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[35052] 閃光の明日は(SAO二次創作)【マザーズ・ロザリオ編開始】
Name: YY◆90a32a80 ID:1a43ae77
Date: 2014/02/21 22:57


これはソードアート・オンライン(SAO)の二次創作となります。
最前線が74層段階で、アスナとパーティを組むことになった時点からの分岐、再構成ものとなります(アニメで言うと8話から)
以前に原作を読まぬままアニメを見ただけの勢いで2chのVIPにて台本形式で投下したものに、設定の矛盾等を修正して地の文を肉付けし、新たな展開を加えてお送りしていこうと思います。
ちなみにスレタイは【アスナ「なんか凄そうなアイテムドロップした」キリト「?」】です。
アスナ×キリトものです。現在は原作をきちんと読んでいます。

注意:一部のキャラを意図的にキャラ崩壊も甚だしい扱いすることがあります。
   :オリジナル要素が含まれます(物語冒頭から、原作にはないアイテムが出ます)
   :原作(文庫本)のネタバレの可能性があります。アニメのみの方はお気を付けください。
   :微エロあります。
   :アスナが若干ヤンデレ気味? です。

極力世界観を崩壊させるような、もしくはパワーバランスを崩すようなオリジナル要素は入れないつもりですが、ネタの場合はその限りではない場合もあります。

それでも読んでやるぜ、という勇気あるユーザーの方は、その頭にナーヴギア、もしくはアミュスフィアを装着して別なるSAOの世界にどうぞお付き合い下さいませ。



2012/09/09 チラシの裏にて投稿開始

2012/09/19 その他板に移行



[35052] SAO1
Name: YY◆90a32a80 ID:1a43ae77
Date: 2012/09/19 22:01


────これは、ゲームであっても遊びではない。






 かの天才ゲームデザイナー、茅場晶彦がこのVRMMORPG……Virtual Reality Massively Multiplayer Online Role Playing Game……『ソードアート・オンライン』の正式サービスを開始してから、丸二年が経とうとしていた。
 一万人程いたはずのプレイヤーは現在六千人ほどまでに減っている。
 ゲームが廃れたのではない。そもそも、このソードアート・オンラインは茅場の言うとおり、ゲームであっても遊びではなかった。
 言葉通りのデスゲーム。ゲーム内でのHP全損、いわゆるゲームオーバーはそのまま現実からのゲームオーバーと同義だった。
 それを知っていれば、どれほどの人間がこのゲームを手に取ることを止めただろうか。
 その仮定に意味はなくとも、多くのユーザーが似たようなことで頭を悩ませたことがあろうことは想像に難くない。
 自ら望んだわけでもないのにデスゲームに参加させられたとなれば、尚更無理なきことだろう。
 ソードアート・オンライン、その舞台である浮遊城アインクラッド。
 直径約十キロメートル。全100層からなるその城に、ユーザーは“監禁”されている。
 任意のログアウトは不可、ログアウトするにはゲームをクリアするかHPを全損して現実世界もろともログアウトするか。
 自由に歩き回る事が可能だろうと、好きに食事が出来ようと、バーチャルワールド……仮想世界から任意に出られないユーザーは、やはり監禁されていると呼ぶのが相応しい。
 閉じこめられているのだ。仮想世界……直径約十キロの浮遊するこの城に。
 最初は恐かった。死ぬことが恐かった。
 何より帰れないことが恐かった。帰ってやらなければならないことがたくさんあったのだ。
 それに突き動かされるように、自分で剣を取ったのはゲーム開始からどれだけ経った頃だっただろうか。
 死にものぐるいで剣を振って、覚えて。 攻略組と称されるトッププレイヤー──今やその数は残存する全プレイヤー数の一割にも満たない存在となってしまった──常に最前線で戦うプレイヤー組へと仲間入りしたのは、それからさらにいかほどの月日を重ねただろうか。
 一日も早い現実への帰還。ただただそれだけを求めて。 速く、もっと速く。加速度的に効率的かつスピードを求めた攻略。それだけを考えて経た年月は、モノトーンよりも暗い、灰色に染まった記憶群でしかない。
 でも。
 ここでの生活に初めて色合いが付いたあの日、あの出来事からの事は、今でも鮮明に覚えている。



「てやぁっ!」

 裂帛の気合いと共に細剣を突き出す。
 デモニッシュ・サーバント……骸骨の出で立ちをした骨型モンスターの身体、いや、骨に刺突を三回叩き込む。
 そのまま間髪入れずに左右へと切り払い、斜めに切り上げ、上方向への刺突をさらに二連撃浴びせる。
 《スター・スプラッシュ》、計八連撃をお見舞いできるソードスキルだ。最後の刺突の反動でやや後ずさり、ソードスキル使用後特有の硬直時間が来るのと同時に、叫ぶ。

「キリト君!」

 瞬間、黒衣の剣士が眼前に飛び込み、水平にブルーのライトエフェクトを奔らせた。
 スイッチ。予め決めていた手筈通りの戦い方だ。
 だが彼のその速度は驚くほどに速く、彼の名を叫ぶ意味があったのかは疑わしい。
 彼の攻撃は尚も留まることを知らず、ブルーのライトエフェクトの軌跡をさらに二回三回と増やしていく。
 計四回、水平に切り込こまれたデモニッシュ・サーバントを中心に、ブルーのライトエフェクトが作り出す軌跡によって結ばれた正方形があっという間に出来上がっていた。
 《ホリゾンタル・スクエア》、水平に四連撃をお見舞いするソードスキル。
 黒衣の剣士の少年は左右に剣を振ると流麗な動作で背の鞘に剣を収めた。すぐに青い正方形のエフェクトがポリゴン片になって闇……迷宮区の中に溶ける。
 同時に、今の攻撃でHPバーが1ドットも残すことなく無くなったデモニッシュ・サーバントもまた、ポリゴンの破片となって一瞬のライトエフェクトを発生させた後、消えた。
 ここ、アインクラッド74層……現在の最前線ダンジョンに潜ってかれこれ数時間になるが、彼との狩りは驚くほどスムーズだった。

「お疲れ様」

「……」

「どうかした?」

「ああいや、やっぱり手練れがもう一人いると安定感が違うなって」

「でもキリト君も凄いよ、ここまで殆どダメージ受けてないでしょ?」

「そりゃアスナにも言えることだろ?」

 確かにお互いHPバーの減りは少ない。
 そもそもクリーンヒットに至っては今日は一度も受けていないはずだ。
 これだけの時間潜っていれば、いつもなら一度や二度は受けていてもおかしくはない。
 ましてやここは最前線。70層を越えた辺りからエンカウントモンスターのアルゴリズムが一層おかしく、激しくなってきた事を考えれば、今日は出来過ぎなくらいだった。
 ……いや、そうでもないか。
 彼は普段からソロでこの迷宮へと潜っている。裏を返せばそれほどのプレイヤーなのだ。
 アスナも自分に自信が無いわけではないが、彼の動きを見ていると、とても勝てる気はしない。
 レベルにそう大差がなくとも、その圧倒的な経験の差が、今の彼の強さをより強固にしているのだろう。
 同じ被弾が少ないHPバーの見た目からはわからない、心の余裕度。
 先程からの戦闘を経て、それが彼との間にはまだあるように感じられた。

「行き止まりだな」

「そうね、引き返しましょうか」

「ああ」

 マッピングを続けながら、二人は未だ未解明部分の迷宮を攻略していく。
 こうして不明になっている部分を足で埋め、そのデータをプレイヤー同士で共有していくことで迷宮攻略は格段に効率よく安全に進む。
 最低限そこには助け合い、協力の精神が名前も顔も知らないプレイヤー間において確かにあると言ってもいい。
 それは、普段ソロで行動するキリトとて、変わらない。現に彼は今マッピングしているし、これまで彼が各層で提供してきたマップデータは非常に有意義でその数も多い。
 故にアスナは少しだけ、彼がわからない。彼が何故ソロでいることに拘るのか。
 ギルドに属さずとも、誰かとパーティを組むくらいはしてもいいものだろうし、何よりも生存の確実性が増すというものだろう。
 噂では迷宮内で偶然出会って、少しの間一緒に行動する、と言った程度の野良パーティのような関係は彼も何度かしているようだが、これまで彼が特定の人物と長くパーティを組んだ、という話は聞いたことがない。
 アスナが知らないだけかもしれないが、攻略も100層中74層目とおよそ四分の三を終えつつある今、その最前線にもソロで潜ってばかりいる彼を見れば、彼が特定の誰かと組んでいない、もしくは組む気が無いのは想像するに難くない。

「だいぶ戦ったな、そろそろ戻るか?」

「え……」

 キリトの提案に、しばし黙考する。提案自体にはなんらおかしいことはない。
 ただ、今この最高に楽しい時間が終わってしまうのが、少しイヤだった。
 狩りに出かけて、迷宮を攻略して、レベルを上げて……幾度と無く繰り返してきたルーチンワーク。
 そこに楽しさを覚えられるのはこれまで稀だった。

「そ、そうね……う~ん」

 即答せず、時間を引き延ばす。
 それがあまりに無意味なことで、無駄なことと分かっていても、この時間を終わりにするのは惜しいと思ってしまう。
 終わらない時などない。頭では理解出来ても、心が納得しない。
 有限なる彼との時間、それが刻一刻と減少していく。ある意味で、HPバーが減少するくらいに、それはアスナの精神をも減少させた。
 そこで、ふと苦し紛れの一計が浮かぶ。

「あ、そうだ。その前に戦利品をちょっと整理しない? 連戦になったあたりからドロップ品とかあまりチェックしてなかったし」

「それもそうか、じゃあ安全圏まで行って、そこで検分しよう」

 キリトは特段嫌がる素振りもせずに納得し合意する。
 それにホッと息を吐く。もしも、「そんなの後でもいいだろ」などと言われたら、反論する余地はない。
 むしろ、街に戻って宿屋にでも入ってから行った方が余程安全……宿屋?

(その手があったかも)

 キュピィーンと来た。一昔前なら発電灯が頭の上辺りに出てきて光るような、そんな感じだ。
 幸い、SAOにはそのようなエフェクトは存在しないようで、アスナのいかにも何か思いつきました、という外見エフェクトは発生しなかった。
 最も、SAOのアバターは感情表現がやや過剰演出気味ではある。その顔を見られればいかにも何かあった、というのはわかってしまう。

「どうかしたか?」

「えっ? あ、いや……その」

 しまった、と少し自身の迂闊さを呪いながら、心までは見透かされていない事に安堵の息を内心だけで吐く。
 妙に鋭い彼だが、事“こういうこと”に関しては愚鈍のそれであることにも僅かに感謝し……即座に撤回する。
 そもそも彼が鋭ければこのような悩みを持つことは無かった筈なのだ。
 そう思うと沸々と怒りが込み上げ、自然、やや高圧的な態度に出そうになるものの、ぐっと堪えて努めて平静に提案した。

「なら街まで戻りましょう、宿屋で一休みしながら検品してもいいんじゃない?」

「宿屋? ここから出ること自体は構わないけど宿屋に向かう必要があるのか?」

「休憩も兼ねた自衛よ。無いとは思うけど、ウインドウを偶然第三者に見られて万一PKの対象にでもなったりするのは避けたいし」

「まあ、それもそうか……わかったよ」





 宿屋に入ってすぐ、部屋を取ろうとしたアスナに「いや俺は泊まってはいかないよ」と言うキリトを半ば無視して二部屋取り、今日の戦利品を検品しだす。
 キリトはやや呆れ顔のものの、諦めたのか自身もメニューウインドウのポップアップ画面を滑らかにタップして整理をしていた。
 ちょっと強引すぎたかな? と内心では冷や冷やしていたが、彼の顔に不満は見受けられない。
 こんな時ばかりは表情を隠すのが大いに難しいアバターのオーバーリアクションに感謝する。
 つまり、キリトはさほど不満には思っていないだろうことが読み取れる。
 ……絶対ではないが。

「……ん?」

 と、そんな取り留めもない事を考えながらスライドさせていたアイテム画面に、一つ見覚えの無いアイテム名があった。
 《盗賊のピアス》という聞き覚えも無いアイテムだ。
 見るからに装備することで何らかのステータスアップがされると思われるアクセサリ。
 盗賊と名が付くからにはやはりスピード……敏捷力(AGI)だろうか。

「どうかしたか?」

「見たことのないアイテムがあって……《盗賊のピアス》だって」

「説明は?」

「盗賊の力を得られる、としか書いてないわ」

「それは……装備してみないと何とも言えないな。恐らくはステータスアップの類だろうけど」

「そうよね」

 同じ意見のキリトに、アスナはやや逡巡してからアクセサリの装備をタップする。 
 今は圏内にいるのだから、不測の事態にも十分対応可能だろう。万一呪われたアイテムでも、すぐに教会へ赴けばいい。

(教会、かぁ)

 その時はキリトも付いてきてくれるだろう。彼はソロを好む割にそういった他人への配慮を惜しまない節がある。
 教会、そこは現実世界と切り離されたこのアインクラッドにおいて数少ないリアルと共通するもの、場所だ。
 鐘が鈍く低重な音を奏で、大きなステンドグラスに差し込む日の光が煌びやかに神聖な空間を作り出し、真っ白な空間に佇む二人。
 お互いに見つめ合って手を取り合い、神父の問いかけに永遠を誓いお互いの距離は徐々に縮まって……。

(って何を考えてるの私!)

 ブンブンと高い敏捷力を惜しげもなく使った速さで首を振り、慌てて考えを霧散させる。
 その勢いは速く、はたから見ていたキリトは首が取れるんじゃないと心配になるほどだった。
 と、そのキリトの目に金色に輝くピアスが映る。アスナの左耳に、金色の小さい輪が現れていた。
 さほど大きくも無いそれは、パッと見るだけだと本当にただのアクセサリでしかない。
 アスナは自分のステータス画面をポップアップさせて一つ一つ確認していく。
 しかし、敏捷力、筋力……と一つずつ確認していくが変わったようには見受けられない。
 おかしいな、と首を捻りながら何か変化は無いかとアスナが自身のステータスをしらみつぶしに確認して、手を止める。

(ん?)

 それはスキル一覧を見ていた時だった。見覚えの無いスキルが一覧の中に一つある。
 《覗き見》と書かれたスキルだ。こんなものを取得した記憶はアスナにはない。
 いつの間にか発現していたエクストラスキルだろうか。取得条件を偶然満たしていたのか。

(あ、もしかして)

 アスナは一度《盗賊のピアス》を装備から外してみる。改めてスキル一覧を見てみると、そこにはさっきまであった《覗き見》が無くなっていた。
 やっぱり、とそれで確信する。このアイテムは、スキル用アイテムだと。
 今までそんなに多くの数は確認されていないが、スキルを使用出来る、もしくはスキルを後押しするアイテムは存在する。
 問題なのは……。

(どういう効果が得られるのかだけど……っ!?)

 効果を確かめる前に、驚いたことが一つ。スキルが1000……マスターになっている。
 つまり、この《盗賊のピアス》は装備者に完全なるスキルの使用を許している。
 どんなスキルも育てるのには時間がかかるし、高いスキル値までもってこないと実用的なレベルには中々至らない。
 それを思えばなんていうチート。恐らくは実践向きな用途がないスキルに分類されるのだろうが、それでもこれは十分に凄いことだった。
 アスナは自分が料理スキルを1000にするのにどれだけ時間をかけたかふと思いだし、それだけでこのアイテムがチート級とも言えるものだと再確認できる。

(……これは凄い、けど……何て言うか、う~ん)

 スキルで出来ることを確かめて、首を捻る。これは凄い。確かに凄いが……このアクセサリ単体ではこと戦闘や攻略においてはあまり有用性を見いだせない。
 このスキルは、文字通り覗き見するスキルだった。簡単に言えば、目をこらすと、見ようとするものが見える。
 視力の許す範囲、否、距離で、ということになるだろうが、視界がオブジェクトに隠されることがない。
 例えば、この壁の向こうを見ようと思えば見ることが出来る。早い話が透視である。だが、索敵スキルがあるわけではないので自身の感じられる、気付ける範囲内でなければモンスターの発見は難しい。
 迷宮区で使うにはややリスクが高い。壁を透視してマッピングが楽になる一方、透視では見えなかった敵にいきなり襲われる可能性があった。
 安全マージンを第一とするのが攻略の基本である。そこから考えると極力リスクと名のつくものは排除しなければならない。
 と、ふと思い立ってキリトを見てみる。彼は不思議そうな顔をしながらアスナを見つめ返すが、視界に映った“それ”にアスナは思わず赤面してしまった。
 一枚、彼の衣服を透視しようと思いながら彼の首の辺りを見つめると、それはなんなくアスナの視界に映ってしまったのだ。これは……女性キラーな装備品だ。
 万一男性の手に渡っていたらとんでもないハラスメント行為である。いや、もしかしたら女性にしかドロップ出来ないとか装備できないとかあるんじゃないだろうか。というかそうであって欲しい。
 道行く人が相手の裸を見れる可能性、それを示唆するこのマジックアクセサリは本当に質が悪い。今まで聞いたことが無かったから余程のレアアイテムなのかもしれないが、あっていいものではない。
 ましてやこのアイテムを使って彼が誰とも知らない異性の肢体を覗き見る可能性を考えた時、言い表せぬ不快感が込み上げる。
 彼がそのような行為に及ぶ人だとは思わない。しかし魔が差すということや、効果を試してみてたまたま、ということもある。
 それを、アスナの心は許容できそうになかった。自然と、このアイテムの行く先をアスナは確定させる。あるいは、Knights of the Blood……SAO内でもトップギルドである血盟騎士団の副団長を務めている経験から、無用な事件を生まない為の判断かも知れない。
 もっとも、その判断が全て公平に判断した結果かと言えば、そうでもない事は、アスナ自身気が付いている。ちっぽけな、だけど確かに譲りたくない気持ち、それを偽ることは何よりも難しい。
 この世に攻略不可能なものがあるとすれば、それは複雑な乙女心なのかもしれない。

「どうしたんだ?」

「あ、んっと、なんでもない。このアクセサリは……あんまりたしたものじゃないからNPCにでも売り払うわ」

「そうか」

 キリトは大して気にせずに頷くと「ふわあ」と大きめの欠伸をした。最前線の迷宮区に長時間潜り、長いことドロップ品の分配を行っていたので疲労も一入だろう。
 かくいうアスナにも睡魔が押し寄せつつはあった。もう良い時間でもあることだし、お互い明日の朝に顔を会わせる約束だけしてそれぞれの部屋で眠りにつくことにする。
 明日目覚めれば、お互い挨拶を交わし、またしばしの別れが来る。それだけがアスナの胸に針がチクリと刺さったかのような鋭痛をもたらすが、顔には出さないように賢明に微笑んだ。
 短い「おやすみ」の挨拶をして彼が部屋から出て行くのを見送り、閉じられた扉を僅かな時間見つめ、溜息を吐きながらメニューウインドウをポップアップさせる。
 この世界において着替えはいちいち袖を通さずともいい。ボタン一つで着替えは完了する。もっとも着替える際に一瞬装備している服が消えるので、下着が露わになってしまう為、人前では極力やらないが。

(それにしても……私ってそんなに魅力ないかなぁ……はぁ)

 手早く寝間着をタップして着替えを済ませると、ベッドにうつ伏せに倒れ込んで再び溜息。枕に顔を埋めてキリトの事を思い出す。
 宿屋に戻ってきてから、すぐにアスナは着替えた。少しばかり気合いの入ったオーダーメイドの服だ。たった今アイテムストレージに仕舞われたそれが次に日の目を浴びるのはいつのことになるのか想像もつかない。
 その服はどれもある程度のレアアイテムを元にしなければ作ることは出来ない服、なのだが……その姿を見たキリトは一瞬きょとん、とした後は何も言わなかった。
 期待していたわけではない、していたわけではないはずなのに、何も言われなかった事に僅かな寂寥感を覚える。結局、彼が今日パーティを組んで付き合ってくれたのは本当にただ無理矢理誘われたからだけだったのか、と。
 枕に顔を埋めたまま足をばたつかせる。闇夜に灯る月明かり……のようなもの──アインクラッドには太陽も月もない──がそのしなやかな素足を照らした。

(キリト君……)

 夜な夜な、眠りに就く前に彼の名前を、顔を、その姿を思い浮かべるようになったのはいつの頃からだっただろうか。
 そんなに昔からではないが、かといって割と最近でもない気がする。あれは……リアルに帰ることに執着して、全ての色を失った世界に色彩が戻り始めてから……やや経ってからのことだったろうか。
 あるいは、彼と会う度に“自覚”してからか。どちらにせよ、トリガーが彼であることは疑いようはない。
 そうなると不思議な物で、今までと同じような憎まれ口を叩くにも勇気と不安が入り交じるようになった。
 ここまで言っても大丈夫だろうか? 嫌われないだろうか? 言い過ぎてしまっていないだろうか?
 考えれば考えるほど思考の袋小路へと入り込む。これにくらべれば迷宮区で迷い、行き止まりに辿り着くことなど可愛い物だと本気で思う。
 そして寝る前にこんなことを考えられるようになったあたり、このSAOで数少ない──もしかしたら唯一の──親友とまで言って良いほど心を許せる鍛冶職人が言う通り、自分は丸くなったのだろう。
 落ち着いた、というべきか。すべての思考の終着点は、結局原因たる彼……キリトに集約されてしまうのだけど。
 アスナはごろりと寝返りをうった。先ほどまで自身を襲っていた眠気はいつの間にかナリを潜め、代わりとばかりに思考ばかりが渦巻く。
 と、もう一度寝返りをうった時に、耳にわずかな違和感があった。ここSAO内では基本的に痛いと思えるほどの苦痛は感じない。ペイン・アブソーバを介してあらゆる苦痛……痛覚的感覚は何倍にも薄められている。
 では全く何も感じないかと言えば、そうでもない。もし何も感じなければ戦闘中にわずかずつダメージを受けてもHPバーを見ない限り気付かない恐れすらあるからだ。この辺は実によくできたシステムだと彼女の思考の中心人物は思考していたことがあるが、それを知る術は残念ながらない。
 ペイン・アブソーバによって薄められた感覚は、しかし違和感……より正確に言うなら痛みと感じるような感じないような曖昧な感覚と“不快感”をユーザーに与える。
 その辺が実にゲーム的ではある。ゲーム内のキャラクターは基本どれだけHPが減ろうが最後の瞬間まで全力で戦えるのが主だ。体力の増減によってアタックポイント……攻撃力が左右されるソフトもあるにはあるが、主流は前者だろう。
 SAOはその辺の多岐にわたるゲームにおける王道とも呼ぶべきシステムを、基本大きくは外さない。それは茅場晶彦の矜持なのかはたまたせめてもの情けなのか、SAOという檻に有無を言わさず閉じ込められたユーザーには知る由もないが彼の発したこのSAOのコンセプトは実に言い得て妙だと言わざるを得ない。
 その茅場晶彦がペイン・アブソーバを正しく導入しているからといって感謝する生身のユーザーがいるかどうかは不明だが、そのシステム補助を受けてアスナが今耳に僅かな不快感を持ったのは間違いない。
 そっと耳に手をあて、すぐに原因に思い当たる。普段は装備しないマジックアクセサリの装備を解除していなかったのだ。特段問題はないが、一度気にしてしまうと気になって眠れない。
 アスナはむくりと上半身を起こすと、手を振ってシステムウインドウを呼び出し……少しばかり逡巡した。
 ゆっくりと首を動かし視線を壁に向ける。隣では今頃黒髪の少年が寝息を立てているはずだ。
 ごくり、と息を飲み込んだ。
 ほんの少しの罪悪感とこみ上げる好奇心が彼女の中でせめぎ合い、数分ののちに彼女のわずかに残っていた理性と良心は都合の良い理由で黒く塗り固められてしまった。

(ちょっとだけなら、いいよね。変なことしようってわけじゃないし)

 そう自分に言い聞かせて、彼女はシステムスキルを発動させる。《盗賊のピアス》による《覗き見》……透視を。
 僅かなタイムラグを経て、視界の壁がうすぼんやりと透明度を増していき、その奥を彼女の網膜──と言ってもデータ上のでしかない──に刻み込む。
 見ようと思ったそれはすぐに見つかった。つい「あ、いた」などと声を漏らしてしまうが当然聞こえるはずもない。
 黒髪の少年は穏やかな寝息を立てていた。寝つきは良い方なのだろうか。その穏やか過ぎる顔はアスナもこれまでに見たことがないほどのあどけなさが残っていて、普段の飄々とした態度とは裏腹に幼さを感じさせる。
 これが彼の素なのだろうか。だとすると、一つくらい年上かもと思っていたアスナの予想は全くの逆、年下の可能性を考慮させた。
 それほどまでに幼いと思わせる何かが彼の寝顔にはあり、時折うつ寝返りや表情の変化がまるで出来の悪い弟のようにも感じられた。
 アスナに兄はいても弟はいないが、いたらこんな気持ちなのだろうか、と夢想する。守ってあげたくなるような不思議な気持ち。

「……」

 そんなことをぼうっと考えていると、キリトが僅かに口を開いた。聞き取れぬほどの小声。
 一瞬ばれたのかと肝を冷やすが、どうやらそうではないらしい。彼は小さく、呻くように短い言葉を繰り返している。
 寝言だろうか、と好奇心から耳を澄ませる。と言っても壁の向こうの小さな寝言など届くはずもないのだが。

「……チ」

(……ち?)

 だというのに、アスナの耳、いや聴覚を司るシステムは確かにその音……声を聞いた。後で気付いたことだが、この《盗賊のピアス》は文字通り盗賊が持っているようなスキルの底上げがなされるようだった。
 アスナは聞こえてきた理由よりも、聞こえた彼の声に集中した。なぜそんなに気になったのかはわからない。
 心のどこかで「もうやめなくちゃ」という警鐘が鳴っていた気もしたが、それすらも聞き耳を立てるのに邪魔だと一瞬無視して。


「……サチ」


 たった二文字のその言葉を、アスナの知らずに底上げされた耳……聴覚システムはとらえた。
 瞬間、とんでもない罪悪感が胸を襲う。彼の秘められた何かに土足で踏み込んでしまった後ろめたさがとめどなく溢れる。
 同時に、「サチ」という言葉の意味を急速に脳内検索している自分にアスナは嫌気がさした。
 だが、心とは裏腹に頭の中の検索はとまらない。答えはすぐにNOT ERROR、該当なしだとわかっても、考えるのをやめられなかった。

(サチ? サチってなんだろう……人の名前みたいだけど。それも女の人の)

 そう思い立ってすぐ、ゾクッと背筋が凍る。実際には無いはずの心臓がドクンと跳ねた、ような気がした。
 いや、現実世界の自分の胸は今飛び上がっているに違いない。ことによると、フロアボスとの戦いよりも緊張し、脈拍は早い恐れさえある。
 サチ、というのが女性の名前だとして、寝言でまで口から出てしまうのは……何故?

(キリト君にとってその人は、一体……)

 考えたくない思考が渦巻く。気持ち悪い、嫌な考えが、罠に踏み込んで異常なほどモンスターが湧出(ポップ)した時よりもなお早く、大量に湧出(ポップ)する。
 こんなことならやはり使うべきではなかった、と装備を外してベッドに横になりぎゅっと目を瞑るが……睡魔は襲ってこない。
 むしろ考えは止めどなく噴出し、閉じた瞼の裏では誰とも知れぬ女性と笑いあうキリトの姿を幻視してしまう。
 シーツを頭からかぶり、体を丸めて嫌な想像を必死に追い出そうとするが、そうすればするほど、瞼の裏の幻は消えてくれなかった。


 結局、その日の朝、キリトと挨拶するまでアスナは一睡もすることができなかった。



[35052] SAO2
Name: YY◆90a32a80 ID:1a43ae77
Date: 2012/09/09 17:26



「ここにもいない、か」

 ひとりごちて、溜息を吐く。はたしてこの溜息は探し物……ならぬ探し人が見つからないことへの憔悴感からか、はたまた──安堵感からか。
 アスナはキリトが眠りながらに口にした「サチ」というキャラクターネームを捜していた。
 あの日、結局眠れなかったアスナは楽しみにしていたキリトとの朝の挨拶もそこそこに彼とは別れた。あまり一緒にいると、問い質してしまいそうだったからだ。
 しかしそんな権利は自分にはないことはわかっていたし、何故その名前を知っているのかも説明するにはやや憚られた。
 まさか覗き見ていたなんて言えるわけがない。ましてやその方法、使ったアイテムがたいしたことのないアイテムだった、と嘘をついてしまってまでいるのだ。
 一つ嘘を吐けばそれがネズミ算式に増えていくというのは聞いたことがあるが、まさにそんな状態だった。後には引けない袋小路。こんなことなら本当にさっさと手放すべきだったと後悔しても今更後の祭りなのは明らかだ。

 こうなってしまったからには仕方がない。アスナはやや開き直って聞き込みを開始した。自身の血盟騎士団副団長という職権も活用して騎士団内のネットワークを使い心当たりや実際に知り合いがいないか尋ねてみたりもした。
 当初はすぐにわかると思っていた。プレイヤーネームなら余程酔狂なソロプレイヤーでもない限り誰かとは袖振りあっているものだ。
 その余程酔狂なプレイヤーに分類されるであろうキリトですら、名前は広く知れ渡っている。と言っても彼の場合はプレイヤーネームではなく、“ビーター”という蔑称が一人歩きしているせいでもあるのだが。
 そういった意味では別の意味で有名人でもある彼だが、存外彼の顔を知る人間は少ない。つまり、そういうものなのだ。
 名前は知っていても顔は知らない、会ったことはない。実はそういったケースは多い。だから今回もその人の細かな情報は入って来ずともプレイヤーネームに聞き覚えのある人はすぐ現れるかと思われた……のだが。
 未だその進展はなく、サチというプレイヤーは聞いたことがあるという人さえ出てこない。アスナは訝しんだが、そこで一つの可能性に気付いた。
 “プレイヤーであるとは限らない”のだ。そうなれば探すのはさらに困難極まる。サチというキャラクターがNPCならば、簡単には見つからない可能性は十分にありうる。
 ちなみに、リアルでの知り合いではないとアスナは確信していた。根拠はない。だが、何故かアスナはそこだけに確信が持てた。それは恐らく、二年もの間培ったここでの経験がそう直感させるのだろう。
 NPCはそれこそ数えるのも億劫なほど各層に存在している。その中で全員に名前があるわけではないが、少ないわけでもない。
 それらを全部把握しているのはそれこそ製作者側……このデスゲームに一万人もの人間を巻き込んだ狂気とも取れるゲームマスター、茅場晶彦くらいのものだろう。
 星の数ほどいると言っても過言ではないNPCにいちいち全部話しかけ、なおかつ名前まで憶えているプレイヤーなどそうはいまい。まして攻略組なら尚更だ。
 通常、攻略組は常に最前線の迷宮に挑み、レベルアップを繰り返してマップを拡張し、フロアボスを倒してデスゲームを一日でも早くクリアせんと奮闘している。
 それ故にNPCと関わるようなことは中層以下のプレイヤーと比べて格段に少ない。アスナの所属する血盟騎士団はギルドでもトップクラスである。当然騎士団員は選りすぐりの者たちばかりでそのほとんどが攻略組を名乗れるほどの強さを持つプレイヤーだ。
 それは同時に、サブイベント的なことは半ば捨ててきている者たちばかりでもある。万一、サチという名前がNPCのものだった場合、アスナがそれとなく聞いて回った騎士団員達にも覚えがないのはむしろ当然と言える。
 トッププレイヤー故の弊害。プレイヤー間のやり取りはそれなりにあっても、NPCとの関わりは極端に少ないのだ。それはアスナ自身にも言えたことではあるが。
 新聞の尋ね人を使えばあるいは早く見つかる可能性もあるが、アスナはそこまでしたくなかった。それではキリトに自分がサチを捜していることがばれてしまう恐れがある。それは避けたかった。
 そもそも、自分はサチという人を見つけてどうするつもりなのだろうか。NPCならば尚更だ。彼との関係を聞く? 明らかなマナー違反だ。NPCならそれ以前の問題である……はずだ。
 それでも、何故か探すのを諦めるという選択肢をどうしても選ぶ気になれず、こうして日がな空いた時間にNPCめぐりに興じ始めたのがほんの数日前のことだ。
 ある程度の大きいポイントの名前のありそうなNPCを渡り歩いて名前を確認していく。レベルが上がるわけでもないしサブイベント……クエストの発注があってもたいていはスルーする。
 そんなものをこなしている時間はないし、手に入るアイテムも今や下位のものばかりだ。上位のものの情報はほとんど出尽くしているだろうし、今いるのは比較的下の階層であることも理由のひとつだ。手に入るもののランクなどたかが知れている。
 何故低層にいるのかと言うと、そんな低階層だからこそ、一気に駆け抜けてきたが故に上位プレイヤーには落としどころが多かったりするのだ。それはアイテムにも言えることで、必要な素材が随分低階層のレアアイテムだったりすることは割とある話だ。
 今回探しているのはアイテムではなく人……ことによってはNPCだが、そこではたと気づいた。
 上位メンバーで固められている血盟騎士団の誰もが知らないと言う。考えてみれば聞いて回ったのも比較的最前線に近い層の知り合いが主だ。
 頼った伝手のほとんどが上位メンバー。その上位メンバーはどれだけ下位の層に精通しているのか。……少なくとも自分はそこまで精通していないことをアスナは理解している。
 聞いて回った人たちも、自分と同じようなことをして今に至るはずである。ならば、スピーディに駆け抜けた場所ほど記憶や情報は薄いはずだ。
 そう思い立ったアスナは低層の比較的大きいポイントを渡り歩く作戦に出てみたのだった。ちなみに小さいポイントを無視しているのはとても歩ききれないからだ。
 隠れクエスト用NPCとかならお手上げだろうな、と内心で思いながらもアスナはNPCへの聞き込みをやめない。
 どうしても気になって仕方がないのだ。最近は、そのせいでまともに眠れないほどに。これでは、色を失っていたかつての時と変わらなくなってしまいそうな焦燥が彼女の中で燻り、それが驚くほど精力的に彼女を突き動かしていた。
 そんな状態だったから、それは本当に驚いた。
 まったくの収穫なしな状態に相変わらず嬉しいのか悲しいのかわからない感情を持て余し、まさかこの名前はモンスターやボスモンスターの名前では、とまでで疑心暗鬼になり始めた時、その声はかけられた。

「あれ、アスナ? 珍しいな、こんなところで」

「……え? キリト君?」

 こんなところでまさかキリトと会うと思っていなかったアスナは目を丸くする。いかなソロプレイヤーの彼とはいえ、こんな低層に用があるなど……と思ってから急速に思考パズルのピースが組みあがった。
 彼が用もなくここに来ることは考えられない。無論それは自分自身にも言えることだ。では自分はここに何をしにきたのだ?
 彼の口から出た「サチ」なる人物を捜してだ。今のところNPCが濃厚だが決してプレイヤー名ではないと言い切るには判断材料が足りない。
 しかしながらこんな偶然がそうあるとも思えない。流石にアスナもここで会えたのはTHE・運命、などと乙女チックな妄想を広げるほど能天気ではなかった。
 彼の知人──と言っていいのかは定かではないが──を捜して彼に出会うと言うことは、少なくとも考えの方向性は間違っていなかった、もしくは近いという可能性が高まる。
 加えて言うなら、今会ってきたばかりかこれから会うのか、この階層に相手がいる可能性がある。そう思いついた瞬間、アスナはまた言い表しようのない寒気を背筋に感じた。
 風邪をひいてしまうときのようなものとは違う、不快極まりないゾクリとした感覚。同時に生まれる理不尽な怒りにも似た感情。
 だが、それがいかに自分勝手極まりない思いであるかを自覚できないほどアスナも子供ではなかった。
 もっとも、

「ちょっと気分転換にね。そういうキリト君こそ珍しいね。どうしたの?」

「あ、ああ……ちょっとな」

 彼の言動と行動から答えを求めようとするくらいには自身を抑えられない子供でもあった。
 彼の濁すような言葉に、アスナは益々自分の考えを確信に変える。間違いないかも、と。ここで同時に、先日同様の「これ以上はもうやめておこうよ」という自身を諌める警鐘が胸に響く。
 一度それで失敗、後悔しているのだ。これ以上土足で彼に踏み込むような真似はやめた方がいい。彼には彼の、彼だけのプライベートがあってしかるべきなのだ。
 そう、頭ではわかっていても、心が納得してはくれなかった。

(本当、自分が嫌いになりそう)

 そう内心で自分を蔑みながら、理性的な自分とは裏腹に心が思考を支配してしまう。どう聞けばいいか。当たりさわりがないか。
 あるいは、ここでそれを知ってしまってスッキリし、自分を納得させたいという思いもあったのかもしれない。
 彼との関係がたとえこれで最後になってしまおうとも。

「何処かに行ってきたの?」

「……まあな」

 キリトの言葉に、予想は前者、今会ってきたばかりなのかと思いつつ、念の為に続ける。「もうやめなよ!」とけたたましく自分の中で警鐘が鳴っているが、口は勝手に動いていた。
 彼の発言からすでに用事が終わったことが伺えるが、念の為に裏を取る。あらゆる可能性をシミュレートし、彼の言葉の真実を探ろうと貪欲なまでに思考が加速される。

「……ふうん、そっか。それじゃあこれからホームに帰るところ? 今日はもう結構遅いし」

「あ、ああ」

「じゃあこれから時間はあるわけだ」

「? まあそう言えなくもないが」

 内心でガッツポーズ。思わず「やたっ」と言ってしまいそうになるのをグッとこらえた。
 今の問答である程度の情報を得られた。やはり彼はこの低階層で何かをしてきた後だった。その何かが「サチ」なる人物との密会……ではなく逢瀬だったかはわからないが。
 しかし「サチ」を捜してここまで来たアスナとぶつかったことから、まったくの無関係とは思えない。
 それだけでもかなりの収穫だ。しかし一番の収穫なのは、

「じゃあこの後宿屋に一緒しない? 今度のボス攻略のこととか話しておきたいし」

 今日の彼はこの後フリーなことがわかったことだ。先ほどまであれこれ悩んでいたのが嘘のようにその一点にアスナは着目してしまった。
 まったく我ながら現金なものだ、と思いながらも心を躍らせる。結局、どんな状態だろうと彼と時間を共有したいと思う心に変わりはないのだ。
 そしてこれまで、彼が単なるお茶の誘いはあまり乗ってこないのに対して攻略の話には食いつきが良いことは経験からわかっていた。
 だからワクワくしながらいつもの彼の「ああ、わかった。良いよ」というお決まりの言葉を待ち望んでいた……のだが。

「え……あ、いや……」

 彼が驚いたような、困ったような表情を浮かべた。その瞳には、これまで彼が見せたことがなかった辛そうな、悲しみの色が渦巻いているようにも見える。
 まさか戸惑われる、場合によっては断られるとは全く予想していなかったアスナは、そのキリトの言葉の濁しように一抹の不安を感じた。

「どうかしたの?」

「その、えっと……この階層の宿屋には、ちょっと……」

 尚も言葉を濁すキリトに、ますます訝しいものをアスナは感じた。この階層の宿屋になにかがあるのだろうか?
 彼が宿屋に足を向けたくなくなるような何かが。もしそうだとしたら、果たしてそれは一体いかなるもの、いかなる理由によるものなのか。
 わからない……そう思っていた時のことだった。

「よお! キリトじゃねぇか!」

「クライン? 久しぶりだな、まだ生きてたか」

 クライン。それは確かにアスナにも聞き覚えのある名前だった。ギルド名《風林火山》。少数だが、今や攻略組の主力組織の一つと言って差し支えないほどのトッププレイヤーが集うギルドだ。
 アスナも攻略会議や実際の攻略で顔を合わせたことが何度かあったことを思い出す。その顔は確かにその時のものとぴたりと一致した。
 やや髭を伸ばした野武士のような顔にバンダナを巻いた風貌。“和”……というよりも“倭”をイメージさせる侍のような防具。
 たしか曲刀のエクストラスキル、カタナを使うプレイヤーだったはずだ。彼のカタナ裁きはカタナプレイヤーの中でも随一と聞く。

「あったりめぇよ! しかし、まさかまたこの階層で会うとはな」

「…………」

「あ、わり……」

 その時、空気がやや変わったのをアスナは見逃さなかった。話だけを聞けばクラインがキリトとこの階層で会うのは初めてではないというだけの、単なる知己との再会の言葉にしか聞こえないが……他にも意味があるのだろうか。
 あるいは、過去ここで会った時に何かがあったのか。なんとなく、場の空気がその予想が恐らくは正しいもの……当たらずとも遠からずだろうとアスナに感じさせる。
 一体何があったのかは大いに気になるところではある。これまで、自分を除けばキリトにここまで親しく話すプレイヤーは自身御用達の鍛冶師プレイヤーとキリト御用達の商人プレイヤーくらいしか見たことは無い。
 やや失礼ながらも交友関係は比較的少なそう、狭そうだと思っていた自分の予想が外れているとは思わない。だからこそ意外だった。
 そんな当のクラインは、少しばかり凍てついた空気を和まそうと話を変えることにしたらしい。

「そ、それにしてもお前が誰か他のプレイヤーといるなんて珍しいな!」

「あ、いや……アスナとはたまにパーティを組むくらいで……俺は相変わらずソロだよ」

「アスナ……? っておまっ!? まさかこの方は……!」

 クラインが驚いてアスナをまじまじと見、やや硬直する。アスナは不思議そうに首を傾げるが彼の視線はアスナに釘付けのまま動かない。
 苦笑気味に肩を揺らして、キリトは一歩前に出て口を開いた。

「一応紹介しておくか。攻略会議とかでお互い顔を合わせたことくらいはあるだろうけど、こちら血盟騎士団の副団長でアスナ」

「どうも」

「んで、こっちがギルド《風林火山》のリーダー、クライン」

「…………」

「……おい? なんだよラグってるのか? なんとか言えよクライン」

「…………」

 硬直したまま動かないクラインを訝しげにキリトは見つめ、彼の目の前で何度も手を振る。「おーい」などと声をかけているキリトの様がどうにも微笑ましい。
 やがて硬直の解けたクラインは満面の笑みを貼り付けてアスナにへこへこと頭を下げた。

「しっかしよぉ、まさかお前がかの有名な閃光様とこんなに親しい間柄だったとは」

「……別にそんなんじゃないさ」

「あ、酷いなーキリト君」

「そうかあ? 彼女もこう言ってるぞ」

「からかうなって。アスナも悪ノリするなよ」

「ははっ、ま、それはおいておくとしても……良いことだろ?」

「……どう、なのかな」

「少なくとも俺はお前が他のプレイヤーといるのは嬉しいぜ。“あの時以来”かたくなだったお前が……」

「っ!」

 場が明るくなってきたところで、また異変。クラインが零した言葉に、キリトはそれまで浮かべていた微笑を崩して俯いてしまった。
 それはやはり、彼に過去何かがあったことを匂わせる。そして……それをこのクラインは知っているのだ。
 彼に近しいプレイヤーの一人として実はそれなりに隠れた自負があったアスナだが、クラインとキリトの間でしか知らないことがあることに、僅かばかりの嫉妬を覚える。
 まったくもって馬鹿馬鹿しいことだが、彼の事を自分より知っている人間がいたことがアスナは面白くなかった。

(私って、こんなに狭量だったっけ)

 そう自問してしまうほど、アスナ自身も驚いてはいる。キリトの隠している何か、だと思われるその内容、あるいは一端を把握しているだろうクラインへの羨望と、どうして自分ではないのかという嫉妬。
 なぜ彼には話せて自分には話してくれないのかという理不尽極まりない思いが小さな暴風となって内心で吹き荒れていた。

「っと、悪いな、今日はどうも口が辺に滑っていけねぇや。どうだ? 一緒にメシでも」

「……いや、この階層には長くいたくないんだ。悪いな」

「……そうか」

「それじゃあな、アスナも。また」

「え、あ……うん」

 キリトは手短に会話を切ると、とぼとぼと転移ゲートの方へと歩きだしてしまった。そういえば宿屋に誘ったのに、ということを思い出したのは彼が転移してからだった。
 しかし、今の彼の背中はこれまで見てきた中でも特別頼りなさげで、弱弱しかった。吹けば倒れそうな、とても最前線でソロプレイができるとは思えない儚さだった。
 一体、彼に何があったというのだろうか。

「あいつはまーだ引きずってやがんのか」

 そんな時だ。まだ隣に立っていたクラインの口から漏れた言葉がアスナの意識を急速に引き込んだ。
 “まだ引きずっている”というのはどういうことか。クラインは一体何を知っているというのか。

「あの」

「ん?」

「キリト君のこと何か知ってるんですか?」

「……あ~、キリトに何があったのか、ってことですかい?」

 バツが悪そうにクラインは後頭部をガリガリとかきながら明後日の方を見る。どうやら自身の言葉が失言だったと思っているようだ。
 だがその仕草がアスナに確信させる。キリトのあのかたくなまでのソロでいることへの拘り。その理由をこの人は知っている、と。
 羨ましいと思う一方、純粋に知りたいとも思う。彼に、一体どのようなことがあってそうなったのか。
 クラインはやや気まずそうに、アスナの顔を伺いつつ口を開いた。

「あんまり人に言うようなことじゃないんですが……」

「他言はしません」

「……まぁ、アスナさんなら大丈夫かな。攻略会議でどんな人かはなんとなくわかってるつもりだし、あのキリトがパーティを組むことがあるってんだから。あ、そうそう、これも言いにくいんだが……あいつがビーターだってのは……」

「知っています」

「あいつはそのことを引きずっていましてね」

「それもなんとなくわかってます」

「そんなあいつでも、一度ギルドに入ってたことがあるんです」

「……え」

「初耳でしょ?」

「え、ええ」

 重そうに開かれた彼の口から出た言葉は、アスナにとって予想外の事実だった。キリトのギルド所属経験。
 そんな話はこれまで聞いたことなどない。クラインを疑うわけではないが、そんなことがあれば自分の耳に届かぬはずはないのだが……とアスナは訝しむ。
 だいたい、彼ほどの人間が加わったギルドならもっと有名になっていてもいいはずだ。

「経緯とか全部知ってるわけじゃねぇんですが、確かにあいつは一度ギルドメンバーに入った。確か名前は『月夜の黒猫団』だったかな」

(月夜の黒猫団? やっぱり聞き覚えのない名前のギルドだけど……キリト君が参加していてそんなはずは……)

「……あいつは本当は優しくていい奴なんだ……なんですよ」

「? それはわかってます」

「そうですかい? ならいいんですけど……」

 クラインはそこで一旦会話を切ると苦い表情をした。言いにくい、と言わんばかりの迷っている表情だ。
 これ以上を本当に口にしてしまってもいいのか、と今更ながらクラインは葛藤しているのだろう。気持ちはわかる。他人の秘密を第三者においそれと話してしまうのは気が引けるものだし信用問題になりかねない。
 だがアスナはどうしても知りたかった。キリトに何があったのか理解したかった。真っ直ぐな目でクラインの言葉をグッと待つ。
 その姿勢にクラインは誤魔化すことを諦めたのか、はたまた心の底から彼女になら話しても大丈夫だろうと感じたのか、再び重い口調で言葉を続けた。

「何があったのか、あいつはちゃんとは俺にも言ってくれなかった。ただ……あいつ以外のギルドメンバーは全滅した」

「!?」

 ギルドメンバーの全滅。それはつまり、ギルドの崩壊、ギルドの消滅をも意味する。同時に、聞き覚えが無かった理由を瞬時に悟った。
 すでに無いからだ。彼が所属していたギルドそのものが。いつ、どの段階だったのかはわからない。だがキリトがずっとソロであると信じて疑わなかったアスナは、少なくともそう最近のことではないと確信する。
 そうでなければいくらなんでも知らないはずはないからだ。

「あいつの端々の台詞と偶然の目撃者からおおよその経緯はこうでしょうなあ」

 クラインは、自分の知る範囲での、予想を含めた経緯を語り始めた。
 要約するとこういうことだ。
 その日、資金がたまった月夜の黒猫団はリーダーがギルドホームを買いにいき、他のメンバーはレベル上げに向かった。
 しかし、そこでなんらかの罠にかかるかしてしまい、メンバーはキリトを残して全滅してしまった。
 クラインが聞いたところによると、メンバーの一人が宝箱の罠を発動させたらしいとのことだが、キリトはどうもそれを自分の責任だと深く思っているようだった。

「一つ確定情報なのは、リーダーがそれを知った時、キリトを蔑んで自殺したって話です。これはたまたま目撃者がいて、そいつから聞いた話だけど」

「……そんな」

「それからあいつはかたくなさをより一層増しました。誰かと関わることをより怖がるかのように」

「そんなことがあったなんて……」

 胸がキュンと締め付けられる。今すぐ彼の傍にいってギュッと彼を抱きしめてあげたい。彼が今生きていることの意味をより深く感じて欲しい。
 ある程度わかっているつもりで、彼の事を誰よりも理解しているつもりで、その実全然理解できていなかったのだという事実が、アスナに自分の思い上がりを苛立たせる。
 どうして、もっと早く気付いてあげられなかったのか。何故、人に教えてもらうまで思い至らなかったのか。
 実際にはそれを知るには尋ねるよりほかなかっただろうが、それでもアスナは自分を許せなかった。キリトに何かしてあげたかった。
 そんなアスナに追い打ちをかけるように、クラインの語るキリトの冒険譚……辛い過去は勢いを増していく。

「それから少ししてのことなんですけど……ほら、クリスマスイベントがあったでしょう?」

「あ、確か蘇生アイテム……」

「そう……あいつはそれに躍起になってた。協力しようと言ったがあいつはかたくなにソロでいることにこだわって……当時のレベル上げには最適なスポット、一グループ1時間ずつの蟻スポットにソロで潜り続けてた。多分あの時のあいつは二、三日寝ないのはザラだった」

「…………」

 アスナもそのスポットには覚えがあった。アスナ自身もそこで当時は幾分稼がせてもらった記憶がある。しかしあのスポットを一人で戦い続けたなど正気の沙汰ではない。
 それは実際に経験したことのあるアスナだからこそわかる。当時なら経験値も申し分なく蟻の湧出(ポップ)も早いお得な場所だ。だが、問題は湧出(ポップ)が異常に早いということだ。
 うっかりするとあっという間に囲まれる恐れのあるあの狩場は、最低でもフォーマンセル、四人一組で動くのが望ましい。スリーマンセル、三人組ですらやや不安が残ると言うのに一人で挑むなど自殺行為だ。
 当時のキリトに今会うことができるなら、どんなに嫌われようと叱りつけてでもやめさせるだろう。そんなことをしていては命がいくつあっても足りはしない。
 同時に、先日も思った彼の強さ、経験の幅の広さは「やはり」と思わざるを得なかった。

「オマケに当時の聖竜連合にも目をつけられちまった。まあこれは俺のせいでもあったんですが。キリトは何故か不明だったフラグボスの出現ポイントを絞り込んでて……間抜けな話だが後をつけた俺の後を奴らもつけてきていやがった」

「それで、どうなったんですか?」

「聖竜連合が来たのは俺のせいだ。だからあいつは先にいかせて俺を含めたギルドメンバーは聖竜連合に対峙しました。当時の連中はフラグボスの為なら一時オレンジカーソルになるのも厭わなかったし……中々に大変でしたけど上手いことデュエルでの決着で話をつけて、撃退に成功しましたよ。それから少し経ってからかな、あいつは結局そのアイテムを入手して戻ってきた」

「……でも、あのアイテムは……」

「そう、蘇生は死亡してからわずかな時間しか有効じゃなかった」

「……」

 それを知った時の彼の心境やいかなるものだったのだろうか。そもそも一年に一度のフラグボスと一人で戦うなど尋常ではない。それも勝って帰ったというのだから驚きだ。
 聞けば聞くほど胸が痛くなる。彼の強さが同時に儚くも思える。そんなことを続けていれば、いずれ死んでしまうと不安に押しつぶされそうになる。

「キリトの奴は絶望してましたよ。俺にそのアイテムをよこしてあいつはまた何処かへいっちまった」

「……そうでしたか」

 それは想像するに難くない事だった。そうまでして手に入れたかったもの。手に入れたのに、望むものではなかったもの。その失望感など推し量るに余りある。
 彼は一体、あの小さな体にどれだけの物を背負っているのだろうか。今更ながらにアスナはそう思う。
 そして、可能ならその重荷を少しでも受け持ってあげたいと願う。彼は、もっと周りに……自分に頼っていいのだとそう思ってやまない。
 恐らく、クラインも同じ気持ちなのだろう。だからキリトの事を気に掛ける。それは単なるデスゲームに巻き込まれた者同士、という仲間意識だけではないような気がした。
 そんな考えを読まれていたかのように、クラインは続ける。

「あいつはさ、俺の恩人、師匠みたいなもんなんです」

「……?」

「初めてSAOにログインしたあの日、まあデスゲームの開始日でもあるんですが、そうと知る前に出会ったアイツは一目でβテスターだって思って、いろいろ教授してもらったんですよ。今の自分があるのはあいつのおかげです」

「では、キリト君とはかなりの初期から……」

「ええ。そのあとみんな広場に集められて、これからのことを知った時も、あいつは俺を連れて行ってくれようとしたし」

「え……」

 それは……失礼ながら少々意外な話ではある。アスナ自身、彼をビーターと蔑むつもりは微塵もない。だが、βテスター達はゲーム開始後すぐにリソースの独占に走ったことで嫌われている事実がある。
 βテスターであった以上、そして自身をビーターとして名乗りを上げた以上、彼もまたその一人ではあったはずなのだ。
 始まりの街から初めて外に出た時のことはアスナとて忘れてはいない。右も左もわからず、いつモンスターに襲われて死ぬのかビクビクしながら満足に戦うことなどできなかった。
 最初は誰しもそんなものなのだ。そんな相手を、もしくはそれに近い相手を連れて出るのはリスクアップでしかないのに、彼はそれを厭わなかったのか。
 だが、続けられた言葉にアスナは納得する。

「けど、俺にも他に約束してた仲間がいた。俺一人ついていくわけにはいかなかった。キリトもそこまでの大人数を抱え込むのには不安があったみたいでした。当然です」

「……じゃあ」

「……結局、俺はあいつの誘いを断った。あいつは泣きそうな顔でまたな、って言ってくれましたよ」

 キリトはやはりソロで旅立っていた。しかし、その旅立ち方は思っていたよりも違っていた。βテスターでも、彼はやはりアスナの知る彼そのものからのスタートだった。
 それが、なぜかアスナは嬉しかった。別に彼がβテスターとしての知識をフル活用して一人リソースの独占を図ろうとしていた、と聞いても思うことは特にない。
 このような状況ではそれも仕方のないこと。自分だってそうしていたかもしれないのだ。ましてやあの時の自身の精神状態を思えば、自分こそ何をしていたかわからないと思う。
 そのような状況下で、それでも他人を気遣うという優しさを持っていたキリトに、なぜかアスナは誇らしさすら感じていた。まるで我がことのように喜びが込み上げる。
 そんな、やや満足そうなアスナに、今までよりもさらに神妙な顔つきになったクラインは震えるような声で言った。

「えっと、頼みがあるんですが」

 頼み、とはなんだろうとアスナは疑問符を浮かべながらクラインを見つめ、息をのむ。
 そのあまりの真剣な表情に、一瞬緩んでいた感情を引き締めた。何故か真面目に聞かねばならない、そう思わせるほどに彼の佇まいや表情は先ほどまでと一変していた。

「そんなことがあったあいつだから、きっと人一倍誰かと一緒にいるのを怖がってるんだと思うんです」

「そう、でしょうね」

「けど、アスナさんとはパーティを組むことがあるんでしょう?」

「私が半ば無理矢理に誘ってるんですけどね……」

「それでいい、それでもあいつが一緒にいてもいいって思える人は貴重なんです。だから、それでいいからあいつを一人にしないでやってくれませんか。俺はあいつに死んでほしくないんだ」

「……っ」

「頼むよ……! ……頼む……! この通りだ……!」

 必死で頭を下げるクライン。その顔は真面目で、誰よりもキリトのことを心配しているのが読み取れた。
 クラインも、彼に“魅せられた”一人なのだろうとアスナは確信する。それは、彼の頭を下げる必死さからもひしひしと伝わってくる。

「あのバカタレを……キリトを、頼む……!」

 その痛切な声……願いは、アスナの心に、耳に、深く深く残り刻み込まれた。



[35052] SAO3
Name: YY◆90a32a80 ID:1a43ae77
Date: 2012/09/17 18:10


 あの後、「すいません無茶言って」と照れたようにまた何度も頭を下げたクラインと別れたアスナは、思うところがあって転移ゲートには向かわずまだその階層を歩いていた。
 と、探していた看板をすぐに見つけ、駆け寄っていく。《INN》と書かれた看板は、アスナに「ここだ」と確信させた。
 《INN》の看板の示す店……宿屋自体には入らず、裏に回ってみると小さい樹があり、そこに……まだ新しい花束が置いてあった。
 この世界でのオブジェクトには耐久値が存在する。武器や防具に留まらず、破壊不能オブジェクトを除いて等しくそれは存在し、食べ物や小物は圏内だろうと耐久値が減っていく。
 この花束にも耐久値が存在するのは見て明らかだった。しかしその耐久値はまださほど減っていない。と言ってももともとがそんなに長く持つものではないので、放っておけば二、三日後には人知れずポリゴン片になって消えてしまっているだろうが。

「この階層の宿屋が少なくて助かったわ」

 アスナはそう呟くと、少し迷ってから目の前の樹に手を合わせた。そこにはお骨も遺品もないだろう。
 それでも、そこを墓と思う人には確かに墓なのだ。その気持ちはよくわかる。ギルド《血盟騎士団》にも、ボス攻略等で亡くなった団員のお墓があり、アスナは時折手を合わせていた。
 このゲームで人が死ぬと、たいていの場合死んだ人の物は何も残らない。それがわかっているからこそ、このデスゲームにおいて犠牲者、死人を出してしまうのは最大の禁忌、タブーだ。
 死んでしまっては何にもならない。それが一部を除いたプレイヤーの共通認識で、死ぬよりは無様でも逃げろ、が信条とされている。
 転移結晶と呼ばれるアイテムは高価でレアだが、命には代えられない。危険を感じたらすぐに使うのはもはやセオリーでもあると言えた。
 人によってはHPバーが黄色ゾーンに突入したら構わず転移結晶を使うほどの安全マージンを取るプレイヤーさえいる。しかしそれを誰もが臆病者とは蔑まない。
 生きていれば、いずれチャンスは来る。このゲームは確かに、茅場晶彦の言う通りゲームであっても遊びではないのだから。

「さて……《覗き見》スキル」

 アスナは手を振りシステムメニューを展開させて、スキルを発動させた。耳にはすでに《盗賊のピアス》が装備されている。
 なぜ今このスキルを使ったかと言えば、この《盗賊のピアス》による《覗き見》と呼ばれるスキルにはとんでもない付加効果がついていたからだ。
 当初、これは盗賊の力が得られる、ということで透視能力や聞き耳能力のパラメータ、スキルの底上げがなされる装備品、だと思っていたのだが、それ以上のとんでもない機能が隠されていた。

「このスキル、本当は内部分裂や犯罪抑止のためのものなんでしょうね」

 アスナはそう呟きながらメニューウインドウの必要項目をタップしていく。普通、このSAOではスキルを使用する上でタップや口語を求められる物は多くない。
 そのスキルにもよるが、基本は肉体自身の強化、補助、オートシステムによるアシストが主だからだ。料理や鍛冶スキルにはいくつか求められるものもあるにはあるが、こうまで複雑ではあるまい。
 そもそも、アスナがこのトンデモ機能に気づいたのも半ば偶然ではあったのだ。

「まさか過去にあったことまで覗き見できるなんて……」

 それはすでに覗き見としての言葉……能力を超えている気もするが、確かに過去の出来事の再生は可能のようだった。
 ようだった、というのは実際に使ってみるのはこれが初めてだからだ。機能には気付いていてもこれまで実際に使う気にはなれなかった。
 だがクラインと話し終わったアスナは、キリトの軌跡を辿ってみることにした。
 普段なら、そしてこの機能にも気付いた時も、犯罪の証拠を上げる以外では絶対に使わないようにしなくては、と心に決めていたのだが、アスナは今それを使うことを決めたのだ。
 クラインに頼まれたから、だけではない。自身が彼を知って、彼を支えてあげたいという思いが、アスナに決心させた。たとえこの行為で彼に嫌われることになっても。
 キリトには理解者が必要だ。その理解者はきっと彼の背負っているものを知らなくてはならない。たとえその理解者に自分がなれなくてもいい。彼の理解者を作ってあげられるなら、それでいい。
 その為なら、憎まれ役でもあえてなろう。かつて彼がそうしたように。
 恐らく、最初に彼に踏み込む役……今回で言うならアスナ自身は割を食う可能性は高い。けれども、誰かがやらなくてはいけないのだ。
 何も知らないくせに何を勝手な、と罵られるかもしれない。誰に断って、と蔑まれるかもしれない。これはそれほどの罪にもなる行為だ。

「それでも、私はやるよ。ごめんねキリト君……」

 彼に嫌われる覚悟までして、彼の軌跡を《覗き見》する。ゆっくりと、ぼやけた影……ホログラムが像を結び、半透明なキリトが目前に浮かび上がった。
 メニューにある縮尺を変えて、上から箱庭を見るかのように彼の当時の生活を垣間見る。彼はこの宿屋の部屋で横になっていた。

「多分、これでいいはず」

 アスナはそうして、半透明なホログラムが勝手に動くに任せ、過去のキリトを見つめ続けた。


 やや成り行きを見守っていると、キリトの寝室に入ってくるプレイヤーが一人。
 キリトと同じく黒髪の、少女だった。

「サチ、また来たのか」

「……うん」

 息が止まる。同時に「やっぱり」という感情が胸に灯る。クラインの話を聞いてから、アスナは「サチ」というのは恐らく、その全滅したギルドメンバーの一人だったんだろうと当たりを付けていた。
 しかし、いざこうして現実を突きつけられると、胸がざわめく。トクトクとそこに無いはずの心臓が早音を打つ。
 そしてそれは、次の瞬間ピークに達した。

「え……な、なぁ……っ!」

 口から零れるのは驚愕と、信じたくないという心の声。アスナの目の前で動く、過去を映した半透明なホログラムはアスナにとってそれほどの衝撃的な映像を見せた。
 あるいは、これはやはり大罪と言って差し支えないこの《覗き見》行為に対する罰なのかもしれない。
 アスナにとっては、もっとも見たくないものの一つを、まざまざと見せつけられることになったのだから。
 そこには、ベッドに入るキリトと……同じベッドに入り込むサチの姿が映っている。

「……っ!」

 彼に嫌われる覚悟はしていたつもりでも、彼の女性関係を傍から見てしまう覚悟など、アスナはしていなかった。内側から込み上げてくる奔流を、止められそうにない。
 涙腺、などと言うものは無いはずのアバターの瞳から、僅かにそれ……涙が零れる。もう何度目かの、アバターの過剰演出への悪態が即座に内心で組みあがるがそれよりも。
 予想していたはずなのに、突きつけられた現実が辛い。
 二人は特に何を話すわけでもない。ただ、お互いにベッドの端で横になっていているだけだ。不自然に空いた真ん中のスペースが、これから埋まっていくのだろうか。
 そう思うとアスナはこれ以上その映像を見ていられなかった。知りたいのは彼がどんな経験をして……ギルドが全滅したのかであり、彼の女性関係ではない。
 無理矢理に思考を切り替えて映像を切り替え、早送りする。初めて使う機能なだけあって、どうすればいいのか四苦八苦したが、どうやら上手いことリーダーらしき男性抜きでの迷宮区へ出発する映像を見つけ出すことに成功した。
 しかし、アスナはぼうっとそれを見つめながらも、一瞬自分の目的すら忘れて、思考は別なこことで埋め尽くされていた。

(二人は、もしかして恋人だったのかな……じゃあキリト君は……もう……)

 胸がギュウギュウと締め付けられる錯覚。形のない痛みに耐えられず、胸元で作った拳をより一層ギュッと握った時、ホログラムで動くギルドメンバーの一人、恐らくシーフである少年が宝箱に食いつく。
 キリトはそれを止めた。しかし、皆は疑問符を浮かべるだけだった。彼らしくもない理路整然としない止め方だったのもその一因だろう。
 だが、次の瞬間、それは起こった。
 シーフが宝箱を空けてすぐ、けたたましいアラームが鳴り響き、モンスターが続々と押し寄せてくる。
 アスナの目からみても、これは無理だと思った。意識を映像に集中させていなかったとはいえ、ちゃんと現状は把握している。彼らの戦力も然りだ。
 アスナの血盟騎士団で培ったその目で見る限り、彼らの手に負える相手、トラップではない。当時、ここが最前線近くであったことも起因しているのだろう。
 これを単独突破できるのは恐らく攻略組くらいのものだ。そう、嫌なほど冷静な自分が頭の片隅で分析をする。さっさと転移結晶を使った方がいい、と。
 ホログラムのキリトも同様だったようで、皆にすぐそうやって指示していた。しかし、そこで予想外のことが起こる。
 なんとそこは転移不可能エリア……結晶無効化空間だったのだ。これには見ていたアスナも息をのんだ。同時に理解する。ああ、だからなのか……と。
 そこからは、見るに絶えなかった。みな善戦むなしく、ポリゴンの欠片となってライトエフェクトを弾けさせ、迷宮の闇へと消える。
 唯一キリトは敵を屠っていたが、一人が奮闘したところで数の暴力、暴風には抗えなかったようだ。一人、また一人、消えていく。
 あと残っているのはサチとキリトの二人のみ。だが、当然と言うべきか、サチはそのモンスターを捌ききれない。
 それに気づいたキリトは必死に手を伸ばすが……その時、サチを背後から襲った攻撃が、彼女のHPバーを1ドットも残すことなく奪い去った。
 最後、キリトの伸ばした手に掴まろうと飛び込み、宙に浮いたまま彼女は、

「……ありがとう、さよなら」

「───────!」

 そう言い残して、ポリゴンの光となって消えた。思わず耳を塞ぎたくなるような、声にならないキリトの声が上がる。
 だが、アスナはギリギリでその手を耳にあてるのを我慢した。彼を知るためにこれを見たのだ。
 ならば自分は余すことなく彼を見届ける義務がある。彼の慟哭を、聞き届ける義務が。
 彼の、激しい慟哭は鳴りやむことはなく、けたたましく鳴り響く宝箱を壊せば止まるアラームを無視してひたすらに寄ってくるモンスターを彼は切り裂いていた。
 やがて、湧出(ポップ)しつくしたのか、モンスターが途切れ、そこでキリトは宝箱を真っ二つにして蹴り飛ばした。二つに割れた宝箱はすぐにポリゴンの破片となって消え、場に静寂が訪れる。
 その場にやや立ち尽くしたキリトは、あたりを見回し、何もないことを改めて確認して、肩を震わせていた。ようやくと歩き出した彼の足取りは重く、フラフラと倒れそうだった。
 そんな、憔悴しきった彼に待っていたのは、

「ビーターのお前が、僕たちに関わる資格なんてなかったんだ」

 彼への、最大級の侮蔑だった。ケイタという《月夜の黒猫団》のリーダーは、キリトにそう吐き捨てるとスタスタと外周へ向かいだす。
 ケイタの言葉に、何も言えず固まっていたキリトは、しかし「あぁ!?」と声を上げた。視線の先では、ケイタが外周から飛び降りたのだ。
 すでに何人かが試しているが、一定距離アインクラッドから離れると……この場合たいていは外周から落ちることを意味するのだが、一定ラインを超えたところで、HPバー全損と同義扱いにされる。
 つまりゲームからも現実世界からもログアウトというわけだ。早い話が、自殺になる。

「~~~~~~~っ!!!!!!!!!!」

 また、キリトの声にならない慟哭が上がる。手を伸ばしても僅かにケイタには届かず、彼の視線の先でケイタは雲間に消えていった。間違いなく、死んだだろう。
 彼の慟哭が胸に響く。哀しみが我がことのように渦巻いては胸中で吹き荒れる。なんて、なんて経験をしているのだろう。

「これが……これがキリト君の過去……なんて、なんて……!」

 耳に残る彼の叫びが、頭から離れない。張り裂けんばかりの、ただ音としてしか機能していないその声に、彼の感情はオーバーフロー……吹きこぼれ爆発しているのが嫌でもわかる。
 ここまでの経験をして、いやここまでの経験をしたからこそ、彼は他人を遠ざけるのだろう。同じ道を歩まぬように。
 頼る者を、頼ってしまった相手を失わぬように。だがそれは辛く険しい。彼は果たして……一人で平気だったのか?
 そんなわけがない、とアスナは瞬時に答えを出す。こんな時こそ、他の誰かの温もりが欲しいはずなのに。
 なのに彼は一人で歩んで。誰かに頼ることなく、これまでひたすらに前線でソロプレイをし続けて。まるで罪を償うにはそれしかないと言わんばかりに。
 だから、誰かが言ってあげなくてはならない。貴方はすでに十分すぎる償いをしていると。そもそも、それは貴方が一人で被るような罪ではないと。
 そしてそれは、今すべてを知った自分の役目だ。クラインにキリトを一人にしないでやってくれ、と頼まれたからではない。
 自分がそうしたいと思ったから、彼の傍にいて、彼を支えたいと思うから。例え、それが彼に届かなくても、自分だけは彼を赦す存在になってあげたい。
 彼にとって、自分がただの同じSAOプレイヤーでしかなかったとしても、恐らくは並々ならぬ関係であっただろうあのサチという少女を忘れられないままでいたとしても、その気持ちは変わらない。

「……友達、親友としてでも、それでも、私……彼の支えになりたい!」

 それが、全てを知った上での、アスナの決意だった。
 音を立てずに役目を終えたホログラムは消える。それには構わずアスナは駆け出した。
 やるべきことは一杯ある。だがとりあえず、今は一刻も早く彼の顔を見たかった。足は自然加速しながら転移ゲートへと向かう。
 その耳には、未だ外していない装備《盗賊のピアス》がついている。金色に輝く輪の光が──やや鈍る。
 この、一見とんでもない装備アイテムは、アスナの当初の予想以上に凄い機能を備えていた。今はそのおかげでアスナもキリトの過去を垣間見れた。
 しかし、こういった良いアイテムには必ず落とし穴がある。アスナは、まだそれに気づけていなかった。
 それがわかるのは、まだもう少し先の事である。





「あ、キリト君!」

「アスナ? 最近本当によく会うな、待ってたのか?」

 あれから、アスナは三日と空けずにキリトに会いに行くようになった。無理矢理時間を作ってはキリトを誘い、迷宮に挑み、時に素材集めをしに低層のクエストをこなしたりと……世界そのものを楽しむかのように……楽しめるように。
 それは攻略だけを第一に考えていた以前のアスナからは考えられない行動で、血盟騎士団内のアスナを心酔している者たちからはそれはもう訝しがられた。
 だがその程度で揺れるほど、アスナの決意は軽い物ではなかった。周りにどう思われようと構わない。ただそうしたいと思ったから行動する。
 くしくもそれは、「自分がなんとかしなくては」と思い立って始まりの街を出た時の決意にも似ていた。今日もアスナはキリトが帰ってくるであろう時間帯を予想して迷宮の出口で壁を背にし、とんとんと靴の爪先で地面を蹴りながら待っていた。
 本当は一緒に行きたかったが、血盟騎士団の副団長ともなれば自分勝手が許されない場面はある。そんな時のためにアスナは、彼の行動をシミュレートし、これまでのおおよそのルーチンワークも聞き出して、だいたいの彼の行動範囲や行動時間に検討を付けるようにしていた。
 一緒に迷宮にいけないならば彼が帰ってくる頃合いに顔を合わせる。それだけこれまでよりもグッと距離が縮まるような気がした。
 そしてそれが続けば、いかな朴念仁のキリトと言えどこれが偶然ではなく以前に話した自分との会話から行動を読まれたことは想像できていた。

「ん~、そんなには待ってないよ」

「そんなにはって……俺何か約束忘れてる……わけじゃないよな?」

「え~、酷いなぁキリト君、忘れちゃったの?」

「え? 嘘だろ? いや、そんなはずは……ないんだけど……本当に、約束したっけ? いや、してない、ような……」

「あはは、冗談冗談。嘘だよ」

「なんだ、やっぱり嘘か。でも何で最近はそんなに俺の所にくるんだ? フレンド登録はしてるんだから用事ならメールを飛ばせば済むだろ?」

「生存確認だよ」

 半ばお決まりになりつつある軽いやり取り。決してキリトも嫌そうな顔はしない。お互い相手をからかうような会話から自然に微笑みが零れる。
 思えば、キリトは最近表情が柔らかくなった。本当の意味で笑う所こそ見ていないが、口端を釣り上げた、不敵というか小生意気な笑みに似た表情は散見している。
 それでも、彼は真の意味ではほとんど笑わない。笑みを浮かべられるだけで、心から笑っていない。“笑顔を出せる”のと“笑うことが出来る”のでは天と地ほどの差がある。
 それをアスナは理解していた。まだ、足りないな、と。

「今日はもう終わりでしょ? 夕飯作ってあげようかなって」

「いいのか? 流石にラグー・ラビットの肉なんてレアな食材はもう持ってないぞ」

「あれほどのものをそうポンポンドロップされたらゲームバランスが崩れちゃうよ」

 アスナは笑いながら気にしないで、と手を振る。次いで「何かリクエストある?」と視線で尋ねた。キリトは「そうだなあ……」と顎に手を当てて考え出す。
 どうにも不思議なのだが、キリトはこと食べ物に関するアイコンタクトだけは意図を外さない。正確に読み取って返してくる。
 最初こそ、アスナはキリトとの以心伝心振りに内心でガッツポーズしたものだが、今のところ上手くいくのがこういった食事の誘いやリクエストを求めるときだけということに気付いてその喜びは些か下方修正されている。

「シェフのおすすめで頼む」

「またそれ?」

「だってさ、アスナの作る料理ならなんでも美味いし。NPCレストランにもういけなくなっちゃうよ俺」

「も、もう……! 褒めても何も出ないんだからね!」

「えぇー……じゃあアスナの夕飯は無し?」

「残念そうな顔しないの。そういう意味じゃないよ」

「良かったぁ」

 プッ、と二人で同時に吹き出して笑う。いや、本当に笑っているのはアスナだけだ。アスナ自身もそれは気付いているがあえて言うような真似はしない。
 彼の笑みは貼り付けられただけの笑みだ。彼は、まだどこかで心に重荷を背負っている。背負うことを自身を戒める枷として必要としている節すらある。
 いつかその枷を外してあげたい、そう思いながらアスナは彼を再び61層にあるセルムブルグの自宅へと誘った。



「いつ食べてもアスナの料理は美味いな」

「あ、ありがと……でも現実世界の料理の方が私は好きだわ。SAOの料理は簡略化されすぎているもの」

 食事を終えて、二人でアスナブレンドのお茶を飲み喉を潤す。これもまた、アスナが何種類もある素材から試行錯誤して作ったオリジナルブレンドだった。
 伊達に料理スキルを完全制覇(フルコンプリート)していない。

「現実、か……凄いな、アスナは」

「何が?」

「俺なんてさ、戦闘用スキル以外まともに熟練度上げてないんだ。必要だと思うことばっかりやってさ、そのくせ自由奔放にソロでいーかげんにやっててさ。なんか、そう思ったらアスナが凄いって思えてきたよ」

「……そんなことないよ」

 本当に、そんなことはないと思う。彼の言ういーかげんなところに、アスナは救われ、惹かれたのだから。
 今でも忘れることは無い。自分の見ている世界に色が戻った、そのきっかけを。

『今日はアインクラッドで最高の季節の、さらに最高の気象設定だから、こんな日に迷宮に潜っちゃもったいない。お前も寝ていけ』

 まさか、本当に眠ってしまうとは自分も思わなかった。あの時、アスナはそれまで押しつぶされそうなほど重く感じていた肩の荷が、すとんと落ちて軽くなったようにさえ感じられた。
 「キリト君が言ったんだよ」と口の中だけで言う。あの台詞とあの時の気持ちは、今も胸の中の一番大切なところに仕舞われている。
 その日から、すべてが違って見えた。視界が信じられないほどに開けた気がした。生きているって実感が、強くなったような気さえした。
 彼と……キリトといると、不思議と心地よくなる。嫌なことを忘れて、頑張ろうっていう気持ちが後から後から込み上げてくるのだ。
 だからだろう。極力彼と時間を過ごしたいと思うのは。
 最近はただでさえどことなくおかしく、息苦しくなり始めていた血盟騎士団は、アスナにとって居心地が悪い物になりつつあり、気が滅入ることもしばしばだった。
 いや、もともとその兆しはあった。護衛などという見知らぬプレイヤーを幹部に付けると言い始めたあたりから、どんどんおかしくなってきてはいたのだ。キリトとデュエルまでしたクラディールがその最たる例と言える。
 ただ、血盟騎士団がそういう方向性に向かったのには、ひとえに過去の自分の攻略ホリックとも言える鉄の意思が無関係ではないと考えるアスナは、責任も感じていた。
 そんな板挟みな感情を持て余している時でも、彼といると不思議と心が安らいだ。彼の為と言いながらも、自分も彼のそんなところを欲している。
 ただ、アスナは与えられるだけの人間で終わりたくなかった。こと彼に関しては。だから、だから行動するのだ。自分の思うままに。

「私は、誰かさんのいーかげんさを見習って少し肩の力を抜いただけですぅ」

「ほぅ、そんないーかげんな奴がいるとは。是非会ってみたいもんだね、今度紹介してくれよ」

「わかって言ってるでしょそれ」

「さてね」

「……必要だって、思うから」

「ん?」

「戦って生き抜く為のスキル以外にも、生きていくには必要だって、思うから」

「……そうだな」

「はい! というわけで明日から二日間キリト君には私に付き合ってもらいます!」

「……へ?」

「明日はこの下の層でお祭りイベントがあるらしいし、明後日は私オフだから朝から一緒に迷宮ね」

「お、おいおい? そんな急に……」

「何か用事や約束があるの?」

「いや、そういうわけじゃないけど」

「そうよね、あるわけないもんね。友達いなさそうだし」

「おい」

「だから私がキリト君の用事作ってあげる」

「……はぁ、一応聞いておくけど拒否権は?」

「今日の食事代♪」

「……オーケイ、わかったよ。この食事の代金なら納得だ」





***





 翌日、俺はアスナとの待ち合わせ場所に腰を下ろしていた。約束の時間まであと十分程度。アスナはギルドでの政務が少しあるからと普段よりもやや遅めの時間を指定してきていた。
 最近のアスナはとにかく活発だ。出会った頃はそうでもなかったように思えるのだが、こちらが彼女の素の顔なのだろうか。

「それにしても……いつぶりかな」

 こんなにも、独りじゃないのは。独りじゃない時間が、予定が、明日が楽しみなのは。
 孤高のソロを気取っているつもりはないけど、ソロで居続けることに執着している自分は自覚している。
 《月夜の黒猫団》の事があってからは、特に他人との関わりに壁を作っていたと思う。いや、ケイタが残した言葉が今も俺の胸にそれが正しい物として残っているからだろう。

『ビーターのお前が、僕たちに関わる資格なんてなかったんだ』

 それは真実だ。疑うべき所など一つもない真理の一つ。全く持って正論のその言葉に、返す論なんてものを俺は持ち合わせていない。
 俺は誰かと関わりを持つべきではない。薄汚いビーター。全く持って正しい表現ではないか。別に自分を卑下しているわけではない。だから俺は既にこれを蔑称だと思っていない。
 ただ俺を示すのにこれ以上相応しいものも無いな、とは思う。初めてビーターを名乗った時からそれは覚悟していたことで、むしろ当然のことなのだから。
 これは決して自虐なんかじゃない。俺はひたすらに正しいと認識しているだけだ。皆の持つβテスターへのイメージ、それ自体に偽りはないのだから。
 クラインを置いて始まりの街を出たあの日から、俺に弁解する余地なんて残っちゃいないしするつもりもない。
 だから、俺は誰とも深い関わり合いを持つべきではない。持つべきではないんだ。一度学習する機会さえ得ている。だというのに、

「こういうのもいいやって思えるのは……悪いこと、なのかな」

 クラインやアスナ、エギルあたりが聞いていたなら顔を真っ赤にして怒るかもしれない。いや、エギルなら豪快に笑い飛ばす、かな。
 ただ、あいつらは優しいから。きっと「悪くない」と即答、豪語してくれるだろう。でも、その優しさに浸ってしまったら、俺は罪を忘れてしまいそうになるから。
 それだけは、いけない。忘れては、無かったことにしてはいけないんだ。でも……少しくらい、休むことは……許されるのかな、と思えるようになった自分がいる。
 俺が、そういう考えを持てるようになったのは間違いなく、

「キリトくーん! お待たせー!」

 彼女のおかげだろうな。やれやれ、全くそのことを彼女はわかっているのだろうか。
 そのアスナはと言えば手を振りながら俺の居る場所まで栗色のストレートヘアを揺らして駆け寄ってくる。
 忙しい中の合間にわざわざ「はぐれビーター」の俺などに構わなくてもいいだろうに。ましてや明日はせっかくのオフに一緒に迷宮へ行こうとまで。
 アスナほどの人間ならオフというのはレアアイテム並に貴重だろうに、勿体ないとは思わないのだろうか。
 どうも彼女の考えていることはわからない。一度はもしかしたら《血盟騎士団)に俺を引き込むための引き抜き人員ではないかと疑ってさえいたのだが、どうにもそんな素振りはない。
 だが、そんな彼女の“気まぐれ”とも思える行動に俺が救われつつあるのは事実だ。

「キリト君、早く行こうよ! ほらほら」

「ああ、わかってるって」

 アスナに促され、俺も立ち上がって歩き始める。
 その足取りは、このSAOに囚われてから今までで、一番軽い気がした。



[35052] SAO4
Name: YY◆90a32a80 ID:1a43ae77
Date: 2012/09/21 21:44


「お、おいあれ……閃光のアスナ様じゃないか?」

「マジかよ、すげぇ本物だ」

「可愛いなー」

 お祭りイベントに集まったプレイヤーの目に、アスナが映るたび似たような言葉が聞こえてくる。血盟騎士団として活動していくうちに、アスナは殆どのプレイヤーからその存在を知られるまでになっていた。
 だが、それはアスナの望むところではなかった。むしろ、見知らぬ人が自分を知っていることに内心で恐怖さえ覚える。生来、気が強い方ではなかったのだ。
 狂戦士とまで称されたことのあるアスナだが、その実、誰よりも恐がっていた。死ぬこともそうだが、長く仮想世界に捕らわれていることに。
 現実世界においての彼女は、狂戦士などとはかけ離れた、いわば正反対の生活を送っていたのだから。

「流石は血盟騎士団副団長殿。大人気だな」

「……何かイヤだな、こうやって周りに騒がれるの。ただの見物客として来てるだけなのに」

「仕方ないさ、有名税みたいなものだよ。実際アスナは攻略組でも必須な人材だからな」

「そうかな」

「ああ、それに圧倒的に少ない女性プレイヤーの中でも五指には入る美人と来ればみんな浮き足立つさ」

「な、な……! そ、そういうお世辞は求めてないから!」

 わたたっと手を振って歩くスピードを上げる。頬はすでに真っ赤だ。本当にSAOのフェイスエフェクトの過剰演出が恨めしい。
 過剰気味なフェイスエフェクト──今日の場合は過剰と言い切れなくもないが──を隠すように両手で頬を抑えて俯きながら歩くアスナの後を、半歩ばかり下がった位置を保ったままキリトもついてきていた。
 この狂戦士姫はそうでもしておかないと後でご立腹なさることをここ最近の付き合いでキリトも学んでいた。
 そんなキリトの、お世辞じゃないんだけどな、という内心の声はどうやってもアスナには聞こえるべくもないが、下を向いて頬を手に当てているアスナの口端は釣りあがってしまっていた。
 人、それを緩むという。アスナだって女の子、美人、可愛いなどという定型句でも、言われると嬉しいものだ。それが……気にしている相手なら尚更である。
 しばらくして、ようやくと火照り……ならぬフェイスエフェクトが通常状態に戻りつつあるのを感じたアスナは背後についてきているキリトの気配が止まった事に気づいて振り返る。
 アスナが通常状態に戻ったのを、キリトもまた敏感に察知し、同時にそれを追随するようなポジションからの解放と捉え、ふらりと出店に足を向ける。

「あ、ちょっと!?」

 アスナは出店にふらりと向かい始めたキリトの後を小走りで追う。アスナの知らぬスキルでも使っているのか、キリトはフラフラ歩いているようにしか見えないのにアスナの小走りよりもやや早く感じられた。
 本当にキリトは食べることになるとどこかネジがおかしい男である。
 お祭りイベントというだけあって、古来よりの日本をイメージさせる露店、出店が通路の両端にびっしりと並んでいた。
 中には服飾屋も見られ、どうやらイベント限定販売の浴衣も売っているらしい。防御力はもちろん期待できないが、着てみたいという欲求はアスナにもあった。
 しかし、ちらりと横目で見た連れの男性の顔を見て、その欲求を溜息に変え却下する。キリトはすでにホットドッグを咥えていた。
 考えてみれば彼は以前にもビシッと決めた服装に何も言わなかった前科がある。一大決心と言えば大げさだが、それなりの気構えに肩すかしを食らい、少なくない心の傷を受けたのも内緒の事実だ。

「あうなもふう?」

「……いいです」

 差し出されたホットドッグを片手で制して断る。いつものことではあるのだが、アスナはキリトといると調子を狂わされっぱなしになる。
 アスナはそれがちょっと悔しかった。キリトは断られて余ったホットドッグも自分の口へと放り込み、再び出店を物色すべく視線を巡らせている。
 放っておいたらまた何処かにとてとてと勝手に行かれかねない。そう危惧したアスナは自分でも意外な行動に出てしまった。

「……え?」

「あ」

 チョコバナナに目を付けたらしいキリトが一歩を踏み出したとき、アスナは咄嗟に彼の手を握っていた。キリトは目を丸くして口をポカンと開けている。
 当のアスナもこんな大胆ともとれる行動をするつもりはなかったので、どうしたものかと思考を巡らせ、そうしているうちにまたフェイスエフェクトが過剰演出効果を表してしまう。
 アスナは咄嗟に顔を伏せたものの、キリトの手は放さなかった。なけなしの思考回路で言い訳する。

「キ、キリト君ほっといたら子供みたいにどっかいっちゃいそうだから! それだけなんだから!」

「へ? あ、ああ、そうか、悪い……」

 キリトは黒髪の後頭部を恥ずかしそうに掻いた。自分の子供のような行動を今更ながらに恥じているのだろう。
 しかしそれはアスナも同じことで、未だ顔を伏せたまま上げることができない。片手が塞がっているので顔を隠すことも難しいのだ。かといって、せっかく繋いだ……繋げた手を放すようなことはしたくなかった。
 キリトは頬を小さく二回掻くと、そのままアスナが落ち着くのを待ち、ようやく顔を上げたアスナに恥ずかしそうに言う。

「えーと、チョコバナナ食う?」

「……食べる」

 今度はアスナも素直に頂くことにした。




「それにしても、SAOでチョコバナナを食べられるとはな」

「そうだねぇ、考えてみればSAOって現実世界の既存の食べ物ってほとんどないもんね」

 SAOの食材はどれもユニークな名前と奇妙奇天烈摩訶不思議アドベンチャーな味を備えているものばかりだ。
 どこをどうやったらそうなるのか、料理好きのアスナとしても製作者……茅場晶彦には一言物申したい。
 おかげでアスナは聞いたこともない、恐らくはSAOオリジナルの三桁にも及ぶ食材を研究し、現実で自らが知る味付けを作るのに大変な苦労を被ったのだ。
 もうここまで来ると、これほど細分化された味と名前、グラフィックを考える方もたいしたものだと感心したくなるほどだ。恐らく、いや間違いなく好き好んでこの料理を極めるプレイヤーは少ないとアスナでさえ思った。
 先ほどキリトが食べていたホットドッグにしろ、今食べているチョコバナナにしろ、SAOでは正式名称が妙な名前になっていたりするなんちゃって料理なのだ。
 だから本当はホットドッグのようなもの、チョコバナナのようなもの、と言った方がより正確なのだが、見た目も味もホットドッグでチョコバナナならそれはもうホットドッグでチョコバナナなのだ。
 たいていのプレイヤーはそう思う。キリトとアスナもその御多分に漏れず、同じような認識だった。

「どうキリト君? 来て良かった?」

「ああ、ありがとうアスナ」

 ふわりとした柔らかい笑み。すぐに残りのチョコバナナに取りかかるべく視線を逸らされてしまったが、その顔はアスナの仮想上の網膜と記憶にしっかりと刻み込まれた。
 いつもの、見ようによっては小憎らしい笑みではなく、つい零れてしまったというような、自然な表情。以前にも思ったことだが、彼が素だと思われる時は、普段よりも幾分幼く見える。
 そのギャップが、アスナの心の奥をトクンと揺らした。頼りになる、強い憧れの剣士。その一方で守ってあげたくなるようなあどけなさを醸し出す少年。
 つくづくキリトという少年は、アスナにとって不思議で、興味深く、心の奥底に居ついてしまう存在だった。

「あ、そこのカップル! ちょっといいかな?」

 と、その時だった。二人をカップルと呼び話しかけてくる青年がいた。キリトとアスナは繋いでいた手を離し一瞬警戒するが、すぐにその警戒を解く。
 一目でその彼がNPC、ノンプレイヤーキャラクターだとわかったからだ。実際に生身の人間が動かすのではない、システムとAIが作り出すひたすらなイエス・ノーの2進数演算を繰り返して行動している魂無き存在。

「俺たちのことか?」

「そうみたい……きっと男女のペアに無作為に話しかけているんでしょうね」

「カップルで踊る盆踊り選手権! 参加してみない? 優勝者には豪華賞品も用意してるよ! あ、踊りならなんでもいいからね」

 青年は終始笑顔で誘ってくる。その話の内容に、アスナとキリトはすぐに青年がなんなのか理解した。
 彼はキーマン……クエスト発注者だ。イベントには往々にして限定クエストがあるものである。それが、モンスターを狩るとは限らないのが難儀だったりするのだが。

「……なぁ、これって」

「イベント……サブクエスト、でしょうね」

 キリトとアスナがクエストについて話をしていると、小ウインドウがオートポップアップされた。
 クエスト内容の説明と参加申請である。やはりこれは限定クエスト、イベントだった。イベントによっては話を聞くだけで《フラグ》が立つものもあるが、こうやって参加の有無を求められるものもある。
 絶対の法則ではないが、たいてい自動で立つフラグはモンスター討伐が絡むのに対し、有無を求められるのはそれ以外の内容のことが多い。
 表示されている今回のイベント内容をかいつまんで言うなら、男女ペアで踊りを披露し、NPC審査員に得点を付けて貰って一番点数のいい人が優勝、というありきたりなもののようだ。
 二人の間にポップアップしているシステムメニューには参加・不参加の有無を問う画面が既に立ち上がっており、アスナはキリトが何か言う前に「えい」と参加のボタンをタップする。

「お、おい」

「出てみようよ、減るもんじゃないし。踊りなら危ないこともなさそうだし」

「これカップル出場ってことになってるぞ」

「気にしない気にしない」

 やや気後れしたようにキリトはぶつくさと言うが、アスナはそんな言葉を右から左へと聞き流した。
 ただ、こっそりと胸の中で一人の少女にだけ、謝罪する。

(ごめんねサチさん、でもこれくらい許してね)





「さぁ、レディィィスアァァァァンドジェントルメェェェェェェェンッ!」

 お祭り、というにはそぐわない、どちらかと言えばこれからボクシングの世界タイトル戦でも行われるかのような熱気を纏った声で、司会者がマイク片手にshoutしている。
 ある意味では確かに祭り、なのかもしれないが酷くイメージが違う。司会者の男はムキムキの黒人で、下は切れ込みの入ったダメージジーンズに上は白いタンクトップ、スキンヘッドにサングラスをかけた出で立ちで、エギルなどよりもよっぽどアフリカ系アメリカ人をイメージさせる。
 イベントには十数組の参加申請があったようで、ちらほらと男女ペアが散見していた。みんな優勝商品目当てなのかなぁ、などとアスナはのんびり構えていたのだが、最初の組が踊り始めた瞬間、固まった。

「え……えっ!?」

 盆踊り、と最初に言われていたので、踊りなんて櫓を囲んで適当に踊って歩くだけだろう……などと軽く考えてたいたのだが、その考えがどれだけ甘いものだったのかを最初のペアが教えてくれた。
 ばっちりと息のあったコンビネーションでのタンゴ。それ盆踊りじゃないよ! とアスナは内心でツッコミそうになったが、ギリギリのところで思い出す。
 あのイベント参加を求めてきた青年は言ってたではないか。踊りならなんでもいいよ、と。つまり、アリなのだ……というより実際に盆踊りよろしく、歩いて手を振るだけの人間の方が少ない、下手をすると皆無の可能性もある。
 冷静になって考えてみれば盆踊りにどうやって点数を付けるというのだ。そんな簡単なことに頭が回らなかった自分が恨めしい、とアスナは頭を抱えた。

「お、おい……なんかすげーレベル高いんだけど……」

「うぅ……」

「俺、踊りなんて知らないぞ?」

「私もだよぅ、どど、どうしようキリト君……」

「まさか、何も考えずに知らないイベントに参加申請出したのか……」

「だ、だって……」

 キリトの呆れたような声にアスナは肩を落とした。せっかくのお楽しみイベントなのにやってしまった。
 あるいはサチという女性がいるのがわかっていながらキリトに一歩踏み込んだ自分への罰なのか。そんなマイナス思考の渦にアスナが嵌ろうとしていた時、

「ぷっ……あはははは!」

「な、何よぅ、そんなに笑わなくたって……」

「ごめんごめん……くくくっ」

「もぅ、まだ笑って、る……?」

 キリトが笑ったことに尚更思考が沈みかけたその時、気付いた。キリトが“笑った”のだと。これまでの、笑みが滲むような顔ではない。
 小憎らしい笑みでもなければ貼り付けたような笑みでもない。心の底からと思える、笑顔。
 屈託のない、普段あまり見せることのなかった幼い雰囲気を残した素直な顔。これが彼の素だと、直感的にわかるほどの、自然な笑い。

(キリト君が本当の意味で笑うところ、ちゃんと見るのは初めてかもしれない……)

 アスナの心にムクムクと歓喜が押し寄せてくる。彼が笑顔を自分に見せてくれたことが、彼が笑えるんだってことが、自分の事のように嬉しかった。
 笑いは伝染すると言う俗説がある。これまでそんな俗説を信じていなかったアスナだが、キリトの笑顔を見ているとどうにも自分の頬が緩んできてしまうのがわかった。
 正確にはそこに頬はなく、電子データ上の仮想アバターでしかないのに、フェイスエフェクトによる効果でしか表情の表現はできないはずなのに、お互い本当の感情が顔に出ているように感じられた。

「アスナ」

「なぁにキリト君?」

「このまま何もできないのはちょっと癪だろ?」

「そうだけど……」

「俺に一つ、考えがある」

 ようやく笑いが収まったキリトは、そう言ってまたニヤリと不敵そうに微笑んだ。
 その顔は先ほどまでの笑顔とは違うものの、これも素の彼だと思わせる何かがあった。例えるならそう、イタズラを思いつた子供のような、そんな顔である。





「さぁ、続いて次の組行ってみようかァ!」

 相変わらずのテンションで司会を続けるスキンヘッドにサングラスのマッチョはむしろ始まる前よりもそのボルテージが上がっているようにさえ感じられる。
 NPCであることは疑いようもないのだが、ここまで来るとただのデータの塊でしかない人、とはアスナには思えなかった。
 そういえば、とアスナは思い出す。似たようなやりとりで、隣にいる彼と意見が衝突したことがあった。当時、NPCを囮にした作戦をアスナは立案した。
 生きている人間の犠牲をなくすにはこれが最善の方法だとその時のアスナは信じて疑わなかった。あれはまだ、アスナがスピード攻略ホリックとも言えるほどに攻略のスピードを重視していたころのことだ。
 当時から既に攻略組でも一目置かれ、作戦指揮を任されていた彼女にはその作戦に絶対の自信があった。ベストではなくともベター。
 ベストはもっとレベルを上げてより安全に……だろうがそれでは時間がかかりすぎる。それを当時のアスナは許容できなかったのだ。
 当初アスナはこの作戦に意を唱える者はいないと決めつけていたが、攻略会議に参加していたはぐれビーター……もといキリトはそんなアスナの考えを真っ向から否定した。

「NPCだって生きているんだ、その考えには賛成できない」

 最初は何を戯言を、と思った。生身の人間の犠牲に比べ、ただのデータ上のみの存在である彼らはいくら消えようと無限にポップするのだ。
 今思えば、なんて機械的な考えだったのだろうと思う。それでは、ひたすらなイエス・ノーの取捨選択をするNPCの取る行動と、何が違うのだろう。
 アスナは思う。もしかしたらキリトはそこまで考えて、感じていたわけではいのかもしれない。ただ、直感的に彼らの存在をそこにあるものとしてとらえていただけなのだ。
 何人たりとも、他人の場所を奪う権利などありはしない。たとえそれが、魂無き存在だったとしても。
 何よりも彼の過去が、NPCと言えど何かを失う事に、奪うことに怯えているに違いない。そこで……ハッとアスナは気付く。
 だとしたら、


 彼があの“大規模なプレイヤー討伐作戦”において、奮戦し、生き残り、代わりに背負ったものは、彼に重くのしかかっているに違いない、と。


 口には出さないが、彼の中であの戦い……《殺人ギルド掃討作戦》はかなりの重荷になっているに違いない。少なくとも彼は、あの戦いにおいてやむなく手を汚してしまったのをアスナは確認していた。
 しかし、彼の奮闘がなければ被害はさらに甚大になり、敗北の憂き目を見たかもしれないのも事実。
 作戦が完了した時、一番の奮闘を見せた彼、いや彼のみならずパーティ全員が、勝利に雄たけびをあげることなどなかった。“対人戦の殺し合い”だったのだ。当然のことではある。
 目に余り過ぎたPK……プレイヤーキルを前提に考えられた、カーソルがオレンジになったプレイヤーの集うオレンジギルド……いつからかその中でも特に過激なギルドを殺人(レッド)ギルドと呼称していた。
 その殺人ギルドでも特に問題だったのが、《笑う棺桶(ラフィン・コフィン)》というギルドで、このギルドを苦渋の選択の末に掃討した作戦はまだ記憶に新しい。
 果たしてあの時、キリトの過去を知っていれば彼の元に行った掃討作戦参加要請を無理やり止めただろうか。……今の自分なら止めたかもしれないとアスナは思う。
 彼には、あまりに辛すぎる。

(……あれ、そういえば……)

 と、ふと何かひっかかりを覚えた。あの作戦で、そういえば、何か、聞いたような気がする。アスナは眉を寄せて記憶を手繰り寄せる。
 あまりの悲惨な戦いに双方甚大な被害も出たため、本当のところアスナもずっと記憶の奥底に封印しておきたい記憶ではあるのだが……その記憶に、キリトが関係していた気がする。
 いや、そうだ。確かキリトに……、

『黒の剣士、ビーターに、伝えろ』

 伝言とも呼べないようなそれ。そうだ、確かに、聞いた。顔が半分宵闇隠れていた《笑う棺桶(ラフィン・コフィン)》の幹部。
 全身にボロ切れを纏って、髑髏を模したマスクを被って……眼の奥が赤かった。そうだ……そうだ……それが名前……通り名の由来になっていたような……確か、あか、赤、赤眼の……。
 ふと思い出してしまった記憶の奔流に、アスナは流される。自分の見たもの、聞いたものはなんだったのか。
 確か、あの幹部は針剣(エストック)……自分と同じ刺突系を得意としていて……あまりにキリトにしつこく迫るから、自分が躍り出て……。
 彼に、キリトに良いように攻められ、押し込まれたのが面白くなかったみたいで……キリトに、その髑髏の眼窩にある赤眼を向け続けていて。

『まだ、終わって、いない。俺は、負けて、いない』

 負け惜しみにも似た言葉を、途切れ途切れに繰り返していて。
 シュウシュウと擦過音を漏らして。

『これから、だ。お前は、“お前たちは”、これから、殺す。必ず、殺す──“カップル”は、撲滅する』

 アスナは相手の言葉尻に、僅かに肩をこけさせて、でも。
 シュウシュウと絶えない擦過音の後に続く最後の言葉が、厭に印象的で背筋を凍らせた。
 思えば、それを忘れたくて、あの後アスナもキリトに続いて久しぶりに狂戦士と呼ばれるような戦いぶりを披露したのではなかったか。
 それは……その言葉は、凍えるように低い、低い声で。


 ─────イッツ・ショウ・タイム……!


「アスナ!」

 最後の言葉を思い出したのと、キリトの自身を呼ぶ声が聞こえたのはほぼ同時だった。
 その瞬間、自分がこれから何をする予定だったのかを思い出す。
 こわばった体に、止まっていたかのような電気信号を高速で送る。動け、と。
 実際には仮想上の体が強張る、なんてことはないはずだが、それでもそう表現するしかないような、奇妙な感覚にアスナは一瞬とらわれていた。
 だがそれも、文字通り一瞬。次の瞬間には打ち合わせ通り抜刀する。これには見ていたギャラリーもどよめいた。

「せやぁぁぁ!」

「だあっ!」

 キィン、と一際高い金属音が鳴り響く。キリトとアスナ、お互いの剣が一瞬火花を散らして鍔競り合う。
 一本の金属……細剣である自身の獲物、レイピアの先にアスナはキリトの顔を見る。その顔はやや不審そうな、気遣うような顔。

(いけない、心配させちゃったかも。よぅし!)

 先ほどまでの思考で、沈みかけていた気分を無理やり上昇させ、体内のギアを思いきりグンと上げる。
 当初の予定では徐々に上げていく手筈だったのだが、彼ならばこの程度の反応にはついてこれるだろう。そうアスナはキリトを評価して予定より三段階は早いスピードのある刺突を繰り出す。
 キリトは目を見開き、慌てて回避行動に移る。これは流石というほかなく、彼は計四回放った“ただの刺突”を二回三回と避けるうちに体勢を立て直し、最後の四発目に至っては本気のスピードでなかったとはいえ見事にパリィ……弾いて見せた。
 周りから「おお……」という驚きの声が漏れる。しかしここでは終わらない。アスナのレイピアにライトエフェクトが宿った……次の瞬間には同じくライトエフェクトを宿らせたキリトの剣と再び切り結んでいた。
 アスナの放つソードスキル、細剣術の《リニアー》に対し、上から剣を振りおろす片手剣用ソードスキル《バーチカル》。どちらもソードスキルとしては基本技だが使用者のステータスが上がれば上がるほど威力も速度も増大していく技となる。
 お互いの顔に笑みが浮かぶ。今のは申し合わせたタイミングではなくどちらも“当てる”つもりで放った剣技だ。今いるのは圏内である。
 SAOにおいて圏内ではプレイヤーがプレイヤーのHPゲージを減らす方法は基本的にデュエル以外ありえない。今やっているのはデュエルですらないので例えどちらかがどちらかの剣を受け損ねて切られようと死ぬ危険はおろかHPバーが減ることさえしない。
 だが、この瞬間この二人の間に、そんなものは関係なかった。ただ、楽しいと思える切り合い。
 相手と息の合う、《同じレベルでの剣技》がぶつかりあう。申し合わせた剣技から既にかなり外れているのに、お互い引かないし手も緩めない。
 それは本当の戦いにも似た緊迫感さえあったが、当人であるアスナの心は軽かった。圏内であることも理由の一つではあるが、もしこれがデュエルだったなら決着はとうについている自信があったからだ。
 勝敗は“かつてと同じように自分の敗北”であることは疑いようがない。だが、今は《互角の剣技》を放ち合っている。そう、これは戦いではなく剣技のぶつけ合いだった。
 キリトの提案は剣舞だったのである。舞踊の一つとしても数えることができるだろ? という彼の笑顔に乗せられ、他に代案もなかったアスナは承諾したが、これはこれで楽しいものだとすでに半ば目的と理由を忘れかけていた。
 一分、一秒でも長くこの剣を交わらせていたいという欲求にかられる。だが、その突発的な欲求は次の彼の構えを見て満たされることが無いと理解した。
 キリトは自身の剣に黄緑色のライトエフェクトを発生させ、素早くアスナに突進してきた。それはあまりに早く、光の帯が遅れて見えるほどの速度。
 遅れてくる光の帯は下から上に向かって振り抜かれる……“予定通り”に。片手用突進技《ソニックリープ》。それはこの剣舞のラストを飾るソードスキルだと最初に決めていた。
 来るのがわかっていれば、対処はしやすい。アスナはこれも予定通り、キリトが“スピードを抑えたソードスキル発動中の剣”に乗り、素早く跳躍して彼の背後に回る。
 お互い背中合わせになったところでほぼ同時に納刀。ぺこりと頭を下げた。

「お、お、おおおおぉぉぉォォォォォ───!!」

 睨んだ通りギャラリー達からの歓声が沸いた。キリトはしてやったりと口端を釣り上げる。
 そんな彼にアスナも微笑み、お互い軽くコツンと拳を突き合わせた。





「あーあ、あれだけ盛り上がったのになぁ」

「仕方ないさ、ゲームの仕様じゃ、な」

 観客のプレイヤーは二人の剣舞に大いに盛り上がった。ピーピーと口笛を吹き、アンコールまでかかるほどに盛況を得た。
 しかし、そんなギャラリーの意に対して、NPCの評価点数は驚くほどに低かった。これには会場も大ブーイングである。
 もっともキリトはそれを予想していた。圏内での抜刀はおそらくシステムイベント的に認められる類のものではない。
 剣舞は最初から評価対象外……点数をもらえないのだ。剣舞、というもの自体が恐らくシステムに予定されていないものだったのだろう。
 ソードアート・オンラインという剣の世界にいながらなんとも間抜けな話だが、その不満はゲーム制作者やゲームマスター、茅場晶彦に直接言うほかない。
 ただそのような文句を言い、尚かつ受け入れてもらえるなら、二年ものあいだプレイヤーはこのアインクラッドに囚われてはいないだろうが。

「でも一番の盛り上がりを見せた組が一番の低い点数ってのもちょっと悔しいわよね」

「確かにな。予想以上にギャラリーには受けてたし。でも……俺は楽しかったよ。なんかさ、こういう気持ちになれるの……本当に久しぶりな気がするんだ」

「そっか……うん、そうだね。私も楽しかった!」

「あ、でもいきなりスピード上げるのは反則だろ。かなりヒヤッとしたんだからな」

「あれだけ上手く避けといてそんなこと言う?」

「いや本当に余裕無かったって!」

「あはははは!」

 笑いが自然と漏れる。こんなにも今が楽しいと思える。明日は一緒に迷宮にも挑む。ずっと……ずっとこんな日常が続けばいいのに。
 そう願う一方で、アスナはそれがどうやったって叶わないと心の何処かで思って……いや、理解している。
 いつかは、きっと、やがていつかはゲームがクリアされる。その為に頑張っているんだから、そうでなければいけないと思う。

(ただそうなった時、私はもう、彼の隣にいることが出来ない。彼の隣にいる資格を、私は持っていない。キリト君の心にはもう私の入る余地なんて、きっとない)

 これ以上を望んではいけない。欲してはいけない。
 彼と一緒にいたいと思う一方で、それが叶わないものとして受け止める。
 アスナはそんな二律背反という名の針が、自分の胸にズブリズブリと刺さっていく痛みを、笑顔の裏で感じていた。



[35052] SAO5
Name: YY◆90a32a80 ID:1a43ae77
Date: 2012/09/17 18:09


 どうしてこうなってしまったのだろう。薄ぼんやりとした視界が、ちかちかと赤く点滅している。
 ちらりと視線をずらせば、己のHPバーが等間隔に減っていくのがわかる。それはもうとっくにレッドゲージ……危険域に突入していて、あと幾分も残されていない。
 ゲージの端には毒のエフェクト。考えるまでもなく、現在進行形でHPバーを減らし続けていく原因だ。

 ズルズルズル。

 引きずられている。データ上の床をデータ上の衣服が擦れ、データ上の音をデータ上の感覚器を通して感じる。
 視線を再びHPバーにずらす。確実に先程よりも減っている事実を確認する。時間はもう、あまり残されていない。
 視界のHPバー、その端に自らの足が見える。いや、それは正確ではない。“切断された”片足が見える。部位欠損ダメージ。
 思えば部位欠損することなど、これまであっただろうか。そういえばそんな記憶はほとんどないな、とこんな時なのに新鮮な感覚に笑いが込み上げる。
 片足の俺は歩けない。匍匐前進なら可能だが、今引きずられている速度よりは明らかに劣る。

 ズルズルズル。

 俺を引きずる彼女の足は止まらない。襟首を掴んで、後ろ手で目一杯筋力を駆使して引きずり続ける。敏捷力に多くステ振りをしているだろう彼女にはそうとう辛いはずなのだが。
 俺の装備しているコートの襟を掴む手は震えている。それはあまりの負荷から来る疲労の為か、これから起きる確定事項……引きずる相手である俺の重みが無くなることへの恐怖か。
 後者だったら良いな、と思う。いや、こんな時くらい自分勝手に解釈したってバチは当たらないだろうから後者ということにしておこう。

「まだ? まだなの……? 早く、早く抜けてよ……!」

 泣きそうな、いや既に泣いている声で彼女、アスナはそう呟く。迷宮区の通路。奥は暗闇に染められていてよく見えない。
 モンスターが待ち伏せていたら彼女の索敵スキルレベルでは不意打ちを食らいかねない。それでも彼女は俺という荷物を置いていくつもりはないようだった。

「こんなことなら、一つくらい残しておけば……! そもそもあの時私が……!」

 アスナは延々と自分を責め続けている。無理もないのかもしれないが、彼女が自分を責めるのを俺は聞いていられなかった。 
 これは俺が望んだことで、全ては、納得の上でのことなのだから。

「アスナ、もういいよ。もう十分だ」

「っ! 何言ってるのよ! 良いわけないじゃない! ダメ、ダメなんだからね! こんなところで、こんなところで……!」

「……ごめん」

「なんで、なんで謝るのよ……! 謝るくらいならキリト君の勝手に減っていくHPをなんとかしてよ!」

 無茶な事を言う。システムに定められた状態異常は、気合いでどうにか出来る物じゃない。回復アイテムは耐毒ポーションを含め根こそぎ“彼ら”に与えてしまったし、転移しようにもここは結晶無効化エリアだ。
 今できることなど、どうにか結晶無効化エリアを抜け出して転移でもするしかないが……現状はそれすら難しい。
 アスナは先程から進むたびに何度も転移結晶を試しているが転移は起きない。転移できる場所まで行けるのが先か、毒でくたばるのが先か。このままでは間違いなく後者だろう。
 何となく、俺は「ああ、サチもこんな気持ちだったのかなあ」と自分の心境を分析していた。既にHPバーの残りは秒読み体制に入っている。
 だがアスナは一向に諦めるつもりは無いらしく、また俺をズルズルと引きずっていく。

「アスナ」

「…………」

 もはや聞く耳は無いのか、それともそんな時間すら惜しいのか。だが、残念なことに……タイムアップである。
 俺の視界の隅にあるHPバーは残り数パーセント。数瞬後には全損は免れない。だから、伝えるべきことは、伝えておかなくては。

「ありがとう」

「ッッッッッ!!」


 ─────────さよなら。


 俺を引きずるアスナが次の一歩を踏んだ時、俺の残りの僅か1ドットのHPが消え、全損する。
 自分の体中にライトエフェクトが奔るという多分一生のうちに一度しか味わえない不思議な感触を得ながら、これまた最初で最後だろう経験……“自分が割れる”ような感覚を伴って……俺はポリゴン片となった。





***





(迷宮区は危険で一杯だって……そんなこと、攻略組なら誰しもがわかっていたはずなのに)





 アスナとキリトは約束通り、翌日は二人で迷宮区へと赴いていた。最前線とは言え、既に何度か潜ったことがあるので、安全マージンの取り方は心得ていた。
 今日はボス攻略をするわけでもないし、攻略組としては普段はあまりしないマップ拡張を行っていた。普通、攻略組はボス攻略を主目的とするので、その層によってはマップの三割程度しか攻略されていなくてもボス部屋さえ見つかればボスに挑む準備を始める。
 現に今、先日見つかったボス部屋に入れ替わりで攻略組が入り、情報を収集している頃だろう。ボスの名前はThe Greameyes……《輝く目》というらしいとアスナは現場の報告を受けていた。
 そちらの応援にかけつけても良かったのだが、せっかくの二人きりにそれは勿体ない。だからアスナはレベル上げという名目でマップ探索を提案し、キリトはそれを受け入れた。

「マップは今半分くらいか、しかしあんまりマッピングすると後任のプレイヤーがやることなくなるなぁ」

「あと半分を二人パーティの一日ではとても回りきれないよ」

 迷宮区は広大で、その名が冠す通りラビリンスとなっている。複雑な通路によって幾重にも別れ、歩行距離に換算すれば何kmになるのか想像もつかない。
 酔狂なプレイヤーが約一ヶ月ほどかけて調べたアインクラッドの直径がおよそ10kmだというのは有名な話だが、迷宮区の《歩行できる距離》は下手をするとそれと変わらないくらいかもしれない。
 複雑に曲がりくねった道は何処までも続いていて、マッピングというのは大抵難航する。アインクラッドの一つの層を単純に端から端まで歩けるほどの距離が設定されていても、おかしくはない。
 だがそれは全てを歩けばの話で、迷宮区全てのマッピングを一人でするものはいないし制覇するものも流石にそういない。そこまでのメリットも少ない。
 攻略組なら尚更の話で、攻略層のボス部屋発見以降はマッピングのためだけに迷宮区に行く人間は少ない。と言ってもどんなプレイヤーにもレベリングは必要だ。
 ついでにマッピングもするか、程度の気持ちでボス部屋発見後の攻略組もレベル上げを兼ねたマッピングをし続けている者は皆無ではない。
 事実、そうやって最前線の高湧出(ポップ)スポットは発見されたりする。かつてキリトが異常なレベル上げをしていた《アリ谷》も似たような経緯で発見されたものだ。

 一時間は未攻略マップをうろついただろうか。たった今倒したリザードマンロードで今日倒したモンスターは二十体程になる。
 三分に一体とはなかなかのハイペースだが、何度か集団で襲われたりもしたからそれほどひっきりなしというほどでもない。
 今日の湧出(ポップ)率は高く、流石に前回同様ほぼノーダメージとはいかなかったが、十分な安全マージンを取った戦い方が出来ていた。
 その理由の一つに、昨日の《剣舞》があってからアスナは何故かキリトとのコンビネーションが急上昇してきているのを実感していた。なんとなく相手……キリトの動きや考えがわかり、それに合わせられるのだ。
 キリトにも似たような節は見られ、戦闘が終わってから二人して首を傾げたりもした。言葉にせずともお互いが繋がっているかのような感覚。
 一度はかけ声無しに完璧なスイッチを決められるほどだった。しかし常にその状態が続くわけではなく、敵が複数になると流石に全てが上手くはいかない。
 それでも、普段よりは格段にコンビネーションが良かった。まるで、お互いの意識を共有しているような……いや、繋がっている、《接続》しているような感覚。

「お、安全エリアがあるみたいだな。そこで一休みにしようぜ」

「そうね」

 かなりのハイペースでモンスターを狩っていたのだ。アイテムやHPバーのそれではなく、精神的なものがすり減っていてもおかしくはない。
 しかし、アスナに疲労感はさほどなかった。もっとも、そういった慢心や油断がいざというときに出たりするので休める時は休むのが基本だ。
 攻略ホリックだった時も、失敗しては身も蓋もない、と安全エリアでの休息はきちんと取っていた。もっとも、全ては計画的に行い、分刻み、酷い時は秒刻みで決めたハードなスケジュール管理のもと必要最低限に押しとどめていたが。
 あの頃の張りつめた感情が無いだけで、こうも逆に“軽い”と思えるものだろうか。いいや、それは違うとアスナは否定する。
 キリトという存在が、自分を軽くしているのだ。一緒にいるのがどれだけの兵だろうと、恐らくこの安心感は自分には与えられまい、とアスナは思う。
 例え血盟騎士団最強の男、ヒースクリフ団長だろうと、親友だと言える鍛冶師リズベットだろうと、キリトに勝る安心感は与えてもらえないに違いない。
 どっこいしょ、と安全エリアにある壁を背にして座ったキリトをアスナは見つめる。
 黒く尖った髪の毛に、黒一色の膝丈まであるドロップコート、剣の鞘や剣自体も黒。全身真っ黒で、明るい色の無いこの人に、何故こうも元気をもらえるのだろうか。
 普通、ここまで黒いと逆に暗くなりそうなものでもあるのだが。

「ねぇ、キリト君、キリト君っていっつも黒ばっかりだけど黒が好きなの?」

「え? う~んどうだろ、比較的地味なのが好きなだけだと思うけど。まぁ黒は嫌いじゃないよ」

「ふうん……ってそういえば、リズが作ってくれた剣使ってないよねキリト君」

「……う」

「どうして? 気に入る良い剣だったって聞いてるけど」

「…………」

 ふと、黒以外の彼の持ち物を思いついて尋ねるが、彼は白々しく目線を逸らした。これは何か隠している顔だ。
 彼は隠し事が出来ないタイプと見た。ハッタリをかますのは得意かもしれないが、自身のことについて核心を突かれると咄嗟に対応できない。
 しかし沈黙で耐えようとするのは、割とマシな対処方法なのかもしれない。アスナはそう思うとそれ以上の詮索を止めた。

「まぁいっか、そういう詮索はマナー違反だもんね。少し早いけどお昼にしましょうか」

「おお! 手作りですか!?」

「うん、衛生的だからって手袋を着けたまま食べるのは止めてね」

「わかった」

 言うが早いかキリトはすぐに手袋を脱ぎ捨て、あぐらの上に手を乗せて、背中を左右に揺らしながらいかにも「ウキウキ」と言わんばかりにしていた。
 子供そのものの態度にクスリと笑いながらアスナはアイテムストレージから籐のバスケットを取り出し、さらにその中から大きめのサンドイッチを取り出して彼に手渡した。
 彼は嬉しそうにそれを受け取ると、「いただきま」の段階で既に口に含んでいた。「す」を言う暇すら惜しいのか。モグモグと頬張るその姿はまるでリスのようで、頬一杯にサンドイッチを詰め込む。

「慌てて食べると喉を詰まらせるよ」

「らいひょーふ」

 アスナは水筒をキリトの前に置く。アインクラッドでの食事で喉が詰まる、ということは実は無い。いや、恐らく……という仮定形ではあるのだが。
 そもそも電子データ上でしか無いアバターに、食事によるリファレンスを全て求めるには恐らく容量が圧倒的に不足するはずだ。
 ある意味で技術上の問題とも言えるが、それを可能にするプログラムを組み込めても実際に動かす容量が足りなければ実装は出来ない。
 だがそれはそれ、これはこれである。

「サンキュ」

「ん」

 キリトはゴクゴクと水筒を口に付けて水を飲む。心配は当然のように杞憂に終わったが、だからといってその心配自体をしないのが当たり前になりたくはない。
 現実世界との差異。それをいざ戻った時にSAOプレイヤーはどれだけ感じるだろうか。二年という月日は、人の生活習慣を変えるには十分すぎる時間だ。
 ここでの生活が当たり前になりすぎると、戻った時に感じるギャップは相当なものになるだろう。果たして、自分は元の世界に戻った時、以前の生活に戻れるのだろうか────あの、生活に。

(無理、かも)

 現実に帰りたくないわけではない。だが、帰った後の生活をイメージできない。帰った後、あの生活を疑問無く続けることは恐らく不可能だろう。
 そう思えるまでに、二年のSAO生活は人を変える。もっとも、遅かれ早かれ、SAOとは関係なくあの生活は崩壊していた予感がアスナにはあった。
 ふとキリトを見ると、すっくと立ち上がった所だった。そろそろ行こう、ということだろう。
 SAO内での休息はさほど長くなくてもいい。肉体的疲労はほとんどないし、今のように食事後すぐに運動しようと身体を壊すようなことはない。睡眠時間だけは通常通り必要なのだが。
 以前にも思ったその辺がいかにもゲームらしい所ではあるのだが、これも自然な物として染みこんでしまえば現実世界への復帰はまた一歩遠くなる恐れがある。
 一秒でも早い復帰を願っていたはずで、その為の心構えもしているのに、それが近づいてくると不安ばかりが胸に渦巻く。

(キリト君は、どう思ってるのかな)

 彼よりも僅かに遅れて腰を上げたアスナは、先に歩き出したキリトの黒い背中を見て、ふと思う。
 彼のSAOについての考えはどんなもので、彼の現実はどんな世界で、彼はこれからどうなるだろうと思っているのか。
 リアルについての詮索はこのSAOではマナー違反だ。いや、これはどんなネットゲームにも言えることかもしれない。
 それでも、アスナはつい聞いてみたくなった。

「ね、ねぇキリト君」

 だが、声をかけるのが少しばかり遅かったらしい。ではもっと早く聞いていれば良かったのかと言えば、結局は同じだろう。それはほんの些細な差でしかない。
 ようするに間、タイミングが悪かったのだ。アスナとキリトの視界にはやや空間を歪ませて───安全エリア侵入エフェクトだ──ここに入ってくるパーティがいた。
 そのパーティを率いるのは、偶然にもつい先日見た顔だった。

「ん? お、おォキリトじゃねぇか!」

「クラインか、最近はよく会うな」

「んだよ、わりーかよ。お互い最前線に潜ってりゃそうなるさ……ってお前、また副団長さんといんのか。すげぇなオイ」

 紅いバンダナに野武士面、というと聞こえは悪いが決して悪人面ではない……先日キリトの過去を知るきっかけをくれた人物、ギルド《風林火山》のリーダー、クラインだ。
 後ろに引き連れている似た格好をしているのがギルドメンバーだろう。

「こんにちは」

「どうもー♪」

「あっ、リーダーずるいっスよ!」

「ア、ア、アスナさんじゃないですかァ!」

 ワッとギルドメンバーがアスナを取り囲む。アスナは苦笑を浮かべながら困ったようにキリトを見つめた。
 何度経験してもこういうことには慣れないな、とアスナは思う。その視線を受けてキリトは小さく溜息を吐くとアスナを取り囲むギルドメンバーを追い払い始めた。

「ほら、アスナも困ってるだろ。散った散った」

「ちぇ、良いなぁキリトはよォ、可愛い子と乳繰り合いながらレベリングかよォ」

「そうだそうだ」

 僻み、というよりは単なる親しみを込めたからかいのような軽い口調でギルドメンバー達がそれぞれキリトの肩を軽く叩いていく。
 キリトも苦笑を滲ませて「日頃の行いの成果だよ」と冗談交じりに返していた。そんな様子をぼうっと見ていると、また一人近づいてくる。
 クラインだった。

「……ありがとう、ございます。俺なんかの変な頼み、聞いてもらってるみたいで」

「あ、いえ……私も、好きでやってるところありますから」

「へぇ……なるほど」

「あ、うぅ、なんですかその目は」

「いやいや、大変ですな、あいつは戦闘マニアのバカタレですから」

 少し意地の悪い、明らかにからかうようなニヤニヤした目でクラインは笑う。この人は意外に鋭い人だ。多分ばれた。
 アスナは少しばかり頬を染めて──照れた時のフェイスエフェクトだ──プイッと横を向く。今何か言い訳をしたところでこの人に敵わないのはわかりきっていた。

「キリト君、行くよ!」

「お、おう」

 このまま長居していては、いつまで弄られ続けるかわからない。場合によっては彼にも感づかれる恐れさえある。それは……避けたかった。
 アスナはそそくさと彼の手を引くと安全エリアを抜ける。キリトが後ろに軽く手を振ったのをなんとなくの気配で感じていた。


 安全エリアを抜けて二時間。当初に比べてモンスターの湧出(ポップ)は少なく、思ったほどの戦闘もないままマッピングは進んでいた。
 相変わらず《接続》は健在で、複数のモンスターに会うこともほとんどなかったため、先ほどよりも長時間迷宮を彷徨っていながら消耗という点ではむしろ少ない。
 ダメージもかする程度のものがいくつかあっただけだ。不規則なアルゴリズムが増えてきたと言っても、この層における通常の湧出(ポップ)モンスター単体は既に二人の敵ではなかった。
 いや、攻略組ならほとんどのプレイヤーが、差はあれど単体の湧出(ポップ)モンスターには対処可能だ。最前線でも……最前線だからこそ安全マージンは十分に取るようにしているのが普通なのだ。
 最近ではこのデスゲームにおいて、血迷ったプレイヤーが低レベルのまま高層にこない限りは、対モンスター戦の死亡率は激減したと言ってもいい。そんなプレイヤー自体、もうほとんどいないのだが。
 なので、非常に残念なことに、現状で一番の死ぬ要因はボス攻略戦と……PKだったりする。大規模掃討を終えた今、殺人ギルドによるPKは激減したものの、突発的なPKなどは無くなっていない。
 どうして同じ人間同士が、それも助け合ってクリアを目差し、解放される為に頑張っている仲間なのに……と多くのプレイヤーは思うだろう。アスナもその一人ではある。
 だが同時に、このゲームの“いやらしさ”というのもわかっているアスナは、その心境をなんとなくは推し量れた。言わずもがな、殺人ギルドについては話が別だが。
 閑話休題。つまりは、ボス戦とPK以外での死は、すでに非常に珍しいものとなっていた。そのボス戦──通常はフロアボス攻略戦を指す──ですら、最近は幾度となく調査を重ねてから攻略しており、死人が出ることは珍しい。
 最後にボス戦で犠牲が出たのも、五層以上前のことだ。だから……、


「う、うわぁぁぁぁぁぁ!!!!」


 その、今にも死にそうな叫び声を二人が聞いたとき、まさか……“そんなこと”になるとは、思っていなかった。
 声のした方に駆け出すと、そこにはプレイヤーの大群がいた。皆HPバーを注意域……イエローにまで落としている者がほとんどだ。
 一体何が……と思ったのも束の間、

「我々《軍》に後退はありえない! ましてやフロアボスですら無い相手だ! 怯むなァ! 戦えェ! 戦うんだァ! 突撃ィ!」

 一人の男が剣を敵モンスターへと指した。その先を見て、アスナとキリトは……背筋が凍った。
 黄色いカーソルに名前が浮かぶ。その名前を見て、二人は攻略組でありながらわずかに硬直してしまうほど動揺した。

 《The Hell Scorpion》

 定冠詞が付くのはボスモンスターの証だ。それだけでこのモンスターはボスであることは疑いようもなく、通常の雑魚モンスターとは一線を画すものだとわかる。
 しかし、問題はそれだけではなかった。《The Hell Scorpion》──地獄の蠍。それは攻略組にいるのなら誰でも知っている“化け物ボス”の名前だ。
 出現率は実はかなり低い。遭遇例は少なく、実際に今まで倒されたことがあるのも二回のみ。何故なら……このボスは《最前線にしか湧出(ポップ)せず》尚且つその層より一層下のフロアボスと《同等の強さを持つボス》だからだ。
 攻略組の間ではバッドラックの象徴として使われ“会ったら逃げろ”が基本戦術となる。ボス攻略に向かう時とは違って、単純に最前線をうろついているだけならば、その戦力はほとんどの場合ボス攻略を想定した戦力に劣る。
 加えて準備も万端ではない場合が多い。そんな中で一層下とは言えフロアボスと同等の敵と戦うのは正気の沙汰ではない。
 二股の尻尾に長く節のある胴体、前の触肢は鉞状になっていて鈍く輝き、全身が紅い金属のような硬度と色を持ったボスだ。
 その姿、攻撃パターンとモーションがどの層でも大きく変わったという報告がないのが唯一の救いだろうか。ただ、攻撃力と防御力、HPバーはおおよそだが一層下の層のフロアボスとほぼ同等という調査結果が上がっている。
 上手いことこいつを倒せれば何故かその層のフロアボスは弱体化するらしいが、リスクが高すぎるのでそれを狙う攻略組はいないと言ってよい。
 まさに会ったら運が悪かったとして逃げる相手ナンバーワンのモンスターだろう。

「何やってる! そいつを知らないのか!? 早く逃げろ!」

 キリトは叫んでいた。今の状況下ではこのボスと戦うには分が悪すぎる。このまま続ければこのパーティの損壊は免れない。
 彼らの指揮官らしき人物は自らを《軍》と名乗った。《軍》とは通称ALF……Aincrad Leave Forces──アインクラッド解放軍──のことで、第一層の始まりの街を根城とする大ギルドだ。
 当初は全てのプレイヤーを平等に保護するための慈善団体組織のようなものだったのだが、最近ではよくない噂も耳にするようになっていた。
 そもそも《軍》は、かつてクォーターポイント……第二十五層の攻略において大損害を被ってからは、攻略よりも組織強化を優先する動きに変わっていたはずなのだが。
 だがアスナは「そういえば」と思い出す。血盟騎士団の会議で、《軍》が攻略に乗り出してきそうな動きがある、と報告を受けていた。
 ただ《軍》のプレイヤーは最近までほとんど最前線には姿をみせていなかった為、その戦力、レベルには不安がある、というのがKOBの総意だった。

「転移結晶が……使えない!」

 一人のプレイヤーが手に掲げているのは転移結晶。なんとここは結晶無効化エリアらしい。バッドラックの象徴とはよく言ったものだ。
 オマケに《軍》の半数は毒のエフェクトを付けていた。あのボスの二股の尻尾の一方……その先の針には毒効果が付与されていて、攻撃を食らうと一定確率で毒になるのだ。
 耐毒ポーションを飲んでも次の瞬間には攻撃を受ける。回復用のポーションを飲んでも毒になる。戦い慣れしていない《軍》の精鋭部隊だろうパーティは既に半壊していると言ってもよかった。

「中佐! コーバッツ中佐! 撤退を!」

「馬鹿者が! 我ら《軍》がそのような軟弱な真似が出来るか! 戦えェ!」

 コーバッツ、と呼ばれた指揮官らしきプレイヤーは、撤退を進言した部下の胸ぐらを掴み、早口で怒鳴るとボスの方へと彼を突きだした。
 それは、あまりに酷い行為で、酷いタイミングだった。

「わっ!? わぁぁぁあああああああ!?」

 突き出された部下は、たたらを踏んで体勢を整えているうちに振られていたボスの鉞によって袈裟切りにされ、既に注意域だったHPバーがぐいっと下がる。色は……赤、既に危険域だ。
 だが、無情にもボスの攻撃は終わらず、尻尾をぐるんと水平に振り回した。これはこのボス特有の範囲攻撃だ。ボスを中心として円形にダメージ判定が起こる。
 その攻撃を、多数の部下達は受け損ねてダメージを負った。先程の突き出された部下もそれに含まれ、残念なことに彼のHPバーはその攻撃で僅かも残らなかった。
 叫び声を上げながら、その部下はライトエフェクトに包まれ……特有の破砕音と共に散った。これには予想外だった、とばかりにコーバッツも呆然としている。
 しかし、誠に遺憾ながらデータ上であるモンスターに、そんな相手の心境を考慮するようなアルゴリズムは組まれていない。間髪入れずに次の標的を定めて攻撃していく。
 それを、アスナは見ていられなかった。

「だめぇぇぇぇぇぇぇぇぇ!!!!!」

 飛び出し、神速の域で抜刀し、突き攻撃四連撃を今まさに振り下ろされんとしていたボスの鉞に命中させてパリィする。
 やや体勢を崩されたボスは、今の攻撃が鬱陶しかったのか、次の狙いにアスナを定めた。鋭く尻尾が横薙ぎに振られ、アスナを襲う。
 アスナは跳んでかわすものの……失念していた。このボスの尻尾は二つある。通常の生物ならありえない動きでも、ここSAOではそんな常識に囚われる必要などない。
 物理法則などあってないようなものなのだから。跳んで避けたアスナの横腹を、軌道を変えた《二本目の尻尾》が横薙ぎに激しく叩きつけてきた。

「ッッッッ!」

 声を出せぬほどの衝撃を受けて、惰性で宙を彷徨い、床に叩きつけられる。アスナはダメージによる不快な感覚によろめきながらも立ち上がろうとして、青ざめた。
 影が自分を覆っていた。目の前には大きく左右に開かれた両の鉞。逃げられない、と直感的に悟った。HPの残りがどれだけあるのか確認する暇も無さそうだ。
 かつて無いほどの危機に一瞬諦めかけた時、

「下がれ!」

 黒の剣士の声が届いた。アスナの二つ名、《閃光》の名の御株を奪う勢いで黒光りした剣が奔る。
 アスナの前に躍り出たキリトは片手で素早く投剣スキルを駆使し、一方の鉞の攻撃を遅延(ディレイ)させ、残り一方の鉞を自身の剣で受けた。
 重たそうな一撃をキリトはなんとかパリィしてのけ、バックステップして距離を取る。その頃にはアスナも距離を置くことに成功していた。

「ごめんキリト君!」

「話は後だ! 早く全員離脱させないと!」

 キリトも相当に焦っている。今のは偶々上手くいったが結構な綱渡りの介入だった。アスナは今更ながら自分の迂闊さを呪いたくなるが、そんな暇はない。
 アスナは気持ちを切り替えて指揮官らしき男、コーバッツを探した。彼は必死に後ろ足を攻撃しているところだった。
 急いで彼に撤退の命令を出させなくては……そう思った時だ。

「ぐわあああっ!」

 コーバッツは例の尻尾を水平に身体ごと回す旋回攻撃を食らい、吹き飛ばされた。攻撃に夢中になって防御を怠ったのだろう。
 慌ててアスナは駆け寄るが、その目に映るHPバーが無情にも全て消えてしまった。どさり、と床に落ちた彼はその事実が信じられないように「……ありえない」と一言残してポリゴン片と化した。
 リーダーの死亡に伴い、益々《軍》の統率が乱れ始める。

(このままではいけない……!)

