プルルル、プルルル、プルルル――ピッ。
『夜分遅く失礼します。ヘニストさんはいらっしゃいますか? 』
「――いいえ、ヘニストは留守にしてます。急用ですか? 」
『結構急ぎです。伝言、お願いしてもよろしいでしょうか? 』
「ええ、構いません。……どうぞ」
『“君宛の届き物が何故か俺の所に来た。家まで受け取りに来て欲しい”――以上です』
「分かりました。時間と場所はどうしましょうか? 」
『可能な限り早く。場所はフェアリーランドで』
「繰り返します。……“可能な限り早く。場所はフェアリーランドで”ですね? 」
『そうです。よろしくお願いします』
「いえいえ、気になさらないでください」
『それでは、失礼します』
「ご丁寧にどうも」
ガチャッ――プー、プー、プー、プー……ピッ。
ピンク色の丸みを帯びたケータイ電話の通話を切り、少女は流れるような動作で懐へと仕舞い込んだ。
身につけたヒラヒラなドレスと後ろで一つに縛ったフワフワな金髪が、北から吹いてくる静かな風に揺れる。その姿はどこからどう見ても10代の前半にしか見えないが、その立ち振る舞いの動作一つ一つから窺われるのは鍛え抜かれた強さの片鱗。
「――さて、一体誰でしょうね。こんな古びた連絡方法を取る奴は」
そもそもこの連絡方法を知っている人間自体既に1桁にまで減っている。その中で連絡を取りそうな輩は――生憎と思い当たらなかった。
「厄介ごとにならなければいいけど……いや、もうなってたわね」
さてどうしようかしらと考えながら、少女はクルリと振り返った。
……樹を隠すには森の中とはよく言うけれど、本当に良い樹は鬱蒼と生い茂る森の中でも目立つものだ。そして彼女の眼の前で根を張っているその樹は、間違いなくその類だった。
漆黒の空の下。煌く星達に見守られ。満月が注ぐ澄んだ光りを一身に浴びるその姿は、正に自然の芸術だった。幹から枝、そして葉の一枚一枚に至るまで全てにおいて完成していて、いっそ神々しいと形容するのがしっくりくる程。――その根元が一部ボコリと膨れ上がり、ドクンドクンと鼓動している。
――ヴィヴィ・ツリー。子どもを産む樹。
人里離れた人外魔境の地にのみ根付くその樹の幼子を採取する事が、今回の少女の仕事であった。
「成功報酬は惜しいけど、向こうの方が優先順位高いからね……仕方がない。ここは素直に諦めましょうか」
名残惜しそうに、本当に名残惜しそうにその樹を一瞥してから少女は踵を返した。
……振り返らずに歩いていく。段々とペースを上げていく――。
「それにしても、誰だか知らないけど、つまらない用事だったらタダじゃ済まさないわさ」
最後にそう呟いて、少女はその森を後にした。
――その森に新しい生命が姿を現したのは、それから僅か1時間後の事だった。
かささぎの梯
第一話 『弟子入り志願』
近くの街から車で3時間ほど走った所に、その小さな森はあった。
交通の整備は最低限しかされておらず、周囲に人家は1軒もなく人影も2つを除いて見当たらない。幸か不幸か、必然か偶然か。近年各地で行われている大量開発から逃れた相当稀有なその土地は、まさに自然の宝庫だった。
辺りには様々な種類の木々が大量に群生し、必然的にそこを住処とする野生動物が大量にいる。目の前を流れる小さな川にも様々な種類の魚がいて、それらの姿がハッキリと知覚できる程川の流れは透き通っていた。
ここでは人間が闖入者だ。至る所に様々な動物がいて、その澄んだ視線が心地よい。
時は夕刻。帰途に着く多くの鳥が頭上を気持ち良さそうに舞っている。
遥か遠くには沈みかけている太陽。それと同時に月が昇りかけていて、空という舞台で1日も休むことなく開幕されている壮大な劇の幕間。
その最中。太陽の姿を映し真っ赤に染まる川の辺で、イナギは深々と頭を下げた。
「どうか弟子にして下さい」
「そうねぇ。修行期間にもよるけど、最低50億ジェニーだわさね」
