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[33088] 【完結】アインクラッドにぬくもりを【SAO・女オリ主】
Name: ゆうきゆう◆20c5fc97 ID:ae8e07cd
Date: 2014/02/28 21:16
「ソードアート・オンライン」二次創作です。
以下の要素を含みますので、苦手な方はご注意ください。

・オリジナルの主人公、キャラクター、設定、解釈。
・切った張ったの戦闘描写なんてものはありません。
・基本的に文庫版準拠。

SAO原作を知らずとも読めるよう心がけてはいますが、一応VRMMORPG物に関する知識と理解が多少はあったほうが読みやすいかと思います。


※2014/2/28:最終話&エピローグ投稿にて完結。「目標は年内」とは何だったのか……

※9/29:第6話投稿。次でラストの予定です。目標は年内。

※2013/6/7:閑話投稿。第1話~第5話を微修正(段落や文章を少し整理しました。話自体に変更はありません)

※8/29追記:第5話一部加筆修正。

※8/28追記:第5話投稿。

※6/30追記:第4話投稿。

※5/19追記:第3話投稿と同時にチラシの裏板からその他板へ移行しました。
      
※5/15追記:更新速度は遅いながらもなんとか続けられそうなので、第3話もしくは第4話から、その他板に移行しようかと思います。



[33088] プロローグ
Name: ゆうきゆう◆20c5fc97 ID:ae8e07cd
Date: 2012/05/19 00:08
 ソードアート・オンライン。

 後に“伝説”と評されることとなるゲームのタイトルであるとともに、多数の犠牲者を出すこととなった一連の事件の名称でもある。
 仮想世界での死が、現実世界での死に直結するという前代未聞の仕様が、ゲームの内外を震撼させて早一年。
 虜囚の身となった仮想世界の住人達はその数をゆっくりと減らしながらも、それぞれの日常を「日常」と意識できる程度には、この世界へと慣らされていきつつあった。





アインクラッドにぬくもりを・プロローグ





 様々なモンスターが跋扈し、それに剣一本で立ち向かう勇者たちが放つ華やかな空気を反映した大通りとは対照的な、カビ臭い空気を纏った小路地にその店はあった。
 ただでさえ人通りの少ない路地にも関わらず、そこを歩く人の干渉を拒むかのような暗く狭い階段の入口脇に申し訳なさ程度に置かれた小さな看板と、階段を下りた先で待ち受ける、これまた外界との関わりを拒むかのような鉄製の大きな扉は、本当に客商売なのかと疑ってしまいたくなるような店構えである。

 そんなマイナスにしか思えないような外観に負けじと入店したお客を待ち受けるのは、またまた客商売とは何たるかということを、当のお客が考えさせられてしまう程に無愛想な店主。
 古き良きRPGの伝統をそのまま受け継いだかのごとく必要外の言葉をほとんど発さないNPC店主の姿は、モニター越しにキャラクターを操っていた頃と異なり、自分自身がキャラクターとして直に応対するVRゲームにおいては、さぞかし不気味に映ることだろう。

 およそ繁盛しそうな要素が見つからない店なのだが、しかし実のところ常連とも呼べるお客達に支えられ、なんとか潰れずに営業を続けている。
 NPCが経営する店に“潰れる”という概念が存在するのかどうかはさておき、商売などからっきしの素人の目から見ても、少なくとも潰れることはないであろう程度の客入りであることは窺えるのだが、その理由は大きく二つ存在する。

一つ、この店がアインクラッドでは珍しいお酒をメインに扱うバーであること。

一つ、アインクラッドではここでしか味わえないピアノの生演奏を聴けること。

 この話は無愛想なNPCマスターの経営する“Bar Andante”に集うお客達と、実質的にお店の専属ピアニストの座に就いてしまった私こと、プレイヤーネーム「シア」の騒がしくもなければ賑やかでもない、そんな日常のお話である。



[33088] 第1話「上を向いて歩こう」前編
Name: ゆうきゆう◆20c5fc97 ID:ae8e07cd
Date: 2013/06/06 23:49
 前代未聞のゲーム仕様により、一万人ものプレイヤーを虜囚の身とした、世界初のVRMMORPG“ソードアート・オンライン”と、その舞台となった“浮遊城アインクラッド”。
 100もの階層からなるその城内を、最下層となる第1層を出発点とし、各層に設置された“迷宮”を制覇しながら昇り詰めていく。
 ただし迷宮内はもちろん、街の外にも大量のモンスターが跋扈しており、これらを打ち倒すだけの強さが必要となる。
 ここで言う強さとは昔ながらのRPGとなんら変わることはなく、モンスターとの戦闘を繰り返すことによって蓄積していく経験値を基準とした“レベル”であったり、このゲーム内においては“スキル”と呼ばれる、いわゆる必殺技のようなものによって規定されている。
 こういったシステマチックな仕様は、ともすれば忘れそうになる「ここがゲーム内の仮想世界である」という意識を、その折々に思い出させてくれるのであった。
 
 そんな誰もが剣を手にモンスターを打倒し勇者となることができる“ソードアート・オンライン”であったが、ゲーム内に閉じ込められたプレイヤーに与えられた二つの試練が、その華々しい物語に濃く、深い影を落としていた。

 モンスターとの戦闘、およびその他の要因によりゲーム内での“死”を迎えてしまったプレイヤーには、現実世界においても同様の“死のペナルティ”が与えられる――らしい。

 見事第100層を制覇したあかつきには、プレイヤー全員が晴れて虜囚の身から解放され、仮想世界から現実世界への帰還が可能となる――らしい。

 らしい、らしい、と曖昧な表現になってしまうのは、これらの死のペナルティや解放云々といった話は全て、“ソードアート・オンライン”の産みの親であり、かつ我々がゲーム内の仮想世界に閉じ込められる元凶ともなった男のアナウンスによるものでしかなく、それを確かめる術は今のところ実際に第100層までを制覇してみる以外にないためだ。
 しかしながらゲーム開始から一年と少々が経った現在、攻略された階層の数は未だに50に届くか届かないかといったところであり、プレイヤーの解放に関する話の真偽が知れるのはまだまだ先のこととなりそうであった。





アインクラッドにぬくもりを 第1話「上を向いて歩こう」前編





 私がその店を発見したのは、自身やその他プレイヤーの解放を願い、剣を手に各層の迷宮に挑み続ける、いわゆる“攻略組”の面々がそろそろゲームの折り返しとなる第50層を制覇するのではないかと小耳にはさんだころだった。
 ゲーム内に囚われて一年と少々も経ったこの頃、はじめは我が身の不幸を嘆き半ば恐慌状態に陥っていた人々も、この仮想世界における各々の生活を持ち始め、“日常”と呼べなくもないものを満喫し始めていた。

 「ゲーム内における死=現実世界の死」という恐怖はあったものの、それはあくまでモンスターとの戦闘や、一般的に“オレンジ”と呼称される犯罪行為に走ったプレイヤーによってもたらされるものであり、一部の例外を除きそれらは街の外でのみ発生するものであった。
 ゲームのシステム上、街の内部と規定される範囲においてプレイヤーは傷を負うことも、病気を患うこともなく、そのことが彼らから死に対する恐怖を和らげていった。

 人とは現金なもので、自らの身の安全がある程度保証されたものであると分かるや否や、人として最低限満たされた生活を求め始めた。
 衣食住に対する欲求は現実世界であろうと仮想世界であろうと不変であるらしい。
 とりわけ仮想世界における自分のホームと、仮想世界であるにも関わらずご丁寧に再現された空腹感により、住居と食事に関してはほとんど全てのプレイヤーが頭を悩ませることとなった。
 そしてその結果、やはり現実世界であろうと仮想世界であろうと、人並みの生活を送るにはお金が必要であるとの結論に落ち着くことになる。

 もちろんここが仮想世界である以上、いくら空腹を我慢しようと餓死することはなく、また路上で寝たところで風邪をひいたりするわけではないのだが、いつ解放されるとも知れない中そのような修行僧じみた生活を選択する剛毅な者など居らず、なけなしの勇気をはたいて低層の比較的害の少ないモンスターを狩ることによってお金を得る者が大半であった。
 しかし、いくら害が少ないといえどモンスターはモンスター。
 少なからず死の危険が存在する街の外へ出ることもあり、「まさか」や「万が一」の事態を危惧した人々は群れることを選んだ。
 それがこの仮想世界における“ギルド”の興りであり、人々は身の安全と共に、この過酷なゲームを共に生き残るための仲間を得たのだった。

 一方、そんな低層のモンスターに挑む勇気さえ持つことのできない、死への恐怖に完全に心を縛られた人々にとって取れる選択肢は限られていた。
 中にはNPCの経営する店舗におけるアルバイトによって日銭を稼ぐ者もいたが、これらのアルバイトなどの働き口は当然ながら数に限りがある。
 職にあぶれたかたちとなった人々が浮浪者のような生活を送る光景も、ゲームが開始されてしばらく後、第1層主街区“はじまりの街”において散見されるようになった。

 必然的に“はじまりの街”はスラム街の様相を呈することとなる。
 また若干の揶揄の意を込め“軍”とも呼ばれるようになる最大手ギルドが実質的に街を支配、管理する立場となったこともあいまって、人並みの生活を求める者達は上の階層へと拠点を移していくこととなった。
 上の階層へ移った人々を待ち構えていたのは、今まで暮らしていた下の階層よりも洗練された街並みと、洗練された居住区と、そして洗練された料理の数々。
 階層毎の特色があるため、単純に直近の上下の階層で優劣をつけることはできないが、しかし日々の生活における選択肢が増えるという事実に間違いはない。
 かくして上の階層を訪れることが自身の生活の質の向上に繋がることに気付いた人々は、こぞって上へ上へと意識を向け始めるのであった。



 現在、私ことプレイヤーネーム「シア」が拠点としている浮遊城アインクラッド第23層主街区も、そんな上へ上へと目指した人々がかつて開拓していった街であった。
 もともとこの第23層主街区は、一つ下の層があまりにも“なにもない”街並みであったこともあいまって、開放されると間もなくプレイヤー達は競うように生活の拠点をこの階層へと移した。
 その盛況振りは、かつてまだ我々がゲーム内の虜囚の身となる前の第1層主街区“はじまりの街”の賑わいを彷彿とさせるものであり、ゲームクリア、すなわち自身の解放となる第100層制覇へ向けて、まだまだ半分どころか1/4も到達していないという事実を、一時ではあるが忘れさせてくれる程のものであった。
 しかし人の欲は尽きないもので、50層制覇を目前に控えた現在、未だにこの第23層主街区を拠点としているプレイヤーは当時とは比べ物にならないほどにその数を減らしていた。

 かくいう私自身ご多分に漏れず、自分のレベルに応じて無理のない程度の狩りを行いつつも、さらなる生活の質の向上を目指して生活の拠点を上へ上へと移していく日々を送っていたこともあって、この街を拠点とし始めたのはつい最近のことである。
 この頃になると、プレイヤー達も各々好みの街を見つけそこに腰を据えることも珍しくなくなってきていた。
 私もそんな世間の動向に流されるかのように、一年あまりの狩猟生活における貯金でもってマイホームの購入を検討しつつ、以前拠点としていた下の階層を巡りながら手頃な価格の物件を探し歩いていた。



 そんなある日見つけたその店の看板は、第23層主街区のメインストリートから一本筋に入っただけとは思えないほどに、カビ臭い空気を漂わす小路地の道路脇の建物に立てかけられていた。
 初めは看板とも思えなかった。
 プレイヤーの捨てたゴミか何かだろう、そう思いそのまま歩を進めようとした私であったが、ふと違和感を覚え足を止めた。
 
――本当にゴミなのだろうか。

 このゲームのシステム上、プレイヤーの捨てたゴミは一定時間の後に自動的に消滅することになっている。
 掃除をする必要がないという点において、常日頃からお世話になっているシステムではあるのだが、そのことが「あの板きれはゴミである」と下した私の判断に待ったをかけることとなった。
 見たところ周りに人通りはない。なれば付近にこのゴミと思しき板きれを捨てた人がおらず、また消滅もしていない以上、この板きれは単なるゴミではなく意図的にこの場に置かれたものなのだと推測できる。
 そう結論付けた私はその正体を確認するため板きれに近づき、かくしてそれが看板なのだと気付かされた。

 あちらこちらに傷が入り、見るからに丁寧に扱われてないことが分かるその看板は、まるで看板としての役目を放棄しているかのような出で立ちであったが、中央に書かれた“Bar Andante”の色あせた文字だけが、かろうじてそのありかたを示していた。
 “Bar”と書かれた看板が置いてある以上、この付近にお酒を飲ませてくれる店があるはずである。
夕食にちょうどいい時間帯であったこともあり、その店の存在を探そうと視線を上げた私の目の前には暗く深い闇が広がっていた。
 思わず情けない短い悲鳴とともに数歩後ずさってしまったが、数瞬の後にその正体に気付く。
 なんのことはない、ただの階段である。“Bar Andante”の看板の脇には地下へと続く階段が存在していた。看板に気を取られるあまり、その存在に気付いていなかったのだ。

 “Bar”と書かれた看板の脇から地下へと続く階段。 一般的に考えれば、この階段を下りた先に店の入り口があるのだろう。 そう考え一歩踏み出そうとした私は、しかし思わず二の足を踏んでしまう。
 そろそろ夜と呼べる時間帯であることも手伝って、その入り口を覆う闇が容易には近付き難い程の威圧感を放っていたためだ。
 一度入ったが最後二度と地上へと戻れなくなりそうな、そんな錯覚に陥ってしまいそうになるそれは、人の進入を拒むかのように外側からの視界を完全に遮断していた。
 そうして私は、ホラー大国日本で生まれ育った人間らしく、目を離した瞬間にその闇に閉ざされた空間から何かが飛び出してくるのではないかと、しばらくの間階段の入り口とにらめっこをする羽目になってしまうのであった。


 そんな、はたから見ればさぞ滑稽であったであろう一人にらめっこは、やはり私の敗北によって終わりをつげることとなる。
 入り口から続く闇の奥が唐突に光ったのだ。
 驚きのあまり今度こそ本気の悲鳴を上げそうになった私は、なんとかそれを押し殺しつつ光の方を注視する。
 光、というよりもランプの灯りに近いそれを辿って階段の奥へ視線を向けると、そこには遠目にも分かる程重そうな鉄製の扉が鎮座しており、そのすぐ脇に灯りの基であろうランプが、暗闇の中、扉と階段を照らしていた。

 道路脇に置かれた看板と、そこから地下へと伸びる階段。 そして階段を下りた先に待ち受ける扉。
 それは、やはり現実世界でもよく見かけるバーの店構えであった。



「いらっしゃい」

 見かけ通りの非常に重い扉を開けた私を待ち受けていたのは、そんな言葉の意味とは裏腹に非常に気だるげな男の声だった。
 15人もお客が入れば、このゲーム内の男女比を考えると暑苦しくなることうけあいといった程度の広さの店内。
 その店内左端に設置されたカウンターの内側に声の主はいた。
 白いシャツに黒いベスト、そして首元にはベストと同色の蝶ネクタイ。 多量の整髪料によって押さえつけられているのであろう黒髪のオールバックは、決して多くはない店内の光量の中においても艶を放ち、口元にたくわえられた髭の存在もあいまって彼の男らしさを全面に押し出していた。

 そんな10人いれば10人が「マスター」と呼びかけたくなる出で立ちの彼は、入店時に一声かけた以降私には目もくれず、手に持った布巾で黙々とグラスを磨いている。
 しかしはじめに一瞥をくれた後に、相手の存在を視界からシャットアウトしてしまったのは彼だけではなかった。
 通常ならば恐らくNPCなのであろう彼の、あまりにもバー(もしくは喫茶店)のマスター然とした姿に思わずクスりとしてしまうところだったのであろうが、その時の私もまた彼の他に注意を向けざるを得ない相手がいたのである。

 ピアノだった。
 彼のいる入り口から向かって店内左端とは逆側の、店内右端に鎮座するそれは、まるで新品同様に傷一つないその黒々としたボディに店内の灯りを受けて鈍い光を放ち、何人たりとも触れることを許されないのではないかと思わせる佇まいを見せていた。
 目にした瞬間に私の視線を釘づけにしたその存在に対し、私はこちらに目を向けようともしないマスターにならい、こちらも彼の存在を意識の隅に追いやったまま、まるで吸い寄せられるように向かっていった。
 そのまるで貴婦人のごとく気安く触れることを良しとしない上品な黒塗りのボディは、この仮想世界におけるポリゴンの集合体としての存在であっても、その魅力を欠片も損なうことはなかった。
 恐る恐る手を伸ばし、壊れ物を扱うような手つきでひとしきりボディを撫でた後、意を決して純白の鍵盤へと指を落とす。

 結果として仮想世界で初めて出会ったピアノは、しかし何の音も発することはなかった。
 およそ一年ぶりに聴く生のピアノの澄んだ音色を期待していた私は大きく肩透かしをくらったかたちとなり、その原因を探るべく慌てて自らの手元を注視した。
 種はすぐに割れた。いくら力を込めようとも鍵盤を押し込むことができないのだ。
 数瞬の後にこの不可思議な現象の理由が思い当たった私は、他の鍵盤へと指を伸ばした。
 結果は同じ。
 白と黒の鍵盤は、その全てがもともとそのようなギミックなど仕込まれていない、ただの飾り物のオブジェであるかのようにピクリとも動かず、当然のごとく澄んだ音色を響かせることもなかった。
 この結果をもって先ほどの私の推測は確信へと変わる。
 そう、このピアノは「ただの飾り物のオブジェのような」存在などではない。「オブジェそのもの」なのだ。

 本来現実世界であれば、このような本物そっくりのピアノのオブジェを飲食店に置く意味はない。
 ここまで真に迫ったピアノのオブジェを用意するくらいならば、実物を入手する方が遥かに手間もお金もかからないからだ。
 しかしながら、ここはゲーム内の仮想世界。音が出る設定のなされていないピアノのオブジェがあったとしても、何ら不思議なことではない。
 ただでさえ一般家庭用のそれとしては、オーバースペック気味のクオリティを誇るゲームである。
 詳細を窺い知ることはできないが、そのクオリティを保つためにほとんど必要のない箇所を切り落としていたとしてもおかしくはない。
 そう頭では理解しつつも一縷の望みを託し、この数分の間完璧にその存在を忘れ去ってしまっていた店のマスターを振り返る。
 心なしか無視されていたことに機嫌を損ねているように見えなくもない彼は、あのピアノを弾くことはできないのかと尋ねた私に、非常にシンプルな言葉をくれるのだった。

「注文は」



 その後、あのピアノに関するいかなる質問に対しても「注文は」の一言を繰り返す彼に根負けした私は、お酒を扱う店のマスターである彼に対するささやかな復讐として、酒類を一切注文することなく軽食メニューのサンドイッチと冷水というコンビで夕食を片づけた。
 NPCである彼がピアノに関する質問に答えず、バーのマスターとしてあるべき言葉で返答してきたということは、おそらくあのピアノについての会話はゲーム上必要のないものとして判断され、もとからプログラミングされていないのだろう。
 つまりはあれが本物のピアノではなく、単なるオブジェであることがほとんど確定したようなものだ。

 お手本のようなぬか喜びをしてしまった私は、バーを出てすぐ近所にあった宿屋に部屋を取り、手持ちのワインから一本を寝酒として取り出すと、グラス一杯分を呷りそのままベッドに倒れこんだ。
 現実世界における未成年者も多くプレイするゲームであるが故に、この仮想世界に存在する酒類には全てアルコールなど含まれてはいないのだが、それでもマイホーム探しで一日歩き回った挙句、最後の最後で盛大な肩すかしをくらってしまった私はよほど精神的に疲れていたらしい。
 現実世界において疲れた体にアルコールを流し込んだかのごとく、一瞬で眠りに落ちていったのであった。



