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[34641] 【習作】ハラオウン一家物語【第二部完 閑話投稿】
Name: 烏賊様刻◆e7251814 ID:b1305343
Date: 2013/06/07 21:39
 魔法少女リリカルなのは二次創作。

 クロノ主人公再構成&性格改変ものです。

 オリキャラ、オリ設定が大量に含まれています。

 特にバリアジャケット周りの設定は信じると恥をかきます。

 現在第三部が五十パーセント程度まで書き上がっており、書きあがり、推敲し次第、週一ペースで投下していく予定です。

 KURONOでEIMIXIなお話ですが、もしお暇でしたら読んでいただけたら幸いです。

 習作ですので、感想、批評、指摘をもらえると作者がもれなくダンスを踊ります。

 10/16 クロノ・ハラオウン⑩にて誤字訂正。
     スティンガーレイ・エクスキューションシフト→スティンガーブレイド・エクスキューションシフト。

 11/13 毎週更新の約束を破ってしまい、申し訳ありません。
    一応釈明させていただくと、日曜日の時点でarcadia様が非常に重かったので、舞様が対応するまでの間、じっとしていました。

 11/25 チラ裏からとらは板に移行

  1/14 クライド・H・ハラオウン⑤にて誤字訂正
     クロノ→クライド

  1/21 更新が遅れて申し訳ありません。日曜日の時点でarcadia様が重く、いつもの奴かと思い、投稿を自重しておりました。直ったようなので更新します。

  3/3 パソコンアボン→リカバリディスクが途中で止まる→泣く泣く新しいのを買う。という流れで更新が全くできませんでした。待っていてくださった方は本当に申し訳ありません。更新を再開したいと思います。



[34641] クロノ・ハラオウン①
Name: 烏賊様刻◆e7251814 ID:b1305343
Date: 2012/08/16 15:50

(クロノ君、準備はいい?)

 エイミィ・リミエッタから念話が入る。最終確認だ、とクロノは気合を入れた。
 海鳴の隣町のとある高級マンション。表札も出ていないその一室の前で静かに気を充足させる。

(こっちは大丈夫。サーチャーの方はどう?)

 エイミィに念話を返す。彼女は遠く離れたアパートの一室でサーチャーの一種、魔力ソナー型広域偵察機で室内の様子を探っているはずだった。

(うん、順調に機動中。相手は二人。あの金髪の子と赤毛の使い魔だけみたい。一人小部屋に入った。シャワーかな。今突入したら裸見放題かもね。二ヒヒ)

 笑うエイミィに、クロノは少し呆れて言った。

(そんなの別に見たかないよ。でも、入浴中ならチャンスかもしれないな)

(クロノ君、枯れてるなぁ。ま、チャンスなのは確かだね)

 絶好の不意打ちの機会だ。
 一つ頷いて、クロノはドアの隣、マンションの壁に愛用の短杖型デバイスを押し当てる。
 目をつぶり、ゆっくりと、深呼吸した。管理局の制服を模したバリアジャケットで覆われた胸が長いストロークで上下する。たっぷり一分ほど続けただろうか。
 小さくつぶやいた。

「ブレイク・インパルス」

 その瞬間、分厚いマンションの壁が粉々に砕けた。
 それと同時にクロノが走る。目標はドッグフードらしきものを口に運ぼうとして固まっている赤毛の女、アルフ。
 右手に持った短杖を捩じりこむようにして突きこむ。ドリルのようなそれは狙い違わずあばらを打ち、肋骨を砕く鈍い手応えが伝わってきた。

「グハッ!!」

 体をくの字に折って悶絶するアルフに一瞬の容赦も見せず、スティンガーレイを放つ。水色の魔力光が首筋を貫く。
 カクンと膝を落とすアルフの額にもう一発スティンガーレイを撃ち込み、完全に気絶させる。
 よし、とクロノは内心で快哉を叫ぶ。魔力ランクAA相当の使い魔を不意打ちとはいえ、無傷で撃破できたのは大きい。
 バリアジャケットを着る暇も与えなかったのは望外の成果だった。

「アルフ、どうしたの!?」

 シャワーを浴びてる最中だったのだろう。濡れた髪のまま、金髪の少女、フェイトが脱衣所から飛び出してくる。
 用心深いのか、それとも練度が高いのか、黒くぴったりとしたバリアジャケットをもう装着している。
 だが、デバイスは待機モードのままだ。
 クロノはそれを見てとると素早く距離を詰めた。

「貴方はこの前の執務官!?」

「時空管理局執務官クロノ・ハラオウンだ。身柄を拘束させてもらう!」

 バリアジャケットの形状から察するに相手は高機動型だが、狭い室内ではそれを十全には発揮できない。
 推定空戦AAAランク、クロノより一段上の魔導師と戦うには絶好の環境だった。

(これ以上の戦場設定はもう望めない。ここで逮捕して、事情を聴く)

 走り寄る速度をそのままに短杖を突きこむ。

「バルディッシュ。お願い」

『Set up ready』

 それをフェイトは一瞬早く変化させた黒色の長柄型デバイス、バルディッシュで受け止めた。
 金属と金属がぶつかる硬質な音が響く。同時に、バルディッシュの先端部が稼働し、金色の魔力刃が斧の形に展開される。
 しかし、長柄の武器を扱うには彼我の距離が短すぎる。
 
『Round shield』

 続けてのクロノの前蹴りを防御魔法で受け止める。
 更にそのまま距離を取ろうとするが、クロノはそれを許さない。
 左手を突き出すが早いか、ラウンドシールドをバリアブレイクされる。
 速い、とフェイトはその速度に舌を巻く。彼女が模擬戦をしたことがあるのはアルフと母の使い魔だったリニスの二人だけだが、どちらにもこれほどの速さでバリアブレイクをされたことはなかった。

(これじゃあ、バリアジャケットだって過信できない。何とか避けないと)

 更に距離を詰めようとするクロノにフェイトはバルディッシュを横薙ぎに振るう。
 ステップバックで躱され、勢い余って椅子をなぎ倒し、机に当たる。

(狭くてやり辛い)

 その隙をついて前進してきたクロノの中段回し蹴りをバルディッシュの柄で巧みに受け止めながらフェイトは思考した。
 机や壁のせいで得物を振り切れないのだ。それに対してクロノのデバイスは短杖。室内戦闘でも問題なく戦えるデバイスだ。
 その上特殊警棒をイメージしてるのか、太く頑丈で白兵戦にも十分耐えられそうな作りである。
 しかし、今は戦闘中だ。弱音を吐くわけにはいかない。
 それに、今この場にいる味方はアルフだけではないのだ。

 クロノがその奇襲に反応できたのは偶然だった。対峙していた金髪の少女の視線がクロノではなく、その先にあるものを見るのを見た。
 悪寒と共に背後を振り返り、そして見つけた。
 金色の髪をザンバラにした男だった。体にぴったりとした黒いボディースーツを着ている。体格はクロノより二回りほど上だ。
 見事なフォームで繰り出された中段回し蹴りを振り向きざまに左手で受け止めるが、その威力を殺し切れず、体が一瞬宙に浮いた。
 それほど重い蹴りだった。

(エイミィ、もう一人いたぞ。黒づくめの男だ)

(え、嘘! サーチャーには何の反応もないよ。警戒して!)

 念話を交わしながら、クロノは横っ飛びに二人から距離を取る。

「フェイト。アルフと一緒に撤退しろ。合流方法はプランB。尾行に気をつけろ」

 男が低くよく通る声を発した。

「スパイダーは?」

「逃げる時間を稼ぐ必要があるだろう?」

 そう言って金髪の男、スパイダーは構えた。
 体はやや半身で、左手を前に緩やかに突き出し、右手は胸に向かってひきつける。
 重心はやや前に傾けたパンチ重視の構えだ。
 その姿にクロノは眼を細めた。
 なかなか堂にいった構えだが、魔導師なら誰でも発する魔力の高ぶりが感じられない。
 つまり、この男は非魔導師だということだ。

(真っ当にやりあう気か? 非魔導師が?)

 魔導師と非魔導師の違いは多いが、特筆すべき点として魔力強化による身体能力の違いとバリアジャケットの有無が挙げられることが多い。
 つまり、攻撃力と防御力の両方が比較にならないということだ。
 それを知らないのか、それとも不利を知りつつ、なお挑むつもりなのか。
 どちらにせよ、油断してはならないとクロノは気を引き締める。
 牽制のスティンガーレイを三発放つ。
 スパイダーはそれを踏み込みながら躱し、短杖と共に突きだした右腕に左クロスカウンターをかぶせた。

「つっ!」

 驚愕しながらも反応できたのは修練のたまものか、右腕を引いて顔面狙いのフックをかちあげる。
 そのまま巻き込むように得意の下段から上段に変化する左回し蹴りを放つが、それはステップバックで避けられてしまった。
 
(驚いた。肉弾戦を挑んでくるのか)

 ならば、クロノが断然有利だと言える。
 今のは反射的に防いだがバリアジャケットがあれば、生身の突きや蹴りぐらいどうとでもなる。
 あの魔法を避け慣れた様子からはそれがわからないほどの愚物には見えないが。
 まぁ、いい。クロノは開き直った。有利なのは変わりないし、クロノもまた接近戦の専門家なのだ。

(正確には専門家見習いってところだけど)

 それでも執務官試験を突破した実力は伊達ではない。
 踏み込んでくるスパイダーを待ち構える。
 右ストレートを肩の動きで察知し、ヘッドスリップで避ける。
 と違和感に気づく。スパイダーの左手がクロノの左手を握手するように掴んでいる。
 右ストレートはクロノの注意を引くための囮だったのだ。

(だけど、手を掴んだだけで……)

 不可解さにクロノが目をしかめるとほぼ同時にクロノの体が浮いた。
 浮遊感を感じるが早いか、背中から天井に叩き付けられる。

(投げられたのか!? なんだ、この投げ!?)

 片手でしかも握手の状態から天井に叩き付けるほどの高さを出す投げなど聞いたことがない。
 更に地面に叩き付けられ、バリアジャケットが耳障りな音をたてる。
 だが、ダメージはない。素早く立ち上がる。と、同時に窓際まで移動したスパイダーが何かを放り投げた。
 カランカランと甲高い音を立てて、足元に転がってくるのを見て、クロノは背筋を凍らせた。

(手榴弾!?)

 クロノが隣の部屋に身を投げ出すのと、爆発はほぼ同時だった。
 衝撃で耳が痛みを訴える。

(クロノ君、大丈夫!?)

(大丈夫だ。ちょっと耳がキーンとするけど)

 立ち上がり、バリアジャケットの埃を払う。脱衣所だったらしく、女物の下着が頭に引っかかっていた。先ほどの少女、フェイトの物だろう。あまり見ないようにしながら頭を振って取り除く。
 警戒しながら覗き込んだ部屋の中はひどい有様だった。
 手榴弾に鉄片が混入されていたのだろう。
 壁や床、天井が傷だらけになっている。
 まともに食らっていたらまずかったかもしれない。
 スパイダーはもういない。フェイトと呼ばれていた少女もだ。
 どうやら、上手く窓から逃げられたらしい。

(クロノ君、派手にやっちゃったから、すぐに現地の警察が来るよ。撤退して)

(わかった)

 奇襲の優位を崩さないためにマンション付近には結界もかけていなかった。
 念話を返してから、急いで部屋を後にする。マンションの周りは爆発音を聞きつけた近隣の人々により人だかりができかけていたが、幸い見とがめられず抜け出すことができたのだった。





「ご飯にする? お風呂にする? それとも、わ・た・し?」

 フェイト達を捕まえるべく、マンションを強襲してから数十分後。
 徒歩で仮住まいのアパートに帰還したクロノを出迎えたエイミィはしなを作ってそう言った。
 それに対してクロノは呆れたように首を振った。

「寝言は寝てから言ったらどうだい」

「あ、ひどい。疲れて帰ってきたクロノ君を労わろうとする私の気遣いがわからないの?」

 ブーブーと文句を言うエイミィにクロノはため息をついて見せる。

「はいはい。気遣いありがとう。それとその三択ならご飯がいいな」

「オッケイ。今日のご飯はカレーだよ。たくさん作ったからいっぱい食べてね」

 エイミィの得意料理はカレーとシチューとポトフで、それ以外作れない。
 他は鋭意努力中という、芳しくない料理スキルを持つ少女なのだ。
 丸いちゃぶ台を二人で囲んで、遅めの昼食を食べる。
 畳の上に直座りというのはまだ慣れないが、悪くないと感じる。
 隠し味のにんにくがほのかに効いていて美味しいと思うが、照れくさいので口には出さない。

「美味しい?」

 エイミィがにこにこ笑って聞いてくる。

「そこそこかな」

 クロノがうつむいて応えると、エイミィはさらに笑みを深くした。
 ちなみに母、リンディもこの反応に同じように微笑む。

(わかりやすいのかな、僕)

 長年連れ添った仲だからか、エイミィにはどんなに気持ちを隠そうとしてもすぐに暴かれてしまう。
 それが別に不快というわけではないが、戦士として良いのかと思うときがある。
 コホン、と咳払いする。

「そんなことより、さっきの戦いのことなんだけど」

「もう反省会やるの? クロノ君は真面目君だなぁ」

 エイミィが不真面目なのだ、とクロノは思ったが言わないでおくことにする。

「まずは現状を確認しよう。僕たちは昨日、ジュエルシードを回収中に一組の魔導師と使い魔に出会った。
 職務質問をするものの、相手は何も言わずに逃亡。サーチャーで追跡し、拠点を割り出した後、強襲するが失敗。今に至る」

「うん。そうだね。付け加えるなら、執務官クロノ・ハラオウンと執務官補佐エイミィ・リミエッタは整備中で動けない次元航行艦アースラに先行して、第97管理外世界、現地名称地球にたどり着き、行方不明のジュエルシード発見者、ユーノ・スクライアの捜索とジュエルシードの回収を任務としているね」

 腕組みをして、エイミィが言う。

「やっぱり気になるのは三人目のあの男だな」

 いるとわかっていた二人、フェイトとアルフは特に問題は感じなかった。
 高い実力を持っていたが想定の範囲内といったところだろう。
 高い機動力を持つだろうフェイトを逃がしてしまったのは痛いが、技が粗く、外で戦っても勝つ自信がある。
 アルフは感触的に肋骨を砕いたので、回復に手間取るはずだ。
 そうなると正体不明の男、スパイダーが障害になる。

「サーチャーでまったく感知できなかったもんね。『ステルス』だと思うけど、魔力探査型だけじゃなく映像記録型の方も飛ばすべきだったかな。ごめんね、クロノ君」

 『ステルス』とはレアスキルの一種で魔力ソナーに反応しない特異体質のことを言う。管理世界では幾人も確認されているレアスキルだ。

「映像記録型だと近すぎて気づかれてた恐れがあるし、あれがベストだったよ。あれだけお膳立てされて成果をあげられなかった僕の方に責任がある」

「いや、私の……ってこれ以上は水掛け論になっちゃうね、やめとこうか。……やっぱりその男の人がリーダーなのかな。魔導師でないのに行動を共にしてるってのも変な話だし」

小首をかしげるエイミィ。

「いや、どうだろう。使ってる構えはストライクアーツに近かったけど、レーザーピストルの一丁も持ってないのは気になる」

 レーザーピストルは管理世界の違法質量兵器で、低ランクの魔導師のバリアジャケットなら貫ける威力がある。
 次元世界でもっともポピュラーな質量兵器の一つだ。入手もそれほど困難ではなく、リンカーコアを持たない次元犯罪者なら大抵携帯している。

「現地で雇った案内人ってこと?」

「もしくは傭兵か。火薬式の手榴弾ってところも考えるとそれが妥当だよ。ただ、それにしては強すぎる気がするけど。あの投げも気になるし」

「ああ、クロノ君が天井に叩き付けられたあれね。ジュージュツってやつなのかな」

「うん。本当に不可解な投げだった。握手の形から放り投げられたから。どうすれば、天井にぶつけられるほどの力がだせるのか」

「メインウェポンは投げ技ってことだね。あとは関節技も要注意ってところかな。まぁ、J・S・Sがあるから問題ないか」

 J・S・SとはJoint Safety Systemsの略で対関節技用にバリアジャケットに組み込まれているプログラムの一種だ。
 あらかじめ設定された関節の可動域を超えた時に、自動でかけられている力と逆ベクトルの力をだして相殺するプログラムで、
 事実上、魔導師相手の関節技を無効にしている。ミッドチルダでストライクアーツをはじめとするいわゆる打撃系格闘技が現在主流なのは、バリアジャケットとこのプログラムが原因だと言われていた。

「むしろ、関節技を仕掛けてきたらチャンスだと思うべきだ。
 それに、投げ技もバリアジャケットがあるからそんなに痛手じゃない」

 カレーライスを食べ終えたクロノがナプキンで口を拭きつつ、言った。

「そうだね。火器がないなら空戦になるフェイトちゃんとの戦いで邪魔されることはないし」

 空戦は地上から十数メートル上空で高速で行われる。
 スパイダーの持っていた手榴弾程度では援護することすら難しいだろう。

「でも関係者には違いないからね。何としてでも捕まえたいところではある。
 まぁ、次にあの男が来たら距離を取って射撃戦に持ち込むべきだな」

 そう考えると一人も逮捕できなかったのは痛い。
 職務質問直後、相手がアジトに帰りつき、油断していたところへの強襲。
 にも関わらずまんまと逃げられ、成果は使い魔の肋骨を砕いたことのみ。
 相手が上手かったとはいえ、失態は失態だ。

「それがベターだね。……まだ、始めたばかりだし、初仕事なんだから肩の力を抜くことを意識してね」

 わかってるよ、とクロノは頷いた。 





  平日の昼下がり。
 クロノは町を散策していた。あてもなくぶらぶらと歩く。
 一応、戦場になるかもしれない場所の偵察だと、自分に言い聞かせているが、暇つぶしであることに間違いはないだろう。

「分析は私がやっておくから、クロノ君は休憩がてら偵察にいってきなよ。仕事仕事だと持たないよ」

 そう言われて、エイミィに半ば追い出されるように外に出てきたクロノだったが、その言葉の正しさは頷かざるを得ない。
 張り詰めつづけた弓の弦はいずれ切れるように。
 削られ続けた鉛筆が容易く折れるように。
 人間はどこかで休まないといけない生き物だ。
 ましてや、クロノは大立ち回りを強いられたばかりなのだ。

「理屈はわかるんだけど、ね」

 休むのは苦手だ。十年前のあの日から、父が殺されたその日から、一日たりともさぼらず鍛錬を続けてきた。
 魔法理論は言うに及ばず、肉体の鍛錬、『敵』の分析、執務官になるためのもろもろの勉強まで。
 はるか遠くに見える父の背中を追いかけ続けてきたのだ。
 修練はもはや習慣化していて、クロノの日常生活の一部となっている。

 管理局の制服姿でぶらぶらと通りを歩く。
 今日は休日なのか、昼時だというのに、子供が多い。
 わいわいがやがや、仲よく遊んでいる子供達を見て、クロノはまぶしいものを見るように目を細めた。
 自分には縁のなかったものだ。

 ……ふと、視線を感じ、見上げるとそこにあったのは、

「図書館、か」

 執務官になるための勉強をしていた頃はミッドチルダの図書館に毎日こもったものだった。
 こう書くと、今は勉強していないように聞こえるかもしれないが、日々、勉強している。が、懐かしいことに変わりはない。
 自然と足が向いた。自分を見ていた女の子にも興味があった。

 図書館の中は閑散としていた。どうやら、それほど人はいないようだった。

(ミッドチルダじゃ、朝早く来なければ席がなかったものだけど)

 勉強しに来ている者は少ないのか、いないのか。まばらな人影もどうやら読書を目的としているらしい。
 ひとまず、本でも読むかと見回して、

(日本語、読めないや)

 無理なことに気づいた。翻訳魔法のおかげで会話は不自由ないが、文字は読めるわけがない。
 第97管理外世界はミッドチルダ語にきわめて近い言語があるため、日本語を学ぶ必要もなかった。
 自分が抜けてたことに気が付き、嘆息する。

「あかんあかん。ため息なんてついとったら、幸せが逃げていきますよ?」

 不意に後ろから声をかけられた。
 振り向くと、そこには車椅子に乗った少女がいた。
 茶色っぽい髪に黒色の眼をした少女だった。クロノよりは年下だろう。
 小柄で可憐なその少女が、悪戯っぽい笑顔を浮かべている。
 何となくその目が母さんに似ているな、とクロノは思った。

「癖でね。もう半分あきらめているんだ」

 わざとぶっきらぼうに答えて、少女との会話に乗ることを暗に示す。
 少女は嬉しそうに眼を輝かせた。

「それはいかんな~。『諦めたらそこで試合終了』なんやから」

「何それ? 何かの引用かい?」

「ん、知らんの? ス●ムダンクっていうてなぁ……」

 たわいもない雑談が始まる。相棒のエイミィと母、リンディ以外とのそれはクロノにとって久しぶりのことだった。
 地球で人気らしい漫画について熱弁をふるう、少女の楽しげなさまを見ていると、こちらまで楽しくなってしまう。

「……ってとこなんや」

「赤木って男と安西先生の二人がすごく魅力的ってことか」

「ほかのキャラも皆すごいけどな。けがを押して試合に参加する漢気には正直、惚れたわ」

 ま、どのキャラも好きなんやけどな、と結論付け、ひとしきり語って満足したのか、少女がふぅっと息を吐く。
 
「本当に好きなんだな」

「まあ、な。大好きな話や。それで私ばっか話しとったけどそっちはなんかないん? これやったらご飯三杯軽いってやつ」

「そうだな……」

 そう言われてクロノは思案する。ハラオウン家の御曹司であるクロノは一般教養としていくらかのベルカ演劇を諳んじている。
 さっき少女から聞いた話からするとどうやら好みは努力、友情、勝利のようだ。それと似た部分のある演目を頭の中で探す。
 しかし、あきらめた。ベルカ叙事詩は喜劇より悲劇の方が圧倒的に多いのだ。
 ならば、自分の好きな劇を話した方がいいだろう。
 ざっと話を思い出し、どう話すか考える。この間、約五秒。

「……『高貴なる炎』っていう話がある。僕が住んでたところでは割とメジャーな演劇だけど」

「聞いたことないわ。どんな話?」

ミッドチルダの演劇なので、地球人である少女が知らないのは当然なのだが、クロノはもっともらしく頷いておいた。
そして、コホンと喉の調子を確かめると、口を開いた。

「時は古代ベルカ。地は夜天。その領主は暗愚と言われていたが、過ぎたる宝を一つ持っていた。それは一人の騎士。
 聖王はその紫電の如き剛剣と比類なき忠誠を賛美し、称号『高貴なる炎』を下賜した。そんな偉大なる騎士の話」

 そうして、クロノは語り始める。
 主命により、師を斬り、友を斬り、竜と相打った騎士の話を。
 ベルカ史上最も偉大な騎士の一人と謳われた騎士の話を。

「……悲しい話やな」

 それが話を聞き終えた少女の感想だった。

「でも、最期に救いがあっただろ。それでいいんじゃないかな」

「救いって、最後の最後にわかりあえた主君の首に抱きついて涙を流しながら死ぬのが救いなんか?」

 口をとがらせる少女。

「わかりあえたっていうのが重要だと思う。本当にわかりあえることなんて滅多にないから」

「そうかな?」

「心からわかりあうなんて、本当に難しいことだよ。たとえ家族でも」

「そうか。そうかもしれんな……」

 感慨深げに、頷いた。

「私も家族がおんねん。でも、今の話を聞いて本当に分かり合えてるか、ちょっと心配になってきたわ」

 特に最近は帰ってくるのが遅く、理由を聞いてもはぐらかされてばかりだ。
 少女は家族の四人の騎士たちが心配だった。

「本当に分かり合うことは難しい。でも、信じることはできるよ」

「信じる?」

「うん。信じるということは相手に自分を委ねること。これも真の意味でやるのは本当に難しいことなんだけどね」

 そう言うクロノに少女は頷いた。

「まぁ、ものの本の受け売りだけどね」

「ううん。家族は信じる。当然のことや。大事なことを教わったわ」

 何度も頷くはやて。その素直さをクロノは好ましく思った。
 その後もしばらくたわいない雑談を続け、楽しいひと時を過ごした。

「あ、そろそろ帰らなあかん」

 図書館の壁にかけられた時計を目にしたはやてがそう言った。

「そう。それじゃあ、僕もそろそろお暇しようかな」

「名前、聞いてへんかったな。私ははやて。八神はやてや」

 そう言って少女、はやては笑った。クロノもつられて笑う。

「クロノ・ハラオウンだよ。こっちの流儀でいうなら、ハラオウン・クロノかな」

「外人さんやったんや。日本語上手やな」

「それほどでもないよ」

 実際は翻訳魔法のおかげでクロノは日本語など勉強したことがないのだが、一般人に魔法のことを話すわけにもいかない。

「それじゃあな、クロノ君。また会おうな」

「ああ、また」

 はやてを迎えに来たらしい淡い金色の髪をした女性に会釈して、クロノは歩き出した。
 少し歩いて、はたと立ち止まる。

「今の人、どこかで見たことなかったっけ?」

 柔らかな微笑みを浮かべていた女性を思い出すがちらっと見ただけなので、上手く思い出せない。
 確認しようにもはやて達はもう外にでてしまったのか、姿が見えない。

「まぁ、気のせいか」

 ここで思い出していれば後の惨劇は起こらなかったはずだと、クロノは大いに後悔することになるのだが、それはまた別の話。




[34641] クロノ・ハラオウン②
Name: 烏賊様刻◆e7251814 ID:b1305343
Date: 2012/08/22 19:52
 クロノの朝は早い。日の出と共にとは行かないが六時ごろには目を覚まし、まず、腕立てや腹筋、背筋、スクワットといった筋力トレーニングを行う。
 その後、日課の早朝ロードワークに出かける。まだ地球に来て日が浅いので道に迷わないように心持ちゆっくりだが、一時間ほど走り続ける。
 帰ってくると、デバイスを起動して短杖状態にし、突きの練習をする。
 左右、各千回。両方合わせて二千回、ただ無心に突きを繰り返す。終わるころには汗だくになっている。
 息を整えたら、デバイスをプラクティスモードにし、VR空間での射撃魔法の訓練と『敵』の斬撃を避ける練習。
 特に避ける練習には力を入れる。修練を続けること、約五年。抜く手も見れずに斬られていた当初と比べると、かなりタイトな回避ができるようになってきたと自負している。
 未だ、自分は十四歳。背は思うように伸びず、目指すべき頂は遠いが、少しずつ進歩していると実感する瞬間でもある。
 その後、アパートへ帰り、水漏れしている少々手狭なバスルームでシャワーを浴びる。頭から湯を被ると気分がリフレッシュする。クロノが朝風呂好きな理由だ。
 そして九時ごろ、エイミィが作った少々遅めの朝ごはんを食べる。今日は昨日のカレーの残りだ。
 手抜き感があるが、エイミィ曰くカレーは一日寝かした方が美味しいから別料理だということらしい。
 その後、エイミィと今後の予定について話し合う。

「当面は相手に対抗して、ジュエルシードを集める方針でいいと思うよ」

 クロノとエイミィは輸送中に紛失したロストロギア、ジュエルシードを回収するために第九十七管理外世界、地球にやってきた。
 そこで同じく回収するフェイト達を見つけて、次元犯罪の臭いを感じ取ったのである。

「そうだな。集まれば、後の交渉にも使えるし、次元震の可能性も起こった時の規模もそれだけ低くなる。妥当な所だろう」

「それじゃあ、サーチャーを飛ばしとくね。発動前の物は難しいけど、発動したらすぐにわかるはずだよ」

「僕もエリアサーチした方がいいかな。見つければ見つけるほど有利になるわけだし」

 そう言うクロノにエイミィは腕を組んでうーんと唸った。

「余裕があったらでいいよ。戦闘はクロノ君任せになるから万全の体調で望んで欲しいし」

 クロノの魔導師ランクはAA+。技巧の粋を尽くしてこれなので、単純な魔力ならA+程度だろう。
 エリアサーチはリンカーコアへの負担が大きいので戦闘前にはできるだけ避けたい魔法である。
 クロノにAAAランク、いやせめてAAランクの魔力があれば、また違った運用ができるのだが。
 まぁ、無い物ねだりをしてもしかたないか、とクロノは嘆息する。

「あぁ、またため息ついてる。ダメだよ、クロノ君。幸せが逃げちゃうよ」

 どこか他のところでもこんなことを言われたな、とぼんやりと考えた。
 そして、あぁ、はやてだと気づいた。独特の方言がキュートな女の子だったな、と物思いにふけるクロノ。
 エイミィが複雑そうな表情を浮かべて見ていることにも気づかない。

「クロノ君?」

「ん、あぁ。すまない」

「ははぁーん。他の女の子のこと考えてたでしょう。アリアさん、それともロッテさん?」

冗談めかして言うエイミィに図星を突かれたクロノは慌てて言い訳する。

「違うよ。というか、あの二人のことを思い出させるな!」

「ふーん。あの二人じゃないんだ。クロノ君、模擬戦でぼこぼこにされてたのにね」

 にひひ、とエイミィが笑う。
 ロッテとアリアとは、それぞれクロノの近接戦闘と魔法の師匠である双子の猫の使い魔の愛称だ。本名はそれぞれリーゼロッテとリーゼアリアという。
 そのスパルタっぷりはクロノが今でも夢に見るほどだ。
 才能のない自分をここまで引き上げてくれたことは本当に感謝しているのだが。
 しみじみと当時の記憶を振り返る。毎日のように気絶させられた日々も今となってはクロノの宝物だ。
 執務官試験の筆記の勉強に集中していて、最近会っていなかったがこの事件の片が付いたら会いに行ってもいいかもしれない。
 クロノはそんなことを考えた。





「久しぶりだな、シロウ・フワ。いや、シロウ・タカマチと呼んだ方がいいか」

 思わず昼寝をしたくなるような陽気。
 河川敷でサッカーチームの監督をしている高町士郎にそう流暢な英語で声をかけてきたのは一人のがっしりとした体格の男だった。金色の蓬髪をうっとうしそうに左手で払いのけている。
 その姿を見て士郎は驚愕した。見知った顔だったからだ。

「お前は、アル――」

「今はスパイダーと名乗っている」

 前の名で呼ぶな、という言葉無き圧力に士郎は知らず圧された。
 自分が前より弱くなったのか、それとも"彼"が強くなったのか。
 おそらく両方だろうと、士郎は考えた。
 鍛錬こそ続けていたものの、平和にどっぷりと浸かり、生命のやりとりから足を洗って七年。往年より自分が衰えているという自覚がある。
 ましてや、全盛の自分と互角に戦った男である。しかも今も苛烈な実戦に身をさらしていることは容易にうかがい知れた。
 臭いがするのだ。血と硝煙の臭い。鉄火場の臭いが。

「そう構えるな。あんたと事を構えるつもりは今のところはない」

 そう言われるも、さりげなく中腰にしていた身体をベンチには降ろさない。
 スパイダーと名乗った男から生じるピリピリとした戦場の空気が感じられた。
 当の昔に一線を退いた男にさえ、である。 

「それなら、話しかけて欲しくもなかったのだがね」

「そう言うな。仕事先であんたを見かけたらどうしたって関連を疑うだろう。何せ相手はあのシロウ・フワだ」

「生憎、ただの偶然だよ。今の僕は高町士郎。しがない喫茶店の親父さ」

 気楽に言葉を返しているように見せながらも、士郎は仕事先という言葉を聞き逃しはしなかった。
 要人の暗殺か、はたまた大規模テロリズムか。
 士郎の記憶が確かならどちらもあり得る。
 スパイダーという男の専門は潜入工作及び暗殺。更に銃器全般と爆発物の扱いに熟達しており、それでいて接近戦も過不足なくこなすオールラウンダー。
 それが士郎のスパイダーに対する評価である。おおよそ傭兵が相手として考え得る最高の評価と言っていい。
 そんなことを考える士郎を余所にスパイダーはどっかりと隣に座った。

「そのようだ。目が優しくなった。今のあんたの喫茶店なら行ってみようかと思えるよ」

「お客としてなら大歓迎だよ。トラブルはゴメンだがね」

「はは。警戒しているようだが、今度の仕事はただのボディーガードだよ。あんたにもこの国にも迷惑はかけん」

「そうか。なら、いいんだが」

 そう言いつつも警戒は解かない。
 いや、スパイダーの放つ空気があまりにもキレていて、それを許さないのだ。
 笑顔を浮かべるスパイダーが歯をむく獰猛な獅子に見える。
 せめて小太刀を持ってきていれば、と士郎は本気で後悔した。
 スパイダーはそんな士郎を見て困ったように笑った。

「いや、あんたを困らせるつもりはなかったんだ。そろそろ失礼しようかな」

 そう言って、スパイダーは腰を上げる。
 その視界に一人の少女が目に入った。
 栗色の髪をツインテールにした少女だ。
 名を高町なのはという。
 その普段は可愛らしいくりくりとした眼が、今は厳しく細められている。

「タカマチ。お前の子か?」

 無言で頷く士郎にスパイダーはなるほど、と頷く。

「獅子の子は獅子、というわけだ」

 なのははただ、スパイダーを睨んでいた。
 戦場の雰囲気を醸し出す男を一人で。
 横にいる友達であろう少女に声をかけられても気づかない、それほどの集中力で。

「それじゃ、邪魔したな」

 その言葉を残し、スパイダーは身軽に歩き去って行った。
 スパイダーの姿が見えなくなるまで、なのははスパイダーを睨み続けていた。
 そして、見えなくなると同時にふっと息を吐いて脱力する。

「はああぁぁっ。怖かったよ。え、アリサちゃん、何?」

「何、じゃないわよ。あの男の人を見たまま固まっちゃって動かなくなるんだもの。ねぇ、すずか?」

 そう言うアリサと言われて頷くすずか。両者を見つめてなのははまた息をついた。

「ごめんね、アリサちゃん、すずかちゃん。あの人、何だか怖くて目を離しちゃいけないって思ったの」

 横から聞いていた士郎が驚く。
 なのはは何の修練もしていない素人だ。それが、あの男の発する空気に気が付くとは。

「……なのは、お前も明日から道場に来るか?」

「ふぇっ!? いいよ。私運動音痴だし」

「そうか。残念だなぁ」

 スパイダーの気を感知できるほどの才能があれば、鍛えればモノになるかもしれないのに。
 とはいえ、やる気のない者に無理矢理やらせるわけにもいかない。
 中腰を止めて、どっかりと腰を下ろす。気が付けば目の前の試合はハーフタイムにさしかかろうとしていた。 
 慌てて、士郎は指示を出すべく試合場を見渡した。





 エイミィ・リミエッタがそれに気づいたのは現地時間で午後三時ごろのことだった。
 魔力感知型サーチャーが感知した大規模な魔力の波動。そして、映像記録型サーチャーの捉えた巨躯。
 町の中で突如出現したそれらを見て、エイミィはジュエルシードの暴走だと断じた。

「クロノ君。ジュエルシードの暴走を確認。出動準備を」

「了解。エイミィ、現場までナビゲートよろしく」

「任せて」

 デバイスを展開したクロノがアパートの窓から飛び出す。

(クロノ君、人目があるから飛行魔法は控えて!)

(わかってる!)

 クロノはふわりと着地すると同時にアスファルトの上を駆け出した。
 走りつつもエイミィと念話をかわしての状況把握に余念がない。
 家と家の間から伸び上がる大樹が見える。
 都市の中心部に突如として現れた異形だ。

(そこを左。……クロノ君、見える?)

(あぁ。すごい成長速度だ。早く対処しないとまずい)

 念話の間にも成長を続ける大木がまるで生き物のようにうねる。
 あれでは人を襲い始めるのにそう時間はかからないだろう。
 ジュエルシードを侮っていた、とクロノは痛感する。
 発見者の報告では次元震を起こしうるポテンシャルだとされていたが、これほどの事態を一つで起こしているとすると二十一個そろえば、次元世界の一つや二つは崩壊しかねない。
 非常に危うい状態だと歯噛みする。

(つっ! クロノ君。目標の六時方向に大規模魔力反応。これは、結界!?)

 世界が塗り替えられていく独特の違和感。
 結界が張られた時に起こる感覚だ。
 同時に周囲の人影が消えていく。どうやら、リンカーコアを持たないものを排除する型の封鎖結界らしい。
 それならそれで都合がよいと、クロノは人目を気にして使えなかった飛行魔法で飛び上がった。
 そして一直線に術者の方を目指す。大木よりも結界を張った術者の方が気になった。
 大通りに立ち並ぶビルの屋上。そこに彼女らはいた。
 白と青を基調とした可愛らしい、しかし頑丈そうなバリアジャケットに身を包み、デバイスと思われる杖を持った栗色の髪の少女。
 そして、その肩に乗せたフェレットと思しき小動物。
 二人、いや一人と一匹がクロノに気づき、振り向く。

「時空管理局執務官クロノ・ハラオウンだ。話を聞かせてもらおう」

 できるだけ威圧的に声をかける。
 若輩のクロノはその外見から舐められることが多い。それゆえの仕事用の口調だったが、効果はあったようだ。

「執務官!? もう来てくれたのか」

 フェレットが嬉しげに言う。
 少女の方は首を傾げている。
 二人の反応から敵ではないだろうと判断したクロノは心持ち優しい声で尋ねた。

「二人とも名前は?」

「ユーノ・スクライアです。考古学者をしています」

「た、高町なのは。私立聖祥大付属小学校三年生です。それとこの子はレイジングハート」

『Nice to meet you』

 二人の名前を聞いて、クロノは大体素性に当たりをつけた。

(エイミィ)

(うん。ユーノ・スクライアはジュエルシード発見者の名前だよ。フェレットへの変身はスクライア一族の得意魔法だって話だし)

 エイミィの言葉に頷き、クロノは頷く。

「詳しく話を聞きたいけど、生憎時間がない。僕が封印するから、君たちは結界の維持を頼む」

 目線で今も成長を続ける大樹を示して、クロノは飛行魔法を発動させる。

「待ってください!」

 後ろから少女、なのはの声が聞こえた。

「何かな。手短に」

「私にも手伝わせてください。あのジュエルシードの暴走は私のせいなんです。私が昼に気づいていたのに見逃さなければ」

「君は現地協力者か。大した魔力だが、実戦経験は? 魔法を使い始めてどれくらいになる」

「二回です。魔法は……一週間弱です」

 言葉尻が弱くなる。

「悪いがそんな素人がついてきても足手まといになるだけだ。ここで大人しく待っていてくれ」

 クロノの冷酷な言葉に、なのはが詰まる。

「でも……」

 それでも、あきらめきれないようでなのはがもごもごと口を動かす。
 そのとき、念話が届いた。

(クロノ君、手伝わせてあげたら)

(何を言ってるんだ。戦闘になって死ぬかもしれないんだぞ。戦闘訓練も受けてない女の子を連れて行くなんて非常識だ)

(でもその娘、すごい魔力量だよ。持っている杖はインテリジェントデバイスだし。遠距離から援護だけさせるとかは)

(フレンドリーファイアが怖い)

(もっと先のことを考えてよ。三対一が三対三になるかもしれないんだよ)

(次元犯罪者の相手を素人にさせる気か?)

(悪い? 多分、そのなのはって娘とフェイトちゃんの年齢は同じぐらいのはずだよ)

(だからって……)

「あの~」

 ユーノの声で現実に引き戻される。
 エイミィの言葉も一理ある。強制することは無論できないが、フェイト達との戦いで有効な手札になりえることは疑いようがない。
 それに、口論している暇はない。早くジュエルシードの暴走を止めなくては。

「あぁ、すまない。なのは、だっけ? 後方から援護に徹してくれるなら来てくれても構わないよ」

「本当ですか!?」

 なのはの表情がぱぁっと明るくなる。

「ただし、どんな危険があるかわからないから前には決して出ないこと。誤射に気を付けること。それが条件だ」

「はい!」

 力強く頷くなのはにクロノは頷いた。

「よし。じゃあ、行こう」

 言うが早いか、飛行魔法で飛び上がる。

「レイジングハート」

『All right. Shooting mode』

 ビルの屋上でなのはがレイジングハートを構える。
 長杖の先端が長く突き出た形に変形していく。
 そして、そこに収束する莫大な魔力。
 クロノは思わず振り返った。そして、収束するピンクの魔力光を目撃する。

「クロノ君、どいて! ディバイン――」

「ちょっと待て! 射線に僕が入ってる!」

「――バスター!!!!」

 クロノが急降下するのと、なのはが魔力を解放するのはほぼ同時だった。
 自由落下するクロノの頭頂部をかすめた収束砲撃魔法は、うごめく大木に突き刺さり、一撃で根本まで掘り進み、そこに眠る憑代の少年、少女とジュエルシードを露出させた。

「リリカルマジカル! ジュエルシード封印!」

 なのはの宣言と共に引き寄せられたジュエルシードがレイジングハートのコアに吸い込まれる。
 
「やった!」

「やった、じゃない! 誤射するなってあれほど言っただろう。躱せたから良かったようなものの当たったらどうするつもりだったんだ」

 戻ってきたクロノが文句を言う。
 本当に肝が冷えたのだ。当たっていたらバリアジャケットを貫いてノックダウンされていただろう。それほどの一撃だった。

「ごめんなさい」

 しゅんとするなのはに、クロノは毒気を抜かれたようにうめいた。

「まあ、わかったならいい。以降は気を付けるように」

「はぁい」

 気を落としたままのなのはにクロノは内心動揺していた。
 先ほどのほれぼれとするような収束砲撃を放った魔導師と目の前の少女がどうしても同一人物には思えないのだ。
 
(歴戦の魔導師でも難しい一撃を繰り出しながら、年相応の少女の振る舞い。やり辛い)

 そう思う。高町なのはという少女はアンバランスなのだ。一見したところではどう付き合えばいいのか非常にわかり辛い。
 それも含めて、今後付き合っていくべきなのだろう。戦友になるか、お荷物になるかはまだわからない。

「よろしく頼むよ。高町なのは」

「はい。よろしくお願いします」

「敬語はいい。呼び方もクロノで構わない」

 クロノはなのはを見据えて言った。

「わかり……わかった、クロノ君。じゃあ、私のこともなのはって呼んで」

 なのはもまた、クロノをまっすぐ見つめて言ったのだった。





 時刻は少し逆戻る。奇襲から逃れ、合流地点に到達したフェイトとアルフはスパイダーを待っていた。

「アルフ、肋骨は大丈夫?」

「フェイトが回復魔法をかけて包帯巻いてくれてから大分楽になったよ。無理な動きをしなければ大丈夫だと思う。
 糞! 不意さえ突かれなきゃあんな奴に……」

 強がるアルフだが、ここに逃げ込むまでに随分痛んだのだろう。顔色は悪い。

「無理はしないでね。いざとなったらアルフは留守番で私とスパイダーだけでも……」

「冗談! 主人を置いて自分だけ休んでるなんて使い魔の風上にも置けないよ。それにスパイダーじゃ封印の手伝いができないだろう?」

心配するフェイトにアルフは強がって見せた。

「そんなこと気にしなくていいよ。今は自分の傷を治すことに集中して」

「だから、できないって。それにあたしはスパイダーを完全に信用したわけじゃないんだ。フェイトの代わりに警戒するのはあたしの役目だよ」

「そんな。スパイダーは信用できるよ。さっきだってスパイダーがいなければ、私達、どうしようもなかったじゃない」

「さっきはそうだったけど、本心はどうかわかるもんか。こんな平和な国で血の臭いをさせてる奴だよ。うさん臭くて仕方ないよ」

 言い募るアルフにフェイトは眉をひそめた。

「スパイダーのこと、そんな風に言わないで」

「フェイト……」

「スパイダーは信用できるよ」

 繰り返すフェイトに、アルフはそれは盲信ではないかと思わざるを得なかった。
 
(まぁ、確かに『似てる』けどさ……)

 そう思うアルフはスパイダーとの出会いを知らず知らず思い返していた。



 それはフェイトとアルフがフェイトの母であるプレシアに命じられ、ジュエルシードの回収のため、海鳴市に赴いてすぐのことだった。
 人込みの中、共に歩いていたフェイトが不意に立ち止まった。

「ちょっとフェイト?」

 アルフが声をかけても身じろぎもしない。
 何かに魅入られたように言葉を失っている。
 アルフもフェイトの見つめている方を慌てて見た。
 そこにいたのは乱れた金髪の男だった。精悍な顔立ちの美男子で背は高い。一八○センチメートルに少し届かないぐらいか。
 服の袖から覗く腕はボディースーツに包まれている。中年にさしかかる年齢だったが体が鍛えこまれているのが着衣の上からでもわかった。
 何より特徴的なのは臭いだった。アルフの総身の毛が逆立つ程の違和感。かすかに漂う血の臭い。
 この男は戦いを、それも殺し合いを生業としている。それがはっきりとわかった。

「あのっ」

 それにも関わらず、フェイトは男に声をかけた。
 男がフェイトに気が付き、あんぐりと口をあけた。

「アリ、シア?」

 男の呟いた言葉をアルフの鋭敏な聴覚は聞き逃しはしなかった。
 アリシア。女性の名前だろうか。少なくともアルフには聞き覚えがなかった。
 男が呆けていたのは一瞬だった。 

「いや、済まない。何か用かな、お嬢さん」

 驚いたことに男が発したのは流暢なミッドチルダ語だった。
 生来の物か、それとも使い慣れているのか、すらすらと話す。

「少し、お話できませんか」

 対するフェイトもミッドチルダ語。翻訳魔法を使うことも忘れている。
 アルフは驚いていた。教育係のリニスがいなくなってからフェイトが母親以外にこれほど関心を示すのは初めてのことだった。

「わかった。そこのカフェに入ろう。御馳走するよ」

 カフェの奥、外からは見えない裏口に一番近い席に座り、軽くコーヒーとお菓子の注文を済ませた後、おもむろに男は話し出した。

「知っているかもしれないが名乗っておこう。俺の名前はスパイダー。今は失業して職探しの最中だ」

「スパイダー、ですか? いえ、知りませんでした。私はフェイト・テスタロッサ。こちらは使い魔のアルフです」

 名前を聞いてフェイトはがっかりしたようだった。スパイダーが見ていなければため息をついていそうな勢いだ。

「『テスタロッサ』か」

「はい。もしかして知ってるんですか」

「……いや、自動車に同じ名前があったなと思ってね。他意はないんだ」

「自動車ですか?」

「あぁ。フェラーリ・テスタロッサと言ってね」

 嬉しげにスパイダーと会話するフェイト。
 話は発展し、車の話から国の話に変化していく。
 それを見ても、アルフはスパイダーへの警戒を解けないでいた。
 笑うスパイダーが歯を剥く大型の肉食獣に見える。
 フェイトは良くあんな奴と会話ができる、となかば呆れ、そして感心した。

「――ところで、フェイトはミッドチルダ人かな?」

 会話の流れを断ち切ってスパイダーは本題に入った。
 フェイトも緊張感を取り戻し、姿勢をただし、表情筋を引き締める。

「はい。わかるということはスパイダーも?」

「いや、俺は地球生まれだ。縁があって少し魔法のことを知っているだけのね」

「でも、そのミッド語は。その流暢な発音、ネイティブじゃないと無理なはずです」

 勢い込んで言うフェイトにスパイダーは静かに返す。

「これは英語だよ。ミッド語によく似ているが、この世界固有の言語だ」

「そうなんですか?」

「ああ。まぁ、ミッド語が話せないというわけではないが」

 聞き返すフェイトにスパイダーが頷く。

「どういうことですか?」

「俺は地球に根を伸ばしていたミッドチルダマフィアの一員だったんだよ」

「マフィア、ですか?」

 さすがに警戒したのか、緊張をにじませて呟くフェイト。

「ああ、心配しないでくれ。今は関係ない。どこにでもいるただのおっさんだよ」

「おっさんですか」

「ああ、おっさんだよ」

 予想外だったのか、反復するフェイトにスパイダーは楽しげに返した。
 しかし、そう笑うスパイダーは高く見積もっても三十代前半にしか見えない。
 まぁ、フェイトのような子供にはおっさんに見えるかもしれないが。

「そういうわけで、最初にも言ったが失業中でね。もし良かったら俺を雇わないか? 下働きから戦闘まで一通りこなせるよ」

 冗談めかして言うスパイダーをフェイトは真正面から見据えた。
 ある理由からフェイトはスパイダーに好感を持っているが、流石に仕事の話になるとそんなことは言っていられない。
 じっくりと観察する。薄手とはいえ服の上からでもわかるほど発達した上腕二頭筋。鍛えこまれた太い首。どれも生粋の戦闘者の物だ。

「傭兵兼案内役として、どうでしょうか? 高ランクの魔導師との戦闘も有り得ます」

「フェイト!?」

 アルフが戸惑った声を上げる。
 今日会ったばかりの人間をいきなり仲間にしようだなんて、有り得ない。
 最愛の母から請け負った大事な仕事のはずなのだ。
 しかし、フェイトは動じない。
 そして、スパイダーは不敵に笑って言った。

「得意分野だ。請け負おう」

 そうして、スパイダーはフェイト達の仲間になり、ジュエルシードを共に回収してきた。
 スパイダーは思わぬ拾い物で実際に有能であり、フェイトも懐いている。
 しかし、とアルフは思うのだ。
 スパイダーという男に何か裏がある気がしてならない。
 本当はフェイトの敵なのではないかと思えてならないのだ。

(まぁ、フェイトがあんまり懐いているから嫉妬しているのかもしれないけど)

 理性はアルフにそう訴えかける。しかし本能がそれを否定する。
 スパイダーは危険だと、判断せざるを得ない。

(フェイトが油断しても、あたしが警戒しとけば何とかなる)

 幸い、スパイダーの切り札はアルフには効き目が薄い。
 もし裏切られても何とか倒すことができるだろう。





 スパイダーが仮宿に到着したのは日が落ちかけてからだった。

「やっと合流できたな。フェイト、アルフ、尾行されてはいないな?」

「はい。大丈夫です。スパイダー」

「そっちこそ、尾行されてないだろうね」

「こちらは尾行など気配もなかった。そちらは?」

「こっちもです。サーチャーは飛んでましたけど撃墜しました」

「ふむ。相手は尾行に割ける程の人数がいないのかもしれないな。直接踏み込んできたのがあの執務官一人ということを考えると相手はサポートを含めて五人以下、いや二、三人かもしれん」

 静かに考察するスパイダーにフェイトは感心した。
 アルフも同じらしく、声を上げる。

「そんなことまでわかるのかい?」

「推測にすぎないがな。まぁ、少数精鋭主義の管理局のことだ。それほど的外れの考察でも無いだろう」

 そう言うスパイダーにフェイトが口を開いた。

「それじゃあ、それを前提にするとしてどう行動しますか?」

「そうだな。基本的には屋外で戦うようにして三対一になるようにすればいいだろう。空戦になっても二体一で戦える。確証はないがもっともリーダーらしく思える俺を最優先で狙ってくるだろうから、地上戦の方が可能性が高いな。狭い場所や森林部で戦う場合は俺が主体になって叩けばいい。幸い、まだ切り札はばれていないしな。どちらにせよ、実力を完全に発揮される前に倒す。できれば、こちらから奇襲するのが望ましいな」

「確かにそうだけど、私たちの本来の仕事はジュエルシードの回収です」

 積極的な攻撃は本意ではないと暗に示すフェイトにスパイダーは頷いた。

「そうだな。できるならかちあわずにさっと回収して退くのが望ましい。が、難しいだろう。
 敵の本隊が来る前に各個撃破するというのは一つの案だと思うが」

 ジュエルシードは発動状態になると魔力による察知が容易になるという特性がある。
 普段はそれを利用してフェイト達は探しているのだが、それは相手にも察知されるということを意味する。
 つまり、ジュエルシードを探している限りは相手とかち合う確率は非常に高いということだ。

「管理局を本気にさせてしまえば、負けるのはわかりきっています。追及も厳しくなるでしょう。イニシアティブを取るのは重要だと思いますが、目的を取り違えれば敗北は必至です」

 戦うことは嫌いではないが、大怪我をするような戦いや敗北が決まりきっているなら話は別だ。
 現にアルフはあばら骨を折られている。
 これからも経験するだろうあの執務官との戦いではある程度の負傷を覚悟しなければならないだろう。

「雇い主がそう言うんだ。俺としても戦闘しないに越したことはない。指示に従おう。アルフもそれでいいな?」

「あたしはフェイトの使い魔だ。主人の命に是非はないよ」

「なら、決まりだ」

 スパイダーが告げる。

「もう、お前達は寝ておけ。特にアルフはもう限界だろう」

 見張りを引き受けるつもりなのか、スパイダーは部屋の内側の壁によりかかった。

「わかりました。三時間で起きますから、交代を……」

「いや、きっちり六時間寝ておけ。俺は代わりに昼寝を楽しませてもらうとする」

 癖なのだろう。くくく、とスパイダーは笑ってそう言った。
 フェイトも微笑んで頷いて固めのベッドに潜り込んだ。
 すぐに睡魔が訪れた。まどろみの中で見た夢は昼間の戦闘とはうって変わって一家団欒の夢だった。



[34641] クロノ・ハラオウン③
Name: 烏賊様刻◆e7251814 ID:b1305343
Date: 2012/08/28 21:13
 まだ上がったばかりの朝日の射す中をなのはは渾身の魔力で飛んだ。
 時刻は早朝。しかも日曜日ともなれば、起きている可能性のあるのは老人ぐらいだろう。
 一応、ユーノが結界を張っているが、それが無くても一般人に見つかる可能性は低いと言えた。
 必死になのはが結界内を飛ぶ。正確に言えば逃げる、だ。
 攻撃のことなど考えられたのは最初の三十秒ほどで、後はひたすらなのはは逃げていた。
 そのなのはの動きががくんと止まる。見れば水色の輪が四肢に絡みつき、動きを封じている。
 魔力を放出して無理矢理破壊しようとするが、その間に相手は接近し、なのはに短杖を突きつけた。
 パシュッという乾いた音がしてなのはのバリアジャケットが弾け私服が露わになる。バリアブレイクされたのだ。
 同時に返しの左ストレートがなのはの顎すれすれで止まる。

「はい、撃墜だ」

 頭にポンと手を置かれる。
 それが当然という風に相手――クロノは言った。

(はい、終了。クロノ君の勝ち。それじゃあ、なのはちゃんもクロノ君も帰ってきてね)

 むぅっとした顔のなのはと憮然とした顔のクロノにエイミィが念話を飛ばす。
 それを受けて、クロノはいつものすまし顔に戻った。

「それじゃあ、戻ろう。自分で飛べるか?」

 ぜいぜいと荒い息をつくなのはにクロノは尋ねた。
 それはなのはが小憎らしいと思うほど平静でクールだった。

「大丈夫。すぐ飛べるの」

「いや、ちょっと休憩しよう。あんまりリンカーコアを酷使しすぎるのも良くない」

 そう言って、クロノはエイミィにその旨を伝えるとなのはに背中を向けた。
 そして、背負われるよう、促す。

「え、でもそこまでしてもらうわけには」

「下は池だ。バリアジャケットがあれば多少の水くらいなら大丈夫だけど、やらなくていいことを無理にやる必要はない。
 それとも僕におんぶされるのは嫌か?」

「うん、負けたばっかりだし。クロノ君の手は借りたくない」

 強情な女の子だ、とクロノは内心溜め息をついた。

「そうか、わかった。なら休憩なしで戻ろう。ただし、無理そうなら飛行魔法を止めて徒歩にすること。いいな?」

「うん、わかった」

 なのはが首を縦に振るのを見て、クロノは心持ちゆっくりと進みだした。





「お帰り。それじゃあ、反省会始めちゃおうか?」

 アパートに戻ってきたクロノとなのはにエイミィが言った。
 傍らにはユーノもいる。変身魔法でフェレットになっている。
 その方が傷の治りが早いらしい。

「ああ、ちゃっちゃと始めよう」

 ジロリとなのはを見つめる。
 それを受けてなのはが体を縮こまらせた。

「とりあえず、なのは。君が現時点で戦力にならないことは分かってもらえたと思う」

 クロノは硬い口調で言った。

「君にあるのは魔力とセンスだけで、スタミナがない、テクニックがない、戦術も知らない。
 つまり役に立たないということだ」

「クロノ君、そんな言い方はないよ」

 あまりに直截な言い方をエイミィが咎めた。

「なのはちゃん、貴女が戦力にならないというのはあくまで現時点ではという意味なのよ」

 落ち込んでいるなのはに声をかける。

「現時点ですか?」

「そう。なのはちゃんはその膨大な魔力に慢心せずに鍛えれば強くなれる。
 強くなればジュエルシードの回収は楽になるし、競合相手との戦いも様になる。それをクロノ君は言いたかったの。ね、クロノ君」

 そう言い繕うエイミィにクロノは渋々と言った風情で頷く。

「正直に言うと私達も先行してきて戦力もバックアップも何もかも足りないの。だから、なのはちゃんには強くなって協力してほしい。
 あ、もちろん、ユーノ君もだよ。まあ、怪我が治ってからだけど」

 わかりました、とユーノが返事をする。

「とりあえず毎朝、クロノ君となのはちゃんで模擬戦しよう。それの結果を見ながらなのはちゃんは鍛錬していく。辛いと思うけど、それでいい?」

「やります。絶対にやってのけてみせます」

 なのはは力強く答えた。





 そんなことがあったのが三日前。それからなのはは怯えず、ひるまず鍛錬を続けていた。
 特にクロノとの模擬戦で怪我一つしなかったのも鍛錬を続けられた大きな理由の一つだろう。
 実力に差がありすぎた。どんなに距離を取ろうともバインドに掴まり、あるいは読まれて先回りされ、バリアブレイクから寸止めの突きや蹴りを放たれる。
 その後は模擬戦の反省会。けちょんけちょんに言われるがそれが正しいこともわかるので反論もできない。
 しかし、逃げられる時間が少しずつ増えてきていることはレイジングハートに言われてわかっていた。
 つまり、少しずつでも成長しているということだ。

「なのはちゃん、聞いてる?」

「あ、えっと、すみません」

 今は座学。レイジングハートが投影したディスプレイ上でエイミィが苦笑している。
 机上の知識も知っていると役に立つことがあるということで夕方から夜にかけてエイミィに講義してもらっていた。
 考え事をするのは失礼なことだったが、エイミィは笑って許してくれた。

「じゃあ、もう一回初めからいくね。時空管理局というのは文字通り、時空を管理する、つまり、次元世界の安全と平和を維持するために発足された組織なの。
 本部があるミッドチルダの治安を守る地上本部、通称"陸"と、次元間航行と他の次元世界の安全を確保する本局、通称"海"の二つに別れている。
 これとは別に高い技術を持つ戦技教導隊を特に"空"と呼んだりもするけど、先に言った二つのどちらかに所属しているわ」

「えっと、戦技教導隊の隊員がってことですか?」

「うん、そう。それでクロノ君と私は"海"の次元航行艦アースラに所属している新米執務官とその補佐なの。
 執務官については話したよね?」

 そう言われて、なのはは少し考えて頷く。
 エイミィの講義は理解度を示す質問が時折含まれる、大変わかりやすい物だった。
 最初は質問されるたびにおっかなびっくり答えていたなのはだったが今ではもう慣れたものだ。

「えっと、時空管理局の役職の一つで事件捜査や法の執行の権利、現場人員への指揮権を持つ管理職ですよね?」

「うん、そう。地球で言えば刑事と検事と裁判官を纏めたような役職かな。
 広い次元世界を管理するためには権力を個人に集中させる必要があるから創られた役職だね。
 クロノ君はその中でも遺失物管理、つまりロストロギアの回収、保管を専門にしてるの。
 ロストロギアはわかる?」

「えっと極度に発達した文明が滅んだ後に残る現在の科学技術をはるかに上回る物品、もしくは技術でしたっけ?」

 古代ベルカを例にするまでもなく、無限に広がる次元世界では限界を迎え滅びた文明は少なくない。
 そういった終わった文明は遺跡を生み、スクライア一族のようにそれを発掘することを生業とするものも生まれた。
 いわゆるトレジャーハンターと言われる存在である。なのはの隣にいるユーノもまた広義の意味ではトレジャーハンターと言われる存在だ。
 もっとも本人は考古学者だと主張しているが。

「うん、正解。ちゃんと覚えてるね。そういう物は危険物である場合が多いの。今、集めてるジュエルシードなんかもその典型例だね。
 本来の用途で使えば多分大丈夫なんだろうけど、正確な使い方が分からず暴走に近い状態で発動すれば危険である。よって回収するっていうのが管理局の言い分だね。
 勿論、他の場所で保管されていたり、遺物として祀られていたり、きちんと使い方がわかっていて活用されていたりする物もあるよ」

 ほえーと感心するなのはにエイミィが笑う。
 なのはは実に優秀な生徒で聞いたことを一回で大体覚えてしまう。
 勿論、エイミィの教師としての優秀さもあるだろうが、それを差し引いても教えがいのある生徒だと言って間違いがなかった。

「と、もうこんな時間か。それじゃあ、今日はここまでにしとこうか」

 時計を見たのだろう。エイミィがふいと視線を横に向けて告げる。それになのはは微笑んで頷いた。

「あ、なのはちゃん」

「はい?」

「なのはちゃんはすごく進歩してるよ。クロノ君はあんなだから言わないけど、確実に成長していってる。だから、頑張ってね」

「―――っ! はい!!」

 一瞬驚いたような顔をしたなのはが満面の笑顔で頷く。
 それを確認してエイミィは通信を切った。
 部屋にはなのはとユーノが残された。

「ユーノ君、レイジングハート、明日も頑張ろう」

「うん。僕も頑張って傷を治すよ」

『Yes,sir』

 力強く頷く相棒達になのはは感慨深げに頷いた。





 無限に連なる次元世界、その間隙。次元の海を次元航行艦アースラは第九十六管理外世界に向けて進んでいた。
 胴体から二本の棒を伸ばしたような特徴的な外見はしかし、次元の海を渡るための最も優れた形の一つであった。
 その艦橋で艦長であるリンディ・ハラオウン提督は部下の執務官クロノ・ハラオウンからの長距離次元通信を受け取っていた。

「リンディ・ハラオウン提督、お久しぶりです。クロノ・ハラオウン執務官であります」

「同じく、エイミィ・リミエッタ執務官補佐です」

「リンディ・ハラオウン提督よ。二人とも壮健なようで何よりだわ」

 そう儀礼的な挨拶から始める。


「それじゃあ、堅苦しいのはここまでにして本題に入りましょう」

「はい。予定していたジュエルシード回収ですが、一つ回収。しかし回収中、敵対者を数名発見しました」

「敵対者?」

「ミッドチルダ式を扱う次元犯罪者で推定空戦AAAランク相当の魔導師一人とその使い魔で、空戦AAランク相当が一人。後、『ステルス』持ちだと思われる非魔導師が一人います。
 拠点を割出し、強襲しましたが全員逃亡を許しました」

 管理局で言えば、中隊規模、百人単位の部隊で戦わねば厳しい戦力だ。
 リンディがふむ、と首を傾げる。

「かなりの戦力ね。対応策はある?」

「あります。ジュエルシード発見者のユーノ・スクライア君と現地の魔導師の才がある少女を仲間に引き込む予定です」

「現地の少女を? 大丈夫かしら」

「魔力ランクならAAA相当の大魔導師です。加えて高度なインテリジェントデバイスを所持、使用しています。
 先日の戦いでも、見事な砲撃魔法を使用していましたし、また、ジュエルシードを僕達と会う前に三つ、自力で回収していました。
 端的に言って、逸材だと思います」

 クロノの忌憚のない意見にリンディは眼をわずかに見開く。

「ほとんど初対面の人間をそれほど褒めるなんて珍しいわね。その娘の名前は?」

「高町なのは。あちらの読み方では姓が高町、名がなのはになります。詳しくは報告書を参照して下さい」

 クロノの言葉にリンディは一つ頷いた。





 アースラとの通信を終えたクロノとエイミィは午後のひと時、クリームティーを楽しんでいた。
 クリームティーとはイギリスでよく見られる午後の喫茶習慣であり、スコーンにクロテッドクリームやジャムをつけて食べる。
 生粋のミッドチルダ貴族であり、英国紳士ギル・グレアムの薫陶を受けたクロノのささやかな楽しみの一つだった。
 爽やかなハーブの香りを楽しみながら、熱い紅茶を口に含む。
 わずかな苦さと鮮やかな風味が舌に広がる。
 ミッドチルダでは訓練の息抜きにこうしてエイミィと紅茶を飲むのが日課だった。
 日本に来てからはゴタゴタ続きで忘れていたものの、こうして茶を楽しむのは良いことだとクロノは思う。

「海鳴で買ったお茶だったからちょっと心配だったけど美味しいね」

 そう言ってエイミィがお茶をズズッと小さな音を立てて啜る。

「エイミィ、はしたないぞ」

「えっへっへ。こちとら庶民の出ですから。熱いお茶をこうやって飲むのが美味しいのよ」

 ぺろっと舌を出してそう言いつつ、今度はマナーを守って上品に飲んで見せる。

「まったく」

 八畳の部屋の畳の上に直に座り、卓袱台を囲んでのティータイムだったが、存外に悪くないと思う。
 とりあえず当座の報告書をまとめ上げてリンディに送ったお祝いだったが、毎日続けてもいいかもしれない。
 卓袱台の上のスコーンに手を伸ばす。エイミィが自然な仕草で取りやすいようにクロノのそばに皿を寄せてくれる。
 一つ取ってジャムを乗せて齧る。砂糖の甘さが口の中に広がる。紅茶を飲んで、口の中の甘さをちょうど良くする。
 なのはの実家、翠屋という喫茶店で買ったスコーンだが、クロノの好みにマッチしている。
 窓の外を見る。先日の巨大樹騒ぎが嘘のように静まり返り、暖かな初夏の日差しが差し込んでいる。

「でも、クロノ君がなのはちゃんのことをあんなに評価してるのは驚いたなあ。模擬戦でボコボコにしてたのに」

「魔法を覚えて一週間の子供だぞ? 僕に対抗できるようならそっちの方が驚くさ」

 巨大植物事件以降、なのはとは毎日模擬戦を行っている。
 結果はクロノの圧勝。ひやりとする場面の一つもなく、なのは相手に完封していた。
 火力はあるため油断するとまずいが、普通にやっていればあっさり勝てる。
 なのはとクロノの差にはそれぐらい差があった。
 伊達に十年も修練していたわけではないのだ。

「でも、経験を積めば強い魔導師になるよ。魔力量に加えてあの空間把握能力に動体視力と反射神経。持って生まれたものの量が違うと言わざるをえないね」

「そんなに?」

「ああ。僕は未来のエースオブエースと戦ったのかもしれない。もっとも、鍛錬を続けられれば、という話だけどね」

 なのはは確かに天才だが、才能があるだけで勝てるのならば世話はない。過酷な鍛錬と実戦に耐えうる肉体と精神を持つ者だけが戦士の栄誉を得る。
 それははるか昔、古代ベルカから連綿と続く真実だ。
 レイジングハートに設定されたプログラムによるものか、防御魔法はかなり堅固だったのでなのはには砲撃を当てるための牽制、すなわち誘導弾とバインドの練習を重点的にするように言ってある。
 これはレイジングハートも同意見だったようで、かなりハードな練習プログラムを組んでいた。

「それ、言ってあげれば喜ぶのに」

「褒めるのはエイミィに任せるよ。飴と鞭が必要だろ。僕は鞭だ」

 そんなことを言って本当は恥ずかしいだけのくせに、とはエイミィは言わなかった。
 それを言うとクロノはむきになって否定するだろうから。
 そのあたりの加減は完璧に身に着けている。

「今日は友達の家に遊びに行ってるんだっけ?」

「ツキムラだったかな。名前は自信がないけど、位置は把握してるから問題ない。何かあれば念話を送るように言ってある」

 そのあたりはなのはと一緒に行動しているユーノに任せてある。彼も九歳とは思えないほど有能だ。
 考古学者として罠が満載の遺跡に潜った経験からか、用心深く、慎重だ。
 何かあっても必ずしのいで助けを求めてくるだろう。
 クロノはそう言って、また紅茶に口をつけた。





「なのは? なのは! 聞いてる?」

 アリサ・バニングスの声で現実に引き戻されたなのはは思考を中断して振り向いた。

「え、何? アリサちゃん」

「やっぱり聞いてなかったでしょう。外でお茶にしようってすずかと話していたのよ。ねえ、すずか?」

「うん。なのはちゃん、最近ぼぉーとしてること多いよね」

そう言って、もう一人の友人、月村すずかが頷く。

「あ、ごめんね」

 そう謝りつつもなのはの意識は他に向きがちだった。
 全てはクロノとの模擬戦が問題だった。
 なのはは魔法に目覚めてから敵なしだった。
 ジュエルシードの暴走体もシールドを破られることもなく、倒してきた。
 加えてレイジングハートの厳しい訓練。それをこなして成長していることを実感できる自分。
 それは九歳の幼い少女に自信を与えるには十分な出来事だった。
 その自信をクロノ・ハラオウンは粉々に打ち砕いた。
 砲撃魔法が当たらない。
 どれほど速く飛翔しても、やすやすとバインドで捕獲される。
 防御魔法はことごとくバリアブレイクされてしまう。
 意表をついて接近戦を仕掛けても触ることすらできない。
 何をやっても上をいかれ手も足もでない。いや、汗をかかせることもできない。
 こちらは息も絶え絶えなのに、だ。
 なのは生来の頑固で負けず嫌いな気性が闘争心を燃やすには十分なことだった。
 朝の模擬戦に加えて、学校の授業の時間にプラクティスモードを利用しての特訓。
 家に帰ってからの筋力トレーニング。
 加えて、エイミィとの座学。
 本当ならここにジュエルシードを探すためのワイドエリアサーチが加わるはずなのだが、エイミィのサーチャーの方が効率がいいと言われ休みにしている。
 ここ最近の頑張り具合からして、それをしていたらなのははおそらく疲労困憊で倒れていただろう。
 それでもなのははエリアサーチをしていたらリンカーコアが鍛えられていたのに、と思わずにはいられない。
 それほどなのはは燃えていた。
 寝ても覚めてもクロノとの戦いのことを考えている。
 他のことには気がそぞろになってもおかしくはない。
 しかし、アリサやすずかにはそんなことはわからない。
 ただ、友達が何かに物思いにふけっているのがわかるだけだ。
 それに対して踏み込んでいいかどうかがわからない。その躊躇がアリサ・バニングスを苛立たせる。

(私達は親友のはずでしょ。なんで相談してくれないの?)

 言ってしまえば、そういうことだ。
 言葉にしてしまえば一瞬のことを伝えることが憚られる。
 アリサにとってこんなに腹立たしいことはない。
 しかし、一番災難なのは機嫌の悪いアリサと上の空のなのはに囲まれたすずかだろう。

「あの、アリサちゃん、なのはちゃん。ユーノ君が外で待っているよ。早くいこ」

 有能で空気が読めるユーノはちょろちょろと外へ抜けていた。

(なのは、気持ちはわかるけど、友達は大事にしないと)

 ユーノが念話で呼びかけると、なのははそうだね、と返事をした。ひとまず、闘争心は心の底に押し込めることにしたらしい。
 白い丸テーブルの上のユーノを中心として、同じく白い椅子に各々座って姦しく世間話をする。

「ああ、最近の男って軟弱か単純バカのどっちかなのよね」

「まぁ、仕方ないんじゃないかな。まだ皆小学生なんだし」

 アリサの愚痴にすずはが応える。

「なのははどう? 好きな男の子とかいないの?」

 どうやら、この質問をするための前振りだったらしいとすずかとユーノは気づいた。
 アリサ・バニングスはなのはの悩みを解決したいと心から思っていた。

「ふぇっ!? 私?」

「そうよ。最近ずっとぼんやりしてるし、好きな人でもできたんじゃないの?」

 一瞬、クロノのことを考えた。自分に影も踏ませない少年のことを。

「にゃっ! そんな人いないよ」

 慌てて首を振る。優しい言葉をかけてもらったわけでも特別かっこいいわけでもない。
 第一、出会ってからまだ数日だ。そんな人を好きになるなんてありえない。

「まあ、そうよね。出会いもないし」

 アリサが相槌を打つ。元々、可能性は低いと考えていたようだ。
 
「そう言えば、二人とも好みのタイプってどんな男の子なの?」

 すずかがお嬢様らしく、上品に持っていたティーカップをテーブルにきちんと置いてからそう口を挟んだ。。

「そうね。……私より強い奴かな」

「うわ。なんか、アリサちゃんらしいね」

「うっさいわね。そういうなのははどうなのよ」

「えっ、私? えっと、頭がよくて、強くて真面目な……」

 そこまで言って、なのはは言葉に詰まった。これではまるっきりクロノのことではないか。

「結構要求高いわね。言葉に詰まったってことはもっとあるってことでしょう? その条件に当てはまるとすれば、恭也さんとか?」

 顔を赤くしたなのはにアリサが詰め寄る。

「ふぇっ!? お兄ちゃんは関係ないよ」

 なのはの兄、高町恭也は現役の大学生であり、小太刀二刀御神流の剣士でもある。
 すずかの姉である月村忍の恋人で、少なくともぱっと見は質実剛健を絵に描いたような青年である。

「まあ、兄妹で恋なんてマンガの話よね」

 ティーカップから紅茶をがぶりと飲んで、アリサが言った。
 そんな飲み方でも彼女がやると下品に見えないのはやはり生粋のお嬢様という生まれのなせる業か。

「そうそう。マンガと現実を一緒にしちゃダメなの」

「じゃあ、誰のことが好きなの? 私たちの知らない人? ほらほら、言っちゃいなさいよ」

 テーブルに身を乗り出して畳み掛けるアリサにまごまごしながらなのはは後退した。
 なんというかそんな人はいないはずなのだが、いないと言い切ると嘘になるようなそんな妙な気分。
 しかし、いると言っても嘘なわけで、果たしてどうしたらいいのか、となのはは混乱し、突如巻き起こった魔力の奔流に目を奪われた。

(なのは!)

 ユーノから切羽詰った念話が飛んでくる。
 明らかにジュエルシードの気配だ。

(わかってる。ユーノ君先に行って!!)

 その言葉にユーノはテーブルから身を乗り出し、颯爽と飛び降りると森に向かって駆け出した。

「あ、ユーノ君が、って何あれ!?」

 ユーノにつられて背後の森に目をやったすずかが驚愕の声をあげる。
 そこには背の高い木々を更に上回る巨躯の白猫が見えたからだ。
 非常識な大きさの子猫。間違いなくジュエルシードの仕業だろう。
 そう断じたなのはは、素早く椅子から立ち上がった。

「ユーノ君を連れ戻してくる! すぐ戻ってくるから待ってて」

 すずかとアリサが固まっているのを幸いに、森に向かって走りながら言葉を紡ぎだす。

「待って、なの……」

 二人が驚愕から立ち直った頃にはなのははユーノの後を追って、森に飛び込んでいた。





 それを感知したのはなのはとユーノが森に入ってすぐのことだった。
 結界。
 なのは達が進む先、巨大猫の付近から展開されたそれは周囲と結界内を隔絶させる高度な隔離結界だった。
 
「まずい、なのは」

「どうしたの、ユーノ君。」

「かなり高度な結界が張られた。多分、クロノ執務官が言っていた僕たちとは別口のジュエルシード回収者だ」

 ユーノが緊迫した声で言った。

「どうなるかは相手次第だけど、もし発見されたら戦闘になるかも。どうする?」

「ここでクロノ君を待つか、接近してみるかってことだね?」

「うん。どっちにもメリット、デメリットがあるけど」

 なのはが簡潔に行動指針をまとめ、ユーノが同意を示す。
 クロノを待つ場合は確実だ。状況を確認しつつ念話で連携を取る。隔離結界のせいでこちらからの連絡は困難だが、直に駆けつけてくるだろう。
 問題点としては相手の魔導師としてのレベルを考えるとクロノが駆けつける前に全てを終わらせて逃げてしまう可能性があること。

「接近して足止めしよう。こんな大きな結界を張ってくるということはクロノ君が来る前に逃げる自信があるってことだよ」

「リスクは理解してるよね。非殺傷設定とはいえ、戦いになれば痛いし、トラウマなどの後遺症の危険性もある。相手はクロノ執務官以上の魔力を持っているんだよ?」

 ユーノがそう警告する。今はなのははまだ魔力が高いだけのただの女の子だ。
 ジュエルシードの暴走体を圧倒的魔力差を利して封印する程度ならともかく、自分と同等以上の魔力を持つ戦闘魔導師との戦闘など狂気の沙汰だ。
 危険を冒すのはもっと十分鍛えてからでもいい。いや、そもそも危険を冒す必要もない。普通の女の子として人生を謳歌すれば良い。
 クロノに念話を送るだけで十分義務は果たしていると言える。

「うん。それでも、戦わなくちゃいけない。私はユーノ君のお手伝いをしてこの町を守るって決めたから!」

「そうか」

 短い付き合いだが、なのはの頑固さをユーノは知っている。
 この少女はきっと死んでも戦うだろう。
 なら、自分の仕事は彼女を死なせないことだ。

「なら、行こう。僕も最大限サポートする。なのはならきっと大丈夫だよ」

「うん。ユーノ君、頼りにしてるから」

 なのはがバリアジャケットを展開して浮かび上がる。
 ユーノがその肩に飛び乗ると、なのはは巨大猫をめがけて、一直線に飛んだ。

「巨大だとは思っていたけど、これほどだなんて……」

 なのはが呆然としたように呟く。
 巨大だと思っていた白猫は近くで見ると更に巨大だった。
 目測で体高が五メートル以上ある。
 単純な大きさでは以前の大樹の方が大きいが、ごろごろ転がっているだけとはいえ、動物として動いているのを見るのは圧巻だった。

「急に動いてつぶされたら厄介だから、地上には降りないで」

「うん、わかってる。周りの樹が邪魔でうまく動けないみたいだけど」

 むしろ、立ち上がらないところを見ると肥大化した肉体を持て余しているのかもしれない。
 巨大化したことにより発生した莫大な体重を膝や腰などの弱い部分が受け止めきれず、重荷になっている可能性がある。
 それがずっと続くようなら助けてあげたいし、動けるようになるなら止めなければならない。

(そのためには、あの娘を止めないと)

 先ほどから散発的に巨猫に降り注ぐ金色の光。
 そして、上空に見える黒と金の少女。
 その姿を見た瞬間、なのはが体を一瞬、大きく震わせた。

「なのは?」

「大丈夫。武者震いなの」

 精一杯の虚勢だった。金色の髪を風になびかせる少女を見たとき、なのはが感じたことは一言では言い表せない。
 たとえて言うなら三ツ星レストランの料理を食べたときに舌が感じる感触。
 甘味、酸味、苦味、辛味。
 種々諸々だろうが、一つ言えることはそれがとてつもなく美味いということ。
 なのはの鋭敏な本能が、フェイトの強さを直観的に感じ取っていた。
 あの金色の少女は見た目の可憐さなど問題にならないほど、怖い。

「あの……」

 そのときのなのはのミスはそんな怖さを誤魔化そうとフェイトに声をかけてしまったこと。
 大子猫に攻撃を加えながら、周囲を警戒し、なのはの隙をフェイトが探っていたことに気づけなかったことだ。
 瞬間、フェイトの姿が霞んだ。爆発的な加速で移動しただけなのだが、なのはにはフェイトの体がぶれたとしか感じられなかった。
 真正面からの強襲突撃。バルディッシュの魔力刃が圧倒的な速度という武器を得て、唸りを挙げた。
 なのはは反応することすらできなかった。脇腹に生じたすさまじい衝撃と激痛。それらはまだ幼いなのはの意識をさらっていくには十分だった。

「なのは!」

 バリアジャケットを破壊されて、空から落ちる少女をユーノは浮遊魔法で何とか地上との激突から救った。

「レイジングハート! なのはは!?」

『It's no problem. She only loses her senses』

 どうやらバリアジャケットを抜かれた衝撃と痛みで気絶しているだけらしい。
 ユーノはほっとと胸を撫で下ろすのと、フェイトが再び襲ってくるのはほぼ同時だった。
 慌てて張った矩形結界で辛うじて斬撃を逸らす。受け流したのにも関わらず、結界にガタがきた。
 まずい、とユーノは思考する。あのまま地上に墜落するのは危険だったが、それを防いだせいであの金髪の少女はなのはを仕留め損ねたと勘違いしている。
 このままでは更なる追撃を加えられる。たとえ、非殺傷設定だったとしても、意識を失ったなのはの体にどんな影響を及ぼすかわからない。
 先ほどは結界を受け止めるのではなく、逸らす形で使用したために何とかなったが、ユーノは魔力量で言えばAランク程度の年の割には優秀な程度の魔導師だ。
 推定AAAランク、巻き起こる雷のような膨大な魔力をその身から発散させるフェイトの攻撃を何度もしのげるほどではない。
 なら、やることは一つだ。降伏するしかない。

「待ってくれ。この娘は気を失っている。君の勝ちだ。今、降伏する」

 それを聞いて、フェイトは速度を緩めた。そして、奇襲されない程度に距離を取ると、用心深くなのはとユーノを見た。

「なら、その対価にジュエルシードを。貴方たちも集めているんでしょう?」

 思っていた以上に抜け目がない。ユーノはとぼけるか、大人しく従うかで少し悩んだ。
 しかし、フェイトの口ぶりは余念がなく、当て推量や憶測で言っているのではない意思が感じ取れた。
 これまでのジュエルシードの回収は人目を忍んでいたものの、クロノに会うまで競合相手がいるとは思ってもいなかったので特に魔力を隠したりはしていなかった。そのため、フェイト達に感づかれていた可能性がある。

「……わかりました。レイジングハート」

『Put out』

 レイジングハートが長杖の先端、宝玉部分からジュエルシードを一個だけ吐き出す。なのはの影響か、最近多弁になってきたインテリジェントデバイスは彼の意を十分酌んでくれた。
 現在、ユーノとなのはが持っているジュエルシードは三つ。それを全部持って行かれては後で起きたなのはもショックが大きいだろうが、一個だけなら取り返しやすいし、ショックも小さい。
 フェイトは素早くそれをバルディッシュに回収させると、すぐに大子猫の方に向いた。
 大体、確認したところではあの子猫は大きすぎて、体を満足に支えることもできないようだ。
 まっすぐ近づいてバリアブレイクし、ジュエルシードを回収すればいい。
 フェイトの中で安堵が広がり、そして、その隙をこそ狙っていた男がいた。
 




 初手はクロノから。
 油断したフェイトに高速移動魔法を連続使用して一瞬で背後にまで近づく。
 ギリギリで気づいて振り向こうとしたフェイトの横っ腹に組み付いた。
 そのまま、柔道でいう裏投げの体勢に持っていく。
 そのまま、眼下に広がる森の中へ一緒に落ちて行った。
 クロノの目的はダメージを与えることではない。この高さから落下させても高ランク魔導師のバリアジャケットを貫くことなどできない。
 だから、クロノの目的は一つ。森の中にフェイトを叩き込んで、最大の武器である速度を殺し、自分の得意な接近戦に持ち込むことだった。
 派手に何本か木の枝をへし折りながら、予定通りに森の中へ一緒に落ちたクロノは地面に背中から叩き付けられて体勢を崩しているフェイトの肩のあたりに短杖を押しあてた。
 バリアブレイク。
 クロノが得意とする瞬きする間もない一流の結界破壊。
 フェイトのぴっちりしたバリアジャケットがほどけ、普段着であろう黒いパーカーとミニスカートがあらわになる。
 そのまま腹部を踏み抜こうとするが、それはフェイトが転がって距離を取り、避けた。
 たたらを踏むクロノに対して、フェイトは素早く立ち上がった。

「バルディッシュ!」

『Saber mode』

 バルディッシュの長い柄が縮んだかと思うと、宝玉部を中心に横に広がって鍔となり、そこから金色の魔力刃が伸び上がった。
 ちょうど少し短めの両手剣となった形だ。
 美しい剣だった。黒と金色のまるでフェイトがそのまま剣の形になったような両手剣。
 一瞬、そのあまりの華麗さにクロノは見惚れた。

「なるほど」

 呟く。どうやら、マンションでの戦闘で危機感を持ったのはこちらだけではなかったらしい。
 剣を構える姿がわずかにぎこちない。おそらく、ここ数日で組み上げた急造の物だろう。
 ならば、打つ手はある。
 右手に持った短杖を素早く、左手、それも逆手に持ち替える。
 半身に構える。前に出した左手はだらりと下げ、右手は上げて、顎を守るようにつける。
 重心は前に置いた、突きを重視した構えだ。
 膝は軽く曲げ、重心を落とすことを意識する。
 それを見て、フェイトが両手剣を振りかぶる。魔力刃の良いところは質量がないために、それほど扱うのに力がいらないことだ。フェイトのような小柄な少女でも存分に振り回すことができる。
 狙いは脛。長物のリーチを活かして、足を殺しに来た。定石通りで隙が少ない。
 しかし、クロノはそれにタイミングを合わせて一歩前に出た。
 セオリーに忠実であるということは確かに強力であるが、それ故に読まれやすい。
 特に長柄の武器と違い、両手剣はフェイトにとって使い慣れない武器だ。林立する樹木で満足に長柄が振れないとはいえ、慣れない武器を用いることは悪手であったと言える。
 横薙ぎの一撃を両手剣の根元で太ももで受けた。バリアジャケットが魔力刃が干渉しあって、耳障りな悲鳴を上げる。
 が、遠心力を殺され、重さもない魔力刃ではバリアジャケットを切り裂くことはできない。
 結果、クロノは剣を振りきれぬまま体勢を崩したフェイトの懐に入ることに成功した。

「剣との戦いは慣れていてね。悪いけど、もらったよ!」

 そのまま打撃をフェイントに、フェイトを真正面から抱え込み、持ち上げ、上体を腰を支点に限界まで後ろにそらす。
 変形のフロントスープレックス。フェイトは既にバリアジャケットを再展開し終えているため、ダメージは皆無だが、また、クロノに有利な状態に持っていけることには間違いない。
 だが、しかし。

「なん、だと!」

 クロノが驚愕の声をあげる。
 フェイトはクロノに投げられると見るや、飛行魔法で自分から推力を出し、逆にクロノの力を使って上空に飛び上がったのだ。
 短杖を持っているため、フックが甘くなることを利用された鮮やかな対処だった。
 そのまま、樹の枝にぶつかるのも構わず、まっすぐ上空に出る。
 そして、そのまま下に見える大子猫に目もくれず、一直線に逃走した。
 遅れて上がってきたクロノが来たころにはフェイトは結界を抜け出していた。

「糞、敵ながら見事な撤退だ。まだジュエルシードがあるのに置いて逃げるなんて」

 エイミィに指示を出して、サーチャーを差し向けてもらおうと念話を飛ばすが、既に派遣されており、速度で振り切られた後だった。
 こちらの手管をかなり把握されていた、と見ていいだろう。
 厄介な敵と出会ってしまったものだとクロノは大子猫からジュエルシードを回収し、封印しながらため息をつくのだった。



[34641] クロノ・ハラオウン④
Name: 烏賊様刻◆e7251814 ID:b1305343
Date: 2012/09/03 18:33
「温泉に行こう!」

 発端はエイミィのこの一言だった。

「また、突然だな」

 テンションの高いエイミィにクロノがもう何度目かわからない感想を漏らす。

「いやあ、なのはちゃんと念話してたら、ちょうど連休だから友達や家の人と一緒に温泉に行くって聞いてね。温泉入りたいし、各個撃破されたらまずいし私達も同行するべきだと思うんだよね!」

「それ、明らかに自分が温泉入りたいだけだろ」

 あ、ばれたか、などとのたまう補佐官にクロノは何度目かわからないため息をついた。

「まあ、なのは達が行くなら仕方がない。僕も行くか」

 エイミィの言葉にも一理ある。なのは達の存在がフェイトにばれた今、恐ろしいのは個別行動中の各個撃破だ。
 管理外世界の原住民に手を出さないという不文律はあるものの、相手は次元犯罪者。どこまで守ってくれるかわからない。
 特になのははここにいるのが偶然だというのが信じられないほどの才能を持った少女なのだ。
 管理局の捜査官が現地人のふりをしている。そう思われても不思議ではない。
 月村邸での一件のような偶発的接触もあり得る。いざというときの護衛のために、エイミィはともかくクロノはある程度近くにいる必要があった。
 そう、エイミィはともかく。サーチャーと念話の併用で会話に不自由がない状況にできるならば、エイミィは別段赴く必要はないのだ。

「何それ。私だって近くにいないと効率的なサポートができないよ。念話だって遠ければ遠いほど確度が落ちるし。結界を展開されたらどうするの」

 クロノの言葉の裏を正確に読み取り、エイミィが文句を言う。

「本音は?」

「私も温泉入りたい~!!」

 畳の上でじたばたするエイミィを見ながら、クロノは頭痛を堪えるように頭を押さえた。
 エイミィの中ではもうついていってなのは達と温泉に入るのは決定事項らしい。

「はぁ。まだ資金には余裕があったな」

「そりゃあ勿論。こういうときのために節約してあるからね」

「道理でホテルじゃなくてアパートメントにしようなんて言うわけだよ」

「初任務で予算も潤沢とはとても言えないからねぇ。やりくり上手のエイミィさんに任せてくれたまえよ」

「はっ。言ってろ」

 嘯くエイミィにクロノが返す。
 それを聞いてエイミィは笑った。





 そんなことがあったのが数日前。
 クロノとエイミィはなのはから旅館の名前を聞きだし、タクシーを使って旅館まで来ていた。
 クロノはいつもと同じ、管理局の制服。エイミィはミッドから持ってきた淡い緑のキャミソールにジーンズとラフな格好だ。

「温泉、温泉~」

「はしゃぐなよ、恥ずかしいから」

 小さいが風情のある旅館で、エイミィは気に入ったらしく、はしゃいでいた。それをクロノが溜め息と共に掣肘する。

「クロノ君だってはしゃげばいいのに。久しぶりの骨休みでしょ」

 そう言われて、クロノは声を潜めた。誰に聞かれているかわからないからだ。

「骨休みって、なのは達の護衛だろ。気を抜くわけには……」

「そうだけど、気を張りっぱなしじゃ、その内倒れちゃうよ? この間の戦闘からまた鍛錬の量増やしたでしょ。休まないとオーバーワークになっちゃうよ」

「まだ大丈夫だよ」

「そうやって無理して前に倒れたことあったじゃない。実戦前に体壊したら本末転倒でしょ」

 エイミィがそう言うと、痛いところを突かれたのか、クロノは黙った。
 確かに体が軋んでいるのを感じていたからだ。それはハードワークに付き物と言えるものだったが、オーバーワークの兆候との区別は難しい。
 鍛錬のしすぎで体を壊したのはもう五年も前のことだ。あの時よりは体は強靭になったと自信を持って言える。
 しかし、一週間、体に力も入らず、階段の上り下りすら満足にできず、ひたすら病院のベッドで治療魔法をかけ続けてもらったのは忌々しい記憶として残っている。
 医者は十歳にもならない子供がこんな状態になるまでオーバーワークを続けた精神力を驚いていた。
 ミッドチルダの公式競技会の元チャンピオンが同じような症状を訴えたことがあったらしいが、こんな子供が症状を訴えたのは初めてだったそうだ。
 筋肉痛や過労による食欲の減退などの初期症状がでるはずだから、あまり無理はしないようにと医者に命じられている。
 それに、オーバーワークに気づかなかったと意気消沈していた双子の使い魔の申し訳なさそうな顔が忘れられない。

「いや、経験上まだしぼれるよ。食事が出来なくなるほどじゃないしね。鍛錬を続けるべきだ」

 だが、結局、クロノの結論は鍛錬の継続だった。ハードワークだががむしゃらにやっているわけではない。セルフコントロールはできているという自負がある。

「クロノ君がそう言うなら私も止めないけど、本当に程々にね」

「わかってるよ。ここはミッドチルダじゃないし、他に仲間もいない。僕が動けなくなったらお終いだ」

 エイミィの声に、クロノは頷いた。
 エイミィの心配はわかる。が、クロノは自分に立ち止まることなど許してはいない。
 父が、クライド・H・ハラオウンが殺されたその日からクロノは常に全開だ。
 貪欲に強さを求めている。ただ仇を討つために。
 それを止めるのは不可能だ。だから、エイミィもクロノの無茶に苦言を呈することはあっても止めはしない。
 クロノにとってその決意がどれだけ重いか知っているから。

「じゃあ、なのはちゃん達が来る前にチェックイン済ませちゃおうか。私がやるけどクロノ君はどうする? 適当に散策でもしておく?」

「そうしようかな。戦闘の可能性も低いけどあるし、ちょっと森の方に行ってくる」

 そう言って戦場になる可能性のある場所の下見に行くべく、クロノは鬱蒼と茂る森に向かって歩き出した。






 見事な日本庭園が窓から一望できる旅館のロビーで、エイミィは特に何事もなくチェックインを済ませた。
 そして、駐車場が見える位置にある長椅子に座り、一人の少女を待っていた。

「あ、なのはちゃん、こっちこっち」

 車から降りてきたツインテールの少女にエイミィは声をかけた。
 それにツインテールの少女、なのはは笑顔で応えた。

「エイミィさん、こんにちは」

「うん、こんにちは。ユーノ君も」

 知り合いかという友達の誰何の声に答えつつ、なのははエイミィの傍に寄ってきた。
 なのはの肩に乗っているフェレットにもエイミィはさりげなく会釈した。
 ユーノは嬉しそうに肩を震わせた。
 
「あれ、クロノ君は?」

「クロノ君は森を探検中。真面目君だからね」

 しょうがないね、と悪戯っぽい笑顔で言うエイミィはそれを聞いてわずかになのはが安堵したようにため息をついたのを見逃さなかった。
 初回の遭遇とその後の模擬戦の印象のせいであろうか。なのははわずかにクロノに苦手意識を抱いている。そうエイミィは判断した。
 良くない兆候だ。エイミィはそう思ったがおくびにも出さない。

「ねえ、なのはちゃん。この後、暇はある?」

「え? あ、はい。家族と友達で旅行に来ただけなので少しぐらい抜けても大丈夫ですけど」

「じゃあ、ちょっとお話しない? 大丈夫、そんなに時間はとらないから」

 エイミィは努めて優しくそう言った。
 高町なのはは現時点でフェイト陣営に対する鬼札となりうる存在であり、決して疎かにしていい人材ではない。
 そんな彼女がクロノを苦手とするのはいざというときに連携の齟齬として顕在化しかねない。
 それは文字通り、致命の隙になるだろう。早急に対処が必要だった。

「お話ですか?」

「そう。例えば、なんでクロノ君があんなに強いのか、とか」

 それを聞いた瞬間、なのはの顔が引き締まる。

「聞きたいです。ちょっと待っててください。お母さんに言ってきますから」

「うん、待ってる。急がなくていいよ」

 家族の方に駆け足で去っていくなのはをエイミィは笑顔で見送った。
 どうやら、クロノは立派にライバル視されているらしい。
 杞憂だったかな、とエイミィは独りごちた。





 エイミィとクロノの部屋はどんと奮発して松の間、つまり一番値段の高い部屋を取ってあった。
 これは別に見栄やブルジョワジーの発露などではなく、単純に窓からの脱出が比較的簡単で非常階段に一番近い部屋だったからだ。
 上等な畳の上に慣れた様子で正座したなのはにエイミィは同じように正座をしようとして、足が痺れそうなのでやっぱりやめて、足をそろえて座った。

「クロノ君のお父さん、クライド・ハラオウンはね、英雄だったの」

「英雄、ですか?」

 相槌を打つなのはに、もう十年も前に死んじゃったけどね、とエイミィは少しさびしそうに微笑んだ。

「うん。史上初、そしておそらく最後の魔導師ランクA+のエースオブエース。管理局最強の男。天才という言葉があれほどふさわしい人もいなかったって聞いてる」

 お茶を一口含む。インスタント特有の安っぽい味だが、喉を潤すにはちょうど良い。

「ユーノ君は聞いたことあるんじゃないかな?」

「あ、はい。広域犯罪組織ブラスト壊滅の立役者ですよね。噂じゃ人質にされた母娘を助けるために全管理世界に中継される中で百人の魔導師と戦って勝ったとか」

「百人!? 本当なの?」

「本当だよ。ちなみにその時助けてもらった赤ん坊が私。さすがに覚えてないけどね」

 エイミィが気のない声で答えるとなのはは驚愕の声をあげる。

「ふええええぇぇ!?」

「なのはちゃんももう少し鍛えたらできるようになるよ? それだけの魔力を持っているもの」

「そうなんですか!?」

 なのはが勢いこんで聞く。自分の力がどの程度であるかは鍛錬している人間なら誰も気になるだろう。

「うん。あの収束砲撃魔法、ディバインバスターだっけ? あれを使えば人の百人ぐらい簡単に吹き飛ばせるよ」

「ふえええええぇ!!」

 吃驚してばかりだが、今日何度目かの感嘆の声を出して。なのははただただ圧倒された。

「まあ、それは高い魔力資質を持っているなのはちゃんと規格外の戦闘能力を持つクライドさんだからで、クロノ君には多分、できないんだけど」

「え、でも、クロノ君、あんなに強いのに。私、やっと最近五分ぐらい逃げれるようになっただけですよ」

 なのははびっくりしたようで思わず正座を崩して身を乗り出していた。

「いや、それは……って、ああ、そう言えば魔力ってものがどういう物か説明してなかったか。ユーノ君、説明した?」

「いえ、才能があるということは話したんですが」

「ああ、そうだよねえ。じゃあ、ちょっといきなりだけど、エイミィ先生の課外授業始めて良い?」

「あ、はい。時間なら大丈夫ですけど」

 時計をちらっと見て頷くなのはに一つ頷き返し、エイミィはああ、コホンと咳をして喉の調子を整えた。

「次元世界の魔導師には二通りに分類できると言われているの。魔力ランクAAA未満の魔導師とAAA以上の魔導師。
 なのはちゃんが後者でクロノ君が前者。基本的に前者は後者に勝てない。魔法ではね」

「え、ですけど……」

 反論しようとしたなのはにエイミィが頷く。
 なのはが言いたいことは簡単に想像がついた。

「うん。なのはちゃんはクロノ君に一度も勝ててない。でもそれはね、テクニックで無理矢理差を埋めているだけにすぎないの。
 魔導師はね、何だかんだ言っても生まれ持ったリンカーコアの質で強さが決まってしまうの。命を懸けて、おしっこの代わりに血が出るほど鍛えても、才能の無い者は魔導師ランクAA+が限界なの。
 そして、ランクAAA以上の魔導師と比べると攻撃力、防御力、機動性、バリアジャケットの強度などの全てにおいてAAA未満の魔導師は劣っている」

「えっと、それはちょっとよくわかんないです」

「う~ん、そうだな。私がまったくの生身で身長三メートルの巨人と戦うことをイメージして? どう、勝てそう?」

「いえ、それは無理だと思いますけど。……ってもしかしてこの場合巨人が私のことなんですか!?」

「おっ、呑み込みが早いね。うん、ぶっちゃけそう。魔力強化のおかげで腕力や脚力を含めたあらゆる基礎能力でランクAAA以上の人間はその他の人間より圧倒的に優っている。
 つまり出発点が違うの。マルチタスクの総数なんかも低ランク魔導師より高ランク魔導師の方が多いっていう統計が出てるし」

「そんなに差があるんですか?」

「うん。多分、なのはちゃんなら二年、いや一年で今のクロノ君になら十中八九勝てるようになれるよ。
 砲撃系の空戦魔導師ということを差し引いても移動速度が違うから接近戦型のクロノ君じゃあ追いつけないし、防御力もクロノ君が渾身の魔力砲を絶妙のタイミングで当てても一発じゃ抜かれないから」

 出力が決定的に違うということが理由だ。バリアブレイクのような相手の防御をはぎ取る技法はよほど特異な例外を除いて接近戦でしか使えない。
 自分より速い、最低でも同速で後ろに逃げることができる魔導師に対してクロノのような魔導師は対応策が乏しい。
 一応、設置型のバインドなど動きを止める方法はいくつかあるのだが、空を自在に飛ぶ相手を範囲内に上手く追い込むには相当な熟練を要する。更に捕まえたとしても魔力任せに拘束が破壊されることもある。
 それに接近戦でならわずかに勝機があるといっても、攻撃力と守備力に劇的な差がある相手に接近戦を行うリスクは極めて大きい。

「そんな……」

「まあ、あの金髪の娘、フェイトちゃんみたいに中近距離型なら勝ち目はあるよ。まだフィジカル、この場合は魔力を用いない純粋な身体能力という意味だけど、で差があるし、無理矢理テクニックと戦術で抑え込むというやり方は取れないこともないから」

 だが、クロノは二戦して、二戦とも奇襲から入って、相手が戦いづらい戦場に押し込んで相手をしている。
 つまり、まともに戦えば敗北か、良くて苦戦が免れない相手だからだ。

「勿論、クロノ君にも伸びしろがあるから一年後、実際に勝てるかはやってみないとわからないけど。
 でも、なのはちゃん。貴女の才能はそれほど貴重で危険なの。それだけは覚えておいて」

「実感が湧きません。模擬戦ではずっとクロノ君にやられっぱなしだし、あの女の子とはそもそも戦闘にもならなかったから」

 なのはがうつむいて告げる。
 特に同い年ぐらいの女の子と勝負にならなかったことはやはり気にしているらしい。

「まあ、それもわかるよ。まだ魔法を覚えて一ケ月も経ってないもんね。でも覚えておいて。なのはちゃんの魔力はね、神様に選ばれた証だから」

「神様、ですか?」

「うん、神様。具体的に言うと次元世界全ての物質の運命を決める存在、かな。もちろん、概念上の存在だけど」

 一瞬、エイミィは能面のような無表情になり、怒りに目を細めた。
 だが、すぐに優しげで軽い笑みを浮かべる。

「というわけで授業終了。ちなみにクライドさんは百対一の他にも四人の高ランク魔導師を倒しているよ、ほんと、人間かどうか怪しいよね」

「すごい人だったんですね」

「うん。あ、そうそう、高貴なる炎なんて称号をベルカ正教会から下賜されてたっけ」

「高貴なる炎だって!?」

 ユーノが驚愕して口をはさむ。

「知ってるの? ユーノ君」

「古代ベルカ最高の騎士の一人と謳われた騎士に当時の聖王が与えた称号だよ。初代『高貴なる炎』以来授与されたなんて聞いたことないよっ!」

 古代ベルカとはかつてミッドチルダと戦争したベルカという国。聖王とはその国主のことだ。ミッドチルダ式とは違う独特の魔法形態を取っており、ベルカ式と呼ばれる。  

「へぇー。クロノ君のお父さんって本当にすごい人なんだ」

 古代ベルカも聖王もなんだかわからなかったが素直に感心したなのはに、エイミィは微笑んだ。

「そうなの。魔導師ランクA+の男が成し遂げた奇跡にミッドチルダは狂喜した。そしてクロノ君はそのクライド・H・ハラオウンの息子なの」

 エイミィはとても悲しそうに言った。

「すごく期待されたよ。でも、皆クロノ君を見て、失望して去って行った。クロノ君にはクライドさんのような身体能力もリンディさん、母親のような膨大な魔力も無かったから」

 トンビが鷹を生むという言葉はあっても逆はない。何故ならそれは忌むべきことだからだ。両親の才覚を継がない、こんなに悲しいことはない。

「でも、クロノ君は諦めなかった。本当に何回も死にかけるほど体を鍛えて、リンカーコアを鍛えて、十四歳で難関の試験を突破して執務官になったの」

 それは執念だったのだろう。クロノは父の後を継ぐと決めて、本当に限界まで自らを鍛え上げたのだ。

「だからかなぁ。クロノ君は真面目で自分にすごく厳しいし、他人にもそれを強要しちゃうところがあるの。なのはちゃんとユーノ君も気づいてるかもしれないけど」

 エイミィが困ったように微笑んだ。やんちゃな弟を持てあます姉のようだった。
 ああ、となのはは相槌を打った。クロノとの会話を思い出しているのかもしれない。
 そんななのはを見ながら、エイミィは内心でほくそ笑んだ。今、話している二人とクロノのファーストコンタクトはどちらかといえば失敗の類であったが、これからのこと、フェイトと呼ばれた少女やステルスの男を考えるとクロノの生い立ちを話しておくのは何かと都合がいい。クロノ君トークはそのためでもある。
 まぁ、自分が話したいからというのが一番の理由なのだが。

「でも、そこがクロノ君のいいところなの。努力家で、何に対しても真摯な態度のクロノ君だから」

「エイミィさんはクロノ君のことが本当に好きなんですね」

 なのはがそう言うと、エイミィは一瞬、きょとんとした表情を浮かべ、その後、はにかむように微笑んだ。
 それはまるで野原に咲き誇る花のような笑顔だった。普段はなんだかんだで大人びているエイミィの年相応の笑み。
 恋する乙女の笑みだった。

「うん。でもね、クロノ君には内緒だよ。重荷になっちゃうといけないから」

「えっ、でも、それじゃあ……」

「いいの、いいの。そのうち、クロノ君から告白させるから」

良い女の条件は相手に惚れさせることなのよ、と嘯くエイミィになのはがはぁ、と相槌を打つ。

「良い女かぁ。私には無理そうだな」

 そう呟くなのはを見てユーノは小さくため息をついた。 
 そんな二人を見てエイミィは楽しそうに笑った。





「はあっ、いいお湯だった。クロノ君も入ってきたら?」

 浴衣姿のエイミィが部屋に戻ってきた。
 湯上りで頬を紅潮させ、旅館で寝間着代わりに渡された着物を緩く着た姿は普段の快活とした印象と違い、どこか色っぽさを感じさせた。

「ああ、そうしようかな。エイミィ、代わりに周囲の警戒を頼む」

 それを聞いてエイミィが胡乱げな目をする。そのままジトッとクロノを睨む。

「……警戒してたの? 今までずっと?」

「ああ。サーチャーを使っての最低限度のものだけどね。あの森は植生のせいか、見通しは良い方だし上空からならともかく平面で見れば……」

「そういうこと言ってんじゃないの! 骨休めだって言ったでしょ? これだから戦闘民族ハラオウン人は」

「なんだよ、それ! うちの家に変な名前を付けないでくれ!」

「じゃあ、バリアジャケットを解除しなよ。休みになってないじゃない」

 クロノはいつも通りの管理局の制服。何故ならこれがクロノのバリアジャケットだから。
 クロノは風呂に入る時を除いて、常にバリアジャケットを展開するよう心がけている。
 制服はフォーマルなレストランはおろか、冠婚葬祭すべてに参加できる万能衣装である。
 バリアジャケットなので、着心地は抜群。夏も冬も問題なく過ごせるうえ、しわがついても解除して再展開すれば、きっちりアイロンをかけた状態になる。
 欠点はバリアジャケットを展開し続けている間は魔力を消費し続けることだが、それはリンカーコアを鍛えることに繋がるので、むしろ喜ばしいことだ。
 少なくともクロノはそう考えている。
 常在戦場の備えはハラオウン家のというより、クライド・H・ハラオウンの心意気だが、しっかりとクロノは受け継いでいた。
 エイミィからすれば、いざという時に消耗してしまっていては意味がないと思うのだが、クロノの強くなりたいという気持ちを尊重して普段は何も言わないでいる。
 が、旅館に泊まりに来てまでそれを維持するのには文句の一つも言いたくなる。

「それじゃあ、不意打ちに対応できないし、何より鍛錬にならないだろう」

 それを聞いてエイミィは呆れたようにため息をついた。

「この、修行バカ」

「馬鹿じゃない」

 思いのほか静かに告げるクロノにエイミィはやはり呆れたように続ける。

「そうね、大馬鹿よ」

 それを聞いていかにも不服そうな顔になったクロノを見て、エイミィは我が意を得たりと言いたげに微笑んだ。
 ずりずりとクロノに寄ってくるエイミィにクロノは視線を下に向けた後、すぐにそらした。

「ん、どうしたの、クロノ君」

「……服がはだけてる。胸を隠せ」

 顔を真っ赤にして言うクロノにエイミィは慌てて胸をパッと両腕で隠した。

「えっち」

「えっちじゃない。そっちが不用意だったんだ。普段着なれない服なんて着るから」

 顔を真っ赤にした両者の間に沈黙が満ちる。
 先に切り出したのはエイミィだった。

「クロノ君、見たい?」

 風呂上がりで紅潮した肌をさらに赤く染めて。

「な、何を」

「胸。だってクロノ君むっつりスケベだし」

「誰がむっつりスケベだ」

 そう言いつつもクロノも顔が真っ赤になったままだ。
 何というか、上目遣いでこちらを覗き込んでくるエイミィが反則的に魅力的だった。
 紅潮した頬とわずかに潤んだ瞳が色っぽい。
 ワンピースのように丈の短い着物の裾からチラチラと覗くふとももに目が行きそうになるのを必死でこらえる。
 会話が止まってまた沈黙が部屋を満たす。

「あ、あのっ!」

 同時に声を出し、互いにつんのめるようにして黙る。

「クロノ君からどうぞ」

「じゃあ、なのはやユーノの様子はどうだった」

「えっと、昼間に話したけど元気だったよ。体調も問題なさそうだった。さっき私と一緒に入って私が先に上がったから、今はお風呂か脱衣所じゃないかな」

 顎に指を当てて話すエイミィ。
 それに相変わらず顔をそむけたままクロノは早口で言った。

「そうなのか。じゃあ、そろそろ僕もお風呂入ってこようかな」

 そっぽを向いたまま、すくっと立ち上がったクロノはエイミィの言葉も聞かずに部屋を飛び出した。

「あっ……」

 それを名残惜しそうに見やりながら、エイミィは真っ赤になった頬を撫でた。



[34641] クロノ・ハラオウン⑤
Name: 烏賊様刻◆e7251814 ID:b1305343
Date: 2012/09/09 12:59
 部屋から飛び出したクロノは焦り、普段のマナーに対する厳しさも忘れて小走りに旅館の廊下を駆けた。
 大浴場の脱衣所に駆け込み、バリアジャケットを解くが早いか、服を脱ぎ去り、ロッカーに放り込むとタオルも持たずに風呂場に入った。
 顔が熱い。鏡を見なくても頬が紅潮しているであろうことはわかった。
 ざっぱざっぱと適当にかけ湯をして、湯船に入る。
 熱めの湯がクロノの気分を落ち着かせ、正常な思考を少し取り戻させてくれた。
 エイミィを年頃の女の子として意識するのは実はこれが初めてではない。
 クロノとて年頃の男の子だ。同棲しているも同然な今の生活について考えることがないわけではない。
 それでも、彼女は相棒だと自分に言い聞かせてきた。
 だが、今日のエイミィは反則的な程可愛かった。

「惰弱だ」

 紅潮した顔を更に真っ赤にして、ガンと湯船の縁に頭を叩きつける。
 強さとは我慢から生まれる。
 食べたいものを食べず、着たいものを着ず、抱きたい女を抱かない。
 鍛錬の苦痛に耐え、闘争の苛烈さに耐え、そこまでして手に入れた物の喪失の恐怖に耐える。
 それが強さを生む。少なくともクロノはそう考えている。
 ならば、今エイミィに懸想しているのはクロノの弱さの表れに他ならない。
 一度では心が治まらず、もう一度頭を打ちつける。

「そうしていると、君の気は済むのかい?」

 そう後ろから声をかけてきたのは三十代前半とみられる男性だった。

「いえ、そんなことは。見苦しいところを見せて申し訳ありません」

 そう謝りつつ、クロノは首にかけた待機状態のデバイスを手に握りこんだ。

「いや、こちらこそ咎めたみたいで悪いね」

 困ったような笑顔でそう言う男の風貌にクロノは見覚えがあった。
 短髪に鍛えられた五体。若いクロノには決して出せない味を感じさせる包容力を秘めた瞳。
 喫茶翠屋の店長にして高町なのはの父親、高町士郎がそこにいた。
 思わずマジマジと見てしまうクロノに、士郎はああ、と苦笑して自分の体、より正確には体に刻まれた無数の傷痕を見る。

「若い時に色々あってね。まあ未熟だということかな」

 そう告げる士郎に対してクロノは首を振って否定した。

「いえ、古傷は戦士の誉れです」

 腹部に残るわずかに盛り上がった銃痕。両腕の前腕部の外側に刻まれた刀傷。胸部に残る三つの刺傷痕。
 どれも下手をすれば命に関わる物で、目の前の男が潜り抜けてきた激戦の跡だ。
 クロノのようにバリアジャケットで守られているわけではない。生身の肉体と己の得物だけを頼りに死線を潜り抜けた証。
 傷の痛みに耐え抜き、戦い抜いたことを表すそれは強者の証明だ。
 戦えば魔法が使えるクロノが勝つ。しかし、それは高町士郎が弱いということにはならない。
 歴戦の戦士にクロノは短い言葉で言い切ることで敬意を表したのだ。

「ありがとう。僕は引退した身だけど、君は現役なのかな」

「はい。非才の身ですが、なんとか」

「はは。なんとか、か。いや、己を知り、慢心を殺すのは兵法の基本だからね。良く鍛えていて好ましいよ」

 そう言って、士郎は手を差し出した。
 自然な動作で差し出された右手をクロノは特に考える間もなく握り返した。
 手を握って、ふっと士郎は思案するように視線を上にそらし、言った。

「なるほど、杖、いや、短杖かな」

「――っ!?」

 驚愕して手を振りほどいたクロノに悪戯っぽく士郎が微笑む。

「手のタコを触れば相手の得物ぐらいはわかる。これからは気をつけるといい」

 その笑みを見て、クロノはしぶしぶだが負けを認めた。
 ここで反論すると藪蛇になる。師匠にあたる双子の使い魔がふと頭をよぎった。
 質実剛健に見えて、この人、実はかなりの茶目っ気を持った人なのではないだろうか。 

「ありがとうございます。勉強になりました」

「おおっ、素直だねぇ。うちの桃子に似ている。強くなるよ、君は」

 二人で笑いあう。湯気が漂う風呂場が和気あいあいとした雰囲気に包まれ、

「何だ、ホモか。悪いとは言わんが部屋でやってくれ。ここは公共の場だ」

 スパンと手ぬぐいを鳴らした金髪の男に一気に台無しにされた。

「スパイダー!?」

 叫んだのはどちらが先か。
 男に気づくが早いか、二人が同時に後方に跳び退り、臨戦態勢をとる。
 そして同時にお互いを見やる。

「奴を知ってるんですか?」

「そういう君こそ、知り合いかい?」

 士郎とクロノが顔を見合わせる。そんな状態でもまだ、スパイダーへの警戒は疎かにしないのはさすがというべきか。

「よせよせ。素っ裸で気を張っても見苦しいだけだ。ここは温泉だぞ。暴れるなどもってのほかだ」

「誰のせいだ!!」

 クロノが怒鳴る。しかし、士郎は別のことを考えたらしい。

「確かに一理あるな。ではクロノ君、また、店に来てくれると妻も喜ぶよ」

 クロノが客であったことには気づいていたらしい。一度しか来店しておらず、自己紹介などしていないからエイミィとの会話を聞いて覚えたのだろう。
 それだけクロノとエイミィが目立っていたのか。それとも偶々覚えていただけか。
 高町士郎という男の特異性を考えると来た客すべてを記憶していたと言われても納得できてしまうのが恐ろしいが。
 ともかく、そう言って高町士郎は無造作にスパイダーの横を通り、出て行った。
 横切るその瞬間に余人が入る余地のない牽制の応酬が行われたことは確かだったが。

「相変わらず食えん男だな、シロウ・タカマチは」

 士郎を見送ったスパイダーが肩を竦める。

「何だって?」

「わからんのか、クロノ・ハラオウン」

 スパイダーがクロノに向き直る。そして、そのままかけ湯もせずにザブンと湯船に入った。
 水面に波紋が走る。

「シロウ・タカマチはお前の気勢からここが鉄火場になる可能性を予測し、自分と家族が巻き込まれる前に撤退したのだ。
 おそらく、お前のリンカーコアが戦闘に向けて魔力素を吸い込むのを無意識の内に理解してな」

「そんな、馬鹿な。魔導師でなければ魔力の昂りは感知できないはず」

「そんな迷信をまだ信じているのか。戦士の勘は時として科学や魔法を凌駕する。そんなこともクライド・H・ハラオウンは教えてくれなかったのか?」

 嘲るようなスパイダーの口ぶりにクロノは軽く歯を食いしばることで耐えた。
 常に冷静でいるように心がけているが、さすがに尊敬する父親のことを馬鹿にされると心がざわめくのは止められない。
 落ち着けと、念じるように心の中で呟く。
 スパイダーはクロノより弱い。だから、挑発してくる。こちらを逆上させて戦力を下げようとしてくる。
 その思惑に乗るのは上手くない。風呂には他の客もいるのだ。
 ここを戦場にするわけにはいかない。

「……あんたは何故ここにいる」

 だから、クロノの方から尋ねることにした。
 会話のイニシアティブを握られるのを嫌ったのだ。こちらから戦うことはできない以上、せめて情報を引き出す。

「さぁ? あえて言うなら俺自身の目的のためだ」

 あからさまにスパイダーは答えをぼやかした。目的について聞いても無駄だろう。

「ジュエルシードを集めるのもその目的のためなのか」

「そうだ。そのためなら子供の一人や二人利用してみせるさ」

 あの金色の少女、フェイトのことを言っていると反射的に察した。

「――っ! あんたはっ!」

「まさか外道、卑怯とは言わんよな、時空管理局の執務官さん? 就労年齢の低さに関しちゃ君らも負けちゃあいまい」

「僕らは納得して任務に臨んでいる!」

 確かに管理局の就労年齢は低い。特に高ランク魔導師になるとその傾向が顕著になる。
 それが問題として取り上げられることもある。
 だが、局員は、少なくともクロノは危険も苦難もすべて覚悟して執務官になった。
 多くの管理局員達も納得して任務に臨んでいると信じている。

「ふん、どうだかな。……まぁいい。文句があるなら止めて見せるんだな」

 言い終わると、バシャリと水音を立てて、スパイダーが立ち上がった。
 そのまま、ざぶざぶと湯をかき分けて、湯船から上がると一直線に出口に向かう。
 あらわになったスパイダーの肉体を見て、クロノは息を呑んだ。
 全身を覆う鎧のような筋肉。特に見事にビルドアップした広背筋は圧巻で、見る物を威圧する。
 そして、体中に刻まれた傷痕。背中の傷は恥だというが、この男にはあてはまらない。
 むしろ、背中を斬られるような状況に陥って尚、生きぬいてきた証。
 高町士郎とはまた違うベクトルの、歴戦の戦士の証明だ。

「誰も俺を止めることなどできない。俺と戦って勝たない限りは、な」

 そう言い捨てて、スパイダーは脱衣所に出て行った。
 それを見届けて、クロノはやっと一心地ついたように湯船に崩れ落ちた。
 じっとりとかいた汗は風呂に入っているからだけではない。
 スパイダーの放つ気配。野獣のような殺気によるものだ。

「結局、何もわからずか。士郎さんに聞いてみるのもいいかもしれないな」

 厄介事を嫌って素早く上がってしまった男を思い浮かべる。
 彼は明らかにスパイダーを知っている風だったので、聞けば案外奴の戦法などを教えてくれるかもしれない。
 どちらにせよ、警戒しなければいけないことは確かだった。
 スパイダーがここに来たのが偶然でないとしたら、その理由として考えられるのは三つ。
 この近辺にジュエルシードがあるか、先手を取ってクロノ達を打倒しに来たのか。それとも今回の件とは関係ない別件のためか。
 別件ならば、特に考える必要もないため、これを最初に除外する。
 クロノ達の打倒が目的なら今、ここで出会ったこと自体がおかしい。また、急に決まった温泉旅行を察することができたとも思えない。
 ならば、答えは一つ。この近くにジュエルシードが落ちているのだ。
 そこまで考えて、クロノは立ち上がった。

(エイミィ、聞こえているか)

 念話でエイミィに呼びかける。

(はいはい。聞いてるよ、クロノ君。何かあった?)

