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[32434] さようなら竜生 こんにちは姫生(完結 五話加筆 竜♂→人間♀ TS転生 異世界ファンタジー)
Name: スペ◆20bf2b24 ID:e262f35e
Date: 2012/05/16 23:14
 むかしむかしある所にそれは強くて大きくて古い竜がおりました。
 良い神様たちと悪い神様たちが力を合わせても勝てないほどすごい竜でした。
 ですがその竜はすこし、いえかなりのお馬鹿さんで、優しく、強く、大きく、そして寂しがりの竜でした。
 竜の周りには分身とも呼べる兄弟達や同じ竜の仲間がたくさんおりましたが、竜は寂しさを埋めきれず、神々が創りだした人間達が生きる地上で暮らすようになりました。
 竜は地上で暮らし始めてから嬉しい事、悲しい事、寂しい事、楽しい事、たくさんの事を経験しながら長い時間を生き続けました。
 
 ですが、何時からでしょう。
 竜は生きる事が退屈になり、心が動く事がほとんどなくなって行きました。
 それは数えるのも億劫になるほどの長い生の中、親しくしていた人間達に幾度となく裏切られたからかもしれません。
 あるいは地上の生き物たちが些細なことで争いを起こし、世代が変わり時代が変わっても争いをやめない事に失望したからかもしれません。
 それとも単純に竜が長く生きすぎたことで、生きることそれ自体に倦み、疲れてしまったからかもしれません。

 そんな風に生きる事に疲れを覚えて飽きていた竜が、自分を殺しに来た七人の人間達を返り討ちにせず、わざと殺される道を選んだことはある意味では必然と言えたでしょう。
 竜は自分の心臓が冷たい剣の刃に貫かれ自分の命が尽きるのを感じながら、これでようやく退屈から解放されると喜んだのです。
 自分を殺した人間達を恨んだり憎んだりするどころか、自殺の手伝いをさせてしまって申し訳ない、そう考えているほどでした。
 ですがいよいよ竜の肉体が死を迎えて一度は眠りに着いた竜が、次に目覚めた時には考えもしない事が起きていました。

 一番偉い神様さえ超えるほど強大な魂を持っていた竜は、死んで冥界に行った後も転生の輪に加わる事はなく、そのまま永劫の眠りに着く筈でした。
 しかし、竜は気付いた時、冥界の奥底ではなく人間の女性のお腹の中に居たのです。
 そう、竜は数え切れないほど自分を裏切り、友となり、敵となり、愛した人間という種族へと生まれ変わったのです。
 そして生れ変るのは一度だけではありませんでした。
 人間に生まれ変わり、人間として死に、その後も竜は人間ばかりではなくエルフやドワーフ、犬や猫、鳥や魚、虫や花などの魂を持つあらゆる命へと生まれ変わり続けたのです。
 これは生まれては死に、死んでは生まれ続ける生と死の輪廻を繰り返す竜のある一生のお話です。


さようなら竜生 こんにちは姫生(竜♂→人間♀ TS転生 肉体的には百合)


 私はジーナと申します。
 イルネージュ王国第三王女レアドラン・クァドラ・イルネージュ姫殿下にお仕えする侍女でございます。
 私がお仕えするレアドラン姫殿下は、現国王ジュド陛下と側室であらせられた今は亡き第二王妃スノー様との間にお生まれになった方です。
 スノー様は平民の出で、その美貌がジュド陛下のお目にとまり王宮に召し上げられた方でございました。
 美しいばかりではなく大変に心のお優しい方であったスノー様は、第一王妃であり国母でもあるローザ様とも親しくされ、レアドラン姫殿下も異母兄弟である兄王子様や弟王子様方とも親しくされております。

 まことに残念な事にスノー様はレアドラン姫殿下が八歳の頃にお亡くなりになってしまいましたが、レアドラン姫殿下は明るさを失うことなく葬儀の際も健気にも胸を張り、それは御立派な態度で臨まれておられました。
 私がお仕えするレアドラン姫殿下でございますが、幼き頃より大変聡明かつ穏やかな御気性で、また王家の血が流れている事をはっきりと感じさせる高貴さと、並みならぬ威厳をお持ちでいらっしゃいます。
 王女ではなく王子として産まれていたなら、次期国王へと望まれていただろう、と重臣の方々やあるいは宰相閣下や国王陛下さえ口にしていたという噂が立つほどでございます。

 姫殿下は王族に必要とされるあらゆる学問や教養を積極的に学ばれ、とくに体を動かす事に関しては貪欲と言っていいほどだったかもしれません。
 王女というお立場ながら武術や軍事にも大変興味を示され、兄王子様や国王陛下の鍛錬の最中に足を伸ばされては、修練場の片隅で練習用の木剣を手にしている御姿を良くお見かけいたしました。
 幼い姫様が兄王子様や国王陛下の真似をして木剣を持ち上げようとする姿には、私どもだけでなく、その場にいた騎士の方々や国王陛下も微笑ましいものをおぼえたものでございます。
 ただ余りに聡明すぎるせいなのか、レアドラン姫殿下はスノー様が御存命の頃より周囲を驚かせるような行動を何度も何度もされており、私もお仕えしている間に思わず心臓が止まってしまいそうな心持ちになった事が幾度となくあります。
 そうそう例えばレアドラン姫殿下が十一歳の春のころには、このような事がございました。



 イルネージュ王国王都プラティセルバの郊外には、王都を守護する飛竜騎士団の駐屯する砦がある。
 飛竜は角を生やした大型の爬虫類を思わせる頭部、長く伸びた首、鋭い爪の伸びる四本の足、硬い鱗に鎧われた逞しい胴体とその臀部から伸びている長い尻尾を備え、咽喉の奥からは燃えさかる炎の息吹を吐く。
 その飛竜に跨り自在に空を掛ける竜騎士は、騎乗用の大型鳥類を駆る飛鳥騎士、天馬を駆る天馬騎士と並ぶ希少な航空戦力であると同時に最強の兵種の一つとして名高い。
 最も目立つ戦場の華の一つであり、王国の男子であれば誰しもが一度は飛竜の背に跨り天空を舞う事を夢見る。
 女は屈強な飛竜に跨り自在に操って空を雄々しく優雅に舞う竜騎士達に恍惚と蕩けた視線を送り、それを受けた竜騎士達は飛竜と共に空を飛び、自分達だけが見られる空の高みを誇る。
 それが飛竜と飛竜を操る竜騎士という存在であった。

 王国におよそ一千騎存在する飛竜を操る騎士団の中でも、最精鋭と名高い王国近衛騎士団所属の紅蓮飛竜騎士団は、王国の最重要地である王都防衛のため王都の近くに根拠地を置いているのだが、その日だけは常とは違う喧騒に包まれていた。
 石壁に囲まれた紅蓮飛竜騎士団の砦の内部は、練兵場や兵舎、鍛冶工房、更に飛竜達が日常のほとんどを過ごす巨大な竜舎が軒を並べている。
 その正門広場には白い箱馬車が止められており、豪奢に金銀をちりばめた装飾と車体に輝く擬人化された月と太陽の王国の紋章が、この箱馬車の主が王族に連なるものである事をなにより雄弁に語っている。
 この日、紅蓮飛竜騎士団の根拠地であるラバン砦は、イルネージュ王国で最も貴い血統を継ぐ者の訪問を受けていたのである。

 しかし砦の中には腰に剣を帯びて平服で砦の中を歩く兵士や騎士達の姿が散見され、さらに彼らの様子が普段と変わらぬものである事から、今回の訪問が事前の連絡を行っていない唐突なものである事が伺える。
 まだ砦の内部に王族来訪の知らせが行きとどかぬ中で、その混乱を引き起こした当の本人はと言えば、数名の侍女と護衛の騎士、そして案内役の竜騎士を伴ってラバン砦の心臓とも言える竜舎にその姿があった。
 ラバン砦に事前の連絡なしに訪れたのは、誰あろうイルネージュ王国第三王女レアドラン・クァドラ・イルネージュその人であった。

 紅蓮飛竜騎士団の保有する飛竜達が普段暮らす竜舎は、牛馬を超える飛竜の体の大きさにあわせて、ちょっとした屋敷ほどもある広さで作られている。
 その竜舎の分厚い鉄の扉が嵌めこまれた入口にレアドランがいた。
 レアドランは端的に言えば美しい少女と言えた。
 本物の黄金が風に靡いているかの如き黄金の髪は艶やかに流れ、降り注ぐ陽光を弾いて球の粒に変えて絢爛と輝いている。
 黄金の髪の上には王女の立場にある事を示す、小さいが純銀と大粒のルビーがあしらわれた恐ろしく精緻な飾り細工が施されたティアラが、レアドランの美貌を引き立たせながら自身の輝きもまた主張していた。
 絶世の美女として知られた母スノーの血が確かに流れている事を知らしめるかの様な肌は、未踏の処女雪の如く白く透き通り、肌の下で高貴な血を流す血の管がうっすらと青く見えた。

 山と積み上げられた金塊も色褪せてしまうほどに美しい金の瞳は、イルネージュ王家の血を引く者の証である。
 その瞳に年不相応の、見つめる者の魂の底まで見通すかのような神秘的な光を宿し、あたかも数百年を生きる賢者の如く老成した雰囲気を持つのが、レアドランという王女であった。
 だが誰もこの王女の真実を知らない。その肉体は確かに人間たる父母より賜りしものであったが、肉体に宿りし魂がかつて神々さえ畏怖した古の竜のものであることを。
 この美しき金髪金眼の王女こそが、数え切れぬ転生を重ねた竜の今生の姿であった。

 唐突に何の前触れもなく、それこそ春の訪れを告げる強風のようにいつの間にかやって来ては、その場をかき乱す行動力と突然さに定評のあるレアドランの傍らには、急遽エスコート役を命じられた紅蓮飛竜騎士団三番隊隊長ベルナーの姿があった。
 代々竜騎士を務めて来た名家の出であり、ベルナー自身もイルネージュ王国の竜騎士の中で十指に数えられる名騎手である。
 青く染めた絹地に白い刺繍のある軍服の上に紅蓮のマントを纏い、腰にはゆるやかに刀身が反ったサーベルを佩いている。
 ベルナーはまだ三十代半で経験と肉体がもっとも脂の乗った時期にあり、鍛え抜いた肉体は巨岩の様な堅牢さと猫科の生き物の様な瞬発力を併せ持ち、竜から降りても並みの騎士四人分の働きをしてのける豪傑である。

 飛竜と共に空を飛ぶ事と武術にばかり人生を費やしてきたベルナーは、正直言って王族のエスコートなど、ましてや扱いにくい小人と女人の両方を兼ねるレアドラン姫の扱いなどは、まっぴらごめんというのが本音である。
 政治のせの字を耳にするのも嫌だと公言憚らぬベルナーではあったが、国王が妾妃スノーとの間に設けた娘が麒麟児と噂されている事は流石に耳にした事はあった。
 実際目の前にして見れば、やけに落ち着き払った冷静な態度を持ち、他の王族とは異なる重厚な威厳を纏い、なるほど確かに母である妾妃の面影の色濃い美貌は本物であると認めよう。
 いや、十分に普通の王族ではないが、とベルナーは竜舎の中から零れて来た飛竜達の匂いに、周囲の侍女やレアドランの専任騎士が顔を顰めるのを横目に見ながら、ひとまずの評価としていた。

「ふむ。皆静かにしていますが元気そうですね、ベルナー卿」

 銀の弦が張られた黄金の竪琴を天上世界の楽師が爪弾いたかのような、と浮ついた貴族の子弟どもがうっとりと口にしていたのが、事実であったと言う事をレアドランの声を聞いた時、ベルナーは理解した。
 これは将来王家の血を取り入れるという目的以外にも、数え切れないほどの貴族のガキ共が求婚するだろうし、他国の王族や有力貴族との政略結婚でもこの美貌を利用すればかなりの付加価値を持たせられるに違いない。
 王国中央の据えた匂いのする政治を遠ざけて生きてきたとはいえ、ベルナーもすぐにそこまで考えが及ぶ程度には貴族であった。
 そしてもう一つベルナーの意識を引いたものがあった。飛竜達を元気そうと評したレアドランの声に、親愛が満ちていた事だ。

「飛竜は見た目に反して普段は大人しいものですので。ところで今は鳴き声一つ上げてはおりませんが、殿下は匂いか気配だけ飛竜たちの体調がお分かりに?」

「勘です。中に入らせていただきますよ。アスティア、貴女達はここで待っていて構いません」

 レアドランは背後を振り返り、自らの専任騎士であるアスティア・レーヴェの名を口にした。
 アスティアはレアドランよりも十歳年上になるレアドランの専任騎士である。
凛とした佇まいの騎士たるべき者の鏡の如く清冽な雰囲気を纏う、将来を嘱望された逸材だ。
 既に母はなくその母もまた平民であった事から、後ろ盾となる有力貴族との縁故もない事から、もっとも王位に遠いとされるレアドランの専任騎士とするには惜しい、と囁かれた事もある。
 太い三つ編みにして垂らした金髪が、アスティアが首を横に振るうのに合わせて左右に揺れる。
 主君のからかいを混ぜた問いに、アスティアは即座に答えを返した。

「この身は姫様とどこまでも共に在ります。それに飛竜をここまで近くで見る機会もそうはありません。実に良い機会です。ノイッシュ、アルバ、お前達はご婦人方とここにいろ」

「はっ!」

「了~解」

 ノイッシュ、アルバ、共にアスティアの以前からの部下である。この二人は士官学校の同期で、ノイッシュが端正な顔立ちと金の髪が特徴の生真面目な騎士で、アルバは反対に軽口の絶えないやや軟派な所のある騎士だ。
 まるで正反対の二人ではあるが不思議と息の合う二人で、アスティアがもっとも信頼する部下であり、レアドランからの信頼も厚い。
 アスティアは部下である二人の名を呼んで命令を与えてから、自分ひとりだけが敬愛するレアドランの傍らに歩み寄った。

「では、ベルナー卿、貴方たちの家族のお顔を見せて頂いてよろしいですか」

 ほう、とベルナーはレアドランの言い方に感心した。戦場で命を共にする飛竜は、正しくレアドランの言った通り竜騎士達から家族も同然の存在なのだ。
 それを理解せずに飛竜を戦争の道具としか見ていない連中を数多く見て来た分、ベルナーはレアドランの言い方が非常に好ましかったのである。

「どうぞ、心行くまでご覧ください。皆、自慢の家族です」

 ベルナーの合図に従って見習いの竜騎士達が開き、竜舎の中へとベルナーを先頭にレアドラン達は足を踏み入れた。
 飛竜達にとっては慣れ親しんだベルナーと、初めて見るレアドラン達の姿に飛竜達が鎌首をのそりと持ち上げて視線を集中させる。
 竜舎の中には十数頭の飛竜達がおり、半分ほどの部屋が空になっていた。飛竜達から向けられる視線の集中に、かすかにアスティアが息を呑んだ。
 士官学校に在籍していた頃から数多の武勲を立てた勇壮な騎士であったが、人ならぬ者達からの注目を浴びるのにはあまり慣れてはいない。

 まあ、そんな所だろうとベルナーはアスティアの姿を眺めていたが、やはりというべきなのかレアドランの反応はアスティアとは異なるものであった。
 普段、生ける彫像の如く表情を変える事が少ないと言われるレアドランが、心からの親愛に満ちた微笑を浮かべて、飛竜達からの視線を受けていたのである。
 レアドランは恐れを一片も抱かぬ様子で竜舎の中を進んでゆく。ベルナーもアスティアも止める間もない早業であった。
 一般に飛竜は乾燥した狭い所を塒として好むとされており、竜舎の中は昼でも陽光があまり差し込まない造りになっている。
 空気があまり湿つくことのない様に換気には気を遣われているが、複数の飛竜達の体から立ち昇る硫黄に似た匂いを完全に払拭する事は出来ずにいる。
 初めて匂いを嗅いだ者のほとんどが顔を顰めると言うのに、レアドランは皺ひとつ造るそぶりもない。

「みんな、良い眼をしています。竜騎士達が大切にしている証拠ですね」

「我らにとっては家族でありますから、日頃より姫君を扱うかのように丁重に接しております。
 それにこれで意外と飛竜達は繊細な所もあるのですよ。繊細なまでに気を配ってやらねば、心を通わすことはできません」

「そうでありましょう。生き物と生き物同士なのですから、相手を想わねば通じる心も通じはしないでしょうからね」

 ベルナーが飛竜達を誇る様にして語る間に、レアドランはあろうことかもっとも近くに居た幼い飛竜の元に近寄り、首を伸ばしてきた飛竜へと手を伸ばす。
 これにはアスティアとベルナーも慌てた。いかに人に育てられ人に慣れた飛竜といえども、初めて会った人間を相手に警戒を示さぬものではない。
 下手をすれば腕の一つ二つを噛み千切られる可能性が、まったくないわけではないのだ。
 アスティアはとっさに剣帯に佩いた愛剣の柄に手を伸ばし、ベルナーもレアドランを飛竜から引き剥がすために走りだそうと一歩を踏みしめる。
 二つ数える時間があればそれぞれの行動を実行に移せただろうが、それよりもはやく飛竜がレアドランに向けて咽喉を晒し、レアドランが目の前の飛竜の咽喉を撫でたことで中断された。

「ふむ、すこし甘えん坊でしょうか。良い子良い子」

 全身を鱗と硬質の皮膚で鎧われた飛竜であるが、翼や四肢の付け根などは鱗や皮膚が薄く触れられる事を嫌う箇所である。
 咽喉も同様でここを晒す事は相手に対する最大限の好意を示すもので、熟練の竜騎士でもなければ滅多にある事ではない。
 レアドランの傷一つ着けばそれだけで嘆く者が後を絶たぬほどに美しい指先が、繊細な硝子細工を扱うように飛竜の咽喉を撫でる度、飛竜は厳つい外見の割には可愛らしいくるくるという鳴き声を上げて喜ぶ。
 初対面の人間を相手に弱点たる咽喉を晒すばかりか、飛竜の上げる声が最も親しい肉親や竜騎士に甘える時にしか出さない声である事が、今度こそベルナーに心底からの驚きを齎した。

「信じられん。初めて飛竜と触れた人間が、ここまで飛竜の心を掴むとは」

「ふ、我が主君レアドラン姫を普通の人間と同じと思ってもらっては困る」

 ふふん、と自分の宝物を褒められて喜ぶ子供のように胸を張るアスティアに、ベルナーは卿が自慢する事ではあるまい、と言いたい所だったが心の中に留めておいた。
 見れば他の飛竜達もレアドランに向けて甘える声を上げており、その中にはラバン砦で最高齢になる老齢の飛竜までもが含まれていた。
 十二歳の時に竜騎士見習いとなって以来二十年以上飛竜に携わってきたベルナーをして、初めて目にし、耳にする異様な光景である。
 竜騎士ではないアスティアには自分を取り巻く状況の異様さが理解できず、ただ自分の主が普通ではできない事をしているということだけ理解し誇っているきりだ。

「ふふ、素直な良い子ですね、ベルナー卿」

「は、そのように仰っていただけるのならば幸いです。外にも飛竜はおりますが、そちらもご覧になられますか、姫様」

「ええ。よろしくお願いいたします」

 竜舎の隣には飛竜達が放し飼いにされている牧場があり、かなりの高さの鉄製の柵に囲まれてはいたが、その名の通り空を飛ぶ飛竜達の脱出を防ぐ事は出来まい。
 むしろ不用意に誰かが飛竜達と接触する事がない様に防ぐためのものであろう。
 竜舎の入り口と同じくらいに頑健な造りの扉を開いて、レアドラン達が囲いの中に入れば思い思いに牧場の中で寛いでいた飛竜達の姿が見えた。
 かなり大きな規模の中で飛竜達は地面に寝そべり陽光を浴びて体を温めているものや、水飲み場に口を付けているもの、草を食んでいるものと様々だ。
 だがレアドランが一歩足を踏み入れた瞬間、思い思いに過ごしていた飛竜達の全てが一斉に顔を上げて、金髪金眼の姫君に視線と意識を向ける。
 竜舎での再現に、ベルナーはもはや驚く事も忘れて溜息を吐いた。
 自分の中で培われていた竜騎士としての誇りや経験がまるで通じぬ事態に、あまり深く考えない方が良いと思考を停止したのである。
 あとで団長や他の騎士隊長達と話す事にして、今はエスコート役に徹した方が精神衛生上良い、というわけだ。

「ここは竜牧場と呼んでおります。竜舎が主に飛竜達の塒と食事場であるのに対し、こちらは休息所や遊び場といったところですな」

「なるほど。のびのびとしていますし、牧場の中も良く考えられています。ところでベルナー卿、どの子かに乗せて頂く事は出来ますか?」

「それは、流石に姫様のお言葉といえども難しいかと。通常見習いの竜騎士が飛竜に乗れるようになるまで一年はかかります。
 そこからさらに戦場に立てるほど習熟するのにも、さらに一年は必要なのです。姫様は飛竜達の心を掴むのが格別にお上手ですが、それと飛竜に乗るのとでは勝手が違いましょう」

 ベルナーは比較的規則などにうるくさくない騎士ではあるが、流石に今回のレアドランのお願いは許容の範囲を大きく超えるものだ。
 レアドランを挟んでベルナーの反対に立つアスティアも、今回ばかりはベルナーの味方の様で、こくりと首を縦に動かしている。
 行動力に定評のあるレアドランの専任騎士として、アスティアはこれまで様々な苦労をしてきたのだろう。

「それは残念。あら、あの子は鞍を着けたままですね」

 口で言うほどには残念そうではないレアドランが目敏く見つけたのは、木陰で休んでいた飛竜である。
 成体の飛竜と比べるとやや小柄で人間で言えば十代後半ごろと言ったところか。実戦に投入可能されるかどうか、という若さである。
 その長い首の付け根に背もたれのある鞍が乗せられており、手綱も既に噛まされていた。
 後は竜騎士が跨り飛翔の合図を伝えれば、すぐにでも飛び立てる準備が整えられている。
 とてとてと近寄ってくるレアドランに対し、その飛竜は視線を片時も外せぬ様子でじいっと灰色の視線を向けている。
 飛竜の瞳に警戒の色はなく、まるで運命の女性を前にした男のようにレアドランに心を奪われているのだ。

「この後ひとっ飛びする予定だったのでしょう。まあ、予定になかった事がありましたので、鞍を外す余裕はなかったのでしょうな」

「私が突然こちらを訪ねたからですね?」

 その予定になかった事の原因に対し、苦笑と共に視線を向けるベルナーに、レアドランは気にした風もなく応えて、さっさと飛竜の元へと近寄るとあやすようにその首筋を優しく撫で始めていた。

「しかし、姫様は一体どのようにしてそこまで飛竜達の心を掴んでおられるのです? その秘訣さえ分かれば竜騎士達の育成もずいぶんと捗る事でしょうな」

「ふむ? 私自身になにか特別な事をしているというような自覚はありません。
 強いて言えば胸襟を開き、私に害意がない事と友愛の情がある事を伝えるのを第一に考えているくらいのもの。よいしょっと」

「なるほど、秘訣らしい秘訣はないと言われるって……姫様!?」

「姫様!!」

 ベルナーとアスティアは、自分達の目の前で可愛らしい掛け声ひとつを上げて、飛竜の鞍に跨り鐙に足を通し、手綱を握ったレアドランの姿に思わず揃って叫んでいた。
 レアドランが軽く首筋をなでるとそれだけで飛竜はレアドランの意思を汲みとって、伏せていた体を起して翼を大きく広げる。
 明らかに飛び立とうとしているその姿に、ベルナーとアスティアは普段の両者を知る者からすれば信じられないほど慌てた様子で、レアドランを止めようと駆けだしたがレアドランの方が早い。

「ふむん、意外と揺れるものですね。よしよし、ではベルナー卿、アスティア、すこしその辺を飛んでから戻りますので、心配しないでくださいな」

「お待ちください、姫様!」

「行けません、レアドラン姫。せめて行くのならこのアスティアをお連れください」

「待てと言われて待つ者はいないのですよ、アスティア。ではごめんあそばせ」

 ばさ、と大きな音を立てて飛竜が広げた翼を打つや、皮膜に捉えられた風が強く大地を打ち、ベルナーとアスティアの頬を叩いて両者の足を竦ませた。
 見る間に飛竜は上昇していって青い空へと吸い込まれる様に小さくなっていく。
飛竜の羽ばたきが起こす風がようやく止んだ頃、ベルナーは付き添っていた部下の竜騎士に向けて怒鳴りつける。

「ええい、なんという事をなさる方だ。レフェシュ、すぐに飛竜を出せ。急いで追うぞ。
 姫様が傷を負う様な事があれば仮にも近衛たる我らの名折れだ。おれもジュリアで後を追う」

「ひ、姫様ーー!!」

 いかに有能と言われる騎士であっても翼なき人の身では、既に飛び立った飛竜を追う事は不可能だ。
 凛とした雰囲気を忘れ果てて凝然と表情を凍りつかせるアスティアに、ベルナーはあの姫君に仕えるのは苦労の連続だな、と少しばかり同情した。

「レーヴェ卿、貴公はここで待っていろ。すぐに我らが姫様を連れ戻してくる」

 ベルナーはアスティアの返事を待たずに、竜牧場の中で陽光によって温められた岩の上で岩盤浴を楽しんでいた愛竜ジュリアの元へと駆けた。
 自らの騎士たるアスティアと竜騎士達を大いに慌てさせた当のレアドランは、飛竜の首の付け根の上に固定された鞍のベルトを腰に回し、手早く体を固定する作業を終えていた。
 上手く風を捕まえた飛竜は既に天高く上昇しており、眼下に広がる大地の光景は随分と小さく見える。人など豆粒の様なものである。

「ふーむ、やはり空を飛ぶのは気持ちが良い。地上を歩いて進むのも楽しいものだけれど、こうして風を感じるのはやはり素晴らしい」

 鞍の背もたれに体を預け、リラックスした体勢のまま頬と金髪を撫でる風の感触を楽しんでいる。
 本来飛竜に乗る際には高空の寒さに耐える為に、毛皮や綿をたっぷりと使った防寒着を纏い、その上に最低限の装甲となめした革などを張りつけたものを着こむのが普通だ。
 竜騎士同士の戦いとなると長大なランスや手槍、飛竜の吐息や爪牙が武器となるので、人間が着こめる鎧ではほとんど役に立たない為、防御を捨てて防寒と軽量化に重きを置いた防具が良いとされている。

 軽いと言う点では今のレアドランは全く問題なかったが、防寒が出来ているかと言えばこれは論外であった。
 春の訪れを迎えているとはいえ、レアドランが身に纏っているのは純白のドレスと絹様の生地で編んだケープだけだ。
 地上を歩く間はともかく、飛竜に乗って空を飛ぶにはあまりに心許ない服装である。
 やはり寒いのか、空の高みから見える光景と風の頬に頬を綻ばせていたレアドランが、くしゅん、となんとも愛らしいくしゃみを零す。

「少し高度を取り過ぎましたか。久しぶりに空を飛べたことで、知らず気分が高揚していたのかもしれませんね」

 少し行儀悪く鼻を啜ると、レアドランは小さく手綱を引いて飛竜に高度を下げるという意思を伝える。
 以心伝心をそのまま体現しているかのように、飛竜は小さなそのレアドランの動作だけで誤りなくレアドランの意思を理解し、広げた翼の角度を変えて緩やかに高度を下げて行く。

「んん、人間の体で生きるのは楽しくて大好きですが、やはり空を飛べる竜の体も懐かしく感じられるもの。
 にしてもこの口調にもすっかりと慣れてしまったものですね。誰も私の魂が男であるなどと疑いもしないでしょう」

 ころころと鈴を転がすように笑うレアドランが気になった様で、飛竜がくう、と不思議そうな声を出す。
 なんでもありませんよ、とレアドランは右手で飛竜の首筋を撫でる。たったそれだけの事でも飛竜には嬉しいらしく、咽喉の奥でくるくると喜びの声を鳴らす。
 転生を繰り返す間も、しばらくは竜として生きていた頃の時代かかった男の口調を続けていたものだ。
 だがレアドランとして生まれ変わってからは女性の口調になるよう努力した事もあって、十一年以上が経過した今となっては特に意識せずともこの口調が出るようになっていた。

「ふむ? もう追いついてきましたか。流石は近衛の飛竜騎士団、仕事が早いですね」

 背後から急速に接近してくる気配を感じたレアドランが振り返れば、そこにはひと際大きな青い鱗の飛竜に跨ったベルナーと、三騎の竜騎士達の姿が金の瞳に映る。
 レアドランが跨っているのがまだ若年の飛竜であるのに対し、ベルナーらの飛竜が豊富な実戦経験を重ねた手練の飛竜である事を考えれば、追いつかれるのにはそう時間はかからないだろう。
 レアドランが冷静に彼我の距離と速度を計算する一方で、騎乗用の防寒着の上着だけを着こみ、大急ぎでレアドランを追って来たベルナー達は、レアドランの向かう先に対する懸念を話しあっていた。

「ベルナー隊長、このまま行ったらかなり不味いです。コウヤ山岳地帯に入ってしまいますよ!」

「分かっている。その前になんとしても姫様に追いつくぞ。まったく、とんだじゃじゃ馬姫だな」

 隊の一員であるユーリの言葉に、ベルナーは言われなくても分かっていると思いながら声を大にして返した。
 意図してか、そうでないのかレアドランが先ほどから向かっているのは、コウヤ山岳地帯と呼ばれる野生の飛竜達が住まう場所だった。
 王国で使用している飛竜達は野生の飛竜ドラッケンを飼いならし、何世代にも渡って交配させることで人に慣れさせ、戦闘用に品種改良を施していった種である。
 単純な戦闘能力ならドラッケンに劣るものではないが、ドラッケン達は気性が荒く縄張り意識も強い為、不用意に縄張りに侵入すれば周囲を囲まれて襲いかかられる恐れがある。
 レアドランは別として、最低限の装備だけの四騎の竜騎士でどれだけのドラッケンを相手に戦えるものかどうか。

「まったく、ほんとうにまったくだな。退屈させん姫様だ!」

 しかしそう言うベルナーの口元には愉快気な笑みが浮かびあがっており、この意図せぬ出来事を楽しんでいる事を如実に表していた。
 生涯を現場で過ごし、決して城や屋敷に居座って執務にあたるようなタイプではないだろう。
 ベルナーは長年連れ添っているジュリアの手綱を引き絞り、レアドランに追いつくべく加速を命じた。
 およそベルナーの計算はレアドランと同じく、それぞれの飛竜の能力差から追いつくのにさしたる時間はかからないものだった。
 問題なのはそのさしたる時間次第で、ドラッケンと一戦交えるかどうかが決まることを考えると、余裕を抱いてはいられない。

 そして元から余裕のないベルナー達を焦らせたのは、どれだけ飛竜達に速度を上げさせてもレアドランに追いつけない事だった。
 ただまっすぐに飛んでいるだけだと言うのに、レアドランが乗っている飛竜は竜騎士達の常識からすれば、あり得ない速度で飛び続けているのだ。
 レアドランの服装や乗っている飛竜の年齢を考えれば、わずかも距離が詰められず追いつけないのは常識に反する異常事態であった。

「隊長、追いつけません。姫様の乗っている飛竜は、なにか特別でしたか!?」

「いや、その筈はない。だがならば追いつけるはずが、何故追いつけん!!」

 この時レアドランが乗る飛竜は、かつて竜であったレアドランの感覚に基づく手綱捌きに導かれ、竜騎士達が何世代にも渡って培った操縦技術を嘲笑うかのような動きを体現していたのである。
 かつて竜族の頂点に君臨していた古の竜の生まれ変わりであるレアドランの経験と感覚は、空を飛ぶという点においていかに竜騎士達といえどもその足元にも届かぬほどの高みにあるのだった。
 悪い事は悪い時に重なるものだとベルナーはこれまでの人生で骨身に沁みて理解していたが、よりにもよってこの時にもその悪い事は重なった。
 レアドランが向かっている先が分かった時から懸念していたドラッケン達が、前方から姿を現し始めたのである。
 しかし事はそれだけに終わらなかったドラッケン達の姿を見つけたレアドランは、ドラッケン達に背を向けてベルナー達に合流するどころか、自分からドラッケン達の只中へと突っ込んで行ったのである。

「ちい、どうしてこちらに戻らず、そのまま突っ込むのだ、あの姫は! レフェシュ、ユーリ、ヴォルヘン、姫をお守りする。突っ込むぞ!!」

 とことんこちらが思いもしない行動に出るレアドランに、半ば驚嘆しながらベルナーは鞍に常時くくりつけている手槍を握り、菱形の陣形を組んでドラッケンとレアドラン達の後を追う。
 ベルナー達が血相を変えている間、レアドランはと言えば前方のドラッケン達が自分達を追い払いに来たわけではない事を理解し、行動に移っていた。
 レアドランはただ闇雲にドラッケン達の真ん中へと突っ込んで行ったわけではなく、青黒い鱗を持った普通のドラッケン達が、真っ白い鱗のドラッケンを数を頼みに痛めつけているのを見つけていたのである。

 レアドランが飛竜に命じてドラッケン達の所へと突撃を敢行させたのは、その虐められている白いドラッケンを助ける為だったのだ。
 レアドランは最初の生において白い鱗を持った竜であったが、その事が少なからず関与していたのかもしれない。
 おそらく突然変異で生まれたのだろう白いドラッケンは、他のドラッケン達よりも一回りも二回りも大きく、単純な力や速さならば大きく上回るのだろうが、流石に数の違いは如何ともしがたい様で、すでに巨体のあちらこちらに大小の傷を負っている。

「弱い者いじめは感心しませんね。行きますよ、大丈夫、貴方は出来る子なのですからね」

 荒れているドラッケン達の姿に飛竜がかすかに萎縮したのに気付き、レアドランは軽く飛竜の首筋を叩いて激励し、鞍から小さな尻を持ち上げると可憐な矮躯からは想像もつかない怒声を上げた。
 後方にいたベルナー達が思わず身を強張らせるほどの、大気を震わす大音量である。
 まさに獅子咆、いや巨竜の咆哮を思わせる怒声が小さな姫の咽喉から放たれるなど、一体誰に想像しえただろうか。
 レアドランの金の瞳が見つめる先にいたドラッケン達が尽く雷に打たれたかのごとく、一斉にレアドランを振り返って恐れを抱いた様子でぎゃあぎゃあと騒ぎ立て始める。

 白いドラッケン達を囲んでいた七匹のドラッケン達が、一斉にレアドランを目がけて体ごと首の向きを変える。
 どんなに吠えた所でレアドランが退かずに迫りくる姿に、戦いを決意したのだろう。
 こちらに向けて速度を緩めず正面から襲いかかって来るドラッケンに向けて、レアドランは飛竜にブレスを撃たせた。
 ドラッケンや飛竜の咽喉奥や頬の内側には油袋が存在し、牙を使ってその油に着火して炎のブレスを吐く。
 
 通常は放射という形で吐かれるブレスを、レアドランは飛竜に指示して球形に固めて吐かせた。
 放射状で放つよりも火力、射程距離、咽喉への負担が小さなそれは、竜騎士の指導によるか、戦い慣れているドラッケンでもなければ扱えぬ高等技術である。
 それをまだ実戦を迎えていない若い飛竜に初めて飛竜に乗った人間が撃たせた事実は、今一度ベルナーを驚愕させるのに十分な事だったろう。

 左右に分かれて挟みこもうとしていたドラッケン二匹を火球で牽制し、レアドランは手綱を捌き、鐙を蹴って周囲三百六十度に張り巡らせた意識と第六感の警告に従って飛竜を操った。
 レアドランの上を取ったドラッケンと左に大きく回り込んだドラッケンが吐いた火炎を、左右の翼を交互に羽ばたかせ、空中で身をよじらせることで直撃を避ける。
 至近を通過した火球から零れた火の粉が、レアドランの肌を掠めたが処女雪のごとき白い肌が焼かれることはなかった。
 レアドランの背後に三匹のドラッケンが取りつき、縄張りに入って来た侵入者を撃ち落とそうと躍起になって火球を放ってくるのを、レアドランは背後を振り返りもせずに殺気を感じ取ってことごとく回避して見せる。

 通常竜騎士が空中戦を演じる際には、常に竜騎士が周囲の状況を確認する為に休みなく四方に視線を巡らすものだが、レアドランはそれすらせずにドラッケンから放たれる殺気や破壊衝動を頼みに、神業的な回避行動を演じて見せたのである。
 背後にドラッケンを引き連れたままレアドランは大きく手綱を引き、前方に進ませていた飛竜に急激な弧を描かせる。
 急激な進行方向の変換に伴う慣性がレアドランの矮躯に襲い掛かるが、この姫は飛竜の体から生えているかのように、わずかも鞍から体が離れる事はなかった。
 いつ、どの方向からどの程度の力が加えられるか、それを捌くにはどうすればよいのか、さらには風の流れからなにからまでを把握しているからこその芸当である。

 飛竜が弧を描くのに合わせてレアドランも天地逆さまの体勢に変わり、そこから飛竜に首を曲げさせて、三匹のドラッケン達が真下に来るほんのわずかな時間の間に、ドラッケンの背中へと三発の火球を叩きつける事に成功した。
 視界も姿勢も負荷のかかる方向も目まぐるしく変わるわずかな瞬間と、相手との距離と寸分も誤る事のない狙い澄ました火球の直撃を受けたドラッケン達は、予想だにしなかった方向からの攻撃を受けて、大きく姿勢を崩して地面へと落下してゆく。
 レアドランはそれらのドラッケンに目もくれず、残る四匹のドラッケン達の姿を探し当てると、ようやく追いついてきたベルナー達が一対一の構図を四組作り、それぞれがドラッケンを相手に優位に戦いを進めている。

「ふむ、竜騎士としての訓練を積み重ねて来ただけはありますね。安心して戦いを任せられます」

 レアドランが手を貸すまでもなくベルナー達はドラッケン達を追い払う事に成功し、特に怪我人も出さずに勝つ事が出来た様だった。
 不十分な装備での戦いを強いられた形であったが、自国の王女を守らねばならぬ戦いという事もあって、ベルナー達の士気は異様なほど高く、レアドランの怒声に怯んでいたドラッケン達は管を巻いて逃げだしていた。
 もともと白いドラッケンを助けられればいい、と考えた上での行動であるから、レアドランも逃げ出したドラッケン達を追うつもりはなく、そのままベルナー達の元へ飛竜を寄せる。

「お見事です、ベルナー卿。それに皆さんも。流石は紅蓮飛竜騎士団の精鋭の方々。まこと頼もしい限りです」

「姫様に言われるとどうも素直に喜べばませぬな」

「あら、心からそう思っておりますのに」

 心外そうにレアドランは小首を傾げてベルナーに問い返す。
 本人からすると言っている通り、お世辞抜きでベルナー達の力量を褒めているのだが、ことごとく竜騎士の常識を覆す真似をしたレアドランに言われても、今一つ実感は得られないだろう。

「まったく御身の噂はかねがね耳にしておりましたが、いや、実物はそれ以上の凄まじい方でいらっしゃる。このベルナー、心より心服いたしました。
 ですがそれはそれ、これはこれ。レーヴェ卿が首を長くしてお待ちですので、早くお戻りください。おそらくですが、レーヴェ卿の説教は長いのではないですかな?」

 お返しだとばかりにからかい交じりに告げるベルナーの言葉が正鵠を射ているのを証明するように、レアドランは困った、とばかりにわずかに眉根を寄せてみせた。
 この普通でない所ばかりの姫様にも苦手なものがあるのだと分かり、ベルナーは心のどこかで安堵している自分に気付いた。
 気圧されていたか、あるいは畏怖の念を抱いていたのだろうか? とベルナーは自身の心を疑わねばならなかった。
 仕方ありませんね、と呟いてしゅんとした様子のレアドランだったが、ベルナー達に逃げられない様に四方を囲まれて、砦に戻ろうとした時にあの白いドラッケンがじっと自分を見つめているのに気付いた。

「ふむ、貴女はもう帰っていいのですよ。ただ次からはちゃんと自分の力でいじめっ子に立ち向かいなさい。私がいつも貴女の傍に居られるわけではないのですからね」

 レアドランは優しくも厳しく窘めるが、それでも白いドラッケンはレアドランから離れ難い様子で、くうくうと甘える声を出してはレアドランの乗る飛竜の後に尾いてくる。
 まるで親鳥に続く雛鳥のようにさえ見えるその姿に、レアドランは微笑を浮かべた。
 竜としての自我と記憶が残っているレアドランにとっては、白いドラッケンの態度はいわば幼い孫娘が自分の後をついて回って来るようなものなのだ。

「あの白いドラッケンは姫様に助けてもらったと言う事が分かっているのでしょうか?」

「さあな。だが襲ってくるわけでもないし、無暗に追い払いでもしたら姫様が怒りかねん。このまま砦に向かう他あるまい。つくづく規格外の姫様である事よ」

 もはや呆れることしかできないのか、ベルナーは部下の言葉にぶっきらぼうに答え、ジュリアにまっすぐに砦を向かわせた。
 結局白いドラッケンは砦にまで尾いてきて、レアドランに続く形で、他の飛竜達の注目を浴びておどおどとした調子で竜牧場に降りた。

