まだ上がったばかりの朝日の射す中をなのはは渾身の魔力で飛んだ。
時刻は早朝。しかも日曜日ともなれば、起きている可能性のあるのは老人ぐらいだろう。
一応、ユーノが結界を張っているが、それが無くても一般人に見つかる可能性は低いと言えた。
必死になのはが結界内を飛ぶ。正確に言えば逃げる、だ。
攻撃のことなど考えられたのは最初の三十秒ほどで、後はひたすらなのはは逃げていた。
そのなのはの動きががくんと止まる。見れば水色の輪が四肢に絡みつき、動きを封じている。
魔力を放出して無理矢理破壊しようとするが、その間に相手は接近し、なのはに短杖を突きつけた。
パシュッという乾いた音がしてなのはのバリアジャケットが弾け私服が露わになる。バリアブレイクされたのだ。
同時に返しの左ストレートがなのはの顎すれすれで止まる。
「はい、撃墜だ」
頭にポンと手を置かれる。
それが当然という風に相手――クロノは言った。
(はい、終了。クロノ君の勝ち。それじゃあ、なのはちゃんもクロノ君も帰ってきてね)
むぅっとした顔のなのはと憮然とした顔のクロノにエイミィが念話を飛ばす。
それを受けて、クロノはいつものすまし顔に戻った。
「それじゃあ、戻ろう。自分で飛べるか?」
ぜいぜいと荒い息をつくなのはにクロノは尋ねた。
それはなのはが小憎らしいと思うほど平静でクールだった。
「大丈夫。すぐ飛べるの」
「いや、ちょっと休憩しよう。あんまりリンカーコアを酷使しすぎるのも良くない」
そう言って、クロノはエイミィにその旨を伝えるとなのはに背中を向けた。
そして、背負われるよう、促す。
「え、でもそこまでしてもらうわけには」
「下は池だ。バリアジャケットがあれば多少の水くらいなら大丈夫だけど、やらなくていいことを無理にやる必要はない。
それとも僕におんぶされるのは嫌か?」
「うん、負けたばっかりだし。クロノ君の手は借りたくない」
強情な女の子だ、とクロノは内心溜め息をついた。
「そうか、わかった。なら休憩なしで戻ろう。ただし、無理そうなら飛行魔法を止めて徒歩にすること。いいな?」
「うん、わかった」
なのはが首を縦に振るのを見て、クロノは心持ちゆっくりと進みだした。
◆
「お帰り。それじゃあ、反省会始めちゃおうか?」
アパートに戻ってきたクロノとなのはにエイミィが言った。
傍らにはユーノもいる。変身魔法でフェレットになっている。
その方が傷の治りが早いらしい。
「ああ、ちゃっちゃと始めよう」
ジロリとなのはを見つめる。
それを受けてなのはが体を縮こまらせた。
「とりあえず、なのは。君が現時点で戦力にならないことは分かってもらえたと思う」
クロノは硬い口調で言った。
「君にあるのは魔力とセンスだけで、スタミナがない、テクニックがない、戦術も知らない。
つまり役に立たないということだ」
「クロノ君、そんな言い方はないよ」
あまりに直截な言い方をエイミィが咎めた。
「なのはちゃん、貴女が戦力にならないというのはあくまで現時点ではという意味なのよ」
落ち込んでいるなのはに声をかける。
「現時点ですか?」
「そう。なのはちゃんはその膨大な魔力に慢心せずに鍛えれば強くなれる。
強くなればジュエルシードの回収は楽になるし、競合相手との戦いも様になる。それをクロノ君は言いたかったの。ね、クロノ君」
そう言い繕うエイミィにクロノは渋々と言った風情で頷く。
「正直に言うと私達も先行してきて戦力もバックアップも何もかも足りないの。だから、なのはちゃんには強くなって協力してほしい。
あ、もちろん、ユーノ君もだよ。まあ、怪我が治ってからだけど」
わかりました、とユーノが返事をする。
「とりあえず毎朝、クロノ君となのはちゃんで模擬戦しよう。それの結果を見ながらなのはちゃんは鍛錬していく。辛いと思うけど、それでいい?」
「やります。絶対にやってのけてみせます」
なのはは力強く答えた。
◆
そんなことがあったのが三日前。それからなのはは怯えず、ひるまず鍛錬を続けていた。
特にクロノとの模擬戦で怪我一つしなかったのも鍛錬を続けられた大きな理由の一つだろう。
実力に差がありすぎた。どんなに距離を取ろうともバインドに掴まり、あるいは読まれて先回りされ、バリアブレイクから寸止めの突きや蹴りを放たれる。
