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[31879] 笑顔の未来(WHITE ALBUM2 雪菜END後) 完結+おまけ
Name: 雪儚◆d65b0b7d ID:90c0849b
Date: 2012/03/26 22:57
 今年も冬は巡ってくる。White Albumの季節が巡ってくる。
 あの始まりの冬から六度目の冬が訪れる。
 三人でいると誓い、三人から二人が抜けだし、別の二人と一人になり、二人から一人が去り、そして一人と一人が残された。あの始まりの冬。
 一人と一人が傷つけ合いながらも傷を舐め合い、去った一人を忘れずに二人になる事を誓ったあの四年前の冬。
 去ったはずの一人が帰ってきて、傷を抉り、足掻き、もがき、苦悩しながらも結論を出して、三人に戻ったあの一年前の冬。

 そして、三人が揃いあったまま迎える初めてのWhite albumの季節。
 されど、White albumはもう開くことはない。確執と固執がぬぐわれたあの一年前の冬を期に二度と開かれることはない。何故なら、アルバムを開き、その中に刻むべきモノはすでに拭われているから。
 White albumが二度と開かれる事はない。

 故にこれより語るは断片。ただの破片。White Albumには刻まれないただの幸せな日常の欠片達。









後書き
 つい最近、WHITE ALBUM2をやり終えて一筆とった次第です。
 題名にもあるように雪菜END後の話を主にいくつか書いて行こうと思います。また、この作品は奇特ではあると思うのですが、基本的には春希、雪菜、かずさではなくそれ以外の原作に出てきたキャラクターがメインを張ります。
 その事をご了承の上でお読みください。

 ちょうどキリがいいので、その他掲示板に挑戦してみようかと思います。



[31879] 阻む壁は硝子ではなく氷で
Name: 雪儚◆d65b0b7d ID:90c0849b
Date: 2012/03/07 23:04

 息が白く、肌を突き刺すかの様な寒さの中で、駅前で佇む男が一人。時計と駅から吐き出される人を交互に見比べている。待ち人は未だ来たらずという所か。だが、その表情には焦りも怒りも含まれていない。唯々、呆れと隠せぬ期待が滲み出ていた。
 何度駅から人が吐き出されたか。それでも男は忠実に待ち続ける。そして、その待たされた時間が漸く報われる。

「ごめ~~ん、遅れた」
「いいよ。そんなに待ってねぇし」

 男の顔に笑みが浮かぶ。男が目の前の女にしか決して見せる事のない穏やかな笑み。期待し裏切られ、それでも変わらぬ愛情を注ぐ表情は決して目の前の女にしか向けられることはない。その事を知ってか知らずか当たり前のように返す。

「ほんじゃま、飲みにいくとするか、依緒」
「朋は?」
「仕事で遅くなるってよ。もしかしたら来れないかもしれないって」
「あっちゃ~。三人で飲もうって前々から決めてたんだけど。仕事じゃあねぇ」
「学生時代だったら押しかけてでも捕まえてたんだが、社会人になっちまうと無茶が出来ないよなぁ。あ~あ、学生の頃が懐かしいぜ」
「まだ、二年って言えばいいのか、もう二年って言えばいいのか悩みどころよね」
「全くだ」
「来れないんじゃ仕方ない。明日は二人揃ってオフだし、梯子するわよ、武也」

 二人揃って御宿のいつもの居酒屋へと足を向ける。六年前よりも近くて、一年前よりもずっと近くなった二人の間にある距離。春希と雪菜が改めて恋人となり将来を誓い合ったあの一年前から二人の距離は徐々に近づいている。友達の様に少し離れている訳でもなく、恋人の様にぴったりとはくっついてはいない。手を伸ばさば簡単に触れ合えるもどかしい距離。それが今の二人の正しい距離。
 寒さで体が凍えているのか武也は足早に進む。その半歩だけ遅れて続く依緒は武也に気付かれないようにチラチラと武也の手に視線を寄せていた。何度も何度も武也のポケットの中に入っている手を見ては、相手に聞かれない小さな溜息をもらす。見ている者がいれば微笑ましくもいらだちを感じる、もどかしい姿。そして武也は依緒の反応を気づかれないように覗き見て忍び笑いを浮かべている。
 それが、二人の間柄を如実に証明していた。


「さてと、んじゃま、乾杯と行きますか」
「春希みたいな杓子定規みたいな言葉はいらないけど、今回ばっかりは少し気の利いた言葉を選びなさいよ」
「分かってるって。それじゃ、俺達の最愛の親友の挙式が決まった事を祝って、乾杯」
「乾杯――――なんだけど、武也、クサイ」
「俺だって言葉は選んだつもりなんだけどな…………」

 カチャンと二人の態度よりも静かなグラスを打ち合わせる音が響く。クサいと言いつつも、依緒も武也の言葉に否定の言葉はないのか苦笑とも微笑ともつかない笑みを浮かべている。


「それじゃ、私はほっけと串盛り合わせと牛肉コロッケ、後、出汁巻」
「俺はフライドポテトと冷奴と、からあげでいいか」

 オーダーを上げながら二人は一息でビールを飲み干す。余程嬉しいのか二人のピッチは速い。
 さもあらん。一年前から結婚目前としながらも挙式の日取りが決まらなかった春希と雪菜が漸く、挙式を上げる事が決定したのだ。これ程この場にいる二人にとって嬉しい事はない。六年前から、いやともすればそれよりもずっとずっと前から望んでいた日が来たのだから。

 揚げ物類が来ると同時に頼んでいた二杯目に手を付ける。

「挙式が決まったのは嬉しいけど、なんでわざわざ2月14日なんだろうな。春希のやつは六月に挙げた方が良いんじゃないかってこぼしてたけどさ」

 24歳になっても少女趣味というか乙女な部分が多いと多数からの人物評があげられる雪菜である。春希もそうだと思い六月の挙式を行おうと努力をしていたのだが、雪菜の頑なな態度により2月14日となった。

「雪菜の我儘みたい。何でも、『私の誕生日なら春希君も、結婚記念日を忘れないし、休みを取れるように最大限努力してくれるよね』だってさ」
「相変わらずだよな。信頼してんのか、信頼されてないのかわかんないトコ」
「信頼してんでしょ。頼まれたり、仕事が乗ってると色々と張り切り過ぎて他が疎かになる春希の事を」
「さすがのアイツも結婚記念日までは忘れないだろ」
「十年後を見越してるんだって」
「………………相変わらず、微妙に黒いよな、雪菜ちゃん」
「後、ほら、バレンタインデーでしょ」
「あーあー、聞こえない、聞こえない。雪菜ちゃんの黒い所とか全くもって聞きたくない」

 大親友をネタに二人して盛り上がる。最も今日の集まりは乾杯の音頭にもあるように親友の挙式の祝い。ならば、それ意外をネタに上げるのは空気が読めていないと言えるだろう。

「でも、やっとだよな。六年、六年かかった」
「そうだね。六年だよ。色々と会ったね」
「今となっちゃ、こうして酒の席のネタに出来るけど、当時は苦労したよなぁ」
「徒労になった事の方が多いけどね」

 共に苦笑を浮かべる。あの三人の中から一人が去り、一人と一人が残された最初の三年間は酷かった。離れ、近づき、傷つけ、癒し、すれ違い合った三年間。武也も依緒も、二人が大好きだったから何度でも二人の仲が取り戻せるように努力した。筆舌に尽くし難い心が軋むような日々だった。何故なら、四年前の、三年の隔絶があった春希と雪菜の二人の関係は、言葉にするのならば硝子越しに想いを交わしあっているかの様だった。触れ合う事も出来ず、されど触れ合おうと距離を縮めるには硝子の壁を砕いて血を流しさねばならなかったのだから。

 だが、春希がやっと過去を見つめる事が出来るようになってからは、無邪気に祝い、無遠慮に二人を揶揄する事の出来た二年間。そして、最後の最後に傷つけ合い、苦しみ、それでも尚、取り戻した春希と雪菜と、そしてかずさ。お節介を焼いたが効果の程があったのかと聞かれると実は首を捻る。あの三人はきちんと自分達で解決した部分が多いのだから。
 

「まぁ、でもいいじゃないか。今が幸せなら」
「そだね。今が幸せなら」

 カツンともう一度、日本酒に変えたグラスを軽くあてる。

「そういや、武也、スピーチの方が順調?」
「全くもって。苦労してるよ。というか何で俺達なんだ。こういう場合は普通は上司とかじゃないか?」
「春希も雪菜も揃って指名してきて。こっちも苦労するって言うのに。ちなみに、私はもう原稿出来てるから」
「マジか。依緒、手伝って――「自分でしなさい。最愛の親友の門出の言葉でしょ」――はい、がんばります。全く、厄介な事を押し付けてくれるよ、俺の親友は」
「雪菜のお父さんも、春希のお母さんもやるんだからあんただけ怠けないの」
「はいはい。そっか。そうだよな。参列するんだよな、春希のお袋さん」
「雪菜の努力だけどね。付属の頃から知ってるからこそ余計に、感慨深いよね。春希とお母さんがきちんと向き合えてるっていうのは」
「雪菜ちゃん様々だよ。そう思うと本当に、春希のヤツ、雪菜ちゃんを選んでよかったよな」
「他の誰かだったら、きっと無理だっただろうね。春希と春希のお母さんを向き合わせるのは」

 二人同時に、思う。雪菜以外の誰かと言われて真っ先に思い浮かぶ、緑の黒髪をした、世界的ピアニストにして二人の友。怠惰で、頑固で、その癖周囲を焦がしかねない程の情熱を胸に秘めた女性の事を。
 六年前の事、一年前の事。当時では毛嫌いしていた、よく知らない女性だった。だが、日本に活動拠点を移したかずさとは依緒も武也も接する機会が多くなり、嘗ての様な忌避感は消え今では友好を育んでいる。


「あの三人、結婚式でも一曲やるらしいよ。新曲」
「なんて豪華な。世界の冬馬かずさと東京一円における大人気ボーカルのセッションなんて、金を払っても中々見れないのに」
「一人抜けてる、一人抜けてる」
「いや、でもな、春希のヤツは休日になればチョコチョコ触ってるけど一向に腕が上達しないんだぞ。他の二人はプロなのに」
「あははっ」

 乾いた笑いしか浮かばない。プロとセミプロとアマチュアの共演なのだから、一人だけ本当に場違いとしか言いようがない。最も春希以外の二人は、真面目に誰かの為に一曲奏でる時に春希を外したら、出演辞退になりかねないのだが。

「なぁ、酒の席だから聞くけどさ、冬馬ってさ。未だに春希の事好きだよな」
「未だに春希以外の男から声を掛けられてしつこく言い寄られたら蹴りを入れてるよ」
「…………いいやつなんだけどな。こうして一年付き合ってみると」
「いい奴だよ。春希の事を諦めてくれたから。あの時、諦めてくれてなかったら、きっと私達はかずさとは肩を並べられなかっただろうな」
「複雑だな」
「複雑だよ。女心も、恋も」

 二人同時に思う。もしも、もしもあの時春希が雪菜を選ばずにかずさを選んでいたのならば、武也も依緒も春希とは絶交し、絶縁していただろう。そう簡単に想像できる。だから、そうならなくてよかったと本心から思う。

「それでも足しげく二人の愛の巣に足を運んでるかずさの事見てるとちょっと辛いな。諦めてるのは分かってるから安心して見てられるけど、大好きな二人の置いてけぼりにされてるかもしれないって思うと」
「大丈夫だろ。あの三人に限って。でなきゃ、結婚式にセッションしないさ」
「そだね」

 長い時間をかけて育みなおした三人を祝して武也と依緒はまた乾杯した。

「そういやさ、小春ちゃん、就職先決まったんだってな」
「早いね。何処だっけ」
「開桜社だってさ。今年の頭からバイトで入ってて、それでそのままって流れらしい」
「あの子、文学部だったもんね。っていうかさ、その流れって春希まんまじゃん。正に小春希だ」
「本当に似てるよな、あの二人。兄妹かっての」
「いいじゃない。可愛い後輩の輝かしい未来が決まって」
「そうなんだけどな。いや、春希に聞いたんだけど、前の春希の上司とさ、似てるらしいんだ小春ちゃん。まぁ、正確にいうと春希に似てる上司って話なんだが」
「そなの?」
「バリバリのキャリアウーマン。三年たってアメリカから帰ってきて30歳目前にして編集長勤めの人に似てるらしいんだよ小春ちゃん」
「いい事じゃない」
「独身の上に彼氏もいなんだそうだ。仕事が恋人みたいな人に似てるらしいんだよ、小春ちゃん」
「………………………………ノーコメント」
「卒業間近なのに今も可愛らしさを残している小春ちゃんが、30台になっても仕事しか目に入らないとか可哀そうな事になってほしくないんだけど」
「ノーコメントだってば」

 痛いほどの沈黙が二人を包んでいた。

「話を変えて、小春ちゃんって本当に春希と同じバイト先に行くよねぇ。グッディーズに関しては偶然にしても開桜社とか最初から春希がいるの分かりきってるのに。やっぱり、あれかな。一度指導を受けた人の方がやりやすいのかな」
「そういう理由以外だったりしたら笑え…………ごめん、睨むなって」
「笑えないでしょ、完全に。春希は意外な所に人気があるんだから」
「あぁー、あったなぁ。そういや、大学時代にも二度も告白されてたし、別のバイト先で」
「あんたと違って純情そうな子から人気あったみたいだし」
「あっ、あははっ。だけど、あいつに好意を寄せるのってなんでか知らないけどレベル高いよな。具体的には雪菜ちゃんと冬馬」
「そうだねぇ。何であんなのを好きになっちゃったのか未だに教えてくれないのよ。雪菜もかずさも」
「胸の内に秘めて大事にしておきたいんだろ」
「そだよね。その気持ち、私も分かるし…………」
「…………」

 静かに痛くはない沈黙が二人を包む。想いを馳せるのは過去。春希とも雪菜とも出会っていない、付属時代よりも前の二人だけの物語。
 春希と雪菜、そしてかずさ達の様に、真摯に向かい合いながらも傷つけ合い、すれ違い、一度は離れてしまったあの日々を。

 それが例え、思い出せば胸を掻き毟りたくなるほどの痛みを伴う過去だとしても、それは武也と依緒にとって今を象る為に必要な大切な過去。

 その日々があるからこそ武也は別の女に逃げた七年間があった。春希と雪菜がもう一度手を取り合えたから、向き合う為の勇気を手に入れられた三年間がある。だから、

「…………そっ、そういえばさ、朋のヤツ連絡遅いよね。来ないなら来ないで連絡くれればいいのに」

 その空気にまた耐えきれずに依緒が逃げに走る。勇気を持てればいいのに未だに武也程に割り切れない。そんな自己嫌悪を胸の内に秘めながら依緒は今日も逃げる。だけど、

「来ない。元からそういう話になってる」
「………………えっ?」
「初めから朋には話だけって事を頼んでた」
「どういう………………」

 今日は、武也が逃がさなかった。
 意味を問いかけながらも依緒の表情には僅かな恐怖が浮かんでいた。急な展開。来ることを望みながらも来ない事を望んでいた展開。まっすぐな体育会系の依緒らしく不意打ちには何時だって弱い。

 そんな恐怖を滲ませる依緒を真剣な瞳で見つめる武也は言葉を止めそうになる。だが、それでは何の為に朋に頼み込んだのか。

(春希、今だけでいい。勇気くれよ)

 心中で親友に希う。あの杓子定規で、でも実は弱くて、だけど最後の最後には決断できた、武也にとって最高の親友に。

「今日、そういう話をしたくて朋に遠慮してもらった」
「………………武………………………………也」
「今度は間違えない。今度は、お前だけを見つめる。だから、だから」

 この一年。恋人に最も近い時間を過ごしてきた。一緒にショッピングに行き、映画を見て、小洒落た店にディナーに行った事もある。だが、その前提である言葉を囁いた事はなかった。腕を組んだ事も、手を握り合った事もまだ、ない。その後に続く行為など以ての外。

「いいか。この後、有海のホテルを予約してる」
「武也」
「だから、今度こそ」

 まっすぐに力を込めた瞳で依緒を見つめる。眼光から逃がさないという言葉と逃げないでと二つの言葉を発している。決意と懇願が混じった強さと弱さをそろえた瞳。
 その瞳から依緒は、熟した林檎のように頬を染め、童女の様に感情を持て余して視線を切った。

「依緒」
「……」
「依緒」
「…………」
「依緒、答えをくれ」

 強さと弱さを浮かべる瞳から逃げきれずに依緒は目線を合わせる。武也の瞳の力に気圧されているのか、依緒の瞳に力は無くぼうっとしている。だが、それは一瞬の事で、武也と同じかそれ以上の力を込めて睨み返す。

「武也。言葉が足りないよ」
「………………………………」
「私、まだ、大事な言葉を貰ってないよ。私は、私は………………ホテルとか、上等な酒とかよりも先に、その言葉が欲しい」
「………………ごくっ」

 真摯な問いに真摯な答え。女にかんしては百戦錬磨と呼んで過言ではない武也だが、本気の恋は依緒以外にはしていない。だから、最後の最後で躊躇していて、だけど、その言葉を求めれて。
 だから、もう一度だけ、心の中で親友に頼む。ただ一度だけ、この時だけでいいから、勇気をくれ、と。

「依緒………………好きだ。俺と、俺の恋人になってほしい」
「最初から、そう言えば素直に答えたのに。喜んで、なってやるよ。バカ」

 居酒屋だという事も忘れて二人は長い長い時間切望していた行為を、そう、唇を重ね合った。






[31879] 冬は温もりに溢れて
Name: 雪儚◆d65b0b7d ID:90c0849b
Date: 2012/03/09 15:31

 心地いい日差しが部屋に差し込む。時刻はちょうど正午前で、冬だからこそ感じられる日差しの有難味。差し込む陽光が部屋の中を照らし出す。整えられた調度品。見るだけで高級感が溢れている部屋、であるのだがベッドは部屋の調度品と比して簡素でベッドの周辺には無粋な音を奏でる電子機器が鎮座している。
 そのベッドの上には一時の母とは思えぬ美貌と若さ、目を奪われる泣き黒子といった特徴的な女性が陣取っている。その簡素なベッドには不釣り合いな程に未だ活力に満ちている女性だった。

 陽光差し込む時間を慈しむかのように慈母の如き表情を浮かべている女性だけがいる空間。その世界と外を隔てる扉に突然、来客を告げる音が鳴り響く。

「母さん。おはよう。見舞いにきたよ」
「おはようって、もうお昼時でしょ。まさか、今起きたとか言わないでしょうね?」
「さすがにそんな生活送ってないよ。まぁ、少し寝坊したのは確かだけど、この後もちゃんと練習に行くよ」
「それならいいんだけどね。で、その手にあるのは」
「お土産だよ。気の利いてない、ね」

 曜子の指摘にあるようにかずさの手にはいくつかの林檎。瑞々しく、スーパーで売っている様な妙なテカリはない。完全無農薬の完熟林檎。市販品にはない甘みが特徴の小木曽家から頂いたモノだ。

「ほんと、気の利いてない娘だこと。フルーツよりも他にあるでしょ。プリンとかケーキとか。色々」
「だからだよ。知ってるぞ、甘い物全般的に控えるように言われてるんだろ。フルーツがOKなのもきちんと聞いてるから」
「貴方に漏らした気はないんだけど」
「春希に聞いた」
「そう。彼に話したのは失敗だったか」
「話したんじゃなくて、聞きだされたんだろ。それぐらい分かるよ」
「あの相手を気遣った強引さってある意味で罪よね」

 二人して誰よりも他人を思いながらずかずかと踏み込んでくる愛しい馬鹿を乏しめる。そこに嫌悪はなく、揺るぎ無い信頼だけがあった。

「それじゃ、剥くからちょっと待っててって、母さん。何でナイフ奪ってるんだよ」
「貴方ねぇ。ピアノ以外は何も出来ないのに刃物を持とうとなんてしなくていいのよ」

 気合集中で林檎に向かって逆手にナイフを握っているかずさの姿を見て慌ててナイフを奪い取る曜子。懸命な判断だ。どうすれば逆手に握ったナイフで林檎の皮をむくというのか。
 呆れた顔でナイフを奪い取る曜子。ただ、内心はめちゃくちゃ喜んでいたりする。普段は決してしない刃物を扱う行為。それを自分の為にしてくれる。そんな事はかずさを産んでから初めての経験で。だから嬉しくて、同時に刃物もろくに扱えない娘の不甲斐無さを嘆いていた。
 ナイフを奪われたかずさは心なしか頬を膨らませて、憤慨を表している。その姿が見た目に反して幼くて、曜子は娘に対する愛しさを更に募らせていた。

「なんだよ。せっかくやろうとしたのに」
「出来もしないのにやらないの。かずさの指はかけがえのない物なんだから」
「母親の、うん、母さんの看病も出来ない指ならいらないよ」
「全く、困った娘だ事」

 ころころと呆れている口調なのに、満面の笑みを浮かべていては説得力もないというのに、曜子は笑みを抑えられなかった。
 可愛い娘が自分の為に頑張ろうとしたのならば、親としてこちらも威厳を見せねばなるまいと奮起をして、ナイフを構える。そして、そのままナイフを林檎へと向け、さっくりと芯まで刃が入った。

「……………………」
「てへっ、ちょっと失敗しちゃった♪」
「母さん、アタシがやった方が」
「何よ、今まで一度も包丁も握った事がない癖に」
「握ったことぐらいあるよ!」
「何度ぐらい?」
「二回ぐらい?」
「…………はぁ、本当に情けないわね」
「そういう母さんこそ、何回ぐらいだよ」
「私は貴方と違って何度も触ってるわよ。そうねぇ、二十回ぐらい?」
「……………………なぁ、それって」
「食べる分ぐらいはきちんと剥くわよ」

 それから十数分の格闘の末、見事に芯だけになった林檎がテーブルの上に転がっていた。それより更に数分、結局あきらめて皮と二人が称する身を食べる事となった。

「甘くないわね」
「あっ、それは私も思った。でも、雪菜も春希も十分甘いって言うんだよ。食べてると練乳欲しくなるな」
「そうね。はちみつでもいいけど」

 二人揃って甘くない甘くないという林檎ではあるが糖度17という平均的な林檎と比べて格段と甘い一級品である。だが、この二人にはそれでも甘さが足りないようだ。超甘党にして、甘味だけで生きていけるんじゃないかと周囲から邪推されている親子だけあって味覚は狂っていた。

「うん? ていう事はこれ雪菜さんからの贈り物?」
「に、なるな。昨日、帰りに渡されてさ。まぁ、ありがいと言えばありがたいからいいけど」
「そう、ってあの二人結婚間近じゃなかった? いいの家に押しかけたりして」
「押しかけてるというよりも、押しかけさせられてるというか」

 言葉を濁すかずさにあぁ、と微妙に曜子は納得した。

「お世話になってる訳ね」
「あいつら、ひどいんだぞ。ちゃんと三食食べてるのに外食は少なめにとか、デザートも食べすぎないようにとか注意して、でその日にきちんと確認を取りやがるんだ。野菜大目に取れとか、当分摂取過多とか、バランスを考えろとか。それが十回を超えた当たりから雪菜が家に来て料理するとか言い出してさ。さすがにそこまでさせるわけにはいかないだろ? だから断ったんだけど、どういう解釈をしたんだか春希の家で三人そろって食べればいいじゃないってなったんだよ。なんでこうなったんだ」

 ぶちぶちと文句を口にしているかずさだが、言葉ほど不満がないのか目じりが下がっている。
 一年前のあの日にこれからも三人でいる事を約束したが、実質は二人の付属として一人がいるだけで、何時蔑ろにされるか分からない状況だった。結婚の約束もしたのに、それでも三人でいようとしてくれる二人に対してかずさの感謝は、尽きない。

「それで、お世話になってる訳だ。週に何日ぐらいお世話になってるの?」
「三日ぐらい?」
「本当の所を言いなさい」
「…………………………………………多い時は五日」
「本当に、この娘は」

 先に外食に行ったとか、外食の内容を誤魔化したりすれば二人の愛の巣に入る必要はないというのに、馬鹿正直というかなんというか。そんな感想を抱きながら曜子はまた溜息をついた。

「まぁ、でもさ。嬉しいよ。なんだかんだ言って雪菜はデザート大目に作ってくれるし、私の奴は甘目だしさ。春希も遅くなったら甘い物買ってくれるし。雪菜よりも多く」

 惚気にも似た言葉に曜子は冷や汗をかいた。正直、今のかずさは北原家に飼われているといっても過言ではない状況だ。しかも、本人にその意識がない所が深刻だ。
 だが、正直そうなっちゃった方がいいんじゃないかとも思えるのが不思議だ。あの二人ならばかずさを最大限に甘やかしつつ大切にしてくれることがまぶたに浮かぶ。

「かずさ、いっその事、北原さん家で飼われちゃえば? ご飯の心配いらないし、色々と面倒見て暮れるし。ご主人様に際限なく甘えられるし」
「春希には雪菜がいるだろ、雪菜が」
「あら、ご飯を用意してくれるのは雪菜さんなんだから、飼い主は春希君よりも雪菜さんじゃないの?」
「……………………ぷい」

 むくれた顔が、その風貌に反して可愛らしいと思える。だが、同時に今の言葉に酷く心配になった。

「ねぇ、かずさ。さっきはそういったけど無理、しなくていいからね」
「何がだよ」
「貴女が一年程度で忘れられるはずがないなんて事は分かってるから」

 あれから一年。かずさが異性としての春希を求める事を諦めてから一年が過ぎた。それ以来、講演も幾度か開いていて、パーティにも出かけている。だが、そこでもかずさは言い寄る男共を袖にしている。酷い時は蹴り上げて。未だに肌に触れる事を許す異性は春希しかいない事を曜子は知っている。
 触れ合う事も、見つめ合う事もできずに五年間も想いを募らせてきたかずさが、諦めたとはいえ、胸の内にある慕情が易々と消えるとは思っていない。

 何よりも諦める事と思慕が消える事は必ずしも同率ではないのだから。

「講演でのピアノを聞いても分かるもの。貴方は諦めて尚、想いを寄せているって」
「母さん」
「距離を置くのも一つの手段だし、なんならまた日本から出てもいい。ついて行ってあげるから」

 何時にない優しい口調で曜子は無茶を口にする。白血病に犯された身としては無茶でしかないが、たった一人の愛娘の為を思えば、最後の願いは諦められる。猶予はまだあるのだから余計に、かずさが国外を望むのならその通りにしてもいいと思う。
 想像してみるといい。愛した相手が、大好きな親友と共に幸せな家庭を築こうとしているのを真横で見ている。時によって家に呼ばれてその親密さを見せつけられる。普通ならばその光景に嫌悪を覚えるか、憎悪を滾らせる。ずっと直視しているなんて誰だって耐えきれない。曜子とて、もし、もしかずさの立場であれば恥も外聞も関係なく逃避を選択する。
 春希が愛情を雪菜に囁く度に、選択が違えば自分であったはずなのにと嫉みが生まれ、雪菜が幸福そうな笑みを浮かべる度に妬みに変じてもおかしくはない。

 幸福な家庭を見る度に心が千々に乱れてもおかしくはないのに。

「いかないよ。日本にいる。母さんの最後の願いなんだ。叶えてあげたいよ。私は親不孝者になんかなりたくないから」
「…………かずさ…………」

 今でも覚えている。一年前のあの最高のステージの直前に言われた、産んでくれてありがとう、という親として最高の言葉を貰ったあの日の事を。
 掛け値なしに嬉しい言葉だ。だが、それを理由に苦しんでほしくはない。

「雪菜で良かったよ。きっと私を春希が選んでたら全部を奪ってた。春希の周りにいる人達も、日本という居場所すらも、さ。アイツをアイツのままで幸せに出来る雪菜が相手で良かった。これはどうしようもない本音だよ。私の最高の友達が、私が一番愛した男を幸せにするんだ。苦しくはある。泣きたくなる日がない訳じゃない。けれど、けれど、さ。やっぱり嬉しいんだよ」
「かずさ…………でも、次の恋は始められそうにないんでしょ」
「ごめんだね。何より春希以外に私を求めてくれるような男なんか絶対にいない。何度無視しても、何度罵倒しても諦めずに私を求めてくれる男なんて春希以外にいないさ」

 諦めとは違う、苦みを知りながらも尚慕情を募らせる女の表情。こんなにも思っているのに報われない想いなど、苦しくて仕方がないはずなのに、かずさは朗々と語る。

「それに、さ。春希は雪菜を選んだけど、私が嫌いになったわけじゃない。今でも、うん、今でも私の事を好きでいてくれている。この前のパーティで男に腰触られたっていったらすっごいムスっとした表情してたんだよ。あの時は嬉しかったなぁ」
「あの、ねぇ」
「母さん。春希は雪菜を選んだけど私も同時に思っていてくれる。雪菜を裏切って体の関係を持つことなんて絶対に出来ないけど、傍にいられる。幸せだよ。私は愛して愛されている男の傍にいられて、大切で大好きな親友の傍にいられて。この一年で実感してるよ、何度も」
「かずさ」
「私が愛した男は親友のになったけどさ。いいんだよ、それでも。愛は必ずしも勝たなくていい。愛していて愛してくれる男と、何よりも大事で、誰よりも大好きな親友が幸せになる光景を傍で見ているだけでいいさ。私はその幸せを噛み締めて、生きていくよ。だから、ありがとう。あの二人と出会わせてくれて」

 微笑みを浮かべたまま凛然とかずさは胸の内を言葉にする。
この一年で何度も歯を噛み締めただろうか。何度もがき苦しんだだろうか。何度涙を流したのだろうか。それは曜子も分からない。だが、そうなっていた事は確かだ。
 それでも、かずさは慈母の様に笑みを浮かべながら宣言する。幸せの中でずっと生きていけると。

「参ったな」
「どうしたんだ?」
「なんでないわよ――――――――――――――――――――――――何度も親をうれし泣きさせるんじゃないわよ、このバカ娘」

 娘の意外な成長に、娘の愛の深さに、娘を愛してくれる二人の人達に、完敗していた。
 一年前までは幼子と変わらない恋愛観だったのに、何時の間にか曜子では到底追いつけない境地にたどり着いている。もう少し手のかかる娘だと思っていたのに。少し寂しくて、嬉しくて。
 そして、ピアニストとしての成長ぶりに完敗した。
 傷を受けながらも尚も深い愛情。周囲の人を祝福できる心の内の大きさと尽きぬ事のない優しい心。感情を迸らせて演じるかずさの演奏がどれ程凄い事になるのか想像すら出来ない。ただ、想像できるのは春希と雪菜のいる公演ではきっと一年前を上回る音が奏でられる事ぐらい。


 ただ、一つだけ不安があった。
 もしも、もしもの話で。春希が酷い泥酔をして、理性が焼き切れた状態でかずさに迫ったとしたら娘は拒めるのだろうか。そこに春希の愛がなくても、体だけ求めらてもかずさは拒めるのだろうか。
 無理だろうと思う。喜んで差し出してしまうだろう。かずさは決して強い人間ではないから。

 その時は三人でいる事は難しいだろう。六年前の悲劇がまた繰り返されるのか、曜子は気が気ではなかった。

「考えても仕方ないか」
「何がだよ」

 会話が通じない事に不満があるのか童女のように頬を膨らませるかずさにぷっと噴出して、何でもないと手をヒラヒラと振る。
 
 その時はその時だ。そうなったら老い先短い身ではあるが、体を張ればいいだけだ。
何より何度も傷つけ合いながらも修復してきたあの三人の絆が簡単には崩れない事を信じている。また傷つけ合い、涙を流し、苦しみのた打ち回っても、もう一度、きっと絆を取り戻せると、信じている。