「貴女は体が大きいのに怖がり屋さんなのですね。勇気を持てば立派な飛竜になれるでしょうに。貴方も乗せてくれてありがとう。とても楽しかったですよ」

 それまで跨っていた飛竜から飛び降り、その首筋を撫でてドラッケン達との戦いの苦労を慰めた。
 ドラッケンと一戦交えたのは予定になかった事だが、久しぶりに空を飛ぶ事を満喫したレアドランは満足していたが、こめかみを怒りで震わせるアスティアに気付けば、流石に不味かったかな、と若干の後悔を抱かざるを得なかった。

「私の騎士殿、ただいま戻りました」

「御身が無事に戻られた事、このアスティア・レーヴェ、まず何よりもお喜び申し上げます。ですが、今度の姫様の御振る舞いに関しては、言わせて頂きたい事が数多くございます」

「はい。私の行動がいささか軽率である事は認めます」

「軽率などというものではございません。姫様の行動を止められなかった私めにも当前責はございます。
 しかしながら姫様におかれましては、御身がイルネージュ王国の王女というお立場にあられることをなにとぞご自覚くださいませ。
 もし姫様に傷の一つもつけば私はもちろん、このたび同道いたしました騎士達や侍女たちも首を括って国王陛下や亡くなられたスノー様にお詫びしなければなりません」

「ふむぅ」

 しょんぼりとレアドランがうなだれる間もアスティアの説教は続き、二人の周囲を遠巻きにしていた竜騎士達も、理路整然と正論を並べ立てて反論の隙を一分も作らずにまくしたてるアスティアを敬遠する眼差しを向けている。
 良くも悪くも飛竜と共に空を飛ぶ事を至上の喜びの一つとする竜騎士達は、一般の騎士達に比べ奔放で豪胆な性格をした者が多く、この様な説教は天敵の一つしているからだろう。
 最初はレアドランがたっぷりとアスティアに説教されればよいと考えていたベルナーも、終わりが見えないアスティアの説教に晒されるレアドランの姿を見続けているうちに、思わず同情してしまうほどだった。
 どんどんとレアドランが恐縮のあまり小さくなっているかのような錯覚さえ覚える中、それまでおどおどとし続けていた白いドラッケンが、唐突にレアドランとアスティアの間に割って入ってきた。

「ぐるぅうう」

「なっ!? 姫様、こちらへ」

「ふむ、大丈夫ですよ、アスティア。私がいじめられていると思って助けようとしたのですよ。よしよし、私は大丈夫ですからね」

 咄嗟にアスティアが右手で剣の柄を握り込み、左手でレアドランを抱き寄せようとしたが、その左手からするりと煙のように逃れ、レアドランはすり寄って来る白いドラッケンの頭を我が子のように優しく撫でる。
 王国保有の飛竜ばかりか野生のドラッケンさえもが、母に甘える幼子の如くレアドランに懐く様子を目の当たりにして、アスティアは説教の続きやレアドランを守らなければ、ということも忘れて柄に手を添えた体勢で固まっていた。

「アスティア、この子を私の騎竜としますから、貴女も慣れておくのですよ」

「……ひ、姫様、この白いドラッケンにお乗りになると? 王女でありながら竜騎士になられるおつもりか!?」

「そんなに驚く事かしら? 以前から私が配下に竜騎士が欲しいと言っていた事は知っているでしょう。
 私自身が竜騎士を兼ねるから、少し求めていた形とは違いますけれどね。ベルナー卿、今日はお忙しい中案内をありがとうございました。
 後日飛竜の世話の仕方などを尋ねる事もあるかと思いますので、その時はどうぞよしなに」

 ちゃっかり頼みごとをしてくるレアドランに、耳にした評判は噂半分どころか倍にして考えるべきだった、とベルナーは今更ながらに思い、力なく首を横に振るってから溜息を吐きながら答える。

「承知いたしました。我らでお力になれる事がありましたら、喜んで微力を尽くしましょう。しかし、御身には竜の血が流れておられるのか。
 よもやとは思いますが、姫がこの砦を訪れたるは元よりドラッケンか飛竜を手に入れる事が目的でいらしたのですかな?」

 聞き様によっては不敬ともとられるベルナーの言葉に、レアドランは内心では中々鋭いと思いながら、お茶を濁すように答えた。

「さて、どうでしょうか。ただ、私が以前から飛竜を欲しいと思っていたのは真ですよ。
 騎馬もよいですが飛竜の方が何かと早く動けますし、兵力として以外にも色々と使い道はありますから。
 そうそうこの子の名前を考えてあげないといけませんね。せっかく白い鱗を持っているのですから、綺麗な名前が良いでしょう。
 ふむ、ふむ、ふむ、決めました。貴女は今日からブランネージュ。白い雪という意味です。ブランネージュ、私はレアドラン、よろしくお願いしますね」

「くおお」

 レアドランから与えられたブランネージュという名前が気に入った様で、ブランネージュは嬉しそうに尻尾を左右に振りながら、レアドランの頬を桃色の舌でぺろりと舐めて感謝の気持ちを示した。
 ラバン砦訪問から王宮に戻った後、レアドランは今回の騒動に関する説教をアスティア以外の各方面から受け、夜遅くまで釈明にかけずり回らなければならなかった。
 ようやくレアドランが解放されたのは、夜も更けて双子の月が天空に輝き始めた頃である。
 侍女を含めた全員を王宮内の私室から退出させ、宛がわれている一室でレアドランは薄い絹地の白い寝巻に着替え、天蓋付きのベッドに腰かけていた。

 先ほどまで父王や兄王子、宰相から次々と説教をされていた為、いささか意気消沈している。
 レアドランに懐いてついてきたブランネージュの為の竜舎や、鞍や手綱など道具一式に食事や世話などの手配も行っており、今日一日のレアドランの労働はかなりのものとなっていた。
 王家の一員であるため、レアドランも自分の領地をもっており、母スノーが亡くなってからは一年の四分の三かそれ以上の時間を自分の領地で過ごすようになっている。
 出席の必要のある特別な行事や、家族の誕生日などの祝い事などがなければ、領地で領主としての仕事に従事しているのである。

 領地に戻ったらするべき事の中に、ブランネージュの件を追加してからレアドランはベッドから立ち上がり、おもむろに寝巻を脱ぎながら、部屋の中に立てかけられている姿見の前に立つ。
 差し込む月光も何重にも重ねられたレースのカーテンに遮られて、明りがなく目が慣れても碌に見通せない部屋の中で、レアドランの瞳は姿見に映しだされる自身の裸体を明瞭に見ていた。
 肉付きは薄いが夜の闇の中でもほの白く輝くような肌の上を、解かれた金の髪がさらさらと滑る。
 胸から腰、腰から尻へと繋がって行くラインは起伏には乏しいが流麗と呼ぶに相応しい。
 まだあどけない少女の裸身は一個の芸術品の如く、ある種の完成された美を体現していた。
 その自分の裸身を見て、レアドランは失望を含んだ溜息を大仰に吐いた。

「やはり生えたりはしないか」

 レアドランに宿る竜は、レアドランに至るまでこれまで数え切れない転生を重ねて来たが、その全てにおいて男性として生まれそして死んできた。
 女性として新たな命を授かったのは、レアドランとして生まれた今回が初めての経験であり、こればかりは困惑を隠せぬ珍事であった。

「生涯の内に性転換を行う種族か、あるいは生理を迎えることで定期的に性別の変わる種族かと期待したが、この様子では私は生涯女として生きねばならないのか」

 見ている者も聞いている者も誰もいないと言う事もあり、レアドランの口調は知らず素の竜の時代の口調に変わっている。
 女として生まれ、女として生き、女として死ぬと言う事実は、目下レアドランの最大の悩みなのである。
 男として人生ならばいくらも重ねて来たが、男としての自我を持ちながら女の肉体で生きなければならないと言う現実は、レアドランにとって未知の重圧と不安を齎すものなのだ。
 そしてなによりレアドランを悩ませるのは……

「場合によっては男と……考えるだに恐ろしい。なんとしてもこの体の純潔ばかりは死守しなければ。ふむう~」

 イルネージュ王国第三王女レアドラン・クァドラ・イルネージュ。
 年齢不相応の聡明さと行動力、豪胆さ、気品、威厳と王たるものに必要とされるありとあらゆるものを兼ね備え、変人と奇人と偉人を足して二を掛けたような、と称される人物である。
 レアドランの傍に仕えている者達や本人を知っている者達からは、畏敬と崇敬の念を一心に注がれている事もあり、王宮では傑物として知られている。
 だが、口数が少なくあまり他者に語られることのないその思考が、多分に世俗的で肉欲に重きを置いている事を知る者が誰もいないのは、はたして幸福な事であったか、それとも不幸な事であったか。

<続>

 さようなら竜生 こんにちは人生 を書くに当たって没にした初期案の一つです。
 これまで書いた事の無かったTS転生ものに手を出してみたのですが、当時の私がTS転生にさして興味がなかった事もあり、お蔵入りしていました。
 そう言えばこんなん考えていたなあ、と思いだしたので加筆して投稿いたしました。
 必ずしも本編におけるドランがこの運命を辿るわけではありませんが、Ifものとして読んで頂ければ幸いでございます。

3/17 22:47 投稿
3/18 21:51 ご指摘を受けて確かにもっともだと思い、一部修正
3/19 08:51 修正
3/20 19:47 修正 JLさま、ありがとうございました。
3/25 20:14 別枠移動
4/09 12:29 修正



[32434] さようなら竜生 こんにちは姫生2
Name: スペ◆20bf2b24 ID:e262f35e
Date: 2012/03/26 08:59
さようなら竜生 こんにちは姫生2


 王宮に戻ったレアドランが領地へと出立するその前日、イルネージュ王国王城クイーンローズでは、大ホールで晩餐会が催されていた。
 水晶と金とダイヤモンドで飾られたシャンデリアや黄金の燭台に灯された蝋燭の灯が夜の帳を払拭し、ささめき月光の入る余地がないほど華美に飾られた大ホールを煌々と照らしだしている。
 極上の葡萄酒、火酒、エール、果実酒や銀盆に盛られた数々の料理が所狭しと並べられ、出席する貴族達もその多くが領地持ちの上級貴族か政治の中枢に携わる上級役人の類である。
 母である第二王妃スノーの死後、王都を離れて与えられた領地で一年の大部分を過ごす、第三王女レアドランの出立の前夜に催される宴であり、同時に春の収穫を無事に迎えられた事を祝う宴でもある。
 今宵は王都の民たちにも去年の収穫で蓄えられた余剰分の穀物などが王家の名の下に供出され、大いに食べ、大いに飲み、今年の実りに感謝する日だ。
 王城に集う貴族たちばかりでなく王都の住人達も陽気に浮かれて過ごすのである。

 まだ十一歳という若年ながらに、家族と離れて暮らすレアドランの為の宴にジュド国王と義母ローザ王妃、異母兄である第一王子アシュレイ、異母弟の第二王子ロフ、異母姉の第二王女エリーゼと、既に他国の王族に嫁いでいる異母姉の第一王女プラネリスを除く肉親が顔を合わせている。
 イルネージュ王国の象徴たる国王夫妻とその子息らが一堂に介する場で、列席した人々は大ホールに流れる楽曲に合わせてダンスに興じていた。
 大ホールの片隅などに目をやれば、酒で滑らかになった口を動かして談笑する者や、静かに楽曲に耳を傾ける者、恋を語らう為に密かに姿を消した男女と踊らぬ者もいたが、大部分はダンスに参加していた。

 そしてそのダンスに参加していない者も参加している者も、一斉に瞳を奪われる存在がただ一人いた。
 誰あろうこの晩餐会の主賓であるレアドランである。
 まだ十一歳という花で言えば蕾の年齢ながら、絶世の美女として知られた母スノーの血を色濃く継いでいる事を示す様に、まだ幼い少女のレアドランは、ただそこに在るだけで周囲の目と心を引きつける美貌の片鱗を覗かせていた。
 そしてこのレアドランという王女の特異な点は、ただ美しいだけの少女ではないことだろう。

 人々の心を引きつけるのはその美貌ばかりではなかった。
 何をするでもなくただそこに沈黙と共に在るだけでも、極自然と人々がその仕草の一つ一つにまで意識を集中してしまう魅力。
 その言葉が耳を震わせれば何を置いてもその言葉の通りにしなければならぬ。
 その瞳に見つめられれば心の奥底、魂までも曝け出してしまいたくなる。
 その姿を前にすれば何を置いてもまず膝を突き、頭を垂れ、目線を伏して畏敬の念を示さなければならない。
 そういった尋常ならざる感情が、極自然と心の深奥に湧いてくるなにかをレアドランという王女は持っていた。

 楽曲は変わらず大ホールの壁と床と天井に反響し、優雅に音の旋律を奏で続けていたが、すでにダンスは止まり人々の意識はレアドランへと集中していた。
 大ホールで晩餐会が開かれてから今まで、レアドランは特別に主賓という事で父ジュドの傍らに座り――本来であればレアドランは末席に座らねばならぬ立場だった――挨拶に訪れる貴族たちに応対し、目の前で踊る男女に視線を注ぐきりであった。
 しかし、ダンスも佳境を迎える時間になるとそれまで席から立ち上がろうともしなかったレアドランが父と義母に許可を得てから席を離れ、大ホールの壁に背を預けていた一人の貴族の子女へと近づいて行くではないか。

 俄然、大ホールの人々の注目はレアドランとレアドランの向かう先にいた少女へと殺到する。
 色が着いて見えないのが不思議なほど、周囲の人々の視線は熱を帯びて密度を濃いものにしていた。
 このような社交の場に慣れていないようで、踊る事もなく大ホールの壁に背を預けて壁の花となっていた少女は、自分の目の前に天上人たるレアドラン王女の姿がある事に、息をする事も忘れた様子だった。

「よろしければ私と一曲踊って頂けませんか?」

 差し出したレアドランの手を少女は茫然と見つめ、そして夢魔に誘われた哀れな生贄のように自らの手を重ねる。
 レアドランが目の前に立ったその瞬間から心を奪われた少女は、レアドランの手に引かれるままに大ホールの中心へと導かれ、そして改めて曲が奏でられるのに合わせて踊り始めた。
 レアドランが年上の少女の体を大胆に抱き寄せて、コルセットで締めあげられた蜂腰に手を回し、お互いの乳房を押しつけあう形になり、ぐにゃりとドレスの下でそれぞれの乳肉が潰れる。

 鼻と鼻がくっついてしまいそうなほど密着し、少女の頬に顔を寄せたレアドランの吐息が耳をくすぐる度に、少女は瞳を潤ませて熱い吐息を喘ぐように零している。
 少女は恍惚と蕩けて意識を半ば喪失し、足取りは生まれたての小動物のようにおぼつかないものだったが、積極的なレアドランのリードが少女の危ういステップをフォローしていた。
 誰も彼もが踊る事を忘れ、楽士たちは自分達の奏でる音楽に乗って踊る二人の少女の美しさに負けじと、魂を込めて弦を震わせ、管を震わせ、いくつもの楽器の音が溶けあってさらなる高みへと昇華されてゆく。

 男爵夫人は男爵の胸に頬を寄せてうっとりとダンスを見つめ、またある騎士は手に持ったワインを口につける事も忘れ、給仕達は己の仕事を忘れてその場に立ちつくす。
 舞踏会の人々が踊る必要はなかった。供された食事で舌を楽しませる必要もなかった。
 ただ大ホールの中央で踊る二人の少女を見るだけでよかった。芸術というものが美を求める道であるのなら、その求めるべき美が今まさに目の前にあるのだから。
 曲が終わりダンスに一区切りがついた時、レアドランは蝶を捕らえた蜘蛛のようにしっかりと抱きしめていた少女の体を離し、一時のダンスパートナーに対し優雅に一礼。
 大ホールの人々へと向けて、再び一礼。

 しばしの静寂の後にまばらに拍手が巻き起こると、すぐに割れんばかりの拍手が大ホールに響き渡る。
 その拍手が収まってからレアドランが少女を席に座らせて休ませると、すぐさま我も我もとレアドランのダンスのパートナーを求める人々が、にこやかに笑む転生王女の元へと殺到する。
 そうして今宵の舞踏会の時は更けて行き、今日もレアドランを次代の王位にと望む第三王女派と呼ばれる人々が、一人また一人と増えるのだった。
 当のレアドランが王位など欠片も欲していないにも関わらず、周囲の人々はレアドランの傑出した能力と威厳を知るが故に放っては置かないのである。
 ちなみにレアドランはその後、何曲も踊ったが一度として男性を相手に踊る事はなかった。
 肉体こそ女性であるが、あくまで自己を雄と認識するレアドランにとって、必要に迫られない限り、男と手を取り合ってダンスを踊るなど断固として拒否するべき行為なのであった。
 大ホール中の人々から憧憬の念を向けられる一方で、そのレアドランが堂々と女性の体を触る事が出来るこの状況に、喜んでいたと知る者は誰もいなかった。


 舞踏会から明けた翌朝、レアドランの姿は代々の王族たちの墓がある王墓の一角にあった。そこに三年前に死した母スノーの墓がある。
 黒い大理石でできた母の墓の前には、世話を任されている墓守りが欠かさず手入れをしている証拠に、母の好んだスノーティアの花束が飾られ、わずかな汚れもなく磨きあげられている。
 その墓石の前に両膝を突き、指を組んでしばし冥福の祈りを捧げてから、レアドランは音一つ立てず淀みない動作で立ち上がる。

 父か義母であるローザ王妃が見舞ってくれたのか、墓にはレアドランが持参した花や、墓守が供えたスノーティア以外にも色とりどりの花などが置かれており、レアドランはそれを見てわずかに微笑んだ。
 今生の母の死を悼む人間が自分以外に居る事が嬉しかったのである。しかもそれが自分の血の繋がった父と義理の母や兄弟であることが、余計に嬉しかった。
 立ち上がってからレアドランは深く腰を折り、母の墓石に向けて頭を下げた。レアドランのうなじから金糸のごとき豪奢な金の髪がさらりと滑り落ちる。

「母様、また来年参ります。どうぞ冥府にて安らかにお眠りくださいませ」

 もう一度頭を下げてから、レアドランは王墓の入口で待たせているアスティアやジーナ達の所へと戻り、王墓を後にした。
 領地に戻る為王都を出立するレアドランを、父王と兄弟達が見送り、また王都の住民たちも王城へと続く市街の大通りの左右に並び立ち、レアドランの姿を一目見ようと駆けつけていた。
 母親が平民である事と幼いながらに傑物として知られるレアドランの活躍は、王都の住人達の良く知る所であり、レアドランの平民達からの人気はかなりのものであった。

 領地から引き連れて来た護衛の兵士達が整然と並び、主君であるレアドランの乗る大型の馬車の前後を固める。
 レアドラン一行の最後列にはつい先日レアドランが手懐けたブランネージュが、急きょ用意された檻の中に入れられて、馬車にけん引されている。
 事前にレアドランによく言い含められていたブランネージュは、王都の人々が、あれが姫様が従えたドラッケンか、と白いドラッケンの珍しさもあって寄せてくる好奇の視線も気にせず、ごとごとと揺れる檻車の中で眠っている。

 王都の民達が手に持った小さな国旗を振り、レアドランの名を高らかに叫んで讃える中で、レアドランを乗せた馬車はゆっくりと車輪を回し始めて領地に戻る旅路に着いた。
 王都からレアドランの領地までは馬車で三日の短い旅路になる。
 衝撃を良く吸収する跳ね綿を詰めた座席のお陰で、レアドランの小ぶりな尻が痛む事はない。
 レアドランが乗る場所には、護衛という事で剣を手にしているアスティアとお付きの侍女であるジーナ、それにオオカミビトである侍女見習いのロミの姿があった。

 ジーナはレアドランの領地の出身者で、以前からレアドランの母スノーに仕えていた侍女である。
 元は孤児で十歳の頃にスノーに引き取られ、以来十数年間スノーとレアドランに仕えており、二人の主からの信頼も厚い。
 たいしてロミはまだレアドランの元に引き取られて四年目の、今年で九歳になる子供である。
 人間の耳の代わりに大きな狼の耳と太い尻尾と、祖霊である狼の霊的特徴を持つオオカミビトの出自だ。

「ロミ、新刊が出ていましたから買っておきましたよ。後でロナと一緒に御覧なさい」

 レアドランは膝の上に置いておいた小さな鞄から、百ページほどの本を取り出して対面に座るロナに手渡した。
 赤い毛並みに覆われた尻尾をゆさゆさと動かしながら、ロミはレアドランの差し出した本を受け取った。
 犬歯がやや目立つが、それ以外は人間と変わる事のない愛苦しい少女である。

「わあ、姫様、ありがとうございます」

「ふふ、ロミが喜んでくれるのならこれ位はお安いご用です。でもご本を読むのは休憩時間の時にしましょうね。いま読んでは馬車酔いしてしまうでしょうから」

 おおよそ二年ほど前からイルネージュ王国では、これまで一般的であった詩や物語、童話とは異なる様式の娯楽性を重視した絵物語や小説が流行していた。
 本の希少性などから庶民はなかなか手が出しにくいものではあったが、下級貴族の子弟から上級騎士や爵位持ちの貴族の間でも話題になっている。
 レアドランがロミに手渡したのは、その新しい形式の絵物語と小説を纏めて掲載して刊行している雑誌の最新号である。
 いますぐ本の中に目を通したいのを我慢して、ロミは満面の笑みを浮かべて本を抱きしめる。ゆらゆらと座席と尻の間で揺れる尻尾が、その心中を良く表していた。

 骨に生真面目と書いているに違いない、と言われることのあるアスティアなどは、ロミとレアドランのやり取りに小言の一つも言いそうなものだったが、ロミがこうして笑う様になるまでの経緯を知っているから、何も言わず笑いあう少女達を静かに見守っている。
 レアドランはカーテンを開いて場所の窓から周囲を囲む兵士達の姿を見回した。
 人口の八割以上を純人間種が占め、残り二割はケモノビトが占めるイルネージュ王国であるが、このレアドランの手勢のようにケモノビトを積極的に兵士に採用している姿は珍しい。

 人間の様に二足歩行ながら全身を毛皮に包まれ、そのまま獣の顔が乗っているものからロミのようにほとんど人間と姿の変わらないものまで、獣と人の特徴の割合は個々によって異なっている。
 人間とケモノビト達の姿を見まわしていたレアドランは、あるオオカミビトの女性兵士の姿を見つけて目を止めた。
 ロミと同じ赤い髪の毛と体毛を持ち、十歳ほど年上の整った顔立ちの中に成長途上の少女特有のやわらかな線が混じっている。
 ロミの姉のロナである。侍女見習いとしてレアドランの傍にいる妹と違い、この姉はオオカミビトの身体能力を活かして兵士として仕える道を選んでいた。

 レアドランの視線に気づいたロナが、狼の鋭さと少女の柔らかさを併せ持った顔を真っ直ぐ前に向けたまま視線を動かし、レアドランの金色の視線と赤いロナの視線が交錯する。
 にこりと柔らかく笑んだレアドランがロナに向けて小さく手を振ると、ロナは視線を伏せて返礼する。
 あくまで兵士の分を弁えた行動であったが、尻尾用の穴が開けられたズボンからまろび出ている太い尻尾が、嬉しげにはたりはたりと揺れている。
 姉も妹も大恩あるスノーとレアドラン親娘へ篤い忠義心と恩を感じていた。いやロナとロミならずケモノビトの兵士の多くが、同じ立場であり同じ心を共有していた。
 オオカミビトの姉妹をはじめとするケモノビト達は、かつて隣国で奴隷として売り捌かれていた所を、スノーとレアドランに拾われて人らしい(広義においては人間とケモノビトを総称して人と呼ぶ)扱いを受けた経緯があった。

 イルネージュ王国南部と国境を接するヌイ王国は、建国以来奴隷売買によって国家財政を担ってきた国で、レアドランに仕えるケモノビトの多くはヌイ王国で捕縛されたか、あるいは牧場で繁殖させられた奴隷であった。
 スノーと共にレアドランが王国領内の視察を兼ねた旅行に出た折、ヌイ王国の近くまで来たところで、奴隷主の所から逃げ出したロナ・ロミ姉妹が暴行の跡がむざむざと残る姿でレアドラン一行の前に行き倒れていた。
 それを見つけたスノーは同行していた医師達に可能な限りの治療を命じ、ロナ姉妹を保護する事となったのである。

 奴隷主から過酷な仕打ちを受けていたと一目で分かるほど無残な姉妹の姿に、レアドランの母スノーは大いに嘆いて、この姉妹を手元で引き受ける事を反対する周囲の者達に強く言い含め、夫である国王に嘆願し許された。
 ここで終わっていたならたまさか耳にする事のある美談で終わったのだが、この話には続きがあった。
 姉妹の奴隷主が店を出していたヌイ王国の奴隷市場で、何者かの組織的な手引きでもあったかのように奴隷たちの脱走が続き、その内姉妹の親族などを含むケモノビトの一団が、国境を越えてスノーとレアドラン一行と遭遇してしまったのである。

 おそらくロナとロミの残り香を追ってのことだろうが、あまりにも正確にスノー一行と遭遇した事実には、なにかしら作為的なものがあったかもしれない。
 人間に対する強い不信感と反逆心を持つ彼らが、武装した人間の一団を前に冷静で居られるわけもなく、レアドラン達を守っていた騎士達も武器を構えて一触即発の危うい状態に陥ってしまった。
 この一触即発の事態を、治療を終えたロナ・ロミ姉妹を伴ったスノーとレアドランが無防備な姿でケモノビト達の前に姿を表して危害を加えない事、希望さえあればイルネージュ王国で保護する事を説いた事で血が流れることなく解決した。

 この時スノーとレアドランが保護したケモノビトは総勢百二十名。
 ヌイ王国は奴隷売買によって財政こそ豊かだったが軍事力には乏しく、強力無比な飛竜騎士団と走竜騎士団を抱えるイルネージュ王国には、毎年貢物を送って顔色を伺う立場にある。
 その隣国の王族の元へと自国の商人の奴隷が逃げ出した、という知らせは当時、ヌイ王国首脳陣の顔色を青く変え、寿命を十年は縮めるほどの効果があった。
 奴隷が脱走した責任を追及された奴隷主は、全財産をイルネージュ王国への賠償として支払い、さらに抱えていた奴隷の全てをスノーとレアドランに差し出す事をヌイ王国から命じられる事となる。
 その結果、既に保護していたケモノビト達に加えて、奴隷主の保有していた千人近い奴隷たちが、ほぼ無償でレアドランの領地にて保護される事となった。

 元奴隷たちの多くはレアドランが父から与えられた領地に土地を与えられ、領民として暮らす道を選んだが、あるいは生まれ故郷に帰り、あるいはロナやロミの様に兵士や使用人としてレアドランに仕える道を選ぶものもいた。
 奴隷達の人としての尊厳を尊重し、手厚く保護するスノーとレアドランに対して、奴隷時代の苛烈な扱いに対する反動もあって、ケモノビト達の感謝の念は天井知らずと言って良かった。
 その恩義を捧げるスノーが既に亡くなり娘だけが残された事もあって、彼らがレアドランに向ける忠義と恩義は極めて篤く堅固なものであった。
 果たして奴隷市場から多くの奴隷たちが脱走した経緯や彼らが一直線にスノー一行と遭遇した偶然に関して、レアドランのなにかしらの暗躍があったかどうかは、レアドラン自身しか知らぬ闇の中に消えた真実である。

 さて領地へと戻る旅路の間も、領地側から走らせた早馬から受け取った、レアドランの裁定が必要な書類を吟味し、領主の押印と指示を書いた文書を持たせて使者を送り返す事をしながら、レアドランは自領であるエルジュネアへと三日を掛けて帰還した。
 エルジュネアはなだらかな平原と広い湿原を持つ土地で、一年を通じて温暖湿潤の気候を持ち、過ごしやすい場所と言える。
 母スノーがあくまで妾妃という立場であった為、領地は与えられなかったが、その娘であるレアドランは王族として領地を持つ権利を有していた。

 ジュド国王はスノーと間に産まれたレアドランの事を正室たるローザとの間に産まれた子供たちとも、分け隔てなく我が子として扱っている。
 エルジュネアは、元々王国直轄領として優秀な代官が派遣されて恙無く治められていた土地で、領土はそう広くはないのだがその割に収入はよく、領民たちも王国への忠誠心の篤い人々が占めている。
 治めやすく過ごしやすいこの土地を下賜した事が、ジュド国王のレアドランに対する愛情の現れであろう。

 そのエルジュネア領であるが領内に抱える湿原地帯には、少なからぬ問題を孕んでいた。
 湿原地帯の近くに住む人々は湿原に住まう沼蛇や沼鰐を狩り、群生する蓮やレンコンなどを栽培して日々の糧としているのだが、恐獣の一種が棲息し住民を襲う事が以前から時折起きているのだ。
 恐獣とは一般に家屋ほどの巨体を誇る極めて強力な獣を指す。エルジュネアの湿原地帯に棲息する主な恐獣はギャッターという、二足歩行の巨大な鰐である。
 そう簡単には刃を通さない硬質の皮膚と分厚い肉、牛馬を一飲みにする巨大で長い口、一払いで家屋を倒壊させる強力な尻尾を持ち、対峙すれば命はないも等しい脅威である。
 これに対してはある程度まとまった数の兵士を派遣し、可能であれば追い払う――退治、ではない――のがこれまでの慣例であったが、レアドランが領主として赴任してからはこれが積極的な狩りへと変貌した。

 レアドランにエルジュネア領が与えられたのは五歳の時だが、実際に領主として居城に住まい日々を過ごす様になったのは、十歳になってからの事だ。
 領主としてレアドランは積極的に湿原に出没する恐獣狩りの先頭に立ち、幼さに釣り合わぬ圧倒的な戦闘能力と、戦場の全てを制するかの如き威厳をもって兵士達から狂信的な信頼を獲得していた。
 これには専任騎士たるアスティアはもちろん城中のあらゆるものが反発したが、レアドランが逆らえぬ母スノーや父ジュドは遠くに在り、結局レアドランを止めること叶わずにこれまで何度もレアドランは巨大な恐獣達を狩って、その武勇を領内に轟かせている。

 王都から戻り、不在の間に溜まっていた案件を手早く済ませたレアドランは、王都には連れて行かず領内に待機させていた兵士達にすぐさま号令を発し、手勢を連れて湿原地帯に姿を見せた恐獣狩りへと出立した。
 当然代官やアスティアはレアドランの同道を止めるのだがこれが言う事を聞く相手でない事は、この一年で嫌というほど思い知らされており止める側もほとんど社交辞令めいたものになっている。
 ギャッター出現の報が届けられた湿原地帯に布陣したレアドラン率いるエルジュネア軍は、血の滴る生肉をばらまいておびき寄せたギャッターとの戦闘にすぐさま突入した。

 膝まで水に沈む比較的浅瀬に誘い込んだギャッターは、濃緑の革で鎧った巨体を二本脚で立たせて、周りを囲いこむ小賢しい人間達との戦いにすぐさま没頭した。
 もともと恐獣は総じて凶暴で攻撃性の高い恐るべき化け物である。捕食対象でしかない人間達が立ち向かってくる様子に、ギャッターはおおいに怒りをあらわにしている。
 鰐をさらに何倍にも巨大化させて発達した後ろ足で立たせればこうなる、という姿のギャッターがくるりとその場で回転し、尻尾で薙ぎ払おうとする予備動作を見逃さず、旅路の疲れをおして恐獣討伐に参加していたアスティアが、遠雷のごとき大音声で命令を発した。
 磨き抜いた黒い鎧や白雪の頬は既に泥水で汚れていたが、アスティアの纏う凛々しい雰囲気はわずかも霞んではいない。

「盾構え! 受け止めよっ!!」

「おおおっ!!」

 体を覆い隠せるほど大きなカイトシールドを構えた屈強な多男たちが総勢十名、身を寄せ合いながら兵士達の最前列に出て、ギャッターが振るった尻尾を真正面から受け止める構えを取った。
 湿原の水面ばかりか空気を震わせる轟音を立てて、ギャッターの尻尾が横一列に構えられたカイトシールドに激突する。
 カイトシールドの尖った先端をぬかるんだ湿原の地面に深く突き刺し、さらに纏った重厚な鎧の重量と鍛え上げた肉体の力で凄まじいギャッターの尻尾の薙ぎ払いを受け止めた兵士達のこめかみに、青筋が何本も浮かびあがった。
 ギャッターの攻撃を受け止める、それを前提とした超重厚の鎧の下で兵士達の筋肉が軋む音を上げ、加わる負荷に耐えんと一層盛り上がり血の巡りを早める。

「押し返せええ!!」

 アスティアの号令一下、カイトシールドを構えた兵士達がぬかるむ大地に、ふくらはぎまでも埋め込んで一気に全身の力を爆発させて、ギャッターの尻尾を押し返す。
 体のバランスを取る重要な役目を持つ尻尾が押し返され、ギャッターの体が大きく泳いだのを見逃さず、アスティアが続く命令を飛ばした。

「槍隊、突き込め。隙を逃すなあ!!」

 体を泳がせるギャッターの左右の脇腹を狙い、恐獣狩り用の特別に長く作られた槍を三人がかりで持ち上げた槍兵達がざぶざぶと湿原の水をかき分けて、気炎を吐きながら恐獣狩り位にしか用途のない巨大な槍を突きだす。
 左右から四本ずつ突き出された槍が濃緑のギャッターの分厚い皮膚を貫いて、黒みの濃い血が勢いよく溢れだした。
 たちまちのうちに湿原の水がギャッターの血で赤く染まり、苦痛に悶えるギャッターが憤怒の叫びを天を仰いで上げる中、槍を突きこんだ兵士達はギャッターの動きを止めるように必死に槍を掴んで、ギャッターの動きを抑え込みにかかる。

「おおおおお!!」

 次の命令を飛ばさずアスティアは勢いよく走りだし、使いこんだ愛剣を掲げて槍を構える兵士達の肩に足を掛けて跳躍するや、その勢いのままにギャッターが無防備に晒す咽喉へと白銀に輝く刃を突きこむ。
 新たに溢れるギャッターの血潮に白い頬を濡らしながら、アスティアはギャッターの咽喉に足を掛けると一息に体重を掛けて、さらに奥へ奥へと剣を深く突き刺す。
 苦しみもがくギャッターが身を捩る度にアスティアは放りだされそうになり、それを必死に剣を握ることでこらえ、この巨大な鰐様の化け物の死をいまかいまかと耐え続けた。
 その時、天上から一陣の風がギャッターへと襲い掛かる。
 いや、それは身の丈を超える長大重厚な大剣を構えたレアドランとブランネージュ!

 レアドランは大の大人が五人がかりで持ち上げるのがやっと、という実用性皆無の巨大な大剣を、ブランネージュに急降下を敢行させた勢いを利用し、さらに全身のばねを活かし自分自身を断頭台の刃と変えることで振るう事を可能にしていた。
 天を仰ぐ直立の体勢にあったギャッターがレアドランの姿を視認し、その矮躯を飲み込まんと大顎を開く。
 レアドランがこのままではギャッターに丸呑みにされると気付いた兵士達が悲鳴を上げる中、あろうことかレアドランはブランネージュの鞍を蹴り飛ばし、一気呵成とばかりにギャッターへと向かい跳躍するではないか!

 ばくん、と音を立ててギャッターが口を閉じた瞬間、レアドランの小さな体はギャッターの口の中に消えてしまう。
 誰もが自分達の敬愛する主君の無残な死に目に目を逸らそうとする中、レアドランは弧を描くほどに逸らした体をありったけの筋肉のバネを動員して動かし、振りかぶっていた大剣をギャッターの口内部に叩きつけた。
 光がさし込まず真っ暗なギャッターの口の中でも、レアドランの瞳は正確に周囲の状況を把握しており、ギャッターが嚥下するよりも早くレアドランの振るった大剣が内側からギャッターの肉と革を裂く。

 後に恐獣殺しと名付けられる大剣の刃は、直立していたギャッターの眉間の辺りから切っ先を飛びだし、落下の勢いをそのままにギャッターの股間部までを縦一文字に切り裂く。
 小さな脳天を断ち割られ、脊髄から生命維持に必要な臓器までまとめて二つにされては、流石にギャッターも死の手からは免れず、瞳から急速に力が失われるやそのままゆっくりと横に傾き始める。
 潰されては叶わんとアスティアがギャッターの咽喉から愛剣を引きぬいて飛び降りた直後、ギャッターの体がけたたましい音と噴水の様な水飛沫を上げて湿原の水面に倒れ込む。

「えい」

 とひどく場にそぐわない可愛らしい掛け声がすると、アスティアからは見えないギャッターの背中側で分厚い肉を切り裂く音がして、ついでぴょんと跳ねたレアドランがギャッターの死体の上に飛び上がって来る。
 戦場においてよく目立つようにと、赤いロングスカートと白いドレスの上に、擬人化した月の意匠を凝らし、わざと華美に装飾した白銀の鎧を纏っている。
 指先から肘までを覆うスパイク付きのガントレットや爪先から膝までを覆うグリーブは揃って金色。
 頭を守るのは常に身につけているティアラだけで、あまりにも無防備に最も守るべき頭がさらけ出されている。

 これは自らの所在を常に主張し、味方に知らしめることで士気を鼓舞する為の措置である。
 眩い鎧を纏い可憐なかんばせを隠さず常に先陣を切るレアドランの姿は、武人にとってこれ以上なく心惹かれる輝きを放つのだ。
 そしてギャッターの口中に飛び込んだレアドランの結いあげた金髪や、処女雪の肌理と色を持つ肌には返り血の一滴さえも付着してはいなかった。
 恐獣殺しの大剣をひょいと軽く肩に担ぎ、レアドランはギャッターから離れて膝まで水に浸けているアスティアの姿に気付いてねぎらいの言葉を投げかけた。

「ふむ、アスティア、怪我はありませんか? 咽喉への一撃、それまでの指揮、ともに見事でした」

 ただ一撃を持ってギャッターを倒したレアドランの手並みの鮮やかさと胆力に、改めて感嘆の念を抱いていたアスティアは、レアドランの言葉にすぐさま片膝を突いて頭を垂れる。
 レアドランは武力において、エルジュネア領はおろかアスティアの知る限り、イルネージュ王国内でも敵うものはないのではないか、というほど傑出した人物であり、騎士として武に携わるアスティアにとって、もはや手の届かぬ高みに立つ達人であった。

「は、姫様の御采配あればこそでございます」

「いいえ。事前の打ち合わせこそしましたが、実際に戦の場で指揮を執ったのは貴女なのです。皆が怪我一つ負わずに戦えたのは貴女の武勲に違いありません。
 要らぬ謙遜は無用。私が貴女に送るのは称賛の言葉以外にありはしません」

「勿体なきお言……」

 アスティアが敬愛する主君の言葉に感激で美駆を震わせる中、レアドランははっと顔を上げるや肩に担いでいた恐獣殺しを横倒しに構え、柔軟な体の許す限り捻りギャッターの上で独楽のように回転してその勢いのままに恐獣殺しを投げた。
 ぶおん、と絶え間なく風を切る音も凄まじく回転し、恐獣殺しはアスティアと兵士達の頭上を通過し、その背後の水面から浮上していままさに襲いかかろうとしていたギャッターの頭蓋へ深々と突きささる。
 横倒しで高速に回転していた恐獣殺しは、浮上しつつあったギャッターの両方の眼と額を正確にかち割り、その勢いのまま頭蓋の奥深くへと喰いこんでギャッターの脳をぐちゃぐちゃにかき回す。

「ブランネージュ!!」

「ぎゃおおおおおおおお」

 主の呼び声から意図を汲んだブランネージュが、絶命しつつあるギャッターの頭上へと舞い降りて、太く鋭い爪でギャッターの背中を抑え込み、ギャッターの首に喰らいついて頸骨を一気に噛み砕く。
 頭蓋の粉砕に加えて頸骨を噛み砕かれたギャッターは完全に死に、牙をギャッターの血で濡らすブランネージュは、自分の勝利を誇る様に天を仰いで開いた咽喉の奥から咆哮を上げる。
 愛竜の勝鬨で鼓膜を揺らしながら、レアドランはギャッターから飛び降りてアスティアに微笑みかけた。

「さあ、これで報告のあったギャッターの討伐はこれで全てですね。二頭と聞いていた所に三頭目が出て来たのは意外でしたが、これで三頭分のお肉と革が手に入ったわけですし、負傷者も出なかったのですから良しといたしましょう」

 当初報告ではギャッターは二頭出現した、という事であったがいましがたレアドランとブランネージュが仕留めたのが三頭目のギャッターであった。
 アスティアとエルジュネアの兵士達が戦っていたのが二頭目のギャッターで、一頭目のギャッターは既にレアドランとブランネージュによって倒され、湿原にその死骸を浮かべていたのである。
 そしてレアドランが積極的に恐獣狩りを行うのは、領民の安全を守るためばかりではなく、恐獣の巨体から得られる大量の肉を食用に加工し、またその革や鱗、牙に爪、骨を手に入れる為でもあった。

 領内に小規模の鉱山しか持たないエルジュネアでは、金属製の鎧兜や剣、槍と言った武具を揃えるのは非常に手間と金がかかる。
 この問題に着目したレアドランは、解決手段の一つとして恐獣の肉体を素材とした武具防具の開発を行っている。
 かねてより恐獣の甲殻や甲羅、牙、爪などを加工した武具、防具が存在しており、それらを大々的に自軍に導入しているのだ。

 盾を構えていた兵士達の装備は鋼鉄を主にしていたが、エルジュネア軍の兵士達の多くにはギャッターをはじめ、各種恐獣の肉体からはぎ取った素材を加工した独特の装備が支給されている。
 今回討伐した三頭のギャッターを陸地に引き上げて、沼カバや馬に牽引させた荷車に乗せ、鉄鎖と荒縄で厳重に縛りあげてから湿原地帯を後にする。
 ブランネージュの鞍に跨り、整然と列をなす兵士達を前にレアドランは両手を広げ、兵士達の顔を見回しながら高らかに告げる。

「皆、よくぞ戦い、よくぞ勝ち、そして生き残りました。我がイルネージュ王国の民を害する恐獣を討伐する事が出来たのも、我が前にある皆の助力の賜物。
 このレアドラン、皆の勇気と助力に心より感謝いたします。さあ、勝鬨をあげよ! 無辜の民を守る誇りある戦いの勝利ぞ! 
 胸を張り、前を向くのです。我が勇敢なる兵よ、我が仲間たちよ!!」

 レアドランの言葉が全ての兵の耳を震わせ、心に届いた時、雷が一斉に降り注いだかごとき歓声が兵士達の口から溢れだした。
 竜の咆哮はそれを受けた者の魂を揺さぶる効用を持つ。その竜の魂を持つレアドランの声は、生来のカリスマもあって耳にするもの全ての魂に直接響く強大な影響力を持っている。
 王族の血を受けながらも自分達と共に死の危険が色濃い戦場に立ち、そして誰よりも危険な場面に率先して挑みかかり、危難を正面から小細工なしに打ち破るレアドランの姿は、共に戦場に立つ者にとって畏敬の念を抱くには十分すぎた。
 レアドランの名を歓呼し、イルネージュ王国万歳と咽喉を枯らすほどに叫ぶ兵士達の姿を、慈愛の眼差しで見渡してレアドランは滅多に浮かべる事のない微笑を浮かべる。
 なによりも誇るべき宝物が、いまレアドランの目の前に立つ兵士達なのだと、その微笑は雄弁に物語っていた。

「ふむ!」

<続>

3/25 20:12 投稿
 21:54 修正 科蚊化様、ありがとうございます。
3/26 08:58 修正



[32434] さようなら竜生 こんにちは姫生3
Name: スペ◆20bf2b24 ID:e262f35e
Date: 2012/04/10 12:28
さようなら竜生 こんにちは姫生3


 ああ、つまらない。私、シオニス・リモネシアは煌びやかに飾り立てられた王宮の大ホールの壁に背を預け、嘆息せざるを得なかった。
 今日は我がイルネージュ王国第三王女レアドラン・クァドラ・イルネージュ様が、王都を御出立なさる前日の祝宴。
 領地こそ持たないが長く城勤めの騎士として王家に忠を捧げて来たリモネシア家は、このような上級貴族でもなければ出席を許されない場にも在る事を許される。
 当代のジュド国王陛下は質実剛健を好まれ、刹那の享楽を忌避される方ではあるがこういった宴に関してだけは糸目を着けずに贅を尽くされる方だ。
 一年のほとんどを離れて暮らすレアドラン様の為、というお題目の元に金にあかせて国内外から集めた食物と美酒が、所狭しと並べられている。

 その無駄の極致としか思えない贅沢も、こちらの鼻が曲がりそうなほど強い香水の匂いをおしつけがましく振りまく他の貴族達も、すべてが気に食わない。
 なによりこんな格好をさせられてこの場に出席させられている自分が、そして父からの命令を断れない自分が気に食わない。
 私は詩の朗読よりも軍記や戦記物語を読むのが好き。
 華美に飾り立ててダンスを踊るよりも、盤上の駒を操って競うチェスの方が好き。
 年の近い貴族の女子達が好む色恋の話よりも、父の同僚の騎士や兵士達と戦術や戦略、実際の戦場について語る方が好き。

 けれど父上も母上も兄上も、私が私の好きな事をするのをお許しにはならない。
 他の婦女子のように男を立て、家を支え、子を成して血を繋ぐ貴族の女としての有り様を強いる。
 いやだ、私は私。私は父上や母上の道具ではない。敷かれた道の上をただ歩くだけの人生なんてまっぴら! 自分の生き方は自分で決める!
 私はそう叫ぶ。ただし、心の中でだけ。本当に口に出して父上や兄上に抗った事など一度もない。私は臆病なのだ。
 ああ、どうしてこの本当の思いを口にする事が出来ず、ただ言いなりになって生きているのだろう!