その後は模擬戦の反省会。けちょんけちょんに言われるがそれが正しいこともわかるので反論もできない。
しかし、逃げられる時間が少しずつ増えてきていることはレイジングハートに言われてわかっていた。
つまり、少しずつでも成長しているということだ。
「なのはちゃん、聞いてる?」
「あ、えっと、すみません」
今は座学。レイジングハートが投影したディスプレイ上でエイミィが苦笑している。
机上の知識も知っていると役に立つことがあるということで夕方から夜にかけてエイミィに講義してもらっていた。
考え事をするのは失礼なことだったが、エイミィは笑って許してくれた。
「じゃあ、もう一回初めからいくね。時空管理局というのは文字通り、時空を管理する、つまり、次元世界の安全と平和を維持するために発足された組織なの。
本部があるミッドチルダの治安を守る地上本部、通称"陸"と、次元間航行と他の次元世界の安全を確保する本局、通称"海"の二つに別れている。
これとは別に高い技術を持つ戦技教導隊を特に"空"と呼んだりもするけど、先に言った二つのどちらかに所属しているわ」
「えっと、戦技教導隊の隊員がってことですか?」
「うん、そう。それでクロノ君と私は"海"の次元航行艦アースラに所属している新米執務官とその補佐なの。
執務官については話したよね?」
そう言われて、なのはは少し考えて頷く。
エイミィの講義は理解度を示す質問が時折含まれる、大変わかりやすい物だった。
最初は質問されるたびにおっかなびっくり答えていたなのはだったが今ではもう慣れたものだ。
「えっと、時空管理局の役職の一つで事件捜査や法の執行の権利、現場人員への指揮権を持つ管理職ですよね?」
「うん、そう。地球で言えば刑事と検事と裁判官を纏めたような役職かな。
広い次元世界を管理するためには権力を個人に集中させる必要があるから創られた役職だね。
クロノ君はその中でも遺失物管理、つまりロストロギアの回収、保管を専門にしてるの。
ロストロギアはわかる?」
「えっと極度に発達した文明が滅んだ後に残る現在の科学技術をはるかに上回る物品、もしくは技術でしたっけ?」
古代ベルカを例にするまでもなく、無限に広がる次元世界では限界を迎え滅びた文明は少なくない。
そういった終わった文明は遺跡を生み、スクライア一族のようにそれを発掘することを生業とするものも生まれた。
いわゆるトレジャーハンターと言われる存在である。なのはの隣にいるユーノもまた広義の意味ではトレジャーハンターと言われる存在だ。
もっとも本人は考古学者だと主張しているが。
「うん、正解。ちゃんと覚えてるね。そういう物は危険物である場合が多いの。今、集めてるジュエルシードなんかもその典型例だね。
本来の用途で使えば多分大丈夫なんだろうけど、正確な使い方が分からず暴走に近い状態で発動すれば危険である。よって回収するっていうのが管理局の言い分だね。
勿論、他の場所で保管されていたり、遺物として祀られていたり、きちんと使い方がわかっていて活用されていたりする物もあるよ」
ほえーと感心するなのはにエイミィが笑う。
なのはは実に優秀な生徒で聞いたことを一回で大体覚えてしまう。
勿論、エイミィの教師としての優秀さもあるだろうが、それを差し引いても教えがいのある生徒だと言って間違いがなかった。
「と、もうこんな時間か。それじゃあ、今日はここまでにしとこうか」
時計を見たのだろう。エイミィがふいと視線を横に向けて告げる。それになのはは微笑んで頷いた。
「あ、なのはちゃん」
「はい?」
「なのはちゃんはすごく進歩してるよ。クロノ君はあんなだから言わないけど、確実に成長していってる。だから、頑張ってね」
「―――っ! はい!!」
一瞬驚いたような顔をしたなのはが満面の笑顔で頷く。
それを確認してエイミィは通信を切った。
部屋にはなのはとユーノが残された。
「ユーノ君、レイジングハート、明日も頑張ろう」
「うん。僕も頑張って傷を治すよ」
『Yes,sir』
力強く頷く相棒達になのはは感慨深げに頷いた。
◆
無限に連なる次元世界、その間隙。次元の海を次元航行艦アースラは第九十六管理外世界に向けて進んでいた。