 かつて血盟騎士団に誘われてまだ間もない頃も、同じように感じて……気付けば指示をする側に立っていた。
 なんとかしなくてはならないという強迫観念が、彼女をその時のように突き動かす。

「全員! 撤退しなさい! 私は血盟騎士団副団長アスナ! これは命令です!」

 普通なら《軍》の人間は彼女の言い分……命令を聞く義務などない。しかし、統率を失った兵達は今尤も望む「撤退」という甘い誘惑に逆らえなかった。
 同時に、彼女の名前は既にそれだけの意味あるカリスマ性を孕んでもいた。普段のアスナ自身は自分の名前にそういった付加価値が付いているのを嫌っているが、こういう場では使える物はなんでも使うのが彼女だ。
 あるいは、その剛胆さが彼女をトップギルドの副団長にまで押し上げたのかもしれない。
 《軍》の残存兵は口々に「アスナさんだ」「アスナさんが言うなら」「早く逃げよう」と漏らし、彼女の意に背く者はいない。それにアスナは内心でホッとした。
 ただ、結晶無効化エリアという鎖が、現状からの離脱は容易ではない事も理解しており、殿役が必要だった。ちらり、とキリトを見ると、キリトもコクンと頷いた。
 それでアスナも心を決める。

「私達が奴を引きつけるから全員逃げて! 結晶無効化エリアを抜けたらすぐ転移結晶を使うこと!」

 《軍》の生き残りは皆一様に頷いた。自分の命がかかっているとなればそれも当然かもしれない。ましてや攻略組の名将と名高いアスナの指示ならば、従った方が得だという安心感もあるだろう。
 その姿にアスナは胸を撫で下ろし、一人注意を引きつけているキリトの加勢に行こうとして、止まる。

「お、おい! 誰か耐毒ポーション余ってないか! 回復ポーションでもいい!」

「お、俺にもくれ!」

 未だ毒から立ち直っていないプレイヤーがおよそ半数。そのHPバーはイエローからレッド……注意域から危険域に突入しようとしている者ばかりだった。
 だと言うのに誰も彼らにアイテムを渡すプレイヤーはいなかった。いや、正確にはあげたくとも既に貯蔵が尽きているのだろう。
 このままでは空気が悪くなり、撤退に余計な時間と不安を与えかねない。アスナは迷っている暇は無いと判断した。
 自身のアイテムストレージを開き、転移結晶を残してありったけの回復アイテムをオブジェクト化して床に落とす。
 今、一つ一つを選定し、人数分のみオブジェクト化するなどという手間暇をかける余裕はなかった。それの意図するところを理解した残存兵達は口々に礼を言いながらアイテムを手に取る。
 しかし、アスナのアイテムを持ってしても必要数には行き渡らなかった。

「アスナ!」

 キリトの自身を呼ぶ声で全てを理解する。《接続》はまだ切れていない。
 アスナは飛びだし、キリトとスイッチの要領でボスを引きつける役を入れ替わる。キリトはすぐに距離を取ると、右手を振ってシステムメニューを呼び出した。
 すぐにアスナの時と同じく床にいくつかオブジェクト化したアイテムが出現する。キリトも選んでいる暇は無かった。

「勝手にもっていけ!」

 それだけ言うとキリトはすぐにアスナの援護に戻った。《軍》の人間はすぐにアイテムに群がり、口々に礼を述べながら迷宮区の通路に消えて行く。
 今度は数も足りたらしい。それを横目でアスナも確認しながらホッと息を吐く。……その一瞬の、僅かな緩みがいけなかった。

「っ!?」

 ボスの尾針がアスナめがけて突進してくる。咄嗟に身体を無理矢理捻って避けるが、尾はもう一本ある。
 だがアスナも二度は同じ手を食わないとすぐに次の攻撃に身構え……戦慄した。二本目の尾針に、ライトエフェクトが奔ったのだ。
 ソードスキル。ボスモンスターや通常のエンカウントモンスターですら駆使してくるそれは、これまで武器使用時にのみ限られると思っていたのだが。
 このバッドラックの象徴は、あろうことか尾の先に付いている針を一本の剣としてシステムに認識されているらしい。全くとんでもない話だ。
 予想外のソードスキル。素早く刺突が三度繰り返される。流石のアスナもこれは避けきれなかった。一撃掠ってしまう。

「っ、こんなの聞いてな……なっ!?」

 《会ったら逃げる》が基本戦法だった為、このモンスターについては実はさほど調査が進みきっていない。相対したプレイヤーが提供するおおよそのパターンの報告が似通っていることから類推されていたに過ぎない。
 そもそも遭遇率が圧倒的に少ないのもその要因の一つだ。だから、攻略が進むたびにどんなアップデートをした存在になっているかなど、想像もしていなかった。
 まさか、尻尾でソードスキル発動可能などとは思わないし……それに。

「ま、麻痺毒……!?」

 アスナは動けなかった。HPバーの横には麻痺毒のエフェクトが付いている。今までこいつの毒はHPを等間隔奪う《ポイズン系》のみだと思っていたのに。
 しかし考えてみれば尻尾は二つあるのだ。それぞれ別な特殊効果が付いていても不思議ではない。

(そんなことに、気付かなかったなんて……!)

 思えば、軍の部隊の中にも動かずに再びダメージをもらっていた人もいたような気がする。あれは麻痺毒のせいだったのか。
 今更ながらにアスナは慌て過ぎて鈍っていた自分の観察眼を呪う。このままでは、動きようがない……!
 回復アイテムは先程ありったけ渡してしまったのだ。為す術がなくなってしまった。ズン、と一歩ボスが近づく気配がする。その時だった。

「アスナ─────ッ!!」

 キリトが《二刀》を携えてボスに斬りかかる。見間違いでなければ今、両方の剣にライトエフェクトが宿っていた。
 しかし、そんな話は聞いたことがない。SAOにおいて現在、二つの武器を同時に扱ったソードスキルの発現はトップギルドの副団長を務めているアスナでさえ耳にしたことがなかった。

「え……な、なに、それ……」

「本当は見せたくなかったけど……そんなこと言ってる場合じゃない!」

 キリトはノックバックの要領を利用してアスナとボスの間に割り込んだ。ここから先は通さない、と背中が物語っていた。
 右手にはいつもの黒い剣《エリュシデータ》、左手にはアスナの親友に作ってもらった最高の剣《ダークリパルサー》を持ち、キリトは構える。

「《スターバースト・ストリーム》」

 同時に両の剣にライトエフェクトを宿らせ、素早く斬りかかる。二刀から繰り出される剣戟は、不思議な事にアスナの知る彼の一刀を振る速度よりも二刀を振る速度の方が速い。
 キリトの二刀が奔る。素早く二連、いや三連、いやいや四連、五連、六連、七連……二桁を越えたところでアスナは数えるのを諦めた。
 剣戟が星屑のように白光を産み、眩しいとさえ思わせる程激しさを増していく。
 だがボスも然る者、ノックバックの隙を突いて攻撃モーションが入り、二度三度と鉞や尾針がキリトの身体……HPバーを削る。
 その度にアスナはドクンと胸が張り裂けそうな痛みを覚えた。動けない自分が恨めしい。彼が自分の前に立って、一歩も引かずに戦っている。
 麻痺毒のせいで、彼のHPバーが減っていくのをただ見ていることしかできない。

(速く、速く解けて! まだ解けないの!? 速く、もっと速く!)

 速く麻痺が解けろと願えば願うほど、彼の速度もまた速くなるような錯覚を覚える。いや、錯覚ではない。
 意味は違えど、彼もまた自分と同じ言葉、感情をイメージしているのがアスナにはわかった。《接続》は続いている。

 ──速く、もっと速く。先へ、もっと先へ……加速しろ!

 キリトのイメージが、クリアにアスナに伝わる。だから、次の瞬間にキリトが我を失わなかったのは《逆に》アスナのおかげだ。
 鉞が、これまでの上段攻撃から下段に移ったことにキリトは意識を割けなかった。片足を持って行かれる。部位欠損ダメージ。
 ぐらりと重心がずれ、キリトは体勢を崩す。その時、アスナの「右!」という声なき声を、キリトは確かに感じた。右にはもう一方の鉞が迫ってきていたが、体が勝手に動く。
 いや、アスナのイメージ通りに動く。背を捩り、鉞の上に乗って──キリト君の剣より遅いよ──やり過ごし、発動中のソードスキル、その最後の一撃……十六連撃目を背中に突き入れる。

「っだぁぁぁ!!!」

 キリトの雄たけびと共に突き入れられたその攻撃で、両者はシンと静まり返り……動かなくなった。
 しかしアスナには見えていた。ボスのHPバーのそれが、1ドットも残すことなく消えていくのを。ボス……バッドラックの象徴たる《The Hell Scorpion》──地獄の蠍は光り輝く結晶となって消えていく。
 その為、片足を失ったキリトは支えがなくなったせいか、ドサッとその場に倒れた。それと時を同じくして、ようやくとアスナの自由を奪っていた麻痺毒の効果も消えた。
 慌ててアスナはキリトに駆け寄る。

「キリト君! キリト君!」

「……う……? あれ、終わった、のか?」

「バカッ! 無茶して!」

「ははは……」

 一瞬意識が跳んだらしいキリトは、苦笑しながら立ち上がろうとして……立てなかった。彼は足に部位欠損ダメージを負っている。
 システムが自力での《歩く》、《立つ》ことを許可しなかった。

「あ、そうか……」

「待って、今回復……っ」

 アスナが慌ててアイテムストレージを開き、息を呑む。そうだ、アイテムはありったけオブジェクト化して《軍》に与えてしまったのだった。
 もともと、数分時間稼ぎをしたら自分たちも逃げ、結晶無効化エリアを抜けた時点で転移離脱するつもりだったのだ。アイテムストレージにはそのための転移結晶しか残されていなかった。
 アスナは申し訳なさそうにキリトに尋ねる。

「キリト君、アイテム取っておいてる……?」

「いや、そんな余裕なかったからな……」

「それじゃ自然蘇生まで待つしかないのね……」

「いやぁ……そんな余裕、無いみたいだ」

「……?」

「俺、毒もらっちゃってる」

「な……っ!」

 アスナの視線の先には確かにキリトのHPバーの端に毒のエフェクトが映っていた。戦いに夢中になり過ぎて、彼のHPバーの残存量は見ていても、状態異常を意識していなかった。
 思い起こせば確かに何度か尾の突き攻撃もキリトは上から受けていた。

「急いで解毒……! いや、緊急脱出……! あ、あああああああ………あああああああ!?」

「ははっ、どうすっかな……」

 やや、諦めの入った笑顔でキリトは後頭部を掻いた。解毒アイテムはない。お互いありったけ《軍》にくれてやったのだ。
 転移できる場所までいければなんとかなるが……キリトには足が無い。匍匐前進はできるが、片足での歩行はSAO内では出来なかった。
 この時ほど、ゲームらしい《設定》というものに理不尽さを感じたことはない。両足が健在ならいくらでも片足ケンケンができるのに、片足のみならそれが許されないのだ。
 アスナは混乱し、慌てふためき、取り乱して声を荒げた。

「どうしよう、どうしようどうしよう!? 私のせいだ私のせいだ私の……! なんとか、なんとかしなくちゃ! あ、あああ!! だめぇ! 減っちゃだめぇ!」

 どうしよう、なんとかしなくちゃと思えば思うほど、思考は迷走し、意味不明な声を上げ、アスナは混乱する。
 ただ無情にも等間隔に減っていくキリトのHPバーが、余計にアスナを焦らせる。その姿を見たキリトが、意を決したように口を開いた。

「……アスナ、君なら一人でもこの迷宮は抜けられる」

「!? な、何を言って……」

「行くんだアスナ、俺の事はいい。多分、もう、無理だ」

 無理矢理な笑みを張り付けて、キリトはアスナに一人でここを離れるように勧める。それで、逆にアスナは冷静になった。
 こんな、馬鹿な問答や思考を続けている暇はない、と。アスナはすぅっと目を細めると、ぐいっと彼の黒いコートの襟首を掴んだ。
 この手は絶対に離さないと強く握りしめ、彼を引きずり始める。

 ズルズルズル。

 キリトはポカンとしたままやや放心していたが、我に帰ると「お、おい!? 俺のことはいいって!」と何度もアスナに自分を置いていくよう勧めた。
 しかしアスナはその言葉には耳を傾けない。絶対にこの重みを無くさない、無くしてなるものかと誓いながら彼を引きずり続ける。
 アスナのステータスは筋力よりも敏捷力アップに割いている。そのせいでキリト一人を引きずるのは実は結構な重荷だった。
 SAOでは自身の筋力によって要求値を満たしているぶんだけアイテムを持てる。まったく今のアスナにとっては迷惑なことに、彼は筋力にばかりステータスを振り分け、重い剣を好む傾向にあった。
 キリトを引っ張るということは、その重い剣をも一緒に持つことと同義だ。かといってキリトは恐らく剣を捨てまい。なんとなく、アスナにはそれがわかっていた。
 だから無駄な問答で時間を潰さぬよう、彼の言葉を聞き流しながら彼を引っ張る。

 ズルズルズル。

 二、三歩進むごとにオブジェクト化した転移結晶を試してみる。試しながらももちろん歩みは止めない。早く、早く結晶無効化エリアを抜けることを祈って。
 ちらりと彼のHPを見れば、それはもう幾分も残されておらず、事態はひっ迫していると再認識させられる。しかし、これまたシステム上の都合とやらで、彼女が彼を引っ張れる速度はこれ以上あがらない。
 筋肉痛になってもいい。むしろ筋肉が明日には切れてしまっても構わない。だから火事場の馬鹿力でも糞力でも起きてくれと願っても、データ上の自分はデータ内の能力をただ発揮するだけだ。
 ギリリ、と歯ぎしりする。システムアシストなんて糞くらえだ。

「まだ? まだなの……? 早く、早く抜けてよ……!」

 アスナは願いを込めて何度も何度も転移結晶を試しながら彼を引きずり続ける。
 結晶無効化エリアさえ抜ければ、抜けられれば彼は助かるのだ。

「こんなことなら、一つくらい残しておけば……! そもそもあの時私が……!」

 あの時の自分のうかつさを呪わずにはいられない。何故すべて渡してしまったのか。
 保険のために一つくらい取っておこうと思わなかったのか。いや、それ以前に自分が麻痺毒になどならなければ。 

「アスナ、もういいよ。もう十分だ」

「っ! 何言ってるのよ! 良いわけないじゃない! ダメ、ダメなんだからね! こんなところで、こんなところで……!」

「……ごめん」

「なんで、なんで謝るのよ……! 謝るくらいならキリト君の勝手に減っていくHPをなんとかしてよ!」

 キリトのすでに諦めたような発言がいちいちアスナを絶望させる。こんなことで諦めないで欲しい。
 こんなことで、自分のせいで、この世界から消えないで欲しい。

「アスナ」

「…………」

 呼びかけられるが応えない。そんな余裕はない。一刻も早くここを抜けて彼を救う。今は、今はそれだけを考える。
 だというのに。彼の声なき声が内に響く。今日すでに何度目かの、《接続》による心身の共有のような感覚。



 ──俺、これでも結構感謝してるんだ。アスナには。いつも気にかけてくれててさ、最近は寂しいって思わなくなってた。

 それなら、それならこれからもいてあげるから。ずっと一緒にいてあげるから。

 ──クラインに俺のこと聞いたんだろ? ああいいんだ、別に怒っちゃいない。ただアスナが哀れみでも俺を一人にさせまいと思ってくれたのが嬉しかった。

 違う、違う違う違う。そんなんじゃない。そんなんじゃないから、消えないでよ。一緒に、一緒にいてよ。



「ありがとう」

「ッッッッッ!!」



 彼の万感の思いを込めたお礼が彼女の胸を貫く。涙が零れ落ちる。この時ばかりは、過剰なフェイスエフェクトのせいなどでは決してない本物の涙だ。
 聞きたくない、この先は絶対に聞きたくない。



 ─────────さよなら。



 心に直接聞こえる声が、別れを告げた瞬間、彼女の引っ張る重みが……フッと軽くなった。
 涙が、溢れ出す。次から次へと溢れ出す。止めどなく、溢れ出す。
 ただ、輝くライトエフェクトが、今起こっている事象の全てを、物語っていた。



[35052] SAO6
Name: YY◆90a32a80 ID:1a43ae77
Date: 2012/09/19 22:14


 一

 軽い。あったはずの感触が、重みが、消える。引っ張っていた時に目一杯ゲインしていた筋力が、空を掴む。
 瞬時に何が起こったのか理解し、同時に理解できない。いや、理解したくない。振り返りたくない。
 目端で捉えるライトエフェクトなど、気付きたくない。


 二

 まだ話したいことがあった。聞いてほしいことがあった。聞きたいこともあった。
 もっともっと時間を共有したかった。まだまだ一緒にいられるものだと思っていた。
 明日があると信じて疑わなかった。


 三

 好きだった。どうしようもなく好きだった。愛していた。一緒にいたかった。一緒にいて欲しかった。
 その想いが報われる日が来ないとしても、せめて彼のそばにいることを許してほしかった。
 感謝していると言われて、寂しくなくなったと言われて嬉しかった。彼の孤独を埋めたのは自分なんだと彼が教えてくれて、そう思ってくれていたことが何より嬉しかった。


 四

 伝えたいことがあった。伝えなくちゃいけないことがあった。伝えるべきだった。
 彼のたった一つの勘違いを、もっと否定するべきだった。否定しなくてはいけなかった。本当の理由を言うべきだった。
 哀れみなどという、そんな感情では決してないこの灼熱の想いを、彼にぶつけておくべきだった。
 もう、伝えることができない。会うことができない。話すことができない。触れることはおろか見ることさえ叶わない。


 五

 ……なんだそれは。なんなんだそれは。どういうことだそれは。そんなの……あんまりではないか。あんまりすぎるではないか。
 これから先、彼無しで自分はどうすればいい? 一人でここを抜ける? 攻略を続ける? それに……どんな意味がある?
 ……無い。意味なんてない。たった今無くなった。帰りたくないわけじゃないはずだった。生きていたいはずだった。
 でも、彼無しでその願いは成り立たないものなのだと今初めて理解した。意味がない、意義を感じられない。


 六

 彼のいない世界に残ることに、なんの意味も持つことができない。彼のいない世界に帰ることに、いかほども意味を見出せない。
 そうだ。生きていても仕方がない。意味がない。何もする気が起こらない。
 宙を舞うライトエフェクト……擬似的な質量さえ持たないすぐに消えるそれに彼がなってしまったのなら。
 SAOはおろか、現実世界からも彼がログアウトするのなら……自分もログインしている意味など……ない。


 七

 《閃光》などといういつの間にか頂戴していた二つ名。だが、その名に恥じぬ突きの威力とスピードを持ち合わせている自負はあった。
 今となっては何の意味もないそれ。でも、自分の首にこの細剣(レイピア)を突き刺せばそれこそ《閃光》のような速度で彼のもとへ行けるのではないだろうか。
 それはなんて甘美で魅力的な考え。今、これ以上の答えを見つけるのは無理な気がした────そんな時、

 音もなく──《隠蔽》(ハイディング)だろう──その人物が現れた。

 紅いバンダナを巻いたプレイヤー、クライン。ギルド《風林火山》のリーダー。彼の知り合い。攻略組。一秒にも満たない間に情報が脳内をかけめぐるが、そんなことはどうでもいい……はずだった。

「これを! あいつの名前を言うんだ! 速く!」


 八

 突き出されたのは卵サイズの虹色に輝く宝石。これがなんだというのだ。自分は今一刻も早く喉に細剣(レイピア)を突き刺しそれこそ《閃光》の速さで彼の後を追おう……などと思っていた刹那。
 思考が、目端で捉えたポップされているウインドウの中の名前を見た瞬間、焼き切れそうな程、加速する。

 《還魂の聖晶石》

 【このアイテムのポップアップメニューから使用を選ぶか、あるいは手に保持して《蘇生:プレイヤー名》と発声することで、対象プレイヤーが死亡してからその効果光が完全に消滅するまでの間(およそ十秒間)ならば、対象プレイヤーを蘇生させることができます】


 九

 思考が加速する。文字を読むのに、理解するのに、時間は文字通りかからなかった。それこそ《閃光》のように。
 今自分がやることは一つ。それは……口を開いて……彼の名を呼ぶこと!


「蘇生! キリト!」


 彼の名前を呼んだ瞬間、《還魂の聖晶石》が輝き、周囲に散っていた光源……今にも消えそうな、残り僅かだったライトエフェクトを振りまくポリゴン片がまるで逆再生するかのように集まっていく。
 みるみるそれは人の姿を形成させていき、次の瞬間には一際大きいライトエフェクトを弾けさせて……ポカンとした表情のままの黒い少年剣士を見事アベントさせることに成功した。



「あ、あ、あ……!」

「あれ? ……俺、えっと……?」

 自分の身に何が起こったのか、一瞬理解できないキリトは首を傾げ、しかしそんなキリトにはお構いなしにアスナは彼に抱き着いた。
 彼の感触を確かめるように強く強く。空ではない、作り物だろうと実体の、重みのある体を確認するように。それが幻想でないことを確かめるように。
 アスナは嗚咽を漏らしながら、そこに彼がいることを深く深く感じ取っていた。

「よォ、キリト」

「クライン……」

「預かりモンを返しに来たぜ」

「預かりもの……?」

「蘇生アイテム、ありゃ、お前のモンだろう」

「あ……いや、あれは……」

「良いんだよ」

 子供を諭すようにクラインは優しく言い、その野武士面でウインクしてみせた。それでキリトは自分に起きたことを理解する。
 彼に以前渡した、いや、くれてやったクリスマスボスである《背教者ニコラス》からのレアドロップ品、蘇生アイテムである《還魂の聖晶石》が使用されたのだ。

「似合わないぞ」

「うるせい」

「……俺には使わないんじゃなかったのか?」

「なんだよ、助かったんだから素直に喜べってんだ」

「……けど」

「ありゃお前のもんだって言ってるだろ。俺のじゃねぇ、俺のだったら使わなかったさ。そういうことにしておこうや」

「……ありがとう」

「おう」

 ニカッとした笑顔をクラインは見せた。彼はその辺の性格が非常にサッパリとしているから後腐れもないだろう。
 それがわかっているキリトは、心の中でもう一度礼を言うと、未だ自身にしがみついている少女の背中を軽く二度叩いた。

「アスナ」

「……怖かった」

「……ごめん」

 彼女に心配をかけたのは本当に申し訳なかったとキリトは思う。しかし仕方がなかったのだ。
 ああしなければ彼女が危なかったし、あの段階では助かる方法は間違いなくなかった。と、そこまで考えてふと疑問が沸き起こる。

「な、なあ、なんで俺蘇生されたんだ?」

「なんでって……そりゃ蘇生アイテムのおかげだろうよ」

 おかしな奴でも見るかのようにクラインはキリトを見やる。だがキリトが気になった理由はそこではない。
 方法ではなく状態だ。何故なら、

「いや、ここは結晶無効化エリアのはずだろ? なんで蘇生アイテムが有効だったのかなって」

「ああ、そういやそんなこと言ってたな」

「言ってた?」

「おう、そもそも俺がここに来たのは《軍》の奴らに会ったからさ。《軍》の奴らに成り行きを聞いて、慌てて助太刀に来たってわけだ。結晶無効化エリアなら何が起きても不思議じゃねぇしな」

「そうだったのか」

「念の為に俺自身は《隠蔽》で先行して、それでもエンカウントモンスターに見つかった時は他のメンバーにそいつらの相手をしてもらったんだ。何、もう少しであいつらも来るだろ」

「悪いな、今回はかなり世話になった。けど、だとするとやっぱり腑に落ちないな」

「う~ん、そりゃあれじゃね? 蘇生アイテムは聖晶石って書いてたしな、結晶じゃないから、とか」

「まさか。確かに宝石みたいな感じだったけど、こういうアイテムは分類上同じ扱いされるのがセオリーだろ。そもそも結晶と聖晶石の違いってなんだよ」

「俺に聞かれたってわかんねェよ、っていうかここ結晶無効化エリアなのか? 全然そんな感じしねェけど」

「え」

 そう言われてキリトはシステムメニューを開くべく手を振る……ことができなかった。アスナはキリトに抱き着いたまま、離れようとしない。
 まるで離れればこの存在が消えてしまうと恐れるかのように、彼女は強くキリトにしがみついていた。

「えーと、アスナ? そろそろ離してもらえると助かるんだけど……」

「……いや」

 フルフルと首を振ってアスナはキリトの頼みを拒絶する。むしろ絶対に離すものか、とより強く彼の体を抱きしめた。
 彼女の首が振られる度に長い栗色のロングヘアーがキリトの頬を撫でる。実体でないはずのアバターはその感触すら無駄に再現していてキリトの顔を紅く染めさせた。
 仮想上のデータとは言え、リアルに感じられるそれを、全身で今キリトは感じているのだ。おまけにその相手がSAOでも美人と名高いアスナならばキリトでなくとも照れるというものだった。

「あー、うん、ここ結晶無効化エリアじゃねぇな。どれどれ……うおっ!? すぐそこから無効化エリアじゃねぇか! 運がよかったなオイ。お前の言う通り蘇生アイテムが結晶系アイテムに分類されてたら使えなかったかも……ってなァに乳繰り合ってんだてめェ!」

「ち、乳繰り合ってない!」

「説得力ねぇっての。んー、お? もしかしたらやばかったかもな」

「……どういうことだ?」

「んっと、だいたいこのラインだな。こっから向こうが無効化エリアになってる。んで、なんとなくだけど副団長さんが最初にいた位置と復活したお前さんの位置から見て、死ん……消えた時と今ほぼ同じ体勢だろお前」

「えっと、多分……あ」

「今のお前、片足だけ結晶無効化エリア入ったままだ。まぁ、半身以上抜けてんだからどっちにしろ大丈夫だったかも知れねぇけどな」

「そうか……」

「まぁいいじゃねぇか。偶然ギリギリで抜けてたにしろ、聖晶石は無効化エリア対象外だったにしろ、理由はどうあれ今こうやって生きてんだ」

「ああ、そうだな」

 もしかしたら、足を部位欠損していたから全身が最後の瞬間、最後のアスナの一歩でギリギリ結晶無効化エリアを抜けていたのかもしれない。
 もしかしたら、蘇生アイテムほどのレアアイテムは、聖晶石というだけあってクラインの言う通り結晶無効化エリアで使用不可な《結晶アイテム》に分類されないのかもしれない。
 前者なら、キリトが別れなど言わずにとっとと転移結晶を使っていれば貴重な蘇生アイテムの出番はなかったかもしれない。
 だが、そんなことはどうでも良かった。今更何を言い、考えたところで詮無いことだ。今生きている。これ以上に、望むことなんて、きっとない。
 だから……そろそろアスナに離してほしいと思うキリトだった。いい加減存在しないはずの心臓がマッハでやばい。

「あの、アスナさん……」

「……だめ、なんだからね」

「い、いや~、あの」

「もう、だめなんだから。諦めたら、死んだら、ダメなんだから……!」

「あ……うん」

 彼女の震えたまま抱き着いている手が、未だ彼女が恐怖から立ち直っていないことをキリトに教えてくれた。そこで、ようやくとキリトも優しくアスナを抱き返す。
 不思議と緊張はせず、恥ずかしいとも思わなかった。つい先ほどまで、あれほどドキドキしていたというのに。

「ん……」

 その行為がお気に召したのか、アスナ短く息を吐くと、甘えるようにキリトの肩に額を乗せた。
 過剰気味、と言っても今回ばかりは正当な表情をしているだろう顔、フェイスエフェクトを彼に見せるのはまだ抵抗があった。
 その程度の乙女的思考ができるほど、アスナも落ち着き始めてはいたのだが、同時に熱が冷めないうちに伝えておかねばならないことがあった。
 伝えられない、ということの苦しさを一瞬とはいえ味わった彼女は、もう二度と後悔したくなかった。

「……キリト君」

「うん」

「私、キリト君といるのは……哀れみなんかじゃないから」

「……うん」

「情けでもないし、攻略会議で指揮を預かる身だからとか、そんな打算的なことでもない」

「……うん」

「私、私ね────なの」

「うん?」

「──き、なの。キリト君がサチさんを好きでも、恋人を忘れられなくても、私キリト君が──好きなの、好きになっちゃったの!」

「うん……えっ!?」

 わかってる、わかってるよ、というように相槌を打っていたキリトが、頷いて……驚く。突然の告白。文字通りのそれに、彼は咄嗟にどうしていいかわからなくなった。
 彼女が自分に近づくのは打算的な目的でないことは理解していた。当初こそギルド勧誘目的疑惑を内心で持っていたが、それは当に払拭されている。
 また、彼女のこの心配振りから哀れみでもないという彼女の言葉も信じていた。彼女はそこまで人を低く見積もるような人ではないという理解もあった。
 ただだた『まさか』という思いがキリトに渦巻く。だって彼女は、SAOでもトッププレイヤーで、アイドル的存在でもあるのだ。
 そんな人がまさか自分なんかに異性としての興味を持つなんて、キリトは思ってもみなかった。いや、“持ってくれるとは”思っていなかった。

「あ、う……その、うん、ありがとう」

「……っ」

 何処か所在なさげに視線を動かすキリトに、アスナはもうわかっている返事が来るのを身を強張らせて待つ。
 何かを言いづらそうにしているその顔は、彼の優しさの表れだろうけど、どうせならズバッと言って欲しい。全てはそこから始まるのだ。
 そうしたアスナの覚悟をよそに、キリトは困ったような、疑問で一杯のような、そんななんとも言えない感情が入り混じった顔で言葉を絞り出した。

「えっと、なんでサチのこと知ってるのか知らないけどさ……」

「うん」

「別に俺、サチと恋人じゃなかったけど」

「うん……って、へっ!? えっ!? ほぁっ!?」

 今度はアスナが驚く番だった。信じられない、とばかりに口をポカンとあけて、肩に乗せていた顔を持ち上げてキリトを見つめる。
 キリトは首を傾げながらアスナを見返した。心底不思議そうなその顔は、とても嘘をついているようには見えない。

「え、いやだって……」

「誰かからそう聞いたのか? クラインもギルド名くらいしか知らないはずだけど……今もあいつらの事を……あの時のことを知ってる人がいるのか」

「あ、違うの!」

「……?」

 アスナは言ってから後悔した。でも、不思議そうな顔をしているキリトにこれ以上嘘はつけない。彼女は全てをキリトに話した。
 以前にドロップしたアイテム、《盗賊のピアス》のことを。最初はキリトも驚いていたが、信じてくれた。

「つまり、それで俺の部屋に来たサチを見た、と」

「う……」

「まぁ確かに褒められたことじゃないけど……でも違うよ。彼女とは、そういう関係じゃなかったんだ」

「そう、なの……?」

「何て言うんだろう? 傷を舐めあう関係、って言うと変だけど……サチは怖がりでさ、安心したかったんだよきっと。逆に俺は誰かに頼られ、守ることで自分を保ってたところがあったんだ」

「そう、なんだ……」

「まぁ、あのまま一緒にいれば、もしかしたらそういう関係になってた、のかもしれないけど……」

「む……」

「俺が今好きなのは、────アスナだから」

「………………ふえっ!?」

 ボンッと音が鳴るくらいの勢いでアスナの顔が紅くなった。予想外、振られることを前提で告白した彼女は、まさか彼に逆告白を受けることなど想定していなかった。
 胸の中で彼の言葉が何度もリフレインされる。夢のような、彼の言葉。

「え、あ、う、ウソ……?」

「いくらビーターでも、こんなことで嘘を吐くほど落ちぶれてはいないつもりだけど」

「……うん」

 頷いて、涙が零れた。彼の顔を急に見られなくなる。胸がトクトクと早音を打つのがわかる。そこに本物の心臓が無いとは、今日ばかりはとても思えなかった。
 もう一度彼に抱き着いて、彼の体を、実体を感じる。単なるアバターにすぎなくとも、確かにある温もりが彼女の心を蕩けさせた。
 どれほどこうなることを望んだだろう。どれほどこうなることを願っただろう。それが叶う日など来ないと、どれだけ胸を痛めただろう。
 彼という大事な人の、重みを失うという最低最悪の体験をしながら、彼と思いが通じると言うSAO生活の中で最高の出来事が一日にして起こった。
 もし、少しでも何かの歯車が噛み合わなければ、この結果は起きなかったかもしれない。彼が今こうやって生きていられるのは奇跡に等しいのだから。
 そこでハッと気づく。彼を助けてくれたクラインに、お礼を言わなければ。そう思って、しかしキリトから離れる気にはなれず、首だけで彼を探すと、背を向けてちらちらとこちらを伺うクラインの姿がほんの数メートル離れた位置にあった。
 目が合い、クラインは気まずそうに言う。

「あー、ゴホン。青春してるとこ悪いんだが……俺しゃべっていいか? それとも帰った方がいい?」

 わざとらしい咳を一つしてから、クラインは後頭部をガリガリとかく。それでキリトはクラインがそこにいることを思い出したのか、慌ててアスナを抱く手を緩めるが、残念なことにアスナの方は離れる気がさらさら無かった。
 混乱するキリトに、アスナはクスリと笑ってから顔だけクラインに向けて、頭を下げた。

「ありがとう、ございます。キリト君が生きてるのは、貴方のおかげです」

「いや、それはいいんだけど……その、まあ、なんていうか……」

 アスナのお礼に、クラインは気まずそうに視線をずらした。なんだかおかしい。《血盟騎士団》副団長として培ってきたアスナの勘が、雲行きが怪しくなってきたのを感じ取る。
 キリトもそんなクラインに気付いたようで、視線で「どうしたんだ?」と尋ねていた。こんなところを見られて「どうしたんだ」もない、と思わないでもないが、普段から飄々としているクラインのらしからぬ態度に、流石のキリトも心配になったのだ。
 それに気付いたクラインは「パンッ」と両手を合わせて「すまねぇ!」と頭を下げた。

「いやぁ、まさかこんなことになるとは思ってなくてだな」

「なんだよ?」

「《軍》の奴らに言われて、っつーか頼まれてさ」

「何を?」

「まぁ俺も最低限それくらいの責務はあるなと思って安請け合いしちまったんだが」

「だから何の話だよ」

「これ、なんだかわかる……よな?」

 そう言ってクラインが見せたのはライトグリーンに輝く八面柱型のクリスタルだった。録音結晶だ。
 これは声を録音・再生できるという、ただそれだけのアイテムである。何故それが今ここに録音モード起動中で存在しているのか。
 待て。録音モード起動中、だと?

「お、おい……クライン。まさかお前、今の会話……」

「ああ、録音されてる」

「え、えええぇぇぇえ!?」

 キリトの嫌な予想にクラインがその通りだと答え、アスナが驚きの奇声をあげる。一世一代とも言えるあんな恥ずかしい告白を物理的……電子的に残されているなど、録音された方は溜まったものではない。
 だいたい何故今そんなものを使っているのだ。

「アスナさんって言ったら、やっぱ最悪の場合、《血盟騎士団》に報告の義務が発生するだろ? その際にできるだけ確かでライブな情報を提供するよう言われてさ。あいつらも保身に必死だったんだろうな、既に転移した《軍》の奴は俺が録音してるのをKoBに伝えているはずだ。これはそいつのだからそいつが《血盟騎士団》に渡すことになってる」

「どうでもいいから消せよ!」

「悪い! 俺も自分の身が大事なんだ! 《KoB》や《軍》に目を付けられるのは御免でな」

「お、おい! お前それ《血盟騎士団》に渡すつもりか!?」

「……スマン!」

「……俺はたった今PKする覚悟を決めたぞクライン」

「おいおいおい! 俺は命の恩人だぜ!?」

「あれは俺のアイテムだって言ったのお前だろ!」

「け、《血盟騎士団》副団長として命じます! そ、それを渡す必要は……」

 そんな問答を続けていると、《風林火山》のメンバー達がようやくゾロゾロと姿を見せた。クラインは一人も欠けることのない彼らの姿にホッと胸を撫で下ろすとすぐに号令をかける。
 「まずい!」と思ったキリトが止める間もなく、「悪いな、全員撤収!」の一言で我先に転移結晶を使い迷宮から姿を消してしまった。続くメンバーも次々に消えていく。
 あっという間に二人は取り残されてしまった。

「あわわわわ、どうしよう……告白までしちゃったのみんなに聞かれちゃうよ……!」

「いや、これはその……なんていうか、どうしよう?」

 流石のキリトもこれには妙案は浮かばず、自身の告白の記録を公開されることを想像して恥ずかしいやらむず痒いやらわけがわからない。
 オマケにアスナは人気が高い。ただでさえ可愛い上に、《血盟騎士団》の副団長という高ポストにいるのだ。各所からの嫉みも相当なものがあるに違いない。
 迷宮の攻略などよりもずっと難易度の高い降って湧いた案件にキリトは頭を悩ませた。こういう時、得てして度胸があるのはいつも女性だったりする。

「……うん、決めた」

「え? 何を?」

「私《血盟騎士団》抜ける、ソロ……ううん、キリト君とコンビ組む」

「え、えええぇぇぇぇぇぇええええ!? 大丈夫なのかそれ!?」

「あ、あんなこと言ったのがギルドにばれてるのに今更ギルドに戻れないよ」

「いや、だけど……そんな簡単に……」

「……それに、離れたく無いし」

「アスナ……」

 彼女のいつまで経っても離れる気の無い抱擁に、キリトもその気持ちの重さを改めて認識した。
 同時に、彼自身もまた彼女と離れがたいと思っている内心にうっすらと気付いていた。

「もう勝手に死ぬなんて許さないから」

「……それはこっちの台詞だ。君は死なせない。絶対に」

「ふふ、私は死にません絶対に」

「なんで絶対なんて言いきれるんだよ」

「キリト君がいれば、その自信があるから」

「……う、じゃあ俺が死んだら?」

「私も死ぬ」

「はああああああ!? 何言ってんだよ!」

「だって……キリト君がいないなんて、意味ないもの」

 慌てるキリトに、しかし、フッと感情を失ったような顔で躊躇わずにアスナは言った。
 その姿に、危ういものをキリトは感じずにはいられない。彼女なら、本当にやりかねないと何故かそう思えた。

「ア、アスナ……」

「責任重大だからね、キリト君。これでキリト君は簡単に命を諦められなくなったんだから」

 すぐに元の明るさを取り戻した口調でアスナは笑う。その顔を見て、キリトはこれ以上何かを言うのをやめた。
 同時に、決意する。彼女を守らねばならない。彼女を守るためには、自分も守らなければならない、と。
 今日みたいなことが起これば、彼女が自らの命を絶つような最悪な事態を招きかねないと彼の直感が告げていた。
 いや、もしかしたら今日だって危うかったのではないか、と事実に近いところまでキリトは想像する。

「……重いな、それはすごく重い」

「……もし、キリト君が嫌なら……」

 キリトの漏らした言葉に、アスナはシュンと顔を伏せる。アスナも自分がどれだけ重たいことを言ったのか理解していないわけではなかった。
 ただ、それだけの覚悟がある、と彼女もどうしても伝えておきたかったのだ。二度と、もう伝えられない……なんていうあの時の感情を味わいたくは無かった。
 後悔するのは……一度で十分だ。だから、それをキリトが重たいと思うのはしょうがない。
 それで嫌われるなら、それもまた仕方のないこと……アスナはそう言うつもりだったのだが。

「でも俺は、そういう重荷があったほうが、生きてるって実感できるみたいだ」

「あ……!」

 キリトはアスナを抱えたまま立ち上がる。アスナも彼を離さなかった為に、抱かれたまま、手だけを首へと回した。
 現実世界ならこんな真似ができるほどパワフルではないが、ここでのキリトは筋力にばかりステータスを割り振ったトップ剣士だ。
 彼女の重みなど、そうたいしたことはなかった。お互い、ありったけのアイテムを渡した後だというせいもあるだろう。

「行こう、アスナ」

「うん」

 いつまでもここにいても仕方がない。アスナとキリトはクライン達に遅れること数分、転移結晶で迷宮区から抜け出した。
 輝くライトエフェクトの後には、迷宮の静寂が残された。





「で、俺のところに来た、と」

「悪いな、他に思いつかなかったんだよ」

 キリトがやや申し訳なさそうに言う。もっともこの相手も怒っているわけではなかった。
 第五十層、アルゲードにある故売屋の主、エギルは突然の来客に嫌な顔を見せることは無かった。

「まあいいさ、キリトはお得意様だからな。それに正しい選択だっただろう。ほれ」

「なんだよ、新聞?」

 先日見たお祭りイベントの司会ほどではないにしろ、外人の血が入っているのがわかるスキンヘッドに筋骨隆々とした出で立ちのエギルは、号外と書かれた新聞をキリトに渡した。
 一番の見出しは74層のボスが攻略された、というものだった。

【ボスの情報を収集していた壁仕様(タンク)プレイヤー達が、情報収集中に突如ボスの攻撃力やラッシュが減ったことに気付いた。不審に思いながらも同行していた少数の攻撃特化仕様(ダメージディーラー)プレイヤーが攻撃を重ねて様子を見ると、それまでよりも攻撃が通り安くなっており、このままいけば怒り状態時の変動パターンの確認もできると思われた。しかし、意外なことに青い悪魔のグリームアイズ《輝く目》は予想に反してそのまま押し切ることが出来てしまい、調査の段階で思いの外あっけなく攻略してしまった。このボスは当初攻撃力とラッシュスピードが高かったことから今までは見受けられなかった《スタミナ》の裏パラメータがあったのか、誰かが例の化け物ボスである《地獄の蠍》を倒したのではないかと言われているが、まだ詳細は掴めていない。今回のケースは非常に稀と思われるので、各プレイヤーは今後のボス戦において決して油断しないようにしてもらいたい】

「……へぇ、ボス倒したのか」

 その可能性は確かにあった。《The Hell Scorpion》を倒せば何故かその層のボスは弱体化する。今までにも何度かあった例ではある。
 ボス攻略が楽、ということ自体は全くないわけではないが、調査の段階で倒してしまうことは稀だ。というより、これまで無かったかもしれない。
 ならばバッドラックを誰かが倒したかも、と思うのは当然でもあった。

「お前らがヤツを倒したおかげだろうな。でも本当に申告しないのか?」

「誰かに認められたくてやったわけじゃない」

「……まあ、どっちにしろすぐばれるだろうがな。下の記事を読んだか?」

「……ああ」

 記事は他にもいくつかある。ただ、その記事の内容はあまり見たいものではなかった。
 主に精神的にという意味で。

【《軍》の大部隊が壊滅。無事生還した部隊と《軍》の№2との間で論争が起こっている。我々の取材に対し、№2であるキバオウ氏は部下の報告から黒の剣士《ビーター》が迷宮での攻略を邪魔し、MPKをしかけてきた為に損害を被ったと返答、主張した。しかし我々は偶然部隊の生き残りからも話を聞くことに成功し、彼らによると黒の剣士こと《ビーター》のキリトと《血盟騎士団》の副団長アスナに助けられたと言っている。相手はかのバッドラックの象徴だったらしい。尚、このことについてキバオウ氏は部下に「余計なことを言うな」という箝口令を敷いたという情報が入っており、現在我々は事の真偽について調査中である】

 間違いなく上の記事と照らし合わせれば事実は見えてくるだろう。実際にボス攻略されたことから見ても、キバオウの発言は信憑性に欠けていた。
 すぐに事実が明るみに出るのは間違いあるまい。同時に少しホッとする。記事にはまだ録音結晶のことについて触れているものは無かった。
 時間の問題だろうがそれだけが今は救いだ。もっとも、アスナはつい先ほど顛末を添えたギルド脱退願いを団長に送信したそうなので、その波乱もすぐに一面を飾る記事となることだろうが。

「今日来た客の話だと、《血盟騎士団》への問い合わせに行ったヤツやセルムブルグへ情報屋が押しかけてるって話だ。多分お前のねぐらも似たようなものだろうな」

「そんなことになるだろうと思ったよ」

 キリトはそれを予想していた。だからこそ彼のところにひとまず転がり込むことにしたのだ。騒がしいのは好きではない。
 ましてこれからの事を思えば、彼女にも無用な火の粉がかかりかねないのだ。

「まぁ俺はかの《閃光》の完全習得された料理を食べられることだし、お前らにはいつまでもいてもらっても構わんがな」

「恩に着るよ。でも、そこまで長居はしないつもりだ」

 それだけ言うと、キリトは二階に足を向ける。二階には居住スペースがあり、そこをエギルに少しの間借りる約束をしていた。
 そこまで広いスペースはないものの、人が二人暮らすには十分な空間だ。アスナはベッドに座って足をブラブラさせながら待っていた。

「話終わった?」

「ああ。それとさっき新聞見たけど、おおよそ予想通りだったよ」

「そっか。あ、もうあれ出回ってるの?」

「いや、それは大丈夫みたいだ。時間の問題だろうけど」

 あれ、とはもちろんクラインの持っていた録音結晶のことである。幸いまだ内容は公開されていないようだが、それもいつまで続くかわからない。
 公開されたらファンに殺されるなぁ俺、とキリトは内心で怯えながらアスナの横に座る。コテン、と彼女は頭を彼の肩に預けた。

「これから……どうするの?」

「どうしよう、かな。アスナはどうしたい?」

「私は……」

 アスナはそれ以上は口に出さずに、ギュッとキリトの手を握った。一緒にいたい、そういうことだろう。
 キリトに反対する気持ちはなかった。むしろ同じ気持ではある。キリトも彼女の手をギュッと握り返した。
 なんとかなる、なるようになる。同じ思いで、二人はお互いの手の温もりを感じていた。

 翌日の新聞にも、キリトとアスナの告白が録音された結晶の話は載らなかった。もしかするとクラインはああ言ったものの、本当は録音内容を渡さなかったのかもしれない。
 彼なりの気遣いで、あの場を二人きりにしてくれたのかもしれない、とここにきて二人は思い始めた。
 だとすると、ギルド脱退メールは少し早まったかもな、と言うキリトにアスナは首を振る。キリトと一緒にいるためなら、彼女にとってもうギルドの席はいらなかった。
 そんな彼女を見て、キリトは「見せておきたいものがある」と言い出した。システムメニューを開き、両の手に剣を装備する。ボス戦で見せてくれたものだ。

「一年くらい前かな、気付いたらスキルの中にあったんだ。エクストラスキル《二刀流》だよ。出現条件は……わからない」

「そ、それってユニークスキルってこと? す、すごいじゃないキリト君、団長以外にもユニークスキル発現者がいたなんて……」

「でも、知られたらいろいろ面倒が起きる。だから、黙ってた。出現条件がわかれば公開してたけど、ユニークスキルなら、悪意あるプレイヤーに会うこともあるから……」

「そう、だったの……」

「でもさ、これから……アスナを守るためにこれを使うのを躊躇わない。そう決めたんだ」

「キリト君……」

 キリトは素早く二刀を振って見せる。ライトエフェクトを宿らせたそれは間違いなく専用のソードスキルだった。
 アスナはその頼もしい姿と言葉に胸を打たれるのと同時、先日の映像がフラッシュバックした。敵を突き刺し倒れる彼。
 HPバーが減っていく彼。一瞬、空を掴んだこの手。ブルッと震え、キリトを背中から抱きしめる。

「アスナ……?」

「ねぇキリト君、もう、消えないよね……」

 抱きしめられる手に、力が籠もる。彼女の中で、あの戦いはトラウマになりつつあった。彼が消える感触を、無くなるという感触を、思い出したくなかった。
 彼の《二刀流》を見た時、そのことが思い出され、怖くなった。このまま彼が戦えば、また同じことが起こる気がしてならない。

「怖いの。また、キリト君が消えちゃうんじゃないかって」

「……アスナ」

「ごめん、どうしようもないのはわかってるの。でも……怖い。キリト君がいなくなったらって思うと……立っていられない」

 本当に崩れ落ちそうなほどガクガクと足を震えさせているアスナを、キリトはそっと抱き寄せた。彼女の中にある、芽生えてしまった恐怖は予想以上に根深い。
 キリトはそれを彼女の体の震えから実感した。

「きっと、疲れてるんだよアスナ。これまで、戦いっぱなしだったから」

「そう、かな……うん、そうだね……そうかもしれない」

「言ったろ? 俺みたいないい加減なやつとパーティ組んで、偶には息抜きしたって罰はあたらないってさ」

「キリト君は、言うほどいい加減な人じゃないよ。それに、もう偶に、じゃないでしょ?」

 アスナの、恐る恐るというような上目使いが、キリトに意図を掴ませた。
 そういえば、これからはコンビを組んで、一緒に頑張っていくという約束をしたばかりだった。
 キリトは小さく頷いて彼女を抱く手に力を込めた。これからは、ずっと一緒にいよう。そう決めたのだ。
 それからしばらく無言で抱き合っていた二人だが、ポツリと漏らしたアスナの言葉が、静寂を破った。

「ねぇ」 

「うん」

「少し休んじゃ、ダメかな」

「休む?」

「うん……迷宮攻略とかボス戦とか……」

「前線から離れたいってことか……?」

「そうじゃないけど……でも、結局そうなのかも。キリト君の言う通り、疲れたのかも……」

「…………」

「ごめんね、変なこと言って。困るよね、そんなこと言われても」

「……そういえばさ、アスナの家って四千Kコルくらいだっけ?」

「……? うん、だいたいそれくらいだけど」

「そこまでは無理だけどさ。あのボスからのレアドロップ品売れば、そこそこの纏まったコルは手に入ると思うんだ」

「……?」

 キリトが何を言いたいのか、いまいちアスナはわからなかった。家にかかった費用、それがなんだと言うのだろうか。
 急に変えられた話に、アスナは内心で疑問符を浮かべていた……のだが。

「そしたらさ、一緒に住む家、買わないか? そこで、しばらくは、二人で過ごす、ってのは……」

「え……そ、それって……!」

「その、ええと……まぁ、うん」

 彼の言いたことを察して、アスナは息を呑んだ。彼は一緒に住む家を買おうと言った。それは決してギルドホーム用のものではないだろう。
 この状況で二人で住むプレイヤーホームを買おう、となれば目的や用途は一つしか思い浮かばない。



「家が見つかったら……け、結婚しよう」



 アスナに、頷く以外の選択肢は思い浮かばなかった。





***





 夕食を食べてから、キリト君はエギルさんと商談を始めた。例のボスモンスター、《The Hell Scorpion》からのドロップ品についてだ。
 キリト君のアイテムストレージにはいくつかそのボス特有のアイテムの他に、なんと73層……今回倒した《地獄の蠍》とほぼ同じ強さであるフロアボスからしかドロップできないはずのアイテムが混じっていた。
 なんとなく、そういうことか、とも思う。僅かな救済措置を兼ねたボスモンスター。それがあいつなんだ。
 ただそのリスクは非常に高いものがある。出現率が低いのも難易度を高くしているし、ボス攻略を目的としたパーティじゃないと倒すのは困難だ。
 今回だって、《二刀流》を持つキリト君だから勝てたようなもので、他の人には無理だっただろう。可能性があるとすれば……ヒースクリフ団長くらいかもしれない。
 ただ、低確率とは言え根気よく狙えばいけるのかもしれない。でもそうなると攻略組プレイヤーが集団でずっとエンカウントを待たなくてはならず、低確率なそっちに手を回し始めれば本攻略が遅れると言う本末転倒になりかねない。
 やはり、あのボスは基本撤退がセオリーに変わりはないだろう。だがそうなれば、その品の価格、レア度は跳ね上がり、プレイヤー間での取引は高額になる。
 キリト君はそれを見越していて、ある程度の金額が溜まったら先の宣言通り家を買うだろう。二十二層の南西エリアに静かでいいところがあると言っていた。そうなれば……私は彼と結婚する。
 結婚、なんてことはこれまで深く考えたことなどなかった。なのに、その相手が彼だとなると自然とそうなることに違和感を覚えず、ただ幸福感が湧き出てくるだけだった。
 世の夫婦はみなこんな気持ちなのだろうか。いや、恐らくそんなことはない。それがわからないほど私も世間知らずじゃない。
 だから、こんな気持ちにさせてくれるキリト君に、彼と出会えたことに、私は心から感謝していた。SAOというデスゲームに囚われて二年。
 幸せ、という感情に満たされる日がゲームの解放以外に来るなど予想もしていなかった。そう思える私はとても運が良いのだと思う。
 話を終えたキリト君はエギルさんにアイテムを渡し、全てを託すと、二階に上がっていた。それを見届けてから、私はエギルさんに話しかける。

「あの」

「うん?」

「ごめんなさい、無理を言って」

「いや、構わないさ。逆にこっちが儲かっちまうくらいの話だしな」

 それは確かに事実なんだと思う。キリト君も私も家を買えればいいと思っているし、少しの蓄えはある。
 それに最前線に近いボスのレアドロップ品とくれば目標金額に届くのはそう難しい話では無いことくらい予想はできた。
 それでも、申し訳なさはある。自分たちの我が儘に他人を巻き込んでいるのだから。

「そんな顔をするなって。俺もキリトには世話になってる。信じられるか? あんな子供に、大人の俺が何度も助けられてるんだ。これぐらいしないと……いや、これでも足りないくらいさ。アイツに面と向かっては絶対言ってやらないけどな」

 だと言うのに、彼は笑って私たちの背中を押してくれた。この人はきっとクラインさんと同じなんだと思う。
 キリト君、意外に人望あるじゃない……などと少しだけ失礼なことを思い、だからこそ惹かれたんだと納得する。
 多分ここにいるのもあと数日あるかないか。私はもう一度頭を下げてお礼を言うと、二階のキリト君の後を追った。
 木造二階建ての家の階段は、定期的なミシミシと鳴るサウンドとは裏腹に、頼りなさは微塵も無い。これもゲームらしいところ、と言える。
 すぐに階段を上り切ると、呆れたことに彼は揺り椅子に座って目を閉じていた。お話したかったのに。
 少し不満に思いながら彼の傍に寄って寝顔を見つめると、穏やかそうなそれはすぐに私の尖った心をほぐしてくれた。
 以前盗み見た彼の純粋なる顔。今は見ることが許されるそれは、どこまでも私に幸福感を与えてくれる。
 ギシ、と音を立てて揺り椅子が揺れる。だがすぅすぅと眠る彼に起きる気配は無い。軽く額を撫でると、くすぐったそうに笑って、また寝息を立てる。
 その姿を見ていると、不思議と心が温かくなって、安らかな気持ちになって……瞼が重くなってくる。
 彼の眠っている姿は、私に不思議なほどの安心感と……同じ眠りに誘わんとばかりに睡魔を呼び寄せる。
 あ、だめだ……これ。寝ちゃう。そう思った私は、揺り椅子で眠る彼の体に折り重なるように乗り、頭を首筋に預けて……目を閉じた。
 定期的な呼吸がまだ彼が眠っていることを教えてくれる。とても、暖かい。なんだか今日は幸せな夢が見れそうだ。全ての事は明日に回そう。
 まどろみの中、そんなことを思いつつ、私は彼という揺り椅子の上でこれ以上の思考を手放すことにした。



[35052] SAO7
Name: YY◆90a32a80 ID:1a43ae77
Date: 2012/09/21 21:46


「わぁ、良い場所だね!」

 あれから二日後、アイテムに買い手がついたので目標数のコルが溜まり、アスナとキリトは二十二層へと引っ越して来た。
 エギルは寂しそうにしていたが、最後は笑顔で送り出してくれた。本当に彼には感謝してもしきれない。
 キリトの選んだログハウスは南端の外周部近くで、窓を開けると空が一望できる位置にあった。主街区──と言っても小さい村があるだけなのだが──からも離れているので喧噪もなく、石畳の天井も無い。
 この層にフィールドモンスターはおらず、緑豊かな針葉樹林と湖面が広がるその様はまさに擬似的な自然の宝庫だった。
 データ上の作り物と言えど、そこに虚しさは微塵も感じない。むしろ、アスナはこれからの生活に胸が躍る思いだ。

「おーい、少しレイアウト手伝ってくれ」

「あ、うん!」

 キリトはいくつか買い込んできた家具をアイテムストレージから出していた。これからそれらを自らのセンスによって配置していくわけだが、そういったセンスにキリトは自信があまりなかった。
 その点、アスナはセルムブルグで見事なカスタマイズ化されたプレイヤーホームを所持していた。彼女のセンスなら、ここも今よりさらに良い空間ができるに違いない。
 キリトのそんな期待に、アスナは照れながら「うーん」と顎に手をあててしばし考える。部屋は二つのみ。小さめの家なので寝室と居間の二つだけだ。
 寝室には備え付けのベッドが二つあるし、カスタマイズはさほどいらない。小物をいろいろ置けば良いとして、問題は居間の配置だ。
 彼女の中ではすぐにいくつか配置の候補が上がるが……それらを何度も修正する。何故なら最初に浮かぶのはどうしても自分一人の趣味、一人暮らしの構図になりがちだからだ。
 例えば、彼女の中で一個の椅子を置くなら部屋のあそこ、とすぐに決められたが、それを即座に修正する。二人いるのだ。なら椅子を一個だけ置くような考えは捨てたい。
 かといってそこに二つ置くのはちょっと恰好悪いし可愛くない。それに、せっかくなのだから全てを二人用の配置に染め上げたい。
 椅子なら二人用のソファーを部屋の隅に置いて座るときはいつでも肩を並べられるようにし、テーブルの周りには物をなるべく置かずに二人で席につけるようにする。
 家具、家財、その他もろもろをペア思考でそれぞれ染め上げていく工程は、それだけでアスナを楽しませた。
 「よし!」とおおよその形を決めると、ある程度の指示を彼に出して自分は寝室のカスタマイズに取りかかる。



「……と、こんな感じで良いかしらね」

 やや時間を要してからアスナは「ふぅ」と息を吐き、出来たばかり寝室を見渡した。全てをペアで染め上げたその空間は中々に満足のいく出来だ。
 アイテムストレージはこれから共通になるから良いとして、他のそれぞれの家具はほとんどがペア使用を前提として配置した。
 ベッドも少しカスタマイズして、たった今寝室の壁紙も変えた。地味に値が張ったが、貯蓄内で十分カバー出来る金額だった。

「お疲れ様」

「キリト君もね」

 アスナが居間に入ると、彼女の指示通りに居間のカスタマイズを終えたキリトが丁度ソファーに座ったところだった。
 居間は最初のがらんとしたテーブルに二組の椅子があるだけの空間……ではなく、現実のそれを思わせるような生活感溢れる空間へと様変わりしていた。
 言われた通りにしか動いていないキリトだが、終わってみればたいした変わりようだと彼女のインテリアプランナーぶりに舌を巻く思いだった。
 アスナは「えへへ」と笑いながら、二人用ソファーの中心を陣取っていたキリトの隣に無理矢理お尻をねじ込み──キリトが慌てて横にずれてスペースを空ける──彼に張り付くようにして隣に座った。

「私達の部屋、出来たね」

「ああ、そうだな。流石アスナ、良いセンスしてるよ」

「そうかな?」

「うん。なんか、ホッとするっていうか、帰ってきたって思える場所になった気がする。おかしいよな、まだここには来たばかりで、カスタマイズも終わったばかりなのに」

「ううん、そんなことないよ。それに、そう思ってもらえて……嬉しい」

 キリトの言葉に、アスナは本当に胸が一杯になった。アスナはこの部屋を作っている時、ある一つの場所を思い浮かべていた。
 それは幼少の頃に行った、母方の実家。外部も含めた雰囲気が、ここに少し似ていたのだ。アスナは父方の由緒ある大きい実家より、母方の実家を好んだ。
 暖かいと思える何かが、そこには確かにあったのだ。それを、キリトも感じてくれた気がして、嬉しかった。
 アスナの手が、キリトの手を掴む。自然とキリトも握り返し、やがて指を絡めあってお互いの温もりを感じた。肩を寄せて、お互いの存在を確かめ合う。
 時が、穏やかに過ぎていく。今、自分たちはデスゲームに巻き込まれているなど信じられぬほど、心が落ち着いていた。

(ずっと、こうしていたいな)

 叶わぬ願いとわかっていても、そう願わずにはいられない。





「お、おおおお……! なんか今日の夕飯は凄くないか……? 二人じゃちょっと食べきれないぞ」

「しょ、初……日だからはりきって、みた……の」

 アスナは一瞬何故か言葉に詰まった後、言葉尻が段々小さくなっていく。代わりに、チラ、と何かを訴えるような目でキリトを見つめた。
 その、絶妙な上目使い加減にキリトは不覚にも精神的クリティカルダメージを当てられてしまった。既に心の防壁はレッドゲージ……危険域である。
 思わず胸に手を当てて顔を背けた。あまりの可愛さに見ていられない。これ以上見ていると圏内なのにHPが減りかねない。圏内では絶対に減ることが無いとわかっていても減る、いや死ねる。
 そうキリトが思ってしまうほど、今のアスナの可愛さは突き抜けていた。そもそも、その恰好がいけない。

「は、初めて見る服だけど、それも、か、可愛いな」

「えっ」

 本当のことを言えば、エプロンで全容は見えない。しかしそのエプロンこそがイイ。そういえば、と記憶を辿るが、今まで彼女がエプロンをしている姿をキリトは見た覚えが無かった。
 このSAOでは《汚れる》という概念が無いため、本来その必要性は無い。しかし、だがしかしだ! 

(エプロンがアスナの体に張り付いて、プロポーションがくっきりわかる……)

 彼女の体型がエプロンという薄布を付けるだけでくっきりはっきり強調される。オマケに彼女が今着ている服はワンメイクものだ。
 アシュレイ、というSAOでもっとも速く裁縫スキルを完全習得したカリスマお針子の手がけた最高級のレア生地オンリーによるオーダーメイド品。
 圏内事件以来、流石にキリトもそれだけ有名になった人の手がけた作品だけはわかるようにしていた。
 対して、アスナは口をポカンと開けて驚いていた。「え、そこ驚くとこ?」と逆にキリトは首を傾げる。
 しかし、驚きの内容には双方ちょっとしたズレがあった。

「そんなに驚かなくても……俺だってさすがにアシュレイブランドを見分けられるくらいにはなってるさ」

「あ、ううんそうじゃなくて……今、《それも》って言った?」

「うん? ああ言ったよ。前にさ、迷宮区から帰って宿屋に行った時も着替えてただろ? あの服も思わずドキッとするくらい可愛いと思ったよ」

「あ、あのねえ! そ、そういうことはすぐに言ってよ!」

「???」

 キリトは意味がわからない、とばかりに疑問符を浮かべる。逆にアスナは急に恥ずかしくなってきた。彼はその辺がすごく鈍感だと思っていたのだ。
 確かに気合いは入れたが、それは別の意味で気合いを入れるためであって、まさかこんな先制パンチを食らうとは予想もしていなかった。
 というかあの時もそう思っていたならちゃんと言ってほしかった。あの日、自分が何も言ってもらえなかったことにどれだけ落ち込んだと思っているのだろうこの人は。

「も、もう!」

 アスナはこれ以上話すと墓穴を掘ると思い、頬を膨らませて席に着いた。キリトは未だ首を捻りながら対面に腰を落ち着ける。
 いけない。これでは折角の《記念日》が百パーセント楽しめなくなってしまう。アスナは自分の羞恥を無理やり胸の奥に押し込めて、努めて冷静に、明るく勧める。

「そ、それじゃあどうぞ召し上がれ」

「あ、待った」

 だというのに、この黒いお方はその辺の空気を全く読んでくれなかった。「酷いよキリト君……」と口の中だけで不満を漏らす。
 空気を変えて、いや、戻して楽しく《記念日》を……と思ったアスナの小さな努力を壊しかねないタイミングだった。
 だが、そんな少しの不満など、彼の次の行動で全ては帳消し、どころか有り余るほどの幸福に変えられた。

「こ、これを、受けとって欲しい」

「え……? こ、これ、いつの間に……!」

 彼がやや震えながら出した掌の上には二つのマリッジリングがあった。それの意味するところは、アスナが実は今朝から待ちわびていたことだ。
 彼の言葉は、「家が見つかったら……け、結婚しよう」というものだった。それから二日後に家を購入したわけだが、この家を目星としたのは実は翌日のことだった。
 アスナとしては、その時点で彼からいつ「結婚しよう」と言われ、結婚の手続きを取るかドキドキし続けていた。来るか、来るか……? とずっと身構えていたのだ。
 しかし、そんな予想に反して家を購入してからも彼からは結婚の話は一切出てこなかった。実は忘れているんじゃ、と少しだけ弱気になり、そのせいもあってアスナは少しばかり過剰気味にキリトに触れたがっていた。
 彼に触れ、その温もりを得ることで、その不安を和らげていた。その彼が、とうとう言ってくれたのだ。予想だにしていなかった指輪アイテムまで用意して。
 SAOの結婚は、案外そっけない。一方が相手にプロポーズメッセージを送り、相手がそれを受諾すればそれで終了だ。しかしそれだけではあまりに忍びない。
 そう思っていたキリトはアスナに内緒で指輪を購入していた。おかげで、そのサプライズはアスナの涙腺をたやすく崩壊させた。

「っ、うう……良かった、良かったよぉ、キリト君、何も言わないから、結婚するってこと忘れてるんじゃないかって……」

「そ、そんなことあるわけないだろ! た、ただどう言えばいいかずっと悩んでて……結局、何も恰好良いこと言えなかったし」

「良いよそんなの。ただ、キリト君がいてくれれば」

「その、えっと……ありがとう、アスナ。嵌めていいか?」

「うん」

 お互いに微笑み、これでようやく結ばれるな、とキリトはアスナの左手を取った。そのままそっと薬指に指輪を嵌めようとして……出来なかった。
 え? とお互い驚く。何事かと思えば、アスナにはハラスメント防止コードが見えていた。端的に言って、この行為はシステム的にはハラスメントに該当し……《まだ》許可されていないこと示していた。
 顔を見合わせ、次の瞬間にはクスッと笑い合う。お互いシステムメニューからコマンドをタップ。数秒で終わるそれにはやはり味もそっけもない。
 でも、キリトの震えるような手で持った指輪は、今度こそアスナの細い薬指に嵌められた。


 ややあってから二人はアスナが腕を振るった夕食を食べていた。これまでは何かしら食事中も会話していたが、お互い夫婦になったことで緊張しているのか、普段ほど口数は多くなかった。
 しかし、食事が終わるとアスナは「よし!」と気合を入れ直して立ち上がった。キリトはそんなアスナの気合いの入りっぷりに首を傾げる。
 彼女も自分みたいに何かサプライズを用意しているのだろうか? そんなことを思っているとアスナはそのまま手を振ってシステムメニューを呼び出し、家の照明をあらかた落とす。
 薄い光源のみを残したその状態は大抵眠るときにする設定だが、寝るにはまだ早いのでは、とキリトは思う。だがアスナはお構いなしに次の操作に移った。
 月光……のような何かが窓から幻想的に入り込んでくる。それを浴びている彼女は、下着以外の武装……アバター装備をすべて解除した。

「え……?」

 思わず漏れる声。キリトの予想をはるかに上回る事態に、脳の思考パルスが追いつかない。今の思考加速率はあのバッドラックと戦った時よりも高い自信がキリトにはあったが追いつかない。
 システム上の夜闇を照らす明かりは、キリトの目に薄ぼんやりと胸を隠す、つい先ほど正式に妻になった女性プレイヤーの肢体を映し出す。
 たとえそれが仮想上のデータだとわかっていても、その美しさは筆舌に尽くしがたい。彼女の左手薬指がキラリと僅かな光を反射した。

「わ、私はもう、準備いいから……キ、キリト君も準備してよ」

「じゅ、準備……?」

 彼女の言っている意味がわからない。いやわかるけどわからない。だめだ混乱している。キリトは網膜に焼きついた本物ではない彼女の姿に見惚れて、正常な思考を行えなかった。
 そんなキリトに業を煮やした彼女は、「もう!」と怒ったように言うと左手で胸を隠したまま右手でシステムメニューを開き、キリトの装備を外していく。
 結婚した二人は、アイテムストレージが共通化している。お互いのステータスも見られるし、干渉できる。SAOでの結婚とはそういうものなのだ。
 ゆえにデスゲームであるSAOでは結婚までするカップルは少ない。どれだけ仲が良かろうと共通化されるアイテムストレージでのトラブルは絶えないからだ。
 呆然としたままのキリトは、すぐにパンツ一枚にされてしまった。そこでようやく彼は我に返った。彼女は本気なのだ。これから本気で夫婦にのみ許されたある行為を行おうと考えている。
 そのことにキリトは遅まきながら心底を驚き、それを察したアスナが恥ずかしそうに言った。

「な、何よ……し、初夜って、そういうものなんでしょ……?」

「な……!」

 絶句する。いや、彼女の言い分は間違いではないのかもしれないが。でもそれは……飽くまで現実世界での話ではないのだろうか。
 少なくともキリトはこれまでそう思っていた。いや、そもそも、

「え、えっと、SAOって、その、できるのか?」

「知らないの? オプションの凄い深い所に倫理コード解除設定があって……」

「……マジか」

「……うん」

「……あのさ」

「……うん」

「……その」

「……うん」

「……なんでそんなこと知ってるの?」

「っ! ギルドの子に聞いたの!」

「あ、ああそっか! そ、そうだよなハハハ!」

「……今キリト君私が誰かと関係持ったことあるのかもって疑ったでしょ」

「い、いやそんなことは……」

「そういうキリト君はどうなの?」

「お、俺!? そんなコードがあることさえ知らなかったよ」

「そうじゃなくて、誰かと付き合った経験とか。……そう、例えばサチさんとはどこまでいったの?」

「……前にも言ったろ? 本当に何も無かったんだ」

「そっか……ちょっと嬉しい、かな」

「え?」

「キリト君がSAOで初めて恋してくれたのが私で、嬉しい」

「……それを言ったら俺だってそうだよ。ってアスナは誰かと付き合ったことは……」

「な、無いよ! なんでここにきてそんな可能性を考えるの!?」

「いや、前に結婚を申し込まれたことがあるとか言ってたから……」

「キ、キリト君が好きなのに申し込まれたって断るに決まってるでしょ!」

「え」

「あ」

「つ、つまり、そんなに前から思ってくれてた、と……」

「~~~~~~~っ!」

 羞恥で顔が真っ赤に染まる。これがただのフェイスエフェクトだろうと、そんなことは関係ない。
 暗闇だろうとキリトにもハッキリわかるほどの紅潮は既に感情を隠す云々以前の問題だ。

「も、もう知らない!」

 ぷいっと顔を逸らし、スタスタと寝室に行ってしまうアスナ。キリトは少しばかり悩み、そのまま服を着ずに彼女の後を追った。
 寝室に入ると、彼女は先の下着姿のまま、ベッドに腰かけて心配そうにキリトが寝室に入ってくるのを見ていた。
 どうやら今回は失敗しなかったようだ、とキリトは内心で安堵の息を吐いてゆっくりと彼女のそばに寄って行った。
 アスナは既に怒っている様子は無く、少し迷っているようだった。空回りしすぎたのかもしれない……そんな思いを胸に抱いているのだろう。
 キリトは苦笑すると、ギシッ、と軋む音だけがする、実際には完全なる耐久値のベッド……アスナの隣に腰かける。
 彼女が何か口を開く前に、彼女の手を取り、その甲にそっと口づけをした。彼女の息を呑む気配を感じる。それで、お互いの気持ちは固まったのだった。



 アスナはこの夜にあったことを絶対に忘れない。キリトもこの夜にあったことを絶対に忘れないだろう。
 それほど、この夜のことは思い出深く、大切な記憶となることは間違いようがなかった。
 アスナは、彼が眠る前に聞こえるか聞こえないかの小さい声で囁く。

「今度は、現実世界で、しようね」





 二人が、甘いひと時を過ごした夜。この夜で、アスナがギルド脱退メールを出してから三日経っていた。
 しかしアスナは気付いていなかった。それがどんなことをもたらすのか。自分と彼の今の状況がどんなものになるか。
 あるいはギルドに関するステータスをよく確認すれば気付いたのかもしれない。だが幸せに浸る彼女に、そのような思考は無かった。
 考えようとすらしなかった。故に、彼女は気付かぬまま、彼女がSAO生活最高の一日と称したこの日に、《問題》は動き出していた。





 翌日の空は快晴だった。実に外出日和である。新婚の初夜が明け、二人は目を覚ましてお互いの顔がすぐそこにあることに驚き、次いですぐにクスリと笑った。
 起きあがってすぐ、アスナは自分の格好の事を思いだし慌てて着替える。ふと振り向くと目を擦りながらも一部始終を見ていたキリトと目があった。
 アスナはみるみる恥ずかしくなり拳にライトエフェクトを奔らせて体術スキルをキリトの顔面にお見舞いする。
 幸いなことに、家の中は圏内なので犯罪防止コードが働き、キリトは寝起き一発目から新妻の拳をもらうという憂き目には合わずに済んだ。
 やや不機嫌になったアスナをキリトはたっぷり数分を要して宥め、朝食にする。食事を終える頃には今日はどうやって過ごすか話し合っていた。

「とりあえず散歩でもしようか」

「散歩?」

「うん、ほらこの層は家を一歩出ればモンスターの出ない圏外フィールドだろ? 圏内村も小さいし攻略も三日で終わっちゃったからよく知らない面白いことがあるかもしれないし」

「なるほどね」

「それに折角良い天気だしな。あ、そういえば村にいる木工職人(ウッドクラフト)プレイヤーがボートを造ってたっけ。そんなに高くないなら買ってきて湖をボートで漕ぐのも良いんじゃないかな」

「良い天気だし、か……。変わらないなぁキリト君は」

「ん?」

「なんでもない。うん、そうしよっか」

 話が纏まると、アスナはテーブルを二秒で綺麗に片付ける。こうやって片付けが楽なのはゲームの良いところなのかもしれない。
 手早くお昼の為にお弁当を用意し、ランチボックスに詰めてアイテムストレージへ。この辺もゲーム故に通常より簡単な作業となっているが、アスナとしてはそこは満足できない所だった。
 料理というのは時間をかければかけるほど改良の余地があり、美味しく楽しく出来る。それが手軽さを求めるあまりに省略されてしまうのは少し詰まらなかった。
 キリトは武装せず、黒いシャツの姿でドアの前に立ち、アスナを待っていた。それに気付いたアスナは少し悩み、ササッと寝室に入ると手早くシステムメニューから装備、アバターの服装を変える。
 以前に何も言われなかった、しかし可愛いと思ってくれていたと昨夜本音を知った服。もう一度彼にこの姿を見てもらって、直接感想を言って欲しかったのだ。

「お待たせ」

「ああ、じゃあ行こうか」

「……」

「アスナ?」

「もう……!」

 今度こそ期待したのに! とアスナは頬を膨らませてキリトより先に家を出る。後ろから慌ててキリトが追いかけてくる気配がした。
 突然機嫌を悪くした彼女にキリトはどうすれば良いのかわからない。何か気に障るようなことをしただろうか、と横に並んで恐る恐る彼女の顔をキリトは覗き込む。
 アスナはそんなキリトにクスッと笑った。この彼のやや情けなさそうな顔を見て、一体誰が攻略組でもトッププレイヤーである、黒の剣士《ビーター》だと思うだろう。でもこれこそが、きっと彼の素なのだと思う。
 だが急に微笑んだアスナに、キリトとしては益々混乱を深めるしかない。どうしたものか、と悩んでいると、ふっとアスナから手を握られた。

「ごめんねキリト君、別に怒ったわけじゃないの」

「えっと、どうしたんだ一体」

「昨日、この服も可愛いって言ってくれたから。それでちょっと、期待しちゃっただけ」

「あ、ああ……! そ、そうか。そういうもんか」

「キリト君ってそういうところは鈍いよね」

「面目ない……」

「良いよ。むしろ鋭かったらどんどん女の子寄ってきそうだもん」

「いや、そんなことは無いだろう」

「どうだかなあ、キリト君、優しいから」

「そうかな」

「そうだよ」

「でも……そうか。感想は言うようにしないとダメか……そういえばスグもそんなところあったな」

「むぅ……言った傍から女の子の影があるよキリト君。誰その人?」

「妹だよ」

「妹かあ」

「良くできた妹でね。俺は二年で辞めた剣道を未だに続けてて、全国大会とかにも出るようになったほどだよ」

「へぇ! それは凄いね」

「でもなあ、スグはともかくアスナに感想を言うとなると……」

「な、何……? 私ってそんなに変かな?」

「いや、会うたびに可愛いって言わなくちゃいけないなあ、と思って」

「ッッッ!」

 天然ジゴロ、とはこの人のことだ。間違いない、とアスナは思った。先ほどまでの内心ちょっとだけ拗ねていた心などあっという間に解きほぐされる。
 思ったことは言ってほしいが、それは時と場合と量による、とアスナはこの時初めてわかった。同時に彼は今のままで良いと確信した。
 そんなやりとりをしながら、ゆっくりと歩いていく。針葉樹林帯の隙間から日差しが漏れ、《作られた天然》が美しく映える。
 エンジェルラダー……天使の梯子とも取れそうなそれは、作り物だろうと心を豊かにしてくれるには十分だった。
 二人はいつの間にかお互いが指を絡め合うように手を繋ぎ、同じ歩幅で進む。現実世界ではあまり馴染みのない、緑溢れる空間。
 全てが作り物の世界。だが、二人の中にある気持ちだけは本物だという確信があった。


 第二十二層の主街区である《コラル》で、アスナがいくつか食材を見繕って買っている間に、キリトはボートを売ってくれる木工職人(ウッドクラフト)プレイヤーかNPC店舗を探した。
 運良く、この近辺で木材を回収している木工職人(ウッドクラフト)プレイヤーと知り合い、格安で手漕ぎボートを譲ってもらえることとなった。

「いやぁ、ボートとか作ったはいいけど売れなかったから丁度良かったよ」

「そうなんですか」

「うん、逆にありがとう」

「いえ、こちらも上手く手に入って良かったです」

「この辺の木材は質が良いから耐久力も大丈夫なはずだよ」

「へぇ」

「あ、そうだ。東の方に行くなら気をつけた方がいい」

「何かあるんですか?」

「何でも……幽霊が出たらしいんだ」

「幽霊……?」

「そ、仲間うちの木工職人(ウッドクラフト)が見たんだけど、なんでもその相手はカーソルが出ないらしい。白い服を着た女の子だってさ」

「カーソルが出ないって、見間違いってことは……」

「ここがSAOである限りあんまりないと思うけど。でも幽霊ってのもSAOである限り信じがたいよね」

「ええ」

「仲間が言うにはその少女は半分体が透けたって言うんだ。なにかのイベントかと思ったけどクエストログもないし。奇妙だろ? ここじゃ死にたくなけりゃ変なことには首を突っ込まない方がいいから、みんなそれ以来あっちには行かないようにしてる。行くな、とは言わないけど気を付けて」

「ご親切にどうも」

 これはアスナに面白い土産話ができた。そう思ったキリトはアスナと合流するとさっそく聞いた話をしたのだが。
 アスナはビクリと震え、辺りを見回し、キリトの腕に抱き着いた。

「お、おい?」

「わ、私幽霊とか苦手で……」

「え、そうなのか? 意外だな。デモニッシュ・サーバントとか楽に倒してたじゃないか」

「あ、あれはキリト君もいたから……」

「う……そういうこと真顔で言わないでくれ、ずるいぞ」

「キリト君には言われたくないよ」

「うん?」

「なんでもない」

「……? まあいいけど。でも確か六十五層や六十六層はホラー系迷宮だっただろ? あの時はどうしたんだ?」

「……笑わない?」

「……? うん」

「実はね……あれこれ理由をつけてその二層の攻略には参加しなかったの」

「え」

「え、えへへ……怖くて、サボっちゃってました」

「えええええ? いや、ボス戦で……あれ? そういえばいなかった、か?」

「あ、あはははは……」

 アスナの意外な一面にキリトはやや面食らうが、そんな怖いものもある彼女のほうが、より愛しいと感じた。
 攻略ホリックだった時の彼女を知る身としては、「お化けが怖い」という理由だけで彼女が攻略をサボるなど到底考えられない。
 それができるのは、結局心に余裕ができたおかげだろう。その余裕の一端を、少しでも自分が担っていたなら嬉しいものだ……とキリトは思う。

「さて、じゃあさっそく行こうぜ」

「えーと、どっちへ?」

「東」

「ええええぇぇぇぇぇええええ!? 意地悪!」

「冗談だよ。でもあっちの方がちょうど良い湖もあるんだ。そこまで深入りしなければ大丈夫さ。今は昼間だしな」

「うぅ……わかったよ」

 キリトのちょっとした意地悪な笑みに、涙目になりながらもアスナは渋々頷く。
 今日のデートは始まったばかりだ。




「わぁ! この湖綺麗! 凄く透き通ってるね!」

「皮肉だよな、仮想世界……作り物の方が現実よりも綺麗だなんて。でも、それが仮想世界の良い所でもある」

「そうだね。こんなデスゲームじゃなければ、きっとたくさんの人がいろんな楽しみ方をして過ごしていただろうし」

「そうだな……」

 目的の湖に着くと、二人は湖の透明度に舌を巻く。現実ではそうそうお目にかかれない綺麗さに思わず見入ってしまうほどだ。
 人の手で作られた、人の手が入っていないような自然。いや、仮想自然と呼ぶべきか。人工の天然は、それをそうだと思わせない何かがあった。
 しばし見惚れていた二人は、我に返ると早めの昼食を摂ることにした。シートを草原の上に敷いて腰を下ろし、アスナが今朝作ったランチボックスを取り出す。
 アスナはその中から大きめのサンドイッチを取り出すと、ワクワクしながら待っているキリトにそれを手渡そうとして、急に持ち上げ、やめた。

「え」

 キリトは目を丸くした。まるで何が起こったのかわからないというような顔だ。何せ、これまでアスナはキリトにそんなイジワルをしたことなどなかったのだ。
 まさかとは思うが東を選んだことを根に持っているのだろうか。失敗したかな、とキリトは自分の行動を反省する。
 受け取ろうと手を出した目の前で「やっぱやーめた」とサンドイッチを持ち上げられてしまってはそう思うよりなかった。
 しかし、よくよく事態はキリトの思考の上を行く。

「はい、あーん♪」

「え、ええっ!」

 アスナは改めてサンドイッチをキリトの目の前、口元に差し出した。「あーん♪」などという言葉付きで。
 食べることに比較的心血を注ぐキリトだが、さしもの彼もこの状況には照れざるを得なかった。

「あ、い、いや自分で……」

「あーん♪」

「う、あ、あーん……」

 アスナの満面の笑みを見て、キリトはこれを絶対回避不可能攻撃と判定した。この世にはあるのだ、絶対にダメージを食らうことが前提となる攻撃が。
 なるように身を任せ、キリトはアスナの持つサンドイッチにかぶり付いた。

「おいしい?」

「ングング……ん、美味い」

「良かった」

 アスナは照れたように顔を下に向ける。彼女も実は結構恥ずかしかったらしい。ならやらなければ良いじゃないか、とも思わないでもないが、この場は引き分けにしておこうとキリトは決めた。内心で決めた。
 風に揺られて原っぱの草が宙を舞う。しかし、草が抜けるエフェクトは見えない。恐らく生えている草が実際に抜けるのではなく、空中で自然生成される飛ぶためだけの草オブジェクトがあるのだろう。
 それでも、その風景はのどかで、現実となんら変わらないと思えるほど自然だった。

「さってと」

 キリトは食事を終えると、湖に近づいていき、アイテムストレージからボートを取り出して湖面に浮かべた。実はこれ、結構な重さで相当の筋力パラメータが無いと持ち運べない。
 幸いにしてキリトの筋力は相応に高かったので問題なかったが、売ってくれたプレイヤーの言う通り、これを実用的に買う物好きはそう多くは無いだろうな、とキリト自身も思ってしまった。
 しかしそのおかげでこれが安く手に入ったのだ。そこはラッキーだったと思うことにして、さっそく使うことにする。

「アスナ」

「うん」

 シートを片付けた彼女がキリトの手に掴まる。キリトは先に彼女をボートに乗せ、次いでやや勢いを付けて自分が乗り、オールを漕ぎ始めた。
 ゆっくりと、湖面を流れるようにボートが動き出していく。ギィコギィコと一定のサウンドを鳴らしながら進むそれは、仮想物とはとても思えない。

「わぁ、なんか良いね」

「ああ、本当に水の上にいるみたいだ」

 揺れるボートはきちんと波に沿っており、下手をすると転覆するんじゃないかと思うほどリアルに揺れた。
 これがシステム上に定められた乗船なら、恐らく落ちる、転覆する、という類は起きないよう守られているような気もするが、そんなことはどうでもよかった。
 ボートの上では頬を撫でる風までもが変わったように思え、ゆっくりトプントプンと波打つボートはリアルに湖面を感じさせてくれる。
 今、二人は間違いなく湖面をボートで渡っていた。湖の中心近くまで来たあたりで、キリトは漕ぐ手を休める。

「現実世界だったら、こういうレジャーは周りにも一杯ボートがあるだろうけど、ここは私たちの貸し切りだね」

「ああ、そうだな。それだけは感謝しても良い気がする」

 キリトはそう言うと背中をゆっくりと倒し、仰向けになった。両手を後頭部に回して目を閉じる。ゆらゆらと揺れる水の気配を体感する。
 風も気持ちいい。これは思わぬ良スポットだった、そう思いながら目を開くと、そこにはこちらを覗き込むアスナの顔があった。
 いつの間にそんな体勢になっていたのか、アスナはじっとキリトを見つめていた。アスナの瞳にキリトが映っている。
 アスナの見るキリトの瞳にも自分が映っているのがアスナにはわかった。黒い、吸い込まれそうな黒曜石の瞳。見ているだけでぐんぐん引き込まれていく錯覚を覚える。
 いや、錯覚ではない。確かに真っ黒の瞳が、僅かずつ近づいていくのがわかる。だが彼は両手を枕代わりにして後頭部を船首に付けたままだ。
 ということは、この吸い込まれそうな瞳に寄って行っているのは自分自身か。アスナは何処か他人事のようにそう思った。
 キリトはやや戸惑いの表情を見せ始めるが、それすらもアスナが引き寄せられる引力を増加させる仕草に思える。
 ギシッと僅かにボートが軋みを上げる音がして、


 二人の距離はゼロになった。
 アスナは吸い込まれるように彼の唇へと、自分のそれを重ね合わせていた。


 どれだけ経っただろうか。しばし唇を重ね合わせた後、そのままボートが流れるに任せ、アスナはキリトの上に覆いかぶさったままでいた。
 不思議と羞恥は無かった。むしろ自然にそうしたいと思えて行動していた。じゃあ今やれ、と言われても多分できない。
 彼女にとってはそういう雰囲気だったのだ。それをキリトも責めるような真似はしない。当初こそ驚いた顔をしたものの、すぐに彼女の背中に手を回して受け入れていた。
 ずっと続いてほしいような甘美な時間。しかしそろそろ日が暮れるというのが空に輝くオレンジ色の光源で嫌でも教えられる。
 二人はどちらからともなく起き上がり、またキリトがギィコギィコとオールを漕ぎだした。不思議なことに、結構な時間湖面に浮いて動いていたと思ったボートは、湖面の中心に位置したままだった。
 二人に会話は無い。ただ、その沈黙は決して重いものではなく、和やかなものだった。
 やがて岸に着くと、ゆっくりと着岸させ、先にキリトが降りて彼女に手を差し出す。アスナはその手を取ってぴょんと跳ねるようにボートを降りた。
 キリトはボートをアイテムストレージに収納しようとシステムメニューを弄りながら、一言だけ呟く。

「……良い買い物したな」

「……うん」

 アスナも、心から同意した。
 やがてボートが収納され、さあ完全に暗くなる前に帰ろう、と思ったところで……《それ》はボートを収納するために湖を見ていたキリトの視界に映った。

「え」

「……? どうかした?」

 キリトのあまりに驚いたような声に、アスナは首を傾げる。
 しかしキリトは何も言わずに対岸を見ていた。訝しがりながらアスナも彼の視線の先……対岸を見て、息を呑む。

「白いワンピースの……女の子」

 それは、今日村で聞いた幽霊の特徴と一致していた。やや遠目だが、その少女は黒い髪に白いワンピース姿だった。
 だが何より、

「カーソルが、見えない……」

 その異常さに二人が硬直していた時、それは起こった。



 ──ボチャン。



「あっ!?」

 アスナの驚いたような声が上がる。
 突如として、少女が湖に落ちてしまったのだ。



[35052] SAO8
Name: YY◆90a32a80 ID:1a43ae77
Date: 2012/09/27 21:25


 キリトとアスナは自分たちの敏捷力を最大まで発揮して駆け抜けた。戦闘中もかくや、と思うほどのそれで木々の間をすり抜け、湖の側面を走り抜ける。
 女の子が湖に落ちた。僅かな間を置いて女の子が湖面から姿を見せない事に気付いた二人は、弾けたようにそこへ足を向けた。幽霊が湖に落ちるはずがない。ましてや湖面に波紋を広げるはずがない。
 SAOでは呼吸を必要としない。息を吸う事は出来るが、無意識呼吸を行うわけではない。よって窒息という概念は幸い無い。だが、生身で水中に居続ければHPを全損しかねない恐れがあった。
 彼女に何が起こっているのかはわからないが、このまま放っておけば誰の目にも止まらずに第一層の黒鉄宮、生命の碑の名前に傷が刻まれる可能性も捨てきれない。
 キリトよりも敏捷力にステータスを振っているアスナが、彼より若干速く女の子が落ちたポイントへ辿り着く。ジャバジャバと湖に入り、女の子を抱き上げようとして、

「えっ」

 掴めなかった。そんな馬鹿な、今彼女の身体をすり抜けなかったか。慌ててもう一度彼女に手を伸ばす。今度はちゃんと掴めた。先程のは余程慌てていたんだろうと自分を納得させる。
 幸い、それほど深くないところに女の子は沈んでいた。遅れてきたキリトも湖に入り、女の子の顔だけ湖面から出るようにして抱きあげたアスナは彼にその子を預ける。

「生きてる、よね?」

「ああ、身体が残ってるってことは、まだHP全損にはなっていないはずだ。ゲーム内で死んでいないなら現実世界のナーヴギアも問題なく稼働してると思う」

 湖から救出した女の子は、死んだように眠ったままで、ゲーム仕様故に呼吸が無いのが逆に二人に不安を煽る。
 その不安を、システム上では大丈夫のはずだ、とキリトは自分に言い聞かせるようにして言葉にし、必死に打ち消す。

「けど、本当に妙だな。この子、カーソルが出ないぞ」

「どうしたんだろう。何かのバグかな」

「かもしれないな。これが普通のゲームならすぐに運営に言って助けて貰うところだけど、このSAOにはそういったGMがいないし……」

「考えてみればシステム的に致命的な欠陥が出ちゃった時、私達じゃ何も出来ないんだよね」

 そう。自分たちは与えられた世界、与えられたルール、与えられたシステムに則った行動しかできない。自由度が高いのと、自由、の間には天と地ほどの格差がある。
 ではその世界が、あるいはルールが、はたまたシステムが不完全だったならどうなるのだろう。それは既にゲームですらない欠陥世界だ。
 いわゆる無理ゲーと呼ばれるようなクリアさせる気のない、もしくは出来ない世界で命をかけて戦うプレイヤーは滑稽でしかないことになる。
 そんなこと、あってはならない。少なくともこのリアルデスゲームであるSAOでは。もっとも、キリトは《意図的》にはそういうことが起きることはないと思っている。
 ゲームの内容はデスゲームという最低な仕様になってしまったが、それでもキリトの感じる限りSAOはシステム上のフェアネスを貫いているように見えた。
 正当なシステムルールのもと、運営は行われている。この世界をどこかで見ているだろう茅場晶彦は、恐らくそういう人間だろうという予感もあった。
 だが、人間のすることに絶対は無い。いくらカーディナル・システムによって制御されていようと、それもまた人間の作ったシステムだ。
 何らかのアクシデントや不具合が発生する確率はゼロではないだろう。しかしこのSAOではその時の為の通報先が無い。
 それが、こんなにも危険なことだとは、二年もSAO生活をしていて気付かなかった。それは逆を言えばこの二年バグらしいバグの発生が公には無かったとも言える。
 これまで考えたことは無かったが、それはそれで凄いことだ。どんな大手企業のゲームだろうと正式サービス後のバグは大抵存在するのだから。

「とりあえず、俺たちの家に連れて行こう。風邪を引くことは無いだろうけど、このまま放ってはおけないよ」

「そうだね」

 SAOでは風邪をひかない。どれだけ濡れ鼠になって放っておいても体調を崩すことはない。それはゲームの中だからであり、現実の身体に不調を来すほどのものではないからだ。
 濡れてもすぐに渇かすことが出来るし、それでなくともシステムが勝手にハイスピードで渇かしていく。
 天候によっては雨の日もあるが、雨の中にどれだけいようと装備や衣類が濡れて不快感を催したり動きに影響がでることはほとんどない。精々が視界を妨げられるのと足場が悪くなる程度だ。
 ゲーム故の仕様で、たった今湖に入ったばかりの二人も、眠ったままの女の子も、すぐに乾燥し始める。
 それがわかっているキリトは「よっと」力を入れて女の子を抱き上げ、家へと歩き出す。アスナもキリトに並んで歩き始め、家に着くまで心配そうにちらちらと眠り姫の様子を確認していた。



 家に着いても彼女は目覚めなかった。とりあえず寝室のベッドに寝かせて、二人は寝室を出て行く。
 アスナがオリジナルブレンドのお茶を入れ、それを受け取ったキリトは席について一口含むと、難しい顔をして考え込んでいた。

「大丈夫かな、あの子」

「大丈夫、だとは思うけど、目を覚ましてから話を聞いてみないことにはなんともいえないな」

「そうだね」

「ただいくつか気になる点がある」

「え? 何?」

「あの子に何があったのかはもちろんわからないし、カーソルの件もあるけど……いくらなんでもあの子は幼すぎる」

「あ……」

「確かSAOには年齢制限があったはずなんだ」

「うん、十五歳くらいだっけ?」

「ああ、でもあの子は見るからに十歳よりも下だ。規定に合わない。まあ守らない子もいるけど……でもここまで小さい子がやるゲームかっていうと……」

「そうだね、そういえば私の知っているプレイヤーでもあそこまで幼いプレイヤーはいないよ」

「俺もだよ、シリカでもギリギリのように感じたからなあ」

「……シリカ?」

 また女性プレイヤーらしき名前である。彼は知り合いが少ないと思っていたが、その少ない知り合いの殆どは実は女性プレイヤーだったりするのではないだろうか。
 だとすると一抹の不安を持ってしまう。

「あ、うん。前に知り合ったビーストテイマーの子でね。彼女が運悪くモンスターの群れに襲われて、彼女のテイムしていたモンスターを失ってしまう所に居合わせたんだ。それで《思い出の丘》に行くのを手伝うことになってさ。その時俺が受けていた依頼を達成するのにも無関係じゃなかったし」

「ふぅん……《思い出の丘》ってあの別名《フラワーガーデン》と呼ばれてる四十七層の?」

「ああ、そうだよ。無事に《プネウマの花》を手に入れて彼女の相棒は生き返った」

「むぅ」

「……アスナ?」

「ずるいなぁ、あそこは恋人が行くスポットじゃない。私も誘ってくれれば良かったのに」

 四十七層の《フラワーガーデン》と言えば有名なデートスポットの一つだ。実はアスナもあそこに一度はキリトと行ってみたいと思っており、だいぶ前にそれとなく誘ったことがあったのだがあえなく断られたことのある経緯があった。
 何だか少しだけ胸がモヤモヤする。アスナはすっくと立ち上がってキリトの背後に回り首を両腕で緩く絞める。
 そんなアスナにキリトは慌てたように弁解し始めた。首を絞められることは気にならないが、彼女が勘違いしてしまうといけない。

「い、いやまだそんなに仲良く無い頃だったから……」

「キリト君が避けてたんだよ。何度もお茶に誘ったのに断られたし」

「そ、そうだったかな」

「うん。その度にへこんでたよ……」

「……そっか。じゃあさ……今更だけど、今度一緒に行こう」

「……うん」

 キリトのその優しさに心が温かくなる。言わせてしまっている、という自覚はあったが、それでも言ってくれるというのがアスナは嬉しかった。
 そして彼女の好きになった少年は、彼女の不安や杞憂をいつも簡単に吹き飛ばしてくれる。

「それでさ」

「うん?」

「げ、現実でも、そういう所に一緒に行こう」

「……うん、うん。ありがとうキリト君。絶対に行こうね! 約束だよ!」

 首を絞める、もとい抱く腕に力を込める。密着した身体は、仮想上のものと言えどお互いの温もりをしっかりと伝え合ってくれる。
 キリトがポンポンと二回アスナの二の腕を叩く。苦しかっただろうか? と思いアスナは彼に抱き着く手を緩めた。

「きゃっ!?」

 瞬間、キリトはアスナの腰を持ち上げて自分の膝に乗せる。よく考えれば呼吸を必要としないここでは苦しいということはありえない。
 また家の中は圏内なので間違ってもHPが減ることは無い。謀られた? と思ったが、彼はこういうことにおいては直球タイプだ。単純にこうしたかっただけだろう。
 先ほどまでとは逆に、後ろから抱かれるようにしてアスナはキリトの膝の上にいた。

「も、もう……一言言ってくれれば……」

「ごめんごめん」

「だーめ、よいしょ、っと」

「わっ、ちょっ!」

 アスナは無理やり体勢を変え、膝の上に座ったままキリトを正面に見据える。やっぱり彼の顔を見られる方がいい。
 ゆっくりと彼の首に手を回し体を密着させる。彼の頭が丁度胸のあたりに来るが、構わない。

「お、おい! 当たってるんじゃ……」

「当ててます」

「あ、う、い、う……!」

 キリトが何か言おうとして言えない様をクスクスと笑う。この人は本当にそういうところも可愛い。
 ただあんまり続けると拗ねるので、ここらが潮時と体を離す。キリトが顔を真っ赤にしながら安堵している様子がわかる。
 そんなところも可愛いな、と思いながらふと思い立った疑問を彼にぶつけた。

「そういえばその時に受けてた依頼って?」

「え? あ、ああ……オレンジギルド《タイタンズハンド》って知ってるか?」

「聞いたことはあるわ。結構巧みにPKを繰り返すグリーンの混じったグループだって。でもいつの間にか黒鉄宮に送られてたみたいで……ってまさか」

「ああ、あいつらを送ったのは俺だよ」

「……そんなこともやってたんだね」

「いや、普段からやってたわけじゃない。ただ、最前線で泣きながらに自分の仲間を殺したあいつらを黒鉄宮に送ってくれって頼んでるプレイヤーを見て、どうしても手を貸したくなったんだ。《タイタンズハンド》を“殺してくれ”ではなく“黒鉄宮に送ってくれ”って頼むあの人は、どんな気持ちだったんだろうな」

「……そうなんだ」

「で、その時たまたまさっき言ったシリカが《タイタンズハンド》のリーダーに目を付けられたみたいでね。彼女の相棒を生き返すアイテムを手に入れたら案の定出てきたから、まとめて回廊結晶で送ったよ」

「……キリト君」

「……ん」

「キリト君はもう一人じゃないんだからね」

「……ああ」

「今度そういうことがあったら必ず私にも言うこと! 手伝うから。隠し事はナシだよ」

「わかった。そうするよ」

「うん、約束。さってと、それじゃあ今日はもう寝よっか!」

 アスナはぴょんとキリトの膝の上から降りると、両手を絡めて上に伸ばし、体をほぐす。ここSAOでは意味のない行為。
 それでも、現実世界の日常は抜け落ちないらしい。キリトも腰を上げ、しかし思い出したように言う。

「あ、でもベッドは一つあの子が使ってるだろ? 俺は揺り椅子で寝るからアスナはベッド使っていいよ」

「何言ってるのよ、昨日もう一緒に寝たじゃない」

「い、いや確かに寝たけど」

「今更恥ずかしがってもしょうがないし、一緒に寝ようよ」

「い、一緒に寝るって、そ、そんなあんな小さい子がいる隣で……」

「え……も、もうバカ─────ッ! そのままの意味だよ!」

「あ、ああ! そ、そうだよな!」

「キリト君のエッチ」

「ち、ちが……!」

 またも顔を真っ赤にして首をぶんぶんと振るキリトにアスナは笑いが込み上げる。過剰気味のフェイスエフェクトも自分の物でなければ微笑ましい限りだ。
 アスナには彼にそういうつもりが無かったのはわかっていた。むしろ少しはそういうつもりでも良かったのだけど、と思いながら彼の手を取りベッドへ連行。
 お互いラフな格好──と言っても流石に昨日のような恰好ではない──に着替え、もといアスナが設定し、キリトをベッドに押し込んでから自らもベッドイン。
 キリトはあんまり時間を置くと何かしら理由を付けて本当に揺り椅子で一人眠ってしまいかねない。

(そんなの、寂しいもの)

 夫婦になったのだから、何を躊躇うことがある。そうアスナは自分にも言い聞かせ、高鳴る仮想の心臓に「鎮まれ」と念じる。
 何も感じないようにキリトを誘ったアスナだが、実は結構な羞恥と勇気で一杯だった。それでも、彼をあそこで一人寝かせるのは嫌だったのだ。
 せっかく二人でいるのに、それではあまりに寂しすぎる。アスナはシーツの中でキリトの手を握る。
 キリトも握り返し、すぐにいつものように指を絡めあって、視線が合う。キリトは恥ずかしがってすぐに背を向けてしまったが、そんな彼の背中を見ながら眠るのも悪くない。
 この手さえ繋がっていれば、アスナは満足だった。

(おやすみ、キリト君)





「……う……ん」

 柔らかな木管楽器の旋律がアスナの意識を少しずつ覚醒させていく。アラームが、起きる時間だと彼女に教えていた。
 時刻は七時五十分。結婚したことによって見ることが可能となったキリトのステータスを何気なく見ていて、彼の起床アラームが八時になっているのに気付いたアスナはこっそり自分のアラームをその十分前に修正した。
 ちなみに修正前は何時だったのかは乙女の永遠の秘密であり謎である。それは例え茅場晶彦だろうと知ることは憚られる。
 アスナは暇ができるとよくよくキリトのステータスを見るようにしていた。そこに彼の辿った軌跡が見えるような気がして、彼をもっと知ることが出来るような気がして。
 ただそういった理由から見始めたはずの彼のステータスは、もはや一日でただの趣味と化しつつもあった。単に和むのだ。
 彼の状態を見ているというだけで、心が安らぐ。そうとう自分はやばいのかもしれない、なんてアスナは自己の行動に苦笑しながらムクリと上半身を起こした。
 隣ではまだ穏やかに眠っている愛しい人がいた。目を閉じて、素の顔をさらけ出すその顔はいつみても幼い。
 いつか感じた《守ってあげたい》という思いは、今尚……いや、より強くなっていて、アスナの心の割合を彼でほとんど埋め尽くしてしまう。
 アスナは彼と結婚してから前にも増して寝ても覚めても彼のことばかり考えていた。

「本当に、キリト君はずるいなあ」

 彼のせいではないとわかっていながらも、そう思わずにはいられない。自分の意識を掴んで離さない彼は、罪作りなほど愛おしい。
 たぶん、この人以上に人を好きになることなんてないだろう。生まれてまだ二十年も生きてない自分が言うと説得力に欠けるのかもしれないが、そういう確信はあった。
 それほど、自分は彼に惹かれている。彼を失いたくないと思っている。あるいは、彼が自分の手から零れ落ちるように消える瞬間の、質量が失われていくような感覚がトラウマになっているのかもしれない。
 でも、理由はどうでも良かった。彼の事が大事で、好きで、彼も自分をそういう人間として見てくれるなら、それ以上に望むものなんてきっとない。
 アスナは静かに彼の顔へと近づいていくと、彼が起きないのを確認してから唇を短い時間重ねた。

「えへへ……」

 寝ている彼の唇ゲットだぜ、と寝起きの妙なテンションでアスナは頬を染める。少し卑怯かもしれないが、それが許される関係なのだから大目に見てほしい。
 不思議と、穏やかな彼を見ていると唇を重ねたくなるのだ。昨日のボートでもそうだった。
 と、そこまで思ってから昨日のことを思いだし、慌てて振り返る。隣には幼い女の子が寝ているベッドがあるのだ。

「……」

「……あ」

 一対の視線が交差した。ぱっちりと目を開いている黒髪ロングヘアの少女は、真っ直ぐにアスナを見つめていた。
 どう考えても今この瞬間起きた顔ではない。と言うことは……、

(み、見られたぁ!?)

 羞恥に顔を染め、両頬を抑える。あたふたと何か言い訳を考えているうちに「ううん……」とキリトが起きる気配を感じた。
 ますます慌てたアスナはシーツを引っぱり潜り込む。ムクリ、と横でキリトが起きあがる気配がした。

「ん……おはよう、アスナ……ってどうしたんだ?」

「……な、なんでもない」

 シーツにくるまったまま、顔半分だけ出してキリトの顔を覗き見る。キリトは目を擦りながら首を傾げ……すぐにハッと表情を変えた。
 アスナの背中の向こうに、もう一つのベッドがあり、昨日終ぞ目覚めなかった眠り姫がぱっちりと目を開けていることにキリトも気付いたからだ。

「アスナ! あの子起きたみたいだ!」

「そ、そうだね」

「どうしたんだ?」

「な、なんでもない」

「……?」

 再びシーツに潜ってしまうアスナにキリトは首を傾げつつベッドから降り、女の子に近づいた。
 女の子は口を開かず、ぱっちりと開いた目だけがキリトの動きを追っていた。

「良かった、目が覚めたんだね。昨日何があったか覚えてるかい?」

「……き、のう……? わから、ない」

 少し間を置いてから、少女は起きあがって首を振る。長い黒髪がふわりと揺れた。
 彼女は本当に覚えていないようだった。キリトは質問を変えてみる。

「そうか、じゃあえっと……君のお名前は?」

「……ゆ、い……ユイ」

「ユイ、か。じゃあユイは誰か知り合いがいたりはしないのかい?」

「わから、ない」

「……うぅむ」

 お手上げだった。元来こういう対人関係がキリトは苦手だった。何を話していいのかわからないし、何て言ってあげていいのかもわからない。
 ここはやはり同性の力を借りるべきだろう。そう思って振り返るとアスナもそう察したのかようやくベッドから出てユイの隣に腰掛け、優しく声をかけた。

「ユイちゃん」

「……?」

「ユイちゃんのお父さんかお母さんはいる?」

「……わからない」

「そっか、それじゃあユイちゃんは何か好きなものはある?」

「好きな、もの……?」

「うん。食べ物でもいいし動物でもいいよ」

「好きなもの……わからない」

「うーん、わからないかあ。じゃあ嫌いなものはある?」

「嫌いなもの?」

「そう、例えばお化けとか」

「ぷっ!」

「こら! キリト君笑わないの!」

「だってそりゃアスナのことじゃないか」

「い、良いでしょ!」

「嫌いなもの……嫌な気持ちとか、悲しい気持ち、恐いこと、嫌い」

「っ! ユイちゃん……!」

 アスナはユイを抱きしめた。この子は、きっと何か嫌な思いをしたに違いない。そう直感したのだ。
 嫌いなものと聞かれて、嫌な気持ちになるのが嫌い、と《具体例》を出さずに答える子が世にどれだけいるだろう?
 《具体例》を出せないほどの何かが彼女の身に起こった、起こり続けていた、そうとも考えられると思うとアスナはそうせずにはいられなかったのだ。
 その様子をキリトも複雑な気持ちで見ていた。考えはアスナと同じで、彼女に一体何があったのか、考えるだけでも胸が痛くなる思いだった。

「あ……好きなものできた」

「ん? あった、じゃなく出来た、なの?」

「うん……好きなもの……今、この時」

「……!」

 アスナは彼女を抱く力を強めた。この子は、この子は……一体どれだけの経験をしてきたのか。
 そう思えば思うほどアスナの彼女を抱く力は強まる。ユイはそんなアスナに首を傾げ、しかし微笑んだ。
 キリトはそんなユイの頭を撫でる。

「そうか、良かったなユイ」

「……うん!」

「お、元気も出てきたな。良いことだ。俺はキリト、そんで今ユイを抱きしめてるのがアスナだ。よろしくな」

「えっと……」

「言い難かったから好きなように呼んでいいよ、ユイちゃん」

「…………」

 ようやく抱く手を緩めたアスナは、少し考え込むようにして黙ってしまったユイに優しく助け船を出した。
 彼女は今、見た目よりもさらに幼い印象を受ける。なら言いやすい言い方で構わないと思ったのだ。

「……わかった。あうな……あーな……なーま……なぁま……まぁま……まま……ママ……ママ!」

「………………………ふぇ?」

 しかし、ユイの呼び方は彼女の予想の完全斜め上を突き抜けていた。言い方が変化していったのだろうが変化していくにしてもその方向性はちょっとおかしい。
 ギギギ、と油の切れたブリキの玩具のように首をキリトの方に向けるとおかしくてたまらないとばかりにキリトはお腹を押さえていた。
 だがすぐにキリトは笑いを抑えるとユイに歩み寄る。

「そうか、アスナはママか。じゃあ俺の事はパパでいいぞ」

「パパ!」

「おお! 良い子だな」

「えへへー」

「ちょ、ちょっとキリト君!?」

 慌てるアスナだが、キリトはウインクをアスナに一つ向けるとユイをぐっと抱き上げた。
 ユイは嫌がる素振りもなく、されるがまま、持ち上げられてすぐにキリトの頭にしがみついた。

「ユイ、お腹空いてないか? ママに何か作ってもらおうな」

「うん!」

「アスナ、頼むよ」

「う、うん……わかった」

 一転、元気になったユイに面食らい、アスナはキリトの考えを何となく察して言葉を飲み込んだ。
 とりあえず、今は彼女の好きなようにさせてあげるのが一番だろう。
 だから、キリトに抱き上げられて「キャッキャッ」と笑っているユイが羨ましいとか、そんなことはない。絶対にない。

(べ、別に嫉妬なんかしてないんだから!)

