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[33893] 【習作】桐の枝に止まる鷹(fate/zero二次、オリ主)
Name: 深海魚◆6f06f80a ID:fb12e672
Date: 2012/07/08 14:43
 にじファンの滅亡に伴って移住してきました。
 スコッパーの皆様、またその他の読者の皆様に多大なる不快感を与える作品かもしれませんが、どうかよろしくお願いします。

以下、注意事項になります。


この作品は以下の要素を含みます。

・オリ主
・しかもオリ主は最弱
・原作知識なし

また、以下の成分が含まれます。

・緩和しきれなかったウロブチン
・どうにもならないほどに鬱が濃かったから、どうにか前向きな感じにした人死に
・それでも頑張って詰め込んだ作者の妄想
・無茶な展開と、ところどころ崩壊しつつあるストーリー

それでもよろしければ、ご覧ください。



[33893] 間桐雁夜の一夜の過ち
Name: 深海魚◆6f06f80a ID:fb12e672
Date: 2012/07/08 15:05
 間桐雁夜には、今もなお心底惚れている幼馴染がいる。
 かつての名を禅城葵。かつては魔術師の家系であったが、いまは没落している家系だ。
 ただ、やはり元を辿れば魔術師の家系である。なにか因縁でもあったのか、雁夜と葵は幼馴染として出会った。
 そして雁夜は葵に惚れた。
 それからは他の誰よりも長い時間を共に過ごし、それなのに――別の男に負けた。
 魔術師の名門、遠坂家当主である遠坂時臣が葵にプロポーズしたのだ。
 魔術師の家に嫁げば魔道に関わることは避けられない。葵も、その子供たちも、普通の幸せな生活は送れないだろう。
 自分のためか、葵のためかも分からない。それでも激情に駆られて葵の元へと向かった雁夜は、彼女の顔を見て敗北を悟り――それでも理解しきれず、諦めきれず、問いを投げかけはしたが――身を退いた。
 葵もまた、時臣を憎からず思っていることが分かったからだ。
 自分がここで秘めていた想いをぶつければ、彼女は友情と恋慕の狭間で苦悩するだけだ。ならばいっそ――
 そう考えた雁夜は、逃げるようにその場から立ち去った。





 その夜の雁夜は飲み明かしていた。
 あちらこちらの酒場を渡り歩き、前後不覚になるまで浴びるように酒を飲んだ。
 明日は仕事? 酒の飲みすぎは毒? んなもん知るか――
 長年の初恋は実らず、それどころか完膚なきまでに敗北を突き付けられた雁夜は半ば自棄になっていた。
 ただ今だけは、なにもかも忘れてしまいたかった。
 やがてはしごも四件目に達し、雁夜はバーにいた。
 酒ばかり飲んでいたせいだろう、尿意を覚えた雁夜はトイレに向かい、手早く用を済ませてすっきりしたところで手洗い場の鏡に映った自分の顔を見る。
 酒で酩酊し真っ赤になった顔。
 髪はいつの間にか濡れてぼさぼさになり、しかもどこかで酒を被りでもしたのか、妙に酒臭い。ひょっとすると自分の息のせいかも知れないが。
 ズボンや上着にも新しい汚れがついていた。鼻を寄せてみれば、ゴミ捨て場特有の悪臭がする。

「……酷い様だな」
 
 そう口に出し、自分の惨めさを嘲笑った。
 好きな女と十数年という時間を共にしておきながら、最後の最後で横取りされてしまった自分が情けなくて仕方がなかった。
 こうして酒に逃げながら、明日になれば全てはただの悪夢で終わるのではないかと馬鹿な望みを抱く自分が、女々しくて仕方なかった。
 トイレから出て再び席に着く雁夜を、カウンターの内側に立つ店員が迷惑そうに見る。
 ひょっとすると雁夜の被害妄想にすぎないのかもしれない。しかし完全に酔っ払ってしまった雁夜には現実と幻の区別すらつかなかった。
 いや、それどころか、

(どいつも、こいつも……俺を嗤ってやがる……)

 今の雁夜には、そんな光景すら見え始めていた。
 たしかに、一部の客や店員から好意的とは言い難い視線を向けられていたのは事実である。しかし、決して嘲笑う理由などない。むしろ目を合わせないようにしていたくらいだ。
 だが、今の雁夜には関係がない。僅かな悪意や軽蔑の視線は雁夜の中に眠る自嘲と結びつき、それが心の奥底に眠っていた憎悪や嫉妬とさらに結びつき、アルコールによる思考力の低下がそれを助長する。
 そして古今東西、酔っ払いに激情を足して起こることは決まっている。

「嗤うな……」
「え?」

 当然、店員からすればなんのことか分からない。聞き返すのは至極当然のことだ。が、今の雁夜にとってそれは火に油を注ぐ行為である。
 ついに臨界点を勝手に超えた雁夜は、店員の胸倉を掴んで引き寄せる。

「俺を、嗤うなぁあああっ!!」
「ガッ!?」

 そして、思いっきり顔面を殴り飛ばした。
 雁夜はそれなりに筋力がある。店員は殴られた勢いで後ろの棚にぶつかり、落下してきた多量の酒瓶による追撃を受けて沈黙した。
 それを見て、しまった、と思ったのは雁夜である。一時の昂ぶりが治まった今、自分がどれだけ醜い行為をしたのかが分かりすぎる程に分かった。

「あ……す、すまない! 大丈夫か!?」

 酒瓶とはいえ、打ち所が悪ければどうなるか分からない。最悪の事態を考えて思わず顔面蒼白になった。おそるおそる声をかけると、

「大丈夫なわけがないでしょ? なにやってるのよ、貴方は」

 背後から唐突に声をかけられた。
 聞き覚えのある声に一瞬だけ固まり、ゆっくりと振り返る。
 案の定、よく知った顔の女性が立っていた。
 長い黒髪を背中でくくり、白いワンピース姿で佇んでいる。
 清楚なはずの衣装は、女性自身が放つ女豹のような空気で別種の印象を抱かせた。

「……なんで、ここに?」

 ようやく雁夜がそれだけ呟くと、

「あら。私がここにいちゃいけないなんて、誰が決めたのかしら?」

 そう言って、雁夜のよく知る女性――結城静は艶然と微笑んだ。
 雁夜は男の常としてその美しさに息をのみ、ついで舌打ちをする。

「何の用だ、結城。間桐を捨てた俺に、魔術師のお前が今さら会う理由なんぞ無いはずだ」
「あら、友人に会いたいだけなのに家の名前が関係あるかしら?」
「それは……」

 咄嗟には気の利いた反論ができず、言葉に詰まる。
 そんな雁夜を静は呆れたように見つめ、首を振った。

「まあ、細かい話は後ね。まず逃げるわよ」
「は? 何言って――お、おいっ!」

 雁夜は静に唐突に腕を掴まれ、引きずられるようにバーから出る。
 背後からは我に返ったらしい人々の怒号が響く。が、もう遅い。
 驚くほどの速さで、静と雁夜は入り組んだ路地を駆け抜けていった。

「おい待て、待てよ!」
「あは、あははは! 楽しいわね雁夜!」

 雁夜は戸惑いながらも静を制止するが、静は止まらない。子供のように笑いながら、走るのに不向きなはずのヒールで走り続ける。

「この……待てと言ってるだろう!」

 止まらない静に業を煮やした雁夜は掴まれた腕を使って逆につかみ返し、力任せに引き寄せる。
 その拍子に、静が雁夜の腕の中に飛び込んだ。

「……っ!」

 女性特有の柔らかさと、やや高めの体温、それに色気を感じさせるなにかの香水が鼻孔をくすぐり、雁夜は思わず喉を鳴らした。
 男としての本能が目の前の女性を求めていた。酒に酔って理性の箍が緩んでいたのもあった。
 その直後、僅かな理性の揺り返しと同時に猛烈な自己嫌悪に陥る。

(俺は今、なにを考えた?)

 まだ自分には好きな人がいるというのに、たかだかこの程度の誘惑に負けそうな自分がますます惨めで――

「雁夜」

 呼ばれたかと思うと首に手を回され、頭を引っ張られた。
 そして唇に温かい感触が伝わる。
 驚きで見開かれた視界は彼女で埋め尽くされ、その美しい顔が驚くほど近くに見える。今ならば、その睫毛の一本一本まで数えられるだろう。
 どれほどの時間がすぎたのか雁夜には分からなかった。とにかく、一秒にも、一分にも感じる時間がすぎ――静は唇を離す。

「雁夜」

 もう一度、名を呼ばれる。
 一度目とは違う。雁夜は、その響きに込められた願いを、意図を、正確に察した。
 時に百万の言葉よりも雄弁な一言がある。これは正にそれだった。
 そして、次に発せられる言葉もまた、これ以上ないほどに雄弁だった。

「来て」

 乞われて、また腕を取られる。今度は優しく、そして導くようにゆっくりと引っ張られていく。
 恐らく、ここで拒めば彼女は引き下がるだろう。この幻のようなやり取りは終わり、夢は覚める。尤も、今見ているのは悪夢なのか、それとも違うものなのか、雁夜自身にすら分からなかったが。

(駄目だ、俺は、葵さんが――)

 そんな思考が一瞬だけ頭をよぎり。
 同時に、つい半日前に見た、葵のはにかんだ慎ましい微笑が脳裏に浮かんだとき――

 また唇が合わさった。
 最初のどこかプラトニックなものとは違い、口内に舌を差し入れられる。
 蹂躙され、征服される。惑わされ、捕食される。骨と肉を通して直にその音が伝わり、快感と背徳感、酒気も相まって朦朧とした頭に、もう考える力は残っていなかった。

「……ぷはぁ」

 長く深い口づけを終えて少し離れた静が、舌で自分の唇を薄く舐める。
 その仕草は普段の誇り高くしなやかな女豹とは違った。獲物を絡め捕った女郎蜘蛛のようだ。あまりにも美しく、そして妖しい。
 雁夜は目が離せない。
 今度こそ雁夜は、手を引かれるがまま、まるで亡霊のように夜の帳に消えていった。





 この夜、雁夜は過ちを犯す。
 文字通り一夜の過ちだった。
 そして、たった一度きりの過ちでもあった。
 しかしその過ちが、将来の間桐雁夜にとって致命的な重荷になろうとは当時の雁夜自身、思ってもいなかった。
 そして来たる日、雁夜は最初のツケを払う羽目になる。





◇◆◇◆





 冬木市郊外、とある産婦人科クリニック。
 こっそり中絶したいだの、駆け落ち同然の出来ちゃった婚夫婦だの、そんなひと癖もふた癖もある客ばかり見るということで一部の人間には有名な場所だった。
 今にも夕日が水平線の向こうへと沈まんとする黄昏時、このクリニックに一人の男が訪れた。
 彼はクリニックの前に停車したタクシーから脱兎のごとく飛び降り、猛烈な勢いで走りだす。形振り構わず委細構わず、ただひたすらに走る。
 その勢いのまま乱暴に扉を開き、受付に物凄い剣幕で詰め寄った。

「すいません、連絡を受けた間桐です!」

 息も絶え絶えになりながら、パーカーに薄いズボン、整える時間も惜しいという風情でくしゃくしゃにしたままの黒髪、という姿で疾走していたのは、間桐雁夜その人であった。
 彼はフリーのルポライターとして生計を立てているために、ここ冬木市に戻ってくることはあまりなかった。現地に行かなければ記事が書けないのは当然ながら、それ以上にこの因縁と業と、一人の醜悪な老人の悪意が渦巻く地に留まりたくないという嫌悪感が大きかった。もしも彼の実家である間桐の家が存在していなければ、なんらかの形で滅んでいれば、彼は冬木市に留まることを忌避しなかっただろう。

「はい、はい。一番奥の分娩室です」

 雁夜が欲していた情報は、やや生温かい目をした受付嬢から、たったの一言と廊下の奥に向けられた指で受け渡された。
 ここまで喧しく騒がしい客には一言くらいの注意もあって然るべきなのだが、事情を承知している職員は大目に見ている。仕方ない。誰だって――自分の子供が生まれるとなれば、平静を保ってなどいられないだろうから。
 そんな仄かな思いやりなど知るはずもなく、雁夜は多くの焦燥と少しの混乱、そして微量の後悔を混ぜ合わせたまま奥へと突き進む。
 そして最奥のドアを開く直前。

 おぎゃぁあああああ――

「っ!」

 そんな赤ん坊の泣き声が聞こえ、雁夜は思わず動きを止める。身が竦んだと言ってもいいだろう。
 同時に少しだけ安堵していた。我が子とその母親が、まだ恐れていた事態に陥っていないと分かったからだ。
 しかし、それでも震える。震える手でドアノブを掴み、握りしめる。
 行かなければならない。この扉を開いて、その先にあるものを見なければならない。
 この先にあるものこそ、己の罪の証であるゆえに。

「……頼む」

 絞り出されるように零れた呟きは、まさしく懇願だった。
 自分の一時の、短絡的な欲望によってこの世に産まれた子供が、父親の業によって嬲り者にされるなどという未来が訪れぬよう必死で祈っていた。
 そして意を決した雁夜の手で、その扉が開かれる。
 中には、医者も誰もいなかった。
 ただ、ベッドの上で上半身を起こした女性が、生まれたばかりらしい赤ん坊を抱いていた。

「……遅かったじゃない」

 そう言って雁夜を出迎えた静は、胸元に赤ん坊を抱いていた。
 流石に疲労したのか、顔色は悪く声にも張りがない。全体的に精彩を欠いている。
 そんな憔悴しきった顔で、それでも笑っていた。




[33893] 居候の雛
Name: 深海魚◆6f06f80a ID:fb12e672
Date: 2012/07/08 15:12
(大丈夫かな、飛鷹(ひだか)……)

 間桐雁夜は、日本に向けて飛ぶ航空機の客席で思った。
 かつて若かった雁夜も、今年で二十七歳。四捨五入すれば三十歳である。
 体力や筋力はまだまだ衰えないが、時間の流れというものを感じ始めていた。

 自分が間桐の魔術を忌み嫌い、出奔してから十年。
 自分の大事な息子が産まれてから七年。
 あの赤ん坊が、もう七歳になって葵の娘たちと遊びまわっている。
 それは、雁夜に父親としての自覚を呼び覚ますには十分だった。
 父親となって自分は変わった。そう、雁夜は思う。
 その最たる例は、今もなお好意を寄せる幼馴染、葵への感情だ。葵への焼けるような想い、その量は変わらずとも、それをある程度は制御できるようになった。
 葵の他に愛するべき、そして愛したい人ができたからだ。

 それこそが最愛の息子――間桐飛鷹。

 結城静との間に生まれた、正真正銘の一人息子である。

 かつての、飛鷹が生まれる前の雁夜は、精神的にどこか子供のままだった。しかし子供を持った親は成長するものだ。
 もう子供ではいられない。大人の男として飛鷹を守っていかなければならない。自分一人の体ではなく、過ぎ去った恋に執着してはいられない。その思いが、雁夜に人間的な成長を促したといえる。

 さて、雁夜はルポライターという職業柄、遠いときは異国に向かうことも珍しくない。飛鷹が産まれてからは出来る限り冬木の近場で仕事をしていたが、今回はどうしても外せない仕事が海の向こうで持ち上がり、その間、飛鷹は葵に預けていた。
 しかし、帰国は予定よりも一カ月ほど早い。飛鷹が唐突に熱を出したという報せを受けたからだ。なぜか熱は二、三時間ほどで引き、病院に連れて行っても異常はなかったが、大事を取って家で安静にさせているという。
 もちろん雁夜はいてもたってもいられず、急ぎ帰国することとした。仕事も一応の区切りはついており、後は知り合いのライターに助けてもらえばなんとかなりそうな出来に仕上がっていた。

 雁夜は窓の外に広がる暗闇を見る。
 飛鷹。自分の一夜の過ちによって産まれた、望まれぬ子。
 一時は、間桐の家に奪われるくらいならこの手で――そんなことまで考えていたことを思い出す。なぜか手出しはされず、知り合いの魔術師に無理を言って飛鷹を調べてもらったところ、飛鷹が魔術回路を持ち合わせていないことが分かり、心から安堵したことを覚えている。
おそらく臓硯もなんらかの方法でそれを知り、さっさと飛鷹に見切りをつけたのだろう。無論、雁夜はそちらのほうが嬉しい。
 自分が家を出奔したときに望んだもの、ささやかな幸せ。その全てを飛鷹が満たしてくれていた。
 だからこそ、一時的とはいえ高熱を出して寝込んだなどと聞けば、雁夜は気が気ではない。

(飛鷹に、なにもなければいいんだけどな――時臣なんかに土産買ってる場合じゃなかった)

 やや不機嫌ながらも、飛鷹が生まれる前の雁夜を知る者には想像もつかないほど、穏やかな心境。
 雁夜を乗せた飛行機は、あと十三時間で日本に至る。





◇◆◇◆





 目を覚ましたのはいつのことだったか、そもそも目を覚ます前は一体どこの誰でどのような存在だったのか、彼はもう覚えていなかった。
 ただ、目を覚ました時、自分は間桐飛鷹と呼ばれるはずだった唯一の存在と本来の自分自身が混ざり合って構成されたなにかだ、と分かった。いわば混血ならぬ混心である。
 まさしく子供のように奔放で、しかし無邪気な飛鷹の精神と。
 ある程度まで成熟した大人の理性と知性を持ち、世の中の残酷さの一部を知る誰かの心とが、混ざっていた。
 それは子供と大人を持ち合わせた、前代未聞の人間の誕生でもあった。





「……あつい」

 目を覚ました飛鷹は薄く眼を開けた。
 視界は明瞭なものの、頭の中が引っ切り無しに痛んでいた。熱は既に引いたが、それによって消耗した体までもが、すぐに回復するわけではない。
 とはいえ窓の外では小鳥が鳴き、朝日の光が射しこんでいる。しかも他人の家で預かってもらっている身である。ここで起きないわけにもいかない。そう思い、ゆっくりと体に力を込める。まだ倦怠感があり手足も重いが、起き上がれないほどではなかった。
 熱で寝込んでいた際の疲労で、体調は決して良くない。それでも起きないのは失礼な気がして飛鷹は布団を除け、ベッドから降りた。この辺りに大人の理性が垣間見える。
 と、いつもと違う感覚に戸惑う。

(なんか……熱い?)

 熱はもうないというのに、体の中に不思議な熱さを感じるのである。
 不快な熱さではない。だが一つ間違えば痛みに転化しそうな類の熱さだった。

 コン、コン。

 戸惑っていると、ノックが聞こえた。叩き方にも人柄が出るのか、やや控えめなノックだった。
 飛鷹もこの叩き方には覚えがあるので、さっさと許可を出す。

「どうぞ」

 声をかけるとドアノブが回り、ドアが開く。

「おはよう、ヒダカくん」
「ん……おはよ、桜ちゃん」

 扉を開けて入ってきたのは、黒い髪に青い瞳をもつ少女だった。名は遠坂桜――ここ遠坂家の二女である。
 まだ五歳の彼女は、二つ上、つまり七歳である飛鷹を、どうやら実の兄のように慕っているらしかった。姉の凛がやや奔放にすぎる反面、大人の心からくる落ち着きが好ましいのだろうと、飛鷹はなんとなく思っている。

「もう大丈夫なの? すごい熱だったけど……」
「大丈夫、もうなんともないよ。心配してくれてありがと、桜ちゃん」
「別にいいの。それより、朝ご飯できたみたい」
「そっか。じゃあすぐ行くね。――あ、ひょっとして、ぼくを待ってたりする?」
「あ、でも、つらそうだったら別にいいって、お母さんが」
「ごめん! すぐ行くから先に行ってて!」
「……うん。待ってるね」

 桜が躊躇いながらも頷き出ていくなり、飛鷹はすぐにドアを閉めて着替える。
 着替えは自分の家から持参した物である。手慣れた作業を一分ほどで済ませると乱れた布団をさっと整え、廊下に飛び出て全速力で居間へと走り出す。
 まずい、凛に怒られる――そんな予感があった。居候の分際で食事に遅れてくるなんて云々と言われかねない。
 凛も、昨日まで原因不明の高熱を出していた人間に突っかかるほど短気ではない。しかし子供の早とちりと大人の知識を兼ね備えた飛鷹の思考は空回り、そこまで思い至らない。
 そして居間につながる曲がり角に差し掛かった時、反対側から誰かが歩いてくるのに気づく。止まりきれない。そのままぶつかる――

「気をつけたまえ、飛鷹くん。廊下を走ってはいけないよ」

 直前で相手が飛鷹の肩を掴み、止めていた。
 飛鷹は聞き覚えのある声に上を見上げると、予想通りの人物が、あまりよろしくない表情で立っていた。
 深紅を基調とする服装に身を包み、確かな気品を感じさせる男性。
 立ち居振る舞いからその精神性も含めて、常に優雅さを忘れぬ、古き時代の誇り高き貴族のような人物。
 滅多に会うことはないものの、初めて出会ったときからの、飛鷹の密かな憧れの的。
 遠坂 時臣であった。

「ごめんなさい、時臣おじさん」
「次からはしないように。葵、それに凛と桜が待っているから、早く行きなさい」

 表情の険を和らげた時臣は飛鷹の肩を優しく叩き、そのまま歩き去る。
 飛鷹は暫しの間、その後ろ姿を憧れのこもった目で見つめる。
 ああ、いつかあんな大人に――

「なにしてるのよ! 早く来なさいよ!」

 桜たちを待たせっぱなしだということに気付いたのは、背後から凛が怒鳴りつけてからだった。
 そんな、いつもと少しだけ違う遠坂家の朝の一幕。



[33893] 裏話1・当主と父の狭間で
Name: 深海魚◆6f06f80a ID:fb12e672
Date: 2012/07/08 15:17
「お父さん、なに?」

 夜、いつもなら寝る時刻に呼び出された桜は、不思議そうに私に問いかけた。
 その姿も仕草も、我が娘ながら可憐だ。
 そして、その娘を魔術師の道に従って処することに、若干の抵抗を覚えてしまう。
 目を瞑れば、脳裏に浮かぶのは凛と桜の遊ぶ姿。眠る姿。そして傍にある葵。
 あの景色から桜がいなくなれば、さぞ寂しいことだろうな……。

「桜。今から私が言うことを、よく聞きなさい」

 だが、私は意を決して桜に語りかける。
 この子に与えられた魔術の才能は、あまりにも大きすぎる。
 四十本を超える魔術回路の数と、生まれ持つ属性、架空元素・虚数。最愛の娘に与えられるには少しばかり過ぎた代物だった。これほどの宝が捨て置かれるはずもない。一般人として生きることは望めない。だが、跡継ぎは一人でいい――否、一人でなければならない。エーデルフェルトの双子当主のような例は稀有だ。二つの頭を持った家は滅びていくしかない。
 さらに言うならば、人の命を実験材料としてしか見ていない者たちから桜を守るためには……たとえば魔術教会の封印指定から守るには……魔道の保護が不可欠だ。
 それ程の才能を持つ桜が、魔術を捨て一般人として生きる――これ以上の不幸はない。
 どの観点から見ても、今回の選択は桜にとっての最善だ。

「桜には養子に行ってもらう。間桐の下で、立派な魔術師として修業を積むんだ」
「ようし?」
「間桐さんの家の子になる、ということだ」
「え……?」

 眼前の桜は戸惑いと、それに恐怖を隠そうともしない。当然だ、この子はまだ五歳なのだから。
 心が痛まないではない。だが、子供の将来の幸せのために心を鬼にするのもまた、親の務めだ。

 ――目の前の桜はどうだ。その目には涙が浮かび、足が震えている。これが父親として正しい行為なのか?

 ……そして、このような私情は抜きに利害と信頼、古き盟約を守るのが、魔術師の家の当主としてあるべき姿だ。
 心中に湧き上がった声を、私は容赦なく圧殺した。
 父親としての私が消え、当主にして魔術師たる遠坂時臣が表に出る。

「わたし、捨てられちゃうの……?」
「そうではない。間桐さんの家できちんと修業して、良い子にしていれば、また会える。きっと会える。ただ、今は向こうにいることが、桜にとってはいいことなんだ」

 私の懸念は、もう一つあった。
 長女である凛には桜に劣らぬ天才性がある。それは素晴らしいことだ。だが、これほどの天才が並び立つ家は不幸にしかならない。それは歴史が証明している。そうして消えていった家は、時計塔の書物に数限りなく眠る話の一つとして、存在の名残を微かに漂わせるのみだ。
 私は、遠坂家の当主として、それを防がなければならない。
 近い将来、凛と桜が血で血を洗う家督争いを引き起こさぬと、どうして言えようか。
 今は幼さから仲よくしていたとしても、これから先、決定的な亀裂を招かぬと、どうして言えようか。
 私は、父親としても、それを見たくない。
 遠坂の悲願が達成されるためには、娘たちのどちらにも栄光がもたらされるようするには、こうするしかない。

「約束だ、桜。いつかまた、凛と葵と、一緒に過ごせる日が来る。だから、あまり私を困らせないでくれ」
「…………はい」

 やや強い視線で桜を見ると、桜は涙を浮かべながら、それでも健気に頷いた。





 桜が退出した後、私は椅子に座って大きく息をついた。
 年端もいかない娘にあのような話題を持ち出すのは、やはり堪えるものがある。

 だがこれでいい。

 今回の話は間桐から申し込んできたことでもある。貸しを一つ作ると同時に、間桐との盟約を再確認するいい機会になるだろう。
 あの間桐臓硯を信用しているわけではない。だが、あの男が有能であり狡猾なのもまた事実だ。間桐の血から魔術が絶えかねない現状で、これほどの逸材を潰すような浪費はしないはずだ。
 しかし万が一、そのような事態に陥った時――私はどうするのだろうか。
 自問しても答えは出ない。

(私は正しい。そうだろう、雁夜)

 なぜ雁夜の名を出したのかは、自分でも分からない。
 そうしてしばらく物思いに耽っていると、背後から足音が聞こえた。
 ちらりと目をやり、誰かを確認するとまた逸らす。
 その顔を、今だけは見たくなかった。

「……今日は冷えますから」

 そういって私の背中に布をかけたのは、妻の葵だった。
 柔らかな布が冷気を少し和らげる。
 この気遣いは、古き良き貞淑な妻の手本のようだ。
 しかし――この気遣いの裏で、葵はどれほどの涙を飲んでいるのだろう。
 断腸の思いで桜を養子にやった後、この家に幸せはあるのか。
 愛する妻に、凛に、桜に、そして私にすら、その悲しみと罪悪感は残り続ける。
 これが本当に最善なのか?

「葵。私は」

 私は魔術師として正しいことをした。
 私は親として桜のことを思ってそうする。
 今回の決断はそのどちらをも満たす。どこにも矛盾はない。
 だというのに、

「私は、間違っているのだろうか」

 桜の涙が、どうしても瞼の裏から離れない。
 桜に聞きはしたものの、その前から既に決断し、決定したことだ。間桐も合意している以上、今になって断ることはできない。なにもかも取り返しのつかない段階まで進行しつつある……いや、してしまったのだ。私が遠坂家よりも桜を尊ばない限りは、の話だが。
 なぜ私は、こんな無駄なことを聞いているのか。
 自分でもわからず、それでも葵の答えが聞きたかった。

「私は遠坂葵。遠坂家当主、遠坂時臣の妻です。その決断の正しさを疑いはしません。間桐にとっても遠坂にとっても、これが最良です」

 即答だった。
 流れるような、模範的な魔術師の妻としての答え。

「葵、私が聞きたいのはそういうことではないよ。そう、間桐雁夜が取るだろう選択肢と、私が取った選択肢と、どちらが正しいと思っているのか……それが聞きたい」

 間桐雁夜の名前は、先程と同じく自然に浮かんできた。
 あの落伍者、間桐雁夜ならばどうするか? 決まっている、養子になど出すはずがない。
 たとえあの男が間桐の魔術を継いでいようとも、飛鷹くんとは別に子を設けていようとも、その子を養子に出すことはないだろう。それが魔術師の家としては間違った判断であったとしても。
 私は決してそれを正しいとは思わない。
 思わないが、ふと思う。
 私が間桐雁夜のような男だったなら、はたしてどうなっていたのかと。
 正しいことが、幸せであることを招くわけではないのだから。

「正しいのは、貴方です」

 またも即答した葵は、そこで暫し逡巡し、

「……貴方も、雁夜くんと同じくらいの優しさを持っている。ただ、それを秘めているだけ。だから……そんなに心を痛めないでください」

 そう言って私の手を握った。
 温かい。
 冷え切った私の手には、とても心地よい。

「貴方が桜のことを心苦しく思うなら、これを自分の罪だと思うなら、私も一緒に背負います」

 葵の言葉と瞳には、今までにない真摯さと力強さがあった。
 この全てが、いま私に注がれている。それだけで心が軽くなる。

「時臣さん。貴方を、愛しています。」
「……ああ。私もだ、葵」

 答えて葵の手を握り返す。
 私たちは少しの間、互いの手を握り合って動かなかった。



[33893] 合流
Name: 深海魚◆6f06f80a ID:fb12e672
Date: 2012/07/08 15:21
雁夜が日本に帰国し、こちらに向かっているという知らせを飛鷹が受けたのは、朝食が終わった直後だった。

「えっと、忘れ物はなし。この服は葵さんに返して……」

 帰る準備をする飛鷹は、やや浮足立っていた。
 雁夜が海外出張に出かけていた期間は約二週間。その間ずっと遠坂家に世話になっていたのだ。
 普通、七歳の子供が他人の家で二週間も過ごすというのはストレスの元だ。飛鷹の大人の部分は雁夜の出張に納得し、また余所の子供を二週間も預かる遠坂家の懐の広さに感謝していた。だが、子供の部分はずっと雁夜の帰りを待っていた。
 その父親が帰ってくるというのだ。浮足立たないわけがない。

「お母さん。お父さん帰ってくるよ。今度行く場所は危ないって聞いてたから、ぼく心配してたけど、無事で帰ってきたってさ」

 飛鷹が話しかけているのは、人ではなかった。
 普段は服に隠れているが、首から下がったロケット。その中には、黒い髪をポニーテールにした女性が、むすっとした顔の雁夜と、おそらくは無理やりに腕を組んだ写真が収められていた。
 冬木市内でこの女性と面識があるのは、おそらく飛鷹と雁夜のみである。

 そこで、ノックの音が来客を知らせる。一声かけると、入ってきたのは葵だった。

「飛鷹くん。雁夜くんがもうすぐ来るから、庭でお出迎えしましょう」
「はい! ……じゃあ帰ろっか、お母さん」

 飛鷹はロケットを閉じ、服の中にしまいこむと、荷物を持って葵の後についていった。





 遠坂家、中庭。
 タクシーから降りた雁夜は、飛鷹を一目見るなり足を動かし笑顔で叫ぶ。

「飛鷹!」
「お父さん!」

 飛鷹は、自分に向かって駆け寄ってくる男を見て歓声を上げる。
 そして自分もまた走り寄り、思い切り抱きついた。
 雁夜も飛鷹を抱きかえすと、その体が僅かに浮き、爪先立ちになる。

「ごめんな、ずっと待たせて」
「いいよ。それより、怪我とかない?」
「お父さんは大丈夫。それより飛鷹、熱を出して寝込んだって聞いたぞ。もう大丈夫なのか?」

 自分を降ろし、体を離して心配そうに見つめる雁夜に、飛鷹は満面の笑みで頷く。

「うん、もう元気だよ。遠坂さんたちがお世話してくれたから」
「そうか……。葵さん、それに時臣。本当にありがとう」
「ありがとうございました!」

 頭を下げる雁夜と、それに追従してお辞儀をする飛鷹。
 その光景を、葵は微笑ましそうに見つめている。
 時臣はいつもの理知的な無表情を崩さない。
 が、凛と桜はきょとんとした表情。彼女たちからすれば、飛鷹が子供らしい面を見せるのは珍しいことだったからだ。

 もちろん飛鷹は、同年代の子供たちに比べて格段に落ちついている。だが前述したように、その心の半分は、あくまで子供のものである。
 離れ離れになっていた父親が帰ってくれば素直に嬉しく思い、その体に抱きついて甘えることを恥ずかしいとは思わない。
 凛にからかわれたりすれば、大人の片鱗を見せて反撃する可能性もあるが。

「特に葵さん。飛鷹の看病をずっとしてくれて、ありがとう」
「いいのよ、雁夜くん。また遊びにきてほしいくらいだわ。でも――」

 言い淀んだ葵の言葉を、一歩進み出た時臣が補足する。

「ああ、時期も時期だ。例の件が終わるまで、あまりこの家には近寄らないほうがいい。君は一介の記者にすぎないのだからね」
「……言われるまでもないさ。だが」

 雁夜もまた進み出て、時臣と葵にだけ聞こえるよう声をひそめる。

「葵さんと凛ちゃん、それに桜ちゃんはどうするつもりだ? この家に置いておくというわけにもいかないだろう」
「君に関係のあることか? これは魔術師の問題だ」

 挑発的とも取れる時臣のセリフに雁夜は眉を動かし、葵は二人の間に流れ出した険悪な空気を察して止めるべきかを悩む。
 が、雁夜は何事もなかったかのように肩をすくめた。

「大いにある。大事な友人である幼馴染と、飛鷹の友達の安否にかかわることだ」
「ふむ……」

 時臣は顎に手をやり、髭をしごきながら暫し考える様子を見せた。
 そしてさらに一歩、雁夜の耳元に口を寄せて囁いた。

「どこかは言えないが、安全な場所に避難させる」
「そうか。なら、いいさ」

 時臣が殊更に声を小さくして言った情報を聞き、雁夜は体ごと引き下がる。秘密というのは誰かと共有した時点で秘密ではない。ルポライターである雁夜には、そのあたりの機微が理解しやすかった。ゆえに、時臣の立場から家族の安全を考えた場合、この情報制限は妥当な判断だと認めたのだ。
 そもそも、自分は部外者だと弁えていたというのもあるが。

 そのまま雁夜は時臣と目を合わせる。

「いいか時臣。俺は魔術師じゃないし、聖杯にも興味はない。だからお前の応援なんてしてやらない。だけどな――」

 そして、思い切り睨みをきかせ、ドスの利いた声で続けた。

「葵さんや凛ちゃんや桜ちゃんを遺して、無駄に死んでみろ。ただじゃおかないからな」
「ふむ……。君に言われる筋合いもないが、安心したまえ。私が負けることは有り得ないからね」
「死んだら、お前の墓の前で大笑いしてやるからな」
「雁夜。君こそ流れ弾で死なないように気を付けたまえ。葵が悲しむからね」
「ぬかせ、時臣。――生き延びろよ。みっともなくてもいい、絶対に生きて帰れ」

 そこまで言うと、雁夜はすっと身を引いた。

「さあ飛鷹。帰ろうか」
「うん。じゃあまたね。桜ちゃん、凛」
「うん。ばいばい、ヒダカくん」

 飛鷹が手を振ると、桜は笑顔で手を振り返し、凛は不機嫌そうに頬をむくれさせた。まるでリスのようである。

「……なんで私だけ呼び捨てなのよ」
「だって、凛は可愛いけど女の子っぽくないもん」
「うっ……なんか腹たつけど、誉められてるから怒り辛いわね……」
「ごめんごめん。またね、凛」
「もういいわよ……またね、ヒダカ」

 凛も結局は、どこか投げやりに手を振る。

「おじさん、おばさん、今日まで本当にありがとうございました」
「構わないわ。またね、飛鷹くん」
「前には気をつけて歩くように」

 葵と時臣にもそれぞれ別れを告げ、その返答をもらう。
 最後の言葉には少し恥ずかしさを覚えながら、飛鷹は雁夜と手を握った。

「じゃあ帰ろう、お父さん。お家の掃除もしないと」
「そうだな。飛鷹みたいにしっかりした子供がいて、俺は幸せ者だ!」

 雁夜が、高い高いをするように飛鷹を持ち上げた。

「お、お父さん、降ろしてよ!」
「あっははははは! さ、行くぞ飛鷹! またね、葵さん、凛ちゃん、桜ちゃん」
「ちちょ、ちょっと……あ! さよーなら! 桜ちゃん、また遊びにくるから一緒に遊ぼうね!」

 飛鷹を担いだまま、意図的に時臣の名前を呼ばずに去っていく雁夜。
 雁夜に担がれたまま、急いで最後の別れを告げる飛鷹。
 こうして珍客は遠坂家から去って行った。





 飛鷹の最後の言葉を聞いた途端、遠坂家に、やや重苦しい空気が漂ったことにも気付かずに。
 誰もが死んだように黙り込む中、やがて桜が小さな手をぎゅっと握りしめ、

「……ごめんね、ヒダカくん……」

 そう、寂しげに呟いた。





◇◆◇◆




「今から、どこ行くの?」
「そうだな……お母さんにただいまを言いにいってから、帰ろうか。すいません、冬木霊園まで」

 タクシーの運転手が了解して車を出すと、遠坂家の門はみるみる遠ざかり、あっという間に視界から消えた。

「飛鷹、桜ちゃんと凛ちゃんに遊んでもらったのか?」
「違うよ! 遊んであげたの!」
「そっか、飛鷹兄ちゃんは偉いな」
「えへへ……」

 褒められて照れ笑いをする飛鷹に、雁夜は何気なく質問をする。

「で、どっちが好きなんだ?」
「えっとねー……えっ!?」

 雁夜の質問に同じく何気なく答えようとした飛鷹は、大人の知性ゆえにどのような質問化を正確に理解し、顔を真っ赤にした。
 雁夜からすれば軽い冗談だったのだが、こういう反応を示されるとからかいたくなるのは人の性である。意地悪い笑みを浮かべ、さらに追撃をかける。

「だからさ、凛ちゃんと、桜ちゃん。どっちが好きなんだ?」
「え、えええええええっと、べ、別にどっちも好きじゃなくて! ただの友達だから!」

 動揺のあまり日本語が怪しくなっていた。
 できた大人ならばポーカーフェイスで誤魔化すだろうし、ただの七歳児なら恋愛の意味を理解できない。中途半端な飛鷹だからこその事態だと言える。

「うーん、そうだな。お父さんの勘だと……」
「え、あ、う……」

 もはや口を開閉するしかない飛鷹の目前で、雁夜がその名を言う。

「凛ちゃんだな!」
「え? ……あっ!」

 予想とは違う答えに思わず聞き返した飛鷹は、次の瞬間、これが雁夜の罠だったことを理解した。

「ふっふっふ。そうかそうか、飛鷹は桜ちゃんのことが好きなのか。いやーお父さん知らなかったなー」
「お、お父さん! ひどいよ!」
「まあまあ。桜ちゃんをお嫁さんにしたいなら、そんな小さなことで拗ねてちゃ駄目だぞ」
「お、お嫁さん!? だから、そんなんじゃ、なく、て……」

 恥ずかしさのあまり、言葉が尻すぼみになって消えていく。
 飛鷹からすれば、これは初恋である。といっても、桜の笑顔が見ていて楽しいとか、話していると楽しいとか、桜の前だとついつい照れながら笑ってしまうことが多いとか、そんなレベルではあるが。

 ――要するに、幼いなりにベタ惚れなのだった。

 黙り込んでしまった飛鷹を見て、雁夜は自分のことを思い返す。
 葵のことが好きで、愛していたのに、結ばれなかった。
 やり直したいとは思わない。その結果、最愛の息子がこの世に生を受けたのだから。
しかし一片の後悔、一欠けらの未練、そして今もまだ燃え続ける愛情があるのも、また事実だった。
 そんなやり切れない思いを、飛鷹にしてほしくはなかった。
 葵の娘と自分の息子が幼馴染となっているいまの状況が、自分に被ったというのもある。

「よーし、お父さんが好きな女の子と仲良くなる方法を教えてやろう!」
「そ、そんなのいいから! もうほっといてよ!」

 怒り出してしまった飛鷹を微笑ましく思いながら、雁夜は二つのことを考えていた。





 ――この子には、好きな人と結ばれてほしい。親子そろって報われないなんて結末はいらない。





 ――だが、桜ちゃん以外の、魔術回路を持たない普通の子を好きになってほしい。





 自分の父を名乗る妖怪の、虫唾が走る顔を思い浮かべながら、雁夜は切に願った。



[33893] 推察と発覚
Name: 深海魚◆6f06f80a ID:fb12e672
Date: 2012/07/08 18:56
 飛鷹と雁夜は墓地にいた。
 冬木霊園。捻りのない安直な名前のついたそれは、冬木市の郊外に位置している。