胴体から二本の棒を伸ばしたような特徴的な外見はしかし、次元の海を渡るための最も優れた形の一つであった。
その艦橋で艦長であるリンディ・ハラオウン提督は部下の執務官クロノ・ハラオウンからの長距離次元通信を受け取っていた。
「リンディ・ハラオウン提督、お久しぶりです。クロノ・ハラオウン執務官であります」
「同じく、エイミィ・リミエッタ執務官補佐です」
「リンディ・ハラオウン提督よ。二人とも壮健なようで何よりだわ」
そう儀礼的な挨拶から始める。
「それじゃあ、堅苦しいのはここまでにして本題に入りましょう」
「はい。予定していたジュエルシード回収ですが、一つ回収。しかし回収中、敵対者を数名発見しました」
「敵対者?」
「ミッドチルダ式を扱う次元犯罪者で推定空戦AAAランク相当の魔導師一人とその使い魔で、空戦AAランク相当が一人。後、『ステルス』持ちだと思われる非魔導師が一人います。
拠点を割出し、強襲しましたが全員逃亡を許しました」
管理局で言えば、中隊規模、百人単位の部隊で戦わねば厳しい戦力だ。
リンディがふむ、と首を傾げる。
「かなりの戦力ね。対応策はある?」
「あります。ジュエルシード発見者のユーノ・スクライア君と現地の魔導師の才がある少女を仲間に引き込む予定です」
「現地の少女を? 大丈夫かしら」
「魔力ランクならAAA相当の大魔導師です。加えて高度なインテリジェントデバイスを所持、使用しています。
先日の戦いでも、見事な砲撃魔法を使用していましたし、また、ジュエルシードを僕達と会う前に三つ、自力で回収していました。
端的に言って、逸材だと思います」
クロノの忌憚のない意見にリンディは眼をわずかに見開く。
「ほとんど初対面の人間をそれほど褒めるなんて珍しいわね。その娘の名前は?」
「高町なのは。あちらの読み方では姓が高町、名がなのはになります。詳しくは報告書を参照して下さい」
クロノの言葉にリンディは一つ頷いた。
◆
アースラとの通信を終えたクロノとエイミィは午後のひと時、クリームティーを楽しんでいた。
クリームティーとはイギリスでよく見られる午後の喫茶習慣であり、スコーンにクロテッドクリームやジャムをつけて食べる。
生粋のミッドチルダ貴族であり、英国紳士ギル・グレアムの薫陶を受けたクロノのささやかな楽しみの一つだった。
爽やかなハーブの香りを楽しみながら、熱い紅茶を口に含む。
わずかな苦さと鮮やかな風味が舌に広がる。
ミッドチルダでは訓練の息抜きにこうしてエイミィと紅茶を飲むのが日課だった。
日本に来てからはゴタゴタ続きで忘れていたものの、こうして茶を楽しむのは良いことだとクロノは思う。
「海鳴で買ったお茶だったからちょっと心配だったけど美味しいね」
そう言ってエイミィがお茶をズズッと小さな音を立てて啜る。
「エイミィ、はしたないぞ」
「えっへっへ。こちとら庶民の出ですから。熱いお茶をこうやって飲むのが美味しいのよ」
ぺろっと舌を出してそう言いつつ、今度はマナーを守って上品に飲んで見せる。
「まったく」
八畳の部屋の畳の上に直に座り、卓袱台を囲んでのティータイムだったが、存外に悪くないと思う。
とりあえず当座の報告書をまとめ上げてリンディに送ったお祝いだったが、毎日続けてもいいかもしれない。
卓袱台の上のスコーンに手を伸ばす。エイミィが自然な仕草で取りやすいようにクロノのそばに皿を寄せてくれる。
一つ取ってジャムを乗せて齧る。砂糖の甘さが口の中に広がる。紅茶を飲んで、口の中の甘さをちょうど良くする。
なのはの実家、翠屋という喫茶店で買ったスコーンだが、クロノの好みにマッチしている。
窓の外を見る。先日の巨大樹騒ぎが嘘のように静まり返り、暖かな初夏の日差しが差し込んでいる。
「でも、クロノ君がなのはちゃんのことをあんなに評価してるのは驚いたなあ。模擬戦でボコボコにしてたのに」
「魔法を覚えて一週間の子供だぞ? 僕に対抗できるようならそっちの方が驚くさ」
巨大植物事件以降、なのはとは毎日模擬戦を行っている。
結果はクロノの圧勝。ひやりとする場面の一つもなく、なのは相手に完封していた。