「……そんな大金を持ってるとでも? 」
丈夫な白い長袖に動きやすそうなジーンズ、少しくたびれている灰色のジャケットというのがイナギの出立ちであった。そこにボストンバッグとその中身を加えた物が、現在彼の所有している全てである。
金持ちに見える要素は欠片もなく、そして外見はイナギの懐事情を如実に示している。そもそも50億なんて大金を持っていれば、出国する際に貨物船の荷物に紛れるなどという方法を取る筈がなかった。
「ん……うん。財布の中身はとても軽そうね」
対する少女は、イナギの全身をじっくり観察してから朗らかな笑顔で答えを出した。何気に失礼だが、正解であるため文句は言えない。ちなみに不正解だったとしても文句は言えない。
「じゃあ、そういう事で万事解決。またいつか会いましょう」
「ってもうちょっと話を」
聞いてくれても……と、イナギは少女へと手を伸ばす。フリルの付いたスカートをなびかせながら立ち去ろうとしている背中に一歩近づき、その小さな手をがっしり掴んだ。
が、普通に振り払われた。何事もなかったように去っていく少女。
薄く痺れる右手に少時驚くも直ぐ様我に返り、さらに走り寄り掴もうとする――が、今度は触れる事すら出来なかった。まるで後ろにも眼があるみたいに、イナギの手をサッと避ける。
……少々、ムッとした。
再び掴みにいく。しっかり掴む。――振り払われる。
即座に掴み取る。力を入れる。――振り払われる。
好機を見計らう。掴み取る。――振り払われる。
掴む。離れる。掴む。離れる。掴む。躓き引きずられる――。
「何よ、まだ何か用があるっていうの? 」
「もう、ちょっと、早く、止まれよ……」
「……アンタが手を放せば済む問題でしょうが。どうして私がアンタの都合に付き合わなきゃならないのよさ」
そのまま地面を引っ張られること約15m。余りのしつこさと鬱陶しさに少女は立ち止まり、非常に迷惑そうに足元を睨みつけた。……その先には、まるでボロ雑巾のような物体が一つ。自身の頑固さと少女の容赦のなさが織り成した結果である。
「ふん、まぁいいわ。兎に角これ以上ふざけるのは止めなさい……弟子入り志願なんて今時流行りじゃないでしょ。聞いてあげるからさっさと本題に入りなさいよ」
――それに、私の方からもいろいろと言いたい事が……恨みとか辛みとか怒りとかいろいろあんのよ。
そんな言葉と同時に吹き出た殺気は直ぐに消えたけれど、事の重大さ――恨みとか辛みとか怒りとかの大きさを理解させられたイナギはコクコクと頷いた。というか思い当たる節が無い故にそれしか出来ない。
「それで、話ってなんなのよ」
「どうか弟子にして下さい」
「……もしかして喧嘩売ってんの? 」
断じてそんな事はない。流行だかなんだか知らないが、用件はそれだけである。
むしろこの状況を省みるに喧嘩売られてるのは俺の方ではないだろうか。土まみれになった自身の格好を省みて、イナギは深く溜息を吐いた。無論、心の中で。
「……」
「――で? 」
が、物凄く睨まれている。上から見下ろしてくる彼女の視線が物凄く痛い。それどころか右手が物理的に突き刺されたように痛む……イナギの手の甲が物凄く踏まれていた。
「結構痛いんですが」
「――で? 」
グリグリと抉り込む様に踏まれた手の甲が地面に埋まっていく……ってホント痛いなコレ。
さすがにここまでされて穏便な話し合いという訳にも行かないというか行かせるかというか、兎にも角にもイナギはいろいろと考えを改めた。どこの世界でも、舐められたら終わりであるのは変わりないのだから。
スッと、ごくごく自然な動作で踏まれていない左手を動かす。最短距離で彼女の足首に触れ――そのまま全力で振り抜いた。
不完全な体勢だが、そこは体格の差。少女の片足が地面を離れ、体が揺らぐ。同時にイナギは両手を地に突きその反動で一気に起き上がり、その勢いを利用して瞬時に体勢を整えて――
