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[33236] 魔法使いの夜のSS (8/27SS追加、8/30項目微修正)
Name: 32-265◆29996d79 ID:d411aa3f
Date: 2012/08/30 00:40
<予めご了承ください>

・TYPE-MOONのPCゲーム「魔法使いの夜」を原作としておりネタバレが多分に含まれるかもしれません
・原作よりキャラ崩壊がありお読みになられる方のイメージにそぐわない可能性もあります
・今後予定されているらしいとの噂の「魔法使いの夜」2部・3部が公開された際に矛盾や齟齬が生じるかもしれません……というか生じるでしょう

○「魔法使いの長い夜(短編)」について
・某所での台本形式のネタ、元は14行程度
・やおい
・短編なので続きを妄想するのは読者様のご自由です

○「とある結末」シリーズについて
・断片的連作、時系列ではなく投稿順に読むのを推奨
・冒頭からスイートではなくビター、カカオ98%くらいのチョコみたいな?
・まほよ2部3部がない今だからこそうんぬん
・とりあえず完結した
・「後日談」と「IF」については必要な方だけお読みください(特に後者)



[33236] 魔法使いの長い夜(短編)
Name: 32-265◆29996d79 ID:d411aa3f
Date: 2012/05/25 03:34
穏やかに緩やかに、時間が流れていく夕食と就寝までのその間。
見慣れた風景のように久遠寺有珠は読書に耽り、その隣で静希草十郎は未だに慣れない紅茶を味わっていた。
「…………むぅ」
そして一人、唸る。
茶葉によって微妙に味や香りが違うのは少しずつ解ってきてはいたものの、それの何がいいのかまで判らないのが彼らしい。
肉がグラム700円から味が変わるのは実感できても、物によっては更にその上のグラム数千円という茶葉の繊細な味わいは贅沢すぎて感覚が追いつかないのだろう。
紅茶に限った話ではないが、その道の一級品を愛でるにはそれを愛でられるだけの感性の研磨も必要。
当然それに見合う資金(愛情)も必要、しかしながら二つが草十郎に揃う日はまだ未定である。
「…………」
故に納得のいかない表情で少年は本当に美味しいのはあの砂糖漬けではないのかと、有珠の動きを見やる。
そこに。
久遠寺邸には似つかわしくない何かを肩に引っ掛けて、もう一人の住人、蒼崎青子が勢い良く現れた。
その見慣れぬ姿に草十郎はふと視線を奪われ――――る前に、彼女の鋭い眼光を受け強制的に我に返らされる。
いつにも増して不機嫌さを滲ませる少女は入り口間際で一瞬の攻防を済ませると、微動だにしないもう一人を一瞥、肩から前方の床面へと担いでいたそれを下ろし、命の火を点す。
途端に響き始める喧騒、それに合わせるかのように青子は草十郎へと再び視線を固定し、その肢体をうねらせた――――








――――魔法使いの長い夜――――








事の発端は些細なことだった。
ごく稀にある二人の魔女の諍いが、その飼い犬の知らぬうちに始まっただけの話。
お互いが相手を論理という名の武装で撃破しようと試みたものの、決定打をできなかった。
過去には何度か力で我を押し通そうとしたこともあり、巻き込まれた飼い犬がこれまた死線を掻い潜ったりもしたのだが、今回は割と平和的に事が運んだ。
流石に何度も同じ過ちを繰り返すほど、彼女達も愚かではない。
しかしながら、その着地点が当初の流れから大きく外れてしまってたのは両者の想定外だった。

厳密に言えばハメられた、と。

二人の魔女のうち、片方はそう述懐するだろう。

そこまでするつもりはなかった、と。

残りの片方は、後悔の念に苛まれた事だろう。
彼女達は己が未熟さに頭を抱えながら、それでも自らの意志を貫き通さんが為に勝負に挑むのである。


以下、今回の飼い犬の所有権争奪戦のルール(魔術的拘束力はあえて持たせなかったらしい)

1.草十郎を口説き(性的な誘惑含む)、その気にさせた方が勝利(その後の対応については各自判断)
2.1項の勝利は青子・有珠双方が客観的に認めざるを得ない草十郎の明確な発言および行動によって確定する
3.2項の条件を満たす為、勝負は青子・有珠・草十郎の三者が居る場で行う(つまり抜け駆けは御法度)
3.草十郎への魔術行使は禁止(魔眼、魔法含む。自己強化はあり)
4.直接的な誘惑は禁止(「ヤらせろ」「抱いて」など双方言えるはずもないが)
5.対象への過度の接近は禁止(接近は0.75mまで、接触した時点で反則負けだが草十郎からの場合はその限りでない)
6.上記3~5項の禁止事項について抵触したとしても相手にバレなければ負けにはならない


とどのつまり、北風と太陽が競う寓話の再現である。







「――――!?」
突然の騒音に何事かと草十郎は表情を硬直させた。
鼓膜を叩かれたでは表現として生温い、全身が暴音に揺さぶられたと少年には言えるものだった。
青子の見た目だけであれば、彼もここまで目に見える反応はしなかっただろう。
いつもの事ならば反応が間に合っているのかいないのか、表情を変える事無く「びっくりした」と所感を述べていたはず。
しかし彼女の用意した音響機がそれを許さなかっただけのこと。
彼女が大枚叩いて買った、発売してまだ半年も経たない最新のCDラジカセである。
その大きな特徴(ウリ)は腹の底に響く重低音を響かせる、高性能なウーハーにあった。
「――――っ」
掴みは上々――――狙い通りと口元を綻ばせ、青子は自身の動きに集中する。
挑発するかの様な仕草に意識を引かれ、草十郎は隣の少女の存在をひと時忘れてしまう。

――――それは彼が初めて見る、彼女が初めて魅せる、女の貌だった。

右の手が肩から腕、手首から指先へゆらりと波打つ。
爪先から這い上がるうねりは腰を二周し、持ち上げられた両腕と共に空へ開放される。
そこから大きく曲げられる膝、シンメトリーに開かれた太腿の健康的な白さが少年には眩しすぎる。
反射的に背けようとする眼差しを引きとめる性悪な笑み、彼が何度か見た事のある意味ありげな少女の顔。
しかし今見ているそれは何処かが違っていた、それが解らず、解ろうとしてか余計に引き込まれていく。
少女はここまでの薄着を少年の前でしたことが無い。
上は袖の無いタンクトップのシャツ一枚、下はスカートの下に履くスパッツよりも丈の短いホットパンツ。
たったそれだけ。
直前までは下着も抜いてしまおうかという考えも浮かんだが、流石に理性が働いて押し止めた。
全ては草十郎の隣で余裕綽々我関せずと平常運転を貫いている久遠時有珠に勝つ為に。
勝負になったからには持ちうる全てを活用し、策を巡らせ、その時に可能なベストを尽くすのが蒼崎青子の生き方である。
……そこまで徹底していてもまだ、どこかに甘さが残るのはその若さ故なのか。
彼女自身には判らない。
どちらかと言うまでもなく少年の身柄、つまるところの所有権は自分にあると彼女は思っている。
公言はしないが彼が首につけているそれは誰の目にも見える証左。
同じ学校に通っている分、有珠よりも接触時間は長く、世話を焼くことも少なくない。
元々これを殺さずに生かす方を選んだのは自分の独断であったし、それを彼女に認めさせる過程で死に目にも遭ったのだ。
それを今更横取りしようなんて泥棒ね――――その表現は誤りがあるな、と内心否定し一挙手一投足に意識を行き渡らせる。
「………………」
草十郎は青子の思惑通りに魅入られているのか、自分に視線を固定し、瞬きぐらいしか動きがない。
「…………」
それに応えるかのように、嬉しそうに眼を細める自分を彼女は認識する。
軽い喜悦と高揚感、鼓動を刻むリズミカルなダンスミュージックとの相乗効果もあるのだろう。
肌が熱を帯びているのは湯上りの一番艶の良いタイミングを選んでいるからだ。
普段は絶対に見せないうなじも髪を纏め上げてアップにし曝け出した。
ゆっくりと、蛇の這うような艶かしさで、扇情的に。
少年を心理的に追い詰めていく。
「――――――」
青子は今まで草十郎を一人の男として意識したことはおそらくない。
しかしこの状況はそうせざるを得ない、そうしなければ落とせないのだ。
だが“見て欲しいから頑張る”という受動的な発想ではない、“見せてやるからこれ以上が欲しいなら態度で示せ”という攻撃的発想である。
彼女は言葉なんて使わない、使った時点で負けも同じと思っている。
だからこそ徹底的に、ただただ純粋に、少年の本能に全身全霊で働きかける。
「…………ッ」
一方、少年は無意識に唾を飲む喉の感触に僅かながら理性を取り戻す。
胸の高鳴りはその全てを鼓膜を抜けて体に響くリズムのせいにはできないだろう。
目の前でその身をうねらせる少女の本心は相変わらず見えない。
珍しく、なんとなく機嫌が良さそうなのは感じられたが、それ以上は判断がつかない。
背筋のラインからのぞくうなじの白さにひと時、瞼を閉じさせられる。

――――これは、毒だ。

毒だと判っていながらも、彼はまた目を開けてしまう。
年頃の男子の正常な反応でもあった。
青子の挙動は踊りというには激しさもなく、リズムを無視した動きであり、流れている音楽も気分を昂らせるためのBGMにすぎない。
凛ではなく艶。
憧れを抱いた同居人の新たな側面を目の前にして、背筋を何か良くないものが這い上がる。
それは抗い難く、禁忌に満ちていながらも未知なるモノへの恐怖に酷似していた。
少女が椅子へしなだれかかるだけで柔らかくその胸部は形を変え、少年の思考は意に反して揺さぶられる。
魅せつけられる女の色香を感じないほど、草十郎は無感情でも無機物でも無い。
しかし目を逸らすのは依然として青い双眸が許さない。
かつて彼女の姉の魔眼に魅入られたように、意識を外せなくなってしまう。
ぼんやりと爪先から太ももへ視線で撫で上げる。
下着は汗で透けてしまい形が浮き上がっているのに気にする様子もなく、ともすればその中身さえ見えることを厭わないような振る舞い。
特に屈伸した時は短いズボンの隙間が……なんというか。申し訳なるくらいにきわどい。
そうでなくても無防備に晒されている手足の細さだけでさえ目に痛く、いつもならじっと見ているだけで首輪を絞められる状況だというのに。

…………どうしてこんなことになったのだろう?

今になってもっともらしい疑問にたどり着く。
偶然に助けられてやっと、草十郎の意識が青子から逸れた。
意表を突かれたのは間違いないが、落ち着いて現状把握をしてみれば明らかにヘンテコな状況だった
隣の有珠は動かない、否、青子の奇行に干渉すらしようとしていない。
本のページをめくる様はいつものように絵になっているが、こんな状況でそれは明らかに異常を示していた。
少年の知る少女であればこんな騒がしい現場をそのままにしておくわけが無い。
むむむ。と内心唸ってみる。
状況が解決しない時には視点を変えてみるのも一つの手だと聞いた事があるので、彼は素直に試してみることにした。

1.有珠がこの騒音を含む蒼崎の行動を黙認している。
2.普段であれば糾弾する振る舞いを黙認しているのだから何らかの理由がある。
3.黙認されている蒼崎はしきりにこっちの様子を窺う――――というか、何かを求められている気がする。

要約すると理由は全く見当が付かないが、両者合意の下で何らかの回答を自分に求めているのだろうか、と当たらずも遠からずな結論に三分かけて少年は達した。
彼女が自分に対し何か訴えかけているのは間違いない、しかしそれが全くと言うほど解らない。
きっとこちらが答えるまでこの状況が続くのはなんとなく彼にも想像できた。
考える時間がしっかりありそうなのはいいとしても、あまり長引くのはちょっと都合が悪い。
隣で沈黙している有珠がいつまで耐えられるか、知らぬうちに時間制限が定められていて何かしらの罰ゲームがあるのではないか。
思いもしない不幸はこういうところから転がり込むものだと、草十郎は身をもって知っている。
故に問う。
「蒼崎」
「――――!」
待ってましたと青子が目を見張る。
「…………」
草十郎の斜め向かいに座る有珠も静かに事の推移を見守る。


「それは新しい体操か何かか?」


「違うわよっ!」
即答だった。
青子は顔を怒りと羞恥に赤くしながらも自省する。このバカには遠回し過ぎた、と。
既に諦めが入る程に察しの悪い男だと知っていたはずなのに、そう否定を返した後で気づくなんて彼女らしくなかった。
ただ、そうなってしまった原因など改めて考えるまでもないだろう、青子にも人並みの羞恥心や乙女心の欠片くらいはあったのだ。
売り言葉に買い言葉で始まった所有権の争奪戦だが、演技とはいえ男を女として誘うのだから年頃の女の子として気恥ずかしさは隠せない。
後に禍根を残さない程度に抑える為にも告白という手段も選べず、何より彼女自身嘘が下手と言うより嫌いなのを自覚している。
こと恋愛に関しては地獄ですら生温い酷い仕打ちを受けている過去が持つが故に、相手にそれを無意識に重ね感情移入してしまう。
決して草十郎の身を思っての事ではない、彼自身は飄々と受け流すだろうと青子には推測できている。
では何が駄目なのか。
彼女自身が耐えられないのだ。人を呪わば穴二つと言うがその二つ両方に自分がすっぽり入る寸法である。
何故そうなってしまうかというところまで追究の手は伸びない。
割に合うか合わないかで言えば彼女にとっては後者、そも飼い犬にそこまで愛情や情けを注ぎ身を切らねばならないのか。
その思考が浮かぶ時点で青子に言葉巧みに草十郎を篭絡すると言う選択肢は消えていた。
だからこうやって自分の肉体というもう一人には無い餌で草十郎を釣り上げようとしたのだが……この様である。
「むぅ」
山育ちの男にはまだまだ青子の熱烈なアプローチは理解し難いものだった。
目のやり場に困らせる程には意識させていたが、惜しむらくはあと三手足りなかった。
「…………くっ」
自分の甘さにも腹が立つがその横で必死に笑いを堪えているもう一人の姿も青子には面白くない。
あの魔女が本で顔を隠し肩を震わせてまで耐えているのだ、自分の姿がさぞ滑稽に映っていたのは間違いない。
トドメを刺したのは草十郎の回答だろう……少しは学習しろってのよ。
そう胸の内で悪態をついた途端に真顔で否定する少年の顔が浮かぶのだから始末に終えない。
腹いせに首でも絞めようかと思った彼女だが、今やってはもう一人の手助けをするようなものだと判断し断念する。
「じゃあ「もういい黙ってて」
「――――」
青子の強い感情のこもった睨みに死が迫る足音を聞き、草十郎は黙って首を縦に振る。
その横ではようやく落ち着きを取り戻した有珠が本を膝上に下ろす。
そしてティーカップに手を伸ばしつつ青子に目配せする。
「…………」
「………………」
やり取りはほんの一秒。
青子はCDラジカセの再生を切り部屋の脇に避けると、大きく背伸びをしてどさっと自席に座る。
四脚の椅子は乱暴な扱いにぎぃ、と悲鳴を上げた。
「…………」
「…………」
「…………」
久遠寺邸のサンルームがようやくいつもの静寂を取り戻す。
その様子に草十郎は改めて眉根を寄せる。
思い返してみれば、彼は帰った時から二人に微妙な違和感を感じていた。
そこはかとない緊張を強いる空気。
二人が気にする素振りはなかったので、その時はまた誰か領地を奪いに魔術師が来たのでは?とも考えた。
ならば自分への情報公開はされないだろう、と。
草十郎が鏡に落ちたり怪しい封印を解いたりと自らの過ちによりどれだけ勝手に魔術に関わろうとも、彼女達二人はそうなってからでないと何も話さなかった。
事前に話してもらえるのは“そうなってからでは手遅れ”の事だけ。
関わってしまった以上は必要最低限の知識は自己防衛のためにも与える、でもそれ以上は関わらせない。
それが彼女達の優しさであると彼はもう理解している。
元より棲む世界の違う彼が境界線上であちらこちらとふらふらしてるのを、真っ逆さまに落ちないように彼女達が善意または責任感、リスク回避で支えているだけの話なのだ。
勝手に奈落へダイブしようとする者など止めようもない……止めようもないが、身を挺して助けてくれたのも事実ではある。
それを経験していて尚、草十郎は自制が出来ず問いかけようとしたものの、目が合うや否やというか向けた視線に返されたのは本気で怒っている青子の眼光だったから何も言えない。
先に仕掛けてきたのはそっちなのに質問すら許されないとは。
いつにも増して理不尽さを覚える少年だった。

「静希くん」

草十郎は声のした反対側へと振り向く。
顔を向けた先では有珠がいつも通り本に視線を落としたまま、ティーカップをテーブルへ戻すところだった。
初期位置を記憶しているのか彼女は事もなさげにカップを定位置へ戻す。そして。
ぺらり。
無言でページをめくる。
ぺらり。
さらにもう一ページ。
ぺらり。
その次がめくられるまでゆうに一分は経っていただろう。
「…………」
「…………」
なんとも言えない沈黙。
草十郎は幻聴だったのかと己を疑いながらも有珠へ視線を注ぐ。
しかし何の反応もない。
更に一分が過ぎてどうしたものかと迷った挙句、草十郎が有珠へ声をかけようとした矢先――――
「今晩、私の部屋に来て」
彼女の方が動き、誘いの言葉を告げた。
少年の目を見てはっきりと。
彼女にしては珍しい、強張りと震えを含んだ声だった。
彼女自身は平静を装っているが、心臓は激しく脈打っていて頬には朱が差していた。
髪で隠れていなければその耳も先まで赤くなっているのが見えただろう。
「――――」
青子は有珠らしからぬドストレートに思わず絶句する。
やられたと言うよりはまさかこの子をしてそこまで言わせてしまう恋愛の怖さにである。
かつての自分を照らし合わせる余裕すらない。
これはあくまでも所有権、それを持つ側だけの話だったはず、所有物と自らの契約の話ではない。
だが有珠の狙いが後者にあるのを青子もようやく悟る。
最初から、そのつもりだったのだ。
更にこれは直接それを指し示すギリギリ一歩手前の誘い文句、一般常識を知る青子から見れば見知らぬ異性からこう問われたなら激怒と共に渾身のアッパーカットを振るうに値する。
しかしだ、一般常識が不足どころか持ち合わせていないこのバカにならそのままの意味として通ってしまう、ならば容易く“YES”を取ってこれるだろう。
対決ルールはその一般常識を持つ二人が決めたこと、つまりその二人にさえ意図が通っていれば彼がどういう経緯で判断に至ったかなど関係ないのだ。
完全に出し抜かれた、胸中で舌打ちしつつも青子は一縷の望みに賭け二人の動向を注視する。
「え、西館には入るなって言「いいから、来て」
草十郎の言葉を遮り、来ないなら殺す勢いの視線で有珠は心的間合いを詰める。
青子の前でここまで言った以上は、彼女も引き下がれない。
何より待ちに待った千載一遇の好機である。
なんとしても彼から“是”を引き出し、両者納得行く上で“自分だけのモノ”にしたいのだ。
一度だけ、たった一度だけ首を縦に振りさえすれば、有珠の勝ちとなる。
どうしてそこまで草十郎に執着するのか彼女は理解していない。
思い返してみれば――――

彼は問題も起こすが貴重な収入源である。
彼と話すのは気分の悪いことではない。
彼と過ごす時間も居心地が悪いものではない。
彼の料理もまあ、不味くはない。
彼の気遣いは的外れなことばかりだが、なければないで物足りない。
彼の淹れる紅茶は一味も二味も足りず及第点には程遠いが、今後に期待したい。
彼の拗ねた顔は可愛い。
彼と秘密を共有するのは不快ではない。
そういえばまだ彼の泣き顔を見たことがない。
彼にはまだ、訊けていないことがある。
…………彼からの干渉を心待ちにするようになったのは、いつからだろう。

有珠にとって消すべき異分子であり招かれざる客だった草十郎は、いつの間にか久遠寺邸の空気と等しい存在になっていた。
空気がなくては息ができない。
かといってありすぎても息が詰まる。
生きるために必要な酸素も濃度を増せば毒に転じる、そんなことは頭では解っているのに止められない過呼吸のようだ。
これが世に言う恋というものなら、なんと狂おしいものだろうと有珠は思う。
「ごめん」
そんな有珠の内面を知る由もない草十郎はあっさりと、躊躇いなく彼女の誘いを拒否した。
「これから朝までバイトなんだ。今月は出費が色々重なっただろ、その穴埋めだ」
泰然としたままそう続けつつ立ち上がる。
何も草十郎にも全く考えがなかったわけではない。
彼は自分が魔法使い二人に飼われている事を理解している。
それこそが彼女達と彼を隔てる壁であり、そもそも本当に何かさせたいのなら彼女達は彼の意志を問うような事はしない。
力の差は絶対的だが、問われている以上選択権は彼にあり、彼は彼なりに考えて久遠寺家の家計を助ける方を選択した。
悪友とも親友とも言えるお調子者の入れ知恵でもあればまた結果は違ったのかもしれない。
青子の予想した通り、女性から夜、部屋に呼ばれると言う意味を言葉のままに受け取ったが故の結論だった。
有珠が稀に見せるわがままなのだろうし、話し相手くらいなら別の機会でも十二分に間に合う、それよりも優先すべきはあと三日も持たない食費である。
ちなみに今回のバイトは日払いであり、夜間手当ても付くからかなり美味しい。
ただそれでも月末まで三人で生き延びるにはもっと頑張る必要があった。
食わなければ生きていけない。
山の生活でも当然の、生物として生きる以上、死ぬまで付き纏う切っても切り離せない自然の摂理である。
「…………」
そんな二人との生活の危機に一肌脱ごうとする草十郎の気概は残念ながら伝わらず、有珠はありえないの「あ」すらでない程ショックを受け固まっていた。
「~~~っ」
外野に回っていた青子は先の有珠の再現と言うべきか、自分の事を棚に上げ、顔を逸らして爆笑しそうな口元を必死に押さえている。
自分よりも思いっきりアクセル踏んで突っ込んだ誘惑をしておきながら、その上食い下がってこれなのだから有珠の絶望感は思考を停止させるには十分だろう。
多分あれは怒りや悲しみすら忘れてしまっていると青子は分析する。
やっぱり相手は今でも一般常識が抜け欠けしている、狼少年よりは多少ましな程度の男だったりするのだ。
草十郎自身が鳶丸や木乃美にそういう相談でもしない限り興味も持たないのだろう。
LikeとLoveの違いが解るにはまだ当分かかりそうだ、と青子は嘆息する。
ため息がでてしまった理由など考えもせず。
仕方ない、引き分けのルールは決めていなかったのだし、勝負はまた別の機会に持ち越しね。
そう今回の一件をまとめた自分が安堵を感じているのに気づき、小さな納得を覚えた。
なるほど、自分はいつか終わりが来るこの曖昧で居心地のいい空気をまだ壊したくなかったのだ、と。
一度決めた事はどんな結果が出ても押し通すのが彼女の生き方だったはずなのに、草十郎が絡むと時々思い通りに行かなくなる。
青子は自分の調子を狂わされるのが大嫌いだ。
大嫌いだが、この結果は彼女にとって決して悪いものではなかった。
「……あ。バイト終わったらそのまま社木の温水プールで水泳の練習していくから、朝御飯は要らないよ」
じゃ、とサンルームに二人を残し草十郎はバイトへと出発した。
「………………」
「………………」
静かにドアが閉じる。
「……有珠」
更に幾許かの間を置いて青子が呼びかける。
何か良くない未来を感じたのだ。
かつて姉との対決の際に経験した未来を完全に忘れているにも拘らず、当時はそんなことすら気にしていなかったのに…………単にその余裕がなかったとも言えるが。
とにかく。
何がどう良くないのかは具体的に解らないが、もうとっくに草十郎は泳げるはず。
そこに違和感があった。
水泳部の部長はとっくに引退しているがそれを今考慮すべきかは微塵も検討せず、青子は思いっきり横にぶん投げた。
「もうつけてるわ」
阿吽の呼吸と言うべきか、有珠は既に手を打っていた。
具体的にはチョコレート製の使い魔を草十郎の監視につけたのだ。
厳密に言えば青子には秘密で有珠は起きている間、貴重な監視の目を常に一匹、草十郎に割り当てている。
多い日には三匹も。
別にバレたとしても何も問題はない。
現状、彼は唯一この久遠寺邸に棲む二人の魔女の内情に詳しい人間である。
しかしながら人間であるが故に魔術耐性は皆無、ウィークポイントになりかねない物を野放しにしているのだから監視くらいつけるのは当然と言う論法だ。
青子の首輪による緘口令もあるが同業者なら簡単に外されてしまうだろう。
いざとなればチョコ使い魔は草十郎の口の中へ特攻し融けて気道を塞ぐ事も可能、本来の意味での口封じである。
……あくまでも当人が選ばないであろう最終手段には違いないが。
「私にも感覚分けてよ」
「……視覚情報しかないけど」
「それで十分よ」
ほらほらと急かす青子に嘆息しつつも有珠は使い魔の視覚を分け与える。
「彼、普通に朝までバイトすると思うわ」
「そうでしょうね」
見る意味がないという有珠の言を青子は肯定した。
彼女達――――少なくとも青子に興味があるのはバイト後の草十郎の行動である。
いつも通り効率を優先するのなら今は寝ておいて朝再開すればいい。
有珠が張り付きで一晩中、草十郎の動向を窺うなんてことは火を見るよりも明らかで、青子もそれを解っている。
普段なら勝手にやらせておけばいいと思うところだが、今夜だけは違った。
別に感情が昂っているわけではない、目の前に居れば烈火の如く詰問すべきその対象は既に久遠寺邸から離れてしまっている。
冷静さは取り戻していた。
それは有珠も同じはず……と、青子はその横顔を窺う。
やはり確認するまでもなかった。
内面までは窺い知れないが、瞼を閉じ使い魔の操作に集中しているであろう有珠の表情はいつも通りのすまし顔だった。
「ねえ有珠」
瞼を閉じつつ、入れ替わるように展開される使い魔の映す少年の姿を眺めながら、青子は呼びかける。
相方からの返事はない。
「久し振りに話し込んでみない?」
お誘いの言葉ではあるものの、実際は話し相手になるまで話し続けると言う青子なりの宣言に他ならない。
憑き物が落ちたようなこざっぱりした青子の物言いに有珠は薄目を開け、また閉じる。
「……いいけど。朝まで長いわよ」
日付はこれからようやく変わるというところ、少年の帰宅までを含めるなら半日弱に及ぶだろう。
視覚の共有を許した時からこの展開は有珠にも想像できていたが、まさか本当にという思いはあった。
どういう風の吹き回しなのかは知らないが、青子は気分がとても良いらしい。
「尽きないネタならあることだし、ね?」
「…………呆れた」
静かな驚きと共に有珠が目を開けると、チェシャ猫よろしく口角を釣り上げて笑う青子と目が合った。
このやり取りの最中、本当に何が彼女の気分をここまで変えさせたのか有珠には理解できない。
共同生活を始めてから何度も常識より飛んだ思考で導かれた言動には驚かされてきたが、これこそどういう経緯を辿ったのか理解不能。
有珠にとってむしろ考えもしたくなければ憶測も分析もしたくない類の、悪魔の思考である。
「やっと認めたと受け取っていいのかしら、これは」
「そこはアプローチの方法を変えた、と言って欲しいわね」
「!……とんだ狐ね」
今度は驚きを通り越して心底呆れ果て、有珠はため息すら出なくなる。
胸中には確認すべきではなかったという思いが半分、手遅れになる前で良かったという思いがもう半分。
「狸さんには負けるわよ」
青子は暴言を軽くいなして同様に切り返す。
お互いに目的語や主語をあえて省略しているのだから齟齬や誤解や誤認、拡大解釈が生じても誰も責任を負えない。
通じ合ってるか否かは二人にしか判らないが、結局のところ、顕在化していようがいまいがそうでなければ今回のような争いは起きなかったとも言える。
「紅茶、淹れ直してくる。ついでに甘い物も少し補充しようと思うんだけど」
あなたも要る?と有珠に青子は視線で問う。
「お願いするわ」
「了解」
青子は椅子を引いて立ち上がるとティーカップとポットの乗ったお盆を両手で持ち上げ、ドアの向こうへと消えていく。
両手が塞がっているのなら予めドアを開けた状態で固定しておけばいいのに、と有珠は青子の段取りの悪さに眉根を寄せる。
でもすぐに思いつきで行動するのは彼女にとっていつものことだったと思い直す。
それ以前に何度言っても足でドアを開ける癖が直らないのだから、今言ったところで同じことだと切り捨てただけなのしれないと有珠は自己分析してみる。
ふと。
外を見上げれば黒い空。
一面に瞬く星々も文明の陽に触れては霞んで消えてしまう。