「冬が、来るわね」
「ん、あぁ。White Albumの季節だな」
「えぇ」

 空模様も風も冬支度を済んでいる。されど、White Albumはもはや開かれない。刻むべき悲哀も、悲嘆も、慟哭もないから。

 唯々、当たり前の冬が、訪れるだけ。





後書き
 かずさが出てきてしますが、この話は一応、曜子さんメインのつもりで書いてます。ご了承下さい。
 オチもヤマもないですが、長い目で見て下さると助かります。



[31879] 小春日和
Name: 雪儚◆d65b0b7d ID:90c0849b
Date: 2012/03/10 14:27

 夜の街。仕事が終わり、帰路に着く人達もすでに帰宅し終えた時間。夜の街に繰り出した者達はほろ酔い加減にすでになっている時間。そんな中でもそこは煌々と明かりを洩らしていた。
 飛び交う言葉、鳴り止まない電話、止まる事をしらないタイプ音。本日も開桜社は休むことを知らないのか、喧騒が響いている。

「お~い、杉浦、頼んでおいたレイアウト、出来たか?」
「万端です。メールできちんと送りましたので確認の程、お願いします。後、集計の方も仕上がってます。浜田さん、折角先輩がマクロ作ってくれたんですから使いこなす事をいい加減覚えてください」
「いや、あのな」
「杉浦、頼んでおいた資料はどうなった? そろそろ先方にお伺いしないといけない時間なんだよ」
「そっちも今、終わりました。木崎さん、原稿の回収頑張ってきてくださいね」
「おぉ! ありがとう。うん、頑張ってくるよ」
「杉浦~、テキスト起こしとPDF化出来た?」
「はい、大丈夫です。でも、松岡さん。先輩にも、仕事押し付けてましたよね。そういうのよくないと思います」
「――――さーてやっと帰れるぞーー!」
「あっ、こら、松岡さん! まだ話は終わってません!」
「そうだぞ、松岡。今日も説教だ。杉浦と麻理も呼んでな」
「げぇっ!? そんな浜田さん、殺生な! 麻理さんまで呼びつけた上に杉浦もつけるって、どんな拷問ですか」
「お前はその拷問をされるに値するんだよ。お前なぁ、入社してからもう四年目だぞ? 半人前は脱したけど一人前未満だなんて笑えない」
「そうだよ~、まっちゃん。二年後が怖いね~。来年入社してくる小春ちゃんに一年で追い抜かれるんだぞ?」
「いやいや、俺の方がほら、まだその時は人脈とかありますし!」
「麻理と北原の指導を一身に受けて、任されてる面がある杉浦が、その時のお前の人脈に劣ると思うのか? もう少し危機感持てよ」
「ぐっ」
「理解できたんならいい。麻理と杉浦の連行は勘弁してやるから、後で俺からきっちりお説教してやる。俺も終わらせるから手伝え」
「さっすが、浜田さん、優しいですね!」
「なんで、こう育ったんだか」

 頭を抱える浜田にまぁまぁと逆になだめる松岡の姿が小春の眼に届いた。小春がバイトをし始めてもう九か月。未だに変わらない光景が繰り広げられている。

 進路の関係上、出版社に勤めたいと決めた小春は、出版社に勤務している春希に相談をした結果、開桜社にバイトとして入る事となった。

「まったく、本当に成長しないんだから、松岡は。北原君が来た時と全く変わらない事してるんだから」
「あっ、あはは」
「でも、小春ちゃんが来てくれて助かるよ。ん~、なんというか久々に仕事がキツイけど余裕を持ってられるというか。麻理さんがまだグラフにいた時以来だなぁ~」
「そうなんですか?」
「そうなの。北原君が入社した時には麻理さんがいないし。入社してからも、というか麻理さんがいなくなった時点でほぼ代理扱い受けてたから」
「さすが、先輩ですねぇ」
「おやおや~? 本人からは北原って呼ぶように言われてなかったっけ? 北原君が出張でいないからっていつもの癖が出てるのかなぁ~?」
「うっ、だって仕方がないじゃないですか。二年もずっと先輩って呼んでたから中々癖が抜けなくて。それに近々結婚するから北原さんて呼ぶと先輩の彼女さんが拗ねちゃって」
「あぁ、ナイツの小木曽さんだっけ。彼女も北原になるから私生活では紛らわしい話なんだ」
「はい、それで。そのプライベートでは、そうなると春希さんって呼ぶしかなくて。でも、その、恥ずかしくて。だから、今も先輩って呼んじゃって。だから、その癖がここでも抜けなくて」
「あぁ~~~っ! なんて可愛い! もうお持ち帰りしたい位だよ! これからもそのままでいて、私の癒しになってよ~」

 ぎゅむっと鈴木に抱きしめられて息もつけなくなる小春。初めての女性後輩ともあって、グラフの中では小春の事を鈴木は猫可愛がりをしていた。

「くっ、苦しいです。鈴木さん」
「仕事も終わって、後は、私達は帰るだけなんだからいいじゃない」
「でも、ほら、周りが」

 周囲では百合? 百合なのか!? とか小声で言い合っていたり、耽美な光景に目を奪われている者達と、仕事が手につかなくなっている。
 さすがにこれ以上遊んでいたら、帰ってきた怖い編集長に怒られると、内心で鈴木は冷や汗を流した。

「それじゃ、私は帰るね、小春ちゃんはどうする?」
「浜田さんの仕事をもう少し手伝ってから帰ろうと思います」
「ほんとか!? ほんとなんだな、杉浦!」
「浜田さん、喜ぶのは分かるけど、あんまり近づきすぎるとセクハラで訴えられるよ?」
「口が減らないヤツだな。鈴木も。ほら、手伝う気がないのなら帰れ、帰れ」
「えぇ、言われなくても即帰ります。小春ちゃんもあんまり根つめすぎないでね」
「配分は考えてますから。それに入社までの間にスキルを獲得できるいい機会ですから、ドンドン頑張りたいです!」
「あぁ、なんていい子なんだろう。松岡に小春ちゃんの爪の垢を煎じて飲ませたいよ」
「それプラス、麻理と北原のも飲ませたらこのグータラもマトモになるだろう」
「酷いっすよ、浜田さん」
「まっちゃんも少しは反省しなさい。開桜社きっての働き者。その爪の垢を三人前用意しないとダメだって言われてるんだから」
「あっ、あはは」
「明日から頑張ります」

 代わり映えのしない光景が続く。世界に色はあれど、たった一つだけ欠けている。誰よりも輝いている唯一人の色が足りない。





「ごめ~ん、待たせちゃった?」
「いえ、平気ですよ。傷心の先輩を癒すのも後輩の務めですから」
「うぅ~、本当にいい子だぁ~。全く、折角早く帰れたのに、今度は向こうが残業だよ~。最悪の気分だぁ」
「はいはい、だからほら飲みましょうよ」

 開桜社のグラフ常連のいつものバーに小春と鈴木は着ていた。作業も終了してこれから帰ろうかという時に、かかってきた電話を取ったのが運のツキ。結局、夜食と飲み代を持ってくれるという話の上で、愚痴に付き合う結果となった。

「全く、いつもはこっちが残業で遅いと怒る癖に、自分が急な仕事で残業になったら逆ギレしてくれちゃって」
「それは、ヒドイですね」
「でしょー! 全くやってらんないよ。あ~あ、どっかに仕事を理解しつつも私生活をサポートしてくれるいい男いないかなぁ。優しくて気立てが良くて、でもこっちの事をきちんと叱ってくれる人とか」

 ぼやく鈴木に冷や汗をかいた。なんだその理想の男性像は。
 そんな女にとって都合のいい男が、と思った所でばっちり一人だけ思い浮かんだ。そのハイレベルな条件を全て満たすイカれた馬鹿が。

「はぁ、やってらんないよ。好きだけど、生きてくのに仕事抜きでなんて考えられる訳がないのに。しかも、何、アレ。前の男なんて、仕事と俺のどっちが大事なんだって! 一昔前と男女逆じゃないの! 普通、そういう台詞は女である私がいうべきなのに!」
「それってバブル時代の事じゃ」
「十年たっても二十年たっても一昔前なの!」

 酒と傷心で変な方向にハイになっている鈴木に辟易とする。しかし、同時にどうして自分がこんな損な役割をいつも回っているんだろう。
 小春としては、確かに周囲に困っている人がいると助けたくなる性分であるし、それによって得る達成感もいい物だと思っている。だが、恋など一度しかした事のない己に恋愛の愚痴を聞かせるのはいかがなものかと、常々思っていた。

 具体的には最近になって漸く、やっと春希の事を吹っ切れたのか同じ大学の医学部の人と恋仲になった美穂子ののろけとか、孝弘と交際し玉に喧嘩する亜子の愚痴を聞いたり、大学に入ってから幾つもの交際を重ねている百合子の自慢を聞いたりと。一人だけ置いてけぼりにされてるのに、いつも聞き役に徹せられる。
 たまに、何でこの三人と友達でいるのか分からなくなる小春なのだった。

「それで、小春ちゃん。大学では人気でしょ~? 確か、ミス峰城でいい所まで行ったんでしょ。このこの~」
「あれは、気付いたらエントリーされてて、仕方なく出たらなんか変なコトになってて」

 未だにその時の事を根に持っているのか、小春の口はアヒルの様にとがっている。
 何故、そうなったのかは小春も問い詰めて聞いている。恋人が出来た周囲の三人がいつまでたっても浮いた話の一つもない小春に対して行ったお節介である。少しは目立てば小春の事を周囲の男ども認識するだろうし、接すれば小春のいい所も多くの人達に見られる。同じ学部で未だに小春に想いを遂げずにくすぶっている意気地なしの男共に発破をかけようとしての行動だったと。

 聞いた時にはなんだ、それと。唖然としてしまったのを覚えている。

「で、その後、どうだったの?」
「特に変わりはありませんよ。見た目とか見栄だけで近づく人なんてこっちからノーセンキューです」
「付き合っていかないと分からない面ってやっぱりあると思うんだけどな」
「確かに、第一印象は最悪でも、長い事一緒の時間を過ごしていると、実は凄くいい人がいるっていうのは知ってますけど」
「おっ、なんだなんだ。想い人でもいるのかなぁ~、小春ちゃんは」
「いませんよ。そういう人は」

 苦笑と自嘲の混じった笑みを小春は浮かべていた。それは鈴木にとってはどこかで見た表情。三年前にも見た、目の前の少女と呼んでも差支えない女の子と似ている女性の笑顔。
 あぁ、やっぱりと思う。目の前の子は何処までも麻理に似ているのだと内心で、鈴木は嘆息した。

 だけどそれは許されない想いで、だけど誰よりも純粋な想い。だからこそやるせない。



 はぁっともう一度重いため息を吐く。目の前の少女はまだ社会人にもなっていない20過ぎの少女。ならば、一度は大きなお節介をしようと思った。目の前の少女が酷く傷つくかもしれないけれど、耐えきれなくなって人手が足りなくなるかもしれないけれど、それでも何とかしたいと思う程には鈴木は小春に入れ込んでいた。

「そう言えば、さぁ、小春ちゃん、この前の忘年会、凄かったねぇ」
「わっ、忘れてください!」
「えー、忘れられないなぁ。だって、あれだよ。松岡以上に頑張ってるのにバイトだからってボーナスが出ない事で気にもんでた北原さんに、じゃあ、ご褒美にいい子いい子してくださいって強請ったのは今でもウチじゃ話草だよ?」
「~~~~~~~っ! 忘れてください!」

 先日の忘年会でグラフ班及び、麻理を呼んでの忘年会での大騒動。
 努力をし、結果を出している小春に申し訳ないと麻理と春希が酒の席で空気を呼んでもいない発言をぶちかました。その上での問題発言。麻理がボーナスが出ない代わりに、己か春希に何か欲しいものがあったら強請ればいいとかとんでもない発言をしたのだ。
 麻理も鈴木同様、というかそれ以上に小春に対して期待をかけて、目にかけている。だからとも言える発言だった。
 その時は酒が一滴も口に入っていない状態だったから皆が皆、適当に流していたのだが、麻理があまりにも小春を可愛がり過ぎたせいか、小春の許容量を超える酒を摂取した後に事件は起こった。

『先輩~』
『こら、杉浦、会社では北原って呼べって言ってるだろ』
『仕事は終わったんだからいいじゃないですかぁ~』
『全く、酔っ払い過ぎたぞ。麻理さんも加減させて飲ませないと』
『すまん。いや、だけど、な。小春にも酒で簡単に潰れないように鍛えておかないと後々、大変だと思ったからで』
『杉浦と二人で飲んでる時にしてくださいよ』
『先輩~、麻理さんとばっかり話をしてないで~、私の話を聞いて下さいよ~』
『っと、すまん。それで、どうしたんだ?』
『ボーナス、出ない代わりに、先輩が何か、穴埋めしてくれるんですよね?』
『まぁ、可愛い後輩の努力と出した結果が報われないっていうのは間違ってると思うからな。俺だけじゃなくて麻理さんも聞いてくれるさ。無茶な範囲じゃなければ、いいよ』
『そっかぁ~。えへへっ。麻理さんからのは遠慮しますけど、一つだけ先輩にはあります。お願い聞いて下さい』
『お~、なんだ、なんだー! 小春ちゃん、一体どんなお願いを春希君にするんだ~』
『あの、そんなにワクワクした目で一同見ないでください。杉浦も、そうなったら言えない――『先輩~、褒めてください』――酔い過ぎだろ』
『私、頑張ったんだから、褒めてください』
『そんなんでいいのか。というか結構、褒めてると思うけど』
『む~、褒める時は言葉じゃなくて、態度で示すべきだと思うんです』
『えーーーと』
『おぉ~と、北原君が思いがげない言葉に冷や汗を流しているぞ』
『杉浦、そのまま北原を困らせてやれ』
『松岡さん、明日の仕事は絶対に手伝ってあげません』
『撤回で、杉浦、あんまり困らせるなよ』
『まったく、旗色が悪くなったすぐに態度を変えて、風見鶏か、お前』
『そういう木原さんだって、北原に手伝ってもらえないって言ったら逃げるでしょうに』
『さ~て、浜田さん、空いてますよ。お酌します』
『逃げた』
『先輩、よそ見しないでください』
『いでぇ! グキって今鳴ったぞ!』
『先輩、褒めてください。早く』
『あぁ、よく頑張ったな』
『むぅーーー、さっき言ったように態度で示してください』
『これ以外に、どうすればいいんだよ』
『いい子いい子って、頭、撫でてください』
『えっ? そんなのでいいのか? ちょっと子供っぽいというか』
『いいから、私が望んでるんですから、お願いします。ずっと今まで頑張っていいこにしてきたんですから、だからいいこいいこってしてください』
『じゃ、やるぞ』
『ん』

 まるでキスをねだる乙女の様に顎を差出し、瞳を閉じて待つ小春。目を閉じる寸前には思い人からのご褒美を得られる喜びに満ち満ちた女の表情を、小春が浮かべていたのを知るのはその場にいた女性二人だけだった。

『ったく、杉浦は』
『ひゃんっ、えへへ』
『空気読めてないぞ~、北原くん。そういう時は小春って呼び捨てにしないと』
『まぁ、私も鈴木に同意見だな』
『俺にどうしろと!?』

 と、熱い夜だった訳なのだが。尚、その日、小春の事をとてつもなく羨ましそうに見ていた人がいたとかいないとか。


「小春ちゃん。正直な所どうなの? 北原くんの事。まぁ、あの前から怪しいなぁと思ってたけど。北原くんに仕事頼まれた時だけ凄く目を輝かせてたし」
「そんなに、分かりやすいですか? 私」
「うちの男共は仕事だけに目が行ってて、曇ってるから分かってないけど、麻理さんは分かってるね、絶対」
「あぁ、やっぱりですか。ですよね」
「何々、意味深な溜息ついて」
「あの人も、私と一緒だからきっと分かってたんだろうなぁって思って。だって、先輩の代理で行くと決まってほんの少しだけ溜息ついてるんですよ」
「あ、あはは。麻理さん、露骨すぎ」

 開桜社に、小春以外に春希を目にかけているのはその好意を向けられている人物と好意を向けている当事者以外には周知の事実である。
 だが、手を出す愚か者はいない。開桜社きってのワーカーホリックにちょっかいかけて倍どころか、三倍返しにされるのが目に見えているからだ。

「やっぱりおかしな事ですよね。恋人がいる人を好きになるのって」

 はふぅと憂鬱が目に見える溜息を小春が吐き出す。本人すら、それがいけない事だと自覚しているからこそ溜息に詰められている成分が負の色をしている。分かっているのだ、小春も。

「そうかな? 人の気持ちなんて簡単に収まらないよ。でなきゃ、不倫も浮気もないし。それに、ねぇ。北原くん、モテるからねぇ」
「そうなんですよねぇ。この前も別の部署の人からお土産をわざわざ貰ってましたし」
「なんだよねぇ。面倒見がいいし、ルックスはそこそこだけど将来性はあるし」
「えぇ、いつもしっかりしててお堅くて説教ばっかりしてるんですけど時折見せる優しさがなんというか。いつでも困っているとひょっこり現れて助けてくれますし。一度気になっちゃったら、お説教も全部自分の事を気遣ってくれてるんだなって嬉しくなっちゃうんですよね。しっかりしてる所が頼もしく見えて。その上、私が遅くなるといつも残ってくれて一緒に帰ってくれるんですよ。夜道は危ないからって。私、もう21歳なのに。でも、特別扱いされてるみたいでいつも嬉しくて拒めないんですよね」
「相当やれてるね、小春ちゃん」
「そうかもしれません。でも、一緒に帰ってくれる理由を聞いた時はさすがにイラっときましたけど」
「あぁ、そりゃ、ねぇ。まだ高校生に見えちゃうから危ないんじゃいないかっていうのは。さすがに、ねぇ」
「えぇ、えぇ、そうですよ。先輩の周りにいる人達と比べたら私は背も低いし、胸も小さいし! なんで先輩の周りにはあんなハイレベルな人ばかりが集まるんですか!」
「どうどう、落ち着け小春ちゃん」

 なだめながらも内心、頷いている鈴木だった。いや、どう考えても春希の周りには美形率が高すぎる。本人は十人並みに近い容姿の癖に。

「でも、やっぱりこの想いは胸に秘めないと。だって、先輩は、凄く綺麗で、凄く優しくて、とても立派な女性と結婚するんですから」
「顔だけ見た事あるけど、アイドルとして売り出してもなんら遜色ないよね。何処であんな素敵な子を捕まえたんだか」

 鈴木が漏らす愚痴に、対する答えを小春は知っている。口に出す事は出来ないが、胸にきちんと刻まれている。
 だからこそ、小春は想いを遂げる事も口にすることもできない。知っているから、あの二人がどれだけ傷つけ合い、傷つき、悩み苦しんでいたかを知っているからこそ余計に入り込むことが出来ない。一年前に結論を出したあの三人に割り込もうとも思えない。
 何よりも遅すぎるのだ。三年前の、春希と雪菜を応援してしまったあの時に決着はついている。 

「勝てないって分かってるし、私はあの二人を引き裂きたいとも思ってません。私にはあの二人を傷つける事なんて出来ません。あの二人が、あの三人がどれだけ苦しんでるって知ってるから。苦しみぬいた上で出した結果があの二人の結婚式だって知ってるから!だから、私はこの想いを沈めていこうと思います」
「それは違うよ、小春ちゃん」

 想いを告げられず、その身が軋み程の恋を抱いた心をそっと閉じ込めるように小春がカウンターに突っ伏す。そこに浴びせられる冷たくとも温かい言葉。
 いつもとは違う鈴木の態度に小春は酒で低迷しかけている頭をそちらへ向ける。

「いつまでも想いを引き摺るのは心にも悪いし、小春ちゃんはまだ、きちんとフラれてないんでしょ?」
「まだ一度も、そういう事口に出してないですし」
「だからこそ。もうすぐ北原くんの結婚式でしょ。その時、笑顔で送り出したいって思ってるよね」
「そうですね。あの二人の、結婚式ですから心から祝福したいです。その気持ちに嘘はないです。笑顔で送り出して、祝いたいです」
「今の小春ちゃんは諦めてるフリをしてるだけ」
「フリって、私はちゃんと!」
「でなきゃ、ウチまで追いかけてこないよ、普通」
「うっ」
「あっ、やっぱりそっちの理由もあったんだ」
「将来、出版社につきたいのは嘘じゃないですけど。その気持ちがなかったと言えば嘘になります」
「いい子だね、本当に。ねぇ、今のままだと結婚式、苦い顔するよ。笑顔で、送り出したいんでしょ」
「はい」
「なら、一度ぶつかって玉砕してきなよ。それで、思いっきり泣いて、結婚式当日に笑って送り出してあげよう」
「迷惑にならない、かな」
「けじめだと思えばいいんじゃないかな。笑って小木曽さんを送り出すための」
「私の為じゃなくて、雪菜さんの為…………か」

 それは免罪符。誰かの為という酷く自己満足に満ちている免罪符。だが、免罪符というモノははた迷惑でありながらも心底欲しかねない程の魅力を持っている。
 そう、自分の行動を正当化する為の、免罪符。

「そうそう、まぁ、一度くらいの失恋がなんだ! 小春ちゃんはまだまだ若いんだから。次の恋がすぐ近くにあるよ」
「いますかね。先輩みたいにお節介で、頑固で、強いけど弱くて、だけど頼りになるような人」
「探せば、ね」
「そう、ですね。えぇ、そうですね。では、不詳、杉浦小春、近々玉砕してきます。その時は一晩付き合ってくださいね」
「一晩だけでいいの?」
「鈴木さんに毎日付き合ってもらうのは無理だから、それ以外は友達に頼ります。けど、玉砕するのに発破をかけた責任はきちんととって下さいね」
「大人のお姉さんに任せておいてね」
「はい」

 こうして、一つの恋が終わりを告げる。
 長い長い、三年にも渡る想い。White Albumに刻まれてもおかしくはない恋は終端を迎える。ぬるま湯から抜け出て傷ついても前に進もうとする彼女に、やっと冬が訪れようとしていた。

 小春日和、それは晩秋から初冬にかけての穏やかで温かい一日。冬の訪れを告げる切ない一日。






[31879] 暴風の憂鬱
Name: 雪儚◆d65b0b7d ID:90c0849b
Date: 2012/03/10 22:40

「で、いつまで隠れてるつもり、麻理」
「しっ、静かにしててよ、出てくまでに決まってるでしょ、佐和子」
「全く、部下の決意を聞いて何にも言えずに頭をひっこめてるとはそれが三十代の姿?」
「私はまだ29だ! っと、いけないいけない」
「面倒臭いなぁ、もう。出てったよ、あの二人なら」
「サンキュー、佐和子」

 小春と鈴木が扉から姿を消すのを確認してから頭を出す麻理。いや~、まいった、まいったと頭をかきながら姿を現す姿はいっそ滑稽。

「全く、自分に都合の悪い話だからって隠れる必要ないでしょうに」
「いや、さ。さすがにプライベートの愚痴を頼み込まれたわけでもないのに聞き入る訳にもいかないでしょうが」
「おーおー、見事に知らんふりしやがって。一回りも下の子が勇気を振り絞ってロープレスバンジーを試みるというのに、この三十路は」
「だから、私はまだ29だと言ってるだろ! 全く」
「それで、あんたはどうすん――「そう言えばさ、佐和子」――何?」

 聞きたくないとダダをこねる子供の様に麻理は佐和子の言葉を遮る。それが一種の答えだという事を本人は理解しているのか。
 それを理解している本人ではない佐和子は、心底呆れた表情を浮かべて、逃げに徹している友人に話を合わせる。

「お前から仕事を可能な限り開けてきてくれって話だったけど。一体どうしたんだ? 休みの時ぐらいにしか連絡をよこさないのに」
「本題に入って逃げるつもりか。まぁ、いいか。すぐ終わるような話だし。その後、きっちりと話をすればいいから」
「あーあー、ほらさっさと話せ」
「全く、なんでそういう所は子供のままなんだか。話っていっても簡単な事。六月には結婚するから」
「ふぅ~~ん、へっ!?」

 適当な相槌を打った後にぶふーっと12杯目のグラスの中身を麻理は噴出した。そんなに意外な話だったかなと親友の己の扱いに、ちょっと胡乱な目で見てしまう。

「げほげほげほ。結婚て!」
「そう、結婚。タイムリーよねぇ。北原くんと」
「そっ、そっちの話は今はいいから、お前結婚だなんて!」
「おかしかった?」
「おかしいっていうか」
「別に不思議な話でもないと思うんだけどな~。私達ももう三十路まで秒読み。そろそろ特定の相手を見つけててもおかしくはないのに」
「そうなんだけど、さ。なんだろう。なんていうか置いてけぼりを食らった気がして」
「逆よ、逆。あんたは常に突っ走り過ぎて周囲を置いて行ってる側でしょうに。自覚、ない?」
「うっ」

 無い訳ではない。仕事場でも突っ張りすぎている傾向が無い訳ではない。でなければ、三十手前で編集長という役職には就けない。

「アンタはみんなの前を走り過ぎて、前しか見えなくて。だから、よ」
「そっか。そうかー。私はついに佐和子まで突き放してしまったわけだ」
「友情は消えないけれど、今までみたいな無茶は出来ないからね」
「そっか。おめでとう、佐和子」
「ありがとう、麻理」

 カツンと静かな音がこだまする。寂しさを伴う祝杯。

「麻理には一番に伝えたくてね。だから、ちょっと無理してもらってごめんね」
「いいよ。親友の慶事だもん。素直に嬉しい事だよ」
「ありがとう。本当にアンタが最初なのよ、この話したの。親よりも」
「この親不孝者」
「人の事言えるの? 暴風雨の片割れさん」

 ぐっと言葉を飲み込む。確かに女学生時代にやんちゃをやったのは今でも記憶から消し去りたい過去。あの時どれ程、親の気を揉ませたか。

「これで、私一人か。みんな結婚しちゃったし。なんだよ、アメリカから帰ってきたらみんな、結婚してやがって」
「そりゃ、三十代目前となったら少し焦るよ。晩婚化の傾向で、長寿になってきてるけど子供を産める年齢は変わってないんだから。自分の子供が欲しいなら、幸せな家庭を望むのなら、誰だってそういう選択を視野にいれるって。アンタみたいに仕事が恋人でいいっていつまでも人間、強がれないのよ」
「強がり…………か。それで相手はどんなの?」
「二つ年下でね。まぁ、あんまりうだつが上がらない方ではあるんだけど、でも堅実でさ、私の事を大切にしてくれるのよ」

 なんだ、その微妙に北原に似たヤツは、と。内心ムカムカとしている麻理。無論、それを分かった上での発言だという事に麻理は気付かない。

「そいつとなら、結婚したいなぁって思って。それでこの前私からプロポーズした」
「男からじゃないってのが佐和子らしい」
「待ってて、逃げられたりしたら嫌じゃない? ねぇ、麻理」
「あーあー、聞こえない聞こえない」
「それに聞いたよ。アンタ。春希く――っとと、未だに何で睨むのよ。北原君の結婚式、他のグラフの人達が空くように調整しちゃったんでしょ? 出席請われてたのに」
「全員が抜けたら仕事にならないでしょうが。それに編集長は忙しいの。で、何で知ってるの?」
「鈴木ちゃんに聞いた」
「…………鈴木ぃ…………」
「あの子もあの子であんたの事、気にしてるんでしょ。嬉しい事じゃない、上司冥利に尽きるってものよ」
「自分の事を第一に心配すればいいんだ。さっきだって小春に絡むほどに傷ついてた癖に」
「あの子は、自分の恋愛は大丈夫だって分かってるからでしょ。アンタの場合はぐいぐい押してくるタイプが来ないと仕事だけになっちゃうから。もしくはアンタの高すぎる理想の男がこないと」
「うぅうう」
「逃がした魚は大きいね、麻理。アメリカに一緒に連れて行けば違う展開になってたかもしれないのに」
「さすがに、学生の北原にそんな事出来る訳がないだろ」
「そうかなぁ? 彼、本気で必要として、本気で麻理が求めたのなら押されてたかもしれないのに。あの時、彼、結構弱ってたしね。押してれば勝てたよ」
「今更な事、言わないでよ~」

 先程の小春と違い、完全に敗北を認めた上で、麻理はカウンターに頭を置いた。本当に今更だ。あの、三年前の冬に電話越しであるとはいえ、悩みを聞いて肯定してしまったのがいけなかった。あの時、もしすべてを放り出して春希の元にかけて付けていたら、クリスマスイブの日に春希の横にいたのなら結末は変化していたかもしれない。

 だが、それらは所詮、IFに過ぎない。過去におけるIFを語るのは、荒唐無稽な未来を語るよりも劣悪なる行為。

「その後もさ、気があるんじゃないかと思うような言葉を言われたりしてさ。でも、応援しちゃったし、なんか無駄に疲れたよ。あの時は。それに、帰ってきてからもなんだか優しくされるしさ、褒められたりすることがあるし、二年で忘れるはずだったのになぁ」
「何、アンタ、北原君に可愛いなぁとか、言われてときめいてるの?」
「いいだろ! そう言ってくれるの何て北原ぐらいなんだから」
「呆れた。片思いもいい加減にしなさいよ。恋の傷は恋で癒せよとか言ってた人間とは思えない」
「私以外に対して言ってるだけ。自分に適用しようとなんて思ってないから」
「また、そうやって逃げてる。さっきの子、アンタの後輩なんでしょ。その後輩が麻理よりも先に決心したんだから、アンタもいい加減決心つけなさいよ」
「あのなぁ、私は小春とは立場が違うんだぞ? 結婚前の告白だなんて会社を騒がせる以外に何でもない。仕事に私情は持ち込まないっていっても限度があるし。告白したら次の日の仕事とか、手につかない。それはダメ」
「逃げに徹して。おーおー、これだから三十路は」
「まだ、29だ」

 先程までの元気はすでにないのか、麻理の返答も力ない。まぁ、ここまでジャブとストレートの連打を食らって笑顔を浮かべられるのは雪菜と千晶ぐらいだ。

「分かってた事でしょ」
「そう、だ。そうだよ。分かりきってた事だよ。だからこそ諦めがつかないというか。小春も冬馬かずささんもどうやって自分の気持ちに折り合いをつけたんだか」
「それは二人が北原君の彼女の事をよく知ってるからじゃない? 聞きだしたんだけど、疎遠になってた北原君のお母さんとも仲を取り持つくらい幸せに貪欲なんだって。周りが幸せでないと自分も幸せになれないある意味でぶっ飛んだ子。だから、いつまでも吹っ切れなかったら気に病んでくれて、それが勝者の余裕に見えるから苛立ちを募らせて、だけど嫌いになれないから自己嫌悪になるから」
「カウンセラーにでもなったら?」
「茶化さないの。それに、きっとさっき鈴木ちゃんが言ってた事が一番の正解じゃない。大好きな人だから、大好きな人達だから、門出を笑顔で祝ってあげたい。それに尽きるんだと思う」
「私は片方しか知らないってーの」
「それでも、北原君の幸せを本気で祝ってあげたい気持ちが無い訳でもないんでしょ」
「……………………」

 その沈黙が如実に語っていた。その気持ちがないじゃない事を。
 初めてできた、可愛い部下。初めてできた自分と同じ領域まで来れる男。初めて本気で惚れた男。今でも、その甘い言葉が自分だけに向けばいいと心から思う。
 だけど、それは不可能だ。春希には雪菜がいるから。

 だから、諦める他ない。だけど、些細な行動が胸を締め付けて、小さな事を気にかけて貰えたことが嬉しくて、それが諦めなければならない恋心の燃料となって、堂々巡りとなる。

「あんたも決着をつけなさい。大切な部下なんでしょ」
「部下だよ。そう、部下だよ。あぁ~あ、部下なんて形でくくらなきゃ良かった…………………………はぁ、何とかする。結婚式の日までには」
「おっ、玉砕二号がここに確定した!」
「心に折り合いを完全につけるだけ! 玉砕するなんて一言も言って無い!」

 White Albumは開かれない。されど、それでも誰かの幸福の為に誰かが傷つく日常。
 すれ違いはすでになく、それでも無自覚に誰かを傷つける日常。White Albumは、もう開かれることはない。

 暴風が吹き荒れた後には、晴れ渡る蒼穹が広がる事を願って。




[31879] 負け犬達のガールズトーク
Name: 雪儚◆d65b0b7d ID:90c0849b
Date: 2012/03/11 01:27
 静かな夜。いつもなら、喧騒の余熱を体に残しているのに、今日は余熱所か微熱すら感じない。
 それもそう。今日は土曜日。いつもなら北原家にお邪魔しているが、週末だけは別だった。旅行や春希の出張があれば北原家に呼ばれる事もあるが、そうでない限りであれば近づくことはない。結婚直前の恋人同士の逢瀬を邪魔する程、かずさは野暮ではない。