「お客さん、ここでいいかい?」
「はい。二十分ほどで戻ってきますから、少し待っていてください。さ、行くぞ飛鷹」
「うん」

 タクシーの運転手に指示を残し、あらかじめ購入しておいた花束と一本の白百合を持った雁夜は、飛鷹と連れ立って墓の間を歩いて行った。

「ねえ、お父さん。そういえば、今回はどこに行ったの?」
「ああ、アメリカは知ってるだろ? そこのワシントンDCっていうところ」
「わしんとん? それって人の名前?」
「お、飛鷹は賢いなぁ。飛鷹のいう通り、元々はワシントンさんっていう人にちなんで付いた名前なんだ。こんなに賢いなら、飛鷹は凄い人になれるな」
「え、そうかな? へへ……」

 照れ笑いをする飛鷹を見ているだけで、雁夜は胸の中が熱くなるのを感じた。
 静との間に愛があったか、と問われれば答えに詰まる。そんなことを考える間もなく彼女は消えてしまったから。
 しかし、飛鷹に対して愛情を抱いているかと聞かれたなら即答できるだろう。
 この世の誰よりも、比べられるものではないが、おそらく葵と同じくらい、この子を愛していると。
 葵への感情が恋慕であり、飛鷹への感情は親愛という違いはある。だが、この二人のためなら雁夜は命を投げ出せるだろう。

 やがて二人はある墓の前で立ち止まる。結城静と刻まれたその墓には、枯れてしまった花が寂しく残っていた。去年に雁夜が置いていったものだ。
 雁夜はその花を全て取り除き、新たに持参した花束を差した。

「ああ、着いたな。飛鷹、ロウソクに火をつけておいてくれ。お父さんは水を汲むから」
「はーい」

 飛鷹にロウソクと線香の箱、ライターを持たせ、雁夜はすぐ傍にあるバケツに水道水を溜める。
 程なくしてバケツは水で満たされ、飛鷹も火のついたロウソクを立てた。

 まず飛鷹が線香に火をつけて手を合わせ、次いで雁夜が墓の前に膝をつける。

(静……)

 脳裏に浮かぶのは静の顔。普段は意地悪く笑った顔ばかりしていたが、あの夜だけは違った。
 あの夜――たった一度だけ、交わった夜。
 なぜ静があのような行動に出たのか、いまでも雁夜には分からない。
 彼女が自分を愛していたということ。雁夜はその思いに応えられないと知っていたこと。それでもあの夜、一度限りの関係を結ぶと決めたこと。雁夜に分かるのは精々この程度だ。

(飛鷹は元気だよ。たまに子供とは思えないくらい賢いところを見せる)

 雁夜は思い出す。
 静は自分が妊娠していたことを隠し、冬木から去ったことを。
 間桐の魔術を雁夜から伝え聞いていた彼女が、妊娠期間中の改造を防ぐために臓硯の手の届かぬところに逃げたことを。

(見かけも中身も、俺じゃなくてお前にそっくりだ。喜ぶべきなのか、分からないけどな)

 雁夜は思い出す。
 出産の直前、唐突に入った知らせを。
 自分の子供が産まれるということを知ったときの衝撃を。

(もうすぐ聖杯戦争が始まる。でも、大丈夫。俺が守ってみせる。だから、お前は安心して見てろよ)

 雁夜は思い出す。
 出産を終えた後、糸が切れたようにこの世を去った静の笑顔を。
 その笑顔で遺された、最後の言葉を。

(俺は地獄に堕ちたとしても、この子は絶対に守りきってやる)





「すぅ……すぅ……」

 疲れたのか、タクシーの中で眠ってしまった飛鷹を腕の中に抱きながら、そっとその頭を撫でる雁夜。
 こうして眠っている姿は年相応である。雁夜にとって、飛鷹は全ての部分が愛おしい。しかし、とりわけ愛らしいのは、このギャップだった。大人顔負けの論理を持ち合わせているかと思わせるときがあるからこそ、子供の部分の愛くるしさが際立つ。
 見ているだけで、そこにいてくれるだけで、幸せに胸が熱くなる。
 飛鷹のためなら何でもできる。雁夜は心からそう思っていた。

 そしてだからこそ、頭の一部分と背筋に寒気を感じざるを得なかった。

(聖杯戦争……誰がこの子を近づけさせるか)

 そう改めて決意しつつも、やはり一抹の不安を抱かざるを得ない。
 現在、間桐の家には碌な魔術師がいない。自分は出奔した身であり、魔術師としての才能も凡才と非才の中間地点を出ない。兄の鶴野はそれ以下、はっきりいって非才である。しかし、だからといって臓硯が聖杯を諦めるなど有り得ない。
 ならば、ここで考えられる手段は三つ。

 一つ目は、自分――間桐雁夜をマスターに仕立て上げ、参戦するというもの。
 兄である鶴野の息子、慎二にも魔術回路がないことは鶴野本人から確認済みだ。そして、自分の息子たる飛鷹にも魔術回路はない。ならば鶴野と比べてまだマシな雁夜の他に出せるマスターがいない。
 ただし、雁夜は修業をしていない一般人だ。魔術回路を持っていようとも、それを眠らせたままならば錆ついていくのは必定。まして、自分は十年以上の長きに渡ってロクな魔術を行使したことがない。使われない筋肉が痩せ細っていくように、回路は使い物にならない可能性が高い。
 時間をかければ魔術師としての復帰も可能だろうが、戦争は一年後に迫っている。そんな悠長なことをしている場合ではない。
 まあ、雁夜の知る間桐の魔術はそれだけではない。人に寄生し、その肉と生命力を食いつぶすものの、魔術回路の代用品として使える虫、魔術回路に潜り込み、発狂は避けられないとまで言われている痛みと引き換えに、その太さを拡張する虫……どうとでもできる。
 ただ、そんなことをするくらいなら、もっと前に雁夜を連れ戻し、飛鷹を人質にして修行に励ませれば良い。それをしていないということは、この手段を取る可能性は低い。

 二つ目は、臓硯がマスターとなり、自ら聖杯を手に入れんとする可能性。
 だが、これも可能性は低いと雁夜は見ていた。兄の鶴野とは違い、自分は臓硯に臆することなく正面切って向かい合ってきた。その経験からくる確信にも近い推測だ。
 あの臓硯が、自分の延命のために後継者の肉を貪り、一般人の体を奪い取るあの妖怪が、直々に戦場に出るという危険を冒すとは思えなかった。それをするくらいなら雁夜を育て上げることを選ぶだろう。
 あくまで延命、不老不死を目的とする臓硯が最優先にしているのは、まずリスクの軽減。ハイリスクハイリターンなど、あの老人には似合わない選択肢だった。

 三つ目は、今回の聖杯戦争を放棄するというもの。
 戦っても勝ち目がないなら、戦わなければいい。戦争は六十年の周期で行われるのだから、今回だけに懸けるものでもない。
 ただし、これはなんの意味もない行為だ。臓硯の他にまともな数の魔術回路を持ち合わせた人間はおらず、その次にマシな雁夜は出奔しているいま、間桐の家に再び優秀な魔術師が生まれることは、まず有り得ないと見ていい。
 尤も、雁夜は間桐の魔術から離れて久しい。ゆえに飛鷹に関しては未知数である。知り合いの魔術師は、よもや間桐伝統の蟲による開発を行った場合の想定までして回路の検査を行ったわけではない。

 これらのことをざっと頭の中で整理し、雁夜は臓硯の思考、行動を読もうとする。

(不安要素は多いけど、俺たちが巻き込まれることはない、そう考えて問題ないだろうな。となると、あの爺ぃの執念はどこに目をつける……?)

 奇策や小細工を弄したところで、サーヴァントを持たない部外者が聖杯を手に入れることはできない。聖杯に選ばれた者のみが、その願望機に祈りを届けることを許されるのだ。これは、始まりの御三家たる間桐にとって知っていて当たり前のこと。外部から招かれた他四人の魔術師であっても知っていることだ。

(いや……そうか、外部から魔術師を招く可能性もあるのか)

 雁夜からすれば、この推測が最も妥当に思えた。
 ただし、臓硯がそれほどの人材を用意できるか? その一点において、この推測はあっという間に瓦解する。
 間桐の人脈は決して広くない。
 詳しくは知らないが、かつて魔法の実現を成し遂げた錬金術師の一族、アインツベルン。
 歴代でも指折りの優秀な当主を頂点とする、ここ冬木市の管理者、遠坂。
 それら二家に比べ、はっきりいって間桐は貧弱だ。かつてはロシアのどこかで権勢をふるっていたらしいが、それもここ日本に移住してからは過去の栄光、滅びた威光である。
 そして、それなりの腕を持つ魔術師は、それぞれ信念や信条がある。金を積めば動くような魔術師は一握り……否、雁夜が魔術師見習いであった十数年の期間、一度も聞いたことがない。そういった連中は、魔術使いという蔑称で呼ばれる者たちだ。
 また、金で動く凄腕の魔術使いを用意できたところで、その魔術使いが聖杯を独り占めしないとは限らない。いかなる願いをも叶え、根源への到達をも可能とする願望機である。どれだけの金を積もうと、聖杯はその数百倍を用意できる。どれほどの名誉を約束しようとも、聖杯ならばそれに勝る栄光を与えられる。なにかと引き換えに結んだ契約ならば、それを順守する理由がなくなってしまうのだ。
 ゆえに、臓硯が聖杯戦争を勝ち抜くに足り、なおかつ契約を裏切らないと信頼できるマスターを用意できるかというと、首を傾げるしかない。

「あの野郎……一体、なにを考えてるんだかな」

 つい、心の声が口に乗る。
 自分が最も憎み、そして最も恐れる存在。それがどう動くか読めないというのは、実に恐ろしいものだった。
 だからこそ、雁夜は思考をやめない。
 なにがあろうとも、飛鷹を守ると決めたのだから。

(考えろ、考えろ。あの爺ぃは聖杯がほしい。寿命は人がいる限り伸ばせるだろうから、そこまで焦る必要はない。だが、それもあと百年くらいが限度だろう)

 雁夜は魔術師として独り立ちする前に逃げ出したが、それでも魔術でできる限界というのはなんとなく見極められる。
 まして、あの老体が劣化し、その都度誰かを犠牲にして取り換えられるのを見てきた身である。どれくらいの間隔で交換するのか、どのような素材を必要とするのかについて、雁夜は臓硯の次に詳しい存在だといっていい。
 ゆえに、百年という予想はあながち間違ってもいないだろうという自信があった。

(今回の戦争には、おそらくだが出ないだろうな。他人は信用に値せず、家族は無能だらけで論外、今から俺を仕立て上げるのは非効率的だ)

 となれば、どうするか。
 雁夜の頭脳は、さらに高速回転を始める。
 ルポライターとして養った、限られた情報による推測と、情報の整理能力を十二分に活かしながら。

(となれば、あいつの狙いは第五次。ただし、どこから有能な魔術師を調達するかがネックになる。外来の魔術師は信用できないんだから無理、魔術師を作ろうにも残ってるのが俺や鶴野じゃどうにもならない。となると、どこかからまだ子供の、魔術師の卵を養子にもらい、蟲蔵に放り込んで、間桐に染めた後に孕ませるしかないな。だが、そんな都合のいい魔術師をどこから調達する?)

 まず、間桐と繋がりのある家から調達することになるだろう。全く関わりのない家から養子がくるほど、間桐は強くも有名でもない。また、魔術師の家の子供を誘拐するほど臓硯は無謀ではないので、正式な養子縁組を経ることになる。
 また、子供が二人以上いる家に限定される。魔術師の家において、二人目の子供――というより、魔術師としての才覚が劣る方の子供――は養子に出され、家同士の付き合いに利用されるのが普通だ。

(つまり、間桐と家同士の付き合いがあり、二人ないしはそれ以上の子供を産んでいて、しかもその子供が……まだ幼い家!)

 その瞬間、ある可能性に気付いた雁夜は、背筋に氷柱を差し込まれたかのような怖気に襲われる。
 それらの条件を全て満たす家が、たった一つだけあった。

 恐ろしい才能を有する娘を二人産んでおり、
 間桐とは数百年来の盟約を結んでいて、
 しかも、その家の当主は魔術師としての義務を守るためなら、娘を差し出すことを躊躇しない。

「時臣……まさか、お前……!」

 雁夜は、自分の中に生じた恐ろしい考えを、否定できずにいた。



[33893] 出立か別れか
Name: 深海魚◆6f06f80a ID:fb12e672
Date: 2012/07/07 19:00
 冬木市内、遠坂邸から車で二十分ほどの場所に位置している、1LDK風呂付きの安アパート。
 それが、雁夜と飛鷹の家である。
 タクシーが到着し、飛鷹は荷物を持って後部座席から飛び降りた。久しぶりの家が待ち遠しいのだ。
 対照的に、雁夜は険しい顔のまま自分のトランクを持ってタクシーを降り、アパートの鍵を開ける。
 開いたドアの先には、少し埃っぽい空気で満ちた、狭い部屋があった。

「ただいまー」
「……ただいま」

 歓声でも上げそうな勢いで靴を脱ぎ、荷物を持って部屋の中に入った飛鷹とは対照的に、雁夜はトランクを持ったまま玄関で佇んでいた。その顔は、苦悩と葛藤に彩られている。
 そして雁夜は、玄関に腰を下ろす。相変わらず顔を負の感情で満たしながら。
 まだまだ元気な飛鷹とは対照的に、雁夜はどこか疲れて見えた。

「お父さん、どうしたの?」

 飛鷹も気づいて心配そうに声をかけるが、なんの反応もない。
 その深刻そうな顔に、それ以上声をかけるのが躊躇われて飛鷹は黙り込む。
 が、もう一度。

「ねえ、お父さん、大丈夫? さっきから、ずっと顔色悪いよ」
「……ああ、流石に疲れたんだ……アメリカから休みなしだったから」
「じゃあ、肩叩きしてあげる!」

 反応があったことにほっとした飛鷹は、そう言って素早く靴を脱いで部屋に上がると、雁夜の背中をぽこぽこと叩き始めた。
 我ながら、決して強い力ではないと思う。未成熟な子供の体でどれほど頑張って肩を叩いても、マッサージ効果など高が知れている。

「ああ、凄く気持ちいい。ありがとう、飛鷹」

 だというのに、雁夜は引きつった笑いを浮かべて飛鷹を褒めた。
 うそつき、と飛鷹は思う。雁夜が二つ嘘をついていたから。

 こんな弱い力で叩かれたって、出張で疲れている体に効くはずがないし。
 疲れた様子だったのは、出張のせいだけではない。

(出張のせいだったら、もっと前から疲れた顔しててもいいし……いまのお父さん、疲れたっていうよりは、なにかショックなことがあったときの感じだもんね)

 生まれてからずっと一緒にいた家族のことが分からないほど、飛鷹の“大人”は弱くない。親の気持ちが分からないほど、飛鷹の“子供”は弱くない。

(お墓にいたときは、動くのがしんどそうなだけだった。この顔になったのは、ぼくをお家に降ろしてから。タクシーの中で、なにか嫌なことを思い出したんだ。それか、気付いた。うぅん、なんだろ?)

 暫し頭を悩ませた飛鷹だったが、答えは出ない。“大人”の思考力があっても、“子供”の直感を持っていても、なんの手がかりもなければどうしようもない。その在り方は人間として異常ではあるが、決して全知全能ではないのだ。

 もしも、雁夜が魔術や聖杯戦争についての知識を、僅かでも飛鷹に与えていれば、あるいは真実に近づけたかもしれない。
 しかし、飛鷹は魔術を知らなかった。聖杯を巡る争いについて、その存在すら知らなかった。雁夜はなぜ実家を捨てたのか、母親はどんな人だったのかを詳しく教えてもらえないのを不審に思ったこともあったが、常識的に考えても、そういった類の話はあまり軽々しくするものではない。“大人”の観点から見て、雁夜の口が重いのは、あくまで納得できる範囲の拒絶だった。

 やがて飛鷹は、肩を叩いていた手を止める。

「……ねえ、お父さん」
「ん?」
「お父さん、どうしたの?」

 大好きな父親が自分を頼ってくれない、自分になにも話してくれない――それが飛鷹には、遠坂の家で過ごすよりも寂しく、辛いことだった。
 ゆえに、飛鷹は決断する。
 正直に聞こうと、決める。

「……どうした、って……お父さんは別に、どうもしてないよ?」
「うそだよ。ずっと顔色悪いし、疲れた顔じゃないもん。嫌なことあったんでしょ? なにか、すごく嫌なこと思い出したんでしょ?」

 飛鷹は一歩も引かない心積もりでいた。
 大事に思うからこそ、自分からは引けない。
 なにもかもを共有する、自分の命よりも重い存在。
 それが、飛鷹にとっての家族だった。

 雁夜は咄嗟に答えられず、困ったように微笑んで――その口を、ゆっくりと開いた。

「……お父さんは、悩んでるんだよ」
「なにを?」
「ある人が、悲しむかもしれない。でも、本当に悲しむと決まったわけじゃないんだ」
「……それで?」

 促すと、雁夜は少し逡巡して、それでも続きを語る。

「うん。その人が本当に悲しむようなことなのか、お父さんのお父さんに、聞きにいこうかな、って悩んでる。」
「お父さんのお父さん……おじいちゃん?」
「うん。そのおじいちゃんに、聞けば分かるんだ。でも……」

 暑い季節でもないというのに雁夜の額には汗が滲み、その手はなにかに耐えるように、きつく握り締められていた。
 これはただ事ではない、と飛鷹はさらに注意を高める。
 いまの飛鷹は、はっきりと“大人”にシフトしつつあった。

「一度聞いてしまえば、もう後戻りできない。お父さんは、おじいちゃんと仲が悪いしね。そういう人に頼るのは、あまりいいことじゃなんだ」
「そういうものなの?」
「そういうものなんだ。――これは大人の事情ってやつだから、飛鷹は気にしなくてもいいんだよ。お父さんがなんとかするから」
「そっか」

 ここが引き際とみた飛鷹は、短く会話を終わらせる。
 しかし、相変わらず、雁夜は道に迷った人のようで、見るに堪えないほど悩んでいた。
 飛鷹は、それも嫌だった。
 自分も、なにか役に立ちたかった。
 でなければ、なんのための家族だというのか。

「お父さん」
「ん?」

 飛鷹には、雁夜の悩みがどんなものか知る由もない。
 それでも――父親には笑っていてほしい。
 だから、“大人”としては余計な言葉を、あえて投げる。

「お父さんには、自分のしたいことをしてほしいな」
「……え?」

 言葉を失った雁夜に、飛鷹はさらに続ける。

「よく分かんないけど、ここでなにもしなかったら、お父さんずっとその顔のままの気がする。お父さんは、いつもカッコよくて、自分の信じたことを貫く人でしょ? だから、思うようにしたらいいよ」
「飛鷹、お前」
「そうじゃないと、ぼくも息子の面目が立たないもん」

 なにか言いかけた雁夜を制するように、最後の言葉を結ぶ。
 普通なら、七歳児がなにを偉そうに、と思うだろう。
 しかし、雁夜なら受け取ってくれる。色眼鏡なしに、自分の言葉を考えてくれる。飛鷹はそう信じていた。
 そして、雁夜の表情は決然としたものになって、その信頼は裏付けられる。

「……飛鷹。お父さん、もうちょっとだけ出かけなきゃならないんだ。ここでお留守番、できるかい?」

 ――やだ――

(うるさい)

 自然に浮かんできた“子供”の欲求に無理やり蓋をして、飛鷹は問い返す。

「え? また、どこか行っちゃうの?」
「いや、今度の用事はすぐ終わるよ。今日中には帰ってくる。晩御飯までには帰ってくる。だから、ここでお留守番しておいてほしいんだ」
「えー……」

 飛鷹は不満げに唸った。
 久しぶりに大好きな父といられるというのに、またすぐに別れるなど、普段の飛鷹からすれば考えられない。文句の一つも出るのは当然である。
 ただし、この場面での飛鷹は違う。
 自分が少し我儘をいうことで、どれほどの事情なのかを、さりげなく探ろうとしているのだ。
 もちろん、“子供”が不満を覚えているのも事実だが。

「頼むよ。どうしても行かなきゃならないんだ。カッコいいお父さんでいるためにも、ね」

 雁夜は申し訳なさそうな顔をしつつも、妥協する素振りを見せない。
 飛鷹は知っている。こういう顔をしたときの雁夜は、なにがあろうと諦めないということを。それだけ大事ななにかがあるから、雁夜はこうして飛鷹に断っている。
 ならば、それを応援して送り出すのも自分の役目である。

「……晩御飯まで?」

 “子供”と“大人”が葛藤し、結局、飛鷹は笑えずに、むすっとした顔で問いかける。
 自分でけしかけておいてこれでは、我ながら矛盾していると思いつつも、どうしようもなかった。

「晩御飯まで」
「絶対?」
「絶対」

 飛鷹は、“子供”の自分が恥ずかしかった。
 雁夜が、父が、ここまで言い張ったことは滅多にない。それを素直に送り出すくらいのことが、どうしてできないのか。

「……じゃあ、いってらっしゃい」
「行ってきます。――飛鷹、大好きだよ」

 一度だけ、ぎゅっと飛鷹の小さな体を抱きしめ、雁夜は背を向けて走り出す。
 飛鷹は、その温かさを逃がさないように、少しの間だけでも寂しさが紛れるように、自分の体を自分で抱きしめる。
 それを嘲笑うように、音を立てて閉まったドアが、雁夜の姿を消した。





◇◆◇◆





 タクシーを携帯で呼んだ雁夜は、到着するまでにもう一つ、電話をかけていた。

『なにを言い出すかと思ったら……ふざけてんのか?』
「ふざけてなんかいないさ、守。もし、俺が朝になっても連絡を寄こさなかった場合――」

 電話の相手は、雁夜の個人的な友人である。
 名を小竹守というその友人は、児童養護施設――いわゆる、孤児院の院長だった。
 出自こそ真っ当なものではないが、子供を辛い目に合わせるような孤児院ではない。いたって普通の施設だ。

「――俺の家に行って、飛鷹を保護してくれ。」

 これは雁夜からすれば当然の措置だった。
 なにせ、いまから赴く場所は、悪という表現すら生ぬるい、唾棄すべき魔術師のねぐらである。生きて出られる保証はどこにもない。
 無論、飛鷹を置いて死ぬつもりは毛頭なかったが、万一の事態に備えないのは愚か者のやることだと、雁夜は考える。
 幸い、守の孤児院は冬木市外どころか県外に位置している。冬木市しか行動範囲にできていないほど衰弱したいまの臓硯ならば、それだけで十分な避難措置になるはずだった。

 なにより――守は、魔術の世界を知っている。
 雁夜とは違い、才能が劣るために一般人として育てられた結果、いまの孤児院の院長に収まったのだが。

「いいか、俺の兄や親類、友人を名乗る人間がきても、絶対に引き渡すな。顔も合わせるな。もしも俺が生きていたら、なにがあっても迎えに行く。だから頼む」
『悪い冗談にしか聞こえねえが、どうやらマジな話だな……。魔術絡みか?』
「そんなとこだ。いまから、父親と感動のご対面だよ。穏やかに済むとは思えない」

 むしろ、悪い冗談であったなら、と雁夜も思うくらいである。

「間桐は言うまでもなく、結城も遠坂も信用するな。遠坂葵という人が迎えにきた場合だけ、飛鷹と話をさせてくれ」
『……あいよ。お前さんが無駄に死ぬとも思えねえが、受けてやる』
「すまない。じゃあな」

 返事も聞かず、電話を切る。それしきのことで怒る相手でもないし、それほど浅い関係でもない。飛鷹の回路を調べたのも小竹の家の当主である。守には、それだけの信用を置いていた。

 これで、飛鷹の命だけはなにがあっても守れる。そう思うと、雁夜は少しだけ気が楽になった。
 と同時に、気を引き締める。

(息子に励まされるなんて、父親失格だな……)

 自嘲して、それでも息子の激励を思い出して頬を緩ませながら、雁夜は表情を劇的に変化させていく。
父親のものではなく、一人の男のものに。

(臓硯……なにもかも、お前の思い通りになるなんて思うなよ)

 雁夜は自らの因縁と対峙する。この世でたった二人だけ、自分の命よりも重い存在が笑っていてくれるために。
 そして、決意する。

(なにがあっても、絶対に生きて帰らなきゃなぁ……)

 助け、同時に生き残るための戦い。その幕が、開いた。

 雁夜は、魔物の棲む街――深山町へと、赴く。





 飛鷹は知らない。自分は、父親を魔窟へと後押ししてしまったことを。
 飛鷹は知らない。雁夜の悩みとは、他ならぬ自分の初恋の少女の命が関わっていることを。
 そして、飛鷹はおろか雁夜も知らない。飛鷹の運命が、この日をきっかけに魔術と交差することを。















 そして、朝。

「やあ、飛鷹くん。迎えに来たよ」
「……だれ?」

 結局、雁夜は帰ってこなかった。



[33893] 分水嶺1if・もし、雁夜が桜を見捨てたら
Name: 深海魚◆6f06f80a ID:fb12e672
Date: 2012/07/07 19:03








この話は、前話から派生したifのBADエンドになります。
それと、ちょいちょいやっつけ感があるかもしれません。

ご覧になる方は、そこを承知してからお願いします。













「お父さん……大丈夫?」
「……え?」

 葛藤する雁夜にかけられたのは、縋るような言葉だった
 振り向けば、飛鷹は涙目になって雁夜を見つめている。

「お父さん、どこにも行かないよね? ずっと一緒だよね?」
「……」

 雁夜は、言葉を失った。
 雁夜と桜を天秤にかけて、危険を冒してでも桜を助けに行くかどうか悩んでいたときに、この言葉。
 なにもかも見透かされているかのような錯覚に陥りそうだった。
 と同時に、一つの決意も固まる。

「……ああ、どこにも行かないよ」

 飛鷹をそっと抱き締め、安心させる手つきで優しく頭を撫でる。
 飛鷹も両手を雁夜の首に回し、思い切りひっついた。

「飛鷹は、暖かいな」
「うん。お父さんも」

 安らぐ一時。
 誰に憚ることもなく、心を許しあう。

(この子を置いて、臓硯と対峙するなんて……俺には、できないな)

 自分の命など惜しくはない。
だが、もしも自分が生きて帰ってこれなかったら? 命を守るだけなら施設に預けてもいい。だが、雁夜に捨てられたとでも勘違いすれば、この優しい息子の心は取り返しがつかないほど破壊されるだろう。
 そんな危険を冒して、自分の因縁と恋の未練を晴らすなど、雁夜にはできなかった。

「ずっと、一緒にいような」
「うん!」

 笑顔で答える飛鷹。

(ああ、そうだ。俺はこの子を守るためならなんだってしよう。だから――ごめんな、桜ちゃん)

 息子のために、一人の少女を見捨てる。
 飛鷹のため――その免罪符を胸に抱えて、雁夜は決断した。

 この日より後、雁夜が遠坂邸と間桐邸に行くことはなかった。






 そして月日は流れ、第四次聖杯戦争が終わる、まさにその日。

「飛鷹、お風呂開いたよ」
「はーい!」

 元気に返事をして、駆け寄ってきた飛鷹の真上で、

「わっ!」
「な、なんだ!?」

 壮絶な音と、衝撃がした。

「なに、地震!?」
「分からないけど、飛鷹! お父さんの傍を離れるなよ!」
「う、うん!」

 雁夜は取るものも取らず、急いで飛鷹と手をつないで、慌ててドアを開けて飛び出す。
 そして、見る。

「……なんだよ、これ」

 悪意の結晶たる、炎を。
 それは眼前の全てを焼き尽くしていた。
 人も、家屋も、動物も、植物も、全て分け隔てなく呪い、苛み、燃やしつくす。
 思わず茫然とした雁夜の後ろで、アパートに火が回り、瞬く間に燃え広がった。

「嘘だ、こんなの嘘だろおい!」

 雁夜には思い当たる節が一つだけあった。
 聖杯戦争。
 これほどの災害を起こすなど、聖杯によって招かれたサーヴァントか、聖杯そのものでなければ不可能なことである。

「……飛鷹! 走るぞ!」
「あ……」

 とにかく、火の及ばぬ範囲に逃げようと試みる。しかし、飛鷹の反応がなかった。パニック状態に陥っている。

「飛鷹! ――ああ、もう!」

 しびれを切らした雁夜は、飛鷹を背負って走りだす。
 背後で、骨組みが燃え尽きたアパートが轟音とともに崩れ去った。
 振り返らずに、雁夜は走る。

「くそっ、ちくしょうめ! 魔術なんてくそくらえだ!」

 心の底から魔術を呪い、涙を流しながら走る雁夜は、水場へ逃げようと一路、池を目指し、

「っ、くそっ!」

 そこへの行き道が、燃えて崩れた家で塞がれていることに舌打ちをする。

(迷っている暇はない、考えろ! 池までの道はどれくらいだ……?)

 回り道した場合のルートを頭で思い浮かべ、即断即決で来た道を戻ろうと振り返る。
 しかし――天は味方しなかった。
 ある物を見て、雁夜は立ち止まる。
 否、立ち止まらざるを得なかった。

「……はっ」

 投げやりに笑う雁夜の目の前には、燃え盛る炎の道があった。
 この炎は魔術的なものなのか、可燃物がないはずの道路の上で燃えているのである。
 ここを飛鷹を担いだまま渡りきる自信は、雁夜にはなかった。というより、不可能だった。

「……ごめんな、飛鷹。もう駄目かもしれない」

 背負っていた飛鷹を降ろすと、覚束ない足取りではあったが、自分の足で立った。
 それを確認して、炎に近寄る。

 ――無理だ。

 一目でわかった。これは、人間が触れていいものではない。呪いと悪意を内包した、最悪の炎だと。
 ここから飛鷹を逃がすことはできない。たとえ、自分の命を犠牲にしたとしても。
 全てを理解した雁夜は、その場に崩れ落ちる。

「ああ、ちくしょう。――ちくしょうっ!」

 悔しくて、叫びと一緒に涙が零れる。
 ただ一人、この世界で守ろうと決意した息子なのに。
 愛する女性の娘すら見捨てて、一緒にいようと誓ったのに。
 守りきれない自分が、悔しく、情けなかった。

「くそ! なんで、なんでこんなことになってんだよっ! どうして、飛鷹を守るくらいのことさせてくれないんだよっ! 俺は、俺はっ!」
「……お父さん」

 狂乱する雁夜の頭を、飛鷹がそっと抱きしめた。

「ひだ、か?」
「いいよ、お父さん。――ありがと」

 まるで、慈愛に満ちた聖母のように。
 どこまでも落ち着いた声で……それでも、目からはぽろぽろと涙を流しながら、飛鷹は言った。

「もう、いいから。お父さん、本当にありがとう」
「……そうか」

 雁夜も、少しだけ、ほんの少しだけ落ち着いて――救われた気がした。
 飛鷹の感謝ひとつで、今までの全てが報われた気がした。

「でも、さ」

 それでも、雁夜は口を閉ざさない。
 やはり、未練はあった。

「もうちょっとだけ、生きてほしかったよ。――飛鷹」
「うん。ぼくも、もうちょっとだけ、生きたかった。――お父さん」

 二人は、お互いを離さぬようにしっかりと抱きしめあう。
 たとえ、死んでも離れぬように。

 そして――全てが、炎に包まれた。





 この翌日、生存者を捜索していた救急隊は、しっかりと抱き合った親子の死体を発見する。
 遺体の損傷は激しく、身元を確認するのも一苦労といった風だったが、その口元は――微かに笑っているように見えたという。










 if end 灰燼に帰す



[33893] 飛鷹の大冒険・朝
Name: 深海魚◆6f06f80a ID:fb12e672
Date: 2012/07/08 13:39
「まだ、かな……」

 飛鷹は待つ。待ち続ける。
 雁夜は約束を破ったことがなかった。だから今度も破らない。
 根拠のないその理論に縋って、飛鷹はひたすら待ち続けた。

 日が沈んでも。
 夕食の時間になって、約束の時間をすぎても。
 眠る時間になっても。
 そうして、また朝日が昇っても。

 ずっと、ずっと、目を開けて待ち続けた。
 第三者から見れば、それは異様な光景であったことは容易に想像がついた。
 それでも、ずっと待っていたのは、最後に見た雁夜の顔が並々ならぬ覚悟と悲壮感を漂わせていたからに他ならなかった。
 飛鷹は、心のどこかで直感していた。
 きっと、このまま見送れば雁夜は無事には帰ってこないと。
 それでも――送り出さざるを得なかった。
 雁夜が、雁夜であるための最低限の誇りを失わないように。

(行かせなきゃ、よかったのかな……)

 いつしかそんなことすら思い出した飛鷹の前で、ドアの鍵が突如として開く。
 雁夜が出かけた後に鍵をかけておいたドアの鍵が開いた。
 つまり。

「お父さん!」

 歓喜とともにドアに飛びつき、ドアノブを捻って開くと――見知らぬ男。
 飛鷹の喜びは一気に冷め、同時に湧き上がってきたのは警戒心。
 そんな飛鷹の内心を知ってか知らずか、男は挨拶でもするように手を上げた。

「やあ、飛鷹くん。君を迎えにきたよ」
「……だれ?」

 そう言いつつも、飛鷹は眼前の見知らぬ男を観察していた。
 鍵をかけておいたはずのドアを開けたということは、合鍵を所持しているか、違法な手段で開けたかだ。しかし、あの鍵の開き方はちゃんと鍵を使って開けたときのもの。つまり、この男は合鍵を持っている。
 さらに気になるのは、この男が自分の名前を知っていることである。これはつまり、雁夜の知り合いであるということ。
 もしくは、雁夜をなんらかの理由で調査していたということも考えられるが、そんなことをする理由が飛鷹には思いつかない。
 現状で得られる情報から考えれば、この男は雁夜の知り合いである可能性が高かった。尤も、どのような知り合いかは分からないが。
 もしかすると、雁夜に恨みを持った誰か、かもしれないのだ。

「俺は雁夜の個人的な友人だよ。とある施設の院長、まあ、要するにだな……」

 そこまで言うと、男は自分の頭を苛立たしげにかき、

「まあ、要するにだ! 雁夜は忙しくて帰ってこれなくなっちまうかもしれないから、俺に飛鷹くんの面倒を見るように頼んで行ったんだ」

 それを聞いた飛鷹が思ったことは、たった一つ。

(信用……できるわけないよ)

 この男がやってきたのは雁夜の差し金だった場合、なにも言わずに出ていくなど有り得ない。
 言葉遣いからして粗暴、訪問の方法からして乱暴、おまけになにも知らせが来ていないとなれば、これはもう間違いなく、眼前の誰かは不審者以外の何者でもないという結論に行きつく。
 これが飛鷹でなければ、尚更だ。無理に引っ張っていこうとすれば泣き叫ぶことは火を見るより明らか。かといって見ず知らずの大人に唯唯諾諾とついていく人間はそういない。別な意味で警戒心の強い子供ならば、これまた泣き叫ぶことは必定だ。

 そして、この男が本当に雁夜の指示で来ていることの真偽など、飛鷹には確かめようがない。雁夜が電話をかけて呼び寄せたという事実を知る由もないのだ。

 飛鷹が子供とはいえ、なにも言い残していかなかった雁夜の、痛恨のミスだった。

「あの、お父さんはどんな用事で出て行ったんですか?」
「は? あー、それは、だな……まあ、子供は気にするな。大人の事情ってやつだ」

 大人の事情、大人の事情、大人の事情。
 またそれか。またそれなのか。
 いつまでも子供扱いされることに対する憤り、事ここに至っても何一つ明かそうとしない身勝手さ。
 どれを取っても、飛鷹の地雷を踏みぬくには十分な理由だった。

「……そう、ですか」

 ――もう、いいや。

 飛鷹は、キレた。
 ただし表面上はいたって冷静に。

 そして、今のやりとりで、はっきりした。

(こいつは、悪い人だ。お父さんに頼まれて来たなら、なんでお父さんが帰ってこないのか、その理由くらい知っていて当たり前だよ。なのに知らないってことは……)

 雁夜の不在を狙って、その息子である自分をどこかに連れ去ろうとしている。
 飛鷹はそう断定して、その場合、どうするべきかを考え始める。

(出ていく直前に、おじいちゃんに会いにいくみたいなこと言ってたし……。多分、おじいちゃんのところにいる。もしいなくても、おじいちゃんならお父さんの手掛かりを持ってるかも!)

 こうして、目的地は雁夜の実家に決定される。
 それがある意味では地獄の釜の中へ向かうことと同義であるなどとは、夢にも思わない。

「で、だ。これから俺の車に乗って、ちょっと遠くに行かなきゃならない。そこで待ってれば、いつか雁夜――お父さんと会える。分かるか?」
「はい」

 精神には極熱を秘め、心の中には灼熱を隠し、しかし応対は淀みなくすませながら、頭の中では必要な物品をリストアップする。
 この動きを相手に悟らせないところに、飛鷹の異常性、その真の厄介さがあるともいえる。

「そいつは重畳……つっても意味分かんねえか。まあ、とりあえず車に乗ってくれりゃあいい」
「分かりました。準備するからしばらく待ってください」
「お、おお。んじゃ、俺は外で待ってる」

 十中八九、飛鷹の大人しすぎる反応に戸惑いながらも、男は家の外に出た。当然だ。こんな不気味な子供と一緒の部屋にいたくはない。なんだか気まずい思いをすること請け合いである。
 まあ、それが飛鷹の狙いだったのだが。
 ドアが完全に閉まったのを確認すると、飛鷹は念のために内側から鍵とチェーンロックをかけ、準備を始める。鍵を二重に閉め直すという不自然な行為をあえてしたのは、相手はなかなか短気そうだったので、しびれをきらして途中で入られては困るという恐れからだ。

「じゃ、やっちゃおっと」

 呟いた飛鷹は、一切の無駄なく準備を開始する。
 豚の貯金箱を割って交通費を確保し、
 雁夜と自分の保険証を持って身分証明書を用意し、
 冬木市内の地図を入れて目的地への道のりを調査し、
 いざというときのために、遠坂家の電話番号をメモ用紙に書いてポケットに忍ばせ、
 それら全てをリュックサックに放り込み、背負って、飛鷹は立ちあがった。
 こうして、一切の無駄なく準備を終えた。

(あとは……)

 ちらりとドアに視線をやる。
 おそらく、あの短気そうな男は苛立ち紛れに待っている頃である。
 しかし、もう少し待っていてもらわなければ困る。

「すいませーん! もうちょっとで終わりますから、待っててくださーい!」
「……おう! なるべく、手早くな!」
「はーい! ……単純だなぁ」

 呆れ混じりに失笑し、飛鷹は窓を開けた。
 ここの窓は小さい。しかし、飛鷹ならばなんとか通り抜けられるだけの幅はあった。
 しかも、この部屋は一階に位置している。窓は脱出経路として、なんの問題もなかった。
 まずリュックサックを外に押し出し、次に自分の体を足から入れる。

「よいしょ、よい、っしょっと」

 掛け声と共に着地する。
 以前より少し成長したせいか、ややつっかえてしまったが、問題なく通り抜けることに成功した。
 そしてそのまま、一目散に駆け出す。
 目指すは、冬木駅のタクシー乗り場。

「おい……おい!?」

 アパートの前で声が響いたのは、飛鷹が遠く離れた後だった。










以下、蛇足の解説。

迎えにきたのは守さんですが、彼があんな乱暴な対応取ったのは、ぶっちゃけ焦ってるからです。
なんだかんだ言って雁夜が危険とあらば様子の一つくらい見に行く程度の友情は持ち合わせてますから、飛鷹はさっさと処理して雁夜と連絡取りたいというのが正直なところです。

あとは、雁夜がなにも言わずに飛鷹を置いていくとは守も思っていませんでしたから、「なにやってんの雁夜、誰か迎えにくるぐらい言っとけや」みたいな部分もあったり。

ついでにもう一つ言うなら、彼は徹夜で連絡待ちした挙句、朝っぱらから初対面の子供を保護するために、聖杯戦争が間近に迫った冬木に行くという心臓ドキドキ嫌な予感バクバクなことをやらされて、少々お冠です。

とまあ、そんな複雑な心情があったり。



[33893] 飛鷹の大冒険・昼
Name: 深海魚◆6f06f80a ID:fb12e672
Date: 2012/07/08 14:35
 その日、冬木におけるタクシー運転手歴三十年のベテラン、佐々成明(58)は、これまでにない奇怪な客を乗せることとなった。

 いきなり乗り込んできたのが、客かと思いきや小さな子供。
 しかも、その子供が百円と十円の山を財布から取り出してこちらに突き付けながら、

「間桐さんの所まで、お願いします」

 正直、困惑するしかない。どうしていいやら分からない。
 警察を呼ぶべきか? いや、子供とはいえ金を持ち、目的地を示した以上は客である。
 しかし、ここで素直に頷くには怪しいというか、腑に落ちない部分が多すぎた。
 それはさておいたとしても、間桐さんの所まで? そんな人名を出されても困るしかない。タクシーの運転手は確かに地理に通じているが、別に個人の住所まで覚えているわけではない。

「あのですね……住所か、施設の名前で言っていただければ嬉しいんですが……」
「え、えっと……間桐……あ!」

 思いついた、という風情で手を打った少年は、こう言い放った。

「遠坂さんの家とお友達です!」

 知るか。
 佐々は、こみ上げてきた頭痛を堪えながら、どうにかそう言ってやりたい欲求を抑えた。
 相手子供、自分大人、怒るな怒るなと自分に念じ、やっとのことで問いかける。

「で、その遠坂さんっていうのは?」
「えっと、ここの丘の上におっきな家があって、そこに住んでる人なんですけど」
「はあ、そうですか……って、そこの遠坂さんなら有名ですよ? ってことは、あの間桐かな?」
「え、分かったんですか?」
「えーっと……ああ、あったあった。間桐という人が経営している会社ならありますよ。不動産ですが」

 佐々の頭の中に浮かび上がってきていたのは、間桐なる一族がここ冬木の土地はもちろん、他にも各所の土地の権利を所有しており、それを不動産会社を通して客に貸し付けて利益を得ているという情報。
 別に隠されているわけでもなんでもなく、間桐不動産という実在の会社だ。実際、佐々も間桐不動産の客を運んだことは何度かある。
 ――ただし、どこかまともではない連中ばかりだったが。
 なぜか知らないが全身を和服を包んでいたり、
 理由ははっきりしないが、どこか威圧感を放ちまくっているスーツ姿の男だったり、
 とにかく、私生活で知り合いたいとは露ほども思えないような客ばかりだった。

(あんなとこに、こんな子供が何の用だ?)