(例の蓬髪の男、スパイダーに会った)

 エイミィならこれだけでわかるはずだ。伊達に十年弱もコンビを組んでいない。
 驚愕のためか、しばしの沈黙。しかし、気を取り直したのか返事は早かった。

(わかった。すぐにエリアサーチを開始するよ。ジュエルシードが近くにあるんだね)

(ああ、頼む。僕もすぐ合流する)

 いや、とクロノは考え直した。こちらの存在がばれている以上、エイミィの護衛もかねての合流はできるだけ早く行うべきだが、味方はエイミィだけではない。

(すまん。先になのは達に合流する。存在が割れてないエイミィよりなのは達の方が危険度が大きい)

(わかった。こっちは気にしないで。さっき念話した感じだと大丈夫だと思うけど)

 そうか、念話があったとクロノは内心呻いた。自分では平静なつもりだったが、スパイダーとの邂逅で予想以上に浮き足立っているらしい。
 すぐに念話をユーノに繋ぐ。

(ユーノ、エイミィから聞いているかもしれないけど――)

(あ、クロノ。こっちは今、遊戯室にいるんだけどちょっと厄介なことになった)

 クロノの念話を遮ってユーノは返事をした。
 冷静で穏やかな彼らしくなく、思念に焦りがにじみ出ている。

(遊戯室だな、すぐ向かう。それで何があった)

(例のフェイトとかいう娘だ。横に使い魔もいて、風呂上がりのなのはとにらみ合っている。最悪一戦起こるかも。しかもまわりになのはの友達がいるんだ)

 前回間に合わなかった醜態を繰り返すわけにはいかない。
 クロノは体も拭かずに脱衣場に上がると、人目がないのを確認してバリアジャケットを起動させた。
 濡れた肌と制服型結界がこすれる不快感に辟易しながら、脱衣場を飛び出す。
 旅館に到着した時に館内見取り図を見て、道順は把握している。
 遊戯室に向かう廊下で、クロノはなのは達とにらみ合っている金色の少女と赤毛の使い魔を見つけた。
 一触即発という雰囲気ではなかったことに安堵する。

「あれ、なのはじゃないか。こんな所で会うなんて奇遇だな」

 そう言ってできるだけ自然な動作で両者の間に割って入った。

「あ、クロノ君」

 なのはが声をあげる。

(なのは、念話は聞こえるな)

(う、うん)

(ここで戦端を開くわけにはいかない。とりあえず、僕に話を合わせてくれ)

 クロノはなのはにそう伝えると、ゆっくりとフェイト達の方を振り向いた。

「それで、フェイトとアルフだったな。こんなところで会うなんて偶然だな」

「あんた――」

「どうもなのはとその友達が困っているみたいだから、悪いけど退散してくれないかな」

 憤るアルフの言葉を制して、クロノは傲慢な程背筋を伸ばしてフェイト達に言った。

「それとも、ここで白黒つけるかい?」

「いえ、私達に積極的に争うつもりはありません」

 それに対してフェイトは金色のツインテールを揺らして否定した。
 
「ふん。あんた、命拾いしたね。フェイト、行こう」

 悪態をついたアルフがフェイトを促し、後ろに続く。
 万が一の奇襲に備えて、フェイトの背中を守っているのだろう。
 見上げた忠義だとクロノは感心した。
 前回は奇襲で勝ちを拾ったものの、次はそう上手くはいかないと思った方がいいだろう。
 フェイトも言うまでもなく、前回の戦いで見事に撤退して見せた才能ある戦士だ。
 煮え湯を飲まされた側であるクロノとしても隙があるなら奇襲しておきたい相手だったが、それもアルフがいる限り難しい。
 それはともかく、当座の危険は脱した。ならば、今はそれを喜ぶべきだろう。

(危機は脱したってことで良いかな、二人とも)

(あ、うん。クロノ君、ありがとう)

(同じく。クロノが来てくれて助かった)

 ユーノとなのはが安堵の念を送ってくる。それを聞いて、クロノは一息ついた。
 後はこちらの様子をうかがっているなのはの友達二人を誤魔化すだけだ。
 それはそれで大変だな、とクロノは溜め息をつくのだった。





(なのは、ユーノ、準備は良いかい?)

(ああ、いける)

(こっちも大丈夫なの。みんな寝ちゃったからいつでも抜け出せるよ)

(よし、じゃあ事前の打ち合わせ通りに行動開始!)

 エイミィが締めて、クロノ、ユーノ、なのはの三人は旅館の窓から森の方向に飛び出した。
 同時に映像記録型サーチャーが数機、四方八方に散っていく。
 時刻は夜の二時。奇しくも草木も眠る丑三つ時であった。
 底が見えない夜の森の上をクロノが飛翔する。
 まだ飛行魔法に慣れていないなのはがついてこれるように速度は落としているがそれでも時速六十キロメートルは出ているだろう。
 夜間飛行は視界が悪いため、慣れていないと恐怖で速度が出せないことが多いのだが、なのはは平然とついてくる。
 それどころか、肩に乗っているユーノと何やら会話すら交わす余裕があるほどだ。
 天才はその度胸も天才なのかもしれないとクロノは一人ごちた。

(クロノ君)

(エイミィか。発見したか?)

(うん。クロノ君から見て二時方向。森の中に金髪を蓬髪にした男を発見。その上空に金髪の少女と赤毛の女もいる)

 そう言われて、クロノは右前方を見た。目を凝らすとそこには見覚えのある金色の少女と今まさに封印されようとするジュエルシードがうっすらと見えた。

(こっちでも確認した。なのは、ユーノ、聞こえているな。相手はこちらを迎え撃つつもりらしい。作戦通りに行こう)

(了解なの。それじゃあ、クロノ君、気を付けて)

(君もな、なのは。君も相当だが、相手も同レベルの化け物だ。相手を人間と思わず、一頭の知能の高い怪物だと思っていけ)

(にゃはは。女の子にその表現はどうかと。とにかくクロノ君が来るまで持たせて見せるから)

 クロノとエイミィが決めた作戦は単純で、なのはがフェイトを、ユーノがアルフを足止めしている間にクロノが速攻でスパイダーを倒した後、返す刀で各個撃破していくというものだ。
 これは首謀者らしいスパイダーの捕獲を重視した作戦である。
 素人のなのはとユーノでは複雑な作戦をしようとしてもそもそも不可能だろう。
 策というのは単純な程上手くいくというのは孫子の例を挙げるまでもなく明らかなことだし、ステルス持ちとはいえ、非魔導師にやられるほどクロノの十年間は甘くない。
 だから、この作戦が失敗するとしたら一点、なのはとユーノがフェイトとアルフを止めていられるかということ。
 ユーノは防御に特化しているとはいえ空戦Aランク程度の魔導師であり、なのはは才能は驚異的とはいえ、魔法を覚えて一ケ月程の素人に毛の生えたようなものだ。
 推定AAAランクの魔導師とAAランクの使い魔相手にどれだけ戦えるか、それが作戦の成否を決める焦点であると言える。

(なのはちゃん、そこでストップ。その距離をキープして。それ以上近づくと一瞬でノックアウトされちゃうよ)

 エイミィからの念話でなのはは飛行魔法を止めた。
 フェイトとの距離は二十メートル弱。速度重視の魔導師の空中での停止状態からの初速は最高でも時速六十キロメートル程度だと言われている。
 それほどの速度でないと思われるかもしれないが、実際に目の前でやられると視界から一瞬で消えたように見えるほどだ。
 だから、適切な距離を取る。この距離ならフェイトがどれだけ速くても接触まで一秒弱かかる。なのはの反応速度なら十分に対応できる。
 幸い、なのははレイジングハートと合わせて典型的な砲撃魔導師だ。遠距離攻撃手段にはことかかない。

(何でもいいから、とにかく時間を稼いで。ユーノ君も作戦通りに)

 そう言われてなのはは声を張り上げた。先刻、旅館で言えなかったことを言うために。

「お話、聞かせて! なんで、ユーノ君が落としたジュエルシードを貴方達が集めてるの? 私は高町なのは。あなたの名前は?」

「私は……」

「フェイト、言わなくていい! こんな恵まれた国で恵まれた生活を送ってる奴らにはっ!」

 会話に乗りかけたフェイトをアルフが制する。

「それにスパイダーにも言われただろう。情報はできるだけ与えるなって」

「そうだった」

 フェイトが言って、その黒い長柄武器型デバイス、バルディッシュを構える。

(会話で時間稼ぎ作戦は無理かぁ。それじゃあ、なのはちゃん、ユーノ君、手筈通りにね。こっちも指示はするから)

「わかりました。なのはも頑張って」

 エイミィとユーノに向かって黙って頷く。もう、なのはには念話を交わす余裕はない。
 フェイトが発する戦気とでもいうべきオーラを感じて、なのはは完全に戦闘態勢に入っていた。
 フェイトが動く。前回と同じ、最高加速による真正面からの斧撃。
 それをなのはは防御魔法、ラウンドシールドでやはり真正面から受け止める。
 膨大な魔力がぶつかる甲高い炸裂音が響く。
 渾身の一撃を受け止められて、隙をさらすフェイトになのはは渾身の魔力を練り上げた。

「ディバイン――」

 フェイトの全身に怖気が走る。この一撃をもらうのはまずい。

「――バスター!!!」

 なのはが大砲を放つのと、フェイトが避けるのはほぼ同時だった。
 流星のような桃色の魔力の奔流が真横に移動したフェイトをかすめる。バリアジャケットがバリバリと音をたてて剥がれ落ちる。
 躱した。そして、躱された。二人が思考するのは一瞬。
 なのはとフェイトが同時に動く。距離の近いフェイトは追撃に。距離を離したいなのはは離脱へ。
 しかし、速度ではフェイトが優る。なのはに斬撃を放ち、なのはがそれをレイジングハートで受け止める。
 魔力刃がレイジングハートの白い柄とかみ合い、ガリガリと嫌な音をたてる。

「フェイト!!」

 膠着状態を見てとったアルフが援護しようとするが、それは横合いから不意に飛び出したチェインバインドに阻止された。

「このねず公が!!」

「フェレットだ! 来い、ワンコロ! 相手になってやる」

「上等!!」

 挑発するユーノにアルフが飛び掛かる。それを防御魔法でユーノが何とかしのぐ。
 獣そのものと言った連撃で防御魔法を叩き割られると今度はチェインバインドを放って牽制しながら、なのはとフェイトから離れるように後退する。
 それを追って、アルフが距離を詰める。
 この時点で、かなりの線までクロノ達の作戦は成功していたと言っていい。
 アルフとフェイトを分断し、おそらくは厄介だろうコンビネーションを阻止し、一対一が二つという状況に持っていく。
 後は、なのはとユーノが力の限り戦って足止めするだけ。
 と言っても地力が違うのでジリ貧ではあるのだが、クロノ達にとって悪くない状態で夜の森の対戦は始まった。





 時刻は少し戻る。なのはと別れたクロノは一人、夜の森の中に降り立った。
 スパイダーを捕縛するためだ。ここが平地なら空からつるべ打ちにするのだが、生憎視界のきかない夜間でしかも森の中ではそれは不可能だ。
 幸い、昼の内に森の雰囲気は散策して掴んであるし、スパイダーも補足しているから奇襲されることもない。

(いや、あの三人以外の仲間がいるかもしれない。油断は禁物だ)

(魔力感知型サーチャーに反応はないから多分いないけどね)

 『ステルス』はレアスキルの中ではありふれたものだが、それでもそこらに転がっているような素質ではない。
 二人目の『ステルス』持ちがいる確率は相当低いが、万が一を考えてクロノは一切油断していなかった。
 やがて、前を走るスパイダーが立ち止まる。それに合わせてクロノも動きを止めた。
 彼我の距離は十数メートル。やや開けた場所に出たのか、月明かりが男を照らし出す。
 スパイダーが黙って、着ていたコートを脱ぎ捨てた。
 フェイトに似た明るい金色の蓬髪。血のように赤い瞳。黒いぴっちりとしたボディースーツで鍛えられた五体を覆っている。
 腰には大きな軍用のポーチとホルスターに納められた拳銃。

(開けた場所に出たよ。上から行く?)

(いや、そうしたらまた逃げられるだけだ。向こうはこっちと真っ向からやりあう気だよ。なら、付き合うだけだ)

 腰のポーチに入っているのが切り札か、とクロノはあたりをつけた。

(ポーチの中身に気を付けて。多分、爆発物。次点で毒入りの暗器。どっちにしろろくなものじゃないよ)

(わかった。なのはのサポートを頼む。こっちよりもあっちの方が心配だ)

 そして静かに、号砲もなく、しかし、はかったように二人は同時に走り出した。



[34641] クロノ・ハラオウン⑥
Name: 烏賊様刻◆e7251814 ID:b1305343
Date: 2012/09/16 12:29
(クロノ君が来てくれたら、逆転できる。なら、それまで耐えよう)

 右に左に激しく高速移動しながら斬撃を加えてくるフェイトから必死に身を守りながら、なのははそう思考する。
 正直、反撃ができたのは相手が油断していた最初の一回だけ。
 後はレイジングハートで何とか受け、身を捻って直撃を避け、バリアジャケットを削られながら必死に凌いでいるだけだ。しかし、

(凌げてる。私は、この強い娘と戦えてる)

 戦いの最中だというのに、歓喜がこみあげてくる。頬が吊り上る。

「何を笑っている!」

 フェイトの怒鳴り声で、なのははやっと自分が笑っていることに気づいた。

(そうか、私、笑っているんだ)

 考えてみれば当然のことだ。厳しい鍛錬を経て、高まった自分の実力を発揮している。
 自分が強くなったことを実感できる場にある。こんなに楽しいことが他にあるだろうか。
 バリアジャケットを削られるたびに鈍い痛みが走る。――気にならない。
 防戦一方でろくに攻撃もできない。――元からそういう作戦だ。
 当たり所が悪ければ死ぬかもしれない。――そんなことは些細なことだ。
 だから、楽しい。この一瞬一瞬が楽しい。

(きっと勝てば、もっと楽しくなる。この強い女の子に勝てればもっと楽しくなれる)

 そう考えれば考えるほど、思考が研ぎ澄まされていく。
 何度目かの交錯の後、フェイトとの距離がわずかに離れる。

「――っ! レイジングハート!」

『All right. Devine shooter』

 それを見たなのはが誘導弾を三つ射出した。
 それは曲線軌道を描いて、フェイトに襲い掛かる。
 この戦いで二度目に見せたなのはの攻撃。
 それを見た瞬間、フェイトは高揚する自分を意識した。

(勝機!)

 なのはが不利な状況を打開するために放った三発の誘導弾。
 それを見たフェイトは後退して避け、そして、一瞬、動きを止めた。
 これは勇気がいる決断だった。なのはには砲撃魔法、ディバインバスターがある。
 まともに受ければ、撃墜は免れない大砲だ。
 だが、その重圧をはねのけて、フェイトは攻撃を誘った。
 すぐさま、ディバインシューターが飛んでくる。背中側から回り込むように迫る一発と左右から横の動きを封じるように迫る二発。
 凡庸な魔導師ならそれらの対処に手一杯になっただろう。しかし、フェイト・テスタロッサは高町なのはと同じく天才だった。

(駄目! なのはちゃん、逃げて!)

 エイミィの悲鳴のような念話が走るがもう遅い。
 制御に意識を割かれたためになのはの防御が疎かになる。
 その隙をフェイトは見逃さない。
 その瞬間、なのはにはフェイトの姿がかき消えたように見えた。
 一瞬の加速。その初速は時速六十八キロメートル。速度型魔導師の限界を超えた、神速の一撃。
 すれ違いざまに切って捨てた。
 ディバインシューターが点滅し、霞と消える。それは操っているなのはの意識の喪失を意味していた。
 フェイトはバリアジャケットを喪失して私服に戻り、暗い森に落ちていくなのはを見送った。
 息は荒い。限界以上の速度を出したのだ。フェイトの体への負担も相当大きい。

「私の、勝ちだ」

 それでも、フェイトは背筋を伸ばして宣言した。
 白いフェレットが声をあげながら、なのはの落ちて行った先へ飛び込んでいく。
 それを見送ってアルフがフェイトの傍にやって来た。

「ちぇっ。仕留めきれなかったよ」

「アルフは十分仕事をしてくれたよ。あの使い魔を自由にさせていたら勝負はわからなかったと思う」

「そう言ってもらえると嬉しいね。それじゃあ、スパイダーを迎えに行こうか」

「うん。スパイダーの作戦通りに事態は進んでるもの。」

 照れるアルフにフェイトも笑顔で頷いた。





 暗い森の中をスパイダーは一直線に駆けた。
 その手に握られているのは腰のホルスターから引き抜かれた拳銃。
 それを見たクロノは危険はないと判断した。
 あの口径の火薬式の銃では自分のバリアジャケットを貫けない。
 実際に受けたことはないが知識として知っていたクロノはスパイダーを狙い撃ちにするべく足を止めた。
 できれば宙を飛んで鴨撃ちにしたかったが、地形がそれを許さない。森の中へは空からでは狙いがつけられないからだ。
 短杖を構える。選ぶ魔法はスティンガースナイプ。水色の魔力光が一直線に迸る。
 スパイダーはそれを紙一重で躱した。更に後頭部めがけて弧を描いて戻ってくる誘導弾を後ろも見ずに身を低くして躱す。
 片時も前進を止めないスパイダーの姿は魔導師との戦闘に慣れているとしか思えなかった。
 彼我距離七メートルの時点で、スパイダーは足を止めた。
 拳銃を構える。銃名はデザートイーグル。世界最強の拳銃である。両手を肩からまっすぐに突出したお手本のような構えだ。
 連続して絞られる引き金。銃口から飛び出す銃弾。
 それはまっすぐ正確にクロノの額と腹に向かい、バリアジャケットと干渉して甲高い音を立てた。
 結果は無傷。クロノは依然として立っている。
 スパイダーは素早く腰のポーチに手をやり、手榴弾を抜き出した。
 その間にクロノは二発目のスティンガースナイプを撃つ準備を整えている。
 投擲と発射が同時に行われた。
 撃ちながら、クロノが選んだ防御手段はラウンドシールド。
 直線的に飛んできた手榴弾は円形の魔力壁に当たって跳ね返り、地面に落ちて爆発。土煙が立ち上り、お互いの姿を覆い隠した。

(クロノ君、来るよ。集中して)

「わかってる!」

 サーチャーで様子を伺っていたエイミィから念話で警告が飛び、クロノは前面を見据える。
 二発目のスティンガースナイプも手ごたえがなかった。爆発で視認はできなかったが、躱されたのだろう。
 煙幕のせいでこちらから相手の姿を捉えられないが、それは相手も同じはず。
 この状況で選択できるのは大別して二つ。煙が晴れるまで待つか、前に出てくるか、だ。
 そして、エイミィとクロノは相手が前に出てくると読んだ。
 ラウンドシールドとバリアジャケットで相手の遠距離武器は現状、完全に封じたと言って良い。
 こちらと戦うために相手は前に出てこざるを得ない。近距離ならあの不可解な投げ技がある。勝算ありと見て出てくる可能性が高い。
 クロノは前に出てくるスパイダーを狙い撃ちにするだけでいい。
 噴煙の中から甲高い音を立てて、手榴弾が転がり出てくる。
 クロノは横に移動しながらラウンドシールドを張り、手榴弾に備えた。
 次の瞬間、手榴弾から眩い光が発された。閃光手榴弾だ。
 バリアジャケットの防御機構が功を奏し被害はなかったものの、虚を突かれたクロノは身をすくめる。
 そして、それを待っていたのだろう。土煙の中からスパイダーが飛び出してくる。
 全力で走るスパイダーだが、クロノが立ち直る方がわずかに早い。

「このっ!!」

 放つのは一番得意な魔法、ストラグルバインド。かつて魔法の師匠のリーゼアリアからも褒められた唯一の魔法だ。
 直線的に飛ぶバインドだが、高速でかつ当たると相手を十数秒拘束し、無防備にする。
 戦闘における十数秒がどれほど貴重かは言うまでもない。
 そのバインドは全力疾走しているスパイダーには躱せない。

(これは、勝った)

 クロノとエイミィが確信したその瞬間、スパイダーがバインドを『すり抜けた』。
 間を縫って躱したのではない。バインドがなかったかのように、走り抜けたのだ。

「何っ!?」

 クロノが驚愕した隙を突くように、スパイダーが駆け寄り、拳を構える。
 
(拳を構えた! パンチ!? いや、暗器か?)

 とにかく防御を、とラウンドシールドを張るクロノに、スパイダーの拳が放たれる。
 肩口からまっすぐに走る右ストレート。
 対峙する者にはもっとも軌道の見えにくい理想のそれはラウンドシールドに当たり、それをすり抜けてクロノの胸部にクリーンヒットした。
 バリアジャケットすらすり抜けてである。
 肺を強打されて咳き込みながら後退するクロノの顎に左ストレートが迫る。それを首をねじって何とか威力を半分ほど殺す。
 それでも重い衝撃に意識が遠くなる。
 必死に後退しながら、狙いもつけずにスティンガーレイを放つ。水色の光線が空を切ってスパイダーに迫る。
 スパイダーはもはや躱す様子も見せず、一直線にクロノを追った。スティンガーレイが当たるも何の頓着も見せない。
 先ほどのバインドと同じく何事もなかったかのように体をすり抜ける。
 
(偶然じゃない。何らかのレアスキルか!?)

(そうだと思う。待って。今該当のレアスキルがないか、検索するから)

 三度も続けば、それは偶然ではない。必然だ。
 エイミィの念話に応える余裕もない。顎や側頭部を狙って撃ち込まれる拳を頭を振って必死に避ける。
 最初の左ストレートが効いてしまって反撃がおぼつかない。
魔導師はバリアジャケットがあるため、打撃のダメージに慣れていないのだ。 つまり、普通の格闘家などと比べて打たれ弱い面がある。
 普段は倒れるにしても魔力ダメージで一撃でノックダウンするため、短所にはなりえないのだが、今の状況ではこの上なく不利に働く。
 とにかく回復を優先させようと、頭を守るためガードを上げるクロノ。
 それを待っていたかのように狙いすましたボディーブロー。

「ゲフウッッッ」

 体をくの字に曲げたクロノの顔面を返しのアッパーカットが打ち抜く。
 硬い感触が顔面を襲い、顎が跳ね上がる。重い一撃に意識が遠くなる。

(クロノ君!)

 エイミィの悲鳴のような念話で何とか意識を保つ。
 鼻血を出して後退するクロノの腕をスパイダーは取った。そのまま前に踏み込んでアームロックの形に持っていく。

(関節技? チャンスだ)

 関節技はJ・S・Sで防げる。防がれたなら隙ができるだろう。そこをつく。
 思考は数瞬。肩を極められ、その瞬間、クロノの体が浮き上がった。

(投げられた? またこの投げか)

 一度目に天井に叩き付けられた時より強力かつ不可思議な投げだった。
 飛行魔法を使う暇もない。背中から地面に叩き付けられ、バリアジャケットを軋ませたクロノにスパイダーはのしかかった。
 マウントポジション。ヴァーリ・トゥードでは最も有利な形とも言われる体勢である。
 太ももに足をまわされ、がっちりと固定される。
 
(やばい)

 クロノがそう思うが早いか、スパイダーは拳をふりかぶった。
 一発、二発とパンチが打ち込まれる。体格が違いすぎる相手からのパンチである。体重差も三十キログラム近くある。その拳が容赦なく上から降ってくるのだ。ガードしてもいずれ、ガードした腕の方が砕ける。
 しかし、ガードする以外に手がない。そもそも、先刻もらったパンチのせいで意識が朦朧としていて、動くことすらままならないのだ。
 ガードするたびにミチリと腕が嫌な音をたてる。
 時折、ガードをすり抜けて顔面に入り、そのたびに意識が遠のく。断続的に入るエイミィからの念話がなければ耐えられなかっただろう。
 何より、上から睨みつけられているこの体勢は精神を圧迫される。
 だが、試合ならギブアップすれば終了だが、生憎、これは実戦だ。どちらかがノックダウンするか死ぬまでは止められない。
 飛行魔法で逃れることもできない。
 死という言葉がぐっと圧し掛かってくる。

(クロノ君。さっきの閃光手榴弾を思い出して!)

 エイミィの必死の念話を聞いて、朦朧としながらも気づく。
 右腕を伸ばし、短杖をスパイダーの顔面に向ける。当然ブロックされるがそれでいい。
 短杖の先から、水色の光が爆発的に膨れ上がった。
 要は、先ほどの閃光手榴弾をやり返したのだ。
 当然、彼我の距離の関係でクロノも食らうものも、無傷のバリアジャケットに搭載されている対閃光機能のおかげで被害はない。
 至近距離で受けたスパイダーは顔を手で覆い、うずくまる。
 その隙にマウントポジションから脱したクロノは立ちあがり、スパイダーの脇腹に渾身の蹴りを見舞った。
 重い音と共にスパイダーがくぐもった声をあげた。
 追撃をかけようとするが、スパイダーは一瞬早く転がり、クロノの蹴りの射程外から逃げ出した。
 それを追わない。いや、追えなかった。殴られすぎて足が痙攣して立っているのが精いっぱいだったのだ。
 ただ、構える。体は半身。前に出した右手に短杖を持ち、手の甲が内を向くよう、捩じりこむように構える。
 ひねり出すことによって貫通力の高い捻じ込む突きが放てる刺突重視の構えだ。
 閃光によるパニックから脱したのか、スパイダーがよろりと立ち上がる。
 それを見て、クロノは痙攣する足を無視して、飛行魔法で前に出た。
 得体のしれない技を使うスパイダーには、先の先を取った方がいいという判断である。
 右腕を捻り伸ばし、捻じ込むような順突きを連続して放つ。
 鋭いそれを手で払い、腕で弾き、スパイダーは反撃の中段回し蹴りを放つ。
 半歩前に出てそれを受け止め、その勢いのままハイキックを返す。躱される。
 それを機に打撃戦が始まろうとしたその時、

「スパイダー。こちらの方は完了しました。撤退しましょう」

 フェイトの声が聞こえ、両者ははじかれたように距離を取った。
 なのはとユーノの姿を確認する余裕はクロノにはない。

「何してるんだい。騒ぎになる前に引き上げるよ」

 アルフの声が更に促す。
 夜の森林部とはいえ、手榴弾が爆発し、空中では推定AAAランクの少女たちが激戦を繰り広げたのだ。
 人が来るまでそれほど間はないだろう。
 ここで決着をつけるのは不可能と判断したのだろう。数瞬、思考した後、スパイダーはフェイトに手を伸ばした。
 そのまま、フェイトに掴まる形で撤退していく。
 クロノは追えない。ダメージが大きすぎて、朦朧とした頭で相手を見送るしかなかった。
 この後、やはりボロボロななのはとユーノと共に意気消沈して旅館に帰ることになった。





 ボロボロにされ、這う這うの体でなんとか旅館にまで戻ってきたクロノ達は他の人にみつからないように慎重に部屋まで帰った。
 特に何発も殴られたクロノは顔をボコボコに腫らしており、見つかれば誰何されてしまうのは明白だったからだ。
 帰り着いた三人をエイミィは心配顔で迎えた。
 すぐに医療キットを取り出して、クロノの治療を開始する。
 患部を水で洗って血を拭い、触診した後、軟膏を塗りつけ、氷で冷やす。
 その様は実にテキパキとしており、処置の速さになのはとユーノは思わず感嘆の声をあげた。

「すごい。本物のお医者さんみたいなの」

「あはは。クロノ君の治療は慣れてるから」

「そうなんですか?」

「うん。士官学校時代にちょっとね。あの頃はクロノ君は毎日のように怪我をしてたから」

「へぇー」

「エイミィ。余計なことは言わなくていい。痛た」

「もう、動かないの。本当に死んじゃうかと思ったんだから。でもよかった。顎も肋骨も全部無事。腕もひびぐらいで済んでると思う。頑丈だね、クロノ君」

 これなら適切な処置をして、治療魔法をかければ、三日ほどで完治するだろう。
 氷水をいれたビニール袋をクロノの患部に当て、自分で支えるように目で促す。
 よほど痛かったのか、クロノは大人しく氷を持った。

「そんなに相手が強かったんですか?」

「バリアジャケットがあれば、滅多なことではこんなに腫れないはずなんだけど」

 なのはとユーノが疑問をもらす。

「私も目を疑ったよ。でも、あれは間違いなく、『魔力透過』だよ」

 エイミィが力強く断言する。

「すまん、エイミィ。それよりも前に済ませないといけないことがある」

「あ、そうか。うん、それじゃあ済ませちゃって」

 エイミィがそう言うとクロノはなのはとユーノに向き直った。

「なのは、ユーノ、すまない。今回の敗戦は全部、僕のせいだ」

 そうクロノは謝罪した。深々と頭を下げる。
 座ったままなのでほとんど土下座に近い。
 こんなことで許してもらえると思えないが精一杯の気持ちを表したつもりだった。

「そんな、クロノ君は悪くないよ。そんなにボコボコにされるまで頑張ったのに」

 頭を下げたクロノになのははなだめるように言った。

「いや、なのはもユーノも良くやった。作戦通りに、いや想定以上に頑張って見せてくれた。だからこれは僕の責任だ。僕が相手の戦力を見誤った」

 相手の隠し玉など言い訳にもならない。それを言うならフェイトかアルフのどちらかがスパイダーのフォローに回らなかった時点で何かあると気づかなければならなかった。
 そして、なのはにもユーノにも落ち度はない。いや、戦果を考えるなら十分だと言っていい。
 ならば、これは指揮官であるクロノの責任だ。たとえ、どれだけ苦戦して負傷していたとしてもそれは変わらない。

「まあまあ。謝るのはこれぐらいにしよっ。責任がどうこう言い始めたら、戦闘管制をしていた私も戦犯だしね
 ごめんね、なのはちゃんもユーノ君も。私、途中からクロノ君にかかりきりになっちゃって」

 なのはとユーノが困惑しているのを見て、エイミィが冗談めかした言い方で場をほぐした。そして、にやっと笑みを浮かべる。

「でも、得る物がなかったわけじゃないよ」

「もう、あいつの手品のタネがわかったのか?」

 訊ねるクロノにエイミィが頷く。

「うん。レアスキル『魔力透過』。センサーや結界、防御魔法はおろか、単純な魔力を全て透過して無効化する特異体質。使い手は十六年前に死亡したとされるアルフレッド・テスタロッサ執務官」

 それは聞くはずのない名前だった。
 あまりの驚愕にクロノは息を飲む。

「エイミィ、それは……」

「うん。クライドさんが殺したはずの人だよ」

 殉職ではなく、死亡。不名誉な書き方をされているのは彼が二重スパイであったためだ。
 当時、ミッドチルダに幅を利かせていた大規模犯罪組織ブラスト。彼はそこの潜入捜査官という立場でありながら、実質幹部として暗躍していたという。
 それを暴き、打倒したのが、当時捜査チームを組んでいたクライド・ハーヴェイとリンディ・ハラオウンだった。

「"人斬り"ホーガン。"毒蜘蛛"アルフレッド・テスタロッサ。"大地を砕く"ヅール。そして、首領たる"ブラスト"。
 父さんが殺した四人の高ランク魔導師達。それぞれが戯曲に残るような猛者たちだったという。
 スパイダーがその一人だというのか、エイミィ」

 誰何するクロノにしかし、エイミィは首を横に振った。

「本人ではないと思う。魔力を持っていないという決定的な違いがあるから。でも見て、この顔写真。金髪赤目の美丈夫。スパイダーとの骨格の適合率は九十六パーセント。
 それに着ているのは多分、同じく魔力を透過するブラックフロッグの腸繊維で編まれたボディースーツ。間違いなく関係者だよ」

「双子の弟がいたとでも言うのか?」

「ううん。それより、もっと現実的な説がある。当時ブラストに所属していて、現在も広域指名手配中の犯罪者、ジェイル・スカリエッティ博士の提唱した記憶転写型クローン生成理論。名前をプロジェクトF.A.T.E(フェイト)」

 あの黒い少女もまた、フェイトと呼ばれていた。

「なるほど。偶然だとは思えないな」

 頷くクロノにエイミィは続けた。

「アルフレッド・テスタロッサの妻、プレシア・テスタロッサは高名な科学者だよ。夫を失った数か月後に一人娘のアリシアを魔導炉の暴走で失っている。
 十六年前、夫と娘を失った女が執念で新しい家族を作り上げた」

「確かにそう考えれば、辻褄は合うな」

 真実は違うのだが、神ならぬクロノとエイミィにはさすがにそれはわからなかった。
 誰が管理外世界に根を張ったミッドチルダマフィアを裏切ったクローンが偶々、他で作られたオリジナルの娘のクローンと出会ったなどと考えるだろう。

「だが、どうして彼らはジュエルシードを集めているんだ? それがわからない」

「あぁ、そうか。それがあったんだ。何かクローンに不備があったのか、それとも別の理由か。う~ん、なんでだろう。現状じゃ推測しかできないね」

 うんうん唸りだしたエイミィを尻目にクロノは話についていけず、固まっているなのはとユーノを見やった。

「あぁ、すまない。相手の背後関係が少しわかったかもしれないんだ。反省会はもう遅いから明日にするかい?」

「ううん。このままだと私、眠れないから。ユーノ君は?」

「僕もなのはに付き合うよ」

 ありがとう、とお礼を言う少女に、いやあと頬を紅潮させるフェレットというかなり珍しい光景が繰り広げられた。

「じゃあ、なのはからいこうか。フェイトと戦ってどうだった」

「すごく速くて、対処で手一杯だった。現状だと時間稼ぎで精一杯という感じなの」

 でも、となのはは続けた。

「レイジングハートとの訓練の通りにやれば、少しは対抗できたの。このまま訓練を続けていけばもっと戦えるようになると思う」

 ぼろぼろにされながらも手ごたえは感じ取ったらしい。
 闘争心を燃やすなのはにクロノは天才って怖いなと思った。
 魔法を使い始めて二週間にもならない少女の言葉ではない。

「まぁ、今回はこちらの見通しが甘くて助けに行けなかったというミスがあるからね。その方向で行ってくれ。欲を言えば倒してしまって欲しい。
 ユーノは?」

「僕の方も時間稼ぎなら何とか。ただ、相手の勘がいいのか、バリアブレイクやバインドの破壊がだんだん速くなっている気がする」

「長い時間は戦えないか」

「うん、正直厳しい。何とか誤魔化して十分か十五分か、それぐらいかな」

「いや、戦闘型でもないのにAAランク相当の使い魔相手にそれだけ持たせられるなら十分だよ。後は僕の問題だな」

「クロノ君の方はどうだったの?」

「正直、厳しい。『魔力透過』のせいで、射撃魔法が通じないから接近戦をしないといけないんだけど、それが相手は滅法上手い。
 あの不可解な投げも克服できていないし」

 珍しく弱音を吐くクロノだったが、これは現状認識するための仕方ない措置だ。
 とはいっても、クロノも根は接近戦型。小器用な相手に振り回されないように射撃魔法を覚えたが、本領はクロスレンジの格闘戦である。
 これはクライド・H・ハラオウンの戦闘スタイルでもある。

「でも、やる。それが父さんから受け継いだ僕のスタイルだから。魔導師が非魔導師に一対一で負けるわけにはいかない。何とか勝って、二人の援護をしてみせるよ」

 相手は歴戦の戦士。本当にアルフレッド・テスタロッサのクローンでその記憶を引き継いでいるなら、新米執務官のクロノなど及びもつかないほどの戦闘経験があるだろう。
 なにせ、管理局のエースオブエースが制圧するために殺さざるをえなかった男なのだ。
 先刻の戦いも辛うじて生き残ったとはいえ、内容はほとんど負けていた。いや、エイミィの機転が無ければ死んでいただろう。
 だが、それらの全てがクロノの闘争心を煽り立てる。あの男に勝てなくて何故父の仇を討てようか。
 むしろ、貴重な実戦経験を積める相手として感謝したいぐらいだ。
 ありていに言ってクロノは今、燃えていた。
 そして、惚れてる男のそんな姿に見とれない女はいない。

「そのためにはあの投げを何とかしないといけないんだけど。エイミィ、何かわからないか?」

 クロノの方を見て呆けていたエイミィが頬を紅潮させ、ワタワタと腕を振った。

「えぇ!? あ、映像には記録できたからこれから分析してみる。まだ詳しいことは全然かな」

「僕も一緒に分析するよ。とりあえず、明日でいいかな」

 エイミィの慌てようを不思議に思いながらもクロノはそう言った。なのはとユーノがニヤニヤしているのには気が付かない。
 今日は疲れたよ、と腫れた顔を指さして見せる。

「うん。どうせ、二、三日はダメージを抜くためにクロノ君は動けないだろうから、その間にやろう」

 そうして、反省会はお開きとなった。なのはとユーノは部屋に帰り、クロノも敷かれていた布団に横たわった。
 この世界に来てからアパートでも使っている形式だが、ベッドと違って地面に接する高さに違和感を覚える。
 しかし、それもわずかのこと。死闘を経て疲れていたクロノは瞬く間に眠りに落ちていった。



[34641] クロノ・ハラオウン⑦
Name: 烏賊様刻◆e7251814 ID:b1305343
Date: 2012/09/23 12:27
 夜の闇に紛れるようにフェイト達は飛んでいた。
 旅館近くの森で戦闘してから、数時間。
 休憩をはさみながらも飛び続けたフェイト達は仮の住処であるセーフハウスまでたどり着いた。
 と言っても大層な物ではなく、スパイダーが借りていた普通の賃貸アパートだ。
 玄関を通り過ぎ、エレベーターに乗って目的の階で降り、廊下を歩き、部屋までたどり着く。
 部屋の中ほどまでたどり着いた瞬間、スパイダーはガクンと崩れ落ちた。

「スパイダー!!」

 声を上げてフェイトが駆け寄る。
 クロノの蹴りをまともにもらってスパイダーの肋骨は折れていた。
 辛うじて正常にはまっており、内臓を傷つける心配はなかったが、本来は安静にしなければいけないものだ。

「大丈夫だ。緊張が解けて、痛みがぶり返しただけだ。大したことはない」

 脂汗をかきながら言うことではない。

「早く治療を……」

 フェイトがバルディッシュを起動させ、治療魔法を発動する。しかし、

「効果がない?」

 フェイトの手から発する金色の光はスパイダーを素通りするばかりだった。

「『魔力透過』のせいだ。俺に安易な魔力砲が通用しないのと同様に魔力による治療も効果がない」

 そう言いながら、スパイダーは腰のポーチから丸めた包帯を取り出した。
 そして、ボディスーツを脱ぎ、下着姿になると手際よく包帯を巻いて患部を圧迫していく。
 あらわになった上半身を見て、フェイトとアルフは息を呑んだ。
 薄皮の下にはりつめられた筋肉。そして、体中、数十にも及ぶ傷痕。
 それはフェイトがよく知っている者と似ているが少し違った。

「すまん。どちらか、包帯を巻くのを手伝ってくれ」

 そう言われてフェイトは慌てて、スパイダーに駆け寄った。
 背中側に回り、包帯を受け取って不器用ながら患部を圧迫するように巻いていく。

「あたしはなんか食べる物買ってくるよ」

 夕食を食べてからだいぶ時間が経っている。そろそろ小腹がすいてくる頃合だ。
 怪我を治すためにも栄養を取るべきだろう。

「俺の分はいいぞ。自前で持っている」

「あの、へんな臭いの保存食だろ? あんなものばかり食べてたら病気になっちまうよ。たまにはフェイトと同じものを食べな」

 スパイダーの愛用品は格安の軍用レーション。アルフの鋭敏な嗅覚だと鼻が曲がるような臭いを感じるようだ。
 ちなみにアルフは普段はドッグフード。フェイトはコンビニで適当に惣菜を買って食べている。

「コンビニのデリカテッセンよりはずっとマシだと思うがな。栄養バランスもいい。フェイトにも食べさせたいぐらいだ」

「冗談。フェイトにあんなドロドロのツナヌードルを食べさせたらトラウマになっちまうよ」

 そう言って、アルフは出て行ってしまった。

「あのっ!! 私はスパイダーが薦めてくれるんだったら食べたいです」

「いや、無理しなくてもいい。トラウマになったら困る」

 くつくつと笑いながら、スパイダーが言う。
 笑いが肋骨に響いたのか、少し苦しそうだ。

「スパイダー、動かないでください。包帯が巻けません」

「あぁ、すまない」

 フェイトは小さな手で一生懸命、背中に包帯を巻いた。

「しかし、包帯を巻くの、手慣れているな」

「訓練に怪我はつきものでしたから」

 フェイトの育ての親で、母、プレシアの山猫の使い魔、リニスの訓練はその愛情の分だけ苛烈だった。
 人間は訓練でした以上のことを実戦で発揮するのは難しい。それがわかっていたリニスは訓練の時だけは心を鬼にしてフェイトを打ちのめした。
 バリアジャケットを貫通され、体に痣を作りながら戦ったこともある。
 治療魔法だけでは完治しない怪我に対応するために応急手当の技術を学んでいたのは当然だろう。
 そして、もう一つ。

「それに、父さんに習ったことがあるんです」

 ちょうど包帯が巻き終えてテープで固定した後、フェイトは静かにそう言った。目にはある種の覚悟が浮かんでいた。
 大丈夫だ、とフェイトは自身の心に活を入れた。

「父さんは管理局の執務官で、仕事が忙しくてあんまり家にはいなかったけど、家にいるときは私に色んなことを教えてくれました。
 次元世界のこと、管理局のこと、戦った犯罪組織のこと。その中でも特に車のことが多かったです。ミッドの車だけじゃなくて、行った先々の世界の車の部品を買ってきたり写真を何枚も撮ったりして、母さんに呆れられてました」

「……そうか。車好きだったんだな」

「はい。スパイダーも車、好きですよね? 最初に会ったとき色々、この世界の車について教えてくれましたし」

 相槌を打つスパイダーを探るようにフェイトが言う。

「あぁ、偶然だな」

 後ろにいるため、フェイトからはスパイダーの表情をうかがえない。しかし、遠い目をしているのではないかと、フェイトは漠然と思った。

「本当に偶然なんでしょうか」

「何?」

 スパイダーの口調が鋭くなる。それにさらされてフェイトは口ごもった。

「いえ、何でも。後、アルフの名前も父さんからつけたんです。父さんのこと忘れないようにって」

「……そうか」

 スパイダーはそれだけ言って口を閉じてしまった。
 フェイトも期待していた言葉が返ってこず、沈黙する。

「お待たせー。まったく、あの店員、温めるだけなのにすごく時間がかかってさ、やになっちゃうよ。って、どうしたんだい?」

 ほかほかと湯気を出すチーズハンバーグ弁当を両手に持ち、アルフは不思議そうに声を出した。

「いや、何でもない。それよりも食事にしよう。こいつは美味そうだ」

「うん。アルフ、ありがとう」

「そうかい。それならいいんだけどね」

 そう言いながら、アルフは買い置きしてあったドッグフードを取り出し、上手そうに齧る。
 その陽気な態度に部屋の空気が軟化し、スパイダーとフェイトはほっと息を吐いた。
 冷めちまうよ、というアルフの言に慌てて夜食を食べ始める。

「食べながら聞いてくれ。これからの話だ」

 スパイダーの言葉に、フェイトとアルフは頬張りながら頷いた。

「ゆっくり飲み込んでくれたら良い。まず、俺から報告すると、非常に厳しい状況にあると言える。
 折れた肋骨はつながるまで、一ケ月はかかる。それに隠し玉である『魔力透過』まで見せてしまった。
 まだ、投げのからくりはばれていないだろうが、次にあの少年、クロノ・ハラオウンは初っ端から白兵戦を挑んでくるだろう。
 二回の戦闘から考えると、あいつは典型的な接近戦系ミッドチルダ式魔導師だ。魔力強化された五体は容易く凶器になりうる」

「もうスパイダーではハラオウン執務官を抑えることはできない?」

 ハンバーグを呑みこんでフェイトが尋ねる。それに対してスパイダーははっきりと頷いた。

「短時間なら可能だろうが、ジリ貧になるのは眼に見えているな。正直、十分持てば良い方だろう」

「十分であの魔導師達をのした後でジュエルシードを回収して逃げろってわけだね」

「ああ。しかも、苦戦しているであろう俺を拾い上げて、執務官の追撃を避けながら、だ。もちろん、俺を見捨てるという選択肢もあるが」

「スパイダーを見捨てたりなんかしませんっ」

 思わず叫ぶフェイトに近所迷惑だと冷静に軽く諭した後、スパイダーは頷いた。

「まあ、そうだな。感情面はさておき、俺はもう君たちのことを知りすぎている。管理局に吐かされることを考えると置いていくのは得策ではないな」

「吐かされるのかい? 無理矢理?」

 アルフがスパイダーに尋ねる。

「管理局は警察の側面を持っているが実態は軍隊だ。専門の拷問官がいると聞いたことがある。非協力的な態度があまりに目に余るようなら投入されるだろう。
 もっとも、情報が古くなって使い物にならなくなるぐらいまでは頑張るつもりだがな」 

 こともなげにスパイダーは言うが、その言葉にフェイトとアルフは顔を青ざめさせた。

「そんなに怖がることはない。幸い君達は首謀者じゃないんだ。多少黙秘したぐらいで拷問されたりはしないさ」

「でも、母さんが捕まったら……」

「そこは捕まった時に説得するしかないな。何、仮に黙秘したところでプレシア・テスタロッサは戦士というわけじゃないんだろう。訓練も受けていない非戦闘員なら軽い拷問で全部しゃべってしまうだろうさ」

「軽い拷問って……」

「爪をはがされるとか、指を折られるとかそのへんだな」

「ひっ!」

 想像してしまったのか、フェイトは小さく悲鳴を漏らした。顔面はもう蒼白だ。

「と、まぁ、それは置いておいて、フェイトの方の戦いはどうだった」

 その言葉にフェイトは気を取り直した。
 彼女の美点の一つとして仕事用の脳と私用の脳を分離させられることが挙げられる。

「え、はい。前に単独行動していた時に戦った女の子だったんですけど、少しは成長していましたがまだ私の敵ではないです。ただ、火力が高いので、ひやりとさせられる場面がありました」

「横から見てたけど、フェイトが終始優勢だったよ。心配いらないんじゃないかな」

 静かに告げるフェイトに横からアルフが補足する。

「ふむ。魔力については何も言えないが、あの少女には気をつけた方がいい」

「何か知ってるんですか?」

「ああ。あの娘の父親とは七年ほど前に戦ったことがある」

 スパイダーは無意識に胸を撫でた。そこには無数の傷痕のなかでも一際大きな傷跡、刀傷が残っていた。

「この世界屈指の剣士だ。小太刀を使っていないところを見ると武術の手ほどきは受けていないようだが、俺の見る限り才能はありそうだった。
 時として人、特に天才と言われる人種は短期間で驚くほど実力を伸ばすこともある。十分注意してくれ」

「はい。私は油断なんてしませんし、負けません。母さんが待っているから」

 フェイトの言葉にスパイダーとアルフは頷いた。





 森での激戦の翌日。
 フェイトとアルフ、そしてスパイダーはセーフハウスから出て、河川敷に出てきた。
 時刻は早朝。街路樹に止まって鳴く鳥以外、周囲に生き物の気配はない。

「できればセーフハウスからそのまま行くのが一番なんだがな」

 スパイダーがフェイトに言った。まだ肋骨が痛むのか、顔をしかめている。

「転移魔法はあんまり練習していないんで、大きな魔法陣がいるんです。前のマンションならそのまま行けたんですけど」

「まあ、人に見られないように注意はしてるし、大丈夫だよ」

 フェイトが言葉を返す。アルフもそれに追従する。

「なら、いい。……しかし、俺が行かなくて本当に大丈夫か?」

「あんた、肋骨折れてんだよ? ちょっとは自愛しなよ」

「大丈夫ですから、絶対安静にしていてください。遅くても明日には帰りますから」

 動こうとするスパイダーをフェイトとアルフが制止する。
 あの後精査したところ、スパイダーの肋骨は三本折れていた。幸い骨ははまっており、内臓を傷つける心配はないようだったが重傷には違いがない。

「わかった。フェイト、一つアドバイスだ」

「はい」

「報告のやり方の一番良い方法は一番最初に良い報告を持って行って、その次に悪い報告をすることだ。これを守れば褒められるぞ」

「はい!」

 スパイダーのアドバイスに嬉しそうにフェイトは頷いた。

「もちろん、重要度などを重視するやり方もあるが、プレ……母親への報告なら、十分いけるだろう」

「そうだといいんだけどね」

 アルフが憂鬱そうにつぶやく。

「アルフ……」

「だって、あのクソババア、いつもフェイトのこといじめて――」

「違うよ、アルフ。母さんが褒めてくれないのは私が至らないからだよ」

「でも……」

「ジュエルシードを集め終わったら、母さんは私の方を見てくれる。昔の優しい母さんに戻ってくれるから」

 フェイトは真剣な顔でそう言った。
 心底からそう思っている顔だった。その真剣さにアルフも黙り込む。

「まあ、なんだ。フェイト、お前は十分やれている。だから、気負わず自然体でいけ」

「は、はい!」

 スパイダーの言葉にフェイトの顔が嬉しげに緩む。
 やはり、フェイトにとってスパイダーは特別な人間のようだ。そうアルフは一人ごちた。

(そりゃあ、顔はフェイトの父親にそっくりだけどさ)

 最低でもAAランクが必要と一般に言われる執務官と魔力を練ることもできない辺境世界の傭兵では全然違うではないか。
 確かに予想していたよりははるかに強いし、冷静でクレバーだ。しかし、フェイトを任せるには心もとない足元の不確かさを感じる。
 アルフは動物的な、強者と弱者で分ける思考に基づき、そう結論づけていた。

「じゃあ、そろそろ行こう、フェイト。嫌なことはさっさと済ますに限るよ」

「アルフ、もう。……じゃあスパイダー行ってきます」

 そう言って、フェイトとアルフは大規模な魔法陣を起動し、転移魔法で消えた。
 後には一人、スパイダーが一人残された。

「ちっ。一緒には連れて行ってくれなかったか。まぁいい。またチャンスを待てばいいさ」

 あれ以上ごねていると、 フェイト達に不信感を持たれるかもしれない。
 それは避けねばならなかった。
 スパイダーは個人的にフェイトを気に入っているが、それは『目的』に影響を与えない。
 スパイダーが痛む脇腹を押さえて、セーフハウスに歩き出す。幸い、この場所はまだクロノ達にはばれていない。
 今日は持ってきている本でも読みながらのんびりすることにしようとスパイダーは思った。





 時の庭園。古代ベルカ時代、聖王が作らせたとされるそれは次元空間内を自在に飛び回る次元航行艦でもあり、居住性抜群の館でもあり、難攻不落の要塞でもあった。
 魔導炉の暴走で娘を亡くし、莫大な慰謝料を得たプレシア・テスタロッサは発掘された時の庭園を買い取り、自分の研究の本拠地とした。
 それは自分の使い魔、リニスにフェイトを鍛えさせるための場所としても機能した。
 フェイトにとって、故郷と言えるほど懐かしい場所だった。
 転移魔法の受け皿にしている専用の魔法陣の中央にフェイトとアルフは降り立った。
 いつも自分を笑顔で迎えてくれた山猫のリニスはもういない。
 そこに一抹の寂しさを覚える。

「フェイト、行こう」

 立ち止まったフェイトをアルフが促す。
 そして、フェイトはゆっくりとプレシアの研究室に向かった。
 念話で報告し、プレシアの研究室の前で一人待つ。
 フェイトもアルフもプレシアの研究室に入ることを許可されていない。
 機密性の高い資料や、生体実験のサンプルなどがあり、子供は入るべきではないからだと聞いている。
 待つことしばらく。目じりに濃いクマを作ったプレシアがふらふらと出てきた。

「ここではなんだから、広間で報告を聞くわ」

「はい、母さん」

 プレシアがジロリとフェイトを睨んでそう言った。
 フェイトとしては是非もない。
 確かに廊下で立ち話というのもおかしな話だ。
 それに、とフェイトは思った。
 場所を改めて話を聞くぐらい母さんは私に命じた仕事を大事に思っている。それはとても誇らしいことではないかと思えた。





「たったの六個? フェイト、私はあなたがもう十個は集めていると思っていたのだけれど」

 プレシアの態度は最初から威圧的だった。金髪赤目のフェイトと黒髪黒目のプレシアだ。傍から見ていても彼女たちが親子だとは思えないだろう。

「すみません。かなり早期の段階から管理局の執務官が出張ってきていて……」

 それを聞いたプレシアが慌てた。

「執務官が!? フェイト、あなた何か情報を漏らしたりしていないでしょうね」

「それは大丈夫です。クロノ・ハラオウンという執務官に職務質問されましたけど、逃げ出しました」

 そう言うフェイトにプレシアは黙って考え込んだ。
 プレシアの予想では執務官が次元航行艦とセットでやってくるのはもう二週間ほど後と見ていた。
 それがもう来ている。しかも、相手はあの『ハラオウン』。
 おそらく、ギル・グレアムの手引きで先行してきたのだろう。まさか"妖精"本人が来ているとは思わないが、そうだとしてもあの英雄の息子だ。
 正直、フェイトとアルフでは荷が重いだろう。

「よく、ここに帰って来れたわね」

 思わずぽつりと呟く。

「出会ったときは基本的に逃げに徹していました。それにスパイダーがいたんで」

「スパイダー? 何よ、それ。何かの符牒?」

「あ、いえ。まだ言ってませんでしたが協力者がいるんです」

 フェイトがバルディッシュを操作して、宙にスパイダーの顔写真を映し出し、プレシアに見せる。

「私も初めて見たときはびっくりしました。父さんにそっくりでしょう? ミッドチルダに行きたいらしくて、この件が終わった後ミッドチルダに連れて行くことが報酬になっています」

 フェイトが何か言っていたがプレシアにはもう聞こえていなかった。
 その男の映像を見たときから、プレシアは他に考えることなどなかったのだ。
 寝不足気味の頭が一気に覚醒して鋭敏に働き、思考の海に埋没する。
 ただのそっくりさんなどということはありえない。ならば、どこかからの介入ということになる。
 ジェイル・スカリエッティ? いや、彼はブラスト崩壊後に管理外世界に亡命した後、死んだと聞いている。
 少なくともこれだけは確実に言える。このスパイダーという男の狙いは私だ。

「……フェイト、誰の許しを得て協力者なんて雇ったの?」

 その声は氷よりも冷やかだった。

「え?」

「すぐに解雇して縁を切りなさい。このデリケートな作戦で不確定因子を招くなんて正気の沙汰ではないわ」

「でも、スパイダーは頼りになって、実際に成果も挙げてます!! 執務官だってスパイダーが足止めしてくれたから――」

「フェイト、私の言うことが聞けないの?」

 言葉を遮って告げられたプレシアの言葉にフェイトはぞくっと身を震わせた。鞭で打たれる痛みが思い出される。

「で、でも、スパイダーは――」

「くどいわ、フェイト。どうやらあなたにはお仕置きが必要なようね」

 フェイトの顔が青ざめる。
 ここでフェイトが前言を撤回したらプレシアは体罰など与えなかったかもしれない。
 しかし、フェイトは黙った。目を逸らして、体を恐怖で震わせながらも言葉は返さない。
 それを見て、プレシアは鞭を自室から転送し、一切の躊躇なく振り下ろした。

「ひっ!!」

 フェイトが痛みに悲鳴をあげる。腕には赤い鞭の痕が痛々しく残っていた。
 プレシアが無言で鞭を振り上げる。反対側の腕に生々しい傷痕がつく。
 もう、その後は地獄だった。肩、脇腹、足、腕、背中。
 躊躇の全くない鞭が雨あられと降り注いだ。

「ギッ!! ガッ!! ヒッ!!」

 少女の発する言葉とは思えない生々しい悲鳴。
 フェイトは立っていられず、床に丸まって暴虐の嵐が通り過ぎるのを待つしかなかった。
 十数度打って、ようやくプレシアは鞭を止めた。デスクワーカーの彼女には十分激しい運動だったのだろう。
 その額には汗がにじみ、肩で息をしている。

「フェイト、わかった? その男とは縁を切るのよ」

「嫌だ。絶対嫌だ!」

 悲鳴で喉を枯らしたとばかり思っていたフェイトが叫ぶ。
 プレシアが激昂し、更に鞭で打とうとする。
 振り上げられた鞭を見て、フェイトは身を竦める。

「助けて、父さん!!」

 無我夢中で叫んだのだろう。その言葉は前後の脈絡もなく、切れ切れだった。
 しかし、それを聞いて、プレシアの腕は止まった。
 わずかにためらった後、鞭を持つ腕を下ろした。

「……そんなに言うなら、好きにしなさい。ただし、フェイト、その男をここに連れてくることは許さない」

 言葉を返す気力も残ってないフェイトに背中を向けて告げる。

「ジュエルシードを後、四つ集めなさい。それぐらいなら愚図のあなたでもできるでしょう」

 そのまま振り返ることなく、プレシアは部屋を後にした。
 部屋にはうずくまって、嗚咽を漏らすフェイトだけが残された。
 やがてフェイトは気を失った。





 部屋から出て、研究室に戻る最中にプレシアはふらつき、やがて壁によりかかった。
 そのまま、激しく咳き込む。
 口を押さえた手には大量の血が付着していた。
 フェイトがあれほど耐えるとは予想外だった。おかげで思いがけず体力を使ってしまった。
 自分はもう長くない。だから、少しでも早くアリシアを蘇生させなくては。

「待ちなよ、プレシア!!」

 廊下の途中でプレシアを呼び止める声が聞こえた。
 思索を中断され、プレシアが米神をヒクつかせながら振り返る。

「フェイトに何をしたっ!?」

 その言葉に乗せられた物は言うなれば炎。
 その身に纏う赤いオーラが見えるような怒りを滾らせて、フェイトの使い魔、アルフがそこにいた。

「別に。犬風情にしゃべる必要は感じないわ」

「フェイトはあんたを慕って、信じてるんだ。だから、こんな危ない橋を進んで渡っている。なのに、あんたは!!」

 それ以上は言葉にならなかった。
 しかし、アルフの絶叫にもプレシアの心は一ミリたりとも動かされなかった。

「それがどうかしたの?」

「貴様っ!!!」

 アルフが怒りにまかせて飛び掛かる。
 それを無造作にプレシアが迎え撃った。
 プレシアの血まみれの右手から雷が迸る。
 詠唱無しとは思えないほど膨大な奔流に突撃したアルフは一瞬で飲み込まれた。

「なるほど、犬は犬でも山狗の類であったわけね」

 プレシアが左手で頬を拭った。そこにはべっとりと血がついていた。
 捨て身のアルフの一撃が頬をかすめたのだ。
 戦士ではないプレシアはアルフの一撃で身を竦めた。その結果、アルフを絶命させるには至らなかった。
 とどめをさそうと振り返ったが、アルフの姿は見つけられなかった。交錯すると同時に逃げ出したらしい。
 時の庭園の管理プログラムを呼び出し、館内を精査させるが見当たらない。

「まあ、フェイトを納得させる言い訳を考えなくて良いと思うべきね」

 さすがのフェイトもアルフを殺されては叛意を翻す可能性が高い。
 今、庭園の外で動かせる人材がフェイトしかいない以上、その可能性はできるだけ潰しておくべきだった。
 でなければ、プレシアの気性上、鞭打ちだけでは済まなかっただろう。

「面倒な山狗が消えて、不安の種が消えたと見るべきね」

 ならば、特に問題はない。
 さあ、準備を進めよう。『ハラオウン』が来ている以上、猶予はほとんどない。最悪手持ちの六つのジュエルシードだけで事を起こす可能性も考えなければいけないのだから。
 そうしてプレシアは愛しい娘が待つ研究室へ帰って行った。



[34641] クロノ・ハラオウン⑧
Name: 烏賊様刻◆e7251814 ID:b1305343
Date: 2012/09/30 12:12
 無限に世界が連なる次元宇宙を航行する一つの艦がある。
 それはまっすぐに第九十七管理外世界、現地名称地球に向かっていた。
 前方に二つ船体が張り出した木馬のようなシルエットのその艦をアースラという。
 そのブリッジでリンディ・ハラオウンは報告書を読んでいた。
 いつものように顔には微笑みを浮かべているが、そこに一筋の汗が流れていることに気づいたものはブリッジには一人もいなかった。
 何せ、その報告書がひどく荒唐無稽に見えたからだ。
 死んだはずのアルフレッド・テスタロッサのクローン。魔力無しでクロノを圧倒する不可思議な体術。
 そして、推定AAAランクの魔導師の少女が敵と味方に合わせて二人。
 九歳の時点の能力でこれだから、十年鍛えれば、Sランクにまで届くだろう。
 このレベルの人間が一人生まれる確率はリンカーコアを持つ赤子の比較的多いミッドチルダでも多く見積もって百万人に一人いるかどうかだと言われている。二人合わせて一億分の一の確率だ。数学的には三十万分の一以下の確率は零として考えていいと言われていると言えば、どれだけ馬鹿げた確率かわかるだろう。
 前に直接報告を聞いていなければ、そして、報告書がエイミィ・リミエッタの物でなければ、書き手の精神の錯乱や被害妄想さえ疑ったかもしれない。
 しかも、報告書に添付された映像に登場する金髪の男は確かに見覚えがある。記憶より、つまりクライド・H・ハラオウンが殺した時より少し若いが、アルフレッド・テスタロッサに相違ない。

「状況は悪いけど、挽回不可能というほどではない。アースラが地球に到着すれば逆転は可能、か」

 自身も、総合SSランクの魔導師であるリンディ・ハラオウンに平均魔力Bランクの陸戦隊二十名。
 高度な管制が可能な電子機器を備えたアースラがあれば、力を制限されていたエイミィも十全に力が発揮できる。
 それはパートナーであるクロノが大幅に上手く動けるようになるということに等しい。
 更に一個中隊の武装局員を尾行や警戒網の構築に当てることができる。サーチャー頼りの現状から脱却することができる。
 これは『魔力透過』を持つスパイダーに対して大変有効な戦力になるだろう。

「プレシア・テスタロッサが裏にいるとしても、私なら抑え込める」

 相手もSSランクの大魔導師とはいえ、戦闘型ではない相手など直接対峙すれば捻るのは容易い。
 勿論、それを相手も予期して搦め手を使って来るだろうが、それを制する自信もまたリンディにはあった。
 ならば、彼女の成すべきことは一刻も早く地球に着くことだ。
 偶然の次元震の余波で航海は予定より遅れていたが、それでも後三日ほどで着くはずだった。
 艦長席に深く座りなおす。そして、当直の士官達を安心させるように微笑んだ。





「……という感じの報告がリンディさんからあったよ」

「まあ、母さんが来たら戦局は決定的になるのは間違いないな」

 クロノとエイミィは、いつもしているように八畳間のアパートで卓袱台を囲んでいた。
 クロノの前では肉が山を作っているシチューがホカホカと湯気をあげている。

「それじゃあ、私達ができることはスパイダー対策、というかあの投げ技への対策だね」

「まあ、それが順当だろう。と言っても正直、見当もつかないんだが」

 クロノの物よりやや控えめの自分のシチューの中でダマになった野菜をスプーンで崩しながらエイミィが言う。
 なかなか崩れないのか、段々イライラした顔になってくる。
 見かねたクロノが無言で手を伸ばすとエイミィがスプーンとシチュー皿を渡す。
 中の野菜をほぐしていると、手持無沙汰になったエイミィが顎に指を当てて思案しながら言った。

「私も見当がつかない。けど、この世界独自の技術ならこの世界の人に聞くのがいいんじゃない?」

「なるほど、道理だ。幸いなことに心当たりもあるしね」

「へっ? 誰々? 私の知ってる人?」

「ああ。高町士郎。喫茶翠屋のオーナーだよ。なのはに頼んでアポをとれば良いだろう」

 キャベツをほぐしきって、エイミィに渡す。そして、クロノは山盛りのシチューをガツガツと腹に詰め込み始めた。
 ああ、もっと味わって食べてよ、というエイミィの抗議も無視する。
 食事が終わったらなのはに念話を入れよう。できることからコツコツとやれば良い。





 明くる日、早速アポがとれたことを幸いに、クロノは開店前の翠屋を訪れていた。
 家の裏の道場に来いとのことだったのでそこからなのはに案内してもらう。

「朝早くに悪いな、なのは」

「ううん、別に構わないよ。最近、朝早く起きてるから」

 そうは言うが、なのははまだ眠そうに目を何度も細かく瞬きさせている。

「鍛錬か?」

「うん。レイジングハートが起こしてくれるの」

 そう言って笑うなのはにクロノは一つ頷いた。

「そうか。朝の鍛錬は良い物だから、励むといい」

「クロノ君も朝、鍛錬してるの?」

「ああ。もう早起きが癖になっちゃってるよ」

「そうなんだ。私はまだちょっと辛いなぁ」

 まだ、布団の温かさが恋しくて、などと言って自分の肩を抱いて大仰に震えて見せるなのはにクロノはクスクスと笑った。

「一、二ヶ月したら慣れるよ。僕もそうだった」

「クロノ君にもそういう時代があったんだ」

「うん。……もう十年も前だけどね」

 十年の間に色々なことがあった。
 クロノはまだまだ平均にすら届いていないものの体も大きくなり、動きのキレが増し、高度なテクニックを備えた。
 自分にできることとできないことがあるのを知り、できることを増やすために日々努力することも怠っていない。
 しかし、父の背中に届いたとはこれっぽっちも思えないのだ。
 勿論、まだ十四歳の少年に大人と同じ働きを期待するのが間違っているという意見もある。だが、クロノは戦闘能力で言えば並の大人の数十人分は戦える。
 魔導師としてのランクが上がれば上がるほど就労年齢も下がってくるし、第一、鉄火場に出れば年齢など言い訳にもならない。
 地球ならクロノは未成年かもしれないが、管理局では新米とはいえ執務官であり、もう成人同様の判断力があるものとして扱われている。
 だからクロノはせめて父の影だけでも踏もうと必死に足掻いていた。
 オーバーワーク寸前の鍛錬も、睡眠時以外バリアジャケットを着るなんて健全な魔導師から見れば狂気の沙汰をしているのも全てそのためだ。

――泣かないで、母さん。父さんの夢は僕が継ぐから

 それはクロノの誓いであり、身を縛る鎖であり、果たすべき目標である。

「まあ、なのはも十年もしたらその辛さが懐かしくなるよ」

 迷いを振り切るようにクロノが言った。
 その顔には微笑みを浮かべている。

「十年かぁ~。長いなぁ」

「いや、毎日やることをやっていたらすぐだよ。僕も思い返せばあっという間だったから」

 といっても九年も生きていない幼い少女には理解は難しいだろう。己の人生とほぼ同じ長さに等しいのだ。
 クロノでさえ、その早さを理解しているのはかなりの早熟加減だと周りから言われ続けている。
 そんなことを話していると、道場の前に着いた。

「じゃあ、私はここで。朝の鍛錬を済ませて、ユーノ君を起こしに行かないと」

「なんだ。ユーノはまだ寝てるのか? たるんでるな。今度鍛えてやるか」

「にゃはは。お手柔らかに。普段は起きてるんだけど、今日は起きなかったから起こさなかったの。別にこの時間に寝ているのはおかしなことじゃないと考えられますし」

「まあ、半分冗談だよ」

 つまり半分は本気ということである。

「エイミィさんの言ってた通り、自分にも他人にも厳しいの」

「そうかな、まだ甘いと思うんだけど」

「にゃはは。そうだ、クロノ君。今度、また模擬戦してね?」

 首をひねるクロノに苦笑し、軽く会釈して、なのはは立ち去った。





 道場の中は板張りの床と壁にしみこんだ汗の臭いが充満していた。
 といってもクロノとしても慣れた臭いではあったので不快感はない。
 何より、そこにいる剣士の出す凛とした空気が汗の臭いなど吹き飛ばしてしまう。
 道場の中心で、高町士郎が正座して瞑想していた。
 思わず、クロノがごくりと息を呑む。すると、静謐な空気が霧散した。見れば高町士郎が目を開け、こちらを向いて直立していた。
 いつ立ち上がったのか、注視していたクロノにもわからなかった。
 士郎がにっこりと微笑む。猛獣の笑みだとクロノは思った。

「会うのは三度目かな。改めて自己紹介するよ。高町士郎だ。翠屋で店長をしている」

「クロノ・ハラオウンです」

 まずは挨拶から。
 互いに剣を持って牽制しあっているような気分になるが気のせいだと信じたい。

「それでは、おはよう、クロノ君。なのはから話は聞いている。温泉であの子を助けてくれたらしいね。それで、僕に聞きたいことがあるということだったが?」

「はい。あの男、スパイダーについて教えてほしいことが――」

「その前に一つ聞いておきたいことがある。なのはのことだ」

 クロノの言葉を遮って、士郎が言った。
 全身から発散している威圧感が更に強くなる。

「ここ一ケ月ほど、なのはの夜間の外出が目立ってね。そういう年頃だろうと思って静観していたんだが、それにスパイダーが関わっているかもしれないと聞くと話は別だ」

 間抜けなことだがここまで来て初めてクロノは士郎が怒っていることに気づいた。
 臨戦態勢になっているのは道場に足を踏み入れた時から気づいていたが、それは武術家としての習いのような物だと思っていた。

「あの男は危険だ。この平和な国では場違いな程にね。君にもわかるだろう?」

「それはわかりますが」

 そう対応しながら、クロノは考えていた。
 高町士郎の懸念はもっともなことだ。親なら九歳の子供が夜な夜な外に出て、なにやらしているのを気にしないはずがない。
 だが、クロノの方から説明してしまうのは問題があった。
 管理外世界、特に魔導科学の発達していない未開文明と接する時にはなるべく魔法を隠すべしという不文律があった。
 ちなみにこの場合の未開文明とは次元世界間に進出していない文明のことを指し、他意はない。

「なのはさんにはすでに話を聞いたのですか?」

 とりあえず、質問することによって会話を続ける。
 この場で一番まずいことは何を話すか決めかねて黙り込んでしまうことだ。
 相手は殺気立っている。家族の危機かもしれないのだから当然だ。しかもあながち誤解というわけでもないのだから始末が悪い。なのはが共に戦うことをクロノが了承したのは事実なのだから。

「遠まわしに夜、何をしているかは聞いてみたが、曖昧に言い逃れられてしまったよ。だから君に聞いている。もう一度問おう。なのはを何に巻き込んでいる」

 高町士郎の全身から一瞬、殺気が放射された。
 これはダメだ、とクロノは観念した。完全にこちらがなのはを巻き込んだと思われている。

(エイミィ)

(はいはい。完全にカタギじゃないってばれてるね。どうする? 戦ったら勝てるでしょう?)

 試すようなエイミィの念話にクロノは溜め息をついた。

(戦えるわけないだろ。なのはの父親だぞ。こうなったら隠すだけ不利だ。全部話すしかない)

(うん、合格。リンディ艦長への弁解は私も手伝うから)

(頼む。まあ、勘だけどそんな大事にはならないよ)

 念話を終えて、クロノは伏せていた顔を上げ士郎に真っ向から見つめ返した。

「失礼。少々、仲間と連絡を取っていました」

「ほう。通信機器も何もなく、かい?」

「はい。少し、長い説明になりますがよろしいでしょうか?」

「妻にも今日は休みにすると言ってある。遠慮はいらないよ」

「では……」

 そう言って、クロノは腰にぶら下げていた待機状態のデバイスを引き抜いた。カード状のそれはクロノの手が振り上がる間にグニャリと伸びて、固まり、短杖の形になった。

「なっ!?」

「残念ながら手品ではありません。僕らはこのテクノロジーを魔法と呼んでいます」

 こういう交渉はエイミィが専門なのだが、ここに連れてくるのはリスクが高い。別に不得手というわけではないし、高町士郎は人格者だ。筋道立てて説明すれば理解してくれる成算がある。特に問題ないだろうとクロノはとりあえず不敵に笑うことにした。





「信じ難い話だが、信用せざるを得ないな」

 もはや殺気も威圧も霧散し、驚愕した体で士郎は言った。

「わかっていただけて嬉しいです」

「デバイスとやらも驚きだったが、そのバリアジャケット、だったか。それがあるだけで信用に足るよ」

「魔導軍事学上、最大の発明と言われていますから」

「すごいものだ。そんな物があるならいくら引退したとはいっても噂ぐらいは聞くだろう。逆に言えば、それの存在が君の言う次元世界とやらを証明している」

 いくつか魔法や次元世界、管理局の話をしたが、特に士郎の気を引いたのはバリアジャケットだった。
 これは戦士としては当然だろう。重さもなく、動きを阻害せず、全身鎧より硬く強靭で、頭部を含めた全身を覆っている。兜を必要としないため、視界も良好だ。形状も自由であるため、社交界のようなやんごとなき人が集う会場に出入りする時でも着ることができる。ボディーガードをしていた高町士郎には垂涎の的だろう。

「大体の大筋はお話した通りです。後はなのはさんとユーノに直接確認していただければ良いかと」

 そんなに大したことは話さなかった。
 ・この世界には多次元宇宙と魔法が存在し、クロノが異世界人であること。
 ・輸送中の事故で危険な物品が地球の海鳴市周辺に散逸してしまったこと。
 ・クロノとなのはとユーノはその危険な物品、ジュエルシードを集めていること。
 ・その途中でスパイダーを含む一団とかちあったこと。
 ・なのは自身の希望でクロノ達に協力してもらっていること。
 この五つを中心に話した。魔法が本当に存在することを理解してもらえれば、その他の話も容易にわかってもらえた。

「なるほど、わかった。信じよう。しかし、なのはの協力を断ってくれてもいいんじゃないか?」

「なのはさんの魔法の才能は本場のミッドチルダでも望外の物です。お話した通り、非殺傷設定もありますし、幸い敵も今のところ、その不文律を守っています。
 貴重な実戦経験を比較的安全に積める場です。差し出がましい話だとは思いますが天賦の才を伸ばす良い機会かと」

「君達にとってなのはは優れた魔導師なのかもしれないが、僕達にとっては大事な娘だ。子を戦場に出したくないという親心もわかって欲しいんだが」

「――っ。なるほど、確かにそれは想定していませんでした、謝罪します。しかし、そういう話になると僕と話すよりはなのはさん本人と話すべきかと」

「確かにそれが道理だ。わかった、後はなのはと話すことにする。それじゃあ、君の用件を済ませよう」

 そう言ってやっと士郎は座った。
 それを見てクロノは内心ほっと息を吐いた。やはりこのレベルの剣士が殺気立っているのを見るのは大丈夫だとわかっていても心臓に悪い。

「と言っても、期待させておいて申し訳ないんだが、スパイダーとは仕事の関係で二度かち合っただけでね。それほどの情報はないんだが」

「話せる範囲で良いのでその二回についてをお願いします。こちらは少しでも情報が欲しくて」

「では、一回目はもう十一年前になる。フランスでとある名家の方を護衛していたときに、奴はマフィアの子飼いの殺し屋として現れた」

「殺し屋、ですか?」

「ああ。アサシンではなくヒットマンという意味でね。私以外に二人護衛がいたんだが、奇襲を食らって瞬く間に殺された」

「奇襲ですか。理にかなってますね。その時の得物は?」

「大型拳銃とナイフだった。見事な腕前でね。言いたくないが不覚を取った」

 士郎が腹をさする。無意識の物だったのだろう。クロノが見るといたずらが見つかった子供のように手を膝に戻した。

「僕は重傷。護衛対象は撃たれて病院に搬送されたがすぐに亡くなった」

「それは何というか」

 ご愁傷様と言って良いのかクロノには判断がつかなかった。

「もう十一年も前のことだよ。とっくに割り切っている。己の不明については考えるところがあるけどね」

 そう言って士郎は微笑んだ。
 その言葉に嘘はないと思えた。

「二度目はそれから四年後、七年前のことだ。私のボディーガードとしての最後の仕事だった」

「勝ったんですか?」

「痛み分けというところかな。イタリアでさる名家のご子息を護衛しているときに誘拐しに来たのがあの男だった」

「名家好きですね」

「金払いがいいし、ある程度大事に使ってくれるからね。と、まあ、それはともかく」

 コホンと士郎が咳払いした。

「何とか正面からの一対一の戦いに持ち込むことができた。互いに身を削りあい、最終的には接近戦で相討ちになった」

「相討ち、ですか?」

「ああ、僕は彼を袈裟切りに、彼は私の膝を挫いた。その傷のせいもあって私はこうして日本で喫茶店のマスターをやっている」

 別にそれに不満があるわけではないがね、と付け加えるのを忘れなかった。
 嘘ではないだろうが本意でもないだろう、とクロノは思った。剣術屋の道理などはわからないが戦士の道理はわかる。勝って辞めるならともかく相討ちで引退するなど満足できるはずがない。

「膝を挫かれたということは相手は素手だったんですか?」

「最初の数合でナイフと銃を斬れてね。おかげで有利に戦えた」

 簡単に言うがバリアジャケット無しで銃と戦うのは並大抵のことではない。
 おそらく、敗戦のすぐ後から対スパイダー用の戦略を練りに練っていたに違いない。

「僕が聞きたいのはそのあたりの話です。士郎さん、スパイダーは投げ技を使ってきましたか!?」

「投げ技?」

「はい。いわゆる腰に組み付いたり、重心の下に入って持ち上げるタイプの投げではない、握手の状態から上に放り投げたり、腕を捻った状態で一回転させて背中から落とす技です」

「いや、そんな技は使わなかった。アルフレッド、今はスパイダーと名乗っているが、はどちらかと言えば打撃主体だ。空手ともキックとも違う異質な、ね」

「待ってください、あいつは昔、アルフレッドと名乗っていたんですか!?」

 これでますます相手がアルフレッド・テスタロッサのクローンである可能性が高くなった。それだけではない。奴は十一年前から地球で活動していたことになる。

(エイミィ!)

(うん、わかってる。今、事故を起こした輸送船の情報を探ってるとこ。こっちに任せてそっちは話に専念して)

(輸送船?)

(説明するの念話じゃ面倒だから後にして。それに話を聞かないと相手に失礼だよ)

 クロノには後でわかることだったが、エイミィの調査は妥当な所だった。
 スパイダーがかなり過去から活動していたということは、敵の活動基盤が地球にあるということだ。
 輸送船が壊され、地球にジュエルシードが飛来したのは故意である可能性が高いということになる。
 しかも相当前から仕込みを行っていたことから、敵は組織的であると推測できる。
 
「ああ。まあ、僕自身が名乗られたわけではなく、情報屋から買って知ったんだが」

「そうですか。……その情報というのは?」

「奴の名前はアルフレッド。年齢、出身地、経歴すべてが不明。とあるイタリアンマフィアのヒットマンだったようだ。
 専門は爆発物による破壊工作と暗殺。要は腕のいいテロリストというわけだな」

「テロリストですか」

 クロノはまだ新米ゆえにことを構えたことはないが、凶悪犯罪の捜査を担当する執務官なら良く相手にしているはずだった。

「それで、奴が異世界に関連しているとなると、一つ、奴の技術は君も知っているものではないのか? それならあの徒手格闘術も納得がいくんだが」

「ええ。おそらく、ストライクアーツでしょう。ミッドチルダではメジャーな格闘技です」

 言われてみればクロノにも思い当たることがいくつもあった。
 道理でクロノも構えに見覚えがあったはずだ。自分用に調整しているだろうが、スパイダーの使っている技の基本はストライクアーツ。逆にそうだから、先日、あれほど完全に不意を突かれたのに体が反応して致命打をもらわずに済んだのだろう。

「ふむ、ストライクアーツ、ね。異世界の格闘技なら見覚えがないのは当然か」

「はい。しかし、僕が言ったような投げ。あれはストライクアーツにはありません。スパイダーがこの八年で覚えたんでしょうか」

「いや、君の言う技は日本における合気という技に似ているが、その技は天稟あふれる武術家が数十年かけて物にするものだ。八年で習得するのは不可能に近いと思う」

「そうですか」

 そうなると困ったことになる。あの技は一体何なのか。地球の技ではないということは他の管理外世界の技である可能性が考えられる。
 しかし、当然、そんな物を調べている余裕はない。アースラが到着して人員が増えても、砂場の中で一粒の砂金を探し出すような作業になる。

「ただし、心当たりはある。ただの妄言かもしれないが聞いてくれないかな?」

「いえ、ぜひ聞かせてください。どんな些細なことでもヒントが欲しい」

「言った通り、合気は高等技術。生半可な鍛錬で覚えられることではない。ならば、スパイダーは僕と戦う以前から持っていたと考えられる。しかし、僕との戦いでは使わなかった。
 これは一つのことが言えると思う。僕には使わなかったのではなく、使えなかったんだ、とそう考えるのが自然だ。ここまでは良いかい?」

「使えなかった、ですか」

「ああ、勿論奴が手の内を隠していた可能性もあるが、それは無視していいと思う」

 相手に札を全て切らせたという自信があるのだろう。確かに士郎は引退した今でも、クロノではバリアジャケットがなければ苦戦するであろう相手だ。別に否やはない。

「そして、僕が君から聞いた技術で、魔導師と戦わないといけなくなったときに備えて、早急に確立させないといけない技術が存在する」

「……対バリアジャケットの攻撃方法」

「そう。僕はスパイダーの投げ技はまさにそれだと思う」

 バリアジャケットを着た魔導師への攻撃方法は数多い。
 特に高ランク魔導師のそれはピストルの弾はおろか、ライフル弾やロケットランチャー、火薬式の兵器ぐらいならすべてシャットアウトできると言われている。
 勿論、対魔導師戦において、魔導師が思考し血道を上げることもいかにして相手のバリアジャケットを抜くかどうかだ。
 ミッドチルダで最もオーソドックスなのは魔法プログラムの間隙をついて結界を解くバリアブレイクと呼ばれる技法だが、独特の技法を持つ魔導師も少なくない。有名どころで言えば、"人斬り"ホーガンの"斬鉄剣"が挙げられるだろう。
 
「相手がバリアジャケットを着ていないと使えない技だということですか?」

「ああ。勿論、推測だから間違っている可能性もあるが」

「根拠はないんですね?」

「ああ、勘働きだ。他に推察できることはない。多分、実際に戦った君の方が僕より思いつくことが多いだろう」

「なるほど」

 一理ある。むしろ、八年も前のことを良く詳細に覚えていてくれたとクロノは感心した。

「役に立つかはわからないが、家に合気の達人のビデオがある。持っていくと良い。ビデオデッキごと貸すよ」

「ありがとうございます。でも、いいんですか?」

「ビデオなんて今は誰も見ないからね。特に問題はないよ。遠慮せず持って行ってくれ」

 捨てるのが惜しくて何となく取っておいたものだ。ここでクロノの役に立つならそれは僥倖だろう。
 士郎が笑う。それを見て、クロノもまた笑みを浮かべた。



[34641] クロノ・ハラオウン⑨
Name: 烏賊様刻◆e7251814 ID:b1305343
Date: 2012/10/07 13:13
 時の庭園の片隅。小さいが居心地の良い芝生の上。
 かつて、山猫の使い魔、大好きなリニスと別れた場所にフェイトとアルフはいた。
 夕暮れなのか、日は赤くなり、大地を紅に染めていた。

「フェイト、あたしはフェイトの使い魔だけど、それ以前にフェイトの家族だと思っている」

 そう喋るアルフはとても儚くて、普段の元気さが嘘のようだった。
 何か言わなくては、と考えたが口は一寸も動かなかった。

「だから、フェイト、プレシアにこだわる気持ちはわかる。でも、フェイトにはスパイダーがいる。だから、逃げたっていいんだ」

 そう言って、アルフは歩き出した。その先には無明の闇が広がっていた。
 何とか、引き留めようとした。口は動かない。体は金縛りにあったようにピクリともしない。
 アルフ、と口の中で叫ぶが言葉にならず、意味のないうめき声にしかならなかった。
 それでも、何度も叫ぶ。アルフを、家族を止めるために。
 アルフ。
 アルフ。

「アルフ!!」

 そう叫んで、フェイトは起き上がった。

「夢、だった?」

 見渡すとそこは広間のソファーの上だった。
 プレシアが自分を放置して出て行ったのは覚えているから、アルフがソファーの上に寝かせてくれたのだろう。
 状況が確認できると悪夢を思い出した。アルフがいなくなるなんて考えられない。アルフはジュエルシードを集める戦いにおいて重要な戦力で、何より大事な家族だ。
 すぐに念話で連絡を取ろうとする。しかし、

(……繋がらない)

 アルフからの返事はない。それがフェイトをさらに不安にする。
 城内をサーチする機能は古代ベルカの要塞にはポピュラーなもので時の庭園にも当然ついているが、フェイトにはアクセスする権限がない。
 だから、フェイトは母親の研究室に向かった。時の庭園の諸々の機能をを唯一使うことができるのがプレシア・テスタロッサだけだからだ。
 先ほど、折檻を受けたばかりなので、恐怖はあるが、それよりもアルフの心配が勝った。
 研究室をノックする。しばらく待つが返事がない。またノックする。しばらく待つ。返事がない。またノックする……。
 プレシアが研究室から顔を出したのは実に六回ものノックの後だった。

「何、フェイト? 私は忙しいんだけど?」

「アルフがいないんです。どこかで迷子になってるのかも。庭園のサーチシステムを使って探してもらえませんか?」

 それを聞いて、プレシアは思い出したように顔をあげた。薄い笑いを浮かべる。

「アルフなら、もういないわよ」

「は?」

 フェイトは言葉が理解できないというように呆けた声をあげた。

「逃げたわ。私が追い払ったの」

「な、なんで?」

「何故って、襲われたからよ。あの山狗はあろうことか私を殺そうとしたの。だから、私が反撃した。それでも顔に傷をつけられてしまったけれど」

「そんな……」

「でも、フェイト。良かったわねぇ。有能な協力者がいるんでしょ? ジュエルシード回収には何の問題もないわ」

 痛烈な皮肉だった。
 お前が協力者など無断で作るから、アルフの価値が減ったのだと、暗にプレシアは言ったのだ。
 あまりのことに言葉も出ないフェイトにプレシアはふんと鼻を鳴らした。

「言いたいことはそれだけ? なら私は研究に戻るわ。あなたはすぐに出発しなさい」

 そう言って、プレシアは部屋に戻った。
 フェイトは呆然と扉の前で立ち竦んだが、やがてふらふらと幽鬼のような足取りで廊下を去って行った。





 ドアを閉めたところで激しく咳き込んだ。
 せっかく洗った右手がまた血塗れになる。
 フェイトは来ない。激昂して襲い掛かってくることも想定していたのだが、まだあの娘は自分を母親だと思っているらしい。

「助けて、父さん、か」

 フェイトが言った言葉を思い出す。
 研究用のデスクの上の写真立てを見る。
 そこにはお日様のように笑う娘と、笑い慣れてないのかぎこちない笑みを浮かべる夫と、幸せそうに微笑むプレシアが写っていた。

「アルフレッド、貴方が生きていたら。もし、あの娘がプロジェクトの産物でさえなかったら……」

 言いかけて、やめる。
 イフの話は好きではない。ましてや、それはあまりにも虫が良い考えだったから。

 ――父さん、母さん、私、妹が欲しい。

 遠い日のアリシアの言葉が思い出される。
 しかし、それは果たされぬ願いなのだ。
 プレシアは唇を噛んだ。強く噛みすぎて、口の端から血が流れ出す。それを拭くこともせず、プレシアは思考に没頭していた。





 帰ってきたフェイトをスパイダーは出迎えた。
 正確に言えば、セーフハウスにまでたどり着き、どさりと倒れこんだのだ。
 華奢な体を慌てて抱き留める。異変を感じたスパイダーは素早く触診する。すると全身に赤い鞭の痕とそれによる発熱が感じられた。 
 すぐに簡易寝台の上に運び込み、鞭の痕を消毒し、軟膏を塗る。そして、額に濡れたタオルをそっと置く。
 タオルの濡れた感触のせいか、フェイトはううん、と声をあげた。

「起きたか。熱があるようだ。まだ寝ておけ」

「……スパイダー? 私はどうなったんですか?」

 フェイトが起き上がろうとして力が入らず、しばらく頑張った後、寝たまま聞いた。

「こっちが聞きたいな。玄関で倒れたんだ。アルフはどうした? どうして、そんなに怪我をしている?」

 そう言われて、フェイトは目を伏せた。
 そして絞り出すように言った。

「アルフは……わかりません。生きているかさえも。傷は母さんに」

「……そうか」

 深くは聞かずにスパイダーは頷いた。

「とりあえず、食事にしよう。まだ、食べていないんだろう?」

 スパイダーが隅に置いてあった自分の背嚢からレーションを二つとりだした。
 開けるとドロドロのツナヌードルにゼリーのような赤黒いプルプルしたものとドライフルーツ、そして干し肉が入っていた。

「口に合うかはわからないが、栄養はある。良く噛んでゆっくり食べるんだ」

 フェイトは再び、起き上がろうとして失敗した。
 体に力が入らない。何とか動かせるのは口だけで、それも鈍かった。

「スパイダー、すみません。体に力が入らなくて。悪いけど、食べさせてくれませんか」

 恥ずかしそうにフェイトが言った。
 身体を動かすのも億劫だが、朝、スパイダーと別れてから約十時間、何も食べていなかったのだ。
 当然、フェイトは空腹である。
 意識してしまうと余計にすきっ腹が堪える。

「ん、わかった。これぐらいでいいか? 口を開けろ」

 スパイダーがフォークでツナヌードルをくるくると巻き、フェイトの口の方に持っていく。フェイトは額の濡れタオルを落とさないようにそっと口を開いて、ゆっくり首を伸ばして食べた。
 美味しい。味付けは違うが、リニスの作った料理と同じくらい美味しかった。
 そして、噛んで飲み込んで、心配そうに自分を見ているスパイダーに気づいて、フェイトは喉を詰まらせてしまった。鼻の頭がツーンとし、目頭が熱くなる。涙が出そうになるのを必死にこらえた。
 だが、泣くのは我慢できても、もう言葉は止められなかった。
 父さんにそっくりな人。父さんと同じく、自動車が好きで、同じレアスキルを持ち、同じように頼りになって、同じように不器用に笑う人。

「お願いがあるんです。一生のお願いです」

 息を切らせてフェイトが叫ぶ。
 対するスパイダーは無言。
 母親に会うと言って出て行ったフェイトが、全身に痣をこしらえて帰ってきた。決して弱くはない、同年代で比べればむしろ強いと言えるフェイトの心ですらダメージをこらえられなかっただろうと容易に推測できた。
 それほど心に傷を残すものなのだ。母親の虐待というものは。

「お父さんって呼んでいいですか?」

 フェイトの心は限界だった。何か縋るものが必要で、もう一人では立っていることすらできなかった。そばにいて支える人がフェイトには必要だった。
 使い魔のアルフが本来ならその役目を果たすはずだったが、彼女はここにはいない。
 だから、フェイトはスパイダーに縋った。そうしないと心が壊れてしまうから。
 だが、その姿が記憶の中の少女に重なった。
 
 『お父さん』

 偽りの記憶がよみがえる。フェイトによく似た少女が自分を見つめる。そこに表された感情は信頼、そして友愛。
 その姿が、何より不快感と憎悪を煽った。
 違う、とスパイダーの理性が必死に訴える。
 アリシアは左利きだった。フェイトは右利きだ。
 アリシアは魔法の素養がなかった。フェイトは高ランク魔導師だ。
 違う。フェイトはアリシアではない。
 しかし、

「勘違いするな」

 スパイダーの声は自身で驚くほど冷たかった。
 びくりと震えたフェイトにスパイダーは怒りを激情のまま叩き付ける。

「俺と君とはただの被雇用者と雇用者の関係でしかない。ましてや父娘など、ちゃんちゃらおかしい。
 それに俺はスパイダーだ。アルフレッドじゃない」

 そこまで言ってスパイダーは辛うじて冷静さを取り戻し、そして自らの失敗を悟った。
 フェイトは今にも泣きだしそうになっていた。
 それは庭園でプレシアに鞭を打たれた時よりも辛かったかもしれない。
 そこにいたのはスパイダーより強い戦士などではない。年相応の、涙を必死にこらえる少女だった。

「すまない。きつい言い方だった。許してくれ」

「そんな、私が悪いんです。スパイダーに無理ばっかり言って。私が至らないから、母さんも」

 自虐に陥るフェイトにかける言葉がスパイダーにはなかった。
 君は悪くないのだと言いたかった。気を落とすなと慰めたかった。けれども、それはできない相談だった。
 もっと言い方はあったし、大人の対応であったとは到底言えないが、先ほどの言葉はまぎれもない真実であったから。
 テスタロッサを名乗るものと、何より自分がアルフレッド・テスタロッサと混同されることは許せなかった。何故なら、自分はテスタロッサを名乗るもの全てを殺すために、フェイトに近づいたのだから。
 そう、すべては己の憎悪を晴らすために。

 管理局との決着も近い。
 本来なら体も心もベストに持っていかなければならない時期。
 しかし、スパイダーとフェイトの心には暗雲が広がっていた。





「初めまして、高町なのはさん、ユーノ・スクライアさん。クロノを助けてくれてありがとう」

 宇宙空間に停泊する次元航行艦アースラ、その内部、リンディ・ハラオウンの私室。
 白い壁に畳敷きという和洋折衷の空間でリンディはなのはとユーノに深々と頭を下げた。

「あ、はい。いえ、こっちこそクロノ君には助けてもらってばかりで」

「クロノ執務官には本当にお世話になっています」

 正座したリンディに、なのはとユーノが会釈を返す。
 癖で何となく正座したなのはの脇にユーノが肩から降りる。

「ユーノさんも良ければ変身を解いてくれないかしら。ちょうど、日本のお茶があるの。御馳走したいわ」

「あ、はい。わかりました」

 そう言うとユーノは変身魔法を解除した。体長数十センチメートルのフェレットがパッと発光すると同時に小柄な美少年が現れた。
 なのはがポカンと口をあけて固まった。

「え、ユーノ君、人間になれたの?」

「いや、むしろ、フェレットの方が変身した後だよ。スクライア一族はフェレット変身魔法と相性が良いんだ。……言ってなかったっけ?」

「聞いてないよ!? ふぇえええええええええええええええええええええええええええええ!!」

 そこから先は言葉にならず、ただ、驚愕の声をあげるだけだった。





「落ち着いたかしら、なのはさん」

 数分間、ただただ吃驚していたなのはにリンディは優しく微笑みかけた。

「あ、はい。お騒がせしてすみません」

「ふふふ、いいのよ。若い子は元気がないとね。それよりもお茶はいかが?」

 そう言うリンディは高く見積もっても二十代前半にしか見えない。童顔ということもあるだろうが、十四歳の子供を持つ身としては破格の若さだ。
 正座をしたリンディが急須から五つの湯呑に、緑茶を注いだ。
 そして、クロノとエイミィに運ばせると、おもむろに自分の分にミルクと砂糖を入れて飲み始めた。
 それを見て、なのはがまた、吃驚する。
 何せ、緑茶である。純正の日本人であるなのははそんな飲み方は慮外の理であった。
 よく見ると、自分の湯呑の横にもフレッシュミルクとスティックシュガーが置いてある。

(もしかして、ミッドチルダでは緑茶にミルクと砂糖を入れて飲むのが普通なの!?)

