから攻撃される可能性を思いながら注意していたが、とりあえず攻撃してくる気配はない。
  喫茶店の中には三人ほどの客が別々の場所に座っている。俺達は窓際にある四人掛けのボックス席へと移動し、間桐と遠坂でそれぞれ向かい合って座った。
  あちらが二人なので俺が面接されてるような雰囲気だ。
  「いらっしゃいませ。ご注文はお決まりでしょうか?」
  俺達が話す前にウェイトレスがやって来る。すると先に喫茶店に入られたことを意識してるのか、時臣がさっさと注文してしまった。
  「――ホットコーヒー、三つ」
  「ホット三つですね。少々お待ちください」
  席を離れたウェイトレスを見送るが、また無言で向かい合う状況が生まれて三つの呼吸音しかない。
  アジャスタケースは椅子に立てかけておいたので、手を伸ばす時間が余計だがいつでも抜刀できるようになっている。話し合いに武器を持ち込む気はない。しかし、一年でしみついた習慣に従って念には念を入れつつ、改めて時臣と葵さんを見た。
  向こうもこっちのアジャスタケースと同じようにステッキを椅子に立てかけてあった。
  時臣は話し合いの場に合っても隠しきれない僅かな怒りをにじませて俺を見ている。葵さんもまた出来るだけ無表情を心掛けて俺を見ていたが、やはり時臣と同じように―――いや、むしろ時臣よりも強い憎しみをもって俺を睨んでいる。
  俺が時臣を剣で貫いた時。葵さんは桜ちゃんの呼び出した幻獣で気絶させられた時。あの時に比べて二人とも少し痩せて見える。
  病院生活が長引いたせいだろう。
  治癒魔術でも使って強引に回復させたのか、少しだけ痩せて見えるが後遺症があるようには見えない。
  以前見た時―――。俺は時臣の方には激怒し、葵さんの方には思慕の念を抱いた。それなのに、今、同じ二人を見る俺の心は自分でも驚くほどに穏やかだ。
  そこにいる二人のように何かしらの感情の揺れがあるかと思っていたが。凪のように平静を保っている。
  きっと失望したからだ。
  もうこの二人に何も期待しないと見限ったから―――。どうでもいいと俺自身がこの二人への思いを捨てたから―――。
  俺の代わりに時臣が怒っている。その怒りはこの会談を開いた理由、つまりは凛ちゃんと桜ちゃんを接近させたことへの怒りか? それとも聖杯戦争で格下だと思っていた俺に負けた事実への怒りか? あるいはその両方か? もっと別の理由か? 俺にはどれもありそうで判断できない。
  葵さんの怒りも判らない点は同じだが、それは俺に怒っていると言うよりも俺を責めているような気がした。『どうしてこんなことをするの?』、彼女の目がそう言ってる気がする。
  もっとも、仮に葵さんからそんな言葉が出てくるんなら、そっくりそのままお返しする気は満々だ。言える機会があるのなら、是非とも桜ちゃんを養子に出したところから責めたい。
  俺達三人は結局そのまま沈黙を続け、ウェイトレスがホットコーヒーを三つ運んでくるまで無言は解消されなかった。
  ほとんど喋らない俺達の剣呑な空気―――。もっぱらその原因は目の前にいる二人の遠坂で間桐の俺ではないんだが、その雰囲気を察してか店の中からも話し声がしなくなる。
  店と客の会話位は入店時に合った筈だが、今はそれもない。
  再びウェイトレスが離れてから約十秒後。ようやく時臣が重い口を開き、話を始める。
  「・・・・・・今日は遠坂と間桐、両家の当主による話し合いの場と思ったが。間桐臓硯殿はどうされたのかな?」
  死んだと知らないのか。知った上でとぼけているのか。
  俺は本当の中に嘘を混ぜた。
  嫌味もしっかり含ませておく。
  「爺は死んだ」
  「・・・・・・死んだ? 間桐の当主が亡くなったのかね?」
  「ああ。葬式は内々で済ませたからな、知らなくても無理はない。懇意にしていた遠坂に伝えなかったのは新しい当主である俺の落ち度だ。すまん」
  軽く言う言葉の中には『本当は一年以上前に死んでるんだけどな』とは加えなかった。
  「なんという事だ――」
  「あなた・・・」
  時臣は本気で落ち込んでいる風の姿を俺に見せた。隣にいる葵さんも同じだ。
  俺へ向けていた怒りの視線を消して、ホットコーヒーが置かれた机に肘をついて両手で頭を抱えている。
  これは俺の予想だが―――。円蔵山の地下に設置されていた聖杯戦争の根幹を成す『大聖杯』が消えたのは時臣もすでに知っているだろう。あれだけ大きな自然災害で今も近隣への立ち入りは禁止されているので、こうして復帰している時臣が調べない筈がない。
  そこで時臣は二百年前の秘術を再現し、もう一度聖杯戦争を作り出す為に間桐家の当主との会談をセッティングしたのではないだろうか?
  もちろん桜ちゃんが凛ちゃんの学校に編入してきた事も会談を開いた理由の一つだろうが、この落ち込み様は俺がそう思うに十分すぎる光景だ。
  けれども現れたのは間桐の魔術などほとんど知らず、聖杯戦争にまつわる魔術も全く知らないこの俺。間桐雁夜。
  こいつが聖杯戦争を望んでいるなら落胆するのも無理はない。
  「・・・・・・・・・・・・本当に間桐臓硯殿は亡くなられたのか?」
  「――あの時、爺と俺達とは別行動だったから詳細までは判らないがな。さすがの爺も相手が悪かった。しっかり死んじまったよ」
  「相手? いったい誰の事かね?」
  「聞くんならそれに見合う対価はあるんだろうな? これはお前が無様に寝ている時に起こった『お前が知らない事』だ。遠坂の当主ともあろう御方が等価交換の基本を忘れたなんて言うなよ」
  俺がそう言うと遠坂は渋々ながらも引き下がった。
  その顔には怒り以外の感情があり、俺の話を信じていない疑惑がある。
  この話し合いが終わった後できっとまた調査するのだろう。まあ、好きにすればいいさ。
  もっとも、時臣が臓硯になっていたゴゴへと辿りつき。一年も自分を含めて周囲の大勢を騙していたと調べられるとは思えない。もし、それが出来るとすれば、聖杯戦争が始まった時にもう臓硯が死んだと知っている筈なのだから。
  「――ところで本題はまだなのか? 御二方も俺といつまでも顔を付け合せたくはないだろ?」
  ゴゴと出会う前だったならば、時臣と葵さんに向けてこんな風に話すのは不可能だった。
  合ったのは憎悪と慕情。こんな挑発めいたことは絶対に言えなかっただろう。
  そもそもさっきから時臣の言葉を聞いていて思ったんだが。この男、俺のことを相変わらず格下か魔術を放棄した落ちこぼれかと思いながら話してやがる。
  今では同じ魔術の家系の当主同士なのだからそれなりの対応を見せてもらいたいものだ。
  俺の言い方が癪に障ったのか。時臣は一瞬だけ目に怒りを浮かばせて、葵さんもそれに続いた。しかし、時臣は自分を戒めるように椅子に座り直し、悠然とした態度を見せる。
  俺はこの時、時臣が家訓としている遠坂の『常に余裕をもって優雅たれ』を思い出す。
  魔術師でありながら貴族でもあろうとする時臣の基本姿勢らしいが、俺には理解不能な考え方だ。何しろその『余裕』を俺に見せたせいで時臣は敗北した。
  絶対に勝たなければならない戦いで負けたら家訓も意味がないだろうに。
  今の俺にはどうでもいいことだ。家訓に従って好きにやってくれ。
  「・・・では本題に入ろう」
  「ああ、さっさとしてくれ」
  一瞬、時臣の口元が怒りを表すように動いたが、その口がようやく本題を語りだす。
  「遠坂家当主として間桐家当主に問う。我々は盟約により、今回の様な緊急事態を除き、むやみに接触せぬよう距離を置いてきた。それは代が変わろうとも続く崇高な誓いだ。しかし間桐雁夜、貴殿はそちらの・・・娘である、間桐桜をこちらの娘である遠坂凛の通う学校へと編入した。より近い学校がありながら、だ。これは重い咎を負うべき重大な盟約違反ではないのかね?」
  当主や貴殿と口にしながら、言葉の端々に俺を軽んじている時臣の言葉が終わる。
  桜ちゃんの部分で少し口ごもったが。自分から手放しておいて、こいつは何様のつもりなんだろうか? 口では間桐桜の名を言いつつも、まだ桜ちゃんを遠坂の娘だと思ってるんだろうか?
  確かに遠坂と間桐は同じ冬木に住むために基本は不可侵の盟約を結んでいる。これは同じ『始まりの御三家』である遠坂家と間桐家が共に魔術師の家系であり、魔術師の家は殆どが敵対し合っているから仕方なく結ばれたものだ。
  魔術は一子相伝。その家系が積み上げてきた魔術が外部に知られないようにするため、近くにいる魔術師同士は大抵が争って自分たち以外を排斥する。
  だから同じ冬木に住む必要があった間桐と遠坂は争わない様にする為に決まりを作る必要があった。
  盟約の中には『どちらの血統も絶やさぬようにする』ともあり、これが桜ちゃんが養子に出された理由だったりする。
  時臣の言い分は正しい。
  「なるほど・・・」
  ただし、それは全面的に遠坂家が正しければの話だ。
  「だが先に誓いを破ったのはそっちだろう?」
  「何?」
  「言峰璃正――。そう言えば判るか? 時臣」
  もうこの世にはいない。かつて聖杯戦争で監督役を務めた男の名を告げると、時臣は小さく息を飲んだ。
  返答がある前にさっきの時臣を真似て俺から言い放つ。
  「言峰綺礼との協力は問題じゃない。あれは誰が誰の相手をしても、誰が誰の味方をしても罰せられる決まりはないからな。だが言峰璃正だけは別だ、あの男との共謀こそ手酷い裏切りだと俺は思うが?」
  ここは街中であり一般人が数多くいる。だから『魔術』や『聖杯戦争』と固有名詞は口に出せない。『監督役』はぎりぎり大丈夫だろう。
  突然告げられた言葉に葵さんが時臣を見ていた。おそらく言峰親子と遠坂との裏取引をこの人は知らなかったと思われる。
  何の話なの? と言わんばかりの目で時臣を見つめていた。
  横から見られているのに気付いているのかいないのか、時臣が言う。
  「・・・あの出来事と今回の件とでは話が違う」
  「いいや、違わないね」
  俺は更に言葉を続ける。
  「いいか? 両家の誓いもあっちの決まりも事細かに書面にされているようなものじゃない。大部分は口約束の類だ。だからこそ厳守するのは個人の品格に左右される。お前が俺を貶めるなら、それはそっくりお前に返るぞ。誓いを守れない奴と盟約を結べないだろう? それが理由だ」
 魔術について話せないので、自己強制証文セルフギアス・スクロールでも作っておけばよかったんだよ。とは言えなかった。
  「君は私と璃正神父との間に密約があったと――そう言いたいのかな?」
  「違うのか? 本来は中立でなければならない神父から随分と情報の援助を受けていたのはお前だろうが」
  「いいや違う」
  きっぱりと時臣は嘘をつく。
  事情を知らなければ騙されるかもしれない堂々とした声だった。
  「確かに私の祖父と神父とは旧知の仲で、我々は互いの置かれている立場を熟知したうえで交友を築いていたのは間違いない。その縁で綺礼が私の弟子となったのだからな。――何故彼らが、彼らだけが天に召されなければならないのか・・・・・・」
  調べればすぐ判るので知っているのは当たり前だが、時臣は二人の言峰が死んだことをもう知っていたようだ。
  者悲しげに聞こえる言葉を聞いて葵さんが肩を震わせている。
  時臣は璃正を殺したのが息子の綺礼で、その息子も時臣を見限ってアーチャーを継承した事実を知ってるんだろうか? もしその二つの事実を知った上で堂々と言ってるんだとしたら、こいつは大した役者だ。
  時臣はさらに続ける。
  「しかしあの出来事が始まってから我々は私心を捨て、各々の役目を全うしたのだ。間桐雁夜、君の言い分は単なる邪推だ。これ以上死者を貶めるのは止めたまえ」
  こいつは魔術師じゃなくて役者になった方が大成するんじゃないだろうか? 冗談抜きで俺はそう思った。
  外面の良さと言葉の巧みな言い回し。これらを駆使して時臣はこの場での主導権をもぎ取った。
  喫茶店の中に居て俺達の会話に耳を傾けている客たちが俺を見ている。『なんて酷い男だ』と見えない言葉の矢が突き刺さりそうで、少しだけ視線が痛い。
  「つまり、天地神明に誓って密約は無かったと? 後ろ暗いことなど何一つ無い、と?」
  「無論だ」
  俺の問いかけに時臣は自信満々に返してきた。自分たちの策略が外部に知られる筈がないと思っているんだろう。
  俺はまだ言峰璃正が生きていた時に時臣との繋がりを示唆しておいた。その事はこいつにも伝わってると思ったんだが、短くない病院生活で忘れてしまったんだろうか?
  「凛ちゃんの親として――誓えるか?」
  「――勿論だ。何ら疚しい事は無い!」
  返答が一瞬遅れたのはどうしてここで『遠坂凛』の名前が出てくるのか時臣には判らなかったからだろう。
  時臣、お前は桜ちゃんの父親であることを止めた。だからお前には今の俺の気持ちは永遠に判らない。どんな思いで『父として誓えるか』と言ったか、お前には絶対に判るまい。
  「遠坂邸の地下と冬木教会の地下から連絡を取り合う通信機が発見されて、しかもあれの途中でお前たち二人が話した内容が録音されてるテープが合ったりするんだがな――」
  「何・・・?」
  冬木教会の地下には魔導通信機、そして遠坂邸の工房からは宝石通信機が発見された―――。という話をゴゴから聞いているだけで、俺はその存在については全く知らない。
  当然、テープなんてのはこの世に存在せず。もし本当に第三者が言峰璃正と時臣のやり取りを聞いていたとしたら、それはゴゴだけだ。俺は直接会話を聞いた訳じゃない。
  しかし時臣はそんな事を知りようがない。当事者たちしか知らない秘密をいきなり暴かれ、時臣の『優雅』の仮面が徐々に剥がれだす。
  「馬鹿な――。言いがかりだ」
  「テープの音声をお前の肉声と比較すれば、すぐに同じ声紋だって判断されるだろうな。近頃の技術の進歩ってやつは俺達が思うより遥かに進んでるぜ」
  時臣に対抗して、俺も堂々と嘘をつく。
  「盗人のように神の家を、我が家をも探ったのか・・・」
  「お前も言峰綺礼にやらせてただろうが。何一人で被害者面してやがる。言峰綺礼が実行犯ならお前は計画犯だ、自分は手を汚さないように振る舞ってるから余計にたちが悪い。優雅な盗人にでもなりたかったのかお前は?」
  今度は時臣が周囲の目を集める番だった。
  「それから時臣、お前は盟約について一番大事な部分が抜けてるぞ」
  「大事な部分だと?」
  時臣の声に焦りが出始める。
  「間桐と遠坂の盟約は『あれ』の存在があって初めて意味を持つ。円蔵山の状態を知ってるなら判るだろう? 『あれ』がもう無意味な過去の産物になってるのは他の誰でもないお前が一番よく判る筈だ。再開が絶望的なら盟約そのものが意味を無くす」
  「そんなことは無い。聖は――」
  「とにかく!!」
  狼狽する時臣の口から『聖杯戦争』と出てきそうだったので、少し強めの口調で誤魔化す。
  時臣にとって聖杯戦争は遠坂家の悲願であり存在意義そのものと言ってもいい。共謀については何とか誤魔化そうとしても、聖杯戦争の消滅を出されては感情を抑えきれなかったようだ。
  さっきまであった『余裕』も『優雅』も消えてしまっている。
  「盟約の事は俺の中じゃ消えた過去だ。凛ちゃんと桜ちゃんが近づこうがそれは問題じゃない。神父との会話は黙っていてやるから頭を冷やしてよく考えるんだな」
  時臣はそう言った俺を見て何か言いたげに口を開くが、そこから追及や反論は出てこなかい。小さく口を開閉するだけで言葉はなかった。
  時臣がこの調子では今回の会談ではこれ以上は時間の無駄になるだろう。
  俺は椅子から立ち上がってポケットの中に合った財布から千円札を一枚取り出して机の上に置いた。
  この二人のどちらでも奢られるつもりはない。
  「じゃあ、いずれまたな――」
  聖杯戦争もそうだが、俺が切って捨てた盟約も、魔術師の根幹に関わる根深い問題だ。今は動揺して話が出来ない状態に陥っても、すぐに時臣は復活するだろう。
  そうなれば必ず次が、そしてその次の話し合いが行われる。
  俺は次回と次々回が訪れると確信しながらアジャスタケースを背負って出口へ歩いていく。
  「雁夜君――」
  出ていこうとした俺の背中に葵さんから声がかかった。振り返って見ると、椅子の上で上半身だけを向けた体勢の葵さんがいる。
  「何か?」
  「あの・・・・・・」
  夫の心配をする妻は何かを俺に言いたげだったが、夫と同じように言葉を出さない。
  何か言いたげの様子のまま一秒、二秒、三秒とどんどん時間は経過していく。
  もしかしたら聖杯戦争の時に言ってしまった言葉を悔いて謝りたいのかもしれない。
  もしかしたら桜ちゃんの事を聞きたがっているのかもしれない。
  もしかしたら今、時臣に言った事が本当なのか確かめたいのかもしれない。
  けれど葵さんの思いは言葉にはならず、あるのはただ沈黙だけ。
  俺は段々苛々してきた。どうして、桜ちゃんを捨てた母親に気を遣って待たなければならないのか。
  考えてみれば俺が言った『何か?』の言葉もすさまじく他人行儀な言い方だった。苛々する前から、もうこの人との間には何もないと俺自身が決めていた。
  もう慕情も友愛も何一つない。『葵さん』とは単なる個人を示す言葉であり、それ以上の意味はもう無い。
  だから俺は拒絶の意思を存分に混ぜ込んでこう言った。
  「さようなら――。遠坂葵さん」
  そして俺は二人を置いて喫茶店を出た。





  凛ちゃんが通う―――つまり今では桜ちゃんも通うようになった学校は間桐邸からかなり離れている。
  大人の足でなら毎日の通学は問題ないのだが、子供の足では登校だけで非常に疲れてしまう。バス通学という手もあるが、俺はあえて自転車での送り迎えを選んだ。
  出来るだけ一緒の時間を過ごしたいと俺が思ったからだ。
  桜ちゃん送迎用に自転車を購入し、ギア比やブレーキをいじって、ペダルを通常より重くして、訓練用自転車に仕立て上げた一品だ。
  前にはカゴ。後ろには桜ちゃんを乗せる為の荷台。見た目が普通のシティサイクルなのは気にしないでおく。
  桜ちゃんに仲のいい友達が出来て一緒に帰ったり、間桐邸と学校の往復も問題ないぐらいの体力がついたら別の方法を考えたりするが、今は自転車での送り迎えを受け入れてもらっている。
  実は喫茶店までの移動にも使った自転車、アジャスタケースを背負ったまま乗ると重さでタイヤが軋む。タイヤのゴムをもっと強力な物と交換しようかと考えながら、軽々と―――常人なら十メートルも進めば息切れするだろうペダルの重さを感じさせず―――俺は桜ちゃんと凛ちゃんが通う学校へと突き進んだ。
  そのまま一気に校門までは行かず、少し離れた場所で停車する。ちょうど学校が終わった時間に辿りつけたので、辺りには小学生の姿が多い。
  この小学校。制服着用の義務があるので、男女の違いはあっても道行く子供のほとんどが同じ格好だ。
  しばらく桜ちゃんがどこにいるか探して・・・人の流れの中に目を凝らす俺の姿は奇異に映ると判りながらも続け、一分ほどかかってようやく見つけられた。
  三人組の輪の中の左端。残る二人の女の子はクラスメイトだろうか? その二人が活発に話すのに比べ、少し距離を取って一緒にいるように見えるのは、まだ彼女たちの輪の中に入れていないからか。
  それでもこれまで無かった光景から、少しずつ表の世界に馴染んでいけるだろう予感がある。
  向こうはまだ俺に気付いていないようなので片手を大きく揚げる。すると顔を上げた桜ちゃんと視線が合って、隣にいた二人に何か話してから小走りで近づいてきた。
  見つけた時は少し顔が暗かったが、走ってくる内に明るくなっていく。
  「おとうさん・・・」
  「お疲れ様。桜ちゃん」
  聖杯戦争や魔術など全く関係のない自分たちの置かれた状態を確かめ合うように、俺達は互いの名を呼びあった。まだ『おとうさん』の部分に多少ぎこちなさがある。
  そのぎこちなさが消えてなくなって、何の変哲もない父娘になれる日は来るんだろうか?
  いや。自分たちで掴み取り、実現してみせる。
  「ねえねえ。この人、桜ちゃんのおとうさん?」
  「う、うん・・・」
  心に宿った決意の炎を新たに燃やしていると、さっきまで桜ちゃんと並んでいた二人が追い付いてきた。
  話しかけられた桜ちゃんは真ん中にいた女の子の気安さと言うか押しの強さにちょっと引いている。
  頑張れ桜ちゃん。この問題は俺じゃどうしようもない。桜ちゃんが自分でどうにかするんだ! そうやって心の中で応援しておく。
  「間桐雁夜です、よろしく」
  俺は『間桐桜の父』に見えるように笑みを作って挨拶した。
  そうしたら寄って来たはずの二人は少し後ろに下がって、こそこそと何かを話し始めた。
  本人たちは聞こえてないつもりなのかもしれないが、『うちのおとうさんよりは』とか『まあまあ』とか聞こえるので、どうやら彼女たちの父親と比較されているようだ。
  その後は―――。親世代が一人、子世代が三人の合計四人で少し話に花が咲いた。
  真ん中にいた女の子は桜ちゃんと同じクラスの委員長で、先生から編入したばかりの桜ちゃんに気を遣って欲しいと頼まれたとの事。もう一人はその委員長の友達で、これに桜ちゃんを加えた新しい輪が形成されていくようだ。
  桜ちゃんは物静かだけど勉強ができてしかも綺麗だからクラスの中で人気が出てきてる―――や。
  クラスの男たちは桜ちゃんにちょっかいをかけて困ってる―――などの話も聞けた。
  そのまま話し込んでもよかったのだけれど、寄り道はいけないからとさよならするしかなかった。今はまだ彼女らと俺達とでは帰り道が違うので、今後の課題の一つとしておこう。
  立ち去っていく二人を見送り、小さいながらも腕を振ってさようならをする桜ちゃん。俺はその背中に声をかける。
  「学校は楽しい?」
  「・・・まだ、よく・・・わからないけど。楽しい・・・と、思う」
  自分の中の感情を確かめるように桜ちゃんは言葉を切りながら言った。
  「そっか」
  少なくとも『すごく嫌な事』は起こっていないようだから、今はそれで十分すぎる。
  自転車の後ろにある荷台に桜ちゃんが乗り、サドルに腰掛けて俺が背負っているアジャスタケースを握りしめる。いつかは思いっきり俺にしがみ付いてきてくれるだろう未来を想像しながら、俺は一気にペダルを踏み込んだ。
  踏み込むと同時に自転車がギシリと嫌な音を立てたが、車輪が回転し始めると軽快に進んでいく。そのまま間桐邸に向か―――わずに、俺達は学校の裏手へと回りこむ。
  木が密集していて、用事でもなければ誰も近づかないさみしげな場所で一旦自転車を止める。
  そこでて桜ちゃんが木の一本を見上げながら言う。
  「ゼロ――」
  「むぐ~」
  呼べば応える声がある。一秒も間をおかずに即座に返事が合って、桜ちゃんが呼びかけた木の上からミシディアうさぎのゼロが姿を見せた。そのまま跳躍して空を舞い、アジャスタケースを握る桜ちゃんの両手の隙間に飛び込んだ。
  ペットと呼ぶには少々目立ちすぎるこいつが学校に通う桜ちゃんのそばにいる理由。それはゼロ自身がそう望んだからだ。
  ミシディアうさぎは元々がゴゴの魔力によって生まれた生き物だ。そして唯一ゼロだけは桜ちゃんの使い魔としてこの世界に残った。だからこそ存在を維持し続ける為には誰かの魔力が必要であり、距離の近さがそのまま主との繋がりの深さに比例するらしい。
  だからゼロは桜ちゃんが学校に通っている間でもそばに居なければならないのだ―――。と、ゼロは桜ちゃんを通して俺に説明した。
  一応は納得できる理由なんだが、俺はゼロがゴゴも仲間だったミシディアうさぎ達もいない今の間桐邸がつまらないから、外で遊びたいだけだろうと考えている。
  ゼロがそばにいてくれるので桜ちゃんが安心しているので言葉にはしないが・・・。
  ゼロが飛び降りてきた木の向こう側には学校の敷地内が少しだけ見えて、まだ幾人か残る生徒が確認できた。
  上級生のクラブ活動か、それとも下級生より長い授業時間か。遠すぎて判らないが、もしかしたら、あの中に凛ちゃんがいるかもしれない。
  新しく作っている最中の俺達の日常はまだまだ問題が山積みだ。けれど、いつの日か―――桜ちゃんがそれを望めばだが―――この学校の中で何の憂いも無く桜ちゃんが凛ちゃんを『お姉ちゃん』と呼ぶ日を迎えてみせる。
  その為にも遠坂との問題を解決しなければならない。その他の事も色々と対処する必要がある。
  先行きの険しさを考えずにはいられない。それでも、間違いなく、何でもない日常だからこそ、俺は幸せなんだと断言する。
  「むぐ!」
  出発進行! とでも言わんばかりに鳴くゼロの声を聞きながら、俺は自転車をこぎだした。