 訝りはするが、そこで問いかけるのは運転手としての職務を逸脱している。そしてそれ以前に運転手失格もののマナー違反でしかない。佐々は首を振って疑問を追い払った。

「じゃあ、とりあえず、間桐不動産でよろしいですか?」
「うん。――あ、えっと、はい」
「了解しました。じゃ、出しますよ」

 急いで敬語に言い直した少年が、初めて年相応の子供に見えて内心ほっとしつつ、佐々は車を出した。
 その車体に、見たこともない羽虫が一匹、引っ付いていたことも知らずに。






 間桐不動産。
 知る人ぞ知るというか、魔術師や教会関係者、呪術師など――要するに、裏の人くらいしか知らない不動産会社である。
 冬木市内の霊地の所有権を抑えているため、魔術師に高利で貸し付けては稼いでいる。
 よって、あまり堅気のくる店ではなかった。
 そんな店に勤める会社員も、やはり普通の人間は少ない。
 ここ間桐不動産の受付嬢歴3年の新人、木本咲(21)などは、魔術師の家に次女として生まれながら、魔術の才能がないために後を継げず、しかし魔術の存在は知っている便利な人材としてここに雇われている。
 ここ冬木の御三家で、人を雇っているのは遠坂と間桐のみ、そして金払いがよく安定しているのは間桐となれば、ここに勤めるのは自然な流れだった。

 そして、今日もまたドアが開き、備え付けの鈴が来客を告げる。彼女は自分に与えられた役目を果たすべく、深々とお辞儀をして口上を述べた。

「いらっしゃいませ。こちらは……あれ?」

 なにかおかしい。
 なにが?
 お客様が、いない。
 不審に思って顔をあげると、そこには少年が、どこか不安そうに佇んでいた。
 あまりに予想外な光景に、笑顔が固まる。

「……迷子になっちゃったの?」

 できる限り優しく問いかけると、少年はなにかを決意したかのような表情になり、こちらを真剣に見つめて、言い放った。

「ぼくは、まとうひだかです! おじいちゃんに会いにきました!」
「……はい?」

 木本の笑顔が、ビシッ! と効果音を伴いそうな様子で固まった。

(落ち着け。落ち着くのよ、私。この子、いまなんて言った?)

 思わず現実逃避したくなるほどに意味不明な状況の中、彼女の脳内で少年の声が再生される。

 ――まとうひだかです! おじいちゃんに会いにきました!

 聞き間違いかもしれない。一縷の望みをそこに託し、木本はひきつった笑顔のまま問いかけた。

「え、えーと……おじいちゃんって、誰? ていうか、お名前、もう一回だけ教えてもらってもいいかな?」
「まとうひだか」
「歳はいくつ?」
「七さいです!」
「お父さんの名前は?」
「まとうかりや」

 まとうかりや。
 つまりは間桐雁夜。
 十年ほど前に家を飛び出したとかいう、間桐家の次男。
 噂に聞いたときに、うわーすげー根性ある人よねーペラペラー、とか話していた自分が憎たらしい。

(うわ、もう確定だわ……)

 もう現実から逃げられない。観念した木本の頭は、急いで回転を始める。
 つまり、さっきの台詞を修正すると。

 ――間桐ひだかです! 臓硯(おじいちゃん)に会いにきました!

「嘘でしょ……」

 思わず呟く。と同時に考える。

(この子、どこまで知ってるのかしら? 見た感じ回路も開いてないし、そもそも魔術の存在すら知らないように見えるけど……)

 どうしよう。そう思った。
 はっきりいって、ここまでくると受付嬢に任された領分を越えている。
 魔術に関わってはいないのだから本来なら通すわけにはいかない。記憶消去なり暗示なりかけて、はいさようならである。しかし、これでも間桐の直系の子供であることは間違いないのだから、そんなことを独断でするわけにもいかない。

「……ちょっと待っててね。連絡とるから」

 もう私知らね。
 とっとと目上の人間に押しつけてしまおうと決意した木本は、電話を手に取り、ある番号を打ち込む。
 幸いというかなんというか、相手はすぐに出た。

『鶴野(びゃくや)だ……』

 相変わらず陰気くさい声だった。そしてどことなく呂律が回り切っていない。また酒を飲んでいるらしかった。
 とはいえ、軽蔑する気にもなれなかった。そもそもあの館が陰気で仕方ない。おまけに間桐臓硯と一つ屋根の下など、考えるだけでぞっとする。
 そんな諸々の同情と憐れみから、木本は自分にできる最大限の優しさを声に込める。

「はい、鶴野様。あのですね、少々、変わったお客様がいらっしゃいまして」
『変わった客? そんなのそっちで――』
「雁夜様のご子息が、臓硯様に会いたいと仰せでして……」
『……は?』

 電話の向こうで、相手の硬直する様子が伝わってきた。
 当然である。木本はなにも疑問に思わない。自分もつい先程まで硬直していた身なのだから。
 さて、どう説明したものかな、と思っていると、

『あっ……おじ』

 と言ったきり、鶴野の声が遠くなった。なにやら揉め事が起こったらしい。

「鶴野様? どうかなさいましたか?」

 ――もう面倒だわ本当。

 本音と言葉を正反対にしつつ安否を問うと、

『心配いらん。電話は変わったぞ』

 聞くだけで背筋に寒気が忍び寄るような、しゃがれた声が返ってきた。
 間違いない、この声は――

「ぞ、臓硯様!?」
『こちらから迎えをよこす。飛鷹――そこの小童を、それまで逃がすな』
「は、はい。承知いたしました……」
『もし逃がした場合、その責任はおぬしに問うとしよう。心せよ』
「はいぃっ!」

 もはや涙目になった木本の耳元で、電話の切れる音が響いた。
 放心状態に陥りながらも、なんとか気力を振り絞って、電話を定位置に戻す。
 戻した瞬間、腰が抜けて座り込んでしまった。

「……今日は厄日だわ」

 誰にいうでもなく、呟く。
 あの臓硯が、迎えをよこすと。しかも逃がすなと明言したのだ。おまけに、その責任は自分にあると。

(この子には悪いけど、なにがなんでも出すわけにはいかないわね……)

 冗談じゃなく自分の命がかかっている。まだ二十一歳の若い身空、木本に自殺願望などない。
 できる限り優しい視線、態度、声を作り、完璧な笑顔で少年に話しかける。

「いま、ひだかくんのいうおじいちゃんと連絡がとれたわ。迎えが来るって」

 同時に、暗示をかける準備も怠らない。相手は七歳ではあるが、もし逃がしでもしたらと思うと万全を尽くさざるを得なかった。

「ほんとですか? ありがとうございま――」

 元気よく少年が礼を言おうとした瞬間、盛大に腹が鳴った。
 どうやら誤魔化せたらしい、と木本は思う。
 ついでに、時間を稼ぐ方法も見つかった、と。

「……おにぎりでよければ、あげるけど」
「……ありがとうございます」

 木本の昼食抜きが確定した瞬間だった。
 それでも、ひだか、なる子供の行く末を思うと、同情を禁じ得ない木本であった。



[33893] 飛鷹の大冒険・夕
Name: 深海魚◆6f06f80a ID:fb12e672
Date: 2012/07/08 14:40
待つこと三十分。
 スモークガラスをはめた黒塗りの車が、間桐不動産の前に停車した。

「臓硯様の専用車……飛鷹くん、おじいちゃんが迎えにきたみたいよ」
「はい。おにぎり、ありがとうございました」

 飛鷹は、“仕事を中断して連絡を取るだけでなく、おにぎりまでくれた優しいお姉さん”に礼儀正しくお辞儀をし、急いで外に飛び出る。
 この車に乗れば、お父さんに会える――そんな認識すら持ちつつあるほど、飛鷹は焦りと寂しさの裏返しである期待を抱いていた。
 願望、と呼んでもいい。
 子供に限らず、人間という生き物は、自分に都合のいい未来を想定する習性があるものだ。飛鷹の在り方は、生物として歪ではあったが、その部分は変わらない。

 外に出た飛鷹の前で後部座席のドアが開き、そこから出てきたのは――杖。
 杖を突き突き地に降り立ったのは、禿頭で背中の丸まった老人だった。

「げっ!」
「……あれ?」

 車から降りたのが誰かを見た木本は、店内で人知れず呻き声を上げ、飛鷹は予想外の事態に首を傾げた。
 木本はその人物をよく知っており、もしかすると事の重大性が自分の想像を遥かに超えた、さらにその先を行っているのではないかという恐れから。
 飛鷹は、現在の状況下でここにやってくる老人には一人しか心当たりが無く、しかしそれを殆ど予想していなかったことから。

「えーっと……おじいちゃん、ですか?」
「カカッ。そう呼ばれるのも新鮮なものよのう」

 そう言って笑った老人は、見かけに寄らぬ素早さで飛鷹と額をつき合わさんばかりに近づく。

「間桐臓硯じゃ。おぬしが雁夜の一粒種、飛鷹じゃな」
「は、はいっ! はじめまして、ぞうけんおじいちゃん!」
「ぶふっ!?」

 店内からなにかを噴出させたような音が聞こえた気がして、飛鷹は振り向いた。しかし、澄まし顔の木本がガラスの向こうにいるだけだった。
 今しがた聞こえた音の正体を考えるが、いくら考えても心当たりがない。

「どうかしたか?」
「え、いや、なんにもないです」

 飛鷹は、すぐに意識を臓硯へと向け直した。祖父との初体面を悪印象にするわけにはいかないのだから。
 幸い、臓硯は怒るでもなく、笑みを浮かべたままである。

(……この人、悪い人?)

 が、その笑みにどこかぞっとするものを覚えた飛鷹は、一瞬だけそんなことを思い、

(ううん、顔は怖いけど、きっと良い人だよね……きっと)

 そう自分に言い聞かせて、心のざわめきを抑え込む。
 仮に悪い人だったとしても、雁夜に近付くための唯一の手掛かりなのだから。

「まあ、まずは乗れ。話はそれからじゃ」
「は、はい」

 促され、先に後部座席へと乗り込む。
 続いて臓硯が乗り込み、扉が閉まった瞬間。

 ――逃げ道を塞がれた。

 そう、思ってしまった。
 飛鷹はやはり、嫌な予感、胸の中に生じた警戒心、猜疑心といったものを振り払えずにいた。
 この直感は自分を裏切ったことがないと知っているために、尚更。
 それでも、この道以外に残された活路はない。

(こけつにいらずんば、こじをえず……だよね)

 雁夜がいつだったか、教えてくれた言葉を思い返し、決意を新たに固めなおす。
 飛鷹にとって、多少の危険や冒険は覚悟の上である。
 別れ際に雁夜が浮かべた表情を見れば、どれほどの死地に最愛の父親が踏み入ったかは想像に難くなかった。たとえ、経験も知識も持たない飛鷹であっても。
 それでも後を追うと決断したのだから、いまさら躊躇うはずもなかった。

 最初に家を飛び出したのが勢いだったのはご愛敬だ。


「さて。では、早速始めるかの。飛鷹よ」
「は……ぃ……?」

 臓硯の呼びかけに応じて顔を向けた飛鷹は、そこに混沌を見た。
 渦を巻く、黒く濁った瞳を見た。
 気付けば、その渦から目を離せなくなっている。
 その淀んだ澱のような黒い波が打ち寄せ、自分というものが侵食される。

(お父さ、ん……桜ちゃん……)

 飛鷹は反射的に、頭痛がするほど頭の中で思考を巡らせた。
 自我を侵食されることに対する恐怖が成せる咄嗟の行動であり、全くなにかを意図して行ったわけではなかった。しかし結果的に、それは暗示を一時的に抵抗(レジスト)することに成功する。

「む? どれ、もうひと押し……」
「あ、う、ぁ…………ぁ…………」
 
 そして結局――いとも簡単にとまではいかず、やはり無意識にある程度は抵抗(レジスト)したが――思考の糸が緩んだところで呆気なく暗示にかかり、その意識を喪失した。





 臓硯が飛鷹を迎えにきた理由は、こうして暗示をかけるためである。
 ならばなぜ暗示をかけたのかというと、ただの嫌がらせでしかなかった。
 蟲に苛まれる雁夜の姿を、この子供に見せつけてやりたい。
 いまの姿を息子だけには見られたくないと思っているだろう雁夜の顔が、息子に拒絶されたことで絶望に染まるのを見てみたい。
 ただ、それだけの理由だった。
 暗示をかけたのは、飛鷹と雁夜の間柄を詳しく聞き出すため。後は、飛鷹の精神性をやや臆病な方向へと傾けておくためでもある。万が一にも、虫唾が走るような自己犠牲の精神や家族愛を発揮されては堪らないからである。
 目頭が熱くなるような絆と情に満ちた話を聞いた後ならば、ああ、その親子が破滅する様は、より甘美なものとなるだろう。
 子に化け物と呼ばれ、嫌悪され、父親としての矜持を失った雁夜の目は、一体どれだけ暗く染まるのか、考えただけで震えが来るほど笑みが零れる。
 今回の出立は、その程度の気持ち、いわば趣味でしかなかった。

 飛鷹が、暗示への抵抗(レジスト)を成功させるまでは。

 虚ろな目で頭をぐらつかせる飛鷹を、臓硯は冷たく見下ろしていた。
 その顔は、孫に祖父が向けるものでは、無論ない。それどころか、策略を練り、悪逆非道の限りを尽くす妖怪の顔ですらない。
 それは、遊び道具を見つけた赤子の顔を、何倍も濃く、そして醜くしたもの。
 知的好奇心をそそられるものを見つけたときの、魔術師(けんきゅうしゃ)の顔。
怖気を催すほど純粋な、鬼の顔。

(こやつには、魔術の心得も、知識も、それどころか認識すらないはず。その状態で、ワシの暗示に二度も抗うなどありえん。まして、一度とはいえ完全に抵抗(レジスト)するなど……)

 先程までは侮蔑と冷笑の色しか浮かんでいなかったその瞳に、いまでは暗い喜びと好奇の光が宿っている。
 もしこれが手駒として用いる予定のない者であったなら、迷いなく研究材料として扱っただろう。
 暗示とは、精神力だけで耐えられるような類の力ではない。血によって磨かれた、確かな抗魔力が必要となる。根性やら気合いやらは、気休め程度にしかならない。
 ならば、魔術回路がないとされていたはずの飛鷹は――如何にして、この五百年を生きた魔術師の暗示を防いだというのか。

「これは、もしかすると思わぬ拾い物となるやもしれん……いたく、そそるのう」

 臓硯は、飛鷹の体を起こし、顔を覗き込む。
 口の端からは涎が垂れ、目は虚ろ、体からは力が抜けている。

(ふむ、強くかけすぎたか……)

 いまの暗示は、記憶障害などが残る類のものではない。一時的に思考力を麻痺させ、現実感を希薄にさせるというもの。その後で、臓硯に対する親近感のようなイメージを植え付け、口を軽くしてから色々と質問をする予定だった。
 しかし、その手前の段階、思考力を麻痺させる暗示を強くかけすぎたのか、意識が飛んでしまっている。おまけに現実感も希薄になりすぎたらしく、見た目だけなら麻薬中毒患者のような有様である。
 暫し考え込んだ臓硯は、袖口から一匹の虫を取り出した。
二本の指でしっかりと挟まれたそれは、持ち主の意図を察したのか、それとも自然と動いてしまうのか、細長い糸のような体をのたくらせている。

「行け、穿虫(せんちゅう)よ」

 呟き、臓硯は穿虫を飛鷹の首筋に落とす。
 首の皮膚に着地した穿虫は、その頭をずぶりずぶりと飛鷹の中に潜り込ませ、やがて体全てが飛鷹の体内に埋まった。
 少しの間、血管のように脈打って進む様子が見えていたが、それもすぐに見えなくなる。
 理由は単純だ。

「――っ!」

 飛鷹の目が光を取り戻し、突然苦しそうに体を痙攣させる。

「うあっ! がっ! ぎぃいっ!」

 やがて痙攣などと生易しいものではなくなり、後部座席全体を使ってのたうちまわり始めた。口から洩れる苦悶の声も、拷問をされているようにしか聞こえない。
 穿虫。寄生者の神経に潜り込み、痛覚やその他の感覚を、内側から直接、しかも魔力を使って刺激する虫である。
 痛みを与える拷問にも、逆にこの世のものとは思えぬ快楽を与えるためにも使える。また、脳細胞の様々な部分にも刺激を与えることができる。そういう意味では、非常に用途が広い虫だった。
 今回は、いうまでもなく痛覚を刺激していた。過去の使用法から平均的にみれば、これでも控えめではああるが。
 なにせ、この虫を使う場面といえば、誰かを責め抜いて精神崩壊させてしまうときが殆どなのだから。痛みの意味でも、快楽の意味でも。

「……戻れ」

 臓硯が魔力を込めて指示を送ると、飛鷹の中で暴れていた穿虫はぴたりと動くのをやめ、するすると体内を移動、首筋の入り口から外に飛び出した。
 飛び出したそれを臓硯はさっと掴み取り、再び袖の中に入れる。

「はあっ、はあっ、はあっ……」

 荒く息を吐く飛鷹の目は、先程と比べるべくもなく、正気を取り戻していた。ただし、全身から汗を吹き出させ、涙と鼻水の入り混じったものを滴らせながら。
 臓硯からすれば、失禁しなかっただけ上出来だった。

「やれやれ、とんだ手間をかけさせてくれたものよ……それ」

 再び、臓硯は飛鷹の目を覗き込む。
 いまの飛鷹に、抵抗などできるわけもなく。

「ふむ、飛鷹」
「……は、い」

 呼びかけに応じたのは飛鷹。しかし、声に精彩を欠いている。
 暗示が無事にかかったことを確認し、臓硯は問いを投げた。

「魔術、という言葉を聞いたことは?」
「あり、ます」
「どこで?」
「朝のアニメで」
「その他には?」
「ありませ、ん」

 息も絶え絶えな返答に、臓硯は一人頷く。この子供が魔術を知らないということは事前に確認済みでもあったし、あの雁夜がわざわざ魔術の存在を教えるわけもないとは分かっていたが、それでも偶然耳に入ったという可能性がないわけではなかったからだ。
 しかし、これではっきりとした。
 飛鷹は魔術を知らない一般人でありながら、臓硯の暗示を抵抗(レジスト)したということが。

「ますます面白い。……時に、飛鷹」
「はい」
「おぬしは、父をどう思っておる?」
「だいすき、です」
「ふむ、どの程度か?」
「わからないです」

 臓硯の脳裏に、刻印虫を受け入れるための下地として、蟲の苗床になっている雁夜の姿が浮かび上がる。
 ――少し質問を変えることにした。

「ならば飛鷹よ。おぬし、父のために命を捨てられるか?」
「はい」
「雁夜は、おぬしのために命を捨てると思うか?」
「はい」

 またも臓硯は頷く。雁夜の性質を熟知している臓硯は、飛鷹の答えが紛れもなく正しいものであることを知っていた。
 だからこそ、この親子の間に固い絆が結ばれていることを実感して、将来の愉悦を確信した。
 この二人は間違いなく、自分にとって極上の道化となるだろう、と。

「クク、カカカ……全く、待ちきれぬな」

 臓硯の頭の中は、既に暗い未来予想図で満たされていた。

 黒塗りの車は、深山町へと近づいていく。
 なにも知らない、哀れな父親のもとへと。



[33893] 裏話2・尋常ならざる帰省
Name: 深海魚◆6f06f80a ID:fb12e672
Date: 2012/07/09 21:22
夕焼けが空を照らす頃。
 間桐雁夜は、二度と戻るまいと決めた場所に立っていた。
 深山町に在る、巨大な洋館。
 一人の魔術師の執念と欲望が絡みついて離れない、怖気を感じさせる魔窟。

 すなわち、間桐邸。





 正門の前に立った雁夜は、備え付けのインターホンを鳴らすでもなく、虚空に向かって話しかけた。

「見ているだろう、臓硯。話がある」

 雁夜の言葉など誰にも届いていないかのように、なんの反応も返ってこない。
 しかし、雁夜は確信していた。
 夜ならばともかく、まだ日が出ているこの時間帯に、あの老害が外出しているなどありえないと。
 そして、自分の言葉は確実に聞かれていると。
 ならば、反応しない理由は一つ。

(臓硯め、居留守でも決め込む気か?)

 雁夜は歯ぎしりした。相手にされないのでは、最初の一歩も踏み出せない。
 そもそも勘当も同然に家出した身である。臓硯からすれば雁夜は取るに足らない、路傍の石にすぎないことは想像に難くない。
 もしかすると、自分の意思に逆らって魔術を捨てた男など、臓硯としては顔を見るのも忌々しいのかもしれない。が、殺すほどではない。そんなところだろうと雁夜は予測する。
 さて、どうやって臓硯の気を引いてやろうか、と考える雁夜。

「……なに?」

 しかし次の瞬間、雁夜の予想に反して、正門が動き始めた。
 ギギギ、と耳障りな音を立てて開く鉄の門。
 開ききったその先には、殺風景な庭と、洋館へ続く木の扉。

(なにを考えてやがる……だが、まあ、いい。さっさと開けてくれるのは好都合だ)

 雁夜は不気味に思いながらも、僅かに弱気が首をもたげたことに気付き、顔に出る前に心の中で押し殺す。
 そして、一歩を踏み出した。

「ッ!」

 見えない手で全身をまさぐられているかのようだ――若かりし頃の雁夜がそう評した、全身を走る不快な感触に、いまの雁夜も思わず身震いした。
 体の中を、魔術結界の網が精査していく。間桐の血族、もしくは許可の虫を携えた者でなければ――雁夜の記憶が正しく、またそれから仕組みが変化していなければだが――庭一面に埋まった虫の大群が群がり、あっという間に食いつくしてしまう仕組みである。
 幸いにも網による検査は正常に終ったらしく、おぞましい感触は一瞬で消えさる。

「嫌がらせのつもりか、臓硯」

 またも虚空に言葉を放つ。
 今度は、空気が揺らめくような反応があった。
 一拍置いて、囁くような返答。

《なに、念のためじゃよ。聖杯戦争も間近に迫った今日、貴様に化けた刺客が来ぬとも限らんのでな》

 ただひたすらに、侮蔑が込められていた。間接的な会話だというのに、冷やかな空気まで感じられる。
 雁夜は改めて心を固め、眼光も鋭く洋館を睨む。負けてなるものか、とでも言わんばかりに。

「ぬかせ。あんたなら、一目で見破れるだろう。間桐臓硯」
《いや、いや。最近は、ほれ、とんと耳も遠くなってな。それが十年も顔を出さぬ親不孝者なら尚更じゃ》
「息子の嫁を蟲蔵に放り込み、自分の首を他人と挿げ替えるような吸血鬼が、親不孝だなんてよく言えるな」
《カッ! 相変わらず、口の減らぬ奴よ。――ワシは二階の応接間で待つ。貴様のような出来損ないに時間を使うは、一刻たりとて惜しいのでな。さっさと来るがよい》

 そう吐き捨て、空気の揺らめきが遠ざかるとともに、十年ぶりの親子の会話は終わった。

「……ああ、すぐに行くさ」

 やはり雁夜も吐き捨て、決然と歩みを進める。





 応接間の入り口に据え付けられた頑丈なドアは、抵抗無く開いた。
 杖を突いて佇むは、よく見知った、しかし二度と見たくないと思っていた顔。

「……久しぶりだな、臓硯。だが、あんたは本当に変わらないな。体の調子はどうだ?」

 ――他人の体を使ってまで生き延びる気分はどうだ、吸血鬼?
 そんな、侮蔑と嫌悪の感情をこめた生々しい台詞を叩きつける。

「フン。今更、世間話をする仲でもあるまい。この時期ならば尚更な」

 臓硯は特に堪えた風でもなく、苛立ちも見せず、コツコツと音を立てながら部屋の中を行き来する。
 雁夜はふと、この老人はじっとしているのが嫌いだったことを思い出す。活動していない時間を無駄と捉える節がある臓硯は、常になにかを行うのが習慣だった。
 カツン。杖が、雁夜の回想を遮るように、一際強く床に打ちつけられた。

「その面、もう二度とワシの前に晒すでないと、たしかに申し付けたはずだがな。あれほどの啖呵と暴言を吐いた身で、なにをのこのこと舞い戻った?」

 雁夜は臓硯の眼を見る。できるなら見たくはないが。
 言葉では怒っていても、その目はなにも語っていない。
 こうして怒りを示すような台詞を吐いたのも、ただの猿芝居であるらしかった。
 ならば、問題は無い。

「あんたに聞かなきゃならないことができたんでな、吸血鬼」

 不退転の決意を前面に押し出し、雁夜は臨む。
 臓硯も空気の変化を感じ取ったのか、やや目つきが変わった。

「単刀直入に聞く。遠坂凛と遠坂桜、どっちだ?」
「ふむ……そのような話、どこから聞いた?」

 曖昧な返答。
 この局面でこの返答ならば、それはもはや肯定と同じだ。つまり、この件について積極的に隠すつもりはないということ。
 ならば、まず交渉の席にはつけると見て間違いない。雁夜はさらに奮い立った。

「考えれば分かる。俺はあんたの目的もやり口も知っている。ついでに、歪んだ性癖もな。後は簡単な消去法だ」
「えらく生意気な口を利く。十年経てど、進歩はなかったと見えるぞ」

 雁夜は、ずいと一歩進み出た。

「あんたには態度を変える必要も感じない。さあ、答えろ臓硯」
「おぬしに言う必要はないこと……が、まあ、よかろう。どのみち、貴様にはどうにもできんからな」

 臓硯が乾ききった笑いを漏らす。雁夜の喉が、無意識に鳴った。
 そして、あっさりと。

「間桐桜――それが、新たな孫の名じゃ」

 雁夜の予感は、現実のものとなった。
 時臣は根っからの魔術師である。後継ぎとして相応しい方を家に残すに決まっている。ならば、凛ではなく桜が養子に出されるのは十分に予想できた。していた。
 それでも、雁夜の心中は煮え滾っていた。
 声だけでもと、努めて冷静さを表に出す。

「狙いは、第五次だな」
「その通り。六十年に一度しか訪れぬ貴重な機会。次回の戦争を見過ごすは惜しい。惜しいが、出せる駒はあの鶴野のみ、どう足掻こうとも聖杯は望めぬこと明白じゃ。ならば、次々回の戦争に向けて優秀な魔術師を育成するしかあるまい」

 雁夜は、答えが分かり切っている問いを、あえて投げた。

「それで、遠坂桜を使うと? 六十年後には、あの子も魔術師としては衰えているはずだ」
「無論。じゃが、あの娘ならば、ワシの曾孫を産むための良い胎盤となろう。歴代の間桐の中で最も強いマスターを擁することができるとあらば、なに、長くはあるが、たかが六十年。待つのも吝かではない」

 胎盤。
 その呼び方からして、桜を真っ当な魔術師として育成する気がないのは明らかだった。
 雁夜の脳裏に、幼い頃の記憶が蘇る。

 こっそり覗き見た、秘密の大きい蔵の中、闇が満ちる世界の底で、無数の虫が蠢いている。
 芋虫のような形をしたそれは、魔力を持つ雁夜が入ってきたのを感じ取ったのか、激しくのたうつ。
 その姿があまりにも醜悪で、あまりにも歪で、幼かった雁夜は一目散に光の元へと逃げだしたのだ。
 まだ、十に満たない歳だった。

 あの地獄に、今度は五つになったばかりの娘を放り込むというのか。
 息子の想い人を、蟲の慰み者にしてしまうのか。
 雁夜の背筋が、一瞬冷たくなった。
 そして、同時に一つの覚悟をする。

 ――ごめんな、飛鷹。守のところで待っててくれ。

 事ここに至って、無事に帰る選択肢をとることは不可能となった。
 残る手段は、ただ一つ。

「取引だ、臓硯。次回の戦争で、俺が聖杯を持ち帰る。その代わりに、遠坂桜の養子縁組を中止しろ」
「……雁夜……いまの戯言、気でも違ったか?」

 もはや呆れとしか形容しようのない表情で、臓硯は鼻を鳴らす。

「十年以上前から修行を怠り、研鑽を拒んだおぬしが、よりにもよって聖杯戦争を勝ち残ると、そう言ったか?」
「そうだ。あんたの助けを借りて、俺は戦争に出る。間桐の血を継ぐ、この俺が間桐の悲願を叶える――それが、本来の筋だ」
「なに? …………いや、成程」

 臓硯は怪訝そうに眉をひそめ、それから思い当ったという風に杖を一度打ち鳴らした。

「成程、成程。雁夜、おぬし刻印虫を用いる気か。それならば、少なくとも選定に間に合う目は出る。いまの言葉も、戯言から自信過剰にまではなる。――しかし」

 ぎろりと、爛れた光を瞳の奥に瞬かせながら、臓硯の視線が雁夜を射抜く。

「ワシの私見としては、おぬしの体が虫に耐えられるとは思えん。耐えきったとして、戦争が終わるまで持つかどうか、まあ、四分六といったところか。そして万が一、戦争を生き延びたとしても……余命幾ばくもあるまい」
「なんだ、いまになって心配になったか? お父さん(・・・・)」
「……おぬしがやるというならば止めはせん。聖杯を持ち帰るために尽力するというならば、先の願いも半分は叶えてやろう」
「待て、半分だと? 一体どういう意味だ」

 自分の要求は容れられたと思いきや、どこか含みのある答え。雁夜は目を細める。
 対する臓硯は、愉快そうに笑みを零した。

「遠坂から養子をもらうのは変わらん、ということだ」
「なぜだ、臓硯! 俺の要求は――」
「待て、待て」

 いまにも殴りかからんばかりの雁夜に向けて、臓硯は片手を上げる。その指先から魔術的な威圧感を感じた雁夜は、一気に頭を冷やした。

「……なぜだ、臓硯。俺が出るならば」
「待てと言っておろう。雁夜よ、おぬしまさか、ワシが無条件に貴様を信頼するとでも思うか? なんの修行もしてこなんだ落後者が、その身を削って一年間苦しみぬいたとて、選定されるかどうかも怪しい。勝ち残るなど夢のまた夢……ならば、本命を優先するのは当然ではないか」
「爺ぃ、貴様……!」

 臓硯は、笑い出しそうなのを必死に堪えて、それでも愉悦が漏れ出した顔をしている。それを見て、雁夜は自分の顔がどれだけ灼熱で彩られているのかを知った。

(落ち着け、ここで暴発しても、仕方ない。誰も助からない……!)

 必死に念じ、どうにか込み上げてくるものを抑え込む。
 雁夜は歯を食いしばって激情を抑え込み、どうにか反論しようとして――反論のしようがないことに気付いた。
 臓硯が言っていることには、倫理的な面を除けば一分の隙もないのだ。
 そして、魔術師が倫理の問題など気にするはずもない。

「なに、おぬしが聖杯を持ち帰れば、桜の教育は一年で切り上げてやろう。そもそも聖杯さえ手に入れば、あのような小娘は必要ないのでな」
「……だが、俺は」
「くどい。これ以上の譲歩が欲しくば、貴様もなにか、別のものを差し出すがいい」

 なおも言い縋ろうとして、一刀両断される。

(どうする……どうすれば、いい……?)

 必死で考えを巡らせる。
 しかし、答えは、不可能の三文字。全員が幸せになることはできない。そこに雁夜がいないことを覚悟しても、まだ足りない。
 おそらく、そこには、桜もいない。

「しかし、貴様の態度次第では考えてやらんでもないぞ」
「なに?」

 予想だにしない言葉に、雁夜は飛びつく。
 臓硯がこのような形で妥協を匂わせるとは考えもしなかった。
 しかし、それだけに嫌な予感も先立つ。

「なに、簡単なことじゃ。おぬしの物を一つ、ワシに譲ると言うならば――桜の教育は一年どころではない、一刻、いやさ、一瞬たりとも行わぬと確約してやろう」
「……」

 雁夜は、思わず黙り込んでいた。
 その提案をした臓硯の顔が、いまだかつてないほどに厭らしく、また嫌悪感を催すものだったからだ。
 この顔を、雁夜は一度だけ見たことがあった。

 そう――鶴野に、身籠った妻を差し出すように言った時の――

「たしか、そう、飛鷹と――」
「黙れッ!」

 叫ぶ。
 冷静さなどかなぐり捨て、怒りと恐れのままに叫ぶ。
 同時に、血が出るほど強く、思い切り壁を殴りつけていた。そのまま宙に彷徨わせていては、目の前の小さな老人に叩き込まない自信がなかったからだ。

「飛鷹に手を出してみろ、刺し違えてでも貴様を殺す! 殺してやるッ!」

 自分でも驚くほど、殺気立った声が出た。
 その様子を見て、臓硯は舌舐めずりでもせんばかりの様子だった。

「ふむ? 親子で一緒にいられるようにしてやろうという心遣いを無に――」
「黙れと言っただろう。あんたの妄執に付き合うのは、俺だけで十分だ」

 いけしゃあしゃあと「心遣い」などという言葉を吐く老人に底知れぬ大きさの殺意を覚えながら、雁夜は胸に重石を乗せられたような気分を味わっていた。

「ク、ククク……それで、返答は?」
「……ノー、だ」
「それでは、桜を間桐に迎え入れることとするが、よいな?」

 わざわざ聞くあたり、ただの嫌がらせであることは明白な問いだった。

「――勝手に、しろ」

 そして、その嫌がらせは見事に功を奏する。
 雁夜の心は、この瞬間、ズタズタに切り裂かれたも同然となったのだから。
 断腸の思いだった。
 それでも、飛鷹と桜を天秤にかけたならば、どちらを優先するかは決まり切ったことだった。

「では、おぬしにも早速、修行を受けてもらうとするかの。まずは、蟲どもの苗床になってもらうとしよう。そうじゃな、一週間ほど耐えきったならば、その本気に免じて、少しは桜と関わる自由を認めてやってもよい」
「……さっさとしてくれ」

 吐き捨てるように呟いた雁夜は、俯いて、名状しがたい感情のうねりが外に出ないよう、堪えることしかできなかった。

 こうして、雁夜と臓硯の舌戦は、雁夜の敗北に終わる。





 この翌日、桜を見捨ててまで守ろうとした息子が来るなどとは、思いもせずに。



[33893] 到着のすれ違い
Name: 深海魚◆6f06f80a ID:fb12e672
Date: 2012/07/09 22:48
「んぅ……」

 ここ、どこ?
 目覚めた飛鷹が最初に思ったのは、そんな素朴な疑問だった。
 なにせ真っ先に視界に飛び込んできたのが豪奢なシャンデリアだったのだから。
 上半身を起こすと、自分はベッドに寝かされていることが分かった。
 服は柔らかく上等そうなパジャマに取り換えられ、リュックサックは脇の机の上で鎮座している。

(わけ分からない……けど、とりあえず)

 とりあえず、腹が減った。

 コン、コン。ノックの音が室内に響く。
 どこかデジャヴュを覚えながら飛鷹が、はい、と答えると、小さく音を立てながらドアが開いた。
 入ってきたのはメイド服に上品な感じで身を包んだ女性だった。美しいとか可愛いとかいうわけではないが、上品さが感じられる。
 メイドは完璧な一礼をして口を開いた。

「起きられましたか?」
「え……あ、はい。あなたは……?」
「この家の家政婦です。ここは間桐家の館……臓硯様、つまり飛鷹様にとってのお爺様の家です」
「そう、ですか」

 飛鷹は必死になって記憶の糸を手繰る。
 家を出た。
 タクシーに乗った。
 優しい人に出会った。
 自分の祖父に会った。
 そして車に乗って――

(――どうなったんだろう)

 そこから先は、なにも覚えていなかった。

「飛鷹様は、車の中で唐突に気を失われたとのことです。そのまま放っておくわけにもいかず、この部屋でお休みいただきました」
「そう……ですか」

 少し頭が痛んだ。
 なにかが違う、違うような気がする。しかし、なにが違うのか分からない。
 話の内容が違うのか、環境の変化に戸惑っているだけなのか、それとも他のなにかが違うのか、飛鷹には分からない。

「飛鷹様が車中で倒れられてから、そう時間は経っていません。すでに晩餐の用意をしておりますので、これより食堂へとお越しいただければと」
「……はい、分かりました」

 飛鷹はぐらつく意識に力を込め、今度は足がふらつくことに気付く。

「あれ? あれ?」

 立とうとしても立てず、転びかけた体をメイドに支えられる。

「す、すいません……」
「お疲れになったのでしょう。ご無理をせず、こちらにお乗りください」

 そう言ってメイドが指したのは車椅子だった。

「え、いや、そんなのいいです。大丈夫ですから。ほんとに」
「しかし、飛鷹様になにかあれば、私の責任でもあります。私のためと思ってお乗りください」
「……」

 自分の性質をなぜか熟知しているメイドに抱えられて車椅子に乗り込みながら、飛鷹はふと思った。
 思って、聞いた。

「あの、お父さんは知りませんか? ここにいるかも、って思って来たんです」

 飛鷹を下ろしたメイドの動きが、静止画のようにピタリと止まった。
 その反応に、なにか不吉なものを覚える。
 ややあって、メイドは何事もなかったかのように背筋を正した。