 物心ついた頃にはピアノを弾いていた。
 若かりし頃、趣味での音楽活動を通して出会ったという両親の下で生まれ育った私は、当然の流れとして音楽に傾倒していった。
 空き部屋の一つを防音ルームとしていた我が家には、 ピアノ はもちろんのこと、弦楽器や管楽器、果てはドラムセットまで存在し、休日ともなると両親が互いに音楽活動をしていた頃の仲間を呼び寄せ、定期的にセッションとも呼べるようなものが行われていた。
 幼いころからそのような環境に身を置いていた私も様々な楽器に手を出していたのだが、やはり最後に落ち着くのはピアノであった。
 何が決め手となったのかはっきりとはしていないのだが、その自分の指の数を遥かに上回る鍵盤を巧みに弾きこなす姿に憧れたことだけは、幼き日の記憶としておぼろげに残っている。

 両親は私に音楽を強要はしなかった。そのことが結果として私が20歳を過ぎた今となっても音楽に注力し続ける要因となる。
 小学校に上がる頃には、周りの友人に倣い近所のピアノ教室に通いだしていた私であったが、しかし彼らとは決定的に違う部分があった。
 それは自分の意思でピアノを弾いているか否か。
 一緒に教室へ通う友人のほとんどは、幼い時分の嗜みの一つとして通わされている、という程度のものであった。
 その事実に年齢が上がるにつれ皆徐々に音楽から離れていき、小学校も最終学年の突入する頃には同時期に教室へと通い始めた友人は誰一人として残ってはいなかった。
 私は自分よりも少し年上のお兄さん、お姉さんに囲まれながら教室へと通うこととなる。
 そんなピアノ教室における優等生たる私も、実は周りのお兄さん、お姉さんたちとは趣を異にしていた。

 小学校を卒業し、中学へと進学してなお教室に通い続ける彼らのモチベーションは、ある一つの事柄によって保たれていた。
 コンクールである。
 日ごろの練習の成果を発揮する舞台としてのコンクールは彼らにとっての最大の目標であり、そして出場したコンクールで良い成績を残すことがピアノ弾きとしての彼らのプライドでもあった。
 コンクールでの良い成績を引っ提げて音楽系の学校へと進学することを、十数年のまだまだ短い人生においての一つの集大成としている彼らにとって、ただの一度のコンクールの出場もなく単に楽しくピアノを学びたいだけであった私は、非常に目障りな存在だったことだろう。
 なまじっかそんな彼らよりも私の方が良い演奏を続けていたこともあいまって、教室内の空気も次第にギスギスしたものへと変わっていった。
 直接何か嫌がらせじみたことをされたわけではなかったが、日に日に悪くなっていく雰囲気に嫌気がさした私は、中学進学を理由に六年通ったピアノ教室を辞めることを決めた。
 そしてこの時、教室を辞める決断をしたこととその建前ではない本当の理由が、私の人生における音楽に対する姿勢を完璧に固めることとなった。

 その後のことについて、語るべきことはさほど多くない。
 自分が楽しむためだけのピアノを選択した私は、中学、高校と進学する中でどこかの教室や部活等に所属することもなく、大学へ進学した後にこのゲーム内に囚われることになるまで、両親以外の誰の前でもピアノを弾くことはなかった。



 ゲーム内の虜囚の身となった当初、この仮想世界における自分の生き方を模索するので手一杯であり、それ以外の余暇の過ごし方など考える余裕はなかった。
 しかしやがて身の振りかたを覚え、他のプレイヤー同様に人としての最低限満たされた生活を求めるようになると、ふとした瞬間に机の上などで運指を行うようになっていた。
 そんな私にとって、これだけ長い期間ピアノに触らないという経験は初めてで、やはりこの一年間はどこか満たされない生活を送っていたのだろう。
 “Bar Andante”においてその姿を視認した途端、まるで夢遊病にかかったかのようにフラフラと近付いて行ってしまったのだ。
 自分がこれほどまでにピアノを愛していたことに軽い驚きを覚えつつ、なればこそやはりこの仮想世界において初めて出会ったそれが、ただのハリボテであったことに対する落胆は大きかった。
 一度は諦めたはずのピアノの演奏であったが、一夜明け再びマイホームを探し歩く私の頭の中では、ことあるごとに昨夜目にしたその姿がフラッシュバックされ、そしてそれに呼応するかのように私の手はその感触を思い出し、今にもその指で頭の中にしまってある楽譜をなぞろうとしていた。
 まるでアルコールに溺れた人間のようだと自分自身に苦笑しつつも、気が付けば今日もまた“Bar Andante”の店へと至るその階段の前に立っていたのであった。



[33088] 第1話「上を向いて歩こう」後編
Name: ゆうきゆう◆20c5fc97 ID:ae8e07cd
Date: 2013/06/06 23:51
 昨日よりも少し早い、まだ昼の明るさを残す時間帯ではあったが、地下の店へと伸びる階段はあいもかわらず暗闇を纏い、人からの干渉を避けるかのようであった。

 再びここへ舞い戻って来てしまったはいいが、自分はいったい何をしに来たというのだろうか。昨夜答えは出たではないか。あれはピアノの形をした飾りであってピアノではない。
 いやしかし、この仮想世界内にピアノという概念が存在するのであれば、どこかに実際に音の出るものもあるかもしれない。ひょっとすればマスターが何か知っているかもしれないではないか。
 仮に彼が何かしらの情報を持っていたとして、ではなぜ教えてくれなかったのか。ピアノに関する話題は、昨晩散々投げ掛けたのだ。その際に教えてくれてもよさそうなものではないか。

 階段前に立ち尽くし、そんな甘い期待とそれを打ち砕かんとする自問自答を悶々と続けていた私の耳に例の分厚く重い鉄扉が軋む音が聞こてきたのは、そろそろ昼の明るさが過ぎ去ろうとする頃であった。
 思考の底に沈んでいた意識を急浮上させ、階段の暗闇の奥に視線を凝らした私の目には、昨晩訪れた時と変わることのない出で立ちのマスターの姿があった。
 直前まで彼のことを考えていた私が、とっさのことにかける言葉を失っているうちに、彼はその手に持った例の一目には分かり辛い看板を所定の位置に設置すると、私には一瞥もくれることもなく再び階段へと足をかけようとしている。
 その様子を見た途端、私は思わず彼に制止の言葉を投げ掛けていた。

 怪訝な顔で振り向く彼に対し、私は先ほどの自問自答が頭の中から綺麗さっぱり抜け落ちてしまったかのごとく、馬鹿みたいに昨晩と同じ問いを繰り返していた。
 すなわち、あのピアノを弾くことはできないのか、と。
 言葉を発した後に、これではまるで欲しいおもちゃを前に駄々をこねる子供ではないかと、羞恥から俯き頬を朱く染めた私が、思わず数瞬前の問いを取り消す旨の発言をしようかと顔を上げた時である。
 一昔前のRPGよろしく、これまで必要外の言葉を一切発することのなかったこのNPCマスターが、初めて予想の範囲外の言葉を発したのだった。





アインクラッドにぬくもりを 第1話「上を向いて歩こう」後編





「ついてこい」

 そう言い残すと、彼は自分にかけられた予想外の言葉にしばしその意味を反芻していた私を残し、さっさと階段を下りて店の中に姿を消した。
 重い鉄扉が完全に閉じるのと同時に、やっと先ほどの彼の言葉を飲み込んだ私は、しばし逡巡した後に階段へと足をかけた。

 扉を開けた私を待っていたのは、昨晩出会ったときと変わることなく美しい佇まいを見せるピアノのオブジェと、そしてその傍らに立つマスターの姿であった。
 ピアノに関する問いに対し、初めてまともな反応らしきものを見せてくれた彼であったが、その理由と意図が分からない。
 そして先ほどの言葉の意図を問いただそうと口を開きかけていた私の機先を制するかのように、彼は私をさらに混乱の中へと叩き落す発言をする。

「このピアノを弾いてみろ」

 額面通りに捉えるのであれば、先の言葉と併せて私にピアノを弾かせるために店の中へと呼び寄せたのだろう。
 しかしながら、そのピアノはハリボテのはず。
 音が出ないどころか鍵盤を押し込むことすら出来ないのは、昨晩私自身が身をもって確認している。
 そんな戸惑いをもって彼と傍らのピアノに視線をいったりきたりさせるも、彼は自分の言うべきことは終えたと言わんばかりに、その立ち位置を本来の店内左端のカウンター内へと移す。
 ますます彼の意図が掴めなくなってきた私であったが、この場で何かを問うたところで、どうせ答えは返って来るまい。
 ならば騙されたと思って、彼の言葉通りに鍵盤に触れてみるのも良いだろう。そもそも再びこの店を訪ねてきたのも、少なからずこういった展開を期待していたからではないのか。
 そう結論付けるとピアノに向けて歩を進める。

 結果として昨晩と同じく鍵盤に落とした指は、しかし昨晩とは違う感触を私に伝えていた。
 鍵盤を押し込む際の反発による重さが、心の何処かに僅かに残っていた期待を刺激する。
 祈るような気持ちで鍵盤を押し込んだ私の耳に、待望の澄んだピアノの音色が飛び込んできたのだった。


 その後のことはあまりよく覚えていない。
 久々にピアノを弾くことができる。
 そう理解した私は、やはり昨晩同様店のカウンター内に立つマスターの存在をすっかり忘れて、一心不乱に自らの指を88の鍵盤に叩きつけた。
 この時の自分の演奏を客観的に聴いていれば、それは酷い演奏だったであろう。
 曲の緩急や強弱など一切を考慮せず、ひたすらに“Allegro”を突き通した演奏は情緒もへったくれもなかったことうけあいだが、しかし私はこの時たしかにこれまでの人生で一番ピアノを楽しんでいたのだった。



「もっと静かに弾けんのか。それでは客が逃げてしまうぞ」

 およそ10年ぶりとなる家族以外の人前での演奏を止めたのは、やはりマスターの声だった。
 思わず手を止めた私は、彼のその言葉に違和感を覚える。
 客、とは何のことだろうか。むしろ私がその客ではないのか。
 再び思考の渦に沈んでいきそうになる私を引き戻すかのように、視界の端にシステムメニューが立ち上がる。

 自分のステータス確認の他、所持アイテムの管理や果ては登録されている友人への連絡までを行うことが可能である、まるで現実世界における携帯端末やカバン等々の身の回り品を纏めてデータとして管理しているかのようなそれは、ゲームにおける非常に便利なシステムにして、ここが仮想世界の中なのだということを否応にもプレイヤーに認識させるものなのだが、しかし基本的にプレイヤー自身が望んだ時以外は視界に写ることはない。
 プレイヤーが意図することもなくそれが視界へと反映されるのは、登録されている友人からの連絡を受けた時。
 “クエスト”と呼ばれる主にモンスターの討伐や、特定のアイテムの入手などのNPCからの依頼を完遂した時。
 そして――

 唐突に視界に写ったシステムメニューの意図を探るため、それに意識を向けようとした私の耳に飛び込んできたのは、

「ピアノ弾きのアルバイトを受注しました」

 アルバイトの受注完了を告げるシステムアナウンスだった。
 その声を聞くや否や、私は再びマスターへと意識を向けると、彼は私が自分に視線を合わせるのを待っていたかのように短い言葉を告げた。

「明日夜七時だ。遅れるなよ」



 その後、開店準備をするというマスターに追い出された私は、どこか落ち着ける場所を探すのももどかしく、店を出るとまもなく慌ててシステムメニューの確認を行った。
 アルバイトの項目には、新着情報があったことを示す光が点滅しており、先ほどのアナウンスが念願のピアノを弾くことによって浮かれていた私の空耳ではなかったことを伝えていた。
 思うにあの店のピアノは、特定の条件を満たさない限りは弾くことができないものであったのだろう。
 その特定の条件とやらがいまいちはっきりとはしないが、このアルバイトに携わることと関連があるのは間違いがないと思われる。
 この仮想世界に囚われてから初めて、実時間においておよそ一年ぶりにピアノを弾くことができたことに、そして少なくとも明日もう一度弾くことできることに喜びを噛み締めながら、項目内に書かれた仕事の詳細を読んだ私は、アルバイトが今日ではなく明日の夜であったことに心底安堵するとともに、明日の日中の行動予定を頭の中で組み立てていくのであった。



 マスターが最後に告げた端的すぎるその言葉は、しかし仕事の内容を表す情報としては過不足のないものだった。
 その証明にシステムメニューにおける説明も「日時:○月○日夜七時。仕事内容:“Bar Andante”を訪れピアノの演奏を行う」と、実に素っ気のないものである。
 ただし注意事項を除けば、だが。
 説明の最後に書かれた「※このアルバイトは正装で行うこと」の文字を目にした私は、いくつか記憶にあるプレイヤーの経営する衣料品店を思い出して、思わず引き攣った笑いを浮かべてしまうのだった。



 プレイヤーの経営する店には、大別すると二つの種類が存在する。
 一つは、モンスターを狩ることによって得られるアイテムを主な商品とする店舗。
 店主自らの狩りによって得たアイテムを販売する場合もあるが、基本的には他のプレイヤーからの買取品を扱う。

 そしてもう一つは、プレイヤー自身によるハンドメイドを商品とする店舗。
 彼らは剣術のスキルと並んで、このゲームの魅力の一つである“鍛治”や“料理”など、一般的に“生産系”と呼ばれるスキルを鍛えた、いわば職人とも言うべきプレイヤーであり、彼らが経営する店舗も武器屋、防具屋、レストランなどそれぞれのスキルに応じた展開を見せ、その種類は多岐にわたる。

 そんな数ある生産系スキルの中でも“裁縫”を鍛えたプレイヤーによる衣料品店は防具だけでなくいわゆる“お洋服”を扱っていることも多く、一部の高レベルプレイヤーの作り出す衣装はアインクラッドにおけるブランド品として、女性プレイヤー達の憧れとなっている。
 このような状況においてもお洒落に情熱を燃やす女子達には頭の下がる思いだが、一応は女子の端くれである私にも懇意にさせてもらっている衣料品店がいくつか存在する。

 しかしそれらの店舗のラインナップで正装と呼べるようなものを扱っていた覚えはない。
 正式に依頼をすれば製作してもらえるかもしれないが、いかんせん今回は時間が足りない。
 かくして私はアルバイトを夜に控えた日中、街中を駆けずり回ることになる。
 いくつかの階層を行き来し、ひたすらに衣料品店をはしごした私が最後に辿り着いたのは、結局のところ仕事場である“Bar Andante”からさほど離れていない、衣料品を多く扱うNPCの雑貨屋であった。



 そろそろ陽も傾きつつある中、“Bar Andante”の近辺まで戻ってきた私の視界に入ったのは、“衣料品”を扱う店舗であることを示す印。
 アルバイトまでのタイムリミットが迫っていることもあり、一縷の望みを託しつつその雑貨屋の店頭ディスプレイに期待の目を向けた私は、しかし一瞬にして肩を落とすことになった。
 そこに飾られていたのは、いかにも中世ヨーロッパの農家の女性が着用していそうな牧歌的な衣装。
 NPCの経営する店舗ではプレイヤーが経営するそれとは違い、このようないわゆる仕事着といった感じの衣装を販売していることが多い。
 しかし実際にこの手の衣装を着用している人の姿をNPC以外に目にしたことはなく、これまたNPC経営の店舗における収支の妙を思うに至るところではある。

 そんな益体も無いことを考えながら一応は中も覗いておこうと店に入った私は、果たしてその判断に救われることとなる。
 仕事着の類を主として、その他小物などの雑貨がところ狭しと並ぶ店内の一番奥。そこだけ周りに何も商品が置かれずぽかりと空いたスペースの真中に、その青いドレスはあった。
 円筒形の透明なケースの中でトルソーに着付け飾られているそれは、他の吊るし売りの衣料品とは明らかに別格の扱いをなされていた。
 大胆に肩を出す派手な作りでありながらも、余計なフリルやレースが一切使用されていない非常にシンプルかつシックなデザインのそれは、端的に言って私の好みだった。
 目にした直後に購入を決意した私であったが、すぐに自身の心を揺さぶったこのドレスが、展示の仕方のみならず、その値段においても他の商品とは別格の扱いであることを知ることになる。
 0の数を一つ間違っているのではないかと思わず疑ってしまいたくなるその金額に、実際に二度見、三度見をして確認を行った結果、私は当初予定していたマイホーム購入の夢が遥か遠ざかっていくのを悟るのであった。



 三日連続で訪れることとなった“Bar Andante”店内には、少ないながらも初めて自分以外の客の姿が確認できた。
 流石に先ほど購入したばかりのドレスを着用したまま店までの道のりを歩く度胸はなく、私はマスターから宛がわれた店内と扉一つ隔てた空き部屋で着替えを行いながら、自分の愚かさを噛み締めていた。
 このアルバイトの報酬がどの程度のものになるのかはシステムメニューでも確認ができなかったため、実際に今日の仕事を終えるまで分からないのだが、いくらなんでもこのドレスよりも高額であるということはありえないだろう。
 タダ働きどころか大赤字もいいところだ。
 いくらピアノの魔力に抗えなかったとはいえ、いざ我に返ると自分を罵る言葉ばかりが浮かんでくる。
 これはもう、今日のピアノを思いきり楽しむことと、願わくば今後も定期的にこのアルバイトを行えるように祈るしかない。
 そう考えを締めくくった私は、これ以上の思考を放棄することにした。



 見るからに普段着ではない、青いドレスに身を包んだ私が店内に足を踏み入れた途端、店内にいた決して数は多くはない客たちの、その全てが一斉にこちらに視線を向け思わず身をすくめてしまう。
 よくよく考えると昨日の、今にして思えばオーディションのようなものであったのであろうマスターの前での演奏を除くと、現実世界においてピアノ教室を辞めて以来、両親以外の人前で演奏するのは初めてである。
 ましてやこのような改まった場で「他人に聴かせるために演奏する」など、生まれて初めての経験だ。今更になってその事実に対する不安が募る。
 さらに今現在私に視線を向ける客たちの顔に浮かぶ、疑問五割、空いた胸元に対する下心一割といった表情が生まれたばかりの不安を助長するも、しかし残り四割の「これから何かが起きるのではないか」という期待感が私のなけなしの勇気に火を灯す。
 駄目押しとして、あの無愛想なマスターがピアノの前で椅子を引いて待っていてくれている姿を目にした私はついに一歩を踏み出した。

 ピアノまでのごく短い道のりを歩きながら、私の演奏家デビューとしての記念すべき一曲について考える。
 せっかく初めて他人のために演奏するのだ。誰もが知っていて、それでいてこんな過酷な世界に放り込まれた我々が皆、共感できる曲がいい。
 とある曲が思い浮かぶ。
 そうだ。無事生き残るためには上を目指すしかない私たちの状況に、これほどまでに則した曲は他にないだろう。
 
 そして演奏を始める。
 アインクラッドで初めて見つけた、自分の居場所となるかもしれないこの店の名前の通り、ゆっくりと、歩くようなスピードで。




第1話「上を向いて歩こう」終



[33088] 第2話「いとしのレイラ」
Name: ゆうきゆう◆20c5fc97 ID:ae8e07cd
Date: 2013/06/06 23:52
「すまねえが今回も進展はなしだ」

 その日のステージを終え、一人カウンター席からこちらを眺めていた禿頭の巨漢の隣に腰を下ろすとまもなく、彼はよく通る低いバリトンでもって私を迎えてくれた。
 現実世界における自分の容姿がそのまま仮想世界におけるそれに反映されるこのゲーム内において、浅黒い肌の禿頭にあご髭をたくわえた巨漢な彼のその姿は、数千人にもおよぶプレイヤーの中でもひときわ異彩を放っている。
 現に今も店内に散らばった客達がチラチラとこちらに視線を向けているのだが、その視線の先にあるのは、演奏を終えたばかりの、このゲーム内では珍しいドレスアップをしたままの私ではなく、その隣で酒を煽る男の姿。
 なんとはなしに独りよがりの無意味な敗北感に苛まれる私の顔に全く別の感情を読み取ったのか、彼はその厳つい顔に珍しく慌てた表情を浮かべている。