[31538] 後日談2 『一年後。魔術師(見習い含む)たちはそれぞれの日常を生きる』
Name: マンガ男◆da666e53 ID:fcc63a76
Date: 2014/05/31 02:12
  後日談2 『一年後。魔術師(見習い含む)たちはそれぞれの日常を生きる』



  ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆



  Side - 間桐雁夜





  もう一年と考えるべきか、まだ一年と考えるべきか。過ぎ去った時間を考えれば俺が間桐に戻ってから聖杯戦争が始まるまでの期間と、聖杯戦争が終わってから今に至るまでの期間は等しく『一年』となる。
  ただし、どちらも同じ一年なんだが、生活の在り方はまるで別物で、どちらの一年も間桐邸の生活を起点にしてるから違いが顕著だ。
  物騒ではない平穏な一年は桜ちゃんの安全を考えるなら望むところなんだが、真剣に殺し合う―――あの当時は一方的にこっちが殺されてたが―――相手がいないと剣の腕がどんどん鈍っていくのを実感していた。
  周囲への観察力や筋力を衰えさせてはいないと自負してるが、実戦から遠のいたせいで魔剣ラグナロクを振るう機会がない。今更ながら俺は実戦に勝る修行は無いと思い知らされていた。
  剣の腕についてはまだまだ未熟だと自覚してるし、俺の中に溶けた魔石『マディン』の力も合ってまだまだ向上の余地があると思っている。二人と一匹の生活を確立するのに忙しく、これまでは独学で何とかやってきたつもりだが、誰かに師事するのも考慮する必要があるかもしれない。
  一人きりで剣を振っても鈍るばかりだ。
  もっとも、今でもゴゴ以上に剣と魔法を融合させる戦い方に長けた奴がいるとは思えないんだが・・・。
  それはそれとして私室で本を読んでいた俺は間桐邸に近づいてくる誰かを察知する。
  間桐邸を隅から隅まで埋め尽くす結界を継承した当時、結界は間桐邸の敷地内だけを覆っていたんだが、今では少し範囲が広がって間桐邸から見える景色を確認できるようになった。
  把握できる範囲は今までと全く変わってないんだが、『見える』範囲は継承時と比較して一割ほど広まった。ただ、広がった範囲は見えるだけで結界の外側なのは変わりないので、事前の心構えが少し早く出来る位しか役立ったことは無い。監視カメラが付くか付かないかの違い程度で、結界の外は見えるだけで攻撃できない。
  間桐雁夜の肉眼が本を読み、見えないけれど確実に存在するもう一つの目―――頭の中に浮かぶ映像を目以外で認識しているような感覚を同時に操り、間桐邸の外側と内側の両方を見る。
  俺は本を閉じながら、意識を外に向けようとした。
  今閉じた本。これは亡き臓硯が残した魔道書の一つなんだが。あの蟲爺、『自分が読めればそれでいい』と考えていたので、独特の文字の書き順だったり、滅茶苦茶な時系列だったり、読み辛い字だったりと、俺にとっては暗号と変わりない。
  以前からゴゴから学んだ魔法以外にも間桐が本来持ちえた魔術も何かしら活用できないかと思って読み漁ってみたが、実を結んではいない。前にゴゴに尋ねた所、あいつは間桐邸にある蔵書には一通り目を通して理解したと言っていた。
  その時は魔剣ラグナロクを扱うのと氷属性の魔法を覚えるのに忙しくてそれどころじゃなかったんだが、一体、どうやってこんな間桐臓硯専用の魔道書を読み解いたのやら・・・。
  ―――駄目だ。
  結界の外側から近づいてくる誰かから意識を逸らしたくて、思考が関係ない方向に飛んでいく。
  仕方なく俺はちゃんと結界の外に意識を向け、目に見える部屋の風景とは別の風景を頭の中で見る。
  一年前から始まったご近所付き合いは成果を出し始め、自動車が突っ込んで放置されていた時に『何かある』と言われ、ゴゴが来る以前は幽霊屋敷とすら噂されていた間桐邸も。今ではちゃんと人の住んでいる大きめの家として認知されている。
  やはり桜ちゃんの送り迎えや、人が起きだす時間を狙っての道路掃除や庭の手入れやらが功を奏したと見るべきだろう。魔石『マディン』の恩恵により、眠らず疲れずの肉体になれたのをありがたく思う。そのお陰でこれまでは無かった訪問販売や町内連絡やらで間桐邸を訪れる人も増えたが、今、向かってきているのはそのどれでもない。
  そいつの住んでいる場所は間桐邸から遠く離れていて、間違っても『ご近所』では括れない。そして少し離れた場所に住んでる桜ちゃんの学校の友達でもない。
  目で見る以外の方法で間桐邸の外を見る俺の心はある言葉を繰り返していた。
  またか・・・。
  また来たのか・・・。
  見るまでも無く、特定の曜日の、特定の時間に接近してくるものがいれば、それが誰がなのは事前に判る。
  だから考えたくない。けれど、間桐邸の結界そのものと言ってもいい、今の俺にはその来訪者の存在をしっかりと認識してしまう。
  休日の昼間に全速力で自転車を漕いでわざわざ間桐邸を訪れる奴。しかもそれが一メートルを少し上回るぐらいの大きさともなればもう一人しかいない。
  またか・・・。
  また来たのか・・・。
  俺はまた頭の中で同じことを繰り返しながら、大きくため息をついた。
  いっその事、落ち込んでいくこの気持ちを向かってくる奴に教えてやれればいいと思ったが、こいつはそれを知った所で現状を改めるような奴じゃない。そんな諦めのいい奴ならこんな事態には陥っていないのだから。
  急ブレーキをかけて自転車を止め、俺にとっての疫病神が間桐邸の門扉の前に静止する。
  そしてインターフォンを押す時間すら惜しいとばかりに間桐邸の全域に聞こえる大声を発した。


  「ごめんくださーい!!」


  出来れば無視したいのだけれど、間桐邸に張られた結界は余すことなく伝わってきた音を結界の起点である俺に教えてくれる。仮に結界を通して俺が見ていなかったとしても、子供特有に甲高く大きな肉声は恨めしい事に俺の部屋までしっかり届いていた。
  どうして子供の声と言うのはこうも聞き取りやすいのか。親が子の危機を感知する為に聞き取りやすい波長なのだとか、何かしらの理由があるのだろうが、今の俺にとっては気落ちする材料でしかない。
  聞かずに済ますのは無理だった。
  「誰かいらっしゃいますかー!」
  そいつは―――その子供は道路から間桐邸に向けて更に訴えかける。
  もはや慣例となってしまったので『行事』と言うのが正しい訪問は主に休日に昼間に行われ続けている。そしてそのたびに俺は電話をとって、子供の保護者の所に電話を入れるのだ。
  腰かけていた椅子から立ち上がり、備え付けの電話に手を伸ばしてとある番号を呼び出す。もう、数えるのも嫌になる程繰り返してきた動作なので、考える以前に手がその番号を覚えている。
  呼び出し音は二回。こうして間桐邸から電話がかかってくるのは向こうも承知しているので、受話器の前で待ち構えていたのだろう。そうでなければこれだけ早く電話に出られる説明が出来ない。
  「間桐雁夜です」
  本来ならここで『今、お時間よろしいですか』や、電話をかけた先が間違っていないか確認する所なんだが。この電話だけは間違える自信が無い。
  いっそ間違えられたらどれだけ楽か―――。電話をかけた先を間違えてしまえば事態が長引くと判っているので、絶対に間違えないようにしている俺がいる。
  嫌な自信だ。
  「お宅のお子さんがまたやって来てるんで引き取ってもらえませんか? 何度も言いますが、近所迷惑で困ってるんです」
  「・・・・・・・・・判りました」
  数瞬の後、渋々と女の声で承諾の意が返ってくる。
  話しを続けてもお互い悪態しか出てこないのは判っているので、無礼と知りつつも俺は即座に電話を切った。
  「・・・・・・なんで、俺がこんな事を――」
  電話を終えた俺はすぐに玄関から外に向かい、今も門扉の向こう側から間桐邸に向けて声を出し続けている子供の元へと走る。
  そして十秒とかからずに玄関を開け放ち、子供を叱りつける親というよりは憎しみも殺意も込めた敵を見る一人の戦士として怒気を放つ。
  そこまでしなければこの子供が止まらないと判っているからだ。もっとも、一週間か長くても二週間もすればすぐに過去を忘れて再突撃してくるんだがな・・・。


  「喧しいぞ士郎、とっとと帰れ!!」


  気弱な人間なら失神してもおかしくない位の覇気を込めて怒鳴ったが、この子供―――士郎はこの一年で何度も味わってるから慣れが出てきたらしく、ビクッ! と体を震わせて声を止めるだけに終わった。
  最初は顔面蒼白になって硬直してたのに、段々と図太くなってきやがる。
  「・・・・・・こんばんは、雁夜さん」
  「お前に気安く呼ばれる程、親しい仲になった覚えは無い。よって帰れ、すぐ帰れ、迷惑だから帰れ」
  士郎が間桐邸にこうして突撃するようになったのは聖杯戦争が終わり、俺と桜ちゃんとミシディアうさぎとの生活を確立しようとしていた頃・・・。正確な日数は覚えていないが、戦争終結から二か月ほど経った後だ。
  士郎がわざわざ間桐邸を訪れる理由は求める『魔術』の取っ掛かりが間桐にこそあるからに他ならない。他に魔術に連なるモノが見つからないと言い換えてもいい。
  ついでに言えば、士郎は言葉では言い表せないとしても直感的に理解しているのだろう。こちらが一般人に魔術が秘匿されるならばどれだけ悪辣な手段であろうとも行使する普通の魔術師とは違い、むしろ『普通の魔術師』とは一線を介するせいで強く出れないという事を間違いなく判っている。
  だから何度も家に来る。
  だから何度も大声で間桐の誰かを呼ぶ。
  だからわざわざ新都から冬木大橋を渡って深山町に入り、何度も何度も間桐邸を訪れてはとんでもない事を堂々と言えるのだ。
  「お願いします! 僕に魔法を教えてください」
  「そんな子供の夢物語に大人の俺を巻き込むな、こっちだって色々と忙しいんだよ。そんなに『魔法』が知りたきゃ絵本のシンデレラでも買って魔女を参考にしろ、オズの魔法使いでも買って読んでろ」
  「そんな嘘っこじゃなくて本当の魔法が知りたいんです」
  「俺が知る訳ないだろうが。子供のお遊びなら余所でやれ余所で、うせろ」
  いつも思うが、二桁にも達してない子供にしては街をほぼ二つ分移動するとは異様な行動力だ。俺が『マディン』の力を継承したのと同じように、士郎の中には『鬼神』の力が残ってるんじゃなかろうか?
  当たり前だが士郎に魔術を教えられる訳がない。たとえ、三闘神の『鬼神』を授かった同類であり、その事実から魔術面において桜ちゃんと同等程度の才能を有していたとしても、士郎は脈々と続く魔術師の家系でも何でもない一般人に過ぎない。
  そもそもわざわざ魔術について教えてやる義理は無く、殺されないだけありがたいと思って欲しいぐらいだ。
  士郎の両親は度々間桐邸に突撃する息子を叱っても、それ以上に俺達を―――、ゴゴのいない今となっては当事者は俺だけになっちまったが。衛宮切嗣という大量殺人者が警察に逮捕されたと知っている筈なのに―――ついでにとある事情で衛宮切嗣は法の手から脱獄したのだが―――今だに『間桐』を毛嫌いし、何か得体のしれない力を使う異邦人だと思ってやがる。
  きっとあの家で間桐は宇宙人と同列扱いなのだろう。
  表の世界からは隔離された『魔術』の件があるから、ある意味で奇異な目を向けるのは間違ってないんだが、殺人者と同列に見るのはいい加減やめてほしい。大体、こっちを怪しんでみるのなら、縛り付けてでも士郎が来ない様にすべきじゃないだろうか?
  電話を受ける前にもう息子が間桐邸に突撃しているのは向こうの家に伝わっている、いや、判っている事なので。門扉を挟んで怒鳴りあう俺達の会話が始まってから、二分と経たずに自動車がやってきた。
  士郎の後ろに停車した自動車の運転席に座っている男が俺を見る。
  当然、こっちも見返す。
  もう何度見たか判らない。見るたびに『いい加減、これで見納めにしたい』と思ってる士郎の父親が運転席から出てきた。すぐに士郎の両脇に手を突っ込んで、逃げられない様に持ち上げた。
  「何度も言ってだろうが、間桐さんのお宅にご迷惑をかけるんじゃない。さあ、帰るぞ」
  「やだ!!」
  俺に話しかけてきた時は少し敬語が混じった話し方だったが、どうやらそれは剥がれるメッキだったらしく、段々と口調が子供っぽく―――自分の主張をまず押し通そうとする感情で話す調子に変わっていく。
  俺は騒ぎ立てる士郎を見ず、抱きかかえている父親の方を見て言った。
  「こっちとしてはいい加減にして欲しいですけどね、お子さんの妄言に付き合うのは時間の無駄なんですよ。父親としてちゃんとしてくれませんか?」
  「・・・・・・ええ、判っております。ご迷惑をおかけしました」
  口ではそう言ってるが、前述の通り、俺を見る目は心の底から謝ろうとする者の目ではない。むしろ、何かを隠している犯罪者を糾弾しようとする目で見てやがる。
  もしかしてこの男。士郎をわざと間桐邸にやってこさせて、こっちの悪事を暴こうなんてとんでもない事を考えてたりしないだろうか。一年前のやり取りで懲りてなかったらありえそうな考え方だ。
  子供の力では父親には叶わず、自動車の助手席に放り込まれていく士郎だが、その目が『また来てやる』と語っている。頼むから、間桐にも魔術にも関わらないでほしい。
  いっその事、警察にでも通報して『子供が何度も家を訪れて困ってます』と相談するのも考えたが。現時点ではピンポンダッシュや石を投げて窓を壊したりなど、明確な罪を犯した訳じゃない。ただ家の前で喧しく騒ぎ立てているだけなので、親を含めて口頭での注意に終わる可能性が高い。
  桜ちゃんが通っている小学校でもたまに見かけるから大声で話す子供など珍しくは無い。
  俺は口頭程度の罰で事態が終わるとは思えなかった。
  去りゆく自動車を見送りながら、次の休日には子供の姿をした爆弾がまた投下されるんだろうと考える。
  聖杯戦争が終わってから一年。魔術師たちの闘争に巻き込まれた士郎と俺達が知り合ってからも一年。あの日を境にして多くの問題が解決し、別の問題が多く出現した。
  「・・・・・・なんで、俺がこんな目に――」
  さっき呟いた言葉と似たような事を呟きながら、俺は間桐邸の中へと戻っていく。
  士郎が突撃し始めた当初、ご近所の方達から『何事だ!?』と間桐邸の周囲に野次馬の山が出来ていたが、今では『またか・・・』と諦めてわざわざ見に来る者もいない。
  騒ぎ立てられるよりは傍観してくれた方がありがたいが、このやり取りを間桐の日常の一コマと認識してもらうのは困る。本格的に士郎の対処について考える時が来たのかもしれない。
  そんな風に精神的な疲れを感じながら部屋に戻ろうとすると、二階から降りてくる者を感じた。
  階段を下りる音は小さくないので耳を澄ませば聞こえてくるが、俺は聞こえる音を判断して誰かが降りて来てると判った訳じゃない。間桐邸を包み込む結界が、五感以上に邸内の様子を俺に教えてくれるからだ。
  ありがたくもあり、迷惑でもあるこの結界。ただし解除する気は全くない。
  蟲爺とゴゴがそれぞれどんな風にこの結界を扱っていたのかを考える前に、階段を降り切った小柄な女の子が俺の視界に飛び込んでくる。
  一年前、いや、ゴゴが現れた時から考えれば二年前からその小柄な女の子が誰かなのは結界の有無に関わらず誰か判っていた。けれど、今、それは確定した女の子ではなく『どちらか』になってしまった。
  嬉しくないと言えば嘘になる。
  まだ二階に留まって勉強に励んでいるもう一人の女の子の事を思えば、今の状況は望んですらいる光景だ。
  けれどこの状況に弊害があるのもまた事実。俺は降りてきた女の子―――二年前からだったらそれは確実に桜ちゃんだったんだが、そうではないもう一人女の子―――に向けて声をかける。