「……雁夜様のこと、でしょうか」
「はい! 会わせてほしいんです!」

 やった、とうとう辿り着いた――歓喜に震える飛鷹に構わず、メイドは車椅子を押し始めた。

「雁夜様は、ただいま外出されています」
「え…………そう、ですか……」

 一瞬で喜びがしぼんだ。飛鷹は俯いて零れそうな涙を先んじて堪え、拳をぐっと握り締める。
 それを見かねたように、メイドが溜息をついて言った。

「雁夜様がいつお帰りになられるのかは分かりません。ですが、臓硯様が然るべき時に会わせてくださるでしょう。いまは晩餐をお楽しみください」

 飛鷹は答えず、泣きそうな顔を拗ねた表情に切り替えた。





 車椅子で食堂に到着した飛鷹は、とりあえず見回す。
 部屋にあった物と同型だが、明らかにそれよりは巨大なシャンデリア。
 自分が着せられている明らかに高級品であろう服。
 また、高価そうな本棚やらグラスやら壺やら、その他にも様々な調度品が発見できた。
 雰囲気は少し――いやかなり――陰気ではあるが、そこに目を瞑れば、どこか遠坂邸にも似ているような。
 飛鷹は、傍に控えている先程のメイドに思わず問うていた。

「あの……」
「なんでしょうか」
「おじいちゃんって、すごいお金持ちだったり……するんでしょうか」
「おじいちゃ……いえ、そうですね」

 なぜか狼狽した様子のメイドは少し黙りこみ、ややあってから、

「お金持ち……そうですね。一般的にみれば、富豪に位置づけられるとは思います」

 どこか砂を噛んだような調子で答えた。
 その意味を尋ねようとした瞬間、見計らったように料理が運ばれてくる。

(……まあ、食べてからでいいや)

 空腹に負けた飛鷹は、とりあえず瑣末な疑問を後回しにして食事に専念しようと決めた。
 そして、それっきりその疑問を忘れてしまった。

 ――たとえ問うたとしても、まともな答えは返ってこなかっただろうが。





◇◆◇◆





 同日、同時刻。
 間桐邸、別室。

「ぐぅ、おぉオあああ!」

 内臓をじかに抓られたような痛みに、雁夜は与えられた部屋で七転八倒していた。とはいえ手足はベッドに拘束されて、体を痛めないようにしているが。

 今日、雁夜は、体内で虫が孵化するという嬉しくもない経験をする羽目になっていた。
 体内に植えつけられた刻印虫の卵が一晩かけてゆっくりと雁夜の魔力を吸収し、孵化を迎えたのだ。
 孵化した刻印虫は、魔術回路へと這い進み、その内部に潜り込んでさらに成長を重ねる。そして魔術回路が供給する魔力を貪欲に食いつくす。
 刻印虫が育つことで魔術回路は拡張される。引っ張られたゴムが伸びるように、回路もまた太くなる。刻印虫は成長することでさらに多くの魔力を必要とするが、太くなった魔術回路ならばその要求に応じることができる。ある意味、究極の一人芝居である。
 ただし、それは尋常でない痛みと、神経も同然の魔術回路に異物が潜り込むというおぞましさを伴う。
 それは雁夜が予想していた以上の苦しみだった。

「ぎ、がぁああァああッ! くそ、この……虫けらめ……ッ!」

 山のように悪態をつき、はばかることなく涙を流し、滝のような汗をかく。失禁など、この一時間前にやらかしてしまっている。
 それでも体液が出る間はまだマシだ。
 最も苦しく辛いのは、この先――魔術回路という安住の場所を見つけられなかった刻印虫が、生きるために足掻きだしてからである、
 魔術回路の内側に潜り込める刻印虫は僅かだ。
 今回、雁夜の中に植えつけられた卵の数は実に数千。しかし、その虫をすべて受け入れられるほど、雁夜の魔術回路は多くも太くもない。ならば、自然と余りモノが生まれるのである。
 そうして生まれた残りの虫は、自分が生き残るために他の境遇を同じくする刻印虫と連携し、擬似的な魔術回路へと変貌を遂げる。魔術回路に侵入した刻印虫を通して魔力を盗み取り、それを余りモノの刻印虫に効率よく供給するためのネットワークを形成し、一個の群れとして生き延びようと試みるのだ。
その過程で、刻印虫は根を張る。肉に突き刺さり、神経に巻きつき、まるで蜘蛛の巣のようにしっかりと張り付く。その痛みに耐え抜いた人間は今まで一人もいない。
 だが、そこを超えれば後はマシだ。
 それらの刻印虫はある程度まで――回路を模した群れが自然に維持できる段階まで――育つと、成長を止め、最低限の魔力で生きる方向へとシフトし、回路に住み着いた虫を殺して除去する。要するに、宿主との共存を図るのである。
 結果、省エネの刻印虫が食いきれない分の余剰魔力が生まれ、魔術回路の劣化版が体内で張り巡らされることとなる。
 これが、魔術回路の本数を増やすという間桐の秘儀、その正体だった。

 そもそも、魔術回路が多いからといって、魔力の総合量が増えるわけではない。一定期間内に運用できる量が増えるだけだ。
 本数が少なく、細ければ使える魔力も小さい。
 逆に太く多ければ、使える魔力は大きい。
 当然の法則だ。

 それを超えて魔力を使おうとすれば、その先に待つのは魔術回路の自壊という末路。
 だからこそ魔術師は連綿と魔術刻印を継ぎ、血を絶やさぬように子を成してきた。

 臓硯が生み出したのは、その常識に当てはまらない。常識の埒外にある。
 いわば魔術回路の複製、魔術刻印の贋作とでもいうべき技術である。
 ゆえに、刻印虫。

 この技術が間桐の魔術師に多用されなかった理由は、単純だ。
 一つは、刻印虫を使って魔術師として強くなったとしても、その子供には受け継がれないということ。
 たとえば、整形手術をして絶世の美女になろうとも、その子供に受け継がれる遺伝は整形前のものだ。それと同じ理屈で魔術回路もまた、後天的に増やしたところで仕方がない。
 そしてもう一つは――これこそが主な理由なのだが――あまりにも成功率が低いのである。
 過去、間桐の歴史上で刻印虫を使用したのは、雁夜を除いて三人。その三人全てが痛みに耐えかねて発狂、魔術師として使い物にならなくなっている。
 後継ぎを生むだけの女に使用するならばともかく、戦争に出す大事な手駒に使うにはあまりにリスキーだった。

 ただし、最初から捨てるつもりだった戦争に、とうの昔に捨てた手駒が出るためならば――使うことも惜しくはないということだ。

「があアぁあああァアあああッ!」

 シーツをちぎり取らんばかりに握りしめ、体はガクガクと痙攣し、時折口から吐血する。
 皮膚が不定期に脈打ち、体内の虫が移動していることを示していた。

 ――狂う。

 そう思った瞬間、雁夜の脳裏に浮かぶのは二人の影。
 優しげに笑う、可哀そうな幼馴染と、
 輝くように笑う、太陽のような息子。

(葵さん……飛鷹……!)

 その二人にしがみつく様にして、雁夜は正気を保っていた。
 桜を――ひいては葵を救えるのは自分だけだ。
 一年は地獄を見るだろう。桜は消えることのない傷を心に負うだろう。だが、生きて帰ることはできる。
 雁夜のいなくなった後に飛鷹に訪れるだろう空白を、あの少女ならきっと埋めてくれる。桜もまた、息子と傷を舐めあうようにして立ち直っていくだろう。
 桜が決定的に壊れてしまわなければ。
 飛鷹が完璧におかしくなってしまわなければ。

(大丈夫、大丈夫、大丈夫……)

 それを信じて、雁夜は終わりの見えない痛みと戦う。
 そうでもしなければ、耐えられそうにない。




 ――トキオミサエ、イナケレバ――





 心の奥に眠る、ドス黒い感情から努めて目を逸らしながら。
 一度覗きこんでしまえば、抑えきれずに溢れてしまうと、頭の片隅で気付いていたから。



[33893] 悪夢の邂逅
Name: 深海魚◆6f06f80a ID:fb12e672
Date: 2012/07/10 21:54
 飛鷹の食事が終ると、見計らっていたかのように食堂の扉が開く。
 臓硯が、例のごとく杖を突き突きやってきた。

「飛鷹よ。調子はどうじゃ?」
「あ、もう大丈夫です。ありがとうございます」

 畏まって頭を下げる飛鷹を、臓硯は笑う。

「なに、そう畏まらずともよい。それよりも、おぬしには話すべきことがあるでな、こうしてやってきたというわけじゃ」
「話すべき……こと?」
「うむ。というよりは、知っておくべきこと、というべきかもしれん」

 どこか勿体つけた言い方に、飛鷹は胸騒ぎを覚える。
 この祖父と一緒に車に乗り込んでからの記憶が何一つ残っていないというのも理由の一つではあったが、それ以上に、眼前の老人の笑顔が邪悪の権化にしか見えなかった。
 しかし、次の瞬間に臓硯が放った言葉に、その悪寒と予感を差し置いて、飛鷹の体は反応した。

「雁夜がおぬしを置いて出て行ったことにも関係し」
「なにがあったんですか」

 声音も口調も、やけに凪いでいた。
 しかし、この凪は嵐の前の静けさにも等しいと、飛鷹自身はもちろん、臓硯もメイドも気づいていた。
 この声は、薄皮一枚の下に火山のような熱を秘めていなければ出せない声だ、と。

 飛鷹が求めてやまないもの――事情の糸口をようやく掴んだことで、礼を失さぬように心の奥底に閉じ込めていた憤怒と焦燥が、空腹や疲労で一時的に忘れられていた激情が、表に噴き出ていた。
 もう待てない。ここより他に手がかりがない。もしもここになにもなかったら――そんな恐怖と闘いながら、この館に留まっている飛鷹にとって、いまの一言はなによりも求めていたものだった。

「ふむ。そのことを説明するためには、まず」

 ゴクリと、飛鷹は固唾を飲んで待つ。一言一句、細大漏らさず聞き取ろうと身構える。

「魔術について教えねばならんな」
「……へ?」

 魔術? それってオカルト? 意味分かんないよ。
 飛鷹はその一瞬、なにもかも忘れて呆けた。
 あまりにも予想外な一言に、思考が停止していたのだ。
 そして、一拍置いて、先よりもさらに大きな怒りが込み上げる。

「ふざけないで、おじいちゃん。魔術とお父さんと、どう関係あるのさ!」

 敬語など忘れて、怒りのままに叫ぶ。
 これが実の祖父だと聞いていなければ、掴みかかっていただろう。
 当の臓硯はというと、涼しい顔で飛鷹を見て――否、少し笑っている。

「まあ、落ち着け。ワシも話さぬとは言うておらん」
「……でも」
「順序立てて話さねば、理解できぬこともあろう? 魔術の話をせねば、雁夜がなぜワシの元に来たのかは理解できんだろうな。それでも構わぬというならば、好きにせよ」

 飛鷹は言葉に詰まり、ややあってからうなだれた。

「……ごめんなさい。お話、お願いします」
「では魔術についての話を始めるとしよう。――簡潔に言う。魔術は、実在する」

 躊躇いもなく、迷いもなく言い切った臓硯を、飛鷹は若干冷たい目で見る。
 なぜ魔術の話が必要なのかにも納得しない内に、この老人、もしかして本物の電波ではないかと疑う材料ばかり与えられているのだから無理もない。
 実は狂人でした、などという終わりならば、飛鷹はどうしていいか分からない。

「信じておらぬ目だな。おぬしほどの年頃ならば、無邪気に信じると思うていたが。つくづく、子供らしからぬ奴よ」
「空想と現実の区別ぐらい付きます。あと、もう七歳です」

 完全に冷え切った飛鷹の声を聞いて、臓硯はなにがおかしいのか肩を震わせて忍び笑いを漏らした。

「空想、空想か。まあ無理もない。本来の魔術は、小童を喜ばせるために作られた娯楽にあるような、暴力的で浅はかなものではない。神秘の探求こそがその本質。その目的は、根源への到達――すなわち、この世を含めた全ての始まりの地点を目指すことに他ならぬ。炎を出そうが、光の矢を放とうが、それは副産物にすぎぬ」
「つまり?」
「おぬしのような、ただの小童は、そのような事情を知る由もない。ゆえに魔術の存在を知るはずもない」

 焦れる飛鷹を尻目に、臓硯は嫌味なほどゆっくりと飛鷹に背を向け、食堂の外へと歩き出す。

「付いてこい。魔術というものの本質を見せてやろうではないか。おぬしが求める者とも会えるやもしれんぞ?」
「……嘘じゃないですよね」
「ついてなんになる? じゃが、雁夜に会いたくないというのであれば話は別。部屋に戻り、疲れを取るがよい。なに、心配せずとも世話は――」
「行くよ! ……行けば会えるんだよね?」
「応とも……会える」

 返事を聞いて、臓硯が振り返る。
 飛鷹はその瞬間、確信した。





 ――この人は、悪い人だ――





 さながら、巣にかかった哀れな獲物を見て舌なめずりする蜘蛛のように、臓硯は笑っていた。
 どこまでも狡猾に、厭らしく、忌まわしい顔で。





◇◆◇◆





《ほう、最初の峠を越えたか。ひとまずは狂わずに済んだというわけだ》
「……何の用だ、臓硯」

 これ以上、惨めな姿はそうあるまい。雁夜は自嘲しながら、突如としてやってきた仇敵の声を聞く。
 この魔術師と対峙するときは、いつも恐ろしさで膝が笑いそうになったものだ。しかし、いまではその恐怖すら鈍ってしまっている。あまりの痛みと苦しみに、現実感を失っているのだ。
 天地も、朝か夜かも明らかではない。ただ僅かな浮遊感と、まどろみのような脱力感と、慣れ切ってしまった痛みの残滓だけがある。

《なに、少しばかり教育を早めようと思うてな》
「なにを……があッ!?」

 訝しむ暇もあればこそ、雁夜の体内で休眠していた刻印虫が動き出す。

「ぞう、けん、てめぇ……がぼぁっ」

 口から特大の血塊が吐き出され、雁夜の言葉は途切れる。
 しかし、臓硯は雁夜の言いたいことを察していたらしい。

《殺すつもりか、と? いやいや、まさか。少し予定を前倒しにせねばならぬ事情ができたというだけのこと。なに、案ずるな。死ぬ寸前で止めてやろう》
「ギッ、あああぁあああがああああああっ!」

 七転八倒することすら許されず、ただひたすらに苦しむ。
 その状況で、雁夜はひとつのことを考えていた。

 ――何のために?

 意味もなくこのようなことをするほど、臓硯は愚かでもない。ならば娯楽か? 否。歪んではいるが、このようなやり口は臓硯の性癖に合致しない。肉体的に痛めつけるのはあの老人の趣味ではない。むしろ、絶望へと人を突き落とすのが大好きな外道だ。
 痛みでまともな思考もままならぬ状態ながら、その疑問は雁夜の頭を回り続けた。

「……おとう、さん……?」

 聞きなれたその声が、耳に届くまでは。
 幻聴だ。そう思いつつも、首を動かすと――

「ひだ、が、うあああああっ!」

 痛みの奔流が流れ出す。
 脳髄の奥に直撃する狂おしい痛苦の中、雁夜はもう考えることをやめていた。
 きっと、これは夢なのだ。
 それもとびっきりの悪夢に違いない。

 目が覚めたとき、自分はあのアパートにいて、
 飛鷹が隣の布団で寝ていて、
 それをからかうと、飛鷹がむくれてしまって、
 慌てて謝って、ご機嫌をとって、

 そんな日々が帰ってくるのだ。

「お父さん、お父さんっ! しっかりして、死なないで――」

 だから、きっと、いま見ているものは嘘。聞こえているものは偽り。
 飛鷹が自分の手を握って泣きながら縋りつくなんて、ありえないのだから。
 最愛の息子は、冬木にいないのだから。
 こんな地獄にいるなんて、臓硯の手の内に入ってしまっているなんて、そんなこと――



[33893] 恐怖
Name: 深海魚◆6f06f80a ID:fb12e672
Date: 2012/07/11 19:21
 飛鷹は一瞬、目の前のものがなんなのか分からなかった。
 行動らしい行動といえば、血走った目で虚空を見つめ、見ている側まで辛くなるほど体を痙攣させ、口からはただ叫び声を上げるだけ。
 血を流し、汗をかき、涙を零し、大小便を漏らし、それら全てが混ざり合った異臭を纏っている。
 視覚、聴覚、嗅覚、どれを取っても、その無残な姿は自分の父親とどうしても重ならない。
 それでも、飛鷹が雁夜の顔を見間違えるはずはない。
 紛れもなく、あれは――

「……おとう、さん……?」

 おそるおそる、かけた声。
 しかし男はその声に反応して飛鷹を見据え、

「ひだ、が、うあああああっ!」

 ひだかと、確かににその名を呼んだ。
 間違いなく、これは雁夜だった。
 自分が探し求めた、最愛の父だった。

「お父さん、お父さんっ! しっかりして、死なないで! お父さん!」

 泣きながら駆けより、その手を握る。暴れる体に抱きついて抑える。
 だが、雁夜にはその声も、その動作も、もう認識する力が残っていなかった。

「……それが、魔術」

 飛鷹の後ろで、臓硯が愉快気に語る。

「魔術の目的は根源に至ること、とワシは言ったな。だが、それは一代で成せるほど安い業ではない。何代にも渡って交配による改良を繰り返し、少しずつ進んでいく類のもの。雁夜の安い信念や薄い血では、死ぬ確率のほうが高いであろうな」
「……るさい」
「事実を言うておるだけのこと。ああ……そういえば、ひとつ言い忘れておったな。あの不動産におぬしを迎えにいったのは、全てこの瞬間のためでしかない」
「うるさい」
「なぜか知りたいであろう? 意味などない。強いて言えば、ワシの趣味じゃ」
「うるさいッ!」

 飛鷹の中で、なにかが引きちぎれる音がした。
 飛鷹は、生まれて初めて、誰かを憎んだ。
 存在すら許されない仇敵と化した老人を黙らせ、雁夜を救う手段を聞き出すべく、飛鷹は臓硯に飛びかかり――空中で静止した。

「な、なんで……!?」

 その瞬間、飛鷹は燃え盛る怒りすらも忘れて驚愕していた。
 なぜ、自分は、空に浮いているのだ?
 その答えは、突然鳴り響きだした羽音に反応して、後ろを振り返ったときに与えられた。

「あ――」

 絶句する。
 最初はそれがなにか分からず、一拍置いてから理解が追いつく。
 自分の拳ほどもある羽虫が、パジャマの襟を掴んで飛行していたのだ。
 しかも一匹や二匹ではない。見えない範囲も含めれば、背中や肩の後ろにも引っ付いているらしく、数えるのが馬鹿らしくなるレベルだ。

 非現実的にも程があるそれに、飛鷹は口を開くことを忘れていた。

「悪童には、灸をすえてやらねばならん」

 臓硯が、指をくるりと回す。
それに呼応して、天井の通風口から無数の羽虫が新たに飛来し、飛鷹に襲いかかった。
 顔に、腕に、足に、服の中に、至る所に虫がいる。

「うわああぁあああああっ!」

 思わず飛鷹は悲鳴を上げ、がむしゃらに腕を、足を、体全体をバタつかせた。
 生理的な嫌悪が、根源的な恐怖が蘇っていた。人間を食い殺せるだろう虫が、何百匹も自分の体に纏わり付いているというのに、誰が冷静に振る舞えようか。まして、飛鷹はまだ七歳である。“大人”の精神が混ざった異端児とはいえ、耐えられないものはある。

 いくら暴れても、羽虫の拘束は揺らがない。襲撃は終わらない。小学二年生でしかない飛鷹の力は弱い。なおかつ空中に浮いていて踏ん張りは聞かず、羽虫の数は異常に多い。
 この状況下で、飛鷹が勝つ要素はなかった。
 恐慌状態に陥った飛鷹を見てご満悦の表情を浮かべる臓硯は、満足したのか腕を振り上げた。

「ワシに害を加えようなど、百年早い。調子に乗るな、小童」

 そういった臓硯が指を一振りすると、飛鷹はゆっくりと地面に降り立った。無論、自分の意思によるものではない。羽虫が羽ばたきを少しずつ弱めて器用に着地させたのである。
 襲いかかっていた羽虫は天井の通風口に消え、残りはパジャマを離してすぐに飛び立った。

「や、いやだ、やめて、ごめ、ごめんなさい、ごめんなさい……」

 飛鷹はガチガチと歯を鳴らし、背中を盛んに触り、叩き、羽虫がいなくなったことを確かめてほっと息をついた。
 しかし、恐怖はたしかに残っている。
 耳元に、あの羽音が残っている。
 背筋がまだ寒い。

「……魔術とは、並大抵の努力で継げるものではない。また、身に付くものでもない」

 そんな飛鷹を見下しつつ、臓硯の話が再開する。

「かつての雁夜は、その業を継ぐことを拒んだ。そこでなにもかも諦めればよいものを、いまになって戻ってきた報いが、その苦しみじゃ。ワシの虫に耐えられるはずもないことを分かっていながら、それでも自己満足を求めてワシに縋った、愚か者の末路よ」

 臓硯が杖を床に打ちつける。
 それに呼応して、雁夜の刻印虫が活動を停止したことを見届けると、臓硯は背中を向けた。

「おぬしには全てを話す。おぬしもそれを聞いた上で、どうするか決めるがよい」

 臓硯の言葉の大半は、飛鷹の耳に入っていなかった。
ただし、ある部分だけはしっかりと聴き取っている。

 ――ワシの虫――

 瞳に力を取り戻し、臓硯を睨みながら、ゆっくりと飛鷹は顔を上げる。
 その手には、脇の机に置かれていた注射器が握られている。雁夜の体内に刻印虫の卵を植え付ける際に使用したものだ。
 飛鷹は、映画で見て知っていた。
 人間の血管に空気を注射すれば、心臓になにかが起きて死ぬということを。
 この老人ならば、それは確実に致命傷となるであろうことを。

 怖い。恐い。目の前のちっぽけな老人が、恐ろしくてたまらない。あんな異能を発揮された後では尚更だ。
 でも――

 飛鷹の目は、臓硯をしっかりと見据えている。
 扉を開き、たったいま、まさに部屋から出ようとしている、その刹那。
 飛鷹は駈け出した。
 全力で、躊躇わず、一メートルもない距離を全速力で詰める。

「な、がっ!?」

 振り返った臓硯をタックルで押し倒し、間髪入れず注射針を首筋に突き刺す。
 臓硯の焦ったような声が聞こえたが、飛鷹は構わず親指でピストンを押し込んでいく。
 時間を与えれば、あの虫が天井から戻ってくるだろう。そうなれば飛鷹の負けだ。
 そして、天は味方したのかどうなのか――ともあれ、ピストンが全て押し込まれた。

「おまえを、殺せば――お父さんは助かるんだよね」

 飛鷹の言葉を聞いて、苦しみ始めた臓硯に理解の色が浮かび――次の瞬間、その体から力が抜けた。
 恐怖することと、その恐怖に屈することは、イコールではない。
 そして、飛鷹にとって、雁夜の命は自分のそれよりも重い。
 臓硯はそのことを知っていながら、その点を見誤った。
 子供にすぎない飛鷹が、それほどの勇気を持つとは思っていなかった。
 だからこそ、飛鷹の不意打ちは成功した。

「……やってくれる」

 ――途中までは。

「え……なん、で……?」

 茫然とした飛鷹の下で、臓硯の体が蠢く。
 大慌てで飛びのいた飛鷹の眼前で、臓硯は何事もなかったかのように立ち上がった。
 落とした杖を拾い上げ、服の埃を軽く払う。

「……ワシの体は、特別製でな。ワシは不老不死を研究し続けておるのだ。その過程で――生命力だけは虫並みに向上しつつある。血中の酸素濃度を弄られた程度では、とてもとても、死にはせぬ」

 一歩。
 臓硯が一歩、飛鷹に近づく。

「あ、あ……あああああああっ!」

 それだけなのに、飛鷹は雁夜の横たわるベッドまで下がり、手当たり次第に物を投げつけた。
 しかし、その全てが切り裂かれて地に落ちる。
 臓硯の周囲に突如として出現した、先程とは別の羽虫が飛び回ったかと思うと、なにもかも切断されていたのだ。

「飛鷹よ、これ以上はワシとて看過できぬ――分かるな?」

 頷くことすら忘れて、飛鷹は怯えていた。

 ――こんなの、悪い夢、夢だ――

 必死で、自分の心にそう言い聞かせながら。



[33893] 選択
Name: 深海魚◆6f06f80a ID:fb12e672
Date: 2012/07/14 11:55
 予想もしなかった悲劇から、五分後。

「雁夜の馬鹿者は、なぜ戻ってきたか、知りたいであろう?」
「……はぃ」

 飛鷹と臓硯は、応接間で向かい合って話をしていた。
 奇しくも、その前日に雁夜と臓硯が対面していた時と同じように。
 飛鷹は先程の動揺を欠片も表に出さず、冷静さを見せている。
 声は若干震えているものの、たった五分でパニックから回復したのは、七歳の子供であると考えれば称賛に値するだろう。

 これは、飛鷹の特殊性に由来する。
 彼の精神は二つある。“大人”と、“子供”だ。
 無論、心や人格が二つあるわけではない。だが、飛鷹の心は二人分が混ざってできている。つまり、単純計算で常人の倍の許容量があるのだ。
 “子供”の未熟な精神が“大人”の成熟した精神に引っ張られているため、子供の面の成長も早いことを考えれば、二倍以上だといえる。
 ゆえに、平常時へのリカバリーも単純計算で倍以上の速さ。
 ショックへの耐性も常人の二倍以上。
 体は一人分であるために、並列思考や筋力二倍などといった力はないのだが、倍の精神力というだけでも十分な強みである。

 ただし、それは逆も然りである。
 先程のように、“大人”であっても恐怖せざるを得ない事態が突発的に起こった場合、パニックも二倍になる可能性がある。
 心という深遠かつ複雑な分野のことであるため、はっきりとしたことは断言できないが。

 要するに、飛鷹の異常性は、ある一定のラインを超えると諸刃の剣となりうるのだ。

 そして、そんなことは全く知らない臓硯は、心の中で飛鷹への評価と警戒心をやや上向き修正する。
 修正して、飛鷹をその黒い眼でしっかと見る。
 見られた飛鷹は、居心地の悪さにも近いものを感じて身じろぎした。

「早く、お父さんの話を、お願いします」
「……よかろう」

 これだけの気骨が残っているとは――驚愕から僅かに瞠目した臓硯は、すぐさま醜悪なまでに邪悪な笑みを顔に張り付け、語り始めた。

「一から十まで説明しようなどと思えば、数百年分を語り尽くさねばならぬ。ゆえに、とりあえずは基本的なことだけを話しておこう。――雁夜は、聖杯戦争にて勝ち抜き、聖杯を手に入れるために舞い戻った」
「せいはい?」
「聖杯とは……そう、平たく言うてしまえば、願いを叶える杯じゃ。死者の復活、根源への到達、世界の改変……どれほど悪辣で、どれほど深遠で、どれほど非現実的な願いであっても、聖杯はくみ取り、そして叶える」
「……」

 あくらつだの、しんえんだの、小難しい言葉は理解できなかったものの、文章に込められた大よそのニュアンスは掴んだ飛鷹は、黙り込んだ。
 確かに魔術というものの存在は認知した。ついさっき自分を襲った羽虫や、木のアンティークを日本刀のようにすっぱり切り裂いた謎の虫が、よもや自然界の生物ということはあるまい。あんな虫がいれば、生態系のバランスなど、とうの昔に崩壊しているだろう。その点から考えれば、願いを叶えるというのも信じられないではない。
 ただし、文字通りありとあらゆる願いを叶えるというならば、やはり話は別である。

 ランプの精よろしく、こすったら出てきてなんでもしてくれるという類のモノならば、まだ納得もできただろう。しかし、死者の復活から世界の改変までなにもかも、となれば、疑わざるを得ない。

「信じられない……とでも言いたげな顔じゃの。しかし、信じぬならば、ここからの話は全て意味を持たぬ。まあ、無理に信じろとは言わぬがな」
「……続けてください」

 呟きながら飛鷹は、心の中で臓硯の評価を改めた。
 この老人は悪い人ではない。
 心の在り方も意地も、ついでにおそらく趣味も悪い人だ。

「さて……その聖杯を持ち帰るための戦争が聖杯戦争じゃ。詳しくは置くが、戦争を行うことによって聖杯は完成する仕組みとなっておる。周期は六十年に一度。その戦争に勝ち残り、聖杯を持ち帰るのが、間桐家の悲願。それだけを目指して数百年、繰り返すこと三度、しかし未だに叶っておらん。だというのに、今回の聖杯戦争は勝つ見込みのある魔術師すら用意できなんだ。仕方なく、次の六十年が巡り来るまで待つと決めた」

 臓硯の唇の両端が、歪に吊り上がる。

「が、そこに舞い戻ってきたのが雁夜であった。ワシは奴の言い分を聞き、取引を交わした。聖杯と遠坂の小娘一人、等価とは世辞であっても言えぬ交換だがな。その結果、あやつは魔術師としての己を高めるべく、あのような外法に手を出す仕儀となった。……ふむ、こんなものか」

 臓硯の使う言葉はやけに難しく、とうか、せじ、げほう、などなど、あまり理解できない部分も多々ある。
 ただし、それでも分かる言葉はある。

 ――遠坂?

 飛鷹の耳に、なにやら聞き捨てならない言葉が飛び込んだ。

「ちょ……ちょっと、待ってください」
「なんじゃ」
「遠坂の小娘って、どういうことですか? なんであの人たちが、こんな話に関係あるんですか?」
「む? ……ああ」


 飛鷹の疑問を、まるで虫を捕らえる食虫植物のように絡め捕り、臓硯は今度こそ、嗤った。
 自分は、途轍もなく巨大で深い墓穴を掘ったのかもしれない――飛鷹は、そう直感する。

「成程。そういえば、雁夜は遠坂に嫁入りした女と親交があったな。ならば飛鷹、おぬしが遠坂家を知っておっても不思議はない……」

 はたして、その直感は裏切られなかった。

「簡潔に言えばな、遠坂桜という小娘は、この間桐の家で、魔術師として育てられることになっておる。ただし、その育成に使われる手段は、ちと惨いものだがな」
「桜ちゃん……むごい?」

 言葉の意味は分からない。
 ただし、桜が関係していることと、その桜が目の前の老人の手に落ちようとしていることは理解できた。
 それが、確実な不幸しか呼ばないということも。

「応。蟲で満たされた蔵にて、骨の髄まで犯されぬくのよ。そうすることで、遠坂の血を薄め、間桐の魔術に染める。そうでもせねば、遠坂の血が間桐のそれをかき消してしまうのでな。――犯す、という言葉は分かるか?」
「……分かりません。でも、凄く嫌なことの気はします」

 この場面で、あれほど悪の権化のような性質を見せた老人が、あれほど嬉しそうに笑って口にした言葉である。碌な意味ではないという予感があった。

「ふむ、分かりやすく言えばな、先程の雁夜が受けておったのと同じ――いや、より酷いやり方で、しかもより長く、続けねばならんということだ」
「お父さんより……ひどい?」

 全身が震える。
 雁夜の受けていた責め苦が、頭の中に蘇る。
 それを見た臓硯はなにかを推し量るように飛鷹を改めて見た。

「頭では理解したか……が、古来より、百聞は一見に如かずと言う。どれ、蔵を見に行くとしよう。さすれば、桜がどれほどの地獄を味わうこととなっておるか、真の意味で分かろうものよ」

 臓硯は背を向け、またも歩き出す。
 その状況が、雁夜と会ったときのそれとダブって、飛鷹は追従することを躊躇した。

「来ぬのか? 見て見ぬふりをすると言うならば、止めはせ――」
「行きますっ! ……行くから、待って……」

 最後は泣き声だった。
 もう、耐えられなかった。
 どうして――自分の大切な人ばかり、こんな目に合うのか。

 追い詰められすぎて、悪い夢だと思い込むことすらできない。

(……桜ちゃん)

 儚げな微笑を浮かべる少女が、脳裏に浮かんだ。





◇◆◇◆





 結論から言えば、飛鷹は分かっていなかった。
 臓硯ほどの男が、地獄という形容を用いるに相応しい環境とは、どれほどおぞましい場所なのか。

「……ここ、に?」
「その通り」

 館を出て庭を横切った先に、入口から下を地下に埋めるようにして、その蔵はあった。
 壁に沿って作られた階段は底まで続いており、飛鷹には想像もつかない仕組みの灯りが、天から僅かな光を投げかけている。
 その光に、蔵の奈落は暴かれる。
 奈落の底、闇の中では、歪な形をした無数の蟲が、仄暗く湿った蔵の底で蠢いていた。
 うじょりぐじょりと、耳に入れるのも不愉快な音を立てて這いずる虫が、数万、数十万、一体、どれだけいるだろうか。先程の羽虫など、数でも質でも可愛いものだ。
 ここに、例えばか弱い少女を投げ込んだとすれば、どうなるかは想像に難くない。

(ここに、桜ちゃんが……)

 飛鷹は、頭の中で、ちらりとその光景を思い浮かべた。思い浮かべてしまった。

「~~~ッ!」

 想像ですら、正視に堪えない。
 こみ上げてきた強烈な吐き気を咄嗟に抑え込み、その場にうずくまる。

「……飛鷹よ。この光景を見た上で、おぬしに選択肢を与えてやろう」

 臓硯の声が、頭上から降ってくる。
 やけに不吉なものを含んでいた。

「桜を見捨て、父親を連れて去るか。それとも、父親の決意を尊重するか」

 その意味するところは、明白だった。
 飛鷹の声は、隠しようもなく震える。

「……桜ちゃんと、お父さん……どっちか選べってこと?」
「物分かりが良い。こちらとしても手間が省ける。しかし雁夜を選んだ場合は、あやつの記憶を弄らせてもらう。間桐の秘密を外に出すわけにはいかぬゆえ、遥か過去まで遡り、魔術に関する知識を根本的に消さねばならん。――むしろ、ここで逃げ出すというならば、そちらの方が幸福であろう」

 父親と、初恋の少女。
 天秤にかけて、どちらが重いか。
 それを臓硯は問うていた。
 桜を選べば、雁夜はこの地獄に留め置かれる。
 雁夜を選べば、桜が助からないのはもちろん、雁夜の人格を構成している記憶を少なからず奪われることになるだろう。

「そんなことっ、決められるわけ……!」

 そんなもの――答えようのない問いだ。
 飛鷹の目から、とめどなく涙が溢れた。
 あまりにも大きいストレスに、体が自衛反応を起こしたのだ。
 ぽろぽろと零れ続ける涙は石の階段に落ち、黒い点を作っていく。

「なにを気にすることがある? 知り合いの小娘一人、どのような目に合ったところで気にすることもあるまい」
「知り合いじゃない、友達だよ! 友達をこんなところに入れるなんて……」
「よく考えてみよ。雁夜とて、いまから処置をすれば十分に間に合う。これから先の長き時を、父親と共に過ごすことに比べれば――この年ごろにできた友を一人、たった一人だけ切り捨てたとて……」

 無茶苦茶だ――そう思いつつも、その提案に魅力を感じてしまう。
 飛鷹は思う。臓硯の声は、まるで昔に読んだ童話の、悪魔の囁きのようだと。

 桜ちゃんを見捨てるなんて、できるわけない――そう叫ぶ自分がいる。
 お父さんを見殺しにするなんて、できっこない――そう喚く自分がいる。

 桜ちゃんのことが好きだ。大好きなのに、こんなところに入れられるのを黙って見てるの?
 お父さんと一緒にいた時間、桜ちゃんと一緒にいた時間、どっちが長い? どっちが、いつまでも一緒にいる人?
 時間の多い少ないじゃない、好きなんだ!
 一緒にいた時間は大事だよ。お父さんは好きじゃないの?

 頭の中で、相反する心の声が浮かんでは消えていく。
 うずくまって、頭を抱えて、涙を流し続ける。

 飛鷹は、七歳の子供に戻ってしまっていた。
 それでも、時間は待ってくれない。
 泣いていても、なにも解決しない。
 望外の幸運は、絶対に起こらないと言っても過言ではないからこそ、奇跡と呼ばれるのだ。
 やがて。

「……ぼくは」

 飛鷹が選んだのは――



[33893] 分水嶺2if・飛鷹が雁夜を選んだら(前編)
Name: 深海魚◆6f06f80a ID:fb12e672
Date: 2012/07/15 20:07
 暖かい。
 雁夜はふと、そんなことを思った。
 ずっと冷たくて暗い館の中にいたからだろうか。
 ここは、とても暖かで――

「……お父さん」

 唐突に、覚えのある声が聞こえた。
 起きないと、と思って目を開ける。

「……飛鷹?」

 飛鷹が、柔らかな笑顔で自分を見つめていた。
 おかしい。なにかがおかしい。
 だって、いま、ここに飛鷹がいるはずはなくて。
 そもそも、ここはどこだ?
 こんな暖かさ、■■の家にはなかった。

(……あれ?)

 自分は、いま、なにを考えていたのか。

(そうだ、たしか、■■臓■と取引をして、■を■■……駄目だ)

 頭に霞がかかったかのように、記憶がない。
 あるのは分かっているのに、霧が立ち込めていて方角も詳細も分からない。
 雁夜は頭を振って、意識を覚醒させようと努める。
 そう、それは、決して忘れてはいけないことだったはず。
 一体、自分は、なにを忘れてはいけないと思っていたのだろう――

「飛鷹……ここは……」
「大丈夫」

 飛鷹は笑って、雁夜の胸に顔をうずめる。
 その体には紛れもない、人の熱が通っていて、雁夜には心地よく感じられた。
 まどろみの中にあった雁夜は、眠りの闇へと落ちて行きそうになるのを必死に堪える。
 そんな雁夜を、顔をあげた飛鷹は、どこか悲しげな笑みで見つめていた。

「もう大丈夫。休んでていいんだよ。お父さんは、頑張ってくれたから」
「……そっ、か……」

 なら、いいか。
 雁夜は、あっさりと眠った。
 神様だってこれくらいの休憩は許してくれるさ、と思いながら。
 自分は、頑張ったのだから。

(きっと、みんな、しあわせに――)

 雁夜は眠る。
 ひと時の、幸せな夢を見ることを許されて。
 それは、他ならぬ自分が決して許せないだろう怠惰だとも知らずに。
 それを許せないと感じる理由が、記憶の消去によって奪われていることも知らずに。

 雁夜には、ある措置が施されていた。
 暗示による記憶消去、及び改ざん。
 範囲は、魔術に関する全ての記憶。

 暗示をかけたのは、もちろん臓硯である。





「……寝たか?」
「はい」
「そうか」

 そんな会話をしているのは、飛鷹と守。
 飛鷹の後ろでは、後部座席を占領して雁夜が昏々と眠っている。
 冬木市を後にする一台の車に、三人の姿はあった。
 運転席に座る守は、車を走らせながら問う。

「……良かったのか?」
「はい」

 寸分の淀みもなく、飛鷹は答えた。
 その背後には、あれほどに望んだ、最愛の家族が、意識もなく横たわっている。
 昨晩の内に、体内に巣食う全ての虫を取り除かれ、また飛鷹の要望により一切の記憶消去を行われた雁夜は、心なしか安らかな寝顔を見せていた。
 臓硯によると、体力を消耗しすぎて眠っているだけらしく、守の孤児院につく頃には自然と目が覚めているはずだとのこと。

 暫らく、沈黙が訪れた。
 走行の振動と、エンジン音だけが耳に響く。
 守は、思い出したように口を開いた。

「……そういや、あのときはよくも逃げてくれたな。おかげで、この時期の冬木市内を駆けずり回る羽目になっちまったじゃねえか」
「……すいません」

 それっきり、また沈黙。
 飛鷹が、やけに凪いだ表情をしているのが、守の癇に障った。
 もっと子供らしく、感情を出せば良いものを。
 なにか、人間として大事なものが欠けてしまっている、そんな顔だった。
 守は、飛鷹から全ての経緯を聞いた。魔術の知識がある彼は、おそらく飛鷹よりも深く事情を理解している。
 心当たりなど、ひとつしかない。
 守は苛立たしげに片手で頭をかき、舌打ちをひとつ漏らす。

「なあ、おい。七歳児にこんなこと聞くのは間違ってるってことくらい、俺にも分かってるさ。だがそれでも聞くぜ。お前は本当に」
「いいんです」

 守の言葉を断ち切り、飛鷹は呟く。
 その左手で、しっかりと雁夜の右手を握りながら。
 もしも守が、面と向かって飛鷹と話していたなら、空いた右手が小刻みに震えていたことに気付いただろう。
 しかし守はなににも気付かず、気まずげに、また黙り込んだ。

 それからややあって、飛鷹はまた、呟いた。

「これで、良かったんです」

 そう、これが最善。
 最初の目的であった、雁夜の発見は果たした。そして、救出までも成し遂げた。
 なにもかも、飛鷹の望んだ通りになった。

「……ったく」

 それなのに、なぜだろう。

「そんなセリフを、泣きながら言うんじゃねえよ、バカが」

 涙が、止まらないのは。


 なにが自分の胸を苛んでいるのか、飛鷹には分かりすぎるほど分かっている。
 罪悪感。

 桜を見捨てたことに対する罪悪感。
 そして――間桐雁夜という個人を消してしまったことに対する罪悪感。

 魔術に関する記憶を消去、改ざんしたということは、雁夜の中核を成す部分を改編したということだ。
 きっと、次に雁夜が目を覚ましたとき、それは以前の父親ではないだろう。
 それを代償に求められると知ってもなお、父親に生きていてほしかった。
 自分の身勝手な望みのために、家族の生き様を穢した。

 自分は、父親を殺したも同然だ。

 飛鷹は声も出さず無表情のまま、涙だけをぽろぽろと流し続ける。

 その時だった。

 パンッ。

 そんな、どこか小気味よい音が響き、飛鷹は思い切り横に引っ張られる。
 そして、頭を強く打ちつける。

「たっ!」
「うおっ!?」

 飛鷹の呻きと、守の悲鳴が重なった。
 どうやら、なんらかの理由で車のコントロールを失ったらしく、守は必死にハンドルを回して立て直そうと試みている。

「な、なにがっ、起こってるんですか!」
「知るか! 知らんが、とにかくっ、やば――」

 その瞬間、三人の乗った車は崖へと激突する。
 そして。

(……え?)