「へぇ、なかなか使えるんじゃないの」
気がついたら、イナギは宙を舞っていた。……何が起こったのかまるで理解出来なかった。辛うじて受身は取ったが、それだけだ。
「よっと」
地面に投げ出されたイナギの上に少女がゆっくりと腰を下ろす。それだけでまったく身動きできなくなる。
愕然としているイナギの首筋に、細く小さな手が添えられた。
「さて、と。それじゃ質問変えるわよ。アンタはこの連絡方法をどこの誰から教えられたのか。……心して、答えなさい」
――嘘ついたら、この首もぐから。
その細い腕のどこから来るのか。ギリと力を込められたその手には、人を簡単に殺せるだけの力が篭っているのが分かった。……そして、イナギはその事実に安堵した。
――師事する相手は、自分より強くなければ話にならない。そして目前の少女が有する実力は、自分の遥か上をいく。
「宝石ハンター、ビスケット=クルーガー。間違い、ないか? 」
「そうだけど。……何よ、アンタ私の顔知らなかったの? 師事しようとする相手の顔も知らないなんてなってないわね」
ま、潔く諦めなさい。心持ち肩をすくめながら話しかける少女に、イナギは不敵な笑みを浮かべた。
「知ってた、さ。けど、実際に見ると、奇妙な感じだ……これじゃあ、誰も、50過ぎだなんて思わな――グッ」
グギリと力がさらに増した。容赦ない締め付けに気道が閉まり、途切れ途切れの軽口が完全に止まる。
「……誰からその事を聞いたか、答えなさい」
「――グッ、ガフッ、ガハッ……」
「答えなさい」
感情が抜け落ちた絶対零度の声音。初めて感じたこれほどまでに強大な殺気。生死を握られた生粋の恐怖。背中越しに感じられるそれらに震えながらも、イナギははっきりとした声でそれに答えた。
「……アラマ=ロード」
「――アラマ、師匠? 」
「そう、だ」
その声から微かに呆然としたような響きを感じた気がしたが、表情を見る事が出来ないイナギにはその真偽を確かめる術はない。
スッと首元の力が緩められる。殺気は余計に大きくなった。
「嘘吐いていたら承知しないわよ」
「……吐けるかこんな状況で」
そこに含まれた真実の匂いを嗅ぎ取って、ビスケはとりあえずその背中から降りる。同時に殺気もある程度霧散させるが、当然警戒は解かない。
ゆっくりと後ろに下がり、3歩の位置で静かに止まる。そこがビスケの最も得意な間合いだった。
イナギもゆっくりと立ち上がり体の状態を確かめる。……締め方が上手だったのか首への影響は全くない。手も皮膚は裂けていたが、骨まで達してはいない。
確認し終えたイナギは、無抵抗の意思を表す為に改めてその場に座り込んだ。
「それで、師匠との関係は? 」
「師匠と弟子」
「――ま、確かにさっきの動きの中に師匠の癖が見え隠れしてたわね」
それは真実だ。指南して貰えば、動きの中に少なからず指導者の癖が組み込まれるのはいわば必然である。
「他人の癖を意図的に真似る事が出来ない訳ではないけども――分かったわ、それは信じてあげましょう」
「……それはよかった」
チラリと向けられた瞳に宿る幼子を見るような光。信用してもらえたのは素直にありがたいのだが、理由が理由なのでいろいろと複雑な気分だ。
「それで師匠の弟子が私に何の用なの? 」
「だから、師事させて欲しい。アラマ爺にいざって時はそうしろと言われて、連絡方法も爺から聞いた」
かなり古いものだが、多分通じるだろうなんて笑いながらだが。しかしそれ以外に当てが全くなかったので、繋がったのが分かった時には小躍りしそうになったりもした。
……それが昨日の事だ。それからまだ丸一日も経過していないけれど、イナギには数ヶ月も前の事のように思われた。
「確かに師匠ならこの連絡方法を知ってるわね、決めたの30年以上前だけど――それよりも言われたって事は、やっぱり生きてたのね、あのはた迷惑なお師匠様は」