 今日だって上級貴族や騎士の子弟が顔を並べるこの宴で、私が誰かの目に留まることを期待した父上に命じられて、いやいや出席しているだけ。
 せめて誰の目に留まる事のない様にと壁に背を預けて顔を俯かせて、この煌びやかな宴の光が落とす影の一つに化ける事が、せめて私にできるささやかな反抗。
 宴の始まりからずっとそうして誰の目からも耳からも隠れるようにしていた私だったが、不意に私の目の前に立つ人影に気づいて顔を上げた時、ああ、私は自然と熱い吐息を零していた。
 それは恍惚という名前を持った吐息だった。
 私の目の前に美という概念がそのまま人と化したかの如き美しい方の姿があり、さらにはお声をかけてくださったのだ。

「よろしければ私と一曲踊って頂けませんか?」

 ああ、ああ! この方が、この方がレアドラン様。その美貌と才覚を王国に知らしめた最も貴い血統を受け継ぐ御方。
 恐れ多くもレアドラン様は私へとその御手を伸ばされ、ダンスの相手をお求めになっていらっしゃる。
 私はレアドラン様の金色の瞳に、心の全てを見透かされている様な気持ちのまま、レアドラン様の御手に自分の手を重ねた。
 なんと、なんと畏れ多いこと。イルネージュ王家の血を引く証たる金の瞳、金の髪、雪色の肌、薄紅色の唇、なにもかもが私の心を捕らえて離さぬ魅惑の業。

 レアドラン様の御手に自分の手を重ねた瞬間、私の背筋を稲妻が貫いた様な感動が走っていた。
 それには得も言われぬ快楽さえ感じられた。こんな感動は知らない。こんな快楽は知らない。レアドラン様、貴女様は本当に人間なのですか?
 これは夢ではないのか? 人生の全てを詰まらぬと感じ、世界が色褪せて灰色にみえている私を憐れまれた天上の偉大な御方が、レアドラン様を天の御使いの如く御遣わしになられたのではないだろうか。
 私が恍惚と意識を蕩かせている間に、レアドラン様は大ホールの中心へと私をお導きになり、さらに、ああ、なんということか私の腰に手を回し、ぐいと驚くほど力強く抱き寄せられた。

――レアドラン様の、お顔、が、こんなに近くに!

 互いの息が頬に掛るほど近くなったレアドラン様が、にこりとどこか艶然と微笑まれる。私はそれだけでもう何が何だか分からなくなった。
 これは夢なのだ。夢に違いない。そうでなければこんなにも美しく、そして妖しい人間がいる者か。
 レアドラン様の瞳、レアドラン様の御手、レアドラン様の吐息、レアドラン様のぬくもり、レアドラン様の御髪、レアドラン様の唇、レアドラン様の匂い。
 その全てが私を狂わせる。私の心を絡め取る。それは抗う術なき蜘蛛の糸。
 レアドラン様という美しい金の姫蜘蛛の糸は、私の心と体を未知の快楽と感動で絡め取る。

 夢の様な、いいえ、夢とさえ思えない様な甘い時は、大ホールに流れていた楽曲が止まり、姫様が私の体を離されて一礼されたことで終わりを告げた。
 ああ、今も思い出すだけで体の隅々までを痺れさせる甘美な時よ。この時私は心の底から理解した。それはこの上ない喜びを伴う理解だった。
 私は、私、シオニス・リモネシアは、レアドラン様と出会う為に、お役に立つ為に生まれて来たのだ!
 この血の一滴から髪の一本に至るまで、その全てがレアドラン様の御為にこそある!
 私はこの日、運命に出会ったのだ。レアドラン様という私の全存在を捧げる絶対の運命と。

 それを理解した私は、次の日からすぐさま行動に移った。
 レアドラン様は馬車に乗って三日を掛けてご領地であるエルジュネアにお戻りになられる。
 私がレアドラン様のお役に立つには、エルジュネアにて私を取りたてて頂く他にない、と私はこの時思いこんでいたのだ。
 この時点でレアドラン様がエルジュネアの御領主となられて二年が経過し、その間レアドラン様は常に人材をお求めになっていた。

 エルジュネアでは三ヶ月ごとに文官と武官を募集する試験が行われる。
 試験を受ける資格は特にない。文官ならば最低限の読み書きと計算能力が求められるが、そんなものは常識以前の話だ。
 年齢や性別、種族を問わぬエルジュネアの試験は非常に人気があり、能力はあるが身分が低かったり、なんらかの理由があったりして役人になる事や出世が見込めない者が、少なからずエルジュネアを目指していた。
 なかにはエルジュネアの内事情や、レアドラン様の懐に近づかんとする不届き者もいるだろうが、レアドラン様が噂どおりの御方であるのならば、それさえも見越しての事だろう。
 そして私は身命を賭してレアドラン様に忠誠を誓う真の忠臣となる為、エルジュネアにて士官の道を求める者のひとりとなるのだ。自信はある。

 これでも本職の上級軍人をチェスで負かした事があるし、実際に参謀として活躍している方や、引退した軍師の方などに時間は短いが教えを受ける機会にも恵まれた。
 軍師や参謀としてだけでなく治水や法律、経済、哲学に関しても私は貪欲に学んできたのだ。
 城勤めの騎士の給金は下手な爵位貴族よりも良いものだ。
 それを利用して私は時には父上にお叱りを受けながらも、古今の書物を買いあさり私学に通い詰めて来たのだから。
 ああ、レアドラン様。我が生涯唯一の君、私の生まれた意味、私の存在する意義たる御方。すぐにでもこのシニオスが参ります。どうか、いましばしお待ちくださいませ!

 父上に宛ててしたためた手紙を部屋に残し、当座の上で必要そうな金子と着替え、書籍や筆記用具、保存の利く食料を家の倉庫から持ち出して纏めた私は、まだ陽の昇らぬうちに家を出た。
 次にエルジュネアの採用試験が行われるのは、レアドラン様がお戻りになられてから五日後、つまり王都を御出立される今日から数えて八日後だ。
 道中の安全の為に傭兵を二人雇い、旅馬車を飛ばせばレアドラン様のすぐ後にでもエルジュネアの首都に到着するだろう。
 その間に採用試験の事前公開情報を改めて確認し、備えれば私の合格はほぼ間違いはないだろう。私の心はようやく光を見出した私の人生に対する悦びに踊っていた。

 エルジュネアの首都グレーシャトラは、以前から王家直轄領で厚い援助と優秀な代官が派遣されていた事もあり、領土の規模と比すれば十二分に発展した都市だ。
 そこに加えてレアドラン様が王国の最東部まで続く交通路を敷いたことで、人と物品の新たな流通路が敷かれ、日夜莫大なお金と人と物とが流入して更なる発展を遂げている。
 規模や人の数では王都に及ぶべくもないが、都市に漲る熱意と活力ではこちらの方が上だろう。
 ごった返す人々と副次的に生み出される猥雑な音、匂い、雰囲気が、王都からあまり離れた事のない私の意識を酔わせようとしてくる。

 護衛を依頼した傭兵達と別れ、適当に見つくろった旅籠に部屋を取り採用試験までの時間を、レアドラン様のご政策や現地の人々の意見、他所の土地から来た商人からの情報収集などに宛てた。
 用立てた金子の半分以上を消費する事にもなったが、私はそれに見合うだけの成果を得られたと判断していた。
 やはりレアドラン様のご政策は領民の視点に寄ったものだ。支配者としての視点しか持たないほとんどの貴族からすれば、奇異に映るほど領民に甘いのだ。
 だがその一方、自分達で自分達自身の生活を良くする為にできる事を考える事、自分達で出来得る限りの事を尽くす事を領民にお求めになる厳しさがある。

 そして領地全体が富んでいるのには、レアドラン様がご考案されたと言う数々の道具や例を見ない政策に依っている。
 農地改革や市場開拓、交通整備などにも目を奪われるが、特に領民の生活に大きな災いとなる恐獣狩りの戦果が凄まじい。
 かつてスノー様とレアドラン様が引き取られたケモノビト達や、王都の騎士団で名を知られたレーヴェ卿の実力もあるだろうが、おそらくは対恐獣用に考案されたという戦術や武装に寄る所が大きいのだろう。
 噂ではそれさえもレアドラン様がご主導されたものと聞く。改めて知れば知るほどレアドラン様の非凡さ、いやもはや異才と呼ぶべきものが理解できる。

 いったいレアドラン様にはこの世がどのように見えているのだろうか? その異才には戦慄さえ覚えるが、そのような方にお仕え出来ると思うと血が沸き立つかのようだ。
 そのような方ならば私の才能を余すことなく全て使って下さるだろう。まずはその為にも採用試験に合格し、あの方の目に留まる機会を得る事から始めなければならない。
 私は採用試験の本番の日、轟々と胸の内に火を燃やしながら試験の会場となるガウガブル城へと向かった。
 文官と武官の採用試験はそれぞれ日程をずらして行われる。

 グレーシャトラの郊外に在るガウガブル城までは、用意された馬車に受験者が相乗りして向かう。
 今回の採用試験の受験者達は私より若い子供としか見えない者から、腰の曲がった老人と年齢から種族もさまざまな顔ぶれがあった。
 ふふん、私という存在によって合格枠の一つは埋まるのだから、考えてみれば哀れなものだ。
 試験の合格者の数は特に定められてはいないようで、試験ごとに設定された水準を超えた結果を残したものが採用される仕組みとなっているらしい。

 ガウガブル城はなだらかな草原の真ん中にぽつんと建っており、戦を前提とした構造をもってはいない。
 エルジュネアが王国の心臓である王都にほど近い場所である事から、過去戦禍に見舞われた事が少ないのが、大きく関わっているだろう。
 分厚い木を鉄板と補強した城門と太い鉄格子の二重の門が、重々しい音と共に開かれて私とその他の受験者を乗せた馬車を順々に飲みこんで行く。

 馬車はそのまま城の大広場へと続き、そこで私達は降ろされた。城門を背後に正面には城内に続く大扉があり、大扉の上にはテラスが覗いている。
 他の受験者達の姿もあり、なにごとか話し合っている者もいれば瞑目して自己の世界に耽っている者もいる。
 私が到着したのはほぼ最後の方だったらしく、私の後に一つか二つ馬車が来ると城門が完全に閉められて、締め切りを告げる大鐘が鳴らされる。
 体の奥の方を揺さぶる大音量がおさまると、テラスに磨き抜かれた黒金の鎧を纏った女騎士が姿を見せる。

 なんだろう、普通の鋼鉄の鎧とは違うどこか甲殻を思わせる鎧だ。
 女騎士は見る者の目を強制的に覚まさせるような凛冽とした雰囲気を纏う、金髪を太い三つ編みにした美女だ。
 眦鋭くまるで猛禽を思わせる瞳を眼下の私達に向けている。おそらく、この女騎士こそが近衛騎士団で将来を嘱望されたというレーヴェ卿に間違いない。
 レアドラン様の懐刀にして、王都の士官学校では勉学のみならず剣を握らせれば、教官さえ倒したと言う若手の中では三指に入ると言う使い手だ。
 レーヴェ卿の左右に赤と緑の鎧を着た騎士二人が控え、赤い鎧を着ている方は表情を引き締め、緑色の鎧を着た方はにやにやと浮ついた笑みを浮かべて受験者達を見ている。

「諸君、このガウガブル城に良く集まった。これより城内の試験会場に移動してもらうが、その前に畏れ多くもイルネージュ王国第三王女レアドラン・クァドラ・イルネージュ様よりお言葉がある。皆、心して聞くように」

 おお、と誰しもの口からどよめきが零れる。私はレーヴェ卿と思しい女騎士の言葉に、生唾を飲み込んで私の主君を待つ。
 レーヴェ卿が脇に下がり、赤と緑の騎士もそれに倣うと、燦々と輝く太陽の光を浴びながら、レアドラン様が遂にその御姿を御見せになられた。
 テラスにレアドラン様の後光の指すかの如き美貌を認めた瞬間、大広場につめていた受験者達の唇から、魂ごと零れ出る様な溜息が出る。
 太陽は、今日この方を照らす為だけに天に昇ったに違いない。
 飾り気の少ないシンプルな白いドレスを纏い、純銀とルビーのティアラを被り、金の御髪を結いあげたレアドラン様は、その全身に数え切れぬ陽光の粒を纏っていらした。

 あまりに畏れ多くレアドラン様の御姿を見た瞬間、私は目がつぶれてしまうかと思った。
 いいや、違う。この恍惚を胸に抱いたまま死にたいとすら思ったのだ。まさしくこの瞬間、私はこれまでの人生において絶頂にあった。
 私と同じように心揺さぶられた多くの者は、その場に立ち尽くして滂沱の涙を流していた。
 天上人たるレアドラン様のご登場に、受験者達が次々と石床に膝を折り、頭を垂れて視線を伏す。
 お言葉を待たずに高貴なる方のご尊顔を覗き見る事は、この上ない無礼なのである。
 私もまたその場で膝を突いてレアドラン様の金鈴のお声が、私の穢れた耳を震わすのを待った。一語たりとも聞き逃すまい。ただそれだけを念じる。

「皆、まずは顔をおあげなさい。私に皆の顔を見せてください」

 ああ、ご尊顔を拝謁する栄を許されるとは。私は忘我のままに顔を上げて、テラスに立つレアドラン様のご尊顔を仰ぎ見た。
 どくん、と激しく心臓が脈打つ。体の中を流れる血が全て煮えたぎる熱湯に変わったかのように熱い。血が巡る度に体が灼熱し、心が浮き立って思考が熱に浮かされる。
 いまなら分かる。同年代の少女達が憧れるように、夢を見るようにして語っていたこと。
 かつての私がつまならい、くだらないと見下していたもの。
 これが、この感情こそが、この熱こそが“恋”! 私はあの大ホールで一目見た瞬間から、レアドラン様に恋をしていたのだ!!

「はじめまして、皆さん。そうでない方もいらっしゃるかもしれませんが、私がレアドラン・クァドラ・イルネージュです。私の求めに応じて、本日集まってくれた事にまずは感謝を。
 私はこのエルジュネアを統治するに辺り、常に志のある者、あるいは能力のある者を求めています。
 民により豊かな暮らしを送って貰う為に、ひいてはこのエルジュネアという地がイルネージュ王国にとって、無くてはならぬ地となるようにと願っているからです。
 この場に集った皆の思いはさまざまではありましょうが、私のこの思いをどうか知っておいて欲しいのです。
 さて、あまり外で長々と話をしては皆の体に毒というもの。これより試験会場に移動して、試験を開始といたします。皆、悔いなきよう試験に臨みなさい。
 私は試験にこそ立ち合いませんが皆の解答には目を通します。試験の結果を楽しみにしていますよ」

 そう言われるとレアドラン様は踵を返して、城内へとお戻りになられた。レアドラン様、一目その御姿を見る事が出来ただけでも、このシオニスは天にも昇る気持ちでございます。
 しかし私はレアドラン様のお役に立つ為に生まれたと理解できた以上、この場で昇天するわけには行かない。
 かならずやこの採用試験に合格し、レアドラン様の臣下となって一助とならねば、このシオニス死んでも死にきれない。

 周囲を見渡せば他の受験者達の多くも、レアドラン様のご尊顔とお声に触れたことで私と同じような感情を抱いたのか、覚悟を決めた顔をしている。
 強敵が増えた、か。いやレアドラン様の元に志と能力のある者が集う事それ自体は歓迎すべきだ。
 だがその中でもレアドラン様のお目に留まる為には、さらなる精進が必要となるのは、間違いがなさそうだった。
 負けるものか、私の人生に鮮やかな色彩を与えて下さったレアドラン様の御為に!



 太陽が西の彼方に沈み月が夜空の女王として君臨する時刻、文官の採用試験が終わってから数刻後の事である。
 場所はグレーシャトラ城内にある湯殿。白い湯気がもうもうと湯面から立ち昇り、湯殿を白く煙らせている。
 斜めの天上に開かれた円形の丸窓にちょうど月が映り込む形になっており、差し込む月光と覆いを被せられた蝋燭の明かりが白い湯気に朧に溶けている。
 ぼんやりと湯気に煙った月光はほのかな月輪を浮かびあげ、趣がある。
 薄く肌が透けて見える湯衣を纏った侍女数名を従えて、城主であるレアドランが小さな部屋ほどもある湯船に身を沈めていた。

 侍女たちはいずれも湯衣が湯気や湯飛沫に濡れて生地が透け、白や小麦、褐色と言った肌の色や乳首を隠す役割を成せていない。
 レアドランの統治下にあるエルジュネアを象徴するように、侍女たちの人種は人間、イヌビト、タカビト、ネコビト、ウシビト、ヒツジビトと様々である。
 生まれたままの姿で湯の中に未成熟な体の大部分を沈めるレアドランの髪を掬いあげて、数名の侍女達が先ほどから丁寧に香油を馴染ませていた。
 その他にレアドランと共に湯船に身を沈めて手拭で体を揉みほぐしているのは、ジーナとロミである。
 ロミはいかんせん技術的な面では拙い所ばかりではあるが、その無垢な所作や言動をレアドランが愛している事もあって、特別に傍に在る事を許されている。
 その事に不平や嫉妬の念を覚える侍女もいないではなかったが、いかにも無邪気で無欲なロミは、そういった負の感情を帳消しにして余りあり、つまりは誰からも愛されていた。

 レアドランの白く透けた肌が湯の熱に温められてうっすらと紅色に染まっており、その妖艶さに同性ながらジーナはついつい見とれてしまう自分を叱咤しなければならなかった。
 自分よりも一回りも年下で、まだまだ体の肉付きが薄く青い果実でしかないというのに、レアドランの持つ魅力は、不敬極まりないが魔性と称するのが相応しいと感じるほど妖美なものだった。
 いつ声が掛っても良いようにと周囲に控えている侍女たちが視線を伏せてレアドランを視界の中に入れないようにしているのは、貴人への礼儀もあるがそれ以上に幼い主君への恋慕と欲情の念を抑える為でもある。

「殿下、今日の試験の結果はいかがでございましたか」

 自身の高鳴る胸の鼓動を紛らわす為に口にしたジーナの質問に、心地よさに身を任せて目を半ば閉じていたレアドランは、ふむ、と一つ口癖を置いてから答えた。
 文官試験においてレアドランは立ち合いこそしないが、受験者達に説明した様に解答の全てに目を通す。
 ただそれだけのことでも受験者達の数を考えれば、かなりの労働と言える。ましてやこの小さな姫君は、領主として常に取り組んでいる執務も手を抜かずに行っていた。
 成長途上の体が一体どれだけ疲れているものかと、ジーナは案じている。

「ふむ、そうですね。今回も求める水準を満たす者はそう多くはありませんでしたね。ただ熱意のある者は多かったので、多少は大目に見るつもりですよ。
 文官教育の方もおおよその手順は確立できましたし教える側の用意も整ったので、採用してから育てる余裕が出来ましたからね」

 基本的にレアドランはいったいその体のどこにそんな元気があるのか、というほど精力的に働いているが、自分が手を出さなくても回る業務に関しては臣下に任せる傾向にある。
 例え自分が取り組んだ方が良い結果を出すことが明白であっても、臣下たちを育てる意味合いもあって、任せられると判断した物は他者に回している。
 行政組織として業務が少人数に集中することの弊害を嫌っている為だ。
 レアドランの赴任以前からエルジュネアを統治していた文官達と、レアドランが折を見てはスカウトしていた野の碩学達、採用試験で採用された学徒たちなどが、ようやくものとなりつつあった。

「そうでございますか。それはようございました」

 うんしょ、うんしょと声に出してレアドランの左腕の内側から指先までを、一生懸命に揉みほぐしていたロミが、無邪気にレアドランに問いかけた。
 まだ幼い事とレアドランと年齢が近い事もあってか、このオオカミビトの少女はレアドランの事を主君というよりは大好きなお姉ちゃんという風に捉えている節がある。
 ロミの姉であるロナは妹がそのようにレアドランに接する事に恐縮しきっていて、しきりに頭を下げているがレアドランが軽く笑って許している事もあって、目こぼしされているのが現状である。

「姫様姫様、試験を受けた人達ですごいって思うような方はいらしたんですか?」

「ふふ、そうですね。受験者の中で私の事を熱心に見ている方がいましたが、試験の結果はもちろん素晴らしかったですし、解答も独創的で良かったのですが、他に気になる所もありましたね。ジーナ、貴女はリモネシアという家名に覚えはありませんか?」

「リモネシアでございますか。六代に渡って王城に勤めている騎士の家系と記憶しておりますが」

「ええ。そのリモネシア家のご息女が試験を受けていましたよ。王都を出立する時の宴で私と最初に踊られた方です。ふふ、まさか採用試験でお見かけする事になるとは意外でした」

 レアドランの肉付きの薄い脇腹からようやく膨らみかけて来た乳房を、ことさら優しく素手で慰撫していたジーナが、少し考える素振りを見せてから答える。

「リモネシア家の許しを得ての事でしょうか? 殿下の口ぶりでは文官として採用される御積りとお見受けいたしますが……」

「ええ。彼女の能力は手離すにはあまりに惜しい、というよりも手に入れないという選択肢はありません。
ご両親の許しを得ての事かどうかは分かりませんが、私としては是非私の下で働いて欲しいと思います。なんでしたら私が直接説得に赴いても良いと考えています」

 もうすっかりその気になっている主君の姿に、ジーナはこれ以上何かを言う事を諦めた。
 この方ならなんでも上手くやってしまうだろう、という経験則の為でもある。
 大抵周囲の人間はレアドランが上手くやってしまう過程に巻き込まれて、大いに苦労と心労を覚える事になる。
 だからジーナはレアドランの体を清め、疲れを解きほぐす作業に没頭する事にした。いつかどっと押し寄せてくるだろう心労から、一時的にでも目を背けたかったのである。

「ロミもいつか姉様みたいに姫様のお役に立ちたいです!」

 ロミは太い尻尾をバタバタ動かして湯面に波紋を起こしながら、大粒の瞳をきらきらと輝かせて大好きなレアドランの顔を見つめながら言う。
 レアドランはロミの嬉しい言葉に小さく微笑むと、自分よりも一回り小柄なロミの体を抱き寄せる。

「もうロミは私の役に立っていますよ。ロミが傍に居てくれるだけで、私の心はとても穏やかな気持ちになれますからね。
 ロミはロミの出来る事をすればよいのですよ。それがロミにしか出来ない事なのですから」

 可愛い妹に言って聞かせる様にしてロミを諭すと、レアドランは抱き寄せたロミの顔を自分の胸に抱き寄せて頬ずりをする。
 ロミがオオカミビトという事もあり大型犬に頬ずりする子供のようにも見える。レアドランとロミの様子を盗み見ていた侍女の何人かは、うっと小さく呻いて鼻を抑えた。
 こらえ難い何かを覚えた様である。

「姫様~、くすぐったいです」

「ふふ、少し大きくなりましたか? ちゃんと好き嫌いをしないで食べるのですよ。そうしないと大きく育ちませんからね」

「は~い」

 レアドランはまたくすり、と小さく笑みを零してからロミの体を解放した。

「でも姫様、ロミはレナスさんみたいにお乳は出ませんし、ラケシスさんみたいにお裁縫が上手でもありません。姉様みたいに剣を振るう事も出来ません。こんなロミが本当に姫様のお役に立っているのでしょうか」

 レナスというのは後ろで控えているウシビトの侍女である。
 ウシビトの女性は妊娠の是非を問わずに乳房から大量の乳を出すのだが、その乳が牛乳や山羊の乳などよりも美味で滋養に富むと評判で、富裕層や貴族階級の間では愛飲されている。
 レアドランもレナスの乳を三食愛飲している。
 ラケシスは城に奉公しているお針子の一人で、クモビトと呼ばれる蜘蛛の下半身と人間の上半身を持つ種族の女性だ。
 蜘蛛の臀部から出す糸を使った裁縫を得意とするクモビトだが、ラケシスはレアドランが抱えているお針子の中でも一番の腕の主だ。
 昆虫と人間の特徴を併せ持った外見を持つムシビトの中でも、クモビトは忌避されがちな種族なのだが、レアドランは気にすることなく迎え入れていた。

 レアドランはしゅんと伏せられたロミの耳の先端を軽く抓む。親が子にするような優しい仕草であった。
 金髪金眼の姫君は、時折外見にそぐわぬ慈父か慈母を思わせる非常に大人びた言動をする事でも近しい者達に知られていた。
 いまもロミを見つめる眼差しは、我が子を慈しむ親のようであり、本当に何人もの子供たちの成長を見守ってきた実績があるかのようだ。
 親元を離れて城に奉公に来ている者や元奴隷の孤児たちなどは、この小さな姫君の事を時に実の父母であるかのように慕っている者も少なくはない。
 姉や兄ではなく父母のように感じているというのが、このレアドランという少女の特異な点の一つだった。

「ロミは私の言う事が信じられませんか?」

 レアドランに抓まれたままの耳をおおきくはたりはたりと動かして、ロミは驚いた顔を拵えてレアドランの言葉を否定した。

「そんなことはありません! ロミは姫様の事を信じております。疑ったことなんて一度だってありません」

「なら、いま私が言った事を信じることもできるでしょう? それでも自分が私の役に立っている自信がないと言うのなら、ロミが役に立ってくれる事を私が一緒に探して上げます。
 だから、ロミは難しい事は考えないで、ジーナとロナの言う事を良く聞いて良い子にするのですよ」

「はい、姫様」

 ロミは元気よくレアドランに返事してから、くぅんと甘える声を一つ上げ、レアドランに咽喉を優しく撫でられるとより一層機嫌よく甘える声を出す。
 それからしばし湯殿には子狼が母狼に甘えているかのような声が響き続けた。


 採用試験の合格発表がガウガブル城の大広場で行われてから数日後、合格者達は適正を計る為に文官が負担するあらゆる業務ばかりでなく、希望者には軍師としての適性を計る為の試験も課せられる。
 城内に用意された宿舎へと居を移し、官服を支給された新米文官達は少しでも大きく自分達の実力を示し、出世への第一歩とすべく奮起してそれらの業務と試験に臨んでいた。
 以前の自分達の姿が思い起こされるのか、新米文官達の教育を任されたベテラン勢は青臭さを残す新米達の姿に、微笑ましさと過去の自分を思い返す恥ずかしさを覚えながら、時には鉄拳を交えて厳しく教育していった。

 ひとえにレアドランから求められる能力の水準が高く、また厳格なほどに公正に仕事を評価するレアドランの下で働くには、わずかな妥協も落ちこぼれとなる要因となる事を、教育を任された者たちが骨身に知っていた為である。
 いわば彼らなりの新米達への優しさと歓迎の意の表し方と言えた。
 エルジュネア流あるいはレアドラン流の業務体系は慣れぬ新米達を大いに戸惑わせたが、それが合理性に基づく極めて効率的な体制である事を理解すれば、新米達は感心と共に貪欲に業務に励んだ。
 この地で学ぶべきものが多い事を理解した為であろう。

 時に血刀を下げて討伐した大型恐獣の骸を荷車に載せ、軍勢と共に城に帰還するレアドランの姿に呆気にとられる者も多かったが、それが何度か繰り返されるとこの地では姫が直々に恐獣を討伐する事が当たり前なのだと理解し、驚く回数も減っていった。
 だがそういった諦観を含んだ認識には、若干の訂正を必要とする。
 装備を整えれば大型恐獣を単騎で討ち取る尋常ならざる戦闘能力を保有するレアドランだが、恐獣討伐や賊退治などに必ず出ているか、といえばそうあることではなかった。
 レアドランはエルジュネア領内最高戦力であるが、同時に領主でありその時間は戦いにばかり費やされるものではない。

 領民や商人、近隣の貴族との謁見に臨み、予め選別されるとは言えそれなりの量がある陳情書に目を通し、朝議をはじめとした家臣たちとの今後の統治について話し合わねばならない。
 必然的に準備も実行も膨大な時間を要する恐獣討伐に、レアドランが自ら姿を見せるのは、レアドラン抜きでは大きな被害を避けられないだろう大型恐獣や大規模な賊討伐に限られる。
 文官・武官の教育を推し進めた成果で、レアドランの裁可を待たずに滞りなく政務が回るようになってきているから、領主になって一年が経つ頃になってようやく時間に余裕をとれるようになった。

 自ら先陣を切る事を厭わぬレアドランであるが、領主であり王国の王女という立場からすれば、そもそも戦死の危険性を孕む戦場に顔を出すことそのものがあり得ない。
 もともとレアドランも自ら戦場に立つ事の弊害というものは理解しており、文官も武官も任せられる程度に育ってくれば、任せられる事はどんどん任せてなるべく大人しくしているつもりだったのである。
 春が過ぎ、夏の盛りを迎え、秋の実りが麦穂を大きく下げさせはじめたある日も、レアドランは城に残り、エルジュネア南西部から近隣の領地に跨るエバンス大森林地帯に出没する恐獣討伐に向かう兵達の姿を見送っていた。



「ロナ隊、突っ込むぞ!!」

 四名の部下を引き連れて、オオカミビトの剣士ロナは全身に獣気を巡らせて、前方に姿を見せた三頭の恐獣ラプノスへと突っ込んだ。
 頭高が成人男性ほどもあるラプノスは、二足歩行の大型爬虫類といった外見を持つ。
 背中は薄紫色、腹は橙色の硬質の皮膚をもち、前肢に鋭い鉤爪と細長い口にはびっしりと細かい牙を生やしており、発達した後肢の跳躍力を活かした素早い動きを有する。
 小型恐獣の中では最も数が多いとされる種のひとつで、エルジュネアの民にとっては馴染みの恐獣とも言える。
 ロナ達がラプノスと一戦交えている場所はエバンス大森林地帯の最外縁部に繋がる平原地帯。

 上半身が地面と水平になるように体を倒して疾走するラプノス達の合間を、ブロードソードを手にしたロナを筆頭としたオオカミビト達五名が駆け抜ける。
 五名いずれもが脚甲や籠手、革鎧程度の軽装に留めて動きやすさに重点を置いた剣士であった。
 戦場に出れば被害は免れぬ、しかし相対した相手に必ず流血を強制する歩兵戦力であり、オーソドックスに敵の戦力を減らす事を前提としている。

 赤い髪を翻してさながら赤い風と化したロナが、ラプノス達の間をすれ違いざまにブロードソードで斬りつけ、続く部下達も手に手に持った長剣や双剣でラプノス達を斬り裂く。
 全身に漲らせた獣気と気迫の爆発によって爆発的な速力を得、目にも留まらぬ動きで敵対者をことごとく斬り捨てるオオカミビトの得意とする戦法である。
 二つの群れが交差した後、三頭のラプノス達の首や胸、腹に無数の斬痕が刻まれて噴水のように血が噴き出す。

 緑の絨毯が敷かれていた平原が瞬く間に朱に染まり、ぷんと濃い血の香が辺り一帯に立ちこめる。
 周囲の光景が溶けて見えるほどの高速疾走をロナ達が終えると同時に、ラプノス達が大地に倒れ伏す音が連続し、じわりじわりと血溜まりの領土が広がって行く。
 ロナ達以外の部隊も小規模な群れで森林から追いやられてくるラプノス達と戦っており、上手く被害を抑えながら順調に討伐を進めている様だった。
 ロナは愛剣を大きく一振るいして、刀身を濡らしていたラプノスの血を掃う。

「殺られた馬鹿はいるか!?」

「全員怪我一つありません、隊長」

「よし。次の恐獣共を迎え討つ。一瞬たりとも気を抜くなよ。……左翼のレーヴェ卿もそろそろ始めている頃か」

 ロナの隊は右翼の一端を務めており、左翼はレアドランの専任騎士であるアスティアが自ら指揮をとっている。
 身分を考えれば専任騎士であるアスティアと元奴隷で五人隊の隊長に過ぎないロナとでは比較にならぬ差があるが、実の所この両者はお互いを好敵手として見ていた。
 根底にあるのは両者ともに激烈な忠誠心なのだが、アスティアは自分に将来をあっさりと捨てる決意をさせたほどのレアドランの王気と覇気に魅了されているのに対し、ロナは自分と妹と同胞たちを救ってもらったという恩義を源としている所に違いがある。
 原点こそ異なるがレアドランに向けられる忠誠心という点においては、この二人がエルジュネア領で一、二を争い、その事を二人とも気付いているものだから、身分の差を忘れて自分がどれだけレアドランの役に立っているか、と張り合う悪癖があった。
 ロナの瞳は遠くラプノスの群れを真っ向から迎え討つアスティアの姿を映していた。

 アスティアは恐獣の甲殻から作りだした漆黒の鎧を身に纏い、刃零れ一つない白銀の刃を閃かせながら、指揮下にある兵士達への指示を飛ばす。
 左翼がロナ達の様な小規模の隊を複数配置してラプノスを迎え討っているのに対し、アスティアの右翼は複数の兵種を組みあわせた部隊が担っている。
 数十単位で森林から走り出てくるラプノスへと向けて、ハンドルを回して弦を引かねばならないほど硬い弩を構えた兵士達が、三列に並び迫るラプノス達へと狙いを定める。
 しわぶき一つ立たない張りつめた緊張の糸を、アスティアの号令が断った。

「いまだ、放て!!」

 風切る音も鋭くプレートアーマーの最も分厚い胸板の部分も貫通する矢が、次々とラプノス達の頭と言わず胸と言わず突き刺さって行く。
 多くの矢はラプノス達の皮膚や筋肉を貫通し、後ろを走る別のラプノス達の体にも浅く突き刺さるほどの威力を見せる。
 半数は高価な鋼鉄製の矢だったが、残る半数は恐獣の骨や牙を加工して作ったエルジュネア領特有の矢だ。
 矢を放った後は最後列へと下がり、次の列の者が前へと出て片膝を突き、狙いをつけて次々と矢を放つ事で、間断なく矢がラプノスへと襲い掛かって行く。
 一度発射の指示を出してからは、順次発射の用意が終わった者から発射する仕組みとなっている。

 体に何本もの矢を生やしたラプノス達が疾走途中に力尽きて地面にもんどりうって倒れる中、前列の屍を踏み越えて減ったとは見えない無数のラプノスが邪魔者達へと殺到してくる。
 彼我の距離が一定まで詰まった時、アスティアが後退の指示を出して弓兵士達の代わりになにやら綱を手に持った屈強な兵士達が前に進み出た。
 最低限の鎧と小剣を腰に帯びただけの、戦闘を行うには心許ない装備の兵士達である。
 横の間隔を広く持った男達が縦に三人、横に二十人ほど列を成して並び、馬と変わらぬ速度で迫って来るラプノス達が、今にもこちらの喉笛を噛み千切りに来るような恐怖を堪えて指示を待つ。

 ぎゃあぎゃあと血に飢えた鳴き声を上げるラプノス達の黄色い瞳は、同族を殺した目の前の毛のない猿どもへと怒りの視線を注いでおり、一人残らず食い殺すまでラプノス達の怒りが収まる事はないだろう。
 エバンス森林地帯から見て、緩い勾配を描いて盛り上がっている丘の上に陣取ったアスティア達へ向かって迫るラプノス達が、いよいよもって間近にまで近づいて来た時、愛剣を振りあげたアスティアが次の号令を出した。

「引き上げ、急げ! 次いで長槍隊槍構え、剣士隊抜剣!」

「おおおおお!!」

 前列に出ていた兵士達の腕が一回り膨れ上がり、筋肉の瘤が盛り上がりこめかみに青黒い血管が浮かび上がって、兵士たち全員が渾身の力で綱を引く。
 今回のラプノスの大量討伐にあたり森林地帯から追い出す前に、戦場として予定していた平原の地面に偽装して隠していた柵が、繋がれている綱に引き上げられて立ち上がり、即席の檻と化してラプノス達の前進を阻み、あるいは前後を囲いこむ。
 先端を鋭く尖らせた木製の檻であるが全力疾走中のラプノスからすれば、足元や前後の地面から突然柵が起き上がられては堪ったものではない。
 ラプノス達は草をまぶし土中に浅く埋めて隠されていた柵に正面から激突し、あるいは運悪く腹に檻の先端が突き刺さって串刺しになり、またあるいはちょうど柵に持ち上げられて前方に放り投げられる結果となった。
 大いに足並みを乱して戸惑いの鳴き声を上げるラプノス達へと、アスティアは容赦なく長槍隊と剣士隊を率いて一気呵成に突っ込む。

「かかれ! 恐獣共は死に体だ。これを討てぬとあっては姫様の臣下の名折れと心得よ!!」

 柵を引き起こした兵士達が綱を手離し、再び倒れ込んだ柵によってラプノス達は上から押さえつけられる形になり、多くが動きを拘束される形になる。
 体を起こして襲い掛かってくるラプノスも少なからずいたが、一斉に長槍が突き出されれば牙や爪を届かせる間もなく串刺しにされて、苦痛の鳴き声を上げて絶命することしか許されなかった。
 長槍隊が次々とラプノスを串刺しする中、後続のラプノス達が柵を避けて左右に分かれるに呼応して、アスティアも残りの戦力を左右に分けて迎え討った。
 この間に弩を持った兵士達は長槍隊の背後に移動し、壁役となる他の兵士達の背後から援護を行える位置取りを行う。
 綱を手離した兵士達も予め用意されていたカイトシールドや刃が大きく湾曲した剣を手に取り、こちらも壁の一列に加わる。