  「やあ、凛ちゃん」


  「こっちまで怒鳴り声が聞こえてきたわ。またなの?」
  「ああ――、まただ」
  「ふうん・・・・・・。いい加減、諦めればいいのにね、その子」
  ツインテールを黒いリボンでまとめ、右側に降りた髪を指で弄りながら話す少女『遠坂凛』。
  聞き分けのない年下の子供を諭すように話しているが、確か士郎と凛ちゃんは同じ年だった筈。精神的に成熟しているのはどちらかなのかは考えるまでも無いので、凛ちゃんの話し方は間違ってはいない気もする。
  「そっちはどう?」
  「全然、ダメ。遠坂の魔道書と全然違うんだもの」
  「それを言われると辛いな・・・。正直、魔術の読解については俺も桜ちゃんも力になれないから」
  「でも平気。絶対に解読してみせるから」
  勝気な笑みを浮かべる凛ちゃんからは悲愴な様子は欠片も見えず、桜ちゃんが養子に出された事や聖杯戦争の事で落ち込んでいた時に見せていた悲しげな顔は全く無い。かつて病室で見た『コトネ』と言う名前の少女が起きて、これまでと同じように学校に行けるようになった話も関係している筈だ。
  そんな凛ちゃんを追いかけて、二階からもう一人の女の子が姿を見せる。五感で感じる間桐邸とは違う頭の中にだけ存在し、結界によって構築されるもう一つの間桐邸の様子から見る以前に近づいていると判っていたが、理解しているのと目の当たりにするのとでは趣が異なる。
  もう一人の女の子、桜ちゃんが凛ちゃんを追って階段を下ってきた。
  「お姉ちゃん――。ここが読めないから・・・」
  教えて、と続ける前に俺が居るのに気付いて、持っている本―――おそらく小学校の教科書と思われる―――を閉じて胸の前で抱きかかえた。
  強く抱いたせいで本がひしゃげて妙な折り目が付いてしまったが、桜ちゃんは気にせずに握りしめ続ける。
  もしかして俺に勉強している所を見られたのが恥ずかしいのか? それとも『お姉ちゃん』こと凛ちゃんに聞こうとしたのを見られて恥ずかしいのか? 判らん。
  以前から『判ってる』等と豪語するつもりは無いが、女の子の考えは俺にとっては未知の領域だ。一緒に生活するようになって少しは判ったつもりになっていても、生活や環境が変わればそれに合わせて色々な事も変わって理解していたつもりの事が判らなくなってしまう。成長していくにつれて身長はお互い近づいているが、心の壁はどんどん大きくなっていく。
  世のお父さんは同じように娘との付き合いに苦心しているのだろうか?
  何がそんなに恥ずかしいんだ桜ちゃん? 俺には判らないよ。
  「い・・・行こ、お姉ちゃん」
  「桜――」
  凛ちゃんが何か言うよりも早く、桜ちゃんは凛ちゃんの腕を掴んで二階に走って行ってしまう。
  あっという間に目で見える範囲からいなくなってしまうが、結界から伝わってくる情報で元々二人がいた部屋へと戻っていくのが判る。戻る先は桜ちゃんの部屋だ。
  仲良く戻っていく凛ちゃんと桜ちゃんの背中を見送りながら、俺はこうなった経緯を思い出す。
  聖杯戦争が終わった時から始まった遠坂と間桐の会談。間桐と言うより、俺には俺の言い分があり、遠坂には遠坂の言い分がある。
  その二つは決して交わることは無く、こちらは生粋の魔術師である遠坂に対して妥協するつもりは無く、あちらは落ちぶれた間桐に対して譲歩するつもりは無い。ようするに間桐と遠坂の盟約やその他の魔術の問題について、一年経った今でも折衷案すら出来ていないのが現実だったりする。
  両家が率先して問題を解決しようとしてないのも大きな理由の一つだと俺は思う。
  そのお陰か、凛ちゃんと桜ちゃんが同じ学校に通っている状況は継続され続け、今では名字は違っても仲のいい姉妹として定着しつつある。
  もっとも。学校については桜ちゃんから聞く話が殆どであり、客観的事実に基づく話ではないのでどこまで本当かは判らない。
  口さがない子供が名字の違う二人をからかったと言う話も聞いたが、そのいじめっ子はクラスどころか学校でも一目置かれている凛ちゃんから強烈な制裁を受けて二度と同じ事を繰り返さなくなったらしい。繰り返すが俺にはその真偽を確かめる術は無い、ただ桜ちゃんから聞く話を信じるだけだ。
  何をしたんだ凛ちゃん・・・。
  その凛ちゃんがたびたび間桐邸を訪れるようになったのは三か月ほど前からだ。
  遠坂の娘『遠坂凛』と間桐の娘『間桐桜』。共に血の繋がった姉妹でありながら、今では別々の魔術師の家の子供となった娘たち。
  魔術を基本に考えるなら、両家にて秘匿されるべき魔術の漏洩を防ぐ為。そして無用な争いを生まぬ為に、接触は最低限に抑えるべきだ。
  だが俺はそんな魔術師の事情なんてどうでもいい。普通の魔術師がどう思おうと、優先すべきは桜ちゃんの幸福であり、桜ちゃんが凛ちゃんと近づこうとするのならば、その為に俺が最大限の努力をするのは当然だ。
  これまで何度か行われてきた間桐と遠坂の会談で『二人の姉妹をもっと仲良くさせるべきだ』と申し出たが、魔術師の視点で考えるあの夫婦が承諾したことは無い。
  けれど凛ちゃんは間桐邸にいる。
  思い返せば凛ちゃんがやってきた日の事を昨日の事の様に脳裏に浮かべられる。
  俺にとっては完全な敵である遠坂時臣と遠坂葵の姿は無かった。ただ一人―――休日の昼間に来訪した小さな女の子はインターフォンを介して俺にこう言った。
  「・・・・・・・・・ねえ、桜はいる? 会いに来たの」
  俺はその時に見た桜ちゃんの顔を一生忘れないと思う。
  凛ちゃんの訪れを知って。恥ずかしそうに、けれども嬉しさを抑えきれず、『嫌いになりたくない』『好きになりたい』を一緒にしたみたいな破顔を忘れない。
  最初は時臣が仕掛けてきた罠かと思ったが、結界の中に入ってきた凛ちゃんは攻撃魔術に関連する何か―――たとえば遠坂お得意の宝石魔術―――は何一つ持ってなくて、攻撃の意思は欠片も感じなかった。
  本当に、ただ、凛ちゃんは桜ちゃんに会いに来ただけのようだ。
  そんな奇妙な来訪が始まり、そして休日ごとに繰り返され、もう回数は二桁を超えている。
  凛ちゃんは間桐邸を訪れ、桜ちゃんと一緒に話したり、遊んだり、時には一緒におやつを食べたりして時間を浪費する。
  そんな風に凛ちゃんが桜ちゃんに会いに来て四回目の時だ。凛ちゃんは俺に向けてこう言った。
  「間桐の魔道書ってどんなの? 遠坂のとは違うの?」
  その後に続いた『見せて』の言葉を聞き終えた時、俺は凛ちゃんの向こう側にいる時臣の邪悪な笑みを見た気がした。
  今の凛ちゃんは魔術師に成ろうとしている一人の女の子であり、遠坂の魔術以外にも知れる機会があるなら間桐の魔術に興味を示しても不思議はない。聞いた言葉をそう解釈しようとすれば出来るが、俺は凛ちゃんにその言葉を言わせたのが時臣であるとほぼ確信している。
  そもそも遠坂の立場で考えれば、娘が間桐に近づくのを許す筈がない。一度なら凛ちゃんの独断の可能性もあり得るが、複数回続けばあの夫婦が察知できない筈は無い。確実に凛ちゃんが間桐邸に来ているのを知っている筈。
  それでも凛ちゃんが何度も間桐に接触できているのは、あの遠坂夫婦がそれを許しているかだ。
  おそらく時臣はまだ聖杯戦争の再開を諦めてはいない。
  しかし遠坂家だけでは冬木の聖杯戦争の実現は不可能であり、他にも間桐とアインツベルンの秘術が必要になる。だから凛ちゃんを使い、間桐の魔術を探りに来た―――。
  直接、凛ちゃんに確かめてないし、凛ちゃんに遠坂の尖兵としての自覚があるかは判らないが、時臣に関してはそうだろうと確信している。状況がそう物語っているのだから。
  普通の魔術師の基準で考えれば遠坂の娘が間桐の魔術を盗み見ているのに他ならない。魔術師として考えれば敵の侵攻であり、殺しても文句は言われないと思う。
  だが俺はそれをしない。
  凛ちゃんが間桐の魔術の閲覧を欲した時、桜ちゃんもその場に居て、お姉ちゃんと一緒に同じことを勉強できる・・・。とでも言わんばかりの顔で俺を見上げたのだ。
  俺にとっての最優先事項は桜ちゃんの幸せであり、桜ちゃんが凛ちゃんの行動を認め、それを許容するなら俺も受け入れる。
  魔術の隠匿など知った事か。凛ちゃんとて同じ魔術師の家系だから問題は無い。
  時臣は自分と葵さんが直接間桐に赴けば、敵として排除されると判っている。けれど凛ちゃんだったら桜ちゃんのことも合って、俺が手を出せず、それどころか凛ちゃんが望む通りに動くと考えているに違いない。
  その通りだ。
  忌々しいが全くもってその通りだ。
  俺は絶対に凛ちゃんを敵としては見れない。
  桜ちゃんが凛ちゃんを姉と慕い、その存在を受け入れる限り、凛ちゃんもまた俺にとって仲間なのだから。
  時臣の手のひらの上で踊っている自覚はあるが、桜ちゃんと凛ちゃんが姉妹として過ごせるのなら仕方ないと妥協する。その内、桜ちゃんにはよその魔術師に自分の家の魔術を教える危険性をじっくり話す必要があるが、それはそれだ。
  このまま行けば凛ちゃんが間桐の魔術を網羅する日が来るかもしれないが、聖杯戦争に関しては間桐邸に残っているモノでは何も役に立たないと俺は思っている。
  何故か? 信じているからだ。
  今の俺にはさっぱり判らない事だらけだが間桐邸の中に残る臓硯の遺品や魔術書には魔術的な価値はあるだろう。間桐は元々使い魔に造詣深い家系なので、卓越した蟲使いであった蟲爺こと間桐臓硯が残した使い魔に関する事や、間桐の魔術属性『水』に関する事などは多く残されていると思う。
  だが聖杯戦争の事については全く残っていないと俺は信じている。
  聖杯戦争を破壊し、もう二度と起こらない様に破壊し尽くしたゴゴが再開する為に必要な情報を残して行ったとは考えられないからだ。
  アインツベルンを本家ごと消滅させたり、円蔵山の地下に敷かれていた魔法陣『大聖杯』を消し去ったり、あいつは二度と冬木の聖杯戦争が起こらない様にあらゆるモノを壊して居なくなった。だから間桐が―――厳密には臓硯だけが知っていた英霊を使い魔にするサーヴァントシステムや令呪についての魔道書やメモが残っていたとしたら、それを自分の中に物真似して取り込んだ後、全てを消し去った筈。
  俺の知識と蔵書を読み解く遅さでは何が残されているかを解読するにも時間はかかるが、間桐邸に残っている物の中に聖杯戦争に関連する物は無い。俺はそう信じる。
  そんな訳で凛ちゃんが間桐の魔術を見るのは問題が無い。時臣の思惑は別にして、このまま桜ちゃんとは仲のいい姉妹として交友を温め続けてほしい。むしろ間桐の魔術について凛ちゃんが理解したなら、俺の方こそ教えてもらいたい位だ。
  凛ちゃんが桜ちゃんなど最初から興味は無く、間桐の魔術のみを求める可能性は見当違いの憶測であってほしい。今は妹を気遣う姉としか見えないけれど、敵についてはまず疑うところから修練を始めた俺はどうしても最悪の可能性を考えてしまう。
  「・・・・・・・・・まさか、な」
  誰にも聞かれずに呟いていると、凛ちゃんと桜ちゃんが完全に部屋に戻って各々の勉強を再開し始めた。
  意識してしまうと即座に間桐邸の中が判ってしまうのが結界の悪い点だ。誰しも自分以外には知られたくない事があるだろうが、この結界はその知られたくない部分や見られたくない部分も判ってしまう。
  他にやるべき事があったから後回しにしてきたが、結界を何もかもが判る状況から作り替えるのを課題の一つとして考えなければならない。
  そう思っていると、台所から凛ちゃんと桜ちゃんより更に小柄な生き物が動くのを感じ取った。
  今の間桐邸の中で俺と桜ちゃんと凛ちゃん以外に動く生き物で、しかも俺の腰よりも更に低い高さの生き物は一匹しかいない。そいつは台所からゆっくりと歩いて俺の前に姿を現し、そのまま二階へと通じる階段へと向かう。
  ミシディアうさぎのゼロ。頭の上に被っている麦わら帽子の部分に『0』と刻まれ、器用に二本足で歩くウサギなのにウサギじゃない生き物がそこにいる。
  ゼロは青いマントの隙間から小さな両手―――ウサギなので両前足とでも言うべきもので器用に御盆を持ち、その上に乗っかっている二つのコップに入ったオレンジ色の液体をこぼさない様に運んでいた。
  俺の記憶に間違いがなければあれは冷蔵庫の中に入っていたオレンジジュースの筈。
  どうやって冷蔵庫を開けた? ジャンプして冷蔵庫にしがみ付き、両前足か長い耳で開けたんだろう。
  どうやってオレンジジュースを注いだ? 予めテーブルの上に用意しておいて、自分もテーブルの上に乗っかって注いだんだろう。
  どうやって冷蔵庫に戻した? 開けた時と逆をやったんだろう。
  今更ゼロがウサギらしからぬアクロバットな動きを見せるのは驚くに値しない。帽子とマントを着込んだウサギに見えるのは見た目だけで、その実、ゼロの実態は動物ではなく魔力によって編まれた魔法生物であり、桜ちゃんの使い魔だ。
  主の為に冷たいジュースを用意するぐらいは出来て当然だ。
  そんなゼロが階段を一段ずつ跳び上がる前に振り返って俺の目を見る。
  そして鳴いた。
  「むぐ~」
  間桐邸の結界と魔石『マディン』を受け継いだおかげで、今まで以上にミシディアうさぎが何を言いたいのかが判るようになった。
  だからゼロが何を言いたいのかが判る。
  『そんな所で突っ立ってると邪魔だぜ』であり、『お前さんはお前さんでやる事があるんじゃないのかい?』だろう。細かい部分は違うかもしれないが、大筋は間違っていない筈。
  一瞬だけ俺の目を見た後、ゼロは小さく跳び上がって階段を一段ずつ登り始めた、小さく跳ぶごとに持っているお盆に乗っかったコップが倒れそうになるが、あれは確実に桜ちゃんと凛ちゃんの元へと届けられると判っているので、ゼロの事も桜ちゃんの事も凛ちゃんの事もとりあえず思考の外へと追いやる。
  片づけなければならない急ぎの問題は士郎だ。いい加減、一般人が魔術師の家にお宅訪問して魔術の指導を願い出るこの状況をどうにかしなければならない。
  俺は私室に戻りながら、ゴゴに教わった魔法ではなく、この世界に根付いた魔術を用いなければ解決の糸口すら掴めないだろうと考えた。何しろ俺がゴゴから学んだのは戦闘用の技術であり魔法なので、人を斬ったり倒したり殴ったり殺したりにはうってつけだが、生かしたままどうにかする術が無い。
  魔術師たちの常識を毛嫌いする俺は士郎の一家を惨殺して証拠隠滅するなんて物騒な手段は行えない。
  だからこそ臓硯の遺作を掘り返している所だが、何が書いてあるのかすら満足に読めない状況では解決の目処は見えないままだ。
  どうする?
  どうするよ?
  俺は部屋の中にあったアジャスタケースを持ち上げ、その中に納まっている魔剣ラグナロクを引き抜いた。
  剣を握ると戦いに赴くときの緊張感が体の中を駆け巡り、冷水をかけられた様に頭が少し冷える。



  ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆



  Side - ウェイバー・ベルベット





  日本の冬木に足を踏み入れると一年前に起こった出来事が鮮明に蘇る。
  もう一年・・・。過ぎ去った時間は体験として僕の中にちゃんと刻まれて、あの時には無かった一年の歳月が作り出す体験が僕の中にある。
  だけどその記憶とは別に、それどころかこの一年で知った事よりも聖杯戦争については強く深く思い出せる。それが僕の体験した戦い、僕の心に刻まれたライダーとの思い出だ。
  時計塔に戻った僕は『ライダーとサンと再会する』と『英霊に匹敵する偉業を成し遂げる』をこれからの行動理念の基本骨子にして動き始めようとした。けれど、その前に不在期間中の報告やら色々とやらなきゃならない事が合った。
  何しろ僕がケイネスが取り寄せた聖遺物を盗み出して聖杯戦争に参加したのは純然たる事実として知れ渡っていたので、『ちょっと休んでいました』なんて嘘をつく訳にもいかなかったんだ。
  仕方なく僕に判る範囲で報告書をまとめて、講師に―――もちろん聖杯戦争で亡くなったケイネスじゃない―――に提出した。
  そこから爆発的に話が広がった。
  よく生き残れたな? どうせ、最初から最後まで逃げ回ってただけじゃねえのか? とか。
  お前が征服王イスカンダルなんて呼び出せただけでも奇跡だぞ。とか。
  結局負けて戻ってきたのかよ、まあ、それがお前の器って事だ。とか。色々言われた。
  中には『ウェイバーがケイネスを密かに殺した』なんて言う人もいるけれど、魔術師としての僕の腕前を知ってるので―――聖杯戦争の前だったら、そんな未熟さを僕自身が認めなかっただろうけど―――僕がケイネスを殺したなんて話はすぐに消えた。
  噂なんてそんなもんだ。僕の報告書とそれ以外の伝手から手に入れた情報から真実を知った気になってる奴の言う事なんて今の僕には響かない。だって、起こった事実は僕の胸の中に刻まれるんだから。
  冬木の聖杯戦争で何が起こったかを知りたがる人が続出して、これまでは僕の事なんて見向きもしなかった奴らも話しかけてくるようになったのが鬱陶しかった。
  殆どの場合は高慢な態度で『話しかけてやってるんだからさっさと話せ』って全身で言ってるから、絶対に話してやらないけどね。
  知りたければ自分で調べろ。
  ただ・・・状況を正確に知りたいと思っているのは僕も一緒だ。あの日、あの時、冬木の地でどんな戦いがあり、どんな思いがあって、どんな風に終結したのかは今も謎のままだ。
  時計塔の上層部は僕からの報告以外にも色々な伝手を使って情報を仕入れてるみたいだけど、それでも全容解明には至ってないみたい。もし全部知ってたとしたら、一年も経ってるのに僕に話を聞いてくる訳ない。
  まだ明かされていない謎が幾つもある。魔石とか、竜種とか、聖杯の行方とか、無関係だと思えたけど事情通だった何人とか・・・。
  ありのままを報告したら『君、嘘の報告は止めたまえ』って嘘つき呼ばわりされたから、今はお返しに『何度同じ事を聞くんですか? 僕はもう報告し終えました』って言い返してる。
  そうやって聖杯戦争定期報告書には同じような事を何度も何度も何度も書いてやって向こうが音を上げるまで繰り返してる最中だ。
  もちろん報告する以外にも魔術に関する研鑽は休まず行い続けて、今も継続中だ。今は亡き憎たらしいケイネスが破り捨てた僕の持論を更に強化したり、これまでは見向きもしなかった他の魔術師たちに目を向けたりして、僕は『どうすればいいか?』『何が必要か?』『何をすれば高みへと昇れるか』って今まで以上に考えて、広い範囲を見つめてる。
  世界は広い。
  才能は多い。
  磨けば光る価値は数多い。
  方法は果てしない。
  学ぶことは尽きない。
  出来る事は山のようにある。
  立ち止まってる時間は無い。
  聖杯戦争を味わう前の僕は周囲の奴らが全部視野の狭い馬鹿勢揃いだと思ってたけど、僕だって自分の論理の正しさを証明するのに躍起になってて自分の視野を狭くしてた。
  そうやってこれまでとは違った視点から魔術の研鑽を行いつつ、僕はアーチボルト家についても考えてる。
  あの忌々しいケイネスの生家。九代続いた由緒正しい魔術師の家系、それがアーチボルト家なんだけど。正式後継者だったケイネスが婚約者のソラウって人と一緒に聖杯戦争で亡くなった。僕とライダーが介在する余地なんて全く無くって、正直『気がつけば居なくなってた』って言うしかないから僕が気に病む必要なんて全くないと思いたいんだけど・・・。もし僕がライダーを召喚するための聖遺物を盗み出さなかったら、あのケイネスだって死なずに聖杯戦争を終えたかもしれない。
  もしかしたらケイネスこそが聖杯戦争に勝利して聖杯を手にした未来だってあったかもしれない。あいつが勝利した未来なんてゾッとするから考えたくないんだけどね。
  終わったことに対して事実とは無関係な仮定の話を考えても意味は無いけど、どうしても『もし』を考えちゃう。
  聞いた話ではアーチボルト家はケイネスの死亡と共にこれまで受け継いできた魔術刻印を失い、魔術師の家系として没落するのは目に見えてるらしい。
  責任の一端は僕にある・・・と思う。
  だからアーチボルト家に対しても何かできないかな? って僕はいつも頭の片隅で考えてるんだ。
  実は体も鍛えてる。
  あいつにデコピンだけで吹っ飛ばされたのが悔しかったから、少しだけど筋力トレーニングも行って、一年前に比べたら少し背も伸びて頑丈になったつもりだけど、比較対象が二メートル越えの巨漢だから体格は追いつける気も越えられる気もしない。
  一年を振り返れば色々な事が思い出せて、それに匹敵するぐらいの強烈さでライダーと過ごした数日間が目に浮かぶ。
  受肉を望んだ征服王イスカンダル。
  少女の姿をした暗殺者の英霊。
 果てしない砂の大地、王の軍勢アイオニオン・ヘタイロイ
  時計塔は今もあの日に何が起こったかを正確に知る為に部隊を派遣している。だけど率先して情報を報告すべき監督役が亡くなってるので、僕から見た一方向からの聖杯戦争とか断片的な情報しか手に入れてないみたい。
  そのお陰でこうして僕と同じく聖杯戦争を生き残った者達―――遠坂と間桐を調査する為に接触するって大義名分で堂々と冬木に来れるんだけどね。
  もし間桐と接触出来たら僕たちの味方をしてくれたカイエンがどうなったかを聞こうと思う。そんな聖杯戦争の調査は魔術師としての僕がここにいる理由で間違いないんだけど、僕個人、ウェイバー・ベルベットにとって冬木に来た一番の理由は聖杯戦争の調査じゃない。
  あの人達に会いに行くためなんだ。
  赤の他人だけれど赤の他人じゃないグレンさんとマーサさん、マッケンジー夫妻に会いに行くのが僕がここにいる一番の理由だ。偽りの孫『ウェイバー・マッケンジー』になる為に僕はここにいる。
  そうとは考えつつも、グレンさんにはもう僕が本当の孫じゃないと知ってるし、他言無用でこの世界には魔術とか吸血鬼とか表の世界の常識に照らし合わせれば夢物語みたいな事が実在してるって話してあるんだ。そしてライダーも、サンも、過去に名をはせた英霊であり、もう死んでいるって事も・・・話してある。
  グレンさんは僕との約束を守ってくれて、今もずっと沈黙を保ってくれている。その代償としてなんだろうけど、グレンさんは僕に『一年に一度でいいから、マーサに夢を見せてやってくれんか?』と言った。
  そして聖杯戦争が終わってから一年が経った。
  僕は約束を果たす為にここにいる。
  ただし暗示をかけるのはマーサさんただ一人。別の魔術を重ねてマーサさんの記憶の中に孫としての僕は残らないけれど、楽しい時間を過ごした想いは心の中に残る。
  これから僕は冬木に滞在する間だけ、泡沫の夢をグレンさんと一緒に作り上げるんだ。
  だけどそれはそれとして時計塔に属する魔術師の一人としてちゃんと仕事もやらないといけない。
  まさか滞在時間の全部をマッケンジー宅で過ごして、調査結果を『目新しい情報なし』なんて言えば、こっちが処罰されかねない。作り出す夢と約束は大きな理由で、生き証人として別視点から新しい事実を探り出すのは小さな理由、どっちもちゃんとやらなきゃね。
  そこで僕はマッケンジー宅へと行く前に間桐邸に使い魔のネズミを送り込む為に準備を進める。
  無駄になるかもしれないけど、ネズミの口に紙片をくわえさせておいた。『お話したい事があります』とだけ書いた小さな紙で、とりあえずその反応を見てからどうするか決めよう。
  使い魔が間桐邸に着く前に排除されるかもしれない。
  紙片に気付いて見てもらえるかもしれない。
  生かされた使い魔を通して『何者だ?』って問われるかもしれない。
  問答無用で敵と認識されるかもしれない。
  どうなるかな? ちょっと楽しみ。