 六年前ならば、この広い屋敷と呼んで差支えない家も寂しくはなかった。一年前、春希と再会する前であれば、寂しくはなかった。母が傍にいた。ピアノを弾けばその向こう側にいる春希と語らう事が出来た。だが、今は不意に途方もない寂しさがよぎる事が多い。母は療養中で家に帰ってくるのは月に数える程。春希は傍にいるのに、会いたいけれど会いに行く訳にはいかない。

 寂しさを紛らわすように、今日も酒に手を付ける。
 母宛てに送られてきたワインを今夜もあけて、煽る。僅かにしか感じられない甘さと、喉が僅かに焼ける感触が寂しさを紛らわせてくれる。それが、かずさのいつもの週末。それが、本来のかずさの週末。

「ん?」

 来客のチャイムが唐突に響く。
 この一年で友人は増えたが、かずさは元来人見知りをする性質。知り合いであれば事前連絡があるはずなのに、無いという事は望まぬ来客という結果が導かれる。
 しかも、付が変わろうかという時刻。あまりにも不作法。

 酒で僅かに高揚した頭が、とりあえず怒鳴るという選択肢を選ぶのに一秒もかからなかった。もし、春希がいたなら馬鹿な事いうなと言われかねない、独り暮らしの女性としては軽率な行動である。




 玄関を開ける寸前には、普段ですら吊り上がっている様に見えるまなじりが更に上方へと向いていた。口はへの字に曲がり、見るからに不機嫌だと分かる。度胸の無い男ならしどろもどろになった挙句に逃げ出す事は確実。

 玄関を開け、門の向こうにいる人影を一度見据える。そこには線の細い影と、平均身長よりも低い影。低い方は輪郭が知り合いに似ている気がするが、その人物は決して不作法ではない。たまに五月蠅いが、最近は説教を食らうような事はしていないはずだ。よって却下。

「おい、お前ら」
「あぁーーー、かずささん~。やっと出てきましたね~~」

 近づいて確認しようと門を開けた途端に小さい影が動き、がばりと抱き着かれた。こんなに暑い抱擁は春希に受けて以来。これが男であれば股間を蹴り飛ばしている所だが、生憎と抱きしめられた感触からして女性。しかも、その声には聞き覚えがある。先程、脳裏に描いて否定した少女と全く同じ声。

「こっ、小春!?」
「も~、な~んですぐに出てくないんですかぁ~?」
「いや、あの」
「うぅ~、胸が大きいからって人を待たせていい理由にはならないんですよぉ~」

 ぐにぐにと平均を超える美乳を小春に揉み拉かれていた。

「ちょっ、こら、揉むな! 何で揉むんだ。雪菜だって事ある毎に揉んでくるし! そういうことするのはお前のキャラじゃないだろ!」

 近所迷惑など知らぬとばかりに声を張り上げる。予想外にして想定外の事が起きてかずさは久方ぶりにテンパっていた。

「って、おい。無言で揉むな! こらっ! おい! って、ちょっと待て。先っぽはっ! くぅ…………はぁ……………………っつ………………………………ダメっ…………だって、ば……………………」

 コリコリと夜風の厳しいこの冬に描かれる痴態。昨日の小春と鈴木を超える艶姿である。男であれば誰だって生唾を飲む込む行為が深夜の住宅街の路上で繰り広げられていた。
 
 普段の小春ならば決してしない行為である事と。小春だからこそかずさは引きはがし難かった。
周囲からまま小春希と呼ばれるように小春と春希の性格は似ている。そっくりといってもいい。だからだろうか、かずさの感覚的に春希の妹のように感じられて。そして、小春を通して春希と接しているように感じれて。だからこそ、拒めなかった。

 このまま揉み拉かれ、腰砕けになるまで続けれると思われた痴態は、

「こら、小春。迷惑だろうが」

 もう一人の線の細い影によって遮られた。

「うぅ~、麻理さん。なんで、邪魔するんですかぁ~」
「酔っ払ってるお前の願いを聞いて送り届けたって言うのに迷惑かけてどうするんだ。全く」
「そうだ、かずささん! 飲みましょう!」
「ちゃんと、話しを聞け!」
「ひゃんっ! 髪を引っ張っちゃだめです!」
「そうでもしないと今のお前は聞かないだろ」
「かずささん、ダメ…………ですか?」









 玄関での押し問答の結果、招き入れる事となった。敗因は、酔っ払って涙腺の脆くなった小春の泣き笑いだ。

「全く、小春の奴は。それで、成り行きで入れてしまったけれど、アンタは?」
「あっ、申し遅れました、私――「肩書とかはどうでもいいよ。小春がこれだけ信頼してるんだから」――風岡麻理です」

 いつもに比べて殊勝な麻理。かずさ並とまではいかないが、傍若無人と呼べなくもない麻理がここまでおとなしいのは、単に豪邸に縮こまっている訳ではなく、普通に恐縮しているからだ。
 これが佐和子の家や、鈴木の家に押しかけていたのならばいつもの態度が出るモノだが、かずさと麻里は初対面。さすがに借りてきた猫の様におとなしくなってしまう。

「風岡――麻理? あぁ、春希の上司か。いつも春希が世話になってる。ありがとう」

 自然と返される言葉。笑みすら伴っている。
 春希から余程話を聞いているのか、笑みを浮かべる程にはかずさの中での麻理の印象は良かった。
 それに面を食らったのは麻理である。春希が初めて書いた雑誌の記事の内容は未だに色濃く残っている。そこに描かれていたかずさと今のかずさは似ても似つかない。
 後、なんだ。その、まるで春希が夫みたいな言い種は。

「こっ、こちらこそ」

 内心、結構むっと来ているからか、言葉も詰まる。かつてかずさと似ていると言われた身としては目の前の相手を見る目もきつくもなる。

「かずささ~ん! グラスどこですか~?」

 部屋に入れても小春の酔いは一向に収まらない所かちょっとヒートアップしている。一度も入った事もない人の家で堂々と小春はキッチンを捜索していた。委員長癖は何処に行ったと、問いたい。

「待て、さすがに今の小春には任せられない。今、出す。ちょっと待っててくれ」

 小春を押しのけてグラスを取り出し、きっちりと三人分用意する。

「それじゃ、乾杯しましょう! 完敗!」
「今、字が違わなかったか?」
「そう、聞こえた気が…………」

 とにもかくにも乾杯の音頭が撮られて、グラスの触れ合う音が鳴り響く。その中でビールを中年オヤジの如く一気に飲み干す小春。飲みっぷりに自棄が明らかに混じっている。

「それで、小春。一体どうしたんだ。こんな夜中に。お前らしくないぞ」
「えぇ~、それは、ですねぇ。かずささんと麻里さんと一緒に飲みたかったからです!」
「だから、何で。というか、アンタなんで止めなかったんだ?」
「……………………弱みを突かれて」

 顔を赤らめて横を向く麻理に、あぁとかずさは納得してしまった。飲み屋でさっきみたいに揉み拉かれればいう事を聞くしかない。現実は違うのだが。

「だからですねぇ~。簡単な話なんですよ。三人で先輩と雪菜さんの結婚を祝いたいという事です。えぇ、雪菜さんの負け犬という汚名返上を祝してとか、決して私が今日、先輩に告白して分かりきってたけど見事玉砕したからとか、私達で負け犬同盟を築こうとかいう訳じゃないです」
「「ぶっ!」」

 小春とは思えないやさぐれた声と、毒に満ち満ちた内容だった。

「小春、お前、春希に告白したって!」

 かずさの怒鳴り声も聞く耳持たないのか小春はテーブルの上に置いてあって先程までのかずさの晩酌だったワイン。それをグラス一杯まで入れて、そして一息に喉をごぎゅごきゅと鳴らしながら飲み干す。ダンッとグラスが割れるかと思う程の勢いでテーブルに叩きつけられた。

「えぇ、しました。そして、見事に玉砕しました。だって、だって、三年も、三年もずっと思ってたんですよ! 三年前は、見てられなくて雪菜さんの事、応援しました! えぇ、しましたよ。応援を! けど、けど、本当は好きで。応援しちゃったから、好きだっていう事も出来なくて! 三年、三年ずっと見てきました! 先輩の横で雪菜さんが笑ってる姿を、先輩が笑ってる姿を!
 苦しくても、言える訳がなかったんです。本当は好きだって! 雪菜さんじゃなくて私を見て欲しいって! 言える訳…………ない、じゃないですかぁあ!」

 小春の眼から大粒の涙が零れ落ちていた。何度も、何度もテーブルに水たまりを作ってしまうんじゃないかという程、涙が零れ落ちていた。

 その涙と共に吐き出される激情に、かずさも麻理も何も言えなかった。だって、だって、本当に痛い程、小春の気持ちが理解できるから。一度も小春と同じことを考えた事が無い訳では、無いから。

「でも、二人共、いい人だから。二人共、大好きだから! 祝福しないといけなくて! 本当はしたくないけど。でも、心の底からしたい気持ちも嘘じゃなくて。だから、だから! この気持ちを終わらせようって。先輩にこの想いを告げて、きっぱりとフラれて、笑顔で、二人の結婚式に出ようって決めたんです。今日、涙を全部流して、結婚式は嬉し涙しか流さないように、しなくちゃ、いけないんでよぉ」

 えぐえぐと、子供の様に泣き腫らしていた。
 鈴木に諭された時には、何とか気丈に受け答えを出来ていた。だが、告白した後までは元気ではいられない。そうなると分かっていても、想いを否定された後まで、気丈でいられる程、小春は春希同様に強くはない。

 そして、かずさは誰よりも小春の言葉に納得した。だって、自分が一年前に通った道だから。誰よりも、誰よりも今の小春の涙に共感できた。

「そっか。頑張ったな、小春」
「かずさ………………さん?」
「ったく。こういうのは私がする役じゃないけど、今日だけは、な」

 酔いが回り過ぎて暴れだしそうな小春の頭をかずは胸にかき抱いた。誰よりも共感できる人を。今、この瞬間で誰よりも傷つている目の前の少女を。

「頑張ったよ。お前は、本当に」
「私……………………頑張りましたか? 私……………………頑張れましたか?」
「あぁ、お前は頑張った、いい子だよ」

 よしよしと我が子を慈しむかのようにかずさは小春の頭を撫でた。
 かずさの手と共に流れる髪の感触の向こうに温もりがあった。真に理解してくれる人からの励ましの言葉と慰めの言葉。それが、小春にとって、今一番の慰めの言葉だった。



 一しきり、泣き崩れた小春は、涙と一緒に酔いが抜けたのか、顔を赤らめて洗面台の方へと逃げて行った。

 残されたのは先程から、ちびちびと持ってきた酒を飲みながら一言も発せなかった麻理と、そんな麻理とどう接すればいいのか迷っているかずさだった。

 ちびちびと飲みながらも酒は尽きる。ついにはテーブルの上にあったワインまで空いている。それでも一向に小春が帰ってくる様子がない。困ったかずさは結局、酒に逃げた。
 戸棚に陳列された多種多様な酒瓶を眺めつつ、かずさは一人、悩んでいた。というよりも胸につっかえている言葉。そう、小春の負け犬同盟という言葉だ。

「これで、いいかな」
「ありがとう。ってトウニー・ポート!? しかも60年もの!?」
「驚くほどのものなのか、これ。まぁ、いいや」
「あっけらかんと渡されるとありがたみが…………」
「いいじゃないか。それで、負け犬同盟ってどういう意味だと思う?」
「…………………………………………」

 いい酒で高揚していた気分が急転直下。冷や汗がダラダラと麻里から流れていた。

「私と小春が、まぁ負け犬っていうのは分かる。私と小春はフラれたんだから。でも、なんでそこにアンタがいるんだろうな」
「………………………………………………………………」
「ふん、やっぱり春希を真似て回りくどい言い方はやっぱり私じゃない。なぁ、アンタも春希の事、好きなんだろ? 小春とおんなじで結構な時間」

 ドストレートに逃げ場がない程のまっすぐさでずばりと言い当てられた。ぐぅの音も出ない程に適格な診断。
 だが、言い逃れは出来る。しらを切り通せばなぁなぁで済ませられる。洗面所から帰ってきた小春を抱えて早々と逃げ出せばいい。幸い、目の前のかずさは麻理にとって御しやすい相手だった。以前、取材で会った曜子と比べれば、話術とも呼べない。人を食ったような態度も取らずにストレートに聞いて来るなど、似ても似つかない。
 逃げようと思えば逃げられる。



 だけど、いい機会だと。逃げる、それよりも心の中ではいい機会だと思ってしまった。

「ごめん。度数のあるヤツ。出してくれる」
「…………分かった」

 出てきたのはカミュのバカラグラスに入っている一級品。だが、今度は驚く事も、遠慮する事もなく、封を切り一息に煽る。そして、前を向いた。


「好き、だよ。北原の事は。部下として、同僚としてとかじゃなくて、男として」
「…………」
「小春も勇気を振り絞ったんだ。私も、いい加減、言葉にしないと」
「私じゃなくて、春希に言え」
「仕事があるから、直接なんて言えない。けど、ここでだったら思う存分愚痴を、吐ける」
「………………………………だから、負け犬同盟…………か」

 小春の時と同じようにかずさは頷いた。
 そして、同時に感じる同族の匂い。小春とは違い、最後の最後まで真正面から好きな人と向き合えず、傷つくのを恐れて逃げる、そういうタイプの人間であると。

「入ってきた時はびっくりしたよ。わざわざめちゃくちゃ仕事を振る私の所にバイトが来るんだもんなぁ。吃驚したよ。きつくてすぐに辞めるんじゃないかと思った。けど、あいつは私が出す要求に全部、必死こいて食らいついて、遅くまで残ってでもやり遂げて。北原には二度驚かさせられたよ。その後も、仕事量を増やしていって、でもきちんと食らいついて来るんだ。今思えば、貴女の事を忘れようとする為に逃げてたんだけど、それでも、その時は私に追いつきたいかと思っちゃってた。今思うと恥ずかしい勘違いだけど。詰まるとまずは自分で頑張って分からなければ調べて、それでもどうしようもない時は私の所に来て、仕方がないなぁ~ってちょっと思ってたんだ。
 それが、三か月もしない内にどんな仕事を渡しても、きっちりとする奴になってた。頼りになる男になってた。けど、最後の最後には頼ってくれて嬉しかったんだ。それで、私の方もいつの間にか、ただの部下じゃなくて、唯一人の部下として、可愛い部下だって思うようになってた」

 麻理の独白にかずさは静かに聞き入っていた。
 己の知らない春希の過去。雪菜でさえ知らない春希の物語をただ、知りたかった。想いが叶う事はもはや無けれども、それでも好きな人の、最愛の人の過去を知りたくないと思う事は出来なかった。かずさの想いは未だ、小さくなかった。
 それに、麻理の話はどこかで体験したかのように身に覚えがあって、余計に耳を傾けていた。

「あいつさ、たまに無自覚に口説いて来ることがあって」
「あぁ」
「納得できるんだ」
「私も何度もあれに心揺さぶられたよ」
「それで、もしかして私に気があるんじゃないのか、コイツ。とか思うようになって。それから北原がバイトに来る度に目で追っていた。PC越しに北原が真面目な顔を覗き見て、不意にこっちを向いたら慌てて目を背けて」

 ばっちり身に覚えがあった。

「だけど、さ。結局、違ったんだ。ただ、憧れだったみたいで。それを知った時は悔しかったなぁ~。それでも私は、北原に幻滅されたくなかったから北原が知ってる私を何とか演じた。本当は、涙目になってたのに」

 本当にどうしてここまで似ているのかとかずさは嘆きたかった。
 その思いは六年前に経験した想いと全く一緒だ。六年前に感じた想いと全く一緒だった。

「そう言えば、さ。言われたよ。私は冬馬かずさと似ているって」

 心の中で頷く。似たような過去を味わっている。似たような行動を取っている。春希の行動に対して似たような想いを持ってしまっていた。そして、同じ人を愛してしまった。

「私も同じだよ。同じ経験をした」
「そっか」
「あぁ」
「そっか」
「あぁ」

 小さな言葉の繰り返し。だが、麻理とかずさの間に忌避感も、嫌悪感も生まれなかった。在るのは同族意識。いや、きっと二人の事を表すのならばこちらの方が正しいだろう。『同病相哀れむ』と。

「よく、二人の仲を祝福できたな」
「ふん、もう一年も前に決着がついている。とっとと結婚してくれればこっちも困らなかったのに」
「諦められないのに?」
「諦めてるさ、春希の一番になる事は――――」
「――――かずささん! これ、貰ってもいいですか!」

 ドシリアスの最中に帰ってきた酔っ払い。バンっと勢いよく扉から飛び出してきた小春の手には一枚の白いYシャツ。

「小春、こっちは真面目に――――ダメだ」

 小春の手に握られたブツ見るなり、一瞬でかずさはまなじりを釣り上げて拒絶した。

「いいじゃないですか~。一枚ぐらい」
「それはダメだ」
「あっ、代わりのヤツを買ってお返ししますから!」
「それだけはダメだ。それは私のだ」

 頑なに拒むかずさ。小春の事を他の友人の面子の中でも一番、気に入っているが、それでもかずさは頑なに拒んだ。

「えぇ~、どうしてですか?」
「っつ、お気に入りのヤツだから」
「えぇ~、でもこれ安物ですよね? ねぇ、麻理さん?」

 急に話を振られた麻理は、小春の傍若無人ぶりに呆れを見せたが、気を取り直して、シャツを見た。それはどこにでもあるシャツで、高級品とはお世辞にも言えない。どこででも見かけるような、男物のYシャツ
 男物

「ねぇ、あれって」
「それは、私の、だ!」
「じゃあ、貸してくれるだけでいいですから」
「ダメだ」
「今日だけ、今日だけでいいんです。今日だけは…………」

 洗面所で水気は拭われていたのに、小春の瞳は水気が溢れんばかりになっていた。
 かずさも涙には弱い。何よりもそこにあるのは残り香であって、本物ではない。だからだろうか、つい、優しい態度を取ってしまう。

「今日、だけだぞ」
「やりました!」
「って、嘘泣きなのか!」

 この短時間で小春は劇的に成長していた。主に、悪い方向へと。
 そして、心底あきれ果てたかずさの袖をくいくいと引っ張る影が。

「ごめん、私もちょっと貸してほしいかも」
「…………後で、きちんと返せ」








 



 暖房を最強に設定して、お揃いの格好となった三人。もちろん、Yシャツは素肌に着ている。もう、玄関前で見た光景が霞むほどの扇情的な光景。
 春希であっても狂喜乱舞しそうな光景だ。

「スンスン。先輩の匂いが少し、します」
「悪くない、かな?」

 春希の着古しというか、何度か身に着けたYシャツを着てご満悦な小春と麻里。いいのか、それで。

「お前ら、諦めたんじゃなかったのか」
「今日ぐらいはいいじゃないですか」
「今日は例外で」

 今日という時間制限を付けているためかはっちゃけている麻理と小春。諦めると口にしたとはいえ、早々に諦められるのならば、こんなにも苦しく嘆き、涙を流したりはしない。次の恋が出来るまでは引き摺るのは目に見えている。

「まぁ、いいけど」

 口の中にポートワインを流し込む。甘さの中に香るアルコールが心地いい。

「ところで、かずさん。これで、どうやって手に入れたんですか?」
「――――何故、聞く」
「欲しいからです」
「諦めたんじゃなかったのか!?」
「それとこれは別です」

 別らしい。

「それで、どうやって?」

 ずずいと顔を寄せてくる小春。唇が触れ合うんじゃないかというぐらいに顔が近い。最も、お互いにそういうケはないので、そうなる事はないのだが、嫌に気恥ずかしい。
 ついっと横を向くと、ワクワクとした様子でかずさが口を割るのを待っている麻理。逃げられそうにない。

「結婚式で新曲、披露するのは知ってるよな?」

 かずさの言葉に麻理も小春も当たり前の様にこくりと頷く。こんな大イベントで大転換点に目の前の三人が騒がないはずがないというのが周囲の認識だった。

「その練習をウチでしてるんだよ。下にはスタジオがあるから深夜でも音は漏れないし。それで、練習をしてたんだけど、春希のヤツが納得できないモンだからって朝までやってたことがあった。その時に忘れていってな」
「だからって、新品を買ってきてすり替えたりは…………」
「麻理さんだってその機会があれば同じことするんじゃないんですか?」
「………………………………ノーコメントで」

 ついっと横を向く麻理。やらない自信がなかったらしい。

「でも、それだったら一着だけじゃ?」
「…………………………………………よく気づくな。その話には続きがあって。後で、さ。すり替えたシャツを持っていったんだけど、バレて」

 どうやってバレたのかは二人は問わなかった。
 小春も麻理も、目の前のかずさは嘘が苦手そうだから、きっと誤魔化しきれなかったんだろうなぁと思っていたのだが、事実は異なる。
 新しくかったシャツを日に干して新品クサさを抜いた後に、ちょっとくしゃくしゃにし使用後を演じて持って行ったのだが、一発でばれた。曰く、匂いがなかったのがバレ原因だそうだ。別にシャツに鼻を押し付けてクンカクンカした訳でもないのに、何故かバレた。
 そして、その後、問い詰められて、欲しかったんですと正直に吐いた後に、お許しを貰えた。だが、話はそれだけでは終わらない。

「その後、一週間に一度の頻度でくれるようになった」
「正妻の余裕?」
「シャツは渡しても、先輩は渡さないっていう意思表示のようにも見えますね」

 雪菜の行動に対して明らかに好意を持てない二人だった。
 仮に、雪菜の行動が完全に善意に基づくモノだとしても好意的には解釈しにくい。まぁ、たぶん、完全無欠なまでに善意ではないのは目に見えているのだが。

 敵に施される情けほどみじめなモノは無い。

「お前らだって貰えるんなら、尻尾振って貰う癖に」
「「うっ」」

 だが、貰えるものは貰うのが人間。ましてや最大級に意識している異性の私物。しかも直に相手を感じられるブツ。率先して欲しいと思ってしまうのも仕方がない。

「…………下着とかは」
「ある訳ないだろ。雪菜に全部没収されたよ」
「麻理さん、そんな事聞いてどうするんですか」
「i……………………単なる好奇心」

 眼を横に逸らしながらでは説得力は皆無。













 宴は進む。開けられた瓶はすでに10本を超えていて麻理でさえもフラフラと頭が揺られている。
 酔った三人の話題は、Yシャツから日頃の生活の愚痴へと移り、そして最後に春希に対する愚痴へと移っていた。

「先輩は酷いです。仕事でまずは、けなして、いじめて、その上に鼻をへし折って。初めてで色々と頑張ろうとしてたのに、少しでも早く現場に馴染む為に努力してたのに思いっきりいじめられました。しかも、その後きちんと出来る様になると、褒めてくれるんですよねぇ。誉め方も的確で。なんですか、あの見事な飴と鞭は。あんな手法、思いっきりヤクザですよ、ヤクザ! しかも、本気で怒る時はこっちの為に怒ってくれるから、怒られてる時でも嬉しいんですよ。あぁ、私の事、きちんと見ててくれるんだなぁって。だから、私もついつい先輩の方を見ちゃうようになって。後はずぶずぶと」

「それは分かるな。アイツ、こっちが無視しても正論を振りかざして何度も何度もこっちに来るんだよな、本当にしつこくて。普通、何度も無視したら諦めるのに、何度無視してもアイツだけは絡んできて。だから、絡んでるアイツの事を観察してる内に、ずっと眼で追うようになって、気付いたら声をかけてくれるのが嬉しくなって。だけど、今までの手前、他の奴らと同じ様な態度が取れなくて。しかも、アイツ、最悪だぞ? 学生として当たり前の事をちょっと出来ただけで自分の事の様に大げさに喜びやがって。あれで絶対に女を調教してる。しかも、こっちがすり寄ろうとしたら離れて行って、でも本当に欲しい時には傍にいてくれて。全く、麻薬みたいなやつだよ。知ってしまったら抜け出せない」

「知ったら、抜け出せない、か。本当にその通りだよなぁ。私のおみやげの趣味はちょっと人から外れてるみたいなんだけど、それでもいらないって一度も言わないんだよ。ちょっと困った顔してさ、でも、私からのおみやげだからってちゃんと貰うんだよなぁ。しかも、褒め上手で、人の心を掴むのが上手すぎる。なんだよ、ピンポイントにこっちの趣味ドストライクの所に来て。意識しない方が無理に決まってるのに。しかも、『麻理さんのそういう所、好きです』とか、勘違いしそうな台詞を何度か吐いて。気になっちゃうし、嬉しくなるに決まってるのに!」

「そうそう、その上、アイツ。決定的な所でわざとじゃないかって思うぐらいに外すんだよ。お礼だからって言って、プレゼント貰ったんだよ。そしてら、何が入ってたと思う? 参考書だよ、参考書! しかも、ご丁寧に中学の基本の英語だよ。普通、女にプレゼントっていったら、アクセサリか小物だろ! 何で、わざわざ参考書! ったく。普通のプレゼントなら、あぁ、やっぱコイツもそういうヤツなんだって、思えるのに。そうじゃなくて。しかも、それにはアイツの誠意が目一杯、詰まってるんだ。だから捨てられない。あぁ、もう本当に最低だ」
「最低ですよね、先輩」
「最悪なヤツだよ。北原は」

 クスクスと春希の愚痴を言い張り合う三人。愚痴な癖に、惚気が何度も入っているあたりが彼女達らしいとでも言えばいいのか。口々に最低だ、最悪だ、外道だとか言い合うが、それでもそこにあるのは全てが全て本心ではなく。

 何よりも彼女たちの愚痴の中で、一度たりとも口にされない文言がある。それは、『出会わなければ良かった』という類の言葉である。
 彼女達三人は、その言葉を一切吐かない。愚痴であるのに、絶対にその言葉だけは吐かない。だって、どんなに口で最悪だ、最低だと言っても、出会った事に対して後悔の思いは抱いた事はないから。出会わなかった過去を思う事だけは出来ないから。そして、出会った事に多大なる幸福があった事は事実だから。

 彼女たちの愚痴は続く。出会った事に感謝を捧げながらも、北原春希という未だ、己たちが知らない部分を共有しながら、北原春希の幸福を祝しながら。







「また、しませんか? 結婚式の夜とかに」
「いいなぁ。そういうのも。二次会は依緒とか柳原が出るから付き合うにしても、三次会は面倒だし」
「私は、どうしようか。仕事の都合があるし」
「来いよ。私も、アンタと話すのは楽しいし。後、演奏だけでも聞きに来てくれ。これは、どうしても聞いて欲しい。私達が世話になった人達、全員にどうしても聞いて欲しい」
「うわっ、好奇心煽るだけ煽って、どんなのか言わないなんて、気になる」
「だったら、それだけでも聞きに来いよ」
「分かったわよ。何とか時間を調節して行く」
「うん、ありがとう」
「期待してますからね、かずささん」
「任せろ」

 宴は佳境を過ぎ、時刻も丑三つ時を過ぎている。そろそろ、目蓋も重くなり始めている三人。話題も未来に向けての言葉が増えてくる。

「そうだ、最後に乾杯しましょう!」
「これ以上、乾杯する事なんてあったっけ?」
「ありますよ~。今、私達が傍にいる事に。こうして、本気で愚痴を言いあえて、本当に共感できる人がいる事に」
「………………………………まぁ、そういうのも玉にはいいか」
「……………………この年になって、そういう人に巡り合えるのは行幸かな」

 同じ好きな人が出来て、同じ好きな人の幸福を心から願える人に出会えて、同じ傷を抱く人が傍にいて、同じ人を笑いながら乏しめる事が出来てる事に、精一杯の感謝を。

「では、私達三人が出会えたことに」
「「「乾杯」」」

 彼女達は、今日新たな友を手に入れた。彼女達は、今日親友と呼べる人と出会う事が出来た。その事に対して、祝福を。そして、出会わせてくれた大好きな人に感謝を。





 こうして、負け犬同盟は結成された。




後書き
 これが、書きたかったんだ!
 えぇ、この前の話である、『冬は温もりに溢れて』『小春日和』『暴風の憂鬱』の三つは本当にこの話を書く為だけの前ふりです。
 ちょっと笑ってくれたらいいなぁと思います。



[31879] 親子酒
Name: 雪儚◆d65b0b7d ID:90c0849b
Date: 2012/03/12 00:43
 未だ、夜のテレビの声や家族の談笑が僅かに聞こえる住宅街にて、男二人は向き合っていた。
 初めて、こうして向き合うといっても過言所か、それは事実で。嫌な緊張感がある。いつもは五人で談笑をしながら向き合う事はあっても、二人っきりで話し合うのは初めてだった。

「ストレートで良かったかな」
「はい、今日はそれでお願いします」

 トクトクとブランデーグラスに注がれる琥珀色。芳醇な香りを蓄え、注がれる度に、僅かな甘い香りが部屋に満ちていく。鼻をくすぐる芳醇にして濃厚な香り。それだけで一級品だという事が、ここ最近分かり始めた舌と鼻が判断をしていた。

「こうして、君と向き合って飲むのは初めてだったか」
「そう、ですね」
「固くならなくてもいい。別に、君を取って食う訳ではない」
「あっ、あははっ」
「まずは乾杯をするとしよう。君と雪菜の結婚を祝して」
「ありがとうございます。お父さん」

 今日、こうして初めて盃を交わしたのは、春希と雪菜の父だった。


 数日前、雪菜の母からではなく、父から直接の誘いの電話が来た。
 仕事を何とかその日空くように調節し、結果こぎつけた二人の酒杯。孝弘は彼女と遊びに行っている。雪菜の母はリビングに控えているが出張ってくる気配はない。雪菜は連れてこなかった。雪菜の父から二人きりでという言葉があったから、連れ来ることはなかった。

「君とは二人きりで飲みたいと、一年前から常々思っていたのだが、遅くなった。すまない」
「いえ、お父さんも仕事があります。俺も、休みが中々に取れない業種にいる事ですし」
「そうだな。君も随分と活躍しているようだ」
「雪菜とかずさのおかげです。俺がこうしているのは」
「君らしい」

 気まずい空気の中当たり障りのない言葉を選んで会話する。ぎこちなさが取り払えない二人。雪菜の父は何時ものように、だが、いつもよりもゆったりとかみしめるように酒をたしなみ、春希は折を見てその喉を焼く熱さに耐えながら飲んでいた。

「もうすぐ、結婚式か。早いものだ。今でも目蓋を閉じるとあの子が、お父さん、お父さんと抱っこをねだる姿が浮かぶ。本当に早いものだ」
「そうですね。俺も彼女と出会って六年。随分と時間が経ちました」

 時間は経過した。だが、二人の中にある時間の感じ方には差異がある。見守り、成長を感じてきた雪菜の父にはあまりにも早く、傷つけ、傷つけられ苦しみ合った時間を過ごした春希にとっては六年という膨大な長い時間。

「あの時には、雪菜が男を家に連れてくる事など考えてもいなかった。本当に早いものだ。今も、雪菜の事は目に入れても痛くないと思える」
「…………お父さん」
「立場上、お互い印象は良くなかったかもしれない。私は君の事を避けていたし、君は煙たがっていたかもしれない」
「そんな事は、なかったです。俺は…………」
「しかし、私が君にそういう態度を取ったのは、君が雪菜に全面的に信頼され、愛されているからで…… それが私には、もう覆せない事だと思っていたからで」
「えっ」
「それ見た事か、とか、お前は騙されているんだ、とか……そういう言葉では、絶対に娘を諭せない……心の底から雪菜を一番に考えてくれている、嫌になるくらい信頼できる男だと思っていたからだ」
「ありがとう、ございます」

 父親に褒めてもらった記憶も、認めて貰った記憶もほとんど残っていない春希にかけられた言葉は、父親の様に威厳と優しさのある声。
 鼻をぐずつかせながら、精一杯の感謝の気持ちで言葉を返す。いつか、こんな言葉を聞けるのかと願っていた。それが漸く聞けて。最後の最後まで渋った態度を取っていた雪菜の父からは、本当は最大限の信頼を寄せられていた嬉しさが溢れだす。