 時間が引き延ばされるような感覚に陥りながら、飛鷹は聞いた。
 車のボンネットがスロー再生をしているかのようにひしゃげるのをその目で見ながら、聞いた。

 ――次はないよ。

 なんのことか聞き返す間もなく、飛鷹の意識は激しい衝撃と共に途絶えた。





◇◆◇◆





 それを、遠く、視覚共有で見る老人が一人。

「……やはり、面白い」

 そう呟いて笑いながら、臓硯は使い魔である虫とのリンクをひとまず切断した。

 臓硯は嘘をついていない。
 雁夜を解放し、飛鷹と共に冬木から脱出することを許した。ならば、その後に飛鷹をどうしようと、それは臓硯の勝手だ。
 そして、雁夜に危害を加えているわけでもない。ゆえに臓硯の襲撃を縛るものは、何一つなかった。

 尤も――もはや、雁夜は必要ない。

 一体、誰が想像しようか。魔術回路を持たぬ人間が、魔力に依らぬ障壁を張って衝撃を和らげ、生き延びるなど。
 元より死なせるつもりはなく、一度きりの防護壁を張るアミュレットを服に忍ばせていたのだが、それが発動する前に飛鷹は対処した。
 ただし、暗示を用いて聞き出したときの反応は決して偽りでは有り得ない。臓硯の知る魔術には依らぬ、なにかしらの異常を持って生まれたと考えて然るべき。

 臓硯はそこまで推測を済ませると、脇の机に置いてある電話を手に取った。
 そのまま迷いなく、ある番号を押す。

『はい、もしもし』

 電話に出たのは特筆するところもない男の声。
ただし、ただの人間ではない。
 弱小とはいえ、れっきとした魔術師の家系に生まれ、そして当主を継いだ男である。

「小竹の坊主か? 久しいな」
『……これは臓硯殿。お久しぶりです』

 小竹進は、最初と変わらぬよう思える、静かな声で返した。
しかし、臓硯からすれば僅かな声の震えが聞いて取れる。
 つまり、以前と変わらず、進は臓硯を畏怖の対象として見ていることを再確認できたということだ。
 ゆえに第一段階は滞りなく完了。

「おぬしに教えたいことがあるのでな」
『……臓硯殿が、わざわざですか?』

 進の怪訝そうな顔が透けて見えるようだった。
 それもそのはずである。臓硯が進と話すときは、大抵が心理的に圧迫して楽しむ……要するに虐めるか、極めて威圧的かつ高圧的に「依頼」するかだ。
 今回のような切り出し方は、進の頭にはなかったのだろう。
 ただし、嫌な予感も感じているようだが。

「応とも。そちらの兄、守とかいう男がおるであろう」
『兄が、なにか』
「なにか、どころではない。ワシの息子である雁夜と、孫の飛鷹を連れて冬木を出た。雁夜がワシと取り交わした、魔術師としての盟約を一方的に破ってな。ゆえに、始末させてもらったぞ。じゃが、その際に守が無駄に足掻いた。そのために雁夜は死んだわ。まったく、厄介なことになった……」
『……』

 沈黙。
 絶句ではなく、沈黙。
 おそらく、色々と推測しているのだろう。
 ややあって、進は絞り出すように問い返した。

『なにが言いたい。断じて私の差し金ではないぞ。あの落ちこぼれの兄が愚行を犯したからと言って、私に責を問うのは筋違いだ。まして、兄は一般人だ。いちいち魔術師の私が関与してはいられないに決まって――』
「貴様の差し金などと言うつもりは、もとよりない。しかし、魔術を知る親族がどのような行動を取るか、考えてなにかしらの対応を取っておくべきじゃろう。貴様の兄は何も知らぬ赤子ではない。ならば、その責は残された家族――そう、保護責任者が負うべきであろう? 連れ出しただけならばともかく、雁夜が死に、ワシが被害を受けた以上は、な」
『…………ならば、どうしろと?』

 進の声は、いまや隠しようもなく震えていた。強気の皮は、もう少しで剥がれるだろう。
 だが、剥がしきっては後々に厄介の種を残すことにもなりかねない。臓硯はやや声を和らげた。

「なに、特になにをせよというわけではない。ただ、このことを忘れてもらっては困る、というだけのこと」
『それは……無論です』
「ならばよい。ワシも忙しい身、これで終わるとしよう」

 色よい返事が返ってきたのを確認した瞬間、臓硯は通話を一方的に終了した。
 こうして、臓硯は格好の実験材料と、小竹の家に対する大きな借りを手に入れた。
 臓硯は部屋を後にし、廊下を歩きながらほくそ笑む。
 そしてふと、思う。

(飛鷹の母親は誰であったか、知らんな……まあ、支障はない)

 が、すぐに忘れた。
 魔術師の家に生まれた者ではないと分かっているし、別に優れた才能を秘めているとかでもない。
 飛鷹を解剖(しら)べていけば、分かることでもある。

(さて、とりあえずは……)

 潜ませておいた虫の大群に指令を送り、飛鷹を連れ去るよう命じた。軽度の神経毒を注入し続けながら森を経由して間桐邸に連れてくるように。
 雁夜は記憶もない状態である。のたれ死のうと生き延びようと、臓硯に関係することは無いだろう。
 さらに言うならば、臓硯は雁夜に手出ししないよう飛鷹と確約したのだからして、手助けもできない。――無論、助けるつもりなど毛頭ないが。

 そして同時に、小竹守を喰らい尽くせ、骨も残すな、とも。
 事情を知る者は、生かしておけぬのだから。









飛鷹を連れ去ってから、丸一日が経過した頃。

「……どういうことだ」

 臓硯は困惑を隠しきれずに呟いた。
 その眼前には、全裸で横たわる飛鷹。
 外側こそ無傷に近い状態だが、その体内には臓硯の虫が無数に潜り込み、体内を精査しつくした後である。

 特筆すべきは、魔術回路の多さだ。小竹の当主から聞き出したところによると、飛鷹に魔術回路がないことは生後すぐの検査で確認済み。だからこそ臓硯は飛鷹を捨て置いたのである。しかし臓硯の検査では、メイン二十九本、サブ六本の回路がたしかに確認できた。雁夜の息子であることを考えれば望外の多さだ。
 ただし、完全に閉鎖されている。
 これを開こうと思えば人ならざる者への改造を施すしかなくなるだろう。それも、成功した前例がない取っておきの外法を用いる必要がある。
 ただし、その処置が成功したとしても寿命や体の健康さは期待できない。なにより、間違いなく生殖能力は失われる。そうなっては仕方がない。ゆえに役立たずである。

 その他には、運動能力、筋力、反射神経などは同年代の常人とほぼ変わらず。
 肝心要の脳の構造にすら、特異な点は見受けられない。
 七歳児らしからぬ知能を見せたことについての説明はつかないが、こと魔術の世界において、脳の発達度など大したことではない。臓硯の興味はすぐに失せた。
 つまり、飛鷹は完全に一般人であるということが判明しただけに終わってしまったのだ。

 臓硯も魔術師の端くれ、研究者である。解明できぬ謎というものは、いたくそそるが、それ以上に苛立ちと困惑が先立った。

 なぜ後天的に魔術回路が増加――否、生成されているのか。
 飛鷹は如何なる手法を用いて、崖との衝突を無傷でやりすごしたのか。

 興味は尽きず、さりとて分からず。

 さらに言うならば、使い道にも悩まされる。
 桜に子を孕ませるならば、慎二と掛け合わせるよりはむしろ、飛鷹と掛け合わせたほうが良いことは明白だ。なにせ慎二には、回路そのものが存在しないのだから。それに比べ、二十七本の回路というのは申し分ない。
 それに、飛鷹単体で見たとしても価値はある。臓硯の次の宿として十二分、不足ない肉体だ。
 飛鷹の体を乗っ取った臓硯と、念入りに育て上げた跡継ぎの二枚羽で、次々回の聖杯戦争に挑む――一分の隙もなく、蟻の一穴すらない布陣に思える。

 だがやはり、一抹の不安は拭えなかった。
飛鷹が、臓硯には知覚できない、そして飛鷹自身も自覚していないなにかしらの力を秘めているのは、既に明らかだ。おそらくは雁夜の相手、母親の魔術要素を継いだ結果であろうという部分までは予測できるが、それ以上はなにも分からない。そんな存在を、自分の寄生先として育成するのは躊躇われる。同じ理由で、桜との交配も簡単には決断できない。
 種馬にも、延命機械としても使えないならば――破棄するしかない。

(が、惜しい)

 その思いこそが、臓硯にその最終手段の行使を躊躇わせていた。
 飛鷹ほどの素材が、この時期に手の内に転がり組んでくるというのは、臓硯の記憶している中でも最大級の幸運である。
 桜と飛鷹の子ならば、必ずや聖杯を持ち帰るであろうとまで思える。そもそも、桜と慎二の子を勝たせるために色々と小細工を弄するつもりでいたのが、マスターの能力だけ格段に上がるかもしれないとなれば、その期待も当然であろう。

(……まあ、とりあえずは蟲蔵に放り込んでおくとするかの。どの道、間桐に染めねばならぬことは確定事項じゃ)

 そう考え、臓硯はひとまず対応を保留した。
 虫による調教は対応の内にすら入らない。解剖、殺害、いずれの手段も取らなかったことが、保留である。

 そして、臓硯は歩き出す。
 行き先は玄関。
 目的は唯一つ――

「応、よく来たな、桜」
「……はい」

 哀れな獲物が、また一人。
 欠かせぬピースが、もう一つ。
 運命は、より狂った形で、転がり落ちるように加速し始める。





◇◆◇◆





 最初、飛鷹は悪い夢を見ているのだと思った。
 自分は、雁夜と共に車に乗って、守が経営する孤児院へと向かっていたはずが――闇の中にいたからだ。

(……どうなってるんだろ)

 暗闇の中にいる不安からか、自分の心臓の鼓動が、やけに大きく聞こえる。
 まさか臓硯か、という考えが第一に浮かんだが、飛鷹は首を振って否定した。
 魔術師という生き物が約束というものをなによりも重んじるということは、守からお墨付きをもらっている。あの老人とて魔術師の端くれには違いなく、おいそれと約束を破るはずがないと思われたからだ。

 とりあえずは起き上がろうと思い両手を突けば、ずぼりと右手が、手首の辺りまで一気に沈み込んだ。
 
「~~っっっ!」

 声にならない悲鳴を上げながら、飛鷹は急いで右手を引き抜く。
 すると、その勢いで今度は左手が飲み込まれた。
 まるでテレビ番組で見た流砂のようだ。飛鷹は動くのをやめ、細心の注意を払いながらそっと左手を引き抜いた。
 案の定、大きな力をかけなければこの地面は耐え得るらしかった。二足歩行ができるなどとは思わないほうがいいだろうが。

「……お父さん、守さん」

 囁くように、あるいは呼びかけるような音量で何度も二人を呼ぶが、答えはない。
 飛鷹の脳裏に嫌な想像が湧き上がる。
 実は、二人は既に目覚めぬような状況に陥っているのでは?
 そう、たとえば、この流砂のような地面に飲み込まれ、頭まで沈んでしまったのかも――

「お父さん! 守さん!」

 恐ろしい未来図を振り払おうと、飛鷹は努めて大きな声を出した。
 声は思いの外よく響き、かなりの広さを持つ場所であることが分かった。
 しかし、肝心の返事はない。
 どうしようもなく、途方に暮れたそのとき、ボウッと、炎の燃え上がる音が上方から届いた。
 見上げれば、どこか見覚えのある薄緑の炎が、なにもない空中に浮き上がって部屋の全体像を浮かび上がらせていた。
 そう、ここは。

「……ムシ、グラ?」

 その可能性に思い至り、思わず下を見て――流砂のような地面は、無数の蟲が積み重なって構成されているものだということも分かった。
 そしてそれに気付いた瞬間――あるいは、この点火が合図だったのかもしれないが、待ち構えていたかのように蟲が動き出す。

「ひ……あぁあっ!」

 飛鷹は悲鳴を上げながら、必死に体から蟲を叩き落とすが、その勢いで体そのものがずぶりずぶりと沈んでいく。
 程無くして体は沈み切り、服の隙間から入り込んだ虫は、獲物の体内に侵入を始める。
 全身を蟲に包まれた飛鷹は、七年という人生の中でも、とびっきりに最悪な経験をすることとなった。





 定められた務めを終えた蟲たちが体から出て行った時、どれほどの時間が経っているのか、飛鷹には分からなかった。
 ただ、無限にも等しい時間を、ひたすら犯されぬいたような体感であるにも関わらず、実際に経過した時間は一日にも満たないだろうということは分かっていた。

「あ……ぁ……」

 言葉にならない呻きを漏らしながら、這いずるように階段を上っていく飛鷹。
 衣服や靴は蟲に食い荒らされ、いまや裸同然になりながらも、その眼から光は消えていない。
 ただ、その光も、弱弱しく瞬くほどにまで小さくなってしまっていた。
 それでも、遅々として進まない歩みを繰り返し、ようやく階段を登りきったそこに――それはいた。

「まずは生き残ったか。重畳、重畳」
「……まぇ、は」

 しょぼくれた矮躯。
 ねじくれた木の杖。
 黒と白がひっくり返った不気味な目。

 間桐臓硯が、そこにいた。

 飛鷹の頭の中で、全てが思い出される。

 二人きりの平穏が壊されたのも、
 桜が害されるのも
 自分がこんな苦しい目に合うのも、

 なにもかも、この老人の所為だ。

「ひんひゃえ……ひねっ……ころふッ……!」

 度重なる虫の出入りと疲労で呂律の回らない口を必死に動かし、飛鷹は怨嗟の言葉をぶつけようとする。
 そしてそれすらも満足にできない自分に歯噛みし、滂沱の涙を溢れさせ、それでもなお、抗おうと体をくねらせる。

「やれやれ、反抗心だけは一人前か。まあ、それもじきに消えて失せるじゃろうがな……まったく、力の伴わぬ反抗は見苦しいことこの上ない」

 声と裏腹に、臓硯の顔は心から喜び、嬉しんでいるとしか思えない顔だった。
 その唇は限界まで吊り上げられて歪な三日月を描き、目は細められ、なによりも声が嗤っている。

「うる、さ……」

 そこで息切れし、荒い息をつく飛鷹の前から、臓硯は悠々と歩み去る。

「その言葉、いつまで聞けるか楽しみにしておるぞ。まあ、二日と持つまいがな。呵々々……」

 不快な笑い声と入れ替わりに見知らぬ男が入ってきたかと思うと、飛鷹を担いで後に続く。
 飛鷹は、絶望の先触れを頭の片隅に感じながら、湧き上がる寒気を必死にこらえていた。





 約一ヵ月後。
 飛鷹は、完全に折られた心の残骸と、小さな身一つで蟲蔵に向かいながら、霞みがかった頭で考えていた。

(……なんで、こうなっちゃったのかな……)

 どうして上手くいかなかったのか、いくら考えても分からなかった。
 正当な対価を支払って、雁夜を助けた。
 桜を見捨て、雁夜を取った。
 一と一、等価交換、どこからどうみても非の打ち所のない話である。

 もしも、この世界が正常で公平だったなら、こんなことにはならなかっただろう。
 しかし、飛鷹が思うほど、この世界は正常でも、公平でも、そして優しくもなかった。
 ただそれだけのことに気付き、認められるだけのエネルギーは、もう残っていない。
 それでも、ずっと考え続けていた。

 そして今日、決定的な転機が訪れる。

 ――だよ、やだ、ああぁあっ!――

「……誰?」

 蟲蔵に入った飛鷹は、あることに気がついた。
 誰かの悲鳴が聞こえている。
 まだ嬌声は聞こえず、ただ痛苦のみが含有された叫び。
 そう、最初に放り込まれたときの自分のように。

 しかし、取り立てて何を思うでもない。
 珍しくここに放り込まれはしたものの、結果だけ見れば、哀れな犠牲者がまた増えた、それだけの話である。
 興味も薄く、ゆっくりと階段を下る。
 下るに連れて、蟲に苛まれている人の顔が良く見えてくる。

 見たところ、まだ体は小さい。自分と同じ――いや、もっと小さい。
 声からして少女のようだ。

(……あ)

 ふと閃くものがあって、飛鷹は階段を駆け下りる。
 冷え切った心の中に、種火が放り込まれた。
 目には理性と思慮の光がよみがえる。

(もしかして――)

 この蔵に落とされる少女など、心当たりは一人しかない。
 自分が愛おしく思った、そしてもう忘れかけていた少女。
 飛鷹は瞬く間に蔵の底に辿り着き、迷うことなく蟲の海に分け入ると、その少女の手を握った。
 名前を思い浮かべた瞬間、その言葉は自然と口をついて出た。

「桜ちゃん……」
「い、あっ……ヒダカ、くん? うくぅうっ!」

 桜は、信じられないとでも言いたげに目を見開き、すぐに顔を歪ませる。
 無理もない。蟲の責め苦は終わっていないのだから。

「桜、ちゃん……桜ちゃん、桜ちゃんっ!」

 我に返り、桜の体を引き寄せる。
 自分も、既に慣れつつある痛みと快感の坩堝へと呑まれつつある。
 それでも、この手だけは離せない。
 この手を離せば、最後に残った自分まで失ってしまうと、直感しているから。

「助けて、助けてヒダカくん! やだ、やだぁ!」
「桜ちゃん!」

 お互いの名前を呼び合い、体を引き寄せあい、ようやく二人は間近に接近を果たす。
 泣いて助けを求める桜と、その体をどうにか上へ逃がそうとする飛鷹。
 しかし非力な飛鷹と桜では蟲の大群を振り払うことなど到底できない。
 しかし。

「ぎ、ぐ、ぅ、うああぁああああああっ!」

 全身全霊、掛け値なしの全力で、飛鷹は桜の体を蟲の中から引きずり出した。
 そしてその一秒後、さらなる数の暴力に呑まれ、二人の体は今度こそ蟲の中に消えた。
 そのまま、二人は蟲に蹂躙されていく。

 苦痛に呻く桜を離さぬように、寸前で抱きしめた飛鷹は、決してそれを解かない。
 桜も、母に縋る幼子のように、飛鷹に抱きついて離れない。

 そうして少年と少女は、堕ちていく。
 目の前に広がる、深い絶望を覗きこまぬように、お互いの瞳にお互いだけを映しながら。





 それは、少し昔のこと。
 救いはない、と理解してしまった男の子と女の子が、闇の中で生きていこうと決めた、それだけのこと。
 今日も、二人は蟲蔵の底で、お互いへの愛と執着を、睦言のように囁き合う。

「飛鷹く、んぅっ!」
「桜ちゃ、あぐっ!」

 肉の感覚に翻弄されて、手に入れられたはずのもっと純粋で暖かな光は、どこかに失せてしまっていても。
 歪で狂った愛の形でも。

 やっぱり愛し合う二人は、幸せに暮らしましたとさ。












 すいません。
 本当は、にじファンの感想欄にあった「蟲蔵end」を題材として、二人をやばい感じにイチャラブさせて終わりたかったんですが、細かく描写しようにも、作者の耐久力が持ちませんでした。あと、stay nightのゲームやったことないという致命傷がここにきて響きました。
 アンリマユに愛を注ぐ桜と飛鷹とか……書けないよ……
 終わらない地獄の中で、共(狂?)依存させたかったなぁ……
 まあ、そこは妄想補完でお願いします。たぶん、十八禁描写も余裕で入りますし。作者には荷が重いです。

 ちなみに、守さんは、あの後に飛鷹くんを探しまわり、しかし見つかるわけねーと諦めモードになります。
 そして雁夜とも連絡なんざ取れません。で、どうしようどうしようと焦りながら一夜を明かしたら、飛鷹から連絡入ったと。
 ま、この話では見事に貧乏くじ引きましたが。



[33893] 白昼夢の再会
Name: 深海魚◆6f06f80a ID:7a3d4908
Date: 2012/09/04 21:13
「……お父さん」

 天井を見上げながら、飛鷹はポツリと呟いた。
 何の気なしに発した言葉である。しかし、それは思いの外強く飛鷹の胸を抉った。

 泣き崩れて選択などできそうにない飛鷹を見かねたのか、臓硯は一日の猶予を飛鷹に与えた。
 そうして、飛鷹は最初に目覚めた部屋のベッドに横たわっているというわけだ。

 しかし、それから二時間が経過してもなお、飛鷹の頭は纏まらなかった。
 ぼくは知らなかった。お父さんがあんな目に逢ってるなんて――
 ぼくは知らなかった。あんな信じられないくらい悪い人が、桜ちゃんを狙ってるなんて――
 そういったことを考えれば考えるほどに、胸を針で刺されたかのような、鋭い痛みが走る。
 そして、その悪の権化が突き付けたのは、二者択一。
 父か、初恋の少女――雁夜か桜の二択、ではない。
 ここで真に問われているのは、雁夜の命を優先するのか、本人の選択を尊ぶのか。
 肝心なのは、臓硯の言葉である。
 あの老人は「聖杯と遠坂の小娘」を交換すると言った。つまり、桜を救いたければ雁夜は勝たなければならない。この選択は、実は桜を確実に救うものでは決してないということに、飛鷹は遅まきながら気づいていた。
 そこに気付いた瞬間、選択肢の真の姿が見える。

 なにであろうとも、命に勝る価値はないと断じて雁夜の命を救うのか。
 命よりも優先すべきものがあると信じて、雁夜の選択を尊ぶのか。

 前者をとれば、桜は蟲の海に呑まれ、二度と上がってくることはないだろう。おそらく飛鷹と会うこともない。
 そして、飛鷹は桜を見捨てたという負い目、罪悪感を抱えたまま一生を過ごすことになる。
 さらに言うならば、その選択肢を選んだ瞬間に雁夜は記憶の一部を書き換えられる。それはつまり、雁夜という人間を殺し、そっくりな別人を仕立て上げるのも同然の行為だ。
 そんな雁夜を父親として愛せるのか。父親の選択に唾を吐き、その勇気に泥を塗ることは正しいのか。別人となった雁夜は、はたして以前と変わらずに自分を愛してくれるのか。
 そもそも――自分が雁夜の命を救いたいと願うのは、雁夜のためなのか、それとも自分のためなのか。
 問いの答えは、飛鷹自身にも分かりかねた。

 では、後者を取ればどうなるか。
 まず、雁夜が先程の苦しみを受け続けなければならないことは明らかだ。そして苦しみを乗り越えた先には、生死をかけた戦いが待っている。過去三回、勝者は皆無の絶望的な戦いだ。その戦いを勝ち抜く、あるいは生き残ったとしても、そのときの雁夜は五体満足でいられるかどうか怪しいものだ。
 三度にわたって、万全に万全を期して戦いを挑んで、それでも勝てなかった戦い。そこに素人同然の雁夜が、たった一年の付け焼刃で挑めばどうなるかは、火を見るより明らかだ。
 無論、これらのことは承知の上で、雁夜は勝ちにいくだろう。それに比例して死の危険も高まることを承知で。
 十中八九、勝ちを拾えないことは明白な勝負に命を賭けて――そして恐らくは、散る。
 ゆえに、雁夜を戦争へと送り出すのもまた、飛鷹にとって看過し得ることではない。

 悩めば悩むほど、飛鷹はどうすればいいか分からなくなっていた。
 そもそも、どちらかを取ることが不可能といっても過言ではないからこそ、臓硯とて楽しめるのだ。
 飛鷹は気付いている。
 あの老人がこのような選択を自分に強いるのは――娯楽の域を出ないと。
 誰かが血の涙を流して慟哭する姿を見るのが、苦しみの大きさに摩耗しきって膝をつく様子を観察するのが、あの老人の趣味であると。

 しかし、その趣味から突き付けられた二択のうちどちらかを選ばなければならないのもまた、事実。

 飛鷹は改めて考える。自分はどちらを選ぶべきなのか。
 建前も綺麗事も脇に置いて、自分の偽らざる気持ちに問いかけた場合、天秤はどちらに傾くのか。

(……やだ……!)

 沈思して得られたのは、計り知れないほどの、喪失に対する恐怖だった。
 成程、雁夜を無理にでも連れだせば、自分は一生消えない傷を負うことだろう。それは桜を見捨てたという意味でも、雁夜を穢してしまったという意味でもそうだ。
 しかしそれ以上に、厳然たる事実が飛鷹の前に立ちふさがっていた。

 曰く――死。

 雁夜は負ける。臓硯から伝え聞いた僅かな情報から考えても分かるほど明確に、雁夜の敗北は決定されている。
 そして、負けた敵兵を生かしておく戦争がどこにいるというのか。
 雁夜は死ぬだろう。なにもなかったかのように、初めから存在していなかったかのように、死ぬだろう。
 それを考えただけで、飛鷹は震えが止まらない。

 母を知らない飛鷹にとって、雁夜は唯一の家族である。
 桜が大切ではないのか、雁夜だけが大切なのかといえば、もちろんそうではない。桜に限らず、遠坂家の皆はかけがえのない存在だ。
 葵の細やかな優しさは心の琴線に触れる。まるで本物の母のように。
 時臣の気品は、飛鷹が目指す“理想の大人”そのものだ。
 凛の明るさは、さながら太陽のように飛鷹の悩みを吹き飛ばしてくれる。

 そして桜の――そう、本当に桜の花のような、儚くも鮮やかな笑顔。
 あの日、星空の下で一度だけ見たそれを、飛鷹はいまでも克明に思い出せる。

 それでも、雁夜を捨てることは――

(……あれ?)

 そこで唐突に気付いた。
 なにを思って雁夜があのような死地に赴いたのか、この家を出るに到ったきっかけは何だったのか。
 それらを一度でも聞いたことが――はたして、あっただろうか。
 考えてみれば、自分の父親の決意、人間性――それらの起源を、飛鷹は何一つ知らないのだ。
 雁夜との会話。これを成さねばなにも始まらないのではないか。そんな思いが、俄かに飛鷹の心中を占めつつあった。

 雁夜のことを知らなければならないという思いのどこにも嘘偽りはない。
 飛鷹は、たとえ一瞬でも雁夜を助けてほしいと思った自分を悔いていた。
 いま、もし雁夜を助けてほしいと言えば、それは自分のためでしかない。断じて雁夜のための決断ではない。
 犬を去勢し、その首に首輪をつけ、家に縛り付けて愛玩動物にすることと同程度の愚行である。
 そこに雁夜の誇りはなく、意志もなく、ただ飛鷹の自己満足だけがある。そのとき、飛鷹と雁夜はもう家族ではない。

(……でも……)

 ふと、飛鷹の脳裏に疑問が浮かぶ。
 なにもかも知った上で、それでも雁夜の選択を覆す――自分がそう決断したとき、はたしてそれは自己満足ではないと言えるのか。所詮、自分のためでしかないのではないか。
 唐突に不安を覚えた飛鷹は、あえて自問をやめ、そこから意識をそらした。
 それは、雁夜との対話を望む心が――飛鷹も意識しない部分ではあるが――最後の決断を下すという結末を、できる限り先延ばしにしたいという意志の表れ、一種の逃避でもあることの証明に他ならなかった。





「入れ」

 ノックに答えた臓硯が、私室に入ってきた人間を見て愉快そうに顔を歪めたのを、飛鷹は見逃がさなかった。
 何に対してかなど、考えるまでもない。飛鷹の苦渋と葛藤を酒の肴にでもするつもりなのだろう。
 こうして眼前に立たせておくのも憎いが、同時に吐き気がするほど醜かった。その異形の感性に触れたくないと、本気で願うほどに醜悪だった。

「さて、ここに来たということは、選んだということか?」
「違います」

 飛鷹の即答に、臓硯は意外だという意味のこもった吐息を漏らし、眉を寄せた。

「……ならば、何用だ」
「お父さんと話をさせてください。そうしないと、なにも決められないから」

 見て取れるほどに不機嫌になった臓硯を正面から見据え、飛鷹は言う。
 さらに二段階ほど、臓硯はどこか嫌そうな顔をしながら目を細めた。

「雁夜と、話す? 何故じゃ」
「ぼくは……ぼくは、お父さんの気持ちをなにも聞いてません。どんな気持ちでここに来たのか、それを聞かないと、きっとなにも決められないんです」
「……カッ! 小童めが、生意気な口を叩きおって」
 
 どの辺りが臓硯の癇に障ったのか、飛鷹には計り知れなかった。そもそも、正常な人間であれば臓硯を理解するのは無理な話だろう、とも思う。
 ただ、強いて言うなら、お預けをくらった犬のような空気を発していたように感じる。
 対する臓硯は、忌々しそうに、カツンと強く杖を打ちつけた。
 飛鷹は知る由もないが、それは、雁夜に寄生している刻印虫の活動を休眠させる合図である。

「良かろう。もう二時間もすれば口も利けるだけの体力が戻る。そこから先は好きにしろ」
「はい」

 即答した飛鷹は、表面上、なんでもないかのように平静を装っていた。
 同時に、その後ろ、背中に隠した両手にじっとりと滲む手汗が気付かれないよう、強く拳を握った。





◇◆◇◆





「――お父さん!」

 飛鷹に与えられた部屋から、少し離れた一室。
 そこで力なく横たわる雁夜は、まるで死体のようだった。
 しかし、駆け寄る飛鷹の叫びを聞いて眠たげに瞼を開けた。

「……ひだか?」

 状況が飲み込めていないのか、それとも幻だと思っているのか。
 どちらにせよ、その茫洋とした瞳は一瞬の間を空けて一気に覚醒した。信じられない、どうして、なぜ――そんなメッセージが、合わさった視線から怒涛のように伝わる。
 二秒ほど、言葉にならない思いをどうにか口の端に乗せようと足掻く時間が続き――

「飛鷹……怪我は、ないのか」

 ようやく、それだけを口にした。
 飛鷹が無言で頷くと、我に返っていきなりその肩を掴み、一気に引き寄せて至近距離から顔を合わせる。

「なにをされた。どうしてここにいるんだ。臓硯はなにをした。なんでお前が――」
「お、落ち着いてお父さん! ぼくはなんともないから!」
「なんともない? なんともないだと? この状況のどこがなんともないって言うんだ! ひだか、飛鷹ッ! なんでここにいるんだ! 嘘だろ畜生ッ!」

 雁夜は吼えた。
 その勢いのまま飛鷹を押しやり、涙を流しながら、拳を床に叩きつける。何度も、何度も、皮がむけ、鈍痛が鋭さを増し始めても。
 もちろん拳からは血が飛び、激しい感情に触発された刻印虫の休眠が解けかけるが、そんなことには構わない。
 自分の全てを犠牲にして、自分以外を救う――そのために間桐に戻ってきた雁夜にとって、飛鷹がこの死地にいるというのは、悪夢以外の何物でもない。
 飛鷹はと言えば、突然のことに呆気に取られていた。雁夜の様子があまりに鬼気迫るものであったことも一因である。
 止めていいのかな――そんな阿呆のようなことまで考えてしまうほどに、雁夜の狂乱ぶりは常軌を逸していた。

「俺は、俺は飛鷹を守るために桜ちゃんを見捨てたんだぞ! なのに、こんなことが、あって……ッ!」

 それ以上は言葉にならず、息を切らして両手で顔を覆う。
 そして、そのまま仰向けに倒れたかと思うと、心底疲れた掠れ声で呟きだした。

「落ち着け、落ち着け、落ち着け……喚いて、なんになるってんだ……落ちつけよクソッ!」

 ドン、と一際強く拳を床に打ちつけた雁夜は、暫く荒い息をついて、それから緩慢な動作で起き上がった。
 その眼は曇りながらも、強い意志の光を宿している。
 その光は、雁夜の憤怒に怯える飛鷹をまっすぐに射抜いた。

「飛鷹。どうしてここにいるのか、教えてくれ。お父さんが家を出てから、なにがあったのか。どうしてここにいるのか。なにも隠さないで全部、言ってくれ」
「……うん」

 飛鷹は、居心地悪そうに応じた。
 傍から見れば、それはまさしく、父親に叱られる息子の図であった。








 こんにちは、作者です。
「にじファン」のぬるま湯感覚と字数感覚が抜けなくて困っています。書き直しが全然できない……
 データが消去される期日が迫っているので書き直しは置いといて、ひとまず転載することにします。



[33893] 勢揃い
Name: 深海魚◆6f06f80a ID:d720a56d
Date: 2012/10/12 20:46
「なんて無茶したんだ!」
 雁夜が出て行った後の一晩、守からの逃走、タクシーに乗って辿り着いた不動産、車で迎えに来た臓硯、そしてすべてを知った今日の出来事――車の中で意識を失ったこと、突き付けられた選択、これら二つを意図的に隠した、九割九分の真実に一分の嘘を交えた話。
 それを聞いた雁夜から出た一言は、当然ながらお叱りの一喝だった。
 これ以上小さくなりようがなさそうなほどに縮こまった飛鷹の前で、雁夜の叱責は続く。

「守を騙して、一人でタクシーに乗って、挙句の果てにこんなところに来て……自分がなにをやったか、分かってるのか! なにか一つ間違ったら危ない人に攫われてたかもしれない、車に撥ねられてたかもしれない。その果てに辿り着いたのは、そっちの方がマシだと思えるような場所なんだぞ! それなのに――」
「でも……最初に嘘ついたのは、お父さん、だよね」
「それ、は……」

 精一杯の反抗、途切れ途切れの反論。
 しかし、怒涛の如く流れだそうとしていた残る叱声が、ピタリと止んだ。
 その様子を的確に言葉で表すとすれば、まさしく――ぐうの音も出ない、といったところだろう。
 先程までの怒り、その根底にあるのは飛鷹への愛に他ならないと、飛鷹も分かっている。ただ、腹に据えかねるものはあった。
 雁夜が飛鷹を責めるために使った理屈は全て、雁夜にも当てはまるのである。
 晩御飯までには帰るという約束を破り、
 迎えの人が来るかもしれないということを告げずに出て行き、
 挙句の果てに、飛鷹の与り知らぬ場所で勝手に命を賭けている。しかも、飛鷹よりも余程際どいところで、だ。
 それら、なにもかもを棚上げして一方的に責められては、飛鷹も堪ったものではない。

「そ、それはッ! 飛鷹を危険な目に合わせたくなくて、それで」
「ぼくだってそうだよ」

 雁夜の言い訳に対して、今度は飛鷹が言い返す番だった。
 溜まり続けていたストレス、一度も放たれてこなかったフラストレーション、それらがいま、身の危険を考えずにぶつけられる相手と口実を見つけ、一気に解き放たれた。

「お父さんが出て行って、ずっと怖かったのに、心配してたのに、どうしてなにも言ってくれなかったの? 大人の事情だから関係なかったって言いたいの? お父さんがどうなっても、ぼくには、なんにも関係ないの?」
「……お前に言えば、どうなる? こうなるに決まってる。飛鷹、お前を大切に思ってるからこそ、お父さんは黙って行くしかなかったんだ」
「そんなの家族じゃない。お父さんは勝手だよ、なんでも自分のことで、ぼくには関係ないみたいにして。お父さんのことなら、ぼくにだって関係あるよ」

 飛鷹は言葉と共に雁夜の目を見つめる。
 不意に視線をそらした雁夜は、納得していないことが明らかな顔で、そうだなと言って頷いた。

「なにも言わなかったのは悪かった。心配させたのも。でも、もういいだろ、飛鷹。今すぐにここを出て守と会え。早く冬木を出るんだ」
「やだ」

 飛鷹の即答を聞いた雁夜の顔が、見る見るうちに険しくなった。飛鷹の見立てでは、怒りと焦りと悲しみを三等分ずつくらい含有していたのが、いまでは怒り三、焦り七といったところである。

「飛鷹は、お父さんを困らせたいのか?」
「そうじゃないけど、やだよ。お父さんと一緒にいたい」
「……なあ、飛鷹。お父さんはな、お前の我儘聞いてる場合じゃないんだ。あの爺ぃ……おじいちゃんが、いつお前に手を出すか分からない。そんな場所に大事な息子を置いときたいなんて思う親はいない。飛鷹が大切だからこそ、冬木から早く出て行ってほしいんだ」

 やだ――同じ答えを返そうとした飛鷹は、思わず怯んだ。雁夜の言葉の端々に苛立ちが垣間見えていたからだ。
 多少なりとも心を通い合わせた父子ならば、実の父親が本気で怒る、すなわち自分が本気で叱られる兆候を、子供というものは本能的に感じ取れるものである。
 そして子供にとって最も恐ろしく、また悲しく思うこととは、父親が親であることをやめ、一人の男としての本性をむき出しにすることに他ならない。母親の場合も然りである。
 幼少期に一番ショックを受けた出来事を聞かれて、両親の夫婦喧嘩と答える人は少なくない。親が自分の庇護者ではなく一人の人間となることは、感受性の強い幼児にとって、自分の世界の崩壊にも等しい出来事だからだ。
 もちろん飛鷹も例外ではない。

「……やだ」

 それでも、ここで折れはしない。
 雁夜の額に血管が浮き出始めていた。それがいわゆる青筋ではなく、怒りに反応した刻印虫であるということは飛鷹には知る由もない。

「じゃあ、どうすれば良いんだ」
「全部、教えて。お父さんがどうしてここいにいるのか、なんでこうしようと思ったのか。最初から全部。それを聞けば、ぼくもどうするか決められるから」

 効果は、いっそ劇的とでも言うべきものだった。
 一瞬にして雁夜の怒りが霧散し、戸惑いが表情に色濃く出る。

「決める……? なんだよそれ、どういう意味だ。そんなことしてる場合じゃ」
「お願い。おじいちゃんも、この話の間は待つって約束してくれてるから」
「臓硯と約束だと? 飛鷹、お前一体なにを……」
「お願い。お父さんが話してくれたら、ぼくも全部話すから。なんにも秘密にしないから」