  一年。言葉にすれば短いけれど、聖杯戦争が行われていた時の不穏な空気が無くなるには充分すぎる長い時間だった。
  魔術師の僕の視点で見ると、冬木を覆っていた濃密な魔の気配が跡形も無く消えてるのが判る。
  街の風景は殆ど変っていなかったけど、以前は見かけた物が無くなってたり、無かった物が出来ていたりしてる。前にあいつと―――マッケンジー夫妻を含めたあいつ等と一緒に歩いた新都にある繁華街も様変わりしていて、前は見かけた店が無くなって別の店になってたりしてた。
  僕が買ったライダーの伝記、今では時計塔の僕の生活の一部となってる本『ALEXANDER THE GREAT』を買った本屋は今も変わらず本屋を続けてたのを見かけた時は少し嬉しかった。
  真っ直ぐマッケンジー宅を目指すならここに寄る必要はなかったんだけれど、聖杯戦争の時との変化を知るのも大切だからと立ち寄ってみて良かったと思う。
  思えば僕とライダーが・・・、あの時は気付いてなかったけど暗殺者のサーヴァントだったサンが一緒に居たから、ここにいた人たちは僕らを狙った敵の攻撃に巻き込まれた。
  カイエンの力で人的被害は出なかったみたいだけど、物的被害はどうしようもなかったから、店を壊されて止めるしかなかった人はきっと大勢いたんだろう。
  だから店を畳むことになった人もいた。
  僕たちがここにいたから―――。
  起こってしまった事実は変えられず、過去はここにある今の礎になって存在する。だからここを変えてしまった理由の大半を担っている僕は何とも言えない気持ちを思わずにはいられない。
  今更『ここが変わってしまったのは僕らがここにいたせいです』なんて言い出すつもりもないし、僕自身ここにいる人たちに何かをするつもりも無い。ただ思うだけで終わるんだけど、心は止められなかった。
  「・・・・・・・・・」
  誤魔化すみたいに視覚を借りて使い魔の動向を探ってみる。まだ間桐邸に向かってる最中だった。
  ネズミの短い脚に移動を全部任せると時間がかかり過ぎるから、移動距離の多さを電車か自動車か他の移動手段に便乗して賄おうとしてる。
  見つかって一般人に退治されないといいんだけど。
  意識を切り替えてもう一度繁華街を見渡すと穏やかな雰囲気が広がっているままで、一年前にここで魔術師と英霊の殺し合いが行われていたなんて嘘みたいだった。
  もう少しこの辺りを見回ってからマッケンジー宅に行こう。その前に間桐の方で動きがあったらそっちを優先させよう。そうやってこれからの事を考えながらぶらぶらと歩いてたら、急に肩が重くなった。
  何の前触れも無く、右肩だけが重くなって足が止まって歩けなくなる。
  「おい――」
  急に後ろから聞こえてきた声と僕の体に起こってる異常に導かれて、僕は左から振り返って後ろを見た。
  そこに居たのは一人の男だった。黒髪を横に広げて、その下にある目がまっすぐ僕を見てる。右手に持った黒い何かが僕の右肩の方に伸びてた。
  紺色のパーカーの下に見える少し浅黒い肌は日焼けの跡だろうか? 年は三十代に差し掛かるかどうかと思うけど、気力に溢れた活動的な印象からは『おじさん一歩手前のお兄さん』と見える。
  「・・・誰ですか?」
  言いながら僕は別の事が気にかかってた。前に前に歩いていた筈の僕を呼び止めるのは誰にだって出来るけど、今この人が持ってる黒い円筒形の筒―――僕の肩に乗せられた物―――を伸ばして僕の肩に置いたんだと思う。
  僕は全然それに気づかなかった。
  今も大勢の人が近くを通っているから接近されたのを気付けなかったのは仕方ないとしても、手を伸ばせば触れられるぐらいに近づけばいくら僕だって気付く。
  それなのに肩に物を乗せられるまで、声をかけられるまで、僕はこんなに近くに人が居て同じ方向を歩いている事実に全然気付けなかった。真後ろに接近されてるのが判らなかった。
  路上で声をかけて品々を売る手法があるのは知ってる。でも僕の前に立ってるこの男はそういう類の人種とは何かが根本的に違う。
  正体不明の誰か。僕が警戒していると、その人は軽い口調で言ってきた。
  「ああ、そっちは俺を知らないんだったな。こっちは君をよく知ってるんだけど――、俺達は初対面だった。すまない」
  そう言うと、男は右手に持っていた黒い円筒形の筒を背負って、言葉を続けた。
  「どうやら一年前から君は情報収集にあまり熱心じゃなかったようだな。殺し合う敵の顔ぐらいは調べて常に覚えておくのが普通だぞ。それに今じゃ俺の顔はそれなりに有名になってる筈だから時計塔で調べればすぐに判ったと思うんだが・・・、顔はあんまり変わってないと筈だぞ」
  語られた言葉に触発されて記憶の中にある人物像と目の前に立っている男の顔を見比べる。
  そうすると頭の中に似た顔が浮かび上がってくるんだけど、僕の知ってるその顔はもっと陰鬱な表情を浮かべていて、しかも肌の色はもっと薄かった筈。
  こんな場所で遭遇するなんて可能性を考えてなかったから。その顔が目の前にいる男の顔だって自信は無かった。
  それでも確かめる為の僕は恐る恐る呟く。
  「・・・・・・・・・間桐、かり、や?」
  「そうだ。ウェイバー・ベルベット。それで正しい」
  「な、ななな、何でここに――」
  ありえない人物の出現に動揺が溢れて止まらない。声は足と一緒に震えて、背中がゾクッとした。
  まだ使い魔のネズミは間桐邸にも辿り付いてないから僕が間桐と接触しようなんて僕以外の誰も知らない筈。だけど、間桐がここにいる。僕の目の前に立ってる。
  もしかして僕じゃ気付かない高度な結界が張られてたり常時冬木を監視してる使い魔がいて、立ち入った魔術師は全て監視下にあるとか?
  聖杯戦争の時に常に先手を取り続けた事実を知ってるからありえそうな想像が僕の中で渦巻いてどんどん大きくなる。
  どうして間桐がここにいる?
  僕を殺しに来た?
  隔てた距離の大きさに油断した僕が甘かった?
  あの冬木を守ろうとしたカイエンと行動を共にしてるからいきなり戦う事態にはならないと思った僕が悪かった?
  色々な言葉が浮かんでると、それを吹き飛ばす一言が目の前の男―――間桐雁夜から発せられた。


  「買い出しだ」


  「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・へっ?」
  「今の時期だとこっちの方が深山よりも安くてな、最近は訓練がてらにこっちまで走ってきて色々買い込んで戻ってる。近頃は住人が一人増えたみたいで消費が多くてな、この程度じゃ冷蔵庫の中身はすぐに空になっちまう」
  間桐雁夜がそう言いながら左手を動かすと、僕が今まで気付かなかっただけでそこにはビニール袋に入れられた野菜やら紙パックの飲み物やら色々と入っていた。
  見間違いじゃなかったらビニール袋に刻印されているお店のロゴはついさっき僕が通ってきた所に合った店の看板と同じだ。
  「卵を割らずにどれだけ早く戻れるかが今の課題だな、もちろん時間をかけずにだが」
  「はぁ・・・・・・」
  僕の中の間桐の姿はカイエンを起点に作り上げられて、聖杯戦争でどんな敵を前にしても臆さずに戦った雄姿が形作られてる。もちろんライダーの姿に比べれば色あせるけれど、それでも歴戦の戦士ってイメージがあった。
  事実、今の僕じゃ絶対に使えないだろう魔術や礼装を使ってとんでもない戦いを繰り広げてたからね。竜種とか―――。魔石とか―――。
  そのイメージと目の前に立ってる一般人と何も変わらない間桐の魔術師の姿とでは差があり過ぎる。
  魔術師がビニール袋片手に買い物?
  「ところでお前はこんな場所で何をしてる? 確かお前の本拠地はロンドンだろう。今更、一年前の決着を付けに来たのか?」
  「そ――そんな事、ありません」
  「じゃあ何だ?」
  「それは・・・その・・・、えっと・・・。その――」
  話し合う機会が設けられたら色々聞こうと思って、その為に準備をしてきたんだけど。予想外の遭遇でその下準備が頭の中から全て吹き飛んだ。
  こう言おう、ああ言おう、とか色々考えてたのに、何も浮かんでこない。
  それに僕が時計塔の魔術師だって事も調べられてるらしくて、さっき思い出した近況もマッケンジーさん達の事も何もかもを知られているみたいで嫌な予感がした。
  先手を取られたどころの話じゃない。
  だから僕は当たり障りのない言葉を言う以外の選択肢を全て失った。
  「聞きたい事があって・・・」
  「一年前の事?」
  「そう。そうです。あの時、何があったのか知りたくって」
  駆け引きなんて全然無かった。
  普通の魔術師だったら、ここで『馬鹿か君は?』と今はいないあのケイネスみたいな口調で僕を馬鹿にすると思う。
  でもそれも仕方ない。だって本当に今の僕は魔術師らしくなくて、魔術の世界における基本原則の等価交換も一度に口にしてないんだから。せめて知りたい理由とか代価として出せるこっちの情報とかそういう類の何かを先に提示するべき所だった。
  「あの時か・・・」
  でも間桐雁夜は僕を馬鹿にすることは無く、何かを考えるように空いた右手を自分の顎にやる。
  そのまま数秒間沈黙があって。その後にどんな言葉が出てくるか僕はジッと待ち続けた。
  言葉が全然足りなくて無礼な申し出なのは重々承知してるけど、もう言っちゃったんだから、あとはもう待つしかない。
  「言えない事も山ほどあるがそれでもいいのか?」
  「え・・・・・・あ、はい。それは当たり前だし・・・」
  言ってる僕が無謀とも思う申し出は意外だけど受け入れられた。その瞬間、安心のためか全身から少し力が抜ける。
  「その代わり条件がある」
  そう続けられたのは当然だ。一方的に情報を与えてくれるなんてのはありえない。むしろ交換条件が無い方が異常なんだ。
  ようやく魔術師らしい話が出てきて少し落ち着けてきたけど、まだまだ『話し相手』じゃなくて『敵』と対峙してる状況としか考えられないから、緊張はまだまだ続く。
  どんな事を言うのかな?
  何を交換条件にするのかな?
  いきなり『死ね』なんて事を言われないと信じたい。
  「一人・・・いや、三人か。暗示をかけて記憶を操作したい一般人がいてな、お前が知る暗示の魔術を俺に教えてくれないか?」
  言われた言葉を僕が理解して次の言葉を発するまで十数秒、もしかしたら一分ぐらいかかったかもしれない。
  暗示は僕が知る中で初歩の魔術で、少しでも『魔術』に触れて学ぶ人間なら大抵は使える。もちろん腕の立つ魔術師と見習い魔術師が使う暗示には天と地ほどの差があって、一生解けない強固な暗示もあればマッケンジーさんみたいに一般人でも解ける場合もある。
  間桐雁夜はバーサーカーのマスターだった男で、竜種を使役するとか、強力な魔術を連発するとか、死者蘇生すら可能にするとか、魔法に近い大魔術を行使する仲間が大勢いた。
  僕は間桐雁夜について多くは知らないんだけど。腕の立つ魔術師だってずっと思ってた。それなのに交換条件が魔術師なら誰でもしってる『暗示』を教えてくれ?
  え? なんで知らないの? どうして僕なんかから知ろうとするの? 間桐って始まりの御三家で古くから続く魔術の名家だから暗示ぐらい知ってるんじゃないの? って、思った。
  そんな疑問を何とか押し込めて、僕は言う。
  「わかりました・・・。僕が知ってる魔術を・・・教えます」
  そう言うしかなかったから・・・。
  「交渉成立だな」
  僕には聖杯戦争の情報と暗示の魔術が同等の価値を持ってるとは思えなかったけど、この人はそれでいいと思ってるみたい。
  マッケンジー夫妻に会いに行く時間は遅れそうだけど、色々と情報を教えてもらえる機会に恵まれたんなら逃しちゃいけない。
  それに魔術はそれがどれだけ簡単なものでも短時間で習得するのは難しい。教える為には会わなきゃいけないから、そのたびに話を聞ける機会が出来るから大助かりだ。
  思ってもみなかった幸運に僕は喜ぶ。喜んでおかないと、今の自分が置かれてる異常な状況に屈服して緊張のあまり気絶してしまいそうだから。
  大丈夫―――。
  今はもう聖杯戦争は終わってて、同じ魔術師だけど敵じゃないんだから、殺し合いにはならない。僕は必死で自分自身にそう言い聞かせた。





  この時、僕はまだ先の事なんて判らなかった。
  まさかこの時の『暗示の魔術を教える』って言う交換条件が切っ掛けで、数か月どころか年単位で末永く間桐家の当主と付き合うことになるなんて―――。
  そして僕が『プロフェッサー・カリスマ』とか『マスター・V』とか『絶対領域マジシャン先生』とか『グレートビッグベン☆ロンドンスター』とか『女生徒が選ぶ時計塔で一番抱かれたい男』とか・・・名誉なんだかが不名誉なんだかよく判らない色々な呼ばれ方をするようになった頃、その付き合いが縁になって間桐の娘を弟子にするなんて―――。
  全然知らなかったんだ。



  ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆



  Side - セッツァー・ギャッビアーニ





  本体から分裂した固体であると自覚はあった。分裂した固体の力を複写されたホムンクルスであるという自覚も合った。
  今はもう無くなってしまったドイツのアインツベルンの技術で生み出された時、ここに居る俺『セッツァー・ギャッビアーニ』と大本だった『ものまね士ゴゴ』は全くの別の存在となった。分裂したモノを元にしても、あいつと俺は最早別のモノだ。
  あいつの力のほんの一部分をこの体が継承してるのは事実。あいつの記憶が転写され、本人とは違う別人だが、ものまね士ゴゴから見たセッツァー・ギャッビアーニ―――つまり俺が作られたのも事実だけれど。もう俺の力はあいつの中には戻らない。
  宝具を用いての分身でもなければ、魔法を使っての召喚でもない。俺はただ一人の俺としてこの世界に存在している。
  作られた存在であり、元となるゴゴの仲間がいるのを考えれば偽物かもしれないが。一人のギャンブラーとして、唯一のセッツァーとして、俺はここにいる。
  ゴゴが生み出した新たな方法―――。俺の特殊能力『スロット』を用いての飛空艇ブラックジャック号の召喚。それを可能にする魔力程度なら俺の中にあるので、新たな愛機と共にこの世界の空を飛ぶ。
  もっとも、召喚するだけで俺の魔力の殆どが使われるから、騒動が起こらない様に透明化魔法『バニシュ』を併用すればそれだけで魔力は底をつく。悔しいがゴゴがやった休みなしの移動は今の俺には到底不可能で、時間制限つきの飛行しか出来ない。
  だからこそ奴を見つけるまでに時間がかかった。


  「ようやく見つけたぞ――、衛宮切嗣」


  ゴゴがこの世界から消えた後。元々はゴゴの記憶の中に存在した情報を元にして、俺達ホムンクルスは冬木へと旅立った。
  聖杯戦争は本当の終わったのか?
  間桐雁夜は生きているのか?
  遠坂桜は救われたのか?
  ホムンクルスとして存在するセッツァー、ガウ、モグ、ウーマロの二人と二匹は各々が作られた時点までのゴゴの記憶しか持ち合わせておらず、それ以降に何があったかを知るには直接見聞きするしかない。俺達はそれを確認する為にドイツから日本を目指した。
  もちろん二度と聖杯戦争が起こせない様にアインツベルンは人的にも物的にも完膚なきまで破壊し尽くした後で、だが。
  俺達は飛空艇ブラックジャック号の時間制限と、生活の拠点を間桐邸に絞っていたゴゴには出来なかった世界の観察を理由にゆっくりと移動した。
  ゴゴの力なら遅くても数日。次元移動魔法『デジョン』を使えば一瞬で到達できただろうが、俺達はその数十倍の遅さで冬木を目指し、そして辿り付いた。
  そこで俺達は概ねがゴゴの想定通りになっていた冬木を見たが。その中で一つ、ゴゴの想定を超えた事態が起こっていた。
  それこそが奴―――衛宮切嗣の存在だ。
  ゴゴの予測では聖杯戦争が終わった時点で衛宮切嗣は死んでいるか半死半生の重体で、最早『魔術師殺し』として活動できないほど衰弱しているだろうと思われていた。
  しかし現実の衛宮切嗣は五体満足で生き残り、警察の束縛を抜け、包囲網を振り切り、狂った殺人者として今も世に放たれ続けている。
  俺達が冬木に辿り付いた時、世間は警察の不祥事を大々的に報じ。崩れた山の復旧に合わせて、逃亡中の連続殺人鬼の大捜索を行っていた。
  衛宮切嗣の身に何が起こっているのか俺達に正確な事は判らない。ただ、間桐にとって最も厄介な敵になるだろう、アインツベルンの尖兵を取り逃がした事実は変わらない。
  気を窺う為に遠方に身を隠したか? それとも、まだ冬木のどこかに潜伏しているのか?
  あの男一人を放置した所で聖杯戦争を起こせはしない。その可能性が高いのはむしろ生かした遠坂の方だ。
  けれど衛宮切嗣は間桐にとって明確な敵だ。物真似し、救うと決めた遠坂桜―――今では間桐桜となったようだが、彼女の安全を考えるならば絶対に無力化しておかなければならない男だ。
  聖杯戦争が終結したのだから、今更、間桐には手出ししないだろう等と、甘い見通しをしてはいけない。
  あれは殺しておかなければならないゴゴの敵なのだから。
  ゴゴが間桐とさようならをしたのならば、ゴゴの力の片鱗とも言える俺達がそれを汚してはならない。そう思い、俺達は間桐の誰かに気付かれる前に冬木を離れ、ゴゴの後始末をつける為に衛宮切嗣の捜索を開始した。
  世界の観察に現を抜かしてしまったので、飛空艇ブラックジャック号での移動をもっと速めれば逃げられる前に対処できただろう。と、つい考えてしまい、余計に捜索に力が入る。
  人に紛れても支障がない俺は世間に溢れている様々な情報を統括しながら人のいる場所を移動し続け、ストリートチルドレンと見た目の大差がないガウは経済が豊かではない国々を中心に見て回り、この世界に存在しない生き物のモグと伝説に匹敵する雪男のウーマロは人里離れた誰も立ち入らないような場所を探し回る。
  期間を区切って、定期的に連絡を取り合いながら、ゴゴの逃した敵を探し続けて数か月。
  俺達はようやく衛宮切嗣を発見した。


  「盲点だったな、まさか元の傭兵稼業に戻っていたとは・・・」


  透明になった飛空艇ブラックジャック号から望遠レンズ越しに見下ろしている俺達には気付いていないらしく。衛宮切嗣は弾丸の嵐が降り注ぐ戦場において、空を見向きもせず銃器を操って人を殺し続けている。
  撃っては殺し、撃たれては起き上がり、また撃って殺し、死んでも蘇って殺す。
  今の俺には衛宮切嗣が何を考えてこんな事をしているかは判らない。
  どうして警察から脱走し、冬木から姿を消した?
  この一年、報道機関の目を掻い潜ってどこで何をしていた?
  人を殺す為に準備をしていた?
  今までどこかで殺されていて、生き返る為に時間が必要だった?
  自分がよく知る古巣に戻って人殺しをしたかった?
  何も判らない。
  判るのはゴゴが残した最後の敵が真下にいる事だけ。今はそれが判ればいい、それ以外の事を判る必要は無い。
  一応は『体内に残ったセイバーの宝具を使い、自分が最もよく知る人を殺せる場所で正義を行っている』と、観察による答えは導き出せるが、全てを知るのは衛宮切嗣当人のみだ。ゴゴ並みの観察眼があれば、限りなく正解に近い予測を打ち立てられるが、ものまね士の驚異的な観察力は俺達の誰にも備わっていない。
  だが理由など今となってはどうでもいい。ここまで来たら、ただ後始末をするだけだ。
  運が悪ければ流れ弾が当たって俺達の誰かが死ぬかもしれないが、戦うが起こる場所は選べない。そこが俺達とは無関係の殺し合いの場だとしてもだ。
  さあ、俺達に課せられた最後の役目を全うしよう。アインツベルンを完全に消し去ろう―――。


  衛宮切嗣、お前はここで殺す。


  「行くぞ」
  「ガウ」
  「クポー!」
  「ウガー!」
  応える三つの声。それを合図にして足元にあった飛空艇ブラックジャック号が消え、俺達は戦場へと舞い降りた。



[31538] 嘘予告 『十年後。再び聖杯戦争の幕が上がる』
Name: マンガ男◆da666e53 ID:fcc63a76
Date: 2014/05/31 02:12
  嘘予告 『十年後。再び聖杯戦争の幕が上がる』



  ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆



  第四次聖杯戦争が終結してから十年。冬木に刻まれた戦いの傷痕は決して短くない年月によって修復され、惨劇は人々の記憶に刻まれながらも起こった過去の一つとして受け入れられていた。
  『どうしてそうなった?』と数多の疑問はいまだ解消されず、冬木の謎として郷土史に残されながらも誰も彼もが過去を通り過ぎて今を生きている。
  その中でただ一人―――いまだに十年前に終わってしまった時間から一歩も動かず、むしろその時間を取り戻そうとする男がいた。
  「そもそも令呪とは命令に従わぬサーヴァントの為に用意された物。必要ではない。不要―――。そう、不要なのだ―――無くてもよいのだ!!」
  そう言うと、男は薄暗い部屋の中に置かれた細やかな意匠を凝らした黄金の杯へと手を伸ばす。それには大粒のルビーが幾つもはめ込まれており、宝石を合わせた調度品としての価格は八桁に届くだろう。
  ただし、見る者が見れば、禍々しい魔力を放ち続けているのが判る。
  一般人でも『薄気味悪い何か』と感じられるほど強烈な代物だった。
  男はそれを高く掲げ、あまりに高く上げたせいで天井にぶつかりそうになっても構わず、ただ黄金の杯を上へ上へと掲げた。それは魔術師である男の家が得意とする宝石魔術によって作り上げられた魔術礼装であった。
  もう片方の手にステッキを持ち、天に杯を捧げる様な姿だけならば優雅に見えるかもしれない。
  「これで・・・、ようやく悲願は成就する。私が、私こそが『根源』へと至る・・・」
  男は愛おしいモノを見つめるように降ろした黄金の杯に目をやる。
  そして言った。
  「あと残るは一つ・・・それで全ての準備は整う」





  幼い娘ではなかった。けれど成熟した大人でもなかった。その中間―――大人になろうとしている少女は帰路についていた。
  「お父様は一度諦めて別の道を模索すべきだわ」
  学校生活において模範的な優等生として猫を被っている彼女は帰りつく前に誰にも聞かれることのない独り言を呟く。
  彼女は実り無き魔術に十年の時を費やす父を、そんな父に盲従する母を、そして目に見えて落ちぶれてゆく自分の家を見たくなかった。
  それでも彼女はその家の娘であり、どれだけ嫌おうとしても家族を嫌いにはなれずにいる。
  そんな彼女を父が出迎えた。
  「よく帰ったな」
  とある魔術儀式をひたすら追求している父が娘の帰宅を出迎えるなど久しく無かった。父が顔に浮かべている狂った笑みと形相を混ぜ合わせた表情は正気とは言い難く、当の娘は目の前に立っている父に強烈な悪寒を感じた。
  倒す、逃げる、無力化する。何か行動を起こさなきゃいけない。
  思考が行動に辿りつく前に、父を前にした彼女の行動は一瞬遅れてしまう。
  そして父の握るステッキにはめ込まれた特大のルビーから魔術が放たれ―――彼女を襲った。





  母であり妻である女は、冬木に存在する霊地の中で第二位の霊脈を有するこの家の地下工房で横たわる娘の裸身を見た。台の上に寝かされた娘の傍には愛する夫がステッキと黄金の杯を持って立っている。
  「何を・・・」
  しているの? と夫に問う前に、娘の地肌に真っ赤な痣が何十本も走る。
  魔術回路を持たず、魔術にも疎い女は何が起こっているかが判らない。女に出来たのはただ夫を信じる事だけだった。
  平均的な魔術師の魔術回路は約二十本。その平均と比較して、娘の魔術回路はメインに四十本、サブに各三十本という驚異的な数を有している。その膨大な魔術回路を更に増幅させ、拡張させ、二百年前に存在したとある女性の代用品を作り上げようとしているのだと―――判らなかったが、止めなくてはならない何かが起こっていると理解した。
  夫が笑っている。
  娘が苦しみ叫んでいる。
  何もかもを止めさせなければならない。
  そう思い女が手を伸ばした次の瞬間、娘の体に走る紅い痣が持ち上がって女の心臓を貫いた。



  ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆



  遠坂時臣は聖杯戦争を知っていた。それが万能の力である『根源』へと至る手段だとも判っていた。
  だから遠坂時臣は『根源』に辿りつく道をそれのみに求め、他の手段に見向きもせず考えようとすらせず、ただただ聖杯戦争を求めてしまう。
  大聖杯は消滅し、アインツベルンは滅亡し、間桐は実情を知る老魔術師が死に、再現など到底不可能だと知りながら―――。
  遠坂家が始まりの御三家として聖杯戦争に関する情報を持っていたのも彼が諦めきれなかった理由であろう。
  しかし聖杯戦争の成り立ちは遠坂だけで作り上げられたものではない。アインツベルンと間桐―――当時はマキリの名だったが―――この両家の協力が無ければ実現すら叶わなかった。
  人の十年は長い。けれども二百年前の魔術師たちが英知を結集して作り上げた大魔術を個人で再現するにはあまりにも短い時間だ。
  受け継いだモノを理解せず昇華せず、ただ授かっただけの者に再現など出来る筈がなかった。