 なるほど、ならば確かに異世界だ、となのはは変な方向で感心した。
 見れば、リンディはさも美味そうにお茶を飲んでいる。
 紅茶にミルクと砂糖を入れるのは普通だし、むしろ美味しい。
 ならその親戚みたいなものである緑茶に入れても美味しいのかもしれない。
 女は度胸とばかりにフレッシュミルクを入れ、口に含む。
 口の中を違和感が襲った。ミルクの滑らかさと緑茶の苦さが別々に舌を刺激する。紅茶のように調和せず、上手く混ざらず反目し合っている感じだ。
 有り体に言えば、不味い。しかし、まさか露骨に顔をしかめるわけにもいかず、なのはは歪めかけた表情を慌てて取り繕った。

「お口に合ったかしら?」

 リンディが笑顔でそう聞いてくるのに、曖昧に頷いた。
 見れば、クロノもエイミィもユーノもミルクも砂糖も使わずにゆっくりと味わって飲んでいる。

「皆はミルク入れないの?」

「母さんが苦いのが苦手なだけだよ。日本でも、緑茶はこうやって何も入れずに飲むんだろう?」

 はめられた。いや、別に誰もなのはをだましたわけではないのだがそう思った。
 薄い緑色になった緑茶を見る。
 飲みきるのは辛いのだが口をつけた以上、残すのも失礼な気がする。
 湯呑を手の中で回す。それほど熱くはないことを確認して、なのはは口をつけるとクピッと一気に飲み込んだ。
 幸い喉越し自体はそれほど悪くない。
 ふうっと息を吐く。
 
「あらあら、そんなに喉が渇いていたの? おかわりはいるかしら?」

「いえ、結構です」

 にこやかに聞いてくるリンディにほとんど間をおかず返答し、なのはは皆がお茶を飲み終わるのを待った。





「それで、なのはさん、ユーノさん。少しいいかしら。貴方達の今後のことなのだけど」

 微笑みを消して、真面目な顔になったリンディが言った。
 自然、なのはとユーノも真顔になる。

「私達が来たから、もう貴方達が危険を冒す必要はないわ。元の生活に戻るべきよ」

 リンディは静かにそう宣告した。

「今までは何とか無事でいられたけど、敵も切羽詰ってくる。そうすると危険が飛躍的に増大するわ。貴方達はまだ平和な日常に戻ることができる。
 後戻りできる間に身を引くべきよ」

 本音を言えばなのはとユーノの助力は喉から手が出るほど欲しい。なのはがいなくなればフェイトの相手はクロノとなり、リンディが黒幕の可能性を警戒し、アルフとスパイダーを武装局員で押さえつけることになる。しかし、それはリスクが大きい。『魔力透過』を持つスパイダーが相手では隊員に死亡者が出かねない。
 だが、それをリンディは許容した。管理局の理ではなく、地球の理。能力があれば、その年齢、人格は考慮しないという能力至上主義の管理局に心優しい少女が組み込まれることを良しとしなかったのだ。
 しかし、

「いえ、私も協力させてください!」

 なのははそれがわかっているのかいないのか果敢に申し出た。

「私、今まで自分に何ができるかわからないまま、ただ漫然と人生を生きてきました。でも、それじゃあ駄目なんです」

 なのはは魔法と、魔法を知って変わっていく自分が好きだった。
 レイジングハートが課す厳しい訓練を消化して少しずつ強くなっていく自分を気にいっていた。
 自分にできることがあるならやりたいと心から思う。

「私はフェイトちゃんに勝ちたい。勝って、この世界を守りたい。私に得難い才能があるというのなら、その力で皆の力になりたいんです」

 だから、自分で世界を守りたい。戦ってる時の、体の奥底から湧き上がるゾクゾクするような歓喜と恐怖をもう一度味わいたい。クロノやユーノと一緒に戦いたい。それがなのはの戦う理由だった。

「マギウスオブリージ」

 リンディが呟く。

「え?」

「日本語で言えば、魔導師たる者の義務。高ランク魔導師として生まれた者には相応の義務があるという考え方よ。
 貴女はそれをもう知っているのね」

「いえ、そんな大層な物じゃあ。ただ、私にできることがあるなら、それから逃げたくないってだけで」

 なのはが慌てて、手を振る。

「ふふ。その考え方は実に貴族的だわ。ねぇ、クロノ?」

「ええ。順調にいけば、将来エースになる器かと」

「エース?」

「管理局で一番強い人のことだよ。ちなみにリンディ艦長は時空管理局本局、通称"海"のエースだって言われてるね」

 エイミィがなのはとユーノに説明する。
 この場合のエースとは"陸""海""空"の三つのそれぞれで特に優れた魔導師のことを指す。
 陸のエースと言えばここ十五年は首都防衛隊隊長ゼスト・グランガイツのことを指すし、海のエースは、前執務官長のギル・グレアムからリンディ・ハラオウンに引き継がれた。
 それぞれ、魔導師ランク空戦S-と総合SSの怪物である。
 なのははそれに比肩しうる才能を持っていると言われたのだ。

「なのは、すごいね」

「いや、将来すごくなるかもしれないって言われただけだし」

 素直に賞賛の言葉をくれるユーノになのはは照れながら返した。
 正直に言って、嬉しかった。
 なのははユーノと出会って以来、厳しい訓練を続けている。朝、早起きするのはきつかったし、家族にも秘密にしているのは辛かった。クロノが父、士郎に話してくれたおかげで今は秘密ではないが、それまでずっと後ろめたさを感じていたのは確かだ。
 その努力が他人に認められるというのは本当に嬉しいことだ。
 だから、期待と覚悟を込めてリンディを見つめる。

「……わかりました。高町なのはさん、時空管理局本局提督の権限に置いて、あなたを嘱託魔導師に任命し、協力を請います。ジュエルシードを回収し、世界を守ってくれますか?」

「はい。絶対に守ります!」

「それでは私も我が家名、ハラオウンの名において誓いましょう。貴方が世界を守るなら、私は世界の守り手を守ると」

 そして、リンディはにっこりとなのはに微笑みかけた。
 その笑みは本当に綺麗でユーノはおろか、同性のなのはまで見惚れてしまうものだった。

「よろしくね、なのはさん」





 それからしばらく経って、エイミィとクロノはアースラのブリッジにいた。

「アレックス、ランディ、ひっさしぶり~」

「おう、エイミィ、久しぶり。クロノ執務官も」

「お久しぶりです、お二人とも。改めてこれからよろしくお願いします」

 フランクな方がアレックス、丁寧語で穏やかな方がランディだ。
 共にアースラのブリッジクルーで通信を主に担当している。
 エイミィとクロノとしても、顔なじみで、アースラに乗っているときは食事を共にすることもある。そこそこ親しい関係だった。

「それじゃあ、私達、ちょっと分析に入るから」

「そっか。頑張れよ」

「他のクルーにも邪魔をしないように言っておきます」

 二人の応援を受けて、エイミィが管制指令の席に座る。そして流れるような動作でキーボードを叩き、家から持ってきた合気の映像を再生する。
 画面の中では胴着を着込んだ小柄な老人が大柄な男と握手し、そのまま崩して抑え込んでいた。

「うん、力学というよりは人体の反射に付け込んでる、のかな? できれば、この人に話を聞いてみたいところだけど」

「さすがに無理だ。それにそんなに意味はない。J・S・Sがあればこの投げは防げると思う」

 合気の投げは大別して二種類。関節を極めて、ふんばると骨が折れるので投げられざるを得ないという投げ技と、関節を極められた時に無意識に起こる人体の反射を利用して相手の体勢を崩す投げ技だ。
 どちらも優れた技術であり、模倣は容易ではないが、J・S・Sがあれば防ぐことができる。関節の可動域を超過しようとすると自動で反力を発生させるので、関節技は通用しないのだ。

「うん、でも似てるよ。これを参考にスパイダーが投げ技を編み出したのは間違いないと思う」

「スパイダー本人が作ったのか? その背後の組織とかは?」

「ああ、あれね。可能性を考えて色々考察したけど、十中八九ないよ。そんな組織があってジュエルシードを集めてるならもっと早くに人員を送り込んできてると思う」

「そうか? 魔導師に対抗できるのがあの三人だけだからという可能性は?」

「そうだとしても、後方要員、連絡役。いくらでも使い道はあるよ。それになのはちゃんは勿論、私達があんなに早く地球に来ていたのも偶然でしかないんだよ。スパイダー達だけを用いる理由はないよ」

 クロノ達が早期にここに来れたのは本当にただの偶然だった。初任務をお目付け役のエイミィを連れて無難にこなし、偶々、近くの次元世界でロストロギアが散逸したと聞き、アースラより先行できる位置にいたクロノ達に回収任務が下ったというだけだ。それを予期することなど誰にもできない。管理局の機構を熟知していたとしても、次元航行艦が来るまでにジュエルシードを回収して逃げることを考えるだろう。
 そのためには大量の人員を派遣しての人海戦術を取るはずで、つまり逆説的に、相手に人員、組織がないことの証明となっているのだ。

「それでも、その残りの一厘の可能性を考えて警戒するのが僕の仕事だ」

 勿論、管理局の影響か、次元世界には少数精鋭主義が台頭しており、スパイダー達三人をあえて派遣したという可能性もなくはない。
 それを考えてのクロノの言葉だった。

「うん。私も警戒するけど、実際に現場で注意するのはクロノ君の仕事だしね。伏兵にひっかかるなんて目も当てられないから」

「わかってる。……話を戻そう。スパイダーの投げ技についてだ。
 今わかってる点としては、
 ・握手やアームドロックの体勢から発動する。
 ・対魔導師用の技である。
 ・地球特有の武術、合気に似ている。
 この三つかな」

「うん、そうだね。でも、この三つだけじゃあ――」

 そこまで言って、エイミィは言葉を止めた。
 そのまま顎に親指と人差し指を当て、ムムムと唸り始める。

「どうした、エイミィ。何か思いついたのか?」

「後、ちょっとの所まで来てるんだけど。うぬー」

 頭を抱え始めたエイミィをクロノは微笑ましく思った。
 彼女がこうしている時はそっとしている方が良い。
 十四年に達する付き合いからクロノはそれを知っていた。
 
「ゆっくり考えてくれ。お茶のおかわりいるか?」

「あ、いるいる。 さっきの緑茶がいいな」

「わかった」

 ブリッジを出て、食堂に向かう。
 そこで料理長に緑茶を注文した。
 待っている間、甘味を食べていたなのはと気もそぞろに話し、模擬戦の約束をする。
 数分ででてきた物をお盆ごと受け取って、足早に引き返す。
 ドキドキしていた。
 エイミィが悩み始めるのは正解が近いときだ。
 少なくとも、エイミィが悩み始めて正解にたどり着けなかった場合をクロノは知らない。
 何せ、わからないときはすっぱりとわからないと言って寝てしまうような女の子なのだ。
 ブリッジに戻るとエイミィはまだ悩んでいた。

「エイミィ、はい、緑茶」

「ありがとう、クロノ君」

 緑茶を受け取って、エイミィが微笑む。
 そのまま一口飲んで、テーブルに置く。

「あ、わかった!!」

 そして、突然、素っ頓狂な声をあげると、そのままクロノに抱きついた。

「え?」

 クロノは予想外の行動に吃驚して硬直してしまった。

「クロノ君、握手とアームドロックの共通点は何!?」

「共通点?」

 思考が定まらない。オウムのように言われたことを返すだけだ。

「関節だよ。関節。どっちも関節を極めているの!」

「ああ、そうだな」

 握手の形で手首の関節を極め、アームドロックで肩の関節を極める。
 どちらもまあ、関節技と言っていいだろう。
 ただ、今の状況は関節を極められるより厄介な状況というか、薄手のバリアジャケットは最初の衝撃だけ遮断して、後の感触は正確に伝えてくる。
 具体的には胸とか腹とか太ももとか。

「つまり、J・S・Sを発動させているってこと!」

「あ、うん。関節を極められたらJ・S・Sは起動するな。でも、それが?」

「あ~、もう! まだわかんない!? J・S・Sで起こる反力を利用しての変則的な合気があの投げ技の正体なの!」

「何!?」

 抱き着かれた驚愕から感心へ。
 そこまで言われて、クロノもやっと理解した。J・S・Sはシステマチックだ。バリアジャケットの機構のひとつなのだから当然だが、同じように負荷をかけられたら同じベクトルの反力を同じタイミングで出す。
 しかも、相手が高ランク魔導師特有の怪力でも折られないようにかなりの力を出せるはずだ。その力を全て利用されているとしたら、あの不十分な体勢からの不可解な投げも説明できる。

「いや、でも、そんなことが可能なのか? バリアジャケットの機能なんて皆バラバラだろう? それを初見で理解して投げるなんて」

「ここ十数年はバリアジャケットの機能に元から組み込まれているから忘れがちだけど、J・S・Sは元々はジェイル・スカリエッティ博士の開発した一個の独立した外付けオプションだよ。誰が使っても同じ機能になるように最適化されている。つまり、相手にとってはそのタイミングさえ掴んでいれば、それほど難しいことではないんだと思う。関節を一瞬極めるだけだからパワーも要らない。多分、相応の訓練をすれば私でもできるんじゃないかな?」

「そ、そうか」

「勿論、確証はないけど。ただ、これならあの投げ技を大体説明できているから、ほぼ間違いないと思う」

「そうか、エイミィ、すごいぞ!」

 クロノは興奮して、恥ずかしかったのも忘れて、そのままエイミィを抱き締め返した。

「わわ、クロノ君、放して! ここブリッジだよ。恥ずかしいよ」

 状況に気づいたエイミィが赤面して返す。自分から抱き着いておいてなんだ、という話だが、それだけ集中していたということだろう。

「あ、ごめん。……って、エイミィが先に抱き着いてきたんじゃないか」

 そう言ってクロノが手を放す。元々高まっていた心臓がエイミィの恥ずかしそうな顔を見て、更に鼓動を早くする。

「だって、ずっと考えてた問題がやっと解決できたんだもの。ちょっと我を忘れて抱き着くぐらいする、よね?」

「知らないよ。まあ、大手柄だったから、それぐらい別にいいけど」

「むぅ。しっかり、私の体の感触楽しんでおいてその言いぐさはないと思うけどなあ」

「なな、何を根拠にそんなことを」

 みっともないぐらいに狼狽したクロノにエイミィは二ヒヒと笑った。

「それぐらいで狼狽しないの。クロノ君がむっつりスケベだってことぐらいわかってるんだから」

「またそれか。なんだよ、むっつりスケベって」

「むっつりスケベはむっつりスケベです~! フィーリングでわかるでしょ?」

「わからない! まったく。なのはと模擬戦の約束があるんだ。失礼させてもらう」

「ああ、待って。私も行く!」

 そう言い残して、クロノとエイミィは出て行った。

「あれがバカップルという物なんでしょうか?」

 静かになったブリッジで眼鏡をかけた線の細い青年、ランディが声を漏らす。
 
「いや、半々じゃね? エイミィの方は既成事実を作って外堀を埋めてるような気もする」

 頭に手をやって頭痛を堪えるような仕草で髪を短く刈りこんだ青年、アレックスが感想を漏らす。

「全く否定できない所が恐ろしいですが、多分、あれは素ですよ。彼女、あれでなかなか純情なようですから」

「まあ、十年来の幼馴染で最近同棲までしていたくせに、ハグ程度であの騒ぎだからなあ」

 やりたい盛りの思春期の男の子とは思えない。そう考えて、日に焼けた浅黒い頬をつりあげ、アレックスがにやりと笑った。

「年相応の反応と思えば初々しいですよ。まあ、ブリッジでやるのは勘弁してほしいですがね」

「こちとら男やもめだからなあ。次元航行艦のクルーなんてやってると出会いもないし」

「それは同意しますが。しかしアレックス、独身貴族というものもそんなに悪くないと思いますよ」

「違いない。ああ、でもあんな美人の幼馴染がいるなんて"我らのエース"がうらやましいよ」

「もげろ、という感じですか」

「うんにゃ、そこまでは。単純にうらやましいだけだ」

 かぶりを振って否定したアレックスにランディは黙って頬をつり上げた。

「そのうらやましさもすぐに消えますよ。勘ですが、この事件、もう一波乱あると思います」

「げぇ、マジかよ。お前の勘は良く当たるんだよな」

「現在、的中率七割といったところですか。それなりに自信がありますよ」

「なら気張らないとな。"我らのエース"とエイミィのラインを途絶えさせないことが俺ら通信官の仕事だ。そうだろ、ランディ・ソブリン三等海尉?」

「勿論です。アレックス・フェートン三等海尉」

 そう言って二人はコンソールパネルをいじり始める。
 彼らは彼らの仕事を完璧に成して、少しでもクロノの生還率を上げるために。





 艦内通路。緊急時に走ることを考えて幅を広めにとってある白い廊下をクロノとエイミィは歩いていた。
 最初はクロノは鼻を鳴らして大股で歩いていたのだが、本人も気づかないうちにエイミィに合わせて心持ち歩調を遅くしている。

「でも、まあ、手品のタネも割れたことだし、次で確実にスパイダーを倒せるね」

「いや、どうだろう?」

 気楽に言うエイミィにクロノは振り返らず応えた。その顔は緊張でこわばっていた。

「スパイダーは強い。正直、非魔導師があんなに強くなれるなんて想像もしていなかった。こっちの推定が正しいなら対魔導師戦も経験豊富で、僕らが思っても見ない手を使って来る可能性がある。正直、まだ全然楽観できないよ」

 クロノは言った。ほんの少しの冗談も含まない真剣な声音だった。

「やっぱり、殺されかけたから怖い?」

 だから、エイミィもおちゃらけず真面目に問いかけた。

「ああ、怖いな。マウントポジションを取られたとき、僕は本当は半分ぐらい諦めた。死を覚悟したんだ。今生き残っているのは運が良かったからにすぎない」

 それがクロノの本音だった。次元航行艦勤務の執務官として、アースラの皆から"我らのエース"と呼ばれ、なのはとユーノを守る責任を持ったクロノがエイミィ以外には絶対吐露できない心中だった。
 エイミィはそれに対して論理的な反論などまったく思いつかなかった。むしろ、クロノの意見が当然だと思った。だから、ただ、クロノの左手をそっと両手で握る。薄いバリアジャケットを通して大事な少年に想いが伝わるように。

「大丈夫。クロノ君は負けないよ」

「……」

「苦戦するかもしれない。ひどい怪我をするかもしれない。だけど、クロノ君は最後は勝つ。誰が信じなくても私は信じてる」

「……エイミィ」

「大丈夫。クライド・H・ハラオウンの夢を継ぐ。そう誓って今も必死で努力を続けている大馬鹿を私は信じてる」

 そして、静かに手を放した。クロノの手が名残を惜しむように虚空を泳いだ。
 ばっとクロノの前に出てエイミィが振り返った。クロノの方を向き直った頃には二パッと微笑みを浮かべていた。

「なーんて、むっつりスケベのクロノ君にはハグの方が良かったかな!? でも、エイミィさんは嫁入り前の大事な体だからそんな安売りはできないんだよね。残念だね、クロノ君」

 ポカンと口を開けて呆然としていたクロノがそれを聞いて苦笑してみせた。

「もっとスタイルを良くしてからそういう寝言は言うんだな。正直、貧相すぎて抱き着かれても硬くて痛いんだけど?」

「ひっどーい。私は母さんに似てスリムなだけだよ? そんなこと女の子に言うなんてクロノ君は相変わらずデリカシーがないなあ」

「まあ、ミトが聞いてたら怒るだろうな。……さあ、くだらないことを言ってないでなのは達と合流しよう。作戦会議に鍛錬、母さんへの報告。やらなきゃならないことはいくらでもある」

「うん、そうだね。行こう、クロノ君」

 エイミィが振り返って歩き出す。

「ありがとう、エイミィ」

 その背中に小声で礼を言って、クロノは歩き出した。



[34641] クロノ・ハラオウン⑩
Name: 烏賊様刻◆e7251814 ID:b1305343
Date: 2012/10/16 22:51
 アースラの演習場。艦内に造られた一辺百メートルほどの空間をなのはとクロノは飛び回っていた。
 白いバリアジャケットを翻し、抜群の空間認識能力を発揮してほとんど行く先を見ずに飛ぶなのは。
 経験とそれがもたらす直感から、なのはの砲撃を避けながら飛翔するクロノ。
 両者の戦いはなのはの有利な遠距離から始まり、中距離戦に移行していた。

「レイジングハート」

『All right. Devine shooter』

 なのはが桃色の誘導弾を三基出すと同時に意識を割いた隙を狙って、クロノがスティンガーレイを撃ち込む。
 なのはが身を捻って直撃を躱しながら、左右から迫るよう、ディバインシューターを誘導する。
 それを引き付けてから前進することによって回避したクロノはそのまま、全速力でなのはとの距離を潰しはじめた。
 初速は時速四十七キロメートル。フェイトよりは二回り程遅い物の、凡百の魔導師相手なら十分な速さだ。
 しかし、相手は未熟とはいえ傑物。完璧に対応して、杖の先をクロノに向ける。

「ディバインバスター!!!」

 ピンクの魔力の奔流がクロノに迫る。しかし、それはクロノの読み筋だ。
 慣性に逆らって、斜め後ろに逃げる。そのまま、斜に張ったラウンドシールドで砲撃を受け流す。
 そして、ディバインバスターの圧力に逆らわず、押し出されることによって砲撃の範囲外に逃れる。
 なのはの驚愕した様子を見て、少し嬉しくなる。この天才を相手にクロノはまだ、吃驚させることができるらしい。
 まあ、勿論、まだまだ抜かれるつもりなど毛頭ないのだが。

「そら、まだ終わってないぞ」

 そう言って急降下をかけるクロノになのはは気を取り直してディバインシューターを放つ。
 それをスティンガーレイを乱射して牽制しつつ、クロノは自分の距離、クロスレンジに入った。
 短杖での突きを連続して放つ。
 それをなのははシールドで受け止め、杖で捌き、必死に処理していく。
 隙を見て、距離を取ろうとするのだが、クロノが上手く立ち回ってそれを許さない。
 やがて、シールドをブレイクして、なのはの体に突きが入る。
 即座にバリアブレイクしようとするが、インパクトの瞬間、バリアジャケットが炸裂した。

「バリアバースト? こんなのどこで――」

 覚えたんだ、という前になのはが怯んだクロノから距離を取る。

 そして、再びディバインシューターを展開しようとした。

「はい。五分経過~。模擬戦終了だよ、二人とも」

 二人の前にエイミィのバストアップのホログラムが現れ、告げる。
 それを聞いて、クロノとなのはが微笑む。

「お疲れ様、なのは」

「うん、クロノ君もお疲れ様」

 互いの健闘をたたえ合う。

「だいぶ空戦に慣れてきたんじゃないか? マルチタスクも上手く使えているようだし」

 マルチタスクとは、思考分割、つまり同時に複数のことを思考し、行うことだ。
 たとえば、クロノならバリアジャケットの維持に一つ。誘導弾の軌道計算に一つ、戦闘に二つというように四つに思考を分けて使用している。
 これにデバイスの処理能力が加わることにより、魔導師は魔法を使用するための複雑な計算を行いながら、高速で移動し、精密な攻撃を繰り出すことができる。

「まだ、二つが精いっぱいなの。たった五分でもうへろへろだし」

 そう喋るなのはは荒い息を吐いている。五分間、全力でストップアンドゴーの急激な運動を行えば、特に鍛えてもいなかった九歳の少女が疲労困憊してしまうのは仕方のないことだろう。
 むしろ、その状態で最後にクロノの突きを完全ではないにしても捌いていたのだから、瞠目すべき精神力である。

「その辺はまだ始めたばかりだから仕方ないよ。ディフェンスとスタミナだけは才能じゃあどうにもならない。地道な努力で少しずつ身につけていくしかない」

「わかってるの。私、頑張ってるよね、レイジングハート?」

『Yes, my master is doing your best』

「ふふ、ありがとう」

 待機状態に戻ったレイジングハートの手の上で転がす。
 インテリジェントデバイスはマスターたる魔導師との相性が大事だと言われているが、専用のチューニングをアースラで済ませてから、なのはとレイジングハートの連携はさらに精密になっている。
 なのはは才能だけでなく、良いデバイスに出会う運にも恵まれていた。

「ほら、二人ともおしゃべりしてないで、戻ってきて。リンディ艦長も入れて、感想戦やるよ!」

「すまん、すぐ戻る。……それじゃあ、行こう、なのは」

 急かしに来たエイミィに軽く謝って、クロノは演習場の脇にある見学室に向けて飛び出した。





「じゃあ、僭越ながら私から。クロノ君はいつも通り。砲撃をシールドで受けたときはびっくりしたけど、上手く動けてたと思うよ。
 次はなのはちゃんだけど、マルチタスクも上手くできてたし、接近戦での防御も上手だった。課題だった高速移動魔法は見れなかったけど、どんな具合?」

 エイミィがそう言うと、なのはは照れたように笑った。
 場所は見学室。演習を第三者が邪魔にならないようにみるための部屋で、簡単なブリーフィングができるように、細長いテーブルと簡素な椅子が置いてある。そして、壁には映像を投影するためのスクリーンがかかっていた。

「あ、はい。加速はできるんですけど、止まるのが大変で、成功率は七割くらいかな」

「ふむふむ。まあ、主に距離を取るのが目的で使うんだから、悪くないんじゃないかな。勿論、将来的には百パーセントを目指してもらうわけだけど」

 エイミィが頷く。横で、リンディもなのはの進歩に微笑みを浮かべる。

「私からはこれくらいで。リンディ艦長、何かありますか?」

 エイミィに話を振られて、リンディが頷く。

「そうね、クロノはもう少しリスキーな行動を控えなさい。砲撃魔法はきちんと空振りさせないと今のなのはさんならともかく、一流の砲撃魔導師との戦いでは消耗が激しすぎるわ。
 後、中距離での牽制の精度を上げなさい。闇雲にばらまくだけでは無駄に魔力と脳のリソースを消費するだけよ」

 リンディの指摘にクロノが頷く。自分でも気になっていたところばかりだった。さすがは現役のエース。良く見ている。

「なのはさんは進歩の速さは驚異的だけど、まだまだ足りてないわね。バリアバーストは確かに強力な防御手段だけど、体への負担が大きいうえに読まれたら無防備な状態でもろに攻撃を食らう諸刃の剣よ。
 マルチタスクについても、そう。誘導弾三つ程度では相手の動きを限定して砲撃魔法を当てに行くのはまだ難しいわ。せめて五つは必要ね。もっと脳と体を鍛えなさい。
 得意の収束砲撃についてもそう。クロノにあんな方法で凌がれるのは砲撃の魔力収束がまだ甘いからよ。デバイスと相談して、術式をきっちり見直しなさい。
 スタミナについては今はしょうがないわね。そういう意味では短期決着をつけるために攻撃を誘うバリアバーストは悪くない発想よ」

 そこそこの成果を挙げたと密かに自負していたのだろう。なのはがリンディの的確な指摘にみるみる顔をうつむかせていく。

「後はそうね、収束砲撃による一点突破は回避された時の隙が大きいわ。私の必殺技を覚えてみる? そんなに難しい術式じゃないし、なのはさんなら十分使いこなせると思う」

「必殺技ですか?」

 なのはが顔を輝かせる。泣いたカラスがもう笑った。
 リンディの人心掌握術はクロノも何度か見ていたがやはり群を抜いている。

「スティンガーブレイド・エクスキューションシフト。
 クロノは魔力量が足りなくて使わないんだけど、こんなところで思わぬ後継者が出てきて嬉しいわ」

 そう言って、リンディはにっこりと笑った。





 それはアースラでクロノ達が決戦に向けて、最終調整を行っている頃。
 なのははアリサ・バニングスの家にお呼ばれしていた。
 最近、ミッドチルダ組にかかりきりで、友人関係を疎かにしていたので、アリサの誘いは渡りに船だった。
 アリサとすずかと三人で、紅茶を飲み、談笑する。ユーノは万が一の時の護衛としてフェレット形態で近くで日向ぼっこをしている。

「それにしたって、なのは。それは馬鹿よ。緑茶にミルク入れても美味しいはずないじゃない」

「うっ。でも、紅茶にだってミルク入れるし、最近は抹茶オーレとかもあるから」

「何となく合わないだろうな、ってわかるでしょ? 翠屋の娘なんだから」

「ふふふ。でも、試してみちゃうのはなのはちゃんらしいよね」

「もう、二人とも。私の失敗談にそんなに突っ込まないで!」

 アリサとすずかが共同でなのはをからかう。
 話題はアースラで飲んだミルクと砂糖入りの緑茶のことだ。
 勿論、アースラのことは伏せているし、リンディ達のことは話していないが。
 見れば、ユーノまで首を挙げてこちらを見ている。フェレットの顔が笑っているように見えるのは果たして偶然か。

「もう、ユーノ君まで笑って。三人で私のこといじめるんだから」

「いじめてるんじゃないわ。からかってるのよ」

「そうそう」

 こういうとき、二人は見事な共同戦線を取る。
 正直、なのはでは分が悪い。しょうがないので黙って、嵐が過ぎるのを待つことにする。まことに沈黙は金だ。

「にしても、三人か。フェレットを一人と数えるのはちょっと変ね」

「えっ。……ゆ、ユーノ君は家族なの。だから、ちょっと間違えただけで、別に変じゃないよ」

 どもったが何とか誤魔化すことができた。やはり、アリサ・バニングスという少女は勘が鋭い。
 父である士郎にも魔法がばれてしまった(正確にはクロノがばらした)し、いずれ二人にも告白しなければならないのかもしれない。
 しかし、それは今ではない。魔法のことなど知ってしまえば事件に巻き込まれるかもしれないし、ばれないようにとエイミィにも釘を刺されている。

「ふーん。やっぱり二週間ちょっとでも一緒に暮していれば、家族になれるんだ。なら、あの子も時間が解決してくれるかもしれないわね」

「あの子って?」

「ああ。この前、怪我をしてる犬を見つけたの。赤毛だから、最初は怪我に気が付かなかったわ」

「ふうん。首輪は?」

「してなかった。でも野良っぽくないのよね。妙に大人しいと言うか。どうする? せっかくだから見に行く?」

 アリサは軽く、何でもないように言った。





 犬小屋で眠っていたのは中型犬だった。
 怪我をしたのだろう。胴体に巻かれた包帯が痛々しい。

(ユーノ君、この魔力)

(うん、間違いない。この犬、使い魔だよ)

 魔導師になって日が浅いなのはにも感じ取れるほど魔力を放っている。
 試してみることにした。

「アルフ?」

 ビクッと犬の耳が動き、顔を上げる。

「なのは、この子のこと知っているの?」

「あ、うん。知り合いの所の子かも」

 そう言って、しゃがみこんで頭を撫でる、ふりをして念話を開始する。
 アルフも触られることを嫌がらなかった。

(貴方、アルフだよね? フェイトちゃんの所の赤毛の使い魔)

(そうだよ)

(私は高町なのは。なんで怪我してるの? フェイトちゃんは一緒じゃないの?)

(尋問する気かい?)

(違うよ。私は貴方達が心配だから聞いてるの)

(心配? なんで赤の他人のあんたがそんなことを)

(今は赤の他人だけど、私はフェイトちゃんと仲良くなりたい。友達になりたいと思っている)

 それを聞いて、吃驚したようにアルフはなのはを見た。
 その瞳をまじまじと見つめる。何かを探るようにくんくんと鼻を鳴らして匂いを嗅いだ。しばしの沈黙。

(わかった。あんたを信じる! どうか、フェイトをあの鬼婆から助けてくれ!)

 頼れる人間など誰もいなかったのだろう。アルフが念話で懇願する。
 それに対してなのはは真剣な表情で頷いた。





「で、友達の許可を取って、アルフを連れて帰り、そのままアースラに連絡してきたというわけか。すごい偶然だな」

 なのはとユーノ、アルフを前にしてクロノが感想を述べた。
 なのはに連れてこられたアルフを見たときは驚愕した。彼女が使い魔であり、また、高い忠誠心を持っているとわかっていたからだ。スパイダーの罠かもしれないと真剣に検討したぐらいである。
 だが、なのはから事情を聴いてしまうともはや感嘆のため息しか出ない。まるでお伽噺の主人公のような幸運だ。

「うん、そうだけど。何か、まずかった?」

「あ、いや。そういうわけじゃない。むしろ、よくやった。僕じゃあアルフの協力は取り付けられなかったかもしれない」

「別にあたしは管理局を信じたわけじゃない。なのはの真心を信じただけだよ」

 人間形態になったアルフがそう言ってクロノをジロリと睨む。
 バリアジャケットこそ着ていないが、警戒はしているようで、油断なく周囲を見回し、耳をピンと立て、鼻を時折ヒクヒクさせている。

「心外だな。まあ、敵だったわけだから信用できないのもわかるけど」

「いきなりマンションの壁をぶっ壊して奇襲しかけてくるような奴らだからね」

 ふん、と鼻を鳴らす。
 クロノもその反応を半ば予期していたのだろう。一つ、ため息をつく。

「これからの対応はフェイトとスパイダー次第だけど、悪いようにはしないと約束しておくよ。
 詳しくは艦長が来てからになるけど」

「わかったよ」

 そこで会話が途絶えた。
 アルフは椅子に座っているが小刻みに足を震わせている。
 フェイトのことが心配なのだろう。

(こんなに心配してくれる使い魔がいる娘が悪人のはずがないよね)

(まあ、普通はね)

 なのはからの念話にクロノは曖昧に頷いた。別にフェイトが悪人であると思っているわけではない。ただ、使い魔はたとえ主人が極悪人でも忠誠を尽くす存在であると知っていた。





 しばらくして、リンディがエイミィを連れてやって来た。

「遅くなってすみません、アルフさん。私が次元航行艦アースラの艦長、リンディ・ハラオウンです。こちらは管制指令のエイミィ・リミエッタ」

「ああ、どうも。それで、フェイトを助けてくれるのかい?」

「それはお話を聞いてからということになります。なのはさんから大体の所は聞いていますが、確認のため、もう一度詳しく聞かせてもらえますか?」

「わかった」

 そしてアルフは話し始めた。
 多少要領が悪かったり、アルフ自身も良くわからない点があったが概ねスムーズに話すことができた。

「まとめると重要情報は七つだね。
 ・フェイト・テスタロッサにジュエルシードの回収を命じたのは母親のプレシア・テスタロッサ。
 ・プレシアはジュエルシードを使って何かを成そうとしているが、何をしようとしているかはわからない。
 ・フェイトちゃんはプレシアを慕っているが、プレシアはフェイトちゃんを憎んでいるかのように虐待を繰り返している。
 ・スパイダーはプレシアとは面識がなく、フェイトちゃんが地球で雇ったただの傭兵兼案内役である。
 ・現在、フェイトちゃん達が回収したジュエルシードは六つで全て、プレシアの手にある。
 ・フェイトちゃんへの虐待に怒ったアルフがプレシアを襲撃するも返り討ちに会い、なんとか地球に逃げてきた。
 ・プレシアは時の庭園という次元間移動可能な古代ベルカの遺産を拠点としている。
 ってところかな。地球での拠点の位置とかもあるけどそれは省略したよ。アルフさん、あってる?」

 エイミィがさくっとまとめるとアルフはブンブンと首を振った。

「ああ、その通りだよ。あんた、すごいね。あたし、結構長いことしゃべったのにあっというまに要約しちゃって」

「あはは、ありがとう。エイミィさんは天才だから」

「――と、まあ、こんな風に調子に乗るから、あんまり褒めないでやってくれ」

「ああ、ひどい、クロノ君。私は褒められて伸びるタイプなんだよ?」

「そうか。怒鳴られて伸びた僕にはその気持ちがわからないな」

「十三年と半年も苦楽を共にした仲なのに、薄情すぎるよ!」

「薄情で結構。まあ、百歩譲って天才なのは認めてやってもいいけど」

 えへへ、と嬉しそうに笑うエイミィをしょうがないなあ、といった風情でクロノが見る。

「……微笑ましいからずっと見ていたいけど、そろそろ夫婦漫才は終わりにしてね」

 リンディが相変わらずニコニコ笑って、しかし、どこか呆れた風に言う。その後ろではなのはとユーノがうんうんと頷いていた。

「ああ、えっと信じられないな。スパイダーがまったくの無関係だなんて」

「うう、いや、でも、それならフェイトちゃん達の背後に組織の痕跡がなかったのも説明がつくよ。でも、すごい偶然だね」

 慌てて話を元に戻したクロノに、エイミィが追従する。しかし、感心してるのは本当だ。正にその発想はなかった、という状態なのだろう。
 最初は現地で雇われた傭兵だという可能性も検討していたのだが、温泉でのスパイダーの対応、そして戦闘能力からその可能性は極小になった判断していた。
 しかし、考えてみればスパイダーは常にクロノ達の前では自分が首謀者であるかのように振る舞ってきた。
 次元犯罪としては大人が子供を使って犯罪を起こすというのは遺憾ながら良くあることだったので不自然に思わなかったが、アルフの話を聞いてからだとそう思わせるようにわざと振る舞っていたのだとわかる。しかも、嘘をつかないように敢えてぼやかして、だ。虚言は人を騙すのに非常に有効な手段だが、一度ついてしまうとだまし続けるために新しい嘘をつき続ける必要があり、短期的にならともかく、長期的に考えるとマイナスにしかならないのだ。

「ベルカの司祭なら神の御心によるものだと言うでしょうけど、多分、出会ったのは運命なのでしょうね」

「運命、ですか」

 リンディの呟きになのはが聞き返す。

「ええ。良いか悪いかはともかく、こういう確率の低い偶然が連続で起こることは大きな事件ではよくあることなの。
 たとえば、たまたま責任感が強くてジュエルシードの回収に乗り出したユーノ君のSOSを発信した近辺にたまたま、天才である貴女がこの世界にいたというのもね」

 そして偶然、同じレベルの才能を持つフェイトと出会い、戦ったこともまた、運命なのだろう。
 そうリンディは結論した。

「まあ、クライド風に言うなら、だけど」

 そう言ってぺろりと舌を出した。
 常人ならあざとく感じるが、十代後半にすら見えるリンディの美貌もあって違和感は無かった。

「それは良いんだけど、フェイトはどうなるんだい?」

「首謀者に虐待されて無理矢理利用されていたというのであれば罪は軽いわ。数年間の監視および嘱託魔導師としての無償奉仕ぐらいを代償に司法取引が成立するわ。
 使い魔である貴女もそれは同じよ。使い魔は基本、主君に逆らえないように作られているから」

「私のことはどうでもいいんだ。それよりフェイトのことを頼む」

 耳をへたらせて、アルフがリンディに言った。
 それに対して、リンディは深く頷いた。

「ええ、わかってるわ。そのために次に出てきたときに貴方に説得をお願いしたいんだけど」

「勿論やるけど、あんまり期待しないでほしい。フェイトは今でもまだプレシアを愛しているんだ。私が説得しても聞いてくれないと思う」

 アルフが悲しそうに言った。無力感に苛まされているのだろう。いや、彼女はこの任務の初期からフェイトを止めれない自分を憤慨していたのかもしれない。

「わかった。フェイトは僕達が止めて見せる」

「でも、スパイダーはどうする? 今回の件とは関係ないみたいだけど」

「いや、彼がアルフレッド・テスタロッサのクローンであることは間違いない。今回の件に関係してなくても何か見つかるかもしれないから、捕縛した方が良いよ」

「う~ん、いいの? それじゃあ、フェイトちゃんに当たるのはなのはちゃんとユーノ君だけになるけど」

 エイミィが腕組みをして思案しながら言った。ちらっとアルフを見る。どうやら彼女には今のクロノの言葉は聞こえなかったようだ。時折、ぶつぶつ独り言を言っているから恐らく思考の海を漂っている。
 連れてきた武装局員は陸戦型で固められていて、フェイト戦では役に立ちそうにない。それに、彼らには時の庭園の制圧という任務があるのであまり消耗して欲しくないのだ。
 リンディは問題外だ。敵の黒幕がプレシア・テスタロッサ、すなわち、SSランクの大魔導師だと分かった以上、同格であるリンディは切り札として温存しなければならない。敵に奇手が残されていないとも限らないからだ。

「僕もできれば援護に入るつもりだけど、多分大丈夫だろう。なあ、なのは」

 クロノの言葉になのはが頷く。

「うん。私はフェイトちゃんと全力で戦って、そして勝ちたい。あの子と友達になるにはそれしかないと思うから」

 なのはの言葉はシンプルでそれ故に力があった。それは成長すればカリスマと呼ばれるべきもので、なのはの持つ人の上に立つ才能の一つなのだろう。

「私からも頼むよ。なのは、フェイトと友達になってくれ!」

 アルフの言葉になのはが力強く頷いた。



[34641] クロノ・ハラオウン⑪
Name: 烏賊様刻◆e7251814 ID:b1305343
Date: 2012/10/21 11:49
 それが確認されたのは夜半になってからだった。
 アースラの索敵網が海鳴沖で強大な魔力が発生するのを感知したのだ。
 前触れもない魔力の発生は明らかに高ランク魔導師、すなわち、フェイト・テスタロッサの仕業だった。
 報せを聞いた高町なのはがアースラのブリッジに駆け込むと、そこにはリンディ、クロノ、エイミィが勢ぞろいしていた。

「来たわね、なのはさん。そこに立って話を聞いててくれる? これから作戦の話をするから」

 リンディが傍に来るように言った。その間にも彼女の前では目まぐるしくディスプレイに状況が映し出され、推移していく。

「サーチャー、敵影を捉えました。映像、出します」

 エイミィの報告と共に、海鳴沖の映像が前方の大型ディスプレイに映し出される。
 そこではフェイトが空気が震えるのが分かるほど膨大な魔力を海に注ぎ込んでいた。

「何をしようとしているかわかるか?」

「多分、海底のジュエルシードを複数個同時に覚醒させようとしてる。でも、明らかに無茶だよ、こんなの」

 クロノの誰何にエイミィが答える。

「放っておけば自滅するわね」

「ですが、このままではジュエルシードが暴走して次元震が起こる可能性があります」

「確かに、そうね」

 リンディなら暴走を力技で抑え込むこともできるが、プレシアへの警戒がおざなりになる。

「ここはクロノとなのはさん共同でフェイトさんを――」

「続けて海岸部でスパイダーを発見。映像を出します」

 そこには見覚えのある金の蓬髪の男。
 その両手には長大な銃器が握られている。

「スナイパーライフル? まさか、フェイトさんと戦ってる相手を狙撃する気?」

 高ランク魔導師の戦闘は高速戦闘。双方が時速四十キロメートル以上でストップアンドゴーと曲芸飛行を繰り返す。
 狙撃などできる物ではない。しかし、それは向こうも承知しているはず。
 それなのに持っているということは、撃つ自信があるということなのか。
 相手は体一つでクロノを圧倒した男だ。油断はできない。
 スナイパーライフルだと、口径と弾丸次第ではなのははともかく、クロノやユーノのバリアジャケットは貫通される可能性がある。

「無視するには、大きすぎるわね」

 しかし、そうなるとフェイトに当たるのはなのはとユーノということになるが、一抹の不安が残る。
 高ランク魔導師との戦いとはそういうものだ。一対二という状況に見えるが、ユーノは攻撃手段を持たないため、実質は一対一。そして、なのははまだ魔法を知ってから日が浅く、未熟だ。

「フェイトさんが魔力不足で疲労困憊するまで待つべきね。エイミィ、警戒を密にして。タイミングが重要になるわ」

「リンディ艦長、私に行かせてください!」

 ずっと話を聞いていたなのはが言った。

「フェイトちゃんと友達になるには、今しかありません。疲れ切って満身創痍のあの子に勝っても友達にはなれない」

「なのはさん、もう少し自重しなさい。今、貴女の肩には地球人六十億の命が乗っているのよ。その重さを考えなさい」

 意識して冷たい声でリンディはなのはを咎めた。
 管理局の意義についてはエイミィがなのはに簡単にだが説明したと報告を受けている。ユーノからもある程度の話は聞いていたようで、ジュエルシードがこの世界を危険にさらしているということは簡単に理解してくれていた。
 だが、なのはは私情でそれを無視している。
 議論をしている暇もない。リンディはリンカーコアから意図的に魔力を放出することでプレッシャーをかけた。普通ならその重圧に何も言えなくなるところだろう。

「たった一人の女の子を救えなくて、どうして六十億もの人間が守れるんですか!」

 しかし、なのははただの少女ではなかった。
 かつてクライド・H・ハラオウンがそうであったように、高町なのはもまた英雄の器を持った人間なのだ。

「フェイトさんを救わないなんて私は言ってない。この状況での優先順位を把握しなさいと言ってるの!」

「だから、私がフェイトちゃんに勝って、ジュエルシードの暴走も止めると言っているんです!」

「確実に勝てる戦いなんて存在しないわ。高ランク魔導師との戦いは常にギャンブルの要素をはらむ。不必要なら起こすべき物ではないの。しかも経験不足のあなたに任せられる物ですか。身の程を知りなさい!」

 そう。ここでなのはが介入して、その後フェイトに負けると、敵に大量のジュエルシードを与えてしまう。
 それはあまりにもハイリスクだ。プレシアが何のためにジュエルシードを集めているかはまだわかっていないが、ろくなことにならないのは想像に容易い。
 だから、フェイトが疲労して倒れるのを待つべきなのだ。よしんば、ジュエルシードを制御して回収したとしても、そこになのはをぶつければ、容易く倒せるだろう。
 互いに一触即発。次元航行艦の艦長と九歳の少女が一歩も退かずに睨みあう。ブリッジクルー達は醸し出される緊張感にどうなることかと沈黙していた。

「いえ、艦長。僕もなのはの意見に賛成です」

 口を挟んだのはクロノだった。

「クロノ、どういうこと?」

「フェイトが一人でやっているとなればこれはただの焦りからのミスで済ませますが、相手にはスパイダーがいます。
 歴戦の戦士が艦長の作戦を想像できなかったとはとても思えません。おそらく何か策を張っているのだと思います。それもえげつないヤツを」

 クロノの言葉にリンディは黙り込む。
 確かにこの状況、待ちの一手が有効だということが露骨過ぎる。その方向に持っていくことが作戦だとしたら嵌ると不味いことになるかもしれない。

「でも実際問題、どうやってこの状況を覆すというの?」

「わかりません。ですが、僕はスパイダーと二度戦っています。僕らの想像もしない一手を打ってきているかもしれません。
 奇策で翻弄される前にリスクを背負って打って出るのが最善だと思います」

 それを聞いてリンディは黙って考え込んだ。彼女はスパイダーのオリジナルであろうアルフレッド・テスタロッサを熟知している。
 執務官としてのいろはを教えてもらった先輩でクライドとも親交の有った男だからだ。
 勇敢にして智に長ける、知勇兼備の代名詞のような男だった。
 更に実際に戦ったクロノの意見だ。手合わせをした者にしかわからない相手の性格や思考というものは確かにある。

「……クロノ、エイミィ。なのはさんはフェイトさんに勝てる? 忌憚のない意見を聞かせてちょうだい」

「ミッド式の接近戦型魔導師との戦い方は一通り叩き込みました。勝つ目は十分にあると思います」

「今回は私がなのはちゃんの管制指令につくつもりです。必ず、勝たせて見せます」

 クロノとエイミィの言葉を吟味し、頷く。

「……わかったわ。なのはさん、出撃を許可します」

「――っ! ありがとうございます、リンディ艦長!」

「ただし、必ず勝ちなさい。ここで負けると本格的に地球が、いえ、複数の次元世界が危険よ」

「はい!」

 リンディの言葉になのはが力強く頷く。その顔には自信が満ちていた。

「では、転移ゲート開きます」

 ブリッジクルーの声と共に、なのはとユーノ、アルフ、そしてクロノの足元に光り輝く魔法陣が現れる。

「転移は少し浮遊感があるから酔わないようにね。転移直後の奇襲にも気を付けて」

 それを聞いて、なのはは慌ててバリアジャケットを展開する。一瞬、なのはの体が光に包まれ、白を基調とした袖の先の青い、独特のバリアジャケットに包まれた。

「それでは、状況開始!」

 リンディの号令と共に転移魔法陣がひときわ強く輝き、次の瞬間、光の粒子をまき散らしてクロノ達は消えた。





 フェイトは海上で膨大な魔力を放ち続けていた。
 限界以上の魔力を放ち続けている代償か、リンカーコアの軋む音が聞こえてきそうだ。
 だが、やめるわけにはいかない。フェイトは管理局の次元航行艦が近日中に来ているか、もう到着しているころだと知っていた。
 到着すれば、人員が投入され、ジュエルシードは速やかに回収され、プレシアの要求した四つのジュエルシードを集めることは不可能に近くなるだろう。
 だから、こんな無茶な作戦を提案し、スパイダーも渋々受け入れたのだ。

「――っ! あああああああああああああああああああああああっ」

 フェイトが吼えた。ジュエルシードが覚醒し、乱気流を生み出す。
 複数のそれはすぐに合わさって嵐となって、フェイトを翻弄した。
 それを全力で抑え込もうとするが、力が足りない。
 無理に出力を上げようとしたせいで、軋んでいたリンカーコアが悲鳴をあげる。

(駄目だ。持たない)

 もはや離脱する余力もない。フェイトの前面に水の壁が現れる。嵐によって起きた高波だ。
 飲み込まれることを覚悟して、身構える。だが、不意に手を引かれた。
 最初は錯覚かと思ったが確かに手を引かれている感触がある。
 小さな、だが温かな手だ。
 そのまま、フェイトは引っ張り上げられ、波を避けた。

「フェイトちゃん、大丈夫?」

 フェイトを助けたのは白いバリアジャケットの少女だった。
 よほど急いできたのだろう、息を切らしている。

「君は、高町なのは?」

 確か、そう名乗っていた。あの夜の森で戦った少女だ。彼女は敵のはずだ。なのに何故、自分を助けたのだろう。

「なんで?」

「えっ?」

「何故、私を助けたの?」

 その言葉に一瞬、きょとんとしたなのはだったが、すぐに言葉を返した。

「普通の人は死にそうな人が居て、助けられるなら助けに行くと思うの」

「でも、私達は敵同士だ」

「今はそうだよ。でも、私はあなたと友達になりたい。そう思っているの」

 フェイトの心臓がドクンと脈打つ。
 友達。その言葉を聞いて鼓動が速くなる。

「私にそんな資格はない」

 フェイトは熱くなった目頭を悟られぬように顔を背けた。

「資格があるかどうかはフェイトちゃんが決めることじゃない。私が決めることだよ」

 なのはは真剣な顔で一切の韜晦も含まず言った。

「でも、私は……」

「フェイト。なのはと友達になって、幸せになろう。プレシアのことだって管理局が何とかしてくれるって言ったんだ」

「アルフ……。でも、私は――」

「あの、三人とも。とりあえず、ジュエルシードを封印、回収しよう。ものすごく時化てきた。時間をかけると町に被害が出るよ」

 黙って周りの状況を探っていたユーノが申し訳なさそうに言った。
 言われてみると嵐はどんどん激しくなっているように思われた。
 フェイトとアルフが頷く。そして、四人は動き出した。
 フェイトとなのはが魔力を放出してジュエルシードを抑え込む。
 アルフとユーノがバインドをうまく使って、ジュエルシードを海から引き上げる。
 そして、荒れ狂うジュエルシードをなのはとフェイトが各個に封印していく。
 五分ほどかけて、終わった時には四人とも荒い息を吐いていた。
 
「フェイトちゃん。別に私と友達になるのが嫌なわけじゃないんだよね」

 なのはの言葉にフェイトがかすかに頷く。
 友達、という言葉になにか心を揺さぶられる物は確かにあった。
 それはフェイトの短いながらも激しい人生の中で得たことがないものだ。
 しかし、フェイトは次元犯罪者でなのはは管理局の側だ。
 友人関係など結ぶべくもないのではないか。そう思考するフェイトになのはが近づく。
 そして、不意打ち気味にフェイトの手を握った。
 思わず警戒するフェイトに構わず、なのはがフェイトに魔力を送り込んだ。
 淡い桜色の光が金色の光に変換される。
 軋んでいたリンカーコアが魔力で満たされていくのをフェイトは感じた。

「なら、勝負して決めよう。ジュエルシードの所有権をかけて一対一で勝負する。それで私が勝ったらフェイトちゃん、私と友達になってよ!」

「……私にはそれを受けるメリットがない」

「なら、私が持ってる全てのジュエルシードを賭ける!」

(ちょっと、なのはちゃん!?)

 エイミィからの念話を無視してなのははレイジングハートにジュエルシードを放出するように命じた。
 一瞬の躊躇の後、レイジングハートが四つのジュエルシードを宙に放出する。
 先ほど回収したのと合わせて八つの水色の宝石が宙を漂う。

「世界の命運をかけるよ。どう!?」

 フェイトは戸惑った。
 なのはにはそんなことをする意味がない。常識的に考えて、後で管理局から大目玉を食らうのではないだろうか。
 
「どうして、そこまで。私なんかにそんな価値ないのに。母さんもスパイダーも私を認めてくれないのに」

「友達になるのに価値なんて、少なくとも私には関係ない。二回戦って分かった。フェイトちゃんと友達になれれば、私はもっと楽しくなれる」

 そう言って、なのはニッと笑った。

「フェイトちゃんも戦うの、好きでしょ? わかるよ、私」

「……分かった。受ける。けど――」

 フェイトは初めて不敵に笑った。精巧なアンティークドールのようだった彼女の雰囲気が戦士のそれに変わる。

「――私は負けない」

 バルディッシュが起動する。ジュエルシードを封印するためのシーリングフォームからベーシックフォルムである長柄の斧に。金色の魔力刃が展開される。
 同時に、フェイトは全身から魔力を解放した。発される膨大な魔力に大気が震える。
 それをなのはは嬉々として受け入れた。
 なのはが魔力を譲渡したことにより、なのはとフェイトの魔力はほぼ同じ。つまり、実力勝負になるということだ。

(エイミィさん、そういうことだから、申し訳ないけど――)

(はいはい。じゃあ、私はクロノ君の方に集中するから。……勝ってね!)

 なのはの申し訳なさそうな念話にエイミィが苦笑して頷いた。流石にこの状況でオペレートするほど空気が読めなくはない。
 合図もなしに二人が同時に動く。
 それは、後の世に語り継がれる二人のエースの激突の始まりだった。





 なのは達と別れたクロノは一人、エイミィのナビゲートを受けてスパイダーの元に飛んだ。
 迷路のようなビル群の中を高速で飛び回る。そして、一際高いビルの屋上で、スナイパーライフルを構えるスパイダーに接近した。
 スパイダーも来ることを予期していたのだろう。その表情に焦りはない。特に何事もなく、クロノはスパイダーの眼前にたどり着いた。

「ユーノか僕を狙撃してくるかと思いましたが」

「無茶を言うな。俺はただの人間だぞ? 時速数十キロで飛ぶ人間を狙撃するなんて不可能だ。
 こいつはただ、お前を釣り出すためだけに持ち出したものだ」

 そう言ってスパイダーはスナイパーライフルを後ろに置いたバッグの中に軽くほうり捨てた。

「ここでお前を倒して離脱出来れば、ジュエルシードは必要な分集まる。それで依頼は完了だからな」

「いいんですか? そんなことを僕に言っても。情報はできるだけ漏らさないのが鉄則でしょう」

「まあ、つまり、お前を生かして返すつもりはないということだ」

 スパイダーからピリピリとした殺気が降りかかる。それは高ランク魔導師が魔力を解放した時に起こる大気の鳴動とはまた違うプレッシャーだった。
 痛打された記憶が思い起こされ、委縮しそうになるのを辛うじて堪える。
 対策はしてきた。切り札もある。こういうときのために毎日辛い訓練を積んできたのだ。
 思考がクリアーになり、集中力が高まっていく。

「なるほど。しかし、ただの傭兵にしておくには惜しい男ですね、貴方は」

「……そうか。アルフがそちらの手に落ちたか。それに次元航行艦も到着しているようだな。まったく危ない橋でも渡る物だな。特に後ろから追手が迫ってきている時には」

 クロノの発した『傭兵』という言葉だけで大まかにこちらの状況を察したらしい。
 流石は元辣腕執務官のクローンといったところか。
 そして、今のこの状況をスパイダーは決して好ましいものではないと思っている。

「アルフレッド、投降しませんか?」

「高町士郎から聞いたのか。だが、俺をその名で呼ぶな」

 明らかな怒気を滲ませてスパイダーが告げる。
 クロノはその反応に違和感を感じた。この冷静でクレバーな男がたかが名称ぐらいでこれほど感情を露わにするなど。
 勿論、人にはそれぞれ譲れない一線という物がある。それが眼前の男の場合、名前であったのかもしれないが。

「失礼、ではスパイダーと。もう一度言いますが、投降しませんか? 貴方の目的はミッドチルダに行くことらしいですが、それなら管理局に頼っても同じでしょう」

「雇い主を裏切れと? 心外だな。お前の眼にはどうやら俺は相当な卑怯者に見えるらしい」

「卑怯は嫌いですか?」

「いや、大好きだ」

 スパイダーがペロリと舌を出す。
 子供っぽい仕草だがこの男がやると何故か様になった。

「戦士とは例外なく、卑怯であるべきだからな。しかし、嘘は嫌いだ。俺はフェイトと契約した。それを破るなど問題外だ」

 その目に映るのは覚悟。
 これ程の男ならば、魔導師と生身で戦うということがどれほど危険なことなのか、クロノ以上に熟知しているはずだ。
 彼はただ、九歳の少女との約束を守る、そのために死地に飛び込んできたのだ。
 本当に傭兵にしておくには惜しい男だ。

「貴方を尊敬します。まるで"青面獣"のようだ」

 クロノはその尊い信念を戯曲の騎士に例えることで称えた。
 それは幼子と交わした口約束を守るために七千の魔導師をたった一人で食い止めた偉大な騎士である。

「叙事詩に残る騎士に例えられるとはこそばゆい。俺は俺の目的のために行動しているだけだ」

 そう言ってスパイダーは拳を構える。
 それに対してクロノも構えを取った。
 やや半身に構え、短杖は前に出した左手に逆手に持って、だらりと下げ、右手は顎の下に。
 膝を軽く曲げて重心をやや後足にかける。
 地上で構えれば蹴りを重視した構えだが、その身体はわずかに宙に浮いている。
 そして静かに戦いの火ぶたが切られた。



[34641] クロノ・ハラオウン⑫
Name: 烏賊様刻◆e7251814 ID:b1305343
Date: 2012/10/28 12:12
 下段に見せかけて、上段に変化する回し蹴り。
 それが、クロノの初手だった。
 スパイダーは冷静に見切り、半歩前に出てそれを両手で受け止める。
 骨と骨がぶつかりあう硬質な音が響く。
 非魔導師にとって、バリアジャケットに覆われた四肢は十分凶器に成り得るが、『魔力透過』を持つスパイダーには意味をなさない。
 それでも魔力で身体強化された蹴りは彼を揺るがせた。まともに受けていれば腕の骨がへし折られていただろう。

「ぬぅっ」

 唸り声と共に踏ん張り、流れのまま繰り出されたクロノの短杖をかろうじて避ける。
 脇腹をかすめ、ジュッと服が焦げる音がする。
 三度目の戦いとなり、クロノは明らかに弱点に気づかれているとスパイダーは判断せざるを得なかった。
 徹底した接近戦を行っているのはそのためだ。

「ちぃっ!!」

 距離をとろうとするスパイダーにそれを許さず中段蹴りを放つクロノ。
 それを寸前で躱されると、今度は短杖で突く。

(エイミィの分析通りだ。このまま打撃戦を続ければ僕が有利だ)

 間断なく攻撃を続け、また、時折くる牽制を避けながらクロノは思考する。
 スパイダーの弱点は身体能力が人相応であることだ。
 鍛え抜かれてはいるが所詮は生身。瞬間的な膂力や脚力という点ではフェイトやなのはを下回っているだろう。
 魔力による身体強化でパワーとスピードはクロノが上回っている。
 リーチの差とテクニックでスパイダーは張りあっているが所詮誤魔化しにすぎない。
 今は凌がれているが、このまま闘い続ければいずれクリーンヒットが出るだろう。そこをたたみかければ良い。

「おぉっ!!」

 左の下段回し蹴り。鋭いそれをスパイダーは足を上げて膝で受ける。
 脛と膝がぶつかる鋭い痛みを無視してクロノは右足を振り上げた。
 下段から突如、上段に変化する可変蹴り。
 しかし、それはスパイダーが攻撃の手を控え、待っていた蹴りだった。
 クロノが二度の戦いを経て、スパイダーを分析したように、スパイダーもまた、クロノを分析している。
 一歩踏み込んで上段蹴りを膝のあたりで両手で受けて、そのまま掴みとる。

(――っ!! 蹴りを見せすぎたか!)

 例の投げが来る。そう判断したクロノは膝関節を極めようとするスパイダーに対して、左足を一歩踏み込んだ。
 スパイダーは一瞬膝を逆に曲げる。しかし、それはクロノの読み筋だ。
 反発する力が発生しないことに驚愕して一瞬動きが止まる。

「J・S・Sをカットしているだと!?」

「とった!!」

 叫びと共に繰り出される短杖。
 しかし、スパイダーの底はその程度で暴かれるほど浅くはなかった。
 投げられず、短杖がかわしきれぬと見るやいなや、右足を抱え直し、膝を極めにかかったのだ。
 短杖が折れた肋骨を完全に砕く鈍い音に一瞬遅れて、靭帯のちぎれる異音が響いた。
 両者ともに、地面に膝をつき、悶絶する。

「ガアッ!!」
 
 先に立ち直ったのはスパイダー。歴戦の戦士である彼は肋骨を砕かれた地獄の苦痛に耐えた。
 ほとんど間もなく立ち上がり、雄叫びをあげて、伏せたクロノの顔面にめがけて蹴りを放った。
 全体重を乗せた中段蹴りが側頭部にヒットする。
 成す術もなく蹴り飛ばされたクロノはしかし、不自然な程吹き飛ばされ、地面に足をつけずそのまま滞空する。
 飛行魔法でわずかに浮き上がり、相手の力に逆らわないことで打撃を流したのだ。

 「ちっ、器用な奴だ」

 舌打ちして呟く。それに反応する余力はクロノにはない。

(今の一撃で持っていけなかったのは痛い)

 蹴られた頭の鈍痛と膝から伝わる激痛をこらえ、クロノは思考する。あくまでクレバーに。
 クロノの予想では肋骨を砕いて怯んだところを追撃してフィニッシュのはずだった。
 しかし、スパイダーは例の投げを無効にされた動揺から一瞬で立ち直り、クロノの膝を折ってのけた。

(読みが浅かった。この人は、すごい)

 クロノは侮ってなどいなかった。二度も苦渋を飲まされた相手である。
 ミドルレンジの接近戦にJ・S・Sの解除など万全の対策を練ったはずだったが、まだ足りなかったようだ。

「……投降してもらえませんか。今なら僕の権限でできる限りの弁護をします」

 クロノの選択は今更ながらの降伏勧告。精一杯の誠意を込めたつもりである。
 そもそも、もはや勝負の是非を決めるのは自分達ではない。高町なのはとフェイト・テスタロッサの二人だ。クロノが勝ってもこの足ではなのはの援護は難しいし、スパイダーが勝っても空中にいるフェイトを援護する手段がない。スパイダーは十分役割を果たしたと言えるだろう。
 それに次に使う技は、危うい。加減がきかないため、相手を殺しかねない技だ。
 スパイダーはその少年の優しさに、黙って構えることで答えを示した。やや半身で、左手を前に緩やかに突き出し、右手は胸に向かってひきつける。
 少し、変形だがストライク・アーツの構えによく似ていた。
 ならば、クロノの返答も決まっている。
 体は真半身。短杖を右手に順手に持ち、左手は肩口の高さに構え、足幅は小さめ。折れた右足をかばうように左半身に体重をかける。その体はごく低くだが、魔法で飛んでいる。
 ただただ、短杖での突きのみを考えた構えだった。
 あえて前面に出した右足は囮だ。蹴ってきたところをカウンターで短杖を突きこむ。
 スパイダーもそれがわかっているのだろう。汗が浮かんだその顔は今まで以上に厳しい。
 緊迫した空気。時間の流れが緩やかになり、一瞬が永遠に引き延ばされる感覚。
 クロノは気づかない。かつてないほど集中していることを。膝からの激痛に耐える精神力。高揚する精神に対応する様に分泌されたアドレナリン。三度に渡る強敵との戦いの中でクロノは確かに成長していた。
 痛いほどの静寂。沈黙の中でじっとりと汗を流しながら両者はきっかけを待つ。
 上空のなのはが発する桜色の魔力光が、周囲を眩く照らした瞬間、クロノとスパイダーは動いた。
 スパイダーのローキックとクロノの捩じりこむような刺突。
 どちらも卓越していたが、弧を描くローキックよりもまっすぐに貫くクロノの刺突の方が早く届く。
 だが、スパイダーはその一撃を受けて笑った。
 打撃というものは腕力だけでなく、体重を乗せないと意味がない。ボクシングのジャブのように、クロノの刺突は速かったが重さが欠けていた。
 しかし、クロノはそれを受けて笑う。トン、という軽い衝撃と共に、杖が当たり、スパイダーのローキックは力を失い、糸が切れた人形のように前のめりに倒れた。

「何を、した。体が、動か、ん」

「切り札を使いました」

スパイダーの誰何にクロノは答えた。 
痛みがこらえきれなくなったのか。膝を押さえて、脂汗をかいている。

(あの突きか。何かの魔法がかかっていたのか)

 スパイダーのレアスキル『魔力透過』は魔法で作り出された炎や雷には意味をなさない。
 あの瞬間、クロノはスパイダーに接触した短杖の先から何かを放った。
 砕けた肋骨を突かれた痛みとその一瞬後に訪れた不可解な衝撃。
 それが今、スパイダーを地に這いつくばらせ、立てなくしている力だった。

(これは、クライドの……。そうか、あいつの息子なら同じことができても不思議ではない)

 霞む意識の中、考える。
 それはスパイダー自身の記憶ではなかったが、我がことのように思い出せる記憶。
 自分が死ぬ瞬間の記憶を覚えている者など彼以外にいるまい。

(記憶を否定し、目を背けていたのが仇になったか。いや、違うな。クロノ・ハラオウンが強かった、ただそれだけだ)

 強い者が勝ち、弱いものが負ける。この無常なる世においてそれが真実なれば、敗者が何を言っても言い訳になる。
 クロノ・ハラオウンが勝ち、スパイダーが負けた。ただそれだけが事実なのだから。
 意識が薄れていく。

 クロノは気絶したスパイダーを前にため息をついた。
 懐に入れていた手錠を取り出し、スパイダーにはめる。

「何とか勝ったか」

 息は荒い。くじかれた膝の激痛は時が経つごとにひどくなってきており、痛みに反応して嫌な汗が吹き出てくる。
 アースラでの早急な手術が必要だろう。幸い、飛行魔法を使えば移動には支障がない。

(エイミィ。なのは達はどうなってる?)

 念話を送る。
 この足では援護は厳しいし、そもそもなのはは一対一の戦いを望んでいたが、クロノにも執務官としての意地がある。
 九歳の女の子を一人戦わせてのほほんとしているわけにはいかない。

(なのはちゃんは大丈夫。今のところは互角に戦っているよ。それよりクロノ君の方が危ないよ。一端アースラに帰還して)

(僕なら大……)

(大丈夫なわけないでしょう。膝が壊れてるのはわかってるんだから。スパイダーを逃がすわけにもいかないし、おとなしくいったん帰還してよ。これは提督の意向でもあるんだから)

(……わかった。でも帰るのは二人の戦いを見届けてからだ)

 クロノはそう返して、海上を見た。
 そこにはピンクと金色の光が目まぐるしく踊っていた。





 なのはとフェイトの戦いは中遠距離型の魔導師と中近距離型の魔導師の典型的な戦い。すなわち、お互いに有利な距離の取り合いとなる。
 互いに高速移動魔法、フラッシュムーブとソニックムーブを駆使し、自分の距離を保とうとする。また、バインドと誘導弾で牽制し、相手をその距離に釘付けにしようとする。
 自然、その戦闘は近距離と遠距離の中間である中距離戦が主となる。
 海上を高速で桜色と金色の魔力光が飛び交う。
 遠目に見ればそれは規模は違うものの、夜空を彩る金と桜色の花火にも似ていただろう。

「ディバインシューター、シュート!!」

「フォトンランサー、ファイア!!」

 なのはが桜色の誘導弾を一息に三つ打ち出せば、フェイトは宙に浮かんだ魔方陣から金色の剣のような魔力弾を放って相殺する。
 それを目くらましにフェイトが切り込めば、なのはがシールドで受け止め、高速で後退して距離を取る。
 それを追おうとするが、なのはがデバイスを構えるのを見て慌てて進路を変える。
 なのはの収束砲撃、ディバインバスターを警戒してのことだ。
 温泉旅館近くでの戦闘で見せられたそれをフェイトは警戒していた。
 あれは直撃すればバリアジャケットごと貫通される、文字通りの『大砲』だ。
 フェイトは直進は避けて、ジグザグの軌道を描いて接近する。常人なら霞んで見える速度のそれをなのはは正確に誘導弾で追う。天賦の動体視力と対フェイト用に積んだ修練、その成果だ。避けきれず、やむなくフェイトは前進を止めて、後退した。向かってきた誘導弾をバルディッシュの魔力刃で切り払う。
 
(スパイダーの言った通りだった。前よりずっと強くなってる。この短期間で)

 あんな賭けを申し出てきたぐらいだから、自信はあるのだろうとは思っていた。
 しかし、想像以上だった。
 マルチタスク、誘導弾の性能、そして高速移動魔法による離脱。全てが高いレベルで備わっていて、あの夜の森で戦ったときとは別人のようだ。
 それは天賦の才によるものだけではない。おそらく自分との対戦を想定してみっちり模擬戦を繰り返している。
 何より、その顔面に張り付いたように浮かぶ表情。歓喜と恐怖が入り混じった、いわゆる獣の笑み。
 それでもまだまだ粗削りだ、とフェイトは感じた。じっくり行けば無傷で攻略できるかもしれない。
 しかし、スパイダーの援護を考えると時間をかけている暇はない。
 
(賭けに出る!)

 そう決めるが早いか、フェイトは一気に加速した。ソニックムーブではない、純粋な飛行魔法による加速。体勢を崩さないため、即座に攻撃に移ることができる。
 しかし、距離が遠い。しかも、直線的なその軌道はなのはが待っていたものだ。

「ディバイン――」

 まっすぐフェイトに向けられたレイジングハートの先端に膨大な桜色の光が灯る。
 それを見てもフェイトはひるまない。むしろ、更に加速した。

「――バスター!!!」

 襲いくる桜色の収束砲撃。それを見てフェイトは気が遠くなるような感覚を味わった。

(これから逃げていてはあの子には勝てないっ!!)

 フェイトは射撃の瞬間を見切って、一気に下方向、地上に向かって加速した。
 強烈な慣性に体が軋む。だが、重力と飛行魔法による加速はこれまでにない速度を生み出し、紙一重でディバインバスターを回避した。
 頭のてっぺんをピンクの魔力光がかすっていく。バリアジャケットが干渉して耳障りな音をたてる。
 だが、それでも。

(避けた!!!)

 なのははまだ、砲撃を放った反動で硬直して動けない。
 フェイトはその隙に一気に距離を詰めた。

「バルディッシュ!」

『Scythe form』

 バルディッシュがフェイトの声に呼応して、鎌形の魔力刃を形成する。
 フェイト自身の自重と膂力、そして速度を加味して上方から振り下ろされたそれをなのはは辛うじて前腕部、バリアジャケットのもっとも強固な部分で受け止めた。
 すさまじい衝撃に受け止めたバリアジャケットが軋む音を立てる。
 だが、フェイトの真の狙いはバリアブレイクではない。
 なのはの四肢を金色の魔力輪が拘束する。

「バインド!? いつの間にしたの!?」

 なのはのその言葉に反応する者はいない。フェイトはわずかに距離を取った。これから行うフェイトの切り札はある程度の距離が必要なのだ。

「アルカス・クルタス・エイギアス。疾風なりし天神、今導きのもと撃ちかかれ――」

 詠唱。魔力量だけでほとんどの魔法が行使できてしまうフェイトが呪文を唱えた。
 そのことがこれから行われる攻撃がどれほど強大であるかを示している。
 詠唱と共に中空に生み出される無数の魔方陣。
 それは、フェイトがリニスから受け取った彼女の最大攻撃魔法。

「――バルエル・ザルエル・ブラウゼル。フォトンランサー・ファランクスシフト。撃ち砕け、ファイアー!!!」

 現れたフォトンランサーの砲門、金色の魔法陣は合わせて三十八基。そこから秒間七発の一斉射撃。
 どんなに強固なバリアジャケットでも関係がない。すべて吹き飛ばし、塵も残さない。砲撃魔導師のお株を奪うフェイトの砲撃。
 それがなのはに襲いかかった。
 なのはから見たその攻撃は金色の集中豪雨。台風の中に身を投げ出されたようなものだった。
 巨大な自然災害にどうして人が生身で抗えよう。
 しかし、

「レイジングハート!!」

『All right, master』

 そこに一人と一基で、敢然と立ち向かう少女がここにいる。
 まず、なのははその強固なバリアジャケットによって、攻撃を耐えた。
 一秒、二秒、三秒。
 金色の豪雨がバリアジャケットをガリガリと削り取っていく。
 刻一刻と防壁が削り取られていく中で想像を絶する恐怖となのはは戦い、そして勝った。
 そして、バリアジャケットが限界を迎えた瞬間、絶妙なタイミングでレイジングハートがバリアジャケットを炸裂させた。
 バリアバースト。
 バリアジャケットや防御魔法を意図的に崩壊させることで相手の攻撃を軽減する技能で、なのははちょうど戦車のリアクティブ・アーマーのように攻撃を防いだのだ。
 こんな密度の攻撃が長く続くわけがない。それはなのはの直感であったが、間違いではない。
 フォトンランサー・ファランクスシフトの継続時間は四秒間、計一○六八発。
 まさになのははギリギリのバリアバーストで、死中に活を得たのだ。
 レイジングハートが稼いだ一秒はまさに珠玉の成果だった。

「ディバイン――」

 バインドを引きちぎり、金色の光をかき分けるようにレイジングハートをフェイトに、上空でたたずむ好敵手に向ける。
 もうバリアジャケットはない。バリアバーストの反動で体はぼろぼろだ。だが、なのはは意識があり、生きている。
 フェイトが気づいて回避しようとするがもう遅い。

「――バスター!!!」

 桜色の魔力光が宙を走る。全てを呑みこまんと迫るその光にフェイトは必死に防御魔法を向けた。

(耐えろ。あの子は私の攻撃を全て耐えきったじゃないか!)

 ラウンドシールドにかかる恐ろしい負荷に構成が壊れ始める。それを遅らせるために、もはや止めるのは不可能と判断しても、フェイトは全力で魔力を込める。
 最後まで諦めない。それもリニスに教わったことだ。
 ラウンドシールドが負荷に負けて崩壊し、バリアジャケットに光線が直接当たって火花を発し始める。
 それでも抵抗を続けていたフェイトにかかっていた破壊的な負荷が、ぴたりと止んだ。

(耐えきった)

 そう安堵する心の隙を突くように、桜色の拘束具がフェイトを空中に縫い留めた。

「バインド!? いつの間に!?」

「やっと、捕まえた。こんどはこっちの番だよ」

 驚愕するフェイトになのはが毅然と告げる。フォトンランサー・ファランクスシフトとディバインバスター。二つの超威力の魔法により周囲には魔力が満ちている。
 なのはの切り札を使うには絶好の環境。

「これが私の全力全開! スターライト――」

 膨大な魔力がなのはの目の前に集中する。周囲に拡散していた魔力がみるみるうちになのはの意思に呼応して集まってくるのだ。
 自分の体外での魔力の収束、運用。

(これは、砲撃魔法の最上級技術!)

 フェイトはその技量に戦慄した。
 デバイスの補助があるとはいえ、九歳の少女の使える技ではない。
 何という天賦の才か。

「――ブレイカー!!!」

 そして解き放たれる奔流。

(スパイダー、母さん、ごめんなさい)

 奔流に飲み込まれる直前、フェイトはフォローできなかった仲間と、最愛の母の姿を思い浮かべた。





「なのは、ご苦労様。バインドされた時はどうなるかと思ったよ」

 ユーノが声をかけてくる。
 それになのはは息を整えながら微笑んだ。

「うん。私も死ぬかと思った。けど、レイジングハートが頑張ってくれたから」

『It's result of effort for master』

「ありがとう、レイジングハート。レイジングハートのおかげだよ」

 度重なる衝突でレイジングハートも細かい皹が無数に入っている。
 しかし、それでもこの忠実なデバイスは己の指示通り、寸分たがわず動いてくれた。
 その献身になのはは感謝せずにはいられなかった。

「なのは」

 海に向かって落ちるフェイトを拾い上げたアルフが飛び上がってくる。

「アルフ、フェイトちゃんは?」

「精密検査をしてみないとわからないけど気絶しているだけだと思う」

「そう、良かった」

 ほっと息を吐く。非殺傷設定を信用していないわけではなかったがやはり、自分のせいで何かあったらショックだ。
 ましてや、相手が友達になりたい女の子だったらなおさらだ。

(そうだ。わたし、勝ったんだ)

 改めて胸の内から込み上げてくる物がある。
 強敵に勝ったという満足感。
 フェイトと友達になれるという幸福感。
 アースラの皆の期待に応えられたという充足感。
 それら全てを感じて、なのはは満面の笑みを浮かべた。この気持ちを味わうためにまた戦いたい。純粋にそう思えた。

(……のはちゃん! なのはちゃん!!!)

 だから、エイミィの警告に気づくのが遅れた。
 気づけば、アルフはフェイトを抱きかかえて、防御魔法を張り、ユーノはこちらに向かって必死の形相で飛んできている。
 そして、上空に感じる膨大な魔力。
 天変地異の前兆にも通じるそれは魔法を覚えてまだ間もないとはいえ、天才高町なのはに絶望感を与えるには十分だった。

(まずい。完全に間に合わないの)

 レイジングハートが防御魔法を辛うじて張ってくれるが激戦の後、消耗した魔力では完全には程遠い。
 プレシア・テスタロッサの次元跳躍魔法、サンダーレイジ・O・D・J。
 総合SSランクの大魔導師の渾身のそれは消耗したなのは達を葬るには十分な威力を備えていた。
 天を覆う光に己の死を悟り、なのはは反射的に目を閉じた。
 一秒、二秒、三秒。
 痛みも感じないし、苦しくもない。
 なのはは目を開けた。すると、眼前には翠色の巨大な魔法陣が浮かんでいた。
 直径三十メートルはあるだろうか。なのははその魔法を良く知っていた。
 魔導師の基本の基本。防御魔法、ラウンドシールド。
 だがなのはの知るそれとは規模が段違いだ。こんな魔法を使うためにはどれだけの魔力が必要になるのだろう。

「まったく。目をつぶる暇があるのなら、最期の瞬間まで足掻きぬきなさい。それが生者の義務よ」

 そこには美麗なバリアジャケットから四枚の翠色の羽を生やした可憐な妖精がいた。

「リンディ、艦長?」

「ええ、良く頑張ったわね、なのはさん。でも、独断専行が過ぎるわ。アースラに戻ったらお説教するから覚悟しておいてね」

 よく見ればその額にはピクピクと青筋が浮かんでいる。相当お冠のようだ。
 ふええええっ、となのははいつもの悲鳴をあげた。



[34641] クロノ・ハラオウン⑬
Name: 烏賊様刻◆e7251814 ID:b1305343
Date: 2012/11/04 14:33
 フェイトが目を覚ますとそこは見知らぬ部屋だった。
 狭い室内にベッドと中くらいのクローゼットと小さなサイドテーブルがあるだけの部屋だ。
 身体がだるい。寝起きで回らない頭でここはどこだろうと考える。

「フェイト、目を覚ましたんだね! 良かった、心配したんだよ」

 アルフが尻尾をブンブンと振ってベッドに駆け寄った。
 よほど心配していたのか、目じりには涙の痕がある。

「アルフ」

 己の使い魔の、家族の献身が嬉しい。
 そして、徐々に記憶が思い出された。
 迫りくるピンクの奔流が視界いっぱいに広がったところで記憶が途絶えている。
 魔力ダメージでノックダウンされたのだろう。体がだるいのはそのせいだ。

(そうだ、私、負けたんだ)

 あの栗色の髪の少女に。まっすぐこちらを見据えてくる桜色の魔力光の少女に。
 不思議とわだかまりはなかった。状況はこちらに不利であったが、全力を尽くしたと思う。
 その上で尚負けたからだろう。若干の悔しさはあるが、それは些細なことだ。

「フェイト、負けちゃったね」

 アルフの言葉に大きく頷く。

「負けたね。うん、完敗だった」

 そう口に出してしまうと、わずかに体のだるさが減じたような気がした。
 逆に清々しさすら感じる。

「負けたら、友達になるんだっけ」

「うん。なのははそう言ってたね」

「本気だと思う?」

「私はそうだと信じた。だから、管理局に力を貸したんだ」

 アルフは言った。そして、思い出したように耳をぺたんと伏せて申し訳なさそうにする。

「ごめん、フェイト。フェイトの許可も取らずに私は管理局にフェイト達の情報を話した。
 これは使い魔としての分をわきまえない行為だったと思う」

「ううん。アルフが私のためを思ってやってくれたことだもの」

 フェイトは微笑んだ。

「こうなった以上、仕方がない。管理局と交渉してみる。少しでも母さんの助けになれるように」

「ああ、そうだね。それが一番か」

 アルフが無意識に体をなぞった。そこにはまだ包帯が巻かれている。アースラの医者に治癒魔法をかけてもらったおかげでもう痛みはないが火傷の痕は残るだろうと言われた。
 プレシアに対して、複雑な気持ちを抱いているのだろう。歯切れ悪くアルフは言った。





「ふむ。特に問題はなさそうですな。まあ、収束砲撃が直撃したとはいえ非殺傷設定です。まだ若いんだし、すぐにだるさも消えるでしょう」

 診察に来たアースラの艦医は笑顔を浮かべてそう言った。

「そうか、よかった。後遺症でも残ったらどうしようかと」

 アルフが大仰にため息をつく。
 非殺傷設定とはいえ、トラウマを刷り込まれたり、PTSDになることは珍しいことではない。
 身体に傷は残らなくても心に傷が残る場合はある。それが同格の高ランク魔導師との激戦ならなおさらだ。

「ええ。私も安心しましたよ。若い魔導師は次元世界の宝ですからな」

 老齢の医者が言った。
 彼の言うことは間違いではない。多くの世界、特に管理局の影響がある世界で質量兵器の製造、使用が法的に規制され、環境に影響を与えないクリーンな兵器である魔法が用いられている。
 そして、魔法とは生まれ持った才能の差がはっきりと現れる技能であり、その才能は多くの場合、親から子に遺伝される。
 ミッドチルダではそこまでされていないが、管理世界の中には魔導師同士の子作りを奨励し、特にリンカーコアを持った新生児には育児補助金を出している世界もあるほどだ。それは魔導師と非魔導師の差別意識を生み出す元凶になる危険性が指摘されているし、一概に良い法律とは言えない。
 しかし、魔導師と非魔導師では魔力で強化される身体能力に雲泥の差があるし、戦闘になった場合でもバリアジャケットがあるため、火薬式の実弾兵器のような『旧式』で密造しやすい質量兵器では効果が薄い。よって、後方要員を含めたとしても、軍の主力となるのは魔導師なのである。
 つまり、文字通り、魔導師は国にとって宝なのだ。

「いえ、そんな宝なんて大層な物じゃないです」

「ははは。謙遜は美徳ですが、度を過ぎると嫌味ですぞ。胸を張っていればよろしい。貴方の魔力は国宝級です」

 白くなった顎髭を撫でて、医者は言った。
 フェイトはわずか九歳でAAAランク相当の魔導師。これは広い次元世界で数千人しか確認されていない程の才能だ。
 地球の総人口は六十億。これは次元世界でも多い方だが、同規模か、少し少ない程度の次元世界は多数存在する。
 全て合わせれば、兆の単位に楽に届く。
 その中で数千人しかいないと言われればその才能の希少さがわかるだろうか。
 国宝という比喩も決して言い過ぎではない。

「では、私はこれで失礼しますぞ。ああ、そういえばこの後"我らがエース"、ああいや、クロノ執務官が事情聴取に来ると聞いていますが、ご存知でしたかな」

 老医師にそう言われ、フェイトは首を振る。

「ああ、ゴメン。私が言い忘れてた。確かに聞いてるよ」

 アルフがそう言うと、医者は一つ頷き、丁寧に挨拶して、部屋から出て行った。





 クロノがフェイトの部屋にやってきたのはそれからしばらくしてからだった。

「やあ、ちゃんと話すのは初めてかな。前も名乗ったけど、もう一度名乗っておくよ。クロノ・ハラオウンだ」

 フランクな話し方を意識する。
 状況次第では、というかリンディなどはもう嘱託にする気満々なのでほぼ絶対、同僚になるはずなので仲良くしておいて損はない。
 笑顔も浮かべて見せたのだが、肝心のフェイトとアルフの反応は薄い。

「な、なんだよ」

 無言で半目になってこちらを見てくる二人にクロノは慌てた。

「ああ、いえ、別に」

「別に。ああ、脇腹が痛いな。これはプレシアのせいじゃないな。もっと前の怪我のせいだなぁ」

「あ、アルフ!」

 露骨に脇腹上部、肋骨を服の上から撫でる。それをフェイトが咎め、クロノが苦笑した。

「まあ、言いたいことはわかるけど、君達が反乱でも起こさない限り、もうそんなことはしない。家名に誓ってね」

 両手を横に開いて安心させるようにクロノは言った。
 謝ったりはしない。あれは執務官としてやらなければならない襲撃だったと自信を持って断言できる。

「不必要な時にでも戦いを望むのは戦士ではなく、狂人だ。そうだろう?」

 それを聞いて、アルフは脇腹を撫でるのをやめた。嫌味を言っていても始まらないということに気づいたのだろう。
 回復魔法で治療もしたし、二週間もたっている。プレシアから受けた治療の時にアースラの老医師にも見てもらった。アルフはもうとっくに完治しているのだ。

「まあ、そうだね。なのはを信じた半分くらいはあんたを信じてやるよ、クロノ」

「アルフ、またそんな言い方で。済みません、クロノ執務官」

「いや、憎まれることをやった自覚はある。後、呼び方はクロノと呼び捨ててくれていいよ。敬語も無しでいい。新米なもので、執務官って呼ばれるの、慣れてないんだ」

 そう言って、クロノは苦笑した。
 そのまま、少し雑談をする。
 フェイトは癖なのか、敬語は崩さなかったがだいぶ警戒を解いて話をしてくれた。
 クロノもフェイトも幼いころから戦いの訓練を積んできた人間だ。
 しかもタイプは違えど、同じミッド式の近接型魔導師。
 当然というべきか、話は弾んだ。
 アルフも交えて三人で穏やかに談笑する。
 近接戦闘におけるバリアジャケットの突破方法。
 中距離での牽制及びにバインド魔法に対する対処法。
 結界破壊、及びバリアブレイクのコツなど。
 互いに学んできたことを教え合う有意義な時間だった。
 どちらかと言えばクロノが教えることが多かったがそれは年の功と師匠の違いというべきだろう。
 色気の類が全くない話だったが、九歳の女の子に対してそんなことを考えるのがおかしいのだ。

「じゃあ、今度模擬戦をやりましょう」

「了解。理論だけわかってもどうしようもないからね。実際に使ってみるのが一番だよ」

 嬉しそうに模擬戦の約束をするフェイトにクロノは一つ頷いた。
 そろそろ頃合だ、とクロノは話を変えることにした。

「それで、ちょっと話を聞かせてもらえないかな」

 コホンと咳払いしてクロノは言った。

「君達の行動全般について詳しく教えてくれ。特にプレシア・テスタロッサと時の庭園の情報が欲しい」

「取り調べってわけかい?」

 目を細めて声を緊張させたアルフにクロノは真面目な顔で頷いた。

「そう取ってもらっても構わない。本当ならリンディ艦長とエイミィも連れてくるべきなんだけど二人とも用事があってね」

「エイミィ?」

「ああ、僕の相棒兼アースラの管制指令だよ。今は管制指令の方を頑張っている」

「でも、クロノだって怪我を」

「あれ、ばれてたか?」

「足音が全くしませんでしたから。飛行魔法で薄紙一枚程度の高さに浮いてますよね? 足を怪我しているんじゃないですか?」

「ご明察。ちょっとスパイダーとの戦闘で足を挫かれちゃってね。回復魔法をかけてもらったんだけど、まだ本調子じゃない」

 実際には挫かれたなどという生易しい物ではない。膝を内側に強烈に捩じられ、靭帯断裂、および膝蓋骨剥離骨折の重傷だ。
 回復魔法と接合手術。そして局部麻酔で痛みは麻痺しているものの、膝はサポーターで厳重に固定され、二週間の安静と魔法による治療を医者に宣告されていた。

「まあ、話をするぐらいなら問題ないよ」

 そう言ってクロノは意識して微笑んで見せた。母やエイミィほど優しい笑みではないが十分効果はあったようで、険しい顔をしていたフェイトの雰囲気が緩む。

「はい。私が知ってることは全部話します。ですから、母さんをお願いします」

「母さんというのはプレシア・テスタロッサのことだよね」

「え、はい、そうですけど」

 クロノはプロジェクトF.A.T.Eの話をするかで少し迷った。
 プレシア・テスタロッサの娘でフェイトのオリジナルであろうアリシア・テスタロッサは十六年前に死んでいる。
 それを話すべきかどうか迷ったのだった。
 最悪、この娘は自分がクローンであることさえ知らない可能性があるのだから。
 少し考えてクロノはフェイトに言わないことに決めた。
 デリケートな問題での失敗を避けたかったということもあるし、他人が口を挟む問題ではないという思いもあった。

「うん、プレシアの弁護は僕と母さん……リンディ艦長とエイミィの三人で万全に行う。勿論、君たちについてもね」

「ありがとうございます」

 母親のことを思い出したのだろう。
 フェイトは少し悲しそうに頷いた。
 その後、時の庭園の正確な現在位置と警備状況、そしてプレシア・テスタロッサの大まかな情報を聞き出した。
 残念ながらプレシアの戦力や研究内容についてはフェイトは詳しく知らないようでアルフから聞いた情報と大差ない知識しか知ることができなかった。

「こんなところかな。協力してくれてありがとう」

「いえ、自分達のためですから」

 フェイトは微笑んで言った。

「予想外に楽だったよ。もっと厳しく尋問されるのかと思ってた」

 アルフが拍子抜けしたように言う。実際に安心したのだろう。
 スパイダーから聞かされた話では拷問の可能性すらあるという話だったのだ。

「君らは協力的だったし、犯罪を強要されていた未成年とその使い魔だからね。対応も穏やかになるというものさ」

「プレシアの場合はどうなるんだい? やっぱり黙秘したら拷問とかされるのかい?」

「いつの時代の話だよ。管理局はクリーンな組織だ。動乱期のゴタゴタしていた頃ならともかく、今はそんなことはありえない。
 特にそれで失敗があってからは取り調べに関する法律は大幅に改善されたんだ」

「そうかい。スパイダーが言っていたから、ちょっと心配していたんだけど」

 アルフがほっと胸を撫で下ろした。
 あんなのでも、フェイトの母親だからね、とでも言いたげではあったが。

「彼の知識も十年以上前で止まっているんだろうね。まあ、死んだのが十六年前だから当然と言えば当然だけど」

「え、何ですか。最後の方、良く聞こえなくて」

「いや、何でもない。とにかく、その情報は古いってことを言いたかった」

 慌ててクロノが誤魔化す。
 アルフが不審げにクロノを見るが、目を逸らすと追及はしてこなかった。
 今のは失敗だったと反省する。

「じゃあ悪いけどしばらくここで待機してくれ。スパイダーと会うのももう少し後になる。夕食はまた届けさせるから」

 そう言ってクロノは手早く部屋を出た。
 膝がズキンと痛む。
 どうやら麻酔が切れてしまったらしい。
 耐えがたい痛みに耐えつつ、クロノは医務室に向かった。






 クロノがフェイトと話していた頃、リンディはスパイダーの部屋を訪れていた。
 スパイダーは気絶から回復し、もうベッドから起き上がっていた。
 トレードマークの黒いボディースーツは脱がされ、折れた肋骨を圧迫する様に包帯が巻かれている。

「お久しぶりと言った方がいいかしら。それとも初めまして?」

「どちらかと言えば初めまして、だな、リンディ・ハラオウン。君は十六年前から何も変わっていない」

 初めまして、と言いつつスパイダーはリンディ・ハラオウンを見知っていると言い切った。

「なるほど。貴方は本当にプロジェクトF.A.T.Eの産物なのね」

「俺はプロトタイプに近いと聞いている。記憶の転写も不完全で曖昧だ。君がチャーミングなのは変わっていないと辛うじてわかる程度だ」

「あら、お上手ね」

 そう言って微笑みながら、リンディはこの男はアルフレッドではないのだと確信していた。
 容姿が十六年前とほとんど変わっていないというかむしろ若々しくなっているという点もあるが、何よりあの朴念仁の唐変木が女におべっかを使えるとはとても思えなかった。

「それじゃあ、本題に入らせていただいても?」

 リンディは背筋を伸ばして言った。
 自然、スパイダーも真剣な顔になる

「あぁ、構わん」

「では、貴方の目的は何?」

 いきなりリンディは切り込んだ。

「アルフから貴方はミッドチルダに行くことが目的だと聞いたわ。でも、それはあり得ない。
 貴方はギル・グレアムが地球出身だと知っている。彼を訪ねればいくらでもミッドチルダに渡航できたはず。
 いえ、そもそも傭兵だと名乗った貴方が平和な日本にいたことがおかしい」

 リンディがそこで一旦言葉を切る。スパイダーは無言で続きを促した。

「貴方がフェイトさんに出会ったのは偶然じゃないんじゃないの?
 貴方はジュエルシードが海鳴市周辺にばらまかれることを知っていた。そして、回収に来るフェイトさんに会うために日本にやってきた」

 全て聞き終わってもスパイダーは無言だった。
 何か思案をしているように眉を寄せ、そしてゆっくりと首を横に振った。

「残念ながら考えすぎだ。ギル・グレアムを五年前から何度か尋ねたが全て留守だった。だから、俺はミッドチルダに行く方法を別に探さなければならなかった。
 日本に来たのは戦友に会うためだ。俺とて長く戦場にいれば、心が荒んでいく。休暇が必要だと感じて、偶々日本にやってきていた。
 プレシアがアリシアのクローンを作っているとは思わなかったし、日本に来ているなどと誰が想像できる」

「では出会って仲間になったのは偶然だと?」

「勿論、仲間になったのは打算もある。俺はミッドチルダに戻りたかったからな。
 だが、あえて言うなら、フェイトと出会ったのは偶然じゃない。運命だ」

「そう。貴方はフェイトさんに同情してるの?」

「同情していないと言えば嘘になる。しかし、共感の方が大きいな」

「共感?」

「本人に確認を取ったことはないが彼女も俺と同じ記憶転写型のクローンだ。
 境遇だって似ている。プレシアがフェイトを愛していないことはよくわかった」

「貴方も愛されなかった?」

「ああ、俺は培養槽から出されたときにはもう大人だったし、三十六年分の記憶がおぼろげながらあったからな。振る舞いも相応の物だった。
 犯罪組織だったし、そんな異様な実験体を愛する人間なんていなかった」

「そう」

 リンディは短く頷いた。スパイダーの中でもうその件については折り合いがついているのだろう。声には特に感情は含まれていなかった。
 ならば、他人がそれに踏み込むのはルール違反だ。

「その犯罪組織というのは? 誰が貴方を作ったの?」

「順を追って話そう。シンジケートはブラストの下位組織だ。イタリアで現地のマフィアに偽装していた。実際にミッドチルダ産の違法ドラッグを扱っていたこともあるようだ。
 ブラスト崩壊の時は末端でミッドチルダから離れた所にあったから管理局の捜査から逃れられたらしい。詳しくは知らん。もっとも、もう俺が潰してしまったがな」

 そうスパイダーは言った。

「次に俺の製作者だが、名前はジェイル・スカリエッティ」

 スパイダーの言葉にリンディが息を呑む。
 J・S・Sのプログラムを組み上げ、プロジェクトF.A.T.Eの基礎理論を組み上げた稀代の天才科学者だ。
 裏では人体実験なども厭わないマッドサイエンティストだったと聞いている。

「そう、ブラスト壊滅後から噂を聞かなくなったと思ったらこんな辺境にいたの? 随分高齢だったと思うけど、今は?」

「もういない。俺が殺した」

「そう」

 スパイダーが話し、リンディが微笑みを消して頷いた。
 沈黙が部屋に満ちる。
 聞きたいことは全て聞いた。ミッドチルダに行きたい理由は聞いていないが、三十六年間暮らした記憶のある地だ。別に不自然ではない。
 いや、一応聞いておくべきか。

「そう言えば、何故、ミッドチルダに行きたいの? 別に地球は悪い場所ではないと思うけど」

 スパイダーの顔がわずかに歪んだ。が、リンディは気づかなかった。
 別にスパイダーの反応が見たくて聞いたわけではなく、ただ、一応の確認として漫然と聞いただけに過ぎなかったからだ。

「……別に。地球では色々と思い出したくないことが多くなった。国を変えても思い出すことは多い。だから、世界を変えようと思った。それだけだ」

 スパイダーの返答も当たり障りのない物で、だからリンディはスパイダーのわずかな変化に気づけなかった。
 地球では色々あったようだし、住処を変えようと思い立ってもおかしくはない。
 そう自然に思った。

「そう。聞きたいことはそれだけよ。あなたの処遇は追って知らせます。悪いようにはしないと約束するわ」

 そう言って、リンディは背を向けた。扉に向かって歩き出す。

「待て。プレシア・テスタロッサを逮捕しにいくんだろう。俺も連れて行け」

「何故?」

 リンディが振り返る。その表情には若干の不審感が浮かんでいた。

「管理局に協力的な態度を取っておいた方が裁判で有利になると思っただけだ」

 どこか皮肉げにスパイダーが言った。
 それを見て、リンディはほんの少し微笑んだ。

「残念だけど、戦力は足りているわ。肋骨の折れた傭兵を雇うほどじゃないわね。
 心配しなくてもフェイトさんは責任能力のない未成年。アルフさんはその使い魔。貴方は事情も知らずに現地で雇われたただの傭兵。罪なんか軽い物よ」

「……そうか。安心した」

 そう言って、スパイダーはごろりとベッドに横になった。
 それを見届けてから、リンディは部屋を出て行った。
 扉の閉じる音を確認して、しばらくしてからスパイダーは大きく舌打ちした。
 勿論、それは誰にも聞こえなかった。





「前方に大型建造物を確認。……照合完了。時の庭園と思われます」

 索敵していたアイシス二等海尉が報告する。

「ご苦労。通信を繋げてちょうだい。並行して接舷の準備に入ります。それから、武装局員に出動の準備をさせなさい」

「了解」

 エイミィを含むブリッジクルーが全員同時に声をあげ、作業に入った。
 クロノ、なのは、ユーノ、フェイト、アルフの五人も艦橋にいる。
 怪我人をブリッジに置いておいても大丈夫なぐらい、今回の作戦は楽な作業になるはずだった。
 フェイトからの情報では時の庭園には兵力が魔力駆動の傀儡兵ぐらいしか残っていないらしいし、そもそも次元航行艦が来てしまった以上、プレシアには投降かやけくその反抗しか手は残されていない。
 そして、後者を視覚的圧力で封じるための武装局員である。
 プレシア・テスタロッサにほんの少しでも賢明さが残っているなら、投降するはずだった。

「接舷、完了しました」

「続いて、武装局員が庭園内に侵入、管制を開始します」

「庭園外部に敵影なし。伏兵などは無い物と思われます」

「通信ジャック完了しました。プレシア・テスタロッサに繋ぎます」

 次々と報告が入り、ブリッジの前面モニターに黒い髪の病的な雰囲気の女が映し出された。

「時空管理局遺失物管理課、リンディ・ハラオウンです。プレシア・テスタロッサ、貴方にロストロギア管理法違反、及び、違法研究の疑いがかかっています。
 速やかに武装を解除し、局員の指示に従いなさい」

 そう告げると、プレシアはじろりとモニター越しにリンディを睨んだ。

「久しぶりね、リンディ。クライドは元気?」

 その言葉を聞いた瞬間、リンディは一瞬凍りついたような無表情になった。そして微笑む。

「クライドは死んだ。もう十年も前になるわ」

「そう、いい気味。あの人を殺した男だもの」

「ええ、人殺しにはふさわしい最期だったわ。クライドも、そしてアルフレッドもね」

 今度はプレシアの顔が凍りつく。

「任務の上でのことだったわ。少なくともアルフレッドは」

「そうね。ブラストと内通して、幹部の地位にいなければ、ね」

「あの人は潜入捜査官だった。潜入した組織で地位を得るなんて、情報収集の必要から当たり前のことだったのよ。それをあのクライドが!」

 激昂したプレシアはゴホゴホと咳き込んだ。
 尋常な咳ではないことはすぐにわかった。見れば、口を押さえたプレシアの右手は赤く染まっている。

「プレシア、貴女、病気を?」

「……でも、もういいの。私にはアリシアがいるから」

 リンディの誰何に答えず、プレシアは言った。

「アリシアは、貴方の娘は死んだはずよ」

「ええ、死んだわ。だから生き返らせるの。アルハザードに行ってね!」

 何を言っているのか一瞬、わからなかった。
 アルハザード。お伽噺に語られる幻の国。
 そこではあらゆる科学技術と魔法技術が修められ、死者の蘇生すら可能だったという。

「プレシア、貴方、狂った? アルハザードなんてお伽噺よ。そんなものは存在しない」

「いいえ、虚数空間の海にアルハザードは今なお存在している。私はアリシアと共にそこに行くの」

「虚数空間? まさか意図的に次元震を引き起こす気? そのためにジュエルシードを集めていたというの!?」

 リンディの顔が蒼白になる。信じられなかった。あの聡明なプレシアがそんなことをするだなんて。
 彼女が言っていることに嘘が含まれていないとしたら、次の一手は予測できた。

「エイミィ! 武装局員達を退却させて! 来るわよ!」

 それと同時にプレシアに近づいていた局員がプレシアの手から放出された雷に文字通り薙ぎ払われた。
 それは展開していたサーチャーにも影響を与えたのだろう。プレシアではなく、部屋の奥に映像が切り替わった。
 ブリッジにいる全員が息を呑んだ。そこには薬液で満たされた培養槽があり、金髪赤目の、フェイトにそっくりな少女が胎児のように丸まって浮かんでいた。
 特に変化が著しかったのはフェイトだった。その少女の姿を見た瞬間、即座に行動に移った。
 言葉もなく、フェイトの足元に転移用魔法陣が展開される。

「フェイト!?」

 アルフの声もフェイトの耳には届かない。そのまま、フェイトは転移した。

「――っ! クロノ、なのはさん、ユーノ君、アルフさん。悪いけど仕事よ。私と一緒に時の庭園を占領してもらうわ。
 エイミィ、局員の退却状況は?」

「最悪です。先ほどの攻撃と同時にAランク相当の傀儡兵が起動しました。総数およそ百二十。武装局員と交戦中ですが、厳しい相手だと思われます」

「そう。では私となのはさんとユーノ君が傀儡兵を止めるために庭園中心部の魔力炉の制圧を。
 クロノとアルフさんはフェイトさんを追いなさい。何が起こったかわからないけれど、プレシアの方に向かっているなら彼女が危険だわ
 合流後、プレシアの逮捕を」

 四人が頷き、それを見てリンディが一つ頷く。そしていつものように宣言しようとした。

「状況開……」

「報告します。スパイダーが脱走しました」

 ブリッジに駆け込んできたクルーに遮られる。

「どういうこと、簡潔に説明なさい」

「食事を届けようとドアを開けたらもぬけの殻でした。ベッドはまだ温かったので逃げ出してからまだ時間は経っていないと思われます」

 このタイミングで脱走するなら目的地は時の庭園しか考えられない。
 つまり、あの何でもないように言いだされた最後のあの提案こそがスパイダーの目的だったということだ。
 しかし、理由がわからない。アルフレッド・テスタロッサの記憶からプレシアを助けようとしているのか。
 だが、それならもっと他に方法があっただろう。そこまで考えてリンディは考えるのをやめた。今は他にすべきことがある。

「エイミィ。映像記録型サーチャーを多めに」

「はい、スパイダーを探すんですね。見つけたら報告します」

「任せるわ。それでは、状況開始!」

 ブリッジの全ての人間がそれぞれの仕事を果たしはじめる。
 クロノ達五人はそれを尻目に時の庭園に乗り込むべく駆けだした。 



[34641] クロノ・ハラオウン⑭
Name: 烏賊様刻◆e7251814 ID:b1305343
Date: 2012/11/13 22:08
 転移魔法で時の庭園にたどり着いたフェイトはただ一途にプレシアの研究室に向かって駆けた。
 余力など少しも考えない全速力。リニスと共に鍛錬した中庭を瞬く間に抜けて廊下に。
 そこには警備用の傀儡兵が溢れていた。

「邪魔を、するなあああああああああああああああ!!」

 速度を緩めずにバルディッシュを起動。セイバーモードで起動し、傀儡兵たちの群れに分け入り剣を振り回す。
 当然、傀儡兵からロックオンされ、無数のレーザーが降り注ぐが、それをバリアジャケットの防御に頼んで無理矢理突破しようとする。
 自分の中のどこの何のスイッチが入ったのか、わからない。ただ、自分がやらなければいけないことはわかる。
 ■す。一瞬見えたあの娘を■す。このままでは自分が自分でいられない。
 瞳に宿るのは狂気と憎悪。剥き出しになった犬歯から涎が垂れる。

「あああああああああああああああああああああああああああああっ!!!」

 雄叫びと共に剣を振る。数体の傀儡兵がまとめて吹き飛ぶ。反撃のレーザーがバリアジャケットを削り、ついには貫通し、肌を焼く。
 だが、気にならない。幸い致命傷ではなかったが深刻であることは間違いがない。
 しかし、そんなことより道をふさがれていることにのみ、いらだちと焦燥を感じる。

「どけええええええええええええええええええええええぇ!!!」

 更に剣を振り回し、強引に道を確保すると、フェイトは一気に突破する。
 その背中にレーザーが何本も突き刺さる。さすがにその痛みはこらえかねたのか、飛行魔法が解除され、地面に落ちる。したたかに膝を打ち、激痛が走るが無視して起き上がる。その間に突破された傀儡兵達がその間にフェイトを包囲しようとする。狭い廊下内のことだ。たちまちフェイトは包囲される。ギリギリと歯を鳴らす。
 このままではジリ貧だ。強引に突破するのも限界がある。一旦、撤退すべきだと冷静な部分が主張する。
 しかし、頭の大部分、炎に焼かれたように熱い部分が突撃を主張する。
 そしてそれに従おうとした時、

「フェイト、落ち着いて!!」

 急に聞こえてきた叫び声と共に後ろから抱きすくめられる。

「アルフ、上へ逃げろ!」

 後ろから抱き着いてきた女、アルフがそのまま上に向かって急加速する。
 止まりきれず天井にぶつかったものの、上手くスペースができ、そこをピンクとライトグリーンの奔流が迸り、傀儡兵達を飲み込んでいく。

「放せ! 邪魔をするな! 私はあれを殺すんだ!!!」

 暴れるフェイトに、だが、アルフは必死に抱きしめ、体を振り回されながらも放さない。

「フェイト、フェイト。大丈夫だ。フェイトに良く似たあいつはもう死んでたよ。
 だから、だから。正気に、元のフェイトに戻っておくれよぉ」

 涙で顔をくしゃくしゃにしてアルフが言う。

「アルフ……」

 少しずつ精神が落ち着き、冷静になっていく。
 それを見てとったのか。リンディが口を開く。
 
「クロノ、アルフさん、手筈通りに。相手は総合SSランクの大魔導師よ。決して気は抜かないで。私達三人はここで別れるわ」

「了解です。……御武運を」

 頷くクロノと別れて、魔導炉に向かう。
 本来、プレシアに対しては同じ大魔導師であるリンディが向かった方がいいが、リンディは武装局員の安全を優先した。
 魔力量が多いだけの素人なら負傷しているとはいえ、クロノとアルフ、そしてフェイトを加えれば十分制圧可能だと考えたのだ。
 人員優先主義の管理局らしい思考だと言えた。

「フェイト、暴走の理由は後で聞かせてもらうとして、とりあえずはここを切り抜けてプレシアを確保する。君にも協力してもらうぞ」

 クロノの言葉にフェイトは無言で頷いた。

(そうだ、母さんを助けるんだ。今は他のことを考えるべきじゃない。母さんの立場が少しでも良くなるようにしないと)

 母のことを考えるとジクジクと胸の中で痛むものがある。それをフェイトは敢えて無視した。
 今はそれを深く考えるべき時ではない。
 仕事と私用の脳の切り替えが迅速であるという長所はこんな所でも力を発揮していた。

「フェイト、前衛を頼みたいんだが怪我は大丈夫か?」

 クロノの言葉に二、三度軽く体を動かして調子を確かめる。
 背中を火傷しているのか、ひきつるような痛みを感じるが動きに支障が出るほどではない。

「大丈夫、いけます」

「じゃあ、前衛がフェイト、アルフが遊撃でその援護、僕が後衛で指揮をする。武装局員の脱出を優先させるために殲滅を是とする。それほど厄介な相手でもないが、孤立しないようにだけ注意してくれ」

 クロノがテキパキと注意点を述べる。
 フェイトとアルフが頷くのを見てとってからクロノは言った。

「それじゃあ、行動開始!」





「なのはさん、前衛とはいえ突出せず進みなさい。撃ち漏らしは私が全て撃墜するから、一番効率のいいところに砲撃を撃ち込むことに集中しなさい。今、出てきている程度の相手ならバリアジャケットを維持して適切な距離を保っていれば、怪我をすることは万に一つもないわ。ユーノ君はなのはさんの援護に集中して。残りは全部私が引き受けるから」

 リンディの指示になのはは宙に浮かびあがると敵が密集している場所にレイジングハートを向けた。
 
「ディバインバスター!!」

 桜色の奔流に飲み込まれ、傀儡兵が即座に崩壊していく。
 その周りを翠色の誘導弾が飛び回り、無事だった傀儡兵を即座に破壊していく。
 そして出来た道を三人が駆け抜けていく。

「すごい。十以上の誘導弾をあんなに自在に操るなんて」

「ユーノ君、集中して。次が来るわよ」

 言われてユーノが慌てて半球状の防御結界を張ると、一瞬遅れておびただしい数のレーザーが飛んでくる。
 結界にかかった負荷にユーノが苦悶の声をあげる。

「まずい! 破られます」

「安心して結界の維持に集中しなさい。仮に破られても私は勿論、なのはさんのバリアジャケットでも十分に耐えられるわ」

 慌てるユーノを落ち着かせるように平静な様子でリンディが言った。
 その言葉は気休めではない。AAAランクの魔導師のバリアジャケットとはフェイトのように速さに特化するために意図的に薄くしなければそれほど頑強な物なのだ。
 ユーノが結界を維持する。何発かレーザーが結界を抜けるが全てリンディとなのはのバリアジャケットで防がれた。

(この状況で僕となのはに対集団戦のレクチャーまでしようとしている?)

 しかも十発以上の誘導弾を維持しながらだ。
 "妖精"と呼ばれる大魔導師がいることは知っていた。だが、リンディはその特徴である翠色の光翼すら出していない。この人はどれだけすごいのだろう。
 驚愕を込めてリンディを見ると、リンディはそれを受け止めてにっこりと笑った。
 顔を紅くして、目を逸らす。大人並の判断ができる冷静なユーノもまだ九歳なのだ。

「さあ、相手の隊列が乱れたわ。行くわよ、なのはさん。この狭い廊下で防御の薄い相手を殲滅する。何を使えばいいかわかるわね」

「はい。スティンガーブレイド――」

 なのはとリンディが同時に魔力を練り上げる。桜色と翠色の魔力光が周囲に放射される。

「――エクスキューションシフト!」

 同時に現れたのは三百に届こうかという魔力で作られたピンクと翠の剣の群れ。
 それが一斉に傀儡兵に襲い掛かった。数十体の傀儡兵が瞬く間に駆逐される。
 度重なる魔力の過放出に、さすがに肩で息をするなのはに対してリンディは息を切らしてもいない。

「なのはさん、私に掴まって少し休憩しなさい」

「は、はい。そうさせてもらいます」

 荒い息をつくなのはがリンディの肩にしがみつくとリンディはそれを確認してからまた、前進を開始した。
 魔力炉までの道はもう遠くはない。
 




「フェイト、突出しすぎだ。二メートル戻れ。アルフ、フェイトを孤立させるな」

 クロノが矢継ぎ早に指示を出し、短杖の先からスティンガーレイを放つ。
 それに対応しようとした傀儡兵の隙をついて、包囲されかけていたフェイトがアルフの援護に合わせて下がる。
 プレシアの研究室に向かう回廊はやはりというべきか予想していた通り、いや予想以上の数の傀儡兵が存在していた。
 相応の戦術思考もあるらしく、こちらを分断しようと立ち回ってくる。

(エイミィ、母さんの方はどうなっている?)