 暫し雁夜と飛鷹は見つめ合う。
 雁夜は、百面相のように目まぐるしく顔色を変えた。
 なぜこうなったという困惑、ふざけているとしか思えない問いへの怒り、無駄に時間を浪費しているという焦り、問いの真意が分からず抱いた疑問――そして、得体の知れないものへの恐怖。
 それらの色をさっと見てとった飛鷹は、僅かに胸が痛むのを感じた。





 飛鷹は、自分の精神が歪であり、二人分の心が混ざっているということを雁夜に明かしていない。
 幼い頃は、それが当たり前だと思っていたために取り立てて言うこともなく。
 それが異常だと分かるようになってからは、雁夜の拒絶を恐れて話すことができなかった。
 自分が、いわば奇形児と同じ存在であることを、精神的な奇形児であるからこそ理解していた。
 ダウン症、サヴァン症候群……その原理は分からずとも、そういった存在と五十歩百歩――否、より飛び抜けた人間として生を受けてしまったのだと。飛鷹が飛鷹である故に理解していた。

 そしてその異常性こそが、自分を構成するピースの中で最も大きなものだ。
 だから飛鷹は自身を否定しない。卑下しない。胸を張って、その知性と理性を隠さず活用する。
 それでもやはり、二人で一人の心を持つということは明かせずにいた。
 理由は様々だが、最大のものを挙げるならば、飛鷹自身がさして重要なことではないと思っていることに起因している。

 たとえば、飛鷹は自ずと知っている。“子供”の飛鷹と、“大人”の誰かが混ざり合って間桐飛鷹は生まれたと。しかし、その根拠はどこにあるのかと問われれば言葉を濁す他ない。
 黒と白を混ぜているところを見たから、黒と白の混ざり合った灰色と知っているのではない。灰色を見て、黒と白を混ぜたのだと悟っているだけ。最初から灰色だった可能性も有り得なくはない。そう飛鷹は考えている。

 自分が誰なのかという哲学的にして根源的な問いを抱かないのは、幼さと、前述した悟りのためだ。
 要するに、自分でもはっきりとは分からないのである。
 ならば、余計なことを話して混乱させる必要もない――それが、飛鷹の考えだった。

 だが、その異常性が実の父に恐怖の対象として見られるなど、飛鷹は望んでいない。
 たとえ自分が何者であろうとも、雁夜を愛する心には一点の曇りもないのだから。





 少しの時間を経て、雁夜の顔は落ち着きを取り戻していた。
 凪いではいない。さざ波は消せていない。それでも、飛鷹を信じる。

(そんな感じだったら、嬉しいんだけど……)

 想像を働かせる飛鷹の前で、雁夜は重たげに口を開いた。

「――飛鷹。お前はいま、自分がどんな場所にいるのか分かってるのか? 蟲蔵を見たって言ったな。それに俺のアレも見たと。なら嫌でも気付くだろ」

 雁夜の声は怒っていない。ただ聞くべきことを聞いているかのような淡白さがある。
 飛鷹もまた、淡々と答えた。

「うん。でも、いまはこれが一番大事なことだから」
「……そうか。お前が言うんなら、そうなのかもしれないな」 

 そして――雁夜は目を閉じた。
 飛鷹が一歩も退こうとはしないと理解したのか、体からも力が抜けた。

「……本当に全部話そうと思えば、長い話になる。一時間、二時間、そんな話だ。それでもいいのか?」
「うん」
「そうか――そうだな、あれは、十数年……いや、二十年以上も前になる」

 飛鷹の即答にため息を一つ吐き、雁夜は語り始めた。
 すべての始まりと、出会いの話を。





◇◆◇◆





 同日、同時刻、間桐邸正門にて。

 臓硯の専用車であるはずの黒塗りの車から、一人の少女が降り立った。シンプルで子供らしい意匠のワンピースに身を包み、挙措には礼儀の正しさが垣間見える。
 遠坂桜が間桐桜となるのは、今日だった。

 それを玄関先で迎える臓硯は、いつもの和服に杖。
 わざわざ迎えに来たのは理由あってのことである。
 養子縁組の話をまとめる過程で、桜の素質――すなわち、架空元素・虚数のことについては聞いている。どこかに話が漏れ伝われば、刺客が差し向けられてもおかしくないレベルの貴重品を迎えるにあたり、自分以外の誰かに任せるのは心許ないのだ。
 さらに、聖杯戦争を間近に控えているためか、邸内の結界が不安定になっていることも不安に拍車をかけた。いざというときに、侵入者を排除する仕掛けが作動しなければ一大事である。改良した結界を張り直すには時間も材料も足りず、確実に桜を迎えるには自ら赴くのが最も確実だった。
 そんなわけで、臓硯の和服の下には、戦闘用に改造された蟲がうぞうぞと蠢きながら出番を待っている。

 桜は、そんな諸々の事情を知る由もない。それでも臓硯直々の迎えという状況はかなりの威圧感を与えたらしく、視線が地面に向かっては臓硯の顔まで上がり、また光の速さで下がるということを繰り返していた。
 遅々として進まぬその歩みは、ようやく臓硯の元へとたどり着く。

「おお、よう来たな、桜。さ、入るが良い」
「は、はい…。遠坂桜です。まだまだみじゅくものですが、よろしくお願いします……おじいさま」

「なに、構わぬ。若き頃の人とは誰しも未熟なものよ。――それよりも、桜。お主に耳寄りな話があるぞ」

 後ろ手に扉を閉め、桜を邸内に招き入れながら、言う。

「お話……?」
「応とも。お主――雁夜と飛鷹を知っておるじゃろう?」

 桜の驚く顔を見た臓硯は、ニタリと邪悪な笑みが溢れるのをそれなりに努力して堪えなければならなかった。










 かくして、舞台の幕を上げるための役者が揃う。
 物語の第一部が、始まる。












ようやっと、間桐家の皆さんが勢ぞろいです。ここまで長かった……

にしても、ほんとにバトルもなんもないな、この小説……読んでいただいてるみなさんに申し訳ないです。
できれば、もう少しご辛抱いただきたいです。



[33893] 昔語り・葵について
Name: 深海魚◆6f06f80a ID:d720a56d
Date: 2012/10/15 21:26
禅城葵という名の少女に出会ったのは、まだ四歳の頃だった。
 禅城の家に臓硯が赴いた時、いまでもなぜか分からないが、俺を伴っていったのだ。

「……あおい、といいます。今後ともよろしく、お願いいたします」

 丸覚えしたらしく、たどたどしい定型句の挨拶が、妙に似合っていたのを覚えている。
 その後は二人で庭先に出た。互いに魔術の存在は知っていたが、葵の方が若干詳しいのを悔しく思った。
 そんなちっぽけな対抗心から、何気なく悪口を言ったのがきっかけだった。
 なんと言ったのか、もう憶えていない。葵も暫くは憶えていたが、中学に上がる頃にはすっかり忘れてしまっていた。

「言ったわね、バカ!」

 ともかく、葵は先程までの優雅さをかなぐり捨て、言い返してきた。
 そこからはもう止まらない。
 バカ、間抜け、頭でっかち……途中からは自分でも分からない言葉を使って言い合っていた。多分、悪口じゃない言葉を悪口であるかのように言ったりもした。
 そうして、いつしか二人とも疲れてしまって――

「……ごめん」
「……私も、ごめんなさい」

 それが、馴れ初め。

 そこから同じ幼稚園に通っていることが分かった。
 魔術を知る者というマイノリティだったこともあって、すぐに親しくなった。
 幼稚園という閉鎖された空間で、秘密を分かち合う存在がいるというのは、親しみを感じさせるのに十分な材料だった。
 葵は、俺の数少ない友人になった。俺も、葵の数少ない友人になった。
 まだ魔術の痕跡や魔術師としての常識を隠せるほど成熟していなかった俺と葵は、少々友人というものが作りづらい環境にあった。
 当時の俺は、自分の家の異常性も分からず、ただ邸内にいつも漂っている、薄暗く不気味な空気に不快感を覚える程度だった。使い魔、特に蟲を扱う魔術であることは知識として持っているだけで、その悍ましさを体感してはいなかった。おそらく、そうでなければ葵と親しくなることもなかっただろう。

 小学校も同じところに進んだ。
 葵から目を離せなくなったのは、その頃だ。
 幼児から少女へと育っていく葵は、眩しいほど美しかった。
 相変わらず、お互いにとっての一番の親友は、お互いだった。
 ただ、少し違う部分もあった。
 俺は魔術師としての教育を施され、蟲について深く知るにつれて、間桐の魔術の醜さと悍ましさを知って、魔術を忌避するようになった。
 一方の葵は、魔術師の妻としての心構えを身につけ、性格も温和になっていった。
 少しからかっても、昔のように反撃してこないのを、どこか寂しく思った。

 中学生になった頃、なにかが違うと気づいた。
 俺と葵の距離は、知らぬ間に離れていた。
 葵さん、雁夜くんと、他人行儀に呼び合うようになっていた。
 呼び方だけではない。実際に、親しく遊んだり付き合ったりすることもなくなっていた。
 葵は友人がいなくとも耐えられる、鉄の精神を既に身につけていた。時に我が子を切り捨てねばならない魔術師の妻に、友人を必要とするような脆さは禁物だということだ。
 俺はといえば、葵との仲を復旧することなど気にしている余裕はなかった。家への反抗を表立って始めたのが中学一年生になってすぐだったからだ。

 静と知り合ったのも中学二年生の時だ。
 典型的な反抗として家出を敢行していた夜、宿の代わりに公園の遊具を使用していた時に出会った。
 これは別の話なので、また別の機会に語ることにするが。

 さて、高校生になってから、俺と葵の亀裂は決定的なものとなった。
 幼馴染としての絆が、唯一、俺と葵をかろうじて繋いでいた。
 俺は、彼女をずっと愛していた。
 それでも、俺が魔術と距離を取るべく努力すればするほど、葵との距離も離れていった。
 彼女は、間桐の悍ましさを理解してくれなかった。それもそのはずだ。あれは実際に見なければ理解できないだろうし、俺も具体的な内容は何一つ示せなかった。具体的な内容を部外者に伝えることは禁止されていたからだ。
 一時期は、魔術師の家に生まれた者としての責務を放り投げようとする者として――そしておそらく、それ以上に、自分には選べない一般人への道を選ぼうとする裏切り者として――俺に、負の感情がこもった視線を投げつけてきた。
 それも、高校二年性になる頃には和らいでいた。
 諦観ではなく、誇りを。
 流されるのでなく、進むことを。
 せめて自分の人生を、自分だけでも尊ぼうと、そう決めたように見えた。
 俺の反抗に羨望の視線を向けることも、軽蔑の眼差しを投げることもなくなった。

 そして、来る日。

「お別れだ、お父さん――いや、臓硯」
「好きにするが良い。修行も碌に行わず逃げてばかりおる凡才など、別段惜しくもない」

 その日、俺は家を出た。高校は中退した。
 街を出て働こう。決別の言葉を臓硯に放つずっと前から、そう決めていた。
 それでも――その前に、葵を呼び出した。
 言いたいことが、あったから。

「雁夜くん、一体どうしたの?」
「……来てくれ、葵さん。話したいことがあるんだ」

 禅城の家まで行き、近くの公園まで半ば無理やりに引っ張っていった。
 そして、全てを話した。
 間桐を捨てたこと。
 冬木を出ること。
 魔術師ではなくなったこと。
 なにもかもを聞く葵は、とても穏やかな顔つきだった。
 あまりに穏やかなそれに、胸がざわめくのを感じた。

「それが貴方の幸せなのね」
「ああ」

 頷きながら、俺は一つ決意していた。
 長年の想いを、ここで伝えると。
 いまここを逃せば、二度とチャンスはこない。そんな気がしたから。
 胸が苦しくなるのを感じながら、俺は葵の目をまっすぐに見た。

 ――駄目だ。

 そう囁く声が、頭の片隅に生まれた。
 目の前の葵は、呼び出したときからなにも変わらず、不自然なほどに凪いだ瞳をしている。

(ああ、なんだ、そういうことか)

 そこで不意に気づいた。
 既に遅いのだと。もう手遅れだと。

「じゃあ、これで」
「ええ。――健やかにいてね、雁夜くん」
「……葵さんもね」

 少し寂しげな微笑に背を向けた。
 ここで告白したところで、どうしようもないと悟ってしまったから。

 本当は引き止めて欲しかった。
 魔術を捨てるなんてバカな真似はよして、冬木を出るなんて無茶よ、と。そんな風に言って欲しかった。
 葵の価値観はよく知っている。彼女は魔術を捨てるなど理解できないし、考えもしないだろう。
 ならば――なぜ、俺が魔術の道を捨てても、なにも言わなかったのか。
 かつて向けられていた羨望と妬心の塊が失せたとき、きっと葵の中では全てが終わっていたからだ。
 自分には理解できない人間だと――そう、間桐雁夜の存在を定義づけたのだ。
 愛の反対は憎悪ではない。無関心だ。
 昔は、俺のことを愛してくれていた。
 だからこそ、あんなにも憎まれた。
 そしてそれが終わって――なにも残らなかった。

 俺が魔術を捨て、冬木を出ると聞いても、彼女の心に波風が立つことは無かった。だからあんなにも瞳が凪いでいた。
 きっと葵は、翌日から何事もなかったかのように過ごすのだろう。ほんの少し幼馴染の不在を気にかけて、僅かな寂寥感を抱えるくらいには俺のことを想ってくれている。幼馴染だから。
 だが、強がるわけでもなく、取り繕うわけでもなく、すぐに忘れてしまうのだろう。

 つまるところ、禅城葵にとっての間桐雁夜とは、その程度の取るに足らない他人でしかなかったということだ。

 この瞬間、ある意味で俺の初恋は終わった。告白して振られるよりもこっ酷く打ちのめされて。

 外に出てからは、ずっと憧れていた記者――ルポライターになって、慣れない仕事に苦労しながらも少しずつ独り立ちしていった。
 それでもその間、葵の面影が消えることは無かった。ルポライターの知識や土産を理由にしてなにかと会いに行ったのは、情けないことにそれが理由だ。

 それが完全とはいかないまでも、少し吹っ切れたのは、その二年後――彼女の婚約を聞かされた夜かもしれない。
 静と一夜を共にして。その後、消えてしまった彼女に呆然としながらも今までどおりに暮らしていると、突然飛び込んできた知らせ。
 結城静と名乗る女性が、自分の子を懐妊しているといって診療所に飛び込んできたと聞かされたときは、文字通り思考が止まるのを感じた。
 なんでも、破水した状態にも関わらず自分でタクシーに乗り、診療所にやってきたのだとか。
 葵に会いに来ていなければ、間違いなく知らない間に出産していただろう。そう考えると、運命というものを感じる。
 飛鷹を――最愛の息子を産んだ彼女は、その翌日、やけに満ち足りた顔で、遺言の一つも残さずに逝った。
 まるで、自分の役目は終えたとでも言いたげに。

 後に残されたのは、わけも分からず父親になった俺と、無邪気に母親を探す赤ん坊。
 なにも知らない赤ん坊の姿は、あまりにも弱々しく脆く見えて――守らなければ、素直にそう思った。

 そうして、今の俺――間桐雁夜も生まれた。



[33893] 飛べない鷹
Name: 深海魚◆6f06f80a ID:d720a56d
Date: 2012/10/18 21:18
雁夜と飛鷹が会い、言葉を交わすまでの二時間。
 臓硯から図らずも与えられた空白の二時間で、飛鷹は、あることについて考えていた。
 それが、第三の選択肢。
 少なくとも、そんなものがあるかもしれないという可能性に気付いた。
 雁夜を置いていくことはしたくない、しかし桜を完全に見捨てていくのは望まない。それでもどちらかを選ばなければならない。
 そんなジレンマを、もしかすると解消できるかもしれない一手。
 雁夜を置いていかない。
 桜を見捨てない。
 そのどちらをも叶えることができる、第三の選択。
 不確定要素はあまりにも大きく、情報は皆無で、選択肢として成り立つかどうかすら怪しいものだ。それでも、思いついた。
 ただ、それを可能性として数えるには、少しだけ――本当に、少しだけ――勇気が足りなかった。
 どうしようもないほどに甘美なものに思われたそれは、臓硯に突きつけられた選択にすら存在していた大前提を、根底から放棄するものだったからだ。そしてその報いは、そのまま飛鷹に襲いかかる。
 どのような報いが降りかかるのか、その内容まで飛鷹は正確に予想していた。
 もちろん、そんな選択肢は存在しないかもしれない。飛鷹の一人相撲に過ぎず、臓硯に鼻で笑われるかもしれない。
 だが、もしも、それが本物の選択肢だったなら――飛鷹は、自分が叩き込まれる地獄の窯の蓋を、わざわざ自ら開いたも同然だ。
 その未来を考えるだけで、震えが止まらないほど恐ろしい。吐き気が収まらないほど悍ましい。
 誰も、飛鷹がその道を進むとは思わないだろう。雁夜も、桜も、臓硯でさえも、おそらくは一切の例外なく予想だにしていない。飛鷹自身、ふと思いつくその瞬間までは頭の端にすら上げていなかったのだ。
 明らかな狂人の道。救いはなく、一条の光明さえ見えることはないかもしれない。
 だが――だからこそ、意味があるものでもあった。






◇◆◇◆





 話し出してから、一時間と少しが経過していた。
 雁夜は一旦口を閉ざし、大きく息をつく。

「大雑把だが、これで大体のところは話した。後はお前も知ってる通り……臓硯と取引をして、桜ちゃんを救うために聖杯戦争に出ることにしたんだ」
「……うん。ありがと」

 頷く飛鷹は、雁夜の動機を、おそらくはこれ以上ないほど完璧に理解していた。
 要するに、葵を桜に置き換えて、ここに連れて来られたのが凛だとしたら、自分がどうするか、どんな気持ちで動くのかを考えればいいのである。
 もちろん、自分が凛を助けるのに理由はいらない。ただ、なにを一番に期待するかといえば――

 ――ヒダカくん、ありがとう。

 そう、花のような笑顔で言ってもらえるかもしれないということ。
 そして、かけがえのない姉を救ってくれた頼れる人として、桜に好かれる。
 やはりそこに尽きるのだ。
 好きな人のためになにかしてあげたい――結局は、そんな気持ちが、雁夜の中で最も大きなウェイトを占めているのだろう。

 無論、もっと高潔な志から動いている部分はあるのかもしれないとも思う。
 たとえば、贖罪という言葉は知らずとも、その概念ならば飛鷹にも分かる。雁夜の中に、それがあることも。
 自分が家を逃げ出さなければ、桜は必要なかった。過去の逃避のツケが、巡り巡って桜に降りかかった――少なくとも雁夜はそう思っている。そのことを飛鷹は十二分に理解していた。そして、その理論にはある程度の正しさがあるかもしれないということを、薄ぼんやりとした理解の上ではあるが認めている。
 しかし、こうも思うのだ。

 いつでもどこでも、好きな人に好かれたいと思うのは当たり前じゃないか――と。

 桜という一人の少女を救いたい。
 自らの罪を償いたい。
 その上で、葵の好意をも勝ち取りたいと思ってしまうのは、これはもう仕方の無いことである。少なくとも飛鷹はそう思うし、その正当性を認められる。自分自身、一人の少女に恋をしている男なのだから。
 先程の例で考えても、桜への想いを完全に排除して、純粋に、無私の心で凛を救うなど不可能だ。飛鷹は聖人ではない。そして雁夜もまた、一人の男である。

「そっか。よく分かった。お父さんの気持ち」

 飛鷹の心は、穏やかな諦観で満たされていた。
 雁夜が、自分には理解し難い信念や倫理、あるいは使命感といったもので動いていたなら、きっと飛鷹は雁夜を無理にでも連れ出していた。
 ただ、雁夜が誰のためでもなく、自分と愛する人のために戦うというのなら――

「ありがとう。子供のぼくに、全部話してくれてありがとう」

 雁夜の帰国から始まった、激動の二日――その中でも、これまでになく静かな気持ちだった。
 選択肢があるからこそ、人は悩む。しかし、自分にとって正しい選択はなにかを見つけることができたならば、惑うことも悩むこともない。
 進むべき道、選びたい道が明瞭になるということが、どれほど素晴らしいことなのかを、飛鷹は実感していた。
 同時に、それに伴う覚悟をすることの難しさも、僅かに予感していた。

 自分がいまからすることは、確実に雁夜を悲しませる。
 その上、途方もない勇気と、不退転の覚悟が必要だ。それも一瞬だけではなく、長期に渡って維持し続けなければならない。
 自信があるか、と聞かれればそうでもない。しかしやらねばならない。
 飛鷹もまた、飛鷹であるために。

 ただしその前に、聞かねばならないことがあった。

「ねえ、お父さん。なんで桜ちゃんが呼ばれたの? 遠坂の人たちが魔術師だってことは分かったけど、わざわざ桜ちゃんを呼ばなくてもいいよね。ぼくも、いままでずっと放っておかれたのはなんで?」
「……そうだな」

 雁夜は暫し考え込み、また語りだす。

「まず、あいつの望みは不老不死になることだ。そのために聖杯を求めている。聖杯戦争については聞いたんだろ?」
「うん。それで?」
「桜ちゃんは、とってもすごい魔術の才能を持ってる。だから、桜ちゃんの才能を持つ子供が欲しいんだ。その子なら、きっと聖杯を持って帰るだけの強さがあるから。飛鷹が無事だったのも、その才能がないからだ」
「……そっか」

 あまり良い知らせではなかった。
 桜の利用価値が臓硯にとって大きければ大きいほど、飛鷹の考えた第三の道は狭くなる。
 さらに、自分にはその価値がないことも明らかになった。
 残る交渉材料は、一つ。
 上手くいくかどうかは分からない。しかし、決めた以上は当たって砕けるのみである。

「飛鷹。お前――なにを考えてるんだ?」

 雁夜の不審がる声が聞こえる。
 当然だとは思いつつ、その道理に答えることができないことを申し訳なく思った。
 自分がやると決めたこと、それを雁夜に話してしまえば、これもまた確実に止められる。そして、その制止に抗いきれる自信がないのだ。
 故に、土壇場まで秘する。
 なにもかも手遅れになるか、飛鷹が自分の意思をしっかりと貫き通せる確信が持てるまで黙っておく。

「おじいちゃんと少し、お話してくるね。すぐ戻ってくるから」
「は? おい、ちょっと待て! 一体どういう」

 雁夜の声に耳を貸すことなく、飛鷹は部屋を走り去った。
 目的地は臓硯の私室である。そこに臓硯がいなければ、また次の場所へ行く。臓硯に会うために、飛鷹は走っていた。
 廊下ですれ違ったメイドが驚くのを、窓から見える桜がどんどん近づくのを、その目で見ながら走り続ける。
 心臓の鼓動がやけに煩かった。
 胸が締め付けられて呼吸がし辛い。
 涙まで溢れてきた。
 それでも、走るのを止めようとは思わなかった。
 立ち止まってしまえば、二度と走り出せない。それを痛いほど自覚しているからこそ、走る。走り続ける。
 泣きながら、飛鷹は走った。
 臓硯を探して邸内を駆けずり回った。
 応接間――いない。走る。
 臓硯の私室――いない。走る。
 寝室、いない。走る。応接間、いない。走る。二階、いない。走る。正門、いない。走――

「ヒダカくん!」

 なにが起こった。飛鷹はそう思った。
 聞こえないはずの声が聞こえたので、気になり顔を向けた。
 すると見えないはずのものが見えた。信じられずに足を止めた。
 耳と目がおかしくなったのかな――真剣にそう思いかけた。

「ヒダカくん、おむかえにきてくれたの? ありがとう……すごくうれしい」

 そういって微笑む眼前の少女。
 何度見ても変わらない。いないはずの人がいる。
 否――いてはならないはずの人がいる。

「さっ……桜、ちゃん?」

 震える口唇で紡いだ名前。
 どうか否定してほしい、怪訝な顔をしてほしい。そんな人知らないよ、そう言って馬鹿にしてほしい。
 懇願にも等しい強さで願う飛鷹の正面、中庭と邸内を繋ぐドアの前で佇む少女は、飛鷹のよく知る笑みを見せながら――

「うん」

 ――とてもとても嬉しそうに、頷いた。





 思考が停止していたのは、数秒か、数十秒か、それとも数分か、数十分か。
 短くも長い停滞は解け、飛鷹は混乱の渦中にあった。
 よく考えれば、臓硯は、いつ桜が来るかを口にしたことがない。桜が養子にくる明確な期日を、飛鷹は聞いたことがない。
 ならば、そう、今日たったいま狙いすましたかのように桜が来たとしても、なにも矛盾はないのだ。
 全ては、飛鷹の思い込みだったのだから。

「大丈夫? ヒダカくん、なんだか変だよ」
「――あ、ああ、うん。大丈夫。ちょっと、そう、ちょっと驚いちゃっただけだから」

 嘘ではない。絶望や悲しみ、後悔といった感情が入り込むには、あまりにも忘我の境地にある。ただし驚いたどころの騒ぎでもない。つい十秒ほど前には鉄のように固めていた意志と、心中で纏めていた台詞が、一緒くたに吹き飛んでしまった。
 それだけの大きさを持つ存在だったのかと、改めて桜に対する想いを新たにする。

「おお、桜。飛鷹と会えたようじゃな。重畳重畳」

 その一声で、飛鷹は本来の目的に立ち返った。
 桜の後に続いて臓硯が入ってきたのだ。
 その矮躯を見た瞬間、飛鷹は衝撃で白紙に戻った心へと、新たな色が継ぎ足されるのをはっきりと感じた。
 覚悟の代わりとでも言わんばかりに飛鷹の心を満たしたのは、これまでの生涯で、一度たりとも感じたことがない感情。
 それがなんなのか、三拍ほど自分でも図り損ねた。それほどに濃く、強い色。しかし理解してしまえば簡単だった。
 激怒である。
 よくも桜ちゃんを巻き込んだな――その一念からくる激烈な怒りが、臓硯への恐怖、魔術への畏怖を諸元に消し飛ばしていた。

「……大事なお話があります。でも」

 ちらりと桜に視線を向けると、臓硯も鷹揚に頷いた。

「話は応接間でな。桜、ちと席を外す故、ここで待っておれ。すぐに戻る」
「はい、おじいさま」
 傍から見ても分かるほど楽しそうに顔を歪ませた臓硯は、二階へと向かう。
 ぼくの答えを聞いたら、どんな顔になるのかな――そんなことをふと思いながら、飛鷹も階段を上る。
 緊張と怒りからか、応接間までの距離は恐ろしく短く感じられた。
 奥にある椅子に座り込んだ臓硯は、期待と欲望で濁りきった瞳を飛鷹に向けた。

「さて――答えを、聞こう」
「おじいちゃん……おじいさま」

 言い直す。ただそれだけの行為である。にも関わらず、飛鷹は断崖絶壁への一歩を踏み出したかのように錯覚していた。
 燃え上がる怒りは、崖からの転落というあまりにもリアルな驚異を前にして下火になりつつある。
 蓋をしていた苦悩、恐怖、絶望――それら全てが、飛鷹の心を蹂躙し、屈服させようと暴れまわる。
 命を守るために、心が自衛を試みていた。
 だが、その先――自分の心すら裏切って初めて道は開ける。

「おじいさま。ぼくが――」

 思い切るように言葉を繋ぐが、肝心の言葉がどうしても出てこなかった。
 たった一文。
 その一文を口にするのが、どれほど難しいことか。
 手足の震えを隠す余裕もない。
 目の前では、老人の皮を被った化け物が垂涎の面持ちで、今か今かと待ち構えている。
 それらと戦う動機はただ一つ、愛のみである。
 それは、あまりにも儚い。

「ぼくが、桜の代わりになります」

 だが、それで十分だった。









 勇気を手にした雛は、自らが鷹と成りうることを示すだろう。
 愛しき人を救うために、その身に秘めたる価値を存分に見せつけるだろう。
 その結果――自らの風切り羽を失うことになると、悟っていようとも。










 中二病なんて、思っても言わないでください。お願いします。



[33893] 執着
Name: 深海魚◆6f06f80a ID:d720a56d
Date: 2012/10/22 23:05
臓硯が心底から不意をつかれて絶句したのは、およそ数百年ぶりのことだった。

「……代わり、とは」
「桜ちゃんにするはずだった教育を全部無しにして、その分、ぼくを好きにしてください」
「ふ、む……」

 思わず言い淀む。反応が遅れていた。
 交渉、陰謀、どこをとっても百戦錬磨の臓硯が、一般人、しかも七歳児に困惑させられたのだ。
 それほど、あり得ない言葉だった。
 二日前、この言葉を雁夜が口にしたのは、臓硯の予想の範囲内だった。どのような制裁を加えるかも昨夜のうちに決定していた。この度し難いまでに無能で非合理的な行動しか取れない不出来な子孫が、一時の感情に酔って己が身を無意味に捧げることの意味は、容易に理解できたからだ。
 要するに、正義の味方でも気取り、義憤に燃えて我が身を犠牲にする――その行為に自己陶酔しているのだろう。遠坂葵への劣情に偽善で蓋をして、自分自身さえも誤魔化しながら。
 欲望のために我が身を捨てる――臓硯からすれば理解はできずとも得心はいく。
 しかし、飛鷹はまだ七歳の子供にすぎない。英雄の力もなく、さりとて魔術師の論理にも染まらず。ただ、磨けば光る原石でしかない。まだ宝石にも、路傍の石にも至っていないのだ。
 ゆえに、臓硯は訝った。
 なにが、恐怖を抑える術も知らぬはずの幼子に、この世の地獄を体現したかのような蟲どもの穴倉へ飛び込む決意をさせたのか。なにゆえ、飛鷹は恐れも躊躇いも見せない――否、見せながら、恐怖を感じるただの人間でありながら、何故このような言葉を紡げるのか。
 疑問を抱きつつも、同時にこう思った。

 ――もしかすると、思わぬ拾い物となるやもしれんの。

 予感、といってよかった。
 長き歳月をかけて研鑽されてきた嗅覚が、なにかに気づいたのだ。
 目の前のこの小童は、なんらかの交渉材料を持っている――と。
 そして、それはおそらく、少ない情報から推理して、魔術師たる臓硯を満足させる、または考慮に値すると認めさせるだけのなにかだ。

「桜の持つ才能、それを差し引いて余りあるなにかを、見せるということか?」
「……それは、おじいさまが見て、自分で決めてください」
「ック……!」

 臓硯の総身を電撃のような衝撃が襲った。
 嗚呼――未だかつて、これほど活きのいい獲物がいただろうか。まだ七つであるというのに。
 肝心の不老不死を一旦置き去りにして、心ゆくまで嬲りたくなる。
 泣いて許しを請うまで蟲に責め抜かせようか。
 身動きが取れない状況に追い込み、目の前で雁夜が発狂する場面を見せてもいい。
 いや――希望を見せて、その後に絶望へと追い込むのが最上。
 痛苦に耐え、父を救えぬ自分に歯噛みし、それでも藻掻いたその先に――救いなど、最初からなかったことを知る。
 その情景のなんと甘美なことか。なんと愉快なことか。
 想像をしただけで舌なめずりをしたくなる自分を抑え、臓硯は努めて尊大な空気を発した。

「見せてみよ。それが桜に比肩しうるものであれば、認めてやっても良い」
「……これは、お父さんにも話してないです。いつこうなったのかも覚えてません」

 そう前置きして、飛鷹の話は始まった。

「なんとなく分かるんです。ぼくは、二人で一人なんだって。飛鷹っていう子供と、誰か分からない大人が混ざり合ってできてるんだって。絵の具を混ぜて色を作るみたいにして生まれたのが、ぼくなんです」
「……終わりか?」
「はい」

 臓硯は沈黙した。するしかなかった。
 意味が分からない。
 荒唐無稽――そうとしか言いようのない話だった。
 しかし、心当たりはある。

「飛鷹。それは、おぬしの中に誰かがいるということではなく……混ざり合って新たな人間が生まれた、それが自分だと、そう言っておるのか?」
「……はい」
「なぜ、分かる」
「なんとなく、です」
「……」

 ひとまず知りたいことを知った臓硯は沈思する。
 二人分が混ざり合った存在、それの意味するところはなにか。可能性としては二つ考えられる。
 ひとつは、飛鷹がなんらかの精神疾患を抱えている場合。こちらのほうが妥当な考え方ではある。
 しかし、現状では、飛鷹の言葉を信じざるを得ないというのが臓硯の結論だった。
 飛鷹の言動は、精神を患った者にしてはあまりにも理路整然とし、尚且つ聡明に過ぎる。まだ七歳児であることも考えれば、本物の病気であるということはないだろう。

 残る二つ目は、飛鷹のいうことが全て真実――つまり、魂、もしくは精神が混ざり合っているという可能性。
 しかし、これは、有り得ない。有り得てはならない。
 有り得たとすれば、それはもはや、魔法のカテゴリーに位置づけられる現象だ。
 前者の場合ならば、御三家の一角、アインツベルンが一千年もの長きに渡って追い求め、それでも達成できていない奇跡――魂の物質化、第三魔法『天の杯(ヘヴンズフィール)』に、非常に近しい現象であると定義できるだろう。

 そして後者ならば、それはそれで非常に問題だ。
 精神の物質化――それは、新たな分野の魔術の開拓を意味する。すなわち、根源に至っている可能性もあるということだ。

 となれば、現状でより現実的だと考えられるのは前者。
 そして、魂の物質化に近しいものであり、飛鷹のような検体を生み出しうる魔術に、臓硯は覚えがある。
 魂の情報化。
 とある情報筋から数百年ほど前に小耳に挟み、ここ百年ほどの間に不老不死の探求の一助になると思い本格的に研究を進めたものの、間桐の魔術特性とはそぐわず、最終的には放棄、忘れ去っていた手法である。
 とはいえ、その観点に着目して、臓硯はいまの延命処置を思いついたのだが。
 魂を肉体から切り離して蟲に隔離し、その蟲より指令を送って人間を喰らうことで、霊体や肉体を新しく形作る――ただし、誤算があった。
 魂そのものに書き込まれた情報は、年を取るにつれて劣化していく。というよりは、歳を取ったという情報が書き込まれ続けている。どれほどの年月を重ねたのか、どのような状態なのか、全ての情報は魂に自動保存されている。ゆえに、新しく若い肉体を作ったとしても、魂の情報との矛盾が生まれ、修正されてしまう。
 結果、老人の肉体となってしまうのである。
 ただ、肉体という器を新調できているのも確かだ。帰るべき肉体がある以上、摂理に従って魂はこの世に縛りつけられる。死は免れる。時間稼ぎとしては上等な手法である。

 さて、ここで考えられる状況とはなにか。
 臓硯が考えたのは、魂の情報化を実行できる何者かが、まだ赤子だった飛鷹の中に仕込みをしたというものである。
 そこで不慮の事故が起こったのだろう。なんらかの理由で覚醒が不完全に終わり、異物の混入による影響だけが表面化してしまったのか――あるいは最初の工程、魂の情報を刻み付ける際に誤って宿主と融合してしまったか。いくらでも考えられる。
 これで、前に襲われたことも納得がいく。
 父親が危険に晒されているからといって、人を殺しにかかれる子供がどこにいようか。血中の酸素濃度を上昇させることで人体を死に至らしめることができるのは事実だが、そんな知識をどこで手に入れたのか。
 そしてなにより、ただの七歳児が、この間桐臓硯と対峙しているこの状況が、既に異常なのだ。
 これら全て、魂が何者かと融合していたならば辻褄は合う。

 ここまでは全て推測――しかし、おそらく最も真に迫る推測だ。

 次に問題となるのが、誰がやったのか。
 魔術師であることは確定している。あるいは魔術使いだ。
 そこから先は分からない。あまりにも候補が多過ぎるのである。
 もちろん、魂の情報化、及び移植を成し遂げられる魔術師はそう多くないだろう。だが、その技術を持つ魔術師が、誇らしげにそれを喧伝するかというとそうではない。封印指定、盗人、そういったものを警戒して秘するのは別段珍しいことでも何でもない。

 となれば――なぜ、飛鷹を選んだのか。その観点から見ていくべきである。
 最も疑わしいのは、飛鷹の母親。
 魔術師の家の生まれではないということは知っているが、実を言うと踏み入った調査を行なったわけではない。
 名前を使って戸籍を調べ、その家系が魔術と関わっているかどうかを探っただけである。
 結論から言えば見事に空振り、ただの一般人であるということを明らかにしただけで終わった。小竹の当主が行なった調査から、飛鷹には魔術回路がないことも分かり、その時点で一切の興味を失っていた。

 ただし――魂の情報化が可能な魔術師ならば、話は別だ。
 
 一般人に自らの魂を移植した後、この辺りでは名が知れている魔術師の家――この場合は間桐の血を取り入れようと目論んだ。その中でも最も接近が容易な雁夜に接近して飛鷹を作り、次の宿主を手に入れた。
 臓硯がその立場ならば、十分に取りうる選択肢だ。

「……桜ちゃんと交換できるくらいには、興味あるんですか?」

 呼び掛けで、我に返った。
 そして己の失策をも悟る。
 こういった交渉事の基本は、こちらには気が無いように思わせ、出費を抑えることだ。その点、こうして思慮に耽り推察を重ねるというのは、相手の持つカードの価値を認めることにほかならない。
 少なくとも、相手がそう思ってしまえば終わりだ。安く手に入れたければ、当の持ち主にすらその価値を疑わしく思わせなければならないのだから。

「選んでください、おじいさま。ぼくか桜ちゃん、どっちを選ぶんですか」
「思い上がるなよ、飛鷹。貴様にそれほどの価値があるとでも思うか?」
「……なにも知らないから分からないです。それは、おじいさまの方が詳しいと思います」
「つくづく、生意気な小僧じゃ」

 悪態をつく臓硯は、内心で笑っていた。
 こうして飛鷹が強気になってしまった以上、それを払拭するのは難しい。さりとて、手荒に扱いたくはない。
 飛鷹は、臓硯が行なっている不完全な延命措置、その成功例と言っていいかもしれないからだ。運が良ければ、飛鷹の体から、聖杯に依らない不老不死を手に入れることができる。
 運が悪くとも、肉体を新調するに連れて進んでいる、魂の劣化を食い止める手段は見つかるだろう。
 結論――桜と引き換えにする価値はある。十分にある。
 ただし、ここで妥協する前に、どうしても知っておかねばならないことがあった。

「……一つ、調べさせてもらおう。魔術回路の有無じゃ」
「まじゅつかいろ? ぼくにはないってこと、もう知ってるはずじゃ……」

 どうやら雁夜が要らぬことまで喋っていたらしい。飛鷹はこれでもかというほど怪しんでいる。

「おぬしは少し特別かもしれぬのでな。なに、案ずるな。誓って調べるだけ、余計な手出しはせぬ」
「……本当に、ですか」
「ワシは約束は破らん。それが魔術師というものよ」

 飛鷹は、ある意味で臓硯を信用している。それが臓硯には分かっている。
 もしここで臓硯が魔術を用い、力に任せて飛鷹を捕らえれば、飛鷹と桜、両方を手に入れることができるのだ。しかし、臓硯はそれをしないと、飛鷹は本気で信じている。
 そしてそれは当たっている。桜を無事に置いておくことは、雁夜と飛鷹に対する交換材料と成りうる。さらに言うならば、圧倒的な高みから圧殺するかのように押さえつけるのは、臓硯の趣向からはかけ離れている。
 その信頼に基づけば、この場面において、飛鷹の取る行動は一つしかない。臓硯もそれを承知しており、答えを聞く前から調べる準備を進めていた。
 魔術回路の本数とは、魔術師にとっての最重要情報である、それゆえに、魔術回路の本数を調べるための魔術は絶え間なく磨かれ続けてきた。家によってやや手法が異なりはするが、現代では誰にでも使える類の、ごくシンプルなものとなっている。
 飛鷹が頷いた直後、即座に術式を展開。魔力の網が体内を探査する。

「……なんか、気持ち悪い……それに、ちょっと痛い……」
「動くでない――フン、やはりな」

 飛鷹の反応に、臓硯は自分の推測が正しかったことを確信した。
 魔術回路が存在しなければ、そもそも反応を示すことすらないはずだ。つまり、魔術回路は飛鷹の中に存在している。
 ただ、痛みを覚えているということは――その回路が閉じている、ということだ。