「君は、その信頼を最後まで裏切らなかった。感謝する」
「そんなっ! 俺は、何度も雪菜、傷つけて。裏切りそうになって! 俺は、俺は……………………」
「だが、君は今日ここにいる。君は、雪菜の手を最後にはきちんと取った。それが全てだよ」
「おとう、さん」
「私達の信頼を最後まで裏切らずにいてくれてありがとう」
「俺こそ、こんな俺を最後まで信頼していただいて、本当に言葉が尽きません」
「かしこまった言葉はいい。君はこれから、私たちの家族になるのだから。もう一人の息子よ」
「…………………………………………っ!」

 零れ落ちそうな涙を耐える為に上を向く。下を向いていれば涙をこらえきれずにスラックスを濡らしていただろう。それだけに不意打ちだった。それだけに嬉しい言葉だった。
 いつかのどこかの世界。選ばなかった未来において投げかけられた冷たい言葉。それと全く同じ言葉が、温もりと優しさに溢れた言葉で帰ってくる。

 だた、本当に家族と認められる。それだけで喜びは尽きない。


「それで、子供の方はどうするつもりかな?」
「家を建てる目途がついたらにしようかと。上司や勤め先で懇意にしている方が何人かいるので」
「そうか、子供の事で苦労はするだろう。しないはずもない。困った事があれば私や家内に相談するといい」
「はい、その時は頼らせていただきます」
「しかし、孫か」
「可愛がり過ぎないでくださいね。甘やかしすぎてもいい事はないですから」
「そんなにジジ馬鹿になりそうかな、私は」
「雪菜が常々言っていたので」
「まぁ、最後の所で責任が行くのは親である雪菜と君なのだから、存分にかわいがるとしよう」
「お父さん…………」
「何、子供も手を離れて、後は見守るばかり。孫でも可愛がらないとやっていけないのだよ。この年になると」
「あっ、あはは」

 チロリチロリとブランデーを舐める。手の中の温もりがブランデーの香りを花開かせて、より一層香りが立っている。
 美味い酒だ、と心から思う。

 ふと、ブランデーのラベルを見る。そこには、24年の歳月が刻まれていた。

「ん、あぁ。これか。いつか、雪菜が大人になった時に注いでもらおうと思っていたんだが。高校を卒業目前に君を雪菜が連れてきてからは、そうする事をやめた。いつか、飲もうと思って、雪菜の成人式でも封を切らなかった。いつか、雪菜の結婚式の前に飲もうと思っていた」
「俺が、ご相伴にあずかって良かったんですか?」
「君と、飲もうと思っていた。だから、こうして叶ってくれて良かったと心から思う」
「……………………」

 あぁ、どうしてこの人は、俺の心の琴線に触れる事ばかりを、嬉しい事ばかりを言ってくれるのだろうか。そう思う心が春希には尽きない。
 
「お母さんとはどうだね?」
「えぇ、出席はしてくれるようです。雪菜のお蔭で、長い間あった溝が、少しは埋まったと思います。それは、これからも埋めていきたいと。雪菜のお蔭です」
「私が言うのもなんだが、君も中々に大変な女を捕まえたな。そこまでお節介するのは中々にいない」
「雪菜は、周りが幸せでないと自分も幸せになれないと言ってましたから」
「強欲な娘だ。雪菜らしいと言えば雪菜らしいが」
「えぇ。お父さん。こんなにも素晴らしい娘さんに育てて下さって、そして、出会わせてくれて、結婚を許してくださって。本当に、ありがとうございます」
「……………………っ。私ではなく、家内に言ってやってくれ。雪菜を育てたのはほとんどが家内だ」
「はい、後で必ず。ですが、先にお父さんに伝えておきたかったんです。俺をいつも厳しくも優しく見守って下さって、俺の父に」
「………………………………っ、そうか」
「はい」
「今日の酒は少しばかり、塩が効いてる」
「えぇ、でもその塩味で旨味を増してます」
「あぁ、本当に。塩辛い気がするが、今日は実にうまい」

 静かにグラスを傾け、塩味の効いた酒を二人で嗜む。未だかつて味わった事のない、芳醇にして苦くもあり、甘くもある人生でただ一度きりの酒。男だけが味わえる、極上の美酒。

「雪菜の事を、頼む」
「…………俺は、雪菜を傷つけてばかり、苦しめてばかりでした。これからもそうでないとは言えません。この命にかけて何て出来るかどうかも分からない事を口走る事も出来ません。ですが、今まで以上に、雪菜の笑顔を守っていきたいと思います。雪菜の横を一生歩んでいきたいと、思います。」
「本当に、君は嫌になるくらい、私が思った通りの息子だよ」
「頑張ります。お父さん」
「あぁ、頑張れ。私のもう一人の息子よ」

 男達の静かな宴は、夜遅くなるまで繰り広げられた。新しい息子と新しい父の間に祝して、

 この後、お互いの妻に怒られるまで、酒杯を傾け合う親子の姿が度々、見られることになる。






後書き
 原作ではあまり仲の良くなかった二人も、結婚直前ならこんな感じかなぁと思いました。
 かずさtrueでの言葉を引用したのはあえてです。あのシーン、凄い心に残りましたから。



[31879] 演者との問答
Name: 雪儚◆d65b0b7d ID:90c0849b
Date: 2012/03/14 19:00
 今日は初めて任された独占取材。といっても翌日には目の前の女優のインタビューが開桜社で行われるのだが、情報は一日でも早い方がインパクトが産まれる。後日に得られる詳細記事よりも、先に報道された雑なつくりであっても衝撃を与えられる記事の方が世間の心を掴める。
 入社して、まだ一年も立っていないが、徐々に顔が売れてきて漸く与えられた取材。ここで失敗する訳にはいかない。
 化粧を入念に、再度チェックを入れる。数年前から行ってきた化粧はいつもと変わらずノリがいい。今日、これから取材する女優にも負けない位にテレビに映える事が出来るだろう。

 そして、そろそろ打ち合わせの時間。女優が姿を見せる。二年前、芸能界に入り、世間を圧巻させる程の演技力を、見ている者を引きつける魅力を持った生粋の女優。負けるわけにはいかな――

「やっほ~、今日はよろしくね、東亜テレビの柳原朋さん」

 そこにいるのは黒茶色をした髪を結いあげ、青いナイトドレス、黄色い薄手のストールを羽織った色気を振りまく女性。
その姿には見覚えがあった。三年前に、雪菜を陥れようとした医学部との合コンの時に扉で鼻を強打してくれたあの憎い女。


「長瀬、昌子!?」

 出鼻から一気にくじかれた。






 打ち合わせの時点からギスギスとした空気が満ちている。周囲にいるスタッフも困惑気味で、特に朋はテレビではお見せできない程に、今すぐにでも噛みつきそうな表情を浮かべている。

「ごめんね。ちょっと二人で話したいから、出てってくれるかな?」
「その、別にいいですが、柳原とは」
「本番までには大丈夫じゃない? 学生じゃないんだし」
「――――っ! えぇ、そうですね。それまでに何とかしたいと思います。先輩方すみません」
「いやいーよ、まぁ、相手は稀代の女優だ。局の顔に泥塗るなよ」
「分かってます」

 朋と千晶を残してスタッフは足早に去っていく。片方は興味がそもそもないのか目線すら向けず、もう一人も目の前にだけ興味が集中しているのか見送りすらしなかった。

「あぁ、そだ。お腹すいたし、ごはんでも食べに行かない?」
「昼食、まだなんですか?」
「稽古ずっとしてたから」
「分かりました。こちらで持ちます」
「えっ、いいの? やぁ~、助かるなぁ。期待の女優とはいえ、まだまだ新人だから給料が安くて」
「えぇ、お気になさらず」




「お待たせしました。シーフードパスタに、マルガリータ、ツナサンドに」
「あっ、こっちに全部で。後、ミックスパフェも早めによろしく」
「かしこまりました。どうぞ、ごゆっくり」
「よっし、来た来た。それじゃ、食べますか。そっちは珈琲だけだどいいの?」
「見ているだけで胸やけがします」
「そっ。いや~、一度稽古をすると、どれだけエネルギー補給してもすぐに尽きるから」
「随分とネエルギッシュですものね、どの舞台も」
「おっ、調べたんだ。さすが、リポーター」
「えぇ、穴が見る程見ました。六年前の映像も」
「そっか。そりゃ、知ってるよね、私が峰城の付属からいた事」
「えぇ」

 バチバチと朋の眼から火花が生まれる。だが、のれんに腕押しとでもいうのか千晶はまったく気にせず、モグモグと口いっぱいに食べ物をリスのように頬張る。
 妖艶なる女の様に色香放つというのに、行動は子供そのもの。目の前にいる千晶は朋が調べたとおりの人物だった。

「それで、この後のリポートなんですが」
「…………(ングング) 別にそこら辺は適当でいいよ。何とかなるし」
「舐めているとしか思えない発言ですね」
「ハハッ、貴女こそ、女優を舐めないでほしいなぁ。あっ、すみませーん。スパニッシュオムレツ追加で~」
「なるほど。そういう事ですか。それで、どうして今回、私達のリポートを受けてくださったんでしょう?」
「あっ、今更だけど敬語とかいいから。貴方とは対等に話し合いたいし」
「~~~~っ! えぇ、そうします。それで、どうして受けてくれたの?」
「決まってる。柳原さん、貴女がインタビューアーだから」
「…………私が?」

 覗き込むような千晶の視線から逃げる様に朋は視線を切り、千晶の言葉の意味を考える。
 社会人となってまだ一年にも満たない朋。はっきり言って、東亜テレビとしても幾らでも使い潰しの効く新人でしかない。十年後には向こうからすり寄ってくるぐらいの人間になるつもりではあるが、現在においてこの芸能界で友誼を持つほどの価値があるかと聞かれれば否と答えられる。
 では、将来性を見越して? という話になるが、それならばなおさら朋では役者不足となる。ディレクターやプロデューサーになる可能性を秘めた局のADならば考えられるが、朋は決してそうは慣れない。せめて看板キャスターと言った所である。
 あまりにも解せない。

「私と懇意になって何か利益でも?」
「そういえば、人づてだけど聞いたよ」
「~~~~っ!」

 あまりにも自分勝手な千晶の行動。興味を持つと言いながらも、まるで興味を示さない。真意が何処にあるのかが気になる以前に、その行動によって朋の沸点は迎えようとしていた。

「春希と雪菜、結婚するんだって」
「――――えっ?」

 意表を突く言葉。確かに、千晶は峰城の付属にも大学にも所属していた。だが、朋は劇団ウァトスでの活躍までしか調べていなかった。どこの学部にいたのか、どの研究室にいたのか。そこまでは調べられなかった。無理もない。瀬ノ内晶としてウァトスの記録は調べても、和泉千晶としての軌跡の大半は調べていない。
 だから、当時の春希の雪菜よりも傍にいた人物の事を知らずともおかしくはなかった。

「私もあの三人のおっかけしてたんだ。まぁ、去年はちょうど劇があってその時期はそっちだけに集中してたから情報が入らなかったけど、やぁ~っと入ったんだ。いや~、最初に冬馬さんが帰ってきたって聞いてそりゃびっくりしたよ」
「随分とお詳しいみたいですね」
「そりゃ、六年前のあのステージからずっとおっかけしてるから。貴方よりも多分、三人の事に関しては詳しいんじゃないかな?」
「へぇ~、ほぉ~~」

 怒りを押し殺している声が朋の口から漏れ出ていた。何よりも刺激したのは、自分よりも詳しいと言いやがった事だった。

「まぁ、私としてはあの三人の結末を知ってる貴女と友好な関係を築きたいと思ってる訳なんだけど」
「却下ですね」
「あれ~? やっぱり、おかしいなぁ。せっかく今までわずらわしいと思ってた取材も柳原さんに会う為に受けたっていうのに」
「? どういう事」
「ん? 柳原さんがインタビューアーなら受けてもいいって話にしてたんだけど」
「知らない」
「あぁー、そっか。それでか。会社ってのは嫌だね。本当」
「どこかで横やりが入ったか、それとも鼻を伸ばさせる訳にはいかないって訳、か」
「苦労するねぇ~、キャスターは」
「ふん。社会人ですもの。ある程度は許容しないと。後で問い詰めるけど」
「怖い怖い。それで、聞いていいかな? あの三人の物語を。あの三人の大ファンとして」
「雪菜や北原さんに聞けばいいんじゃない?」
「いや~、これでも忙しい身でして。それに、なんていうかなぁ。今があまりにも楽しすぎてさ。私の周りにはそれこそ演じる事だけを考えてるバカの方が多くて、初めて一緒にやってて楽しいって思える時期だから、大切にしたいんだ」

 真剣な、それこそ一生の生きがいを楽しんでいる千晶の眼に、朋は飲まれた。その目は雪菜に少しばかり似ている。
 歌を歌う事が好きで好きで仕方がなくて、唯々、歌うだけで幸せを感じられる雪菜と似た瞳。もっとも、千晶のそれは雪菜よりも更に、深く、怖気を誘う程であったのだが。

「だから、手っ取り早く聞ける立場であり、仕事上でも会う事の多い私に聞こうっていう訳ですか」
「ピンポーン。いいかな?」
「その前に一つ、貴女はあの三人の誰の味方?」
「ん~、難しい質問だね。あの三人を遠くから見る立場としては誰にも肩入れはしたくないんだけど。そぉだなぁ。春希になら抱かれてもいいと思うし」
「だかっ!」
「あれ、もしかしてその外見で、処女?」
「経験したことぐらいあるわよ!」
「何回ぐらい?」
「えっと、それは――――ってなんで私が答えないといけないの!?」
「いや、ごめん、ごめん。ついつい反応を楽しみたかったというか」
「はぁ。それで、誰の味方ですか?」
「あぁ、話はちゃんと戻るんだ。春希は言ったけど、そうだな。冬馬さんに関してはとても興味がある。あの人ほど、春希の近くにいれないのに春希を求めてる人は珍しいから。それで、雪菜は、そうだな。彼女が一番、春希の傍にいるべき存在だとは思うよ。そんな所?」
「三人の内、誰かの味方になるのなら雪菜という意味で解釈しても?」
「三人の中で誰がお気に入りかって聞かれたら雪菜だけど。味方じゃない。三人に興味があるだけ」
「ふーん」

 千晶の言葉に朋は違和感を覚えた。興味がある。だが、同時にそれは守るべきものには値しないとも言っているようにも聞こえる。
 そう言えば、と思い出す。彼女の学生時代の演劇の様々な活躍ぶりを。主に、舞台で相手の男優に告白され、こっぴどく振っていたという過去を。舞台の為ならば、全てを切り捨てられるイカレタ人間だというそんな評価を受けていた事を。

「そう、三人の味方ですらないという訳、ね」
「そうなるね。でもさ、一つ聞いていい?」
「何?」
「三年前ならいざ知らず、今、私が邪魔したり、色々と画策したりする程度で、仲を取り戻したあの三人の絆を壊せると思う?」
「……………………」

 思わず、その言葉に絶句してしまう。だって、それはその通りだから。その程度の事で壊れるとは決して思えない。

「あっ、あははははははははっ!」
「あれ? 私、そんなに的外れな事言ったかな?」
「いえ、その通りです。あぁ、本当に参ったな。今日は負けちゃった。えぇ、話します。話しましょう。最も私が知る範囲で、だけど」
「おぉ、ありがとう。それじゃ、聞かせてくれるかな。あの三人の物語を」
「えぇ、ご堪能下さいな」

 そして、朗々と朋は春希とかずさと雪菜の物語を語った。あの三人のファンという最大限、理解し合える立場にある千晶に自慢するように。








「は~、インタビューやっと終わった~」
「これからも懇意によろしくお願いします」
「うん、うん。その代り、色々とこっちこそよろしくね、柳原さん」
「えぇ、いいです。精々自慢してあげます。私、貴女の事、あんまり好きじゃないですし」
「ありゃりゃ、嫌われちゃった。まぁ、情報が聞きだせるのなら印象とかはどうでもいいけど」
「貴方はそういう人だものね。それで、雪菜に会う予定は?」
「今の所、無いかな~。接点がないってのも困ったモンだ。あっ、でも春希になら明日、取材受ける予定があるから、そっちでも詳しく聞くよ」
「ん?――――えぇ、そうですか」

 一瞬、千晶の瞳に喜びが見えた気がした。それは、三人の物語の行く末を楽しみにしていた時とはまた、違う光。
 そして、思い出すと同時に、なんとなく思ってしまった。ある意味で春希の初恋の人であるかずさに似ているという事実に。

「ねぇ、貴女、もしかして北原さんの事…………」
「私は女優だよ」

 背中を向けて告げられる言葉。それは答えではないが、同時に明確な答えであった。

 そう、和泉千晶は、誰よりも女優である。だから、もし、仮にその気持ちを抱いたとしても付き合い方は誰よりも知っている。彼女は女優なのだから。




後書き
 次の話が難産なんで、取りあえず出来上がってるのから上げました。本当はストック作ってから上げる方が性にあうのですが。
 ちなみに、次でラストです。他に書きたいキャラがいないというよりは、書いたらSSという名の別のモノになるからという理由です。



[31879] 結婚式の決死準備
Name: 雪儚◆d65b0b7d ID:90c0849b
Date: 2012/03/18 11:48
*申し訳ありません。前回の後書きで、次回、最終話とかほざいときながら、そうじゃないです。えぇ、ごめんなさい。
 調子こいて書いてたら、ちょうど区切りのいい所で一話分ぐらいの文量になったから投稿しました。許してください。





「よし、上手く行った!」
「うん、失敗もなかったし。いいんじゃないかなぁ」
「春希にしては上出来だな。これが本番でも出せるのなら、恥はかかないんじゃないか?」

 歓声を上げながら、抱きしめあう三人。場所は冬馬邸の地下。そこにある私設スタジオ。三人とはもちろん、春希、雪菜、かずさの三人である。

「はぁ、今回はギリギリじゃなくて二週間前にめどがついて、本当に良かった」
「初めの時も、一年前の時も、ギリギリだったもんねぇ」
「二回とも春希が原因だけどな。ギリギリ切羽詰った状態になったのは」
「う゛っ」

 どんよりと春希は沈んでいるが、今回の演奏は本当に、結婚式の二週間前に完成までこぎつけていた。結婚式二か月前にはすでに曲と歌詞は上がっており、余裕をもって新曲の演奏を練習した結果。十分に聞かせるレベルにまでは到達できた。
 順調というか、一足も二足も飛んで出世街道を歩んでいる春希は日々、ギリギリまで仕事をしてからの深夜練習。睡眠時間はこの一月半は、三時間を常に切っていた。休日ともなれば、朝から晩まで所か、深夜まで。雪菜との夜の生活すら減らして(決して、無くしてはいない)上でやっとこぎ着けた完成。
 もう一回やって、ミスしやすい所を重点的に練習しながらならば、結婚式当日までは睡眠時間を四時間は確保できて、休日は思いっきり眠れると思っていた。そう、思っていた。

「時間も結構余った事だし、ほら、春希。本当の楽譜」
「―――――――――――――――――――――――――――――えっ?」

 思わず絶句。おいおい、今、ちゃんと終えたばかりじゃないか。しかも、きちんとミスも無しで。なのに、何で本当の、とか真のとかいう原稿が出てくるのか意味が解らない。ぐるぐると巡る思考。かずさの言葉がどうしても理解できなかった。

「ごめん、意味が解らない」
「言っただろ。これが本当の楽譜。去年と違って時間もあったしな。色々と手を加えておいたんだ。あぁ、もちろん、時間が足りなかったらさっきので演るつもりだったけど、幸いな事に時間が余ったから」
「いや、余ったからじゃない。なんで、最初からそっちを渡さな――――――――――――――はっ?」

 そして、二度目の絶句。
 楽譜を読んでみて、分かったのは。確かに先程まで春希が奏でていたモノと8割ぐらいは同じだ。だが、二割部分。具体的には間奏の部分で、春希がギターソロの超絶技巧をやらされるぐらいだ。
 どの位の超絶技巧かって? 『届かない恋』や『時の魔法』とか目じゃなく、最低でもSOUND OF DESTINYを超えるギターソロです。
 目の前が真っ黒になった。

「…………はっ………………………………ははっ…………」

 もう、開いた口が塞がらなかった。どう考えても、この曲を結婚式までに仕上げるには残り二週間の睡眠時間は仮眠しか取れない。それも30分ぐらいの。

「かずさ。これは、ちょっと」
「いいじゃないか。私だって。お前が出来る様になったら、これにサックスとか色々と加えるんだから」
「お前はずっと練習出来るだろ! 自由業のお前と違って、こっちはサラリーマン! 仕事がきちんとこなせないと給料も貰えない立場なんだぞ!」
「大丈夫だよ。私達三人が揃って出来ない事はないから」
「三人揃ってるけど、主に苦労するのは俺だぞ!」
「いつもの事じゃないか」
「…………おぅ……………………」

 達成感と同時に訪れた疲労感で言い返す事すら出来ない。いつもなら出てくる屁理屈で何とか言い返すのだが、その元気すら搾り取らている。ついでに言うと、言い返せない程の事実だった。

「それに、な。いつもお前は裏方ばっかりだからな。自分の結婚式なんだ。少しくらい目立て」
「目立つところが違う」
「それに、ね。私も春希君の格好いい所みたいなぁって思って」
「雪菜ぁ~」
「披露宴で、皆に見せたいんだもん。私の旦那様はこんなに格好いんだからって。自慢したいから。ねっ、春希君。一緒にがんばろう」

 両手を組み、下から覗き込むように可愛らしい顔で、頼み込んでくる雪菜に、うっと春希は言葉を詰まらせた。この雪菜の表情に勝つ事は出来ない。昔ならいざ知らず、今では決して勝てない。それ程に破壊力のある笑みだった。

 だが、春希は喉を鳴らして、いいよ、と出そうになった言葉を飲み込む。ここで断らねば、将来が危ない。
 学生時代の様に、今を生きればいい身分ではない。一年前のあの仲直りをした時の様に、不確かな未来よりも大事な今がある訳でもない。
 将来の事を見据えなければならない時期に来ている。結婚を目前にして、結婚後の事を考えるのならば決して安請け合いしていい訳はない。

「………………」

 だが、断る為に口を開くのが億劫だ。ここまで思われて嬉しくない訳がない。ここまで、自慢したい程に好かれている事に、嬉しく思わない訳がない。

「ほら、かずさも」
「わっ、私もなのか!? ちょっ、おい、こら。押すな!」
「かずさも一緒にお願いすれば、春希君も二つ返事で了解するから」
「いや、あそこまで渋ってるんだから無理だろ」
「もぉ~、素直になろうよぉ。かずさだって、これ弾いてる格好いい春希君が見たいんでしょ?」
「そっ、それは」
「そうでもないなら、何でこの楽譜残して、且つ私に見せたりしたのかな?」
「いや、ほら。特に、意味はないぞ?」
「怪しい~。素直に吐こうよ。かずさだったら使わないって決めたら捨ててるもん。ほらほら、正直に言おうよ。晴れの舞台で、春希の格好いい姿が見たいって。それとも、見たくない?」
「…………………………………………見たい」

 雪菜に言い負かされながら、素直に吐いたかずさの表情は、すねた子供の様な顔で。悔しそうにしながらも、その時の春希の姿を夢想しているのか嬉しそうに眼が揺れている。
 ぐっと春希は喉を詰まらせた。反則だ、と心の中で更に呟く。

 世界で一番愛してる人にお願いされ、世界で一番好きな人に懇願されては、さすがの春希も今を大事にしたくなる。この、掛け替えのない今を。

「ほら、かずさも」
「ちょっと、待て。私は言ったぞ!」
「一緒のポーズでお願いしたら効果は倍増だから」
「いや、私がやっても――――」
「いいから、いいから。ほら、一緒に」
『春希(君)の格好いい所がみたい(な)』

 両手を胸の前で組み、腰を屈めて上目使いで懇願してくるかずさと雪菜。二人共、ご主人様にご褒美をねだる犬の様に目をキラキラとさせていた。多くの男なら、例え、竜の首の珠を持って来いと言われても一秒の逡巡もなくイエスと答えるレベルの激烈に破壊力のある姿だった。
 狙ってやっているのだから、酷い悪女だと思う。ありえないレベルで相手を愛している酷い悪女。

「……………………頑張ります」

 声を絞り出すように春希は仕方なく答えを口にした。もちろん、本心から思っている言葉を。










「なぁ、春希――――あっ、ミスった」
「言われなくても分かってるよ。それで、なんだよ」
「いやさ、お前。そろそろギター代えないのか? いつまでも安物ギターって訳にもいかないだろ」
「いいんだよ。これで」
「そうだよ、春希君。五万円ぐらいのを買っても、別に家計には響かないから。少しぐらい、贅沢してもいいんだよ?」
「金がないんだったら、私が持ってるやつを使えばいい。こだわる必要はなんじゃないか?」

 二人の言葉通り、音を奏でる立場の人間ならばよりよい楽器を、より良い環境を求める。それが上達に必須であり、上達する為の条件でもある。二人の言葉は酷く正しい。多くの人間が頷くだろう。
 だが、それでも、人によってはそれが正しい答えとは限らない。

「拘りたいんだよ。これは、俺達の絆だから。三人で弾く時はコイツ以外で演奏するつもりはないし、コイツ以外を触るつもりはない。俺達を出会わせてくれて、俺達を繋いでくれたコイツ以外には」
「――――」
「…………どうした、雪菜、かずさ?」

 今もなお、楽譜と格闘している春希には、顔を真っ赤にして、喜色満面の蕩けそうな笑みを浮かべているかずさと会話を聞いていた雪菜の顔は見えない。
 だから、二人は安心して、その喜びに身を任せていた。


「えっと、キュンって来て、言葉に出来なかった」
「………………………………(パクパク)」

 えへへっと、素直に嬉しさを表現する雪菜と、嬉しさのあまり言葉を未だに紡げないかずさの姿。その姿に、どれだけ自分が恥ずかしい台詞を吐いたか、漸く自覚する春希だった。









「そういやさ、雪菜?」
「なっ、何、かな?」
「撮影係って、柳原さんだったよな?」
「うん。自分で進んでなってくれたよ」
「柳原さんが撮影した動画、ネットにアップとかされないよな?」
「――――」
「さすがに、ネットに上がったらどんなに訴えても回収できないし、消えないから」
「うん、今、話してみるね」

 未だに雪菜のメジャーデビューを諦めていない朋ならばやりかねない行動である。お色直しをした艶やかな雪菜をメインにすえたバンドの映像がネットにアップされれば、演奏者が今やクラシック界のアイドルであるかずさが演奏している事もあり、とんでもない話題を生み出す事は確実。
 そうなれば、アイドルとしてスカウトが来ても何らおかしくはない。

 まぁ、それ以前にプライベートのモノを見も知らぬ他人に見られるのはこっ恥ずかしいという理由が最大なのだが。



 電話口で、雪菜らしくないいじわるでちょっと荒れてる口調での何度かの応答の後に、いい返事が聞けたのか雪菜は笑みを浮かべていた。

「大丈夫。動画はアップしないって」
「それって音源だけアップするって事が否定されてないんだけど」
「――――柳原の良心を信じるしかないな」

 雪菜の悪友の良心を信じて、三人は若干、顔を青ざめながら練習を再開した。


 後日、しっかりと音源がupされてました。























「「「完成したーーーーーっ!!!!!」」」

 諸手を上げて、手を取り合い、騒がしく、三人は感動で胸を振るわせていた。
 結婚式の二週間前に行われた急遽な楽譜の変更。睡眠時間を削り、触れ合いを削り、食事すらも削った結果。何とか完成した。何とか、心から満足できる所まで来れた。



 式開始、3時間前に。







「うぼぁーーーー」

 春希らしからぬ声が漏れていた。もう、キャラ崩壊とかそんなチャチなもんじゃない。
 この二週間、春希が眠れた時間の総計は12時間ぐらい。一日、一時間も眠れていない計算になる。日中は仕事をこなし、疲れている体を栄養ドリンクとサプリと栄養ドリンクとコーヒーと栄養ドリンクと、眠気覚ましドリンクに眠気覚ましドリンクに眠気覚ましドリンクを摂取し続けた毎日だった。
 昨日だって、仕事が終わったのは日を跨いでから。深夜に冬馬邸に到着後、現在まで連続練習。うん、寝てないんだ。結婚式前夜なのに。緊張とかそういう理由じゃなくて。

 春希の顔にはもはや取るのが不可能だと思う程に濃く刻まれたくま。そして、肌は血色の悪さのあまり死体かと思う程の土気色。よく生きているという感想を抱きかけない程だ。

「寝て、いい?」
「今、寝たら。きっと結婚式起きられないよ! ほら、後ちょっとだから」
「その後、寝ていい?」
「初夜なんだよ! 私達、初めて過ごす夜じゃないけど、それでも初夜なんだよ!?」
「鬼だな、雪菜。春希が可哀そうすぎる」

 そんな春希と対照的に、雪菜とかずさの血色は良かった。否、ついさっき風呂から上がったばかりでつやつやとしていると言っていい。
 この二人は春希と違って、結構寝ていた。かずさに至っては、春希と雪菜が働いている時間に爆睡をかましている始末。雪菜は、仕事が終わってから春希が来るまでの間にばっちりと睡眠をとっていた。

「というか、この顔で結婚式出るのか? ゾンビと間違えられるな」
「あー、そうだね。どうしようか」
「延期して、寝させてください」

 眠さのあまりに普段なら絶対に吐かない言葉を結局吐いている春希。あまりの眠さと朦朧とした頭のせいか、目が濁ってきている。

「ダ~メ。あっ、そうだ。お化粧して誤魔化しちゃおう!」
「SFXとかあるぐらいだから、出来るか」
「ファンデーションを塗り重ねればなんとかなるなる!」
「目の濁りだけは取れないけどな」
「…………なんとかなる! 春希君、動かないでね」
「うん」

 何度もコンシーラーを往復させて、くまを消す。パタパタと何度も何度もファンデーションを塗り重ねる。普段から手馴れている事もあってか、春希の肌の色は見る見るうちに健康そうな色に戻っていく。
 ただ、きゃっきゃきゃっきゃと雪菜とかずさが楽しそうにしているのが、果てしなく不安である。

「んあ?――――――――――なぁ、雪菜その手に持ってるものは何?」
「えぇ~、な~いしょ♪」
「内緒とか言いながら手に持ってたら分かるだろ。口紅だよ、口紅」
「それをどうするつもりだ?」
「えっと。その…………春希君って、結構顔が中性的だから、似合うかなぁ~って」
「……………………雪菜。――――話しがあるんだ。どうしても言わなくちゃならない、大事な、話しが」

 悲壮な、そして確固たる決意が秘められた言葉と眼差し。どれだけ弱気でいても、どれだけふざけていてもその言葉と瞳からは逃げられない。そして、この言葉は、違う選択をした世界において、大事な場面で告げられた言葉。読者の方々は当然、知ってますよね?