 そんな彼。
 ここアインクラッドにおいて雑貨屋を営むエギルは、“Bar Andante”のマスターとならんで、私にとってのもう一人のマスターである。





アインクラッドにぬくもりを 第2話「いとしのレイラ」





 挨拶もそこそこに告げられた言葉に対する私の表情を、芳しくない状況への落胆のそれと見てとったのか、

「なに。ここにこうしてピアノがあるんだ。きっと他にもあるさ」

 彼は慌てた表情でそう言葉を付け足すと、数瞬の間をおいた後に思案顔でこのように続けた。

「もしかしたらピアノ単体で探していたのがまずかったのかもしれないしな。この店のように物件のオプションとして付いてる可能性もある。今度はその方面も含めて当たってみるぜ」

 なんの根拠もない発言ではあったものの、私に対する気遣いの色が見てとれるその発言に、無茶なお願いをしている身としては本当に頭の下がる思いである。
 そんな言葉をかけてくれる彼にいらぬ気遣いをさせてしまったことを申し訳なく思いながらも、しかし先ほど見せた表情の真の意味を告げることによって、だからそのような気遣いは無用だと伝えるような真似は、なけなしの女のプライドが許さない。
 結果彼の勘違いに甘えるかたちとなってしまい、最近徐々に返済しつつある私の彼に対する精神的な借りが、また溜まっていくことになる。

 おそらく彼は私がそんな風に彼に対し一方的に借りを感じているということを知ったところで、大したことではないと、いつもの懐の広さで笑い飛ばしてくれることだろう。
 しかしながら我が身も含め全てのプレイヤーがデータ上の存在でしかないこの仮想世界において、唯一現実世界との接点たる彼の存在は、ともすればピアノ以上に私にとっての精神安定剤となっていた。
 実際に現実世界においても知人である彼の存在を認識することによって、私はこの仮想世界内の過酷な状況でも自分の心を保っていられるのだろう。
 また、最近になって芽生え始めた彼に対する密かな思いも、私の心の平穏に大きく寄与していることは間違いない。
 そんな彼に今一度心の中で頭を下げつつも、私は依頼が進展していないことに落胆の色を見せ、それに気遣いの言葉をかけてもらった女の姿を装うのであった。



 マスター。
 私がそう呼ぶ存在が、ここアインクラッドには二人いる。
 一人はここ“Bar Andante”のマスター。このゲーム内においてバーを経営するNPCであり、この店を訪れる客達皆のマスターである。

 そしてもう一人が彼。
 プレイヤーネーム“エギル”こと、本名“アンドリューさん”。
 仮想世界においては雑貨屋を営む彼の現実世界における職業は、なんと喫茶店のマスター。
 彼の経営する“ダイシー・カフェ”は喫茶店でありながら夜は酒類を提供してくれるバーも兼ねており、マスターのその雰囲気たっぷりな容貌も含め、初めて店を訪れた際、一杯目の飲み物が出てくる頃にはすでに私の心を虜にしていた。
 以降このゲーム内に囚われるまでの間、彼や彼の奥さんとはとても懇意にさせてもらうことになる。
 ちなみに、現実世界における知り合いであった私達ではあるが、あくまで喫茶店のマスターと客の間柄でしかなかったゆえにお互いの本名を知らない。
 彼の“アンドリュー”という名前についても、彼の奥さんがそう呼んでいるのを耳にしたことがあるだけだ。
 私は、無事現実世界に帰還することができたあかつきには、彼や奥さんと改めて自己紹介を交わそうと、密かに心に決めている。
 この過酷な世界を共に生き抜いた仲間である。単なる喫茶店のマスターと客という立場から一歩踏み込んだとしても罰は当たらないだろう。



 そんな彼と、ここアインクラッドにおいて再会したのは、私がピアノ弾きのアルバイトを始めてまもなくのことであった。
 あの演奏家デビューの日以来、ほぼ一日おきに“Bar Andante”でピアノを弾いていた私は、日々楽しさを増していく「人前で演奏すること」に満たされ始めていた。
 しかしながら、ピアノを中心としたぱっと見「安定した日常」を送ることにより心に余裕が出てくると、ふとした瞬間にその心の隙間を突くように、ある不安が頭をよぎるようになる。

 すなわち、全ては虚構なのではないか、と。

 このリアルな街並みはおろか、行く先々で出会う人々も、果ては自分の体までもポリゴンで形作られたデータの集合体でしかなく、例えば私がプレイヤーだと思って接している人々についても、本当にその裏側に現実の人がいるという確証はどこにもない。
 それはこの場が仮想世界である以上、どうにも拭い去ることのできない不安であった。
 「生きること」に重きを置き、ただがむしゃらに過ごしてきた日々から一転、ある一定のサイクルの中での「日常」とも呼べる生活が始まるとまもなく、これまで考えないようにしてきたその不安が明確な姿をとって私に牙を向いたのだ。

 そんなある日、“Bar Andante”を訪れた彼の姿を見た私は、驚きのあまりに曲の途中で演奏の手を止めてしまい、店内のやはり数はあまり多くない客から一斉に非難の目を向けられることとなってしまう。
 その時点で私の存在に気付いたらしい彼も、髪型に関しては自由に変更することが可能なこのゲーム内においても現実と変わらぬ禿頭の下に驚きの表情を浮かべていた。
 しばらくそうして顔を見合わせた後、どちらからともなく声をかけようとしていたのだが、店の奥から聞こえた咳払いの音に現在の状況を思い出した私は、慌てて演奏を再開させるのだった。

 その後、報酬の支払いと、次のアルバイトの受注という最早定番となったやりとりの最中も心なしか不機嫌そうな店のマスターに、演奏を中断してしまったことに対する謝罪の言葉と、そして仕事中であるという意識を取り戻させてくれたことに対する感謝の言葉を述べながらも、しかし私の意識は演奏の途中で来店した男性へと向けられ続けていた。
 世の中には瓜二つの顔をした人間が三人いるというのはよく聞かれる俗説であるが、それにしても体格や髪型までもはその限りではないだろう。
 ましてやあちらも私と同様の反応を見せている以上、私の知る“あの店のマスター”で間違いなさそうである。



「お久しぶりです」

 “この店のマスター”とのやりとりを終えた私にかけられたのは、そんなありふれた再会の言葉であった。
 まさかこのような場所で現実世界における自分の店の常連と出会うことになろうとは、彼も夢にも思っていなかったのだろう。
 その特徴的な禿頭の下にどこか気恥ずかし気な表情を浮かべながら、まっすぐに右手を差し伸べてくる。
 私自身、彼とこのゲーム内で再会することになろうとは、しかも綺麗に着飾ってピアノを弾いているところを目撃されるなどとは思ってもおらず、おそらくは彼以上に気恥ずかし気な表情を見せていたのではないだろうか。
 数瞬の間、差し出された右手とその少し照れた様子の彼の表情に視線を交互させた後、おずおずといった感じで私も右手を伸ばす。

 再会の証に握ったその右手からは、現実世界のあの店と同じぬくもりを感じたような気がした。



 その日を境に“Bar Andante”においてたびたび彼の姿を見かけるようになる。
 演奏を聴いただけで帰る日もあれば、演奏を終えた後、お互いの近況を肴に酒を飲み交わす日もあった。
 最前線にほど近い階層で雑貨屋を営むという彼が、30近くも下層のこの街を頻繁に訪れる意図ははかりかねる。
 しかしこうして、さして間を置かずに店を訪ねて来てくれることは、生まれてしまった不安に喘ぐ私の心にとって、ピアノに勝るとも劣らないほどの多大な安心を与えてくれるものであった。
 そしてそれと同時に、同じく過酷な状況にいるはずの彼に一方的に依存していきつつあることに罪悪感を覚えた私は、これまた一方的な彼に対する精神的な借りを感じるようになっていった。

 個人所有のピアノが欲しいと、彼の前でふと口にしたのは、そろそろ彼も“Bar Andante”の常連と呼べるようになってきた頃のことであった。
 人前で演奏することに楽しさを見出し始めたこともあり、今の状況でも満たされていた私ではあったが、やはり人目を気にせず弾ける環境を欲する思いもあったのだろう。気が付けば言葉にしてしまっていた。
 そんな私の呟きを耳にした彼は、しばし考えこむような表情を見せた後、私に向けてひとつ頷いてみせる。

「わかった。情報を仕入れてみる」

 彼の発したその端的な言葉の意味を数瞬の間をおいて理解した私は、慌てて断りの言葉を口にした。
 今ですら精神的な借りが溜まっていくばかりなのである。さらに物理的な借りまで作ってしまえば、今後私にその借りに見合ったほどの恩に報いることなどできないのではないだろうか。
 そう分かってはいながらも、心の底では彼が応えてくれることを期待してしまっていたのだろう。心と理性の折り合いが着かず、断りの言葉もどこか中途半端なものになってしまう。

 果たして最後の最後で断ることができず、「任せとけ」という彼の笑顔に押し切られるかたちとなってしまった私の肩に、はっきりと形を成した大きな借りがのしかかるのを感じる。そしてそれと同時に自己嫌悪という名の小さな棘が私の心にチクリと刺さるのを感じた。
 かくしてその後、来店の際の彼との会話に「個人所有のピアノの捜索」についての項目が加わることになり、その進捗状況を聞く度に、私の心に刺さった棘が少しずつ押し込まれていくのを感じるようになるのであった。



 私の、その一方的に借りが溜まっていく状況に転機が訪れたのは、この仮想世界内においては一般的にタブーとされている現実世界のことに話が及んだ日のことであった。
 知っての通り、私はあちらにおいて彼や彼の奥さん、そして彼の経営する喫茶店と非常に懇意にさせてもらっていた。当然のことながら共通の話題にも事欠きはしない。
 しかしながら、この仮想世界におけるタブーを尊重してか、はたまたあくまで喫茶店のマスターと客という立場に配慮してか、これまであちら側のことが話題に上ることはなかった。

 そんな言わば一種の暗黙の了解が破られたのは、やはり彼が“Bar Andante”を訪れるようになって初めて、客が彼一人という状況であったからであろうか。
 私たちを除けば必要外の言葉はほとんど発しないNPCマスター以外存在しない店内で、彼と私はぽつりぽつりと現実世界における自分のことを語り出していた。

 淡々と話しているようで、時折彼の声に若干の浮き沈みが感じ取れる瞬間があることに気付いたのは、互いに二杯目のグラスを空けた頃であった。
 彼の声から僅かに漏れる感情の揺れ。その最大の要因は彼の奥さんについての話であった。
 ゲーム内に囚われて一年以上が経ち、彼は現実世界の自分の店に対しても心配の色は見せていたのだが、それ以上に心を砕いていたのは自らの伴侶に対してであった。
 その不安の大きさは余人にはわかりかねるものがあるようで、話が進むにつれて次第に感情の揺れがはっきりと見て取れるようになっていった。

 やがて自分が思った以上に熱くなっていることに気が付いたのだろう。少し照れた様子で話を止めると、逡巡の後に私に向けて、

「ありがとう」

 そう感謝の言葉をかけてきた。

――何故私は感謝されているのだろう。
 今の会話、というよりも彼の言葉に相槌を打つだけのどこに、彼が私に感謝の意を示す要素があったというのか。よく通る彼の低いバリトンが店内に余韻となって残っているのを感じながら、私は必死にその意図を読み取ろうとしていた。
 突然の感謝の言葉に困惑するそんな私に対し、彼は意を決した様に引き続きある提案をする。それは私に先ほどの感謝の言葉の意を理解させると同時に、押し込まれ続けていた私の心に刺さった棘を、ほんの少しだが引き抜いてくれるものであった。



 彼が店を出て行った後も、私はともすればニヤつきそうになる顔をなんとか抑えながら、先ほどの彼からの提案の内容を一人思い返していた。

「今後もこの店であちら側の話をしたい」

 彼が現実世界に残してきた自らの伴侶と店のことについて、この仮想世界において話すことができる相手を欲したのだということは、彼の奥さんのことを語る際の表情と、その後の私に対する感謝の言葉から察することができる。
 たったこれだけの提案ではあったが、私の彼に対する一方的な借りを少しでも返済できるという事実は、以前感じた「虚構の世界」に対する不安を和らげるとともに、私にこれまで以上にこの“Bar Andante”での「ピアノ弾きのアルバイト」に励むことを決意させる。

 せっかくわざわざ店を訪れてくれるのだ。ただ話を聞くだけではなく、私の奏でるピアノで少しでも彼の心をほぐすことができれば、それは同時に私がこの店でピアノを弾き続ける理由として確固たるものになるのではないだろうか。
 ピアノ弾きのプライドにかけて、そして芽生え始めた演奏家としてのプライドにもかけて、この店を訪れる全ての人が「私のピアノを聴くこと」を“Bar Andante”を訪れる理由としてもらえるようにする。
 そのためにも、まずは彼のためのピアノを弾くことから始めてみることにしよう。



 かくして今日も「個人所有の可能なピアノの捜索依頼」についての報告を終えた後、彼と私はいつものごとく、彼の大きな手と同じぬくもりを感じさせる喫茶店の話と、そして彼の帰りを待つであろう一人の女性の話に花を咲かせる。
 芳しくない依頼の進捗状況に私が落胆しているとの勘違いをしていた彼は、はじめこそ私に遠慮しているかのような素振りを見せていたのだが、彼女のことに話題が及ぶにつれ次第に饒舌になっていった。

 しばし彼の独り舞台に耳を傾けながら、私は私で彼女について思いを馳せる。
 いつあちらに帰還できるかも分らない以上、明確に考えないようにはしていたのだが、熱を帯びていく彼の話を聴いているうちに私も会いたくなってきてしまった。
 再びあの店のカウンターに座って、彼と私と、そして彼女の三人で他愛もない話ができる日は来るのだろうか。
 そんなことを夢想しながら、いつ終わるともしれない話に夢中の彼のその楽しそうな顔に視線を向ける。

 いつもは全てを受け入れるかのような、そんな超然とした表情を見せる彼も、一度スイッチが入ってしまえばこの通り。自慢の宝物を見せびらかす少年のように、無邪気な笑顔を浮かべている。
 この仮想世界内において、いかにも大人然としている彼のこのような表情を独り占めできる立場にあることに軽い優越感を覚えるとともに、本来であれば彼のこの顔が向けられるべき相手である彼女への罪悪感も募る。

 この世界に来て初めて、彼と私は現実世界における喫茶店のマスターと客という立場を越え、互いに心の内を見せ合うような仲になった。
 しかしながら、これ以上距離を縮めるべきではないだろう。そうなってしまえばこの世界で果てるにしろ、無事現実に帰還できるにしろ、ろくなことにならないのは目に見えている。 
 私は彼も彼女も、そしてあの店のことも好きなのだ。私の彼に対する密かな思いは、胸の奥底に眠らせたまま言葉にすることはしない。精々その思いを曲にこめることができれば、それで十分だ。
 ただ、今だけは遠く離れた彼女に心の中で頭を下げつつ、彼の本当の笑顔を独り占めさせてもらうことにする。



 ふと楽しげに自分を見つめる私の視線に気が付いたのか、彼はこれまたいつものごとく少し照れた様子で話を止め、半ば強引に話題の転換を図る。

「そういえば、さっきの演奏の最後の曲は良かったな。たしかあのスローハンドの若い頃の曲だったか」

 さすが音楽の本場の血を引くだけのことはあり、曲の知識はもちろん、英国出身のかのギタリストの愛称までばっちりである。
 しかしながら彼には、私がこの曲を選んだ意図はわかるまい。
 私が正真正銘「彼のためだけ」に弾いた曲は、この仮想世界内で生まれ、そして人知れず散っていった思いとともに、胸の内に抱えたまま現実世界まで持ち帰ることにする。
 そしていつの日かまたこの曲を弾きながら、あの時の思いは一時の気の迷いだったと笑い飛ばしてやるのだと、彼のその照れた顔を見つめながら私は心に決めるのであった。




第2話「いとしのレイラ」終



[33088] 第3話「泣いて 泣いて 泣きやんだら」
Name: ゆうきゆう◆20c5fc97 ID:ae8e07cd
Date: 2013/06/06 23:53
 人と人との交わりは一方通行で成り立つものではなく、お互いがお互いを認識することで初めて自分がここに居るのだとわかる。
 我思う、ゆえに我あり。そんな言葉もあるけれど、誰にも認識されないのならばそれは居ないのと同じではないのだろうか。とりわけこんな世界では、自分の存在に自信を持つことすら難しい。
「自分は本当に今この場所に立てているのだろうか」
 そんな風に自らの足下が覚束なくなる恐怖に陥った人々は大勢いて、この仮想世界の中でやはり身を寄せ合って生きている。

 かくいう私もその一人で、彼に会う度に自分がまだ存在できていることを実感する。そしてそれはきっと彼も同じことで、私たちはお互いを認識しあうことで、自分が地に足つけて生きていることに安堵している。
 おそらくは私の彼に対する思いを明かす日が来ることはないであろうが、この世界においてお互いを支え合うことができる関係でありさえすれば、無事現実世界に帰還できたあかつきにはきっと、あの店で美味しいお酒を酌み交わすことができるはずである。

 そんな風に現実世界においての関係も鑑みたうえで自分の思いに蓋をした私にとって、そこからさらに一歩踏み込んで完全に相手を心の拠り所とするという行為は、恐ろしくもあると同時に、しかし非常に眩しくもあった。
 誰もが生き残ることに精一杯で、騙し騙され殺し殺されなんてことも決して少なくはない過酷な世界の中で、自分の心を預けることができる存在が見つかるのはきっと本当に幸運なことであり、ましてや相手も自分に心を預けてくれるなんてことは、それこそ万に一つもあるかないかのことである。

 しかしながらそんな万に一つの幸運の裏には、私のように最後の一歩を踏み出せず思いを届けることができなかった人がきっと大勢いて、彼女もまた、そんな大勢の中の一人である。





アインクラッドにぬくもりを・第3話「泣いて 泣いて 泣きやんだら」





――いったいどうしたものか。

 開店まもなく店内へと飛び込んできた少女は、私の姿を見つけるや否やその現実ではありえないピンクの髪の下に覗く童顔を歪ませると、咄嗟のことに立ち尽くす私に抱きつき、そのまま大声で泣き叫び始めた。
 突然の出来事にどうしたものかとしばし途方に暮れていた私であったが、この場がどこであったか思いだし慌てて辺りを見渡す。
 幸いなことに開店したばかりということもあり、他に客の姿はない。しかしながら、私の地道な演奏活動の介もあってか、ここのところ近隣の階層の住人を中心にこの“Bar Andante”を訪れる客も、徐々にではあるがその数を増やしつつある。
 今はまだ客の姿が見えない店内だが、おそらくは私の演奏の時間が近付くにつれてその席を埋めていくことになるだろう。
 また、私の演奏活動による宣伝効果の程はどうあれ、人々は他ではなかなかお目にかかることができないバー独特の空気を楽しみに、ここ“Bar Andante”を訪れているはずである。なればその前に、言葉にならない声を上げて泣き叫ぶこの少女にはなんとか鎮まってもらうしかあるまい。
 少女特有の甲高い泣声に、この店のマスターが徐々に顔をしかめていきつつあるのを感じ取りながら、私はただひたすらに少女の肩を宥めるように叩き続けるのであった。



「すみません。ご迷惑をおかけしました」

 そう言っていつもの活発な姿はどこへやら、しおらしい態度で頭を下げる少女。彼女がようやく泣き止んだのは、彼女を除いて三人目の客が店を訪れる直前のことであった。
 運悪く少女の泣声でもって店に迎え入れられることとなった二人の常連客は、泣きつく少女と泣きつかれる私という構図を目にすると、その顔に苦笑いを浮かべて、各々好きな席へと散っていった。
 その後も少女の鎮静化に意識を集中していた私は、彼女が泣き止むとまもなく来店した客の顔が見覚えのないものであったことに、かろうじて最悪の事態はまぬがれたことを悟る。
 かくしてこちらへと向けられる、その柔らかそうなピンクの髪に覆われた頭を見つめながら、私はここ最近若い女性プレイヤーの駆け込み寺と化しつつある店の現状に、先に訪れた常連客と同様の苦笑いの表情を浮かべるのであった。