そこに含まれている感情は、その科白とは正反対な親愛の情。その物言いにイナギは少々疑問を覚えたが、かなり昔爺に聞いた話を思い出して納得した。
爺は昔――それこそイナギの母親がまだ子どもだった頃に、死に場所を求めるとか何とかだけ書き残して姿を消したらしい。その後世界中を放浪し、何となくライラへやって来て何となく定住する事になったとか言っていた。
それが何の因果かまだ生きとるわいなんて呟いて、突然祝い酒を始めようとした爺を殴ろうとしたのも今となってはひどく懐かしい。
しかし、一応確認してみた。
「爺がどこにいたか知ってるか? 」
「あの師匠が態々教えてくれたと思うの? 」
笑顔が妙に怖かった。あぁ、やっぱり教えて貰ってなかったんだな。何で何も言わずに出てくるかな、あの突発的な思い付きを本気で実行する馬鹿爺は。
だからか。
「……ライラだ。爺はずっとライラにいた」
一先ず結論に至った所で、イナギは兎に角話を先に進める事にした。
「ライラって言うと、あの“氷に閉ざされた国”? 」
「そう、そのライラ。俺が生まれるより前に来たらしいな」
「ちなみにアンタ何歳? 」
「15だ」
ちなみに数えのである。
「それよりも、だ。昨日の事件について知ってる事を教えて欲し」
「ん? 昨日の事件って何さ? 」
「いや、何さって……」
まじまじとビスケを見つめるイナギ。けれど眼がマジだったので、あぁだったら聞き間違いかと耳に手を当ててみるも特に異変は感じない。
言葉が止まり、空気も凍る。出会ってから数分。初めて場に完全な沈黙が訪れるが、ビスケはその空気に気づかない。
「だから昨日の事件って何なのよさ」
「――ちょっと待て。落ち着け俺。そうだよな、ある訳ないよな、まさかハンターが知らないなんてそんな事」
「だから、何をさ」
家路を急ぐ一羽のカラスの鳴き声が妙に大きく聞こえる。再び強く耳を引っ張ってみるも、ドップラー効果による妙に生々しいカァカァ言う鳴き声の余韻がはっきりと認識できた。加えて痛い。
――あぁ、聞き間違いではないらしく、ついでに白昼夢の類でもないと。
「さて、それじゃあ帰るか」
「仕方がないじゃないのよ! ここ1ヶ月は仕事でずっと山奥に篭ってたのよ! あとちょっとで依頼達成って所に緊急の連絡が入って、依頼を途中ですっぽかして全速力でここに来たんだから!! 」
飛行船チャーターするのにいくらかかったと思ってんのよ! と叫ぶビスケに確かに悪い事をしたなと思うが、それだけだ。それ以上にイナギはビスケに対して不安を覚える……だってこの事件(詳しい内容は兎も角、事件の存在)は一般人すら知っているのだから。ハンターという職業に羨望やら憧れを少なからず持っていた身としては、ひどく悲しい物があった。
ちょいちょいとビスケ手招きして、持っていた黒色のボストンバッグから取り出したるは適当に買った今日の夕刊3誌。その一面にでかでかと記されているのは、壊滅的な打撃を受けたという島国・ライラの首都フランシールに関する報道である。
それらを差し出されたビスケはむっつりとした顔で、けれど素直に受け取って立ったまま読み始めた。
――数分経って。一通り読み終えたビスケはパタパタと器用に新聞を折りたたんで、ポイッと脇に投げ捨てる。額の汗を拭う動作をしながら、ふぅと軽い溜息を吐いた。
「……で? 」
「これと、師匠の関係とか、詳しく」
「さて、それじゃあ帰るか」
「あ、繰り返しても面白くないから」
現実逃避くらいさせてくれよ! かなり形振り構っていないイナギの懇願に気づくことなく、ビスケはその表情をフッと真剣な物へと変えた。
「そうねぇ、めくれば――というかハンター専用サイトで調べればある程度詳しい事は直ぐにでも分かるわよ」
「だったら――」
期待と興奮で思わず身を乗り出したイナギを、ビスケは静かに片手で制す。
「それはいつでも出来るわよ。――けど、今はそれ以上に重要な事があるわよさ」