 アスティアは後ろに倒していた兜を被り直し、柵を避けて襲ってきたラプノス達に真っ先に突っ込んだ。
 戦場において騎士や将軍には、コマンダーであるだけでなくリーダーであることも求められる時代である。
 兵士達と共に先陣を切る者には兵士達から惜しみない称賛と崇敬が捧げられ、貴族達からは勇者として名声を知られることとなる。
 それらが生命を落とす多大な危険性と引き換えに得られるものだった。
 アスティアは一族伝来の長剣を振りかぶり、こちらの喉笛を狙って来たラプノスの首を一撃で斬り落とし、倒れ掛って来るラプノスを蹴り飛ばす。

 一般の兵士に支給されている鉄か恐獣の鎧ならば、ラプノスの牙や爪程度ならばなんとか防いでくれる。
 鎧が覆っていない箇所への攻撃さえ気を付ければ、そう簡単に命を奪われることはあるまい。
 アスティアはラプノスを倒すよりも、部隊の状況を見回し危うい状況に陥った者を助ける戦い方を選んでいた。
 突き出した槍の下を掻い潜ってきたラプノスに、危うく脇腹を噛まれそうになった兵士の前に出て、左手の盾でラプノスの頭部を殴りつけ、仰け反るラプノスの胸に全身で体当たりする要領で長剣を突きこむ。

 名工の手によって鍛え上げられたミスリルの刃は、さしたる抵抗もなくラプノスの胸部を貫いて、血に濡れた切っ先が背中から突き出た。
 ふっと小さく鋭い呼気を一つ零し、ラプノスの腹に足を掛けて思いきり蹴飛ばして、次に飛びかかろうとして来たラプノスにぶつける。
 背後に庇った兵士を振り返らぬままアスティアは激を飛ばした。ラプノスの数はまだまだ多い。

「怯むな! 動きは素早いがあくまで直線の動きばかりだ。腰を落としてしっかりと構えていれば、狙いが外れる事はない」

「レーヴェ卿、騎馬隊、走竜隊がラプノス後続に突撃を仕掛けました」

 走竜は飛竜と並びイルネージュ王国の戦力の中核を担う騎竜の一種だ。
 飛竜と同様に硬質の皮膚と鱗を持つが、大樹の幹のように太い四肢と小屋ほどもある巨体を持ち、首周りには鰓が生えて眼の上の辺りからは前方に向けて太く鋭い角が二本伸びている。
 雑食で気性の荒い所のある飛竜と比して草食で大人しい気質を持ち、比較的人間になつきやすい騎竜である。
 圧倒的な質量を誇る巨体とその膂力で持って敵戦列を崩壊させ、陣形をズタズタに引き裂く突破力を誇る。

「ノイッシュとアルバか。合わせてこちらも出る。このまま押し潰すぞ!!」

 森林地帯から姿を見せるラプノス達の姿が途切れて、今回討伐の対象となったラプノスの群れは、現在アスティア達が交戦しているもので全てのようだ。
 それを見て取った今回の討伐隊の指揮官が、アスティアの副官であるノイッシュとアルバに預けられた騎兵隊に突撃を命じたわけだ。
 土煙を上げて勢い凄まじくラプノスの群れへと迫る騎馬隊と走竜隊に合わせ、アスティアが残る兵士たち全員に突撃を命じてから、ラプノス達の討伐完了までにさしたる時間は必要なかった。

 兵士達は討伐の完了を確認後、後方に下げていた輸送部隊と合同で今回討伐したラプノス達の死骸の血抜きと、素材として使える状態の死体の選別を行いはじめる。
 アスティアは、今回の討伐隊の指揮を任された将来有望な新人軍師としてレアドランから紹介された軍師の元へ戦果の報告に向かっていた。
 野戦などで用いられるテントの所にアスティアが顔を出すと、件の新人軍師シオニスがそわそわと落ち着かない様子で辺り一帯の地図や駒を乗せた机の周りをうろうろとしていた。

「シオニス、軍師がそう落ち着かない様子を見せるべきではない。もっとどっしりと構えていなさい」

「レーヴェ卿、これはお見苦しい所を」

 貴族としてもレアドランの臣下としてもはるか格上のアスティアに対し、シオニスが膝を突いて礼を取ろうとするのを手で制し、アスティアは机の傍まで歩み寄って足を止めた。

「うまくシオニスの読み通りの展開になってくれたお陰で、被害は最小限に抑えられたな。姫様も及第点を下さるだろう」

「レーヴェ卿のお墨付きとあれば、胸を撫で下ろす事が出来ますわ。レアドラン様の手となり足となり眼となり、わずかなりともお役に立つ事がこのシオニスの生涯の勤めなのですから。
 それにこれまでの戦いで、レアドラン様やレーヴェ卿が考案された恐獣用の装備や戦術の礎があればこその戦果です」

 うむ、とひとつ頷いてからアスティアは、今回の採用試験で数こそ少ないが見込みのある軍師や武官を採用できたと、内心で喜んでいた。
 レアドランの赴任以前の代官は有能で王国への忠誠も篤いのだが、文官畑出身の人物でどうにも軍事には疎く、大型恐獣への対応などには後手に回り、兵士や下士官の質がいまひとつだった。
 それを教育し直し、また有望株を貪欲に野に求めた結果、いまでは安堵して指揮や差配を任せられる人材が揃い、他領の正規の騎士団と比べても遜色はないだろうと思っている。
 まあ恐獣を素材とした装備で固めているのはエルジュネア領の兵士達くらいのものだろう。

「リモネシア様、ご報告にあがりました」

 ――と一声かけて来たのはロナである。ラプノスの返り血を拭い身だしなみを整えた姿である。
 右手の握り拳を心臓の上に置くイルネージュ王国の敬礼を取り、鋭い眼差しをシオニスとアスティアへと向ける。

「報告をお願いします」

 シオニスの言葉にロナは頷き返して、つらつらと左翼を任されたケモノビトを中心とした部隊の戦果と被害を述べた。
 負傷者が多数出たものの、幸い二ヶ月ほど治療に専念すれば再び戦場に立てる程度で済んでいた。

「そう、右翼と中央も合わせて事前に予測した範囲に収まる被害で済んだわね。これならレアドラン様を落胆させる事もないでしょう」

 この場の三人に取って共通する最大の悩みは、主君であるレアドランを失望させてしまう事であった。
 その最大の悩みを避けられたであろうことに三人が、揃って内心で安堵しているとロナがさらりとこんな事を言った。

「レーヴェ卿やリモネシア様のお力あればこその成果ですが、レアドラン様一の臣下であるこのロナも一助となれて幸いでございます」

「ほう?」

「へぇ」

 にわかにアスティアとシオニスが眦を険しくする中、ロナは凛々と引き締めた顔のまま、どうだ、と言わんばかりに太い尻尾をはたりはたりと振っていた。

「ふ、まあロナの隊もよく戦ったが、姫様の懐刀であり右腕である私も力の限りを尽くしたからな。当然の戦果だろう」

「レーヴェ卿の仰る通りですわね。これからレアドラン様の知恵袋として今後傍らに立つ私も、采配の振るい甲斐があるというものです。これからも皆でレアドラン様のお役に立ちましょう」

「シオニス様のお言葉の通りです」

「そうだな」

 ――とその様に一同は合意を示すのだが、表面上は友好的な笑みを浮かべてはいても、三人の瞳は決して笑ってはいなかった。
 アスティア、ロナ、シオニスはレアドランの家臣団の中でも特に目を掛けられ有能な三人だったが、レアドランの事を好き過ぎて自分が一番だと主張し合い、たまさかいがみ合うという欠点を共通して持っていた。

「…………」

「…………」

「…………」

 三人の無言の牽制のし合いは第四者が報告に来るまでの間続けられた。



 城内の執務室で羽ペンを片手に裁可待ちの書類に目を通していたレアドランは、討伐隊の戦勝報告にほっと安堵の息を吐いた。
 討伐を失敗はしないと分かってはいても、やはり自分の目が届かない所の事であるから、どうしても心配してしまう。

「そうですか。ふむ、皆の労をねぎらわねばなりませんね。ジャジュカ、負傷者には出来る限りの治療を。戦死者の遺族にも最大限の配慮をお願いします」

「はっ」

 レアドランへ報告に来たジャジュカと呼ばれた獅子頭人身のシシビトは、恭しく頭を下げて主の意を了承した。
 ロナ・ロミ姉妹と同様に元奴隷としてレアドランとその母スノーに保護されたケモノビトである。
 ただこのジャジュカと言う名前のシシビトは、亡国の騎士という経歴の持ち主でレアドランを除けばエルジュネアで一、二を競う戦闘能力と高い教養を持っていた為、レアドランに抜擢されて騎士隊長の地位にあった。

「今年はこの程度で済みましたが、来年あたり大きく仕掛けてくることでしょう。ジャジュカ、貴方達にはさらに苦労を掛ける事となります。これからもこの非才の身にどうぞ力を貸して下さい」

「もちろんでございます。ですが、姫様。やはりこのたびの恐獣の件も……」

「私の事を疎ましく思う方がエルジュネア領に出没するように仕向けた、と見ています。あ、ここだけの話ですから口外はしないでくださいね?
 私は王位の継承を考えていませんが、それでも継承権は持っていますし、その事で敵視する方もいましょうし、平民の娘という事で疎んじられている方もおりますから。ふむん」

「滅多な事を仰られますな」

「ふふ、ですがおじい様の私嫌いは貴方も知っているでしょう? 私がもっと可愛げのある孫娘だったらよかったのでしょうけれど、生憎とこのような性分ですから可愛さ余って憎さの方が強いのでしょう。
 それにしても今回の事などはほんのささやかな嫌がらせ程度の事でしょうが、私で遊ぶのが楽しくて仕方がないのでしょうね。まったく困った方です」

 レアドランの祖父に当たる先代国王イプシロンが、平民の血を引くレアドランの事を嫌っているのは王宮の中では周知の事であった。
 しかしレアドランの口ぶりはもっと近しい者に対するもののようで、ジャジュカは王室の一体誰がレアドランと敵対する立場にあるのか、わずかな時間だけ思案に耽った。
 普通に考えればレアドラン以外の王位継承権保有者の全員が政敵になる所だが、さてレアドランの言う困った方が誰なのか、推し量ることはできそうになかった。
 もっともレアドランは困ったと言うものの、悪戯の過ぎる子供を前にした教師の様な表情を浮かべており、言うほどには困っていないのかもしれなかった。

<続>

あまり評判が良くないようですし、本編もあるので後1、2話で終わりにします。

4/8 12:56 投稿
22:03 修正
4/9 08:49 修正



[32434] さようなら竜生 こんにちは姫生4
Name: スペ◆20bf2b24 ID:e262f35e
Date: 2012/11/08 12:57
さようなら竜生 こんにちは姫生4


 レアドラン殿下が十三歳の秋を迎えられる頃、私、レナスは朝食をお摂りになる殿下のお側に控えておりました。
 殿下は普段ほとんど贅沢というものをなさらぬ方なのですが、こと食事に関してだけは大量にお食べになります。
 といっても食事の質それ自体はごく控えめで、たくさんお食べになってもそれほどお金のかからない食材をわざわざご指定され、城の料理人達に作らせています。
 金色の月の君、とその美貌を讃えられる殿下は、十三歳になられる頃にはますます体の線が柔らかになり女性らしさが増して、同じ女性である私たちでも意識を強く持たなければ自然と見惚れてしまうほどです。
 であるにも関わらずその御身体のどこに、というほど殿下は三食お食べになるのですが、一向に余分なお肉が着く様子が無い事は、私達の間でも不思議とされている事の一つです。

 私が初めて殿下に拝顔の栄を賜ったのは四年前、殿下が九歳で私は十四歳の時でした。  
 その頃の殿下は風が吹けば簡単に転んでしまうような、それは小さなお人形さんのように愛らしく、それ以上に可憐な方でしたがその頃より既に侍女たちの心を奪っておられました。
 そんな殿下が日を追うごとにお美しくなられるのですから、殿方ばかりでなく同性である女性の心を奪うのも当然であったかもしれません。
 殿下が湯浴をされる時にお側に控える者達は当番制なのですが、その当番を決めるまでの間は随分と侍女たちの間で激しく口論をしたものです。

 ただその中にあって侍女長のジーナ様やロミのような例外を除いて、ウシビトである私やクモビトであるラケシスなどは種族としての特徴から殿下と接する機会に多く恵まれています。
 ラケシスは自分で作る糸を使って姫様の衣服を仕立てる名誉あるお仕事を任されていますし、ウシビトである私の場合は朝・昼・番と殿下の食卓に供される乳を提供するお仕事を任されています。
 私の種族であるウシビトの女性は人間や他のケモノビトとは違い、おおよそ十代半ばごろになりますと、妊娠していなくても乳房から乳が出るようになるのです。

 昔からその為に他種族から狙われて誘拐されたり奴隷にされたり、とウシビトは過酷な歴史を歩んできましたが、同時にその特徴を利用して社会や国家の中に自分達の役割や地位を築く術に長ける結果に繋がりました。
 ウシビトの女性を囲む事は貴族階級の者達の一種のステータスシンボルとして考えられるようになり、私もウシビト達のコミュニティから殿下の元へと派遣されたのです。
 幼いころから貴人に仕える為の教育を受けて育ってきた私にとって、王家に連なる方の元へ奉公に行く事が出来るのはとても名誉なことでありましたし、私が選ばれた事を知った時には、両親や姉妹と一緒に思わず飛び跳ねて喜びを露わにしたものです。

 そしてお仕えする殿下に直接お会いし、お傍に居続ける間に私の胸の中にはこの方の為に私にできる事は何でもして差し上げたい、この方のお役に立ちたい、という偽りなき忠誠心と慕情が募っていったのです。
 人間もケモノビトも分け隔てなく扱い、公正に能力を評価し、本人も気づいていない適性や能力を見抜いて適材適所に配し、いえそうでなくともそもそも労働条件が他所の土地とは比較にならぬほど良い殿下の元へは、多くのケモノビトや流れ者の人間が集っています。
 そのような一癖も二癖もある者達の多くもいまの私と同じように殿下に対して、本物の揺るぎなき忠誠心と敬慕の念を抱いている事でしょう。

 夏の足音が遠くへ遠ざかり、代わりに秋の息遣いが耳に届く様になっていたその日の朝も、私は朝食をお取りになる殿下のお傍で搾りたての乳を入れたポットを手に持って控えておりました。
 既に述べた事ではございますが殿下は大変な健啖家でございます。
 王宮を離れられこの地の領主として赴任された当初は、可憐と言う言葉では到底言い表せない御姿に相応しい少量の食事で済ましておられました。
 ですが殿下のご指導による農業政策が結果を表し、穀物の収穫量が格段に増加した頃からでしょうか、殿下は食事量の自重をおやめになり、驚くほど食べるようになられました。
 王宮に居られた頃からお仕えしていた私やジーナ様を除き、それまでの小鳥の様な食事量で済ませていた殿下の御姿しか知らぬ新しい侍女や城の者達は、本来の食欲を露わにした殿下にそれは驚いたものでした。

 今、殿下のテーブルには窯から出されたばかりのパンが籠に盛られ、小さく切り分けられたチーズが何種類も並んでおります。
 さらに丁寧に煮込まれたギャッターの尻尾のスープや、分厚く輪切りにされたギャッターのステーキがお皿の上で湯気を立てています。
 皮も形もほとんどそのままの温野菜の鍋、姿をそのままに焼かれたり揚げられたりした尾頭付の魚たちが殿下の一度の食事でした。
 それでもお肉の多くは討伐した恐獣のものですし、魚にしても土地の者達でも泥臭さや癖の強さから口にすることの少ない下魚で、お野菜も殿下ご自身が鍬を振るって育てている菜園から採取したものと、本来王族が食事に掛けるだろう費用と比べればごくごく少額に抑える工夫がされています。
 どうして最初からこのようなお食事になさらなかったのか、もっと王族に相応しいお食事になさらないのか、殿下にお尋ねした事があったのですがその時に殿下はこうお答えになりました。

“誰かが泣いている横で食べるご飯は美味しくありません。自分がお腹いっぱい食べるのは少なくとも目に映る人々がお腹いっぱい食べられるようになってからです。民なくして私達は暮らして行けませんからね。自分達の事は二の次で良いのですよ”

 その御言葉を耳にした時、私はこのような考え方をする貴族が居るのか、と心から驚いたものです。
 なぜなら民とは貴族の為に存在しており、貴族の暮らしをより豊かにする為に存在するという考えが当たり前でしたから、殿下の様な考えをされる方に私は初めてお会いしたのです
 おそらく他の貴族や王族の方だがレアドラン様のお考えを耳にしたら、奇異なものと感想を抱き、レアドラン様を奇妙なものを見る目になることでしょう。
 もちろん歴史を振り返れば民の事を想って下さる名君、聖王と讃えられる方々もいらっしゃいましたし、実際世界のどこかにはいるのでしょうが、少なくとも私はレアドラン様のような方にはお会いした事はなかったのです。

 そして殿下があれほどお食べになるようになられたのは、同時に殿下の目に映る領民たちの暮らしが、それだけ豊かになったことの表れでもありました。
 農村の倉には収穫した穀物が山と積まれ、家では黒いパンではなく白いパンが食卓に上り、飢えに涙を流す子供の姿はなく、泣く泣く子供を人買いに売り渡す親はなく、天災にも等しい恐獣達の脅威は遠く、明日の暮らしへの不安を誰も抱かずに済んでいるのです。
 この方にお仕え出来て本当によかった。
 私は胸を張ってそう言う事ができる今を誇らしく思います。
 あら、いけない。私の目の前で殿下のカップが空になっています。ついつい熱中してしました。ですが自分の仕事を疎かにするわけにはまいりません。

「レナス、お代わりを頂けますか」

「はい、殿下」

 殿下が差し出された陶器のカップに、お代わりのお乳を注ごうとしたのですが、幾ら傾けても出てくる事はありません。
 なんて事でしょう。先ほど絞ったばかりの私のお乳はすでに空になっていたのです。ああ、殿下がせっかくご所望くださっていると言うのに。
 私が思わず顔を青くすると、すぐに事情を察せられた殿下が穏やかな笑みを浮かべられて、私に声をおかけになりました。

「あら、ついつい飲み過ぎてしまったようですね。ありがとう、レナス。もう十分に頂きましたから、そのように慌てずとも良いのですよ。
 貴女にはいつも美味しいお乳を頂いていますから感謝こそすれ、責める様な事はありません」

「殿下、申し訳ございません。私の不手際でございます」

「ふふ、ですから気にする事はないと言っていますのに」

 普段はあまり表情を変えられる事の少ない殿下なのですが、私達のようにお傍に仕えている者達にはふとした拍子に微笑みを見せてくださいます。
 いまも慌てふためきそうになる私を落ち着かせる為に、とても穏やかな笑みを向けてくださいました。
 ああ、殿下。私が責めを負うべき所をそのようにお優しい言葉を掛けてくださるなんて。
 私は深く腰を折って頭を下げながら、殿下の御寛大なお言葉に胸の詰まる思いでした。
 私が安堵の息を胸の中にだけ留めていると、私に向けられる厳しい視線に気づき、目だけを動かしてその視線の源を辿りました。

 私に厳しい視線を向けていたのは、ヤギビトのメーヴェルです。
 私と同い年でつり眼にやや癖のある白い髪と角を持った同僚の侍女なのですが、他の同僚たちと違いこのメーヴェルと私はお互いを強く意識しています。
 ウシビトである私が殿下にお乳を提供しているのと同じように、ヤギビトであるメーヴェルもまた殿下の為にお乳を搾っているからです。
 私が三食担当している、とはいったもののメーヴェルも同じく殿下の三度のお食事を担当しているのです。
 殿下は私もメーヴェルもそれぞれに味の違いがありどちらも美味、と優劣をつける様な事は口にされないのですが、当の私達の間では常に私の方が殿下のお口に合う、とお互いに主張して退く事はありません。
 いまのメーヴェルの視線はまさに私のしでかした失態を嘲る視線なのでした。
 メーヴェル、貴女には負けません。何時の日にかどちらがより殿下をお喜ばせする事が出来るのか、必ずや決着をつけますよ!

「今日もご飯がおいしいですね。これで今日も一日頑張る事が出来ます。ふむふむ」

 殿下の穏やかな声音を耳にしながら、私とメーヴェルは視線を交わし続けるのでした。



 朝食と朝議を終えたレアドランは、城の裏手に増築した竜舎へと足を運んでいた。
 レアドランが十一歳の春にブランネージュを騎竜としてから既に二年と半年近くが経過している。
 その間、レアドランは折を見てはブランネージュに跨り、領内に侵入してきたドラッケンを迎え討ち、また逆に野生のドラッケンの巣に向かっては、自領の戦力に組み込むべく何頭かのドラッケンを捕らえていた。
 さらに年に四回行う武官採用試験でも、なにかしらの事情によって没落した竜騎士の子孫や、生国を出奔した竜騎士が見つかれば積極的に採用し、航空戦力の拡充に勤しんでいた。

 イルネージュ王国は始祖が金鱗の竜王ジェスターと契りを交わしたと言う竜使いであり、また領内に多種多数の竜が棲息する事から一般に“竜の国”と呼称される。
 エルジュネア領内の湿地帯に棲息するギャッターのような大型爬虫類といった姿をしている恐獣も竜扱いされる為でもあるが、山岳地帯に行けばまずドラッケンが棲息し、平原地帯には走竜の素体となるドライトプスが群れを成しているのも大きな理由である。
 この二年間でレアドランが配下に加えた飛竜は六頭。これにブランネージュを加えた全七頭が、エルジュネアの保有する航空戦力の全てである。
 その内竜騎士が決まっているのは四頭で、残りの二頭は訓練中の竜騎士見習いが将来的には騎手となる予定である。
 竜舎の中に残っている竜は、アビスフィアー、フレアルディアス、ヴァリゾアと名付けられた三頭と飛竜達のリーダー格となったブランネージュの四頭だ。
 残るクレリューフ、エンパイア、バラハムは飛行訓練と領内の巡察を兼ねて竜舎を飛び立っている。

 それぞれの飛竜の竜騎士達が、それぞれの飛竜の世話をしている所で、レアドランはブランネージュの手綱を引いて竜舎の外に連れ出し、手ずからブラシを使ってブランネージュの雪のように白い鱗を磨きはじめる。
 レアドランは頭の上にちょこんと乗ったティアラこそいつもと変わらぬが、動きやすい運動着に着替え、袖を肘の上までたくし上げている姿は、とてもではないが王家に連なる者の姿として相応しくはない。
 ジェリアやアスティアなどからは王女としての自覚に欠ける、品格を損なうなどと重ねて苦言を貰っているのだが、レアドランはブランネージュの世話を他者に委ねる事を頑として認めなかった。
 たっぷり薬液入りの水をブランネージュの体に掛け、その上から硬い毛のブラシでごしごしと音を立てて洗い出すと、ブランネージュはレアドランの絶妙な力加減になんとも気持ちよさそうな声で鳴いた。

「痒い所があったら言うのですよ、ブランネージュ」

「くぅう、ぐるう」

「ふむ、そうですか。それはよかった。さ、じっとしていい子にしていてくださいね」

 ブランネージュが心地よさそうに瞼をとろんと閉じて、レアドランにされるがままにされている姿に、竜舎から出て来た竜騎士が心底から感心した声を出した。

「姫様は竜の心を掴むのが本当にお上手ですね。流石はドラゴンテイマーの血を引かれるだけの事はある」

 心の底から感心した風に言うのは、赤い鱗を持ったフレアルディアスを騎竜とするエイリル・フレッドバーンという若い竜騎士だ。
 下級貴族の四男坊で、齢十六と飛竜騎士団の規定では見習いでもおかしくはない年齢だが、天賦の才能に恵まれ本人も努力を怠らない事、そして何よりフレアルディアスの心を掴んだ事から、レアドランに抜擢されて正規の竜騎士に叙されている。

「ふふ、ありがとう、エイリル」

 ここで自身の努力があればこそ、と言えればいいのだがレアドランの場合はドラゴンテイマーの血以前に、そもそもその魂が全竜族の頂点に君臨していた存在である為に、竜族の眷族であるドラッケンの心を掴んでいる。
 もちろん竜騎士らと同様に飛竜を家族とし、相棒とする努力も併せて行っているのだが、かような事情がある以上は努力しているからなどとは口が裂けても言えない。
 その事を誰よりも自覚している為、あくまでレアドランはエイリルの称賛に、小さく微笑んで答えるきりであった。
 この世のものと思えない美貌の片鱗を開花させつつあるレアドランの微笑に、その中身が雄の竜である事など知らぬエイリルは、頬を愛竜の鱗と自分の髪と同じ赤色に染める。

(ふむ。この年頃の少年にこの外面で微笑みかけるのは少々刺激が強過ぎる、と)

 これまで数多く人間や亜人に生まれ変わってきたレアドランであるから、相応の人間的美醜感覚は育んでいる。
 ましてや度重なる転生で魂が劣化し、肉体の影響を強く受けるようになった現状では、感性の大部分が竜のものから人間のものへと変わりつつある。
 レアドランは自分の微笑みを目撃したエイリルが頬を赤に染めた理由が、どのような感情によるものかをきちんと理解していた。
 もっともエイリルには見ている方が恥ずかしくなるほど中仲睦まじい相思相愛の婚約者がいるし、さして気に留めるほどのものではないとばっさり切り捨てる。

 人間の女性に生まれ変わったとはいえ、レアドランはあくまで自身の事を雄ないしは男性として強固に意識しているし、常に心には太くて硬くて長くて逞しい、暴れん坊な逸物が一本屹立しているのだ。
 男性を相手に恋愛感情など欠片も抱くつもりはないし、ましてや肉体関係など怖気が走る、というのが今の所のレアドランの偽らざる心情である。
 王族への礼儀作法として手の甲への口付けや抱擁くらいなら男性からであっても許容範囲だが、それらの行為に邪な感情が含まれていれば当然気分はよくないし、反射的に殴り飛ばしそうになった事がこれまでに何度かあった。
 抑制をせずにレアドランが本気で人間を殴り飛ばしたら、良く熟れた果実を思いきり地面に叩きつけたように、人間の頭などは四散して赤い花を咲かせてしまうため、そのたびに自制しなければならなかった。
 今回の転生における肉体の外見は、絶世の美女であった母スノーの血の成せる技ではあったが、時折その突きぬけた美しさがレアドランの悩みの種ともなっていた。

「エイリルもフレアと良く心を通わせて下さい。貴方達は我がエルジュネア領の貴重な戦力であり、そしてなにより私の大切な民の一人でもあるのですからね」

 フレア、というのはフレアルディアスの愛称である。流石に名前が長いと言う事と、親しみを持てるようにと言う事でこのような愛称が着けられていた。

「はい。お言葉、胸に刻みます。姫様のご期待にこたえないとな、フレア」

 まだあどけなさを残し若干頼りない所のある主人に対し、フレアルディアスは短くぎゅお、と唸って答える。
 どことなく不満そうな、レアドランに言われたから仕方なくといった響きを含んだ唸り声に、レアドランとエイリルが揃って苦笑を浮かべる。
 エイリルとフレアルディアスが主従関係を超えた真の戦友となるには、まだまだ時間が必要なようだ。
 エイリルに続いてアビスフィアーとその竜騎士たるティナ・フォルト、ヴァリゾアの竜騎士たるジェリア・ブッシュフィールドらも竜舎から出てきて、四組全員が燦々と降り注ぐ陽光の下で飛竜達の体を洗いだした。
 ごしごしと硬い飛竜の鱗と皮膚を擦る音が、しばし竜舎の周囲で続く。

 それから一時間ほど飛竜達の体を洗っていると、城の方からアスティアがレアドランを呼ぶ為に姿を見せた。
 最近身につけるようになっていた恐獣の甲殻を用いた甲冑ではなく、襟や袖を白く縁取った青地の平服姿である。
 太い三つ編みに束ねられた金髪を揺らしながら、アスティアは一直線に主君の名を呼びつつ歩み寄る。
 乾いた布で濡れたブランネージュの体をくまなく拭く作業に入っていたレアドランは、己が右腕と恃む忠実な騎士の声に振りかえった。

「姫様、こちらにおいででしたか」

「ふむ? アスティア、どうかしましたか? もう執務に戻らねばならない時間でしたでしょうか。もう少し余裕があると思っていましたが……」

 レアドランが竜舎に来ているのは、執務の合間を縫って作った自由時間だったからである。
 時を計る様なものはないが、それでもレアドランの体内時間はまだ自由時間に余裕があると回答している。
 小柄で線が細い事もあって肉体年齢よりも幼く見えるレアドランがあどけなく首を傾げる仕草に、アスティアは思わず足を止めて微笑を浮かべる。
 アスティアが生命の全てを賭してでもお守りしたいと想うものが、いま目の前にあった。

「はい。本来であれば姫様の言われる通り時間に余裕はあったのですが、姫様にお目通りを願う者の件で、火急お耳に入れたく参った次第でございます」

「私に? ふむ、見る所の無い者なら事前に貴女達が真っ先に門前払いにする所を、わざわざ貴女自身が足を運んでまで呼びに来るとは、一角の人物と期待して良いのでしょうか?」

 するとレアドランの問いにアスティアはわずかにばつの悪そうな顔を拵えた。レアドランを相手にする限りにおいて、アスティアがこのような表情を浮かべるのは極めて稀な事である。
 顔ばかりでなくレアドランに応えるアスティアの声も歯切れが悪い。ますます珍しい事態に、レアドランの瞳に興味の色が新たに浮かびあがる。

「は、それが憚りながら私が王都に居た頃の知り合いでございます。いえ、もちろん姫様のお眼鏡にかなうだけの力量はあることは間違いないのですが」

「ふむ。確かに血縁や縁故を頼っての人事は叶う限り避けるべき行為。かねてより私が実践してきた事ですから、その事をアスティアが気にするのも当然ではあります。
 しかしながらこれまでアスティアが長年に渡って私に誠実に仕えてくれたのは、誰より私自身が理解しています。今回はこれまでアスティアの忠義と献身に免じ、特例として採用試験をその者の為に行うとしましょう」

 一度特例を作ってしまうとなし崩しに同じ事が繰り返される危険性があるのですが、とレアドランが心中で溜息に近いものを零すと、アスティアはしきりに恐縮した様子で神妙な顔を作る。

「このアスティア、姫様の御寛大なるお言葉にただただ頭を下げることしかできませぬ。必ずや姫様の力となる者達であると家名に掛けて保証致します」

「ふーむ、アスティアがそこまで言うとなればこれは有用な人物と期待しましょう。いつでも能力のある人物は歓迎していますしね。
 では、ブランネージュ、貴女は竜舎にお戻りなさい。私はこれからお仕事に戻ります。少し早いですけれど、貴女の体も洗い終えましたから」

「くう」

 はぁい、と言わんばかりにブランネージュはレアドランに返事をし、くるりと踵を返して竜舎の中にある自分の部屋へと戻り始める。
 完璧に人語を解しているとしか見えないブランネージュとレアドランのやり取りを、三人の竜騎士達は呆気にとられた様子で見ていた。
 アスティアなどはもうすっかり見慣れている事と心底からレアドランに心酔しているので、さして気に止めた様子もないがなまじ竜騎士としての知識と技術を持ち、飛竜の能力を知る彼らからすれば、このレアドラン達のやり取りはいささか常識を超えたものだったのである。
 頭のてっぺんでぴょんと跳ねた一房の茶髪と気の強さがよくあらわれた赤い瞳が印象深いジェリアが、十九歳になったばかりのまだあどけなさを残す顔をかすかにひきつらせ、主君とその愛竜の様子に思わずと言った調子で呟いた。

「飛竜は普通の動物よりは知能は高いし、熟練の竜騎士とは言葉が分かるように振る舞うとは言うけれど、我らの姫様は流石にものが違うみたいね……」

「ジェリア、それ以上先は言いっこ無しですよ。言いたい事は分かりますけれどね」

 明るいオレンジ色の髪を長く伸ばした柔和な顔立ちのティナが、まだ付き合いの浅い同僚を窘めるように言った。
 現在レアドランが抱える竜騎士四名は、男女それぞれ二名ずつ。
 エイリルのような下級騎士出身者や、父親が敵前逃亡を行ったことで不名誉印を刻まれて貴族位を剥奪された者、主を持たない流浪の竜騎士といずれも事情のある面子である。
 これら全員が氏素性を正直に告げていると信じるのはいささか人が良すぎるだろうが、少なくともこの四人の性格や能力に関してレアドランは既に信を置いていた。

 四人共がエルジュネアに来る以前からある程度竜騎士としての訓練を積んでおり、教師役の竜騎士達やレアドラン謹製の訓練手引書、そして血反吐を吐けといわんばかりの過密訓練によってめきめきと実力を身につけている。
 なまじその実感と自負がある為に、余計にレアドランの異常さが理解できてしまって、エイリル達三人はせっかく積み上げて来た自信が揺らぎつつあった。
 時にレアドランの高過ぎる能力が、本人の意図していない所で配下や近しい者達に対して重圧となり鬱積を与えてしまうことがあった。
 いまの三人もその症状に軽度ではあるが陥っている状態と言えよう。

「やっぱり金鱗の竜王ジェスターと契りを交わしたと言う始祖イルネージュ一世の血なのかな?」

 もっともそれらしい理由をエイリルが口にすると、ティナもまた同意するように首肯した。そう納得が行くほどにレアドランの血の源流となる人物は、竜騎士達からすれば偉大なのであった。

「この大陸に数頭しか存在しない正真正銘のエンシェントドラゴンの加護を受けた、歴史上はじめてのドラゴンテイマーの偉大な血と言われればなにも反論できませんね。
 イルネージュ王国が竜の国と言われるのも竜王ジェスターの加護によって、数多の竜の眷族達が助力して建国が成り立った事もありますし、なにより竜騎士発祥の国ですから」

 現在竜騎士は大陸の一定以上の国力を持った国では、天馬騎士や飛鳥騎士などと並び重用されている兵種だ。
 イルネージュ王国がドラッケンを飼いならし、調教と交配を重ねた飛竜を国外へと輸出した事で他国でも運用され、またあるいはイルネージュ王国内部から秘伝の技術の流出、捕虜となった竜騎士が情報源となり竜騎士と飛竜の存在は広がる結果に繋がった。
 紆余曲折を経た結果、現在イルネージュ王国は軍事力に置いては大国に匹敵し、国力では準大国といったところに落ち着いている。
 いまではジェスターをはじめその他のエンシェントドラゴンは姿を消し、エルダードラゴンなど高位の知恵あるドラゴン達を率いて人跡未踏の地に隠遁している。
 イルネージュ王国が竜王を失ってすでに久しいが、いまなお竜騎士発祥の国としてイルネージュ王国の保有する竜騎士団は大陸で一、二を争う精鋭として畏怖されている。

「王族が必ず金の髪と金の瞳を持って生まれるのは、そのジェスターの加護がいまなおイルネージュ王国に脈々と受け継がれている証、か」

 そう呟くジェリアにつられて若き竜騎士達は城の中へと戻る自分達の主君の、金色に輝く髪や瞳に対し畏敬の念を交えた視線を送るのだった。
 金色の鱗を持つ竜王の加護を受けたイルネージュ王国の王族は、代々竜の霊的因子を保有し常人を超越した身体能力を発現させている。
 彼らから見ればレアドランの常軌を逸した能力は、まさしくジェスターの加護そのものと映っていた。
 イルネージュ王国の王族が尋常ならざる力を持つのは確かな事であるが、最強最古の竜の魂を持つレアドランは、歴代のイルネージュ王族の中でも最強と言って過言ではない。
 なぜならば母親が平民とはいえ王族の血を引くレアドランの肉体は、元から人間離れしたポテンシャルを有していたが、そこに竜の魂が宿ったことで竜の霊的因子がより高次のものへと進化し、さらにその能力を底上げしているからだ。
 とはいえレアドランの中身を知らぬ者からすれば、レアドランは開祖以来極めて強く竜王からの加護が発現した人物としか見えず、その認識がまたレアドランを脅威と捉える認識と敵を作る結果にも繋がってしまっている事は、皮肉としか言いようがない。

 レアドランが、アスティアから紹介したいと言う人物と謁見の間で直接顔を合わせる事になったのは、それから三日後の事である。
 すでに決まっていたスケジュールを調整し、なんとか謁見の時間を捻出した結果が、三日後だった。
 アスティアが王都に在る士官学校に通っていた時分の学友だそうで、さらにその妹も共に謁見を申し込んできている。
 曰く槍の扱いに関してはアスティアでも三本に一本を取るのがやっとという腕前であり、座学に関しても優秀な成績を収めた人物だと言う。

 それほどの人材であるのなら、レアドランの元を訪ねる以前にどこかに仕官するか、王軍なり近衛騎士団でそれなりの地位に就く事も出来ただろう。
 それを不思議に思ったレアドランがなにか事情があるのかと問いただした時、アスティアは苦々しげな顔を拵えてその事情を口にした。
 そしていま、城主の椅子に腰かけたレアドランの目の前で、その事情を持った姉妹が膝を突いて、頭を垂れている。
 レアドランの左右をアスティアとジャジュカが守り、知恵袋として昨今頭角を表しているシオニスが同席している。

 軍師としては一流だが剣の扱いはいいとこ三流のシオニスはともかくとして、アスティアとジャジュカも一騎当十の力量を備えた兵(つわもの)である。
 レアドラン自身が一騎当千の戦闘能力の主である事も考えれば、仕官を求めて来た姉妹がどれほど腕の立つ暗殺者であっても、レアドランを害する事は不可能と言えよう。
 レアドランの言葉を待つ姉妹は共に赤い衣装を身に纏っているが、それぞれが槍を携えた動きやすい戦士風の軽装とロングスカートとローブを纏った服装と正反対だ。
 共に菫色の巻き髪で槍戦士風は毛先がうなじに掛る程度、ローブ姿の方は腰に届くまで長く伸ばしている。

「面を上げなさい。私がイルネージュ王国第三王女、エルジュネア領主レアドラン・クァドラ・イルネージュです」

 レアドランの声に従い姉妹が顔を上げた時、ジャジュカとシオニスがはっと顔を強張らせた。
 揃って顔を上げた姉妹は寸分たがわぬまったく同じ顔立ちを持っていたのである。
 翡翠色の大粒の瞳は共に挑戦的な光を宿し、目の前に在る金髪金瞳の美しい王女を値踏みしているかのようだ。
 戦士風もローブ姿の方もどちらも衣服の上から適度に引き締められた肉体と、女性特有の柔らかさ、そして腰のくびれに繋がれている突き出た尻と胸の豊かさも見て取れた。
 血を佩いているかのように鮮烈な赤色の唇は、揃って引き締められているが笑みを浮かべればろうたけた男も思わず見惚れよう。

 顔立ちも体つきも美女の水準を頭一つも二つも突きぬけた美貌を持ったこの姉妹は双子、それも一卵性双生児であった。
 それがこの姉妹がわざわざレアドランの元へと仕官を求めて来た最大の理由である。
 この時代のこの大陸では、イルネージュ王国に限らず双子という出生は人々から忌み嫌われている。
 同じ顔と同じ声を持った人間が同時に二人生まれる事に対し人々は根拠のない不気味さを覚え、そして家を割り、国を割るものであるとして忌避している。
 それがためにこの姉妹はこれまで仕官の道を閉ざされてきていたのだろう、という所まで推測してから、レアドランは二人の顔をじっくりと見つめた。

「拝謁の栄に預かり、恐悦至極にございます。私は姉のレイン・アシュフォードと申します」

「お目にかかる機会を賜り、ありがとうございます。妹のミァン・クイントです」

 戦士風の姉がレイン、ローブ姿の妹がミァンだ。
 二人の名乗った家名に、レアドランはイルネージュ王国の全貴族の家名を思い出し、それぞれの家名に纏わる情報を脳裏で整理しながら、こう尋ねた。

「ふむ、アスティアより推薦があり、このたび二人の仕官を認めるか否か確かめる為、今日招く事となりました。
 不躾な質問で申し訳ありませんが、アシュフォードにクイントと姓が異なりますが、二人ともあるいはどちらかお一人だけ養子ですか?」

「はい。私達は二人とも養子でございます。元々アシュフォード家でもクイント家の生まれでもありません。イルネージュ王国のさる貴族の家に生まれました。
 しかし双子であった事から、十歳の時に生家と親交のあったアシュフォードとクイントの家に別々に養子に出されたのです」

 最初にレインがレアドランに返答し、その言葉の接ぎ穂をミァンが接いだ。一人の人間が続けて喋っている錯覚を覚えるほど息があっている。

「ですが二年前、私どもの生家がある事をきっかけに没落の憂き目に遭ってしまいました。
 育ててくれた両家には多大な恩義がございますが、私どもは没落してしまった生家の復興を願い、姉妹力を合わせて仕官の道を求めているのです。
 幸いアシュフォードもクイントも良き後継者に恵まれておりましたし、養父母達も快く私達を送り出してくれました」