 ここアインクラッドにおいて、女性プレイヤーの数は決してそう多くはない。もともとゲームの発売前から、剣を手に凶悪なモンスターを打ち倒すアクション性を売りとしていたこともあり、ただでさえ男性に偏ることの多いオンラインゲームプレイヤーの男女比にさらなる拍車をかけていた。
 そんな数少ない女性プレイヤーにはゲームという娯楽の特性上、やはり年若いまだ少女と呼べる年頃が占める割合が多い。
 「ゲーム内の死=現実世界での死」という恐怖を、突如として突きつけられた少女達。周りを囲む見知らぬ男性の数の多さもあいまって、言いようのない不安を抱えこみ、またそれを誰に明かすことも出来ずになんとかここまで生き延びてきた者も多いことだろう。
 「日常」という名の、この仮想世界の中における自分なりの安定した生活を手にした後、ふと我が心に焦点を当てると、積もりに積もった不安が行き場を失くして胸の奥に溜まっていることに気が付く。
 私自身、身に覚えのありすぎるその不安は、しかしまだ幼い少女達にとって、一度気が付いてしまうと耐えがたい恐怖となる。
 その際、何の打算もなく自分の心の内を受け止めてくれる相手を持つ者は良い。もしくは私と雑貨屋を営む彼のように、お互いの存在を認識しあうことで心を保てる程度に自制できる者も良い。
 しかしながら、心を曝け出すことのできる相手もおらず、ある程度の打算でもって心を保つ術も持たない少女達は、その胸の奥にさらなる不安を溜めこみながら、この過酷な世界での日常を送っている。

 もちろんそれは年若い男性プレイヤーにとっても同様であるものの、彼らの周りには禿頭の雑貨屋店主やこのゲーム内で最強との呼び声高い有名プレイヤーなどを筆頭に、少なくない数の「大人達」が存在する。
 仮に直接心の内を訴えることは なくとも、同性である大人の男達の存在そのものが、彼らにある種の安心感を与えていた。
 また、男性特有の意地のようなものもあるのだろう。人前で現状に対する弱音を吐く男性プレイヤーの姿を日常の中で見ることは非常に稀なことであった。

 一方、不安に押し潰されそうになっている少女達にとって、自分の心の内を曝け出すことのできる同性の存在は貴重である。ましてや仮に一方的に泣きついたとしても、苦笑いの一つで許してくれる大人の女性の存在なんてものは尚更である。
 そんな不安の捌け口を求める少女達の耳に入ってきたのは、NPCが経営するバーで働くピアノ弾きの女性の噂であった。



 結果として徐々に増えつつある客の数に呼応するかのごとく、私のピアノではなく 、私自身を目当てに店を訪れる若い女性客の姿が見受けられるようになる。
 若い世代には馴染みのないバー特有の雰囲気のせいか、はたまた無愛想なマスターのせいか、この店において少女とも呼べる程に若い女性客の姿をほとんど見たことがなかった私は、どこか店の空気に萎縮するように私を訪ねてきた初対面の少女を邪険に扱うことはできず、ともすれば支離滅裂になりそうな彼女の話に対して根気強く聞きに徹した。
 とりわけ何かの答えが欲しいわけではなく、とにかく自分の話を聞いて欲しいという感情は、少女の年の頃を考えると私にも身に覚えのあるものであったからである。
 かくして来店した際とは比べ物にならない程に晴れやかな顔で店を後にする少女を見て、私は自分が見ず知らずの少女に頼られたことに気をよくしていたのだろう。
 「自分の話を聞いてもらうためだけに、わざわざ私を訪ねてきた少女がいる」という事実に、何の疑問も持つことをしなかった。
 今になって思えば、何故私はあの時こうは考えなかったのだろうか。

 すなわち、「他にも同様のことを考える人間がいるのではないか」、と。

 その日からしばらく、先の少女と同様に自分の話を聞いてもらうためだけに“Bar Andante”を訪れる若い女性客の姿が目立つようになる。
 彼女達の多くは演奏前の私を捕まえると、初めは申し訳なさそうに自分のことを語りだす。しばし後、私が自身を邪険に扱うことはせず聞きに徹していることを悟ると、一気に話の勢いを増し始める。
 そうして話したいことを話したいだけ話した彼女達は、一番最初の少女と同じ晴れやかな顔で店を後にするのであった。
 私個人としては、この少女達の駆け込み寺とでも言うべき状況に対して、その人数が五人を超えたあたりからうんざりし始めていたのだが、しかし彼女達はこの店に対してもしっかりとお金を落としていっており、店に雇われている身としてはそう邪険に扱うこともできない。
 しばらくの間私を独占しようとも店のメニューを注文している客である以上、あのひたすらに寡黙なマスターが口をはさむこともない。
 その頃になると常連客にとっても最早そんな光景には慣れたもので、少女達が帰るとまもなくどっと疲れた表情を見せる私に、「お疲れ」と笑い含みで声をかける者まで現れる始末であった。

 今現在私にピンクの頭を見せつけている少女リズベットも、以前他の少女達と同様に私を訪ねて来た者の内の一人である。
 最も彼女の場合、不安の吐露の為に訪れたというよりは、噂の人物を拝みに来たというのが半分と、もう半分はここアインクラッドにおいて他に類を見ないお酒のラインナップの数々を堪能しに来たといった目的であったのだが。
 その目的ゆえいつものごとく私が一方的に聞きに徹することもなく、ま た他の少女達と比べても多額のお金を店に落としていったこともあり、私個人にとっても、この“Bar Andante”にとっても優良客として記憶に残っている。
 前回来店した際に得た情報によると、彼女にはたしか同い年の同性の友人がいたはずである。
 同い年ゆえに泣き顔を見せたくはなかったという可能性も考えられるが、仮に噂を鵜呑みにしたのだとしても、気心知れた友人ではなく一度会ったきりの女に泣きつきに訪れるというのはよっぽどのことなのだろう。
 そう判断した私は、先ほどから頭を下げた姿勢のまま固まってしまっているリズベットに顔を上げるよう促す。
 幸い演奏開始までにまだ時間はある。前回は必要のなかった彼女の自分語りを肴に、酒を飲むのも良いのではないだろうか。



 リズベットの話を聞き終えた私は、そのあまりといえばあまりな内容に、顔には出さないものの、その実悶えそうになるのを堪えるので精一杯であった。
 これまで訪れた少女達の抱えていた不安は、未だに私の心の隅でくすぶっているものと同様ではあったものの、同時に私の中では既にある程度の解決をみたものでもあった。なればこそ、非常に共感できる話ではありながらも、大人しく聞きに回ることもできた。
 しかしながら今しがた彼女の語った出来事は、私にとって共感どころの話ではなかったのである。
「ある男性を好きになったが、友人のために身を引いた」

 既婚男性に思いを寄せた私と、友人の想い人に思いを寄せた彼女。
 状況や立場は違えど身を引くことになった側の心境は、私自身痛いほどに、それこそ分かりすぎるほどに分かるものであった。
 酒の肴程度にしか考えていなかったことに対するしっぺ返しなのか、思ってもみないその話の内容に、今回は聞きに回るつもりでいた私は、しかし強制的に黙らされてしまうこととなる。
 私の彼に対する思いは、現実世界に帰還した際に彼や彼の奥さんとの円滑な関係を築くためという、半ば打算的な理性でもってなんとか蓋をすることができた。
 だが彼女はどうだろう。
 私とは違い状況はともかくも立場としては五分五分な彼女が、友人のためを思い自ら身を引くという決断に至るには、生半可ではない葛藤があったのではないだろうか。
 頭の中をそんな考えが駆け巡り、私は彼女にかけるべき言葉が見つからず、間を持たせるためにただ黙ってグラスを口に運ぶことしかできなかった。
 そんな私とは対照的に、 いつも通りとは言えないものの話を始める前に比べると見違えるほどに晴れやかな顔をしたリズベットは、私にならいお酒で口を湿らせた後、話を締めくくる。

「あたし、自分の決めたことに後悔はしてません。こんな世界の中であの人の隣に立つのは、あたしの友達みたいに強い心を持った人じゃないといけないと思うから」

 その言葉を聞いた瞬間、私は彼女の晴れやかな表情の訳を悟る。
 おそらくは彼女も私と同様に、自らが思いを寄せる彼も、そして謀らずも恋敵となってしまった友人のことも好きなのだろう。
 自分の彼に対する思いと、彼と自分、そして友人との関係。
 両者を秤にかけた結果後者に傾いたのだと推測できる彼女のその言葉は、つまりは彼女の心の葛藤について彼女自身の中で既に決着がついていることを窺わせるものであり、ティーンエイジャーとは思えぬその心の強さに感嘆した私は、先ほどとは違う意味で黙らされてしまう。
 しかしながら最後に付け足すように言い放った言葉は、これまた先ほどとは違う意味で彼女の心の強さを表すのであった。

「でも彼には、現実世界に戻ったら第二ラウンドだって宣言してきたんですけどね」



 その後、やけ酒だと言わんばかりにお酒を飲み続けていたリズベットであったが、友人の前では固く封をしていた心の内を解放したことにより安心したのか、はたまた単純に泣き疲れてしまったのか、私の演奏の直前にはカウンターに突っ伏したまま安らかな寝息を立て始めた。
 結局のところ今回の彼女の訪問もこれまでの少女達と同じく、ただ自分の心の内を吐露するためだけのものであったのだろう。
 そもそも私が何かせずとも彼女達は自ら答えを見つけ、またそれぞれの日常に戻っていくことができる。
 私が思っていたほどに、少女達は弱くはない。私はただ黙って話を聞き、そしてたまに頷いてあげればいい。
 それこそが、ここアインクラッドにおける「大人」であるところの私にできる精一杯であろう。

 本音を言えば、ここ最近のように立て続けに押しかけられるような状況は御免被りたいのだが、偶になら、この店でお酒を飲みながら少女達の言葉に耳を傾けるのも良いのではないだろうか。
 そのついででも良いので、私のピアノを聴いていってくれれば言うことはない。
 今日のところは、そんな風に思わせてくれた少女のためにピアノを弾くことにする。
 彼女に向けてぴったりなある一曲を思い浮かべながら、私はその歌詞にならい、たくさん泣いてお腹もすいたであろう彼女を食事にでも連れていこうかと、そんなことを考えるのであった。




第3話「泣いて泣いて泣きやんだら」終



[33088] 第4話「いつもの笑顔で」
Name: ゆうきゆう◆20c5fc97 ID:c65e2fe7
Date: 2013/06/06 23:54
 道化。
 滑稽な言動でもって人々に笑いをもたらす存在。日本においてはサーカスにおけるピエロと同義に捉えられることも多いが、本来の意味としては前者を指す。
 日常の中においても、自らの体を張ってまでひたすらに周りの人々に笑いを提供することを、「道化を演じる」「道化に徹する」などと表現することがある。
 ピアノという道具を媒介にすることによってしか人の心に訴えかける術を持たない私にとって、自らを笑いの中心とし、時にはその中に嘲りの感情が含まれようとも人々の心を満たす彼らの胸中が如何なるものなのかは分かりかねるものがある。
 しかしながら「人の心を動かす」という一点について確固たる信念を持っているであろうことは、ここ“Bar Andante”において「人のためにピアノを弾く」ことの意味を学んできた私にもおぼろげながら理解することはできる。
 自己犠牲などという御大層な精神とまではいかないものの、人を楽しませることによってついでに自分の心も満たすことができるという行為は、私がここアインクラッドでピアノを弾き続ける理由であるとも言える。

 アインクラッドに生きる人々にとって、「笑い」とはとても貴重なものである。
 現実世界において「娯楽」やそれに伴う「笑い」は、黙っていても提供されるものであった。
 テレビをつければ、街を歩けば、自ら拾いに行かずとも勝手に転がり込んでくる。我々はその無数あるものの中から好きなものを選択し、それらを享受してきた。
 しかしながらこの過酷なゲーム内では、飲食以外の娯楽などほとんど無きに等しい。
 自らが生き残ることに精一杯の環境の中で、わざわざ他人に笑いを提供する者などよほどの物好きか、はたまた笑わせる対象の相手に好意を寄せているかのどちらかであり、相手を信用することすら難しいこの仮想世界においては、やはりそのような人物は希少と言わざるを得ない。
 そんな娯楽どころか人間関係さえもシビアな世界において、自らの周りの人々や関わりを持った人々、そして知り合った女性達に笑いを提供し続ける彼の行為はとても眩しいもので、そのナンパじみた言動が本気なのか否か一度腹を割って話し合ってみたいものである。
 このゲームの最前線で戦う攻略組の一員であり、自らギルトを引っ張るリーダーでもある彼。
 そんな気苦労の絶えないであろう立場の彼が、その立場とはかけ離れた軽薄な言動の裏に何を思っているのか。
 その本心を量ることができたならば、「人の心を動かす」という行為を生業としている私にとっても、それはとても有意義なものになるのではないだろうか。





アインクラッドにぬくもりを・第4話「いつもの笑顔で」





 休日前という言葉に思わず心が躍ってしまうのは、老若男女問わず常に「忙しい」と口にする日本人の性であろうか。
 現実世界から仮想世界へと生活の舞台を移してなお、休日前の華やいだ街の空気は我々に一種の高揚感を抱かせる。
 常日頃は悪鬼蔓延る迷宮で大立ち回りを繰り広げている戦士たちも、この日ばかりは身に纏う武骨な鎧を脱ぎ捨て、各々めいっぱい羽を伸ばすのがアインクラッドの民の数少ない楽しみの一つであった。
 もともと娯楽という娯楽があまり存在しないこの世界において、食事や飲酒に重きを置く人の数は多い。
 それは普段人通りがほとんどないカビ臭い小路地に店を構えるここ“Bar Andante”においてさえ、休日前の夜ともなるとそれ相応の賑わいを見せることからも知ることができる。
 とりわけアインクラッドでは珍しい酒をメインに取り扱うバーであるという事実は、現実世界においても酒を友としていた人々にとっては非常に魅力的に映るらしい。
 店を訪れる客の会話から察するに、主に近隣の階層の住人の来店が多い常日頃に比べ、遠く離れた階層からわざわざ足を運んでくる客も少なくないようである。
 もちろん店に置いてある酒類には、この世界における酒類の全てがそうであるようにアルコールは含まれていない。
 提供されるものは現実世界におけるそれの味を再現したノンアルコールドリンクであり、どれだけ飲もうと酔うことはない。
 いわゆる「酒飲み」と呼ばれる人種にとってはいささか物足りなく感じる次第ではあるのだが、しかしだからと言って禁酒を断行するには酒との距離が物理的にも精神的にも近すぎる。
 かくしてゲーム開始から約一年半経った現在“Bar Andante”は、ここアインクラッドにおいて酒飲みたちのオアシスとしての扱いを受けるに至るのであった。

 そんな休日前相応の賑わいを見せる店内において、一際騒がしい客が一人。
 特徴的な赤い逆毛と、お世辞にも趣味が良いとは言えないデザインのバンダナの下に覗く顔は、遠目にも明らかなほどに緩みきっている。
 おそらくは彼と向かい合わせで座る、ここ“Bar Andante”においては珍しい若い女性客が原因であろう。
 日夜凶悪なモンスターと相対する攻略組の有力メンバーでもある彼、クラインは、常日頃は纏っているのであろう戦士然とした雰囲気を微塵も感じさせることなく、偶然居合わせた他の女性客と談笑を――有り体に言ってしまえばナンパを行っているのであった。



 彼が休日前で賑わう店を訪れナンパ行為におよぶ姿を、私は過去に何度か目にしている。
 他の女性客を見かけると声をかけに行くそのナンパ気質は、攻略組として有名な彼にはよくあることなのだと、主に上層から訪れる客達の間では知られているらしく、周りの人々もとりたてて彼の言動を気にする素振りはない。
 本来であれば店側の人間として客が他の客に対する、とりわけこのような酒場での男性客の女性客に対する言動には注意を払うべきなのであろう。
 しかし彼と談笑する女性客の楽しげな表情から察するに、迷惑行為というわけでもないようである。
 なればこれまた店側の人間として客達の楽しいひと時を邪魔するわけにはいかず、かくして私はその後も店を訪れては他の女性客と談笑して盛り上がる彼の姿を見かけるようになるのであった。

 しかしながら、もともと女性客の数はそれほど多くない“Bar Andante”である。店内に女性客の姿がない日には、私か、もしくは比較的若い男性客と酒を飲み交わすことも多い。
 そもそも彼が店を訪れるきっかけとなったのも、ピアノ弾きの女性、つまりは私の噂を聞きつけてのことであったと記憶している。
 すなわち、彼のこの店におけるナンパ相手の第一号は私自身だったのだと思うのだが、その際のことを振り返ってみると、果たしてあれが世間一般に言うところの「ナンパ」であったのかどうかは定かではない。
 声をかけられ一緒に酒を飲みながら談笑したことはたしかなのだが、しかしそれだけなのである。
 まるで先日のピンク髪の少女同様「噂の君を見に来た」だけであるかのように、彼との話は盛り上がりはしたものの、それはあくまで世間話の範疇に留まり、浮いた話の一つもなかったのである。
 もちろん私自身そのようなことを期待していたわけではなく、むしろ突然声をかけてきた初顔の男性客に対して幾許かの警戒すら抱いていたのだが、その心配も全くもって杞憂に終わり、肩透かしを喰らったような感覚を味わいながら店を去る彼の姿を見送ったのであった。

 かくして今日に至るまでの彼の店内における立ち居振る舞いから、彼はどのような相手であってもあくまで場を盛り上げることに終始し、その緩んだ表情とは裏腹にいわゆる「ナンパ」らしき言葉を発するつもりはないことが察することができる。
 もっともこんな世界においてナンパを成功させたところでどうなるわけでもないとは思うのだが、しかし漏れ聞こえてくる他の女性客との会話や私自身との会話の内容から鑑みるに、彼が下心を原動力として女性に声をかけているのかどうかは甚だ疑問である。
 なれば彼のそのナンパ気質の裏側には、別の真意が隠されているのではないだろうか。そんな私の頭の片隅に生まれた疑念は、やがて一つの推測へと至ることになる。



 「場を盛り上げること」そのものが彼の目的なのではないかと思うようになったのは、相も変わらず私に話を聞いてもらうために店を訪れる少女達との会話がきっかけであった。
 近頃では以前店が駆け込み寺と化していた際に一度私を訪ねてきた少女達が、その際のお礼がてら今度は私と「会話」をするために店を訪れて来るということも珍しくなく、私は再びグラスを片手に彼女達の話に耳に傾ける機会が多くなっていた。
 さすがに二度目ともなると私も一方的に聞きに回るのではなく、積極的に彼女達と「会話」を楽しんだ――なんてことはなかった。
 彼女達の心の内に溜まった不安は、たった一度の訪問では吐き出しきれないほどのものであったらしい。
 結局彼女達の予定していた「会話」のほとんどは自分自身の胸中の吐露で終わることとなり、私の頭の中には「二度あることは三度ある」という日本人にはお馴染みの諺が思い浮かぶのであった。
 そんな第二次駆け込みラッシュとも言うべき状況において、しかし彼女達の話の内容は以前と比べ多少の違いを見せるようになっていた。
 一方的な独白であることには変わりはないのだが、その独白の中に他人の存在が出てくるようになったのである。
 つまりは前回の話がひたすらに自身の内面を曝け出すものであったのに対し、今回のそれは視野を外に向けた、自身を取り巻く人や環境についてが主な内容となっており、語る彼女達の表情もまた以前の思いつめたそれとは違い非常に明るいものになっていたのであった。