火力はあるため油断するとまずいが、普通にやっていればあっさり勝てる。
なのはとクロノの差にはそれぐらい差があった。
伊達に十年も修練していたわけではないのだ。
「でも、経験を積めば強い魔導師になるよ。魔力量に加えてあの空間把握能力に動体視力と反射神経。持って生まれたものの量が違うと言わざるをえないね」
「そんなに?」
「ああ。僕は未来のエースオブエースと戦ったのかもしれない。もっとも、鍛錬を続けられれば、という話だけどね」
なのはは確かに天才だが、才能があるだけで勝てるのならば世話はない。過酷な鍛錬と実戦に耐えうる肉体と精神を持つ者だけが戦士の栄誉を得る。
それははるか昔、古代ベルカから連綿と続く真実だ。
レイジングハートに設定されたプログラムによるものか、防御魔法はかなり堅固だったのでなのはには砲撃を当てるための牽制、すなわち誘導弾とバインドの練習を重点的にするように言ってある。
これはレイジングハートも同意見だったようで、かなりハードな練習プログラムを組んでいた。
「それ、言ってあげれば喜ぶのに」
「褒めるのはエイミィに任せるよ。飴と鞭が必要だろ。僕は鞭だ」
そんなことを言って本当は恥ずかしいだけのくせに、とはエイミィは言わなかった。
それを言うとクロノはむきになって否定するだろうから。
そのあたりの加減は完璧に身に着けている。
「今日は友達の家に遊びに行ってるんだっけ?」
「ツキムラだったかな。名前は自信がないけど、位置は把握してるから問題ない。何かあれば念話を送るように言ってある」
そのあたりはなのはと一緒に行動しているユーノに任せてある。彼も九歳とは思えないほど有能だ。
考古学者として罠が満載の遺跡に潜った経験からか、用心深く、慎重だ。
何かあっても必ずしのいで助けを求めてくるだろう。
クロノはそう言って、また紅茶に口をつけた。
◆
「なのは? なのは! 聞いてる?」
アリサ・バニングスの声で現実に引き戻されたなのはは思考を中断して振り向いた。
「え、何? アリサちゃん」
「やっぱり聞いてなかったでしょう。外でお茶にしようってすずかと話していたのよ。ねえ、すずか?」
「うん。なのはちゃん、最近ぼぉーとしてること多いよね」
そう言って、もう一人の友人、月村すずかが頷く。
「あ、ごめんね」
そう謝りつつもなのはの意識は他に向きがちだった。
全てはクロノとの模擬戦が問題だった。
なのはは魔法に目覚めてから敵なしだった。
ジュエルシードの暴走体もシールドを破られることもなく、倒してきた。
加えてレイジングハートの厳しい訓練。それをこなして成長していることを実感できる自分。
それは九歳の幼い少女に自信を与えるには十分な出来事だった。
その自信をクロノ・ハラオウンは粉々に打ち砕いた。
砲撃魔法が当たらない。
どれほど速く飛翔しても、やすやすとバインドで捕獲される。
防御魔法はことごとくバリアブレイクされてしまう。
意表をついて接近戦を仕掛けても触ることすらできない。
何をやっても上をいかれ手も足もでない。いや、汗をかかせることもできない。
こちらは息も絶え絶えなのに、だ。
なのは生来の頑固で負けず嫌いな気性が闘争心を燃やすには十分なことだった。
朝の模擬戦に加えて、学校の授業の時間にプラクティスモードを利用しての特訓。
家に帰ってからの筋力トレーニング。
加えて、エイミィとの座学。
本当ならここにジュエルシードを探すためのワイドエリアサーチが加わるはずなのだが、エイミィのサーチャーの方が効率がいいと言われ休みにしている。
ここ最近の頑張り具合からして、それをしていたらなのははおそらく疲労困憊で倒れていただろう。
それでもなのははエリアサーチをしていたらリンカーコアが鍛えられていたのに、と思わずにはいられない。
それほどなのはは燃えていた。
寝ても覚めてもクロノとの戦いのことを考えている。
他のことには気がそぞろになってもおかしくはない。
しかし、アリサやすずかにはそんなことはわからない。
ただ、友達が何かに物思いにふけっているのがわかるだけだ。
それに対して踏み込んでいいかどうかがわからない。その躊躇がアリサ・バニングスを苛立たせる。
(私達は親友のはずでしょ。なんで相談してくれないの?)