 双子の姉妹の意気込みと熱意は確かなものと言葉に込められた力と瞳の力強さから分かるが、その想いが実を結ばなかったからこそアスティアの縁故を頼ってまでエルジュネアに来る事になってしまったのだ。
 忌まわしき双子と言う事からこれまで仕官を求めた先からは門前払いを喰らわされ、さぞや失意と屈辱の日々を重ねてきたに違いない。
 その果てに種族や身分、性別を問わず能力ある者を採用するレアドランに一縷の望みを託し、たまたまレアドランの側近であったアスティアを頼って、今の状況が出来上がったというわけだ。

「なるほどそれで私の所へ来たと言うわけですか。古来より双子は凶兆の証、生まれれば家が没落し、周囲に在る者を不幸にすると伝承されています」

 レアドランが口にしたのは一般に双子に対して言われる風説の一つである。レアドランが淡々と仮面のような無表情で口にする言葉に、レインとミァンがそれぞれ眉根を潜めた。
 これまで散々二人が浴びせかけられ、苦渋を味わった言葉に違いない。

「ましてや貴女方の生家が没落したとあっては双子にまつわる迷信を後押ししましょう。
 二人ともそんな話は迷信だと思っていたのに、生家が没落してしまった時には心揺らいだのではありませんか?」

 このレアドランの言い回しにジャジュカとアスティア、シオニスの三人が程度の差こそあれ揃って怪訝の色を浮かべる。
 彼らの知っているレアドランという主君は、決してこのような皮肉気で相手の心の傷をえぐる様な言葉を口にする人物ではない。
 亡国の騎士であったジャジュカと初めて会った時も、家を飛び出て来たシオニスと会った時も、それぞれの事情を慮り言葉を選んでいた。
 だというのに今のレアドランはまるでレインとミァンを言葉で責めるのが楽しい、と言わんばかりでさえある。
 レアドランの辛らつな言葉にレインとミァンが悔しげに唇を噛み、視線を伏せるのを見て、レアドランは悪戯っぽい微笑を一瞬だけ浮かべた。

「なればこそ私に仕える事を望むのなら、そのような双子にまつわる逸話などは、根拠のない迷信であると笑い飛ばせるように働いてもらう事になりますよ。
 私は人使いが荒いともっぱらの評判ですから、その点は覚悟しておいてくださいね。それと貴女達の心を傷つける様な事を口にした事を謝罪します。ごめんなさい」

 王女という立場上流石に頭を下げる事こそしなかったが、視線を伏せて謝意を露わにし、謝罪の言葉に込められた誠意にはレインとミァン達は思わずお互いの同じ顔を見合った。
 一方でアスティア達は双子を罵る事がレアドランの本意ではなかった事が分かり、どこかほっとした様子であった。

「既に実技以外の試験に関しては採点も終えていますが、今の所採用するに十分な結果でした。残る実技試験はこれから練兵場にて行います。なお相手は私が務めます」

 言い終えるや否や椅子から立ち上がり、風の様な速さでその場を後にするレアドランの背中をレインとミァンは茫然と見送ってしまった。
 二人とも残る実技試験に対しては当然意欲を燃やしていたのだが、よもやその相手が仕えるべき主君である事に関しては、完全に考えの外であった。
 双子と違ってアスティア達はレアドランのこのような振る舞いに慣れたもので、さして驚いた風もない。精々がああ、またか、と言った所である。
 良くも悪くもレアドランが色々と規格外である事を、理解しているということだろう。

「レイン、ミァン、二人とも色々と驚いているとは思うが、姫様はああいう方だ。二人ともあの方に仕える気があるのなら、精神を頑丈にしないとこれからやっていけないぞ」

 ジャジュカとシオニスがレアドランの後を追って謁見の間を下がった後も、アスティアだけはその場に残りいまだ戸惑いの色を隠せぬ双子に声を掛けた。

「アスティア……。そうね、確かに私達がこれまで出会って来た方達とは随分と違うみたいね」

 傍らに置いていた愛用の槍を手に立ち上がりなら、レインは学友の言葉に笑みを零した。
 アスティアと士官学校で同期だったのは姉のレインの方で、ミァンは王都の士官学校とは別の場所に通っていた為、直接の面識は数えるほどしかない。
 ミァンが不思議そうな顔を作って正直に疑問をアスティアに吐露した。

「姉さんの言う通りとは思うけれど、武術の腕前の方はどうなのかしら? 不敬を承知で言うのなら、恐獣退治の勇名は私達も耳にしているけれど、ご本人はあんなに可憐で美しい少女ではないの」

 ミァンの言う事は、レアドランを初めて目にした時にほとんどすべての人間が抱く感想と言って良かった。
 レアドランの外見を見て、どうしてこの少女が並みの騎士の十人や二十人では髪の毛一本斬る事さえ叶わぬ武力の主であると看破する事が出来ようか。

「それも実際に立ち合えば分かる。言っておくが私やジャジュカ殿ばかりでなくエルジュネアの全騎士、全兵士の中で姫様から一本とれたものはいない。
 剣でも槍でも弓でも、武芸百般全てにおいて姫様がエルジュネア最強だ。時には単独でギャッターを討つほどの武威の主であらせられると覚悟して挑めよ」

「ギャッターを!? いくらなんでも嘘でしょう。大型恐獣を相手にするのなら飛竜か走竜を動員しなければならない筈よ」

「まあ、それが普通なのだがな。お前達の言いたい事も気持ちも分かるが、実際に槍を交してみれば分かる」

 アスティアにそう言われてもなお二人はまだ今一つどころか今二つも三つも信じがたい様子であったが、それもアスティアの言う通りレアドランと手合わせをすれば、嫌でも実感する事になる。
 ガウガブル城にある練兵場には、常の通り兵士達が刃を引いた剣や槍、あるいは木製の武具を振るって丸太や案山子に打ち込み、あるいは模擬戦を行っていた。
 城の外で集団戦の訓練なども行うが、今日の所は通常通りの訓練風景であった。 しかしそれもレアドランが姿を見せたことで、すべての訓練はいったん中止された。
 レアドランは白銀に輝く甲冑こそ纏ってはいなかったが、戦場での動きやすさを考慮してスリットを多く入れてあるドレス姿であった。

 穂先を丸めた訓練用の短槍を右手に持ち、左拳を腰に当ててレインとミァンが来るのを今か今かと待っているのだ。
 レアドランが武官採用試験の実技試験に必ず顔を出すのは、レアドランに仕える者達なら知っている事だが、直接相手をして腕前を確かめると言うのは、これは滅多にない事態である。
 その為、訓練の手を休めた兵士や騎士達は、実に興味深そうにレアドランの様子を観察しており、レアドランが直々に手合わせをしようと言う相手にも関心を抱いているようだ。

「レアドラン様、やはり御自ら槍を手に取る事はないかと臣は愚考致します。他の者達でも力量を計るには十分でございましょう。レーヴェ卿やジャジュカ殿もいらっしゃいますでしょう」

 レアドランを宥めるのはやや慌てた様子のシオニスである。万が一、いやさ億が一にでもレアドランの球の肌に傷の一つでも着いたら、と危惧しているのだ。
 そしてシオニスの言い分を認めて隣に立つジャジュカも首を縦に振っていた。

「シオニスの言う通りでありましょう。翻意は願えませぬか?」

「二人とも心配症ですね。アスティアの推薦ですしやはり自分で確かめたいのです。それに体を動かしたい気分ですしね。それに周りもこれだけ盛り上がっています。期待には応えませんと」

 レアドランの言う通り、周囲の兵士達は騒ぎだてこそしていないがすっかりと期待している様子である。
 大型恐獣討伐以外では、あまり見る機会のないレアドランの戦う姿に興味が注がれるのは、仕方のない事であろう。

(ふむ、これほどの注目度なら見物料を取る事も出来そうですね。あるいは賭博か興行試合を定期開催するのもよいかもしれません。
 人死にが出ない様にルールを厳格に定める必要がありますし、専用の闘技場と医師の手配、参加者は募集を掛ければすぐにでも集まるでしょう。腕の立つ者がいれば取りたてるのも良いですし……)

 レアドランがそのような事を考えて頭の中で算盤をパチパチ弾いて、興行試合で得られるだろう収入と問題点をリストアップしていると、アスティアに案内されたレインとミァンが姿を見せる。
 自分達の主君が相手をするのが、まだ二十歳になったかどうかという少女たちである事に、周囲の観客達から意外そうな声が上がったが、外見で言ったら今年で十三歳になるレアドランの方がよほど悪い冗談の様なものだ。
 すぐさま外見で判断する愚に思い至り、観客達の雰囲気がぴりぴりと緊張を伴う張りつめたものに変わる。

「姫様、お待たせして大変申し訳ございません」

「いえ、楽しみにしておりましたから気に病む事はありませんよ。レインは槍、ミァンは魔法でいいですね?」

 レアドランの指摘に答えるように、レインは穂先に覆いを被せた愛用の槍を掲げ、ミァンはローブの内側から掌に収まる大きさの薄緑色のオーブを取り出した。
 この世界に置いて魔法を扱う事の出来る者は希少である。
 というのもこの世界の人間種は、世界に普遍的に存在している魔力に対する適性が他世界の人間種と比べて著しく低い為である。
 人間種は神々によって生み出された被創造種なのだが、例えばレアドランが最初に転生しドランと言う名前を与えられた人間種は、最高神や高位の神々が協力して生み出した全人間種の原型と呼べる存在で、数ある人間種の中でも最も潜在能力が高い。
 しかしレアドランとして転生したこの世界における人間種は、大神の御業を模倣した中位の神ケーファーが創造した種族なのだが、所詮はより位階の低い神の手による模倣に過ぎず、魔力適性が低いという欠陥を備えてしまった。
 言わばデットコピーなのである。

 その事に落胆したケーファーは創造物達が生きる為の宇宙を一つ作り、そこに人間を住まわせるともう関心を失ってしまい、現在レアドランが生きる世界は創造主の加護を失った世界となっている。
 その為に人々に主に信仰されているのは、レアドランがかつてドラゴンの名で原初の神々などと付き合っていた頃には、名前や存在を聞いた事もない女神イールーである。
 これはおそらく人間が妄想した架空の神である、とレアドランは結論を出している。
 太古の昔に権力者たちが自分達の権力基盤を盤石にする為にでっちあげるか、どこかの誰かが幻想した神なのであろう。
 しかし永い年月、数多の人間から信仰を注がれた結果存在しなかった女神が誕生し、現在女神イールーは実在している。
 魂を持つ者の言葉や想いには“力”がある。
 その力が結晶化した結果として誕生した女神イールーは、人々に望まれた様に慈悲深い善なる神性である、とレアドランは劣化したなりに高次の霊的知覚の名残からおぼろげに理解していた。
 まあ、大雑把にいえば、あの女神はなんとなく良い女神そうだな、という程度の認識である。

 しかしながら神としてのイールーは混沌から生まれた原初の神々とは比べ物にならないほど弱く、魔界から悪しき者が現れれば抗するのはかなり難しい、というのがレアドランの感想である。
 幸いなのは創造した神の関心さえも失われた世界である為に、邪なる神や魔界に住まう邪悪な存在からもさして興味を持たれておらず、神々からも魔なるものからも捨て置かれたある意味平穏な世界であることだろうか。
 いわば世界で起きる災いはすべて自然の営みによるものであり、また戦禍の炎はすべて悪しき者の計略などによるものではなく、人間が人間の意思で起こしたものである。

 さて色々と横道にそれてしまったが、創造神ケーファーの拙い御業によって魔力適性が低く作りだされた人間種は、魔法を使うに辺りオーブや杖、魔道書などを触媒にして自身と世界に満ちる魔力に干渉しないと、ろくに魔法を行使する事も出来ない。
 この世界で一流と称される魔法使い――マージでも、レアドランの最初の転生体であるドランの世界の並みの魔法使いと同程度かそれ以下に過ぎない。
 魔法の度重なる行使によって触媒となるオーブや杖、魔道書が壊れてしまえば、途端に無力になるマージは、触媒それ自体がなかなかに高価である事もあって、数は決して多くはない。
 特に強力な竜騎士団を抱えるイルネージュ王国では、脚光を浴びる機会の少ない存在であると言う他ない。

 ミァンはその機会に恵まれる事の少ないマージの道を選んだようだが、使い方を良く考えれば強力な駒となり得る可能性に賭けたのだろうか。
 レアドランの見る所、双子ながらレインはマージに不向きだが、その分を引き受けたかのようにミァンは魔力適性がこの世界の人間種としては例外的に高いように感じられる。
 大成すれば人間砲台と呼べるくらいの火力を得る事も出来よう。これは思いの外良い拾いものかも、ふむ、とレアドランは内心で零した。
 ミァンの手にしているオーブは薄緑色。オーブの色によって込められた魔力の属性を判断する事が出来る。赤なら火、青なら水、黄なら雷、白なら氷、金なら光、黒なら闇、そして緑ならば風だ。
 レアドランの指摘にミァンは恭しく頷いて答える。

「私はユリノワールにて魔道を学びました。この魔法の力以外にも知恵と知識を持って姫様にお仕えする所存でございます」

 イルネージュ王国で魔法があまり重要視されていないとはいえ、その知識や価値がまったく認められていないわけではなく、王国内の学術都市ユリノワールで本格的に魔法を学ぶ事が出来る。
 戦闘用の魔法ばかりでなく大地の実りを豊かにする呪いや、天候、星の運行を調べる魔法、また魔法を通じて世の理を探りそこから知識を得る研究なども行われている。
 飛竜が空を飛ぶ仕組みや炎の吐息がどのようにして吐かれるのか、繁殖や生態の研究にも過去一役買っており、ユリノワール出身者であれば一目置く者もそれなりにはいる。

「ふむん、一粒で二度美味しい人材というわけですか。これは加点するべきですね。ではまずはレインの槍の技のほどを確かめさせてもらいましょう」

 レアドランの言葉にミァンが数歩下がり、反対に一歩前に出たレインとレアドランが相対する形に落ち着く。
 レインはすでに気持ちの切り替えが出来たようで、すでにその表情からは戸惑いが消えていた。
 周囲の兵士達やシオニス、アスティアがごくりと咽喉を鳴らす音がひと際大きく響く。

「ジャジュカ、審判をお願いしますね」

 レアドランの指名を受けたジャジュカが両者から等位置の、三角形が描かれる位置に立ち、肩幅に足を開き地面と水平に愛槍を構えたレインと穂先に近い位置を右手一本で握り、無構えのレアドランの顔を一瞥してから、ジャジュカは右手を振りあげてそれを振り下ろす。

「では、始め!」

「ふむ」

 ジャジュカが開始の合図をしてもレアドランの構えは変わらない。丸められた穂先は変わらず地面を指し、突く動きも払う動きも見せる前兆はない。
 思いもかけぬ展開でレアドランと槍を交える展開になったが、これは絶好の機会だ。主君直々に腕を試すと言うのだから、思う存分技の冴えを披露して評価してもらおうではないか、とレインは前向きに考えた。

「参ります」

「お好きなように」

 人間離れした美貌を持っているだけに、かえって小生意気さが百倍も二百倍も増して感じられて、レインは少々ムキになりながら一歩を踏み出した。
 重心の安定した実に堂に入った構えからの淀みない動作であった。
掌は潰れた血豆が層を成して皮が固く変わり、岩肌の様な触感に変わるほど鍛え抜いた成果である。
 周りの兵士達の目には、動きだす前のレインの姿がまだ残像として網膜に残っているだろう。
 レインは流石に初手は加減して槍を突きだした。
剣を握った事もない様な普通の姫君ならそれでも到底避けるべくもないが、レアドランが噂通りの人間とは思えない武勇の主なら難なく避けられる筈だ。
 だがその一撃を見て、アスティアが苦々しく呟いたのだが、レインの耳には届かなかった。

「馬鹿もの。遠慮もあるだろうが、見た目で侮るなとあれほど言ったろうに」

 瞬間、レアドランの左肩へとまっすぐに伸びるレインの槍を銀光が薙ぎ払い、レインは弾かれた勢いそのままにたたらを踏んで、数歩あとじさる。
 レインの知覚を超えた速さでレアドランの槍が翻り、閃光の速さでレインの槍を右方から打ち払ったのだ。
 じん、と骨を痺れさせる衝撃にレインは眼を見開いて自分の槍とレアドランの顔をまじまじと見つめた。見つめざるを得なかったというべきだろう。
 骨の痺れは腕ばかりではなく全身にまで至っていた。まるで無数の蟻が体の中に入り込み、骨に牙を突き立てているかのような衝撃である。

「仮にも王族相手に遠慮をしてしまうのは仕方ないとは思いますが、しかしいささか度が過ぎます。今の一手で私は三度貴女を殺せました」

 はらり、とレインの視界に斬られた前髪が数本落ちるのが見えた。
さらに鼻の頭と咽喉にかすかな痒みがあり、レインがレアドランから視線を外さぬまま左手でまさぐれば、指先にはわずかに血が付着していた。
 槍を払われたあの一瞬で、額を斬られ、顔面の中央を貫かれ、咽喉を突かれていた、という事実に気付き、レインの全身に鳥肌が立ち冷や汗が一瞬で滴った。
 士官学校で教鞭をとっていた教官を相手にしても、ここまで一方的に打ち負かされた経験はない。
 これはアスティアに言われた事が紛れもない事実なのだ、とここに至りレインは理解させられた。
 レアドランはくるりと手の中で槍を回転させて、穂先をレインへと固定しにこりと笑んだ。

「実戦のつもりで行きますよ。殺気くらいは込めますからね」

 ゆら、とわずかにレアドランの重心が傾ぐのにレインは全霊を持って反応した。
 レアドランの手に握る槍が閃光と化す――レインにはそうとしか見えなかった。だから反応が出来たのはほぼ奇跡だとしか思えなかった。
 気付けば槍を胸の前で払う動作をし、再び襲い来る衝撃を耐えながらレアドランの右からの薙ぎ払いを弾いていた。
 ひゅっと甲高い音を立ててレインの唇から細く短い息が零れる。
 まだ衝撃と激突の残響が耳に残っている中、すでにレアドランの腕は槍を引きもどしている。薙ぎ払う動作も引き戻す速さもレインの知覚を超えていた。

 レインは神経を剥き出しにしたかのように集中して、かろうじて視界に映る銀光に反応している。
おそらくこれもレアドランが手加減をしているからこそ、とレインは思考の片隅で驚愕していた。
ぎぎぎん、と連続する硬質の音は絶え間ないレアドランの刺突とそれを捌くレインの穂先の衝突音であるが、息つく暇もない連続突きの最中もレアドランの表情は崩れず息を荒げる様子もない。

 対するレインが見る間に消耗してその美貌に汗の粒を散らしているのと比べれば、まるで消耗しておらず、すでにこの光景だけでも勝敗の行方は明らかと言って良かった。
 なにも出来ずにレインが一方的に守勢に回っているだけだが、その光景を見る周囲の反応は意外にもレインに対する称賛の色が濃い。
 というのもエルジュネアの兵の大多数は、レアドランを相手にして一合二合打ち合わせるのが精々なのである。
 アスティアやジャジュカなどでも本気になったレアドランが相手となると十合保たせるのも厳しい。
 それを考慮すれば多少遊んでいるとはいえ、レアドランの攻撃を受け続けているレインは十分に称賛に値するわけだ。

「こ、のぉ!」

 レインは腹を突きに来た丸い穂先にこちらの穂先を合わせ、力の流れを逸らしてそのまま槍をくるりと回転させ、石突でレアドランの脇腹を突く為に踏み込んだ。
 防御から攻撃への流れを一つの動作で同時に行う見事な技であった。ふむ、とレインの耳にレアドランの口癖が聞こえた、と認識した瞬間にはレインの体が宙を舞っていた。
 え? と疑問符が脳裏に浮かんだ時にはレインは背中から地面に叩きつけられて、肺腑の中の空気を絞り出す様に吐いた。
 右のくるぶしに鈍い痛みがじんじんと熱と共に疼いている。どうやら穂先を合わせたのにやや遅れて強烈な足払いを掛けられたようだ。
 混乱と苦痛が思考をかき乱す中、レインはレアドランの振り下ろした槍の穂先が、ずぶりとくぐもった音と共に自分の胸板を貫くのを感じた。

 丸められた穂先は使い手の手練と速度によってレインの胸を貫く鋭さを与えられ、ちょうど胸の真ん中を貫き、咽喉の奥と貫かれた個所から血が溢れて灼熱の激痛がレインの脳裏を白く染める。
 ――そこまで体感してから、レインは自分の胸にちょん、と軽く突くようにレアドランの穂先が乗せられている事に気付いた。
 何の防具も身につけていない胸は貫かれていない。レアドランの手が握る槍の穂先も鮮血に塗れてはおらず、鈍い銀色に輝いている。

「そこまで、勝負あり!」

 力強く練兵場に響くジャジュカの声に、レインの意識が明朗なものに変わる。

「え、まぼ、ろし?」

「ふむ。私の殺気に当てられて見えないものを見たようですね。顔色が青いですよ。さ、立てますか?」

 レインの胸に置いた穂先をどかして手を差し伸べるレアドランの声に、レインは先ほど感じた胸を貫かれる感覚が、正しくレアドランの殺気に当てられて見た幻である事を悟る。
 殺気は込める、とは言っていたがよもやあのような生々しい感覚を錯覚するとは思ってもいなかった。
 レアドラン自身は大した事をしていないと考えているようだが、レインの浴びせられた殺気はこれまでも、そしてこれからも味わう事のない規格外の質のものだったといえよう。  
 差し出されたレアドランの手を借りて立ち上がり、レインはこの少女の手が繊細なまでにほっそりとした美しいものである事に気付く。
 鍛錬に熱中するあまりさんざんに荒れた自分の手とはまるで別物だと、レインは己の手を恥じた。

「どうかしましたか?」

「は、いえ、なんでもありません。お見事でございます。このレイン、己の技の未熟さを改めて知りました」

「ふふ、私が言うのではあまり説得力がないとよく言われるのですが、貴女の腕前は十分に一流と称するに足るものです。
 我がエルジュネアの兵の中でも、まず間違いなく一、二を競う腕前です。こういっては何ですが貴女が私の元を訪ねて来てくれた事を考えると、これまで貴女達が仕官を求めた者達の目が迷信に曇っていてよかったと思ってしまうほどです」

「身に余るお言葉です」

 心の底から恐縮するレインが視線を伏せて微笑を浮かべると、不意にレアドランが握っていた手を離し、レインの左手の甲を握り直すと掌を上向きに返した。
 そのレインの掌は無数の細かい傷と潰れた豆の痕が重なるように密集しており、元の傷の無い肌の面積は随分と少ない。

「ふむ、それにしても良い手をしていますね。弱音を吐いても仕方のない厳しい鍛錬を欠かさず続けて来た事が、この手に現れています。アスティアも貴女の事を大変な努力家であると褒めていましたしね」

 自分の傷だらけの掌を晒す事に恥じ入るレインであったが、意に反してレアドランの口から出て来たのは偽りのない称賛の言葉であった。これには思わずレインも目を見開いて主君にと考えた少女の顔をまじまじと見つめる。
 レインの瞳には、穏やかな笑みを浮かべる金髪金眼の少女の笑みが映っていた。
その笑みにレインは魂の奥底まで見透かされる様な気がして、我知らず心臓がどくんとひと際力強く脈打っていた。
なぜか頬が熱くまともにレアドランの顔を見る事が出来なくなっていた。

「実技試験はこれで終わりです。結果はおいおいお知らせしますが、きっと貴女の意に沿うものでしょう。まずは体を休ませなさい」

 レインはレアドランに手を繋がれたまま、いつのまにやら練兵場に用意されていた椅子に座らされた。
 ジーナをはじめとした侍女たちがその近くにおり、レアドランの笑みに心奪われたままのレインは、抗う術を忘れて椅子に座り全身に浮かべていた汗を侍女たちに清められ、渡された木製のコップを満たしていた水で咽喉を潤した。
 されるがままのレインの様子にふむんと満足の吐息を一つ吐き、訓練用の槍を兵士の一人に手渡してから、固唾を飲み込んでこちらを見ていたミァンへと振り返る。
 レアドランの金色の瞳に見つめられて、ミァンの体がにわかに緊張に強張った。

「お待たせしました。貴女はウィンドマージのようですね。手持ちの触媒はそのオーブだけですか?」

「は、はい。あ、いえ、このウィンドオーブとヒリングの杖を持っております」

「ふむ。風の初級魔法と癒しの杖ですね。そうですね、貴女とは私と軽く魔法の撃ち合いでもして頂きましょうか」

「は? 姫様、それはどのような意味で……」

 剣や槍と違い模擬戦で魔法を撃ち合うというレアドランの言葉に、ミァンが驚きを隠せずにいる間に、レアドランは侍女の一人が恭しく持ってきたオーブを手に取った。
 それは燃える炎の色に染まった赤いオーブであった。それを手に取るレアドランの姿に、ミァンは更なる驚きを浮かべる。

「もしや姫様は魔法も嗜まれるのですか?」

「ええ。ブランネージュの火炎がありますからあまり戦場で使う事はありませんが、一通り扱う事は出来ますよ。
 ただ費用の割にあまり使う機会もありませんし、恐獣殺しの大剣やハンマーを使う方が性に合っておりますから、以前頂いたこのファイアーオーブの他に四個ほど初級のオーブや魔道書があるだけです。
 ところでミァンの現在のマージとしての位階はどの程度か伺ってもよいですか?」

「はい。私は現在三属性総合第五位階にあります。風は第三位階、火と雷は第一位階の魔法を扱う事出来ます」

 位階というのは要するにマージとしての力量を示す位階だ。それぞれの属性は最高第五位階まで設定され、扱える魔法の位階全てを足した総合位階で実力を示す。
 通常戦場に投入されるマージは一つの属性の第二位階を扱う者が普通であるから、ミァンはやや器用貧乏かもしれないが、かなり優秀な人材と言える。

「ふむん、姉のレインともども有望な人材が来てくれたものですね。ありがたやありがたや」

 耳にした事の無い奇妙な言い回しをするレアドランに、不思議そうな顔をしてからミァンは聞かない方がいい予感のする事を尋ねずにはいられなかった。

「あのところで姫様の位階はどれほどなのでしょうか?」

「私ですか? 七属性総合二十一位階ですよ。七属性全て第三位階まで扱えます」

 全ての属性を第五位階まで扱えるわけではないのか、とミァンは思っていたよりはと自分を納得させることにした。
 とはいえ七つの属性を扱う事が出来るというのは、ミァンの胸に驚愕の感情を与えるのに十分だ。精々が多くても二つの属性に適正を持つのが平均的なマージなのだ。
 しかしそんなミァンに追い打ちを掛けるようにレアドランがこんな事をぽつりとつぶやいた。

「第五位階まで計る機会がなかったので、取り敢えず第三位階どまりなのですよ」

 本当は七属性総合三十五位階だと思いますけれどね、と軽い調子で言うレアドランにミァンは一瞬言葉を失くしてから答えた。
つまりレアドランはマージとして最高の適性を備えていると言う事に他ならない。

「……さようでございますか。流石は姫様」

 また失言してしまったかしら、とレアドランはミァンの様子に心の中でふむぅ、と唸った。
自分としてはもはや笑ってしまうほど今の自分が全盛期に比べて弱り切っているのだが、それでもまだ人間から見ると色々と規格外らしい。

「ではミァン。私がファイアーを撃ちこみますから、それをウィンドで撃ち落として下さい。ユリノワールの実戦練習でもこれ位はするのではないかと思いますが?」

「はっ、確かに行いは致しますし、私の得意とする所でもあります」

「それはよかった。思いがけずレインの実技試験で長く時間をかけてしまいましたし、早速行いましょう」

「はい……」

 本当に構わないのか、という意味を込めてミァンがアスティアに視線を向ければ、アスティアは嘆息一つを零すだけで、頷いて返した。そうしろ、という意味だ。
 それでもなお今一つミァンが踏ん切りをつけられずにいると、痺れを切らしたかのようにレアドランが右手の赤いオーブを掲げて、その周囲に直径一メートルほどの燃えさかる火球が生じる。
 ぼぼぼ、と連続して生じる火球の音と熱に、ミァンの生存本能が激しく警鐘を鳴らす。
一つ一つの火球に込められた魔力が尋常ではない上に、一度に複数の火球を生じさせるなど、ミァンの学んだユリノワールの教師の何人ができるものか。

「色々と悩んでいる様ですが、私はわりとせっかちな人間ですから、容赦なく行きますよ。ほいっと」

「え、あ、う、ウィンド!」

 レアドランの周囲に燃えさかる七つの火球の一つが、レアドランの気の抜ける掛け声と共にややゆっくりとした速度を放つ。
対して視界を埋め尽くしながら迫りくる火球に慌てたミァンがオーブに魔力を込め、手元から巨大な風の刃を作りだして放つ。
 集中力を大いに欠いた状態でミァンが作りだしたのは、長さ二メートルにも達する巨大な風の刃であった。
 咄嗟に放ったものではあったが狙い過たず火球を真っ正面から真っ二つに切り裂き、半分になった火球を無数の火の粉へと散らす。

「ふむ。咄嗟の事態にも魔力制御と操作は間違えない、と。よろしい。では続けますね」

「っ、はい!」

 切り替えが早いのは姉妹共通の様で、ミァンは一発目と違って間を置かずに連続して放たれる火球に、立て続けに風の刃を放って行く。
 魔法を発動させる際、名称を口にするのはより魔法をイメージしやすくする為の暗示としての意味合いが強く、慣れたものならば魔法の名称を口にしなくてもよい。
 ミァンの放った風の刃は左右正面から襲いかかってきた火球を見事捉えて真っ二つにしたが、三度連続しての魔法行使にわずかにミァンの注意が途切れた瞬間に、上空から大きく弧を描いて四発の火球が隕石の如く降り注ぐ。
 一度放った火球の遠隔操作、こちらもこの世界に置いて高等技術とされている。それを複数同時に行うなど、ミァンは舌を巻く思いであった。
 だが舌を巻いたきりのままではいられない。もちろんレアドランはミァンに当たる直前に火球を散らし、ミァンに火の粉一つ当てるつもりはない。

「くっ、なんて技量と魔力なのよ!?」

 思わず口汚い言葉を吐きながら、ミァンは咄嗟に後方に転がりながら、上空の火球へと視線を移し、腕を薙ぎ払う動作と共に風の刃を再び連続して放った。
 四つの火球の内半分は切り裂いたが、残る二つは無事でさらにレアドランが新たに補充した火球が迫り、ミァンは判断の余裕など欠片もない状態で判断を強いられた。
 速度の異なる火球二種を躱しきれるほどミァンの身体能力は優れていない。必然的に風の魔法を持って撃ち落とすしか方法がない。
 となれば問題は撃ち落とし方となるだろう。

「連射が間に合わない以上、まとめて撃ち落とすしかないじゃない! 難問を出して下さる事!!」

 レインが文句一つ口にせずにレアドランと戦った事を考えれば、ミァンは切羽詰まると自分の心情を口にしてしまう性分らしい。

「あらあら正直な方。ふむふむ、しかし判断は誤らぬ様子。心は熱く頭は冷たくを自然体で出来るのは高得点ですね」

 次々と燃える火球を生み出しながら見惚れる他ない笑みを浮かべるレアドランの姿は、この世の終わりに罪人を裁くという冥府の女神の如く禍々しく、そして同時に美しい。
 かつての生で芽生えた嗜虐癖を疼かせている所為もあるだろうが、その人間離れした美貌が醸す妖美な雰囲気がそうさせているのだ。
 燃えさかる炎に色白の肌と金色の髪と瞳を煌々と照らされるレアドランの姿に、余裕のないミァンを除く練兵場の全ての人間が呼吸さえ忘れて見惚れていた。

 レアドランがファイアーの魔法を撃つのを止めたのは、オーブに込められた魔力が枯渇する寸前であった。
 赤色が薄くなり透明になる寸前のオーブを侍女に預け、レアドランは息も絶え絶えに膝を突くミァンに目を向ける。
 ミァンが迎撃したレアドランのファイアーは総数二十四発。もはやミァンの魔力は空になりオーブに込められている魔力も大幅に減じている。
 レアドランは立ち上がる事もできそうにない様子のミァンに近づいて、肩を貸して立ち上がらせる。
 はあ、はあ、と荒ぐミァンの息がレアドランの首筋をくすぐり、レアドランはついつい小さな笑いを零してしまう。

「ひ、姫様。おやめ下さい。自分の足で立ちます」

「遠慮は無用です。私がずいぶんと無茶をさせたせいなのですから、肩の一つくらいは貸すべきでしょう」

「は、はあ、申し訳ございません」

 遠慮はいらないと申したでしょうに、と困ったように言い、レアドランはミァンを先に休んでいたレインの傍らに置かれた椅子まで運んだ。
 二人の対面にも新たに椅子が置かれ、それにレアドランが座してアスティアとジャジュカが左右を固め、ジーナとロミが傍に着く。
 思わず席を立って膝を突こうとする双子を手で制止して、レアドランが穏やかな口調で語りかける。

「椅子に座ったままで構いません。さきほどはおいおいと申し上げましたが、私の一存でいま結果を伝える事とします。この場に居る全員がその証人です」

 レアドランの言葉に改めて席に座り直した二人が、思わずといった調子でずいと身を乗り出す。

「お二人とも今日からでも我がエルジュネアの禄を食んでもらいます。もちろん強制はしませんけれどね。衣食住はこちらで手配しますから、用意が整い次第居を移してもらえますか?」

「は、ありがたき幸せでございます」

「姉共々全身全霊を持って姫様にお仕えいたします」

 音を立てて椅子から立ち上がる二人が、全力の敬礼を持って応えるのにレアドランは満足そうに笑って頷いた。
 レアドランが半ば追放に近い形で王国を後にする一年前の出来事である。

<続>

 次で最終回です。

4/29 23:46 投稿
4/30 11:36 修正 三兄弟様、ありがとうございました。
5/9  21:21 修正
6/18 08:51 修正 科蚊化さま、ありがとうございました。



[32434] さようなら竜生 こんにちは姫生5 <終> 加筆
Name: スペ◆20bf2b24 ID:e262f35e
Date: 2012/06/20 12:31
グレーシャトラからの援軍がついたあたりから一万字ちょっと加筆しました。戦闘描写のみ。

さようなら竜生 こんにちは姫生5


 私の目の前で優雅に白い陶器のカップを傾ける幼い姫様君の姿に、我知らず私の視線は釘づけにされていた。
 薄い桜色の唇が金色の蔦の模様で縁取られたカップに触れる瞬間に、周囲に控える召使たちの視線が密かに吸い寄せられている事に、目の前の美姫は気付いているだろうか。
 齢十四の成熟し切らぬ青い果実の少女に過ぎないはずなのに、私の向かいの椅子に座る少女――イルネージュ王国第三王女レアドラン姫様は、同性である私達の胸を高鳴らせる妖しい魅力があった。
 私自身、女としての美貌を武器の一つと考えてそれなりに金額を掛けて磨いて来たが、この方の前では石ころも同然だろう。
 徹底した食事制限で引き締めた手足やつんと上向きの形の良い乳房、団子状に纏めている薄水色の髪も、なにもかもがこの方と比較するのもおこがましい平凡なものとしか思えなくなるのだ。
 ロードレック商会の代表を務める私、ジョサビア・ロードレックは姫様に招かれて、エルジュネアの首都グレーシャトラ郊外に建てられた首城ガウガブルのテラスで、姫様とテーブルを挟んでお茶を楽しんでいた。

「私の顔に何かついていますか? ジョサビア」

 私の視線に気づいた姫様は、例え絵画や彫刻の神に愛された名人であろうとも再現は不可能と言いきれる美貌をわずかも動かさず、人形の如き無表情のままに私に問いかける。
 私のみならず周囲の召使いたちの心を奪ったのは、姫様の顔に着いている何かではなく、姫様の顔そのものなのだがそれを口にする気にはなれなかった。

「いいえ。なんでもございません。それよりも姫様、このお茶の方はいかがでございますか? お口には合いましたでしょうか?」

 夏の熱気は過去の記憶の中に遠ざかり、秋の冷気が肌寒さを感じさせるこの頃、今日のお茶会に供した茶葉は私が持ち込んだものだ。

「ええ、私の口に良く馴染む味です。民や城の皆にもぜひ味わって欲しいものです。ですがそうするには御値段の方と相談しなければなりません。ジョサビアはどの程度と考えているのか、教えて頂けませんか?」

 来たな、と私は唇を舌で舐めて緊張を解しそうになる自分を抑え込んだ。
私はまだ三十歳にもならぬ小娘と老獪な業突く張りの商売敵どもに揶揄されるが、目の前の姫様は私の半分ほどの年齢でありながら、決して油断の出来ない商売相手なのだと言う事を、私はこの数年の付き合いで嫌と言うほど思い知らされた。
私は姫様がエルジュネアの領主となったばかりの頃からの付き合いのある商人の一人だ。
姫様のエルジュネアにおける農業や産業、交通改革に投資することで莫大な利益を得る事が出来たが、時にその過程で舌を巻かされた事もある。

 姫様は正直に言えば商いに向いてはいない。基本的に思った事は素直に口にするし、嘘が大の苦手で滅多に吐かないが吐いてもすぐに嘘だと分かる拙さだ。
 愛想笑いを浮かべるのも苦手で、罅の入る音が聞こえてくるような作り笑いしかつくれない。
その分本物の笑みが万人を魅了する力を持っているから、多額のお釣りが出るくらいだろうし、正直その魅力は羨ましいを越えて憧れさえ抱く。その力があればどれだけ商売がやりやすくなる事か。
 ともかく金髪金瞳の姫様はおよそ自分を偽る事、自分の意思を隠す事、相手を騙す事に関してはもっとも下手な人種に分類されるだろう。

 しかし、この方の恐ろしい所は神懸かり的な、あるいは決して口にする事は出来ないが悪魔染みた先見性と、こちらの心の底まで見通すかのような洞察力、そして何より損得勘定を無視して力になりたいと思わせる天性の魅力にある。
 姫様自身が嘘を吐かないように、姫様を相手にするとろうたけた商人もこれまで百人千人を思いのままに操った弁舌がまるで機能せず、どれだけ言葉を重ねてもその真意を看破されてしまい言葉を偽る事に虚しささえ覚えてしまう。
 私個人としては、この方は本当に人の心が読めるのではないか、と疑っている。
 私はなにもかも見透かされていると諦める自分の声と、商人の習性として自分の最大の利益を得ようと計算する自分の声の両方に耳を傾けながら姫様の問いに答える。
 すでに栽培までの生育過程と土壌の状態、栽培に当たって雇い入れた人員、保存期間、時間経過に伴う品質や見た目の変化、輸送に当たってのコストなどおよそ提示できる全ての情報を書面に纏めて提出してある。
 改めて私の口から言うべき事は少ないが、それでも言わねばなるまい。最後のひと押しと思い、私は口を開いた。

「この茶葉はエルジュネアの湿原地帯に群生するアバサムの葉でございます。湿原の環境でなければ栽培の難しい、逆にエルジュネアであれば栽培の容易い品です。
 独特の苦みと咽喉越しの爽やかさが特徴で、一般に王国内で流通している茶葉にはない味でございますから、まず物珍しさから一時の需要を見込めるものと考えております。
 物珍しさが無くなったとしてもこの味であれば引き続き購入する方々はおられましょう。
 栽培に要する人員と手間、流通経路の確保、その他の諸費を勉強させて頂きますと、本日お持ちした量でしたならこの額が適当であるかと。
もちろん今後もご贔屓にして頂けると言う話であれば、もういくらかお安くは出来ますが」

 私は王族相手のお茶会と言う事で礼を失しない様にと、大枚はたいて仕立てた絹のケープの懐から算盤を取り出して私の希望する金額を弾いて見せる。
 姫様は基本的には倹約家であるが、必要であると判断すれば躊躇なく大金を払う事の出来る思いきりの良さがある。
河川貿易に必要な船の調達や工事を行った時も、驚くほどの額を提示し好待遇で人手を集めた事があった。
姫様がかねてよりエルジュネアと他領の交易によって双方に利益を齎し、王国全土の経済活性化に寄与しようという考えを持っている事は、既に承知の事。
エルジュネアの新たな輸出品となるだろう茶葉に、はたして姫様はどれだけの価値を認めてくださるか。

「ふむ」

 出た。かつて多くの商人達を歓喜させ、安堵させ、苦悩させ、恐慌に陥らせてきた姫様の口癖だ。なかにはこの“ふむ”が心の傷になってしまうほど追いつめられた者もいる。
もっともそいつは貴族相手に怪しげな美術品を売りつける悪徳商人だったから、良い気味だとしか思ってはいないけれど。
これまでの経験から考えるとこの“ふむ”をはじめたとした姫様の口癖が出る時は、少なくとも一考に値すると判断されているはず。
さあ、姫様、貴女さまはどれほどの価値を見出してくださいますか?