 彼の日常における女性への振る舞いもまた、“Bar Andante”におけるそれと同様であることを知ったのは、彼女達の自身を取り巻く人々へと話が及んだ際に、彼の話が出てくることがあったためである。
 彼の立場上その存在が話に登場するのは、攻略の最前線からさほど離れていない上層から私を訪ねて来た女性客のそれに限られたものであったが、彼女達が彼のことを話す際の表情を見るに不快な思いをした者はいないようであり、また話を聞く限りにおいてはむしろ楽しい人物として認識されているようでもあった。
 店の外においてもなお、そのナンパと呼んでいいのかどうか判断に困る行為により女性達を楽しませている彼の姿を想像するに、おそらくはこの店におけるその姿と相違ないのだろう。
 なればやはり彼のその「ナンパ行為」は、単に相手を楽しませるために行っているのではないかと思われる。
 すなわち彼の思惑は、私を頼って店を訪れるような心の内に自らを取り巻く環境への不安を抱えた人々へと「笑い」を提供することではないのだろうかと、次第にそう考えるようになっていったのであった。

 他人の抱えた不安を取り除くことはできないが、その不安と共に生きていくための活力を与えることはできる。
 ともすれば傲慢であると捉えられかねない行為であるとは思う。
 しかし彼のその立場からは大きくかけ離れた立ち居振る舞いや、どこか憎めない性格が嫌味なく相手に「笑い」をもたらすことは、私自身を含め彼に「ナンパ」されたことのある人々にとっては身をもって知るところである。
 周りからナンパ気質の軽い男と笑われようとも、むしろあえてその評価に甘んじ、道化を演じて人々に笑いをもたらす。
 それこそが私とさほど年齢が違わないと思われる彼の、アインクラッドにおける「大人」としての在り方なのではないだろうか。
 ちなみに若い女性相手の際のその緩んだ表情はおそらくは素なのであろうが、それもまた「笑い」の提供者たる道化の姿として一役買っているのが、彼の憎めない性格を表している。
 


 あくまで「店を訪れてくれば相手をする」といった程度の心持ちの私にとって、道化を演じ自発的に人の心に動かす彼の行為はとても滑稽に、しかし同時にとても尊いものに感じられる。
 実際のところ彼のその滑稽な役回りの真意が本当に私の考えるようなものであるのかは定かではない。
 一度正面切って問いただしてみたい気もするのだが、私を含め若い女性客の前における彼の緩んだ顔を見ると、この楽しい「笑い」の場においてそのようなことは瑣末な事であると言われているような気がするのも、また事実である。

 結論として彼の真意の是非については、彼の口から語られるまで私の胸の内に仕舞っておくことにする。
 その意図が明らかになるその時までは、道化を演じる彼のステージに魅入られた客の一人であろうと思う。
 彼のいない平日の夜、今日もどこかで人々を楽しませているであろう道化の男を思いピアノを弾きながら、私はそんな密かな決意をするのであった。




第4話「いつもの笑顔で」終



[33088] 第5話「人間ってそんなものね」
Name: ゆうきゆう◆20c5fc97 ID:c65e2fe7
Date: 2013/06/06 23:55
 店の重い扉を、全身を使って押し込むように開き来店したその小さな客は、まるで帰りの遅い父親を迎えに来た幼子のようで、平日の夜にしては程よく入った客の視線を釘付けにした。
 もともと若い女性客の来店が少ないここ“Bar Andante”においても、まだ子供とも呼べる程に幼い少女の姿には、私はもちろんのこと、無愛想という言葉の意味を身をもって表しているかのようなこの店のマスターですら、驚きの表情を浮かべているようにも見えた。
 その思わぬ感情の発露に、少女へと向けていた意識を今度はマスターへと傾ける。 
 NPCの感情表現システムについて、ゲームの開発の過程でどの程度の遊びを持たせているのかは分りかねるが、これはまた現在扉に身を預けた状態で不安そうに店内を見渡している珍客に、勝るとも劣らない程にレアな光景である。

 おそらくは初めて訪れるのであろうバーの雰囲気と、無遠慮に投げかけられる視線に萎縮しているのだろう。
 少女は今しがたその小さな体を目一杯使って開いた扉を、そのまま閉じて店を出て行こうとしている。
 その様子をマスターへと向ける視線の端で捉えた私は、雇い主の初めて見せる表情に思わず顔がにやけてしまいそうになるのをこらえながら、少女へと声をかけるため店の入り口へと向け一歩踏み出すのであった。





アインクラッドにぬくもりを・第5話「人間ってそんなものね」





 現実世界に則して考えた時、この仮想世界における家族に相当するものはなんであろうか。
 ゲーム内に囚われの身となった一万もの人の内、現実世界における知人、それこそ友人と呼べる程に親しい人間が共にいた者もいるだろう。
 兄弟、恋人など家族や、それに類する存在が傍にあった者もいたかもしれない。
 それこそ万に一つの可能性を挙げるとすれば、夫婦で囚われの身になるという稀有な例も考えられる。
 そのような人々にとっては互いを心の寄る辺とすることで、周囲が阿鼻叫喚の巷と化す中、他のプレイヤーよりも一歩も二歩も先んじて、この過酷な世界が今や自身にとっての「現実」であると認識すると同時に、不完全ながらもこの「現実」における自己を確立することができたのではないだろうか。

 しかしながら、残る多くのプレイヤーにとっては一年と数ヶ月前のあの日、近しい人々との強制的な別離の痛みを味わわされることとなる。
 私は両親と。そしてつい先日“Bar Andante”において再会を果たしたエギルは己が配偶者と。
 あって当然の日常と、いて当然の日常の象徴たる家族は、本当に突然に我々にとって渇望してやまない存在となったのであった。

 ゲームという娯楽の特性上、ただでさえ年若いプレイヤーの数は多く、ましてやまだ未成年のプレイヤーたちが強制的な別離によって否応なしに感じることとなった不安と絶望、そして周りの人々を含む仮想世界に対する強い拒否と警戒の心は、「現実」となってしまった世界における確固たる自己の確立を妨げる。
 もちろんそれは年齢の如何に関わらず、等しく全てのプレイヤーに起こりうる心の揺れではあったものの、やはり感情の振れ幅が大きく不安定な年若いプレイヤーに顕著であった。
 そしてこの「現実」に頑なに異を唱え続けた者たちがどうなったか。
 我々がアインクラッドに囚われてから、わずか一月の間に散っていったプレイヤーの数が彼らの末路を物語っている。
 なまじっか周りに多くの「他人」がいるからこそ助長された寂寞の思いを胸に抱いたまま、彼らは自身にとっての正なる「現実」を夢見ながら、この異の地で果てていったのであった。

 だが「現実」たる仮想世界に異を唱えた人々も、皆が皆命をすり潰していったわけではない。
 散っていった者たちと同種の思いを抱きつつも、なんとか生き抜いてきた人々も存在する。
 彼らの命運を分ける要因となったものは何だったのか。
 それはきっと、「その日の夕飯に何を食べるか」のように取るに足らない、しかしこんな世界で生きるうえではとても重要な、ちょっとした楽しみを見出せたか否かだったのではないだろうか。
 ほんの小さな活力が、すり減らし続けていた彼らの心を、完全にすり潰される瀬戸際で食い止めてきたのであろう。

 物理的な危機とは別の、精神的な側面において生と死をかけた綱渡りを行っていたプレイヤーたち。
 そんな彼らとは対照的に、この過酷な世界をここまで生き抜いてきた人々の多くには、やはり心の寄る辺となる家族の存在があったのではないかと思う。

 では、ここアインクラッドにおける家族とは何か。
 その答えは、この世界の一年と数ヶ月の短い歴史を振り返ることにより、比較的容易に推察できる。
 おそらくは多くの人々が「ギルド」と答えるのではないだろうか。
 そもこのゲーム内におけるギルドの起源を考えてみれば、そこには過酷な世界を共に生き抜くための運命共同体という目的が存在する。
 もちろんギルドによって設立の際の名分や、設立後のスタンスは趣を異にしているのだろうが、しかしながら「共にある仲間を欲する」という大前提は、数多あるギルドに共通のものとして挙げられるのではないだろうか。
 ある一定以上の水準に達したギルドの多くが、メンバーの「家」たるギルドハウスを購入せんとする慣習こそが、彼らにとってギルドというものがこの世界における仲間であり、かつそこからさらに一歩踏み込んだ「家族」であるということを示している。

 一方、ギルドに属していない人々についても彼らなりの心の寄る辺は存在し、この仮想世界における「家族」としての役割を担っている。
 例えば職人系プレイヤーにとっての自身の店であったり、“Bar Andante”を訪れる常連達にとってのお酒であったり、はたまたその他、別の形の何かであったり。
 それらは人の形を取るものとは限らない。
 現実世界における近しい人々との別離を迎えることとなってしまったプレイヤー達が、この仮想世界において、ぽっかりと空いてしまった自身の隣の席を何で埋めるのか。
 千差万別の形の「家族」を糧に、皆この世界で生きている。
 そして彼女もまた、仮想世界ならではの「家族」を得たプレイヤーの一人である。



 店を出て行こうとする少女を何とか宥めすかし、店の中へと招き入れることに成功した私ではあったが、今度はまた別の問題に頭を捻ることになってしまう。
 少女の連れである。
 私の案内で店内奥のカウンター席に腰を下ろした少女の肩の上には、少女自身を遥かに凌ぐ珍客が鎮座していた。
 その種族としての凶暴なイメージとは裏腹に、柔らかそうな綿毛に覆われた体は、空色と表現しても差し支えない程に薄く透き通った蒼。
 そしてその体の色とは相対する、まるでルビーが埋め込まれているかのような赤い瞳。
 小柄ながらも、広げて空を翔たならばさぞかし華麗で、かつ種族としての壮大さを誇示するのであろうその両翼は、現在は小さく折り畳まれている。
 魔法と並ぶファンタジーの代名詞。
 ある時は人類の頼もしい味方として、またある時は人類に絶望を届ける死神として、古今東西さまざまな冒険物語において人々を虜にしてきた「竜」と呼ばれるモンスター。
 それが愛玩動物もかくやと言わんばかりの極小の体躯でもって、あろうことか少女の肩を止まり木としているのであった。

 目の前の非現実的な光景に思わず頭を抱えそうになる私ではあったが、しかしビーストテイマーと呼ばれるプレイヤーが稀にではあるが存在することは知っていた。
 本来であれば敵性であるはずのモンスターを幸運にも飼い馴らすことに成功した彼らが、自身の「使い魔」を伴う姿を、私も幾度か目撃したことがある。
 なれば、本来敵性であるはずの人間に付き従う目の前の「竜」も、おそらくは少女の使い魔なのだろう。
 己が主人と同じく、自分が今いる場所の雰囲気に不安を覚えているかのように、その小さな頭を小刻みに動かしながら、周囲を見渡す小竜。
 その様子を観察していた私の視線に気付いたのか、

「えっと……。この子はピナっていいます。あたしの大事な友達なんです」

 そう言って肩の上の小竜を見つめる彼女の目はどこか誇らしげで、その「友達」という言葉からは、彼女が自身と小竜との関係を単なる使い魔と主人のそれよりも、さらに踏み込んだものと感じていることが窺われた。
 奇しくもそれは、私と禿頭の雑貨屋店主の間にある、この世界で生きるうえでの信頼関係を彷彿とさせるものであり、仮想世界の象徴とも言えるモンスターとそのような関係を築き上げる彼女の心情は、非常に興味深いものがある。
 彼女のような幼い少女が、どのような経緯でこんな場末の酒場を訪れるに至ったのかは分からないが、これも何かの縁である。
 その辺りの事情を肴に、今夜はこの可愛らしい珍客と親交を深めてみるのも良いかもしれない。

 が、その前に、今最も気にするべき点が他にある。
 “Bar Andante”はペット同伴の入店を許可しているのか否か、である。
 仮にも「竜」をペットと形容してよいものかどうかという点については、また別に議論の余地がありそうな気はするが、それはさておき一般的な日本人の常識に照らし合わせるならば、飲食店へのペットの同伴はあまり歓迎されないのではないだろうか。
 日本以上にペットを真に家族の一員として見る文化基盤の整った欧米ですら、ペット同伴を許可しない飲食店は少なくない。
 そう思い、先程から店のマスターが何かしらの言葉を発するのではないかと身構えていたのだが、とりたててそのような様子は見られない。
 珍客の来店というショックから立ち直った彼は、いつものごとくただ黙々とグラスを磨いている。
 文字通り、この店の支配者である彼が何も言わないのであれば、この店におけるペットの同伴は、とりたてて問題になるような行為ではないのだろう。
 そも現実世界における飲食店の「ペット入店お断り」も、よくよく考えてみれば食品衛生上の問題に端を発するものである。
 菌という概念が存在せず、食中毒など起こりようがないこの仮想世界の潔癖性なそのあり方は、衛生管理という側面からペットの入店を断る理由がないことを意味する。

 そう自らの中で結論付けると、私は改めてペットの飼い主へと視線を向ける。
 先程彼女を店内へと誘う際に交わした自己紹介によって、少女がシリカという名であることは既に聞き及んでいた。
 未だ店の雰囲気に慣れないのか、不安げな表情を見せる彼女の容姿や年恰好、肩の上の小竜に、そしてその名。
 非現実的な光景に衝撃を受け、ついでに今更と言えば今更な現実世界と仮想世界における常識の齟齬に思考のほとんどを割いていたことにより、すっかり少女自身に対する注意が疎かになっていたが、おそらくは以前に噂で伝え聞いたところの「竜使いシリカ」で間違いないであろう。

 ただでさえ幸運なプレイヤーである証を与えられたビーストテイマーの中においても、「竜」などという最上級の幸運を得た少女。
 その幼さもあいまって、幸運の証たる紋所を振りかざすことにより、自分が特別な存在であると思い込んでしまう可能性は想像に難くない。
 事実、そんな彼女の噂は、その異名とともに私の耳にも届いていた。
 しかしながら、今現在私の目の前に座る彼女の様子を鑑みるに、噂にあるような、祭り上げられた者特有のある種の傲慢さなどは感じられない。
 慣れない店の空気に萎縮していることを差し引いたとしても、彼女がそんな態度をとるようには見えないのである。
 ましてや己が使い魔を紹介した際に見せたあの温かな眼差しからは、彼女自身のぬくもりが私にもひしひしと伝わってくるようだった。
 一人と一匹の関係が、「大事な友達」なんて言葉で簡単に片付けられるようなものでないことは、その言葉に乗せきらなかった分の想いを視線に込めていたのであろう様子からも窺える。
 プレイヤーとは違い、真にデータ上の存在でしかない使い魔に、それほどまでに心を預けることが出来る心情が如何なるものであるのか。
 そんな私の疑問に対する答えは、いつものように無愛想極まりないマスターの注文を促す声への、少女の返答から始まった。



「“ルビー・イコール”って名前のお酒はありますか?」

 その言葉を耳にした私は、しばし呆気にとられてしまった。
 よもやかように幼い少女の口から、具体的な酒の銘柄が飛び出してくるとは思ってみなかったためである。

「……副次的効果のない、同じ味のものなら」
「あ、はい。お願いします」

 しばし逡巡した後、まるで同じ醜態を二度は晒してなるものかと言わんばかりに、全く表情を崩すことなく少女に向かって首肯してみせるマスター。
 そしてそれに頷き返す少女の顔にも、とりわけ迷いは見られない。
 そんな彼らとは対照的に、今回もきっちりと驚かされてしまった私は、それまで向けていたそれとは別の意味を込めた視線を少女へと送ってしまう。
 幼い少女が特定の酒を求めて、わざわざ場末の酒場まで足を運ぶ。
 彼らのやりとりから察するに本来ならばその酒には、おそらく筋力や敏捷力など、この世界がゲームたる所以でもあるプレイヤーの個々の能力値を向上させる効能があるのだろう。
 ゲームのプレイヤーとしての常識に照らし合わせるのならば、少女はその効能にあやかりたいがためにこの店を訪れたのだと考えられる。
 しかしながらその可能性は、やはり先程の彼らの短い言葉のやりとりから否定されてしまう。
 ここ“Bar Andante”のメニューに並ぶ“ルビー・イコール”なるその酒は、マスターの言葉によれば味だけを真似た単なる嗜好品に過ぎないらしく、そして求めた少女もまた、単なる嗜好品としてのそれを欲しているらしい。
 店を訪れる客に対して、その個人的な事情を探るような無粋な真似は、あまり褒められたことではないのだが、やはり彼女のように幼い少女が酒を求める、その理由への強い好奇心が表出してしまったのだろう。
 口には出さずとも、傍から見れば私の顔には明確なはてなが浮かんでいたはずである。
 その無言で問うた「何故?」という声を察したのか、

「ある人……。あたしとピナの恩人との、想い出の味なんです」

 そう噛み締めるように告げる彼女の表情は、まるで修学旅行の夜に気になる異性について話すティーンエイジャーそのもので、「ある人」に対する想いを雄弁に語っていた。
 しかしながら、その言外に伝わってくる甘酸っぱい感情とは裏腹に、おそらくは十代前半と思しき彼女が「想い出の味」に酒の名を挙げるという言動の齟齬に、これも仮想世界ならではの光景かと、私は思わず苦笑してしまう。
 そんな私の表情を、自身の説明不足によるものだと思ったのか、彼女は慌てた様子でまくし立てるように経緯を語り出した。

 幼くして過酷な世界に囚われの身となってしまった彼女にとって、現実世界において飼っていた猫と同じ名を与えられた小竜は、長い間唯一無二のパートナーであったこと。
 自身の浅慮から思わぬ危機を招き、その結果小竜を死なせてしまったこと。
 さらには彼女自身も死を覚悟する状況に陥るも、「ある人」に救ってもらったこと。
 そして、死んでしまった小竜を蘇生するためのアイテム入手に助力してもらったこと。

 事前に考えてきたわけではないのだろう。
 つっかえつっかえ紡ぐその言葉からは、助けてもらったことに対する恩義以上に、先程同様「ある人」自身への想いが透けて見えた。
 幼いながらも己が使い魔のみを心の寄る辺として何とか生き抜いてきた彼女のこと。
 その「大事な友達」を失ってしまった痛みと悲しみを、これ以上はないという形で癒してくれた王子様に対して、単なる憧れを超えた感情を抱いてしまうのも無理からぬことである。
 話に夢中になるあまり、彼女は自身の前にいつの間にやら置かれていたカップに、まだ手もつけていない。
 透明のカップから覗く赤い液体と、微かに漂うシナモンの香り。
 現実世界で言うところのホットワインに近い印象のその飲料が、おそらくは彼女にとっての「想い出の味」、“ルビー・イコール”なのだろう。
 少し時間が経ってしまったそれは立ち上らせる湯気の量こそ減らしてはいたものの、視覚的に温かみを訴えるその赤色は、まだまだ春を迎えそうにないアインクラッドに住民にとってひどく魅惑的に映った。
 そんな酒の魔力に意識を半ば以上持っていかれつつあったせいか、はたまた一生懸命という単語が服を着ているかのように次から次へと言葉を紡ぐ彼女の、ティーンエイジャー特有の純粋な好意に当てられてしまったのか。
 もはや私への説明のためというよりも、自身が想い出に浸るためといった風情の彼女の一人語りに、ついつい口を挟んでしまう。

 すなわち、その人物のことが好きなのか、と。

 ふいに投げかけられた問いに、面食らった表情を見せる彼女であったが、その言葉の意味を理解するやいなや、みるみるうちに顔を赤くしていく。
 その慌てぶりや、不慮の事態に出くわした猫もかくやといった様子であり、あたふたとした所作に呼応するかのごとくひょこひょこと揺れる、耳から少し上の辺りで結った短いツーサイドが非常に愛らしい。
 どうやら彼女が「竜使いシリカ」と祭り上げられていた要因は、その異名である「竜使い」という点のみに起因するものでもないようだ。
 庇護欲をかきたてられる存在に対し、当人の意思はともかく構ってやりたいと思ってしまうのは、老若男女問わず共通の性であろう。
 この時の私はきっと、「竜使いシリカ」などという大層な名で呼ばれるプレイヤーではない、単なる「シリカ」という名の年下の女の子を、温かく見守る気持ちを次第に芽生えさせつつも、しかしそれでいてからかいがいのある友人に対するような、少し意地悪げな笑みを浮かべていたように思う。