「はる、き…………君?」
「――――――雪菜、聞いてくれ」
「は……る…………き……………………君」

 二人の間に流れる沈黙とも会話ともつかない空気。それは酷く悲壮で、それは酷く残酷で。

 蛇足だが、ぼっちにされたかずさが羨ましそうに二人を眺めていた。



「明日、おしおきだ」

 濁りきった昏い眼でそう告げた。

「――――かずさ! 腕押させて!」
「えっ?」
「いいから、早く!」

 雪菜の剣幕に負けてかずさは春希の手をがっしりと握った。弱り切った今の春希ならばかずさでも拘束する事は容易かった。

「おい、雪菜。抑えてどうするんだ」
「もちろん、口紅を塗るに決まってるじゃない!」
「おい、おしおきされるぞ」
「バッチこい! だって、初めてして貰えるんだよ!? 逆になにされるのかちょっと楽しみだよ!」
「あぁ、そっか、雪菜………………………………春希よりも寝てるとはいえ、お前も結構寝てないモンな。そっか、頭がやられたか」

 親友の奇行を生暖かい眼で見守るかずさの眼から、少し塩辛いモノが流れた。親友が何処か遠くへ行ってしまったかのようで、春希と別れた時よりも、胸が締め付けられた。

「私は正気!」
「いや、そっちの方がヤバイから」
「かずさは春希君からおしおき、してもらいたいって思わないの? 『もう、離れないよな?』とか『俺に逆らうなよ』とか! 縛られて言われてみたいとか、思わない?」
「…………………………………………ごくり」
「春希君、春希君! 当然、かずさもおしおきの対象だよね?」
「うん…………かず……さも、おし……………………おき………………………………だ」

 こくりこくりと船をこぎながら途切れ途切れに紡がれる言葉。話があさっての方向に行き過ぎて、もう眠気を抑えきれずに寝に入っている春樹。ぶっちゃけ、疲労感がさらに増しました。

「かずさ!」
「よし、やろうか。ついでにいたずら書きでもしておくか?」
「ウィッグ用意しようよ。あと、エクステ」
「いいな。イヤリングもつけるか?」
「いいねぇ~。楽しみ!」

 結婚式が文字通り秒読みしている中での二人の凶行。当然、二人は15分程こってりと怒られた。






「さて、そろそろ出ないとな」
「春希君。式の最中は大丈夫だよね?」
「あぁ、頑張るさ、それぐらい。一生に一度しかないんだ。寝てなんかいられないよ」
「春希君」

感極まってキラキラと笑みをこぼしている雪菜。嬉しさがにじみ出ているとかじゃなくて、喜色満面である。残念ながら、春希の眼は未だに濁っていたが。

 そして、この寸劇が繰り広げられているのは当然、冬馬邸の真ん前。明日からのご近所の噂が実に楽しみです。


「ほら、さっさと行け。着替えないといけないんだろ。新郎新婦」
「かずさ」
「私だって着替えないといけないんだ。時間が押してるだろ」
「あぁ、それじゃ、また後でな。かずさ」
「うん。って、おい、春希。ネクタイ曲がってるぞ」
「後ですぐに着替えるからそれぐらいいいよ」
「いいから、ほらっ」

 ネクタイをぐいっと引っ張られ、たたらを踏んで、かがむ形になる春希の頬に柔らかく、湿った感触が僅かに触れた。

 えっ、と春希と雪菜の二人から同時に声が漏れる。その感触は、その温もりは、頬に唇が寄せられたモノでしかなかった。

「元気が出るおまじない。向こうじゃ、これぐらい親友同士なら普通だ」
「いや、ここ日本」
「つべこべ、いうな。ほら、雪菜も」
「私もするの!? うん、まぁ、かずさにして貰えるのなら嬉しいかな。後、お返し!」
「こらっ! 送り出す側だからしてるんだろうが!」
「アメリカのホームドラマだったらお互いにしてるから、いいの」

 春希の頬へキスをしたのは特に何も思っていないのか、いや、かずさだからこそ、何も雪菜は感じていないようで、笑みを浮かべていた。
 女二人で、笑みを浮かべて。

「そうだな。――――――――――――――――――――なぁ。これからも、私はいるから。これからも、私は、二人の傍にいるから」

 それは、今日この日。明確に関係が変わる二人と、変わらずに傍にいる事を誓う言葉だった。


 神の御前にて誓う言葉ではない、友同士で交わすつたない約束と誓い。

「あぁ、分かった。教会で待ってろよ」
「待っててね、かずさ。披露宴が私達の本番なんだから!」
「あぁ、待ってるよ。楽しみにして」



















































後日、お仕置きが決行された。内容? 言わない方が良いと思うが、あえていうのならば、6時間耐久正座である。







 正座を崩さないように手首と足首を縄で繋げた上に、目隠しをして。ソフトSM?とかいう疑問は受け付けない。






後書き
 後日のお仕置談については各自、脳内再生しておいてください。えっ? その時エロイ事が起こったかどうかって? HAHAHA、当然じゃないか。
 という訳で、申し訳ない。最終話はもう少し待ってください。



[31879] ――――
Name: 雪儚◆d65b0b7d ID:90c0849b
Date: 2012/03/24 23:15


 2月14日。日本では聖バレンタインデーと世間がにぎやかになる日であり、多くの女性が異性に対して想いを告げる日である。そして、恋人達が夜明かして、想いを語り合う日。

 そんな日。空は残念なことに曇天。抜けるような青空も、温もりを与える為の降り注ぐ陽光すらない。空は、今にも泣きそうな程に重く、風は全てを拒絶するかのように冷たかった。



 そんな、過ごす人間としては最悪と印象付けられる日に、チャペルから鐘の音が鳴り響いた。今、正に主の御前にて交わした婚姻の約束。誓いの証と共に主への宣言が終わる。



 ドアから出口に向けては着飾った多くの人々が今か今かと新郎新婦の出番を待つ。

 空は重く、風は冷たい。その視界の上の方で、チラと白いモノが見えた。




 ギギィッと重々しい音を奏でながら、新郎新婦が姿を現す。その姿を見て、誰もが顔を綻ばせて、笑みを浮かべ。またある者は友の幸福を見れたことに喜びのあまり涙を流す。そして、ある者は二人の行く先を祝福しながらも、心の隅にある名状しがたい感情を抑えて見守っていた。

 

 満面の笑みを浮かべて、花嫁はブーケを頭上にかざして振り回す。女性陣は色めき立って、正面へと足を運ぶ。心の隅にある感情を隠した者達以外は。

 そして、振り上げるその瞬間。


 空は涙を零した。白い、白い、冷たい純白の結晶を。

「雪、だね。春希君」
「あぁ、雪だな。雪菜」

 かつて、雪は転機の証だった。かつて雪は、その名を持つ少女を傷つける証だった。
 だが、今は、ただただ祝福する為に降り注いでいる。この日に降り注いでいる。長い間、傷つけ合い、傷を舐めあった二人を祝福する為に。

 今度こそ、雪の名を持つ女性に吉報を与える為に。





 かくして、雪が舞い散る中、ブーケは空へと投げ放たれた。

























「いや、本当、綺麗だったよ。雪菜」
「おい、依緒。泣きやめって」
「おいっていうなよ。でも、簡単に泣き止むなんて出来たら苦労しない」
「ったく。ほら、拭いてやるからちょっとこっち向け――「よぉ~、二人共、久しぶりやな~」――親志か」

 花嫁衣装と、結婚という吉事を心底から喜び、涙を流している依緒とそれを慰めようとしている武也の二人という、他人が声をかけがたいイイ所に現れた親志。空気読めと武也は心の中で叫ぶ。ついでに、周囲で見ていた人々も。

「いや~、どれぐらいや?」
「お前が関西の方へ行ってからだよ。っていうかさ、お前、そのエセ関西弁、似合ってないぞ」
「エセ言うな! 向こうの奴らも苦笑いしよってからに」
「親志、何人か関西の娘と付き合った俺から言わせてもらう。関西弁でもな、住む地域によって違うんだよ。その独特のイントネーションがないお前の関西弁はやっぱりエセだ」
「わかっとるがな。せやけど、うつってしもたもんはしゃーないやん」
「はいはい、エセ関西弁、エセ関西弁」

 親志を適当にあしらいながら、依緒を背中に隠す。親しくとも同性である相手に、依緒の涙など見せはしないという独占欲の表れだった。そして、その気遣いが嬉しいのか、依緒も武也の背中に隠れて、服の裾をぎゅっと握っていた。

「んでも、まぁ。嬉しい事やわ。あの二人が結婚って。俺らの中では一番ちゃう?」
「まぁ、一応は名門校だったからな。峰城は」
「せや。しかも、あの委員長がやで? 恋人出来た~っていうても色々と結婚が一番最後になるかと思っとったのに」
「誰よりも真剣に恋愛したからじゃないか?」
「あぁ~、そやろな。アイツ以上に真面目なヤツなんて中々におらんもんなぁ」
「確かにな。まじめ過ぎて、だからこそ、惹かれる部分があって」
「人たらすの上手いというか、なんというか。誰にでも公平やったあいつが、特別な誰かをちゃんと見つけられたって事だけでも、嬉しいことやん? 親友としては」
「そうだな。ほれ、そろそろ俺以外にも話しかけて来いよ。久々に会う奴の方が多いんだからさ。そのエセ関西弁で笑われて来いよ」
「じゃかぁしぃ! ほなな」

 背中を向けてヒラヒラと手を振る親志を見送って、武也はそっと、後ろに手を伸ばす。背中に張り付いて涙をぬぐっていた依緒からは鼻をぐずつかせた音は聞こえない。

「行ったぞ」
「ごめん」
「いいよ。それに、その…………誰かに見せたくなかったから」
「はっ、恥ずかしい事いうなよ」
「悪い」

 そう、中学生に戻ったかのようなつたないふれあいで二人は語り合う。周りの眼が遠くなったのを確認して、手を伸ばす。ただ、相手の温もりを感じる為だけに、手を伸ばす。

「……っ」

 指先がふれあい、掌の形を確かめ合うように指を這わせて、手を重ね合う。

 意味など必要とせずに、二人は笑みを浮かべていた。

「恥ずかしくないんですか?」
「「朋!?」」
「皆から見えないように、何恋人っぽくして。中学生の初めてのお付き合いを見ているようで、なんとなく、見ている方が恥ずかしいんですけど」
「誰が!」
「いや~、なんというかいいじゃないか」
「そうやって、依緒はムキになって。そういう所が中学生みたいだって」
「ムキになってなんかない!」
「ほら、依緒も。気にすんなって」
「何よ、元はと言えば、武也が――!」
「いや、俺がって」
「アンタが悪い!」
「いや、俺悪くねーし」
「武也が悪い!」
「俺は悪くないだろうが!」

 責任のなすりつけあいとでも言うのか、徐々にヒートアップしていく二人。
 そんな二人を見て、朋は、深いため息を吐いた。こんなに言い合っているのに一度もつないだ手を放そうとしていない当たりが、あまりにもアレだ。
 やってられないという気持ちが心に満ちて、当初からの予定通りに二人を放置して顔を売る事に専念しようと決めた。


 朋が去った後も、周囲への言い訳なのか言い合いをしている武也と依緒。だが、結局、この結婚式の間中、一度も繋いだ手が離れる事は無かった。













「孝弘君! ブーケ、貰えたよ!」

 いつもならばおとなしい亜子が興奮を隠しきれずに孝弘に詰め寄っていた。夢見がちとでも言えばいいのか、目をキラキラとさせてブーケを孝弘に見えるように突き出していた。

「うん、知ってるよ。頑張って取ったもんな、亜子は」
「うん、頑張ったよ!」

 そう、並み居る強豪を押しのけてブーケトスを受け取ったのは、亜子だった。一番の強豪が実は、曜子だったのは教会に集まった者達だけの秘密である。
 ここで普通ならば空気を呼んでブーケは雪菜の親友である依緒に渡ると思うだろう。だが、現実はそうではなく、亜子が手に入れた。何故そうなったのか、花婿は不思議に思い、花嫁に聞いて見た所。

『私、お姉ちゃんでしょ? でもいるのは弟で、可愛げがなくて。だから、可愛い妹が欲しかったんだ』

 との発言をぶちかましてくれた。

「うんうん、頑張った」
「これだから、小木曽は」
「乙女心を分かってないよね」
「ほら、小木曽! しっかりと答えて!」

 嬉しそうにしている亜子に対して特にいう事がない孝弘に与えられた辛辣な言葉。それは、当然、亜子の親友である小百合と美穂子、そして最後の台詞が小春である。
 しっかりと答えてって俺は一体に何を答えればいいんだろう、杉浦。と心の中で助けを求める孝弘。

 だが、睨みつけるだけで小春は答えをくれない。

「…………」
「…………(ワクワク)」

 亜子から向けられる期待の視線が痛かった。

 どうしようかオロオロとしている、なんだか亜子の視線から失望とか、哀しみが伝わってくる。それに比例するように、小百合と美穂子が怒りを膨らませてきていて、更に孝弘を焦らせた。

 困った時は! と、助けを求めて父を方を見る。嬉しさと寂しさを同時に発露しているのか、瞳からほんのりと涙を滲ませて、酒をモクモクと飲んでいた。その横の母は仕方ない人だなぁ~となんだか熱々な雰囲気。助けを求める事はできない。
 ならばっ! と武也の方を見る。依緒の方と未だに言い合いを続けている。だが、その視線を下の方へを向けてみるとしっかりと繋がれた手。このバカップルがっ! と心の中で孝弘は罵った。
 仕方がない! と春希の方を見る。ダメだった。助けを求めるとかとてもじゃないが出来ない。周りに人がいないからか、目が死んでいた。スーパーで並んでいる干からびかけた魚の方がまだ目に色があると思えるぐらいに濁っている。何したんだよ、姉ちゃん。と心の中で嘆いた。


 孝弘は絶望した。周囲に助けを求められる大人の男性が軒並み使えない事になっている。他にもいるが、さすがに助けを呼ぶことは出来ない。
 何故だろう。ついさっきまで雪菜の父母へと向けられたメッセージで己も泣いていたというのに、今、危機に立たされているのはっ!

「孝弘君」
「………………」
「孝弘君。久々だな」
「あっ、友近さん!」

 声を掛けられたことが蜘蛛の糸とばかりに手繰り寄せた先には、雪菜にとって武也以外の異性の友達である友近がいた。

「久しぶりです」
「本当に。こうして、俺も結婚式に出られて良かったよ。嬉しい限りだ」
「何言ってるんですか。姉ちゃんと北原さんって、違った。兄さんが呼ばないはずがないでしょ」
「まぁ、そう、だな」

 歯切れ悪く答える友近だが、それも当然と言えば当然か。
 春希と似た性格で、春希の大親友となり、四年前の春に雪菜を好きになり、告白してフラれた。そして最後の最後の春希に絶交されてしまった友近だ。あの傷は未だに薄くではあるが、しっかりと残っている。
 結局、春希と雪菜の仲が戻ったあの三年前の冬を期に、春希との交友を取り戻した。だが、友近には一つ心配があった。普通の人よりも嫉妬深い春希が、雪菜の花嫁衣装を見せてくれないのでは、という心配が。

「本当に、嬉しいよ」
「友近さん」
「っと、ごめんな。大事な話の途中だったみたいだ。いや、さっきまで仕事に追われれて、来てみて久しぶりに孝弘君に会った嬉しさでつい声をかけてしまって。」
「…………いえ」
「すまなかった。あぁ、そうだ。知ってるか? 孝弘君。ブーケには花嫁からブーケを受け取った女性は、次の花嫁になるって言われている。幸せをあやかっているんだろうね」
「…………えっ?」
「春希の方と話してくるよ。お互い仕事が忙しくてなかなか話せなかったんだ。それじゃ」

 と、言い残して颯爽と友近は去っていた。
 その言葉の中にある重大なヒントに、気付く。話しかけてくれたのは、偶然じゃなくてわざとだった事に感謝した。

「あっ、その。亜子」
「ひゃいっ!」
「俺は、学生だからそういうのはまだ早いけど、いつか」
「孝弘君」

 正解を言い当ててくれた嬉しさと、言葉にしてくれた嬉しさで花満開にしている亜子。

「ヒューヒュー、熱いね!」
「小百合、茶化さないの」
「いや、でも。正直にこんな甘い光景見せられると胸焼けするでしょ、小春」
「まぁ、そうだけど」
「こんな事言ってくれる男が周りにいないから余計に、ね」
「また、別れちゃったもんね。小百合」

 ずんっと小春の目の前で、小百合の空気が黒くなる。

「そうなんだよね。クリスマスのデートをぶっちした理由を問いただしたら、妹としてたって。しかも、何、あの美形でお兄ちゃんLOVEな妹。ありえないでしょ。妹に頼まれたからってクリスマスデートをほっぽりだすとか!」
「あっ、あはは」
「うぅ~、独り身は私と小春だけだよ~。慰めて~」
「よしよし、小百合もいい人ちゃんと見つけられるから」
「うん。ありがとう。でも、小春もいい加減、いい人見つけようよ。ためしに付き合ってみるとか」
「試しで付き合うとか、そんな不誠実な事出来ない」
「ま~た、そんな事言って、大学生活もあと、一年だよ。再来年から社会人だよ、私達。今のうちに、恋しようよ」
「いいの。私の恋は、まだちょっと早いから」
「何、達観してるんだか」
「ほっといて。それより、美穂子? どうしたの、さっきから一言もしゃべって…………」
「おーい、美穂子? どうしたの?」

 ひょいひょいと美穂子の前で手を小百合は往復させたが、美穂子は一向に反応しない。熱病にうなされているかのように、頬を赤らめ、瞳を潤ませている。

 気になった、小春と小百合は美穂子の視線に合わせてみると、先程、孝弘を助けた友近の姿が。

「…………かっこいい………………………………友近さん、か」

 ダメ押しの一言が発せられた。

 その声に、小春と小百合は溜息をついた。美穂子の恋は今、新しく始まったばかりである。



















「お父さん、飲み過ぎたらいけませんよ」
「いいじゃないか。今日ぐらいは。こんなにも嬉しい日はないんだ。飲ませてくれ」

 と、止められるも酒を飲む口が止まらない雪菜の父。ちなみに、現在、ブランデーの瓶を一本開けている。たかが一本と思うなかれ。ブランデーの平均度数は40である。しかも、ブリティッシュスタイルではなく、オーソドックスにストレート。

「私にとっては生涯に一度しかない日だ。飲まずにはいられない」
「だからって、飲み過ぎです」

 取り上げられた二本目の瓶を雪菜の父は恨めしそうに眺める。

「そんなに今日のお酒は美味しいですか?」
「…………旨くもあり、苦くもあるという所だ。貴重な味わいだよ、母さん」

 雪菜の父の発言に雪菜の母は首をかしげた。
 ブランデーは世間一般からすると甘い酒である。苦みのある薬酒の類もあるにはあるが、ブランデーはこの分類に含まれない。カクテルやチューハイとは違って砂糖は入っていないが果実酒を蒸留している為に甘みが残っている。
 故に、飲み味の感想としては甘いというのが極普遍的なものになる。


 だが、酒というのは飲んでいる精神状態によって味を酷く変える飲み物でもある。
 気分が高揚している時は、旨く甘く感じられる。だが、逆に気分が鬱状態の時は不味く、苦くなる。

「この日が来る事を拒んでいた訳ではない。この日が来る事を望んでいなかった訳ではない。だが、来るとなると、どうしようもなく寂しいものだ」
「お父さん」
「母さん、この年になって嬉しさと寂しさは、そして笑顔と涙は同居するものだと、私は初めて知ったよ」

 そういう、雪菜の父からホロリと一滴の涙がこぼれた。顔は笑みをたたえているのに、瞳からは涙が。

 決して、雪菜の父は無理に笑っている訳ではない。心の底から雪菜を祝福して笑みを浮かべていた。だが、それでも、人の心は一つの感情しか持てない訳ではなく、雪菜の父は悲しみを覚えていた。

「頑張ってきましたから、お父さんは」
「そう、かな」
「えぇ。それに、いずれ子供というのは親の庇護から巣立っていくのが定め。今は喜びましょう。私達の娘が空を飛ぶ翼を持った事を。新しい場所へと飛び立つことが出来た事を」
「そうしよう、か」
「えぇ、雪菜の巣立ちを祝って」
「乾杯」

 

 


「オジさん、折角の吉事に手酌は少し寂しいと思いますので、どうぞ」
「あぁ、ありがとう。柳原君」
「いえ」

 二人だけの世界になりかけていたところに乱入してきたのは朋だった。
 ふぅと息をつく仕草には達成感が滲み出ていて、今は小休止に来たのが透けて見える。

「あら、朋ちゃん」
「オバさん。この年で、ちゃん付けされるのはちょっと」
「あら、私の半分も生きてないのに。私からすればまだまだ通用するわよ」
「さすがに恥ずかしいです。大学生の時ですら恥ずかしかったのに社会人となってからは特に」

 女性二人の会話が弾む。無理もない。朋は雪菜にとって唯一といっていい悪友だ。無論、いい意味での。
 雪菜のよく知る母親からすればそれは、どれだけありがたい存在か。人の悪口をあまり言えず、不安や不満はため込む性格であり、悪く言えば八方美人な雪菜の本心を引き出せ、なおかつ、絶対的に雪菜の味方になってくれる。

 十年来である中学生のころから交友のある雪菜の友人よりも、ずっと朋の方が雪菜にとってはありがたい友人である。

 また、料理についても積極的に聞きに来てくれる可愛い娘だと雪菜の母は殊更、朋を可愛がっていた。ちゃん付けする程には。

「あら、まだまだお肌がピチピチなのに」
「そろそろお肌の曲がり角と言われる年齢ですよ? 口さがない人からすれば、もうすぐクリスマス後のケーキみたいになるって言われてますし」
「このご時世だもの。まだまだよ。それに、もっともっと上を目指すんでしょ? 今も皆さんに名刺配ってたみたいだし」
「えぇ、その。すみません」

 友人の結婚式にかこつけて顔を売る事を内心、悪い事だと朋は思っていなかった。だが、雪菜の母に咎められると、悪いと思っていなかった自分が悪いように思えてくる。
 雪菜の父をあまり止める事はできないが、良妻賢母であり、理想の母親像である雪菜の母。おいそれと反論はしにくい。

「悪いといっている訳じゃないのよ? でも、もう少し楽しまないと」
「はい」
「ついでばかりでしょう。少しは飲みましょう?」
「えっ、でも。この後、撮影が」
「何言ってるの。局からカメラマンとマイク係引っ張ってきたのは知ってるわよ」
「ですよねー」

 朋と雪菜の母の視線の先には朋以外のこの場にいる人間が誰も知らない二人組。
 その二人は、ホームビデオを取るには不釣り合いというか、もう本当にドデカいカメラを構え、テレビの端っこに稀に映る事のあるモッサモサした棒状の何か。
 そう、何を隠そう。ビデオ係である朋は、局で休みをとった二人を引っ張り出してきたのだ。今を時めく冬馬かずさを生で見れるという餌で釣り上げて。

 無論、その二人はかずさ以外にもレベルの高い女性がいる事で来てよかったと感涙に咽び泣いている。

「はい、どうぞ」
「ありがとうございます」
「雪菜は結婚したけど、朋ちゃんはいい人いないの?」
「ブッ! いきなりですね!」
「思い立ったが吉日っていうじゃない」
「いや、そのー、まぁ?」
「いるの!? まぁ、どんな人かしら」
「あの、肯定も否定もしてないんですけど」
「いないのかしら? おばさんが紹介してましょうか? ねぇ。お父さん。会社の方でいい子とかいそうにありません?」
「こら、母さん。あまり人にお節介を焼くべきじゃない」
「えぇ。そうなんですけど。私達だってお見合い結婚じゃないですか。雪菜と春希君みたいに大恋愛の末の結婚もいい物だけど、お見合いも決して悪い物じゃないですか」
「確かに、そうだが」
「朋ちゃんには娘が世話になってますし、紹介ぐらいのお節介位してもバチがあたりませんよ」
「まぁ、柳原君には、本当に世話になっているからな。そうだな」

 話がトントン拍子に進み限りなく不味い方向へと進んでいた。このままでは気付いたら結納が済まされている可能性すら生み出されてきた。

「いえ、そのもう少し自分で探してみようかと思います」
「そうか。気が向いたのなら紹介するから、遠慮なく言いなさい」
「えぇ……ありがとうございます。オジさん」

 小休止に来たはずなのに、ドッと疲れが増した朋だった。

















「やっほ~、元気になってる、鈴木ちゃん」
「佐和子さん! 来たんですか」
「春希君に呼ばれてね。曲だけでも聞きに来てくれって言われて。なんとか仕事を抜け出してきたのよ。で、麻理は?」
「あぁ~、佐和子さんと一緒で曲だけは聞きに来るって言ってましたよ」
「そっか。来る気になっただけでも、良しとしましょうか」
「あー、やっぱりですか?」
「やっぱりよ、あのヘタレ。仕事はどんなにキツくても平気な癖に、プライベートが打たれ弱すぎるのよ」
「そういう所が魅力的なんですけど、気付く人少ないですよね」
「気付けた男は、他の女にかっさわれてるしね」

 あははっと、二人して失笑が漏れる。どうしようもなほどに、麻理を気にかけているからこそ出る失笑だった。

「そういえば、ブーケは、取れてないんだ」
「えぇ。その冬馬曜子さんの勢いに完全に負けて………………取れなかったです。グスッ」
「ほら、こんな所で泣かないの。別の意味にとれちゃうでしょ」
「そうなんですけど、うぅ。あの人、病気でその上、療養中なんですよね? なのに何であんなにあの瞬間だけ元気なんですか」

 曜子の獅子奮迅ぶりはすでに語り草になっていた。

「いや、ほら。鈴木ちゃんも元気出して。この前、いた男とか、ほら? そろそろ考えてくれてるんでしょ?」
「――――――――――未だに何もそういうそぶりがないんですよ」
「おっ、落ち込むなーーーっ! ほら、私みたいにできちゃった婚でもいいからがんばろう!」
「はい、頑張ります。うぅ。うちでは一番の若手に、仕事では追い抜かれるわ、先に海外出張されるわ、その上で先に結婚です。完全に人として負けてます」
「ほら、その分、彼努力してるから!」
「えぇ。そうですねぇ。私、北原君の何分の一しか努力できてないのかなぁ。二分の一? 三分の一? それとも、十分の一ぐらいかなぁ?」

 暗い笑みを浮かべながら虚ろな笑い声をあげる鈴木。正直、お近づきになりたくない。
 佐和子は内心でしまったと思いっきり舌打ちをした。あまりにも面倒臭いスイッチが入っている。
 お蔭で、先程まで佐和子と鈴木にコナをかけようとしていた春希の友人たちが軒並み引いている。どうして、こう彼女はタイミングが悪いのか。

「遅れて済まない。いや、別の仕事が入って来てさ」

 そして、主役は遅れてやってきた。

「麻理さーーーんっ!」
「おっ、どうした、鈴木?」

 がばちょと豊満な麻理の胸に顔をうずめる鈴木。自分では決して得られない感触を堪能する事で気を紛らわそうとしていた。

「佐和子。あんまり鈴木をいじめないでよ」
「やー、私がいじめた訳じゃないんだけど」
「何言ったんだ」
「いや、一番若手の春――北原君が結婚したことでしょげてるんだけど。っていうかさ、麻理。別にもういいじゃない。私が名前で呼ぶのは」
「それこそ私が決める事だろ。そっか、まぁ、北原は別の方のヤツとはいえ、アンサンブルで一冊丸々あげてるからな」
「うっ」
「あーあ、止めさしちゃった。私知-らないっと」

 すごすごと逃げる佐和子を怨嗟の視線で見送りながら、よしよしと鈴木の頭を撫でた。
 自分一人だけでは慰めきれないと判断したグラフの連中を発見して、こいこいと手招きした。無論、目線は命令で。

「なんだ、麻理。来たのか。遅かったじゃないか」
「まぁ、何とかっていう所よ。それで、鈴木がちょっと」
「麻理さん。何やってるんですか。鈴木さん泣かせちゃって」
「松岡。泣かせたのは私じゃないぞ」
「まぁまぁ、それは俺達も分かってるっていうか。ちょっと前に雨宮さんと話している所みてましたから」
「だったら、私よりも先に来て慰めてやれ、木崎」
「いやー。さすがに声がかけ辛かったですから」
「そんなんだから、彼女に結婚の話を持っていけないんだ」
「う゛っ」
「何々、木崎さん。今の彼女と結婚したいって2、3ヶ月前にぼやいてたのに、まだ言って無いんですか!?」
「中々、仕事の都合が合わなくて」
「逃げてるな」
「あぁ、逃げてるな」
「逃げてるっすね」
「逃げてますね。そういう男の人ってサイテーです」

 麻理の胸を一瞬だけ話して、涙を浮かべながら木崎を睨みつけながら鈴木は毒を吐いた。
 今付き合っている彼女とダブったのか、先程の麻理の口撃の時よりも激しく落ち込んでいた。

「北原君を見習ってさっさと行動すればいいのに」
「いや、その、な。時間がないんだって」
「いや、木崎。お前よりも遅くまで働いてる北原が先にやってるんだからその言い訳は通用しないぞ」
「浜田さ~ん!」
「まぁ、木崎。あんまり相手を待たせるなよ。待たせたあまり他の人になびいてからじゃ遅いぞ」
「麻理さん、やけに実感篭もってません?」
「松岡、うるさい。そういう松岡はどうなんだ?」
「めっ、珍しく突っ込んでくるっすね。麻理さん」

 仕事以外のプライベートはあまり仕事場では話をしない麻理である。そんな彼女が、ましてや恋愛関係の話を打ち出してくるのはグラフメンバーからしても初めてだ。
 その事に驚きつつも、松岡はしょんぼりとうなだれた。

「いや~、仕事が忙しくて」
「「「「ダウト」」」」
「せめて、北原の三分の一は働いてから言うんだな」
「北原の爪の垢でももらってこい」
「俺も人の事言えないけど、北原がいるこの場でその言い訳は通用しないぞ」
「まっちゃん。もうちょっとがんばろうね」
「あれ、俺、叱られながらもなんで慰められてるんだろう」

 それはそうだろう。仕事も頑張り、恋愛も同時に頑張った最強のリア充。いや、もはやリア王と呼んでも差支えない春希がこの場にいるのだ。春希よりも仕事の成果が上がらず、定時に上がろうと間違った努力をする松岡が言っていい言葉ではない。
 尚、リア王は作者のやっかみである。

「はぁ、学生の頃に戻りたい。小春ちゃんとことか、今凄い楽しそうだし」
「まっちゃん。年下に手ぇ出すのは犯罪だよ」
「松岡、諦めろ。お前に小春は無理だ。小春のタイプからかけ離れてるお前じゃ逆立ちしたって届かない」

 松岡をいじる事で元気が出たのか鈴木がニヤニヤと笑みを浮かべて指摘し、麻理が止めを刺す。無論、松岡は確かに小春は可愛いと思っているが別にそういう対象とは見ていない。
 その後、浜田と木崎にお説教を貰った松岡は憔悴するハメになる。
 それでも、悪あがきともいえるのか、松岡は最低の一言を発した。

「特に意味はないですけど、小春ちゃんのタイプって?」
「…………そりゃ~っとと。そうだね、仕事が出来る人じゃない?」

 率直に好きだった人の名前を上げそうになって口をつぐむ鈴木。さすがにこの結婚式でその名前は出せない。

「また、安直な。他に何かないんですか?」
「やけにつっこむな、松岡」
「いつ使える情報になるか分かりませんから」
「その熱意を、普段から持てば…………まぁ、いいよ。言っても支障はないし、お前じゃ死ぬ気であがかないとなれないからな。そうだな、小春なら『自分に厳しくて、他人の為に厳しくなれる優しさを持った皆に平等な人。けど、自分には他の人より厳しさも優しさも贔屓してくれる人』って答えそうだ」




















 披露宴が行われている場所よりもほど近いビルの地下の一室。そこで、一人の男が苦悩していた。

「座長。瀬ノ内さんどこですか?」
「あー、姫なら出かけちまったよ」
「マジですか! これから練習でしょ!? それにシナリオも全部は上がってないのに!」
「仕方ないだろ。姫は二年たっても変わってないんだからな。しゃーない。サブの二人で稽古の練習するしかないか」

 愚痴りながらも社会人となり立ち上げた劇団ウァトスの若き座長は、稽古場へと足を運んだ。
 その直前まで握られていた紙には『出かけてきます』とだけ。書置きをするようになったのがマシだと上原は思う事にした。



「やっほ、春希」
「その声はって、千晶か。随分と見違えたから、来てないかと思ってたよ」

 苦笑を浮かべる春希の先には依然、開桜社の取材を受けた時とはまた違う装いをした千晶が。
 エクステをつけて伸ばした髪は結いあげられ、艶やかなうなじが見える。胸元と背中は大胆にカットされて大人の色香を漂わせている。大学生時代に医学部との合コンで使われた青いナイトドレス以上に大胆なつくり。普段は野暮ったい服装を好む千晶を知る者からすれば、別人としか思えない。