「ふむふむ、ではエルジュネアの領主として、またイルネージュ王国の王女としてこの額を提示いたしましょう。いかが?」

 騎士が剣や槍を手に馬に跨って戦場に赴く様に、私にとっては今、この場が商人としての持てる全てを尽くすべき戦場だ。
 油断ならぬ姫様がぱちりと弾き終えた算盤を回してきて、私はそこに提示された金額に目を通す。
 そこにあったのは私の予想とは異なる金額であった。胸中に湧きおこる驚きの念が顔に出る前に、それをかろうじて抑え込む。抑え込めたと思う。
思うがどうにもこの姫様が相手だと、普段なら隠せたと思う感情や考えも全て見抜かれている気分になって安心する事が出来ない。

「姫様、私としましてはまこと喜ばしい金額でございますが、よろしいのですか?」

 姫様が提示したのは私の予想を大きく超える金額だったのだ。どれだけ値切られるかと戦々恐々していた私としては、これ以上なく不意を突かれた形と言える。

「あら、商人がその様な事を口にして良いのですか? ジョサビア。高く買うと申しているのですから便乗する事こそあれそこに疑問を抱く必要はないのではありませんか?」

「いえいえ、商人であればこそあまりに良い提案をされてしまっては疑いを抱いてしまうのです。これ幸いと足を踏み入れてみればそこが虎の口の中ということもありますれば」

 くすり、と姫様は微笑した。これひとつで骨抜きにされた商売敵の数は、両手足の指ほどもいる。
私もまたテーブルの下で太腿を思いきり抓って、骨抜きにされそうになるのを堪えねばならなかった。
 魔性の女、という言葉が脳裏にちらついた。齢十四の少女に相応しいとは言い難いが、私はこの姫様ほどの天性の人たらしを知らない。

「ふむ、そういうものでしょうね。もちろんこの額を提示した事には私なりの計算がありますから、そう疑わずとも良いですよ。私にも貴女にも得があるようにと考えた上での値段です。
 まず貴女が先ほど口にした通りアバサムはエルジュネアであれば栽培の容易な茶葉ですが、その他の土地でも栽培が出来ないわけではありません。
 また貴女と同じ着眼点を持ち商品として扱おうとする者は領内にも既にいる事でしょう。
ですが私と繋がりのある商人の中でもっとも信頼でき、取り扱いを委託できるのは貴女であると私は判断しています。
 アバサムの茶葉を扱うに辺り貴女に栽培から流通経路の構築までを任せるとして、その手付金としての意味合いがこの金額の一つ。
 そしてその委託の証明として、私の名に置いてロードレック商会が扱うアバサムの茶葉には私のお墨付きを与えます。
そうですね、例えば箱か何かに私の名前とエルジュネアの紋を刻む、などでしょうか。
その分品質の保持と向上、生産効率の改善などに関しては厳正に監査を行います。少しでも味が落ちた、と分かった時には貴女との取引を再考しなければなりません。
商会の今後を掛けた一大行事としての発奮の意味合いも込めているのが、二つ目の理由です。ほかにも色々とありますけれど……」

 茶葉一つといえどもこの商いの成功の是非がロードレック商会を左右するか。
しかし姫様はエルジュネア領主として、イルネージュ王国王女として、と言ったがそれがどのような意味がある?

「これは思いがけず私の商会の将来を賭ける事となりましたな。多弁は銀、沈黙は金と申しますが……。
 姫様はやはりエルジュネアを国内交易の要とされる御積りなのですか? 
すでに王都から東部を貫く新たな交通網がエルジュネアを経由する形で形成され、日夜人と者が集っております。
そこに新たな商品を追加することでより盤石にするお考えかと愚考しますが」

「ふむ、大体そんな所ですよ。
王国の最東部と王都を繋ぐ交通路を大枚はたいて敷いた甲斐あって、貴女も知っての通りエルジュネアへのお金や人、物の流通は私が赴任する以前とは比較になりません。
 またエルジュネアを経由して南北の他領へ向かう者、逆に東西へと向かう者達も集まっておりますし、上手くいけばエルジュネアが王国の東西南北へと広がる流通と交通の要となる事も出来ましょう。
 その時の事を考えれば商いの品と出来るものは多い方が良いのです。もっとも宿と取引の場さえ用意できれば、それだけでも十分にエルジュネアは潤う事でしょうけれどね」

 姫様がエルジュネア領主として赴任されて以来、王国最東部と王都を繋ぐ新たな交通網の形成に心血を注いできたのは、商人たちの間では良く知られた話だ。
 本格的に交通路の整備が行われ始めたのは、エルジュネアでの農業政策が結果を出してエルジュネア領内の食糧事情が劇的に改善されてからだが、現在ではエルジュネアへの人の出入りは過去とは比較にならないほど増えている。
 資金の基礎となる税収に関しては、エルジュネアの農民達に肥料が配布されその成果は年を追うごとに目覚ましいものになっている。
 それ以外にも姫様の思いつきを元に図面を引いた数々の農具が領民へ貸し出されて、日々の農作業や収穫期の作業の効率を大きく向上させている。

まるで櫛を逆さにしたように何本もの鉄の歯を持った後家殺し、足踏み式脱穀機、釘も接着剤も使わずに組み立てるだけでいい簡易水車や風車、文字を組み合わせて文章を紙に写す印刷機、井戸に取り付けた取っ手を上下させて水を汲み上げるポンプなどなど。
 私もそれらの開発や流通、他領の貴族への販売に一枚噛ませて頂き、ずいぶんと儲けを上げさせてもらったが、いまでも目の前の姫様の頭の中がどうなっているのか不思議で仕方がない。
 これから姫様が行おうとしている事は、おそらく姫様がエルジュネアに赴任する以前から考えていた事かもしれない。

姫様の考える計画の中では私も単なる駒にしか過ぎないかもしれないが、この流れを上手く捌ければ、私のロードレック商会は一段と飛躍して王国全土の中でも有数の大商会へと成長できるだろう。
 アバサムの茶葉以外にも私が用意しておいた手札を頭の中で整理しながら、私はこちらの魂を吸いこむ力を秘めているかのような姫様の瞳を、真っ直ぐに見つめ返した。
 この姫様の事だ。私以外の有力かつ信頼のおける商人を見繕って声を掛けている位の事は考えておくべきだ。というよりも保険を掛ける意味合いも考慮すれば当然のことだろう。
 お墨付きとは言うが頂けるのはあくまで茶葉に関してだけだ。その他の分野で私以外の商人が賜る事もあるだろう。
それにまだ御用商人になれたわけでもないと気を引き締めておかねば。

「承知いたしました。ロードレック商会でお役に立てる事がございましたら、なんなりとお申し付けくださいませ」

「ありがとう。貴女のその言葉を信じます」

 いけない。姫様がかすかな笑みと共に口にされる感謝の言葉を聞いただけで、もう報われた様な気持ちになってしまっている。やはりこの方は天性の人たらしだ。
 テーブルの下でさらに強く太ももを抓って正気を維持し、私は姫様との商談を再開させた。
 例えば最近では沼蛇や沼鰐をはじめとした養殖産業、領内の治安維持の為に姫様が新たに創設された治安維持を専門とする巡察警邏隊――略して巡警隊の活動や、恐獣討伐が控えられていることについてだ。
 一般的に領土の治安維持に関しては、事が起きてから領内にある小規模の砦や都市部にある兵士の詰め所に連絡が入り、おっとり刀で兵士や官吏が足を向けるもの。
 巡警隊はその名の通り宛がわれた管轄区域を巡察し、不審人物への尋問、違法行為の摘発など治安維持活動を行う事を旨とし、その為の権限を与えられている。

 四年前の発足当初はその効果のほどを疑問視する声や単純に余計な労働を嫌う声もあったそうだが、実際に領内の治安が良くなってきている為、今ではすっかり定着している。
 姫様の薫陶が骨身に沁み込んでいる為か、横暴になりがちな騎士や兵士達の態度は横柄なものではなく、紳士的と呼べるものだ。
 法によって袖の下を受け取る事を厳に戒められている事もあって、商人からすると融通の利かない所もある。
だが私のようなあちこちを飛び回る商人などからすると治安が良い土地と言うのは人が集まりやすく、商売のしやすい土地でもあるし、利益になっている面の方が多いと言える。

領内の産業の方はと言えば、革が珍重される沼蛇や沼鰐、その他湿原地帯に棲息する大型の鰻や鯰、泥鰌といった魚をはじめとした養殖の方も、湿原地帯に棲息していた大型恐獣の駆逐で確保した場所を使い大々的に行われているようだ。
 姫様が積極的にギャッターをはじめとした恐獣の討伐を行っていたのは、領民を恐獣の脅威から守ること以外にも、恐獣達の生息地域を有効活用する為でもあったのだろう。
 ただここ最近では湿原地帯での恐獣討伐は控えられていて、もっぱら山脈沿いのドラッケンやエバンスの森から時折出てくる小型恐獣の討伐や撃退程度にとどめられている。
 ドラッケンに関しては捕獲して飛竜として自軍の戦力にしているのだろうが、恐獣討伐に関してはすっかり大人しくなった印象を受ける。
 恐獣の甲殻や骨格を用いた武器防具の製造技術を持つ鍛冶師を仲介したのは私であるから、ひょっとして恐獣の武具の使用を止める運びになったのかと気になり、私は率直に姫様に問うた。
 姫様は都合の悪い事でも率直に聞くと答えて下さるので、迂遠な言い回しは無駄な労力と知るが故である。

「姫様、恐れながら近頃では恐獣の討伐を控えられているようですが、なにかお考えが変わられたのでしょうか? 
以前に比べると討伐隊の姿を見かける事がぐんと減ったように思うのですが、子供達も随分と寂しがっておりましたよ。
恐獣討伐隊の雄姿は子供達にとってまさしく憧れの英雄ですから」

「ええ、貴女の言う通り恐獣の討伐は回数を減らしていますよ。
これまでエルジュネアでは恐獣が恐獣の食料となるその他の動物を食べる事によって動物達の数が一定に保たれ、その動物達の食べる植物やより小型の動物、昆虫達も自然とその数が調整され、一種の調和が成されていました。
しかし私の赴任以降積極に行った恐獣の討伐によって、その均衡に影響が出始める頃と私は考えています。
恐獣の数があまり減り過ぎては恐獣達に食べられる筈だった動物達の数が減らず、その動物達の餌となる虫や植物が過剰に食されて、エルジュネアの自然の均衡が崩れ、ひいては私達に人間の生活にも悪影響が及ぶのです。
ですから今は討伐した恐獣の地位に私達人間が入り込み、自然環境と食物連鎖の調整を行う段階として、恐獣討伐を控えているのです。
恒久的に恐獣の素材を得る為にも、恐獣を絶滅させる様な事があってはなりませんしね」

「金の卵を産むガチョウの腹を裂く愚者になるつもりはないと言う事ですか」

 感嘆混じりに私が言うと、姫様は生徒の答えに満足した教師の様に頷かれる。

「ええ。恐獣やエルジュネア特有の環境は、弊害もありますがまさしく金の卵を産むガチョウにも、金の生る木にも成り得るのです。
 ただ恐獣の討伐を控えている関係で、新しく採用した武官達にとっては、武勇を上げる機会が減ったと文句を言われても仕方がないかもしれませんけれど」

 たしかに恐獣討伐の回数は減ったかもしれないが、今のエルジュネアでは別の機会によって勲功を上げる事が出来るようになっていた。
先ほどの巡警隊とも関係のある話になるのだが……。

「姫様、すでにご存じの事かとは思いますが、近頃他領においてエルジュネアにたいしあまり良くない話が頻繁に人々の口に上る様になっております」

 視界の片隅でかすかに侍従長のジーナ様が視線を私に向けるのが見えた。
表情には何の変化も伺えなかったが、私がこれからしようとする話はジーナ様の耳にも入っているのだろう。
 となればこの話は私からではなくジーナ様か姫様の家臣の方々から姫様のお耳に入れるべきか? 
私が一度は開いた口を閉じるべきかどうか逡巡していると、アバサム茶で咽喉を潤した姫様が口を開かれた。

「知っておりますよ。
ここ数年麦をはじめ穀物の収穫量が格段に増え、人々の流入が増えてお金が落ちるようになったエルジュネアを目指して、近隣の領地から賊や兵隊崩れの傭兵達が屯して向かっている、という話でしょう?
 他領から来た商人達が、これまでになく多くの護衛を雇って身を守っていますし、私もそれなりに目となり耳となり口となってくれる頼もしい者達を抱えていますから、ジョサビアの言いたい事は分かります」

 本当に何もかもお見通しなのだな、と私は呆れ半分驚き半分で姫様の言葉に首肯する。
 現在のエルジュネアは作物の収穫量の激増や関所や市に税を設けない事や、新たな交通網の整備、新たな産業が起こされたことで、放っておいてもかなりの額のお金が動く豊かな土地になっている。
 そんなエルジュネア領に対し近隣の領地から、野盗や賊をはじめ傭兵崩れなどがその蓄えられた富を目当てにして、かなりの数が集まっているという噂が広まっている。
 エルジュネアに向かった商人達が襲われて荷物は奪われた揚句に惨殺された、いくつもの村が襲われて略奪を欲しいがままにされて、中には皆殺しにされた村もあるなどと、エルジュネアの真実を知らぬ人々の口に上る始末。
商人たちの足は止まりこそしていないが着実に鈍り、力のある商人たちは多数の護衛を雇い、力の無い商人たちはお互いを助け合う為にグループを組んでエルジュネアに向かっていると言う。

 もしこのままエルジュネアの悪評が広まり続ける様な事があったら、順調に思われたエルジュネアの発展に大きな影が落ちる事になるだろう。
 私が見た限りでは巡警隊が上手く機能しているようで、実際にエルジュネアの領内に入って見れば、噂ほどに不穏な空気は漂っていない事が分かるのだが、他領にいる者達にそのことが分かる筈もない。
 我がロードレック商会がより大きくなるためには、なんとしてもエルジュネアの発展が不可欠だ。
それほどまでに私はエルジュネアと姫様に賭けている。そしてそれ以上に、幼いながらに妖しいまでの魅力を持つ姫様に、心奪われてもいた。
私は商人としてはまだしも人間としては、すでに姫様に虜にされていたと認めざるを得ない。

「やはり聡明なる姫様なればご存じの事でありましたか。さしでがましい事ではございますが、なにか姫様にお考えはあるのでしょうか?」

「ふむん。とりあえず何かしないといけないな、とは思っておりますよ。私としては今後ジョサビアがエルジュネアに来る時には、たくさんの護衛を連れてくる事をお勧めします。
いえ、これはジョサビアばかりでなく領外からくる商人全員が対象です。
少なくとも十人以上は雇って欲しい所ですね。そしてグレーシャトラでしばらく足を休めてくれると都合が良いです」

「は? ……なにやらお考えがある様子ですね」

「ふふ、さあ、どうでしょうか。ただ今回の騒ぎはそう長くは続きませんよ。一ヶ月もしない内に解決すると思います」

 私をからかうように姫様は微笑み、それ以上語られることはなかった。エルジュネアと近隣の一帯を騒がせる賊の集結と不穏な噂。
姫様がそれをどう対処するつもりなのか? 私は自分がそれを楽しみにしている事に気付いた。
それから話は変わり植物から作る紙や恐獣料理、沼藻酒などへと話は移り、実に有益な時間を過ごす事が出来た。
しかしそれも今後エルジュネアが無事に姫様に統治されれば、の話だが。申し訳ないという思いもあるが、いざとなれば私は家財を纏めてエルジュネアから出て行けばいい。
そのような未来は来て欲しくないと言うのが私の正直な気持ちだ。だから姫様、なんとしても今回の事態を解決してくださいね? 私はその言葉を秘めたまま笑みを浮かべた。



 ジョサビアの言う通りエルジュネア領内における賊の出没の頻度は、レアドランが領主となって以来、例を見ない増加の傾向を示しており、五、六人程度の少人数から数十人規模の集団までが街道や村々に姿を見せるようになっていた。
 これに対しエルジュネア側はかねてより各村に自衛戦力を整わせる為に武器の所有を許可し、また巡察隊の人数を増やして領内の警邏を強化していた。
 またこの事態に対し、レアドランを除く六騎の竜騎士と走竜隊、騎馬隊など機動力のある兵力のほとんどを動員して迅速に賊の対処にあたれるように体制を整えていた。

 新たにレアドランの臣下となった双子の姉妹レインとミァンは、早速自分達の腕のほどを披露し武官として認められる好機である、と不謹慎とは思いながらも奮い立ち、預けられた兵達を率いて積極的に賊狩りに赴いている。
 新たな好敵手の出現に対抗意識を燃やすロナやアスティアも、双子に後れを取ってはならじとエルジュネアの領内を走り回り、姿を見せた賊を追い回しては恐怖のどん底に叩き落としている。
 いまやレインとミァンは“紅の双子の悪魔”、ロナは“血塗れの狼”、アスティアは“金髪の処刑人”などという物騒な二つ名で呼ばれるほどである。

 レアドランの臣下たちはこのように鼻息を荒くして領内で戦い続け、恐ろしい勢いで賊を討伐していった。
 しかしエルジュネア領内全域に出没する賊に対し、エルジュネア側は戦力の逐次投入と分散を余儀なくされ、ついには首城であるガウガブルに残ったのは常よりもはるかに少ない数の兵士とブランネージュ一頭だけとなる有様であった。
 幸いなのはレアドランがジョサビアに告げた様にエルジュネアに来る商人達は、これまで以上に多くの護衛を雇い入れており、エルジュネア軍の迅速な対応もあって商人や農村部への被害は極めて小さなものに抑えられていることだろう。

 しかしながらそれでもエルジュネアの治安悪化の報は鎮静化することなく、近隣の土地で流布され、商魂たくましい商人達を除けばエルジュネア領を目指す人の数は、緩やかだが確実に減少の一途を辿って行った。
 人の流入が減るのと反比例して、近隣の賊たちが領境を越えて侵入を試みる事態は増加しており、いまやエルジュネア領内に潜伏する賊の数は、千とも二千とも言われている。
 エルジュネアが王都にほど近い位置にある事からこれ以上の治安悪化を招けば、レアドランの身柄の安全を確保する意味合いも含めて、王軍の出動もあり得るのではないか? そしてレアドラン王女の領主としての地位剥奪もあり得るのでは?
 その様な噂がエルジュネアにも広がるようになった頃、レアドランはガウガブル城の執務室で領内外に放っている密偵から報告を受け取っていた。

 執務室には主たるレアドラン、シオニス、ジャジュカの三名というエルジュネアの主要人物と報告を行っている密偵の四人がいた。
 重量感のある机にレアドランが座り、その左右をシオニスとジャジュカが固め、その三人の視線を密偵が一身に浴びている。
 レアドランとジャジュカの視線は感情を含まない冷静を越えて冷徹と言った視線を送るのに対し、シオニスの視線にはわずかながら嫌悪が滲んでいる。
 それも無理からぬことであった。レアドランに報告を行っている密偵は、人間でもケモノビトでもないヤミビトと呼ばれ忌み嫌われる亜人の一種だったからだ。

 ヤミビト――異なる大陸、異なる世界ではダークエルフと呼ばれる彼らは、闇が薄く溶けたかのような褐色の肌と笹の葉のように尖った耳、千年を生きる寿命と高い魔力を併せ持つ強力な種族である。
 しかし長寿であるが故に繁殖能力は低く、その個体数は少ない。
また人間やケモノビトからは邪悪な神とされる神を信仰している為、古来より人間、亜人の大部分と敵対してきており、いまでは生き残っているものの数は随分と少ないと言う。
 レアドランはそのヤミビトを密偵として多数抱えていたのである。
今レアドラン達に報告を行っている密偵は、そのヤミビト達の族長の末娘にあたり次期族長と目される人物の一人である。
 かつてレアドランが母スノーと共にロナやロミ狼姉妹をはじめとした奴隷達を保護した際に、同じく奴隷として捕らえられていたヤミビト達と接触している。
 この時ヤミビト達の保護をレアドランとスノーが決定し、それ以来レアドラン親娘の影の護衛と諜報活動を行う事と引き換えに、奴隷だったヤミビトやその血族達の奴隷身分からの解放と領内での安住が許されている。

 ジャジュカやアスティアなどスノー健在の頃からレアドランの傍にいた家臣などは、ヤミビトとの関係やレアドランの気質を理解しているから、文句や忠告の一つを零す事もないが、基本的にはシオニスの様に嫌悪を示すのが当たり前なのだ。
 いや、むしろこれでもまだ穏やかな反応と言えるだろうか。人間や多くの亜人種の中にはヤミビトと見れば問答無用で命を奪いに掛る者も、決していないわけではない。
 過去の因縁からヤミビトは徹底的な弾圧を受けて、多くの生命を失い氏族が途絶えて来た歴史を持つ。
 ただレアドラン達の目の前にいる密偵は、シオニス程度の悪感情など慣れたものなのか、まるで気に留めた様子もなく自分の仕事を淡々と続ける。

「以上が領内に潜伏している賊どもの数と居場所です」

 種族の特徴としてヤミビトは総じて美男美女ぞろいである。
密偵のヤミビトの少女のアーモンド型の大粒の瞳は深紅の色に染まっているが、そこには正も負もいかなる感情も浮かんではいなかった。
 人間という種族に対して期待も親愛も失望も嫌悪も憎悪も抱いていないのだろう。
 外見は精々十六歳かそこらの少女にしか見えない。
小型恐獣ゲヒタルの革をなめした黒い衣服は、華奢な少女の肩や太ももを露わにしていて、足元は膝までを覆うこれも黒いロングブーツ。
 腰に何重にも回したベルトには小さな革袋や小袋が下げられ、数本のダートとナイフが下げられている。
 腰まで長く伸ばされた純銀の髪は首の後ろで青いリボンで纏めていた。

 ヤミビトという種族への偏見さえ無ければ街行く男の瞳を尽く奪えるこの少女も、暗殺、潜入、破壊工作といった裏仕事を一通りこなす生粋の影者であった。
 大陸中のほとんどの亜人から嫌われるヤミビトは、種族を絶やさぬ為に陰ひなた、闇の深奥に生きる事を余儀なくされ、そしてまたその高い能力を活かし暗殺者や諜報員としての在り方を選んだ。
 人間や亜人同士での争いが絶え間なく続く近年の歴史に置いて、天性の暗殺者としての素質に恵まれたヤミビトは、各国で重用され要人暗殺の陰にはヤミビトの関与が必ずと言っていいほど噂されるほどだ。

「ふむ、概ね予想通りと言ったところでしょうか。やはり賊たちを纏めている者がいますね。
これは偶発的な行動ではなく一つの意思の元統率された行動です。イファ、お疲れ様です。危険な仕事を良く果たしてくれました」

 ヤミビトの少女――イファの報告を一字一句漏らさず書いた書類から目を上げて、レアドランはイファの瞳をまっすぐに見つめて苦労を労わった。
 イファは小さく頷いて返す。無礼なイファの態度にシオニスが声を荒げようとするが、それよりも早くジャジュカが口を開いた。
ここでいちいちシオニスがイファに噛み付くのを許しては、話が進まないと考えたからかもしれない。

「領内に出没する賊共は、兵力を分散させる為の囮と言ったところでしょうかな。きゃつらの思惑どおりに城に残った兵は少なく、さりとてこれを放置しては多くの民が犠牲となり、姫様の手腕が問われることとなる。
 放置するわけにはゆかず、さりとて対処すればこちらの本丸が薄くなる。単純ですが有効な手ですな」

「ジャジュカ騎士団長、そのような楽観的な物言いが許される状況ではないでしょう。分かった上でとはいえ囮に掛った以上、残る本命が動くと言う事なのですよ?」

 歴戦の騎士らしくさしたる動揺も見せぬジャジュカに、素養や知識はあるが経験が今一つ足りていないシオニスが苛立ちを隠せずに言う。
 これまでシオニスが経験した戦が恐獣退治や小規模な賊討伐であったのに対し、これから起きるだろう戦いはかつてない規模の敵との戦いとなる。
 その事に対して繊細な所のあるシオニスが過敏になっているのも無理はないことだろう。
その為にシオニスが苛立ちと不安を募らせているのが分かっているから、ジャジュカはさして気にせずにうむ、と頷いたきりだ。
大人の対応、といったところだろうか。

「シオニスの言う通りであろうな。戦力を分散させた後、手薄になった本丸を落とすのは常套手段だ。そして本丸とはここガウガブル城、そして姫様に他ならぬ」

「ふむ、私もジャジュカの見立て通りと考えます。城を落として私を捕らえ、王女である私を人質に王国と交渉でもするつもりなのでしょう。
王位に就く見込みはなく、平民を母に持つが故に王宮内でも軽視されている私に、一体どれだけの価値があるかは疑問ですけれど」

 現在ジュド国王とローザ王妃との間には四人の子がおり、次期国王と目される長兄アシュレイは文武両方に長け、また心優しく家臣からの人望も厚く次代の王となるに相応しいと誰しもが認める人物である。
 弟ロフも生まれつき利発で健康面にも何ら問題はなく、レアドランが王家唯一の子息というわけではないから、危急の事態に陥ったとしても何が何でも救わねばならないと言うほどの価値は、正直に言えばない。
 普通であればレアドランほどの年齢となれば既に政略結婚の婚約者が決められ、貴族・王族の妻としての振る舞いを徹底的に叩きこまれる年頃である。
 しかしレアドランは、歴代王族と比較してもなお飛び抜けた身体能力の高さと、天性のカリスマや魅力、そしてその気性から他国への嫁入りや自国の上級騎士や貴族との縁談も尽くなかったことにされている。

 下手な相手と縁談を結ばせようものならば、その国や家を支配下に置きかねないという笑うに笑えない懸念の為で、エルジュネアの領主などをやっていられるのもある意味ではその懸念があるからこそだ。
 実際レアドランがもっと幼少のころはその美貌の為に、政略結婚の相手を積極的に重臣たちなどから探されていたものだが、今では王宮でその話題は滅多に上がらず、仮に上がったとしても誰もが口をへの字にして苦い顔をするようになっているほどだ。
 これには近年のエルジュネアの発展具合が現実味を加え、レアドランを危険視する重臣達の間では、いまではどうすればレアドランをもっとも飼い殺しにできるかを議論されている。
 ことによれば王家の秩序を乱す粛清の対象となり得るレアドランであるが、国王の慈悲とある理由からレアドランを重要視している人物の取りなしによって、王都から遠ざける形でエルジュネア領主に任ずる所で落ち着いているのだ。

「レアドラン様、そのような事を!! 仮にも王族たる姫様の事、万が一にも賊なんぞに捕らわれる様な事があってはなりません。その様な事、口にされてはなりませぬ。
 ああ、もし万が一にもレアドラン様が賊共に捕らわれる様な事があればむさくるしく野蛮で残忍で薄汚いケダモノどもに服を剥かれて愛らしい小ぶりな乳房を舐めまわされお尻を揉みしだかれ白い咽喉やうなじにべったりと唾の層が出来るほど舐め上げられてしまい最初は嫌悪と憎悪を抱いていた姫様も徐々に芽吹いたばかりの女に火がついて未知の感覚に息を荒げ雪色の珠肌は徐々に薄紅色に染まりうっすらと開かれた口からは熱い吐息が不規則に零れ出し半開きの瞼の奥の瞳は快楽にぼやけて焦点を結ばなくなりああついにレアドラン様は」

「うぉっほん。シオニス、そこまでにせよ。流石にそれ以上はこのジャジュカも力づくでお主を止めねばならぬ」

 うわぁ、と言わんばかりに獅子の顔を歪めるジャジュカの声に、ようやくシオニスは妄想を声に出していた事に気付いて、びくりと体を震わせておそるおそるレアドランの顔色を伺う。

「ひっ!?」

 いまにもその場で自分の心臓をナイフで突いて自殺しそうなほど顔色を青くするシオニスに向けて、レアドランは笑みを返す。

「ふむん、シオニスが普段そう言う事を考えているのは薄々感じていましたが、ふふ、中々顔に似合わぬ刺激的な事を考えていたのですね。ねえ、シオニス」

「ひっ、は、はい」

 もはや石か紙かと見間違えるほど白い顔で、シオニスは怯えてびくつきながらレアドランの言葉を待って顔を俯かせる。
 シオニスの白い顔にはびっしりと冷たい汗が浮かびあがり、官服を固く握りしめる手は小刻みに震えている。首に断頭台の刃が当たっている様な気分に違いあるまい。
 敬愛してやまぬ主君に対してあるまじき行いである。どのようにしてこの罪を償うべきかシオニスの頭の中では、凄まじい勢いで議論が交わされていることだろう。
 レアドランが不意に相好を崩して椅子から立ち上がると、顔を伏せるシオニスの頬に手を添えて顔を持ちあげて、鼻と鼻が触れ合う様な至近距離からシオニスの瞳を覗きこむ。
 不意に鼻をくすぐるレアドランの髪の匂いとシオニスがこの世で最も美しいと思う瞳と顔が間近にある事に、シオニスは息を呑んだ。
 このまま死にたい、心底からシオニスは神に祈った。このまま、幸福の絶頂で死なせてください、と。

「ふふ、貴女が私の事をそこまで想うのなら、その望みを叶えてあげなくもありません。もっとも私の方が貴女を可愛がるのなら、ですけれど」

「…………ひ、姫様、そ、そのよう、な」

 冗談とも本気ともつかぬ調子のレアドランの言葉だが、伝説の中に出てくる淫魔の如き妖艶さが目に見えぬ霧の如く漂い、シオニスの脳も心も縛りつけて正気を失わせていた。
 それは傍に居るジャジュカやイファも同じようで、言葉で言い表せぬ淫らな雰囲気が漂う二人の姿に何も言えずに口を噤んだ。
 それまで蒼白と変わっていたシオニスの顔色はたちまちのうちに熟した林檎の色に染まっていた。体温は数度上がり、脈拍は早鐘のごとく加速している。
 この異常な時間はレアドランが小さく笑い、シオニスから顔を離した事で終わりを迎える事になった。

「ふむん、とはいえ貴女の発言はこの場での冗談と言う事にしておきましょう。ジャジュカ、イファ、他言無用です。よいですね?」

 先ほどまでの妖婦さながらの雰囲気が嘘のように消え、いつもの稀にしか見せる事の無い、透き通るように美しい笑みにさしものジャジュカとイファも心を奪われて、レアドランに返事をするのが数秒遅れた。

「は、はっ。いや、このジャジュカ、最近耳が遠いようでして、シオニスが何と言ったのか聞き逃していたようです」

 そう言ってジャジュカは丸い自分の耳をはたはたと動かして見せた。

「はい。そっちの変態の事は忘れます」

 イファの容赦ない発言の矛先は、恍惚と蕩けたシオニスである。シオニスは変態と罵られた事に気付いて表情を豹変させイファに噛み付く。

「な、だ、誰が変態よ、誰が!」

「お前だ。耳が穢れるような話を聞かされたこちらの身にもなれ」

 至って正論なイファの言葉にシオニスは歯を剥き出しにして、ぎりぎりと歯が削れるような勢いで歯軋りを始める。

「むぎぎぎぎ」

「イファ、シオニス、そこまでになさい。私にとって二人は欠かせぬ人材なのですから、仲良くしてくださいね」

「レアドラン様のお言葉とあれば」

 とシオニスはしおらしくレアドランの言葉に従う。
先ほどまでの失意のどん底ぶりは既に消えており、先ほどまでレアドランに誘惑されていた高揚ばかりが残っているようで、顔は赤色のままである。
 イファは小さく頷いて返した。
シオニスやジャジュカの様に心底から忠誠を誓っているのではなく、安住の地の提供と引き換えに仕えている身であるから、シオニスらほどに従順な素振りは見せない。

「我らダルブがアンリの民百二十四名、約定が守られる限りにおいて身命を賭して貴女の耳となり眼となり口となりましょう。ゆめゆめ約定を違えることなきよう」

 ヤミビトというのは実の所他種族からの蔑称によるもので、彼ら自身はイファの言うようにダルブと自らを呼ぶ。
ダークエルフを省略してダルフ、それが訛るかなにかしてダルブと言うようになったのでしょうか? とレアドランはかねてから疑問を抱いていたが、さして気にする事でもないかな、と思い真偽を問わずにいる。

「ええ、もちろん。私は約束を守る性分です。約束は守るためにあると信じていますからね。ああ、それと貴女方は百二十四名ではなく百二十五名ですね。ふむん」

「……私が同胞の数を間違えると?」

 レアドランの言葉を侮辱と捉えたイファがかすかに無表情を崩して、眉間に小さな皺を寄せるのに対し、レアドランは動揺の欠片も見せずにあっけらかんと答えた。

「数え方の認識の違いというべきでしょうか。アンリの民のクレアドラさんにお子さんが出来たでしょう? 私の場合はお腹の子供も含めていますから」

「以前姫様がクレアドラの姿を見た頃には、まだクレアドラのお腹は大きくはなっていなかったはずですが?」

 長寿であるが故に繁殖能力の低いヤミビトでは、新しい生命の誕生は何を置いても祝福される。
またそれゆえに他種族の者達には情報を隠匿するのだが、目の前の姫はまるっと全てお見通しらしい。

「クレアドラさんに重なって気配が二つありましたから。それに体の線が柔らかになって雰囲気が優しくなっていました。
ですからお子さんが出来たのだな、と分かったのです。幸いイファの言葉のお陰で私の見立てが間違っていなかった事も保証されましたしね」

 イファは胎の中の子の気配を感じ取ったと言うレアドランに、改めてこの目の前の少女が金鱗の竜王の加護を受けた規格外の人間なのだということを実感した。
 初めてイファがレアドランを目にした時は、まだ人間に対し嫌悪と憎悪を抱いていたイファをして思わず見惚れるほどに美しいがただの少女としか見えなかったのに、実際にはたった一人でアンリの民全てを皆殺しにできるほどの力を持った化け物なのだ。

「そうですか、レアドラン様にそのようにお気遣いいただけたのでしたら、クレアドラも喜びましょう」

「ええ、よろしくお願いします。クレアドラさんは私と名前が似ていますし、新しい命が生まれると言うのはとてもお目出度い事ですから、後で私の方でもお祝いの品を用意させて頂きますね」

「はっ、ありがとうございます。では、我らアンリは引き続き領内に潜伏する賊の監視と調査を……」

「よろしくお願いします。ですが貴女も他のアンリの方達も一つしかない命です。決して無理などしないよう気をつけてください」

 誰かに気遣われると言う事に慣れていないようで、レアドランの言葉に対してイファは奥歯になにか挟まっている様な微妙な顔を作った。
 人間に礼を言われることなどイファの人生にはただの一度もなかったことなのだろう。
この少女をはじめタルブのアンリ氏族は人間に奴隷として隷属化に置かれていたのだから、無理からん反応である。

「……はっ」

衣擦れの音や足音一つ立てずに執務室を後にするイファの姿が、扉の向こうに消えるまでレアドランはは見送り続けた。
イファがガウガブル城を後にして、アンリの民達と共にエルジュネア領内に潜伏する賊の監視を続けること数日。
商人達が連れて来た護衛達が屯して騒ぎを起こし、実際には無い被害の噂ばかりが広がり、エルジュネアとレアドランの評判により暗い影が差す中、いよいよこの状況を激変させる事態が勃発した。
夜も更けて月と星ばかりが世界を照らす時刻に、グレーシャトラを無視して一直線にガウガブル城を目指す正体不明の一団の姿が、再びイファによってレアドランに伝えられたのである。

 領内各地に兵を派遣し、ガウガブルに残された兵は二百余りであるのに対し、南方より迫りくる一団の総数は千を超える。
 不揃いの装備や風貌からこれまでエルジュネアに潜伏していた賊たちが一斉に蜂起したものと予測され、この報告を受けたレアドランは城内の全兵士に即時戦闘態勢を取るよう命を発し、自らも白銀の鎧を纏って戦場に立つ用意を進めた。
 この時ガウガブルを目指す賊や野盗の集団を纏めていたのは、ギャンビーという名前の盗賊の頭であった。
 イルネージュ王国のみならず、ヌイ王国をはじめとした近隣諸国を股にかける百人規模の盗賊団を率いる大物だ。

 四十を数えたばかりの男で左の頬からこめかみにかけて走る大きな傷が、すさんだ生活を送るギャンビーの風貌に凶悪という名の華を添え、必要でなくとも女子供を笑って殺す冷酷無情な性格をよく表している。
 接近を出来得る限り勘付かれぬ為に篝火もたかず、月明かりを頼りにガウガブルを目指して進んだギャンビーは、今回のガウガブル城襲撃の成功と引き換えに、後の厚遇を約束に従えた配下を率いていまやガウガブル城を視界に収められる場所にまで迫っていた。
 ここまで迫ればもはや隠す必要はない、と軍勢の最後尾に陣取ったギャンビーは配下に命じて煌々と篝火を掲げ、月夜にほの白く浮かびあがっていたガウガブル城を毒々しい炎の光で照らし上げる。

 本来ギャンビーは冷酷無残な性格であるが同時に慎重さを決して失わぬ男でもあり、このような行動を起こす男ではなかった。
例え千の配下を与えられ、敵が五分の一にしか満たぬ寡兵であっても、その場での勝利こそ得られてもその後の事を考えれば、これは決して起こしてはならぬ戦いだ。
ギャンビー個人としては例えレアドランの身柄を捕縛する事が出来て、王宮との交渉が可能になったとしても上手く行くとは思えない。
例え身内の命が掛っていようともそれが自分にとって不利益となるのなら、躊躇なく見捨てる、それが王族や貴族であると、いやそれが人間なのだとギャンビーはよく知っていたからだ。

 しかし、とギャンビーはいま自分が纏っている鎧や自分が率いていた部下達が持っている武器を見て、にまりと唇を釣り上げる。
 しかし、それも何の後ろ盾もなく薄汚い賊だけで事を起こせばの話だ。
レアドランには王族であるが故の味方とそれ以上の敵がいる。その敵達にとってギャンビー達の行動は歓迎すべき事態だ。
 今回の襲撃に関してもそのレアドランの政敵となる人物からの、多大な支援が行われている。
こうして事を起こす為に必要な資金と食料と情報と武器ととびっきりのおもちゃを、ギャンビー達に用意してくれた。
 当然事が済めば用済みとなったギャンビー達を始末しにかかってくるだろうが、その時はその時だ。千の部下とレアドランを囮にして自分一人が逃げ出すくらいの事は出来る。
 それまで良い思いをするさ、とギャンビーは分厚い唇を舌舐めずりをした。

 一方、かつては籠城をまるで想定していなかったガウガブル城であるが、レアドランの赴任以降公共事業の一環として城塞化が進められており、城壁の周りに幅十メートルほどの堀が掘られて水が引かれている。
 入口は正面と裏門の二つだけで、そこを守れば取りあえず城内への侵入は防げる。
ギャンビー側が接近を察知されぬように火を着けずにいた様に、レアドラン側も接近に気付いた事を気取られぬようにと篝火を焚かずにいた。
 レアドランは鎧が星明かりを反射しないようにと黒染めのマントを羽織り、遠方のものを十倍にして映しだす遠眼鏡を目に当てて、ぼうぼうと火を焚く賊たちの姿を見ていた。
 その傍らには参謀シオニス、騎士団長ジャジュカ、密偵イファの姿もあった。レイン、ミァン、ロナ、アスティアやその他の竜騎士達は領内各地に散っている為、不在である。

「ふむん、ざっと千とんで百三十二と言った所ですね。潜伏していた賊はほぼすべてこの場に集ったと見て良いでしょう」

 ダルブの特徴として闇夜でも視界が利き、高い視力を誇るイファが城の正門方向に陣取る賊たちの姿を見回しながら、口を開く。

「『毒蝮のベンダ』、『赤鎚のオットーリオ』、『鬼走りのエベリ』、『耳落としのシノギ』、『毒婦のリニエ』、名の知れた者達が集っています」

「ではあれらを一掃できればエルジュネアだけでなく他の土地の治安向上にも一役買えそうですね。イファ、ジャジュカ、シオニス、最後尾の辺りの一団の様子が見えますか?」

 レアドランと同じく遠眼鏡を目に当てたジャジュカ達が、一斉に頷いてレアドランに帰した。

「はっ、他の者達は持ち寄った自前の武具のようですが、後方の百名ほどは全員が揃いの武具で纏めておりますな。その頭領が今回の名の知れた賊共を纏める役を担っているのでしょう」

「鎧兜に盾、剣、槍、戦斧に弓、と一通りそろっていますね。どれもまだ新しいもののようです。賊風情が容易く用意できる品ではないでしょう。
騎馬の姿はほとんど見かけませんが、百人近い人間の装備と資金などの後押しが出来る力の持ち主が背後に就いていると見て間違いはないかと」

 順にジャジュカ、シオニスである。それぞれの見識はレアドランと一致する。シオニスもこの土壇場に来て腹が据わったのか、常の落ち着きを取り戻していた。

「ふむ、流石に千人分の装備は用意できなかったのでしょう。とはいえあの位置に陣取っている以上は、他の賊たちは全て捨て駒と考えて美味しい所だけさらう気ですね。
 指揮系統はそれぞれの集団ごとにまとまっていて、一本化は出来ていなさそうです。
烏合の衆、といっては烏合(カラスの事)に失礼ですが、敵が弱兵であるに越した事はありません。こちらの準備は?」

 遠眼鏡を控えていた従者に預けて問うてきたレアドランに、シオニスも同じく遠眼鏡を降ろして応える。

「既に二百六名、全員が戦の用意を済ませております。手筈通りグレーシャトラをはじめ各地にもこの度の事態は通達しております」

「ふむ、よろしい。では一日二日保たせればアスティアやロナ達が間に合いますね。
向こうは兵力差に任せて一夜で決着をつけるつもりでしょうけれど、そう簡単には行かない事を教えて差し上げましょうか。ではイファ、貴女達も所定の場所に向かって下さい」