 直前の自身の醜態をごまかすようにカップを口へと運んだシリカは、すっかりぬるくなってしまった液体を嚥下すると、おもむろに口を開いた。

「好き、なんだと思います」

 まだ若干赤みの残る顔のまま、そうぽつりと零した「好き」という言葉は、両手で包み込むようにして持ったカップの中へと落ちていった。
 それはまるで、カップへ注がれた液体に映る自分に確認をしているかのようで、シリカ自身、「ある人」に対する想いの種類をまだ測りかねている様子を窺わせた。

「年上の男の人って、やっぱりどこか少し怖くて。でも、その人は、キリトさんは全然そんなことなくて。もちろん助けてもらったってこともあるんですけど、それだけじゃなくて。温かくて、優しくて」

 シリカの口から告げられた「ある人」の、その思いもよらぬ名に私は三度驚かされるも、しかし再び話の腰を折るようなまねはせず、今度は沈黙に徹する。
 そしてそれと同時に頭の片隅では、トレードマークでもある黒の衣装に身を包んだ少年剣士の儚げな表情を思い浮かべていた。
 そう、以前に店を訪れた彼も、たしか今現在のシリカと同じ席に座っていたはず。
 アインクラッドという名の「現実」において、仲間の死という「現実」に直面した少年。
 その心は酷く摩耗しており、仮想世界のポリゴンで形作られた彼の体が、何かの拍子にがらがらと音を立てて崩壊していってしまうのではないかと、そんな印象さえ感じられた。
 あの日から数ヶ月、これまでのシリカの話から鑑みるに、少なくとも表面上は元気にやっているようである。
 彼がその折れる寸前だった心と、どのように折り合いをつけたのかは分かりかねるが、また人と交流を持てる程度に回復できたのであれば、それは何よりのことだと、私は心の中で密かに安堵の溜め息をつく。
 若い少年剣士のその後に思いを馳せる私をよそに、シリカは先程の自分の言葉を再確認するように頷いて、

「うん。やっぱり好きなんだと思います。でも、もしあたしにお兄ちゃんがいたらこんな感じなのかな、とも思っちゃって……。だからこの“好き”が、どんな“好き”なのかってことは、ゲームが終わって、現実世界でまたキリトさんと会うまではとっておこうかなって。それまでは、このシナモンの香りの想い出を胸に、ピナと一緒にまたがんばっていくつもりです」

 再会の約束もちゃんとしましたしね、そう言って笑う彼女の顔からは、この仮想世界をきちんと「現実」として受け入れ生きる者特有の、ある種のたくましさのようなものが感じられた。
 傍にはいなくとも、今やシリカにとっては小竜と並ぶ、アインクラッドにおける「家族」の一人である「ある人」と共に、この過酷な「現実」をこれからもきっと生き抜いていくのだろう。



 最後にボトルキープなどという、またもや年齢にそぐわない行為をやってのけ店を後にしたシリカを、これまた苦笑しながら見送った私は、その日のステージへと臨む。
 おそらくは彼女が見せた己が「家族」との信頼関係に当てられたのだろう。
 私自身の、この世界における仲間と呼べる人々の顔を思い浮かべながら、今夜の演奏を始めるべく、88の鍵盤へと指を下ろすのであった。




第5話「人間ってそんなものね」終



[33088] 閑話「Sophisticated Lady」
Name: ゆうきゆう◆20c5fc97 ID:ae8e07cd
Date: 2013/06/07 00:05
 気が付けば、いつも彼女はその席にいた。
 いつの間にか来店して、いつの間にかいなくなる。
 神出鬼没。
 そんな言葉がぴったりな彼女は、しかし神や鬼なんて存在から受ける印象とは正反対の非常に小柄な体躯で、それでいて一度存在を認識してしまえば、思わずちらりちらりと様子を窺ってしまいたくなるような抜群の存在感を放っていた。
 いると分かると同時に、こちらに存在を意識付けるその様は、神や鬼と言うよりもむしろ幽霊のようで、ふと気付いた瞬間にはいなくなっている不可思議さも彼女に対する印象に一役買っていたように思う。
 人通りの少ない小路地に位置するという、ここ“Bar Andante”の、ある意味での立地の良さもあり、思わずひやりとしてしまうような感覚を味わわせてくれる不思議な客。
 そんな彼女が店を訪れるようになったのは、怪談には季節外れの、日に日に冷たくなっていく空気に、アインクラッドの民となって二度目の本格的な冬の訪れを感じさせる頃だった。





アインクラッドにぬくもりを・閑話「Sophisticated Lady」





 七不思議、という言葉を日本人なら誰しも一度は耳にしたことがあるのではないだろうか。
 女子トイレには住人がいて、音楽室では縮れ髪の音楽家が夜目を輝かせ、人体模型は夜な夜な校舎を徘徊する。
 そんな、ひとつひとつでも十分に背筋が冷たくなるような不思議が、複数集うことによってそれ全体でひとつの大きな不思議となす。
 七個全てが明確に決まっている場合もあれば、七個には満たず残りは謎とされ、全てを知ってしまうと良くないことが起こるなど、様々なバリエーションが各地に存在する。
 先に挙げた例のように、現代においては学校という舞台との親和性が非常に高い怪談であるが、しかし学校のみならず病院や墓地など、一般社会から一定程度切り離された閉鎖的な空間においても、その手の話は枚挙にいとまがない。
 
 非日常的な場所において、不思議なことが起こる。
 ならば非日常の具現とも言うべき、ここアインクラッドにおいても「不思議なこと」は存在するのだろうか。

 目の前に映る光景も、指先に伝わる鍵盤の感触も、喉元過ぎるお酒の味わいも、全てがデータとして管理、運用されているこの場において、迷信やオカルトといった類の不思議な事象が果たして起こりうるのか否か。
 仮に起こるのだとしても我々の置かれている状況を鑑みるに、やはりそこには人の手による作為を感じずにはいられない。
 その疑念に対する答えの一つとして、ゲーム、とりわけRPGと呼ばれるジャンルに慣れ親しんだ人であれば、「イベント」という単語が頭をよぎるのではないだろうか。
 モンスターを倒してレベルを上げ、ボスに挑む。
 ともすれば一本調子になりかねないRPGにおいて、プレイヤーに新鮮な刺激を与え、ゲームプレイへの意欲を高めるため、各所に様々なタイミングで用意されている種々のイベント。
 現在、私たちが文字通り体を張ってプレイしているこの“ソードアート・オンライン”にも、当然のごとく数多くのイベントは存在する。
 RPGというゲームジャンルの特性上、やはりその多くは冒険を優位に進めるためのアイテム入手を目的としたものなどで占められているが、その他にも仮想世界での生活に彩りを与えることを目的としたようなものも見受けられる。
 中には「納涼」なんてものを目的とした怪談イベントがあったとしても、おかしな話ではないだろう。

 この仮想世界において実際に不思議なことが起こるのかどうかはともかくも、人の集まる場において、噂と、それに起因する恐怖はつきものである。
 人通りの少ない道や暗がりをなんとなく忌避してしまう心は、私を含め多くのプレイヤーにも共通して言えることなのではないだろうか。
 ゲームの外であろうと内であろうと、オカルト話には基本的に半信半疑の立場をとる私ではあっても、いざ自らの目の前に不思議の種が蒔かれると、さすがに動揺してしまう。

 ここ最近、“Bar Andante”に出没する正体不明の小柄な人物。
 ようやく、店でピアノを弾くことが、私にとっての「日常」と呼べるようになってきた今日この頃。
 その人物の存在は、芽生え始めた禿頭の雑貨屋店主への想いと並んで、目下のところ最大の懸案事項となっているのであった。



 私が“Bar Andante”でピアノ弾きのアルバイトを始めて、最初に身に付いたことは「来店した客の顔を確認する」ということである。
 アルバイトとは言ったものの、「ゲーム内での」という注釈がつくそれは、現実のそれとは違い、システム上規定された項目をただただ機械的にこなしさえすればよかった。
 私の場合に則して言えば、決められた時間に店を訪れてピアノを弾きさえすれば、極端な話、客が全くいなかったとしても仕事の成否に関係はないのであった。
 その時店に居合わせた客の反応なんてものは、言ってしまえば私の自己満足以外のなにものでもなく、当然のごとく報酬に反映されることもない。
 しかしそうは言っても人前でのパフォーマンスである以上、気になってしまうのが人情というもの。
 ピアノを弾くという行為そのものから一歩踏み込んで、演奏家としての楽しみを見出しつつあった私にとっては、その想いはなおさらであった。
 なればこそ、ピアノ弾きという本来の仕事と並んで「客の顔を見る」という行為を大切にするようになったのは、当然の帰結だったのだろう。

 この店の扉は見た目にも重さにも比例して、開閉の際に非常に存在感のある音を立てる。新たに客が来店すれば、仮にピアノの演奏中であろうと見落とすことはない。
 にも関わらず件の人物は、気が付けばいつもいつの間にやら来店し、いつの間にやらいなくなっている。
 そのような場面が一度のみならず二度、三度と重なるにつれ、さすがに気になってくる。
 しかし、本当にいつもいつの間にか店を去っているということと、不審な存在に対して「触らぬ神に祟りなし」という言葉が頭をよぎり、その正体を探ることに躊躇いを感じてしまっていた。
 後々エギルあたりにでも話して聞かせれば豪快に笑い飛ばしてくれることうけあいだが、この時の私は、やっと手に入れたこの仮想世界における自分の居場所に影を落としかねない存在を、直視する勇気を持てないでいたのであった。

 しかしそれと同時に、自分の居場所にそんな不安の種を放置しておく勇気もなかった。
 その日、演奏中に例のごとくいつの間にか来店していた件の人物と目が合ったのも、陳腐な表現になってしまうのだが、偶然などではなく、必然だったのかもしれない。
 にやり、という表現がこれほどまでに的確な表情も、そうはないだろう。
 視線の先の人物は、やはりその小柄な体に反比例するかのような、少なくとも私にとっては抜群の存在感を放っていた。



 いつもは気付けばいなくなっているその人は、しかし今夜は演奏が終わった後にも、その存在を保ち続けていた。
 鍵盤に落としていた視線を上げると同時に再び視界に飛び込んできたその表情は、先ほどと変わらぬ、にやりとしか表現のしようがない笑みであった。
 果たして藪を突付いて出てくるものが何であるか。
 逡巡の後に覚悟を決め、その笑みに向けて歩を進めた私にかけられたのは、こちらは小柄な体に見合う鼻にかかったような甲高い声だった。

「はじめまして、でいいのかナ」

 これまでも、おそらくはお互いの存在を認識してはいたのだが、こうやって顔を付き合わせるのは初めてである。
 その体躯から当たりは付けていたものの、そも正体不明の人物が女性であるという確信さえも、たった今耳にした声によって得たのであった。
 初めてまじまじと見た彼女の顔には何らかの意味があるのだろうか、ヒゲとしか形容できないペイントが施されている。
 いつも目深にフードを被る彼女の顔をきちんと確認したことはなかったが、フードの隙間から見え隠れするヒゲが無意識のうちに目についていたのだろう。
 小柄な体に反比例した存在感は、そのせいだったのかもしれないと一人納得するのと同時に、そのような奇妙な化粧を施す人物に思い当たる。
 あくまでゲームらしく、やれアイテムだ装備品だと、なにかと即物的なこの仮想世界において、情報という実体のないものを商売道具とする変わり者。
 通称「鼠のアルゴ」と呼ばれる情報屋である。



 アルゴ曰く、ここ23階層がゲームとしての“ソードアート・オンライン”攻略の最前線であった頃から、アインクラッドにおいては少し毛色の違った、この“Bar Andante”を気に留めていたらしい。
 なるほど、たしかに酒類の提供に重きを置いた飲食店は珍しいだろう。しかしながら、食事を主に酒類も提供する店は多く存在する。宿屋に併設されたレストランなどは、そのほとんどがこの類のものではないだろうか。
 そのような店と比較して、別段注目すべき点があるようには思えない。それこそよほどの酒好き相手でもない限りは、店として魅力的と呼べるかどうか怪しいところである。
 強いて挙げるとするならばピアノの存在があるが、触れても音が鳴るどころか鍵盤を押し込むことすら出来ないピアノなんて、普通は私と同じようにただのオブジェだと思うのではないだろうか。
 そんな疑問を呈した私に対し、

「店の名前がちぐはぐだったんダ」

 そう答えた彼女の言葉は、更なる疑問を呼び起こした。
 “Bar”という言葉を冠した店が、酒を主に提供する。そこには何の不思議もない。
 たしかに音楽に慣れ親しんだ人間でもなければ、“Andante”という言葉は耳慣れないかもしれないが、それは単なる名前であって、わざわざ気にかける要素ではないように思う。
 新たな謎を投下した彼女は、頭を捻る私の様をやはり人を食ったような笑みを浮かべながら眺めていたが、やがて私が降参といった風に両手を挙げると、手に持ったグラスで唇を湿らせ、おもむろに口を開いた。

「“Andante”っていう言葉は、この店の名前としてはぴったりだナ。ゆったりとした雰囲気といい、最近では心地よいピアノの音色も聴かせてくれることといい、ナ」

 そう言うと同時に、こちらに向けていたにやりとした笑みをさらに深いものにするアルゴ。
 私は自身の顔が徐々に熱くなっていくのを感じた。演奏家としての日常をスタートさせて、未だそれほど時間の経っていない現在において、まだまだ客からの直接的な賛辞には慣れていない。
 そんな私の反応が予想通りのものであったのか、彼女は満足するように軽く頷きつつ続きを口にする。

「だけどナ、ピアニストを相手に釈迦に説法かもしれないが、“Andante”ってのはイタリア語なんだヨ。そんで、イタリアでは酒場のことは……何て言ったカナ。とにかく“Bar”とは言わないんダ。“Bar(バール)”は酒も置いてるけど、軽食やコーヒーがメインの喫茶店のことを指すことが多いナ」

 オイラも聞きかじっただけなんだけどナー、と言いつつ頬をかく彼女の姿は、その異名の通りの小動物のようで非常に愛嬌がある。
 情報という商品の特性上、人との接触も多いであろう。私の目に映る情報屋のそんな姿は、おそらく彼女の顧客の心を和らげ、円滑な対話を進めるのに一役買っているに違いない。

「そんな訳で店の名前にちぐはぐな感じを受けたんダ。まあ、なんでそうなったのかは分からないケド、たぶん分かりやすさを重視したんだろうナ」

 たしかに店の立地や雰囲気を鑑みるに、片仮名で“バー・アンダンテ”では風情も何もあったものではないだろう。ましてや、本来の酒場を意味するイタリア語ではプレイヤーに不親切すぎる。
 ならば今とは全く異なった名前でもよかったのかもしれないが、アルゴも言った通り“Andante”という言葉は、この店の名前として非常にしっくりくるものがある。
 そういった諸々の要因を踏まえると、現在の名称はちょうどいい落としどころだったのではないだろうか。
 真偽の程は定かではないが、自身が勤める店についての裏話のようなものを知ることができるのを嬉しく思うと同時に、店に対する愛着がより一層増すのを感じる。

 そんな私にとって吉となる情報を届けてくれたアルゴだが、何故今になって再び店を訪れるようになったのか。
 先ほどの話を聞く限りでは、攻略の最前線が23層から上に移って以降、店を訪れたことはないらしい。
 その問いに対し、彼女が視線を向けた先にあるのは、店名の由来の一つと推測される黒光りのピアノ。

「鳴らないピアノが鳴ったと、そんな話を聞いたんでナ」

 そう言って顔はピアノに向けたまま、横目でちらりとこちらを見やるアルゴ。
 ……つまりは私が原因というわけである。
 正体不明と怯えていた不安の種は、実際のところなんのことはない、無自覚ながらも私自身が蒔いたものであったのだ。
 そして新たな情報の発芽をアルゴ自身が確認しに来たと、ただそれだけの話だったのである。



 情報屋と呼ばれる彼女が、ゲームとしてのこの世界の攻略データ、それこそ各種アイテムや装備品等に直結する情報を主な商品としていることは知っていた。
 同時に、それによって得た利益や情報を基に作成した「攻略の手引き」をNPC経営の雑貨屋等で無料配布し、この世界で生き抜くことに窮する多くの低レベルプレイヤーに還元していたこともまた知っていた。
 私自身、低階層の住人であった頃に、彼女一流の謳い文句が裏表紙に記された「攻略の手引き」にはお世話になっていたのである。
 しかし、攻略とは直接関係の無い、今回のような情報まで扱っているということは知らなかった。
 そのことについて純粋な驚きの意を示した私に対し、彼女は破顔一笑すると、こう答えた。

「ゲームの攻略を考えれば、ステータスを上げたり、良い装備を手に入れることは当然大事なことだナ。でもオイラたちを含めSAOプレイヤーは皆この世界で生き、日々を送ってるンダ。ゲームプレイヤーとしてのレベル上げだけじゃなく、人としての日々の暮らしの質を上げることも同じくらい大切なんだヨ。心に遊びがない奴は、すぐに擦り切れてしまうだろうからナ」

 その言葉からは、彼女が殺伐とした過酷なこの世界において、人々の日常を潤滑に回すための歯車の一つであろうとしている姿勢が感じられた。
 その人を食った笑みの下で、実際にどのように考えているのかは分からないが、結果として彼女の行動に救われているプレイヤーも少なくないのであろう。

「まあ、今更こんな下の階層の酒場の情報を売ろうとは思ってないサ。ただ、これも何かの縁ダ。依頼してくれれば、格安で店の宣伝なんかも引き受けるヨ」

 職業柄、顔が広いであろう彼女のこと。噂を流してもらうだけでも、良い宣伝になるだろう。
 自分のピアノを、より多くの人に聴いてもらいたいという欲求は、日々育まれてきてはいるものの、しかし現状は自然に来店してくれる客で十分である。
 本来であれば雇われの身である以上、店の繁盛は気にかけるべきなのだろうが、NPC経営の店舗であることを鑑みれば、その気遣いも無用だろう。
 アルゴの提案に断りを入れると同時に、替わりというわけではないが、彼女に対する最大の疑問を問うてみる。

 すなわち、神出鬼没の謎について。

 自分が幽霊か何かと思われていたことについて、アルゴは気分を害するどころか、むしろ大笑いしつつ、なんのことはないといった様子で答えた。

「この店の扉を開けるには、オイラでは筋力が足りなくてナ。他の客が出入りするタイミングで出入りしてるンダ」

 その彼女の言葉は、私の疑問に対する明確な答えは出してくれたものの、しかし同時に更なる謎も与えてくれた。
 なるほど人一倍小柄な彼女のこと、出入りする人の影に隠れるように入店することは可能だろう。そしてもしこれが現実であれば、その細腕では、この店のような重い扉を開けることはできないかもしれない。
 しかしこの世界がゲームである以上、鍵がかかっているなど何かしらシステム上の制約でも無い限りは、どれだけ重そうに見える扉で、実際にどれほどの重さを感じようとも、開閉に支障をきたすことはないはずである。
 そんな、私の顔に浮かんだ疑問の色を感じ取ったのか、

「気付いてなかったのカ? ここの扉を開けるには一定以上の筋力ステータスが必要なんだヨ」

 そう告げるアルゴの顔には、もはや私の中でヒゲの化粧と並んで、彼女のトレードマークと化しつつある独特のにやりとした笑みが浮かぶ。
 その思ってもみない答えにぽかんとする私を嘲笑うかのように、件の扉は軋みを上げ、今宵もまた新たな客を迎え入れるのであった。