「うんうん。ちゃんと来てたよ。来ないはずが、ないからね」
「あぁ、そっか。そうだよな。もうそろそろ公演だったな」
「恥ずかしいなぁ。自分たちが題材になって劇をされるとなると」
「そっかなぁ? まぁ、滅多にない機会だから喜びなよ、雪菜。古今東西、劇にされる程の恋愛をした人間なんて少ないんだから」

 結婚式の数か月前に開桜社のインタビューに応じた千晶はある相談を持ちかけていた。それは、六年前の冬から始まるこのWhite Albumの物語を劇として完成させるための、相談だった。
 最初はその事を匂わせずに話を聞き、全てを聞き終えた後に告げられて渋い顔をしたのは雪菜と春希にとっても記憶に新しい。

 気恥ずかしさもあったが、それを打ち消したのは真剣な千晶の表情だったからだった。
 醜聞を広める為でもなく、笑いを取る為でもなく、純粋に物語にしたいという願いからだった。そこに出世欲も顕示欲もなく、ただただその物語を作り演じたいという真摯な願いだったからこそ、かずさも含め三人は承諾した。

「うぅ~、劇が不安だよ」
「まぁ、見て損はさせないから、さ。今は団員って、ウァトスの方。久しぶりに顔出して、ちょっと貸してもらったんだ。そっちも熱気があって凄い作品が仕上がるから」
「抜けてきて問題ないのか?」
「抜けてこないといけないから抜けてきただけだって。まだ、作品のタイトル決まってないから」
「重大な事だな」
「そうだよ。題名は『時の魔法』でも良かったんだけど、なんだかしっくりこなくてね。だから、今日お披露目の新曲を使おうかと思って」

 どこまでも芝居を命にしている発言だった。
 それもある意味では当然かもしれない。一年前の、かずさとの決着がついた時までの物語であれば、一年前に発表した『時の魔法』というタイトルで問題は差支えない。
 だが、この一年、結婚式までが加算された物語であれば、そのタイトルはふさわしくない。今を入れて芝居を作るのならば、今の気持ちを歌にした三人の新しい曲名こそが相応しい。

「あー、それは、また」
「劇のタイトルにはちょっと似合わないかも…………」

 二人して苦笑を浮かべる。三人で作った曲の名はお世辞にも芝居のタイトルに相応しい名ではなかった。
 何故なら、新曲は『届かない恋』や『時の魔法』とは根本的に異なるコンセプトで作られた曲だからである。故に、千晶が作る劇の題名にはあまりにもふさわしくない。

 何故なら、これより歌う曲は、今の自分たちの気持ちを表していると同時に三人の事を歌った曲ではないから。

「? まぁ、いいよ。楽しみにしていいんだよね?」
「それは、任せとけ」「もちろんだよ」

 二人の声に満足して千晶は笑みを浮かべた。それは、女優、和泉千晶/瀬ノ内晶としては珍しい、素の零れ落ちる笑みだった。

「まぁ、私以外にも話したい人は大勢いるからここら辺にしておくよ」

 話したいことが終わってすぐ去る姿はやはり学生時代から変わらず、自由奔放なままだった。

「雪菜、幸せ?」
「? えっと、当然だよ?」
「そっか、うん。これからもずっと幸せにで、ね」

 零れ落ちる笑みは、あまりにも自然で。それは友に向ける表情の様に、純粋だった。
 春希、かずさ、雪菜の三人の大ファンとして、毀れた言葉。三人の大ファンだからこそ、このWhite Albumをハッピーエンドで終わらせた事に対して感謝が尽きない。
 だからこそ、送られた言葉。

 それは、女優としてしか生きられない千晶からの、最大限の祝福の言葉だった。










「あっ、雪菜。結婚式前夜だからって激しくして春希を寝かせないのはあんまりよくないと思うよ?」
「違うってばっ!」












 喧騒ひしめく中、二人の距離は変わらず、悟られぬように児戯にも等しい睦みあい。もどかしい程の温もりだけ。だが、それが酷く愛おしい。
 親友の結婚式。主役は彼らではない。だが、二人はそんな事を気にしない。何故なら、彼らの親友なら、その姿を見つけた親友は嬉しそうに笑みを浮かべてくれるだろうから。

「久しぶりだね、飯塚君」

 温もりを確かめあう二人に闖入者が現れる。
 青いドレスに、斬りこまれた胸元と背中。色香漂わせながらも、緩やかな顔のラインが親しみを持たせる。妖艶とあどけなさを合わさせ持つ稀有な顔。
 一目見れば脳裏に刻まれ、決して忘れる事のない顔。だが、武也の記憶にはなかった。

 ついでにいうと依緒にもなかった。そのため、昔の女でも出張ってきたのか、握る掌に力がこもる。ギリギリと音が聞こえんほどに。

「あれ? 覚えてないかな。まぁ、それならそれでいいけど。うん、二人の物語も完結したんだ。あの三人に触発されたのかな?」

 童の様な無邪気な笑顔。だが、その中心にある瞳は顔のあどけなさに反して嫌に冷たい。麻理やかずさの様な怜悧な表情ともまた違う。まるで、虫を観察するかのような冷静過ぎる瞳。
 そして、物語という単語。その二つが武也の中で像を紡ぐ。

「お前、瀬能か」
「親が離婚したから今は、和泉だけど、飯塚君には関係ないよね」
「あぁ、そうだな。本当に関係ない」

 武也の中で感情が冷たく、鋭利になっていく。
 忘れたくとも忘れらない人間。演劇の為にしか生きていない、生きていけない人間。否、武也からすれば人間と評する事は出来ない。思考を理解できなければそれは同じ人とは呼べない。彼にとって、千晶は今でも宇宙人だった。

「どうして、着た?」
「春希に呼ばれたからだよ。私は峰城大の文学部にいてさ、春希と一年間ずっと同じゼミにいた。呼ばれるぐらいの関係ではあるよ」
「そう、か」

 武也の中で更に思考が冷たくなっていく。目の前の人間は理解できない存在。何をしでかすか全くもって分からない。
 演劇の為ならば、何もかも捨て、何もかも壊してもおかしくはない、常人からすればイカれた思考をした存在。

「そう、身構えなくてもいいんじゃないかな?」
「六年前に、言った言葉。俺はまだ忘れてない」
「私にとっては別におかしな事ではないけど、そっか。まだ、根に持ってたんだ。私はただ、物語が完成した事を祝いに来ただけなんだけどな」
「何?」
「飯塚君が知っているように、私は女優。だからこそ、物語には誰よりも親しみと愛情を持っている。だから、ね。それがハッピーエンドで終わったのなら心から祝した気持ちは人並みには――うぅん、人並み以上あるって自覚があるんだけど」
「…………」
「それに、信じられないかもしれないけど、私はね。今のあの三人を見ているのが結構好きなんだ。いがみあい、傷つけ合い、罵り合い、悲しみ、嘆き、溺れそうになっても、最後の最後にハッピーエンドを持ってきたあの三人が。知ってる? 古典の演劇の中では悲劇を転する為にデウス・エクス・マキナっていうご都合主義の存在が出てきて、全てを解決する。だけど、この現実にそんな物はいない。なのに、あの三人は、デウス・エクス・マキナを呼び出したに等しい結末を迎えた。
 これは、私でさえ予想できなかった。かつて名を馳せ、歴史に名を刻んだ作家達ですら到達せしえなかった領域にあの三人はいる。だからこそ、この現実で最高のハッピーエンドを掴みとったあの三人を。そしてそれに貢献した貴方達を祝いたい」

 陶酔しているかのようにツラツラと流れ出る言葉。だが、千晶の口からでる言葉は単調な語りではなく、目をキラキラと光らせて宝物を自慢するかのような熱い言葉だった。
 その言葉を聞き、それでも尚、武也は懐疑的な視線を解けなかった。武也は目の前の千晶がどんな状況でも、どんな事であっても演じられる事を知っている。例え、熱が入っていてもそれすらも演じてみせる生粋の女優であることを知っている。

 だが、依緒はそうではなかった。ただ、純粋にその言葉に喜びを覚えた。武也の様に知らなかったからとも言える。だが、それ以上に信じたのは女としての勘と、そして千晶の輝く瞳。

「ありがとう。えっと、和泉さん」
「いいのいいの。祝辞はもう二人に送ってきたから」
「それでも、ありがとうって言いたいよ。あの三人をそこまで理解してくれて」
「おい、依緒! こいつはそんな殊勝な奴じゃない! あの三人を、あの六年前の全てを演劇にしようとしたヤツなんだ。そして、それで春希と雪菜ちゃんを傷つける事があったかもしれないヤツなんだ!」
「春希の事ととなると相変わらず熱いね、飯塚君は」
「茶化すな!」
「武也。おいっていうなって言ってるでしょ!」
「今更、反応するのか!?」
「ねぇ、武也。和泉さんの言葉を素直に受け取ろうよ。確かに、今もその為に和泉さんは私達に近づいてるかもしれないけど、さ。興味ってそこに良い感情が無いと生まれないんだよ。理解するほどまでに見つめるのはやっぱり好奇心だけじゃなくて、好きっていう感情がないと、出来ないと思うんだ」
「依緒」
「だから、ありがとう。あの三人の物語を見届けてくれて」

 きっちりと腰を曲げて礼を言う依緒に千晶は目を丸くした。
 千晶が観察した依緒はもっと感情的で、良くも悪くも武也を信じている人間だった。だというのに、この行動。そして、納得した。あぁ、春希と雪菜に影響されたんだ。と心中でひどく納得した。

「うぅん。あぁ、そうそう。貴方達も、一応来月にやる劇で出てくるから」
「「それは、辞めろ」」

 
 二人に反対意見を出されながらも、千晶は上機嫌になっていた。有頂天と言ってもいい。

 何故なら、こんなにも面白い題材が、物語が深く絡み合い、影響しあいながら一つのハッピーエンドに実を結んだのだ。
 片方だけの物語を演じるのは、あまりにも勿体ない。そう、この三人と二人の物語は、同時に演じてこそ面白味がある。




 二人を背にした千晶は急ぎ、携帯を取り出す。

「あっ、座長?」
『なんだ、瀬ノ内か。書置きしてくれるのはありがたいが事前に連絡してくれるともっと助かる』
「はいはい。それよりも、決まったよ。題名が」
『へぇ。やっとか。皆首を長くして待ってたからな。それならこうしていなくなったのも意味がある』
「まぁ、その為に出かけてたからね。題名、『時の魔法』か、今回の歌で決めようかと思ったけど違うのにするよ。もっと、もっと相応しい名前があった」
『それで?』
「題名は…………………………………………『WHITE ALBUM』」
























「よぉ、久しぶりだな、春希。元気は…………なさそうだ」

 声をかけてきたのは、春希と雪菜にとっては久しぶりの友近である。無論、友好を取り戻した後にも幾度か会い、遊んだりしれいたが、社会人になってからは日程が合わずにこの半年程音沙汰なしだった。

「友近君、来てくれたんだ」
「あぁ、何とか抜け出してきた。綺麗だな、小木曽っと、もう北原になるんだったな。すまん」

 その言葉に嬉しがる雪菜と、濁りきった目でギロリと怨念があふれ出そうな視線で友近を睨む春希。

「感想を言ったくらいで睨むなよ。春希」
「もう、春希君も嫉妬してくれるのは嬉しいけど、ね?」
「分かってるって。まぁ、ありがとう、友近。来てくれて嬉しいよ」
「あぁ、まぁ、俺としては呼ばれない可能性も考えてたからな。呼んでくれて嬉しいよ」
「そんな、呼ばない訳がないよ」

 アハハと笑う雪菜だが、春希はとても気まずそうに顔を背けていた。呼ばない事を考えていたらしい。

「春希君? えっと、まさか、その、考えてた?」
「………………………………チラっとは」

 苦虫を口いっぱいに詰められた後に噛み締めたかのような渋い顔をしている春希。春希からすれば、友近はある意味で前科犯である。

「その、ね。春希君。そういうのは良くないんじゃないかな」
「…………雪菜のウェディングドレスを見て、何も考えられない位に綺麗だったから、友近も目を奪われて、変な感情を出すかもしれないって思って…………」

 叱られた子供の様に言い訳を並べる春希。だが、それは間違いなく本心で。
 初めて、雪菜のドレス姿を見た時に春希は一分ほど頭が正常に動かなかった位に、綺麗だった。だからこそ、かつて雪菜に恋心を寄せた友近には見せたくない。そう、考えた事があった。

「確かに、小木曽ってすまん。やっぱり慣れないな。お前の奥さんのドレス姿見たら見蕩れるだろうけど、友達の妻に懸想する程、俺は馬鹿じゃない」
「三年前、告白した癖に」
「あの時は、お前ら恋人でもなかったろう」
「くぅっ…………あぁ、もうこの話は無しだ!」
「まぁ、確かに祝いの席で言う事じゃないよな」

 クツクツと笑う友近とふてくされている春希。そして、春希の惚気を聞いて喜色満面の雪菜。
 そこには一度、明確に壊れたにもかかわず、前と同じように、前以上に強固になった友情があった。

「結婚して生活が変わって生活が大変かもしれない。その時は飯塚と一緒に愚痴に付き合うぞ」
「抜かせ、新婚生活がどれだけ幸せか盛大に話してやる」
「ははっ、先に惚気やがって。これからも幸せでいろよ。友達として、心から願ってるから」
「さっさと、相手見つけろ」
「彼女さんが出来たら、紹介してね、友近君」

 最後の最後で友近の傷を抉った二人は離れていく友近の背を見送った。

 一度は傷つけ合った友からの最高の祝福の言葉を胸に刻みながら。



















「みなさん、お久しぶりです」
「いや~、本当に久しぶりだね、小春っち」

 小春が挨拶した相手はグッディーズ南末次店でお世話になった中川、佐藤、本田の三人である。
 他にもこの結婚式に参加したい古参のメンバーはいたのだが、都合がつかず、またシフトの関係でこの三人しか来れなかった。

「そうですね。もう、一年にもなりますもんね」
「そうだよ~。小春っちが、グッディーズを捨てて、開桜社に行ってから一年」
「捨てたって。今でも忙しい時はヘルプに入ってるじゃないですか。それに、将来の事も見据えないと」
「まぁまぁ、中川さんもその変にして。杉浦さんも正社員になる為にバイトとして入った訳じゃないんすから」
「まぁ、そうなんだけどねぇ~。っで、店長、本音は?」
「すぐにでも戻ってもらって手伝ってほしいっすよ~。ていうか、社員として雇うように上に要請するから戻って~」
「あっ、あはは」

 辞めてからも折を見て、グッディーズには顔を出していた小春だが、やはり一年では人は変わらない。いや、このやり取りはもはや三年前から変わっていない。
 というか、いい加減、店長としての自覚を持ってしっかりして欲しいと思う小春だった。

「まぁ、佐藤店長の虚言はおいておいて。そういえば、杉浦も就職先決まったんだって? 俺は夏まで必死こいて歩き回ってたよ」
「まぁ、そのためにバイトしてたって言っても過言ではないですから」
「俺も、もう少し将来を見据えとけばよかった」
「本田君~? それはどういう意味っすかねー?」
「って、あれ。えっと、俺何か言いましたっけ?」
「都合の悪い事はすぐに忘れるのはあんまりよろしくないっすよ~。北原さんに言いつけるっすよ~」
「すみませんでした!」
「店長、みっともない」
「佐藤さん、さすがに、それは」

 やはり未だに成長を見せない、グッディーズ南末次店店長。もうすぐ四年目に差し掛かっている佐藤である。

「店長。もう少ししっかりしないからバイトの子に舐められるのよ。しかも事ある毎に北原さんを脅しの道具に使って」
「いや~、だって。今でも有効何でついつい使っちゃうというか」
「そんなんだから、店長としての威厳が身につかないのよ! 三十台を前にして店長になって出世してる方だっていうのに」
「いや~」

 結婚式だというのにお叱りを受ける佐藤に、確かに問題はあった。だが、こんな慶事の席でわざわざいう事でもない。
 いつもの小春であれば、結婚式という場の空気を守る為に真っ先に動くのだが、この二人と依緒と武也に関しては小春一切触れない。

「中川さん、あれで店長の事、ずっと見てますよね」
「気づいてないのは店長ぐらいだよ。全く、どうしてあぁいう女性っていうのはダメな男が好きなのか。俺は全くもって分からないよ」
「あれ、本田さん。もしかして中川さんの事」
「よしてくれ。今は確かに彼女がいないけど、中川さんだけは狙わないって」
「そこっ! 何コソコソ話してるかな!」

 ビクッと二人して体を硬直させて背筋を伸ばす。
 この話題を中川の前で話したバイトは、説教の挙句、一日使い物にならなかった事がある。そのトラウマが二人には忘れられない。

「いや、特に。それしても、北原さんの奥さん。綺麗ですね。いや~、俺もあんな人とお付き合いしたい」
「本当っすよ~。どうしたらあんな美人を捕まえられるのか。しかも、あの有名な冬馬かずささんとか柳原朋さんとも知り合いみたいだし」

 本田と佐藤は二人揃って、目が死んでいる春希に恨みの視線を向けた。
 春希の周りには美人率が高い。テレビでも話題になる程かずさに、朋、千晶。三年連続、ミス峰城大付属を冠した雪菜。そして、見るからにやり手そうな麻理。そして止めに20歳を超えて尚、可愛らしさを残す小春である。正直、そんな特大級の美人が親しい関係になれるなんて、普通の人間ならそれだけで一生分の運を使い果たしている。

 二人の親しい間柄の美人とは小春と中川ぐらいである。いや、異性との交遊がない人間からすればそれすらも羨ましいんですけどね?

「まぁ、さすがに、アレはねぇ。三年前に彼女ですって連れてこられた時はビックリしたもんねぇ」

 未だにその時の衝撃を忘れらない中川。だが、その時の衝撃は雪菜の美しさだけでなく、小春と春希がいい感じになっていると思い込んでいたからこその衝撃でもあったのだが。

 中川は一瞬、小春に目を向ける。そこには無理に笑顔を微塵も浮かべていない小春の、知人を心から祝う笑顔を浮かべている事を確認した。

「本当、ビックリしましたよ~。その時までは全く彼女がいるなんて顔にも出してませんでしたし」
「三角関係を清算させたからって、堂々とその相手のいる店に来るなんて。あの時はびっくりしたね」
「本当に、その時まで杉浦と付き合うって思ってましたから、俺」

 二人が無思慮に言葉を紡ぐ。だが、その内の一人である中川だけは今はもう、笑い話に出来ると思って口にしていた。

「もう、あの時も先輩と私はそういう関係じゃなかったって言ってるじゃないですか」

 ほら、こうして拗ねた顔をしているだけで、小春はきちんと受け入れている。
 心の中では少し泣いているのかもしれない。だが、それでも小春はいい子で、強い子だから。もしその素振りを見せたならその時は思いっきり二人でヤケ酒を煽ろうと中川は心の中で誓った。

「いや~、でも夜になったら杉浦さんをちゃんと家まで送ってましたしね~。勘繰らない方がおかしいってもんですよ」
「いがみ合ってる所が、わざと周囲にそういう風に見せつけてるという風にも見て取れたし」

 ただ、残念ながら男性陣二人は、小春の心も空気も読めていなかった。

「ほら、二人共。というか特に店長。結婚式でそういう話をあんまり言わない!」
「いや~、三十路前なのにそういう話になりそうな相手もいないどころか、特定もいない男の負け惜しみですとも、悪いっすか!?」
「みっともない。もう少し北原さんを見習ったらどうなの、店長」
「くぅ~、こんな所でも比較される格差社会に絶望したっす!」

 未だに成長が見込めないグッディーズ南末次店店長。

「なぁ、杉浦。あれって裏を読んでもいいよな?」
「えぇ、私もあれは裏を読むべきだと思います」
「そこ! 何コソコソ話してるかな!」

















「お久しぶりです。曜子さん」
「あら、久しぶりね、敏腕記者さん」
「今も、そう呼ばれるんですね。もう、六年も前の事なのに」
「私からすればまだ六年って所かしら。いやね、年を重ねるのは。若い人たちと時間の感覚が違うようになっちゃうから」

 体の衰えを考えて、酷く落ち込む曜子の姿。だが、そこには病床の身とは思えない力があった。かつての溢れる程の力は見る事は出来ないが、それでもまだまだ長生きは出来そうな程に元気に見えた。

「お元気そうで何よりです」
「ノリ君の治療のお蔭で何とか生き永らえてるっていうのが本当の所だけどね。死ぬのが少し遅くなっただけ。もう、前の様にピアノを弾くことはたぶん、出来ない」
「…………そう、ですか」

 あっけらかんと言い放つ内容ではあるが、やはりクラシックにさして興味のない麻理でさえも落胆は隠せない。

「まぁ。まだ演りたりないけど、諦めるしかない。それに、ね。こうしてじっくりと娘の成長を見守るっていうのも、最近は案外悪くないって思うようになったのよ」
「楽しみを見つけられたのなら、何よりです」
「少し前までは色ぼけた演奏しかできなかったかずさが。あぁ、別に前までのが嫌いって訳じゃないのよ。寧ろ、私好みだった。けれど、幅が広がったと同時に、厚みが増したっていうのかしら。次はどんな演奏を聞かせてくれるのか。次は、どんな気持ちがこもっているのか。演じてるかずさよりも聞いてるこっちの方が楽しくなっちゃって。娘を持つって言うのは幸せな事だなって、改めて実感したわ」

 娘を自信満々と語る曜子の瞳には、ピアノを弾けない悔恨よりも楽しみが勝っているのか童の様に輝いている。自慢の宝物を見せびらかせる子供の様で、遅まきながらの娘自慢とも言えばいいのか。
 見ていて分かる程に、昔と変わらないように、曜子は人生を楽しんでいる。その事が、かつて記事を書いた身として心から嬉しかった。

「私も、かずささんの演奏を聴くのは楽しみです」
「ありがとう。娘を褒められるのはおべっかでも嬉しい」
「別にお世辞を言っている訳ではないんですが」
「いいのいいの。それに、ね。たぶんあの子が一番楽しんで演奏している時は、一人で演奏している時じゃないから」
「今日も、三人でやるみたいですね」
「えぇ、二か月前から準備して。楽しみにしておけってだけ言って後は、な~んにも教えてくれないの」
「それだけ、自信があるという事じゃないでしょうか」
「えぇ、そう思うわ。プロとセミプロとアマチュアが混じるバンド。本当なら調和なんて取れないはずなのに、気持ちが通じ合ってるからでしょうね。聞いているとギターの拙さでさえも魅力になる。音楽って言うのはやっぱり面白いわ」
「北原にも意外な才能があったんですね」
「ないわよ。彼に音楽の才能なんて」
「……………………」

 ざっくりとそう言われると勘違いが酷く恥ずかしくなる。ついでにちょっとイラっと来る。

「でも、彼には他の人と共調する才能みたいのがあるんでしょうね。だからこそ、音が広がるとでも言えばいいのか。本当、なんでかずさを選んでくれなかったのか」
「あの、それは」
「親としての愚痴よ。愚痴。娘が一番かわいい親としては、娘が一番好きな人と結ばれて欲しいって願うものよ。まぁ、今の幸せのそうな顔を見ていると、こういう結果も案外悪くないって思えるから、不思議よね」
「今、かずささんは笑えてますから」
「そうね。ウィーンにいたころとは大違い。ピアノだけじゃなくて、私と同じように生きる事を楽しめている。うん、悪くないわ。こういうのも」

 武也、依緒のコンビと話し込んでいるかずさを見守る曜子の視線は、どこまでも温もりに溢れている。
 彼女は理想の母親ではないだろう。だが、それでもその向ける愛情は、雪菜の母に決して劣りはしない。彼女は、やはり一人娘をどこまでも愛している。
 その視線を見つめて、麻理は曜子の印象を修正すると同時に、最近、連絡の取れていない親に電話を掛けようと決めた。

「後、もう一つ。ありがとうね。彼をきちんと育ててくれて。あの子のお蔭で、こうして日本でもきちんとかずさは活躍で来てるもの」
「私はあの時、ニューヨークにいましたし。あの雑誌の結果は北原自身と、その後ろをきちんと守った今の上司に向けてあげてください」
「えぇ。それはもちろん。けど、育ててくれたのは貴女みたいだから。貴女とそっくりよ、彼のやり口」

 事実を言い当てからかう曜子の姿に、やはり勝てないと麻理は思った。

 

「母さん、何立ってるんだよ。今日も無理言って出てきたのに、安静にしてないとダメだろ」

 二人の話をさえぎるようにかずさがお小言を向ける。まなじりは吊り上がっていて心底怒っているとみているだけで分かる。

「あら、今日ぐらいいじゃない」
「調子が少し良くなったからって治ったわけじゃないんだ。心配させないでくれ」
「はいはい。分かった分かった。座ってるから。それよりもかずさ、そろそろ時間じゃないの?」

 曜子の視線の先にある時計はそろそろ、結婚式のメインを飾る時間に近づいていた。そう、この結婚式に一番のメインである三人の演奏の時刻に。

「あぁ、そうだな。準備は出来てるし、大丈夫だよ」
「そう、楽しみにしていいのよね?」
「もちろん。私達三人揃っての久々の演奏だから。度肝抜かせてやる」
「あらあら。言うわね」
「っていうか、麻理。母さんと知り合いだったのか?」
「そりゃ、記者だもの。何度か顔合わせ位するわよ」

 唐突に変わる話題に曜子は狐につままれたような顔をしていた。
 この一年でかずさの交友関係は広がった。だが、ここまで親密に話す間柄の人間は一年前と変わらず春希と雪菜ぐらいだった。だというのに、その二人と変わらないぐらい砕けた二人の姿。

「貴方達、知り合いだったの?」
「えぇ――「違うよ。母さん。私の友達だよ」――そうです」

 遮られて紡いだ言葉は、麻理が口にしそうになった言葉よりも、鮮やかな言葉だった。
 かずさの言葉に麻理は少し照れと、わずかな後悔を持った。友人との関係を適当な言葉でやり過ごそうとした心の在り方の違いに。

「そう、いい事ね」
「あぁ。後、あっちにいるポニーテールの子もそうだ。新しく、友達が出来たんだ。雪菜と同じぐらいに、大切な」
「そう、うん。いい事ね」
「あぁ。いい事だよ」

 娘の成長に僅かに涙をにじませる曜子。知らない間に子供は成長するというが、それを実感するのは真に嬉しい事だと、心から曜子は思った。

「だから、しっかり聞いててくれよ。私の広がった世界の気持ちを。音を。そして、これからも広がっていく私の世界の想いを」
「ぁぁ、ぁ…………っ」
「超えてみせるよ、母さんを。私が手に入れた、これから手に入れる世界と一緒に。世界で一番のピアニストになってやる」
「っ、あ、あ……」

 噛み締める。その後に出てくる嬉しさの泣き声を必死に曜子は噛み締めた。
これから、かずさが演じるのだ。新しい世界と一緒に。広がったかずさの世界を見せてくれるのに、涙は似合わない。だから、必死に零れ落ちる涙を抑える。

「何よ、親をこんなに泣かせて」
「いい娘さんですね」
「えぇ、世界に自慢できる、最高の娘よ」

 この一年で成長したかずさは、本当に眩しく、曜子にとって最高の自慢の娘だった。




























「えぇ~。四曲もお付き合いいただきありがとうございます。結婚式なのに、こういう事しちゃって。でも、これが私らしいかなって。
私達の今までを振り返りながら私達の全てを知ってもらうには、今まで私達三人で演じてきた曲を聴いてもらうのが一番だと思って。私達の出逢いである『WHITE ALBUM』、私達が学生時代に努力した『SOUND OF DESTINY』、そして私達が三人になれた証の『届かない恋』。四曲目に、私達三人がもう一度揃う事の出来た証である『時の魔法』です。
 そして、最後に私達が奏でる曲。これは、今までの曲とはちょっと意味合いが違います。今までは結局、自分たちの為の曲でしたから。

 これは、私達からここにいる皆さんに贈る歌。皆さんに捧げる曲。

 私達を産んで育ててくれたお父さん、お母さん。私達を見守ってくれたおじいちゃん。おばあちゃん。私と一緒に育ってくれた弟。私達が辛い時も楽しい時も一緒にいてくれ支えてくれた沢山の友達。私達を立派な社会人になる為に鍛えてくれた先輩。そんな、私達の傍にいてくれるすべての人々に聞いて欲しい曲。そういった人達に送りたい曲です。

 私達を取り巻くすべての人達に。私達を祝福してくれるすべての人達に。

 全ての人に感謝の気持ちを込めて、歌い、奏でます。


 これからも、笑顔あふれる日々が続くことを願って。


 曲名は――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――



















――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――『笑顔の未来』!」


 

 


















後書き
 完成したーーーーっ!
 はい、やっと書けました。ほぼフル出演。いや、ごめんなさい。美代子さんとか高柳医師とか出てくる場面が想像できなかった!
 さて、この短編連作の題名が『笑顔の未来』だったのは最後の最後に持ってくるためでした。えぇ、伏線、そこに張ってたんですよ。実は。
 この三人が結婚式で奏でる新曲は、きっと自分達の関係を記した物じゃなくて、きっとこういう曲になるんじゃないかなっと思ってそうしました。

 後、雪菜の出番少ないじゃん? とかいう質問は受け付けません。いや、本当にごめんなさい。許して。

 さて、これで完結いたしました。読んで下さった方々。本当に、ありがとうございました。楽しんでいただけたのならば、幸いです。 



[31879] 外伝 作詞家北原春希誕生の軌跡
Name: 雪儚◆d65b0b7d ID:90c0849b
Date: 2012/03/26 23:30
「春希君。お願い!」

 珍しく、本当に珍しく雪菜が春希に向かって拝み倒すという形を取っていた。
 今までこれ程までに真剣にお願いされたことがあっただろうか? 結婚の時も春希の方からした。許しあう時は二人で一緒に行った。

 それを考えると雪菜から一方的に拝み倒されて懇願されるというのは初めての事ではないだろうか。

 男なら誰しもが間髪入れずに、内容すら聞かずにYesと答える事だろう。だが、お願いされている春希はとても渋い顔をしていた。

「お願いします、春希君!」
「ダメだ。俺にはそんな事出来ない」
「そこを何とか!」
「もう一声みたいにいっても無理なモノは無理」
「そんなぁ~。こんなに私が頼み込んでもダメ?」
「ダメです」
「かずさと一緒に頼んでもダメ?」
「…………ダメです」
「あっ、今、間があった」
「ダメなモノはダメ」
「えー、やろうよ。春希君。作詞家としてのデビューをっ!」









 さて、何故こんなに雪菜が春希に頼み込むのかは時を巻き戻さねばならない。

 結婚式が終わったその日に朋によって約束通り、映像は流れない音源だけではあるがネットUPされたミニコンサートの内容。個人を特定できないように編集はされているのが救いか。

 ネットにアップされた曲は歌っている人間が誰かすらもページには書かれていなかったが話題を呼んだ。
 当然、その中には東京近隣で人気を誇るSETSUNAの熱狂的なファンや、かずさのファンも当然いた。また曲の特徴や、歌詞の特徴からアンサンブル特集にて配布された『WHITE ALBUM』と全く同じ面子で奏でられている所まで判明してしまった。
 そうなると話題性を呼びに呼び、視聴回数100万をすぐに超えてしまった。現在、一千万を超えて尚、動いている。

 そこまで話題性が出てきたときには時すでにおそし、ネットから消そうと思っても複数の人間が音源を手に入れており消去する事が出来なかった。
 普段の春希であれば結婚式が終わった直後からネットに張り付いていたのだろうが、残念ながら疲労が溜まった春希では無理だった。雪菜とのハッスル後に、2日間は寝込んでましたから。えぇ、丸48時間。


 以前、かずさのアルバムを出したという事から、ナイツレコードに発売は何時ですか? という問い合わせが殺到。
 その膨大な数から、社全体が売れるという事を確信して社長直々に雪菜に業務命令が下った。オリジナルである『届かない恋』『時の魔法』『笑顔の未来』の収録が。

 当然、その時はもめにもめた。
 インディーズとしてどころか三人での芸能活動をする気が更々ない為、春希と首を横に振った。かずさも春希が嫌ならと同じく首を横に振る。

 だが、困ったのは雪菜である。業務命令まで出されては従わない訳にはいかない。だが、春希の意思を尊重したいと板挟みとなっていた。


 だが、そこで横やりが入る。春希の上司である麻理からと冬馬曜子オフィスからだ。
 曜子としてはクラシック以外でも活躍できるのなら活躍して欲しいという思いからで、麻理からはナイツレコードとの親交などを含めた打算と、個人的にCDが欲しかったからである。
 また、概算ではあるが、麻理から示されたギャラに少し目がくらんだのもあった。


 結果、しぶしぶと春希は今回だけで、なおかつメディアへの露出は一切しない。歌番組にはもちろん、ラジオにも出演しないという契約の元で収録を行った。







 これで、二度とそういう依頼は来ないと春希は安堵していた。だが、そうは問屋が卸さない。

 発売当日にCDは完売。重版に重版を重ねて、見事AKBやジャニーズをぶっちぎってオリコンチャート一位を獲得。またDL件数も月間一位を獲得した。


 法外のボーナスが出た事で、家を買う目途が早々ついた事に、春希の顔もほころんでいたのだが。
 






 このCDを期に、演奏をしているかずさ、ヴォーカルの雪菜の人気は更に上がった。そして、以外にも、作詞者として(ギターの腕前は2chで酷評)の北原春希が注目を集める事となった。

 昨今のメジャーな曲の詞とは異なり、想いと温もりが滲み出る、懐かしさを感じる歌詞に魅力を感じる人が徐々に増え、見事にファンがついた。また、この詞に対して共感するアーティストも少なくではあるがいた。


 その結果、冒頭に戻り、春希に対して作詞の依頼が来たのである。後、つい最近Wikipediaにも『北原春希』のページが作成されました。

「いや、俺の詞なんてプロに比べたら児戯みたいなモノだろ? それにあれは俺の気持ちを書いただけのヤツだから無理」
「うん。それは分かってるよ。春希君の気持ちを素直に書いたから捨て素敵な詞になっていうのは、私とかずさが一番知ってる。私は春希君の作る詞、大好きだよ。だから、他の人にももっと知ってほしいの。北原春希は、すごいんだぞって!」
「それ、結婚式の前にも聞いた」
「うん、知ってほしいんだ。私はこんなに素敵な人を捕まえたんだって。だから、ね?」
「いや、だからって俺は」
「もー、春希君は頑固なんだから。こうなったら、かずさカモン!」
「話は聞かせてもらった!」

 ズバンと障子が勢いよく開く音の様な効果音を背負ったかずさの登場である。ちょっと外伝だからってキャラ変わり過ぎてない?