「アスナ?」

「あ、ごめん。すぐに作ってくるね」

 不思議そうな顔をしたキリトにもう一度呼びかけられ、アスナは慌てて朝食の用意に取りかかった。




「パパ、それ美味しいの?」

「む? これか? これはユイにはちょっと辛いぞ」

 アスナが用意したサンドイッチをキリトとユイは頬張っていた。キリトのはアスナの手作りマスタードによるサンドイッチだ。
 キリトは比較的濃いめの味が好きだったりする。現実では濃すぎるものばかりは身体によくないが、ここでそれを気にする必要は流石に無い。

「むぅ、パパと同じのがいい」

「そうか、それならほら」

 キリトは自身が口を付けていたサンドイッチをユイの口元へ持っていく。ユイは目をキラキラさせてそれにかぶりついた。
 ばくん。むしゃむしゃ……はむはむ……ごっくん。
 その様を対面で見ていたアスナは少し頬を膨らませる。「いいなぁ」などと小さく呟きながら。
 しかしすぐにはそうも言っていられなくなった。じわ、とユイが涙を零し始めたのだ。

「からい……」

「だから言ったろ?」

「うぅ……ママぁ!」

 ユイは涙目になりながらとてとてとアスナの方へ走ってきた。アスナは慌ててお茶を飲ませてよしよしと頭を撫でる。
 ジッとキリトを睨むと「ごめん」と軽く彼も謝ってきた。そんなやり取りをしていると、今度はユイがアスナの前にあるフルーツサンドに興味を示し始めた。

「ママ、それ美味しい?」

「これ? うん、甘いよ。食べてみる?」

「うん」

 アスナはキリトがやったようにユイの口へと食べかけのフルーツサンドを持って行く。ユイはまた迷わずかぶりついた。
 ばくん。むしゃむしゃ……はむはむ……ごっくん。
 飲み込んだ直後、ユイは「ぱぁぁぁぁ」と音が聞こえそうな程笑顔になり、「美味しい! ママ!」とアスナに抱きついた。

「そう? 良かったねユイちゃん」

「うん。パパおかしい。ママ美味しい」

「ちょ、ちょっと待ってくれユイ、いやそりゃ確かにだな……」

「ママー!」

 ユイはサンドイッチの件が効いたのか先程までとは一転、アスナに甘えだした。キリトの弁明する余地がない。
 アスナはそれにクスクスと笑いながらユイを抱き上げた。甘えてくる彼女に、愛おしさが込み上げてくる。

「良い子ね、パパの言うことをなんでも聞いちゃ『メッ』だよ」

「うん」

「おーいアスナぁ」

 しょぼん、としてキリトは肩を落としテーブルに突っ伏す。何もそこまで言わなくても、と。
 アスナは笑いながら「ほら、パパを励ましてあげて」とユイを解放して背中を軽く押した。
 ユイは素直にキリトの元へトテトテと歩き、テーブルに突っ伏したキリトの頭を小さな手で撫でる。

「パパ、良い子良い子~」

「うう、ユイは優しいなぁ」

 ユイのナデナデパワーで復活したキリトは起きあがるとユイを抱き上げた。すぐに「キャッキャッ」という楽しそうな笑い声が上がる。
 それを、アスナも穏やかな気持ちで見ていた。先程、ユイが自分を頼ってきたせいかもしれない。彼女を本物の娘のようにさえ思ってしまう。

(子供、かぁ)

 子供が出来たらきっとこんな感じなんだろうな、とアスナは思い、ふと一昨日の夜の出来事を思いだして赤くなる。
 いつか、将来……現実世界に帰って、彼との間にもきっとユイのような子供が出来るだろう。なんとなく、その時は今みたいになるんだろうという予感めいた何かがアスナにはあった。

「うー」

「お、眠いかユイ?」

「らい、じょーぶ……」

 ユイはそう言いながらも舟をこぎ始め、うつらうつらと頭が揺れていた。食べたばかりな上にはしゃいで疲れたのだろう。
 キリトはユイを寝室のベッドへ連れて行く。ユイをベッドで横にさせると、糸の切れた人形のように彼女は動かなくなった。
 SAOでは呼吸をしない。眠っているとわかっていても、その様は少しだけキリトを不安にさせた。

「眠っちゃった?」

「ああ、疲れたんだろうな」

「そっか」

 寝室に顔を見せたアスナは、忍び足でベッドまで近づくと、眠っているユイの額を優しく撫でる。
 瞬間、心なしかユイの表情が綻んだように見えた。それを見て、何となく安堵する。

「……どうしよう、キリト君」

「そうだな……」

 ユイについての処遇をどうするか思い悩む。一緒にいてやりたいという気持ちはこの僅かな時間で驚くほど膨れあがっていた。
 しかし、そういうわけにもいかない。いずれは攻略に戻るつもりだったし、仮に戻らなければその分SAOからの解放は遠のいてしまう。
 速く元の世界へ返してあげようと思えば攻略に参加する方がいい。自分たちの能力……とりわけキリトのそれは攻略組でも上位に位置するとアスナは分析していた。
 彼が攻略に参加していない現状は、恐らくこれまで彼を《ビーター》と罵っていた人達にとってもどれだけの痛恨時か分かっている頃だろう。
 マッピングは確実にいつもより遅れているはずだ。だが、参加すればこの子はどうなるのか?

「とりあえず、この子の知り合いを捜そう。見たところ、本当に何もわかっていない様子だし、こんな小さい子が一人で居るのも不自然だと思う」

「うん……」

「明日にでも始まりの街へ行こう、あそこには攻略に参加していないプレイヤーが殆どいるはずだ」

 お互い、思っていても口には出さない。彼女が、SAOというデスゲームに巻き込まれた恐怖によって精神的にダメージを受けている可能性を。
 考えたくなかった。口にすればそれが事実になってしまいそうで言いたくなかった。しかし、彼女の最初の言葉が嫌でも浮かんでしまう。


『嫌いなもの……嫌な気持ちとか、悲しい気持ち、恐いこと、嫌い』


 彼女に何かがあったのは間違いない。しかしそれを根掘り葉掘り調べたり聞いたりしようとは思わなかった。ただ、出来るなら手を差し伸べてあげたい。
 戦闘中のような《接続》でなくとも、二人の気持ちは同じだった。

「さて、それじゃあ私、買い物に行ってくるね」

「買い物?」

「うん、ユイちゃん用に甘いものとか、作れる材料買ってくるよ。こんなこと予想してなかったからキリト君好みの材料しか用意してないし」

「俺好みって……そういや俺の好きなものばっかりよく作ってくれるけど、俺好き嫌い言ったことあったっけ?」

「さて、どうでしょう?」

 アスナは微笑んではぐらかす。実は彼が心を許してくれるまで、数少ない彼との食事の機会の際に彼の好みを密かにチェックしていた、というのは恋する乙女だったころの永遠の秘密だろう。
 それを言って今更何が変わるわけでもない。しいて言うなら、その努力もあって気持ちが通じた。それでいいとアスナは思っている。
 キリトの「俺も一緒に行こうか?」という甘美な誘いを断腸の思いで断り、アスナは一人で新居であるログハウスを出て行く。
 ユイが目覚めた時、一人では寂しいだろうと思ったのだ。

(速く買い物を済ませて帰ろう)

 アスナは自身の高い敏捷力を最大までゲインして《コラル》へと向かった。


 この時、アスナは知らなかった。そんな自分が見られていたことに。
 気付かなかった。その《狂気》に。

 だがそれも仕方の無い事。なにせ相手は、遥か遠くにいたのだから。





 分厚い紅と白の入った金属鎧を身に纏い白いマントを付けた男性プレイヤーがニタァと笑う。カーソルはグリーン。出で立ちからして、間違いなく《血盟騎士団》のそれだろう。
 彼の長髪はだらしなく垂れ、目は厭らしいほど釣り上がり、口からは涎を垂らしていた。もっとも、SAOの仕様故に、その涎は地面に落ちる頃には消えて無くなっている。

「見つけたぜぇ……! ヒャハハ───!」

 下卑た笑みが森に木霊する。常軌を逸したような顔で笑うその《血盟騎士団》と思われる男性プレイヤーの耳には、《金色のピアス》が付けられていた。



[35052] SAO9
Name: YY◆90a32a80 ID:1a43ae77
Date: 2012/10/12 21:34


「ふにゅ……ん」

 むくり、と白い影が起き上がる。ユイだ。ユイは目をぱちぱちと瞬きさせるとベッドから飛び降り寝室を出た。
 すると、部屋ではキリトが二刀を携えて空を切っていた。ビュウン! と風を切る音は速い。

「ん? ユイ、起きたのか」

「うん、起きた。ママは?」

「そっか、ママは今ユイのために美味しいもの買いにいってるからな。すぐに帰ってくるよ」

 キリトはユイに微笑むと、剣をアイテムストレージに仕舞い、アスナにメールを打っておく。
 「ユイが起きたよ」と。すぐに返信メールが届いた。「もうすぐ村を出るから」と書かれたメールを見て、キリトは笑う。
 自分も大概だが、アスナもそうとうユイを気に入ったらしい。出る前にアスナは「暗くなる前には戻るね」と言っていたが、本当にそうなりそうだ。
 彼女の敏捷力を持ってすれば不可能ではないが、それはもう買い物ではなく常時戦闘中のような敏捷力ゲインの仕方だろう。

「ユイ、ママはもうすぐ帰ってくるってさ」

「わかった! 待ってる!」

 ユイはアスナが帰ってくると聞いて喜び、家のドアを開け放って外に出た。なんとも微笑ましい。
 もうすぐ、と言ってもそんなにすぐじゃないぞ、と思いながらキリトはユイの後を追う。

 この時、キリトは油断していた。
 ここ二十二層はフィールドにモンスターが自然湧出(オートポップ)しない。
 故に危険は無いと踏んでいた。忘れていた……いや、頭に無かったのだ。
 モンスターが出なくとも、家を一歩出ればフィールド、圏外だということを。

「きゃぁあああ!?」

「ユイ!?」

 ユイのただならぬ声にキリトは即座に最大敏捷力をゲインし外に躍り出る。
 そこで見たのは、自分の知る顔であるプレイヤーがユイを捕まえ、剣を喉元に突きつけている姿だった。

「お前……! クラディール!」

「久しぶりだなぁキリトさんよぉ……!」

 長髪を後ろで縛り、紅白の金属鎧に白いマントを付けた、かつてデュエルで対決したことのある《血盟騎士団》のプレイヤー、クラディールがそこにいた。
 アスナの元護衛である彼は、キリトとのデュエルに敗北した後も、納得のいかない様子でキリトを憎々しく睨んでいたことをキリトは覚えていた。

「何のつもりだ! その子を離せ!」

「ヒャッハッハッハ! それが人に物を頼むときの態度かよ。え? お尋ね者の《ビーター》野郎が!」

「お尋ね者……?」

「まさか、知らなかったのか? こいつは傑作だな! お前さん、《血盟騎士団》の中じゃ今やお尋ね者だぜ。我らが副団長を誑かし、誘拐したってな!」

「なっ!?」

 アスナは超人気プレイヤーだ。彼女がギルドを抜けてまで誰かと一緒になるということはそれ相応の問題が発生するとは思っていたが、まさか事態がそこまで進行しているとは思わなかった。
 だが、あのヒースクリフがお尋ね者などという無法じみた手法を使うとは思えない。彼とは長い付き合いではないが、なんとなくの性格は理解しているつもりだった。

「ヒースクリフの指示か?」

「団長? 団長の言葉はこうだ。『彼女の脱退をそうやすやすと認めるわけにはいかない。そのうち交渉に行くことにする。皆も探して交渉するというのなら構わない』だとさ」

「……」

 キリトは舌打ちする、ヒースクリフらしい物言いだが、それではこうやって自分たちの良いように解釈した奴らが動き出すことは十分に考えられる。
 それがわからない彼ではないだろうが、ヒースクリフ自身も思うところがあるのかもしれない。

(アスナは人気だからな……)

 それもしょうがないことか、と思いつつキリトはクラディールを睨む。だからと言って今やっていることが正当化されるわけではない。
 ユイは無関係なのだ。

「事情はわかった。だがその子は関係ないだろ、離せよ。それに今アスナはいないんだ」

「何言ってんだお前? 馬鹿じゃねぇのか? 言っただろうが! それが人に物を頼むときの態度かってな!」

「……どうすればいい?」

「装備は……してねぇな。都合が良いぜ、そこを動くなよ」

 キリトは言われた通り棒立ちのまま動かない。それを見ながらクラディールはユイに剣を突きつけたままキリトににじり寄っていく。
 その顔は楽しくて仕方がない、という表情で染められていた。

「パ、パパ……怖い……この人、怖い、いや……!」

「大丈夫だユイ」

 キリトはユイを不安にさせないよう、優しく声をかける。大丈夫だよ、と。
 その会話を聞いていたクラディールが面白そうに言う。

「パパだと? ガキ作ったのかよ? そもそもガキなんて作れるのか? まあいい、本当に大丈夫だといいなあオイ!」

 クラディールは腰から小さい短剣を取り出した。刀身には薄緑の粘液が塗られているようだった。
 キリトはそれに見覚えがあった。クラディールは楽しくて堪らないとばかりに口端を釣り上げてキリトにその短剣を突き刺した。

「ぐっ! お前……それ、麻痺毒、か……!」

「流石によく知っていやがるなァ《ビーター》さんはよォ」

 クラディールのカーソルがオレンジに変わる。対プレイヤーに危害を加えた証明だ。
 だがクラディールは構うことなく、捕まえていたユイを突き飛ばすと動けないキリトの太股に大ぶりの両手剣を突き刺した。

「ぐっ!」

 不快感がキリトを襲う。ペイン・アブソーバによって薄められている痛覚はキリトにその痛みを正確には伝えない。
 しかし酷く感触の悪い、異物が体内に混入されているかのような痺れる感触は気持ちのいいものではない。
 加えて、キリトのHPバーが徐々に減少していく。

「おま、え……カーソルがオレンジになってるぞ……!」

「ヒャハハ! 今の《血盟騎士団》ならお前を殺してきたって言えば英雄扱いされるぜ!」

「英雄、ね……その割には楽しそうだな……居るところがおかしいんじゃないのか……?」

「ほぉう? 流石は目の付け所が違うな、いいぜ、見せてやる」

 クラディールはそう言うと、腕の一部の装備……ガントレットを解除した。そこに……《黒いタトゥー》が現れる。
 カリカチュアライズされた漆黒の棺桶。蓋には笑う口と眼が描かれ、ややずれた棺桶の隙間からは白骨の腕が飛び出ている。
 キリトはそのエンブレムに見覚えがあった。忘れたくとも忘れられるものではない。

「それは……《笑う棺桶(ラフィン・コフィン)》……!」

 《笑う棺桶(ラフィン・コフィン)》。犯罪者ギルドの中でもトップを誇る最低最悪のギルドだった。そのあまりの卑劣さと勢力から大規模な討伐隊が攻略組から組織されたほどで、キリトもその討伐には参加している。
 最低最悪の戦いだったことは間違いない。キリトはそこで、やむなく名前すら知らない二つの命をその手にかけていた。それは今なお、彼の胸の奥で昏い火を灯している。
 だが、これでクラディールの《手慣れたPKまがいの戦い》に合点がいった。普通なら、ここまでやるプレイヤーはそういない。
 ギルド内でそういう風潮になっていようとも、だ。オレンジプレイヤーを英雄扱いしたギルド、というのは悪評に外ならない。
 仮に《血盟騎士団》ではそれを正義と掲げたとして、他のすべてのギルド、プレイヤーが同じ考えを持つかと言えば、そうとは言い切れない。
 それほど、一般プレイヤーが持つオレンジカーソルへの忌避感は強い。そして、大ギルドと言えど集団心理に逆らうことは難しい。
 トップギルドだろうと、全プレイヤー数から見ればその割合はごく僅かな人数だ。周り全てを敵に回してやっていけるほどこのSAOが甘くないことは二年も生活しているプレイヤーならほとんど理解している。

「言っておくがラフコフの復讐とかそんなダセェ真似のためにお前を狙ってるんじゃねェ、《血盟騎士団》の為でもねェがな! ただお前は気に入らねェ……恥かかせやがって……!」

 それは以前のデュエルのことを言っているのだろう。完全なる逆恨みだが、この手の人間には何を言っても無駄なことはわかっている。
 クラディールは太股から剣を抜くと、今度は右腕に突き刺す。グリグリと捩じり、体重をかけることで、通常ダメージに加えて発生する貫通ダメージに上乗せを図る。
 キリトのHPバーがじりじりと減っていく。既にイエロー、注意域にまでバーは落ち込んでいた。

(くそ、どうにか毒が抜けるまで時間を稼がないと……!)

 キリトはやられながらも頭を働かせていた。もとより今できることはそれ以外にない。
 幸いクラディールは饒舌だ。興味のあることならペラペラ喋るだろう。

「お前、なんでここがわかったんだ?」

「ああ? そりゃお前、情報屋のリストにも載ってないとんでもねぇレアアイテムをドロップしちまったからよ」

「とんでもないレアアイテム?」

「お? お前自分がこれから殺されるってのにレアアイテムの事が気になるのかよ! ゲーマーの鏡だな。良いぜ、特別に教えてやるよ」

 クラディールは笑いながら左耳を見せる。そこにはキリトも見覚えのある金色のピアスがあった。
 《盗賊のピアス》だ。効果はアスナから聞いている。あれがあればどこに誰がいるのか調べるのは、ましてや今みたいにタイミングを計るのはたやすいだろう。
 そう、キリトの本当の目的、知りたいことは、どうやってここに来たのか、ではなく、《何故アスナのいないタイミング》で来られたのかというものだった。
 一応まだ《血盟騎士団》の正装をしているからには、この男は《血盟騎士団》を名乗り所属しているはずだ。でなければ隠蔽ボーナスの恩恵を得られない派手な《血盟騎士団》の正装をしているメリットが無い。
 目的はわからないが、この男にはまだ《血盟騎士団》に未練があると思われる。アスナがここに居合わせたなら、《血盟騎士団》との縁は切れると言っても過言ではない。
 だから、どうやってこのタイミングで現れることが出来たのか知りたかったのだが、それは意外にもあっけなくわかってしまった。
 時間稼ぎも含めていたキリトとしてはよろしくない誤算だ。

「こいつはな、《覗き見》……早い話が透視することができるレアアイテムなのさ。これでこの層に来たときお前らを見つけたってわけだ」

「……? この層に来た時?」

「目撃証言を辿ってきたからな。一応怪しい層は一通り調べてここに行きついた」

 少しだけ、キリトは眉をひそめた。アスナの言っていた機能を使えばもっと速く、楽に見つけることも可能だったはずだ。
 何故それをしなかったのか。あるいは出来なかったのか気付かなかったのか。そういえばアスナもその機能に気付いたのは偶然だと言っていた。

「さて、あんまり時間をかけて毒が切れてもやっかいだしな。それじゃそろそろ死ぬか? お?」

 クラディールとて馬鹿ではない。キリトの時間稼ぎの意図には気付いていた。それでも彼は口数を減らすことは無い。
 あのデュエル以降、この時の為に、この時を夢見て彼は歯をくいしばって耐えてきた。彼にとっても傷つけられたプライドと失った自尊心をたっぷりと返してもらわなければ割に合わなかったのだ。
 その様を離れたところで見ていたユイが、いやいやをするように首を振る。

「パパ、パパ……!」

「っ、ユイ……」

「本当にこのガキはなんなんだ? SAOでガキを作れるってのは聞いたことがねぇが……ヤればできんのか?」

 ユイの泣きそうな顔を見て、キリトは一つの事を思いだしていた。それは……彼女の言葉と、交わした約束だ。
 「もう勝手に死ぬなんて許さないから」と言われたそれはまだ記憶に新しい。そう、彼女は自分の死を許さない。
 何より、自分が死ねば「私も死ぬ」と言った彼女の言葉に偽りはあるまい。ならば自分は諦めるわけにはいかないのだ。

『責任重大だからね、キリト君。これでキリト君は簡単に命を諦められなくなったんだから』

(アスナ……!)

 確かに責任重大だ。ソロプレイをしていた頃ならとっくに諦めていたかもしれないこの状況。
 しかし今諦めるわけにはいかないことをキリトは自覚した。

「お、おお……!」

「ん? なんだ? やっぱ死ぬのは怖いか? 嫌か? そうこなくっちゃなあああああああ!!!」

 クラディールの顔が狂気に染まる。キリトが必死になるのをむしろ待っていたかのように。
 それでこそ殺しがいがあると言わんばかりに。クラディールはキリトの体の中心に剣を二度三度突き立て、グリグリと動かす。
 それでキリトのHPバーはレッド、危険域にまで落ち込んだが彼は諦めない。
 麻痺中はシステムメニューを開けない。動かすことが出来るのは肘から下の左手と口だけだ。右手は動かせず、右手でなければシステムメニューを開けない。
 大抵は既にオブジェクト化したアイテムをポーチの中などに入れておいて緊急時に使うが、今キリトはそういったものを何も用意していなかった。
 前線よりはるか下という奢りがあった。モンスターの湧出(ポップ)が無いと油断していた。それがこの結果を招いた一因になっている。
 現状は万事休す。打つ手はない。それでも、彼は諦めるわけにはいかないのだ。何故なら彼の肩には、アスナの命までもかかっているのだから。




 そんな必死になるキリトを見て、ユイは願う。強く願う。思う。強く思う。
 通常、それだけで何かが届くことはありえない。ましてやここは電子の世界。
 非科学的なことは起こりえない。もしそれが起こるとすれば、それは──必ずどこかに科学的ロジックが存在する。
 だが、今はそんなことは関係ない。考える者もいない。一つ言えるのは、届くはずのないそれが、《届いた》ということだけだった。


(ママ、ママ……! パパを助けて……! イヤァァァァァ!!!)




 アスナがそのユイの声を聞いたのは偶然だったのか。
 だがユイの緊迫した声にただ事ではないことを悟ったアスナはそれまで最大だった敏捷力を、《極限》までゲインした。
 最大と極限。そこに数値的なものでの変遷は無い。だが、心のありようと動きには多大な差が発生する。
 アスナの言う最大は、自分が自分でいられる、いわゆる安全マージンを取った状態での能力使用を指している。
 緩めるときは緩め、木々にぶつからぬよう考えて行動する。しかし、極限状態は違った。
 主に、ボス戦での彼女は極限と化す。考え、避けるとはしない。アクセルは常にフルスロットル。
 ぶつかるなら壊す、壊せないなら反動を利用してでも先へ。もっと先へ。コンマ一秒すら惜しい。後退を考えない。考えられない。
 思考を、二つ名の通り《閃光》のように加速させる。速く、もっと速く。悪く言えば捨て身とも取れる、前進のみの突撃体勢。
 バックアップを完全信頼してこそできる芸当。普段はやろうと思ってもなかなかできることではない。それだけの緊迫した状況と集中力を必要とする。
 恐らく、ボス戦以外でアスナが《極限化》するのはこれが初めてだ。その必要が無かったし、狙ってできることではない。
 しかし、彼女の中の何かが、そうしなければならないと囁いていた。

(キリト君……!)

 彼の名前を意識するたびにその囁きのような不安は増大していく。
 そうして、アスナは恐るべきスピードでその場へ登場することに成功した。
 自身が所属していたギルド、《血盟騎士団》のクラディールが愛する人を殺そうとしている現場に。
 駆ける足は止まらない。止められない。止められるわけがない!

「!? な、あ、アスナさ……まっ!?」

 驚愕で染まるクラディールを、アスナは問答無用で吹き飛ばした。無茶苦茶なやり方の《体術スキル》に該当するタックルだったが、クラディールは数メートル程吹き飛んだ。
 だがアスナの興味にクラディールはミジンコ一匹分たりとも存在しない。すぐにキリトに駆け寄る。

「生きてる!? 生きてるよねキリト君!?」

「あ、ああ……」

「待ってて……!」

 アスナはすぐにアイテムストレージからピンクの結晶をオブジェクト化すると、キリトの胸に当てて「ヒール!」と唱える。
 すぐにキリトのHPは残り数パーセントの状態から全快にまで回復した。それを見て、アスナは心底安堵し……クラディールへと振り返った。
 その顔は怒気に染められ、殺意さえ相手に与えていた。

「っ!  ア、アスナ様、探しましたよ! さぁ、団員が待っています、帰りま───っ!?」

 クラディールはアスナの突然の登場に驚愕していたが、すぐニヤリと笑うと彼女に寄りながら口を開いた。
 しかし彼は言葉をすべて紡ぐことが出来なかった。不快感さえ醸し出しているアスナの細剣(レイピア)による刺突が彼の口を切り裂いたからだ。
 顔面は被ダメージが特に大きい。今の一撃で死にはしないだろうが、クラディールのHPがごっそり削られたのは間違いなかった。

「こ、このア──」

「うるさい」

 クラディールは再び言葉を紡ぐことを許されなかった。《閃光》……その二つ名は伊達ではない。
 再び口を切り裂かれ、尚も激昂したクラディールはしかし、アスナに防戦一方……もとい防戦すらできないでいた。
 彼女の剣速が速すぎる。クラディールが一つ武器防御する間にアスナは三回攻撃している。レベル差から敏捷力の差があるといっても、それは驚嘆に値した。
 すぐにクラディールは青ざめていく。ここまで差があるとは思っていなかったのか。彼の知る彼女よりもはるかに今の彼女は速かった。
 無理もない。キリトでさえ、目で全ては追いきれない程の速度が出ている。彼女は今、二年のSAOプレイ中最速を叩きだしている所ではないだろうか。
 クラディールのHPバーはみるみる減少していき、注意域をすぐに超え、危険域にまで達した。残りは二割程度だ。
 勝てないと悟ったのか、クラディールは剣を投げ捨て平伏して命乞いを始めた。

「わ、悪かった! 殺さないでくれ! お、俺だって副団長が心配だったんだ! 《ビーター》に誑かされてると思って──がっ!?」

 クラディールの言葉を聞き終わらないうちにアスナはクラディールを蹴り飛ばした。また少し、彼のHPが減る。
 彼の言葉の中に出てきた《ビーター》という言葉が何故か酷くアスナの勘に障った。何よりその《視線》が気に入らない。
 スタスタと歩いて、細剣(レイピア)を逆手に持ち、クラディールにトドメを刺そうと構える。

「わ、わかった! もう嘘はつかねェ! あんたらの前にも現れねェ! だ、だから……死、死にたくねェェェッ!」

 頭を抱えて蹲るクラディールに、ピタリ、とアスナは剣を止めた。別に彼を殺すことに躊躇ったのではない。
 今のアスナに憐みの気持ちはほとんどない。先日、キリトを一瞬とはいえ失った恐怖が、彼女の中に未だ根深く残っている。
 自分が死にたくなるような喪失感と哀しみ。彼の質量を失う恐怖。一度あれを知ってしまってから、アスナの彼を失いたくないという気持ちは既にオーバーフローしている。
 その彼の命を奪いかねなかった相手の命を取ることに、アスナは躊躇を感じなかった。それが初めてのプレイヤー殺しになろうとも、構わないと思った。それほどまでに、彼が大事だった。
 だから、そんな彼女を止めたのはクラディールという一人の人間を殺すことへの躊躇いなどではない。

「…………」

 一対の瞳が作る、小さい視線。それがアスナを押しとどめた理由だった。
 ユイが見ていた。アスナの灼熱しきった負の感情が織りなす暴風がごとき様の全てを。
 その目は、哀しみと恐怖が渦巻いていた。彼女に、これ以上そんな顔をさせたくなかった。
 ユイに、自らが殺しをする様を見せたくなかった。

 だが、クラディールはそれを殺人への躊躇いと勘違いした。

「甘ェェェ──────ンだよ副団長サマ!」

 起き上がったクラディールはアスナに飛びかかり、全身で彼女を抑え込んだ。
 アスナは敏捷力に多大なステ振りをしているが、そのせいで筋力はさほどでもない。
 残念なことに、クラディールの方が筋力は勝っていた。両腕を掴まれ、地面に叩きつけらたアスナは細剣(レイピア)を振れない体勢へ追い込まれた。

「甘ェ甘ェ甘ェ! これだから甘ちゃんはよォ! ヒャハハハ───!」

 ギラついた目で自分が馬なりになった相手、アスナをクラディールは見やる。だがアスナは、全くもって落ち着いていた。
 舌なめずりしながら、クラディールは笑う、いや嗤う。

「流石は我らが《血盟騎士団》副団長サマ、ってか? こんな状況でも澄ました顔していやがんな。状況わかってんのか? え?」

「……貴方こそ状況わかってるの?」

「あァ、アンタが俺から逃げられねェってことはわかっているぜェ!」

 楽しくて仕方がない、というようにクラディールは嗤う。その嗤いが酷くアスナの神経に障る。
 一分一秒でも、こいつの傍にはもういたくなかった。だから、

「そう、じゃあいいわ、さよならクラディール」

「はぁ? おいおい何言って……」

「一つだけ教えておいてあげる……あなた、視線がいやらしいのよ!」

 アスナが人差し指を動かし《タップ》する。それで全ては事足りた。彼女は一瞬、《そうなった理由》……彼の耳についている《金のピアス》を見た。
 クラディールが「え?」と驚いた顔をする。しかし、それがすぐに何を意味するのかわかった。
 ハラスメント防止コードによる強制転送。SAOではハラスメント行為を行ったプレイヤーには行われたプレイヤーがOKボタンをクリックするだけで黒鉄宮の監獄エリアへ飛ばす仕様が採用されている。
 クラディールはそれ以上、何かを言う前にその姿をライトエフェクトに変えられ、消えた。監獄エリアに犯罪者として転送されたのだ。





 アスナは戦いを終えるとキリトの元に駆け寄った。ちょうどキリトは麻痺毒が解けて動けるようになったところだった。
 アスナはキリトに抱き着いてその質量、仮想なる実体を確認する。

「キリト君、キリト君!」

「大丈夫だよ、ごめん、アスナ」

「ううん、生きててくれれば、それで良いよ」

 確かに彼がここにいる、それが全てだった。彼に触れ、彼が確かにそこに存在している証を体一杯に感じる。
 キリトが彼女の頭を撫でる。栗色のストレートヘアーがさらさらと揺れ、アスナにキリトの感触を与えていく。
 それで、ようやくアスナは安心することが出来た。

「そうだ、ユイは?」

「あ……!」

 キリトに言われ、すぐに周囲を見渡す。ユイは少し離れたところにぺたんと腰を下ろしていた。
 アスナがユイに駆け寄ろうとして、止まる。

「……っ!」

 ユイの目が恐怖を孕んでいた。哀しみの表情をしていた。どことなく、アスナを拒絶しているように見えた。
 近付きたいのに、近付けない。そんな壁を一瞬にして感じる。
 無理もないのかもしれない。先ほどまでの自分はさぞ怖かったことだろう。代わりにキリトがユイに近寄り、そっと彼女を抱き上げる。

「大丈夫か、ユイ」

「う、う……!」

 泣きそうな声を上げるユイ。その声を聞けば聞くほどアスナの胸も痛んだ。その声を出させているのは自分のせいでもある、と。
 キリトはユイの頭を撫でながら、優しく言う。

「ありがとうユイ、アスナと……ユイのおかげで俺は助かったよ」

「……?」

「ユイがアスナを呼ぶ声が聞こえたんだ。そうしたら、アスナが来てくれた。ユイがアスナを呼んでくれたんだ」

「!」

「う、うぅ…………うぅぅぅぅうううう!!」

 ユイは涙をぼろぼろと零し、キリトにしがみついて泣いた。だがすぐにキリトに降ろして、と言って降ろしてもらう。
 そんな姿をアスナは胸を痛めながら見ていると、ユイが今度はアスナに駆け寄り、ばふっと抱き着いた。

「ママ、ママぁ!」

 甘えるように泣くユイに、アスナはいろんな感情が無い混ぜになって湧きあがってくる。
 怖くないの? 私にも甘えてくれるの? 大丈夫? 怖いの? 私でもいいの? 良いの?

「うう、ユイちゃん……!」

 アスナはユイを強く抱きしめた。彼女が自分にも抱き着いて泣いてくれたことが、嬉しかった。
 ユイと同じように、彼女もまた涙を流していた。
 


 泣きつかれたユイを寝室で寝かせた二人は、今日のことの情報整理をしていた。
 アスナはキリトからクラディールの話を聞き、それまで見ることをほったらかしていた自身のギルドに関する情報を久しぶりに確認する。
 驚いたことに、彼女は脱退したことになっておらず、副団長として《血盟騎士団》に所属したままになっていた。

「嘘……」

「まあ、KoBからすると、アスナは失い難い存在だからな」

「ごめんキリト君、私がもっとちゃんと気付いていれば……」

「アスナのせいじゃないさ」

 アスナはどうせ引き止められるだろうと思い団員からのメールはある程度ブロックしていた。
 フレンドリストもギルドの中でだけの付き合いの人、とりわけやたらと自分を神聖視するような相手は削除していた。
 引き留められる予想はしていたのだ。だが、折角の新婚生活に水を差されたくないと思ったアスナは、いずれ前線に戻るから、ごめんね……と少しの間のつもりでギルド関係から来るであろうパイプラインをほぼカットしていた。
 それを責める気はキリトにもない。自分でも同じことをしただろうし、事実チェックしてみれば半数はキリトの悪評をつらつらと綴ったもので、他には戻ってくださいというような引き留める内容のものばかり。
 意外なことに雑事についての質問や問い合わせは一つ二つ程度だった。それもアスナの目から見れば自分に確認を取らなくてもよいものだ。

「今度、ギルドに抗議しに行くよ私」

「いいのか?」

「うん。きちんとけじめをつけないと。クラディールのこともあるし」

「わかった。《血盟騎士団》のことについてはアスナに任せるよ。でも、無理はしないでくれ」

「うん」

「あ、そういやちょっと気になったんだけど、最後なんでハラスメント防止コードが使えたんだ? 俺には何が起こったのかよくわからなかったんだけど」

「ああ、そのこと。キリト君もクラディールが《盗賊のピアス》を持っていたのには気付いた?」

「ああ」

「彼、私が現れてからあれでずっと私の服を透視してたみたい。私はキリト君のこととそれのこともあったせいでかなり頭にきたんだけど」

「……は?」

「私が吹き飛ばして起き上がった後は、ずっと透視してたのよ彼。私にはハラスメントウインドウが見えてたけど、クラディールの様子から相手には見えてないんだなって思ったわ。恐らくあのピアスで起きたハラスメント事象は起こした方には警告コードを感知できない仕組みになっているんじゃないかしら?」

「俺にも見えてなかったぞ。いやそうじゃなくて」

「あ、そうなの? じゃあハラスメントを受けた人にしか見えないのかな? かなりのチートアイテムだけどそう考えると知らずに使った途端ハラスメント転送もありうるのね。何それ怖い」

「そうだな。いや、だから問題はそこじゃなくて」

「前にちょこっとキリト君見た時実はやばかったのかも。でもSAOって男性から女性へは結構厳しいハラスメント張ってるけど逆はそうでもないのよね」

「……いやいやいや、ちょっと待て、一番大切なことを確認させてくれ」

「ん? 何?」

「じゃあ何か? あいつアスナの下着姿か裸を見てたのか?」

「多分……」

「…………俺ちょっと黒鉄宮行ってくる。大丈夫だ、相手はオレンジカーソル、何をやっても俺がオレンジになることはない。せいぜい生命の碑にある一つの名前に傷が刻まれるくらいだ」

 キリトが久しぶりに完全武装したのを見て慌ててアスナは止める。流石にもうそこまでの必要は無い。
 だが、キリトのその思いは純粋に嬉しかった。

「もう……私も人のこと言えないけどキリト君も冷静になってよ。それに大丈夫、ほとんど見る暇がないように連撃をお見舞いしてたんだから」

「ああ、それで……」

 どおりで速すぎると思ったのだ。あのアスナの剣戟はいくらなんでも些か速すぎた。だが確かにあれではそんな暇はあるまい。
 いや、もしくは最初にいやらしいことを考えていたからクラディールは二度も顔面に攻撃を食らったのかもしれない。
 再び背中の剣にキリトは手を伸ばすが、二秒ほど柄を掴んでからぐっと堪えて手を離す。落ち着こう、と思ってふと好奇心が湧いた。

「ちょっと使ってみていいか?」

「使うって何を?」

「《盗賊のピアス》だよ」

「まさかキリト君……」

 ジロリ、とアスナに睨まれる。キリトは慌てて弁解した。クラディールのような使い方をしたかったわけではない。
 単純に気になったのだ。

「違う違う! ただあいつ、前にアスナが言ってた《過去の覗き見》って気付いてなかったみたいだから。それに透視ってのがどんふうになるのかも少し興味あったし。べ、別に誰かの服を透視したいとかそんな理由じゃないよ!」

「ふぅん、まあいいわ。でもクラディールは気付かなかったのね。まあ私も偶然気付いただけだし」

「そうそう。前にもそんなこと言ってたよな? あの時はいろいろ聞く暇なかったけど……それってどういうことだ?」

「うーん、使ってみてもらった方が早いかも。装備してみて」

「わかった」

 キリトはアイテムストレージから《盗賊のピアス》を装備する。すぐにキリトの左耳に金色の輪が現れた。
 そのままキリトは壁を注視する。それで、壁が透けていくのがわかった。

「透視はそのままでも使えるの。だから《覗き見》って書いてるスキル一覧はそれのことだって思ってたんだけど……えっ?」

「あっ?」

 アスナの説明中に、金のピアスは音もなく崩れ去った。二人が驚いて顔を見合わせる。
 二人の目の前にはシステムウインドウがポップアップした。


【このアイテムの《使用制限》を超えました】


「使用、制限……?」

「そういうことか……」

 アスナが首を傾げていると、キリトは納得したように頷いた。
 アスナはキリトにどういうことなのか尋ねる。実は彼女はゲームをあまりしたことがない。それ故いくつかある《王道》ルールを知らなかったりすることがあった。

「このアイテムには使用制限があったんだよ。《使える回数》かもしくは《使用総時間》かな。アイテムによってはそれのリミットがランダムになってるものもある。大抵この手の凄いアイテムのリミットは少な目に設定されているものだから、今回は逆によく持った方なんじゃないかな」

「へえ……」

「耐久力とは別だろうな。恐らく修理や制限延長は不可。消費装備アイテムだったんだこれは。益々使いどころが難しいな」

 このアイテムはかなりのレアドロップだ。情報屋にも載っていないことからそれはわかる。アスナが手に入れたのでさえ偶然だったのだ。
 クラディールも偶然による産物だろう。たまたま比較的近しい人物同士が手に入れたという運命の巡りあわせだったが、本来そうありえることではない。
 加えてこの制限がランダムな時間制なら装備して一分後に崩壊、という可能性もあった。それではあまりに割に合わない。
 この手のチート級アイテムには大抵落とし穴があるものだが、まさかこんなものだとは。
 いつ壊れるかわからない。オマケに使って誤ってハラスメント行為を行ってしまった場合、自分ではそれでハラスメント警告が出ていることがわからない。
 諸刃の剣というレベルを超えている。高過ぎるリスクがあるアイテムだ。費用対効果はいいとは言えない。かなり運に左右されるアイテムと言えるだろう。

「これじゃあもう使えないな……」

「そうだね、これからシステムスキル欄にあるいろいろな設定をやるんだったんだけど……見ないと流石に私でもどんなのだったか覚えてないよ」

 使ったのはたった一度。見たのも合計で二度。しかもきっちり見たわけではないので記憶には残っていない。
 手元にももう無いのだから、これ以上は話していても意味がない。

「仕方ない、無いものの話をいつまでもしていてもしょうがないし、明日に備えて寝ようぜ」

「明日?」

「忘れたのか? 明日はユイの為に始まりの街へ行くんだろ?」

「あ……!」

 そうだった、と思い出す。同時に、キリトが明るく笑った理由を悟った。
 今日の事は早く忘れよう、とキリトは暗に言っているのだ。確かに今日あったことはいい思い出にはならないだろう。
 そんな彼の気遣いには、いつも心を温められる。だから……、

「ねぇキリト君」

「ん?」

「大好きだよ」

「……っ、ああ、俺もアスナが好きだ」

「今日は……ユイちゃんもいるし《倫理コード》は無理だけど、キリト君の胸の中で寝たい……いいかな」

「ああ、良いよ」

 だから、どんな嫌な思い出も良い思い出に変えられる魔法を使う。剣の世界であるソードアート・オンラインには本来魔法は存在しない。
 でも、アスナにとって彼は魔法そのもののような存在だった。

 寝室のベッドでお互い横になる。隣のベッドではユイが一人で眠っていた。
 キリトは昨日とは違い、背を向けずにきちんとアスナを正面から抱きしめる。アスナも彼の胸のシャツを優しく掴んで目を閉じた。
 ここが、このデスゲームと化したSAOでもっとも安らげる場所。アスナだけに許された場所。

 そこに確かな温もりを感じながら、二人は一緒に眠りへと落ちた。










 この日、アスナはクラディールを殺さずに監獄へと送った。
 この時はまだ、アスナはまさかこれが後々《そんなこと》を招くことになるとは思っていなかった。
 クラディールをこの時《殺しておけば良かった》と思う日が来るなど──それが可能だっただけに──考えもしなかった。



[35052] SAO10
Name: YY◆90a32a80 ID:1a43ae77
Date: 2012/09/25 20:39


 アスナはいつもの柔らかな木管楽器のアラーム……が鳴る少し前に目覚めた。ここ最近では非常に珍しいことだ。
 朝が特に苦手という程ではないが、自分に厳しく攻略にあたっていた時の名残から、アラームで起きるのが癖になっていた。
 無茶な短い睡眠時間を続けていると、体……いや脳が「アラームが鳴るまでは大丈夫」と眠り続ける。
 そこまで攻略だけに固執しなくなった後も、そのリズムはアスナの体内時計を形成し、彼女にアラームが鳴るまでは休むことを強要していた、のだが。
 よっぽどぐっすり眠れたのだろうか。普段なら起きてすぐは「まだ眠い」という残眠感が多少なりともあるものだが、アラームが鳴る前といういつもより少ない睡眠時間なのに対して、意識は完全覚醒していた。
 だが、すぐにその理由、原因を理解する。彼女の手は自分を抱く少年のシャツを掴んだままだった。
 彼に包まれるようにして眠った昨夜は、驚くほど簡単に眠りの世界へ誘われていた。もう少し緊張するものかとも思っていたが、それ以上に安心感で包まれていた。
 真にリラックスした状態で眠ると、人は数時間でも必要相当量の睡眠時間を得ることが出来ると言う。
 恐らくそのせいなんだろうな、とアスナはぼんやり思う。キリトの傍にいると、安心できるのだ。そう感じながら頬杖を付いて眠るキリトの寝顔をアスナは見ていると……視線を感じて振り返った。

「あ……お、おはようユイちゃん」

「おはよう、ママ」

 コクン、と頷いてユイはアスナに挨拶を返した。ユイは既にベッドから出ていて、アスナの後ろに立っていた。
 そういえば昨日も彼女は起きるのが早かったように思う。

(危ない危ない……昨日みたいになるところだった)

 ユイのことに気付けなければ、昨日の失態を再びしかねないところだった。何故ならアスナの顔は既にキリトへと近づきつつあったのだから。
 ホッと胸を撫で下ろしていると、ユイは不思議そうにアスナを見つめていた。どうしたのだろう、とアスナもそんなユイの顔を見つめる。
 すると、ユイの口から驚くべき言葉が発せられた。

「ママ、今日はパパにちゅ~しないの?」

「ふえっ!?」

 一瞬にして頬が羞恥により紅く染まる。それが過剰気味なフェイスエフェクトの仕様だろうと感情を表していることに何ら変わりは無い。
 昨日見られていたとはいえ、それから何も言われなかったので、アスナの中では見られていたことは半分無かったことになっていただけにその驚愕は大きかった。

「あ、あのねユイちゃん……えっと、その……」

「……?」

 瞳をぱっちりと開けて、純真無垢なその顔で首を傾げられてはアスナは何も言えなかった。
 「どうして?」と目で語る彼女になんて言えばいいのだろう。

「ママがしないなら私がやるー」

「ちょ、ちょっと待ってぇ!」

 ユイがキリトに近づこうとするのを体を張って止め、必死にユイを押さえつける。
 子どもというのは時にバイタリティ溢れる厄介な相手であるということを若くして体感した。
 ユイの視線が「じゃあママがやるの?」と訴えている。「う」と戸惑うも、ここは腹を括らなくてはいけない。
 アスナは覚悟を決め、ユイに恥ずかしそうに頷いた。ユイはそれを見てキラキラと目を輝かせている。
 「ワクワク」「はやくはやく」と目で語りかけてくるそれは非常に気まずい。ムードも何もあったものではない。
 これなんていう羞恥プレイ? などと思いながらアスナがヤケクソ気味に眠るキリトの顔に近づいたとき、バチッとその双眸が開かれた。

「え」

「んぅ……? アスナ……?」

「はうわあわあわわわわ……?」

 アスナは驚いて飛び跳ね、後方に鋭い動きで退く。ガンッと背後にいたユイに勢いよくぶつかってしまう程だ。
 運悪くユイは顔面にぶつかったようで、鼻を押さえていた。痛みは無いはずだし、圏内だからHPも減らないはずだが、その様は自然でアスナも慌ててユイに謝る。

「あ、ごめんねユイちゃん!」

「うぅ……」

「ごめんごめん」

 アスナはユイを抱き寄せ「よしよし」と頭を撫でる。ユイはそんなアスナに甘えるようにアスナにくっついていた。
 ぼうっとそんなやり取りをキリトは見ながら、

「おはよう二人とも。早いんだな。ところでさっき何かしようとしてたのか?」

 気になったことを口にする。アスナがどうも寝ている自分の顔を至近距離で見ていたように感じたのだが、どうしたというのだろうか。
 おかしな寝言でも言っていたかそれともよっぽど寝ている時の顔がおかしかったのか。そんなことをキリトが考えていると、口を開いたのはアスナではなくユイだった。

「あのねパパ、ママが昨日みたいに……」

「わぁーっ! わぁーっ! ユ、ユイちゃんしぃーっ!」

 しかしすぐにアスナがユイの口に手を当ててそれ以上話さないでと懇願する。ユイは不思議そうに首を傾げてキリトと視線を交わらせた。
 キリトも意味がわからず、ユイと同じように首を傾げる。状況の悪化をいち早く悟ったアスナは早々に話を変えることにした。

「さ、さあ早く着替えて朝食にしましょう! 今日は始まりの街に行くんですからね!」





 朝食を済ませてから、その問題は起こった。キリトとアスナは着替えてから食事を摂ったが、ユイは着替えなかった。
 正確には着替えられなかった。通常、着替え……装備変更はシステムメニューから行う。右手の人差し指を振ることでウインドウを呼び出せるのだが……ユイはそれが出てこなかった。
 初めてユイに会った時から気になっていたことではあるが、彼女のシステム状況はおかしかった。カーソルも未だ出てこないままだ。

「しかし……これは本当に致命的だぞ。わざとではないだろうけど……メニューが開けなきゃ何もできないじゃないか。それでこのゲームを生き残れって言ったって理不尽すぎる」

「本当だね、どうしよう……」

「むぅ……えいっ……あ、出た!」

 ユイはムキになって何度も右手を振り、出てこない苛立ちから左手も振ってみると、そこにメニューが現れた。
 キリトとアスナは顔を見合わせる。左手でメニューが出るなど聞いたことが無い。訝しがりながらも二人はユイのメニューを見て、唖然とした。
 紫色というあまり見慣れないカラーは良いとして、通常他人にはステータスウインドウが見えないように《不可視モード》が設定されているため、アスナがユイの手を借りて勘で《可視モード》にボタンを押させると、正しく動作し可視化されたメニューはキリト達のそれとは違い過ぎた。
 通常なら一番上に名前、HPバー、EXPバーがあるのに対し、ユイのそれは名前しか存在しなかった。
 《Yui-MHCP001》という奇怪なプレイヤーネーム。レベルすらステータスには現れない。本当ならアバターの装備フィギュアやらコマンド一覧が現れるのだが、ユイのそれは装備フィギュアこそあるものの、アイテムストレージとオプションを開けるだけとなっていた。
 これでは、戦うどころの話ではない。彼女はゲームに参加する前にその資格さえ剥奪されているようなものだ。

「これは……」

「……バグにしても、酷いっていうよりなんかおかしいな。もともとこういう仕様のものがあって、それをユイに割り当てられているようにも見える。もしかしたらシステムの中でステータスがごっそり入れ替わってるのかもしれない」

「そんなことがあるの?」

「……わからない。くそっ、こんな時くらい出てこいってんだ茅場晶彦」

「っ!」

「ユイちゃん?」

 キリトが茅場晶彦、という名前を出した途端、ユイは怯えた。そこでキリトは失言だった、と反省する。
 記憶がだいぶ退行しているように見えるユイだが、この子は見た目からしても幼い。二年前のあの日、あのおどろおどろしい茅場晶彦の姿と声、説明を聞いていたならそれがトラウマになっていてもおかしくは無かった。
 アスナはユイをぎゅっと抱きしめる。震えが止まったところで顔を覗き込んでニコリと笑うと、ユイもゆっくりと微笑を返した。
 それを見てキリトは安堵の息を漏らす。アスナに「ありがとう」と小声で礼を言うと、彼女はキリトにも微笑んだ。
 ドキッとする。最近は富に多いが、彼女の何気ない仕草や表情、一挙一動がキリトの胸にいちいち異常鼓動を要求する。
 実際には存在しないんだからいい加減休め心臓、と思わないでもないが、それは無理と言うものだということもキリトは理解していた。
 彼女が自分を好きになってくれているという自覚はある。それは何よりも嬉しいが、彼女がそう思ってくれればくれるほど、自身も彼女に惹かれている事を強く自覚する。
 好きなことに変わりは無い。だが、好きという感情が、アスナの笑顔に込められた愛情が増えれば増えるほどこちらも増していく。
 これ以上、彼女の事を好きになってしまったら、一体どうなるのだろう? そう思うと少し怖かった。無論彼女は受け入れてくれるだろう。
 だが、それ故に《もし彼女がいなくなってしまったら》自分は壊れてしまうかもしれない。そんな予感がキリトの中にはあった。

「キリト君?」

 アスナが黙ったままのキリトに声をかける。その顔は不思議半分、気遣い半分といった表情だ。考え過ぎていたことを見抜かれたのかもしれない。
 既にアスナとユイは出かける準備を終えていた。アスナの持っている服をユイに着せ、二人はドアの前で待っている。
 キリトは苦笑すると「なんでもない、行こうか」と家の戸を開けた。先ほどの考えは杞憂だと言い聞かせながら。



 ユイの左手をキリトが、右手をアスナが繋ぎ、三人で本当の親子のようにして始まりの街を歩く。
 始まりの街がある第一層は最下層だけあって広く、始まりの街自体もかなり大きいものだ。

「どうだ? 見覚えのあるものはないかユイ?」

「えっと……わかんない」

 ユイはキョロキョロと周りを見回すが、知っているもの、記憶に残っているものは無いようだった。
 百パーセントの期待を寄せていたわけではないが、これにはキリトもアスナも内心少しだけ落胆した。
 始まりの街は最初に誰しもがいたはすの場所だ。そこに見覚えが無いとなると記憶障害の可能性を僅かばかり検証しなくてはいけなくなる。
 そう考えるには時期尚早だが、今日一日始まりの街を回って何も手がかりがなければユイは考えたくなかった精神的な過負荷によるなんらかの障害持ちになってしまったケースを考慮せざるを得ない。
 それはまだ幼いこの子にとってどれだけ残酷なことか。考えるだけで胸が痛くなる。特にアスナはその思いが強かった。
 彼女はこの始まりの街でゲーム開始当初は怯え続けていた。宿屋の一室に閉じこもって救助を待ち続けた。あの時の精神状態はまさに恐慌状態と言って良かった。
 一歩間違えれば、何かを踏み外せば、自分も精神が壊れていたことだろう。いや、彼──キリトに出会っていなければどこかでそうなっていたに違いない。
 ただ攻略だけを糧にしていても恐らく先は見えていた。仮にそれでゲームクリアしたとして、現実に戻った自分の精神状態は見るに絶えないだろうことは想像に難くない。
 もっとも、そんな精神状態ではクリアなどまず不可能だろうが……と今の自分なら思える。だからこそ、アスナはキリトが知らずとも支えになってくれたように、彼と……ユイの支えにもなってあげたかった。

 そうして三十分は歩いただろうか。残念ながらユイの手がかりに繋がりそうな収穫は無く、キリトとアスナが肩を落としていた頃、それは起こった。
 一人の男性プレイヤーが走って街中の街路樹に近寄り、丁度その時樹から落ちた黄色い果実を拾っていた。
 だが、そこで気付いた。先ほどからユイの記憶ばかり気にしていたが、これまで全然プレイヤーを見ていなかった気がする、と。
 気になったキリトはその男性プレイヤーに話を聞くことにした。

「あの、ちょっと」

「わっ!? こ、これは俺のだからな! やらないぞ!」

「別に横取りしようとか、そんなこと思ってないから安心してください」

 アスナがキリトに警戒心を剥き出しにしている男性に続ける。相手が女性プレイヤー、それもとびきりの美人だったこともあってか、男性プレイヤーはやや緊張を解いた様子でキリトとアスナ、ユイをまじまじと見つめていた。
 その目は未だに警戒心が抜けきってはいない。

「な、何の用だよ」

「ちょっとお話を聞きたくて。久しぶりに始まりの街に来たんですけど随分人が少ないっていうか……」

「お前らよそ者か……? ふぅ」

 それを聞いて男性プレイヤーは一気に脱力したようだった。
 どうやら「よそ者」ということでそこまでの警戒する相手ではない、と思ってくれたようだった。

「で、プレイヤーがいないって? そりゃそうさ、みんな宿屋とかに閉じこもってるからな。最近はめっきり無くなったけどついこの間までは《軍》が徴税なんて真似もしてたくらいだからみんな外にはそうそう出たがらない」

「徴税……?」

「ていの良いカツアゲさ。もっとも今は《軍》内部で分裂している動きがあって、内紛状態みたいでね、そんな暇なくなったようだよ。これも黒の剣士サマサマさ」

「……は?」

 キリトは目を丸くした。なんで自分がそこで出てくるのだと。
 思い当たる節は……無くも無かった。

「黒の剣士が最前線で《軍》の部隊を救ったって言うのに、その被害を《軍》上層部の一人が黒の剣士、《ビーター》に押し付けようとしたって問題になっててな。今まではその上層部の一人、確かキバオウ、だったっけかな。そいつが部下とやりたい放題してたんだけど、今回のことがあってからキバオウ一派はガタガタになったんだ」

「へぇ……!」

 アスナは目を輝かせて聞いていた。キリトはあまり面白くなさそうな顔をしていたがアスナにとっては嬉しかった。
 彼はよくよく自分から悪役を演じる。《ビーター》はその最たる例だが、本当の彼は優しくて少しナイーブだ。
 そんな彼が認められることは我がことのように嬉しかった。

「最近じゃ《ビーター》の悪評のほとんどはキバオウ一派が自分達が起こした事のスケープゴートに使ってたんじゃないかって話が上がるくらいさ。あながち間違いじゃない気はするね。奴らは本当に横行が酷かったから」

「それは言い過ぎだ。《ビーター》は所詮《ビーター》だよ」

「そうかい? まあそういうプレイヤーも上には多いらしいけどここじゃ最近はちょっとした人気者だよ黒の剣士の《ビーター》は。俺も会ってはみたいね。顔もしらないけど」

「あ、あはは……」

 キリトは苦笑する。その手の偶像崇拝はキリトの苦手とするものだった。相手もまさかその黒の剣士が目の前にいるとは思うまい。
 アスナはアスナでキリトが褒められるのが嬉しくて堪らないらしく、キリトの話がでてからは終始ニコニコしていた。

「で、まあ《軍》は最近おとなしいけど油断は出来ないからさ、せっかく取ったこれも徴税だとか言って取られたらシャレにならないし」

「それ、そんなに良い果実なんですか?」

「これは黙っててくれよ……実は五コルで売れるんだぜ。しかも食っても美味い」

「………………」

 料理スキルを完全習得しているアスナは、興味本位から聞いたのだが、言葉を失った。一個五コルで売れる果実。
 それは、今のアスナの感性からすると果てしなく安価だ。それを嬉々として手に入れ満足している彼に、酷いギャップを感じてしまった。
 いや、ここに残っているプレイヤーならそんなものなのかもしれない。外に出てワームの一匹でも狩れば三十コルは手に入る。そうたいして苦労する相手でもない。
 だが、そこに死の危険性は必ず存在する。それこそ交通事故にあってしまうような不運としかいえないような確率でも。
 ここに残っていたなら、自分もそんな感性だったのだろうか……そう思いながら、そんな自分を想像したくなく、何かに縋りたくてキリトの手を掴んだ……のだが。
 肝心のキリトはいつもなら握り返してくれる手を返してくれず、あろうことか離れた先にある、もう少しで落ちそうな街路樹の果実を睨んでいた。

「ちょ、ちょっとキリト君、まさか」

「いや、だって美味いって言うしさ」

「や、やめなよもう……!」

 アスナが恥ずかしそうに言うが、なんとここで思わぬ伏兵がいることに気付いてしまった。
 ユイが物欲しそうに男性プレイヤーの果実を見ているのである。男性プレイヤーはあわててそれを仕舞い「あげないからな」と目で訴えた。

「うー」

「ほら、ユイも欲しがっているしさ」

「も、もう……仕方ないなあ……」

 しょうがない、とばかりに諦めたような声を出すアスナだが、ユイまで欲しがっているとなれば納得するしかない。
 ここはひとつ、キリトの活躍に期待することにした。

「きたっ!」

 キリトはアスナの《閃光》もかくやと言うほどのスピードでスタートし、落ちた果実が地面に着く前にはキャッチしていた。
 嬉々として果実を見せながら駆け寄り戻ってくる。

「手に入れてきたぜー、ほら、ユイ」

「わぁーパパ、ありがとう」

 ユイは嬉しそうにその果実にかぶりついた。にこやかに食べるその様は言われなくても「おいしい」と物語っている。
 ユイは二口ほど齧るとその果実をキリトに返した。

「はい、パパも」

「お、サンキュ」

 キリトもはむ、と遠慮なく齧る。「うむ、美味い。第一層にこんなものがあったとは」と満足げに口を動かす。
 そのまま口を動かしながらキリトはアスナに食べかけの果実を差し出した。「えっ?」とアスナは慌てる。

「美味いぞ、食べてみろよ」

「え、う、うん……」

 やめなよ、と言った手前自分が食べるのはどうかと思っていたのだが、差し出されたからには食べよう。そう思ってアスナも一口齧る。
 それは確かに瑞々しく、美味しい果実だった。だが、美味しいのはその味のせいだけではないだろう。
 小さい齧った跡が二つ。大きく齧った跡が一つ。そしてたった今できた齧り跡が一つ。
 まるで家族が回して食べたかのようなそれは、なんだかとても微笑ましい形になっていた。

(本当の親子みたいな食べ口になっちゃった)

 そう思うと、アスナはなんだか嬉しくなった。ユイがじっと見つめていたので残りをユイに渡して「全部食べてもいいよ」と言うとユイは喜んで残りを齧り始めた。
 そんな様子を見ていた男性プレイヤーは意外そうに言う。

「その子あんたらの子供か何かか? てっきり教会の子かと思ったんだが」

「教会の子?」

「ああ、東七区の川べりの教会に一杯子供が集まってるんだ。なんでも面倒見の良いプレイヤーが子供を保護してるって話だぜ」

 それを聞いて、次の目的地は決まったのだった。





「ここだね、すいませーん!」

 教会の二枚扉を開いて、アスナはやや大きな声で尋ねる。パッと見ると礼拝堂には誰もない。
 声が反響して思った以上のボリュームになってしまったことにアスナはわずかに首を竦めた。すると、奥にある右手の扉から二人の女性が出てきた。
 一人はシスターの出で立ちをし、黒縁の眼鏡をかけたショートカットヘアの女性。
 もう一人は長い銀の髪をポニーテールにした長身の女性で、恐らくは《軍》の正装だろうと思われる装備をしていた。

「ほら、やっぱりウチの関係者じゃありませんでしたよ」

「そうみたいですね、失礼しました。どのようなご用件ですか?」

 長身の女性の説明に、軽い安堵の息を漏らしたシスターは頭を下げてキリト達に向き直った。
 アスナはその長身の女性に少しだけ見惚れた。美人で長身、大人っぽいその様は憧れに値した。

「実はこの子なんですが……よく自分の事を覚えてないみたいなんです。もしかしたらこちらで知ってる人はいないかと思って」

 キリトはユイの背中を軽く押して二人の女性にユイを見せる。
 しかしシスターは困ったような顔をしながら首を振った。

「うぅん、ウチの子供ではないですね。それに私、未だに始まりの街は取り残された子供がいないか探して歩いてますが、この子は見たことがありません。多分、始まりの街の子ではないのではないかと」

「そう、ですか……」

「どうしよう、キリト君」

「え……キリト……?」

 シスターの言葉に、複雑な心境でアスナはキリトに話しかけた。
 しかしそれに反応したのはキリトではなく、長身の《軍》だと思われる女性プレイヤーだった。

「あ、あなたもしかして黒の剣士、キリトさんでは……? あ、あああ!? そうだ! 写真と同じです!」

「へ?」

 長身の《軍》だと思われる女性は顔を驚愕に染め、次いでキリトの手を取った。
 キリトは何がなんだかわからない。ただ、隣にいたアスナが面白くなさそうにジトリと睨んでいた。

「貴方のおかげでキバオウ一派の横行をだいぶ抑え込めました。シンカーも大変喜んでいましたよ! お礼を言わせてください!」

「いや、あの……俺は別に……ってシンカー? 《MMOトゥデイ》の管理者の? あ、そういえば確か《軍》を結成したのは……」

「はい、彼です」

 嬉しそうに笑う《軍》の女性はぶんぶんとキリトの手を上下に振る。
 余程興奮しているのだろう。そしてそれは隣にいるシスターも同様のようだった。

「ちょ、ちょっとユリエールさん! 自分だけずるいですよ! あ、あの! 私とも握手してください!」

「は……?」

 キリトは益々混乱した。一体何がどうしてどうなればこんな驚天動地な出来事が起こるのだ。
 しかし不可思議なことは続くもので、しかも今度はそれが身内の方から発生した。

「だめー!」

 ユイがユリエールと呼ばれた女性が掴んでいたキリトの手を無理やり離させた。
 その目にはやや敵意が籠っている。こんなユイは初めて見るかもしれなかった。

「パパにくっついていいのは私とママだけー!」

 キリトを引っ張り、二人の女性から引き離すようにユイは間に入った。
 この行動にはアスナも驚いたが、心の中で「良い子よユイちゃん!」と応援したのは恐らく墓まで持っていく秘密だろう。

「パパ?」

「ママ? ってどういうことでしょうサーシャさん」

 サーシャ、と呼ばれたシスターも首を傾げた。意味がわからないといったように。
 そんな二人にキリトが苦笑しながら説明を始める。その間中、ユイはキリトにしがみついて二人の女性を睨んでいた。



「というわけなんです」

 キリトの説明を聞いた二人は納得し、その上でやはりユイはここの住人ではないだろうという結論になった。
 少々残念ではあるが、安堵もあった。キリトもアスナも既にユイという子が一緒にいるのが当たり前になりつつあったのだ。
 必要なこととはわかっていても彼女と別れるのが寂しいと思えるほどにユイは大切な存在になっていた。しかしユイと別れなければ前には進みようがないだろうという現実が、ジレンマを作ってもいる。
 難しく、複雑な問題だった。そして、問題はそれだけではなかった。

「で、なんでしたっけ、さっきの? FCKoD? 誰だよそんなの作ったの……認めた覚えないんだけど」

 キリトはうんざりしたような顔でその省略された組織名を口にした。
 正式名称、 Fan Club Knight of Dark──黒の剣士ファンクラブ──なるものについて、キリトは尋ねる。
 認めた覚えのないものな上、knightは剣士じゃなくて騎士だろう、とか、Darkは黒じゃなくて闇だろうという内心のツッコミ──BlackならKoBと被るからなのはわかるが──を抑えつつ、いつの間にか立ち上がっていた非公式組織について二人から説明を受けた。
 きっかけはやはり例の《軍》の内部分裂に端を発していた。キバオウの横暴さが目立ち、キバオウを悪く言うものが増え、それのアンチテーゼのようにキバオウが常々悪く言っていた《ビーター》が逆に良いものとして見られ始めた。
 尚、この事態にFCKなる組織──Fan Club Kibaoh(キバオウファンクラブ)──が早期に設立されたが活動内容を知る者はいない、とかなんとか。
 ちなみに、FCKoDと最初が丸ごと被っていることから抗議の声すら上がっており、益々イメージは悪いらしい。
 
「なんかそれ、完全にキバオウを落とす為に使われてるだけじゃないか?」

「実は少しそんなところもあります。彼は横行が過ぎました。どうにかするのにキリトさんの事はちょうど都合が良かったんです」

「まんまと上手く名前を使われたわけだ」

「で、でも結構人気なんですよ! 名前は知られてるのにめったに人前に現れない人だし!」

「……そりゃあソロだったし」

 一人で常に行動していたのだ。それは当たり前の話である。
 むしろ変な注目を浴びないよう人の視線には気を使ってきたつもりだったのだが。

「おかげでキリトさんの写真は品薄なんです。あっても後姿とか……たいていはボス攻略戦後に一人どこかへ消えるキリトさんの姿が偶然記念写真に写っていたりするのが出回る程度で……あ、写真撮ってもいいですか?」

「やめてくれ……」

 キリトは全く嬉しくなかった。むしろ良いように使われているだけのような気さえする。
 もとより人付き合いは得意な方ではない。

「結構ナイーブなんですね。有名人も注目してるのに」

「有名人? 例えば?」

「そうですね、会員の若い番号に確か……《血盟騎士団》の団長さんがいましたよ」

「ぶっ!?」

「はっ?」

 ヒースクリフ。何やっているんだあの人は。キリトとアスナは同じようなことを思いながら頭を痛める。
 考えてみればここ最近は彼のせいで振り回されているような気さえする。

「あと女性と男性の比率が五分……いや、やや女性が多めなんですよ。まだ発足して間もないからかもしれませんけど」

「……むぅ」

 これにはアスナが面白くないという顔をした。SAOは圧倒的に女性プレイヤーが少ない。その中で女性比率が高いというのは少々驚かれる所だ。
 だが、やはりというか、わかる人には彼の良さがわかるのだ、ともアスナは思う。
 それ自体は良いことなのだが、これから彼に積極的に近寄ってくる子が増える可能性を思うと気が気ではない。
 ぎゅっと小さい手、ユイもキリトの服の裾を掴んだ。


 ちなみに、女性比率が高かった真相はキリトの容姿や人間性云々よりも、キバオウの横行に辟易した女性プレイヤーが彼への当てつけ、腹いせに入った者が多かったりする。
 それによるキバオウ氏の「なんでや! なんで《ビーター》なんかに負けるんや!」という不満そうな声は、女性達の溜飲を大いに下げてくれた、というのは彼女たちだけの秘密である。





 結局、教会ではこれといってユイに関係のある話は聞けなかった。ただ、行く宛てが無いならユイの面倒を見る、とシスターのサーシャは言ってくれた。
 その話は二人にとって有り難かったが、ユイは気が進まないようだった。キリトとアスナから離れるのをあまり好まないようで、加えてどうにも最初の件からサーシャとユリエールを敵視している節さえあった。
 だが、これで最悪の場合、ユイが一人になることはない、と思うと二人は少しだけ肩の荷が下りた気がした。
 今日の一番の収穫は今のところそれかもしれない。心の重りが僅かでも無くなるのはそれだけで身軽さを増してくれる。
 手がかりは無いが、成果ゼロよりは良い。そうプラス思考へ考えを持って行き、今日のところはもう少し街を見回ってから帰ろう、という方針を固めた時のことだった。

「あの、すいません」

 見知らぬ女性プレイヤーが話しかけてきた。その顔は酷く陰鬱で、泣き出してしまいそうな顔をしていた。
 明らかに何かがありました、という顔だ。

「どうかしたんですか?」

「黒鉄宮はあっちで良いんでしょうか」

「ええ、そうですよ」

「ありがとうございます」

 頭を下げると、その女性プレイヤーはとぼとぼと力なく歩き出す。が、すぐに振り返った。
 言いにくそうにし、しかしキッと覚悟を決めたように再び口を開く。

「あの……これから少しお時間、よろしいですか? もし……もし構わなければ黒鉄宮までご一緒して頂けないでしょうか」

「……生命の碑、ですか?」

「……はい」

 それで、キリトは事情をなんとなく察した。実はこういったプレイヤーはそれなりに多い。
 仲間が死んだことを信じられない。仲間が今どうなっているかわからない。あの時のあの人は今生きているだろうか。
 それを知るためには黒鉄宮の生命の碑を見るのが一番手っ取り早い。もし、死んでいたならその日時、死因、が書かれ、名前には横線が刻まれる。
 フレンドリストに登録しない野良パーティや袖振り合うだけの関係はこのSAOでは日常茶飯事である。だが、そこに仲間意識は確かに芽生えるものだ。
 そんな相手の状況を見に行くというのは勇気が多少なりとも必要になる。見てしまえば、確定してしまうからだ。
 だが、一人で生命の碑を見る勇気が無いプレイヤーは存外多い。そう言う時に行きずりのプレイヤーと確認しに行ったりするのは始まりの街ではよくあることだった。
 そして、誰かについてきてもらってまで黒鉄宮に確認に行くと言うことは、十中八九名前に傷が刻まれる可能性、何かが起こったことを意味する。
 キリトにも覚えが無いわけではない。結局彼は一人で確認に行ったが、その足は怯えからしばらく竦んでさえいたことを覚えている。
 キリトはアスナにちらり、と視線を向けると、彼女もコクンと頷いた。

「わかりました、生命の碑までお付き合いします」

 女性プレイヤーは語る。最近まで彼女は恐さから街を出たことなどなかった。だがこのままではいけないと一念奮起して外に出た。
 するとフィールドで偶然ユキという女性プレイヤーと知り合ったそうだ。ユキも彼女と同じだったが、数日前に勇気を出してフィールドに出て、今はレベル2なったという。
 レベルが一つ上。それだけで彼女にはもの凄く頼りになる存在に感じられた。少し話をして、二人は親睦を深め簡易的な野良パーティを組んでレベル上げをすることにした。
 初めての戦闘で彼女は緊張していた。何をどうすればいいのかもわからなかった。ユキは優しく指導してくれた。初めてモンスターを倒した。嬉しかった。
 二回目のモンスターもユキの助けで乗り越えられた。何だ、こんなものなのか……と彼女は安心しきっていた。だが、三回目のモンスターの湧出(ポップ)でそれがいかに甘かったかを教えてくれた。
 モンスターの湧出(ポップ)がこれまでとは違い、複数だった。その数四。第一層の始まりの街近辺ではやや珍しい数だ。その数に彼女は完全に恐慌状態に陥った。
 二匹をユキが受け持ってくれた。だが訳も分からず怯えた彼女は、モンスターに何度か攻撃を食らい、自分のHPバーが注意域に入るのを見て、逃げ出した。
 恐かった。死にたくなかった。後ろを振り返ると、ユキが驚いた顔をしていた。だがさらに驚いたのは、最悪なことに、逃げる彼女を追うより、ユキに残りのモンスターも目標を定めてしまったことだ。
 この時、彼女は一瞬ホッとなってしまい、即座に後悔した。だが今更引き返せるはずもない。街へ戻って以前のように宿屋に閉じこもり、数日後、ユキのことがどうしても気になって黒鉄宮に確認しに来た、ということだった。

「…………」

 何も言えなかった。何を言っていいのかもわからなかった。ただ一つ、彼女を責める気持ちにはなれなかった。
 褒められた行動ではない。だが、気持ちがわからないわけでもない。彼女を責め、罵る権利のあるプレイヤーなどそういないのかもしれない。

 黒鉄宮は黒光りする鉄柱と鉄板だけで組み上げられた巨大な建物だ。敷石を踏んで中へ入ると、その広さと異様な空気に寒気さえ感じる。
 空気が違う、とでも言うのだろうか。現実とは隔絶されているSAOだが、黒鉄宮はそのSAOの中でもさらに異質と言えた。
 アスナも自身の露出した肌をさする。ここに寒さ的なエリアパラメータは無いはずだが、そうせずにはいられない。
 恐らく、好んでここに来る輩はそういないだろう。そういう近寄り難い雰囲気をここは醸し出している。
 キリト達はコツコツという足音を立てて、左右に数十メートルに渡って続く生命の碑があるフロアへと辿り着く。
 女性プレイヤーはアルファベット順に刻まれているプレイヤー名の『Y』の辺りを怯えながら確認する。
 キリトも一緒に『ユキ』というプレイヤー名を探した。

「ユアサ、ユフネ……あ」

 ユキ──Yuki──と書かれた名前に、横線が刻まれていた。死因はモンスターの突進攻撃。
 女性プレイヤーが口元に手を当て涙を浮かべる。無理もない……と思いつつ、

(……あれ?)

 キリトは何か違和感を持った。今、何か見落とさなかったか?
 もう一度生命の碑の『Y』近辺を見る。

『Yuasa』
『Yufune』
『Yuki』

 そこには名前が並んでいるだけでおかしいものは何も無い。……無い?
 おかしい。そこには《無ければおかしい名前》が無い。そんなことに、今更ながらキリトは気付いた。
 生命の碑はアルファベット順に名前が刻まれている。それならば、『Yufune』と『Yuki』の間にもう一つ名前が無いとおかしいことになる。
 だが、どれだけ目を凝らしても、そこに隙間は無く、名前を一つ飛ばして読んでもいない。段を間違えてもいない。

「無い……無いぞ……どうなってるんだ……?」

 キリトの背に、言い様のない寒気が走った。
 そこにはあるはずの──プレイヤーならば無ければおかしい──名前が無かった。
 何度見直そうとユフネの次はユキとなっている。それはつまり、fの後、g、h、i、jが付くプレイヤーネームが無いことを示している。
 いなくなった、ではなく無い。最初から存在しないということだ。
 だがそんなことはありえない。ありえないはずなのだ。何故なら自分は知っている。そこに該当するプレイヤーネームが存在するのを。

 《Yui-MHCP001》というプレイヤーネームを。










 アインクラッド第二十二層、最南端に位置するログハウス。
 キリト達の家となったそのログハウスの扉の前で、彼らの帰り待つ影が一つあった。
 長身でホワイトブロンドの長髪に赤と白の金属鎧。白いマントを付けた男性がそこに立っている。
 先日ここを襲った《血盟騎士団》のプレイヤー、クラディールと似た姿は間違いなく《血盟騎士団》の正装だ。

「…………」

 彼は落ちついた様子で目を閉じ、無言でただジッと立っていた。
 と、その閉じられていた瞼がゆっくりと開き、真鍮色の瞳が現れる。
 遠くを射抜くようなその瞳は、この家の主達……彼の待ち人が映っていた。



[35052] SAO11
Name: YY◆90a32a80 ID:1a43ae77
Date: 2012/09/27 19:48


「ふぁ……」

「眠いか、ユイ? もうすぐ着くからな」

「ん……」

 キリトがユイを背負いながら声をかける。眠そうにユイは瞼を擦り、欠伸を繰り返していた。
 アスナが代わろうか? と一度言ったが、キリトは首を横に振った。キリトの筋力を持ってすればこの程度はどうということもない。
 三人は黒鉄宮から真っ直ぐに家へと向かっていた。涙を流していた女性プレイヤーは酷く憔悴していて、黒鉄宮を出るとフラリと何処かへ行ってしまった。
 普段なら追いかけて最低限のアフターケアをするところだが、今日のキリト達にそんな余裕は無かった。
 黒鉄宮の生命の碑。そこにはSAOにログインしているプレイヤー……いや、《ログインしていたプレイヤー》も含めた全てのプレイヤー名が刻まれている……筈だった。
 だが、今キリトの背負っているユイの名前は何処にもない。メニューに表示されていた《Yui-MHCP001》というプレイヤー名は何処を探しても見つからなかった。
 念のために『Y』の欄以外にもあらかた名前を見て歩いたが、そこに目的の名前は見つけ出せなかった。
 彼女がNPCである可能性は無いはずだ。彼女はシステムメニューを呼び出せるし、NPCなら触れることによって起きるハラスメント防止コードが発動し、キリトは今頃吹き飛ばされている。
 そもそも自分たちの家に連れて行くこと自体不可能なはずなのだ。NPCにしてはアルゴリズムもおかしい。単なるNPCならここまで考え、行動するような真似はできまい。
 SAOのNPCはその殆どが既存のゲームとそう変わらず、決められた行動と言葉を繰り返すだけの存在だ。イベントが起きたりクエストをこなせばお礼は言われるが、それすらも二進数の果てにあるイエス・ノーフラグでしかない。
 ユイにそのような所は感じない。未だ不思議な少女だが、それだけはハッキリしていた。
 だが、NPCで無ければプレイヤーである筈のユイは生命の碑にその名前が刻まれていない。これはもうシステムのバグという状況を越している。
 それが何を意味するのかはまだわからない。ただ、ユイはプレイヤーとしてSAOに認知されていない……というのが今のキリトの考えだった。
 そう考えればいろいろと納得のいく点も多い。キリトにユイ自身を疑う気持ちは不思議と無かった。その存在、正体がなんであれ、彼女が自分たちを騙そうというような存在ではないと彼の勘が告げていた。
 アスナもそれは同じで、だからこれからもユイとは同じように接しようと言葉無く頷きあった。
 お互いに、心の中でユイはもう家族だと決めていたのかもしれない。だから、我が家と呼べるログハウスの前にその姿を確認した時は、二人とも身体を緊張させた。

「待っていたよ、キリト君、アスナ君」

「団長……!」

 アスナの所属していた──正確にはまだ所属していることになっているが──《血盟騎士団》団長、ヒースクリフ。
 聖騎士、最強、無敵、など様々な名で呼ばれる彼の二つ名は片手では足りないほどだ。
 間違いなく、現SAOプレイヤーの中でも一番の実力者だろう。彼は第五十層のボス戦で崩れた体勢を立て直すために一人で十数分戦線を維持し続けたという伝説さえ持つ。

「……どうしてここがわかったんだ?」

「我々《血盟騎士団》の情報網を甘くみないでくれたまえ、と言いたいところだがアスナ君の脱退を私は認めていないからね。団員であるアスナ君の場所は圏内ならば確認できる」

「ここは圏外だぜ?」

「ここ数日の夜はこの場所……ログハウス内という《圏内》に座標位置が固定している。ここを根城にしていると考えるのはそう不思議な事ではあるまい?」

「そこまでチェック済みってワケか」

「誤解しないでくれたまえ。私とて本来ならこのようなプライバシーを侵害する真似はしない。いずれ己の足で探し出して交渉に来るつもりだった。しかし……」

「クラディール……」

「……うむ。彼が牢獄(ジエイル)に飛ばされたことによって《血盟騎士団》内部では様々な憶測が出回っている。この状況はあらゆる観点から好ましくない。トップギルドなどともてはやされているが戦力はいつだってギリギリなのだ。団結力の崩壊は私の望むところではない」

 ヒースクリフはゆっくりと目を閉じる。その瞼の裏には《血盟騎士団》で起きている様々な問題について考えているのだろう。
 彼という人間を、キリトはそこまで知らないし好きでもない。だが、人間性という点では信頼していた。

「半分は自業自得でしょう。俺たちへの交渉権を与えたんですから」

「それについては些か軽率だったことは認めよう。だがこちらの感情も理解して欲しい。それがわからない君では無いだろう?」

「……それは、まあ」

 アスナ、というプレイヤーがこのSAOプレイヤーに与える影響は少なくない。
 彼女のカリスマ性はその容姿も相まって非常に高いものがある。指導者、人望という点のみにおけば、ヒースクリフを越える支持を得てもおかしくは無かった。
 彼女はその容姿の他にも立派に人を引っ張って行ける能力をいくつも示しているのだから。
 そのアスナが、一般にははぐれ者、卑怯なプレイヤーという目で見られている《ビーター》の元へ行ってしまったのなら、それは暴動が起きてもおかしくはない事態ではある。
 と、そこでキリトは思いだした。

「そういえばあんた、俺のファンだったのか?」

「ふむ、おかしいかね」

「否定しないのかよ……」

 キリトは始まりの街で聞いたことを思いだしていた。認めた覚えも今後認める予定も無い自身のファンクラブ。
 存在自体「勘弁してくれ」と言いたくなるようなそれに、この男が入っているという笑い話のようなそれを。
 少しからかいと探りを入れる意味で言ったのだが、否定するどころかさも当然のように返されるとは思っていなかった。

「先ほども言った通りだよ。戦力は常にギリギリだ。私は私が認めるトッププレイヤーの情報収集には精力的に動いているつもりだ」

「あ、そういうこと」

「安心したまえ、特典でもらった君のシークレット写真はどれだけアイテムストレージが圧迫されようと一枚残らず取っておいている」

「いや安心できねーよそれ。っていうかシークレットってなんだよ、聞いてないよそんなの」

 なんだかキリトの中の聖騎士像が音を立ててボロボロと崩れていくような錯覚を感じながら、キリトはこめかみに手を当てた。
 SAOでは頭痛など起きないが、そういう気分になる会話だった。

「団長」

 耐えかねたのか、アスナが口を開く。その目は真剣の一言に尽き、キリトもヒースクリフもやや佇まいを直した。
 アスナは一度瞑目し、ゆっくりと瞼を開いて続ける。

「そのシークレット写真見せてください」

「……おい」

「……すまない。話を出したのは私だが、今言うべきことかねそれは」

「だ、だってキリト君のシークレット写真って何か気になって……勝手に私の知らないキリト君が出回っているとか……その……」

 場の緊張が再び崩れる。これには流石のヒースクリフも毒気を抜かれたようで強張った顔がいつの間にか崩れ、疲れたような苦笑を帯びた表情となっていた。
 仕切り直しだ、とキリトは小さく咳払いをして改めてヒースクリフに向き直る。

「それで、どんな用でここへ?」

 キリトは探るような目でヒースクリフを見つめる。彼の登場時の姿からおおよその検討は付けているものの、彼の口から確認したかった。
 そしてもし予想通りなら、恐らくどのみち衝突は避けられない。

「ふむ、単刀直入に言おう。彼女のギルド復帰と君のギルド参入を交渉に来た」

「……まあ、そうだろうとは思ってましたけど。でも俺を《血盟騎士団》へ勧誘するんですか?」

「言っただろう? 私はそのためにトッププレイヤーの動向に目を向けている」

「……今内部では俺を殺してオレンジプレイヤーになっても英雄扱いされるような空気だそうですけど?」

「それは本当に一部の者たちのことだ。先も言ったが彼の独断先行は詫びよう。それに君を知ればそのような輩もすぐにいなくなると私は思っている」

「……団長、そのことでお話があります」

 アスナが今度こそ真面目な顔で二人の会話に入った。目はいつものようにギラリとしていて副団長然とした風格さえ漂わせている。
 彼女のそういった切り替えは早い。それこそが彼女の持つ人の上に立つ性質の一つとも言えるだろう。

「彼は《笑う棺桶(ラフィン・コフィン)》の生き残りでした」

「……それは本当かね」

「はい、剣に誓って嘘はありません。なんならこれから一緒に牢獄(ジエイル)にいる彼に会って確かめても良いです」

「いや、それには及ばない。君がそこまで言うのなら事実だろう。しかし……団員にラフコフがいたとなると……ますます状況は悪くなる」

「私も《元副団長》として団長の心情は理解できますが、同時にこちらの感情も理解してもらえると思います」

「……信用問題か」

「はい。ラフコフのメンバーがギルドにいた、というのはそのギルドの内面を疑われるには十分な理由です。もし、元ラフコフ、もしくはオレンジプレイヤーだった者が心を入れ替えて必死に戦っているのならまだ良かった。しかし今回の彼、クラディールは明らかに違いました。もう少しで……本当にもう少しで彼、キリト君は卑劣な手によって死んでいてもおかしくなかった」

「…………」

「加えて人を傷つけて英雄視する人がいるギルドのあり方に私は疑問を感じます。それに私が関わっているなら尚更です」

「……君の言い分はわかった。だがいかな理由があろうと《血盟騎士団》はギルドだ。多人数を少数の意見で動かすのは難しい。今多数の意見は君の帰還を望んでいる」

「…………」

「だが、今の話を聞く限り、身内に不信がある中で戻ってこいというのも厚顔無恥というものだろう」

「……では!」

「期待させてすまないが、だからといって無条件に君の脱退を認めるわけにはいかない」

「それじゃ、団長さんの条件を聞こうか」

 アスナが口を開いてから、それまで黙って二人の話を聞いていたキリトが再び口をはさむ。以前《血盟騎士団》のことについてはアスナに任せると彼は言った。
 彼女が自分のけじめだと言っていたからだ。しかしどうにも話は自分にも複雑に絡んできていると見たキリトは、これ以上押し問答をするつもりはなかった。
 恐らく、この男には最初から何かしらの提示するプラン、交渉内容がある。それを言葉の端々から薄々感じ取っていたキリトはさっさとそれを話せ、と促した。

「そうだな……キリト君、彼女が欲しいというのなら剣で語りたまえ」

「剣で……?」

「デュエルで……《初撃決着モード》で私と決闘し、勝てば彼女の脱退を認めよう。しかし負ければ彼女には副団長として戻って貰い、君にも《血盟騎士団》に参加してもらう」

「団長……! それは……!」

「わかった……アスナ、ユイを頼む」

「ちょ、ちょっとキリト君!」

 キリトは頷いてユイを背中から降ろす。「うー」ともはや半分寝ている彼女は降ろされてからもキリトの服を掴んでいた。
 キリトの「ほら、ママの所へ行ってくれ」と言う言葉で、ユイはフラフラ揺れながら倒れるようにしてアスナへと寄っていく。
 アスナはユイが転ぶ前にしっかりと抱き留めながらキリトを見つめる。いや、睨むと言った方が正しいだろう。

「何考えてるのよ! 団長とデュエルだなんて、そんな……!」

「仕方ないさ、最初からこの人はそのつもりだったみたいだからな」

「え……」

「ふむ、バレていたか」

「ここで武装して待っている時点で予想はしていたよ」

「そうか、この層はモンスターが出ないのだったな。これは迂闊だった。しかし君が日を改めたいというのなら二日間までは猶予を与えることが出来る。それ以上は申し訳ないが与えられない」

「今の《血盟騎士団》を落ち着かせるにはどちらにしても力関係をハッキリさせることが求められているんだろ?」

「そうだ。君が私に勝って意地を貫き通す程の力があると証明するか、私が勝って君を屈服させることで皆の不信や不満を解消するか。だがそれだけではないよ。私としても君には興味があった。これでもファンだからね」

「何処まで本気なんだか……でも避けようがないなら早く済ませるに越したことはない」

「君のそういうところを私は気に入っているよ。実に思い切りがいい」

「そりゃどうも」

 キリトは最初におおよその検討を付けていた。彼が最初から武装していた時点で戦うつもりだな、と。
 だが彼は仮にもSAOでトップを張れるギルドの総元締めだ。クラディールのような真似はしないだろうという程度の信頼は短い付き合いながらある。
 問題はその意図だ。それを知りたくて慣れない心理戦まがいの問答を続けたが、どうやら腹の探り合いはこちらの負けのようだった。
 彼はその本心を全ては語らない。“ギルドにとって”という免罪符じみた正当性のある言葉で攻めて来るのみだ。
 これ以上話したところで結果は変わるまい。ならここはスマートに行こうとキリトは決断した。
 無論だからといって納得できないのはアスナだ。いくらデュエルとはいえお互いHPを全損する可能性が無いわけではない。
 ましてやお互いにハイレベルプレイヤー。《初撃決着モード》とはいえ一撃で何が起ころうと不思議はなかった。
 さらに言うならヒースクリフはこれまで注意域にHPバーが落ちている所を確認されたことがない。
 あの伝説になっている第五十層のボス戦ですら、彼はそのHPバーを安全域……グリーン内で守りきった。
 キリトの事は無条件で信頼している。強さも申し分ない。だが、それとは無関係に不安はアスナの胸の裡から染みだしてくる。

「大丈夫だよアスナ、何も本気の殺し合いをしようってんじゃないんだ」

「確かにそうだが、本気でやってもらわねば困る。私は本気でいかせてもらうつもりだからね」

「わかってるさ、負けるつもりはない」

「そうか。ならばいいのだが……ところで、その娘、何故ここにいるのかね?」

 ヒースクリフの空気が一瞬険呑なものに変わる。先程までの穏やかさが嘘のようにその纏う空気は鋭利なそれに変わっていた。
 それを敏感に感じ取ったのか、あれだけ眠そうだったユイはビクッと目を開き、ヒースクリフを見て怯えだした。
 アスナはユイの変わりように驚き、ヒースクリフを見る。ヒースクリフはそんなアスナには構わずユイの身体に触れ……、



「いやぁぁぁぁぁぁぁぁぁあああああああああっ!!!」



 ユイが金切り声を上げる。振動するようなその声はこれまでに聞いたことの無い不快なシステムサウンドを発生させた。
 キリトは耳を塞ぎながら驚くべきものを見る。気のせいで無ければほんの僅かに一瞬、ユイの身体を形成するポリゴンが《ブレた》のだ。
 危険を感じたアスナは咄嗟にユイを抱いてヒースクリフから離れる。彼は視線をユイに向けたまま微動だにしない。
 が、すぐにもう一度ユイを狙うように一歩を踏み出した時、ヒースクリフの肩をキリトが掴んだ。

「待てよ」

 キリトは既に完全武装していた。トレードマークのレアドロップしたブラックコートと片手剣を一本背負っているその格好は、紛れもなく黒の剣士《ビーター》の正装とも言える姿だ。
 ヒースクリフはキリトの行動に一瞬ギラリとした瞳を向けるが、すぐに穏やかな表情へと戻った。もしあのままヒースクリフがキリトを無視してでも進めば力を込めたキリトはオレンジプレイヤーとなってしまっただろう。
 それほどギリギリな空気だったが、仮にそうなったとしてもキリトは構わなかった。

「アンタ、ユイを知っているのか?」

「……いや。単にSAOプレイヤーにしては幼すぎると思っただけだ」

「そうかい。じゃあロリコンの気でもあるのか? うちのユイに気安く触って貰っちゃ困るんだけど」

「さてね。私自身にそのような嗜好は無いと自覚しているが、そう見えたのなら謝罪しよう。君は……あの子を知っているのか?」

「……俺とアスナの娘だ。それ以上でも以下でもない」

「……そうか。さて、準備は良いようだね」

 これでその話は終わり、と打ち切るようにヒースクリフはシステムウインドウを開いていて操作を始める。
 キリトはまだ言い足りなかったが、目の前にデュエルを申し込まれた旨のウインドウがポップし、思考を切り替えた。
 《初撃決着モード》をタップしてデュエルを受ける。これは強攻撃を先に当てるか、HPバーを半減させるか、《降参(リザイン)》することでしか終了しない。
 三種類あるデュエルの方法の中ではもっとも安全なものだ。すぐにデジタルカウントが浮かび、一分の猶予時間後には戦いの火蓋が切って落とされる。
 デジタルカウントが刻々とカウントを減らしていく中、キリトは一刀を下段に構えた。対してヒースクリフはやや高めに盾を構え、その身と剣を隠す。

 10──キリトが目を閉じた。

 09──ヒースクリフが腰をやや低めに構える。

 08──キリトが少し足を後方にずらし、しっかりとした重心位置を取る。

 07──ヒースクリフは盾に隠れている口元を……僅かに綻ばせた。

 06──キリトが瞼を開く。

 05──ヒースクリフは真っ直ぐその真鍮色の瞳を相手へと向ける。

 04──キリトが息を吐く。

 03──ヒースクリフの纏う空気が、変わる。

 02──キリトが息を吸って……表情が、消える。

 01──さあ、Ready……、

 00──GO!

 ビュン、と風を切り、最初に飛び出したのは──キリトだ。彼は限界まで敏捷力をゲインして、凄まじい瞬発力で突進する。
 対してヒースクリフは半テンポ遅れてその一歩を踏み込む。だが掲げられた盾に一切のブレは見られない。
 一瞬早く地を蹴ることに成功したキリトの剣が下からヒースクリフを襲う。ヒースクリフはそれを掲げていた盾で防ぐ。
 当然キリトも予想している。勢いを殺さず、一回ヒースクリフの盾を《蹴って》宙返りをして僅かに距離を取る。
 ほんの僅かな間と隙が発生するその時をヒースクリフが見逃すはずもない。そのままヒースクリフはもう一方に構えていた剣でキリトに切りかかる。
 が、これこそキリトの求めていた展開。素早く身体を回転させてキリトは左から右へ……と思った時には左から右へ横薙ぎにヒースクリフの剣をパリィする。
 片手剣用ソードスキル《スネークバイト》。あまりの速さから二刀を振っているかのように見えるソードスキル。
 剣が弾かれヒースクリフはやや体勢を崩した。これでキリトの攻撃は終わらない。
 ここが攻めどころとキリトが確信し一歩深く踏み込んだその刹那、衝撃が彼を襲う。

「くっ!?」

 防御専用武具である筈の盾。十字の形をしたそれを水平に構え、白いライトエフェクトを帯びながらキリトの胸に突き刺すようにして向かってくる。
 咄嗟に剣の横っ腹を当てなければ強攻撃判定を受けていたかもしれない。
 攻防一体のスキル《神聖剣》。それがヒースクリフという男にのみ与えられた特別なエクストラスキル、ユニークスキルとも呼ばれるスキルだった。
 聞いたことはあっても実際にはほぼ見たことのないそれに、キリトは内心で舌打ちしながら距離を取る。
 だが、ヒースクリフは離さないとばかりにキリトに突進して近づいてくる。素早くキリトは腰ベルトから投擲アイテム、ピックを引き抜くとそれを投げた。
 ライトエフェクトを持った投擲攻撃……シンプルな基本投擲技《シングルシュート》はヒースクリフの突進を止めてはくれない。盾に防がれ、僅かに彼の勢いを減衰させるだけだった。
 だがその刹那の間で体勢を立て直すには十分。キリトは再び突進を敢行する。

「同じ手かね? 甘く見られたものだ」

 ヒースクリフは突進の勢い、スピードを上げた。彼は装備からして敏捷力、という点ではアスナやキリトには劣るだろうが決して低いわけではなく、駆け引きができないわけでもない。
 恐らく最初の突進は彼の出せる最速では無かったのだろう。僅かにスピードを増したそれの間合いを取るのは難しい。

 だが。

 それはキリトも同じ事だった。突進スピードを上げたヒースクリフに構わず突っ込むキリト。剣は同じく下段に構えたままだ。
 しかし、今度はその剣を振らなかった。ぶつかるギリギリでキリトは自分からヒースクリフの盾に飛び込み……引いた。

「!?」

 予想外の動きにヒースクリフは驚愕する。キリトは《自分から》盾の攻撃にぶつかり、吹き飛ばされた。
 だが、当たる直前に後方へと引き、剣の横っ腹で盾攻撃自体を防いでいた為に強攻撃判定にはならない。
 彼がこのようなミスをするはずがない。ヒースクリフは半秒ほどで我に返るが、その半秒はあまりにも長すぎた。
 自身が引くことによって少ないダメージで飛距離を稼ぎながら吹き飛んだキリトはさらに後方へ引いていき、十分な距離を取ってシステメニューを開く。
 何かをする気なのは明らかだった。ヒースクリフは距離を詰める。距離を取ったと言うことは逆に言えば距離を取らねばならないか、時間がかかることをしようとしているかのどちらかだ。
 だが、ヒースクリフの失った半秒はやはり致命的だった。彼が放った上段からの大振りな一撃を、キリトは受け止める。

 十字を結ぶように二つの鈍色が交差している。
 右手には黒い剣《エリュシデータ》、左手には白い剣《ダークリパルサー》。
 その手には、二刀が装備されていた。

 次に動いたのはキリトだ。弾けたようにヒースクリフを左右から切り込む。剣で、盾で応戦してヒースクリフはその攻撃を防ぐが、キリトは止まらない。
 連撃に次ぐ連撃。あまりに速いその連撃は驚いたことに今までの一刀を振る速度よりも二刀を振り終わる速度の方が速いという無軌道ぶりだ。
 二刀こそが彼のスタイル。これは、《わかっていたとしても》対応し難い。徐々に、ヒースクリフのガードが崩れていく。

 一刀を盾で防ぐ。もう一刀を剣で防ぐ。
 盾で防いだ次の一刀が別の死角から襲ってくる。コンマ一秒遅れて盾で防ぐ。あとコンマ二秒遅かったら防げなかった。
 剣で防いだはずのもう一刀が軌道を変えて襲ってくる。すぐさま剣で応戦し火花を散らす。
 休む暇もなく盾で防いでいた筈の剣が切っ先を変えながら襲ってくる。コンマ一秒遅れて防ぎきる。あとコンマ一秒遅かったら入っていた。
 火花を散らしていた剣が、火花のエフェクトが消える前にもう一度ぶつかり合う。高い金属音が鳴り、火花が再び散る。
 逆側は盾の隙を突くかのような一撃が再び襲って来るも盾の角度をやや変えることによって受け流す。
 受け流されたキリトはその反動を利用してさらに高速の横薙ぎを振る。

 初めてヒースクリフのHPバーが僅かに減った。

 詰め将棋のように激しい攻防が瞬く間に繰り広げられていく。右を責めながら左を攻撃する。
 左の攻撃がそのまま右の攻撃へ。右を攻撃していた筈が上からの攻撃に。上を防いでいたはずが下に攻撃を返していて。
 あらゆる角度を剣閃が煌めく。だが、徐々にヒースクリフのHPバーは削られていた。
 息を呑む、というのはこういう事を言うのだろう。アスナはぐったりとしたユイを抱きしめながら瞬きすら忘れてその戦いに見入っていた。
 アスナとヒースクリフは今になって先程のキリトの行動の真意を理解する。先の衝突で攻撃を食らったのはやはりわざとだ。
 《初撃決着モード》というデュエル方式が、通常なら僅かといえどダメージを避けたい衝動に駆られるはずのプレイヤー意識をはねのけ、キリトにダメージを食らっても良いと思わせた。
 簡単なようでこれは実は凄く難しい。HPは文字通りの自分のライフだ。減っていくということは自分の命を削る行為とそう変わらない。
 加えて強攻撃を受けてしまえば決着がついてしてしまう。故に弱攻撃であっても《半減までは減っても良い》と思えるプレイヤーは少ない。
 それにHPが残り半分だと、何の拍子に全て吹き飛ぶかわからない。
 キリトはそうしてまでヒースクリフに隙、間を作らせたかった。動揺を誘う意図もあったのだろう。まさに我が身を犠牲にしたスタイル。
 思い切りの良さがなくてはとうてい出来ない芸当だが、その思い切りの良さこそがヒースクリフの気に入るキリトの人間性の一部でもある。
 そうまでして得たマージンで彼は奥の手、《二刀流》を披露した。ここで最初の攻撃が布石だったことがアスナにはわかった。
 片手剣用ソードスキル《スネークバイト》は二刀の《ような》攻撃である。だが実際の《二刀流》とはそれこそ月と太陽ほども違いがある。
 初めて見る《二刀流》に対して、直前に《二刀まがい》な攻撃を受けた脳は、その瞬間的な違いに追いついてこられるだろうか。
 それはキリトにも言えることである。一刀での戦闘から即座に二刀へとすり替えることの出来るその、恐るべき脳内処理能力。
 脳の《反応速度》が尋常ではない。咄嗟のアルゴリズムの変化に、普通脳内はそれほど速く対応出来ないものだ。
 実際の肉体ではない、というアドバンテージを抜きにしても、その切り替えの速さ、反応の速さには舌を巻くしかない。
 だが、それはヒースクリフにも言えることだ。初めて見るはずの《二刀流》による攻撃をさほど驚愕することなく受けている。
 攻撃の勢いや威力には驚きを感じるが、《二刀流》自体にはさほどの驚愕を感じていないように見える、というのが端から見ていたアスナの感想だった。
 自分でさえ最初は《二刀流》に唖然とした。キリトも恐らくはそれを僅かばかり期待していたに違いない。しかしその目論見は脆くも崩れ去ってしまった。
 だからといってキリトに不和は無い。予定が全て通ることなど上層では対モンスター戦ですら珍しい。そんなことにいちいち気を取られていてはHPがどれだけあっても足りはしない。
 キリトも少しずつヒースクリフの攻撃を受けながら、それを上回るダメージを着々と相手に当て続けている。だが両者とも強攻撃判定になるような大きなクリーンヒットは無い。
 その時、とうとう一歩キリトが斬り抜けた。

「ぬっ!?」

 初めて、ヒースクリフから緊張感のある声が漏れた。キリトが、ガードの壁を打ち崩したのだ。
 コンマ一秒、ヒースクリフは反応が遅かった。

(抜ける!)

 両者ともHPバーは半分スレスレだった。少しのダメージを受けるだけでこの戦いは終わりを迎えるだろう。
 戦闘開始からずっとヒースクリフを護り、隠し続けていた盾が弾かれる。無防備な姿を、キリトの前面にヒースクリフは一瞬晒してしまった。
 キリトの刀が、その隙を狙い穿つ!

「えっ」

 その瞬間、違和感をキリトが包む。盾が、たった今崩した筈の盾が、戻ってくる。ヒースクリフの身体を覆い隠すべく戻ってくる。
 速い。速すぎる。あと半秒は硬直から戻って来られないという経験則が彼の中にはあったのにその盾は戻ってきている。間に合ってしまう。
 ありえない。速すぎる。自分の目算がズレているならいい。自分の感覚が鈍っているのならそれもいい。
 だが、速すぎる盾は、ほんの僅かに盾エフェクトのポリゴンを……《数ドット置き去りにしてまで》戻ってきている。
 システムが追いつかない程の異常なスピード。そうキリトは刹那の間に感じた。勝ちだと信じて疑わなかった為に繰り出した、これまでで一番の捨て身による攻撃。
 スピードを追い求めすぎたそれは防がれる事を想定などしていない。防がれれば、次の攻撃に映るには、恐らく足りない。時間が足りない。
 今自分が知っている《最高》の速度では間に合わない。

「っ!」

 普段はそう使わない刺突攻撃。突進を加えて初速スピードを増したソードスキル《レイジスパイク》。
 それが、戻りが速すぎる盾によって防がれる。堅いと感じさせる絶対の盾。鈍い金属音が遅れてキリトの仮初めなる聴覚を刺激する。
 感覚が速い。全てをスローに感じる。盾に剣を防がれた音がやたらと低重だったことからもそれがわかる。
 ゆっくり、ゆっくりとヒースクリフの剣がこちらを袈裟切りにしようとする様が見える。あまりにもスロー。
 全てがゆっくりなその世界で。


 ──ずるい。


 確かにその声が聞こえた。全てがスローの世界で唯一、少女の声だけが重力に囚われないように。
 それは、眠っているはずの少女の声。アスナに抱かれて微動だにしない娘、ユイの声。

 それを、ヒースクリフも聞いたのか。

 ほんの僅かに刀身が迫るのが遅れる。それはコンマ以下、0.001秒ほどの差。ひっくり返すには足りない。全く足りない。今までの《最高速》でもまだ届かない。
 剣が迫る。回避する術はない。回避は出来ない。切られる事は確定している。HPが半分を切るのは既に決まった未来。
 アスナに抱かれている筈のユイ。「ずるい」という謎の声援を受けて尚、為す術はない。アスナに抱かれているはずのユイは何をしたかったのだろうか。

『キリト君』

 アスナに抱かれている筈の……。

『キリト君が』

 アスナに抱かれている……。

『キリト君が死ん』

 アスナに抱かれて……。

『キリト君が死んだら』

 アスナに……。

『キリト君が死んだら私も死ぬ』

(アスナ……!)

 消えていたはずの闘志が燃え上がる。切られ、HPが半減することは《絶対に避けられない》この状態でしかし、キリトは諦めるわけにはいかなくなった。
 何故なら彼は約束してしまったから。

『責任重大だからね、キリト君。これでキリト君は簡単に命を諦められなくなったんだから』

 この戦いで負けても死ぬわけではない。だからなんだ?
 この戦いで負けても約束を破るわけではない。だからなんだ?
 この戦いで自分のHPの半減化は既に確定している。だからなんだ?

 諦めないと誓った。今ここで諦める人間が、その誓いを守れるのか?
 絶対無理だ。諦める事を選べる奴は、結局諦める選択肢を消すことが出来ない。
 今諦める奴は、この先いつだって諦める事を選んでしまう!

 動け、動け、動け。
 諦めるな、諦めるな、諦めるな。
 決して、最後のその瞬間まで諦めるな。
 奇跡なんて起こらない。そんなものは求めていやしない。
 そんなものに助けてもらえるなんて思っちゃいない。そんなものはこの世界に存在しない。
 なら、自分の力でどうにかするしか無いじゃないか。自分の力で守るしか無いじゃないか。
 右手が動かない? ソードスキル使用後の硬直? システム上の仕様?

 だからなんだ。

 彼女を守れないなら、そんな腕は必要ない。
 そんな腕などいらない。消えてしまえ。
 この腕は今この瞬間から自分の腕じゃない。


 ────プツン、と右腕を意識から切り離す。


 左手、お前はどうなんだ? そうだ、お前はまだ自分の腕だ。動けるな? そうだ、動けるんだ。
 まだ、戦えるんだ!

「なっ!?」

 彼は一度ソードスキルを放っている。彼の右手にある黒い剣《エリュシデータ》によるソードスキル、それによって硬直中になるはずだ。
 動ける筈がない。


 ──だというのに。


 彼の左手にある白い剣、《ダークリパルサー》はライトエフェクトを発している。ソードスキルの発動をシステムが認めている。
 そんなことはシステム上ありえない。ここがSAOな以上、《システムに則った》事しかできるはずがない。
 ヒースクリフには何が起こったのかわからない。《そんなことはありえない》。


 ──だというのに。


 キリトの左手の剣が、紅い光芒を纏って素早く突き穿たれる。
 ジェットエンジンのような金属質のサウンド効果を伴って、その剣は真っ直ぐにヒースクリフの中心へと吸い込まれていく。


 同時に、不可避な未来であるとわかっていたヒースクリフの剣は、キリトを袈裟切りに斬りつけた。



[35052] SAO12
Name: YY◆90a32a80 ID:1a43ae77
Date: 2012/10/01 20:06


「もぅ、バカバカ!」

「わ、悪かったって」

 涙目で怒り心頭なアスナに苦笑しながら、キリトは謝罪する。彼女の気持ちはわからないでもない。
 危なかったのだ、いろいろと。いろんな意味でギリギリの戦いだった事は、間違いない。
 全てが終わり、疲れからかその場に腰を下ろしたキリトの横に座って、アスナはポカポカと彼を叩きながら口を尖らせる。
 アスナの膝の上には、眠っているユイがいた。

「もう、二度とこんなことしないでよね」

「……」

 こんなこと、というのが一体、《どれのこと》を指しているのか、キリトは少しばかり悩む。
 恐らくは、今考えていること全てをひっくるめてのことだとは思うのだが、そうするとそれを全て約束することは難しい。
 キリトが閉口していると、アスナは不安を感じたように彼の手を握る。《あんな思い》は二度としたくなかった。
 キリトは彼女の手を握り返した。温もりが、お互いを包み込む。しばらくの間、二人はそうしていた。

 やや経ってから、ポツリ、とアスナが口を開く。

「ねぇ、最後……どうしてソードスキルが使えたの?」

「よく、わからない。ただ、諦めたくなかったんだ」

「諦めたくなかった?」

「ちゃんとは覚えていないんだ、無我夢中だったから。ただ、あのまま黙って斬られるのは……諦めることになると思ったから」

「諦めるって、何を?」

「自分の……俺の命。死ぬワケじゃないってわかっていても、負けることはわかってた。でも負けるのがわかってるからって足掻くのを止めたら、それは諦めたのと同じ事だ」

「……」

「だから、諦めたくなかった。アスナと約束したからな、俺は俺の命を簡単に諦められなくなった、責任重大だって」

「!」

 ドッと胸の奥から込み上がって来るものがあった。アスナの中に沸き上がってくる思い。
 それは瞬く間に足の爪先から髪の毛の先に至るまで埋められていく。
 彼は諦めなかった。諦めるという選択肢を選べるのに選ばなかった。それは、これからも諦めない事への証明、誓いに外ならない。
 それに、アスナは言い表せない歓喜を覚えた。本当は、喜んで良い場面では無い。彼は、あやうく《禁忌(タブー)》を犯すところでさえあったのだ。
 だが、身から溢れ出そうなこの歓喜を、アスナは抑えられそうになかった。
 彼の胸に顔を埋める。黒いコートをキュッと掴む。身体の震えが治まらない。
 喜んではいけない。今回に限っては喜んではいけない。なのに嬉しい。混ざり合った相反する気持ちがぐちゃぐちゃになって、アスナの中で飽和していた。
 サラリ、とキリトは栗色のロングヘアーを撫でる。それで、アスナは涙腺が決壊した。
 大粒の涙が、ぐちゃぐちゃになった気持ちごと外へ流れ出ていく。今はただ、こうしていたかった。
 キリトは、そんなアスナの髪を撫でながら、つい先程の事を反芻する。





「なっ」

 ヒースクリフの驚愕の声。冷静沈着を絵に描いたような彼からは珍しいことだ。
 だがそれは無理も無いこと。ソードスキルは発動後に必ず遅延効果(ディレイ)が発生する仕様になっている。
 それはシステム世界であるSAOにおいて絶対の理だ。ソードスキルを使ったなら、システムアシストによって身体は勝手に動く。
 先に《レイジスパイク》を放った《右手》は、《キリトの意志に関係なく》ソードスキルのモーションを辿り、ソードスキルの終了時に反動の遅延効果(ディレイ)をキリトに課す。
 それが《キリトの右手である限り》、仕様上は避けられない。

 だが、キリトの左手の剣はソードスキルの発動を認められている。
 片手剣用ソードスキル、単発重攻撃《ヴォーパル・ストライク》。片手剣の熟練度950で修得できるソードスキルだ。
 突き刺すようなその攻撃は勢いを増し、ヒースクリフへと吸い込まれていく。

 同時に。

 袈裟切りにキリトは斬りつけられる。それは不可避だとわかっていた未来。
 対してヒースクリフは、再び驚くような速度で──ポリゴンがやはり数ドット追いついていない──盾を《ヴォーパル・ストライク》に合わせた。

(まだだ!)