(順調に魔力炉に向かって進行中。でも、もう少し時間はかかるかな。援軍は期待しない方がいいよ)

(了解。ありがとう。おかげで腹が決まったよ)

 エイミィと念話で話して確認を取る。プレシアが次元震を起こそうとしているなら猶予は一刻もない。
 つまり、それは賭けに出る必要があるということだ。
 恐らく指揮をしているのだろう他より二回り大きな傀儡兵を睨みつける。

「フェイト、アルフ、敵を引き付けてくれ。僕があの大きいのを叩く」

「了解」

「わかったよ」

 フェイトとアルフが同時に動いた。今までフェイトを前衛にアルフが援護していたのを変化させ、二人が同時に傀儡兵に向かって切り込む。
 同時に左右に開いて、傀儡兵を誘引する。ちょうど、後衛のクロノからまっすぐ巨大傀儡兵に道が開けた形になった。

「おおっ!!」

 クロノが声をあげて突撃する。巨大傀儡兵が反応してレーザーを放つが、発射の瞬間を読んで、微妙な体重移動で軌道を変えて避ける。
 そして、突撃速度をすべて威力に転化した突きを放った。
 ガギリと硬い物同士がぶつかる音が響き、巨大傀儡兵の胴体に亀裂が走る。
 だが、それだけだ。倒すには至らない。
 傀儡兵の体がガシャリと駆動音を鳴らす。同時に衝撃波を全身から周囲に放った。
 全方位魔力放射。
 高ランクの砲戦魔導師が近距離戦で使うもので文字通り、全方位に魔力による衝撃波を放つ。
 傀儡兵の放ったそれは高ランク魔導師が放つ物ほど威力は無かったが、クロノの動きを止めるには十分だった。
 球形の巨大傀儡兵が動きの止まったクロノに自重を利してのしかかる。
 それを両手で受け止めた。五百キログラム近い質量がクロノに襲い掛かる。
 それはわずかに浮いて足をかばっていたクロノを問答無用で地面に押し付けた。
 踏ん張った左足の膝から激痛が走る。

「――っ!!! があああ!!!」

 しかし、気合と共にクロノは歯を食いしばり、全身のバネを使って巨体を押し返した。
 傀儡兵が地面に接触し、ズシンと重い音をたてる。
 そのまま体勢を崩している巨大傀儡兵に短杖を突きこんだ。

「ブレイクインパルス!!」

 巨大傀儡兵の動作が一瞬止まり、その後あっという間に崩壊し、部品を飛び散らせて四散した。
 見ていたアルフが感嘆の声をあげた。

「派手な技だねぇ。もっと地味な魔法しか使わないと思っていたよ」

「使い勝手はあまり良くないけどね。こういう硬いのを相手にするときは重宝している」

「すごい技でした。どういう原理かは見当もつかないけど」

 フェイトとアルフの賞賛に満更でもないように頷く。
 ブレイクインパルスはクロノの切り札の一つ。どうしても倒せない相手を制圧するために使うものだ。
 本来は魔法名を叫ぶ必要もないのだが、相手が巨大であったため倒しきれないことも考えて、魔力を込めるために今回は叫んだ。

「それより、掃討を開始しよう。そうすれば、奥に取り残されてる武装局員が脱出できるように……」

 そこまでクロノが言ったところで大きな揺れがクロノ達を襲った。
 フェイトとアルフはおろか、地面から少し浮いていたクロノまでもが揺れに翻弄され、壁に叩き付けられる。
 宙に浮いてる時の庭園に地震など起こるはずがない。これは、次元震だ。
 次元の海が揺れることによって起こる未曾有の災害。世界が滅びる前兆。

(エイミィ!)

(まずいね。今、艦長が抑え込んでるけどあんまり長くは持たないと思う)

「予定より次元震が起こるのが早い。掃討は中止。先にプレシアを逮捕する」

 クロノが手早く指示を出し、フェイトとアルフが慌てて従う。
 プレシアの研究室まではあと少しだった。





 同じころ、不意の振動で次元震を感知したリンディが全力で魔力を放出し、それを緩和し始めた。
 膨大な魔力に大気が震える。それを感嘆半分、恐怖半分でなのはとユーノが見つめる。
 それを見てリンディが声を張り上げた。

「なのはさん、魔力炉を止めて。叩き壊せばいいわ。ユーノ君はその援護。私はここを動けないけど焦らず慎重に行きなさい」

「わかりました」

「了解です」

 揺れが小康状態になり、立ち直ったなのはとユーノが頷き、奥に向かって駆けだす。
 それを見てリンディは微笑んだ。猛火のような激しさを内に秘めた笑みだった。
 穏やかに見えるが彼女もまた戦鬼の末裔、『ハラオウン』なのだ。
 翠の羽が四枚、背中から生える。それはあまりの魔力量に身体から放出される余剰魔力だ。同時に、暴走かと見間違うほどの魔力がリンディから放出される。
 ジュエルシードとリンディの力比べだ。幸い、時間を稼ぐだけで良く、勝つ必要はない。

「楽な部類の戦いね」

 呟きと共に更に魔力を放出する。
 時の庭園攻略戦は佳境に入ろうとしていた。





「なのは、見えた。魔導炉だ」

 ユーノが声をあげる。リンディと別れて数分とかからずなのは達は魔導炉にたどりついた。
 なのは達が急いだというのもあるが、エイミィのナビゲートが適切だったから、道に迷わなかったというのが大きい。
 大きな部屋の中心に床と天井を繋ぐ壁がある。そこに制御用のコンソールや端末を入れるのであろう穴が無数に空いている。
 ユーノがコンソールの一つに取り付いてアクセスを開始する。

(エイミィさん、魔導炉に到着しました。今ユーノ君が止めようとしています)

(オーケー。そのまま続けて。うん? 何、クロノ君。ええ、わかった)

(エイミィさん?)

(えっと、ごめん。ユーノ君、あとどれくらいで停止させれそう?)

(こんなの扱ったことないですから、今調べてるところなんで十分はかかると思います)

(そんなには待てないな。なのはちゃん、ぶっ壊しちゃって。多分、防衛システムがあるだろうから気を付けて)

(了解なの!)

 力強く念話を返したなのはの傍にユーノが寄ってくる。

「反撃は僕が全部防ぐからなのはとレイジングハートは攻撃に集中してくれればいい」

「わかった。ユーノ君、私の命、預けるね!」

 そう言ってなのははリンカーコアに意識を集中した昂る魔力が嵐のように広がり、空間を歪ませる。

「ディバイン――」

 レイジングハートの先端、宝玉部に桜色の魔力が集中する。
 それは複雑な文様の魔法陣となり、そのまま砲門を形成する。

「――バスター!!!」

 今日三度目の大魔法は魔力炉に直撃した。
 しかし、それは直前で遮られる。

「耐えられてる?」

 ユーノが叫ぶ。黒色の魔力障壁が展開され、ディバインバスターを受け止めている。
 魔力炉の危機に際して防衛プログラムが作動したらしい。
 それにしたって、なのはのディバインバスターを受けて揺るぎもしないのだから相当な強度の結界だ。
 桜色の奔流が徐々に細くなっていき、治まる。そこには亀裂が走っているもののまだ無事な魔導炉が残されていた。
 即座に反撃の極太の魔力レーザーが発射される。
 それをユーノは全力の結界で受け止めた。
 あまりの圧力に結界が悲鳴をあげ、ユーノの体に届くフィードバックはリンカーコアを軋ませるほど激しい。

「ユーノ君!」

「大丈夫、全部防ぐって言っただろう!? なのはは二発目を撃つことに集中して! これぐらいは僕が防いでみせる!」

「でも……」

「なのはは僕が守る。それがなのはを巻き込んだ僕の義務なんだ!」

 ユーノが吼える。そして結界に渾身の魔力を送り込む。
 限界以上の負荷に耐えるリンカーコアが発熱し、ユーノの全身から汗が吹きだした。
 しかし、それでも結界は破られない。
 永遠にすら思える時間、実際には十数秒だったがユーノにはそう思えた、が過ぎ、レーザーの照射が終わる。
 ユーノが結界を解き、がくりと崩れ落ちる。その横でなのはが己の魔力を振り絞った。

「ディバインバスター!!!」

 本日四度目の全力砲撃。さすがにリンカーコアへの負担が大きいのか、激しい痛みと違和感を訴え始めている。
 だが、なのはは笑う。
 フェイトと戦った時の、ゾクゾクするような死闘への歓喜ではない。
 ユーノが果たし、リンディに託された期待に応える喜び。他者との交わりに対する喜びが、痛みを押し流し、違和感を抑え込んだ。
 だから、その桜色の砲撃は黒い魔力障壁を一瞬で突き破り、魔導炉の中心を撃ち抜き、部屋の壁を突き破って虚空に消える。
 途方もない馬鹿魔力でのオーバーキル。後に不屈のエース、高町なのはの代名詞となる技だった。
 かくして、高町なのはは見事に魔導炉の破壊に成功したのだった。





「フェイト、下がりすぎだ。もう一メートル前に出ろ。アルフはそれを援護。防御に意識を割け」

 その頃、クロノ達は再び傀儡兵の群れと出会い、交戦していた。
 今度の傀儡兵は用心深く距離を取り、後退しながら遅滞戦闘を仕掛けてきた。
 こうなると、クロノ達としてもじっくり行くしかない。下手に前に出ると集中砲火を食らう。
 いや、フェイトだけならあるいはそれでも強引に突破できるかもしれないが後が続かない。
 消耗した状態でプレシアに突っ込むのがどれほど危険なことかわからない人間はこの場にいなかった。
 しかし、今は何より時間が惜しい。空間の揺れは徐々に大きくなってきている。
 決断の時だ、とクロノは思った。

「フェイト、アルフ。二人でまた、敵を引き付けてくれ。僕が突っ込……」

(待った。クロノ君、後三十秒待って。なのはちゃん達が魔導炉に突入した)

「……作戦変更、現状維持だ。じっくり敵を消耗させよう。ただいつでも前に出る準備だけは怠らないように」

 エイミィの念話が聞こえていたのだろう。フェイトとアルフもその指示に従い、腰を据えた。
 相手のレーザーを防御魔法で捌き、中距離から射撃魔法で敵を削っていく。
 終わりのないように思えるそれを繰り返し、その時は来た。

(クロノ君!)

「なのはが魔導炉の破壊に成功した。一気に駆け抜けるぞ」

「わかった」

「了解です」

 アルフとフェイトが同時に返事をし、飛翔する。
 クロノも合わせて飛び出した。
 見れば、先ほどまで見事な遅滞戦闘を繰り広げていた傀儡兵が完全に沈黙している。
 そのまま、まっすぐ廊下を駆け抜ける。もう敵はいないのだ。

(クロノ、君。き、、、を、、、、)

(どうしたエイミィ、通信状態が悪くて良く聞こえない)

 どちらにせよ、もうじきプレシアの研究室に辿り着く。
 庭園内の見取り図は完璧に頭の中に入っている。
 もう一つ先の角を曲がれば目的地だ。
 順調に角を曲がり、研究室の前に到着する。
 揺れはもはや地面に立っていられないほど激しくなっている。
 もはや一刻の猶予もない。
 研究室の扉を蹴り開く。
 カチンという硬質な音が響き、クロノ達は大爆発に巻き込まれた。





 完全にクロノ達は油断し、それ以上に焦っていた。
 防衛戦力である傀儡兵は沈黙。最初に吹き飛ばされた二名以外の武装局員は無事脱出。
 残りは次元震を引き起こしている張本人であるプレシア・テスタロッサ一人であり、その次元震は稀代の大魔導師、リンディ・ハラオウンをして抑えきれぬほどの規模だった。
 それを止められるのはクロノ達のみで、しかももう行く手を遮るものは何もないと思いこまされた。
 それこそがプレシアの狙いであることに、気づくことができなかった。
 エイミィは気づいていたのかもしれないが、次元震による通信環境の悪化で伝えられない。
 結果、魔法を全く使わない爆薬に気が付くことができずに吹き飛ばされた。
 つまり、プレシアの勝ちだということだ。

「――っ!!」

 鈍い痛みと共にクロノは目を覚ました。数秒、意識が飛んでいたらしい。
 身体の節々が痛む。特に手術したばかりの左足が不味かった。
 吹き飛ばされた時、捻るか何かしたらしい。恐ろしいほどの痛みが襲ってくる。

(これは、立てるか?)

 身体が反応しない。右手の指先から順に体の反応を確認していく。
 右手、反応あり。短杖を握りしめている。あの爆発の中でも放さなかったのは自分を褒めてやりたい。
 左手、反応なし。まあ、爆発に近かった方だ。骨が砕けていても不思議ではない。
 右足、反応あり。辛うじて無事だったらしく捻ったりはしていないようだ。
 左足、反応なし。ただ、激痛だけが襲ってくる。これは目視で確認したら膝がおかしな方向を向いていたりするかもしれない。
 胴体、反応あり。肋骨が何本か折れているが、一番バリアジャケットが頑丈な部位だ。手足が残っている程度の爆発なら大丈夫だろう。
 頭から、鈍痛及び出血。おそらく額が切れている。血が左目に入って実に物が見難い。
 結論、重傷だが問題なし。後は精神力の問題だ。

「おおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおっ!!!」

 気合と共に飛行魔法を併用して立ち上がる。左足から気絶しそうな痛みが襲ってきて、視界がチカチカするが、歯を食いしばって耐える。
 前方を見る。
 そこには病的な雰囲気を醸し出す大魔導師がいた。
 手早く周りを確認する。アルフはぼろぼろになって倒れていて、その腕の中にフェイトがいる。
 どうやら、あの爆発の瞬間、反射的にフェイトをかばったらしい。見上げた忠義と言えるだろう。

「そう、立つのね。さすがはクライドの息子ね。鬼の子はやはり鬼ということか」

 六つのジュエルシードに囲まれたプレシアが言う。
 制御のために魔力を使っているのだろう。額から汗を流している。口元には血の跡が見えた。

「貴方達はなぜ、いつも私の邪魔をするの? 私はただ幸せになろうと、幸せにしようとしているだけなのに。
 こんなはずじゃなかった過去を変えようとしているだけなのに」

「世界は、いつも、こんなはずじゃ、なかったって、こと、ばかりだよ」

 言葉が切れ切れになる。激痛で意識が頻繁に断線する。こんな怪我ぐらいでフラフラしている自分が嫌になる。
 そうだ。世界はいつも不条理だ。
 別れは突然で、死は唐突。運命の輪は不幸の連鎖で回っている。
 それはクロノが十年前に、大好きだった父親が死んだ時に気づいた世界の真実だった。でも、だから。

「でも、それが、どんなに、正当な、理由でも、他者を、不幸にする資格なんて、ありはしない!」

 クロノは言い切った。プレシア・テスタロッサは間違っていると。
 顔面を血で染め、左足はあらぬ方向を向き、バリアジャケットの維持もかなわず、ぜいぜいと荒い息をつきながらそれでも、言い切って見せた。

「プレシア・テスタロッサ。第一級、危険、遺失、物、管理法、違反、及び、公務、執行、妨害で、逮捕、する」

 短杖を無事な右手で上げて、プレシアに向ける。筋を痛めたらしくひきつるような痛みがクロノを襲った。
 ガリッと歯を食いしばる。

「そんな言葉に何の力があるの? 貴方はそこから一歩でも動くことができて?」

「――っ」

 クロノが反論しようとして、できなかった。胃の腑から血が込み上げてきたのだ。
 ゴボリと吐血する。粘ついた血が口から垂れ流される。
 どうやら、折れた肋骨が内臓を傷つけていたらしい。痛みはないので気づかなかった。
 ふらりと倒れそうになる体を飛行魔法で立ち直らせる。幸い、リンカーコアは順調に稼働中だ。
 下手糞な治癒魔法で体を回復させる。遅々として進まないそれはクロノを苛立たせた。

「ほら、そんな状態で何ができるというの? 貴方達は負けたの! 私の道を阻む物はもう一人もいないのよ!」

 血を見て興奮してきたのか、顔を紅潮させてプレシアは叫んだ。
 ジュエルシードがバチバチと電気を発し始める。同時に揺れが更に大きくなり始めた。
 床が崩れ、ぽっかりと黒い底の見えない穴が広がり始める。虚数空間が現実を侵食し始めたのだ。

「……そうでもないさ」

 声はプレシアの左斜め後方、通風孔から聞こえた。
 ガタンと通風孔の蓋が吹き飛ぶと同時にプレシアの放った光線が通風孔に突き刺さる。
 それは通風孔を崩壊させたが、飛び降りてきた黒い影には何の影響も与えなかった。
 影は着地するが早いか、ジュエルシードを押しのけてプレシアを掴みとり、投げた。
 柔道で言う所の袖釣り込み腰。腰を起点に一回転して、プレシアは受け身も取れずに背中から叩き付けられた。
 ガハッと肺の中身を全部吐き出し、さらに吐血する。
 スパイダーはそのまま腰をまたぐように圧し掛かり、拳銃を引き抜く。そして躊躇なくプレシアに突きつけた。

「動くな」

 恐ろしく冷たい声だった。殺意というものを凝縮して口から発すればこうなるだろうという声。
 それを聞いて、プレシアは自嘲する様に言った。

「私としたことが無様ね。『魔力透過』のことを忘れてしまうなんて」

 背中からとはいえ硬い研究室の床に思いっきり叩き付けられたのだ。
 想像を絶する痛みがプレシアを襲っているはず。悶絶して、意識を失ってもおかしくない。
 だが、プレシアは止まらなかった。

「確か、スパイダーと言ったかしら。私を殺しに来たのね」

 プレシアはむしろ笑っていた。

「やっぱり、フェイトは疫病神だったわ。こんな化け物を連れてくるなんて、ね」

「……母さん?」

 フェイトが声をあげた。プレシアに名前を呼ばれたせいで気が付いたらしい。

「フェイト、あなたが雇った男はね、あなたの同類よ。テスタロッサの名を持つ者を全てこの世から消し去るまで止まらない殺人機械」

「黙れ!」

 プレシアの言葉にスパイダーが声を荒げる。
 それをプレシアはせせら笑った。

「あら、あなたは私が憎くてたまらないのでしょう? アルフレッド・テスタロッサの妻なんてそんな物が許せるはずがない。それがプロジェクトF.A.T.Eの致命的な欠陥だもの。
 わかる、フェイト? あなたがアリシアの死体が残っていることすら許せないように、この男はアルフレッドの残り香すら許せないのよ。
 生まれた時から復讐の運命を背負った人造の怪物。それがあなた達だと言っているの」

 プレシアの言葉は辛辣で、だが、それ故に真実を突いていた。
 ゆえにスパイダーは黙り込んでしまった。その眼の中で轟々と憎悪の炎が燃え盛っている。
 それを見て、プレシアはむしろ心地よさそうに笑った。

「母さん」

「私はあなたの母親なんかじゃない。わかったでしょ。あなたはアリシアの代わりになるように作り出された――」

「それでも、私は母さんと呼びます」

 静かに言ったフェイトを瞠目したようにプレシアは見た。
 フェイトはいつの間にかアルフの腕の中から立ち上がり、まっすぐこちらを見ていた。

「母さんに優しくされた記憶は私の物ではないのかもしれません。母さんに甘えた記憶はアリシアの物なのかもしれません。
 でも、母さんは私に大切なものをくれた。リニスという最高の使い魔とその愛情を。
 だから、私は母さんを大切に思っています。誰が何と言っても、何をしようとも大事に思っています」

 フェイトは涙を流していた。
 血を吐いた母を、投げられて地面に転がっているプレシアをまっすぐに見つめていた。

「……母さんを、愛しています」

 既に体は満身創痍。プレシアの仕掛けた爆薬で使い魔のアルフは既に意識がなく、フェイト自身もかなり体力を削られている。
 アリシアの死体が眼前にある。それだけで体が内側からはじけそうなほどの憎悪の衝動が襲ってくる。
 それでもフェイトは言い切った。

「だから、スパイダー、母さんを殺さないで。母さんを助けてください」

 その言葉と涙に数瞬、無言の時が過ぎた。

「クック、アハハハハハッ!!!」

 それを破ったのはプレシアの嘲笑。同時に全身から電撃を発する。
 勘で飛びのいてそれを避けたスパイダーを見ることもせず、プレシアはゆっくりと立ち上がった。

「貴女は本当に馬鹿なのね、フェイト。
 そんなものは貴女を都合のいい道具に仕立て上げるための手段に過ぎなかったというのに。
 まだ、わかってないようだから言ってあげるわ、フェイト。
 私はね、貴女のことが――」

「よせ! プレシア!!」

 アルフレッドの記憶を持つスパイダーにはプレシアが何を言おうとしているかわかってしまった。
 その言葉を聞いてしまえばフェイトは壊れる。
 言わせまいと引き金を引き絞る。
 銃声が一発響いた。
 血に染まるプレシアを見て、フェイトは意識を失った。



[34641] クロノ・ハラオウン⑮
Name: 烏賊様刻◆e7251814 ID:b1305343
Date: 2012/11/18 11:20
 スパイダーの放った銃弾はプレシアの腹部を貫通し、内臓に大きな銃創を作っていた。
 真っ赤な血がみるみる内に溢れ出し、傍から見てもはっきり致命傷だとわかった。
 プレシアはバリアジャケットを着ていなかった。
 考えてみれば兆候はいくらでもあった。
 投げが決まった時に悶絶していたこと。終始、フェイトに対して露悪的な態度を貫いていたこと。
 プレシアはおそらく……。
 倒れたプレシアが消えそうな声で何か、囁いた。
 それを聞くためにスパイダーはプレシアに近づいた。

「どこに行っていたの」

 虚ろな目で腰を下ろしたスパイダーを見る。
 意識が混濁している。スパイダーを自分の夫だと勘違いしているようだった。

「貴方が死んで、アリシアが死んで、私には何もなくなったわ」

 朦朧としているプレシアをスパイダーは抱き寄せた。
 自分の中にあれほど充満していたテスタロッサへの憎悪がすっかり消えていることにスパイダーは気づいた。
 それは今、テスタロッサの名を継ぐ最後の人物が死のうとしているからか、それとも、自分の中で何かが変わったからか、スパイダーには判断がつかない。
 だが、確かなことは今はプレシアのことを憐れむことができるということ。
 なぜ、復讐など考えたのだろう。そんなアイデンティティの崩壊しそうなことすら容易に考えることができた。

「フェイトには悪いことをしたわ。あの娘がアリシアのクローンでさえなければ、アリシアの妹だったら、私はあの娘を愛することができたのに。
 アリシアを見たらフェイトはきっと私まで憎む。アリシアを完膚なきまで破壊するでしょう。それが私には我慢ならなかった。ゴホッ! ゴホッ!」

 血を吐いて咳き込む。

「私はあの娘に敵として接することしかできなかった。それがどれだけ罪深いことかわかっていても」

 懺悔するようにプレシアは言った。口の端から血が零れ落ちる。
 
「もういい。もういいんだ、プレシア。お前には苦労ばかりかけたなぁ。もう眠れ」

 スパイダーが不器用に微笑みかける。
 それは在りし日のプレシアが愛した夫にそっくりだった。

「ああ、アルフレッド」

 それがプレシア・テスタロッサの最期の言葉だった。
 がくんと首が落ちる。まるで糸の切れた人形のように。
 小さいな、とスパイダーは思った。胸の中のプレシアの軽さに愕然とする。

(こんな女に俺はひたすら殺意を抱いていたのか)

 スパイダーは無言でプレシアを抱きしめた。彼がしてやれる唯一のことだった。
 
「スパイダー、プレシアは……」

 何とか動けるようになったのだろう。近づいてきたクロノに、スパイダーは黙って首を横に振った。

「……そうか」

 クロノは呻くようにそう言った。
 助けられなかった。
 その事実にクロノは歯噛みする。自分がトラップに引っかからず、プレシアを制圧できていればと思わずにはいられない。
 スパイダーがプレシアを抱いて、歩き出した。

「おい、どこに行くんだ」

 クロノの声に立ち止まる。スパイダーは部屋に開いた虚数空間への穴に向かっていた。

「プレシアとアリシアを葬る。プレシアを犯罪者ではないただのプレシアとして葬ってやれるのは今しかない」

 スパイダーは静かに言った。
 アリシアを葬るのはプレシアと共に、ということもあるが、本当はフェイトのためだ。
 プロジェクトF.A.T.Eで作られたクローンはオリジナルを憎む。そこに理由などなく、死体があればそれを辱めたいとさえ思ってしまう。
 スパイダーがアルフレッド・テスタロッサが死んでいると知っても尚、その家族に復讐を望んだように、フェイトもアリシアを憎悪するだろう。
 ならば、死体など残さない方がいい。墓も遺骨も葬儀も全ては生きていく者達のためにあるのだから。
 クロノはそこまではわからなかったが、アルフレッド・テスタロッサの記憶を持つ者がプレシアの最期を看取り、そう決断したのならそれが正しいだろうと、スパイダーのするに任せることにした。
 家族を目の前で失う辛さはクロノにも十分わかることだったから。
 培養槽の中に浮いているアリシアを取り出し、プレシアの胸元に置いてやる。そして、静かに異次元に送り出した。
 音も立てずに落ちていく二人をスパイダーとクロノは声も出さずに見送った。
 その後、気絶したままのフェイトとアルフをスパイダーが背負い、崩壊する時の庭園をクロノとスパイダーは急いで逃げ出した。
 途中、魔導炉を制圧に行ったなのはとリンディとユーノに合流し、虚数空間への穴を避けながらアースラを目指す。

「プレシア・テスタロッサは……」

 訊ねるリンディにクロノとスパイダーが無言で首を横に振る。
 半ば覚悟していたのだろう。その死はリンディの外面に変化を表す程の衝撃は与えなかった。
 面識のある相手だった。クライドの恩人で、リンディにとっても友人と言える関係だったと思う。
 だけど、リンディはその死に涙するには親しい人の死に慣れすぎていた。
 アルフレッド・テスタロッサ。
 "ブラスト"。
 そして、クライド・ハラオウン。
 リンディが看取った、三人の男達。
 プレシアの死は彼らほどの衝撃をリンディに与えなかったから。

「そう」

 短く返した。そして、悼むように顔を下に向けた。





 時の庭園が崩れていく。
 それは一つの悲しい事件の終わりを表していた。
 だが、クロノがそれを見ることはなかった。
 大怪我を負ったままプレシアに啖呵を切り、スパイダーが来るまでのわずかな時間を稼いだのが彼の精一杯で、リンディ達と合流した後、直ぐに意識をなくしてしまった。
 急に倒れたクロノをリンディが背負って運び、どうにか事なきを得た。
 そんな状態でもジュエルシードの回収を忘れなかったのは若年とはいえさすが執務官というべきか。
 クロノからリンディに手渡された六つのジュエルシードは無事封印され、プレシアになぎ倒された二人の武装局員も何とか自力で帰還し、後にPT、プレシア・テスタロッサ事件と言われる騒動は終焉を迎えた。





 クロノが目を覚ますとそこは白い天井の小さな部屋のベッドの上だった。
 漂ってくる消毒液の臭いがそこが医務室であると教えてくれた。

「クロノ君、目が覚めた!? 大丈夫!? どこか痛いところない!?」

 椅子に座っていたエイミィが身を乗り出す。
 そう言われてクロノはぼんやりとした頭でボディーチェックを行った。
 左足の膝が上手く動かない。軽く体を持ち上げると腹部からひきつるような痛みを感じる。我慢して、辛うじて動く右手で触ってみるとどうやらギブスがしてあるようで、硬質な感触が返ってきた。
 左腕に違和感。感覚はあるが動く様子がない。右足の足首も違和感、どうやらテーピングで固定されているようだ。

「痛くはないけど、違和感があるな」

「そりゃ、まだ繋がったばかりだから仕方ないよ。左腕なんて千切れかけてたんだから」

 エイミィの言葉を鷹揚に受け取り、少しずつすっきりとしてきた頭で意味を考える。

「……って、千切れかけてた? 僕はそんなやばい状態だったのか!?」

「それだけじゃないよ。体中傷がないところの方が少なくて、折れた肋骨の破片が内臓を傷つけてたし、左足は見ていて吐きそうなぐらい変な方向向いてるし、三日も眠ったままで。本当に死ぬかと思ったんだから!」

 よく見るとエイミィの眼は涙で赤く充血しており、その下には深い隈があった。
 おそらく、クロノが倒れてからずっとそばにいてくれたのだろう。

「すまない、エイミィ。心配をかけた」

「ううん。手術も上手くいったらしいし、良かったよ。お帰り、クロノ君。良く帰ってきてくれた」

 エイミィが無事な方の右手を両手で握る。
 温かな感触にクロノはほっとしたような安らかな気分になった。

「ただいま、エイミィ」

 クロノはそう言ってエイミィに微笑みかけた。
 エイミィもまた、嬉しそうに微笑んだ。

「……そうだ。他の皆はどうなった」

 そう聞くクロノの表情は真剣で、先ほどまでの柔和な微笑みなど欠片も感じさせなかった。

「なのはちゃんとユーノ君は地球に戻ったよ。フェイトちゃんとアルフとスパイダーは現在アースラで保護中。アルフは全身の火傷と骨折がひどくて寝込んでるけど。
 本当にどんな爆薬を使ったんだか」

「ただの火薬じゃなかったな。でも、魔力は感じなかった。傷の感じからすると指向性の熱と衝撃波と言った方が近いかもしれない。
 いや、そんなことはどうでもいい。フェイトはどうしてる?」

「フェイトちゃんは無事。アルフがかばったおかげで怪我は少ないよ。一応、アースラの設備でできる限りの精密検査を受けてもらったけど問題なしだって。
 もう少ししたら地球の病院で検査してもらう予定だよ」

 時の庭園で倒れたのは肉体的なダメージのためというより精神的ショックが大きかったからなのだろう。
 信頼していたスパイダーが母親を撃ったのだ。それも当然だろう。

「でも、どうして?」

「僕はフェイトとの約束を破った」

 エイミィの誰何にクロノは呻くように言った。

「プレシア・テスタロッサの弁護は僕と母さんとエイミィの三人で完璧に行うと約束した。
 だけど、僕はプレシアを裁判所に立たせることすらできなかった」

 エイミィは黙り込んだ。
 クロノ・ハラオウンという少年はとても義理堅い人間だ。
 目つきは少し鋭い物の、まあハンサムと言える女顔と持ち前の冷静さでだまされそうになるが彼ほど熱い心を持ち、恥を知る人間をエイミィは知らない。

「僕はフェイトに謝らなければいけない。たとえ許されないとしても」

 だから、エイミィはクロノを止めることはできなかった。
 たとえ、その謝罪が害悪だったとしても。
 自分は公僕失格だとエイミィは自嘲した。
 一人の少女の心を慮るより、惚れた男の信念が大事に思えてしまう。

「わかった。でも、今は深夜だからフェイトちゃんももう寝てるよ。車椅子はあるから明日、フェイトちゃんに謝りに行こう」

 きっとフェイトは謝ったクロノを恨むだろう。
 やり場のない憎しみに方向性を与えるのだから当然だ。
 それは九歳の少女にとってきっと不幸に違いない。
 それでも、エイミィは頷いた。
 その憎しみはクロノに苦難を与え、そして成長させるだろうから。





 夢だ。夢を見ていた。自分はアルフの腕の中から立ち上がり、プレシアを見つめていた。
 プレシアが狂ったように笑い、何かを叫ぼうとする。自分に何かを伝えようとしている。
 それを轟音がかき消した。気づけば目の前でスパイダーが拳銃を構えている。
 プレシアが真っ赤な血で彩られる。赤い血が自分の足元まで届き、その足から真紅に染めていく。
 恐怖と悲哀に叫び声をあげる。だが、浸食は止まらず、やがて全身を染めつくし……。

 ガバッとフェイトは寝ていたベッドから身を起こした。
 その全身は汗に塗れている。
 また、あの悪夢だ。アースラに帰還してから三日間。フェイトは寝るたびに同じ夢を見ていた。
 それは同じことを考えているからだ。
 母と、それを殺したスパイダーのことを。
 リンディにはスパイダーと会いたいという旨をもう伝えていたがもう少し待ってほしいと言われたまま音沙汰がない。
 広い艦内とはいえ食事時などに会えるかと思ったが意図的にずらしているらしい。

「ん、どうした、フェイト」

 眠いのだろう。アルフがぼんやりと声をかける。
 全身に張られたねばねばした人工皮膚が痛々しい。
 アルフはフェイトをかばって爆発をもろに受けた影響で相当な重傷だった。
 火傷でドロドロになった皮膚を癒すために人工皮膚を張られ、負担がかかった背骨には外科手術で添え木が植え込まれている。
 障害が残る可能性を覚悟してほしい。そう医者には言われていた。
 それでもフェイトに恨み言一つ言わない。本当に得難い使い魔を持ったわね、というのはリンディの言だ。
 フェイトがスパイダーを探しに出られないのはアルフの看病をしなければいけないからだというのもあった。

「ううん、大丈夫だよ、アルフ。ちょっと外に出てくるから、寝てて」

 嫌な夢のせいで眠気はすっかり覚めていた。
 食堂まで行って、ホットミルクでも飲めばまた眠れるだろう。
 サイドテーブルに置いてあったバルディッシュだけ手に取って、フェイトは部屋を出た。
 暗い艦内通路を一人で歩く。時刻は深夜。ブリッジには当直がいるだろうが、通路に人影はない。
 壁に手をつき、足元に気を付けながら食堂を目指す。それほどの距離でもない。問題なくたどり着く。
 そこには先客がいた。金色の髪を乱雑にまとめたルビーのように赤い瞳の男だった。

「スパイダー……」

 フェイトが目を見開く。まさか、こんな所で会えるとは思ってもいなかったのだ。

「フェイトか」

 スパイダーは寡黙だった。
 見た目の厳めしさに反して割とフランクで話好きな人なのだが、今日はそんな気分ではないようだ。
 珍しく煙草をくゆらせている。皿の上には何本も吸殻があった。

「スパイダー、聞きたいことがあります」

 フェイトは意を決して話しかけた。
 そうだ、フェイトはスパイダーに問わなければいけない。

「スパイダーは母さんを殺すために私に近づいたんですか?
 ミッドチルダに行きたいと言ったのは嘘だったんですか?
 私に優しくしてくれたのは、全部演技だったんですか?」

 冷静に問いかけなければいけないとわかっていても声が上ずる。
 スパイダーは本当に自分に尽くしてくれた。
 管理局の執務官を相手に一人で戦い、一度は圧倒すらしてみせた。
 肋骨を折られながらもひるまず、フェイト達がベストを尽くせるように頑張ってくれた。
 だから、フェイトは否定して欲しかった。しかし、

「そうだ。俺はどうしてもプレシアが、アルフレッドの妻が殺したかった。
 だから、お前と出会ったとき、すぐにお前の素性に感づいてこれは天祐だと思った。
 ミッドチルダに行きたかったのは嘘ではない。プレシアの行方を捜すためにはミッドに行くのが一番だったからな。
 ただ、お前を騙すために都合の良い言葉を選んだのは確かだ」

 スパイダーは憎らしいほどに冷静に答えた。
 自分は悪いことなど何もしていないと言うように。
 フェイトの頭がカッと怒りで染まる。

「――っ!!! この人殺し!!!」

 訳もなく涙が流れてくる。
 潤み、霞んだ視界でフェイトはスパイダーを睨みつけた。

「良くも母さんを殺したな! 絶対に許さない!」

 そう言ってフェイトは背中を向けて駆けだした。
 スパイダーはそれを静かに見送り、ぐらりと倒れそうになって、何とか立ち直った。

「やれやれ、俺も精進が足りないな」

 スパイダーが自嘲する様に呟く。
 フェイトの怒りは当然であった。
 命に代えても助けたいと願った母を、スパイダーに殺されたのだ。
 九歳の少女には耐えがたい感情のはずだ。スパイダーを恨むことを誰が責めることができるだろう。

 食堂の入り口手前で話を聞いていたクロノは涙を流した。

「僕の、僕のせいだ!」

 嘆きの声は届かず、ただ周囲に散って行った。





 葉桜が並ぶ並木道。その脇にある公園の橋の上で、少女が二人立っていた。
 少女達の名をなのはとフェイトという。

「フェイトちゃん」

 なのはが声をかける。

「何?」

 それに対してどこか影のある表情でフェイトが返す。

「えっと、検査はどうだった?」

「別に。私はアルフがかばってくれたから、念のために検査しただけだし」

「ええっと、それじゃあね、それじゃあね」

 つれないフェイトの返事にめげずになのはは話題を探す。
 しかし、三度戦ったとはいえ、文化も風俗も違う相手に対して気安く話すのはむずかしいのだろう。
 自然、会話は途切れがちになる。

「なのは、私は貴女に言わなければいけないことがある」

 会話の流れを断ち切ってフェイトが言った。
 それをなのははびくっと震えて身構えた。なのはもわかっているのだ。

「なのは、私は貴女との約束を破る。破らなければいけない」

 フェイトが言った。
 その声はどこまでも沈痛で、申し訳なさそうだった。

「私は母さんの仇を取らなければいけないから、友達と安穏と過ごすなんてしてはいけないから。
 だから、友達にはなれない。ごめんなさい」

 フェイトは深々と頭を下げた。
 一秒、二秒。
 公園の時計が無情に時間を刻んでいく。
 事態がおおよそ把握できたのだろう。なのはの眼から涙が零れる。

「だから、なのはは私なんかに関わらず幸せになってください」

「ううん。私はフェイトちゃんと友達になりたいって思った。無理だって言われた今でもその気持ちは変わらない」

 なのはが上ずった声で言った。
 鼻をぐすっと鳴らす。
 涙で顔がくしゃくしゃになる。

「私、待ってるから! フェイトちゃんが自分を許して、私と友達になれる日が来るまで待っているから!」

 そう言ってなのはは髪をツインテールに纏めていた桜色のリボンを抜き取り、フェイトに手渡した。
 フェイトはそれを躊躇しながらも受け取り、代わりに自身の黒いリボンを差し出した。
 ほどけて広がった二人の髪が風に靡いて美しくきらめく。
 そして、フェイトは背を向けた。後ろに松葉杖をついたアルフを引き連れて去っていく。
 なのははその姿が見えなくなるまでずっと立ち尽くしていた。
 公園に咲いた赤いカーネーションだけがその姿を見つめていた。


                                                          第一部 完



 どうも。烏賊様刻です。
 ここまで読んでいただいて、ありがとうございます。
 ハラオウン一家物語は三部構成であり、今、魔法少女リリカルなのはの無印編、第一部が終わったところです。
 見ての通りのバッドエンドですが、高く跳びあがるためにはまず、膝を曲げて沈み込まなければならない、という名言を借用させていただきます。
 書き溜め自体は第二部の草稿がかき終わり、現在推敲しながら第三部を書いているところです。
 続けて、第二部を毎週投稿していきますので、応援をよろしくお願いいたします。
 ついでにチラ裏からとらハ板に移るべきかどうかも意見を書いていただけると嬉しいです。

 それでは、ハラオウン一家物語第二部、『クライド・H・ハラオウン』でまたお会いしましょう。



[34641] クライド・H・ハラオウン①
Name: 烏賊様刻◆e7251814 ID:b1305343
Date: 2012/11/25 13:58
 時空管理局本局所属執務官、シルヴェスター・ヘイウォード・ローパーは自身に課せられた任務のくだらなさに辟易していた。
 とあるロストロギアの回収、及び、その違法使用者の逮捕、連行。
 派閥同士の度重なる折衝の果てに無理矢理選出されたローパーに与えられた戦力は武装局員千人という望外の戦力だった。
 これは魔法にまで達していない管理外世界なら世界丸ごと占拠できる程の戦力だ。
 それ程までの戦力を集めて、たかがロストロギアを一つ回収するなど、常軌を逸している。
 そんなことをする暇があるなら、もっとこの人員を他に回してやれることがいくらでもあるはずだった。
 管理局を改革すべきだという意見があるらしいが、案外それは的を射ているかもしれん。
 ローパーはそんなことさえ思った。

「ローパー執務官、斥候が帰還しました」

「ご苦労。それで、目標は?」

 若い副官に聞き返す。
 与えられた兵力に反比例してくだらない仕事だが、若い局員達を無駄に死なすこともまた本意ではなかった。この件を手早く終わらせ、彼らをふさわしい仕事に戻すのが指揮官である自分の仕事だと確信していた。

「それが、目標は移動を停止しました。こちらを正面から迎え撃つつもりのようです」

「何だと?」

 敵は少数。ロストロギアから召喚された戦闘用プログラム四体のみ。しかも、違法使用者は魔力ランクこそ高いものの老人で戦いの素人であることはわかっている。
 それ故、逃げ回る相手を各個撃破されないようにどう追いつめるかを考えるのが仕事だと思っていたのだが。

「もう一度、斥候を出せ。考えづらいが犯罪組織と連携していて、伏兵を配置しているのかもしれん。くれぐれも油断するな」

「報告します!」

 前線と念話で連絡していたもう一人の副官が会話に割って入る。

「目標がこちらに向かって移動を開始しました。ものすごい速度です。一応、前線の局員には迎撃を命じましたが」

「どうやら、相手は馬鹿なようだな。管理局の力を思い知らせてやれ」





 開けた平地を四つの影が高速で飛行していた。
 それを迎え撃つように局員達が連携して、射撃魔法を繰り出す。前衛の局員のみとはいえ、その数、三百人。撃ち込まれる魔法はもはや面制圧射撃だ。
 だが、それを四人の先頭を走る赤毛の少女は一瞬の恐れも見せずに駆け抜けた。
 回避運動もしない。前面に張った防御魔法とバリアジャケットだけで射撃魔法の雨を乗り切るとその手に握った鉄槌を一振りする。
 ガシャリというデバイスの作動音。ベルカ式魔法の最大の特長、カートリッジシステムが作動した音だ。
 信じられない魔力が膨れ上がり、鉄槌がその体積を何十倍にも巨大化させた。

「轟天爆砕!」

『Gigant schlag』

 横薙ぎに振り回された鉄槌は前線に出ていた管理局員達をひき潰していく。

「何だ、あれは!?」

 混乱する局員達の只中に、残りの三人が突っ込んだ。
 遅れて、鉄槌を元に戻した少女、ヴィータも突撃する。
 管理局史上、最も無様な敗戦と伝えられる戦いはこうして始まった。

「落ち着け。敵は小勢だ。包囲してしまえばこちらのものだ!」

 ローパーの指示が飛ぶが、もはや聞いている者は一人もいない。
 それほど、敵は強力だった。
 管理局の精鋭千人に対して、その戦力はわずか四人。
 しかし、その四人それぞれが一騎当千の戦力を持つなら話は別だ。
 小柄な赤毛の少女が鉄槌を振るうたびに肋骨を砕かれ、あるいはバリアジャケットごと顔面をつぶされた兵が宙を舞う。
 青い獣人がその両手を振るい、魔法を放つたびに兵がなぎ倒される。
 淡い緑の軍師が右手のペンデュラムを振るって、二人を援護する。
 そして、赤毛の騎士が一人。軍勢の中心に切り込み、剣を一振りするたびに首が一つ飛び、精鋭たる千人が恐怖に悲鳴を挙げる。
 その身を血で赤に染めた四人はまさに戦鬼。
 管理局側が無様に潰走するまでにそれほど時間を要さなかった。





「以上が報告に添付されていた記録映像だ。こちらの死者は確認できているだけで百人近く、捕虜にされた者、再起不能の者も含めれば最終的には五百人近くになるだろう。諸君らの意見を聞きたい」

 その映像を背中に、時空管理局地上本部所属レジアス・ゲイズ二佐が言った。
 恰幅の良い、熊のような巨体で、不満げに肩を怒らせている。
 目の前には大きな円卓が設置されており、大きなスクリーンをかけられた壁の傍に立つレジアスの反対側に半円を描くように男女が座っている。
 彼らに今日欠席のもう一人を加えたメンバーをダルマクラブという。

「言いたくないけど、指揮官は馬鹿ね」

 長い髪に大きな猫の耳を持った使い魔、リーゼアリアが穏やかにしかし辛辣に批評する。

「いや、あながちそうとも言い切れないよ。初手で最大戦力をもって事に当たるのは戦略的に正しい」

 礼儀正しく背筋を伸ばして座っていた背広の英国紳士、ギル・グレアムが冷静に寸評した。

「じゃあ、時代遅れです。大軍を持って個に当たるなんてのはバリアジャケットがなかった時代の話じゃないですか」

 短い髪に大きな猫耳を持ったグレアムの使い魔、リーゼロッテが生意気に反論する。

「どちらにせよ、失態は失態だ」

 長柄のアームドデバイスを持った大柄な騎士、ゼスト・グランガイツが無表情で感想を述べる。

「指揮官の是非についてはともかく、戦うとなると厄介ね。あれが伝説の闇の書なら、あの四人に加えて、書の主である大魔導師が一人いるんでしょう?」

 金髪の後衛、ライトグリーンの法衣を纏った騎士の持っていた黒く厚い書物を見て、翠色の髪の大魔導師、リンディ・ハラオウンがそう言った。
 その言葉に皆が黙ってしまう。
 同意するようにレジアスが頷く。

「うむ。指揮官の是非は上が決めることだ。問題はあの四人とその主に勝てるか、ということだ」

 それを聞いて、全員が黙り込んだ。
 バリアジャケットの開発により、大軍が一騎当千の個人を討つことが難しくなった。いや、正確には大量の犠牲と引き換えになったというべきか。
 単純に高ランク魔導師のバリアジャケットを低ランクの魔導師では生半可な方法では撃ち抜けないためだ。
 数で圧倒するには相手を疲れさせ、動きが止まったところに集中攻撃するぐらいしか方法がないのが実情だった。
 それでも、たった四人で千人を相手に圧勝するなど尋常なことではない。
 単純計算でも一人当たり、二百五十人倒さなければいけない計算だ。途中で部隊が崩壊したため、千人全てではないとしても、雲霞の如き魔導師達を蹴散らすためには相当な実力が必要となる。
 この場であの騎士達と同じことができるとしたら、おそらく三人。
 ゼスト・グランガイツ。
 リンディ・ハラオウン。
 ギル・グレアム
 それぞれが管理局のエースと言える存在であり、その戦力は他と隔絶している。
 そして、もう一人、状況次第であの怪物達と戦える男がいる。

「クライド、お前ならどうだ? あの騎士達と同じことができるか?」

 レジアスは椅子に座らず、壁に寄り掛かって黙って話を聞いていた男、クライド・H・ハラオウンに問いかけた。
 クライドは一言で言うなら黒い男だった。黒髪黒目で服は管理局の制服でこれも黒。肌の露出は顔と首だけで色は黄色人種に近い。どちらかというと女顔と言えるほど端正な顔立ちだが、ボサボサの髪と目つきの悪さがそれを台無しにしている。
 最大の特徴は雰囲気だろう。発する野獣のような空気が彼が存在するだけで場を緊張させている。

「無理無理。俺はただの空戦A+ランクの魔導師だぜ? 百人も倒せば息切れしちまう」

 クライドは軽く答えた。
 実際そうだっただろうと周囲に確認するように言う。そうしながら、いつも着ている管理局の制服を模した黒いバリアジャケットの上から腕をボリボリと掻く。
 その不真面目な態度も気にせず、レジアスは続けて問うた。

「聞き方が悪かったな。あの騎士達に勝てるか?」

 そう聞かれてクライドはニッと笑った。端正な顔に似合わない男臭い笑みだった。

「一対一で一人ずつならな。相手も同じ接近戦型だし、良くも悪くも噛み合うだろうよ」

 その言葉に気負いはなく、ただ英雄は怪物に勝てると言って見せた。
 リンディ・ハラオウンがその相変わらずの自信に微笑む。
 ゼスト・グランガイツがその不敵さに頼もしそうに笑い、
 ギル・グレアムがその様を眩しそうに見つめ、
 リーゼロッテがヒュウッと口笛を吹き、
 リーゼアリアが穏やかに笑う。
 そして、自分の聞きたかった答えが聞けたレジアスがにやりと笑った。

「なら良い。命令書は後で発行することになるが、ここにいるメンバーで闇の書に挑むことになるだろう。全員、準備を怠らないでくれ」

 その言葉と共に会議は解散となった。





「一尉、出撃ですか?」

 部隊に戻ったクライドにそう聞いてきたのは茶色の髪の地味な風貌の男だった。
 だが、その体は柔らかくバネのある筋肉に包まれ、さぞ鍛えているのだろうという風格があった。
 
「ああ。セドリック、部隊の方はどうだ?」

「次元航行艦アースラ所属、海兵隊五十名。全て意気軒昂であります」

「そうか。なら、良い。腕のいい奴を何人か見繕っておいてくれ。今度の任務は数がいる。
 基本は伝令と避難誘導だろうから、古参のどっしり構えている奴が望ましいな」

「腰の軽い者など私の部隊にはいません。が、そう仰るなら集めておきましょう」

 そう言って、セドリックはまだ少年の面影を残す若い局員に令を下した。
 陸戦型なのだろう。見事なフォームで走っていく。

「ん。それだけだ。爺も武装局員を連れてくるだろうし、レジアス子飼いの連中も来るだろうからな。仲良くやれよ」

 爺とはギル・グレアムのことだ。
 天下の時空管理局本局執務官長をこう呼ぶのは次元世界広しと言えどクライドだけだろう。

「はっ、もちろんです。クライド・H・ハラオウンの教導の成果を見せるいい機会でしょう」

「で、お前は……」

「勿論、貴方のために死ぬチャンスと心得ております」

「馬鹿。俺のために死ぬなんてそんなの敵だけでいいんだよ。
 お前が死んだらエイミィとミトが泣くぞ、セドリック・リミエッタ」

「それは勘弁願いたいですが、命の恩は命でしか返せません。
 ならば、致し方ないでしょう。妻と娘もわかってくれるはずです」

「言ってろ。お前が命を捨てる時なんて一生来ねぇよ」

 クライドは苦笑した。
 この忠実すぎる海兵隊隊長は何の因果か、クライドのために死ぬと公言しているのだ。
 クライドとしても苦笑することしかできない。

「そうよ、セドリック。貴方がクライドなんかのために死ぬなんて管理局は看過しないわよ」

「はっ、ありがとうございます、リンディ艦長。しかし、これは性分でして」

 話に加わってきたリンディにセドリックが敬礼を返す。

「ミトを泣かせたら承知しない。冥府にまで追いかけていって、誅してやるわ」

 リンディが笑ってそう言った。セドリックの妻、ミトはハラオウン家で侍女をしており、まだ幼いクロノの世話もしていた。
 娘のエイミィは魔力資質こそ乏しい物の六歳にして才知を表し、神童と言われている。

「それは怖い。ですが、決めたことですので」

「はあ。まあ、その頑固さこそが貴方の強さなのだけれど」

「はは、それでは自分はこれで失礼します。部下に準備をさせなければならないので。それでは」

 そう言ってセドリックは早足で立ち去った。
 クライドとリンディの二人が残され、自然、二人の会話は夫婦の物となる。

「なあ、嫁さん」

「なに、旦那さん」

「……クロノは元気だったか?」

「ミトの報告では元気みたいね。今度、ハッシュモンドにピクニックに行くって言ってたわ」

 クライドは戦技教導隊の教官で管理局の英雄。リンディは遺失物管理課の執務官で、同期の間では一番早く提督に上がるだろうと言われていた。
 二人とも激務で息子と接する時間はほとんどない。ミト・リミエッタに息子の世話はまかせっきりで会うのは週に一度という体たらくだった。

「ピクニック? へぇ、あっという間に大きくなるな。前に見たときにはやっと歩けるようになった所だったのに」

「もう四歳だもの。初めてのお出かけで興奮しているみたいよ」

「そりゃよかった。しかし、ハッシュモンドだと今度の場所に近いな」

「そうね。終わったら会いに行きましょう。きっと喜ぶわ」

「ああ、いい加減にしとかないと顔を忘れられるしな」

「ふふ、それは大丈夫だと思うけど。クロノは貴方のことが大好きだもの」

「バーカ、冗談に決まってるだろうが。六年も付き合ってるんだからそれぐらいわかれよ」

 ペロリと舌を出してクライドが告げる。

「貴方の冗談は難しすぎるのよ」

「ちっ。センスがないのは認めてやるよ」

 露骨に舌打ちするクライドにリンディが顔をしかめる。
 生粋のミッドチルダ貴族であるリンディは品のない仕草が苦手なのだった。

「まあ、クロノは俺のこと忘れねぇだろう。この仕事が終わったら王子様だしな」

「ゲイズ二佐の言ってた件のこと? まさか、承諾する気だったの?」

「悪いか? 俺ももう二十六だ。生涯現役のつもりだが、魔力に依存しない俺は体が衰えれば、戦闘スタイルの維持は難しい。
 それなら、別の食い扶持を探すっていうのは悪いことじゃねえだろう」

「驚いたわ。まさか、貴方の口から戦いをやめるような言葉が聞けるなんて」

 それはクライド・ハラオウンに最も似合わない言葉だった。
 天上天下唯我独尊。それがクライドと言う男を表すにふさわしい言葉だ。
 彼の内には管理局のエースオブエースに足るだけの自負が満ち溢れている。

「俺だって少しは考えるのさ。美人の嫁さんもらってガキを持ったら、それを大切にしなきゃいけねぇなんて自然とわかる」

 そう言われてリンディは頬を紅く染めた。
 美人などと言われ慣れているし、男性の視線を集めるのも慣れていたが、愛する男に言われるとやはり違うものだ。

「そう。では貴方は王になるのね」

 この場合の王とは日本の天皇のような象徴的な存在ではない。
 文字通りトップダウン方式のトップ。国の舵取りをする独裁者だ。

「ああ。実務は宰相と元帥と議会が全部やってくれて、好きなことをやってりゃいいって話だからな。神輿に乗るだけの楽な仕事ならやったっていいだろう。
 何より、友達の頼みだ。できるだけ聞いてやらなけりゃあな」

 勿論、王の仕事とはそれだけではない。
 失敗したときに詰め腹を切って責任を取るのがある意味一番大事な仕事である。
 それをクライドは引き受けると言ったのだ。

「クロノは王子か。……地獄を味わうことになるわね」

「しょうがねぇだろ。人間は生まれや環境まで自分の手で操作できるわけじゃねぇ。要はそこで何を為すかだからな」

 クライドは事も無げに言った。
 ボリボリと頭を掻く。

「その点、クロノは最高の教育を受けれるんだ。親としてこれほど嬉しいことはねぇだろうよ」

「……そうね。そうかもしれないわね」

 リンディは辛そうに頷く。
 なまじクライド・ハラオウンという男を知ってしまっていたからもう決してその意思が翻されないことがわかった。
 とんでもない頑固者。己の意思を通すためならば命すら厭わない。そんな男なのだ。

「わかったわ。でも、クライド」

「何だ、リンディ」

「側室なんて絶対に許さないんだからね」

 真面目な顔で、だが頬を染めて言ったリンディをクライドは抱き寄せた。
 そのまま、耳に口を寄せ、囁くように言った。

「わかってるよ、俺の可愛いリンディ」

「――っ! バカ、そんなだから心配なのよ!」

「はは、悪いな、性分だよ。でも、嘘はないぜ」

 リンゴのように赤面したリンディーにそう言って、クライドは背を向けてドアに向かう。

「あら、用事?」

「仕事だよ。ダルマクラブがゲンヤとレジアスを除いて全員出動とはいっても、今度の戦いは厳しくなりそうだからな。セドリック達をしごいといたほうが良いだろう」

 魔導師ランクB程度の局員達では闇の書の騎士達が相手では時間稼ぎにもならないだろう。
 しかし、彼らの本分はそんな直接戦闘ではなく、近隣住民の避難誘導や哨戒索敵といったエースが万全の力を発揮するための場作りにある。
 そのためには鍛錬をさせて気を引き締めておいた方が良い。一般人に被害を出さないためのある意味一番重要な仕事だ。

「そう、では私もブリッジに戻るとするわ。じゃあね、クライド・H・ハラオウン一等空尉」

「ああ、またな、リンディ・ハラオウン執務官」

 そう言って二人は別れる。
 ほんの少しの名残惜しさを感じながら。




[34641] クライド・H・ハラオウン②
Name: 烏賊様刻◆e7251814 ID:b1305343
Date: 2012/12/02 15:29
「シャマル、状況を報告せよ」

 低く、重い声が響き渡る。濃紺のマントに身を包んだ男だった。フードに隠され、表情は見えない。

「管理局の捕虜百名からの蒐集を完了しました。後は如何様に?」

「情報を搾り取ってから殺せ。"湖の魔女"よ」

「仰せの通りに、我が主」

 凍りついたような無表情でシャマルが膝をつき、こうべを垂れようとする。
 それを手で制し、男は自分の忠実なる部下を呼んだ。

「シグナム」

「御前に」

 呼ばれて、夜の闇の中から男の前に現れたのは鮮血で染めたようなワインレッドの長髪が美しい女騎士だった。
 髪と同じ色の重厚な金属鎧を模したバリアジャケットを着用している。

「管理局の軍勢は打倒した。しかし、次はエースが現れる。万夫不当、一騎当千の魔導師達がな。シグナム、我が騎士よ。お前は奴らに、クライド・H・ハラオウンに勝てるか?」

「それが主命であるならば、必ずや打倒して見せましょう。ベルカの騎士に負けはありません」

 その言葉に闇の書の主は頷いた。
 フードの内から覗く両目は充血し、確かな狂気を宿していた。

「シグナム、シャマル。闇の書が完成すれば、本当に管理局を滅ぼせるのだな」

「容易きことではありませぬが、可能かと」

「ヴォルケンリッターの総力を成せば、十分可能です。私も参謀として微力を尽くす所存です」

 それを聞いて、フードの奥で口をにぃっと歪ませる。
 真に怒りに駆られたとき、人は知らず笑みを浮かべるという。
 ならば、男が笑うのも当然だ。その身は怒りに満ち満ちている。

「管理局は次元世界に湧く蛆虫。速やかに駆除すべき害虫である。闇の書の主たる我が命じる。蒐集せよ。闇の書を完成させよ。闇で次元世界を覆い尽くすのだ」

 言葉に溢れたのは憎悪。
 身を焦がして尚治まらぬ憎悪の炎に焼かれている。
 シャマルとシグナムが頷くのを見て取って、主は続けた。

「闇の書はあとわずかで完成する。我らはこの地に潜伏し、伏撃を持って敵を迎え撃つ」

「主よ。敢えて強敵を迎え撃つ必要はありません。近い世界に移動し、密やかに蒐集を続けることが最善かと」

「私に管理局から逃げろというのか?」

 ジロリとシグナムを睨みつける。

「主上、シグナムは逃げると言っているのではありません。闇の書の覚醒が秒読みとなった今、あえてリスキーな行動をとるのは愚策かと」

「お前たちではエースに勝てないというのか?」

「勝つ自信はあります。しかし、勝負の世界に絶対はありません。相手が精鋭ならば尚のことです」

 ジッとフードの奥から充血した眼がシャマルを睨みつける。それをシャマルは正面から受け止めた。
 一分、二分と時間が過ぎる。やがて、先に目を逸らしたのは主の方だった。

「……わかった。シャマル、お前の意見を採用しよう。近日中にこの世界から転移する。ザフィーラとヴィータにも伝えておけ」

 ザフィーラとヴィータは顕現しているヴォルケンリッター四人の内、残り二人で、今は捕虜の見張りをしていた。

「はい。それでは捕虜から情報を搾り取って参ります。シグナムの代わりにヴィータを護衛に戻します」

「任せる」

 シャマルが転移魔法を起動する。十秒にも満たぬ間に熟練の技巧を持って展開された魔法陣がシャマルとシグナムの足元に広がる。
 そして、二人は光となって消えた。
 後には小柄な老人だけが残された。





「シグナム、言ってはなんだけど、貴女は主上に献策しない方がいいわ」

 捕虜を集めている場所の近辺に転移した後、シャマルはおもむろに話を切り出した。
 シグナムは無言。ただ、その仕草にはわずかにだが、悔恨の情がにじみ出ていた。

「やはり、そうだろうか」

「ええ、主上の心は不安定よ。いつ壊れてもおかしくないのを魔王のように仰々しく振る舞うことと管理局への憎悪で何とか正気を保っている」

 シャマルが感情を感じさせない視線を向けてそう言った。

「そうだな。あの方は私を憎んでいる」

「憎んではいないわ。恨んでいるのよ」

「……そうだな」

「とにかく、緊急時でない限り、いえ緊急時でも、献策は私達三人の誰かを通して。幸い、元々、暗愚ではない方よ。合理的だと判断されれば、それを受け入れる懐の深さもある」

「私が言っては私情が混じってしまわれる、ということか。了解した。シャマル、そのようにしてくれ」

 率直にシグナムが告げた。シャマルの言うことに不合理はない。致命的な失態を犯した騎士の献策を疑うのは当然のことだ。
 ならば、素直に他に伝えてもらった方が良いだろう。

「ええ、それじゃあ、ヴィータは主の元に戻すわ。あの子にはこれからやることを見せたくないから」

「それも了解だ。あいつは正道の騎士だからな。拷問なんて見せるべきではない」

「ええ、私もあの子に本性は見せたくないわ。仲間にまで怖がられるなんてもうこりごりだもの」

 自嘲する様にシャマルは苦い笑みを浮かべた。
 それでも、シャマルは必要であるならば、どんなことでもヴィータの前でするだろう。
 それが軍師の業である。

(ヴィータ、シグナムと交代で主の護衛に。急いで)

(何!? 手際悪ぃな。もっと早く言ってくれよ)

(ごめんなさい。こちらも立て込んでいたの。ついでにご機嫌伺いもしておいてちょうだい。ザフィーラは私達と一緒に尋問よ)

(了解した)

(了解したけど、あんまり無茶振りすんなよな)

 捕虜を見張っている二人に念話で連絡する。
 小柄な赤毛の騎士、ヴィータが主の元に向かうのと同時にシャマルは捕虜の前に現れた。
 捕虜を囲む正三角形の頂点にシグナムと青い髪の獣人、ザフィーラが立つ。
 蒐集を済ませてしまっているので今の捕虜百人には魔法を使う能力はない。
 それは反抗する力を根こそぎ奪ったということだ。
 それでも絶対に失敗することはできないのでシャマルは用心深く二人を配置した。

(シャマル、今更だが、できるだけ彼らを楽に死なせてやってくれ)

(お優しいシグナム。ええ、そのつもりよ。私はサディストじゃない。苦痛を与えて喜ぶ趣味はないわ。ただの湖のほとりに住む魔女だから)

 念話でそう伝えてきたシグナムに軽く返す。
 シグナムはそういう汚さの必要性を認識しているが、それが行われることに対して強い嫌悪感を覚える。守護獣であるザフィーラの方がまだ理解があるだろう。
 しかし、その信念をシャマルは好ましく思った。
 顔に被った仮面を押さえるように手で顔を覆い、ゆっくりと横にずらす。まるで、被っていた人間の面を取るように。
 手をずらしたそこにあった表情は笑顔。まるで子供達を見守る聖母のような優しい笑顔だった。
 そして、ざわざわとしている武装局員達に向かって朗々と話しかけた。

「皆さんは捕虜として、管理局の情報を残らずしゃべってもらいます。拒否権はありません」

 武装局員達が弾かれたように激発した。

「ふざけるな。我々が仲間を売るような真似を――」

「うるさいですよ。発言を許可した覚えはありません」

 そう言って、シャマルは腕を捻った。中遠距離転移魔法"旅人の鏡"。
 転移させ、引きずり出したのはリンカーコアなどではない。ビクビクと脈打つ赤黒い臓器、心臓だ。
 それを一切の躊躇なく、微笑みすら浮かべたまま即座に握りつぶす。
 鮮血が飛び散り、シャマルの貌とライトグリーンのゆったりとした法衣、ベルカ風の服を模した騎士甲冑、を紅く汚した。
 ペロリと手に着いた血を舐めとる。

「すこし楽に殺しすぎました。次はもっと苦しめて殺してあげましょう。いいんですよ、好きなだけ喋ってくれても」

 顔は完全に笑っている。なのに、背筋が凍るような冷酷さ。まるで屠殺場の家畜を見るような無感動な目だ。
 その瞳と仕草に百人、いや、一人減って九十九人の歴戦の管理局員達が震え上がった。
 その様は正に魔女。夜天の地で暗君に仕え、その策謀と冷酷さで数多の騎士を殺した"湖の魔女"がそこにいた。

「それではお互いの立場が理解できたところで質問を始めましょう。聞かれたことだけを答えてください。別に黙秘してくれても構いませんよ。何せ、まだこんなにたくさん残っているんですから」

 逃げようにもリンカーコアを蒐集され、魔力を運用できない魔導師が何人いても、高ランクの騎士三人が相手では不可能だ。
 武装局員達の表情が絶望に曇った。





「やあ、ヴィータ。元気にしてたかい?」

 闇の書の主が優しく声をかける。

「やだな、祖父ちゃん。別れてからまだ一時間も経ってねぇぜ?」

 ヴィータも笑顔で返す。
 その言葉を受けて主は破顔した。

「そうだったか。いや、歳をとると物忘れが激しくなっていけない」

 ピシャリと主がフード越しに額を叩く。
 フードが揺れて、真っ赤に充血した眼と青白い肌がわずかに覗いた。
 ヴィータがわずかにやりきれない顔をする。

「ん? どうした、ヴィータ」

「何でもねぇよ、祖父ちゃん。飴玉持ってる? あたしはイチゴの奴がいいんだけど」

 そう言うと、主は破顔して見せた。

「はっは。ヴィータは甘い物が好きだな。しかし、手元にない。よし、捕虜の処理が終わったら奪いに行くか?」

「略奪かぁ。あんまし好きじゃないけど、祖父ちゃんがやりたいならやるぜ」

「うむ。ミッドチルダを滅ぼす予行演習だと思えば良い。そう考えれば腕が鳴るな」

 好々爺然とした様子から考えられない程危険な言葉が飛び出す。
 それに対してヴィータは一々頷いて笑顔を見せた。

「あ、でも、女を犯すのは禁止な。あたしもそれは見たくねぇし」

 その言葉を聞いた瞬間、闇の書の主の体から狂気が噴出した。
 そうとしか言えないような現象だった。
 その場にいたのがシャマルなら冷徹にそれを受け流しただろう。
 ザフィーラなら強い精神力で受け止めただろう。
 シグナムならその忠誠から諫言すらしたかもしれない。
 しかし、ヴィータは、幼くして雲の騎士となった未完の大器は気圧されてしまった。
 瘴気のように体にまとわりつく、闇色の魔力の奔流。

「祖父ちゃん、あたしが、悪かった。機嫌、直してくれ」

 吹き飛ばされそうになるのをこらえてヴィータが辛うじてそう言った。
 一分、二分と地獄のような時間が続く。
 そして、不意にその波動が治まった。
 主がフードの奥でにこりと唇を歪ませる。

「いかんな、ヴィータ。私も大人げなかったが、人には言われたくない言葉というものがある。
 それがわからないようでは、友達もできないよ」

「悪かった、祖父ちゃん。でも、友達はいらない。あたしの友達はこの次元世界に過去にも未来にもたった一人だ。
 主とヴォルケンリッターの仲間がいればいい」

「そうか。そう言えばそうだった。つまらんことを言ってすまないな」

「いいよ、祖父ちゃん。お互い様だからな」

「しかし、若い娘が犯すなどというのはどうかと思うが」

 苦言を呈す主にヴィータが笑った。

「あたしが生きた時代じゃそれぐらい普通だったんだよ。
 祖父ちゃんから見たら異常に思えるかもしれないけど、あの頃は戦争があるのが当たり前だったから」

「そうか、平和が好きか?」

 背筋を伸ばしてそう問うた主に、幼い騎士はまっすぐ見つめ返して言った。

「わからない。でも、嫌いじゃないかな」

「そうか。わしは世界を滅ぼすぞ。それもお前達に手を汚させてな」

「嬉しくはないけど、祖父ちゃんの気持ちはわかるから反対はしないよ。
 この"鉄槌の騎士"ヴィータ、必ずや主の悲願を叶えて見せましょう」

「うむ、苦しゅうない」

 そう言って、二人は互いに顔をほころばせた。

「ははっ。悪いがヴィータはしゃちほこばっても似あわないな」

「祖父ちゃんは割と似合ってたぜ」

 和やかな空気があたりを包み込む。
 そして、幾分か満ち足りた様子で主は言った。

「ヴィータ、ありがとう。少し落ち着いたよ」

「ばれちまうとはあたしもまだまだだな。精進するよ」

 頭を掻いて誤魔化すヴィータを老いた主は自分の孫を見るように見つめた。

「うむ、精進せい。ついでにシャマルにも礼を言っておいてくれ」

「それはできれば自分で言ってあげて欲しいんだけど、わかった。祖父ちゃんがそう言うならシャマルにはあたしから言っとく」

 ヴィータには甘い顔を見せる主だが、普段は厳しい魔王として振る舞おうとしていることを知っている。
 それは闇の書が完成した後のことまで考えると必須のことだったので四人に否やはない。
 清濁併せ呑むのが王の資質ならば、老人にはその資質が欠けている。ならば一方に極端に振れた方が良いというのが軍師であるシャマルの判断だった。
 主はその指示に忠実に従い、正しく魔王になろうとしている。
 濁りきった心と悪事を楽しむ感性、そして管理局に対する深い憎悪。それを深めていくのが果たして正しいのかどうかはヴィータにはわからない。
 ただ、この小さな老人のために力を尽くすのは嫌ではないと、そう思えた。





「管理局の英雄、クライド・H・ハラオウン一等空尉、か」

 シャマルは一人無感情に呟いた。辺りには血だまりが広がっており、死体が無数に転がっている。
 情報を『絞り出した』後、シャマル達は速やかに捕虜を適切に『処理』した。
 彼らの多くは死の恐怖は感じたものの、痛みを感じる暇もなく、あの世に行っただろう。
 天国に行くかどうかまではシャマルには責任が持てなかったが。

「空戦A+ランクのエースオブエースか。厄介だな」

 シグナムが会話に参加してくる。

「貴女もそう思う?」

「ああ。強力なレアスキルか、それとも別の何かを持っているのは確実だろう。そうでなければ高ランク魔導師を四人も殺せるはずがない」

 局員から得た情報を元に、この上なく厄介な敵とシグナムは断じた。

「だが、それでも倒さねばなるまい。いずれ、必ず相対する敵だ」

 ザフィーラが言った。彼も処理を終えて会話に参加しに来たのだ。

「そうね。先刻の戦いで管理局も数で攻める愚を悟ったはずよ。次は虎の子の高ランク魔導師達を差し向けてくる」

「だから、さっさと逃げるというわけか。理にかなっているな」

 ザフィーラが頷く。先ほどの主とシャマル、シグナムとの会話の内容は最優先でヴィータとザフィーラにも伝えてあった。
 ヴィータはともかく、シャマルもシグナムも士官学校を出ているし、ザフィーラは戦場を駆け回った熟練の戦士だ。
 報連相の大切さは身にしみてわかっていた。

「ええ。わざわざ正体もわからない化け物と戦う可能性は少しでも減らすべきだわ。
 いずれ戦わないといけないとしても闇の書が完全覚醒してからでも十分間に合う。今は逃げに徹するべきよ。
 もっとも、こんな考え方、騎士としては失格なのかもしれないけど」

 シャマルが自嘲気味に言った。生前、騎士道を謳う輩に振り回された経験が彼女にそう言わせていた。

「シャマル、それについては以前にも言った通りだ。軍師であるお前の判断は主の次に優先される。
 その結果が悪い物だったとしてもそれは私達がカバーしなければならない物でお前一人の責任ではない」

 シグナムの言葉にザフィーラが頷く。

「その通りだ。我らは役割がはっきりしている分、弱点は互いにカバーしなければならない。
 戦略で失敗しても、戦術で押し返せば良い。戦術で負けても、戦略で勝てば良い。
 それが騎士と軍師の理想的な互換関係だろう」

 シャマルは少し感極まってしまった。軍師という役割上、感情を乱されず、思考を研ぎ澄ませることを己に課している彼女だったが、この時ばかりは我慢できなかった。

「――っ! ごめんなさい。貴方達と共に戦えることに感謝を。生前、貴方達がいてくれたらと思わずにはいられないわ」

 シグナムとザフィーラが背を向ける。仲間の涙を目こぼしする程度、彼らの騎士道では当たり前のことだった。
 地平線に沈もうとする夕日が世界をただ紅く染めていた。




[34641] クライド・H・ハラオウン③
Name: 烏賊様刻◆e7251814 ID:b1305343
Date: 2012/12/09 12:09
 時空管理局ミッドチルダ地上本部所属首都防衛隊。
 その名の通り、ミッドチルダの首都を守り、治安維持と有事の際、アンチテロリズムの主導となる"陸"の最精鋭である。
 その隊長職に三十にもならない若さで就任した男がいた。
 名前はゼスト・グランガイツ。ベルカ自治領の出であり、強きをくじき、弱きを助ける騎士の鏡として知られていた。

「シュート!!」

 群青色の髪をショートヘアにした女性、クイント・ナカジマが魔力弾を三発、牽制に打ち出す。
 それを斜めに構えた防御結界で弾き、ゼストは空を駆けた。ローラーブレードで高速移動するクイントを正確に補足する。
 互いに近接戦闘が得意な騎士と魔導師だったが、ゼストの武器はポールウェポンでクイントは拳。得物の長さのせいで、ゼストが有利と言えた。
 勿論、それはクイントが懐に入ってしまえば逆転する。しかし、クイントの牽制もフェイントも全て読み切り、ゼストは冷静に戦いを進めていた。
 覚悟を決めたのか、クイントの足元に正三角形の頂点に円を刻んだ独特の魔法陣が浮かび上がる。クイントは使うものがほとんどいない近代ベルカ式の使い手だった。

「行っくぞおおおおおおお!!」

 ローラーブレードが地面との摩擦で煙を上げる。爆発的な加速。それをゼストは冷静に得物を薙ぎ払った。
 しかし、直前でスピードを更に上げたクイントが打点を外してそれを受け止める。
 そのまま、空いた右手でボディーアッパー。ゼストの脾臓を突きあげようとして、翻ってきた柄尻に脇腹を痛打される。
 そのまま、力で押し出され、距離を強引に槍の間合いに調整される。不味いと思った時にはゼストの猛攻が始まっていた。
 鎖骨への振り下ろし。脛への薙ぎ払い。脇腹への横薙ぎ。
 逃げることも距離を詰めることもできず、体を丸めて両手に装着したアームドデバイス、リボルバーナックルで防御し、耐え凌ぐクイントの喉に突きが刺さった。
 膝をついて、ゲホゲホと息を吐き出す。

「一本。それまで!」

 女性の声が響き、模擬戦は終わった。

「クイント、大丈夫か。少し深く突きすぎた」

「だい、じょう、ぶ、です、隊長。ゴホッゴホッ」

 咳き込みながらクイントが言葉を返す。
 陸戦AA-ランクの魔導師を相手にして、息一つ乱していない。それが陸のエースにして空戦S-の騎士、ゼスト・グランガイツの実力だった。

「あの加速は見事だった。だが、その後のボディーアッパーがいただけないな。素手ならあれで良いが、リボルバーナックルをつけているとどうしても速度が落ちる。あの場面ならカートリッジを使うべきだ」

 カートリッジとは圧縮した魔力を内包した使い捨ての魔力増幅器のことだ。上手く制御さえできれば、通せない一撃を通すことができるが扱いが難しく、まだ管理局では使用者は少ない。

「攻撃を受けるのが精一杯で、使う余裕がなかったんです。次に機会があれば使います」

 やっと息が落ち着いてきたクイントがそう返す。ゼストはそれを無愛想にそうか、と頷いた。





「それでは、隊長は次元航行艦に乗って『外』へ?」

 模擬戦の反省会が終わり、汗もひいた頃。
 長い紫紺の髪の美女、メガーヌ・アルビーノがゼストに確認する。
 その隣には親友であるクイントがたたずんでいる。

「ああ。クライド達と連携して闇の書を押さえることになるだろう。重要な任務だ。
 留守の間はメガーヌを指揮官、クイントを副官とする」

 ゼストが静かに返す。一応、箝口令が敷かれているが、メガーヌもクイントも口は堅いし、何より仕事の引き継ぎのためには話しておくべきだった。

「でも、思い切った作戦ですよね。少数とはいえ"海"が"陸"に応援を頼むなんて初めてじゃないかしら」

「一応、管理局結成当時には少数だが例はあったらしい。それを言い訳に無理矢理捻じ込んだというのが真相だな」

 感想を述べるクイントにゼストが補足する。

「まあ、前代未聞であることは確かだな。それだけ上はクライドに期待しているということだろう」

「さすが、エースオブエース、クライド・H・ハラオウンね。だいぶ差をつけられちゃったなぁ」

 クイントが言う。
 お互いにタイプは違えども近接格闘特化型としてライバル視していた部分もあるのだろう。
 彼女はダルマクラブには所属していない物の優れた格闘術とローラーブレードを用いた高速移動が持ち味のストライクアーツの亜流、シューティングアーツの使い手であり、首都防衛隊の要であると言えた。

「あれは異常だ。天才と言う分を超えている。張り合うのは愚かなことだろう」

「そんなこと言って、一番ライバル視してるのは隊長じゃないですか」

「む」

 ゼストが黙り込む。クライドとの対戦成績は十四勝二十五敗三分けとかなり負け越している。
 古き良きベルカの業を受け継ぐゼストは近代戦の申し子であるクライドと相性が悪かった。
 何せ、近代ミッドチルダ式の近接格闘とはベルカ式の騎士に勝つことに特化した格闘技術だからだ。
 だが、ゼストはいつかクライドに勝ちたいと思っている。
 初めて戦った時、空戦A+ランクの小僧にしてやられたことはゼストを良い意味で熱くしていた。
 あの生意気だった小僧は戦技教導隊に入り、ミッドチルダの危機を救い、英雄になった。
 そして、レジアスの夢と理想に共感し、王になろうとしている。

「王になってしまっては真剣勝負などできんからな」

「えっ、隊長。何か言いましたか?」

「いや、なんでもない」

 こればかりは腹心のメガーヌやクイントにも話すわけにはいかなかった。
 未だ夢物語に過ぎないことであるし、穏便に行けば良いが改革には流血が伴うのが常だ。
 恐らく、いや、十中八九、クライドは血塗れの玉座に座るだろう。
 レジアスならその血を少なくすることができるだろうし、自分もその努力を怠るつもりはない。
 だが、血が流れることに変わりはない。それでも、ゼストは止めるつもりはなかった。
 今の管理局に、いや次元世界に必要なことであると確信しているがゆえに。
 リンディ・ハラオウンは消極的反対を表明していた。公務に生きているように見えて情の深い女だ。クライドが王となれば息子のクロノは王子になる。息子に苦労を掛けたくないのだろう。だが、最終的にはクライドの選択を尊重する。あれはそういう女だった。

「じゃあ、隊長。もう一回模擬戦しましょう、模擬戦。今日こそは一本取ってやるんだから」

「クイント、また貴女はそう野蛮なんだから。……・ゲンヤさんもお困りでしょうね」

「旦那は関係ないでしょう! 旦那は! やぁい、メガーヌのイキオクレ。婦人病にかかっても知らないぞぉ」

「言ったわね、この天然男女!」

 沈黙に耐えかねた二人がキャイキャイと騒ぎ始める。
 それを薄く笑って寡黙な騎士は見つめていた。
 さすがに魔法を使って追いかけっこを始めてからは怒鳴りつけて止めたが。
 メガーヌの召喚した巨大な銀色の鎖、魔力で編まれたアルケミックチェインがクイントを地面に縫い留めていたが、それをクイントが体捌きだけで抜け出す。
 これで二人とも替えが聞かない程有能なのだから始末に負えない。管理職とは苦労の絶えない職業なのである。
 ゼストはそれを実感し、謝る二人を前に憮然とした表情を見せた。

「俺は準備があるから早く帰る。しばらくお前たちの訓練は見られんが、もしもさぼって腕を落としていてみろ。
 血反吐を吐くまで鍛え直してやるからな」

「わかってますよ、隊長。隊長がいない間に問題が起こることなどありえません。
 起こっても私達が完璧に処理して見せます」

 メガーヌが嫣然と微笑み、

「そうそう。だから、ゼスト隊長は存分に"陸"の代表として存分に力を発揮してきてください。
 首都防衛隊の名誉はゼスト隊長にかかってるんですから」

 クイントが背筋を伸ばして激励する。

「約束する。決して無様な戦いだけはしないと。騎士として俺は職務を果たしてくる」

 元から真っ直ぐな背筋をことさら伸ばして、ゼストが言う。
 そして、朋友の理想のために戦うと、ゼストは心中で誓った。





 レジアス・ゲイズは自分の執務室で大量の報告書を処理していた。
 佐官であるレジアスは指揮下にある部下も多く、その分処理すべき書類も多い。
 また、上司への今回の作戦の説明もあった。
 幸いと言っていいものか、闇の書の輩が無茶をして相当な被害を出してくれたおかげで珍しく上層部の腰は軽い。
 "海"の切り札であるギル・グレアム執務官長とその使い魔、リーゼロッテとリーゼアリア。
 若きエース、リンディ・ハラオウン執務官のその腕は一子を儲けた後も微塵の衰えもない。
 "陸"のエース、ゼスト・グランガイツ首都防衛隊隊長を使うに際しては一悶着あったが最終的には同意を得られた。現在、"海"は『闇の帳(とばり)』というロストロギアの対応に追われており、戦力を割くことができなかったことが大きい。
 そして、極めつけは戦技教導隊より英雄、クライド・H・ハラオウン。
 相手が戯曲に残る英雄でもなければ、この六人が居れば勝利は確定している。
 古代ベルカ時代の守護騎士プログラムがどれほど優秀かは知らないが、絶対の自信がレジアスにはあった。
 あえて、不安要素をあげるなら"海"のメンツの問題でレジアス自身が指揮に赴けないことか。
 彼かゲンヤ・ナカジマが武装局員の指揮をできれば布陣はより盤石となるのだが。
 まあ、それは言っても詮無いことだろう。
 できる限りの準備を整えたという自信がレジアスにはあった。

「失礼します。ギル・グレアム執務官長がお見えになっています」

「ああ、ご苦労。アポイントメントがあった。お会いするからお通ししてくれ」

「はい」

 伝令の下士官をねぎらい、退出していくのを見送る。ドアが閉じると同時に、レジアスは姿見で素早く身なりを確認した。
 これから迎える人物は同志であるが、同時に後のライバルでもある。
 ほんの少しの弱みも見せたくなかった。
 しばらくして、コンコンとノックの音が響く。

「どうぞ」

 レジアスが言うと一人の老紳士が入室してきた。
 体格は恰幅の良いレジアスと比べて細く、良く鍛えられている。
 アッシュブロンドの髪を短く刈り、丁寧に寝かせてあるのが印象的だった。
 髭は綺麗に切りそろえてあり、顔には緊張が漂っている。
 レジアスが席を勧め、それに礼を言ってグレアムが座る。
 佐官の執務室なのでそれほど良い椅子でもなかったがグレアムが座ると風格が漂うような気がする。

「何か?」

「いえ、何でも。ここには誰の耳もありません。安心して話ができますよ」

 ジッと見ていたことに気づいたのだろう。誰何するグレアムにレジアスは事務的に返す。
 それを聞いて、グレアムはにっこりと微笑んだ。

「おお、それは何よりです。このような場を設けてもらったことに感謝します」

「いえ、互いに必要なことですからな。それでは早速話に移りたいと思うのですが」

「ええ、時は金なり、です。手早く終わらせてしまいましょう」

 にこやかに笑うグレアムにレジアスはこれは相当な古狸だと確信した。
 そもそも管理外世界出身で執務官長に成りあがるだけでも辣腕ぶりが分かる。
 彼の部下であるゲンヤ・ナカジマを十倍厄介にした感じだ。

「私の計画の大体はクライドから聞いている、そう判断してよいですかな?」

「ええ。ですが、クライドはあの通り粗忽者ですので、貴方の口からもう一度説明をお願いしたい」

 翻訳すれば、『クライドが騙されてるかもしれんから、俺が直接聞いて判断してやるわ』と言ったところか。

「わかりました。それでは僭越ながらお話させていただきます」

 そう言って、レジアスは説明に入った。

「……簡単に言ってしまえば、クライドを王にして、ハラオウンの血筋を根拠に大崩壊で滅んだミッドチルダ王朝を再興することにより、管理局という組織をミッドチルダ主導に変える。そういうプランですな」

 このプランの有効性を語るためには時空管理局の成り立ちから説明する必要がある。
 時空管理局ミッドチルダ地上本部、通称"陸"はミッドチルダを防衛、及び治安維持する組織なのに対し、時空管理局本局、通称"海"は広く管理世界と呼ばれる連合に加盟している国家の次元世界的な安全を保持する組織だ。二度と大崩壊――古代ベルカ末期に起きた原因不明の超巨大次元震、を起こさないためという名分があり、そのために管理世界全域から人員が集まる。
 広く大きな場所から人員を集めれば優秀な人材が集まることは当然で、魔導師ランクの高さから"陸"と比べて"海"はエリートと呼ばれることが多い。
 しかし、長所が大きければ短所もまた大きくなるのが自明の理で、"陸"が比較的統率が取れているのに対し、"海"は上に行けば行くほど熾烈な権力争いがある。
 別に"海"の人間が私欲に塗れているというわけではない。勿論、そういう人間も中にはいるだろうが、全体としてみれば少数派だ。
 問題は"海"の高官の多くは自分の出身世界の安寧のために働いているという点だ。
 教育によって、国家への帰属意識を高めるのは科学が比較的に発達していない地球でも行われていることで、当然、時空管理局に所属できるほどの世界ならば例外なく行っている。
 幼いころから祖国愛を刷り込まれた人間達が集まれば、自分の故郷を守るために派閥を作り、勢力を強めようとする。そうすると、それは次第に足の引っ張り合いに繋がり、初動を遅くし、結果として被害を大きくする。勿論、それがプラスに働くこともあるが、今はマイナス部分の方が圧倒的に大きい。
 前置きが長くなったが端的に言えばレジアスはそういう面がある管理局を変えると言っているのだ。

「ふむ。王の権力をどの程度にするのですか? 遺憾ながらクライドでは決断はできても高度に政治的な判断など望むべくもありませんが」

 管理局を変える、そのこと自体にはグレアムは異論はない。彼は"海"でドロドロの権力闘争を間近に見てきた。
 しかし、どの程度改革するのかが問題だ。
 少し変える程度では意味がないが、大きく変えるとなれば既得権益を守るために掣肘が入る。場合によっては暗闘すら繰り広げられるだろう。

「王は全てを決めます。人事も財政も軍事も。勿論、クライドにその能力がないのは明白なので宰相と元帥を立てることになりましょう」

 だが、レジアスの言ったことはグレアムが想像していた範疇を大きく超えていた。
 王に全権を与えると言うことは古代ベルカの時代に逆行するということだ。
 それは大崩壊の再発を防ぐという管理局の理念に反するとすら言われるかもしれない。

「馬鹿な。それでは管理世界への宣戦布告と同じだ」

「それでもやらねばなりません。現行の制度では次元世界の平和を守ることなど不可能ということはもうわかっているはず。
 闇の書事件が良い例です。一騎当千の騎士たちに徒に数を集めて力押しするなど考えられない。あれは権力闘争の悪い結果のはずだ。違いますか?」

「それでも、そんなことをすれば加盟国家が黙っているはずがない。戦争が起こるぞ。管理局成立当初の暗闘の比ではない。
 全ての国家と世界を巻き込んだ大戦争が起こる。何人の人間が死ぬか見当もつかない」

「それはそうだ。戦争をするためにこんな制度を起こすのですからな」

「何?」

 グレアムの脳裏に戦慄が走った。
 まさか、と思う。わずかな期待と莫大な不安が心中を満たす。

「時空管理局の力を持って、諸々の国家、世界を統一します。国号は後で決めますが、そうですな。仮に大ミッドチルダ王国とでもしましょう」

「……大ミッドチルダ王国」

 呆然と言葉を繰り返す。
 その言葉の表す野望と前人未到の境地を夢見た。
 なるほど、このレジアスという男、狂人かさもなくば大馬鹿者だ。
 クライドと気が合うのもわかるというものだ。

「具体的な所はこれから煮詰めていかなければいけませんが草案はできています。
 クーデター後、一年以内に第二、第三管理世界に侵攻、征服し基盤を整えます。
 そこからは四十年ほどかけて各管理世界を削り取っていく、という感じになりますな」

「なるほど、外交を中心に戦うと言うことですな。確かに流れる血の量は私が考えるより少ないかもしれない。
 しかし、時空管理局が対処すべきロストロギアについてはどうお考えですかな?」

「並行してこなしていくしかないでしょう。"海"の方には激務に励んでもらう必要がありますが、幸い"陸"の方は最大の懸案事項であった『ブラスト』壊滅で余裕があります。
 人員を供出して、お手伝いすることは可能ですな」

 レジアスは事も無げにそう言ったが、"陸"とて人員に余裕があるわけではない。むしろ足りていない。
 魔導師は後天的な要素、教育や環境といった物より、先天的な要素、つまり才能が重視される専門職だ。
 そして、戦闘に耐えるだけのリンカーコアを持って生まれてくる人間は、比較的多いとされるミッドチルダでも、幹部連中が数字を見るたびに渋面を作るほど少ない。
 更にその中の何割かは企業にかすめとられるし、アスリートや研究者になる者もいる。
 時空管理局はその膨大な仕事量に対して、慢性的な人材不足に悩まされているのだ。

「そのようなことができるのですか? 失礼ながら貴方は一介の二佐だ。決して低い階級とは申しませんが、全てを転がせるほどの物ではないでしょう」

「おっしゃる通りです。ですが、闇の書事件を解決すればそれを主導した私は少将に昇進するでしょう。扱える兵の数も段違いに増えます。
 ミッドチルダ本部と本局、そして議会を制圧できる程度にはね」

「やはり、クーデターですか。血が流れますな」

「十年、二十年の短いスパンで見たらそうでしょうな。しかし、百年後に流れる血は減る。私はそう確信しています」

 グレアムはその言葉を聞いてしばらくの間黙考した。
 レジアスの語る理想それ自体は素晴らしい物だ。グレアムにも惹きつけられる物がある。
 時空管理局の改革はいつか誰かが手を付けなければいけないもので、自分がその一助になれるとすればそれは望外の物である。
 手段自体も血塗れではあるものの真っ当で、必要最小限の犠牲と社会不安で済む物だった。
 ただ、レジアスは若く、グレアムは老成している。
 やはり、問題は王となるべき人物が相応の器を持っているかだ。

「しかし、クライドにその大ミッドチルダ王国とやらを統べる器がありますかな?」

 クライドはその技能ゆえに高い戦果を発揮した。"ブラスト"を含む、四人の高ランク魔導師の撃破、及びに組織の壊滅などその際たるものだ。
 為政者というのは一般大衆の人気が大切であるから、英雄として名が広まったクライドはなるほど、一見すると王にふさわしいように思える。
 しかし、王者の器とそれに関係があるかといえば疑問が残る。

「もし器が足りないのなら我ら臣下が補えば良いと思いますが、クライドについては心配いらないでしょう。
 あれは生まれついての王です。自分自身に絶対の自信を持ち、どんな相手を前にしても物怖じせず、百万の民衆の前でなお怯まず、人を引き付ける魅力を持つ。
 これを王才と言わずに何というのですか」

「義息をそこまで評価していただけるのはありがたいが、私にはそうは思えません。
 あれは優しい子ですが、喧嘩が強いだけのただの男に過ぎない」

「それは親子の情ゆえに見誤っておられると私などは愚考しますが。
 しかし、心配になられるのはわかります。では、こうしてはどうでしょう。この闇の書の事件でクライドの王才を確かめる。
 それによって、貴方は私達の計画に協力するかどうか決めればよい。どうせ、貴方を口説き落とせなければこの計画は成功しません。
 貴方がクライドに王才などないとおっしゃられるのならばよろしい。私の責任でこの計画は闇に葬りましょう」

 そこまでクライドを買っているのかとグレアムは戦慄した。
 これほど大規模でハイリスクハイリターンな計画がレジアス一人の物とは思えない。
 確実に上、恐らく脳髄だけになってなお活動している三人の最高幹部にまで話は通っている。
 そんな計画をグレアム一人の反対で頓挫させるわけがない。そんなことをすればレジアスの首は簡単に飛ぶだろう。
 つまり、レジアスはこう言ったのだ。疑うなら確かめてみれば良い。クライドはそれに見事に応えるだろう、と。
 何という信頼か。ダルマクラブで確かめた限りではレジアスは激情家の皮肉屋だが、機知に長け、部下を良く統率し、全体を俯瞰する視点を持った優秀な軍人だ。
 それがこれほどの信頼をクライドに置いているのであれば、それは間違いではないのかもしれない。

「わかりました。もし、クライドにその器があるのならば、このギル・グレアム、協力を惜しみません」

「ええ、よろしくお願いしますよ。ではこれで」

「ええ、それでは失礼します」

 そう言ってグレアムは席を辞した。
 それを立ち上がって見届けて、レジアスはその姿が見えなくなってからはぁっと息を吐いた。

「まったく、心臓に悪い。わしは小心者なんだがな」

 伸ばしていた背筋を曲げ、椅子に深く腰掛ける。

「まあ、良い。グレアムの協力は確約できた。後はこの作戦を成功させられるかどうかだな」

 そう言いつつもレジアスは作戦の成功を確信していた。
 古代ベルカの骨董品に敗れるような男なら、クライドはとっくの昔に死んでいただろう。
 当然、油断は禁物だが、あの男に関しては心配するだけ無駄なのは当の昔にわかりきっている。伊達に何年もあの男の友人をしていたわけではないのだ。
 グレアムを宰相、レジアスを元帥としてミッドチルダは王政を復活させる。そして武力を持って管理世界を統一する。

「くく、そのために友をいと高き座へ、か。わしは間違いなく地獄に落ちるな」

 呟くが、レジアスの決心は変わらない。
 "ブラスト"が管理局に深く食い込んでいたとはいえ、一犯罪組織に電波ジャックされ、公開処刑を全世界に流されても止めることができない。それが今の管理局だ。
 クライドがいなかったらどうなっていたか未だに思い出すと冷や汗が出る。勿論、結果としてそれは失敗し、クライド・H・ハラオウンという男を売り出すことに繋がったのだが。
 それは逆に言えば、わずか空戦A+ランクの男一人に世界の命運を預けざるをえなかった。それが今の管理局の実情だった。
 だから、変える。どれほどの血を流しても、後世のために管理局を改革するのだと、再びレジアスは今は亡き同僚達とこれから生まれてくる子供達に再び誓った。



[34641] クライド・H・ハラオウン④
Name: 烏賊様刻◆e7251814 ID:b1305343
Date: 2012/12/16 12:01
 視界いっぱいに広がる色とりどりの花畑。遠くに見える色彩豊かな山々。
 管理世界屈指の観光地として名高いハッシュモンドに降り立ったクロノを出迎えたのはそんなメルヘンチックな風景だった。

「見て見て、エイミィ姉ちゃん。お花がいっぱい」

「うん、すごいね、クロノ君」

 小さな背をいっぱいに伸ばし、かかとを上げて辺りを見渡す。バランスが取り難いのか、体がプルプルと震えて今にも倒れそうだ。
 エイミィは自分より小さなその少年の背中から支えた。

「ほら、こけちゃったら危ないでしょ?」

「むー。大丈夫だよ」

 そう言いあいながらも二人で風景を堪能する。
 知らず、ため息が出る。のどかで美しい風景だった。

「お花、摘んでこようか? ミトも喜ぶだろうし」

「かわいそうだし、もったいないからやめておこう? 母さんならもうすぐ来るだろうし」

 男の子らしく花を摘もうと提案するクロノをエイミィがたしなめる。

「でも、こんなに綺麗だし」

「綺麗だから、置いておくの。高嶺の花って言ってね。手が届かないから綺麗なのよ」

「よくわかんない」

「もう、あんまり文句ばっかり言うと母さんに言って夕食をピーマンにしちゃうぞぉ」

「わぁ、ごめんなさい、エイミィ姉ちゃん。だから、ピーマンは勘弁して」

「ふふ、どうしようかなぁ」

 よほどピーマンが嫌いなのだろう。
 顎に手を当てて考えるふりをするエイミィにクロノはうるうると目に涙を溜め始めた。

「ああ、うそうそ。ピーマンなんかしないから。ね、クロノ君」

 怖がりで泣き虫の弟分を慌てて慰める。
 男のくせにどちらかというと女っぽい。
 頭の巡りはそんなに良くないが、素直で言うことを良く聞くクロノをエイミィは気に入っていた。
 一応、主家筋の人間なのだが、やはり出来の悪い弟といった感じだ。

「クロノ様、エイミィ、先に行っちゃだめでしょ」

 お目付け役のミトが小走りに追いついてくる。
 ミトはエイミィとは正反対の儚げな雰囲気を持つ女性だった。
 背もそれほど高くなく、華奢で垂れ目気味の柔らかな風貌の、男が守ってあげたくなるような手弱女だった。

「あ、母さん、置いてっちゃってごめんね、あんまり景色が綺麗だったから」

「ミト、ごめんなさい」

「いえ、わかってもらえればいいんです。エイミィもクロノ様のそばにちゃんとついていてえらいわね」

 ミトが微笑む。儚げな雰囲気が春の日差しのように暖かな雰囲気に様変わりする。
 それは花で覆われたハッシュモンドに絶妙に調和していてクロノとエイミィも笑みを浮かべた。

「まあ、私はクロノ君のお姉ちゃんだからね」

 得意げにエイミィが胸を張る。
 後の天才も今は六歳。まだまだ子供だった。

「クロノ様、ここハッシュモンドでは観光に力を入れることによって外貨を獲得しています。
 それは定住者の獲得にもつながり、人口の増加にも繋がっているのです」

「えっと、綺麗な花を皆が見に来て、その中でここを気に入ってずっと住んじゃう人もいるってことだよね」

「はい、その通りです。管理局の高官にもここに別荘を持つ者もいます。空気と景色の良さは管理世界でも屈指でしょう。
 ミッドチルダとは全く違う発展の仕方ですが、それも立派な国家運営法なのです」

「んと、よくわからない」

「ハッシュモンドはハッシュモンドにあった政治をしていて、それがこの綺麗な景色に繋がってるってことだよ、クロノ君」

「うーん?」

「だから……」

 首を傾げるクロノにエイミィは丁寧に教え始めた。
 その様子をミトは微笑ましく思って、見守っていた。
 クロノが乳飲み子のときから世話をしているが、クロノは感受性の強い、内気な子に育った。それは姉貴分のエイミィがいたことも大きいだろう。
 もう少ししたらエイミィが学校に行き始め、一人でいる時間が増える。そうすれば自分で何かをすることが多くなり、自信がつくはずだった。
 一方、エイミィは親の贔屓目を抜きにしても天才だ。そして、天才ゆえに凡人の苦労がわからない。だが、それも学校に行き、多くの人と触れ合えば緩和されるだろう。幸いと言うべきか、彼女は面倒見の良い性格をしている。すぐに凡人にあわせることを覚えるはずだ。そのまま埋没してしまわないかだけが心配だったが、それは自分が見ていれば良いことだ。
 結論として言えば、二人の生育は順調だと言うことだ。ミトは十分、クライドとリンディの信頼に応えていると言えた。

「クロノ様、エイミィ、そろそろホテルに向かいましょう。早くしないと日が暮れてしまいますよ」

「あ、はーい。クロノ君、部屋に着いたらもう少し説明するからね」

「うん、わかった」

 クロノとエイミィがそれぞれミトの左手と右手を掴む。そして、三人で仲良く歩き出した。
 花畑の中に造られた沿道を三人で歩く。ミトは心持ちゆっくり歩き、それに歩幅の狭い二人が懸命についていく。

「母さん、本で読んだよ。ハッシュモンドのお風呂は花の香りがするんだよね」

 視界いっぱいに広がる花々は百花繚乱という言葉がふさわしい。
 花々が発する甘い香りを胸いっぱいに吸い込んでエイミィが言う。

「ええ、ホテルに着いたら一緒に入りましょうね」

「ミト、お風呂広いの? 僕も入れる?」

「勿論、クロノ様も入れますよ。三人で入りましょうね」

「うん! ミト大好き!」

「私もクロノ様のことが大好きですよ」

「母さん、私は?」

「勿論、エイミィのことも大好きよ」

「やった! 私も母さん大好き!」

 子供二人がはしゃぐ。
 するとミトも幸福感を覚えたのか、優しい笑みを浮かべた。

「――っ!! 誰ですか!?」

 しかし、その笑みも長くは続かなかった。
 少し陰ってきた太陽の下、人が一人、たたずんでいた。

「いや、失礼。あまりにも幸せそうでつい見入ってしまった。御勘弁願いたい」

 男性としては少し高い、だが、しわがれた声だった。フードを目深にかぶっており、表情はうかがえない。
 怪しい風体だが、言葉には何の悪意も感じられなかった。

「いえ、こちらこそ、公道で騒いでしまい申し訳ありません」

「いやいや、子供が騒ぐのは当然と言うもの。謝られる必要はありません」

 どうやらこちらに含むところはないらしいとミトは判断した。
 ただ、老人から発される粘つくような空気がミトを警戒させていた。
 ミトの緊張が伝わったのだろう。気が付けばエイミィは老人を睨みつけ、クロノはぎゅっと力いっぱいミトの腕に抱き着いている。

「おや、これは嫌われてしまったようだ。困ったな」

 ピシャリと頭を叩く。フードが揺れ、奥に隠された顔がわずかに覗いた。
 ぞっとする。真っ赤な眼、幽鬼のように青白い肌。
 口元をひきつるようにつりあげ、笑みを浮かべているが、目は笑っていない。

「申し訳ありませんが急いでおりますので、私達はこれで失礼します。二人とも、行きましょう」

 老人とすれ違う。何かあるかと警戒したが、幸い何事もなかった。
 足早に三人が去っていく。
 それを老人はフードの奥から充血した眼で観察していた。





「ザフィーラ、あの三人では駄目だったのか? 男の子の方からは確かに魔力の昂りを感じたが」

「はい、主上。リスクリターンがあっていません。あの程度のリンカーコアでは蒐集しても五ページも埋まりません」

 花畑の中に音もなく現れた青い毛皮の男性、ザフィーラが告げる。
 頭から生えた青い獣の耳と尻から突き出た尻尾が彼が使い魔、ベルカの言葉で言えば守護獣であることを表していた。

「ハッシュモンドは難しい場所です。観光のためにやってきた人間達は全て転送ポートの時点で記録され、行方不明者が出そう物なら二、三日で判明するでしょう。
 やるなら大きくいっぺんにやるべきです。幸いにも私達は管理局の戦力をある程度知っています。蒐集を完了し、闇の書を目覚めさせれればそれで良し。
 できなければ、また逃げればよいでしょう」

「ほう、良く調べている。さすがは青面獣と言ったところか」

「はっ、敵を知り己を知れば百戦危うからずと申しますが故。しかし、褒めるなら私ではなくシャマルを褒めるべきでしょう。
 私が詳しく知っているのも彼女の情報収集の成果です」

 正確には拷問の、だ。
 シャマルはあのとき捕えた管理局の百人から驚くほど手際よく情報を搾り取っていた。
 さすがは夜天の地を恐怖と戦慄で支配した"湖の魔女"。彼女ほど敵に回してはいけない騎士は存在しない。

「シャマルか。あれは確かに有能だが、その分、負担が大きくなっている気がするな。"青面獣"よ、お前はどう思うか」

「シャマルが潰れないか、という心配でしたら無用でしょう。あれはベルカの長い歴史を見渡しても類を見ないレベルの軍師です。体調管理程度お手の物かと」

「ふむ。下種の勘繰りだったようだな。あれほどの騎士が体調管理程度できないはずがないか。許せ、ザフィーラ。そなたらを侮った」

「主に慮られて嬉しくない騎士がどこにおりましょう。シャマルが聞けば喜ぶと思います。勿論、私もです」

 主が他者に気を回す余裕があるということは喜ばしいことだ。それは視点を高くし、状況を俯瞰して見ることにつながるからだ。
 主上は復讐に狂っている。今、こうして和やかに話していてもその狂気が感じ取れるほどに。
 しかし、人間とは度を越えた怒りを覚えると逆に冷静になり、殺意が研ぎ澄まされるのだ。
 そして、淡々とそれを晴らすために目標を立て、行動できるようになる。更にはそのことに昏い喜びを覚えるのだ
 闇の書の主の状態はそういうものだとザフィーラは感じた。
 フードをかぶり、表情はわからない。だが、彼の眼は管理局の崩壊だけを望んでいる。そう確信することができた。
 それは人としては不幸なのかもしれない。しかし、王としては、人の上に立つ者としては決して悪い状態ではない。
 闇の書が完全に覚醒すれば、シグナムの信頼が失われている今、主が直接扱うことになるだろう。
 その時、主上が冷静であることは大きなプラスとして働く。

「そうか。ではザフィーラ、私に変わらず尽くせ。そうすれば、その忠誠に私は応えよう」

「はっ!」

 ザフィーラが短く返礼する。夕焼けで血の色に染まった花々が風になびく中、盾の守護獣は再び主に忠誠を誓った。





「お風呂、気持ちよかったね」

 身体から湯気を立ち上らせながらエイミィが言う。服は昼間来ていたカジュアルな服ではない。ホテルに用意されていたゆったりとした部屋着だ。

「うん、僕、あんな大きなお風呂初めてだった」

 同じく、顔を赤く染めたクロノが楽しそうに言った。
 風邪をひかないように頭も入念にドライヤーでミトに乾かしてもらいご機嫌だ。

「クロノ様、エイミィ。もう少しかかりそうだから先に行っていて」

 元気の良い返事が二つ帰ってきて、クロノが出口に向かって走り出す。それをエイミィが慌てて追った。
 案の定、周りを良く見ていなかったクロノは出口で女性にぶつかった。

「わぷっ!?」

 体重の違いで、クロノが一方的に倒れる。

「おっと、済まない。大丈夫か、坊や」

 そう言って女性が手を伸ばしてきた。ワインレッドの髪が美しい女だった。
 今はポニーテイルにして纏めているが相当の長髪だろうことが見て取れた。
 ゆったりとしたベルカ風の衣装を身に纏っていて、首には小さな剣のアクセサリーを提げている。
 ベルカの騎士の非戦闘時としてはスタンダードな格好だった。

「うん、大丈夫。お姉さんも怪我してない?」

 女性の手を取って立ち上がらせてもらったクロノが訊ねる。

「ああ、問題ない。私は頑丈だからな」

 エイミィが追いついてきて、女性とクロノを見やる。
 凛々しいという言葉をそのまま形にしたかのような女だった。
 ミッドチルダ歌劇団の男役として今すぐにでも主役を張れそうな美貌だ。
 その上、ゆったりとした衣装の上からでもはっきりわかるほど悩ましい体型をしている。
 特にバストは豊満で、男なら視線がいくことは避けられないだろう。
 もっとも、この場にいる男は四歳のクロノだけで、視線も何もあったものではなかったが。

「ごめんね、お姉さん。クロノ君、おっちょこちょいだから」

 エイミィが謝るとわずかに頬を歪めて見せる。
 それがこの女性の笑みなのだと気づくのに数瞬かかった。

「笑うの、苦手なんだ」

「うん? ああ、見ての通り武辺者でね。剣を振るしか能がないんだ」

 そういってして見せた苦笑は実に手慣れたものだった。

「えー! 綺麗に着飾ったりしないの? お姉さん美人なのにもったいないよ」

「褒めてもらえるのは嬉しいが剣の腕に顔は関係ないからな。不快に思われない程度に整っていれば良い」

 邪気のない笑みを浮かべて言ったクロノに女性は返した。
 言ったのは子供だし、言われ慣れているのだろう。返答も堂に行ったものだ。

「クロノ様、エイミィ?」

 部屋着に着替えたミトが二人を呼びに来た。

「おや、保護者が呼んでいるようだぞ。早く行ってやれ」

「うん。……あ、お姉さん。お姉さんの名前は?」

「名を名乗る時はまず自分から名乗るものだ」

「あ、ごめんなさい。僕はクロノ。クロノ・ハラオウン」

 そう名乗るとピクリと女は頬を動かした。
 不穏な空気を感じたのか、クロノがわずかに身構える。
 しかし、それだけだった。

「……シグナムだ。姓はない」

 そういって女性、シグナムは不器用に微笑んで見せた。
 その笑みはとても綺麗で同性のエイミィすら見惚れるほどの物だった。

「フォン、エーデルフランメ?」

 エイミィが小さく呟く。それを聞いてシグナムは一瞬真顔になった。
 だが、すぐに微笑みを取り戻す。

「ではな、クロノ。息災であることを祈っている」

「そくさい?」

「元気でいることだよ」

 説明するエイミィを尻目にシグナムは向こうに歩き去って行った。

「ああ、クロノ様、エイミィ、こんなところにいたのですか? もうそろそろ晩御飯の時間ですからレストランに向かいましょう」

 こちらを見つけたミトが足早に向かってくる。その姿を見て、クロノは元気良く返事をした。

「はーい。ミトもシグナムみたいにおっぱい大きくなればいいのにね」

 そう言うとミトは氷のような微笑みを浮かべた。
 そして無言でクロノに近づく。

「クロノ様。お教えしなければいけないことがあります」

「ミヒョ、いひゃい。ほっぺたひっひゃらないで」

 クロノの柔らかいほっぺたが左右に引っ張られる。

「女性の身体的特徴とは当人にとって非常に重要なことです。特に顔の造形、スタイル、肌の質などは気にする女性が大半です。
 今おっしゃられた胸のこともそうです。わかりますか? 後、私は小さくありません、平均的です。わかりますか?」

「わかった、わかったからミヒョ、離して。ごめんなひゃいするから」

「わかればよろしいんです。エイミィもわかったわね」

「は、はい、母さん」

 怒気にあてられたのか、エイミィの返事はわずかに震えていた。
 その横でクロノが頬をさすっている。さすがミトと言うべきか、痕が残らない程度に加減したらしい。頬には何の異常も見られなかった。

「それじゃあ、レストランに行きましょう。なんでも、管理外世界の珍しい料理だそうですよ」

「はーい」

 二人が返事をして、ミトの後を歩き出す。
 最初はおずおずとミトの様子をうかがっていたがもう怒ってないとわかると途端に手を繋ぎに行く。
 それをミトも笑顔で受け入れた。
 そして、三人はホテルに来た時と同じように手を繋いで歩いて行った。





(シグナム、どう、今夜の宿は)

 シャマルから念話が入る。

(良い宿だ。ここなら主は良く眠れるだろう)

(そんなことを聞いているのではないわ)

 真面目なシャマルの言葉に頬を緩ませる。
 あの二人の子供といい、今日は楽しいことが多い。

(わかっている。ホテルの中を見て回ったが不審な所はない。管理局に感づかれているという可能性はほぼないだろう)

(そう。他に変わったことは?)