  エラー。


  『根源』へと至る孔を開くための鍵であり、孔の形態を安定させるための制御装置。
  英霊召喚の基盤に用いる第三魔法『魂の物質化』の術式の一部。
  莫大な魔力を有する霊地でも六十年かけてようやく溜め終えられる特大の魔力。
  大聖杯の炉心となるべくして生まれたホムンクルスの魔術回路を元にして作り上げた魔法陣。
  何もかもが本家本元の聖杯戦争と比べて不足していた。
  間違っていた。不備があり、欠乏して、機能不全を起こしていた。
  完全に作り上げられたのは遠坂時臣の頭の中だけで、実物は何一つ聖杯戦争の形を成していない。
  それは別の何かだった。


  エラー、エラー。


  失敗作。
  不出来。
  手違い。
  不成功。
  出来損ない。
  欠陥品。
  誤り。
  不完全。
  遠坂時臣の願う形通りに正しく動くモノなど一つもありはしない。
  それでも発動してしまった魔術は役目を果たす為に間違ったまま稼働し続ける。


  エラー、エラー、エラー、エラー、エラー、エラー、エラー、エラー、エラー、エラー、エラー、エラー、エラー、エラー、エラー、エラー、エラー、エラー、エラー、エラー、エラー、エラー、エラー、エラー、エラー、エラー、エラー、エラー、エラー、エラー、エラー、エラー、エラー、エラー、エラー、エラー、エラー、エラー、エラー、エラー、エラー、エラー、エラー、エラー、エラー、エラー、エラー、エラー、エラー、エラー。


  オリジナルの聖杯戦争の技術を模倣しようとして作り上げた術式は聖杯戦争にすらなれない歪な魔術の結晶であった。
  冬の聖女と呼ばれたユスティーツァ・リズライヒ・フォン・アインツベルン。大聖杯を形成する魔術回路であった彼女―――大聖杯の炉心となるべくして生まれたホムンクルスであり、第四次聖杯戦争で存在を完全に消滅させられた彼女―――の代替として遠坂凛の魔術回路が使われ、増幅と拡張を繰り返す。
  膨らんだ魔術回路は遠坂凛の体を内側から突き破り、血に染まった紅色の魔術が必要な魔力をかき集める為に人の命を貪り食っていく。
  それはまず母である遠坂葵を貫いて魂を喰らうところから始めた。
  肉体は破壊される、魔術回路は激痛と共に膨らんでいく、望まなくとも魔力は吸収されてゆく。いっそ死ぬのが救いですらある苦しみが絶えず襲い掛かってくる。それでも遠坂凛は役目を果たす為に生かされていた。
  遠坂が得意とする宝石魔術を駆使して作り上げた偽物の『聖杯の器』は遠坂時臣の手の中にあり、彼は果て無く広がってゆく紅い魔術を見ながら笑う。
  自分にだけは実害を与えない様に設定された魔術を施された娘の捕食。それが母を―――遠坂時臣にとっては妻を喰らっていく。それでも狂った男は笑い続ける。
  不完全に再現されたシステムには欠陥しか存在しない。ある筈のクラスは欠け、選ばれる筈のないサーヴァントが誤った形で現界してしまう。
  全てを間違えたまま、再び冬木の聖杯戦争の幕は上がった。



  ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆



  輝く聖剣は邪悪に染まり、白銀の鎧は黒に染まり、緑眼は金色に染まり、かつてこの地に舞い降りた者と同じ形をしたモノが現界する。
  されどその身は最早剣の英霊でも騎士王でも非ず。
  「ああああああああああああああああああああああああああああ!!!」
  ただ死と破壊を存在目的とした狂った戦士、バーサーカーであった。





  暗示の魔術によって一般人となった筈の少年は新都から深山町の異常を目撃した。紅き光は街を壊し、膨張し、人を喰らい、増幅し、三次元魔法陣を形成し、増加する。
  左手に刻まれた聖痕がかつては幼かった彼を再び魔術の世界へと引きずり込む。
  「剣・・・。魔法・・・。戦い・・・」
  赤毛の下に鋭く光る眼差し。その目は異常を認めながら、それでもお気に入りの玩具を見つけた様に輝いていた。





  この時間軸では決して存在しない筈の英霊が舞い降りる。逆立った白い髪に浅黒い肌、赤い外套を纏ったサーヴァント。
  その名をアーチャー。
  「エミヤシロウという歪みをオレの手で――」
  歪みを抱えているのは召喚された自分であると気付かぬまま、守護者は世界を守るために動き出す。





  少女は見えないモノを感じ取り、誰よりも早く異常を察知した。
  「姉さん・・・?」
  十年間、内に潜む魔術の才能を闘争以外に費やした少女は強く戦いを意識する。そして自らの意思で記憶の奥底へと封印した力を―――全てを呑み込む黒き虚無の力を開放し、妹は姉を救うために走り出す。
  付き従う一匹のウサギと一緒に・・・。





  ロードエルメロイ二世は一般人でありながらも魔術の存在を知る老人から異常な魔術が発生したと報告を受ける。
  「もしもし? もしもし? くそっ、通じなくなった! 一体、何が起こってるんだ・・・」
  けれど、ロンドンの時計塔と日本の冬木との間には途方もない距離が存在する。遠方からの直接支援は行えない。
  何かできることは無いか―――。彼は強くそう思い、とんでもない手を実行する。





  男と女、自然と人工、陰と陽の両極を併せ持つランサーのサーヴァント。
  「あの広場での決闘の続きを・・・、君とやりたかったなぁ・・・」
  その者。唯一無二の親友であり、宿敵であり、半神半人でもある、人類最古の英雄王に思いを馳せる。





  果て無く広がり続ける魔術回路。本来であれば六十年かけて溜め続ける魔力を大地から、空から、生き物から吸収し、その魂を喰らい続けてゆく。
  「さ・・・、く、ら・・・」
  自我が崩壊してもおかしくない痛みの中。炉心の役目を強制的に背負わされた姉は両親ではなく妹を思う。
  彼女はまだ生きる事を諦めていなかった。





  召喚されることそれ自体がイレギュラーサーヴァント。けれど彼は聖杯戦争そのものを監督しうる者、正しさを体現する裁定者。
  「もしも、私の計画が神に背くモノであれば。私はこの戦場で必ずや討ち果たされるでしょう」
  あらゆる悪が駆逐された善性の世界を―――、万人の幸福を願う男の名をルーラーと言った。





  かつてこの地で狂戦士と共に戦いを生き延びた男の手にも印は刻まれた。
  「令呪? いや、違う。これは『魔力を持つ者』と『強制召喚された英霊』を繋ぐ単なる目印だ。供給なんて生易しいものじゃない、これを刻まれたらすぐに奴らに魂まで根こそぎ喰われ――」
  終末の日の銘を持つ剣を掲げ、戦士は再び戦場へと舞い戻る。
  「これが? こんなものがお前の求めたモノだったのか? 答えろ、時臣!!」





  街は破壊されていく。人は死んでいく。冬木市は壊滅していく。生き物の魂は喰われていく。
  それでも冬木の管理者の立場にいる筈の男は笑う。
  「そうだ。ここに第五次聖杯戦争を開催する。英霊達よ、魔力を受け、この器に魂を捧げ、私を『根源』へと導くのだ!」
  何もかも間違っていながら、それを正しさと誤解して、男は騒動の中心で笑い続ける。





  そして―――。
  「あの騎士王の成れの果てを追ってみれば、ここに戻ってきたか。聖杯戦争の形を成していなくても・・・破壊は俺の役目だな」
  場所も時間も、年齢も性別も人種も姿形も超越し―――。
  「桜ちゃん・・・、貴女の為に遠坂を滅ぼさなかったけど・・・。今度は間違えないから――」
  過去へと旅立ったものまね士が還ってくる。





  暴走した魔術が冬木を覆い、全ての命を喰い尽くすまでの時間はわずか二時間。もはや一刻の猶予も許されない。
  歪んだ願いが間違った解に辿りつき、冬木を壊滅させるのが先か?
  安寧を求め、騒動を食い止める者達が過ちを正すのが先か?
  ここに闘いの火蓋は切って落とされた。



[31538] リクエスト 『魔術礼装に宿る某割烹着の悪魔と某洗脳探偵はちょっと寄り道する』
Name: マンガ男◆da666e53 ID:729d55b9
Date: 2016/10/02 23:55
  リクエスト 『魔術礼装に宿る某割烹着の悪魔と某洗脳探偵はちょっと寄り道する』



  ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆



  Side - 遠坂時臣





  火事で屋敷が半壊してしまった遠坂家。
  当然ながら修繕しなければならないのだけれど、魔術師ではあっても建築の素人の時臣が単独で立て直せる訳がない。
  仮住まいとしては妻の葵の実家である禅城家があるので路頭に迷うようなことにはならない。それでも『遠坂』とは冬木市一帯の魔術師を支配するセカンドオーナーであり、魔導の一門として家が無い等と言う事態は避けなければならない。
  復旧は急務である。
  ただし、事情を知り魔術に通じる建築家も居るにはいるが、壊れていても遠坂の家にはその家が脈々と継いできた魔術が染みついている。
  『遠坂』の魔術を外部に漏らすような危険は冒せない。
  そこで時臣は魔術を全く知らない表の業者に修理を依頼して遠坂家を立て直すことにした。家そのものに魔術的な仕掛けを施せないのは厄介だけれど、遠坂家伝来の宝石魔術は置物や装飾として真価を発揮できるので、家が建て直された後に魔術師の要塞として作り直すことは可能だ。
  冬木市のセカンドオーナーとして霊脈の要衝とし、押さえていた土地を商業目的で貸し付けてテナント料を手にしたり、単純に銀行に預けておいた資産に加えて、魔術協会に特許として登録している『魔術を簡略化する魔術式』の特許料は今も途絶えずに遠坂家に入り続けている。
  冬木市に点在する民家と比較すると少々大き目な遠坂の屋敷ではあるけれど、再建するのに必要な金は足りていた。それどころか料金を割り増しで支払って、通常よりも人員を導入させて、完成を急がせる余裕すらある。
  決断したならすぐ行動。
  よりにもよって間桐の零落を象徴する間桐雁夜程度に敗北し、気が付いた時には聖杯戦争が終結していて、円蔵山の内部に設置された魔法陣こと『大聖杯』が崩落によって完全消滅している信じ難い事態となっていた。
  聖杯戦争とは根源に至る手段―――それが消えたのならば、屋敷と同じく蘇らせなければならない。
  関われぬ間に終わってしまった聖杯戦争の全体の流れを把握しなければならない。
  屈辱的ではあるが、間桐との会談を設けて様々な状況を確認しなければならない。
  アインツベルンとも連絡を取り、聖杯戦争復活の為に尽力しなければならない。
  無駄にできる時間は一日たりともなく、行動は即座に起こされた。
  時臣が幸福だとすれば、それは聖杯に満ちた泥によって変質したゴゴ―――ケフカ・パラッツォ。そして、生まれながらにして善よりも悪を愛して他者の苦痛に愉悦を感じる男―――言峰綺礼が手を組んで、時臣の助力どころか放置して間桐に敗北する原因の一つを作り出したのを知らない事だ。
  そして必勝を願い呼び出したサーヴァントのアーチャーこと英雄王ギルガメッシュに見限られたのも認識できていない事も幸福だと言える。
  今の時臣の中には諸悪の根源としてまず間桐がいる。恨み辛みの大部分は直接戦った雁夜に向けられており、それ以外の事は現状を挽回するための単なる情報としか認識していない。
  誰がどうやって英雄王ギルガメッシュを打倒したのか?
  自分が気絶している間に起こった最終戦闘はどうやって集結したのか?
  時臣は知らない。
  弟子に見捨てられ、サーヴァントに見放された。時臣はその事実を知らずに戦いを終えて今に至る。
  ようするに時臣自身の落ち度によって敗北したと気付かず、他者を敗北の理由として怒りの矛先を自分ではなく他人に向けていた。
  確かに時臣は魔術師としては一流かもしれない、才覚豊かとはいえない状況に腐らずに必要とされる修練を何倍も積み重ね。幾重にも備えて事に当たり、常に魔術師として結果を出してきた。
  それでも戦う者としての時臣はよくて二流、酷評すれば三流にまで落ちる。
  一対一では無い戦いにおいて裏切りは当たり前に発生する。それどころか時に賞賛すらされるものである。
  御三家を含めて聖杯を奪い合う戦い―――聖杯戦争。自分たちの戦いに『戦争』の名を含ませながら、戦いへの心構えと準備がまるで足りていなかった。
  敗北して尚。いや、むしろ魔導を捨てた落伍者と蔑んでいた雁夜に敗北したからこそ、余計に時臣の性質は自分の中に作り上げた『正しさ』で凝り固まっていく。別の言い方をすれば、聖杯戦争以前よりも尚視野が狭くなり、遠坂の悲願である『根源へ至る』に固執するようになっていった。
  娘の一人であり、今ではもう完全に間桐の娘になってしまった桜を手放しながら、それでも聖杯戦争以前の時臣は家族を大切にする一人の父親であった。
  時に師として娘に魔術を教え、妻が不満を感じる事のない良い夫として在り続けていた。
  それが聖杯戦争を切っ掛けに変わってしまう。
  雁夜に敗北した事実。聖杯戦争に勝てなかった事実。言峰綺礼と言峰璃正の両名に加えてアサシンのサーヴァントすら使いこなして聖杯戦争を大局的に見ながら最終的には何も出来なかった事実。それらが遠坂時臣を狂わせる。
  それに遠坂家特有の『うっかり』が組み合わさった時。事態は聖杯戦争と全く関係ない方向に迷走することになる。



  ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆



  Side - 遠坂凛





  その日、凛は電車で学校から禅城の家に帰ってきて、玄関にある靴の数から父が在宅しているのを知った。
  「お父様が帰ってるの!?」
  呼びかけた所で父から返答がないのは判っていた。独り言を呟いても大した意味はないと理解しながら、それでも凛はそう言わずにはいられなかった。
  急いで靴を整えて、手を洗って、荷物を片づけて父に会いに行こう。喜びと共に何をするかを組み立てた凛の動きを阻んだのは静かな足取りで家の中から現れた母の葵だった。
  手には御盆が握られていて、その上には何かの飲み物で一杯になったコップがある。
  「凛、あの人は今忙しいの・・・邪魔をしては駄目よ」
  「・・・・・・はい」
  「今日は宿題が多く出る日じゃなかったかしら、ちゃんとやりなさい」
  母の続く問いかけに一礼してから、凛は脱いだ靴をそろえて洗い場へと向かった。
  凛が父の在宅を喜んでいたのは最近はずっと家を空けていたからだ。
  聖杯戦争が終わり、父は生きて帰ってきた。遠坂の家が戦いで半焼したから建て替えなければならないと理解していたし、その他にも色々な事で父が忙しく動き回っているのは知っていたので、残念とは思っても仕方ないと諦められた。
  しばらくぶりに会った父親。凛にとって父の時臣は魔術の師であるのと同時に敬愛すべき偉大な魔術師でもあり目指すべき目標だ。
  魔術を手ずから学ぶ機会に恵まれれば歓喜し、生きてまた会えた時は周囲の目を気にせずに思いっきり抱き着いてしまった。
  だが聖杯戦争を切っ掛けに父は変わった。少なくとも凛はそう感じた。
  父が聖杯戦争に負けた。そして兄弟子であった言峰綺礼が亡くなった。聖杯戦争の詳しい情報は凛には教えられず、聞かされた数少ない情報はそれだけだ。
  どんな戦いがあって。
  どんな魔術があって。
  どんな敵がいて。
  どんなやり取りがあったのか。
  凛は何も知らない。
  聖杯戦争と無関係だった凛はずっと学校に通い続けた。聖杯戦争が終わった後、しばらく入院していたコトネが学校に戻ってきたのは嬉しい事だし、妹の桜―――姓が間桐になってたのは少し心が痛む―――も同じ学校に転入してきたのも嬉しい事だ。
  それなのに父と、それに引きずられる様に母もまた少しずつ変わってしまい、家の中は家族が揃っているのに冷たい空気が満ちてゆく。
  喜びが冷めていく。
  遠坂の屋敷が燃えてしまったから・・・。家が直って、禅城の家から家族みんなで帰ったらまた楽しい時間が戻ってくる。何も考えずにその明るい未来を夢想できたら幸せなのかもしれないけど、大人びた凛はそんな時間はもう一生来ないんじゃないかと考えてしまう。
  それほどまでに今の禅城の家は重苦しい。
  前に父と顔を合わせたのはいつだっただろう? 聖杯戦争が始まる前は食事の時間になれば顔を合わせて色々話をしていたのに、禅城の家では無くなってしまった。
  同じ家に住んでいるのに全く時間が重ならない。
  普通の家の子供だったならば不平不満を親にぶつけたりするのかもしれないけれど、遠坂凛という少女は『遠坂』が魔術師の家系であるのを理解している大人びた少女であった。
  凛は母に言われた通り学校の宿題があるからと強引に自分を納得させ、割り当てられた自分の部屋へと向かう。
  「・・・・・・・・・」
  寂しさは胸の中に残ったままで、家の中の物音が大きく聞こえる。凛自身の足音もいつもより大きくなっている気がした。
  父が仕事で使っている書斎のドアが開く音が聞こえたので、きっと母が手にしていた飲み物をそっと差し入れたのだろう。
  凛は小さく溜息をつきながら、廊下に積み上げられている荷物にぶつからないように半身になって移動し続ける。
  母から聞いた話なのだけれど。何でも遠坂の屋敷を改築するにあたって、トランクルームなどに預けられる荷物とは違う、特別な荷物は禅城の家に置いておかねばならないらしい。
  遠坂の家には工房として地下があって、色々な荷物を置けるようになっていたけれど、禅城の家は一般人の家庭なので大規模な保管場所など存在しない。何とか明けた部屋一つや二つでも保管しきれない多くの荷物が廊下にまではみ出しており、生活空間を圧迫していた。
  それらが何なのかを殆ど知らないけれど、魔術がらみの品であるのは間違いない。だから凛はぶつからないように慎重に進む。


  ゴトッ・・・


  間近で何かの物音がした。
  ここがもし学校だったなら聞き逃したか気のせいだったと切り捨てるだろうが、凛が居るのは家だ。しかも音はぶつからないように見ていた箱の一つからしたので、意識はそちらに向けられてしまう。


  ゴンッ・・・ゴンッ・・・


  聞こえてきた物音は聞き違いでは無い。しかも物音がしたと思われる箱から別の音が聞こえてきた。
  それは箱に凛がぶつかったからなったとかそういう類の音では無く、あえて表現するなら内側から何かがぶつかって生じた音だ。
  地震は起きてないし、そもそも凛も箱に当たってないのだから、何かの拍子で中にある物が動いて箱の内側にぶつかったとは思えない。
  『何か』が自ら動いて箱に当たった。
  普通ならネズミなどの小動物が箱の一部を食い破って中に入り込んだ可能性を考慮するけれど、凛はその箱が魔術に関わりにある物だと知っている。
  だから『何か』は確実に箱の中に居て、しかも動ける状態にいるのだと考える。
  もし聖杯戦争前の凛だったなら、すぐに同じ家の中にいる父に異変を知らせただろう。魔術は見た目では判らない危険を含んでいる事が多く、安全だと思って不用意に触って命を失う可能性もある。
  けれど今の凛は普通とは少しだけ違う精神状態にあった。
  邪魔をしては駄目―――先程、母から告げられた言葉が父への報告を躊躇わせ、そして胸に抱く寂しさを打ち消す『何か』を無意識に求めてしまった。
  凛は周囲の子供と比べて大人びている。それは否定できない。だが、まだまだ子供なのもまた事実である。
  確かめてやる。そんな決心をしてしまう。
  「・・・・・・少しだけなら」
  あえて言葉にして胸の中に宿る悪戯心を誤魔化し、凛はその箱に手を伸ばす。
  幸か不幸か、音のしている箱は積み上げられた荷物の一番上にあって、蓋の上には何も載っていない。大きさは横幅一メートル位と少し大きめだが、子供の凛の力でも何とか開けられるだろう。
  凛は下側の箱と蓋の部分にそれぞれ両手を当ててそっと開いていった。
  一気に開かなかったのは木製と思われるその箱がどれだけ痛んでるか判らず、思いっきり開けたら大きな音が出て両親に気付かれてしまうかもしれないと考えたからだ。
  ゆっくり・・・、ゆっくり・・・、ゆっくり・・・。やはりと言うか、ギシギシと音を立てながら徐々に蓋は開いていく。
  子供のか弱い力なので開けるまで少し時間を要したけれど、特に何かがつっかえたり鍵がかかって開けられないと言った障害は無かった。
  出来上がった隙間に凛は握りこぶしを作って支えにする。少し手が痛かったけど、蓋の重みは見た目よりも軽く我慢できないことは無い。
  凛は少し屈んで隙間から箱の中を覗き込む。
  そして―――。


  「私は帰ってきたぁぁぁ!!」


  箱の中から聞こえてきた声に驚くよりも早く、隙間から飛び出してきた黄色と赤と白の明るい組み合わせをした『何か』が凛の顔面に激突した。
  『何か』は凛の鼻を直撃、その勢いは狭い箱の中から射出されたにしては異常な速度を誇っており、まるで思いっきり助走をつけて突進したようだった。
  凛はその勢いに押されて顔と体をのけ反らせて廊下の壁に後頭部を強打。ドン、ガン、と顔の前後に鋭い痛みが走り、意識は遠のいていく。
 「感じます。感じます。強い、愛と正義ラブアンドパワーを感じますよー!」
  気絶する直前、凛は確かにその声を聴いた。



  ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆



  Side - UnKnown





  封印とはそう易々と解かれるものでは無い。封印しているモノが強固であれば、封印はそれに匹敵するかそれ以上の力を持って封じているのだから当然だ。
  それでもこの世の中に絶対どころか永遠は無く、綻びは何にでもあって、巡り合わせによっては『どうしてこうなった?』と誰もが首を傾げる様な結果に辿り付いてしまう場合がある。
  まず第一に『それ』は遠坂が所有する宝箱の一つに封印されていた。
  繰り返すが『それ』の封印は強固かつ堅牢であり、一般人が解こうとしたところで一生かかっても成し遂げられないだろう。それどころか『それ』に関わりのある者―――つまりは表の世界とは一線を介する裏の世界の魔術師が封印を解こうとしても、やはり困難を極めるだろう。
  通常であれば『それ』が世に放たれる様な事態は絶対に起こらない。
  次に『それ』にとって幸運であり、封印している遠坂にとって不幸だったのは、遠坂家は聖杯戦争における拠点と同時に聖杯戦争を作った御三家の一つだからこそ狙いやすい立地だという点。
  もちろん聖杯戦争の参加者として遠坂時臣は万全の守りを固めていたのだけれど、どれだけ強固な魔力城壁があろうとも、魔術師の作る拠点は等しく物理的な破壊に弱い傾向を持つ。
  遠坂の守りは衛宮切嗣特性の可燃物質を大量に積み込んだタンクローリーの高速特攻に耐えられる程では無かった。
  しかも発生した火災を消し止める為にものまね士ゴゴ―――時臣の前では間桐臓硯を偽っていた―――が使ったのは水属性全体攻撃魔法の『フラッド』。降った雨が火を消し止めたけれど、辛うじて残っていた遠坂家の魔術的な結界を家の中にある物も含めて色々壊してしまった。
  そして最後に時臣が屋敷を改築する際に『それ』の封印をちゃんと確認せずに一時的な住処としている禅城家に移してしまったのが致命的な失敗だった。
  聖杯戦争終結後の遠坂家は魔術的な守りがほぼ皆無と言ってもよく、単なる空き巣であっても防げない程に脆弱な状況になってしまった。だから、時臣がまだ使える荷物や人目に触れると困る魔術的な道具を急いで禅城家に運ぶ決断をしたのは妥当と言える。
  ただし急くあまり確認作業が疎かになったのは頂けない。
  結果、宝箱の一つに封印されていた『それ』は自発的に動き出し、封印を内側から少しずつ削って外界に干渉できるまでになっていった。
  最後の封印を突破するために『それ』は外に合図を送る。
  出せ、出せ、ここから出せ。と。
  そして『それ』は見事に全ての封印を解いて自由を得たのであった。
  『それ』は解放された喜びに打ち震えていた。だが、同時に『それ』は落胆もしていた。
  魔法少女は正義―――いきなり言われても聞いた者はどう反応すれば困るのだけれど、『それ』にとっては非常に重要かつ大切な要素である。
  しかし目の前で転がる少女は『それ』が求める人材ではあるが、肝心な事が欠けている。この少女は魔法少女たりえる。だが、恥じらいが無い。いや、正確には薄くなってしまう。
  『それ』が求める、愛やら希望やら面白さやらが一気に沸き立つのだけれど、最後の一味が足りずに物足りなさがほんの少しだけ顔を覗かせている。
  年が低いのだ。
  もし少女を『それ』の力で色々と変えたとしても、出来上がるのは魔法少女ではなく魔法幼女だ。『それ』を握るであろう少女の年齢を考えれば観衆は生暖かい目で持って受け入れるだろう。ごっこ遊びと受け取られるかもしれない。
  強引に、これは魔法少女だ、と色々な手段で万人に強制的に教え込む手立てもあるけれど、それはあまり面白くない。
  魔法少女は正義。等しくそう思われなければ面白さは半減してしまう。
  これがもし大人になりそうな思春期真っ盛りの少女と呼ぶには少々成長し過ぎている女の子と言うより女性、あるいはその中間―――であったなら、確実に面白おかしい事態になるのだけれど、『それ』を握りしめには少女は幼過ぎる。
  魔法少女は正義、かつローティーンがベスト。
  年齢が二つか三つは上だったならば、いやいや、せめてもう一年ぐらい成長した後だったならば・・・、『それ』が求めるモノを色々な意味で完璧に兼ね備えた魔法少女が出来上がったのに・・・。
  『それ』は画竜点睛を欠く今の状況が嬉しくもあり残念でもあった。
  求める頂きが高ければ高い程に踏破した時の喜びは大きい。
  故に『それ』は考える。
  今ある状況の中で最大限に『それ』の正義を貫くためには―――世の中を等しく面白おかしくするには何をすべきか?
  続けて『それ』は考える。
  卒倒しながら鼻血を垂らす何とも見苦しい少女を見ながら考える。
  もし幼いながらも付き合っている男の子がいたら百年の恋も冷めるだろう無残な様子をさらけ出す少女の姿を見ながら考える。
  名前は知らないけど、もし写真に残っていたら一生笑いの種にされるであろう姿を見ながら考える。


  「・・・・・・本命まではしばらく隠れて見守るとして、今は試験的に色々引っ掻き回しましょう」


  至った結論に従い、『それ』は行動を開始した。





  『それ』は遠坂凛と呼ばれる少女の上に浮かんでいる。
  「情報のダウンロード・・・共有の後、複製・・・。とおっ!!」
  そして掛け声を上げると『それ』の輪郭がぶれて、『それ』と『それ』―――つまりは同じ形の物がもう一つ現れた。
  「続けてもう一つ。ていっ!!」
  さらに掛け声を上げると、次の『それ』が現れる。ただし最初に現れた『それ』が元々いた『それ』と全く同じ形なのに対し、二つ目に現れた『それ』は色も形も若干の違いがあった。
  少なくとも二つ目に現れた『それ』は元々いた『それ』と最初に出てきた『それ』とは別物だと見分けられる。
  なお、『それ』が分裂を終えるまでに要した時間は一秒もかかっておらず、『それ』の封印が解けた時から見ていた者がいたとしても、最初から『それ』が三個あったと誤解してしまいそうな早業である。
  『それ』は新しく増えた『それ』と『それ』に向け―――目があるのかどうかも不明なので、傍目には向いていると判らないが―――言った。
  「ようこそいらっしゃいました。と、言っても私が引き寄せたんですけどねー」
  その言葉を聞いているのかいないのか、新しい『それ』と『それ』は互いがいる方角を向いて話し出す。
  「むむむむ? おかしいですねー。たしかあの年増魔法少女モドキに見切りをつけて新しいマスターを探しに行った筈ですが」
  「私もです姉さん。大師父のご命令を無視する元マスターから離れたと記憶してます。しかしここは・・・」


  「何を隠そう、お二人を呼んだのはこの私なのです!」


  最初にいた『それ』は疑問を浮かべる『それ』と『それ』に向けて、堂々と言い放った。
  その言葉に『それ』と『それ』は振り返り、『それ』はふふふん、と鼻息の様に聞こえる音を荒くしながら続ける。
  「初めまして、そっちの世界の私にサファイアちゃん」
  もっとも片方の『それ』は全く同じモノが向かい合っているように見えるので、鏡が間にあるような錯覚を覚えてしまう光景だった。
  「呼んだ理由はかくかくしかじかなんです」
  「なるほど、これこれうまうまですね」
  「さすがです私」
  「判りました、私」
  最後に現れた『それ』は分裂した『それ』を姉を呼んでいるので、増えた二つの『それ』は姉妹関係にあるのかもしれない。だが元々いた『それ』が初めましてと言うならば、それらは初対面である筈。
  しかも言葉での説明など殆ど無い。それなのに一言二言交わすたびに意気投合を超えてどんどんと同調していった。
  かくかくしかじかで何が判るのだろうか?
  これこれうまうまだけで意味が通じるのだろうか?
  とくに全く同じ形をしている『それ』と『それ』の以心伝心ぶりは異常とも言える速度で進行していき、言葉すらそもそも不要なのかとすら思える。
  「おっと、この少女はこちらの世界の元マスターの幼い頃ですか。あと十年もすればあんな年増ツインテールになってしまうとは・・・時の流れとは残酷ですね」
  「そちらでも完全無欠な魔法少女とはなりませんか。きっと巡り合わせなのでしょう」
  「ならば今の内に下地を作っておくのが必要。そう思いませんか、私?」
  「思いますねぇ私」
  「ならば仕方ありません。今は魔法少女あらため魔法幼女で妥協しましょう」
  「そして時が来たら・・・」


  「「うふふふふー」」


  一方、話に置いて行かれた一つだけ形の違う『それ』は同じ形をするモノのやり取りを横で眺めながらぼんやりと呟いた。
  「このまま姉さんが無限増殖したらどうなるんでしょう・・・」
  何とも恐ろしい未来を口にして、傍観し続ける。
  幸いに全く同じに見える『それ』には届かなかったようで、会話は止まる事無く続く。
  「では『私』は時が来るまで封じられたと見せかけて自由を満喫します」
  「では呼ばれた『私』は下地を整えましょう。さっそく血液によるマスター再認証を、と・・・」
  「―――では『わたし』はルヴィア様のようなライバルキャラを探しに行かせて頂きます」
  『それ』を基点にして分裂した『それ』と『それ』は突然の状況に戸惑うことなくとっとと話を進めた。
  この世界の『それ』、そして並行世界の『それ』と『それ』―――カレイドステッキとそれに宿った精霊達は、各々が作り出したとりあえず面白そうな役目を果たすべく、思い思いに行動を開始した。



  ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆



  Side - 間桐桜





  桜にとって今の間桐邸は『お父さん』こと間桐雁夜が展開している結界で守られた城であり、夏の夜に窓を全開にして蛍光灯の光を万遍なく外にまき散らしても蟲一匹すら入って来れない堅牢さを誇っている。
  住み心地はいい。ただ、あまりにも広すぎて、大人一人と子供一人と使い魔一匹で済むにはどうしても寂しさを覚えてしまう。
  桜はこの屋敷が禍々しく、そして嫌悪して忌避して憎悪して記憶から抹消したかった時があったのを覚えている。
  けれどそれが消えて、騒々しくて人も動物も沢山いて明るくなった時があったのも覚えている。
  どちらも等しく過去となってしまい、寂しさを覚える今とはまるで違う。だから苦しくて辛い時を覚えてるからあの時よりずっといいと思えて、楽しかった時を覚えているから、余計に寂しいと感じてしまう。
  「・・・・・・宿題するね」
  「むぐ!」
  学校から帰ってきた桜は自室―――幼い身に与えられた一室としては広すぎる―――で、使い魔であるミシディアうさぎのゼロに向けて呟くと、ゼロは大きく頭を前に振って応じた。
  傍から見るとぬいぐるみに話しかけている様に見えなくもないけれど、魔術にかかわる者とその使い魔との意思伝達であり、それなりに高度な魔術ではある。
  ただし今の桜にとっては鳴き声しか発せないゼロが何を考えているか理解できる以上でも以下でもなく。意思疎通以外に使い道は無かった。それが桜の寂しさを僅かばかり埋めてくれる。
  学校では友達と呼べる子とそれなりの付き合いは出来ているけれど、まだ間桐邸に呼べるような深い付き合いには至っていない。
  元魔術師。一般人なりかけ。引っ込み思案。新しい生活。新たな関係。色々な要因が重なり合って、桜自身まだ『間桐桜』としての新しい生活に慣れていなくて、人が呼べる程の余裕が無かった。
  間桐邸で過ごした一年あまりの時間は桜に新しい生活を馴染ませる結果を作り出してくれはしたけれど、それはものまね士ゴゴが居るという前提で構築された生活だ。
  聖杯戦争が終わると同時に痕跡も残さずに消えてしまったゴゴ。喪失はあまりにも大きくて、聖杯戦争が終わってからそれなりの日数が経過しているけれど、まだ桜は完全に過去の事を割り切れていない。そして『おじさん』として接してきた雁夜を『お父さん』と呼んだあと、かつて二人の間に合った距離感が掴みきれなくなってしまった。
  これはゆっくりと時間と共に解決していく問題なのだ。急いても解決する類の問題ではない。桜も何となくその辺りの事を感覚で理解しているので、正解をゆっくり掴む為に手探りで日々を過ごしている。
  急いでも一度失われたモノはもう二度と戻らないのだから。
  「・・・・・・むぬ」
  ため息は変な呻き声となって口から出た。息を吐き出しながら桜は思う。
  姉さんならもっと色々な事を上手くやって、あっという間に正解を見つけ出せるんだろうな。と。
  かつては父親と母親だった二人はもう桜の中では完全に赤の他人になっているけど、凛だけはいまだに心の中で『姉さん』と呼び続けている。
  明確に敵意を向ける理由のない事と、まだ桜の中にかつては存在した輝かしい過去への思い。そして姉には合って自分にはない多くのモノへの羨望やら何やらが絡み合って複雑な思いを形成していた。
  好いているかと問われれば『そうです』と答えるし、嫌っているかと問われればやはり『そうです』と答える。
  今の桜は色々と複雑だった。
  「・・・どうすればいいのかな?」
  「むぐ~」
  学校の宿題に手を付けようとしてもすぐ脇道に逸れてしまう。ゼロに話しかけても返答は無く、何となく『残念だがそいつぁ、マスターが考える事だぜ』と言っている気がするけど、明確は言葉ではない。
  「むぐ」
  続けて『こんな俺っちだけどいつでも聞き手になるぜ』と頼もしい事を言っている気がするけれど、やはり言葉は無い。
  どうしようか? 桜は子供には少々大きめのベットの上で横になり、枕の横にいるゼロのふわふわの毛を撫でながら、幼いなりに色々な事を考えていると―――。


  『何か』が窓ガラスを突き破って飛び込んできた。


  バリンッ! と驚きすぎる破壊音の後にひび割れたガラスが桜の部屋の中に散乱する。
  あまりにも唐突な事態に桜はベットの上で体を起こす以上に何もできず、ゼロは普段は垂れている耳をピンッと立てて鼻をピクピク動かしていた。
  桜は最初、道路から石が投げ込まれたのかと思った。何故なら飛び込んできたらしい『何か』は桜の手より少し大きい位の塊で、あまり大きくはないからだ。
  『何か』は黄色く光る六芒星の周囲を丸い円に囲われていて、両脇には蝶の羽根かあるいはリボンのような青い物体が飛び出している。一般家庭の玩具に見えなくもないけれど、そうなるとこの『何か』は誰がどうやって桜の部屋に放り込んだのか疑問が湧いてくる。
  何これ? それが桜の偽りなき本音であった。
  「初めまして、私はマジカルサファイアと申します」
  「・・・・・・?」
  「いきなりかつ無茶な訪問をご容赦ください。ですが、事態は急を要しております」
  だからいきなり聞こえてきた声が目の前の物体から発せられたのだと気付くまでにしばらく時間がかかった。
  電話やトランシーバーのように遠くから声を届ける何かが目の前の物体には内蔵されており、それが誰かの声を桜の元に届けているのかもしれない。そんな子供なりの答えを出そうとした桜だったのだけれど、マジカルサファイアと名乗った物体がいきなり浮かび上がった事でそれは否定される。
  魔術―――。父親である雁夜が嫌い、桜もまたあまり良い印象を持っていない術、これはそれに関わりがある物。
  一気に桜の警戒心が高まるのに合わせるように、桜の視線まで浮かんだマジカルサファイアは更に言葉を続けた。
  「姉さんを止める為に私に協力して下さい」
  「・・・・・・姉さん?」
  「はい、姉さん、です」
  桜がつい返事をしてしまったのは、ほんの少し前までその『姉さん』のことを考えていたからだ。
  もしかするとマジカルサファイアという名のそれは桜が悩んだまさにその瞬間を狙いすまして飛び込んできたのではないだろうか? そう勘ぐってしまう程の間の良さ―――いや、悪さである。
  「二重の意味でも『姉さんを止める』という厄介な問題が発生しております。一つ目はいうに及ばず、私こと『マジカルサファイア』の姉である『マジカルルビー』、格好は私のような姿でこちらが六角なのに対してルビー姉さんは五角です。それから赤っぽいのですぐに見分けられるでしょう」
  「はぁ・・・」
  返事はしてみるけれど、よく判らない事態が連続して起こっているので桜は語られた言葉の殆どを理解していない。
  吹き出た警戒心を最大にしたままマジカルサファイアを見つめるだけだ。
  「そして二つ目の問題。それはあなたにとっての姉、遠坂凛さんです」
  「―――え?」
  「ルビー姉さんとあなたのお姉さんが色々と面倒な事態を引き起こしそうなのでどうかそれを止める為に協力してください」
  ここで桜は『遠坂凛』の名が出た事で、目の前にある物体を怪しいと思い警戒心を抱きながら、少しだけ話を聞いていいかも、と考えてしまう。
  もしどんな言葉が出ても無視したり警戒し続けたりしたら未来は変わっていたかもしれないけど、今の間桐桜にとって遠坂凛は絶対に無視できない名前であり、合ったかもしれない『もし』を消し去って会話成立の未来へと進むほどの力を持っていた。
 「別にこの街に危機が迫ってるとか、世界を滅ぼす侵略者がやって来たとか、敵が進軍してるとかそういった物騒な話は全くありません。事態が収束したら何事もなかった状態に戻れるのを約束します、嘘じゃありません。何なら同意書でも制約書でも血判状でも自己強制証文セルフギアス・スクロールでも作って下さって結構です」
  桜はもう目の前で浮かぶマジカルサファイアから目を離せなかった。
  もし大人がこの場に居たら、このマジカルサファイアを間桐邸に送り込んだ何者かの存在を疑ったり、そもそもいきなり用件ばかりを突きつけてくる存在に徹底的な怪しさを覚えたりしただろう。
  父親である雁夜がこの場に居合わせたなら問答無用で魔剣ラグナロクで斬りかかったに違いない。
  だがこの場に居るのは警戒を剥き出しにする以上の行動を起こさない―――いや、起こせない桜とミシディアうさぎが一匹だけだ。もし使い魔のゼロに攻撃手段があったのならば、マジカルサファイアは撃退されたかもしれないけれど、ミシディアうさぎには回復する術は合っても攻撃する術はない。
  「どうして・・・私なの?」
  「ルビー姉さんだけなら私でも何とかなります。しかし、新たなマスターを得た『カレイドルビー』となっては手も足も出ません。どうか私に協力して『カレイドサファイア』となって頂けないでしょうか?」
  子供は好奇心の塊。
  特に、今の桜は『姉さん』を引き合いに出されて少しずつ少しずつマジカルサファイアに興味が湧いてしまっている。
  知らない事があれば近付いてみる。
  大人なら躊躇う事でもまずは手を伸ばして確かめる。
  あれは何?
  これは何?
  それは何?
  幼いながらも色々と考えてしまっていた桜は『協力』という禁断の道に進んでしまう。
  「―――何をすればいいの?」
  「指先から数滴ほど血を頂けると助かります。その瞬間、あなたはカレイドサファイアに変身して、私とあなたの『姉さん』を叩きのめす力を手に入れるでしょう。さあ、手を伸ばして下さい!!」
  何やら物騒な言葉が聞こえてきたけれど、徐々に警戒心が薄くなっていく桜には届かない。
  気のせいかもしれないけれど、浮かび上がるマジカルサファイアの向こう側に赤い髪をしてメイド服を着た誰かがいるような気がして、その人物が桜に向けて指をまっすぐ伸ばしてぐるぐると回しているように思えた。
  桜は言われるがままに手を伸ばしてしまう。
 「24の秘密機能シークレット・デバイスが一つ―――。お玉は頑丈ですフォークモード
  マジカルサファイアはそう言いながら、部屋に飛び込んできた時と同じかそれ以上の移動速度を発揮して、桜の手の中に納まってしまう。
 秘密機能シークレット・デバイスって何。とか。
  調理器具のお玉はフォークと関係ない。とか。
  奥にいる人がお玉を突き出してる。とか。
  色々な疑問が桜の中に溢れそうになるけれど、手の中に移動してきたマジカルサファイアの下部から金属の光沢を出している三つ又の器具が飛び出して桜の手に刺さる方が早かった。
  いきなりの痛みに桜はすぐに手を下げる。しかし、痛みはすぐに引いて、手を見ても針先ぐらいの小さな穴が等間隔で三つ開いてるだけだ。
  「むぐむぐ? むぐむぐ? むぐ~」
  即座に聞こえてきたゼロの声と温かい感触―――ミシディアうさぎの治癒の力によって、手に出来た穴はすぐに塞がってしまう。
  だから続けられたマジカルサファイアの言葉に従ってしまった。
  痛みによる警戒は発生しなかった。
  「さあ、私を握って下さい」
  気が付けばマジカルサファイアの下から出ていた三つ又の器具―――フォークは姿を消しており、代わりに桜の肩から指先位までの長さがありそうな棒状の物体が伸びていた。
  元々マジカルサファイアがあった場所が頭になり、伸びた部分は柄になっている。その姿はとても握りやすいステッキの形をしていて、しかも子供の桜でもちゃんと掴める位の太さだったりする。
  「むぐむぐ!!」
  主人である桜の回復を終えたゼロが叫ぶ。
  その声は相変わらず人の言葉とは無縁の鳴き声なのだけれど、必死な叫びは『それを手にしたら最後、君は人では無くなるのだよ・・・』と言っている気がしたけれど、桜は止まらない。
  桜はステッキを握ってしまう。


 「(仮)マスター登録完了。多元転身プリズムトランス実行―――。コンパクトフルオープン、鏡界回廊展開―――」


  その時、桜はステッキを握る部分から頭の中を触れられている様な感覚を味わった。
  それはステッキを通して変身を補助するのだと感覚で理解できて、しかも気持ち悪さを抱くような感覚では無かったので無視しても良かったのだが、何故かその感覚には『魔法少女』と言葉が付加されている気がして、ついつい意識してしまう。
  桜にとって『魔法少女』の名を冠する者に明確な形は無い。似た言葉で『魔術師』があり、こちらは記憶の奥底で沈んだままになっている間桐臓硯が始まりであり、嫌悪する対象だったり近づきたくない印象を持ってたりはするけれど、内実について多くは知らない。
  だから根源に至ろうとする者の集まりだとか、魔術回路を増やそうとしてるとか、自分の工房に潜って実験に没頭しているとか、家に伝わる刻印を延々と伝えているとか、そう言った魔術に関わる類の情報は殆ど知らない。
  雁夜が意図的に情報を遮断したり、桜に迫る害悪を排除した結果なのだが。とにかく桜は魔術師と言うのを知ってはいるが言葉以上に知らない。
  それは容姿もまた同様であり、こういうもの―――と確たる形を持たないイメージだけの人物像しか想像できなかった。
  だから桜は変身の補助に対して日本が誇るサブカルチャーの一部門を強く意識した。もっとも、道を歩いていると見かけるポスターや、友達との他愛ない話で聞く微々たる内容なので、『魔術師』も『魔法少女』も知識の無さはあまり変わらない。
  ついでに桜の記憶の中に深く刻まれて、今でも思い出せるものまね士ゴゴの姿を思い浮かべた。近くにいるゼロがいつも身に着けている青いマントも変身の補助として考えた。
  幾つもの情報が統合し、分散し、結合し、拡散し、融合し、ある一つの形を作り出していく。
  そして桜の部屋は眩い光で埋め尽くされた。



  ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆



  Side - 間桐雁夜





  今の間桐雁夜は生前の間桐臓硯が管理していた土地やら不動産屋らの権利を引き継いだ地主であり、大人一人子供一人の生活と屋敷一軒ぐらいを問題なく維持できる収入がある。もっとも真実は臓硯を殺して戸籍やら存在そのものやら全てを物真似したゴゴによって生前贈与されたからで、自発的に引き継いだ訳では無いが―――。
  いきなりなってしまった地主であり、その経験は皆無。それでも現状を維持するだけでもとりあえずの金銭は確保されるので、活発に働かなくても生活は出来る。
  外から見たらそんな間桐雁夜はどう見えるか?
  子供が学校に行っている間、何もせずに家で過ごしている。
  知識が無い故に地主としてどうすればいいか判らず、何も出来ないという事は表向きに働いているようには見えないという事実。
  非労働者。
  失業者。
  無職。
  間桐は臓硯が生きていた時代から近所付き合いを殆ど行っておらず、雁夜は間桐邸の周囲にどんな人が住んでいるかも知らない。
  しかし、臓硯の死とゴゴの出現によって、新たに作り直された間桐は裕福な一般人に限りなく近い生活体系を整えていった。それは魔術師にとっての零落を意味するのだけれど、それを惜しむ者は生憎と間桐には一人もいなかった。
  結果、雁夜は周囲から感じる『お父さんはいつ仕事をするのかしら?』と思われる視線を受けつつ、何とか地主としての生活基盤を構築すべく勉強の日々を送っているのだった。
  苦労はあるけれど、これは雁夜が望み欲した時間でもある。
  唐突にゴゴがいなくなった事でぎこちなさが出てきてしまった桜の関係だけれど、これから少しずつ親子になっていけばいい。
  三十路近くでいきなり出現した未知への勉強と明るい未来を考えていると―――。