「……何だ? 」
その問いの先にあったのは、先ほどまでとはまるで違うハンターの顔。
「それはね、アナタの話を聞く事よ――話して頂戴。一体そこで何があったのか、どうしてアナタはここにいるのか。知っている事を、全て……」
――心は熱く、ひたすら熱く。されど頭は冷静に。
恐ろしいほど強い意志と大きな知性を孕んだ双眸に見つめられ、自然と浮かんできたアラマ爺の言葉をイナギは振り払う。そして事のあらましを始めから話すべく、傍らにあった大きな石にどかっと腰を下ろした。真剣な面持ちで話を聞くビスケの顔を視界の端で確認してから、ゆっくりと眼を閉じ意識を過去へと向ける。
後から思えば……きっと、この瞬間にイナギははっきりと理解したのだ。
――彼女は師事するのに相応しい人物である、と。
▽▲
「アラマ爺は食客だった。そのくせ国の政治を行う際には常に王の側に控えていて、さらに王族しか出られない筈の宴の席にも同席していた。その宴で初めて爺を見たんだが、あんな人間がいるのかとかいろんな意味で驚いた。酒に酔っ払って王を蹴飛ばして、唖然とする周りを置いて王と二人で陽気に笑いあって……」
イナギの脳裏にまるで水泡の様に沸々と浮かんでくるのは、作られていないたくさんの笑み。自分が尊敬していた人とその友人が笑い合う自然な笑顔。
「やっぱり変わらないわね、師匠は」
「あぁ。変わらないな、爺は」
――うん。本当に、変わらない。
イナギとビスケはほんわかとした暖かい思い出の中へと入り込み、ぬるま湯のように心地よい陽だまりの中でホンワカとしていた。
そうして快い思考の波に暫く浸って……
「――って王族しか? アンタもしかしてライラの王族なの!? 」
我に返ったビスケの叫びでパチンと弾けた。
「……一応、な」
憮然とした表情でイナギは返した。回想を止められたという事以上に、純粋にその質問の内容に対しての不快感による物だ。勿論、その程度で引くビスケではなかったが。
「一応? 」
「王位継承権がぶっちぎりで最下位」
あー……と、同情的な声と視線とが送られてくる。何となく馬鹿にされている気がしないでもなかったが、イナギはそれを思いやりと受け取ることにした。
「いい事なんて数えるほどしかないのに、そのくせ悪いことなら数えられないくらいある。王位継承権を巡った抗争に巻き込まれるどころかモロ狙われるし、しかも遊び半分だし、それでいて護衛をつける金なんかなかったし、実際殺されかけた事は片手の指じゃきかないし。……そこで母親がアラマ爺に頼み込んで、結果幼い子供が1人鍛えられる運びになった」
「師匠がそれでオーケーしたの? あの人押しかけの弟子志願大ッ嫌いだったんだけど」
「熱意に負けたらしいな。お前には勿体無い母親だと何度言われた事か」
しかしその母親はもういない。3年前に病気で逝った。その恩を全然返せなかった事を、きっと俺は死ぬまで後悔し続けるんだろうなとか思ってみたり。
……返すことの出来ない恩は本当に重いものだ。もしかしたら、ビスケはこの思いを何十年も味わってきたのかもしれない。
「で、他の王族連中がここぞとばかりに教えを請うたんだ。けど爺が事の如く断って……それを恨んだ連中が送り込んできた暗殺者には8割くらい殺されかけた」
川が見えたんだなんて遠い眼をして感慨深げに頷くイナギに、ビスケは同情的な表情をさらに深めた。
付け焼刃でない力を上げる為には死線を潜り抜けるのが最上である。それは確かだけれど、殺されない為に師事した事が原因で殺されかけたなんて本末転倒だ。そして何よりアラマ師匠はそれを見越していた気がしてならない。……というか、私の知ってる師匠なら絶対わざとだ。間違いない。
ビスケの頭にアラマ師匠との特訓の日々が蘇ってくる。当時は軽く……いや結構……大分……まぁ、恨みもしたものだ。具体的には本気で闇討ちする程度。今となっては懐かしいばかりだが、今でも納得はしていない。