 検査が終わるまでには、一分ほどの時間を要した。
 検査結果――魔術回路メイン二十九本、サブ七本。その全てが閉鎖されている。
 まず、生後すぐの検査では存在していなかった魔術回路が後天的に発生していることは確認できた。これは間違いなく、飛鷹と融合した何者かが覚醒した影響である。
 おそらく、魔術回路を持たない、という飛鷹の魂の情報の上から、魔術回路を持つ、という何者かの魂の情報が上書きされ、世界の修正によって魔術回路を有する肉体に改変されたのだ。
 ただ、やはり覚醒は不完全だったらしい。魔術回路が閉じているのは、飛鷹と何者かの情報が混ざり合った結果、魔術回路を有するが閉じているという中間地点で落ち着いたのだろう。

 どのように魂の情報を潜伏させたのか。どうやって覚醒させるのか。何故失敗したのか。知りたいことは山のようにある。そして、飛鷹を欠けば何一つ知ることができなくなることでもある。

 いまの飛鷹は、既にただの玩具ではない。臓硯からすれば垂涎物の、非常に貴重な検体だ。

 そんな飛鷹を如何に活用するか。解剖などしても仕方がない。すればするで得るものはあるだろうが、肉体よりはむしろ魂にその秘密、その真髄がある。
 では魂を調べるかというと、どのようにして調べれば良いのか、臓硯には見当もつかない。
 魂に関して、臓硯はやはり門外漢である。延命のために必要不可欠な知識以外は持ち合わせず、それ以上を学ぼうにも教えは門外不出だ。しかも間桐の魔術特性では習得できない可能性が高い。
 精神からの調査は語るに及ばずである。門外漢どころではなく、名前以外は何一つ知らないと言っていい。
 それらの要因を鑑みて、臓硯の頭脳が叩き出した結論は、研究者としての正道だった。
 様々なアプローチを慎重に試みながら、暫く様子を見るしかない――そう考えた。

「飛鷹。申し出を受けるかどうかは、明日に答えを出す。それまで部屋で休むなり、雁夜と話すなり、好きにせよ。ただし、命が惜しくば外には出るな。ワシの私物に触れることも許さぬ」

 言い捨て、臓硯は自らの私室へと急ぐ。
 魂の情報化についての文献を読み直すためである。
 魔術に関することまで忘れるほど劣化した覚えはないが、情報はできる限り多く欲しい。
 夢にまで見た不老不死。他者に依存し続けなければならない仮初のものではあるが、それが聖杯に依らずして叶う可能性を前にして、臓硯の胸はかつてないほどに高鳴っていた。




「――っは」

 臓硯が応接間から姿を消した瞬間、飛鷹は大きく息を吐いて脱力した。
 臓硯が、あれほどあからさまに欲望でぎらついた目を向けてくるとは、思ってもいなかった。
 舌なめずりをする捕食者に、こいつ美味そうだな、と品定めされる。なんと不快で、恐ろしい。蛇に睨まれた蛙の気持ちが痛いほど分かった。
 あれはきっと、恐怖で竦んだだけではない。
 動かなければ死ぬことは決まっている。しかし動いたところで逃げられるはずもなく、死は免れない。
 そんな絶望が、活力を奪い去っていくのだろう。
 命を拾えた幸運に、膝が笑い出しそうになる。
 仮に、臓硯が一歩でも自分の方へと歩み寄っていたなら――無意識の内に怯えを見せていた。
 よくもまあ、怯えを表情に出さず済んだものだと、飛鷹は自分を褒めてやりたいくらいだった。
 男の子は、怖がってるところを人に見られちゃダメ――そんな思いが、最後の防波堤となって、なんとか隠し通せた。
 次からは心配ない。一度、あの威圧感を経験した以上、そう簡単に怯むことはない。
 飛鷹は、確実に経験を積んでいた。自信をつけていた。

「……飛鷹?」

 そして、それが訪れたのは、臓硯が立ち去ったことでひとまず気を抜いた、まさにその瞬間だった。
 間違えようもない。この世で一番よく知っている声だ。

「……お父さん?」

 信じられないという心中を多分に含んだ声が、応接間に響いた。自分が出した声だとは信じられないほどに、怯えを含んだ声だった。
 視線を向ければ、息も絶え絶えで開きっぱなしのドアにもたれかかる雁夜の姿がある。
 おそらく、盗み聞きでもしていたのだろう。さもありなん、飛鷹は今更ながら思う。あのような立ち去り方をされれば追いかけて当たり前だ。なにか大事なことを隠しています、と言い捨てていったようなものだ。
 その雁夜は、ついさっき自分の耳に飛び込んできた言葉の意味が、全くもって理解できない様子である。
 そして、飛鷹もまた――

「なにがどうなってる? お前は、なにをしたんだ」
「……どこまで聞いてたの?」

 飛鷹はある種の諦観を持って聞く。
 最初から最後まで聞かれていたなら、完全に終わりだ。雁夜は飛鷹を逃がすためにありとあらゆる手を尽くし、弁舌を振るうだろう。
 なにもかもが動き出そうとしているいまになって、そんなことをしてほしくはなかった。固めて、補強して、ようやく鉄壁のように仕上げた。その覚悟が揺らぐようなことを、してほしくはなかった。逃げ出していい、その理由を与えないでほしかった。
 自分がそこまで強くないことは、他ならぬ飛鷹自身が誰よりもよく知っているのだから。

「最後の部分だけだ」

 ――よかった。
 そう思ったのも束の間だった。
 雁夜の燃えるような眼差しは、まだ飛鷹を射抜いている。

「申し出? お前、臓硯に取引を持ちかけたのか」
「……うん」
「ふざけるのもいい加減にしろッ!」

 雁夜が唐突に叫んだ。
 つい先程、語り合っていた時にも見えていた怒りの兆候。それがついに吹き出した。
びくりと反射的に怯える飛鷹にも構わず、思いの丈を吐き出し始める。

「俺がここに来たのは、なにもかもの始まりが俺だからだ! 俺がこの家から、自分の運命から逃げてさえいなければ桜ちゃんを巻き込むことはなかった! なら俺以外に、一体誰があの子の人生を取り戻してやれるんだ! そこに飛鷹、まだ七つのお前を関係させたからって、なにがどう上手くいくっていうんだよッ! お前がここにいたって、なんにもならないんだ!」

 雁夜の言には、一分の隙もない。
 そもそもの原因を究明しようとするならば、雁夜の責任だと言えなくはないだろう。少なくとも、本人がそう思っている以上、そういうことだ。
 飛鷹がいても仕方がない、なにも知らない雁夜がそう思うのも当たり前だ。
 ただ――納得はできない。

 雁夜はなにも分かっていない。
 飛鷹がどんな思いで待っていたのか。
 どれくらい思い切って探しに出たか。
 どれだけ絶望を味あわされたのか。
 どれほどの勇気を振り絞って臓硯と対決したのか。
 なにも、分かってくれていない。

 飛鷹は、この感情が雁夜からすれば理不尽なものであることを自覚している。
 自分が意図的に隠している部分もあるのだから、そもそも逆恨みに近い。
 伝えてもいないのに、理解してくれないと喚くなど、自分勝手にも程がある。

「――なんで」

 それでも、ポツリと呟く。
 飛鷹の中で、なにかが切れかかっていた。
 細い、とても細い糸。
 必死に耐えて、守っていた一線。

「飛鷹、いますぐに帰れ。連絡は俺がしてやるから、守と合流するんだ。いいな!」
「……」

 飛鷹は答えない、頷かない。
 雁夜に嘘をつくことはできない。だから沈黙する。
 それによって、余計に相手を怒らせると分かっていても。
 
「返事は? 返事をしろ」
「……」

 ただでさえ磨り減っている飛鷹の精神力が、音を立てて削れていく。
 雁夜はそのことに気づかず、素直に了承しない飛鷹に苛立ちを覚えるばかりである。
 だがしかし、雁夜は決定的な間違いを犯していた。
 飛鷹はまだ七歳児である。ただ、とても七歳児とは思えない利発さや聡明さを見せているだけだ。
 だというのに、雁夜はまるで、飛鷹を一人前の大人であるかのように扱い、その行動を責めた。
 十七、八歳の息子を責めるように、七歳の幼子を叱責していた。
 故に、あることを忘れていた。

「飛鷹! 返事を」
「うるさい! そんなの知らない、知らない! 全部、お父さん、は――知らないッ!」

 そも、子供という生き物は――理不尽に爆発する。
 お父さんのせいだ、という一言を言いかけて留まったのは、それを聞いた雁夜の泣きそうな顔が、脳裏にチラついたからだ。
 ただ、溢れたものは止まらない。
 一度決壊してしまえば、後は空っぽになるまで吹き出すだけだ。

「ぼくがいても仕方ないとか、なんにもならないとか、知らない! じゃあなんで、最初からそう言ってくれなかったの!? じゃまだからあっち行ってなさいって、ぼくがいても仕方ないって、大事なお仕事してる時みたいに言われたほうが良かった! ぼくがここまで来たのは、なんにも教えてくれなかったからだよ!」

 雁夜の思い違いは、そこにあった。
もちろん、魔術の存在を明かそうとも――否、明かせば尚更、飛鷹は雁夜に付いて行こうとしただろう。出立の日に黙って見送ったのは、命に関わるような事態に発展すると想像できるほどの材料が、あの時点でなかったからだ。
飛鷹を本当に大人しくさせておこうと思えば、魔術の存在や自分の推測を洗いざらい話した後に、たった一言投げかけるだけで良かった。
 足手まといだ――そう言うだけで良かった。
 大人の知性を持つ飛鷹ならば、与えられた情報から、その言葉の正当性を認めて大人しく避難していただろう。

「なんにも、言ってくれなかった……ッ!」

 次第に、飛鷹の声は小さく、言葉は刺を失っていた。
 解き放たれた怒りと苛立ちを無条件にぶつけようにも、飛鷹はあまりに父親を愛おしく思いすぎていた。最後まで荒い語気を保ち続けることもできず、弱弱しげな独白のようになってしまうばかりである。

 そして、新たに、なにかが溢れた。

「おと、さん……お父さぁん……ッ」

 ボロボロと涙を零し、飛鷹は泣き出す。
 七つになりたての子供には不釣り合いなまでの重圧にも耐えてきたからこその、感情の決壊だった。
 寂しかった。
 怖かった。
 それでも頑張ったのに――どうして褒めてくれないの。
 我が儘を言う子供のように、泣きじゃくった。
 泣いて、喚いて、自分がどれほど辛かったかを訴えて――

「……ぁ」

 ふと、暖かいものに包まれた。
 それがなんなのか、一瞬分からなかった。
 そしてすぐに、目の前にある布地と暖かさが、雁夜のそれであることに気付いた。

 ――お父さんの匂いだ。

 そんなことを思った。
 思って、一も二もなく自分も雁夜の背中に手を回した。

「……ごめん。でもな飛鷹、やっぱりお前は行け。いますぐ、ここから出て行け」
「やだ……やだよぉ……」

 飛鷹は首を振り、より強く雁夜の胸元に顔をうずめた。
 雁夜の気持ちは、飛鷹にも痛いほど分かる。分かるがしかし、いまとなっては承諾しかねる要求だった。
 飛鷹は既に、その眼で雁夜の苦悶を見、その耳で悲鳴を聞いている。
 家族への脅威を知識として認識していただけならば、飛鷹は自分を優先させることもできただろう。だが、体感を伴う情報として実の父親の苦しみを知ってしまった以上、もはや退くことはできない。
 さらに言うならば、ここで戦う理由が、もうひとつできてしまった。
 遠坂桜――あの少女が来てしまった。以前にも増してここから逃げ帰るわけにはいかない。
 葵の幸せを願わない雁夜が、雁夜ではなくなってしまうのと同じく。
 桜の幸福を希求しない飛鷹もまた、飛鷹ではなくなってしまうのだから。
 そして未だに飛鷹が飛鷹である以上、この家からこのまま去るのは、できない相談だった。

 だからもう、なにも言わなかった。
 そして、なにも言わせないために――それ以上に、次はいつ感じられるか分からないこの温もりを、今度こそ忘れぬように――強く強く抱きついた。

 身も心も安らいだ飛鷹は、この世で一番優しい睡魔に誘われて、暖かな闇へと落ちていった。






◇◆◇◆





 いつしか泣き声は止み、飛鷹は身動きをしなくなっていた。
 少量の不安に駆られ、雁夜はそっと呼びかける。

「……飛鷹?」

 返事は、小さな寝息だった。いつの間にやら眠ってしまったらしい。
 無理もない、と思う。ここまでの道のり全てが、子供には――というより、常人には過酷な冒険だ。
 最愛の息子がまだ正気を保っていることが、奇跡のように思えるほどに。
 ともあれ、飛鷹を寝床へと運ぶべく、雁夜はそっと飛鷹の体を持ち上げた。

 軽い。蟲との戦いで疲弊しきった自分でも抱き上げられるほど軽い。
 考えてみれば、まだ七歳。成人男性である雁夜に持ち上げられるのは当たり前だ。
 だが、この軽い体で――飛鷹は、ここに辿りついた。
 そして、世界の残酷さをその目で見ながらも、臓硯という魔物に睨まれながらも、戦う勇気を失ってはいない。逃げ出そうとはしない。
 涙をこらえ、震える体を叱咤して、前へと進み続けている。
 それを考えると、雁夜は、胸の中に熱いものがこみ上げるのを禁じ得なかった。。
 ああ、畜生め。雁夜は自分自身を罵る。
 父親失格だ。このような場面では、悲しまなければならない。それが当たり前だ。
 それでも、雁夜は、思うのだ。
 世界に叫んで、知らしめたいと思うのだ。

 ――見ろ! これが、俺の息子だ! 

 闇に負けず輝く光のような息子を、心の底から誇らしく思う。
 そしてその父親が自分であるということに、泣きたくなるくらいの感動と感謝を覚える。
 そんな恥知らずな自分を誤魔化そうと、虚空に向けて問いかける。

「なんで、こんな頑固者に育ったんだろうな」

 ――似た者親子ってことでしょ。

 呟いた問いに、笑いを含んで溌剌と答える声が聞こえた。
 そんな気がした。
 声の主が誰かは、考えるまでもない。彼女ならば、きっとこう言うだろう。仕方ない人ね、と言わんばかりに雁夜の手を引っ張りながら。
 そして、これは自分にしか聞こえない幻聴の類であることも疑いようがない。
 それでも、ほんの少しだけ――似た者親子という言葉は、嬉しかった。



[33893] 君が為に
Name: 深海魚◆6f06f80a ID:d720a56d
Date: 2012/11/26 22:43
「……ん」

 目が覚めた時、眠りにつくその時まであった温もりが消えていることに気がついた。
 なんで――そんな疑問が一瞬思い浮かび、すぐに消える。
 雁夜は、また耐えているのだろう。そうでなければいいのに、そう思う一方、現実的に考えればそれ以外の可能性は低いことを頭が囁く。

 若干嫌な気分になりながら上半身を持ち上げると、ベッドで眠っていたことが分かった。お父さんが運んでくれたのかもしれない、そうだったら嬉しいなと、少し思う。
 そんな思考を重ねながらベッドを降りて、とりあえず外に出た。
 どれほど眠っていたのかは分からない。ただ、桜と出会ったときは夕方で、いまの窓の外は真昼のように明るいことから、一晩眠りこけたことは確かだった。
 もう、昨日から数えた明日になった。
 今日という日が来てしまった。
 臓硯に会わなければならない。
 答えを聞かなければならない。

 その答えが、自分の望まぬものだった場合、どうするのか――それは決めていない。
 少なくとも、諦めるつもりはないということだけは確定していた。

 桜ちゃんはどうしたのかな――そんな疑問が、ふと頭の端を掠める。
 まさか、いきなり蟲蔵に放り込まれているということはないだろう。こちらから持ちかけた取引に返事をしていない。ただ、一抹の不安が残っているのも確かだった。
 地獄の淵に、桜が来てしまったこと。それ自身に対する不安だ。
 臓硯は、桜に手出しをしないと明言してはいない。
 だが――十中八九、手は出していないだろう。
 それは、これから決まることだ。
 それを防ぐために、父親と戦う――そう決めて、飛鷹はここにいるのだ。

 運命の分岐点。
 関わる者全てを引き裂き、引き離し、引き寄せる、気まぐれで力強い大渦潮。
 それが、自分の前に、すぐそこにある。
 人の手で、大渦に逆らうことはできない。 
 それでも抗う。それしかできない故に、足掻く。

 ――行かなきゃ。

 呟いた飛鷹に、もう眠気は残っていなかった。
 そして、その顔もまた――子供のものではなかった。
 行き先は決まっている。
 与えられた部屋から廊下を真っ直ぐに進み、突き当たりの角を曲がってすぐの扉の先。そこは、つい先日の対決でも使用した応接間である。
 迷わず扉をあけた飛鷹は、奥で待つ老人の姿を見て、自分の予想が間違っていなかったことを知った。

「よく眠れたか」
「はい」

 必要最低限の言葉だけを返し、臓硯と向かい合う。
 なんとはなしに分かっていた。ここにいるだろうと。
 臓硯もまた、飛鷹がここに来ることを読んでいたのだろう。
 お互いに暗黙の了解のようなものがあった。

「桜ちゃんは?」
「与えた部屋で休んでおる」

 これもまた、予測済み。
 予定調和に特有の白々しさと、気味の悪さがあった。
 ただ、その他にも引っかかるものがあった。
 根拠や証拠はないが、強いて言うならば違和感に近い嫌な予感。
 この臓硯が、すんなりと取引を済ませるわけがないという確信。
 そんなものを出会って間もない飛鷹に抱かせるほど、臓硯は悪辣な人間だった。

「さて、決断を下す前に、ワシは肝心なことに気付いた。これは、ワシの一存で決められることではないと」
「……」

 飛鷹は口を開かない。
 臓硯はなにが言いたいのか、これ以上ないほどに明確だったからだ。
 本当に、嫌がらせが上手い。普段ならばそんな的外れな感嘆も浮かぶだろう。しかしそんな余裕はなかった。
 飛鷹にとって、最も痛い部分を突いてきた。

「全部聞いたぞ、飛鷹」

 飛鷹の背後から、昨日の焼き直しのように同じ声が聞こえる。
 ただし――今度の声は、戸惑いで揺れても、驚愕で震えてもいない。
 紛れもない怒りで、彩られている。

 ――手強そう。

 直感しながら、飛鷹は雁夜の方へと振り向いた。
 蟲に虐められていなくて良かった――そんなことを、ふと思った。





 雁夜はなにもかもを理解していた。当然だ、雁夜も全く同じ動機でこの憎き生家へと帰ってきたのだから。
 雁夜が桜を救わんと行動したのは、彼女がかつての想い人、そして今も余人をもって代え難い幼馴染の、大事な娘であるからにすぎない。桜が見ず知らずの少女であったなら、雁夜はただ、その身に訪れた不幸を憐れみ、不条理を哀れむのみであろう。自分を責め、苛みながらも、飛鷹のためだと自分に言い聞かせて逃走することを選んだだろう。しかし、そうはならなかった。
 つまり、雁夜がこの戦争に身を投じるのは、桜のためではない。無論、桜のことを全く気にかけていないわけではなく、むしろ愛おしく思ってすらいるが、その根底にあるのはあくまで葵への想いの成れの果てなのだ。
 だから、雁夜には飛鷹の選択が、動機が、覚悟の程が、我が身のことであるかのように理解できる。
 理解して、それでもなお、受け入れ難かった。
 雁夜は、紛れもなく、飛鷹を息子として愛しているから。
 これを飛鷹の選択として尊重したい思いも当然、その結果として桜が一時的とはいえ完全に解放されるのも喜ばしいことだ。だが、少しでも人並みの心を持ち合わせているならば、どこの親が実の息子を地獄に放り込みたいなどと思うだろうか。
 それは、蟲蔵のことを、ひいては間桐の魔術がどれほど非人道的であるかをよく知っている雁夜ならば、尚更であった。
 この地獄へと取り込まれたが最後、誰よりも愛しい息子は、死ぬことすら許されない。

「飛鷹……お前、なにを考えてるんだ!」

 その確かな親心ゆえに、雁夜が我を忘れて怒鳴りつけるのは自然なこと。
 対する飛鷹は怯まず、ただ雁夜と向き合った。

「お前を、ここに入れるなんて許さない! 桜ちゃんの身代わりに、お前を差し出せって言うのか!」

 熱された雁夜とは対照的に、飛鷹の目は冷たかった。あの夜の葵を彷彿とさせる、冷め切った目だ。感情の全てをその奥に閉じ込めて、無関心だけを前面に押し出した、無機質な目だ。
 雁夜の怒りの原因は、それを見たことにもあった。
 現時点では文句無し、ぶっちぎりで第一位のトラウマ。それを目の前で実の息子に魅せられては、苛立つなという方が無理な相談である。
 ちなみに、第二位は飛鷹に苦しむ姿を見られたことだ。つい二日前の出来事だけに、生々しく尾を引いている。

「そんなこと言わないよ、お父さん。ぼくが、自分で決めた。桜ちゃんとぼく、一人と一人、交換するって決めたんだ」
「ふざけるな! そういう話をどこで聞いたのか知らないが、お前はまだ」
「もし桜ちゃんが葵さんだったら、お父さんはどうするの?」
「……それ、は……」

 雁夜は、ぐうの音も出なかった。
 というか、つい先日、雁夜は桜のために命を捨てると宣言したに等しい。それが葵のためであると飛鷹には見抜かれている以上、どれほど気のきいた言葉を思いつこうとも今更、語るに落ちるというものである。
 飛鷹の言葉はまだ続く。

「お父さん。ぼくは桜ちゃんを助けたい。助けるって決めたんだ。その後、僕を助けるのは、お父さん。お父さんが勝ちさえすれば、なにもかも終わるんだから」

 汗の一筋も流さず、恐れの欠片も表に出さず淡々と言い切る飛鷹。
 ――なんなんだ、この子は。
 ここまでくると、相手は我が息子ながら、雁夜は不信と狼狽を隠せなかった。
 自分が七歳のとき、はたしてこれほど強固な意志と、整然とした思考回路を持っていたか。否、断じて否である。
 かくあるべし、と育てられる貴族の家であっても、ここまで理路整然と言葉を並べ、挙句の果てに自らの人生と父親の命を賭け金にした勝負を、他人のためだけにできるだろうか。否、断じて否である。
 普通、子供は確固たる信念も知らず、貫き通す意地も覚えず、生々しい野望も抱かない。それらを抱けるほどに情緒も感情も、そして理性も育ち切っていないからだ。
 だというのに、目の前の息子は、まるで成熟し切った大人であるかのように――いや、自らを一個の素材として見ているというほうが正しい。
 魔術師というよりは、むしろ、完成された兵士かなにかのようだ。雁夜は、そう感じていた。感慨もなく、自尊もなく、冷徹に自分の価値を測る。目的と釣り合うようならば、自分自身を投げ出す。
 そして、そこには微塵の躊躇もない。

(いや。たとえ子供に似つかわしくないことばかり口にしていたとしても、その原動力は紛れもなく、桜ちゃんに対する好意だ)

 ――多分。

 雁夜は、そう締め括って自分を納得させようとして、見事に失敗していた。しかし、息子に対して覚えてしまった感情の渦は、表に出る前になんとか心中へと押し込む。

 ふと、ずっと前に見た公園の情景が蘇っていた。
 飛鷹と、桜と、凛。三人で遊びながらも、飛鷹の言葉や何気ない気遣いは、やはり桜に向きがちだった。そのことを凛にからかわれては怒り、それを宥める桜と話すだけで嬉しげに笑い、また恥ずかしそうにする。その光景は、かつての自分と葵を写し取ったかのようだった。
 あのとき、飛鷹もまた年相応の男の子であることを、雁夜は初めて知ったのかもしれない。
 子供として父に甘えるだけでなく、一人で大人びた様子を見せるだけでなく、初恋というものを知った男の子特有の、心の動き。その言動。
 あまりにも身に覚えがありすぎて、一時はデジャヴュかと思ったほどである。

 そして、昨日の涙が立て続けに思い出される。
 あれはもしや、飛鷹の中に残っていた最後の弱さを、躊躇を、一緒に流しきったのではないか。
 図らずも自分は、息子の背中を押してしまったのではないか。
 今更、飛鷹を止めてしまっても――その幸せとは別物なのではないだろうか。

 雁夜は混乱の極致にあった。

「お父さん、お願い。桜ちゃんを助けさせて。なんでもするから。終わった後、ずっと良い子にしてるから」
「……」

 考えを纏める時間は与えられず、雁夜は、答えを求める飛鷹から目を逸らした。
 あくまで落ち着いて説得を続ける飛鷹に、結局、雁夜はなにも言えなかった。
 桜を切り捨て、息子を助ける。その二者択一が、どうしてもできなかった。
 それは、桜への罪悪感からくる逃避のみならず――桜を切り捨てた、と葵に知られたとき、他ならぬ葵によって自分の心が受けるだろう傷、それに対する恐怖を多分に含んでの、黙殺。
 そして、雁夜は知る由もないが、飛鷹と同じ悩み――一人の男が決めた道を、自分の一存でとやかく言ってしまって良いものか、という躊躇いからくる、優柔不断。
 そんな雁夜の沈黙を承諾と受け取ったのか、飛鷹は雁夜に少しだけ頭を下げると、臓硯に向き直った。

「おじいさま、答えを言ってください」
「ふむ……」

 臓硯は暫し考え込む。しかし、それは外見のみだと、雁夜にもある程度の予測はついていた。
 あの臓硯が、これほど異常な事態に心躍らせぬわけがない、と。
 やや時間を空け、臓硯はフン、と不快気に鼻を鳴らす。しかし、実際は少しも不愉快になど思っていないのだと雁夜は、そしておそらく飛鷹も分かっていた。
 間桐臓硯という醜悪極まりない化け物は、愚か者が跳ねまわる姿を見るのが大好きなのだから。

「まあ、雁夜に異論がないならばよかろう。飛鷹、おぬしの要求を容れてやる。桜の教育は中止する」

 雁夜にとっては、祝福であり呪いでもある答えだった。





◆◇◆◇





 よかった――と内心で飛鷹は息をついていた。
 父親である雁夜に本気で反対された場合、この精神が抗いきれるのか、自信がなかったからだ。
 この場に居合わせた二人から見れば、飛鷹は七歳児とは思えぬ対応を見せていた。しかし、その内実は平静を保っているように見せるだけで精一杯。本能からくる嫌悪感と恐怖が表層にまで噴き出さないように、大人の理性と子供の意地、二人分の精神力で持って無理矢理に抑えつけていただけである。
 ゆえに、飛鷹は望む。
 教育が始まったとき、自分ができるだけ早く壊れてしまうよう。
 桜と引き換えに我が身を救ってくれ、と懇願するようになる前に、精神が崩壊してしまうことを。
 きっと、臓硯はその期待を裏切らない。

「じゃあ――」
「まあ、待て。答えを言う前に、一つ決めておこう。雁夜は席を外せ」

 臓硯はそう言って、本題に入るべく口火を切った飛鷹を制止する。
 同時に、やや青ざめていた雁夜の表情に、一瞬で赤みが差した。怒りが再燃したようだ。

「ふざけるな爺ぃ! 俺は飛鷹の父親――」
「父親であろうと母親であろうと、ここから先は関わりのないこと。魔術師同士の取引に部外者は必要ない。ほれ、分かったならば、疾く去るがよい」

 路傍の石でも相手にしているかのような対応。
 雁夜を関わらせるつもりなど、欠片もないのだということが如実に伝わってきた。
 その一方で、ギリギリという歯ぎしりの音が飛鷹にも聞こえる。血を流さんばかりに悔しさを、文字通り噛み締めているのだろう。
 いまにも飛びかからんばかりの怒気を発しながらも動きを見せないのは、臓硯の恐ろしさを熟知しているからだろう。初対面から飛鷹は二日、それにひきかえ雁夜は十年以上の付き合いである。ここで暴れても無駄だということが分からないほど短い年月ではない。
 とはいえ、このまま引き下がるつもりもなさそうだった。
 本当、余計なことする嫌な人だな――そんな気持ちを大きくしつつ、飛鷹は雁夜の傍へと歩み寄った。

「飛鷹。こればかりはならんぞ。雁夜を同席させることは許さぬ」

 釘を指す臓硯に、頷く動作で返答する。

「お父さん、大丈夫だから行って。話しても大丈夫だったら、後で相談するから」
「そういうわけには――」
「お願い」

 雁夜の手を弱く握り、頭を軽く下げる。
 反応は目に見えて変わっていった。
 戸惑うように体が揺れ、憤るように手を震わせ、そして諦めたように肩を落とす。

「……後で、全部聞かせてもらうぞ」

 すごすごと背を向けた雁夜が部屋を出た瞬間、ひとりでに扉が閉まっていく。
 最後の最後、雁夜と飛鷹の視線が交錯する。

 ――飛鷹。
 ――ごめん。

 目だけで縋り付く雁夜に心からの申し訳無さと罪悪感を示して、再び飛鷹は臓硯と向き合う。
 背後で、扉の閉じきった音が聞こえた。
 自分の未来まで閉ざされた気分だった。

「さて……」
「なんですか。早く言ってください」

 臓硯は、その不安を煽るように勿体つけて、飛鷹の周囲をぐるぐると歩き回る。
 飛鷹としては不安のみならず苛立ちをも煽られるだけの行為であり、段々と大きくなるそれは、隠すのも難しくなってきていた。
 それと比例して、なにが飛び出してくるのかという不安も高まる。
 時間を取り、怖がらせたからといって、それだけの用件が飛び出してくるのかどうかは分からない。嫌がらせや趣味でそれくらいのことはしそうである。
 ただ、そうではない可能性も高い。
 見計らったように、ぴたりと臓硯の足が止まった。
 その口唇が、ゆっくりと開いていく。
 なにが出る、なにを言われる、さあ、なにが――

「飛鷹、おぬしは今日この時より、間桐家の次期当主となれ」
「――え?」

 文字通り、飛鷹の思考が止まった。
 間桐の当主――意味が分からない。
 当主という言葉を“一番偉い人の呼び方”程度にしか考えていない飛鷹にとって、臓硯の言葉は、やや不可解に過ぎる台詞だった。
 なんのために、そんなものになれというのか。そうすることで、臓硯はどう得をするのか。全く見当がつかない。

「まあ、正式に継ぐのは第四次聖杯戦争が終わってからになるが……」
「ちょ、っと、待って。とうしゅ……?」

 つっかえつっかえ、どうにか発した言葉。
 どんな恐ろしいものが出てくるかと思っていた矢先にこれでは、弛緩するのも無理はない。
 臓硯はなぜか頷いているが、飛鷹は完全に置いてけぼりである。

「桜に魔術の教育を施すな、という条件をワシは飲んだ。ただ、跡継ぎ不在のままでは困ることは変わらん。対面も悪い。ならば、おぬしという新たな跡継ぎを立てた方が都合が良いではないか」
「……そう、ですか」

 場にそぐわない、至って平凡な反応。今度は失望に近い反応をされたように見えたが、それ以外に取れる反応がなかったというのが正直なところである。
 つい数日前まで一般人だった飛鷹が、魔術師の常識など知るはずもない。そういうものなのか、と納得するしかない。
 落ち着け、飛鷹は自分に言い聞かせる。

「当主……になったら、どうなるんですか」
「ふむ。おそらく、おぬしは魔術が使えぬ。ゆえに答えに窮する問いではあるが……強いて言えば、権力は手に入る。財力もな。そして聖杯戦争への挑戦権は間違いなく得られような。無論、ワシの指示には従ってもらう」
「ぼくが、次の当主に……」

 飛鷹は呟く。どうも実感がない。
 ふわふわと、雲を掴むような話に聞こえるのだ。
 端的に言えば、怪しい。
 上手い話など、この外道が持ってくるものか。そんな偏見、先入観があった。
 が、ふと思いついたものがあった。

「当主って……えらいんですか?」
「まあ、偉いと言えるじゃろう。この間桐家における当主であれば尚のこと」

 そっか、偉いのか。そんな風に飛鷹は思う。
 なら、これも叶うのかな。そう思って、ふと言ってみたくなった。
 これもまた、昨夜の内に考えていたことだ。

「桜ちゃんを遠坂さんの家に戻してください」
「それはできん」

 臓硯の即答。予想はできたが言って欲しくなかった答えを、飛鷹は少し怪訝に思う。
 より正確に言うならば、なんの役にも立たない桜を、手元に置いておく意味が分からなかった。
 無論、自分を教育するために桜を利用するというのも考えられない話ではない。しかし、雁夜から聞いた体験談によると、間桐の教育は基本的に絶望や怒り、恨み、憎しみといった負の感情を原動力にしたものであり、自分の好きな人――臓硯の認識では、おそらく友達――である桜を置いておくのはデメリットが大きい。
 あるいは、物惜しみか。
 その才能を手放すのは躊躇われるということか。
 ほとぼりが冷めた頃に、教育しようという心積もりなのか。
 飛鷹が臓硯にとって興味の対象となり得たのは、おそらくその珍しさゆえである。その珍しさが完全に解明されてしまえば、飛鷹の存在は抑止力ではなくなる。桜を守るものは何一つ存在しなくなる。
 それが分かっているからこそ、こうして桜を避難させるよう、要求したのだ。

 ただ、拒まれた理由はなんなのか。
 臓硯は一体どういうつもりで桜の返還を却下したのか。
 その真意を読み取ることができれば、今後の行動も読みやすくなる。
 そんな考えを見透かしたかのように、臓硯が口を開いた。

「あの娘は、既に間桐の秘奥の一端に触れておる。そして一度でも触れた以上、あの者は永久に間桐の人間よ」

 白黒が反転した目からは、なにも読み取れない。
 こちらの考えが、本当に全て見透かされているような気持ちに陥り、飛鷹は床へ視線を移した。 
 きっとその行為には意味などなく、一般にはそれを無駄な足掻きというのだろうが。

「……ぼくだけじゃ足りないんですか? 欲張りです」

 強がりながら口にした抗議は、もはや反論ですらなく、当然ながら鼻で笑われる。

「フン。小童が知った風な口をきくではないか。お主は知らぬやもしれんが、間桐の魔術は絶対的に門外不出。他家より子を招くということ自体がおかしいというだけのことよ。みすみす桜を返して、間桐の魔術を遠坂に解析されるという危険を冒すわけにはいかん。なに、雁夜が聖杯を持ち帰ればよいではないか。そうすれば、皆が幸せになれるのだ」

 幸せなどという言葉をいけしゃあしゃあと口にして、呵々と笑う老人の皮を被った化け物を前にして、飛鷹は内心で歯軋りした。
 飛鷹の決定的な弱点、それは間桐にとって自分が部外者であるということだ。
 かつて家を出奔した雁夜は、間桐の家の最新情報を掴んでいるわけではない。あれから掟が変わったから、余所者には分からないだろうな……こういった言葉には、何一つ言い返せないのである。
 ゆえに、嘘だ、と断じることはできない。自分にはなんの知識もないのだから。それに、どこからどこまでが秘すべき領域なのか、決めるのは臓硯である。出奔した長男の私生児にすぎない自分が、どれだけ異を唱えたところで無駄だ。
 もちろん、仮に雁夜が戦争で敗れようとも、自分が臓硯に身を任せる限り、桜は無事だろう。少なくとも、暫くの間は。
 だが、家族の元に帰ることはできない。血と因縁と妄執が絡みついたこの家で、長い時間を過ごさなければならない。
 さらに言うならば、臓硯の言葉も信用ならなかった。
 まず、桜の教育は中止すると確約しただけで、再開しないとは言っていない。屁理屈ではあるが、この屁理屈こそが理屈となりうる可能性を、飛鷹は無視できない。
 また、全く別種のなにかが行われた場合、それは取引の外と考えられるかもしれない。
 たとえば、桜の魔術は鍛えない、しかし解剖する。実験台に使う。そんなことを言われる可能性がある。邪推とも取れるが、この老人がそれくらいしかねないということは分かっている。
 しかし飛鷹からすれば、桜が辛い目にあうというだけで、現在の努力が全て水泡に帰するのだ。

「でも、おじいさま」
「くどい。それにの、飛鷹。よもや桜を遠坂の家に返しても、今まで通りの付き合いができるなどとは思うておるまいな? おぬしはいずれ、間桐の当主となる身。ならば遠坂はいずれ敵となる。あの娘を返せば、おぬしの仇敵となるやもしれんぞ?」
「……」

 無言でいながらも、飛鷹は自分の顔から血の気が引いて行くのを感じていた。
 いま、雁夜の追い込まれている状況が正にそれだ。
 雁夜は、遠坂時臣と戦わなければならない。しかも、最大の敵の一人として。
 ならば――その妻である葵とも、また同じく。
 時臣を殺そうとすれば、その前には葵が立ち塞がること、必定である。
 その矛盾に、雁夜は耐えられるのだろうか。

「あの娘、どうやらおぬしのことを悪く思うてはおらぬらしい。どうじゃ、元通りにできぬなら、いっそ自分の物にしてしまえ。ワシの狙いはあくまで第五次聖杯戦争、お主と桜の子が聖杯を取れば文句はない」
「……やめときます」

 ようやくそれだけを絞り出し、飛鷹は目を閉じた。
 大丈夫――自分に念じ、言い聞かせる。
 雁夜が勝てば良い。いや、雁夜が勝てなくても良い。自分が耐えれば良い。
 最悪の場合――自分が耐える必要すらない。

 目の前で笑う老人。
 間桐臓硯。
 この男を弑逆してしまえば、全てが終わるのだから。

 だが、いまはまだ、時期尚早である。
 諦めたように見せかけ、ゆっくりと牙を研がなければならない。この老人が、どれだけの切り札を、奥の手を隠しているのか知らなければならない。

「ほう? 良いのか、飛鷹。雁夜の話は聞いたであろう。躊躇えば――失うぞ」
「……」

 今度こそ、飛鷹は顔面蒼白になった。
 いつ、この老人は、自分の恋心を知ったというのか。
 この屋敷に着いてから、一度たりとも、それと確信させるような素振りは見せていない。まして口にしてもいない。
 監視されていた、それならば説明はつく。ならばいつから。まさか、あの墓参りに行くタクシーの車中を、既に監視していたとでもいうのか。
 いや、監視などせずとも、桜の身代わりになる、という取引を交わしたのだから、そういった推測はできるかもしれない。ただ、雁夜のために動いていると思われていたはずだ。だからこそ、こうして雁夜に知らせるという陰湿な嫌がらせを行なったのだから。

「……く、ク」

 飛鷹の思考を打ち破ったのは、微かな笑い声だった。
 驚愕は疑念に変わり、疑念は確信に変わる。

「別に……ぼくは、どうでも……」
「どうでもよい、と? ならば桜のことに口を出さずとも良いではないか。いまからでも教育を開始するとしようかの」
「……」

 好きにしろ、などとは間違っても言えない。言質を取られれば、臓硯はまず間違いなく、そして遠慮なく桜を地獄へと叩き落とす。
 しかし、桜は大事です、と素直に言うわけにもいかない。
 結果として、沈黙を余儀なくされていた。この場面での沈黙は、ある意味で千の言葉よりも雄弁な皇帝であると知っていながら。
 なにもかも遅かった。いまになって興味がないように振舞おうとも、先の動揺が全てを物語ってしまっている。そして、一度放たれた言葉は往々にして取り返しがつかないものである。

「そう恐れるな。おぬしの気持ちは、よぉく分かった。この爺にも伝わったわ」

 臓硯の楽しげな、笑いすら含んだ声。
 自分はどれほど酷い顔をしていたのだろうか。飛鷹は無性に鏡が見たくなった。
 きっとぐちゃぐちゃなんだろうな、ということだけは想像がついた。 