(大浴場前でクロノ・ハラオウンと名乗る子供に出会った)

(――っ! 例のエースとの関係は?)

(わからん。が、お付きの者がいるようだった。名家の子息であることは間違いないだろうな)

 シャマルの動揺している気配が伝わってくる。

(利用すべきなんでしょうね)

(そうか? 私はそうは思わない)

 シグナムは壁が分厚く、奇襲されないことを確認してからホテルの隅の壁に寄り掛かった。
 そのまま、シャマルとの念話に集中する。

(シグナム、何を言っているの? 捕えておけば抑止力になるし、目の前で殺すだけでも十分動揺が誘えるわ)

(それは正道ではないし、我らは小勢ゆえに子供の見張りに常に人員を割くだけの余裕がない。それに主の心が心配だ)

(どういうこと?)

(主は本来子供好きで虫も殺せない方だ。自分のために罪もない子供を殺せば、その分だけ心が傷つく)

(それはいずれ乗り越えなくてはならないことでしょう? 今更忌避する必要があって?)

 今代の闇の書の主は管理局の殲滅を目的としている。
 管理局の就労年齢の低さから、その過程で必ず、子供を殺す必要があるはずだった。
 現に先の千対四の戦いでは、少年兵も容赦なく殺している。

(ある。主の心が危ういバランスで成り立っているといったのはシャマル、おまえだ。
 罪のない子供を狙うのは私達が独断でやるべきことで、主の名分を傷つけてまでやることではない)

 だが、それは戦士として戦場に出てきた子供達である。
 無辜の市民を虐殺するのとはレベルが違うとシグナムは言ったのだ。

(一理あるけど、シグナム。それが情ではなく理で判断したのだと言い切ることができて?)

(情と理、どちらの上でも手を出さないのが最善と判断した。それだけだ)

(そう、わかった。ただし、いざというときのために策の一つには数えておくわ、構わないでしょう?)

(勿論。それがお前の仕事だ。といっても私がいる限り、そんな策が必要になることなどないが)

(そうでしょうね。貴女に勝てる人間がこの世にいるとは思えないわ)

 シグナムはヴォルケンリッター最強の騎士であり、一対一で勝てる人間など存在しない。シャマルはそう確信していた。
 彼女を正面から倒すにはそれこそ、万の軍勢が必要だろう。
 ましてや、ヴォルケンリッターのサポートがあれば、どんな相手だろうと勝利できる。
 それをシャマルは知っていた。

(では、主にホテルに向かってもらうわ。シグナムは引き続き警戒を続けて)

(了解した。ではな、シャマル)

 そうして念話を切る。
 あたりを見やる。ちょうどシーズンなのか、観光客が多い。
 子供連れもたくさんいて、元気に走り回っているか、我慢してウズウズしている。
 この場所が戦場にならなければ良い。
 シグナムは真摯にそう願った。



[34641] クライド・H・ハラオウン⑤
Name: 烏賊様刻◆e7251814 ID:b1305343
Date: 2013/01/14 05:48
 それはアースラの出港準備が整い、出発を三日後に控えた昼のことだった。

「クライド、少しいいかな」

 忙しい盛りが過ぎて、若干静かになったドックの中。
 双子の使い魔も連れず、たった一人でアースラを訪ねてきたグレアムが言った。土産なのか、上等な酒を持っている。

「なんだ、爺。一人で来るんじゃねぇよ。もう歳なんだから、ロッテとアリアに介助してもらえ」

「その口の悪さはどうにかならないのか」

「俺が酒を飲まねぇのを知ってるくせに酒を持ってくる奴に話す言葉はないね」

「義理とはいえ息子に会いに来るのに土産など持ってくるか。これはお前の部下などというかわいそうな立場になってしまった皆さんを労うためのものだ」

「ちっ。それなら仕方ねぇなあ。セドリック、ありがたくもらっとけ。加齢臭が染みついてるかもしれねぇがそれは勘弁してやれ」

「はは、若さしか取り柄が無い者ほど良く吠える。ああ、リミエッタ二尉。遠慮はいらない。そこそこいい酒だから美味いことは保証するよ」

 当人よりむしろ、聞いているものをハラハラさせる会話が続く。
 憮然とした様子で言葉を交わす二人を見て、セドリックなどは露骨にうろたえている。

「大丈夫よ」

 騒ぎを聞きつけてやってきたリンディがにっこり笑って言う。

「あの二人はあれで仲は悪くないのよ」

「とてもそうは見えませんが」

「クラブだといつもあんな感じだからもう皆慣れっこなんだけどね」

「クラブというと、ダルマクラブですか? 何でも任務中に四肢の轢断をされたものだけが入会できるという」

 セドリックの声には関心が含まれていた。
 まあ、数ある管理局のクラブでも入会条件が最も厳しい物の一つだ。
 勿論、世の中には"ロストロギアの暴走に巻き込まれて生き残った人間"のみが入会可能なデストロイクラブというわけのわからないクラブもあるのだが。

「"手足をぶった切られても生き残る生き汚い奴とそれでも戦い続ける大馬鹿者"が参加してるだけよ。クライド風に言うならね」

「歴戦の猛者しか入会できないと暗に言われているような気がしますが」

「そんなに大層な会じゃないわ。大馬鹿者同士なら気が合うだろうって集まっただけ」

 今はね、とリンディは心の中で付け足すのを忘れなかった。レジアスの計画が上手くいけば、ダルマクラブは歴史に語られる場所になるだろう。
 グレアムが今日来たのもそれに関係しているに違いがなかった。

「で、今日は何の用だ、爺。出発なら三日後だぞ」

「まだ、ボケてはいないから覚えているよ。今日はクライド、君に喧嘩を売りに来た」

 憮然としていたクライドがにわかに喜色を帯びた。
 この男、王になるなどと言っているくせに生粋のバトルマニアなのだ。

「どうした、爺。いつもは負けないのが執務官長の仕事だと言ってやらねぇくせに」

「……気が変わったんだよ」

 グレアムが静かに調息を始める。

「私一人では役者不足かな?」

「安心しろ、俺と戦うなら誰だって一人じゃ力不足だ。模擬戦場に行こう。リンディ、部屋を使うけど構わないよな」

「ええ、構わないわ。どうせならどっちが勝つか賭ける?」

 気楽に聞くリンディにクライドが笑った。

「悪いことは言わねぇから俺に賭けろ。損はさせねぇよ」

「ごめんなさい。私、胴元だから。それじゃグレアム執務官長VSクライド・ハラオウン一等空尉の模擬戦一発勝負よ。一口千から行きましょう」

 艦長公認ということで娯楽に飢えていた隊員達が我も我もと金を賭け始める。
 たちまちリンディのデバイスが数十件の投票と付帯した電子マネーを管理する。
 特に武装局員の眼は真剣だ。日ごろの訓練でクライドがどれほど強いか知っているが、あいては歴戦の執務官長。戦績だけならクライドの方が上だが、グレアムもまた強者のオーラを纏っている人間だ。少しでも自分の参考にしようと目を光らせている。
 模擬戦場の中央でクライドとグレアムは向き合った。クライドはいつもの制服型バリアジャケットに短杖。グレアムは背広の要所にプロテクターを付けたようなバリアジャケットで、手にはステッキ型デバイスが握られている。
 始まりは合図もなく突然に訪れた。クライドが突貫したのだ。フェイントも入れずにまっすぐ走り、短杖で突く。
 グレアムは流麗な動きで前に出ながら避け、ステッキで足を引っ掛けにいく。
 払いのける感触はない。クライドが自分から前に飛んだ。そのまま宙返りをして着地し、そのままバックハンドブローを放つ。
 完璧なタイミングで放たれたそれをグレアムはスウェーバックで危なげなく躱した。

「見事なステッキ術だな。チキューの技だったか?」

「まあ、当たるとは思ってなかったが、人間と言うより猫だな、お前は」

「文句なら教えたロッテに言えよ」

「機会があったらそうしよう」

 ギャラリーから感嘆の声が聞こえてくる。
 一瞬だったがとてつもなく高度な戦いだった。

「四メートル六十二センチ三ミリ。大したもんだな。年寄りの冷や水とも言うけどな」

 五メートル弱の距離を取ったクライドが短杖を構えながら言う。
 それに余裕すら感じさせる仕草でグレアムが肩を竦める。

「近接戦闘について、言うべきところはないな。次のステップに移ろうか?」

「やりたいことをやりゃあいい。どうせ、俺が勝つ」

「では、好きにやらせてもらおう」

 そう言ってグレアムは飛行魔法で飛び上がった。それを見てクライドも追って飛び立つ。
 見る見るうちに両者の距離が開く。魔力量の関係でグレアムの方が圧倒的に速度が出る。
 あれほど見事なステッキ術を習得していながら、グレアムの本領は中遠距離での砲撃戦だ。
 後退しながら、誘導弾を八個とバインドを雨霰とばらまく。
 それらを見て避けながらクライドが近づく。さすがに意識を攻撃に割くと移動の速度が落ちるのか、緩やかに後退するグレアムに追いついた。が、間合いに捉える寸前で不意に横に躱す。
 見れば、そこには半透明の障壁が作られている。明らかにクライドの攻撃を妨害するための物だ。

「バインドシールドか。面倒な技を使いやがって」

 バインドシールドはミッド式魔法の極致の一つで、防御結界に攻撃した相手を対象にバインドが発動し拘束する、攻防一致の魔法だ。
 消費魔力と脳のリソースへの負担は大きい物の、その性質上、非常に感知しづらい接近戦殺しである。
 近づかせたのはわざとだ。クライドを捕えるための罠。
 それをクライドは避けた。非論理的な判断力、いわゆる直感で。

「避けたことは褒めるが、それでその後どうするのかね」

 クライドは純接近戦型の魔導師だ。中距離での牽制すらほとんど行わない一点特化の魔導師である。
 近づかなければ何もできない。

「どうもこうもない。近づいてぶちのめす、それだけだ!」

 猛然と距離を詰める。それにグレアムは後退しながら冷静に対処した。
 先程より更に二つ、合計十個誘導弾を放ち、バインドを設置し、あるいは放っていく。
 クライドはその嵐のような弾幕に身を捻じ込ませた。首をひねり、身をよじり、時には迎撃し、シールドで受け流し、着実に距離を詰めていく。
 異様な光景だった。縦横無尽に移動する誘導弾が、その間隙を無くすように撃ち込まれるバインドがただの一発もかすりもしないのだ。
 背後から迫った誘導弾を見もせずに躱し、更にクライドが速度を上げる。それに合わせてグレアムが後退し、トンと背中が壁にぶつかった。
 グレアムの表情が凍りつく。

(模擬戦場の壁? バカな、早すぎる!)

 全長で百メートルほどある広大な空間である。こんな短時間で詰まることなど考えられない。
 理由を挙げるなら一つ、クライドの前進のプレッシャーが常識外のものだったこと。そして、ひたすらまっすぐ下がるように思考を誘導されたこと。
 そして、グレアムが詰まり、弾幕が緩んだ瞬間、クライドが一気に距離を詰める。
 近距離、それもクライドがもっとも得意とする短杖の間合いへと。

「クッ!!!」

 グレアムが初めて声をあげた。
 バインドシールドを再び張る。半透明の壁が現れる。

「甘い!」

 それを予測していたクライドがいとも容易くバリアブレイクする。
 もう二人の間に遮るものはない。完全にクライド有利の距離となった。
 クライドが続けざまに短杖で突く。それは手のスナップだけで放たれる攻撃で速いが軽く、ボクシングで言えばジャブに近い。
 だが、それを強固なバリアジャケットで身を守っているはずのグレアムがステッキで必死に受ける。
 だが、捌ききれず、ステッキを横に薙ぎ払う。
 それをクライドはわずかに身を沈めて避けた。そのまま、体勢を崩したグレアムに軽く短杖で突いた。
 バリアブレイク。
 グレアムのバリアジャケットが光の粒子となって霧散し、元の背広姿になる。
 そして、横に逃げようとしたグレアムにわかっていたように置かれていたクライドの左前蹴りが突き刺さる。
 辛うじて止まり、直撃は避けたものの、脇腹をかすめ、鋭い痛みを覚える。
 逃げ道は完全に封じられた。
 返しの右ハイキック。それをグレアムは咄嗟にステッキから手を放し、左腕を上げて、まともに受けた。
 ギチギチと腕から嫌な音がなる。魔力で身体能力を強化されても骨や筋肉の強度まで上がるわけではない。
 バリアジャケットで包まれた右足はまさに凶器。金棒を素手で受け止めたのと変わらない。
 辛うじて受けたものの、動きが止まった。
 まだ残っている誘導弾を操ろうとするが、クライドが短杖を突きつける方がわずかに早い。

「爺、俺の勝ちでいいか?」

「ああ、私の負けだ」

 息も乱さず告げるクライドに、グレアムはそう言った。
 悔しさはない。むしろ清々しい気持ちでグレアムは敗北を認めた。

「まあ、爺も年の割には中々だが、俺と戦えるほどじゃねえな。ちゃんとロッテとアリアを連れてきな」

「三人で戦っても勝てると?」

「いや、さすがに厳しいな。さっきの戦いだって一発でも当たっていればそのまま撃墜だし、見た目ほど楽な戦いじゃあねえよ」

 無理だとは言わない。それが強がりなのか、自信なのか、グレアムにも判断はつきかねたが何となく後者のような気がした。 
 これ以上の質問は控えることにする。クライドは本物だ。その強さは比類がない。
 しかし、義理とはいえ父親として、聞くべきことを聞かねばならない。

「クライド、君は王になるつもりだと聞いた」

「ああ、そういうことになってるな」

「君は王になって何を為すつもりだ? 何を為したいのだ? それが聞きたい」

 それがグレアムの一番の疑問だった。クライドは王才があるのかもしれないが、王になるような性格ではない。
 自信家で傲慢とも取れる口ぶりをしているが、権力欲も名誉欲もない。バトルジャンキーの気はあるものの、基本的には家族と静かに暮らすことを幸せと感じる男なのだ。

「何もしねぇ」

「何?」

「何かやるのはレジアスとか爺の仕事であって、俺の仕事は強敵と戦うことと部下の教導と最後に責任を取ることだけだ」

「神輿に徹するということかね?」

「まあ、そうなるな。俺は頭が良いわけじゃねえ。喧嘩が強いだけのただの魔導師だ。自分にできることとできないことぐらいは把握しているつもりだぜ」

「それでは王になって君に何の利益がある? クロノは王子になり、リンディさんは王配になる。そのデメリットを背負う必要があるのか?」

「別にクロノが俺の次の王になると決まったわけじゃない。なるかならないかはクロノの自由、それで王子として最高の教育を受けられるんだ。それは決して悪いことじゃないだろうよ。それに……」

「それに?」

「……レジアス・ゲイズとギル・グレアムならきっと世界を良い方向に導いてくれる。あんたらが失敗したなら詰め腹ぐらい切ってもいいと思ったんだ。それぐらいには信用しているんだ。言わせんなよ、恥ずかしい」

 絶句。ダルマクラブに入会して以来、かつての不仲を思えば少しは近しくなっていたが、まさか、そこまで信用されているとは思いもしなかった。
 
「君は大馬鹿者だな」

「はっ、何を今更。俺は次元世界で一番の大馬鹿者だよ、親父」

 クライドがかぶりを振る。そして大仰に手を広げた。それが不思議と様になる。
 そうだ、王になるのは大馬鹿者だけだとはるかな昔から相場が決まっている。
 神輿になるだけで何もしないというのなら、名君か暗君か決めるのは自分達臣下だ。

「そこまで信頼されたら応えないわけにはいかん。私にも意地があるのでね」

「そうか」

「ああ、よろしく頼みます、我が王よ」

「ん。特にさし許す」

 一瞬の沈黙。そして、二人はそろって大笑した。





 模擬戦場から戻ってきた二人を局員は賛辞と共に出迎えた。

「流石です、クライド一尉。勝ってくれると信じていました」

「セドリック、儲けたか?」

「はい、ミトに服でも買ってやろうと思います」

「そうしろ。リンディは……聞くまでもねえか」

「あら、こんなところで儲けなくても私には高収入の旦那がいるから別に儲けてないわよ」

「奇遇だな。俺も高給取りの嫁さんがいるんだ。しかも美人でエロい」

「エロいって何よ、エロいって。まあ、そんなことより、親子の話はできた?」

「ん、まあな。そこそこ有意義な時間だったぜ」

 照れたように頭をボリボリと掻くクライドにリンディは微笑んだ。

「そう、それは良かった」

 全部わかっていたように、いや、実際全部わかっていたのだろう、リンディが言った。
 グレアムの方をちらりと見る。グレアムは局員、特に中遠距離系の魔導師から賞賛を受けていた。
 負けたとはいえ、クライド相手に善戦したのだ。当然だろう。

「それにしても空戦SSランクの大魔導師をああも簡単に降すとは、さすがに吃驚したわ」

「爺はロッテとアリアに容量を割いてるからな。一人じゃ空戦AAA+が関の山だろうよ」

「それでもすごいです。自分はまた感動させてもらいました」

 セドリックが言った。
 一般にAAランクとAAAランクの間には大きな壁があると言われている。
 極論してしまえばそれは凡人と天才の壁だ。リンカーコアを持った平均的な魔導師がどれほど死力を尽くし、血反吐を吐いて修行をしても魔導師ランクはAAランクで止まると言われていた。
 AAAランク以上は神に選ばれたものの領域。凡人が入る余地などないというのが一般の認識だ。
 対して、クライドの魔導師ランクは空戦A+。AAAランクの魔導師の牽制の誘導弾が直撃すればバリアジャケットの上からでもノックアウトされる魔力量だと言えば、素人ならばともかく熟練の魔導師であるグレアムと戦えていることがどれほど異常なことか理解できるだろうか。
 それはあらゆる才無き者にとって希望に成り得る。だから、クライドはミッドチルダの英雄なのだ。

「馬鹿。セドリック、お前は一々おおげさなんだよ」

 口の悪いクライドは素直に賞賛されるのが苦手だ。
 今も恥ずかしいのか、頭をボリボリと掻いている。

「いえ、正当な評価です。クライド・H・ハラオウンは天才であると確信しています」

「……俺なんて、爺がいつも言ってる通り、喧嘩小僧が偶々ものになっただけにすぎねえ。天才っていうのはリンディみたいな奴のことをいうんだよ」

「あら、今日は珍しくナイーブね。ギル・グレアムに完勝した人間の言葉とは思えないわ」

「爺一人だったからな。ロッテとアリアがいたら手も足も出なかっただろうよ」

「そのときは貴方の隣に私がいる。それでも足りない?」

「……いや、十分だ」

 クライドは一対一に特化した魔導師であるため、対複数の戦闘では実力を発揮できない。そのため、敵を分断してくれる味方が必要になる。
 その点、リンディは中遠距離型の大魔導師で誘導弾の扱いに長けている。クライドの援護にはうってつけだった。

「私も共に戦えればいいのですが、そのレベルの戦闘だと逆に足手まといでしょうな」

 セドリックの魔導師ランクは空戦B+ランク。優秀な方だが、大魔導師が相手ではただの的にしかならない。
 時間稼ぎができれば良い方だろう。

「できないってわかってりゃあ色々やりようがあるだろう。無い知恵絞って助けてくれ。それがお前に望むことだ」

「肝に命じます」

 そう言ってセドリックは誓いを新たにした。いつも言っていることは冗談でも韜晦でもない。
 クライド・H・ハラオウンのために死ぬ。命の恩は命で返す、そう決めていた。
 五年前、ブラストに誘拐され、廃墟で死ぬはずだった妻と子を助けてくれた恩を返すために。
 勿論、クライドという一人の天才に心酔している部分もあるが。

「さて、じゃあ解散するか。おい、てめぇら、爺は歳なんだ。ずっとくっちゃべってないでちょっとは気遣ってやれ」

 そう言って局員達を追い払う。局員達もあんたが言うな、とか横暴だ、とかブーイングはした物のバラバラと自分の配置に戻り始めた。

「じゃあ、またな、爺」

「ああ、クライド。リンディとクロノを大切にな。あれらはお前には過ぎたるものだ」

「言われるまでもねぇよ」

 クライドがそう言うとグレアムは穏やかに微笑んでアースラを去って行った。
 彼にも自分の艦があり、出港準備をしているはずだ。その激務の間を縫って来たのだろう。
 ご苦労なことだとクライドは思った。




[34641] クライド・H・ハラオウン⑥
Name: 烏賊様刻◆e7251814 ID:b1305343
Date: 2012/12/30 12:00
 クライドとグレアムの戦いから三日後、次元航行艦アースラを含む三艦は編隊を組んでミッドチルダを出発した。
 行く場所は以前、千の軍勢が蹴散らされた管理外世界ロズモンド、ではない。

「相手も次は管理局が本気で来るとわかっているだろう。ロズモンドで迎え撃つという選択肢はない。
 無限書庫からの情報が正しいのなら、奴らは闇の書の完成を目指すはずだ。
 それによって何が起こるかはわからんが、歴史書が正しければ、古代ベルカに終焉をもたらした原因の一つとやらが手に入る。
 それが魔力なのか、兵器なのかは他の何かなのかはわからんが、そのためにエースを倒して蒐集するなどというハイリスクなことは考えない。
 一騎当千の騎士を四人も抱えているなら、なおさら地道に原生生物や現地住民から蒐集することを考えるだろう」

 それがレジアス・ゲイズの読みだった。よってロズモンドから位置的に近い管理外世界を中心に探索する。
 そのためにまず、一番近い管理世界であるハッシュモンドに寄港し、捜査拠点を作る手筈だった。
 ハッシュモンド上層部にも話は通してある。ただ、一つ言っていないことがあった。
 ハッシュモンドは観光が主な産業で人口も少ない。世界としてもかなり小さい部類に入る。よって、もし攻めてきたとしても住人の避難誘導を柔軟に行いながら、戦うことができる。
 有り体に言えばハッシュモンドは囮でもあった。
 正直、この策は無駄になった方が良いと思っている、とはギル・グレアムの弁だった。





 クライドとセドリック、そしてリンディはハッシュモンドの高級ホテルに訪れていた。

「父さん、母さん!」

 ロビーに行くと、そんな声と共にクロノが飛びついてきた。

「おお、クロノ! 元気にしてたか」

 クライドがクロノを軽々と抱き上げて頬擦りする。

「父さん、ジョリジョリする」

「おお、すまん。今日は髭を剃るのが面倒だったんだよ」

 無精髭を嫌がるクロノにクライドは豪快に笑った。

「クライド様、お髭は毎日剃られますよう、あれ程お願いいたしましたのに」

「げぇ、ミト、いたのか!?」

「いたのか、ではありません。貴方はもう名家ハラオウン家の当主なんですよ。身だしなみにはいつも気を使ってくださいと申しているではありませんか。
 ただでさえ一年中服装が変わりませんのに」

「いや、ハラオウン家を取り仕切っているのはリンディだし、維持はミトがやってるじゃないか。俺なんて飾りだろ?」

「飾りとわかっているならなおさら身綺麗にしてくださいと先日も申しましたよね?」

「ゴメンナサイ」

 クライドが平謝りする。
 肩を竦めて謝る姿にエースの威厳はない。
 基本的に直情的で戦闘しか取り柄のないクライドはそれが通用しない相手には弱い。
 特に、クロノの世話役でハラオウン家の侍女長(といってもミト一人しかいないが)であり、殴ったら死んでしまいそうなほど華奢な女性であるミトなどはその筆頭に挙げられる。

「クライドさん、かっこ悪い」

 エイミィの率直な感想にグハッとクライドが胸を押さえる。

「違うよ、エイミィ姉ちゃん。きちんと謝れる男はかっこいいってミトが言ってたもん」

「それは初めて間違いを犯したときでしょう? 言われても直さなくて注意するたびに謝るって男としてどうなの」

 エイミィの割と辛辣な指摘にクライドが落ち込む。だが、それも長くは続かない。

「ガアッ!! 食べちゃうぞー!!」

「きゃああ、食べられる。クロノ君、逃げよう!」

 手をワキワキと動かしながら迫るクライド。
 エイミィが楽しそうに悲鳴をあげて、クロノの手を引いて逃げ惑う。
 それをミトとリンディが微笑んで見つめていた。

「ん?」

 エイミィ達を追いかけていたクライドが突如振り返って虚空を見る。そこには変わらずミッドチルダよりやや小さめの太陽が浮かんでいた。
 クライドの表情が一瞬、恐ろしく険しくなる。

「クライドさん?」

「父さん、どうしたの?」

 突然追うのをやめたクライドにエイミィとクロノが近づいてくる。
 その腰に素早く手を回したクライドが二人を抱き上げた。

「馬鹿め! ひっかかったな、俺様の華麗な作戦に!」

「あー! ずるい!」

「父さん、ずるい!」

「はは、ずるくて結構。騙される方が悪いぞ。戦士とは卑怯な物だからな」

 クライドはそう言って大笑した。





「……気づかれた? それとも偶然?」

 空中に投影したディスプレイを見ながらシャマルが呟く。
 シグナムからクロノ・ハラオウンの話を聞いて以来、小型サーチャーを一基、監視に飛ばしていたのだが、ディスプレイ越しにクライドと目があったのだ。
 太陽に重なるように飛んでいる透明で音も臭いもしないサーチャーに気づくなど考えられないが、発見されたとしか思えないタイミングではあった。

「気づくのは極めて困難だが不可能ではない。サーチャーは魔法の産物である以上、微細な魔力を常に発散している。それを感知できれば見つけることは可能だ」

 シグナムが渋い顔をして言った。
 自分がどれだけ無茶なことを言っているのか自覚があるのだろう。

「微細な魔力って、大気中にだって微細な魔力の濃淡があってそれに紛れ込んでるのよ。どうやって気づくのよ」

「わからん。だが、奴は気づいた。最低でもヴィータクラスの直感か並外れた感知能力を持っているということだろう」

 実力で言えばシグナムが優るが純粋な才覚だとヴィータが一歩抜きんでている。
 幼くして死んだためにフィジカルが弱いのが弱点だったが、ヴィータの非論理的な判断力、本質を見抜く力にはシグナムも一目置いていた。

「そう。……シグナム、あの男に勝てる?」

「その言葉にはこう答えよう」

 シグナムはまっすぐにシャマルを見、そして宣言する。

「ベルカの騎士に一対一で負けはない」

 それは遥かな古代から連綿と受け継がれた騎士の誓い。
 ベルカに生まれ、騎士と呼ばれた者全てが潜在的に持ち合わせる願い。
 そして、シグナムはそれを真の意味で言うことができる数少ない、いや、ほとんど唯一の騎士だった。
 "騎士の中の騎士"、"紫電一閃"、"烈火の将"、"剣の騎士"。
 シグナムを称え、畏怖する二つ名は数ある物の、彼女を最も的確に表した称号はただ一つ。
 聖王すら認めた"百戦不敗"の騎士、それがシグナム・フォン・エーデルフランメなのだ。
 もっとも、彼女はその称号を嫌い、ただのシグナムと名乗っているが。

「そうね。貴女に勝てる人間なんてこの世に存在しないものね」

「聖王がいるが」

「あれは人間じゃない、怪物よ。真竜や地震や火山の噴火と同じ、天災に近い存在だわ」

 そういうシャマルは珍しく声に感情を含んでいた。それは多大な嫌悪。

「まあ、概ね同意する」

 そして同意見だったらしいシグナムが頷く。

「それで、シャマル。これからどうする?」

「とにかく見つかったのなら主上に報告して対策を考えるべきね」

 シグナムの誰何にシャマルが即答する。

「詳しくは主上に会ってから話すけど、こちらが優っている数少ない点だった情報アドバンテージを相殺されたわ。
 思い切った手段に出るべきだと思う」

「そうか、つまり打って出るということだな」

「ええ、そういうことよ」

 シャマルは頷いた。

「それでは主上の元に戻りましょう、"烈火の将"。これからは相手に時間を与えれば与えるほど不利になるわ」

「わかった、"湖の騎士"」





 闇の書の主の泊まる部屋に戻ったシグナムとシャマルは先刻、クライドに監視を気づかれてしまったことを話した。

「申し訳ありません。私の失態です」

「良い、シャマル。聞いたところではお前に不備はない。そのような監視が気づかれるなど誰も想定できん」

 跪き、こうべを垂れるシャマルを主は鷹揚に許した。

「過分な温情、ありがたく思います」

 ヴィータとザフィーラがほっと息をつく。
 これでシャマルが咎められるようなら身命を賭してかばわなければならなかったからだ。

「しかし、それほど問題があるのか? 管理局に漏れたことは誰かがハラオウンを監視していたことのみ。
 ハラオウンの重要性を考えれば、そのような者、いくらでもいよう」

 主の疑問ももっともなことだった。
 ミッドチルダ王朝唯一の正当な後継者であり、ミッドチルダ屈指の大地主として有名であるハラオウンはそれ故に敵も多いはずだった。
 有り体に言って、誰が監視していてもおかしくないのだ。

「勿論、相手がそう考える可能性は十分あります。ですが、問題は私達との関連を疑った場合です。
 この場合、初動の遅れは致命的となります。敵の戦力がどれ程かはわかりませんが、前回の戦いから相応の戦力を用意しているのは確実です。
 そうすると、敵の戦術はこちらの場所を把握し、強襲することになります」

 不幸な偶然とはいえ、身を隠した管理世界と討伐部隊の拠点が一緒になってしまったのだ。ただでさえ、ディスアドバンテージが多い中で戦略で後れをとってしまったということだ。軍師としては許容しがたい事実だろう。もっとも、相変わらず無表情のシャマルからは焦りなど微塵も感じられなかったが。

「なるほど、ホテルに泊まっているのは危険と言うわけか。残念だな。この部屋は気に入っていたのだが」

 この歳になるまでミッドチルダから出たこともなかった町育ちでしかも富裕層の出である主には野宿は辛いらしかった。
 ヴォルケンリッターとしても主が老齢であることを考えるときちんとした寝床を確保して体調を慮りたいところだ。
 だが、管理局が攻めてくるとなれば話は別だ。

「早晩、ここから住処を移すとしよう。ザフィーラ」

「はっ。身を隠すのに適した場所はいくつか見繕ってあります」

 ザフィーラは四人の中で最も従軍経験が豊富で、密林の中で半年間敵を撃退し続けたこともあるサバイバルの専門家だ。
 万が一に備えてハッシュモンドの各地にサーチャーを飛ばし、野宿しやすい場所を探していた。

「結構。ではシャマル。身を隠した後、我らはどう行動するべきなのか。それを聞かせてほしい」

「はい。気づかれてしまった以上、他世界への転移は愚策です。すぐに転移先が察知されるだけでなく、向こうの力量次第では転移直後に奇襲を受けるかもしれません。
 ここは打って出るべきです。敵が完全に私達に気づく前に不意打ちでエース級の魔導師を一人か二人、最低でも戦闘不能にまで持っていきます。
 その後は相手次第ですが、退くならば逃げる。追ってくるなら戦い、できれば捕虜を取って蒐集するのが望ましいです」

「ふむ、それは……」

「はい。後者はリスクが極めて高く、危険です。ですが、賭けに出る必要があると愚考します。
 一応、裏技としましては私達から蒐集し、闇の書を先に完成させるという方法がありますが……」

「いや、それはない。お前達の力は闇の書が覚醒した後にこそ真に必要となる。
 安全を重視して、管理局を滅ぼせないなら本末転倒。そのぐらいは私にもわかる」

 老いた主はそう言ってグルリと首を回し、己の騎士達を見渡した。

「ヴォルケンリッターの各々に命ずる。自らの武威を証明せよ」

 そして、告げる。

「誰一人として倒れることを許さぬ。傷つくことも許さぬ。完勝せよ。一心不乱の大勝利を私は望む」

「御意!」

 四人が声をそろえる。
 シャマルが指輪の形態をした自身のデバイス、クラールヴィントを振りかざす。
 部屋の床に転移魔法陣が浮かび上がり、一同は輝く粒子を残して消えた。





「監視されていた? クロ助が?」

 双子の使い魔の片方、リーゼロッテが聞き返す。
 彼らはアースラの会議室に集まり、今後の方針会議を開いていた。 

「ああ。それで不審な人間に会わなかったか聞いてみたんだが、フードをかぶった怪しい老人とすれ違ったらしい。
 面相とかはわからなかったらしいんだが」

「ふむ。闇の書の主は確か、老齢の男だったね」

「ええ。ミヒャエル・ベンべ。元はベルカ系の技術者だったけど、一年前に妻と共に消息を絶ち、その一ケ月後、管理局の次元航行艦を撃墜した。
 同時にロストロギア闇の書の今代の主であることが判明し、武装局員千名からなる討伐部隊を派遣するも部隊は壊滅。現在に至る、と」

 リンディがグレアムの言葉を補足する。

「その妻とやらはどうなったんだ? 今も行動を共にしているのか?」

 ゼストが聞くとリンディは首を横に振った。

「現在、鋭意調査中。つまり、不明よ。生きているのか死んでいるかわからない。ただ、死んでいる可能性が高いわね」

 元々、高ランクの騎士を四人も連れながら、一切戦おうとせずに逃げ続けていたような男だ。
 それが突然好戦的になり、管理局に刃向うなら何か心変わりするような事件が必要だ。例えば、愛する妻が殺された、など。

「そうか、すまない。話の腰を折った。続けてくれ」

 ゼストが背もたれに背を寄せる。それを見て、グレアムは話を続けた。

「では話を戻そう。奇妙な一致を偶然と片づけるのは危険だろう。その老人はベンべ本人であると考えて対応した方が良い」

「だとすると、相手はわざわざ管理外世界で暴れた後、管理世界に潜伏したというの?
 そんな非効率な行動をしたわけは?」

「こちらの裏をかこうとしたとも考えられるが、そもそもベンべ本人が我々のような軍人ではない。管理局がどう動くかなど予想できないだろう。
 ブレーンであろう古代ベルカの魔法プログラムも管理局の定石を知らなかった可能性は十分にある」

「まあ、そうね」

 不可解な点はあるがある程度論理的で納得できる指摘だった。

「勿論、並行して他の世界の探索も行う。ただし、こちらはサーチャーを多めにして、まずハッシュモンドに人員を集めて精査する」

 グレアムが顎に手を添えて言う。執務官長らしい、堅実で妥当な意見だった。

「良からぬことを考えていた時の危険度から考えてそれが妥当ですね」

「そう? ちょっと消極的すぎるんじゃない? 武装局員を各個撃破される可能性もあるし、私達も出るべきだと思う」

 リーゼロッテとリーゼアリアが言った。ちなみに丁寧語の方がアリア。積極的な方がロッテだ。

「大丈夫? 相手は五人。一人は戦闘型では無い老人とはいえSSランクの大魔導師よ。エースが各個撃破なんて目が当てられないわ」

「まあ、それについてはチームを組んで回れば何とかなるだろう。俺とゼスト、爺とロッテとアリアで二チームだ。
 リンディはなんか有った時のためにアースラに残ってもらう。これでどうだ?」

 クライドの提案に全員が頷く。

「後はどこから調べるかだが……」

「それは一つ、俺に案がある」

 ゼストが静かに言った。





「ええ、確かにお泊りになったお客様が一組昨日の夜から部屋を出てこられません。開けてみると部屋の中はもぬけの殻でした」

「そうか。どんな人相だったかわからないか?」

「今、担当の者を呼んできますので少々お待ちください」

 そう言って小太りの支配人がフロントに足早に去っていく。
 それをクライドとゼストは黙って見送った。

「しかし、ゼストの読み通りだったな。クロノと同じホテルに泊まってるとは思わなかったぜ」

「相手は六十八歳の老人でしかも富裕層の都会育ちだ。野宿の連続はきついだろうということはわかっていた」

 ゼストの案は単純な物だった。
 ミッドチルダに生まれた者はよほどの辺境か、スラム育ちの孤児でもない限り普通は家で暮らす。
 キャンプなどに行ってもログハウスやテントに泊まるので、純粋な野営など管理局にでも入らない限り体験できない。
 だから、宿に泊まれるときは素直に泊まってくるだろうと読んだのだがそれは正解だったようだ。

「ふん、金持ちっていうのは軟弱だな」

「今はお前がその金持ちだ。別に捨てろとは言わんが王になるならそれなりの振る舞い方を覚えていけ」

「わかってるよ。まったく、ゼストまで爺やレジアスみたいなことを言うんだからよ」

 クライドとゼストの関係は割と複雑で、街の喧嘩自慢と平の管理局員から、戦技教導隊の教官と首都防衛隊の隊長になり、王とその臣下の騎士になろうとしている。
 ただ、それでも、二人の関係はたったの四文字で表すことができる。すなわち、ライバル。
 彼らの関係は結局、そこに集約される。

「お前は俺達の旗頭だ。ハラオウンに相応しい振る舞いをしろとまでは言わんが老婆心は出てくる」

「言ってるじゃねぇか。まったく……」

 だが、言いたいことはわかる。
 クライドは口が悪い。セドリック達武装局員はそれを一個の個性として認めてくれているが大衆の全てがそれを好ましく思うかは別問題だ。
 王になるかならないか以前に、時と場をわきまえて口調を変えるのは集団生活を営む上でも必須のことだ。
 クライドはそれが苦手だ。管理局に入った時に最低限は叩き込まれたが口の悪さを直すには至っていない。
 レジアスなどはそれすらも王才だと思っている節があったが、直せるなら直した方が良い。

「わかった。今回の件を生き残ったら直すよ」

「まあ、妥当な所だな。だが、忘れるな」

 至極真面目な顔でゼストは言った。

「お前を殺すのはこの俺だ」

 一瞬の沈黙。そして、クライドは噴出した。そのまま腹を抱えて笑う。

「何がおかしい」

「だって、今時少年漫画でもそんなこと言わないぜ。ゼスト、お前はもうちょっとフィクションに目を向けるべきだな」

「俺だって演劇ぐらいは見る」

「どうせ、"斬鉄剣"ぐらいだろ。ありゃ、ノンフィクションのドキュメンタリーだよ」

「ぬ」

 図星を突かれたのか、口ごもるゼストを見て、クライドはまた笑った。

「だけど、ありがとうよ、ゼスト。そうだな、お前に殺されるまで俺は死なねぇ」

 当然だと言う風にゼストが頷く。
 そう。少しわかり辛かったがゼストはこう言いたかったのだ。『生きろ』と。
 それから少しして、支配人が担当の者を連れて戻ってきた。
 どうやら、朝の担当の者だったらしく、家に帰っていたのを連れてきたらしい。

「それじゃあ、その客は五人組だったんだな?」

「はい。変わった客だったので覚えています。
 ワインレッドの髪の美人と淡い金髪の女性と赤い髪の小柄な少女。それに、青い体毛の銀髪の使い魔がいました。後、フードをかぶったご老人がいて、その方が五人のリーダー格かな、と思いました」

 千人を潰走させた面々と外見的特徴が一致する。

「監視カメラの映像は残っていませんか?」

「あ、はい。そうおっしゃられると思って準備しています。あまり映像は良くありませんが、どうぞこちらに」

 そう言われてフロントの奥の従業員室に入る。
 そこにはやや小さめのテレビがあり、監視カメラの映像が映し出されていた。
 チェックインの準備を済ませる老人。中肉中背で真っ赤に充血した眼が病的な青白い肌の男だった。確かにミヒャエル・ベンべに似ている。
 そして、その周りには四人の男女が続く。

「ゼスト、こいつら」

「うむ、少なくともこの二人は名の通った騎士だな。歩くときに全く体幹がぶれていない」

 そう言ってゼストが指差したのはワインレッドの髪をポニーテールにした女と銀の髪に獣の耳がついた筋骨隆々とした男だった。

「ガキの方も強そうだな。オーラが漂ってやがる」

 クライドが言ったのは赤い髪を三つ編みにした少女だった。動きやすそうな短衣を着ている。
 やや吊り上った眼が特徴的な、将来が楽しみな美少女である。

「金髪の女は後方支援だったか?」

「多分そうだが、何かある。勘だけどな」

「何か、か?」

「ああ、この女が一番怖いかもしれない」

 クライドが真剣な表情で呟くように言った。
 凡百の人間が言ったなら一顧だにしなかっただろうが、ことクライドの戦闘に関する直感力は飛びぬけている。

「そうか。では最大限に警戒しよう」

 ゼストがそう言って頷いた。
 クライドが言うならこの女は恐らく危険なのだ。

「しかし、特に変装していないのは何故だ?」

「裏をかいたから安全だと思い込んだのか、こっちを誘っているか、どっちかだろうよ」

 映像を見ながら疑問を漏らすゼストにクライドは言った。
 闇の書はリンカーコアを蒐集することで覚醒する。管理局員は大部分が魔導師だ。自分を釣り針にして釣り上げようとしている可能性がある。
 クライドはそう指摘したが、戦闘狂の意見であり、常識的では全くなかった。シャマルが聞いていたら憤慨していただろう。
 何度か映像を巻き戻し、確認する。特に唇の動きを重視した。映像が悪く、確認は困難を極めたがいくつかわかる言葉もあった。

「し、ぐ、な、む、かな? シグナム。嫌な名前だな」

「ああ。名前だけでも厄介だとわかる」

「さすがにゼストでもシグナムはわかるか」

「ベルカ自治領の出だからな。寝物語にかの騎士の武勇伝は聞いた」

「本人だと思うか?」

「戦ってみないとわからん。が、本人でないとしてもモデルにしているのは確かだろう」

「だとすると、聖王をして古今東西に比類なしと言わしめた剛剣か、悪竜ヴァンホーデンを撃ち落とした弓のどっちか、あるいはその両方だな」

 クライドはニヤリと笑い、ゼストは溜め息をついた。

「厄介だな」

「そうか? 俺はワクワクするぜ」

「それはお前だけだ。実戦は模擬戦とは違う。相手は弱ければ弱いほど良い」

「まあ、それも一つの考えではあるな」

「唯一の真理だと思うが、それはいい」

 考え方の違いだ。真正のバトルマニアであるクライドと実利主義のゼストでは主張は常に食い違う。
 それは当然のことだった。それがわかる程度には二人の関係は長い。

「お前があのシグナムとやらを倒す。それで良いな?」

「ああ、それが順当だな」

 敵のエースにはこちらのエースで勝負する。手札に絶対の自信がなければできないことであったが、幸いクライドには実績がある。それも高ランク魔導師四人の単独撃破という望外の物が。
 相手の生死に拘らなければ、一対一での戦いならクライドに負けはない。そう確信していたため、ゼストは割と気楽に無茶を言うことができた。
 クライドも至極当然という風に応える。
 映像を何度も見た後、自分たちにはこれ以上わかることはないと二人は判断した。
 一応、次元航行艦の装備で再解析するために記録媒体にダビングしてもらう。

「後は泊まってた部屋か」

「ああ、何か残ってるかもしれん。そちらを調べてから――」

 ゼストの言葉の途中で局員が走りこんできた。

「報告します。グレアム執務官長が闇の書の一行と思しき高ランク魔導師と遭遇。戦闘に入りました」

「――っ! わかった。ゼスト、行くぞ」

「言われるまでもない」

 二人はホテルの外に駆けだした。




[34641] クライド・H・ハラオウン⑦
Name: 烏賊様刻◆e7251814 ID:b1305343
Date: 2013/01/06 12:11
 ハッシュモンドのホテルを中心に調査していたクライド・ゼスト組と異なり、グレアムチームは都市の郊外を回っていた。
 これは完全に宿泊客の情報が割れる観光地としてのハッシュモンドでは都市部に潜伏する場所がないためだ。
 ましてや、闇の書のプログラムは美男美女ぞろいだ。かといって分散して潜むと今度は管理局の強襲への対応がおざなりになる。
 だから、野外、それも見つかりにくい山間部に隠れるか、さっさと他の世界に脱出するかしていると思われた。
 後者なら特に問題はない。三隻の次元航行艦は完全にハッシュモンドを監視している。
 次元跳躍魔法を含めたいわゆる転移魔法は必ず、発動時に痕跡を残す。
 現在、ハッシュモンドへの出入りは政府所有の小型次元航行船以外全て管理局の権限で禁止している。
 別の世界に移動すれば確実に気づく。
 だから、前者への対応として都市の外部を回っている。一応、地元の地理に明るい人間から話を聞くなどしていたが、機動力を重視するため、連れてきてはいない。

「……アリア、お父様」

 先頭で索敵を担当していたリーゼロッテが声をあげる。
 セドリック達武装局員が着いてこれる速度だったがそれでも十分速く飛んでいる。
 それにぴったり追走してくる気配がある。森の中を這うように飛んでいるらしく姿は見えないが、魔力の昂りを感じることができた。

「ふむ。どうやらこちらが当たりだったらしいね」

 相手も気づかれたとわかったらしく、もはやリンカーコアが魔力素を取り込むのを抑えようともしていない。
 ということは敵の目的はただ一つ。一戦交えるつもりだ。

「リミエッタ二尉。すまんが他の局員を連れてクライド達かリンディ君を呼んできてくれ。できるだけ早く頼む」

「了解です、御武運を。通信官、念話は終わったか? では総員、来た道を戻るぞ。急げ」

 言葉少なに声を交わし、局員達が撤退していく。
 それを見送ってグレアムは速度を上げた。双子の使い魔がそれに続く。

「お父様、どうしますか?」

「確か、もう少し行ったところに草原があったね。そこで相手をするとしよう」

 アリアの言葉にグレアムがわずかに緊張を含ませ返す。

「わかりました。行くわよ、ロッテ」

「勿論よ、アリア」

 三人が夕暮れの空を飛ぶ。
 血のように赤い日差しが彼らに降り注いでいる。
 色とりどりの花が咲く野原。その中央で三人は止まった。
 森の中から騎士が三人飛び出してくる。
 赤毛の気が強そうな少女。
 青い髪、浅黒い肌の仏頂面の獣人。
 そして、ワインレッドの髪の美しい女。

「三人か。後一人と主はいないのかい?」

「……語るに及ばず」

 そう言って武器を構える。
 女が構えるのは長剣。黒い鞘から抜き放たれた、優美な片刃の直剣。
 少女が構えるのは実用一点張りの無骨な鉄槌。カートリッジシステムを搭載しているのか、槌の部分に稼働するためと思われる溝がある。
 獣人の男は武器を持たず、顔を守るように両手を上げた構えを取った。
 強いな、三人とも。グレアムは長年の経験で鍛え上げられた勘からそう見て取った。
 リンカーコアが発する魔力の余波は勿論、飛行魔法での飛び方や構えが実に自然で、堂に入っている。
 油断すれば食われるのはこちらの方だろう。

(お父様……)

(私とロッテが前衛で相手を抑え込み、アリアがそれを援護し、できれば撃墜する。それで構わないね)

(はい!)

 二人の念話が唱和する。
 グレアムがステッキを構える。
 その隣でロッテが拳を握り、後方ではアリアが魔力を昂らせる。
 そして、戦いが始まった。





 先手はグレアム達から。射撃魔法とバインドが雨霰と飛んでいく。
 それを騎士達は幼い少女を前方に押し出した陣形で突っ込んだ。同時に前面に防御結界を張り、弾幕をものともせずに前進する。
 何発かは確実に被弾しているが、速度は落ちない。
 そして、騎士達の射程に入る。
 大きく鉄槌を振りかぶった少女が勢いよく振り下ろす。
 それをロッテが踏み込んで柄の部分を両手で受ける。
 それでも重い一撃にロッテの体が沈み込む。
 だが、耐えきり、前蹴り。少女は敢えて逆らわず、後ろに飛んだ。
 追いかけようとするがその隙を殺すように青い獣人が飛び込んでくる。
 拳を受けながら、良い判断だとロッテは眼を見張る。
 声はおろか、念話を使っている様子もなかった。
 つまり、彼女らはノートークで連携ができるということだ。
 それが闇の書の戦闘プログラムであるためなのか熟練の技巧故なのかはわからなかったが。

(厄介ね)

 素直にそう思う。
 二合打ち合ってわかったことがある。
 鉄槌の少女も無手の獣人も技が生きている。魂無きゴーレムや機械仕掛けの傀儡兵の扱える武技ではない。熟達した肉体と死の恐怖を乗り越えた精神が奏でる"ウォーアーツ"。
 その上で高ランク騎士。戦場で戦う上で最も警戒すべき相手だ。
 ローキックを放つ。バットどころか鉄材をへし折る威力のそれは障壁で完全に防がれる。
 構わず踏み込んで米神狙いの左フック。スウェーバックで躱したところを右のストレートで狙い撃つ。
 しかし、またも障壁で防がれる。

(ロッテ、突出してる。一旦戻って)

(了解)

 念話を返すが早いか全速力で後退する。
 当然、二人が追って来るが、リーゼアリアの援護射撃がその足を止める。
 その間に距離を取った。

「お父様、大丈夫ですか!?」

 グレアムは負傷したのか、バリアジャケットの左腕を血で染めていた。

「ああ、出血は派手だが傷は浅い。もう止血されたよ」

 バリアジャケットには負傷時の止血機能が搭載されている。
 といってもそんな大層なプログラムではない。負傷した部分を締め付けて無理矢理血を止める程度の物だったが、多くの局員がこれに命を救われていた。

「見くびっていたつもりはなかったんだが、予想が甘かったかな。相手は想像以上の化け物のようだ」

 グレアムが前方を見やる。そこには剣を正眼に構えた剣士がいる。
 剣を使うベルカの騎士のオーソドックスな構えだが、体の力の入れ具合、抜き具合が実に自然だ。何千、何万回とその構えを繰り返してきたのがわかる。
 一対一で戦うのは無理だ。ここは三対三の戦いに持ち込むべきだろう。そうグレアムは判断した。
 高ランク魔導師と戦う時は相手を人間と思うな、知能の高い一個の怪物だと思え。
 管理局でも割と有名な格言だが、その言葉がこれほど当てはまる相手も少ないに違いない。

(戦法を変えましょう。お父様は中衛に下がって。ロッテ、貴女は一人で前線を支えることになるけど――)

(お父様とアリアが支援してくれるんでしょう? なら出来るわよ)

(――わかった。死なないでね)

 念話を交わし、陣形を変える。
 リーゼロッテが前衛として敵を抑え込み、グレアムがそれを援護し、ロッテが抜かれた場合のケアをする。後衛のリーゼアリアが広い視点を持って指揮及び二人の援護をする陣形だ。
 それに対し、騎士達は三人で正面から詰めてきた。当然、グレアムとアリアが誘導弾とバインドで歓迎する。
 それを先頭の青い守護獣が受け止める。誘導弾を障壁で弾き、バインドを拳と蹴りで打ち砕く。
 だがその結果、動きを抑え込まれ、止まる。
 それはロッテにとって喜ばしい状況だった。
 ロッテは使い魔の宿命と言うべきか、野性的な勘と身のこなし、そして高ランク魔導師ゆえの大魔力で圧しきるように戦うタイプでバリアブレイクのような繊細な技術を得意としていない。
 できないわけではないのだが専門家とでも言うべきクライドのように、速射砲のごとく放たれる突きの全てにバリアブレイクを仕込むなど望むべくもない。
 よって、守りに優れ、障壁の強度と術式構成が群を抜いているザフィーラのようなタイプを苦手としていた。
 その足が止まったのは実に好都合だ。そのままロッテは鉄槌を持った少女、ヴィータに躍りかかった。
 バリアジャケットを纏った拳で一合。柄で受け止めたヴィータを弾き飛ばす。ヴィータのフィジカルの弱さ、特に体重の軽さという弱点を突いた。
 そして、その勢いのまま、本命、赤毛の騎士に挑む。

(お父様に傷をつけてくれちゃって! ただじゃ済ませない!)

 ロッテは怒っていた。それは主人を守りきれない使い魔としての自分への不甲斐無さへの怒りであり、プライドを傷つけられた怒りでもあった。
 間合いに入る。振り下ろされる剣閃。見てからではとても間に合わないそれを持ち前の勘で避ける。
 速い、が、対処できない程ではない。そのまま拳の間合いに入り、肝臓を突き上げる左のボディーアッパー。
 だが、防御魔法で受けられる。構わず、右ストレート。直剣を当ててわずかに逸らされ、空を切る。
 バリアジャケットと刀身が擦れる耳障りな音が響く。
 距離が近づいたところで得意の米神狙いの左フック。スウェーバックで躱した所を右ストレートで狙い撃つ。
 だが、

「それは一度見た」

 その右を騎士はわずかに首を傾げただけで避けた、いや、見切った。
 騎士の足元に正三角形の魔法陣が浮かぶ。それはベルカの騎士がその武技を振るう証。
 グレアムはヴィータの放った鉄球で牽制され、アリアは前進するザフィーラの対応でロッテを援護できる位置に立つことができなかった。
 その一瞬の隙、一対一にならざるをえない瞬間を騎士は待っていた。
 あるいは彼女の名前がシグナムであると知っていたならロッテは相応の戦い方ができたかもしれない。
 グレアムが傷つけられるという前ふりが無ければ冷静さを保てたかもしれない。
 だが、それは言っても詮無いことであろう。

「紫電――」

 リーゼロッテは悪寒と共に自身に生じた最大の隙、すなわち右脇腹に全力の防御魔法を張り、それをあざ笑うかのようにカートリッジの作動する乾いた炸裂音が響く。

「―― 一閃!!」

 その横薙ぎは獣の反射神経を持つリーゼロッテの眼を持ってしても刀身が見えないほどの一撃だった。
 障壁が一瞬の抵抗もむなしく斬り飛ばされ、バリアジャケットを押し切り、肋骨を叩き切って、内臓を抉り、反対側に抜けていった。
 一瞬遅れて鮮血が花びらのように飛び散り、ごぼりと口から血を吐いたロッテは体を曲げ、花畑に墜落していった。





 リンディ・ハラオウンは夜闇を切り裂くように空を飛んでいた。その速度は時速三百キロメートルに迫ろうかという勢いだった。
 単純に空を速く飛ぶだけならば、リンディは魔力量の関係でクライドやゼストより速い。だから、先行した。
 セドリック達から闇の書の騎士達の襲来を聞いて、一目散に飛んでいった。
 森を越え、花畑の広がる平原に辿り着く。
 そこには返り血で真っ赤に染まった騎士がいた。騎士は剣を振って血を払い、振り返ってリンディを見た。

「援軍か。思ったよりも早かったな」

 一瞥してその魔力の高さを感じ取ったのだろう。

「ヴィータ、ザフィーラ、撤退する。敵のエースを一人落とした。戦果としては十分だろう」

「逃げられると思っているの?」

 背中から翠色の光翼を四枚出したリンディが愛用の長杖を構える。
 しかし、三騎の足元に浮かんだ魔法陣は揺るぎもしない。

「私が斬った守護獣、確かリーゼロッテと言ったか。まだ生きている」

「――っ!!」

 絶妙な牽制だった。そう言われてしまっては見逃すしかない。いや、ロッテを救うためには構っている暇がないというのが正確か。
 見ればグレアム達はもうロッテの方に向かっている。リンディも治療魔法にはいささかの心得がある。手を貸しに行くべきだろう。

「次は覚悟しておくことね」

 だから、そんな悔し紛れの言葉しか発せられない。

「ベルカの騎士に負けはない」

 そう言って騎士達は消えた。後には淡い光の粒子だけが残された。
 ぐっと歯を噛みしめて悔しさを堪える。そして、大きく深呼吸を一つするとリーゼロッテの方に向かった。





 リーゼロッテの傷は重体だったが辛うじて背骨にまでは届いていなかった。
 それほどの重傷だったのに意識を繋ぎとめていたのも大きい。バリアジャケットが喪失しなかったことにより止血機能が働き、最初の派手な出血以降、出血を抑えていた。
 リーゼアリアとグレアム、そしてリンディという稀代の大魔導師が三人もいたことも幸いした。
 フィジカルヒールで内臓から治癒して、傷を応急処置し、クライドとゼストと合流し、一番大柄なゼストが背負って飛ぶ。
 アースラにたどり着く頃にはもう既に真夜中になっていた。
 医者が診察し、緊急手術が始まった。
 五人全員が手術室の前に集まっていた。

「私の責任だな。手傷を負わされた時に奴の危険度に気づくべきだった」

 グレアムの言葉に誰もが沈黙する。
 確かに部下の負傷は指揮官の責任というのが原則だからだ。主人と使い魔の関係でもそれは同じだろう。

「爺、爺の傷は大丈夫なのか?」

「ああ、私は見ての通りの軽傷だ。もう治療魔法もかけて、完治した」

「なら、大丈夫だ。ロッテも死んだと決まったわけじゃねえし、相手の能力が割れたと考えれば釣り合いは取れねえが最低限の仕事は果たしている。
 後はどれだけ俺達が頑張れるかだろうよ」

 楽観的とも言えるクライドの発言だったが、不器用な気遣いにグレアムはわずかに笑みを見せた。

「手厳しいな、クライド」

 だが、正しい。リーゼロッテが命を懸けてもたらした情報だ。
 実戦においてもっとも恐ろしいことは知らない相手と戦うことであり、知らない技を使われることだ。
 そう考えるとロッテが手に入れた情報は大きい。
 ワインレッドの髪の騎士、シグナムの高い学習能力とその攻撃力。
 青い髪、浅黒い肌の守護獣、ザフィーラの防御の堅牢さ。
 赤毛の少女、ヴィータの破壊力とその直感力。
 そのどれもが値千金の情報で、特にシグナムのそれは知らなければ対処するのが難しい類の物だ。
 それを戦う前に知れた。これは本当に大きい。しかもこちらはグレアムとリーゼアリア以外の情報を隠せている。
 リーゼロッテが脱落しても五対五。数的優勢は失ったが、情報アドバンテージを取れたのは管理局の方だ。

「……ロッテ」

 リーゼアリアが祈るように手を組んだ。
 彼女は神など信じていなかったが、それでも今だけは祈らざるをえなかった。
 手術室のドアの上で光っていた手術中の表示が消える。全員が黙り、ドアを注視する。やがて、扉が開いて医者が現れた。

「先生、ロッテは?」

 いても立ってもいられないという風に聞くアリアに医者はわずかに微笑んだ。

「微力を尽くしましたがやはり傷が深い。今夜が峠となるでしょう。
 幸い良く体を鍛えられているので助かる確率は高いと思います」

「そうですか。ありがとうございます」

 グレアムが頭を下げる。それを見て慌ててアリアも頭を下げた。
 リンディが下げ、ゼストが下げ、最後にクライドが渋々下げ、結局全員が頭を下げた。

「いえ、私は私の仕事をしただけです。礼を言うなら強靭に育ったリーゼロッテさんの身体に言うべきでしょうな」

 珍妙な言い方だったが、これもこの艦医の味なのだろう。皆が微笑みを浮かべた。

「そうね。では、私達は私達の仕事をしましょう。皆、会議室に行きましょう。対策会議よ」

 リンディが言った。それにクライドが、ゼストが、アリアが、グレアムがそれぞれ力強く頷いた。





「おっそろしいなあ」

 対策会議で互いに得た情報を話しあい、次に出会った時にどう戦うか相談し終えたクライド達は自室に戻ることにした。
 そして、クライドがリンディと二人になって出た言葉がこれだった。

「あら、貴方にも怖い物があったのね」

 冗談とも本気ともつかない口調でリンディが言った。

「馬鹿、俺なんかこの世に怖い物ばかりだよ。美人でエロいかみさんとかな」

「あら、私みたいに気立てのいい優しい妻はなかなかいないと思うけど」

「本当に気立てのいい女はそんなこと言わねえよ」

「あら、優しいは否定しないんだ」

 そう言って二人で笑いあう。
 結婚してもうすぐ五年になろうとしていたが夫婦仲は良好で、倦怠期などは欠片すら見せない。
 いや、むしろ結婚する前より仲睦まじくなったような気さえする。

「で、エロいかみさんはそろそろクロノに弟か妹をあげたいと思ってるんだけど?」

「緊急出動があるかもしれねえ時に何言ってやがる。さっさと寝ろ」

「あら、こんな美人の奥さんが誘ってるのにつれないのね」

 リンディが蠱惑的な笑みを浮かべ流し目を送る。

「どうせ、飛び掛かったら返り討ちにする気だろ。わかりきってんだよ」

「しないわよ。怖くて震えている旦那を落ち着かせようと思ったんだから」

 心外だと言いたげに文句を言うリンディをクライドはジトッとした眼で見つめた。

「うさん臭え! 大体仮にそうだったとしても、スタミナが減るから明日戦闘があるかもしれない時にはやりたくねえな」

 それを聞いて、リンディは微笑んだ。クライドが胡乱げな目を向ける。

「何だよ」

「ううん、クライドだなって思って。どんなに怖くても貴方は戦うことだけを考えてる」

「そりゃ、俺にできるのはそれぐらいだからな」

 クライドの座右の銘は常在戦場。
 街の喧嘩自慢だった時分からそれは変わらない。バリアジャケットを解除するのは風呂に入る時とリンディを抱く時ぐらいだ。
 睡眠中でさえバリアジャケットを解除しないように訓練している。
 それは半ば意地に近い物もあったが、何よりも高ランク魔導師の牽制の誘導弾一発で壊れる軟弱なバリアジャケットが自分の命をどれだけ守ってくれるか知っているからだった。

「そんなにあの騎士は、シグナムは怖い?」

「怖いな。ロッテを仕留めるのにたった二振りだぜ? しかも、一回だけ見せた他人に向けた技を見切ってのカウンターだ。その上で推定S-ランクの高ランク騎士。
 これが怖くないなら世の中に怖い物なんてないね」

「でも、戦うんでしょう? それが貴方だもの。ここで逃げるようなら"大地を砕く"ヅールや"ブラスト"と戦うことはなかった。そうでしょう?」

 ああ、その通りだとクライドは思った。
 自分が鍛え上げた武技にあのとても強く怖い騎士はどう対応し、どう戦って来るのだろう。
 そう考えるだけで胸の奥から湧き上がってくる物がある。
 自分は骨の髄まで人殺しなのだとそう思った。

「そうだな。俺は止まることなんて許されてない」

 それを聞いてリンディは悲しそうに顔を歪めた。
 だが、何も言わない。
 ただ、クライドにそっと抱き着いた。
 唇を重ねる。
 クライドは少し躊躇するように手を泳がせていたが結局リンディを抱きしめ返した。









 アースラ艦内の乗務員室。
 ハッシュモンドから念のため避難していたクロノとエイミィはあてがわれた部屋で食事をし、風呂に入り、ご機嫌だった。

「クロノ様、エイミィ、こちらに。髪を乾かしますよ」

「は~い」

 明るい声が二つ響き、水色のパジャマを着たクロノとエイミィがミトの傍に寄ってくる。
 ドライヤーがゴウゴウと音をたてる。ミトの手が優しく髪を梳くのをクロノは眼を細めて受け入れた。
 大きく欠伸をする。時刻は夜の八時。幼いクロノからするともうベッドに入る時間だ。

「はい、終わりましたよ。じゃあ、エイミィ、後ろを向いて」

「はい、母さん」

 素直に後ろを向いたエイミィのショートに纏めた髪を手で梳きながら乾かしていく。

「エイミィの髪は滑らかで綺麗ね。きっと将来美人になるわ」

「へへ。ありがとう、母さん」

 照れたように笑うエイミィを眠そうに眺めていたクロノだったが、不意に口を開いた。

「そう言えば、ミト。お薬はちゃんと飲んだ?」

 体の弱いミトはかかりつけの医者から内服薬を処方されていた。
 毎食後飲むことになっているが自分のことには無頓着なのか良く忘れる。

「ああ、いえ、忘れてました。クロノ様がお眠りになったら、飲もうと思います」

「駄目だよ、直ぐ飲まないと。僕、お水もらってくる」

「あ、クロノ様、待って」

 普段の臆病さからは想像もつかない程の積極性を見せ、クロノはドアを開けて外に走って行った。
 ミトは少し考えて、クロノの厚意にあずかることにした。幸い、ここはアースラの中だ。危険は少ないだろう。





 ちょっと迷いながらもクロノは食堂に辿り着いた。
 料理長直々に金属製のコップに水を入れてもらい、おつかいができてえらいねと褒められて上機嫌だった。
 コップの水をこぼさないように注意しながら廊下を走る。そうすると次第に鉄のような臭いが鼻についた。
 不審に思って前を見る。すると、眼前に一人の女性が立っていた。
 淡い金色の髪が美しい女だった。笑顔になればさぞ魅力的だろうに、その顔は凍りついたように表情が無い。

「お姉さん、どうしたの?」

 クロノは臆せず女に声をかけた。
 ライトグリーンと白を基調にした法衣を着ているその女がクロノには困っているように見えたのだった。

「探し物をしていたのよ。でも、もう見つかったわ」

 つかつかとクロノの方に歩いてくる。
 何となく気圧されてクロノは後ろに二歩、三歩と退いた。

「ねえ、クロノ・ハラオウン君」

 女、シャマルの血塗れの右手がのばされ、指輪型デバイス、クラールヴィントが淡い光を放つ。
 その光を直視したクロノがガクンと崩れ落ちる。それをシャマルが支えて倒れこむのを防いだ。
 カランカランと金属製のコップが転がっていく。料理長が落としても割れないようにと気を使ったコップは予想外に大きな音をたてた。
 人が来る気配がする。シャマルは速やかにクロノを左手で抱きかかえると転移魔法を使い、姿を消した。
 後には隅で止まった丸い鉄のコップだけが残された。




[34641] ミヒャエル・ベンべ①
Name: 烏賊様刻◆e7251814 ID:b1305343
Date: 2013/01/13 12:02
 吹き付ける風の冷たさにクロノは目を覚ました。
 一面花畑が広がる温暖湿潤気候のハッシュモンドと言えど、夜になると気温は下がる。

「ん」

 身体が重い。寝ぼけて上手く開かない眼をゴシゴシと擦る。
 水色のパジャマが土で汚れている。
 それをクロノは悲しそうに見つめ、その後、状況のわからないままあたりを見回した。
 そこは洞窟の中だった。入り組んだ壁と天井がこの洞窟が自然洞窟だということを表している。
 もっとも、クロノにはそんな詳しいことはわからなかった。ただ、壁や天井がいやにゴツゴツとした変な場所だとわかっただけだ。
 出口が近いのか、吹き付ける風が寒い。クロノはブルリと身を震わせると唯一わかる明りの方向に歩き出した。





「シャマル、どういうことだ!?」

 洞窟の中、入り口からそれほど間もない場所でシグナムはシャマルに詰め寄った。
 作戦通り、エースを一人討ち取り、拠点に帰還してすぐのことだった。

「どういうことだも何もないわ、シグナム」

 それに対してシャマルは冷静だった。

「これが一番効率的だわ。最低でも相手のエース二人の動きを掣肘することができる。
 クライド・H・ハラオウンとリンディ・ハラオウンが来ていることが確実になった以上、人質を使わない手はないわ」

 相変わらずの無表情で淡々と言葉を返す。だが、そこにはわずかな興奮が見られた。
 当然だろう。彼女は一人で管理局の次元航行艦に乗り込み、ブリッジの当直を皆殺しにした後、運行プログラムにウィルスを流し込み、エースの息子を一人さらってきたのである。
 恐ろしくデリケートで、軍師の分を越えた仕事だった。
 異変に気づいてリンディ・ハラオウンが帰ってきたら終わり。そうでなくても次元航行艦に腕利きが残っていれば返り討ちの可能性すらある危険な任務だった。

「それは正道ではない! 卑劣な手は主の名分を貶める。それは確実に管理局壊滅という主の目標にマイナスとなると私は言ったはずだ!」

 だが、シグナムはそれらを分かった上でその事物を非難した。
 闇の書の覚醒など主にとって目標に向けてのプロセスの一つに過ぎない。
 残念ながら完成した闇の書の全力を持ってしても単独での管理局殲滅は不可能だ。
 よって、どこか手ごろな管理世界あるいは高度な科学文明を持った管理外世界を征服し、戦力を抽出する必要があった。
 当然、それには時間がかかる。主の年齢を考えると猶予は一刻もない。
 故に外道の手など悪手。シグナムはそう言ったのだ。

「シグナム、貴女は以前言ったわ。軍師である私の判断は主の次に優先されると」

 シャマルは冷酷で辛辣だった。
 そもそも文武両道とはいえ、基本的には武官であるシグナムが弁舌で軍師に勝てるわけがないのだ。

「……確かに言った。だが、それは諫言しないという意味ではない」

 シグナムは若干苦しそうに返した。

「諫言は聞くわ。でも、私は軍師として理を優先する。情に流されるわけにはいかない」

「私は情に流されてなどいない!」

 シグナムは真剣な顔で言った。その声はもう怒鳴り声に近かった。

「いえ、シグナム、貴女は――」

「よい、シャマル」

 更に言い募ろうとしたシャマルを闇の書の主が止めた。

「シグナム、そんな怒鳴り声ではそれがどんなに正論でも聞く者には届かん。何より年寄りには怒声は堪える。頭を冷やせ」

「はっ、申し訳ありません」

 それを聞いて、主は微笑んだ。
 血に染まった紅い眼でシグナムをじっと見つめる。
 シグナムが何度か深呼吸したところでふっと視線を外し、黙っていた二人の騎士を見た。

「ヴィータ、ザフィーラ、お前達の意見を聞きたい」

 そう問われて二人の騎士達はわずかに体を緊張させ、そして言った。

「シグナムの言ももっともですが、戦略を決めるのは軍師なればシャマルの案をこそ支持するべきかと」

「やる、やらねえの段階なら反対していたけど、もう"やっちまった"後だろう。ならあたしはやるしかないと思う」

 二人の騎士は消極的に、だが確実に湖の騎士の案を受け入れた。
 シグナムの頬が怒りで吊り上り、辛うじてという風情で止まった。

「ふむ。ヴォルケンリッターの四人の内、三人までがこの作戦を是としている。しかし、ここで決を採ってしまっては遺恨が残ろう。
 シグナムよ、お前の意見を聞こう」

 主はあくまで冷静に公平な判事のようにシグナムに話を振った。
 だが、その内実は悪辣だった。当然だろう。彼はシグナムを恨んでいる。

「はっ。何度か申し上げていますが、無辜の幼児を策に使うなど主の名分を著しく損なう行為です。ましてや人質などもってのほか。管理局殲滅という大望の枷となりましょう。
 主には時間がありません。主も人間である以上、生きていられるのは自愛に自愛を重ねても後三十年、いえ、もっと短いかもしれません。
 たったそれだけの期間で次元世界にまたがる機関を壊滅させようというのです。ほんの少しの枷も嵌められるべきではありません」

 その言葉に主は鷹揚に頷いた。

「なるほど、確かに失われた信頼を取り戻すのは困難を極める。そもそも取り戻せぬ場合も多いし、取り戻すためには長い時間がかかる場合もあろう。
 そして、私の命が長くないというのもまた真実であろうな。しかし、三十年は短いか。シグナムよ、お前は見た目では想像がつかぬほど年月を刻んでいるようだな」

「私自身はそう長く生きてはいません。しかし、私には史学を学ぶ機会があり、たまたまそれを覚えておりました」

「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ、か。まっことお前らしいな」

 主が皮肉げに頬を歪める。それに対してシグナムは慌てて首を横に振った。

「そのようなつもりで言ったわけでは」

「良い。味方に賢者がいるのは頼もしいことだ」

 言葉面だけ見れば褒めているが、声の調子は皮肉だ。
 だから、シグナムは黙って目を伏せた。
 何を言っても主の耳には嫌味に聞こえるだろうから。
 それを見て主はゴホンと咳ばらいをした。さすがに言い過ぎたと思ったのかもしれない。

「まあ、良い。それよりも今は目先のことだ」

 ちらりとクロノを監禁している洞窟の奥をみやり、主は言った。

「シグナム。お前の案は正しい。だが、正しいだけでは世は動かん。
 確かにお前は今日の作戦でも見事敵を一騎撃墜した。しかし、それは裏を返せば一騎しか倒せなかったということでもある。だが、シャマルの策ならば確実に敵の動きを掣肘できる。
 それももっとも厄介であろうクライド・H・ハラオウンとリンディ・ハラオウンを、だ」

「いえ、主よ。確かに妙案ではありますが問題は敵がそれを無視して突っ込んできた場合です。
 人質を取られれば動きを止めざるをえないなどという前例を作ることを管理局は嫌うでしょう。
 ましてやそれがエースならばなおさらです。
 そのときの彼らの攻撃は熾烈を極めるでしょう。それに対してこちらは人員が少なく、人質の管理をするだけで一苦労です。
 エースを一人落としたとはいえ、彼らは最精鋭。油断はできません」

「矛を交わしたお前が言うのならそうなのだろう。
 だが、それならば一つ、私にも案があるぞ」

「案?」

「そうだ。あの子供を殺すのだ。敵の前でできるだけ凄惨にな」

 絶句。
 考えもしなかったことを言われ、シグナムは一瞬固まった。

「そうすれば、いかにエースと言えど自分の子供だ。平静ではいられまい。怒りに囚われ己を見失った相手を殺すのは容易い。いや殺さず捕えて蒐集することすらお前達なら容易いことだろう」

 主の眼はフードに隠れて見えないがこの上なく真剣だっただろう。
 元々冗談を言うような男ではないし、そもそもこんな場面で冗談を言ってしまうほど空気が読めないわけでもない。

「主ミヒャエル! どうか、どうか、お考え直しを! その策は人倫に悖る物です!」

 シグナムは平伏して嘆願した。
 シャマルが提案するのは良い。だが、やんごとなき立場になろうとしている主が言って良いことではない。
 それに、

「何を言う、シグナム。名分の話か? 確かに傷つくだろうが――」

 そのようなことをしたと聞けば、必ず、悲しむ人がいる。

「そのようなことを為して、冥府でメルセデス様にどう申し開くと言うのですか!?」

 主の言葉を遮ってシグナムが叫んだ。
 変化は急激だった。傲慢さすら感じさせていた主の顔、土気色の肌が真っ赤に染まる。
 そして、平伏するシグナムに容赦なく杖を振り下ろした。
 ガツンという硬い物同士がぶつかる硬質な音が響く。

「き、貴様がそれを言うのか! メルセデスを守れなかった貴様が!」

 シグナムの額から血が出ている。だが、それでもミヒャエルは杖をやたらめったら振り下ろした。
 ただ伏してシグナムは耐え続けた。

「メルセデスのためにわしは管理局を滅ぼすのだ! メルセデスが喜ぼうが悲しもうがそうするのだ!
 それをむざむざメルセデスを死なせてしまった貴様が!!!」

 ゴホゴホとミヒャエルが咳き込む。そのまま座り込んで何かが口から出るのを抑えるように手で口を覆った。
 ヒューヒューと肺が空気を吸い込む異音がその場に響く。手放した杖がカランと音をたてて地に落ちた。

「主上、お体に障ります。今日の所はこれでお休みください」

「祖父ちゃん、寝なよ。寝たら少し楽になる」

 医術の心得があるシャマルとミヒャエルの受けが良いヴィータが体を支える。
 魔王の威厳などどこにもない。小さく弱い老人となった闇の書の主を連れて二人は洞窟の奥に去って行った。

「シグナム」

 ザフィーラが平伏したままの騎士に声をかける。
 その言葉には珍しく咎めるような響きがあった。

「わかっている。だが止められなかった。メルセデス様がいらっしゃったらどうお思いになるだろうと、そう考えたらな」

「……浅慮だ」

 短く一言。その前の沈黙に込められていた物は何だったのか。
 とにかくシグナムは深く頷き、己の不明を恥じた。





 シャマルとヴィータに連れられて、毛布の上に横たわった主、ミヒャエルはやっと落ち着いてきた息に気をやっていた。
 小さいころもわずらっていたが、成長すると共に治まっていたものが闇の書の主となってからはより激しく発症していた。少し感情が昂るとすぐに過呼吸状態に陥ってしまう。
 服をはだけ、痩せた胸に聴診器を当てていたシャマルがほっと息を吐く。

「大丈夫そうです。症状は一時的な物でしょう。心因性の物ですから完治は難しいと思いますが」

 それを聞いて、ミヒャエルとヴィータが息を吐いた。

「そっか、よかった。祖父ちゃんに何事も無くて。まったくシグナムの奴……」

 ヴィータがここにはいない騎士に愚痴をこぼす。
 それをミヒャエルは寝ころんだまま手で制した。

「よい、ヴィータ」

「でも、祖父ちゃん」

「よいのだ。少し、一人にしてくれるか。今日はいささか疲れた」

 ヴィータとシャマルが場を辞し、ポツンと一人毛布にくるまれた老人が残された。
 街で購入しておいたランタン型の懐中電灯を消すとただでさえ薄暗かった洞窟が無明の闇に包まれた。
 ミヒャエルに聞こえるのは自分の鼓動と洞窟のどこかで水が滴る小さな音だけだった。

「……メルセデス」

 老人が一人涙を流す。それは地面に染みてすぐに消えていき、やがて枯れ果てる。そうして、ミヒャエルはすぅすぅとか細い寝息をたてはじめた。
 夢に見るのは亡き妻のことだった。





 ミヒャエル・ベンべは六十八年前、ミッドチルダのサラリーマンの家に生まれた。
 普通と少し違うことは溢れるような豊潤な魔力を持って生まれてきたことぐらいか。
 こういう人間は管理局や企業にスカウトされ、荒事に従事することが多いのだが、ミヒャエルはそんなことはなかった。
 実家が裕福であったこともあるし、何より、管理局を引退した叔父がいた。
 口汚く、皮肉屋で、金にも汚い男であったがミヒャエルは叔父が好きだった。

「いいか、ミヒャエル。マギウス・オブリージなんていうのは糞だ。便所でケツを拭く紙にもなりゃしねえ」

 それが叔父の口癖だった。そうミヒャエルに言うたびに叔父は事件で失ったという左腕を見せた。
 生々しい凹凸の残る傷痕をミヒャエルは今でも覚えている。
 非殺傷設定という不文律があっても尚、手足を失うことがある。それもまた魔法に依存した文明の現実だった。
 そんな叔父の影響か、ミヒャエルは普通の学校を出て、大学の工学部に入り、そこそこの成績で卒業し、企業理念に共感したとある企業に入った。
 残念ながらミヒャエルは有能な研究者ではなかったが、それでもいくつかの成果を残しながら順調に人生を謳歌していた。
 ただ残念だったことは女性との縁に恵まれなかったことだろう。三十を過ぎた頃から両親が頻繁に孫の顔が見たいと言われ、ミヒャエル自身も探してみたもののこれだという女性に巡り会えず、結局独身で過ごしてしまった。両親は結局、孫の顔を見れないまま逝った。恨み言を言われた記憶は無かったが申し訳ないことをしたと思う。
 転機はミヒャエルが五十五歳の頃。彼は偶々入った会社の近所の喫茶店で女神に出会った。
 いや、別に彼女が亜人だったというわけではない。ただの金髪碧眼の線の細い、恐らく二十代の女の子だった。
 ただその清楚な雰囲気が、控えめな微笑みを浮かべたその顔が、紅茶を飲むその上品さがミヒャエルの好みど真ん中だったというだけだ。
 一度目の邂逅では放心している間に彼女は店を出て行ってしまった。
 ミヒャエルは立ち上がって声をかけなかった自分に怒り、その後、自分の服装を見て、声をかけなかった奥ゆかしさに感謝した。
 もう十年も着っぱなしの背広はボロボロでところどころ変色しており、研究職という気安さで手入れしてなかった髪はゴワゴワで白髪混じりでとても見れたものではなかったのだ。
 すぐに次の日に休暇を取って、両親の葬式以来行ったこともなかった美容院に行って美容師に冷やかされるのも構わず髪と髭を整え、入ったこともない高級店で店員の話を熱心に聞いて、一番気に入ったスーツを新調した。
 すると、まあ美男子ではないが、どことなく愛嬌があって渋いと言えなくもない老紳士が誕生していた。
 そこではたと気づいた。自分が彼女の名前も住所も、何も知らないことに。
 自分と自分の女神の間柄がほとんど無いも同然であることを再認識し、落ちこみながらも、喫茶店で待つしかないと決意した。
 それからは昼休みと仕事終わりに喫茶店に通う生活が続いた。勿論、ヘアスタイルを維持するために三週間に一度は美容院に通いながらだ。二年でも三年でも待つつもりだったが、その機会は案外早く、訪れた。
 昼休みに訪れて、さりげなく周囲の客を見渡し、ある一点で止まった。そこには変わらず美しい女神がいた。
 オフィス街の唯一の喫茶店であったということで人気がある店内はもう席がほとんどない状態だ。
 多大な緊張となけなしの勇気を持って、言った言葉がこれだった。

「相席、よろしいでしょうか?」

 背筋をできるだけシャンと伸ばして、紳士的であることを意識して言うと女性はミヒャエルを見て、ふわりと微笑んだ。

「構いませんよ」

 その声はミヒャエルには天使の囁きのように聞こえた。
 通りかかったウェイトレスに彼女と同じものを、と声をかける。
 やがて、注文した紅茶が届き、少し飲んで、やっとミヒャエルは人心地つくことができた。

「美味いですな。ハーブティーかな? 心が落ち着く」

 やや黄色い不思議な色のお茶を飲んで、勇気を出して声をかけてみる。

「管理外世界から取り寄せたお茶だそうですよ。少し高いけど、ストレスを和らげてくれて鎮静効果があるとか」

 にっこりと春の木漏れ日のように穏やかな笑みを浮かべ、彼女が言った。

「なるほど、それは嬉しいな。あ、申し遅れました。私はミヒャエル・ベンべと申します」

「あら、年上の方に先に名乗らせてしまうなんて。私、メルセデス・ディースブルクと申します」

 メルセデス、とミヒャエルは何度も口の中で呟いた。なんと美しい名前だろう。語感からしてベルカ系のようだが、彼女の優しげな雰囲気に良く似合っている。

「あの……」

「あ、いえ、すみません。良く似合っているいいお名前だなあと思ったのです」

 そう言うとメルセデスは少し頬を染めて、恥らった。

「そんなことを言われては困ってしまいます」

「ああ、いや、申し訳ない。思ったことを率直に言ってしまって。いや、恥ずかしい」

 そう言い訳しながらも悪印象を与えていないことにほっとする。
 何を話そうか考えて、自分には趣味も何もないことを思い出した。
 大学を出て、企業に入り、そこそこの成果を挙げながら生きてきた。
 それはそこそこの達成感があり、満足感もあった。しかし、若い娘が喜ぶような話でないことは確かだ。

「どうしました?」

「いや、せっかくなので何か話でも、と思ったのですが、恥ずかしながら長く生きているのにそのような話題を何も知らないことに気づいてしまって」

 気取っても仕方あるまいと正直に打ち明けるとメルセデスはあらあらと微笑んだ。

「別に特別な話題なんて必要ありませんよ。そうですね、お仕事は何を?」

「あっ、はい。主に魔導炉の開発を行っております。現在は開発した魔導炉の整備周りの改善が主です」

「あら、立派なお仕事ですね」

 そうでもない。整備周りの改善など本来研究者の仕事ではない。現場の技術者の仕事だ。
 そんなことを任されている時点で、ミヒャエルの研究者としての能力の程が分かるというものだ。
 ただ流石に見栄があってそこまでは正直には言えなかった。

「メルセデスさんは学生ですか?」

 メルセデスは若い。高く見てもまだ二十五歳には届いていないだろう。
 だがその穏やかな笑顔には明らかに知的な印象がある。多分、近くの大学の学生だろうとミヒャエルは思っていた。
 別に頭の回転が速いわけではない。喫茶店で彼女が見つからなければ近くの大学を回ろうと思っていただけの話だ。

「あ、はい」

 そう言って彼女は近くの工科大学の名前を出した。難関として有名な大学だ。
 ミヒャエルも一応そこの出だが、五十を過ぎて閑職に回されていることを考えるととても恥ずかしくて口には出せない。

「そうですか、工学を。お若いのに感心しますよ」

「あら、若い女が工学をやるのはおかしいですか?」

 ちょっと気分を害したように言うメルセデスにいや、そんなことは、とミヒャエルはしどろもどろに言い募った。
 管理外世界である日本でもそうであるように、ミッドチルダでも工学はどちらかと言えば男の仕事だと思われている。
 ミヒャエルが大学に通っていた頃はそうだったし、その風潮は未だ変わっていない。

「わ、私は女性が工学をやるのは好ましいことだと思いますよ。工学は見た目や完成品に比べて研究過程が実に繊細なんです。
 ガサツな男性より、貴女のような手弱女が研究した方がはかどると思います」

「そうですか? 実際に研究者の方に言っていただけると励みになります。こう言ってはなんですけど、今の研究室の教授はマッシズムに傾倒していると言いますか。
 あんまり女が工学に携わるのをよく思っていないみたいで」

 認められるのに慣れていないのか、ちょっと気恥ずかしそうに愚痴をこぼすメルセデスは愛嬌がある。そう思い、ますますミヒャエルは彼女に惚れた。

「ああ、私と同じくらいか、少し上の人なのかな。大学で研究を続けているような人は割と女性経験が少ないことが多いんです。それで戸惑っているのかもしれません。
 一番良いのは求められたときに積極的に答えを出して、結果を出し続けることです。どんな教授だって優秀で物分かりの良い生徒は好きになるものですから」

「まあ、そうですね」

 曖昧に頷いたメルセデスにミヒャエルは失敗したかな、と内心身構えた。
 ミヒャエルの言ったことは当たり前のことで、それ故に実行するのが難しいことだった。全ての学生、いや、ほとんどの人間がそれができたらどんなに良いだろうと願っていることだろう。
 正直、ミヒャエル自身も言いながらこれは無意味なことを言ってるんじゃないかと思った。
 ちらりと腕時計を見る。後五分で昼の休憩は終わりだった。

「いや、すみません。私も学生時代にそんなに良い経験をしたわけじゃないから上手く忠告ができなくて。
 今日は時間が無いからもう無理ですが、もし良ければまたこの喫茶店で会えませんか? 次は良いアドバイスができるように頑張ります」

「え、いえ、そんな、悪いです。今日、話をしてもらっただけで十分です」

「いいから、いいから。年寄りのおしゃべりに付き合ってくれたお礼です。それぐらいの役得じゃあ足りない。ああ、ここの払いも私が持ちましょう。
 と言っても流石にハーブティー一杯では申し訳ないからこのお金で何か頼んでくれますか?」

 中年男性特有の押しの強さでミヒャエルが言うと恐縮したようにメルセデスが身を縮こまらせた。

「いえ、そのダイエット中なので」

「じゃあ、また今度会ってくれますか?」

「それはこちらからお願いしたいです。私も工学を実際に研究している方の話を聞けるのは本当にありがたいです」

 申し訳なさそうにするメルセデスにミヒャエルは微笑んだ。内心は大手を振って喜びたいのを必死にこらえていたが。

「それじゃあ、また」

 再会の日時を具体的に取り付けると、伝票を二つ持って席を立つとミヒャエルは店を出た。
 無性に小躍りしたい気分だった。



[34641] ミヒャエル・ベンべ②
Name: 烏賊様刻◆e7251814 ID:b1305343
Date: 2013/01/21 09:25
「お客さん。身だしなみに気を使うなら、靴もいいのを買った方がいいよ。靴には人柄が出るっていうからね」

 懇意になってきた美容師にそう言われ、ミヒャエルはすぐに靴屋に行った。
 最初に訪れたときに言ってくれればとも思ったが、まあ初対面の人間にアドバイスをするのも難しいだろうと自分を納得させる。
 ミヒャエルの靴は雨や泥でよれよれで、底がすり減ってペラペラになるまで履きつぶした、ミッドチルダではある意味珍重されるぐらいボロボロの革靴だ。
 ただ、スーツや身だしなみは整っており、若い靴屋の店員は横着せずにすぐに相談に乗ってくれた。
 店員のアドバイス通り、そこそこの値段の革靴を二足買い、一日交代で履くことにする。
 ミヒャエルは身長が平均より少し低かったのでシークレットブーツを勧められたが、ミヒャエルは熟考の末断った。
 万が一にもメルセデスに見栄を張っているなどと思われたくなかったのだ。

「靴、変えたんですね。とっても良く似合っていますよ」

 待ち合わせの時間の五分前にやってきたメルセデスにそう言われたとき、ミヒャエルは本当に嬉しかった。

「ありがとうございます。前の靴は長く履いていたんで、そろそろ買い換えようと思っていたんです。
 ちょうど良さげなのがあったんで、つい買ってしまって。メルセデスさんに褒められてほっとしましたよ」

 内心飛び上がりそうなほど喜んでいるのを辛うじて隠し、穏やかに微笑む。
 こんなちょっとしたことで喜べる今の自分に動揺しつつも、これが恋なのか、とどこか冷静に分析している自分もいた。

「あら、そうですか。なら、私もお褒めした甲斐がありました」

 そう言ってメルセデスが笑ってくれたので、ミヒャエルはもう天にも昇る心地になった。
 とろけそうになる顔を何とかこらえる。

「あの、どうしました? すごい顔してますけど」

 訂正。こらえられてなかったらしい。頬をぴしゃぴしゃ叩いて何とか平常にまで戻す。

「ああ、いえ。メルセデスさんが楽しそうに笑うので、私まで楽しくなってしまって。
 あ、喫茶店だというのに何も頼まないのもあれですね。何を注文しますか? 御馳走しますよ」

 そう言ってごまかす。ミヒャエルに女性経験はあまり無かったが、それでも五十代の男が二十代の小娘に懸想しているのは異常であるとは理解していた。
 メルセデスにばれたら嫌がられる可能性もあるし、まずは気の許せる年上の友人になろうと思っていた。

「いえ、そんなこの前も御馳走していただいたのに。今日は私が御馳走しますよ」

「いやいや。仮にも大の大人が学生に御馳走されるわけにはいきませんよ。
 それに五十路にもなって男やもめの私の話に付き合ってくれているんです。紅茶とケーキぐらい御馳走しないと」

「いえ、そんな。というか、やっぱり結婚されてなかったんですね」

「やっぱり、というと?」

 そんなに女に縁が無いように見えたのだろうか?
 別に自分が美男子だと思っているわけではないが、メルセデスの評価はやはり気になる。

「いえ、普通ミヒャエルさんぐらいの歳になるとファッションなんかにもうとくなって、身だしなみもそれほどこだわらない方が多いでしょう?
 なのに、ミヒャエルさんはきっちりされていましたから」

 微妙な評価だった。喜んでいいのか、悪いのか判断に困る。

「はは、まあ、身だしなみは気にしている方だと思います」

 良い方に誤解してくれるならそうした方が良い。
 もっと深い関係にすぐなるならともかく、ミヒャエルはじっくり数年かけてメルセデスを落とすつもりだから。

「そう言うメルセデスさんはどうなんですか? 美人だし、彼氏の一人や二人いるのでは?」

 可能な限り何気ないふりをしていたがはかなり緊張していた。
 何せ、メルセデスは良い女だ。
 一目惚れして以降、彼女と話すたびに好きという気持ちが増大していく。
 彼氏がいた方が自然で、しかも、いたとしても諦められる自信がなかった。

「いえ、そんな、美人だなんて。私なんか別にもてないですよ。彼氏なんて夢のまた夢です」

「いないんですか? 意外だなあ」

 心の中で快哉をあげつつ、そう相槌を打つ。

「いえ、私、女子高育ちなんで、男の方と会う機会がなくて。友達も皆、別の大学ですし」

 なるほど、担当教授とも上手くいっていないようだし、両親以外と話すことが激減して寂しかったということか。
 道理で喫茶店で相席になっただけの五十路のおっさんの話を聞いてくれるわけだった。

「そうですか。……寂しい?」

「いえ、あの。……そうですね。寂しいんだと思います」

 どう答えるべきか迷ったのだろう。少し歯切れ悪く、メルセデスは言った。 

「そうですか。社会人になると嫌でも人と付き合うことになるからそういうこともなくなると思いますよ」

 研究者でもそれなりに同僚との飲み会や部下や上司との交流は存在する。
 ミヒャエル自身は割と一人でいることを苦にはしない性格だったので、あまり好きではない。しかし、人間関係の構築は社会で生きていくのに必須であるため、ある程度は嫌でもやらなければならない。
 それが億劫なミヒャエルとしてはメルセデスの境遇は少しうらやましいぐらいだった。

「いえ、そういう付き合いはあるんですけど、気の置けない友人が欲しいというか。贅沢な悩みだとは思いますけど」

「いやいや、当然の願いだと思いますよ。……もしよろしければ、その気の置けない友人に私が立候補しても?」

 そう言うと、メルセデスは吃驚したように口を半開きにしてミヒャエルを見つめ、固まった。

「いや、無理にとは言いませんが」

 中年男特有の繊細なハートを守ろうとして、前言を撤回しようとするミヒャエルにメルセデスはブンブンと音がでそうなほど首を横に振った。

「いえ、そんな。嬉しいです。ただ、こんなに歳の離れた友達は初めてだったんで、少し戸惑ったと言うか」

 もにょもにょと、恥ずかしそうに顔を赤く染めてメルセデスが言った。
 そして、頬を赤らめたまま、ミヒャエルを上目づかいに見つめる。

「ごめんなさい、私から言い直します。ミヒャエルさん、私と友達になっていただけませんか?」

 その言葉を聞いて、ミヒャエルは感極まってしまった。
 長く気にしたこともなかった身だしなみを整え、毎日喫茶店に通い、メルセデスを探す。
 そんな地道な努力が認められたのだと思うと、眼から涙がこぼれた。

「ああ、すいません。歳を取ると涙もろくなっていけない。ありがとうございます、メルセデスさん。喜んで友人になりましょう」

 メルセデスはそんなミヒャエルを見て悪くは思わなかったようで、むしろ、案じるように微笑んだ。

「ええ、よろしくお願いします。良ければ、敬語もおやめください。私にとって、貴方は人生の先輩だけど、私はただの小娘ですもの。
 それに、友達には気安く接して欲しいと思いませんか?」

「わかり……わかった、メルセデス。君がそう言うのなら気安く話させてもらうよ」

「ええ、よろしくお願いします、ミヒャエル」

 そう言ってメルセデスは微笑んだ。
 まるで、荒涼とした砂漠にただ一厘だけ咲いた可憐な花のような、思わず見とれてしまうほどチャーミングな笑みだった。





 そうして友人となったミヒャエルはメルセデスといつもの喫茶店で会い続けた。
 話題は主に工学に関する物で、メルセデスのわからない所をミヒャエルが説明したり、逆にミヒャエルが大学の最新の研究事情を聴くこともあった
 休日には共に買い物に行ったりもした。ミヒャエルがろくな私服を持っていないとわかると、メルセデスは似合いそうな服をブティックを何軒もまわって買い求めた。
 私服など、親に買ってもらうか、通販で適当に買ったことしかなかったミヒャエルにはそれは実に新鮮であった。
 一年が経ち、少しずつ交流を深めていき、随分、メルセデスに信頼してもらったようで、会う場所はミヒャエルの住処になった。
 両親の遺産であったが、男やもめで暮らしていた家であり、一人で掃除をするのは無理だと悟ったミヒャエルは自室兼書斎の掃除だけに留め、専門のハウスキーパーを雇った。
 大の男を二人、一日中雇って、家の掃除をしてもらったおかげで相応の金はかかった物の、埃一つない整理整頓された綺麗な家になった。

「お綺麗にされているんですね」

 というメルセデスの言葉に、ミヒャエルは思わず赤面して言った。

「いや、恥ずかしながらハウスキーパーというやつを雇って掃除してもらったんだ。自分で掃除したのは書斎だけだよ」

 ハウスキーパーの仕事は完璧すぎて、さすがに自分でやったというのは無理があるだろうと思ったのである。

「そんなにしてもらわなくても大丈夫なのに。でも、ありがとうございます。気を使っていただいて」

 そう言って嫋やかな微笑みを浮かべるメルセデス。美しい蜂蜜色のロングヘアーが窓から吹く微風で、さらさらと揺れる。
 鮮やかな金色のそれらはシミ一つない白い肌と宝石のような青い瞳に調和していて美しい。
 その可憐な姿を見て、ミヒャエルはとろんと目じりを下げた。そして、そんな自分に気づいて、慌てて表情を引き締める。

「まあ、ひとまず書斎にどうぞ。一応、飲み物と簡単な食べ物は用意しているから」

「あ、はい。それじゃあ行きましょうか」

 ミヒャエルの家は築四十年のかなり古い一軒家だ。
 実用性を重視した父の影響か、柱や壁は全て鉄筋コンクリートで固められている。
 床には冬でもあまり冷たくならない特殊な建材を使っていた。
 階段を上って正面の部屋が書斎だった。
 そこには壁を埋め尽くした本棚に納められている。

「うわあ、すごい数の本ですね。あの黒い立派な本とかすごい」

 メルセデスが本棚の一角を指さす。そこには黒い装丁の立派なハードカバーの本が置いてあった。
 ああ、とミヒャエルは苦笑した。

「あれは飾りだよ。親父が買ってきたのかなんだかわからないんだけど、昔からあって、読もうとしても開かないんだ。
 しょうがないんでストッパーとして利用してるんだけどね」

 ページ自体はあるようなのだが糊で固められているのか、開くことができない。
 何が書いてあるか興味はあったが、無理に開いて破いてしまっても無粋なのでミヒャエルは触らないようにしていた。

「そうなんですか? でも、部屋の壁が全部本棚で私、吃驚しました。ミヒャエルは読書家なんですね」

「いや、子供のころ読んでいたコミックや娯楽小説もあるから質はそんなによくないよ」

「それでもすごいです。読書がお好きだと聞いてましたが、こんなに集めてるとは思いませんでした。
 私なんか、本を読むって言ったら教科書や専門書ばかりで。たまに見るのはベルカ演劇くらいでしょうか?」

 ベルカ演劇とは古代ベルカの英雄達を主役にその生涯を語る演劇だ。ミッドチルダの上流階級出身者達のご用達でもある。
 聞くのもどうかと思い、聞かないようにしていたのでミヒャエルはメルセデスの生い立ちについて詳しくは知らなかったが、相当なお嬢様であることは想像できていた。

「はは、工学者としてはそちらの方が正しいような気もするね。ただ、読書は心を豊かにする。
 もし、暇なようなら読んでみるといい」

「何かお勧めとかありますか?」

「そうだなあ……。色々あって決め難いな。とりあえず、研究室から出た課題を片付けてしまおう。その間に何か考えておくよ」

 そう言って、メルセデスに座るように促す。そしてミヒャエルはその斜め後ろに立った。
 歳を重ねたせいか、ミヒャエルは腰痛持ちだ。座っているより立っている方が楽なのでこういう状態で教えることになった。

「それでこれなんですけど」

 テキパキと勉強道具を取り出し、今の時代では少し珍しい紙のプリントを取り出し、指し示す。
 それを見て、ミヒャエルは顔をしかめ、老眼鏡を取り出した。
 元々、眼は良くない方だったのだが、最近、急激に落ちているような気がする。歳をとったことを実感する瞬間だ。

「ふむ、これは……」

 その問題には見覚えがあった。元となる計算自体は簡潔で明瞭なのだが、構造が複雑でその計算式を思いつくには丁寧に一つ一つそれを解いていかなければならない。

「メルセデス、これはごてごてと修飾してあるから複雑に見えるだけで実態は実に単純だ。
 少しずつ、解きほぐしていってみなさい」

 実際の設計でもこのような形は良く見る。問題としての歯ごたえと実践性を強く意識してある良い問題だ。
 そして、この手の問題を好む男を一人、ミヒャエルは知っていた。

「ところでメルセデス」

「えっ、はい。なんでしょう」

 問題を解くのに集中していたのだろう。メルセデスがきょとんとした表情で顔を上げる。

「あ、すまない。その問題を解いてからにしよう。そこそこ良い報せがあるよ」

「わかりました。楽しみにしています」

 そう言ってメルセデスはまた課題に没頭する。良い集中力だとミヒャエルは感心した。
 教えていてわかったのはメルセデスが大変優秀な学生だということだ。
 集中力と理解力に優れ、ミヒャエルのプレゼンテーション能力の不足でわかりにくかった部分に適切に質問を投げかけてくる。
 また、記憶力も良く、大抵のことは一回で覚えてしまう。勿論、マンツーマンでつきっきりで指導しているからというのもあるだろうが、それを差し引いても教え甲斐のある生徒だった。

 三十分ほどかけて、メルセデスは問題を解き終えた。
 ミヒャエルが採点に入る。

「どうですか?」

「うん、特に問題ないよ。計算間違えもしていないようだし」

「面白かったです。まるでキャベツの皮を剥いていったら最後には白い芯だけ残ったというか、そんな感じでした」

「まあね。流石、エルウッド・へインズ渾身の問題といったところかな」

 ミヒャエルがそう言うと驚いたようにメルセデスがミヒャエルを見つめる。

「私、ヘインズ教授のこと話しましたっけ?」

「いや、話してないよ。そうか、やっぱり君は奴の教え子だったのか」

 ミヒャエルが笑う。メルセデスの顔が驚愕から感心に変わるのが心地よかった。

「教授と親しいんですか?」

「まあ、そこそこ。大学で同期だったんでね。飲み会なんかでも何回か話したし、教え子の就職を斡旋したこともあるよ」

 ミヒャエルと違って良く勉強ができ、真面目な男だった。
 マッシズムに傾倒していると言われるほど極端な思想の持ち主ではない思っていたのだが、何かあったのだろうか。

「そうなんですか。縁って不思議なものですね」

「ん?」

「だって、そうじゃないですか。喫茶店で偶々会ったミヒャエルさんが同じ工学をやっていて、私の担当教授のご友人だなんて本当に奇遇です。運命を感じてしまいます」

 そう言って笑ったメルセデスは本当に可憐だった。

「運命、かい?」

「はい、運命です。ベルカ叙事詩『砦落とし』にこんな一節があります。『真の騎士は、仕えるべき主と必ず出会う。彼らは比翼の鳥であり、その出会いは偶然ではなく、運命が二人を出会わせるのだ』
 私は騎士ではありませんが、貴方という気の置けない友人に出会えたのは運命だと思いました」

 ならば、ミヒャエルがメルセデスに一目ぼれしたことも運命なのだろうか。
 彼女の外見と雰囲気に惹かれ、内面を知った今、ますます好きになっている。
 それが運命だというのなら、運命とはなんと素晴らしい物なのだろう。

「ロマンティックだね」

「あら、ロマンティックはお嫌いですか?」

「いいや、好きな方だよ。君に貸す小説もそういう系統にしようかな」

 角砂糖のシロップ漬けのように甘い恋愛小説などだろうか。
 流石に数は少ないが、それでも面白いと思った物は何冊かある。

「楽しみにしています」

 メルセデスが淡い微笑みを浮かべる。
 それにつられるようにミヒャエルは知らず笑みを浮かべた。





 夜半。ミヒャエルは母校の近くの居酒屋で一人、酒をチビチビと飲んでいた。
 トウモロコシから作った蒸留酒は癖が強くアルコール濃度が高いため、少しずつしか飲めないため、人を待つときにはちょうど良い。
 付け合せのチーズには手を出さない。
 がらりと狭い店内に入り口の扉が開く音が響いた。
 目を向けるとそこにはミヒャエルと同年代と思われる大柄な赤毛の男が一人立っていた。

「よう、エルウッド。こっちで先にやらせてもらってるぞ」

「相変わらず人を待たないな、ミヒャエル」

「安心しろ。つまみには手を出していない」

 そう気さくに声を交わし、エルウッドが向かいに座る。
 注文を取りに来た給仕にビールを頼み、テーブルの上のチーズをひょいと手で掴み、口に放り込んだ。

「うん、美味い。俺の好みを覚えていたんだな」

「まあ、付き合いも結構長いからな」

 二人は大学の同級生で、そこそこの付き合いがあった。
 もっとも、修士課程をひいひい言いながら何とか卒業したミヒャエルとは違い、エルウッドは優秀で、博士課程に進み、数年、他大学で経験を積んだ後、母校の准教授になった同期の花形だった。
 給仕がビールを運んでくる。ジョッキで差し出されたそれをエルウッドは喉を鳴らして一気に飲み干す。

「おいおい、大丈夫か? もう私達も若くはないんだぞ?」

「これぐらい、どうということはないさ。いつも言ってるだろう。俺はガタイがいいから人の倍飲まないと飲んだ気にならないんだ」

 ビールのおかわりを注文しながら、エルウッドが軽く返す。
 確かにエルウッドは背も高く横幅も大きい。だが、中年らしく腹が出てしまっているのはやはり、ビールの飲みすぎのせいだろう。

「そうか。私は駄目だな。深酒すると翌日までダメージが残ってしまう。歳を取ったと感じるよ」

「病は気からというだろう。老化も同じだぜ。歳を取ったと思うから老けるんだ。気が若ければ死ぬ寸前まで若いままさ」

 そう言ってヒョイとチーズを口に放り込む。
 もぐもぐと口を動かす姿は精力的だったが、やはり自分と同じおっさんだった。

「それで、今日はどういう用件なんだ。そりゃあ、お前には世話になったこともあるけど、こんな所で気楽に会うほど仲良くはないだろ」

 そう言ってエルウッドが太い首をぐるりと回して周囲を見渡した。
 学生街だからか、やはり客も給仕も若い人間が多い。確かに自分達のようなおっさんが来るにはいささか場違いだろう。
 チビリと癖のある蒸留酒を一口飲む

「ちょっと、君のことでね。お節介なことを言うから学生時代の気分を取り戻したいと思ってここにしたんだ」

「お節介? 何のことだ?」

「随分、マッシズムに傾倒しているらしいね。確かに工学部は男所帯だが、女をないがしろにしていいわけじゃないと思うんだが」


 そう言うと、エルウッドは真顔になって黙り込んだ。

「誰から聞いた?」

「誰でもいいだろう、そんなこと」

「……メルセデス・ディースブルグか? お前が彼女と知り合いだとは知らなかったな」

 鋭い友人にミヒャエルは観念したように手を振った。

「ご名答。ちょっと仲良くなってね。言っておくが彼女はむやみに人の悪口を言うような娘じゃない。
 愚痴として出るということは相当堪えかねているということだぞ」

 言われて思い当たる節があったのか、エルウッドは黙り込んだ。

「長い付き合いだ。君が研究しか興味のない奴らと違って、生徒を大事にしているのはわかっている。何か理由があるのか?」

 ミヒャエルがそう言うと、エルウッドはビールを掴んだ。ジョッキに口をつけ、一気に飲み込む。
 そして探るようにジロリとミヒャエルを見た。

「変わったな、ミヒャエル。どうしたんだ? お前はそんな深い所に踏み込んでくる奴じゃなかっただろう。お前こそ、何かあったのか?」

 そう言われてミヒャエルは少し迷った。
 だが、そろそろ誰かに宣言して自分の気持ちを固めたいとも思っていた。

「絶対に誰にも言わないと誓ってくれるか?」

「誓うよ。神は信じていないが敬愛する俺の両親に誓おう」

 ミヒャエルは大きく息を吸い込んだ。そして、

「メルセデスを愛している。一目惚れだった」

 そう言い切った。
 エルウッドは最初、何が聞こえたのかわからないというように首を振り、内容を理解して目を点にした後、最後に店中に響き渡るような豪快な笑い声をあげた。
 店中の注目が集まるのがわかった。