言ってしまえば、そういうことだ。
言葉にしてしまえば一瞬のことを伝えることが憚られる。
アリサにとってこんなに腹立たしいことはない。
しかし、一番災難なのは機嫌の悪いアリサと上の空のなのはに囲まれたすずかだろう。
「あの、アリサちゃん、なのはちゃん。ユーノ君が外で待っているよ。早くいこ」
有能で空気が読めるユーノはちょろちょろと外へ抜けていた。
(なのは、気持ちはわかるけど、友達は大事にしないと)
ユーノが念話で呼びかけると、なのははそうだね、と返事をした。ひとまず、闘争心は心の底に押し込めることにしたらしい。
白い丸テーブルの上のユーノを中心として、同じく白い椅子に各々座って姦しく世間話をする。
「ああ、最近の男って軟弱か単純バカのどっちかなのよね」
「まぁ、仕方ないんじゃないかな。まだ皆小学生なんだし」
アリサの愚痴にすずはが応える。
「なのははどう? 好きな男の子とかいないの?」
どうやら、この質問をするための前振りだったらしいとすずかとユーノは気づいた。
アリサ・バニングスはなのはの悩みを解決したいと心から思っていた。
「ふぇっ!? 私?」
「そうよ。最近ずっとぼんやりしてるし、好きな人でもできたんじゃないの?」
一瞬、クロノのことを考えた。自分に影も踏ませない少年のことを。
「にゃっ! そんな人いないよ」
慌てて首を振る。優しい言葉をかけてもらったわけでも特別かっこいいわけでもない。
第一、出会ってからまだ数日だ。そんな人を好きになるなんてありえない。
「まあ、そうよね。出会いもないし」
アリサが相槌を打つ。元々、可能性は低いと考えていたようだ。
「そう言えば、二人とも好みのタイプってどんな男の子なの?」
すずかがお嬢様らしく、上品に持っていたティーカップをテーブルにきちんと置いてからそう口を挟んだ。。
「そうね。……私より強い奴かな」
「うわ。なんか、アリサちゃんらしいね」
「うっさいわね。そういうなのははどうなのよ」
「えっ、私? えっと、頭がよくて、強くて真面目な……」
そこまで言って、なのはは言葉に詰まった。これではまるっきりクロノのことではないか。
「結構要求高いわね。言葉に詰まったってことはもっとあるってことでしょう? その条件に当てはまるとすれば、恭也さんとか?」
顔を赤くしたなのはにアリサが詰め寄る。
「ふぇっ!? お兄ちゃんは関係ないよ」
なのはの兄、高町恭也は現役の大学生であり、小太刀二刀御神流の剣士でもある。
すずかの姉である月村忍の恋人で、少なくともぱっと見は質実剛健を絵に描いたような青年である。
「まあ、兄妹で恋なんてマンガの話よね」
ティーカップから紅茶をがぶりと飲んで、アリサが言った。
そんな飲み方でも彼女がやると下品に見えないのはやはり生粋のお嬢様という生まれのなせる業か。
「そうそう。マンガと現実を一緒にしちゃダメなの」
「じゃあ、誰のことが好きなの? 私たちの知らない人? ほらほら、言っちゃいなさいよ」
テーブルに身を乗り出して畳み掛けるアリサにまごまごしながらなのはは後退した。
なんというかそんな人はいないはずなのだが、いないと言い切ると嘘になるようなそんな妙な気分。
しかし、いると言っても嘘なわけで、果たしてどうしたらいいのか、となのはは混乱し、突如巻き起こった魔力の奔流に目を奪われた。
(なのは!)
ユーノから切羽詰った念話が飛んでくる。
明らかにジュエルシードの気配だ。
(わかってる。ユーノ君先に行って!!)