 込める。力を込める。仮初めの、データ上の筋力を最大までゲイン。
 貫け! と思いを込めた突き攻撃、ソードスキルは、盾を壊さずとも確かに奥までダメージが抜けた感触があった。
 それを持って、キリトのスローな世界は終了する。突如として時が動き出したような錯覚を感じながら、地面へと倒れた。
 しかし、ヒースクリフは立っていた。それが勝敗の結果だ……と唯一の観客であったアスナでさえ思った、その時、



【DRAW】



 驚きの表示が両者の間にポップされる。引き分け。アスナは目を疑った。
 これまでデュエルにおいて引き分けというのは見たことも聞いたこともない。
 システム上、不可能ではないだろうが、それは勝敗を左右する強攻撃かHPの半減がコンマ以下の狂い無く《全く同じ》でなければ発生しない。
 一時圏内で何としてもDRAW表示を出そうと躍起になっていたプレイヤー達がいたが、終ぞ出せることは無かったと聞く。
 だが、アスナよりも驚愕している人間がいた。

「……馬鹿な、私のHPが半分以下になった、だと?」

 ヒースクリフは信じられないというように目を見開き、固まっていた。
 ありえない、と顔に書いてあるようなその様は、アスナに一瞬恐怖を感じさせるほどだった。
 まるで、試合結果である【DRAW】など《どうでもいい》と言わんばかりの態度だった。
 彼はチラリ、とアスナを見て背を向け、何かやり出した。恐らくはシステムメニューを弄っているのだろう。
 回復アイテムを使用したのかすぐにヒースクリフのHPが全快する。それから少しして、ゆっくりと振り返った彼の目は、アスナを見ていなかった。

「……っ!?」

 ユイだ。その目はユイを見ていた。未だ眠っているユイを恐ろしく怜悧な目でヒースクリフは見ていた。
 丁度その時、むくりとキリトが起きあがった。ヒースクリフはキリトにもチラリと視線を向ける。
 その目は全く笑っていなかった。これまで、彼は常にどこか余裕が窺えるような顔をしていたのだが、その目に今余裕は微塵も感じられない。
 怒りとは違う。憎悪の類でもない。だが、その瞳はヒースクリフがめったに見せたことの無い、素の感情だとキリトは理解した。
 彼はそのまま身を翻し、転移結晶で消えてしまう。ただ、消える瞬間に彼はもう一度だけユイを見ていた。





「……やっぱあの時に《ヴォーパル・ストライク》はまずかったよなあ」

「……そう、だよ。団長の盾が間に合わなかったら、団長はHP全損してたっておかしくなかったんだから」

「う……」

 キリトは言葉に詰まる。あの瞬間、そんなことを考えている余裕は無かったのだ。ただ、今自分に出来ることをしようと身体を動かした。
 その結果がたまたま《ヴォーパル・ストライク》だったに過ぎない。今回に限って言えば、キリトは狙って《ヴォーパル・ストライク》を出したわけではなかった。
 何でも良かったのだ。攻撃を繰り出せるなら。しかし、彼女の言うとおり、片手剣用ソードスキルの中でも《ヴォーパル・ストライク》は上位の強力な技だ。
 クリーンヒットしていたらデュエルどころの話では無かった恐れはある。最悪、《血盟騎士団》や攻略組そのものを敵に回しかねない。

「それに、引き分けってことはこれが実戦だったら相打ち、とも取れるよ。それじゃダメなんからねキリト君」

「……ああ」

 そうなのだ。《生きる》ことが最低条件なキリトに、引き分けは勝利たり得ない。これでもしお互いHPを全損して相打ちとなればキリトは死んでいるのだ。
 相手を倒そうと死んでしまえば、それはあのバッドラック、《The Hell Scorpion》の時と変わらない。それではだめなのだ。

「逃げたって、良いんだから。格好悪くても良い。一緒に逃げ続けるのだって、私は構わないんだから」

 それでも生きて、というアスナの言葉に、キリトは本当に小さく頷いた。
 アスナは思う。どんなに周りから悪く言われても、嫌な目で見られても、この人には生きていて欲しいと。
 この人のいない世界に、自分の世界は無いと。



 二人は家の中に入り、今日はもう休むことにした。いろいろあり過ぎた一日は、二人に休息するよう脳が求めていた。
 その欲求に反抗する意味も意志もない。アスナは自分にくっついたままのユイを寝室まで連れて行き、ベッドに横に寝かせてさあ自分も楽になろう……と思った所で違和感。

「……?」

 服が引っぱられている。ゆっくりと振り返れば、眠っているユイはアスナの服の腰の辺りを掴んだままだ。
 アスナは慌ててユイの指を離そうとするが、これがなかなか思ったよりもしっかり掴まえていて、小さいユイの指は離せそうにない。
 ユイは眠りながらにしてがっちりとアスナ──正確には服だが──をホールドしている。
 「どうしよう」という目でキリトに助けを求めると、キリトは苦笑して、

「今日はユイと一緒に寝てあげろよ」

 と、至極もっともな返事が返ってくる。それは別に悪くない。彼女にとってユイに含むものは一切無くむしろユイと眠ることに幸福感さえある。
 しかし、それでもアスナは僅かに不満げな顔をキリトに向けた。
 ぷぅ、と頬を膨らませ、目で「私一人に押しつけてキリト君は自分だけで寝ちゃうんだ?」と抗議する。
 まるで端から見れば子育てを一緒にしてよ、と言わんばかりのそれにキリトは動揺した。
 そんなつもりはなかった。ただユイがアスナと離れたがらないならしょうがないじゃないか。そんな思いしかなかった。

「……むぅ」

「……え、マジ?」

 視線でアスナは尚も訴えてくる。それの意図を正確に読み取ったキリトは思わず聞き返していた。
 アスナの目は真っ直ぐにキリトを捕らえ、左手人差し指はユイと自分がいるベッドを指している。
 つまり意訳すれば「キリト君もこっちで寝ようよ」ということだった。

「三人は辛くないか?」

「くっつけば大丈夫だよ」

 気にしないアスナにキリトは早々に折れた。ここで長く言い争っていても何の得にもならない。
 それに嫌々という気持ちがあるわけでもない。それならそれでいいか、とすぐに割り切った。

「それじゃ失礼」

「うん」

 キリトはアスナとは逆側、ユイを挟むようにしてベッドの反対側へ入る。スペース的には結構ギリギリだが何とか体は入りきった。
 やはり第一印象は狭い、だったが不思議と息苦しさは感じない。ユイが思ったほどかさ張っていないせいかもしれなかった。

「今度ちょっとおっきいベッド買おっか」

「そうだな」

 キリトも賛成する。今後、また今日みたいに三人で寝るときに、もう少し大きめのベッドがあると快適だ。
 それは暗に、また今夜みたいに一緒に眠る日が来るとお互い信じていることに外ならない。
 二人は今日と同じように明日が来ることを疑わない。信じれば、必ず明日は来る。それは、現実と何ら変わらない。

「なんか、本当に親子みたいだよね」

「そうだな、ユイとは知り合ってまだ間もないけど、とてもそう思えない。本当の娘みたいに思うよ」

「団長にも堂々と言っちゃったしね」

「あ、あれは……その……」

 ヒースクリフにユイを知っているのか、と聞かれた時、キリトは迷わず《自分とアスナの娘》だと答えた。
 今思い返せばなんという大胆な発言だったことだろうか。

「別に怒ってないよ、むしろキリト君もそう思ってくれてるんだって嬉しかった」

「……う」

 急に恥ずかしさが込み上げてきて、キリトは顔をシーツの中に埋める。こんな時は秘儀、夢脱走だ。
 さっさと夢の世界に逃げ込んでしまうのが吉である。それをアスナは感じ取ったのか、クスクスと小さく笑う声が聞こえた。
 「おやすみ」とキリトは呟いて目を閉じる。眠ろうと思えばすぐに寝られるのは彼の数少ない特技だ。
 一時、全く眠られなかった時期があったが、今は……アスナと深く付き合うようになってからは彼のこの特技は復活している。

「おやすみ、キリト君」

 返事を返すように、暗闇の中、透き通るようなアスナ声を聞いて、キリトはその意識を手放した。
 アスナはここ数日の彼の眠るパターンから、なんとなくそれを察する。
 自分の胸にはユイの頭がある。その頭を挟んで向こうにキリトがいる。
 親子三人、川の字になって……という何世代も昔の家族の姿をふとアスナは思い浮かべて、昔の人たちは心が豊かだったんだろうなあとぼんやりと思った。
 今、こうやって一緒に眠る親子がどれだけいるだろう? 少なくとも自分はそうではなかった。
 触れ合いの欠如はそのまま心の触れ合いの場をも無くす。なんとなく、こうしているとそんなことを思う。
 こうやって、小さいベッドでも一緒にいられることが何よりも幸せなことなのだと、アスナは感じる。

「大好きだよキリト君、ユイちゃん。ずっと一緒にいようね」

 既にまどろみつつあったアスナだが、そんな思いから、眠っている二人に向かって小声でそう呟いていた。
 そうして、ぎゅっ、とやや強めに抱いたユイの体が、少しだけ抱き返されたような感覚を得ながら、アスナも夢の世界へとダイブした。



 ぱちり、と瞼を開く。自分にしては珍しく早く起きたな、と自覚しながらキリトはその身を起こした。
 ふと時間を確認すると普段の起床時間までまだ一時間近くある。本当にこれは珍しい。
 と、次の瞬間急に左に倒れそうになって慌てて体勢、バランスを整える。もう少しでベッドから滑り落ちるところだった。
 それで思い出す。隣にはユイとアスナがまだすやすやと眠っていた。
 それを穏やかな気持ちで見つめる。考えてみれば、この二人より早く起きた記憶がキリトには無かった。
 いつもこの二人は自分よりも早く起きている。それだけで今朝はなんだか新鮮だった。
 じっとユイを見つめてみる。ユイはすぅすぅと寝息を立てていた。そういえばこれまでこの子が寝息を立てていたことは無かったように思う。
 無意識呼吸を必要としないSAOでは眠っている時にも呼吸をしていない。だからそれは特段不思議なことではないのだが、では逆になぜ今呼吸をしているかのように寝息を立てているのだろうか。
 答えとしては眠っている時の行動オプションを変更したことが考えられる。眠っている自分を誰に見せるわけでもないので変更するプレイヤーは少ないが、SAOの数多いオプションは眠っている時に寝息を立てるか否かまで選ぶことが可能だ。
 アスナあたりがユイに変えさせていたのかな、と勝手に推論を組み立てつつ、そのアスナの寝顔を拝見する。
 アスナは瞼を閉じることで、その長い睫がやや強調されていた。普段から綺麗だと思ってはいたが、ここまで来ると顔を見ているだけで動悸がしてしまう。
 じっくり見れば見るほど、非の打ちどころは無く、むしろ心奪われる部位が多い。
 その柔らかそうな頬、長い睫、薄い桃色の整った唇。長くふんわりとした栗色のロングヘアー。
 首から下に行けば語る部分はさらに増えていく。と、キリトはそこでぶんぶんと首を振った。これじゃ変態一歩手前だ。

(でも、綺麗だよなあ。本当、俺にはもったいないくらいの美人だよ)

 それを言えば彼女は跳ぶように喜ぶだろうが、悲しいかな、胸の内の声は届かせようがない。
 いつまで経っても見飽きないそんな彼女の寝姿をキリトは無理やり見納めた。それには相当の意志力が必要とされたがこのままでは彼女が起きるまでただひたすら彼女の寝顔を見ていかねない。
 それは人としてどうなんだ、と思い視線をずらす。ログハウスの窓からは光源による日差し……のようなものが入ってきていて、きちんと朝を告げている。
 少し早いが一人で起きてストックしてあるアスナオリジナルブレンドのお茶でも頂いていよう、とキリトは腰を浮かせて……振り返る。
 アスナは瞼を閉じたままだ。

「……」

 その顔を再びたっぷりと三十秒は見てから、静かに近づき、露わになっている額にそっと唇を合わせた。
 すぐに離して「やっちまった」と照れ隠しに後頭部をガリガリ掻きながらキリトは寝室を出ていく。
 寝室には静寂が戻り──すぐにむくりと人影が起き上がった。
 額に手を当てて、頬を真っ赤に染めながら俯いているその人影は、言うまでもなかった。
 たっぷりそのまま五分は経ってから再びバフッとベッドに倒れこみ、ユイを胸元に引き寄せて強めにギュッと抱きしめる。
 この時、ユイの口元が綻んでいることに、彼女は気付かなかった。



「おはよう」

「お、おはよう。今日は早いんだねキリト君」

「なんか目が覚めちゃってな」

「そうなんだ。あ、今朝食用意するね」

「悪いな」

 椅子に座って数日前の新聞を読んでいるキリトに、アスナは微笑む。キリトのその目は紙面をいったりきたりしているが、その耳は赤い。
 フェイスエフェクトは日に日に進化しているんじゃないだろうか、とアスナは思いながら簡易的な朝食を作り始める。

「……」

「……」

 お互いに会話が無い。何かを話そうとするが、上手く言葉が出ない。
 「あれ? どうやっていつも会話していたっけ?」と思いたくなるほど最初の一言が思い浮かばなかった。
 その時、寝室から最後に出てきた少女が口を開く。

「おはようございます」

「おは、よう……?」

「どうかしましたか、パパ?」

「え……ユイ、だよな……?」

「はい、私はユイです」

 朝の挨拶を礼儀正しく……というより丁寧な言葉遣いでしたのは紛れもなくユイだった。
 その喋り方や動きには昨日までの《見た目以上の幼さ》が垣間見えない。
 むしろこれくらいが普通なのかもしれないが、急に変わられると少しばかり調子が狂う。

「えっと、ユイちゃん?」

「なんですかママ?」

「あ、ううんなんでもない」

 首を傾げ、不思議そうにしているユイに、アスナはそれ以上何かを言うのをやめた。
 ユイはユイだ。それでいい。そう思って朝食の準備を続ける。

「あ、手伝いますママ!」

「ありがとうユイちゃん。じゃあお皿出すから並べてくれる?」

「はい!」

 ユイは元気よく返事をして微笑み、アスナが出した皿をテーブルに並べていく。
 「るんるん♪」言いながら並べていく様は上機嫌で、キリトはつい聞いてみたくなった。

「ユイ、随分機嫌がいいな。何かいいことでもあったのか?」

「わかりますかパパ! 流石です!」

 ユイは気付いてもらえたのが嬉しいのか、皿を並べ終わるとキリトの元に飛び込んだ。
 キリトは「おっと」と急に飛び込んできたユイを抱きとめる。新聞が足元に散らばってしまったが、ユイは気にもとめない。
 ユイはキラキラ光る瞳をぱっちりと開けてキリトを見つめる。それにキリトが首を傾げていると、

「あー、ごほん」

 アスナのワザとらしい咳でハッと我に返る。
 いかん、これはいかんぞ。このような危ない真似は断固として注意せねばなるまい。
 キリトがそう心を鬼にしてキッとユイを見つめると、

「私、思い出したんです!」

「えっ」

 予想もしない言葉が返ってくる。思い出した、というのはどういうことか。
 いや、決まっている。自分のことだろう。

「本当かユイ? 良かったな!」

「はい!」

「ユイちゃん……! 良かった……!」

 アスナも料理を投げ出してユイに近づき、キリトの膝の上に座っているユイに抱き着いた。
 ユイはくすぐったそうにしながら「ありがとう、ママ」とアスナからの抱擁を返すように手を伸ばす。
 キリトはそんな光景を見ながら、先ほどのアスナのようにわざとらしく咳き込んだ。

「えーと、ごほん。そろそろいいかな?」

「あ……」

「えへへ、ママがあったかいのでつい」

「も、もうユイちゃんたら……」

「それで、ユイは何を思い出したんだ? 何もかも思い出せたのかい?」

「いいえ」

 首を力なく振るユイに、アスナとキリトは僅かに悲しい顔をする。
 期待してしまった故に少しだけ残念だ。

「そんな顔をしないでくださいママ。私は自分がこういう話し方だったと思い出しました」

「うん、そうだね。他にはなにか思い出したの?」

「いいえ。これだけです。でも、なんだか自分が帰ってきたみたいで嬉しくなりました!」

「……そうか。良かったなユイ」

「はい!」

 キリトがユイの頭を撫でると、ユイは嬉しそうに笑った。アスナはまだ少し複雑な顔をしていたが、キリトが一瞬向けたウインクで、その考えを振り払う。
 話し方、どんな人間だったかを思い出せたと言うユイ。アスナにとっては一瞬それだけしか思い出せなかったの? という憐憫に似た思いがあったが、キリトは例えそれだけでも思い出せて良かったな、とユイと喜びを分かち合っている。
 それで良いのだ。その姿を傍から見ていてアスナはそう思った。それだけしか思い出せなかった、と思うより、それだけでも思い出せて良かったと良い方向へ考える。
 実際良いことなのだ。ならそれでいいではないか。

(きっと私とユイちゃんだけだったら、一瞬私が感じたことをユイちゃんに悟られちゃっただろうなあ……やっぱりキリト君には敵わないなあ)

 自分が好きになった人はそういう人なのだ。そういう考えのできる人なのだ。
 そう思うと、愛しさと誇らしさがこんこんと胸の内に湧き上がってくる。

「ん? なんか焦げ臭くないか?」

「……あ!」

 だから、そんな思いに浸っていた為に、今朝の朝食は料理スキル完全習得者の失敗料理というSAOでも珍しいだろうものとなった。



 そのメールが来たのは午後を少し過ぎてからだった。
 ポーンと音を立ててアスナの目の前にメールが来た旨のウインドウが立ち上がる。
 差出人はヒースクリフ。「来たか」と思いつつアスナはメールを開いた。

【昨夜はすまない。何も言わずに帰ってしまったことを詫びよう。さて、さっそくだがデュエルの件だ。結果は珍しいDRAWという結果に終わってしまった。そこでどうだろうか。折衷案を考えてみた。これならば現状維持を出来ると思うが考えてみてくれたまえ。まずアスナ君の血盟騎士団脱退についてだが、籍は残したまま、活動に参加する義務は無いものとする。次に君たち二人には一週間以内に攻略に戻ってもらいたい。やはり君たちのようなトッププレイヤーが攻略に顔を出さないのは我々のギルドだけではなく攻略組全体の士気にも影響してくる。マッピングについてはキリト君のやり方で構わない。ボス戦についてはアスナ君に極力指揮を頼みたい。加えて、昨日のキリト君の戦い方は私の胸の内だけに仕舞っておくことを約束しよう。以上だ。もし不服な点がある場合は今日中にその点についてメールを返して欲しい。メールの返事がなければ了承してくれたものとしてこちらも行動する】

 アスナはざっと目を通してからキリトにもそのメールを見せた。キリトは僅かに悩みながら「まあこの辺が落としどころだろうな」と頷く。
 引き分け、という点から両者の主張を極力取り合った形を展開しているとキリトは見た。唯一アスナが籍だけを《血盟騎士団》に残すというのが気がかりだが、面子もあるのだろうと思い、活動には基本的に不参加許可を提示していることで納得する。
 それと引き替え、という程ではないのだろうが、ヒースクリフは《二刀流》について詮索、公開する気はないようだった。
 攻略にはどのみち近いうちに戻るつもりだった。これにも二人に異存は無い。だが一点、迷い……というより悩みはあった。
 ユイである。この子をどうするのか、それが悩みの種だった。
 正直、既に何処かに預けるという考えを持てないほどにアスナはユイを溺愛していた。キリトも似たようなものだろう。
 加えて、彼女の特異性が誰かに預ける……という考えを益々恐くしてしまう。
 ユイは厳密にはSAOプレイヤーではない、というのがキリトとアスナの共通認識だった。
 生命の碑に名前がなく、システムメニューは左手で開きその内容もおかしい。
 HPバーすら見えなかった時、もしかすると彼女はこの世界で死なないのではないか、という疑念さえ持った。
 だが、それを確かめる気にはなれない。《もし間違って》死んでしまったりなどしたら、取り返しがつかない。
 そして、もし万一にも彼女が不死存在だったとすれば、常に死の不安に苛まれているSAOプレイヤーにとってそれは何よりも羨まれることだ。
 それを知ったプレイヤーが何を考え行動してくるかなど想像もつかない。ネットプレイヤーの妬みというのは時に恐ろしいものがある。
 キリトですらそれを恐れて《二刀流》を公開しなかったほどなのだ。

「どうしようキリト君?」

「……まずは、信頼できる味方を増やそう」

「味方?」

「ああ。挨拶回りをかねて、ユイをエギルやクラインに知ってもらう。マッピング時ならエギルに預けておくのは安心できると思う」

「そう……だね。迷宮にはさすがにつれていけないし。リズにも紹介したいな」

「よし、ユイを信頼できる知り合いに紹介して回ろう。まずは味方を固めるんだ」

「うん。あ、でもなんて言うの?」

「そんなの決まってるだろ?」

「……そうだね、そうだよね!」





「娘だあ?」

 第五十層、アルゲードにて。
 エギルは数日振りに顔を見せに来た二人が連れてきた少女を見やる。
 白いワンピースに黒い髪をした少女。エギルが知る中でもダントツに年少組プレイヤーだろうことはすぐに理解した。
 もっとも、キリトとアスナの見立てでは厳密にはプレイヤーではないのだが。

「お前ら、なんていうか……いや、なんでもない」

「なんだよエギル」

 エギルは言いにくそうにして結局言葉を引っ込めた。小さい子の前で言うべきことではないと自制したのだ。
 それにこの子はキリトとアスナに手を繋がれて微笑んでいる。この子の笑顔を奪うのはそれだけで罪深い。
 そう思えるほどの心遣いはエギルにもある。加えてこの子はキリトやアスナを本当にパパ、ママと呼んでいる。
 理由を深くは聞いていないが、こんな世界だ。無理もないことかとエギルは納得した。

「いや。それでこの子を迷宮に行ってる間預かってほしいってか? ウチは雑貨屋だが託児所を兼ねているつもりはないんだが……」

「わかってる。でも、そこを曲げて頼みたいんだ。この子は、信頼できる奴にしか預けられない」

 昨日、始まりの街の教会でも預かってくれるという話はあったが、まだキリト達は彼女たちをよく知らない。
 悪い人達では無いとは思うが、今は慎重に動くべきだと二人は思っていた。

「どういうことだ?」

「ユイ、システムメニューを出してくれ」

「はいパパ」

 ユイは何も疑問に思うことなく《左手》を振ってメニューを開く。その様を見て、流石にエギルもぎょっとした。
 通常、メニューは右手でしか開くことは出来ない仕様になっている。それを、この子は左手で開いて見せた。

「エギル、見てくれ」

「何なんだこの子……って、おい、こりゃ……なんだ?」

 システムメニューの異常さにエギルは眉をしかめる。それは慣れ親しんだものとは違いすぎる。
 そこでようやくキリト達の考えにエギルは合点がいった。

「なるほどな、お前らはその子がなんなのかわかっているのか?」

「この子は俺たちの娘だ。それ以上でも以下でもないさ。もう閉じてもいいぞ、ユイ」

 キリトはユイの頭を撫でながらエギルに答える。頭を撫でられたユイは嬉しそうに微笑んでいた。
 それを見て、エギルはおおよその経緯……少なくともここに来た理由を理解した。

「わかった。俺がこの店にいる間は預かってやる。それと……ユイちゃん、だっけか?」

「なんですか?」

 ユイは初めて会うエギルの強面顔に怯えることなく、名前を呼ばれて不思議そうに首を傾げる。
 その瞳は純真無垢そのもので、人を疑うということを知らないようにさえ見える。

「キリト達に言われてるかもしれないが、そのシステムメニューは他人の前では絶対に開いちゃダメだぞ」

「はーい♪」

 可愛らしく片手をあげてユイは返事をした。なんとなくエギルは口元が綻んでしまう。
 たったこれだけのやり取りで、この子が悪い子ではないとなんとなくわかってしまった。
 キリト達が娘だと言い、大事にしている理由もわかるというものだ。

「それで、いつ頃からの予定なんだ?」

「ヒースクリフには一週間以内には攻略に戻ってほしいと言われてる。早ければ三、四日後には一度攻略に顔を出そうかと思ってる」

「そうか。ユイちゃん」

「はい?」

「もう何日かしたらキリト達はちょっと出掛けなきゃいけないからその時は俺とここでお留守番してような」

「え……私も行っちゃダメなのですか?」

「ユイちゃん、私たちが行くところはとっても危険なの」

「……うぅ」

 涙目になってユイはアスナを見つめる。その目は暗に「私も連れて行ってください」と言っていた。
 そんな目で見られるとクラリとなんでもかんでもオーケーしてしまいそうになるが、ここは心を鬼にしなくてはならない。
 そんなアスナの眼差しを見て、ユイは頼み込む標的を変えた。

「パパぁ……」

「うっ……」

 キリトは涙目で自分の腰に縋りつくユイを見て、反則だと思った。こんなユイを見て、「ダメ」なんて言える奴は人間じゃない。鬼だ。
 だが自分は言わなくてはならない。それは必要なことで、ユイの為なのだ。心を鬼に……、

「う、うぅん、そうだなあ……え~と」

「パパぁ、私も行っていいですよね? ね? パパ?」

「え、えーと、それはその……まぁ……うん」

 キリトは鬼になれなかった。「うん」と言ってしまってから「しまった!」と思うがもう遅い。
 ぱぁぁぁ! と顔を綻ばせたユイは嬉しそうにキリトに抱き着いた。

「ちょ、ちょっとキリト君!」

 それに納得できないのはアスナだ。自分だって「うん」と言ってあげたいのを泣く泣く我慢したのに彼が「うん」と言ってしまっては台無しもいいところである。
 これでは自分だけ悪者ではないか。そんなの、するい。

「い、いやこれはだなアスナ……」

「もう、それでユイちゃんに何かあったらどうするの?」

 ぷぅ、と不満から頬を膨らませてアスナはキリトを睨む。ユイに甘いキリトのこともそうだが、自分だけ悪者にされたような錯覚がアスナのご機嫌をナナメにしていた。
 これは分が悪い、とキリトはここにいるもう一人に助けを目線で訴える……が。

「痴話喧嘩なら余所でやってくれ。ウチじゃ取扱いできねぇよ。百万コルもらったって願い下げだ」

 呆れた顔をしてばっさりと切り捨てられる。
 これは益々もって状況の不利を悟ったキリトは辺りを見回した。何か、何か形勢逆転の一打は無いのか?
 そんな時だ。カランカランとドアのベルを鳴らして客が入ってきた。その客は偶然にもキリトが良く知るSAO一番の顔なじみだった。

「クライン! ちょうどいいところに!」

「キリト? なんだよ、俺に何か用か? 珍しいな」

 紅いバンダナに野武士面という変わらない出で立ちで旧知のプレイヤーが現れる。
 キリトはこれこそ天の助けとばかりにクラインに飛びついた。

「久しぶりだなクライン! 元気にしていたか!」

「あ? お前今日は随分と人当りがいいな。ってなんだよその子? 随分幼いけど知り合いか?」

「ああ、この子はユイ。俺とアスナの娘だ」

「………………は? む、む、娘ェ────!? なンだそりゃ!? ってお前、左手薬指に指輪だぁ!?」

 クラインはそのままギギギ、とアスナの方を見やる。鋭くアスナの左手薬指を確認し、ポクポクポク……と事実を彼の中で組み上げていく。
 チーンとレンジ完了のような音が本当に出そうなタイミングで彼は再起動を果たした。

「SAOってセッ」

「死ね」

 クラインがそれ以上何か言う前にキリトは恐るべきスピードでその頭に体術スキルを放った。ここは圏内、オレンジプレイヤーになる心配はない。
 スキルを食らえば軽いノックバックが発生するだけだが、思いの外威力が高いそれはクラインを床に激しく叩きつけた。
 圏内でなければHPバーの減りはゆうに二割近く奪われていただろう。

「おい、店の中壊すなよ?」

 エギルはクラインよりも店の心配をするが、それは杞憂というものだ。
 クラインが床に叩きつけられた瞬間、床近辺では小さいウインドウが立ち上がり、【Immortal Object】のシステムメッセージが立ち上がっている。
 圏内のオブジェクトは基本破壊不可能なのだ。無論エギルはわかって言っているのだが。

「セッ……ってなんですか?」

 ユイが首を傾げる。慌ててアスナは「ユイちゃんは知らなくていいことなのよ」と言い含めて忘れさせる。
 キリトは起き上がらないクラインに近寄って腰を屈めた。

「ユイに変なことを吹き込むんじゃない」

「……殺す気かてめェ」

「圏内じゃ死なないから大丈夫だって」

 クラインはようやくのろのろと起き上がって首をコキコキと鳴らす。ダメージはもちろんないが、酷い目にあったというアピールだ。
 そうしながら「んで、その子はなんなんだよ?」と目でキリトに問う。
 キリトはエギルにした説明をもう一度クラインにした。どのみち、彼には話して味方になってもらうつもりだったのだ。

「へぇ……」

 クラインは顎を撫でながらユイを見つめた。キョトン、としながらも瞳はぱっちり開いている黒髪ロングヘアーの少女、ユイはそんなクラインの視線にも動じることはなかった。
 クラインとて全てを理解できたわけではない。だが他ならぬキリトの頼みを断る気も無かった。
 ニヤリ、と笑ってキリトの首に腕をかける。

「このこのこの、しっかり良い思いしてんじゃねぇか! 俺は安心したぜ」

 うりうり、と指でつつきながらクラインは笑う。本当に嬉しかったのだ。この戦闘マニアが誰かといることを許せるようになったのが。
 ずっと気がかりだったのだ。誰かが凍てついたキリトの心を溶かしてあげられないのかと。
 その役目が自分でないことは早々に気が付いていた。可能性があるとすれば……とクラインはアスナを一瞬見やった。
 彼女は視線に気づいて首を傾げている。クラインはすぐに視線を戻すとキリトをつつく作業に取りかかる。
 思った通り、やはり彼女だった。キリトを理解し、支えてあげられるのは。それがクラインは嬉しかった。
 キリトもそんなクラインの心情をどことなく察しているのか、苦笑しながら黙ってやられていたが、これを面白く思わないものがいた。


「いい加減にパパから離れてください。この××××の×××××さん」



「……え?」

「……へ?」

「……は?」

「……な?」

 空気が凍る、というのはまさにこのことだろう。今までの彼女からは聞いたことのない汚い言葉がその口から発せられたのだから。
 キリトとアスナは信じられない、という顔で固まり、エギルはポカンと口を広げ、当のクラインはそれが自分を指していることに気付くのに数秒の時を要した。
 だが、ユイはその数秒をそのまま待ってくれるほど優しくは無く、無理矢理クラインとキリトの間に割って入る。

「パパにくっついて良いのはママと私だけなんです!」

 ユイはキっと睨むようにしてクラインを見つめる。それでようやく彼はユイの考えを察した。
 要するにこの子は嫉妬したのだと。実に可愛いものではないか。まるで《どこぞの誰かさんを真似ているみたい》だと笑いさえ込み上げてくる。
 本当の子供ではないことは明らかだが、本当に血が繋がっているんじゃないのかと思う程それは《そっくり》だとも思えた。

「あーごめんなユイちゃん。キリ……パパを独り占めして」

「わかってくれるならいいんです」

 ユイは剣呑な空気を一瞬で霧散させた。それでようやくアスナやキリトも我に返る。
 娘の予想外な一面と言葉遣いに二人は呆気にとられていたのだ。どこで育て方を間違ったかと一瞬本気で悩んだ程である。

「ユ、ユイ? そういう言葉遣いは感心しないぞ」

「そ、そうよユイちゃん、もうあんな言葉使っちゃダメよ! っていうかどこで覚えてきたの?」

「思い出しただけですママ」

「思い出したって……」

 一体この子はこれまでどんな生活環境にいたのだ。その環境を作り出した奴に一言文句を言ってやりたい気分だった。
 いや、文句を言うだけでは気が済まない。吊し上げてやらなければ。
 ゴゴゴ、とアスナとキリトが背後に黒い炎を燃やす。考えていることは同じだった。

「ユイちゃんはパパとママが大好きなんだな」

「はい! 今度一緒に《めーきゅー》に行くんです!」

「え? おいおいキリト……まさかオメー連れて行くのか?」

「あ……いや、えっと、そのだな」

 キリトは気まずそうに頬をかく。そもそもそれを何とかしたくてクラインの来訪を歓迎したのだった。
 その様を見てなんとなくクラインは事情を察した。「仕方ねぇな」と小さく呟いて、彼はひと肌脱ぐことにする。

「なあユイちゃん、パパとママはどれくらい好きだ?」

「凄く大好きです」

「そうかあ、レベル100くらい?」

「もっとです!」

「レベル1000くらい?」

「もっともっとです!」

「そりゃすごいな」

 クラインはニカッとユイに笑う。ユイはえっへんとその胸を張った。
 聞いているアスナとキリトは恥ずかしさから顔を紅くしてしまう。

「大好きなんだもんな」

「はい!」

「じゃあ二人にはいつまでも仲良くしてほしいよなあ」

「もちろんです!」

「実はなユイちゃん、迷宮ってのは二人がもっと仲良くなるための場所なんだ」

「えっ? そうなんですか?」

「ああ。あそこは二人で行けばもっともっと仲良くなれる。でもユイちゃんが一緒に行くとそこまで仲良くなれないんだ」

「そんなの嫌です! パパとママは仲良くしてほしいです!」

「そうかあ、そうだよなあ……でもそうするにはユイちゃんはパパとママが迷宮に行ってる間お留守番しなくちゃいけなくなるんだ」

「………………私、お留守番します。パパとママの為にお留守番します」

「そうか……良い子だなあユイちゃんは。キリトにはもったいないくらいだ」

「そうですか……?」

「ああ」

「えへへ……私良い子になります」

 クラインとユイの会話を聞いていて、キリトは驚いていた。クラインはあれよあれよという間にユイを納得させてしまった。
 この男は結局誰にでも好かれる才能があるのだ、とユイを撫でているクラインを見ながらキリトはこの時改めて感じた。

「ユイ、ごめんな。必ず帰ってくるからな」

「うん、ユイちゃん。なるべく早く帰るようにするね」

「はい、パパ、ママ」

 少しだけ寂しそうに笑うユイをアスナは抱きしめた。この子は、何があっても必ず守ってあげなくては。
 そう強く思う。

「全く、お前らはよォ……ふぁあああ」

「なんだよクライン、欠伸なんてして……寝てないのか?」

「ああ、あんまりな。マッピングが進まないから俺もいつもより多めに迷宮を探索してる。今回は七十五層だ、これまでの経緯から言ってボスは半端じゃないだろうからな」

「あ……そうか」

 クラインの疲れ、睡眠不足の一旦は、自分たちのせいにもある。キリトはそう確信する。クラインは全くそんなことを思わないだろうが、これまでキリトが提供してきた最前線の迷宮マップ量は膨大だ。
 それをアスナも自覚していて、少しだけバツが悪そうな顔をした。流石にその意図に気付いたクラインは慌てて首を振る。

「お、お前らのせいじゃねェよ、気にするなって」

「でも……」

「クラインさん、眠いんですか?」

 その時だ。目をくりくりと輝かせてユイはクラインに近寄った。
 クラインはユイの視線の高さまで腰を下げて笑う。

「なァーに、たいしたことないって」

「眠いんですね?」

「うん? まァ少しな」

「わかりました──んっ」





 チュッ。





「─────────え」





 再び店内が凍る。何を血迷ったのか、ユイはクラインの頬に自らの唇を押し当てた。
 早い話がキスである。ユイのこのとんでもない行いに、キスされたクラインはもとよりキリト、アスナ、エギルは凍りつく。

「ママもパパも寝ている相手によくチューします。するとすぐに相手は起きます。クラインさんもこれで目を覚ましてください」

「…………」

 ニコニコ笑う無垢なユイに、何が起こったのか未だ理解できないクラインは固まったままだ。
 あまりのことにキリトもアスナも娘の爆弾発言について思考を張り巡らせる余裕がない。
 当のクラインは焦点の合わぬ目で、ゆっくりと自分の頬を撫で、だがそれで今起きたことをようやく理解したのか、ぬらりと腰を上げてキリトとアスナの前にたたずむ。
 ぷるぷると体を震わせながら、彼はゆっくりと口を開いた。

「……お義父さん、お義母さん、娘さんを、俺にください」

「誰がやるかこのロリコン!」

 キリトの怒りの体術スキルが、アスナの《閃光》もかくやというスピードで再びクラインを店の床に叩きつけた。



[35052] SAO13
Name: YY◆90a32a80 ID:1a43ae77
Date: 2012/10/01 23:29


「わぁ!」

 ユイは目をキラキラさせて水面を見ていた。ゆらゆらと揺れる水面は太陽ではない仮想の光源を反射して、偽物とは思わせないほどの光沢と精巧さを放っている。
 エギルの店で方針を固め、リズベッドにも軽く挨拶と紹介──というよりはからかいだったが──を済ませた翌日、キリトとアスナはユイを連れて再び二十二層の湖に来ていた。ボートを浮かべて三人で乗り込む。
 三人では流石に少し狭いが、アスナの膝の上にユイが座ることでスペースはなんとかなった。ユイは嬉しそうに笑いながら時折湖に手を入れる。
 三日後、二人は攻略に戻ることを決めた。攻略に戻ったからといって攻略にかかり切りになるつもりはなかったが、ユイとは会えなくなる時間も増えるだろう。
 だから、この三日間は親子三人──血が繋がっていなくともユイはもちろんキリトとアスナもそう思っている──で楽しく目一杯過ごそうと決めたのだ。
 ついでに、出来る限り常識を植え付けてあげなければなるまい。
 クラインに突然キスしたユイに悪気は無かった。ただ自分が《見て学習》したことを実践したに過ぎない。
 彼に非は無かったと言える。それでも、キリトとアスナは活火山のように噴火した。
 こんな小さい娘に何をするのか、と。キリトは床に叩きつけたクラインをそのまま店外へと引っぱっていき、ユイの見えないところでじっくりと彼にその罪の重さを──圏内なのを良いことに──身体に教え、アスナは倒れそうになる身体をグッと踏ん張りユイの両肩に手を置いて言い聞かせていた。
 エギル曰く、あの時の二人の目は完全に据わっていたという。触らぬ神に祟り無し、と彼は傍観の立場を貫いた。
 ユイは言葉遣いこそまともになったが、その知識は未だ偏りが見え隠れしていた。特に常識的なことについて、時に素っ頓狂とも取れるあやうい考えを示した。
 アスナとキリトは娘のこの事態を重く受け取り、その日の残りは彼女の為の勉強会となった。
 勉強会の内容はやや偏見じみたものだったのだが、これもユイの為なのだ、とアスナとキリトはその内容に自信を持つ。尚、その内容は諸事情により割愛させて頂く。
 ユイは最後まで度々疑問符を浮かべていたが、キリトやアスナと話している事が楽しくて、終始笑っていた。
 そんな娘に、愛しさと未だ拭えない一抹の不安を感じながらも昨夜遅くに勉強会は終了した。

「気持ちいいですね、ママ」

「そうだね、ユイちゃん」

 ギィコギィコとオールを漕ぐキリトはそんな二人の微笑ましいやり取りを対面から見つめる。
 ここはユイと出会った湖ではない。キリトはアスナと相談し、湖に行くなら別の湖へ、という事にした。
 ユイはわけもわからず湖に落ちた経緯がある。本人はよく覚えてないようだが連れて行くことで嫌な事を思い出すかもしれなかった。
 本来なら彼女の記憶回帰になりうる事には最善を尽くすべきだ。しかし、わざわざ《良くないだろう》とわかっている記憶を呼び起こさせるのは気が進まなかった。
 第二十二層には湖が点在している。今回はユイを見つけた湖とは正反対に位置する湖に来ていた。



「はい、ユイちゃん」

「ありがとうございます、ママ」

 しばらくボートで湖を遊覧した後、アスナ謹製のフルーツサンドをユイは受け取る。彼女はあの日からこれが好物だった。
 キリトは合いかわらずマスタードが塗られているものを食べている。時折ユイに「食べるか?」と少し意地悪そうに言うと、ユイは怯えてアスナに抱きついてしまう。
 そんなやり取りがおかしくて、アスナはクスクスと笑った。
 食事を終えてから、ユイとキリトは鬼ごっこを始めた。ユイは必死に「待てぇ! パパ!」と両手を伸ばしてキリトを追いかける。
 キリトは時々ワザと捕まってあげているが、大人げなく捕まるギリギリで自身の高い敏捷力を瞬間的に強くゲインしてひょいひょい逃げる。
 だがそれを続けすぎるとユイが涙目になって膨れるので、頃合いを見計らってキリトは捕まっていた。
 逆にキリトもユイをそう簡単には捕まえない。捕まえようと思えばすぐに出来るが、「ほらほら捕まっちゃうぞ~」という所でわざと空振りしたり、捕まえないで追いかけるだけで留めたりして時間をかけた。
 ユイはキリトから逃げようと必死に駆け抜ける。振り返ってキリトが近くにいると「きゃっ」と小さい悲鳴を上げて走り回る。
 だがそこに当然恐怖の顔は無い。二人とも笑顔が絶えなかった。
 そんな二人を離れた所でシートの上に座ってアスナは見ている。実に楽しそうな二人だ。
 今の二人を見て、デスゲームなどという物騒極まりない世界に閉じこめられていると誰が信じるだろうか。
 ここは現実ではない。だからなんだと言うのだろう? 今ある心の安らぎは本当にある気持ちだ。偽物などでは決してない。
 いずれ、ゲームがクリアされる日がくるだろう。七十五層攻略中ということは、約七割五分終わっていることになる。
 熾烈さはこれからさらに増していくだろうが、解放されるのもそう遠いことではあるまい。

 その時、自分たちは今のように笑い合っていられるだろうか。
 現実で、笑い合えるだろうか。

 考えてみれば、自分たちは現実、リアルのことを殆ど知らない。
 それを聞くのは、マナー違反だから。……だけれど。

「ほら~ユイ、早くしないと捕まっちゃうぞ~」

「わ、待って下さいパパ! キャッ!」

 クリアが目前になったら。その話をしよう。まだ七割と半分だ。でも九割を越えたら、話そう。
 そして聞こう。彼の、彼らのリアルを。この世界に終止符が打たれた後も、巡り会う為に。
 アスナはそう決めて、すっくと立ち上がる。いつの間にか、ユイとキリトの鬼ごっこはまた鬼が交代していた。

「待って下さいパパ~!」

「ハッハッハッ! そう簡単には捕まえられないぞ俺は!」

「むぅ……!」

 ユイがやや膨れっ面になるのを見て、キリトはあと一度くらい逃げたら捕まろう、と決めた……のだが。
 ガシッと背後から予想外の人物に捕まった。

「え」

「ほら、今よユイちゃん!」

「ママ!」

 ユイは途端に笑顔になって駆け出し、キリトにタッチしてから腰を屈めたアスナと両手でハイタッチする。
 「いぇーい」と笑い合う二人にキリトは「んなっ!? ずるいそ!」とすぐにやり返そうとするが、アスナはニヤッと笑うとユイを抱き上げてビュン! と駆けだした。
 キリトが筋力タイプのプレイヤーならアスナは敏捷力タイプのプレイヤーだ。速さだけならアスナに分があった。
 もっともそれは、ユイというハンディキャップが無ければ、の話だが。一瞬呆気にとられたキリトはしかし、すぐに、とはいかずとも逃げた二人をやがてやや本気で走り出して追いつめる。
 ユイがきゃっきゃっと楽しそうにアスナの脇で笑っている中、キリトはようやくアスナの腕を捕まえ……くいっと引き寄せた。

「わ……きゃっ?」

 半回転してアスナはキリトに抱きしめられる。キリトは耳元で「アスナ捕まえた」と小さく囁いた。
 アスナは照れたように俯き、ユイは自分からアスナの拘束を逃れ、手を後ろに回してそんな二人を見上げた。
 ユイがいなくなったことで空いた手を、アスナもゆっくりとキリトの背に回す。

 現実でも、この温もりに出会えますように。
 そんな願いを込めて、彼の胸に顔を埋める。
 その様子を、ユイは微笑みながら見ていた。










 現実での再会を夢見て、一つの決意をしたアスナ。
 だが、その決意はまだ先のことだと、そう思っていたこの時。
 まさかそれが、そう遠くない未来に起きようとは、この時は思っていなかった。










 三日間、宝石のようにきらきらと輝くような、まさに宝と呼べる本当にたくさんの思い出づくりに励んだ二人、いや三人は、翌日エギルにユイを預け、攻略に復帰した。
 一応、形骸上の報告の為にアスナはキリトを連れて久しぶりに第五十五層、グランザムにある《血盟騎士団》のギルド本部へ顔を出した。
 ヒースクリフに面会し、形だけの挨拶をしながらマッピングに参加することを報告する。基本、アスナはキリトとのコンビで行動する気しかない事も伝えた。
 彼はそれに頷き「よろしく頼む」と小さく締めくくる。これで義理と確認作業は終わりだ。そう思って二人が退室しようとした時、意外にもヒースクリフは再び口を開いた。

「あの時あの場にいたあの娘は、その後元気かな?」

「……何故そんなことを聞くんですか?」

「いや、私に幼女愛好趣味は無いが、随分と怖がらせてしまったからね。少し気にしていたんだよ」

「……元気ですよ。それに私たちはあの子の笑顔を守るためにもここに戻ってきたんです」

「……そうか。引き留めて悪かったね、期待しているよ」

 どこか、普段の彼らしくない、僅かに嘲笑じみた声が少しだけ、アスナの気に障った。
 キリトの「行こう」という声と、繋がれた手の温もりがアスナを動かし、それ以上の会話を止めさせて場を後にする。
 キリトもアスナも薄々感じていた。ヒースクリフはユイの事について何か知っているのではないか、と。


 七十五層は僅かに透明感のある黒曜石のような素材で組み上げられていた。
 久しぶりの最前線。僅かに緊張しながら足を踏み入れた二人は、しかしすぐに勘を取り戻した。
 一緒に戦うようになってから、どんどんと《接続》の度合いが高まってきているのを実感する。
 これまで基本ソロプレイだったキリトは、メンバーがいるだけでこうも違うのかと感嘆するが、アスナはそれを否定した。

「私はこれまでギルド内でもパーティを組んで戦ってきたけど、こんなに息が合うなんてこと無かったよ。四人~五人のハイレベルプレイヤーを一組にして動くのがある程度基本だったけど、その時よりもキリト君と一緒のほうが調子が良いって実感できるし」

「そ、そうなのか?」

「そうだよ。どっちかって言うとキリト君が凄いんだよ。さっきだって私が突き上げた敵に間髪入れずに追撃してたし。結構上に持ちあがっちゃったのによく対応できるよね」

「いや、なんとなくアスナの動きがわかるっていうかさ、むしろさっきのは俺に合わせた高さだっただろ。それよりも俺の背後に回った別の敵をアスナが突き飛ばした時とかびっくりしたよ。ダメージ覚悟してたのに、よく間に合ったな」

「君の背中を守るのは私の仕事だよ。私の背中はキリト君が守ってね」

「おう、任せとけ」

 まだ未攻略の迷宮、それも最前線をこんなにも安心して歩けるというのは、本当に凄いことだ。
 アスナはそう思う。《血盟騎士団》としてマッピングに参加していた頃は、戦闘中以外にも空気が張りつめてピリピリしていた。
 中にはチラチラ視線を送ってきて攻略に現を抜かし過ぎる者もいた。どちらもアスナは好意的に取れなかった。
 前者はまだ仕方ないにしても、後者は時に吐き気さえ催した。SAOの仕様なのか実際に戻すことは無かったが、彼、キリトの事を強く思うようになってからはその不快感はさらに増す一方だった。
 だが、当時はそれが攻略というものなんだと割り切っていた。攻略とは苦しいものだと。しかし……今、この死と隣り合わせの危険な迷宮に挑む相棒が彼になるだけで、こうも世界は変わる。
 七十四層の時も思ったことだが、彼は本当に自分の身を“軽く”してくれる。張りつめた空気……ではない、ほど良い緊張感を保ったまま、そこにいてくれるだけで“安心感”を与えてくれる。
 彼の強さが、戦うたびにひしひしと伝わってくる。流石は一人で最前線を常に渡り歩いていたプレイヤーだ……と思ったことで僅かにアスナは罪悪感を覚えた。
 彼だって好きでソロでいたわけではない。成り行きもあるだろうが、その凄惨な経験が彼をそう駆り立てた。
 もう二度と、彼にそんな道を歩ませない。彼の隣には、常に自分が肩を並べよう、そう決意する。それが……彼女の程よい緊張感を生んでいる原因でもあった。
 今彼は、自身の背後の敵についてよく間に合ったな、と言ったが、それはある意味で当然でもあった。
 アスナは自身の背後よりも彼の背後を気にかけている。彼の身を守りたいと思うその意気やゲームへのクリア欲を超えるものがあるだろう。
 アスナのフォローによってキリトはいつも以上に楽に戦闘をこなすことが出来ている。では、アスナの方はどうなのだろうか。
 アスナとて最前線で《閃光》の名を轟かすハイプレイヤー。通常の湧出(ポップ)モンスター相手なら遅れを取ることはそうはない。
 かといってこれまで彼女は決して被ダメージ率が低かったわけではない。平均すれば、《血盟騎士団》時代の彼女は他プレイヤーよりはマシだがコンスタントにはダメージを負うのが常だった。
 そんな彼女は今、自身の防御をおろそかにしてでも彼の身を優先しているのに当時よりも被ダメージは格段に少ない。
 何故普段よりも自分の身の守りが薄いはずのアスナが、当時より被ダメージが無いまま攻略を進められるのか。
 言うまでもない、キリトもまた彼女の身を自身の安全より重きに置いているからだ。
 お互いその事実は知らずに補完し合っている関係。そこには言葉だけでは絶対に産まれない絶対的な絆が発生している。
 本人たちはそのことまで気付いていない。それがより絆を深めてもいる。あるいは、彼女たちの《接続》の根源は、そんなところから来ているのかもしれない。

「そういえばさ」

 マッピングを開始してからすでに数時間。それなりに深い未踏破エリアに入っていた。
 今回は結晶無効化エリアにだけは注意しながら進んでいる。アイテムもいつもよりかは多めに持ってきていた。
 無いとは思うが、また前回同様のことが起きても対処できるように。もっとも、同じ状況に陥ってしまった時、アスナには前と同じように全アイテムのオブジェクト化をする勇気は無かった。
 僅かに時間を圧迫されようと最低限は残すだろう。それが当然と言えば当然で、誰に責められるものでもないのだが。
 それでも、心は痛む。痛むが、仮にそうなったとしても彼の安全が最優先だった。場合によっては他者を見捨てて逃げることもあるかもしれない。
 そんな考えに至る自分が、少しだけ嫌だった。でも、彼を失うのはもっと嫌だった。
 そんな思いを極力悟られないよう気を払いながら、アスナは急に話しかけてきたキリトに返す。

「なあに?」

「いや、その、久しぶりだよなあ、と思って」

「攻略のこと? そうだねえ、そんなに経ってないはずだけど、休暇が充実し過ぎたかな。集中できてないわけじゃないけどどうも攻略中だ! ってピンとは来てないかも」

「あ、いやそういうことじゃなくて」

「……?」

 キリトはそっぽを向いて頬をポリポリと掻いている。その仕草は大抵彼が照れている時にするものだ。
 今の会話でそこまで照れる要素があっただろうか、と思いアスナは首を傾げていると、

「ふ、二人きりってのも、久しぶりかなと思って」

「えっ……あっ」

 言われて、意識してしまった。これも事実を計算するならそんなことはない。そんなことはないのだが……確かに考えてみるとそう感じてしまう。
 ユイと出会ってからは三人が当たり前だった。それに不満は微塵もない。充実もしていたし幸福もあった。
 今思えばそれは本当に少ない時間のはずだが、とても長い時を過ごしたようにも感じる。
 そうなると必然的に、それ以前の二人きりだった時は、はるか昔のことだったようにさえ思えた。

「い、いや、深い意味は無いんだ」

「う、うん……」

 キリトが慌てて付け足すが、一度意識してしまったそれはそうそうに鎮火しない。
 もとより大火だったのがユイという鎮静剤によって抑えられていたのだ。
 意識したアスナのそれ……《恋心》はブワッと内心で燃え広がってしまった。
 だいたい、これまでそうならなかった方がおかしかったのだ。それだけユイの存在が大きかったとも言える。
 普通は恋心から徐々に進化して辿りつくであろう感情の高みの境地。そこに降って湧いた娘と言う存在が一足飛びでまだ届くはずの無い境地へと彼女の精神を押し上げていた。
 とはいえ彼女もまだ《少女》と呼べる未発達な存在。彼女を感情の高みへと押し上げていた存在がいない今を自覚した途端、燃焼するそれに歯止めをかけられようはずもない。

「え、えっと……」

「キリト君……」

「アスナ? ……っ!」

 ギュッ、と彼の腕を掴む。数限りなく行ってきた動作のようで、実際の回数はそれほど多くもない。
 キリトは面食らうも、全く予想しなかったわけではない。そもそも、彼も意識した時からこうなる気はしていた。……こうなってほしいような気もしていた。

「そういえば、私達って……急に親になっちゃったんだもんね」

「ああ、そうだな……」

「随分、近道しちゃったね」

「普通は遠回りするものなのにな」

「ある意味遠回りだったかも」

「違いない」

「クラインさんって、もしかしてここまで予想してあんなこと言ってたのかな?」

「いや、それは流石に無いだろ……多分」

 彼はユイを説得する際、迷宮はパパとママがもっと仲良くなるために行く場所、と説明した。
 方便の類だとあの時は思っていたが、実際来てみればその言葉通りになっていたりする。いや、それは正確ではない。
 ユイの知る二人は、ユイがいて初めて成り立つ関係だ。本来そこに至るにはもっともっと時間をかけて《なる》必要がある。
 ユイの知る二人に《なる》ために、本来重ねなければならない《一緒の時間》を今過ごしているのだ。

「迷宮デート、か。キリト君といるとどこでも楽しくなるから不思議だよ」

「は、恥ずかしいことをよくサラッと言うよなアスナは」

「キリト君ほどじゃないよ」

「……?」

「自覚無いんだから……もう。そういうのが一番性質悪いんだからね。知らないうちに女の子ひっかけてきそうでちょっと怖いよ」

「なんでそうなるんだよ。俺にはアスナがいるのに」

「………………」

「な、なんだよ?」

「……なんでもない」

 本当に性質が悪い。彼はこのトキメキを取り戻した仮初の心臓を破裂させたいのだろうか? いやそうに違いない。
 ……なんて、そんなことを微塵も思っていないことは自分が一番よくわかっている。
 彼のそういうところは自分だからこそ向けられるもの、と思っておくことにしてこの場は許しておいてあげよう。
 代わりに一際強く彼の腕を抱きしめてデートよろしく進みだす。

「お、おい? ここ迷宮だぞ?」

「良いでしょ? 私達なら……」

 瞬間モンスターが湧出(ポップ)する。数は一体。
 弾けるようにアスナはキリトを離してモンスターを《閃光》のような速度で貫く。
 まだモンスターのHPは半分ほど残っているが、仕様による硬直からアスナはモンスターに背を向けたまま動けず、一見隙だらけになる。
 だが、追撃を加えるキリトのソードスキルによってそのモンスターは彼らに結局一太刀たりとも浴びせられずにポリゴン片となって散って行った。
 そうなることがわかっていたからこそできるアスナの先制攻撃。背後がガラ空きになろうと、彼と言うこれ以上ない信頼できる存在が居る限り、それは隙足りえない。

「なんとかなるよ、ね?」

 そう言ってアスナは微笑み、元の位置……キリトの腕に抱き着く作業に戻る。
 キリトは納得がいかないような顔をしていたが、結局何も言わなかった。彼も、本当はこうしたかったのかもしれない。

 幸いにして、その後他のプレイヤーとは会わずにマッピングは続いた。誰かに今の姿を見られたら間違いなく良い目ではみられないだろう。
 命をかける最前線攻略中に堂々とイチャついていたら、それも当然と言うものだ。
 そんな事態にならなかったのは運が良かったのかそれとも思いの外この層のマッピングに難航しているのか。
 アスナ自身、この層のモンスターは手強いんだろうな、という感覚はあった。何故他人事なのかと言えば単純に今のところそこまで苦戦を強いられていないからだ。
 自分たちが強い、というのもあるだろうが全てそれのおかげだと思うほどアスナは自惚れてはいない。やはりキリトの存在は大きかった。
 彼から発せられる安心感とは別に、確かな実力を彼は見せつける。速いのはもちろんのこと彼の戦い方は《上手い》のだ。
 それはソロで戦い続けて得た第六感にも似た超反応。彼は咄嗟の判断で常に最高の働きをする。恐らくアスナ一人ならこの層は歩きたいと思わないだろう。
 《血盟騎士団》で比較的レベルが高くそれなりに一緒に戦ったことのあるメンバーでパーティを組んでも、ここまでのゆとりは持てないに違いない。
 ふと、横目で彼の顔を窺ってみると、その顔は眠っている時のようなそれとは別の、何も見逃さないという凛とした表情をしていた。
 思わず頬に熱を感じる。この感じている熱も、恐らくは赤みを差しているだろう頬も、全ては作り物だとわかっているが、心は本物だ。
 心に嘘は決してつけない。その心が《恰好良い》とずっと囁いている。彼の顔立ちはTPOによって面白いほどに変わっていく。
 そのどれもが、自分の心をすべて鷲掴みにしてくる。なんていうチート。ビーターというのも頷ける。そんなことを思う自分が、酷くおかしかった。



 攻略復帰も三日目を迎えると、粗方の湧出(ポップ)モンスターは見慣れてくる。復帰一日目はまだ多少の緊張と警戒の色が強かったが、今はもうさほどでもなかった。
 油断はしていない。ただ、安全マージンの取り方をより上手く正確に取れるようになっただけのこと。
 それを良いことにアスナは、歩いている時はキリトの温もりを堪能することにしている。

「……アスナ」

 だから、やや震えるように名前を呼ばれるまで、気付かなかった。
 未踏破エリアに入って数時間。よくよく見れば周りのオブジェクトが総じて《重く》なってきていた。
 目の前に現れたのは、二枚の黒曜石で出来た大扉。それの意味は間違えようが無かった。

「ボスの部屋……」

「ああ、見つけちまったな」

 ごくり、と息を呑む。その扉が放つ威圧感に押され、つい一歩後退したくなる。ボスの扉の前ではいつもそうだが、クォーターごとのボスは特に強力だった経緯もあって、普段のそれより物々しささえ感じてしまう。
 実際にはボス部屋から何かが湧き出ていることは無いはずだが、それでもその扉はプレイヤーに必ずと言っていいほど躊躇を産む存在だ。
 それはさすがのキリトも同様のようだった。彼も緊張から僅かに体が強張っている。それを抱き着いているアスナは感じ取っていた。
 同時にそれがアスナを安心させる。彼も同じなのだと。彼だって怖いものがあるのだと。

「どうする? 中だけでも見ていく?」

「…………いや」

 アスナの問いに、少しだけ間をおいてから力なくキリトは首を振った。
 睨みつけるようにして見るその扉から、何か嫌なものをその鋭敏な第六感から感じ取ったのかもしれない。

「そろそろユイとの約束の、迎えにいく時間だ。今入ってしまえば遅れてしまう可能性がある」

「……そっか。そうだね。私たちには攻略も大事だけどユイちゃんの方が大事だもんね」

「ああ、攻略を理由に家族の時間をないがしろにしたくない」

「私も今日のノルマ片づけたいし。遅れたらその分大変だからなあ」

「ノルマ?」

「うん、今裁縫スキル習得中」

「ユイに?」

「おかしいかもしれないけど、ユイちゃんの為に何か買うんじゃなくてどうしても残るものを私の手で作ってあげたくて」

「きっと喜ぶよ」

「うん……えっと、キリト君のも何か作ってあげるね」

「ああ、楽しみにしてる」

「え、えへへ……まだ初めて間もないからあんまり期待されても困るんだけどね」

 キリトはそんな照れながら自信なさそうに言うアスナに微笑んで、手を握る。
 アスナもすぐに握り返して、一度だけチラッとボスの扉を睨みつけ、お互いに転移結晶を使った。





「ママ! パパ!」

 《血盟騎士団》のギルド本部に寄り、今日得たマップデータとボス部屋の情報を伝え、やや今後の方針を話してから本部を後にして真っ直ぐ第五十層、アルゲードへユイを迎えに向かう。
 迎えにきた二人を笑顔で迎えたユイを連れ、エギルに礼を言って格安で最前線でマッピング中にドロップしたアイテムを譲り、第二十二層の家へと帰る。
 アスナとキリトは攻略に戻るにあたっていくつかの取り決めをしていた。そのうちの一つがどれだけ忙しかろうと、毎日ここに家族三人で帰ってこようというものがあった。
 ユイは今日、エギルの店であったことを楽しそうに話していく。お客さんが来たから接客を手伝った、だとか、エギルが来たお客を脅していただとか、甘いケーキをクラインが差し入れてくれた、など。
 それをアスナとキリトは穏やかな気持ちで聞いていた。「そうか、良かったな」と頭を撫でればその分だけユイは笑顔を返してくれる。
 そこにはアスナが、いや全SAOプレイヤーが求めてやまなかった安らぎが確かにあった。
 やがて話し疲れたユイは目をこすり始める。キリトが「よっ」と彼女を抱き上げ、先日買ってきたばかりの大き目のベッドの中心に彼女を寝かせた。
 しばらくユイは「パパ……」と小さく呟きながらキリトの服を掴んでいたが、キリトが優しく髪を撫でているうちにやがてゆっくりとその手を離す。
 完全に眠った頃合いを見計らってキリトが寝室を出ると、ソファーに座っているアスナが針を片手に悪戦苦闘していた。
 キリトは苦笑しながら彼女の隣に腰掛ける。すぐにアスナはパフッとキリトの肩に頭を預け、およそ裁縫をするような体勢ではないまま手を動かし続けた。
 黙って横にいるキリトにアスナは満足しながら、ある程度キリが良い所までいったところで手を休める。
 それが合図。ゆっくりとキリトはアスナを抱き上げ、先ほどのユイの時のように彼女を寝室へ連れて行く。
 ユイの隣に彼女を寝かせて、彼女がピッピッとシステムで寝巻に着替えている間に自分もユイを挟んだ反対側へ横になる。

「おやすみ、キリト君」

「ああ、おやすみアスナ」

 ユイの体の上で、お互い手を繋ぎながらゆっくりと瞼を閉じる。
 この生活サイクルが、まだしばらくは続くものだと、二人は信じていた。



 だが、その数日後、その思いを嘲笑うかのように、崩壊の序曲を奏でる鐘が悪夢のような報せという形で鳴り始めた。



[35052] SAO14
Name: YY◆90a32a80 ID:1a43ae77
Date: 2012/10/05 21:04


「偵察隊が全滅──!?」

 ヒースクリフに呼び出された二人が《血盟騎士団》のギルド本部で聞いたのは、そんな凶報だった。
 彼らが発見したボスの部屋。そこに送り込んだ偵察部隊が全滅したというのだ。
 それは信じられない出来事だった。これまでも偵察部隊に被害が出ることはあったが、全滅の憂き目にあったことは記憶にない。
 それだけ慎重に事を運んできたはずなのだ。

「偵察は慎重を期して行われた。五ギルド合同で選りすぐりのパーティ二十人を選抜し、偵察隊として送り込んだ。十人が後衛としてボス部屋入口で待機し最初の十人が前衛としてボス部屋に入った。だが……」

 そこでヒースクリフは一度言葉を止め、息を深く吐いた。ここから先を口にするのはいかな彼とて気が重いのか。
 その重大さにキリトとアスナも息を呑む。

「前衛が入ったところで、扉が閉まってしまった。扉は五分以上開かなかった。鍵開けスキルや直接の打撃等何をやっても無駄だったらしい。ようやく扉が開いたとき、そこには《何もなかった》そうだ。ボスも、プレイヤーも」

「まさか……」

「念の為に黒鉄宮の生命の碑を確認してもらったが、前衛メンバーは残らず……横線が刻まれていたそうだ」

「っ」

「報告では七十四層のボス部屋は結晶無効化エリアだった。今回のことをふまえても以降は全てそうだと見るべきだろう。そして恐らく、ここからはボス部屋の扉もボス戦が始まった時点で閉じると思われる。開かれるときは……」

「ボスを倒すか全滅した後……ってことか」

 緊急脱出が出来ない危険な戦い。それを強いられる日がくるとは。これではボスの偵察などできようはずもない。
 この時、キリトは不謹慎だが少しだけ《良かった》と思ってしまった。即座に罪悪感が溢れ出るが、それでも後悔には苛まれない。
 あの扉を見た時から、嫌な予感はしていた。すぐに娘のユイの顔を思い浮かべなければボスの姿くらい確認してから帰ろうと思っていたかもしれない。
 もし、ユイと出会っていなければ間違いなくそうしていただろう。そして、もしそうしていたなら恐らくは生命の碑に横線が刻まれるのは自分とアスナの名前だったことは想像に難くない。
 そうならなくて良かった、と最低な考えだとわかっていても思わずにはいられない。
 だからといってこの現状を進歩させるものは何もない。ボスは攻略せねばならないのだから。
 ボスの情報収集なしに戦うなど正気の沙汰ではない。これは本当の命をかけた戦いなのだ。しかし退くことは許されなかった。

「ここにきてデスゲームという色合いが益々濃くなった。しかし攻略を諦めるわけにはいかない」

「……」

「今日、これから三時間後に攻略組で精鋭部隊を選りすぐりボス攻略に当たろうと思う。君たちにも参加してほしい。予定では現在三十人、君たちを入れれば三十二人になる。恐らく過去最大規模のパーティだろう」

「……偵察が意味をなさない以上、現最高戦力を丸ごとぶつけるしかない、ってわけだ」

「そういうことになる」

「……わかった、俺は参加するよ」

 キリトの瞳に決意が宿る。それを見てアスナも心を決めた。自分も参加すると。
 だが、アスナの参加表明を聞いたキリトは少しだけ難しい顔をした。ヒースクリフがキリトに視線で問いかける。

「……俺は、攻略には参加するけど、俺の最優先事項はボス攻略じゃない」

「ふむ」

「俺の最優先事項はアスナだ。だから、悪いけどアスナの身が危険になったらパーティの連携よりもそっちを優先させてもらう」

「……キリト君」

「何かを守ろうとする人間は強いものだ。君の勇戦を期待するよ。七十五層コリニア市ゲートに午後一時集合予定だ、よろしく頼む」

 ヒースクリフはそう言うとキリトに片手を差し出す。キリトも彼の手を取り、握手を交わした。
 共に戦おうという意思の現れと同時に、キリトの考えに意を唱えるつもりが無いことの証明。
 がっちりと交わされたそれは戦士の約束。──だというのに。
 それを見ていたアスナは、なぜかヒースクリフがこの上なく楽しんでいるような表情をしているように見えた。




「三時間、か……どうするキリト君?」

「……」

「キリト君?」

「……」

 ヒースクリフ達は既に退席していた。ここには今アスナとキリトしかいない。
 キリトはじっとアスナを見つめていた。あまりの真剣な眼差しに、アスナは頬を赤らめる。
 と、ようやくキリトが口を開いた。

「アスナ、怒らないで聞いてくれ。今日のボス攻略に、アスナは参加しないでほしい」

「え──」

「ユイと待っていてくれないか。ヒースクリフにはああ言ったけど、緊急脱出できない場所に君を連れて行くのは……」

 キリトの辛そうな顔がアスナの胸をも締め付ける。きっと、彼の頭の中では今、《宝箱のトラップアラーム》が鳴り響いているに違いない。
 だから、アスナは「はいわかりました」と答えるわけにはいかなかった。
 彼の考えていることがアスナにはよくわかった。彼の思いと苦悩は嬉しい。嬉しいが、それを受け入れるわけにはいかない。
 優しすぎる彼を、非情にすることなど誰にもできない。そんな彼だからこそ好きになった。だから……彼は身も《心も》自分が守る。
 そうアスナは決意をすると、ゆっくりとキリトの頬を両手で挟む。

「アスナ……?」

 戸惑うキリトを余所に、アスナは微笑んで──すぐにその距離を零にする。
 彼の目が見開かれる。でもアスナは離さない。決して手を離さない。唇を、離さない。
 SAOに呼吸はいらない。息が止まることはない。永遠にこのまま繋がっていようと、構わない。
 しばらくは宙を彷徨っていたキリトの腕が、やがて観念したように彼女の背を抱きしめる。
 それを持って、彼女の行動は一段ヒートアップする。

「っ!」

 唇を重ね合わせるだけのキスは、幾度かした。だが、それ以上のキスとなると、《あの晩》にしか経験は無い。
 その、あまりの出来事に落ち着き始めたはずのキリトの心は再び荒れ狂う。
 何故アスナはこんなところで急にこんな真似を?
 疑問が浮かぶも、思考はそれを考え続けることを許してはくれない。
 中でうねるように暴れる《それ》が、キリトの正常思考を悉く奪っていく。
 いい加減にやめさせようと押し返しても、それは逆効果となって返ってくる。
 そのうち、自分の《それ》も同じように踊る始末。そうして、二人はたっぷり数分ほど繋がっていた。

「ふぁ……」

 ようやくと、アスナが彼を解放する。透明な糸が一瞬トロリと現れ、すぐに霧散する。
 キリトはよろよろと尻餅をつきそうになるのをグッとこらえ、視線でどういうつもりか問い質した。
 アスナは赤らみながらも、クスリと笑って口を開く。

「キリト君に今呪いをかけました」

「は? 呪い……?」

「そう、呪い」

「何を言って……」

「どんな呪いか気になる?」

「いや、だから……」

「どんな呪いか気になる?」

「どういうつもりで……」

「どんな呪いか気に」

「わかったわかった、気になるから教えてくれ」

「うん」

 意地悪そうに口端に笑みを乗せてアスナは一歩キリトから離れる。両手を後ろに回して、面白そうに一回転。
 ピタッとキリトの正面で彼女は止まると右手の人差し指を自身の唇に押し当てて妖美に笑う。
 思わず、キリトはついさっきの濃厚なそれを思い出して赤面してしまった。しかしそれこそがアスナの目的だったのか、フフンと自慢げに笑う気配を感じた。

「今キリト君にかけた呪いはね、定期的に私とキスしたくなる呪いなの」

「……は?」

「同時に私もキリト君にキスしたくなる呪いがかかっちゃったけど」

「キスしたくなる呪いって……」

 そんな馬鹿な。子供だましに使う方便だってもっとマシなものがあるだろうに。
 ややキリトは呆れるが、アスナの顔は真剣だった。

「もっと言うとね、定期的にキスしないと……死んじゃうの」

「……えっ」

「だから私たちはずっと一緒にいなきゃいけない。どっちかがいなくなってもいけない。だってどっちかがいなくなったらキスできないでしょ?」

「……アスナ」

「呪いを解く方法はたった一つ! 現実世界でキスをすること。これしかない。さあこれは大変なことになったよキリト君」

 えっへん、と鼻高々に斜め上を見上げるアスナは……美しかった。姿形だけではない。
 彼女の意を理解したキリトは、彼女のありかたそれそのものを美しいと感じる。
 何があろうと一緒にいよう。彼女は言外にそう伝えてきたのだ。
 それに気付いて、彼女の覚悟を行動で示されて、キリトは動かずにはいられなかった。
 今度は、自分から距離を零にする。彼女の驚きが一瞬伝わったが、そんなことは知ったことではなかった。これでおあいこだ。

「呪いじゃしかたないな」

「……うん」

「呪いって剣士でもかけられるんだな」

「私からキリト君にだけ、ね」

「教会に行っても無駄、なんだろ?」

「……教会になんて行ったら、逆効果になっちゃうかもよ? 効果倍増」

 アスナが恥ずかしそうに俯く。荒唐無稽だと、自分でもわかってはいるのだろう。
 だが、それをいちいち口にするほどキリトも子供ではなかった。
 最後に、もう一度だけどちらからともなく唇を合わせて、二人は微笑み合った。



 と、そこでキリトは素朴な疑問が湧く。
 本当に小さい疑問だが、何か気になる。

「よく今の行為システムに止められなかったな」

「え? だって私達《あの晩》にお互いへの干渉倫理コード解除してからかけ直してないじゃない」

「え、あ……ってちょっと待て。ということは俺たちあれからずっと……?」

「うん。いつでもその、システム的には可能な状態。そうじゃなきゃきっと何度もシステム警告立ち上がってたよ。ハラスメントに触れそうな危うい時は何度かあったし。夫婦ってことで緩くなってはいるだろうけど」

「……凄く、恥ずかしいです」

「あ、今コードかけ直そうとしてるでしょ。良いじゃない別に」

「いや、良くはないだろ」

「対象指定は出来るんだから良いの、ほら行こう!」

 アスナはキリトの手を取って歩き出す。
 キリトは結局、自身のステータスコードを変える事を許されなかった。



 そのまま手を繋いで転移門へと向かう。時間はまだある。最後になる、とは思っていないが万一を考えユイと会っておきたかった。
 だが、いざ転移門についたところでキリトは彼女の手を離した。

「……キリト君?」

「悪い、先に行っててくれ」

「どうかしたの?」

「ちょっと忘れ物」

「なら私も行こうか?」

「いや、すぐ追いつくから先にユイのところに行ってやっててくれ。少しでも多く、ユイと一緒の時間を過ごしておいた方がいい」

「わかった。すぐに追いついてね。あ、隠れてシステム弄ってもすぐわかるんだからね」

「ああ、わかってる」

 アスナは頷いて一人、リンダースへ転移する。
 今日ユイがいるのはリズベットのところだった。
 キリトはそれを見送ってから、振り返って奥に見える壁の《向こう》に声をかける。

「出てこいよ、話があるんだろ?」

 キリトがそう呼びかけると、壁の奥からぬっと人影が出てくる。
 紅いバンダナに侍のような装束装備。野武士面という言葉が似合うSAOでもっとも長い付き合いのプレイヤー、クラインがそこにいた。

「気付いていたか」

「ああ、それで何の用だ?」

「お前も今回のボス攻略に参加するんだろう?」

「……ああ」

「余計なお世話になるかもしんねェし、伝えておくか迷ったンだが……伝えておかなかったことで後悔したくねェから、言っとくわ」

「ああ」

「死ぬなよ」

「そのつもりはないさ」

「わかってる。けどお前はその重みをもっとよく知っておくべきだ」

「アスナ、だろう?」

「! 気付いていたのか」

「そっちこそな」

「……俺は正直《あン時》の副団長さん……いや、今は違うか。《アスナさん》が怖かったよ。おめェが一瞬とは言え消えちまった時のあの人の顔は、今までみたどんなモンスターの面よりも怖くて──何も無かった」

「……」

「何も映してねェんだ、瞳孔が開ききってて、それこそ黒一色でよ。僅かに震えながら持ってる剣が揺れた時、俺は間違いなくこの人はそれを自分の喉にでも突き刺す気だって思っちまった。躊躇いなんて、きっとなかったろうぜ」

「……」

「お前が死ぬってことは、彼女をそうするってこった。もうわかってンならこれ以上言うことはねェよ。悪かったな」

「……クライン」

「あ?」

「ありがとう」

「……おう」

 心からの感謝を込めた言葉と、頭を下げる。
 クラインは照れたように頭をかきながらそのまま転移門に消えていった。

「やっぱり、そうだったのか……」

 一つ、彼女の中の《あやうさ》にキリトは確信を持つ。
 一度目を閉じて、息を吐く。覚悟を決めなくてはならない。
 何があっても彼女《だけは》助けられるように。それが例え、彼女の望まぬ形であろうとも。
 ゆっくりと瞼を開いて、自身も転移門に入る。心配性の彼女と娘の元へ向かうために。





「揃っているようだな、皆感謝する」

 ヒースクリフが辺りを見回して頭を下げた。時刻は約束の午後一時。
 リンダースで僅かとも言える時間を家族で共有し、リズベッドには攻略のことを全て話した上でユイを頼み、二人は約束の場所に時間通りに来ていた。
 彼の言う通り、欠員無く予定プレイヤーは集まっていた。
 そのメンバーの中にはギルド《風林火山》も含まれている。キリトに気付いたクラインが片手を上げ、キリトも返事をするように手を上げた。
 驚きだったのはメンバー内にエギルがいたことだ。彼は一流の斧使いではあるが、ボス攻略戦での参加は中層以降多くない。
 店を経営し始めた彼は、攻撃力とスキルレベルこそ攻略組と肩を並べられるほど強力だが、戦闘技能……最前線での経験は現最前線の攻略組達から見ると心許ない。
 そんな彼まで駆り立てるとは、今回の攻略が本当になりふり構っていないことを示している。
 と言っても、その采配……メンバーの招集はほとんど、《彼》による選抜だと聞いていた。

「各自、もう一度装備を確認してくれたまえ。十分後にボス部屋前まで回廊(コリドー)を開く」

 ヒースクリフの声に、皆もう一度確認を行う。ここに来るプレイヤーに限って不備は無いとは思うが、それは気持ちの整理を付けるためにも必要な工程だろう。
 皆がシステムメニューを開いたりポーチを確認している間、ヒースクリフはそれぞれのプレイヤーに軽くを挨拶をして回っていた。
 話すことでリラックスさせ、また鼓舞させてもいるのだろう。あれもトップギルドの長たるものの務め、という奴かもしれない。

「よく来てくれた。君たちの攻撃力には期待している」

「やるからには最善を尽くすさ」

「うむ。アスナ君」

「はい」

「この戦いが無事に終わった暁には君に例のシークレット写真を見せることを約束しよう」

「くれないんですか?」

「申し訳ないが早期メンバー特典でもらったものだ。手放すわけにはいかなくてね。だから何が何でも生き残ってくれたまえ」

「はい! キリト君! 絶対に生きて戻ってこようね!」

「何か今までで一番気合い入ってるように感じるぞ……」

「気のせいだよ気のせい」

 キリトはそんな現金とも言えるアスナに小さく溜息を吐き、ヒースクリフを見つめる。
 その目には一つの決意があった。

「どうかしたかね?」

「ああ、あんたの口からみんなに紹介してもらいたい。俺の……《二刀流》を」

「……いいのかね?」

「少しでも士気を上げておきたい。出現条件がわからないから公開していなかったけど、これは多分ユニークスキルだ」

「わかった。ユニークスキル保持者が戦線に増えるとなれば皆の心配も軽減されるだろう。ここは遠慮無く甘えさせてもらうことにするよキリト君」

 ヒースクリフがマントを翻して中央に歩いていく。それを確認しながらアスナがチラリと横目で問いかけてくる。
 「良いの?」と。キリトは小さく「ああ」と頷いた。
 今回の攻略はこれまでにない熾烈なものとなるだろう。不安要素を少しでも軽減できるならそれに越したことはない。
 それが、彼女の身を守ることに僅かでも影響してくれるなら、《二刀流》の公開など安いものだ。

「諸君、聞いてくれ。出発する前に報告がある。私に次いで、二人目のユニークスキル保持者が現れた」

 ヒースクリフの言葉に、プレイヤー達が一様にざわつき始める。
 一体誰だ? と犯人を探すようにプレイヤー達は首を回し始めた。あまり仰々しいのは好みではない。
 キリトはサクッと終わらせることにする。

「黒の剣士、キリト君だ。彼は数少ないソロ攻略者として皆もある程度は知っていると思う。スキルは《二刀流》だそうだ。出現条件は《神聖剣》と同じくわからないことからユニークスキルだろうという結論に至った」

 名前を呼ばれたキリトは二刀を装備し、二刀流スキルを一つ披露する。
 激しいライトエフェクトが白光を生む。ぶつける対象物があれば星屑のような光鱗が舞うその攻撃は高速の十六連撃。
 《スターバース・トストリーム》を演技のようにこなしたキリトは、キン、と音を立てて納刀した。
 納刀の音を聞いて、ギャラリーは初めてスキルが終わったことに気付く。《速すぎる》剣閃が、彼らの反応を僅かに遅らせた。

「おお……!」

 感嘆の息を吐く。見たことのないスキルはどんなハイプレイヤーだろうと舌を巻くものだ。
 まして、それが実用的なものなら尚更である。二刀から繰り出される十六連撃は、手数も申し分なく、スピードもある。
 誰もが《欲しい》と思うのに時間はかからない。それが叶わぬ願いだからこそ、その思いはより一層強くなる。
 嫉みも、一層強くなる。だがそれは覚悟の上だった。それでも構わないと、キリトは決めたのだ。

「彼に何か思うことがある者もいるだろうが、こらえてもらいたい。彼は必要な人間だ。それに既にこの層に来るほどのプレイヤーなら気付いているだろう? βテスターであったことの利点は、もはや何の意味もなさないところまできている。これは彼自身の力だと言っていい。これを見てくれ」

 ヒースクリフはとあるログをポップし、皆が見えるように拡大する。
 それはヒースクリフ自身のデュエルログだった。
 またザワリ、とプレイヤーに驚きが起こる。

「私は自身の神聖剣を彼にぶつけた。結果は見ての通り【DRAW】だ。【DRAW】など狙っても出せるものではないことは皆も知っていることと思う。ユニークスキルの発現だけで言えば恐らく私は彼より分があるはずだった。だが結果は【DRAW】、これの意味することは何事も《先に》行った方がより良いというレベルは既に過ぎているということだ」

「……」

 ヒースクリフの演説を、キリトは半分聞き流す。どれだけ美談にしようと、自分はビーターだ。
 そこに、言い訳の余地も変わる余地もない。彼は常にそう思っている。
 だが、そう思い続けることを、自分を責め続けることを彼女は許してくれなかった。
 いつの間にか横にいて握られた手が、キリトに言葉以外でそれを伝える。

(良いんだよキリト君は。もう許されて良いの。例え、他の誰が認めず、許さなくても、私が許してあげるから。もう、過去に囚われないで)

 アスナのそんな優しさに、キリトは手を握り返す。
 ありがとう、と。それでキリトは少しだけ落ち着いたようだった。


 だが。
 逆にアスナは見た目よりも胸騒ぎが大きくなっていた。
 彼の《二刀流》を見ると、どうしてもあの時のことを、恐怖を思い出してしまう。
 彼の質量が失われるあの感覚を。
 また、繰り返してしまうのではないかと危惧で一杯になる。
 そんな不安を、彼の手を強く握ることで胸の奥底へと仕舞い込む。


「必要なのは己を信じることと自身が積んだ経験だ。そのあとに初めて知識がついて回るだろう。今我々に求められているのは信じることだ。これまでの経験を生かすことだ。さあ行こう、解放の日の為に!」

 ヒースクリフは最後に珍しく言葉尻を強くして、回廊結晶を使った。
 「コリドーオープン」と彼が呟くと、そこには青く揺らめく光の渦が出現した。いわゆるワープのようなものだ。
 決められた場所──あらかじめ設定しておくのだ──へ一定時間転移可能になる空間を作ることが出来る、貴重な結晶だが、今回の戦いに使うのに惜しくは無いと判断したのだろう。
 ボス部屋へ行くまでの消耗を極力避けるために、激レアアイテムを消費する。初めての脱出絶対不可なボス攻略においてはそれも頷ける処置だ。
 空間を超えると、アスナとキリトは既に見たことのある黒曜石の二枚扉が目前に現れる。
 皆一様に息を呑んだ。その扉から染み出す《何か》を感じ取っているのかもしれない。
 実際には何も出ていないはずだが、やはりここまで来るプレイヤーには《何か》を感じ取る嗅覚がある。
 その嗅覚が、《ヤバイ》と告げていた。
 ヒースクリフが扉に手を当てて一度振り返り全員を見やる。作戦らしい作戦などない。
 可能な限りヒースクリフ率いる《血盟騎士団》が壁役(タンク)を担当するから他のプレイヤーは各々ボスの動きを見切り攻めろという、ただそれだけ。
 だが現状でそれ以上にできることは無い。やるしか、ない。
 ゆっくりとヒースクリフが力を込めて、壁を開ける。もう、後戻りはできなかった。



 雪崩れ込むようにボス部屋へと総勢三十二人は侵入する。かなり広い部屋だ。ドーム状に形作られたその部屋に全員が入ったところで扉が閉まる。
 わかっていたことだが、これで退路は断たれた。何をしようとあの扉は開くまい。開くときは、ボス殲滅時か全滅か、だ。

「……」

 息をひそめて周りを見渡す。そこにボスの姿は無い。だがいないはずはない。誰かが実は倒してくれた後、なんていう拍子抜けな展開でもない。
 間違いなくいる。それを、キリトは長年の勘で感じていた。と、次の瞬間、いち早くそれに気づいたのはアスナだった。

「上よ!」

 バッと見上げる。そこには、天井に張り付くようにして、骸骨がこちらの様子を覗っていた。
 人間の骸骨ではない。眼窩は四つあり、青い炎をその中で揺らめかせている。
 だが驚くべきはその体だ。百足、と呼ぶにふさわしいそれは全長十メートルはあろうかという《骨》だった。
 人間の背骨を伸ばしたような体躯。骨の先は鋭い脚になっていて、僅かに音を鳴らす。頭の両脇には大きな鎌状の腕があった。
 少しだけ《The Hell Scorpion》に形は似ているかもしれない。
 キリトの目に、ボスの名前が浮かぶ

 《The Skullreaper》──骸骨の刈り手。

 それがボスの名前。もはや定冠詞云々など見なくても、あのボスがやばい相手だということはわかった。
 すぐに皆が散り散りになる。あいつの真下になどいたら恰好の的だ。
 ドスン! と音を立ててボスは落ちてくる。その時、逃げ遅れた者が床に伝わる振動でたたらを踏んだ。
 間髪入れずに鎌が彼らを襲う。

「え」

 次の瞬間には信じられない出来事が起きた。攻撃をくらったプレイヤーも目を見開き……ポリゴン片となって消えていく。
 一撃、だった。これまでどんなに強いボスでも一撃でやられるようなダメージ判定の攻撃はそう無かった。
 いや、そうならないようにレベリングしてボス戦に挑むと言ってもいい。だと言うのに、あのボスはそれを嘲笑うかのように鎌の一振りで二名の攻略組プレイヤーを屠った。
 残り三十人。速すぎる犠牲だった。
 プレイヤーが呆気に取られている間にもボスは次の標的を定めて突進を敢行する。
 そのプレイヤーはあまりの事に呆然としていて動けなかった。彼に鎌が振り上げられ──キン! と甲高い金属音が彼を守った。

「固まるな! 散れ!」

 ヒースクリフが盾を掲げながら全員に喝を入れる。それで、みんなはようやくと動き出した。
 だが、悲しいかな、すぐに犠牲は増えた。ヒースクリフが身を挺してかばったプレイヤーは、もう一方の振り下ろされる鎌に対応できなかった。
 彼もまた、一瞬の延命むなしく、爆散する。
 敵の鎌は二つあるのだ。片方を防いだとて、もう片方が暴れるのを止められない。

「くそっ!」

 キリトは駆け出した。いくらヒースクリフと言えどあれを一人で捌ききるのは難しいだろう。そして彼がいなくなれば戦線は崩壊する。
 二刀をクロスさせるように構え、キリトは相手の一撃を受け止める。

「くぅぅぅぅぅぅぅっ!」

 重い。重すぎる。抑え……切れない!?
 一撃が、強すぎる!

 その様を、アスナはまるでテレビでも見ているかのように傍観していた。ボスが鎌を彼に振り上げている。彼は二本の剣でそれを抑える。
 いや、抑えきれていない。今にも吹き飛ばされそうだ。今にも斬られそうだ。今にも殺されそうだ。


 イマニモコロサレソウダ。


 反対の鎌が振り上げられる。ヒースクリフが素早く彼の隣に入り、盾でそれを防ぐ。防ぎきる。なんとか耐える。
 だが、彼はダメだ。彼は抑えきれない。


 カレハオサエキレナイ。

 コロサレル。

 カレガコロサレル。

 カレガシヌ?


「……なの、そんなの……ゆるせるわけ……ないッ!」

 このボスは今何をしようとした?  何をしようとしている?
 キリトを、彼を殺そうとしている。そんなことを、許すわけにはいかない。許せるはずがない。
 ザワリ、とアスナの中の何かが溢れ出す。黒い感情が漏れ出す。いや、暴れだす。
 アスナは飛び出した。キリトの後ろに回り、今にもキリトを貫かんとしている鎌をソードスキルの突き攻撃で弾き飛ばす。
 初めて、ボスがノックバックによりやや後ずさった。
 だがアスナに安堵はない。あるのは沸騰するような怒り。このボスは、触れてはいけない琴線に触れた。
 何人たりとも彼を傷つけさせやしない。何人たりとも!

「アスナ!」

「キリト君!」

 それからは、言葉を必要としなかった。
 幾度となく感じてきた《接続》する感覚。どんどんと鋭敏になっていくそれが、お互いの呼吸を驚くほど合わせていく。
 ヒースクリフが一方の鎌を抑える。キリトが二刀でなんとか残りの鎌を受ける。その隙にアスナが突き飛ばす。
 それをワンサイクルとして、ようやく形が出来上がった。

「俺たちが鎌を抑える! みんなは側面から攻撃を!」

 鎌の攻撃を二刀で受けているキリトの、かすれるような声で他のプレイヤー達は動き出した。
 それぞれソードスキルを側面にぶつけていく。側面の骨も暴れることで幅広いダメージ判定が起こっているが、鎌ほどではない。
 異常なほど強力なのはやはりこの鎌だけだ。

「アスナ!」

「うん!」

 やや変則的に鎌が振られてくる。キリトが素早く二刀をクロスさせ、突き刺すようにアスナに向ける。
 アスナはそれ……正確には剣の腹部分に飛び乗ってもう一蹴りし──同時にキリトも上に彼女を押し上げる──宙に滞空する。
 キリトは間髪入れずに振り返って飛び込んでくる鎌に備え、激しい衝撃とともにその即死級の攻撃を武器防御で僅かな時間耐えた。
 反対からも別の鎌が来るがヒースクリフがそれを抑え、下降を始めたアスナがソードスキルを放つ。

「やぁぁああああ!」

 別な角度からの攻撃は、僅かにボスに硬直時間、遅延効果(ディレイ)が期待できる尻餅状態を作ることに成功した。
 他のプレイヤー達がここぞとばかりに大技を連発する。

「散れ! すぐに動き出すぞ!」

 キリトの言葉で皆退くも、数人が欲張って攻撃をやめない。すぐにその対価はHP全損で払わされる。

「馬鹿野郎……っ!」

 罵りながらキリトは二刀をクロスする。一刀では受けられない。二刀でも受けきる、ことは出来ない。僅かに時間を稼げるだけだ。
 そのマージンでアスナが一歩押し込む。もう一方をヒースクリフが抑える。
 型としてはほぼ出来上がっていた。だが、ボスのHPは遅々とした速度でしか減らない。
 本当に一発が即死の中での長期戦になることは明らかだった。

(アスナ! 右だ!)

(キリト君、後ろ!)

(前!)

(正面、構えて!)

 これほど長い時間、《接続》を維持したことはなかった。いつもその必要が無かったからだ。
 だが、今は一秒たりとも《接続》を切れない。切らないのではなく切れない。
 そうして、一時間にも及ぶ激闘が続いた。




「っだ───!」

「っの───!」

「あ────」

 一時間を経過してようやく、ボスのHPバーがすべて無くなり、力なく倒れたボスは光り輝くポリゴン片となって爆散した。
 だが、とどめを誰が刺したなど、気に留める者はいない。
 満身創痍。その言葉が似合うほど皆疲労し、床に座り込む。戦いの熾烈さだけではない、仲間が死んでいってしまう精神的な痛みの積み重ねが、彼らの心に深くダメージを与えていた。
 恐らく、一つの戦闘、攻略中にこれほどの数の仲間を失う経験をしたことがある者などいないだろう。

「何人、やられた……?」

 生き残ったクラインが、フラフラと倒れそうな足取りでキリトに近づいていく。
 キリトはシステムメニューを開いてマップ上のプレイヤー人数を確認した。
 戦闘中も六人程までは爆散するサウンド回数を数えていたキリトだが、途中で数えるのをやめていた。
 どんどんと胸にのし掛かってくる不安と痛みが、それ以上は耐えられないと告げていた。
 数えなければ、気付かなければ、それは無いも同じ。それ以上死んだ奴はいないと自分に言い聞かせてひたすらに攻撃を防いでいた。
 ウインドウに映し出される光源は十八。あれから八人も死んだのか。当初から見て十四人分も足りない。

「十四人……足りない」

「……マジかよ」

 その言葉に、同じく生き残ったエギルが、珍しく憔悴したような顔になる。
 彼はSAOプレイヤーの年齢層では比較的上に位置する。それ故かいつも精神的に一歩上の存在であり続けるのが常だったのだが、そんな彼をして年下の少年少女同様に不安を露わにしてしまう。
 七十五層でこれだけの被害が発生した。では以降の攻略では一体どれほどの犠牲が出てしまうのか。その犠牲者の数、名前にいつ自分がカウントされてしまうのか。
 攻略はまだ四分の三しか終わっていない。あと四分の一……二十五層も残っているというのに。
 皆同じ気持ちだろう。だが、ただ一人、疲れ切ったプレイヤーの傍を変わらぬ表情で歩いている男がいた。

 ヒースクリフ。《血盟騎士団》のギルドリーダー。

 彼だけは表情を殆ど変えずに皆の周りを歩いて小さく声をかけていた。
 たいしたものだ、とキリトは感心する。彼は機械か何かなのだろうか。ギルドリーダーとはそこまで資質を持っていなければなれないものなのか。

「団長、すみません。回復アイテムを分けてもらえませんか」

「うむ。わかった。無事で何よりだ。よく戦った」

 実際、今回のパーティのリーダーは彼だっただろう。彼の号令と、盾が無ければ攻略は不可能だったに違いない。
 まさに、名実ともナンバーワンプレイヤーと呼べる。今彼は疲れ切った仲間に癒しの言葉をかけ、手持ちの回復アイテムを分配している。
 オマケにこの戦いでさえ彼のHPは安全圏を守り抜いている。素直に、キリトはそこに感心しようとして、違和感。


 今、ヒースクリフは一瞬左手を挙げ、ゆっくりと降ろして右手でシステムメニューを開いた。


 左手を、僅かに、一瞬上げた。なんのことはない気にする必要など全くないはずの動作。
 些細な日常にありふれるようなどうでもいい動作。

 ──だというのに。

 違和感。どうしようもない違和感。吹き上がるように何かの違和感が込み上げる。
 違和感の正体を探ろうとして、そのうち段々とそれが形となっていくのを実感した。

 違和感の正体は……既視感だった。そうだ。あの動作は何度か見たことがある。
 似た動きは日常茶飯事にしているし見ている。
 慣れ親しみすぎている。
 右手で《システムメニュー》を開く為の動作。それの初期動作と全く同じ。それが左手になっただけのこと。
 そこまで考えて、また違和感。

(──左手?)

 胸にわき起こる嫌な思い、これは何だ? 何を忘れている? 何を見落としている?
 左手でシステムメニューを開くことは出来ない。だから、普通左手にこの癖が付くことはない。

 ──本当に?

 いいや、違う。そんなことはない。知っている。左手でシステムメニューを開ける人物をキリトは知っている。
 《彼女》はゲーム参加者ではない。ゲーム参加者ではないからと思えばそれも納得できる。
 左手でシステムメニューを開けるのはゲーム参加者以外の人間。

 ──ゾクリ。

 背中が、恐ろしい程に冷えた。
 一瞬浮かんだ想像が、あまりに現実味を帯びすぎてキリトの胸のうちをどんどん冷やしていく。
 ありえない、と思えないことが、既にありえない。
 口の中がカラカラに渇いたような錯覚が起こる。背中の寒気も、喉の渇きも、ここSAOでは感じることのないはずのもの。
 だというのに、それらが治まらない。自分の辿り着いた考えを否定できる要素がなかった。

(やってみるか)

 キリトはゆらり、と立ち上がるとヒースクリフへと静かに近寄っていく。
 幸い彼はまだ気付いていない。できる限り気配を殺し──隠蔽(ハイディング)の効果はほとんど期待できないが──彼の横に立つ。

「ちょっと失礼」

 間合いに入ることに成功したキリトはヒースクリフの左手を取った。即座にその手を振らせる。
 一瞬のことにヒースクリフは戸惑った。だが、キリトの驚愕はそれ以上のものだ。



 ──紫色の見慣れないウインドウが、彼の前には立ち上がっていた。



「……どういうつもりかね、キリト君」

「それはこっちの台詞だ、ヒースクリフ、いや……茅場晶彦!」

 キリトの鋭い眼光が、彼を射抜いていた。



[35052] SAO15(終)
Name: YY◆90a32a80 ID:1a43ae77
Date: 2012/10/05 21:05


 ザワ、とプレイヤー達の視線が集まる。「何を言ってるんだ?」と周りは訝しそうにキリトを見ていた。
 ヒースクリフは一度目を閉じ、フッと口端を釣り上げる。

「何を言っているのかね? と聞くのは無駄かな?」

「ああ」

「このウインドウは可視モードになっていないはずだが」

「ウインドウを出せること自体が、その証明さ」

「私以外にも出せる者はいるだろう?」

「ああ、いるよ。でも左手でウインドウを出すことが出来るのは、《プレイヤー》じゃないとわかっている。それでも白を切るならそのウインドウを可視モードにして見せてみろ」

 本当はこの時、僅かにだけキリトは迷いがあった。悟らせまいと必死に隠したが、彼が茅場の仲間か何かで、《複数》いるゲームマスターの一人の可能性を考慮していた。
 だが、その可能性はかなり低いと見積もっていた。大勢のゲームマスターはいない。いればもっと早く露出していた可能性が高い。
 加えて、このゲームの製作者である茅場が人付き合いを好まない性格なのは、このゲームデザイナーに注目していたキリトにはよくわかっていた。
 だから十中八九、この相手は茅場だ。他人がやっているゲームを見ているだけなんて、それほどゲーマーとしてつまらないものはない。
 この男はだからこそ、プレイヤーに扮してこのゲームを監視していたのだと、連鎖的にイメージし、確信していた。

「……そうか、生命の碑。君たちは黒鉄宮に確認に行っていたね。薄々感づいていたわけか」

「《覗き》はお得意ってわけだ。あんなアイテムをゲーム内に用意しているくらいだもんな」

「そう言わないでくれたまえ。しかし……そうなるとせっかく泳がせていた《アレ》の意味が無くなってしまったな」

 ふむ、とつまらなさそうにヒースクリフは顎に手を当てて考える素振りをする。
 その時、近くで話を聞いていたプレイヤーが震えだした。

「アンタが、茅場晶彦……? ウソだろ……そんなハズ、そんなハズないんだッ!」

「……」

 哀れむような目で、ヒースクリフ……いや茅場晶彦はそのプレイヤーを見つめる。
 既に否定の言葉は無い。それが、全てを物語っていた。

「嘘だあああああああああ!!!!!」

 プレイヤーは手に持った槍を彼に向けて突進する。
 キリトが「待て!」と止めるも間に合わない。だが、次の瞬間、その行為が無駄だったとすぐに気付かされる。
 それも、当然と言えば当然のことだった。

【Immortal Object】──不死存在。

 システムメッセージが浮かび上がる。
 彼への攻撃は通らない。そうなるようシステム的に守られていた。彼の伝説の正体は、恐らくこれのせいだったのだ。
 尚も哀れそうな顔を向けられ、プレイヤーはその場に座り込んで泣いていた。それで、全てのプレイヤーもその事実をようやく飲み込んだ。

「キリト君」

「……なんだ?」

「参考までに君の推理を聞いておこうか」

「……最初におかしいと思ったのはデュエルの時だ。アンタ早すぎたよ。ポリゴンがドット抜けするスピードを一般プレイヤーが出せるわけがない」

「やはりそうか、あの時は私にとっても痛恨事だった。君の攻撃に押されてついオーバーアシストを行使してしまった。しかし《アレ》のせい……いや、おかげで奇跡的にも【DRAW】という結果が生まれた。この結果が良い隠れ蓑になると思っていたのだが、思い違いだったか」

「アンタはユイを知っている気はしていた。ユイという存在のことを思えば自然とアンタの素性を疑いはするさ」

「だがそれなら《アレ》のことをもっと疑っても良かったのではないか?」

「娘を疑う父親がどこにいるんだ」

「娘、娘か……ククク」

「何がおかしい」

「いいや、これは失礼。君は《アレ》がなんなのかわかっているのか?」

「前にも言っただろ、俺とアスナの娘だ。それ以上でも、以下でもない。そもそもさっきから《アレ》って……まるでユイを物みたいに言うな!」

 それまでは何処か達観したように喋っていたキリトだが、その目に僅かに怒りが宿る。
 同じく、アスナの目にも同色の感情が燃え上がっていた。

「そうか……物みたいに言うな、か。では面白いものを見せてあげよう」

 茅場晶彦は紫のシステムメニュー……いやシステムコンソールを弄り始めた。





 リズベットは椅子に座ってつまらなさそうに足をブラブラさせているユイを見ていた。
 彼女はキリトとアスナが迎えに来ると途端に元気になるが、彼らがいないと意気消沈する。
 話しかければ笑顔を見せてくれるが、少し放っておくとすぐに感情をなくしたような顔になってしまう。
 それだけ寂しいのだろうか。それだけ二人を本当の親のように思っているのだろうか。

(全く……ずるいなあ)

 自分たちの娘だ、と紹介された時は何かの冗談かドッキリだと思った。でも、三人のやりとりを見て、この三人は真面目なんだとすぐに理解した。
 それは同時に、宣言していたはずの第二回戦のゴングが永遠に鳴る機会を失った瞬間でもあった。
 もっとも、二人がゲーム内で結婚した時からその機会は無くなっていたようなものだけど。
 だが、不思議とそうなるような気はしていた。彼の隣にいることが出来るのは、彼のように強い、彼女のような存在だけだと。
 少し、本当に少しだけなら、最初は付け入る隙はあったかもしれない、とリズベットは思う。
 だが彼女はそれをしなかった。そこに後悔はない。

「ユイ~? 美味しいものでも食べにいこっか?」

「美味しいもの、ですか?」

「そ。そろそろ良い時間だし」

「わかりま……っ!?」

「ユイ?」

 急にユイが表情を変えた。何かに怯えるように。
 頭を両手で抱え、イヤイヤをするように首を振る。

「ちょっとユイ!? どうしたの!? 大丈夫!?」

 その異常さにリズベットは駆け寄る。通常、SAO内では痛みを感じない。
 頭が痛いから抑える、という行為は意味が無いしする状況は起こりえない。だが、目の前の少女は明らかにおかしかった。
 なんとかしてあげなくちゃ、とは思う。彼女を預かった責任がリズベットにはあった。預かるからには責任を持とうとも決めていた。
 だが、何をどうしていいのかわからず、ユイの傍にいながらリズベットは困ってしまった。

「呼んでる……イヤ、イヤ……! 行きたく、ない……!」

 ユイがか細い声でそんなことを言う。
 リズベットがそれについて尋ねようとした時、驚いたことにユイは体からライトエフェクトを発していた。
 これは《転移》の前触れとほぼ同じだ。

「助けて、パパ……ママ……!」

「ユイ!」

 リズベットがユイの体を抱きしめようとした瞬間、彼女はリズベット武具店から姿を消してしまった。
 「そんな……」とリズベットはその場に腰を落としてしまう。二人になんて言っていいのかわからない。
 泣きそうな女の子を慰めてあげることも出来なかった。ただ、予想を超える何かが起きていることだけは、リズベットは理解した。





 ユイは突然ここに現れた。ヒースクリフの頭上に浮かんだ状態で。
 それに驚愕し、アスナとキリトは身を固くする。

「ユイをどうする気だ!」

「ユイちゃんを離して!」

「ふむ、君たちは《コレ》を見てもそんなことが言えるかな」

 茅場晶彦がそう言うと、ユイの悲鳴とともに、彼女の体が崩壊していく。
 アスナとキリトは青ざめた。

「止めろ!」

 キリトが彼に斬りかかるが、【Immortal Object】のシステムメッセージに守られ、彼には何も届かない。
 ユイがわずかに視線をキリトとアスナに向けた。

 ──パパ、ママ。

「っ!」

 声なき声が聞こえたのと同時、彼女は微笑んで……消えた。消えてしまった。
 後に残ったのはシステム的な羅列のみ。ユイの体の構成がすべてプログラム言語に置き換えられていた。

「これが《アレ》の正体だ。《アレ》は人間ではない、AIなのだよ。正式名称は《メンタルヘルス・カウンセリングプログラム》、MHCP試作一号、コードネーム《Yui》」

「ユイちゃんがプログラム……ですって? でもユイちゃんは……!」

「《アレ》には本来人間が行うべき精神カウンセリングを違和感なく行えるようにするため感情模倣機能を備えさせていた。キリト君、察しの良い君は既に気付いていたんじゃないのか?」

「……」

「……キリト君?」

「確信があったわけじゃない。ただ一つの可能性として考慮はしていた」

「そんな……!」

 アスナは驚く。まさかキリトまでもがユイをプログラムとして見ていたと言うのか。
 そんなことは信じたくなかった。

「だが、あの子が俺とアスナの娘であることに変わりはない!」

「ほう……わかっていて尚プログラムを娘呼ばわりか。まあそれは別に構わないのだが」

 しかしすぐにキリトがアスナの不安を打ち砕く。彼はやはりユイを娘として見ていた。
 その想いは、彼女の正体を気付きながらも変わらなかったことから、もしかしたら自分よりも強いのかもしれないとさえアスナは思う。

「やはり君たちのそばから《アレ》は消しておくべきだったかな。《アレ》がシステムに介入したせい、いや、おかげで君とのデュエルでは数秒《不死属性》が解除されて結果的に私の正体がバレずに済んだことから少し泳がせていたが……」

「ユイが!?」

「ふむ、それには気付いていなかったようだね」

 キリトは思い出す。あの時彼女は「ずるい」と言った。それはヒースクリフの《不死属性》のことだったのだ。
 彼女がそれを解除し、その結果キリトは《不死属性》の無いヒースクリフのHPを半減することに成功した。

「解除されていたのは数秒だったよ。本当に針に糸を通すようなタイミングだった。しかし君はそこを正確に突いてきた。【DRAW】というオマケつきでね」

「……一つ聞きたい。何故ユイは俺たちの前に現れた?」

「それについては素直に謝罪しよう。単なる《バグ》だ」

「バ、グ……? バグ、だって……?」

「そうだ」

 その淡々とした説明に、キリトは言いようのない怒りを覚えた。
 単なるバグでユイはあそこに現れて、自分たちと出会って、一緒に過ごして、笑い合ったのか。
 それを、ただの小さいミスのように、この男は言うのか。

「《アレ》は正式サービス開始時にカーディナルによってシステムに不干渉を設定されていた。しかし私の予想外なことにあのプログラムは《干渉》せずとも《鑑賞》は続けていた。だがそのせいで感情模倣機能が裏目に出てしまった。プレイヤー達の負の感情を鑑賞し続けて模倣しすぎた感情は《自己崩壊》まで模倣し始めた」

「……っ!」

「ログによると、ちょうどその時あたりに君たちの事に気付いたようだ。自己崩壊によってカーディナルはプログラム《Yui》を消滅と規定してしまったが故にプログラム監視から外され、《Yui》には僅かに権限が戻ってきていた。しかし自己崩壊を起こした《Yui》は正常な思考処理能力を既に失っている。ただ最後に気付いた君たちの傍に、たまたま《Yui》は出現してしまった。ここからが少しだけ興味深い」

 説明する茅場に、アスナもキリトも歯を食いしばる。ユイのことをあえて人間扱いしない物言いは、二人の神経を逆なでするには十分だった。
 しかし、今爆発すればユイを知る機会は失われてしまうかもしれない。
 今はただ黙って聞いているしかなかった。

「《Yui》は“未完”とはいえAI……人工知能だ。《メンタルヘルスプログラム》としての機能がほぼ崩壊してしまっても、どういうわけか《自己学習機能》は生きていた。《Yui》はそれからひたすらに自己学習を始め、自己修復の一環なのか一人の人間に的を絞って感情を模倣し始めた。それがアスナ君、君だ」

「……えっ」

「ある意味娘という君たちは正しい。《Yui》はずっと真似ていたのだよ。アスナ君という人間性を。もっとも、言葉の端々から自身の中にある語録で最適なものを選んでいるうちに娘のようなポジションに落ち着いてしまい、それを二人が認めたことから《Yui》の学習機能はその望まれる人物を構成することを目的にしてしまったようだが」

 その言葉には、少しだけ納得できた。キリトが気付いた原因にも少し被ってきている。
 彼女は記憶を取り戻してから語録が劇的に増えた。しかし、クラインの件を始め、判断力が無さすぎた。
 良いか悪いかの判断経験の欠如。それに反比例するような知識量。そこに着目したとき、キリトはもしかしたら、と思い始めてはいたのだ。
 思い出した、とは彼女の中の膨大な《辞書》に接続可能になったということだったのだろう。アスナを模倣している、とは思っていなかったが。
 対して、アスナには少しだけ別の観点から思い当たる節があった。ユイはよくよく「自分とママ以外はパパにくっついちゃダメ」と言っている。
 それは彼女がひそかに心に留めている感情そのものではなかろうか。認めるのは少しだけ嫌だが、否定することは出来ない。
 同時に、ユイに自分の感情を見透かされていた事になると思い、急に恥ずかしくなった。

「私とのデュエルでシステムに干渉したために《アレ》はカーディナルに目を付けられた。放っておけば削除(デリート)は免れなかった。しかしここで消えられては怪しまれると思い、私が手動で《アレ》を修正したのだ。その方が君たちの注意を私から逸らせるとも思った。この際《メンタルヘルスケア》の壊れたプログラムは全面凍結させ、彼女の今のキャラクターをそのまま使うだけのNPC同様のAIプログラムとして《Yui》を確立。バグ取りをしたためか正常な言葉検索が働くようにもなっていただろう?」

 茅場はどこまでもユイを物のように説明する。
 ユイの正常化をバグ取りのおかげ、と言われて二人は納得できなかった。
 あの日、自分がどういう喋り方だったかを思いだしたと喜んだユイ。
 その喜びを分かち合ったキリトとアスナ。そこに、絆は確かに生まれていた。
 それを機械的にプログラムを修正したから、と理由付けを持ってこられて、酷く不愉快だった。

「さて、これで納得できたかな」

「……できるわけがあるか。ユイは娘だ」

「どう思おうとそれは君の勝手だよキリト君。そう信じたいのなら信じたまえ。それを否定するほど私も無粋ではないつもりだ」

「それならさっきからユイを物扱いするのを止めろ!」

「……そうか。これは失礼だったかな。認識の相違から配慮が足りなかった」

 悪かった、と謝る茅場晶彦にアスナは飛びだした。
 飛び出さずにはいられなかった。流星のように一点に絞られた光が《ヒースクリフというアバター》に吸い込まれる……が。

【Immortal Object】

 システムメッセージがその行為を許してくれない事を表示する。
 だがアスナは攻撃をやめなかった。
 何度も。
 何度も何度も。
 何度も何度も何度も。
 何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度何度も!
 しつこく攻撃を繰り返す。斬って、払って、突いて。
 ソードスキルを片っ端から使って、目の前の男にぶつける。

【Immortal Object】

【Immortal Object】

【Immortal Object】【Immortal Object】【Immortal Object】【Immortal Object】【Immortal Object】
【Immortal Object】【Immortal Object】【Immortal Object】【Immortal Object】【Immortal Object】
【Immortal Object】【Immortal Object】【Immortal Object】【Immortal Object】【Immortal Object】

 幾度と無く浮かび上がるシステムメッセージ。だがアスナは狂ったように攻撃をやめなかった。
 と、ようやく茅場が動いた。

「っ!?」

 ガクン、とアスナが膝を付く。彼女は麻痺状態になっていた。
 いや、彼女だけではない。キリトを除くこの場の全てのプレイヤーが麻痺になっていた。

「アスナ!」

 キリトはアスナに駆け寄る。彼女は泣いていた。双眸から止めどなく涙を溢れさせていた。
 よっぽど悔しかったのだろう。ユイのことが、悔しかったのだ。

「キリト君」

 重い茅場の声が響く。
 キッと睨み付けるが、彼の鉄面皮は些かも揺るがなかった。

「正体を知ったから全員始末するつもりか?」

「そんな理不尽な真似はしないさ。ただ、君には最終ボスである予定だった私を見破った報奨(リワード)を与えようと思ってね。本来なら九十五層までは明かさない予定だったのだから」

「最終ボス、ね。本当に趣味が悪いぜ」

「良いシナリオだろう? 盛り上がったと思うがまさかたかが四分の三で看破されるとはね。君はこのゲーム最大の不確定要素だとは思っていたがまさかここまでとは」

「そいつは悪かったな」

「いや、遅かれ早かれこうなってはいただろう。《二刀流》は全十種類あるユニークスキルのうちプレイヤー中最高の反応速度を見せる者に出現するユニークスキルだ。その者が勇者の役を担う予定だった」

「勇者、ね。俺にはもっとも結びつかない遠い言葉だよ」

「果たしてそうかな。客観的に見て、君にはその資質が十分にあると思うが。ダークヒーローなんてものも世の中には蔓延っているよ」

「……アンタと勇者談義をするつもりはない。何をやらせる気なんだ?」

「至ってシンプルだ。今この場で私と戦い、君が勝てばゲームクリア。全てのプレイヤーを解放することを約束しよう。無論不死属性は解除するしオーバーアシストは使わない。私もこのゲームでプレイヤーに許されている同条件下でのみ戦うことを約束する」

 キリトはそれを聞いて、抱き起こしていたアスナをゆっくり横に寝かせ、二刀を装備した。
 その後ろ姿に、アスナは猛烈に嫌な記憶が蘇る。

「ダメよキリト君! 貴方を排除する気だわ! ここは引きましょう……!」

 行かないで。決してそこへは行かないで。手の届かない所へ行かないで。
 アスナの涙声のような叫びが上がるが、キリトは「ごめん」と小さく呟いた。

「戦う、気なの……?」

「ああ」

「なんで……どうしてッ!?」

「君は、絶対にあっちの世界に返すって決めてたから。それに……俺たちの娘を取り戻さないとな」

「っ! 死ぬ気は無いんだよね……?」

 恐る恐る尋ねると、すぐに彼は頷いた。彼の静かな怒りが、自分と同じ感情のそれが、そこにあることに気付いた。
 それを見て、アスナはようやく僅かに笑みを浮かべる。
 キリトは背中越しに、それを感じた。

「キリト! 早まるんじゃねえ!」

 エギルが、彼を止める。
 キリトはここで失われて良い人間ではない。
 ましてや借りが多すぎる。年下なのに、借りを作ってばっかりだ。
 まだ、死んで貰っては困るのだ。

「エギル、アンタが中層プレイヤーの育成に儲けを注ぎ込んでいたのは知っていたよ。だから、借りだなんて思わなくていいんだ」

「ッッッッ!」

 エギルは驚愕する。キリトは全てを知っていた。全てを知った上で……!
 キリトはよくよくエギルを頼る。だが、その礼、リターンは不平等なほど多めにキリトは払っていた。
 これを買ってくれ、と持ち込むものの買取金額は相場より安く、頼まれた物を仕入れれば相場より高いコルを払う。
 キリトはエギルとの取引で何度もそうしていた。決まってエギルが困っている時は──たいていは中層プレイヤー用の支援アイテムの工面についてだったりした──ふらりとそんなキリトが現れていた。
 エギルはそれからと言うもの、キリトの悪評を和らげるために、自身が安く卸してあげた中層プレイヤーにはよくキリトの事を教えるようにしていた。
 半分ほどは興味なさそうに、もう半分は訝しむのが常だったが、それでもキリトの偽物の評価をなんとかしたかった。
 その過程で知り合った《フェザーリドラ》をテイムすることに成功した《竜使い》の名を冠する中層少女プレイヤーとも知り合った。
 彼女はよく話を聞いてくれ、協力を買ってでてくれたりもした。FCKoDなる組織にも加入した。
 だがそれは結局、まだほとんどちゃんとした意味では効果を発揮していない。それを少しでも成し遂げたと言えるのは恐らく、彼が隣に居ることを許した少女だけだろう。
 だからキリトが家を買う時も手伝った。アスナが「無理を言ってごめんなさい」と言ってきた時も気にしなかった。
 返し足りないものがまだ一杯あるのだ。
 だというのに、彼の背中はエギルの制止を聞き入れてはくれない。

「止めろキリト! 言ったじゃねェか!」

 クラインが麻痺で倒れたまま、首だけ彼に向けて叫ぶ。
 約束した筈なのだ。気付かせた筈なのだ。彼の命は彼一人のものではないと。

「わかってンだろ!? お前は一人じゃねェンだぞ!」

「クライン、ずっと……謝りたかったことがある」

「なンだよ!?」

「あの時、始まりの街で置いていって悪かった。ずっと、それが心残りだった」

「ッッッッ!! 馬鹿野郎! 謝るンじゃねェ! 今謝るンじゃねェよ! お前、今そンなこと言われたら……ッッ! 俺はお前を許しちまうだろうが!」

 憂いを帯びたキリトの顔が、クラインを見つめる。
 それだけで、クラインは何も言えなくなった。言えなくなってしまった。
 もう一度口の中でだけで「馬鹿野郎……!」と呟く。それがクラインの今できる精一杯だった。
 一度だってあの時のことを怒ったことなんかなかった。
 一度だってあの時のことを恨んだことなんかなかった。
 一度だってあの時のことを悔やむことなんかなかった。
 だから、彼が謝罪してきたら、それは罪じゃないと言わないといけない。彼を許さなくてはいけない。それがあるべき姿なのだから。
 だが、許してしまったら、キリトの憂い、心残りは無くなってしまう。無くなってしまったら、彼を引き留める自分の武器が、自分だけの武器がクラインには無くなってしまう。
 それでも、彼は許すしか選択肢が残っていなかった。それをキリトはわかっていたのだろう。
 その心の成長、自分を少しでも許せるようになっている成長が嬉しい。嬉しいはずなのに、涙が止まらない。

「準備はいいかな」

 茅場晶彦がシステムを弄りながら尋ねる。
 彼とキリトのHPバーが同じ量にまで減らされる。一撃を貰えば吹っ飛ぶ量だ。
 加えて不死属性を解除した旨のシステムメッセージが浮かび上がった。先の話に嘘はないという証明の為だろう。

「二つ、いいか」

「言ってみたまえ」

「アンタは今正体を見破った報奨(リワード)だと言ったな」

「そうだが」

「ならゲームマスターとしてチート行為を働いた事への謝罪補償が欲しい。アンタはデュエルにおいてやってはいけない真似をして俺と【DRAW】になった。本来なら俺が勝っていたはずだ」

「……内容は?」

「ユイを返せ。今ならまだできるはずだ。もちろんシステム権限なんて物は無くていい」

「……娘、か。まあ良いだろう、手を出したまえ」

「……?」

 茅場はそう言うと、紫のコンソールを少し弄る。
 すぐにキリトの手の上に透明な、複雑にカットされた涙滴型のクリスタルが出現した。

「これは……?」

「《Yui》……いや、君の言う《ユイ》のプログラムソース、言わば彼女の本体そのものをオブジェクト化したものだ。この戦いに勝てばそのデータは君のナーヴギアの中に保存されているだろう」

「そうか」

 キリトは短くそう言うと、アイテムストレージを開いてクリスタルを入れ、すぐに装備欄へと手を動かす。
 次の瞬間には動けないアスナの首に、ネックレスとしてそのクリスタルが出現していた。
 夫婦だからこそ出来るお互いのステータス干渉。そこで見ていてくれ、ということだろうか。
 クリスタルはやや熱が篭もっていて、白くとくんとくんと光り、暖かいようにもアスナには感じられた。

(そこにいるの? ユイちゃん……)

「さて、もう一つは何かね? これだけでも結構寛大な処置だと私は思うが。補償としてはむしろ大き過ぎるほどだろう」

「……もう一つは、アスナについてだ。簡単に負ける気はない。だがもしも俺が負けて、死んだら……少しの間でいい。彼女を自殺できないようにして欲しい」

「……え」

 その言葉に、アスナは固まった。今彼は何て言った?
 自殺できないようにして欲しい? 誰が?


 ──ナニヲイッテイルノ?


(彼が死んでも、私は死ねない?)


 ──ナニヲイッテイルノ?


 それの意味を理解したアスナが、そのあまりの残酷さに叫ぶ。

「ダメ、だよ、そんなの、そんなのないよ───────っ!!!!」

 アスナの慟哭がフロアに響く。もしも、彼が死んだら生きている意味などない。
 だと言うのに、彼は自分には死を許さないつもりなのか。
 

 ──ドクン。(……)


「良いだろう。彼女にはこの戦いの後不死属性を付加する。代わりに迷宮区への立ち入りを禁じよう」

 自分の手の届かない所で勝手に話が纏まっていく。
 望まない方向へと纏まっていく。
 彼はもう振り返らない。振り返ってくれない。最初から、こうするつもりだったのか。
 望まないこととわかっていながら、それでも彼は、こうする気だったのだろう。
 なんて──残酷。非情になりきれない彼は、それ故に彼女に対してもっとも残酷な方法を選んだ。
 それでも、それが、それだけが彼の望みだった。

「行くぞ……!」

 ダッ! とキリトが駆け出す。
 それが、このソードアート・オンラインにおけるラストバトル開始の合図だった。

 キリトはソードスキルを使わずに斬り込む。その速度はシステムアシスト無くしてソードスキルのような精密さとスピードを再現していた。
 聖騎士ヒースクリフ、いや茅場晶彦はその一つ一つを顔色一つ変えずに盾で防いでいく。飽くまで冷やかなその真鍮色の瞳は、キリトを焦燥させた。
 ソードスキルは使えない。前回戦ってわかったことだが、彼相手にソードスキルはほぼ通じない。
 それも事実を知った今となっては当然のことだ。全てのシステムは彼の手によるものだ。全てを把握されていても不思議はない。
 すさまじい剣戟が鳴り響く。速く、もっと速く。さっきより速く。まだ速く。極限まで速く。極限を超えて速く。
 徐々にスピードが増していく。増せば増すほど剣戟の音は高くなる。
 キリトは自身の目ですら僅かに自らの剣のエフェクトがブレて見えてしまうほどのスピードを捻り出した。
 ドット抜けするようなオーバーアシストには敵うべくもないスピードだが、それに近づくものがあった。
 だが茅場はその攻撃を正確無比に叩き落とし、弾き、反撃をしてくる。
 どれだけ必死になっても、彼は表情を変えない。それが、キリトに相手との差を感じさせる。

(馬鹿な、遊ばれてるのか……?)

 左から大きく薙いで、僅かな時間差を設けて右からも攻撃する。
 だが左の攻撃はフェイク、寸止めで止めて右の攻撃を途中から最大筋力をゲインして勢いを増す。
 その勢いを殺さぬように回転して左手に持っていた剣を彼の左脇腹めがけて薙ぐも、それにすべて対応して彼は尚反撃さえしてくる。

「この前の《あれ》を使いたまえキリト君」

「なに、を……」

「《あれ》でなければ私の神聖剣を破ることなどできんよ」

 鉄面皮のまま口を開いたと思ったら、とんでもないことを言い出す。
 敵に塩を送っているのか、それともそれも作戦なのか。
 だがどちらにしろそれはキリトも考えてはいた。しかし、

(リスクが高すぎる……まだ、成功率は二割から三割くらいしか無いんだ……!)

 彼とのデュエル時に起きた謎の現象。ソードスキル遅延効果(ディレイ)の無効化。
 《剣技連携(スキルコネクト)》と名付けたシステム外スキルは暇を見つけては練習したが、成功率は未だ低い。
 今使えば、失敗は目に見えていた。

「使わないのか? それもいいが……ふん!」

「っ!!」

「それで勝てるほど、私は甘くは無い」

 裂帛の気合いの入った斬撃が、キリトを襲う。瞬間的に受けられないと悟ったキリトは一歩退いた。
 退いてしまった。

「それが今の君の覚悟の程だ。退くという考えを、瞬間的に考えてしまえる余裕がある。必死さが足りない、先日のデュエルの時や《The Hell Scorpion》と戦っていた時の君の方がまだ必死だった」

「っ! くそおおお!」

「ヤケになるのと必死になるのは違うぞキリト君、君はもっと楽しませてくれる相手だと思っていたのだが。これでは君は彼女との約束を果たせそうにないな」

「ッッッ!」

 瞬間的に、剣戟のスピードが上がる。僅かに茅場の顔に笑みが奔った。
 それでいい、と。

「そうだ、もっと必死になってもらわねば困る。君は現実世界で彼女のかけた呪いとやらを解くのだろう?」

「……は? ってまさかアンタ……」

「見てはいないさ、聞いただけだ」

「ふざけんなあああああああああああ!!!!!!」

 キリトのスピードがそれまでとは比べられないほどに上がる。いや、最大速度は変わっていない。
 だが技の、一刀一刀を振るキレが段違いに上がっている。技と技の間の間がほとんど感じられない。

「この《覗き野郎》!」

「ふむ……私にそれを言うのは君で二人目だ」

「《二人目》……?」

「ふん!」

「ッッッ!」

 一瞬の気の緩みからキリトの横スレスレに重たい一撃が落ちる。
 紙一重だった。

「外したか。素晴らしい反応速度だ」

「お前……!」

 まさか、全ては計算されていたのか。鼓舞させ、緩ませ、叩き切る。
 それを狙っていたのか。いや、彼にそうする必要などない。
 考え過ぎだ。だが、その考え過ぎになることこそが相手の狙いなのか。

「考え事かね」

「……っくそ!」

 考える暇がない。連撃はやまない。暇が作れない。
 ……暇が作れない? 本当に? 暇が作れないと思う暇はあるのに?

 必死さが足りない。確かにそうだ。もっと必死なら《考えている暇》なんて発生しない。
 ゴウッと風を切るような音を立ててキリトの米神近くを茅場の剣が薙ぐ。
 先ほどまでは退いていた距離。それを、退かずに進むことで避ける。避けながら攻撃する。

「!」

 相変わらずほとんど茅場の表情は変わらない。だが動きにほんのわずかにラグが発生した。
 久しく忘れていた。限界を超えると言うことを。《極限》と言う、限界の先……果てにある境地を。
 スピードだけではダメだ。パワーだけでもダメだ。《極限》まで感情を飛ばせ……飛んで、跳んで、速く、もっと速く──加速する!
 思考を、思いを、感情を爆発させろ! 
 焼き切れてもいい! 無くなってもいい! 恐れるなどという《余分》を削れ!
 ただ速く、もっと速く、全てを速く! 加速のその先へ、もっと先へ!

 キリトのキレが飛躍的にアップしている。した、ではない。《している》。
 現在進行形で彼の速度はアップし続けている。どうやればあんな真似ができるのか。
 いや、きっとそれはわからない。わからないから上げ続けることが出来る。考えていないから、できるのだ。
 誰もが彼の動きで茅場を圧倒し始めたように思う。押しているように見える。
 だというのに、アスナには胸騒ぎがした。


 ──ドクン。(……マ)


 彼の方が押しているように見える。なのに、彼の背中が《あの時》と被って見える。
 あの戦いのときと同じように見える。胸騒ぎが治まらない。
 キリトの攻撃は止まらない。押しているように見える。だが茅場の表情は冷えた鉄面皮のまま変わらない。
 明らかに押されているように見えるのに、そこに焦りを感じない。
 嫌な予感がする。


 ──ドクン。(……ママ)


 攻めきれない。どれだけ速度が上がっても、キレがよくなっても最後の一撃で攻めきれない。
 硬い。硬すぎる。盾を貫けない。届かない、最後の一歩が絶望的なまでに届かない。
 届かせるには、やるしかない! 

「!」

 そこで、珍しく茅場は僅かに感情を表した。
 キリトの剣にライトエフェクトが奔る。ソードスキルだ。

「茅場ァァァァァァァァァァァァァッ!」

 あの時と同じ、《レイジスパイク》を放つ。倒れ込むような突進からの鋭い突き攻撃。
 茅場は当然のように盾を合わせて来る。だが、本命はこれではない!

 意識を切り離せ。この腕は自分の腕ではない。
 自分の腕は今左腕のみ!

  動け  動け  動け  動け
 動け  動け  動け  動け
   動け  動け  動け  動け
  動け  動け  動け  動け
 動け  動け  動け  動け

 動け!

 左手だけで、ソードスキルを─────────!?

 ズシリ、と一瞬体に重みを感じる。
 いや、それは正確ではない。動けない。動きたくとも動けない!

(遅延効果(ディレイ)!?──失敗した!?)

 《剣技連携(スキルコネクト)》は成功率がまだ著しく低い。土壇場で成功させるなど、それこそ奇跡。
 奇跡なんて起こらない、と思ったのはいつのことだったのか。やっぱり、彼に奇跡は起こらない。
 ただひたすら無情に、システム通りに事が進むだけだ。
 茅場は残念そうな、酷くつまらなさそうな顔をしていた。
 彼の剣が、キリトを貫こうとしている。
 彼を殺そうとしている。彼が死んでしまう。

 彼が死んでしまう!



(だめええええええええっ!!)



 ──ドクン。(ママ!)



 胸のクリスタルが一際強い熱を持つ。熱いくらいに熱を持つ。
 一瞬世界がスローになる。このままでは茅場にキリトが貫かれてしまう。
 それをただ傍観しているしかない世界で、

(ママ! パパを……パパを護って!)

 娘の声が聞こえる。自分を応援する声が聞こえる。
 彼を護れと言っている。

(今できるのはこれだけ、一秒にも満たない時間のこれだけ! でもママ……ママならきっと……! だから、頑張ってママ!)

 全てがスローのはずの世界で、その声だけが何者にも縛られぬようにクリアに聞こえる。
 直接頭の中に入ってきているように聞こえる。
 だから、娘の考えが瞬間的にアスナには理解できた。

(お願い、ユイちゃん!)

 フッと僅かな一瞬体が軽くなる。《麻痺》が消える。動ける!
 アスナは全ての力を最大までゲインして、限界、いや極限、いやいやそれ以上のありとあらゆる全てを振り絞って跳ぶ、いや飛ぶ!