「本当に……長い夜になりそうね」

サンルームに残された有珠が一人、ぽつりと呟いた。





[33236] とある結末とそこに至る経緯、二週間前
Name: 32-265◆29996d79 ID:d411aa3f
Date: 2012/06/09 01:14
「ほら、謝りなさい」

草十郎の白い首輪が、主の命によりきりきりと絞まっていく。
もう一年以上共に暮らすのに未だに空気も読めない、常識も身に付かないが故に時折こうして青子の怒りを買ってしまう。
彼女とて彼の不備や不用意、落ち度さえなければ不必要に罰を与えたりしない。
それにこの行為自体、決して彼女の趣味ではないし、したからといって彼女の気が晴れるものでもなかった。
「ッ…………」
草十郎は何も言わない。
青子は断罪の手を緩めない。
今回のような事を安易に許せば、彼女は、次があった場合にもう――――否、それをさせたくないからこその怒りだった。
それは有珠も同じ、彼が猛省すべきだと思っている。
しかしながら自分が手を出せばうまく加減が出来そうになかったから、不本意ながらも青子に任せたのだ。
それほどまでに彼女も怒っていた。
両者で違うのはそれが意識されていないか、否か。
または理解しているか、否か。
時計の秒針が進むごとに、そのほんの少しの違いが、二人の立ち位置を着実に変えていった。








――――とある結末とそこに至る経緯、二週間前――――








少年が少女の、彼女達の怒りを買って首を絞められる。
長くても二月に一度くらいはある、割合珍しくもない光景…………ただ、少しだけ注意深く観察すれば。

それが倍以上の半年もなかったとか。
いつもはすぐに音を上げる少年がその声を上げなかったりだとか。
隣でその様子を見ている少女が視線で抗議していたりだとか。

そんな、小さな異常の積み重ねに気づけたかもしれない。
だがもし仮に青子がそれに気づいたとしても、そんな些末事で考えを改めたりしないだろう。
処断した以上、それを受ける者の贖罪によって事は終結すべきなのだ。
「――――」
しかしながら今回は、終に草十郎の口から謝罪の言葉が発せられる事はなかった。
頸部の圧迫に耐えかねて、意識が落ちる。
重力が糸の切れた操り人形を即座に引き摺り下ろす。
真に物を言わなくなった少年はかくん、かくんと関節を曲げさせられて、ほぼ鉛直に崩れ落ち、床に額を打ち付けた。

「あ」

それっきり、動かない。
呟きよりも早く少女は少年へ駆け寄り、その身を抱き起こして白い戒めを力ずくに引き千切った。
呼吸が止まっているのを診ると躊躇いなく唇を重ね息を吹き込む。
心臓はまだ、動いていた。
「――――――」
もう一人はその状況を見ている事しか許されない。
気道確保するために引き上げられた顎から下に見えたのは――――紛れもない傷だった。
ああ、これが昔彼女の言っていたものなのかと理解して、理解したくなかった。
何時の間にか、もう一人の同居人の必死な姿が霞んでしまうくらい、目が離せなくなっていた。
「――――ごほっ」……っ」
草十郎が息を吹き返したのを確認し有珠は顔を離す。
「ごほ、ごふ……ッ、ごほ…………」
「……大丈夫?」
死の間際から戻った少年は更に二度三度咳き込みながら、黒の少女を支えに半身を起こし床に座り込む。
「……蒼崎が珍しく本気で怒ってたみたいだから、反省の意味も込めてごほっ、我慢してたんだけど……考えが甘かったみたいだ、ごめん」
余計な心配をかけてしまったと少年は目の前の少女に謝る。
実のところを言えば、彼は“何が悪かったのか”を彼女達から明確に聞かされていない。
問題となった事を知った途端に彼女達の態度が豹変し、片方から罵詈雑言をぶつけられ――――そして今に至る。
色々言われたがその場ですぐには何のことか少しも解らなかった。
それでも彼女達が言うのなら自分が悪かったのだろうと、そもそもそうでなければこんな事態にはならないと判断した。
特に何か正当性があってしたわけでも無く、反論する余地がなかったのだ。
彼自身の現状をあるがままを受け入れるスタンスが、どうみても彼を含めた三人にとって悪い方向に働いていた。
付け加えて彼に一つ過ちがあったとすれば、それは認識の甘さだろう。

……蒼崎が本気だったら首が落ちてるもんな。

少年にとってはただの呟き、自分が置かれている状況の再確認に過ぎない。
しかし間近で聞かされた少女はどのように受け止めただろうか。
彼女は胸中に荒れ狂う激情を抑えつけ努めて冷静に、そっと服の襟を立て、彼の手をとってその喉へと導く。
「あまり見られたくないんでしょう」
「ああ、すまない」
喉元に手を当てたまま、草十郎は立ち上がる。
「蒼崎ごめん。一度部屋に戻るから、続きはその後に頼む」
「…………」
却下の言葉が無いのを是として彼は居間を出て行った。
青子はドアが閉じて足音も聞こえなくなってから、呟きのような問いを虚空に投げかけた。
「なに、アレ」
彼女には滅多に無い無意識の行動。
自らの勢い余った行いよりも、興味を惹かれてしまった結果だった。
ともすれば過去の禁忌に触れるに等しい痛ましさ。
それ自体誰が見ても気持ちの良いものでは無いだろう、彼が隠すのも頷ける。
でもそんなもの普通ならいつか見慣れて、当人以外には何の感傷も抱かなくなる程度のもの。
それでも初見だからこそ惹かれた…………のではないと、青子には解っていた。
「――――あの首輪、首を切り落とせるような代物だったの?」
有珠は不機嫌さを隠そうともせず目を細めた。
右の手で埃を払い落とし立ち上がり、青子に向き直る。
彼との秘密が一つ失われた。
それは有珠にとって大事な自分の物を奪われたに等しい、許されざる事実だった。
もう一人を信じ、否、もう一人に任せたからこうなったのであり、更に彼を助けるにはそうするしかなかった。
前者は自らの過失、後者はほぼ無意識に近い衝動。
自分が一因を担っているのを頭では理解しているそれでも、草十郎から青子へ怒りの矛先が変わるのを有珠は止められなかった。
「…………だったら?なんなの?」
有珠の放つ殺気で我に返らされた青子は苛立ちを露にするだけで否定も答えもしなかった。
底の見えない深く黒い瞳。
向けられた視線の、凍傷(やけど)しそうな冷たさが癪に障った。
些細なきっかけでこの場が戦場に変貌しかねない、張り詰めた空気が部屋に満ちている。
青子は目を逸らさず殺気をぶつけ合ったまま、有珠の両腕の動きに意識の大半を裂いていた。
既に発動しているものにしろ、有珠がプロイを行使するなら最低一工程(シングルアクション)を必要とする。
歌う、瓶から出す、投げ放つ、指を弾く、視線を振る、賽を投げる、落とす。
童話の詠唱が必ずしもされるとは限らない。
後手に回る時点で彼女には魔法以外の選択肢が無い、魔弾の早撃ち(クィックドロウ)に賭けるのは明らかに分が悪かった。

――――どちらかが動けば、この友好関係は完全に破綻する。

共に過ごしたから解る、この状況はそのぐらい両者にとって決定的だった。
「緊箍児は孫悟空を戒める為のものであって殺す為のものではないわ、喩えが間違ってる。
 そういういい加減なところ、直した方がいいわよ。青子」
青子の過ちを有珠は窘める。
ともすれば魔眼の行使も厭わない視線と口調の鋭さは何も青子だけに向けられたものではない。
「善処するわ」
空々しい返事しながらも違った意味で青子も有珠を睨み返す。
二人のやり取りはこれで終わり。
あと数分で戻ってくる少年に彼女達が新たに罰を与えることも無いだろう。
だからこれで話は、全部、終わり。
「…………」
「………………」
沈黙が舞い降りる。
二人はもう目を合わせていない。
諸刃の剣を二人で抱き締めたかのような錯覚、本当に言いたい事は言えていない。
だが時に眼は口以上に物を言う。
それ故にお互い触れることを躊躇った、否、拒絶し“なかったことにした”に過ぎないのだ。
そもそも今回に限らず少年の罪は最初から二人に問えるものではない。
いつかはこうなる可能性を知っていて、それを頭の片隅へと追いやり故意に忘れていたのも彼女達。
少年が何をしたかなんて、もう二人には関係ないのだ。



果たして。
本当に罰せられるべきは誰だったのか――――





[33236] とある結末とそこに至る経緯、三ヶ月前
Name: 32-265◆29996d79 ID:d411aa3f
Date: 2012/06/09 01:13
「油断していると足元を掬われるぞ?」
自分が出たと判るや否や、電話の向こうの相手はあらぬ事をのたまった。
やけに真面目に聞こえた声に少女は幾許かの空白を余儀なくされる。
だって。
普段のあいつがそんな事を言うはずが無い。
当然のように沸き起こる拒絶反応という名の殺人衝動に任せて電話を切りそうになるが、何も情報を引き出さずに切るのは無責任だと自制して、少女は対話を続ける決心をした。
「はぁ、あんたに心配されるなんて明日は槍の雨でも降るのかしら?」








――――とある結末とそこに至る経緯、三ヶ月前――――








天気予報では快晴、七日ぶりのお天気で絶好の洗濯日和になるらしい。
「それで死んでくれればこっちも願ったり叶ったりだ。
 なに、魔術刻印ぐらいは拾ってやるさ」
嫌味を嫌味で返す。
「やっぱり嫌な奴よね、あんた」
さらにそれを歯に衣着せぬ嫌味で返す。
「ッ、そういう本音は胸の内にしまっておけ、可愛すぎて殺したくなるだろう?」
これがこの姉妹の平時の会話だと、何も知らぬ者が聞けば一度は耳を疑うかもしれない。
橙子と青子。
同じ血を継いでいながら、二人のやり取りはどうしても棘のあるものになってしまう。
去年のクリスマスには互いに死をプレゼントしようとした程の仲でもある。
二人にとって想定外の存在さえ居なければあの時、綺麗さっぱり決着がついていたのだろう。
そこまで激しいものでなくとも、争い自体はそれよりもずっと以前から継続していた。
そう仕向けられていると、続けさせられていると双方指摘されていても止める気配は微塵も無い。
悲しいかな、きっかけはどうあれ、彼女達にとってはそうするのが自然なのだ。
「来れるもんなら来なさいよ、今度はちゃんと息の根止めてあげるから」
売り言葉に買い言葉。
このやりとり、見慣れてくれば案外微笑ましいものなのかもしれない。
「いや、それには及ばない。しばらく私の出番は無いからな」
「?」
「こっちの話だ」
青子の不意の沈黙を散らすように言葉が続く。
「有珠も健在か?」
「二人とも相変わらずよ、そんな世間話するために電話してきたんじゃないんでしょ」
用件を早く言えと、急かす青子。
「お前が出たのなら草十郎はバイトか何かで外出中なのだろう?
 だから方針転換をしたまでだ」
相手はお前だ、と。
橙子のゆったりとした、余裕を感じさせる声が返ってくる。
かすかに聞こえる呼気は間違いなくタバコを吸っている時のものだと青子は見抜く。
足を組んでリクライニングチェアーか何か豪華な椅子に身を預け、酷薄に笑みを浮かべる橙子の姿が脳裏に浮かぶ。
カチン、と怒りのスイッチが入る音を青子は聞いた。
「会えば殺すしかないのに一体何を話すと言うのかしら?もう切っていいわよね?切るわよ」
最早話す価値無し。
これ以上は不要と受話器を耳から放そうとして――――



「相変わらずと言ったが、本当にそうか?」



手が止まった。
「…………どういう意味よ」
声を出すまでに何秒を要したか、青子は意識できていない。
「そのままだよ、別に深い意味は無い」
橙子の口調は変わらない。
「…………」
「信じてなさそうだな」
「当たり前よ」
「殺す相手と話す理由などないと言ってなかったか?」
「理由を作ったのはそっちよ」
口調が少し早くなっている。
怒りとは違う何かを感じ始めているのをまだ自覚できない。
「ふむ、では切り口を変えてやろう。
 この問いにひっかかってしまった青子、お前の方が異常を内包している」
「――――え?」
そして思考が止まる。
話の対象は同居をしている残り二人であって自分ではない。
急に向きを変えられた矛先に青子はうろたえる。
「お前は徹頭徹尾第一に自分ありきだ、他人を気にかけるような人間では無いだろう?」
「い、言われるまでも無いわ、だから何を知ってるのよ」
ハッとして取り繕う。
他人に、姉に指摘されたから余計に苛立たしいのかもしれないが、紛れも無い事実だった。
否定などできようも無い、青子は自分以外の誰かを優先順位の頂点に置いていないのを自覚している。
でもこれとそれとは話が別、何の関係も無い。
「おいおい食い下がってくれるな、いつものお前らしくも無い。
 しかし……これは姉として喜ぶことなのかもしれん、アレの思惑から外れるんだからな」
もしもそうならこれ以上殺し合う必要もなくなるかもしれない、と。
そう続きそうな気がして。
少女は訳のわからない悪寒に襲われた。
「悩ましくはあるな、これはごく当たり前のことでそれ故にお前にとってのみ異常なのだから。
 流石にあの時のような気の迷いでもないし、今より不幸にもなるまい」
妹の胸中も知らず姉は勝手に結論を導いて納得している。
気持ち悪い。
少女の心の鼓動は徐々に早く浅く、口の中が干からびて呼吸すらままなら無い。
不安、恐怖、絶望にも似た――――嗚呼、これはあいつを幻視(み)ている時に似ていると。
「だから「おっと時間か。楽しい妹との会話もここまでだ」
由来の解りたくない焦りから出た声はばっさりと、向こうの都合で打ち切られた。
「また生きていれば話くらいしよう、無論殺し愛でもかまわんがな」
「単純な殺戮なら幾らでもやってあげる、でもその前に答えろ橙子ッ!!」
青子の必死の猛りを、
「クックック……本当に愛い奴だよお前は」
橙子が一笑に付す。
「ああそうだ、草十郎に例のものが届いたと伝えておいてくれ。
 これは確かに傑作だ」
それで二人の通話は終わった。
汗ばんで滑りを感じるほど握り締めた受話器からもう声は聞こえない。
「ッ~~~~~!!」
感情の吐き出し口を失い、青子は受話器を元へと投げつける。
八つ当たりを受けた年代ものの電話機は、チリリン、と、小さく抗議を上げた。





[33236] とある結末とそこに至る経緯、二ヶ月前
Name: 32-265◆29996d79 ID:d411aa3f
Date: 2012/06/16 04:59
居間のテレビが点いているのなら、必ず青子か草十郎が見ている。
これが久遠寺家の常識となって一年以上が経つ。
しかしながら久遠寺家の主たる有珠は能動的にそれを見たりはしない。
今晩見ていたのは青子の方、なんとなく見たくなったグルメ番組があって食事の時間もずらしたほどだ。
学校でたまたまクラスメイトが持ってきていた雑誌を咎めていたら、偶然興味を惹く物が載っていた。
そんな気分任せの、些細な理由だった。
「最近、合田教会に週一、二回は出入りしてる」
藪から棒に、青子の向かいの定位置で本を読んでいた有珠が独り言のような話を振った。
丁度繋ぎの場面でもあった所為か、簡単に青子の意識がそちらに逸れる。
主語は無いが有珠が言うのは今夜も絶賛バイト中の草十郎の事。
テレビを点けている間いつもなら居間に近づかない彼女が、今夜何故か食事の後も居続けていたのはこの為だった。