 レアドランに小さく頷き返したイファは、すぐさま踵を返して城内へと続く階段の奥へと向かう。事前の打ち合わせ通りの場所で待つ同胞の元に向かったのだ。
 賊の一団発見の報が伝えられてから、城内の兵士達は迅速に戦の用意を終えており、既に城門の内側では武装と迎撃の用意を終えた精兵二百がレアドランの号令をいまかいまかと待っている。
 しわぶき一つ上げず黙したまま命令を待つ集団の様子は、まるで彼らが命の無い石像に変わってしまったかのような異様な雰囲気に満ちていた。

 賊達の前衛が歪な列を組んでガウガブルの正面城門を突破しようと、思い思いの武器を手に雄たけびを上げて迫って来るのを眼下に収めながら、レアドランは羽織っていたマントを脱ぎ棄てると同時に、右手を高々と上げた。
 それを合図に今まで城壁の上で待機していた兵士達が一斉に篝火を燃やし、降り注いでいた月光を押しのけて、オレンジ色の炎が城壁の上で轟々と燃えさかる。
 ギャンビーらからすれば完全に不意を突いた奇襲となる筈だった所が、事前に察知されていたという事で、堰を切った水のような勢いで鬨の声を上げて駆けていた賊達も、意表を突かれた事態に思わず足を止めてしまう。

 取り敢えず気勢を削ぐ事は出来たようですけれど、それもすぐに取り戻せる程度に過ぎませね、とレアドランは右手を降ろしながら心中で一つ零す。
レアドランは篝火に白銀の鎧と金の髪をひと際輝かせながら城壁の上を進み、足を止めている賊達を見下ろした。
 金の瞳と金の髪、人とは思えぬ美貌にあれが噂に聞くレアドラン王女と勘づいた賊達が、口々にレアドランの名を上げ、指差して注目をしはじめる。
 彼らがこれまで見て来た女達全てが泥臭く思えるような、夢でも見ているのかと錯覚するほどの美貌の少女は、賊達の意識が自分に吸い寄せられるのを感じてから厳かに口を開いた。
 かつて最強最古の竜として生きた時の経験が、レアドランの言葉に超越者としての威厳と威圧感を極自然と伴わせていた。

「聞け」

 ただ一言。普段とは異なる冷厳なレアドランの声音は、その声を耳にした者達に呼吸をする事さえ忘れさせた。
 もしこの場に高位のシャーマンがいたならばレアドランの背後に、巨大な竜の幻影を見たことだろう。
それはイルネージュの王族に滔々と流れる血脈に受け継がれた竜王の加護と、レアドランの竜の魂が生み出すヴィジョンである。
 いまこの瞬間のレアドランは、人の形をした竜と呼んでも差支えは無かった。

「私はイルネージュ王国第三王女レアドラン・クァドラ・イルネージュ。現国王ジュドの娘にしてこのエルジュネアを治める者である。
汝らが如何なる目的をもって我が地の土を踏み、我が城に迫るかは問わぬ。
 私が汝らに許す選択肢は二つ。
一つ、この場で武器を手離し降伏すると言うのなら罪一等を減じ、公正な裁きを下すものとする。
二つ、私の言葉に従わず手にした武器を手離さぬと言うのならば、反逆者と見做して処断する。
 死を恐れるものは今すぐ武器を手離し降伏せよ。さもなくば我が名に於いて汝らに死を与える。降伏する者には慈悲を、歯向かう者には死を。好きな方を選ぶがいい」

 再びレアドランの右手が上がると、城壁の上に並んだ兵士達が一斉に弩と長弓を構え、狙いを眼下の賊達に定める。
 ガウガブル城を攻める箇所は正面城門と裏門の二つ。
二百の寡兵では戦力を分散するのは好ましくなく、賊の最大の目標であるレアドラン自身が姿を晒すことで、賊達の戦力を集中投入させる目的があった。
またガウガブル城の城門は左右の城壁に比して凹状にへこんでおり、集中的に城門に群がる敵兵に正面左右の三方から、矢を浴びせかけて効率よく殺傷する為の作りになっている。
レアドランからすると、目の前にぶら下げられた餌=時分を目当てに賊達が群がってくれれば理想的な展開と言えるだろう。

 絶対的と言ってもいいほどの威圧感を放つ支配者然としたレアドランの姿に、賊達はそれまで胸の中で燃えていた欲望の炎が勢いを減じて行くのを等しく感じていた。
 状況を考えれば賊達の側が一笑に伏すレアドランの降伏勧告も、それを口にしたレアドランの人ならぬ雰囲気と威厳が無血での降伏と言うあり得ない事態を引き起こそうとしていた。
 かろうじてそれを引きとめたのは、それぞれの集団を纏めていた賊の頭達である。
欲望のままに何人もの人間を殺傷し、人間の命に対して然したる価値を認めていない彼らは、この計画が上手くいった後に約束された利益に目が眩み、戦意を萎ませる手下の尻を蹴り飛ばし、止まっていた前進を再開させた。

「おらぁ、足を止めるなあ。進め!! 兵士をぶっ殺して城を落として王女を手に入れろ!」

「そうすれば金も酒も食いものも女も好きに手に入る!!」

「上手くいけばあたし達がこの土地の領主にだってなれる。貴族に、支配者にだってなれるのよ! またあのみじめな暮らしに戻りたくないのなら、死に物狂いで攻めなさい!!」

 まったく、好き勝手に言ってくれるものだとレアドランは憤慨し、自身もまた足元に置いていたコンポジットボウを手に取った。
複数の合金を組みあわせてつくった弓で、エルジュネアで使われている弩よりもさらに硬く弦が張られており、レアドランでもなければ引く事さえできない強弓である。
戦闘の賊達が粗末な木の盾や斧、青銅の剣や槍などを振りあげて襲い掛かるのに狙いを定め、射程に入るのを待つ。
レアドランはこのまま城門に留まり餌の役目を果たしてジャジュカと共に前線の指揮を取り、全体の総指揮は城内に下げるシオニスに任せる予定だった。
 番えた矢を引き絞りながら、レアドランはシオニスに声を掛ける。

「シオニス、貴女は城内に下がって全体の指揮を取りなさい。後方の裏門に兵が回されるかもしれませんし、即座に対応できるよう準備を」

「はっ、しかし、やはりレアドラン様も私と共にお下がりください。御身になにかあっては一大事でございます」

 これは当然の判断である。仮にも王女であるレアドランが前線に残り、怪我を負うか捕らえられる事があれば士気は総崩れとなり、それでもう詰みとなってしまう。

「ふむ、シオニスの言う事ももっともですが、この場で私が最も効果のある餌ですし、私が居ることで兵達の士気も上がります。
数で勝るとはいえ所詮寄せ集めの者どもです。大事には至りません。さあ、問答の時間も惜しいですし、はやくお行きなさい」

 シオニスは己の半身を引き裂かれる様な表情を浮かべた後、敬愛してやまぬ主の命令を無理矢理に飲み込んで、一度頭を下げると後方に設けられた指揮所へと駆けだした。

「困ったものですな」

 ――とこれはジャジュカ。

「まったくです」

「シオニスの事ではありませぬ。姫様の事です」

「ふむ? やはり私が前線に立つのは不味いでしょうか?」

「それはもう。兵と共に闘う将や騎士は勇猛豪胆と称賛を浴びますが、元来指揮官は後方にて自軍敵軍双方の動きを見て、その都度指揮を取るべき立場です。
 まかり間違っても前線に立つのは下の下でございます。私としましてもご自重いただきたい」

「あら、でももう手遅れですよ」

「ですからこうしていま申し上げております。もし次の機会があった時に、この様な事をなされませんように」

 ふむ、とレアドランが一つ零した時、賊の前衛が弓の射程範囲内に収まり、更に踏み込んで来るのに合わせて、意識を切り替えたレアドランの咽喉から周囲の闇を震わせる竜の咆哮の如き声が迸った。

「放てっ!!!」

 ひゅん、と風切る音が連続し、夜闇を切り裂いて無数の矢が迫りくる賊達の頭上から襲いかかる。
ギャンビーの部下達と違い自前で用意した古びた武器や、粗末な品では到底防ぎきれるものではなく、掲げた盾を貫かれる者、なめし革の胸当てや鉄製の兜などを貫通した矢を受けて、悲鳴を上げてばたばたと倒れる者が続出する。
すぐ傍らを走っていた仲間が胸に矢を受けて絶命してもなお賊達の勢いは止まらず、城門めがけて殺到してくる所へ、次から次へと矢が降り注ぐ。
その様子を見ながら賊達を十分にひきつけられたと判断したレアドランは、城門の裏に伏せておいた愛竜を呼びだした。

「ブランネージュ!!」

「ぎゃおおおおおおーーーー!!!」

 それまで姿を隠していたブランネージュが主の呼び声に答えて、翼を大きく広げて城門の裏から立ち上がり、通常の飛竜を二回りも三回りも上回る巨体を晒して賊達を威圧する。
 突然変異種ゆえの巨体と真っ白い鱗を持つブランネージュの威容に、矢襖にされてもなお足を止めなかった賊達も、流石に足の動きを鈍らせて愕然とブランネージュを見上げる

「ひ、飛竜だ!?」

「立ち止まるな、進めえ!! 飛竜といったって一頭だけだ。こっちは千人もいるんだぞ」

「矢だ、矢を射かけろ。翼に当てれば落ちるぞ」

ブランネージュの出現に動揺したのもわずかな間、弓を持っていた者達がすぐさま矢をつがえて城門の上のブランネージュへと狙いを定めた。
弓を構えた者達が足を止める一方で、先に死体となった仲間達を乗り越えて城門へと迫る賊の先鋒だったが、城門まである程度の距離にまで近づいた途端なにかに足を取られて、その場で横転し立ち上がろうとしてもまた滑って転がってしまう。

「なんだ、なにか足元に撒かれてやがる」

「こりゃ、不味い、油だ! 火攻めにする気だぞ!?」

 ぬるりとした感触と独特の匂いから自分達の足元に撒かれていた液体の正体と、その使用意図を悟った賊達が、顔色を青くしてなんとか後方に下がろうとした時、レアドランは躊躇なくブランネージュに次の行動を命じた。
 自分を振り返ったレアドランの視線を受けて、意図を組み取ったブランネージュは鎌首を持ちあげて、口腔に紅蓮の炎を溢れさせる。
 狙いは賊達自身というよりも、その足元であった。賊達の危惧通りにレアドランが命じた狙いは予め地面に撒いておいた油だ。
 並みの飛竜をはるかに上回る熱量を持ったブランネージュの火炎弾は、見る間に半円形に撒かれていた油に着火し、賊達を包みこむ炎の壁を屹立させる。

「ふむ、思った通りにはまってくれましたね。別動隊に指示を出して裏門に回すくらいの事はするでしょうか?」

「でしょうな。炎の壁も勢いをつけて駆け抜ければそう大した火傷を負う様な事にもなりませんから、城門への攻め手も緩める事はないでしょう」

 あくまで落ち着き払った会話をするレアドランとジャジュカだが、この二人の目の前では炎に撒かれた賊達が悲鳴を上げて狂ったようにのたうち回り、炎の陰影の中で真っ黒いシルエットが狂気の操者に踊らされる人形の様に踊り狂っている。
 戦場を知らぬ人間が目にすればその場で嘔吐するか、目を背ける凄惨な光景である。であるにも関わらず、レアドランとジャジュカの顔や声音には然したる変化もない。
 常在戦場、常に戦場に在る事を意識した武人たるジャジュカはともかく、レアドランのこの超然とした態度は周囲の兵達に一種の恐怖さえ抱かせていた。
 民に対し惜しみない慈愛を注ぐ心優しい筈の姫君の、別人としか見えない様子はレアドランの超俗的な神秘性を増し、より一層暗い魅力で引きこんで行く。
 人ならざる者、神さえ畏れる者として、この世界よりも長い時を最初の生で過ごしたレアドランの超越者としての感性がこのような態度を取らせいた。

「ふむ、これはいけませんね。向こうにも竜騎士がいたようです」

 コンポジットボウを握る手を下げて、目を細めたレアドランが敵陣後方で翼を広げる飛竜の姿を捕捉していた。
レアドランの勧告と火の罠で落ちた士気を盛り上げる手を敵陣が打ったらしい。
エルジュネアが抱える竜騎士の総数よりも少ない四騎だが、ブランネージュ以外の飛竜が全てで払っている事を知った上での数か、それとも四騎までしか用意できなかったのか。

「ほう。他国から流れて来た竜騎士ですかな?」

「ふむん、装備は各国のもので散らしていますね。ま、戦ってみればある程度どこの国仕込みの操縦技術か分かりますし、対応できるのは私だけですから行ってきます」

「ふむ、ではお気をつけていってらっしゃいませ。しかし珠の肌に傷一つつけてはなりませんぞ。後でロナやアスティア、シオニス達に私の首を落とされかねませんからな」

「あら、私の口癖が移っていますよ。ふふ、貴方の首が落ちてしまっては大変困りますから、最善を尽すことといたしましょう」

 足元に置いておいた空中戦用に特別に作らせた穂先が三メートル、柄が七メートルある長槍を手に、レアドランは背後のブランネージュの首筋にぴょんと飛び乗る。
 ブランネージュの首の付け根の左右には、左右に三本ずつ投げ槍が括りつけられ、ブランネージュの手足や顔面、脇腹などにも恐獣の甲殻を用いた装甲が装着されており、空中戦を想定した装備がされている。
 竜騎士ないしは航空戦力を賊軍側が保有している事もレアドランには想定のうちだったようだ。

「ではジャジュカ、前線の指揮はお願いしますよ」

「は、このジャジュカにお任せあれ。ご武運を!」

「ええ、ちゃちゃっと片付けてきます」

 ジャジュカの鬣を激しくたなびかせて、ブランネージュは翼の一打ちで大きく高度を上げる。レアドランの瞳に映るのは敵陣後方の四騎の竜騎士。
 一方レアドランが騎乗したブランネージュが城門から飛び立つ姿をギャンビーの側も発見しており、ギャンビーが協力者から派遣された竜騎士達に出撃を頼みこんでいた。
 イルネージュばかりでなく竜騎士を保有する各国の鎧兜で身を包みこんだ四人の竜騎士達は二日前に合流したばかりだが、ギャンビーらとは必要最低限のやり取りをするだけで、ほとんど口をきこうともしない。

 ギャンビーの配下連中は、貴族階級しかなれない竜騎士達の事を嫉妬と嫌悪から、お高く止まったいけすかない奴らと嫌っていたが、それはギャンビーも同じだ。
事の運び次第では自分達を口封じのために始末しにかかる連中だと看破していたからである。
協力者から提供されたのはなにも武器や資金ばかりではない。いざという時の始末者もいたのだ。
 だが竜騎士を相手にするのには竜騎士をもって当たるのが最上、というのがこの時代のセオリーだ。
 話半分にしてもレアドランとその騎竜ブランネージュは、竜騎士なしでは対処し難い強敵だとギャンビーは認識していたし、その認識は正しい。

「おい、噂のふむ姫様のお出ましだぜ。ここは一つあんたらが出張って姫様をとっ捕まえてくれや。そうすりゃおれらの死人も少なくて済む」

 長剣で肩を叩きながら言うギャンビーを、リーダー格である最年長の竜騎士が軽蔑を僅かも隠さない瞳で一瞥し、すぐさま愛竜の下へと向かう。
すでに三人の部下達は愛竜に跨って出撃の命令を待っている。
 一応は四人共それぞれの故国を離れ、傭兵生活の中で知り合って意気投合しパーティーを組んだと言う筋書きになっているが、ギャンビーはわずかも信じてはいなかったし、竜騎士達の側もそれを分かっている。
 どうせこの場限りの関係に過ぎないと双方ともに理解しているのだ。
ジェロームと偽名を名乗ったリーダーは、身に纏う漆黒の鎧と同じ色の鱗を持った愛竜に跨り、城門より飛び立つブランネージュとレアドランの姿を見つめた。
 部下の中の紅一点であるセルジュと、ルシウス、ゼオンが声を掛けて来た。全員がジェローム同様に顔を隠し、偽名を名乗り、国籍の異なる鎧兜で身を固めている。

「隊長、話には聞いていましたがあの白い飛竜、見事なものですね。ブランネージュと言う名前も実によく似合っております」

 心底から惚れ惚れと呟くセルジュに、ジェロームは同じ気持ちの様で苦笑交じりに答える。
このような汚れ仕事に身をやつして長い時が経つが、それでも飛竜に対する思いばかりは僅かも曇りがないのが、この四人の共通点だった。

「まったくだ。この様な場でなければ近くでゆっくりと見られただろうな。だがこれも我らの務め。皆、分かっているな?」

「もちろん。我らの使命はレアドラン・クァドラ・イルネージュ第三王女殿下の……」

「殺害」

「うむ。せめても竜騎士の戦いが出来るのが救いか。行くぞ、翼にかけて我らに勝利を!」

「勝利を!!」

 ジェロームの声に三人が唱和して一斉に四騎の飛竜が飛び立ち、炎の壁を越えて城へと進む賊の頭上を飛ぶ。
 その姿を見送りながら、精々お互い殺し合って数を減らしてくれや、とギャンビーは心の中で舌を出した。
どうやら先頭を走っていた捨て駒連中は良い具合に数が減っているようだし、得られた成果を分け合う相手は少ない方が良い。
 協力者はどうせ自分達の事を卑しい下賤な賊、使い捨ての駒としか思っていないのだろうが、駒には駒の意地がある。精々こちらも利用させてもらうだけの事なのだから。

 飛竜の翼にとってガウガブル城の城門とギャンビーの陣までの距離は、距離と言うほど離れたものではない。
一度飛び立てば、あっという間に行き来できる距離だ。ましてや双方がお互いに向かって飛ぶのであれば、接触はほとんどすぐと言って良い。
眼下で燃やされる篝火に照らされる五騎の竜騎士は、すぐさまお互いの姿をはっきりと認識できる距離に近づいた。
 竜騎士の戦いは、飛竜のブレスやその四肢や尻尾、竜騎士の持つ手槍や長槍をもって行われる。

 まずブレスの撃ち合いを行った後に接近戦へと移行し、互いの命を奪いあうのが常である。
尋常の飛竜をはるかに上回る速度を持って近づいてくるブランネージュに、ジェロームは速さでは勝てないと悟り、すぐさま高度を取るべくハンドサインで三人の部下に上昇を命じた。
竜騎士に限らず空を飛ぶ者の戦いは、より速くより高く飛ぶ方が勝つ。それが絶対の鉄則であった。

 ジェロームの合図に従って、即座に全騎が上昇をしようとした矢先、ジェロームの視界に鋭い影がよぎり、咄嗟に手綱を操って愛竜に身をよじらせて回避運動を取らせた。
 なんだ、と脳裏に疑問がよぎる間に部下達に対しても同じように鋭い影が襲い掛かり、セルジュとルシウスはかろうじて回避できたようだが、ゼオンが肩に一撃を貰い大きくバランスを崩した。
 見ればゼオンの肩を貫いているのは手槍だ。
長さ一メートルほどの投擲用の短い槍だが、いくら練達の竜騎士といえども五百メートルの距離を置いて相手に命中させられるような品ではないし、そもそも届く様な距離ではない。

「ぐう、た、隊長」

「まぐれあたり、ではないか! ゼオン、下がれ。こんな所で死ぬことは断じて許さん」

「申し訳ありませんっ」

 回避した後もさらに放たれた二本の手槍が正確にこちらを狙ったものである事から、レアドランが狙って手槍を投げた事は間違いがない。
 いやそもそも五百メートルもの彼方から手槍をあれほどの速さと正確さが投げるなど、どう考えても人間の技ではない。

「ちい、人間ではないと言う評判は本当だったか」

 六本の手槍を投げ終えて、命中したのが一本きりだった事にレアドランは、ふむぅと不満の声を零していた。
手槍だけで決着をつけるつもりだったのが、思ったよりもジェローム達の技量が高い事に面倒なと感じた為である。
 残り三騎の竜騎士達が三方に散ってレアドランを囲いこむのに対し、レアドランは正面に位置を取ったジェロームの上方へとブランネージュを飛翔させる。
 回避行動を余儀なくされた為に、高度を取れなかったジェローム達を置き去りにブランネージュは高度を取り、眼下に見下ろす形になった敵竜騎士達へと球状ブレスを三連射する。

 ブランネージュに追いつこうとする鼻先に放たれたブレスに、再びの回避行動を強いられるジェローム達の内、ルシウスを次の目標と定めたブランネージュが翼を折り畳み、白い流星と化して襲い掛かる。
 長年体に沁みついた竜騎士としての戦闘経験が、ルシウスに咄嗟に長槍を握らせて一直線に迫りくるブランネージュへと研ぎ澄ました穂先を突き出させた。
 ルシウスは乗騎である飛竜が翼を大きく広げ体勢をやや崩した状態であったが、なんとか鐙にかけた足で踏ん張り、長槍がブランネージュの肉を貫く反動に備える。

 通常竜騎士達が用いる長槍は七メートルから八メートルほどだが、それをさらに上回る長さの槍をレアドランが構えている事に気付き、例え先にこちらが貫かれても道連れにしてくれる、とルシウスは一瞬で腹を括った。
 いよいよもってレアドランの長槍の穂先が迫る中、唐突にブランネージュとレアドランの姿がルシウスの視界から消えさった。
 正面から激突まであとわずかと言う所で、ブランネージュが畳んでいた翼を広げて空気抵抗を敢えて受けることで軌道を歪め、ルシウスとその飛竜の上を取っていたのである。
 並みの飛竜なら翼の付け根から翼がへし折れる無茶な軌道だが、ブランネージュの強靭な肉体とレアドランの技量はそれを容易くやってのけた。
 突き出した長槍が虚しく空を穿った次の瞬間、ルシウスの視界を白い柱の様なものが埋め尽くし、ルシウスの顔面を強打して一瞬で意識を刈り取った。

 ブランネージュの尻尾の一撃を受けて意識を失ったルシウスは、幸い鞍と繋がれた安全綱のお陰で落下する様な事はなかったが、戦闘復帰は見込めないだろう。
 ルシウスが鞍の上で意識を喪失しているのを認めたセルジュは、ルシウスを巻きこむのを承知で愛竜にブレスを撃たせた。
自分達の命を犠牲にしてでも任務を果たす事を至上とする裏仕事の為の部隊である。いわんや仲間の命など犠牲にする事になんの躊躇いがあろうか。
これに対するレアドランの反応は、腰に括りつけていた布袋の一つを投げつける、というものだった。

 完全に軌道を風に任せた不安定な姿勢の中で投げつけられた布袋がブレスの直撃を受けるや、そこからブレスの炎を散らすほどの白い煙を噴出させて、その中にレアドランを飲み込んでセルジュとジェロームの視界から覆い隠す。
 レアドランが投げつけたのは対恐獣対空中戦を想定し、かねてより用意させていた煙玉である。
本来は導火線に着火した後投げつけるものなのだが、こうしてブレスに投げつける事でも一応は機能する。
 実に半径五十メートル近い範囲を飲み込む白煙に視界を塞がれて、セルジュとジェロームはレアドランの姿を探す作業に意識を向けなければならなかった。

「こんな時間稼ぎを、これではそちらも私達を見失うだろうに!!」

「ふむ。そうでもありませんよ?」

「えっ?」

 思いがけず近い所で聞こえて来たレアドランの口癖に、思わずセルジュが振り返ると、そこには白煙に投影される翼長二十メートルはあろうかという飛竜の影があった。

「セルジュ!?」

 白い煙から脱出したジェロームが発見したのは、煙の中から地上めがけて落下して行く部下の姿だった。
面頬が砕けて顔が露わになり額から血を流していたが、落下の途中で飛竜の方が体勢を取り戻して地面との激突を回避する事に成功する。
 ほっと安堵の息を吐く間もなく、左右正面から三発の火球ブレスがジェロームめがけて放たれており、舌打ちを一つ打って愛竜に左右上下への細かい軌道で火球の回避を余儀なくされた。
 すれすれの所を掠めて行った火球から零れた火の粉に、クロースヘルムの表面を焦がされながら、ジェロームは火球の放たれてきた方向へと反撃のブレスを撃たせた。
 だが当たるなどと都合の良い事をジェロームは考えてはいなかった。
常に移動する事、撃った後でも油断せず、すぐさまその場を離れる事は竜騎士ならどこの国でも教えられる事なのだから。

 ジェロームのブレスが白煙に穴を穿つのに合わせて、ジェロームの視界の左端に全身から白い煙を引いたブランネージュが姿を表す。
ほとんど横滑りの様なあり得ない体勢で煙の中から飛び出した、と思えば瞬く間にジェロームとの距離を詰めてくる。
 ジェロームは咄嗟に腰のベルトに括りつけていたクロスボウを取り、飛竜の鱗も貫く鋼鉄製の矢をほとんど狙いを着けずに反射的に放っていた。
激しい風の流れに晒され、不安定な飛竜の鞍の上からの狙撃であったが、運よく矢はブランネージュの首の付け根の上に座るレアドランへとその鏃を向けて飛んで行く。
ここに来て悪運に恵まれたかとジェロームが思った矢先に、レアドランはあっさり自分の額に迫っていた矢を左手で掴み止めると、それをジェロームへと目がけて投げ返した。
 倍の速さで投げ返された矢をジェロームは思考よりも早く動いた肉体に任せて、かろうじてクロースヘルムの左頬に一筋の傷跡を作るだけで済んだ。

「ええい、よもやここまで手玉に取られるとは!」

「ふむ、貴重な竜騎士を減らすわけにも行きませんか」

 なにやら納得した調子のレアドランが突き出した長槍の穂先を、ジェロームはかろうじて自分の槍で受けるが、途端に槍を手離しそうになるほどの衝撃に兜の奥で必死に歯を食いしばった。
 そのままレアドランとジェロームは旋回をし続けながら槍を打ち合わせ、互いの槍と槍とがぶつかる度に火花を散らして行く。
 ブランネージュとジェロームの飛竜達もお互いに牙を剥き出しにして威嚇し合って、相手の体に牙を突き立て、爪で斬り裂こうと組みあいもつれ合っている。
 常に激しく揺れる飛竜の鞍の上で、熟練の竜騎士も舌を巻く戦いを繰り広げる二人だったが、その実はジェロームの防戦一方でまるで勝ち目は無かった。
 遂にはレアドランの剛槍の一撃を受けてジェロームの槍が柄の真ん中からへし折られ、ジェロームの姿が無防備に晒される。

「ぐうっ!?」

「見事な腕前です。その腕は貴方の部下共々王国の為に役立ててくださいね」

 ジェローム達の正体を看破したが故のレアドランの発言に、自分達の正体を悟られた事に気付いたジェロームの横っ面に、レアドランの長槍の穂先の横っぱらが叩き込まれた。
 ぐわん、という音と共にクロースヘルムが陥没し、気を失ったらしいジェロームの姿に、ふむ、と一つ満足の吐息を零したレアドランはジェロームの飛竜と視線を交わした。

「貴方の御主人と仲間を連れて遠くへ行きなさい。今日この場では貴方達の命までとろうとは思いません。それと私の言葉を良く考える様にと伝えてくださいね」

 ブランネージュ同様竜の眷族として、レアドランに秘められた魂が決して逆らってはならぬ何者かである、ということをぼんやりと理解したジェロームの飛竜はぐるぐると小さく唸ってくるりと背を向ける。
 レアドランの言葉に素直に従う程度には、レアドランの魂を感じ取れる力があるようだ。

「ふむん、空の脅威を排除出来た所で、取り敢えず敵本陣を爆撃と行きましょうか」

 レアドランは自分が腰掛けた鞍の裏に括りつけた十個以上ある大きな油壺を振り返った。
 レアドランが無傷で敵竜騎士を撃退した頃、ガウガブル城の地下通路を疾駆する人影が二十余りあった。
 城や砦なら当たり前に用意されている脱出用の隠し通路である。
ガウガブル城から近隣の森の中まで続くこの隠し通路の存在を知る者は、レアドランをはじめエルジュネア側でも限られている。
 その存在を秘匿されていた隠し通路を走っているのは、エルジュネア側の人間ではなく賊側の人間達であった。

 ギャンビーの協力者から齎された情報に従い、闇夜の盗賊働きと畜生働きに長けた二十人が選抜され、城内に侵入しレアドランの身柄確保を命じられていた。
 もっともそのレアドランは自ら前線に立って賊を蹴散らしているなどと知らぬ二十人は、己らの役目を果たすべく一言も話す事もなく薄闇に包まれた隠し通路の中をひた走る。
 非常時の脱出経路である為隠し通路は広くはなく、壁に埋め込まれた燭台は一つとして火を灯してはおらず、空気もこもりきりで黴臭さばかり。
 顔を布で覆い闇に溶ける黒衣で揃えた二十人が、事前に暗記した見取り図の通りに進み、追手の行方を眩ます迷路の造りとなっている隠し通路の中を迷わずに済んでいた。

 いくつもの隠し通路と隠し扉、曲がり角をくぐり抜け最後の上り階段に繋がる広場まで来た所で、一旦足を止めて周囲の警戒を行う。
 場合によってはレアドランが脱出の為にこの隠し通路を通って来るかもしれない。こちらが侵入しようと扉を開いた矢先に、脱出しようとしていたレアドランとはち合わせては堪ったものではない。
 向こうからわざわざやってきたわけで手間は省けるが、こちらにも心の準備と言う物がある。

 灯りを跳ね返し反射しないように黒く塗り潰した短剣や長剣、投げ刃を確かめ、いよいよ城内への侵入を果たそうとしたその瞬間、肉を穿つ音と共に七人の背中に黒塗りの矢が突き立っていた。
 待ち伏せ、この単語が残る十三人の脳裏に閃いた瞬間、同時に戦闘態勢が整えられていたのは流石であったが、その半数が背中から毒をたっぷりと塗られた短剣を心臓に突き立てられ、くぐもった呻き声を上げて瞬時に絶命する。
 襲撃者であった筈の賊を迎え討ったのは、レアドランの指示の下隠し通路で待ち伏せていたイファを含むダルブの民達だった。

 十と数えぬうちに半数以下になった襲撃者達は、自分達の失敗を悟ってすぐさま退こうとしたが、すでに入口の側にもダルブの民が回っており全ての襲撃者が討ち取られるのにさしたる時間はかからなかった。
 最後の一人の絶命を確認しナイフに付着した血を拭ったイファは、ことがレアドランの予想通りに進んだ事に小さな驚きと不愉快さを抱いた。
 あの姫君はダルブの民に対しても偏見や悪感情を抱かずに接する稀な人間だが、あのなんでも自分の思う通りに動くと思っていそうな所――イファの思いこみなのだが―――が、どうしても気に食わなかった。

「これくらい、誰だって予想は着く。驚く様な事ではない」

 一人そう呟くイファに、死体を片隅に片付けた仲間が声を掛けて来た。

「どうする? 上に加勢に行くか?」

 少しだけ焦っている様な響きがあった。そう言えばレアドランとスノー親子に多大な恩義を感じている奴だったな、とイファは心中で呟いてから答えた。

「いや、私達はこのまま他の襲撃者がないかここで待つ。それにいざという時はここから脱出するのだから、ここを確保しておかないといけない」

「そうか、うん、そうだな」

 かくして隠し通路からガウガブル城への侵入を図っていた襲撃者は殲滅されて、地下からの脅威は取り除かれた。
 地上での戦いは空の脅威を排除し、制空権を確保したレアドランとブランネージュの存在により、一挙にエルジュネア側に天秤が傾いていた。
 レアドランのギャンビーが座す本陣爆撃は、ギャンビー配下の百人全員が弓を構えて対空射撃の弾膜を形成したことで、三十名ほどを火達磨にしただけで終わったが、戦場のあちこちにブレスによる火の球を降らす飛竜と竜騎士の存在は、味方の竜騎士の撃退と合わせて賊軍の指揮を大いに下げていた。
 さらにはこんな事もあろうかとシオニスとジャジュカが用立てていたバリスタとカタパルト十基ずつ合計二十基が、間断なく巨大な矢と岩石を賊軍に降らしており、賊軍の陣形も指揮もまるで機能していない有様であった。

 すでに戦場を放棄して逃げ出す者が後を絶たない現状に、火の粉に焙られて顔を泥だらけ煤だらけにしたギャンビーは、ほんの数時間で自分達の勝ちの目が無くなった事を悟った。
 まだこちらの兵隊は七百から残っているが、既にこちらの竜騎士はいないし、集めた二つ名持ちの大物も半数以上が討ち取られている。
 これでは組織だった戦いなどもう望めはすまい。がりがりとフケと白髪交じりの髪を乱暴にかきむしり、ギャンビーは地面に溜めた唾を吐いた。

「こりゃだめだな。さっさとケツまくって逃げるのが最良の戦術だわな」

 ギャンビーは自分の部下達に適当な所でばらばらに逃げるよう告げると、自分もさっさと逃げ出す準備を整え始めた。
ここ一番での引き際を嗅ぎわける嗅覚で、ギャンビーは今日まで生き残って来たが、その嗅覚が一刻も早く逃げろと警告を発している。
 流石の賊軍も損耗のひどさに一旦攻め手を止めて後方に引き返すのに合わせ、レアドランも状況確認とブランネージュを休ませる為にジャジュカのいる城門へと引き返した。
 大樽一杯に溜められた水にブランネージュが顔を突っ込むのに合わせ、ぴょんと軽やかに城門の上に飛び降りたレアドランは、すぐに駆け寄ってきたジャジュカに状況を尋ねた。

「どうです? 私の見た所三百と半は討ち取れたと思いますが」

「姫様の見立て通りでしょう。こちらの被害は然したるものではありません。先ほど隠し通路でイファ達が襲撃者を片付けたという報告も受け取りました」

「そうですか。あちらに与していた竜騎士ですが、どうやら身内のようでした」

 レアドランの言葉にジャジュカは嫌な予想が的中した事を悟り、獅子の面貌をわずかに歪めた。

「さようでございますか。隠し通路の存在を知っていた事といい、姫様の予想が当たってしまいましたな」

「直接手を下せない分、他所から持ってきた連中にやらせようとしたのでしょうが、念の為自分の手勢も加勢させたのでしょう。
外敵相手なら頼りになりますから、竜騎士も飛竜も命は取らずにおきましたけどね」

「こちらからも見えておりました。お優しい事をなさる」

「ふふ、他国との戦闘では死ぬまで働いてもらうつもりです、と言ったらどんな感想になりますか?」

「訂正いたします。貴女は天使のように優しく悪魔のように狡猾ですな」

「ふむん、あまり褒められては困ります。さて、一旦休憩をとれそうですね」

「は、おお、どうやら夜明けの様ですな」

 深更に端を発した攻防は遂に夜明けを迎え、東の空に陽が指して世界を光が照らし始めている。
そして大地に転がる焼け焦げた死体や、矢に射られた死体などが無数に転がっている様もまた露わにする。
 その凄惨な光景に思う所があったのか、ジャジュカがいやにしみじみと呟いた。

「地上の人間がどれだけ争おうと太陽は変わらず昇るものですな……」

「虚しくなりましたか、ジャジュカ?」

「いえ、これは情けない所をお見せしてしまいまして。戦場での暮らしが長いとふとした拍子に魔がさすようでして、お恥ずかしい限りでございます。……ん、ほう、どうやらグレーシャトラの方も話が着いたようですな」

 ジャジュカの視線をレアドランが辿れば、そこにはグレーシャトラの方面から土煙を上げて疾走する三百名ほどの軍勢の姿があった。
 レアドランがジョサビアに告げた様にエルジュネアを訪れた商人達が雇った護衛達を、かねてよりの打ち合わせ通り、グレーシャトラに派遣した兵やジョサビア達がレアドランの名の下に集めた集団である。
賊同様に寄せ集めではあるがいずれもが戦いを生業とする者たちであり、すでに城攻めで疲弊し士気がどん底にまで落ちた賊軍にはまさしく脅威と言う他ない。

「ふむ? エイリルやティナ達も戻ってきたようですよ。可哀想にだいぶ飛竜に無理をさせたようですね。
しかもほら、ロナやアスティア達を後ろに乗せています。もう、そこまで慌てずともなんとかなったものを、せっかちさんですね。ふむん」

 グレーシャトラからの援軍の他にも他方向から派遣していた竜騎士達が空の彼方に姿を見せており、エイリルやティナの後ろには鬼の形相を浮かべたアスティア、ロナ、レイン、ミァンといったレアドランの懐刀達の姿があった。
 レアドランの指摘に遠眼鏡を目に当てて、竜騎士達の姿を見たジャジュカがアスティア達の浮かべる形相の凄まじさに、はっきりと獅子面を引き攣らせた。
 彼女らの浮かべる表情にあるのは主の危機に駆けつけんとする忠臣としての心情ばかりでなく、敬愛する者の身を案じる心情も混じっていた。
 すなわちその愛情の度合いが深いほど、人は憎悪を募らせて悪鬼妖魔と化す。
 なにより恐ろしい悪鬼の姿を目にした気持ちになって、ジャジュカは思わず溜息を吐きたくなるのを必死に堪えた。

「これは賊の方が哀れな事になりそうですな」

 思わずといった調子で呟いたジャジュカの言葉が現実のものとなるのに、さしたる時間は掛らなかった。
 一旦は攻勢を止めて後方へと引き返した賊軍の横腹を突く形で、装備も風貌もばらばらなグレーシャトラからの援軍は襲い掛かる。
 戦での命のやり取りを生活のたつきとしてきた彼らは、賊軍の士気が底を舐めて疲弊の極みにある事を敏感にかぎ取り、こここそ自分達の腕を見せてより多く報賞を得る機会であると半ば本能的に理解していたのである。
 加えて四方の空から姿を見せた竜騎士達の存在も、傭兵達の猛攻に一役買っていた。

 狼煙や早馬を用いた迅速な情報伝達と予め予想していた事もあって、エルジュネア領内各地に散っていた各軍は予め編成していた兵力で、主君たるレアドランの下を目指している。
 その中にあって竜騎士は空を飛ぶ利の他にも、単騎で並みの兵士数十人分に匹敵するとされる戦力である。
 ここで竜騎士達の参戦とあっては自分達の活躍の場が奪われる、と傭兵達が考えた事もあって、我先にと賊軍の首を一つでも多く取らんと欲望に取りつかれているのだ。

 一方竜騎士達は賊軍へは襲いかからずに、ガウガブル城へと全騎が着陸していた。
 主に竜騎士達の後ろに座っている鬼の形相のアスティアや、ロナ達からの無言の威圧もあって強行軍を余儀なくされて飛竜達は疲弊を蓄えていたし、一旦レアドランの指揮下に戻る必要があった。
 城門の上で竜騎士達に向かって手を振るレアドランと、仲間達の機関に喜びの咆哮を上げるブランネージュを目印に、城門裏手の広場に全六騎の飛竜は着陸した。
 まだ飛竜達が着陸し終えるよりも早くロナとアスティアが飛び立ち、慌ててレインとミァンもそれに続く。
 レアドランがアスティア達の到着を待つ時間は、極めて短いものだった。
アスティアとロナが我先にと押し合う様にして、城門の上へと繋がる階段を駆け上がってきて、ほぼ同時にレアドランの目の前で膝を突く。
 両者ともに息を荒げていたが、なによりも敬愛する主君の傷一つない姿に、安堵の息を大きく吐く。

「レアドラン様、この度は御身の危機にもかかわらず遅れて馳せ参じた事を、アスティア・レーヴェ、心よりお詫び申し上げまする!」

「なにより御身の無事を心よりお喜びいたします!!」

 こちらの鼓膜を破るつもりなのではなかろうか、という位の大声を張り上げる二人にジャジュカは耳を丸めて顔を顰める。
 一方でレアドランは二人の労をねぎらう意味もあってはっきりと笑みを浮かべて、二人に立ちあがるように促した。

「二人ともよく間に合ってくれました。まこと大義である。疲れている事とは思いますが、これより賊共の息の根を止める為、追撃を掛けます。
 二人にはジャジュカと共にその指揮をとって貰いたいのです。すでに城内に残しておいた騎馬と兵らの準備は整えてあります。
 飛竜達は休ませなければなりませんが。バリスタと投石機の射撃がまもなく停止しますので、停止次第出撃を。
 グレーシャトラから来た者達に、レアドランの臣下に弱兵無しと見せつけてください」

「はっ! この命に代えましても必ずや姫様の御威光を知らしめて見せましょう!」

「御命、確かに賜りましてございます!」

 鼻息荒くレアドランの命に応じるアスティアとロナに比べ、ジャジュカはあくまでも落ち着き払った声音と顔で応じる。
 レアドランが関わると即座に頭に血が上る者が多い中で、ジャジュカのような人材は極めて希少であった。
 シオニスが既に追撃を加える部隊の編成は済ませており、レアドランの下へ向かう途中で声を掛けられたレインは騎馬に跨り、ミァンもまた後方からの魔法支援を担うべく用意を済ませている。

 武器を捨てて降伏する者の命はとらぬように、とレアドランからの厳命は下されているが、エルジュネア軍はともかくそんな事を知らぬグレーシャトラからの傭兵達は、容赦なく賊軍を殺して回ることだろう。
 勝敗が決した以上、これ以上の殺戮を望まぬレアドランとしては、傭兵やグレーシャトラの商人達への宣伝も兼ねて、自軍の迅速な動きと活躍に期待を掛けていた。
 アスティア達の到着からほどなくして、それまで厳と閉ざされて賊の侵入を阻んでいた重厚な城門が開かれ、約百五十名からなるエルジュネア兵達が鬨の声を上げなら飛び出す。
 騎馬に跨るアスティアやレイン、ロナを先頭にこれまで攻性的ではあるが防戦を強いられ、あまつさえ主君を狙って来た賊達への憤りと憎しみに燃える兵達は、血でぬかるむ大地と燃え残る炎を意に介さず背を見せる賊軍へと襲い掛かる。