「笑うなよ。こっちは真剣なんだぞ」

「ハハハッ。笑うなって、それは無理だろ! あのミヒャエル・ベンべが自分の半分も生きていないような小娘に一目惚れ!? 信じられん!」

「生憎、本当の話だ」

「わかっている。お前なら、いや、人間ならこんなバカみたいな嘘をついたりはしない。
 あんまり感心はしないが一応言わせてもらうよ、ミヒャエル。おめでとう!」

 爆笑しながらだったが確かな祝福の言葉に、ミヒャエルは黙って感謝した。

「で、なんでメルセデスに辛く当たるんだ? 私は彼女の力になりたいんだ。彼女が悪いなら改めさせる。教えてくれ」

 そう言われてエルウッドは笑みを消して黙り込んだ。そして低い声で静かに言った。

「……誰にも話さないと誓ってくれるか」

「聖王と私の両親に誓って」

 敬虔なベルカ教徒らしく、指で空中に三角を描く。
 それを見て、エルウッドは大きく息を吐いた。

「……俺は女性不審になっちまったらしい。カウンセリングにも通っているんだが、女が信用できないんだ」

「何かあったのか?」

 そう聞くとエルウッドはうつむき、無表情でぼそりと呟いた。

「女房と娘が夜逃げした」

「――っ!?」

「二十年以上、苦楽を共にしてきた女房がよお。"家庭を顧みない貴方とは一緒に生きていけない"だってよ。娘も全面的に同意したらしい」

「……そ、んな」

 熟年離婚という物が流行っているらしいとは新聞に載っていた。
 ミッドチルダは次元世界でも有数の豊かさを持つ反面、所得格差は酷く、大規模なスラムが形成されるほどで、国民数に対する犯罪率は高く、政情が安定しない傾向にあった。
 最近ではブラストという大規模犯罪組織がマスコミにピックアップされたこともあり、国民の不安はますます大きくなっている。
 当然、そんな国では些細なことからでも友人間、家族間に亀裂が走ることも多い。
 だが、それはどこか遠い問題だと感じていた。

「俺は必死にやってきた。お前も知っての通り、大学教授っていうのは世間のイメージと違って研究だけしていたんじゃとても回らねぇ。スポンサーを探して企業に頭下げて回って、大学内でも派閥争いだ。そんな中で自分の担当生徒をきちんと食っていけるように教育してやらなきゃいけねえ。でも、俺は家族を守るためにそれら全てを必死にこなしてきた。下げたくない頭を下げて、色んな所に気を回して。全部、家族を食わしていくためだ。女房と娘を守るためだ。そのために頑張ってきたんだ」

 エルウッドはうつむいて肩を震わせていた。涙をこらえているのだろう。
 人前で涙なんて流せないぐらい誇り高い男だった。

「確かに家族にあまり構えなかったかもしれねえ。だけど、家族だろう? 文句があるなら言えばよかったんだ。それが何も言わずにドロンだ。後は俺が署名するだけでいい離婚届と慰謝料の請求だけ郵送で届けてきやがった」

 きっと家族にも不安や心配をかけまいと気を張り続けたのだろう。それが裏目に出たのだ。
 慰めることはできる。でも、彼はそれを望むまい。

「エルウッド。気持ちがわかるなんてとても言えない。でも、メルセデスに辛く当たるのは看過できない。私は彼女を愛しているんだ」

 そう言うとエルウッドは薄く微笑んだ。普段の彼からでは想像できない程、弱弱しい笑みだった。

「お前、変わったなあ。いつからそんな熱血キャラになったんだ?」

「すまない」

「いや、お前の方が正しい。でも、あれぐらいの歳の子を見ると娘を思い出しちまうんだ。それでついカァーッとなって怒鳴っちまう。
 カウンセラーから色々言われたけど、要は時間が治療をしてくれるのを待つしかないって、そう言う風なことだ」

 そう言って彼はビールをジョッキに注いでグイッと飲み干した。
 若いころより飲み方が速い。
 相当なストレスを感じているのだろう。家族のためだと信じて耐えていたのに、それが突然ぽっきりと折れたのだ。仕方のないことかもしれない。

「今の俺に女の相手は無理だ。メルセデスにはお前から事情を話してくれ。別の良心的な研究室に移ってもらう。多分、それが最善だろう」

 字面ほど簡単ではない。メルセデスにとっては辛いことだし、エルウッドとしても名分に傷がつく。だが、エルウッドもそれが妥協の限界なのだろうということは十分に伝わってきた。

「わかった」

 短く頷く。そして、給仕にメニューで一番高いワインと料理を注文した。

「私が奢る。今日は久しぶりに痛飲しよう」

 どうせ学生向けの店だ。豪遊してもそれほど負担にはならない。
 そんなことより、今は傷ついた孤独な友を慰めたかった。

 翌日、ミヒャエルが二日酔いに七転八倒しながらメルセデスにくれぐれに内密にと頼みながら、事情を話した。
 聡い金髪の女の子はミヒャエルの拙い説明でしっかり理解し、研究室の移籍を承諾した。
 そして数日後、ミヒャエルと同じく魔導炉の研究を行うとちょっと恥ずかしそうに伝えてきたのだった。




[34641] ミヒャエル・ベンべ③
Name: 烏賊様刻◆e7251814 ID:b1305343
Date: 2013/01/27 12:04
 ミヒャエルは必死に走っていた。
 慣れない魔力による身体強化で、時速百キロメートルほどで、アスファルトの地面を疾走する。
 さすがにこの速度で歩道を走るのは危険なので車道を走っている。
 すれ違う通行人が驚き、足を止めるが、振り返っている暇はない。
 時折、脚力を強化しすぎて路面を踏み砕くがバリアジャケットを展開しているのでミヒャエル自身には怪我はなかった。
 急がなくてはならない。メルセデスを救うために。





 始まりは夜半、仕事を終えて、メルセデスといつもの喫茶店で軽く話し、ほくほく顔でミヒャエルが帰ってきてすぐのことだった。
 古臭いインターフォンが甲高い電子音をたてて、来客を知らせる。

「よう、ミヒャエル。その、久しぶりだな」

 そう言って訪ねてきたのは叔父だった。
 五十路をとっくに超えているミヒャエルの叔父だから、当然、老人だ。寒色のセーターにすこし丈がたりていないズボンと、まあ無難な格好をしている。
 相変わらず左手は、無骨な義手になっていた。

「ええ、お久しぶりです、おじさん」

 一応、丁寧に礼をしながらもミヒャエルの眼は冷ややかだった。

「それで、今日はどんな用事で? メールを一本もらえればありがたかったんですが」

「急に訪ねてきて、すまねぇ。実はちょっと先立つものが必要でな」

 これである。何のことはない。この老人は金の無心に来たのだ。
 しかも初めてではない。ミヒャエルの無き両親からもたびたび金をせびっていた。
 どうやらギャンブルか何かに手を染めているらしく、管理局の負傷退職年金では首が回らないらしい。
 ミヒャエルとしても唯一残った親類だし、独り身にとっては給料など自分の小遣いみたいな物だったので、貸すのは特に構わなかった。今までは。

「困ったな」

「ん、どうしたんだ?」

「いや、叔父さんには言っときますけど、今好きな人がいて、最終的には結婚を考えているんです。
 ですから貯金は増やしておきたいな、と思ってまして」

 そういうと卑屈な笑みを浮かべていた叔父が一転、真面目な顔をした。

「そうか、それなら仕方ねぇな。結婚式は呼んでくれ、ご祝儀は渡せるか怪しいけどよ」

「いえ、祝ってくれるなら大歓迎ですよ。しかし、意外ですね」

「もっとごねると思ってたってか? 身を固める決心をした男に水を差すほど野暮じゃねえよ。
 幸せになれ、ミヒャエル。兄貴がもういないのが残念だがな」

 確かに父が生きていたら喜んだかもしれない。いや、困惑しただろうか。何せ、花嫁の歳が歳だ。

「とりあえず上がってください。お茶ぐらい出しますよ」

「お、そうか、悪いね。せっかくだからセカンドフラッシュで頼む」

「そんなのありませんよ。ティーパックです」

「ち、しけてやがるな」

 そう言ってニヤッと笑う。
 それが不思議と卑しく感じられないのは叔父の人柄だった。

「節約中なので。――っと、すいません」

 デバイスが軽快な電子音を鳴らす。
 この音はメルセデスだ。

「お、未来の姪か? 俺のことは気にするな。しっかりと話せよ」

 紅茶を飲みながらそう冷やかす叔父に軽く手をあげて応え、ミヒャエルは電話に出た。

「はい、ミヒャエルです。もしもし、メルセデスかい?」

「こんなことをしてどうなるか、わかっているのですか!?」

 ミヒャエルの言葉をかき消すようにメルセデスの怒声が響いた。
 思わず、黙りこんだミヒャエルに構わず、怒声は続く。

「若い女を誘拐するなんて、畜生にも劣る所業です。それを理解しているのですか!?」

 それを聞いて、ようやくミヒャエルは状況を理解した。
 メルセデスが助けを求めているのだ。

「叔父さん!」

 小さな声で紅茶を飲んでいた叔父を呼ぶ。
 さすがは元武装局員か、すぐに異変に気付いた叔父がさっと近づいた。

「事件か!? とりあえずスピーカーモードにしてくれ。話が聞きたい」

 言われて、ミヒャエルがデバイスを素早く操作する。すぐに電話の向こうの声が部屋中に聞こえるようになった。

「おいおい、チクショウニモオトルショギョウデス! だってよ。そうだよ、僕達チクショウだも~ん」

 下卑た男の声。そしてそれに追従するような笑い声が複数。

「君、ディースブルグ家の御嬢さんでしょう? 君のパパからお小遣いがもらいたいんだよね。そのための下準備ってわけ。
 君のパパも娘のいけない写真を公表するって言われたら、ボクらにお小遣いをあげざるをえないでしょう?」

 子供に噛んで含めるようなふざけた口調で男が続ける。
 自分たちの絶対的優位を確信しているのだろう。獲物をいたぶって楽しんでいるのだ。
 ミヒャエルの顔が怒りで紅潮する。あの美しいメルセデスを奴らはいたぶっている。

「落ち着け」

 叔父が小さな声で言った。

「室内電話を借りるぞ。管理局に通報する。お前は情報を集めろ」

 そして、機敏に部屋の隅に置かれた電話に飛びついた。

「だから、こんな誰も来ないような海の傍の工場跡に連れ込んだのね?
 スラムの中なら誰にも邪魔されないから」

 誘拐。スラム。海の傍。工場跡。
 叔父が矢継ぎ早に電話口でがなりたてる。

「そうだよ~。しかも君みたいな美人の子とセックスできてラッキーだ――」

「――おい」

「何すか、クライスラーさん。今いい所なんですけど」

「その女の持ち物を調べろ。会話が不自然すぎる」

 別の男がそう指示し、慌てたような声と共に電話口の男たちのざわめきが大きくなる。
 メルセデスに近づいてきているのだろうということがわかった。

「こいつ、ケータイ持ってやがった」

「まずいな、とりあえず、切れ」

 その言葉を最後にブツッという音がして電話が切れる。

「叔父さん、まずい。気づかれた!」

 ミヒャエルが叫ぶ。

「こっちもまずい。武装局員を派遣するのは準備に時間がかかるらしい」

「そんな、なんで!?」

「落ち着け。この時間のスラムだぞ? 相応の準備をしていかないとたどり着くことすらおぼつかない。まさか、虎の子の首都防衛隊を派遣するわけにもいかないからな」

 そう言いながら、伸ばし放題の白髪を振り乱すのも構わず、乱暴にデバイスを取り出すと、地図を起動した。

「海に面してるスラムは二つ。その内、港を擁しているのは一つだな。ここからだと十キロぐらいか」

 地図をなぞりながら、呟く。
 だが、有効な対処法は思いつかないらしい。頭をガリガリと掻いて、フケをまき散らしている。
 ミヒャエルは一つ案を思いついた。成功率がどれほどかも全くわからず、不確定要素が多くて、勇気というより蛮勇だが、可能性はある。
 メルセデスのためならば命を懸けることぐらい何ともなかった。
 静かにデバイスを起動し、バリアジャケットを纏う。ミヒャエルのバリアジャケットは工事現場や組み立て工場を視察する時のためで
 緑がかったグレーの作業着に安全ヘルメットというあまりかっこよくはないデザインだった。

「叔父さん、現場までナビゲートをお願いできますか? 私が助けに行きます!」

「な!? お前、喧嘩もしたことねぇだろう? そんなんで戦えるか!」

「絶対に戦うわけじゃない。幸い、魔力量だけはあるんです。相手がビビッて逃げ出してくれるかも」

「馬鹿、そんな間抜けな格好の奴にビビる奴がいるか! 十中八九、大勢との喧嘩になる。殺されるかもしれんぞ!?」

「メルセデスが傷つけられることに比べれば、死ぬことなど、何故恐れましょうか!」

 叫ぶ。
 それを聞いて、叔父は黙り込んだ。
 そして、ゆっくりと口を開く。

「……ミヒャエル、お前、変わったな」

「変わりたいと思いました」

「そう思って変われる奴は少数派だよ。五十路を越えていたらなおさらな。
 だが、嫌いじゃねえ。ナビゲートは任せろ。ついでにガイドもつけてやる」

「ガイド?」

「おう。スラムの喧嘩小僧を鍛えてやってるんだ。そいつを案内につける。クライド・ハーヴェイって名前なんだが」

 そうして、冒頭に戻る。
 家から飛び出したミヒャエルは全速力で夜の街を走った。
 途中で何度か歩行者とぶつかりそうになり、やむなく車道を走る。
 交差点を曲がる。すると突如、ライトに照らされた。乗用車だ。運転手がひきつった顔で急ブレーキを踏むのがわかった。
 ミヒャエルは避けなかった。反射的に無理だとわかったのだ。腰を落とし、重心を前に移して普通乗用車を真正面から受け止める。
 衝突。
 当然、比較して圧倒的に軽いミヒャエルが後ろに押される。だが、吹き飛ばされない。圧倒的な脚力が大地をしっかり踏みしめていた。
 そして、三メートルほど押されて、車は止まった。
 フロント部分の歪んだ自動車に対し、ミヒャエルは無傷だ。魔力ランクSSランクのバリアジャケットはその程度では傷もつかない。

「すまない。急いでいるんだ。どこか故障していたらミヒャエル・ベンべまで言づけてくれ」

 窓を開けて呆然としている運転手にそう告げ、ミヒャエルは走り出した。
 街並みが変わる。近代的で清潔なオフィス街から自然公園を走り抜け、ゴミゴミした不潔な街並みのスラム街に。

(そこで一旦、止まれ。目つきの悪い黒髪黒目のガキがいるはずだ。探せ)

 叔父からの指示に足を止め、周囲を見わたしながら、荒くなった息を整える。
 一分ほどで見つけた。

「おっちゃんがミヒャエル・ベンべか? 師匠のやつ、こんな夜中になんだってんだ」

「すまん。惚れた女がピンチなんだ。力を貸してくれ」

 端的なミヒャエルの言葉に少年はにやっと笑った。

「いいね。そういうのは好きだよ」

 そして続ける。

「任せとけ。この辺の地理は知り尽くしてるぜ。おっちゃん、背負ってくれ。俺が走るよりおっちゃんの方が絶対速いだろ」

「わかった」

 ミヒャエルは短く言って背中を差し出した。
 その息は荒い。当然だろう。普段ろくに運動もしていない人間が短時間とはいえ全力疾走したらすぐに息が切れる。
 ただ、気力は充実していた。背中に乗せたクライドは叔父が見込んだだけあって優秀なようで、時速百キロメートルで走るミヒャエルを的確にナビゲートしてくれる。
 立ち入り禁止と書かれた汚い塀をジャンプして飛び越える。
 そうすると十以上の工場が港に立っていた。

「どれだ!?」

「一番奥から二つ目だ。他は手狭で物が飛び散ってるか、屋根が壊れてて声が外に漏れる」

 何度もここに来たことがあるのだろう。クライドがテキパキと指示する。
 言われた通りの工場に行くと中から明りが漏れていた。
 背中から降ろしたクライドと一緒に窓からそっと中を覗き込む。

「どうする? 十人もいるぞ? おっちゃん? おい、無策で突っ込む気かよ!?」

 クライドが何か言っていることはわかったが、ミヒャエルにはもう聞こえていなかった。
 服を破かれて肌をさらしたメルセデスを見た瞬間に意識が爆発した。
 有り体に行ってしまえば、ミヒャエル・ベンべという男は五十五歳になって生まれて初めてマジギレしたのだ。

「おおおおおおっ!!」

 雄叫びと共に窓に拳をぶち込む。元々ボロボロだったガラスが粉々に砕け、内部に散乱する。
 あっけにとられるクライドを一顧だにせず、ミヒャエルが工場の中に入った。

「この野郎!」

 流石、スラムというべきか。ナイフを腰だめに構えた男が体当たりするように刺しに来た。短い刃物で深く刺すために非常に有効な刺し方で男の殺意がよくわかる。
 ガギンと硬質な音がした。よほど勢いよく刺したのだろうか、ナイフがぽっきりと折れている。
 ミヒャエルが完全に座った眼で拳を振るう。腕力任せの素人のパンチだったが魔力で強化された五体は振るわれる拳が霞んで見えるほど速い。
 顔面に当たった拳は鼻を押しつぶし、頭がい骨を粉砕した。元々、バリアジャケットで覆われた拳は十分に凶器なのだ。
 走ってくる乗用車を正面から受け止められる男が振るえばどうなるかの良い実例だった。
 血反吐をまき散らして吹き飛ぶ男を見て、他のチンピラ達は震え上がった。

「下がってろ。お前らじゃ、足手まといになるだけだ」

 否、一人だけ不敵に笑って前に出てきた男がいた。
 金髪を短く刈りこんだアスリート風の男だった。
 恐らく、バリアジャケットだろう。白を基調とした派手な衣装に身を包んでいる。

「クロイツァーさん、あんなのとやるつもりですか!? 殺されちまいますよ!?」

「パワーとスピードはすごいな。だけど、それだけだ」

 そう言って、前に出てクロイツァーは無造作に構えた。
 皮手袋を模したデバイスを装着した手を顎の下に置き、重心を後ろ脚に寄らせる。
 蹴りを重視したストライクアーツの基本的な構えでかなり堂に入っていたが、そんなことはミヒャエルにはわからない。
 ただ、自分に比べて貧相な魔力で貧相なバリアジャケットを纏っているのがわかるだけだ。

「がああああああっ!!」

 湧き上がる怒りに任せて踏み込む。大ぶりのスイングパンチをクロイツァーは見事なフットワークで躱した。
 そして、体が開いたミヒャエルの左手、握りこんでいたデバイスの柄を渾身の力で蹴り上げる。
 攻撃を意識して握りが甘くなっていたミヒャエルの手からデバイスがすっぽ抜ける。
 同時にバリアジャケットが解除された。
 当然だろう。ミヒャエルは戦闘型魔導師と違って、自前でバリアジャケットを展開するなどという面倒で脳に負荷がかかることをやっていなかった。
 無防備になったミヒャエルの顔面にクロイツァーが渾身の右ストレートを放った。
 鈍器が硬い物を砕く鈍い音が響く。
 前歯がまとめて吹き飛び、鼻骨を折られ、鼻を異様な方向に曲げたミヒャエルがどさりと仰向けに倒れた。





「ミヒャエルさん!?」

 メルセデスの悲鳴が響く。そのままミヒャエルに駆け寄ろうとしたメルセデスをチンピラ達が止めた。

「どこにいこうっていうんだ?」

「そうそう、俺達とイイことの続きをしようぜ」

 そう言ってメルセデスの肌を撫でようとした二人に天井から黒い影が飛び降りてきた。
 落下速度をうまく利用して、顔面をしたたかに蹴られ、二人があっけなく気絶する。
 更に驚いている男に素早く近づき、股間を蹴り上げた。白目をむいて悶絶し、やがて動かなくなった。

「ああ、くそっ! 俺って大馬鹿だよな。こんな不利な場所に飛び込むなんて!」

 黒い少年、クライドが構える。自作だと思われる太い短杖型のデバイスを前に出した左手に逆手に持ち、右手は顎の下で拳を握る。
 はすに構え、重心は後ろ脚。地上ですれば蹴り重視の構えだが、その小さな体はわずかに浮いている。
 クロイツァーが近づいてきた。顔には笑みが浮かんでいる。

「そうだよなあ。いくら高ランク魔導師でもあんな素人が一人で突撃してくるわけがない。おまえが手引きしたのか、坊主?」

「いや、俺はただのガイド。おっちゃんは一人でも絶対突撃していたよ。大馬鹿だもの」

「ははっ。そうだな、女のために死にに来るなんて馬鹿なおっさんだ」

 笑うクロイツァーをクライドは笑った。

「三メートル十二センチ四ミリプラスマイナス二ってところか。結構やるみたいだね」

「はあ? 何を言ってやがる」

「別に。わからないなら良いよ。後、馬鹿(fool)じゃなくて、大馬鹿(the greatest fool)だ。ま、あんたごときにゃ一生違いはわからねえだろうけど」

「は、言ってくれるじゃないか、糞ガキ。空戦型のようだが、この狭い工場内で俺に勝てるか?」

「その必要はないね」

「何?」

「あんた、おっちゃんを舐めすぎだよ」

 クライドがそう言うのを待っていたかのようにいつのまにかうつぶせになり、床を這ってクロイツァーの後ろに近づいていたミヒャエルが右手で足首を掴んだ。
 そのまま身体強化に物をいわせて、超人的な握力で薄いバリアジャケットごと握りつぶす。
 肉が裂け、骨が砕ける音が周囲に響いた。

「ぎぃあああああああああああああああああ!!」

 悶絶するクロイツァーを力任せに片手で宙づりにして、ミヒャエルは曲がった鼻もそのままに笑う。
 凄絶な笑みという形容がこれほどふさわしいものもないだろう。

「きつい一発をありがとう。おかげで冷静になれたよ。これは心ばかりのお礼だから、どうか堪能してほしい」

 両手で持ち直し、そのまま、ハンマーを振るように、クロイツァーの身体を床に叩き付ける。
 すぐに持ち上げて、反対側に。また持ち上げて、反対側に。
 鉄で補強されているはずの床が激突のたびに軋み、へこみ、破壊されていく。
 当然、叩きつけられているクロイツァーが無事で済むはずがない。
 十回ほど叩き付けられてボロ雑巾のようになり、ピクピクと痙攣するばかりになったクロイツァーを見て、やっとミヒャエルは『お礼』を止めた。
 ぜえぜえと荒い息を吐きながら、残ったチンピラ達をジロッと見る。
 彼らもようやく高ランク魔導師に喧嘩を売るということがどういうことかわかったらしい。
 無様に命乞いを始める。
 それに鷹揚に頷き、ミヒャエルはメルセデスに近寄った。

「大丈夫かい、メルセデス。ひどい格好だな、これを着ると良い」

 自分のベストを脱いで渡す。部屋着に使っていた格安のバーゲン品だが今はそれで十分だろう。

「助けてもらったことは嬉しく思います。でも、あんなになるまですることはなかったんじゃないですか?」

 セーターを着ながらメルセデスが言った。

「それは――」

 フラッとミヒャエルがバランスを崩し、メルセデスが慌てて支えた。

「――ごめん、少し寝ていいかな? 安心したら急に眠気が」

 容赦がなくなるぐらいミヒャエルは限界だったのだ。気力だけで立ち上がったのだろう。
 多分、いやきっと自分を助けるために。
 メルセデスがちらりとクライドの方を見る。彼は残ったチンピラ達を縄で数珠繋ぎにして、一番頑丈そうな柱に繋いでいた。

「こっちは大丈夫。後は管理局が来るまでに引き上げるだけだよ。じゃあ、こいつらのことよろしく頼む。
 あ、そうそう。お幸せにな、お二人さん」

 そう言って明るい少年は夜の闇に歩きだし、すぐに見えなくなった。

「何だったんでしょう、彼?」

「私の叔父さんの知り合いらしい。詳しいことは知らないんだけど、今回手伝ってくれた」

 返事は予想していたよりはるかに近くで聞こえた。
 ミヒャエルは朦朧としていて気づいていなかったようだが、二人が傍から見れば抱き合っているように見えるだろうとメルセデスは今更気づいた。
 しかもメルセデスは下着と男物のベスト一枚と言う格好で、白く艶がある足も、細くしまった腕も丸見えだ。
 ある意味、裸より恥ずかしい格好をしているかもしれない。

――お幸せにな、お二人さん

 先ほどの少年が言った意味がわかった。顔が真っ赤になる。
 心臓が痛いほど鼓動を激しくするのがわかった。
 でも、ミヒャエルを放したりはしない。逆に強く抱きしめた。
 汗と血の匂いがする。だが、不快ではない。男の臭いだ。自分を守るために流してくれた血と汗の臭いだ。
 それをどうして嫌えるだろう。
 ミヒャエルは眠ってしまったらしく、スースーと穏やかな寝息が聞こえてくる。
 そっと、ミヒャエルを下ろして、地面に寝かせ、膝まくらをする。

 かすかに、サイレンの音が聞こえる。
 徐々に大きくなっていくそれで管理局がこちらに向かっているのだとわかった。




[34641] ミヒャエル・ベンべ④
Name: 烏賊様刻◆e7251814 ID:b1305343
Date: 2013/02/17 14:16
 ミヒャエルが目を覚まして初めて見たのは、簡素な白い天井だった。
 首をめぐらして辺りを見回す。自分はどうやらベッドの上で眠っていたようだ。
 狭く、ベッドだけで部屋の容積をほとんど使ってしまっている。
 他にある家具といえば、シンプルで実用重視のタンスぐらいのものだった。

「あ、ミヒャエル、目を覚ましたんですね。よかった!」

 ドアが開いて、メルセデスが入ってきた。
 それを見て、体を起こそうとしたがとんでもない激痛が全身を走る。

「グッ!!?」

 それを見て、メルセデスが慌てて近寄り、体を押してミヒャエルをベッドに寝かせる。

「まだ、起きないで! 今、先生を呼んできますから」

「先生?」

「とにかく、じっとしていてくださいね!」

 そう言ってメルセデスは慌ただしく出て行った。
 しばらくぼんやりする頭で考えて、やっと自分のいる場所がわかった。

「……ここは病院か」

 ミヒャエルがほっとしたように呟いた。





 すぐにメルセデスが医者を連れてやってきた。テキパキと診察を始める。

「目や口はしっかりしているようですね。どこか痛いとかはありませんか?」

「さっきから体を動かそうとすると激痛が」

「ああ、それは大丈夫です。恐らく筋肉痛でしょう」

「筋肉痛?」

 ミヒャエルだって若い時分には筋肉痛を経験したこともあるがこんなひどい物ではなかった。

「魔力で身体強化して、大暴れしたんでしょ? ベンべさんほどの魔力量だと反動もすごいんです。
 身体能力を強化しても骨や筋肉の耐久度は上がりませんから」

「ああ、なるほど」

 ミヒャエルが頷く。学校の体育の授業は体を鍛えるのが目的なので、魔力の使用は禁止されていた。
 だから、ミヒャエルは本気で身体能力を強化してあんなに長い間走るのは初めてだった。
 せいぜい、大学時代に工事現場で鉄骨を運んだ程度だし、それも三十年以上前のことで、特に運動が好きでもなかったミヒャエルは就職してからはろくに運動もしていなかった。
 筋肉痛になって当然だろう。

「武装局員や軍人さんは若いころから少しずつ体を慣らしていくんですけどね。
 オフィスワーカーだとそういうわけにもいきませんから。湿布を出して、後、マッサージもします。しばらくは我慢してください」

「あの、トイレとかはどうすれば?」

「ああ、看護士にやってもらってください。ちょっと恥ずかしいですけど、慣れればどうってことないですよ」

 つまり、いわゆる尿瓶にやるということらしい。
 まだ五十五なのに、とちょっと悲しくなる。

「他には何かありませんか? 些細なことでも言ってください」

「いえ、特には? そう言えば前歯が折れていたと思うんですけど」

「ああ、四本折れてますね。培養したのを新しく植え込むのがお勧めです。簡単な手術ですよ」

「……手術ですか」

「はい。ですが、前歯は見た目に大きな影響を与えますからきちんとやっておいた方がいいですよ」

 チラッとメルセデスを見ると医師に同意する様に頷く。
 それで、ミヒャエルは観念した。

「わかりました。よろしくお願いします」

「はい。まあ、私は内科なんで、処置するのは歯科の人間ですけどね。うちは総合病院なんで一通りそろってますから移動とかはないんで安心してください」

 その後、しばらく診察を続け、入院は継続して経過を見るが、多分問題はないだろうとお墨付きをもらった。
 安心したようにずっと立ち竦んでいたメルセデスが椅子に座る。
 それを尻目に医師はお邪魔虫にならないようにさっさと出て行った。

「……すごく心配しました。ミヒャエルは寝ちゃって目を覚まさないし。知ってます? 二日も意識が戻らなかったんですよ?」

「そんなに!? 私はすごく危険な状態だったんだな」

「ええ。前歯はねこそぎ吹っ飛んでましたし、鼻だって変な方向に曲がってるし、スラムの奥だから救急車も呼べないし、管理局の人達が来て運んでくれなかったらどうなっていたか」

「そうか。……君は大丈夫なのか? えっと、その」

 さすがに服を剥がれていたようだし、とは言えない。
 そんなに憔悴はしていなかったような気がするが何せ、ブツンと盛大な音をたてて堪忍袋の尾が切れてしまったので、詳細をよく覚えていないのだった。
 だが、そんな躊躇を見抜いたかのように、メルセデスがことさら明るい声で言った。

「私は大丈夫でした。この通り、体にはなんの問題もありません。ミヒャエルが助けに来てくれたから」

「そうか! よかった。安心したよ」

 ほっと息をつく。
 身体の節々が痛くて、動くこともままならない。小便や大便のことを考えると今から鬱になる。
 だが、メルセデスが無事であるならば、そんな些細なことになったことはすべて気にならなかった。
 むしろ、自分はメルセデスのために、こんなに頑張ったのだと、喜びすら感じる。
 幸せな面持ちで、メルセデスを見ると、金色の髪の少女は頬を紅潮させ、もじもじと指を胸の前で合わせていた。

「その、ミヒャエルは何で助けに来てくれたんですか? 下手をしたら、ううん、一歩間違えたら死んでいたかもしれないのに。私が友人だからだけですか?」

 恥ずかしそうに言うメルセデス。
 何かを言おうか言うまいか迷っている。そんな感じがした。
 いや、とミヒャエルは思い直した。病室とはいえ二人きりで彼女は真っ赤に頬を染めている。
 この状況で言う言葉など一つしかないだろう。

「私、ミヒャエルともっと親密になりたいです。こんなにドキドキするの初めてなんで。あ、私、何言ってるんだろう。その、つまりですね」

 もごもごと小さく愛らしい唇を動かして呟くメルセデスをミヒャエルは手で制した。
 こういうのは男の方から言うべきだと昔から相場が決まっている。
 ゆっくりと身を起こす。体に激痛が走る。特に腰の痛みがひどい。だが、無視して、ベッドから降り、メルセデスの傍に立った。そして正面から視線を合わせる。

「メルセデス、貴女を助けに行ったのは私が貴女を愛しているからです。私と同じ道を一緒に歩いて欲しい。どうか結婚を前提に付き合ってください」

 そう言って、手を伸ばす。メルセデスはおずおずと何かを恐れるように、躊躇いがちに、だがしっかりと両手で握った。
 メルセデスの手はほんのりと冷たくて、柔らかくて心地よかった。

「はい! 不束者ですけどよろしくお願いします!」

 それを聞いて、力を抜いたミヒャエルの腰がグギッと異音を立てた。

「あ、痛たたたたたたっ!!!」

 反射的にベッドに倒れこむ。手を繋いでいたメルセデスがキャッと悲鳴をあげて、ミヒャエルの上に倒れこんだ。

「そ、そんな、ミヒャエル、ここは病室ですよ!? こういうことは夜になってからじゃないと!」

 テンパって不埒なことを言うメルセデスに構う余裕もない。
 腰に手を当てて、うめき声をあげる。
 それで尋常な様子ではないと悟ったメルセデスが慌てて医者を呼びにいく。
 ミヒャエルはうつぶせに突っ伏して腰を抑えていた。

 ミヒャエル・ベンべ、五十五歳。病名、ぎっくり腰。





 結局医者に回復魔法をかけてもらい事なきを得たミヒャエルはベッドの上で大人しくすることにした。
 メルセデスに見舞いに持ってきたリンゴを剥いてもらい、恋人のように(実際、恋人なのだが)食べさせてもらって、ご満悦であった。
 コンコンとノックの音が響く。
 いちゃいちゃしていた二人がパッと離れ、ミヒャエルは布団をかぶり、メルセデスは付添い用の丸椅子に行儀よく座った。

「どうぞ」

 返事をするとドアを開けて現れたのはミヒャエルの会社の上司だった。
 後ろには見覚えのない黒髪の美人を連れている。
 何の変哲もないレディーススーツを着ているが、服の上からでもスタイルの良さがわかる。
 特にバストサイズは圧巻で、巨乳好きの男性ならたまらないだろう。

「いや、ベンべさん、大変でしたね」

「いえ、二日も会社を休んでしまったようで、申し訳ありません、所長」

「いえいえ、いいんですよ。事情が事情ですし。たまった有給を消化していると思ってください」

 上司が明るく言う。お互いに敬語なのは、元は所長はミヒャエルの部下だったためである。
 入社して当時、平研究員だったミヒャエルの下につけられたのだが、めきめきと頭角を現して、ミヒャエルをあっさり抜き去り、工学研究所の所長に納まったのだ。
 しかし、義理堅い男で、ミヒャエルには敬意を払っているらしい。そういう理由で、二人は上司と部下という関係でありながら、お互いに敬語を使うという微妙な関係になったのだった。

「ありがとうございます。……それでそちらの御嬢さんはどなたですか?」

「ああ。こちらは新しく入社したプレシア・デトロイト女史。ベンべさんの下で学んでもらおうと思っているんです。St.ヒルデ魔法学院大学工学部で魔導工学と生命工学の博士号を獲得して、首席で卒業した才媛ですよ。ミズ・デトロイト、こちらがミヒャエル・ベンべさん」

そう言うと黒髪の美人、プレシアはきっちりと頭を下げた。

「プレシア・デトロイトです。若輩者ですがよろしくお願いします」

「いや、こちらこそよろしく頼むよ、ミズ・デトロイト。こんな格好ですまないが起き上がれないんで勘弁してくれ」

「いえ、お構いなく、ミスター・ベンべ。事情は聞きました。貴方を尊敬します」

「ミズ・デトロイトもSSランクの大魔導師なんですよ。同じ大魔導師のベンべさんなら上手く指導できるんじゃないかと思いまして」

 上司が補足する。研究所の所長としてプロジェクトチームを回しているだけあって、こういう所は如才がない。

「ははっ。私の魔法の腕前は見ての通りですよ。微力は尽くしますが期待に応えられるかどうか」

「いや、ベンべさんの指導力の高さは私がよく知っていますから大丈夫ですよ」

 和気あいあいと話す。
 そこで再度、ノックの音が響いた。

「……どうぞ!」

 ドアの方を向く四人。その中で一番手持無沙汰だったメルセデスが皆に確認して、返事をした。
 音もなくノブが回り、扉が開く。滑るように部屋に入り込んできたのは金色の髪を蓬髪にした若い男だった。
 背は高く、一八○センチメートルに少し届かないぐらいか。管理局の制服を着ているが、良く鍛えられているのが服の上からでもわかった。

「失礼します。管理局地上本部執務官で凶悪犯罪を担当しているアルフレッド・テスタロッサと申します。
 ミヒャエル・ベンべさんが目を覚まされたと聞いて伺ったのですが、お邪魔でしたでしょうか?」

「ああ、管理局の方でしたか。いえ、こちらの用件はもう済みましたので、どうぞ。ミズ・デトロイト、帰ろうか。……ミズ・デトロイト?」

 返事が無いのを不審げに上司が見る。するとそこには口を半開きにしてボォッと熱っぽい視線でアルフレッドを見つめるプレシアがいた。
 上司が何回か名前を呼び、目の前で手を何回か振るとようやくプレシアは正気に戻り、顔を真っ赤に染めた。

「あ、はい、申し訳ありません。ぼうっとしていました。帰りましょう、所長」

 上司の後ろを歩いて帰っていく。歩きながらもチラチラとアルフレッドを見ている。本人はばれていないつもりのようだが、思いっきり挙動不審であった。
 その様子を見てミヒャエルはニヤニヤ笑ってしまった。自分が一度経験した道だからである。

「それではご迷惑でなければ先日の事件の話を聞きたいのですが? どうしました?」

「ああ、いや、申し訳ない。さすが、管理局執務官。おもてになるなあと思いまして」

「はあ?」

 真顔で首をひねるアルフレッドに、これはミズ・デトロイトも苦労するな、とミヒャエルは内心で苦笑するのだった。





 アルフレッドは流石、執務官と言うべきか有能なようで、一通り、ミヒャエルとメルセデスから話を聞くと、要領よくそれを纏め、理解したようだった。

「ありがとうございました」

「いえ、こちらこそ、勝手に暴れて申し訳ありませんでした」

「いえ、戦闘訓練を受けたわけでもないのにその勇気、正直尊敬に値します」

「いや、無我夢中だっただけですので。結果は病院で寝ていますし。……そう言えば、私は二人ほど倒したんですが、あの二人はどうなりました?」

 あの時は本当に怒っていたので後先、考えずに思い切りやったが冷静になると二人のことは心配だった。
 何せ、自分が本気で人を殴ればどうなるかは、子供のころから嫌と言うほど聞かされている。

「現在、管理局の病院で入院しながら取り調べを受けています。特に首謀者のクロイツァーはブラストとも関係があったようで厳重に尋問する予定です」

「そうですか。死んでいませんでしたか。良かった」

 ほっと息を吐く。
 最初に殴った男はともかく、クロイツァーという男には余裕が無かったので本当に殺す気でやってしまった。
 メルセデスを守るためだったので間違っていたとは思っていないが、人殺しになりたいかと言われると否と答えざるを得ない。

「まあ、二人とも運が良かったということですね。障害は残ると思いますが、それは犯罪に手を染める以上、彼らも覚悟していたでしょう」

 アルフレッドが言うと、今度はメルセデスが心配そうな顔をした。

「ブラストの関係者だということはその、報復なんかは大丈夫でしょうか?」

 犯罪組織にもメンツがある。シノギを削られて、はい、そうですか、というわけにはいかないだろう。
 それを心配してのことだったが、アルフレッドは笑って否定した。

「いや、向こうもチンピラ一人のために総合SSランクの大魔導師に喧嘩は売らないと思います。
 一応、万が一のためにしばらくの間は陸戦隊員を何人かご自宅の方に定期的に巡回させる予定です」

 そう言われて、やっとメルセデスはほっと一息ついたようだった。

「そうですか、よかった」

 ゆっくりと丸椅子に座って息を吐く。

「それではお話は以上です。そちらから何かありますか?」

 そう言われてミヒャエルの脳裏にこれから部下になる黒髪の娘のことが思い出された。

「あ、何か思い出すかもしれないので連絡先を教えていただけますか?」

「わかりました」

 彼女に恩が売れるし、何より一目ぼれの後輩である。ミヒャエルとしても頑張ってほしいという思いがあった。
 連絡先を交換し合い、アルフレッドはきびきびと一礼して病室を去って行った。





 それから色々なことがあった。
 ミヒャエルはメルセデスの両親に挨拶に行き、何度もお願いして根負けした両親から結婚の許可を勝ち取った。(ちなみに義父も義母もミヒャエルより年下だった)
 仲人をエルウッドが務め、ベルカ教会でささやかな結婚式を行った。
 二年後、メルセデスが大学を卒業してミヒャエルと同じ研究所に入り、所長を除く男性研究員全員からの嫉妬混じりの視線をミヒャエルは嬉しそうに受け取った。
 その翌年、アルフレッド・テスタロッサとプレシア・デトロイトが結婚。プレシアのおなかにはもう二人の愛の結晶がいて、いわゆるできちゃった婚であった。
 ミヒャエルとメルセデスも式に参列した。仲人を務めたアルフレッドの上司だという熊のように大柄な男の胴間声が印象に残った。
 大勢の祝い客の中にはクライドもいたが、幸か不幸かミヒャエル達と会うことはなかった。
 その四年後、後に言うヒュードラ事件が発生。ミヒャエルとメルセデスは別プロジェクトに参加していたため被害はなかったがプロジェクトの総指揮を取っていたプレシアの娘、アリシア・テスタロッサが死亡する。
 放心するプレシアをミヒャエルとメルセデスは必死に元気づけたが彼女は立ち直るそぶりを見せず、会社から莫大な慰謝料を取って何も言うことなく姿を消した。
 心配だったが二人にも仕事があり、積極的に探すことはできなかった。
 そして、三年後。

「ミヒャエルさん、定年おめでとうございます」

 研究所の所長室に最後の挨拶に行くと、上司はいつも通り敬語で祝いの言葉を述べた。

「ありがとうございます、所長。あまり役には立てませんでしたが」

 最後まで平の研究員で大した研究成果も残せなかったが故の発言だったが上司は首を横に振った。

「いやいや、確かに私もベンべさんも二流の研究者だったかもしれませんが、一流も超一流も私達のような二流研究者の観測したデータや理論を用いて理論を構築するんです。
 言わば、縁の下の力持ちという奴ですよ。それにベンべさんは後進の指導にも尽力されました。ベンべさんがいなければ研究所は回りませんでしたよ」

「それは持ち上げすぎですよ。ですが、ありがたく受け取っておきます」

 そう言って、ミヒャエルは手を差し出した。
 上司がしっかりと手を握り、それをミヒャエルは握り返した。

「妻のことをよろしくお願いします」

「ミズ・ベンべは優秀なんで僕が教えることは何もないと思いますが、わかりました。それでは、第二の人生を楽しんでください、先輩」

「ああ、わかった。君のますますの活躍を期待しているよ」

 そうして、ミヒャエルは六十五歳で四十年以上の研究者としての人生に終止符をうった。
 家に帰り、仕事が忙しくて手が離せないメルセデスからのメールを読む。
 今日は早めに切り上げて帰るから二人きりでお祝いをしようということだった。
 結婚して十年経っていたが、夫婦仲は睦まじかった。
 デレデレしながら長文メールを返すとやることが無くなってしまった。
 本当に研究一筋だったんだなあと思う。まあ、その割には大した功績を残せなかったが、定年まで勤め上げたことは密かに誇りに思っていた。
 メルセデスが帰ってくるまで、溜まっている本でも読むかと書斎に向かう。
 確か、ミッドチルダ文学大賞をとった古代ベルカを舞台にした悲恋を書いた小説が買い置きしてあるはずだった。
 斬新な設定が受けて受賞したものであり、昔に比べて、文壇も丸くなったなあと読者の一人として感心していた。
 帯のあおり文を思い出す。

「しかし、かのベルカ最高の騎士シグナムは実は女性だったか。斬新だねえ」

 そんな独り言をつぶやきながら階段を上る。
 作者は大学でベルカ史の教授をしていた筋金入りの歴史研究家だ。
 案外、当たっているのかもしれないとぼんやりと考えた。
 書斎に入り、本棚を見ると本立てにしていた大きな黒い本が淡い光を発しているのが見えた。

「何だ、これ?」

 普通なら警戒していただろうが、定年を迎えて長年の重荷を外したせいか、ミヒャエルの心に躊躇いはない。
 無警戒に近づいて、本を取る。相も変わらずずっしりとした重さが手に伝わってくる。
 そして、その瞬間、書は一際強く輝き、宙に浮きあがったかと思うと、何をしても開かなかったページが風もないのにものすごい速さでめくれ始めた。
 当然、常人であるミヒャエルには数えられなかったが、ちょうど、六百六十六ページの書がめくれ終わり、バタンと中空で本が閉じられると、書から深淵の闇が噴出した。
 さすがに慌てて、まごまごするミヒャエルを無視して闇は広がり続け、それが治まると、書斎には黒い簡素な服を着た男女が四人跪いていた。

「主命によりヴォルケンリッターより四名、馳せ参じました。私はシグナムと申します。非才ながら将を務めております」

 ワインレッドの髪の美女がまず最初に挨拶をした。

「シャマルです。軍師、参謀を務めます」

 淡い金髪の美女がそれに続く。

「あたしはヴィータ。先鋒を任されています」

 燃えるような赤毛の、生意気そうな美少女が告げ、

「ザフィーラです。主に近衛を務めます」

 銀髪に青い獣の耳、浅黒い肌の精悍な男性が最後に名乗った。

「わかった。いや、全然わからんが、とりあえず居間で話を聞こう」

 あまりのことに放心したミヒャエルはあんまり働かない頭で何とかそう言葉をひねり出した。
 これが破滅への序曲であることは神ならぬミヒャエルでは当然わからなかった。




[34641] クライド・H・ハラオウン⑧
Name: 烏賊様刻◆e7251814 ID:c9e6522c
Date: 2013/03/03 15:02
 目を覚ますとそこは暗い洞窟の中だった。
 手探りでランタンをつける。明るく照らし出された鍾乳石を見て、ミヒャエルは眼をしばたかせた。
 老いた闇の書の主の眼は真っ赤に充血している。
 シャマルの診断では結膜炎の一種だということだったが、ミヒャエルは違うのではないかと思っていた。
 最愛の妻が死んだときに比喩でも何でもなく、血涙を流したからだ。
 あの日、非業の死を遂げたメルセデスを見て浮かんだ煮えたぎるほどの怒りが、彼の眼を紅く染めたのだ。
 傍から見て異常なのは明らかなのでフードで隠すようにはしていたが、ミヒャエルは嫌いではなかった。
 手鏡でそれを見るたびにあの日のことを思い出す。それはメルセデスへの思いを忘れないということだ。そう考えれば、この眼も悪くない。

「シャマル、いるか?」

「御前に」

 相変わらずの無表情で"湖の魔女"と呼ばれた軍師が現れる。

「ハラオウンの息子に会いたい」

「主上、その必要はありません」

 控えめにだが、きっちりシャマルが拒否する。

「会えば情が湧くからか?」

「はい。主上のお心は完全ではありません。目的の達成を考えれば情が湧くことは致命的です」

 シャマルは非情だった。当然だろう。クロノの境遇は両親が次元犯罪者に殺されて一人ハッシュモンドに取り残されるか、両親の前で無惨に殺されるか、慈悲深い安らかな死を与えられるかの三択である。
 勿論、その中からシャマルがもっとも合理的な選択肢を拾い上げ、主が決断するのだが、どの選択肢でもミヒャエルがクロノに同情することはマイナス要素が大きすぎると言えた。

「……今な、メルセデスの夢を見た」

「……」

「お前達に出会う前の夢だったが、あれは優しい女だった。私が無垢な子供を使うと言ったらきっと怒っただろう」

「それは、管理局を滅ぼしてもお怒りになるでしょう。メルセデス様はそういうお方でした」

「そうだ。だから、確かめなければならない。私に管理局を滅ぼす資格があるのかどうか」

「資格ならお有りでしょう。いえ、主上、貴方が管理局を滅ぼせないならこの世の誰に滅ぼす資格がありましょうか」

 シャマルはミヒャエルがただ闇の書の主であるから力を貸しているのではない。彼の目的が正当であると思ったから知恵を尽くしている。
 そうでなければとっくの昔に記憶を奪って、生涯世話をする程度に留めていただろう。そもそも闇の書の真の覚醒前にヴォルケンリッターの四人が目覚めるのは蒐集に必要な戦力であるためよりも力を得るのにふさわしい人間か騎士達が見極めるための方が大きい。
 少なくともシャマルはそう思っている。彼女達は言われたことを忠実にこなす人形ではない。知恵と力で主を導き、補佐する英雄の現身なのである。

「私もそう思っていた。メルセデスが殺された時に私は誓った。管理局の全てに同じ目にあわせてやるとな」

「それは正当です。目には目を、歯には歯を。原始的な復讐法ですが、相手が超法規的組織である以上、こちらも超法規的手段に訴えなければいけません」

 つまりは暴力だ。中立世界で管理局のやり方を告発することも考えたが、確実性はなかった。
 元々、ロストロギアを不法所持して身を隠したのはこちらなのだ。
 それにたとえ、管理局の内部が是正され、相応の慰謝料が支払われたとしても、メルセデスは帰ってこない。
 人が死ぬとはそういうことだ。結局、殺した罪を償うには殺されるしかないのである。
 戦乱の時代を生きた騎士達はその意味を当人であるミヒャエル以上に知っていた。

「わかっている。だが、今になって迷いがでてきた。すまない、シャマル。やはり私には人の上に立つ資格がないのだろう」

 ミヒャエルは無能だ。無駄に魔力が高いことと、工学の研究が少しできるだけが取柄で、それすらも一流とは呼ばれない、その程度の男だ。
 だが、自分が無能であることは理解していて、戦略の一切をシャマル、戦術の一切をシグナムに任せていた。
 無能であっても己の分を知っていれば、それなりの仕事はできる。だが、ミヒャエルはそれすら破ろうとしている。

「いえ、そうさせてしまうのは軍師である私の無力さゆえです。幸い、我が同胞達は戦略で負けても戦術で巻き返すと豪語しております。
 この失態は必ずや、挽回してくれるでしょう。そのために私も戦場で微力を尽くす所存です」

 だが、その主を諌められないのは軍師の失態でもある。主の無能を知るならば、捕虜を皆殺しにした際、主君にも見せて腹を決めさせるべきだったのだ。
 あるいはシグナムの高潔さを知るなら、彼女を黙らせるだけの何かを用意しているべきだった。
 別にすべての物事を軍師がコントロールできると自惚れているわけではない。できることがあったのにしなかった。判断を間違えた。その未熟さをシャマルは悔いているのだ。

「……そうか。では"湖の騎士"シャマルよ。ハラオウンの息子を私は直に見たい。案内してくれ」

「承知致しました。主上」

 もはやシャマルに否やはない。主を連れて、洞窟の中を歩く。そして結界で覆われた狭い部屋の前にやって来た。

「結界を解きます。無いと思いますが、奇襲の警戒をお願いします」

 うむ、と頷いて主はシャマルの後ろに下がり、バリアジャケットを展開し、足を肩幅に開き、軽く膝を曲げて腰を落とし、重心を下げた。最期に踵を上げてつま先立ちになる。
 最低限の警戒時の姿勢はと、召喚初期の頃にザフィーラが教えた型だ。どの方向にも逃げやすく、咄嗟の事態には全身で何かを受け止めやすい。
 非戦闘型の高ランク魔導師としては悪くない体勢だ。元々、バリアジャケットがあればミヒャエルの魔力量ならば生半可な攻撃は通用しない。
 だから最低限、覚悟さえしていれば良いのだ。
 薄緑色の結界が消え、部屋の全貌が明らかになる。
 そこには一人の少年がいた。部屋の土に着いた足跡からここから出ようと頑張ったが結界を破れなかったという所か、とシャマルは分析した。
 結論。たとえ重火器を持っていたとしても主上に危害を加えられる人物ではない。

「あ、開いた?」

「ええ、開けたわ。このお方があなたに会いたいと願っている。失礼のないように」

「よい、シャマル。礼儀をわきまえた子供など、芸を覚えさせられた猫のようなものだ。窮屈で逆にうっとうしい」

 穏やかにそう言って、闇の書の主は英雄の息子の前に立った。

「ミヒャエル・ベンべという。君を誘拐した者の上司だ。今、君がここにいることはすべて、私の責任だ」

 子供ながらに真剣な話をしようとしていることに気づいたらしい。体をミヒャエルの方に向け、ミヒャエルをまじまじと見つめた。
 もっとも身長差があったので、首を思い切り曲げて上目づかいにだったが。

「ミヒャエルさん、泣いていたの?」

「いや、泣いてはいないが」

「嘘。目が真っ赤だもの。僕、知ってるよ。悲しくて涙をいっぱい流すと目が真っ赤に腫れるんだ」

 沈黙。この少年の意図が読めなかった。もちろん、子供の戯言と聞き流すことは簡単だが、主は最近曲がってきた腰を下ろし、クロノと同じ目線になった。
 それに勇気づけられたのか、クロノが続ける。

「だから、ね。今度は涙を流すぐらい笑えば良いよ。そうすれば楽しくなれる。僕が泣いちゃった時、いつもミトとエイミィ姉ちゃんがそう言って慰めてくれるんだ」

 そう真剣な顔で言った。
 驚愕で口も聞けなかった。この少年は、クロノ・ハラオウンという幼児はあろうことか、自分を心配しているのだ。

「私が怖くないのか?」

「うーん、最初は怖いと思ったよ。だけど、ミヒャエルさんは何だか優しそうだから」

 何かの冗談だと思った。ミヒャエルは眼は真紅に充血し、肌の色は土気色で長く手入れしていない髪が乱雑に散った恐ろしい姿をしている。
 自分でも手鏡を見て、今の自分を子供が見たら逃げ出すだろうという確信があった。いつもフードをかぶっているのは体が弱くなったというのもあるが、そういう風貌を隠すという実用的な理由が大きい。
 そんなミヒャエルをクロノは優しいと言う。

「そうか。お父さんやお母さんに会いたいかい?」

「うん、会いたい」

 そこは譲れない線らしくクロノはきっぱりと言った。

「お父さんもお母さんも僕に会えなかったらきっとさみしくて泣いちゃうだろうから」

 その言葉はミヒャエルをひどく動揺させた。

「そうか。それはいけないことだな」

 震える声で何とかそれだけ紡ぎだす。

「シャマル。すまないが……」

「はい、丁重にお返しします。この子には傷一つつけません」

「よろしい。ではそのようにしてくれ。私は吉報を待つことにする」

 ふらふらとミヒャエルは出て行った。シャマルには杖をついて歩く主の姿がいつもより小さく儚く見えた。
 ため息をつきそうになる。だが、賽は投げられたのだ。これから、敵に返す少年に弱みを見せるわけにはいかない。

「ついてきなさい。お父さんとお母さんに会いたいんでしょう?」

 そう言って振り返りもせずに歩き出す。慌ててクロノがついてくるのを確認して、子供の歩幅に合わせるように心持ちゆっくりシャマルは歩き出した。





「シャマル、返すってマジでか!? 何があったんだ?」

 驚愕の声をあげたヴィータをシャマルは相変わらずの鉄面皮で見つめた。

「……別に。主上が昨夜の討論を聞いて、そう決断された。それだけよ」


「マジかよ。祖父ちゃん、あんなにシグナムに怒ってたのに」

「どちらにせよ、良いことだ。シャマルには悪いがな」

「構わない。貴女の言葉にも一理あったわ。主上がそう決めたのだから私には文句はない」

 謝罪するシグナムにシャマルは無感情に返す。
 勿論、主上に黙ってクロノを殺して送りつけるという方法も存在したが、殺すなら目の前でやらないと効果は薄い。
 その上、主上の信頼を著しく損なう行為だ。ここでエースと戦うのはあくまで通過点に過ぎない。そんな危険を冒すわけにはいかなかった。

「それで誰が返しに行くかだけど、シグナム、貴女が行ってちょうだい」

「妥当な所だな」

 クロノを誘拐し、先手を取ってしまった以上、管理局は攻勢を開始していると思っていいだろう。
 ザフィーラの見つけた自然洞窟は手ごろな広さで足跡や痕跡を入り口付近に残さないなど工夫していたが、人海戦術で来られるとあっけなく見つかるだろう。
 故に、こちらの最高戦力を送る必要があった。シグナムなら最悪、ストライカークラスの魔導師に包囲されても自力で切り抜けて帰還できる可能性がある。それゆえの選択だった。

「私か主上が召喚魔法を使えたら、もう少し安全になるんだけど」

「いや、十分だ。私が提案した意見が採用されたのだ。私が行くのが筋だろう。ヴィータ、ザフィーラ、留守を頼む」

「任せておけ」

「任しとけ、祖父ちゃんには手を出させねえよ。と言ってもまあ、しばらくは大丈夫そうだけどな」

 シグナムはクロノを背負うと洞窟の入り口まで歩いていき、空気を切り裂く音と共に飛翔した。
 それをシャマルは黙って見送った。
 やがて、相変わらずの氷のような無表情でくるりと振り返った。

「大丈夫そうなの? ヴィータ」

「ああ、さっき外の様子を見に行った時の勘だけどな」

 何ということのないことのないように聞こえるがヴィータの勘は驚くほど当たる。短い生涯のほとんどを戦場で過ごしたこの少女騎士はそれ故に戦いの気配に敏感だ。

「なら、今のうちに休んでおきましょう。私が見張りを――」

「いや、見張りは俺がやる。シャマル、お前は仮眠を取れ。ほとんど寝てないだろう? その内倒れるぞ」

「何を言うの、ザフィーラ。体調管理ぐらい自分でできるわ。それよりも戦略で後れを取っている以上、私が休んでいるわけには――」

「それを無理していると言うんだ。俺達は小勢だ。一人倒れれば、雪崩のように崩壊する。もっと俺達を頼れ。
 言っただろう。『戦略で失敗しても、戦術で押し返せば良い』とな。お前は一人で頑張りすぎる」

 言い募るシャマルにザフィーラは穏やかに諭した。
 騎士達の中で一番の人生経験を持つザフィーラはチームの調整役だ。
 無理をしている者がいればさりげなくサポートし、無茶をしている者がいれば、苦言を呈す。
 それは戦闘においてより顕著になる。防御に重点を置いて相手の力を引きずり出し、後続を援護する。それが戦士としてのザフィーラの得意技だ。
 純粋な戦闘力ではシグナム、智謀ではシャマル、才覚ではヴィータに劣るものの、彼が居なくてはチームの戦力は激減する。
 シグナムやヴィータのような個の力で燦然と輝く英雄ではない。タイプは違う物のシャマルと同じで集団の中でこそ実力を発揮するタイプの英雄なのだ。

「そうかもしれない。でも、私はもう誰にも死んで欲しくないの。メルセデス様のことだってそう。軍師が恨まれるとチームに皹が入るからシグナムが憎まれ役を買ってでてくれただけなのよ。
 私がもっとしっかりしていたらミヒャエル様もメルセデス様もどこかでのんびりと暮らしていたかもしれない」

 シャマルがわずかに顔を歪めて言った。
 血を吐くような叫びだった。

「シャマル、それは軍師の欲張りだよ」

 ヴィータが言った。

「お前は超一流の軍師だけど、あたし達は小勢だ。大軍団を指揮していた頃のようにはいかない。
 多方面から攻められればあたし達自身はともかく、祖父ちゃんや母ちゃんを守りきれないことはある。
 あってはならないことだけど、それが現実なんだ」

 それは高ランクの魔導師や騎士達が抱えるジレンマだった。
 彼らは総じて一騎当千。単騎で戦場の空気を払拭し、勝利を呼び込む怪物だが、そこまでしかできない。
 戦術で戦略を限定的に覆すことができることは脅威だが、良く練られた侵攻作戦があれば、封殺することは可能だ。
 誰だって体は一つだし、不眠不休で永遠に戦い続けることなどできない。それはあの聖王だってそうなのだ。
 闇の書はそんな高ランク騎士の限界を超えるためのツールの一つと言えるかもしれないが、それも完全ではない。

「ヴィータの言う通りだ。完璧な策を立てられる軍師など存在しない。その穴を埋めるために俺達がいる。
 もう一度言う。俺達を頼れ、"湖の騎士"。もうお前は孤独な魔女ではないのだろう?」

 短い沈黙。

「わかったわ、"青面獣"、そして、"砦落とし"。私は三時間仮眠を取る。その間の警戒をお願い」

「任された」

「了解した」

 ヴィータとザフィーラがそれぞれ応える。

「……ありがとう」

 そう言ってシャマルは洞窟の奥に姿を消した。





 明け方のほとんど山間に隠れた太陽が、空を照らし出す。
 ハッシュモンドの山々には色とりどりの花が咲いて美しいが、光を受けて夜闇から徐々に青くなっていく空もまた美しかった。

「クロノ、眠いか? もしそうなら眠ってしまっても構わない。無理はするな」

 飛翔するシグナムの背でこくりと首を揺らしたクロノはその言葉を聞いて、ふっと身を起こした。

「ううん、大丈夫だよ。シグナムがお父さんのところに連れて行ってくれるんだよね」

「ああ、そうなる」

「ありがとう。僕、あの部屋から出られなかったけど、声は聞こえていたよ。シグナムが、僕のことを助けてくれたんだよね」

「私は主に諫言しただけだ。それを受け入れてくださった主の慧眼にこそ恩を覚えて欲しい」

「うん、ミヒャエルさんは良い人だった。……そういえば、シグナム、頭、怪我しているみたいだけど」

 シグナムは額に包帯を巻いていた。治療魔法を使えばすぐに治る程度の傷だったが、自らへの戒めのためにしばらく残しておこうと思ったのだ。

「別に何ということはない。この程度の傷、試合では良くあることだった」

「試合?」

「ああ、私が生きた時代は比較的平穏で、次の戦争のために軍備を整える期間だった。故に武芸が奨励され、私も多くの御前試合にでたものだった」

「ごぜんじあい?」

「やんごとなき方の前で磨いた武技を競うことだ。集団戦もあるが、主に一対一で行われるな」

「そう。……シグナムは負けたこと、ある?」

 躊躇いがちにクロノが聞いてきたのはそんなことだった。

「模擬戦では数えきれないほど。だが、真剣勝負で負けたことはない」

「そっか。負けるってどんな気持ちなんだろう」

「む?」

「父さんが言ってた。負けてわかることは骨が折れたら痛いとか、腕が動かないとご飯が食べ辛いとか、あいつがいないと寂しいとか、そんなわかりきったことでしかないって」

「良く物がわかった御仁だな」

 シグナムが感心して言った。敗北を知ることでしかわからないことがあるなどというのは実戦を知らない者の戯言だ。
 命を懸けていれば、負ければ次はないし、取り返しのつかないことになることがほとんどだ。
 真剣勝負で負けてわかることなど諦観と後悔以外は勝ってわかることの半分もないのである。
 勿論、それは敗北を糧にしないという意味ではない。模擬戦で負けて覚えることには意味があるからだ。
 脳裏でクライド・H・ハラオウンという会ったこともない男の評価を一段階引き上げる。

「そうなんだ。だから負けちゃダメだって言ってたけど、僕はケンカもしたことがないから、なんでそんなことをするのかわからないんだ」

「……」

「一方が勝つってことは一方が負けるってことだよね。自分がやられて嫌なことは他人にはやるなって僕はミトに言われたよ。
 でも、父さんも母さんもセドリックもシグナムも皆、戦ってるんだよね。それが僕には……」

「よくわからない、か?」

「うん」

 遠慮がちに頷くクロノにシグナムは微笑んだ。利発な子だ。幼いながらもこの子は自分なりに考え、答えを探している。それが好ましい。

「そうだな。……人が戦うのはな、泣かないためだ」

「泣かないため?」

「そうだ。名誉、家族、仲間、恋人、宗教、財産、夢、国家、忠誠。そういうものを害されたとき、人は悲しくて泣く。
 だから、それを守るために必死で強くなり、戦うんだ。 
 全ての人がお前のようならば戦争は起こらないが生憎、そうではないのでな」

 幼いクロノにわかりやすいように平易で簡潔な言葉を心がける。

「わからない、か?」

 いつの間にか山を越え、街が見えてきていた。太陽はまだ昇っておらず薄暗いが、後一時間もすれば明るくなるだろう。

「……うん」

「お前の大切な人が怪我をしたり死んだりすることを考えろ。理由はどんなことでも良い。……許せるか?」

「ううん、許せない。父さんや母さん、エイミィ姉ちゃんやミトが傷つくことに僕は耐えられない」

「ならば、抗うしかない。そして、それが戦うということなんだ。別に殴りあうだけが戦いではない。
 病気を治すために医者は戦うだろうし、愛する国民を守るために政治家は戦うだろう。家族を養う人は働くことによって戦う。それが戦いの本質なのだと私は思う」

「僕も戦わなくちゃいけないってこと?」

「そうだ。生きている限りは戦わなければならない」

 シグナムの言葉は明瞭でこの上なくわかりやすかった。
 そしてそれ故にクロノの心に深く響いた。

「でも、僕は弱いんだ。ノロマだし鈍いからエイミィ姉ちゃんにいつも迷惑ばかりかけてる」

「ならば、鍛えれば良い」

 シグナムの答えは簡潔だった。

「運動が苦手なら、より運動をしろ。勉強が苦手なら、より勉強をしろ。
 ただ、悩むだけでは状況は何も良くならない。勿論、悩むことは必要だが、それよりも行動することの方がよほど必要だ」

 うん、とクロノは頷いた。そこに込められた真剣さを感じて、シグナムは嬉しく思う。
 これでクロノは努力を始めるだろう。その過程で努力を続けることの困難さと成長することの素晴らしさを知ってくれるはずだ。
 それはクロノという人間をより優れた者にする第一歩となる。
 たとえ、これから殺し合いをする相手の子供だとしても、シグナムはクロノに成長して欲しかった。

「ただ、魔導師や騎士はやめておいた方がいいな。他の仕事を探せ。お前の魔力量では大成するのは難しいだろう」

 情を感じた人間が将来の敵になる可能性を減らそうとしているようで、自分を少し卑怯だと感じた。
 ただ言ってることに嘘はない。主が眠った後、シャマルから聞いた話ではクロノには卓越した身体能力も特異なレアスキルもない。
 別に珍しいことではない。リンカーコアはある程度、遺伝すると言われているが、クロノの場合はそもそも父親が低ランクの魔導師だ。
 そちらの方が優先されれば、エース二人の息子とはいえ、魔力が乏しいことは十分考えられることだ。
 総合的に見て、戦闘者としてやっていくにはいささか足りていなかった。将来良く鍛えても、高ランクの騎士と戦うのは無謀だろう。

「そう? シグナムがそう言うならそうしようかな」

 別段、考えることもなくクロノは素直に同意した。
 そんなクロノをシグナムは愛おしいと感じた。いや、感じてしまった。

「ん? どうしたの、シグナム?」

「何でもない」

 生じた余分な感情を振り払うように頭を振る。
 これから、この子の親を斬ろうという騎士が考えて良いことではない。

「それより、少し速度を上げるぞ。しっかり掴まれ」

「う、うん!」

 そう言ってシグナムはクロノを抱え直し、速度を上げた。
 クロノがぎゅっとしがみつき、体温を感じる。
 もし、自分が死ぬことなく子供を作っていたらこんな感じだったのだろうか。
 そう思う自分を恥じるようにシグナムは険しい顔を作った。




[34641] クライド・H・ハラオウン⑨
Name: 烏賊様刻◆e7251814 ID:c9e6522c
Date: 2013/03/03 15:20
 アースラは蜂の巣をつついたような騒ぎになった。
 ブリッジに詰めていた当直が何者かによって皆殺しにされたのだ。
 運行プログラムにウィルスを注入されたようで、現在、クルーが全力で復旧作業を続けている。
 そんな状況の中でクロノがいなくなったことにすぐに気づけたことは本当に僥倖だった。
 話をいち早く聞いたクライド、リンディはミトと顔を突き合わせて話をしていた。

「申し訳ありません。私が目を離さなければ、こんなことには」

「いいえ。私もまさか次元航行艦の中で行方不明になるとは思わなかったわ
 しかも、不在をついて堂々とブリッジを荒らしていくおまけつきだなんて」

 深々と頭を下げて、ただただ謝罪するミトをリンディがとりなす。
 クライドは無言で立ちつくしていたが、時折、思い出したかのように貧乏ゆすりをしていた。

「失礼します。監視カメラに不審な映像が写っておりました」

 ノックと共に入ってきたセドリックが告げる。
 デバイスを起動させ、ホログラムを投影する。
 そこには氷のような無表情の金髪の女性が血塗れの両手でクロノを抱きしめ、転移魔法で消える姿が克明に記録されていた。

「鮮やかとしか言いようがないわね」

 リンディが感想を述べる。エースが全員捜索に出て手薄になった所での奇策。
 完全にこちらの手を読まれていた。そうでなければ、こうも上手くはさらわれないだろう。

「クロノ様はどうなるんでしょう?」

「厳しいわね。多分、こちらの行動を制限しに来るでしょうけど」

 リンディが一旦言葉を切った。ちらりとクライドを見る。

「管理局の、それもエースが、人質を取られたから唯々諾々と従うわけにはいかない。
 そんな先例を作ってしまえばこれから先の管理局に禍根を残すわ。
 要求が来てしまえば突っぱねざるをえないわね」

 クライドは仏頂面で黙って聞いていた。その手は何かを耐えるように固く握られていた。

「そんな! クロノ様を見捨てられるというんですか!?」

「ミト、抑えろ! 一番辛いのはリンディ艦長なんだぞ!」

 声をあげたミトをセドリックが諌める。
 夫の言葉にミトは何とか黙った。

「見捨てるなんて言ってないわ。要求が来たらはねのけないといけないと言っただけ。
 連れてきた全局員を投入して、ハッシュモンドを探索するわよ。
 要求が来る前に相手のねぐらを探し出して、奇襲をかけてクロノを救出する。
 非戦闘員がどうとか言ってる場合じゃないわ。現地の警察やガイドも全員投入して、それらしい場所を探しなさい。
 時間との勝負よ」

 セドリックが慌てて指示を伝えるべく部屋から飛び出していく。
 はっきり言って分の悪い賭けだ。
 大規模に探索部隊を繰り出せばそれだけ被害者が増える可能性も高くなる。
 だが、現状、それ以外にクロノを救出する方法がなかった。
 それがわかっているのだろう。リンディの表情は硬い。

「リンディ、俺も――」

「駄目よ、クライド。貴方や私が出張ったらそこを各個撃破される可能性がある。
 ロッテさんが落とされた今、私達には余裕がないわ。
 ここは耐えて」

「……わかった」

 歯を食いしばってクライドが頷く。
 さっきからクライドもリンディも奥歯が砕けそうなほど、歯を食いしばっている。
 そうしなければとても耐えられそうになかった。
 高い地位を得てしまい、思うように動けない自分が歯がゆい。
 ブラストを壊滅させる前のクライドとリンディなら一も二もなく飛び出していただろう。

「とにかく待ちましょう。ミトも部屋に戻ってエイミィを安心させてあげなさい」

「……はい、わかりました。どうかクロノ様を助けてください」

 少し迷うように視線をさまよわせたミトだったが、結局一礼して部屋から出て行った。
 それを聞いてリンディは苦笑した。どっちがクロノの母親かわからない。

「とにかく、ゼストさんとグレアム執務官長とアリアさんを呼んで、対策会議を始めましょう。
 今夜は寝る暇はないわ。クライドも落ち込んでないで行くわよ」

「バッカ! 俺がガキ一人さらわれたぐらいで落ち込むかよ。どうやってあいつらをぶっ飛ばすか考えてただけだ!」

「はいはい。わかってるわよ」

 そう言いながら、リンディは内心ほっと息を吐いた。どうやら強がりを言える程度には回復したらしい。
 クライドはこの作戦の切り札だ。相手が五人であろうとも一対一で五回戦うことができれば倒せる。
 それがクライドの最大の強みである。タイマンが強いということはそれほどのことなのだ。
 その後、会議室で対策会議を行ったがリンディの案以上のことは出ず、警戒を密にすることとしっかり休みを取って決戦に備えることが決まった。
 




 明け方、昇りつつある太陽の光が山間から覗いている。
 それは美しく幻想的な光景だったが、今のクライドの眼にはほとんど入らなかった。
 ただ何かに耐えるように手を握りしめ、焦る気を抑えるように足を踏み鳴らしている。
 リンディは会議が終わった後、すぐに寝てしまった。
 まあ、繊細な自分と違って鋼鉄の心臓を持っている女だ。
 子供をさらわれたぐらいでは、いや、さらわれたからこそ平常心を保とうとしているのだろう。
 五年も連れ添って、何度も閨を共にし、共に窮地を乗り切ったクライドにはそれがわかった。

「ああ、畜生。俺は喧嘩ぐらいしか能がない男だって自分でわかってたつもりなんだけどな」

 息子をさらわれて、良い案も出せずにただ悶々としている自分に腹が立つ。
 しばらく悩んでいたクライドだが、体を動かして気を紛れさせることにした。
 カード型のデバイスを短杖にして、無心に突く。
 あるいは返しの左拳を放ち、右構えからスイッチして右上段回し蹴りを放つ。
 手足が、空気を切り裂く鋭い音が響く。力の流れを完全に把握し、最適なフォームから最適な打撃を繰り出している証左だった。
 それはもはや武術の型というよりは舞踏に近い。
 十分ほど続けて、クライドは動きを止め、大きく深呼吸をした。少し汗が流れ出しているが息は切れていない。
 そして、ビクリと何かに気づいたように山間から覗く太陽の方を見た。
 そこには背中に息子を背負ったワインレッドの髪に同じ色の甲冑を着た騎士がかすかに見えた。
 それはぐんぐんこちらに近づき、やがてクライドを見つけたのか、六メートルほど離れたところに着地した。
 赤い騎士が背中のクロノを揺り動かして起こすと、地面に降ろす。
 寝ぼけ眼のクロノはクライドを見つけ、トテトテと走ってきた。

「父さん!」

 声をかけられるがクライドは無視した。いや、反応できない程、赤い騎士、シグナムの一挙手一投足に気を配っていた。
 クロノが自分の後ろに下がるのを確認してから、声を張り上げる。

「どういうつもりだ!」

「どうもこうもない。主の温情でその子供を返還することが決まった。だから、私が連れてきた。それだけだ」

 シグナムの言葉は明朗で一点も誤解の余地が無かった。
 それだけに不審感が募る。
 数秒考えて、クライドは思考を放棄した。
 クロノの動きにも不穏な様子はない。ならば、これは絶好のチャンスだ。

「おい、まさか、人質は返したから帰らせてくださいなんて言うんじゃねえんだろうな!
 抜けよ、騎士様。まさか、びびってるんじゃねえだろう?」

 クライドが挑発するが無表情で受け流される。
 だが、クライドはむしろ笑った。
 スラム仕込みのクライドの喧嘩の売り方は半端ではない。

「それとも、そのでかい胸で主君に取り入ったから喧嘩には自信がありませんってか?
 まあ、てめえの主君を腎虚で死なせてりゃ世話はねえわな。
 小汚ねえ爺の粗末なモンをくわえこんで、尻を向けてカクカク腰を振ってりゃいいさ」

 相手を怒らせるには自分ではどうしようもないこと、家族や仲間を馬鹿にするのが一番効果がある。
 効果は覿面だったようで、シグナムは焼けつくような殺気をクライドに放射し、愛剣レヴァンティンの柄に手をかけた。
 肌が焦げるようなその殺気を受けてクライドは笑った。

「五メートル四十二センチ七ミリ、ってとこか。やっぱりてめえは化け物だな」

 そう言って短杖を構える。
 前に出ている左手をだらんと下げて短杖を逆手に握り、右手を顎の下に構える。
 足幅はやや広めにとり、重心をやや後ろ脚にかける。
 地上でやれば蹴りを重視した構えだが、その身体はわずかに宙に浮いている。
 シグナムも剣を構えた。足幅は小さく、正眼に構える。
 力の入れ具合、抜き具合が実に自然で、構えているだけでその姿は美しい。
 じりじりとすり足で少しずつ両者が近づく。
 強がっていても相手の手札もろくにわかっていない真剣勝負だ。慎重にならざるをえない。
 だが、二人とも好戦的な性格だ。いくら慎重に進めようとしても、内に眠る獣が起きれば前に出るだろう。
 後、数十センチメートルで間合いに入るというまさにそのとき。

「やめて、父さん! シグナムは僕を助けてくれたんだ」

 今まで雰囲気に圧されて黙っていたクロノが二人の間に走りこんできて叫んだ。
 その声に驚いたように二人が飛びのいて距離を取る。

「姿は見えなかったけど声は聞こえてたよ。シグナムはミヒャエルさんに何回も叩かれても僕をかばってくれたんだ。だから、だから――」

 あとは言葉にならなかった。めそめそと泣き出してしまったクロノを見てクライドが構えを解き、バツが悪そうに頭を掻いた。

「わかった。わかった。わかったよ、クロノ」

 泣く童には勝てない。それが自分の子供ならなおさらだ。

「見逃してやるよ、シグナム。さっさと尻尾を巻いて逃げな」

「馬鹿な。主君を愚弄されて、騎士である私が退くとでも?」

「退くさ。まだ気づいていないようだから教えてやるがこのあたりにはサーチャーがばらまいてある。もうすぐ、俺の仲間が大挙して押し寄せてくるぜ?」

 それを聞いて、シグナムがギリッとほぞを噛んだ。

「だから、今回は見逃してやるよ。それで貸し借り無しだ。次は決着をつけよう」

「……良いだろう。だが、覚えておけ。ベルカの騎士に一対一で負けはない」

 そう言って殺気を振りまいてシグナムは飛翔し、去って行った。
 それを見送って姿が見えなくなってから、クライドはまだ泣いているクロノを抱き上げた。

「ほら、見ろ、クロノ、太陽だ! 泣いていたらもったいないぞ!」

「父さん、怒ってない?」

「バッカ、怒るかよ。俺はガキに癇癪をぶつけるような小さな男じゃねえんだ。それより、見ろ。綺麗だぞ」

 山間から顔を出した太陽の光が色とりどりの山を映し出し、光と闇のコントラストを作り出した。

「うわぁ」

 クロノが他に言葉もないといった風情で感嘆の声をあげる。
 リンディ達が駆けつけてくるまでの数分間、クライドはクロノと共に幻想的で美しい光景を眺めていた。





「この馬鹿クライド! せっかくのチャンスをふいにしちゃうなんて何を考えてるのよ!」

「馬鹿じゃない、大馬鹿だ」

 戦艦アースラの艦内。
 ゼストもグレアムもリーゼアリアもいる会議室でリンディが怒鳴った。
 律儀に訂正を求めるクライドにリンディはガアーッとまくしたてる。

「どっちでもいいわよ。この百万点バカ!
 いい? この作戦には管理局の未来がかかってるの!
 成功すれば貴方と私は王様と王妃。失敗すれば私達は出世街道から外れて辺境の巡回からやり直しよ。
 グレアム執務官長はもう歳だから引退すらありえるわ。
 管理局改革もゲイズ二佐の野望も全部パアーよ。
 いえ、そんなことを考えられるならまだいい。次の戦いで死んでしまう可能性だって十分あるわ」

「そんなこと、言われなくてもわかってらあ。
 ただ、それよりも大事なことが一つあったってだけだよ」

 そう言うとリンディははぁっとため息をついた。

「ああ、もうこの大馬鹿……」

「まあまあ、リンディ君。クライドに憤る気持ちはわかるが、ちょっと待って欲しい。
 強くなるということはそういうことなんだよ」

 クライドをジトッとした眼で見ているリンディにグレアムが仲裁に入る。

「人間が強くなり、成長するということは同時にできないことが増えるということなんだ。
 夢、野望、信念。人間が強くなるにはいろんな理由があるが、共通しているのは強い想いを持っているということだ。
 それらは例えば、野望の障害になることであったり、信念に反することを実行することを確実に阻害する。
 ましてやクライドほど強くなるにはどれだけの『想い』を持っているか私には想像もできない」

 だから、クライドを責めることは間違ってはいないが正解でもない。グレアムはそう結論づけた。
 その言葉にリンディは押し黙った。
 大事な相棒の片割れであるリーゼロッテを斬られたグレアムがそう言うのだ。誰が反論できるだろう。
 リーゼアリアは勿論、ゼストも異論は無いらしく、黙って頷いている。

「だが、勿論、それは負けていい理由にはならない。
 あのシグナムという騎士も恐ろしいほど強い信念を持っているだろう。
 クライド、君はあの騎士に勝てるのか?」

 それを聞いてクライドは不敵に笑った。

「喧嘩の強さなんて口で言うもんじゃねえと思う。が、あえて言う」

 周りを見渡す。
 リンディがゼストがグレアムがリーゼアリアがそれぞれクライドの言葉を待っていた。
 絶対の自信をこめてクライドは宣言する。

「俺がタイマンで負けることなんてありえねえ」





 時刻は正午に達するか達しないかという微妙な時刻。
 哨戒に出ている局員からの連絡はまだ無い。
 動きようがないので、クライドは日課の訓練を始めることにした。
 まずはウォーミングアップにアースラの周りを十キロメートルほど走る。
 程よく汗をかいたところで各種筋トレ。
 その後、舞踏のように美しい型稽古を入念に行う。
 下段と見せかけて上段に変化する回し蹴り。
 それと寸分違わず同じモーションから繰り出される下段回し蹴り。
 体重の乗り切ったそのフォームは人殺しの技でありながら、美しさすら感じさせた。
 それが済めば、短杖を構え、突きの練習。
 腕のスナップだけで放たれる秒間十二連発に及ぶ突き。
 返しの左掌底。全て、騎士甲冑を着た騎士をバリアブレイクして倒すことを意識した鍛錬だった。
 ふと気配に気づいて、クライドは動きを止めた。

「どうした。出て来いよ」

 そう言われておずおずと出てきたのは黒髪黒目の幼い少年だった。
 どこかオドオドしていて、この年頃特有の活発さなど微塵も感じられない。

「何だ、クロノか。どうした? ミトに怒られたか?」

「ううん、ミトには褒められた。ハラオウンは『生還をこそ誉れとする』んだって」

 相変わらずミト・リミエッタはできた女らしい。
 さすがはエイミィの母親といったところか。
 それでこそ、乳母を任せている甲斐があるというものだ。

「それじゃあ、どうした? 父さんと一緒に体動かすか?」

「邪魔になったらいけないから、また今度にする。
 そうじゃなくて、父さんは母さんに怒られたって聞いて」

「なんだ、慰めてくれるのか?」

「ううん。えっと、僕のせいかなあって」

 そう言われてクライドは苦笑した。
 クロノのクソ真面目さは完全にリンディの遺伝子である。
 今も自分が止めたからクライドが怒られたのではないかと思っているらしい。

「バッカ。そんなこと気にしなくていいんだよ。そんなことばかり考えてたらハゲるぞ」

「ハゲちゃうの、やだ」

「だろ。なら、もっと楽しいこと考えろ」

 そう言われてクロノはうんうん唸りだした。
 どうやら楽しいことを一生懸命思い出しているらしい。
 クライドと血がつながっているとは思えない程のクソ真面目さだ。

「ああ、悪かった、悪かった。好きなこと考えていいから」

「うん」

 そう言って、クロノはトコトコと歩いてクライドの傍まで行き、座った。
 しょうがねえなあと呟いてクライドはクロノの横にどっかりと腰を下ろした。

「ほら、クロノ。遠慮せずに言え。何か俺に言いたいことがあるんだろ?」

 そう言うとクロノはしばらく逡巡していたが、やがてゆっくりと口を開いた。

「……父さんはシグナムと戦うの?」

 クロノにしては珍しいしっかりした口調だった。
 だから、クライドも真剣に答えた。

「ああ、戦うな。殺し合いになると思う」

「戦ったらお互いに痛い思いをするだけでしょ?
 父さんとシグナムが殺し合いをする必要なんてないじゃない。
 シグナムもミヒャエルさんもとっても良い人だった。話し合うことができるんじゃないかな」

 クロノは真剣だった。ずっと考えていたことだったのだろう。
 それを聞いて、クライドはふっと微笑み、そして首を横に振った。

「それは駄目だ、クロノ。あいつらも俺らも止まれない。
 なぜかわかるか?」

 黙って首を横に振るクロノにクライドは静かに言った。

「死人が出ているからだ。
 管理局は千人からの大部隊を壊滅させられている。奴らは闇の書の主の妻が殺されている。
 今更、はい、ごめんなさい、仲良くしましょうと言ったって誰も納得しねえ。
 どっちかが死ぬか、泣きべそかいて勘弁してくださいって言って頭を地面に擦り付けて、それを見て相手が許して初めて喧嘩は終わる。
 人が死ぬっていうことはそれぐらい大きいことなんだ」

「でも、父さんは英雄なんでしょう? 強いんでしょう?
 なら、誰も死なないで終わらせることはできるんじゃないの」

 それを聞いて、クライドは悲しそうに眉をひそめた。
 英雄と呼ばれるたびに込み上げてくる感情があったからだ。

「クロノ、誰にも言わないなら父さんの秘密を教えてやる。
 約束するか?」

「う、うん」

 そう頷くのを見て、クライドはクロノの耳に口を寄せた。

「父さんはな、英雄だとかエースオブエースだとかもてはやされてるけど、そんなに強くねえ。
 皆よりちょっと強いだけなんだ」

 それを聞いて、クロノは首をかしげた。

「でも、そのちょっとがすごいんじゃないの?」

「皆、そう言うけどな、父さんは納得してない。
 クロノ、父さんはな、四人、人を殺した」

 クライドは座ったまま背中を斜めに傾け、両手で体を支えて、天を仰いだ。
 どこまでも広がる青い空が雲に覆われていくのが見えた。
 一雨来るかもしれん、とクライドは思った。

「皆、死んでいい奴じゃなかった。でも、殺した。父さんは弱くて、それ以外で止める方法がなかったからだ」

 スラムの孤児達のためにもう一度剣を取った老剣士、"人斬り"ホーガン。
 家族のために誇りを捨てた潜入捜査官、"毒蜘蛛"アルフレッド。
 悲しい過去に縛られ、一歩も前に進めなくなった憐れな怪物、"大地を砕く"ヅール。
 誰よりも大きな野望を語った稀代の大魔導師、"ブラスト"。
 その誰もがかけがえのない人物で街の喧嘩自慢が殺してよい人間ではなかった。
 だが、殺した。レジアスの野望のためでも、クライド自身の夢のためでもない。
 ただ、クライドに殺さずに止める力がなかったから、それ以外に方法が無かったから殺したのだ。

「父さんにはな、四人の想いと血がこびりついている。どれだけ風呂で体を洗っても、どんなに偉くなって部下を従えようと決して消えねえ痕だ。
 ……だから、負けるわけにはいかねえ。何を犠牲にしたって、上へ上へ行く義務があるんだ」

 最後の方はもはや独白に近かった。
 レジアスの野望に乗って王になろうとしたのもそれが直接の原因かもしれない。
 その血痕はクライドを縛る鎖なのだ。

「じゃあ、父さんはシグナムも殺すの?」

「それが必要ならな。でも、父さんだって人殺しがしたいわけじゃない。
 クロノ、父さんはな、誰も殺さない魔導師になりたかった。どんな相手も殺さず、五体満足で制圧して、ハハァ、参りましたって言わせちまうようなそんな魔導師に。
 父さん、喧嘩は好きだけど、殺し合いはそこまで好きじゃないから。
 でも、夢は夢に過ぎない。現実はいつも非情で切ないんだ」

 強敵と戦う時の背筋に恐怖と共に走るゾクゾクしてくるような歓喜をクライドは愛していた。
 だが、それは殺し合いでなくても良いと思う。
 人を殺して感じるのは、いつも苦い罪悪感と強敵(トモ)と別れる悲しみだったから。

「……わかんないか」

「うん、ごめんね」

 必死に理解しようと脳を高速回転させていたらしいクロノが諦めたように言った。
 素直に頷く息子にクライドは苦笑した。
 四歳の子供に話して良い内容ではなかった。

「いや、いい。父さんも難しい話をしすぎた。
 クロノがどんな道を進むのかは知らない。でも、どんな人生でも相手が変わるだけで戦うことだけは変わらない。そして、どんな過程や理由があろうと人殺しはいけないことだ。それは覚えておいてくれ」

 それを聞いて、クロノは微笑みを浮かべた。

「ん、どうした? 何か面白いことでもあったか?」

「うん、父さんもシグナムも同じことを言うんだなと思って」

「……そっか」

 人は生きるために一生戦い続けなければならない。
 それは案外、世界のあらゆる生き物が生きていく過程での真理なのかもしれないとクライドは思った。
 だとしたらなんて悲しい世界なんだろうと思う。

「そろそろ正午だ。ミトの所に行って昼飯を食べて来い。もう誘拐はねえと思うけど、知らない大人についってっちゃ駄目だぞ」

「わかった。父さんも一緒にご飯を食べよう!」

「何!? しょうがねえなあ。久しぶりに食べるか」

 そう言って相好を崩して、クライドはクロノの後ろに続いてゆっくりとアースラに近づいていった。




[34641] クライド・H・ハラオウン⑩
Name: 烏賊様刻◆e7251814 ID:c9e6522c
Date: 2013/03/10 13:26
 ミヒャエルは暗い室内で一人横たわり目をつぶっていたが、眠ることはなかった。
 洞窟の中は暗く、日の光がミヒャエルまで届くことはなかったが、あたりに満ちた清涼な空気で今が朝であると知れた。
 ゆっくりと起き上がる。硬い岩の上に横になっていたせいか、腰が痛かった。
 筋を痛めないように慎重に伸びをする。歳を取ると体をほぐすだけでも一苦労なのだ。
 これからの管理局との戦闘を考えると、ほんの少しの負傷も許容すべきではなかった。
 ミヒャエルの寝室である洞窟の一番奥から会議室に使っている少し広い空間に出るとそこには浅黒い肌の武人がいた。

「ザフィーラ、見張りか?」

 声をかけると青い守護獣はきびきびと振り向いた。魔法プログラム体とはいえ、睡眠は必要だろうにその動きにはキレがある。
 ただ眼の下にできた薄いクマだけが彼の疲労を表していた。

「主上、おはようございます。申し訳ありませんがお湯を沸かしてもらえませんか。
 流石にコーヒーが恋しいです」

「お安い御用だ」

 そう言ってミヒャエルは隅に転がっていた大きな登山用リュックサックからヤカンと携帯用のコンロとガスボンベを取り出した。
 ついで、巾着からインスタントコーヒーのスティックを取り出す。
 手際よく、平らな岩の上にコンロを置いてガスボンベを仕掛け、火をつける。そして、水をヤカンに入れて、コンロにかけた。
 沸騰するまでの間、しばらく待つことにする。といっても大した時間でもない。

「ザフィーラ、今話しても大丈夫か?」

「はっ、問題ありません」

「他の三人はどうした?」

「シグナムは主の命令に従い、あの子供を管理局に返しに行きました。
 シャマルとヴィータは仮眠を取っています」

 シャマルは勿論だが、ヴィータも特に休息が必要だったので休ませた。
 単純な攻撃力ではザフィーラを越え、シグナムに匹敵する彼女だが、完全なスプリンタータイプでスタミナはそれほどない。
 元となる体が七歳から九歳ぐらいの少女なのだから当然だろう。
 当初は自分も見張りをすると言って聞かなかったのだが、ザフィーラが理詰めで諭して、無理矢理眠らせた。

「ふむ。状況はどうなっておる?」

 そう聞かれて、わずかに逡巡したが、結局、銀髪の美丈夫は現在の状況を語り始めた。

「……明らかに悪化しています。管理局は本腰を入れて捜索隊を派遣してきました。
 現在推定千名以上が山狩りを開始しています。撃破しようにも相互連絡を密にしており、撃破したチームの居場所からこちらの位置がばれかねません」

「ふむ。こちらの位置がばれるのは時間の問題と言うわけか。対抗策はあるか?」

「シャマルが起きてから考えるのが一番だと思いますが、敵の精鋭との直接対決に持っていくのが最善かと思われます」

 シャマルが寝てから二時間半。少し早いがそろそろ起きてもらわなければいけないだろう。
 彼女とシグナムこそ、ヴォルケンリッターの中心。ミヒャエルの両翼なのだから。

「なるほど。詳しい話はシャマルを起こしてからにしよう。ザフィーラ、すまんが……」

「はい、体力にはまだ余裕があります。シャマルとヴィータを起こして作戦会議に入りましょう」

「うむ。シグナムが戻るまで待ちたかったがそうもいかんようだ。私が起こしてくるから、引き続き見張りを頼む」

 そう言って、ミヒャエルはシャマル達の寝室代わりの横穴に入った。
 地面に直に横たわって眠っているヴィータとシャマルの顔が見える。
 二人の、特にシャマルの普段とは違うあどけない寝顔にミヒャエルは強い罪悪感を覚えた。
 シャマルの生前についてミヒャエルは聞いたことが無い。だが、その見た目や言動から恐らく二十代前半、多くても二十七、八だろうと思っている。
 ミヒャエルからすれば孫のような年齢だ。十三年前には同年代のメルセデスに恋をした男だが、さすがに六十を過ぎて所帯を持つと分別もつく。
 そんな若者に人殺しの片棒を担がせている。いや、むしろ、自分の手を汚さず、彼女達の手を汚させている。それが途方もない大罪のようにミヒャエルには感じられた。
 だからといって、燃えるような憎悪を失ったわけではない。ただ、狭まっていた視界が少し広くなったような気がする。
 皮肉なことだがそれは管理局殲滅という大望に確実にプラスとして働くだろう。

「ヴィータ、シャマル、起きよ」

 言いながら二人の体を揺らす。すぐに二人は目を覚まし、起き上がった。
 このあたり、良く鍛えられている。彼女達は戦士なのだな、と思う。

「おはようございます、主上。状況が変わったのですね?」

 シャマルが相変わらず氷のような無表情で言う。
 先ほどの穏やかな寝顔を見ていたミヒャエルからすると痛ましさすら覚える無機質さだった。

「主上?」

「祖父ちゃん?」

「いや、なんでもない。……その通りだ。ひとまず、会議を行う。二人ともこちらに来てくれ」

 気を取り直して二人を会議室にいざなう。
 ヴィータは不思議そうに、シャマルは無機質にそれに従った。





 四人でコーヒーを飲む。
 インスタント特有の安っぽい味と臭いが口の中に広がったが、それでも場の空気が少し和んだような気がする。

「状況は完全に理解しました」

 シャマルが静かに告げた。
 相変わらずの鉄面皮で心の内は全く読めない。

「端的に言って私達は戦略的には完全に後れを取っています。
 正直、挽回は難しいでしょう。申し訳ありません、主上」

 そう言って、シャマルは頭を下げた。

「いや、頭をあげてくれ、シャマル。私が素人のくせに君達の判断に口を出したからだというのもある」

 ミヒャエルがそうとりなしたが、シャマルは首を横に振った。

「いえ、主上。それは関係ありません。彼らが本腰をあげて動き出したのは誘拐の後です。
 つまり、相手は誘拐されたと気づくやいなや、人質を切り捨て捜索に傾注したということになります。
 結局シグナムの言っていた通りだったということ。火に油を注いだのは私だということです。」

 無感情だったがその言葉にはどこか自嘲が含まれていた。
 そもそも、管理局が戦闘の有った管理外世界を素通りしてハッシュモンドに駐留した時から戦略上の敗北は始まっていた。
 それを何とかしようとシャマルが打った一手が誇りを捨てたクロノ・ハラオウンの誘拐であった。
 しかし、それも完璧に対応された。となれば、もはやシャマルに打つ手は一つしかない。
 次元航行艦の破壊及びにエースとの直接対決。
 当然と言うべきか、エースは各個撃破を警戒して次元航行艦付近に集まっているようだ。魔力感知型サーチャーによれば数は五人。
 同数であるように見えるが、こちらは主であるミヒャエルは非戦闘員なので、実質四対五。しかもこの状況では真正面から仕掛けるしかなく、かなり厳しい戦闘になることが予想された。

「軍師としては非常に口惜しいですが、後は戦術レベルで強引に戦況を押し返すしかないでしょう。
 次元航行艦三隻を航行不能にすれば、転移魔法で逃げ切れる確率が上がります。もう一つ手が無いこともないのですが……」

 シャマルは結局、そう結論付けた。
 しかし、恐ろしくハイリスクでリターンの少ない作戦だった。

「ふむ。ではシグナムが帰ってきたら改めて会議ということだな。
 それでは皆、これからが正念場だ。休息を取るなり、精神統一するなり各人、残された時間で最善を尽くしてほしい。
 その間の見張りは私が引き受けよう」

 ミヒャエルがそう言って会議はお開きになった。寝なおすつもりらしいヴィータと座禅を組んで瞑想を始めたザフィーラを横にシャマルは立ち竦んでいた。
 かける言葉が見つからない。結局、ミヒャエルはそっとしておくことにした。ただ、周囲の監視に意識を集中する。
 シグナムが戻ったのはそれから二時間後のことだった。





「申し訳ありません、遅れました」

 シグナムが到着するなりそう言って平伏した。

「良い、シグナム。おまえのその恰好を見れば、どれほど苦労して戻って来たかわかる」

 シグナムは泥と草に塗れていた。一度バリアジャケットを解いて再展開すればすぐに落ちるがその時間すら惜しんで帰還したのだろう。

「はっ、恐縮です。相手のサーチャーと捜索隊の目をかいくぐるのに手間取りまして、このような時間になってしまいました」

「シグナム、その話、もう少し詳しく話してくれる? 特に捜索隊の状況についてはこちらとしても把握しきれていないことが多いの」

 サーチャーは適宜飛ばしているのだが、シャマルとザフィーラ、ミヒャエルの物を合わせても三十程度。とてもハッシュモンド全域をカバーするには至らない。
 それに対して、管理局のサーチャーは百を優に超え、千の位に届くかもしれない。
 敵の拠点がわかっているから辛うじて情報戦で遅れは取っていないものの、正直、ジリ貧だった。

「捜索隊は非魔導師が中心で現地の警察官やガイド、猟師を起用しているようだった。千人単位で山狩りをしている。
 ハッシュモンドは小さな世界だ。この洞窟まで来るのに後、二日といったところだろう」

 シグナムの報告にシャマルは考え込んだ。
 捜索隊を襲って、闇の書のページを稼ぐという方法は使えない。
 もう少しで完成とはいえ、闇の書のページとしてはSSランクの大魔導師一人分ぐらいのリンカーコアが必要になる。
 非魔導師が中心の捜索隊を襲って稼ぐのは恐ろしく非効率だし、何より、連絡を密にしているなら襲った場所からこちらの拠点を逆算されて特定される可能性が高い。
 そうなるとやはり手は一つだ。

「主上。以前にも申し上げました通り、やはり、私達から蒐集して闇の書を完成させることが最良かと。
 この状況を乗り切った後に再召喚していただければ私達は十分お役に立てます」

 そう切り出したシャマルに、ミヒャエルは黙って首を横に振った。

「……それはならん。管理局を滅ぼすのは、後で再召喚された新たなお前達ではない。
 私とメルセデスを知り、私の憎悪に共感し、復讐を誓ってくれた今のお前達だ。
 そうでなくてはならない」

「感傷はお捨てください、主上。私達を大切にしてくださるのは嬉しいですが、私達は所詮、過去の亡霊。
 その程度、使い捨てる覚悟が無ければ何故、管理局殲滅という難事が成し遂げられましょう」

 尚、言い募るシャマルにしかし、ミヒャエルは頑迷に首を振った。

「別に感傷ではない。きわめて合理的な理由だよ。
 私はそうして闇の書を覚醒させた後、復活した君達に再度忠誠を捧げてもらえる自信がない。
 メルセデスと暮らし、メルセデスの死を共に悼んだからこそ、お前達は私に力を貸してくれた。
 だが、それが無くてはどうだ? 私はただ魔力量が多いだけの破滅願望を持ったちっぽけな老人だ。
 とてもお前達が忠誠を誓うに足る主であるとは思えん」

 結局のところ、ミヒャエル・ベンべはただの凡人だった。
 妻を殺されて怒り狂い、復讐を誓っただけのただの凡人だったのだ。
 ただ、闇の書という分不相応な力があったためにここまで大事になっただけなのだ。

「そんなことはない! あたし、祖父ちゃんにならたとえ全部忘れてもまた従えるよ!」

「主、ミヒャエル。そうまで我々の忠誠をお疑いですか?」

「私達が全て忘れて再召喚されると決まったわけではありません。
 現におぼろげですが闇の書の騎士として活動したことは覚えています。
 忠誠を誓う可能性は十分にあります」

 ヴィータがシグナムがシャマルが必死に説得しようと言葉を発する。
 だが、ミヒャエルはかたくなに首を縦には振らなかった。

「ならん。四人とも、これは主命である」

「主上!」

「よせ、シャマル」

「ザフィーラ! でも!」

「ミヒャエル様は俺達に死んで欲しくないと、そう言っているのだ。
 決は下された。ならば俺達は臣下として従うだけだ。そうだろう?」

 ヴォルケンリッターでもっとも敗北を味わってきた男が言った。
 ミヒャエルは今でも憎悪に燃えているが方向性が明らかに変わった。
 クロノ・ハラオウンを見逃したことでメルセデスが生きていた頃の平凡で優しい性根を一部取り戻したのだ。
 ならば、三年間、苦楽を共にしてきた仲間達をどうして切り捨てられるだろう。
 ミヒャエルは死んだ妻よりも、復讐を遂げることよりも、生きている家族を優先した。
 凡夫として当たり前のことを選択したのだ。

「それに勝ちの目がまったく無いわけじゃあない」

 要はエース五人を倒して、その勢いのまま次元航行艦三隻を破壊し、主を連れて別の世界に転移する。
 考えていて歴戦のザフィーラをして眩暈がしてくるような難事だったが、成功する可能性はゼロではない。

「戦略面で俺達ができることは終わった。
 後は戦術面で最善を尽くすだけだ。そうだろう、シグナム、ヴィータ、シャマル。
 何、問題はない。ベルカの騎士に――」

「――負けはない」

 四人の声がそろって力強く洞窟内に響き渡った。





 クロノが戻ってきてから一日半が経つ頃。
 最初にそれに気づいたのは次元航行艦の中で索敵を担当していた局員だった。
 森の中から飛び出した四人の男女。四人ともが物々しい騎士甲冑を装着している。
 すぐにエース全員がブリッジに集まった。そして前面のモニターを注視する。

「四人、ね。闇の書の主はいないようだわ」

「大魔導師とはいえ、経歴から考えて戦闘向きでないのは明らかだからな。どこかに隠れているのだろう」

 ゼストが言った。いつもの厳めしい顔つきに適度な緊張が表に出ている。
 相手の意図は明らかだった。
 精鋭同士の決闘。及びに次元航行艦の破壊。
 つまり、土壇場にまで追い込まれた敵が打って出てきたということ。
 窮鼠猫を噛むと言えば、聞こえはいいが相手はネズミのような可愛らしい物ではない。高ランクの騎士、すなわち、高い知性を持つ怪物だ。

「探す手間がはぶけたって所だな。なんせ、向こうから喧嘩を売ってきてるんだ。後は俺らが言い値で買うだけでいい」

 ニヤッと笑いながらクライドが言う。バトルマニアにはたまらない状況だろう。
 グレアムやゼストの肩から力が抜けて自然体になるのがわかった。
 レジアス風に言うならそれがクライドのカリスマだ、といったところか。無理をして笑っているのではないとわかって、リンディはほっと息を吐いた。
 騎士達は強い。血と魔力が迸る命の削り合いになるのは間違いないことだった。
 アリアが促して、簡単な作戦会議をした後、こちらも打って出ることとなった。

 時刻は昼。次元航行艦駐留地点より約五キロメートル。現地名称『蒼薔薇の平原』上空。
 その名の通り、蒼い薔薇の花が一面に広がる美しくも幻想的な野原を見下ろして、両チームは布陣した。
 すぐにリンディが封鎖結界を発動する。これで、この平原は決して逃げられぬ戦場となった。
 クライド達がフォーメーションを整える。ゼストが前衛で敵を抑え、わずかに下がった位置でクライドが遊撃。その横でグレアムが司令塔として中衛を務め、リーゼアリアとリンディが後衛からそれらを援護する、そんな陣形に見えるはずだった。
 こちらの配置を見た騎士達もそれを崩すために陣形を取った。ヴィータと呼ばれた少女が前衛。クライドに対抗する様にシグナムがウィングに位置取り、蒼い守護獣、ザフィーラが全体を見渡す中衛につき、あの血塗れの女、シャマルが無表情に後衛から戦場全体を見渡す。ミッドチルダでも古代ベルカでも高ランク魔導師が集まった時の陣形はそれほど変わらないらしい。
 両陣営の間に緊張が満ちていく。リンディの額に汗の粒が生まれ、眉にそって眼の端に当たったその瞬間、少女、ヴィータが動いた。
 射撃魔法を警戒してか、わずかにぶれながらだが、こちらの先頭、ゼストに向かって突進してくる。
 当然、ヴィータが孤立しないように残りの三人も距離を詰めてくる。

「来たわよ、皆。作戦通りにお願い」

 リンディの言葉に全員が小さく頷いた。
 ゼストが動く。ヴィータの真正面から振り下ろされる鉄槌を打点をずらして自分の得物で受け止める。
 金属と金属がぶつかり合う恐ろしい音が響く。あまりの威力に衝撃波が接点を中心に巻き起こる。
 それに連動する様にグレアム、アリア、クライド、リンディがヴィータを包囲するように動く。
 それを防ごうと騎士達が距離を詰めたその瞬間、全員が動いた。
 ゼストが雄叫びをあげて鍔迫り合いに持ち込むと体格差を活かして、ヴィータを地上にまで鍔迫り合いのまま押し込んだ。
 グレアムとリーゼアリアがザフィーラに思い切り体当たりし、五メートルほど押して敵の陣形を崩す。
 対応しようとしたシグナムにリンディが牽制の魔力弾を放ち、動きが阻害したところでクライドが正面に立つ。
 シャマルがシグナムのカバーに入ろうとするがシグナムが首を振ったのを見て、ザフィーラの援護に移る。

「なるほど、舐められた物だな。最初からこの状態を狙っていたのか」

 広い封鎖結界の中でそれぞれが距離を取り、一対一あるいは二対二に持ち込んでいる。

「知らないのか。ベルカの騎士に一対一で負けはないということを」

 静かに戦場に集中しきったシグナムが告げる。

「知ってるさ」

 クライドが天気の話でもするように気楽に言った。

「だが、俺達はエースだ。一対一で負けているようでは話にならない。
 さて、一対一で負けない者同士、どっちが勝つ?」

「私に関しては二対一のようだがな」

 あくまでクールなシグナムにクライドは嘲りの笑みを浮かべる。

「バーカ、てめぇなんて俺一人で十分なんだよ。リンディ、行けるか?」

「まだ捕捉はしていないようだけど、候補は絞れたみたいね。早速行かせてもらうわ」

 リンディが一気に加速した。あっという間に結界を抜けると山に向かって一直線に飛んでいく。

「ちいっ!」

 シグナムがそれを追おうとするが結界がある。破壊は不可能ではないが、目の前の男を警戒する必要があった。
 注視する。黒髪黒目の身長百七十二センチメートルほどの男。外見で特徴的なのはやたら目つきが悪いことと管理局の制服を着ていることぐらいか。発散する魔力は小さい。恐らく純粋な魔力保有量ではシグナムの十分の一にも満たないだろう。しかし、シグナムの鍛え抜かれた第六感はこの男に最大限の警鐘をがなりたてていた。
 臭いがする。体中にまとわりついた死の臭い。人殺しの臭いだ。この男の前で隙を見せたら恐らくあっけなく自分は死ぬ。そんな確信がシグナムにはあった。

「会うのは二度目だな。どうやら一対一で私に勝てると思っているようだが、正気か?」

 言葉だけを見れば挑発じみていたが、シグナムは本気で言っていた。
 前回は主君を馬鹿にされて頭に血が上っていたが今は冷静だ。
 確かに隙を見せれば殺されるだろうが、そもそもシグナムは隙など見せない。
 言ってみれば今の状況は人食い熊に子供がちっぽけなナイフ一本で挑んでいるようなものだ。魔力量が圧倒的に違う。それはパワーとスピードに歴然の差があるということだ。
 四対四でチームプレイで戦うならともかく、一対一で、しかも正々堂々と戦える戦力ではない。局員から以前聞き出した情報では魔導師百人と戦って勝ったということだったが、たかだか百人程度に苦戦するような男がシグナムと正面から戦うなど文字通り狂気の沙汰だ。

「はっ、正気で人殺しなんてできるかよ。まあ、安心しろ。手加減はしてやるよ」

「この期に及んで、まだ挑発とは恐れ入った。だが、言っておく」

 シグナムは不敵に笑って言った。

「ベルカの騎士に負けはない」

 魔力を解放する。大気が鳴動する。物理的な圧力すら伴った魔力の波動がクライドの全身をビリビリと震わせた。
 その魔力圧にクライドはニッと獣臭い笑みを浮かべた。





 上空から不意に降り注いだ魔力圧にゼストとヴィータは弾かれたように距離を取った。

「……距離を取るとはな」

 油断なく己の得物を構えながらゼストが呟く。
 それはゼストに利がある行為だった。長柄武器同士の対決では何よりリーチが物を言う。魔力刃ならばともかく実体刃には重量があり、無手や剣に比べるとどうしても速度が落ちる。それを腕の振りと長さによる遠心力を利用した一撃の重さで補うわけだが、リーチが長いと当然一撃も重くなるし、自分の攻撃の方が相手より先に届く。そして、ヴィータとゼストでは文字通り大人と子供の体格差がある。魔力量はほぼ同じだからゼストの方が体が大きくて腕が長い分だけ有利なわけだ。

「これでも英雄と呼ばれたことがあるんでな。あたしにはちょうどいいハンデだ」

 そう言ってヴィータは己のリンカーコアの魔力を完全開放した。恐ろしい魔力圧。ゼストがわずかに下がり、そして笑みを浮かべる。そして、負けじと魔力を解き放って押し返す。

「管理局地上本部首都防衛隊隊長、ゼスト・グランガイツ!」

「名乗るつもりはなかったが、名乗られちゃあしょうがねえ! あたしはヴィータ! 夜天の領で七つの砦を落とした"砦落とし"のヴィータとはあたしのことだ!」

 互いに名乗りを上げ、突進する。鋼と鋼がぶつかる壮絶な音が響き、そうして、戦いは始まった。





 恐ろしい数の魔力弾がザフィーラとシャマルを襲う。それをザフィーラは頑強な障壁で防いだ。しかし、ただで防げるわけではない。その代償としてジリジリと下がり、障壁を破壊されてはまた展開し、気が付けばザフィーラとその後ろにいたシャマルは数百メートルもシグナムやヴィータから引き離されていた。

「まずは挨拶といったところだが、気にいってくれたかな?」

 黒いバリアジャケットを着て、ステッキを持った上品な男、グレアムが言った。
 その傍らには共に魔力弾を撃ち続けた猫の使い魔、リーゼアリアもいる。

「大した魔力量だ」

 ザフィーラが短く称賛した。シャマルがその後ろで無言でペンデュラム型のデバイス、クラールヴィントを指からだらりと垂らす。
 四人が互いに魔力を放出する。ふりかかる魔力圧に互いに歯を食いしばった。