――――とある結末とそこに至る経緯、二ヶ月前――――








月に一度、バイトの掛け持ちを学校に容認させる条件のひとつとして合田教会へボランティアに出ているのは両者の知る所。
必要悪として――生活がかかっていることもあり――その一回は有珠も渋々認めている。
でもそれが週に数回となれば話は多少なりとも変わってくる。
彼女にとってあの場所にいい思いなど一つも無い、可能な限り関わりたくも無いし付け入る隙があれば潰したい部類だ。
ただ実力行使でそうできるものの、正当性がなければ――あったとしても――別の誰かが来るだけの話。
完全排除は事実上不可能に近い、ともすれば異端狩りの狂信者がやってこないとも限らない。
そうなれば例えではなく本当に戦争だ。
遥か東方の異境であっても彼等が来たならこの街一つくらい消して真実も握り潰す。
そんな大事は彼女も避けたい。
故に妥協という次善の選択をしているだけ。
「本人に聞いたの?あ、聞く前に相談したかったってことね。
 聞こうか?」
私は気にしないけど?と暗に青子は告げる。
テレビを消音したり切ったりしないのは深刻な話にする気はないという彼女の意思表示である。
「もう少し様子を見てからにするわ、自白剤でも飲ませれば済むことだし」
有珠としては方針は決まっていたが一応、相方のご機嫌を伺ったというところなのだろう。
しかしながらこれはえげつない。
魔術師然とした回答に彼女はげんなりとした。
情さえ挟まなければ、と思い自分の思いついたやり方も正攻法ながら酷いものだと反省する。
そうでなくとも彼なら言おうが言うまいがそれを疑いもなく飲み下すだろう。
……いや、最近はそうでもないかもと思い直す。
「ま、いいけど。
 あいつ信条に引っかかるとか都合が悪くないと断れないから、唯架にうまいことこき使われてるのかもね。
 そのうち利用されてるって気づくでしょ、いい社会勉強よ」
言い捨てて青子はテレビへ意識を戻す。
「…………」
そう彼女は言うが有珠には面白く無い話だった。
彼は自分達の管理下にあるのだから自分達に有益なことだけしていればいい。
他人に接する時間を増やすくらいなら、自分に接する時間を増やして欲しいくらいと少女は思う。
そこでふと、そう接されたところで取りとめも無いやりとりさえなく、あっさり、自分が打ち切ってしまうのを思い出す。
元より自分の興味の無い雑談に長々と付き合えるスキルを持ち合わせていない。
ただそうやって話を終えたとしても、気にしない草十郎の性格に多少救われているかもしれない。
強いて言うなら会話やふれあいは別になくてもかまわないのだ、そこに在ればいい。
そうしてくれるにこしたことはないがとりあえず在れば。
高望みはしない。
それだけで有珠は概ね満たされていた。
「…………対価を求めた方がいいのかしら」
労働力を提供する側として。
ある意味教会への貸しに出来るのではないか、と有珠は呟く。
ページをめくる手はかなり前から動きを止めている。
彼に言ったところで止められはしないのだから有効利用しようという算段だ。
「ボランティアじゃないと判ったらすぐにでも人払いかけてくるわよ、あいつなら」
奉仕の精神こそ尊ぶ、金には汚いというよりもってないともっぱらの噂である。
配属されている人数を考慮しても出ているのは人件費だけだろう、と青子は踏んでいる。
「そう。でも静希君そういうの効きにくいし、押し売りも可能でしょうね」
名無しの森の人払いも青子曰く会心の出来の暗示(ウィッシュ)も効いていなかった。
有珠が知るのはそこまで。
青子は彼の特異な生い立ちの話を聞いている分真実に近いが、全てを知っているわけではない。
神秘の体現である金狼を前にしてのあの冷静さも異常と言えば異常だった。
その後に起こった現実も目を疑うものだったが、だいたいそこまで自分を殺し切れるのなら――――
「やけに押すわね。そんなに今月ヤバイの?」
思考を止めて無難に切り返す。
「貯金箱、見た?」
二人が生活で余ったお金を食費として入れる名ばかりの一時保管庫。
この場に居ない少年が三人分の食費をそれとなく管理するようになってからも、一応現役を貫いていた。
ただし、督促状入れとして。
「見てないけど見たことにしておいて」
つまりは魔術道具や材料等々を購入した際に翌月払いや分割払いにしたツケが貯金箱の中に澱のようにたまっている。
中には金額も見ずに突っ込んでいるものもあるとかないとか。
悲しいかな、一時的に凌いでもやがて二人に突きつけられる現実でもある。
逃げられなどしない。
「そっかー、うん。今月もかぁ……」
背に腹は変えられないが故に己が矜持を曲げて彼女達は飼い犬に頭を下げている訳である。
資金難は二人にとって少年に対する弱味と言えた。
青子がまもなく旅立つにあたって有珠の魔術指導も佳境に入っており、その密度も増したのなら費用も自然と増したのである。
限られた人間にしか使えない神秘の素を、ありふれた人間が使える現金で仕入れるのだからそれなりに値が張るのは当然の帰結だった。
「頼りきりってのも頭が痛いわね」
使えるものだから使うのは当たり前なのだが、こうも続くと流石に青子も気が引けてしまう。
便利なものほど無くなった時の反動が大きいのを知っている。
それが替えの利く物なら問題ないが、人となれば中々そうはいかない。
バイトのし過ぎで体を壊しては元も子もない。
「そういう意味ではあの日、静希くんを処理しなくて良かったわ。
 結果論だけど」
「そうね。実際助かってるし」
素直に同意する。
「頼んでもいないのに適度にトラブル起こすからいい刺激にはなるし」
実際、それを成長の糧としてきた身としての感想。
少年が居なければ少女が魔法を使うのはもっと先だったかもしれない。
ただ、たらればなんて仮定を通り過ぎた過去に当てはめるのは青子にとって後悔ではなく懐古だ。
星の巡りが数奇なものだと知識として知っているものの、彼女が運命を論じる事は無い。
彼女は未来の自分の姿を過ぎ去ったあの雪の日、その身に経験した。
逆説的に言えば彼女の未来は確定されている。
彼女がこれから起こる事柄全てを忘れているとしても、それは変わらない。
つまり。
彼女は運命、巡り合わせ、可能性などという誰しもが持つ不確定要素を喪(うしな)ってしまった。
今の所は十年分。
それが蒼崎青子が魔法使いになるための、初めて代償だったのかもしれない。
もっとも、本人はそんな事も考えず、露ほども気にしていないのだが。
気にしたところでそれも決め付けられたことだと気にしていたらそれこそメビウスの環というもの。
十年後までは安泰、そう考えて今を懸命に生きる方が精神的にも良いのである。
「私はもっと静かに暮らしたいわ」
すでに完成されている魔女としては日々の平穏、静寂こそが願い。
それこそ日に七回のティータイムを設けて優雅に読書にふけるのもやぶさかではない。
一人の魔女として創らねばならない生涯最高のプロイを思案する合間に、紅茶の味を未だに覚えないあの少年にみっちりと教え込むのも一興だろう。
「静かなのは嫌いじゃないけど、退屈は敵だわ」
何もやる気が出ず怠惰に過ごす時間ほど無駄なものは無い、できれば常に有意義に過ごしたいものだ。
「退屈になるのは時間の使い方を知らないからよ。
 青子は知ってるでしょう?」
「そりゃ、まあ……ね」
有珠に深く見つめられて青子は歯切れ悪く同意する。
別に彼女の願望を否定したわけでは無い。
しかしそれを正面切って言い返すには彼女は気が抜けすぎていた。
余計な一言も付け足してしまう訳である。
正直なところ、青子は高校生になってから時間を持て余した記憶はなかった。
やることばかりで暇が無いくらいだ、日中は学校のことを済ませて夜には魔術の勉強。
疲れたら可能な限りしっかりと睡眠をとるようにしているし、それは決して惰眠ではない。
一昨年の末には姉との死闘もあったし、その後落ち着くかと思えば冒険野郎が屋敷の中を掃除という名の大義名分で探索し放題だったからどうしようもない。
最近は有珠の指導する魔術の難易度も高さを増してきた上、気づけば上京の準備も進めたりとてんてこまいだったりする。
それでもあと二ヶ月もすれば多少なりとも落ち着いた状態になる。
学校も卒業してしばし自由の身、そういえばクマ達と日帰り卒業旅行なんてのも約束したようなして無いような。
やっぱり暇が無いだけなのかもしれない。
青子は改めて思った。
「そういえば――――ぁ」
このまま小言を言われ続けても困る彼女は新たな話題を切り出そうとして、声を止める。
「何?」
中途半端な間を置いた彼女を有珠は当然のようにいぶかしむ。
何かしら都合が悪い時、無意識に話題を変えようとする癖を少女は把握していた。
今回はその変えようとした話題も何かしらひっかかるものだったらしい。
「自分から言い出して途中で止めるのは貴女の悪い癖よ」
「…………」
「………………」
見つめる。
「…………」
目を逸らす。
「……」
でも見つめる。
「………………」
顔を逸らす。
「…………………………」
まだまだ見つめる。
「…………バレンタインデーのことよ」
青子は有珠の執拗な視線攻撃に観念して口を割った。
「近いでしょ、意識する人間はそろそろ準備にかかるんじゃない?」
別に自分は意識していたわけではないと内心しっかり否定する。
これまでの事とこれからの事。
偏在するイベントを思い起こしていたらたまたま、偶然、うっかりひっかかっただけのこと。
狙いを定めて話題になんてするものか。
「バレンタイン……?」
聞きなれない単語に有珠は首をかしげる。
この好機を青子は逃さない。
「ほら、チョコをあげたりもらったりする日よ」
誰が誰にとか何の為にとは言わない。
俗世の流行に疎い箱入り娘たる少女が知らないのをいいことに、これ以上追及されないよう曖昧に彼女は答える。
不必要に疑いをかけられても困るのだ。
言えば確実に絡んでくると知っているから言葉を濁しつつ、無難な説明を続ける。
「元々は世界的に普及してるあの一大宗教のバレンティン司祭?
 聖バレンティヌスだったかしら?
 その人が処刑された日が来月の14日らしいんだけど、どこでどう曲解されたのか日本ではチョコをやり取りする日になってるのよ。
 チョコレート業界の陰謀説ってのもあるけどある意味お祭りよね、この日本では」
聖夜には遠く及ばないが、現代日本では儀式を行うのに向いている日のひとつかもしれない。
この日を境に結ばれる縁も切られるも因果も多いだろう。
ちなみに去年この二人が誰かにチョコを渡したという事実は確認されていない。
「ああ」
パタンと本を閉じる有珠。
思い出した、得心したかのような仕草に青子はため息をつく。
「知ってるんなら説明させないでよ――――



「去年のその日、チョコをもらったわ」



――――ね?」
青子を黙らせるには十分な破壊力を持った一言だった。
少女はまず自分の耳を疑った。
もらった……?もらったのよね?あげたではなくもらったなんて。いえあげることこそありえないとしても同じくらいにもらうなんてこと、え? だってあそこアレでしょ?つまりそういうことなのよね?そういうのは創作では聞く話だけどまさか現実にはありえないでしょ?オーケーオーケー、これは有珠なりのジョーク。即興にしては出来ている、私としたことが一本取られたわね、あははははは、は……はは…………待ってよなんでそんなに真面目な顔なのよ……待って! 違う、外国ならその役目が逆になってるって国もあるくらいだしそっちの方が…………
混乱する彼女の心中など察するそぶりもなく、爆弾発言をした少女は説明を続ける。
「記憶が確かなら丁度そのくらいの時期よ。
 6ペンスの材料がどこに行っても売り切れていて、困ってたところに見知らぬ女生徒からいきなり“受け取ってください!”って、胸元に可愛い装飾のされた紙袋を押し付けられたの。
 開けてみたら大きなハート型のチョコが入ってたわ」
余程印象に残っていたのだろう、当時の相手の動作と声まであの魔女が演じている。
非情に貴重なものを青子は見たのだが衝撃が大きすぎて反応できない。
女生徒から、と。
はっきり聞いてしまった。
「一応使えなくもないからお礼を言いたかったのだけど、呼び止める間もなく走り去ってしまって」
もしメッセージカードが一緒に入っていたのなら、こんな話をする前に有珠は青子を糾弾しただろう。
「顔も伏せていたから見えなかったし、そういえば名前も知らないわ」
故にこれは秘密の話。
ただ純粋に、不器用でも自分の想いを伝えたかっただけの話。
結果が得られればそれに越したことは無いのだろう。
でも彼女にとって結果より大事だったのは動機、そして自分がそれに従い目的を果たせたこと。
相手の気持ちより自分の気持ちなのだ。
青子にはそれが解ってしまった。
「あの制服は三年生だったとは思うのだけど、今は何処にいるのかしら、彼女」
今からでもお返しが間に合うかしらとでも有珠は言いそうな雰囲気だった。
時間はかかったが礼には礼を尽くしたいのだろう、そんな彼女の勘違いに妙に心がざわついた。
少なくとも件の女生徒はそんなものを求めてなどいないと青子は断言できた。
「………………」
さて。
ここで隠している真実を告げるべきか否か。
別に名も姿も声も知りもしない彼女の為ではない、これはどちらかといえば彼女の不幸を暴くもの。
下手をすれば自分も大火傷ではすまない、だがしかし。
目の前の世間知らずの温室育ちがどんな反応をするかはちょっと興味がある。
「青子?」
有珠が稀に見せる幼い無垢な瞳。
――――訂正。ちょっとではなかったみたいだ。
悪戯心と身の安全を天秤にかけてしばし楽しく悩まされる青子だった。
それでも彼女の選択は決まっている。
数拍の間を置いてから仕方なしに話し始める。
「有珠、実はね――――
主役だったテレビは、すでに外野へ追いやられていた。





[33236] とある結末とそこに至る経緯、一ヶ月前
Name: 32-265◆29996d79 ID:d411aa3f
Date: 2012/06/23 19:23
集客率のそこそこ高いはずの喫茶店が珍しく閑散としている。
荒天ならばさもありなん、今日は日も出ぬ頃からずっと雨が降り続いている。
予報では明日には止むらしいが、こんな日に好き好んで出歩く者など居ないだろう。
「はい、この間のお礼に今日は私が一品サービスしちゃう♪」
目の前には甘く冷たいチョコレートパフェなるもの。
草十郎の表情が一瞬かしぎそうになるが、
「……ありがとうございます」
結局いつも通り、カタチとしては顕れず甘味物の送り主に礼を言う。
風が窓を叩く音が聞こえる。
草十郎もバイトでなければ外に出たりせずまっすぐ坂の上の屋敷に帰っているところだ。
こっちに来てからずっと続けているこのバイトなるもの、自然の山とは異なる人工の街という世界で生きていくにはこれを欠かすことは出来ない。
こと金銭面に関しては頼られはしても頼れはしない。
最近では山に居た時と変わらないくらい、彼は生きること(バイト)に時間を費やしている気がした。
そうしてまだ、山と街を比較している自分に気づく。
「はぁ……」
「あんまり無理しちゃ駄目よ」
重苦しいため息に、何故か返される声があった。








――――とある結末とそこに至る経緯、一ヶ月前――――








……え?
とっくに戻ったものと思っていた喫茶店ヤヌスのウェイトレス、周瀬律架がまだそこに立っていた。
厳密言えば彼女は魔術協会に属する人間であり、ここでの給仕は趣味のようなものだ。
「草十郎くんは顔に出にくいから、他人にそれが判る時にはもう潰れる寸前ってことなの。
 何かあった?
 おねーさんに話せることなら話してみなさい」
お盆を持ったままの律架に何故か正面に座られて少年はそっと店内を見回す。
本来お咎めを喰らうようなバイト中にあるまじき対応だが、彼以外の客も居ないから黙認されているのかもしれない。
彼自身も一見さんではなく、利用頻度からすればそれなりに顔馴染みの客なのだ。
「最近ちょっと忙しくって…………それもあるけど考え事の方だと思います、たぶん」
頭の中にあるこれは悩みにもならないと少年は思う。
悩みなら結論が出ていない。
でもこれは自分の中で変えようのない結論が出ていて、実際どうするかを思案している……そんなところだ。
「なになに、悩み事?
 恋の相談とか事件解決は大好物なんですけど! なんですけど!?」
嬉々として目を輝かせる彼女を見て、彼は心配というよりは好奇心を向けられているのを確信した。
「律架さんにはそういう疲れはなさそうですね」
心底真面目な顔で羨ましい限りだと少年は言ってのける。
「んま! 草十郎くん」
律架は目と口を丸く広げて大袈裟に驚いて見せたかと思うと一転して神妙な顔つきになる。
「はい」
「そういうコトはもっとオブラートに包んだ言い方しなきゃダメ、女の子は傷つきやすいものなのよ?」
めっ、と少年を軽く叱るように彼女は右手の指を振る。
「すみません」
草十郎は本当にころころ表情が変わる人だと感心しながらも、自らの足りない部分を謝罪する。
「わかればよろしい」
腕組みしてうんうんと満足げに頷く律架。
女の子という年でも無いだろうとは突っ込まなかった草十郎の学習の成果を彼女は知らない。
「それで律架さんは疲れた時には何を?」
「そーねー、手近なところだと栄養ドリンクとか? 眠気覚まし程度にはいいわよ」
逸らされた話に律架はそのまま乗っかった。
当然のように第六感を働かせてしまった事にも気づけない。
「気休めですか」
「そうそう、美味しいだけなんだけど効けばお得?プラシーボ効果?
 でも効果が無いからってまとめて何本も飲むと危険だからやらないよーに!
 経験者はかく語りきよ。
 大人になればお酒でもいいんだけどね」
「はあ」
よくわからないといった返事。
「草十郎くんにはまだちょっと早いかなー? 下手に手を出すとアッちゃんとアコちゃんが怖いし」
 あ、マッサージもいいわよ。
 病は気からって言うけど逆もまた真なりよ、健全な肉体に健全な精神は宿るとも言うでしょ」
「なるほど」
その言葉は草十郎にもよく理解できた。
体調が悪そうな時にそうだと思っていると余計に悪化したように感じてくる。
逆にすこぶる調子が良い時にはいつにも増してやる気が出てくるもの。
しかし忘れてならないのはどちらであっても過度の偏りは禁物、自分を律してこそ最大限の効率が出せる。
己を律する事に関しては人並み外れの器用さをみせることを彼自身は知りもしない。
また同様に。
そのブレの強弱こそが人の人たる由縁であり、ブレを失えばそれは人の形をしたものでしかなくなることも、知らない。
「あとは温泉、旅してみるのも良い気分転換になるわ。
 それでもそんな余裕もなくてどうしてもって時にはとっておきのがあるんだけどね」
温泉は何かよくわからないがマッサージはまだ経験が無い。
この間まっどべあで木乃美も“本場モノは凄いらしいからいつか行ってみたいよな~”と言っていたがどうやら本当らしい。
しかも疲れも取れて気持ち良いなら一石二鳥出はないか。
「参考になります」
頭を下げてようやく目の前にあるチョコレートパフェをスプーンでひとすくい。
その前後に“可愛い女の子”とか“肌と肌との触れ合い”とか付いていたのを草十郎は忘れている。
律架の言うマッサージと木乃美の言うマッサージは明らかに目的を異にしていた。
それ以上話が発展せずに途切れたのは彼にとって幸運と言えよう。
「でも、誰かを頼るなんて珍しいわね」
優しげな眼差し。
律架の知る少年は全てを受け入れる代償として、全てを自助努力で何とかしようとする類の人間だった。
自分で出来ることは全部自分でやる、厳密には自分の出来る範囲でしか事態を解決しない。
彼自ら他人の手を求めることなんて無いとさえ思っていたのだが…………それがこうして自分を頼ってくれるなんて。
可愛いところもあるものだと彼女はくすぐったく思った。
「…………」
一方、つい弱音を吐いてしまった少年は自身の不甲斐なさにただただ苦い思いをするばかり。
何も問題なかったはず、はずと思っている時点で自分には覚悟が足りなかったのだと悟りまたへこんでしまう。
だって。
あのタイミングで、あんな顔されたら仕方ないじゃないか。
決して揺らいではいけないものが揺らいだ。
でも勘違いはしていなかった。
ああ、きっと今までの自分なら――――何の疑問を持たなかったあの頃の自分なら、と。
彼は反省する。
怖くなったわけでも惜しんだわけでも。
当然悲しんだわけでも喜んだわけでもなかった。
楽しみも怒りも憎しみもない。
ただもう少しだけ。
もう少しだけとあの瞬間、願ってしまった自分を草十郎は初めて呪わしく思った。
後悔と反省と郷愁の想いは今も降り積もり彼を苛む。
「もしかしておねーさんに惚れちゃった?この誰も居ないタイミングで激・告・白・!
 みたいな?みたいな?」
キャーと頬を両手で挟んで体を右に左にグネグネさせる律架。
「それはないです」
そんな彼女にきっぱりと。
心を占める影など全く見せず、草十郎は否定を返した。
「ですよねー!」
判ってるなら言わなければいい事を、場の空気も読まずあえて言うのが彼女の真骨頂とも言える。
そんな彼女を相手にすれば当然面倒になることも多いものの、少年には同じくらい楽しいこともあった。
抱える状況は何も解決はしていない。
それでもどことなく心が軽くなったような気がした。
神父とは違った方向性でこの人も誰かを救ってたりするんだろう、教会の人はやっぱり違うな。
出会いから一年と少々、草十郎は初めて律架に尊敬の眼差しを向けつつ、パフェをもう一口頬張った。
舌の上で仄かな苦味としっとりとした甘さが交わり、喉の奥へと融けて消えた。




[33236] とある結末とそこに至る経緯、前夜
Name: 32-265◆29996d79 ID:d411aa3f
Date: 2012/06/29 19:49

一言に紅茶を淹れると言ってもそこに含まれている所作は千差万別である。
同じポット、同じカップ、同じ茶葉、同じ水。
使うものは同じでも扱いがわずかに違うだけでも精製される味は全く変わってしまう。
その差を全くと捉えるのか少しとするのかは当人の舌次第。
「………………」
向かいの席で黙々と勉強に励む草十郎を有珠は見やる。
彼の視線は教科書とノートを往復するばかりでこちらの視線に気づく様子はない。
相当集中しているのだろう、勉強を始める前に淹れた彼の紅茶からはもう湯気は昇っていなかった。
寝食を忘れてと言う喩えもあるがまさに今、彼はその心境にあるのだろう。
本をめくる手を止めて少年の淹れてくれた紅茶に少女は手を伸ばす。
そして一口…………やっぱり足りないわ。
予想するまでもない味だった。
一言で言えば不味い、それ以外の表現のしようが無い。
この微かな甘さは量販店で安く大量に投げ売られている上白糖ではなさそうだが、彼なりの工夫なのだろうか?
だとしても紅茶は茶葉そのものの味と香りをありのままに楽しみたい。
本当に解っていないのね。
成長の兆しも見えなくも無いが、自分の淹れるものとは天地ほどの開きがある。
どうしたらこれほど不味いものを淹れられるのかが理解できない。
そう思いつつももう一口。
物思いにふけつつ、もう一口と飲んでいるうちに器は空になってしまう。
「………………」
そのままじいっとお気に入りのティーカップを見つめる。
こんなに不味いのに、どうして私は全部飲んでしまったのだろう?
すぐに考えるまでも無い理由が浮かんできそうで、疲れを感じた有珠は軽く瞼を閉じた。








――――とある結末とそこに至る経緯、前夜――――







「淹れようか?」
声をかけられて目を開ける。
走るペン先を止めて、こちらの様子を窺う彼の顔が見えた。
空のティーカップを持ったままだったから、ひょっとすると催促しているように見えたのかもしれない。
「ええ、お願い」
別に欲しかったわけではないが彼女の口はそう答えていた。
草十郎が勉強していてその向かいで有珠が読書に耽る。
二人で過ごす静かな時間。
既視感を覚えた彼女はあれは初めて彼の手料理を食べた日だっただろうかと記憶の糸を辿る。
あの日から、ずいぶんと遠くまで来たような気がした。
「最近」
「ん?」
有珠の呟きのような呼びかけにも慣れてきた草十郎が反応を示す。
「最近、どう?」
「何が?」
具体的でない問いかけに少年は委細を求める。
「青子のことよ」
新しく淹れられた紅茶を一口飲んでから、仕方なく有珠は言葉を続ける。
この二週間の間に片手で足りる数、それがあの事件以降、彼女と青子が顔を合わせた回数だった。
会ったとしても会話らしい会話もなく、視線を交わすだけで終わった時もあるほど険悪。
当然、毎晩行っていた魔術の指導も今は出来なくなっていた。
有珠は責務を感じていても相手にその気がないなら強要すべきではないと考えている。
それに教えを乞われたとしても、この心境では何が原因で殺し合いになるか判ったものではなかった。
――――あの時。
お互いにギリギリのところで自制したからこそ、どちらかが死なずに済んでいる。
これなら共同生活を始めた直後の方がましだったかもしれない。
そう少女に思わせてしまうほど、彼女達の仲は不必要に荒んでしまっていた。
自分は根に持つ性分で怒りが継続する時間も比例して長いが、それでも今の状況は限度を越えている。
怒って謝って痛み分けにして済む話ではない。
きっとそれは青子も同じ、否、彼女の方が苦しんでいるのかもしれないと有珠は思う。
留まることを嫌うあの子らしくないと思う一方で自分もらしくないのだろう。
「私も卒業してから生活時間変わってるし、会わなくて」
貴方の方が近いでしょ、と冷戦の火種となった無自覚な少年に問うてみる。
「機嫌が悪い、の一言かな」
会おうと思うなら部屋に行けばいいのにとは草十郎も返さない。
「いつもよりもずっと。
 何か聞こうとすると凄く睨まれるというか。
 無視して口を開いた途端に殺されてもおかしくない感じだった」
それを理解しているにもかかわらず、彼は青子を見かければ声もかけたし挨拶もした。
表情は読みにくかったが有珠も同様に機嫌が悪かったのも知っている。
それでもいつもと同じ態度で彼女達に接するのが、彼の彼たる由縁でもあった。

――――丁度紅茶を淹れるところだったんだ、有珠も飲むかい?