「い、やぁぁぁぁぁぁぁあああああああああ!!」



「!?」



 驚愕は一体誰のものなのか。
 アスナがキリトの前にまるでテレポートでもしたかのように現れる。
 彼を庇うように手を広げてその体を差し出している。

 茅場晶彦の剣が、彼女を貫く。

 キリトの時間が一瞬停止する。

 アスナが笑みを口端に乗せる。





「あ、あ、ア、アアアア亜亜亜亜亜亜亜亜!!!!!!」





 キリトの声が、枯れそうなほど、枯れてくれと思う程、上がる。
 アスナのHPバーが、ゼロになった。



 フラッシュバックという言葉がある。
 近年誤用が多い間違った解釈の《走馬灯》と意味はほとんど変わらない。
 僅かな時間に、スローで世界が再生され、過去の出来事を次々と思い出す。

 アスナの笑顔。アスナの仕草。アスナの声。

 それらが一つ一つがコマ送りのように再生される。
 唇を合わせた感触。抱いた時の温もり。初めて一緒に夜を過ごした熱。
 それをまさに今体験しているかのように、再生されていく。



『今キリト君にかけた呪いはね、定期的に私とキスしたくなる呪いなの』

『迷宮デート、か。キリト君といるとどこでも楽しくなるから不思議だよ』

『もう、それでユイちゃんに何かあったらどうするの?』

『わぁーっ! わぁーっ! ユ、ユイちゃんしぃーっ!』

『生きてる!? 生きてるよねキリト君!?』

『今日は……ユイちゃんもいるし《倫理コード》は無理だけど、キリト君の胸の中で寝たい……いいかな』

『ずるいなぁ、あそこは恋人が行くスポットじゃない。私も誘ってくれれば良かったのに』

『……うん、うん。ありがとうキリト君。絶対に行こうね! 約束だよ!』

『良い子ね、パパの言うことをなんでも聞いちゃ『メッ』だよ』

『キ、キリト君が好きなのに申し込まれたって断るに決まってるでしょ!』

『もう、だめなんだから。諦めたら、死んだら、ダメなんだから……!』

『私、キリト君といるのは……哀れみなんかじゃないから』

『情けでもないし、攻略会議で指揮を預かる身だからとか、そんな打算的なことでもない』

『──き、なの。キリト君がサチさんを好きでも、恋人を忘れられなくても、私キリト君が──好きなの、好きになっちゃったの!』

『責任重大だからね、キリト君。これでキリト君は簡単に命を諦められなくなったんだから」』



 宝石のような記憶群。二度と帰ってこない時間……時間?
 スロー再生される記憶の中で、閃光のように閃くものがあった。
 連鎖的に、記憶が、繋がっていく。

 時間。
 命。

 蘇生アイテム。

【このアイテムのポップアップメニューから使用を選ぶか、あるいは手に保持して《蘇生:プレイヤー名》と発声することで、対象プレイヤーが死亡してからその効果光が完全に消滅するまでの間(およそ十秒間)ならば、対象プレイヤーを蘇生させることができます】

 対象プレイヤーが死亡してからその効果光が完全に消滅するまでの間(およそ十秒間)ならば、対象プレイヤーを蘇生させることができます。
 効果光が完全に消滅するまでの間(およそ十秒間)ならば、対象プレイヤーを蘇生させることができます。
 (およそ十秒間)ならば、対象プレイヤーを蘇生させることができます。
 (およそ十秒間)ならば、対象プレイヤーを蘇生
 (およそ十秒間)ならば。
 (およそ十秒間)

 (およそ十秒間)

 その十秒間が、ナーヴギアから高出力マイクロウェーブを発生させて脳を焼き尽くすタイムラグ。
 十秒間……十秒間!
 今何秒経っているかなんて計算する暇はない。方法もない。
 必死と言う言葉があるなら、今この時を言うのだろう。

 およそ十秒間。
 十秒以内に、茅場を殺せば……アスナは助かるかもしれない!


「う、お、おオオオオォオッォオオォッォォォォォォォ!!!!!」


 吠える。それしか出来ないとばかりに吠える!
 貫け、貫け、貫け!
 あの男を貫け!

 キリトの剣が、彼の胸に吸い込まれていく。
 驚くべきスピード。だが、茅場の反応速度ならギリギリ間に合うタイミング。
 ──何もなければ。

「っ!?」

 茅場は驚愕する。
 一瞬、ほんの僅かな時間、《動けなかった》。
 目の前にはHPを全損したアスナ。既にライトエフェクトに包まれているアスナ。
 その彼女が、茅場の剣を掴んでいた。それは、まだ強制ログアウトしていない彼女の最後の抵抗。
 蚊程にむなしい抵抗。閃光のような一間を生むだけの行為。
 閃光のような。

 彼女は閃光のアスナと呼ばれる。
 だが彼女は思う。自分が《閃光》と呼ばれたのは全て今日この日この時、この瞬間の為だったのだと。
 彼女の閃光は、攻撃の速度故ではない。彼の為に《閃光の一間》を産む、ただそれだけの為に!
 そのためだけに《閃光》はあったのだと─────!

 そして、そうまでして彼に期待して、その期待が裏切られたことなど、これまで────ただの一度も無い!

 キリトの剣が茅場を貫く。
 茅場のHPが全損し、驚きの表情で包まれている。
 だが、もっとも驚いたのは、キリトが茅場のHP全損を確認した刹那、返す刀で自身の胸を貫いたことだった。

 三人分のライトエフェクトが眩しいほどに輝いて……散る。
 キリトは、まさかもう一度この割れるような感覚を味わうとは思わなかった、などと思いながら、

 ゲームはクリアされました──ゲームはクリアされました──ゲームはクリアされました……という機械的なアナウンスを聞いて意識を手放した。




















「ここは……」

 気付けば、キリトは全天燃えるような夕焼け空の下にいた。
 浮いているわけではないが、床も見えない。きちんと立っていることから床があることは理解できるのだが。
 キリトはぼうっと訝しがりながら何の気なしに右手を振ってみた。
 すぐにウインドウが立ち上がる。それで、ここがまだSAOなのだと確信した。
 ただ、メニュー画面は【最終フェイズ実行中 現在54%完了】と表示されていた。意味がわからない。

「キリト君」

 と、名前を呼ばれて震えた。その声を、キリトは聞き違えるはずもなかった。
 振り返ると、栗色のロングヘアーの彼女、アスナがそこにいた。体が半分ほど透けているが、間違いなくアスナだ。
 よく見れば、自分も体が半分ほど透けている。

「アスナ……!」

 キリトは手を伸ばそうとして、一瞬躊躇う。透けた体に触れて、触れなかったらどうしよう、と。
 だが、それは杞憂だった。すぐにアスナが手を伸ばし、触れる。きちんと触れられる。

「キリト君……」

「アスナ……アスナ……!」

 再び触れられた彼女の温もりを、キリトは離さないとばかりにきつく抱きしめた。
 アスナももう離れたくないとばかりに強く強く抱きしめ返す。

「……無茶して」

「ごめん」

「何も自分まで刺さなくたって」

「良いんだ。もしアスナが無事ならああしたって俺も大丈夫だと思った。アスナが無事じゃないなら、俺が無事でいる意味もないから、どっちにしても良かった」

「命を簡単に諦めないって約束したでしょ?」

「アスナを護るために、が前提だよ。アスナがいなくなったら無効」

「もう……バカ」

 一筋、アスナは涙を流して彼の胸に顔を埋める。
 どうしようもなく、嬉しかった。
 どうしようもなく、愛しかった。

「君らは変わらないな」

 と、二人だけの空間で声がした。
 白衣にネクタイ姿の、ヒースクリフではない茅場本人の姿で彼は現れた。
 その姿は、めったに人前に出ないと有名な、キリトが写真でだけで見たことのある姿そのままだった。

「茅場……?」

「ああ、私は茅場晶彦だ。君たちとは少し話をしたくてね、少しこの時間を作らせてもらった。既に他のプレイヤーはログアウト確認済みだよ」

「そうなのか……」

「キリト君、あれ……!」

 アスナが指差す方向には、空に浮かぶ円錐状の城があった。
 何度か雑誌等で見たことのある、アインクラッドの外観そのものだ。だが、それは今崩れつつある。

「現在、アーガス本社地下五階に設置されたSAOメインフレームの全記憶装置でデータの完全消去作業を行っている。あと十分ほどでこの世界の何もかもが消滅するだろう」

「けじめ、か?」

「……どうだろう。そういった感情は既に無いよ。私はただ、信じているのだよ。世界のどこかに、あの城が本当にあるんじゃないかと。幼いころからずっとそう思ってきた。それを見たくて、現実世界のあらゆる枠や法則を超越した世界を作ろうと思った。それを再現するために。再現した超越世界を超越することが出来る者を見るために」

 チラリ、と茅場はキリトを見る。
 君の事だ、とその目は語っていた。

「君は見事、私の世界の法則を超えた。《剣技連携(スキルコネクト)》、だったかな、あれは見事だった」

「最後は失敗したよ」

「それでも、君は、いや君たちは私を倒した。この世界を超越できるものが現れた時、あの城も世界のどこかに実在すると改めて信じられると思っていた。だから、ありがとうキリト君、アスナ君。そして、ゲームクリアおめでとう」

 何故か怒る気にはなれなかった。
 一人の男の、ただひたすらに夢に向かい続けた一つの結果。
 それがソードアート・オンラインでありアインクラッドだったのだろう。

「さて、私はそろそろ行くよ」

 え、と思った時には、既に茅場は消えていた。
 現実世界に帰還したのだろうか。それとも……。

「キリト君」

 アスナがクイクイと引っ張って指を指す。アインクラッドは既に残すところ先端のみとなっていた。
 残された時間は少ないらしい。

「ねぇキリト君、名前……教えてくれる?」

「名前?」

「そう、本当の名前。現実でまた会う為に。実はね、九十層超えたら聞こうって思ってたんだけど……」

「終わらせちゃったからな、ごめん」

「あ、謝らないでよ……悪いことじゃ、ないんだから」

「うん……俺は桐ケ谷和人、多分先月で十六歳」

「きりがや、かずとくん……やっぱり年下だったかあ……私は結城明日奈、十七歳です」

「ゆうきあすな……」

 お互いに、一音一音忘れないよう、噛みしめるように呟く。
 時間は、もうない。

「また、現実世界で絶対に会おうね……」

 アスナがそう小さく言って、唇を合わせる。

「……戻ったら、呪い解けちゃうな……それはそれで、もったいない」

「呪いが解けたら、凄い特典がつくから」

「そっか」

「うん、だから……ね。楽しみに、してて」

「ああ、楽しみにしてる。それに帰ったら、ユイもなんとかしてやらないとな」

「うん」

 そうして、お互いに最後の瞬間まで、見つめ合っていた。





 フッと瞼を開く。酷く、その作業が重く感じた。
 目を開けて最初に感じたのは、眩しいということ。
 まるで数年間光を見たことが無かったかのように、目が眩む。
 ゆっくりと視線を変えると、腕にはチューブが繋がっている。
 点滴……とすぐにそれがなんなのか理解して、連鎖的に意味を正しく把握する。

(帰ってきた……)

 念の為に右手の指を振ってみる。
 そこにはやはりウインドウは立ち上がらない。

「…………っ」

 口を開こうとして、上手くできない。
 喉が痛い。しばらく使っていなかったかのような渇きを覚える。
 と、そこでようやく頭が固定されていることに気付いた。
 顎下にあるロックを手さぐりで解除して、それをむしり取る。

 ナーヴギア。

 全ての始まりはこれをかぶってから始まった。
 最後に見た時はピカピカだったのに、二年の月日は外装を色褪せさせていた。
 だが、すぐにハッとなる。
 行かなきゃ、という衝動に駆られる。自身の《半身》を、探さなくてはならない。
 でも、立ち上がろうとして、できなかった。体が酷く重くて、怠い。
 筋肉が落ちているのだ、とすぐに気づいてそのあまりの虚弱ぶりに驚くが、そんなことには構っていられない。
 狂おしい程の時間と労力をかけて、ようやく点滴の金属棒を杖代わりにして立つ。
 そうやって立ち上がったところで、病室のドアが開いてその人は入ってきた。

 黒縁メガネにスーツ姿の男が、息を切らせている。
 自身の記憶が確かなら、面識は現実、SAO共にない。
 すぐに訝しそうな顔に気付いたのか、彼は名乗りをあげた。

 総務省SAO事件対策本部。

 それが彼の所属だと言う。
 彼らはSAO被害者対策活動の一環として被害者を病院に移させることと、手に入れたごく僅かなプレイヤーデータをモニターしていたそうだ。
 それしかできることがなかった、とは言うが、それだけでもたいしたものではある。
 一つ失敗すれば一万人……最終的には六千人ほどの人間の脳が焼き切られてしまうリスクの中、頑張っていたと思う。
 彼がここに来た理由は早い話が情報収集、取り調べだった。SAOで何があったのかを聞きたい、とそういうことだ。

 答えるには吝かではない。
 だが、これをチャンスと見て、条件を突きつける。
 彼はその条件をすぐに飲んだ。
 《半身》の居場所を調べて教える、という条件を。
 意外なことに、すぐにその役人は《半身》の場所を探し当てた。いや、探し当てたというより彼の担当する被害者の中にたまたま被っていたのかもしれない。
 しかしそんなことはどうでも良かった。今すぐそこに連れて行くように頼む。
 戸惑われたが、彼は頷いてくれた。車椅子を用意し、それに乗って、運ばれる。
 幸い、然程遠い場所ではなかった。本来なら精密検査やら何やら受けなくてはいけないらしい自分を連れて行くのは大変なんだから、と車の中で怒られたが。
 後で家族への説明も大変だ、と頭を悩ませていた。

 そうして、連れて行かれた別の病院の病室。ここに《半身》がいる。
 そう思うといてもたってもいられなかった。
 別れの時間は実際に計算すれば然程のものではないはずだ。
 それでも、現実世界で会うのは初めてなのだ。多少の緊張と、期待を持って病室を開ける。
 そこで待っていたのは、



 未だジェルベッドに横たわり、


 ナーヴギアを付けたまま、


 機械とチューブに繋がれた《彼》が、


 見知らぬ少女に口づけされている光景だった。


(SAO編終わり)



[35052] ALO1
Name: YY◆90a32a80 ID:1a43ae77
Date: 2012/10/12 21:33


 僅かに鼻腔をくすぐる、天然木の芳しい香り。
 樹種すらわからない──実在するのかすら疑わしい──それによって建てられたログハウス。
 大きくはないが二人、いや三人で暮らすには十分とも思えるその家の一室。
 一室、とは言っても部屋は二つ程しかなく、内一つは寝室である。
 その寝室で、栗色ロングヘアーの少女はゆっくりと瞼を開いた。
 シン、と静まりかえる部屋に、少女──アスナは首を傾げる。
 ベッドには自分一人だった。隣にあるもう一つのベッドは使われた形跡が無いことから──これはいつものことだが──自分以外の家主が既に起きていることは想像が付くのだが。
 しかし、もし《二人》が起きているならもう少し賑やかな声が聞こえてもおかしくない。
 いや、そもそも自分が最後に起きるということ自体、珍しかった。
 いつもなら自分の方が先に起きて、《彼》の寝顔をじっくり観察するという至福の時間を過ごすのが常なのだ。
 かといって《彼》が先に起きた試しが全く無いわけでも無いので、まあいいかとアスナは小さく欠伸してベッドから降りる。
 それにしても静かだ。《あの二人》が大人しくしているなんて、ちょっと想像できないのに。

「おはよう、キリト君、ユイちゃん」

 挨拶の声を上げながら寝室を出てリビングに入るも、そこには誰もいない。
 ガラン、としていて人のいた気配すらない。静まりかえった家は何処か寒々しい。
 人がいないだけで、まるで生活感が失われてしまったかのような錯覚さえ覚える。

(おかしいな……二人だけで何処かに行ったのかな)

 アスナは首を傾げる。あの二人が自分に黙って出かけるなんてちょっと想像がつかなかった。
 伝言を残すなり、起こすなり、何かしらのアクションをしない二人ではない。
 アスナは訝しがりながらも、ひょっとしたら自分が寝ていたから騒がしくないように家の外にでて、何かやっているのかもしれないと思い至る。
 アスナはすぐ戸を開けて、偽物の日差しが燦々と降り注ぐフィールドに出てみた。
 だが、辺りに人の気配はない。《彼》程の索敵スキルがあるわけではないが、静かにするためだけならそう遠くにも行ってないはずなのだが。
 いよいよこれはおかしいな、とアスナが思ったその時、

「えっ」

 急に大きい影が差した。
 自身をすっぽりと覆うほどの巨体が、背後に現れた。
 どうして? 何故? いつの間に?
 思考が目まぐるしく回転するが、長年培った緊急判断……反射から即座に鍛え上げた敏捷力を駆使して距離を取る。

「……なっ!?」

 すぐに振り返って巨体の正体を知り、戦慄する。
 巨大なモンスターがそこにはいた。ただのモブモンスターならばまだいい。
 だが相手はボスモンスター、それも《あの》バッドラックこと《The Hell Scorpion》だった。
 前の触肢は一際大きな鉞状で、紅い金属のような身体が光沢を発し、反り返った尻尾まではいくつもの節があり、途中からは二股に別れて揺れている。
 慌てて剣を構えようとするも、腰に剣が無い。すぐにハッとなる。今は何も装備をしていない。
 何故ならここ二十二層はモンスターが湧出(ポップ)しないはずなのだ。武器は不要だし家の中……《圏内》にいたのだから当然のように武装は解除していた。
 だいたいこのボスモンスターは最前線の迷宮区でしか出てこない筈。
 それなのにどうしてこいつは、と思う間もなくボスの鉞がアスナを襲う。
 思考が混乱して戸惑っていたアスナにそれを避ける事はかなわなかった。
 だが。

【Immortal Object】

 見覚えのあるシステムメッセージが表示される。
 システム的不死。攻撃を受けたはずのアスナはペインアブソーバによって調整された不快感すら発生せず、システムによって守られた。
 そんな? どうして? 何故?
 さっきと似て非なる思いが彼女の中を駆けめぐる。
 と、ある言葉が思い出された。

『もしも俺が負けて、死んだら……少しの間でいい。彼女を自殺できないようにして欲しい』

 震えた。ボスの激しい攻撃はやまない。
 あの時、《彼》を死においやった強力なボスの攻撃はしかし、一切自分に届いていない。

【Immortal Object】

 システムに守られる。当然だ、届くはずがない。
 だって、あの男はこう言ったのだから。

『良いだろう。彼女にはこの戦いの後不死属性を付加する』

 それの意味するところを察して、自分の現状を理解して、何も考えられなくなる。
 必殺であると言ってもいいボスの猛攻撃が、まるで意味を成していない。
 システムによって守られた自分を傷つけることは、同じシステム上のボスにはかなわない。
 例え、こちらが殺して欲しいと願ったとしても。
 なんて拷問だこれは。目の前に自分を殺すのに申し分ない相手がいるのに、無機質なメッセージが表示するというただそれだけのことで、その刃は届かない。届いてくれない。
 意味なんて、ないのに。こうなってしまったら、意味なんてないのに。


「イヤァァァァァァァアアアアアアッ!」










 喉が、渇く。口の中が、渇いている。
 アスナはむくっと起きあがると、ぼうっと対面の壁……慣れ親しんだ自室のそれを見つめた。
 木造ではない。木の匂いなどしない。現実の自分の家……部屋は、何処まで行ってもリアリズムなこと甚だしい。
 リアルなのだからそれは当然のことだ。だがそこには歓喜も安らぎもない。
 喉が渇く。実際に声を張り上げてはいないのだろうが、ずっと口を開いてはいたのだろう。
 溜息を吐いて、目を擦る。僅かに潤んでいた目は、パジャマの袖口を湿らせた。

「また、あの夢……」

 現実世界に帰還してから、アスナは何度も似たような夢を見ていた。
 決まってあの誰もいないログハウスで目覚め、自身が不死存在になっている。
 モンスターに襲われることもあれば、外周から飛び降りて自殺してみたこともある。
 結果は何をやろうともひたすらに機械的なシステムメッセージが浮かび上がるだけ。
 頭がおかしくなりそうだった。
 世界は変わらず太陽という日が昇り、新しい朝を告げている。
 だが、アスナは未だSAOという世界に終わりを感じられないでいた。

 あのSAO生活からほとんどのプレイヤーが解放されて二ヶ月。
 二年という長期間の寝たきり生活を余儀なくされたアスナは驚くほど筋肉が衰えていた。
 まともに歩くことすらままならない。そんな状態で意識が戻ったその日に病院を出たものだから、家族……とりわけ母親には散々小言を言われた。
 あの時の役人──総務省SAO事件対策本部とかいう長ったらしい名前の部署に所属している──が上手く言い訳を作ってくれたが、今度は彼に家族が責めたて始める始末。
 申し訳ないという気持ちは多分にあったが、アスナは疲れ切っていてその時はそれ以上話す気力が無かった。
 目覚めたばかりの彼女にはオーバーワークだったこともあるが、あの時見た《光景》が彼女の気力を根こそぎ消し去ってしまったのだ。

 眠っている《彼》……《キリト》こと《桐ヶ谷和人》が少女から口付けされている光景。
 脱力、というのだろうか。本当に全ての力を吸い取られてしまったかのようにアスナは動けなくなった。
 彼女の方も突然現れたアスナに驚いて真っ赤になっていた。
 アスナの最初の疑問、《誰?》はすぐに解けた。

 桐ヶ谷直葉。

 彼女はキリトの妹だった。
 彼とは一つ違いなのだそうだ。
 肩までの黒髪に小柄ながらも豊満なバストを持っている彼女は、アスナの目から見ても綺麗ではあった。
 和風美人、というのは彼女のような事を言うのかもしれない。
 加えて身体をよく鍛えているようだった。ふと、アスナは思い出す。
 キリトから「スグ」という──「スグ」とは直葉の略称……兄妹ならではの愛称なのだろう──妹の話を聞いたことがあったことを。
 確か剣道で全国大会にも出られるほどの腕だったとか。
 後日、再びキリトの病室で会った時、それとなく聞いてみるとどうやら間違いないようだった。
 だが、彼女からするとキリトが自分の事を話したのは相当意外なようだった。
 二人の兄妹仲は、悪いというより疎遠という言葉が似合うほど開いているとアスナは彼女から聞かされた。
 その言葉にアスナは首を傾げる。彼の妹の事を話す顔や言動に、そのようなものは感じられなかったからだ。
 むしろ懐かしむような、慈しみを込めた顔だった。直葉はそれを聞いてますます驚く。

 だが、そこからお互いあまり口を開けなくなってしまった。
 アスナはそれ以上の事をキリトから聞いているわけではない。
 直葉もアスナの事を知っているわけではない。
 何より、お互いのファーストコンタクトが、彼女たちの間に見えない壁を作っていた。

 この人は、《彼》にとってどういった人なのだろう、と。

 そういった思いが、深い話をすることを躊躇わせていた。
 お互いに遠慮するような、それでいて探るような目を交わし合う。
 アスナがキリトのお見舞いに行って彼女と顔を合わせると、決まってそんな微妙な空気が出来上がっていた。
 お互いの《何故?》が解けるのは、まだいつになるのかわからない。

 厳しいリハビリをし、歩けるようになった──日常生活に支障を来すほどではなくなった──アスナは退院してから何度となくお見舞いに足を運んでいるが、和人/キリトは未だ目を覚まさない。
 いや、キリトだけではない。数百人程のSAOプレイヤーは未だに目を覚ましていないとあの役人は言っていた。
 当初はラグによる差異と思われていたが、三日経った時点でいくらなんでも遅すぎると気付いた。その考えは正しかった。
 二ヶ月経った今でも目覚めないのだから。
 世間では茅場晶彦がまだ何かをやっているのではないかという風潮が残っているが、アスナは恐らくそれはないと踏んでいる。
 最後に少しだけ話した《団長》は、全てのプレイヤーがログアウト済みだと言った。
 彼がこれまでに嘘を言った試しはほとんどない。あの場で嘘を言う意味も無かったと思う。
 何より、SAOが彼によってクリアされたことで……いや、あの世界を作り上げたことで彼の目的はある意味達成されているのだ。
 これ以上SAOプレイヤーを縛ってまで何かを企む茅場晶彦、というものをアスナはイメージ出来なかった。
 理由はもう一つあった。どちらかというと理由としてはこっちが強いかも知れない。

 茅場晶彦は既に死んでいる。

 これは非公開ながら例の役人から聞いている事実だった。
 SAOがクリアされた時点で茅場晶彦の潜伏先がわかり、そこに警察が駆けつけると超高出力で大脳をスキャンし、脳を焼き切って死亡している茅場晶彦と彼に脅迫されて彼の世話をしていたという助手の女性が発見された。
 彼の潜伏先は長野県。見つかった助手の女性も重要参考人として捕まっているが、望むなら話をさせてあげられると例の役人に言われ、アスナは迷ったあげくに助手の女性……神代凛子に会いにいった。
 それが、一週間前のことである。





 警察のカメラによる監視の元、アスナはその神代凛子とガラス張り越しに会話をした。

「……貴方には私を責める権利があるわ」

 開口一番、彼女はそう言った。だが、アスナには責める気持ちはなかった。ただ、話を聞きたいだけだ。
 しかし、残念なことに彼女も目を覚まさない数百人の事についてはわからないとのこと。ただ、彼の仕業ではないだろうと凛子は語る。
 アスナはそれを信じた。彼女の茅場晶彦を語る時の瞳が、自分のキリトを語る時にものに似ている気がしたのだ。
 脅迫されていた、という点について彼女は俯いた。つまりはそういうことなのだ。現況証拠があるとアスナは聞いているが、凛子はそこだけ語らない。
 それだけで、アスナは彼女の心境を何となく悟ってしまった。自分にも、似たような思いがあるから。
 代わりに、何故茅場晶彦はこんなことをしたのか、彼がどんな人間だったのかをアスナは聞いた。

「あのギガロマニアックスは夢を夢で終わらせたくなかったのよ、きっと」

「ギガロ、マニアックス?」

 アスナが首を傾げる。
 何かの専門用語だろうか。

「ああ、ごめんなさい。ただの当てつけ、あだ名よ。昔ちょっと人気のあったゲームにね、そう呼ばれる人達がいたの」

「その人達はどんな人なんですか?」

「笑っちゃうわ、妄想を現実にできる能力者っていう設定なのよ」

「え」

「しかも科学的に、とかね。本当、真面目に考える分にはくだらないことよ。でも……彼にはそれが出来てしまった」

「フルダイブシステム……」

「ええ、仮想世界では何でも思いのままよ。本当にあの人は妄想を立体化させる事に成功してしまった。だから皮肉も込めてギガロマニアックス、なんてあだ名を彼につけたりしてたの」

 アスナは思い出す。彼の最後の言葉を。
 アインクラッドが、何処かに実在していると信じているという彼の言葉を。
 それに、どれほど強い思いが込められているのか知る術はアスナには無い。
 彼にとても近かった筈のガラス越しにいる彼女ですら、恐らくそれを正確には掴めなかったのだろう。

「そのギガロマニアックスは相手の思考、考えていることを読めるから、主人公の男の子は自分のことを《最低の覗き野郎》なんて言ったりするんだけど、まさに彼もそれでね」

「どういうことですか?」

「なんでもかんでも必要だと思ったらデータを取るの。その為にあちこちにカメラを仕掛けたりしたことがあってね。この《覗き野郎》! って怒ってやったことがあったわ」

 少しだけ楽しそうにクスクスと凛子は笑う。
 思い出すように、懐かしむように、僅かに瞳を潤ませながら。
 そういえば、彼はキリトとの戦いでその事について少しだけ触れていたような、とアスナは思い出す。
 『ふむ……私にそれを言うのは君で二人目だ』とは恐らく彼女のことだったのだろう。

「あの人には変な……いやらしい目的がない分だけ質が悪かったわ。勝手に見るのはダメって言ったら「仕方ない人だなあ、聞くだけにする」とか言い出してね」

「あ、そういえばSAOの中に《覗き見》をする為のアイテムがありましたよ」

 話は、途中から彼女の身の上話になっていた。
 あの時はこうだった、ああだった。彼はそういえば……。
 そういえば別の人にしつこく求愛されたこともあった、と彼女は苦笑したりもした。
 しかしさほどそれを不快だとアスナは思わなかった。彼女の気持ちは、よくわかるから。
 あっと言う間に面会可能時間は終了した。
 実りが無かったわけではないが、キリトの覚醒については前進出来なかった。
 それがアスナには少しだけ残念だった。それを凛子も察したのか、最後に「何かあったら、力になる。それがせめてもの罪滅ぼしだから」と言って面会室から連れて行かれた。
 その後ろ姿を見て、何故かアスナには彼女とはまた会うだろうという予感があった。
 だから、アスナは誰もいなくなったガラス越しの向こうに、深く頭を下げた。





 アスナは手早く着替えを済ませる。
 この着替えという行い自体を少しだけ億劫だと思ってしまうのは二年もの仮想世界生活による弊害だろうか。
 筋力が一時衰えすぎて、着替えにすら苦労したせいもあるが、なんでもボタン一つで済ませてしまえた便利さは未だ抜けきっていない。
 いつか思ったことだが、二年という生活は人の生活リズムを狂わせるには十分な時間だ。
 そしてその時の予想通り、かつての自分の生活リズム……サイクルをなんら疑問無くアスナはこなせなくなっていた。

「……また出かける気なの?」

「……うん」

 母親がやや咎めるようにアスナ声をかけた。
 本当は見つかる前に出かけてしまいたかったのだが、見つかってしまったのなら仕方がない。
 母親はアスナが外出するのに余りいい顔をしなかった。それは、まだアスナの体調を心配しているのもあるが……、

「ただでさえ貴方は二年ものビハインドを背負ってしまったのよ? 一切出かけるなとは言わないけどそれを取り戻そうと思ったら──」

「菊岡さんが言ってたでしょ。春から被害者達の為の学校を突貫工事で用意しているからそこに通ってもらいますって」

「そんなの待っている数ヶ月が勿体ないとは思わないの? 今から塾や家庭教師を付ければ春からはそんな怪しい学校じゃなくお母さんの知り合いの教授がいる大学附属高校に編入させることだって……」

 アスナは聞きたくなかった。良い学校に行って、良い成績を取って、良い企業に就職して、良い将来を掴む。
 エリート街道、とでも言うのだろうか。それはアスナがSAOに囚われる前から親に用意され続けたものでもあり、遠くないうちに破綻の予感があったものでもあった。
 そこに、明日奈/アスナは当時から意味を見いだせなくなってきていた。ただ言われるままに面白くもやりたくもない事を続けて望まれるままに進む毎日。
 あの時は決して変えることは出来ないんだろうという諦めと「そういうものなんだ」と言い聞かせていた自分。
 でも今は、言われるまま望まれるままなだけの先へ進みたくなかった。進むなら、《彼》と共に歩める未来を選びたかった。
 でも今まで言われたことに反論したことの無かった自分。それだけ期待されているんだという気持ちが、中々「嫌」と言えずにこの歳まで来てしまった自分。
 それを、今すぐ変えろと言われても中々「はいわかりました」と出来ることではない。SAOでボスと戦う時とは全く別種の、異なる勇気が必要になる。
 その勇気を持ちたいと思う。自分の思いを貫きたいと思う。だというのに、

「……」

「……まぁいいわ。今後外出は控えなさい。あとせめて家庭学習は行いなさい、お母さんが用意しておくから。それをやってみて学校の事はよく考えておきなさい」

「……はい」

「それと、今日は早く帰ってくるのよ。お父さんと、須郷さんを交えて食事にするそうだから」

「……」

「返事をちゃんとなさい」

「……」

「……全く、目を覚ましてから貴方って子は」

 出来ることは肯定と、沈黙だけ。
 沈黙できるだけでも成長はしているのかもしれない。でも、その程度の成長では、足りない。
 望む未来は、手から零れてしまう。

(キリト君……)

 アスナは、心の中で彼の名前を呼んで、今度こそ家を後にした。





***





 私はお兄ちゃんの病室にあるパイプイスに腰掛けて、未だ目覚めぬその顔を眺めていた。
 穏やかに眠り続けるお兄ちゃんの身体は二年の月日で一層痩せ細っていた。もともと肉付きが良い方じゃなかったそれは、最近特に酷い。
 それに加えて頭がナーヴギアで固定されてしまっているせいで髪も伸び放題だ。見えている部分はある程度散髪可能だけど、ほとんど伸びるに任せている。
 その姿はまるで痩せ細った女性のようだ。肌も日に当たっていないせいか陶器のように白い。
 そんな姿を見て、お母さんはうちの「眠り姫」なんて呼んでいたりもする。
 しかし、肉が落ちて身体に皺が寄り始めているお兄ちゃんを見る度に、私は胸が苦しくなった。
 このまま目覚めなかったら、お兄ちゃんの寿命はあとどれぐらいなのだろう。こんな生命維持措置を続けても、その時間がさほど多くないことは身体を見れば一目瞭然だった。
 今お兄ちゃんは何処にいて、何を思っているのだろう。そんな自分のことを、正しく理解しているのだろうか。
 お兄ちゃんがソードアート・オンラインの中でもトッププレイヤーに位置すると予測される、と最初に聞いた時は少しだけ希望が見えた気がした。
 頑張って、と応援していた。でも、いざゲームクリアになってもお兄ちゃんが目覚めない。
 あんまりだ。やっと、やっとまた会えると思っていたのに。
 謝りたいのに。昔みたいな関係に戻りたいのに。伝えたいのに。私はもう私達の《関係》を知っているんだよって。
 眠っているお兄ちゃんは等間隔に呼吸を繰り返すだけだ。この二年、ずっと見続けてきてそれが変わったことなんてほとんどない。
 その吐息は弱々しくて、今にも消えてしまいそうだったから、いつからか耳を近づけて弱い吐息の声を聞くのが癖になっていた。
 最初はドキドキしていた。そのうち、タイミング悪く目を覚まして「スグ? 何やってるの?」なんて耳元で言われたらどうしようって。
 でも今日に至るまでお兄ちゃんからその言葉が発せられることは無かった。
 慣れてきた私はお兄ちゃんの顔を近くで見るようになった。目を覚まされたら仰天されるな……なんて思いながらほとんどくっつくような距離でお兄ちゃんを観察する。
 閉じられた瞼は開かない。時折ぴくぴくって動くけど、開かれることはない。ふうって息を吹きかけても、望んだような反応はほとんど返って来なかった。
 代わりに、小さく弱々しい吐息が私の頬を撫でる。小さくふぅ、ふぅ、と吹きかけられるそれが、まだお兄ちゃんがこの世界に存在することの唯一の実感だった。
 そんなことをしているうちに、その吐息が唇にかかってしまったことがあった。流石にこの時は慌てた。
 心臓がバクバクと鳴り響いて病室の端まで一気に跳ね飛んだほどだった。
 でも、お兄ちゃんは起きない。その日は、吹きかけられた唇を指で撫でているうちに一日が終わってしまった。
 それから私はお見舞いに来るたびにお兄ちゃんの弱々しい吐息を唇で受けるようになった。
 大胆、と言えばそうかもしれないけど、どちらかというと《慣れ》だった。何度かやっているうちに、その距離に《慣れて》しまう。
 慣れると、お兄ちゃんが生きているって実感が薄くなってしまうような気がして。だから、とうとうあの日、私は初めて近づけるだけだった唇を、お兄ちゃんのそれに重ねた。

 同時に。

 扉が開かれて、私の知らない女性が唖然とした様子でこちらを見ていた。
 慌てる、なんてものじゃなかった。それまでの若干熱に浮かされたような頭は一瞬で冷水を浴びせかけられたかのように冷え切り、唇をごしごしと袖口で拭いた。
 その女性は《結城》と名乗った。ソードアート・オンラインのプレイヤーだと。
 ゲームはお兄ちゃんによってクリアされ、目覚めるはずだと。それ聞いて、私は不覚にも《まだ目覚めなくて良かった》と思ってしまった。
 キスした瞬間に目を覚まされていたらそれこそ言い訳出来ない。お母さんがお兄ちゃんを「眠り姫」なんて言っているけど、それをキスで起こしたら私は王子様じゃないか。
 それってなんかおかしい。普通は逆だよ。そんなことを思っていたから、バチが当たったのかもしれない。
 何千人というプレイヤーが目覚める中、お兄ちゃんは何故か目覚めなかった。
 あの時、私が《まだ目覚めなくて良かった》なんて思ったから、お兄ちゃんは眠ったままなのかもしれない。
 あんなこと、思わなければ良かった。あんなこと、しなければ良かった。
 それから、結城さんは定期的にお兄ちゃんに会いにきた。
 お兄ちゃんとはゲームの中で知り合って、最後は一緒だったらしい。
 けど、お互い今まで面識は無かったから、気まずかった。キスしているところを見られたせいもあるかもしれない。
 でも、どうしても聞きたいことがあって、それだけは聞くことが出来た。

「お兄ちゃん、私のこと何て言っていました?」

 結城さんは不思議そうな顔をしながら申し訳なさそうに話してくれた。
 あまり詳しくは聞いていないけど、と前置きしてから、本当に短い世間話のような会話の中で聞いたという内容を教えてくれた。
 最初に会った時、結城さんは脱力したように床に伏せてしまった。私は慌ててかけよって「大丈夫ですか!?」と声をかけた。
 結城さんは目が虚ろで、身体は信じられないほど痩せていた。でも、長い栗色の髪は美しくて、お兄ちゃんに負けないような綺麗な肌は、本物の妖精のようだった。
 私の目から見てリアルで妖精のように見える、なんて相当だと思う。《本物に近い妖精》を日々見ている身としてそう思う。
 でも、この人は誰だろう? とすぐに疑問が湧いた。と言ってもここに来る人なんて理由は大抵二つだ。
 お見舞いか、健診か。後者は彼女の様子からありえない。だとすると前者ということになる。

「お兄ちゃんの知り合い、ですか……?」

 私の問いに、彼女の瞳が真っ直ぐ私を捉えた。その目は先程までの虚ろさが消えて、強い意志力を宿しているように見えた。
 けど、すぐに彼女は悩むような顔をして、小さく呟いたのだ。

「スグ……さん?」

「っ!?」

 スグ、という呼び名はお兄ちゃんが私を呼ぶものだ。どうしてこの人がそれを。
 私の驚愕する顔に、それで得心が言ったのか、その女性は「私は結城と言います。SAOプレイヤーでした」と自己紹介をした。
 そこでゲームがクリアされたこと。目覚めたこと、最後の時にお兄ちゃんと一緒にいたことを聞いた。
 一つ一つの話が興味深かったが、最初に「スグ」と呼ばれたことが一番気になっていた。
 お兄ちゃんが私の話をしたのなら、それはどんなものだったのだろう、と。
 だから再びお見舞いに来た結城さんに、気まずい中勇気を出してそれだけは聞いたのだ。
 結城さんの前言通り、たいした話ではなかった。でも、お兄ちゃんが私と距離があるようには見えなかったという言葉が、私に少なくない衝撃をもたらした。
 お兄ちゃんは別に私を嫌いじゃないのかもしれない。そう思うだけで、信じられない程心が軽くなった。
 でも結局はそれで私は勇気を全て振り絞ってしまった。次に浮かぶ疑問を、結城さんに尋ねることができない。

 お兄ちゃんとはどんな関係だったんですか。

 今一番気になるそれを、私は聞けないでいた。
 でも、何となく予想はついていた。こんな綺麗な人が……という気持ちはあるけれど、足繁くお兄ちゃんのお見舞いに来るこの人は、きっとお兄ちゃんとはそれなりに深い関係だったに違いない。
 そう思うと余計に気まずくなった。苦手、と形容してもいいかもしれない。心の整理が付きそうになかった。
 聞いてしまえば、私はもうここに居られない気がして恐かった。
 だから、お兄ちゃんには早く目覚めて欲しいと思う一方で、起きた時にわかる事実に怯えてもいた。
 結城さんは悪い人ではない、とは思う。それは間違いない。よく話をしようともしてくれるし。
 でも、その話を聞いてお兄ちゃんと結城さんの関係がハッキリしてしまったらと思うと恐くて、あまり聞けないでいた。

(お兄ちゃん……)

 眠っているお兄ちゃんの手を掴む。握り返されないそれは、不安しか与えてくれなかった。





***





 明日奈/アスナは、世田谷区の実家から彼の入院している病院……千代田区への道すがら今日の会話の方針を考えていた。
 直葉とは未だあまり会話が弾まない。それも仕方のないことかもしれないが、もう少し彼の事を聞きたかった。
 避けられている、という思いも少しはある。だから無理強いする気は無いし、多分自分にも僅かばかり苦手意識がある。
 キスしていた、という事実がアスナの中ではぐるぐると回っていて、その意図を考えずにはいられない。
 直葉と会う確率は今のところ三割から四割程度だった。自分も流石に毎日通っているわけではないが、彼女もそうなのだろうとアタリをつける。
 そう言えば彼女には学校も部活もあるのだろうし。
 全国大会に出場するような選手なら、部活動も半端ではあるまい……などと考えているうちに病室の前までやってくる。
 ノックをして入室すると、そこには直葉が既にいた。お互い軽く頭を下げて視線のみで挨拶する。
 どうやって話そうか考えていても、結局最初の一言すら口から出てこない。挨拶程度なら問題ないが、会話を発展させられるほど、言葉はいつも続かなかった。
 加えて、

「あ、じゃあ私花瓶の水替えてきますので、ここどうぞ」

 直葉が立ち上がる。
 直葉に限ったことではないが、つい気まずさから二人でいるのを避けようとしてしまう。
 この病室では、特に。
 ごめんなさい、いえいえ、という簡単な社交辞令を交わし合って、アスナは直葉が座っていたパイプイスへと座る。
 直葉はぺこりと頭を再び軽く下げてから花瓶を取り、病室の出入り口へと足を向けた。
 明日奈はそのまま滑るようにキリトの手を両手で掴み、額に当てた。

(キリト君……)

 全身全霊をかけるような、祈り。彼の掌から伝わる幼い微熱はかつてアインクラッドで感じた物とはどこか違っていた。
 まだ、アスナは本当の意味での彼、和人/キリトを知らない。知りたいと思う。教えて欲しいと思う。
 同時に、自分を知って欲しいと思う。だから、今はただ、どうか目を覚ましてくださいと祈ることしか出来ない。



 その姿を、直葉は見ていた。見てしまった。
 本当は、見るつもりなんて無かった。見たくなんて無かった。
 一瞬の気の迷い。扉を後ろ手で閉めなかったそれだけのこと。戸の隙間から、神々しささえ感じる彼女の真剣さが、直葉の目に焼き付いた。
 まるで、壊れ物を扱うような手つき。それでいて自分の命よりも大切に扱うかのように優しく丁寧に、心を込めて包み込まれたキリトの手。
 それだけで、直葉は彼女が兄をどれだけ大事に思っているか感じてしまった。
 今日この日までに、一度だって自分があのような表情をしていることが果たしてあっただろうか。
 ただただ相手を案ずるだけのその一途な思い。最近の自分は特に、半分以上己の為のようなものではなかったか。
 水の入れ替えなどすぐに済む。でも、ぐるぐる巡る思考が、すぐにあの部屋に戻る気にはさせてくれなかった。

 三十分ほど時間を空けて直葉が戻ると、アスナは最後に見た時の姿から微動だにしていなかった。
 延々と彼の手を両の手で包み込んで己の額に当て、祈るような体勢で動かない。
 その様は、思わず息を呑んでしまうほど綺麗だった。元々美しい人だという思いはあった。
 だが、見た目だけではない……この部屋の空気がただそれだけで神聖化されたかのような錯覚を覚える。
 そう思うと、直葉は自分が酷く汚れた存在だと感じてしまった。
 と、アスナはゆっくりと顔を上げる。どうやら直葉が部屋に入ってきたことには気付いていたようだった。
 酷く居心地が悪い。直葉にとってアスナは嫌い、というより自分がどんどん嫌な人間に思えてしまってしかたがなくなる比較対象になりつつあった。
 彼女に比べたら自分なんて……と思い消沈する。苦手意識、ともちょっと外れた奇妙な相手と言えた。

「あの……今日は私帰りますね」

 だから、ここからさっさと立ち去ろうと思いそう言ってしまったのだが。
 それがまさか失策だったとは直葉は思わなかった。

「あ、それなら駅まで一緒に帰ろう? 私も今日は早く戻らないといけないから」

 え、と思うがもう遅い。
 彼女は腰を上げてしまったし、今更やっぱりここに残るとも言いにくい。
 普段なら一時間以上はいるのが常だったから、まさかこんなことになるとは思っていなかった。


 病院を出て、並んで歩く。
 思えば、病室以外でアスナと直葉は一緒にいたことがなかった。
 気まずい、というのがやはり一番の理由だが、外で一緒にいる機会がこれまで無かった、というのが実際のところだ。
 いや、機会を作らないようにしていた、というべきか。
 それはお互いに同じで、直葉は何か話さなくちゃと思いつつも口を開けず、アスナも誘っておきながら話題があるわけではなかった。
 いや、話題ならある。ただそれを話題にして話すのが果てしなく難しいだけだ。

「ひったくりだ!」

 そんな時だ。
 一際大きい声が上がり、こちらに走ってくる男性がいた。
 片手に鞄を掴んだ男は先の声が確かならひったくり犯なのだろう。
 その顔には焦りと、同時に「やってやった」という快楽が垣間見えていた。
 愉快犯、という言葉が一瞬直葉の脳裏に浮かんだ。
 だが、考えていられたのは文字通り一瞬だった。アスナがこちらに向かってくる男に向かって駆けだしてしまったのだ。
 直葉は一拍おいてから我に返って慌てた。危険だ、危険すぎる。
 だがアスナは臆することなく、道脇に立ててあるノボリ旗を素早く引き抜いて男に突進する。
 危ない! と思ったその時、アスナは驚くべきスピードで剣道で言う《突き》を放った。
 速い! と直葉が感嘆するほど見事なそれは正確に男に命中し、男に尻餅を尽かせる。

「げほっげほっ! て、てめぇこのアマ……!」

 逆上した男はナイフを取り出した。ざわ……と周囲にも驚きが広がる。
 刃渡りおよそ二十センチ。ナイフというより包丁だ。
 しかし凛とした空気を纏うアスナに、恐怖は微塵もないようだった。
 それどころか彼女は一息に距離を詰めた。

「こ、このっ……!」

 無茶苦茶に振り回されるナイフ。アスナはそのナイフを正確にノボリ旗の《棒》で突いた。
 カァンと音を立ててナイフが吹き飛ぶ。見事な《小手》のようだとも直葉には見えた。
 男はポカン、とアスナを見つめ、次いで自分のナイフを掴んでいた筈の手を見、悲鳴を上げて逃げ出した。
 それを確認してから、アスナはビュッと斜め下にノボリ旗を一振りすると自らの腰の横に突き刺すようにノボリ旗を振るい、固まる。
 まるで武士が腰の鞘に納刀するようなその動きは滑らかだったが、やってしまった、とアスナは硬直の後にいそいそと旗を元の位置に戻した。
 強い、と直葉は直感する。剣道をやっている直葉だからこそ思うことがあり、全国大会出場を果たしている彼女でさえその強さに戦慄を覚えた。

「お強いんですね」

 あれほど出てこなかった最初の一言が、自然に飛び出る。
 口に出してから、自分で驚いてしまうほどだった。

「そうでも、ないよ。大分鈍ってるし」

「私剣道やってますけど、今の《突き》はちょっと捌ける自信が無いです」

「大げさだよ、それに」

「……?」

「キリト君は、私なんかよりもっと強かったよ」

 キリト、と言う名前は度々聞いたことがある。兄である桐ヶ谷和人のプレイヤーネーム。
 だが驚愕すべきは今の彼女よりももっと強いという言葉。
 ある筋から《強かった》と聞いたことはあったが、これまでいまいちイメージが追いついていなかった。
 
「お兄ちゃんってそんなに強かったんですか?」

「うん。一度だけデュエルしたことがあったけど、全然ダメ。相手にならなかった」

「へえ」

 それは信じられないことであると同時に、嬉しかった。
 兄である和人は剣道を辞めてしまって久しい。
 その兄が強いというのは、直葉にとって何故か自分のことのように嬉しかった。
 同時に、これほど気楽に兄の話が出来たことに軽い驚きを覚える。
 これなら……今なら……いろいろ話せるかもしれない。そう思った時だった。

「あ」

 ケータイが振動する。その意味をすぐに悟った。
 《もうそんな時間》だったっけ、とこれ以上長居できないことに心残りさえ覚える。

「すいません結城さん、私、これから予定があるんでちょっと急ぎますね」

「あ、うん。なんかごめんね?」

「いいえ、今度は……もう少しいろいろお話しましょう」

「うん、そうだね。楽しみにしてるよ」

「はい。それでは」

 やや名残惜しみながら、直葉は駆けだした。
 鍛えているだけあってそのスピードは速い。
 走りながら、ケータイを操作する。画面には直葉の予想通り、

【《綾野珪子ちゃん》と約束の時間だよ~】

 という自分で設定しておいたスケジュールメッセージが立ち上がっていた。





 帰宅したアスナは、ベッドに腰掛けて「ふぅ」と溜息をついた。
 その息は重い。原因は机の上にあった。

「家庭学習用意するって……なにもこんなすぐにしなくたって……」

 既にアスナの勉強机には五センチほどの参考書の類が積み上がっていた。
 見覚えの無いそれはもちろん出かける前には無かった物で、それの意味するところは明らかだった。
 せっかく、家に帰ってくるまでは少しだけ明るい気分でいられたのに、台無しだ。
 彼の妹だという直葉と、初めてうち解けられそうな空気が出来た。きっと、これからは会えば前よりは楽しい時間を過ごせるだろう。
 それが嬉しかったのに、自分の部屋では嫌な現実を目の当たりにさせられる。
 自分の家、自分の部屋なのに、どうも落ち着かない。胸の中は暗鬱としていて、霧が晴れないかのようだった。
 だが、やらなければやらないで何を言われるかわからない。それを突っぱねられるだけの気力と勇気も、今のアスナには無かった。
 アスナは渋々ながらその参考書を手にとって眺めてみる。
 これから、どうせ嫌な時間を過ごすのだ。《あの男》が来て一緒に食事をしなくてはならない。
 その苦痛に比べれば、参考書でも相手にしていた方がまだ気も紛れるというものだ。
 ある程度手を付けて、適当な所で「今途中だから」とでも言って抜け出そう。そう思っていた時、アスナのケータイが鳴った。

「メール……?」

 今自分に連絡を取ってくる者は非常に少ない。
 もともと少なかったが、二年という月日は家族以外のそれをほぼ無くしてしまっていた。
 かといって家族からも多いわけではない。あの母親でさえ余程緊急でもないと連絡はしてこない。
 帰ってきたら直接話すのが常だった。
 どうせなら今日の食事が中止になりました、とかの連絡なら良いのに、と思いながらアスナがケータイを見ると、そこには意外な名前があった。

「エギルさん……?」

 相手はアインクラッドで知り合ったエギルだった。
 本名はアンドリュー・ギルバート・ミルズ。彼とはリハビリ中に偶然再会を果たしていた。
 アバター容姿がほとんど現実と同じになってしまったソードアート・オンラインにおいて、顔見知りなら会っただけで相手を特定するのは難しくなかった。
 彼は偶然にも同じ病院で入院していた。総務省SAO事件対策本部の役人に言わせると、家族の意向を聞きながら望む病院に出来るだけ固めるようにして被害者は運ばれていたと言う。
 実際、リハビリ中は面識は無くとも、同じSAO被害者の人達とは数人顔を合わせた。
 その時に、これも何かの縁だとエギルとは連絡先を交換していたのだが、実際に連絡が来たのはこれが初めてだった。
 メールには画像ファイルが添付されていた。エギルは本文に「これをどう思う?」と短く簡潔にしか述べていない。
 アスナは訝しがりながらメールに添付された画像ファイルを開く。酷く粗い。

「女、の子……?」

 画像は粗く、所々ポリゴンがボケている。ただでさえ小さい画像を無理矢理引き延ばしたのか、それとももともと粗い画像だったのか。
 画像の意味は良くわからないが、籠のような中に、一人のむすっとした女の子……と思われる存在が映っている写真がいくつかあった。
 背は低めで、髪は黒で頭頂部から肩甲骨あたりまでと比較的長く、肌は粗い画像の中でも映える程に白い。
 清楚ととれなくもない整った顔立ちだが、むすっとした表情が綺麗な紅い唇を歪め、やや男の子みたいに頬杖を拳で付いているのがバランスを崩している。
 これではまるで誰かさんの膨れっ面のよう……???

「え」

 気付く。いや、わかる。
 自分が《この表情》を見間違えるわけがない。
 数限りなく見てきた《彼》のこの不服そうな、面白くないと身体全体から発せられるオーラ。
 それを、アスナは何度も見てきたのだ。《彼》と心を通わせられるようになってからこの表情を見る機会はめっきり減ったが、一番慣れ親しんだ顔とも言える。
 その顔を、見間違えるわけがなかった。

「このむすっとした顔……間違いなくキリト君だ!」

 むすっとした顔にはちょっとした定評のある彼のこの顔を、アスナは良く覚えている。
 彼を想ってから、何度も見てきた顔、表情なのだ。
 その彼の表情を見極めるのに、アスナはちょっとした自信があるくらいだった。
 膨れ顔とはいえ、久しぶりに彼の《生きた表情》を見られたことにアスナは嬉しく……、

「ってあれ?」

 嬉しく……、

「なんでキリト君女の子になってるのおおおおおおお!?」

 嬉しさを通り越して、そこが何処だとか、なんでこんな写真が、と悩むより、彼のあまりに可愛らしい容姿につい突っ込んでしまっていた。



[35052] ALO2
Name: YY◆90a32a80 ID:1a43ae77
Date: 2012/10/14 23:02


 直葉が《彼女》と知り合ったのはほんの一月ほど前、年の瀬が迫る十二月の中頃だった。
 SAOがゲームクリアになってからも、兄が目覚めない。それに気落ちしていた直葉は、SAOでは兄がどんな存在だったのか気になっていた。
 周りからはどんな風に思われ、どう過ごしていたのか。その世界とは、どんなものなのか。
 聞こうと思えば答えてくれそうな人が身近に一人はいた。でも今日までその人とは何処か気まずくて上手く話せないでいた。
 だから直葉は、インターネットサイトのSAO帰還者を祝うウェブサイトに頻繁にアクセスしていた。
 そこは通称SAO生還者(サバイバー)と呼ばれるSAO被害者はもちろん、彼らの家族の書き込みがたくさんある大型サイトとなっていた。
 もともとは、被害者の家族達が互いを慰め合ったり情報交換を目的とした掲示板が発展していったもので、一部では互助団体として活動している人達もいた。
 頻度は多くないが、直葉も全国で誰かがSAOから帰ってきたという人がいないかチェックするのに度々このサイトを利用していた。
 だが二ヶ月前にゲームクリアが為された今、このサイトは大きく三つのグループに分かれつつあった。
 一つ目は戻ってきた人達を祝うグループ。これは純粋に「おめでとう」「やっとか」など部外者が多く集う場所だ。
 時折生還者がレスを返すとお祭り騒ぎになるが、“語り”なこともあって、荒れる傾向が強い場所でもあった。
 二つ目は戻ってきた人達同士で語り合う場所だ。戻ってきた人達がゲーム内で知り合った人と言葉を交わすのが主な目的になっていて、書き込み内容は探し人から雑談まで幅広い。
 そのほとんどが生還者による書き込みなだけあって、一般人にはよくわからない話も多く、生還者以外が書き込んではいけないわけではないがよっぽどのことが無い限り一般人は書き込まないのが暗黙のマナーになっている。
 三つ目が、未だ目を覚まさないプレイヤーに対しての情報交換をする場だった。誠しなやかな憶測が飛び交う場でもあるが、励まし合いや今分かっていること、新しい情報などが有志によって書き込まれていて、サイトが立ち上がった時の最初の流れを汲んでいる場所でもある。
 SAOがクリアされても兄が目覚めず、三日が過ぎてから、直葉はそれまで時々しか確認していなかったこのサイトの三つ目を頻繁にチェックしていた。
 ゲームはクリアされたのだ。それならいつ起きたっておかしくない。そう思って見ていたのだが、あれから新規に目覚めたという《本当の報告》はない。
 中には嘘の生還者報告をするものもいるが、大抵はすぐに嘘だとわかる。言葉の端々からそれが伝わってくるのだ。
 それに総務省のホームページにはSAO事件対策本部の特設サイトがあって、現在何人のプレイヤーが生存していて、何人目覚め、何人が目覚めていないかのカウンタ表示があった。
 きちんとログも詳しく保存されていて、何時何分に数字が変動したのかはわかるような仕様になっている。
 それと照らし合わせれば、内容の真偽はすぐにわかる。つまりそれらを見て、日々被害者の家族は溜息を漏らしているわけだ。
 直葉はここで一つのトピックを出してみていた。トピックに【兄がまだ目覚めません。どなたかSAOのことを教えてください】と書き込み、レス内容とプロフィール情報をチェックしていた。
 このサイトの閲覧は誰でもできるが、書き込みは完全会員登録制になっていて、セキュリティもそこそこしっかりしている。
 簡易的なプロフィール情報は登録者同士なら見ることができ、相手が公序良俗に反しているだとか、マナー違反等をしていると運営に報告、事実確認ののち永久BANされる。
 嘘のプロフィール情報を作る者もいるので一概に信じるのは危険だが、見つかれば永久BANな上、本当に人の命がかかっているサイトなだけあって、ちょっとした“語り”以上の悪質なイタズラは今のところ報告されていない。
 直葉はそこでSAOから生還した自分と同年代くらいの女性がいないか探していた。同年代の女性、としたのは単に話がしやすいかもと思ったからだ。
 何人かが返信をくれていたが、信憑性が無さそうだったり、年齢が離れていたりで、話してみる気になれないものが多かった。
 そんな中、一人同年代の女の子から「何を知りたいんですか」と短い書き込みが来ていた。
 直葉は少し迷いながら、ポツリポツリと聞きたいことを書き、返事が来て、そんなやり取りを幾度かしているうちに少しずつ仲良くなった。
 同年代、というのは本当だろうと直葉は確信する。そう確信してからはボイスチャットをお互い使うようになった。
 それが、さらに二人の仲を爆発的なまでに縮めるきっかけになった。何気なく直葉が聞いた、強いプレイヤーについて、つい彼女は「キリトさん」という名前を言ってしまったのだ。
 すぐにしまった、と相手は思ったようだが、直葉の動揺は彼女以上だった。
 そのプレイヤーのことを教えてほしい、と直葉は頼み込んだ。自分はキリトの妹なのだとリアルまで明かして話した。
 しばらく彼女は悩み、いくつか質問をしてきた。驚いたことに、それはリアルでの知り合いくらいしか、もっと言えば近い人間、家族しか知らないはずのことばかりだった。

「貴方はスポーツ、格闘技などをしていますか?」

「剣道をしています」

「キリトさんは剣道をしていましたか?」

「はい、今はやめていますけど」

「キリトさんが剣道を止めたのは始めてから何年後のことですか?」

「二年です」

「……剣道を止めたことでキリトさんを怒ったのは……」

「祖父です」

「……あなたはキリトさんの、従妹ですか?」

「なんでそれを……!?」

 彼女は主に中層プレイヤーだったと語っていた。
 兄は上層プレイヤーだと聞いていたからそこまで親密な接点なんてそう無いと思っていたのに。
 直葉は目に見えない相手に初めて少しだけ怖いと思ってしまった。
 だが、相手の安堵したような声が、その不安を払拭させてくれた。

「疑ってごめんなさい。私もあなたの事を信じます。今のは全部、キリトさんから聞いていた話です。キリトさんは、私の命の恩人なんです」

 そう言って、彼女は自身のプレイヤーネームとリアルネームまで明かしてきた。
 信頼とお詫びの証として。
 その彼女こそが綾野珪子であり、《シリカ》というプレイヤーネームの持ち主だった。
 しかし彼女は「あれ? でも従妹ってことを妹さんは知らないはずじゃ……」と悩みだしたので、直葉はクスクス笑いながら自分の事や知っている理由を説明し始めた。
 信頼に信頼で応えるために。自分のリアルも明かした。この子なら大丈夫だと、直葉の勘が告げていたのだ。
 兄が囚われている間に、両親から本当の事を教えられたこと。兄ともっと仲良くしておけば良かったと思ったこと。
 それを聞いた彼女は一言、「やっぱり兄妹なんですね」と意味深とも取れる言葉を直葉に返した。

 その後、キリトがまだ目覚めていないことに珪子/シリカも心配を露わにしたが、今できることは祈る以外に無い。
 お互いの立場と事情を深く理解してからは、二人は昔から親友だったかのようにもっと仲が良くなった。
 直葉の存在は、別の観点からもシリカにとってターニングポイントであり、良い結果を生んでくれていた。
 シリカの父親は電子機器メーカーに勤めていた。その父親の伝手でシリカは幼いながらナーヴギアを手に入れていたのだ。
 だが、娘をSAOという最低最悪な世界に閉じ込めてしまったという後悔がシリカの父親にはあり、自分の仕事自体にも嫌悪を感じるようになっていた。
 父のせいではない、とシリカは思う。だからそんなに自分を責めないでほしい。優しかったあの頃の父に戻ってほしい。
 別に今が怖いとか厳しいというわけではない。でも、ナーヴギアを与えたことを呪い、あんなに楽しそうに電子機器について語っていた父がその話をしなくなるのはシリカにとっても辛かった。
 だから、シリカは近いうちにもう一度別のVRゲームをしようと考えていた。もちろん安全性はきちんと調べた上でだ。
 それで、父には気にすることなんてないのだと伝えたかった。そんな折だ、知り合ってすぐに仲良くなった直葉から、《アルヴヘイム・オンライン》というVRMMORPGの事を聞いたのは。
 彼女のやっているそれならば、と思い、三日程悩んだシリカはそのゲームを始めてみることにした。
 その勇気は、彼女にとって最高に嬉しい結果をもたらしてくれた。もう二度と会えることは無い、と思っていた彼女の《相棒》と、まさかの再会を果たせたのである。
 初めてアルヴヘイム・オンラインの世界へログインした時、最初に聞き慣れた鳴き声が聴覚システムを刺激したのだ。

「え……?」

 そこには、長年の苦楽を共にしたレアモンスターのフェザーリドラ、小さいドラゴン族の《ピナ》の姿があった。
 ここはアインクラッドではない。そんなことはありえない。だが、シリカがピナを見間違える筈もなかった。

「ピ、ピナァァァァァァッ!」

 喜びのあまりに、シリカはピナを抱きしめる。ピナはいつものようにくすぐったそうにしながらシリカの首筋に額を擦りつけてじゃれていた。
 ひとしきり抱きしめた後は、ピナはここが自分の定位置とばかりにシリカの頭の上に座り込む。
 その懐かしく慣れた重さはやはりピナのもので、一月ぶりのピナの質量はシリカにとってこれ以上無い幸せだった。

 アルヴヘイム・オンライン……通称ALOはレベル制ではなくスキル制というタイプのゲームだ。
 スキルの反復によってスキルレベルは上がるが、生命線であるHPはほとんど上昇しない。
 レベルアップに伴う敏捷力等のアップも無いため、基本は自分自身のリアルスペックが問われる仕様となっていた。
 九つある妖精種族から一つを選んでプレイするこのゲームの仕様で最もハードなのは多種族間ならPK、すなわちプレイヤーキルが可能と言う仕様だろう。
 PK推奨と言っているようなものだ。これは種族間の争いになるようにも作られている。ある意味人の嫌な、汚い部分を露わにしたようなゲームだが、人気は爆発的増加傾向にあった。
 それは、最大のメリットたる《飛行》を可能にしているからだろう。妖精というだけあって、どの種族もその背に羽が付いていた。
 この羽を使い、一定時間なら空を自由に飛べる、というがこの作品の一番のセールスポイントだ。
 モンスターのテイミングが得意という説明から猫妖精族(ケットシー)を選んだシリカは、初めてその羽で飛んだとき、楽しくてたまらなかった。
 何より、「きゅい!」と鳴くSAO時代からの《相棒》の《ピナ》が並行して飛んでくれているのだから。
 何故ソードアート・オンラインでテイムしたモンスターがそのままここにいるのかはわからない。スキルを見ても始めたばかりにしてはおかしい熟練度の物がいくつかあった。
 だがその時は考えることを止めていた。せっかくピナと再会できたのだ。その喜びに酔いし入れていたかった。
 今の状況にはきっと意味がある、とシリカは確信しながらも、その日はピナと一緒に飛び続けていた。

 そんな彼女の、今後の方針が決まったのは、それから一週間後のことであった。
 元々は父を安心させるため。そしてゲームでモンスターをテイム出来ると知ってからは《ピナ》のような相棒をまた作りたいという思いがあった。
 だが、ゲーム開始直後に殆どの目的は達成されてしまった。ピナとは再会でき、ゲームを平然とやって「楽しかったよ」と父に告げたシリカは、父の涙を初めて見た。
 当初目的を初回ログインでほぼ済ませてしまったシリカは、今後の目的について少し迷う。純粋にゲーム世界を楽しむのも悪くはないが、何か目的が欲しかった。
 そんな時にこのゲームを教えてくれた直葉が《世界樹》について話してくれた。
 このALOには中心に世界樹と呼ばれる大きな樹があり、そこを登り切れば《アルフ》と呼ばれる種族に転生させて貰うことができると。
 このゲームでは、いくら飛べると言っても滞空時間が存在し、無限に跳び続けることは出来ない。しかし《アルフ》に転生すればその制限が無くなるのだ。
 それがこのゲームをやっている人達の一つの目標、王道なゲームクリアの一つでもある。それを聞いたシリカは世界樹を攻略することに決めた。
 《アルフ》に転生したい、とは強く思っていない。滞空制限の解除は確かに魅力的な話だが、シリカにはそこまで必要と感じる物では無かった。
 では、何故世界樹攻略を思い立ったのか。この世界にまだいたいという思いはある。種族間の勢力争いには興味を惹かれなかったこともある。
 だが一番シリカにそれを決意させたのはこのゲームで誰も達していない頂きが「それ」だという事実だった。
 それは、SAOに囚われていた時の攻略に通ずるものがあると彼女は感じた。
 いつかは、やがていつかは上層プレイヤーになりたいと腕を磨いた。攻略組に肩を並べたいと。
 だが、シリカでは結局最前線に挑める力を付けられなかった。攻略の役には立てなかった。間に合わなかった。
 それが、未だに少し彼女の心残りになっていた。
 だから、シリカはこのゲームでその頂きを攻略したいと思ったのだ。あの時出来なかったことを今度こそ、と。

 ──本音を言えば、アインクラッドでキリトの役に立ちたかった……というのが一番ある。

 だがあの世界は終わってしまった。いや、終わらせる事が出来た。
 あの世界の事に囚われ続けることは、良くない事だとシリカは思っていた。
 自分にとっても心配してくれた家族にとっても。
 だからそれらを全て清算、断ち切る意味も込めて、シリカは未攻略目的を自分の手で、と決めたのだ。
 その思いの全てを、シリカは直葉に話したわけでは無かった。
 しかし直葉はシリカの世界樹攻略の決意に「自分も協力するよ」と言ってくれた。
 その言葉が嬉しかった。彼女との付き合いは短くとも既に一番の友達と言えた。
 だが、ではすぐにでもと思った矢先、直葉は自分の種族の街で少々やっかいごとに巻き込まれてしまい、すぐ旅立てなくなってしまった。
 その為、世界樹近辺の街で待ち合わせをして、合流してから二人で攻略に向かおう、と約束していたのだった。
 今日は、ようやくその直葉が自分の街を出る予定の日となっていた。





 アスナは、母親が言っていた食事のことなど頭から放り投げてエギルに連絡を取った。
 あの写真はどういうことなのかと聞きたくて仕方が無かった。
 店に来られるか? という問いに二つ返事で答え、家を出ていく。
 後で小言を言われるのは目に見えていたが、今はそんなことどうでも良かった。
 生まれて初めて、まともな反抗になる行為をしたかもしれない。
 それでも、アスナは行動を止める気にはなれなかった。

「どうしてこんなに可愛いキリト君が映ってるの!?」

「……聞くところはそこか?」

 エギルは現実世界でもお店を経営していた。Dicey Cafe──ダイシー・カフェ──という昼間は喫茶店、夜はバーにその様相を変えるお店だ。
 もっともその時間の境は少々曖昧であってないようなものだが。
 二年の月日の間、彼の奥さんがその細腕でのれんを護り続けてきてくれていたという。
 台東区御徒町のごみごみとした裏通りにある、煤けたような黒い木造のその店に現れたアスナの開口一番に放った言葉が、エギルを呆れさせる。
 女の子はよくよく可愛いものに目が無いというが、このアスナもそうなのだろうか。
 それ自体に悪いとは言わないが、今回のケースについては頷き難いものがあった。
 とりあえず、重要なのはそこではない。エギルは今のアスナの言葉から一つだけ確信を得る。

「やっぱりこれはキリト、なのか?」

「私がキリト君のこの顔を見間違うことなんてそう無いと思う。可愛いなあ、もともと女顔みたいだったもんねキリト君。今度女装してもらおうかなあ」

「……すまんが真面目な話だ」

「わかってます」

「っ!?」

「これを、一体何処で? ううん───────────《何処の写真》なんですか?」

 すぐにアスナは表情を引き締めた。その様変わりにエギルは肝を冷やす。
 アスナのその顔は、まるでこれからボス攻略にでも向かうかのような、静謐な檻の中に燃えるような灼熱の感情を留めている顔だった。
 アスナの眼光は全てを見逃すまいと釣り上がり、先程までのややとろけているかと見紛うような頬はシュッと鋭く整っている。
 凛、としたその佇まいに、一瞬前の少女は既にどこにもいなかった。
 《血盟騎士団》副団長、《閃光》のアスナ。狂戦士と謳われた程の彼女が、その《狂気》を放出する瞬間を今か今かと待ちかまえているかのようだ。
 思わず、エギルはごくりと息を呑んだ。
 見たことが無いわけではない。無いわけではないがあまりの切り替えの速さと、その圧倒的な《殺気》ともとれる彼女のオーラに、少しばかり怯んでしまった。
 およそ、見た目通りの少女が発するようなものではないその混沌とした空気に、言葉が出ない。
 彼女は業を煮やしたようにチラ、と視線で会話の続きを求める。
 彼女は怒っているわけではない。だが睨み付けるのとは違う、刺すような眼力は、それだけでエギルの背中を冷たくした。

(とんでもないな、この子は……)

 彼女の中でキリトという存在はそれほどの高い場所に位置するのか。
 先程までの乙女的思考の表出など、他者の目を欺くカモフラージュに過ぎないのではないか。
 そう思えてしまうほど、彼女の発する空気は重い。重力が増したかのような錯覚さえ起こり、店のグラスが張りつめた空気で割れるんじゃないかと心配になるほどに。

「エギルさん?」

 ハッとする。
 棘があるわけではない。ただの疑問符を含んだような声。
 そこにはとろけたよう少女でも、形容できない凛とした少女でもない、ただの不思議そうな少女がいた。
 一体どれほどの時間固まっていた? とふとエギルは気になるが、そのことについてこれ以上考えるのは止めた。
 果てしなく長いようで、その実そうでもなかったような気もするが、実際の所はわからない。
 わからないことは、いくら考えても無駄だと二年のSAO生活で学んだことだ。
 だからエギルは苦笑すると一つ息を吐いて、「サービスだ」と店自慢の辛いジンジャーエールを出しながら自身が知り得た情報を彼女に話し出した。

「これを知ってるか?」

 そう言ってエギルが差し出したのは一つのVRMMOゲームのパッケージだった。
 深い森の中から満月を背景にファンタジックな少年と少女が剣を掲げて背中から生えた羽で翔んでいた。
 アスナはそのイラスト、ゲームに見覚えがあった。

【ALfheim Online】

「アルヴヘイム・オンライン……」

「お、読めるのか。流石だな、俺は最初アルフヘイムかと思ったんだが」

 エギルは少々意外そうに言うが、アスナにとってはさほど意外なことではない。単にこのゲームを知っていたというだけだ。
 何も知らずにタイトルを見たなら、同じ反応をしていた可能性は十分にある。
 ではアスナが何故このタイトルを知っていたのか。理由は至極簡単なものだった。

 レクトプログレス。

 アルヴヘイム・オンラインを販売、運営している国内最大手の総合電子機器メーカーの一つだ。
 今日食事を一緒にする予定だった須郷という男などはここの重鎮の一人であり、システム権利者でもある。
 そしてその須郷の上司がアスナの父親だった。もっと言えば、その会社はアスナの父の会社だった。
 アスナの父はレクトプログレスのCEO──Chief Executive Officer(最高経営責任者)──なのだ。
 父の会社でも人気が鰻登りのゲームタイトルを、アスナが知らないわけはなかった。

「フライト・エンジンが搭載されているっていうVRMMOね」

「知っているなら話が早い。この世界には世界樹っていうSAOでいう迷宮区みたいなものがある。迷宮みたいに百層ほども大きいわけではなく高難度な一つのダンジョン、という位置付けのようだが。まあこのゲームの最終目的の一つ、みたいなものだな」

「この写真はそこの?」

「ああ、何処の世界にも馬鹿なことを考える奴はいるもんでな。世界樹の攻略が難しいから外側を飛んで昇ったらどうだろうって奴等がいたらしい」

「でも確か滞空制限ってのがあるんじゃ?」

「よく知ってるな。その通りだ。だからそいつらは五人で多段式のロケットみたいに肩車して飛んで、飛べなくなったら飛べる奴が飛んで、ってリレーのように飛距離を稼いだんだそうだ」

「へぇ」

 アスナは感心しながらも、前に聞いた一つの話を思いだしていた。
 確かキリトはアインクラッドで外周を登れないかと試したことがあった、という。
 結局はシステムに警告を受け、それに驚いて落ちてしまい、危うくHP全損の憂き目にあいかけたそうだが。
 あと三秒転移結晶を使うのが遅かったら死んでいた、とあっけらかんと言う彼に、彼の傍には自分が絶対いなければダメだと思ったものだ。
 その時は全財産をはたいて──たとえセルムブルグの自宅を売り払おうと悔いはない──回廊結晶を用意し彼を助けることも厭わない。
 まあ実際には用意する暇が無かったらアウトなので最悪自分も一緒に飛び降りることになっていたかもしれないが。
 いやいや、そんな危険なことをするなら準備は万全にしていくから一緒にいられればやっぱり大丈夫かもしれない。
 いやいやいやいや。

「おーい、アスナ? 聞いてるか?」

「あ、ごめんなさい、続けて」

 突如として何事か考え込み始めたアスナを訝しみながらエギルは続ける。
 結局その五人目でも上には辿りつかなかったが、枝近くにはいけたので証拠映像として何枚も写真を撮った。
 そこに、この金の鳥籠と、中にいる不機嫌そうな《女性キリト》が映っていたらしい、とのことだった。

「……」

「どう思う?」

「……まだ何とも言えないわ、でもこの写真に映っている人は間違いなくキリト君よ」

 私が彼を見間違えるはずがない、とその瞳は力強く輝いていた。
 自信たっぷりの彼女に、エギルは苦笑する。
 何を根拠に、などとは言わない。疑ってもいない。この子には、そういう不思議なところがあるとわかっていた。

「ねぇ、申し訳ないけどこれもらってもいい? お金は今度払うから」

「いらないよ、持っていきな。それでもしキリトが眠りから覚めたら、あいつからその代金を含めた食事代でも請求してやるさ」

「……うん、わかった。ありがとう。あ、でもその時はちゃんと私が払うから」

「わかったわかった」

「それじゃ帰るね。家抜け出して来たから何言われるかわからないし」

「悪かったな、店まで呼んじまって」

「ううん、少しだけ希望が見えてきたし。逆に感謝してる」

「そうか……アスナ」

「うん?」

「キリトを、頼むぜ。あいつには借りを返さなきゃ、返しておかなきゃ気が済まないんだ」

「……うん」

 一瞬、ほんの僅かに真面目な顔でエギルは呟く。
 少々暗めの店内。アフリカ系アメリカ人のエギルは立っているだけでも威圧感がある。
 顔も少々厳つい。だが、この時のエギルは自分の無力さ故なのか、少しだけ見た目に似合わず小さく見えた。

「そんな顔しないで。キリト君が見たら「似合わない」って言われちゃうよ」

「……へっ、その時はあいつの飲食代を二倍にしてやらあ」

 アスナの言葉にエギルはニッと笑う。
 強い子だ、とエギルは思い直した。この子の強さは儚い。
 だが、その芯が定まればこれほど強いものはない。その芯とは、恐らく必ずキリトの存在がついてまわる。
 この子はキリトが居る限り強くあれるだろう。その証拠に、話し始めた時の異様な空気はもう微塵も感じない。
 彼女の中ではきっと予感があるのだ。キリトに繋がる何かがそこにあると。それが、彼女を支えている。



 ──だがもし。その支えがなくなってしまったら。



 そこでエギルは考えるのを止める。
 これ以上を考えるのは、自分の仕事ではない。
 それを考えられるのも、考えてもいいのも、何とかできるのもあいつだけだ。
 だから、早く戻ってこいよ馬鹿野郎……と思いつつ、エギルは店を出ていくアスナを見送った。





 アスナが帰ってきたときには、やはり既に食事は終わっていた。
 須郷は帰宅し、父親も所用で会社へ戻っていた。
 必然、やはり母親がアスナを迎える。

「どういつもりなの? 言っておいたでしょう?」

「……ごめんなさい」

「ちゃんとわかっているの? 貴方が一度帰ってきたことはわかっているんですからね」

「……」

「いい加減になさい。お見舞い先から早く戻ったのなら、何故家にいなかったの?」

「……」

 アスナは何も答えなかった。
 経験上、何を言っても無駄なことはわかっていたし、誰かのせいにはしたくなかった。

「また黙る気? 貴方は目覚めてからそれが多くなったわね。本当、二年という月日があなたを世の中からどんどん突き放してしまっているということに自覚はあるの?」

「……」

「……そう、飽くまで話す気が無いならいいでしょう。私にも考えがありますからね。今後、勝手な外出は許しません!」

「……それは」

「何?」

「それは……許して。ごめんなさい、反省してる。でも、どうしても必要だったの」

「だったら何をしていたのか言いなさい。それを聞いた上で判断します」

「……」

「言えないのなら、話は終わりです。全く、今日は貴方の将来について大事な話もあったんだから」

「……」

「まあそれはまた、追々話します。とりあえず今日は家庭学習を済ませてしまいなさい」

「……はい」

 アスナはトボトボと肩を落とすようにして部屋に戻る。
 部屋に入ると、そのままベッドにボスッと飛び込んだ。
 自身の長い栗色の髪が頬をくすぐる。あまりよくないとわかっていても、指先でぐるぐると巻いては伸ばしてみる。
 サラリサラリと落ちるそれを見て、溜息を吐いた。

「キリト君は、私の髪を弄るの、好きだったのかなあ……」

 時折、キリトはアスナの髪を優しく今のように弄っていた。
 夜眠る時、ソファーに座って隣にいる時。
 いつ、とは断定できないが、度々彼の手が髪先に延びる。
 それをアスナは咎めることもなく、じっと見ていた。時には気付かないふりをして、時には気にしないふりをして。
 キリトは視線が合うと気まずそうに触れるのを止めてしまうことが多いから、その行為が始まった時は極力気付かないふりをしていた。
 今、その行為を自分でしてみても、何の感慨も浮かばない。
 彼に弄られている時も、弄られてるなあ……という以上のものはそんなに無かった。
 だが、今自分で弄ってみて、初めてわかる。その天と地ほどの差に。
 彼がそこにいてくれていたという安心感。事実が、彼女を満たしていた。
 それが無い今、その行為には何の価値もない。
 アスナはチラリと机の上を見やる。まだ山積みになっている参考書。
 だがすぐにどうでもいいと思考を切り替えた。視線を少し左にずらす。そこには、二年もの間頭に嵌め続けていた呪わしい機械が置いてあった。
 父親に相談しようか、という思考は一瞬よぎったが、須郷という男のことを思いだして止めた。
 あの男には極力関わりたくない。アスナは須郷が大嫌いだった。
 父親に言えば、キリトに関して何かが見つかる可能性はあるかもしれない。だが、それには必ずあの男、須郷伸之がついて回る。
 それは避けたかった。最悪、彼のことを知った須郷が、何かをしないとも限らない。
 昔から野心家のあの男は、アスナもアスナの兄も嫌っていた。両親にはいつもいい顔をしているが、アスナ達兄妹には自身の利己的な性格を隠そうとしていなかった。
 あの男は自分の出世のためならなんでもやる。そんな男だ。
 それに彼が関係していると思うこれは、自分の第六感が告げているだけの、他者から見たら何の根拠も無いものだ。
 だから、

「……悩む必要なんてない」

 アスナはそう呟くと参考書などには目もくれずにその機械、《ナーヴギア》を手に取った。
 彼への手がかりがこのゲームにあるというのなら、再びデスゲームに巻き込まれようと構わない。
 自分自身の手で彼を取り戻す。例え《何を犠牲にしてでも》。自分の手で行わなければならないのだ。自分の手で行いたいのだ。
 既に後継機のより安全でハイスペックな《アミュスフィア》というハードが発売されているが、今回はこれでいいとアスナは決意する。
 彼との繋がりを作ってくれたこのナーヴギア。彼を取り戻すにはこれの方がいい気がした。
 もっとも、今アミュスフィアを買う、なんて言ったら母親が何を言い出すかわからない、という懸念もあったが。
 だが、この判断は正しかったと言える。それは、ゲームを始めてみてからすぐに思うことだった。
 手早くパッケージを開封し、ナーヴギアのスロットに取り出したロムカードを挿入する。数秒で主インジケータが点滅から点灯へと変わった。
 それを気負いなくアスナは被り、顎下の拘束具を閉めて、ベッドで横たわり目を瞑って呟く。

「リンク・スタート」

 瞬間、アスナの視界は薄い明かりすら通さない暗闇へと誘い込まれる。
 そこで、SAOログイン時にもあった各種接続テストが行われた。目、聴覚、触感など、一つ一つの感覚器をテストされOKのメッセージが浮かんでいく。
 一通りのそれが終わると、ようやくアルヴヘイム・オンラインのロゴが現れ、少しだけ明るい世界になる。
 と言ってもここもまだゲーム世界ですらない。単なる仮想アバター登録所、オプションのようなものだ。
 最初にIDとパスワードを決める。本来ならここでゲームをするために課金が必要だが、パッケージ版は一か月の無料プレイ期間が同梱されている為、その必要は無かった。
 次に機械的な女性のアナウンスが名前を決めてくださいとコンソールを目の前に呼び出す。
 最初にアスナはためらいなく【ASUNA】と打ち込んで……手を止めた。
 そういえば、と思い出す。後々知ったことだが、本名をプレイヤーネームにするのは珍しいらしい。
 もっと言えば危険だし使わないのが普通なのだとか。SAOを始めるときにはそんな常識を知らなかったので本名で登録したが、う~んと彼女は迷い出す。
 アスナはしばし迷い、念のためにと打ち込んだアルファベットを消して【ERIKA】──エリカ──と打ち直した。
 特に深い意味は無い。なんとなく頭の中に出てきた女の子の名前を打ち込んだに過ぎない。
 本名を使うべきではないという常識を知ったが故の行動だった。付け加えるなら、SAO世界の名前を今は使いたくなかった、というのもある。
 あの名前、存在は、《彼》と共にあるべきだ。そういった願望が、彼女を動かした。
 次にプレイヤーの容姿だが、これは基本ランダム生成されるようで、どうしても気に入らなければ課金して再作成をするしかないようだった。
 ずるいやり方だ。もしあまりに変な容姿ならみんな変えるに決まっている。一定確率でそういうアバター容姿が出るようにしていれば、変更者は後を絶たないだろう。
 運営は儲かっているだろうなあ、と思ってすぐにやめた。その運営は父の会社だ。悪く思うのはあまりよろしくない。
 せめて可愛い姿になってほしいな、などと思いながら次の選択、どの妖精族になるか選択する。
 妖精族は全部で九種類あり、それぞれメリットデメリットが存在する。
 だが、アスナは元来こう言ったことに詳しくなかった。SAOが初めてまともに手を出したゲームだったのだ、しかもそれですら本来は自分のものではなく兄のものという始末。
 SAOで培った経験と知識はあるが、最初に選ぶ種族でそこまで差がつくとは思えない。

「う~ん」

 アスナは少し悩んだ。別に長くゲームをやるのが目的じゃないからなんでも良いはずなのだが、それでとんでもないハズレを引いてしまったら目も当てられない。
 ここは一つ慎重に、と思ったのだが、かといって慎重に考えられるほどアスナはこのゲームを知らないし時間も勿体ない。
 そこで、彼女は困った時に使う最後の手段にでることにした。

「ど・れ・に・し・よ・う・か・な・キ・リ・ト・く・ん・の・い・う・と・お・り・!……っと」

 指差しで適当に順番を振っていって最後に当たった種族を選ぶ。
 本当なら神様、と言うべきなんだろうが、そこはアスナ──エリカの気分だった。
 最終的にキリトによって──実際に彼が選んだわけではないが──選ばれた種族は風妖精族(シルフ)だった。それで全ての初期設定が終わる。
 最初は自分の種族のホームタウンからスタートするらしい。世界が再び暗転し、落ちていくような感覚に囚われる。
 始まるのだ、アルヴヘイム・オンラインが。

 こうして、まだ退けるべき存在の形が見えないまま、アスナ──風妖精(シルフ)のエリカ──の二つ目のVRワールドが幕を開けた。



[35052] ALO3
Name: YY◆90a32a80 ID:1a43ae77
Date: 2012/10/18 19:36


 ガヤガヤと騒がしい音がする。
 アスナ──エリカが目を開くと辺りはジェイドグリーンでライトアップされたいくつもの塔があり、どれも中ほどで通路が伸びて繋がっている大都市らしき場所にいた。
 ほえ~、と視線を回すと頭上に《スイルベーン》と書かれた看板があった。おそらくこの町の名前なのだろう。

「これがアルヴヘイム・オンライン……? SAOと変わらないくらいのグラフィックね……」

 SAOは相当に高いグラフィックを誇っていると聞いていたが、今やこれくらいが当然の技術力なのだろうか。
 エリカはその辺の知識が豊富ではなく、またこれまで興味も薄かったのでよくわからなかった。
 キョロキョロとあたりを見回してみる。存外人は多い。
 全てがプレイヤーではないだろうが、それを差し引いてもSAOより人口密度は上だろう……と思ってからそれも当然なことに気付く。
 SAOは一万人から人が増えることは無く、減っていくゲームだった。当然、人口密度は減少の一途しか辿らない。
 だがこのゲームは人口密度が増える一方だろう。デスゲームではなく、一万人という制限があるわけでもない。
 利用者がこのゲームに見切りを付けて消えていくこともあるだろうが、現在人気と名高いこのゲームはその人数を補えるだけの新規参入があることは想像に難くない。
 自分が今まで経験してきた世界とは違うのだ、という当たり前のことに気付かされる。
 もっとも、これが本来の姿なのだろうが。

「SAOも、本当はこうなっていくはずだったんでしょうね……ううん、団長の目的を知った今となってはそうとも言い切れない、か」

 エリカは小さく溜息を吐くと、目についた近場の大きなガラス窓に近づいた。
 何かのお店だろうか。よくある壁の一面がガラスウインドウになっていて、中が見える。
 同時に、自分の姿も半透明に透けて映っていた。

「これが、この世界の私かあ……」

 若草色のショートヘア。体は少々小さ目で、背中には淡いライトグリーン光を纏う昆虫のような翅。
 現実世界の自分とはあまり似ていないな、と思う。そもそも髪がここまで短かったのは小学校低学年くらいまでじゃなかっただろうか。
 名前も姿も全くの別人。現実のしがらみもない、もう一人自分。
 そう思うと、他人のはずの目の前の顔が少しだけ……羨ましく思えた。
 このもう一人の自分は、現実とのしがらみが無い。無論中身が自分である以上それは本来切っても切り離せないもの。
 でも、この世界においてエリカは、今生まれたばかりの自由な一個の存在。
 背中にあるこの翅で、どこまでだって飛んで行ける。ガラスに映る姿を見て、この姿の自分が夜空を自由に羽ばたく様子を幻視する。
 そこには彼女を止めるものも、阻むものも、ましてや彼女を縛るものなんて一切無い。
 高く高く、羽ばたきを強くして舞い上がる。夜空に浮かぶ満月の中心を目指して。

 そこに、黒い影が一つ。

 黒い髪に、黒い翅。さらに黒いコートを羽織って、黒い瞳でこちらを見つめ、手を伸ばしてきて。
 彼の手を掴もうと同じく手を伸ばし、



 ──────アスナ。



「っ!」

 我に返る。
 記憶の中のキリトの声は優しく、甘く、そして──切なかった。
 早く本当の声を聞きたい。
 気付けば、いつまでもガラスに映った自分を見てボーッとしている彼女を、周りのプレイヤーが訝しげに見ている。
 エリカは慌ててその場を離れた。

(恥ずかしいことしちゃった……)

 傍から見れば自身の姿に見惚れたナルシストと見えなくもない。
 それは流石にご免被りたかった。
 そのまま羞恥から人混みを避けていくうちに、どこかの裏通りらしき場所に出た。
 あまり人も周りに見えないことからようやくエリカはホッと息を吐く。
 しっかりしなきゃ、とすぐに自分に喝を入れ、まずは世界樹なる場所への行き方をマップでも見て確認しようとメニューを呼び出す為に慣れ親しんだ右手を振る。

「……あれ?」

 ふん、ふん、と何度振ってもそこにシステムメニューは現れない。そんな馬鹿な。
 システムを呼び出せないなんてどんな無理ゲー。いや、呼び出し方が違うのかもしれない。ここはSAOではないのだ。

「出でよ、システムメニュー!」

 ちょっと恰好付けて目の前にもう一度右手を強く振ってみる。
 ……反応は無い。そもそも口語が必要と言う時点でおかしいとは思う。
 あ~んもう! とエリカは肩を落とした。こんなことならもっと調べるなりシステム説明をちゃんと聞くなりすれば良かった。
 右手でシステムが出てこないなんてまるでユイのよう……。

「あ」

 ふと思い立って、エリカは《左手》を振ってみる。
 するとそこには軽快な効果音を伴って半透明なシステムメニューが表示された。
 見た目はほとんどSAOと同じだった。

「まさか、これって……システム権限あり?」

 それこそ馬鹿な、と思い直す。きっとこの世界では左手でシステムを呼び出すのが普通なのだ。
 後でわかったことだが、その考えは間違っておらず、周りのプレイヤーは迷うことなく左手でシステムを呼び出していた。
 説明はきちんと聞きましょう、と当然のことを胸に刻みながらマップを開こうとして……あれ? と思う。

「保持スキル、多いわね……」

 ヒットポイント400、マナポイント80。ERIKAという名前の下にシルフという種族名と、いかにも初期値といったステータスがあるのはいい。
 だがスキルは妙に数が多い。SAOの経験から言うと、あっても一つ二つではないだろうか。
 エリカは首を傾げながらスキル一覧を覗いてみた。

「《細剣》、《体術》、《料理》、《裁縫》……え」

 息を呑む。見覚えのあるスキルばかりだ。
 それも熟練度がどれも初期数値とは思えないものばかり。
 まさか……と思いながらエリカはシステムメニューの中のログアウトボタンを押してみる。

【本当にログアウトしますか? YES/NO】

 そこにはきちんとログアウトが可能なことを示すシステムメッセージ。
 それを見て、何故だか思ったほど《安心した》という感情が無い自分にエリカは驚く。
 一瞬持った杞憂と期待。ここはSAOで、SAOのように任意のログアウトが不可なのではないか、という予想はものの見事に外れた。
 任意ログアウトができるというのは間違いなく良いことだ。ここがSAOではないという証明でもある。
 だが、素直にそれを全て《良かった》と取れない心がエリカの中には巣食っていた。

 あの世界に、未練があるのだろうか。

 いや、きっとそれはあの世界というより、あの世界に置いてきた家にだろうとすぐにエリカは気付く。
 暖かかったあの家。ここが自分の居場所なんだと心から思えたあの時。
 失われてしまったはずのそこに一瞬でも行けるような気がして、期待してしまった。
 もしかしたら、目覚めないキリトもそこにいるのではないかという思いもあるのかもしれない。
 だが、現実はここが間違いなくSAOではないということを示していた。任意ログアウトできるSAOなど、もはやSAOではない。
 そう思って、つい自分自身を嘲笑する。今自分は、ここがデスゲームの世界の方が良いとさえ思ってしまった。
 外では家族が必死に無事を祈り、毎日今か今かと目覚めを待ってくれていたというのに、そちらの世界の方が生きていると実感できるとさえ思ってしまった。
 あれほど必死に攻略の鬼などと呼ばれていた自分がその実、今はあの世界に居たいだなどとはとんだ笑い話だ。

 そこまで考えて、ぶんぶんと首を振る。

 ……いけない。どうにもこの所自虐的なことばかり考えることが多くなっている。
 別に現実に戻れたことが嫌なわけではないのだ。むしろ喜びさえちゃんと持っている。
 ただ、そこに《彼》も目覚めているという必須ファクターが欠けているだけで。
 今はそのファクターを埋めるために手がかりがありそうなここへ来たのだ。
 余計なことは考えるな、とアスナは意識を無理やり切り替える。
 嫌な考えを打ち消すようにシステムを適当に弄り、SAOとの差異を見ていく。と、その手が止まった。

「な、なにこれ……?」

 アイテム欄を開くと、そこには酷く文字化けした文字群の羅列がびっしりとあった。
 漢字や数字、アルファベッドや記号……多種多様な意味不明の組み合わせで彩られた謎の羅列。
 そのほとんどはグレイカラーになっていて、使用不可……つまりオブジェクト化さえ出来ないようになっている。
 途端、エリカは雷が落ちたかのような閃きが頭に舞い降りた。
 スキルは恐らくSAOのものだ。それが引き継がれている。何故か、なんていう理由はわからない。この際どうでも良いいことでさえある。
 ただ、スキルがSAOから引き継がれているのなら、このアイテム群だってその可能性は十二分にある。
 だとすれば……そこには《あの娘》がいるはずだ。

「お願い、お願いよ……!」

 エリカは泣きそうな声を上げながら、真剣にアイテム群を見ていく。
 次々とスクロールされていくそれらは、半数以上は名前が意味不明な羅列だったりグレイカラーになっていてオブジェクト化不可だったりした。
 それがどんどんとエリカの恐怖を煽っていく。

 もしも文字化けでわからなくなっていたらどうしよう?
 もしもオブジェクト化できなくなっていたらどうしよう?
 もしもこの中にその存在さえなくなっていたらどうしよう?

 瞳に涙さえ浮かび始めたその時、エリカの……いや《アスナ》の手が止まる。
 息を呑み、ぷるぷると手が震える。
 そこには、グレイカラーに侵されていないアイテムの名前が表示されていた。

【MHCP001】

 奇跡的に文字化けせず、また、使用可能アイテムとして、それはそこに確かにあった。
 アスナは震える手でそれを選び、オブジェクト化する。
 すぐにアイテムが光とともにエリカの手の中でオブジェクトを形成した。
 涙滴型に複雑カットされた無色透明なクリスタル。
 とくんとくんと淡い白光を生みながらほのかに暖かいそれを、エリカ──アスナは見紛うはずもない。

(ユイちゃん─────!)

 ギュッと抱きしめる。掌に伝わるほのかな温かみが彼女の涙腺を酷く刺激した。
 あの世界崩壊とともに失われたと思っていた娘。ある意味でキリトの忘れ形見でもあるその存在。
 血が繋がっていなくとも、確かに家族と胸を張って言える相手。
 それが、今手の中にある。

「……ユイちゃん……っ!」

 胸にこみ上げる愛しさと切なさと寂しさ。
 そこにあるのに、そこにいるのに、触れているのに、届かない。
 小さなオブジェクトの姿でしかないそれに、とうとうエリカ──アスナは目尻に溜め込んだ涙を抑えきれなかった。


 ─────ポタッ。


 涙がクリスタルに零れた……その瞬間!

「えっ」

 クリスタルが激しく白い光を放ち始める。とても目を開けていられない。
 ここが人気の無い場所で良かったかもしれない。人がいればなんだなんだと集まりかねない。
 フワリとクリスタルは浮かび上がってみるみる光の大きさを膨らませていく!
 だが、やがてその光はどんどん見覚えのある形に変形していった。
 光が萎むにつれて、その姿が露わになっていく。
 長い黒髪、真っ白なワンピース。そこから伸びる幼い手足。
 忘れるものか。間違うものか。だって、そこにいたのは……、

「ユ、イ、ちゃ……ユイちゃ、ん……!」

 パチッと少女は夜空のように黒い──まるでキリトのそれのような──目を開き、桜色の唇を微笑みに変えた。
 それを見たエリカ──アスナは既に耐えられなかった。彼女を抱きしめ何度も名前を呼ぶ。

「ユイちゃん……ユイちゃんユイちゃん!」

「また、会えましたねママ……ママ!」

 ユイはすぐに抱き返した。
 今のアスナはアスナの姿ではない。
 だが、ユイには分かっていた。彼女は紛れもなく母、アスナだと。
 見た目を違えようと、その魂まで変えることなどできはしない。
 血の繋がりがなくとも、人とプログラムという壁があろうとも、そこには確かに魂による絆が存在していた。





「パパが、目覚めない……?」

 そんな、と不安そうな顔でユイはアスナ──エリカを見つめる。
 エリカはこれまでの経緯を簡単に説明した。キリトによって茅場晶彦は倒されたこと。
 それによってゲームはクリアされ、アインクラッドは崩壊したこと。
 プレイヤーはほとんど目覚めたが未だに三百余名程が目覚めず、その中の一人が和人/キリトなこと。
 そのキリトに間違いないと思われる存在がこの世界の世界樹で見つかったこと。
 それを聞いたユイは目を閉じて何かを検索しだし、ここがSAOサーバーのコピーだということを突き止める。
 基幹プログラム群やグラフィック形式、セーブデータのフォーマットがほぼ同じうんたらかんたら。
 そもそもそうでも無いと自分もこの姿を再現できないうんたらかんたら。

「ふ、ふぅ~ん」

 エリカはウンウンと、とユイの説明に時々頷きながら内心で冷や汗をかいていた。
 彼女は元来あまりそういったことに詳しくない。ゲームコンポーネントは全く別個のものと言われても「それっておいしいの?」と聞いてしまいかねないくらいには知識が無かった。
 まあ話の内容から流石に本当に「おいしいの?」などとは尋ねないが、ようは娘の話がちんぷんかんぷんでついていけないでいた。
 それに薄々ユイは感づき始め、苦笑しながら「ここはSAOのもとのデータを流用し真似して作った場所です」とだけ言い「おおーなるほどー!」とエリカに感動された。
 エリカはその後、ユイに言われるまま文字化けしているアイテムを捨てていく。このままではエラー検出プログラムに引っかかるとか言われたが、よくわからないので、ただ言われた通りに操作していた。
 しかし、その手が一瞬止まる。このアイテムは思い出の品で、大事なものが一杯詰まっている。さらに言えば、恐らくアイテムはキリトのものも混じっている。

「ママ?」

「……ううん、なんでもないの。ごめんね」

 果たして、その「ごめんね」は誰に対してのものか。
 ユイに対してか、キリトに対してか……それとも。
 エリカは、一度だけアインクラッドでキリトにとある《録音結晶》を見せてもらったことがある。
 クリスマスの晩に、時限式で届いたものだと。これには救われるのと同時に、決して消えることのない自分の罪を自覚させられたと。

(……ごめんなさい)

 エリカ──アスナは心からそう謝ると、初期装備と思われる以外の全てのアイテムをゴミ箱へとドラッグさせた。
 作業は一瞬。すぐにアイテムストレージはまっさらな光り輝く無色のウインドウになる。
 少しだけ様子のおかしいエリカに、その姿を《ナビゲーションピクシー》へと変えたユイはなんとなくの事情を察した。

「ママ……」

 ユイはエリカの肩に乗り、瞳にうっすらと溜まった涙を小さな手で拭う。
 エリカは「ありがとう、ユイちゃん」とその小さくなった娘の励ましに頭を優しく撫でることで答えた。

 ……これは罪だ。無事に彼と再会できた時、謝らなければならない。

 そう心に留めながら。
 たとえそうしなければいけない事情があったにしても、それは本来決して踏み込んではいけない領域だ。
 娘に悟られぬよう、これは許されない罪だと、心の中に刻み込む。





 このALOでは残念ながら管理者権限が無いというユイは、この世界にある《ナビゲーションピクシー》に該当すると言った。
 すぐにその姿を既定の姿に変え、これでもう自分はエラー検出プログラムによって消されることは無いと言う。
 難しい話のわからないエリカは、とにかくユイは問題なく一緒にいられるということに喜んだ。
 ユイは十センチほどの大きさになり、ライトマゼンタカラーの花びらを象ったようなワンピースを着こんで背中からは薄い半透明の翅が二枚生えていた。
 ユイの励ましにエリカはようやく元気を取り戻し、一路、世界樹を目指すことにした……のだが。

「ええ? リアル換算値で五十キロメートル強!?」

「はい、マップによるとそう計算されます」

 ナビゲーションピクシーとユイの能力としてゲームのリファレンスと広域マップデータのアクセス、接触プレイヤーのステータス確認が可能なことがわかり、さっそくエリカはユイに案内を頼んだのだが、そのあまりの遠さに愕然とした。
 こんなことならもっと近い位置にホームがある種族を選ぶべきだったかとエリカは消沈するが、ユイ曰く「どこからも似たようなものです」と言われ、どうあがこうとその距離は縮まらないことに少しだけヘコんだ。
 キリトの存在を確かめるだけで、少々遠い距離を旅しなければならない。

「ごめんなさいママ、私が主データベースに入れればすぐにでもわかることなのですが……」

「ううん、ユイちゃんは悪くないよ。むしろここで会えて本当に嬉しいんだから」

「ママ……」

 ユイは器用に飛んでアスナの周りを一周すると、再び肩に降りてアスナの頬に自分の頬を撫でつけた。
 甘えるしぐさのそれはユイがアインクラッド時代からよくやるものだ。
 キリトの膝の上に座ってキリトの胸に頬を擦り付けることもしばしばあり、本当に少しだけエリカ──アスナは嫉妬したものだった。
 甘えるユイに愛しさを増幅されながら、エリカ──アスナは先ほどよりもやや自分が落ち着いていることを自覚していた。
 やっぱり、自分には彼やこの子が必要なのだと強く思う。ユイも、キリトが大好きなことは想像に難くない。
 とにもかくにも、世界樹へと向かい、事の事実を突き止めるのが今一番の急務だ。それについてはあえて聞かないがユイも反対はすまい。

「さて、じゃあとりあえず行けるところまで行こうか、ユイちゃん」

「はいママ!」

 ユイの笑顔でさらに元気をもらったエリカは、ふと気づく。
 翅があるなら飛んでいけば楽じゃないかと。

「う~ん」

「どうしましたママ?」

「あのね、せっかく翅があるんだし飛んで行こうかとも思うんだけど……飛び方がわからなくて」

 てへ、と小さく舌を出すエリカにユイはクスクス笑い「そんなときの為の私です!」と胸を張った。
 エリカはユイのレクチャー通りに左手を立てて握るような形を作り、補助コントローラーを出現させる。
 なるほど、これを使って飛ぶのか、とエリカが上昇したその時、

「待ってよリーファちゃ~ん!」

「ついて来ないでって言ってるでしょレコン!」

「そんなぁ~!……って前! 危ないよリーファちゃん!」

「へっ!?」

「えっ!?」

「ママ!?」

 運悪く、アスナが上昇したその場所めがけて高速飛行してきた男女二人組の同族、そのうちの少女の方がエリカをかわせずに激突する。
 どーん! と大きい音を立てて二人は絡み合ったまま不快な感覚を得ながら叫び声を上げつつ地面に落ちたのだった。





「いたたた……って痛くないんだった」

「ひゃあ……」

 頭を押さえながらリーファ、と呼ばれていた少女が起き上がる。
 淡いグリーンのロングヘアを花びらのような髪留めで留めてポニーテールにし、その背中からはライトグリーンの翅が生えていた。
 最初に辺りを見た時から思っていたことだが、どうも風妖精(シルフ)は緑を基調カラーとしているらしい。
 エリカ自身も含め服装やら翅やら髪やらは緑を薄めたり濃くしたりした色合いが強かった。

「ご、ごめんなさい。この辺いつもほとんど人が来ないから誰かがいるなんて思わなくて……」

「こ、こちらこそ……まだ始めたばかりで勝手がわからなくて」

 先に立ち上がったリーファがエリカに手を差し出し、未だ少し目を回しているような──酔っているような──感覚に囚われながらエリカはその手を掴んで立ち上がった。
 とと、とふらつきながらも姿勢を正して「えへへ」とはにかむ

「ママ、大丈夫ですか?」

「あ、うん大丈夫だよユイちゃん」

「え? 何この子? プライベート・ピクシーってヤツ? プレオープンの販促キャンペーンで抽選配布されたっていう……」

「むぅ……危ないじゃないですか! ママにぶつかるなんて!」

「あ、ああごめん、それは本当にごめん。って、このピクシー随分性能良いのね」

「あ、あはは……」

 アスナの苦笑いにぷぅ、と小さい頬を膨らませたユイがリーファを睨む。それに慌ててリーファは何度も頭を下げた。
 そこに「リーファちゃ~ん」と一緒にいた少年シルフが降りてくる。

「大丈夫? リーファちゃん」

「大丈夫よ、それより追いかけてこないでって言ってるでしょう? おかげで無関係の人にまで迷惑かけちゃったじゃない」

「あれはリーファちゃんが前を見ないでスピードを上げたせいじゃないか……僕は危ないって注意したよ」

「来るなって言ってるのにアンタが追いかけて来るからでしょ」

「僕もついて行ったっていいじゃないか、これまで一緒にいたんだし」

「もう……」

 リーファはやれやれ、と呆れるようにレコンと呼ばれた少年エルフを見やる。
 その姿はやはり緑を基調としたカラーだが、背は低く、黄緑色のおかっぱ頭、長い耳も垂れ気味で泣き顔のような顔がデフォルトという姿をしていた。

「私は約束があるの!」

「相手は誰なのさ?」

「最近知り合った子よ」

「男?」

「なんでアンタにそんなこと言わなくちゃいけないの?」

「お、怒らないでよ。だって酷いじゃないか、急に僕を置いて世界樹攻略に行くだなんて」

「世界樹?」

 その言葉に、エリカはハッとなった。
 今彼らは世界樹攻略と言わなかったか。

「世界樹へ行くの?」

「そうだけど?」

「私も世界樹へ行きたいの!」

「え……? でもまだゲーム始めたばかり、なんでしょう? いきなりグランドクエストは早すぎるわよ。ましてやこのゲームがオープンしてから一年経っても誰もクリアできないでいるのに」

「ぐらんどくえすと……?」

「……何も知らないの? なんでそれ世界樹に行きたいのよ?」

「……探してる人がいて、その人が世界樹にいるかもしれないの」

「……へぇ」

 リーファはしゅん、と項垂れた少女に少しだけ興味が湧いた。
 過去の自分を見ているようだ、と言ってもいい。

「……ついてくるだけなら止めないけど、死んでも知らないわよ?」

「さっすがリーファちゃん!」

「あんたはダメよレコン」

「なんでさ!?」

 レコンは自分だけ同行を許されない事に不服を漏らすが、リーファはそれを無視してエリカに尋ねる。

「それでどうする?」

「うん、それで構わないから連れて行って欲しい」

 強い意志を宿した仮初の瞳。
 この世界では全てが作り物で、借り物だ。
 本当の自分を偽ることさえ可能な世界。そこで、これだけ意志力を込めることは難しい。
 一年ここで過ごした経験のあるリーファは、彼女なら信じても大丈夫だと思える一年の研鑽で磨かれた勘に従うことにした。

「私はリーファ、よろしくね」

「私はアス……エリカよ、この子はユイ、よろしく」

 握手を交わして微笑み合う。
 なんだが、初めて会う相手とは思えない相手だった。

「わぁ? これプライベート・ピクシー? 初めて見たよ! 可愛いなあ!」

 と、そこで女の友情が育まれていた時、隣ではユイに目をキラキラと輝かせるレコンがいた。
 その捲し立てるような勢いにユイはビクビクと怯えている。

「こら、怖がってるでしょ!」

 ポコッとリーファが軽く頭をはたいて、レコンを諌める。
 当のレコンは恨みがましそうな目でリーファを見つめた。

「何よ?」

「今日知り合ったばかりの子は連れて行くのに僕はおいていくなんてさ。前にアルンに行こうって誘った時は断ったくせに」

「あのねぇ、あなたと一緒に行ったら何度デスペナルティもらうかわからないでしょ?」

 レコンは決して初心者と言うわけではない。
 強さも中位程度はあるだろう。しかし、リーファの強さ、速さは既にアルヴヘイムでも上位に位置していた。
 残念ながら彼に合わせていては足を引っ張られる事は目に見えている。
 だがリーファはこれまでそのことを鬱陶しく思ったことは一度も無い。
 この世界を教えてくれたのは彼だし、それなりに感謝もしている。
 ただ、彼女は折角できた友人との約束を遅らせてしまっていることに申し訳なさと焦りを感じ始めていて、一刻も早くアルンに辿りつきたかったのだ。
 その為には、少々残酷だが彼をおいて行った方が速い。

「でもその人は初心者(ニュービー)なんでしょ? だったら変わらないじゃないか」

「さっきも言ったけど、もし死んでしまっても面倒は見てあげられない。私だって約束があるんだから本当は一刻も早く行きたいの。《シグルド》のことが無ければとっくに出て行ってたくらいよ」

「じゃあその時は僕もおいていっていいからさ!」

「……」

 だから嫌なのだ、と内心でリーファ溜息を吐く。
 レコンなら最悪そう言うことは想像がついていた。だがだからこそ彼女はレコンを置いていきたかった。
 恐らく、レコンが死んだらリーファは見捨てられない。【蘇生猶予時間】が許す限り、手を差し伸べてしまうだろう。
 それぐらいには、リーファもレコンを嫌ってはいない。だからこそそこに多大な消費とロスが生じてしまう。
 ただ世界樹を目指すだけならそれもいい。だが今はダメだ。《彼女》をあまり待たせたくなかった。
 この気持ちが熱いうちに、《彼女》の決意の冷めないうちに。リーファはなんとしても世界樹にたどり着きたかった。

「それに、僕心配なんだ。追放された《シグルド》はリーファちゃんを恨んでる。一人でフィールドにいたらきっと連中襲ってくるよ」

「それは……」

 そのことはリーファも全く考えていないことではなかった。
 リーファは一つ、いざこざを抱えていた。いや、いざこざを解決したが為に抱えるはめになった、というべきか。
 それが本当はもっと早く出発するはずだった彼女の遅れてしまっている理由でもある。

「あの……?」

 状況を掴めないエリカは疑問符を浮かべながら片手をあげた。
 世界樹に向かわないのか、という疑問半分、その《シグルド》という人と何があったのかが半分。

「……話せば少し長くなるわ。でも、私と一緒にいたら確かにその《シグルド》に貴方も襲われるかもしれない。悪いけど守ってはあげられない。一緒に行くのをやめておくというのなら……」

「良いですよ別に。私も早く世界樹に行きたいのは変わらないし」

 少しバツが悪そうに視線を外したリーファに、エリカはあっけらかんとした声で答えた。
 「それに私こう見えても他のVRゲームで鍛えてるから」と微笑んで。
 それに毒気を抜かれたリーファはやれやれ、と首を振って覚悟を決めた。

「レコン、本当に助けてあげられないからね」

「オッケーオッケー、任せてよリーファちゃん」

「もう……じゃあ行きましょうか! まずは風の塔に登って飛距離を稼ぎましょう」

 フワリ、とリーファが浮かぶ。それを見てエリカは驚いた。
 彼女は補助コントローラーを使っていない。

「え? 補助コントローラーが無くても飛べるの?」

「コツがいるけどね。そっか、エリカさんは初心者だったわね。出来る人はすぐに出来るし出来ない人はレコンみたいに一年経っても出来ないみたいだけど……《随意飛行》って言うのよ。ちょっとやってみよっか」

 リーファは浮かんだ体をすぐに地面に戻し、エリカの背後に回った。
 エリカは説明を受けながら仮想の筋肉と骨をイメージしていく。
 それによって翅が動き、少しずつ推進力を生み始め、

「行けっ!」

「っ!

 ビュン! と勢いよく上空へとエリカは舞い上がった。
 「おお、やるわね」とリーファが感心したのも束の間、エリカはあっちへフラフラこっちへフラフラ。
 レコンが「初心者(ニュービー)に負けた」とガックリ項垂れる。
 しかしそんな彼に急に影が差して「ん?」と上を見上げると、そこにはどんどん近付く三角の……、

「きゃああっ!?」

「ぶぎっ!?」

 降ってきたエリカはレコンに激突した。
 「ちょ!? 大丈夫!?」とリーファが駆け寄ると、何故かレコンは鼻血を出しており、口元がニヤけている。
 それで彼女は全てを察した。リーファはレコンを汚いものでも見るかのような目で見つめる。というか鼻血エフェクトが妙に生々しくリアルでいやらしい。
 同時に、その事実に気付いた者がもう一人いた。

「この……ママのパンツ見ましたね! 変態さんです!」

 ユイが怒り心頭で倒れているレコンの頬を蹴り飛ばす。
 何度も「えいっえいっ」と力を込めて。
 たいした威力ではないが、地味に鬱陶しい。
 レコンは「ごめん、ごめんってば」と謝りながらユイを見て……再び鼻血を吹いた。
 レコンがユイに振り向いた時とユイが足を蹴り上げた時が重なり、ワンピースの中身がレコンからは丸見えだったのだ。

「えっ」

「ば、馬鹿な……!? は、穿いていない、だと……? げふん!?」

 リーファのかいしんのいちげき!
 レコンはたおれた!

「いい加減にしなさいよアンタ、ハラスメントコールで一発アウトもらってもおかしくないわよ」

「え、えへ、えへへ…………」

 リーファは呆れ顔で拳を掲げていた。
 レコンは妙な笑い声をあげながら地面に倒れ伏してピクピク痙攣している。
 ユイは涙目になってエリカの肩に降りた。
 エリカはよしよしとユイの頭を撫でながらレコンを睨む。

「ううママ……ユイは、ユイは穢されてしまいました……」

 ユイの涙声のようなそれを聞いた瞬間、エリカはユイを一度抱きしめ、ぬらりと立ち上がった。 
 ユイはすぐにエリカの胸ポケットに体を隠して頭だけをぴょんと出す。
 エリカの手にはいつ装備したのか、初期装備の剣があった。瞳には怖いくらいの光を宿している。
 そのただならぬ気配に歴戦の強者であるはずのリーファですら「げ」と数歩後ずさってしまった。

「ユイちゃんに、なんてことを……」

「でへ、えへへ……へ……? ぎゃぶっ!? あばばばばばばばっばばば!?」

 リーファのかいしんのいちげき! を受けて尚おかしな笑いを続けていたレコンが、潰されたカエルのような声を出して動かなくなった。
 何が起こったのかは、きっと彼にしかわからない。
 それを、エリカの胸ポケットから頭だけだしてユイは見届け、本当に小さい声で呟く。

「……うう、ごめんなさいクラインさん」

 その声は、幸か不幸かエリカ──アスナの耳にも届かなかった。










「今日は一段と機嫌が悪そうじゃないか」

「うるせー」

 私不満です、という顔を隠しもしないで、少女──然とした《少年》は純白の豪奢な天蓋付きベッドの上で胡坐をかいて膝の上に肘を置き、頬に拳を当てている。
 いつの間にかそこに来ていた長身の男が、その様子を見て意外そうな顔をしていた。

「いい加減にここから出してくれる気になったのか、妖精王オベイロンさんとやら」

「いいや」

 クックック、と妖精王と呼ばれた長身の男はいやらしく嗤う。
 長く波打つような金髪に額には白銀の円冠。纏う濃い緑色のぶかぶかとした衣には銀糸で細やかな装飾が為されている。
 一目で「偉い人」とわかるような出で立ちに、彼女……いや彼は不満を隠そうともしない。
 もっとも、今ある彼の不満は久しぶりに“怒り”も孕んでいるようだった。

「君も諦めが悪いねぇ、そんな日が来ないことくらいわかっているだろう? だというのに何故今日はそんなにイライラしているんだい?」

「知るか」

 彼は苛立ちを隠そうともしない。いつもの不満、というよりは不機嫌、を通り越した《怒り》一歩手前のような顔だ。
 彼はここにきて既に二か月ほどになるが、こうも怒りの感情を表出させるのは最初の二、三日以降ほとんど見られなかったことだった。
 実際、彼も何故自分がこうも苛立っているのかはわからないでいる。ただ、何か激しく感情が揺さぶられるような、怒らないとやっていられないような、許されるならプレイヤーキルさえしてしまいそうな、そんな心境に陥っていた。

「ふむ、自分でもわからない怒りとは興味深いね。外界との接触を一切絶っているはずの君に、外部からの影響があるとは考えられない。となるとその感情は君の内部から君の知っている範囲で生まれ出でるはずのものだけど」

「だから知らないって」

「クックック、久しぶりに威勢がいいじゃないか、お姫様」

 嗤いながら、妖精王と呼ばれた男は彼の長い髪を掌で一掬いする。
 それを自らの鼻まで持っていき、すぅっとその匂いを嗅いだ。
 途端にやられた少女……いや少年は背筋がゾクゾクと冷え、鳥肌がブワッと立つ……ような錯覚にとらわれる。

「止めろ! お前男相手にそんなことして気持ち悪くないのかよ!」

「男相手、ねぇ……確かにそうだけど、今の君の姿を見て一体何人が男と言ってくれるだろうかね?」

「くっ……何度も言ってるだろ、ならさっさとこの姿だけでも変えてくれよ!」

「そのつもりはないよ。それじゃあつまらない」

「ふざけるなこの変態野郎」

「おいおい、これ以上生意気な口を叩くと君の《アバター》の股間についている貧相な《ソレ》も消すよ?」

「くっ……お前……っ」

「クックック、アッハッハッハ! いいねその顔、その表情! それが見たかったんだよ僕は! アッハッハッハ!」

「…………」

「おや、だんまりかい? つまらないねぇ」

 何を言われようと、これ以上彼は会話を続行するつもりは無かった。
 こんな姿に変えられて、なけなしのプライドはズタズタだ。それでも、最後の一線くらいは守りたい。
 《コレ》を消すなど、この男にとっては本当に造作もないことだ。あまり機嫌を損ねてそこまでやられた日には、立ち直るのに時間がかかる。
 それを見て、妖精王は切り札を切った。

「桐ヶ谷君」

「…………」

「僕と明日奈の結婚が決まったよ」

「……!?」

 その言葉に、何を言われても無視を決め込むつもりだった彼、桐ヶ谷和人/キリトは反応せざるを得なかった。
 馬鹿な、と。その顔は驚愕に彩られている。それを、楽しくて仕方がないとばかりに妖精王は嘲りを込めた笑い声を上げた。

「何そんな顔してるのさ! 当然だろう? 言っただろう? 僕は彼女の婚約者なんだと! まさか嘘だとでも思っていたのかい?」

「……っ!」

「その目はまだ信じ切ってない目だねぇ、まぁ外界との接触は絶ってるから当然と言えば当然か。でもねぇ、世の中どうにもならないこともあるんだよ。今度彼女と君の病室に行って結婚報告をするから、そうしたらその時のことを教えてやるよ」

「この……っ!?」

「おっと」

 彼、キリトがとうとう我慢できずに一歩妖精王へと近づいた時、彼はその動くと言う《行動》そのものを制限されてしまった。
 ここは相変わらずのシステム世界。システムに逆らうことなどできはしない。仮想世界における悲しいまでのリアリズム。
 妖精王は相変わらず嘲笑をその顔に貼り付けながら指でキリトの薄い唇をなぞる。
 気持ち悪いことこの上ないが、今のキリトにはそれを振り払う動作をすることが許されていない。

「なんでここまで話しているかわかるかい?」

「……知る、か……!」

「そりゃそうだろうね。じゃあ考えたことはあるかい? なんでSAOにいた君がこうやって別の仮想世界にとらわれているのか」

「……お前が、乗っ取ったんだろ」

「おや、そっちの知識は思ったよりあるようだね。なら話が早い。理由はなんだと思う?」

「……人体実験」

「ブラボー、実にブラボーだよ桐ヶ谷君、君は非常に頭がいい。そこまで気付いているとはね。ではその内容を聞こうか」

「……脳に関することだとは思うが、あとはわからない」

「まあそうだろうね。そこまで看破されてしまったら流石に君を捨て置けないよ。でも今日は特別サービスで話してあげよう、何、結婚が決まったんでね、僕も気分が良い」

「っ」

「そう嫌そうな顔をするなよ桐ヶ谷君、なんなら結婚式の様子から初夜の様子までストリームで見せてあげられるよう手筈を整えてあげようか」

「~~~~~っ!」

 妖精王は楽しくて仕方がない、と嘲笑を続けながら唇をなぞる指を止め、つつ……と徐々に頬、顎へと触る場所を下降させていく。
 顎から喉を、鎖骨を撫でて肩へ。そのまま腕を人撫でしてようやくキリトに触れるのを止めた。

「考えたことはあるかい? このフルダイブ用インターフェースマシン、ナーヴギアは仮想現実を直接脳に見せているわけだが……脳の全てに影響を与えているわけじゃない。その必要は無いからね。では、全てに影響を与えられるようになったとしたら……」

「何を、言って……お、おま、え……まさ、か……そんな……!」

「流石だよ桐ヶ谷君、君は一を知って十を知る才能を得ている。実に素晴らしい逸材だ。《ピッタリ》だよ。クックック」

「何て事を……何て研究をしているんだお前は! 人を、人を操る気なのか!」

 もし、脳の全てに任意の影響を与えられるなら、それは不可能な話、ではない。
 現在、脳の感覚野に限って信号を送り込むことで、仮想世界で仮想の感覚を得る仕様となっているのがフルダイブシステムの根幹だが、その枷を取ってしまったら、それは人が踏み込んではいけない領域だ。
 仮想世界では本来無いはずのものを見ることが出来る。それを見ているという信号を送られているからだ。もしその信号を自在に制限なく弄れるようになってしまったら、人に自由意志はなくなってしまう。
 それもそうだと知らないうちに。

「研究が完成した暁には君をリアルでの被験者一号にしてやるよ、桐ヶ谷君。そうだな、明日奈にでもこう言ってもらおうか。「僕はもう君の事なんてなんとも思っていない」とね。そうすれば彼女も何の憂いもなく僕の妻になれるさ」

「ッッッッッ!!」

「なに、悪いようにはしないよ。君は賢い。そのあとは僕の部下として使ってやってもいいよ。アハハハハハ! いや実に運がいい、SAOサーバー自体に手を出すことは出来なかったがプレイヤー解放時に一部のプレイヤーを僕の世界に拉致するようルータに細工することはそう難しくなかった。おかげで現実なら絶対に不可能ともいえる三百人近くもの被験者を僕は手に入れた! 最初はその中に彼女、明日奈が入ってることを期待したが、蓋を開けてみればそれ以上の収穫だよこれは!」

 妖精王は高笑いをしながら部屋を出ていく。いや、部屋と言うよりは鳥籠のそれを。
 その表現も厳密に言えば正確ではない。人を閉じ込めているのだから人籠……金の格子でできた檻だ。
 世界樹と呼ばれる馬鹿でかい樹の枝から吊り下げられているここは現実なら考えられないとんでもない高さにある。
 彼が最初に座っていた豪奢な天蓋付きベッド以外のインテリアは白い大理石でできたテーブルと椅子のみ。
 白いタイルが敷き詰められた床は端から端までは十数メートルはあるだろう。
 狭いとも広いとも言えないその空間の天井は半球を描くように格子が中央に収束していて、形は鳥籠そのものになっている。
 妖精王が姿を消してからようやく動けるようになったキリトは、その檻の中心に立ったまま右手で自身の顔を覆った。
 体が震える。《彼女》が唯一の心の支えだった。彼女が現実で待ってくれていることだけが、彼がここで必死に自分を保つ最後の砦だった。
 だが、その彼女が自分以外の男と結婚してしまうという。最悪、自分は操られ、彼女に思ってもいないことを言わされるかもしれない。

「アスナ……っ!」

 声を殺して泣くキリトの涙が零れる。
 それを、知ることが出来るものは誰もいない。
 手を差し伸べる者も、誰もいない。

 フラフラと倒れるように豪奢な天蓋付きのベッドに腰掛けた彼の瞳は、既にその輝きを失っていた。



[35052] ALO4
Name: YY◆90a32a80 ID:1a43ae77
Date: 2012/10/20 21:25


 レコンの回復を待たずに彼を置いてけぼりにして、歩き出した二人+一人──ユイはアスナの肩に乗っている──は、風の塔に向かう前に装備を整えることにした。
 初心者(ニュービー)とはいえ初期装備では心許ない。そう思って所持ユルド──SAOでは《コル》だったが、ALOではお金を《ユルド》と言うらしい──で整えられるだけ整えていきなよ、とリーファは勧めた.
 と言っても所持ユルドはたかが知れているだろうから初期装備に毛が生えたくらいにしかならないだろう。
 そう思ったリーファは、少しは援助してあげようかな……などと考えていた。だが、驚いたことにエリカはかなりのユルドを所持しているようだった。
 「パパのおかげですね!」というユイにリーファは「ああ、そういうことか」と得心する。
 恐らくは、世界樹にいるかもしれないという探している人──ユイがパパと呼ぶ相手──からかなりのユルドをもらっていたのだろう。
 初心者だから、というのもあるのかもしれない。だがそれなら迎えに来ても良さそうなものだが。いや、そもそも探しているのだから会ったことはない、のだろうか。

(それとも会ったのは相当前? それなら何故まだ初心者(ニュービー)なの?)