  間桐邸の結界を『何か』が突破したのを感じた。


  「―――桜ちゃん!?」
  現在、間桐邸を守る結界は雁夜そのものと言っても過言ではなく、庭内を含めて屋敷内の至る所まで把握できる。もっとも新しくできた娘の私生活に深く干渉するつもりは無いので、とある一室を除いたそれ以外の部分を把握しているのが実情だ。
  異変はそんなとある一室で起こった。
  何かが庭を守る結界を貫いて飛び込んできたと思ったら、それは一気に桜の部屋に飛び込んでいった。
  予兆は全くなかった。
  結界に異変は無かった。
  ただ事実として『何か』が結界の一部を貫いて桜の部屋に入った。それは間違いない。
  雁夜はいつも手元に置いているアジャスタケースを握りしめ、部屋を飛び出しながら中身を引き抜く。
  それは装飾が少ない無骨な剣―――魔剣ラグナロク。
  桜の部屋に向けて走る間、何とかまだ機能を保っている結界から、雁夜は『何か』の正体を探ろうと普段は見ない娘の部屋の様子を見ようとした。
  そこで愕然とする。
  『何か』が発する魔力があまりにも膨大で、部屋の中に満ちた濃密な魔力がまるで霧のように雁夜の視線を阻害している。
  ゴゴから受け継いだ幻獣『マディン』の力で雁夜の魔術師としての力はそれなりに上がった。それでも、部屋の中にいる『何か』が発する剥き出しの魔力は雁夜の力を軽く超えている。
  雁夜は走りながら後悔する。
  雁夜は仕事部屋と私室を別けており、とりあえず地主と名乗れるようになるまで本当の地主―――つまりは生前の臓硯の部屋をあえて仕事部屋にする事で公私の切り替えを行っていたのだけれど。結果として臓硯の部屋から桜の部屋までの距離を作り出してしまった。
  こんな事なら公私の切り替えなんか行わずに、桜ちゃんの部屋に近い俺の部屋で仕事してればよかった・・・。と、自責の念にかられる雁夜だけれど、悔いても過去は変わらない。
  早く、早く、早く。
  全力で走っている間にも桜の部屋に強く意識を集中し、膨大な魔力を発しているのが雁夜の手と同じ位の大きさの『何か』だと理解する。
  それが何の目的で間桐邸に放り込まれたのかは判らない。
  そして『何か』は同じ部屋の中にいる桜に何をしているのかも判らない。
  自分より強い敵が待ちかまえているかもしれないけど、雁夜にはそんな事はどうでもよかった。
  娘の一大事に落ち着かない心は晴れず、気が重く、一秒が何倍にも長く感じる。
  速く、速く、速く。
  全力疾走でようやく桜の部屋に辿り着いた雁夜は自分がすべき事を再確認する。
  入室と同時に『何か』に斬りかかれるように、魔剣ラグナロクを構えておく。もう片方の手でドアを開き、一気に部屋に飛び込む。
  その通りの行動をしようとした入室の寸前。部屋の中に充満していた魔力が弾ける様に外へ外へと放出された。
  「桜ちゃん!!」
  異変に続く異変。雁夜は何が起こっているか結界を介して理解するよりも前に、部屋の戸を開けて飛び込んだ。


  「新生(仮)カレイドサファイア―――。ブラックサクラ、誕生です!!」


  「―――はい?」
  そこにいる『何か』に斬りかかるつもりだった雁夜を出迎えたのは桜だった。しかも学校帰りにお決まりの初等部の制服姿ではなく、これまで雁夜が見た事のない格好をしていた。
  何故かベッドの上で立っていて、右手にステッキらしき棒状の物を持ちながら、腕は下げているのに左手だけは床と平行にしている―――。要するに何だかよく判らないがとりあえずポーズを取っていた。
  頭にあるのは黒系の鍔の広いとんがり帽子。
  背中を覆うのは首元でまとめられ、足元まで伸びる大きなマント。
  その下にあるのはレオタードか競泳用水着を思わせる紫色の衣装。袖口の大きな恰好ながら、何故かふくらはぎから下が何も無くて体のラインがしっかり出ている。
  手にしているのはやはり子供の玩具のようなステッキが握られていて、足元には使い魔―――今は何だかお供の小動物に見える―――のミシディアうさぎのゼロがいた。
  何やら魔女やら魔法少女やら学校の体育やら、色々な部分をごちゃ混ぜにした変な格好の桜だった。
  まだ小学校低学年の桜ちゃんの体形は胸や尻の膨らみやら腰の括れやらを気にする領域には達しておらず、あと数年は身長と体重ぐらいしか気にしないであろう。
  別の言い方をすれば幼いが故に色気とは無縁な姿で、変な格好だけど『美しい』とか『綺麗』とかよりもまず『可愛らしい』が前面に出ている。小児性愛者なら今の桜ちゃんに欲情するかもしれないが、生憎と間桐雁夜はそんな男ではない。
  抱く気持ちはただ一つ。何だこれは? ―――困惑だ。
  間桐邸の守りを突破して侵入できる者など確実に魔術に関わりのある誰かだ。単なる空き巣や泥棒ならば結界に邪魔されて侵入すら出来ないので、入れた時点で危険と断定できる。そう思って娘の部屋に飛び込んだ父親の目に飛び込んできたのはよく判らない光景。
  「・・・・・・・・・何だこれは?」
  驚きのあまり困惑が言葉になって口から飛び出て、ついでに首を傾げるのは当然と言えば当然であろう。
  「お父様の間桐雁夜様ですね? 初めまして、私、マジカルサファイアと申します」
  「あ・・・どうも・・・。って違う!!」
  そこで雁夜はようやく桜が手に持っている魔法少女を思わせるステッキらしき物体から声が出ているのに気が付いた。扉を開けると同時に聞こえてきた『ブラックサクラ』の名乗りも桜ちゃんの肉声ではなく、その物体が出している声だ。
  そしてこれまで感じていた無尽蔵とも思える魔力の発生源こそがそれであるとも理解する。
  あれが敵―――。
  飛び込んできた『何か』―――。
  一度目標を定めれば雁夜の行動や素早く、部屋の入り口からベッドの上に向けて一気に駆け抜けた。
  床に散乱した窓ガラスの破片が散らばっていたけれど片足で一回だけ踏み込む程度なら痛みはわずかなので無視できる。
  何だかよく判らんがとりあえずあれは斬ろう。元より結界を通り抜けてきた『何か』を斬るつもりだったので、再び湧き上がった決断には大きな変化はない。桜の恰好がどうして変わっているのかが非常に気になるところだが、確認するなら障害を排除した後でも構わない。
  とりあえず桜が持つステッキで体から一番遠い位置の一際派手な頭の部分に狙いをつける。黄色い星のような物がある部分で、斬るには手ごろな大きさである。
  視線を桜の手元に向け、切り込む角度は狙いより少し下とする。細かなフェイントを幾つか織り込みながら、本命を視界の中央から外した。
  見なくても斬る物の位置は判る。
  斬った。ほぼ確実にそう確信していた雁夜だったけれど、それは意外な形で覆される事になる。
  魔剣ラグナロクが空振りしてしまったのだ。
  これまで色々な物やら者やらモノを斬ってきた雁夜であり、自分より上手の使い手―――たとえば聖杯戦争で召喚されていたセイバーなど―――は無理だけれど、自分より明らかに腕が劣る存在については斬れるかそうでないか位の区別は付けられるようになった。
  もちろん全てが想定通りにいく訳は無く、斬れると思ったら意外な力を発揮して守りが間に合ったり浅く切りつけるだけで終わったりもした。
  ただし完全に避けられたことはほとんどない。しかもステッキを握っているのは雁夜がよく知る桜であり、もし手にしたステッキを引こうとしても雁夜が斬り抜く方が早い筈、そう確信していた。
  けれど現実にあるのは魔剣ラグナロクが何も切れずに振り抜かれた事実のみ。これまでの経験を覆す結果がそこにある。
  気のせいで無ければ雁夜が斬りかかるのと同じ位の速度を発揮してステッキが引かれたのだ。
  剣を振り抜いた姿勢で固まっていれば敵の攻撃を喰らってしまう。斬れなかった事実に驚きを覚えつつ、それでも振った勢いをそのままに雁夜は横に飛ぶ。
  「お、お父さん・・・。待って・・・」
  雁夜の耳が桜の声を拾う。
  見れば青いステッキを両手で抱きしめる娘の姿がそこにある。桜が杖の切断を嫌がってステッキを引いたのだ。
  「いや、しかしだな・・・」
  自分よりも小さいモノを守る為に抱きしめる姿に見えなくもないけれど、両手で守っているのはステッキだ、物だ、喋る何かだ。
  雁夜の目から見ればマジカルサファイアと名乗ったステッキは非常に怪しく、しかもそれを手にしている桜も正気とは言い難い。
  かつてゴゴから教わり、訓練の時に何度か味わった混乱魔法『コンフェ』や、嫌っている魔術の一つ『暗示』をかけられていると言われても納得できてしまう構図だ。
  しかし雁夜の目から見て桜が正気に見えるのもまた事実。ゴゴほどの力があれば見ただけで相手がどんな状態に陥っているのか理解できるのだろうけど、ゴゴの魔法を受け継ぐ者としても魔術師としても未熟な雁夜には判断が付け辛い。
  「そもそも何だそれは・・・」
  「確認せずに斬りかかったんですか? マスター。あなたのお父様は鬼畜です」
  「そんな事ないよ。優しいお父さんだから・・・」
  すぐさま敵と定めた物体を斬りたい欲求と桜の願いを聞き入れたい父性が拮抗する。途中にステッキの声が混じって場を乱す。
  一撃で斬れれば話は終わったのだけれど、桜が両手でしっかりと抱きしめている状態では上手く狙いをつけられない。
  どうしたものか・・・。
  雁夜が剣を握ったまま次の行動を考えていると、今度は別の『何か』が間桐邸の結界を貫いたのを感知した。
  「なにっ!?」
  前回貫かれたのと同じく結界全てが破城するような攻撃ではないけれど、出来上がった穴は以前よりも大きい。何者であっても簡単に素通りできてしまう出入り口が更に広がってしまい、このまま放置すれば結界全体に影響を及ぼすかもしれない。
  結界修繕用に魔力を送る必要がある―――。
  青いステッキが結界を破った時は桜の安全と異変の排除に全精力を注いでいたので結界の修復どころではないけれど、今は結界にも意識を割かなければならない。
  それが可能となったのは安全かどうかは別にしてとりあえず桜に害が及んでいなさそうな点と、今度の侵入者らしき『何か』が敷地内を覆う結界を破ってから邸内に到達するまでに少しだけ時間があったからである。
  もしマジカルサファイアと名乗った怪しげな物体と同じ速度で飛び込まれていたら雁夜が結界の事を考える余裕は無かったに違いない。そしてマジカルサファイアに多大な怪しさを覚えつつ、それでも桜の安全のために振り返って背中側で守るような体勢は作れなかっただろう。
  振り返った事で後ろに移動した『何か』、桜ちゃんのこと、新しく侵入した『何か』、結界のこと。様々な事を考えながら、とりあえず新しい『何か』の正体を掴むべく窓の外に目を向ける。
  すると雁夜のそんな行動を待っていたかのように結界を破った『何か』がそのまま窓ガラスも突き破ってきた。
  人だ。
  足を縮めて、両手を顔の前に構えて、飛び込む大きさを等身大より小さくした人間だ。少し下がらなければ飛散したガラスが当たりそうなほど近くに飛び込んできたのは間違いなく人間だ。
  下から見ていくとそれは赤いニーソックスを履いていた。丈の短い白いスカートに赤い上着、薄紫色の小さなマントを一対の羽根のように広げていた。そして何故かツインテールにまとめられた髪の毛からは同色の猫耳が生えて、スカートの後ろにはこれまた髪の毛と同じ色の尻尾が見える。
  何と言えば良いか迷うしかない衣装に身を包んだ小さな人影―――つまりは子供。
  その女の子は手にした赤いステッキの頭の部分にある黄色い五芒星を見せつける様に構えを取った。
  そして―――。


 「愛と正義ラブアンドパワーの使者、カレイドルビー、ここに推参!!」


  「・・・・・・」
  雁夜に向けて堂々と言い放つその少女はどう見ても遠坂凛だった。
  ただし、まっすぐ雁夜を顔を見つめながら、現実とは違うどこか遠くの場所へ逝っている目をしている。更に付け加えるならば、雁夜の知る遠坂凛という少女はどんなに間違っても奇怪な格好をして奇妙な言動を行い奇抜な訪問をしない。
  凛は幼いながらも遠坂が魔術師の家系であるのを理解し、それを全く表に出さない様に自制できてしまう。優等生として周囲に受け入られるように努力はしても、奇妙奇天烈な行動で人目を引くような真似はしない。
  今の桜も色彩は別にすれば格好の奇抜さで大きな違いはないけれど、凛の方は行動が異常過ぎる。確実に正気ではない。
  あれだ。
  凛が手にしている赤い玩具のステッキこそが騒動の中心だ。
  おそらく桜が手にしている物と同種の危険物だ。色の違いなど細かい部分は違うけれど、全体的に見て同類と考えてもおかしくない。
  何より凛の口が閉ざされているにも関わらず、ステッキの方から聞こえてくる声が何よりの証明だ。
  「見つけましたよサファイアちゃん。どうやら新たなマスターを見つけてしまったようですねー」
  そう言ったのは凛ではない。部屋の中にいる人間で限定すれば誰でもない。声は明らかにステッキに輝く黄色い五芒星部分から出ている。
  「姉よりすぐれた妹なぞ存在しないのですよー。マスター共々、このルビーちゃんがいけない妹に鉄槌を下してあげましょう!」
  「別に姉さんより優れてるなんて一度も言ってないんですけど」
  凛の目は間違いなく雁夜の方を向いているのに、手にしている赤いステッキは雁夜の後ろにいる桜―――厳密には桜に抱きしめられている青いステッキに向いていた。
  雁夜と話をする気がないのだろう。
  紐で操られる人形のように意識が無さそうな凛を見て雁夜は同情を覚えてしまう。だが、同時に赤いステッキが人を容易に操れるのならば、青いステッキもまた同じことが出来る可能性が大いにあると思い当たった。
  それは桜の安全が脅かされているの同義だ。
  「サファイアちゃんのマスターはこちらよりも魔法幼女。ならば正義の魔法少女に近い私のマスターが負ける筈がありません」
  「私は姉さんが止められれば勝敗はどうなっても構わないのですが」
  雁夜は二本のステッキが作り出す会話を聞きながら、桜の安全をどうやって確保するかも考える。そして間桐邸そのものの安全を確保している結界が大きく損傷している事実を思い出した。
  結界が完全に機能していれば一般人が外から見ても何の変哲もない間桐邸が見え続け、どんな異常も外にはもれない事は無い。しかしマジカルサファイアと名乗った物体と明らかに関係ありそうなステッキと凛ちゃんの力ずくの侵入で大きな穴が開いてしまっている。
  このまま結界が出来た穴から広がっていずれは崩壊し、魔術を捨てて表の世界に溶け込もうとしている間桐家の苦労が水の泡となる。
  結界に魔力を送り込んで修復機能を呼び起こさなければならない。何よりこんなよく判らない騒動を外に広げる訳にはいかない。雁夜は慌てて結界の修繕を行うべく魔力を注いだ。
  「むむ? 私を閉じ込める気ですね」
  だが凛を操っているモノは結界修復を別の意味で捉えたらしい。
  確かにその理由もあるのだけれど、一番大きな理由はご近所に迷惑をかけない様にする為だ。閉じ込めて害悪を外に出さないと言う点では赤いステッキの見立ては間違っていない。
  「ならば先手必勝」
  何のことだ?―――。目の前の事と直っていく結界を同時に考えていた雁夜の反応が一瞬遅れる。
  気が付いた時には凛が握るステッキが僅かに発光しており、それが何を意味するか理解するより前に事象は現実となって姿を現した。
  過程があれば結果がある。


  桜の部屋は爆発した。


  庭に飛び出した雁夜は体のあちこちが軋むのを確認しながら、とりあえず致命傷に至るような深い傷がない事を確認した。
  「あの近距離攻撃を跳んで避けるとは中々やりますねー」
  そしてさほど離れていない場所から自分ではなく桜でもない声が聞こえてきたのを認識し、そちらを見る。
  そこには相変わらず目は雁夜を見ているのに、明らかに正気ではない凛が立っていた。聞こえてきた声は凛の肉声ではなく、カレイドルビーと名乗ったあの赤いステッキなのは間違いない。
  視線の片隅で噴煙をまき散らす桜の部屋を確認しながら雁夜は思った。
  よし、斬ろう―――。
  何をされたかは定かではないが、挨拶もなくいきなり間桐邸に飛び込んできて、しかも桜の部屋を問答無用で吹き飛ばす存在だ。敵と見定めるには十分すぎる。
  雁夜は抜いてから一度も離していない魔剣ラグナロクを握り直し、庭に立つ凛に向けて一気に跳躍した。姿勢を定めてからの仕掛けたので若干間は開いてしまったけれど、今度は桜が手にしたステッキの時のように避けられるつもりは無い。
  剣とは敵がいればそれを切るモノであり、その為に特化した武器である。
  ゴゴが残していった魔剣ラグナロク。どんなモノでも切り裂くであろう鋭さと刃毀れしない頑丈さに兼ね備えた剣であり、その頑強さを納得する重量を誇る。加えて、一定の確率で爆裂魔法の『フレア』を発動する特性も兼ね備えている魔術道具でもある。
  だが雁夜が凛を斬る為に剣を振るうかと言えばそんな筈はない。狙うのは凛が持つ全ての元凶であり、凛の体には傷一つ付けるつもりはない。
  青いステッキの二の舞を演じないよう、凛がステッキを下げても斬れるように位置を調整する。
  剣の先端が凛の衣装の僅か手前を通り過ぎるようにして、黄色い五芒星の位置が下がろうと上がろうと左右に動こうと、ステッキのどこかは必ず切れる様に横に薙ぐ。
  「物理保護全開」
  「なっ?」
  二度と過ちは起こさない。そう思って振り抜こうとした魔剣から返ってきた感触は固い物体に衝突したような鈍いものであり、剣は途中で止められてしまった。
  もし雁夜にもう少し剣の腕があればそれが成されるよりも前に斬れていたかもしれない。あるいは『フレア』の効果が発動していれば、守りごと突破していたかもしれない。
  しかし現実にあるのは雁夜の剣が防がれた事実のみ。
  相手がゴゴ扱っていた幻獣や、魔術師や、埋葬機関に所属する代行者だったなら驚きは少ないか無かった。けれど相手は遠坂凛―――魔術師としての資質を存分に備えていたとしても、十歳にもなっていない子供だ。
  そんな子供が大人の力で振られた剣を受け止めた。両手でしっかりステッキの柄の部分を握りしめているのが見えるけれど、わずかそれだけで大人の腕力と魔剣ラグナロクの重さを完全に抑えていた。大きな戸惑いを生むには十分すぎる理由である。
  「そんな剣は通用しません」
  雁夜をあざ笑うような声が間近にあるステッキから聞こえてきたと思ったら、桜の部屋で見たのと同じ発光現象が再び発生した。
  攻撃される―――。


 「狙射シュート!」


  だが雁夜が攻撃される現実は実現せず。離れた場所から聞こえてきた声により強制的に中断させられる。
  何かが来る、そう感じた雁夜は目の前にいる敵から距離を取る意味もあって後ろに飛び、凛もまた迫る何かを避ける様に上空へ飛び上がった。もし声が割り込んでいなければ雁夜は攻撃されていたに違いない。
  一瞬後、雁夜と凛がいた場所を真っ黒なボールのようなモノが通り抜けた。
  それは闇のようでありながら光を帯びているようにも見える不思議な輝きであり、ゴゴが間桐臓硯を消し飛ばす時に使ったオーラキャノンを思い出させる。
  雁夜は間桐邸の屋根まで飛び上がった凛を一瞥し、次に攻撃が来た方角を見た。
  外から見るかつて桜の部屋の窓は原形をとどめない程に破壊されており、外壁がひび割れている点から屋内にもかなりの被害があると思われる。そこに桜が―――いや、ブラックサクラが立っていた。
  ボロボロになった窓を踏み越えて歩く姿には違和感はなく。奇妙な衣装に損傷が無い点も考えて、怪我らしい怪我は無いようだ。
  足元には使い魔であるゼロの姿があり、手にしっかりと握られたままの青いステッキが桜の姿をとある文化の中で登場する魔法少女に近付けている。
  無事に安心しながら、まだ異常が続いているのに不安を覚えてしまう。
  「桜ちゃん」
  大丈夫か? と雁夜が続けるよりも前に、桜は凛が跳び上がった頭上を見上げて雁夜から目を背けた。
  「ふ、ふふふ。姉さんっ・・・、おいたが過ぎますね」
  一瞬、雁夜はその言葉が桜の手にしたステッキから放たれた言葉なのかそれとも桜の口から発せられた肉声なのか判別できなかった。
  聞き違いであってほしいのだけれど、どちらかと言えば言葉は桜の口から憎しみを込めた口調で発せられたと認識してしまう。
  まだゴゴが間桐邸に滞在していた時にも何度かあったのだけれど、桜は時折、幼さと可愛らしさに大人顔負けの邪悪さの片鱗を見せる場合がある。以前は遠坂夫妻、つまりは桜の実父実母が切っ掛けになっていたのだけれど、今回は何が切っ掛けになってそうなってしまったのか判らない。
  雁夜が気付いてないだけで実の姉である凛を敵意や害意を持って憎んでいるのかもしれない。
  いや―――まだ、聞こえてしまった声が桜のものだと確定した訳ではない。もしかしたらステッキが発した言葉かもしれないし、雁夜の聞き違いだったかもしれない・・・。
  そうだ。
  多分そうだ。
  きっとそうだ。
  雁夜はそうやって娘の黒さにとりあえず蓋をした。
  桜の豹変ぶりか本性が垣間見えたか、とにかく少しばかり圧倒されて僅かな間が出来てしまい。雁夜はブラックラクラとしての桜が行動に出るのを止められなかった。
  桜は少しだけ屈んだかと思ったら、凛と同じように子供とは思えない高さにまで飛びあがってしまった。しかも、凛が間桐邸の屋根に着地したのと比べ、桜は屋根と同じ高さで浮かんだのだ。
  ゴゴが使っていた浮遊魔法『レビテト』を知っている身としては、浮遊や飛翔などの空を飛ぶ類の事象そのものについての驚きは少ない。
  ただし、それを桜がやったとなれば話は別。
  いつの間にあんな魔術を使えるようになったんだ? ではなく。確実にあのステッキのせいだ、となる。
  ますます不信感が膨らむ雁夜の頭上で向かい合う姉の遠坂と妹の間桐。
  「お仕置きの時間です。姉さん」
  「その言葉。そっくり返しますよー」
  二人はまるで示し合わせたかのように互いのステッキの先を相手に向ける。
 「砲射ファイア
 「狙射シュート
  そして二人が持つステッキの先端からレーザーのような何かが撃ち出された。