一時間ほど前に聞いた少年の誘い文句。
それが自分に対するご機嫌伺いだったなら有珠も相手にしなかっただろう。
裏表の無い草十郎の言と知っているから彼女は応じたのだ。
それが不味いと判っていても。
「やっぱり首輪を壊したのが悪かったのかな……」
反省する草十郎の首には包帯が巻かれている。
そこだけが、三人が出会ったばかりの頃に戻ったようだった。
あれからもう二週間は経つのに彼に彼女達から新たな拘束具は与えられていない、毒すら飲まされていなかった。
彼女達が露骨に手を抜いたわけでもないし、彼への信頼の深さから不要になったというわけでもない。
安易に手出しが出来なくなった。
それが真実。
「ごめんなさい」
有珠の謝罪はここに居ない彼女に対してではない、それを大事にしていた彼へのものだ。
「違う、あれはこっちが悪いんだ。有珠には迷惑かけてすまなかったと思ってる」
草十郎は魔女の気まぐれでまた生かされたのだと思っている。
青子は有珠の取り乱しようを話さなかったし、その機会も与えなかった。
有珠は自らの行為を喧伝して回るものでは無いと思っている。
それこそ恥、恥ずかしいではないか、と。
そんな少女らしい理由が少年に解るはずもなかった。
「あの時助けてくれなければこうしてまた話すことも出来なかったし。
 ありがとう、有珠」
「――――」
唐突な感謝の言葉に有珠は胸を詰まらせる。
「まだお礼は言ってなかったよね」
少年の笑顔は少女の心に幾らかの救いをもたらした。
「…………」
何か言おうとしたが声にならない。
言葉が思いつかない、自分が何を言おうとしてるのかさえ解らない。
でも何かを伝えたいのは本当だった。
「……………よし」
そんな風に有珠が戸惑っているのにも気づかず、草十郎は会話が終わったと判断し、すっかり冷めた紅茶を一気に飲み干し勉強を再開する。
本来ならもうしなくてもいい時期にはきているのだが、自分の力量不足を補うために行っていた。
結局試験を凌ぐだけの勉強では身に付かない、継続しないと意味が無い。
この一年少々で少年が繰り返し経験し、学んだことだった。
「…………ぁふ」
やりたいようにやる、実は自分勝手でブレの無い彼の姿を見てほっとした所為だろう。
あくびが出てしまった有珠は咄嗟に口を手で隠す。
「疲れてるんじゃないか?」
余計な気遣いと以前なら怒りさえ覚えていたかもしれない言葉に、
「そうね」
と軽く肯定しカップに半分ほど残った紅茶を飲み切る。
今は、今この時だけは自身を飾り立てする必要性を少女は感じなかった。
「そうか」
それ以上は追及しない彼の変わらなさが何よりありがたく思えた。
胸のつかえは取れたが、この数日の青子とのやりとりは精神的な消耗が激しい。
そんなもの気にしなければいいとは思うが、最早手遅れだ。
出来れば気づきたくなかったのかもしれないほどに、やっぱり私は、彼を――――
「まだ早いけど部屋に戻るわ」
本を閉じて立ち上がる。
「おやすみ」
「おやすみなさい」
ごく自然に、微笑を返していた。
一瞬彼の目が丸くなって、それから穏やかなものに変わる。
それだけで全てが満たされたような錯覚を覚える。
ドアへと向き直り数歩、有珠はそのまま倒れそうになり――――
「本当に大丈夫か?」
気づけば彼に支えられていた。
軽く頷いて少女は応える。
彼に触れられるのはこれで何度目だろうなんて胡乱な頭で思い出そうとしてみる。
「ここで寝るわけにはいかないだろ、部屋まで送ろうか?」
「ううん…………ここで」
少し休むから、と頭を振る。
明滅する意識の中、ぼんやりと片づけをしていない部屋が思い出された。
余計な心配をかけてしまう。
恥ずかしさもあるが強烈な眠気にそこまで感情が働かない。
たまにあるうたた寝、彼女は眠気を感じた時は素直にそのまま眠っていることが多い。
それはこの屋敷のどこにいても同じだった。
それでも今は彼がいて、誰かが居る時にここまで眠さを感じるのは初めてだった。
元よりもう一人の住人とはそれなりに緊張感を保った生活をしていたから、そういうこともなかったし避けるようにしていた。
彼に初めて寝顔を見られたあの日。
あの日は本当に久しぶりで――――ふわっとした浮揚感に包まれたかと思ったら、もう下ろされていた。
「これなら――――
もう聞こえない。
重い瞼を持ち上げる、がすぐに落ちてしまう。
ぼやけて見えたのは彼の顔、久しぶりに安眠が出来そうだと、取り留めの無いことを、
ああ、また寝顔を見られてしまうのね…………
そんなどうでもいいことが思考の最後に浮かんで、消える。
草十郎に今までにない近さを感じたまま、有珠は眠りについた。





[33236] とある結末とそこに至る経緯、三日前
Name: 32-265◆29996d79 ID:d411aa3f
Date: 2012/07/06 03:38
合田教会のとある一室で、毎月恒例となっている折衝が終わった。
何の滞りもなく、何の協定変更もなく、何の問題もなく予定通りの進行で事は運んだ。
「では私はこれで」
早速報告を上げるのだろう、進行役を努めていた詠梨が真っ先に部屋を出て行く。
それに続くように律架が軽い足取りで部屋を去っていった。
「ねえ唯架」
残っているのは二人。
部屋の入り口で早く出ていけと言わんばかりの修道女に青子は話しかける。
「草十郎はここで何してるの? ボランティア以外で」
「…………」
問われること自体、否、必要にかられる事以外で彼女が自分に話すのは珍しいと唯架は思う。
自分と彼女とは所詮相容れないのだから当然と言えば当然。
言葉に棘はなく、こちらを勘ぐっている様子も無いのならば本当にそれだけが知りたいのだろう。
「……そうですね、先週は懺悔に来ました」
少し思案するような仕草をして、彼女は答えた。
開けっ放しだったドアを閉じてから部屋の奥側へと三歩の距離を戻る。
少年のプライベートに関わるが故に配慮した形だ。
「どんな内容よ?」
「あの部屋の中での会話は一切口外することが許されません。神の教えに反することですから。
 例え相手があの神父であってもです」
懺悔室でのやりとりは一切口外しない。
それこそ異端尋問にかけるのであれば話は変わってくるかもしれないが、少年がそうならないことを彼女は知っている。
「はー、お固いことで。じゃあそれ以外で何かある? 何でもいいのよ」
こちらの都合も考えない自分本位の物言いに唯架は軽く苛立ちを覚えてしまう。
青子は助けを求めているわけではない、“教えろ”と言っている。
昔からそうだった。
礼節など弁えもせずそれがさも当然のように要求してくる。
年長者に対しての敬意も無い。
それで駄目なら基本的に別をあたり、どうしてもという事であれば実力行使に出る。
それが唯架の知る蒼崎青子の在り方だった。
「自分の使い魔の管理も碌に出来ていないとは、やはり魔術師は「認めるから」
これは嫌味の一つでも返すべきと判断して、
「は……?」
停止させられた。
「自分が魔術師としてまだまだ半人前だってことは認めるわ。必要なら頭も下げる」
もし彼女の目が見えていれば少女の切羽詰った様子が一目で理解できただろう。
言葉の響きにおかしなところは無い。
見える感情の色だけでは何とも言い難いものだったが、ようやく合点がいった。
そこまで心配するくらいならちゃんと管理しておくべきでしょうに。
少女らしくないものを見せられて、一瞬で毒気を抜かれてしまった自分も修行が足りないと胸の内で反省する。
「…………解りました。でもそんなに大したものはありませんよ」
彼女の為ではなく、あの稀有な在り方を持つ少年の為。
悪用できるようなものもなければ、懺悔室の密談以外に秘密にしなければならないようなことも全く無い。
自分と彼が悪事に手を染めているなんてこともありえない。
そう割り切って唯架は草十郎とのこの数ヶ月間のやりとりを話し始めた。








――――とある結末とそこに至る経緯、三日前――――








「ありがと、助かったわ」
本当に危惧していたようなことはなかったみたいだ。
有珠も心配しすぎなんだから。
青子はそっけなく、しかしどこか晴れやかな顔で唯架に感謝した。
「…………」
唯架は当人を尋問すれば済むことだと思っているがあえて言わなかった。
これまで彼がしてきた教会での善行を考慮すればそれを報いとするのは相応しくないからだ。
与えられるべきは恩赦である。
「あとは…………ああ、そうですね。
 この前来た時に何時なら空いてるかと聞かれましたが、あれはもしかしてデートに誘われていたんでしょうか?」
「――――」
ピシリ、と青子はこめかみ辺りに確かな引きつりを感じた。
よりもよってそんなことするためにこんな所に足繁く通ってたってーの!?
ここに居ない誰かに向けて叫びそうになり、いや、あいつに限ってそんなことは無いと自制する。
「そういえば、あんたに草十郎見えないんだっけ?」
怒りの火種はそのまま放置して少女はささっと話を切り替える。
「なんとなく空気を感じられる程度には見えるようになってますよ。
 喜ばしいことです」
本当に淡いものではあったが唯架は確かな笑みを浮かべた。
精霊の存在すら感知する彼女に脅威を全く感じさせない在り方は確かに貴いが、人離れしすぎていた。
山という異界に住んでいた少年が街に馴染んできた証拠なのだろう。
「でも、この間は後ろから驚かされてつい、うっかり殺しそうになってしまいました。
 いきなり宇宙人とかなんとか言われて……あれは何がしたかったのでしょう?」
今でも彼女の感覚で草十郎は見える時と見えない時がある。
それを忘れてしまったが故の、失態一歩手前の、小さな事件だった。
もしあの時彼を少しでも傷つけていれば、この青子の纏う色からして戦闘になっていただろうと推測する。
「あのバカ、まだ冗談のセンスが無いのを諦めてなかったのか」
去年の秋に起きた騒動の真実など誰も知りもしないし覚えてもいなかった。
誰も指摘しなかったが故に両手両足では足りない数、それ以降も有珠や青子は当然として近しい人間に草十郎は自分なりのジョークを仕掛けていた。
結果は無残、ことごとくが失敗に終わっている。
街の人間に山の感覚は理解し難い、否、笑いとはほぼ才能と言って差し支えないものだ。

――――緻密に計算された笑いの存在を否定はしないわ、でも草十郎。あんたは絶対的に持たざる者、誰もが認めるお笑い不能者よ。幾ら面白く計算しても使う術式が狂ってるから結果を伴わない。かといって天運に恵まれてもいない。センス以前の問題ね、この先数千数万数億回試行を繰り返そうと笑いの神なんて未来永劫あんたの上には降りてこないわ。きっぱり諦めなさいというかいい加減認めろ!! 毎回毎回殺意を必死に抑えて半殺しで済ませてるこっちの身にもなれっての! 笑うどころか怒りや悲しみに満たされるってなんなのよ!? え?なに?本当は私をからかってあんたがこっちのリアクション笑ってるんじゃないの? 静希君のためのお笑いなの?ねえ? だったらそれはそれで幾らでも最高の笑顔でぶん殴ってあげるわよ?私の気が済むまでね。でも違うんでしょ?違うのよね? ハハッ、違うとしたら何なのよこれは? こんなものがお笑いとか理不尽にも程があるわッッ! ふざけんな!!!……………………ゴホン。とにかくわかったわね? ノーモアジョーク、ノーモアお笑いよ。少なくとも久遠寺邸内では厳禁にするわ。

年の末、ついに限界突破した青子は大掃除ついでに草十郎の小さなプライドをばっさりざっくり滅多切りにしてゴミのように捨てたのである。
「悪気は無いのよ」
「ええ知ってますとも、彼にそれが無いことくらい」
そう返されて少女はこのシスター相手に彼をかばう必要がなかったのを思い出す。
「それよりも」
「?」
「貴女に面と向かって素直に感謝を言われる日が来るなんて思いもしませんでした……こちらの方が驚きです。
 彼の存在は貴方達にとってよいものになっているようですね。
 なればこそ早く解放して差し上げたいのですが」
胸の前で両手を組む唯架。
彼女は本当に少年の行く末を心配している、こんな魔女に関わってもよい事など一つも無いと。
「手篭めにでもしようものなら有珠が黙ってないわよ」
自分でなくとも有珠が草十郎を手放すはずが無い、この前の一件でそれは確定した。
それでも状況が状況なら彼女とて惜しみはしても割り切るだろう。
それが青子の見解だった。
「そのような下種な方法は取りません。誠心誠意、素晴らしい神の教えを説くだけです」
「改宗なんてあいつには無駄だと思うけど。引きとめて悪かったわね」
そう言い残して青子は会議室を後にした。
次に向かったのは姉の方、正直なところ気が進まないが聞かざるを得ない。
彼女の予想した通り休憩室には人の気配があった。
躊躇なくドアを開け放つ。
「はらアコひゃんやない……んぐ。何か忘れ物?」
律架がストーブに当たりながら蜜柑を口いっぱいに頬張っていた。
「ええ。遠い昔に負わされた心の傷(トラウマ)が疼くので仕方なく」
そんな彼女に少女は最高の笑顔で答える。
「ガーン!! 今頃お礼参りなんて聞いてないわ!」
そのオーバーリアクションにもこめかみがぴくぴくしてしまうのを青子は止められない。
冷静に冷静に。
さっきまで普通に顔を合わせていたではないかと心を落ち着ける。
「冗談よ。聞きたいのは草十郎のこと。あいつ最近ここによく出入りしてるでしょ?
 ありていに言えば素行調査よ」
それを聞いて悩むような悩んでいないような、猫のように中空に視線をさ迷わせてから律架は腕組みをした。
「んーっと。そーねー……思い出そうとしてみたけど残念ね、ここで何やってたかなんて知らないわ。
 見かける度によくお掃除してるくらいかしら。庭木を整えたり窓を拭いたりゴミ拾いしてたり。
 たまに猫達に餌を上げたり? 私は外出してる時の方が多いし」
聞くだけ無駄だった。
唯架とは違い信仰など無い律架にとって虚言は特別に抵抗のあるものではない。
かといってあえてこの場で嘘を吐く理由も無い。
青子にはこれ以上話を続ける理由が消えてしまった。
「――――あ「酷く疲れてたみたいだからちょっと相談には乗ってあげたけど。そのくらいかも?」
これ以上は無用、精神衛生上もよろしくないと彼女が判断した矢先。
「疲れてた?」
気になる言葉が耳に入った。
「先月くらいかな、バイト先の喫茶店で少し話す機会があったのよ。
 アコちゃんもアッちゃんも草十郎君は普通の人なんだからもう少し考えてあげないとね」
静希草十郎はどうあがいても並の人間。
それは彼に関わるあちら側の人間の共通見解である。
身体能力が高く一芸に秀でてはいるものの、魔術刻印もなければ魔法も使えず魔術の嗜みも無い。
車に轢かれても銃で撃たれても内臓が一部吹き飛んでも首が折れても普通に死ぬ。
偏った食生活の積算や過度の疲労でも死にかねない、当たり前の脆弱性。
そんな彼をこき使っているのは他ならぬ自分自身。
「……ご忠告痛み入るわ」
知っていながら軽視していた事実を突きつけられて青子も流石に反省させられる。
信用と信頼は似て非なるものだ。
むしろ安易な信頼など手抜きと同じ、やっていいことではなかった。
「あらあらアコちゃんでも素直になることあるのね」
律架に妙に優しげな瞳を向けられて青子は睨み返す。
「それどういう意味よ」
あの妹にしてこの姉あり、アプローチは違えど本質は似ているのだと彼女は思い知る。
両者から突きつけられたのは少年に対する管理の甘さに他ならない。
未だに使い魔としての登録を済ませていないのも遠回しに指摘しているのだろう。
「それで。疲れてたって、あいつ温泉にでも行きたいとか言ってたの?」
それでもはっきり言われるまでは無視を決め込もうと少女は決めた。
「どっちかといえば気分転換?
 考え事があるとかでそれは内緒にして欲しいとか…………何かプレゼントかもね、時期的にはそうだしぃ~」
にんまりと気持ち悪いくらいに律架が口角を釣り上げる。
「二人はあげたの? あげたんでしょ、ねえ?」
バッと椅子から立ち上がり兎が跳ねるようにステップを踏んで青子へと近づく。
「何を?」
「またまたぁ~、とぼけちゃって。チョコレートよ、チ・ヨ・コ・レ・イ・ト!」
そして彼女は真横に並んだかと思うと肘でぐりぐり少女のわき腹を突付いた。
「――――む」
思い当たる節がある少女は押し黙る。
確かに先月のバレンタインデートやらに青子は草十郎にチョコをくれてやっていた。
断じて本命ではない。
義理というかお零れに預かれ的に、きまぐれに貧相な10円チョコを投げ渡したのだ。
決してプレゼントではない。
くれてやった後でその日だと言う事に気づいたぐらいすっかり彼女は忘れていた。
そういえば有珠はあの日何かしたのだろうか?
「くぅ~でも草十郎くんも三倍返しは常識だけど辛いわよねぇ」
律架はうんうんと頷く。
「………………」
しかしながら10円チョコは三倍にしても30円にしかならないのだった。
十倍でも300円、千倍なら30000円まで届くがそれは流石に横暴だろう。
ああでもそのくらいの常識は持っていたのか。何も言わないから知らないと思ってあえて言い訳もしなかったのに。
騙された気分だ。
そのまましばし少女は自己に埋没する。
あれ、何も知らない様な振りをして本当はこっちを手玉に取ろうとしているんじゃないだろうか。
有珠なんてたった一年であんな感じだし……それはないか、やっぱなしの方向で。
あいつ根っからの天然素材だし、そこいらの加工品になるにはまだまだ時間かかるだろうし。
それ以前にこれは律架のかまかけだ。
草十郎から聞いたとは一言も言っていない、つまり律架の推測の域を出ていない。
逆に私がここで露骨な反応を示せばそれはそれで面白がるだろう、それこそ死に目にあってもそれしか選ばない。
こいつはそういう奴だ、あちこち言いふらすに違いない。
万が一、姉貴の耳にでも入ろうものならそれが事実と異なっていようときっと恐ろしいことになる。
何がどう恐ろしいのかはその時になってみないと解らないがよろしくない。
結論として反応をしないのが正解、私がどう答えても律架はそれを弁解として曲解し言いふらす。
「でもデートはしてみたかったかなー?
 例えアコちゃんやアッちゃんのお返し探しだったとしても色々面白そうだしぃ~?
 ほんと、時期が時期でなければねー」
「ああそっか、もうそんな時期か」
よってこのまま話を逸らすのが正解。
デートのところは後々個別に問い詰めると青子は心に誓う。
しかしながら、少年が律架や唯架を頼るのは妥当な線だと彼女認めている。
自分たちの事をよく知る人間で、同じ女性で、しかもそれでいて常日頃接点があるわけでも無いから秘密は守られる。
あえて少女二人のが嫌いなものを彼女達が選ぶ可能性も捨てがたいが、彼女達も大小に拘らず少年が傷つくのを良しとしない節がある。
もしそんなものを選べば真っ先に被害に遭うのはその少年、ならば最終的にそれなりの品を選んでくるだろう。
唯架が神罰の手先として、または律架が悪戯の引き金として草十郎を利用することは無い。
それだけは青子にも信じることが出来た。
「そうそう、万能おさぼりお手伝いを自負する私でもこれだけはさぼれないのよね~」
 年に一度にしてくれないかしら」
「唯架もだっけ?」
「ええ、何も無いとは思うけどこの時ばかりはアコちゃんとアッちゃんにお願いするしかないのよね。
 あの人は使う側の人間でしょー、いざという時なかなかねぇ……」
この街から土地の管理者以外の目がなくなる日。
律架はこんななりでも名目上魔術協会のお目付け役であり、唯架と詠梨は対抗勢力の聖堂教会に属している。
年に何度かはそれぞれが本部への報告会に行っている。
青子は詳しいことを知らないが、中立性を保つために日付は変えても同じ日に行う、それが暗黙のルールとなっていた。
この月に一回の折衝だけでも面倒なのだからそれに輪をかけたものなのだろうと彼女は予想している。
そして律架の浮かない表情を見ても判るようにそれは概ね当たっていた。
「事務専門って訳でもないでしょうに」
詳しい実力は知らないが詠梨が魔術を使えないのを青子は知っている。
姉貴の話だと刀剣らしいけどまさか常時携行しているんだろうかと疑問視してみたりする。
夏場でもコートだったし、あやしいのはあやしい。
「そうそう、ああ見えて武闘派だからうっかり近づいちゃダメよ。
 気づいたら死んでたってのもあながち嘘じゃないわ」

――――いやあ、今なら切れる、と心が騒いでしまいまして。

今何か、ゾッとする何かが頭をよぎった気がする。
「とにかく知ってる情報はその程度ってことね」
礼も言わずに去ろうとして、
「アコちゃん」
青子は呼び止められる。
先ほどまでの柔和な雰囲気はどこへやら、振り返った先に、真剣としかいいようの無い表情の律架が居た。
「あえて念押ししとくけど彼、過労で病院にも行こうとしたらしいわよ。
 通院履歴が残るって知ったらやめたみたいだけど。
 理由は判るわよね?」
「…………」
青子はすぐに返す言葉を用意できなかった。
あのバカのことだから私や有珠に心配かけると思ったのだろう。
それ以前に保険に入っているんだろうか、あいつ。
保険に入っていなければ通常支払う三倍から五倍の費用になってしまう。
それもきっと病院へ行けなかった理由の一つに違いないと、少女は推測した。
加えて、その無い金を無理矢理毟っているのも他ならぬ自分達である。
「いたわってあげなさい、それも主の努めよ。他人に出来るのは気休め程度なんだから」
実際、律架が草十郎を助けられたのはほんの一晩二晩程度の時間に過ぎない。
根本解決しなければ元の木阿弥、何の意味も無いと彼女は忠告した。
「わかってるわ」
言われるまでもなく。
だが青子は他人に優しくするのが苦手だった、下手と言ってもいいかもしれない。
彼女が他人の心配をするように見える時にはそこに必ずと言っていいほど彼女自身の利益が絡んでいる。
経済的な理由でも立場的な問題でも気分次第だったとしても、まず自分が先に立つのが彼女だった。
だから自分が為す心配や優しさが他人のそれと異なっているのをよく理解していた。
「あ、そうそう、デートの話だけど。唯架の方にも声かけてたみたいよ?」
青子はドアへと踵を返しつつ当てつけのように投げかけた。
「二股なんてダメよ! あ、でもアッちゃんとアコちゃんをいれるなら四ま――――ぅおっとおおお!?」
律架はセリフに割り込む青い閃光を寸での所で緊急回避してみせる。
青子の右腕から律架の額を通る射線上の壁には、小さな穴が穿たれていた。
「ちぃ」
苛立たしげに舌打ちして、今度こそ青子は休憩室を出る。
叩きつけられるように閉じられれたドアが、短く大きく悲鳴を上げた。
私を怒らせる技だけは達人級ね。
少女は何故ここまで怒りを感じているのか解っていない。
ただそんな理由よりも怒りによるストレスを何かで発散させねばと考えて、屋敷に戻ってもまたストレスしかないことに気づきうんざりする。
外食するにもお金が無い、ぶらぶらとあてもなく街を歩いて時間を潰すのも性に合わない。
それでもここで燻っているよりはまし。
肩を怒らせたままずかずかと廊下を抜けて裏口から教会の敷地を出ようとしたところで、残る最後の一人から声をかけられた。
「おや、まだいたのですか青子」
少女は無視を決め込もうとして――――できずに足を止めて振り返る。
「その様子だと草十郎君のことですか」
詠梨はさも当たり前のように青子の痛い所を突く。
「否定はしないわ」
いかにもこっちのことをお見通しと言わんばかりの笑顔が彼女をむかつかせる。
「そうですか、では私からも一つだけ」
わざわざ何を仕込んでいるか知れないコート裾から腕を抜き出し、神父は人差し指を立てた。
「彼は隙の無い人間です。思い起こせばあの冬の日に出会った時からでしょうか。
 思えば私自身、あの日から彼に試されていたのかもしれません」
少年と出会ってからの一年を男はそう振り返る。
「草十郎に?」
「ええ」
少女の驚きを神父は静かに頷いて肯定した。
「彼は決して私に近づかない、私の何を知るというわけでも私の何を話したわけでも無いのに、です。
 野生の勘とでも言うんでしょうか、ああいうのは。
 それで先日、私もついに好奇心に負けて彼にちょっと“仕掛けてみた”んですよ、あれには驚かされました」
「何をやったのよ」
無意識に、敵意を込めて青子は神父を睨み付ける。
「極々簡単なことです。
 “いつも持ち歩いている得物の長さを少しばかり変えた”。
 たったそれだけです」
「ッ!」
常時帯刀しているなんて馬鹿げた事をどこか心の隅では信じていなかったかもしれない。
それでも本人から聞かされれば認識を改めざるを得ない。
青子は飛び退り、魔術回路は起動しないまでも臨戦態勢に移った。
「そうすると彼と私との間の距離、つまり間合いもきっかりその分だけ変わったのですよ。
 おそらく無意識、でなければ常軌を逸した鍛練のなせる技でしょう。
 もしかすると唯架ほどではなくとも、外敵に対しての感受性が強いのかもしれません」
その反応が微笑ましかったのか、詠梨は口元のかすかな笑みを崩さずに続けた。
常に少年は神父の手の届かないギリギリの位置に立っていた。
何事も最初から届かないのなら興味すら湧かない。
しかし届きそうで届かないとなれば容易く届く場合よりも感情を逆撫でられるだろう。
いわゆる生殺し。
仮にそれが善意による最大の譲歩だったとしても、そう受け取るか否かは相手次第である。
「あんたそんなに」
草十郎を殺したがってるのかと。
少女は噛み締めた奥歯が軋んで鳴る音を聞いた。
「青子は知っているでしょう、私が人を殺したいと思うことはありません。
 お姉さんから聞きませんでしたか?」
問われて少女は緩やかに思い出す。
その場に居合わせた姉曰く、当時魔法使いだった祖父を一刀の下に切り伏せた。
斬れると思ったからから斬った、それだけのことだと詠梨は言ったらしい。
その瞬間に迷いなく行動する、一切の感情を挟まない機械動作。
先程、明らかに間合いの中に居た自分を斬らなかったのは、単に詠梨がその気にならなかっただけに過ぎないのだろう。
何時、何処で、どんな状況ならそうなるのか解らない以上、そこに入るべきではない。
文柄詠梨という男は気の抜けない隣人だと青子は改めて認識した。
「もし手を出したら――――判ってるでしょうね」
彼女の口から発せられたのは確認ではなく明確な警告(さつい)。
自分が手を出すのは勿論、もう一人の魔女も知ったが最後、確実にお前を殺す、と。
「ええもちろん。
 私もそんな怖い思いはしたくありませんので」
故意に虎の尾を踏むほどの蛮勇は持ち合わせていないと男は答える。