その言葉にユーノはテーブルから身を乗り出し、颯爽と飛び降りると森に向かって駆け出した。
「あ、ユーノ君が、って何あれ!?」
ユーノにつられて背後の森に目をやったすずかが驚愕の声をあげる。
そこには背の高い木々を更に上回る巨躯の白猫が見えたからだ。
非常識な大きさの子猫。間違いなくジュエルシードの仕業だろう。
そう断じたなのはは、素早く椅子から立ち上がった。
「ユーノ君を連れ戻してくる! すぐ戻ってくるから待ってて」
すずかとアリサが固まっているのを幸いに、森に向かって走りながら言葉を紡ぎだす。
「待って、なの……」
二人が驚愕から立ち直った頃にはなのははユーノの後を追って、森に飛び込んでいた。
◆
それを感知したのはなのはとユーノが森に入ってすぐのことだった。
結界。
なのは達が進む先、巨大猫の付近から展開されたそれは周囲と結界内を隔絶させる高度な隔離結界だった。
「まずい、なのは」
「どうしたの、ユーノ君。」
「かなり高度な結界が張られた。多分、クロノ執務官が言っていた僕たちとは別口のジュエルシード回収者だ」
ユーノが緊迫した声で言った。
「どうなるかは相手次第だけど、もし発見されたら戦闘になるかも。どうする?」
「ここでクロノ君を待つか、接近してみるかってことだね?」
「うん。どっちにもメリット、デメリットがあるけど」
なのはが簡潔に行動指針をまとめ、ユーノが同意を示す。
クロノを待つ場合は確実だ。状況を確認しつつ念話で連携を取る。隔離結界のせいでこちらからの連絡は困難だが、直に駆けつけてくるだろう。
問題点としては相手の魔導師としてのレベルを考えるとクロノが駆けつける前に全てを終わらせて逃げてしまう可能性があること。
「接近して足止めしよう。こんな大きな結界を張ってくるということはクロノ君が来る前に逃げる自信があるってことだよ」
「リスクは理解してるよね。非殺傷設定とはいえ、戦いになれば痛いし、トラウマなどの後遺症の危険性もある。相手はクロノ執務官以上の魔力を持っているんだよ?」
ユーノがそう警告する。今はなのははまだ魔力が高いだけのただの女の子だ。
ジュエルシードの暴走体を圧倒的魔力差を利して封印する程度ならともかく、自分と同等以上の魔力を持つ戦闘魔導師との戦闘など狂気の沙汰だ。
危険を冒すのはもっと十分鍛えてからでもいい。いや、そもそも危険を冒す必要もない。普通の女の子として人生を謳歌すれば良い。
クロノに念話を送るだけで十分義務は果たしていると言える。
「うん。それでも、戦わなくちゃいけない。私はユーノ君のお手伝いをしてこの町を守るって決めたから!」
「そうか」
短い付き合いだが、なのはの頑固さをユーノは知っている。
この少女はきっと死んでも戦うだろう。
なら、自分の仕事は彼女を死なせないことだ。
「なら、行こう。僕も最大限サポートする。なのはならきっと大丈夫だよ」
「うん。ユーノ君、頼りにしてるから」
なのはがバリアジャケットを展開して浮かび上がる。
ユーノがその肩に飛び乗ると、なのはは巨大猫をめがけて、一直線に飛んだ。
「巨大だとは思っていたけど、これほどだなんて……」
なのはが呆然としたように呟く。
巨大だと思っていた白猫は近くで見ると更に巨大だった。
目測で体高が五メートル以上ある。
単純な大きさでは以前の大樹の方が大きいが、ごろごろ転がっているだけとはいえ、動物として動いているのを見るのは圧巻だった。
「急に動いてつぶされたら厄介だから、地上には降りないで」
「うん、わかってる。周りの樹が邪魔でうまく動けないみたいだけど」
むしろ、立ち上がらないところを見ると肥大化した肉体を持て余しているのかもしれない。
巨大化したことにより発生した莫大な体重を膝や腰などの弱い部分が受け止めきれず、重荷になっている可能性がある。
それがずっと続くようなら助けてあげたいし、動けるようになるなら止めなければならない。
(そのためには、あの娘を止めないと)
先ほどから散発的に巨猫に降り注ぐ金色の光。
そして、上空に見える黒と金の少女。
その姿を見た瞬間、なのはが体を一瞬、大きく震わせた。
「なのは?」
「大丈夫。武者震いなの」