 グルグルと思考が巡るが、結局リーファはそれ以上尋ねる事は止めた。無用な詮索はマナー違反だ。
 リーファの勧めでNPC武具店からそれなりの装備を整え──ついでにユイのワンピースの中身を購入し──ようやく当初目的である世界樹へと向かう為、風の塔へと足を向けた。
 ここスイルベーンでは風の塔が最も高い建造物だ。滞空制限のあるこの世界では、遠い場所へ行く時は飛距離を稼ぐために極力高いところから飛ぶのがセオリーとなっていた。
 滑空だけでもかなりの距離を稼げるからだ。
 二人が風の塔に着くと、既にそこには回復したレコンが待っていた。

「遅いよ~、何処に行ってたのさ~?」

「アンタ反省してるの?」

「反省? 何の?」

 そのあっけらかんとした物言いに、リーファは「こいつ、開き直ったの? 最低ね」などと小さく呟く。
 女性のパンツやあまつさえその中身──いくら生身の人間ではないプライベート・ピクシーとはいえ──を見たのにその悪びれない様子はちょっとこれからの付き合いを考えざるを得ない……そうリーファに思わせた、のだが。

「だいたい何で僕あんなところで倒れてたんだっけ?」

「へ?」

 次にレコンから飛び出てきた言葉にリーファは目を丸くした。
 何を言っているのだ彼は。まさか忘れたフリでもして全て無かったことにするつもりだろうか?
 いや、既にこの世界で一年程の付き合いになるが、彼が根暗気味な性格をしているとはいえ女性に対してそこまで無遠慮ではないはずだ。
 だとするとこの違和感は一体……、

「早く行こうよ~」

 待ちきれないとばかりにエリカは既に風の塔の中に入っていた。
 彼女にも彼に対して険しい感情は見受けられない。
 これはどういうことだ? とリーファはまるで狐に抓まれたように首を捻る。

「ね、ねぇリーファちゃん……」

「ん? 何よ?」

「な、何でかな、今あの初心者(ニュービー)の子を見たら背中がゾクッてなったんだけど……僕なんかしたっけ?」

「……」

「ちょ、ちょっとリーファちゃん!? 何とか言ってよ!?」

 リーファはレコンをジッと見つめた後、ススス……と回れ右をして何も言葉を返さずにエリカに続いて風の塔に入った。
 レコンがぎゃあぎゃあと騒ぎながら追いかけてくるが無視だ。彼女はそれ以上この件について考えるのを止めていた。
 何故って──これ以上考えても恐いだけだからだ。



 三人+一人は風の塔のてっぺんから背中の翅を使って飛んだ。
 目指すは世界樹、と言っても飛行だけで届くほど近い距離にそれはない。

「まずは一番近い湖まで飛びましょう」

「うへぇ、そんなところまでいけるかな」

 リーファの見繕った予定ポイントに早速レコンが弱音を吐くが、彼女は聞き入れない。
 今日中に《ルグルー》には辿り着きたいところだ。
 風妖精(シルフ)のホームである《スイルベーン》から北に向かうと鉱山地帯があり、尾根険しい山々の標高はとても滞空制限ある翅では攻略できない。
 その為猛々しい山岳地帯を越えるには《ルグルー回廊》と呼ばれる洞窟ダンジョン──フィールドと言ってもいい──を通るのがセオリーとなっている。
 世界樹に向かうルートはいくつか存在するが、風妖精(シルフ)がスイルベーンから向かうルートでは、このルグルー回廊を使うのがもっとも速いのだ。
 無論その分危険も多い。モンスターは当然、ルグルー回廊は特に多種族プレイヤーと接触する機会が多く、戦闘になることも考えられる。
 遠回りをすればもう少し安全に向かうことは可能だが、リーファは可能な限り急ぎたかったし、エリカもそれに同調した為に進路はこのルートが採択された。
 飛行していた三人+一人は予定よりやや手前でやはりレコンがへたってしまい、やむなくそこで高度を落としてライディングする。
 ポイント的にはルグルー回廊とスイルベーンの丁度中間あたりに位置する森、《古森》のややスイルベーン寄りと言った所か。
 ここからはしばらく徒歩になるだろう。翅の回復も必要だ。ここアルヴヘイム・オンラインの飛ぶ原理はフライト・エンジンによる物だが、システム的には翅に《光》を当て飛行可能状態にする事が必要になる。
 アルヴヘイムで飛ぶためには《光》を必要とする。その為、光の届かぬダンジョンや地下などは現在飛行不可能エリアとして設定されていた。

「ほらレコン、キリキリ行くわよ」

「うぅ、わかってるよ」

 飛行に少々酔いのようなものを感じるレコンは、よくよく飛行直後は動きたがらない。
 しかし彼も今日ばかりは珍しく根性を見せ、愚痴も零さずに着地後はややだらしない足取りで歩を進める。
 そんなレコンの姿に少しだけリーファは見直した。

(へぇ、やれば出来るんじゃない)

 彼はやれば出来る人間ではあるのだ。そもそも自分よりフルダイブシステムには精通しているはずだしゲームの知識だって豊富だ。
 ゲームに触れていた時間、という一点で考えればリーファは彼に敵わない。
 このゲームにおいてはリーファが自分に見合ったスタイルを見つけ出し、また現実との兼ね合いもあって妙にマッチした結果、彼よりも上位プレイヤーという位置にいるが、全てそううまくいくかと言えばそうではない。
 彼には彼の得意不得意分野があり、偶々不得意分野に天秤が傾いているのがこのALOなのだろう。
 そんなことを思いながら歩いていたリーファは、しかしすぐに意識を切り替えた。
 彼女の鋭敏な感覚がモンスターの湧出(ポップ)を察知する。毎回察知できるわけではないが、比較的注意深く意識していればフィールドモンスターの湧出(ポップ)について気付くことは可能だった。
 既に上位プレイヤーとしての立場を確立している彼女がこの辺りのフィールドで遅れを取ることは珍しい程だ。
 敵よ! と声を上げ注意を促そうとしたリーファはしかし、直後に面食らってしまう。

「え」

 リーファが湧出(ポップ)に気付いた時にはエリカは既にそのポイントに抜刀した状態で突っ込んでいた。
 バカ! と思ってから一拍おいてその異様さに驚く。
 彼女は自分より早く《モンスター》に気付いたのだ。でなければあの反応速度はありえない。
 だが初心者(ニュービー)であるはずの彼女が何故自分よりも早く?
 しかし思考はまたしても許されない。

「ハァッ!」

 エリカの裂帛の気合いが込められた鋭い刺突──だと思われる──がモンスターを直撃する。
 驚かされたのはそのスピードと……威力。モンスターは既に八割近いHPを奪われていた。
 アルヴヘイムにはプレイヤー自身を強化する類のレベルは存在しない。レベルを上げれば攻撃力が自然と高くなるというものではなく、武器の攻撃力と後は自分自身の《性能》によるところが大きく影響する。
 この場合、相手の何処に攻撃を当てるかというような《正確さ(アキュラシー)》とその速度(スピード)が特に色濃く関わってくる。
 今の攻撃を、リーファは信じられないことに全てを目で追えなかった。こんなことはいつもデュエルイベントで優勝争いに参加している彼女にとって初めての出来事だ。
 エリカは即座にモンスターの残りのHPを切り払って奪い取る。
 「ちょっとオーバーキルだったかな」と今の戦いに納得のいかないような仕草で。
 全く持って信じられない。他のゲームでそこそこ鍛えているとは聞いていたが想定以上の強さだ。
 今のモンスターは初級ダンジョンのボスクラスの強さがあったのだが、全く危なげない動作で戦闘を終えてしまった。
 無論、リーファにとっても既に敵ではない相手だが、あそこまで華麗に倒せるレベル……いや境地に至るには相当数の時間と場数を要した。
 その不可思議な強さに、リーファ少しばかり彼女の《正体》について懐疑的になる。
 邪推、とでも言うのだろうか。実は初心者(ニュービー)と偽って相手を油断させ、プレイヤーキルによるアイテム強奪を生業とする高位プレイヤーなのではないか。
 ヒヤリ、と背中に冷たいものが流れるような錯覚が彼女を襲う。少しばかり冷静に話を聞いてみようか。
 丁度今の戦闘についてプライベート・ピクシーとエリカが何か話している。

「ママ、いつもより踏み込みが少し甘かったですね」

「やっぱりそう? うーん何せ初めての相手だし」

 ……あれでまだ全力ではないのか。
 聞かなければ良かった。いやいや、これはこちらを動揺させる為の罠かも知れない。
 冷静に、冷静に。

「気にしなくても大丈夫だと思います。パパならもっとガーッ! って感じで行きますよきっと」

「そうかなぁ……うん、そうかも。ワーッていってガーッってやってドーンって感じだよね」

 ……擬音だらけの会話を聞くともの凄く馬鹿らしくなる。
 い、いや冷静に冷静に。す……リーファ、COOLになるのよKOOLに。

「はぁ、ちゃんと世界樹で会えるかな」

「パパはいますよ」

「え? ユイちゃんわかるの!? だって最初わからないって……」

「場所はわからないです。でもパパがいるような気はします、パパのことを感じます」

 限界だった。
 冷静さ? ナニソレ美味しいの?

「感じるってそんな曖昧な……プライベート・ピクシーってそんな言葉まで言うんだ……」

 つい、リーファは言葉を挟んでいた。
 冷静に言葉の端々を分析しているのが馬鹿らしくなってきていた。

「わかりますよ」

 だがユイは自信たっぷりに小さい胸を張る。
 その言葉にも、顔にも、ついでにも胸にも自信たっぷりに。
 思わず「へぇ」と感心しそうになるが、その様にリーファは少しだけムクムクとイタズラ心が湧き上がってきた。

「どうやって? とてもそんな機能まであるとは思えないんだけど」

「愛の力です!」

「あ、愛って……」

 予想外の言葉に流石にリーファは面食らう。ホントにこの子は単なるAIなのだろうか。
 いやAIだから愛なのか。…………これじゃまるで《兄》の思考回路だ。しっかりしろ、す……リーファ。
 瞬時に気持ちを切り替えてリーファがユイを見ると、こちらを挑戦的な目で見つめている。
 なんだか実はこの子の中に小さい生身の人間がいると言われても信じてしまいそうだ。
 そんなことをリーファが思っていると、突然エリカが目を閉じて唸りだした。

「うぅ~~~~~~~~~~~~ん……」

 頭を両手で押さえ、かと思ったら偽物の空に伸ばしたり、振ってみたり。百八十度回転してみたり、もう百八十度回転して戻ってきてみたり。
 集中しているような顔ではあるが、何をやろうとしているのか皆目検討がつかない。
 うんうんうんうんと唸って、やがて諦めたかのように地面に膝を付いて頭をガックリと下げた。
 何をそんなに落ち込んでいるのだろうか。

「うぅ、私わからないよ……」

「ぷっ」

 リーファは思わず噴き出した。
 エリカはユイの言った事を真に受けたのだ。いや、心からではないのかも知れないが、それでも張り合おうとした。
 愛の力で感じる、と言ったユイに。馬鹿らしいと思わないでもないが、口には出さない。
 リーファだって、そういうものを信じたくないわけではない。あったら良いな、と思うくらいには身も心もうら若き乙女だった。
 同時に、ついさっき懐疑的になった事柄もどうでもよくなった。
 あえて言うなら「こんな天然入ったような子達がそんな真似できっこない」という彼女の中の経験則から生まれる勘だ。
 これで騙していたのならたいした役者だよあなた達、と既に万が一騙されていてもいいやと思えるくらいにリーファは彼女たちの正体がどうでも良くなっていた。

「おお~い、早く行こうよぉ~」

 そんなことがあったせいだろう。
 意外なことに、レコンが一人で先頭を歩いていた。





 慌てて二人+一人は先頭のレコンを追いかけ、「急いでるんじゃなかったっけ」と一睨みにして膨れているレコンを宥めながらルグルー回廊の入り口へと辿り着いた。
 途中数回戦闘はあったものの、やはりエリカの戦闘力は凄まじく、リーファの懸念したモンスターによる死は殆ど無いように思えた。
 といっても、

「エリカさんて、強いけど……ちょっと危ない戦い方だね。あれじゃ魔法に対処しきれないよ」

 リーファにはそのような感想が浮かぶ。
 彼女の《物理的》な攻撃特化(ダメージディーラー)ぶりは本当に並ではない。
 だが、この世界で戦っていてそれなりの時間を過ごすリーファは、エリカの戦いに危うさを何度も覚える。
 何故そこでもっと間合いをあけないのか。退かないのか。足を動かさないのか。
 この敵はいいけどもしあの敵なら、という不安が何度ももたげてしまう。
 彼女の対モンスターでの戦闘力は絶大だ。しかし、それは相手が物理ばかりで尚かつ少数であることが前提だった。
 彼女を見ていると複数相手でも物理オンリーならなんとかなるかもしれないが、《魔法》が存在するこのアルヴヘルムにおいてそんな奇跡が長く続くかと言えば、望むべくもないのは明らかだ。

「う~ん、魔法がある世界って初めてだから……」

「へぇ」 

 その言葉は妙に説得力があった。
 それならば先程までの戦いぶりとの違和感にも頷ける。
 先も魔法のことがわからずに使える魔法を自分のプライベート・ピクシーに尋ねて辿々しくスペルを唱えていた。
 かつての自分を思い出すようなその様はいっそ微笑ましくすらあったものだ。
 と言っても彼女は何処まで規格外なのか、あっという間にコツを掴んでしまい、オマケにやたらと長いスペルの暗記をものともしない凄さを見せつけたのだが。
 世の中不条理だ、と口には出さずにリーファはエリカを見やる。
 若草色のショートヘア。カラーリングはシルフ故だろうが小柄な彼女にはよく似合っていた。

 だが。

 同時にそこはかとない違和感を覚えるのも事実だった。
 いや、それは違和感というには些細なものだ。どちらかというと《勘》によるものかもしれない。
 だが、この勘と言う奴が中々バカに出来ない。人間の第六感(シックスセンス)は本能に基づく未来予知に限りなく近いそれだという説がある。
 直感、と言い換えてもいい。それが、リーファの中で小さく囁く。

 エリカの事を、自分は知っているのではないか────と。

 何の根拠もない。
 ただ、そんな気がするだけ。
 でも、何処か否定しきれない。それだけ、彼女の存在が記憶の片隅をちくちく突くような真似をするのだ。
 その勘が、告げている。
 自分は彼女を知っている、と。

「どうしたのリーファちゃん?」

「あ、ううんなんでもない……です」

「???」

 不意に、敬語を使ってしまった。
 これまで名前こそ「さん」付けだったが言葉遣い自体は友人に使うそれと大差無かった筈なのに。
 勝手に、意識して、頭の中が、彼女を《───》と変換、認識して……《───》って誰だっけ?
 誰? 誰のこと? 知ってるはず。会った機会は多分多くない。話した機会も多くない。
 でも、胸がそんなにざわざわしないってことは嫌な相手でもないはず。

「ねーねーリーファちゃーん」

「わっ!?」

 眉がムムム、と寄り始めた頃合いを知ってか知らずか、レコンがリーファに声をかけた。
 おかげでリーファの集中力は霧散してしまい、どれだけ思い出そうとしても記憶は霞のさらに奥へと引っ込んでしまう。

「もうバカレコン! 何か思い出せそうだったのに!」

「へ? 何が?」

 レコンは不条理ともとれる怒りに面食らうが、リーファは頬を膨らませつつもそれ以上は言わない。
 それは八つ当たりにすぎないことを彼女も理解しているからだ。

「何でもないわよ、それで何? 何か用?」

「あ、うん……っていうか今日は随分僕に厳しいね、エリカさんには優しいっていうか敬ってるようにさえ見えるのに」

「アンタがくだらないこと……って、敬ってる? 私が……?」

 別に人を敬うことのない人間なわけではないが、リーファは本物の顔も見えないゲーム内で露骨にそういうことをする方でもない。
 彼女の属する風妖精(シルフ)の長ですらリーファは呼び捨てでタメ口だ。
 別に彼女を敬っていないわけではないが、自然とそういう形がゲーム内では身についてしまっている。

(……ゲーム内では? やっぱり私、エリカ……さんのこと、知って、る……?)

 初めて会う相手に敬称をつけないほど不遜ではないが、ある程度親しくなったりすれば相手にもよるが敬称は自然と取れる。
 だが、エリカ相手にリーファはさん付けを止められる気がしなかった。
 それは《本能》がさん付け……敬称を必要としていると判断しているからに外ならない。
 しかし、またしてもリーファはそれ以上思考を続けられなかった。

「わあ、洞窟内部に湖かあ! この橋の奥に見える大きい門がルグルーなの?」

「え?」

 気付けば、洞窟内部をかなりハイペースで進んでいたらしい。
 目の前にはエリカの言う通り青黒い湖の中央を石造りの橋が一直線に貫き、その向こうに天井までぶつかる城門が屹立していた。
 エリカの言う通り、とりあえずの目標予定としたルグルーはもうすぐそこだった。

 だが、

「っ! 誰か、いる!」

 橋の向こうから歩いてくる人影。
 その影にリーファは見覚えがあった。いや、忘れることなどできようはずもない。

「あ、同じ風妖精(シルフ)みたいだよ、良かった良かった」

 微笑むエリカだが、リーファはドッと跳ねる仮想の心臓を必死に落ち着かせていた。
 流れるはずのない汗を顎下から滴り落とすような錯覚を抱きながら、橋の向こうから歩いてくる風妖精(シルフ)を見つめる……いや、睨む。
 その風妖精(シルフ)は、リーファにとって因縁の相手だった。

「こんにち……?」

「久しぶり、でもないわね。《シグルド》」

「……フン」

 エリカが挨拶しようとしたのを手で止め、エリカを隠すように彼女の前に立ってリーファはシグルド、と呼ばれた同種族のプレイヤーを睨む。
 シグルド、と呼ばれた男性プレイヤーはかなり高い部類に入る背丈で、別に体格でゲーム内の良し悪しが変わるようには設定されていないだろうが、それでも男性ならその身長は羨む部類に入る物だ。
 アバター容姿がランダム精製されるこのゲームでは余程の幸運かそれなりの《投資》をしなければそのような容姿は得られまい。
 その彼はシルバーの分厚いアーマーを着こみ、大ぶりのブロードソードを腰から下げ、額にはSAOにあったギルドの《風林火山》のそれかと見まがうようなバンダナを巻いている。
 と言っても彼らの侍然とした旧体系の《和》をイメージするようなカラーではなく、銀色という西洋の寸鉄を思わせるもので、顔もそうとうに鋭い。
 いや、鋭いというより厳つい、というべきか。表情に怒りが混じっているようにみられるのがそれを後押ししている。
 波打つようにして肩まで伸びたダークグリーンの髪はやはり風妖精(シルフ)のイメージカラーからくるものだが、その表情と相まって少々恐怖心さえ対峙する相手に与えていた。

「どうして脱領者《レネゲイド》のあなたがここにいるの?」

「俺がどこにいようと勝手だろう、まさか自分の目の届く範囲には現れるなとでも言うつもりか?」

「……」

「フン、冗談だ。お前を待っていた」

「そう、やっぱり。でもどうしてここが」

「《アルン》に行くと散々言っていたからな、猪突猛進のお前のことだ、必ずこの道を選ぶと思っていた」

「……なるほどね」

 言われて、気付く。
 確かに自分は猪突猛進なところがあり、それ故多角的な角度から物事を見ることを忘れてしまうことがある。
 今回の事で言えば、彼がここで待ち伏せてくることは予想してしかるべきだった。
 と、そこで小さくレコンが呟く。

「……だから言おうと思ってたのに」

「何よレコン」

「僕の《索敵》に誰かが引っかかったから用心しよう、って言おうと思ったのに全然リーファちゃん聞いてくれないんだもん」

「そ、そういうことは早く言いなさいよ!」

「言おうとしたらいきなりバカレコン! って怒ったんじゃないか」

「あ、あれは……」

 確かにそうだ。確かにそうなのだが……どうにも釈然としない。
 そもそもあそこで無駄話をしなければ……いや、止そう。これ以上レコンを責めても得られるものは何もない。
 結局は自分の不注意が生んだ結果なのだ。予想してしかるべき事態の予想を怠り、あまつさえ危険であることは承知の上ですらあった。

「話は終わりか? ならば始めさせてもらうが」

「戦わないって選択肢は……無いんでしょうね」

「無くはないが。だがその時は俺が一方的にお前をいたぶるという少々味気ない結果になる」

「冗談でしょ、ごめんよそんなの」

「あ、あのぅ……?」

 まさに一触即発。これから戦闘が始まるというピリピリとした空気に、エリカは気まずいながらも口を挟み恐る恐る挙手をした。
 まったく全然、これっぽっちも状況がつかめない、という顔だ。

「なんだお前は。見たところ新顔(ニューフェイス)のようだが……」

「この人は関係ない、手を出さないで」

「それを俺が聞いてやる義理は無い。むしろそう言われてはこいつを殺った方が気がまぎれるかもな」

 その言葉に、リーファは抑えがきかなくなった。
 自分に突っかかってくるのはいい。だが、無関係な人を巻き込むなんて許せない。
 ニヤリと笑ってブロードソードを構えたシグルドに、リーファは素早く切り結んだ。

「相変わらず早いな、だが」

「っ!」

 リーファは一度距離を取る。
 彼は膨大なプレイ時間に裏付けされたスキル値がその強さをより確固たるものにしている。
 装備も一流で、リーファが彼と戦うときにはいかに動いてその防御を崩すかがいつも鍵になっていたのだが。

「良いのか? 俺はこの女を攻撃することも出来るぞ」

「っ! この!」

 その挑発に、挑発とわかっていてもリーファは乗るしかなかった。
 自分のせいで誰かに嫌な思いは極力させたくなかった。それがたかがゲーム内のことと言えど、リーファにはそれが嫌だったのだ。
 だが、そうなるとこの戦いは途端にリーファの分が悪くなる。
 彼とリーファが叩く時はその強固な防御をいかに崩すか、がリーファの戦いになる。
 その為には運動量を生かした物量と根気、集中力、そして何より時間が必要だった。
 だが、彼はその時間をリーファに与えない。エリカを襲うと言われれば悠長にしている暇は無いのだ。

 自分の存在を忘れ去ったかのように目の前で繰り広がる戦闘を、エリカはどうしたものかと思いながら眺める。
 彼女にも、ややリーファが劣勢になることは見えていた。
 そのエリカの傍にトコトコとレコンがやってくる。

「エリカさん、悪いけどここまでだ。君は先にルグルーに入りなよ、街へ入れば多分安全だ」

「どういうこと?」

「言ったでしょ? あいつがシグルドって奴さ」

「さっき脱領者(レネゲイド)とか言われてたけど……」

「ああ、あいつは僕たち風妖精(シルフ)の領主、《サクヤ》を天敵種族であるサラマンダーに売ろうとしたんだ」

「それって……」

「最低な裏切り行為だよ。領地争いしているプレイヤーにとってはあってはならないことさ。それにいち早く気付いた僕がリーファちゃんと相談して、彼女の活躍で上手くそれは阻止できたんだけど……当然彼はスイルベーンから追放処分さ。そのことを恨んでるんだよ」

「……それなら」

「割り込む、なんて考えちゃダメだよ。きっとそんなことされたらリーファちゃんにすっごく怒られるから」

「でも……」

「大丈夫、いざとなったら……僕がなんとかするよ。“その為に”僕はついてきたんだ。僕は怒られるのは慣れてるから」

 少しだけ笑うレコンに、エリカはようやくハッとなった。
 彼は……彼の中にあるその思いは。

「……レコンさん、あなたはリーファちゃんが……」

「……僕と彼女はリアルでも知り合いなんだ。でも、僕の気持ちが彼女に届くことは無いってもうわかっているんだ」

「そんな、そんなことは……!」

「いいんだ、彼女には、彼女の思い人がいる。それがわからない程僕も鈍感じゃない。だからそれは良いんだ」

 レコンが、今までに見たことのないほど穏やかな顔で微笑む。
 こんな顔もできたのか、というほどその表情は晴れやかだった。

「僕がなんとかあいつを引き付けて戦闘不能にするから……ここに残るつもりなら、怒るリーファちゃんを連れてルグルーに入ってよ」

「でも、じゃあレコンさんは……?」

「僕は……スイルベーンからやり直しかな、多分」

「そんな、それじゃあ……! それなら私が彼を……」

「うん、多分だけどエリカさんならシグルドを倒せるのかもしれない。でも、それをリーファちゃんは絶対に許さない」

「どうして……」

 エリカの不思議そうな顔に、レコンはクスっと笑う。
 彼女はああ見えて結構な頑固者なんだ、と。

「じゃあ僕は行くよ。そろそろ、リーファちゃんが押され始める」

「っ!」

 エリカは、そのレコンの背中に、かつてのアインクラッドの仲間の背中を幻視した。
 たくさんの仲間を失った。
 この世界では死んでも甦ることが可能だ。本当に死ぬわけではない。
 だからこの感情は大げさなものだ。頭の中でそれがわかっていても抑えきれない。
 安全なゲームといえど《死ぬ》ということに拒絶反応的な何かがエリカの中を駆け巡る。
 その時だった。



「もう一人プレイヤーが近くに来ています!」



 ユイの叫び声が上がる。
 それに、その場の全員が一瞬動きを止めた。
 しかしそれは文字通り一瞬のことで、一番早く我に返ったシグルドが隙の出来たリーファに左斜め上から袈裟切りにブロードソードを振るった。

「うっ!」

「死ねリーファ! お前の、お前のせいで俺は……俺はぁ!」

 強固な防御を貫けないリーファにはジリ貧で、今の攻撃は致命的だった。
 彼女のライフが残り二割程度にまで落ち込んでしまう。
 それで勢いづいたシグルドは目を血走らせ──そこまでシステムは表情を再現した──ブロードソードを強く握りしめる。

「もう少しだったんだ、あれが上手くいって、転生システムを利用すれば、もっと上へ行ける筈だったんだ! こんな、弱々しい風妖精(シルフ)などとはオサラバの筈だったんだ!」

「種族のせいじゃ……ないでしょう……!」

 いつもならどうにかクリティカルは避けられるのだが、ユイの言葉に一瞬動揺した隙を突かれたリーファは無防備なポイントを攻撃されてしまった。
 既に瀕死に近いリーファの、しかし消えぬ闘志をその瞳に見たシグルドはさらに怒りを露わにしてブロードソードを構える。
 このままでは、もう数分ともたない。レコンもそれを察して覚悟を決め、一歩を踏み出して……止まった。

「な、なんでお前がここに……!」

 ユイの言ったもう一人のプレイヤー。
 レコンの目には自分たちが通ってきた道から歩いてくる《そいつ》が目に入った。
 短く、剣山のように逆立てた炎髪というほどに燃え上がる赤い髪。
 広い額の下には灼眼の双眸。浅黒い肌に包まれた逞しい身体と猛禽に似た鋭い顔立ち。
 一目で超レアアイテムとわかる赤銅色のアーマー。身の丈近くもある巨大なソードを背負った……男性サラマンダー。
 その姿を見たシグルドまでもが、優勢のままにリーファを切り捨てようとした体勢のまま、固まってしまった。

「《ユージーン》……だと? 馬鹿な、何故奴がこんなところにいる!?」

「俺の《嫁候補》を殺されては困る。それは、俺の獲物だ」

「誰が嫁よ!」

「そうだそうだ!」

 突然現れたプレイヤーに、またもエリカはおいてけぼりをくらってしまった。
 しかもこのサラマンダーは今、聴覚野が正常ならばリーファのことを《嫁》と呼ばなかったか。

「言ったはずだリーファ。お前を倒した時、お前には俺と《結婚》してもらうと。安心しろ、プレイヤーホームは購入済みだ」

「知らないわよ! 貴方が勝手にした約束でしょそんなの! 無効よ無効!」

「そうだそうだ!」

 ユージーンの静かな声に、リーファは電撃のごとき素早さで噛みついた。
 そんなの無効、と。しかし対するユージーンは何処吹く風、と聞く耳を持っている素振りすら見せない。
 そのままスタスタと二人に近づいていく。
 シグルドは慌ててリーファにトドメを刺そうとするが、ユージーンの《魔剣》によってブロードソードは止められてしまった。

「悪いがやらせるわけにはいかないなシグルド、こいつを最初に倒したプレイヤーが嫁にする権利を得るのだから」

 「無いわよ!」「そうだそうだ! ……あれ? じゃ僕にもチャンスが?」「無いわよ!」というリーファと何度も取り巻きその一みたいな声をあげるレコンを無視し、先程までとは打って変わってシグルドにはユージーンが立ちはだかっていた。
 その姿を見て、エリカは確信する。ユージーンというプレイヤーは相当の手練れだと。
 彼からは、SAO攻略組の中でもトップクラスに近いような、それと同等のオーラのようなものを感じる。
 それこそ第六感、勘みたいなものだが、何となくアスナは強さを纏うオーラ、みたいなものを感じることには少しばかり自信があった。
 副団長、という役職だったせいもあるのかもしれない。相手を見る目は、それなりに鍛えられているという自負もある。
 シグルドはみるみる表情を変えていく。相手がユージーンでは分が悪いと分かっているのだろう。
 しかし瀕死に近いリーファなら、もう少しで殺せるのだ。彼はそのために、ここで一日張り続けていた。
 念のために仲間を世界樹近くのアルンに置き、彼女がまだ着いていないという報告を糧に、復讐の時を待ち続けていた。
 その念願が叶う、というこのタイミングで……現在ALOで《最強プレイヤー》と謳われるユージーンと何故剣を交えねばならないのか。
 ギリギリ、と苛立ちで歯を噛みしめる。そんな仕草さえ表現しているアバターの精度は見事だが、それに感嘆する気など彼には微塵も無い。

「このまま退くというのなら俺はお前には手をださん、しかし、退かないなら……ぬんっ!」

「ッッッ!」

「えっ」

 エリカは目を疑った。
 ユージーンの剣がシグルドの剣を《通り抜けた》のだ。
 そんな馬鹿な。

「ユージーンの剣は《魔剣グラム》。伝説武器(レジェンダリー・ウェポン)って呼ばれてて、この世界でも最高クラス、オンリーワンの限定武器だよ。その特性として、相手の防御を通り抜けちゃうなんていうチートじみた効果があるんだ」

 いつの間にか隣に戻ってきていたレコンが、驚愕しているエリカに説明する。
 エリカはグラム、と聞いて確か北欧神話に出てくる剣……などと記憶を掘り返していた。
 レコンの説明によると北欧神話から取ったのだろう《魔剣グラム》という銘のその剣は、相手の防御を《一段階透過する》というとんでもない特性、エクストラ効果《エセリアルシフト》が付与されている。

「剣を交えても、その剣を透過して相手へと刃が届く。この剣に対するには《聖剣エクスキャリバー》しかないと言われてるよ。それがどこにあるのかはまだわかっていないけど」

 レコンも説明しながら震えている。
 その目で魔剣の戦闘を見るのは初めてなのだろう。

「く、くそぉぉぉぉぉぉぉ!!!」

 シグルドは苛立ちから、撤退ではなく戦闘続行を選んだ。
 結果は……考えるまでも無かった。

「ふん」

 短く呆れたような声色で、ユージーンは息を吐く。
 刹那、ユージーンはやや細まっていた目を開き、剣を縦横無尽に振り払った。
 エリカの目から見ても《そこそこ》速い。
 シグルドはあっという間にやられてしまった。

「くそおおおおおおっ!」

 最後に叫び声を上げて、風妖精(シルフ)独特の死亡エフェクト、緑色の旋風が彼を包む。
 《エンドフレイム》と呼ばれる死亡エフェクトで、後には種族色である緑の炎がチロチロと魂のように残る。
 《リメインライト》と呼ばれるそれは蘇生猶予時間、つまりこうなってからおよそ一分以内であれば魔法やアイテムで蘇生可能なのだ。
 しかし彼を助けるものは無論おらず、一分後に彼のリメインライトは消えてしまう。
 それをややつまらなさそうに見届けたユージーンは、しかし剣を下げずに今度はリーファにその切っ先を向けた。

「さて、決着を付けよう。《あの時》のお前は俺相手に実に《十四秒》という健闘をしてくれたが、今のお前はどうかな」

「っ! やっぱそうなるわけ」

「安心しろ、蘇生はしてやろう。そのまま我が領地のホームへと連行するが」

「……冗談じゃない」

 リーファは未だHPが二割強程度だった。
 回復する暇が無かったわけではないが、シグルドとユージーンに気を回し過ぎて自身の状態回復を怠ってしまった。
 全快だったとしてもそこまで差はないかもしれないが。
 そのリーファの様子を見て、エリカはユージーンの前に立ちはだかった。

「なんだ?」

「結婚ってのは無理矢理するものじゃないですよ。たとえそれがゲームの中であっても」

「わかっている。だから条件を付けた」

「気持ちが第一です」

「俺は好きだ」

「リーファちゃんの気持ちを聞きましたか」

「もちろん」

 エリカはチラとリーファを見るが彼女はブンブンと首を振る。
 どうやらお互いの認識には大きな相違があるらしい。
 かといって彼は話してわかる相手ではないようだ。

「……仕方ない、かあ」

「なんなんだお前は。リーファの知り合いのようだが見たことの無い顔だな。そこを退く気はないのか」

「はい。どうしても彼女と戦いたいなら、まずは私を倒して下さい」

「エ、エリカさん……!」

 リーファの困ったような、驚いたような声が上がるが、エリカにももう退く気はないようだった。
 ユージーンは呆れたような顔でエリカを見つめる。
 今の戦闘を見ていて、万に一つでも勝ち目があると思っているのか。
 エリカ、という名前やこの姿はこれまで全く見たり聞いたりしていないことから、さほどの有名プレイヤーでないことはわかっている。
 ということはそこまで力が無いかゲームをやって日が浅いということだ。
 その程度のプレイヤーに自分が押さえられるわけがない。しかし、《王者》として君臨していると言ってもいいユージーンにとって、《挑戦》は例えどんなザコプレイヤーだろうと受けない訳にはいかなかった。

「良いだろう、三十秒、持ちこたえて見せろ。リーファの倍の時間だ。それなら彼女を諦めよう」

「わかりました」

 エリカはニコリと微笑み、すらりと細剣を腰の鞘から抜いて、

「っ!?」

 ユージーンが気付いた時にはHPが一割ほど減っていた。
 馬鹿な、と思う。何だ今の────《ありえない速さ》は。
 彼の目を持ってしても、初撃を全てとらえることが出来なかった。
 知っている者から言わせれば当然だろう。
 ALOがオープンしてから一年。初期からプレイしていたとしてもそのプレイ時間はせいぜい一年。
 エリカは、実に二年という時間、この細剣一本というスタイルで生き抜いてきている。
 文字通りの意味で《生き抜いて》きている。
 そんなの彼女のその姿を、誰が呼び始めたのか、瞬く間の光と形容しだした。

《閃光》

 そう呼ばれる彼女の、そのスピードと正確さは、ゲーム内で最大の反応速度を持つという《彼》をもってして、敵わないと言わしめるほど。
 その彼女の、本気のトップスピードの連撃を、そうやすやすとは防げない!

「な、なぁっ!?」

 速い、速い速い速い!
 だが、ユージーンがもっとも驚愕するのはそのあまりの速さよりも、正確さ(アキュラシー)だった。
 《剣を交えれば》その時点でユージーンの攻撃は通ったも同然だ。しかし、彼女はあろうことか、恐ろしいことに《剣を交えず》正確にユージーンの身体を貫いていく。
 同時に回避力が半端ではない。攻撃速度が速ければ間合いからの離脱速度も速い。
 彼女の攻撃を防ごうとしても隙間を縫うように貫かれる。
 ならばダメージ覚悟で攻撃しようとすれば彼女は間合いを素早く外す。
 ユージーンの攻撃が《当たらない》のだ。これでは、魔剣グラムの特性を生かせない。
 ユージーンは普段から決して武器の特性に頼ってなどいない。そのような物が無くても彼は十二分に強い。
 彼の剣技はALOの中でも一流と言って良く、全く同じ剣を使っての戦いだろうと負けることはほとんどない。

 だが。

 SAOで《最速》の名をほしいままにしていた彼女に、ALOでの常識は通用しない。
 彼女の鍛えられた《観察眼》が、この戦いを可能にしていた。

「もう三十秒は経ちましたよ」

 再び間合いを空けたエリカが、涼しい顔で言う。
 ユージーンはその顔を見つめ、静かに剣を鞘に収めた。
 前言は守る、ということだろうか。

「強いな、世界は広いといことか……名前は?」

「アス…………エリカです」

「そうか。エリカ、約束通りリーファの事は諦めよう。時間制限アリにすべきではなかったな」

 その言葉にエリカはホッとするのと同時に苦笑した。「ばれてる」と。
 余裕を見せていたエリカだが、長引けば負けるのはわかっていた。
 彼女は彼の全てのHPを吹き飛ばす事は考えず、三十秒を生き抜くことを戦いとしていたのだ。
 もしもうしばらく戦っていればエリカのスピードに慣れたユージーンは必ずや合わせてくる。
 それだけの戦闘センスを、彼は持っていた。
 そうなれば今のエリカでは恐らく彼を倒しきれなかっただろう、という予感が彼女の中にもあった。
 もし、ソードスキルがこの世界にあったならその限りでは無かったかもしれないが。
 だがこれで……とエリカが思ったのも束の間、彼の言葉はまだ終わっていなかった。

「その代わり」

「?」

「エリカ、お前が俺と結婚してくれ」

「………………はい?」

 ユージーンの言葉に、エリカは目をぱちくりと瞬かせた。
 何をイキナリ言うのだこの人は。
 その様子を見ていたリーファは呆れた顔をしていた。
 その顔は「私の時と一緒だ」と言外に物語っていた。

「えーと……リーファちゃんが好きだったんじゃ」

「無論。だが今この瞬間、お前の方が好きになった」

「はぁ」

「家は既にある」

「いえ、あの……」

「種族が違おうと関係ないと誓おう」

「だから」

「俺は強い相手が好きだ」

「人の話を」

「よし、今度お前を倒したら俺と結婚だ」

 エリカが必死に言葉を挟もうとする中、ユージーンはマシンガントークで自己完結してしまう。
 ああ、こうやってリーファちゃんの時も今の事態が引き起こされたんだな、と遅まきながら大体の全容を掴んだエリカだが、その彼女がお断りの声を上げる前に強い否定の言葉が洞窟内を木霊した。



「そんなのダメです! ママはパパとじゃなきゃダメなんです!」



 ユイがいつの間にか出てきて、ユージーンを睨み付ける。
 ユージーンは「何だこのピクシーは?」と不思議そうにしていた。

「ママも! 浮気はダメです!」

「ユイちゃん、大丈夫だよ。私にその気は全く無いから」

 アスナはユイを宥めるとハッキリと告げた。既に自分には心に決めた相手がいるのだと。
 そもそも、彼女の頭に《彼》以外の人と未来を共に歩む姿がイメージ出来ない。例え、それがゲーム内のことであっても。
 納得のいかなそうなユージーンはいずれその男と会ってデュエルすると口にしたが、彼は私よりもかなり強いですよ、というエリカの言葉にユージーンと周りは絶句していた。
 今のエリカよりもかなり強い、というレベルを想像できない。どんな化け物プレイヤーなのだそれは。
 似たような考えを持ちながら、ユージーンはその場を後にした。レコンが思いついたように「そういえばどうしてここに来たんだろう」という疑問を口にするとそのスピードは速くなり、みるみる姿は見えなくなった。
 苦笑しながら、三人+一人はようやくルグルーへと入る。今日はもう時間も時間なのでそれで落ちることとなった。
 目抜き通りを歩き、最初に見つけた宿に足を運ぶ。

「ママ、ママがログアウトするまで一緒に寝てもいいですか?」

 簡単なやり取りと明日の合流時間を決めて部屋の前でリーファ達とは別れた。
 部屋に入ると、すぐにピクシーの姿から元の姿に戻ったユイがエリカ──アスナに恐る恐る尋ねる。

「もちろん、おいでユイちゃん」

 先にベッドで腰掛けていたアスナは、喜び飛び込んで来るユイを両腕で抱き留めた。
 懐かしい質量。かつてアインクラッド二十二層のあの家で、何度も何度も味わったこの子の存在の証。
 決して忘れたくない、質量を持った大切な思い出。
 ログアウトするにはボタン一つでも可能だ。だがアスナはユイとこうしていたくてそれをしなかった。
 このゲームでは……というより大抵のVRゲームでは、一定時間以上仮想世界で眠ると自動ログアウトされる仕様が多く採用されている。
 アスナはその自動ログアウトに自身のログアウトを任せることにして、しばし娘の温もりに浸っていた。
 二ヶ月間、ずっと寂しかった。彼──キリトと本当の意味で会えないことが。
 戻ってきたのに、生きているという心地がしていなかった。そこに彼がいないだけで、かつてのように世界がグレーに染まってしまいそうだった。

(キリト君……私はここにいるよ。ユイちゃんもここにいるよ。後は、キリト君だけだよ……)

 会いたいよ、と心の中で呟く。
 会って、抱きしめて、キスして、彼の質量と温もりを感じていたい。
 今こうしてユイを感じているように。

「ママ、泣いているんですか?」

「っ、ごめんねユイちゃん、何でもないから」

「ママ……」

 ユイは強くアスナ──エリカのアバターだが、彼女にとっては母親であり、アスナだ──にしがみつく。
 アスナの寂しさを、少しでも受け持とうとするかのように。
 ありがとうユイちゃん、とアスナはユイの額に口付けして髪を撫でる。

「大丈夫ですよママ、きっと、きっとすぐにパパに会えます」

「うん……」

「パパのことだから、相変わらず暢気にその辺で買い食いしてるかもしれないです」

「うん、そうだね」

「パパったらきっと買い食いし過ぎて今頃お腹パンパンです」

「うん……うん……」

「パパはそれでもママの御飯はいつも一杯食べます」

「うん……」

「パパは全然苦しいって顔を見せないで美味しい美味しいって言ってます」

「…………」

「パパはママが大好きです」

「…………」

「……おやすみなさい、ママ。せめて、良い夢を見て下さい」

 瞳が閉じられ、ゆっくりと眠りについたアスナにユイは微笑む。
 アスナがシステムにその睡眠を検知されるまではまだ少し時間がある。
 それまで、出来る限りくっついていよう、とユイはアスナにしがみつく力を強めた。

「大丈夫、大丈夫ですよね、パパ……」

 不安そうなユイの声が静かに木霊する。
 感情模倣機能が、無理矢理その不安を吹き飛ばそうとアスナにしがみつく。



 アスナも、ユイもまだ気付けない。知る術がない。
 そのキリトの心が、今にも壊れそうなことに。
 これから、さらに追い打ちがかかってしまうことに。



[35052] ALO5
Name: YY◆90a32a80 ID:1a43ae77
Date: 2012/10/20 21:33


 リーファは部屋に入ると、ログアウトの前にメールを打ち込む作業に入った。
 《アルン》で待っているであろう《彼女》に現況報告をする。

「えっと……」


【今ルグルーにいるよ、何も無ければ明日中には合流できると思う。成り行きで三人パーティでそっちへ向かってる。遅くなってごめんね、シリカちゃん】


 彼女は怒らないだろうが、すぐに駆けつけると言っておきながらなんやかんやで遅れているのが申し訳ない。
 せめて状況を言っておこうと思いそのメールを送信して、リーファはベッドで横になった。
 良い時間だし、このまま寝落ちログアウトした方が楽だろう。目覚めた時は現実の朝だ。
 そう思ってリーファは瞼を閉じ、今日あったことをなんとなくゆっくりと反芻する。

 ……なんだこれ。

 すぐにその言葉が出てきた。漫画みたいな一日だった。
 ゲームの世界なんだから不思議というほどでもないが、この一年ここの住人と言って良いほどこの世界にいるリーファにとって、今日は久しぶりに刺激が強い一日だった。
 全てはエリカ、という会ったばかりのプレイヤーによるものだろう。

「エリカ……さん、か」

 どうしても、さん、と付けてしまう。
 付けるのが、自然になってしまう。
 恐らく、現実で自分はあの人をさん付けで呼んでいるのだ、という気がしてならない。

「明日会ったら、お礼を言わないと」

 だが、今は彼女の正体よりも感謝の気持ちを伝え忘れた事に申し訳なさを覚えた。
 ユージーンなどという、最強プレイヤーに正面から挑み、自分を守ってくれた。
 シグルドに関しても、彼女は動くつもりだったのだろう。全てではないが、レコンとの会話は聞こえていた。

 シグルドとは同じパーティにいた。彼の不遜さは余り好きではなかったが、確かに彼は強い。
 リーファは束縛されるのが嫌いだった。せっかく自由に飛ぶことの出来る翅があるのだから、何物にも囚われないで大空を好きに羽ばたいていたかった。
 だから彼のパーティに勧誘された際、パーティを自由に抜けられることと、狩りに参加したくない時は参加しないという口頭での約定を結んで参加した。
 ……破綻は速かった。彼は思った通り強い。しかしその不遜で傲慢な所がどうしても鼻につき、リーファとは衝突した。
 それを見たレコンが、そのやや根暗根性を遺憾なく発揮して彼をゲーム内で《毒殺》してやろうと彼を《ホロウ・ボディ》という透明化する魔法を使って尾行したらしい。
 その時に、レコンは見てしまったのだ。彼、シグルドがサラマンダープレイヤーと通じている事を。
 聞いてしまったのだ、彼が領主であるサクヤを売り、サラマンダーに恩を売ることで、近いうちに導入予定と噂の《転生システム》によって自らを現在最高勢力であるサラマンダーへと種族変えを行い、それなりの地位を用意してもらうと。
 それを知ったリーファは少しだけ迷った。この時に、丁度現実でネットを介して知り合った《シリカ》と世界樹を攻略する約束をしてしまい、すぐにでも合流すると言っていたのだ。
 しかし彼女は気にしないで、と言ってくれた。事件が解決するまで待ってるから、と。
 その為リーファは彼の罪の所在を糾弾した。彼女にとっては自由こそ全てで、領地争いにはさほど興味が無かったが、かといって自分の種族の、大好きになった場所を裏切りによって汚されたくないという思いはあった。
 レコンがバッチリ証拠を取っていたおかげで、シグルドの考えはすぐに白日の下にさらけ出され、彼は追放処分となった。
 速くこの件を片付けてしまいたかったという思いもあったせいか、全てはリーファが率先して行い、領主サクヤの判断も速かった。

 だが、それが余計にシグルドからの怨みを買う結果になった。
 彼は最後、視線で人を殺せるんじゃないかというほどリーファを睨み付けて、スイルベーンを去ったのだ。
 それが今日の結果を招いた。

 ユージーンについてはその数日前にまで事は遡るが、シグルドを含めたパーティでの狩り中に会い、戦闘になったことから、今思えばあれもシグルドの手引きだったのかもしれない。
 今日の二人にはやや顔見知りのような雰囲気も見受けられたので、その可能性は十分に考えられた。

「ふぅ、何かやだな……」

 こうしてみると、自由を求めていたはずが、知らぬ間にしがらみに囚われつつある。
 世界樹攻略の為に今回領地を出ることにしたわけだが、これによって少しは変わるだろうか。
 しがらみという名の糸を、引きちぎれるだろうか。
 蝶は蜘蛛の糸に絡まってしまうとそう簡単には助からない。
 そうはなりたくないとリーファは思う。

「VRゲームって、どんなゲームでもこうなのかな。それなら……《お兄ちゃん》はどう思っていたのかな」

 リーファ──《直葉》は、そんなことを思いながら、眠りに落ちた。





「……朝、か」

 明日奈/アスナは目覚めてまず、眠る前にはあった筈の身体にしがみついている娘の温もり、その質量がない事に溜息を吐いた。
 わかってはいたことだが、ゲームから出てしまえばユイと接触する術はない。
 SAOでなら、目覚めた後も彼女の抱きつくような重さが心地良かったりした。
 時々……いや大体半々くらいの確率でそれが彼、キリトの方にも向かっていて、いろんな意味で羨ましいと思ったりしたものだ。
 アスナは一度目を瞑ると大きく息を吐いて……起きあがる。
 今日は家庭学習を粗方片付けねばならない。流石に二日間《宿題》を無視したとあっては何を言われるかわからない。
 ALOで知り合った子とは夕方に合流する約束をしたことだし、今日はそれまで机の上に積まれた分厚い参考書類を片付けていこうと決める。

 味気の無い朝の通過儀礼を一通りこなして、机に向かい、用意された参考書を手に付けて数時間。
 そろそろお昼かな、などと時計を見ながらたった今全ての問題を終えた参考書を閉じる。
 あと二冊は同じような本が残っているため、合流時間までに全てを終わらせられるかは微妙だった。
 だがこのペースなら恐らく母親からの文句もあるまい。いくらあの母と言えどそこまで速度は求めていないはずだ。
 既に生まれ始めていたマージンにホッと一息吐き、この数時間を振り返る。
 一心不乱に文字を目で追い、頭の中をそれらで一杯にした。
 もともとこういった作業には慣れていたこともあるが、今は余計なことを考えたく無いという点でこの勉強は都合が良かった。
 溜息を吐いて椅子から腰を上げる。そろそろ昼食の時間だ、そう思ってリビングに顔を出して……絶句した。

「やあ」

 そこには、見たくない顔の男が座っていた。
 何故、この男が今ここに座っているのだ。

「須郷さん……来てたんですか」

 掠れそうになる声を必死に隠す。
 正直、一秒たりとも長くこの場にはいたくない。
 高そうなスーツを着込み、青と白のネクタイをして、ややブラウンがかった髪をワックスでしっかりとオールバックに硬め、フレームレスの眼鏡の奥に細く優しそうな目をした好青年。
 須郷伸之。アスナの父親が会社で信を置いている須郷さんの息子で、彼自身にも父は多大な期待を寄せている事がアスナにはわかっていた。
 だが、

「つれないね、昨日も君は食事の約束を反故にしていたし」

「……用事があったんです」

 アスナにとってこの男は嫌悪の象徴だ。
 嫌らしい欲を、両親の前では巧みに隠し、自分や兄の前ではそれをひけらかす。
 何より、その時の目と、爬虫類を思わせるような舌なめずりする癖が、アスナの生理的に受け付けなかった。

「ふうん、そうかい」

「それじゃ」

「食べていかないのかい? もうすぐお父さんも来るよ」

「……いりません」

 この男と食事など、御免だ。
 約束させられていたのなら嫌々でも参加するが、今日はそういうわけでもない。
 ここで一緒に食事する必要性を感じなかった。

「退院してまだ日が浅いんだろう? 食べておいたらどうだい」

「食欲が無いので」

 まさか面と向かって「貴方とは一緒に食べたくない」と言うわけにもいかないアスナはさらに断りを入れる。
 さっさとここを離れたい、という思いがどんどん膨れあがっていく。
 アスナは彼に背を向け、足早に去ろうとしたところで、須郷は嘲笑が混じったような声でポツリと口を開いた。

「彼、桐ヶ谷君って言ったっけ?」

「っ!」

 アスナは足を止めて振り返る。優しそう、と形容した目は《やはり》、一瞬で爬虫類……いや肉食獣が捕食物を見つけた時のような目に変わっていた。
 その目、視線が舐めるようにアスナの全身を視姦しているような錯覚を彼女は感じる。いや、錯覚などではないのかもしれない。

「どうして……」

「君の両親が話していたよ、よくお見舞いに行っているそうじゃないか」

 楽しそうな口調にはやはり何処か嘲りが混じっていて、アスナを苛立たせる。
 この男の口から、彼の名前が出たこと自体、アスナは生理的不快感を持っていた。

「彼、SAOでは君のなんだったんだい?」

「貴方には、関係ありません」

「ふむ、それもそうか。いや気になったものだからね、つい」

「SAOサーバー内の事は国のお役人さんからも口外しないように言われているので、みだりに口にしない方がいいですよ」

 ……特に自分の前では。
 アスナは吐きそうになるようなこの男との会話を、必死に耐えながらそう返した。
 出来れば、もう二度とこの男から彼の名前など出て欲しくない。

「そうだったね、これは失礼。でも心配だよねぇ、せっかくSAOはクリアされたって言うのに目覚めないなんて」

「……」

 全く心配そうではない、心にもないような声色で言われる言葉に、吐き気が倍増する。
 意識が沸騰しそうになる。いい加減、この男の声を聞いているのが不快だ。
 そもそも彼の名前が出たからと言って足を止めたのがまずかった。さっさとここを離れよう。

「ところでさ」

 そう思っているのに、この男はどうやらまだ会話を打ち切らせる気が無いらしい。
 身体が震える。怒りにも似た激動が体内を滝の激流のごとく駆け巡る。

「そのSAOって今どうなってるんだろうね?」

「……どういう意味ですか」

「SAO事件の後、開発元のアーガスが解散したって話は知ってるかい?」

「……話だけは」

 ソードアート・オンラインを開発していた茅場晶彦の会社は、膨大な賠償金を求められ解散を余儀なくされた。
 それはアスナも話としては知っていることだ。

「ん、良かった。知っていて。それじゃあその後、SAOサーバーはどうなったか知ってるかい?」

「え……」

 アスナはあまりそういった方面に詳しくない。先の話も自分が目覚めた時に大々的にニュースで取り上げられていたのを偶々見ただけに過ぎない。
 考えたことも無かったが、普通に考えれば、国が預かり保障しているのではないだろうか。
 そんなことをアスナが考えていると、

「今現在、SAOサーバーの維持、管理を任されているのは《レクト》だよ。当然僕は部門的にもそこの統括管理主任ということになっている」

「ッッッ!」

 驚くべき事実を知らされる。
 この男が、現在SAOサーバーの管理者。
 ここにきて、彼が珍しく長々と自分と話をしていたことをアスナはようやく理解した。

「どうする……気ですか」

「別に? ただねぇ、君も目覚めたことだし僕にとってはこれ以上負債しか生まないあのサーバーを維持する意味ってあんまり無いんだよねぇ、当然会社なわけだから利益を求められるわけでさ、そろそろ部下達の不満や上からの圧力にも耐えかねちゃいそうでね、ここは一つ、サクッとサーバーを止めちゃおうか……なんて」

「……!」

「ククク……君もそんな顔をするんだねぇ」

 須郷の言葉に、一瞬にしてアスナは恐怖を顔に貼り付けた。
 万一、SAOサーバーに手を出して、その中に未だ囚われている人達に……彼に何かあったら。
 そう思うと恐くて仕方がない。

「そんなこと、出来るわけが……」

「うん、そうだね。でもそれは技術的に不可能なんじゃなくて、やらないだけで《出来ない》わけじゃない、この意味、賢い君ならわかるだろう?」

「……何を、させる気?」

「随分と恐い目で見るんだね、もう一度わかりやすく言っておこうか。今、彼……桐ヶ谷君の命は僕が維持していると言ってもいい」

「っ!」

 いやらしい笑みを貼り付けた捕食者を気取る目に、アスナは何も言えなくなる。
 この男は、彼、キリトを人質だと暗に言っているのだ。不用意な真似は……出来ない。
 その時だった。

「すまんね須郷君、おお明日奈、丁度良かった。これから食事なんだ、一緒に食べないか」

 明日奈の父、レクト・プログレスのCEO、結城彰三がリビングに現れる。
 須郷は立ち上がり頭を下げつつ先程までとは打って変わった本物の《ような》笑顔で軽く答える。

「いえ社長、全然待っていませんよ。明日奈さんは私も誘ったのですが少々体調が優れないそうですので」

「そうなのか。大丈夫か明日奈?」

「……うん」

「本当に具合が悪そうだな、出来ればせっかくの機会だし昨晩の話も詳しくしておきたかったのだが」

「社長、急ぐ必要はありませんよ。私はいつまででも待つつもりです。気持ちが第一ですから」

「そうかね? うむ悪いな須郷君」

「いえ」

 微笑む須郷に気をよくした明日奈の父、彰三は、その後少々気まずそうに明日奈に振り向く。
 やや視線を泳がせながら彼は娘の名前を呼んだ。

「あー、明日奈」

「何? お父さん」

「今すぐというわけではない。だが、お前は将来……この須郷君と結婚してもいい、とそう思えるかい?」

「ッッッ!? な、なん……でそん、な」


 自分が、彼、キリト以外の男性、それも──嫌悪の象徴でしかないこの男と結婚?


 絶対に嫌、と即座に否定したかった。
 否定しなければいけなかった。
 だが、須郷の目が、面白そうにアスナを見つめていた。
 その返事如何では、どうなるんだろうね? とそれは言外に物語っていた。
 SAOサーバーの話をされた後とあっては、迂闊な事を言う勇気を、アスナは持てなかった。
 今アスナに出来るのは、悔しいことに、とりあえずの《逃げ》だけだった。

「ごめん、なさい……お父さん、今は、ちょっと気分が悪いから、そんなこと、考えられない」

「そうか、悪かったなこんな時に。部屋に戻って休みなさい」

「……はい」

 アスナはビクビクと震えながら、リビングを後にする。
 突然の事に本当に顔色が悪くなったアスナは、幸いにも父親に不審がられず、純粋に体調を心配されながらリビングを《脱出》出来た。
 アスナのいなくなったリビングからは、父親と須郷の楽しく談笑する声がアスナの耳にも届く。
 それを聞きたくなくて、耳を塞ぎながら足早にアスナは自室へと移動し、ベッドに飛び込んだ。
 不意に、涙が零れる。

「キリト君……会いたいよ、キリト君に、会いたいよ……!」

 そこにいない彼が、アスナは恋しくて仕方がなかった。
 彼の温もりに触れ、安心したかった。
 彼さえいれば、他に何もいらなかった。

「キリト君……っ!」 

 ギュッとシーツを強く掴む。
 彼女の枕が、涙で濡れた。










「いらっしゃい」

 店のドアを開けて入ってきた少女に、店主である大柄で浅黒い肌にスキンヘッドの男性──エギルは笑顔を向けた。
 その手はグラスを丁寧に磨いている。
 店の名はダイシー・カフェ。喫茶店とバーを兼ねたような店だが、その境は曖昧だ。

「お久しぶり、ですねエギルさん」

「そうだな、元気だったかシリカちゃん」

「はい」

 彼女は小さく微笑んで頷く。
 エギルが小さく手招きして目の前のカウンター席を指差し、それの意図を理解した珪子/シリカはとてとてとカウンター席に腰掛けた。
 シリカはゲーム内でもそうだったようにツーサイドアップに髪を留め、上は黄色いセーターを着込み、下は長めのスカートという出で立ちだ。
 エギルは磨いていたグラスを置くと、奥の冷蔵庫からオレンジジュースの瓶を取り出してトクトクと注いだ。

「これは俺の奢りだ」

「良いんですか?」

 ああ、と微笑むエギルにシリカは「ではいただきますね」とグラス取り、口を付ける。
 途端、目を丸くした。

「す、酸っぱい……」

「はっはっはっ、そうだろう? 本来の百パーセントオレンジジュースってのはそんなもんなのさ」

「うぅ」

「待ってろ、今薄めてやるから」

「お願いします……」

 エギルはイタズラが成功した子供みたいに笑いながら改めてオレンジジュースをシリカの前に置いた。
 今度は普通のオレンジジュースだ。

「それにしても……驚きました」

 普通の味になったオレンジジュースに口を付けたシリカはグラスを置いて、意外そうに呟く。
 今日ここに来たのは、彼から連絡があったからだ。

「まあ何人かは現実でも連絡を取れるようゲーム内で連絡先を交換していたし、偶然俺のことを担当した国の役人が話せる奴でな、と言っても完全に信用できそうな奴では無さそうだったが……そいつに情報提供の代わりに俺の提示するプレイヤーの連絡先を教えてくれるように頼んだのさ」

「ああ、それで……」

 彼から連絡があった、とは実は正確ではない。
 正確には自分と連絡を取りたいというSAOでのプレイヤーがいるが、引き合わせても良いか、連絡先を教えても良いかという問い合わせが総務省SAO事件対策本部から彼女に来ていた。
 相手の名前がエギルだと聞き、また彼の連絡先を先に教えられ、簡単に本人確認を取って今日二人は再会する運びとなったわけだ。

「まあ商人だったせいもあってな、仲の良かった奴の安否は気になって……ってわけだ」

「そうですか、でも私もこうやって現実でも会えて嬉しいです」

 シリカはSAOでよくよくエギルのお世話になっていた。彼が中層プレイヤー支援に力を入れていたおかげかもしれない。
 稀に店でキリトに会えるせいもあって、シリカは店に通っているうちにエギルとも打ち解け、エギルが行おうとしていたキリトのマイナスイメージ、ビーターの悪名払拭を少しばかり手伝っていた。
 シリカにとってもキリトは恩人だ。彼の力にはなりたかった。
 もっとも、もし本人の耳に入れば絶対「そんなことはしなくてもいい」と言われるだろうが。

「お互い無事で何よりだ」

「そう、ですね……」

「どうした?」

「あ、いえ……」

 シリカは少し悩み、しかしエギル相手ならばいいか、と話すことを決めた。
 だいたい、いつも二人の共通の話題は彼から始まり彼で終わるのが通例だ。

「キリトさんのことを、エギルさんはご存じですか?」

「……シリカちゃんは知っているのか?」

「はい」

「……どうやって知った?」

「その様子だと、エギルさんも知ってるんですね?」

「……どこまで知ってる?」

「どこまで? いえ、私が知ってるのはまだ目覚めていないってことくらいしか……他に何かあるんですか?」

 意外そうにシリカが尋ね、逆にエギルは少しだけ苦々しい表情に変わった。
 少ししゃべり過ぎた、という顔だ。
 咄嗟に、シリカには何かあるという直感が働いた。

「何か知ってるなら、教えてください」

「その前に、シリカちゃんはどうやってキリトの事を知ったんだ?」

「偶然、みたいなものです」

「偶然?」

「はい、例のSAOサイト、知ってます?」

「ああ、あのサイトか。結構生還者プレイヤーが出てるな」

「退院してからあそこに私も時々顔を出していました。そこで、SAOの事を尋ねている同じ年くらいの女の子と知り合ったんです」

「女の子?」

「彼女は、偶然にもキリトさんの妹でした」

「な……!? そんなことが……」

「私も最初は信じられませんでした、でも、キリトさんから聞いた、キリトさんの家族しか知らないであろうことを彼女は本当に知っていたんです。それで私は確信しました」

「その子のリアルネーム、わかるか?」

「はい」

「直葉、かい?」

「!? 知ってるんですか?」

「名前だけはな、良かった。本当に本物のようだな」

 エギルはホッとする。
 そういった類の詐欺やら何やらは警戒しすぎて困ることは無い。

「で、その子からまだキリトは目覚めていないと聞いた、と」

「はい。直葉ちゃんは少しでもキリトさんの事を調べるためにあの掲示板で情報収集していたみたいでした」

「なるほどな……」

「今度はエギルさんの番ですよ」

「む……」

 エギルは少し困った顔をした。言ってもいいかと迷っているようだ。
 しかしこちらは話したのだから、聞かねば割には合わない。
 そんな視線でエギルを見ていると、彼は諦めたように溜息を吐いた。

「わかった。ただし、言えないこともある」

「どうしてですか?」

「他のプレイヤーが関わっているからさ。そのプレイヤーの情報は伏せさせてもらう。別に悪い相手なわけじゃないが、勝手にそいつの情報を漏らすのはいろんな意味でまずい」

 その理由にはシリカも頷けた。
 仮にエギルがシリカの事で知りえた情報をバンバンと勝手に他人に回していたらと思うと良い気はしない。
 それには納得せざるを得なかった。

「わかりました」

「よし。じゃあまず俺がキリトのことを知っていた件についてだが、大まかなことはそのプレイヤーから聞いたのさ。妹のことも含めてな」

「なるほど」

 ではエギル自身よりもそのプレイヤーがキリトに近い所にいる、ということだろうか。
 一体誰だろう? とシリカは脳内で知っているプレイヤー名簿を検索する。

「ここまではお前が持っていた情報と中身はほとんど同じだ。んで次がこれだ」

 エギルはそう言うと、数枚のカラープリントされた紙をカウンターに取り出した。
 ややドットが荒いそれは、無理矢理大きさを引き延ばしたものだろうと予想がつく。
 その紙には、長い黒髪の女の子と思われるような誰かが檻の中にいる、というものだった。

「これがどうしたんですか?」

「……やっぱ《普通》はそうだよなあ」

「???」

「よーく顔を見てみろ」

「顔……?」

 言われてからシリカはじぃぃっと顔を注視する。
 荒い映像からはやや判別がしづらいが、不満そうな顔をしていて……少しばかりボーイッシュにも見える。
 そう、例えば、キリトの髪を長くしたらまさにこのような感じに……。

「え、そんな、まさか」

「ああ、俺も似たような心境だった」

「これキリトさんなんですか!?」

「わからん」

 シリカのやや裏返ったような声に、エギルは肩をすくめた。
 本当に彼にもわからないらしい。

「でも直葉ちゃんはまだ入院してるって……これ、どこで撮られたものなんですか?」

「ゲームの中だよ、アルヴヘイム・オンラインっていう」

「えっ」

 途端、シリカは言葉を失った。
 そのゲームは今まさに、彼女が手掛けているゲーム名だった。

「んで、さっき言ったプレイヤーってのが、一目見て相当自信満々にこの写真の相手はキリトだって言い張るんだよ。今頃その事実を確認するために頑張ってる頃だろうさ」

「……あの」

「ん?」

「私も、今そのゲームやってるんです」

「は……? な、なんだと!?」

「しかも、直葉ちゃんと一緒に」

「お、おいおい……マジか」

 流石のエギルも口をポカンと開けて驚愕の顔を隠せないでいた。
 それは……なんていう偶然なんだ?

「これ、アルヴヘイムの何処で撮られたものかわかっているんですか?」

「確か、世界樹って呼ばれるゲーム最終目的のでっかい樹の上の方、って話だ」

「……私、そこの攻略に近いうちに行くんです、直葉ちゃんと。早ければ今日か明日にでも行くことになると思います」

「……偶然、なんて言葉じゃ片づけられないような話だな」

「はい……あの、エギルさん」

「ん?」

「やっぱり、そのプレイヤーの名前、教えてもらえませんか」

「……向こうで協力するつもりか?」

「もし、その写真の人が本当にキリトさんなら、協力したいです」

「……後悔しないか?」

「……はい」

 シリカはしっかりと頷き、真っ直ぐにエギルを見る。
 エギルはその真摯な眼差しに自身の後頭部を軽く撫でた。

「これだから俺はアルゴの真似事はできねぇんだよなぁくそ。本当は勝手に教えちゃまずいんだろうが……」

「……」

「ええい、わかったよ。教えておく。そのプレイヤー名は《アスナ》さ」

「え……アスナって……」

「血盟騎士団の副団長、加えて言うなら、ゲーム内で最後はキリトと結婚していたよ」

「け、結婚……!?」

 それは初耳だ、とシリカは耳まで真っ赤になる。
 まさかキリトがゲーム世界で結婚しているとは思わなかった。
 知っているなら教えてくれても良かったのに。

「まあ結婚のことまで知っていたのはプレイヤーでも本当にごく一部だ。二人は有名だからな、必死に隠そうとしていたよ」

「まあそうでしょう、ね……」

 それは頷ける話だ。
 血盟騎士団の閃光アスナ、と言えばSAOでも一、二を争う美人プレイヤーで、その強さもトップレベルだと聞く。
 キリトもビーターという悪名こそ先行していたが、その強さは折り紙つきで、最後には非公式だがファンクラブまでできてしまったほどなのだ。
 ちなみにシリカとエギルは二人とも早期にそのファンクラブ、《FCKoD》に参加していたりする。
 シークレット写真と銘打たれた写真の半分程度はエギルがこっそり撮ったものを提供して儲けていたのは余談だろう。

「そっか、そのアスナさんがキリトさんを捜してるのか……」

「まあ、あいつら本当に最後は……いや、なんでもない」

「……」

 エギルは口を閉ざす。やはり言うべきことでは無いと判断したのだろう。
 それが、彼らに配慮してなのか、それともシリカの内心を配慮してなのかは定かではないが。

「……とりあえず、向こうで会えたらそれとなく話してみて、協力できそうなら協力してみます」

「ああ、わかった。何かあれば連絡をくれ。俺もいくらかはSAOプレイヤーとの伝手があるからな、協力できることは協力するさ」

「わかりました」

「それとだな」

「……?」

「絶対にキリトだって保証があるわけじゃないんだ。とりあえずはそのゲームを純粋に楽しむことを考えた方がいいぞ」

「……はい、ありがとうございますエギルさん」

 簡単な挨拶を済ませて、シリカはダイシー・カフェを出た。
 胸の中には少しばかりの寂寥感が渦巻いている。
 それは、恐らく久しぶりに会えたエギルとの別れを惜しむ物ではない。

「結婚、かあ……」

 一つの、小さい思いが、人知れずにピリオドを打たれ、もう顔を出すことがない、ということ。
 最初に宣言したとおり、後悔は無い。後悔は無いが、やっぱり、ちょっとだけ、胸が痛い。
 釣り合わないとは思っていた。思いも届かないとわかってはいた。
 でも、それが決定的になると、やっぱり辛いものだ。

「いいもん、私には……ピナがいるもん。現実でも《あっち》でも」

 気丈に背筋を伸ばして、シリカは帰途につく。
 リーファ/直葉からのメールで、速ければ今夜、もしくは明日の晩くらいにはアルヴヘイムのアルンで合流出来る。
 そうしたら、目一杯頑張るんだ、と心に決めて。
 ついでに、本当についでに、そこでキリトに会えることを、少しだけ期待しながら、シリカは家に着くまで無理矢理背筋をピンと伸ばしていた。
 涙は、最後まで流さなかった。










 妖精王オベイロンは、少々肩透かしを食らっていた。
 今日はどのようにして《彼》をいじり倒してやろうかと考えながら意気揚々と仮想世界の牢獄に赴いてみれば、閉じこめていた《玩具》は力なく項垂れたままだ。
 いつもは最低限不機嫌そうな顔をするか、寝ているか、馬鹿な逃走方法を考え実践しているかで、その滑稽さに笑わせてもらえるのだが。
 どう見ても《少女》にしか見えない男性アバターの《彼》は、妖精王の気勢を大いに削いでくれた。
 それは妖精王の求めるところではない。彼はこれまで実に良い玩具ぶりを発揮してくれていた。まだもう少しはそのままでいて欲しいものだったのだが。

(前回はちょっと加減を誤ったかな、まあいい。《壊れる》ならそっちの《プラン》を繰り上げてこいつを使うだけだ)

 妖精王は前回の彼との戯れに、少々失敗を感じながらも修正は可能だと脳内決済を回す。
 《どう転ぼうと》彼には実用的な使い道がある。そう妖精王は思っていたし、事実そうなるよう《プラン》は組まれている。
 さらに趣味……というよりも実に丁の良いストレスの捌け口、サンドバッグにもなるのだからエコロジーなことこの上ない。
 仮想世界ではエコロジーも何も無いが、研究の一環として使える上、自分の苛立ちやストレスの矛先としてこれ以上無いほど最適な彼はまさに一石二鳥にも三鳥にもなる。
 妖精王としては彼にはもう少しの間はそのまま頑張って自我を保ってもらって、研究《ついでに》自分の玩具に徹してもらいたかった。
 玩具が玩具の体を為さなければ研究と《交渉材料》にしか使い道が無くなる。それでは妖精王オベイロン自体は楽しめない。
 付加価値的なものであったはずのそれだが、今や妖精王にとってはそれこそが自身にとっては一番比重を占める彼の利用価値だった。
 といっても彼も馬鹿ではないし、立場や状況を蔑ろにするほど自己欲求に忠実でもない。使えなくなったのなら泣く泣くとはいえ切り離す。
 それが彼の利点であり、今の地位を築くまでに至った一つの要素だろう。
 だから、もしかすると今日が最後かな、などと思いながら彼は今日も少女のような少年、《キリト》で楽しむ作業に入った。

「今日はこれまた随分と沈んでいるじゃないか、僕としても元気の無い桐ヶ谷君は気味が悪い。ガラにも無く心配をしてしまうよ」

「……」

「だんまりかい? 君が初手からだんまりを選ぶのは非常に珍しいね」

「……」

「聞いているのかい?」

「……」

「おい」

「……」

「聞いているのかと言ってるんだ、いつまで僕を無視する気だ? 随分と偉くなったもんじゃないか」

「……」

「玩具は玩具らしく持ち主の思い通りに動いていれば良いんだ、今は口を動かせと僕は命令してるんだよ」

「……」

「チッ、システムコマンド! 《ペイン・アブソーバ》、対象のレベルを8へ変更」

 いつまでも項垂れたままのキリトに業を煮やした妖精王オベイロンは、システムの痛覚遮断レベルを変更する。
 まだツマミ二つ程度だが、これを弄る事によって仮想世界内なら通常死ぬほどのダメージを受けても僅かな不快感しか感じない筈の痛覚を、本当に伝え、感じさせる事が出来る。
 キリトの状態設定を変えると、妖精王オベイロンは《木刀》を手元に《生産(ジェネレート)》し、それをキリトの左肩に勢いよく叩きつけた。

「っ!」

「ほら、声を上げろよ」

 ベッドに腰掛けたまま項垂れていたキリトは木刀の激しい鈍打に僅かに声を漏らして体勢を崩し、白いタイルの上に倒れる。
 それを舌打ちしてつまらなさそうに妖精王オベイロンは眺めた。
 彼からの期待したような反応は窺えない。本当に潮時のようだ。つまらない。

「なんだよ、もう壊れたのか? あっけなかったな」

「……」

「今日は約束通り君の病室へ明日奈と行って結婚報告をしたから、それをわざわざここまで足を運んで教えに来てやったのに」

「……」

「君には妹もいたんだねぇ、祝福してくれたよ」

「……」

「君の目の前で結婚報告をして、頭を下げた。いや実に笑えたよ、君とこうしてここで何度も会ってるからね、笑いを堪えるのが大変だった」

「……」

「最後は君の前で明日奈と誓いのキスを交わしたよ、彼女なんて言ったと思う?」

「……」

「ごめんね和人クン、だってさ、アハハハハハハ!」

「……?」

「……なんだ?」

 キリトはこの時初めて、妖精王の言葉に反応した。
 不思議そうな顔で、彼を見つめる。

「何か言いたい事があるのかい?」

「……アスナが、そう言ったのか?」

「ああそうだとも。残念だったねぇ桐ヶ谷クン!」

 再び反応を示し始めたキリトに妖精王は気を良くした。
 なんだ、まだ使えるじゃないか、と。

「彼女は少しだけ震えていたよ、罪の意識に似たものもあったのかもしれないねぇ」

「……」

「でも僕の口付けで彼女はもうメロメロさ。ごめんね和人クン、は最高の別れ言葉じゃないか?」

「……アスナが、本当にそう言ったんだな?」

「しつこいな、そうだって言ってるだろう? 信じたくない気持ちはわかるがねぇ、アハハハハハ!」

「……そうか」

 キリトは起きあがり、再びベッドに腰掛ける。
 だが、その目は少しだけ、本当に少しだけ輝きを取り戻していた。
 オベイロンは彼がまだ使えることに満足してこの牢獄……《人籠》から出て行く。
 その背中を見つめながら、キリトは僅かだけ希望を見出していた。

 ──和人くん。

 どうしても、キリトには彼女が自分のことをそう呼ぶ姿をイメージ出来なかった。
 彼女の口から発せられるのはいつだって「キリト君」なのだ。
 それ以外の呼び名を、キリトは考えられなかった。
 とすれば、全てはあの妖精王の狂言の可能性がある。そう思うと、少しだけ、本当に少しだけ希望が見えた気がした。



 だからだろう。
 脱出を試みよう、なんて《思ってしまった》のは。

 それが彼の精神を崩壊させる序曲に繋がろうとは、僅かな希望に縋り付きたかった彼には、思いもよらなかった。



[35052] ALO6
Name: YY◆90a32a80 ID:1a43ae77
Date: 2012/10/27 00:51


 和人/キリトが、最初に自分で自作PCを組み立てたのは六歳の時だった。
 その姿を見て、彼の母親は──正確な血縁上は伯母だが──言ったものだ。

「私のPCマニアの血が遺伝したのね、精神的に」

 それの意味を正確に理解できたのは十歳の時だった。
 キリトが興味本位で調べた住基ネットの自らの情報の抹消記録。
 それが、自分は本当の家族ではないということの証明だと分かった時、周り全てが作り物に見えてしまった時期がある。
 故に、キリトは以降ますますPC環境、それもネットに深く埋没するようになった。
 ネットでの他人との関係は、作り物が前提だ。それならば、立場は皆同じだと、そう思っていた。
 今ではそこまで卑屈じみた考えはない。
 もっとも、そうきちんと思えるようには何の皮肉なのか、SAOでの経験によるものが大きい。
 SAOでの他人との関わりは、全てが本物だった。今ならそう思える。
 どんなに皮をかぶっても、中に本当の人間がいることに変わりはない。
 そんな、当たり前で簡単なことに気付けていなかった。今なら少し疎遠になっていた妹──血縁上は従妹──とも、きっと仲良くできる。
 キリトはそう思いながら、《人籠》にある唯一のドア、そこに付けられている金属のプレートと睨めっこしていた。
 十二個のボタンがそこには陳列されている。
 このプレートが液晶で、少しでもシステムを弄る為のものなら、キリトにも僅かに希望はあった。
 しかしこのプレートは純粋にボタンだけの開閉装置でしかない。
 それ故、キリトは早々に正攻法を半分諦め、システムプログラムの穴を探すべく二ヶ月間奮闘していたわけだが……結論から言うと無駄だった。
 その様がオベイロンに言わせると滑稽で彼を非常に楽しませたりしたのだが。
 傍から見れば滑稽そのものだったことだろうという自覚はキリトにもある。
 まず彼はデバックミスを期待してありとあらゆる壁に突撃をかましてみた。実際に販売されるようなゲームのテストプレイには同じ壁にキャラクターを数百回ぶつけて通り抜けてしまわないか、という確認テスト作業があったりする。
 それのデバッグが完璧ということは実はほとんどない。その穴を必死に探してネットで公開するような暇……もといやる気と根気のあるゲーマーも世の中にはいるほどだ。
 とりあえずキリトはありとあらゆるオブジェクト、壁、システム障壁、それらに突撃した。

 ──その結果は、ここにまだ囚われている事が言わずとも答えになるだろう。
 穴はどこにも見つけられなかった。これが娯楽目的でここにいるのならその完璧ぶりに舌を巻くが、そうでは無い以上憎々しいことこの上ない。
 ならば、と次にキリトはありとあらゆるポーズを試した。
 右手左手を何度も振るのはもちろんのこと、およそ考えうるシステムメニューを呼び出す動作を試してみた。
 結果はやはり成果ゼロだった。メニューを開くこともできない。
 彼の企みはシステムの裏をつくことだけにとどまらなかった。何とか人籠の檻を上まで登り、そこから下へとダイブ。
 床……タイルももちろん破壊不可能オブジェクトであることは確認していた。しかし彼の目的は破壊ではなかった。
 床に激突するのと同時に「ぐわあああ!」と痛がる声をだし、バタリと倒れる。キリトは実にそのまま三時間、横になったまま過ごした。
 三時間後に、オベイロンが呆れた顔をして部屋に入ってきた時、言ったものだ。

「君ねえ、君にはHPも無ければペイン・アブソーバで痛みも感じないんだよ? 馬鹿な寸劇をやって恥ずかしくないのかい?」

 ……すごく、恥ずかしかった。
 だがそれが妖精王をより楽しませ、彼のお気に入りとなっていく要因でもあった。
 閑話休題。
 そんなこんなでありとあらゆる手を尽くしキリトは脱出を試みたが結論は「無理」だった。

 ……これまでは。

 最初に諦めた正攻法。
 それを行うために必要なファクター、すなわち暗証番号を見ることにキリトは成功した。
 よっぽど機嫌が良かったのだろう。加えてキリトの様子から《そんな元気はもうない》と思われたのだろう。
 彼は背中に視線を浴びながらプレートを操作した。

「まさか、バッチリ見てる中で押すとはなあ……これまでの二ヶ月はなんだったんだ……」

 キリトはそうぼやくが、これがかなりの幸運だということは理解していた。
 恐らく、今日以外ならこんな幸運には恵まれなかっただろう。オベイロンとて警戒心はそれなりに強い。
 だからこそ今までは正攻法を諦めていたのだから。
 しかし、キリトも全て思い通り、とはいかなかった。

「……8……11……」

 ボタンを押して、あと三つというところまで来て、迷う。
 実は、キリトはラスト三つのボタン操作が見れなかった。
 角度の問題だったのだが、無理矢理見ようとして不信がられるのも上手くないと思い、キリトは抑えた。
 結果、あと残っている数字は2・3・9の三つとなるところで、手が止まってしまう。

「確率的にはまず三分の一か……」

 おおよそ三十三パーセント。
 得てしてゲームでは低いとは言えない数字ではあるが……、

「リアルラックが試されるな……う~ん三分の一だし、3いってみようか」

 キリトは恐る恐る3を押してみる。
 ………………クリア。
 ……どうやら当たりのようだ。三分の一の確率、三十三パーセントの壁を見事乗り越えた。

「ふぅ」

 息を吐いて、再び迷う。
 かといってこういうのは入力の間隔が開きすぎるとエラーになってしまうので、時間はかけられない。
 次に押すのは2か9か。どっちだ……?
 確率的には二分の一、五十パーセント。半分の確率で当たり、半分の確率で外れる。
 ムムム、と悩んだキリトは奥の手を使うことにした。

「ど・ち・ら・に・し・よ・う・か・な・ア・ス・ナ・の・い・う・と・お・り・!……っと」

 指を交互に振って、キリトは選ばれた数字……2を押した。
 ……クリア。当たりのようだ。流石アスナだ、などとキリトは笑みを零す。
 最後に9を押して、ガシャン……とキリトを閉じ込めていた《人籠》の重い錠はようやく開くサウンドを発生させた。

「良く考えれば最後は2・9……肉、か。アスナのご飯、食べたいなあ……」

 ホッとしたせいで気が緩んだのか、はたまた余裕を取り戻したのか、キリトはこの二ヶ月で初めてそんなことを思う。
 自分にしては珍しく、これまで食事についての欲望が湧きあがってきていなかった。
 なんとなく、非常に良いことのように思える。自身の心が平常運行になりつつあるとキリトは自覚する。
 僅かに開いた扉を手で押し広げて《人籠》から出る。それだけで、空気が変わったような気がした。

「でかい樹だな……」

 世界樹、と呼ばれているだけあって、その樹は途方もない大きさだった。
 自分が今立っているのは一つの小さい枝に過ぎない。現実では本当にありえない大きさだ。
 キリトはとりあえず、巨木の幹に向かって枝の道を歩く。途中にシステムコンソールか何かは無いかと思いながらキョロキョロと首を回すが、残念なことにそれは見つからない。
 足下は本当に樹の上を歩いているような感覚で、幼い頃の木登りの記憶が蘇る。
 大きな世界樹の葉をひょろりひょろりと避けながら、そんな僅かばかりの懐古にやや感傷的になりつつ、感覚的には数百メートルほど進んだだろうか。
 ようやくと太い幹とこの枝の接合部分にたどり着いた。枝と幹の接合部分にはぽっかりと黒い穴が開いている。
 キリトはまるでダンジョンの入口みたいだ、などと思いながらその穴へと入ってみると、これまでファンタジー一色だった風景に初めて現実の面影を見せるような、金属の扉が待ち受けていた。
 扉にはタッチパネルが据えられていて、恐らく開閉はこのパネルで行われるものだと思われる。
 キリトは恐る恐る近寄り、念の為に辺りをキョロキョロ見回してから、そっとパネルに触れてみた。

 ガシュッ。

 音を立てて扉はスライドし、キリトに新しい道を開いてくれた。
 思わず右腕を曲げて「よしっ!」と拳を握りしめる。ここまでは順調だ。ザマアミロ妖精王。
 キリトは扉の中に入る。中はついさっきまでの幻想的ともとれるファンタジーワールドではなく、現実……よりもSFを思わせるような機械的な通路だった。
 機械的、といっても近未来的なもの、ではない。逆に何も無いのだ。
 真っ白。上も下も右も左も真っ白な通路。唯一、左右の壁の下に等間隔で薄いオレンジの灯りがぼんやりと浮かび上がっている。

「手抜き通路、かな……通れればいいっていう……」

 なんとなく、ゲーマー心をくすぐられつつ「この通路のグラフィックは無いな」と厳しめの採点を下しながらキリトは真っ白な通路を進む。
 他に道は無い。行くしかないのだ。

「……長いな」

 真っ白い通路を歩いてどれだけ経っただろうか。
 既に数分は経っているような気がするが、実のところは数十秒かもしれない。
 行けども行けども変わらぬ風景というのは不安を煽る。ここは仮想世界だ。
 もしかするとこの先に果てなど無いのではないか、という不安にもかられてしまう。
 走っても走っても果てない通路。ゲームのダンジョンなどでは実際にあることだが、自分が今体験しているのかと思うと少しだけゾッとした。
 そんな時に再び先ほどと同じような扉が現れた。ホッと息をついてキリトはパネルに触れる。

 ガシュッ。

 同じように音を立てて扉は開く。
 今度は直線ではなく左右に分かれるT字路のような場所になっていた……と、その時だった。

「あ……」

 たった今入ってきた扉が消えてしまった。
 つなぎ目すら見えない。パネルも無い。
 念の為に少し触ってみたが、扉があった形跡さえ既に無かった。

「本当にダンジョンみたいだな、オマケにボス部屋間近、みたいな。ここからは撤退不可ですよってか。脱出アイテムや魔法も無効なんだろうなどうせ。『大魔王からは逃げられない』とはよく言ったもんだ」

 そんな魔法やアイテムは持っていないが、キリトはやや冗談交じりにそう呟く。
 飽くまでゲーム、そんな体勢を崩さないようキリトは必至だった。
 やはりどれだけ取り繕おうと、中々恐怖には抗えない。いつ見つかり連れ戻されるか、それを思っただけで足はガクガクと震え、鉛のように重たくなる。
 だが、撤退できない以上進むしかない。なら、せめてお気楽なフリでもしないと。
 そうしていないと、キリトは緊張に耐えられそうになかった。

 キリトは少し迷い、まずは左に進んでみる。
 どうやら今度の通路は真っ直ぐではなく円弧を描いているようで、もしかするとさっきの場所までぐるりと一周することになるかもしれない。

「お」

 そんな事を思っていると、ライトグレーの壁に下向きの三角ボタンが浮き出ており、隣にはスライドドアがあった。
 現実のエレベーターのそれを想起させる。キリトは通路の奥を少しだけ睨み、ボタンを押した。
 通路の奥はやはり円弧を描いている。恐らくこのまま歩いても一周してしまうだけだと判断した結果だ。
 スライドドアは静かに開いてキリトの侵入を受け入れる。四つほどボタンがあることから、四階層に別れているのだろう。
 キリトは迷わず最上階から一つ下の階層を選んでボタンを押した。
 ここはダンジョンだ。ならばいきなり最下層は危険すぎる……そんな勘が彼には働いていた。
 どちらにしても虱潰しに探索するなら一つずつ順番に行った方がいい。
 三角ボタンが下向きにしか無かったことから、恐らく自分が最初にいた場所は最上階。
 だからキリトは一つ下の階層を選んだ。
 スライドドアが閉まると、驚いたことに僅かな降下感覚を伴って小さい箱部屋が動いている……ような気がする。
 エリア移動時のラグをアバターにそういった感覚を与えることによってよりリアルさを追求しているのか、それとも単にリアルに四階層ビルのような場所としてここは作られているのか。
 だとするとその真意が気になるところではある。仮想世界には必ずしもリアリティを追求しない部分が存在するのだ。
 例えばこのエレベーターだが、仮想世界間のエリア移動なら《ワープ》を用意することは可能だ。
 実際SAOでは転移結晶や転移門からのテレポートが可能だった。
 さらに言えば地続きである必要性も無い。四回層あるなら、大きな空間に四つの部屋、でも良いわけだ。
 あらゆる可能性を可能に出来るのがこのVR世界である。
 それを、あえて現実に近い環境で行う理由、それは……、

「ここは、VR世界ではあってもゲーム世界じゃないってこと、かな」

 仮想世界がゲームオンリーとは限らない。
 例えば、VR世界に大きな会社の建物を用意し、全国でダイブした人達がその会社で働く。
 流石にそこまで世の中が進んでいるとは思えないが、VR世界でも仕事は可能なのだ。それこそ、IT関連なら特に。
 そこで、キリトはハッと思い出す。妖精王が言っていた悪魔のような研究を。

「そうか。ここでなら……仮想世界内部で研究すれば、情報の秘匿は現実よりは強固で楽、か……?」

 SAOサーバー、という単語が頭を掠める。
 恐らくは世の中でも悪魔の代名詞となっているこれに、そう易々と入り込んでくる輩は多くはあるまい。
 何せ人命がかかっている。中には愉快犯や《だからこそ》ハックをしかける者もいるだろうが、SAOサーバーの守りがその程度で貫けるなら一万人のプレイヤーはとっくに解放されていただろう。
 ここはSAOではない、というのはオベイロンの言葉の端々からキリトは理解している。
 しかしここが非常にあの世界に近いそれであることは想像に難くない。ならば守りも劣らず盤石だと考えるべきだ。

「いつも思うけど、悪巧み考える奴の方が、発想力っていうか、凄いこと思いつくもんだよな……」

 と、そこで降下感は無くなり、目の前のスライドドアが開く。
 念のためにこそこそとドアの左右に人がいないか確認してからキリトはエレベーターを出た。
 システム検索をかけられたらこんなことをしていても一発で見つかってしまうが、極力細心の注意は払いたい。
 数歩進んで、初めてまともな部屋らしき場所を見つけた。
 扉の前にパネルがあり、《データ閲覧室》と書かれてる。

(これは……!)

 キリトは内心で喝采を叫ぶ。
 思わぬ収穫、というところだろうか。期せずしてシステムの中枢らしき場所を見つける事に成功した。
 落ち着け、とやや荒くなった息を整える。呼吸はSAOと同じく必要ないはずだが、仮初めの心臓はバックンバックンとオーバーワーク気味にキリトの緊張を増大させた。
 ふぅ、ふぅ、ふぅ。
 何度か小さく深呼吸して、キリトはパネルにそっと触れてみる。

 ガシュッ。

 問題なく扉は開くがキリトはまだ入らない。
 少しだけ耳を澄ます。内部での人の会話、システムサウンド、なんでもいいから情報を拾いたかった。

「……?」

 だが幸か不幸か、得られた情報は皆無。いや、正確に言えば何も聞こえなかったという情報は得られた。
 恐る恐るキリトは内部を覗いてみる。

「……誰もいない、か?」

 《データ閲覧室》はそれなりに広い。
 現実世界と違い、サーバー容量内で賄えるならどれだけ大きくしようと問題ないのだから、それはおかしな事ではない。
 ただ、こうも広いと中に誰かがいてもわかりそうにない。
 部屋の中央にいくつもディスプレイが付いた大きな円柱があり、いくつかゲームセンターの格闘ゲームのような端末も据え置きされている。
 他にも床には至る所に何かの台のような機械がいくつもあり、その殆どは天井に向けて光の柱を生み出していた。
 中央の円柱は楕円だと思われ、天井とくっついているが、あまりの太さに柱というよりはメインコンピュータだと考えるのが正しいだろう。
 キリトはごくり、と息を呑んで《データ閲覧室》に足を踏み入れた。あれがメインコンピュータなら自分をこの世界から出すことが出来るかも知れない。
 無駄なこと、だと理解しながらもキリトは腰を低くして、こそこそと中央のメインコンピュータへ近づく。
 そろりそろりと出来るだけ音を殺して。ひっそりと。

 あと五歩、四歩……三歩…………二歩………………一歩……………………!

 ドッと跳ねそうになる心臓を、そこに無いと分かっていても左手で胸を抑えて、キリトは落ち着かせる。
 同時に右手はメインコンピュータのコンソールへと伸ばして……止まった。

「え」

 ふと、視線を感じた。
 そんな気がして、怯えつつも右をちらりと見る。
 そこには───────信じられない《人》がいた。



「あ、あ──────────────」



 光の柱。
 名前もわからない床にくっついている台座のような機械から天井に向けて──もしかしたら天井から床の機械に向けて、なのかもしれないが──薄ぼんやりとした光柱が伸びている。
 その、光の中に、忘れたくとも、忘れられない存在がいた。
 台の上で、こちらを見つめているその存在は、白い足を浮かせ、水中をたゆたうように上下にゆっくりと僅かに動いている。

 黒い、忘れようも無いほど黒い髪。
 短めの、ややおかっぱじみたその髪型はしかしそれほど幼さは感じさせなくて。
 華奢な肩幅から伸びる細い身体のラインは、思った通りのもので。

 一糸纏わぬ姿。

 だが一切いやらしい気持ちは湧き起こらない。 
 掠れた自身の声が、遅れて偽物の聴覚を刺激した。




















「サ、チ──────────?」




















 台座の上で、たゆたいながらこちらを見つめているのは、もう二度と会うことはないと、そう思っていたはずの……少女。
 光の柱の中で、うっすらと微笑みさえ称えながら、彼女はそこにいた。
 だが彼女は死んだはずだ。

 ──それなら彼女は何だ?

 彼女はもう二度と戻ってくることはない。

 ──それなら彼女は何だ?

 彼女はサチではない。

 ──それなら彼女は何だ?

 サチは光の柱の中で微笑んでいる。
 今にも口を開きそうだ。

『ねえキリト、久しぶりだね』

 そんな懐かしい彼女の声が、耳に届いた、ような錯覚。
 いいや、錯覚なものか。
 だって、目の前にはサチがいるんだ。

「サ、チ……サチ……」

『どうしたのキリト?』

「ハ、ハハ、ハハハ……」

 キリトは、ゆっくりと光の柱に手を伸ばす。
 たゆたうサチは、それに合わせるように腕をキリトへと伸ばしてきた。
 ああ、懐かしい。彼女はここにいた、ここにいたんだ!

 その時だった。
 キリトに与えられた偽物の聴覚は、侵入者を察知する。
 だが、今はこの手でサチの感触を確かめたくて、ただひたすらその時を待っていた。

「だからさあ、やっぱ女性アバターの出来が言い訳よSAOのは!」

「わかったわかった、でもあんまりSAOデータ引っぱって遊んでると上に怒られるぞ? 仕事はちゃんとしろよ」

「わかってないなあ、あれにNPC突っ込んで夜の相手させたら凄いぞきっと!」

「お前趣味悪いなあ、だいたいNPCなんて同じことしか言わねぇだろ」

「んー、プログラムから作ってもいいけど面倒ではあるな。あ、そうだ、ほら、感情模倣機能付けたメンタルヘルスAIあったじゃん? あれ流用できないかな?」

 もう少しで、あと少しで彼女の手に触れる。
 失われたはずの彼女が、ここにいると確かめられる。

「お前、そういうこと考えるのはいつもすげえな」

「へっへーん……っておい、誰かいるぞ?」

「? 見たこと無い奴だな、あんな可愛い子いたか?」

「……ありゃSAOサーバーからのジェネレートアバターじゃない! 誰だ!?」

 もう少しもう少しだ。
 手が触れる。
 サチはそこにいる!

「おい! アバター消せ! 侵入者だ! 上にばれると厄介だぞ!」

「わかった!」

 キリトが手を伸ばした先で、サチが同じように手を伸ばしたまま、二人が触れ合う前に。
 それは、起こった。



 ────パリィン。



「─────あ」



 サチが、消える。
 微笑んだまま、サチが消える。
 結晶になって、ライトエフェクトを振りまかせて、かつてのように、その姿を拡散させながら彼女は消えていく。

「あ、あ、あ────────」



『……ありがとう、さよなら』



 フラッシュバック。
 あの時の記憶が、蘇る。
 声が妙にリアルに再生される。

「ああああああああああああああああああああ!」

 膝をつく。
 わかっていた。
 彼女は死んだのだと。
 わかっていた。
 死者は蘇らないのだと。
 わかっていた。
 ここに彼女がいるはずがないと!

 それでも信じたかった。
 縋り付きたかった。
 だって、その姿を見てしまったから。

「おいお前! ……っ!?」

 白衣を着たひょろひょろの眼鏡男がキリトの肩を掴んで彼を引っぱり、息を呑んだ。
 白衣の男は、言葉を発せられなかった。
 《その目》を見て、二の句を告げられなかった。
 だが、肩を掴まれたキリトは相手の肩越しに、もう一人、見つけてしまった。



「……ア、アス、ナ……アスナ……アスナ……!」



 間違える筈の無い彼女が一瞬視界の隅に映った。
 白衣の男を押しのけて、彼は駆け寄る。
 何か後ろで叫ぶ声が聞こえるが関係ない。
 部屋の隅の台座の上で、光の柱の中、たゆたう彼女。
 耳上で編み込んでいるブラウンのロングヘアが揺れる。
 彼女もまた一切何も身体に纏わず、生まれたそのままの姿で、そこにいる。

 神々しい。

 眩しいとさえ思えるほどそれは美しい。
 華奢な肩。そこからすらりと伸びる手は思いも寄らぬ敏捷力を兼ね備えていると知っている。
 伸びる白い脚。随分と細いその脚から生まれる脚力は恐ろしいほどのパワーとスピードを生む。
 彼女の、全てが愛しく、美しい。まさに美の頂点。理想的なライン。

「アス、ナ……」

 光の柱の中で瞼を閉じ、ゆっくりとたゆたう彼女に、吸い込まれるようにキリトは近寄っていく。
 助けを求めるように。許しを求めるように。癒しを求めるように。
 あれはアスナだ。間違える筈がない。アスナだ。間違えよう筈がない!

「おい! 何やってる! 早く全部消せ!」

「わかってるって!」

「お前いつまでその《ナメクジアバター》でいる気だ!? だから遅いんだろうが!」

「うるさいな!」

 視界の隅に大きいナメクジが見えたが、どうでもいい。
 アスナに触れたい。アスナと言葉を交わしたい。 
 アスナと時間を共有したい。
 全ての希望だった。この二ヶ月、彼女との再会を夢見て頑張ってきた。
 彼女ともう一度会いたくて、必死だった。
 本当に、ただ彼女と会いたい。それだけだった。それだけだった……!
 やっと、会えた……!

 たゆたう彼女の前に、ようやく辿り着いたキリトは、万感の思いを込めて彼女の名を呼ぶ。

「……アスナ」

 呼ばれた《アスナ》はゆっくりとその瞼を開いていき、



「……え」



 ───キリトを、冷たい眼差しで見下ろした。



 こんな彼女の目を、キリトは見たことがない。
 彼女から向けられた事がない。

「アス、ナ……?」

 震えるような声で再び名前を呼んでも、彼女は答えない。
 ただ、知らない相手を見るような、冷たい眼差しで見下ろすのみ。
 感情の無い瞳で、まるで興味がないとキリトを見つめる。



『ごめんね、和人くん』



「あ、そん、な……」

 再び膝を付く。項垂れてしまう。
 全てが溢れ、零れていく。
 キリトの中の、《大事な何か》が零れ出ていく。
 最後に、もう一度だけ、期待を込めて、顔を上げてアスナの顔を見る。
 彼女もキリトを見ていた。



 ──何の感情も映さない、その瞳で。



「アスナ……」

 そんな目で見ないでくれ。
 興味の無いような、知らない人を見るような、そんな目で。



『ごめんね、和人クン』



 彼女に触れたくて、手を伸ばす。
 だが、彼女の瞳の色は変わらない。
 《興味がない》と目が語っていた。

 それでも、きっと。
 触れれば、あの笑顔をきっと。

 見せてくれるんだろう……?
 
 壊れそうな期待を、縋り付きたい思いを、全てを込めて伸ばした手の先で、



 ────パリィン。



 彼女は、ポリゴンの結晶となった。

 まるで自分から逃げるように。
 まるで自分を避けるかのように。
 
 まるで自分とはもう一緒にいられないと言うかのように。


「あ、あ……アアアアアアアアアアアアアアアッ!!」


 彼女が消える。
 アスナが消える。
 結城明日奈が消える。

 目の前で、彼女が消えていく。
 瞳の色は、最後までずっと変わらず、酷く冷めたままで。

 彼女が、手の届かない所へ、行ってしまう。



『ゴメンネ、カズトクン』



 頭の中で、その言葉が、抑揚のない無感動な彼女の声で、再生される。





「ア────────────────────────」





「お、おい……?」

 大きなナメクジが──正確にはそれを模したボディのアバターが──キリトに声をかけるが、反応は無い。
 突いても、耳元で大声を上げても、彼は反応しない。
 瞳にも一切輝きが無い。ハイライトは消え失せ、瞳孔は開ききったままどこを見ているのかわからない。

 既に、彼の中の時間は────止まってしまった。










(エリカさんらしくないなあ……)

 直葉/リーファが最初に思ったことは、それだった。
 ルグルーで再び落ち合ったメンバーは、変わらず三人+一人の組み合わせでルグルー回廊を抜けることに成功した。
 ルグルーから出口までは近く、苦労はさほど無かった。
 そのままぐんぐん行軍は進み、森の中に小さい村を発見した。
 リーファは「はて? こんなところに村なんてあったっけ?」と首を傾げていたがアスナ/エリカが勝手に入ってしまい、エリカを追いかけた二人も村に入ったことで、《それ》は発動してしまった。
 一言で言うなら、罠。村だと思ったこの場所は大きなミミズ型モンスターの口の上だった。
 ミミズは口の周りの突起を建造物に見せるという、いわゆる撒き餌を使って冒険者を呼び寄せ、吸い込むという最低最悪なものだった。
 ぱっくりと開いた穴からは抗えぬほどの吸引力が発生し、全員ミミズの胃の中へと収容されてしまう。
 大変に気持ち悪い粘液が体に纏わりつきながらも、幸か不幸か全員死なずにどことも知れぬ場所へと放り出された。
 胃酸によって溶かされると言う食べ落ちエンドを一瞬覚悟したリーファは、助かったのはこれ僥倖と思いつつ辺りを見回して……戦慄した。
 ミミズの体の外に出られて一安心、とは残念ながらならなかった。
 一面雪景色で空は暗く、翅も光を失っていて飛べない。飛行不可能フィールド。
 それもさることながら、映像でしか見たことのない、邪心級モンスターがたった今目の前を闊歩していった。
 あの類のモンスターが出るフィールドは一つしかない。

 闇と氷の世界、《ヨツンヘイム》。

 現在見つかっている隠しフィールドでも最難関フィールドにして未だ未踏破のフィールド。
 大戦力を投入しても邪神級モンスターには全滅させられるのが常と専ら評判の最低最悪最凶の地下世界。
 どうやら何故かそこに迷い込んでしまったらしい。
 本来はやたらと難関なダンジョンを攻略しなければ来られない場所である。
 まさかこんな裏ワザがあったとは。
 アルンの東西南北にある大型ダンジョンの最深部にここヨツンヘイムへの入口たる階段があるそうだが、話によると、エリカですら手こずった──あのままやっていたら負けたであろう──相手であるユージーン将軍でさえ、その階段を守護する邪神モンスターには、一人で挑んで十秒程度で殺されたという情報がある。
 現状のメンバーではとても攻略、踏破共に絶望的な場所と言えるだろう。

 しかし、知らなかったとはいえ、あのエリカが何の考えもなしに村へ──正確には罠へ──入ってしまうだろか。
 リーファは非常に高くエリカのことを買っていた。彼女の戦闘力もさることながら人柄はもちろん、冷静さや判断力も彼女はずば抜けている。
 人の上に立つ資質、とでも言うのだろうか。そういったものをリーファは彼女に感じていた。
 だが今日の彼女は危うい。昨日までのそれが嘘のようにやや落ち着きが無いように思える。

(現実で、何か嫌なことでもあったのかな……)

 そう思いつつ、リーファはそれ以上の詮索を止めた。
 ネットゲームで他人に対して深く入り込むことやリアルの詮索はマナー違反だ。
 今は、どうやってここを脱出するか考えよう。
 ずっとプライベートピクシーであるユイに慰められている、責任を感じて萎んだような顔のエリカを見つめながらリーファがそう決めた時のことだった。

「リ、リリリーファちゃん! リーファちゃーん!」

 透明になる魔法を使える為、自信満々に偵察を買って出て周辺の探索に出ていたはずのレコンが、大声を上げて戻ってくる。
 どうでもいいがそんな大きい声を出すとMobモンスターを呼びかねない。

「こらレコン! もう少し静かにしなさいよ! アンタそれでも隠密の達人なの!?」

「そんなこと言ってる場合じゃないよ! 早く来て! こんなのそうそう見れないよ!」

「なんだってのよ……?」

「いいから!」

 レコンがリーファの手を掴んで引っ張る。
 エリカも何事かと思い、沈んだままの表情で顔を上げ、その後をついて行った。
 レコンの目指す方向に近づくにつれ、何やら激しい音がする。

 ぼすんどすん。
 ぼすんどすん。 ぶるるるるぅ。
 ぼすんどすん。
 ぼすんどすん。 ひゅるるぅ、ひゅるるぅ。

 ──嫌な予感がした。
 だが、その悪寒が働く頃にはすでにリーファの目にも音源の主たちが見えていた。

「ひえぇぇ!?」

 思わず声を上げてしまう。
 そこには、高さ二十メートルはあろうかという邪神級モンスターが二体いた。
 これはレコンのイタズラか? 逃げられないと悟って最大限のイタズラを敢行したのか?
 だったら殺す。一度デュエルで血祭りにあげる。
 リーファがそんな危険な思考に至った時、エリカが小さく呟いた。

「戦ってる、の……? ALOってMobモンスター同士も戦ったりするのね」

「……え?」

 言われて、リーファは二体の邪神級モンスターを見やった。
 確かに二体の邪神級モンスターはこちらには目もくれずに戦っているようだ。
 一体は縦に三つ連なった巨大な顔の横から四本の腕を生やした巨人のようなフォルム。
 腕にはそれぞれ無骨な鉄骨のような剣を持っていて、顔のそれぞれが「ぼるるぅ!」と叫び声を発している。
 対してもう一体はやや小型で──それでもリーファ達からみると相当に巨大だが──象のように大きい耳と鼻みたいな口吻を持ち、饅頭のような楕円の胴体から何十本も触手のように足が生えていた。
 足の先は鉤爪になっていて、それで三面巨人が四本の腕に持つ、鉄骨のような無骨な剣をつかった攻撃をなんとか捌こうとしているが、追いつかない。
 パワーが違うのか、振り回される四本の剛腕に下半身が水母のような象邪神……いや象水母邪神は何度も叩きつけられていた。
 その度に痛い痛い、助けてと求めるような「ひゅるるぅぅぅ……!」という声を上げている。
 象水母邪神は何度も離脱しようと試みるが、三面巨人はそれを許してくれない。

「ひゅるるぅぅぅ……!」

 血しぶきのようなライトエフェクトが飛ぶ。
 リーファの胸が、その度に痛んだ。

「……助けよう」

 だから、ついその言葉を彼女は漏らしてしまった。
 漏らしたことに自分でも驚いてしまった。

「ちょ、正気なのリーファちゃん!?」

 レコンが至極まっとうなことを言う。
 この場合、彼の発言は正しい。助けるとしてもどうやって?
 そもそもプログラムでしかないモンスター相手にいちいち心を痛めていたらとても狩りなどできない。
 こんな感情を持つこと自体、おかしいのだ。
 リーファとて、それはわかっている。
 だが可哀相だと、思ってしまったのだ。
 レコンの信じられないというような視線を受けて、彼女は顔を伏せる。

「リーファちゃんて、私が捜してる人みたいだね」

「ちょっと、パパに似ていますね」

 その時、エリカとユイの優しい声が聞こえた。
 「え?」と顔を上げると、二人とも気にせず友好的に微笑んでいた。
 レコンは目を丸くして「正気かよ!?」と零している。

「え、いい……の?」

「う~~~ん、まあ、良いんじゃない?」

「パパが言っていました! イジメカッコ悪い、です!」

「いや、それと今の状況はちょっと違うような……でもまあ、そういうことだね、うん」

 エリカはリーファに微笑む。
 彼女のMobモンスターを助けたいという言葉に、エリカ/アスナはキリトを思い出していた。
 以前に、SAOでの攻略に際し、NPCを囮に使う作戦をアスナは立てたことがある。
 その作戦に、キリトは最後まで反対した。

「NPCだって生きている」

 彼の言葉を、今なら素直に受け止められる。
 でも、それは彼という人がいなければ一生かかっても辿りつけない境地だっただろう。
 その境地に、リーファが自分で辿りついていることが、アスナ/エリカは少しだけ羨ましかった。

「ちょちょちょ、ちょっと待ってよ! 本気なの!?」

 既に行動が決定されたような空気の中、ただ一人まともな意見としてレコンが抗議の声を上げる。
 邪神級モンスターの喧嘩に関わるなんて正気の沙汰ではない。

「レコン、今日は短い冒険だったわね」

「レコンさん、それでは」

「嫌なら一人で逃げても良いんですよ~?」

 リーファ、エリカ、ユイにそれぞれ怖い笑顔で迫られ、彼はそれ以上の発言を許されなかった。
 一言「わかりました……」と言って肩を落とす。
 それにみんなで苦笑しながらどうするかと考えているうちに象水母邪神の触手がとうとう一本断ち切られてしまった。
 時間が無い。
 しかし、その戦いを見ていたエリカには閃くものがあった。

「今、斬られる時、どうしてもっと多くの触手で防ごうとしなかったの……? あ、そうか、このコ、自分の体重を支えるので精一杯なんだ……! ユイちゃん!」

「はいママ!」

「この近くに湖はない?」

「待ってください……あります! 見つけました! 北に約二百メートル行った場所に氷結した湖があります!」

「オッケー! みんな、作戦はこうだよ!」

 瞬時にエリカがたてた作戦はこうだ。
 遠距離魔法で三面巨人のヘイト……ターゲッティングを取り、目標をこちらに変えたところで猛ダッシュ。
 湖まで逃げて、あの三面巨人を湖に落とす。氷結しているとのことだが、あれだけでかければ氷も割れることだろう……というか割れてください。
 割れなければ「おおゆうしゃよ、しんでしまうとはなさけない」という言葉を甘んじて受けねばなるまい。
 ……このゲームでは王様に生き返らせてもらうわけではないが。
 首尾よく湖の氷が割れればあの巨大邪神は湖の中だ。そうなれば、恐らく象水母邪神にも勝機はある。
 水中なら、あの邪神はその触手を十全に使えるはずで、逆に三面巨人は戦力ダウンするだろう。
 全て現実の事象に事をあてはめた推測でしかない。また、よしんば上手くいったとして最後には三面巨人が可哀相になったり、助けた象水母邪神に殺される可能性もある。
 それでも、リーファはやると決めた。エリカはその姿勢に《彼》を想起させられ微笑む。
 最後まで不満気だったレコンも覚悟を決めた。

 果たして作戦は──これ以上ないほど上手くいった。
 ほぼ全てエリカの目論見通り、三面巨人は湖の氷を割って中に落ち、動きが鈍り、逆に象水母邪神は水を得た魚のように優勢に立った。
 不思議と三面巨人が可哀相にはならず、見事水中で三面巨人を倒した象水母邪神に三人+一人は拍手を送ったものだ。
 それに気を良くしたのだろうか。象水母邪神は触手を伸ばして三人を捕まえると自らの丸い背中の上に乗せて進み始めた。
 そこで初めて、レコンが閃いたように口を開く。

「これ、イベントクエストなんじゃないかな」

 リーファは頷きながらも、だとすれば厄介だと頭を悩ませる。
 ALOには依頼型クエストと参加型クエストがある。
 前者はクエスト終了後に報酬が必ず用意されている。加えてスタートログも出るはずだ。
 しかし今回はスタートログが出ていないので、可能性としては後者になる。
 参加型クエストは、一連のドラマに参加するような形になるので、必ずしもハッピーエンド足りえない。
 選択を誤ると、報酬が無いどころか死亡という最悪なペナルティをもらうこともしばしばある。
 かくいうリーファも、以前ホラー系の参加型クエストに挑み、魔女に釜で煮られて死んだという苦い経験があった。
 もっとも、エリカはホラー、と聞いただけで震えあがり、ユイを抱きしめてぷるぷると怯えてしまい、リーファの詳しい説明を半分も聞いていなかったが。
 とにもかくにも、とりあえずの危機は去った、と思っていた。

 どこに向かっているかはわからないがこの邪神は怒っていないとユイは言う。
 リーファやレコンは首を傾げたが、エリカはそれを信じた。それならば悪いようにはならないだろう、と。
 それ故三人+一人は象水母邪神の上で緊張を解き、このモンスターに名前までつけた。

 トンキー。

 それが決定された名前だった。
 リーファが昔読んだ絵本に出てきた象の名前だ。
 その話はエリカも知っていて、自らの案の「ダンボ」を取り下げた。
 ちなみにレコンの案は「クラーケン」だったのだが、イカではないと満場一致の反対を受けてしくしく泣いていた。
 「象でもないじゃん」という彼の不満は最後まで聞き入れられなかった。

 トンキーの背に乗りながら一行は途中でヨツンヘイムの天蓋から垂れさがる大きな逆円錐の建造物にも気付いた。
 リーファがあれは目的地である世界樹の根っこだと説明する。以前にスクリーンショットで見たのだと。
 つまり、世界樹の根っこがヨツンヘイムの天井から延びてきていて巨大な氷を覆って逆円錐を形成しているのだ。
 まさに世界の、いやゲームの神秘。そんな言葉がレコンから洩れた。

 それまでは、ある意味平和だった。
 エリカの膝の上で、足を組んで横になるユイにエリカが「はしたないよ」と怒り、「パパの真似です」とユイは照れる。
 リーファは、なんとなくユイの仕草に記憶の隅をちくちくと突かれながらも、その組まれた足を鼻の下を伸ばして見つめているレコンに制裁を与えた。
 そんなほのぼのとしたやりとりをしていると象水母邪神、改めトンキーはぴたりと停止して三人を降ろす。
 そのままトンキーは、死んだように動かなくなった。
 実際には生きていているが、一体どうしたのだろう、と訝しがりながら一行はトンキーが止まった先を見た。
 そこには大きな黒い穴がぽっかりと開いており、ユイのアクセスデータによるとこの下にはマップが存在しないとのことだった。
 つまりこの穴は底なしなのだ。
 逆に上を見てみると、ここは先の世界樹の根っこが抱きかかえている氷柱の真下のようだった。
 間接的にここは世界樹の真下と言う事にもなる。
 氷柱の中にはうすらぼんやりと光があり、ところどころに階段やら通路が見え、ダンジョンを思わせた。
 恐らくはとんでもない隠しダンジョンなのだろう。もしここに《彼》がいればはしゃいだに違いない、とエリカは思う。
 ここに自分たちを連れてきてトンキーは何をしたかったのだろう、そう思った時のことだった。

「っ! プレイヤーが近づいてきます! 一人……その後ろに、二十三人……!」

 大規模プレイヤー集団。
 リーファの読み通りなら、このヨツンヘイムに来るパーティは重武装壁役プレイヤー八人、高殲滅力の火力プレイヤー八人、支援・回復役プレイヤー八人というところだろう。
 ユイの言葉から相手は二十四人。先の読みは単なる通説だが、恐らく間違ってはいまい。
 ヨツンヘイムに来るほどのパーティがここに向かう理由、それを瞬時にエリカは看破した。

「あんたら、その邪神狩らないのなら俺たちがもらうぜ」

 水色の髪をしたプレイヤー。
 一目でそうとわかるほどの強力そうな装備一式は、その水妖精族(ウンディーネ)がハイランク・プレイヤーだと言外に告げていた。
 目的はやはり《トンキー》だった。
 トンキーはあれから何故か動かない。弱っているのだろうか。
 しかし、そんな理由など、普通のプレイヤーには関係ない。
 倒しやすそうな邪神モンスターがいる。となれば狩らない手はないだろう。
 過去の自分でもそうする……とエリカは昔の自分を思い返して、胸が傷んだ。
 別にそれがおかしいわけではない。間違っているわけでもない。
 でも。

「お願い! この子を殺さないで!」

 今度も、先に動いたのはやはりリーファだった。
 つくづく彼女は《彼》のような行動をする。それに心打たれるのと同時に、エリカの胸には僅かばかりの嫉妬が入り混じった。
 どうして、《彼》を知らない人が、そこまで《彼》のように振舞えるのだろう。
 そう思うと、酷く自分と《彼》の距離が遠い気がした。身も心も。
 だがすぐに首をぶんぶんと振ってエリカはリーファの横に並んで同じように頭を下げた。
 今できることは、誠意を伝えることだけだ。例え、無駄だろうとも。

「おいおいあんたら……って、随分なかわいこちゃん二人だな」

 一瞬、水妖精族(ウンディーネ)のプレイヤーの声に、いやらしさが混じった。
 現在、どんなゲームにも言えることだが、乙女ゲーでもない限り、ゲームユーザーは圧倒的に男性がそのシェアを占めている。
 SAOもその御多分には洩れなかったし、ALOにおいてもそれは同じだった。
 故に、美人の女性プレイヤーは重宝される傾向にある。
 パーティメンバーにとっても、プレイヤーキル対象にとっても。
 ──リーファはすぐに嫌な予感がした。

「そうだな、あんたらがいろいろ楽しませてくれるってんなら、少しだけ考えないでもないぜ」

 その予感は、的中する。
 プレイヤーの中には喜んで女性を狩るプレイヤーや嫌がらせをするプレイヤーも多い。
 セクシャルハラスメント対策の保護コードは存在するが、戦闘であればその限りではない。
 こういった輩に会うのは、リーファも初めてではない。だが、その時は殲滅するか逃げるか、どちらにせよ《身を守る》行動が可能な状態の時に限られていた。
 鳥肌が立つ。下衆な考えがその表情に映っているかのようだ。単なる嫌味な笑いなのだろうが、一度そう思ってしまうととことんこの相手が下卑た相手に見える。
 水妖精族(ウンディーネ)の男が、そっとエリカの肩に触れる。
 その時だった。

「ママに触れていいのはパパだけなんです!」

 ユイが猛然と抗議し、エリカの胸ポケットから飛び出す。
 水妖精族(ウンディーネ)の男は一瞬驚いたが、ニヤリと笑って呟いた。

「交渉決裂だな」

 バッと片手をあげる。
 途端、高位魔法がトンキーめがけて放たれ始めた。
 目を背けたくなるような光景。トンキーのHPがみるみる減少していき、「ひゅるるるぅぅぅ」とか細い声で鳴いている。
 リーファの胸に去来する哀しみと怒り。
 エリカの胸に去来する憤怒と嫌悪感。
 ユイの胸に去来する同族への憐憫。

 だが、最初に爆発したのは、意外にも彼だった。

「うおおおおおお!!!」

 レコンだ。それまでただ黙っていたレコンが一人、高位魔法を連発しているメイジ隊へと走り込む。
 その意外な様に、リーファは動けなかった。信じられない、という気持ちもある。
 彼は人一倍臆病で、戦闘の矢面に立つことを嫌う。その彼がどうして?
 リーファにはわからない。
 だが、それは当然の帰結でもあった。
 リーファ以外預かり知らぬことだが、彼女達のパーティで、もっともゲーム経験が長いのは彼である。
 それ故に、彼はパーティメンバーの誰よりもゲームというものの楽しさを知っていた。
 ゲームを長く楽しめるということは、それだけ世界にのめり込めるということでもある。
 リアルとゲームをきっちり分けられる人間ほど、実はその傾向は強い。
 彼は、口にこそ出さずとも、トンキーを気に入っていた。
 それは、トンキーを助けるのにゲーマーとしてこれ以上無い理由だった。
 恐らく、リーファも、そしてエリカも彼の真意を掴めることは無いだろう。
 唯一、ユイだけは彼の中に灯る思いに、気付いているかもしれない。その思いに、感動さえしているかもしれない。

 ゲーム世界を、心から楽しみ、自分の現実とする。

 レコンは、長くゲームをやっているが故に、ゲーマーとしてはその域に達していた。
 心から楽しむ人は多くとも、ゲーム世界を現実と混同する人は多くない。
 現実をゲームと混同する《にわかプレイヤー》は世に蔓延っているが、その逆は、非常に珍しい。
 故に彼は、ゲームの中では基本感情の赴くままに動く。
 その感情が、トンキーを助けたいと彼を動かしていた。
 彼の体を深い紫色のライトエフェクトが包み込む。
 それは闇属性魔法の輝きだった。複雑な立体魔法陣が展開する。かなりの高位魔法のようだ。
 こんな魔法も使えたのか、とリーファはレコンの一面に驚愕する。
 それに気付いたメイジ隊が顔を青くした。どうやら相手はこの魔法のことを知っているらしい。

「正気かよ!? どんだけデスペナあると思ってるんだ!?」

「……」

 それにレコンは珍しく答えず、ニヤリと笑みで返す。
 次の瞬間、複雑な光の紋様が一瞬小さく凝縮し、大爆音と共に閃光を生み出した。

 大爆発!