ただ――――彼が間合いに入ればその限りではありませんので。あしからず。

元より自制の効くものではない。
詠梨の目は、物静かにそう語っていた。





[33236] とある結末とそこに至る経緯、その日の朝
Name: 32-265◆29996d79 ID:d411aa3f
Date: 2012/07/13 03:17
翌朝サンルームで独り、草十郎は朝食を食べていた。
三人揃って食べていた頃を少し懐かしむ。
こうして独りで食べるご飯は味気ないものだと改めて気づかされる。
しっかりとした味はある、でも何かが物足りないのだろう、今ひとつ美味しいと感じられない。
一晩ぐっすり寝て体調はすこぶるいいはずなのに気分はいまひとつすぐれない。
「有珠は?」
挨拶もなく入室と同時に質問が投げかけられた。
「おはよう蒼崎」
草十郎は現れた青子にまずは挨拶を返す。
「まだ寝てるんじゃないか? 昨日はかなり疲れてたみたいだった」
そして質問に答える。
「そう」
居るのは最初から期待してなかった。
入った時点で一目瞭然、彼女にとってそれはただの確認に過ぎない。
「食べるならついでに用意するけど?」
そう言われてテーブルに並べられた少年の食事を見る。
エッグトーストにミルク、インスタントのコーンスープにあとは添え物程度のサラダといったところ。
本当は自分の番だったはず。
ほとんど意識に入れなくなったホワイトボードの存在を彼女はふと思い出す。
二週間前の事件を境に当番制はあって無いようなものだ。
少年は自分のペースを崩さなかったが、二人の少女の生活ペースは故意にずらされているようだった。
同じ屋敷に住んでいながら会わない。
キッチンや居間、ロビーそしてこのサンルーム、浴場も含め共通で常日頃から利用する区画は少なくない。
それでも会わないのなら――――それは、お互いがお互いの存在を感知して避けているだけの話。
両者に、特に青子にはらしくない逃避と呼んで差し支えない行為だった。
当人が問われたとしても、あんたのためなんてこれまたらしくないことを言いかねないほどにある状況を忌避している。
切実な迷いや悩みがあるなんて自分でもらしくないと、しかもそれを思い浮かべることも声として形にすることさえ恐れていると言っても過言ではなかった。
常に前へ前へと、足踏みなんて性分に合わないのにそれを続けているのは、未練や名残というものだろうか。
そう思う時点で答えは出ているのだがそこにも彼女は気づけない。
「そうね、お願いするわ」
と自分の席に着く。
入れ替わりに草十郎が食事を中断し、席を立った。








――――とある結末とそこに至る経緯、その日の朝――――








「………………」
「…………」
何かしら会話があるかと思えばそうでもなかった。
青子とて期待していたわけではない。
それでも本当に朝食に誘っただけなんて、と思うのは仕方が無いだろう。
状況が状況なのだから、食事は本題ではなく何らかのきっかけを掴む契機として利用するべき。
それも解らないほどバカなんだろうかこいつ。
やるせないと彼女が見た彼の横顔は、非常に満足げに見えた。
「何よその顔」
それが何故か気に食わない少女は棘のある声で突っつく。
「いや、蒼崎とご飯食べるの久し振りだろ」
「………………」
だから?と促す視線に少年は笑顔で答える。
「嬉しくて、つい」
「あ、そ」
努めてそっけなく、青子は目を逸らす。
心臓を鷲掴みにされたかと思った。
なっ、何恥ずかしいことをいきなり言って――――なんて少し前なら言葉に出さずとも思っていたかもしれない。
もしかすると反射的に殴ったり問答無用で首輪を絞めた可能性もあったのだろう。
でも今感じているのは紛れもなく苦痛、甘さなど何処にも無い。
過去に何度も、彼女は彼の存在を毒として捉えていた。
「……あんな事あったのに、こんな状況なのにアンタは全然変わらないのね」
「なにが?」
草十郎に問われ、自分が相当参っているのを青子は自覚する。
「なんでもないわ」
追及を断ち、余計な事を喋らないようホットミルクを口に含む。
途端に彼女は顔をしかめた。
ホットミルクに砂糖でも入れてあったのか、確かな甘みが舌を撫でた。
子供じゃないっての。
だいたい他がプレーンな味付けばかりしているのにこの甘さは無いと断じる、明らかに異物だ。
自然、抗議の眼差しは外を眺める少年へと向けられる。
そこではたと思い出す。
そうだ、異物だったのは――――静希草十郎、こいつだった。
変わってしまったのは自分達、そして調子を狂わされるのを容認したのは自分。
自業自得だと理解も納得もしている。
人生にいくつかのターニングポイントがあるとすれば、人と人との出会いもその中の一つだろう。
青子は自問する。

この出会いに後悔はあるか?

あるわけがない。
そもそも自分の過去において後悔など一つも無い。
本当かと問われれば確かにああしておけばと思ったことが無いとは言わない。
でも結局それは一過性のもので、すぐにこれからの事へと思考は切り替えられている。
全ての過去を今の自分の踏み台にして未来へと突き進む。
つまり後悔として永続的に残っているものなんて過去の人生を何度振り返ってみてもひとつたりともなかった。
苦しかったり辛かったり怖かったり悲しかったり酷いことは色々あったがそれでもだ。
うん、私の人生に悔いなんて無い。
私は私のままだと納得して、青子は甘ったるいホットミルクも含め朝御飯を完食した。
「――――」
そんな青子の表情の移り変わりに草十郎は見入っていた。
「な、なによ」
視線に気づいて少女は反射的に睨み返す。
ずっと見られていたのかと思うと彼女も気が気でなくなってしまう。
ひょっとすると寝顔を見られたのより恥ずかしいかもしれないなどと思ったりした。
「べつに」
少年は満足げな表情は崩さずに言葉を濁す。
あえて言う必要も無い、と。
このささやかな満足感は自分の胸の内にだけあればいいと言うように。
「別にじゃなくてはっきり言いなさい」
しかし少女はそんな彼の独りよがりを許さない。
うやむやにされては困ると、微かに耳を赤くしたまま命令する。
「蒼崎らしいなって」
仕方ないと幸せそうなため息をついて草十郎は答えた。
「何がよ」
「相変わらず機嫌は悪そうだけど、悪そうでないところなんか特に」
「なんなのよそれ」
言葉の意味は解らないが、青子は草十郎に心の底まで見透かされたような気がした。
無性に腹が立ったのでいつものように指を鳴らそうとして、思い直す。
もう、彼を戒めている枷は無い。
何も無いのだ。
彼はあの時から自由で、ここに縛られている必要も無いのに今もここに居る。
「――――」
それを問うことに意味があるんだろうか。
突然寒気が身を包んで、少女はブルッと身震いした。
まだ窓辺伝いに残っていた冷気が首筋を撫でたのかもしれない。
両の手で二の腕を擦りながら、日差しがもう少し強くなるまで待とうと心に決める。
「ご馳走様。もう一眠りするわ、お昼ご飯になったら起こして」
彼女は両手をテーブルについてよいしょと立ち上がる。
変わる頭の高さに草十郎の目線が追従する。
「有珠と三人で食べましょ」、
青子なりのけじめ。
時間はかかったがもう足踏みなんてしていられない。
前を向いて歩いてこその蒼崎青子なのだ。
「ああ、準備はやっておくよ」
その背に少年は応えて、同様に立ち上がる。
少女は前向きな提案をしながら体の向きを変えたから、彼の表情の、一瞬の変化に気づけなかった。
「蒼崎、背中にゴミが付いてるぞ」
「え?」
足を止める。
背中なんて見ようとしても見えるものではない。
「じゃあお願い」
当然のように素直に。
青子はそのまま背中を草十郎に預けて――――


とん、


と。
首筋に強かな衝撃を感じた。
はっきりと認識できたのはそこまで。
衝撃は彼女の長い髪の上から肌を徹し延髄へ伝播、思考と運動の中枢を機能不全に陥らせる。
思考も許さぬ心の空隙、何をされたのか理解することも出来ず。
肉体の反射でそのまま倒れそうになるのを何とか踏みとどまろうとして、よろめきながら。
霞んで焦点の定まらぬ視界の中。



虫のような能面を、見た。

次の瞬間、青子を訳の解らない――――そこで意識は完全に絶たれた。







[33236] とある結末とそこに至る経緯、七ヶ月ほど前
Name: 32-265◆29996d79 ID:d411aa3f
Date: 2012/07/13 03:18
「興が乗った、充電期間中の暇つぶしにでもやってみよう。
 しかしあまり深く覗き込むものじゃないぞ」
厳し目の、しかし薄っすらとした優しさで包まれた忠告が聞こえた。
「?」
電話の回数が多い事だろうか、確かにこれは怪しまれるに値するかもしれないと少年は思った。








――――とある結末とそこに至る経緯、七ヶ月ほど前――――








電話の向こうの女性は紫煙でも燻らせているのか、長く細く息を吐いてから言葉を続けた。
「前にも言っただろう? 私はこれでも君のことを気に入っている。
 殺しておいてこう言うのもなんだがな、くっくっく、いや、一度殺したからこそ余計に、か」
「それはどういう「気の迷いだ、聞き流せ」
殺気のこもった口調、響きは軽かったが聞かなかったことにしろという命令だった。
どうしても聞きたいことでもなかったので言われるがままに放置する。
眼鏡の一つでもかけていれば穏やかになるのにと彼は思う。
ただ、そうしても穏やかに見えるだけで彼女の本質はなんら変わらないことも理解していた。
同じ水でも液体と固体をぶつけられるのでは大違い、できることなら痛くない方がいい。
もっとも、水も高い圧力をかければ金属を切断できるし氷も極小の粒ならばカキ氷、痛いどころか美味しささえ感じられる。
どちらに例えようと状況的に結果は変わらないのだった。
「…………“深淵を覗き込む者はまた深淵から覗き込まれている”。
 森羅万象、この世の総ては常に相対的に動くものだ、完全に一方的なことなど絶対にありえない。
 もし仮にそう見えたとしても、それは見かけ上の話に過ぎず本質とは似て非なるものだ」
「…………」
このように橙子さんは時々難しいことを言う。
初めて会った時を思い出してみると、こういう時にこそ彼女は輝いて見えたのだなあと。
自分とは違う、何か別の世界を持っているのだろう。
うむ、とそんな風に草十郎は俯瞰的立場に逃避して頭の中で分析してみる。
それは生き方と言ってもいいものだ。
街に下りてきて約一年、未だに生き方どころか進む方向すら定まらない者にとってその在り様は眩しい。
初めて彼が青子と出会った時に感じた、表現出来なかった感情もそこに起因する。
憧れと羨望。
隣の芝生は青いとも言う、いわゆる無いものねだりに近い。
彼をして持たざる者と言うのであれば彼女をして持つ者と表すのだろう。
それでも彼は彼なりに努力を重ねているつもりだ。
例えその結果彼自身が失われようとも。
彼女そのものには成れなくても。
純粋に近づこうと試みるだけなら誰だって出来るのだから。
「私達の世界に関わろうとするのなら常にその対価を求められ、奪われる状況にある、と言えば解るか?」
なるほど、しかしそれはどこに生きていても同じものではないのだろうかと、草十郎は言い返しそうになって口を噤む。
山に居た時も自然から物を得るには相応の苦労が必要だった。
自然にとって自分の汗水流した苦労が対価となるかといえばそうではない。
求められていたのは常に自分の命。
死んで自然に還ればその血肉は山の土となりそこに棲む動植物や虫達の餌となる。
つまり生きている間はその肥大化する負債を背に、いつ訪れるとも限らない死に直面することとなる。
だってこれは一度払えばそれっきり、その一回で完済。
二度目は無い。
こっちの世界で言うなら一方的に借金を踏み倒し続けていて、強制徴収に怯えるようなもの。
それでも命までは取られない分、お金でどうにかできる範囲なら安全だ。
悪友が良く使うギブアンドテイクなるものも割に合わない事の方が多いが、それも山で求められたことに比べればたいしたことはなかった。
「御代は如何ほどに?」
「やれやれ本当に君とは駆け引きが楽しめそうにないな、私が幾らの仕事をするのか知らんのだろう?」
そう言われて考える。
頑張ればギリギリ七桁届くかどうか、その程度の持ち合わせしか彼には無い。
それでも同居人の二人が知れば驚くべき額には違いない。
あの冬の日のひと騒動のように、すぐさま餌食にせんと何事かを堂々と企てることだろう。
しかし仮に彼女の要求がそれで間に合ったとしても、この先数ヶ月、今以上の滅私奉公を余儀なくされる未来を確定されてしまう。
二人にも怪しまれるし草十郎にとっていい話ではない。
そこまですべきだろうか……と考え、別の視点に切り替えてみる。

「では、俺が――――青子を一泡吹かせるというのは?」

「っ――――」
詰まった音。
「……実に私好みの回答だが、君らしくはないな」
察しがいいと彼女の洞察力の高さに少年はいたく感心する。
感触は悪くない。
できる人間の考え方というのは真似をしてみるものだと、ここには居ない友に感謝した。
もし本人がそれを聞けば苦虫を噛み潰したような顔になることうけあいなのだが、彼には知らぬが仏というものだろう。
「詮索しないで頂けると助かります」
ついでにきっぱりと追及の手は断っておくのも忘れない。
「…………まあいい。
 一泡というところが甘いが及第点だ、こっちも君を利用させてもらうとしよう。
 インターバル(嫌がらせ)には丁度いい、直接出向くにはまだ仕込が足りないからな」
今さらっと恐ろしい言葉が聞こえたような気がしたが、草十郎は気のせいにした。
あんな場面は何度も見たくないし、思い出したくもないのだ。
「証拠写真と報告は忘れるな」
「はい、よろしくお願いします」
草十郎は橙子が具体的に何をしてくれるのかは知らない。
アイデアの提供はしたがそれを実用レベルに落とし込む経路は幾らでもある。
ただ使用用途、つまり方向性は定めてあるから大きく自分の想定から外れるものにはならないだろう。
問題は間に合うか否か、その一点だった。
「では四ヵ月後に」
そこで通話は向こうから切れられた。




[33236] とある結末に至る(完結)
Name: 32-265◆29996d79 ID:d411aa3f
Date: 2012/08/27 21:23
――――気づけば倒れていた。
頬に触れている床面の冷たさにはっとして体を起こそうとする。
そこで違和感に気づく、後ろで両手を拘束されていた。
暗闇の中、微かな明かりに反射する鈍色、二つの腕輪が手錠のように絡んでいる。
「くっ――――ぁ……?」
力任せに引きちぎろうと魔力を疾走らせてぐるんと世界が回った。
「ぅく……おぅあ、げほっごほ、げぇえ……」
胃が持ち上がり内臓が捩れ狂う嘔吐感に耐え切れず吐き零す、三半規管が機能していない。
足に力を込めようとしてもその感覚がちぐはぐで痺れさえ感じる。
べしゃりとそのまま倒れこむ。
打った顔の痛みも痺れるようなノイズに混じり消えていく。
何が起こったのか理解できない。
全身の筋肉が引き攣り、捩れて悲鳴を上げているよう、心臓は狂ったように静動を繰り返す。
「う、ぁあ……ぁ、あああぁあああぁぁぁあああああぁぁ――――
前後不覚、何処を見ているのか視界も定まらないそれでも、力を込め続け――――終に息が途切れた。
「――――かはっ、はぁ……はぁ…………うぷ」
また吐き零す。
今度は血の臭いがした。
そうして暗がりの奥にひっそりと転がる人影に気づく。
「――――」
驚きはあったものの、声をかけられるだけの気力も体力も削り取られてしまった。
少女は両手と両足を拘束されている。
自分と同様に吐瀉物にまみれて綺麗な顔は台無し、蚊の鳴くよりも更にか細い呼吸でなんとか生きているように見えた。
衰弱が激しい、彼女をを最後に見たのはいつだったか。
止まない頭痛と何度も打ち寄せる不快感に苛まれながらも思い出そうとして、降りてくる足音が鼓膜を打った。
かつかつと。
一定のリズムを刻んで、その音は檻の前でぴたりと止まった。
やあ、と手が上がる。
いつもの虫も殺さぬのんびりとした顔で現れた誰かを睨み付け、青子は叫んだ。


「静希ィィィィィィィィイイイイイイイイ!!!」








――――とある結末に至る――――








感情に突き動かされ食いかかろうと蹴りだすが、力がうまく入らず足を滑らせる。
「お昼になったから起こしに来たよ」
こけて強かに顔を打つ彼女を見ても顔色一つ変えず、草十郎はそう言った。
「――――」
微かに浮かべた笑みを見て少女は戦慄する。
彼に対し初めて恐怖を覚え、全身に鳥肌を立てて身震いした。
今まで見た笑みとまるで同じなのに、否、こんな場面でさえまるで同じだったから度を越えて不気味だった。
人はあまりに理解の及ばないものに対し恐怖を覚える。
幾らなんでも此処まで空気が読めない訳がない、仮にも一年以上共に生活していて彼の人となりはそれなりに熟知しているはずだった。
それでも、と否定する。
「有珠にも説明したけど」
少女の胸中を計り知れない少年は勝手に話し始める。
「それは拡張魔術回路で装着者の魔術回路に同調して魔術刻印と似た働きをするらしい。
 元々が無色だから一度染まったらその人専用になるらしいけど、拒絶反応は出ないとか言ってたかな?」
それというのは二人の少女の手足を拘束している銀色の輪のことだった。
魔力を走らせていた間は何か紅い文様が浮いていたような気もしたがどうにもうまく思い出せない。
あからさまな異物を繋がれたのなら拒絶反応もでるし抵抗も出来るだろうが、自身と誤認させられてしまったらどうしようもない。
適合率100%の臓器移植のようなものだ。
「有効な利用方法としては使えなかった魔術が簡単なレベルだけど楽に使えるようになるとか?
 商売用のは質が悪くてすぐに消耗して壊れちゃうみたいだけど」
すらすらと彼の口から這い出てきた言葉はよく知っているはずなのに、異国のよく解らない言語体系の、さながら暗号のように、青子には聞こえた。
冷や汗が頬と喉を伝い胸元へと落ちる。
「…………今回はその、最悪の利用法ってこと……?」
何とかそれだけを彼女は搾り出す。
体調は未だに最悪、気分も最悪で魔力もすっからかん、これ以上ないくらいに状況は悪化している。
そう認識できているだけまだ冷静さを失ってないのだろう。
「そうなるのかな?」
少年の表情はいつもと変わらない、世間話レベルだ。
心がざらつく。
「なんでも体内に流れる魔力を片っ端から吸い上げてその生成を阻害し、流れを根こそぎ狂わせるらしい。
 有珠は一つ付けた途端に動けなくなったし、きっとその通りなんだろう」
いやあれには驚いたと草十郎は頷きと共に当時の心境を語る。
少年に似つかわしくない残酷な仕打ちを聞かされた青子の意識が有珠へと向く。
有珠は魔術回路、刻印の塊のような存在であり、その構成も複雑怪奇、本人以外には理解し得ないものになっている。
それら全てが狂わされたのだとしたら、被害は単純構成の自分と比べようも無い程に甚大なものとなっているはず。
回路が壊されて無いのがささやかな救いか……こいつの発言が全部正しいって前提だけど。
少女は再び意識を目の前に立つ彼へと向ける。
「ああ、有珠に4つ付けたのは念の為。
 少しでも魔力が使えればプロイが動かせると思ったんだ、チョコのケースは閉じたしロビンも鳥籠に入れてある。
 死に目にあわないと効果が発動しないとは思うけど、これも念の為。
 この牢屋を選んだのもこの屋敷の中でただ一箇所、外部の魔力が流れ込んでないって前に聞いたから」
自分にはよくわからないけど更に念押しで、と少年は付け加えた。
「――――」
そこまで聞かされた青子の真っ先に浮かんだ疑問は“一体誰の入れ知恵なのか”。
自分には覚えが無い、有珠もそんなことを言うはずが無い。
お互いに必要最小限しかこいつに魔術的な知識は与えていない。
可能性があるとすれば教会組が一週間も居座ったあの事件の時ぐらいだ。
唯架なら簡単にそれくらいのことが判るだろう、姉との一件で草十郎は使い魔として契約予定と伝えているのだから。
向こうからすれば彼の扱いはこっち側、何も知らない一般人ではない。
それでも一般人に戻って欲しいとこの間少し話した時に願っていたのだから、むしろ知らなかった事を知らなかったに違いない。
「私が二つなのは?」
「蒼崎は難しいことはまだ出来ないみたいだし、燃料がなければ大丈夫かなって。
 人間の力じゃこの檻を壊すのも無理だろうしね」
甘く見られたものだ、否、実際に甘かったからこんなことになっている。
それも二人揃ってこのざまだ、あまりの自責の念に涙も出ない。
ついこの前冗談のように思って否定したことに、形が違ってもなってしまっている。
完全にしてやられた。
魔術刻印は強引に魔力を練り上げているようだが、出来たそばから劣悪に浪費させられる悪循環。
草十郎ならば赤子の手を捻るが如く容易く、今の自分達の命を刈り取れるだろう。
それを少女は認めざるを得なかった。
「それに。
 蒼崎が魔法を使っても自分の魔術回路は組み換えられないんだろ?
 だからそれは外せない。
 その上愛情込めた特別製らしいから、何が特別なのかはわからないけど」
解らない判らない分からないと話している本人が理解をしてないままの説明が続く。
しかし青子はその言葉で理解した。
……姉貴か。
こいつにあの時の記憶があるわけがないのだから、あいつ以外に考えられない。
「あとは…………そうだ。
 それが動いている間は異物として認識しないよう当人の意識からその存在が消えるから外そうにも外せないとかなんとか?
 こっちの方が正当な理由だったような気がするな……」
「あんたにそこまで教えた覚えはないけど」
「全部橙子さんの受け売りだからね。
 もっといろんな話をした気もするけど八割以上は解らなかったよ」
草十郎は理解力のなさに弱音を吐き、ため息をつく。
「ハッ、あいつの下僕にでもなったわけ?」
怒りと嘲りと、自身の滑稽さを少女は嗤う。
どこえもやりようのない気持ちが膨れ上がり理性の歯止めが外れそうになる。
「手伝ってもらっただけだよ、結果は伝えることになってたけど」
「何が手伝っ――――
幾許かの後、自分の思考が飛んでしまったことを彼女は認識した。
「なってた……?」
戻ってきたばかりの意識でしばし考える。

「一ヶ月前にもう“失敗した”って伝えてある」

呟きじみた問いかけに彼は首肯した。
「………………」
声も出ない。
「これは二回目なんだ」
情けなさを取り繕うかのように、少年は自身の顔にらしくない愛想笑いをを貼り付けた。
青子の背筋が凍りつく。
ぞっとした、そんなこと欠片も気づかなかった。
ならば偶然回避できていたに過ぎない。
もし、もしも成功していて橙子が知っていたなら――――身震いがするどころの話ではなかった。
「その腕輪も失敗した時に返そうとしたんだけどね、売り物にもならないし仕事が忙しいから好きに使えってさ。
 あ、この状況は誰にも伝えてないから安心してていい」
売り物にならないなんて大嘘だと青子は断じる。
橙子が草十郎にした説明の大半が嘘、これは最初から自分達をターゲットにした専用拘束具と見ていい。
故にそれ以外の用途では全く使い物にならないはず。
付け加えてこんな魔術を地に貶めるようなものを量産なんかされたら、それこそ魔術史を塗り替える産業革命のようなものだ。
神秘の秘匿など不可能になり、あっという間に風化して消え去ってしまう。
それは結果的にこの世界の寿命を大きく縮めるに違いない。
ちぎった時間を未来の果てにぶん投げた私を“最悪だ”と罵ったあの姉がそんな真似するはずがない。
「それで」
じわじわと。
「一体いつから」
合わせ鏡の理性と感情が引き剥がされて乖離していくのを感じている。
こんなこと即日で出来るはずがない。
「蒼崎と年越しをしたあの頃からかな」
たいしたペテンだと思い、それが誤りだと否定した。
「訊かれればなんでもしゃべるのね」
心臓は妙に冷ややかに息衝いていて上っ面だけは平静を装っている。
「ああ。こういう時、ネタばらしはするものなのだろう?」
それがさも当然であるかのように草十郎は問い返す。
「っ……何でこんなことしたの?
 私達を無力化して、日頃のうっぷんでも晴らそうって訳?」
再び喉を焼きながら上ってきた吐き気を飲み下し、口が勝手に話を進める。
ちょっとしたきっかけで気が狂いそうなのを必死に無視し続けている。
「そうか、そういう使い方もあるんだな」
なるほどなんて深く感心している。
それがひどく彼らしくて心が声なき声で喚き立てている。
どこかで誰かが必死に何かを叫んでいる。
「何で」
それを無視して再び問う。
声が、震えていた。
烈火の如く怒髪天に怒るべきところなのに、裏切られた悲しさの方が上回ろうとしている。
これ以上は駄目だと第六感のような何かが警鐘を鳴らしている。
「…………蒼崎」
ずいぶんと時間をかけてからその名を紡ぐ。
「俺はね、ずっと考えてたんだ」
そして己が罪過を告白するかの如く、草十郎は口火を切った。
「俺が蒼崎と有珠に何をしてあげられるかって」
一番最後に、何を残せるかという意味で草十郎は言った。
今の自分に何が出来て何が出来ないか。
過信でもなく過小でもなく、少年は自分の身の程を人並み以上の正確さで把握していた。
自分の出来る範囲など高が知れるほどに狭い、それによって彼女達の足を引っ張るのは我慢できない。
並び立つ事も出来ないのだから最初から不可能だ。
持つ者と持たざる者の間には埋めることの出来ない奈落の谷がある。
昔、青子からも言われたことだった。
「この一年ちょっと、頑張ったり考えたりしたんだけど、残念ながら自分の力不足でこうなった」
それでも自分なりにやってみたものの、現実は覆せなかった。
結局のところ将来の展望なんてなく、言われるままに大学受験してみた程度、身寄りのない自分に外部供給はなくそれだけの稼ぎもない。
いずれ切り捨てられると判っているのに、それに沿うような生き方を彼女達に押し付けるなんてどうしても我慢ならなかった。
「二人とも進路は決まってたみたいだったし」
高校卒業後、青子は上京すると方針を決め、予定通りに自分の段取りは全て整えた。
一方、有珠も卒業後は世俗との関わりを必要最低限とし、魔術に専心すると前々から決めていた。
時計塔への進学も魅力的だが、それよりも自己研鑽を積むのが先だった。
だから二人が悩んでいたのは草十郎の扱いだった。