「だが、ベルカの騎士に負けはない」

 ザフィーラが自らを奮い立たせるようにそう宣言した。




[34641] クライド・H・ハラオウン⑪
Name: 烏賊様刻◆e7251814 ID:c9e6522c
Date: 2013/03/17 14:16
 ゼストとヴィータ。
 互いに突撃した二人が同時に振りかぶり、そして得物を振り回した。
 自動車同士が正面衝突したような爆音と共に互いの得物が弾かれる。武器の重さでヴィータが勝り、フィジカルで一九○センチメートル近い長身のゼストが勝る。故にその威力は互角。
 ほとんど同時に体勢を立て直すが、ゼストの方が一瞬速い。
 首を狩りにきた槍をヴィータが身を沈めて躱す。
 そのまま、踏み込んで近づいた脇腹に渾身の回し蹴り。ゼストが防御魔法で防ぐが動きが止まる。
 攻守交代。そして、障壁に弾かれた勢いを利用して鉄槌をそのまま振り上げ、振り下ろす。
 だが、ベストの距離ではない。唸りをあげて迫るその一撃をゼストが槍で巧みに絡みとって、軌道をわずかにそらす。ゼストの肩をかすった鉄槌が勢い余って大地に叩き付けられ、花畑に巨大なクレーターを作る。
 わずかに距離を取り、自分の距離にしようとしたゼストに合わせてヴィータは無理に追撃せず離れた。

(厄介だな)

 二人が同時に思考する。ゼストはヴィータの身の軽さと一撃の重さに、ヴィータはゼストの力と技術に脅威を覚えた。
 だが、それ以上考える暇はない。三度、彼らは肉薄した。
 先に仕掛けたのはゼスト。薙ぎ払うように使っていた槍を激しく突きこんだ。
 不意に変化したリズムにヴィータがわずかに戸惑いながらも胴体中央を貫かんとするそれを体ごと横に移動して避ける。
 が、体勢がわずかに崩れた。それをゼストは見逃さない。

「おおっ!!」

 気勢と共に片手で突きこんだ槍、三十キログラム近い鉄の塊を振り回す。それをヴィータはグラーフアイゼンの柄で正面から受け止めた。
 飛び散る火花とすさまじい金属音。鍔迫り合いを嫌ったヴィータが後退しようとする。それを読んでいたゼストは前に出た。
 渾身の振り下ろし。武器も砕けよ、とばかりに叩き付けられたそれをヴィータはやはり得物の柄で受け止めた。
 わずかに体を浮かしていたヴィータが上からの重圧で無理矢理地面に叩き付けられる。
 群生していた花をまき散らかし、後方に吹き飛ぶ。いや、自分から吹き飛んだのだ。まともに受けていたら、そのまま潰されていただろう。
 即座に追ってきたゼストに鉄球型の誘導弾をまき散らして足止めし、ヴィータが笑った。虚勢の笑みだった。受けた腕がまだ痺れている。

「ゼスト、だったか。役職は長すぎて忘れちまったけど、大したもんじゃないか」

「お前こそ、英雄と名乗るだけのことはある」

 ゼストも頬を歪ませた。こちらは虚勢の笑みではないとヴィータは思った。根拠はない。ただ、こういう笑みを浮かべる男は戦場にはたまにいた。大抵はすぐ死ぬが生き残る者もいる。そういう騎士は例外なく強者だ。ヴォルケンリッターならシグナムが近いタイプで何度も戦ったことがある。だから、大体考えていることもわかる。己の全てを振り絞って尚届かないかもしれない程の敵。そんな怪物と相対している。戦士としてこれほど充実した瞬間はない。そんなところだろう。

「だが、勝つのは」

 互いの声が唱和し。

「あたしだ!」

「俺だ!」

 四度目の交錯が始まる。
 ヴィータはわずかに弧を描きながら地面を這うように飛んだ。そして、ゼストの間合いに入る直前で突如静止し、グラーフアイゼンを大地に叩き付けた。鮮やかな青い薔薇がちぎれ跳び、同時に大量の土砂が巻き上がり、土煙がゼストの視界を遮る。

「――っ!!?」

 退けば負けるという奇妙な直感にゼストは己の命を懸けた。
 視界がふさがれたのは相手も同じ。それに土煙程度では近距離で姿を完全に隠すなど不可能だ。
 土煙のカーテンにわずかに映った小柄な影に向けてゼストは得物を横薙ぎに叩き付けた。
 手ごたえはなし。否、それどころか薙ぎ払われるのを分かっていたかのように身を低くして躱し、小柄な少女騎士が鉄槌を振りかぶる。

「アイゼン、カートリッジロード! ラケーテン――」

 咆哮と共に得物から蒸気と共にカートリッジが排出され、平たかった鉄槌の先が円錐状にとがった。さらにその反対側から莫大な魔力を放出して推進力とする。
 ヴィータはその形態をラケーテン(ロケット)フォルムと呼んでいた。
 伝承にはこうある。その一撃は古代ベルカにおいて、堅牢無比を謳われたシャローナプ砦の大門を完膚なきまでに破壊した、と。 

「――ハンマー!!!」

 防御魔法を張るが、自ら加速した鉄槌が障壁に突き刺さり、一瞬の均衡の後、粉々に砕いた。
 そのままグラーフアイゼンは勢いを止めることなくゼストの脇腹に迫った。
 己の得物を引き付けて不十分ながらも受けることができたのはゼストの練達の技だった。
 頑強な金属製の槍の柄が砕けた。ゼストはまるでピンポン玉のように吹きとび、数十メートルも吹っ飛んだ後、花園に着地し、蒼い花弁を蹂躙しながらごろごろと転がり、土煙を巻き上げてやっと止まった。
 大型トラックがエンジンを焼き切る勢いで加速してぶつかればこの惨状が再現できるだろうか。おおよそ人間が生きていられるとは思えない状態だったが、ヴィータは油断なくグラーフアイゼンを構えた。
 そして慎重にゼストのいた場所に近づく。五メートルほど残してヴィータは立ち止まった。

「……ちっ。不用意に近づけばその首、かき切ってやった物を」

 そう言ってゼストは何事もなかったかのようにムクリと起き上がった。
 半分の長さになった槍を右手に握り、首をゴキゴキと鳴らす。

「手ごたえが変だったのと、勘でな。何せ戦場では死んだふりをして後ろから来るやつが多いからな」

 インパクトの瞬間、鉄槌から離れていく感触があった。ヴィータは人間を殺せる一撃がどんな感触を手に伝えるかを熟知している。その経験からすると衝突の瞬間に後ろに跳ばれたのだろう。何より鋭敏なヴィータの勘がそう言っているのが確証だ。

「なるほど。わかっていたことだが見た目からは想像もできない正真正銘の怪物らしい」

 ゼストが短くなった得物を構える。足幅は狭く、だらりと下げた左手を前にだし、右手は肩に担ぐように槍の残骸を構える。それはもはや槍というよりは先に刃がついた棍棒に近い。

「その武器でまだ戦うつもりか?」

「何。少し短くなっただけのことだ」

 獰猛な笑みを浮かべるゼストにヴィータは苦笑した。

「これだからバトルマニアは。あたしにはとんと理解できねえ」

「お前が真に英雄なら、苦境でこそ笑みを浮かべるのだと思うのだが」

「痛いのを喜ぶ趣味はねえ。そして、こんな会話もつまらねえ!」

 ヴィータが一気に加速する。余裕を装っていたが内実はかなり焦っていた。
 シグナムからの念話で相手が一人高速で離脱したことがわかっていたからだ。間違いなく、狙いはミヒャエルだ。だから、あんなリスキーな戦場殺法と言うのもおこがましい騎士にあるまじき技を使ってまで相手を倒そうとしたのだがしのがれた。デバイスこそ砕いたが相手は意気軒昂。ますます気炎を昂らせている。厄介な相手だと焦燥に歯噛みする。
 狙いは無防備な左顔面。突進の勢いをそのまま載せた薙ぎ払い。その渾身の一撃をゼストは棍棒ではなく、左手に隠し持っていた柄の切れ端、折れた槍の石突き側で受け流した。
 ヴィータの不注意ではない。ゼストがヴィータの視線と拳を結ぶ線上に沿うように柄を逆手に持ち、棒を隠していたのだ。
 けたたましい金属同士の摩擦音が響き、グラーフアイゼンが上方に流れていく。
 その様子を呆然と見ながら、ヴィータは総毛立つ程の死の予感を覚えた。己の直感に従い、左わき腹を咄嗟に作り出せる最高の防御結界で守る。

「カートリッジ、ロード!」

 ゼストが叫ぶ。槍の柄尻が作動音を響かせて、カートリッジを排出する。同時に、咆哮と共にゼストが得物を薙ぎ払う。武器が折れたばかりだとは思えない完璧な間合い取りでの一撃だった。
 ヴィータの防御結界を切り裂き、バリアジャケットを直撃する。ボキボキと己の肋骨が折れる音をヴィータは聞いた。頑強なはずの全身鎧を模した騎士甲冑を貫く衝撃。幸い両断はされなかったようだがヴィータの動きを止めるには十分だった。

「ガハッ!」

 十数メートル吹き飛ばされるが何とか体勢を立て直す。
 しかし、当然そんな隙をゼストが見逃すはずがない。息を吐いて動きを止めたヴィータにゼストが槍を更に振りかぶる。

「――っ! ア、アイゼン!」

 血の泡を吹きながらあげた、悲鳴のような叫び声と共にグラーフアイゼンに内蔵されたカートリッジがロードされ、解放された魔力がそのまま推力となり、ヴィータを後方へ逃がした。
 だが、それをゼストは、むしろ避けられることが当然といった風情で追いつく。そのまま横殴りの一撃。ヴィータは辛うじて鉄槌の柄で受けたが、肋骨の痛みに顔を歪ませる。口の中に鉄臭い味が広がった。口の中を切ったなどという生易しいものではない。食道から血が込み上げてくる。悪いことに折れた肋骨が内臓、多分胃か腸、を傷つけているらしい。
 まずい、とヴィータは今更ながらに思考した。完全に間合いを制され、こちらは深刻な手傷を負っているのに対し、相手は武器を砕かれただけで無傷。いや、むしろ得物が短くなったことを有効活用している節すらある。客観的に戦況を見直して、ああ、これは負けたな、と他人事のように思った。どう考えても、後十手程でこちらは詰むだろう。ヴィータの中の冷静な部分は己の死をいとも簡単に受け入れた。ならば、砦落としではない、鉄槌の騎士として自分にできることはなんだろうか、と考え、そしてある一つの結論に至った。

「おあああああああああああっ!!!」

 全方位魔力衝撃波。ゼストほどの騎士を吹き飛ばすにはリンカーコアに相当な負荷をかけなければいけないため、使えて一度か二度という隠し手だったが今の状況なら問題はない。
 口の端から血を流しながらヴィータは凄絶な笑みを浮かべた。吹き飛ばされたゼストが体勢を立て直すのが見える。時間は無い。

「アイゼン、カートリッジロード!」

 鉄槌部分がスライドし、蒸気を吐き出した。圧縮されていた魔力が解放され、ヴィータのコントロールから外れ、荒れ狂おうとする。それを痛みでぼうっとする脳で必死に制御し、ヴィータはグラーフアイゼンを天高く掲げた。鉄槌が恐ろしい速度で巨大化し、威容を増していく。瞬きする間にそれは全長十数メートルに及ぶ、巨人の鉄槌となった。

「轟天爆砕!」

 鉄槌の騎士ヴィータ最高の奥義、ギガントシュラーク。いかなる防御も打ち砕く単純であるがゆえに強力な一撃だが、モーションが極端に大きく、振り下ろすか横に振るかの二通りしか運用方法がないため、使う場所を選ぶ攻撃だ。だが、今のヴィータにはそれで十分だった。狙いはゼストではない。自分達を縛る結界そのものだ。
 少女騎士の豪快な一撃はリンディ・ハラオウンが全力で張った封鎖結界を紙か何かのように吹き飛ばしていた。
 グラーフアイゼンを手放し、ヴィータが微笑む。自分にできる最善の結果だった。
 ゼスト・グランガイツが間近に迫り、槍を振り上げる。やれることは全てやった。悔いはない。
 胴を突いた槍はヴィータのバリアジャケットを破り、肉を裂き、胸骨を粉々に砕いて、心臓を串刺しにした。
 同時に放ったヴィータの捨て身のミドルキックはゼストの脇腹にめり込んだ。バリアジャケットを貫くほどの威力は無いはずだったがゼストは苦悶の表情を浮かべている。
 実はゼストの方も満身創痍だったのか、と見てとってヴィータはざまあ見ろと笑い、光の粒子となって消えた。





 少女が光の粒子となって消えるのを見て、ゼストは安堵のため息をつき、ガクリとしゃがみこんだ。
 息が荒い。かなり無理をしたから当然だ。頑強なデバイスを真っ二つに砕かれるような一撃を受け、怪我も何もないはずがなかった。
 精神力で抑え込んでいた物が噴出したのが今の状態だった。アバラが滅茶苦茶になっている。しかも辛うじてはまっていたそれを思いっきり蹴られて再び折られた。
 多分、医者に見せれば絶対安静を言い渡されるだろう。遠くなる意識をガリッと音が鳴るほど奥歯を噛み合わせることでどうにか留める。
 先ほどから治療魔法を自前でかけているが全く痛みが引く様子がない。しかし、それでもゼストは意識を失うわけにはいかなかった。
 ゼスト・グランガイツは"陸"のエースで、"英雄"クライド・H・ハラオウンを守るというもっとも大事な仕事があった。クライドが負けるなどとは思わないが万が一ということもある。
 己の命を捨ててでもクライドを助けてほしい。そうレジアスに頼まれていた。そう、頼まれたのだ。傲岸不遜を絵に描いたような、大ミッドチルダ王国の元帥になるなどと大真面目に語る男が親友とはいえ、階級が下の一管理局員に頭を下げたのである。どうあってもその約束は果たされなければならない。ゼストはそう確信していた。
 だから、ゼストは跪いて、荒い呼吸を整えようと深く深呼吸しながら、己の身体がどうにか動くようになるのを待った。





 色鮮やかな誘導弾が二十一、宙を舞っている。それは暗くなり始めたハッシュモンドの空を明るく照らし、見る者を魅了する破壊の光だった。
 ザフィーラとシャマルが回避行動に移る。縦横無尽に迫りくる魔力弾を身を捻り、加速し、何とか回避する。
 隙を見て近づこうとするが、直射型の魔力弾を大量に撃たれて、下がらざるをえなくなる。
 決定的に相性が悪かった。シグナムなら中遠距離で反撃をしながら、接近する期を待つことができるだろう。ヴィータならその鋭敏な勘と持ち前の突進力で強引に距離を詰めることができるかもしれない。しかし、ザフィーラは守勢に優れた戦士だ。これほどの物量で勝負してくる高ランク魔導師二人に、しかも後ろにいるシャマルを守りながら近づくのは酷く困難だった。
 ジリ貧だと理解しつつもザフィーラは亀のようにひたすら耐え凌ぐことしかできなかった。

「クラールヴィント!」

 間隙をついてシャマルが束縛魔法『戒めの鎖』を放つ。ペンデュラム型だったクラールヴィントが一気に紐を伸長させ、リーゼアリアを捕まえようとするが、巧みな機動で回避される。
 同時に十発以上の誘導弾がザフィーラを迂回してシャマルを狙って来るが、ザフィーラが割り込んで大半を障壁で弾き、漏れたいくつかをシャマルが自分で防いだ。
 障壁を伝ってくる衝撃にシャマルが短く息を漏らす。残念ながらシャマルにはシグナムやザフィーラのような強靭な身体がない。表情には出していないが、数発受けただけでわずかに顔色を悪くしていた。
 このままではまもなく圧しきられるとシャマルは冷静に判断した。周囲に感じるサーチャーの気配から管理局側に監視されている明らかだったが、切り札を使わざるを得ない。
 顔を片手で覆い隠し、ずるりと横にずらす。まるで、仮面を取るように。手がどけられた後にはシャマルの顔には満面の笑みが張り付いていた。

「ザフィーラ、時間を稼いで。相手の動きを制限することはできる? 動きが小さければ小さいほど良い。できれば、静止させるのが望ましいわ」

 ザフィーラとシャマルの連携がこの戦いを制する鍵となる。シャマルもそれがわかっていて勝利への道を模索するべく、頭をフル回転させていた。

「わかった。準備しておいてくれ」

 ザフィーラが自身の射撃魔法、裂鋼牙を撃ちだす。ホワイトグレーの衝撃波がグレアムを襲う。だが、それを涼しい顔でグレアムはバリアジャケットで受け止めた。
 ザフィーラの顔が歪む。おおよそ以前の戦いで推測したバリアジャケットの強度からは考えられない程の防御力。弾幕の密度から漠然と察していたが、理由はわからないが敵の魔導師、初老の男、恐らくギル・グレアム、は劇的にパワーアップしている。それがはっきりとわかった。
 反撃に飛んできた無数のバインドと直射射撃を拳で打ち砕き、側面に回り込もうとする使い魔を裂鋼牙で牽制する。

「ザフィーラ、座標はどこでも構わない。五秒だけ相手を止めて」

「やってみせよう」

 それに対してザフィーラは短く応えた。激しさを増す攻撃に真っ向から立ち向かい強固な障壁でことごとく攻撃を防ぐ。
 準備ができたのか。クラールヴィントの紐が輪を成し、淡い青の光を放っている。防御と回避のために複雑に移動するザフィーラの後ろにきちんとつきながらだ。それだけでシャマルという騎士の特長がわかる。どんな状況に陥っても冷静にロジックを組める静かな澄んだ湖のような精神。なるほど、湖の騎士とは彼女の称号にふさわしい。
 攻撃が通らない程の圧倒的な防御力。だが、攻撃に集中しているせいか移動は単調だ。しかも、障壁すら張らない。それが一番の隙になる。

「おおっ!!」

 ザフィーラは己の切り札を放った。
 鋼の軛(くびき)。
 地上で使えば広範囲に影響を及ぼす捕獲魔法だが、今回は空中で使うためにアレンジを加えている。ザフィーラの手から伸びるのはホワイトグレーの杭が連なった鎖のような投射物だった。
 さすがに直撃は不味いと思ったのか、攻撃の手を控え、ラウンドシールドを張る。だが、それはザフィーラの思うつぼだった。
 ザフィーラがぐいと手を引くと、軛はグニャリと鞭のように曲がり、障壁を迂回してグレアムに迫った。熟練の執務官長がこれを予期できなかったのは初見であることに加え、まっすぐにザフィーラから飛ばされた鋼の軛が正面から見ているグレアムにはただの点にしか見えなかったことが挙げられる。偶然ではない。相方の視点で露見しないようにリーゼアリアとグレアムが交差し、視点が一元化した間隙を縫って撃ち込まれた一撃。意識誘導で相手の位置を移動させた文字通りの神業だった。グレアムがホワイトグレーの拘束条に刺し貫かれ、バインド成功。動きを止める。
 そこにシャマルの魔法『旅の鏡』が発動した。動けないグレアムの背中に魔力が集まり、淡い青の門と化す。そして、シャマルの手が伸びた。その動きに躊躇はない。一瞬の逡巡もなく、グレアムの心臓めがけて手が突きこまれ、

「お父様、危ない!」

 咄嗟に身体でグレアムを押しのけたリーゼアリアの体内に手がズブリと潜り込んだ。




[34641] クライド・H・ハラオウン⑫
Name: 烏賊様刻◆e7251814 ID:c9e6522c
Date: 2013/03/24 12:25
 ずぶりと自分の体の中に異物が入りこんでくる感触にリーゼアリアは肌を粟立たせた。
 リーゼアリアは歴戦の使い魔だ。グレアムとリーゼロッテの三人で数々の修羅場を乗り越えてきた。その過程で手傷を負ったことは何度もある。
 だが、その感触は今までのどんな刃より歪でどんな魔法よりも恐ろしかった。
 痛みはない。奇妙なことだが見えもしないのに自分がどうなっているかまざまざとイメージできた。まるで貴婦人のようにたおやかな手が根元まで背中に埋まっている。そして、白魚のような指が心臓の傍、背骨にかかっている。
 未知の激痛。敢えて言葉に表すなら体の芯をドリルで抉られるような強烈な痛みが彼女を襲った。

「あああああああああああああああああああっ!!!!?」

 痛みは一瞬だったが、リーゼアリアには一時間にも一日にも感じられた。
 気が付けば痛みは消えないものの弱くなり、自分の身体から手が抜き去られていることがわかった。
 その一瞬、自分が無茶苦茶に暴れたことだけは何となく覚えていた。

「アリア、大丈夫か!?」

 念話を使う余裕も消し飛んだのだろう。バインドから脱したグレアムが大声で呼びかけてくる。
 それにハンドサインで答えようとして、アリアは異常に気づいた。
 首から下がまったく反応しない。辛うじて感覚は残っているものの、それすらも曖昧だ。
 重度の全身麻痺が彼女を襲っていた。あの笑顔の女が何をしたかわかった。

(お父様、どうやら頸椎を損傷したようです。首から下が全く反応しません)

 損傷なんてものではなかった。背骨を握りつぶされていると言われてもアリアは信じただろう。
 多分、自分の身体は二度と動かない。そんな奇妙な確信があった。
 金髪の女を見る。ゾッとした。自分がどんなことをしたのかわかっているはずなのに変わらず、楽しくて楽しくてたまらないという風に満面の笑みを浮かべている。
 魔女。そんな陳腐な異称が脳裏に浮かんだ。

(何!? 離脱はできるか?)

(リンカーコアは傷ついていないようなので何とか。ですが、それではお父様も撃墜されてしまうでしょう。ひとまず、数秒持たせてください。お父様に頂いた魔力をお返しします)

 あくまで冷静なリーゼアリアの念話にグレアムの返答は数瞬を要した。

(……わかった。一分で片づけて君をアースラまで運ぶ。だから、諦めるな)

 その言葉が虚勢でも何でもなく厳然たる事実であることをアリアは知っていた。そして、その弊害も。

(はい。お父様、御武運を)

 そう返しながらアリアは地面に降りた。足が地面を踏むが力無くだらりと折れ曲がる。自重で関節を折らないように注意しながらアリアはだらりと仰向けに青い花園に寝そべった。
 バリアジャケットを解き、変身魔法も解除する。薔薇の棘で体がチクチクするが、どうにもならない。グレアムの勇姿を見たかったが無性に眠くなり、アリアは贖いきれず意識を手放した。
 青い野原にぐったりと横たわった、動くことのない小さな猫がぽつりと残った。





 シャマルは満面の笑みを浮かべたままだったが、珍しく表情の通り、心の中で密かに快哉を挙げていた。
 『仮面』を外したことにより、残虐な行為に対する躊躇や罪悪感は大幅に抑制されるが、だからといって喜怒哀楽まで無くなるわけではない。
 主人ではなく、使い魔の方を倒したのは誤算といえば誤算だが、高ランク魔導師を一人倒したことに変わりはない。
 使い魔が高速で移動していたため、手を入れられたのは一瞬だったが、逆に速度を利用して、頸椎を捻った。
 さすがに確証はないが、恐らく、彼女はこれから死ぬまで全身麻痺状態で過ごすことになるだろう。この戦いが終われば、蒐集した後、止めを刺して楽にしてやろう、そうシャマルは思考した。

「シャマル、油断するな! まだ、敵は残っているぞ!」

 ザフィーラの怒声にシャマルは我に返った。敵を目の前にして舌なめずり。彼女の戦闘経験の少なさを露呈したことになる。

「ごめんなさい、ザフィーラ。主上が心配だわ。手早く片付けましょう」

 そう言ってシャマルが構えた。時間にして二秒ほど、浪費した。それがどれほどの痛手であったか、神ならぬ彼女にはわかるはずがなかった。
 ザフィーラが無言でグレアムに迫る。迎撃はされているが、リーゼアリアがいた頃ほどの弾幕は維持できていない。ザフィーラは一流の騎士で、叙事詩に残る英雄だ。シャマルも当然、援護する。程無く接近戦に持ち込めるだろう。もはや勝利は目前だと思われた。
 ザフィーラが誘導弾を躱し、密度の薄れた直射魔法を角度をつけた障壁で弾いた。出現したグレアムとの間の何もない空間。そこをザフィーラが全速力で駆け抜ける。二対一という状況下でもザフィーラは一切油断していない。アウトレンジからミドルレンジを通り越してクロスレンジにまで一気に侵入した。
 その瞬間、グレアムから桁違いの魔力圧が発せられた。周辺一帯の大気が鳴動する。まるで、噴火直前の活火山のような膨大な魔力の収束。グレアムの左手が消えた。少なくともシャマルにはそうとしか見えなかった。反射的に障壁を張ったザフィーラと当人であるグレアムだけが何が起こったのかを理解していたのだろう。
 恐ろしい轟音。まるで山ほどもある巨大なドラを巨人が渾身の力で打ち鳴らしたようなそんな衝突音。
 気が付けばグレアムが左手を突きだした、ストレートを撃ち終わった体勢で静止していた。そして、数十メートルほど後方に右腕が赤く腫れあがったザフィーラがいる。恐らく、右腕の前腕部を構成する二本の骨、尺骨と橈骨が完全に折れている。医師としての知識がそんな情報をシャマルに伝えた。

「今ので仕留められないのか。正直、驚いたよ」

 グレアムが言った。厳かで低い声だった。それほどの声量ではなかったが、シャマルは勿論、はるか後方のザフィーラにもはっきりと聞こえた。

「ひどい冗談。どんな手品よ。まさか、ドーピング?」

 『仮面』をはずしたせいで顔は笑顔を保っていられるが、そうでなかったらパニックに陥っていたかもしれない。
 グレアムが見せた今の膂力。堅牢なザフィーラの障壁を力技で貫き、騎士甲冑をものともせずに太い骨を容易く砕くパンチ。
 シグナムでもそんなことをするのは不可能だ。シャマルはそんなことができる人間を一人しか知らない。すなわち、ベルカ聖王国の象徴。聖王自身。

「手品じゃない。もっと簡単なことだよ。貸していた物を返してもらっただけだ」

「そうか、使い魔に送っていた魔力を使っているのね」

 グレアムの呟きにシャマルは正解に辿り着いた。ギル・グレアムはAAAランクの眉目秀麗な使い魔を二体、常に傍に侍らしていると局員に吐かせた情報にはあった。
 それは、強力な仲間が二人いるということだが、グレアム自身のリソースを常に高ランク魔導師二体分、圧迫されているに等しい。
 それが、負傷で動けなくなり、生きるための最低限の魔力のみを供給し、余った全てを自身の強化に使ったとしたら。

(この馬鹿げた魔力も納得できる。SSランクの中でもトップクラスの容量と出力!)

 発される魔力量は恐らく、ミヒャエルをはるかに凌駕している。魔力量だけなら聖王に匹敵するかもしれない。
 ギル・グレアム。数多の次元世界から選び抜かれた天才達が集まる"海"で管理外世界出身という圧倒的に不利な立場でありながら、なおエースと呼ばれ、執務官長にまで成りあがった男。執務官として多彩な状況に対応するために二人の使い魔を作りだしてチームを組んでいるが、その実、小規模戦闘ならば彼一人が全力を出した方が強いという異形の魔導師。

「言いたいことはたくさんあるがね、一つだけにしておこう」

 グレアムは静かに呟いた。聞いているシャマルは平静ではいられない。その言葉の裏に秘められた炎のような怒りがはっきりと感じ取れた。
 グレアムの目が見開かれ、持っていたステッキ型デバイスが超人的な握力に耐えきれず、粉々に砕け散る。

「生きて帰れると思うなよ!」

 グレアムの姿がかき消える。高速移動魔法を使ったのではない。単純に加速が急すぎてシャマルの動体視力では捉えられなかっただけだ。
 シャマルが咄嗟に右に向かって全力で飛行した。考えての行動ではない。『仮面』を外したことで抑制されているはずなのに尚湧き上がった恐怖が彼女を動かしていた。
 轟、という音に追いつくかのようにグレアムがシャマルのいた場所を通過した。ただの単純なショルダータックル。しかし、かすめた肩の騎士甲冑が紙のように破れた。当たっていたら、死んでいただろう。
 シャマルの本能が猛然とがなりたてる。曰く、無理だ、逃げろ。

「シャマル!」

 いつの間にか近づいていたザフィーラが動きの止まったシャマルを抱えて飛行する。

「ザフィーラ」

 シャマルが呻くように言った。いつのまにか笑顔が剥がれて、地が出ている。

「落ち着け。いつもの冷静さはどうした!?」

「だって、あんな化け物、無理」

 膨れ上がった恐怖がシャマルの騎士としての矜持さえ剥ぎ取っていた。
 そもそもシャマルの本分は軍師であり、後方からの指揮が本分だ。しかも、卓越した軍略が仇になって、生前、直接戦闘になったことなど数えるほどしかない。
 ヴォルケンリッターになってからは高ランクの騎士ということで何度もフルバックとして戦闘に参加したが、消滅するたびに曖昧になる記憶である。
 グレアムの常軌を逸した魔力圧と速度、破壊力の全てがシャマルの許容量を超えていた。

「冷静に考えろ! あれは聖王じゃない! 弱点は明らかだろう!? しかし、俺では突くことができない! お前だけが頼りなんだ」

 ザフィーラも顔を恐怖で青ざめさせていたがそこは"青面獣"。七千の魔導師の軍勢からたった一人で村を守りきったと叙事詩に謳われる男である。
 指摘されても決して本人は喜ばないだろうが、笑うしかないような圧倒的な脅威と戦うことには慣れていた。
 そこにグレアムが恐ろしい速度で突進してくる。それを豊富な戦闘経験からくる予測で辛うじて躱す。だが、すぐに切り返して突撃を繰り返してくる。
 それを辛うじてザフィーラは凌いでいた。シャマルを片手で抱えながらの大健闘だったが、躱しきれていない。何度かかすって、血をしぶかせている。
 グレアムは先ほどから肉弾攻撃に終始している。ザフィーラの弱点に気づいているからだ。ミッドチルダとの大戦争でその名を挙げたザフィーラはそれ故に敵のメインウェポンである中遠距離からの誘導弾やレーザー状の射撃魔法やバインドの対処に精通しているし、扱う防御魔法もそれらを弾き、防ぐことを主眼に置いたものとなっている。故に質量を持った攻撃、すなわち肉弾戦にはもろい。勿論、凡百の魔導師の一撃で破壊されるほどではないが、さすがに文字通り、眼にもとまらぬほどの突進に耐えうるほどではない。
 タックルに終始しているのはそれが躱し辛い上にそれはSSランクの大魔導師にとって、自分よりはるかにパワーとスピードで劣る有象無象を葬るのには十分だからだ。
 どこか他人事のようにシャマルはそう考える。

(本当にそう?)

 理性がそれを否定する。自分が致命的な勘違いをしているのではないか。ただ、現状を正しく認識できずに一人で絶望しているのではないか、そう思う。

「シャマル! また、主を志半ばで死なせたいか!? 俺は嫌だ! たとえ不可能に思えても、最後の最後まで諦めずに戦い抜いてみせる!」

 その言葉にシャマルは身を震わせた。生前の記憶が思い出される。頭から大量の血を流して横たわる生涯の忠誠を誓った主君。
 
 ――シャマル、泣かないで。君は笑顔の方が良い。

 死ぬ最期まで自分を思いやってくれた。人の上に立つ器ではなかったが優しい人だった。
 無能な主君だった。しかし、分のわかった主君だった。ミヒャエルも自分を無能だと卑下するが、そういう所をシャマルは気に入ったのかもしれない。
 もう二度と主君を殺させるわけにはいかない。例え、魔女のそしりを受けようとも。例え、人倫にもとろうとも。
 ずるりと、シャマルが顔に当てた手をずらした。『仮面』が外れる。泣きそうだった顔が再び、満面の笑みに戻る。
 恐怖が抑制されていく。思考がさっとクリアーになる。

「ザフィーラ、次の次の突撃を避けないで受け止めて。そうすれば私が奴を殺して見せる」

「やってみせよう」

 笑みを浮かべて死ねと言う同僚に、蒼い騎士は躊躇なく了承した。そして、グレアムの突進を辛うじて躱す。
 大きく躱したせいで体勢を崩したザフィーラにグレアムが猛烈なタックルを敢行した。
 それはもはや、セスナ機が人間に全力で体当たりしたようなものだった。強固なはずの障壁を粉々に打ち砕き、騎士甲冑を紙のように引き裂き、ザフィーラの胸部に肩口からぶち当たる。
 胸骨がゴキゴキと折れていく感触。筋繊維がぶちぶちと裁断していく。衝撃は心臓にまで届き、血液が逆流し、視界が真っ赤に染まる。
 しかし、

「ベルカの騎士を舐めるなああああああああああああああああああっ!」

 受け止めた。十数メートル押されたが、消えるまでの数秒間でザフィーラは両手でグレアムを抱え込んですら見せた。

「馬鹿な! 何故即死しない!?」

「貴方の速度が落ちたせいよ、ギル・グレアム」

 驚愕を隠せないグレアムの叫びににシャマルは応えた。顔に浮かぶのは氷の笑み。

「人間が全力で動けるのはたったの数分間。ましてや、聖王クラスの魔力で加速したら、リンカーコアは耐えれても筋肉や骨が耐えられない。タックルに終始したのは最初のパンチで左腕を痛めたからでしょう?
 怒りにまかせて全力行動した時点で貴方の負けは決まっていた。まして、その急加速を無理矢理止められたら、どう? 貴方は今、動くことができて?」

 シャマルがそう言いながら己の切り札を準備する。クラールヴィントから伸びた糸が空中で真円を作り、その内部が青く光りだす。
 『旅の鏡』。本来、医療用の魔法として開発されたがシャマルはそれを戦闘、拷問用に再構成した。恐るべきはその特性。準備に時間がかかると言う弱点はあるが、手を用いる攻撃であるため、騎士甲冑をバリアブレイクして体に手を潜り込ませるのは容易で、しかもリーチが非常に長い。もっとも相手が静止するか、鏡の近くを通らないといけないのだが。
 シャマルの白く細い手がグレアムの身体に潜り込む。そして、心臓を掴みとろうとする。

「エースを舐めるなあああああああああああああああああっ!」

 死体になって尚、自分を抱え込むザフィーラを無理矢理、シャマルに向かって投げ飛ばす。
 視界がふさがれ、シャマルは予期せぬ事態に一瞬動揺した。旅の鏡がずれる。心臓を狙った手は下にずれて腹部の重要臓器を握りつぶした。
 ゴボリとグレアムが血を吐く。しかし、それを無視してグレアムはシャマルに右手を向けた。
 その手に膨大な魔力が集う。ミッドチルダ式でもっともポピュラーな射撃魔法。スティンガーレイ。
 それをSSランクの大魔導師が後先を考えずに全力で撃てばどうなるか。
 砲撃魔導師の収束砲撃のような膨大な魔力の奔流がシャマルを襲った。当然、非殺傷設定は解除されている。
 己の死を間近にしてもシャマルは笑っていた。

(後は頼んだわよ、シグナム)

 彼女のもっとも信頼する騎士に心の中でそう言って、シャマルは光となって消えた。

 二人が死体も残さずに消えたのを確認し、グレアムは野原に落ちて行った。あのシャマルと呼ばれていた騎士が言ったことは全て当たっていた。
 グレアムがSSランクの魔力を完全に発揮して動けるのは数分間だけなのだ。それ以上は強烈なストップ&ゴーによってかかるGと無茶な魔力強化に体が耐えられない。
 持って生まれた体の強さ。それがグレアムに欠けている資質だった。
 咲き誇る蒼い薔薇をかきわけ、口から漏れる血を拭いもせずにアリアに近寄る。弱弱しいが息をしていることを確認し、ほっと息をついた。
 すると、張り詰めていた物が切れたのか、意識が遠くなる。

(すまない。騎士を二人撃破したが、こちらも重傷を負った。動くことができないので回収を頼む)

(了解)

 何とか念話でそう頼むとグレアムはごろりと愛しい小さな家族の隣に横たわった。
 気が付けば封鎖結界が解除されている。
 念話で確認すると、ゼストは辛うじて勝利したが、重傷を負い、動けない。そして、クライドは今なお戦っており、リンディはもうすぐ拠点と思われる洞窟に突入するらしい。
 これは勝ったか、とグレアムは考えた。なら、自分が無理する必要はないだろう。そう一人ごちて、グレアムは目をつぶった。眠りはすぐに訪れた。





 ピタリと教本の写真のように剣を正眼に構えたシグナムはゆらりゆらりと体を揺らすクライドと対峙しながら困惑していた。
 もう三十秒はにらみ合いを続けている。あれ程、好戦的な発言をしていたクライドだったが、間合いを詰めようとはしない。
 こちらがにじり寄れば、おなじだけ退き、こちらが距離を取ろうとすれば、、同じだけ近づく。ならば、とフェイントを混ぜてみるが引っかからない。
 時間稼ぎが目的だと考えるのが妥当だったが、クライドの目の光が気になる。そして、もう一つ嫌なことがある。クライドが維持している距離だ。シグナムが一息に間合いを詰め、レヴァンティンを振り下ろすと刃先が届くか届かないか。そんな微妙な距離をクライドは精密に保っている。
 理性は仕掛けるべきだと判断している。確かに危険な相手だが、所詮はAランク魔導師。地力の差で十分押しつぶせるはずだ。論理的に判断すればそうなる。
 だが、非論理的な部分。すなわち、直感が先ほどから仕掛けようとするたびにうるさいほど警告していた。蛇腹剣を使うべきか、とシグナムは一瞬思案した。しかし、すぐに否定する。この戦闘は管理局の監視下にある。技を見せるということはすなわち対策を練られるということ。シグナムがただの剣士であると錯覚させた方が都合が良い。
 仕掛ける。そう心で考える前にシグナムは動いていた。無我の境地での移動。フェイントは一切必要ではない。気を揺るがさず動くことにより相手に対応を許さない。まっすぐに駆け抜け、唐竹割に振り下ろす。
それをクライドはわずかに左に動くことで躱した。剣先が黒髪とこすれ、ジュッという焦げる音と共にタンパク質の焼ける嫌な臭いがする。躱された。そう判断するが早いか、シグナムは振り下ろした十五キログラム以上はある長剣を一瞬も止めることなく、斜めに切り上げた。ピクリと眉を動かしたクライドがそれをやはりわずかに動いて避ける。高く振り上がった剣を袈裟切りに振り下ろす。だが、クライドは今度は後ろに下がることで躱した。鼻の先に剣が当たったかのように錯覚するほどの見切り。そこでシグナムが無理をせずに下がる。クライドも追わなかった。両者の間にまた、距離ができる。

「……大した見切りだ。まさか、私が剣を三度振って触れることもできない男がこの世にまだいるとはな」

「あんたも大したモンだ。二度目の切り上げは正直、危なかった。良くそんなクソ重たい剣を自在に振り回せるぜ」

 膂力があれば、重量物を自在に振り回せるかというとそれは誤解だ。勿論、扱うためには筋力が必要不可欠だが、もっとも大切なのはシフトウェイト。自分の体勢が今、どんなものであり、重心がどこにあるかを正確に把握し、振るった剣に全体重を乗せられなければ人、特にバリアジャケットを纏った魔導師は斬れない。

「お褒めに預かり、光栄だ」

 無愛想に告げる。皮肉ではなく、本気だった。
 シグナムの剛剣を正面から受け止めた怪物はいた。レアスキルを用いて凌いだ者もいた。距離を取ってそもそも剣の間合いに入らないことで剣を封じた騎士もいる。
 しかし、ただ、抜群の反射神経と動体視力。そして、卓越した見切りの技術でシグナムの斬撃を封じた者など一人もいなかった。

「五メートル四十二センチ七ミリ、と以前言っていたな」

「……」

「あれは、私の制空圏の半径か?」

 クライドは無言で笑みを深くすることで肯定した。

「なるほど。英雄と聞いて、高く評価していたつもりだったが、まだ侮りがあったらしい」

 制空圏はそのまま間合いに直結する。今もクライドは五メートル四十二センチ七ミリから数ミリ離れた距離、恐らく一ミリか二ミリ程、を維持している。距離感が良いとかそういうレベルではない。
トップアスリートに近い能力を持つ者がいる。彼らは地上にいながら試合場を俯瞰視点で見ることができ、目視せずとも正確に味方の位置を把握し、的確に行動を取ることができる。一種の異能だが、クライドのレベルまで行くともはやそれはレアスキルに近い。
 この男はとてつもなく強い。そう思うと抑えつけていた戦鬼の血が体内でどくりと脈動した。いけないとシグナムが吊り上ろうとする頬を意志力で止める。厳しい戦いであればあるほど喜んでしまう傾向がシグナムにはあった。自分では悪癖だと思っているが、どうにも治らない。
 込み上げる歓喜を抑え込み静かに宣言する。

「それでもベルカの騎士に負けは無い」

「いいね。それでこそ張り合いがあるってもんだ」

 それを聞いてクライドが嬉しさを隠そうともせずに笑う。
 そして、無造作に前に進み、シグナムの間合いに入った。
 反射的に前に出たシグナムはその勢いのまま喉仏を狙って全力の諸手突きを放った。
 クライドがその突きをやはりわずかに首を傾げて躱す。それをシグナムは狙っていた。

「おおっ!」

 咆哮と共にカートリッジを排出。発生した魔力によって剣の軌道を強引に変え、首を薙ぎにいく。それをクライドは咄嗟に間に挟んだ短杖で防いだ。
 金属同士がぶつかる甲高い音が周囲に響く。だが、そこでシグナムは終わらない。ガシャリと音をたてて、再びカートリッジがロードされる。
 ギギャっという異様な音が辺りに響いた。咄嗟に離れたクライドが慌てて得物の状態を確認する。シグナムにはわかる。半ばまでも切れていない。上手く逃げられた。

「斬鉄剣、か。ホーガンの爺以外に使える奴がいるとはな」

「聖王近衛騎士団の奥の手だったのだがな。良く処理して見せた物だ」

 互いに互いを感心する。そう賛辞しながらもシグナムの頭は高速で回転していた。
 先ほどのクライドの動き。刹那の間だったが明らかに今こうして話している時より魔力量が増大していた。
 三味線を弾いているのかもとも思ったが、やるメリットよりデメリットの方がはるかに大きい。
 ならばつまり、今のがクライドの切り札だ。何らかの方法で魔力量を一時的に増大させる。デバイスを斬られては圧倒的に不利になるために使わざるをえなかったのだろう。
 今まではクライドのこちらへの有効な攻撃手段はバリアブレイクからの一撃だと想定していたが、力押しも警戒しなければならない。
 数瞬でそこまで思考を終え、クライドの全身をあえて焦点を結ばず、ぼうっと見る。あれ程の魔導師だ。こちらが気づいたこともおそらくばれているだろう。
 ならば、次の手は先ほどのような攻撃の誘発のための前進ではない。本気でこちらの間合いの内側に入りに来る。
 そう考えた刹那、クライドは全速力で突進してきた。速い。魔力の運用と体捌きに無駄がまるで無いのだ。それゆえに乏しい魔力でもクライドは素早く動くことができる。
 シグナムからは踏み込まず、剣の届く間合いに入ったところで振り下ろした。見切られて躱される。しかも、今度は前に出ながら躱された。ミドルレンジからクロスレンジへ。剣の間合いから、短杖の間合いに入る。
 初手は突き。逆手に持っていた短杖はいつのまにか順手に握り直されている。ボクシングのジャブのような体重を乗せない腕のスナップだけでの突き。速い。
 それをわずかに動いて躱す。ミリで見切るなど不可能だが、一センチメートル程度での見切りならシグナムにもできる。
 伸ばされた手を斬ろうとするが、手の戻しが速いと見てとると、胴を薙ぐ一撃に切り替えた。それを踏み込んでほとんど剣の鍔元で受けられる。
 いくら達人であるシグナムでもそんな場所で受けられたら、斬ることはできない。腕力に任せて強引に吹き飛ばすことはできなくもなかったが、シグナムはしなかった。
 誘いである。その誘いにまんまと乗って、クライドがさらに間合いを潰そうとしてきた。そこをシグナムは迎え撃った。
 天を切り裂く膝というキャッチフレーズがある。それほど、鋭く、また高く上がる一撃だということの例えだが、シグナムの右の膝蹴りはさながら地上から天に向かって逆上がる雷だった。
 受けたクライドの左腕から骨の折れる鈍い音が響く。後方に吹き飛ばされたクライドを即座に追撃するが、予想外の速度でクライドは後退し、間合いから逃れた。

「上品な剣術だけだと思っていたが、粋な蹴りを持ってるじゃないか、騎士様」

「体術が苦手だと言った覚えはないのでな」

 クライドは変わらず笑っている。いや、むしろ負傷したことを喜んでいる気さえする。
 厄介な相手だとシグナムはまた思った。会心の蹴りだったのだがインパクトの刹那、クライドは後ろに飛んで、威力を殺した。もし直撃していたら腕ごと胴体を粉砕していただろう。
 だが、ダメージを与えたことに変わりはなかった。何やら切り札を持ってはいるようだったが、必殺技の一つや二つで殺されるほどシグナムの戦闘経験は浅くない。
 だから、今度は再びシグナムから仕掛けた。射撃魔法への警戒を完全にやめ、愚直に近づく。正中線を目がけてまっすぐ剣を振り下ろす。当然のように躱されるが、それは織り込み済みだ。中途で剣を止め、手首を返して横薙ぎに切り替える。それをクライドは先ほどと同じく、距離を詰めて、受けた。
 当然、見逃さない。先ほどと同じ会心の膝蹴りを放つ。左手の掌で受けられた。しかも、力に逆らわず、シグナムの脚力も利用して高く頭上に飛び上がる。そして、宙で一回転して、シグナムの頭めがけて踵を降らせる。
 好機。そうシグナムは判断した。避けずにそのまま剣を振り上げるべく手首を返した。クライドに魔力が昂る様子はなかった。つまり、この蹴りはただのA+ランクの魔導師の蹴りだということだ。そんな程度の物ではシグナムの騎士甲冑は破れない。左の踵が頭頂部、正確にはそれを守る騎士甲冑に激突し予想通り受け止められ、直後、甲高い音を立てて、騎士甲冑が弾けた。
 驚愕する暇もない。一瞬遅れて落ちてきた右の踵を身を投げ出すようにして辛うじて避ける。一瞬、眩暈がシグナムの動きを止めた。当然、クライドが追撃してくる。退きながら騎士甲冑を再構成する。クライドの速度が異様に速い。腕のスナップだけを使って放たれる突きの連打。その全てにバリアブレイクが仕込まれている。剣で弾き、体捌きで躱し、何とか体勢を立て直した。
 また、距離が開く。シグナムの制空圏ギリギリの距離。
 今起きたことを冷静に分析する。すぐに見当はついたが、何度か考え直した。だが、結局同じ結論に落ち着く。
 恐らく、足によるバリアブレイク。言葉にすれば簡単に聞こえるがこれはとんでもないことだ。バリアブレイクは強力な技術だが、その分制約も多い。デバイスか、生身で触れないとブレイクできず、また、どうしてもブレイクの瞬間に一瞬の隙ができる。足でバリアブレイクしたということはバリアジャケットの構成をいじって、インパクトの瞬間のみ足を覆う障壁を解いたということになる。それがどれだけ精緻でかつ大胆な術式制御が必要か、想像できるだろうか。少なくとも、シグナムには同じことはできない。まして、一瞬の判断が生死を分けるこのレベルの実戦で使用するなど目の前の男、クライド以外には誰もできないだろう。

 ――クライド・ハーヴェイ・ハラオウン。数多の次元世界で史上初そして恐らく最後のAランクの魔力でエースオブエースの称号を勝ち取った男。

 心が震える。そして、気づく。顔の横にぬるりとした血が伝う感触。
 負傷だ。回避したつもりだったが、米神をかすっていたらしい。先ほどの眩暈はそのせいだと知った。
 恐怖と共に歓喜が体の中心から背骨を伝って込み上げてくる。今度こそ我慢できず、シグナムは頬をつりあげて笑った。クロノに見せた微笑みでも、生前、夜天で主君に見せた女の笑みでもない。死合いの中で良く浮かべた野蛮な、獣の笑み。

「血を流すなどいつ以来だろうなあ」

 誰に聞かせるでもなく、シグナムはそう呟いた。
 悪竜ヴァンホーデンとの戦いで血を流したことは覚えている。つまり、タイプは違えど、この男の強さは部分的には真竜クラス。シグナムが全身全霊で戦わなければ勝利がおぼつかない。それほどの相手だ。

「本気を出させてもらおうか」

 静かに宣言してシグナムは魔力を一気に解放した。活性化したリンカーコアが周囲の魔素を一気に吸い上げ、莫大な魔力に変換する。
 別に今まで手を抜いて戦っていたというわけではない。ただ、高ランク魔導師や騎士は全力で身体強化して戦うと体に深刻な負担がかかるので、リミッターを設けているのが普通だ。更に言えば、リミッターがかかった状態でも、凡百の騎士など比較にもならない程強い。それを完全に振り切ったのだ。
 クライドがさらに距離を取った。

「六メートル十四センチ三ミリプラスマイナス二ミリ。リミッターがかかった状態で、あの蹴りを避けたのか。本当にあんた、化け物なんだな」

 クライドが笑う。シグナムにはわかる。目の前の男も恐怖と歓喜に駆られて笑みを浮かべている。
 そして、彼はふと思案する様に目をさまよわせ、言った。

「あんた、本当はシグナム・フォン・エーデルフランメって言わないか?」

「……」

「そうか。まさかと思ったけど本人だったか。だけど、奇遇だな。俺もベルカ教会から送られた称号があってな。本名はクライド・ハーヴェイ・ハラオウン・フォン・エーデルフランメというんだ」

 ベルカ最高の騎士に送られる称号、エーデルフランメ。当然、それには非常に厳しい審査基準があり、長い歴史の中でも送られた者は二人しかいない。すなわち、シグナムとクライドのみ。
 つまり、今から起こる戦いは、史上最強の騎士と魔導師の戦い。ミッドチルダ式とベルカ式の頂点に立つ二人の、どちらが強いかを決める戦いだ。
 それを知ってか知らずか、クライドは喋り続けた。

「あんたが本気を出していなかったように俺も本気なんか出しちゃいない。今から本気を出す。それでどちらが強いか決めよう」

 その言葉にシグナムは震えた。体の奥から恐怖と歓喜が後から後から湧き上がる。
 これより先は前人未到の境地。真の史上最強が誰かを決めるための神事。
 喜怒哀楽、込み上げる全ての感情を込めて、力強く宣言する。

「良いだろう。ベルカの騎士に負けは無い!」

 突進する。それに合わせて、クライドが吼えた。

「ブラスターⅢ!!!!!!!!!!!!!!」

 そして、死闘が始まった。




[34641] ミヒャエル・ベンべ⑤
Name: 烏賊様刻◆e7251814 ID:c9e6522c
Date: 2013/03/31 14:20
 翠色の鮮やかな魔力光を背中から四枚吹き出させ、リンディ・ハラオウンは夕日に赤く染まろうとしている薄紫の空を翔けた。
 その姿は月並だが、まるで主の命に従い、人を救おうと必死に飛ぶ天使を連想させる。
 巡航速度は時速五百キロメートルに迫る。当然、そんな速度で飛べば、体に多大な負担をかけるのだが、リンディは息を荒げるだけで飛び続けていた。
 五分ほどで、問題の山に辿り着く。そこでは森の中で、捜索チームが位置を知らせるべく、発行信号を飛ばしていた。
 急ブレーキをかける。急激に増大した逆方向への加速度に、体が悲鳴をあげる。苦痛に表情を歪めるが、何とか止まりきる。
 そして、薄暗い森の中に降りて行った。

「管理局本局提督、次元航行艦アースラ艦長、リンディ・ハラオウンです。報告していただけますか?」

 息を整えることもせず、地元の猟師らしい、旧式の良く使いこまれたレーザーライフルを肩に背負った老人に声をかける。
 周囲には弟子なのか、若い猟師が数人、緊張した面持ちで立ち竦んでいた。

「へい。ただ、人間を追うのは専門じゃねえんで、確証はねえんですが」

 頷き、視線で先を促すと、翁はおずおずと話し始めた。

「そこに見える洞窟に向かう足跡が見つかったんですわ。雨の後なんでわかりにくいんですが、ゴリラにしちゃあ、小せえですし、猿にしちゃ、大きい。だから、人間のやつじゃねえかな、と。
 ハッシュモンドは割と雨が降るんで、底の浅い洞窟の中ってのは湿気てるものなんですが、あの洞窟はちょうどひさしみてえに入り口に大きなでっぱりがあるでしょう? そのせいで中が乾いてるんです。
 獲物は老人だっていうから、もしかしたら――」

 そこまで聞いて、リンディは手で制し、話を止めた。不調法だが、時間が惜しかった。
 クライドが負けるとは思っていないが、ゼストとグレアムは負ける可能性が残っている。高ランク騎士との真剣勝負で負けるということは最低でも再起不能、最悪の場合、死亡するということだ。
 ミヒャエル・ベンべを確保すれば、戦闘は終わる。だから、もっとも速く飛べるリンディがミヒャエル確保のために動いたのだ。

「中は確認しましたか?」

「いや、何人も殺している凶悪犯罪者なんでしょう? 熊ぐらいなら怖くねえけど、人殺しはちょっと……」

 口ごもる猟師にリンディは意識して微笑みかけた。

「賢明な判断です。後は私に任せてください。一応、空振りだった時のために他の拠点をあたっていただけますか?」

「そりゃあ、勿論やらせていただきますけど、お仲間がいらっしゃらないですね。まさか一人で? そりゃあ、危険だ」

 いかにも田舎育ちといった感じの純朴な若者が言う。

「ご安心を。相手は高ランク魔導師ですが私も高ランク魔導師です。それに――」

 そこで、リンディは微笑みを消した。至極真面目な顔で続ける。

「――私も人殺しです」

 別にリンカーコアから魔力を解放したわけでもない。すごんで見せたわけでもない。それでも、歴戦の猟師達を後ずらせるほどの圧力がリンディから発せられた。
 若い猟師の中には露骨に怯えている者もいる。
 その姿を見て、リンディは安心させるように微笑んだ。

「すみません。気合を入れるために言っただけで、怖がらせるつもりはなかったんです。それでは行ってきます」

「いや、こっちこそ、世界の平和を守ってくださっているのに、びびっちまって。どうか、ハッシュモンドをお守りください!」

 ほっとしたように老猟師が言った。

「ありがとうございます。危険が予想されますのでもっと洞窟から離れていただけますか?」

「わかりました。聖王の御加護がありますように」

 三角の印を切る猟師達にリンディは微笑んで、悠然と洞窟に向かって足を踏み出した。

 洞窟は直径三メートルほどの小さなもので、洞穴と言った方が適切かもしれない。
 正面に立たないように気を付けながら、そっと洞窟を覗く。 暗くて見通せないがわずかに人の気配がするような気がする。

(リンディ、か。状況は、どう、だい)

 グレアムから念話が入る。しかし、ぶつ切りで声も小さい。

(これから拠点候補に踏み込むところです。そちらは?)

(辛勝、と言ったところかな。すぐ、動けなくなる、だろう、から、次元航行、艦、の方に、救援を、要請した、ところだ)

(――っ! わかりました。もう念話は控えてください)

 急がなければならない。そうリンディは強く意識した。グレアムからの直接念話が届いたということは何らかの方法で封鎖結界が解除されたということだ。
 ゼストとクライドに確認をとりたかったが、自重する。万が一、意識が取られて負けることになったら目も当てられない。
 自分の仕事は、ミヒャエル・ベンべの首根っこを押さえ、闇の書を転生させることなく、永久封印すること。
 勿論、最悪の場合は殺して転生させ、次代に託すことも考えているが。
 そう考えて洞穴の中に入ろうと入り口の正面に立った瞬間、洞窟の壁を削りながら飛び出した極太の闇色の収束砲撃がリンディを飲み込んだ。





 その瞬間、ミヒャエルは快哉を挙げた。シャマル直伝の音も臭いもない半透明で大気中の魔力の濃淡に隠れるという隠密特化型サーチャーにより、ミヒャエルは洞窟の外を完全に把握していた。
 数人の非魔導師、恐らく猟師がこの洞窟の前にかがみこんで、自分達の痕跡を探っていたことも、管理局のエースと思われる高ランク魔導師が恐ろしい速度でこちらに飛んできたことも全部だ。
 だから、ミヒャエルは待ち伏せした。ヴォルケンリッター全員から戦闘の心構えを聞いたが全員に共通していたのはできるなら不意打ちし、そのまま力押しで踏みつぶすことが望ましいということだった。
 それをミヒャエルは忠実に実行した。エースが、洞穴の正面に立った瞬間、洞穴が崩落しかねない規模の、リンカーコアも砕けよとばかりの全身全霊の収束砲撃。
 さすがのエースでもこれは効く。良ければ、蒐集ができる程度に半殺し。最悪でも殺せている、はずだった。

「油断していたわ。相手が大魔導師だということはわかっていたけれど、まさか、崩落の危険を無視して、収束砲撃を撃ってくるなんてね」

 声は若々しい女のものだった。ちょうど、死んだはずのエースのような。
 ミヒャエルは狼狽した。確かに渾身の一撃が直撃したはずなのに。

「馬鹿な!? 何故生きている!?」

 その叫びは洞窟内の壁に反響し、何度も何度も響いた。しかし、答えは無い。
 もうもうとたった土煙が次第に晴れていく。こちらに
 そこには翠色の鮮やかな魔法陣、ミッドチルダ式防御魔法の基礎の基礎、ラウンドシールド、を張って、腰を落としてたたずむ可憐な妖精がいた。背中からは同じく、翠色の美しい四枚の羽根、吹き飛ばされないように背中に展開した飛行魔法の残滓、がまたたき、こちらに伸ばされた手と逆の手には美しい長杖が握られている。

「私の収束砲撃を、ただの防御魔法で、薄っぺらい障壁一枚で防いだのか」

 絶望。それがミヒャエルを襲った。メルセデスを一度は助けたという自信が勢いを失う。
 ぐらりとミヒャエルは眩暈がして、地面に倒れこんだ。ヒューヒューと過呼吸が始まる。喉を押さえ、苦しくて咳き込む。

「ミヒャエル・ベンべ」

 冷たく、ダイヤモンドのように硬い声が響く。大声でもないが、力がこもっているのがわかる。

「特A級危険物指定ロストロギアの不法所持、局員殺害、管理外世界への無許可渡航、公務執行妨害、騎士達への殺人教唆、および反乱罪の疑いで貴方を逮捕します。
 貴方には裁判を受ける権利がある。反論は法廷で聞きましょう。今すぐ、騎士達を止めて投降しなさい」

 そこで言葉を止める。うずくまっていて見えなかったが女が微笑んだのがなんとなくわかった。

「逃亡生活は辛かったでしょう。ですが、もう大丈夫です。一緒に罪を償いましょう。私も精一杯弁護させていただきます」

 その優しい言葉を聞いて、逆にミヒャエルは力が湧き上がるのを感じた。
 罪を償う、だと!? 自分は何も罪など犯していない。先に仕掛けたのは管理局だ。これは正当な復讐だ! メルセデスを奪ったのは貴様らだ!
 気力を振り絞って立ち上がる。呼吸が荒い。だが、無理矢理抑える。こちらの敵意を感づかれないように。

「どれだけ、弁護してもらっても、私が死刑になることは、明らかだと、思うんだが」

 切れ切れに言葉を紡ぐ。相手の目は敢えて見ない。真剣に聞いている、しかし、意思が揺らいでいると思われるように口元から首元に視線を往復させる。

「いえ、死刑すら貴方には許されません。闇の書には転生機能がありますので、貴方は冷凍刑になるのが妥当です。
 ですが、冷凍刑には終身冷凍刑と無期冷凍刑があります。前者は永遠に凍結したままですが、後者は管理局の技術が進み、闇の書を解体できる程になったとき、蘇生してもらえる可能性があります」

 リンディの言葉にうんうんと頷く。それを見て安堵したのか、リンディがラウンドシールドを消す。
 そして、口を開く。

「なるほど、わかり――」

 言葉の途中で魔力を最大限に開放し、リンディに向かって躍りかかった。
 以前のようなテレフォンパンチではない。ザフィーラから教わった右ストレート。左足を踏み込み、腰を回し、連動させて右手をまっすぐに突き出す。同時に、右足で地面が文字通り割れるほど蹴って、全体重を乗せる。当たれば、SSランクの大魔導師と言えど、バリアジャケットを抜いて昏倒させるだけの威力がある。
 だが、その不意打ちをリンディは完璧に対応して見せた。
 顔面を狙った一撃を首を傾げてかすらせもせずに躱し、同時に勢いで密着したミヒャエルに左手を押し付け、バリアブレイク。闇色の残滓を残して分解されたバリアジャケットを一顧だにすることなく、右手の長杖で足を払い、同時に左手で顔面をつかみ、後頭部を地面に叩き付ける。
 ミヒャエルはひとたまりもなく、意識を失った。

「被疑者、確保。転送準備をお願いします」

 そんな感情のこもらない、美しい声が最後に聞こえた。





「ミヒャエル。おい、ミヒャエル! 聞いているのか!?」

 久々に訪ねてきた叔父が言った。歳は取ったがまだカクシャクとしていて、失っていない右手の方をミヒャエルの前で動かしている。

「ああ、すいません、叔父さん。ちょっと考え事をしていて」

「そうか。それならいいんだが。気をつけろよ。お前ももう若くねえんだ。酒は控えろ。煙草なんてもってのほかだ。お前が倒れたら苦労するのはメルセデスさんなんだからな」

 真剣な顔で心配してくれる叔父にミヒャエルは自然と笑みがこぼれた。

「ありがとうございます、叔父さん。それで今日来たご用件は?」

「おう、それなんだがよ……」

 ちょっと口ごもったが、叔父は意を決したらしく明朗に話し始めた。

「最近、新しいカジノがミッドチルダにオープンしたんだ。俺も博打をやって長いから、すぐに手を出したりはしねえ。三週間かけてじっくり、観察した。それで、一つ気づいたんだ。
 ルーレットのディーラーの一人、水曜日にやってる奴は腕は良いけど若いから、落とすところを無意識に決めちまっている。何回も確認した。三回目は十七番に落とす。
 ここにかければ、三十六倍だ。ちびちびやっていっても今までおまえのところから借りた金を全部返せる!」

 そこまで聞いたら馬鹿でも叔父の来訪の目的を察せるだろう。ミヒャエルは呆れを顔に出さないように気をつけた。
 だが、そんなことはおくびにもださず、叔父の話に耳を傾ける。

「……ただ、こちとら年金頼りの老人だ。生憎先立つものが無くてよ」

「お金を貸してほしい、ということですか」

「まあ、直截に言っちまえば、そういうことだ」

 さすがに、バツが悪いのだろう。叔父は恥じるように薄くなった髪をいじくる。
 さて、どうしようか、とミヒャエルは考えた。
 長い付き合いから結論付けてしまうと叔父は下手の横好きである。
 率直に言って、弱い。叔父が絶対に大丈夫と言うということはそれはつまり、絶対に当たらないということだ。
 常識的に考えて貸さない方が両者の利益になる。いわゆる、ウィン、ウィンの関係だ。
 だが、ミヒャエルには弱みがあった。少し前、といっても三年前だが、に増えた四人の家族のことである。
 紆余曲折の末、ミヒャエルとメルセデスは彼女達を家族として迎えることに決めた。闇の書を真に覚醒させたときに手に入る莫大な力についても説明を受けたが、特に魅力は感じなかった。
 欲しい物はもう全部持っている。新たに欲しくなったら自分の力で手に入れる。そんな意味のことを言うと、騎士達はきょとんとした後、微笑んで、なら、闇の書を破壊して、新たな主の元へ転生させて欲しいと言った。記憶はおぼろげだが、自分たちは管理局と戦ったことがある。管理世界で平和に暮らすなら、自分達は害悪にしかならないだろう、と。
 ミヒャエルは迷ったが、メルセデスは断固として反対した。それは四人を自分の都合で殺すことに等しいと彼女は憤った。騎士達が説得したが、彼女は自論を曲げず、結局、騎士達が折れて、ミヒャエルが死ぬまで四人の英雄達はミッドチルダで平凡な生活を送ることになった。
 ネットで検索したところ、闇の書らしきロストロギアが現れたのは六十年以上前のことで、出会ってもばれないとは思うが、秘密を知る者は少なければ少ないほど良い。
 ここは小金を渡して、帰すのが一番穏当であるとミヒャエルは判断した。

「わかりました。私も余裕がそれほどあるわけではないので、大した額は出せませんが、それでも良ければ」

「おお! ありがてえ。いや、倍にして返すから期待していてくれ」

「そんなに意気込まなくてもいいですよ。何事も自然体が一番です。お金は差し上げますから返さなくても構いません」

 そう言って、自室の金庫へ向かおうと立ち上がったミヒャエルの前で玄関のドアが開き、買い物に行っていたメルセデスとシグナムとヴィータが帰ってきた。
 金の無心に成功した叔父は機嫌良く振り返り、メルセデスに挨拶しようとして凍りついたように固まった。
 その眼はワインレッドの長髪を後ろで纏め、女性にしては背の高い体を、ゆったりとしたベルカ風の服で隠した女性、シグナムに釘付けになっている。

「ヴォルケンリッター!?」

 叔父がそう叫んだ瞬間、全てを察したシグナムとヴィータが全身鎧をイメージした騎士甲冑をその身に纏う。
 それに対して、叔父は八十を超える老人とはとても思えない、猿のように機敏な動きでこの部屋唯一の脱出口、大きな窓に向かって飛んだ。
 しかし、シグナムの方が尚速い。こちらは例えるなら雌豹だ。逃げる叔父に追いつき、足をかけて床に引き倒し、竜骨を鍛えて作られた愛剣、レヴァンティンを突きつける。

「記憶を失うか、ここで死ぬか、選べ」

 絶対零度の殺気を放ち、シグナムは言った。そこには一片の容赦も含まれていない。

「殺せ! 俺は腐っても管理局員だ! 犯罪者には屈さねえ!」

 眼を血走らせて、口から泡を吹きながら、叔父は叫んだ。その身体はわずかに震えていた。

「忠道見事である! シグナム・ベンべ・フォン・エーデルフランメが介錯つかまつる!」

 そう言ってシグナムが剣を振りかぶる。叔父はその姿をカッと目を見開いて睨みつけた。

「やめてくれ、シグナム!」

 ミヒャエルが咄嗟に叫んだ。考えてのことではなかった。ただ、口が勝手に動いたのだ。
 シグナムは咄嗟に振り下ろした剣の軌道を強引に変えた。フローリングの床にバターか何かを斬るように、ざっくりと刀身が食い込んだ。
 それを見て、逃げようとした叔父をヴィータが鉄槌を構えて掣肘する。

「主、ミヒャエル! 何故ですか!?」

 何故と言われて、ミヒャエルは数瞬、口ごもった。
 合理的な理由は無い。ただ、人殺しはいけないことだと、そう思った。
 だから、

「その人は駄目な人だけど、私の親族だ。たった一人の血縁なんだ」

 ミヒャエルはそう言った。そして、突然のことに吃驚しているメルセデスに向かって黙って頭を下げる。

「メルセデス、すまない。私達は逃げなければならない。君にも苦労を掛けるだろうが――」

 メルセデスはそれを聞いて、気丈に微笑んだ。

「いえ、貴方、それ以上は言わないで。結婚式で誓ったじゃありませんか。病める時も健やかなる時も共にいる、と。お仕着せの文言だけど、私は本気で誓ったつもりです」

「――ありがとう、私の可愛いメルセデス」

 そう言うと、メルセデスは頬を真っ赤に染めた。三十路を越えて、妻はより一層チャーミングになったとミヒャエルは思う。
 音も立てず密やかに、二階で待機していたシャマルとザフィーラが下に降りてきた。

「主上、物音がしましたが、御無事ですか?」

 いつもの鉄面皮でシャマルが言った。彼女は軍師の本分であるからと、喜怒哀楽を表情に出そうとしない。何とか、ミヒャエルとメルセデスは直そうとしているのだが、上手く行っていなかった。

「私もメルセデスも無事だが……」

 ちらりと叔父を見る。ヴィータがバインドで叔父を縛り付けて、床に転がしていた。
 それで大体の事情を察したらしく、シャマルは手を顔に当てて、ずるりと横にずらした。まるで仮面を取るように。再び衆目にさらしたその顔には満面の笑みが張り付いていた。

「殺しましょう。絞殺が一番ですね。マクスウェル・ベンべには家族もいないし、多分、大したご近所付き合いもない男やもめの一人暮らしです。
 行方不明になってもほぼ確実にばれることはないでしょう。何なら、死体に防腐処置を施してネクロマンシーで動かし、ここで生活させましょう。
 生かすメリットは全くありません」

 家族になってもう三年になるが、シャマルの満面の笑みなど初めて見る。無理に笑っている者特有の気のかげりなど一切なく、優しげな柔らかい笑みで、本当に楽しそうなのだが、言っていることは不穏当極まりない。
 さすがに固まってしまったミヒャエルとメルセデスに、ザフィーラが短く、「軍師の性です。シャマルは仮面を外したのです」と説明した。
 それで、何となく事情を察したミヒャエルが申し訳ない気持ちでいっぱいになった。

「シャマル、すまない。私は叔父さんを殺すつもりはない。拘束するつもりもない。家族皆でどうするか相談した後、無事に帰ってもらうつもりだ」

 そう言うと、途端にシャマルの満面の笑みは奥に引っ込み、いつもの仏頂面にも見える無表情になった。
 ザフィーラの説明通りなら、『仮面』を被り直したのだろう。

「ですが、主上。それは非常にリスキーです。管理外世界にまで逃げ込む必要がありますが、主上やメルセデス様には厳しい旅路になるでしょう。
 三年間、念のために最低限調べていましたが、管理局は有能です。加えて、壊滅したブラストという大型犯罪組織の残党狩りのため、広く散らばっています。
 追跡を振り切るのは困難でしょう。敢えて可能性がある世界をあげるとすれば――」

「エデンだな」

 意外にも口を挟んだのは叔父、マクスウェルだった。
 ジロリと感情を感じさせない昆虫のような眼でシャマルはマクスウェルを見た。そして、しばらく凝視した後、何かを考え込むようにシャマルは視線を下に向けた。フローリングの床をうろうろと視線がさまよう。

「シャマル、考え事?」

「はい、メルセデス様。別に大したことではないのですが」

 シャマルが不器用な笑みを見せる。それを見て、ミヒャエルは違和感を感じた。何かを隠している。
 この、神算鬼謀の軍師は意外なことだが嘘をついたり、隠し事をするのが苦手だ。根が善良であるからだろうと三年間の付き合いでミヒャエルはおぼろげに察していた。
 メルセデスはもっと深くまでわかったらしい。顔をこわばらせて、言った。

「私達が見ていない所でマクスウェルさんを殺したりしないでね」

「……それは主命でしょうか」

 シャマルがミヒャエルをじっと見つめた。
 試されている、とミヒャエルは感じた。家族として頼むなどと誤魔化したら、シャマルは「家族のために」独断専行するだろう。

「ああ、主命だ。私は君達四人を分け隔てなく家族だと思っているが、こればかりは翻せない。主命である。シャマルだけではない。ヴォルケンリッターの誰であろうとも、マクスウェル・ベンべには傷一つつけることも許さない」

 だから、ミヒャエルはそう言った。悔しかった。家族になろうと三年間頑張って来たのに、騎士達の心はまだ開けていない。
 そっと近づいてきたヴィータが袖を引いた。そちらを見ると、わかっているというように真剣な顔で頷いた。

「承知しました、主上。それでは逃走案の続きに参りたいと思います」

 ミヒャエルが頷くのを見て、シャマルは喋りはじめた。

「先ほど、そこの老人が言ったように、最終的な目的地はエデンです。
 エデンは管理局に対して中立的な立場を表明しています。また、強力な魔導師部隊を配備していて、管理局の武力に対して、ある程度の抵抗ができるほぼ唯一の世界です。
 おあつらえ向きなことにスラム街があり、戸籍を明らかにできない指名手配犯でも潜伏することが容易です。逃げ込んでしまえば、ある程度平穏な生活ができるでしょう」

 ですが、とシャマルは続けた。

「ミッドチルダからエデンは次元距離換算で非常に遠方です。正規の移動手段を使えるならともかく、転移魔法頼りではたどり着くまでに二ヶ月はかかるでしょう。
 途中、野宿を重ねることになり、体力的な不安も考えられます」

「いや、それで問題はない。すぐに準備を始めよう。メルセデス、すまないが――」

「はい、会社にすぐに辞意を伝えます。電話になりますが、まあ緊急事態だから、神様も許して下さるでしょう」

 騎士達を慮って、あえて聖王とは言わなかった。
 自分のデバイスを操作し始めたメルセデスを尻目に、ミヒャエルは叔父に話しかけた。

「そういうことですから、叔父さん、もう少し不自由な目に遭わせることを勘弁してください。必ず、無事に返しますから」

「ミヒャエル、俺は容赦なんかしねえ。すぐに管理局に通報する。お前は逮捕されるだろう。自首した方がいいんじゃねえか? 今ならロストロギア不法所持罪だけで済むだろう」

 叔父がミヒャエルの目をまっすぐに見て言った。黄土色に見える濁った眼は奇妙な圧力があった。
 首を横に振る。

「それでは、ヴィータがシグナムがシャマルがザフィーラが、私の家族が離れ離れになってしまいます。それは私には看過できません」

「……そうか。おう、ミヒャエル。俺は管理局に通報する。だけど、その前に嫌なことを忘れようと安酒を痛飲して、すっかりそれを忘れちまうだろう。
 多分、三日は忘れちまうな。うん、間違いねえ」

 天井を見ながら、どうでもいいことのように叔父は言った。
 ミヒャエルは目頭が熱くなるのを感じた。あふれ出そうな涙を必死でこらえる。

「ありがとう、ございます」

 こんな人だから、ミヒャエルは叔父を嫌いになれなかったのだ。

「それじゃあ、皆、準備を始めよう。叔父さんは悪いけど、もうしばらくそこに転がっていてください」

「……仕方ねえな」

 憮然とした顔で頷くマクスウェルにミヒャエルは笑いかけた。
 そして、背を向ける。
 振り返っている暇はない。準備を急がなければならない。そうして、騎士達と相談しながらミヒャエルは居間から出て行った。
 後には縛られて、十年もふけこんだように見える、弱弱しい老人が残された。




[34641] ミヒャエル・ベンべ⑥
Name: 烏賊様刻◆e7251814 ID:c9e6522c
Date: 2013/04/07 12:43
 デパートに客を取られて閑古鳥が鳴く商店街の片隅。
 古くて不潔な感じがする薬局で店主は首をひねらせた。

「ごめんね、お嬢ちゃん。良く聞こえなかったからもういちど言ってもらえる?」

 目の前の、赤毛でちょっと吊り上った大きな目がキュートな美少女に言った。
 別に聞こえなかったわけではない。ただ、言ってることが信じられなかったのでもう一度確認しようと思っただけだ。

「に、ん、し、ん、け、ん、さ、や、く、お、い、て、あ、る?」

 はっきりと一音一音区切って、少女が言った。
 それを信じられない物を見るような眼で店主は見た。
 妊娠検査薬である。尿をかけることによって、妊娠しているか否かを判断する物で、断じて目の前にいるいたいけな少女が買う物ではない。
 まさか、そんなものをおつかいに行かせる両親もいないだろう。
 ということはこの少女が使うと言うことになる。

「ああ、聖王様!」

 敬虔なベルカ教信者である店主は指で三角を描いた。
 読書家である彼の頭の中では、九歳の少女が妊娠し、子供を産む一大ドラマが三百ページ超えの大作で描写されていた。

「お嬢ちゃん、苦労はあるだろうけど、自分の身体は大切にしなきゃいけないよ」

 よく見れば、来ている服も土埃で汚れている。
 これはもしかして孤児か流行りのストリートキッズか、と店主はあたりを付けた。

「そりゃあ、自己管理ぐらいしてるけどよ」

 自己管理、ときた。これは育ちが良いに違いない。体を売らなければならない事情があるのだ。事業の失敗か、不倫が原因の家庭崩壊か、どちらにせよ何か不幸があったのだ。

「そりゃあ、その年でそういうことをしなきゃ、大変なのはわかる。でも、ほら、見てみな」

 店の棚から店主が取りだしたのは薄いゴム製のカバーだった。腸詰めでも作れそうな形だ。

「何だ、それ?」

「……水筒だ」

 聞き慣れぬ声に振り返るとジト目をした銀髪の浅黒い肌の男がいた。頭についた蒼いオオカミの耳で、使い魔だとわかった。
 背中からはみ出るほど大きな登山用リュックサックは、荷物でパンパンになっている。

「店主。その娘は純真なんだ。変なことを教え込まないでもらいたい。
 その娘の母親が懐妊したかもしれないので産婦人科に行く前に確認しに来た。それだけだ」

 それを聞いて、店主は自分が勘違いしていることにやっと気づいた。

「わ、わかってますよ! ただの冗談です! ちょっと下世話だったかな!? 当店の妊娠検査薬は的中率百パーセント! 今なら栄養ドリンクも無料でつけちゃいましょう。お買い得ですよ!」

 そう大声で言って、店主は笑みを浮かべて誤魔化した。
 蒼い使い魔ははぁっと大きなため息をついた。





 ザフィーラとヴィータが物資の買い出しから帰ってきたのは太陽が沈みかけた午後四時のことだった。
 洞窟の入り口で警戒していたシグナムに会釈し、残り三人が待つ奥に向かう。

「お帰りなさい、ヴィータ、ザフィーラ。買い物はちゃんとできた?」

 そう言ったのはメルセデスだった。
 朝、出かける前よりだいぶ顔色が良くなっている。

「買い物ぐらいできるよ、母ちゃん。あたしだってガキじゃねえんだから、」

「メルセデス様、どうか我らなど気になさらず、お休みになられますよう」

 ザフィーラが気遣うと、メルセデスは苦笑して、ビニールシートを敷いただけの粗末な寝床に横たわった。
 メルセデスが激しく嘔吐したのは今朝のことだった。
 すぐにシャマルが診断し、生理が遅れていることを確認し、最後にミヒャエルがいつ、メルセデスを抱いたかをちょっと申し訳なさそうな顔で聞きだし、「おめでたです」と結論付けたのだった。
 万が一誤診だったときの保険として、ヴィータとザフィーラが買い出しがてら、街まで妊娠検査薬を買いに行ったのだった。

「ほら、見なよ。あたしのスーパーネゴシエーションで薬屋のおっちゃん、こんなにおまけしてくれたんだぜ?」

 栄養ドリンクのボックス(一ダース入り)を両手で掲げて、ヴィータが自慢げに報告する。
 メルセデスがあらあらと自分のことのように微笑む。子供が長く生まれなかった彼女はヴィータを実の娘のように溺愛していた。

「薬屋さん、困ってなかった?」

「いえ、正当な報酬です」

 リュックサックを下ろして、荷物を整理していたザフィーラが短く、だが、どこか疲れたような声音で答えた。

「目立たなかったでしょうね?」

 それを見たシャマルがほんの少し眉をひそめて言う。

「大丈夫だよ。見られたのはその薬屋のおっちゃんだけだ。ザフィーラは目立つっちゃ、目立つけど、それはしかたねえだろ?」

 不測の事態は常に起こり得る。管理局や賞金稼ぎの不意の襲来に備えて、最強の戦力であるシグナムと軍師のシャマルは残らなければならなかった。
 メルセデスの容体が急変する可能性があったということもシャマルが動けなかった理由の一つだろう。
 ミヒャエルとメルセデスは街には入れない。何せ、変装してコンビニエンスストアで買ってきた新聞には二人のバストアップ写真がカラーで掲載されていたのだから。
 賞金は目撃情報で二百万、捕獲して突きだせば二千万だ。当然、生死問わず、である。これだけで管理局の本気が伺えよう。
 流石のシャマルもその記事を見て、六十年前にやりすぎたことを後悔した。もっとも記憶は曖昧で何をしたのかほとんど覚えていないのだが。
 今も、恐る恐ると言った感じで口を開く。

「……その、メルセデス様。もしご懐妊なさっていた場合、堕胎なさるとか――」

「ノーサンキューよ」

「……ですよね」

 彼女がこう言うことは半ば予想できていた。
 次の方策も考えてはいるが、正直ハイリスクだ。その上、リターンが少ない。

「ひとまず、経過を見るために一週間ほどこの世界に滞在しましょう。さすがに野宿ではお体に障るかもしれませんので、町はずれの無人ホテルに泊まります」

 それを聞いて合点が言ったというようにザフィーラは頷いた。シャマルはザフィーラに買い物のついでに宿泊施設を探してくるよう指示していた。
 しかし、他の皆が不安そうな顔をしている。

「シャマル、危険ではないのか? 私とメルセデスは面が割れているわけだし、管理局もお前達騎士の情報を入手している可能性があるぞ」

 代表してミヒャエルが聞く。予想していた質問だったのだろう。シャマルは即座に答えた。

「監視カメラさえ誤魔化せば概ね大丈夫だと思います。幸い、素早く行動したおかげか、管理局には捕捉されていません。ひとまず、英気を養いましょう」

 そう言ってぎこちなく微笑むシャマルに、ミヒャエルはほっと息を吐いた。

「そうか。正直に言うと野宿で身体の節々が痛んでいたところだ。柔らかいベッドで眠れるのはありがたい」

 ミヒャエルは五十路でぎっくり腰になって以来、腰を慢性的に痛めている。寝袋があるとはいえ、硬い地面で眠るのは苦痛だっただろう。
 そろそろ限界だろうと察してのシャマルの意見だ。闇の書の参謀"湖の騎士"に抜かりはない。

「主、ミヒャエル。方針は決まったと考えてよろしいでしょうか?」

 シグナムが相変わらず、キビキビとした動作で周囲を警戒しながら言う。

「ああ、妊娠検査薬の結果を見てからだが、無人ホテルに泊まって英気を養う方向で行こう」

「承知しました。それではメルセデス様、時間が惜しいので、申し訳ないですが手早く検査をしていただけますか?」

「わかったわ、シグナム」

 頷いて、メルセデスが立ち上がるとヴィータとシャマルが素早く左右につく。そして、洞窟の外に出て行った。
 検査の結果は陽性だった。





 格安モーテルとはいえ、ベッドはベッドだ。ミヒャエルとメルセデスは久しぶりの安眠をむさぼった。
 ザフィーラとシャマルが変装魔法で姿を変えて、スイートルームを一つ取り、転移ポイントを作成した後、全員を連れてくるという手法を取った。
 監視カメラには当たり障りのない青年と緊張しているのか、ひどく無表情な女のカップルが泊まっているとしか思われないだろう。

「しかし、所長には感謝しなければいかんなあ」

 ミヒャエルが感慨深げにつぶやく。
 エデンに行っても金は必要なため、節約しなければならないのだが、場末のモーテルとはいえ、スイートルームに一週間泊まる気になれたのは、ひとえにメルセデスの退職について理由を何も聞かず、すぐに退職金を口座に振り込み、再就職支度金という名目で百万も個人的に包んでくれた所長のおかげである。得難い後輩を手に入れた、とミヒャエルは素直に思った。

「ええ、本当に所長さんには感謝してもし足りません。エデンに着いて落ち着いたら手紙を書きましょう」

 メルセデスも相槌を打つ。つわりが酷かった彼女だが、今は落ち着いている。
 食欲も少しずつ出ていて、今日などヴィータと同じ量をぺろりとたいらげてしまうほど回復してきている。
 胎児のためにも少し過剰なぐらい栄養を摂取した方が良い、とシャマルもアドバイスしている。

「一週間ということだったけど、今なら転移魔法にも耐えれそうです。そろそろ出発してもいいかもしれませんね」

「ふむ、本人がそう言うのならそうかもしれんな。シグナム、ヴィータ、どう思う?」

「進むも留まるもメリットとデメリットの両方があります。シャマルと相談してから決めるのが最善でしょう」

「あたしは学が無いからそういうのはさっぱりだけど、無理はしない方がいいんじゃないか?」

 二人の言葉を吟味して頷く。

「慎重に行きたいが、先を急ぎたいのも事実だ。二人が帰ってきたら相談してみよう」

 シャマルとザフィーラは現在街に情報収集がてら、買い出しに行っている。
 情報収集と言っても、新聞を読み、街の雰囲気を観察し、管理局の手が密やかに迫ってきていないか確認する程度のものだが、重要なことだった。
 カーテンを閉め切った薄暗い部屋の中で、ミヒャエルとメルセデス、シグナムとヴィータの四人はじっと息をひそめていた。
 掃除ロボットがベッドメイキングに来た時だけ、浴室に隠れるものの、基本的には部屋でのびのびとしている。
 シグナムとヴィータの生前の武勇伝や、ミヒャエルが昔読んだ小説の話。メルセデスのベルカ演劇の話などでそれほど退屈ではない。
 小さいがテレビもある。野宿より何倍も楽だった。だから、気楽に二人が帰ってくるのを待った。

「ミヒャエル様、緊急事態です」

 帰ってきて、荷物も置かずに、だが、相変わらずの無表情でシャマルは言った。平坦な口調には焦りなど微塵にも感じられない。
 だが、ザフィーラを見れば、寡黙な彼が表情を歪ませていて、相当焦っているのがわかる。

「管理局の次元航行艦が一隻、入港しました。目的はわかりませんが、私達が補足された可能性が高いかと」

「――っ! わかった。対応策を聞かせてくれ」

「プランとしては主に二つです。逃げるか、息をひそめて隠れるかのどちらかです」

 そのまま、シャマルはそれぞれのメリット、デメリットを説明した。
 逃げる場合は相手がこちらを追ってきていない場合は有効だが、補足されている場合、転移先に先回りされる可能性がある。
 隠れる場合は捕捉されていたとしても万全の準備で迎え撃つことができる。しかし、見つかっていない場合、局員に偶然見つかる可能性が低いがある。
 ミヒャエルはしばらく熟考し、そうして決断した。

「……隠れよう。メルセデスは病み上がりだから、急な転移は避けたい。私は君達四人の、ヴォルケンリッターの強さを信じる。期待に応えてくれるか?」

「主、ミヒャエル。その言葉には私達はこう答えましょう」

 一瞬の沈黙の後、騎士達を代表して、シグナムが言った。

「ベルカの騎士に負けは無い」

 四人が言葉をそろえる。それは遥かな昔から連綿と続く騎士達の誇りであった。





 ウィリス・ジープスターは困っていた。
 偶々補給のために寄港した管理局次元航行艦ミーティアで、乗組員に半日の自由行動を許可して、自身もいそいそと街に出てきた。
 そこまでは良かったのだが、急な腹痛に襲われたのだった。慌てて商店街に駆け込み、整腸剤とミネラルウォーターを買う。ゴクゴクと喉を鳴らして飲むと、腹痛はすっかり治まった。

「ありがとう、おっちゃん。おかげで助かったよ」

「いや、お客様だからね。しかし、今日は変な客が多いな」

 人の良さそうな店主に礼を述べると、店主は満更でもなさそうな表情をした。

「変な客?」

「いや、お客さんが変だってわけじゃないよ!? ただ、ちょっと変わった客がいたから」

 どうも口が軽いらしい店主が慌ててそう言うと、ウィリスは気にしてないことをアピールするように微笑んだ。

「いえ、お構いなく。それでどんなお客さんだったんですか?」

「九歳ぐらいの赤毛の女の子と、銀髪で肌が浅黒い使い魔だよ。
 小っちゃい女の子がいきなり、妊娠検査薬置いてるか、なんて聞くもんだから吃驚しちゃって」

「ああ、そりゃあ吃驚するよね」

 同意しながら、ウィリスは偶々、最近出回った手配書を思い出した。デジタル全盛のこのご時世でモンタージュだったので印象に残っていたのだ。

「おっちゃん、もしかして、その二人ってこんな感じ?」

 デバイスを操作して、絵を見せると店主は表情を凍らせた。
 そこには釣り眼の赤毛の女と銀髪に蒼い獣耳を生やした青年が描かれていた。

「そうだ、こいつだ。こいつに間違えねえよ!」

 店主の言葉を聞いてウィリスは出世する絶好のチャンスだと感じた。
 黒犬を用いてでも逮捕するべきだ。素早く計算し、誰にも言わないように店主に言い含め、些少の金を包んで渡すと急いでミーティアに戻る。

「随分早いですね、艦長。何かありましたか?」

 ブリッジに入ると当直の副長が声をかけてくる。

「ああ、大チャンスだ。闇の書の一行がこの世界に潜伏している可能性が高い」

「何と!?」

 驚く副長に管理局執務官、次元航行艦ミーティア艦長、ウィリス・ジープスターは冷静に命じた。

「休暇は取り消しだ。全局員を調査に回す。黒犬にも準備をさせておけ」 





 最初に異変に気付いたのはシャマルだった。次元航行艦をサーチャーで監視していた彼女は、街に出ていた局員達が徐々に次元航行艦に戻り始めたことを不審に感じた。

「皆聞いて。気づかれたかもしれないわ」

 そう言うと、休んでいた全員がシャマルを見る。
 即座にサーチャーの映像を空中に投影する。

「確かに意味ありげな行動だな」

「そうか? 他の世界で事件が起こって緊急出動するつもりなのかもしれん」

 呟いたザフィーラにシグナムが返す。

「それはないわ。ほら、陸戦隊が街に出てきた。明らかにこちらを探す気ね」

 バリアジャケットで身を包んだ局員達が、手早く、街に散っていく。それを隠密型サーチャーで見てとり、シャマルは策を練っていく。

「ここは先手を取りましょう。メルセデス様とシグナムにはここに残っていただき、ミヒャエル様とヴィータ、ザフィーラ、そして私の四人で敵を各個撃破します。そのまま四人で囮になって、次元航行艦をできれば航行不能の状態にして、すぐに合流。転移魔法で逃げ出すことが最善手だと思います」

 シャマルの言葉に数瞬の沈黙の後、全員が頷いた。
 敵の重要目標でありながら、非魔導師であり、戦闘に置いて無力なメルセデスの護衛に最強であるシグナムを置く。
 残りの四人で敵を引き付けつつ、次元航行艦を破壊し、敵の足を止める。
 ハイリスクだが、この状況を打開するにはこれしか方法が無い。そう結論付けて、部屋を出ようとしたとき、

「嫌な予感がするな。シャマル、あたしもここに残っちゃ駄目か?」

 ヴィータが言った。瞬時に騎士達の雰囲気が緊迫する。

「貴女は室内での戦闘には向いていないわ。次元航行艦への攻撃という観点でも二人残すとしたら、ザフィーラを残すことになるけど……」

 さすがにミヒャエルを連れて行動するのにヴィータとシャマルだけでは心もとない。ヴィータはスタミナに重大な問題を抱えているし、シャマルは本来後方支援担当なのだ。
 ただ、ヴィータが言った。それだけで考慮に値した。ウォークライと鬨の声を子守唄に戦場で育ったヴィータの勘は鋭敏すぎて、もはやレアスキルに近い。
 彼女が嫌な予感がするということは確実に敵が何か切り札を隠し持っているということなのだ。

「入り口にバリケードを作っておきましょう。それだけでもだいぶ時間が稼げると思うわ」

 そう言って、固定されていたベッドを入り口を塞ぐように置き、小さなタンスを上に乗せ、最後におまけとばかりに古びたテレビを置く。
 全てを終わらせて、シャマルはヴィータとザフィーラ、ミヒャエルを連れて、転移魔法で消えた。





 転移魔法はシャマルの意図通り、寸分たがわず、三人組の管理局員の真上に現れた。
 騎士甲冑を纏ったヴィータとザフィーラが局員を二人、蹴り飛ばす。五メートルも吹っ飛んだ局員をわずかに目で追ってから、ザフィーラは最後の一人に突進した。
 右で軽くフェイントをかけてから、左のボディーアッパーで肝臓を突き上げる。クリーンヒット。拳の先に感触は無かった。経験から腹筋を抜いて内臓にまで衝撃が伝わったことがわかった。
 ぐったりして、倒れる局員の顎に掌底。確実に気絶させる。

「ザフィーラ、ヴィータ、お疲れ様。次は次元航行艦よ」

 それを当然と言った風情でシャマルは受け入れた。そして、転移魔法の準備に入る。
 そして、再び、シャマル達は光の粒子となって消えた。

 次に転移したのは次元航行艦ミーティアの駐留している港だった。
 すぐにヴィータが己の最強の一撃、ギガントシュラークの準備に入る。
 だが、ミーティアはもはや地上に留まっていなかった。はるか上空を飛行し、非殺傷設定のレーザーを雨霰と打ち込んでくる。
 余波で街が破壊されようとお構いなしといった風情だ。
 とっさにビルの陰に身を隠しながら、シャマルがヴィータに目くばせする。しかし、ヴィータは黙って首を横に振った。
 相手の高度がありすぎる。上空八百メートルといったところか。近づこうにもあれだけ高出力のレーザーを乱射されてはさすがに厳しい。
 さて、どうするか、とシャマルが思考を始めたときだった。
 次元航行艦から複数の影が降りてくる。漆黒のバリアジャケットに黒いマスク。黒い長杖型デバイスを持った男が十人、音もなく、地面に着地する。
 着地するやいなや、十人の男たちはミヒャエルに向けて、一斉に魔力弾を放ってきた。咄嗟にザフィーラが間に入り、ミヒャエルを守る。そして、ヴィータが何となく警戒が疎かだと「感じた」一人に突進し、鉄槌で殴り飛ばした。吹き飛ぶ男のバリアジャケットが解除され、素顔がのぞく。すぐさま、残りの九人が距離を取る。仲間がやられた動揺など微塵もない。その一糸乱れぬ行動にシャマルは表情をわずかにこわばらせた。

「注意してください。どうやら敵は精鋭のようです」

 その言葉にミヒャエルは頷いた。

「そのようだ。だが、魔力量自体は大したものではない。ザフィーラも攻撃に回ってくれ」

「承知致しました」

 ザフィーラが自重を後ろ足から前足にかけ直した。顔面を守るようにあげていた両手を胸元まで下ろす。攻撃と前進を重視して、心持ち前傾姿勢になる。
 そして、半包囲しようと展開する敵、黒犬に正面から突っ込んだ。





「メルセデス様、危険ですので窓には近づかないようにしてください」

 シグナムの言葉にメルセデスは顔を青ざめさせながらも頷いた。
 かなり消耗なさっている。そうシグナムは感じた。訓練も受けていないただの一般人としては仕方のないことだろう。しかも、数日前まではつわりに苦しんでいたのだ。
 故に移動するのは危険だ。パニックに陥る可能性がある。部屋の中ならまだ、何とでもできる。
 ちらりと部屋の中を確認する。中央にあったベッドを移動させたおかげで部屋の中は何とか剣が振れる程度には広い。ベランダに出るための大きな窓と明かりとりのやや小さめの窓とバリケードで塞がった入り口。この三つをシグナムは一人で警戒しなければならなかった。
 部屋の外、廊下に飛ばしたサーチャーがバリアジャケットを着た男を察知した。十中八九、武装局員だ。宿泊客を確認しているらしい。
 シャマルの予想より、十五分近く早い。バリケードをどかし、変装して応対し、誤魔化すことを一瞬考えた。
 だが、すぐに否定する。上手くやれる保証はない。それにこの狭い室内なら一人でもメルセデスを守りきれる。その自信がシグナムにはあった。そして、それは決して慢心ではない。
 コンコンとノックの音が響く。メルセデスが息を呑むのがわかった。レヴァンティンを展開しながら、視線で落ち着くように促す。頷いて、メルセデスは静かに深呼吸を始めた。静寂に満ちた室内に息を吸って吐く音が響く。
 一分ほど経って、人の気配が離れていくのがわかった。だが、強襲してくる可能性がまだ無くなったわけではない。シグナムは剣の柄を強く握りこんだ。
 五分経過したところで、サーチャーがぞろぞろと現れた管理局員を感知した。気づかれた、とシグナムは冷静に判断した。

「メルセデス様」

 小さくそう呟くとメルセデスは青ざめた顔を無言で頷かせ、バスルームの方に避難していった。
 ガゴッと大きな音を立てて、入り口のドアがひしゃげた。更にもう一度、轟音が響き、バリケードになっていたベッドがシグナム目がけて飛んでくる。
 それを力任せにシグナムは弾いた。ベッドが真横に飛び、壁にぶつかって大きな音を立てる。そのまま、飛び込んできた局員を剣の腹で思いっきり殴りつけた。後続を巻き込んで吹き飛ぶ魔導師を尻目にシグナムは部屋の中央に陣取った。この位置にいれば室内全てを制空圏に納めることができ、不意打ちにも対応しやすい。
 壁で半身を隠した局員が射撃魔法を撃ち込んでくる。隙ができることを嫌ったシグナムは無視して、騎士甲冑で受け止めた。当然、被害は無い。
 局員達が退いていくのがわかる。これは厄介な敵だとシグナムは再認識した。撤退の判断が迅速で正確だ。良い指揮官がいるのだろう、と思考する。

(シャマル、そっちはどうだ?)

(敵の精鋭と交戦中よ。負ける要素はないけれど、上空の戦艦からの援護に加えて、遅滞戦闘を完璧にされている。転移魔法の発動は難しいわ)

(わかった。こちらも気を付けよう)

 暗にそちらを助けにはいけないと言われて、シグナムは特に感慨もなくそれを受け入れた。
 精鋭がまだいるなら、次はそいつらが来る。負けるつもりなど微塵もない。そう気合を入れ直した。





 ミヒャエルは目の前で行われる戦いに呆然としていた。騎士達が古代ベルカで戦場を駆け抜けた英雄の現身であることは理解していた。だが、まさかこれほどのものだとは。
 上空の次元航行艦の援護射撃をまるで見えているかのように避ける。そして、九人の黒づくめの精鋭達をたった三人で的確に対処していく。
 相手も何とか遅滞戦闘を繰り広げているものの、ジリ貧
であることは疑いようがない。遠からず、駆逐が完了するだろう。
 間隙をつき、ヴィータが雄叫びをあげて、敵陣に突っ込む。当然、攻撃がヴィータに集中するが防御魔法で防ぎ切り、鉄槌を振るう。それを後退して黒づくめが躱すが、その隙にザフィーラが踏み込んでいる。数発の射撃魔法が騎士甲冑に突き刺さるが気にした様子もなく、左のボディーブロー。くの字に身体を曲げて悶絶する男の後頭部に肘を撃ち込む。ぐったりと糸の切れた人形のように倒れこんだ黒づくめに一瞬、残心し、ザフィーラは八人となった敵に向き直った。
 更に追撃を加えようとするが、上空から援護射撃。ザフィーラとヴィータが後方に飛んで躱す。その間に黒づくめ達はさらに距離を取った。
 シャマルはじっと戦況を見ている。シグナムとザフィーラを交代させる機を狙っているのだ。だが、相手もわかっているのかそんな隙は見せない。

「ヴィータ、突出しすぎだわ。もう少し戻って。ザフィーラも」

 叫ぶと即座に二人が反応する。後方から見ているとよくわかる。相手の本命はバリアブレイクからの格闘戦。射撃魔法も遅滞戦闘も上空からの援護射撃もそのための伏線に過ぎない。
 ミヒャエルは知らなかったが彼らの名は黒犬。ウィリス・ジープスター率いる特殊部隊であり、どんな状況でも任務を遂行する精鋭と言われていた。
 全員が空戦Aランク相当の魔力を持ち、その定員は十五名。その内の三分の二が今、ここにいる。だが、ヴォルケンリッターの二人を相手にするにはいささか役者不足のようだ。
 問題は相手が時間稼ぎに徹していること。おそらく、シグナムの方に人員を集めている。あの狭い室内でシグナムに勝てる人間がいるとも思えないが、油断は禁物だ。できれば、すぐに戻ってメルセデスを防衛したい。もう一度、相手を見る。何とかならないかとシャマルに視線を送るが、首を横に振られる。いくらヴィータとザフィーラといえ、バリアブレイクされた無防備な体に魔力弾がヒットしたら気絶を避けられない。心配事は尽きないがじっくりと攻めなければならなかった。





 それが来た時、シグナムは杖代わりにしていたレヴァンティンを右脇に構えた。ベランダと入り口正面の明かりとりの窓、そして、バリケードを破壊された入り口にメルセデスが隠れるバスルームの入り口と四か所を同時に警戒しなければならないため、剣が体幹に近く、動きやすい脇構えを取ったのだ。まず、電気がふっと消えた。薄暗くなった室内でじっとシグナムは待った。弓兵でもあるシグナムは待つことに慣れている。
 ベランダに音もなく気配が降り立つ。それに向かってシグナムが駆けた。そのまま、剣を振り下ろす。杖で受けられるが、シグナムの剛剣はその程度では止まらない。受けた杖ごと敵の頭を割る。
 脳震盪で気絶する黒づくめの男、黒犬を一顧だにすることもなく、部屋の中央に戻る。部屋の入口に黒犬が一瞬姿を見せた。そちらに反応した瞬間、明かりとりの窓をぶちぬいて新たな黒犬が侵入してきた。
 はじけ飛ぶガラスの破片に続くように黒犬がシグナムに近づく。だが、振り向いたシグナムが剣を振る方が尚速い。手加減する余裕は無かった。横薙ぎの一撃で首をはねる。噴水のように血をふきだして、黒犬が倒れる。同時に部屋の外で様子をうかがっていた男に魔力刃を飛ばす。倒すことはできなかったがこちらが遠距離戦での攻撃手段を持っていることは誇示できた。

「きゃあっ!」

 バスルームから上がったメルセデスの悲鳴に慌てて駆け戻り、バスルームの扉を開く。そこには黒犬に後ろから羽交い絞めにされたメルセデスがいた。二人の周囲には召喚用の魔法陣が展開されている。
 シグナムは一瞬の躊躇もなく、黒犬目がけて突きを放った。メルセデスの顔の脇をかすめて、喉仏に刃が突き刺さる。だが、召喚は続行され、黒犬とメルセデスは光の粒子を残して消え去った。
 一人残されたシグナムはバスルームの様子を探る。簡素な水洗トイレの上、天井に大きな穴が開いている。天井裏。何故気づけなかったのか、とシグナムは歯噛みした。

(シャマル、済まない。メルセデス様がさらわれた。至急そちらと合流する!)