精一杯の虚勢だった。金色の髪を風になびかせる少女を見たとき、なのはが感じたことは一言では言い表せない。
たとえて言うなら三ツ星レストランの料理を食べたときに舌が感じる感触。
甘味、酸味、苦味、辛味。
種々諸々だろうが、一つ言えることはそれがとてつもなく美味いということ。
なのはの鋭敏な本能が、フェイトの強さを直観的に感じ取っていた。
あの金色の少女は見た目の可憐さなど問題にならないほど、怖い。
「あの……」
そのときのなのはのミスはそんな怖さを誤魔化そうとフェイトに声をかけてしまったこと。
大子猫に攻撃を加えながら、周囲を警戒し、なのはの隙をフェイトが探っていたことに気づけなかったことだ。
瞬間、フェイトの姿が霞んだ。爆発的な加速で移動しただけなのだが、なのはにはフェイトの体がぶれたとしか感じられなかった。
真正面からの強襲突撃。バルディッシュの魔力刃が圧倒的な速度という武器を得て、唸りを挙げた。
なのはは反応することすらできなかった。脇腹に生じたすさまじい衝撃と激痛。それらはまだ幼いなのはの意識をさらっていくには十分だった。
「なのは!」
バリアジャケットを破壊されて、空から落ちる少女をユーノは浮遊魔法で何とか地上との激突から救った。
「レイジングハート! なのはは!?」
『It's no problem. She only loses her senses』
どうやらバリアジャケットを抜かれた衝撃と痛みで気絶しているだけらしい。
ユーノはほっとと胸を撫で下ろすのと、フェイトが再び襲ってくるのはほぼ同時だった。
慌てて張った矩形結界で辛うじて斬撃を逸らす。受け流したのにも関わらず、結界にガタがきた。
まずい、とユーノは思考する。あのまま地上に墜落するのは危険だったが、それを防いだせいであの金髪の少女はなのはを仕留め損ねたと勘違いしている。
このままでは更なる追撃を加えられる。たとえ、非殺傷設定だったとしても、意識を失ったなのはの体にどんな影響を及ぼすかわからない。
先ほどは結界を受け止めるのではなく、逸らす形で使用したために何とかなったが、ユーノは魔力量で言えばAランク程度の年の割には優秀な程度の魔導師だ。
推定AAAランク、巻き起こる雷のような膨大な魔力をその身から発散させるフェイトの攻撃を何度もしのげるほどではない。
なら、やることは一つだ。降伏するしかない。
「待ってくれ。この娘は気を失っている。君の勝ちだ。今、降伏する」
それを聞いて、フェイトは速度を緩めた。そして、奇襲されない程度に距離を取ると、用心深くなのはとユーノを見た。
「なら、その対価にジュエルシードを。貴方たちも集めているんでしょう?」
思っていた以上に抜け目がない。ユーノはとぼけるか、大人しく従うかで少し悩んだ。
しかし、フェイトの口ぶりは余念がなく、当て推量や憶測で言っているのではない意思が感じ取れた。
これまでのジュエルシードの回収は人目を忍んでいたものの、クロノに会うまで競合相手がいるとは思ってもいなかったので特に魔力を隠したりはしていなかった。そのため、フェイト達に感づかれていた可能性がある。
「……わかりました。レイジングハート」
『Put out』
レイジングハートが長杖の先端、宝玉部分からジュエルシードを一個だけ吐き出す。なのはの影響か、最近多弁になってきたインテリジェントデバイスは彼の意を十分酌んでくれた。
現在、ユーノとなのはが持っているジュエルシードは三つ。それを全部持って行かれては後で起きたなのはもショックが大きいだろうが、一個だけなら取り返しやすいし、ショックも小さい。
フェイトは素早くそれをバルディッシュに回収させると、すぐに大子猫の方に向いた。
大体、確認したところではあの子猫は大きすぎて、体を満足に支えることもできないようだ。
まっすぐ近づいてバリアブレイクし、ジュエルシードを回収すればいい。
フェイトの中で安堵が広がり、そして、その隙をこそ狙っていた男がいた。
◆
初手はクロノから。
油断したフェイトに高速移動魔法を連続使用して一瞬で背後にまで近づく。
ギリギリで気づいて振り向こうとしたフェイトの横っ腹に組み付いた。
そのまま、柔道でいう裏投げの体勢に持っていく。