青子にしてみれば三択、連れて行くか、置いていくか、記憶を消して野放しにするか。
有珠にしてみれば二択、このまま飼い殺すか、記憶を消して野放しにするか。

ただ青子は言えば彼がついてくるものと当然のように思っていたし、有珠は青子が出て行くのなら彼は置いていくのだろうと思っていた。
つまるところ、悩んでいるのは形だけの話でお互いに真剣に検討することはなく、記憶を消して野放しにするなんて選択は有名無実、この曖昧で居心地の良い時間を少しでも長引かせようと、二人して自分に都合の良い暗黙のルールを無意識に作り上げていたに過ぎない。
二週間前にルール改正の機会はあったのに、柄にもなく年頃の少女らしく意識的に痛みを恐れて二人ともがふいにしてしまった。
そして今、二人の共有物のまま、結論を先延ばしにしてきたツケがここにきて強制徴収させられようとしている。
「これから先も負担をかける続けるのは嫌だったんだ」
彼女達が目指している未来を自分が足枷になって閉ざすなんてしたくなかった。
何度も失敗を重ね、彼女達を不必要に危険な目に遭わせたりもした。
自分が彼女達の助けになったことなど数えるほどでしかなく、トータルではマイナス、怒られることも多かった。
客観的事実だけ積み上げればそうなるが、感情論を交えれば結果が違ってくることなど考えも至らない。
「なんというか、つまりは潮時、という奴らしい」
決して諦観からでた言葉ではなかった。
いつかは記憶を消される予定だったしそれも致し方ないと彼は思っていた。
不条理に満ちた世界では不幸な事故なんか幾らでもある、そのうちの一つに自分は遭ってしまったのだと既に受け入れていた。
彼女達の事情を知ればその在り方に疑問を挟む余地はなく、あえてもう一度確認するまでもないことだった。
あの時殺されなかっただけ、否、その後殺されて尚、今、生を謳歌できているなんて自分は運が良い。
人によっては悪運というのかもしれない、でも自分にとっては幸運以外の何物でもない。
加えて彼女達はそんな自分に多大なる恩恵を与えてくれた。
何度考え直してみても、最終的に感謝しか残らない。
ならば恩返しはするものだろう、と。
「だから清水の舞台から飛び降りるだったかな?
 思い切って行動に出てみた、これ以上は延ばせそうになかったしね」
彼女達と自分の道はいずれ別れると判っていて、そのタイミングがこの高校卒業になるのだろうと彼は目星をつけていた。
別に蒼崎の祖父に言われたからというわけではない。
ここでの生活は時に死と隣り合わせで危険なものでもあったけれど、自分にとっても居心地の良いものだった。
なにより彼女達との生活は壊したくなかった、自ら手放すのも嫌だった。
しかし終わりはいずれ来るもの。
悲しいかな、遅いか早いかの違いだけで万物に滅びは生じてしまう。
ほころびは二週間前に見えていた………………嘘だ。
本当はもっとずっと前から気づいていた。
彼女達が揃って何も言わないのをいいことに、問うても言いくるめられたのをいいことに安穏としてきた自身にも問題があるのは判っていた。
“これはよくない”と。
「それでも一度は失敗したわけだけど」
だから一ヶ月ほど前に行動に出た、しかしその時はタイミングが悪かった。
正直に言えばギリギリのところで躊躇ってしまったのだ。
必要悪と判っていたはずなのに、直前になって“このままでもいいんじゃないか?”、なんて本末転倒なことを願ってしまった。
あまりにも利己的な理由、彼女達を思っていたはずなのにいつの間にか、彼女達を思う自分のことを思っていた。
自己保身、現状への執着、かつては気にも留めなかったものに少年は悩まされる。
「こうしてもう一度機会が訪れた」
二週間前。
未だに何が原因で自分が死に掛ける破目になったのかはよく理解していない。
ただ、自分の浅はかな行いで彼女達がこの一年頑なに守り続けていた“静希草十郎を殺さない”という約束を破らせそうになった。
そしてその日を境に二人の仲は険悪になる、しかも簡単に取り繕えるレベルではない。
昨日までの二人の生活を見ていれば容易にわかるだろう。
今日まで何もしなかったわけではない、何かしようとしたが実を結ばなかったのが事実。
このまま喧嘩別れしてしまえば二人の仲はきっと元には戻らない、元を糾せば自分が原因なのだ。
罪は贖うもの。
あの日の出来事を引きずった形で二人が別れるなんて絶対にあってはならなかった。
「蒼崎ももう少し早く言ってくれれば…………いや、どっちにしても変わらないのか」
朝、仲直りをしようと彼女が動こうとしているのは彼にも判ったが時既に遅し。
気づけば自分の事が勘定から外れていたので躊躇いなどありもせず、もう片方に手をかけた後だった。
なので予定通り、多少強硬手段ではあったものの、彼女の方も同様に事を為した。
かつて二千年を超える神秘を身に宿す金狼をたった二撃、三秒のやりとりで倒したあの冬の日の再現である。
この一年で彼女達の命のリズムは嫌でも体が覚えてしまった。
だから如何に確実に初撃を当てられるかだけが彼には問題だったのだが、それも偶然付いていたゴミくずがきっかけとなり事なきを得た。
こうして彼の求めていた状況は完成してしまった。
「どんなに説明しても二人とも納得しなかっただろうし、覚悟を求めるにしても遅すぎたんだ。
 お互いにね」
だから自分が動いたと草十郎は重ねて述べた。
しかしながら当然、彼とて自ら望んで死んだり記憶を消されたりしたいわけではない。
それを直接相手に願えるほど強くもなく相手の判断に委ねざるを得なかった。
故にこれが、彼に出来る本当に限界の、全てを出し尽くした成果だった。
「だからってこんなこと…………どうして」
言った青子自身が驚くほどに弱々しい、縋り付くような声だった。
何がだからなのかも分かっていない。
もっと違う方法があったはずだ、本能でしか動けない動物でもない、理性で判断できるのが人間だ。
こんなことをすれば自分達がどうするか判っているはずだ。
幾ら理屈を頭の中で並べ立てても、この状況は誰にも変えようが無い。
一度起きてしまったことは取り消せない。



「変なことを訊くんだな、蒼崎は」

それを聞いてはいけなかった。

「こうすれば――――




















 ――――蒼崎も有珠も俺を嫌いなままでいられるだろう?」





何の未練もなく禍根を絶てるだろ、と誇らしげに笑顔で言った。
そう。
彼がたった一つ、勘違いしたままだったのは――――
「………………っ」
「――――」
青子は、隣で瀕死状態の有珠も息を飲んだ。
蜜月とは言えないまでもこれほど親密な時間を過ごしておいて、まだ二人にそう思われていると思っていたなんて誰が想像しようか。
しかし過去を遡ってみれば、二人は出会った頃にしかその嫌悪と敵意を言葉ではっきりと告げていない。
そしてどちらもそれを今この時まで、一度も言葉にして否定しなかった。
二人はよく知っていたはず、否、知りすぎていた。
空気を察し方が人並み以下にへたくそで、心の機微をうまく汲み取れないのがこの男の欠点だと。
仕方がない、時間が解決してくれるということを彼が知り学ぶにはさらなる時間が必要だったのだから。
そこまで深く少年の心理を読み取れというのは二人にも酷だった。
三人の生活を知る誰もが二人は少なからず少年に好意を持っているのは理解できていたし、そうでなければとっくに破綻していると知っていた。
それ故にこの少年にあえて問い質すこともなかった。
いや仮に問うた事実があったとしても深くまで追究しなかっただけなのか。
彼の中では自分がずっと青子にとって敵であり、有珠にとって館から排除すべき対象のままだった。
“嫌いな人間にでも優しくするのが普通”だと。
何も知らなかった彼は、一番身近な二人と生活を共にしている間にそれが当たり前だと学習してしまった。
嫌いで邪魔でしかない存在を維持し続ける合理的な理由なんて未だに彼にとって理解の外。
排除できないのならこちらが身を引くのが山では正解で、わざわざ不快な状況に身を晒し続けるなんて考えられない。
自分が居ることで彼女達に何らかの益があるか考えてもみたが、全てが代用が利くものであり、別に無くても困らない程度で収まってしまう。
それに自信を持って“役に立っている、俺なしでは二人は生活できない”などとは断言できなかった。
だからそれこそ魔術師としての役目とか矜持とか。
ひょっとしてそういったものではないのだろうかと思ったくらいだった。
つまり。


要約するまでもなく、見ようによっては因果応報であり、彼女達二人の過失と言えた。


もし仮に二人が自分の事を好きだったのなら――――そんな仮定の話は草十郎に存在しない。
彼女達が必要に駆られたならそれを言葉にするのを知っていたから。
仮にそうだったとしても、結局彼のやる事は何一つ変わらなかっただろう。
自分が居ては彼女達の為にならないのだから、やっぱり仕方ない、と。
自惚れるわけではないが、お昼のドラマのような一人の男を巡って醜い争いを繰り広げるなんて彼女達には似合わないしさせたくもない。
それは自分がどちらか一人を選んだとしても同じだろう。
片方から好かれていて片方から嫌われている、そんな場合でも結局これ以外はなかったのだ。
最初から決まっていたのだから、せめて自分で幕は下ろそう。
きっと少年はそうしたのだ、今回のように。
厭なことを躊躇わずにさせるには、躊躇う必要を無くせばいい。
そしてやるのであれば“徹底的に”、ぐうの音も出せないくらい退路も完全に断つ。
殺されるリスクを考えなかったわけではない、彼女達だってこんな例外が起きれば約束を反故にする可能性だってある。
それでもやるしかなかった。
厭なことを好きなことへと反転させるのは難しいが、その方向を変えるだけなら比較的容易にできる。
彼女達が争う姿は見たくない、故に自分という異物が身を引けば以前のように戻るだろうと。
元から憎まれ役ではあるし辛いのは自分だけ。
橙子から受け取ったものが起こす惨状を理解しなかったわけでも無い。
持たざる者故にそれ以外の選択肢がなかった。
彼女達を傷つけたくはないがそれも彼女達のことを思えばこそ、心を鬼にしよう。
悲しいし寂しいかもしれない、でも記憶を失えばそれすらもなかったことになるのだから、少しだけ我慢しよう。

彼女達が好きだから、彼女達に幸せになって欲しいから。

自分の一番大切なものを手放した。
これまでも身の程知らずに彼女達へ自分勝手を押し付けてきた彼だったが、明確に“見返りを求めた”のはこれが初めてだった。
自らを無に帰して、彼女達を彼女達が目指す姿(まほうつかい)へと戻す。
彼が求めたのはそういうこと。
別に彼女達に好かれようと思って事を為したわけではない。
至極単純に、元の鞘に納まるだけの話。
危険な抜き身の剣をそのままにはしておけない。
しかしそんな大それたことは彼に即日可能なものではなく、実際今日まで、一年以上の長い時間を必要とした。
そして不幸と言うべきか、時間をかけただけの見返りが彼にはあった。

それは、本気の嫌がらせにと、橙子のもたらした腕輪であったり。
それは、寝る時間くらい穏やかにと、律架が分け与えた睡眠薬であったり。
それは、二週間前に自身の愚行から端を発した、青子と有珠の不仲であったり。
それは、彼が結局気づけなかった、彼女達二人に生じていた心境の変化であったり。

そうして今この時に至る。
草十郎に二人を殺すつもりは毛頭ない、完全に上位に立ち、生殺与奪の権利をわずかな時間握れるだけで良かった。
過去を振り返れば、彼女達が同格の魔術師ないしそれ以上の存在にそこまでされた事はある。
だが自分のような生身の人間、しかも所有物という下に見ている相手にそこまでされたことは一度としてない。
故にこの場面は決定的、確実に彼女達に決断させる自負があった。
それと彼女達の気分次第ではあるが、食事はサンルームに用意しておいた。
三人で昼食を食べようと、そう青子と約束をしたのだから。
思考が破綻している。
破綻していると自覚して尚、少年は行動を止める合理的な理由を用意できなかった。
だってこれはもう決まっていたことだ。
だから仕方が無いのだろうと、どこか晴れやかな顔で草十郎はいつか遠い昔にした覚悟を思い出す。
一連の行動は感情に端を発していたのに、その判断は理性的に行われていた。
精緻な自己分析による可能性の限定、理性と感情のブレのなさが仇になるなんて事例を、現実しか見ない少年は知りえない。
「…………」
「……………………」
少女二人にとっては“仮にも魔女の末裔と魔法使いがここまで虚仮にされて何も報復しないなんてありえないだろ?”と暗に糾弾されているようでもあった。

魔術師としての債務を果たせ、と。

全てのお膳立てはしたと少年は言った。
おざなりになっていた均衡は崩れ、本来あるべき拮抗を取り戻す。
彼にここでの生き方を与え許容したのは彼女達であり、それ故に彼女達が奪わなければならなかった。
彼女達が決断しなければならなかったのに、彼に決断させてしまった。
それが責務を放棄し続けた彼女達の罪であり、同時に債務を求めた彼の咎であった。
悲劇だったのは、今回の事件が全て彼の善意に端を発していることで、それが全て彼女達二人に伝わってしまったこと。
「~~~~ッ」
だからこそ余計に、二人は心の底まで抉り取られるような甘さ(いたみ)に襲われた。
ネタばらしなんてなければ、なんて仮定はもう遅い。
悪意の欠片もなく悪行を為すのと善意の欠片もなく善行を為すのはどちらが罪深いのだろうか。
正すべき過ちなど判り切っていた。

こンの馬鹿ッ! 大馬鹿!! ふざけんな!!!

感情的に叫びそうになり、強引に顔を伏せることで自分を無理矢理抑え付けた。
眉間が痛くなるほど強く瞼を閉じ、青子は耐える。
この顔は、こんな自分の顔はこいつに絶対見せたくなかった。
こいつは本当に度し難いほどの大馬鹿者だ。
有珠どころかバカの代名詞たる木乃美でさえこんな事は絶対に起こさない。
でももう起きてしまった。
時間とは常に前へ進むもので決して逆行しない。
だから二度目は無い。
頭の中がぐちゃぐちゃでまとまらない。
でも決まってる。
気持ちの整理なんて出来るわけが無い。
でも判ってる。
私は自分を曲げるのも曲げさせられるのも大っ嫌いだ。
他人に左右されるなんて真っ平御免。
真正面からぶつかってきたのなら、避ける事無く真っ向勝負で迎え撃つのがモットーだ。
だから――――落ち着いて、長く息を吸って、止める。
決まってる。
どうしてこうなったのかなんて考えてやらない。
自覚なんてしてやらない。
機会が与えられたのなら有効に使うべき。
あの日から………………ッ、最初から、決まってたことなんだから。
私も有珠も甘かった。
否、甘えていた。
それが悪いとは思わない、後悔なんてしてやるものか。
私は私の歩いてきた道に悔いなんて残さない。
それでも…………こいつにも自分にもどうしようもないくらい、この感情の全てをぶつけてやりたくなる。
後先考えず無様に、情けなく、泣いて、泣き喚いて、狂ったように喚き散らして、ぶちまけて全部を台無しにしてやりたい。
タガを外した私はきっと"正しく壊れて”しまって元に戻れなくなる。
今と同じ生き方も出来なくなるだろう。
前にあいつが言っていたのはそういうこと。
でも、蒼崎青子にそんな暴挙が横暴が我侭が赦されるわけが無い。
少なくともここに一人、そう在ってほしいと背中を押してくれる誰かが居たのだから。
このバカは何一つ“間違ってない”んだから。
そんなことだけは絶対にしたくない。
こいつの想いを受け止めたのなら、こいつの想いを無意味にしたくないのなら。
返せる答えなんてひとつしかないんだから。
瞼を開ける。
私は。


「アンタなんか……」

今、自分に出来る事をするだけ。
青子は顔を上げると草十郎をまっすぐに見据えて、咆哮した。




















「アンタなんか――――大ッッ嫌いよ!!!」





にっこりと誇らしげに。
全てが報われたような場違いに満足そうな顔をして。
それを聞いた草十郎は、
「――――――あ



何の前触れもなく――――斜めに滑り落ちた。
どしゃり、と。
足元に血の海が広がり、ゆらゆらと揺れてから立ち尽くしていた残りが倒れる。
その奥から長刀に纏わり付いた血を払い捨てて、長身の男が姿を現した。
「斬れると思ったからこそ振ったとはいえ、本当に斬れるとは…………しかしこれで彼を見るたびに葛藤することもない。
 青子との約束は守れませんでしたが、この場合致し方ないでしょう」
文柄詠梨。
合田教会の司祭。
聖堂教会の使徒たる三咲町の監督者。
この場に決して現れるはずが無い、第三者だった。
屋敷は無論として場合によっては正門も外敵の侵入を妨げる防御結界の役目を果たしている。
基本的に有珠の許可がなければ、外から開けるなんてことは物理的魔術的破壊を用いない限り叶わない。
あの有珠が目の仇にしている彼らを常時許可することもありえない話だった。
しかしそんな疑問すら浮かばず、青子の心は空白のまま。
物言わぬ亡骸をただその青い瞳に映している。
詠梨の二振りで牢屋の鉄格子が寸断され、痛いほどの反響音を伴いながら硬い床に散らばる。
「一つ貸しにしておきますよ」
手枷が壊された感覚が脳に届いても認識されない。

二度も。

詠梨が青子の視界の外で有珠の助けに入っている。
枷を外された有珠が大きく咳き込み、十数時間ぶりに息を吹き返す。

二度も死なせてしまった。

少女は未だに動けず、その場にへたりこんだまま、動かなくなったそれをぼんやりと眺める。
そういえば珍しくお供が居ないと、どうでもいいことに意識を奪われていると。
「今日は生憎二人とも出払っていましてね。
 正直なところ手遅れだろうとそれなりの覚悟を決めていましたが、私一人で何とかなる事態で幸いでした」
ちっとも嬉しそうにない笑みを浮かべ勝手に答えてくれた。
ああそうか、そんなところまで周到に根回ししていたのかと呆れを通り越して青子は草十郎を賛辞した。
ゆっくりと瞼を閉じる。
「――――」
直前の光景が瞬き胸に深々と突き刺さった。
単なる偶然かもしれない。
あいつにあの場面の記憶なんてあるわけがない、それでもトドメとばかりにここまでお膳立てしてくれたのだ。
瞼を開ける。
力強さを取り戻した双眸で力の入らない四肢に気力を込めて立ち上がる。
ふらつきながらも屍と化した少年の下まで歩み、少女は立ち止まって右手をかざす。
「何を――――
瞬間、狭い空間に突風が巻き起こった。
無粋な問いかけは掻き消され、その中心に立つ青子の髪が朱に染まっていく。
赤方偏移形態。
少女は瞬く間に秩序を崩す魔法使いへと変貌を遂げた。
無表情だったのはそこまで。
ぎり、と奥歯を軋ませると彼女は渾身の力を込め――――足元に転がる彼の下半身を蹴り飛ばす。
肉が潰れ骨が砕ける鈍い悲鳴を上げてそれは階段に当たり、更に上へと二度三度、段を飛ばして跳ね上がる。
続けざまに上半身を掴み上げ、内腑が零れ落ちるのもそのままに壁に押し付け殴りつけた。
「………………」
突如始まった凶行に流石の詠梨も固まってしまう。
「青――――
声をかけようとしてもう一度停止させられる。
見たことの無い顔だった。
羅刹なのか夜叉なのか阿修羅なのか。
この美しい少女に似つかわしくない狂気に満ちた人でなしの貌。
ただただ歯を食いしばり、既に命を失った相手にそれでも足りぬと睨み付け、怒りを憎しみを恨みをぶつけ続ける。
「…………」
有珠は血を流すほどに唇を噛み締めて、悲しみとも悔しさとも取れぬ険しい表情で青子の凶行を見つめていた。
彼女よりも先に自分が解放されていたらあれが出来ただろうか、無意味な自問だった。

ごつ。
ごつ。
ごつ。

鈍い音が短く何度も木霊する。
見知った少女のあまりの豹変振りに呆然とさせられた詠梨も、二十秒もすれば冷静さを取り戻す。
立ち上がると青子に近づき、そっと肩に手を置く。
「やめなさい。
 神父として死者の冒涜はこれ以上見過ごせません」
自分で殺しておいて何をという問いかけはこの男に生じない。
先程は二人の敵だったから切り捨てた、今は死して敵でなくなったから悼む対象に変わった。
元より詠梨は少年がどうしてこんな不相応な事をしでかしたのか知る気もない。
「…………ッ」
青子は殴るのを止め、神父の手を跳ね除ける。
同時に解放された草十郎が、何一つ声を漏らすことも無く、壁に沿って床へとずり落ちた。


これがこの三人の生活の結末(さいご)。


彼が彼女達を思うが故に望んで、彼女達が彼を想うが故に望まなかった未来は現実のものとなった。

それは彼にとって最高の別れで。

彼女はそれを最高の別れとして受け止め。

もう一人はその判断さえできぬままに終幕を受け入れさせられた。








[33236] とある結末の、三ヵ月後(後日談)
Name: 32-265◆29996d79 ID:d411aa3f
Date: 2012/08/27 21:12
「新しいのを淹れてきたよ」
「ありがとう」
彼女にしては柔らかく礼を言った。
少年の差し出したカップをテーブルから持ち上げて揺れる琥珀色を眺め、香りを味わう。
そしてゆっくりと口をつけてから、カップを戻す。
やはりまだ物足りない。
不味くはないと思えるところまで来ただけでもよしとすべきか。
「今夜も?」
思いとは別に聞きたかったことを少女は問うてみた。
「ちょっと緊急でヘルプ頼まれてね」
昨日も彼はそう言っていた、ついこの前も同じやり取りをした記憶がある。
本当は嘘を吐いているんじゃないかと思うこともあるが、彼の嘘はばれやすいのだ。
だから今回も本当にそうなのだろう。
「朝練もあるのに?」
少年は渠裸大のスポーツ特待生枠を滑り込みで“強引に”ゲットしていた。
それはスポーツ界で全国・世界を狙える逸材のみが手に出来る特権のようなもの。
彼としては特典のひとつである授業料免除だけが魅力だった。
奨学金という考えもあったがあれはあくまで借金、未来の前借りである。
今後の人生設計もままならない彼には選べない選択だった。
すでに通常通りの受験して合格している時点でスポーツ特待生にはなれないのだが、“お眼鏡に叶わなければ合格取り消し”という条件付の適正試験を異例で行い乗り切った。
ちなみに少年は過去の公式記録ゼロで陸上種目全てを受験するという、特待生制度始まって以来の偉業に挑み、その気概と体力も買われて補欠枠で陸上ランナーに落ち着いている。
合田教会のボランティアに毎月欠かさず参加していたこともあって、副教頭のコネが働いたことが大きかった。
他にもいろいろ裏で動いていたという噂もあるらしいが、少年がその全てを知ることは永遠にないだろう。
とにかく、継続は力とはよく言ったものである。
「だからそのまま大学で仮眠を取る予定」
「そう」
少女はそのまま授業をサボる気ではないかと疑ったものの、口にはしなかった。
二人の会話はそこで終わる。
元より一緒に長く居ることはあっても長々と語り合う間柄ではない。
主な話題の提供者は彼の方だったが、今日はこれといっためぼしい出来事もないようだ。
バイトまでの待ち時間にと勉強を始めた彼に倣い、彼女も再び手元の本に目を落とす。
しかし一文字も読み進められなかった。
ふいに、先日の出来事が蘇ったのだ。