「さて……本題に戻るとするかの」

 飛鷹はいまの今まで気づいていなかったが、部屋の中心にある机、その上に、一枚の紙が乗っていた。それを臓硯は手に取り、ひらひらと振って飛鷹に示す。
 普通の白い紙とは違う。妙な色合いに、おかしな見かけの紙だった。例えるなら、年始の書初めで使う和紙に似ている。
 その上に流麗な筆跡で書かれた文字は、見覚えのない外国語らしきもの――というよりは、いつだったかテレビで見た、エジプトの象形文字のようなもの――で記されており、意味を読み取ることは叶わない。
 ただ、なにかしら特別な意味が篭っていることは分かった。明確な根拠があってのことではないが、その紙からなにやら怪しげな雰囲気が漂っていたからだ。
 また、よく分かんない物が出てきた――それが、飛鷹の偽らざる心中だった。
 もう、妙ちくりんな神秘やら、摩訶不思議な法則の産物やらは満腹になるまで押し付けられた後である。この上、用途が分からないどころか文字まで読めない書類など願い下げだった。

「これはな、自己強制証文(セルフギアス・スクロール)という、魔術師が契約――いやさ、おぬしには約束の方がわかりやすいか。約束の際に用いる小道具の一つじゃ」
「せるふぎあ……」
「ここに書かれた内容を当人が理解し、自らの意思を持って署名する。そうすることで魔術的な約束が成される。これは少々改変してあるゆえ、血判を押すことで作用する」

 なんとなく、その用途は分かった。
 成程、魔術師が全て臓硯のような人間だとすれば、こうして紙に残し、保証を用意していなければ、約束一つ交わすのも躊躇うに違いない。
 そしておそらく、この紙を用いて交わした約束には、なんらかのリスクも伴うはずである。

「約束を、破ったら……?」
「モノにもよるが、これはワシの手製でな。まずはその不届き者の全身を耐え難い激痛が襲い、それに伴って黒い模様が体に浮き出る。それを見ても約束を守らなければ――最終的には死ぬ」

 嘘ではない。そう飛鷹は判断した。
 死ぬというのが真実かどうかまでは分からないが、それくらいのペナルティは有って当たり前だ。

 ただ――飛鷹には、これに血判を押す勇気がない。
 相手は読めるが、こちらは読めない契約書にサインするビジネスマンはいないのと同じだ。
 書かれた内容を当人が理解し、自らの意思を持って血判を押すことで作用する――そもそも、その言葉を信用する根拠がどこにもない。
 無論、臓硯に契約内容を読み聞かせてもらえばいいだけのこと――だが、臓硯が誠心誠意、偽りなく契約内容を読み上げるという保証がどこにあるというのか。

「先に言うておくが――おぬし、これを読めるはずじゃ」
「え?」

 半信半疑ながらも、臓硯が突き出してきた紙を受け取り、眺める。
 裏返す、斜めから見る、光に翳す――どうやっても意味を持った文字には見えなかった。どこからどうみても、図形と絵と、謎の文字を落書きしただけにしか見えない。

「いや、こんな文字見たこと――」

 言いかけた口が思わず止まった。
 目の前の意味不明な絵図が、いつの間にか日本語の文章として見えていたからだ。
 少々読めない漢字もあるが、意味が分からないわけではない。

「ほんの数秒、凝視せねば分からぬように細工してある。無論、読み解くことができるのは、ワシとおぬしだけだがな――さて、その条件で納得したならば、血判を押せ」

 飛鷹は慎重に目を走らせる。
 まず、飛鷹は臓硯の指示に必ず従うことが明記されている。ただし例外として、桜と雁夜に危害を加える類の指示には不服従が許されているようだ。
 また、飛鷹が前項の約定を違えぬ限り、臓硯は桜への教育を行わないこともはっきりと記されていた。
 その教育の意味も、蟲、その他、桜に身体的、精神的苦痛をもたらす魔術的な行為として定義されているため、抜け穴はないように思える。

 他にも、目を皿のようにしておかしい点を探すが、どこにも見当たらない。
 そして、それこそがおかしいことのように思えて仕方ない。

「さあ、どうする? 先に言うておくが、ワシがそれ以上の譲歩をすることはないぞ」

 その一言が止めだった。
 そもそも、口約束に過ぎなかったものが、こうして拘束力を持つ契約へと変化するのである。飛鷹からすれば願ったり叶ったりというものだ。
 だというのに、この程度のリスクや不信に尻込みをして、絶好の機会を逃してしまうのか。否、有り得ない。

「けっぱん、どうやって押すんですか」

 また一つ、地の底へと近付いた。それはきっと、錯覚ではない。
 それでも、自分で選んだ道ならば、進む他にない。
 臓硯はなにかを懐から取り出し、飛鷹の手の平に乗せる。
 それは、小さな針だった。

「その針で親指を少し刺せ」
「……っ」

 躊躇いながらも刺すと、ちくりと痛みが走り、次の瞬間、そこから血が不自然に流れ出す。
 血は瞬く間に親指の表面を覆い、赤く塗装した。

「その親指を、ほれ、ここの部分に押し付けるのだ。判子を押すのと変わらん――よし、針を寄越せ」

 飛鷹が血判を押し終わると、臓硯も同じように血判を押し、くるくると紙を丸めて袖に仕舞い込んだ。

「これで契約は交わされた。どれ、一つよろしく頼むぞ」

 ニヤニヤと嫌な笑いを浮かべながら、臓硯は右手を突き出す。
 握手を求めているのだ。
 当然、飛鷹には握手するつもりなど欠片もない。
 肌が泡立つどころではない、本能的に忌避してしまうほどの嫌悪感を感じる相手の手を直に握るなど、頼まれてもお断りだった。
 加えて言うならば、これは指示ではないのだから、拒否しても問題無い。

「……お父さんが心配してるから」

 そう言って、早足で扉へと向かう。
 背後で忍び笑いが聞こえた。なにに対して笑っているのか、飛鷹には分からない。
 ただ、なにか邪悪な動機で笑ってるんだろうな、ということだけは理解していた。

 扉を開け、体を出して、後ろ手に閉める。
 たったそれだけの動作である。
 にも関わらず、飛鷹の全身からどっと汗が吹き出した。

「ふー……」

 大きく息を吸い、吐く。少しでも気持ちを落ち着かせるべく、心を静める。
 臓硯と同じ空間にいた後は、いつもこうなる。呼吸を忘れてしまうことも少なくない。それだけの緊張と覚悟を持って臨まねば、あっという間に呑まれてしまいそうだからだ。

 取り敢えずは自室へと戻るべく、飛鷹は足を動かした。
 そして、すぐに止まった。自室への途上にある扉の前で、不安げに立ち尽くす少女がいたからだ。
 起きて廊下に出てきたはいいが、どうすればいいか分からなくなって途方にくれているのだろう。如何にも彼女らしい。
 沈鬱だった心が、少し暖かくなった。

「……おはよう、桜ちゃん」
「あ、ヒダカくん! おはよう!」

 ぱた、ぱた、ぱた。
 スリッパの柔らかな音を立てながら、満面の笑みで桜が駆け寄ってくる。
 姉の凛から貰ったらしいリボンが、髪の毛と一緒に揺れていた。

「ヒダカくん、ここにいるって聞いたときはびっくりした。あんまり仲良しじゃないって、お父さんから聞いてたから……」
「ぼくも、桜ちゃんがここに来るって分かったとき、ほんとにびっくりした。遠坂さんの家にいると――ごめん」

 桜の顔がすっと翳った。飛鷹は自分の迂闊さに苛立ちながら、慌ててフォローに回る。
 しかし、桜はふるふると首を振った。

「ううん、いいの。お父さまは、私のためにこうしたんだって、お母さまが言ってたから……それに、ね。ヒダカくんがいてくれるから、すごくうれしい。最初は、ひとりぼっちになっちゃうと思ってたんだよ? だから、ヒダカくんとカリヤおじさんがいてくれるだけでもいいの」

 そっと、桜の手が飛鷹の手を握る。
 暖かく、しかし小さい手が、紛れもなく飛鷹に縋っていた。
 言い表せない、快感とも戦慄ともつかない、電撃のようななにかが、背筋を走った。
 ぶるりと震える体を抑え、桜の言葉を待つ。

「ねえ、ヒダカくん――いっしょに、いてくれるよね?」

 はたして、その言葉は、なによりも望んだものだった。

 ――ありがとう、桜ちゃん。これでぼくは、がんばれる。

 心の中で静かに感謝し、感極まりながら、飛鷹は言う。
 自分もまた笑って、いまから返す言葉が少しの嘘を抱えたものであると知りながらも、言う。 

「……うん。ずっと、いっしょだよ」

 この少女を、命に代えても守りたい。
 きっと、その気持ちに嘘はなく、偽りは含まれず、どこまでも真摯で、なによりも強く尊い。
 だから飛鷹は、笑うことができた。
 これから、なにが待ち受けようとも、もう大丈夫だと、そう思えたゆえに。
 最期の最後まで、この選択を悔いることはないのだろうと、思えたからこそ。
 心で泣いて、顔で笑えたのだ。










 運命に翻弄された父子。
 しかし彼らは、翻弄されるだけでは終わらない。
 逃れ得ぬ強大なものに牙を剥き、爪を突き立て、見苦しく足掻く。
 それがはたして、意味のあることだったのか。
 全ては、一年後に問われる。

 それら全てを意に介さず、聖杯は、ただ待ち続ける。
 自らを手にするに相応しき者の訪れを、静かに待つ。










 負けたッ! 第一部・完ッ!

 いや、長かった……
 一年間の話をちょいと書いて、余裕あったら閑話も書いて、でもまあ、なるべく早く戦争にレッツゴーしちゃいたいと思います。
 どうか、暖かなご声援、厳しいご意見とご指摘をお願いします。

 裏事情……間桐の家は呪術に秀でているので、自己強制証文みたいなのは得意分野になります。改造なんて真似ができたのはそのためです。
 という妄想ですごめんなさい。

 あと、なんか桜>雁夜みたいな描写になっちゃった気がしますが、飛鷹くん、雰囲気に酔ってます。雁夜が目の前にいたら、雁夜>桜みたいな心理描写入ること間違いなしです。

 でもまあ、人間って、そんなもんですよね。



[33893] 少しだけ違う日常
Name: 深海魚◆6f06f80a ID:d720a56d
Date: 2012/12/20 23:02
 地の獄と書いて、地獄。
 生前に罪を犯した者が裁かれ、叩き落とされる、硫黄と火で満ちた空間。
 少なくとも聖堂教会は、そう定義している

 しかし、魔術師から言わせれば阿呆極まりない考え方である。
 ステレオタイプな死後の世界など存在しないことは、既に学問的事実として立証されている。死後の魂がどこに行くのかさえ解き明かされた現代の魔術師にとって、地獄とはすなわち、この世のものに他ならないのである。
 なぜなら、魔術師こそが最も地獄に近い存在であるが故に。

 人の血を吸い、肉を喰らい、ネズミ算式に下僕を増やす、ヒトならざる化け物。
 根源という一つの目的のために、それ以外の全てを捨てる人非人。
 教義のためなら教祖を殺す、血も涙もない悪魔殺し共。
 こんな悪夢を間近に見続けていながら、この世が楽園だと思えるならば、それはある種の異常者だと言えるだろう。

 そして――己が命のために、他の人類全てを犠牲にしても構わないという精神の持ち主もまた、地獄を形作る感性と資格を持っているのだ。
 ただ苦しめるだけではない。人を縛り付け、やがて日の光の記憶すら失うまで心を責め抜く、この世の掃き溜め。
 飛鷹にとっての地獄の定義が、それに変わったのは、つい二週間前のこと。

 間桐邸の最北、日の光の最も遠い場所。
 そこにひとつの部屋がある。
 使用人も、間桐の血族も、人間は誰一人近づこうとはしない禁忌の部屋。
 唯一そこを使用する臓硯は既に人間の体ではなく、その毒牙にかかった哀れな被害者もじき人間ではなくなる。
 その部屋は、いつしか蟲蔵になぞらえて、蟲部屋と呼ばれるようになっていた。
 蟲部屋は、地獄というものがこの世に実在するなら、ここ以外にはありえないと、飛鷹が生まれて初めて思った場所だった。
 蟲蔵に入ることになれば、また少し違った感想を抱いていたのだろうが、それはどうでもいい話である。

 飛鷹が次期当主の座についてから一ヶ月が経過していた。
 雁夜の、文字通り血反吐を吐く程の修練は、最初の峠を臓硯の見立てよりも早く越したという朗報が入ってきている。ここを越えたならば、あと半年ほどは順調に進みそうだという見立ても。
 むしろ、地獄へと近付きつつあるのは飛鷹だ。
 次期当主となって一週間は何事もなく過ぎていた。血液採取。趣味嗜好の詳細な調査。各種身体能力の測定。様々な質疑応答。色、形、事象、状況に対する、瞳孔、発汗、動作などの反応テスト――精々が、その程度のものでしかなかった。

 それが変わったのは、きっかり二週間前。

 ――今日より臨床実験を始める――

 それが、死刑判決の判決文だった。





 キィ、と扉が開く音が響いた。それが部屋の広さを物語っている。
 部屋の中にはなにもなく、暗闇が広がっていた。ただ中心に僅かな明かりと、それに照らし出された手枷があるだけだ。
 飛鷹は少しの肌寒さを感じつつも全裸のまま部屋に踏み入り、明かりの下まで歩み寄った。
 カチカチと歯が鳴る。ただし寒さでなく、恐怖からだと飛鷹には分かっている。おそらく、この光景を眺めているであろう臓硯にも分かっている。
 音が蟲の気を引くのではないか――そんな考えに襲われ、顎ごと手で掴んで無理に押さえ込んだ。
 その間も止まることなく歩き続け、部屋の中心に据えられた手枷を自ら嵌める。後は目を瞑り、歯を食いしばり、心を押し殺して待つだけだ。
 いまの飛鷹はあくまで“自分から進んで臓硯の研究対象となった存在”であり、臓硯は“心苦しく思いはするものの、仕方なく飛鷹の善意に甘えている研究者”である。
 このカバーストーリーを語るときの臓硯は、それはそれは嬉しそうな顔をしていた。

 
 ――嫌がる者に蟲を集らせるようなことが、このワシにできると思うか? 本来ならば、やりたくもないわ。しかし、どうしても自分を使ってくれという心優しき者がいれば仕方ない。

 酷い茶番もあったものである。飛鷹の部分はさして違わないが、臓硯にそのような感性が存在するなど有り得ない。冗談にしては質が悪すぎる。

「は……は……ッ」

 早くなる呼吸を平常に戻そうとするが、上手くいかない。
 これから嫌なことが起きると、体が、頭が学習してしまっているのだ。
 一刻も早く逃げろ、ぐずぐずするな、そんな本能の叫びが生体反応に姿を変えて伝わってくる。

 カタリ……。

 そんな音が暗闇から響き、飛鷹は反射的に呼吸を止めた。
 息を潜めて身を隠したくなる。足を持ち上げて床から離したくなる。
 見つかるまい、触れられるまいと暴れたくなる。
 だめ、だめと、自分に言い聞かせる。脳の指令により逃避を許されない体は、本能と理性の相反する指令ゆえだろう、ピクピクと震えていた。
 筋肉は強張り、足の指は力が入って丸まっている。
 恐怖からくる全身の緊張。
 いい加減に始まる前くらいは大人しくしていられないのかと我ながら思う反面、一生慣れないという予感もあった。

「……ッッ!」

 足になにかが触れる感覚。
 無数の脚を持つ生き物が、ゆっくりと体をはい登ってくる感覚。
 もう全身に鳥肌が立つどころの騒ぎではない。悪寒と恐怖で体が固まってしまっている。

 そのその感覚は足をするすると伝い、下半身から上半身へと進み来る。
 入口を探して這いずる瞬間は、生殺しという表現がぴったりだった。

「ひぎっ!?」

 一瞬、覚悟を決めて殺していた心と体が覚醒するほどの痛みと、おぞましさ。肛門から、一匹の虫がのたうつように侵入したのだ。
 堪らず暴れるが、虫の動きは止まらない。やがて完全にその体を入れ込み、腸内への侵入を果たす。
 そして、痛みのあまり一瞬動きが止まった飛鷹の隙をついて、次の虫が別の部分よりさらに侵入を果たす。
 そうなれば、後は早い。毛穴から、鼻孔から、口唇から、肛門から、尿道から、人体に存在するありとあらゆる隙間に、大小様々な蟲が殺到した。
 窒息死させない程度に、しかし容赦なく、蟲は目の前の獲物を蹂躙していく。
 そして――虫たちが一定の動きを始める。

(き……た……ッ!)

 飛鷹はおぞましさと喪失感に身を震わせた。
 体が燃えるように痛み、同時に快感らしきものが送り込まれる。しかし、未成熟な体に経験の足りない心、それらは快感を快感として受け取ることができず、ただただ未知の刺激としてのみ認識する。それを立て続けに毎日送り込まれる脳は、翻弄されるばかりである。
 ゆえに、残されたのは喪失感だけだった。
 体内に虫が入り込むというのは、それだけでも遠慮したいものである。
 しかし、この虫たちは、ただ体内に入り込むだけでなく、臓硯の組んだ術式を携えている。
 虫の体表から分泌される特殊な体液の中へ内包されたそれは、対象の粘膜から直接的に吸収させることで最大限に効果を発揮する。
 そして魔術回路の形、配列、魔力傾向、特性に至るまで、内側から染めていくのだ。
 それはつまり、生きながらにして自分という存在が別のなにかに造り替えられることを意味する。
 末期の瞬間、死の息吹を間近に感じる瞬間というのは、さしずめこんな感じなんだろうな――そう思わされる、自分の体が自分のものでなくなっていく感覚。
 恐怖に震える幼子を、老人の悪意と妄執を携えた蟲が蹂躙していく。

 本来、遠坂桜という少女を間桐桜に改造するために用いられるはずだったこの蟲は、間桐のそれとは、やや違う術式を携えている。ただし、被害者からすればどんな術式であろうと大差無い。苦しみと、痛みと、わけの分からぬ快感があるばかりだ。

 限りなく死に近いものを実感しながら、飛鷹の心は諦観と、意識の放棄すらできない絶望に落ちていった。





 最初の一分間は、歯を食いしばってじっと耐える。
 次の三十分で、なにも考えられずに暴れて泣き叫ぶ。
 それもさらに三十分時間後には、喉が枯れ肺が焼け、四肢から力が抜ける。
 そこから一時間かけて、飛鷹の心は自衛のために、ゆっくりと死んでいく。
 残りの二時間は、人形に蟲が集るだけの単調な時間だ。

 この無間地獄が終わりを迎えるのは、常に同じだけの時間、放り込まれてからきっかり四時間が経過してからだった。

「出ろ、飛鷹」

 いつもの迎えがやってくる。
 顔は見えない。声だけで判断している。
 その迎えは、自分の体に布切れを巻きつけ、触れるのも穢らわしいと言わんばかりに引きずって部屋から連れ出す。
 そんな乱暴な手ではあっても、飛鷹からすれば、まさに救いの使者だった。
 自分で這って出ていく体力すら残っていない飛鷹にとっては、引きずられようが投げ飛ばされようが、この場所から遠ざけてくれるというだけで慈悲に等しい。
 尤も、そんな単純な喜びすら感じられないほど、その瞬間の飛鷹は冷え切っている。否、冷え切った心を、さらに摩耗させつくしている。
 だからこそ、この迎えの男も容赦なく、飛鷹を物のように扱うのだが。
 人間ならば哀れみもしよう。幼子ならば憐れみもしよう。だが、人形に同情は必要ない。手を粘液で汚したくない、それだけの理由であっても、実に気楽なものである。
 それを、飛鷹はなんとなく理解していた。
 自分でも汚いと思うほど汚れた体なのに、他人が嫌がらないわけはないのだから。

「ーっ!」

 部屋の敷居をまたぐ時、ゴツリと腰骨の辺りを強打し、鋭い鈍痛に思わず呻く。
 当然、その呻きは声にならない。ここまでの四時間で、声などとうに枯れ果てていた。
 声帯に依らない呻きは、微かに音としての用を成す吐息に変わった。
 それを不快そうに聞いた男は、ますます遠慮なく、そして勢い良く飛鷹を引きずり、蟲部屋の向かいにある部屋へと放り込んだ。
 そこは小さなシャワールーム。
 男は無言で蛇口を捻り、肌に心地よい温水を流す。
 そして扉にバスタオルをかけて閉め、仕事は済んだ、と言わんばかりに足音も荒く去っていった。

 一方の飛鷹は、無色透明の粘液に塗れ、裸の上に布一枚という格好で放置されている。
 飛鷹は扉にもたれかかり、温水の心地よさに体を委ねながら、目の前の鏡に映る自分を見つめる。
 蟲による実験の影響からか、髪の色が少しずつ変化してきていた。黒色が若干だが抜け、いまは黒紫といった風の色だ。このままいけば、完全に紫色になる日もそう遠くはないだろう。
 次にゆっくりと手を上に持ち上げ、てらてらと光り、滴り落ちる液体を見つめた。
 率直に言えば、とても気持ち悪い。
 そして鏡の中の自分は、そんなもので全身を覆われているのだ。

「……ぁは」

  笑う。
 なにもおかしくないのに、笑う。
 涙は流さない。泣いてはいけないと分かっている。
 だから――自分の感情の発露として、まだ人間であることの証左として、人形という自己暗示の上からさらに暗示をかける意味を込めて、笑ってみせる。

 そうして、人間が人形になったのと同じだけの時間をかけて、人形は緩やかに人間へと戻っていく。





◇◆◇◆





 ――どうすればいいのかな。

 シャワーを浴び、自室のベッドで休息を取る飛鷹は、思いを巡らせていた。
 臓硯が自分のどこに興味を持ったのか、分からない。
 というよりは、自分が持つ二重性は、どういう価値を臓硯に示したのか、分からない。
 敵の思惑を理解できないというのは、どうにも嫌な感じがあった。それによる不快感が、まるでこびりついて取れないシミのように、飛鷹の脳内に居座り続けていた。

 間桐臓硯。

 全ての元凶、諸悪の根源。
 想像すらできなかったほどの邪悪を考えると、さしもの飛鷹も背筋が寒くなるのを禁じ得ない。
 しかし、その臓硯を出し抜かなければ二人を――雁夜と桜の両方を救う妙手を思いつくことはできない。

 そう――今現在、飛鷹が寝転がって必死に考えているのは、両方を救う方策である。
 飛鷹の“子供”は理想の結末を諦められるほどに諦観してはいないし、“大人”の思考力は、臓硯が趣味としか考えていないならば勝ちの目は十分にあると踏んだ。
 もちろん、恐怖はしっかりと染み付いている。正面きって戦いを挑むような愚行はもっての外だ。表向きは怯えと従順さを前面に押し出し、裏で画策する面従腹背の作戦を取るしかないと考えている。

(お父さんと逃げて、その後に桜ちゃんをこの家に近付けさせないのが一番だけど……)

 飛鷹は思考を進める。

 桜については、どうするのが最善かを測り損ねている状況だ。
 遠坂家は魔術の家門であると知ったいま、彼ら――というか時臣が信頼できる相手なのか、分かりかねるのが原因である。
 蟲の充満した蔵に閉じ込められ、犯されるというのは、おそらく魔術の世界でも決して快いものではないだろう。しかし、どこまでが許されるのか分からない。
 時臣に桜が落とされる地獄を教え、その残虐さを訴えたとしても、有効だとは限らない。それが魔術師の常識に照らし合わせてどれほど非常識で酷いものなのかが、飛鷹には分からないのだ。
 時臣が一般常識に近い良識を持ち合わせており、桜を蟲の餌にするのが忍びないということであれば話は早い。臓硯も無理に桜を捕らえようとはしないだろう。
その点には、飛鷹なりの確信があった。臓硯と直接会い、話したからこそ分かること。
 魔術師、間桐臓硯という存在は、彼なりの掟と暗黙の了解を持って行動しているという核心が、飛鷹にはある。
 臓硯の言葉、行動は、決して混沌によるものではない。むしろ、一本芯が立って、一貫している。自分には窺い知れない別の倫理と法律を持った、歪に秩序だった世界の住人のものだ。
 それを、知識によらず、感覚で理解していた。
 だからこそ、まず魔術師についての常識や基礎知識を集めた後でなければ、臓硯の警戒と怒りを呼び起こす危険を冒すのは避けるべきだと飛鷹は判断していた。

 ならば、まずは雁夜を助けるほうに注力する。
 まず、できることなら聖杯戦争に参加させたくない。負けることが決まりきっているのだから。
 自分の父親だからといって――否、自分の父親だからこそ、きっと勝つなどという楽観はとてもできなかった。
 なんとしても生き残らせる。助けてみせる。
 そのためにも、飛鷹はここにいる。

 ――とはいえ、どうすればいいか、方策など思いつかないのが現実である。
 ある意味、聖杯戦争こそが絶好の機会だと言えなくもないのだ。
 聖杯戦争。
 超常の力を持つ歴史上の英雄たちが、恐るべき暴力と猛威を振るい、聖杯を求めて争うバトルロイヤル。
 御三家として雁夜を立て出場する以上、臓硯も飛鷹や桜にばかり注意を払ってはいられないはずだ。街中に間諜を放ち、警戒に当たらざるを得なくなる。
 その時こそ、千載一遇の好機が、一筋の光明が見出せることだろう。
 
 ただし、やはり雁夜を戦争に参加させるのは躊躇われる。
 現時点で最も妥当な手段としては、やはり遠坂家と連絡を取ることだろう。
 それが本当に有効な手段なのか、それはこれから知っていかなければならないことだ。
 いまの無知な飛鷹が決めるには、あまりにも重大すぎる。

「……誰?」
「私です、飛鷹様」

 唐突に鳴り響いたノックの音が、鬱々と続く思考を断ち切った。
 誰何の声を上げると、帰ってきたのはあの家政婦の声。
 色々と世話をしてくれたのは覚えているが、いまではこの女性も敵にしか思えなくなっていた。

「どうしたの? 入るなら早く入ってよ」
「では、失礼します」

 ――そういえば、次期当主、だったっけ。
 家政婦の言葉を聞いて、改めてそれを思い出す。
 いまや次期当主となった飛鷹は、賓客として遇されていた頃よりもさらに立場が高い。最古参の使用人である彼女に、入室の許可を与える立場にあるのだ。
 彼女は完璧な動作で一礼し、入ってすぐのところで立ち止まった。

「飛鷹様、晩餐の用意ができました。急ぎお越しくださいませ」
「うん」

 この言葉遣いにも、館の雰囲気にも、段々と慣れ出した自分がいる。
 そのことが、ますます日常への帰還など不可能だと教えてくるようで、自己嫌悪に陥ることもしばしばだった。
 今回も例外ではなく、憂鬱な気分で体を起こし、ベッドから飛び降りる。

 ふと、飛鷹の頭をある疑問がよぎる。

「……ねえ。もうすぐ、この家を出るんだよね」
「はい。あと一月ほどで」

 最近になって臓硯から聞いたことだ。
 聖杯戦争が迫りつつある中、ただの家政婦を置いておくのは無駄でしかないから、だとか。
 人道的というよりは、人的損失を惜しんだ処置に思えた。成程、この家の秘密を知ってもなお働いてくれる家政婦は少ないだろう。そんな貴重な人材を、みすみす戦争に巻き込んでも仕方がない。
 飛鷹も、無関係な家政婦が巻き込まれることを望んではいない。
 ただ、ほんの少しだけ、確かめておきたいことがあった。

「ぼくと初めて会った日、この家のこと、全部知ってたのに、言わなかったよね」

 いかなるときも淀みなかった家政婦の動きが、あの日の問いに対する反応と同じく一瞬止まる。
 表情の動きこそないが、場の空気は気まずげなそれに変質していた。

「……申し訳ございません。家政婦として、この家のことをお客様へと漏らすことはできませんでした」

 ややあってから帰ってきた答えは、望みもしない謝罪と、見たくもない首肯だった。

「……そっか」

 飛鷹は怒るでも悲しむでもなく、無表情のまま家政婦に背中を向け、部屋を出た。
 別段、なにか期待していた答えがあったわけではない。
 知りませんでした、味方でした、そう言われても信じられない。いまの問いは、聞く意味すらない問い、ただの嫌がらせか八つ当たりだ。
 それなのに、聞く前よりも少し疲弊している自分に気付いて、だから飛鷹は改めて思った。

 もう、お父さんと桜ちゃんだけでいい、のに――

 きっと、それだけで自分は幸せに生きていける。
 そんな決意すら、実はまだ固まりきっていなかったのだ。
 こんなことで雁夜を救えるはずがない。桜を逃がせるはずがない。

 自分の甘さも、状況の厳しさも、飛鷹の心に絶望という重石をこれでもかというほどに積み重ねていく。

 一寸先は闇――いまの飛鷹の心中は、そんな言葉がぴったりだった。





 飛鷹が「間桐邸における最高の幸せはなにか?」と問われたとすれば。
 雁夜と桜、この二人と二階の一室に集まり、共に食卓を囲む瞬間であると断言できるだろう。
 とはいえ、いつも囲めるわけではない。というより、囲めたことがない。
 雁夜は基本的に一人で食事を取るし、飛鷹もここまで来ることは少ない。桜に魔術の存在や、自分たちの痛苦を知られるわけにはいかないからだ。
 桜が飛鷹の部屋に夕飯を持って訪れることは何度かあったが、それも飛鷹の体力がある程度残っていればの話だ。休息が必要なとき、飛鷹の部屋の扉には面会謝絶の札がかかり、何人たりとも入ることは許されない。

 今日は、三人が集まることを許された、初めての日だった。

「ヒダカくん、こんばんは」
「うん、こんばんは」

 桜と挨拶を交わしながら、心の中が暖かく落ち着き、軽くなっていくのを感じていた。
 我ながら現金ではあるが、事実、嬉しくて仕方がないのだ。
 桜の服装は、普段よりも少し気合が入っているようにも感じられて、それがさらに喜びを煽った。
 とはいえ、フリルがついていて色も可愛いものが多く、なんとなく少女っぽさと可愛さが強調されていることくらいしか分からない。

「桜ちゃん……その服、えっと……可愛いね」
「あ……ありがとう。ヒダカくんが褒めてくれるの、うれしい」

 なんとも陳腐な表現になってしまったことを悔やみつつ、桜が笑ってくれたのだからと自分を納得させる。
 その流れで、何気なく質問を飛ばした。

「お父さん、まだ?」
「うん、まだみたい」
「そ、っか……」

 浮き立っていた飛鷹の心が、水中で重石を付けられたかのように一瞬で沈み込む。
 待ち合わせの時間は少しすぎている。なにか異常が起こったのかもしれない、という疑惑があっという間に膨れ上がり始めた。
 実験と、修練。命の危険が大きいのは雁夜なのだから、飛鷹は気が気ではない。

 もしも、耐え切れずに力尽きてしまっていたら――
 雁夜と離れている間、飛鷹の心には絶えることなくその恐怖が居座っている。一時的に忘れることができても、またすぐに、ふとしたきっかけで戻ってくる。
 
「遅くなってごめんな、飛鷹。桜ちゃんも」

 だからこそ、自分を呼ぶ声が聞こえる度に、飛鷹は泣きそうになるくらい嬉しくなるのだ。
 しかし、ただ喜んでばかりもいられない。
 飛鷹と桜の顔が、その認識には大きな差があるものの、同時に曇った。

「……おじさん、まだびょーきなの?」
「うん、そうなんだ……ごめんね、心配かけて」

 邸内を移動する雁夜は、口元と目を除く全ての部分を包帯で覆っている。その下には浮き出た虫の膨らみが幾筋も走り、日を重ねるほど非人間的になりつつあるからだ。
 また、ニット帽を被って髪の毛全体を隠すことも忘れない。髪の毛が急速に抜け落ち、白髪に生え変わりつつあるからだ。魔術的要素が絡んで色そのものが変わっている飛鷹のそれとは違い、純粋に激しすぎる苦痛とストレスからくる若白髪である。
 どちらの症状も、長期性の病気だと偽っている。飛鷹の髪の色も然りだ。
 虫の暴走を抑えきれない、痛みが強すぎて隠しきれない――それらの事情で、桜を怖がらせてしまうかもしれない日、雁夜は絶対にこの食卓に来ることができない。

 三人がこうして集まれたことが、飛鷹には泡沫の奇跡のように思われた。

「お父さん……大丈夫?」

 飛鷹も問いかける。桜とは違い、全てを理解した上での問いかけである。
 雁夜はなんでもないと言うように頷いた。

「飛鷹こそ、大丈夫か?」

 雁夜もまた、問う。
 飛鷹の受ける実験、その内容を雁夜もまた知っている。初日の実験が終わってすぐ、雁夜に泣きついてしまったからだ。
 隠し事をしないという約束もあったが、考える前に体が助けを求めてしまっていた。
 いまでも、雁夜の負担を考えられなかった自分の行いを悔いている。
 ただ、初めてのときは、それだけいっぱいいっぱいで、どうしていいか分からなかった。

「大丈夫。でも、お父さんは――」

 取りあえず大丈夫と言って、それからなんと言うべきか、暫し言葉を探す。
 雁夜が本当は大丈夫ではないことなど分かっている。しかし、そんなことを聞いても意味はない。
 つい飛び出してしまった言葉の行方を、飛鷹でさえも図りそこねていた。
 なにか話さないと――そんな、強迫観念にも近いものに突き動かされて、しかし迂闊なことは言えず、惑う。

「失礼いたします」

 相応しい言葉が見つかる前に、数人の家政婦が料理を運んできた。
 作りたてであろう料理の数々が机の上に並べられていく。

「ブルーチーズのスパゲッティとバゲットでございます。雁夜様は粥となっております。詳しい説明は」
「いや、いいよ。ありがとう」

 雁夜が手を振ると、家政婦は一斉に一礼して出て行く。
 飛鷹を連れてきた家政婦も共に退出し、部屋に残されたのは飛鷹と雁夜、そして桜の三人だけとなった。

「カリヤおじさん……おかゆ?」
「うん。今日はちょっと、お腹が空いてなくてね。食べやすいものにしてもらったんだ」
「私も、かぜのときにはお母さんが作ってくれた」
「葵さんが? そうか……」

 暖かな会話の横で、飛鷹は険しくなった顔を平静に戻そうと四苦八苦していた。
 粥でなければ喉を通らないほどに弱っている。しかも、最初の一ヶ月で――その事実が、飛鷹の胸にのしかかった。
 このままいけば、きっと雁夜は耐えられない。戦争に参加する資格が与えられる前に死んでしまう。
 止めるべきだ、止めないと――そう思っても、言い出せない。言い出せるはずがない。
 今更、どんな顔をして止めようというのか。
 こんなものは一時の躊躇いであり、感傷であり、非合理的な恐怖でしかない。
 動き出した運命は、もう止まらない。それなのに、決意を鈍らせるようなことを言ってどうしようというのか。
 こんなことで、雁夜を救えるはずがない。桜を逃がせるはずがない。
 もっと冷静になって、全てを捨てなければならない。極限まで、なにもかも切り詰めなければならない。

「ほら、飛鷹。いただこう」
「……うん」

 心の中の葛藤を完璧に覆い隠して、飛鷹は席に着いた。
 折角の幸せを満喫するべく、問題を棚上げして目の前の食べ物だけに集中する。
 そういえばスパゲッティを食べるのは久しぶり、などとくだらないことを考えるゆとりまで出てきていた。

 普段の飛鷹の主食は、魔術的に効果があるらしい、やけに飲みづらい謎の液体と、黒く細い物が数十と入れ込まれているために、これまた食べづらいパンなどである。それも疲れきって空腹に喘ぐ瞬間を見計らって与えられているので、味に悩む余裕などありはしなかった。というわけで、麺類というよりは、まともな食事というものを取るのが久しぶりだったという方が正しい表現である。

「じゃあ……いただきます」
「いただきます」
「いただきます」

 雁夜の音頭に合わせて、桜と飛鷹も手を合わせる。
 フォークを手に取った飛鷹は、それをスパゲッティに突き刺して――動きを止めた。

 自分でも怪訝に思った。
 スパゲッティを口に運ぼうとしているのに、手が一寸たりとも動かない。微動だにしない。
 腕が痺れたとかではない。ただ、なにかが食事を躊躇わせていた。
 一体、なにが。

「……」

 飛鷹は、目の前のスパゲッティを見る。
 湯気が立っていて、いい香りがする。
 それなのに、





 ――皿の中に入っているのは、蠢く蟲だった。





「ッ!」

 思わずフォークを取り落とし、口元を押さえる。

「……どうしたの?」

 怪訝そうに桜が見てくるが、飛鷹には気にする余裕などない。胃からせり上げてくるものを抑え込むのに必死なのだ。
 麺の一本一本が、自分の回路に巣食っているものと同じに見える。
 ブルーチーズのソースが、おぞましい粘液に感じる。

「ん……うっ……」

 いくら飲み込んでも、逆流は止まらない。
 喉が胃酸で焼けるように痛む。
 涙と鼻水がとめどなく溢れる。
 そして、とうとう耐えきれなくなって、飛鷹は部屋から走り出た。
 桜には、桜にだけは、自分が苦しむ姿を見せてはならないと知っていたから。





「……っ……う……」

 気づけば、誰かが背中を優しく擦っている。頭が割れるようにいたんでいるものの、朧気に感じ取れる。
 頭では、分かっている。これは人間の手だ。紛れもなく、優しさと思いやりのこもった手つきだ。
 しかし、その感覚すら、虫が体表を這いずりまわっているように思えて、飛鷹は狂乱する。口から吐瀉物を撒き散らしながら、振り払った。

「飛鷹、俺だ! 大丈夫、大丈夫だから!」

 言葉と共に、後ろから抱き締められる。
 振り払わないと――そう思う前に、その暖かさに体が弛緩した。
 蟲の恐怖が薄れて力が抜けた飛鷹の体を、雁夜がより強く抱き締める。

「ぁ……お父、さ……んっ」

 また込みあげてくるものを、今度は耐えられなかった。そのまま雁夜の服にぶちまける。
 雁夜は服が汚れるのも構わず、ただ少しだけ力を緩めた。

「いいんだ、全部吐け。そしたら、お粥かなにか――」

 そんな言葉が聞こえたような気がした。それすらもはっきりとしない。
 視界は涙でぼやけているし、耳鳴りも止まない。しかし、それ以前の問題で、飛鷹の世界はぐちゃぐちゃにかき回されていた。
 体内の蟲がのたうつ感触が、いまでも忘れられない。
 蟲は沈静化させられているはずなのに、不気味な感触だけがずっと尾を引いているのだ。

「ひっ……ひっ……」

 今度は、苦しさからではない涙が零れだす。
 飛鷹は、どこにいるかも分からない桜に聞こえないように、口の中で声を殺して、暫くの間すすり泣いた。
 自分が惨めで、世界が怖くて、幼子の外見に相応しく泣きじゃくる。

 なにも考えられずにただ泣いたのは、初めて蟲部屋に入った日以来だった。





 これは、ある親子の、ある日常の中でも、とびっきり幸せな部類に入るはずだった日の描写。





Q,救いはないんですか!?
A,あると思いますか?

そんな感じですね。

ちなみに、言うまでもないとは思いますが。
・飲みづらい謎の液体
・黒くて細い物が何十本も入れ込まれた食べ物。
・両方とも、魔術的要素が含まれている。

 まあ、わかりますよね。


しかし……診断メーカーって、やってみると意外と面白いですね。

【間桐雁夜の恋愛事情】
恋愛大好き。とにかく「恋愛」というものが好きで、理想の恋愛を求めてころころ相手を変える事も。自分の理想を追い求めるロマンチストでもある。

【間桐飛鷹の恋愛事情】
硬派。あまり恋愛というものに興味がない。ただし自分が「この人だ!」という人を見つけると愚直に突っ走る一途な人。パートナーにはメロメロになる甘えん坊でもある。

……どっちもそこそこ当たってるが、別に飛鷹は硬派では……ない、よな……?
でも、原作の雁夜が「自分の理想を追い求める」タイプなのは大当りですよね。葵さんっていう理想を見つけたから、ほかの人に目移りしなかったのかも……?



あと、

Q.あなたにとって「恋愛」とは?
 間桐雁夜「欲望」

これは素で吹きました。というか、普通に当たってるからビビりました。
まあ、悪い人ではないと思うんですが……


次回、聖杯戦争編に突入。


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