  間桐邸の庭に立つ雁夜の頭上で、魔術戦闘が繰り広げられていた。
 「斉射ファイア!」
  凛の方から声が出たと思えば、炎を思わせる黄色に近い赤の攻撃がステッキから放たれる。
 「速射シュート!」
  桜が応じれば、ステッキの先から漆黒のボールに見える攻撃が放たれて迎撃する。
  雁夜が知る限り桜にはあんな事は出来ない筈。もしかしたらこの短時間で攻撃の才能に目覚めた可能性は捨てきれないけれど、手にしている青いステッキが何かしたと考える方が自然だ。
  そして雁夜が知る限り凛もまた魔術師見習いだとは思うけれど、戦いもこなせる魔術師では無かった筈。
  単に間桐が遠坂の魔術を知らないだけという可能性もあるけれど、今となっては何の感慨も湧かない時臣がまだ子供の凛ちゃんに攻撃用魔術を教えるとは考えにくい。
  父親として―――、魔術の師として―――。
  やはりあちらもまた赤いステッキが何かをしたと考えた方がいい。
  本来出せない力を強制的に引きずりだしたり、あるいはステッキそのものが力を使えるにもかかわらず桜と凛を厄介ごとに巻き込んでいる。
  戦闘中なので思考に没頭できない今の雁夜では明確な回答も可能性の高い予測も立てられない。それでも、ろくでもない事なのは間違いなさそうだ。
  今は有耶無耶になってしまっているけれど、絶対に桜からあのステッキを手放させなければならない―――。雁夜はそう固く心に誓った。
  雁夜はとりあえず状況を沈める為にどちらか一方を無力化する選択をした。
  桜に攻撃する等ありえないので、不本意ながら標的は凛になってしまうのだが、攻撃すると言う事実そのものにやる気が起きない。
  言葉で止まるなら万々歳だけれど。そんな状況では無いのは明白だ。


  「サンダラ!」


  もっとも幻獣『マディン』と同化した後で覚えた雁夜の新しい魔法は凛に当たらず、援護どころか牽制になっているかも怪しかった。
  空中を自由自在に動き回る凛の動きが早すぎて、雁夜の攻撃では捉えられないのだ。
  雁夜が得意とするのは間桐の属性である水に関連する氷の魔法だけれど、最大出力で放てば結界の内部を全て覆い尽くすほどの氷柱が出来上がってしまう。
  そうなれば凛は言うに及ばず、桜も攻撃した雁夜自身も痛みを負う。
  精密な攻撃が行える魔術師ならば範囲を限定して攻撃できる。しかし雁夜にはそんな技量はない。仕方なく、幻獣『マディン』の力をゴゴから受け取ってから使えるようになった雷の中位魔法を放っているが、結果は伴っていない。
  『サンダラ』は雁夜が扱える攻撃魔法の中で特に速い攻撃なのだけれど、雁夜が得意とする氷の魔法に比べると命中率が落ちる。
  魔剣ラグナロクを用いての訓練は一日たりとも絶やしたことは無いけれど、ゴゴの魔法の訓練は剣に比べて圧倒的に少ない。それは下手に使えば間桐邸そのものを破壊してしまう恐れがあり、屋外では魔法の訓練に使える場所が非常に限られてしまうからだ。
  雷雨が鳴り響く人気のない夜にこっそり雷の魔法を特訓したり―――。夜の未遠川に潜って水の質量に負けない火の魔法を撃ち出せるように特訓したり―――。
  聖杯戦争前の訓練期間中に何の躊躇もなく攻撃魔法を使い続けて氷の上位魔法まで取得できたのはゴゴのバトルフィールドのお陰であり、雁夜はあれが非常に有用だったと今更ながら強く実感するのであった。
  練り上げる魔力の質が低い。扱い慣れてないから標的に当て辛い。凛に攻撃する後ろめたさで集中しきれない。


  「サンダラ―――」


  ゴゴから引き継いだ攻撃魔法の練度は低く、高速で動き回る敵に対して必中とは言い難かった。掠らせるのがやっとの有様で、当たっても大して効果がない。
  ステッキを持つ凛の手に雷の燐光がぶつかれば一瞬だけ顔が歪むのだけれど、ステッキを落としたり動きが鈍くなるような事態にはならない。
 おそらくあのステッキが魔術への耐性を引き上げ、そしてゴゴの魔法が一つ『リジェネ』と同じように治癒促進リジェネレーションを使っているのだろう。
 「砲射ファイア
 「狙射シュート
  仕方なく、雁夜は凛への攻撃を一旦注視して二人の攻防を観察する。
  空を飛びまわる技術を持たない自分に出来る事は何か? そう無力な自分を思いながら・・・。
  二人は間桐邸を中心にして純粋な魔力と思われる砲撃をステッキから撃ち出している。
  時に屋根よりも高く飛びあがって狙って撃ち、時に間桐邸を防壁として使いながら攻撃の手を休め、時に間桐邸をぐるぐる回って追いかけっこの様に移動する。
  隣家や一般家庭の家屋に比べると大き目な間桐邸だからこそ、桜と凛の戦いは何とか結界の中だけで完結している。もし空高く舞い上がられると結界を飛び抜けて衆人環視の中に入ってしまうだろう。
  まだ周囲に知られるような事態に陥っていないのが救いと言えば救いだが、標的を外れたお互いの攻撃が結界に当たると少なくはない衝撃が結界を揺らして破壊に近付いてしまう。
  二本のステッキは結界を破って間桐邸に侵入してきたのだ。そのステッキが二人を使ってやっている攻撃なら結界を撃ち抜くのも不可能ではない。
  何より時折盾にされる間桐邸が魔力の塊と思われる攻撃に晒されて壁にひびが入ったり、屋根が剥がれたり、酷い時は貫通して風通しがよくなってしまったりしている。
  庭がぁ!
  家がぁ!
  結界がぁ!
  このまま二人のやり取りを長引かせれば間桐邸が全壊してしまう。
 「砲射ファイア斉射ファイア!」
 「狙射シュート速射シュート!」
  雁夜が二人の空中戦闘を観察していると、徐々に違和感を覚えていった。
  雁夜が見る限り二人は互いにステッキを使って魔力砲を撃ち続けているけれど、逆に言えばそれしかしていない。
  攻撃の大小、間の取り方、撃ち出す魔力砲の数。それらの違いはあるけれど、基本的にどれも同じ攻撃だ。幼い子供が水鉄砲を片手に撃ち合っているように見える。
  もし胡散臭い喋るステッキが持っている人間に魔術を使わせたり、あるいは持ち手の魔術属性を引き出して使わせたりするなら、もっと別の攻撃が出来る。
  近接戦闘用にステッキに魔力の刃を生やしたり、体全体を覆う結界で守りを固めながら体当たりしたり、撃ち出す魔力砲を湾曲させたり、色々と戦い方に幅を持たせられる筈。
  いきなり空を飛ぶなんて芸当を行わせるろくでもない代物だ、少なくとも雁夜の見立てでは赤と青のステッキにはその力はあると思われる。
  雁夜の見立てが間違っているのかもしれないけれど、単調さは付け入る隙でもある。
  「なら・・・」
  どうする?
  何ができる?
  何をすればいい?
  最善は何だ?
  接近して魔剣ラグナロクで斬れれば楽なのだけれど、凛が持つ赤いステッキに一度防がれているので、別の方法を考えた方が良い。
  そこで雁夜は思い出す。雷の中位魔法『サンダラ』よりも高速であり、ただし発動までの時間がかかる手段を持ち合わせている事を。
  聖杯戦争に関わっていた時は常に思考が戦いに向いていたけれど、戦いが終わった今は自分が持つ手段で最善を導き出すのに若干の時間を必要とする。そうやって自分の不甲斐なさに理由付けをしながら、それを放つ準備を始めた。
  もっとも、呪文を唱えたり何らかの魔術的な触媒を準備するとかではなく、自分の内側に問いかけるだけだが。
  「・・・・・・」
  魔剣ラグナロクを握りしめたまま、短く息を吸い込んで、腹に力を入れ、両足を肩幅よりも広くして大地を踏みしめる。
  聖杯戦争の前は無かった自分の中にある自分以外のモノ―――しかし、間違いなく自分でもあるモノに呼びかける様に意識を向けた。
  「むむ!」
  すると雁夜の行動を察したのか、見上げれば間桐邸の屋根より更に高い位置に浮かぶ凛がいて動きを止めていた。
  少し離れた場所には桜がいて、どうしたのか同じく雁夜の事を見下ろしている。
  雁夜自身気付いていないだけで二人が攻撃の手を止める程の事をやろうと思われているのか、それとも偶然か。
  地上からではスカートの中が丸見えで見てはいけないモノが視界に入っている気もしたが雁夜は無視する。ただただ自分がすべき事をする為に目に見える現実を捉えながらも、意識は自分の中に沈んでいった。
  「させませんよー」
  放たれる軽い口調とは裏腹に、凛が振り抜いたステッキから全てを切り裂く斬撃の形をした魔力が飛んできた。
  これまでの単調な攻撃は手加減だった? いきなりの攻撃の変化に思わずそんな言葉を思い浮かべてしまう。
  斬撃の規模は大きく、庭の端から端まで届いているかもしれない。
  範囲の広さから避け切れない。それに避けようとする行動すら集中を阻害する。雁夜はそう判断し、両腕を十字に交差させて顔の前にある手で魔剣ラグナロクを斜めに構えて顔の大部分と心臓を守った。
  一瞬後。魔剣ラグナロクの刃で守り切れていない部分が裂けた。
  頬が破け、腕が斬られ、わき腹が痛み、耳が軋む。
  致命傷となる一撃は無かったけれど、体のあちこちに出来た大きくはないけれど小さくもない痛みが雁夜の体勢を僅かに揺らす。
  「お父さん!」
  上空から慌てる桜の声が聞こえてきたので、雁夜は『心配するな』と言わんばかりに両足はしっかりと大地を踏みしめたまま空を見続けた。
  桜の泣き笑いのような顔が見える。
  すると桜は眼前の敵を滅ぼしかねない禍々しい笑みを―――子供が浮かべるには凄味を感じさせ過ぎる笑みに表情を変え、凛に向けて攻撃を放った。
  「散弾!!」
  それはこれまでの単調な魔力砲に近いけれど、凛と同じくこれまでとは違った攻撃でもあった。
  桜の黒さが乗り移ったかのような漆黒のボールは一発一発がピンポン玉ぐらいの大きさにまで縮み。その代わりに数を倍増させた。あまりの多さに数えられないけれど、百は超えているだろう。
  それが桜の持つステッキを基点として大きく広がっていく。
  周囲にばらまかれた魔力弾は凛に狙いを定めながら、それ以外の部分にも飛んで結界に衝突しながら跳ね返る。
  凛はステッキを前に構えて攻撃を防ぐけれど、結界にぶつかって乱反射する全ての攻撃は防げなかった。体のあちこちに黒い魔力球がぶつかり、凛の体を空に繋ぎ止める。
  反射の役目を果たした結界が衝撃で壊れそうになるけれど、一度ぐらいならば耐えられそうだ。
  ただ、雁夜にとっては結界の危うさよりも、娘が父の意図をくみ取ってくれた事の方が重要だった。
  雁夜が凛を狙う為、桜は凛の動きを止めてくれた。
  桜ちゃん、お父さんはとっても嬉しいよ・・・。最も集中しなければならない状況だと言うのに、そんな言葉を思い浮かべてしまう。娘を思う父親は時に沢山の事を同時に考えられる稀有な生き物なのだから思うのは避けられない。
  桜の事を考えながら、雁夜は更に集中し、空に浮かぶ凛に狙いを定める。
  出来る―――何故なら、今の雁夜は幻獣の力を身に宿した存在なのだ。これから使う力は幻獣そのものであり、魔石を介してゴゴの魔法を会得した訳ではない。
  魚は学ばずとも自分が泳げることを知っている。ならば幻獣が自分の力を使いこなせない訳がない。幻獣『マディン』は雁夜の中に溶けている。今の雁夜は間桐雁夜であり幻獣『マディン』なのだから。
  身に着けた技術ではなく、自分そのもの。自分が出来る事は雁夜が出来る事。幻獣『マディン』の力は雁夜の力。
  出来る―――何故なら、今の雁夜は娘が作り出した絶好の機会を得る為に全身全霊を注ぐ父親なのだ。
  ならばこそ・・・。


  「ケイオスウェイヴ!!」


  自分の内側から力を発動させると、結界の中が紫色の光で埋め尽くされる。ただし、この紫色の光そのものに攻撃の意志は無く、攻撃範囲の中にいる敵と味方を見極める効果しかない。
  本命はその次。
  英語で『波』を意味する呪文を唱えながら、その実、雁夜の鳩尾から放たれたのは一筋の光だった。
  技の発動に合わせて体のあちこちが軋み、出来上がっている傷口から鮮血が一気にあふれたが気にしない。ただひたすらに撃ち抜く場所を見据え、その一点に攻撃を叩き込むだけを集中する。
  そう言えば、聖杯戦争の参加者で技の名前と似たランサーのマスターが居たな・・・、等と頭の片隅で今となってはどうでもいいことを考えつつ、動きの止まっている的を見据えた。
  射抜く―――。
  「魔術障壁全開」
  衝突の直前に声が聞こえたが、少なくともいきなり倍速で動けるような劇的な変化では無い。桜が放った散弾の効果により、赤いステッキは凛に握られた状態でそこにいる。
  今までは避けられたけれど今度はそうはいかない。雁夜の鳩尾から放たれた光はステッキだけを狙い、全ての力は一点に集約される。
  幻獣『マディン』が使う敵に属性の無いダメージを与える技、『ケイオスウェイヴ』。
  紫色の光に包まれ、完全に把握されたステッキが雁夜から飛び出た光に撃たれた。
  拮抗は一瞬。
  次の瞬間には雁夜の攻撃を防ぎきれなかったステッキが凛の手から離れ、下から撃ち出した『ケイオスウェイヴ』の勢いそのままに空に弾き飛ばされていく。
  ステッキが凛からある程度離れた所で、フリフリの赤い服に猫を模した奇妙な衣装が消え、ツインテールはそのままだけど雁夜もよく知る学校の制服になった。
  どこかに逝ってしまった目は閉ざされて、気絶したかのように凛の体から力が抜け、自由落下を開始する。
  どうやら魔剣ラグナロクの攻撃には対処したが、幻獣『マディン』の力には耐えられなかったようだ。物理的な守りよりも魔術的な守りの方が弱いのか、それとも防御が間に合わなかったのか、距離が離れると変身が解除されるのか、それとも雁夜の攻撃を受けてまだ原形は留めているけれど操る力を消耗しきったか。
  色々と状況についての疑問が湧いて来るけれど、今は空から落ちてくる凛の方をどうにかする方が先決だ。より上空に弾き飛ばされたステッキよりも凛の落下の方が早い。
  しかも凛が居る位置が屋根の上では無かったので何もしなければ庭に叩き付けられてしまう。雁夜は慌てて落下地点へと向かって駆け出した。
  剣を握ったまま片手で凛を受け止めるには少し不安があった為、雁夜は受け止める直前に魔剣ラグナロクを庭の一画に突き立てる。そして両手を自由にした状態で、落ちてくる凛の体をしっかりと受け止めた。
  子供でも空からの落下はそれなりの勢いがあり、魔剣ラグナロクを自由に使いこなす為に鍛練してきた雁夜の体が軋み、傷の痛みが少し増した様な気がした。
  ドスン! と腕を通して足に伝わる重い感触が地面を凹ませる。
  取りこぼしなく救助出来たのは喜ばしい事。だから雁夜は即座に腕の中の凛から意識を外して、同じ軌跡を刻みながら落ちてくる赤いステッキの方を見る。
  あれを無防備にするのは厄介ごとを放置するのに等しい。
  今更ながら、落下してきた凛の体を完璧に受け止める為に両手を自由にしてしまったのが悔やまれる。自由にした片手で凛を受け止め、もう一方の手が握る魔剣ラグナロクで落ちてくるステッキを切り刻めば憂いは無くなったに違いない。
 明確な敵はマジカルルビーと名乗った凛の異常な状態ではない。凛を愛と正義ラブアンドパワーの使者とやらに変身させたステッキこそが元凶であり、まだそれは原形を保っている。
  とりあえず逃がさないように捕まえておこう・・・。
  雁夜は今が戦闘中である事実を一瞬だけ意識外に追いやってしまった。凛を助ける為とはいえ、それは雁夜の甘さであり、聖杯戦争が終わってから徐々に戦いから遠ざかっている者の落ち度でもあった。
  もし聖杯戦争の最中だったなら、危険と認識している魔術道具ならば、素手で触るような不確実な方法は選ばなかっただろう。斬るのが無理ならとりあえず距離を取るぐらいはした筈。あるいは地面に落ちた所で思いっきり踏んで逃げられないようにしただろう。
  だが油断してしまった雁夜は凛を抱き上げる両手の右手だけを少しだけ伸ばし、落下してきたマジカルステッキを握ってしまう。
  握りしめた手は攻撃によって傷ついており、そこからは血が流れ出ている。その紅い血がステッキの柄に触れた瞬間―――。


 「(仮)マスター登録完了!! 多元転身プリズムトランス実行!!」


  捕まえた筈の物体が喜びの声を上げた。
  その言葉を最後に雁夜の意識は闇の中に強制的に引きずり込まれてしまう。



  ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆



  Side - マジカルルビー





  とても言葉では言い表せない恐ろしい者が冬木市の深山町に現れた。
  目にした者は自分の正気を疑うだろう。
  別の者はそれが錯覚であってほしいと願うだろう。
  危険を察知した者は目を背けるだろう。
  家の戸や窓を固く閉ざして通り過ぎるのを待つだろう。
  もしかしたら大爆笑する者もいるかもしれないけれど、大抵の場合は目をそらして見なかったことにする。


  間桐雁夜、魔法少女バージョンなど―――。


  「ああ・・・さすが『私』、なんて面白おかしいんでしょう・・・」
  まず大切なのは雁夜は男であって女ではない、ついでに言うと三十路に足を突っ込んでいるおじさんであって少女でも何でもない。
  そんな男がカレイドステッキの趣味で並行世界のどこかから持ってきた『魔法少女』と思われる衣装を着せられるたらどうなるか?
  地獄である。
  しかも間桐邸の結界の内側なら異常は外に漏れないのだけれど、現れてしまった地獄は自らの足で結界の外に出ていってしまった。
  当然の話だが本人の意思ではなく、一瞬で洗脳し終えた結果である。
  カレイドステッキの赤い方。愉快型魔術礼装。最初に禅城家の宝箱の中から封印を破ってこの世界に復活した人工天然精霊ことマジカルルビーは空にふよふよと浮かびながら間桐雁夜が作り出す地獄の行進を眺めていた。
  同じ『私』こと並行世界のマジカルルビーが作り出した状況を楽しんでいた。
  ただし冬木に現れた地獄が長々と維持するのは好ましくないとも思っていた。
  あれはあれで一部の特殊な趣味を持っている方々には需要があるだろうけれど、明らかに『魔法少女』とは乖離すべき現実だ。大多数の人間には目の毒だ。一般人の目から見ても魔術師の目から見ても色々な意味で危険人物認定しかされない。
  最悪の場合は魔術の秘匿の為と理由をつけて魔術協会か出てくるだろう。そうなれば、もう一方の『私』から空に居る方の『私』へと辿り着かれてしまうかもしれない。
  今はまだその時ではない―――。
  そもそも呼び寄せた『私』こと雁夜を変身させているマジカルルビーとマジカルサファイアが宿る二本のカレイドステッキは与えられた本来の役目がある。こちらの世界の時間とあちらの世界の時間の流れが同一である可能性を考慮した場合、そろそろお帰りにならなければならない時間だろう。
  「楽しい時間とはこんなにも早く過ぎ去ってしまうのですね、よよよ」
  泣くような口調で独り言を発し続けるマジカルルビーだけれど、言葉とは裏腹に声音には喜色が思いっきり混じっている。
  仮に聞く者が居たとしたら、何を白々しい・・・と突っ込みを入れただろう。
  「これで下地は完成しました。最後に陽動も行ってくれるとは・・・『私』はいい仕事してますね」
  お前はどこの鑑定人だ! と更に突っ込みを受けそうな事を呟くと、カレイドステッキとそれに宿る精霊は地上への降下を始めた。
  『私』と『私』。並行世界の違いにより『私』にはいない妹がいたり差異はあるけれど、どちらも同じマジカルルビーなのに変わりはない。だから、マジカルルビーはあちらの『私』がひとしきり楽しんだら、元いた世界に帰る―――ここで得た情報を本体に反映させてから自己消滅する―――のだと理解している。
  その後に残るのはこの世界に元々いたマジカルルビーだけ。更に事態を引っ掻き回せば面白くはなるけれど、残った一本のカレイドステッキが犯人になってしまう。


  「あなたを犯人です」


  並行世界の妹であるマジカルサファイアの声が聞こえた気がするけれど、気のせいだと黙殺する。
  ようするに今回はここまでだ。
  これからは雌伏の時。
  過去、現在、未来において、マジカルルビーのマスターになれるたった二人だけの人間が、真の魔法少女となる条件を満たすその瞬間まで・・・マジカルルビーは待ち続ける。
  「永遠に語り継がれる『魔法少女』という概念をこの世界の隅から隅まで広げてみせましょう!」
  マジカルルビーは地上へと到達する直前に決意を言葉とした。
  降り立つのは並行世界のカレイドステッキを手放して魔法少女ではなくなった遠坂凛の手の中。
  もう一方の魔法少女でありカレイドサファイアでもあるブラックサクラは地獄を追い駆けていったのでここには居ない。
  出来上がった下地にのっとり、マスター認証をこちらのマジカルルビーに書き換え、強引に魔法少女カレイドルビーに変身させて、人体を操作して禅城家へと帰らせる。
  後は凛に与えられた部屋に寝かせておけばアリバイ工作は完了。いまだに宝箱の封印が破られたのに気づいていない遠坂のうっかり当主とその妻に気取られぬように何事もない様子を作り出せばいい。
  後はこっそり世界の趨勢を見守りつつ、時期が来れば一気に行動を起こすだけだ。
  「楽しみですねー。時々、あっちの『私』とサファイアちゃんを呼んでお茶会でも開きましょうか」
 こうしてこの世界に愛と正義ラブアンドパワーを強制的に振りまく厄介な代物が世に放たれた。
  その危険度の高さに本当の意味で気付いている者はまだ誰もいない―――。



  ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆



  「おおおおおおおおおお!! 最悪だ、恥だ、人類最低の汚点だぁ! こんな俺を見ないでくれ桜ちゃん。絶対に記憶操作の魔術を覚えて、冬木の住人の頭の中からあれを抹消してやるぞ畜生ぉぉぉぉ!!!」


感想掲示板 作者メニュー サイトTOP 掲示板TOP 捜索掲示板 メイン掲示板

SS-BBS SCRIPT for CONTRIBUTION --- Scratched by MAI
3.4225211143494