――――とある結末の、三ヵ月後――――







「二人だけにして。ちょっとだけでいいから」
「…………解りました、上で待ってます」
青子の願いを聞き入れて、詠梨は階段を上っていく。
足音が遠ざかり消えたところで彼女は空なんて見えない牢獄で天を仰いだ。
「ッ~~~~~~~~~~~~~!!!」
声無き絶叫。
断末魔だったのかもしれない。
全身を震わせてあらゆる感情を全力で噛み殺す。
握り締めた両の拳からは血が滴り落ち、降り始めの雨滴染みた音を鳴らした。
涙の一つも零さず開ききった目は何を見つめていたのだろう。
最後まで、一言も漏らさず、総てを飲み下す。
それもものの十数秒、青子はふっと体を弛緩させると膝を曲げ、自らが滅多打ちにした彼に向き直る。
本気で殴っていれば塵になってもおかしくないのに、血を流し骨が折れ傷ついていてもほぼ原形を保っていた。
血の付いた手で紅い髪を掻き揚げて、そっと、そのまま足元に横たわる亡骸に唇を重ねる。
その横顔は胸中穏やかでない有珠が我を忘れて魅入ってしまうほど、彼女らしくない美しさを放っていた。
「――――」
そのまま静かに、青子の儀式は終わった。
唇を離し目を開けたその一瞬、彼女が泣きそうになっていたのを有珠は見逃さなかった。
しかし表現を変えればたった一瞬で青子は自分を切り替えたとも言えた。
「ごめん、これだけは譲れなかった」
青子は半開きになったままの少年の瞼を伏せ、立ち上がると有珠に向き直る。
「次は有珠、あんたの番よ。
 選択しなさい」
少女は本当は独り占めにしたかったそれを彼が望んだようにもう一人に分け与える、否、今は亡き彼に代わって突きつける。
「…………っ」
以前に増して強い意志を放つ双眸が有珠には眩しすぎて、逆に目が逸らせない。
どうしてと問うこともできない。
ずるいと文句も言えない。
拒否もできない。

――――だって、こんな結末にしたのは他でもない、自分なのだから。

「ただしこいつの持つ私の過去は根こそぎ奪っていく」
記憶も、気持ちも、自分が死ぬまで返すつもりは無いと青子は目で告げる。
「“今の私”ならそこを貴女に入れ替「やめてっ」
有珠の口から吐き出されたのは掠れた悲鳴だったが、絶対的な拒絶を含んでいた。
そんなことは決して望んだりしない、彼と過ごした大切な想い出がいびつに歪んでしまう。
願えば青子は自分の記憶を私に移してその違和感すらなくしてしまえるに違いない。
二人だけで完結する世界なら――――残酷な誘惑に発狂しそうになる。
違う、私は既に狂わされている。
知らず知らずのうちに自ら、狂ったのだ。
朱に交われば赤くなるように、どんなに別の色を加えても元の色には戻れないのだ。
選ばなければならない。

私は――――










「また考え事?」

かけられた声に有珠は現実へと引き戻される。
内面を表に出したつもりはなかった、ただ時計の針を見れば三十分はそうしていたようだ。
ページすら変えず目も動かさないのだから不審がられて当然といえば当然か。
本を閉じて横に置く。
「静希君」
「なんだい有珠」
いつもと変わらぬ表情のまま、少年は少女の視線を受け止める。
「何も訊かないのね」
あれからかなり経ったのに、草十郎は未だに事の詳細を誰にも問いかけたりしていない。
むしろ最初からそう決まっていたという態度で、事が起こる前となんら変わらない日常を過ごしていた。
有珠も当初は彼女らしからぬヒステリックな態度で問い詰めたりしたが、それでも彼は飄々とそれら全てを受け流してきた。
“何も知らないのだから”と。
それこそ詰問がすぐさま尋問へと変わり、やがて拷問になって死に目に遭おうとも、その一点張りで。
「訊いて欲しいとは聞こえないけど」
普段から察しの悪い草十郎も流石に有珠の態度がいつもと違うのに気づく。
強いて言えば、あの日のロビーで見た彼女と同じ。
答えを求めていながらも同時に聞きたくないというような理不尽さ。
少なくともひと月前のように、自らの感情をぶつけて鬱憤を晴らしたいだけではなさそうに見えた。
「…………」
「………………」
無言での詰問、話を変えるのも無視するのも認めない。
有珠は草十郎から目を逸らさず、静かに口を開くのを待っている。
「…………そうだね、気にならないといえば嘘になる」
少女のあまりの頑なさに今回ばかりは無理だと理解して、少年は吐露した。
「自分だけがその人のことを忘れてるんだから気にしない方が無理だ。
 この間、久方梨から電話を受けた時も困ったよ。
 橙子さんやベオだけじゃなく鳶丸や木乃美まで話題にあげるんだから、共通の知人だったんだろうね」
あの日以降、何度も聞いて覚えているはずなのに彼は決してその名では呼ばなかった。
その上、彼女の写真も録音された声さえも頑なに拒絶し続けていた。
記憶喪失だと、助力を惜しまなかった友人達に申し訳なく思わなかったわけでもない。
「でも訊こうとは思わない、誰にもね」
「どうして」
「その人は俺のことを考えて消したんだと思うから」
全ての記憶を奪われたわけではない。
自分が何をやろうとしたかを草十郎ははっきりと覚えていた。
だからこれは与えられるべき結果であり、その人はきちんと自分の思いに応えてくれたのだと理解できていた。
「人の過去を無闇に詮索するのも、人の思いを無碍にするのも良くないことなんだろう?」
何より文句をつけるどころか感謝したい、と。
「………………」
有珠は唇を噛み締める。
そう言って何でもかんでも解ったように自然に受け入れる彼の懐の広さが憎かった。
盛られているのは毒薬なのに、特効薬だと言われてそのまま飲む様は人を信じる美しさであり、同時に人を疑わない汚点でもある。
だいたいその物言いは自分が記憶を奪われたことを理解している。
そうすると一番最初に聞かされた時すでに、彼はそれを受け入れていたのだろう。
キチガイ染みた達観で、精神を磨耗する事無く、淡々と処刑台に立つ日を待ち望む囚人のように。
自分がここで真実を告白したとしても、彼は何事もなかったかのように受け入れてしまう。
すでに旅立った彼女も気づいていたに違いない、それでも自分を露ほども責めなかった。
それは魔術師が為して当然のことで、彼自身もそれを求めていたから。
それを知っていたから、本当はその場で殺したいくらいに思っていたくせに見逃した。
彼のために。
あれが不可抗力だったなんて事までは知らないだろう、でも穏便に済ませられず結果的に目の前の彼を殺したのは私。
そして生き返らせてと願ったのも私。
――――嗚呼、本当に。
魔女と呼ぶに相応しい気まぐれで身勝手な振る舞い。


「それにね、もう有珠を一人には出来ない」


草十郎の言葉は誓いそのものだった。
「死ぬつもりはなかったけど、今生きてここに居るのならそう言う事になる。
 俺は有珠と同じではないし頭も良い方だとは思わない、お金もない、自慢できるのは体力だけだけど。
 それでも、わずかでも頼りにされているのなら、それに応えるのもひとつの――――
それ以上、喋らせたくなかった。
有珠にとって彼が自己否定をする姿を見るのは、自らの罪を責められることよりも辛かった。
「あり「絶対に、もう勝手に死ぬなんて赦さない」
草十郎の頭を胸に抱き、有珠は命じる。
自らの罪を胸の奥に秘めたまま。
贖罪を請うてはならない、この痛みを消してはならない。
決して明かしてはいけない深い想い(きず)。
「貴方の未来は全部、私のもの」
過去は全てもう一人に持っていかれた。
ならばこの先は、全て、自分がもらっていく。

「ああ、そうだね」










―――― 坂の上のお屋敷には、二人の魔女が住んでいた ――――


―― 少年は生きてゆく為の答えを求め。
     彼女は振り返る事無く先へと進み。
       少女は仮初の安寧に身を焦がして ――――





[33236] とある結末の、十年後(後日談)
Name: 32-265◆29996d79 ID:d411aa3f
Date: 2012/08/27 21:14
その日、男はもてあました時間をどう使おうか思案しているうちに午後に割り込んでいたことに気づく。
「…………もう十四時か」
事の起こりは昨日、部長命令だか社長命令だか、係長だったかもしれないがともかく休暇をとるように言われた。
端的に言って彼は他人と比較しても“安請け合いし過ぎる”悪癖があったのだ。
それ故に周囲の同期の社員と比較しても半人分、時には二人分以上の稼働時間が常となっている。
働いた分それなりの――見合うかどうかは別としても――給与はもらっていたものの、出世はしていなかった。
とにかく会社的には役に立っていた一方で、悪い意味でも目立つ存在が彼だった。
丁度この頃、過労(オーバーワーク)による突然死の存在が疑われてきていて、国でも調査が始まるとか始まらないとかニュースで割と頻繁に流れていた。
彼には表向き“稼動調整”という理由で休暇が与えられているが、裏の意味は考えるまでもない。
規模の大小にかかわらず、どこの会社もそんな形で脚光を浴びたくはないだろう。
「急に休みもらってもなぁ……」
近い未来に常々漠然とした不安のある彼だからこそのぼやき。
就職してからは就業規則に律儀に従い副業もなし。
お金があればとりあえず何とかなる世界なのだから少しでも稼いでおきたいというのが本音である。
別に趣味や娯楽が全くないわけでもないが、急に遊べと言われてもその気になれないのが彼だった。
こんな生活があと何年、はたまた何十年続くのかと思うと――――何かよろしくない結論が出そうな気がして、男はリモコンへ手を伸ばす。



そこで、聞き慣れない音を聞いた気がした。
ちょっとしたことで聞き逃しそうな小さな怪音。
リモコンの電源ボタンに指を乗せたまま、動きを止めて耳を澄ませる。


こん。こん。


今度はちゃんと聞こえた、どうやら玄関で誰かがノックをしているらしい。
一体誰だろうと疑問が浮かぶ。
もう何年もベル音の後にそれが来ていたから、常に身構えて耳を済ませているなんてこともなかった。
ここを訪れる人間は正門脇に取り付けられたインターホンを押す。
インターホンの外装は特注品で、家主の注文通りの、正門の持つ雰囲気を崩さないような一般のそれとはかけ離れた豪華なものになっている。
人生で初めてローンを組んだのがそれだったりするわけなのだが、それでもそれがそれとわかるようになっていたはず。


こん。こん。こん。こん。


そういえば最近尋ねてくる人なんて、そう思ってそうでもないのを思い出す。
自分が朝から晩までずっと働いているから、誰かが尋ねてきていてもそれを知りえないだけの話。
居間から廊下をぬけてロビーへ、何か返事をした方がいいのだろうかと思っていると――――音が止んだ。
厳密に言えばノックの音は継続して鳴っているものではなかった。
故にそう感じたのは何かおかしいと彼が気づいたその途端。



ズンッ



轟音に思わず身をすくめる。
“ノック”されたであろうその一点から広がった衝撃に、館の両開きの扉が激しく軋みをあげ、ロビー全体へ響き渡る。
ぱらぱらと音を立てて床へと落ちる塵に、何かかなり昔に似たような記憶がと辿りそうになり、慌てて玄関へ駆け出す。
もう一発あんなものを食らわされたら全損は免れない。
勢いのまま扉を開けると――――来訪者の、赤みを帯びた後姿が見えた。
きっと誰も居ないと思い帰ろうとした瞬間だったのだろう。
あっけにとられるかのように、くるりと髪がなびいて、無防備な眼差しが向けられる。
「――――――」
「――――」
お互いに息を呑む。
鳥の声も、風の感触も、草木のざわめきも、彼の聴覚(せかい)から消失する。
……この時。
錯覚ではあれ、時間の経過を感じなくなることは本当にあるのだと、男は初めて思い知った。
それは久しく感じていなかった、正体不明の驚きだった。
彼は言葉なく立ち尽くす。
眩しい日差しの中、中庭を背景にした女性の姿は自分なんかより余程、この洋館に相応しく思えたからだ。
細いが、しかし、凛とした女性だった。
背の程は草十郎よりやや低い、女性としては高目の部類だろう。
無地のTシャツにジーパンというラフな容姿、こういうのをアメリカンスタイルとでも言うんだったか、四角い旅行カバンも実に馴染んでいる感じがした。
ガサツに見えて優雅。
堅固なようで、その実、しなやかな竹を思わせる。
そんな、本来ならあまり混ざらない要素を持つ女性を、彼は良く知っている。
ただ、草十郎の知っている年上の麗人と違い、この女性は優しさより威圧の方が際立っていた。
一見男勝りの彼女をより女性的に見せているのは、その長髪だろう。
見るも鮮やかなクリムゾンは腰の丈まで伸ばされている。
呆然と、何年かけたのだろうかと思う男だった。
「――――」
そんなを彼を見て女性は眉間にしわを寄せ、眼光鋭く不機嫌だと無言で訴える。
「………………」
しかしそんな彼女の機嫌の悪さを、彼は理由の見当も付かない怒りとしか捉えられない。
先ほどのノックといい、ずいぶんと無作法な来客には違いない。
それなのに何故か、不快感は露ほども感じていないのが不思議でならなかった。
瞬きを挟んで、また、吸い寄せられるように視線を交わす。
強い感情はこもっていても少しも濁りの見えない、強い意志に満ちた青い双眸。
その奥に自分では持ち得ない何かを感じて――――“彼女”だ、と。
唐突に、彼はそれを理解した。








――――とある結末の、十年後――――








見ただけでまだ言葉も交わしていない、なのにそれが自分でもおかしいと思うくらいしっくりときた。
あの日から十年間ずっと、心の隅に開いていた穴がさらさらと心地よく満たされていく。
「お帰り」
自然と、男の口は紡ぐべき言葉を紡いでいた。
一度そうだと解ってしまうと、意識しなくても体が勝手に動く。
たった一言なのにそれが心地よくてたまらない。
「丁度緑茶を淹れた所だったんだ、茶菓子を取ってくるから居間で待っててくれ。
 場所はわかるだろう?」
そのまま相手の返事を待たずに、キッチンへと戻るために踵を返す。
後ろなんて見なくても判る、彼女の事だ、ご機嫌斜めに歯噛みしていることだろう。
戸棚から白い饅頭を取り出しささっとお皿に盛っていく。
それから、別の棚から長いこと使われていない湯飲みを取り出し、さっと軽く水洗いして綺麗に拭く。
青い印象的な瞳に合わせて青色のを選んだ。
残るひとつは鈍い光沢を放つ、渋い色彩の烏色だったりする。
「よし」
いつにも増して自分が上機嫌なのがわかった。
パズルの盤面へ間違いなく的確に、1ピース1ピースが埋まっていく感覚。
厳密に言えば盤面とピースは別物だと理解している、でも違和感をこれっぽっちも感じない。
彼女のことは何ひとつ知らないし顔に見覚えがあるわけでもない、それでも全部解ってしまった。
失われてしまった大切な過去そのものに違いないと。
でなければあんな答えは出ない。
「……待たせるにも程があるよな」
それも彼女らしさなんだろうか、と首を傾げてみる。
居間に戻ると彼女が手前側に座っていた、それを見てまた理由もなく納得する。
これほど不自然に確信を持っているのに理由もなくというのは変なのかもしれない、なんて自らを省みてみたりした。
流石に隣には座れないから、斜め前の一人用のソファに座ることにする。
家具の配置はなくなったもの以外はそれほど変わってない。
テレビは三年前に壊れてしまったから、店員が一押しした一回り大きい新型に新調している。
「生憎饅頭しかなくてね、カステラの方が好みだったかな?」
「どっちでも構わないわ」
久しぶりに聞いた声は何かが違うようで、何も変わっていないのだろう。
ポットのお湯でお茶を注ぎ、慣れた手つきで差し出す。
「どうぞ」
「どうも」
それっきり会話は無い。
本来なら気にすべきところに気づいていながら無視し続けた。
これは一般的には良くないことだと、けれどそうするのが正しいと覚えてすらいない昔を彼は懐かしんでいた。
客人をもてなしたのは正しいが、後は全部やってはいけないことだった。
名前も聞かない。
用件も聞かない。
そもそもこの家に見知らぬ誰かを入れてはいけない。
屋敷の主が知ればかつてのように大目玉を食らうところだろう。
「…………」
一方、訪問者たる女性も思うところがあり黙っていた。
さっきはまるで旧知の友人のような応対だった。
自分でもあからさまなくらい不機嫌に彼を睨んでいるのが解る。
だって完全に覚えて無いくせに、記憶も感情も塵粒ほどもないのにあの頃と何も変わらない。
…………こっちは割り切って帰ってくるまでに十年を要したというのに。
妙な敗北感を覚える。
絶対に初見は予想した通りの反応だった、その後に。

「どちら様ですかー?」
「アリスいますかー?」
「いませんよー」
「じゃあまた来ますー」
「はいさようならー」

くらいのやりとりで、完全に吹っ切るつもりだったのに。
ぬぐぐと更に不満を彼女はぶつけてみた。
その対象は窓の外を眺めて何処か静かな悦に浸っている様子、こっちの方など見向きも相手もしない。
ねえこれは放置プレイとかいう奴?と此処に居ない誰かに問うてみる。
時間はかかったがあの時何も言わずに出て行ったことに対する、自分なりのけじめのつもりだった。
自分にとって今のところたった一つだけある後悔が、こののほほんとした奴とは…………
本当にあの頃は若かったと回想する。
今でも十分若いつもりだけど、なんて誰も自分の心の声を聞いていないのに強がってしまう。
とりあえず理不尽にこいつを殴っておくべきかと彼女は物騒なことを思案し始めた。
もしかしてアリスの仕込じゃないわよね?とありもしないこともついでに疑いだす始末。
こいつはきっと、あの事件の次の日に自分と会っても平然とさっきみたいなやりとりをするんだろう。
だいたい髪も赤くなってるし、背だって少しは伸びて顔も肌も前よりはお手入れしてるし。
…………たぶん、美人さんになってるはずなのに、正直この扱いは無い。
意識してた私がバカみたい、というかこれなら出て行く必要もなかったように思えてくる。
これみよがしに盛大にため息をつこうとして、思い直す。
いや、それはない。
「………………」
「…………」
無言の時間は静かに進む。
あの時の私が居たからこそ今の私が在るんだから。
もしあのままあそこにいたらきっと今の私には成れてないんだし、うん、と一人納得。
でも本当に、未だに彼が此処に留まっているなんて彼女は思っていなかった。
予め居ると確認して今日来たわけでもない。
これも星の巡りか……なんてことを久しぶりに思う。
あれから十年を超える時間が流れ、ようやく彼女は自身の可能性を取り戻していた。
気づけばお茶がなくなっている。
「もう一杯、飲むかい?」
「頂戴」
にこりと笑い、男は差し出された湯飲みに粗茶を注ぐ。
すると彼女の口から盛大にため息が漏れ、先ほどにも増してはっきりと睨まれた。
「なんだい? 言葉にしてくれないと分からないこともあるだろう?」
「それ、そっくりそのままあんたに返すわ」
本当は覚えてるんじゃないでしょうね、と彼女は暗に問う。
「なんだ、やっぱりわかってるんじゃないか」
こっちが気づいたのを知っていて何も言わないなんて、と彼は返す。
「ずいぶんと時間がかかったみたいだけど」
「こっちにもこっちの都合ってもんがあるのよ。
 ったく、どうしてあんたはこう、こっちの調子を狂わせてくれるのか・し・ら・ねっ」
暢気な男は不機嫌な女に突然ぐいっと頬を両側からつままれ、ぐりぐりされる。
「い、いひゃいからやひぇろ」
それでも眉間にしわ寄せて釣り目をしながら十秒ほど更に引っ張りまわして、彼女は手を離す。
「ふん!」
自分の顔は見えないが頬が熱い、きっと真っ赤になっているに違いない。
「……痛つ、大人になりきれてないのはお互い様だろ。
 もう一人同じのが居るけど……おっと失礼」
「そーゆー気遣い、らしくないわ」
頬の熱さもさっと抜け落ちてしまい、再び不機嫌になった彼女はじと目を向ける。
「らしくないと言われても、郷に入りては郷に従うしかないんだから仕方ない」
暗に十年も経つのだから、と昔はそんなことを気にも留めなかった男は愚痴ってみる。
「んで、まだ此処に住み続ける気? 他の選択もあったでしょ」
「他の選択なんて無いよ」
男はきっぱりと否定した。
「俺の命はずっと彼女に握られたままだし、彼女が死なない限りはこのままだと思う」
「そばに居てあげればいいのに」
「そばに居ない生き方もありじゃないのか?」
君みたいに、と。
「…………はぁ」
そう返されて、女は大きくため息をつかされる。
「まだ少しだけあんたらしさ残ってて安心するとか、私も年取ったわね」
「だからここに来たんだろう?」
変わってさえいれば他人と割り切れると思っていたんだろ?という、核心を突いた問い。
彼女達にとって自分がどういう存在か知っていればこそ、辿り着けた結論だった。
「…………図星だけど。
 ほんとあんたには裏切られてばっかだわッ!って、掴ませなさいよ」
「遠慮しておく、これ以上されると千切れるかもしれない」
むむむ、と睨まれるのを男はやんわりと、抗議の眼差しを向けつつ、身を引いて軽く受け流す。
「「だいたいなんでこんな無防備なのよ、ここ」
以前とは比べ物にならないと、今度は八つ当たりに怒りをぶつけてくる。
今突っ込まれると不利な何かがあったんだろう、こちらが新たに口火を切る直前、強引に話をずらされた。
「…………もう何も無いからね。
 離れにも何も残ってない、全て彼女が持って行ったよ」
裏の事情など知らない、それが知りうる全てだった。
此処がもう役目を終えているのだけは、彼にも十二分に理解できた。
「そう」
「でも東館の突き当たりとその隣の書斎だけはそのままにしてある」
たまに掃除しに入るくらいだけど、と続ける。
「………………」
思うところがあったのか、赤髪の女性はしばし黙り込む。
「見に行くかい?」
「遠慮しとく。まだ屋根裏部屋で寝てるの?」
ここにきてやっと彼女は自分の正体を隠すのを諦め、男に現状を問う。
「今は客室のひとつを私室にしてる、屋根裏は時々星を眺めたい時に使うかな」
「贅沢な一人暮らしね」
「一人には広すぎるよ、ここは」
彼の手には有り余る代物には違いなかった。
この広い土地の権利までは委譲されていないが、管理は一任されている。
特に屋敷の主の近親者からの干渉もなく、時折軽く同僚と飲み明かすぐらいはするものの、基本的にはひたすらに静かで慎ましやかな生活を彼は過ごしていた。
不相応なのは重々承知、それでも追い出されない限り、別の場所に移り住む気は無い。
「仕事は?」
「ごく普通にこなしてるよ。そっちは……すまない、聞くのが間違ってたな」
「どういう意味よ、それ」
「えっと…………」
刀の切っ先のような視線で詰め寄られる。
言わなければ視線だけで殺されるかもしれない危機感を、どこか懐かしく感じている自分に馴染みを感じる。
「その……怒るなよ? つまりだ、プー「違うっつってるでしょ!!」
「うぉ!?」
ドゴンと後方に響く破砕音。
無意識に触れた頬は軽く切れていて、血の赤が掌に移った。
「避けるなっ!」
肩を怒らせて彼女が怒鳴る。
「いや、避けなきゃ死ぬだろこれ」
冷静に切り返す。
もうもうと上がる煙というか粉塵。
ぱらぱらと砕粉が壊れた壁の断面から零れ落ちるのを見て、真っ先に修理代を考えてしまうほど所帯じみた彼だった。
「死ねばこの世のしがらみからも晴れて無罪放免、すっきりするってもんでしょ?」
悪魔の微笑み。
とんでもなく極上の、最高の笑顔のはずなのに、こめられているのはどこまでも最低で非道。
「だから勝手には死ねないってさっきも言ったじゃないか。
 当たっても死なないんだけど痛いのは嫌だ」
「…………はい?」
「命を握られてるって言っただろ?」
だけど死にたくないと男は必死な抗議の視線で返す。
「…………あんた、アリスに死……吸血鬼とかにされてんの?」
「突然なんの冗談だ?」
「知らないならいいわ。でもその様子だと死にかけたこと、ありそうね」
興味の移り変わりと共に彼女の怒りも失せた。
「高速道路で多重事故に巻き込まれて唯一無傷で生き残ったという不名誉くらいならある。
 あの時はすごく痛かったし生命保険もおりないし散々だった」
新聞にまで載ってニュースでコメントまでさせられる顛末を思い出し、男は深々とため息を漏らす。
不幸中の幸いにして自動車保険は全損でおりた。
「そりゃ生きてるからでしょ」
何言ってるのよ、と彼女は呆れる。
この男を相手にしているとほぼ毎回怒るか呆れさせられるか、はたまた驚かされるか。
そんなところだった。
そもそも身寄りも無いのに生命保険とは、誰が受取人なのかと勘ぐりそうになり彼女は自制する。
「そうか、死んだところを見せればもらえたのか。
 それはまた難易度が高いな……」
驚きを表情に乗せた後、男は腕組みをして真剣に悩む。
「仮に見せたとしても生き返ったらもらえないと思うわ、結局生きてるんだから死んでないでしょ」
「むう……」
そこで話が途切れた。
せっかく出してもらった茶菓子に手をつけないのも悪いと思ったのか、彼女はひとつ手に取った。
一口、また一口と噛めば餅皮の柔らかさと中の餡の甘さが口の中に広がっていく。
彼もまた饅頭をもそもそと食べ始める。
何気なく窓の外を見ると、小鳥が群れて飛んでいくのが見えた。