「…………幾ら、二人でお願いされても聞かないからな!」
「何だ。袖にして。酷いな。春希は」
「酷いよね。かずさ~」
「仕方がない、フラれた私達は二人で慰めあうか」

 両手を顔の横で絡めあい見つめ合う二人。徐々に徐々に近づいていく二人の唇。思わず生唾をごくり。
 さりげないの動作なのに、酷くエロく感じる。そんな俺の心はやっぱり汚れているんだろうか、武也。心の中で答えを求めた。そうするととてもいい笑顔でサムズアップしてくる武也の表情が浮かぶ。
 結論、俺は間違っていない。そう、疲れている心で春希は言い訳をした。

「残念だな。雪菜」
「うん、本当に残念だよね。かずさ」

 残念残念と言っている二人だというのにクスクスと笑っている。それが酷く無邪気に見え、同時に妖艶さを兼ね備えていた。
 おとぎの国に紛れ込んだかのような錯覚。いや、これはおとぎの国というよりも妖精の森。この世の何よりも美しく、この世の何よりも綺麗な場所。同時に、決して逃れる事の出来ない甘美なる蜘蛛の巣にかかったかのような感覚。

「春希君、どうする? こっちにくる? それとも、一人だけそこにいるの?」
「なぁ、春希。私はお前も一緒に来てほしい、よ」

 蠱惑的な流し目でこちらを誘ってくる雪菜とかずさ。肌の露出も性的な印象も全く見せない癖に、淫魔じみた魅力を発揮する二人。
 初志を捨てて今すぐにでも飛びつきたい欲求に駆られる。霞がかった頭。だが、それでも無理だという言葉が頭にちらついていた。もう、ちらつくまでにその意思は薄弱となっていた。

「今なら、三人で色々と出来るよ」
「一緒に来たなら、どんなひどい事されても喜んでやるよ。お前がしてくれる事なら、なんでも」

 思考に霞どころか、もはや理性が消し飛びかねない状況。それでも春希は飛び出さなかった。
 初志を未だに忘れていない? 否、もはや目の前の淫靡な光景にくぎ付けにされ、心が金縛りにあい動く事が出来ないだけ。もし、二人の掌が春希の肌に触れたなら、春希の心は決壊する。そこまで来ていた。

「ねぇ? 春希君。私のお願い、聞いてくれる、かなぁ?」
「聞いてくれたら、結婚式の次の日よりも凄い事、してやるよ。春希」
「うん、結婚式の次の日……より……………………も?」

 だが、そこで心奪われる光景は消えた。かずさの失言によって。

「ねぇ、かずさ。確かその日、春希君が起きないから、私、かずさの家に遊びに行ったよね? どういう、事、かな?」
「あっ」

 遅まきながら自分の大失言に気付くかずさ。だが、本当にそれは遅すぎた。

「お話、しようか」

「春希、助…………けっ!」

 ずるずると雪菜に運ばれてフェードアウトしていくかずさ。あの、雪菜さん。何でそんなに万力の様にかずさの肩を握りしめてるんですか? ミシミシ言ってますよ。しかも、片腕で引き摺りながらなんて、そんな腕力なかったでしょう。











 かずさの失言によって得られた20分。その間に漸く正気を取り戻した春希。これで、次の誘惑が来てもきちんと断れる、はずっ! やっぱり、無理かなぁ。

「あっ、ごめんね。春希君。話を中断しちゃって、それで――「断る」――もう、かずさのせいで春希君、正気に戻っちゃったじゃない!」
「ごめん。でも、たぶん、私だけのせいじゃなくて、雪菜が怖かったのも――――はい、ごめんなさい。すみませんでした」

 ギロリと睨まれて顔を青ざめて謝り倒すかずさ。一体、空白の20分間に何があったのか。

「あー、それよりも俺はあの日に一体何が起こったのかきになるんだけど」
「えー、知りたい? 知りたいの、春希君?」

 もったいぶった雪菜の言葉に余計興味を惹かれる春希。いや、そんなにじらさなくても。
 まぁ、実際に初夜を共にしてから48時間、ぶっちぎりで夢も見ない程に睡眠をとっていたから、春希から何か出来るはずもないからこそ、雪菜もこうしていじっていられるのだろうが。
 もし、万が一にでも起きている可能性があったのなら、雪菜がどうなっていたのか分からない。

「好奇心なだけなんだけどなぁ」
「えーと、ね。かずさが言うには(ピー)に(××××)に(バキューンッ)をしたんだって、もう、かずさったら」
「わざわざ伏せ字を口から言ってじらさないでくれよ! 余計に気になる!」
「えー、でもなぁ。あっ、そうだ。かずさ、そこん所どうなの?」
「あぁ、どんなに刺激してもピクリともしなくてな。いや、参ったよ」
「あの日に、戻りたい」
「春希君、どういう、意味かな?」

 ぎゃあーーーーーーーっ!












「はぁ、こんなに言ってもダメなんて春希君のけちんぼ!」
「全く、ここまでいい女二人のお願いを袖にするなんて、いい度胸だよ。春希は」
「どうしよっか、かずさ」
「予定通り、二人でどっかいかないか。春希を置いて」
「傷心の二人で旅行かぁ、いいね。あっ、高校の時にいった旅館にでも久々に行ってみる?」
「いいな。という訳で、春希を置いて二人で行くから」
「…………いや、まぁ。それで諦めてくれるんならもう、それでいいけど」
「いや、その間に、春希には作詞を頑張ってもらう」
「だね~」
「バカな! 断るって言ってるだろ!」
「こんな事もあろうかと!」
「かずさ、幾ら本編が終わって外伝だからって壊れすぎだろ」

 勢いよく携帯を取り出すかずさに対してツッコミを入れる春希なのだが、オイオイ、メタな発言すんなよ。もう、すでにノリが『WHITE ALBUM2』じゃねぇよ。

「麻理に連絡は取ってある」
「お前、何時の間に麻理さんと仲良くなってるんだ!? っていうかすでに呼び捨てする仲だと!?」
『北原、業務命令』

 携帯から届く電子音交じりの無機質な声。電話口からで目の前に麻理がいないはずなのに聞こえてくる声には威圧感があった。

「麻理さん!? いくらなんでも!」
『北原が必要以上目立ちたくないのは分かってる。けどな、依頼主がヤバイんだ。開桜社としても断れないんだ。今回は』
「どこから来たんですか。俺に依頼するなんて新人ぐらいしかいないでしょ?」
『緒方 理奈からの依頼で詞を一つ書き下ろしてほしいって』
「大御所すぎるでしょ、それっ!」

 さすがに世界的有名人を敵に回す程春希に度胸はなかった。


 結果、渋々と春希は作詞家として、徐々にだが世間に名を知らしめることとなった。






















 蛇足ではあるが、雪菜の声を元にして冬馬曜子オフィスとナイツレコード、そしてヤマハが共同制作をしたボーカロイド『雪音ヨウ』が発売され、バカ売れした。
 SETSUNAの音声を元にして作られているという事と、また登録されているのが雪菜の声だけではなく、かずさが録音した様々な生の楽器の音という、ありえない商品である。売れないはずがない。

 年間で一曲しか新作を出さない幻のバンドに対する世間の思い入れが強いのか、そういう要望が多くやる事になったのだが。

 尚、名前に関しては『雪音』は千晶の劇からとり、ヨウに関しては冬馬曜子から取った。


 そして、そのソフトがバカ売れする原因がもう一つあった。

 それは、春希、かずさ、雪菜の三人が新曲を出す一か月前に必ずと言っていい程、デモ版としてニコニコ動画に流された。
 仕事で時間が取れないときにかずさが雪菜の音程調整などを思考錯誤する為に使われていた音源が流出してしまった結果なのだが。


 そんな世間を騒がせるかずさのユーザー名は『北原かずさ』であった。

 その事を問い詰められた時には、『特に他意はない』と眼を背けて、動揺を隠しきれない様子でシラを切った。

 だが、意外な事に正妻が黙認したので現在でもそのユーザー名は使われている。どっとはらい






後書き
 完結した直後からぶっ続けで書いたおかげで所々壊れてます。という訳で読者さんのポロっと漏らしたのを書いちゃいました。
 自分でいうのもなんですが、酷いな。これ



[31879] 外伝 Re:負け犬達のガールズトーク+α
Name: 雪儚◆d65b0b7d ID:90c0849b
Date: 2012/03/29 23:40
「結婚式が上手く行った事を祝って!」
「「「カンパーイッ!」」」

 春希と雪菜の結婚式翌日。負け犬達は今日も今日とて集まって無為な話を花咲かせようとしていた。
 何故、当日じゃなかったかって? 麻理の仕事が終わらなかったという単純な理由だ。時間が間に合わない事を察した麻理は次の日の分まで即断で手を付けて、翌日を開けた結果、こうなった。

「ングングング、プッハーっ!」
「麻理、おっさん臭い」
「いいじゃない。今日ぐらいというか。あんたたちの前ぐらい」
「まぁ、別にいいけどな」

 一人グラスを一気に飲み干した麻理を白い眼で見るかずさ。まだ三十路に届いてないんだから女らしさを捨てるのはどうかな、と思ったからの忠告だった。だが、麻理はもはや仕事に生きる事を決めた身。そんな事は気にしない。

「雪菜さん、綺麗でしたね」
「まぁな」
「先輩、目が死んでましたね」
「まぁな」

 結婚式で特徴的だったのは三人の演奏と、誰かと話していない時の春希の眼の死に具合である。めったに見れる物じゃないというか、あれは滅多にすら見てはいけない類のモノだった。

「何をしたら、あぁなるんですか? まっ、まさか!」
「その類じゃないからな、小春」
「違うんですか?」
「小春は一週間前から休んでたから知らないだろうけど、会社でも出社直後は常にあんな感じだったよ。いや、小春。お前は見ないで良かった。アレは、トラウマになる。活発的なゾンビとか二度と見たいとは思わないよ」
「何ですか、その背反する言葉が組み合わさった造語は」
「そうとしか表現できなかったよ。北原のヤツ、目から光が消えかけてて、肌は土気色。生きているのが不思議なぐらい。だっていうのにいつもと同じかそれ以上のスピードで仕事をこなしてた。ウチではもはや禁じられた話題になってて。私以外の人間からは記憶から消えてたよ。アレは不気味だった」
「そんなので新曲の練習をしてたからな。私でもちょっと不気味に思った」
「そうなんですか。全く知らなかったです」
「というか、小春、どうして一週間も休みをとったんだ? お前らしくもない」

 年の割に子供っぽい仕草で、コテンと首を捻る麻理。年上でありながらもあどけなさを失くしていない麻理の仕草と言葉に、小春はフッと哀愁を呼ぶかねない程の溜息を吐いた。

「一週間、友達とヤケ酒を煽ってました」
「オッサン臭いな」
「かずささんはいいじゃないですか。結婚式二週間前から――「正確には二か月前からだな」――ずるいです。ずるーいですーっ! 私、結婚式前は遠慮して、この前三人で集まった時から先輩と会わないように努力してたのに!」
「しっ、仕方ないじゃないか! 結婚式で演奏する為に音合わせしないといけないんだぞ。全く、音楽をやらないヤツはこれだから」
「嬉々として会って、先輩の匂いを堪能してた癖に」
「小春、何時から匂いフェチになった…………」
「麻理さんだって。それにさっきから視線を逸らして言葉を発してないかずささんだって同じ癖に」
「「…………」」

 耳に痛いほどの沈黙が流れる。だって、反論できないんだもん。

「まぁ、まぁ。今回は北原の話は抜きにしよう。私も小春もかずさの事をあんまり知らないし。私だって小春の事を私生活の部分とかはあんまり知らないから、そういう話をしよう」
「まぁ、麻理がそういうのなら」
「そうですね。折角ですから楽しい話題に――――」

「お邪魔しまーす。かずさ~、鍵空いてたよ~。泥棒が入る心配が無いからって鍵を閉めないのは不用心すぎるよ。もう、気を付けないと――あれ? どうして私、睨まれてるのかな?」

 黙れ、この一人勝ち組がっ!


 主役は何時だって遅れてやってくる。負け犬達の集いに、一人勝ちした勝者が紛れ込む。こうして、夜は更けていく。

















「でっ、どうして今日ここに来たんだ?」
「え~っとね。春希君が起きなくて。寂しくて、かずさと飲もうかなぁ~と思って。それで、来ました。ごめんなさい」

 何故、最後にごめんなさいと付けるのか心底分からないと、冷たい目をする三人は思う。それが原因です。

「二週間、死にかけるまで動いてたんだ。それぐらい分かってる事だろう」
「ん~、でも。どんなに疲れてても、キスしたり、揺すったりしたら起きたから、ね。それで…………それに、こすっても、咥えてもたたないから」

 それはナニの話でしょうか?

 ビキビキと青筋が出来上がる三人。うん、負け犬でなおかつ独り身で、集まって愚痴を言い合うような女の前で話すような話題ではない。

 だが、知っている人は知っている。雪菜は意外と黒いのだ。


 かずさ、小春、麻理の三人が集まっての飲み会。かずさだけを知る人間からすれば、かずさに友人が出来たと喜ぶべき事だ。依緒、武也や朋、友近あたりであれば喜んでくれただろう。
 だが、雪菜からすれば、この三人が集まるとなるとちょっとというかかなりヤバイ。

 三年前の、春希と再度結ばれる切欠となったクリスマス。その近辺で、最も春希の傍にいた三人の内の二人である小春と麻里。そして、結婚して尚、春希に隠した思慕を寄せている二人。三年前のあの日に何か違った選択があったのならこの二人の内、どちらかが春希と付き合い結婚していたのかもしれない。
 そして、かずさは六年前からの大親友であり一歩間違えば不倶戴天の敵となりうる心から信頼し合える友であると同時に、最も油断のならない恋敵。

 この三人が集まっているのである。牽制球位は投げておくべきだろうと、そんな腹黒い思考の元の発言である。

「そっか。春希、起きないのか」
「あ~、その小木曽さん?」
「北原です♪」

 見る者を魅了するかのような天使の如き満面の笑み。ナニ、この天使、超黒いんだけど。

「…………雪菜さん、北原、どれぐらいになったら起きそうだ? 一応、明後日には出社予定なんだ。起きないのなら有給の申請、こっちで出しておくつもりはあるけど」
「あっ、ありがとうございます、風岡さん。ちょっと分かりそうもないです。本当に、ぐっすりと眠っちゃって。その、18時間も寝てるのに水すら取らずに寝てるから」
「そっか、ありがとう。一応、こないつもりで仕事を考えておく」
「いえ、こちらこそ。お仕事の事なのに」

 つまらない世辞合戦になりそうなところで、小春は気付いた。18時間という微妙に重要な単語に。
 18時間。現在時刻は21時である。つまり、春希が寝入ったのは今日の午前三時ごろ。式が終わり、二次会、三次会とまでやり、結局主役達は21時過ぎには帰路に着いたのだが。そこから帰宅まではどんなに遅くなっても30分ぐらい。風呂に入っている時間を考慮すれば、どんなに長くても二時間。
 つまり、その日の日付が変わる直前から、三時間半はベッドの上で起きていたという計算になる! ついでにいうと、お風呂に入っている時間すら共に過ごしていたのならば、五時間半っ!

 戦慄した。あの日の春希の目の死に具合を知っている小春からすれば最長五時間半も、運動をさせたというその事実に驚愕した!
 かずさも、麻理もその事については何も気づいた様子はない。
 小春は、その戦慄と畏怖と驚愕が混在する事実を胸の内に沈めた。触れるべきではない。


 尚、事実如何は春希と雪菜の胸の内にしか存在しない。














「そういえば、小春ちゃん。孝弘から聞いたけど今年のミス峰城大、おめでとう」
「あっ、ありがとうございます。でも、その偶々選ばれただけですし」
「そうかな? 毎年毎年ハイレベルな戦いが繰り広げられてるみたいだし、去年のミス峰城大の朋なんて、今じゃアナウンサーだよ? 誇っていい事だと思うよ」

 ニコニコと先程と違って邪気を感じさせない雪菜の言葉。きっと本心から言っているだろうことは窺える。
 だが、小春は知っている。三年連続ミス峰城大付属を勝ち取り、本学でも出馬していれば、四年連続確実とうたわれていた雪菜である。正直、一度獲得したぐらいでは自尊心すら擽られない。

「そういう風に素敵な人だって思えるように小春ちゃんが素敵な子だって皆が分かってるから得られた結果だよ。いい事だよ。それに、たぶんそういうのに選ばれるのって大学生活を楽しめているからだと思うよ。例え、どんなにはっとするような美人だったとしても陰気で誰とも話さないような子じゃ選ばれないよ」

 そこには影があった。それはかつての己の事を嘲っているようにも見えた。
 あの時の、雪菜は確かに暗く、押しが弱く、積極的な人間ではなかった。だが、それが艶を出しているように見えて、魅力的に映っていたのだが!

「どう? 小春ちゃんは大学生活、楽しい?」

 慈母の様なただただ相手を思いやるだけの素直な笑顔。祖母の様にただ今を教えて欲しいと願う優しい心だけがその笑顔にはある。敵愾心を抱くのが愚かに思える程に、綺麗な。

「楽しいです。バイトも出来て、高校から続く友達とも大学でも一緒に入れて、一緒に遊んで。新しく出来た友達と知らない場所に行って、した事もない事を経験できました。そう、ですね。思い返せば楽しい三年間だったと、思います」
「うん、素敵な事だよ、それはっ!」
「私は、あんまりそういう事出来なかったから。結局、自分の殻に篭もって、色んな事を拒絶してたんだ。だから、そういうのは羨ましいな。ねぇねぇ、何処にいったの?」
「そうですね。一番、印象に残ったのはバーっていうにはちょっとにぎやかでしたけど、少し大人のお酒の飲み方を知ったり、ただ和気藹々と話しながらドライブする事だけが楽しかったり、道に迷って罵りあっても最後は笑ったり。富士山に登ってみたり。大学の教授に教えられていった、ちょっと高いけど美味しいご飯を食べたり」
「うんうん、素敵だね」
「はい、えぇ。素敵な三年間でした」
「うん、後、まだ一年もあるんだから。もっともっと楽しい思い出作ろうね」
「はいっ!」

 羨まれ、励まされ、話しをして小春は改めて思う。あぁ、やっぱり雪菜さんは素敵な人だな、と。改めて、そう、思った。

「そう言えば、私達も高校卒業間近にして、温泉旅行したな。酒も飲んだし」
「あー、やったねぇ! かずさが夏にとった免許で左ハンドルの外車で、えーっとなんて車だったっけ? いいか。 それで、春希君が道案内して、迷って。結局ついて、お酒飲んで騒いで。懐かしいね」
「あぁ、懐かしいな」

 雪菜とかずさが楽しく過去を思い出している所を、小春と麻里は青ざめた顔で二人の話を聞いていた。
 若葉マークも取れていない人間で、かずさが。あの、かずさがっ! 左ハンドルで運転しているのだ。横に乗っていた春希の胃が秒単位で痛んでいったのが目に浮かぶ。もし、自分たちが同じ目に合っていたのならばきっと、胃に穴が開いていたという想像は難しくなかった。


















「そういえば、麻理さん。ニューヨークでのお話とか聞かなかったですけど。改めて聞いていいですか?」
「何でまた。小春は海外に興味があるのか?」
「無い訳でもないです。まぁ、仕事でもしかしたらっていう気持ちが」
「十年早いとも言ってられないか。私も26の時に向こうに行ったから」

 どうしたものかと麻里は思案顔となった。
 ぶっちゃけ、仕事ばかり観光すらしてなかった。何を話せばいいのだろうかっ!

「正直に言うけど、仕事ばっかりしてた」
「Oh」
「その、セントラルパークに足を運んだりは?」
「ない」
「自由の女神の足元を見に行ったりはしなかったのか?」
「かずさ、逆に聞くけどアンタなら見に行く?」
「行かない」

 何処までもインドア派な麻理とかずさだった。

「あー、じゃあ。ニューヨークの料理とか聞きたいな!」
「なんだ。そんなの聞いて。ニューヨークの料理なんて、大概はハンバーグとコーラだぞ。そんなモノが食べたいのか、雪菜は」
「かずさはそれでいいかもしれないけど、麻理さんはそうもいかないでしょ。そういうのをちょっと聞きたいなと思って」
「ごめん。私も大概はそれで済ませてた。ただ、そうだな。何を買うにしてもビッグサイズだし。食べ残して持ち帰りがOKっていうのは驚いたかな」
「日本だと、食べ残したらそのままですからねぇ」
「後、野菜というモノの概念が破滅している。あっちでサラダと言われて出されたモノは私達が想像するサラダと思わない方が良い」
「具体的な所が、気になる…………やめときます」
「あぁ、後。一つだけ気を付けろ。これはニューヨークに限らない事だけど、海外にある日本料理店。特にちゃんとしたホテルとかじゃなくて町の食堂としてやってる所だ。そこは気を付けろ」
「「何(何故)でですか?」」

 小春と雪菜は首を捻るが、かずさは麻理の言葉にあぁ、と頷いた。海外に長期滞在した人ならば分かる事である。

「トンカツを食べようと思って入ったら、店の人間にこう聞かれるんだ。Beef or Pork?ってなっ!」
「「え゛っ!」」

 日本人なら当然、この質問がありえない事がわかるだろう。トンカツと言えば、豚のカツレツの略称である。つまり、中身は豚一択しかない。だが、海外ではこういう事があるのだ。
 つまり、店をやっている人間は日本人ですらない可能性が高い。気を付けて欲しい。まぁ、中には客との兼ね合いの都合上そうしている店もあるかもしれないが。













 宴も進み、酒が進み。だが、ペースを外して飲み続けたのは雪菜一人だけだった。

「三年、三年も待ったんだよ! やっと春希君が私を選ぼうって頑張ってくれたのに、春希君が、かずさを忘れてやり直そうって言ってくれたのに、何で私、あの時あぁ、言っちゃったのかなぁ。あれがあるから今があるんだけど、今ちゃんと私が選ばれたんだけど、あぁ、なんでなんだろうなぁ」
「おい、その話は聞いてないぞ」
「あの時、私も落ち込んでたけど。春希君。もっと落ち込んでたんだろうなぁ。あの時、誰かに慰められてたらきっと春希君コロっと言ってたんだろうなぁ。一本気に見えて、そういう所弱い人だし」

 かずさの言葉など聞いちゃいなかった。ただただ独白が続く。
 そして、三年前のあの日に思い当たる節がある二人は愕然とした。何故、自分たちはあの日行動していていなかったのだろうと。すべては時すでに遅し。過去にはもう、戻らない。

「それに、ねぇ。かずさが帰ってきた時、嬉しかったけど怖かったんだぁ。三年たってやっと実った恋。二年も育んだ気持ちなのに、かずさを前にしたらきっと春希君は戻っちゃうんだろうなぁって分かっちゃって。だって、初めてした相手だもん。忘れるはず何てないよねぇ」
「ぶっ! 知ってたのか!?」
「知らないはずがないよ。かずさは~、私の大親友で、春希君は~、私のだ~い好きな人だよ! 分からない、はずが、ないよ」
「…………」

 尚、沈黙は決して雪菜の言葉が痛かったからでなく、麻理と小春の冷たい視線に晒されたからの沈黙だった。答えは口にしない。だが、その沈黙が全てを語っている事をかずさは知らなかった。

「もし、選択が違ったらどうなってたのかな? 三年も待ってたのに最後の最後でミスって誰かにかっさわれる。アハハっ、最っ高に、みじめな女だね! それに、五年もたって昔の恋人とよりを戻されたりなんかしたら、もう失笑モノだよ?」

 スゲェ、めんどくさい酔っ払いだった。
 まぁ、依緒や朋の前ではあまり吐けない弱音と本音でもある。あの二人は今を心底祝ってくれるから、あの当時を如実に語る事が出来るから、笑い飛ばしてくれる事はない。だが、この場にいる三人なら今しかを如実に知らない三人なら笑い飛ばしてくれる、そんな気がしたから。酔っ払って尚、人の心を信じられる雪菜で、相手が相手だからこそ出た、まぎれもない本音である。
 尚、別の世界ではそこで泣いてますからねぇ。

「今が、全部だろ。雪菜。春希は雪菜を選んだ。あの時、春希が私の手を取っていたなら、私と雪菜は。うぅん、それだけじゃない。小春とも麻理ともこうしている事も出来ない。日頃、部長や依緒や柳原とも話せない」
「でも、さ。独り占めしたいと思わない? 私だけを見て欲しいって思わない」

 唇をかみしめる。幾ら勝者だからと言って聞いていい事と悪い事がある。
 ここで、敗者は敗者らしくみじめに偽りを重ねる事が正しい選択だろう。だが、かずさと雪菜は親友である。生涯を三人で歩むことの出来る親友である。だから、素直な言葉を選んだ。

「思わないはずがない。私だけを見つめて、私とだけ世界を作ってほしいと思わなかった訳じゃない。けど、けど。今、こうしていると思うんだ。もし、仮に春希と一緒に歩む未来を夢想して、それと今を比べても。今は悪い物じゃない。それに、決して劣るモノじゃない。ここには、ここにしかない人がいる。ここでしか出会えなかった人がいる。だから、思わない心が無い訳じゃないけど、私は決して今を、否定したりはしない」
「かずさ。ありがとう。大好きだよ」
「私もだよ。雪菜」

 二人の絆をじ~っと羨ましそうに見る麻理と小春。正直、話しについていけないし、中に入る事すら出来ない。








「でも、妊娠したらどうしよう。春希君の性欲って旺盛だし。困ったなぁ。その間に浮気されないかな」
「「「ぶっ!」」」

 話は唐突に変わって突飛な方向へと進んでいた。何がどうして、こうなったのかはきっと本人すらわかっていないだろう。だって、酔っ払いだもん。

「そっ、そんなに凄いんですか。先輩は」
「平均三回ぐらいだね~」

 ごくりっと三人は生唾を飲んだ。なんだ、その生々しい数字は。

「たまにいたずらする時はストッキング破いちゃうし。次の日は黒ストッキング履かないといけないぐらいに後つけられるし。首筋とかも、ね。学生の時は誤魔化すのが大変だったよ~」

 なんだ、その羨ましい悩みは。

「その、他にはどんな事をしたりとか? 後学の為に聞いておきたいです!」

 小春よ。聞いてもきっとみじめになるだけだぜ?
 だが、それでも女子として猥談に興味が尽きないのか、聞くことを止める事が出来ない。かずさも麻理も興味津々である。

「え~、他にはねぇ。お風呂で洗いっことか、後は春希君に服を逆に着せてもらったりとか、コスプレしたりとか。後は『ピーー』とか『バキューン』とか、『××××』とか? あぁ、それに『見せられないよ!』とか?」

 ぼしゅううと湯気を立てて倒れる小春と麻里。ちなみに、今回のピー音はガチで伏せ字である。さすがに、18禁板でもないのに、これを表現する事は出来ない。
 一人、かずさは小春と麻里が顔を赤くしているのを理解できずに首を捻っていた。ピアノとその向こう側にいる人間ばかり想っていたために、そういう猥談にはあまり造詣が深くはないかずさである。当然、理解できなかった。



「でも、どうしようか。その時は」

 さすがにその話題には触れられない三人。気軽に答える話題でもない。まぁ、三人が三人共その時がチャンスだとは微塵も思っていないのだからある意味では安心ではあるのだが。

「春希君。なんだかんだ言って人気があるんだよねぇ。意外な所から毎年チョコレート貰ってくるし。武也君に聞いただけでも、実は恋人がいるけどそれでも付き合ってほしいっていう人が、それなりにいるって聞いたし」

 いるんだ。結構な数が。

「ねぇ、かずさ。春希君が流れそうになったら一緒に引き留めてくれる?」
「いいけど、そんな事はないと思うな」
「ないとは思いたいんだけど。待ってた三年でマイナス思考に陥ると止まらない癖が付いちゃって。かずさと私のセットで一緒にしたら、さすがに離れないとは思うから、ね?」
「こらっ!」
「えー、でも。まぁ。かずさならいいかな? って」
「何ですか、その羨ましい立ち位置は。変わって下さいよ、かずささん!」
「死んでもかわってやらないからな!」

 酔った状態で負け犬同盟に亀裂を入れかねない、天然さに麻理は一人、戦慄した。

















 飲み過ぎてダウンした雪菜。それを解放して手持無沙汰になった三人は改めて飲みなおしている。だが、三人が三人共が気がそぞろである。

「あっ、つまみが切れた。コンビニに買ってくるよ」
「あっ、じゃあ。私が! ここは最年少である私が使いっ走りをすべきです。えぇ、そうですとも」
「いや、ここは私が行ってくる。何、年上の威厳をこういう時ぐらいは見せないとな」

 三人の間でバチバチと火花が散る。
 たかが買い出しに何を火花を散らせているのか。それには、雪菜が寝入る直前に吐いた言葉が問題だった。

『熟睡してる春希君って可愛いんだよ? 指を口元にやっていくと口に含んで舐めてくるの。子供みたいになんだか一生懸命。くすぐったいんだけど、母性本能が刺激されて、可愛かったなぁ』

 ただ、これだけである。だが、これが問題だった。

 三人に共通する心は、そんな春希を見て見たいっ! という欲望である。 この三人も大概酔っている。それも、正常な判断が出来ないレベルで。

 火花散らす三人は誰が出かけるか酒を飲みながら論議し、更に思考を低迷させていった。




















 結局、寒空の下を数駅分歩いて北原家へとたどり着いた三人。えぇ、結局決着つかずに三人で来ちゃいましたよ。

 だが、同時にその時には三人共酔いがさめていた。何で来ちゃったんだろう。そういう思考が三人の頭に蔓延していた。酔いに任せた行動でいい事はほとんどない。



 取りあえず、春希の部屋の前まで進む。
 ここでかずさも、麻理も、小春も苦笑を浮かべた。ここまで来た。けれど、こういう場合のオチとして大抵は鍵が閉まっていて、馬鹿な事をしたなぁっと笑い合って終わるのが常識である。
 三人が三人共、そう思っていた。


 かずさが、ドアノブを捻り、ガチャリと音を立てて開くまでは。

 この時、三人の心は一つになった。

 オイオイ、マジで空いちゃったよ。どうすんだよ、コレ。


 取りあえず、中に入る三人。まぁ、オチとしては起きているのがオチだよねぇ~という淡い期待があった。もう、ここまで来たら引くに引けない!