(――っ! わかったわ。ポイントは……)

 シャマルの指示を聞いて、全力でシグナムは飛び出す。その顔は焦燥に駆られていた。





[34641] ミヒャエル・ベンべ⑦
Name: 烏賊様刻◆e7251814 ID:c9e6522c
Date: 2013/04/14 13:31
「黒犬が五人、再起不能だと!?」

 ウィリス・ジープスターは艦橋で吼えていた。
 ある程度の損害は覚悟していたがまさかこれほどとは。
 ウィリスの切り札である黒犬が二名死亡、三名重傷。三人とも頭部を強く打たれ、脳を損傷。半年以上のリハビリを必要するだろう。それほどの損害を出しながら相手のカートリッジすら使わせていない。
 辛うじて成果と言えるのは、ミヒャエル・ベンべの妻、メルセデスを捕えたことだ。
 現在、尋問していて、何か情報を得ることができないか担当者がやっきになっているところだ。

「……ありえん! このままでは失態になる! 私が出世できなければ、祖国はどうなる!?」

 ウィリスは高ランク魔導師として生まれ、祖国の期待を一身に背負って管理局に入った。自分が活躍し、出世すればそれだけ祖国は豊かになる。それだけを夢見て執務官になったのだった。
 祖国を思う。広い国土を持ちながらも工業が一部都市で発展し、所得格差が広がっていく発展途上国。きらびやかな生活を送るセレブがいる一方で寒村では仕送りのために若者が都市部に出稼ぎに出て、老人が田畑を曲がった腰で耕している。そんな現実を変えるためにウィリスは管理局に入り、祖国の地位を向上させ、外資を流入させようとしていた。ウィリスは負けるわけにはいかなかった。例えどんなことをしてでも。

「ジープスター艦長」

 尋問を担当していた士官がブリッジに入ってくる。

「どうした?」

「ホシは何もしゃべろうとしません。P-96の投与許可を」

 P-96とは管理局の自白剤である。後遺症が少ないというメリットがあるが、デメリットとして効果が低い。だからといって大量に投与すると、今度は副作用として心停止などの生命の危険が生じる。
 しかも、使用量に関して、綿密に記録し、報告書を本局に提出後、査察を受けなければならない。正直、真っ当な執務官なら使用を躊躇うものだった。

「確か、新人の拷問官が研修で乗っていたな」

 要請には答えず、確認を取る。

「ええ、プラット・ホイットニー三等海尉ですね」

 本局に頼まれて、新人の研修を引き受けることがある。今回も一人の男をミーティアに乗せていた。
 名前はプラット・ホイットニー。後に拷問官廃止を管理局が掲げた際、槍玉に上がった男である。

「尋問に投入しろ。何をしても構わないと言え」

「艦長、正気ですか?」

 拷問官の不法投入は管理局法に抵触する。しかも未知数の新人だ。上手く行かない可能性もあるし、本局に知れたら懲戒免職もあり得る。
 自白剤を使うよりリスキーだ。何より人道的にどうなのか。
 そう言いたげな士官をウィリスはジロリと銀縁眼鏡越しに睨みつけた。

「今は少しでも情報が必要だ。闇の書を封印するには致し方ないことだ。覚醒すれば何が起こるかわからないのだぞ」

「しかし……」

「しかし、ではない。この失態を返上する機会が必要だ。責任は全て私が取る。君も手柄が欲しいだろう?」

 そう言うと士官は黙り込んだ。本局に来て、昇進を望まない者などいない。少なくともミーティアではそうだ。ウィリスは艦長としてクルーの来歴を全て諳んじている。それ故にこう言えばこの士官が黙ると知っていた。ブリッジの中心での出来事だったが、当直の下士官たちは皆、聞かないふりをしている。スキャンダルを吹聴する者などいない。ウィリスはそう言う風に人員を育ててきた。そこに抜かりはない。

「もう一度、命じる。プラット・ホイットニー三等海尉に尋問を主導させろ。情報を搾り取るためならば、全てを許可する」

 その言葉に士官は不承不承頷いた。





 メルセデスはただひたすらに黙秘を続けていた。黙秘と言ってもかたくなに何もしゃべらないと言うことではない。
 尋問官が当たり障りのない話題を投げかけてきたら、無難に答える。だが、肝心なこと、つまりヴォルケンリッターの名前や能力であるとか、夫の健康状況や闇の書の状態などの戦略、戦術を左右するような話に入ると途端に黙り込んだ。その話題が続く限りテコでも喋らなかった。誘導尋問にもひっかからない。喉が渇いただろうと水の入ったコップを差し出されたが、一滴も飲まなかった。アルコールでも入っていたら目も当てられないからだ。
 三時間ほどで尋問官は席を立って出て行った。後には手錠をつけられたメルセデスだけが暗い部屋に残された。部屋は尋問用のライトの効果を最大限にするためか、明かりがついていなかった。部屋の入口あたりにスイッチがあるのは知っていたが、メルセデスはあえて立とうとは思わなかった。ただ、じっと息を潜めて、不安で押しつぶされそうになるのを耐える。彼女はミヒャエルが助けに来てくれるのを確信していた。あのとき、スラムにたった一人で乗り込んできたミヒャエルの勇姿をメルセデスは鮮明に覚えている。今は頼りになる騎士が四人もいる。それほど長く耐える必要はないはずだと自分に言い聞かせる。

(そう言えば、ヴィータちゃんは心配してないかしら。……してるだろうな)

 騎士たらんとしている彼女であるが、ヴォルケンリッターの中でもっとも心を開いてくれていることは間違いない。子宝に恵まれなかったメルセデスにとって実の娘のようなものだ。できればヴィータにも母親のように思って欲しいと願っている。
 だが、ヴィータは確かに母ちゃんと呼んでくれるが、それは自分が喜ぶからだろうと薄々察していた。騎士達は乱世を、平和な世界に生まれた自分達には想像もできないような地獄の中を生き抜いてきたのだ。 偶々闇の書に選ばれたために主君になったミヒャエルとその妻に過ぎないメルセデスに心を開けるはずがない。彼女達はそれぞれ、元々仕えるべき主君がいたのである。あるいはミヒャエルに王器があれば、彼女達も心を開けたかもしれない。だが、ミヒャエルは勿論、メルセデスにもそんなものは微塵も無かった。ただ、家族になりたいと願うことしかできない。

――あたしはずっと一人で生きてきたから、家族とか言われてもよくわからないんだ。

 そう呟いた赤毛の少女に差した深い影をメルセデスは忘れられない。三年間も一緒にいたのに、彼女達の人生はもやがかかったようにはっきりしない。こちらが踏み込もうとすると彼女達の顔が曇る。時間をかけないと仕方がないのだ。そう思って待つしかなかった。
 それでも、少し成果はあった。シャマルがほんの少し笑ってくれた。義叔父を始末しようと言った時のような笑みではない。もっとぎこちない、だけど穏やかな本当の笑み。
 あのときはミヒャエルとハイタッチして喜びたかったほどだった。逃亡生活中であったことと、つわりが酷くなってきたことでできなかったが。
 だから、屈するわけにはいかない。メルセデスは何も情報を漏らすつもりは無かった。
 それがどれほど困難なことか世界の裏側をほとんど知らないメルセデスにはわからなかったが。
 コンコンと軽快なノックの音が響く。肩の力を抜いていたメルセデスはすぐに背筋を伸ばし、椅子に座り直した。
 特に返事を待つことなくドアが開き、男が一人やって来た。金髪碧眼、切れ長の目と高い鼻が特徴的な眉目秀麗な青年だった。

「メルセデス・ベンべさんですね。僕はプラット・ホイットニー。前任者から貴方の尋問を引き継ぎました。よろしく」

 彼は人好きのする笑みを浮かべて、手を差し出した。メルセデスが会社勤めの経験から反射的に立ち上がり、その腕をとる。

「ギッ!?」

 その瞬間、メルセデスは激痛に腕を引いた。指を見ると人差し指の爪がはがされている。赤く腫れて痛々しい指先、その付け根の部分から血が溢れだした。

「おっと、あまり美しい悲鳴じゃないな。まあ、御婦人には少し過激な挨拶だったと思うけど、僕がどんな人間か、わかりやすくて良いでしょう?」

 対するホイットニーは笑みを浮かべたままだった。

「ミズ・ベンべ。貴女は前任者の尋問で有益な情報を何もしゃべらなかったとか」

 熱に浮かされたようにホイットニーが言う。その眼を見て、メルセデスは喉元まで込み上げた悲鳴を辛うじて押し殺した。瞳に宿る黒々とした狂気。人を害することを至上の喜びとするような、そんな目をしている。敢えて言うなら、義叔父を殺そうと言ったときのシャマルが一番近い。

「素晴らしい。僕に対しても何もしゃべらないで欲しい」

 狂人は満面の笑みを浮かべたままそう言った。

「僕は貴女のような強い人を待っていたんだ。僕の覚えた技術全てを貴女に施そう。きっと、貴女はこう言うだろう。何でも喋るから殺してくれ、と。だが、それはできない。捕虜の殺害は管理局法で禁じられているんでね」

「捕虜への不当な虐待も法で禁じられているのではなくて?」

 辛うじてそう返すとホイットニーは更に笑みを深めた。

「安心してほしい。艦長の許可を得ているし、必要なら僕は罰されるつもりだよ。何をしても良いと言われたんだ。わかるかい? 何をしても良いと言われたんだよ!」

 全身から迸る狂気。メルセデスは顔をひきつらせながら、ただ身構えた。

(ミヒャエル、皆、どうか私に力を貸して)

 祈りはむなしく、虚空に響いた。





 シャマルはただひたすらに空中に浮かんだ七枚のディスプレイを眺めていた。指輪型デバイス、クラールヴィントを操り、画面をスクロールさせ、精査していく。
 もうかれこれ二日間、シャマルはこの作業に没頭していた。休憩を取る様子はない。他の騎士達は勿論、ミヒャエルも慣れないサーチャーを駆使して、探っているが結果は芳しくない。
 一つの次元世界にいながら、他の次元世界について探るのは非常に困難なことだった。また、次元航行艦が転移可能な距離は個人の比ではないし、次元間を航行されていたら、そもそも個人での補足は不可能だ。それでもやらねばならなかった。
 二人殺した、とシグナムは言った。ヴィータとザフィーラも手加減できなかったと言っていたから、最大で四人殺している。因果応報という言葉をそのまま当てはめるとしたら、メルセデスは殺されていてもおかしくない。
 管理局が理性的であることを願うしかなかった。何せ、相手から見れば、ミヒャエル達はただの凶悪犯罪者であり、戦争捕虜のような国際条約に守られた存在ではないのだ。
 願うことしかできない時間が続く。

「……見つけました」

 目の下にどす黒いクマを作ったシャマルが蚊の鳴くような声で告げる。相変わらずの無表情だが、憔悴は見て取れた。
 時刻は深夜三時。戦闘を行った街の郊外の森。幾重にも偽装魔法を施した岩穴の中でのことだった。
 すぐに全員がシャマルの傍に寄り、ディスプレイを眺める。
 ミヒャエル達からやや離れた管理世界を次元航行艦は回遊しているようだった。

「嫌な位置です。こちらを待ち伏せしているのかもしれません」

 時差を考慮しても相手の元に到着するのは朝になる。更に付け加えるなら、敵も馬鹿ではない。警戒網を構築しているはずだった。
 そう考えるとザフィーラの呟きは正鵠を射ているかもしれない。

「どっちにしろ、突っ込むしかねえ。ここまで来たら策なんて練るだけ無駄だろう」

「軍師としては業腹ですけど、ヴィータの意見に賛成です。リスクを冒すなら今でしょう」

 二人の言葉を聞いて、ミヒャエルは迷うことなく頷いた。

「では、すぐに仕掛けるとしよう。シグナム、行けるか?」

 戦艦を相手にするならば、シグナムは非常に重要な戦力となる。
 失態で落ち込んでいたら勝てるものも勝てない。それゆえの質問だったがシグナムはすぐに立ち直った。

「はっ、問題ありません。必ずメルセデス様を取り返して見せます」

 恐らく、これが最初で最後のチャンス。何を考えて次元航行艦が近場に駐留しているかは定かではないが、罠ならば叩き潰せば良いだけのこと。
 全員が頷き、そして、転移魔法で消えた。

 数度の転移魔法の後、ミヒャエル達は無事にミーティアのある世界にまでたどり着いた。
 ミーティアまでの距離は遠い。辛うじて艦影が見える程度といったところ。
 逃げる暇を与えない。騎士達は全力で飛行を開始した。
 空気を切り裂く音と共に、次元航行艦がみるみるうちに近づいてくる。実際にはこちらが近づいているのだがミヒャエルはそう感じた。
 朝、霜が降りるほどの寒さだが、バリアジャケットのおかげで、寒さは感じない。
 現在時速は目測で毎時二百キロメートルといったところか。もっと速度を上げることは可能だったが、敵の迎撃に対し、回避運動をしなければならないのでこの速度となった。
 案の定、艦載砲のレーザーを乱射してくる。それをときにザフィーラとヴィータが受け止め、ときにシグナムが切り払い、シャマルがそらし、進んでいく。
 だが、攻撃が散発的で伏兵もない。

「罠の可能性は低い。策があるならとっくにしかけてきているはずよ。どうやら補給か何かで立ち寄っただけのようね。チャンスだわ」

 シャマルの言葉の正しさを証明する様に次元航行艦が光を放った。転移光だ。
 距離にして約一キロメートル。届く技は一つしかない。ここを逃せばメルセデスを奪還するのはもはや不可能だ。
 撃ち抜くとシグナムは決断した。経験豊富なザフィーラを差し置いて、彼女がヴォルケンリッターの将であるのは戦闘能力もさることながら、この決断力故だ。
 レヴァンティンが音を立ててカートリッジを排出する。見る見るうちに剣から弓に姿を変える業火の魔剣。シグナムが弦を引くとそこに光の矢が現れる。

「翔けよ、隼!――」

 叫びと共に、二発目のカートリッジが作動する炸裂音が響く。
 伝承にはこう語られる。遥か悠久を翔ける空の王者、ヴァンホーデン。地上から放たれたその矢は見事、翼を撃ち抜き、墜落せしめたと。

「――シュツルムファルケン!」

 その一撃は神速。光が進むのを誰が目に捉えられよう。
 光の弾丸は尾を引きながら、まっすぐに天を翔ける。シグナム渾身の一撃は上空五百メートルに浮かぶ次元航行艦を斜め下から貫通した。





 煙を上げて落ちていく次元航行艦を騎士達は必死に追った。ミヒャエルも慌てて続く。
 騎士達が強いのは知っていた。ただのど素人である自分ですらやろうと思えば、人間を子供が木の枝をブンブン振るように振り回せる。
 魔力量自体は劣るとはいえ、同じ高ランクのリンカーコアを持ち、ミヒャエルとは比べるべくもないほど鍛え上げられた肉体を持つシグナムの強さは叔父を簡単に捕えたことからも明らかだった。
 だが、戦艦を一撃で撃墜するほどだとは。どれほどの魔力制御技術と出力があれば同じ真似ができるのか、想像もできない。少なくともミヒャエルには不可能だ。
 ベルカ最高の騎士。その強さを実感させるには十分だった。

「中破といったところだと思います。まだ戦闘能力を残している可能性が高いです。ミヒャエル様は細心の注意を」

 呆然としていたミヒャエルにシャマルが告げる。それでミヒャエルは己を取り戻した。
 そうだ、メルセデスを助けなければ。
 長らく子供に恵まれなかった。自分のせいだ、とミヒャエルは思っている。高ランク魔導師の精子や卵子は異常を伴っていることが多く、自然に受精できないことが多々ある。
 ミヒャエルも御多分に漏れずその例で、病院からは試験管内で受精させて、受精卵を母体に戻す体外受精を勧められていた。だが、それには様々な検査を伴い、どうしても入院が必要になる。研究員として頭角を現し、多忙になったメルセデスにはできない相談だった。だから、子供を産むのを躊躇って来たのだ。だから、懐妊の知らせを受けたとき本当に嬉しかった。メルセデスを守るということは生まれてくる子供を守るということだ。
 先行していた騎士達に追いつく。サーチャーの情報によれば、次元航行艦の一室に固まっているようだった。
 すぐに走って向かう。胴体に空いた巨大な穴、シュツルムファルケンの痕、から中に入る。シャマルに転送してもらえばよかったと気づくが後の祭りだ。
 道に迷いつつも走って行ってドアを開けようとする。だが、

「開けるな、祖父ちゃん!」

 ヴィータの怒鳴り声に手を止めた。

「ヴィータ? メルセデスが見つかったのではないのか?」

 誰何の声に一瞬、沈黙が満ちた。

「……駄目だ、祖父ちゃん。見たら駄目だ」

 ヴィータの泣きそうな声が聞こえる。だが、傍にメルセデスがいることは間違いない。

「開けるぞ、ヴィータ」

 躊躇は無かった。
 鍵のかかった扉を腕力に任せて、強引に開ける。そして、歪んで半開きになったドアをはぎ取った。
 そして、中には騎士達と、変わり果てた姿になったメルセデスがいた。

「あにゃた」

 まるで泥酔しているかのような滑舌の悪い言葉。
 かつんと、近づこうとしたミヒャエルの足が硬い物を蹴飛ばした。反射的に目で追う。それは血で滲んだ薄赤い奥歯だった。

 震える手で老眼鏡をかける。そして、メルセデスの状態に息を呑んだ。
 メルセデスの顔は血で滲んでいた。すっと美しく通っていた鼻梁も、桜色でふっくらとしていて口紅を塗らなくても艶があった唇も見当たらない。浅くせわしない呼吸を繰り返す口の中に美しい白い歯は無く、ぽっかりと深淵に通じるように暗い穴が続くばかりだ。

「ミヒャエル様」

 メルセデスの前に跪き、診察していたらしいシャマルが近寄ってきた。

「シャマル、これはどういうことだ。何故メルセデスが――」

「どうか、メルセデス様の前に。そして、最期の言葉をかけてあげてください」

 相変わらずの無表情だったが、いつもより彼女が小さく見えた。慙愧の念に駆られているのだとは後で気づいたことだった。
 ゆっくりとメルセデスに近づく。近寄れば彼女の状態が更に悲惨であることは明らかになった。
 彼女は全裸で、白いおなかにいくつもガラス片が突き刺さっていた。
 何より股間。焼けた黒い鉄杭が性器に突き刺さっている。めくれ上がった秘肉がケロイド状に爛れていることが外からでもはっきりとわかった。

「メルセデス……」

 素人のミヒャエルにもわかる。メルセデスはもう死んでいる。ただ、何かの偶然で魂が身体から抜け出ていないというだけに過ぎない。
 メルセデスの口が動いた。慌ててミヒャエルは耳を傾けた。

「あにゃた、ごめんにゃさい。守れにゃかった」

 解けて消えてしまいそうな小声だった。何を、などと聞くまでもなかった。

「いいんだ、メルセデス。何か、何かして欲しいことはあるか?」

「キスして。それだけで私、幸せだから」

 そう言われてミヒャエルは迷うことなくキスをした。愛らしい唇の感触は無く、ただ硬い骨の感触が伝わってきた。
 そして、メルセデスはほんのわずかに微笑みらしき物を浮かべて目を閉じた。その眼が開かれることは以降無かった。
 ああ、とミヒャエルは声を漏らした。もうメルセデスの柔らかな微笑みを見ることもない。愛らしい我が子が生まれることもなければ、ただ穏やかに過ぎる生活もないのだ。

「ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああっ!!!」

 眼から涙があふれる。涙腺が壊れて、その涙が真紅に染まって尚、ミヒャエルは泣き続けた。
 メルセデスの鎮魂のために泣き続けた。

「私は、ただ、祖国のために! 愛国無罪だ!」

「うるせえ! ならば黙って祖国のために死にやがれ!」

 引きずり出されたウィリスが鉄槌で頭を吹き飛ばされる。
 首なし死体となった首謀者がぐったりと床に倒れこんだ。
 全てが終わってぽつりと残されたのは孤独な老人とその胸に灯った黒い炎だけだった。





 気が付けば、地面に倒れ伏していた。
 ただ、見ていた夢の内容は覚えている。あの悪夢だ。メルセデスが死ぬ夢だ。
 頭がぼんやりとする。それを意識して、後頭部から地面に叩き付けられたことを思い出した。

(ヴィータ、シャマル、ザフィーラ。……シグナム。誰か、無事な者はおらんか?)

 騎士達の誰からも応答は無かった。皆、死んだ。そう思うには十分だった。
 悔しかった。自分達が死力を尽くしても、たった一度、それも偶然アドバンテージを取られただけで敗北するのだ。
 しかし、どうしろというのだ。目の前の女に勝つ方法など一つもない。

(いや、違う)

 確かに勝つ方法は無い。だが、考えて見ろ、ミヒャエル・ベンべ。お前は勝利などのために管理局に仕掛けたのか。ただ、管理局に復讐するために戦いを仕掛けたはずだ。勝敗など何の価値もないと思ったはずだ。
 手をリンディに悟られぬようにゆっくりと動かし、腹に触れる。服の下では漆黒の背表紙の分厚い本型デヴァイス、闇の書が淡い光を発していた。




[34641] クライド・H・ハラオウン⑬
Name: 烏賊様刻◆e7251814 ID:c9e6522c
Date: 2013/04/21 12:48
 青い薔薇が生い茂る草原の上を颶風と化した二人が暴れ狂う。
 蹴りの一撃ごとに、青い薔薇が飛沫のように飛び散り、剣の一振りごとに土砂が舞う。
 両者の「全力」は今のところ、互角の状況にあった。
 全身から魔力を噴出させながらクライドが飛翔する。
 ブラスターモード。それは戦技教導隊が生み出した画期的な魔力運用法、ではない。
 魔力で身体を強化できるなら、魔力を生み出すリンカーコア自体も強化できるのではという至極単純な発想。
 ただ、その発想自体は古代ベルカの時代にすでに考え出され、廃棄されていた。繊細極まるリンカーコアを魔力で強化するよりも数をそろえた方が安上がりではるかに強くなったからだ。
 しかし、時代と共に必要とされる技術は移りゆく物だ。非殺傷設定が義務付けられ、次元航行艦の積載量の関係から数の暴力を封じられ、精鋭化を推し進めなければならなかった管理局はかつて使い物にならないと判断されたこの技術を見出した。人体実験に近い鍛錬で多くの殉職者を出しながら、五十年、およそ管理局の治世の半分の時をかけて、実用化された。
 この技術は秘中の秘、門外不出の技術として扱われた。何故なら、所詮は魔力による身体強化の延長。理論さえ知っていれば子供でも実践できるのに、大抵はリンカーコアの破損という最悪の結果が待ち受けているからだ。しかも、それほどの危険を冒して増加する魔力は熟練者でも一割から二割。デバイスに行わせるには専用の大型デバイスを用いなければならず、最も魔力量を増したいとき、すなわち、近接距離からの離脱に重大な支障をきたす。扱うためには使用者本人のセンスと経験が必要と言うハイリスクローリタンの典型のような技だ。
 だが、クライドが使えば違う。彼は基本である「ブラスターⅠ」、戦技教導隊の中で更に精鋭と呼ばれる者達が使用可能な「ブラスターⅡ」をさらに凌駕した「ブラスターⅢ」の使用を可能にした。魔力量にして平常時の五割の増大。しかもそれすらも長時間維持するための限界であり、瞬間的ならば更に無茶が可能という非常識さだったのだ。
 だが、そんなクライドでもシグナム相手に苦戦していた。
 剛剣が振り下ろされる。氷のような冷静さで皮一枚で見切って避ける。反撃の突き。避けられる。下からの切り上げ。躱す。距離を詰めて左の掌底。柄と籠手で受けられる。バリアブレイク、同時に短杖での突き。スウェーバックで躱され、そのまま横薙ぎ。後退して避ける。後退しざま、自分の背中に衝撃波を発生させて不意打ち気味に前進し、短杖を突きこむ。が、躱される。
 全ての攻撃がかすりもせず、クライドも不敵な笑みを浮かべていたが、実際は戦々恐々としていた。
 シグナムの剣が一撃でもかすれば終わる。クライドはそう確信していた。
 武器の重さが違う。相手の剣は重さ十数キログラムの鉄塊だ。かすめればバリアジャケットごと肉がそげる。それほどの衝撃を受ければ体勢が崩れ、返しの一撃を躱せない。
 現状は見切れているが、相手に切り札が無いとも思えない。恐らく攻め合いの中で使う機会を虎視眈々と狙っている。
 対して、こちらは左腕前腕部、尺骨に亀裂骨折。左手首損傷。何より深刻なことに短杖に長さ五ミリメートルに達する斬撃痕。恐らく、もう一度相手の剣を受ければへし折れる。
 こちらはバリアブレイクこそ何度かしているものの、相手へのダメージと言えば右足が米神をかすめただけ。それによるダメージもすでに回復されている。
 おくびにも出さないが、状況は圧倒的に不利だ。だが、

(だからこそ、おもしれえ)

 心が沸き立つ。こんな激闘を、自分の培ってきた全てを繰り出してなお凌駕されるような戦いをクライドは望んでいた。
 絶望的な戦力差だが、幸運なことにクライドにはシグナムと戦うに当たって確実に優れている点が二つある。
 一つ目は言うに及ばない魔力制御技術。クライドの天性の才能によるものだが、精緻なミッドチルダ式魔法を誰よりも上手く使いこなすだけの技量がクライドにはあった。
 二つ目は戦ってきた戦士の多様性。クライドは幸運にもシグナムと戦う前に四人の高ランク魔導師と死合うことができた。その引出しを開けると、シグナムはクライドのファイトキャリアで言えば、"人斬り"ホーガンに近い。パワー、スピード、テクニック、メンタル、スタミナの全てが高いレベルでそろっており、基礎能力の差で敵を押しつぶす典型的な高ランクのベルカの騎士の戦い方だ。シグナムの技量も身体能力も斬鉄の練度を除けばホーガンより一段上だが、似たタイプと戦い勝利したという経験はこの戦いにおいて非常に有利に働く。逆にシグナムは己の全力を持ってしても尚触れることすら叶わぬ低ランク魔導師と戦うのは想像の埒外だっただろう。
 もっとも、この利点は徐々に埋められつつある。理由はシグナムの学習能力の高さもあるが、何よりフォン・エーデルフランメとしての戦闘経験だ。
 クライドとて剣戟の全てを見切れるわけではない。反射神経や第六感も重要な要素の一つだが、一番大切なのはリズム。音楽のベースのように常に刻み続ける類の物ではない。静と動の間に働くその人間独特の「間」とでも言うべき呼吸の間隙をクライドは見切っている。最初の内は反撃に出なかったのはそれを覚えるためというのもあったからなのだが、この「間」をシグナムは自分から崩してきた。考えられない程長く、時に驚くほど短く、剣を振るう。これをされると低ランクで出力が根本的に足りていないクライドは苦しい。ブラスターモードを全開にしていなければもうとっくの昔になます切りにされていただろう。
 パワーとスピードとキャリアで格段に勝る相手にテクニックだけで対抗している。否、あと一つ互角かわずかに勝っている物がある。
 シグナムが剣を振りかぶる。わずかに剣がぶれたのをクライドは見逃さなかった。

「ブラスターⅣ!」

 限界を一瞬超え、急加速して、シグナムの懐に潜り込む。高ランク魔導師の弱点、すなわちスタミナ。遠距離で砲撃戦に終始するならともかく、急停止と急加速を繰り返す近接戦闘ではどんな魔導師でも長くは動けない。魔力で膂力を増やしても、骨や筋肉の耐久度は変わらないからだ。シグナムの肉体は鍛え抜かれているが女性。同じ練度だとしても男性であるクライドのほうが無茶が利く。空振りを繰り返していたシグナムの体力が先に尽きて当然だった。スタミナが切れれば自然、攻撃は大振りになる。
 シグナムが剣戟を中断し柄を振り下ろすが、容易く見切って、膝の届かないギリギリの距離からクライドの猛攻が始まった。
 体重を乗せない腕のスナップだけで放たれる突きが雨霰と降り注ぐ。秒間十二連攻にも及ぶそれを剣で弾き、首を傾げ、体を開いて避けて、シグナムが凌ぐ。
 四秒ほどたって、四十六撃目を受けきれず、シグナムの騎士甲冑をかすった。即座にバリアブレイク。そして、無防備なシグナムに中段回し蹴りを放つ。
 腕を畳んでそれを受けたシグナムが苦痛でうめき声をあげる。追撃の左フック。それをシグナムは前に出ることで躱した。両者の間合いが狭まり、密着する。
 クライドの第六感が悲鳴をあげた。全速力で後ろに飛ぶ。だが、シグナムの方が尚、半呼吸速い。
 衝撃。
 あばら骨の折れる鈍い音が響いた。だが、浅い。命を奪うには至らない。クライドは全速力で後退し、シグナムも騎士甲冑の再構成を優先して追わず、再び両者の間に距離が空いた。

「糞ッ! 粋な技を持ってるじゃねえか。あんなの高ランク騎士には効かないだろう?」

「生憎、教科書は隅から隅まで目を通すタイプでな。偶々、覚えていた。やはり、勉強はしておくものだな」

 互いに荒い息を吐く。クライドは折れた肋骨から伝わる激痛で、シグナムは何度も空振りを繰り返し、限界まで魔力で身体を強化した反動から体力をかなり失っている。
 シグナムが今見せた芸当はいわゆる寸勁。密着状態から十全に相手に衝撃を伝える技術で、自分の肩を支点にテコの原理で柄尻を鳩尾に叩き込んだのだ。
 クライドの言った通り、高ランク魔導師や騎士といった桁違いの防御力を持つ相手には何の意味も持たない。だが、バリアジャケットの脆いクライド相手ならそれだけで必殺の技と化す。

(五番と六番を持っていかれた。動きに支障が出るな)

 呼吸するたびに訪れる痛みに耐えながら、思考する。肋骨二本の亀裂骨折。短い間なら医療魔法による鎮痛作用で誤魔化すこともできるだろうが長期間はいかにもきつい。
 何より最悪なのはシグナムに休む時間を与えてしまったこと。さすがは熟練の戦士。たった数秒だが、遠目に見ても明らかに調息を終わらせようとしている。
 休めたのはクライドも同じだが、負傷のせいで厳しい。できればあのまま圧しきってしまいたいところだった。狙っていたのか、咄嗟のひらめきで使ったのかは知らないが流石に勝負処を知っている。

(だが、ワンミスだな)

 クライドに取って一番不味い状況は膂力、脚力共に桁違いであるシグナムに組みつかれることだった。何せ特に運動もしていなかった五十代のおっさんがクライドより少し下ぐらいの魔力を持つチンピラの足首を文字通り握りつぶした所を見たことがある。密着状態から腕か体を掴まれていればクライドは成す術もなく死んでいた。魔力量を爆発的に増やすブラスターモードを警戒したのかもしれないが、その判断はローリスクローリターンであり、仕留められる機会を逃したことには変わりない。
 だが、それを含めたとしても、超一流の真正古代ベルカの騎士。死力を尽くし、命の炎を燃やしつくしても尚勝てるかどうかわからない相手。自然、クライドの頬がさらに吊り上る。笑みが深くなる。獣の笑みが浮かぶ。
 それにつられて思考が研ぎ澄まされていく。

「ブラスターⅣ!」

 シグナムの前進の出がかりに合わせてクライドが翔ける。ブラスターⅣの発動によって得られる魔力は通常時のクライドの二倍。一時的にだがAAランクの魔導師ともタメを張れるスピードが出せる。
 だが、推定S-ランクのシグナムに対してはまだ遅い。完璧に対応されて、剣が振り下ろされる。皮一枚の所で避ける。そのまま、腕のスナップだけで短杖の突きを放つ。
 それをシグナムは避けない。騎士甲冑で受け、バリアブレイクされるのも構わずに剣を振り上げる。
 クライドの表情から一切の余裕が消えた。必死で体をよじらせて剣を避ける。そのまま宙を滑って距離を取る。が、それを許すシグナムではない。
 獣のごとく俊敏に、だが、機械のように一切の無駄なく、距離を詰めて剣を振るう。
 横薙ぎ。刺突。首狩り。距離を詰めたクライドに対して、柄打ち。膝。
 全く隙のない完璧な連携でクライドの回避を破ろうとしてくる。そのことごとくを避け、二度目となる刺突からの首狩りをデバイスで受け止めた。
 斬鉄を警戒して即座に離れる。受け止めた時間は十分の一秒も無かっただろう。そのためか、頑丈さに特化した短杖型デバイスはかろうじて持ってくれた。が、手首が嫌な音を立てた。
 ただ幸いなことに、さすがにシグナムも無茶な動きをした後でついていけなかったのか、カートリッジの補充に時間を費やし、その間に距離を取って仕切りなおすことができた。

(ああ、畜生。厄介だな)

 今、シグナムがやったことはそれほど難しいことではない。バリアブレイクは非常にローリスクな障壁突破方法だが、発動時に相手に触れて一瞬静止しなければいけないという弱点があった。
 その一瞬の隙を突かれた。もちろん、クライドもその隙を突かれないようにするための連撃したのだが、シグナム程の騎士になると何度か見て、タイミングとリズムを覚えてしまえば合わせられる。しかも相手の攻撃を避ける必要すらない。相討ちで十二分に元が取れる。
 クライドの顔が険しくなる。

「本当に厄介な相手だぜ、あんたは」

 シグナムは仕掛けてこない。クライドは黙って、短杖を構えた。前傾姿勢で、重心を右足に極端にかけ、右手を前にだしたサウスポースタイル。短杖を右手に順手に持ち、左腕は自然に垂れるに任せ、体で隠す。この構えの意味は明らかだ。短杖で突きこむ。そのことだけに重点を置いた構え。
 隙の多い構えだ。これだけ重心を前に出していると下がるだけでも一苦労。華麗な見切りを得意とするクライドのスタイルとは明らかにシナジーが無い。
 まっすぐに前に突撃すると誓いを立てている。そんな構えだ。だが、この構えの本質はそんな生易しい物ではない。

「なるほど。それがお前の本来の構えか。クライド・ハーヴェイ・ハラオウン・フォン・エーデルフランメ」

「その通りだ。シグナム・フォン・エーデルフランメ」

 迸る殺気を感じたのだろう。笑みを浮かべていたシグナムの顔が少し曇り、鋭さを増した。
 さすがに勝負処を知ってやがる、とクライドは心の中で褌を締め直した。
 今まで、クライドには殺気が無かった。律儀に非殺傷設定を貫き、バリアブレイクからの打撃で昏倒させることだけを考えていた。
 その気遣いを今の攻防が完全に取り払った。かつて四人の怪物を倒したように、シグナムを殺すことを決めたのだ。そして、それを察したシグナムが更に気を引き締めた。
 ジリジリと距離を詰める。もはやシグナムの制空圏はおろか、クライドの制空圏まで侵されているというのに両者は目立った動きを見せなかった。
 一秒が永遠に引き延ばされる。互いの気が一瞬揺らいだその瞬間、両者が動いた。
 シグナムが剣を振り下ろす。それをミリで見切って避け、クライドが突く。命中。ガツンと硬い物同士がぶつかる鈍い音が響いた。
 下段に置かれた剣が一瞬の静止もなく、なお速度を上げて振り上がる。大きく躱したクライドにシグナムが追撃をかけようとして、何かを恐れるように、後退する。
 疑念がシグナムを押し留めた。すなわち、何故今の一撃でクライドはバリアブレイクをしなかったのか。誰にだって間違いはあるが、目の前にいる男が、フォン・エーデルフランメと呼ばれた自分と同等の戦士がそんなミスを犯すとは思えなかったのだ。だが、

「二回目、だ」

 クライドは哂った。獣の笑みではない。罠にはまった獲物を縊ろうとする猟師の笑み。

「何?」

「シグナム、お前がミスをするのは二回目だと言ってるんだ」

 クライドが再び構えた。前傾姿勢の突きを主軸にした突撃の構え。
 その姿にシグナムは冷や汗を流した。クライドが発するプレッシャーがますます強くなってきている。

「今、お前が恐れず追撃をかけていれば勝負はわからなかった。だが、お前はリスクを嫌って距離を取った。宣言しておくぜ。次の一合でお前は死ぬ」

 クライドの言葉には全く韜晦が含まれていなかった。ただ、厳然たる事実を告げていた。
 それが伝わったのだろう。シグナムの顔から笑みが消える。しわの寄った眉間が特徴的な、鷹のように鋭い目つきになる。
 あたりに沈黙が満ちる。いつの間にかそれほど広いとは言えない青薔薇の草原上空を飛んでいるのはクライドとシグナムの二人だけになっていた。
 ジリジリと間合いを詰めはじめる。シグナムの額に冷や汗が浮き出る。半歩進むごとに負けるという確信が強まっているようだった。
 と、眉間にしわを寄せていたシグナムが能面のような無表情になった。カートリッジが排出され、レヴァンティンが駆動音を立てて変形する。竜骨の長剣から、大振りな狙撃弓に。その隙を突こうとしたクライドが悪寒を感じた。シグナムがこちらを見ていない。クライドの下方。二十メートルほど離れた青薔薇の草原の入り口付近をまっすぐに見つめている。
 リスクを承知で振り向くと、そこには小さな小さな人影。黒髪黒目で気弱そうなに唇を震わせるクロノがいた。
 一瞬、クライドは己の目が信じられず、呆然としてしまった。それが、致命的な後れを生んでしまった。
 もはや一瞬も無駄にはできない。クライドは即決した。吼える。

「ブラスターⅥッ!!!!!!!!!!!!!!」





 長剣の柄に引き抜いた鞘を合わせる。すると、鞘は剣と融合し、大振りな狙撃弓となった。シュベルトフォルムからボーゲンフォルムに。
 弦に手を添えたシグナムの無骨な籠手の先に明るい紫の光の塊、高圧縮され視認可能になった魔力、が伸び、一本の無骨な矢となった。
 視界の端に捉えた一人の少年。クロノ・ハラオウンを見た瞬間、シグナムはそこに勝機を見出した。見出してしまった。
 躊躇なくクロノに弓を向ける。心が悲鳴をあげる。そんなものは騎士道ではない。守り育ててきたシグナムではないとがなりたてる。
 だが、それら全てをことごとく切り伏せ、シグナムは弦を引き絞った。
 脳裏に浮かぶのはメルセデスのことだった。
 シグナムは元々ミヒャエルのことをそれほど高く評価していない。闇の書に選ばれたことと穏やかな人柄を認め、ある程度の尊敬と臣従を貫いていたが、王の器ではないと判断していた。
 そんな彼が分をわきまえずに管理局壊滅を謳った時、内心遺憾に思いながらも従ったのはメルセデスの死があったからだ。
 シャマルから聞いた。メルセデスの腹部に刺さっていたガラス片は恐らく鏡だと。彼女は鼻をそぎ落とされ、唇を斬られ、女芯に焼けた鉄棒を撃ち込まれるところを見せ付けられたのである。
 安息すら許されず、腹の中の我が子と尊厳を奪われ、最期に一筋の救いを得て死んでいったメルセデスにシグナムは自分の姿を重ね合わせたのだ。

――真竜殺しともなれば、俺も相応に報いねばならん。そう言えば、正妻の座が空いていたな。どうか?

 怜悧な風貌を恥ずかしげに朱色に染めて、かつて主君は言った。
 英明な君主だった。仕えるに足る王器を持った方だった。ただ、時代が悪かったのだ。長い長いミッドチルダとの大戦争に一区切り付き、休戦条約の下、平穏だった時代。
 人生の大半を戦場で育った、治世の何たるかも知らない猪武者達では主の開明的な思想を理解することができなかった。
 シグナムは主命に従い、彼らを斬った。命を救ってくれた恩人がいた。戦の何たるかを教えてくれた師匠がいた。互いに切磋琢磨した親友がいた。
 それら全てを主君への忠誠のために斬り伏せてきたのだ。自分の手は血で薄汚れている。
 子供一人を今更、撃ち殺すことなど、造作もない。
 シグナムは弦をつまむ指を離した。

「シュツルムファルケン」





 クロノには何が起こったのかわからなかった。
 優しい彼はどれだけ諭されても大好きな父と、身を挺してかばってくれたシグナムが互いの命を賭して戦うことを納得できなかった。
 自分はエイミィ姉ちゃんと喧嘩をしてもいつも最後は仲直りしている。ならば、二人にもできるのではないか。情報もろくにない四歳児がそんな考えに至ったのは不思議ではない。
 そして、もっとも不幸だったことはエイミィとミトは愚か、アースラ近影の見張りすら彼の冒険を見とがめられなかったこと。
 レジアス・ゲイズかゲンヤ・ナカジマが指揮していれば確実に後の悲劇は無かっただろう。少なくとも後世の歴史学者はそう指摘している。
 シグナムが弓を引き絞った時、クロノはその行動が持つ意味を気づくことができなかった。
 ただ、薄い紫の光がものすごい速さで自分に向かっていることだけはわかった。
 それに反応することもできず、あわや、体に触れるかというところで、衝撃。
 真横から跳ね飛ばされたクロノはごろりごろりと薔薇の上を転がり、棘の痛みに涙を浮かべた。
 そして、何が起こったのかと自分のいた場所を見て、愕然とする。
 そこには、クライドがいる。いつもの不敵な笑みは消えて、何かに耐えるように歯を食いしばっている。額から汗が悪い病気にでもかかったようにぼたぼたと垂れていた。
 そして、何より、父は左手が無かった。肩口だけが残っており、何か巨大な力に抉り取られたかのように無惨な断面を見せていた。

「怪我は無いか、クロノ」

「……父さん、腕が」

「大丈夫なのか、と聞いている!」

「僕は大丈夫だけど――」

「そうか。……よかった」

 でも、父さんが、という言葉はクライドの言葉に遮られて続かなかった。
 シュベルトフォルムに戻したレヴァンティンを正眼に構えて、ワインレッドの髪の騎士が降りてくる。

「……貴方に敬意を表する」

「よせやい。致命的なミスをした戦士に言っちゃあ、嫌味になるぜ」

 至極真面目な顔で告げたシグナムにクライドは笑って答えた。その顔は痛みと疲労に痙攣していたが。

「それでもです。シュツルムファルケンが直撃してまだ生きている人間がいるなど想像もつかなかった」

 クロノにはわからなかったが、その言葉はシグナムという人間の本質を端的に表していた。
 子供を狙うという卑劣な手を内心はどうあれ、外面では恥とすることはない。むしろ当然と考える。
 彼女の本質は騎士道ではなく忠誠。理想の騎士たらんと騎士道を重んじる一方で、それが本当に主のためならば自分の美意識、すなわち高潔な精神や正々堂々たらんとする心構え、を全て投げ捨てることができる。
 
「なるほど。フォン・エーデルフランメの称号にふさわしいのはどうやらあんたの方らしい」

「いえ、真の騎士ならば、このような卑劣な手を使わない」

 そう言ってシグナムは鞘から剣を抜いた。
 正眼に構える。吹き散らされた青薔薇の花弁が視界を通り過ぎて行った。

「決着をつ――」

「おおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおっ!!」

 シグナムの言葉を遮って、二人の男が雄叫びをあげて飛び込んできた。セドリックとゼストだ。
 ゼストが短くなった槍を突きこむ。それを見切って身をひるがえしたシグナムがくるりと体ごと回って剣を叩き付ける。それを辛うじて槍で受けたゼストが踏ん張りきれず吹き飛ばされる。
 叩き付けた反動を利用して、体勢を立て直したシグナムがセドリックが短杖の間合いに入る前に剣を振り下ろした。逆手に持った短杖で完璧に受け流す。しかし、短杖を持った左手がゴキリと嫌な音を立てた。
 もはや笑うしかない程の剛剣。脱臼の痛みに身を硬直させたセドリックに向かって返しの横薙ぎ。必死に短杖で受け止める。だが、頑丈なはずのデバイスが一撃でくの字に折れ曲がった。そのまま短杖をクッションに腹部にぶち当たり、あばら骨を砕く。崩れ落ちたセドリックに止めを刺そうとするシグナムにゼストが突撃の姿勢を見せて牽制する。その間に何とかといった風情でセドリックは転がって距離を取った。
 咳き込みながら立ち上がる。口の中を切ったのか、口の端から血を流していた。ゼストも口から血を流し、荒い息をつきながら槍を構える。

「セドリック、ゼスト」

「一尉はお逃げください。ここは私達が時間を稼ぎます。リンディ艦長と合流できればまだ勝ち目はあります」

「その通りだ。お前は早く撤退しろ」

 クライドの呼びかけにセドリックは振り向かずに答えた。赤く腫れあがった左手から無事な方の右手に前衛美術作品と化したデバイスを持ち変える。
 ゼストも短くなった槍のリーチを少しでもあげようと、柄が余らないように端を握りこんだ。

「クロノを連れて逃げてくれ。余裕があるなら爺とアリアも頼む」

 だが、クライドは構わず続けた。

「それはできない。俺はレジアスと約束した。お前を生きて連れて帰るとな。約束は果たされなければいけない」

「エースオブエースが死ぬのが管理局の敗北です。ですが、生きていてさえくれれば何とかなります。時間は稼ぎます。命に代えても」

 ゼストとセドリックが荒い息をつきながらそれでも断言する。

「ゼスト、セドリック。わかってて言ってるだろう。今のお前らじゃ時間稼ぎにもならねえ」

 万全の状態ならセドリックはともかく、ゼストはシグナムと正面から打ち合えるだけの力がある。だが、今は無理だ。クロノの目から見ても、深刻な怪我をしているのは明らかだった。明確に脇腹をかばっている。

「だから、少しでも生還者を増やすために爺とロッテを連れてアースラに戻ってくれ。時間稼ぎは俺がやる」

「……わかった」

 ひどく苦しそうに顔をしかめてゼストは承諾した。表情を歪める原因が激痛だけではないことは明らかだった。

「セドリックは、クロノを――」

「お断りします」

 セドリックは短く言いきった。

「私は貴方のために死ぬために今日ここまで生きてきた。ここで逃げたら私は一生後悔に塗れて生きていくでしょう」

 薄い微笑みを浮かべて、凡俗の魔導師はだから、と呟くように言った。

「そんな人生はまっぴらごめんです」

「馬鹿野郎! 無駄死にする気か!? ミトとエイミィになんて説明する気だ!」

 叫びは弱弱しく、クライドの物とは信じられないぐらいの声量だった。それでも真剣に怒っているのが、クロノにまで伝わってくる。
 その言葉にセドリックは笑みを消した。

「無駄死にか無駄死にでないか、判断するのは私です。足止めできる確率が億に一つもあるのなら、私がここで戦う価値はある」

 表情は険しい。それはそうだ。だって死ぬのは誰だって怖い。クロノも死ぬことを考えただけで、怖くてミトとエイミィが一緒に寝てくれないと眠れない。
 クライドもセドリックもゼストも訓練で自分が死ぬ可能性を受け入れられる程心を鍛えているだけで、死の恐怖を感じないわけではないのだ。
 だから、なのか。クライドはセドリックに頭を下げた。深く深くこうべを垂れる。

「セドリック、頼む。クロノを助けてくれ」

「あ、頭を上げてください、一尉。貴方が頭を下げることなんてあっちゃならない」

 慌てたように告げるセドリックに、しかし、クライドは頭を下げたままだった。
 クライドという男は基本的に唯我独尊であり、その高い実力に比例したプライドを持つ魔導師だ。
 決してみだりに頭を下げる男ではない。むしろ、頭を下げる姿なんて見たことは無かった。始末書を書くときも、ミトに怒られて謝る時も、クライドは天を眺めて直立していた。

「クロノが五体満足で逃げ切るだけの時間を稼げるのは俺だけなんだ。今の状況でシグナムに勝てる可能性があるのは俺だけなんだよ」

「……」

「だから、クロノを連れて逃げてくれ。頼む、セドリック」

 そして、無事な右手で短杖を持ったままグリグリとクロノの頭を撫でた。

「こいつは俺の宝なんだ。初めてできた、命より大切な物なんだ」

 それはセドリックの頑なな心を打ち砕く言葉だった。
 辛うじて堪えられていた涙がぽろぽろと零れる。小雨のようだったそれはすぐに大雨になった。

「……勝ってください。必ず勝って帰ってきてください。でないと、私は恨みますよ。一生恨み続けます」

 返事は聞かなかった。ゼストがグレアムとロッテを抱えて戻ってくる。
 それを待つことなく、クロノを抱き上げるとセドリックは飛び上がった。見る見るうちにクライドとシグナムから離れていく。
 酷くゆっくりと時間が流れていくのをクロノは感じた。

「待っててくれたのか? じゃあ、続きを始めるとしようじゃないか」

 そう言ってクライドは笑った。いつも浮かべている不敵な笑みだ。

「……わかった。次の一合で私は死ぬのだったな」

「ああ」

「では、我が奥義を持って貴殿を打ち破ろう」

 そう言ってシグナムは剣を腰に下げた鞘に収めた。身を捩じり、柄を両手で握りこむ。
 それを見てとってクライドは距離を詰めた。もはや、小細工ができる状態ではないし、通じない。
 事ここに至って戦術は単純を極める物になった。
 シグナムが全力で攻撃し、クライドがそれより刹那でも早く短杖をねじこむ。そういう戦いだ。

「ブラスターⅧ!!!!!!」

 クライドの絶叫と同時に瞬間移動もかくやという加速度で移動する。異常な加速にバリアジャケットがバリバリと剥がれ落ち、皮膚が空気に切り裂かれ血みどろになっていく。
 だが、それを意に介することもなく、そのまま、短杖で突かんと残った右手を伸ばす。

「紫電――」

 だが、シグナムは、古代ベルカ最高の騎士はその速度に完璧に対応した。
 三発目、最後のカートリッジを排出する炸裂音が響く。

「―― 一閃!」

 不可能なはずのそりの無い直刀での居合。それがシグナム・フォン・エーデルフランメの奥義だった。
 神速の一撃は見事、クライドの脇腹を食い破り、内臓をぶちまけて、背骨を砕き、反対側に抜けていった。
 それをクロノは見ていた。セドリックに抱えられて、そのたくましい、だがどこか小さな肩越しにその光景を見つめていた。





 剣を振り切った状態でシグナムはたたずんでいた。

「クライド・ハーヴェイ・ハラオウン・フォン・エーデルフランメ。天晴見事な戦士であった」

 地面に墜落していく好敵手を見やる。間違いなくシグナムが戦った中で最強の『人間』であった。
 ゆっくりと脇腹を見る。短杖がかすった場所だった。クライド・ハラオウンが五体満足であったのなら結果は変わっていたかもしれない。
 シグナムが卑劣な手段に出なければ恐らく負けていただろう。ひとりごちる。

「まさか、あの状態で、私と相打つ人間が次元世界にいるとはな」

 その呟きと同時に騎士甲冑が音を立てて崩れた。ゴボリと血を吐き出してシグナムが蒼い薔薇のしげる野原に墜落していく。
 シグナムが薄紫の光の残滓を残して消えてしまうまで、それほどの時間はかからなかった。





[34641] クライド・H・ハラオウン⑭
Name: 烏賊様刻◆e7251814 ID:c9e6522c
Date: 2013/04/28 15:06
 完全に気絶したはずのミヒャエルの腹から無明の闇が噴出したのはリンディがアースラに召喚要請を行ってすぐのことだった。
 すぐさま、ミヒャエルの頭部にスティンガーレイを叩き込む。だが、非殺傷設定とはいえ、SSランクの大魔導師の一撃を受けたにもかかわらずミヒャエルは笑った。

「くはは、もう遅いよ。闇の書は覚醒する」

「自分自身を蒐集したというの!? 信じられない。そんなことをしてどうなるか――」

「それは私にとってどうでも良いことだ。メルセデスを奪った管理局に一矢報いることができるならこれほど嬉しいことは無い」

 ミヒャエルの眼には狂気が宿っていた。
 説得をあきらめ、更にスティンガーレイを放つ。しかし、ミヒャエルを包むまでになった闇が障壁となって光線を阻む。
 事ここに至って、リンディは手加減をあきらめた。非殺傷設定でもあまりに威力が高すぎると激痛と共に恐怖が刷り込まれ、PTSDなどの精神障害を引き起こすことがある。
 故にリンディは八分の力で戦っていたのだが今、全力でミヒャエルを制圧することを決めた。
 腰を落として長杖の先端をミヒャエルに向ける。

「スティンガーブレイド――」

 リンディが唱えると同時に洞窟を埋め尽くさんばかりの、千に届こうかという鋭利な魔力刃の群れが虚空に発生する。

「――エクスキューションシフト!」

 剣群全てがミヒャエルを狙い、バラバラのタイミングで射出された。
 一撃ごとに湧きでた闇を削り取り、ミヒャエルを串刺しにせんと迫る。
 それを見てもミヒャエルの笑いは止まらなかった。もはや、自分の進退など気にも留めていない。
 四百二十七本目が闇を打ち払い、残りの五百二十三本がミヒャエルの身体に突き刺さる。
 文字通りのめった刺しとなり、常人なら百回以上ショック死するような激痛に苛まされても尚、ミヒャエルは止まらなかった。

「管理局に災いあれ! 世界を怨嗟と呪いの海に沈めよ! 我が願いをかなえたまえ、闇の書よ!」

 唯一自由になる口で叫ぶ。そしてその時は来た。
 ゾブリと一際濃く噴き出た闇がミヒャエルを覆い尽くす。そして、闇が晴れた後には一人の少女がたたずんでいた。十六、七歳だろうか。風もないのにさわさわと揺れる優雅な銀の長髪。ルビーを磨き上げたような真紅の瞳。その怜悧な美貌は彼女自身の無表情と氷のような雰囲気と相まって、人形のような人外の美しさを作り出していた。

「それが主の願いであるというのなら――」

 紅を塗ったように艶やかな唇が動き、

「――全てを代償に私が叶えましょう」

 無機質に言葉がつむぎだされる。
 そして、少女、闇の書の意思は魔力を解放した。己の生の息吹を解き放つような全方位魔力衝撃波。洞窟の在った小山が、粉々に吹き飛んだ。
 降り注ぐ土砂を薙ぎ払うため、リンディも全方位魔力衝撃波を放った。二人の大魔導師の放った全力の衝撃波が干渉しあい、空間がバリバリと音を立てて軋む。さすがに次元震が起こるほどではないが天変地異の原因になりかねない。
 最悪。土砂を払いのけるだけで肩で息をしているリンディに対し、小山を一つ砕いたと言うのに銀色の少女は疲れた様子も見せない。明らかにリンディよりも巨大な魔力容量。恐らく、最低でもSSS-の大魔導師。原始文明でなら神、あるいは荒ぶる自然災害の化身と信仰される程の存在だ。

「なるほど。貴方が今代のエースオブエースですか」

 外見に違わぬ氷のような声で、少女は告げた。

「残念ながら私はただのエースよ。それでも貴方より強いけどね」

「なるほど。シグナムを倒したのはそのエースオブエースか。ミッドの魔導師にしては気骨があるようだ」

 リンディの挑発を涼しい顔で受け流し、少女は続けた。

「私は闇の書の意思。主の願いを受け、世界を滅ぼさんと現世に彷徨い出でた亡霊。大魔導師よ、名前を聞きましょう」

「……リンディ。リンディ・ハラオウンよ」

「なるほど。貴方があの戦鬼の末裔。ミッド王の系譜に連なる尊き血の係累なのか」

 得心したとでも言いたげに口を動かす少女、闇の書の意思。そんな隙だらけの姿を見てもリンディは攻め込むことができなかった。
 物理的な圧力すら感じる魔力波。初めて自分より格上の相手に出会ったのだ。衝撃が大きい。

(撤退はできない。でも、勝ち目はあるの? 考えなさい、リンディ・ハラオウン。こんなとき、クライドならどうしていた?)

 自問自答する。最愛の夫の勇姿を思い出し、竦む身体を無理矢理奮い立てさせる。
 幾分か冷静になった頭で、リンディはやるべきことを頭に思い浮かべ、優先順位をつけていく。

(アースラ、応答して)

(はい、こちらアースラ)

(闇の書の完全覚醒を確認。古代ベルカを滅ぼした原因は一人の最低でもSSS-ランクの騎士によるものだと思われる。至急、ハッシュモンド全域に避難勧告を)

 通信クルーが息を呑んだのが念話越しにも伝わってくる。それほどの脅威なのだ。SSSランクの怪物という物は。

(り、了解。復唱します。ハッシュモンド全域に避難勧告。次元航行艦にも避難民を乗せて構いませんか?)

(許可するわ。最低限の機密さえ守れれば、貴方の裁量で何をしても構わない。一人でも多くの人間を避難させて)

(了解。避難勧告出します)

 民衆への配慮はこれで良い。闇の書一行の捜索隊に参加していた猟師や警官は避難が間に合わないかもしれない。だが、それが今のリンディにできる精一杯だった。
 とりあえず、喫緊の用件は済ませた。後は戦って勝つだけだ。
 闇の書の意思が右手を胸の高さまで上げて、手を握る。まるで何かを握りつぶすかのように。
 危険を感じたリンディが正八面体の防御結界を張るのと、リンディの周囲を闇色の魔力が多いつくしたのはほぼ同時だった。闇色の繭が急速に縮み、圧殺せんと迫る。
 防御結界と闇色の繭は拮抗し、互いに相殺して消えた。

「さすがエース。見事な魔力運用だ」

 口では褒めつつもリンディを見つめるその視線は酷く冷めている。
 今の一撃も必死に防御したリンディに対し、闇の書の意思は恐らく牽制か小手試し程度のつもりだったのだろう。
 防いだことは評価するが、敵とみなすほどの脅威ではないと言ったところか。そうリンディは自嘲気味に思った。
 だが、リンディの側もわかったことがある。闇の書の意思は恐らく遠距離型、もっと言えば広範囲殲滅特化型だということだ。
 背中から翠の光翼が二対出す。先ほどミヒャエルの砲撃魔法を防いだ時よりも更に噴出が激しく、美しい。その姿は"妖精"と呼ぶにはあまりにも猛々しすぎた。敢えて言うなら異教の天使。
 そのまま突進。前進速度を全て衝撃に転化した突きを放つ。闇の書の意思が無造作に片手を突き出し、障壁を張る。
 圧倒的な魔力量で作られた障壁はリンディの突きを完全に防いだ。しかし、直後にはじける。バリアブレイク。同時に更に一歩踏み込んだリンディが長杖の先で銀髪に覆われた頭部を殴りつける。
 騎士甲冑が完璧に衝撃を受け止める。バリアブレイク。

「――っ!」

 初めて闇の書の意思に表情らしきものが浮かんだ。
 追撃の振り下ろしを右手のひら表面に張った障壁で受ける。ゴギャッととおぞましい音を立てるが、何の痛痒も感じていないようだ。そのまま障壁ごと掴みとろうとするが、捻りながら引き戻すことによってリンディがそれを許さない。

(やはり、接近戦は得手ではないようね)

 リンディが攻撃を続行しながら思考する。
 今の魔法、ピンポイントでリンディを圧殺せんとした黒い繭は魔力量だけで無造作に使える魔法ではない。精緻な魔力運用と難解な数学的知識を要求する高等技術だ。
 そんな技を牽制に使える程洗練されているということは逆に言えば、それだけリソースが割かれているということ。ならば、リンディに勝ちの目があるとすれば接近戦。それも難解な魔法など使う暇もないようなクロスレンジでの格闘戦だ。ミッドチルダ式のセオリー、そしてリンディのスタイルからはだいぶ外れているが、やらなければいけないだろう。
 闇の書の意思が魔素を急激に収集し始めるのを見て、リンディは慌てて距離を取った。全方位魔力衝撃波。その威力に空気が鳴動する。
 自分から離れることによって威力を減衰させたリンディに銀髪を振り乱して、左手を向ける。余裕をもって横に避けたリンディの脇を極太の闇色の光線がかすめた。

「スティンガーレイ? そう。蒐集したリンカーコアに刻み込まれた魔法は使えるようになるというわけね」

 スティンガーレイはミッドチルダで一、二を争うほどポピュラーな射撃魔法だ。威力と速射性に優れ、消費魔力量も比較的少ない。
 しかし、当たらない。直線的な射撃魔法ぐらいリンディの飛行速度なら簡単に避けることができる。

(歴戦の騎士ではないと考えていいのかしら)

 そう思考するが、油断はしない。ブラフの可能性も看過できないからだ。
 闇の書の意思がまた手を握りしめる。周囲に魔力が集まるのを感じて、即座に離脱する。そして、接近して一撃。障壁で受け止められる。同時に障壁から魔力の鎖が飛び出し、バインドされる。

「バインドシールド!?」

 拘束されたリンディから即座に銀髪の少女は距離を取った。

「デアボリック――」

 噴火寸前の活火山のように溜め込まれた魔力が闇の書の意思から放出される。
 それを感じて、リンディは己の魔力を全開にした。後先を全く考えない全力。二対の光翼が七、八メートルも伸びた。

「あああああああああああああああああああっ!!」

 雄叫びと共に魔力を放出する。魔力量に任せた強引な脱出。同時に残像が浮かぶほどの速度で接近し、長杖を叩き付ける。
 闇の書の意思はそれを何とか障壁で受け止めた。当然、使おうとしていた極大魔法はキャンセルしている。
 防御魔法を再びバリアブレイクして、横の薙ぎ払い。距離を詰めて威力を殺した闇の書の意思が反撃の掌底を放つ。
 だが、魔力量がどんなに優れていても素人の突きだ。顔面を狙ったそれを首を傾げて躱し、同時に突き手を片手で巻き取る。そのまま背負うようにして投げる。
 森林部に投げ込まれた闇の書の意思が背中から地面に叩き付けられる。ダメージは無い。上空十数メートルからの垂直落下及び地面への激突程度では高ランク騎士の騎士甲冑を破れない。
 だから、リンディは投げるが早いか、杖を垂直に構えて突撃した。さすがに受けきれないと悟ったのか、闇の書の意思が転がって突撃を避ける。
 そのまま地表に衝突。地面があまりの衝撃に揺れる。余波を受けた樹木がメキメキと倒壊していく。根元まで地面に埋まった長杖を片手で引き抜く。辺りにはクレーターができていた。

「避けないでよ。自然破壊しちゃったじゃない。始末書ものだわ」

「……生憎、この世界も滅ぼす対象なのでな」

 リンディの軽口にわずかに笑みを浮かべて闇の書の意思が返す。それが虚勢であることはリンディにもわかった。ストライクアーツの競技者は試合中にクリーンヒットをもらうと顔に笑みを浮かべると言う。
 ダメージや驚愕を堪えきれず、噴出してしまう物を隠すために笑うのだ。銀色の少女に最初ほどの余裕がないこともわかった。

(強敵であるとは認識してもらえたみたいね。少なくとも、こちらを無視して周辺を蹂躙することは無いか。といっても、不利なのはこちらだけど)

 今の地表との衝突で、右腕がひきつるような痛みを発している。恐らく筋肉が断裂した。動かすのは不可能ではないが、できるだけするべきではない。
 といっても、戦闘中だ。痛いから動かさない、では話にならない。
 リンディはさりげなく左手に長杖を持ち替えた。そして、一息に近づける距離を保ちながら、闇の書の意思を牽制する。
 相手も手を出しかねているのか、何もしてこない。ただ、時間だけが過ぎる。

(アースラ、応答して。こちらは単独での撃破は難しいと思われるわ。エースの内、誰か来れる人はいる?)

 返答には数瞬の間があった。

(こちら、アースラ。援軍を送るのは厳しい物があります。エースは全員重傷を負っており、援護は困難です)

(そう、騎士がこちらに来る可能性は?)

(ありません。全員、撃破が確認されています)

 それでは仕方ないか、とリンディは一人ごちた。
 相手は全て精鋭。作戦は見事にはまったとはいえ、一対一はベルカの騎士の本領発揮の場だ。むしろ敵の援軍が来ないことを喜ばなければならない。
 しかし、まさか、クライドまで手傷を負うとは。相手は本当に化け物だったらしい。もしかしたら、本当にフォン・エーデルフランメだったのかしら。そんな埒もない考えが頭に浮かぶ。
 そんなことをしても隙にならないのがマルチタスクの便利な所だ。七つのマルチタスクの内、二つは対面の相手、闇の書の意思に注意を向けていた。
 銀色の少女は動かない。作戦を練っているのか、それとも怖気づいたのか。どちらにせよ、攻めるべきだ。そう結論付けた所で、闇の書の意思が嘲笑した。

「……残念だったな、リンディ・ハラオウン」

 闇が再び溢れ出す。それは地上に集まり、どろどろとした機械と人間がまじりあった醜悪な泥のような奇怪なオブジェを形成した。
 リンディが驚愕にポカンと口を半開きにする。

「私達の、勝ちだ」

 奇怪なオブジェは恐ろしい速度で周囲の森を、土を、空気を食らい、浸食していく。
 ガリッと歯を噛みしめる。やっと気づいた。闇の書の意思は時間稼ぎに終始していたのだ。恐らく、このオブジェが現界する時間を稼ぐために。
 すなわち、目の前の銀色の少女は囮。今、ハッシュモンドを食らい、急激に膨張していく泥と鉄の塊こそが古代ベルカを崩壊に導いた真の原因。
 後世の歴史研究家、デュリエ・T・スクライアに曰く、"闇の書の闇"。

「――ッ! スティンガーブレイド・エクスキューションシフト!」

 度重なる酷使にリンカーコアが悲鳴をあげる。しかし、躊躇はしない。千本の翠色の魔力刃が唸りを挙げて、闇の書の闇に飛んでいく。
 しかし、それは虚空で半透明の障壁に遮られ、ことごとく霧散した。おおよそ考えられない強度の魔力障壁。
 貫通に特化した砲撃魔導師ならともかく、多対一における有効性に偏っているリンディでは貫けない。

「K……I……S……E……R……!!!!」

 闇が奇怪な悲鳴をあげる。それは衝撃波となって上空のリンディを襲った。
 辛うじて障壁で受け止める。バリバリと音を立ててラウンドシールドが破られた。バリアジャケットを削り、何とか止まる。
 この期に至って、やっと、リンディは自分一人の力ではもうどうにもならないことを悟った。

(アースラ聞こえる?)

(こちら、アースラ。状況は理解しています。リンディ艦長も撤退を。我々の負けです)

(そう。住民の避難状況は?)

(四十パーセントが避難完了。敵の浸食速度から考えると、後二十パーセントほどが限界かと)

(そう、わかった。私は避難を手伝った後、アースラに戻るから、貴方は引き続き指揮を代理して頂戴)

(了解です)

(後、クライドをベッドに縛り付けておいて。あの人ならこの状況、突撃してきてもおかしくないわ)

(……了解しました)

 残念、滑ってしまったかと、リンディはこっそり舌を出した。
 こういう時だからこそのジョークだと思うのだが、自分はまだまだらしい。
 そんなことを考えていたから、副官の奇妙な沈黙の意味には気づかなかった。……気づくことができなかった。





 リンディがアースラに帰還したのは夜半を回ったところだった。森林部から都市部に全速力で帰還した彼女はそのまま体力と魔力の続く限り、避難誘導と女子供、および老人の転送を受け持った。
 結果として、ハッシュモンドの避難率は約六十四パーセントと当初の見積もりより四パーセントも高くなった。
 疲労困憊の体で休息もとらずに、医務室に向かった。エース達を見舞うためだ。何より、クライドに会いたかった。

 まっ白い医務室の四台のベッドは満杯になっていた。へし折られたあばら骨を手術で嵌め直し、包帯で圧迫固定されたゼスト。死んだように眠るグレアムの傍には後で目覚めたときに不便が無いように車いすが置いてある。アリアは猫の姿のまま、ぐったりとして動かない。辛うじて、ロッテだけが入ってきたリンディに気づいた。

「……リンディ、帰ってきたの」

「ええ。散々な結果ね。まあ、今回は相手が悪かったわ」

「強敵なんていつものことよ。勝たなければいけない戦いで私達は負けた。任務は大失敗。結局、お父様たちの夢は立ち消えたということよ」

 その通りだとリンディは思った。それが人の命に関わる大事であるからこそ、予想外だったなどの言い訳は通じない。管理局にとって勝利とは義務であり、その後に戦績や被害の大小が続くのだ。
 だが、大けがを負ったエース達の前でそれを言わない程度の分別はリンディにもある。

「また、やり直せばいいじゃない。一番年上のグレアム提督だってまだ、五十三歳でしょう? これから十分巻き返しは可能よ」

 リンディはことさら明るく皆に聞こえるように言って見せた。
 たとえ、これから地方の巡回任務に回されるとしてもクライドと一緒ならどんな場所でも頑張れる。そう確信しているからこその発言だった。

「……まさか、リンディ、クライドのこと、聞いていないの?」

「何のこと。それよりクライドはどうしたの? 重症だって聞いてたから慰めに来たのに」

 沈黙が室内に満ちた。

「……な、何? やめてよね。変な冗談は」

 辛そうに顔を伏せていたロッテとゼストが意を決して口を開く。

「リンディ、クライドは――」

「待ってください」

 ガシャリとベッドと診察台を分けていた白いカーテンが開かれ、セドリックが現れた。右手首にはギブスが巻かれ、露わになった上半身はゼストと同じく包帯で圧迫固定されている。

「私が言います。言わなければならないんです」

 目に涙を溜めて、セドリックが床に這いつくばり、土下座した。

「申し訳ありません。クライド隊長は、クライド・ハーヴェイ・ハラオウン・フォン・エーデルフランメ一等空尉は闇の書の騎士、シグナムと相打ちになりました」

 その言葉の意味をリンディが理解するには、七つのマルチタスクを全て駆使しても、数秒の時を必要とした。
 リンディが口を開く。漏れ出た声は震えていた。

「じゃあ、クライドは……」

「現地時間、十三時十四分。殉職です」

「……嘘よ。クライドが一対一で負けるわけがないわ!」

「申し訳ありません。戦場に迷い込んだクロノ君をかばって、シグナムの矢をお受けになられました。
 私と負傷したゼスト隊長では時間稼ぎもかなわず、クロノ君とグレアム提督とリーゼアリアさんを連れて退却することで精一杯でした」

 セドリックは涙を流していた。クライドを守れなかったことが悔しくて、クライドを失ったことが悲しくて、涙を流していた。

「……して?」

 リンディが呟く。良く聞き取れなかったセドリックが耳をそばだてる。

「どうして、クライドが死んだのに、貴方が生きているの?」

 それは、セドリック自身が何度も自問したことだった。だが、答えは出ておらず、それ故にリンディの言葉は心に突き刺さった。

「貴方は言ったじゃない。クライドのために死ぬって。なんで、貴方が生きてるのよ! どうしてクライドは死んじゃったのよ!?」

「リンディ、よせ! 辛いのはお前だけじゃないんだぞ! クッ!」

 ゼストが叫ぶ。折れた肋骨に響いたのか、苦しげに眉を寄せて、腹を押さえる。脂汗が額から滴り落ちた。
 それを聞いて、リンディはふらりと崩れ落ち、地面に座り込んだ。皆が何か言っているようだったが聞こえなかった。
 職務を思い出し、よろよろと生まれたての小鹿のように頼りなさげに立ち上がる。そして、一言も発することなく医務室から出て行った。
 後には涙を流すセドリックと死屍累々の敗残者達が残された。


◆エピローグ


 (前略)

 それからの行動は史書に鮮明に残されている。
 "闇の書の闇"発生の翌日。現地時間六時二十三分。ハッシュモンドを覆いつくし、次元世界に広がろうとする兆候を確認。
 同六時二十五分。アースラ級次元航行艦三隻による主砲、アルカンシェルの一斉掃射により次元世界ハッシュモンドもろとも"闇の書の闇"は崩壊。闇の書は無限転生機能により姿を消した。
 十日後、ミッドチルダ暦103年、十月二十一日。リンディ・ハラオウン他、闇の書事件担当の本局執務官達が帰還。および報告書を提出。
 同日夕刻。記者会見で本局提督以下担当者は「最善の行動を行い、最悪の事態を辛うじて免れた」と発表。同時に闇の書を史上初となるSS級危険指定ロストロギアに認定。
 本局に対策本部が設立された。この本部の分析により、時空管理局の非道な拷問の実態が知れ渡り、管理局法が大幅に見直されることになるのだが、それはまた別の話である。
 当事者であるリンディ・ハラオウン他四名のエースについては怪我と疲労により、著しい心身の喪失が見受けられるとして、記者会見には出席しなかった。
 五日後、リンディ・ハラオウンの代理としてギル・グレアムが喪主を務め、"英雄"クライド・H・ハラオウンの国葬が行われた。管理世界の多くの王族、閣僚が参列し、その死を嘆き悲しんだと史書にはある。
 以上を持って第二次闇の書事件は終わった。ハラオウンの名を人々が思い出すのは十年後、第三次闇の書事件を待たなければならない。





 エース達のその後

 リンディ・ハラオウン
 管理局本局次元航行艦アースラ艦長のまま、未発見ロストロギア警戒のための辺境巡回という、事実上の左遷職に"栄転"させられ、牙を研ぐことになる。
 彼女は黙々とただ勤勉に職務を遂行した。この勤務態度が評価され、一度は本局勤務に返り咲くことを示唆されるが、彼女は穏やかに断ったという。
 彼女の名が歴史に現れるのはその九年と半年後。PT事件まで待たなければならない。
 彼女がどんな気持ちで職務に励んだのか、心中を推し量れるものは一人もいなかった。

 ゼスト・グランガイツ
 二か月間の療養後、首都防衛隊隊長に復帰。過剰な程熱心に職務に励んだと言われている。
 特にトレーニングがハードだったことは有名で、後の妻、メガーヌ・アルビーノからたびたび苦言を呈されるほどだった。
 彼が己の力不足を痛感したのは第二次闇の書事件であったことは間違いないだろう。
 不世出の騎士である彼の生涯が戯曲となるには、後のJS事件の解決まで待たなければならなかった。

 レジアス・ゲイズ
 特に昇進も降格も無く、少なくとも外見上は第二次闇の書事件を大過なく終えた。
 しかし、野望を完膚無きにまで破壊された彼の胸中はいかなるものであったか。
 また、クライド・H・ハラオウンの死を一番嘆いたのは親友であった彼とゼスト・グランガイツであったと主張する歴史学者もいる。
 十年で少将にまで成りあがり、第三次闇の書事件では、リンディ・ハラオウンの内々の頼みに応じ、クロノ・ハラオウンの助けとなったと語られる。

 ギル・グレアム
 第二次闇の書事件での負傷を理由に管理局を名誉退職する。
 出身地である第九十七管理外世界に引っ込み、穏やかな老後を過ごしたと言われる。
 クライド・H・ハラオウンの義父にして、クロノ・ハラオウンの師匠と言われる彼だが、その後、管理局に積極的にかかわることは無かった。
 第三次闇の書事件で解決に尽力したと伝えられているが、正確な資料は無く、憶測の域を出ていない。

 リーゼロッテ
 第二次闇の書事件での負傷を理由に管理局を離れる。
 クロノ・ハラオウンを鍛え上げたことで知られている。「身体能力に見るべきところは無い。クロ助は鍛えられた凡人にすぎない」とは彼女の弁だ。
 第二次闇の書事件に置いて、真っ先に脱落した彼女の戦闘能力を疑問視する識者は多いが、それは違うのではないかと筆者は愚考する。
 事実、彼女はヴィータ、ザフィーラ、シグナムの三人と戦い、その戦術の一端を味方に見せることに成功している。
 彼女は優れた魔導師であり、戦士であり、戦技教導官であった。それは疑いようがない。

 リーゼアリア
 第二次闇の書事件での負傷を理由に管理局を離れる。
 クロノ・ハラオウンの魔法の師匠として知られ、後に「物覚えが悪くて、だけど熱心な、とても教え甲斐のある生徒だった」と述懐している。
 後に頚椎損傷による全身麻痺のハンデを乗り越え、書かれた著書「ハラオウン一家物語」は小説としての評価に加え、歴史資料としての価値が高く、世間を大きく騒がせた。

 セドリック・リミエッタ
 クライド・ハラオウンの直弟子であった彼だが、クライド・ハラオウンの国葬会場に出席したのを最後に妻子を置いて姿を消したと伝えられる。
 彼がクライド・H・ハラオウンの死をどう受け止め、どう諦めたのか、知る者は一人もいない。


デュリエ・T・スクライア著、「大ミッドチルダ史」より抜粋。


                                                                               第二部完

 烏賊様刻です。第二部「クライド・H・ハラオウン」はこれで終わりです。
 清々しいほどバッドエンドでしたが、後はハッピーエンドに向かって突っ走るだけです。
 今後の予定ですが、閑話を二つ投稿した後、第三部を投稿するのですが、三部投稿まで少し間が空くかもしれません。
 よろしければお付き合いください。
 それでは最終章、第三部「クロノ・ハラオウンⅡ」でお会いしましょう。




[34641] 閑話 リンディ・ハラオウン
Name: 烏賊様刻◆e7251814 ID:c9e6522c
Date: 2013/05/05 15:05
 私達はこの悲劇を忘れてはならない。
 ミッドチルダ郊外のハラオウン家一家惨殺事件を私達は一生忘れてはならない。
 たった一人残された少女を私達は、社会は守らなければならない。
 それが法治国家の義務であり、長年国に尽くし続けた旧家、ハラオウンへの何よりの供養である。

                                                           ミッドチルダタイムズ記者、ヘンリー・ケズレイ

 リンディの朝は早い。アースラの私室で艦内時間の午前五時には起きて、身だしなみを整え、カロリースティックをかじって朝食を済ませるとブリッジに向かう。
 当直のクルーに挨拶しながら、おおざっぱに艦の状態をチェックし、そのまま艦長席でデバイスを操り、本局へ送る報告書を作成する。
 十時ごろにはその日必要な書類仕事を片付け、演習場に向かう。
 演習場で鍛錬している武装局員に挨拶をしてから、長杖型デバイスを展開し、リンカーコアを震わせる。
 十二時にいったん私室に戻り、用意されている簡素な昼食を食べる。
 十三時からは私室で本局から届いた情報を精査し、息抜きに電子化されている新聞を読む。
 と、次元間通信が入っていたので、繋ぐ。
 出てきたのは同僚のレティ・ロウラン執務官だった。

「ハロー、リンディ」

 レティのバストアップ映像が映るや否や、チャームポイントの大きなメガネを揺らしてレティが笑って言った。

「こんにちは、レティ。今日はどうしたの?」

「もうすぐ、アースラの全体整備じゃない。二週間ぐらい暇になるでしょう? どうせなら一緒にどこかでかけようと思って」

 やけにテンションが高い。まるで躁状態のようだ。リンディにはそう思えた。

「買い物とか?」

「そう。子供を産んだからって女を捨てちゃ駄目よ。あんた元は良いんだから管理局の制服だけじゃもったいないわ」

「常在戦場がハラオウンの心意気だから」

 リンディも、普段着として制服型バリアジャケットを採用している。着てみるとしわ伸ばしや洗濯の必要が無い万能衣装であることに気づいたからである。
 全力を出すときは光翼を出す関係上、もっと動きやすいバリアジャケットに切り替えているが日常生活を送る上ではこれで十分だ。
 ……全部、クライドに啓蒙されて始めたことだったが。

「はあ~。しょうがないわね。じゃあ何か食べに行きましょう。それなら構わないでしょう。クロノ君を連れてきていいから」

「クロノが行くって言ったら行くわ」

「そう。期待してるからね。……クロノ君は元気?」

 相変わらず笑みを浮かべながらレティが言う。リンディはふっと少し考えて、

「仕事が忙しくて、あまり連絡が取れていないの。でも、ミト、侍従長なんだけど、に任せてるから元気だと思うわ」

 と答えた。 

「……そう」

 レティが頷く。

「って、ちゃんと自分の息子くらい構ってあげなさいよ。そんなことしてたらぐれちゃうわよ? ただでさえ、クライドの血をひいてるっていうのに」

 その言葉を聞いて、リンディは自分の頬がピクリと動くのを感じた。レティは気づかない様子でしゃべり続けている。

「……レティ、悪いけど片づけなければならない仕事があるの。用事は他にないなら後にしてくれる?」

 会話の流れを断ち切ってリンディは言った。

「あら、ごめんなさい。用件はそれだけよ。それじゃあ、ミッドチルダでね。またね、リンディ」

 そう言って通信が切られる。完全に切れたのを確認して、リンディは溜め息をついた。肩のあたりが重い。体調が悪いわけではない。睡眠時間も六時間をキープしているし、飲酒、喫煙の類は一切しない。
 前にミッドチルダに戻った時に健康診断も受けたが、特に問題は無かった。ならばただの気の迷いだろう。

「私が休めば休むだけ、多くの人が不幸になっていく」

 リンディは、言い聞かせるように呟いて、私室を出てブリッジに向かった。





 二週間後。次元航行艦アースラは二か月ぶりにミッドチルダに帰還した。整備ドッグに特に問題なく搬入されると、ブリッジクルー達が歓声を上げた。

「いやっほー! それじゃあ、リンディ艦長。お先に失礼します」

「ええ、休暇を楽しんで頂戴。次の航海までにきちんとリフレッシュしてね」

 話しかけてきた操舵手に微笑みを返し、リンディは言った。その手は休みなく、諸々の申請手続きを済ませるために踊っている。
 まっこと、マルチタスクというのは便利なものだ。
 昼ごろに申請手続きを済ませて、艦を出る。そして、久しぶりに実家に電話をかけた。しばらくして、ディスプレイに柔らかな茶髪と繊細な顔つきが特徴の女性が現れる。

「ミト、久しぶり。これから帰るけど、何か買ってきてほしい物はある?」

「いえ、必要なものはそろっています。クロノ様のためにインターミドルチョコを買ってきていただければ幸いです」

「……わかったわ。じゃあ、車を運転するから切るわね」

 リンディはそう言って通話を終えた。何とはなしにハアッとため息がでた。
 自分で車を運転し、首都ミッドチルダを出る。郊外のスーパーマーケットでインターミドルチョコをエイミィの分も合わせて二つ買った。
 インターミドルとはミッドチルダを中心に管理世界中のアスリート達が鎬を削る競技大会のことだ。
 母体数が多い分、トップの人間は非常に練度が高く、管理局にスカウトされることもある。
 インターミドルチョコはチョコレートのおまけにインターミドルのアスリートのピンナップシールを付けて売っている商品だ。
 特に興味が無いのでリンディは詳しくは知らないが、スーパーに山積みにされているのを見るとそこそこ人気があるようだった。
 基本的にはベルカ式の使い手が多いが、いつだったかニュースで純粋なミッドチルダ式格闘家が急増していると報道していた。全国中継されたクライド・H・ハラオウンの華麗な戦闘スタイルの影響だと専門家が訳知り顔で話していたのを覚えている。
 そこまで考えてリンディは思考を放棄した。運転に集中する。体がだるかった。





 家に戻ったリンディをミトは門の前で出迎えた。
 藍色のロングスカートに白いエプロンドレスという古き良きメイド衣装を身に着けている。

「お久しぶりです、リンディ。お仕事の方はどうでしたか?」

「特に問題は起きなかったわ。まあ、問題が起きる方が稀なんだけど」

 首を傾げて尋ねるミトに素っ気なくリンディは答えた。

「そうですか。それは良かったです。クロノ様とエイミィは庭で遊んでいます。よろしければ、お呼びしますけど?」

 それを聞いてリンディは内心でほっと溜息をついた。

「ううん、邪魔したら悪いわ。おみやげは買って来たから、貴女から渡しておいて。疲れたから、私は部屋で休むわ。夕食も要らない」

「そうですか。それではそのように。……二週間は滞在なさるんですよね。なら、クロノ様の話を聞いてあげてくださいね。最近はピーマンもちゃんと食べれるようになったんですよ」

「考慮するわ。ただ、休暇と言ってもアースラの整備の間、ミッドチルダで待機するってだけだから、仕事はあるの。あまり屋敷にはいられないと思うわ」

「わかっています。ですが、どうか、クロノ様のためにお時間を作ってあげてください。クロノ様の唯一の肉親なんですから」

 それを聞いて、リンディはガリッと歯を噛みしめた。だが、出そうになった言葉を飲み込み、微笑む。

「わかったわ。何とか時間を作るようにする」

「そうですか、では、どうぞ。お荷物を。屋敷まで先導します」

 そう言ってミトはくるりと後ろを向いた。柔らかな髪がふわりと揺れ、甘い匂いが漂った。

「香水? ミト、化粧をしてるなんて珍しいわね?」

「ええ。クロノ様が将来、香水の匂いに辟易するなんて許せませんから。耐性をつけさせるために少しつけています」

「そう」

 深く考えずにリンディは頷いた。この時気づけなかったことを、リンディは後で一生後悔することになる。





 三日後、リンディはクロノを連れて、首都ミッドチルダに訪れていた。高級住宅街のはずれ、上品なレストランに入る。

「いらっしゃいませ。ご予約はありますか?」

「リンディ・ハラオウンよ。この店にはレティ・ロウランという連れが予約しているはずよ」

 素早く寄ってきたウェイターにそう告げると、ウェイターは微笑んで頷いた。

「ハラオウン家の当主をお迎えできて光栄です。それではお席に案内させていただきます」

 如才なく応え、きびきびと歩くウェイターに、これは奮発したわね、とリンディは心中で呟いた。
 今日の食事はレティのおごりということだったが、良いお値段になるはずだ。

「あら、いらっしゃい、リンディ。早かったわね。クロノ君も元気?」

「ええ、少し早く着いてしまったの」

「ミ、ミズ・ロウラン、お久しぶりです」

 雰囲気に慣れていないのか、おっかなびっくり挨拶するクロノにレティは優しく微笑んだ。

「前に会った時みたいにレティおばちゃん、でいいのよ」

「あ、ありがとうございます。でも、僕はハラオウンだから」

「頑張ってるわね。でも、敬意を表するのが逆に不敬であることもあるのよ?」

「ごめんなさい。よくわかりません」

「格式ばった言い方にこだわりすぎると逆にギクシャクしてしまうこともあるってこと。私はレティおばちゃんって呼んでほしいわ」

 そう言うレティはどう高く見積もっても二十代前半にしか見えない。眼鏡を外せば十代後半でも通じるだろう。

「わかりました。ありがとうございます、レティおばちゃん」

「うん、合格。可愛いなあ。リンディ、この子連れて帰っちゃダメ?」

「駄目に決まっているでしょう」

「残念。グリフィスに弟ができるかと思ったんだけど」

 そんな軽口を叩きつつ、ウェイターの用意したオードブルに舌鼓を撃つ。湯通しした白身魚を冷水でしめたものにキャビアを乗せた贅沢な一品だ。
 少し小腹が膨れた所で黒ジャケットに黒ズボン、ぶどう型のバッジを誇らしげに胸に光らせたソムリエが恭しく近づいてくる。

「ご希望のワインはありますか? 良ければ料理にふさわしい最高のワインをご提供しますが」

「ごめんなさい。今日は自分で運転してきたの。私とクロノにはぶどうジュースをいただけるかしら?」

「それなら、私も遠慮しておくわ。ごめんなさいね」

 そう言ってチップを渡そうとするレティを、ソムリエはやんわりと制した。

「いえ、チップは結構です。お代にちゃんと含まれていますから。それではあまり甘味の強くないぶどうジュースをお持ちします」

 そう言って、丁寧にお辞儀をし、ソムリエは去って行った。
 それからスープ、魚料理、肉料理、と続く。クロノにはなんと、コースの代わりにお子様ランチが出された。
 オレンジ色のピラフに小さなハンバーグが二つ。それぞれ違うソースが乗っている。それに野菜サラダと柔らかめにゆでたパスタと王道を貫いたものだったが、クロノはよほど美味しいのか、物も言わずに食べている。
 驚くリンディにレティは笑って言った。

「ここは子供にも配慮してくれるのよ。その評判を聞いたから今日はここにしたの」

「そう、ありがとう」

「にしてもクロノ君は行儀が良いわね。クライドはどっちかというと無作法な方だったのに」

 ちらっとリンディを見やりながらレティは言った。
 クロノが反応してむくっと顔を上げる。

「ミトがね。『クロノ様はハラオウン家を継がれる方ですから、見苦しい食べ方をしてはいけません』って」

「そう。良い養育係を見つけたわね、リンディ」

「ミトは侍従長よ。と言ってもメイドなんてミト一人しかいないけど」

「一人であの馬鹿でかい屋敷を管理しているの? 誰か雇ってあげなさいよ」

 ハラオウン家の屋敷は築二百五十年の巨大邸宅だ。節目節目で改装はしているものの、古い設備が大量に残っている。
 新人を雇った場合、まずそれらについて教えるところから始めなければならない。そんな面倒なことをするぐらいなら一人でやった方がマシだと言うのがミトの意見だ。
 実際リンディの目から見ても掃除は行き届いている。人手が欲しい場合はミトの裁量で雇って良いと言ってあるので特に問題は感じていない。
 そう説明すると、レティが感心したように頷いた。

「さすが、ハラオウン。優秀な人材を囲ってるわね。今度遊びに行っても良いかしら?」

「勿論、歓迎するわ。私のスケジュールは空いてないけど」

「貴方は仕事を詰め込みすぎなのよ。たまにガス抜きしないといつか爆発しちゃうわよ。ねえ、クロノ君」

「……母さんはハラオウンだから。お仕事するのはマギウスオブリージだもん」

「本当に良い教育係ね。うちのグリフィスも面倒見てもらえないかしら」

 幼年学校に行き始めたら急に生意気になっちゃって、と愚痴をこぼすレティを、どこか遠い世界を見る気持ちでリンディは見つめていた。





 すっかり暗くなった道路をリンディは助手席にクロノを乗せて、家を目指して車を走らせていた。

「母さん、僕ね、ピーマン食べれるようになったよ。まだ好きなわけじゃないけど」

「そう」

 クロノに視線を向けず、運転に集中しながらリンディはおざなりに返事した。

「それでね。体を鍛えようと思うんだけど、ミトに相談したらロッテとアリアに頼めばいいんじゃないかって。母さんはどう思う?」

「いいんじゃないかしら。好きにするといいわ」

「うん。それでね、母さん、あのね」

「クロノ、母さん、車の運転に集中したいの。夜運転するのは久しぶりだから怖いのよ」

「……うん、わかった」

 そう言ってクロノは黙り込んだ。そのまま二人は無言で屋敷まで帰った。
 ミトが倒れたのはそれから一週間後のことだった。





 リンディはアースラで相変わらず書類仕事を片付けていた。
 ミトの死後、リンディは淡々と葬儀を行い、後始末を済ませた。
 クロノの世話をする新しい家政婦を雇い、エイミィはリンディが保護者代理を請け負って士官学校の寄宿舎に入れた。
 涙は流さなかった。自分には泣いている暇はない。二度とハッシュモンドを繰り返してはならない。そう念じ続けていた。
 いつものように、次元間通信をチェックしていると、召喚状を見つけた。発行者はレティ・ロウラン。
 しばらく、ここ最近の自分の行動を思い返してみたが、特に問題は思いつかない。
 だが、無視するわけにもいかない。アースラのクルーに事情を告げ、リンディはグレアム提督が敷いた地球の転送ポートを使わせてもらい、ミッドチルダに向かった。

「久しぶりね、リンディ。といっても三人でレストランでディナーを食べてから、二ヶ月程度だけど。
 わざわざ来てもらって悪いわね。でも、これも仕事の内だから勘弁して。あ、一応規則だからバリアジャケットは解除してくれる?」

 レティがいつものようにきびきびと告げた。彼女は人事を専門としている執務官であり、優秀な内政屋だ。
 言われるままにバリアジャケットを解除する。入浴以外でバリアジャケットを解除するのは久しぶりだった。

「別に気にしてないわ。それじゃあさっさと用件を済ませてしまいましょう」

 その言葉にレティは頷き、査問を始めた。しかし、リンディの見識によると、重箱の隅をつつくような事案であり、仮にも職務中の艦長を呼び出すほどの物とは思えなかった。

「――と、査問についてはこんなところかしら。呼び出して悪かったわね」

「構わないけど、今度召喚状を書くときは、もう少し建設的な事案でお願いするわ」

「それについてはごめんなさい。正直、査問というのは口実だったの。今から本題に入るわ。いい?」

 そう言うとレティは眼鏡のずれを右手の親指で直した。
 彼女が大事な話をする時の癖だった。自然、リンディも背筋を伸ばして聞く姿勢を整えた。

「ミトさんが死んだそうね」

「ええ」

「新しい家政婦を雇ったそうだけど、クロノ君はどうしてるの?」

「特に問題があったと連絡は受けていないわ」

 クロノにも新たに雇った家政婦にもリンディのメールアドレスは教えてある。
 何か問題があったら連絡がくるはずだった。

「ちょっと放任主義が過ぎるんじゃない。正直、クロノ君をうちで引き取りたくなってくるわ」

 やんわりと言うレティにリンディは真顔で返した。

「そうしてもらえるとありがたいわ」

「……本気で言っているの?」

「ええ、レティなら信用できるし。クロノも喜ぶと思うわ」

「……そう」

 レティは立ち上がった。そのままリンディの前に立つ。

「歯を食いしばりなさい、リンディ・ハラオウン!」

 突然、思い切り右手でリンディの頬を殴りつけた。不意を撃たれたリンディがもろにもらって、地面に尻餅をつく。

「言うか言うまいか迷っていたけど、もう限界! いつまで現実から目を背けているつもり!?」

 口の端から血が流れていくのが分かる。だが拭う気にもならず、立ち上がることもできなかった。

「私は現実を――」

 抗弁しようとしたリンディに構わず、レティは続けた。

「クライドはもう死んだの! デバイスは回収されたし、立派な葬儀だって行われたわ!」

 嘘だ。そう言いかけて、リンディは黙った。

「あなたはそれでいいわよ。優秀だから、現実から目を背けたままでもどうにかなる。でもクロノ君はどうなるの」

 レティがジロリとリンディを睨みつける。

「育児放棄もいいかげんにしなさい。子供をまっすぐ育てるのは親の義務よ。公務を言い訳に使うなんて全管理局員に対する侮辱だわ」

「……」

「クロノ君と会って、今、あの子が何をしているのか見て、聞いてきなさい。逃げることなんて許さないわよ」

 落ち着いてきたのか、若干声のトーンが下がってきたレティにリンディは弱弱しく言い返した。

「貴女に、家族を失ったことも無い貴女に、なにがわかるっていうの?」

「わからないわよ」

 必死の反撃をばっさりとレティは切り捨てた。

「貴女は逃げるばっかりで、何も言おうとはしないもの。黙り込んでいる他人の心中をどう察しろっていうの?」

 リンディをまっすぐ見つめてレティが言う。
 それはあまりにも正論で、リンディは眼を逸らすことしかできなかった。

「……反論する気力もわかないってわけ? 悪いけど、貴方の親友やめるわ。これだけ言ってもわからないなら付き合う意味もない。左遷された誰かさんと違って、私は忙しいもの」

 そうして、レティは部屋から出て行った。ドアから出ようとして一瞬立ち止まる。

「貴女には失望したわ、リンディ」

 後には暗い部屋の中で肩を震わせるリンディだけが残された。





 気が付けば、車は郊外の屋敷の前に着いていた。
 時刻は夕方。夜を前に、空が血の色に染まるのはミッドチルダでもハッシュモンドでも変わらない。
 クロノと会わなければならない。会って、話をしなければならない。そう考えると心が重くなった。
 わかっている。クライドのことについて、クロノには何の責任もない。法律上でも倫理的にもそうだ。四歳の男の子に責任なんてあるはずがない。
 クライドは戦士として生き、そして死んでいった。それは誉れとされるべきはずのことで、誇ることこそあれ、悲しむべきことではない。
 でも。たとえそうだとしても。

――チームプレイとか俺、苦手なんだよね。

 始まりはそう。"ブラスト"に法の裁きを受けさせ、復讐とする。ただそれだけを望んで捜査に志願した、リンディの相棒となるべく呼ばれた男がクライドだった。
 第一印象は最悪。管理局員でありながら組織の束縛を受けることを毛嫌いする不良。

――馬鹿じゃねえ。大馬鹿だ。天才と秀才ぐらい違うぞ、覚えとけ。

 妙なこだわりと無駄に高いプライドを持っていて。

――お前は十分頑張った。だから、ゆっくり休め。後は俺に全部任せておけ。

 でも、誰よりも強く、誰よりも気高く、誰よりもストイックで、

――ここでお前が行けば、相手の思うつぼだ。ミトもエイミィも助からねえ。だから、俺が行って百人倒せばいい。相手もまさか、A+ランクの魔導師にテーブルごとひっくり返されるとは思わねえだろう。

 不可能だと思える戦いを常に切り抜けてきた。
 いつしか、大嫌いは憧れに、憧れは恋慕になり、

――わかってるよ。俺の可愛いリンディ。

 この人となら、どんな苦難も乗り越えられると、確信した。
 クライドはリンディの道標であり、比翼の鳥の片方だった。
 なのに、なのに。

「……バカクライド。どうして先に逝っちゃったのよぉ」

 ジワリと目の奥から込み上げてくる物を感じ、慌ててリンディは天を向いて耐えた。
 涙を流せば、流すだけ、クライドの記憶は風化し、思い出になっていく。それがどうしても我慢できなかった。
 五分ほどそうしていると、症状は治まった。しかし、肩にかかる重圧はさらに増したような気がする。
 コンコンとドアを蹴る音が聞こえた。振り向くと、そこにはリンディの一人息子が、クロノ・ハラオウンがいた。

「クロノ、ドアを蹴るのはやめなさい」

 そう言ってドアを開ける。すると、クロノは素直に頭を下げた。

「ごめんなさい、母さん。でも、早くお帰りって言いたくて」

 そう言うクロノは両手をピクリとも動かさない。
 さすがのリンディも違和感に気づいた。クロノの腕を取る。
 顔をしかめたクロノを見て、慌てて服をまくる。
 そこにはリンディの想像もしない物が浮かんでいた。
 両腕の隅々までが青い。重度の内出血の結果だ。一体何をすれば、こんなことになるのか。

「母さん、手を放して。痛い」

「――っ! ごめんなさい。でも、この手はどうしたの?」

「鍛錬の成果だよ」

「鍛錬?」

 クロノは頷いて腰に差した短杖を示して見せた。クライドの墓に備えたはずの短杖だった。

「うん。毎日左手と右手で千回ずつ、突きを練習することにしたんだ。だけど、腕がだるくて、朝から始めたんだけど、終わるのが夕方になっちゃった」

 絶句。四歳の子供がやる練習では断じてない。否、鍛えられた大人だって毎日できるかどうか。
 クロノの腕を見れば、今日が初めてではないということが一目でわかる。

「何で、そんなことを。クロノ、貴方は凡人なの。クライドの素質も私の素質も貴方は受け継がなかった。ミッドチルダを武力で守れるだけの才能が貴方にはない。
 だから、そんなことはしなくていいのよ」

 そう言って、あの事件の後、初めてリンディはクロノをまっすぐに見つめた。
 リンディはクロノを見るのがつらかった。カラスの濡れ羽色の髪も、黒ダイヤのように輝く瞳も、やや険しい目つきも、高くも低くもない鼻も、薄い唇も全て、クライドを思い出させたから。
 クライドが死んだことはわかっている。でも、クロノを見るたびにそのことを思い出させられる。それが、リンディには何よりも辛かった。
 リンディの言葉を聞いて、何かに得心が言ったようにクロノは頷いた。そして口を開いて、はっきりと言った。

「母さん、泣かないで」

 リンディは反射的に目じりを指で触った。濡れた感触は無い。当然だろう。クライドが死んで以来、リンディは涙なんて流したことが無かった。

「父さんの夢は、僕が継ぐから」

「クライドの、夢?」

「うん。父さんは僕に言った。『どんな相手も殺さず、五体満足で制圧して、ハハァ、参りましたって言わせちまう魔導師になりたかった』って。父さんには無理だったから、僕がやる。
 父さんの夢は僕が継ぐ」

「……そんなの無理よ」

 魔導師にとって才能は絶対だ。クライドを例外視する者は数多いが、彼は魔力量以外の戦闘に必要なものを全て兼ね備えて生まれてきた一種の異形だ。
 父の肉体も母のリンカーコアも受け継がなかったクロノに、クライドですら叶わなかった夢が継げるはずがない。

「それでもやる。できないからやらないとか、できるからやるとかそんな問題じゃない。僕がそう決めたから」

 クロノはまっすぐにリンディを見つめて呟いた。それは四歳の子供の物とは思えない言葉だった。
 これが罰か。育児放棄のツケがクロノの歪んだ成長なのか? リンディは改めて自分のやっていたことがどれほど罪深いかを知った。
 クロノの信念は硬い。たった四歳の子供が、腕が上がらなくなるまで鍛錬を繰り返すほどに。クロノはたった四歳で大人になったのだ。なってしまったのだ。

「ごめんなさい、クロノ。ごめんなさい」

 クロノの未来がどうなるのかはわからない。ただ、想像もできない苦境の連続であることだけは容易に想像できた。
 そしてその将来をクロノは決して不幸だと感じないだろう。それは世界の誰よりも不幸なのではないか。
 だが、もう賽は投げられた。もはや、リンディにできることはただ見守り、道を外れないようにわずかだけでも矯正することだけなのだ。
 クロノを抱きしめる。そして、リンディはクライドが死んでから初めて、涙を流した。



[34641] 閑話 エイミィ・リミエッタ
Name: 烏賊様刻◆e7251814 ID:c9e6522c
Date: 2013/05/12 12:40
 セドリックが失踪し、リンディが家を顧みなくなっても、クロノはすくすくと育っていった。
 ミト・リミエッタがいたからだ。夫の失踪と親友であり主君の育児放棄を目の当たりにしても彼女は気丈にクロノとエイミィを育て上げた。
 しかし、やはり辛かったのだろう。元々体の弱かった彼女は心労で病を患い、ある日突然倒れた。
 エイミィが七歳、クロノが四歳のことだった。倒れた母を見つけたエイミィが動転した気を落ち着け、救急車を呼ぶ頃には時間が経ちすぎており、病院で何とか意識を取り戻したものの医者からは今夜一晩持たないだろうと宣告された。

 病院のベッドで眠るミトをエイミィは憔悴した顔で見つめていた。いくら天才と言っても彼女はまだ幼い女の子だった。
 意識を取り戻さない母を見て平静を保てるほど強くは無かった。何とか、それでも騒いだりしなかったのは横にクロノがいたからだ。
 クロノは今にも泣きださんばかりに震えている。エイミィが動揺したら、きっとクロノは泣き出してしまう。そう考えてギリギリのところでエイミィは心をコントロールしていた。

「クロノ君、外に出てジュースを買ってきてよ」

「え、でも……」

「大丈夫。母さんは私が見てるから。ね? お願い」

 多少ぎこちなかったが何とか微笑めたと思う。
 小銭を渡すとクロノは迷っていたが結局頷いて部屋から出て行った。
 狭い個室はエイミィとミトの二人きりになった。
 心電図の無機質な電子音だけが部屋を満たす。

「……うっ」

 ベッドの上のミトがうめき声をあげた。

「母さん!」

「エイミィ? ここはどこ? クロノ様は?」

「ここは病院。母さんは家で倒れて救急車で運び込まれたの。クロノ君は限界そうだったからジュースを買いに行かせた」

「そう」

 横たわったまま、か細い声でミトが頷く。
 そして、何かを考えるように目をつむり、そして緩慢に口を開いた。

「エイミィ、こっちに来て」

 ミトが言った。ベッドからゆっくりと起き上がろうとさえする。

「母さん、駄目だよ。寝てて」

 それをエイミィが慌てて押さえようとする。しかし、伸ばされた手をミトは手を握った。
 いつか触った温かな手ではない、氷のように冷たい手だった。

「母さん……」

「エイミィ、良く聞いて。私はもう長くはない。自分でわかるの。母さんはすぐに死んでしまうでしょう」

 ミトは枯れた小さな声で必死にしゃべっていた。
 母の声を聞きとろうと、顔を近寄らせる。
 内臓を悪くしているのだろう。若干の口臭を感じる。そういえばミトが息をすっきりさせると評判の飴を良く舐めていたな、と今更ながらエイミィは思い出した。

「エイミィ、あなたならどんな場所でどんな職業でも生きていけるわ。あなたは私とセドリックの子であることが不思議なくらい優秀な子だもの」

「そんなことない。母さんが死んだら私、どうしたらいいかわからないもの」

「エイミィ、親は子より先に死ぬ。それは避けられないことなの。貴方にはそれが早く来てしまっただけなのよ」

「そんなの、知らない! 母さん、死なないで!」

「エイミィ」

 痩せた腕でミトはエイミィを抱きしめた。

「ごめんなさい。あなたには苦労ばかりかけるわ。でも、聞いて。多分、遺言になるから」

 ミトは微笑んだ。まっ白な病室の中でミト一人だけが暗かった。その笑みには深い影が浮かんでいた。

「エイミィ、クロノ様を、クロノを助けてあげて。あの子は"ハラオウン"よ。ミッドチルダで最も尊い血筋なの。
 リンディはもう子供を作らないから、将来ミッドチルダを牽引し、矢面に立たなければならない人なの。
 それは他の誰にもできない、大切で、だからこそ苦しい仕事なの。
 だから、エイミィ、クロノを助けてあげて。あの子の肩にかかる重圧を少しでも一緒に背負ってあげて。
 あなたはクロノのお姉ちゃんなんだから」

 そう言い終えて、眠るようにミトは眼を閉じ、ベッドに崩れ落ちた。無機質で甲高い電子音と共に心電図が直線を描く。
 走りこんできた医者と看護婦が回復魔法をかけ、心臓マッサージを行い、電気ショックで何とか心拍を復活させようとする。
 しかし、ミトが目を覚ますことは二度となかった。

「エイミィ姉ちゃん、ミトは? ミトは大丈夫なの?」

 病室から出てきたエイミィにクロノは縋りつくように聞いた。

「母さんは、死んだ。もう会えない」

 エイミィは涙を流さなかった。
 ただ、気丈にクロノを見つめた。

「クロノ君、母さんにさよならを言おう」

 エイミィはそう言って、病室に入った。
 そこには顔に白い布をかけられたミトがいた。
 その身体は小さなクロノから見ても小さくて、かけてきた心労を想起させた。
 布団からはみ出た青白い手をクロノがおずおずと握る。
 その冷たさに、クロノは悲鳴をあげた。
 そして、泣き出す。

「ど、どうして、ミト、ミト、起きてよ!」

 必死にミトの体を揺らすクロノをエイミィは冷めた眼で見つめた。
 心の底から込み上げてくる物がある。

「エイミィ姉ちゃん……」

 助けを、救いを求めるようにクロノがこちらを見る。
 それが、どうしようもなく癇に障った。

「ミトは何で死んじゃったの?」

 その言葉を聞いた瞬間、エイミィのリミッターは振り切った。

「何で!? 何でですって!? 良くも聞けたものね! そんなの決まってるじゃない!」

 もうエイミィは止まらなかった。
 主筋の子だとか、弟分だとかエイミィの精神に辛うじて歯止めをかけていた遠慮が全部吹き飛んだのだ。

「クロノのせいよ!」

「えっ……」

「あんたが私に黙って外に飛び出したから、皆死んだんじゃない! クライドさんも、母さんも、ハッシュモンドの人達も!
 全部、あんたのせいで死んだのよ!」

 何を言われているかわからない。いや、わかっているが理解したくない。そんな顔をしているクロノに畳み掛けるように言う。

「父さんを返して! 母さんを返してよ! あんたのせいで私達一家は滅茶苦茶じゃない!」

 涙が零れてくる。霞んだ視界でエイミィは激昂してクロノの首を掴んだ。
 そのまま、力の限り締め上げる。
 クロノの顔色が蒼白になり、ついで土気色になっていく。
 それをいい気味だとすらエイミィは思った。

「何をしているの! 放しなさい!」

 二人を引き離したのは看護士だった。
 どうやら、騒ぎを聞きつけ、飛んできたらしい。
 押さえつけられたエイミィはすぐに収まった。理性が本能を抑え込んだのだ。
 地面に膝をついて咳き込むクロノを見て、チクリと罪悪感がよぎった。





 騒ぎはリンディの知るところになり、エイミィは彼女の指示で士官学校の寄宿舎に入れられた。
 エイミィとしてもハラオウン家と離れられるのならどこでも良かったため、黙々とそれを受け入れた。
 寄宿舎と士官学校を往復する毎日。半年通って、そこで気が付いたのは自分はどうやら周りと違うらしいということだった。
 エイミィが一回講義で聞いたら楽に覚えられ、いつでも思い出せることが級友達にはできない。
 生来の要領の良さと愛嬌で、そこそこ友達ができて、請われるままに勉強を教えながら、いつも心に思うのはクロノのことだった。
 エイミィちゃんは賢いね、とそう言われるたびに自分に必死に着いてきた弟分のことを思い出すのだ。
 エイミィが全力で走り始めれば、誰も着いてこれない。それは入学してすぐに実感し、また教師からも忠告された。
 思いもよらないことだった。エイミィは自分は普通で、クロノが愚鈍なのだと思っていたが実際には逆だった。異常なのは自分だったのだ。
 だが、全力で走るエイミィに辛うじて着いてきていた子供がいる。それがクロノだ。
 そう考えると罪悪感が募る。

「でも、今更どんな顔をして会えばいいのよ」

 昼休み。最近日参している校舎の屋上で一人、パンをかじりながら呟く。
 だが、結局はそういうこと。エイミィは傷心のクロノを追いうつように非難し、首まで絞めたのだ。生まれたときからの付き合い、竹馬の友とはいえ、その縁は切れているだろう。
 クロノはどうしているだろうか。元気にしているだろうか。調べればすぐにわかったのだろうが、調べる勇気がエイミィにはなかった。

「エイミィちゃん、こんなところにいたの? 昼休みに用事があるって言ったじゃない」

 クラスメイトのシムカが告げる。古代ベルカの聖王と同じ名を持つこの娘はエイミィと特に仲が良い人間だった。

「ああ、そうだっけ。ごめん、忘れてた」

 嘘だ。エイミィは一度聞いたことは決して忘れない。ただ、シムカは自分に頼りすぎるきらいがあるので、ちょっと意図して距離を置くことにしていた。

「もう、忘れてた、じゃないよ」

「ごめんごめん。それで何の用事だっけ?」

「転入生だよ。なんでもまだ五歳らしいんだけど特別に入学が認められたんだって。黒い髪にミステリアスな黒い目をした男の子なんだって。一人で見に行くのは怖いから、ってエイミィちゃん?」

「ん、何でもない。じゃあ、見に行こうか。楽しみだなぁ」

 胸によぎる予感を無視してエイミィは言った。





 教室に行ったエイミィ達を待っていたのは人だかりだった。
 幼い転入生を一目見ようと物見高い子供達が集まってきているらしい。
 人込みをかき分けて進む。すると、そこには小さな少年がいた。
 身長は低く、幼い風貌だが、目の鋭さが人目を引いた。

「クロノ、君?」

「……エイミィ姉ちゃん」

 それは意外と言えば意外な再会だった。
 ただ、転入生の風貌からその可能性を予期していたエイミィは高まる思いを胸の内に納めることができた。

「ハーヴェイ君、知り合いなの?」

「エイミィちゃん、知り合い?」

 クロノはクラスメイトらしき少年から、エイミィは傍にいたシムカ嬢からそれぞれ聞かれる。

「あー、ちょっとした知り合いかな」

「ん、でもそっちの子、エイミィ姉ちゃんって言ってたよ。親しくないとそんな呼び方しないよね」

 鋭い。
 シムカがそう言うとエイミィは内心で舌を巻いた。
 ぽややんとしている娘だと思っていたが洞察力はそこそこあるらしい。

「寄宿舎に来る前に近くに住んでて、ちょっと世話を焼いたってだけだよ」

 嘘はつかないがしかし、焦点はぼやかすように気を付けてエイミィが関係を説明する。
 クロノが偽名を名乗っているのが気になった。迷惑をかけるのはいかにもまずい。
 そんなわけで弁解しながら、クロノの方をちらりと見ると、クロノが手を一瞬、チョキにしてパーにした。

(あれは、母さんに内緒でお菓子を食べる時のサイン?)

 つまり、後で一緒にお菓子を食べよう。転じて後で会おうというぐらいの意味か。
 そこまで考えてエイミィもぱぱっと了承のサインを返した。
 何にせよ、クロノに謝らなければいけないと感じていたから。





 夜、エイミィの部屋にノックの音が響いた。
 エイミィが静かにドアを開けるとそこにはクロノがいた。
 無言で手招きし、部屋に導いてからドアを閉める。

「久しぶり、エイミィ姉ちゃん」

 穏やかな声だった。

「あ、うん。久しぶり」

 反射的に返す。
 そして、二人の間に沈黙が満ちた。

「……それで、何で士官学校に来たの?」

 先にこらえきれなくなったのはエイミィの方だった。
 何せ、彼女には首を絞めて殺しかけたという負い目があった。

「ロッテが僕は人見知りするから人間との付き合い方を学べって」

「リーゼロッテさん? グレアムおじさんの使い魔の?」

「うん。ここ、半年鍛えてもらってる」

 そう言って、クロノは力こぶを作って見せる。
 まだまだ、細い貧弱な腕だったが確かに筋肉の脈動が見えた。
 それで大体、知りたいことは分かった。
 ハラオウンの名は管理世界では有名すぎるので害になると判断して、クロノ・ハーヴェイという名で転入させたのだろう。
 さすがは天下の執務官長。士官学校上層部にもコネを持っているらしい。亀の甲より年の功とはこのことか。

「でも、ロッテさんとアリアさんって戦技教導隊でしょ? クロノを鍛えてる時間なんてあるの?」

「グレアムおじさんが公職を引退したからロッテとアリアも一緒に引退したんだって言ってた」

「クロノ君、それは……」

「わかってる。僕のせいだ」

 クロノに癒しがたいほどの影が差した。
 それはきっとエイミィがつけてしまった傷だった。
 しかし、

「でも、エイミィ姉ちゃん。僕は謝らない。エイミィ姉ちゃんにもミトにもグレアムおじさんにも母さんにも」

 まっすぐに見つめられて驚く。
 クロノは、エイミィの小さな幼馴染は、思っていたよりずっと気丈で強い男の子だった。

「戦場でのミスは戦場でしか返せない。だから、僕は約束した、母さんに。父さんの夢は僕が継ぐ。『どんな相手も殺さず、五体満足で制圧して、ハハァ、参りましたって言わせちまう魔導師』になる」

 エイミィが足踏みしている間にクロノは貫くべき信念を見つけ、夢を得たのだ。
 それは幼いクロノにとって幸運なのかはわからない。だが、得難い物ではあることは間違いなかった。

「クロノ君は目標を見つけたんだね」

 エイミィは知らず泣いていた。ミトが死んだとき、クロノにやつあたりした時にも堪えたエイミィが初めて流す涙だった。
 あの時のことを謝りたいとか、そんな気持ちは全部吹っ飛んでしまったのだ。

――クロノを助けてあげて。

 そんな母の遺言を思い出した。

「なら、私はクロノ君を支えたい。こんな私なんかでいいならクロノ君の夢の一助になりたい。どうか私を使って欲しい。
 それは、きっと母さんの遺志にもかなうことだと思うから」

「エイミィ姉ちゃん……」

「ううん。エイミィって呼び捨てて。私はもうクロノのお姉ちゃんじゃない。クロノ君の同志で、艱難辛苦を共に背負う仲間だから」

 涙を流してそう言ったエイミィにクロノは力強く頷いた。

「なら、エイミィ。僕はまだ未熟でどうしようもないほど弱い人間だけど、決して諦めないことだけは約束する。
 どうか僕を支えて欲しい。僕を導いて欲しい。僕のパートナーになって欲しい」

「母、ミトと父、セドリックの名において誓います。病めるときも健やかなるときも私は貴方を助ける」

 言ってからエイミィは赤面した。これじゃあ結婚の誓いじゃないかと。
 クロノは気づかなかったらしく、突然赤面したエイミィに首を傾げている。

「うん、これからよろしくね、クロノ君」

 そう言って笑みを浮かべて誤魔化すことにする。
 言葉なんて些細なことだ。大事なのは内容。この地獄のような現世を共に歩むという誓約。
 ある意味、結婚なんかよりもずっと大事な誓いをしたのだ。

「それじゃあ、エイミィ。早速だけど一つ、お願いがある」

 クロノは真剣な顔で言った。

「シグナムの必殺技、"紫電一閃"を破る。そのためにあの技の原理を解明するのを手伝ってほしい」

「わかった。絶対に解いてみせるよ」

 その日からクロノ・ハラオウンはエイミィ・リミエッタという神算鬼謀の士を得て、勇躍する日まで力を蓄えることになる。
 クロノが再び闇の書と出会う九年と九十五日前のことだった。


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