「探し物は見つかった?」



それは知る者だからこその問いかけ。
聞いてはいけなかったのかもしれないが、彼女はこの機を逃せなかった。
次はひょっとすると、もう、無いのかもしれないから。
男は間の抜けた顔をしてから数秒の後、静かに頭を振った。
「そ」
期待はしてなかったものの、不覚にも少しばかり寂しく思ってしまった。
視線を逸らして緑茶を口に含む。
「…………でも世の中割とそういう人に溢れてるのに気がついたら、少しだけ楽になった」
再び視線を彼へと戻す、諦めよりもやる気に見えたのが意外だった。
ちょっとは前向きになったってことか。
孤独からの解放、山から降りてきた自分は異物だと未だに思っているらしい。
彼の出生からの今まで全て知っているわけではない、それでも生来の、幼少時代の刷り込みというのは拭い難いものがあるのも確かなのこと。
自分にだってあんな過去があるわけだし。
「今は生きているというよりも生かされてる、だからね。
 それを言うなら十年前からか、俺の命は君達二人にずっと握られてたのを忘れてたよ」
やれやれと、たいして苦でもなさそうに男は笑う。
「本当に困ったものだ」
魔法使いは一瞬、彼から奪い取った時間を戻してやろうかと悪戯に考える。
それは十年前に彼女が彼の命と引き換えに抱えた負債。
解決策のぼんやりとしたイメージぐらいはあるものの先はまだまだ長く、死ぬまでに何とか出来れば御の字というところ。
とりあえず太陽の消滅が五十億年後としてその十倍は未来に投げておいたけど、何か問題あればちゃっちゃとまた誤魔化せばいいだけだし、と楽観的に考える。
何度顧みても、この十年間は本当に、本当に長――――



「寝てないのか?」



心臓が、停止したように感じた。
「え?」
何の脈絡もない、唐突な質問に混乱する。
「眼の下に隈がある」
彼の気遣うような瞳に気づいて、
「え?うそ!?……なんて、引っかからないわよ」
慌てて取り繕った。
隈なんてないし、疲れなんて見えるはずがない。
「いや、勘違いならいい」
「…………ほんと、いいきなりわけのわからないこと言い出すのはやめてよね」
魔法使いは残りのお茶を一気に飲み干す。
しつこく追求されてたらと思うとぞっとした、恐怖そのものだった。
この馬鹿の勘違いではない、実際、あの日から私は本当に“一睡もしていない”
言い方を変えればあの時かけた“魔法を今まで切っていない”。
なかった事にした時間を魔力に転換し、魔術刻印の修復能力を常時起動、自身の代謝に当てている。
回しっぱなしのおかげで変換効率だけは自覚できる程度におかしなことになっていて、本気出すと音が鳴るほど。
当然魔法の維持にも消費しているが、現在は同時並行して膨大な数の簡易魔術式を展開しているいわば人間要塞状態。
しかしながら壊すことにしか長けていない彼女が布くのは防壁ではなく攻壁、魔力が切れない限り彼女に仇為すモノ全てを破壊し続ける無限の魔弾。
かつて姉が有限である魔眼の力を類稀なる技術で無限へと昇華させたのとは逆に、妹は実質無限に近いそれを有限へと貶める。
そしてここまでの十年、そんな膨大な魔力消費を続けていても、一向になくなっていくのを彼女は感じられない。
効率がよくなったから余計に減りにくくなったように感じなくもない、でもこれは解決策ではなくけじめ。
あの日、自分が決めた生き方を貫くための。
困った厄介なものを背負わされたなんて誰が思おうか。
仮に一日の三分の一を無意識で過ごす睡眠時間とするのなら、私は十年で十三年弱生きたことになる。
そのほぼ全てを自身の成長と研鑽に当ててきた。
この先この差はもっと広がるのだろう。
同じ時間に居ながら、私は他よりどんどん先へと進んでいく。





「――――でさー……あ、やば」
気づけばとんでもない時間を過ごしていた。
何の為にもならない、くだらない雑談をこれほどの時間続けたのは何年ぶりだろう。
山と積んであった茶菓子もお茶の入ったポットも空になっていた。
「もうこんな時間か」
男が壁時計を見上げてから、軽く背伸びをした。
気づけば日が傾き、室内を染める陰影に黄昏が着いている。
「そろそろ行くわ」
彼女は椅子の脇に置いた旅行カバンを掴み、すっくと立ち上がる。
「そうか」
名残惜しむ風でもない彼の返事が、ひどく彼らしいものだったから余計に腹が立った。
実家にも寄ろうと思っていたのに気づけばこれだ。
電話を入れるくらいの時間はあるとしても、数年ぶりの大失敗だと自覚する。
他にもいろいろ回らなければいけない所があったのだが、全部切り捨てることにした。
今の自分にはそんなやり方が相応しい。
会話もなく、すぐに玄関に着く。
別れの言葉も要らないだろうと無言でドアに手をかけたところで――――





「蒼崎」


なんて軽く、急に、名前で呼び止められた。
ここに来てから一度も名乗ってなんかいないのに、こいつに“また”名前を呼ばれた。
そう意識した途端、あらゆる感情のうねりが胸中を満たし溢れそうになった。
十年の時を超えて鼓膜を揺らした響きは、脳内で何度も反響する。
たった一言。
漢字にして二文字に過ぎない一言をこの自分は、蒼崎青子は、嗚呼、そんなにも。
否定しても、拒絶しても、誤魔化そうと自らを偽りきれないほど、十年も経っていて、否、十年も経っているのにこんなにも――――
「ん?なに」
自然に振り返れただろうか。
「また十年後に」
「!!」
驚きに彼女の表情が揺れた。
思ってもみない、再会の約束の申し出だった。
「次は三年、ううん、五年後ぐらいにしておくわ」
本当にこいつには振り回されてばかりだと、つくづく思い知らされた。
本来は断るべき約束。
それにこんな、本末転倒な答えを返すなんて自分はどうかしているんだろう。
思えばミラーハウスでこいつを殺そうとした時もそうだった気がする。

そんな気分じゃなくなった。

たったそれだけの、自分本位の蒼崎青子にとっては充分すぎる理由。
彼に請われたからではない、自分が望んだのだ。
あんなことをしておきながら、あんな別れ方をしておきながら。
それも、十年も経った今頃になって。
自らのエゴイスト振りを青子は自覚するが反省など微塵もするつもりはない。
でもまあ、たまにはいいか。
次の気まぐれはきっとその時にでも。
ふっと淡く笑んで、外へと向き直りドアを押す。
差し込んでくる夕日に目を細めながら、今度こそ気持ち良く別れようと――――



「そうか。じゃあその時に結婚相手が見つからなかったら言ってくれ」



敷居を跨いで一歩、そして二歩。
そこから時間を逆回転させるように掴んだドアノブは離さずに一歩、また敷居を跨いで二歩。
バタンとドアを閉じる。
「…………………………………………………………はい?」
そこから三十秒を要してやっと、声が出た。
思わず足も心も止まった。
自分がなんでこんな変な形で踏みとどまったかも意識の外。
「仕方が無いから引き取ると言っている」
彼女に理解不能の不意打ちをかましたけったいな男は表情を変えずにそう続ける。
しかし彼女にとって見れば彼の目は、やっと探し物が見つかったと誇らしく言わんばかりだった。
「もちろん有珠の許可が出れば、という条件付だけど」
だが如何せん、放つセリフは相変わらず空気を読めていないものだった。
話の流れからして、暗に“未婚女が三十路過ぎて結婚して無いのは世間的にもかなりやばいし辛いぞ、その上無職なんだろ?”と本気で心配されているようで腹が立つ。
魔法使いや魔術師が単なる能力や在り方に過ぎないのは青子も解っている。
「――――」
彼の色気も雰囲気も何もないプロポーズを受け、その内容をしっかりと噛み砕いて三回は理解し直して、それでもやっぱり彼女には腹立たしかった。
しかしながらまだ幾らか色々と思うところはあったのだろう、幾許かの間を挟みながらあーでもないこーでもないと表情が変わっていく。

えっと?やっぱりコレ、プロポーズよね?そうなのよね?形はどうあれ毎日お前の作った味噌汁を飲みたいみたいな遠回しでもないけどロマンも夢もへったくれもないお前もっと現実見ろよ的な何かよね?…………オーケーオーケー、少し頭の整理するわよ、あの時私にまず失敗はない、確実に念入りに私に関する全てをこの馬鹿から奪い取った、それは間違いなし、と。つまりこいつは間接的には私を知りえても、苦楽の共有も何もなく、余計な感情を抱く理由なんてない、完全なる忘却状態、それは重ねて間違いなし。ならこの数時間で私に惚れたとか?いやいやいや幾らなんでもそれはって、可能性だけで言うなら否定できないか……でもどこに?自分で言うのもなんだけど性格は最悪だし可愛げはないし思いっきり自己中だし、その片鱗はこの短時間でもこいつにも見えたはず。蓼食う虫も好き好きって奴?それともこの容姿が全てってこと?でもそれもこいつの性格でそれはありえないか、だったらなんなの?何かよくわからない責任感で引き取るって話?好きだとか愛してるとか告白もなしにいきなり結婚よ?私が哀れだから見てられないとでも?ジョークにしても性質が悪すぎるわ、即消し炭にするレベルだけど、思い出してみればセンスがないと徹底的にダメ出しした記憶も取っちゃってたかー……しかしどうしよう、どう答えるべきか。決してこいつを嫌いなわけではない、あまりにも脈絡もなく唐突で答えようがない。なにより私のそんな選択が赦されるの?記憶は返さない、それは絶対。だけどもしそれを選ぶなら私には話さないなんてことできない。過去をなかったことになんてできない。あの時、アリスのような人間らしい選択を取れなかった私が、自分しか選べない人非人がどうして今頃になってそんな人並みの幸せを願えるというのか。やっぱ無理か……来なければよかったなんて後悔はしない。此処へ来たのは私自身のためでしかない。だからどんな結果も受け入れる。こいつを助けるために初めて魔法を使って、次は見殺しにして魔法使いに成って。アリスがああ言わなかったら、私は本当に――――嘘塗れだ。冷徹に振舞いながらも心のずっとずっと奥の端っこの、自分でも気づかないような場所では安心してたんだ。今になって思い出すなんて。本当に酷い女だ私は。本心すら明かさずにずっと彼を裏切っていたのは私の方だ。アリスの方が余程真摯で潔かった。本当に割り切れていたのなら、この馬鹿の望みを真に受け止めていたのなら、私は此処を絶対に訪れてはいけなかった。別れはもう済ませていたのだから。過去を振り返らずに前を見て進む私をこいつは後押ししてくれたんだから…………うっわー、私、今、本気で後悔してない?こんな性格じゃなかったのになー、なんて私らしくない。こいつが関係するとどうにも調子を崩される。それでなんだっけ、結婚、そう結婚よね。私がこの馬鹿と?…………できるはずがないじゃない。結局はそれが答え。私自身がどんなに望んでも私自身のためだとしても、私自身がそれを赦せない。このまま独りで生きて独りで死んでいく。それが魔法使いの宿命って奴なのよ、きっと。

「………………」
それを飽きもせずに眺め続ける男の姿には緊張感などありもせず、どこか楽しそうに見えた。
「はぁ……人を不良債権みたいな言い方しないでよね、それにアリスが許すわけ無いじゃない」
最終的に非常に疲れたため息をついて、彼女は何とかそれだけを返した。
「よし、許しさえ出ればいいってことだな」
「どうしてそうなるのよ!」
馬鹿っぷりと空気の読めなさは未だに改善されていないのだと思い知らされて、また怒鳴ってしまう。
「他に……ほら、誰か居ないの? あれからかなり経つし一人くらい居るでしょ」
「そう言われても困る。
 付き合いが長いのは…………ほら、高校の時に水泳部の部長やってたあの人くらいだ」
「…………」
自分の表情がこわばったのが解る。
それもピシィ、とこめかみが引き攣るような苛立ちを伴っている。
よりにもよってあの子か。
というかまだ付きまとってたのかと目前の男へ疑いの眼差しを向ける。
それならと普通に言いたいところだが、なんとも言えない、納得がいかない。
むしろ許せなかったり。
割と本気で。
結婚招待の葉書なんか届いた日には当日アリスとタッグを組んでめちゃくちゃにする自信がある。
「あっそ、アリスの方はどうなのよ?
 あの子……もう子って年でも無いけど、あんたからのプロポーズ待ってるでしょうに」
「………………」

今度は男の方が見事なまでに固まった。
「どうしたの?」
「いや……その発想はなかった」
本当に気づかなかったのかと彼女が突っ込みを入れるのを忘れるぐらい、深刻に自分の行いを反省している顔だった。
そうなのか?と聞き返さないだけ成長が窺える。
おそらく、此処に一人だけ置いていかれたことをこいつは根に持ってるのだろう。
彼の認識通り、私から見ても此処は完全に用済みの、廃墟に見えた。
かすかな郷愁だけが滞留する、かつての名誉も不名誉も忘れ去られた場所。
そんな所に置いていかれれば自分も用済みだと思ってしまうだろう。
アリスからも何年か前にそれとなく聞いている。
一人にしないと誓いを立てたのに、その相手から突き放されこの状況に置かれたのでは仕方ないのかもしれない。
でもきっと彼女は今でも遠いかの地で、こいつが戒めを破ってでも追いかけてくるのを待っているに違いない。
そんな女心なんてこいつには永遠に理解できないだろうけど。
それを知っていて尚、彼女は奇跡を信じている。
「…………色々言いたいことはあるけど、言わなくても察しがつくわよね?」
「つまり有珠に振られたら蒼崎ってことで」
「直前にプロポーズまがいの発言をした相手にそれもどうなのよ?」
ちょっと見ない間にナンパな大人になったわねと視線と口元に嫌味も込めてみる。
「今返事がもらえるなら発言取り消させてもらうけど?」
が、やっぱりそれは通じなかったらしい。
少しは大人の駆け引きもできるようになったとでも言いたいのか、余裕を見せ付けてくれる。
「…………はぁ。私がすでに結婚してるって発想は無いの?」
こいつと話していると本当にため息ばかり出て困る。
「してたのか!」
「っ…………してないけど」
彼のあまりの驚きように半眼で睨み返す。
「…………」
「…………」
「……」
「………………」
「…………」
「……」
「…………」
「……………………」
気まずい沈黙。
「と、とにかくもう私行くから。飛行機に間に合わなくなっちゃうじゃない」
「引きとめて悪かった」
今度こそお別れだ。
口約束はしたものの、次はいつになるのか見当もつかない。
「草十郎」
だから名前だけは呼んであげることにした。


「元気でね」
「ああ、蒼崎もな」







[33236]  ┗とある結末の、十年と少し先(IF)
Name: 32-265◆29996d79 ID:d411aa3f
Date: 2012/08/30 05:44
一歩。


また一歩。

遠ざかっていく。
ドアは閉じた音を吐き出して。
今度こそお別れ。
約束なんて未練がましいにもほどがある。
振り返ってはいけない。
どうしてあの馬鹿は自分の心の隙間を突くのが巧いのだろうと。
立ち止まってはいけない。
自分でも知らなかった本音が零れて、嵐の中の小船のようにかき乱される。
思い出してはいけない。
この十年という長い時間、色々あったけれど、こいつを超える人間なんていなかったのだ。
赦してはいけない。
それでも今まで私は私のままで在り続けてきたし、これから先もずっと、私のままで在り続けるのだろう。
たった独りで。
独りで。
それが――――




「――――」
決して立ち止まってはいけなかったのに、足が止まってしまった。
「――――」
前を向かなければならないのに、動かない足を動かそうとしてうつむいてしまう。
「…………」
歯噛みする前に一度、瞼を閉じて深呼吸する。
「………………」
本当に未練がましい自分にもう一度だけと言い聞かせる、本当にこれが最後なのだと。
「…………」
覚悟を決めて瞼を開け、肩越しに振り返――――
「~~~~ッッ!!」
なんで…………なんで手を振って見送りなんかしてるのよ!!
「…………」
もう無理だった、我慢なんかできるはずがなかった。
「……ッ」
こめかみが引き攣り、不機嫌に目尻が釣り上がって口元は怒鳴りたいのを必死に歯を食いしばって耐えている。
「……フンッ」
鼻息荒く肩を怒らせ早足で来た道を戻る――――のではなく、目標へと突き進む。
「何か忘れ物かな?」
間の抜けた声に行動で応える。
「ええそうよ」
ガッと草十郎の手首を掴むと再び踵を返しペースをそのままに歩き出す。
「うぉっ!? と、あ、蒼崎?」
こけそうになりながらも律儀に足並みを合わせてくれるのを見て、意味の解らない叫び声を出しそうになる。
「……まくら」
自分で自分を戒めることもできないリビドー塗れのエゴイスト、ただ今は、そんな自分であることがたまらなく幸せに思えてしまう。
「へ?まく…………何だって?」
開き直ってしまえば、どうってことはない。
「まくらよ。さっきはああ言ったけど本当は寝不足もいいとこ、だからこの際新調しようと思ってね」
どうしようもない怒りと羞恥に軽く頬の熱さを感じながら、“後悔は消せるものなのか”なんて昔、こいつが感心してたのを思い出す。
「あまり無理するのは良くないな」
「ええ、もう我慢なんてする気はないから安心して」
やりたいことをやるのが私、蒼崎青子、後悔なんて似合わないんだから。
「ところで俺はどうして蒼崎に引っ張られてるんだ? 買い物に付き合ってほしいなら車で行った方が早いぞ」
「確かにそうだけど乗り捨てはまずいでしょ、これからとりあえずアリスの所に行くんだし」
停まっていた時が動き出すかのように、心が新たな風が芽吹く。
「…………うん?」
「その後はあんたの探し物を探しに世界中あっちこっち行くの、こんな所に留まってたら見つかるものも見つからないわ」
やりたいことが次から次に浮かんでくる、こんなことならもっと早くくればよかった。
「………………蒼崎青子さん」
「ん?なに?」
いつも不機嫌に傾いている眉毛が、いつの間にか上機嫌に丸く弧を描いている。
「わたくしも大人なので、それなりの社会的立場というものがあるんですが」
「あぁお金のことなら心配要らないわ、向こう三年あんた一人分養うくらいの蓄えはあるし」
「いや、そういう意味じゃな「魔法使いにあんなふざけたプロポーズするような命知らずに拒否権なんて最初からないわよ?」
「………………」
「わかればよろしい」
「…………蒼崎、もうひとつだけいいか」
「なによ」
「その笑顔の使い方は絶対に間違ってると思う」
「怒ってる顔がお好みならそっちにしてあげてもいいけど?」
「どっちも勘弁してほしいというのが本音かな……」
「嫌なら言動には気をつけなさい、って言っても笑顔には慣れてほしいわね」
「?? なんでだ?」







「私はアンタのことが――――大っっ好きなんだから」





[33236]   ┗とある魔女の独白(IF)
Name: 32-265◆29996d79 ID:d411aa3f
Date: 2012/08/27 21:26


――――青子は結局、帰ってきたのね。
あれほどの啖呵を切っていたのに。
彼女の自己中心振りには本当に辟易させられるわ…………それでも。
これで私も安心して余生を過ごせるかしら。
草のことだけがずっと長い間心残りだったわけだし、この結果は残念なのだけど。
私は今も彼を深く愛している、でも同時に、酷く憎んでもいる。
彼と二人で過ごした四年間は二律背反と表現するに相応しい、倖せで、満たされない永い時間だった。
草は私だけを見て、私だけを愛してくれた。
時には反抗もしたけれど、私の言うことも聞いてくれたし命を助けてもくれた。
でもそれは――――私が居る時だけ。
最初の一年は彼を独占できているそのことだけで満たされていた。
でも二年目にはそれでは足りなくなっていた上に、意識的に避けていたことに目を向けざるを得なくなった。
三年目と四年目はもう自分でもわけが解らなくなっていた。
だから時間と距離を置いたの。
もっと解りやすく言えば彼を手酷く振ったのよ、厳密には少し違うのだけど。
私が私のままで在り続けるにはもうこの方法しか残っていなかったわ。
彼が私を追いかけてくるならそれでよし、追いかけずに留まるのならそれでも良かった。
当然望んだのは前者よ、一夜と言わず何夜も、何ヶ月も深く愛し合ったのだもの。
抱きもしたし抱かれもしたわ。
男はケダモノというけれどあれが比喩ではなかったのを知ったのもその頃。
……子でも生せていればまた違ったのかもしれないわね。
久遠寺有珠という人間にも魔術師にも草は真摯に向き合って、受け入れてくれた。
でも結局、彼は“欠けたまま”だった。
私では彼の足りないものをどんなに尽くしても埋められないと解ってしまった。
彼自身がそれに気づいていないのも痛ましかった。
彼は自分を飾れない人、だから私を愛してくれたのも紛れもない本心。
哀れんだわけではなく同情したわけでもない。
ただ単純に。
私には彼しか居なかったけれど、彼は“狂おしいほどに誰か欲してはいなかった”だけ。
私が死地に立てば、何もできないと知っていても彼はそこへと踏み入る。
でもね、それはきっとそこにいるのが“私でなくても同じ”。
彼はそういう人だから。
あの事故にあった時だってそう、心配している私よりも目の前の誰か、もっと言えば環境に引き摺られていた。
彼なりの気遣いもあったのかもしれないのだけど、連絡が入ったのは一週間も経ってから。
心だけでなく人生までも狂わされてしまった私だけれど、依存はさせてもらえなかった、違うわね、できなかっただけね。
彼だけの特別には成れないと解ってしまったから。
それでも彼から離れるのは辛かったわ、初恋なんて実らず散って次の恋の栄養になるものと知っていても。
魔術で彼を意のままにしようとしたことも何度もあったわ、でも結局できなかった。
そうしてしまったら私の愛している彼ではなくなってしまうもの。
それ以前に私が彼を変えたくなかった。
彼には彼のままであり続けてほしかったのよ、私だけのものにならないとしても。
同様に彼のことを思うほどに、私自身もどうしようもなく、狂えなかった。
正直なところ、そうしてしまって私も彼も壊れてしまった方が後腐れもなくてよかったのかもしれないと思うことは今でもあるわ。
時々夢に見るあの日、私は魔術師としての生を一度終えているのよ。
彼を選んだ時点で私は女として生きるしかなくなったの。
でもそれも長続きしなかった…………ずるいわ、本当に憎んでも憎み足りないくらい。
今の私は一縷の生に望みをかけるだけの、死人のようなものだもの。
でもそんな悩みももうすぐ終わるわ。
彼と彼女が此処に来る。
最初(さいご)にかける言葉は何にしようかしら。
久し振り?ごきげんよう?それともこんな時間に何の用?ずいぶん遅かったわね?
心が躍る感覚が懐かしいわ。
さながら満月へ吼える銀狼のように。
夜気を浴びて息を吹き返す吸血姫のように。
ただで譲るわけにはいかないもの。
きっちりかっちり憎まれ役に成ってあげるから。
最後の最期まで私で在らせなさい。
万が一にも盤面返しができたのならば、それはそれでご愛嬌。
幸福(どく)と知りつつ飲み下すまでのこと。





――――さあ。ごっこ遊びを始めましょう。





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