そのまま、眼下に広がる森の中へ一緒に落ちて行った。
クロノの目的はダメージを与えることではない。この高さから落下させても高ランク魔導師のバリアジャケットを貫くことなどできない。
だから、クロノの目的は一つ。森の中にフェイトを叩き込んで、最大の武器である速度を殺し、自分の得意な接近戦に持ち込むことだった。
派手に何本か木の枝をへし折りながら、予定通りに森の中へ一緒に落ちたクロノは地面に背中から叩き付けられて体勢を崩しているフェイトの肩のあたりに短杖を押しあてた。
バリアブレイク。
クロノが得意とする瞬きする間もない一流の結界破壊。
フェイトのぴっちりしたバリアジャケットがほどけ、普段着であろう黒いパーカーとミニスカートがあらわになる。
そのまま腹部を踏み抜こうとするが、それはフェイトが転がって距離を取り、避けた。
たたらを踏むクロノに対して、フェイトは素早く立ち上がった。
「バルディッシュ!」
『Saber mode』
バルディッシュの長い柄が縮んだかと思うと、宝玉部を中心に横に広がって鍔となり、そこから金色の魔力刃が伸び上がった。
ちょうど少し短めの両手剣となった形だ。
美しい剣だった。黒と金色のまるでフェイトがそのまま剣の形になったような両手剣。
一瞬、そのあまりの華麗さにクロノは見惚れた。
「なるほど」
呟く。どうやら、マンションでの戦闘で危機感を持ったのはこちらだけではなかったらしい。
剣を構える姿がわずかにぎこちない。おそらく、ここ数日で組み上げた急造の物だろう。
ならば、打つ手はある。
右手に持った短杖を素早く、左手、それも逆手に持ち替える。
半身に構える。前に出した左手はだらりと下げ、右手は上げて、顎を守るようにつける。
重心は前に置いた、突きを重視した構えだ。
膝は軽く曲げ、重心を落とすことを意識する。
それを見て、フェイトが両手剣を振りかぶる。魔力刃の良いところは質量がないために、それほど扱うのに力がいらないことだ。フェイトのような小柄な少女でも存分に振り回すことができる。
狙いは脛。長物のリーチを活かして、足を殺しに来た。定石通りで隙が少ない。
しかし、クロノはそれにタイミングを合わせて一歩前に出た。
セオリーに忠実であるということは確かに強力であるが、それ故に読まれやすい。
特に長柄の武器と違い、両手剣はフェイトにとって使い慣れない武器だ。林立する樹木で満足に長柄が振れないとはいえ、慣れない武器を用いることは悪手であったと言える。
横薙ぎの一撃を両手剣の根元で太ももで受けた。バリアジャケットが魔力刃が干渉しあって、耳障りな悲鳴を上げる。
が、遠心力を殺され、重さもない魔力刃ではバリアジャケットを切り裂くことはできない。
結果、クロノは剣を振りきれぬまま体勢を崩したフェイトの懐に入ることに成功した。
「剣との戦いは慣れていてね。悪いけど、もらったよ!」
そのまま打撃をフェイントに、フェイトを真正面から抱え込み、持ち上げ、上体を腰を支点に限界まで後ろにそらす。
変形のフロントスープレックス。フェイトは既にバリアジャケットを再展開し終えているため、ダメージは皆無だが、また、クロノに有利な状態に持っていけることには間違いない。
だが、しかし。
「なん、だと!」
クロノが驚愕の声をあげる。
フェイトはクロノに投げられると見るや、飛行魔法で自分から推力を出し、逆にクロノの力を使って上空に飛び上がったのだ。
短杖を持っているため、フックが甘くなることを利用された鮮やかな対処だった。
そのまま、樹の枝にぶつかるのも構わず、まっすぐ上空に出る。
そして、そのまま下に見える大子猫に目もくれず、一直線に逃走した。
遅れて上がってきたクロノが来たころにはフェイトは結界を抜け出していた。
「糞、敵ながら見事な撤退だ。まだジュエルシードがあるのに置いて逃げるなんて」
エイミィに指示を出して、サーチャーを差し向けてもらおうと念話を飛ばすが、既に派遣されており、速度で振り切られた後だった。
こちらの手管をかなり把握されていた、と見ていいだろう。
厄介な敵と出会ってしまったものだとクロノは大子猫からジュエルシードを回収し、封印しながらため息をつくのだった。