閑話「Sophisticated Lady」終



[33088] 第6話「Faces」
Name: ゆうきゆう◆20c5fc97 ID:ae8e07cd
Date: 2013/09/29 00:13
 今日もまた“Bar Andante”の扉が開く。
 ぎ、ぎ、と油の抜けた蝶番の音が、自らの存在を全力で主張するかのように、開店まもない店内に響き渡る。
 ピアノの演奏中であろうと無遠慮に響くその音には、はじめのうちは閉口させられたものだが、マスターの格好がお約束なら、店の立地もお約束とくれば、場末感漂う環境音も一種の様式美かと、最近ではそう思うようになっていた。
 私がここ“Bar Andante”でピアノを弾き始めて早ひと月。本格的な冬の訪れは、街の灯りの活躍の時間を、少しばかり早めていた。
 夜の帳に追い立てられるように、帰路を急ぐ人々。
 そんな現実の世界と何ら変わらぬ人々の様子を見るたびに、私はひどくほっとする。
 非日常の塊であるこの世界における、なんてことない日常のひとこま。
 「非日常の中の日常」は、私にとって大きな活力となる。

 宵の訪れは前倒しになっているものの、夕食にはまだ早く、私のステージまでもまだ間がある。
 こんな時間帯から訪れる客はそうはいない。
 閑古鳥の鳴く店内で、この穏やかな雰囲気を肴に演奏前のひと時を過ごすのが、私の密かな楽しみになっていた。
 しかしながら今日ばかりは、そのどこかもの悲しい鳴き声に耳を傾けている余裕はないらしい。
 半開きの扉からは、微かに漂う雨の匂いと、覗く黒。
 全身を黒い衣装で包んだ、まだ年若い少年。
 その顔には、外の闇に負けず劣らずの暗い表情が張り付いていた。





アインクラッドにぬくもりを・第6話「Faces」





「人を、殺してしまったんだ」
 
 黒の少年の第一声は、来店後たっぷり十分は経った頃であった。
 見えない何かに胸を締め付けられているかのように、無理やり吐き出された言葉は、とても小さい声であったが、しかし他に客のいない店内によく響いた。
 その発言の危うさに、思わずどきりとさせられる。
 初対面の人間から聞かされる言葉としての是非の問題もあるが、他の客の耳に入ってしまうと、あまり愉快な事にはならないだろうという、客商売としての危機感もあるからである。
 殺し、殺されといった、日本人の我々からすれば現実味の薄い言葉も、ここアインクラッドにおいては十分に現実たり得る。
 この過酷な世界では「冗談だろう」「テレビの見過ぎだ」と、お決まりの台詞で一笑に付すことはできないのだ。
 NPCであるマスターは気にすることはないかもしれないが、客からしてみればたまったものではない。
 物騒な言葉が飛び交うような店では、おちおち酒も飲んでいられないだろう。
 いきおい周りを見渡し、私は胸を撫で下ろす。分かってはいたものの、私たち三人の他に人影はない。
 がらんどうの店内をこんなにもありがたがったのは、後にも先にもこれっきりのことだったように思う。



 「師が走る」とも表現されるこの時期の特色は、 仮想世界においても損なわれることはないらしい。
 年の瀬を迎えアインクラッドの民もまた、皆忙しない日々を送りながらも、どこか浮ついた様子を見せていた。
 常にはない華やいだ街の雰囲気は、人々の心を惹きつける。
 ゲーム攻略の最前線から程遠く、お世辞にも栄えているとは言い難い第23層主街区も、どこから湧いて出たのであろうか、「人が人を呼ぶ」と言わんばかりの盛況ぶりを見せていた。
 大通りから外れ、寂れた小路地に位置する“Bar Andante”。
 普段はひっそりとした空気に集う物好きな常連達も、この時期ばかりは人恋しくなるものらしい。
 聖夜を境に、マスターと二人きりの時間が増えていった。
 いよいよ店周辺の静寂は深まり、冬に入り勢力を拡大する闇夜は路地を呑み込んでいく。
 やんごとない事情を抱えた少年が、人目を避けて飛び込むには、うってつけの場所だったのだろう。

 ただし、そこに私さえいなければ、だが。

 思えば店の扉を開けた時から、病人のような顔で、目の焦点さえも定まっていなかったものの、しかしその意識はたしかに私に向けられていた。
 思いつめた表情から察するに、一人になれる場所を求めて来たのではないか。なれば来店以来、その息すら吐けぬような緊張感を保ち続けているのは、もしかすると私がいたからではないのか。
 あえて私のすぐそばのカウンター席に座ったのも、「一人にしてほしい」という無言の圧力だったのかもしれない。

 そんな風に彼の沈黙の真意を推し量った私は、店を出ることに決めた。
 本日のステージをキャンセルすることにはなってしまうが、どのみち他に客が訪れる公算は小さい。マスターに対し申し訳なく思う気持ちを除けば、大した問題ではない。
 一瞬だけ、禿頭の雑貨屋店主の顔が頭をよぎったものの、彼のホームはここよりだいぶ上の階層である。
 彼が、その一見近寄り難い風貌とは裏腹に、人好きのする笑顔と、すべてを包み込んでくれるようなおおらかさを持っていることを、私はよく知っている。
 そんな彼に惹きつけられた人々が、彼を慕い、周りを囲う様子は想像に難くない。彼は彼で、自分の街できっと賑やかに過ごしていることだろう。
 外は雨のようだ。仮想世界であるがゆえに風邪をひくことはないが、寒いのは嫌だな、なんてことを思いながら席を立とうとした瞬間。
 黒の少年から、その物騒な第一声が発せられたのであった。



 自分の目の前にいる人物が突然、重大な罪の告白をした場合、人はどのような反応を示すだろうか。
 見知った間柄ならば、詳しく話を聞こうとするかもしれない。
 あるいは見知らぬ相手ならば、まず我が身の安全を確保しようとするかもしれない。
 もしここが現実世界であるならば、携帯端末を取り出し、日本人なら誰もが知る三桁の数字を入力するかもしれない。
 しかしながらこの仮想世界において、最も一般的な反応は別に存在する。
 「カーソルの色を確認する」である。

 ご丁寧に五感の全てが再現されたこの世界において、しかしやはりここはゲームの中であるのだということを、我々に日々実感させるものがある。
 ゲームのプレイヤーであることを指し示すカーソルである。
 RPGに限らず、様々なゲームにおいて見慣れたそれが、実際に人の頭上に浮かぶ様には、この世界に囚われ一年以上が経った今なお、違和感を拭えずにいる。
 もちろん私の頭上にも同様に浮かんでいるはずで、相手から見た私も、相応に滑稽な印象を与えているのだろう。
 そんなごくごく見慣れた存在であるカーソルだが、こと“ソードアート・オンライン”においては、ゲームのプレイヤーであることを指し示す以外に、ある重要な情報源として機能している。
 犯罪者であるか否か。
 ゲーム上の仕様の一つとして、通常はグリーンであるカーソルが、罪を犯した者については、その色をオレンジに染め上げる。
 この仮想世界において、一般に犯罪者を“オレンジプレイヤー”と呼称する所以である。
 本来ならば穏やかなぬくもりを与えてくれるはずのその色は、しかしここでは畏怖と蔑みの対象となる。
 “オレンジ”の烙印を押された者は、現実世界よりも明確に、人々の暮らしから爪弾きにされる。

 一口に犯罪者とは言ったものの、やはりこれまたゲーム上の仕様により、一般的に思い浮かぶ犯罪行為の多くは制限されている。
 窃盗ひとつとっても、被害者の同意が無ければ、相手の所有物を物理的に自分の物とすることはできないのだ。
 被害者の同意がある時点で、それはもはや窃盗「罪」とは言えないだろう。
 他の行為についても似たようなもので、その多くは行為自体が不可能とされている、もしくは世界観に則して罪とは認められていない。
 そんな塩梅で世界の秩序は保たれている。
 結局のところ、この世界における罪とはすなわち――

 殺人。この一点に尽きるのである。



 少年の第一声を耳にした私は、この世界の多くの人がそうするであろう、相手の頭上に目を向けるという行動を選択した。
 幸いなことに、そこには色鮮やかなグリーンが浮かんでいる。
 その事実に二重の意味でほっとすると同時に、再度少年の真意を推し量る。
 先程の言葉は比喩表現だったのだろうか。
 現実世界とは違う理で縛られたこの世界においても、人に直接的に害を成す行為は禁忌とされている。
 多少の例外はあるものの、武器をもって他人を殺傷した者には、相応の報いがある。
 そのための“オレンジ”。
 誰の目にも明らかな犯罪者の証なのである。
 そも“オレンジプレイヤー”は、ゲームの仕様上、各層主街区に立ち入ることはできないとされている。彼がこの場にいる時点で、「違う」ことは明白である。
 考えを巡らせるうち、知らぬ間にしかめ面になっていたのだろう。そんな私の表情を、自分の発言に対する怯えととったのか、

「い、いや、俺が殺したんじゃないんだ! ……いや、でもやっぱり俺が殺したんだ」

 相矛盾する言葉を発し、一瞬激した後、再びうなだれる少年。
 その言葉とは裏腹にグリーンのままのカーソルや、何かを悔いるかのように深く沈んだ言動から察するに、なにやら複雑な事情があるようだ。
 正直なところ、他人の、それも初対面の人間の厄介かつ繊細な問題に、首を突っ込みたくなどはない。
 しかしどうやら、涙を見せることが一番の屈辱であるような年頃の少年が、今にも泣き出しそうな表情で、意を決して吐き出した言葉を、「私の知ったことではない」と切り捨てられるほど、私の神経は太くないらしい。
 浮きかけていた腰を再び椅子に下ろす。
 ふたつ隣の席から少しほっとしたような息が漏れるのを感じながら、沈黙を保つマスターにふたり分の注文を行う。
 外は雨のようだ。甘く、温かい冬の飲み物が、彼の口と心を少しはほぐしてくれることだろう。



 キリトと名乗った少年曰く、この店のことは、とある情報屋から聞いたとのこと。
 その情報屋という単語から、ひとりの小柄な女性の姿を思い浮かべる。
 今のこの状況へと至るために、いったい彼に何を吹き込んでくれたのであろうか。彼女の弁舌さわやかな様を考えると頭が痛い。
 しかしながら、身体の内側から発する痛みに、なんとか必死に耐えているような表情を前にしては、根掘り葉掘り聞き出すわけにもいかない。
 小動物を思わせる彼女一流の化粧姿を思い浮かべ、心の中で恨み言を並べる。
 私は、ここ“Bar Andante”において、ピアノ弾きを生業としているのであって、悩み相談所を開いた憶えはない。
 もし次に出会うことがあったとしても、あの人を喰ったような笑みで、さらりと流されてしまうであろうことは容易に想像できる。
 そうなったならば、それはそれで腹が立つことうけあいである。
 たった今彼女のために用意した恨み言は、目の前の温かい飲み物で流してしまうことにする。

 自身の保身のために仲間を死なせてしまった。
 事実一割、後悔九割といった彼の言葉を端的にまとめるとこうなるのであろうか。
 嘘を吐いているわけではないが、全てを話したわけでもない。
 事情を全く知らない私でさえも、はっきりと分かる程度にぼかされたその言葉は、明らかに懺悔を目的としたものであった。
 まったくの初対面の相手に対し、詳らかに出来る話ではないことは、おぼろげに語られた内容からも推察できる。
 私もそこをつつくつもりはない。
 否、より正確には、「人の死」に触れたことのない私では、つつくどころか、直視することさえも辛く厳しい現実だったのである。
 現実世界はおろか、この過酷な仮想世界においても、幸運にも近しい人間を亡くした経験のない私にとって、仲間を失うことへの恐怖や悲しみは、想像するだけで胸が押し潰されそうになる。
 ましてやその責任の一端が自分にあるという事実は、どれほど彼の心に痛みを強いているというのだろうか。
 一言、また一言と、自分を責める言葉を重ねるたびに、彼の身体が悲鳴を上げ、ひび割れていく姿を幻視する。
 この世界で死を迎えたとき、人は細かいポリゴンの欠片へと姿を変え、次の瞬間に霧散するのだという。
 いとも簡単に命が消え去るその様は、居合わせた人間に何の覚悟も、気持ちの整理もさせないまま、ただゲーム進行上のプログラムのひとつとして、無慈悲に、淡々と、急すぎる別れを強要する。
 「死」とはそんなものだと、人伝に聞いたことを思い出す。
 私の妄想に過ぎないと分かっていながらも、次に店の扉が開いたならば、その錆びつき軋んだ音が、ひび割れた彼の身体を粉々に砕く、最後のひと押しになってしまうのではないかと不安でしかたがない。
 別れは人を強くする、とは誰の言葉だったか。
 もちろん彼の場合、単なる別れでないことは、おぼろげながらも理解している。
 仲間と死別したという事実、それ以上に自分のしでかしてしまったことの重さに、ただひたすら喘いでいるのだ。
 人が強くなるために、こんなにも痛み、苦しみを伴わなければならない。
 果たしてその「強さ」とは、それほどまでに価値のあるものなのだろうか。

 未だ青年への入口に、足を踏み入れてもいないような年若の少年。
 どうしようもない理不尽な現実に対し、直接受け止めるか、あるいは全てから目を逸らし逃げ出すか。おそらくは、このふたつしか道はなかったのではないだろうか。
 結果彼は前者を選んだ。
 いろいろなものの力を借りて自らの気持ちを誤魔化し、だましだまし受け流していく、なんて狡いやり方も知らない彼は、被虐による贖罪を願ったのだ。
 仮想世界で命を落とした者が、現実世界でも実際に死を迎えたのか否かは、当然のことながら、まだ誰も知らない。
 この事実を論拠に、実は仮想世界で死んだ者から順に、現実世界での覚醒を迎えているのではないか、という楽観論も存在する。
 私がここでそれを口にすることは簡単である。さほど深い親交の無い相手に対し、通り一遍の言葉でその場をしのぐことは、まさに「狡いやり方」の筆頭だからだ。
 しかしながら、それはあくまで互いに「狡いやり方」を当然の手段として、暗黙のうちに認める関係であるからこそ許されるのである。
 現在私の目の前で、刻一刻と傷ついていく少年が、そうであるとはとても思えない。安易な慰めなど、きっと彼は欲していない。
 「仲間の死」という、人生の中でも最も重く、かつ繊細な問題。加えてそれが自らの責任であるという後悔の念。
 同様の経験をしたことのない私には、彼にかけられる言葉などありはしなかった。



 結局のところ私に出来たことは、彼の懺悔の切れ目を狙って、飲み物のおかわりを勧めることだけであった。
 それさえも、言葉による自傷行為を続ける彼の心を癒すためのものではない。
 漏れ出る彼の痛みに当てられ続ける私自身の心が、一息つくためのものでしかなかったのだ。

 やがて、演奏の時間が訪れる。
 未だ痛みを発し続ける少年に対し、中座を申し出るのには大変な勇気が必要であった。
 しかし同時に、仕事という大義名分を得たことによって、この苦行から脱却できることにほっとしていたのも事実である。
 苦しくも、だが誰にでも起こり得る現実を、私は「見たふり」をして受け流すことを選んだ。
 目を逸らしての「見てないふり」ではない。
 本当はこれっぽっちも見てはいないくせに、「私は見てますよ。ちゃんと向かいあってますよ」と、そんな対外的なポーズをとったのである。
 「時間いっぱい君の話はきちんと聞かせてもらったよ」という、卑怯なポーズを。
 自身の心の痛みも厭わず、全てを受け止めようとする彼とは対照的に、私は私の弱い心を守ることに腐心したのだった。

「突然押しかけたうえに、こんな話を聞いてくれて、本当にありがとうございました……あいつに聞いていた通りの人で良かった」

 中座を申し出た私に対する彼の礼の言葉も、素直に受け取ることが出来ない。
 「聞いてあげた」のではなく、「聞いていることしかできなかった」のだから。
 少年自身は心からの感謝をしてくれているのだとしても、私が彼に卑怯なまねをしたことには違いない。
 来店時よりも幾分晴れやかな表情になった彼の純粋な厚意に、申し訳なく思う気持ちが募る。彼の言葉に登場した「あいつ」、情報屋の彼女に対しても同様である。
 どのような思惑があったにせよ、私を、そして何よりもここ“Bar Andante”を紹介してくれた彼女に、泥を塗るような行為をしてしまったのだ。
 もし次に会うことがあったとしても、きっと彼女は先ほど並べた恨み言と同じく、謝罪の言葉も受け取りはしないだろう。
 そのことを思うと、せめて彼にだけでも、という気持ちが生まれるが、しかしそれには私のなけなしの理性が待ったをかける。
 多少は柔らかくなったとはいえ、まだまだ暗く辛そうな表情を見せる彼を、突き放すような発言などできるはずがない。
 相手の心情を慮ることもなく、ただ謝罪をして自己満足を得る行為など、この場において、これ以下はないほどの下策だろう。
 つまるところ、始めてしまったポーズを最後までとり続けることが、私が彼に示すことのできる唯一の誠意だったのである。



 最後にいま一度感謝の言葉を残し、少年は店を去っていった。
 誰もいない店内に、物悲し気なピアノの音色が鳴り響く。この過酷な世界で散っていった人々へ、せめてもの手向けになればと、私は鍵盤と向きあう。
 これもまた、所詮は私の弱い心を慰めるための、自己満足にすぎないということを知りながら。




第6話「Faces」終



[33088] 最終話「スタンド・バイ・ミー」
Name: ゆうきゆう◆20c5fc97 ID:5665cd15
Date: 2014/02/28 21:08
 “Bar Andante”の重い扉の、開いた先に立つ少年。
 それが誰であるのかということに、はじめは気づくことができなかった。
 およそ一年ぶりに見る彼は、昨年同様全身を黒一色に染め上げて。
 しかしながらその表情は、昨年末の痛みに耐えるそれとは正反対の、「生」に充ち満ちていた。
 彼への対応の狡さを、実のところずっと後ろめたく思っていた私も、そんな彼の活きた表情に少しばかり心が晴れていく。
 私に気付くと同時に目礼を寄越す少年。その後ろには、ひとりの見目麗しい少女が続く。
 ふたりが笑みを交わす様からは、こんな過酷な世界においてなお、互いを思う心のぬくもりを感じたような気がした。





アインクラッドにぬくもりを・最終話「スタンド・バイ・ミー」





 等しく全ての人々が、己の身を守り、または他人を害すことのできる凶器を、肌身離さず持つ世界。
 そんな世界で無条件に相手を信じられる関係を築くことの難しさは、アインクラッドの民にはきっと言わずもがなのことだろう。
 現に刃物を持った他人から、いつ切りかかられるか分からない。
 「圏内」と呼称される町や村の中であれば、身の安全がシステムにより保証されてはいるものの、誰も彼もが凶器をぶら下げて歩くその様は、我々日本人にとって「異常」と言うよりほかない。
 「異常」は人々の心に変調をきたす。
 恐怖と、そしてそれに起因する警戒という心理的な壁の高さは、現実世界のそれとは比べ物にならず。
 各々の築き上げた壁は、そっくりそのまま他人との関係に反映されていく。
 より希薄で、より淡白な人付き合いへ。
 仮想世界に囚われたのち、それがこの世界での標準となるのに、それほど時間は要しなかった。

 しかし、だからといってひとりきりで生き抜いていくには、この世界は少しばかり過酷にすぎた。
 虜囚の身となった後、幾ばくかの月日も経たないうちにいなくなってしまった人々の数。
 その事実は、残された人々が後生大事に抱えていた僅かばかりの「余裕」を、少しずつ削りとっていった。
 仮想世界における生と死への疑心も、そこから生まれる楽観論も、実際に人が間引かれいく現実の前では気休め程度にもならない。
 次は自分の番かもしれない。そう思ってしまったが最後、立派に築き上げたはずの壁は徐々に脆くなっていく。
 自らを守るためのものが、次第にその意味をなさなくなっていく様に危機感を覚える人々。
 ひとたび負の感情を抱えてしまった彼らには、ふたたび強固な壁を作り直す気力なんてものは、もはやどこにもなかった。
 完全に崩れてしまう前に、脆さを隠す「何か」を求める。
 ことここに至り、たったひとりでこの難局を乗り切ることの厳しさを痛感した彼ら。
 「自分以外の何か」に縋らなければ、生きていくことさえ難しいという人間社会の根本に、ゲームの世界においてなお、立ち返ることとなったのだった。