「王族で良かった事なんて、たまに食べられる美味い食事とセレナと遊べた事くらいだったな。――そういやライラ王族の特異性について知ってるか? 」
当然知ってるだろ? なんて調子で問いかけてみるも――やっぱり返事は返ってこなかった。イナギの中で先程上がりかけたハンターに対するイメージだが、再び下方修正がかかっている。
「……何があったか知らないけどな、ライラの王族は念能力者の自然発現率が高いんだ」
イナギのジトッとした視線から眼を逸らしていたビスケだが、その内容に興味深そうな表情を浮かべた。
「へぇ、便利だわね」
「そうでもないけどな、修行なんて真っ平御免な奴が多いし。中には熱心に研鑽を積む物好きもいるけど」
「アンタみたいな奴の事ね」
「戻すぞ。……それで今から大体半年くらい前、王族の一人が何やら妙なお告げを受けた。曰く“月が6度巡りゆき、7度目の満月の夜。我が国の首都に真の恐怖が具現する”。それを聞いた面々が「そんなもの返り討ちにしてくれる! 」なんていきり立って、国が総力を挙げて戦争の準備だ。そうして」
「そうして当日を迎えて、予言どおりに首都は壊滅した、と。――アラマ師匠が何の手も打たないはずは無いと思うんだけど」
何かを考えるようにして続けたビスケの疑問に対して、イナギは特に深い疑問を覚えずに返す。
「確か1度だけ王にその日は首都を離れるように進言したみたいだが、重臣の大反発にあってそれ以降は何も言わなかったそうだ」
……その言葉にビスケは思い悩んだ。彼女の知っている師匠はどんなに悪い相手でも足掻いて足掻いて最後には勝ちを奪い取る、そんな人だったからだ。
――その神官の念の精度を理解していたのか、師匠の手に余るほどの敵が相手だったのか、他にやるべき事があったのか、単に老いた結果なのか……。けれど、どれにしたって師匠がまったく動かないのはおかしいわさ。
とてつもなく大きな違和感。ビスケの思考を他所に、話は進む。
「結果事件の1週間程前に、題目は「いざという時に王族の血を途絶えさせない為」、本音は「体のいい厄介払い」でどさくさに紛れて国外追放させられた俺は生き残り、アラマ爺に教えられた連絡方法でコンタクトをとって、今に至る。――これが俺の知ってる事件の全てだ」
▽▲
……全てを話し終えたイナギは、石に座ったまま無言でビスケット=クルーガーの言葉を待つ。
暫くの間腕を組んでひたすら何かを考えていた彼女は、3分ほど経ってから顔を上げた。
「それで、結局アンタは何がしたいのさ?」
「力が欲しい、生き延びる為の」
「まるで死期が分かってるような言い方ね……いや、むしろ定められている? 」
即答に返ってきたのは、そんな訝しげな声。ビスケの表情も声音と同じく分からないという顔をしている。……が、その直感は正しい。とても正しかった。
「……念を、かけられたんだ。もし首都が壊滅したらその首謀者を殺さなければならない。さもなくば俺が死ぬっていう念を」
かなり小さかったが、イナギの耳は息を呑む驚きの音を捕らえた。その主であるビスケは、最悪のケースを予想し、尋ねる。
「もしかして、かけた人が死んでしまった……? 」
「頭が固くて真っ先に突っ込んでいきそうな人だったからな。連絡がつかないから確かとは言い難いが、惨状の報告を見るには恐らく死んでるだろう」
「……ご愁傷様としか言い様がないわね」
まったくその通りだった。悲し過ぎて笑うしかなくて、当事者にしてみればある意味喜劇である。笑いしかなくて、救いがない。
……いや、一応救いはあった。
「地獄の中の仏だが、その念能力は能力者が死んでも条件さえ満たせば解除は出来る……らしい」
逆に除念で解除するのはかなり難しいようだ。朦朧とする意識の中で聞いた自慢げな声と黒い笑みを思い出し、イナギは少しだけ落ち込んだ。薬で眠らされている間に仕掛けられるなんてベタすぎる。や、だからといって奇抜な方法だったら落ち込まないのかと言われれば勿論そんな事はないのだが。