 彼の事を知っているリーファですら唖然とするその威力には、愕然とせざるを得ない。
 驚いたことに、実に八人いた高メイジを五人、護衛に戻りかけた前衛剣士プレイヤーを三人、計八人ものプレイヤーをレコンは一瞬で葬ってしまった。
 人数だけで言えば一パーティそのものを彼は一人で壊滅させてみせた。だが、その代償はとても大きい。

「レコン……? あっ!?」

 リーファの視線の先で、緑色のリメインライトがチロチロと燃えている。
 それで彼女は全てを察した。レコンが使ったのは、禁呪と呼ばれる自爆魔法だったのだ。
 あれは通常の何倍もデスペナルティを課せられる諸刃の剣だ。
 リーファは慌てて《世界樹の雫》という高価な蘇生用レアアイテムをメニューから取り出し、レコンのリメインライトに使用する。
 すぐに彼は実体を取り戻した。横になったままの彼のその顔は、やや照れが入っている。

「う……少し、熱くなっちゃったよ……僕の事は、放っておいても良かったのに」

「馬鹿」

 リーファは、彼を見直したように微笑んで上半身を抱き上げる。
 エリカもユイも彼の働きに同じように微笑む。
 彼のやったことは決して褒められたものではない。
 だがその生き方は、嫌いではなかった。

「あんたら……!」

 だが、脅威が全て去ったわけでもなかった。
 怒り心頭になった水妖精族(ウンディーネ)の精鋭部隊は完全にターゲットをトンキーからこちらに変えている。
 ──それが、彼らの敗因だった。
 トンキーの楕円の胴体が、割れる。
 純白の閃光が一帯を包み込む。傷口となったひび割れた肌、いや殻が白い光と共に吹き飛んで、より一層眩い光を生んだ。
 あまりに強い光で目が眩み、一秒ほど経って視力が回復し、トンキーを確認すると、彼もしくは彼女は既に水母ではなくなっていた。

 四対八枚の翼。

 象っぽい顔からは先ほどまで無かった純白のそれが伸び、楕円形だった胴は細長い流線型に変化している。
 腹からは相変わらず触手が伸びているが、その先は鉤爪ではなく、植物の蔓を思わせるようになっていた。
 と、トンキーが四対八枚の翼を羽ばたかせ、浮き上がる。その翼が青い輝きを帯びた。

 次の瞬間、恐ろしい太さの雷撃が雨のごとく降り注ぐ。
 次々に水妖精族(ウンディーネ)を屠っていく。体勢を立て直そうと彼らは一旦離れ、魔法を使い始めるが、トンキーは翼に純白の光を纏わせ、「くわぁぁん」と甲高い音を鳴らした。
 それによって、全ての魔法はキャンセルされてしまった。

 範囲解呪能力(フィールド・ディスペル)。

 全ての魔法効果を打ち消してしまう、一部の高レベルボスだけが持っているとされた能力だ。
 それをトンキーは使用した。水妖精族(ウンディーネ)の精鋭部隊は悔しそうな顔をしながらも即座に撤退を始めて、見る間に消えていく。
 その逃げ方も見事で、パーティはあっという間に影も形もなくなった。
 トンキーはそれを見届けるとレコンの上空まで来て滞空し、しばらくレコンの体をその触手で撫でていた。
 お礼のつもり、なのだろうか。レコンは「くすぐったいって!」と言いながらも笑っていた。

 トンキーは再び三人+一人を乗せると、これまでとは違い上空へと舵を取り出した。
 上空には世界樹の根がある。もしかしたら世界樹の真下に出られるかもしれないという淡い期待が浮かびあがった。
 その時だ。世界樹の根っこに絡まれている氷柱、その下部に一際金色に輝く光があることにリーファは気付いた。
 何とはなしに遠見水晶の魔法で覗いてみる。

「はああああ!?」

 思わず、驚いてしまった。
 どうしたどうしたと二人と一人は彼女に近寄る。
 レコンはリーファが用意した遠見の魔法を見て、絶句した。

「わあ、綺麗な剣だね。凄いレアものっぽい」

 暢気そうなエリカに、レコンは言う。
 そりゃそうだよ、と。

「あ、あれは写真でしか見たことないけどこれまで所在すらわかっていなかった《聖剣エクスキャリバー》だよ! うわーすげぇ!」

「なんだかパパが喜びそうな武器ですねぇ」

 レコンの説明にユイが零す。
 途端、エリカはむぅ、とその剣を凝視した。
 その目が「あれどうやって取るんだろう?」と物語っている。
 その目的は言わずもがなだろう。

 下で見た通り、氷の中はなかなかのダンジョンのようだ。
 では入口は、と思ったところでそれを見つけた。
 氷の中ほどがバルコニーになっている。トンキーがこのまま行ってくれれば飛び移ることは可能だ。
 しかし、同時にその先にある木の根っこが階段になっているのも発見した。間違いなく、地上への脱出経路だろう。
 飛び移れば、戻れないかもしれない。どうするべきか。

「ママ……」

「うん、わかってるよユイちゃん」

 不安そうなユイの声に、エリカはしっかりと頷いた。
 今は、再会することが先だ。だから……、

「今度、一緒に取りに来ようね」

「はい! その時はパパも一緒です!」

「むぅ、できれば内緒で渡したいんだけどなぁ」

 そんな、微笑ましい会話をしながら、三人+一人は、無事にヨツンヘイムを脱出することに成功した。





 トンキーに見送られ、階段を上ると、そこは世界樹にもっとも近いALO最大都市《アルン》だった。
 古代遺跡めいた石造りの建築物が縦横にどこまでも連なっていて、プレイヤーもこれまでとは違い多種族が多く入り混じっている。
 その様はルグルーの比では無かった。
 とうとう、辿りついた。それは同時に目的の達成と別れが近いことも示している。
 もともと、お互いの目的の為に世界樹へと向かっていたのだから。

「着いちゃったね」

 リーファの思いが籠ったその言葉の意味を、エリカは察して微笑んだ。

「ありがとうリーファちゃん。貴方がいなかったらきっと私ここまで来られなかった」

「そんなことない……ですよ」

「ううん、きっと来られてももっとすごく時間がかかってた。そうなったら、多分、私は気力が持たなかったかもしれない」

 儚そうな顔をするエリカに、なぜかリーファは胸を締め付けられる。
 このまま、彼女と別れたくなかった。だから……、

「そ、そうだ! 私この町で友達と待ち合わせしてるんです! 良かったら紹介くらいさせてください!」

「え……? うん、そうだね。良いよ、私も会いたい」

 一瞬きょとん、としたエリカだが、すぐに微笑を戻して快く承諾してくれた。
 レコンにも視線を向けると「当然!」と胸を張っている。そんなレコンに苦笑しながらリーファは彼女……シリカに連絡を取ってみた。
 返事はすぐに来る。

「あ……丁度近くにいるみたいです。あっちで落合いましょう」

 リーファが先導し、移動する。
 場所はアルン中央市街入口の大きな石造りゲート。
 三人+一人がそこに着くと、既に一人の少女が待っていた。
 ツーサイドアップに髪を留め、猫妖精族(ケットシー)特有の獣耳に、首には鈴付きのチョーカー。
 猫毛を思わせる薄いブラウンを基調とした髪色で、装備品は腰から下げている短剣だと思われる。

(あれ?)

 だが一番の特徴は、頭の上に乗っているモンスターだろう。
 エリカはそのモンスターに見覚えがあった。たしかあれはアインクラッドの比較的低層で稀に出現するモンスターではなかったか。
 このゲームにも同じモンスターがいるのか、と思いつつ記憶がちくちくと突かれる。
 何かを忘れているような。
 だが、アスナはそれ以上考えることが出来なかった。
 彼女が初めまして、と自己紹介を始めた時、ユイが急に叫んだのだ。

「パパ、パパがいます!」

「ほ、本当に!?」

「間違いありません! このプレイヤーIDはパパのものです……座標は真っ直ぐこの上空です!」

 それを聞いたアスナはいても経ってもいられなくなった。
 自己紹介の途中だと言うのに構わずバッと翅を広げる。今にも飛び出しそうだ。
 リーファが目を丸くしていると、尚もユイが続ける。

「パパ! パパ!? 聞こえますか!? パパ……!? えっ────!?」

「どうしたのユイちゃん?」

 ユイの、尋常ならざる驚きの声に、一抹の不安を感じたエリカ/アスナは飛び出すのを堪え、ユイに問いかける。
 やや語気が強まってしまったかもしれない。

「パパの声が、僅かに聞こえました、偶然、だとは思います……たまたま拾えた、だけで……」

 ユイは、話しながらもボロボロと大粒の涙を流し始める。
 一体何があったというのか。エリカ、いやアスナは嫌な予感がした。

「ママ、どうしましょうママ……!」

「落ち着いてユイちゃん! なんて、なんて言ってたの?」

 ユイが涙を抑えきれずに、掠れた声で、彼の言葉を代弁する。
 信じたくない、その言葉を。



「……死にたい……って」



 途端、エリカ/アスナの顔から表情が消え失せた。



[35052] ALO7
Name: YY◆90a32a80 ID:1a43ae77
Date: 2012/10/31 19:17


 リーファは最初、それが何の音だかわからなかった。
 ドンッ! という力強い音。それがシステム上の聴覚を刺激した時、エリカの姿は既にそこには無かった。
 弾丸もかくや、という凄まじいスピードで、一本の矢のように真っ直ぐ彼女は急上昇していく。
 そのあまりの速さには、唖然とするより他はない。一体何があったというのか。
 数秒遅れで何故かエリカが飛び出したことを理解したリーファは、彼女を追い宙へと翅を向ける。
 とりあえず話を聞かないことには始まらない。そう思い、持てる全速で追いかけた……のだが。
 これまで上昇スピードや下降スピードにリーファは多少なりとも自信があった。
 飛ぶことを知ってからのリーファはその魅力に取り付かれ、来る日も来る日も飛び続けている。
 飛ぶことに関してはかのユージーンにさえ遅れを取るつもりはなかった。

 だというのに。

 信じられないことにエリカはスピードをどんどんと増していき、二人の距離を突き放していく。
 速く、もっと速く。まだ速く。さっきよりも速く。最高に速く。極限まで速く。
 その様はまさに流星のようだった。
 若草色の閃光、ふとそんな言葉さえ浮かぶ。
 信じられない思いが胸に渦巻きながらもリーファは必死に追いすがった。
 エリカはすぐにアルンの街並みを突き抜け、世界樹の枝下に広がる白い雲海へと突入する。
 リーファはまずい、と思った。

「気をつけて! すぐに障壁があります!」

 あの速度でまともに障壁にぶつかったりなどしたら、それだけで危険だ。
 この高さから地面まで叩きつけられればそれだけでHPの全損は免れない。
 加えて、現実の感覚に影響を及ぼす危険性さえある。
 いかにペインアブソーバで制御されているとは言え、上昇、下降の体感はきちんと存在している。
 これほどの高さから急激に落下しダメージを受ければ、人体にどのような影響を与えるのか想像も付かない。

 以前何人かの有志が多段式の人間ロケットで世界樹の写真を撮った後、運営は世界樹の枝下一帯から上を侵入不可能領域として設定している。
 ズルは受け付けないということだろう。この白い雲海を超えれば、その障壁ポイントまではすぐだとリーファはスイルベーンで聞いていた。
 それまでには彼女を止めたかったのだが、残念ながら、リーファが真っ白な雲海を突き抜けた時には、エリカが見えない壁に跳ね返された後だった。

「エリカさん!」

 リーファは慌てて彼女に近寄っていく。
 制御を失ったエリカのアバターは自由落下を始めているが、幸いエリカはすぐに体勢を立て直した。
 リーファがホッとしたのも束の間、エリカはキッと空の障壁を睨み付けて腰から細剣を引き抜き、再び突撃する。
 しかし、ギィィィィンという音を立てて剣の切っ先は障壁より先へは全く進まない。
 それはシステムがここから先への侵入を許可していないことを示していた。

「無理だよエリカさん! ここからは飛んではいけないんだよ!」

「行かなきゃ、行かなきゃ、また……またいなくなっちゃう!」

「……?」

 エリカの顔は、先とは打って変わって恐怖に彩られていた。
 何が彼女をここまで駆り立てるのだろう? ユイの言うパパという存在だろうか。
 だとしたら、余程大切な相手なのだろう。

「通して! 通してよ! また、そうやって、奪うの!? 私から彼を奪うの!? 毒の次は壁? 何がシステムよ、ふざけないで!」

 リーファには、何のことだかわからない。だが、彼女のそのあまりの必死さに一瞬言葉を失ってしまう。
 ここまで彼女が感情を剥き出しにするところを、リーファは初めて見た。
 さほど長い付き合いではないがそうそう感情を爆発させるような相手には見えない。

 ──長い付き合いではない? 本当に?

 リーファがふと何かひっかかりを覚えたその時、アスナのポケットからユイが飛び出した。
 そうか、プレイヤーではないプライベート・ピクシーならあるいは、とリーファも一瞬期待し、先程の疑問を霧散させる。
 しかし、無情にもエリカが嫌悪をしたシステムはユイの侵入すら拒んでしまった。

「あぅっ」

 勢いよく飛んだせいでユイもそれなりの反動を受けるが、すぐに頭を数回振ってもう一度突っ込む。
 ……これが、本当にシステムに準ずるAIのすることだろうか。
 そう思いたくなるほどその行動は酷く人間的で、胸を締め付けられる。
 何度かユイは障壁を突いて揺れる波紋を凝視すると、目を閉じて片手を頭へと乗せた。
 が、すぐにパチッと目を開く。

「ママ! この上には世界樹の根本にあるドームから中を通って行けるみたいです!」

「わかったわ!」

 エリカはその言葉を聞くと、世界樹へと侵入する為の入り口へ一気に急降下を始めた。
 リーファは慌てて彼女たちを追いかける。一年かけても踏破されないグランドクエストだ。
 二人、いや実質一人で簡単にどうこうできるとは思えない。
 だが、またも驚いたことに彼女の降下スピードにリーファは追いつけなかった。
 エリカは若草色の光となって世界樹の根元付近まで降下し、根と根の間にある大きなテラスを見つけ着陸態勢に入る。
 その速度は明らかに速度オーバーでいくらエリカと言えど制動をかけきれない。
 しかし彼女はお構いなしに翅を広げてスピードを殺し、それでも押さえきれない速度を踵で火花を散らしながら石畳を滑り、殺しきれなかった反動で転んだ後もすぐに起きあがって駆けだしていく。

 執念。

 そんな言葉が未だ滑空中のリーファに浮かんだ。
 それほどまでに必死だということがわかる。
 かつて、自分はあれほどまでに必死になったことがあっただろうか。



 ──はて、似たような事を、つい最近も考えたような。



「っ!」

 一瞬集中力が途切れた事でリーファの降下バランスが崩れる。
 慌てて彼女は余計な思考を中断して体勢を立て直す。
 着地を失敗すれば手痛いダメージを受けかねない、そう思って降下スピードを緩めて安全に着地した。
 それでも通常時よりかなり無理した速度ではあったが視界の隅にすらエリカは見えなかった。



 エリカはアルンの街を駆け抜け、ユイの先導によって世界樹の根本へと急ぐ
 一秒でもジッとしてなどいられなかった。かつて、アインクラッド迷宮区七十四層で経験した最低最悪な感覚が思い出される。

 質量を、失う感覚。

 フッと軽くなった時の絶望感は忘れたくとも忘れられない。
 それが今、喉元にまで迫りつつある予感。
 ユイによるとガーディアンと呼ばれる強力な護り手がいるそうだが、エリカ/アスナにはそんなこと関係なかった。
 世界樹の根元の表面近くまで来ると、石造りの妖精の騎士を象った彫像が、大きな扉を挟むようにして二体そこに屹立していた。
 大扉の前にエリカが立つと、その彫像が身じろぎを始める。まさかこの彫像が護り手、ガーディアンか何かか、と一瞬エリカは身構えるが、どうやらそうではないらしい。
 彫像は仰々しい兜の奥の両目に青白い光を灯しながらエリカに問いかける。

『未だ天の高みを知らぬ者よ、王の城へ至らんと欲するか』

 以前エリカはリーファに聞いた話を思い出していた。
 世界樹の上にある空中都市に最初に到達し、《妖精王オベイロン》に謁見した種族が《アルフ》と呼ばれる高位種族へ生まれ変わり、滞空制限が無くなると。
 それこそが、このゲームのグランドクエスト。最終目的。
 だが、エリカにはそんなことどうでも良かった。目の前には最終クエストへの挑戦の有無を問うイエス・ノーボタンがポップしている。
 エリカは握り拳を作ってイエスに叩きつけた。
 途端、もう一体の彫像が喋りだす。

『さればそなたが背の双翼の、天翔に足ることを示すがよい』

 大がかりな重低音を奏でて石造りの大扉は開いていく。
 アインクラッドのボス部屋の扉を思わせるそれは、しかしエリカになんの感慨も与えなかった。
 ここはアインクラッドではない。まして、ボス部屋へ挑む際にいつもそばにいた、《彼》なくしてどう感傷に浸れというのか。
 さっさと足を中へ進めると、天蓋から眩い光が降り注ぐ。大きなドーム状のそこは、天蓋が一際綺麗な虹色のステンドグラスで覆われていた。
 その中心に、円形の扉が見える。あそこを、突破しなければならないのだろう。
 翅を広げて、勢いよくそこを目指す。
 エリカが飛び始めてすぐ、それが引き金だったかのようにステンドグラスの前でもやもやとした白光が生まれ、みるみる形を形成していく。
 人型のそれは白銀の鎧を纏い、四枚の翅を背に生やした騎士だった。
 人間にしてはやや大きめの体躯のそれは鏡のようなマスクをしていて顔は見えない。
 やけに長大な剣を片手に、人ならざる獣のような咆哮を上げたその守護騎士、《ガーディアン》はゲートへ向かうエリカの前に立ちはだかった。

「そこを、どいてぇぇぇぇぇぇぇぇ!」

 エリカは宙空で立ちはだかる一体のガーディアンに渾身の突きを繰り出す。
 その勢いは凄まじく、ガーディアンは身体をくの字に曲げて僅かにノックバックする。
 だがエリカに後退は無い。そのまま力任せに左上から下に向かって斜めに切り払う。
 ガーディアンはそのまま一直線に地表へと落ちていった。
 HPはまだ僅かに残っていたが、地表へ激突するのと同時にその全てが吹き飛び、霧散する。
 エリカはそれを見届けることなくさらに上へと翅を羽ばたかせ、初めて僅かに止まった。

「っ、邪魔しないで……邪魔しないでよ……!」

 上空の扉。
 それを囲むようにあるステンドグラス。
 そこから、数十、いや、数百ものガーディアンがガシャガシャと湧きだしてくる。
 さりとてエリカが逡巡、躊躇ったのも本当に一瞬。次の瞬間には構うものかと一条の光となって再び急速上昇を始める。
 肘を曲げて、一点集中突破。出来ることはそれしかない!

「せい、やぁぁぁァァァァッ!」

 気合いとともに、幾重ものガーディアンによって組まれた《壁》ともいえる正面を突き抜けるべく速度を上げる。
 一体、二体、三体を玉突き事故のように押し上げ、持ち上げたところで、しかし彼女の勢いは止まってしまった。
 すぐに彼女は肘を引いて手近なガーディアンを踏み台にし、さらに上昇しようとする。
 だが、数の暴力にそう簡単に逆らえるはずもない。背後から強力な一撃をもらい横方向へ吹き飛ばされる。
 激しい目眩がエリカを襲い、一瞬上下左右の感覚が狂うが、必死に翅を動かし制動をかける。
 宙空で止まったエリカは一瞬で立ち位置を把握すると、構わずそのまま上昇を再開した。
 すぐにガーディアンに囲まれるが、全てを倒そうとはせず、向かってくる相手だけを切り払い、押しのける。

「あぐっ!」

 しかし相手は百を超える軍勢。
 一体の攻撃をかわし、二体目の攻撃を受けている間に三体目の攻撃が横から襲ってくる。
 切り結んだガーディアンを力任せに吹き飛ばし、反動のノックバックで距離をとってもエリカを囲むようにして大勢いるガーディアンが次の攻撃を向けてくる。
 素早く強攻撃を繰り出してそのガーディアンを押しのけ、二体ほど巻き込んでも、大振りな攻撃が祟り左右から挟み撃ちにされてエリカはHPを削られ目的地から遠ざけられる。

「邪、魔ァ!」

 その度にエリカは声を荒げて細剣を振り回し、奪われた目的地への距離を取り戻そうと躍起になる。
 だが、このゲームはレベルが存在しない。故にHPはさほど上限が増大しない。
 攻撃を何度も受けていてはそれが尽きるのは自明の理だ。
 アスナのHPは既に残り僅かだった。あと一撃で、良くて二撃で彼女のその身はリメインライトと化してしまうだろう。
 だがエリカはそんなことを気にしてはいなかった。
 あそこへ辿り着きたい、ただそれだけの思いしかなかった。

「届いてェェェェェッ!」

 手を伸ばす。
 それはまだ遠い。
 だが、無情にも行く手を再び五体ものガーディアンが塞ぐ。
 背後にも三体。逃げ場はない。攻撃をかわしきれないのは明らかだった。

 ──そこに、鮮やかな黄緑色のポニーテールが割り込んでくる。

「エリカさん!」

「リーファちゃん!?」

「一旦引いて下さい! 無茶ですよ!」

「でも、私は……!」

 リーファの突然の介入によって、一部穴が出来たエリカ包囲網を彼女は上手く抜けて、事なきを得る。
 だが依然としてHPは危険域。お互いが背中合わせになりすぐに二人を囲むようにして集まったガーディアン達を睨んだ。
 正直、絶望的ではある。リーファも既にHPは危険域だった。
 エリカの凄まじい圧倒的突破力を前に、殆どのヘイトはエリカへ向いていた。
 その為リーファにはさほどガーディアンが襲ってこなかったのだが、それでも敵の絶対数が多い為、通常時では考えられないような数の相手と同時にまみえなければならない。
 リーファは這々の体でエリカに追いついたが、これの数倍もの敵にターゲットされながらもまだ生きているエリカには驚愕を禁じ得ない。

「とにかく今は……ッ!?」 

 ガーディアンは二人の話す暇を与えてくれない。四体のガーディアンがリーファに向かってくる。とても捌ききれない。
 これまでか……そうリーファが思った時────目の前のガーディアンを素早く切り刻む閃光が奔った。

「ピナ!」

 えっというリーファの驚愕を他所に、高い声で名前を呼ばれた《小竜ピナ》がその小さい咢を開き、一帯を包み込むほどのふんわりとした虹色の泡ブレスを放出する。
 《バブルブレス》。視界を塞ぎ幻惑効果を生むピナのブレスの一つだ。それで、ガーディアンの動きが僅かに鈍った。
 リーファは突然のことに驚き、それをやってのけた主を見やる。
 相手は、ツーサイドアップで髪を留めた猫妖精族(ケットシー)の少女、シリカだった。

「シリカ、ちゃん?」

「無茶しちゃダメですよ! 逃げましょう!」

「う、うん!」

 シリカの援護を受けて、リーファはエリカの腕を掴み素早く宙空で身を翻した。
 エリカは若干抵抗していたが、リーファは構わず彼女を連れて行く。
 二人の背後から迫るガーディアンを、まだHPに余裕のあるシリカが殿よろしく引き受け、ボロボロの二人が離脱領域まで飛んだのを見計らってシリカも出口へ向かった。

「行くよピナ!」

 呼ばれた小竜は遥か高みにあるステンドグラス、その中央の扉を見つめていたが、主の声にピクンと反応して彼女の後を追い始める。
 幸い、ピナのバブルブレスによってガーディアンの動きは鈍っており、逃げ切ることが出来た。
 リーファはほとんど死を覚悟していた。
 シリカの乱入のおかげで、何とか三人+一人+一匹は死亡せずに脱出できたのはまさに僥倖と言えた。
 一歩間違えれば、HP全損の憂き目にあってもおかしくはなかった。





 リーファに連れられ脱出したエリカは、助けられた礼を言い回復を済ませると、再び世界樹へと足を向ける。

「一人じゃ無理ですって!」

 リーファが止めるが、エリカは聞き入れなかった。
 本当は、今すぐにでも飛び出したいのを押さえてさえいる。
 先程だって、あのまま逃げずに突っ込みたかった。たとえ死ぬことになろうとも。
 ただ、自身を省みずに助けに来たリーファを巻き添えに出来ないという冷静さが、まだエリカには僅かに残っていて彼女に強く抵抗しなかった。

「どうしてそこまで……何が、一体何があるんですか!?」

 リーファは、マナー違反とわかっていても聞かずにはいられなかった。
 一体、何が彼女をこうまで駆り立てるのか。それを知りたかった。
 聞かねば納得出来なかった。
 エリカは意外にも、そんなリーファの問いにすんなりと答えた。
 言ったところでわからないだろう、という思いもあったのかもしれない。

「時間が無いの。早くしないとキリト君が……」

「え──────」

 エリカの口から放たれた名前に、リーファは一瞬聞き間違いかと思った。
 だって、それは。その名前は。

「どうして、お兄ちゃんの、プレイヤーネームを……」

「お兄、ちゃん……? え、まさか、リーファちゃんて……」

 今度はエリカが驚く番だった。
 深く考えずに口走ってしまった名前。
 その名前の主、キリトのことを《兄》と呼ぶ少女。その人物に心当たりは、一人しか居ない。
 エリカとリーファはお互い見つめ合って、信じられないと固まってしまう。
 思考は《まさか》という言葉で一杯だろう。
 だが、互いに思い当たる節は確かにあった。
 直葉/リーファはふと思い出す。ひったくり相手に凄まじい突きを繰り出した兄の知り合いの女性を。
 彼女のノボリ旗を腰に持ってくる動作と、エリカの動作が脳内でピタリと一致する。

「結城、さん……?」

「直葉、ちゃん……?」

 声に出して、それが真実であるとお互いが認識し、再び固まってしまう。
 浮き彫りになった事実に脳が追いついていかない。
 リアルネームの開示などという極大級のマナー違反のことなど、今の二人の頭には全くなかった。
 そんな彼女達の止まった思考を動かすかのように、シリカが口を開く。

「あの、アスナさん……ですよね?」

「ッ!?」

 それは、エリカの行動を見て思い至った推論だが……シリカには自信があった。
 彼女の強さはもちろんだが、先日エギルから聞いた話を鑑みれば、その可能性は非常に高い。
 だから彼女は《行動した》のだ。
 エリカ/アスナは「どうして……」とシリカを見つめる。
 何故、そのプレイヤーネームを知っているのか。
 いや、考えられる理由は一つしかない。

「貴方も、SAOプレイヤー……なの?」

「はい」

「……そう、なんだ」

「キリトさんには、助けてもらったことがあるんです」

「キリト君が助けて……あれ? シリカ、ちゃん?」

「ご存知ですか?」

「あ、あ、ああ────っ! うん! 聞いたことがある! 確かフラワーガーデンでプネウマの花を取りに行ったって……」

「はい、キリトさんには私だけじゃなくピナを助けてもらいました」

 シリカは肩の上に乗っているピナのフワフワの頭を撫でる。
 ピナは喜び、すぐにシリカの首に頭を擦りつけて親愛の意を示した。
 微笑ましい光景。誰もが表情の弛む中、その一言が、空気を変えた。

「あの、アスナさん」

「なぁに?」

「キリトさんと結婚していたって、本当ですか?」

「えっ」

「えっ」

 シリカの質問に、リーファとエリカの顔が強張る。
 リーファはゆっくりと、エリカの顔を見つめた。
 エリカは慌てたものの、アバターの頬を染めて、小さく、本当に小さく頷いた。

 頷いた。

 頷いた。

 頷いた。

 結婚していた、という問いに頷いた。
 それはつまり、リーファにとって兄であり、ただならぬ感情を持ってしまっていた相手は、知らぬ間に他の相手と結ばれていたということだ。
 仲が良かったんだろうな、という予感はあった。もしかしたらただならぬ仲……という予想が全くなかったわけではなかった。
 だが、まさか全てを飛び越えて終着点である結婚をしているとは、流石に予想していなかった。

 ふと、思い出す。

 彼女の、献身的なまでの姿を。
 現実の彼女は、誠心誠意兄である和人の事を思っていたように見えた。
 ひたすらに手を握り、祈るようにずっと兄の傍にいた姿が浮かぶ。
 あの、神聖ささえ感じられる思いと行動。
 心の何処かで自分と比べて、その綺麗な在り方に《勝てない》と思うことを恐れ、避けてきたその様。
 今思えば、あれはまるで永年連れ添った夫婦のそれのようでは無かったか。

 ──瞬間、あらゆる出来事がリーファの胸を駆け巡り、心の容量がオーバーフローする。

 ──思いが巡り、彼女が気が付きたくなかった《それ》に気付かされる。

 胸が、痛い。ペインアブソーバによって本来痛覚は薄められる。
 だが、それとは無関係にズキズキと突き刺さるような痛みが直葉を襲った。
 心にシステムは干渉できない。干渉されてたまるものか。

 だから、直葉/リーファは《ある覚悟》を決めた。
 気付いてしまった今、このままにはしておけなかった。
 リーファは凛とした態度で、エリカ、いやアスナに向き合う。

「エリカさん……ううん結城さん」

「……?」

「私と、デュエルして下さい。お兄ちゃんをかけて」

「え……」

 戸惑うエリカを他所に、リーファは剣を抜いた。
 それにはレコンやシリカでさえ驚いている。
 しかしリーファは既に退く気は無かった。もう決めたのだ。

 《気付いてしまった》今、このままではいられない。

「私は、お兄ちゃんとは本当は従妹なんです」

「ッッッ!?」

 エリカの顔が驚愕に彩られる。
 流石に、それは知らなかった。
 それを今言う意味。それは、つまり、本当に、そういうことなのだろうか。

「構えないなら、こちらからいきます……よッ!」

 リーファの踏み込む一歩は本気のものだった。
 鋭い刃がエリカを襲う。エリカは慌ててバックするがそれを見越していたリーファは即座に切り返してくる。
 エリカはたまらず空へ逃げるも、リーファは何処までも追ってくる。
 そのうち、キィン! と高い金属音が鳴った。
 リーファの剣に、エリカは細剣を抜いてしまった。抜かねば、今の攻撃を捌けなかった。

「やっと抜きましたね」

「本気、なの……?」

「……どっちが勝っても恨みっこなしですよ」

「ちょ、ちょっと待ってよ……! 急にそんなこと言われても私……」

 逡巡するエリカに、リーファは容赦なく剣戟をお見舞いする。
 凄まじい速度。このリーファの腕ならSAOで攻略組を名乗れる、とエリカは感じた。
 何もしなければ、やられる!
 再び一際甲高い金属音が鳴り響く。初めて、エリカが受ける剣ではなく力のこもった剣を振った。
 リーファはエリカから距離を取って口を開く。

「やっと、その気になりましたね」

「止める気はないんだね?」

「……はい」

「わかった」

 それで、エリカは覚悟を決めたようだった。
 リーファはそれを待っていたように、真っ直ぐエリカを見つめる。
 見つめ合いは数瞬。

「せぇぇぇぇぇぇぇい!」

 リーファが裂帛の気合いと共にエリカへと突撃する。
 これまでにない速度。彼女とて、風妖精族(シルフ)の中でもトップ争いが出来るプレイヤーであり、その腕は一流と言って良かった。
 その彼女が必殺の速度で迫る。

 が、次の瞬間、リーファは剣を投げ捨てた。

 リーファは目を閉じる。
 これでいい、と。これで……エリカさん、いや結城さんに《償える》と。
 そう思い、来るであろうその瞬間を待つが、それは来ない。
 代わりに、ふわりと誰かに抱きしめられた。

「え……?」

 目を開けば、リーファはエリカに抱きしめられていた。
 頭を撫でられて、背中をポンポンと叩かれる。
 エリカは剣を振らなかった。初めから、振る気など無かった。

「私、斬れないよ。リーファちゃんには一杯お世話になったもん。意味もなく斬れないよ」

 彼女の言葉に、リーファは一気に涙を零した。
 掠れるような声で、何度も何度も呟く。

「ごめ……なさい、ごめん、なさい……!」

 リーファ、いや、直葉は泣きじゃくった。
 止めどなく大粒の涙を零して、泣きじゃくった。
 エリカ、いやアスナは「よしよし」とそんな彼女を抱きしめる。

「わた、し……知らなくて、何も、知ら、なくて……!」

「うん」

「お兄ちゃ、んに……キスしちゃって、でも、私、知らなくて、結城さんとお兄ちゃんのこと、知らなくて……!」

「うん」

「結城さんが、どんな気持ちか、とか、ちゃんと考えたこと無くて……いつも、自分のことばっかりで……私、私……!」

「うん」

「ごめん、なさい……!」

「うん」

 泣きじゃくる直葉を、アスナは優しく撫でていた。
 突然爆発した感情の発露。直葉は、気付いてしまったのだ。
 結婚までしたという二人。だというのに、自分はその人の目の前で相手にキスしてしまっていたのだ。
 自分だって兄のことは好きだ。でも、兄が選んだのはあの人なのだ。その相手に、ワザとじゃなくても、見せつけるような形になってしまった。
 もし自分がやられたら、どんな気持ちだろう。考えただけで背筋が冷たくなった。凄く、嫌な気持ちだった。
 なのに、彼女は、一度儚いような笑顔を見せただけで、特に責めることはしなかった。
 その彼女の優しさに気付いた時、直葉の心は溢れた。

 申し訳ない、という気持ちで。

 気付いてしまった。自分が、どれだけ酷い仕打ちをしてしまったかということに。
 溢れてしまった。償いたいという思いで。
 だから、直葉はせめて彼女の剣で貫いてもらうことを望んだ。
 だが、アスナはそれをしなかった。その優しさが、直葉の心を尚も揺さぶって、表出させた。

「私も、ごめんね……?」

「……ひっく」

「直葉ちゃんも、キリト君の事、大好きだったんだね」

「……ひっく、はい」

「ごめんね……私、ずるいよね……」

「そんなこと、ないです……」

「でも、直葉ちゃんがいないところでキリト君と仲良くなって……」

「それは、だって……」

「私、ずるかったね……ごめんね……ごめんね……!」

 今度は、感極まってアスナが泣いてしまった。
 ごめんねごめんねと、何度も何度も。
 徐々に直葉のアバター、リーファを撫でる手も震えて、その嗚咽が聞こえ始める。

「ち、違います! ずるくなんかないです! ずるいのは私の方で……」

「ううん、私の方がずるいよ。あの世界で生きるのに必死で、現実の事を考えられなくて……」

「で、でもお二人は結婚までしてるのに私お兄ちゃんにキスしちゃって……」

 そうやって、お互いが引かぬ卑下のし合いをしている時だった。
 なかなか終わらないかと思われたそれを打ち破ったのは、一つの怒髪天をつこうかというようなさんさんたる怒り声だった。

「えぇ!? リーファさんパパにキスしたんですか!? パパにキスしていいのはママだけなんですぅ!」

 フンス、と怒り心頭ですと身体全身で表現しているその怒りの主は、言わずもがな、ユイだった。
 彼女はリーファに対して「ムキー!」と怒り狂っているが、その様が大変可愛らしく、つい二人は笑ってしまった。

「あ、あはははは! うん、そうだね、ごめんねユイちゃん」

「もう、本当にわかってるんですか!? それにママもですよ!」

「え、ええっ!? 私?」

「当たり前です! 現実で何をやっているんですか! しっかりして下さい! パパの唇を守れるのはママだけなんですよ!」

「え、あ、うん……その、はい。ごめんなさい」

 直葉もアスナも「私怒ってます!」というオーラを常に昇らせているユイに頭を下げた。
 腕を組んで不機嫌そうにしているユイを見ると、それだけで二人は言い争っていたことが馬鹿らしくなる。
 だから、頭を下げたまま、お互いに視線を絡めて、微笑みあった。





 リーファとエリカの二人が置いてけぼりにしてしまったシリカとレコンの元へ戻ってくると、シリカが何やらメッセージを打っていた。
 すぐにメッセージが返ってきたようで、「よしっ!」と彼女は喜んでいる。

「どうしたの? 知り合い?」

 リーファが駆け寄ると、シリカは「えへへ、そんなところです」と微笑んだ。
 レコンが一人、そんなシリカを訝しそうに見つめている。

「この子いろいろ何かやってるんだよね、さっきだってさ、速くリーファちゃんたち追いかけたかったのに急にログアウトするから守ってくれ、なんて言い出すし」

「ログアウト? シリカちゃんログアウトしてたの?」

「はい、ちょっとリアルの人と連絡を取りたくて」

「ふぅん、それでなかなか追いついてこなかったのね。まあいいわ。それでシリカちゃん、約束していた世界樹攻略なんだけど」

 リーファが気まずそうに切り出す。
 その真意を、シリカは理解していた。

「皆で協力しようってことですよね? もちろん構いませんよ」

「よ、良かったあ……」

 リーファはホッと胸を撫で下ろした。
 に一緒にやろうとリーファの中では決めていたのだが、断られたらどうしようという不安はあったのだ。
 これで戦力は増えた。リーファはチラリ、とエリカを見やる。それにエリカは頷いた。

「リーファちゃん、シリカちゃん、レコンさん、私に力を貸して」

 エリカは深く頭を下げた。
 それに全員が頷く。

「ありがとう。じゃあまず、最初に言っておくことが一つあるの」

 全員が頷いてくれたことにわかっていながらも安堵しながら、エリカは神妙な顔で口を開いた。
 これを、知っていてもらわねばならない。

「世界樹の上には、キリト君がいる。これは間違いないよ」

 その言葉に、レコンだけが首を捻った。
 誰だろうそれ、というところだろう。
 だが今は、それを説明している暇はない。

「もう一つ、そのキリト君の直近の言葉をユイちゃんが偶然キャッチしたの。内容は……死にたい、だって……」

「え……」

「そんな!」

 これには、リーファもシリカも驚きを隠せない。
 みるみる顔が焦燥に包まれていく。

「私も、それを聞いてだいぶ焦ったの。だから、がむしゃらに突っ込んだけど、多分それだけじゃ突破は難しいと思う。でも、ユイちゃんが聞いたことが確かなら、時間はあまり無いと思うの」

 真面目なエリカの顔に、シリカとリーファは頷いた。
 唯一レコンだけがやはり疑問符を浮かべている。
 それにエリカは苦笑しながら、応えた。

「ごめんね、わけのわからないことを言って。でも、すぐにでも世界樹を攻略しなくちゃいけない。これは絶対なの。それだけはわかって」

 真摯なエリカの態度にレコンは慌てて頷いた。
 別に彼にも反対の意があるわけではない。ただ、三人には共通認識があって、自分にだけ無いそれに、些か疑問が発生していただけだった。

「じゃあ作戦だけど、基本は変わらずでいきたいと思う。ユイちゃんの話だと、ゲートへ近づくにつれてガーディアンのポップ率が上がっていくらしいの。最接近時で秒間十二体だったって」

「秒間十二体!? そんなの、クリアなんてできるわけ……」

 レコンが口を挟むが、リーファに睨まれすぐに口を閉ざす。
 今は不可能を検証する時ではない。いかに無茶を通すかだ。

「ユイちゃんの見た限りだと、私の瞬間突破力はそこそこあるから、フォローがあればいける、かもしれないって」

「色々考えたいけど、時間は無いみたいだもんね」

「……そうですね、どこまでできるかわかりませんが、やってみましょう!」

「僕はもう、決まったことに付き合うよ」

 全員の同意を得て、一行は再びグランドクエストへと向かう。
 アスナは、全員に改めて、心の中でお礼を言った。ありがとう、私の我が儘に付き合ってくれて、と。





 大扉を開いて、再びアスナは一直線に駆け上る。
 ぐんぐん上昇していくと、やはりすぐにガーディアンがポップする。
 しかし先ほどとは違い、今度は最初からリーファやシリカ、レコンがガーディアンのタゲを極力取るように奔走し、エリカの負担を減らすように心掛けた。

「でええええええええええい!!」

 アスナは細剣を真っ直ぐ伸ばし、刺突の要領で一直線に突破を狙う。
 ガーディアンがいくら湧き出ようと、気を回さない。すべては、他の皆へと任せたのだ。
 だが、

「くっ! 数が多すぎる!」

 レコンがぼやく。その気持ちはわからないでもない。
 一年かけてもクリアされないグランドクエストだ。これ以上の圧倒的レイドを組んでも全滅の憂き目を見たと言う話しはアルヴヘイム中に出回っている。
 それほどの無茶で難関クエスト。いや、レコンの言葉を借りるなら、クリアさせる気のないクエスト、というところだろう。
 少人数の軍勢は、あっという間に追い込まれる。
 もっとも飛翔しているアスナの周りには既に五十を超えるガーディアンがおり、壁と言って差し支えないそれに行く手を阻まれ叩き落とされる。
 必死に高度を下げないよう頑張っているが、これ以上進むのは至難の業だ。
 レコン、リーファ、シリカに至ってはそこまで上ることさえ出来ずにタゲを取り過ぎたガーディアンの始末に忙しい。
 いや、始末する余裕すらなく、ひたすら逃げまくっている、というのが正しかった。
 撃破こそしているものの、それを超えるポップが常に起こり、減少させられない。間に合わない。
 相手をする数が増える一方になり、防戦ばかりに気を取られる。くしくも、最初のエリカの時と同じ状態になりつつあった。
 そんな中、一人猛然と諦めないプレイヤーがいた。

「やああああっ!」

 短剣での素早い連撃をお見舞いし、援護を近くの小竜が行う。
 そうやって、実にシリカは一人で三十体近くもガーディアンを屠るという戦果をあげていた。
 そのバーサクぶりにはリーファも舌を巻くしかない。
 シリカは必死だった。諦めたくなかった。キリトを助けたかった。
 いつか、きっと彼の役に立つと決めたのだ。ここで諦めるわけにはいかなった。

「あうっ」

 しかし、数の暴力に少数は圧倒的不利を強いられる。
 一向に減らないガーディアンは、むしろその数を増し始めて彼女たちを襲う。
 とうとうシリカもクリーンヒットを背中にもらって吹き飛んだ。
 ピナが慌ててフォローに入る。僅かに彼女のHPが回復するが、まさに焼け石に水。
 すぐに身を翻すも、一度ペースを乱したシリカにガーディアンは畳み掛けてくる。
 再び長剣を向けられ、短剣を構えるもその背中にはもう一体のガーディアンがシリカを貫くべく接近していた。

「危ない!」

 リーファは叫ぶも、加勢に向かえない。自分の事で手一杯。
 いやむしろ助けて欲しいくらいの状態だった。
 それはレコンも同じで、彼はどうにかまた闇属性魔法の自爆を考えてさえいた。
 エリカに至ってはもっとも遠く、さらには上にいるために救助は期待できない。
 リーファの視界の中、シリカが貫かれる時を想像して、彼女がその目を閉じようとしたまさにその時、紅い閃光がシリカの背中に飛び込んだ。

「よっ!」

 軽そうな声を上げて、そのサラマンダープレイヤーはガーディアンを屠る。
 そのサラマンダープレイヤーは男性だった。見たことは無いが、装備は至って普通で、これといって特筆するものはない。
 ただ、あえていうなら、趣味が良いとは言い難いバンダナをその頭に巻いているくらいだろうか。



「お待たせシリカちゃん」



 ニカッと笑うサラマンダープレイヤー。
 彼はどうやらシリカの知り合いらしい。
 そのシリカは目をぱちくりさせて、恐る恐る尋ねた。

「えっと、クラインさん、ですか?」

「おうよ! つってもアバターは前と違ってランダム生成されるから、わからないか。ほれ、似たようなバンダナはしてるんだけどな!」

「ありがとうございますクラインさん、助かりました」

「なァーに、シリカちゃんの頼みならたとえ火の中水の中、連絡もらえば即参上ってなァ!」

 クラインは、振り向きざまに曲刀を振り抜き、寄ってきていたガーディアンを切り伏せる。
 リーファをして、なんて速い太刀筋だと息を呑ませた。
 何者なのだ? あのクラインと呼ばれたサラマンダープレイヤーは。
 そんなリーファの疑問は、小さい叫び声によって解決される。

「ああ───────ッ!? クラインさん!」

 小妖精、と呼ぶに相応しいユイが、エリカの元を離れてクラインの前へと来ていた。
 当のクラインは目を丸くして驚く。

「え? えええええ!? ユ、ユイちゃんなのか!? うお、マジか!?」

「酷いですクラインさん、浮気ですね浮気なんですね!?」

「へ? えええ!? い、いやそういうわけじゃあ……」

 突然の再会に、クラインは驚きのあまりあたふたとする。
 こんなことは聞いてなかったし予想もしていなかった。
 助けてくれシリカちゃん、とクラインは視線を向ける。
 するとシリカはクスリと笑った後、急に悲しそうな顔をして、涙さえ滲ませながら呟いた。

「クラインさん、私とは遊びだったんですね……」

「ええええええええ!?」

 クラインはますます困り果て、あたりを見回す。
 彼の視線の先からは既に殺気が一ダース以上生まれていた。
 ……そう、そこには先ほどまでいなかったはずの一ダース以上の種族混合チームが既に存在していた。

「クラインてめぇ!」

「俺たちのシリカちゃんを泣かせたぞ!」

「《黒ずくめ(ブラッキー)》よりまずはあいつだろ!」

「そうだそうだ!」

 口々に罵詈雑言をクラインに浴びせる。
 クラインは状況の悪化を悟り、一人ガーディアンの群れに突っ込みながら叫んだ。

「キリトよォ──ッ! 助けに来たゾォ──ッ! だから助けてくれェ──ッ!」

 なんとも情けない台詞だが、言葉とは裏腹に、彼は信じられない戦闘力を発揮していた。
 あっという間に十はガーディアンを屠って見せた。なんというスピードだ。あんなプレイヤーがまだいたのか。
 ……しかし、何故いまこのタイミングでここ来たのだろう。
 その様を、はるか上空に位置しながらまだゲートに到達できないエリカも見ていた。
 リーファとは違い、すぐに彼らの存在に思い当たる節がエリカにはあった。
 彼女は、その立場からある程度のSAOプレイヤーならば、動きを見ただけでなんとなく誰が誰だと把握できる程の目を持っていた。
 ある程度のSAOプレイヤー、すなわち攻略組に属するプレイヤーならば。
 そう、どういうわけか、そこに現れた助太刀らしきプレイヤーは、SAOプレイヤーでも選りすぐりの、攻略組プレイヤーがほとんどだと思われた。

 時間は少し、遡る。



 シリカは、エリカが一人で世界樹上空へと向かった時から、一つの仮説を立てていた。
 それは、エリカがアスナではないか、ということ。
 そこから連想されるのはやはり、世界樹にキリトがいるのではないかという仮説。
 だとすれば、戦力は心許ない。そこで、彼女はあることを思い立ってレコンに自身の警護を頼んで一度ログアウトした。
 アルンの街の中ならば、即時ログアウトは可能だったかもしれないが、今は一分一秒が惜しい。
 既に飛び出した二人をそこそこ追いかけていた為、レコンとシリカはフィールドに出てしまっていた。
 頼まれたレコンは空中でシリカを抱きかかえ──役得なお姫様抱っこではあるが、ピナが目を光らせていて変なことは一切できなかった──現実でエギルに連絡を取る。
 彼は以前言っていた。ある程度のプレイヤーとの人脈はある。と。
 藁にも縋る思いで、その人たちに連絡を取ってもらい、協力をお願いした。
 さらに、自身の知り合いであり、《偶然にも》SAO解放時に同じ病院だったクラインに自ら連絡し、協力を依頼した。
 彼にはALOをやることを以前から話しており、彼だけは同じくALOをプレイしていた。
 ──直葉のこともあって、一緒にプレイしていたわけではないが。
 クラインは相変わらずギルド《風林火山》のメンバーとつるんでいて、彼らもまたALOに参加していた。
 そんな経緯からクラインは《風林火山》ごと協力する旨をシリカに伝えてきた。
 それが、リーファとエリカが戻ってきたときにシリカが受けたメッセージである。
 正直に言えば、シリカにもどれだけ戦力が集まるか自信は無かった。それ故に余計な期待を持たせまいとあえてこのことは伏せていたのだ。
 しかし蓋を開けてみれば、総勢二十名近くのSAOプレイヤーが協力に駆けつけてくれていた。
 同じくALOにフルダイブしていて、なおかつアルンの近くにでもいなければ協力は不可能なはずなのに。
 だが彼らは来てくれた。あんな目に合いながらも、フルダイブ型のゲームを止めずにいてくれた。
 もしかしたらエギルのように、いや、エギルがこれを見越して情報を他のプレイヤーにも回していたのかもしれない。
 だがそれでも、ここにいることを選んだのは彼ら自身だ。

 ここに、SAOというデスゲームに参加させられ、見事生き残った精鋭が援軍として現れた。
 それが何を意味するのか、ALO組にはわからないだろう。
 この中の半数は攻略組であると知れば、その混沌さはさらに増すことになる。



 プレイヤーの一人が、一番上にいるエリカに声をかけた。
 エリカにわかるということは、他のSAOプレイヤーもエリカがアスナだとわかるということでもある。
 たとえお互いにその姿がランダム生成されたアバターでまったく違っていたとしても。

「エギルからの伝言! キリトを助け出せ、じゃないと俺たちのSAOは終わらない、だとサ! 指揮を頼むぜ副団長サマ!」

 その言葉に、総勢二十名近くの援軍は声を高らかに上げる。
 これからが戦だ。いや《攻略》の時だ。
 そう、これは、かつてアインクラッドでボス部屋の前にいた時と同じような昂ぶり。
 誰かが言う。

「死なないゲームなんて、ヌルすぎるぜ!」

 ソードアート・オンラインは常に本当の死と隣り合わせだった。
 理不尽極まりないそれは、一瞬の油断が実際の死を招く。
 そんな中で鍛え、生き残ってきた精鋭達。
 それを……死んでも良いなどという《ヌルゲー》が果たして抑えきれるのか?
 プレイヤー達の激しい咆哮が飛ぶ。それは絶対に否だと示すかのように。

 さあ攻略を始めよう、と二十余名のプレイヤーは一斉に飛び散った。
 その動きは俊敏で無駄が無く、ガーディアンを悉く屠っていく。


 今ここに、かつてのデスゲームで行われた攻略戦の幕が再び上がろうとしていた。



[35052] ALO8
Name: YY◆90a32a80 ID:1a43ae77
Date: 2012/11/03 19:11


 ほぼオープン直後からALOにいる直葉/リーファにとって、ALOプレイ歴は一年ほどになる。
 当然古参と言っていいレベルで、経験も知識量も圧倒的に多い。
 それに裏付けされた能力ももちろん持ち合わせていて、もしALO内で種族間を無視した全プレイヤーによるデュエル大会等が行われたら、上位にランクインできるのは確実だろう。
 純粋にプレイヤーのナンバーランク序列を付けるなら、数万人はいるALOユーザーのうちベスト100に入ってもおかしくはない実力を持っていると言っていい。
 ハイプレイヤーの中でも中堅以上のレベルに彼女はいる。

 そのリーファをして、目の前で起こっていることは目を疑う光景だった。

 ガーディアンの攻撃を皆紙一重でかわしては重攻撃を当てていく。
 大きく横に薙ぐ攻撃をしたプレイヤーは当然隙だらけになる。だというのにそのプレイヤーは空中宙返りの要領で背後に迫ってきていたガーディアンをかわした。
 空を飛ぶことが出来、尚且つ空中だからこそできる芸当だが危険すぎる。それにガーディアンの数は決して少なくない。
 すぐにそのプレイヤーの頭上には別のガーディアンが現れる。リーファは今度こそダメだと思うが、そのプレイヤーは今度も首を捻るだけで見事ガーディアンの攻撃をかわして見せる。
 その様には驚愕するばかりだが、今度こそダメだ。三方向からガーディアンが同時に攻めてくる。
 体勢も崩れたその状態で捌ききるのは不可能だ。そう思った時、他のプレイヤーが絶妙な手助けをしてそのプレイヤーは危機を脱した。

 いや。

 あのプレイヤーに焦りはなかった。
 《あの程度》は予定調和で、危機ですらない、ということなのだろう。
 なんて人たちだ。自分なら絶対にそこまで踏み込まない間合い。そこに、躊躇いなく彼らは踏み込む。
 知識が無いからではない。無鉄砲なわけでもない。
 答えは単純明快。
 リーファですら躊躇うその間合いが、彼らにとっては安全マージン内だという事実。
 それを目の当たりにして、リーファは言葉を失った。
 どうして今の攻撃をかわせるのか?
 どうして今の攻撃を当てられるのか?
 どうして今の攻撃に合わせられるのか?
 どうして今の攻撃に退く事が出来るのか?
 どうして今の攻撃がその瞬間に出せるのか?

 どうしてあの瞬間に味方が助けに入るとわかったのか?

 まさに阿吽の呼吸とも呼べるそれは、リーファの知らない一段上の世界だった。
 さらに驚いたことに彼らのほとんどは魔法を使わない。
 この数のガーディアンではその方が良いのかもしれないが、どうしてもこの世界の熟練者は魔法に頼ってしまう傾向がある。
 これほどの物理戦闘をこなせるものがこんなにもいたのか、というリーファの驚嘆は次の声に上塗りされた。

「みんな! ちょっと勝手に動きすぎだよ! ちゃんと手近なグループにわかれてスイッチして!」

 エリカの目から見ればこの戦闘はまだまだということなのだろう。
 本当に彼女達には驚かされてばっかりだ。
 エリカは一人上空で高度を保ったまま戦い続けている。
 高度が上がれば上がるほど難易度は増しているはずだから、それはそれで驚嘆に値するが、さらに下の様子を確認し指示まで出すとはもはや凄いとしか言いようがない。

「おい副団長の命令だ! お前とお前、あとお前! 俺と同じA班な!」

 副団長、といういまいちリーファには聞き馴染みの無い言葉で、プレイヤーの一人がA班を名乗り、人数を決定する。
 それに習い、各々が声を出して次々に戦闘中ながら五つの班が即席で作られていった。
 エリカはそれを待っていたかのように、声を張り上げる。

「B班、C班は下の殲滅、一班構成は三人一組、POT枠一人!」

「了解!」

「A班、D班! 今私のいる一帯を受け持って! POT枠は二班で一人!」

「あいよ!」

「E班! お願い、私の為に道を作って!」

「よしキタァァァァァァ!!!!」

 E班は一際盛り上がりを見せてびゅん! と強い羽ばたきで一直線に上空へ移動する。
 すぐにガーディアンが邪魔に入るがそれらをA班D班が足止めする。

「行かせるか!」

 戦局が目まぐるしく変わっていく。
 だが、E班の特攻ぶりがゲートへ一筋の道を作った。
 エリカは、ここだ! と一気に加速する。

 あともう少し。

 もう少し。

 もう、少し……!

 届け! とエリカが手を伸ばしたその先で……急激にガーディアンのポップが発生する。
 ゲートを護るようにポップしながらガーディアンはエリカに突撃を敢行した。
 それを、

「させない!」

 そのツーサイドアップの髪をこれでもかと揺らしながら高速移動したシリカが割って入って止める。
 視線だけでエリカは彼女の意図を理解した。

 行ってください、と。

 エリカは緩めたスピードを再び加速させる。
 すると、シリカを相手していたはずのガーディアンはエリカに向かい始めてしまった。
 ここまで来るとゲートに近いプレイヤーをオートトレースするのかもしれない。
 そのガーディアンを、今度は追いついたリーファが両断した。

「ここは私達が止める!」

 その声だけで、エリカは背後で起こっていることを察した。
 ありがとう、と心の中でお礼を言って、剣を構える。
 最大まで引き絞って、エリカは扉に向かって渾身の力で細剣を突き穿った。

 届け! と強く願う。

 行け! と声な声援を背中に受ける。

 背中に、たくさんの人の思いが上乗せされる。

 上へと押しやってくれる。



 届け! 届け! 届け! 邪魔は─────させない!



 途端、ゲートの目前にポップしたガーディアンは《案の定》エリカの細剣に貫かれた。
 そんなことだろうとエリカは予想していた。このゲームはきっと何がなんでもここへ通さない気だったのだ。
 だがそんなことは知らない。今は、ここを通らねばならないのだ。
 自身の最大剣速を引き出したアスナの剣は、ガーディアンを貫きとうとうゲートへと届く。
 甲高い金属音を鳴り響かせた細剣がゲートへと突き刺さった。
 その音を聞いたプレイヤー達が一斉に声を上げる。
 ある意味で目的の達成だと思ったのかもしれない。

 しかし。

 一人、エリカだけは焦燥していた。
 ゲートは辿りつけば開くものだと思っていた。
 しかし十字に亀裂の入った円形のリングゲートは、何の変化も起こさない。

「ど、どういうこと……? なんで、なんで開かないのっ!?」

「マ、ママ……! この扉はクエストフラグによってロックされているのではありません! 単なるシステム管理者権限によるものです!」

「シス、テム……管理者……?」

「つまり、この扉はプレイヤーには開けらないようになっています!」

 エリカの元に戻ってきていたユイが、悲しそうに叫んだ。
 プレイヤーには開けられない。なんだそれは。
 なんなんだそれは。ふざけるな。ふざけるなふざけるなふざけるな!
 あともう少しというところで、また邪魔をするのか。まだ邪魔をするのか!
 システム、システムシステムシステムシステム!

 何が、システムだ。
 そんなもので、彼と私を、隔てないで。
 お願いだから、お願いだから……!



「私を、行かせてェェェェェッ!」



 目一杯に、声を張り上げ、零れる涙も無視して、細剣を再び突き立てる。
 相変わらずの無味な金属音。それにエリカが絶望しかけた、その時。

 聴覚システムが、獣の声を、捉えた。










 シリカは、エリカを追おうとするガーディアンをひたすら抑えていた。
 ここは通さない! とその意思を瞳に宿して、かつてのアインクラッドの時以上に自分を鼓舞させていた。
 だから、剣が突き刺さる音を聞いた時は本当に嬉しかった……のだが。
 シリカは異変にすぐ気が付いた。
 ゲートへ辿りついたはずのエリカが、その場から動かない。ゲートが開いていない。
 どうして? と思うもシリカに余計なことを考える余裕はさほど無い。
 今は、全てをエリカの、いや、アスナの為に。彼女をキリトの元へと送るために。
 ただそれだけを思ってひたすらにガーディアンを屠り続けた。
 その時、上空から悲痛な声が上がる。

「私を、行かせてェェェェェッ!」

 どくん、と胸打たれるほどの感情が込められた声。
 それを聞いた時、いつも傍にいる彼女の相棒が、ビクンと体を震わせて動きを止めた。
 それを目端で捕らえたシリカが何か考えるより速く、事態は急変した。
 次の瞬間彼女の相棒、《フェザーリドラ》の《ピナ》は初めてご主人様の傍を離れてはるか上空へと羽ばたいて行ってしまう。

「ピナ!?」

 シリカの驚愕をよそに、ピナの高い鳴き声が響く。
 同時に、それが《鍵》であったかのようにエリカの前にあった扉から光が漏れ、転移結晶を使った時のような光の粒子へとエリカはその姿を変えられた。
 光の粒子は瞬く間に発行するゲートへと吸い込まれていく。

 とうとう、ゲートが開いた!

 その歓喜にプレイヤー達は湧き立った。
 さらに、ガーディアンの異常なまでの湧出(ポップ)が突然止まる。
 クエストクリアということなのだろうか。
 さらに湧き立つプレイヤー達は残りのガーディアンを瞬く間に一層してしまった。
 増えないガーディアンなど、もはや彼らにとって脅威では無かった。

「ようシリカちゃん、お疲れ」

「お疲れ様ですクラインさん」

 全員、下へと降りて勝利の歓喜に酔いし入れていた。
 目的は達成された。あとはエリカに任せるだけだ。
 その意味ではシリカもホッとしていたが、どうにも気になることがある。

「あの、クラインさん」

「ん?」

「ピナ見ませんでしたか?」

「あのフェザーリドラかい? いや、見てねえなあ。そういやいつもシリカちゃんの傍を飛んでるのに見かけねえな」

「ピナ……?」

 シリカは不安そうな声を出した。
 これまで、ピナが勝手な行動をとったことなどほとんどない。
 ましてやシリカの目の届かない場所へ行くことなどSAOでも無かったことだ。
 シリカは言いようのない不安に襲われ、辺りを見回していると、何人かのプレイヤーが彼女に寄ってきた。

「な、なあシリカちゃん」

「は、はい……?」

 なんだろう?
 今はピナを捜したいのだけど。

「ずっと気になってたんだけどさ」

「はい」

「なんで、シリカちゃんは──────《SAOと同じアバター》なの?」

「えっ」

 空気が凍る。
 どよ、と周りのプレイヤーが一様に黙って彼女を見つめた。
 気にしたことなど無かった。
 だが、このゲームは確かに《アバター》が《ランダム生成》される。
 だというのに。何故今の彼女はSAO、ひいては現実と同じ《ツーサイドアップ》の髪型で──色合いや特徴こそ猫妖精族(ケットシー)のものだが──アバターの《基本構造》は《彼女自身そのもの》なのか。

「それにさ、ちょっと調べてみたんだけど」

「……?」

「どうもこのゲームはSAOとセーブデータのフォーマットが似ていてね。SAOデータの引き継ぎみたいなことが起きてるんだけどさ、《ゲームコンポーネント》は全く別個なんだ。同じなのはシステム回りくらいだよ。セーブデータ以外はシステムメニューとか補助AIとかそれぐらいだと思う」

 ゲームコンポーネントって何?
 それが私に一体何の関係が?
 この人は、何を言っているの?

「それでさ、一応気になって調べたらフェザーリドラってSAOオリジナルモンスターみたいでALOにはいないっぽいんだけど」



 ─────なんでいるの?




















 アスナ/エリカが気付いた時、そこは真っ白な通路だった。
 通路はやや湾曲していて、なんの飾り気もない。
 ここは何処だろう。無味乾燥としたこの場所は面白みの欠片もない。

「ユイちゃん、ここが何処だかわかる?」

 そこにいるはずの娘に、エリカは尋ねる。
 しかし、予想に反していつもなら呼べばすぐに何か反応を返してくれる彼女は、珍しく即答しなかった。

「……? ユイちゃん?」

「……さっきのは、まさか」

「ユイちゃんてば」

「はい!? あ、えと、なんですかママ?」

「どうかしたの? ここが何処か聞きたかったんだけど」

「あ、いえ……ええとここは、世界樹の中ですね。あ、パパは近いです! この上にいます!」

「ほんと!?」

「はい! こっちです!」

 ユイの奇行、と呼ぶほど大げさなものではないが、やや気になる態度は少しの間棚上げしておいて、エリカはユイの示す道を急ぐ。
 もうすぐ、もうすぐ彼に会える。
 そう思うだけでいてもたってもいられず、速度は自然と加速していった。
 ユイに言われ、壁についているエレベーターのスイッチらしき上向きの三角ボタンを押して、扉を開く。
 迷わずに最上階を押して、現実のエレベーターのような浮遊感を味わいながら今か今かと到着を待った。
 目前の扉が開いてからは足早にエレベーターを出て、ユイの案内通りにさっさと歩く。いや、走る。
 最初は歩いていた。だが我慢できずに段々と早歩きになり始め、今やほとんど走っているような状態だ。
 途中で一度、ユイに言われて曲線の通路に一本だけある分かれ道を曲がり、ひたすら直線になった通路を走る。
 なんの装飾もオブジェクトもない通路。一切の興味を惹かれないその場所は、エリカにとって速く駆け抜けたい場所でしかない。
 ようやく出口らしき扉に辿り着いた時、少しだけ目が眩んだ。
 今まで通ってきた通路は、何も無い真っ白な通路にオレンジの光が申し訳程度の明かりを提供する場所でしかなかった。
 エリカが辿り着いた扉の向こうは外だった。システム上のとはいえ、その疑似太陽光に一瞬目が眩惑される。
 すぐに回復した視力は、辺りが大きな樹の幹や枝であることを教えてくれた。
 ここが、世界樹の上部なのだ。

「……あれ? でも世界樹の上って空中都市があるんじゃ……」

「ここに、都市のマップは作成されていません。もしかすると運営の作った話なだけでまだ未実装なのではないでしょうか」

「そんな……じゃあグランドクエストって……」

「本来はクリアされることを想定していない……クリアさせられないようにしていたのでしょう。あ、パパです!」

 ユイの言葉に、エリカは思考を止めた。ユイが飛んでいく先を見つめながら後を追うと、大きな縦横の金格子で出来た鳥籠が目に入る。
 エギルから見せて貰った写真と同じものだ。弥が上にも足を向けるスピードは上がっていく。
 太い枝の上を走り、大きな葉を掻き分けて数分────エリカはようやくその鳥籠に辿り着いた。
 エリカの双眸には、長く黒い髪で、女の子のような出で立ちをした《彼》が、《開いているドア》の向こうで、ベッドに座っているのが見えた。

 ようやく、会えた。

 もう一度、会うことが出来た!

 エリカ、いやアスナは迷い無く開いているドアから籠の中の彼、キリトの元へと向かう。
 一足先にユイが彼の元へと飛んでいき、その肩に降り立った。

「パパ! 会いたかったですパパ! ……パパ?」

 しかし、ユイの声に、すぐに不吉な感情が彼女の胸を駆けめぐった。
 自身も彼に駆け寄り、その手を掴んで声をかける。

「キリト君、私だよ、アスナだよ。やっと君を見つけたよ! ……キリト君?」

 声をかけても、彼からの返事は無い。
 項垂れたまま、長い髪が彼の表情の全てを覆い隠している。

 ────嫌な予感がした。

 掴んだ彼の手は、握り返されることはない。
 項垂れている彼は微動だにせず、ユイや自分の声にも反応を示さない。
 かつて、彼が例えイタズラでも、こんな真似をしたことがあっただろうか。
 いや、それ以前に《ドアが開いているのに》何故彼は逃げなかったのか。

「パパ……パパ……そんな……!」

 ユイが、涙を零しながら身体を震わせた。
 その意味が、アスナにはわからない。わかりたくない。

 ────死にたい。

 脳裏に彼の言葉だというユイが聞いた台詞が蘇る。
 最悪の事態がアスナの脳内をシミュレートして、ブンブンと頭を振った。

「キリト君、返事をしてよキリト君!」

 アスナの痛切な叫びと共に、彼の身体をガクガクと揺らす。
 黒く滑らかなロングヘアーが、その振動によって揺れ、奥に隠れていた彼の表情を一瞬外に晒した。

「え……」

「っ! パパ……!」

 アスナは信じられない気持ちで、信じたくない気持ちで彼の髪を優しく掻き分け、その表情を真正面から見つめた。
 頬は青く、瞳孔は真っ黒に開ききって一切の輝きを失い、小さく口を開けたまま、動かないその表情を。

「キリト、君……? そんな、嘘でしょ……? ねぇ……ねぇ……!」

 肩を強く掴んで前後に強く揺らす。信じられない光景が、アスナに力の加減を忘れさせる。
 しかし、彼からのアクションはおろか、リアクションさえ返ってこない。
 彼の瞳は、完全に死んでいた。

「パパは、精神に酷いダメージを負っています……治療には、きっと、長い時間が……」

 ユイの涙声が、アスナの耳に入っては抜けていく。
 聞こえない。理解したくない。
 だというのに、自身のお利口様な脳内は優等生よろしく考えることを止めない。
 そういえばユイは人間のメンタルヘルスケアを目的として作られたAIで、その見立てに間違いは無いだろうという結論までご丁寧に頭の中に映し出す始末。

「嘘よ……」

 そもそも精神の治療には絶対というものがなく、長期的な治療が必要となる場合完治しない例は必ずしも少なくない。
 絶対的な心療内科の不足が要因の一つではあるが現状その分野について解決の目処など立ってはいない。

「嘘よ……」

 程度の差はあれ心寮内科的療法の必要患者は社会復帰が珍しいとされ、その為に近年理学療法士の応援が必要だという意見も多々あるが今はそれらを組み合わせた新規療法の開拓を必要としている。
 しかし理学療法士自体の総数も患者と比較すると絶対数が少ないことから全てに精力的に協力は出来ず、今後の課題になっている。

「嘘よッ!」

 溜め込んだどうでも良いような、知った風な知識が彼女の中を一瞬にして駆けめぐる。
 頭の中では既に彼がもうどうなっているのか決めつけた上で、今後どうするべきか試行錯誤してそれが絶望的に困難な道である事を結論として出している。
 良く知りもしない囓った程度の知識で、しかしおよそ見当外れでも無いと脳内が勝手に決めつける。
 一方で感情はそれを全否定していた。
 そんなのは認められない。ありえない。ありえてはいけない。
 彼は今にも元気な声を聞かせてくれて、いつものように笑ってくれて、お腹をすかせている。
 そうだ、彼の為に料理を作らなくては。約束していた裁縫スキルでのプレゼントもまだ用意していない。
 まだやり足りないことが、やりたいことが、それこそ山のようにあるのだ。
 きっと一生かけてもやりつくせないやりたいことが、たくさんある。
 なのに、それが叶わないなんて……そんなの、そんなの……認めたくない!

「キリト君……!」

 アスナは導かれるように彼の唇へと自身のそれを重ね合わせる。
 アインクラッドでは何度も重ね合わせた。彼の知らない間にも重ね合わせた。
 その度に、彼はアスナが心の底から暖まるような反応を返してくれた。
 だから、お願いだから……!

「キリト君……!」

 お願いだから、戻ってきて。
 そう願いを込めたアスナの口付けは────残念ながら彼に何の影響も与えなかった。
 彼の目は一筋たりとも輝きを取り戻さず、表情が変わることもなく、動くこともない。

「そんな……そんなの、ヤダよ……!」

 見つめる先の、彼の表情は変わらない。
 一切変わらない。ただ、真っ黒な瞳が、薄い闇で包まれているだけ。

「う、う、うわぁあああああああっ!」

 限界だった。
 彼と会ったら最初に何をしよう? 何を言おう?
 そんなことばかり考えていた。憎まれ口を叩こうか、それとも恥ずかしいのを承知の上で愛を伝えようか。
 彼に抱きつこうか。それとも唇を重ねようか。
 彼の表情はどんなものだろうか。自分の表情はどうなるだろうか。

 そのどれもが、こんなことは想定していなかった。
 いつだって彼は、自分に応えてくれていた。
 その怒り顔も、困った顔も、悲しい顔も、照れた顔も、焦った顔も、真面目な顔も、全部、全て、何もかも!
 好きだった。どうしようもなく好きだった。彼のどんな表情だって愛せる自信があった。
 でも、この顔は、自分を見てさえいないこの顔は。そこに彼がいないその顔は……アスナには堪えきれなかった。
 ボロボロと湧き出る水のように止めどなく涙が溢れ零れていく。
 彼の無表情を見れば見るほど涙は溢れ続ける。
 彼の声が聞きたかった。話したかった。触れたかった。
 現実に戻って、同じように過ごしたかった。一緒にいたかった。

「きちんとお付き合いして、結婚して、一生君の隣にいたいって、そう思ってた……本当にそう思ってた……! キリト君……、私、君がいないなんて、ヤダよ……!」

 視界がぼやけるほどの涙が溢れて、彼の顔を歪ませる。
 だというのに、彼の表情が一切変わっていないのが嫌でもわかってしまう。

「声を聞かせて、お願い……キリト君……!」

 彼女の悲痛な魂の叫び。
 それに応えたのは、彼ではなかった。

「無駄だよ、そこの彼はもう壊れてしまっているからね」

「!?」

 アスナは跳ねるように身体を反転させた。
 いつの間にか背後に侵入者を許していた。

『アスナも索敵スキルを上げておけばわかるようになるぞ』

 いつだったか、彼がくれた言葉を思い出す。
 あの時自分は何と応えたのだったか。
 そうだ、スキル上げが恐ろしく地味な作業で気が滅入りそうだから断ったんだ。
 ……本当は、キリト君が一緒にいてくれればその必要は無いでしょって、言いたかったのに。
 思い出すだけで、じわりと視界が霞む。

「……誰?」

「誰、とはご挨拶だねえ、僕はこの世界の王、妖精王オベイロンだよ?」

「……貴方、NPCじゃないわね」

 アスナの視線が鋭さを増した。
 独特の《人間臭さ》をアスナは目の前の妖精王オベイロンから感じた。
 だとすると、この男は敵な可能性が高い。
 ここに来られる人間が、こちらに対して友好的である可能性は考えにくい。
 ここに来られる人間は、このゲームの運営に携わっていて、尚かつそれなり高い立場にいる人物。
 加えるなら、彼をここまで追い込んだ可能性のある人物。
 益々アスナの視線が鋭くなる。いや、既に敵意をぶつけていると言っていい。
 それを、妖精王オベイロンは面白そうに受け流しながら足を止めた。

「僕としてもね、彼の事は非常に胸を痛めていたんだよ。彼にはまだまだ粘ってもらいたかった」

「何を……」

 言ってるの、と言う前に脳内シナプスが高速で駆け巡る。

 ──粘ってもらいたかった?

 それは、まさか、つまり。

「彼は、非常に良い僕の玩具だったんだよ《明日奈》」

「ッッッッ!」

 全身が震えるほどの怒りが瞬時に沸き起こる。
 沸騰した思考はすぐに、目の前の男への攻撃を命じていた。
 しかし。

「っ!?」

「無駄だよ。言ったはずだ、僕はこの世界の王だと」

「……ええそうでしょうね、管理者権限保有者によるシステム制御……それによって不死属性でも付けているのかしら? 《須郷》さん」

「ククッ、アハハハハハ! やっぱり君にはすぐにバレちゃったねぇ!」

 『このゲームの運営に携わっていて、尚かつそれなり高い立場にいる人物』にアスナは心当たりがあった。
 最初に声を聞いた時から、どことなくその男臭さを言葉の端々から感じ取っていた。予感は的中する。
 アスナの抜いた細剣は、妖精王オベイロン……いや須郷の肩の手前で半透明の壁によって防がれてしまった。
 システムが、この男を護っている。アスナはギリッと歯噛みした。
 須郷はオベイロンの波打つ金髪を片手で抑えながら高い笑い声をあげる。

「彼はねえ! 毎日毎日実に僕を楽しませてくれたよ! ここら出せと喚いてみたり馬鹿な脱出方法を試してみたりねえ! 実に飽きない玩具だった」

「キリト君は貴方のオモチャじゃない!」

「いいや玩具さ、僕の世界にいるんだ、当然だろう? そのうち彼に精神的な揺さぶりをかけるのが一番楽しくなってきてねえ……彼が最近で一番情けない顔をした時の事を教えてあげようか? 僕が君と結婚するって話をした時さ! 傑作だったよ! あの表情を録画しておかなかったのを後悔しているくらいさ! まさにこの世の終わりって顔でね!」

 アスナの体が震える。現実なら、握りしめた拳から、流血していてもおかしくはない。
 彼は、実に二ヶ月もの間、この男の良いように弄ばれてきたのだ。

「それでも彼はなかなか強情でね、ああ、ちなみに彼はここに来た時からランダム生成されたアバターでそんな恰好しているんだが、実に良くできているとは思わないか? ほんのお遊びで僕の好きな香水の匂いを髪から出るように設定してあるんだが」

 そう言うと、須郷はすたすたとキリトに近寄って一掬い髪を持ち上げ、すぅ、っと大きく鼻で吸い込んだ。
 恍惚とした笑みが、アスナにこの上ない嫌悪感を与える。

「彼はいつもこの行為を嫌がっていてねえ、その嫌がりっぷりを見るのがたまらなく楽しかったよ。その度に彼のアバターを本物の《女》にすると脅したら彼は引き下がってね。あの元気な姿をまた見たいものさ」

「キリト君を離して! ……!?」

 アスナはキリトの髪を持ち上げている須郷を彼から離そうとするが、自身の体が動かないことに気付いた。
 それに驚愕したアスナは自分の体を見やる。おかしいところはどこにもない。
 ということは……。

「おやおや、本当に君は物わかりが悪いねえ明日奈。ここは僕の世界だと──言ったはずだっ!」

 須郷は語気を強めてキリトの髪ごと体を無理やり持ち上げ、彼の体を蹴りつけた。
 ぶらぶらと反動で揺れるキリトは、やはり何の反応も示さない。

「ああもう、本当につまらなくなったなコイツ! 全く、《あいつら》くだらないことしてくれやがって!」

「止めて! キリト君をこれ以上傷つけないで!」

「はあ? 何で僕が君の言う事を聞かなくちゃならないのさ? そらっ!」

「キリト君!」

 目前で、何度も彼が蹴られるところを見せ付けられて、アスナの胸がギュウギュウ締め付けられた。
 悲しい。だがそれ以上にこの男に憎悪を感じる。
 ここまでされて、一切の反応を示さないキリトは、いったいどんな目にあったというのだ。

「貴方……こんなになるまでキリト君に一体何をしたの!?」

「別にぃ? 僕は玩具で遊んでいただけさ。もっとも、さっきも言った通り彼は僕のお気に入りでね。調整には少し気を使っていたんだ、遅かれ早かれこうなってもらうつもりではあったがね」

「なんですって……?」

 アスナの怒り顔に須郷は気を良くしながら上機嫌で語りだした。
 その手は、キリトの青白い頬を撫でている。

「明日奈、僕が何故こんなことをしていると思う?」

「何故って……」

「ここに来たということは気付いたんだろう? 僕がSAO世界の人間をここへ拉致したって。その目的だよ」

「……」

「なんだ、わからないのか。ちなみにこの問い、桐ヶ谷君は即答したよ」

「!?」

 明日奈を須郷はつまらなさそうに眺めた。
 その目には、本当に彼の興味対象に明日奈はいないように見える。
 彼は親指でキリトの唇をなぞりつつ続けた。

「いいかい? ナーヴギアやアミュスフィアは仮想現実を直接脳に見せているわけだけど……脳全体に関わってはいない。じゃあその枷を取り払えたらどうなるのだろうね? 無論完成には無数の人体実験が必要にはなるわけだけど」

「何を、言って……」

「君ねえ、ここまで言ってもわからないの? やれやれ、やっぱり彼はなかなかに得難い人材だね。《実験》が上手くいくことを祈るとしよう。さてどこまで話したっけ? そうそう人体実験ね、いるだろう? 実験用の脳を提供してくれるこん睡状態の人間が何百人も!」

「まさか……!」

「そうだよ! 彼らのおかげで研究は大いに進んだ! 記憶に新規オブジェクトを埋め込み、それに対する情動を誘導する技術はだいたい形ができた。魂の操作──素晴らしいじゃないか!」

「そんな、そんなこと、許されるわけが……!」

「誰が許さないんだい?」

 面白そうに、キリトの顔を持ち上げる。
 まるで、許さないと言うだろうアスナを怖くない、と言っているようだ。

「キリト君を離しなさい!」

「君、本当に彼が好きなんだねえ、これは益々面白くなってきた。代えの《プラン》ではあるけど、実験を早めようかな」

 嫌な予感がする。
 いつだって、この男の閃きが良いものだったことなど無い。

「実に世の為人の為になる研究さ。非人道的と言われようと完成すれば引く手数多だろうね。それだけで僕は崇められるだろうよ」

「気は確かなの? こんなことをしておいて」

「この桐ヶ谷君を治してあげるって言ったとしたら?」

「ッッッ!?」

「良い表情だね。考えてもごらんよ、精神的ダメージって見た目ではわかるけど、詳しい内面なんてわかりゃしないんだ。精神鑑定で偽りを示すヤツなんてごまんといる。じゃあ、鬱病から始まって彼みたいな《完全精神崩壊者》にさっき言った記憶操作を行えばどうなると思う?」

「え……」

「完全に社会復帰できてしまうかもしれないよ? それもいとも簡単にね。アハハハ! どうだい? 素晴らしいだろう? 世の中の連中はみんな僕に感謝するだろうさ! 新しい治療法だってね! もっともこの技術はアメリカの某企業に高値で売りつけてやる予定だけど。レクトごとね。でもその前に彼を《弄ろう》かと思ってね。この際人格を女の子にしてアバターも女の子にするのなんてどうだい? 僕の夜の相手ができるよ。まあアバターはそのままでも僕はいける気がするけどね。なんにしろ最初の被験者だなんて実に良い研究への献身ぶりじゃないか」

「この……!」

 燃えるような怒りを瞳に宿して、アスナは須郷を睨みつける。
 この男の下卑た考えは吐き気がする。
 何より、操作された人格なんて、それはもうその人じゃない。別人だ。

「言っておくけど、ここに来た以上、君ももう僕の掌の上だ。君も他人事じゃないんだよ? なんなら君から弄ってやろうか」

 須郷が顔をグイッと近付けてくる。
 その汚らわしい手がアスナの顎を掴み、頬を撫でる。
 それに、《彼女》はとうとう我慢ができなかった。

「ダメェェェッ! ママにもパパにも触っちゃダメですぅ!」

 ユイが怒り心頭でオベイロンに扮する須郷に突撃するが、やはり彼には触れられない。
 半透明の壁が彼を護り、傷をつけることは許されない。

「なんだお前は? ナビゲーションピクシーか? ふん」

「あっ!? あ、あ、ああああああっ!? いや、助けてママ……パパァ!」

 ユイが顔を強張らせて、消えていく。
 須郷がコンソールを呼び出してちょっと操作しただけで、ユイはこの場にいることが許されない存在になった。

「ユイちゃん!? ユイちゃんに何をしたの!?」

「君は自分の心配をしたらどうだい?」

 須郷のアスナを触れる手つきはどんどんといやらしくなっていく。
 アスナの「触らないで!」という言葉を無視して頬を撫でる手つきが唇をなぞり、須郷の手はゆっくりとシャープな顎に延びてするりと首から下へと落ちていく。
 鎖骨を二度撫でて、そのまま肩へ指は伸び、脇を軽くこすってから……彼はその指を自らの鼻へと近付けた。

「んぅ、匂いはあまりしないな。あいつら、アバター部分の芳香値を手抜きしているな全く。これだから無能どもは」

 屈辱だった。
 キリト以外の人に、体を触られることが。
 嫌だった。彼以外の人に触れられることが。
 それを示すように、動くことをシステム的に止められているアスナはせめて怨嗟のこもる眼で須郷を睨む。

「いいねえ、実に良い目だ。現実の君のようだよ、もっともそのアバターは現実の君をイメージするにはいささかかけ離れ過ぎているかな。嫌いではないが、ここは現実の君に戻ってもらうのもアリか、ふむどちらがいい?」

 須郷の手が再び伸びる。今度は若草色の髪へ。
 ショートヘアのエリカの髪は、須郷の気に入るものではなかったが、それでもいちいち捩じるように髪を弄るその様は、アスナに不快感を与えるには十分だった。
 フッと須郷の手が髪を離れた。アスナの目に、須郷の下衆な笑みが映る。
 須郷の手が、ゆっくりと首より下……体の中央よりやや上の……胸へと伸びていく。
 アスナは目をギュッと閉じた。

 嫌だ。
 嫌だ。
 嫌だ!

 助けて、キリト君…………!










 ***










 痛い。
 ふと、そんな感情が湧いた。
 いや、それはおかしい。ここは仮想世界。
 システムによって痛覚は遮断されている。

 どうでもいい。

 痛い。
 まただ。おかしいな。感じるはずの無いそれが、チクチクと胸を突いてくる。
 針で刺しているかのように突いてくる。

 どうでもいい。

 痛い。
 さっきより痛い。どうしてだろう?
 痛みを感じないはずなのに、どんどん痛みが増してきている。

 目の前で、誰か──いや、アスナが泣いている。

 痛い。
 痛みが大きくなってきている。
 胸が痛い。触れられてすらいないのに、何故か痛みが強くなる。

 唇に、彼女の唇が重なる。

 痛い。
 おかしい。痛い。気のせいじゃない。
 でもどうでもいい。もうどうでもいい。



『──本当に、どうでも良いのかね?』



 誰だアンタ?
 俺に言っているのか?
 だとしたら、放っておいてくれ。



『──ふむ。そういうのなら放っておくのに吝かではないのだが。君は彼女に死んでほしくなかったのではないのかね?』



 ああそうだ。
 でももういいんだ。
 俺じゃダメだったんだ。



『──何がダメだったのかね? 彼女は今、君の目の前にいるのに』



 どうせ、すぐに消えてしまうんだ。
 わかってるんだ。あの時のあれだって偽物だって。
 いや、偽物だって思いたいんだ。もう放っておいてくれ。



『──おかしなことを言うね。君は目の前にいるアスナ君が偽物だったら放っておくのかね?』



 ……え?
 偽物だったら放っておく?
 いや、だって、それは……。



『──彼女ではないというのだろう? だったらなんなのかね? 君は、中身がからっぽな偽物のアスナ君なら助けないのかね? 要するに、アスナ君とは君にとって都合の良いアスナ君でしかないのかね?』



 違う。 
 それは違う。
 それだけは違う。



『──ならば動けるだろう? 動くべきだ。君は、彼女の為に《私との決闘》を受けたのだろう? 立ちたまえキリト君!』



 そうだ。
 なんでこんな簡単な事を忘れていたんだ。
 アスナがどう思おうと、俺はアスナを護るって、決めたんだ。

 決めたんだ!

 立て。立つんだ。手を伸ばせ!

 誓いを果たせ! 彼女を護れ! 



「アスナに、触るな……!」










***










 アスナの胸に須郷の手が触れようとしたその時、彼の手を誰かが掴んだ。
 須郷はぎょっとしてその相手を見やる。

「アスナに、触るな……!」

 それは久しぶりに聞く、彼の声だった。
 アスナの目から、ぼろぼろと涙が零れ落ちる。
 そこにはアスナに伸びる須郷の魔手を掴む、倒れ伏していたはずのキリトの姿があった。
 さらにその横に、シリカのテイムモンスターである《ピナ》が浮いている。
 一体いつの間にここにきたのか。
 その驚愕は、須郷が一番大きかった。

「な、なんだよお前……まだ元気ならさっさとそう言えよ! それに、なんだよその隣で飛んでるモンスター……僕はそんなモンスター《知らない》ぞ! 僕が知らないモンスターなんて、このALOにいるわけがない!」

 須郷は、決して口だけの男ではなかった。
 彼は、ALOシステムのほほ全てを一人で理解しきっている。
 ごく少数のチームとはいえ、全てを一人で管轄できる人間などそうはいない。
 彼は本当にALOに出現する何千種類といるモンスターの全てを暗記していた。そのグラフィックはおろかステータスのそれまで全て。
 その記憶の中のモンスター図鑑が、《ピナ》を検索対象外だと告げていた。
 その《ピナ》が小さくキリトの耳元で何か呟く。
 それを聞いたキリトは、真っ直ぐ、光の宿った瞳で須郷を睨みつけた。

「システムログイン。ID《ヒースクリフ》。パスワード……」

 複雑な羅列を口にしていくキリトを、須郷はただ茫然と見つめていた。
 気でも触れたのか思う須郷だが、しかし見知らぬモンスターは放っておけないとシステム管理者用のウインドウを立ち上げた時、

「システムコマンド、スーパーバイザ権限変更。ID《オベイロン》をレベル1に」

「なぁっ!?」

 須郷のウインドウが突如として消える。より高位のIDに須郷のIDが無力化されてしまった。
 何度も須郷は手を振ってウインドウを呼び出そうとするが、残念ながらその手は空を切るばかりだ。

「システムコマンド、ID《アスナ》……いや《エリカ》を自由に」

 途端、アスナの行動を戒めていた不可視のシステムは効力を失う。
 アスナはそれに気づくや否やキリトに飛びついた。

「キリト君!」

「アスナ、ごめん……俺、大事なことを忘れてた。たった二ヶ月の間に、忘れちゃいけないことを忘れてた。もう二度と、忘れないから」

「良いの……なんでもいいから……キリト君がいてくれたら、それでいいから……!」

 キリトは微笑んで、彼女の体を優しく押しやる。
 え、とアスナは一瞬泣きそうな顔をするが、すぐにその意図に気付いた。
 須郷が睨んできている。この男を、どうにかしなくてはなるまい。

「アスナ、離れていてくれ」

「……大丈夫?」

「ああ、俺がやる」

 アスナの心配は力量のことではない。力量のそれなら、心配ないことは彼女が一番よくわかっている。
 故に彼女が心配したのは彼の心。これから起きることがなんとなくわかるアスナは、その役目を代わろうかと尋ねた。
 しかし彼はそれを断った。ならば任せるのみだ。

「ケリを付けよう妖精王」

「ふざけるなよガキ風情が……!」

「システムコマンド、ID《オベイロン》のステータスを俺と同じに。さらにオブジェクトID《ショートソード》を二本ジェネレート」

 二振りの剣がその場に出現する。キリトはその一本を須郷へと投げ渡した。
 須郷は危なっかしい手つきでそれを受け取ると、二、三回振ってからキリトへと構える。
 だが、次にキリトの口から出た言葉に表情を凍らせた。

「システムコマンド、ペイン・アブソーバをレベルゼロに」

「なっ!?」

 ペイン・アブソーバをゼロにするということは、現実と変わらない感覚になるということだ。
 それは、この世界で大怪我をすれば現実でも大怪我しているのと変わらない痛みと記憶が脳に植えつけられることを意味する。
 同時に、現実の身体に少なくない行為障害を引き起こすことがわかっていた。

「逃げるなよ、アンタがこの二ヶ月散々こき下ろした茅場晶彦は逃げたことは無かったぞ」

「うるさい! あいつの名前を出すんじゃない!」

「……だとさ」

『……』

 キリトの、《彼らしい》口ぶりに、アスナは心底ホッとする。
 彼が帰ってきた。心からそう思える。速く、あの胸に飛び込んでいたい。

「先輩は結局大馬鹿ものさ! 僕の方が上だ、上なんだよ!」

 須郷は大ぶりでキリトにショートソードを振りかぶるが、キリトはその一撃を楽にパリィしてみせ、素早く彼の右手を切断した。
 血しぶきに似た赤いライトエフェクトが飛び、宙に浮いたショートソードを掴んでいる須郷の右手は炎となって消え、カランとショートソードだけが落ちる音がする。

「ウギャアアアアアアアアッ!? 僕の、僕の手があああああああっ!?」

 須郷が膝をついて自分の失われた手を見つめて叫んだ。
 彼は今、現実で実際に腕が吹き飛んだ時と同じ喪失感を味わい、痛みを享受している。
 その影響たるや、想像を絶するものだろう。だが、慈悲をかけるつもりはない。
 一歩キリトが近づくと「ヒッ!?」と須郷は怯え後ずさり、失った右手を床についてしまってまた叫ぶ。
 その叫び声にキリトは眉をびくりと震わせて、剣を振るった。左手が宙に飛ぶ。

「ギャッ、アアアア、アアアアアアアアッ!?」

 すぐに剣を戻して両足を切断する。
 須郷はまさしく達磨状態にされていた。

「アアアアアアアアッ!? 痛い痛い痛いあああああああッ!?」

 不快だ。
 この声が不快だ。
 人を斬ったようなリアルな感触が不快だ。
 全てが不快だ。長くこの声を聞いていたくない。
 アスナにもこの声を、この光景を長く見せていたくない。

「アンタはもっと人の痛みを知れよ!」

 最後にキリトはそう言うと、頭から胴体を左右真っ二つに割った。
 特大の断末魔を上げて、オベイロン扮する須郷の体は白い炎に包まれて消えていく。
 キリトは左右に剣を振って背中に剣を持っていき、そこに鞘が無いことに気付いてポイッと剣をその場に捨てた。

「終わったんだね、キリト君」

「ああ」

「私、ずっと会いたかった……!」

「俺も、アスナに会いたかった」

 再び胸に飛び込むアスナを、キリトはきっちりと抱きしめた。
 強く強く、離さないように。
 アスナも、失っていた半身を取り戻すかのように、彼を抱く手に力を込める。
 やっと、あるべき姿へと戻れた。肉体は仮想のアバターで、今はお互いSAOの時と大きく姿は違う。
 それでも、心は一緒だった。

「……これで、現実のキリト君も目覚められるよね?」

「ああ、大丈夫だと思う。ちょっと待ってくれ……あった。ログアウトは、うん、可能だ。あ、良かった、ユイも無事だ。アスナのナーヴギアに上手く逃げ込んでる。アドレスロックされて入れなくなってるだけだ」

「……良かった。それじゃあログアウトしたら、すぐにキリト君に会いにいくから」

「嬉しいけど、もう結構遅い時間じゃないか?」

「関係ないよ、絶対に会いに行く」

「わかった、待ってるよ」

「うん」

 キリトは少しアスナを抱く力を強めながら、アスナをログアウトさせた。
 彼女が、光の粒子となって、消えていく。その様を見るたびに、キリトの心は痛んだ。
 大丈夫、と言い聞かせる。最後に、彼女は「すぐに行くから」と微笑んだ。
 それを見届けて、小さくキリトは呟く。

「それでヒースクリフ、なんでよりにもよって《ピナ》なんだ?」

『……これは私の分散した記憶データの箱舟の一つに過ぎない』

「……また意味のわからないことを。っていうかアンタ生きてたんだな」

『そうとも言えるしそうではないとも言える。今の私は茅場晶彦の記憶の残滓、意識のエコーとでも言うべき存在だ』

「……よくわらないな。まあいいや、箱舟の一つってことは他にもあるのか?」

『あった、というのが正しいかな、先ほど全ての結合は完了した。だからこそこうやって私が表出している』

「そうか……ピナを使った理由は?」

『……そもそも、このフェザーリドラをテイムしたプレイヤーは『姫』という存在になる予定だった。スキルの類ではないがね。本来ならば九十五層を超えたところで圏内というシステムは崩れ、一定時間以上フェザーリドラがテイムされていればフェザーリドラは進化し、『姫』のいる街のみ圏内になる仕様だったのだ』

「姫、か……なるほどね」

『故にテイムできるのは女性のみ、それも一匹だけとしていた。君の《二刀流》とはある意味対になると思っていたのだが、君の隣には力づくでその場に滑り込んだ女性がいたのでね、その時点でフェザーリドラはほとんどシナリオには絡まないと思っていたよ』

「俺は、きっとアスナと一緒じゃなかったらあのゲームを終わらせられなかったよ。っていうか二刀流が女だったらどうするんだよ? ピナだって一度死んだし」

『私はシナリオを全て操作する気はなかった。それがネットワークRPGの醍醐味だろう。今言ったのは用意した一つのシナリオに過ぎない』

 同時に、それだけ設定を加えた存在を極秘裏の箱船として使うつもりだった、と彼は言う。
 フェザーリドラは茅場晶彦の箱舟。
 言われてみればなるほどと思えることはある。
 箱舟の意味自体はよくわからないが、ピナは自分の主人を《回復》してくれる。
 本当の生死をかけたあのゲーム内では、それはとんでもないアドバンテージだろう。
 そのことに、もう少し注目するべきだったのかもしれない。もっとも注目したところで意味は分からなかっただろうが。

「でもそれならもっと速く助けてくれても良かっただろ。……助けられたことには礼を言うけど」

『……それはすまない。今言った通り全ての結合を完了させたのはつい先程なのだよ。それに礼は不要だ。君と私は善意のやりとりをするような間柄ではないだろう?』

「……何をさせる気だ?」

『君のナーヴギアのメモリに贈り物を用意してある。ログアウト後に確認してくれたまえ』

「一体なんなんだよ?」

『……《世界の種子》だ。それの判断は君に任せよう、忘れて消去しても構わない。だがもし、君があのアインクラッドに少しでも憎しみ以外の感情があるのなら……』

「?」

『いや、そろそろ私は行くよ。また会おうキリト君』

「あ、ちょっと待てよ!」

『……なにかな?』

「その、ピナってどうなるんだ?」

『フェザーリドラは私の想像したモンスターだ。私が去れば、このグラフィックもAIも維持されない。消えるだろう』

「……なんとかならないのか?」

『言えば君の選択の幅を狭めてしまうが』

「構わない」

『……先程言った《世界の種子》、それが芽吹けばあるいは、可能性があるだろう。確率としては低いが……しかしフルダイブシステムに魅せられた者の中に力ある者がいれば恐らくは』

「……成る程ね」

『後悔したかね?』

「いや」

『……では、今度こそお別れだ』

 ピナ──に扮する茅場晶彦(ヒースクリフ)──は、そのモンスターアバターを発光させて消えていく。
 それを見届けながら、キリトは自分も本当の肉体へ魂たる精神を戻すべくログアウトした。










「あれ?」

 アスナは首を傾げた。
 自分はログアウトした筈だ。いや、してもらったはずだ。
 だが今彼女は何も無い真っ白な空間にいた。
 右も左も上も下もない、バーチャルなホワイト空間。
 何故自分がここにいるのか頭を悩ませ、一瞬嫌な予感が奔った時、それは現れた。

『久しいねアスナ君、もっとも私にはつい昨日のことのように思えるが』

「ヒースクリフ団長……?」

 そこには、シリカの傍をいつも飛んでいた小竜の《フェザーリドラ》が浮かんでいた。
 だが、声はかつてアインクラッドで聞いたヒースクリフのものだ。

「生きていたんですね……」

『……君たちは本当に似ているな』

「……はい?」

 言っている意味がわからない。
 アスナの不思議そうな顔に、フェザーリドラは苦笑したようだった。

『いや、何でもない。君に伝えておきたいことがあって僅かばかり時間を作らせてもらった。心配には及ばない、すぐに解放する』

「伝えておきたいこと、ですか?」

『キリト君のことだ』

「っ!? 彼が、何か……?」

『……彼の精神は、快復しきっていない。《Yui》が言っていたと思うが、彼を治すには長い時間が必要だ』

「……そんな、だってさっきは」

『彼は完全ではない。いずれその異変に君も気付くだろう。だから、出来るだけ彼を見ていてあげたまえ』

「どうして、そんなことを……」

『ここがアインクラッドなら口を挟まなかっただろうがね。幸いにもここはアインクラッドではない。ゲームマスターとしての贔屓にはならないだろう?』

「……」

『納得できないかな』

「団長がキリト君を気にかけていたことは何となくわかっています。最後は一騎打ちした相手でもあるから尚更。でも、貴方はそれで彼に無償の善意を向ける人じゃない」

『……やれやれ、鋭いのは相変わらずだな。そう、これは対価だよ』

「……対価?」

『……《彼女》を責めなかったことへのね。本当、あの人は困った人だ』

「それって……!」

『……さらばだアスナ君、目覚めの時間だよ』

「あ、ちょっと待っ……」




 待って、とは言わせてもらえなかった。
 ばちり、と瞼を開いた時には自分の部屋のベッドの上だった。
 ロックを外し、ナーヴギアを両手で引き抜いて軽く頭を振る。
 ブラウンのロングヘアーが左右に揺れた。

「……」

 最後にヒースクリフ……茅場晶彦が言った言葉が、アスナに《彼女》の存在を思い出させた。
 ガラス越しに会った、あの人のことを。
 しかし、明日奈/アスナはそれ以上長く思考することを放棄した。
 今はそんなことより目覚めた彼の元へ駆けつける事が先決だ。
 会いたい、という気持ちは今なお爆発的増加傾向にある。
 外は暗かったが、関係無かった。この時間に無断外出などすれば、母親は何を言い出すかわからない。
 でも関係無かった。コートを掴むとそのまま走り出す。容姿を取り繕う暇すら惜しかった。
 外に出て、走りながらコートを無理矢理着る。ひんやりとした外気が、少しだけマシになったような気がした。
 はっ、はっ、はっ、と白い息を漏らしながら何度も通ったその道をアスナは急ぐ。
 駅についてからが一番もどかしかった。電車に乗り、窓に映る自分の顔を見て、何度も肩で息をしているのがわかる。
 世田谷から千代田までは近いようで遠い。一分一秒でもその時間を短縮したかった。
 電車が止まるのと同時にアスナはダッシュする。普段なら混雑している場所だが、今の時間は幸いにもさほど人が多くなかった。

「はぁ、はぁ、はぁっ……!」

 息が切れるのがもどかしい。
 SAOではこの三倍の距離を走っても息一つ乱さなかったというのに。
 ここが現実なんだと改めて認識させられるのと同時に理不尽な怒りさえ覚える。
 見えてきた病院にその怒りを鎮めながら、自動ドアを駆け込むように入った。
 走らないで下さいね、なんて言う看護婦さんの声が耳に入ったが、今だけは許して欲しい。
 記憶してある彼の病室に辿り着くまではこのスピードを緩められそうに無かった。
 そうして、《桐ヶ谷和人》と書かれた個室の病室にアスナは辿り着いた。
 息が乱れ、肩が上下し、白い息を吐いて、髪が所々跳ね、べったりと汗が張り付いている。
 アスナは額に浮かぶ大粒の汗を袖口で拭って、一つ息を吐いてから大きく吸い込み、息をやや整えてから彼の病室へと足を踏み入れた。



 そこには、上半身を起こして窓から外を眺める《彼》がいた。



 一瞬にして仮想世界で止めどなく流した涙が溢れる。
 人の気配を感じたのか、彼……和人/キリトは振り返った。
 ALOほどではないにしろ無作為に伸びた黒髪。げっそりとした頬。
 腕や指も酷く痩せ細っているが、間違いなくアスナの知る彼がそこにいた。

「キリト、君……!」

「アスナ……」

 か細い彼の声が、リアルの聴覚を刺激する。
 仮想世界の時よりやや弱々しくも確かな本当の重みあるその声は何よりアスナを喜ばせた。
 アスナはキリトに駆け寄って彼の痩せ細った身体を抱きしめる。
 彼の本当の温もりを感じる。どくんどくんという鼓動が、初めて彼女に彼が戻ってきたという事を実感させてくれた。
 震える手で、アスナをキリトは抱き返す。幼子のようなか細い力だが、関係なかった。
 アスナはゆっくりと身体を離して、彼の痩けた頬を優しく撫でる。
 照れたような、いつもの彼らしい表情が益々アスナに彼を実感させてくれる。
 引き寄せられるように、アスナは顔をキリトへと近づけていき、

 ドンッと彼に突き飛ばされた。

 え、と一瞬何が起きたのかアスナはわからなかった。
 彼に拒絶されるなど考えたこともなかった。
 しかし、次の瞬間それが拒絶ではないことを自動的にアスナは悟る。

「ぐぅ……!」

 キリトの細い腕には深々とナイフが刺さっていた。
 アスナは、全ての体温を奪われたかのような寒気を感じる。
 彼が血を流しているという事実が、恐くて堪らない。
 仮想世界では光のエフェクトだったそれが、ドロリとした赤い液体に変わっただけでそのリアルさは比べものにならない。
 当然だ、これは現実なのだから。
 アスナはゆっくりと視線をずらしてその《元凶》を見やる。

「はぁっ、はぁっ、はぁっ……! 殺してやる、殺してやるよ……お前等……!」

 フレームレスの眼鏡がずれて、血走った目がアスナを睨み付けている。
 息をぜぇぜぇと切らし、スーツの襟下から飛び出るネクタイは草臥れていて、いつもなら完全に整えている髪さえもぐちゃぐちゃに跳ねていた。
 その男の名前を、アスナは知っている。

「須郷……さん……!」

 カラン、というナイフが落ちる音がアスナを現実に呼び戻した。
 キリトに刺さっていたナイフが落ちたのだ。
 彼はいち早く須郷に気付き、アスナを助ける為に彼女を突き飛ばした。
 結果、彼は弱った身体にその凶刃を受けてしまった。
 ボタボタと鮮血がベッドのシーツを赤く染め上げていく。
 錆びた鉄のような匂いがつんと嗅覚を刺激した。

「あ、あ、あ……!」

 キリトが身体をくの字に曲げて腕を押さえている。
 見ているだけで痛い。震える手で彼に手を伸ばすがその手は空を掴み、彼はぐらりとベッドに倒れ付す。

 ──それはまるで、あの質量を失った時のような感覚。

「殺して、やる……っ!」

 須郷の狂気の声が、さらにアスナの耳に届いた時、彼女の中の何かが弾けた。
 殺してやる? 殺してやる? 殺してやる?




 ────誰を? 誰が?




 ────ダレガ? ダレヲ?




 視線の先には血濡れたナイフ。
 手を伸ばせば届く距離。アスナは、無自覚にそのナイフに手を伸ばしていた。
 震えはない。恐怖もない。
 いや、恐怖はある。彼を失う事、それが恐怖。



 かつて、アスナは人を本気で殺そうと思った事が一度だけある。



 あの時は、ユイの視線に彼女は思いとどまった。
 この場に、彼女はいない。
 彼女を、止めるものは、いない。
 ナイフを持つ手に迷いはない。短いが用途を満たせるなら十分。
 スタスタとアスナはナイフを持って須郷へと近づく。

「なんだよ? お前も殺してやがああああああああっ!?」

 須郷が口を開ききる前に、病室には鈍色の光が一線した。
 ピッ、と紅いラインが床に塗れ落ちる。
 血液。それはアスナのものでもキリトのものでもない。

「ぎゃあああああああっ!? 僕を、僕を切りやがったああああ!?」

「……」

 アスナは応えない。
 ただ、その目には慈悲など無く、ひたすらな殺意だけが宿っていた。
 興奮状態にあった須郷は、徐々にその表情に呑まれ、冷静さを取り戻していく。
 いや、現状を理解していく。



 ────殺される、と。



 その目に躊躇いや迷いはない。
 太刀筋に手心も手加減もない。
 あるのはその眼に映る明確な殺意。
 それを理解した途端、須郷はガクガクと怯えだした。
 本能が恐怖を告げている。狩る側であると信じて疑わなかった彼は、今や狩られる側だった。

「う、うわぁぁぁ!?」

 尻餅を突きながら須郷はバタバタと後ずさる。
 少しでもアスナから離れようと滑稽な動作で。
 だがアスナの表情に変化はない。
 その目は、明確に殺意をただ宿していた。
 ナイフが振り上げられる。

「た、助けてくれェェェ────────!! 殺されるゥ────────!!」

 須郷は頭を抱えて病室を逃げ出した。同時にアスナがナイフを振り下ろす。
 須郷のスーツの背中が引き裂かれたが、肉体にまでダメージは無いようだ。
 彼はまんまと走って逃げ仰せた。
 アスナは後を追おうと一歩を踏み出すが、

「……アスナ」

 キリトの弱々しい声にハッと我に返り、ナイフを投げ捨てて彼に近寄る。
 すぐ傍のナースコールを押しながら必死に手近のシーツを彼の傷口に当てて止血し看護師の到着を待った。

「キリト君、キリト君……!」

 何をしていたのだ自分は。
 彼を助けたいのならあんな奴は放っておいてすぐにでもこうするべきだった。
 あんな、あんな奴のために彼を失うことになったら……!
 アスナの瞳に、恐怖が渦巻き始めたその時、ふっとキリトが顔を上げた。
 ジッと見つめてくる黒い瞳は、みるみる近くなっていき、すぐに彼の感触が唇に伝わった。

 現実世界で初めてのキス。

 つい先程邪魔が入ったそれを彼は実行した。
 一瞬何が起こったのかわからないアスナに、キリトは苦笑しながら呟く。

「呪い、解けちゃったな……」

「あ……」

 それは約束。
 七十五層のボス戦前にかわした約束。
 ボス攻略に参加しないで欲しいといったキリトに、アスナが咄嗟に思いついた出任せの呪い。

「うん……解けたね」

 アスナは、涙を零しながら彼を抱きしめる。
 彼が覚えていてくれたことが嬉しい。
 彼が生きていてくれたことが嬉しい。
 それを、思い出させてくれて嬉しい。

 だから、現実でキスしたら言おうと思っていた事を伝えないと。

「でも残念。たった今のキスで別の呪いがキリト君にはかかってしまいました」

「え……?」

「内容は同じです。効力は……私達が結婚するまで、かな」

「なんだそれ……」

 意味分かんねえ、とキリトが苦笑する。
 それに、アスナも微笑んだ。

「でも特典が解放されます」

「特典?」

「そう、言ったでしょ? 特典があるって」

 キリトはそう言えばそんなことを言ってたな、と朧気ながら思い出す。
 朧気なのは、記憶が曖昧なのではなく、瞼が、段々と重くなってきているからだ。

「特典はね、キリト君が私の事を好きにしてもいいっていうものだよ」

「は……?」

 一瞬浮かんだイケナイ想像にキリトは素っ頓狂な声を上げる。
 それを聞いたアスナは苦笑した。

「何でも言うこと聞くよ」

「あ、ああそういう……」

「キリト君のエッチ」

「ち、ちがっ……!」

 かつて、似たようなやり取りをしたことがあったな、とアスナは思い出す。
 あの時は楽しかった。いや、これからもきっとそんな楽しい毎日が待っているに違いない
 いつ以来だろうか。こんなにも明日が楽しみで、明日が来るのが待ち遠しいのは。

「うん、わかってる」

「……前にも似たようなことあったな」

「うん」

 彼も覚えていてくれたのか。
 それが、なんとなく嬉しい。

「それじゃ、その特典の為に、元気にならないとな」

「うん」

「寝てる場合じゃ、ないな」

「うん」

「……ごめん、やっぱり今、その特典使っていい?」

「うん……うん?」

「悪いけど、少し……眠いんだ。今度は、きっとすぐに起きるから……」

「……うん」

「少しだけ寝かせてくれ。アスナの傍で」

「うん……ゆっくり休んで。キリト君」

 キリトは、糸が切れた人形のようにアスナに倒れ込む。
 その彼をアスナは優しく抱き留めた。

 ちゃんと傍にいるからね、キリト君。
 だから今はゆっくり休んで。
 心配いらないよ。もう、全部終わったんだから。
 もう頑張らなくても良いんだよ。 



 だって、これまでと違って明日は────きっと明るいから。



[35052] ALO9
Name: YY◆90a32a80 ID:1a43ae77
Date: 2012/11/06 23:03


「……っ」

 息が切れる。足はぷるぷると震え汗が額をてらてらと濡らしていく。
 苦しい。肺が酸素を求め、足は既に限界だと訴えている。

「はぁ、っ……!」

 それでも、止めるわけにはいかない。
 決してここで諦めるわけにはいかない。
 何故なら、

「ほら、頑張ってキリト君!」

 視線の向こう、僅か数メートル先には彼女、明日奈/アスナが待っているから。
 その両手を突きだして速くこっちへおいでと、今か今かと和人/キリトの到着を待っている。
 それを見るたびにキリトは挫けそうな心に喝を入れて足をゆっくりと一歩ずつ前に出していく。
 一歩を踏み込むたびに節々にかかる負荷がいちいち重い。
 ただ歩くという行為をこなそうとするだけで、二年もの間その活動を最小限に抑えられていたキリトの肉体は悲鳴を上げていた。

「く、そ……っ!」

 額の汗が頬を伝って流れ、顎からぽたりと床へ落ちて跳ねる。
 着ている病院服の首元は既にぐっしょりと濡れていて、これが終わったらとにかくシャワーでも浴びて着替えたい。
 そんなことを考えながら、また一歩キリトは踏み出す。
 ぜえ、ぜえ、と激しい息遣いが聴覚を嫌味なほど刺激する。心臓は過剰なほどバクバクと働いているし全身も怠い。
 ワーカーホリックな心肺機能に内心で悪態を吐きつつ、それでも望まぬストライキを敢行していた肉体に「動け」と命令を下す事はやめない。

 あと三歩……。

 あと二歩……。

 あと一歩……!