 そうして彼らが見出したのは、皮肉なことに彼ら自身が最も恐れていたはずの他人であった。
 崩れた壁を直せないのなら、よそから持ってくればいい。
 MMORPGというゲームジャンルにおける慣習に相違なく、互いに背中を預け戦うギルドなどの集団が次第にその数を増やしていったのも、結局のところ、また必然だったのだろう。
 全方位に高く築いた壁の一部をあえて崩すことにより、他人との外交窓口とする。
 「過酷な世界を生き抜く」という目的を達成するための、手段としての信頼関係が、この世界での新たな標準となったのだった。



 生き抜くための手段のひとつ。
 そんな打算に基づく信頼関係を善しとする世界においてさえ、「相手を信頼すること」そのものを目的とする人々がいなくなることはなかった。
 一緒にいたいから一緒にいる。
 単純だが、しかしだからこそ理屈の入り込む隙間のない感情を、理屈に支配されたこの世界で、人々は捨て去ることはなかったのだ。
 今現在、私の視線の先で笑みを交わす少年少女など、きっとその最たる例なのだろう。
 彼らの掲げる信頼と、打算としての信頼。
 信頼を預ける誰かと、信頼を一時見せるだけの誰か。
 両者を隔てるものはなにか。
 それは人々が心に宿したぬくもりの有無ではないだろうか。

 ここ“Bar Andante”で、ピアノ弾きという生業を得ておよそ一年。
 様々な人々との出会い、語らいの中で、幾人もの心にぬくもりを宿す人を見てきた。
 それは誰かを慕う想いだったり、大事なものへの想いだったり、はたまた譲ることのできない信念だったり。
 彼らは皆、アインクラッドで生きる意味を持つ人々であった。
 この仮想世界を、きちんと自身にとっての現実であると受け入れたうえで、そこから更に一歩踏み出そうとする人々であった。
 目に映る風景とは裏腹に、機械によって冷徹に支配されたこの世界においてなお、ぬくもりを持ち続ける人々であった。
 心に宿したぬくもりは、人が生きる寄る辺となり、また、同じぬくもりを宿した他者を惹きつける。
 そうして集まった人々は、自身のぬくもりでお互いを照らしあう。
 元来、手段としての信頼を出発点としていたはずのギルドやパーティーが、次第にその本質を変え、「家族」としての側面を持つようになっていったこととも、無関係ではないだろう。
 他者から向けられるぬくもりの心地よさは、私もよく知っている。
 互いに交わすぬくもりの尊さは、この過酷な世界において、何物にも代えられない生きるための活力となるのだ。

 しかしそのような人々の中にあっても、ふたりでひとつのぬくもりから暖をとる関係は稀であった。
 照らしあうだけに留まらず、互いのぬくもりが交わりあい、やがてひとつになっていく。
 きっとそこには余人には想像もできない程に深い絆があるのだろう。
 ぬくもりそのものが消えかけていた状態から、わずか一年で現状にまで至った黒の少年。
 それを喜ばしく思いつつも、彼をそこまで引き上げたのであろう連れの少女に、僅かな嫉妬心が湧き上がる。
 私や、以前店を訪れてくれたリズベットが至ることの叶わなかった頂へと、手をかけることに成功した少女。
 彼女には何の非もないことだが、どうしても禿頭の雑貨屋店主の顔を思い浮かべてしまう。
 今この瞬間に彼が店にいないことに心の底から安堵する。
 そうでなければ、自分よりいくらかも年下の少女に抱いたこの醜い感情を、胸の中に押し止めておくことはできなかっただろう。
 彼らに醜態を晒さずに済んだ。その事実が何よりも私の心をほっとさせる。
 数ヶ月前、自身で決着をつけた想いを、今更掘り返してしまうことほど詮無いことはないのだから。

 ふと、以前に聞いたリズベットの身の上話を思い出す。
 たしか彼女の友人兼恋敵は、彼女自身と同い年ということであったはず。
 宝物を愛でるかのように語っていた「友達」についてのリズベットの言葉と、現在私の目の前に立つ凛とした少女の姿が、ほんの一瞬重なって見えた気がした。
 アインクラッドに暮らす若い女性の数は、そう多くはない。
 案外、彼女がリズベットが身を引いたという「友達」なのかもしれない。
 だがしかし、それを確かめるのは野暮というものだろう。
 私の疑義に対する答え合わせは、いつか偶然、彼らと私が一同に会すその日までとっておくことにする。



 黒の少年からアスナと紹介された少女は、彼の秘密主義に対する不満を冗談めかして口にした。

「キリト君、こんなに素敵なお店を知ってたこと、教えてくれなかったんですよ」
「いや、べつに黙ってたつもりはないんだけどな……」

 主にからかいの意を含んだ少女の言葉と表情に、少年は困ったような笑みを返し頬をかく。
 何気ないやりとりのひとつひとつから、彼らが気の置けない間柄であることが窺い知れた。
 柔らかな笑顔の応酬に、初々しいふたりの甘酸っぱさを感じながら、私は少年が前回来店した際の苦い経験を思い出す。
 あの時味わった無力感と罪悪感が、その後の人々との交流に影響を与えたことは間違いない。
 人と向き合うことの難しさを知った私が、客に誠実にあろうと思えたのは、ひとえに彼に対する贖罪の気持ちがあったからなのかもしれない。
 もちろん、そんなものは私自身の自己満足に過ぎないと、そう言ってしまえばそれまでのこと。
 しかしながらその贖罪の結果がシリカであり、リズベットであり、そして今日のキリトに繋がったのであれば、自己満足でも構わないと、私はそう思う。
 一年前同じ場所で痛みを共有したふたりが、一年後また同じ場所にて、今度は笑顔で酒を酌み交わす。
 その事実だけできっと十分だろう。
 彼も同様の想いを抱いていたのであろうか、一瞬の視線の交差の後、ともに苦笑いを浮かべる。

「なに、なに、どうしたの? なんでふたりとも笑ってるの?」

 女の勘というべきか、私と少年の表情に更なる秘密を嗅ぎとったのだろう、アスナが彼を問い詰める。
 相手のどんな些細なことでも知りたいというその姿は、まさに恋をする少女そのもので。
 この死のゲームの最前線で攻略の指揮を振るう、「閃光のアスナ」と称される女性として伝え聞く人物像との落差が微笑ましく、思わず笑みがこぼれてしまう。
 「怜悧」「苛烈」など、「閃光」に対する人物評を思い浮かべ、噂ほどあてにならぬものはないものだと、この一年で何度思ったかしれない感想を抱く。
 私の失笑を、からかいのそれと受け取ったのか、少女の感情の矛先が今度はこちらに向かう。
 第一印象の凛とした姿はどこへやら、想い人についてむきになるその姿は、思春期の少女特有の可愛らしさを存分に発揮している。
 表面上は怒りを見せていても、それさえも相手に対する一種の甘えであり、受け止める側も一見困った顔をしながらも、その実とても嬉しそうなのが透けて見える。
 そんなふたりの関係。
 それはこの過酷な世界においてさえ、彼らのような関係を築くことができるのだという希望の光であり、同時に、「至れなかった」私にとっては、ただただ羨ましいものであった。

 ひとしきり想い人を追及した後、自身の行為が場の雰囲気にそぐわないものだと感じたのか、ふいに咳払いをして、気恥ずかしげな表情を見せる少女。
 そんな年相応の微笑ましい様に、またしても笑みがこぼれてしまう。
 それに対する無言の抗議か、少女はじとっとした目を私に向け、追及から解放された少年は、やれやれといった態で首をすくめる。
 仲睦まじい少年少女と、ふたりを見守る年上の知己の図。
 今この一時だけは、殺伐とした現実を忘れさせてくれる、柔らかな空気が店内を満たしていたように思う。



 ふたりは現在、ここからひとつ下の階層に居を構えているのだという。
 ひとつ下、すなわち第22層は、自然に溢れた、アインクラッド随一の穏やかな環境であったはずである。
 殺伐とした世界におけるオアシス。
 きっとふたりの柔らかなぬくもりも、そんな環境下にあってこそ育まれたのではないだろうか。
 卑屈さや悲壮さをを微塵も感じさせない、その笑顔の背景を幻視する。
 この仮想世界の各地で、様々な「死」と向き合ってきたであろう彼らが、なんら気後れすることなく笑いあえる場所。
 前へ前へ、上へ上へと歩を進めている時には気にも止めなかったものが、ふと立ち止まって振り返ってみると、その実とても貴重なものであった。
 言葉にすると陳腐で、とりたてて特別な出来事でもない。
 しかし皆が生存に、帰還に血眼な世界で、「立ち止まる」「振り返る」という行為を選ぶことは、とても、とても難しいことのように思う。
 そんな難関を突破した彼らが幸福の極致にあるのは、なるべくしてなった、ごくごく自然な結果なのだろう。

 彼らが購入したという家の話を聞きながら、今度は私自身のことを顧みる。
 店で働き始めるにあたって断念したマイホームであったが、一年間の労働の甲斐もあってか、再び購入の目途はついていた。
 しかしながら、「ピアノ弾き」という居場所を既に手にした私にとって、もはやマイホームという響きは、それほど価値を感じるものではなくなってしまっている。
 加えて、結局のところアイテムとしてのピアノも、物件の付属としてのピアノも見つかることはなく。
 当初は少し物足りなく感じていた、店でのみピアノを弾くという日常を、今ではそれなりに満喫するに至っている。
 私の何気ない一言から、個人で所有できるピアノを探し回ってくれたエギル。
 途中経過を報告しに店を訪れてくれるたびに、申し訳なさそうにする彼には頭が下がる思いでいっぱいである。
 私の突拍子もない我儘に付き合ってもらい、本当に感謝の念に堪えない。



 穏やかな時間は続く。
 言葉で空間を埋めることを必要とせず、静寂をも楽しめるほどに成熟したふたりの関係。
 口を開いた際の初々しさとの落差もあいまって、この短期間で築き上げたふたりの絆の深さ、ひいては心のぬくもりを際立たせる。
 絶えず溢れる幸福感には正直なところ少々辟易しつつあり、昨年末とは別の意味で演奏の時間が待ち遠しい。
 このままの空気に晒され続けられるのは勘弁してほしいところだが、しかしキリトが別人のような姿を見せてくれたことは、改めて嬉しく思う。
 昨年末と同様の「待ち時間」という苦行であっても、暗い辛い痛みに当てられるよりは、よほど健全だろう。

 そうしてようやく演奏の時間が訪れる。
 まだまだ帰る気配のないふたりの様子は、演奏後も苦行の第2ラウンドが開始されるのではないかという微かな不安を与えてくれる。
 鍵盤の前に腰掛け、甘酸っぱい空気でいっぱいになった肺の中を入れ替えるように、深く息を吐き出す。
 第2ラウンドへの懸念にはひとまず封をして、今はこの柔らかな空気の中での演奏を楽しむことにする。
 相手に自分の全てを預けることのできるふたりの姿に、ぴったりな曲を贈ろうと思う。
 この過酷な世界に灯ったぬくもりに祝福を。





最終話「スタンド・バイ・ミー」終



[33088] エピローグ
Name: ゆうきゆう◆20c5fc97 ID:5665cd15
Date: 2014/03/04 00:29
 今夜もまた、アインクラッドの片隅でピアノの音色が鳴り響く。
 いつものごとく常連客でほどよく埋まった店内は、およそ一年という時を経て、穏やかな空気を熟成させていた。
 私の演奏に耳を傾けながら、ひとりちびりちびりと酒を舐める人。
 偶然出会った知人と、常連客同士で話に花を咲かせる人。
 決して返事を返すことのない店のマスターに、ぽつりぽつりと愚痴をこぼす人。
 誰もが皆、今日を生き、明日もまた生きるための心の洗浄をしている。
 かくいう私も、鍵盤に指を触れるたび、その澄んだ音色を鳴らすたび、少しずつ心が軽くなっていくのを感じる。
 数日後、ついにゲームがクリアされ、多くの痛みを伴いながらも無事現実世界へと帰還を果たすことになる私たち。
 今はまだ、そうとも知らずに私たちは、今日の想いを整理して明日へ備える。
 客の胸に、手にした酒に、そして何より私自身に、音は溶けていく。
 そのどこか物悲しい旋律は、数日後、唐突に鳴り響くゲームクリアを知らせる鐘の音を、予感させるようであった。





アインクラッドにぬくもりを・エピローグ





 雑踏の中、もくもくと歩を進める。
 二年ぶりの山手線は、人いきれでむっとしていて。
 御徒町の改札を出ると、少し胸が軽くなった気がした。
 街並みも、人の数も「あちら」が基準となってしまった私には、今現在自身の目に映る風景には、どうしても違和感を抱いてしまう。
 「あちら」と比べると東京は人が多すぎて、仮想世界から帰還してきて、私は初めて「人に酔う」という体験をした。
 人は多いし、空は狭いし、空気も良くない。
 そんな「こちら」だが、しかし踏みしめるコンクリートの地面の確かさは、私に安心を与えてくれる。

 どこか“Bar Andante”を思い出させてくれる小路地に、その店はあった。
 2年の時を経て、店がまだ残っていてくれた事実に胸を撫で下ろす。
 飾り付けの看板以外に、店であることを示すものはない。
 裏通りであっても、それなりに人がいる点は実に東京らしいものの、それを除けばアインクラッド第23層に帰ってきたような気にさせてくれる、そんな街並みと店構え。
 店の前に立ち、ひとつ深呼吸。
 客観的に見たならば、入店をためらうその私の姿は、かつて“Bar Andante”の前で立ち竦んでいた時の姿を思い出させるものだったのではないだろうか。
 逡巡の後、意を決して店の扉に手をかける。
 二年ぶりの“ダイシー・カフェ”は、当時私の心を惹きつけたままの雰囲気であった。
 カウンターの内側には、手にした布巾でグラスを拭くマスターの姿。
 その姿に、私にとっての「ふたり目のマスター」のことを思い、刹那の間、懐かしさがこみ上げる。
 今現在、私の視線の先で驚きの表情を見せる「ひとり目のマスター」。
 久々に見るマスター姿の彼は、すぐにその特徴的な禿頭の下を人好きのする笑みに変える。
 そうして放たれた言葉からは、以前「あちら」で再会した際に交わした握手と、同じぬくもりを感じたような気がした。

「いらっしゃい」




アインクラッドにぬくもりを・完



[33088] あとがき
Name: ゆうきゆう◆20c5fc97 ID:5665cd15
Date: 2014/02/28 21:11
「アインクラッドにぬくもりを」を最後までお読み頂いた皆様、ありがとうございます。

「バーで音楽でSAO」をテーマに書き始めた本作。
中学生の頃に書いた黒歴史必至の小説のようななにかを除けば、はじめて取り組んだ作品を最後まで書き上げることができ、私個人としてはとても満足しております。(えらい時間はかかってしまいましたが……)
私の趣味をこれでもかと捻じ込んだこの自己満足の結晶を、皆様に少しでも楽しんでいただけたのでしたら幸いです。
願わくば、拙作をお読みくださった原作未読の方が「原作も読んでみようかな」と、また、既読の方も「もう一度原作読んでみようかな」と、そう思って頂けたのでしたら、いちSAOファンとしてこんなに嬉しいことはありません。

最後に、改めまして拙作をお読み頂き、本当にありがとうございました。
またご縁がございましたら、その際には再びお付き合い頂けますと幸いです。











※以下、蛇足(という名の自己満足)※

各話のタイトルに使用させて頂いた楽曲の紹介を簡単に。


○第1話「上を向いて歩こう」
言わずと知れた日本の名曲。
辛い状況にある人自身の心境を、穏やかに、しかし明るく、暖かく歌った作品。


○第2話「いとしのレイラ」
“ギターの神”“スローハンド”など、数々の異名を持つ英国出身のギタリストの代表作。
彼が親友の妻に横恋慕した際に作った曲。
曲名や彼の名を知らずとも、その特徴的なギターフレーズは、一度は聴いたことがある人が多いのではないでしょうか。


○第3話「泣いて 泣いて 泣きやんだら」
20数年以上、音楽シーンの第一線で活躍する、日本を代表する二人組ロックユニットの楽曲。
失恋した女友達を慰めながら、当人に対してひそかに温めていた恋心を明かすべきか、明かさぬべきか悩む優柔不断な男の心境を、濡れたギターの音色に乗せて歌う、彼らの真骨頂とも言うべきロックバラード。


○第4話「いつもの笑顔で」
「ガッツだぜ!!」などのヒット曲で一世を風靡したロックバンドの、ボーカリストのソロ楽曲。
最近では某飲料会社のCMで、歌いながら美味しそうに発泡酒を飲んでるイメージが強いですね(笑)
「僕はいつだって君のことを思っているから、辛いことがあっても、いつもの笑顔でいてほしい」という男の願いを、どこかほっとさせてくれるような穏やかな旋律に乗せて歌っています。


○第5話「人間ってそんなものね」
特徴的な声が魅力の女性シンガー・ソングライターの楽曲。
タイトルから受ける妥協や諦観めいた印象と、退廃的な曲調から、一見(一聴)陰鬱な印象を受けますが、実際は「辛いことは誰かと助け合うことができるし、嬉しいことは誰かと共有できる。人間ってそんなもんだよね」という非常にポジティブな歌。


○閑話「Sophisticated Lady」
アメリカ出身のジャズピアニストの楽曲。
「Sophisticated」の意味の受け取り方によって、タイトルのニュアンスは何通りにか分かれると思いますが、ジャズという音楽から受ける印象や、なにより拙作のアルゴさん的には「世慣れた女性」「学のある(教養のある)女性」といったところでしょうか。
時代を超えて様々な人々が演奏してきた、ジャズのスタンダードナンバーのひとつ。


○第6話「Faces」
ジャズを起源に持つフュージョンという音楽において、日本の三大バンドに数えられるグループの楽曲。
某TV局のF1中継の中で、かの“音速の貴公子”のテーマソングとして用いられていました。
同バンドの代表曲であり、F1中継全体のテーマソングでもあった「TRUTH」が、これからレースに挑む選手や、見守る観客の高揚感を表現した楽曲であるのに対して、レース中の選手の勇壮さと、常に死の危険と背中合わせにある悲壮さとをないまぜにした、格好よさの中にどこか哀愁漂う、そんな楽曲。
不幸にも“貴公子”がレース中の事故で非業の死を遂げてしまったことにより、以後、鎮魂曲的な意味合いを持つようになりました。


○最終話「スタンド・バイ・ミー」
言わずと知れた世界的な名曲。
「君さえそばにいてくれたなら、なにが起きたって平気だし、なにも怖くなんかないんだ。だからずっとそばにいてくれ」という非常にシンプルな、かつ力強い歌。
「一度は聴いたことがある洋楽」なんて話題になると、必ずと言っていいほど名前が上がりますね。
楽しげなベースとパーカッションから始まる印象的なイントロは、まさに誰もが「一度は聴いたことがある」のではないでしょうか。


○エピローグ「ラ・カンパネラ」
エピローグにタイトルは付けませんでしたが、作中で主人公が弾いていた曲(という設定です)。
「カンパネラ」とは「鐘」を意味するイタリア語。
「悪魔に魂を売り渡して、その超絶技巧を手に入れた」と評される天才バイオリニストの楽曲を、これまた超絶技巧を持つピアニストがピアノ曲としてアレンジしたもの。
はじめはドアベル程度のちりんちりんという小さな音、そこから徐々に徐々に音は大きくなり、最終的には教会の大鐘ががんがん鳴り響くような楽曲。
澄んだきれいな音でありながら、しかし同時に無機質で非情な鐘の音が全編通して表現されています。


以上!


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