「……不幸中の幸いね。それで、襲撃者についての情報はあるの? 」
「ないな。まったくのゼロだ」
それが知りたくてここに来たというのもあるんだが、などというセリフは心に鍵をかけてしっかりと閉まっておいた。
「そして、期間は10年間」
「10年? 」
「そう、それが現時点での俺の絶対的な寿命。事件の首謀者殺せば終わり。それ以外に、実行者の1割が死ぬ度に5年寿命が延びるシステム」
首謀者だけは自身の手で殺さなければならないが、実行者はその限りではない……本当に上手い調整だ。実行者の寿命を待っていたなら被念者は恐らく死に、だからこそ首謀者を殺す為に動かなければいけない。微妙に甘いさじ加減で望みがあるからこそ、生きる事に全力を尽くさざるを得なくなる。
――とても気に入らない話だが、全力で死者の掌で踊ってやろう。俺の生死は俺だけの物だ。
最期に泣き言を言う人生だけは、真っ平御免だったのだ。
▽▲
「――その為に私に師事したいと」
「あぁ。直接手を下さなければ解除されないみたいだからな。なるべく早く、可能な限りの強さが欲しい。そう、全ては――生き延びる為に」
……その言葉を額面どおり受け取っていたなら、面と向かわず手紙や電話でコンタクトしていたなら、私は恐らくその申し出を蹴っただろう。
字面じゃ感情なんて出るわけがないし、眼の前で私をシカと見つめているコイツは、意図しているのかいないのかは知らないが声にも感情をほとんど出さないからだ。それは顔についても同じで、もしかしたら生き延びる為に必要な事だったのかもしれない。
……けれど、猫目色をした彼の目は何よりも多くの事を語っていた。目は口ほどに物を言うとはよく言うが、コイツは大切な事、重要な事を目でひたすら訴えかけてくるのだ。
半透明で蜂蜜のような色をした目を少し覗けば、そこには固い決意と慈愛――誰かを気にかける感情で溢れているのが見て取れた。
それが彼の母親なのか、アラマ師匠か、はたまたセレナというお姫様か、それとも別の誰かなのかは分からない。
分からないが、彼の思いだけは本物だ。伊達に長い事生きている訳じゃない私にはその事が分かった。……いや、分かってしまった。
そもそも待ちに待った、願いに願った師匠の頼みだ。
行方不明になって、死ぬ筈がないと信じつつも彼の死を心のどこかで受け入れた時の思い。――恩を返せなかったという後悔は、この30年間いつも私について回っていた。
そんな師匠がやっと私を頼ってくれたのだ。多分これが最後のチャンスだろう。ここで断ろうというなら、これから先ずっと後悔し続けるのは目に見えている。
その上コイツの目を見て納得もした。少なくともその意思は気に入った。受け入れるのに障害は何もない。
「分かったわさ。他ならぬ師匠の頼みだし、特別に修行をつけてあげる」
「……感謝する」
少し間を空けてから、お礼を言いつつ頭を下げる我が弟子。
……そうそう、弟子になるのならやはり聞いておかなければなるまいて。
「それで、アンタの名前はなんていうの? 」
「――イナギ。イナギ=セラードだ」
イナギ=セラード。……うん、なかなかいい名前じゃないの。
「……それでイナギ、アンタは誰を助けたいのよさ? お母さん? アラマ師匠? それとも――セレナちゃん? 」
心の内を当てられたからだろう。イナギは私の言葉に驚いたような顔をしていたが、最後の名前を聞いた途端、顔が茹蛸のように真っ赤に染まった。必死に口をパクパクさせているが、そこからは何も出てこない。
私はゆっくりと上を向き、紅色に染まる空を見上げた。
その顔に浮かぶのは恐らく喜びの色。8割は師匠への恩返しについて。そして残りの2割は――。
「――当分、退屈はしなさそうよね」
真横から、イナギの絶叫が聞こえた気がした。