 結果、強盗に入られ尻を掘られても決して起きそうにない春希が寝ているだけだった。淡い期待は裏切られた。






 春希の寝顔を見ていると感じた事が少ない母性と、忘れようとしていた胸の奥に仕舞っていた感情がムクムクと育っていく。


 一つ聞きたい、お前ら本気で諦める気あんの?




















 過程はいらないだろうから、結論だけ述べる。三人共朝まで一睡も出来ませんでした。



後書き
 雪菜がメインを張る話を書く予定が最後の最後でかずさ、小春、麻理が暴走した。何でこうなったのかは作者すら分からない。気付いたらキータイプしてました。どうしてこうなったんだろう。あるぇ?

 さて、一つお知らせが。
 次に書く作品を期に、一度WHITE ALBUM2 SSを書く筆を置こうと思います。FDが出ればまた書くかもしれませんが一応は次で、当分は書きません。
 ラストは、このシリーズとは無関係の話です。ここに乗せる積りではありますが、全くつながりがなくついでにいうと雪菜EDのルートですらありません。
 期待は、しない方がたぶんいいと思いますw



[31879] WHITE ALBUMは終わらない *このシリーズとは関係ありません
Name: 雪儚◆d65b0b7d ID:90c0849b
Date: 2012/04/01 23:29
前書き この物語はこれより上にある『笑顔の未来』のシリーズとは微塵も関係のない物語です。雪菜ルートですらありません。
 そして、幸せな結末だけを見ていたい方、かずさtrueルートを穢ししたくないという方々はブラウザの戻るボタンを押して下さい。
 読まれる方は、覚悟をもってお進みください。













 これより語るは最悪の未来。数多ある世界の中の欠片の一つ。その中において最も過酷な可能性だけが詰め込まられた文字通り最悪の未来。

 見ろ、観ろ、聞け、聴けっ! そして、嘆くがいい。


 世界はかくも残酷なモノだという事を実感するといい。


 それでも。あぁ、それでも、尚っ――――――




































 ウィーン都市部の一室。そこには俺達の生活の匂いが染みついていた。
 部屋に境は無く、ベッドの横にはノートPCが鎮座している。家で仕事をしている最中であろうとも近くにいるという我儘を叶えるための措置。
 戸棚には溢れんばかりの甘味。そして、冷蔵庫には食材よりも数の多いジャムと大量のプリンとアプフェルシュトルーデル。
 欧州のウィーンであるというのにワインセラーに並ぶのはポートワインばかり。名産の白ワインがあるだろうに、全く買おうとしない。

 ここには俺達の匂いが染みついている。

 ここは俺とかずさの部屋。ここは俺達の部屋。そう、ここは、俺とかずさの部屋だった場所。












『仕事なんかしてないで、私を構えよ』

 ノートPCを見ると今でもすぐに思い出せるかずさの拗ねた顔。俺だけを欲したかずさ。傷を受けてでも、ピアノを捨てようとしてまで俺といる事を選んでくれたかずさ。
 だからといって仕事に嫉妬するというのはどうかと思う。仕事が無ければ生きていくことは出来ないんだから。ただ、それでも嬉しかった。仕事に嫉妬されるぐらいに俺は求められていたんだから。


『ピアノをやるにはお前が思ってるよりもカロリーを使うんだよ。気軽に摂取するには甘い物が一番なんだよ』

 そう言い訳しながら甘味を摘み、顔を綻ばせるかずさの顔。
 いつも甘い物ばかり食べるなと言っていたのにそれでもなかなかやめる事の出来なかった。甘味を食べた時の至福の表情を見るのが俺も癖になっていたからついつい買い与えてしまったのがいけないのも原因だろうけど。
 それでも食べすぎた時には注意をしていた。怒られた子供の様なシュンとした表情は見ているこちらの胸が痛くなるほどの顔だった。だが、俺が言ったからと我慢してくれた姿には喜びしか浮かばなかった。


『辛い酒は嫌いだ。甘い方が良い』

 夜、共に飲み交わす時にはいつもポートワインだった。ほろ酔い加減で流し目でこちらを誘ってくる姿は蠱惑的でどんな娼婦よりも淫靡で、俺を惑わせる最高の毒。
 コンサート直前から、触れ合いを断っていたせいか、ワインを共に飲んだ日は激しく求めあい、夜が明けるまで繋がりを求めていた。嬌声と共に俺を求める声。懺悔をしながらも俺だけを求める口。俺だけしか見つめていない瞳。俺を通して誰かを見ている目。その全てが愛おしかった。


『ずっとここで過ごしてきたけど、春希と一緒に見ると夜景も違うもんなんだな』

 窓から見える景色。ウィーンに住む人々の生きている証明を目の当たりにしながら静かに笑みを浮かべるかずさが綺麗だった。目の前の光景よりも、横にいるかずさの微笑の方が俺にはよほど印象的だった。そんな呆けた顔をクスクスとおかしそうに笑うかずさも、魅力的だった。



 数えればきりが無い俺とかずさの匂い。俺とかずさの生活の証。




 ここは俺とかずさの世界。
 俺とかずさしかいない他の全てを切り捨てた小さな世界。
 雪菜も、曜子さんも、武也も、依緒も、朋も、小木曽家も、グラフの皆も、そして、日本さえも切り捨てた俺達だけの小さな、小さな世界。



 俺がかずさの為に生きる事を誓った証の部屋。俺の人生すべてをかずさと共に生きる為にある部屋。

 かずさが俺の為に、ずっと役立たずでいてくれる事を、俺が頑張れるように、一生、俺の負担でいてくれる証の場所。




 日本を飛び出して、あの日から何も変わっていない。

11年前のあの日から変わらぬこの部屋。大きく変わる事のなかった部屋。変わる事の出来なかった部屋。
 そう、11年たって尚、俺達は二人だった。別に避妊をしていた訳じゃない。寧ろ、毎日のように何も考えずにお互いの体を求めあった。貪り合い愛し合った。
 だが、それでもかずさが妊娠した回数はたった3回。その全ても流産という最悪の結果で終わった。

 神に、咎人に祝福は与えないと頬を殴られたような気がした。罪人は罪人同士で、何も残せず死ねばいいと告げられた気がした。
 神を憎んだ事もある。恨んだこともある。だが、それに意味などないと何度も実感した。


流産の度に慟哭の声を上げるかずさ。かずさを抱きしめながらも俺もかずさに見られないように何度も涙を流した。


 そして、三度目の流産と同時に曜子さんの訃報が知らされた。懸命の治療に関わらず、帰らぬ人となった。

 それ以降、俺達のスキンシップは増した。目が覚めた時にかずさが泣きながらうなされている日が増えた。目が覚めた時、かずさが心配そうに俺を見つめている日が、以降増えた。
 一人にさせられない事情も、一人になれない事情も増えてしまった。


 結局、咎人である俺達はお互いに傷を舐めあい、涙を舐めあう事でしか生きていけなかった。

 咎人に神の祝福は無い。神が身近におわすこの地にて俺達はそれを実感して、生きていた。
 神に祝福されずとも、それでも同じ大罪人であるかずさがいるから、俺達はそれでも小さな幸せを噛み締めて生きていけた。生きていくことが出来た。








 だというのに、だというのにっ、だというのにっ!


 ここは俺とかずさの二人だけの小さな世界だっていうのにっ!

 どうして、どうしてっ、どう、してっ!

 俺しか、いないんだよ……………………答えてくれ……………………………………………………かずさ。





























「あ゛ぁ”あ゛」

 分かっている。そんな事分かりきっている。
 あぁ、そうだ。かずさは死んだんだ。

 曜子さんと同じ病。ただ、それと同時に風邪を患ってしまってそれが災いした。ただの風邪だったモノが数日もしない内に肺炎となり、そしてあっけなく命を奪ってしまった。
 たった数日前まで元気にピアノを弾いていたかずさ。こちらが呆れる程に俺に甘えてきたかずさ。窘めるぐらいに甘いモノを口に頬張っていたかずさ。


 だっていうのに、たった数日で帰らぬものとなってしまった。






 今でも、かずさが傍にいない事が信じられない。探せばどこかにいると思ってしまう俺がいる。
 だけど、葬儀の準備をしたのも、棺に納められ埋められたかずさの事も俺は覚えている。俺は、覚えているっ!





 もう、この部屋にしかかずさがいた証はない。だけど、この部屋程、かずさがいない事を実感させてくれる場所はない。


 ベッドを眺める。そこには俺に甘い誘惑をしかけ堕落させ肌の温もりを求める主はいない。
 戸棚と冷蔵庫を眺める。そこを空け、中身を取り出して笑みを綻ばせる主はいない。
 ワインセラーを見る。そこに鎮座されたポートワインが封を切り飲み干す主は、もう、いない。



 部屋を眺めて、胸に刻まれるかずさのいない証。


 微かに、かずさの匂いは残っているのに。この部屋は、もう一人の主を、もう一人の咎人を待ち続けているというのにっ! 



 かずさが、いないっ!











「あ゛ぁ”あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛」

 その事実を認識するだけで、胸の奥から例えようもないモノが湧きあがる。
 掻いても掻いても、拳を叩きつけたとしても、爪を立てて抉っても、解消されることはない。それが消え去る事は無い。

 胸から刺激を与えても、背中から刺激を与えても決して届くことはない、胸の奥の方にある形容しがたいモノの元。

 心臓ではなく、左肺のちょうどど真ん中に位置する場所から発せられるその、形容しがたいモノ。

 痒いとも、痛いとも、疼くとも、辛いとも言えないその感覚。その全てを混ぜたようで、その全てとも違うイタミ。


 耐え難く、どれだけ掻き毟っても、別の痛みを与えたとしても消える事は無いイタミ。
 その痛みが取り除けるのならば喜んで包丁を胸に突き入れたいという、そんな破滅的な欲求さえ生まれるイタミ。




 その、イタミに耐えきれずに包丁を何度手に取った事か。何度、包丁を胸の前に置いた事か。体から抉り出して、握りつぶそうと思った事か。

 イタミを取り除いて、このかずさのいない現実から逃れようと思って、かずさがいる世界へといこうと思って、何度、包丁の先端が胸に届いた事かっ!



 それでも、それでも俺はこうしてここにいる。

 その度に、その度に浮かぶかずさの声。

『あたしから解放されて、力を抜いて、ずっといつまでも生きてくれ』

 あの日、俺達が二人でいる事を完全に決め、これからについて語り合っていた日に告げられた言葉。
 その前に、俺が後は追わずに歯を食いしばってでも生きてみせると言った事を肯定されての言葉だった。

 あぁ、かずさ。俺はあの時、そう言ってしまったけれど。今は、今は、後を追いたいよ。
 歯を食いしばってでも生きていたくなんてない。かずさがいない世界なんて、俺には、俺には…………………………………………耐えきれない。









「あ゛ぁ”あ゛あああああああああああ――――――――――――――――――――」

 なんだよ。なんだよ。さっきから聞こえてくるこの耳障りな声は。
 俺は、かずさとの思い出に浸っているって言うのに。俺は、かずさがいない現実を認めずにいるっていうのに、この耳を打つ汚い声はなんなんだよ。

 この部屋には俺しかいない。俺しかいないっ!

 なのに、何で人の声が聞こえてくるんだよ。まるで、まるで、俺が哭いているみたいじゃないかっ。

 もう、涙は出し尽くしたっていうのに。もう、声は枯れ果てたっていうのに。どうしてっ!


「あ゛ぁ”あ゛あああああああああああ――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――」


 あぁ、やっぱり頭をかき回す雑音は俺のせいだ。俺が出しているんだ。声はもう出ないと思ったのに!

 そう分かった途端、目の前がまた、真っ赤に染まった。












































「やめて、春希君!」

 俺の腕を抑える力と俺を諌める声。

「もう、自分を傷つけるのはやめてよ、春希君!」
「雪………………………………菜…………………………………………………………………………?」

 目の前にいたのは、雪菜。
 ハハハハっ! ついについに幻覚まで見るようになったのか。オイオイふざけるなよ、俺。見るのならかずさの幻覚を見せてくれよ。せめて、幻覚でもいいからかずさに合わせてくれよ。

 あぁ、それとも俺に幻覚を見せているのは神様なのか? だとしたらなんて適任だ。俺を罰するのになんて一番適任な彼女を出してくれたんだ。あぁ、あぁ。でもでも。神よ、それはあまりにも残酷過ぎないか? 命奪うのならせめて、幻でもいいからかずさに、かずさに合わせてくれ。

「そうだよ。私だよ! ここにいるよ! 幻でも偽物でもない、小木曽雪菜だよ!」

 馬鹿な。ここはウィーン。俺達がいる国で、雪菜がいるべき国じゃない。日本じゃないんだ。



 俺達は結局日本へと二度と足を踏み入れる事は無かった。神に罰せられたあの日以来、結局日本の話題は俺達の口からは上がらなかった。
 いくら、雪菜が許してくれようとも。幾ら、雪菜が三人でいる事を願っていてくれたのだとしても、俺達は出来なかった。俺達はあまりの恐怖に身が竦んで進むことが出来なかった。



 だから、だから、雪菜がいるはずがないんだ。ここに、雪菜がいるはずがないんだ!

「いるよ。ここに。私はいるよ。かずさに、会いに来たんだ。二人が会いに来てくれないから。私も会う勇気がなかったから来れなかったけれど、最後ぐらいは会いたいって思って! ねぇ、春希君。かずさに、かずさに会わせてよ」

 あぁ、雪菜。ここにいるのは間違いなく雪菜だ。

 裏切られて、傷つけられて尚、それでも俺達の傍にいようとしてくれた雪菜。俺が知っている十一年前から時を止めてしまった雪菜だ。

「春希君。手、怪我してるよ。ちょっと手当てしよう」

 雪菜に言われて手を見ると、ダクダクと止まる事を知らない血の流れが、絨毯を汚していた。気付いてみるとジクジクと腕が痛む。
 そしてそれ以上に目を覆う光景が目の前にあった。今までかずさがいた証明をしてくれた部屋が無残な形に。見る影もない。

 俺は、その惨状に茫然として雪菜の言葉に従って手の治療を始めた。






だけど、それでも俺の胸の内に巣食うイタミは消えてくれてはいなかった。











「っつ」
「ガラスは入ってないみたいだから。後は、包帯を巻いておけば大丈夫だよ」

 手の治療をしながら無理に笑顔を浮かべているのが見え見えな雪菜。他人を気遣える雪菜だからこそだろうか。それとも俺だからこんな表情を浮かべていてくれているのだろうか。疑念は尽きない。

「他に痛い所はない?」
「……………………大丈夫」

 こちらを真摯に気遣う目。俺達が過ごした二年間そのものの雪菜の瞳。
 だけど、そう言われても俺はもう、怪我をしている所は手しかないから。この胸の奥で軋み続けるイタミは外傷じゃなくて、医者ですら治せない心の傷か、魂の傷。
 例え、雪菜であろうとも治せない。

「どうして、ここへ?」
「テレビに流れる前に朋に聞いてね。知ってるでしょ? 朋、テレビ局にいるから情報が早くて、だから知ってすぐに準備してここに着たの。お葬式には間に合わなかったけどね」

 雪菜は、かずさの死を悼んでくれていた。俺達は雪菜をあんなに傷つけたのに。あぁ、そうだ。9年前に送られてきたあのビデオレター。あの時も、もう俺達を許そうとしてくれていた。
 また、三人で笑いあえる事を信じていてくれていた。

 だからだろう。こんなにも、雪菜がかずさを悼んでくれている。かずさを心から弔ってくれている。

「かずさに、会いたいな」
「あぁ、そう、だね。連れて行くよ」
「うん、でもそれは明日でいいよ。今は、ね」

 気付けば、ぎゅっと優しい感触で俺の頭が雪菜の胸の中に納まっていた。さりげない動作で、全く気付かなかった。それとも、俺はそれに気付けない程に疲れているのか。

「ねぇ。春希君。かずさ。もう、いないんだね」

 止めてくれ。

「もう、お話出来ないんだね」

 止めてくれ。止めてくれ。

「もう、かずさのピアノ、聞けないんだね」

 止めてくれ。止めてくれ。止めてくれ。

「もう、かずさは、かずさはもう…………いないんだ、ね」

 止めてくれ。止めてくれ。止めてくれ。止めてくれ。
 そんな辛い現実を俺に認めさせないでくれ。今でも思い出せば、かずさは目の前にいるのに。今でもかずさの香りが残っているのに。今でもかずさの声が耳に残っているのに。

 今でも、今でもっ!


 俺に、俺にかずさの死を認めさせないでくれ。雪菜ぁ。

「ねぇ、春希君」

 じっと、子供を見守るような目。俺が俺であることを求める目。俺が、俺らしく正しくある事を望む目。あぁ、そうだな。あぁ、そうだな。

 北原春希は、きちんと認めないといけないよな。俺は、認められる人間でないといけないよな。雪菜、君を裏切って傷つけてしまった俺だけど、それだけは、それだけは変わらなかったんだから。

「あぁ、いないよ。かずさは。もう………………………………………………………………いない」
「そっか。そっか。うっ、くぅ。うぅううううううううううう」
「あ゛ぁ”あ゛あああああああああああ――――――――――――――――――――」


 喉が張り裂けんばかりに俺は、雪菜の胸の中で泣いていた。
 やっと、かずさがいない事を認められたから。やっとかずさがいない現実を見てしまったから。

 そして、俺と同じく、かずさを愛している人が目の前にいるから、俺は、俺は、やっとやっと、本当の意味で、かずさを亡くしたことを理解して涙を流せた。




 俺と雪菜、二人していつまでもいつまでも、泣き続けていた。






























 耳朶を打つ優しいピアノの音色。いつも聞いていたその音。ほんの少し前に聞く事の出来なくなった音。二度と、耳にする事の出来ない音。それが、この耳に届いていた。

 眼を開ける。そこには、ピアノに向かいあい、俺が知っているいつもと同じかずさがそこにいた。そこに、かずさがいた。

「かずさ、かずさっ、かずさっ! かずさぁっ!!」
「おい、どうしたんだ。春希。何、泣いて抱き着いて。あぁ、こら。そんなに強く抱き着くなよ。嬉しくて手が止まるだろ」
「かずさ、かずさ、かずさぁああ」
「もう、どうしたっていうんだ。春希。子供みたいに泣きじゃくって抱き着いて。そんなにあたしが恋しかったのか」
「会いたかった。会いたかったぁ」
「どうしたっていうんだよ。本当。でも、凄く嬉しい。そんなに求めてくれて」
「かずさ」
「ほら、よしよし」

 かずさの白魚のような細い指が俺の髪を梳き、頭をなでる。いつ以来の感触だろうか。俺がかずさの頭をなでる事はあっても、かずさが俺の頭を撫でる事は滅多になかった。俺が恥ずかしがったという理由が大半だが、本当にいつぶりだろうか。


 頼む、頼むよ、神様。俺は多くの人を傷つけて踏みにじった大罪人だけど、どうかどうか、この夢を覚まさないで。夢であるのならば、覚めないでくれ。ここに囚われ、二度と戻れなくてもいいから、夢よ、どうか、覚めないでくれ。

「なぁ、春希。もし、もし、あたしが先に死んで、お前が生きていたら」

 心底欲していた温もり。だけど、かずさの口から出るのは………

 止めてくれ。

「あたしから解放されて、力を抜いて、ずっといつまでも生きてくれ。そして、もし、そんな時が来る事があったら、雪菜と仲直りしてくれ。あたしが死んでからなら、許す。雪菜のところ、帰ってもいいから」
「嫌だ」
「春希?」
「嫌だ、嫌だ、嫌だっ! いなくなるなんて言うなよ。先に死ぬなんて言うなよ。俺が死ぬまで生きろよ。一緒に、死んでくれよ。俺を残してなんか行かないでくれ」
「春希」
「傍にいてくれ。俺の傍にずっといてくれよ。死ぬなよ」
「なぁ、春希。あたしはみんなを不幸にして手に入れた幸せだけど、それでも心の底から浸ってた。今でも浸ってる。それは一度は確かに親友だった大好きな雪菜を世界で一番不幸にして出来た幸せ。それはあたしを世界で一番愛してくれているあなたを世界で一番の大罪人にして出来た幸せ。罪を犯したんだ。だけど、だけど、さ。今の幸福感は、どんな悲しみや、辛さや、後ろめたさでも絶対に消す事はできない。例え、雪菜を傷つけ、春希を大罪人にしたという事実であっても」
「かずさ」
「けど、さ。思うんだ。あたしはこんなに幸せだ。辛い事もあったけど。苦しい事もあったけど。神様を恨んだこともあったけど、あたしは幸せだったって胸を張って言える。だけど、春希はどうなんだろうって。こんな重荷を背負って苦しんでいる春希は幸せなのかなって」

 戸惑う視線が絡む。だけど、馬鹿な事いうなよ!

「言っただろ。俺の為に役立たずでいてくれって! 俺が頑張れるように、一生、俺の負担になってくれって言っただろ! 重荷? 当然だよ。重荷だよ! だけど、な。荷物って言うのは、大事だから持ってるんだよ。捨てる事なんて絶対に出来ないから荷物なんだよ。苦しい思いをしても、重みに耐えきれず崩れそうになっても荷物を捨てないのはそれが一番大事だからだよ! 命よりも、俺の命よりも大事だから、絶対に手放せないんだよ!」
「春希。ありがとう。愛してる」
「やめろ。そんな別れの言葉みたいなのを聞きたくない」
「愛してる、春希」
「笑わないでくれ。そんな綺麗な笑顔で笑わないでくれ。いかないでくれよ。かずさ」
「気楽に………生きてくれよ………………春希」
「かずさぁあああああっ!」

 滲んでいく視界。ぼやけていくかずさ。消えないでくれ。消えないでくれ。俺を置いて、消えないでくれかずさっ!

































「かずさぁあああああっ!」

 眼が光を映して、部屋を映す。そこは惨劇が起きたと呼ぶにふさわしい光景。
 ジクジクと手が痛んだ。そこには確かに巻かれた、僅かに血の色の浮かぶ真っ白な包帯。そして、俺の傍らには寝入っている雪菜。

「あ゛ぁ”あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛」

 喉をバリバリと掻き毟る。爪をつき立て、赤くなろうとも掻き毟る。それでも、それでもこの現実/夢は覚めない。

「あ゛ぁ”あ゛ぁあああああああああああああああああああああっ!」

 かずさがいない。夢で逢えたかずさがいない。かずさがいない。かずさがいないっ。かずさがいないっ! かずさがいないっ!!


 何度も何度も頭を壁に打ち当てる。それでもこの現実/夢が覚めてくれる事は無い。

 かずさがいない、この現実/夢はっ!!

「…………希……っ!」

 ノイズが聞こえる。

「は…………る…………………………く…………っ!」

 ノイズと何かが俺の体の動きを阻害する。俺は、俺はっ!

「春希君っ!」

 バシンと部屋に鳴り響く盛大な音と、頬に鋭く突き刺さる痛み。

「何してるのっ! 春希君!」

 目の前には怒り心頭でありながらも、涙が滂沱となっている雪菜の顔。そして振りぬいた形の掌。

「しっかりしてよ、春希君!」
「……………………雪菜」

 ただ、それだけしか俺には言えなかった。
 かずさのいない現実を俺は認める事は出来ても、かずさのいない現実に、俺は、結局耐えきれていない。

「帰ろう。見てられないよ、今の春希君は。帰ってゆっくりしよう?」

 帰……………………る?
 何処へ、帰るんだ。

「日本だよ。私達が生まれた、国だよ!」

 あぁ、そうか。日本か。日本なのか。

 けど、けどさ。雪菜、そこはもう俺の帰る場所じゃないんだよ。そこからはじき出された俺は、もう日本には帰れないんだよ。あの日から、俺の帰る場所はかずさがいる場所になったから。
 俺が帰る場所は、もうどこにもないんだよ。かずさがいない今は、もう、もうどこにもないんだ。この家でさえも、もう、帰る場所じゃないんだ。俺にとっては。

「武也君も、待ってる。依緒も、朋も! みんな、春希君が帰ってくるのを待ってるよ」
「俺はそいつらを傷つけた。最悪の形で裏切った。雪菜、君を一番傷つけ、裏切って」
「十年だよ! もう、あの日から十年も立ってる。過去は水に流せないけど、それでも寄り添う事は出来る。見つめるには十年っていう時間は十分過ぎたよ。帰ろう。待ってるよ、皆が。もし、許してくれない人がいるなら私が説得するよ。だから、帰ろうよ、春希君」

 帰る。帰る。帰る。

 何処へ?

 かずさがいないのに? かずさとの思い出が未だに残っている東京に? かずさを置いて?


 それは、それは……………………

「……………………………………………………出来ない」

 あぁ、出来ないんだよ。雪菜。もう、それは選べないんだ。

「どうしてぇ?」

 涙を滲ませないでくれ。いや、俺が悪いんだ。それも、当然だよな。

「かずさを置いてなんて、出来ない」
「なら、お墓を移そう? 日本に移せば、いつでもかずさに会えるよ!」
「それでも、出来ない」

 出来ないんだよ、雪菜。

「春希君!」
「出来ないんだよ。出来ないんだ。許されるのならかずさと一緒でないと。かずさと一緒に、日本の地を踏むって決めてたから。俺達は二身一体の大罪人なんだ。だから、片方だけ許されるなんて、出来ない。それに、それにっ!――「ねぇ、春希君。実は、ね。かずさから少し前にメールを貰ったんだ」

 えっ?

「ほんの一週間前なんだ。内容はただ、春希を頼むって。連れて帰って、人並みの幸せをうんっと与えてくれって。まるで、自分の死期を悟ってたみたいに」
「なん、だよ。それ」

 嘘みたいな話だ。話、だけど。雪菜の眼は嘘をついていない。そして、かずさなら、それぐらいやりそうだ。

「帰ろう。かずさを忘れるなんて出来ないと思う。だから、忘れないように、私と一緒に抱えて生きよう?」

 優しい声が俺に降り注ぐ。天から釣り下がる蜘蛛の糸の様に、俺を光射す場所へと誘う救いの声。
 だけど、だけど。それなら、かずさは、どうなるんだよ。俺一人がそこに行ってかずさは!

「春希君、かずさは、もう、いないの」

 それは、死人などほおっておけばいいという声じゃなかった。雪菜がそんな事をする女じゃないことぐらい知っている。それは、それは、本当に優しく残酷な現実を突き付けてくれている。

 そう、死人に触れる事は誰だって出来ない。死者を誘うは、生きている俺達では出来ない。

「まだ、春希君には40年以上も時間がある。それをずっと孤独で生きていくのは辛いよ」

 あぁ、そうだろうな。
 今だって孤独に震えて死にそうになっている。かずさがいない。それだけでこんなにも耐え難い。

「子供を育てて、孫を見守って」
「うん、うん!」
「苦労するけど、その度に笑い合って、愚痴をこぼして、それでも最後には大勢に囲まれて」
「うん!」
「だけど、ごめん、雪菜。それは、かずさと思い描いた未来なんだ。それ以外の人とは、描くつもりもない」
「えっ?」

 笑顔で頷いていた雪菜の表情が凍る。
 俺は、また雪菜を傷つけるのか。こんなにも優しく素敵で、女性として魅力あふれる彼女をもう一度傷つけるのか。
 こんな俺を追って来てくれた雪菜を傷つけるのか。始まりのあの冬の様に。俺がもう一度、完全にかずさの手を握ったその時のように。


 俺はまた、雪菜を泣かせて傷つけるのか。





 だけど、だけどっ!

「ありがとう、雪菜。そういってくれるのは嬉しい」
「やだ、やだ!」
「それでも、俺は」
「ずっとずっと待ってた! 二人を待ってた! この十年、ずっと待ってた! 三人に戻れる日をずっと待ってた。なのに、なのに! なんで春希君はそういう事を!」

 待ってて、くれたのか。俺達が戻れる日を。ずっと。
 きっと、雪菜に声をかける人は多かったろうに。俺よりもいい男なんて腐る程いただろうに。それでも俺を待っていてくれたのか。

 ………………………………………………………………すまない、かずさ。



























 


「それでも俺は、日本へいけない」
「どうしてぇ」
「俺はもう、二度とかずさを裏切りたくない。この気持ちを偽りたくない」
「私と傍にいてもそれは裏切りにはならないよ!」
「それでも、ダメなんだ」

 雪菜と一緒にいたら、きっと幸せに浸れてしまう。きっと、雪菜をもう一度好きになってしまう。雪菜と一緒に未来を歩んでしまう。今度こそ。

 俺は弱い男だから。俺は簡単に流されてしまう男だから。




 君といた未来の先に、その時まだ、かずさを一番で愛せている自信が、ないんだ。


 傍にいる雪菜を、一番に愛しているだろうから。その時には雪菜との子供が雪菜と同じぐらいの場所にいるだろうから。


 俺は、かずさを愛している。かずさを一番愛している。俺は、これからもかずさを一番で愛し続けたい。



「ゴメン。もう、俺は、雪菜の知っている俺じゃないんだ」

 俺達三人が初めて揃った冬の日に、かずさを選んで別れの日まで歩んできた俺で。そのまま生き続けて、かずさだけの為に生きてきた俺なんだ。かずさっていう幸せな重荷を背負って生きてきた人間だ。もう、俺は、雪菜の知っている俺じゃないんだ。

「春、希…………君」
「朝食、買ってくるよ。かずさに参った後、別れよう。俺達の道は、もう交わっちゃいけない」











 背中から雪菜の慟哭が聞こえる。その声に、声が収まるまで寄り添いたい気持ちにかられる。
 だけど、間違えるな。北原春希。俺はまたかずさを選んだんだ。生きている雪菜よりも、死んでいるかずさを。今まで生きてきたかずさとの思い出を選んだ。



 玄関を開ける。視界に入ってくるそれ。それはいつものように降って来ていた。
 いつも俺達の分岐点に現れ、辛い事、悲しい事を時期限定で覆い尽くす、白い幕。
 白くて、儚くて、優しくて……けれど、厳しい寒さを、冷たさと共に運んでくる。



 やっぱり、降るんだな。

 まるで、俺の罪を消そうとするかのように、記憶から覆い隠してくれようとするかのように、雪は舞い落ちる。





 雪よ、どうか。また俺が傷つけてしまった人が、今度こそ人並みの幸せになれるように。もう一度、一生掛けての願いだ。

 雪よ、雪よ、どうか。俺の罪を覆い隠さないでくれ。俺は罪と共に生きていく。


 雪よ、雪よ、降るし切る雪よ! どうか、どうか、記憶から覆い隠さないでくれ。俺から、この痛みも苦しみも奪わないでくれ。かずさを、奪わないでくれ!











 胸が軋む。掻き毟りたい胸のイタミがまた走る。
 それでも、それでも俺は振り向かない。振り向けない。





 何故なら俺は、かずさの最後の願いを聞き入れられない程に――――――――――――――――――――――――――――――――――――












 ―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――かずさを愛しているから。


































 ――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――それでも尚、ここに確かに、愛はある。













後書き
 うん、どうしても書きたかったんだ。途中で書きながらRCL/i8QS0さんの作品を読んでからずっと。これは誰も幸せになれない物語ですし、これは雪菜を傷つけるだけの作品だけど、一つだけ覚えておいてほしい事があります。これは、『愛』の物語だと。雪菜が出ていても、これは春希とかずさの物語であることを。
 さて、おやおや。不思議に思っておられる方がいらっしゃるようだ。えぇ、そうです。その通りです。やはり、分かりますよね。ならば、どうぞ、感想掲示板をお開き下さい。えぇ、どうか、その時は今以上の覚悟をもって進んでくださいね?


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