 ギャンビーは一回目の攻撃からして下の下の結果となった事や、竜騎士達が呆気なく敗退した事に苦い顔を浮かべていたが、傭兵達と合流を果たしたエルジュネアの竜騎士の姿とガウガブルから出撃した軍勢の姿を目の当たりにして、撤退を完全に決めこんだ。
 前金で受け取った金貨の数や、支給された装備や各種の物資を考えれば、ま、ここで逃げ込んでも損はない――その代わり口封じのための刺客に付き纏われるが――と結論したのである。
 よもや本当に逃げ出す羽目になるとは、と思わないでもないがこればかりは仕方がない。
なにごとも命あっての物種だ。こんな稼業をしているとしみじみとそう思う。

「つったってただ逃げるんじゃ面白くねえ。おい、バザ、アレを戦場の真ん中に置いてきてやんな。おれからの姫殿下へのプレゼントよ」

 入れ替わりの激しい部下の中で一番付き合いの古いバザに、にやにやと歪んだ笑みを浮かべてギャンビーは命じた。
 協力者がどこから見つけてきたのか、ギャンビーに与えたおもちゃを今度はレアドランに贈ろうと決めたのだ。
 ひどい猫背に禿げあがった頭と傷だらけの顔が特徴のバザは、一瞬命じられた内容に息を飲んだが、すぐににやりと笑むと首肯した。
 それはギャンビーの贈ろうとしているプレゼントが齎す結果に、戦慄と興奮を抱いたからであった。目の前に広がる大地はより一層深い血の色に染まるに違いない。

「へへ、すぐにでも。集めた連中、皆死んじまうかもしれませんが、よろしいんで?」

「事がおわりゃ獲物の山分けで揉めて、姫の捕獲に失敗すりゃあ商売敵に戻るやつらよ。全員死んだ方が清々すらあ。その方が今後の仕事もやりやすい」

「そりゃそうだ。じゃ、ちょっくらいってきますわ」

「おう」

 そそくさと陣を後にするバザの折れ曲がった背中を見ながら、ギャンビーは硬い無精ひげをざり、と一撫でして呟いた。

「いくら竜王の加護を受けてるっつっても人間には変わりあんめえ。アレ相手にどんな手え打つか、ま、高見の見物と洒落こませて貰うぜ? 姫様よ」

 出撃したエルジュネア軍と傭兵軍による二方向からの猛攻によって、ただでさえ戦闘意欲と指揮系統が壊滅の憂き目にあった賊軍側は、砂の城が波に飲まれる様にして次々と討ち取られるかあるいは降伏してゆく。
 まだ数の上では五百近く生き残りがいたが、どうあっても戦線を立てなおせるような状況ではなく、誰もが自分が生き残ることで精一杯という有り様である。
 シオニスを傍らに侍らせたレアドランはその様子を城門の上から見ていたが、一切の表情を排していた冷たくも美しいその顔に変化が生じたのは、賊軍の最後方から御者のいない荷馬車が姿を見せた時だった。

 狂ったように走る二頭の馬に曳かれた馬車の荷台には巨大な木箱が縄で何重にも括りつけられている。
 奇妙なのは箱のありとあらゆる場所に護符が貼り付けられている事だった。まるで箱の中に封じ込めておかなければならない、忌まわしい何かが封じられているかのような。
 いや、正しくその通りに違いない、とレアドランは直感と泡を吹き白眼を剥きながら走る馬達の様子から看破していた。
 自分達のひく馬車の荷に何を感じているのか、馬達はどう見ても正気を逸している。

「ふむ、最後の足掻きにしてもこれは少々不味い事になりましたか」

 直感の警告に従い、休ませていたブランネージュの鞍に跨るレアドランを、ようやくひと段落ついたと緊張の糸を緩めていたシオニスが慌てて呼びとめる。

「れ、レアドラン様、いずこに行かれるおつもりですか!? 既に勝敗は決しております。レアドラン様が危険を冒す必要はどこにもありはしないではありませんか」

「ふむー、シオニス、人間相手の戦経験が不足しているとはいえ、気を緩めるのが早すぎます。戦はいまだ終わってはおりません。
 これから起きる事をしかと目に焼き付け、これからの戒めとしなさい。指揮を執る者、参謀たる者は例え万の兵が戦いは終わったと声を大にして叫ぼうとも、決して終わったと思い込んではならないのです。
 己が采配によって他者の命を左右する者の責務ですよ」

 よもやレアドランの横顔の凛々しさに見惚れていたとは言えぬシオニスは、何も言えずレアドランに伸ばした手を引き戻すことしかできなかった。
 レアドランが危機警告をけたたましく鳴らす直感に従い、ブランネージュを戦場の真ん中を目指す頃、馬車を曳いていた馬は倒れた死体に蹴躓き、馬車は激しく横転して荷台の木箱が何度も回転しながら転がり落ちる。
 その衝撃で木箱の表面を埋め尽くしていた護符の何枚かが落ちるか破れるかし、さらに泥や地に塗れて瞬く間に汚れて行く。
 最初に木箱に近づいたのは、賊軍の最後列を突破して後方の大物首を狙っていたはしっこい傭兵の一団であった。

 およそ二十人近い風体の異なる傭兵達が、後方へと下がる賊達の中からガウガブル城へと向かって来た馬車に興味を示し、御者もなく狂騒した馬車から落ちた木箱を取り囲む。
 逃げ出す際の不手際で金目の物を積んだ荷馬車がこちらに向かって走って来たのか? それともなにかの罠か? 罠だとしてこの趨勢を覆せる手段があるだろうか?
 それに他の賊達もこの木箱をまるで意に掛けずに必死に逃げ出すか、武器を捨てて命乞いをしている。
 多少薄気味悪いが、万が一にも中に金貨の一つでも入っていれば儲けものと、傭兵達の中で一番下っ端の少年が、三年の傭兵暮らしで十三人を斬り殺した鉄の剣の切っ先で、恐る恐る木箱の表面を突く。

 あれだけ激しく横転したというのに木箱に壊れた個所は無く、ぐるりと一回りしても中身を除く事は出来なかった。
 あまり手間取っていては逃げる賊を追いかけるのに遅れてしまう。ガウガブル城から出撃した兵士達の勢いは凄まじく、戦場に慣れた傭兵でさえ思わず背筋に冷たい物を覚える勢いだ。
 残る賊軍を全てエルジュネアの兵士達に全て喰われてしまうかもしれない。そうなってはこの戦いの後の報賞にも響く。
 さっさと木箱の中身を改めようと、少年が一歩近づいた時、何の前触れもなく木箱の内側から漆黒色の光が伸びて、少年が何の反応も出来ぬ間になめした皮の鎧に守られた腹を貫いた。

「え?」

 少年は自分の腹から背中を貫く漆黒色の物体をぼんやりと見つめ、次の瞬間見るも無残な苦悶の顔を作るや、断末魔の声を上げることさえ無く絶命する。
 木箱から伸びたのは漆黒の刀身に漆黒色の靄の様な光を纏う長剣であった。
ずるりと音を立てて長剣が少年の腹から引き抜かれると、傷跡からは奇妙な事に血の一滴も零れることはなかった。
 少年の体は大地に落ちるまでの間に体中の体液を吸い尽くされた様にかさかさの木乃伊状へと変化してから落ちた。
 仲間の一人が殺された事に気付いた他の傭兵達が、にわかに殺気だって木箱に向けて各々の武器を構えたその瞬間、木箱の中央よりやや高い位置から円形に光が伸びる。
 その光は周囲を囲む傭兵達の首を尽く薙ぎ、数瞬の間を置いた後ようやく斬られた事に気付いたかのように、傭兵達の首が一斉に落ちる。
 断面から血を噴き出す事もなく、まるで枯れ木が風に吹かれて倒れるように、首に遅れて首なしの胴体もまた大地に倒れ伏す。

 順調に進んでいた筈の賊軍掃討の戦況を一変させる事態に、周囲の傭兵達が足を止めて注視する中で、木箱が内側からの圧力に耐えかねて微塵の木片へと爆散した。
 内側に居る漆黒の長剣を手にした何者かの仕業だ。傭兵達が思わず追う足さえ止めたのは、木箱から放たれる異様な鬼気のためであった。
 個人によって経歴は異なるが、中には戦場で年を重ねて来たといっても過言ではない老兵もいたが、その者でさえ足が竦み息を止めていた。
 ゆらり、と木箱からギャンビーがアレと呼んだモノが立ちあがる。
地平の彼方を黄金に染める陽光が一瞬曇るかのような鬼気を放つ人影が、木箱の中身の正体だった。

 荷台の上に立ちあがったのはまだ二十歳にもならぬ十代後半の少年であった。
搾った鋼の発条で構成されたかのような、戦う以外に生きる道などなさそうな鍛えこまれた肉体を持ち、死人の様な灰色の肌を持ち紫色の巻き毛は何年も手入れがされていないようで、腰に届くまで伸ばされている。
 身に纏うのは筋肉の筋をはっきりと浮かび上がらせる皮のズボンと、薄皮の袖無しのベストである。
奇妙なのはベストやズボン越しにもはっきり浮かびあがる漆黒色に輝く文様であった。
 見れば端正な顔立ちをしていると言うのに、猛禽の様に鋭い瞳は白く濁り、発達した犬歯が覗く口からは涎がだらだらと流れ落ち、全身に輝く文様と相まって狂気に憑かれているとしか見えない。

 その右手に握られているのは漆黒色の光を、刀身ばかりでなく柄や鍔にも纏う長さ一メートル二十センチほどの長剣だった。
 鍔の中央と柄尻には生物の瞳を連想させる大小二つの真っ赤な宝石が埋め込まれ、少年の体を血一滴流さずに貫いた事などから、なにかしらのおぞましい魔力を帯びている品に違いない。
 はたして邪悪な気配を振りまく魔剣とその使い手を封じる為に、あの木箱には無数の護符が貼り付けられていたものか。
 のそりと愚鈍な動作で荷台から降りる魔少年を、周囲の傭兵達は腰の引けた調子で取り囲み、一定の距離を保って決して近づこうとはしなかった。
 彼らの生物としての本能があらん限りの声で叫んでいたのだ。決して近づくな、全力でこの場から逃げ出せと。
 生物としての本能と褒賞への欲望との狭間で葛藤したその時間が、傭兵達の命運を分ける時間となった。

「きゃは、きゃは、キャハハハハハハハッハハハハハハハアッハアアアア!!!!」

 最初は死病に憑かれた病人の様に擦れた声が、次第に猛獣の咆哮の如く巨大なものと変わり、愚鈍としか見えなかった動作が一変して、魔少年は灰色の風と変わって周囲の傭兵達へと襲い掛かった。
 大地にぬくもりを与える太陽の光を切り裂いて、漆黒色の軌跡が何人もの傭兵の体を経由して空間に描かれる。
 流れる水の如く淀みない動作を持って歴戦の傭兵達の間を縫うように動いた魔少年は、傭兵達をことごとく一刀のもとに斬り伏せていた。

 咽喉を、胸を、腹を、首を、額を輪切りにされた傭兵達の体がようやく斬られた事に気付いてずるりと滑り、何人もの恐怖の悲鳴が一斉に大地に響き渡る。
 にいいっと魔少年の口元が三日月の様に冷たくつり上がり、次いで右手に握られた魔剣の宝石が妖しく輝くと、魔剣に斬られた死体から白い薄靄が浮かび上がると二つの宝石へと吸い込まれてゆく。
 まるで咀嚼するかのように二つの宝石が交互に明滅を始めると、その度に吸い込まれる薄靄に、ああ、なんということか斬り殺されたばかりの傭兵達の顔が浮かびあがり、悲鳴さえ上げて行く。
 喰われる、喰われる、喰われる! 助けて、助けて、助けて! 魔剣に咀嚼される魂達が叫びを上げる。死後の救いを求め、魔剣による捕食からの解放を求めているのだ。

「きゃは、きゃはははははは!!」

 魔少年の上げる狂い笑いは魔剣の上げる喜びの声か、はたまた愉悦の叫びか。
 勝敗が決したも同然であった戦場が、一振りの魔剣を手にした――いや、魔剣に支配された少年の登場によって、瞬く間にその様相を異なるものにした。
 姿を表してからのほんのわずかな間の行動で、尋常ならざる魔性の者とこの場にいたすべてのものに知らしめた魔少年の姿に、逃げていた賊軍も追いたてていた傭兵やエルジュネアの兵達も動く事を忘れ、得体の知れぬ恐怖に凍りついた様に足を止めていた。
 逃げる者がいない事を褒めたい所であったが、その実、魔剣と魔少年の放つ壮絶な鬼気に身心を絡め取られ動くことさえ出来ずにいたのである。

 十と数えぬ間に殺戮された傭兵達の魂が残らず魔剣に食い尽くされると、少年は全身からより一層深く冷たい漆黒の光を纏い、手にした魔剣を大きく後方に振りかぶる。
 どのような秘剣魔技を使おうとも、最も近い者との距離は魔剣の刃が届く距離ではない。ないが、しかし魔少年の姿を見た者達の背には、氷のように冷たい汗が噴き出していた。
 今まさに自分達は死に瀕している!
 その予感が正しい者と証明するかのように、魔少年は後方へと引いた魔剣を稲光かと見間違う速さで振り抜く。
 すると喰らった魂と魔少年の剣気が魔剣の力によって、鬼気の凝縮した幅三十メートルにもなろうかという三日月形の光の刃と化し、魔少年の前方にいた傭兵とその後方のエルジュネア兵達へと襲い掛かる!!

「魂を、寄越せええええええええええええええーーーーーーーー!!!!!!」

 魔剣より放たれた白く輝く刃は飛翔しながら戦場に漂う死気、そして恨みと共に漂っていた霊魂を喰らい、より速くより大きくより禍々しく巨大化する。
 真っ先に傭兵達が死をも喰らう光の刃に晒されて、咄嗟に掲げた武器や盾、身に纏った防具も何もかもが呆気なく切り裂かれて、枯れ草を断つかのようにして人間の体が真っ二つにされてゆく。
 一人殺す度にその苦痛や霊魂を喰らいより大きくなる死の刃は、冥界で彷徨う餓鬼の如く次々と傭兵達を斬り殺し、その魂を喰らって行く。

 その様子を遠く離れた林の中で盗み見ていたギャンビーは、自分の想像をはるかに越える惨劇を瞬時に生み出した協力者からのプレゼントに、腹を抱えて大笑いしていた。
 引き連れた配下達が声もなく絶句している中で、ギャンビーただ一人だけがこれ以上面白い見世物はないと笑い続ける。
 見かねたバザが声をかけてようやく、ギャンビーは笑いを堪えるが、その目の端には涙の粒が溜まり、息を切らしている有り様だ。

「お頭、あんまり笑っていると見つかっちまいますぜ」

「いや、すまん。だがよう、これは笑うしかないだろうが。おれ達があんだけてこずったってのによう、あの化け物が出て来ただけでこうも変わっちまうんだぜ? 
 こりゃ面白えや。さあて人間じゃないと評判の姫様でも、あいつを止められるもんかねえ?
 こいつは、最後の最後にとんでもなく面白い見世物が始まったもんだぜ!」

 四十近い傭兵達が一人の例外もなく死んだ後、次に死の刃に晒されたのは騎馬に跨ったアスティア率いるエルジュネアの兵士達であった。
 木箱の中から魔少年が姿を見せた瞬間から、経験した事の無いおぞましい感覚に襲われて、追撃の足を止めていたアスティアだったが瞬きをする間もない極短い時間で、自分達の前を走っていた傭兵達が殺し尽くされた光景に、息を呑み思考に空白が生まれていた。
 それは死を意味する空白であったが、例えこの瞬間にアスティアが冷静な思考を維持していたとしても、疾風の速さで迫りくる魔剣の一撃を受ける事も回避する事も出来なかっただろう。
 数十の魂を喰らった死の刃はアスティアの視界を埋め尽くすほどの横幅と高さとなって、眼前にまで迫っているのだから。
 ここで死んでは姫様のお役に立てなくなる――その事だけがアスティアの脳裏をよぎり、せめて背を向けて逃げる事だけはすまいと、迫りくる死の刃を睨むアスティアの耳を上空から降ってきたこんな叫びが打った。

「ちぇりおおおおおおおお!!!!」

「くっ、姫様!!

 レアドランは急ぎ飛び立たせたブランネージュの背中より飛び降り、大上段に振りかぶった恐獣殺しを全身のバネと筋肉を連動させて振り抜き、アスティアに襲いかからんとして死の刃へと叩きつける。
 怒れる竜の咆哮を思わせる大音声と共に叩きつけられた恐獣殺しの一撃によって、それまで加速する一方であった死の刃は勢いを止めて、前進と後退の押し問答を始める。

「はあああああ!!!」

 再びレアドランの白い咽喉の奥より迸る気合いと共に、ついに恐獣殺しは死の刃を真っ二つに切り裂き、切り裂かれた死の刃は数万にも及ぶ白い光の粒子となった陽光に溶け消えて行く。
 死の刃を二つに切り裂くと同時、これまで体高十メートルを越える大型恐獣を何頭も屠ってきた恐獣殺しの刀身に無数の罅が走るや、断末魔の悲鳴の如き音を立てて刃の根元から砕け散った。
 ブランネージュの背中の上で練り込んでいた莫大な気を込めた一撃で、魔剣の一撃を相殺するのと引き換えに、長く戦場で共に在った相棒を失った事に一抹の悲しさを覚えながら、レアドランは背後のアスティアのみならず周囲のエルジュネア兵、賊軍の区別なく命を発した。

「この場に在る全ての者に命ずる。これより先はこのレアドランが引き受ける。賊徒よ、いますぐ武器を手離して降伏せよ。
このままでは汝らは敵味方の区別なく、あの魔剣を持つ者に尽く殺されよう。
 降伏するならばこのレアドランの名前と命を掛けてあの魔剣持つ者より庇護しよう。アスティア、ジャジュカ、全兵を率いて後退を。アレの相手はこの私にしか務まらぬ」

 開戦を告げた時と同様、超越者としての威厳と存在感を再び纏うレアドランの断固たる命令に、レアドランの身柄を求めてガウガブルを襲った賊達でさえ思わず首を縦に振っていた。
 耳にした途端抗う術も意思も喪失させるレアドランの命令であったが、長くレアドランの傍にあったアスティアやジャジュカ、ロナなどは主君への忠義や敬愛の念もあって素直には命令を受諾する事は出来ずにいた。
 あろうことか本来守るべき主君の背に庇われる形になったアスティアが、大山のごとき気迫を放つレアドランの背に向けて、血を吐く様な声を絞り出した。

「姫様、なにとぞ、なにとぞこのアスティアに共に戦えとご命じください。姫様の命ならばこのアスティア、如何なる強敵、如何なる死地であろうとも躊躇いは致しません」

「ならぬ」

 しかしアスティアに返されたレアドランの答えは、これ以上ないほど簡潔で強固な拒否であった。

「貴方達は欠くべからざる必要な人間です。敢えて死地と分かる戦いに巻きこむわけにはまいりません。そしてアスティア、どうかこれ以上私に言わせないでください」

 レアドランが自分に言わせるなと言っているのが何なのか、アスティアはそれが分かるが故にこれ以上ない屈辱と自己への憎悪に下唇を噛んだ。
 つまり、足手まといだ、と。信頼し愛する家臣に足手まといだ、なとど言わせるなと主君に思わせる我が身の惰弱さ。騎士にとってこれ以上の恥辱があろうか。
 アスティアの血色の良い唇を歯が喰い破り、赤い血が流れる。それと引き換えにアスティアは苦渋を呑みこんだ。
 己が主君の勝利を信じ、ただ一言だけを主の背に伝える。

「ご武運を!!」

「戦女神の祝福よりも頼りになります」

 ついにアスティアを振り返ることなく、レアドランは背後の兵達が一旦後方へと下がるのに合わせて、ゆらゆらと立つ魔少年へと目がけ、恐獣殺しの柄を放り投げて疾走した。
 死の刃を二つに斬ったと同時に行っていた調息によって、全身の細胞から練り上げた莫大な気を、さらに体の中心線に沿って存在する七つのチャクラを持って昇華させて、レアドランは身体能力をさらに増加させた。
 人間の肉体における気の操作もまた、幾度となく繰り返した転生の過程で習得した技術の一つである。

 踏み込んだ大地が粉状に砕け散るほどの踏み込みで大地を駆けるレアドランは、走りながら死んだ傭兵達の剣を掴み取り、疾走の勢いをそのままに魔少年へと斬りかかる。
 疾走から跳躍して魔少年の右頸部へと斬り込んだレアドランも、それを魔剣で見事受け止めた魔少年の動きも、どちらも共に人間の規格を越えた速さであった。
 両剣の激突と同時に行き場を失った力が逃げ場を求めて、魔少年の踏みしめる大地へと流れ込み、凄まじい破砕音と共に大地に蜘蛛の巣状の罅が四方に広がる。
 魔剣から溢れる漆黒の鬼気に頬を打たれ、細胞の生命力が食い尽くされるのを全身に漲らせた気で相殺し、レアドランは鍔競り合う魔剣の宝石に金色の視線を送った。

「世に命を食む魔剣は多々あれども、これほどまでに凶悪な魔剣はそうはないだろう。貴様、名を名乗るがいい」

 にたりと魔少年が笑むが、それは魔剣の浮かべる笑みであろう。魔少年の咽喉を借りて、魔剣が呪わしき己の名を口にする。魔少年の名ではなく、レアドランが問うた魔剣の名を。

「ウイユ・オブ・デス」

「ふむ、数ある魔剣妖刀の中でも、手にした者の魂を貪り操るとして特に忌み嫌われた魔剣か。これは悪しき運の巡り合わせよ」

「お前の魂を喰わせろおおぉおお!!」

 一層激しく漆黒の光が溢れだして、鍔競り合っていたレアドランの刃に無数の蛇の如く絡みつくや、瞬く間に鉄の刃が砕かれる。
 ウイユ・オブ・デスが蓄えた生物の魂が、破壊の力へと転化されて触れるもの全てを破壊する異能を発揮しているのだ。
 刀身が砕けると同時にレアドランは後方へと跳躍し、一旦魔少年から距離をとってその場に転がっていたグレートソードを爪先で蹴り上げ右手に握る。

「きゃははは!」

「疾ッ!」

 狂笑と共に魔少年が右袈裟に振り下ろすウイユ・オブ・デスを、切っ先に至るまで気を巡らしたグレートソードを持って打ち払う。
 大の男でも両手で扱うグレートソードを、枯れ枝のように軽々と振り回すレアドランもレアドランだが、一歩も引くことなく斬り結ぶ魔少年も魔剣の支配下にあるとはいえ尋常ではない。
 二人は常に嵐の如く激しく立ち回りを演じ、逃げ場を求める衝突の力と剣風が周囲の地面や木乃伊状になった死体を木っ端微塵へと変えている。
 レアドランは右手のグレートソードがウイユ・オブ・デスの纏う鬼気と剣圧に耐えきれず、十数度の打ち合いを持って再び罅が走ると同時に放り捨てる。
 レアドランはグレートソードを放り捨てると同時に、こちらの咽喉を狙って突きこんできたウイユ・オブ・デスを首を傾けてかわして、漆黒の光に頬を照らされながら五指を揃えた左掌を、魔少年の右脇腹に添えた。
 自分の体そのものも、まるで恋人に寄り添うかのように密着し、魔少年がウイユ・オブ・デスを振るう為の空間を潰す。
 その瞬間、レアドランの咽喉より放たれるは、刃の如く鋭い呼気。

「発ッ!!!」

 刃の嵐のごとき剣戟の合間にも練り上げていた気を込めた、密着状態の零距離で叩き込むレアドラン渾身の浸透勁である。
 呼吸と血流操作によって丹田を中心に練り上げた気を、拳足や武具を通して相手の体内に叩き込み、甲殻や皮膚、筋肉を無視して相手の内部から破壊する秘技。
 生命の純粋な気を叩きこむ武術で在るため、死霊のような実体を持たぬ存在にも劇的な効果を発揮する。

 ましてやその血に竜王の加護を受けるレアドランである。純粋な人間の気に加えて、高い霊格を持つ竜王の加護によって、竜族の気を発する事も出来るのだ。
 そして存在の発祥に於いて全世界の竜族の頂点に君臨していたレアドランにとって、竜族の気を操るのは、人間の肉体の気を操るよりもはるかに容易い。
 人間の気と悪魔や邪神をも封滅する竜の気が混ざり合ったレアドランの一撃は、ウイユ・オブ・デスの鬼気の護りを突破し、魔少年の五臓六腑を瞬時に破壊してのけた。
 そればかりか魔少年の背中の側の布地が破れ、そればかりか粉砕された肋骨や臓器が飛び出して、魔少年の背中の大地に骨の破片が混じった臓器がぶちまけられた。
 魔少年の白濁している瞳や鼻、口、耳とあらゆる場所から黒血がどっと溢れだし、腐った血の匂いがぷんと広がる。

 肺腑と腹腔に溜めこんだ気を全て使い果たしたレアドランだが、強敵を倒したというような気の緩みはわずかもなかった。
 全身全霊の一撃を持って魔少年の肉体こそ破壊できたものの、ウイユ・オブ・デスの放つ邪悪な鬼気はわずかも揺らいでいないではないか!
 その証拠に力なく垂れさがっていた魔少年の左手が跳ね上がるや、レアドランの右腕を握りしめて、魔少年が全身に纏っていた漆黒の光が、魔少年の左手を通じてレアドランの小さな体を瞬時に丸呑みにする。

「オ前ガ、次ノ器トナルガイイ」

 ごぼりと血を吐きながら喋る魔少年、いやウイユ・オブ・デスの言葉は、この持ち主の魂を喰らう魔剣が、次の寄生先をレアドランと定めたが故か。
 まるで卵のように魔少年とレアドランを漆黒の光が包みこみ、周囲の視線から遮る。漆黒の光に包まれた、とレアドランが認識した瞬間、意識と肉体が切り離されて世界が漆黒の闇に包まれる。
 一寸先で手を振られても気付くこともできないような、深い深い闇である。
 ウイユ・オブ・デスの造り出した魂を喰らう為の世界か、とレアドランが推測していると、目の前に闇の中から滲むようにしてウイユ・オブ・デスが浮かび上がる。

「小賢しい魔剣めが」

 侮蔑を隠さぬレアドランに、人の手を形作った闇が四方から伸びて、まだ幼さを残す金髪金瞳の姫君の未成熟な肢体を絡め取ろうとする。

「怯えよ、恐れよ、汝の恐怖に震える魂が我の糧となる」

 しわがれた老人の声にも、生命に溢れた若者の声にも聞こえるウイユ・オブ・デスの声に、レアドランは小さいが確かな嘲笑を浮かべた。
 ウイユ・オブ・デスが持ち主の魂を喰らうこの場は、その者の魂が剥き出しにされる空間。
 ならば人間の肉体の檻に封じられし魂を解放するのに、これ以上最適の場所があろうか。
 レアドランの唇からせせら笑いが零れ落ちた。ジーナやアスティアが耳にすれば、驚愕に表情を染めるだろう、嘲笑の響きがそこには込められていた。

「人間の魂を喰らっている間に調子に乗ったか。愚かな魔剣よ。舐めるなよ、我が魂、貴様なぞに喰らい尽くせると思うてかっ!!!」

 やにわに漆黒の手に絡みつかれていたレアドランの人間の肉体の輪郭が溶け崩れるや、ウイユ・オブ・デスの目の前に白い鱗と六枚の翼、虹色の瞳を持った巨大な竜が顕現する。
 数え切れぬ転生の果てに劣化し続けたとはいえ、いまなお世界最強種の中でも最強最古を誇った竜の魂は、数万数十万の魂を喰らったウイユ・オブ・デスでさえ、忘我に陥る圧倒的存在感と威風をいまなお誇っていた。

「呪わしき魔剣よ、いまここに我が汝の存在を滅せん」

 漆黒の手の呪縛を振り切ったレアドラン――ドラゴンがゆっくりと開く口の奥に宿る七彩の光。
そこから感じ取れる圧倒的な、比較することさえ愚かしく思える力に、ウイユ・オブ・デスではみずからの存在の終わりを確かに理解した。

「億砕と散れ!」

「お、おお、オオオオオオオオオオ!?」

 ドラゴンの口から放たれた虹色のブレスに幻想のウイユ・オブ・デスですが消滅させられるのと同時に、魂を喰らう為の空間は消え去り、現実世界に意識を引き戻したレアドランは、自分を包んでいた闇が消えている事に気付いた。
 そればかりでなく自分の右腕を掴んでいた魔少年が、苦悶の声を上げながら身をよじり、自分から少しずつ遠ざかっている。
 いまや魔少年の体からはウイユ・オブ・デスの力が次々と消滅し、それまで肉体を維持していた文様は消えて、徐々に肉体が塵と化して崩れつつある。
 ウイユ・オブ・デスによって仮初の不浄な生命を与えられていた肉体が、本来あるべき形に還ろうとしているのだ。

「ふむ、意思を完全に消滅させたつもりでしたが、存外しぶとい」

 いまやウイユ・オブ・デスの刀身が纏う漆黒の光はひどく弱々しいものとなり、放っておいても崩壊する事は明白であったが、レアドランは足元に落ちていた一本の剣を拾い上げた。
 いかなる皮肉か、それは最初にウイユ・オブ・デスに殺された少年傭兵の剣だった。
 足元定まらずふらつく魔少年の眼前にレアドランは立ちふさがり、肩幅に足を開いて両手に握った剣を振りかぶる。
 レアドランの落とす影に気付いたウイユ・オブ・デスは、もはや明確な意識さえ残ってはいなかったが、己の存在に終焉を齎した眼前の怨敵に対する怒りと憎悪によって、魔少年に自身を振りかぶらせた。

「きゃはははははは!!!」

 血を吐きながら狂い笑う魔少年によって振り下ろされるウイユ・オブ・デス。対するレアドランは瞳を見開き、ありったけの気迫を込めた一声を上げる。

「ちぇえりおおおおおおおお!!!!」

 レアドランの気合いの一声と同時に振り下ろされた剣は、真っ向からウイユ・オブ・デスの刀身を切り裂き、そのまま魔少年の右首筋から左わき腹までを骨込めに両断する。
 剣が血脂肪の一滴さえも付着を許さぬ速度で振り抜かれるのにやや遅れて、魔少年の体が二つにずれる。
 斜めに両断された魔少年の体は、大地に落ちるよりも早く塵と化し、吹いていた風に乗って空の彼方へと運ばれた。
 塵へと崩れるその寸前、魔少年の顔がこれまでの狂気の無い安らぎの笑みを浮かべていた事が、わずかにレアドランの心に涼風を運んだ。
 真っ二つにされて、今度こそ完全に意思も力も失ったウイユ・オブ・デスに一瞥をくれてから、レアドランは東の空を見た。
 そこには、太陽の姿があった。万物を等しく照らし出す陽光を満身に浴びながら、レアドランは背後の全員に微笑みかけた。
 エルジュネアの兵もグレーシャトラから来た傭兵も生き残りの賊へも、誰も差別する事も区別することの無い、慈愛に満ちた笑みである。

「夜が明けましたね、ふむ」

 やはり最後は“ふむ”で占めるらしい。


 ガウガブル城への賊一千余りによる侵攻は、レアドランと臣下たち及びグレーシャトラの義勇兵達の活躍により、被害らしい被害の出ぬままに鎮圧されることとなった。
 賊のほとんどは討たれることになり、首謀者であった大盗賊ギャンビーはいまなお発見されず、調査は継続こそされたが一向に成果を上げる事はなかった。
 ガウガブルへの侵攻を退けた後、レアドランは父ジュド国王の命によって重臣達を引き連れて王宮へと召し上げられることとなる。

 玉座に座る父ジュドとその傍らの義母ローザを前に、レアドランは左右を居並ぶ重臣達に挟まれて、立ったまま謁見を迎えていた。
 親子といえども公の場においては主君と臣下である。あくまで臣下の礼を守り恭しく頭を垂れるレアドランに、ジュドは表を上げるよう命じた。言った、ではない。命じたのだ。

「面を上げよ」

「はい」

「レアドラン、この度の逆賊共の鎮圧、大義であった。よくぞ寡兵を持って敵を打ち破った。その勇猛さを余とそして民は心より讃えよう」

「身に余る光栄にございます。陛下」

 ほんの少し、レアドランの口元が緩んだ。何度転生を重ねても親愛の情を寄せてくれる相手に対して、レアドランの中身たるドラゴンはいとも簡単に心を許してしまう。
 国王としての形ばかりの賛辞の中に肉親として紛れもなく己が娘の活躍と無事を喜ぶ父の感情を聞き取り、レアドランの唇は笑みを形作ったのであった。

「王家に仇なさんとした逆賊共を討ったそなたの手腕と臣下の活躍はまこと見事。しかしながら」

 と間を置くジュド国王に、居並ぶ王宮の重臣達の顔色が二色に分かれる。
仔細に見なければわからぬ変化であるが、ジュド国王が続けて言う言葉を歓迎する者と歓迎せざる者とで顔色は分かれていた。

「この度の様な事態が起きるまで賊を放置してしまった事は、看過できぬ失態である。なにかそなたの方から申し開きはあるが?」

「いいえ。陛下のお言葉の通りこの度の事態を招き、陛下の御心を乱してしまったのは私の不徳の致す所。如何なる処罰も受ける所存にございます」

 あくまでも罰を甘受するという姿勢を崩さぬレアドランに、ジュド国王の眉間に薄い皺がより、隣の席に座すローザ王妃はいたたまれぬ気持ちになって顔を伏せる。
この王妃は自分が腹を痛めて産んだ子ではないレアドランの事も、我が子のように愛していた。
そして、レアドランにジュド国王から今回の事態に対する裁定が下された。
それから数刻後謁見の間を辞したレアドランは、自分にあてがわれた離宮へと戻り、ジャジュカ、シオニス、アスティアをはじめ主だった臣下を集めて、先ほど下されたばかりの裁定を伝えた。

「れ、レアドラン様をエルジュネア領主の地位から解任し、レンキ地方の開拓を命ずる、ですと!?」

「ええ」

 レアドランはにっこりとほほ笑んで声を震わせるシオニスに答えた。レンキ地方と言うのはイルネージュ王国北東部から広がる未開拓地域である。
 数多の恐獣が跋扈し異種族と異民族が住んでおり、これまでイルネージュをはじめとした近隣諸国が幾度となく開拓と侵攻をもくろんだが、あえなく失敗に終わった場所だ。
 イルネージュも四十年前に大規模な開拓を行ったが失敗に終わっており、それ以降誰もレンキ地方に目を向ける事をしていない。
 怒りにまかせてアスティアやシオニスが椅子を蹴倒して立ち上がりそうになった所で、実に嬉しそうなレアドランの声が二人の行動を遮った。

「エルジュネアの統治は以前より代官として治めていたルヴェインに任せます。彼なら恙無く治めてくれるでしょう。
これでかねてから計画していたレンキ地方進出が公然と行えます。国が認めた上ですからね。国から色々とふんだくりましょう。ふむ」

「はっ? 姫様、ではその、レンキ地方へは以前から向かうつもりであったと言われるのですか?」

 今一つレアドランの言っている事が理解できないと、皆の心の声をジャジュカが代弁した。

「はい。エルジュネアでの積極的な恐獣討伐は、レンキ地方で頻繁に出没する恐獣への予行演習としての意味合いもありましたし、物資の補充も難しいですから現地で調達できる物で武具を用立てる様にと、恐獣の素材で武具を作らせたり食糧に加工したりする練習にもなりました。
 それに交通網を東西に敷いたのも、レンキ地方に最も近い王国最東部からの補給が容易に行えるようにするための意味がありました。
 竜騎士の数を揃えたのもの飛竜を用いた空からの物資の輸送を行えるようにするためでしたし、未開の地では空を飛ぶ者がいれば地図の作成や偵察など色々と役に立ちますから」

 本来最も憤慨し怒りに体を震わせるべきレアドランが、本願が叶ったとばかり喜んでいるものだから、誰も怒るに怒れずにいた。

「あ、もちろん行きたくない者を無理に連れて行くつもりはありません。私と共に行ってもよいと言ってくれる者達だけを連れて行きます。
 レンキ地方に向かうにあたって一年の準備期間を頂けましたから、色々と準備で忙しくなりますね。
 ロードレック商会にも色々と用立てて貰わないといけません。実にやりがいのある仕事です。ふむん!」

「そう、ですか。姫様が喜ばれるのであればなによりですが、しかし姫様を辺境に派遣と言うのはかなり無理のあるご裁定では?」

「ふむ、シオニスの疑問ももっともですが、これはおじい様と私を排除したい重臣達の働きによるものでしょう。
あ、ここだけの話なので、口外は無しですよ? なによりアシュレイ兄様の口添えによるものです。まず間違いはないでしょうね」

「アシュレイ殿下のでございますか?」

 意外な名前が出て来た事にアスティアが驚きの声を上げて、レアドランを除く他の者達も一斉に同じ驚きを共有した。国王一家は臣下の目から見ても仲睦まじく見えたからだ。
 特にアシュレイ第一王子はその清廉潔白で温和な性格から、誰しもが次期国王として相応しいと一目置いている。
とてもではないが腹違いとは言え妹を辺境に追いやる様な人物とは思えない。

「ええ、アシュレイ兄様は幼少のみぎりよりなんでも出来る方でした。いえ、出来過ぎてしまうと言うべきですか。
武術も勉学もなにもかも、さして努力せずとも結果の出せてしまう、いわば天才です。
 それも不幸な事にありきたりな平凡な天才ではなく、より一層孤独な非凡な天才なのです。
それゆえにこの世のありとあらゆる事に達成感も満足感も得られず、小さい頃から随分と退屈そうにしておられました。
 ですがそんなアシュレイ兄様でも思う通りに行かない存在が、唯一ありました。つまり私です。
自分が全力を尽くしてじゃれついてもそれを平気な顔で解決する私は、アシュレイ兄様にとってかけがえのないこの世で最高のおもちゃなのです。
 この度の仕儀もこれまで誰も成しえなかったレンキ地方への入植を私に命じ、どう対処するか楽しみにしているのでしょう。それと賊の一件に対するお詫びもあるでしょうね。
 あれはアシュレイ兄様らしからぬ手です。
アシュレイ兄様は退屈に膿んではいましたが、お優しいのも生来の御気性ですから、無辜の民を巻きこむようなちょっかいを出してきた事はありませんでした。
 今回の事はおじい様をはじめ私を排除したい重臣達の一存によるもので、アシュレイ兄様は反対の立場をとられたでしょうしね。
そこで私に辺境行きと裁定が下る様に妥協案を出したのでしょう」

「そこまで分かっていながら、姫様はなにも行動を起こされないのですか?」

「ええ、アスティア。私の立場からではどうにかできる事ではありませんし、第一証拠がありません。
おじい様はまあともかく、アシュレイ兄様に関しては妹として兄の退屈を紛らわせる遊びに付き合ってあげようではありませんか。
 アシュレイ兄様が一国の王として相応しい以上の才覚と器を持っていらっしゃるのは紛れもない事実ですし、きちんと限度もわきまえていますよ。
もちろん度が過ぎればおじい様であろうとアシュレイ兄様であろうとお仕置きしますけれどね。
 とにかく今回のレンキ地方の開拓の命は私の意に沿うものです。ですから皆が怒る事はありません。
エルジュネアの民達には申し訳なく思いますが、いまのルヴェインならば私よりも良く統治してくれるはずです」

 一年後が本当に楽しみですね、ふむ! と満面の笑みで言うレアドランに、誰も何も言う事は出来なかった。
 これより一年後、ジュド国王の下した命令通りレアドランは手勢を率いて未開の地レンキ地方へと向かい、辺境王女の二つ名で呼ばれることとなる。
 それまで大人しく檻に入っていた竜を自由な大地へと解き放つ愚を犯した事に、先王イプシロンをはじめレアドラン排除をもくろむ重臣の一派が気付くのに、時間はそう必要はなかった。
 レンキ地方へ向かうレアドランの横顔はこの上なく楽しそうであったと、開拓団の行軍を見た民達は口々に語り継いだという。



<終>

 というわけで姫生はここまでです。かなり駆け足の展開となってしまい、色々と省く事となってしまいましたがご愛読ありがとうございました。
 あまりTS要素が活かせなかった事が残念です。
 一年限りで上級貴族や王族の通う学院に放り込まれて、卒業するころにはお姉さまと先輩後輩教師から呼ばれるレアドラン学院編やら辺境開拓記やら考えていましたが、いつか機会に恵まれればと思います。
 なおいくつかご質問に回答いたします。

1. 姫生世界は人生世界とは別世界です。マイラスティら最高神が作ったオリジナルの内の一つが人生世界。姫生世界はそれをケーファーと言う中堅どころの神様が真似たデッドコピーです。

2. モチーフはソードワールドとスペクトラルフォースシリーズとファイアーエムブレムの世界を足して三で割って、私の好みを反映させたものです。

5/13 22:56 投稿
5/14 23:12 修正 科蚊化さま、aioさま、ありがとうございました。
5/16 23:13 加筆


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