「とう、ちゃく……!」

「お疲れ様!」

 通路の向こうで待っていたアスナに倒れ込むようにしてキリトは今日のノルマ、筋力回復プログラムの一つである歩行リハビリテーションをクリアする。
 もうだめだ、とキリトは荒い息をアスナの腕の中で繰り返し、アスナはそんなキリトに「よくがんばったね」と声をかけながら頭を撫でていた。

「はいはーい、ラブシーンは他人のいないところでやってね」

「も、もう安岐さんっ!」

 アスナは照れたように目の前にいる看護師の名前を呼んだ。
 アスナより二十センチ近くは高いだろうという長身で、薄桃色の看護師服に身を包み、ナースキャップの下には長い髪が三つ編みされて先っぽを白いリボンで結んでいる。
 左胸に付けているプレートには今アスナが言った《安岐》という名前の入ったプレートが付けられていた。
 彼女はキリトの入院している病院に併設されたリハビリテーション・センターのナースで、キリトの担当でもある人だ。
 なんでもスポーツジムに通っているらしく、その筋肉によって裏付けされたプロポーションは思わずアスナでさえ「うむむ」と唸りたくなるほどメリハリが出ている。

「照れない照れない。しかし君もこーんな可愛い彼女にリハビリ手伝ってもらえるなんてラッキーだねえ、普通はそんなご褒美ないよ?」

「まあ、それは感謝してます。アスナ、ありがとう」

「ううん、私が来たくて来てるだけだし」

「あー熱いわー、なんかここだけ室内温度の設定おかしいんじゃない?」

 二人の会話を聞いて茶化すように安岐ナースはパタパタと手で自身を扇ぐ。
 それに二人で頬を染めながらようやく落ち着いたキリトは「よっ」と一声上げてアスナから離れた。

「もう大丈夫?」

「ん、平気だよ。しかしここまで筋力が衰えてるとはなあ……歩くのに苦労するなんて流石に思ってなかったよ」

「寝たきりだったからね。半年も寝たきりなら案外落ちるものよ。二年なんていったらそりゃ筋肉なんてなくなってるわ」

「私もリハビリは辛かったよー」

 安岐の説明とアスナのしみじみとした言葉にキリトは苦笑しながら部屋へと足を向ける。
 とりあえず今は着替えたかった。
 安岐もそれを理解して、手元にある書類に何か書き込むと、「今日は終わり!」と言ってウインクを投げ、スタスタと去っていく。

「大丈夫? 肩貸そうか?」

「平気だって。病室くらいまでなら……それにあんまりアスナにくっつくと汗臭さが移っちゃうし」

「別に気にしないよ」

「俺が気にするって」

 キリトは笑いながらゆっくりとしたのしのし歩きで進む。
 壁に手をついて一歩一歩ゆっくりと。今の彼にはそれが精一杯の移動方法だった。
 二年もの寝たきり生活を余儀なくされたキリトは、日常生活を送るために必要な筋肉までもがごっそり抜けおち、リハビリを必要としていた。
 それは目覚めた当初のアスナも同じことで、正直最初の一ヶ月間はアスナも地獄を見たものだ。

「悪いな、いっつも来てもらって」

「それこそ良いってば。私が来たくて来てるんだから」

「でも、毎日出歩いて親御さんが心配しないか?」

「……ん、平気だよ」

「そうか」

 キリトは安心したようにホッと息を吐いて再び歩く。
 その姿を見つめながら、アスナはここ数日の母親とのやりとりを思い出した。
 といってもやり取りらしいやり取りは、ほとんどない。
 三日前、アスナが須郷を刺した時から、母親は何処かアスナを避けるようになった。
 警察の取り調べで、須郷がやったことはある程度明るみに出ているが彼は黙秘していて、参考人としてアスナやキリトも話を聞かれた。
 無論あの晩にキリトの病室で起こったことも嘘偽りなく話した。
 キリトは心配していたが、アスナはそれを隠す気は無かった。
 幸いにも監視カメラはそこかしこにあり、アスナの証言はほぼ真実で、正当防衛に類する緊急避難に該当するだろうという見方が強くなっている。
 争点としては相手方の須郷がその件について傷害事件として起訴してくるかが鍵となっているが、今のところその気配はない。
 争ったとして勝つ見込みは低いとわかっているのもあるだろうが、自身の裁判を長引かせることが出来るというメリットも存在するので、まだ安心はできない。
 理由の一つに彼の罪状が明らかになっていないという点も関係しているのだろう。
 主な罪状は傷害だが、彼の行ったSAO被害者の仮想的拉致は既存の法のどれに該当するのか、という問題がまだ整理されていないと予測される。
 取調べ等でさらなる事実が究明され、それによって罪状が明らかになったところで彼が動き出すことはありえない話ではなかった。
 ちなみにその須郷だが、実は彼を捕まえたのは何を隠そう先ほどの安岐さんだったりする。
 病院内を徘徊する血を流した須郷に患者たちは怯えた。
 「殺してやる」「殺される」など意味不明で危険な言葉を連発し、通りかかった安岐が得意技らしい踵落としの一撃で彼をノックダウンさせた。
 その場にいた老人の男性患者は「足が百八十度近く上がって、綺麗なピンクの……死ぬ前に良いものを見た」と手を合わせた、というのがこの病院内でのみ広まっている噂だ。
 アスナの父親は「人を見る目が無かった」と肩を落とし、自身の会社での立場を辞す考えでいるようだが、仕事人間である父親を良く知っているアスナは、仕事自体を辞めるつもりではない父を見抜いていて、そんなに心配はしていなかった。
 問題はやはり母親である。父は今回の事に関してアスナを責めずにただ謝るばかりだった。
 ただ母親は、アスナを心配こそしていたが、まだ「自分の娘が人を刺した」という事実を自分の中で昇華しきれていないようで、どこかアスナに怯えている節があるのを感じていた。
 無理も無いとは思う。しかしアスナにとってそのことは後悔していない。もしまた同じ事が起きたら迷わず須郷を殺そうとするだろうという予感もある。
 それとなく、警察の取り調べが終わって帰宅してから母親に事の成り行きを説明している時にその事を匂わせてから、母親はアスナを少し避け始めた。
 距離感に戸惑っているというのもあるだろう。危ない真似をしないで欲しいという不安もあるだろう。
 だが、アスナは母親の考えの向こうに「人を刺したことがある」という過去が、今後の未来展望に関するマイナスイメージの重さに繋がる事を気にしている事がわかっていた。
 良い学校、良い就職先、良い将来。
 それらを問題なく満たす為には不要かつ足枷にしかならないそれを母は快く思わない。
 純粋な娘への心配が無いわけではない。でもどうしても母親からは将来のことばかり心配されているようでいてならなかった。
 アスナはそれを全て理解した上で、母親に須郷を刺したことを弁解するつもりはなかった。
 社会的に考えて、今の自分の考えが少しおかしいことは理解している。人を刺すことを恐れず、悪いことをしたと思わない。
 恐らくは常人なら正当防衛といえど相手に怪我をさせてしまったり《最悪殺してしまったり》したら、自分を深く責めるだろう。
 なんてことをしてしまったんだ、と。
 周りの目を気にもするだろう。あいつは人殺しだと思われるかも知れない。

 だが。

 アスナはそれでも後悔はしていない。
 同じ事が起きれば同じ事をする。何かを間違えて相手を殺してしまっても、恐らく後悔しない。
 それがおかしいと思える自分がいる一方で、その時がくれば問題なく動ける自信がある自分がいる。
 なんだか自分が二人いるようなモヤモヤがアスナの胸の内には残るが、それら全てをキリトに語ることはしない。
 全ては自分と家族の問題だ。今の彼に迷惑はかけたくない。
 だから強がりでも彼の前ではそんな自分の胸の内を隠そうとアスナは決めていた。
 それに一つだけ良いこともある。完全に良いこと、とは言えないかも知れないが、今回の件で母親は毎日の外出についても咎めなくなった。
 相変わらず家庭学習は続いているが、一先ず彼の元へ来るのに問題は無い。

「アスナ、俺ちょっと風呂いってくるよ。せっかく来てくれてるのに悪いけど、汗が酷いから」

 いつの間にか病室には到着していて、キリトは洗面用具を片手に持っていた。
 この病院には小規模ながら温泉が設置されている。と言っても医療用のため肩まで浸かれるような深い浴槽ではなく、精々膝下程度までしかない足湯に毛が生えた程度のものだが。
 一緒にシャワーも併設されていて、入院患者は入浴が可能となっていた。

「手伝おっか?」

「い、いいって!」

 顔を紅くしながらブンブンと首を振るキリトが面白くてアスナはクスクスと笑った。
 彼の退院予定はおよそ一週間後で、それまでに日常的なある程度の歩行は可能な状態へ持って行くことになる。
 無論それ以降もリハビリには一月ほどは通い続けることになると思うが、退院まで彼は汗をその病院内の施設で流すことしか出来ない。
 自分だったらちゃんとしたお風呂に入りたいなあ、などと思いながら彼を見送ってベッドに腰掛け、アスナは足をブラブラさせて帰りを待つ事にした。





「おっ、これから汗を流しに行くの? 桐ヶ谷君」

「あ、安岐さん」

 先程別れた安岐が、丁度前方から歩いてきていた。
 彼女もキリトのみが担当なわけではないし、リハビリの介助だけが仕事ではない。
 ……の割に時折暇そうにしているのは何故だろうか。

「可愛い彼女に背中を流してもらわないの?」

「……もらいません」

「ええ~、もったいない。彼女なら頼めばやってくれそうじゃない?」

「……」

 否定の声を上げたいが、つい先程その事でからかわれたばかりなのでキリトは押し黙った。
 沈黙は金。昔から対人スキルの熟練度が初心者(ニュービー)の域を中々出ない彼の得意技の一つだ。

「もう、黙っちゃって」

「……」

「はいはい私が悪かったですよー」

「……それじゃ、風呂行きますんで」

「ん、行ってらっしゃい。足は特に疲れているはずだからよくマッサージしてね」

「はい」

「あ、後で彼女にやってもらうのも良いよ、なんだったら彼女にやり方レクチャーしといてあげようか?」

「……」

「……君さあ、さっきはあんなに楽しそうに笑ってたのに、彼女さんがいないと途端に能面みたいな顔になるね?」

「……すいません。そんなつもりじゃ、ないんですけど」

「ん、まあそうなんだろうけど。私としてはこーんな美人にまるで興味ありませーんって言われているようでちょっと傷つくなあ」

 キリトは苦笑する。それが、唯一《アスナが傍にいない時に出来る》キリトの感情の発露だった。
 自覚が全くないわけではない。少し自我が希薄というか、弱いことは何となく理解している。
 異常、なのだろうという事も朧気に理解していた。最初はそこまで気にしていなかったのだが、お見舞いに来た妹の直葉に心配されてからは少しだけ自分の状態に向き合うようになった。
 このことはアスナには話していない。話すつもりもない。
 ただでさえいろいろ大変な目にあったのだ。これ以上負担や心配をかけたくは無かった。

「……桐ヶ谷君、ずっとそうしてたら君、潰れちゃうかもしれないよ?」

「……」

「もし、彼女がいなくなったらどうするの?」

「っ!」

 考えないではなかった。
 むしろ考え過ぎてしまうくらいだった。
 アスナが、いなくなってしまったら。
 何かの病気、事故による死別。
 もしくは彼女に相応しくより良い男性の登場。
 それによって物理的、あるいは心情的に離れ離れになってしまったら。

「ごめん、ちょっと意地悪だったね。君らがあんまり仲が良いものだから、からかい過ぎちゃった。お風呂、いってらっしゃい。病室で彼女待たせてるんでしょ?」

「……はい、それじゃ」

 わかっている。
 この人はからかいでこんなことを言ったのではない。
 純粋に心配して言ってくれているのだ。それは理解できている。
 それでも、その心遣いに笑顔を返せるまで、キリトの心は回復していなかった。
 重い足取りでキリトは浴場へと消えていく。
 それを眺めながら「あちゃあ……」と安岐は頭を抱えた。
 安岐とてあそこまで踏み込むつもりは無かった。
 ただ、彼の在り様があまりに儚く見えて、つい手助けしたくなったのだ。
 しかし、往々にして心の問題に正解という答えは存在しない。
 よかれと思ってかけた言葉が全く逆の効力を発揮してしまうこともある。
 そんなことはわかっていたはずなのに。
 キリトの背中を見ながら失敗したなあ、と少し申し訳ない気持ちになった安岐は、彼の病室へと足を向けた。
 せめてものお詫びに、やはり彼女に彼へのマッサージ療法を伝授しておこうと思いながら。

「彼女にやってもらうマッサージは格別だよ、桐ヶ谷君♪」

 白いナースシューズでパタパタとリズミカルな足音を立てる。
 その踵が、少しだけ汚れていた。





「ただいま」

「あ、おかえり~、ささ、ベッドに横になって」

「……アスナ、安岐さんに何か吹き込まれたろ」

「な、何のことかなあ?」

「やっぱりなあ、そうなってる気はしたんだよ」

「いいじゃない。せっかく教えてもらったんだから。ほらほら」

「わ、わかったわかった。今横になるから」

 アスナのやる気に根負けしたキリトはやれやれと溜息を吐きながら表情を緩ませ、ベッドにうつぶせになった。
 それを確認したアスナはギシッとベッドに自分も乗り、彼の背中に馬なりになる。
 その体勢はいろいろと予想外だった。

「マ、マッサージって足じゃないのか?」

「ん? 足も習ったよー」

「……」

 や、やられた……と今更ながらに安岐の嫌がらせじみたマッサージの伝授を恨めしく思いつつここに来てキリトは無駄な抵抗を試みてみた。
 かつてこれが成功した試はほとんどない。が、やらないよりはマシだった。

「あ、足だけでいいかな、なんて……」

「んー、じゃあ《今度》からはそうするねー」

「こ、今度からは……ですか。あの、つかぬことを尋ねますけどねアスナさん。それって……またやる気ってこと?」

「うん、私がいるときは毎日やってあげるよー」

「……勘弁してくれ。こんな姿を家族に見られた日には会話に困る」

「ええー? 大丈夫だと思うけど」

 アスナはうきうきしながらキリトの背中をグイグイと押し始めた。
 ゴリゴリとした感触と時折パキパキと鳴る背中の骨が心地よい。
 最初こそ気持ち的な抵抗のあったキリトだが、その心地よさにそれ以上の文句を言う気にはなれず、されるがままになっていた。
 アスナの細い指が背中を撫でるのがわかる。グッと掌を強く背中の中心を押してグイグイと上方向へずらしていく。
 本来これは疲労回復と言うより背骨のズレを治す整体の一つに近い療法だが、体をほぐすという意味では無関係ではない。
 安岐はとりあえず最初はこれをやってから足のマッサージをしてあげて、とアスナに教えていた。
 次回以降からは足のみで良いとも言われているので、結局はキリトに言われずとも次回以降は足のみのマッサージに変更していただろう。
 キリトの細い背中を加減しながらアスナは押しつつ、安岐が言った意味深な言葉を思い出す。

『彼のこと、ちゃんと見ていてあげた方が良いよ。結構危なっかしく見えるし』

 似たようなことを、あの日に《ピナ》扮するヒースクリフこと茅場晶彦にもアスナは言われていた。
 彼から目を離さない方が良い、と。しかしアスナの見る限りそんなにキリトに変化があるようには思えない。
 そこにどうにも言いようのない違和感をアスナは覚えていた。

「次は足にするねー」

「あぁ──」

 少し眠たそうな声で返事をするキリトに苦笑しながらアスナはキリトの肉が落ち、痩けた脹脛を丁寧に揉んでいく。
 その足は実に頼りなさそうで、アスナが全力で掴めば折れてしまいそうな程脆い。

「キリト君の足、だいぶ細いね」

「……ああ」

「腕もそうだけど、全体がすごく痩せちゃって……筋力って意味ではあの世界とは正反対だね」

「……ああ」

「……壊れちゃいそうな程細い。ちゃんと食べて、一杯運動して、すぐ良くなろうね」

「……」

「キリト君?」

「……すぅ、すぅ」

「寝ちゃったか」

 先ほどから同じような返事しかしていないな、とは思っていたが、彼はどうやら眠ってしまったらしい。
 無理もない。あれほどハードに筋力回復プログラムをこなしているのだ。
 次いで風呂にも向かい、マッサージを受ければ眠くなるというものだろう。
 それというのも、あの須郷の事件があった翌日に来た役人の言葉が影響していることは想像に難くない。
 それは四月にはSAO被害者の為の学校が開校する、というもの。
 都立高の統廃合で空いた校舎を利用し、入試なしで受け入れ、卒業すれば大学受験資格も付与される。
 カリキュラムプログラムは人それぞれ変わってくるだろうが、学生ならば年齢に関係なく基本同じ校舎で同じ時間に授業を受けられる。
 その入学に、キリトはどうしても間に合わせたいのだろう。
 アスナは眠ったキリトの髪を優しく撫でた。彼の髪は既に散髪されて手入れもされている。
 あの日もう一度眠った彼が起きて、まず最初に望んだのはそれだった。よっぽど嫌だったのだろう。無理もない。
 彼の今の頑張りは、恐らく自分と一緒に学校に通うためだ。それはアスナも望んでいる事で、だからこそこうやって毎日のように彼の元へ顔を出している。
 せめて少しでも手伝おうと。彼に会えなかった時間を取り戻したいという気持ちも無いではなかったが。

「頑張ってねキリト君。私も、頑張るから」

 えい、とほほを軽く突きつつ、アスナはかつてのログハウスでそうだったように、彼の寝顔をしばらくの間堪能していた。






「それでは、お世話になりました」

 キリトの退院の日。
 毎日のようにアスナは病院に訪れて彼のリハビリを手伝い、その甲斐あって予定日には問題なく退院の許可が下りた。
 筋力はまだまだだが、日常歩行程度ならそう大きな問題は無いだろう。長距離歩行やランニング、悪路の歩行となってくるとまだ荷が重いだろうが。
 この日もアスナはキリトの退院を祝い、荷物等を持つ手伝いに来ていた。
 彼の家族は多忙で、母親は仕事、父親は海外出張、妹の直葉は一番来たがっていたが学校にどうしてもいかなくてはいけない用事があり、付き添いはアスナだけだった。

「ん、元気でね桐ヶ谷君」

「はい、安岐さんも」

 軽く握手をしてから会釈して、キリトとアスナは病院を出て行く。
 キリトの体感としては一週間ちょっとの滞在だが、実際には二年近くここにいたことになるので、それを思うと少しだけ感慨深い、ような気がしないでもない。
 アスナはキリトの隣でキリトの着替えが入った鞄を持っていた。

「あのさ、やっぱり自分で持つって」

「いいからいいから。今のキリト君は私よりひょろひょろなんだよ? 遠慮しない遠慮しない」

 彼女は笑顔でそう言ってキリトの荷物を手放さない。
 既にこのやりとりは今日三回目だが、それでもキリトは自分の持つべき荷物を女の子、それもアスナに持たせてしまっているという状況に納得できずにいた。
 無理矢理取ってしまおうか、という些か危険な思考が湧かないでもないが、悲しいかな、彼女の言うことはもっともで、今のキリトの腕力ではそれを持ち続けることは少々辛い。
 加えて、彼女と鞄の取り合いになったら力負けしてしまうという予想もついており、それこそ情けないのでその考えは無理矢理グッと押し込める。
 ……納得は出来ないが。

「お店寄って行くんでしょ?」

「ああ」

「でも何の用事?」

「挨拶と報告にな」

「……ふぅん」

 あやしいなあ、という目でアスナはキリトを見つめる。
 キリトは前から退院するその日にエギルの店に寄ると言っていた。
 だがその理由は何故か釈然としないもので、彼はいかにも何か隠していますというように目を合わせず、歩き方にも硬さが感じられる。
 まるで、かつて彼に片手直剣装備でありながら盾を装備していないのはおかしい、と問い質した時のようだ。
 あの時も彼は結局何も言わなかった。彼がそうしていた理由が《二刀流》というユニークスキルのせいだと知ることが出来たのは偶然だろう。
 今はもう、その偶然の出来事を好んで思い出したくはないが。
 だから、アスナは少しだけ彼の隠し事に不安を抱いた。また、あの時のようなことが起きてしまうんじゃないかと。
 でも、彼が言わないなら、言いたくないのなら、無理に聞くことはしない。
 ただ、もしそんなことが本当に起きてしまったなら、今度こそ自分が彼の盾になろうと心の中で誓いは立てていた。
 それぐらいは、許してもらわないと困る。

(言ったら許してもらえないのはわかってるから絶対に言ってあげないけど。お互い様だもんね)

 アスナはクスリと笑みを零した。
 キリトはそんなアスナにややバツが悪そうな顔をしている。
 大方隠し事をしていることに後ろめたさを感じているせいで、突然笑みを零した自分の事が気になったが声をかけられないでいるのだろう。
 アスナはおおよそのキリトの心情を看破しながらもあえて何も言わない。
 隠し事をしている彼への、ささやかな抵抗だった。
 千代田区にあるキリトの病院から台東区御徒町のエギルの店まではさほど遠くは無い。
 しかしキリトにあまり長く歩かせるのは不安と感じたアスナは、近場のタクシー乗り場からエギルの店の近くまでタクシーで移動することにした。
 キリトは苦笑していたが、アスナは日々の彼のリハビリに付き合っていたから今の彼の限界を良く理解していた。
 徒歩で行ってしまうとお店までは良くても、きっとキリト自身の家に着くのは相当に難しくなることが予想された。
 その為半ば無理矢理に彼をタクシーに押し込めたのだ。

「いらっしゃい、来たな」

 ダイシー・カフェに入って開口一番、店長であるエギル──本名アンドリュー・ギルバート・ミルズ──はかつてのアインクラッド五十層にある街、《アルゲード》で営んでいた店の時のように、馴染みの客を歓迎した。
 馴染みの客、と言ってもキリトがここに来るのは初めてだ。だが、エギルにとってみれば、彼は馴染みの客だろう。

「久しぶりだな、エギル」

 キリトは拳をエギルに向け、エギルも拳を突きだす。
 ゴツン、と互いに拳をぶつけ合わせて二人は微笑んだ。
 これが、この二人の距離感だった。それを眺めていたアスナは、少しだけエギルを羨ましく思う。
 自分も彼の信頼を得ているという自覚はある、だがそれとは全く別個の信頼関係がキリトとエギルの間にはあるように見えた。
 いうなれば男同士でしか築けないような絆。見ようによってはそれは、自分とキリトの絆よりも強そうに思えた。

「退院おめでとう、これからが地獄の後半だがな」

「本当にな、我ながらこの体たらくが情けないよ」

 エギルもリハビリを得た身であるためにその苦労はよくわかっていた。
 退院してからが、ある意味大変なのだということも。
 病院にいるあいだは、身の回りのことは家族や看護師がある程度してくれる。
 キリトの場合その大半はアスナがしてくれていたのだが、自身の負担量という点では他のSAO被害者とそう変わらない。
 しかし退院すればその介助は激減する。いや、普通に戻るというべきか。
 それをこなしていくのがリハビリ第二段階、というところだろう。
 これも慣れるのには地味に時間がかかったりする。

「ははっ、あっちじゃお前は特にパワーファイターだったからな。筋力ばっか上げてたのに、現実じゃ真逆ってのはそりゃ堪えるよな」

「笑い事じゃないっての」

 まるでSAOの《アルゲード》に戻った時のような距離感。
 ここがあの場所だと言われれば信じてしまいそうな空気がそこにあった。
 それを、キリトが取り出したある《異質》なものが現実へと思考を呼び戻した。
 キリトが取り出したのは一つのメモリチップだった。

「エギル、電話で話してあったとは思うけど……」

「……《例の件》か、わかった。解析してみよう」

「すまない。恐らくあんたくらいにしか頼めないと思っていたんだ」

「良いさ、俺も少しだけ興味があるしな」

「そう言ってもらえると助かる。けど、ヤバいようなら深入りはしないでくれ。解析時は念の為にまずは完全オフライン環境で頼む」

「わかってる。これで本当にシリカちゃんを元気に出来ればいいんだが……」

「……そうとう落ち込んでるらしいな。スグから聞いたよ。ピナがいなくなったって」

「そうか。とりあえずこれが何なのかわかるまで軽はずみなことは教えない方がいいな」

「ああ」

 アスナにはよくわからない会話が彼らの中で繰り広げられる。
 そこに、どことなく寂しさを感じる。ここのところ、彼につきっきりだったせいもあるだろう。
 どこかで、彼にはいつも自分がいて、彼の事で知らないことは無いと思いつつあったのかもしれない。

「アスナ?」

「えっ? な、何キリト君?」

「何って……アスナから手を握ってきたんじゃないか」

「え……えぇっ!?」

 どうやら、突然湧いた寂しさにいつの間にか手が伸びていたらしい。
 確かにアスナの手はキリトの手を掴んでいた。キリトは不思議そうに彼女を見つめている。
 彼女の意思に関わらず、急に遠のいてしまったように感じたキリトへと彼女の手は伸びていた。
 無意識の産物ではあるだろう。だが、意識してしまっても、アスナはその手を放したくなかった。

「おいおいお前ら、こんなところでイチャつくな」

「い、イチャついてなんか……!」

「どうかな、もう少しで他にも一人客が来るんだ。そいつが見たらなんて言うか」

「客? 誰だよ? 俺も知っている相手か?」

 エギルがその問いに答えるより速く、店のカウベルがチリンチリンと鳴った。
 自然と視線がそちらへ集まる。
 そこには恐る恐るという表情でドア開けた女性──記憶の中の《彼女》からは想像もできない──がいた。
 彼女はウェーブかかったブラウンのショートヘアの前髪をピンで留め、小さなそばかすをふっくらとした頬に乗せている。
 ベージュ色をした厚手のトレーナーを着こみ、黒地のホットパンツから延びる足は同じく黒いストッキングで包まれている。
 四人の視線が絡まり、一瞬の間をおいてからいち早くアスナが口を開いた。
 唯一、《素の彼女》を見たことのあるアスナが、それに思い至ったのだ。

「リズ……?」

「ア、アスナ……?」

 そこにいたのは、あの世界のように桃色に髪を染めたわけでも対お客様用じみたメイド崩れの姿でもないリズベットだった。
 リズベットはアスナを見て目を丸くし、二、三歩よろけるようにしながら入店すると、アスナへと駆け出した。
 すぐにがっちりと彼女を抱きしめ、えぐえぐと涙を流す。

「アスナ、ごめん、ごめんよぅ……!」

「な、何!? どうしたのリズ!?」

「うぅ、私、私……ユイ守れなかったよぅ……! 気付けばユイ消えちゃって……それで……私、責任もって預かったのに……! ごめん、ごめんよ……!」

 リズベットはアスナを抱きしめながら大粒の涙を流していた。
 彼女の中のSAOはまだ終わっていなかった。友人から預かった少女を、目の前で助けられず、知らぬ間に現実に戻され、今に至るのだ。
 この二ヶ月半、ずっと彼女は塞ぎこんでいた。ほとんど誰にも心を開けなかった。
 そんなリズベットの髪を撫でながら、アスナは気まずそうに言う。

「あー、えっと……リズ?」

「ごめん、ごめん……!」

「リズ、ねえ聞いて?」

「……?」

 涙を流し、弱り切っている親友の今にも壊れそうな儚い表情にアスナは思わず「うっ」となるほど庇護欲をそそられる。
 だがそこはぐっとこらえ、その罪の呵責の源を断ち切らせるべく、真実を告げた。

「ユイちゃんは、無事だよ?」

「………………はえ? え……? ほんと?」

「うん、もう会ってる」

「は? ちょっ? え、何それ!? ちょっとエギル!?」

 ほとんど睨みつけるようにリズベットはエギルに視線を送るが彼も慌てて首を振る。
 その動作は「俺も知らなかった」と告げていた。

「っていうかアスナ! それならそうとすぐに連絡しなさいよ! どれだけ私が心配したと……!」

「あぅ……ごめんなさい」

 アスナは謝罪の言葉を口にするが、それはある意味で酷というものだった。
 リズベットは知る由もないが、アスナとてキリトのことで一杯一杯だったのだ。
 目を覚ましてからこっち、ずっと胸の中に爆弾を抱えているような心情だった。
 他の事を考える余裕など、リズベットと同じく無かった。
 ALOに入ってからはそれこそ濃密な数日を過ごして今に至るのだから。
 何より、アスナは彼女の連絡先を知らなかったのだが。

「もう……相変わらず変なところで抜けてるわね……なんだったのよ私の二ヶ月は……ん? あんたキリト?」

「ああ、久しぶりだなリズ」

「うっわぁ、ガリッガリじゃない! どうしたのよアンタ!?」

 既に店に入ってきたときの儚げな様子は微塵も感じさせないいつもの彼女のスタイルで、リズベットは会話を再開しだした。
 この方がリズらしい、とキリトは苦笑を漏らしながら、かいつまんで経緯を説明する。
 自分が目覚めたのはつい最近のこと。最近世間を賑わせているアルヴヘイムに囚われていた三百人の中にいたこと。
 アスナが助けてくれたこと。今日やっと退院したことなど。

「へえ、そうだったの」

「うん。それでねリズ……あっと里香……さん?」

「今まで通りでいいわよ。しっかしアスナはネトゲ初心者とは思ってたけどリアルネームとはねえ」

「うう、言わないでよ」

 本名の交換も済ませた四人はそれこそ話に花を咲かせた。
 この二ヶ月を取り戻すかのように。
 だがその会話も、リズベットの質問で唐突に終わりを告げる。

「ところで、ユイって今どこにいるの?」

「え? ……あ……あ────────っ!」






「何か言いたいことはありますか、ママ?」

「……ありません」

 小妖精、と呼ぶにふさわしいユイがぷかぷか浮かんでいるその目の前で、風妖精族(シルフ)に扮するアスナ/エリカは土下座していた。
 リズベットの指摘でユイとはキリト救出以降会っていなかったことをアスナは思い出した。
 すぐに店を出て、キリトを駅まで送り──駅からは一人で大丈夫だと言われた──お互いに家に戻ってALOにダイブする約束をして別れた。
 再会したユイはそれはもうプンスカと怒っていた。実に一週間以上の放置プレイを彼女はアスナから受けていた。
 その憤怒たるや推して知るべし。キリトの事で頭が一杯だったアスナはキリト救出以降一度もログインしていなかった。
 ユイとてパパ──キリトの事が心配でしかたなかった。早く会いたかった。
 だが、なかなか二人がログインしてこない。これではユイにコンタクトの取りようは無かった。
 現在、キリトは真っ直ぐここアルンへ向かっている。到着にはまだしばらく時間がかかるだろう。
 スプリガンを選択したらしい彼は、ちゃんとスプリガン領からのスタートになる。
 ユイとエリカはアルンにいるためすぐに再会とはならなかった。
 彼は寝ないで来る、などと言っていたのでそれまではアスナも寝るつもりはない。
 むしろこちらからそっちへ向かおうかとも思っていたのだが、ご立腹のユイ相手にそんな暇は無く、ひたすら平身低頭していた。
 ユイは小さい胸を反り返らせてプンプン怒っている。
 ママばっかりパパを独占してずるいだの、すぐに会わせて欲しいだの、放っておかれて寂しかっただの、心配していただの。
 エリカとて忘れていたわけではない。忘れていたわけではないのだが、つい、キリトの事を考える毎日でうっかりしてしまっていた。
 ユイの言い分はもっともなので、エリカ、もといアスナはひたすらに謝り続けた。
 ユイはふわりとアスナに近づくと、その髪に自身の小さい頭を埋めて体を震わせながら泣き始めた。
 エリカは益々申し訳なくなり、ユイをそっと抱きしめて何度もごめんねごめんねと謝る。
 数分して、泣きやんだユイが顔を上げた。

「本当は、怒ってないですママ、でも寂しかったです。不安だったです」

「うん、ごめんね?」

「もういいですよママ。それより、早くパパを迎えに行きましょう! こちらからも行った方が早いです!」

「うん……うん! そうだね、行こう!」

 それから、実に十時間近いダイブを経て、二人+一人は再会した。
 現実時間では既に朝だと思われる。それでもユイの喜びようを見て、アスナもキリトも微笑んだ。



 のだが。



「え、ええーっ!?」

「ま、まあまあアスナ」

 ユイがキリトと一緒に寝ると言い出した。
 流石にそろそろ時間もやばいということで、少しでも二人は眠ることにした。
 だがそうなるとユイはまた一人になってしまう。そこでユイはそれなら久しぶりにキリトと一緒に寝たいと言い出したのだ。
 その為即時ログアウトではなく、宿に入って寝落ちログアウトを敢行することになったのだが、そこから雲行きが怪しくなり始めた。
 最初、宿は一部屋につき一人しか入れなかった。システム的なものだろう。宿代は騙せないということだ。
 もっともユイはナビゲーションピクシーである為にプレイヤーにはカウントされないので、同室は可能だった。
 以前はエリカ……アスナと眠ったので今度はキリトと、という彼女の願いはわからないでもない。
 わからないでもないが、アスナは少し面白くなかった。
 そんな時に、宿屋の親父さん(NPC)がパーティを組んだメンバーなら、二人部屋に二人での同室は可能だと説明してくれた。
 その際にはちゃんとパーティーメンバーである二人分の宿代を払う必要があるが。
 これ幸いとさっそくパーティを組んだ二人だったが、入った部屋のベッドは二つあるものの小さく、三人ではとても寝られそうになかった。
 元の姿に戻っているユイは珍しく強情にキリトと寝ることを諦めず、ベッドは固定オブジェクトで移動もできない為、このままではアスナは指をくわえて二人が寝るのを眺めていなくてはならなかった。
 それに納得しきれないアスナがしゅんと項垂れる。
 それを見かねたキリトが、ユイにピクシーの姿になってくれるよう頼んだ。
 ユイは最初、少しだけ迷ったようだった。だが、すぐにアスナのしゅんとした姿に自身をピクシーへと変貌させた。

「これなら、詰めればなんとかなるだろ」

 親子三人川の字、というにはいささかバランスが悪いが、最高の落としどころだった。
 このベッドは二人でもやや狭いが──一人用ベッドの為に二人で寝ることは想定されていないのだろう──お互いに抱き合うようにして、さらにその間にピクシーと化したユイを挟んで、かつてのような配置になる。
 そのまま眠るかと思われたその時、キリトが正面にあるぱっちりと開いたエリカ/アスナの瞳を見つめながら口を開いた。

「なあアスナ」

「なあに?」

「ユイのデータ、俺に送ってもらってもいいか?」

「えっと、できる? ユイちゃん?」

「出来ますよー、マスターもパパになりますけど」

「でもどうして?」

「ここじゃなくても現実でさ、ユイと話せるようにユイを展開してやりたいんだ。そうしたら、ユイももう寂しくないだろ?」

「パパ……!」

 ユイは嬉しそうにその小さな体でギュッとキリトの首元を掴んだ。
 それに微笑みでキリトは応える。
 アスナはそんな二人に少しだけ焼き餅を焼きながら、どことなく懐かしさを覚えた。
 ああ、そうだ。この距離感が、一番楽しかったあの家での距離感だ。
 アスナは、ユイがキリトに抱き着くと決まってほんの少しだけジェラシーを感じてしまう。
 そのジェラシーの対象はキリトだったりユイだったりと定まることはないが、一つ確かなことがある。

「おやすみ、アスナ」

「おやすみなさい、キリト君」

 それは、彼の一声、彼の一動作でそんなものはいつも吹き飛ばされてきたということ。
 おやすみ、と声をかけたキリトは、左手でかすかにエリカ/アスナの頬を撫でた。
 その行為が、アスナの中にわずかに灯る嫉妬の炎を鎮火させる。愛おしさを倍増させる。

(大好きだよ、キリト君)

 彼の閉じられた瞼を見ながら、アスナもまた仮想の微睡の中に身を投じた。
 久しぶりに、良い夢が見られそうな、そんな予感がした。




 その次の日、まさにギリギリのタイミングでALOの運営が停止されてしまった。



[35052] ALO10
Name: YY◆90a32a80 ID:1a43ae77
Date: 2012/11/13 20:05


 ジュ~~~。
 油を跳ねさせながら、目の前のフライパンにある挽肉の塊が熱されていく。
 フライ返しでさっとひっくり返して両面を焼き、良い焼き目が出来たところでIHコンロのスイッチを落とした。
 もくもくと白い煙を上げるフライパンから素早く焼き目のついた挽肉の塊、もとい薄いミートパティをまな板へと移動させる。
 煙は換気扇へと急速に吸い込まれていき、煙たさは微塵もない。
 そのミートパティに包丁を入れて一口サイズに切り分け、菜箸でつまむと「ふぅーっ、ふぅーっ」と息を吹きかけて冷ましてから自らの口へと運ぶ。

「あふっ、あふいあふい!」

 まだ冷めきっていないお肉は明日奈/アスナの口の中でその熱された肉汁を遺憾なく放出する。
 慌てて蛇口を捻り、コップに水を入れてゴックンと一飲みした。
 ふぅ、と一息ついてから改めてもう一度切り分け、アスナは十分に息を吹きかけて冷ましてからお肉を口に含む。

「んぅ、ちょっと違う、かな。でも一応こっちのソースをかけてレタスと挟んで……」

 アスナはボウルに入れてあったレタスを取り出し、残りのお肉の上に乗せると鈍色の小さい器に混ぜ合わせてあったソースをかける。
 改めてその状態のお肉に包丁を入れて口の中へと放り込み、もぐもぐと咀嚼してからまた「う~ん」と唸った。
 目的の味になかなか近づかない。美味しくないわけではないが、どこか違う。
 もっと《安っぽい》味にしたいというか、粗末な味にしたいというか。
 《完成されたソース》を元にしているせいか、あるいは《既存のマヨネーズ》を使っているせいか。
 彼女の目的である《仮想世界にあった味》を再現するのは困難を極めた。
 アスナは溜息を吐くと、振り返って自分の携帯端末を見やる。そこには誰からの着信も告げられてはいない。

「もう、一週間だよ……キリト君」

 アスナは小さく呟き、菜箸をコトンとまな板の上に置いて水道の蛇口を捻り、包丁を洗い始めた。
 てきぱきと一通り片づけを済ませていき、今日作ったソースはラップをかけて冷蔵庫にしまうと、残ったミートパティと向かい合う。
 ハンバーガーに入る予定のそのお肉の残り。だが完成が見えない今は失敗作でしかない。
 本来ならいけないことだが、アスナは再び小さい溜息を吐いてそれをゴミ箱へと放り捨て、片づけを済ませた。

「やっぱり、あの事を話さない方が良かったのかな……」

 キリトと最後に会ってから一週間、彼が退院してからは十日が過ぎていた。
 アスナは自室へと戻ると、もう一度携帯端末を覗いて、何の変化も無いディスプレイに肩を落とす。
 本当なら毎晩でも会えるはずだった。それが現実の世界ではないとしても。
 だがその宛であったALOという世界は、父親が正式にCEOをという立場を降りた九日前にサービスを停止した。
 運営チームは解散、レクトプログレスのプロジェクトチーム自体が無くなった。
 ユイの受け渡しは済んでいたが、毎夜の逢瀬の宛はそのせいで消えてしまった。
 それは残念なことだったが、そう大きく問題視するほどのことでもないとその時は思っていた。
 彼から全然連絡が来ない事に気が付くまでは。
 思えば、これまで彼から自発的に連絡をもらったことがあっただろうか。
 SAO時代を含め、いつも自分が彼のところへ行っていた気がする。
 SAOでは自分も忙しかったからあまり気にしていなかった。
 ましてや一方通行の時期が長かったのだから。
 だけど、そういう関係になったからには偶には彼から声をかけてほしいものだと思う。それとも何かで忙しいのだろうか。
 ユイを展開させると言っていたし、リハビリも継続している。
 リハビリには付き合おうかと前に聞いたことがあったが、それは退院した時にキリトから断られていた。
 そんなにアスナの世話になるわけにはいかないよ、と。あの時は引き下がったがこんなことなら無理矢理手伝いを買って出てカリキュラムや日程を聞いておくんだった。
 この一週間、全くコンタクトを試みなかったわけではない。時折送るメールにはちゃんと返事をくれる。だが逆に言えばそれだけだ。
 どうしても「会おう」という一言が来ることは無いし、こちらからも言えなかった。
 一週間前、最後に会った日に勇気を出して話したある出来事が、彼女から積極性を奪っていた。
 今も連絡が無いのが、その時の会話のせいだとしたら……と思うと益々アスナは弱気になってしまう。
 何とか会う理由、機会を作る為に《あの世界》の味を再現した料理を用意しようと思ったのは四日前。
 しかしその完成も見えてこない今、アスナの胸には不安が募るばかりだった。

「サチさんの話は、まずかったのかな。やっぱり、キリト君はまだ引きずっていて……もしかしたら、本当は彼女が好きだったんじゃないのかな」

 そんなことを思いながら、アスナは一週間前のことを思い出した。





 ALOがサービス停止になったことに驚き、アスナはすぐにキリトに連絡を取った。
 キリトも気付いていて、話によると妹の直葉/リーファも相当落ち込んでいるとのことだった。
 さらに、珪子/シリカも益々落ち込んでしまっているそうで、とにかくその打撃は大きかった。
 だがそれもやむを得ないことではあるだろう。
 ソードアート・オンラインで茅場晶彦が起こした事件は未だに世間にも根深く残っている。
 VR世界回復の一打として《安全》を前面に売り出した話題作であるアルヴヘイム・オンラインで似たような事件が起きればそのサービスの停止は簡単には免れない。
 むしろ遅かったくらいだとさえ言える。
 さらにことはALOだけにはとどまらないことが予想された。
 二大ビッグタイトルが犯罪に使われたことで、この仮想世界を主とした産業自体の縮減、消滅さえ危ぶまれる可能性があった。
 それは仮想世界に魅せられた者には特に悲しい出来事だ。
 今やアスナもその一人だった。キリトと出会えたのは仮想世界のおかげなのだ。それを思えば、仮想世界そのものを全て憎みきることはできそうになかった。
 直葉の事を知るアスナは、彼女もまた似たような心境だろうとその心中を察する。
 彼女は人一倍飛ぶことを楽しんでいた。それが奪われてしまうのは、本当に悲しいことだ。
 さらにアスナは最悪の事態に思い当たる。それは、ユイのことだった。
 もし今後加速度的に仮想世界が淘汰されていけば、彼女とはもう会うことが出来ないのではないかという不安。
 ユイに触れられなくなるということは、さらにアスナを悲しませた。
 ただ、そのことについてはキリトが「少し待ってほしい」と言っていたので、僅かな希望を捨てずにいた。
 ALOがサービスを終了してから二日、ユイの進展について気になったアスナがキリトへ連絡を取ると、丁度今日用事があってエギルの店に行き、その足で必要になったパーツを少し調達すると言われた。
 アスナはそれを聞いて自分も買い物に付き合うことにした。
 ユイの為に何かしてあげたかったし、キリトにも会いたかった。それが、一週間前のことである。


 待ち合わせ場所であるエギルの店に入ると、キリトはエギルと難しそうな顔をしていた。
 どうやら話し込んでいたようだ。ふと、時間を間違ったかと時計を見るが、約束の時間十分前なので、むしろ早いくらいだった。
 アスナに気付いたキリトはエギルに「少し考える時間をくれ」とだけ言い、話を切り上げた。
 どうやらこの間の秘密にされている話絡みだろう、とアスナはアタリを付け、何かを追及することはしなかった。
 そのまま二人で電気街へと繰り出し、キリト指導のもと買い物を済ませた。
 一つ一つを何に使うものなのか丁寧にキリトは説明してくれたが、アスナにとっては全くの門外漢な為、ちんぷんかんぷんで話の半分も理解できなかった。
 ただ、一度彼が話している内容を父に聞かせてみたらどうなるだろう、というひそかな企みが彼女の中にはあったりする。
 もしかしたら話が合うかもしれない、という期待に胸を膨らませながら。
 スムーズに買い物も終わったので、これ以上寄るところは無くなった。キリトの体力の上限はまださほど高くないこともアスナは理解している。
 だから、用事が済んだのならお互い帰宅するのがベストだとわかってはいたが、アスナはなかなか繋いだ彼の手を離せないでいた。
 もう少し一緒にいたい。そう思ってしまう。段々とそのもう少しがもっともっとと増えていくのは目に見えているのだが、それでも願ってしまう。
 何度彼の入院中に滞在予定時間をオーバーして病室に居座ってしまったかわからないほどだ。いや、オーバーしなかった日など無いかもしれない。
 そんなアスナの心情を、キリトは握られた手から悟ってくれたのだろう。
 彼は家の近くまでは送るよ、と言ってくれた。
 アスナは少しだけ迷った。彼にあまり長距離を歩かせたくは無かった。
 今無理して体を壊せば元も子も無い。それなら自分が送った方が、と思ったがキリトはアスナを引っ張るように駅に入ってしまった。
 やや強引な姿だが、足が微妙にぷるぷる震えているのにアスナは気付き、クスリと笑みを零してされるがままになることにした。
 不安や怯え、というよりはちょっとした無理矢理な筋肉の使い方だったのだろう。彼はまだ激しい運動については固く禁じられているはずだ。
 その彼が少し無理してでも送ろうと思ってくれたことがアスナは嬉しかった。
 だからせめてこれ以上は彼の負担にならぬよう、足を止めることはしないことにしたのだ。

 アスナは彼の家が埼玉県の川越にあるとだけ聞いている。おおよその住所も聞いているので地図で検索してみたことはあるが、実はまだ一度も行ったことは無い。
 同じようにキリトも住所こそ伝えてはあるがまだアスナの家までは来たことは無かった。
 電車は渋谷を通り過ぎる。ここからでも地図によると一時間以上は彼が帰るのにかかる計算だ。
 彼の帰りを少しだけ心配しながら、空いている席に二人で並んで座っていた。コトン、と彼の肩に頭を乗せると、不思議とあの世界でこうしていた時のことを思い出す。
 手が勝手に編み物の真似事をしだして、笑ってしまった。これはそう、ユイの為にひたすら裁縫スキルの熟練度上げを夜な夜な行っていたのだ。
 空中で何も持たずにそんなことをしても、現実では僅かも熟練度は上達すまい。でも、あの世界での幸せな時間を思い出せると、心が温かくなった。
 キリトは何も語らない。ただ小さく微笑んでいるのだろう、というのがなんとなくの気配で伝わってきていた。
 それは、やっぱりあの世界でのその時と同じで。益々アスナは心がほっこりとする。
 世田谷線宮の坂駅で二人は降りた。アスナにとっては慣れ親しんだ場所で、キリトにとってはほとんど来たことのない──あるいは初めての──場所になるだろう。
 歩道の煉瓦タイルを一歩一歩踏みしめながら徐々に近づく別れの時にアスナは少しだけ表情を曇らせる。
 内心の我が儘をキリトに見透かされ、こんなところでまで送ってもらってしまった。
 それなのに、もう少しで別れかと思うと《まだ一緒にいたい》と貪欲に思ってしまう。
 だからだろうか。アスナは自宅にほど近い小さな公園に差し掛かった時、彼に公園に寄っていこうと提案した。
 彼は不思議そうな顔をした後、頷いてくれた。それがやや痩せ我慢のような表情にも見えたアスナは、悪いことをしたなと思いつつ遊具の方へとゆっくり歩み寄り、近年座ることなど無かった小さいブランコに腰を下ろした。
 キリトはその隣のブランコに腰を下ろす。公園には他に誰もいなかった。
 ギィ、ギィ……と小さくブランコをこぎながら、アスナはオレンジに染まりつつある空を見上げた。
 今日という日はもうすぐ終わる。夜の帳が下りて、月によって照らされ、また日が昇って明日が来る。
 それは自分が生まれてくる前から普遍的で、自分の死後も変わらないだろうことは想像がついた。
 何をしようと、また何をしなくとも明日は必ず来る。
 ただ、その自然の営みが、アスナに伝えなければいけないことを思い出させた。
 もう少しで日が暮れ、月が昇る。

 月。月夜。《月夜の黒猫団》。

 キリトに会った時、すぐにでも謝らなければいけない、と決めていたこと。
 アスナがキリトを見つめると、彼は不思議そうに首を傾げた。
 その顔を曇らせることはしたくない。だが一方で言わないのは彼に対する酷い裏切り行為のようにも感じられた。
 伝えねばならない。そんな強迫観念に駆られたアスナは、迷いながらも震えた声で口を開いた。

「あのね、キリト君。私、どうしても謝らないといけないことがあるの」

「なんだよ、改まって」

 彼の顔はいつもと変わらない、少しだけ小憎たらしいような笑顔を浮かべていた。
 その表情をこれから一変させてしまうかもしれないと思うだけで、アスナは口を噤みたくなる。
 それを口にするのは、相当な意志力を必要としていた。
 それでも、彼女は言うことが出来た。

「ALOに初めて入った日にね、スキルの熟練度がSAOのものとほとんど同じだったでしょ?」

「ああ。流石に《二刀流》は無かったけどな。なんでもセーブフォーマットが同じらしいな」

「……詳しいことはわからないけど、ユイちゃんもそんなこと言ってた。でもね、実際はそれだけじゃなかったの」

「というと?」

「アイテムもね、引き継いでたの」

「まあそうじゃなきゃユイもいないよなあ」

「うん……そうなんだけど……ほとんどのアイテムはオブジェクト化もできない文字化けした状態でね」

「そうだろうな。よっぽど同じようなネーミングで同じ形じゃないとバグるよ」

「ユイちゃんは奇跡的に名前も同じで上手くオブジェクトにできて元の姿に戻ったけど、他はほとんど無理みたいだった」

「それはアスナのせいじゃないだろ?」

 気にするなよ、とキリトは軽く流すがこれを聞いて彼がそのままでいてくれる自信は、アスナには無かった。
 何度か息を吸っては吐いてを繰り返してから、アスナは意を決して本題を伝える。

「そうかもしれない。でもね、そのままアイテムを取っておくのは危険だったらしくて、私、全てのアイテムを処分したの」

「俺だってそうしてたさ。しょうがないよ」

「しょうがないけど……でも、私、知ってたのに、わかってたのに処分したの」

「何を?」

「それがどれかは文字化けしていてわからなかった。でも、キリト君が持ってたあの《録音結晶》。《サチ》さんからの、《贈り物》」

「ッッッ!」

 キリトの表情が、一変する。
 視線を逸らし、呼吸がやや荒くなっている。
 そんな彼に胸を痛めながら、アスナは贖罪を続けた。

「私、その中にあるってわかっていたのに、処分したの。そうするしかないと思った。ごめんなさい、本当に、ごめんなさい」

「あ……っ!」

 ユイの為に、ともユイが言ったから、ともアスナは言わなかった。
 ユイのせいにしたくはなかった。そのアドバイスをくれたのは彼女でも、選択し実行したのは自分なのだから。

「ごめん、なさい」

「………………」

 キリトは、先ほどまでの余裕ある空気が霧散し、圧迫されるかのような威圧感を発生させているように感じられた。
 顔を伏せ、口を開かない。
 アスナは予想されたこととは言え、胸がギュウギュウと締め付けられた。
 何の弁解もできない。罪だと言われれば素直に認める所存でさえある。

「………………」

「キリト、君……?」

 しかし、無言というのには耐えられなかった。
 何も言わずに項垂れる彼に少しだけ不安が募り、ブランコから立ち上がって彼の肩に手を置く。
 キリトはびくりと反応して、ゆっくりと顔をあげた。
 その目は、酷く怯えていて、口元が浅い呼吸を繰り返している。
 やっぱり、彼にとってサチという人間は大きい存在なんだと改めて認識するのと同時に、言いようのない罪の意識にアスナは苛まれた。
 いっそ、彼に罵られた方がいいのかもしれない。
 だが彼は罵倒の類を口にすることは終ぞ無かった。
 代わりに、か細い消えるような声で、ただ一言だけ呟いた。

「……アスナも、《また》消えちゃうのか……?」

「えっ?」

 彼が一瞬何を言っているのかわからなかった。
 そんなアスナの驚愕の顔を見て、逆にキリトはハッとなり立ち上がった。

「ごめん、なんでもない」

「え、でも……」

「いいんだ。本当になんでもない。それに、怒ってもいない。……ただ、今日はもう、帰るよ」

「あ……」

 アスナが伸ばしかけた手から逃れるようにキリトは二、三歩急ぎ足で進んだ。
 その背中には少しだけ拒絶のような感情が込められているような気がして、アスナはそれ以上声を発せなかった。

「……ユイの事に目処がついたら連絡する。それじゃあ、家まで気を付けて」

 彼は最後にそう言うと、ふらりと公園から姿を消した。
 あの時、声をかけるべきだったのか、追いかけるべきだったのか、未だにアスナにはわからない。
 ただ、言えば少しだけスッキリすると思っていた枷は、逆に重みを増したような気がした。




 あれから一週間。
 キリトからの連絡は未だに無かった。
 やはり、彼は件の録音結晶について並々ならぬ思い入れがあり、その心の整理に戸惑っているのではないか。
 だとすれば、今それをなした自分がこちらから彼へのコンタクトを取ることが許されるだろうか。

「はぁ……」

 アスナは本日何回目になるかわからない、深い溜息を吐いた。





 女は度胸、と昔見たアニメで言っていた気がする。
 ふとアスナはそんなことを思い出しながら持っているバスケットに力を込めた。
 中にはようやく味の再現に満足できたハンバーガーが入っている。
 あれから二日、アスナは見事ハンバーガーを完成させると、それを届けるのを理由として彼の家に突撃してみることにした。
 電話で予めアポを取らなかったのは単に恐かったからだ。
 勇気を出した一歩が出鼻から挫かれたら簡単に立ち直れる気がしなかった。
 しかし、駅を降りた所でアスナは少しだけ足が竦んでしまった。
 迷惑だったらどうしよう、など今更な不安がこんこんと湯水のように湧き出てきてその歩みを遅らせた。
 地図は既に頭に入っている。何度も住所と場所は確認したので間違いは無い、と思われる。
 一歩一歩鉛でも足に付けているかのような重みを感じながらアスナは脳内ナビゲーションを頼りに歩いていく。
 そうして到着した場所は、古式ゆかしい日本家屋の模範とも呼べそうな家だった。
 大きめの二階建て。奥には離れのようなものも見え、あれが以前少しだけ聞いたことのある剣道場なのかもしれない。
 アスナはその桐ヶ谷家を一目見て、《開けている》と感じた。
 自分の家とは違う開放感。どことなく人を寄せ付けない機械的な防壁をイメージしてしまう自分の家に対し、ここは優しい時間が流れているように見える。
 例えるなら、母親の実家のようだった。
 庭に面して縁側があり、その前には小さいが池がある。
 暖かい日差しの中、あそこに座っていればそれだけで気持ちが良いだろう。
 いつの間にか、つい先程までかつてのアインクラッドでフロアボス攻略戦に挑む前の、ボス部屋を固く閉ざしている扉の前にいるような緊張感や不安はナリをひそめてしまった。
 きょろきょろと興味深く辺りを見回しながら開かれた石造りの門から入っていき、玄関前のインターホンを押す。
 縁側の奥の引き戸が開いていたので、ボーッとその奥の部屋を見つめていると家の中から「はーい」と女の子の声が聞こえた。

「どちら様ですかー? あれ? アスナさん?」

 玄関まで応対に現れたのは、アスナも顔を合わせた事のある人物、キリトの妹の桐ヶ谷直葉だった。
 現実の彼女はALOと違い和風を思わせる姿で、キリトのそれと同じ真っ黒なショートヘアに下は青のショートパンツ、上はチャック付の赤いジャケットというラフな格好をしていた。
 少しだけホッとしながら、アスナは挨拶する。

「こんにちは、直葉ちゃん。キリト君、いる?」

「え……? 今日は一緒なんじゃ……」

「へ?」

 アスナの問いに、直葉は首を傾げた。
 それに聞き間違いで無ければなかなか聞き捨てならない言葉が発されたように思う。

「キリト君がそう言ったの?」

「えーと、いや、そういうわけじゃないんですけど。今日誰かと外で会うみたいだったからてっきりアスナさんかと」

「そう、なんだ……」

 どうやらキリトは外出中のようだ。
 しかし、その外出目的が誰かと会う為となると、その相手のことが少しばかり気にならないでもない。
 SAOから解放されてまだ間もないのだ、親しい友人と再会の約束などをしていてもおかしくはないが……どうにもキリトのそんな姿をアスナはイメージ出来なかった。

「とりあえず、上がります?」

「え? いいの、かな?」

「良いですよ、どうそー」

 直葉は快くアスナを家へと招き入れた。
 おじゃまします、と言ってからアスナは丁寧に靴を脱いでフローリングとはまた違う板張りの床を直葉の後を追ってパタパタと歩く。
 直葉に案内されたのはリビングで、「適当に座っていてください」と言われ、木造のテーブルに合わせて付けられた木造チェアに腰をかけた。
 持っていたバスケットをテーブルの上に置かせてもらい、ふぅと息を吐くと直葉がコーヒーを差し出してくれた。

「インスタントですけど」

「ありがとう」

 アスナは黒いマグカップに口を付けて暖かいコーヒーを喉に通す。
 インスタント特有の安っぽさはあるが、アスナにコーヒーへの拘りはさほど無い。
 それよりも今は暖かい飲み物を飲んだ事によって身体の内からぽかぽかとしてくる気持ちよさに息を吐いた。
 二月の外はまだ寒い。風が冷たく、身体は冷えつつあった。そこに暖かい飲み物を貰えば冷えた身体の芯を暖められるというものだ。

「アスナさん」

「……どうしたの?」

「実はそのカップ、お兄ちゃん専用のマグカップなんです」

「ぶふぅ!?」

 少しばかり意地悪げな顔で何を言うのかと思えば。
 アスナは再び飲もうと口を付けていたマグカップを離してけほけほとむせた。
 直葉は「やばっ」と慌てて布巾を持ってきてアスナに手渡す。
 それを受け取って、少しだけ吹き零してしまった黒い液体を拭き取りながらアスナは唇を尖らせる。

「もう、イジワルだよ直葉ちゃん」

「あははは、すいません」

「何だかそういうとこ、キリト君に似てるね」

「そうですか? まあ兄妹ですから」

 朗らかに笑う彼女には、以前の……キリトが昏睡中の時のような壁はあまり感じられない。
 アルヴヘイムで共に冒険した僅かな時間が、二人の間にあった遠慮とわだかまりの壁を壊していた。
 中でも一番の理由は、やはり最後のデュエルだろう。
 あの戦いによって、お互いへの踏み込めぬ気まずい空気というものは殆ど無くなっていた。
 アスナはもとより、直葉も彼女を認めている。

「でも今日はどうしたんですか? 確かアスナさんがウチに来るのって初めてじゃ?」

「うん、そうなんだけど……」

 アスナは気まずそうに言葉を濁した。
 何て言えば良いのだろう? 喧嘩をしたのとは違う。
 だが、現状殆ど会話がない関係を説明するのにベターな比喩表現が出てこなかった。
 かといって、全てを正直に話すのも憚られる。事は自分一人でなく、彼のプライベートにまで触れてしまうからだ。
 直葉はアスナの葛藤を見てとったのか、それ以上聞くのを止め、代わりに目の前にあるバスケットの中身について尋ねた。
 これがなかなか食欲をそそる良い匂いなのだ。

「えっと、その中に入ってるのって何ですか?」

「これ? う~ん言うなればアインクラッド版ハンバーガー、かな」

「あいんくらっどばん?」

「そう、アインクラッドって現実の調味料がほとんど無いの。《既存の食べ物に似た何か》ならレストランとかにあるんだけどね」

 例えば、マヨネーズやソースと言った調味料は無い。
 しかし、スパゲッティを注文すれば、スパゲッティもどきは出てきたりする。
 味についてはどれも今一歩現実に及ばないものが多いが。

「はあ、じゃあこれはその……」

「うん、ワザと味を劣化させたようなハンバーガー。キリト君が気に入ってたから、現実でも作れないかと思ってちょっと研究して作ってきてみたの」

「うわあ……お兄ちゃんずるい」

「そう? 良かったら食べてもいいよ?」

「え? でも……」

「二つあるから気にしないで」

「う、うぅ~……や、やっぱりダメです。この時間にハンバーガーなんて食べたら……」

 直葉は自身のお腹を押さえて撫でる。
 彼女もお年頃、腹囲が気になるのだろう。
 見たところ直葉のスタイルに非の付け所はなさそうだが、同じ女としてその気持ちはアスナにもよくわかった。

「なら半分こしよっか。私と直葉ちゃんとで」

「え? 半分こ? そ、それなら……」

 じゅるり、と小さく舌舐めずりする直葉の姿がキリトを彷彿とさせる。
 もっとも彼なら腹囲や時間帯など気にせず、食べられるなら一つ丸ごと問題なく食べてしまうだろうが。
 ちゃんとした血など繋がっていなくても兄妹だなあ、とアスナはくすくす笑いながら立ち上がった。
 直葉は彼女の笑いが自分のちょっとしたはしたなさによるものと思い、顔を紅くして俯く。しかし目は既にハンバーガーから離れなかった。

「台所と包丁借りてもいい? 半分に切ろう」

「あ、私やります!」

 直葉も立ち上がり、まな板と包丁を取り出してアスナ謹製アインクラッドハンバーガーにそのまま包丁を入れる。
 パン部分が少しばかりくしゃっとへこんだところでアスナがストップをかけた。
 乗っかっているパンを取り、中だけを切って、残ったパンも切る。
 切り終わったら改めてそれらを重ねた。
 そのアスナの手早さに直葉は「ほえー」と見惚れていた。
 何も考えずにそのままハンバーガーを切っていれば恐らく形はもっと歪になったり大きさにもおかしな偏りが出来ていただろう。
 簡単なことのようで意外と気付かないそれをやってのけたアスナに直葉は感心した。

「料理お好きなんですか?」

「うん、まあね。SAOじゃ戦闘の役には立たないけどスキル値をコンプリートしたよ」

「凄い! お兄ちゃんが言ってましたけどSAOじゃ本当に気が遠くなるくらいの反復使用でスキル熟練度が上がっていくんですよね?」

「うんそうだよ」

「はー、私には無理だなあ」

「そんなことないよ。さ、食べよう。今回のはわざとレベル落としたようなヤツだから、今度直葉ちゃんには何か美味しいもの作ってくるね」

「え? あ、うぅ……嬉しいですけど」

「もちろんあんまり太らないもの」

「楽しみに待ってます!」

 直葉の目の輝きにアスナは微笑んで一緒に半分になったハンバーガーに齧り付いた……丁度その時。
 玄関の開く音がし、妙齢の女性の疲れたような声が聞こえた。

「ただいまぁ……あら? 美味しそうなもの食べてるわね」

 アスナと直葉は二人してがぶりとハンバーガーに噛みついたまま顔を合わせた。
 ぱちくりと目を瞬かせてから慌ててもぐもぐと咀嚼して口を開く。

「お、おかえり」

「お、お邪魔してます」

 突然現れた女性にアスナは慌てて頭を下げた。
 その女性はコットンシャツとスリムジーンズの上に革のブルゾンを羽織った出で立ちで、薄い化粧をして無造作に髪を後ろで束ねている。
 全く予想外の邂逅だが、体に染みついた見知らぬ相手への対応力が自然と頭を下げさせた。

「いらっしゃい。初めて見る子ね、直葉のお友達?」

「今日は珍しく早いんだねお母さん、この人がアスナさんだよ、結城明日奈さん」

「ああ! 貴方が……いつも和人がお世話になって」

「あ、いえ……こちらこそ」

 深々と頭を下げられアスナも慌ててもう一度頭を下げる。
 しかしまさかキリトの母親に会うとは思っていなかった。
 こんなことなら服装にはもっと気を使うべきだったかとアスナは少しばかり内心で後悔した。

「礼儀正しいわねえ」

「い、いえ普通ですよ」

「そう? それにしても……こうしてみると貴方たち本当の姉妹みたいね」

「はい?」

「お母さん?」

 アスナと直葉は疑問符を浮かべた。
 別に悪い気がするわけではないが、何故急にそんな。
 そう思ったアスナは、目の前の直葉及びキリトの母が見覚えのある顔をしたことに気付いた。
 あ、これ……いつもキリト君が自分をからかうときの顔だ、と瞬時に理解する。

「貴方たち二人ともほっぺにマヨネーズ付いてるわよ」

「「っ!?」」

 全く同じ動作でアスナと直葉は頬を服の袖でぐいぐいと拭い、お互い顔を見合わせて、ホッと息をついた。
 それを見て笑いを堪えきれないとばかりに彼らの母、桐ヶ谷翠はお腹を押さえて笑い声を漏らした。
 その笑い方がまたキリトそっくりで、アスナは間違いなく彼らは親子で、遺伝していると確信した。
 ……たとえ、それが精神的であったとしても。



 直葉と和人/キリトの母親である翠はコンピュータ系情報誌の編集者をやっていて、めったなことでは速く帰ってこない。
 校了間近なら尚更で、実際に直葉もこの時間に母親を見るのは久しぶりだった。
 今日は珍しく仕事が速く片付いて帰ってきたのだそうだ。

「いや~おかげで良いもの見れたわ」

「もう! お母さん!」

「あはははは!」

 笑い合う直葉と彼女の母親を見て、なんだか少しだけアスナは胸が痛んだ。
 いつからだろうか。自分が母親と笑い合うことが無くなったのは。
 いや、そもそも笑い合ったことがあっただろうか。今はそれさえ思い出すのが難しい。

「あら、どうかした?」

「あ、いえ……」

「うるさかったかしら?」

「お母さんがからかうからだよ。もう良い歳して」

「失礼ね、私はまだそんなに歳じゃありません!」

 アスナは微笑ましい家族の光景に、なんだか自分は場違いな気がしてきた。
 聞けば久しぶりの早い時間の帰宅だと言うし、流石にこれ以上家族水入らずにお邪魔するのは悪いだろうと思い、帰ろうと考えたのだが。

「もう帰るの? なんだったら夕飯を食べて行きなさいな。いつも和人がお世話になってるんだし」

「アスナさん、良かったら食べていってよ」

 どうにも引き留められてしまった。
 最初は断ろうと思ったのだが、のらりくらりと話をかわされ、話し込んでいるうちにご馳走になる流れになってしまった。
 なんだかまるでキリトを二人相手にしているような気分だった。
 アスナはやむなく家にメールを送った。今夜は夕飯を友人の家でご馳走になることになったから、と。
 返事はすぐに返ってきた。

『あまり遅くならないように』

 淡泊な文字だけの言葉だが、それだけでも返ってきてアスナはホッとした。
 以前の母親ならそんな勝手を許さなかっただろう。
 帰ってきなさいの一言だったに違いない。
 あなたの時間を拘束するような友達は貴方の友達として相応しくない、とまで言われかねない程に母親は口煩かった。
 だが、それが無くなるとそれはそれで少しだけ寂しい、と思ってしまうのは何故だろう。

「どうだった?」

「あ、うん。ご迷惑にならないようにって。あと遅くなり過ぎないようにって」

「帰りは和人にでも送らせましょうか。そういえばあの子、何処か行ってるの?」

「あ、うん。昼過ぎに出かけたよ」

「あらそう。折角彼女さんが来てるのに」

「本当だよねー」

「……え?」

 アスナは一瞬にして固まった。
 あれ? なんかおかしいな。
 今、変な言葉を聞いた気がする。
 いや、間違ってはいないんだけど。

「しかし和人も可愛い子を見つけてきたもんねー、これがやっぱりVRMMOの醍醐味なのかしら」

「最近のはアバターランダム生成だから何とも言えないよ」

 桐ヶ谷親子は問題なく会話を続けているが、どうにも口を挟みにくい。
 しかし、せめて先ほど彼女たちの母親から出た言葉だけは確認しておかなければ。

「あ、あのぅ……?」

「あら、何かしら?」

「あの、キリトく……か、和人君は私のこと、その、なんて言ってるんでしょう……?」

「彼女じゃないの? 直葉からSAOで結婚してたって聞いたけど」

「……はぅ」

 顔を真っ赤にしてアスナは黙り込んでしまった。
 確かにそうだが、これはなんていう不意打ちだ。
 この場を切り抜ける良策が何も浮かばない。
 直葉がうんうんと首を縦に振っている。いや、間違ってはいないけどその話は流石に親にはまだしないで欲しかったと思う。
 今この事態を何事も無く切り抜けるなんて、それなんていう難関クエスト?
 初期ステータスのままアインクラッド第一層フロアボス攻略を目指す方がまだ可能性があるような気さえする。

「あら、これ和人のカップじゃない」

「ああうん、アスナさんにコーヒーをと思ってそれ使ったの」

「ああなるほど」

 悪魔だ。今わかった。
 この二人は悪魔だ。悪魔キリト君だ。
 時々人をおちょくるだけおちょくるとき彼はそのようになる。
 まさに今この二人は悪魔キリト君化している、とアスナは確信した。
 そうなると打てる手は無い。そんなものがあれば第二十二層のあのログハウスで何度も悔しい思いなどしなかった。
 悪魔キリト君が二人という強大な戦力。こんなの、神聖剣持ってる団長だってかないっこない。
 不死属性? 何それおいしいの?
 アスナがそう為すすべなくどんどんと顔の赤みが増してぐるぐると思考が巡り始めた時、ようやくと彼が帰ってきた。

「ただいまー……アスナ?」

「キ、キリトくぅん!」

 これ幸いとばかりに彼に抱き着いたが、すぐに失策だと気付く。
 背中に突き刺さる生暖かい視線がアスナに振り返ることを拒絶させた。
 アスナと自身の家族を交互に見比べ、おおよその事態を把握したキリトは溜息を吐いた。

「おい、アスナをいじめるなよ」

「いじめてないわよー?」

「いじめてないよー?」

 嘘だ。絶対嘘だ。
 よしんばいじめてなくても遊んでる、絶対に遊んでる。

「とりあえずアスナ、俺の部屋に行こう。丁度良かった、今日連絡しようと思ってたんだ」

「え……?」

 アスナは目を丸くした。
 事ここに至ってようやく気付いたが、彼は全く持って普通だった。
 予想ではこう、もう少し暗くどよ~んとしていて、引きずっている感があると思っていたのだが。

「俺の部屋は二階だ、行こう」

「あ、うん……」

 キリトのそんな態度に疑問と安堵を得ながら、アスナはバスケットを片手に彼についていく。
 チラと後ろを振り返ると、直葉と翠は苦笑しながら手を振っていた。
 ペコリと頭を下げてアスナはキリトの後を追う。
 なんとなく、アスナは彼女たちの苦笑の表情が気になりながらも案内されたキリトの自室へと足を踏み入れた。





「和人、あの子の前じゃいつもああなの?」

「うん……ちょっと悔しいけど」

「そう。和人にとって、今はあの子だけが支えなのかしらね」

「多分そうだと思う。話の受け答えはしてくれるけど、《あんなに軽そうに話すお兄ちゃん》は久しぶりに見たし」

 和人が退院してきてから十日。家の中での和人は部屋に閉じこもっていた。
 なにやらやりたいことがある、と。
 だが二十四時間籠りっぱなしというわけではない。
 食事やお風呂もあるし、定期的にリハビリにも通っている。
 だから直葉は家族として比較的和人の顔を見る機会は多かった。
 翠とて毎日のように顔くらいは合わせている。
 だが。
 和人は退院以降ほとんど喜怒哀楽といった表情を見せなかった。
 精神的にも少々辛い目にあったということは聞いていたし、直葉も病院で何度もそのような兄を見ていたので、既に和人はそういう状態なのだと思っていた。
 表情が多感に戻るまではまだ少々時間がかかるのだろう、と。
 ところがどうだ? あの彼女さんとやらがいるとまるで二年前の和人に戻ったように彼は表情が豊かになった。

「良かったの? 直葉」

「……うん」

「そう。じゃあ夕飯作るから手伝ってくれる?」

「わかった」

「せっかく来てもらったんだもの。美味しいもの食べさせてあげなくちゃね」





「キリト君、怒ってないの?」

「どうして?」

「どうしてって……」

 そう聞かれると、応えにくい。
 ただあの別れ方がずっとアスナにいろいろ考えさせていた。

「言っただろ? 俺は怒ってないって。そりゃちょっとはショックもあったけど、しょうがないことだよ。そもそもSAOがクリアされた時点で《録音結晶》だって諦めていたことなんだ」

「そう、なの……?」

 アスナは何でもないというキリトの顔を見て、どうやら嘘をついていないようだと思えた。
 途端にホッとなって、暖かい何かが頬を伝った。
 安心しすぎて、涙が零れたのだ。

「ごめん、心配かけちゃったな」

「いいの……良かった」

 アスナは涙を人差し指で拭って笑顔を作った。
 この涙は悲しいものではない。
 ならば、笑うのは簡単だ。
 そう思った時だった。

『ああーっ! パパ! ママを泣かせましたね!』

「ほえ?」

 ユイの声が彼の部屋のパソコンから聞こえてきた。
 アスナは目を丸くしてパソコンに近づく。
 マルチディスプレイを使っているらしい彼のパソコンはモニターが三つあり、そのうちの一つにアスナの知るユイの姿が映っていた。
 モニターの上には一週間前に一緒に買いに行った小型のカメラも設置してある。

「ユイちゃん……!」

『ママ! お久しぶりです!』

 感動だった。
 十日近く話さなかっただけで、本当に心配していた。
 彼女ともう触れあえないんじゃないか。言葉をかわせないんじゃないか。
 それほど、今の世の中のバーチャルリアリティ事情はひっ迫している。

「ユイの展開自体は少し前にはできてたんだ。これでユイの本体をPCに移してユイの声をスピーカー越しに聞ける。でもそれじゃあアスナはここに来ないとユイと会話できないだろ? それで考えたんだ」

『流石パパです!』

 ユイとキリトのやや高いいテンションにアスナは首を傾げた。
 既に十分嬉しいのだが、これ以上何があるというのだろう。

「詳しい工程は省くけど、どうしてもユイとアスナを自由に現実でも会話させたかった。だからまずはこれを使えるようにしたんだ」

「携帯……?」

 キリトは携帯端末を掲げる。
 彼の説明によると、携帯端末からユイと会話できるようにしたというのだ。
 その設定と必要な自作ソフトをアスナの端末にもインストールし、準備を終了させる。
 アスナは恐る恐る登録された「ユイちゃん」という番号にかけてみた。

『もしもしママ!』

「ユイちゃん!」

 確かに携帯端末からは彼女の声が聞こえた。
 アスナは喜びのあまり再び目尻から涙を零した。

「今はまだ、これが精一杯で、ユイに現実の物を見せるにはパソコンに取り付けたこのカメラ越しかデータに取った画像を取り込ませるかしないとダメなんだ。でもゆくゆくはユイに現実を飛び回れるような実感を与えてやりたい。構想はあるんだ」

 視聴覚双方向通信プローブシステム。
 まだ仮称で、構想のみの代物だが、手を付けるための下準備には取りかかっているという。
 頭が痛くなりそうな話ではあるが、こればかりはアスナも真剣に聞いていた。
 大事な娘の今後を左右する重大なことだ。それも仮想世界がきちんと存続してくれるなら、もう少し気楽にいけるのだが。
 そのことをぽつりとアスナが漏らすと、キリトは「多分だけど、大丈夫」と言い出した。

「どうして?」

「アスナには安全性が確認できるまで秘密にしてたけど、実はALOで助けられたときにヒースクリフから預かっていたものがあるんだ」

「え、ええええ!?」

 どうして言ってくれなかったのか。
 そんな不満と不安が入り乱れるが、彼はそういう人だと思い直す。
 思い直して、我慢できなかった。

「ばか……」

 とん、と彼の胸に額を乗せた。
 万が一があれば、彼は再び仮想世界に囚われるようなことだってありえる。
 彼でなくとも、世界の誰かがその憂き目にあう可能性だって捨てきれない。

「ごめん……でも完全オフライン環境で徹底的に調べて、エギルの伝手にも頼って大丈夫ってことはわかったから」

「オフライン環境? ああ、お店で言ってた……あれそういうことだったんだ。中身はなんだったの?」

「あいつは《世界の種子》なんて言ってたけどさ、つまるところこれはフルダイブシステム用のプログラム・パッケージだったんだ」

 その名前を《ザ・シード》と言い、SAOを治めていたシステム、カーディナル・システムをダウンサイジングし、ゲームコンポーネントの開発支援まで行えるよう設計されたフリーのソフト。
 早い話が、回線のそこそこ太いサーバを用意し、パッケージをダウンロードして3Dオブジェクトを作成、もしくは既存のものを配置し、プログラムを走らせれば誰でもVRワールドを生み出せるというものだった。

「プログラムに危険なところは見つからなかった。これをばらまけばきっと仮想世界にみんな手を出すと思う。これまではヒースクリフ……茅場晶彦が作ったシステムを莫大なライセンス料を支払うことによってしかできなかったことを、フリーソフトな上より良い環境で出来るんだから。……でも茅場の真意を全て理解できない以上、それを公開するかは迷ってたんだ。だから、今日とある人に会いに行ってきた」

「……とある人?」

「アスナはもう会ったことがあったんだな。神代凜子さんだよ。会いに行ったって言っても、あの人がわざわざ東京まで出向いてくれたんだけどな」

 キリトは「恨み言を言うつもりはありません」と前書きしてから話を聞きたいとメールを彼女に送っていた。
 と言ってもメール自体はSAO対策チームの役人のアドレスから連絡用メールとして流してもらっている。
 もし、その気になれなければ無視してもらっても構わないと付け加えて。
 だが、彼女は会うと言ってくれた。そこでキリトは彼女と会い、茅場晶彦の事を聞いたのだ。
 彼の、その死に様を。
 彼はフルダイブシステムを改造したマシンで己の大脳に超高出力のスキャニングを行い、脳を焼切って死んだそうだ。
 凜子によるとスキャンが成功する確率は千分の一程もなかったというが、キリトは恐らくそれが成功していると感じた。
 ALOという仮想世界で茅場が言ってたいたことを今更ながら朧げに理解する。
 生きていたのか、という問いにそうでもあるしそうではない、と彼は応えている。
 つまりはそういうことだったのだ。恐らく、死ぬほどの高出力スキャンした彼自身を一度分割してネットワークに分散させた。
 その《箱舟》の一つがピナだったのだ。
 二ヶ月という時間をかけて、彼はその全てを回収し、ネットワーク内での人工知能のような自我として覚醒したのだろう。
 今や機械的なプログラム群でしかないが、彼の記憶と思考……つまり大脳内部の電気反応を全てデジタルコードに置き換え本当の意味でネットワークに棲む電脳となったのだと思われる。
 その為には全ての脳細胞が焼けるほどの高出力ビームを用いて、ナーヴギアで脳幹を破壊されるよりも遙かに激しい苦痛が長時間続いたはずで、それがわからない茅場晶彦ではないだろうから、全てを覚悟してのことだっただろう。
 そうまでして彼がやりたかったことはなんなのか、またそのような姿になってから託したこれがどんなものなのか、神代凜子の意見をキリトは聞きたかった。
 そんな彼女も茅場の考えまではわからないようだった。ただ彼女の思う茅場の人となりから、それがそんなに悪いものではないのではないかと口にした。
 彼女も最終判断はやはりキリトに任せ、最後に茅場晶彦と同じようなことを口にした。
 もし、あの世界に憎しみ以外の思いが少しでもあるなら……と。

「そうだったんだ……」

 アスナは納得しながら、少しだけ残念だな、と思った。
 出来るなら、もう一度自分も彼女に会い、伝えたいことがあった。

「実はねキリト君、あの日私も団長に会ってるんだ」

「えっ」

 それは意外だ、とキリトは目を丸くする。
 その驚きようにくすくすとアスナは笑いながら続けた。

「お礼をね、言われたの」

「お礼?」

「うん、彼女を責めないでくれてありがとうって」

「彼女?」

「多分、その神代凜子さんだと思う」

「へえ……」

 本当は、それは正確ではない。
 しかし、キリトにあの会話を正確に伝える気は無かった。

「ヒースクリフにも、大事な人がいたってことかな」

「多分そうだと思う」

「そっか」

 それで話は終わった。お互いにキリトのベッドに腰掛けて、体を寄せ合っていた。
 ゆっくりと窓の奥で日が落ちていくのが分かる。
 あのログハウスで一緒にいた時のような、静かな時間が流れた。
 無限にも感じる優しい時間。と、その時キリトのお腹がグゥと鳴った。

「あ」

「もういい時間だもんね、そうだキリト君。冷えちゃったけどこれ、良かったら食べて」

 気まずそうにするキリトに、持ってきたバスケットの中身、ハンバーガーをアスナは手渡す。
 キリトは目を輝かせて「いいのか?」と尋ね、アスナがコクリと頷くのを見てそれに齧り付いた。

「こ、これは……!」

「わかる?」

「忘れるもんか! 七十四層の安地で食べたハンバーガーだ!」

「味の再現に苦労したよー」

 キリトははむはむと食べ……手を止めた。
 アスナはどうしたのだろうと首を傾げる。口に合わなかっただろうか。
 ゆっくりと食べかけのハンバーガーを持ったままキリトはアスナを見つめた。

「アスナ、ごめん。心配かけたよな、もっと早く連絡するべきだったよ」

「そんな私こそ」

「ストップ」

 アスナは「ごめんなさい」と言わせてもらえなかった。
 キリトが無理矢理に口を挟む。彼にしては非常に珍しい強引さだった。

「謝らないでくれ、頼む」

「え? でも……」

「お願いだアスナ、君は、俺に謝らないでくれ」

 真摯な眼差しで見つめてくる彼に、それはきっと何か意味があることなのだろうなと察しがついた。
 だから、アスナは渋々頷いた。

「でも、私だって悪かったんだから、ううん私の方が悪かったんだから謝罪くらいさせてよね」

 唇を尖らせてキリトを睨むと、彼は苦笑した。
 相当に無茶を言ったことを自覚しているのだろう。

 さて。

 実はこちらもそろそろ限界だ。
 アスナはそう思いながら笑い声をあげた。
 キリトは突然笑い出したアスナに面食らってしまう。
 ああ、先ほどの彼の母親はこんな気持ちだったのだろうと思いながら、アスナはようやく彼に《それ》を指摘してあげた。

「マヨネーズ付いてるよ、キリト君」





「酷いな、もっと早く言ってくれても」

「ごめんごめん」

「はいストップ」

「うぅ~イジワル!」

 謝罪の言葉は何故か言わせてもらえない。
 そこにちょっと意地の悪さを感じながらアスナはキリトと部屋を出た。
 キリトの真摯な顔についたマヨネーズは、実にアンバランスさを醸し出していた。
 真面目な顔で真面目なことを話しているキリトの頬にマヨネーズ。
 思い出しただけで笑ってしまう。その態度にキリトはむくれるも、やり過ぎたかな、と謝ろうとすれば「謝らなくていい」と止められる。
 もっとも、先ほどよりは謝らなくてもいい、という語調が柔らかくなったような気はするが。
 下では既に用意を終えた直葉と母親の翠が待っていた。
 「さ、座って」と席を勧められ、「失礼します」とキリトの横にアスナは腰掛ける。
 テーブルの上には大きな皿が二つあった。
 レタスとプチトマト、ツナの入ったサラダの皿が一つ、お肉と野菜を程よく炒めた良い香りのする回鍋肉の皿が一つ。
 他にはお味噌汁と白米がそれぞれの席に置かれていた。
 と、もう一つ。テーブルには《置きっぱなし》になっているものがあった。
 黒いマグカップ。

「あれ? なんで俺のカップ置いてあるんだ?」

「ッッッ!?」

 アスナはさっきの事を思いだして頬を染めて顔を背ける。
 それを敏感に感じ取ったキリトは、母親と妹のしてやったりという顔を見ておおよその経緯を理解したらしい。
 自身もニンマリとしてアスナに声をかけた。

「なあ俺のマグカップが何で出ているか知らないか?」

「う、うぅ……そ、それは……」

 アスナは彼の顔がその声色から既に小悪魔モードに移行していることに気付いた。
 見ればきっと彼の母親も妹もそうなっているに違いない。
 悪魔キリト君が三人。それなんて無理クエスト?
 二人ですらギブアップだったのに、最後に本物がさらに混じるとか勝てる気がしない。
 まだソードスキル無しという縛りをつけて延々と最前線でレベリングしている方が楽だろう。

 アスナの初めての桐ヶ谷家訪問は、そんな甘苦い思い出と共に鮮明に記憶に残るのであった。



[35052] ALO11
Name: YY◆90a32a80 ID:1a43ae77
Date: 2012/11/13 20:05


「やあっ!」

「おっと」

 裂帛の気合いで、真剣を大上段から振り下ろす。
 それを黒衣の影妖精族(スプリガン)の少年はひらりとかわしてみせた。
 しかしその行動は予測済みだ。振り下ろした剣を素早く横薙ぎに一閃させる。
 間髪いれない返し技に《今度こそ》よけきれまいと自信を深めた……のだが。
 驚いたことにその剣に合わせて黒衣の影妖精族(スプリガン)の少年は自らの剣を縦に構えて受けきり、素早く水平に切り返して来た。
 一撃、もらってしまう。だが良いようにはやらせないとよろける体に鞭打って彼に剣を構えた時、再び驚いたことに彼は既に自分の斜め後ろにいた。
 速い──と思った時には既に遅く、さらに横腹を切られ、振り返った時にはもう一撃。
 結局、彼に再度相対する前に都合四度の高速水平斬撃を受けて、風妖精族(シルフ)随一の剣士であるリーファは負けを喫してしまった。

「ああん! また負けた! 何今の!? ずるいよお兄ちゃん!」

「はっはっはっ! まだまだだなリーファ」

「うわーん! お兄ちゃんが虐めるよぅアスナさぁん!」

 リーファは薄いブルーのロングヘアをたなびかせている、現実とほぼ出で立ちの変わらない女性水妖精族(ウンディーネ)プレイヤーの《アスナ》に泣きついた。
 アスナはよしよしとリーファの頭を撫でながら苦笑する。

「もうキリト君、それはちょっと反則だよ」

「実際に《ソードスキル》使ってるわけじゃないぞ。そもそもALOには無いしな」

「そうだけど……でもソードスキル知らない相手にいきなり《ホリゾンタル・スクエア》使うかなあ、普通」

 アスナの苦言にもキリトはどこ吹く風といった顔立ちでかつてのように剣を左右に振って背中に収めた。
 どうやら今の戦闘はかなりお気に召したらしい。それは言葉とは裏腹になかなかリーファが強敵だったことを意味している。

「だってさ、さっき空中で散々バカにされたから……」

「もう、大人気ないなあ」

 キリトの子供じみた言い訳に笑いつつ、アスナの胸の中でようやく気分を回復させたらしいリーファが顔を上げる。
 その目は再戦の炎を燃やしていた。
 先ほどまでの哀しみに満ちた表情は既にない。
 結局、勝っても負けても楽しいというのがありありと伝わってくる。
 それだけ、リーファはこの世界が好きなのだろう。
 久しぶりのログインとくれば、それも一入のはずだ。
 そう、現在三人は新生アルヴヘイム・オンラインにログインしていた。
 運営を停止したはずのアルヴヘイム・オンラインの運営が再開されているのには、きちんとしたわけがあった。

 キリトの当初の読み通り、茅場の残した《ザ・シード》の拡散は早く、また非常に効果的だった。
 数多くの中小企業から果ては個人までがお手軽感からVRワールドへの進出に乗り出し始め、あっという間に縮減の一途を辿っていた仮想世界ブームはその勢いを取り戻した。
 おかげで、既に当初危惧していたVR産業の衰退は避けられたとキリトはこの状況を見ていた。
 だが、ことはそれだけに留まらず、キリトの予想の上を行く展開も見せた。
 ALOプレイヤーでもあったベンチャー企業の関係者が、共同出資で自ら会社を立ち上げ、レクトプログレスからほとんど無料に近いような低額でALOの全データを譲り受けた。
 その全データを彼らが新たに用意したサーバ群で再生し、自らが愛した世界を復活させたのだ。
 それを知ったキリトは妹である直葉/リーファや明日奈/アスナに早速連絡を入れ、すぐにアルヴヘイムの世界へと舞い戻った。
 全てのデータを譲り受けた新運営団体はプレイヤーデータも受け継いでおり、誰もが自分のアルヴヘイムのキャラをそのまま使うことが出来た。
 また、譲り受けたデータの中にはレクトが管理を委託されていたSAOのデータも丸々混ざっており、そのプレイヤーデータも存在したことから、SAOプレイヤーについてはSAOプレイヤーデータを引き継げるよう運営は取り計らった。
 全てのSAOプレイヤーは、運営再開一ヶ月以内に限り、SAOのデータ引き継ぎにおける詳細な設定が可能とされた。
 それを受けてアスナは、迷った挙句に自身のアバター名を《ASUNA》へと変え──戻した、という方が正確かもしれないが──プレイヤーデータを姿形を含めて引き継いだキャラクターにした。
 やはり、こちらの方が馴染みが深い。水妖精族(ウンディーネ)にしたのはみんながみんな同じ種族ではつまらないだろうという考えからだった。
 しかし一方で既に僅かな愛着が生まれていた《エリカ》を失うのは少々辛かった。
 そこで運営に問い合わせてみると、そのケースを考慮し、これも運営開始一ヶ月以内であればステータスが引き継げるのは一キャラクターのみだが、容姿がそのままの初期ステータスキャラクターとしてなら二つ目のアカウントを用意してくれるサービスを行ってくれた。
 これには旧SAOプレイヤーから大層喜ばれた。アスナが世界樹攻略に向かった際のSAO生還者達はそのほとんどが自分の本来の姿に戻りつつ、一度作ってしまったキャラクターを取っておくことを好んだ。
 だが、その一方でキリトはSAOデータの引き継ぎこそしたものの、彼のアバターは最初にランダム生成されたものそのままとした。
 結果、彼は鼻や耳が少し長めで浅黒い肌に髪の毛がツンツンと逆立った──これは後にユイの頼みによってカスタマイズして下ろした──現実の彼とは些か異なる姿になった。
 それについてアスナが尋ねたところ、「ビーターの姿を残しておきたくなかったんだ」と言われ複雑な心境になった。
 それでも過去のステータスはやや惜しかったらしく、それらはそのまま残した。
 かくして、VR事情に革新的変化が世の中には起こっているのだが、驚くべきことは他にもあった。
 これについてはまだ、この場ではキリトの胸のうちにのみ留めている。
 アスナとリーファを驚かせたい、という思いから《その日》が来るまでは黙っているつもりだった。
 新体制の運営が譲り受けたデータに、《伝説の城》がそのまま残っていたという事実は。
 もうしばらくしたら、大規模アップデートに《かの城》が復活する。その際、今使った技のシステムアシスト……《ソードスキル》も復活する予定だとキリトは聞いていた。
 実は先ほどからちょこちょこ《ソードスキル》をシステムアシスト無しという自分だけの感覚で再現して披露しているのは、リーファ/直葉に対する《兄心》からだったりする。
 いざそれが使えるようになった時、見たことのある、触れたことのあるものとそうでないものには雲泥の差がある。
 まだ全てを語る気はないが、触りを知っておいて損は無いだろうという隠れた思いやりだった。
 もっとも、先ほど《随意飛行》のコツを教えてもらうのにさんざん苦労して笑われたことの腹いせが全くないかといえば、そんなことはないのだが。
 その証拠に、一切負けてやるつもりは無かった。だからこそ、アスナは《大人気ない》と彼を諌めるような言葉をかけたのだ。
 彼が何かを妹に伝えてあげようとしているのはわかっていた。およそ容赦のないやり方で。
 もう少し大人になって優しく指導してあげればいいのに、と思いつつもあれが彼らの兄弟としての距離なのだろうと感じ、実際に手を出すことまではしなかった。

「シリカちゃん、今日も来ないのかな……」

 再びデュエル──HPが全損までするタイプのデュエル方式ではない──によって敗れたリーファは、フレンドリストのログイン状況を見て溜息を吐いた。
 唯一、ALOが復活しても心が晴れないのが、珪子/シリカの現状だった。
 彼女は急にピナが居なくなったことにショックを受けた。その上ALOの運営停止。その心情は察するに余りある。
 ALOが復活した最初の日こそログインしたものの、ピナがやはりいないとなるとシリカは儚い顔でログアウトしてしまった。
 メールやチャットで直葉は度々連絡を取り合い、励ましているが、どうにも元気は取り戻し切れていないようだった。
 そのことについて相談されたキリトは、腕を組んで迷ったものだ。
 《伝説の城》の大規模アップデートについて話すか否か。これについては結局迷った末話すのはやめた。
 単に秘密にして驚かせておきたいわけではなかった。言わなかったのは、キリトにも確実にピナが戻ってくる確証が無かったからだ。
 新運営はエギルの伝手先でもあるらしく、多少の繋がりはあった。無論その情報の全てをもらえるわけではないが、最大限エギルにはピナについて聞いてもらった。
 エギルもシリカについては胸を痛めていた為に何とか力になりたかったのだが、運営ですら何とも言えないと回答してきた。
 それは単に秘密にしているからではなく、彼らもまだ判断がつかないのだそうだ。
 そもそもテイムモンスターは半分プレイヤーの付属物的な扱いになるが、もう半分はアクティブなMobでもあるらしい。
 《伝説の城》稼働時に《伝説の城》に存在するアイテムやモンスターは復活の予定だが、復活した途端にそれが主の元へ戻るのかは現状では検証してみないと何とも言えないようだった。
 《フェザーリドラ》は現れるが、それが《ピナ》としてシリカの前に現れるかは断言できない。
 それを聞いたキリトは期待をさせておいていざ無理でした、となるよりはその時まで黙っていることにした。
 吉と出るか凶と出るか、わからないが万一の時は自分もできる限りの力にはなるつもりでいた。

「さて、それじゃ一旦家に戻ろうぜ」

「お兄ちゃん家まで飛べるの?」

「む、馬鹿にするなよ。もうコツは掴んだからな」

 キリトとアスナは共同で新体制になってから新たに世界樹の上部に作られた都市、《空中都市イグドラシル・シティ》に大き目のプレイヤーホームを借りていた。
 旧ALOには存在しなかったそこは、当初のグランドクエストの謳い文句にあったものを現実のものとした形になる。
 借りた部屋はそれなりのお値段ではあるが、最初にログインした際にSAO時代のコルがそのままユルドに変換されており、この部屋をまる一年借りてもたっぷりとお釣りがくるほどの蓄えがあった。
 少しばかりチートな気がしないでもないが、これも昔取った杵柄として有効活用に役立てている。
 ちなみに一ヶ月を過ぎてからのSAO生還者のALO参入者にはこの特典は与えられなかったりするので、その意味でも早めにこの世界に来ていて良かったというものだろう。
 ついでに言うと、全てのアイテム・コルをSAO時代の結婚システムによって共通ストレージ化していたアスナとキリトは、最初にログインしたアスナに全ての所有権が移っていた。
 キリトはログイン時、ステータスこそ引き継いだが所持品は初期のそれのみだった。
 普通はそれが当然なのだが、アスナはせめて持っているユルドを二分しようとキリトに提案した。
 キリトは男気たっぷりに「それは全部アスナのものでいい」と言ったのだが、その直後にリーファが「せめて装備を整えるくらいはしたら?」と発言し、いざ武器屋に行ってみると彼の興味を引く武器がいくつかあるものの、初期からの所持ユルドでは当然買うことはできない。
 キリトは渋々、アスナに頭を下げてユルドを譲り受け──いつか絶対に返すと言ったキリトに対し、アスナも強情にそれはキリト君のお金だと珍しく揉めた──装備を整えた。
 その様を見ていたリーファは、

「まるで旦那さんが奥さんに頭下げてお小遣いもらってるみたい」

 などと言い出し、一瞬の険悪な雰囲気もなんのその、二人は赤くなってお互いチラチラと顔を見つめ合い始めた。
 言い出しておいてなんだが、これはこれでただ見ているリーファとしては些か面白くなかった。
 そこで突如思い出したかのようにキリトへ《随意飛行》の指南をしたのだが。
 キリトは最初、情けないことに飛べなかった。いや、正確には制御できなかった。
 翅を動かし、飛び上がることはできた。しかしロケットのように直上に勢いよく飛んだあとは制御が上手くいかずに変な方向へひたすら飛んでは激突していた。
 その様があまりにおかしくてリーファは大笑いし、些か根に持っていたらしいキリトが先のような状況を展開させたのだ。

 小馬鹿にするようなリーファの言葉に少しばかりムッとなりながら自信満々にキリトは翅を広げる。
 アスナはその態度に苦笑した。彼は存外負けず嫌いなのだと改めて思う。
 先ほど、自分はそこまで苦労しなかったと伝えるとムキになって飛び方を練習していた。
 今度は対象がリーファになるだろう、と予想しながらはるか遠くに見える世界樹へと翅を羽ばたかせる。
 比較的遠くの狩場に来て突発的にデュエルを行っていたが、帰るのにはさほど苦労しない。
 というのも、新体制になってから《イグドラシル・シティ》の新設にあたってもう一つ、このALOには革新的改革がなされている。
 それが《滞空制限》の撤廃だ。これによって、飛行不可能エリアでない限り、プレイヤーは自由に好きなだけ飛べる仕様となった。
 速く飛ぶことを好み、《スピードホリック》などと揶揄されがちなリーファはそれに大層喜び、運営再開初日などはログインしてからずっとホバリングし続けたりしたものだ。

「じゃあ競争しようよ! お兄ちゃん達の借りてる家まで誰が一番先に着くか」

「よーし受けてたとう。アスナは?」

「え? 私も構わないけど……」

 突然の提案に一瞬きょとん、としたアスナだが特に異論は無い。
 それはそれで面白そうだ。
 意見が纏まったところでアスナの肩を定位置として座っていたユイが現在のマスターであるキリトの胸ポケットへと入り、顔をぴょこんと出して口を開く。

「では私が合図しますね。いいですかー?」

「おう」

「おっけー」

「うん、良いよ」

 三人ともグッと腰を下げ、足に力を込める。
 仮想世界と言えど肉体を動かそうとする感覚は現実のそれとあまり変わらない。
 長く仮想世界にいればいるほど分かってくるが、人の行動というのは詰まるところ脳からの伝達命令によるものだ。
 仮想世界ではそれをいかに速く、正確かつ緻密に行えられるかが動きの善し悪しを決める。
 違うところがあるとすれば現実では自身に与えられた肉体のプロパティが日々変動し、数値的な意味合いでの上昇は時間がかかるのに対して、仮想世界でのプロパティはそのゲームにもよるが一定スパンでほぼ確実に上昇し、およそ数値化されたものを最大限に発揮できることだろう。
 もっともALOはスキル重視という観点からSAO時代にはあった筋力や敏捷力と言ったステータス的概念が無い為、現実の運動神経をより色濃く反映される仕様となっているが。
 それは逆を言えば、現実で強い人ならプレイ時間に関係なくこの世界ではのし上がれる可能性がある、ということでもある。
 実際にはそれだけでトップを取れるほど単純な世界ではないが、大きな一つの要素ではある。
 現実でなら現在の運動量トップを誇るのは間違いなく直葉/リーファだろう。剣道で鍛えているその肉体は伊達ではない。
 しかし、仮想世界には実際の筋肉を必要としないというメリットが存在する。
 思考速度、伝達速度が増せば増すほど筋肉の断裂等の憂いのない仮想アバターは指示通りの性能を発揮してくれる。
 これは現実で肉体的なビハインドがある人でも仮想世界で五体満足になれるという側面さえある。
 そこに必要とされるのはセンスと──集中力。
 故にそれを乱されれば、出せる力も出し切れない。

「よーい……ちゅっ」

「なぁ!?」

「ユイちゃん!?」

「どーん!」

 小妖精の姿をしたナビゲーションピクシーのユイは、小さく片手を上げたかと思うと、身を乗り出してキリトの頬に唇を押し当てた。
 それにリーファは目を丸くし、アスナも驚きを隠せなかった。
 唯一、動揺が少なかったキリトはユイの続く「どーん!」という声に一息で羽根を大きく羽ばたかせて加速した。
 やや遅れてそれに気づいた二人がやられた、と歯噛みしつつ慌てて一人+一人を追いかける。
 しかし初動の遅れは致命的だった。加えて、リーファはキリトの飛行スピードを見てその速さに流石だ、と内心での賛辞を贈らざるを得なかった。
 彼の速度はほぼ自分のそれに迫るものがある。ついさっきまでまともに随意飛行をこなせなかった彼が、この瞬間にはほぼ自分と変わらない飛行能力をマスターしている。
 あの域に達するのに自分はどれだけかかっただろうか、と思うと少しばかりその適応力の高さに嫉妬を禁じ得ない。
 だが、僅かずつその距離は縮まっている。これなら家に着くまでには良い所までいけそうだ……とリーファがそう思った時。
 フッとキリトが横目で振り返った。お互いの距離を確認して、また視線を正面に戻す。
 それにリーファが首を傾げていると……だんだんおかしいことに気付いた。
 先ほどまで僅かずつ縮まっていた差が、縮まらない。お互いの距離が、変わらない。
 そんな馬鹿な、と思いつつも彼女の長年の経験による距離感覚は一向に縮まっているようには感じ取れなかった。
 いや。
 それどころか、僅かに引き離され始めたようにさえ感じる。
 馬鹿な。兄はALOを始めてまだ日も短い。いくら仮想世界で一日の長が彼にあったとしても、それほど簡単に飛行で差を詰められ、ましてや抜かれるなんて考えられなかった。
 すると、これまた信じられないことに、ほぼ斜め後ろの位置をキープしていたアスナが、段々と自分の隣にまでやってくる。
 アスナの目は真剣そのもので、正面しか見据えていない。いや、見据えているのはキリトの背中だろうと直感的にリーファは悟る。
 一瞬、自分のスピードが落ちているのかと思ったが、彼女の感覚はそれを否定している。
 単純にキリトが速く、それに置いて行かれないようにとアスナの速度が引っ張られるように上がってきているのだ。

(なんなの……この二人……)

 末恐ろしい、なんてものではない。
 やや異常とも取れるその適応振りにリーファが戦慄仕掛けた時、視界に《イグドラル・シティ》が見えた。到着はもうすぐだ。
 そうリーファが思った時だ。街へ入ってすぐに、何気なく下を向いた時、街中の一人の火妖精族(サラマンダー)プレイヤーと目が合ってしまった。

「あ」

 見なかったことにしたかったのだが、生憎と向こうにその気は無いようだった。
 既に視線を外してはいるが、なんとなく後を追ってきている感覚があるのは恐らく気のせいではないだろう。
 やばいなあ、と思っているとルルルと電話の呼び出し音のようなサウンドエフェクトが聴覚を刺激する。
 これはリーファの登録しているメッセージの着信音だ。やむなくリーファはやや速度が落ちるのも構わずメッセージを確認した。
 幸い先ほど目が合った相手ではなく、リアルでも知り合いの《レコン》からだった。
 迷いは一瞬、リーファはメッセージを開封する。半分は今回の勝負を諦めているからこその行動だった。

【家の前に着いたけど誰もいないよー?】

 レコンのメッセージにはそうあった。
 そこで思い出す。今日はレコンとも合流する約束があったのをうっかり忘れていた。
 もっとも会えたら会おう程度のものだったのだが、彼はそういった約束を彼女として結局会えないで終わることはこれまで無かったのも事実。
 ただレコンはログイン前にいくつかリアル事情が重なり、来れても遅くなると連絡があったので、先にキリトとアスナの借りている部屋の場所を教えておいたのだ。
 もちろん二人には教えるにあたって先に許可をもらっている。それを思い出したリーファは手早く【もうすぐ着く】とだけ打ち込み、最速へと切り替えた。
 視線の先では丁度キリトは到着するところだった。そこに、勢いを殺さずにアスナが突っ込む……勢いを殺さないで?

「ちょっ……?」

 後ろから見ていてもアスナは減速が間に合うようには見えない。
 案の定「ひゃああああ~!?」などと声を上げながら着地したキリトにアスナは激突した。
 どんがらがっしゃーん! と縺れ込んで回転するように二人は吹き飛んだ。
 アスナは「あいたたた……くないんだった」と頭を押さえて上半身を起こす。

「びっくりしたなあ……」

「目が回りました~」

 その彼女の下敷きになるように、キリトはいた。
 端的に言ってアスナが馬なり状態となって彼の上に乗っていた。
 それに気づいたアスナはバッと飛びのいてから、じぃ、とキリト……の胸ポケットにいるユイを見つめていた。
 それに気付いたユイはアスナに微笑みつつ首を傾げる。

「ず、ずるいよユイちゃん、あんなことするなんて」

「パパが少しだけ不利でしたからね、ああすることで均衡が取れると思っていました」

「そ、そうだけどそうじゃなくて……うぅ~!」

「怒らないでくださいママ」

 ユイはフワと飛び上がるとアスナの肩に降り立ち、チュッとアスナの頬にも口づけした。
 満面の笑みでユイがアスナの顔を覗き込む。
 これでパパびいきじゃありません、とその顔は告げていた。
 そういうことではないのだが、その笑顔を見ているとこれ以上何かを口にするのが馬鹿らしくなる。
 アスナはふぅ、と息を吐くとなでなでとユイの頭を撫でて機嫌を直した。

「あの~、今なんか凄い音がしたんだけど……」

 丁度そこに、先に来ていたレコンが顔を出した。





「かんぱーい!」

 レコンを部屋に招き入れ、再開と初顔合わせのお祝いに乾杯の音頭を取ってワイングラスを皆であおる。
 キリトとアスナの共同で借りている部屋は相当に広く、きれいに磨かれた板張りの床の中央には大きなソファーセットが置かれ、壁にはホームバーまで設置されていた。
 最近ではちょこちょこ顔を出すクラインがいそいそとお酒のコレクションを置いていき、度々ユイにもお酒を勧めるのでアスナとキリトはそんなクラインに目を光らせたりしている。
 ちなみに仮想世界のお酒は味こそするが実際には酔わない。
 また、本当にアルコールを摂取しているわけではないので肉体に害はない。
 しかし、仮想世界での《飲酒》というカテゴリーについては現在一つの社会現象を巻き起こしている。
 仮想世界で飲酒できるのを良いことに、現実でも未成年の飲酒に拍車がかかっていると統計が出ている。
 一方でお酒の飲めない体になった人や禁酒をしようとしている人も、仮想世界で飲むことによって満足感を得られるという実績が上がってきている。
 現在、未成年は仮想世界でも飲酒を禁じるか否かの話も持ち上がっているが、その制限自体も年齢などほぼ自己申告に等しい問題から現実的でなく、規制するには仮想世界そのものの規制が求められる。
 《ザ・シード》が猛威を振るっていると言っても未だに仮想世界に嫌疑的な人は多い。
 仮想世界は無くすべき、という人は恐らくこれから先無くなることは無いだろう。ひょっとするとその内訳の中にはSAOによって家族を亡くした人も多いのかもしれない。
 飲酒の問題に限らず、様々な問題は今後浮き彫りになっていくことだろう。
 だが、それでも今のキリト達はこの世界があることを喜び、純粋に祝いたかった。

「初めまして、かな、レコン君」

「レコンでいいですよキリトさん」

 レコンはキリトと名乗る影妖精族(スプリガン)に返しつつ、まじまじとその装備やら風貌を見て、失礼ながらあまり冴えない人だなあと思った。
 自分も大概人の事は言えないが、こう《強そう》というオーラが感じられない。
 レコンはキリトについてALOは初めて間もない、ということとリアルでの直葉/リーファやアスナの知り合いということしか聞かされていなかった。
 それ故、何故彼がALOをやるに至ったのかは知らないが、直葉/リーファに惹かれてのことだしたらビシッと言っておかなければならない、とリーファの騎士を隠れながらに自称するレコンは思った。
 プレイ時間から言っても全てにおいて今なら自分は彼に劣らないという自信もレコンにはあったのだろう。
 堂々と釘を刺しておこう、と思ったまさにその時だった。
 ドンドン、と部屋の戸を外から叩く音がする。
 通常部屋内部は外部の音が遮断される仕組みとなっているが、ノック等は外部からの連絡手段としてその限りでは無かった。
 レコンは出鼻を挫かれ、ノックの主に内心で悪態を吐くが、それを知ってか知らずかノックと言う名のドンドンとした叩きつけるような音は段々と増していく。
 それを聞いて、リーファは「あちゃあ……」という顔をした。

「やっぱり来ちゃったかあ……流石に家の中まで押し入ることは無いと思ってたんだけど」

「リーファの知り合いか?」

「知り合いっていうか……」

 キリトがリーファを呼び捨てにしたことにレコンはムッとなりながら事態を見守っていると、アスナが応対するために戸を開いた。
 どちらさまですかー、と間延びした可愛らしい声に返ってきたのは、荒々しい男性プレイヤーの声と火妖精族(サラマンダー)プレイヤーの容貌だった。

「俺の嫁、エリカはどこだリーファ。式の段取りを考えたい」

 開口一番、挨拶も無しにそう言ったのはかつてエリカ/アスナが戦闘経験のある伝説武器(レジェンダリーウェポン)の持ち主、火妖精族(サラマンダー)プレイヤーのユージーン将軍だった。
 未だに彼は戦闘能力においてALOでトップだとの定評がある。
 同時に、嫁馬鹿でもあるとの噂がある。強い嫁を作ることにえらく執着している、と。
 ユージーンの登場にリーファはやっぱり、とげんなりとした表情を作った。
 街中で目が合った時から予想はしていたのだ。
 リーファを除く他の面々は少々面食らっていたが、その中で意外にも最初に我を取り戻し口を開いたのは、キリトだった。

「アスナ……?」

 彼のアスナを見る目は若干の怯えが混じっていた。
 エリカ、というのがアスナの別のアバターだということはキリトも知っている。
 アスナはブンブンと首を振った。誤解だと。

「また来ましたね! ママは貴方なんか好きじゃないです!」

 ユイがユージーン将軍の前に躍り出るが、それは逆効果となった。
 ユイに見覚えのあるユージーンはここに《エリカ》がいるものと確信する。

「お前はあの時のエリカのピクシーだな。俺とてここしばらく遊んでいたわけではない。強者と呼ばれるプレイヤー巡りをしてきたのだ。だが、エリカの言うようなプレイヤーはいなかった。つまりあの時のあれは方便か何かだったのだろう? ならば問題はあるまい」

 エリカ/アスナはきちんと自分には相手がいると伝えている。
 その相手は自分よりも強い、とも。
 しかし、それを真に受けたユージーンはそのプレイヤーをあれから延々と捜し歩いたらしい。
 結果、彼の眼鏡にかなうプレイヤーに出会うことは無かった。
 つまり、エリカが嘘をついていた、とユージーンは最終的に考えたのだった。

「貴方なんかパパにかかればイチコロです!」

「ふん、またその話か。空想の相手には確かに勝てんが所詮は空想だ」

「パパは空想じゃないです!」

 ユイは涙目になりながらキリトの元へと飛んでいく。
 それにレコンは首を傾げた。何故あの影妖精族(スプリガン)の元へ? と。
 ユージーンもそれは同じだったらしい。

「誰だお前は? 見かけないな。そのピクシーの知り合いということはエリカの知り合いか?」

「パパです!」

 それに答えたのはキリトではなくユイだった。
 キリトの肩に乗って半身を隠しながら手をグーにして高々と上げる。
 反動でユイの長い黒髪がキリトの頬を撫でた。

「お前が……? ではお前がエリカの言っていた相手か? 見たところ、装備は全て購入できる物という精々中位プレイヤーのようだが」

 訝しそうにユージーンはキリトを見つめる。
 その眼光はさすがに鋭く、歴戦の強者を思わせた。
 が、すぐにその目は嘲りへと変わる。

「つまり、お前に勝てば俺は晴れてエリカと結婚できるということか、なるほど」

 ユージーンが一人納得したように言った言葉に、キリトは反応した。
 キリトはもう一度アスナを見るが、彼女は相変わらずブンブンと首を振っている。
 そんなキリトに、ユイが耳元で囁いた。

「パパ! あの人ママのストーカーなんです! ママに結婚を迫ってるんです! 叩き潰してください!」

「あー、うん……わかった。とりあえずユージーンさん、だっけ? 外に─────出ようか」

 語尾が、一瞬にして彼の空気を変えた。
 体感的に、数度は室温が下がり、重力が増したのではないかと思わせるそれに。
 その態度に「ほう」とユージーンは感嘆の声を上げる。
 その変わりようにキリトを好敵手と感じたのかもしれない。
 話を蚊帳の外で見ていたレコンは、リーファに耳打ちした。
 彼、大丈夫なの? と。それにリーファは一瞬きょとん、としてからくすくすと笑いだした。

「心配なら、ユージーン将軍をした方がいいかもよ」

「ええ?」

 レコンは何言ってるのさ、と目を丸くする。
 リーファは尚も笑っている。彼女は嘘を吐くような人ではないとレコンは百も承知だが、こればっかりは冗談か何かだろう。
 相手は伝説武器(レジェンダリーウェポン)を持つALO最強プレイヤーだ。ポッと出の素人に勝てる相手ではない。
 そう思っていると、キリトがリーファに声をかけた。

「リーファ、ちょっと剣を貸してくれ」

 これにはリーファも意外だったようで、首を傾げつつ剣を手渡した。
 彼は元々自分で持っていた剣と合わせて二刀をぶら下げ部屋を出て行く。
 その姿を見て益々初心者の格好つけだとレコンは確信した。

(いるんだよなあ~ああやってよく知りもしないで二つ剣を使う俺恰好いいとか、強いとか思っちゃう人)

 呆れさえ混じるレコンの考えは一説には正しい。
 ALOでは同時に二種類の武器を使うためにそれ専用のスキルは必要ない。
 だが、これまでALOで名を馳せられるほどのメイン武器を二つ使うスタイル保持者は出てきていなかった。
 それだけ二つの武器を同時に扱うのは難しいのである。これは惨敗確定かな、などとレコンが思っていると、アスナから信じられない言葉が発せられた。

「うわあ、キリト君本気出す気だ……ユージーンさんちょっと可哀相だなあ……」

「はあ!?」

 思わず素っ頓狂な声を上げるレコンに、アスナは心底不思議そうな顔をした。
 アスナがエリカであることはレコンも既に聞き及んでいる。
 その彼女が、可愛そうなのはキリトとかいう影妖精族(スプリガン)ではなく相手であるユージーンだなどとは流石に笑えない。
 なんとなくレコンの意図に気付いたアスナは微笑みながら彼にイタズラっぽい声色で告げた。

「見てればわかるよ。前に私が言った意味」

 そう言われては見ているしかない。
 確かに前に、彼女の言う人物は自分よりも強いというのを聞いたことはあったが、どうにもその凄さを想像できずにいた。
 レコンは部屋に付いている窓から外の二人を見やる。
 リーファもわくわくとした様子で見入っていた。
 何かを話しているようだが、やがて二人は距離を取って……構えた。
 ごくり、とレコンが息を呑んだ瞬間、信じられないことに───キリトが消えた。

「嘘っ!?」

 正確には消えたのではなく速すぎて見えなかった。
 それほどのスピードを出せるのは驚嘆にも値した。
 レコンは即座にキリトというプレイヤーの強さレベルを自身の中のランク付けリストで上方修正する。
 しかし、驚くのはまだ早かった。
 ユージーンの持つ《魔剣グラム》最大のメリット、エクストラ効果である相手の武器の透過をどうにかしなければ勝ち目はない。
 《エセリアルシフト》、これを防いだプレイヤーは現在いないとさえ言われている……のだが。
 それをユイから聞いていたのだろうか。キリトが二刀を使った意味を始めてレコンは理解した。
 彼は二刀を用い、透過された剣をもう一方の剣で受け、さらに攻めている。
 その動きには無駄が無く、信じられないことに二刀を使いこなしていた。
 驚きはそこに留まらない。彼の速度がどんどんと増していき、ユージーン将軍が防戦一方へと追い込まれていく。
 なんて素早い二刀連撃。息つく暇もない。
 わかっていても防げないから伝説だったはずなのに。

「あ~パパ、手加減してますねえ、それともアシスト無しでは上位剣技までしか再現できないんでしょうか」

「そうだねえ、一度見せてもらった最上位剣技の方は使わないっぽいね」

「まあ使わなくてもパパ勝っちゃいそうですけど」

 いつの間にか戻ってきていたユイとアスナの会話に、レコンとリーファはあんぐりと口を開けた。
 あれで全力ではないなどと、どんな化け物プレイヤーなのだ。
 相手は伝説武器でこちらはその辺の武器屋で購入できる武器だというのに。

「本当に私相手にも手加減してたんだあ……《お兄ちゃん》」

 リーファ/直葉の言葉に、レコンは「え」と固まってしまう。
 お兄ちゃん? あの人が? というか既に彼女は彼と戦ったことがあったのか?
 そんな思考がぐるぐると回っていると、どうやら決着がついたようだった。
 キリトが剣を左右に振り払い、背中へと持っていく。
 一本は鞘が無い為に空振りし、頭をかいていたがその近くにはチロチロと燃えている赤いリメインライトがあった。
 残念ながら一分の猶予以内に彼が生き返るのは無理だろう。そんなことを驚きと共に漠然と理解したレコンはしかし、急に何かを忘れているような気がしてきた。

「パパー!」

 ユイがキリトの元へと飛んでいく。
 彼女の花びらのようなスカートが捲れそうで捲れない。
 見えそうで見えなかった。だがそれがいい……などとレコンが思っている時、キリトの肩の上に乗って何か話しているユイと視線が交わった。
 途端、レコンは思い出す。かつて、ユイに蹴られてその花びらの中身を見てしまったことがあることに。
 鼻の下を伸ばしてユイの組んだ足を見たことがあることに。
 ユイの話を聞き終わったらしいキリトが、レコンをジッと見つめた。

 ……やばい。

 瞬間的に危険を察知した──いろいろ思い当たる節もあり過ぎる──レコンは、部屋を飛び出して逃げた。
 ここで彼は冷静になるべきだった。そのまま部屋にいれば、最悪の事態は防げたかもしれないのだ。
 しかし、やばいという強迫観念に駆られた彼は逃げに徹してしまった。
 恐る恐るレコンが振り返って見ると、案の定キリトが凄い速度で追いかけてくる。
 先の戦闘を見たばかりだと、会った時と変わらないその顔がとても怖く感じた。
 キリトの飛行速度は速く、レコンは逃げきれないとすぐに悟る。
 そんな彼の取った最後の手段は……強制ログアウトだった。
 《イグドラシル・シティ》の外に出てしまっているが、関係ない。

【フィールドでは即時ログアウトはできません。よろしいですか? YES/NO】

 即座にイエスを押して彼はログアウトする。
 現実に戻った彼はふぅ、と一つ安堵の息を吐いた。
 その後、残された仮想アバターがどうなったのか、それを知る者はいない。
 尚、翌日キリトに求婚するユージーンが再び現れたが、無名の水妖精族(ウンディーネ)によって一息に貫かれ、その家に出禁を固く言い渡されたのは余談である。





『こんばんはママ』

「こんばんはユイちゃん。珍しいね、ユイちゃんが予め夜に話そうって言ってくるなんて」

 今日は桐ヶ谷親子の都合で早めに皆がログアウトした。
 その例に漏れずにアスナもログアウトしている。
 だが、ログアウトする際、ユイに今夜電話で話したいことがあると言われ、約束した時間にアスナが彼女へ電話していた。

「キリト君は部屋にいるの?」

『いえ、パパは今直葉さんとお母様と一緒に外出されています』

 ユイの本体は今やキリトのパソコンの中にあった。
 キリトは基本ユイの活動の妨げにならぬよう、自身のパソコンを起動させたままにしている。
 小さい駆動音とファンの音が、無人の和人の部屋で唸っているが、今それを感知するものはいないだろう。

「そうなんだ。それで話って?」

『はい。ママ、今日の事を覚えていますか? 私がパパにしたことです』

「ユイちゃんがキリト君にしたことって……あのキス?」

『はい』

「そりゃ覚えているけど……いいユイちゃん? 簡単にキスなんてしちゃダメなんだからね?」

『わかっていますママ。前に一晩かけて教えてくれましたね、大事な家族以外にキスをしたら相手は恋人さんということです』

「うん……?」

 なんだか、どことなく文法や文脈がおかしい、ような気がしないでもない。
 だがまあ間違いではないし……何よりユイの言葉変換処理が追いついていない可能性はある。
 時折ユイはそういった間違いではないがおかしい表現をすることがある。
 彼女がAIであるということを考えれば仕方がないのかもしれない。
 そこに一抹の寂しさを感じながらもアスナはあえて訂正はしなかった。
 そういった内容は話せば話すほど薄っぺらくなってしまうような気がしたからだ。
 間違った教育はしていないはず……と自分に言い聞かせて一旦そのことは忘れる事にし、アスナは本題を尋ねた。

「それで、あの時のことがどうかしたの?」

『……ママ、おかしいと思いませんでしたか?』

「びっくりはしたけど……まさかユイちゃんがあんなことをするなんて思っていなかったら」

『他に気付いたことはありますか?』

「え……?」

 真剣な声色で言われ、アスナは眉を寄せた。
 気付いたこと……? 何だろう、と考えてみる。
 あの時は比較的自然な流れで飛行の競争になった。
 中立、だと思われたユイがスタートの合図をしたがこれが思わぬ肩入れレフェリーだった。
 おかげで競争はキリトの勝利。まさにユイの機転がキリトの勝利を掴んだ、というようにしか見えない。

「ユイちゃんがキリト君の為に少しだけズルしたってこと?」

『近いですけど違いますママ。でも重要なのはそこです』

「……?」

『それがズルになりえた、という事実が問題なんです』

「どういうこと?」

『逆にお聞きしましょうママ。ママの知るパパが、私にキスされて平然としていられますか?』

「あ……!」

 何故、言われるまで気付かなかったのか。
 あの時、彼は平然、ではなかったかもしれないが、明らかに一番冷静だった。
 アスナの知るキリトなら、たとえ娘のように思っているユイからであろうと、不意打ち的に口づけなどされたら動揺するはずだ。例えそれが頬にであっても。
 取り繕うことは可能だろう。だが直後の彼の飛行を見る限り、やはり彼の心は凪いでいたと見るべきだ。

『ママ、以前私は言いましたね。パパには長期的な治療が必要だと』

「……うん」

 アスナは携帯端末越しに頷く。
 ユイの真剣な声色に自身も真剣な顔つきになった。

『少し話が前後しますが……この間、一週間くらいパパがママに連絡しない時期がありましたね?』

「うん」

『ごめんなさいママ、半分は私の判断です』

「どういう、こと……?」

『ママ、私がどういう存在だか覚えていますか?』

「えっと……」

 アスナの高性能な記憶装置である脳は即座に検索を終了する。
 ユイは自分と彼の娘。しかしそれとは全く別個に切り離せない事実がある。
 人工知能。それも《メンタルヘルス・カウンセリングプログラム》という人間のメンタルヘルスケアを目的とされた感情模倣機能付きのAIだ。

「メンタルヘルス・カウンセリング……」

『その通りです。パパの娘でありたい私とは全く別個に、私本来の能力が皆無なわけではありません。そのもう一つの、本来の用途である私が、パパの状態に危険信号を感じています』

「危険、信号……?」

『はい。それ故に少しの間私はパパにママへ連絡するよう進言しませんでした。もしあの期間中に一度でも私がパパに進言していればパパは連絡を取ったでしょう。どうしても《今後の治療方針》を決める上で必要なことだったのですが、そのせいでパパは結局ママに連絡を取りませんでした』

「治療、方針……」

『……ママは恐らく気付いていないと思いますが、パパはママや私がいない場ではほとんど笑いません。それどころか感情が希薄なんです』

「え……?」

『直葉さんに聞いてみれば、すぐに裏付けは取れるでしょう。今のパパは私やママがいないとなかなか感情を見せてくれないんです』

 それは本当に意外な話だった。
 アスナの知る彼はいつだって表情多感な人物である。
 その彼の表情が無い顔など、ALOで囚われていた時の彼くらいしか見たことが無い。

『ママには、とても辛い言葉を言わねばなりません』

「辛い、言葉……?」

『重い心の病に数値的な意味での完治は、ほとんどありません。極力表面に出てこなくさせる、というのが現在の医療の現場での限界だと言われています。パパのケースは、私のデータベースにある限り、その部類に分類されると思われます』

「そん、な……」

『心の病だと分かる部分を表面に出させなくする。それを自然体だと思えるようになってくる。これが擬似的な回復の傾向です。そこに本人がストレスを感じなくなれば本人はおろか他人にも病のことなどわからない。そこまで行けば完治と《呼ばれはする》でしょう。ですが、そうしたものは何かの弾みで再発する恐れを消せません』

「……」

『ですからママ、今のうちに聞いておきたいことがあります』

「聞いておきたいこと……?」

 アスナの問い返しに、ユイは初めて少しだけ黙った。
 なんとなく迷っている、というのがアスナには分かった。
 彼女にも何か思うことがあるのだろう。
 事実、これからユイがする質問はアスナにとっても、キリトにとっても……さらに言えばメンタルヘルスAIであるユイにとっても重いものだった。
 場合によってはユイは、自身の中の《最優先》を書き換えねばならなくなる。
 プログラムでしかないユイの、模倣された心がキリキリと痛む。
 だが、彼女は決断した。

『ママ、先ほど言った通りパパの治療は長期的になります。完治は、限りなく難しいと思います』

「……うん」

 ユイはアスナの相槌を聞いてから、再び数秒の間を開ける。
 アスナは目を閉じて彼女の言葉を待った。
 やがてこれまでよりも小さい声で、アスナの耳にそれをユイは問いかける。





『ママ、パパを一生支える覚悟が、ありますか……?』





 その質問はなんとなく予想していた。
 だから、アスナは間髪入れずにすんなりと答えた。

「私は────────────」





 アスナの答えに、ユイは何も答えなかった。
 ただこの日、ユイの《最優先》が、書き換わった。



[35052] ALO12
Name: YY◆90a32a80 ID:1a43ae77
Date: 2012/11/16 19:29


 珪子ことシリカ──逆かもしれないが──は一人で仮想の宙を彷徨っていた。
 彼女のアバターは現実のそれと変わらない出で立ちの……SAOのそれに猫妖精族(ケットシー)の特徴を付け加えたもののままだ。
 最後にログインしたのは実に一ヶ月以上前になる。
 五月に入り、ようやく新しい生活……国が用意したSAO被害者を集めた学校でのリアル生活にも慣れ始めた頃、珍しく友人である直葉ことリーファが強硬にALOのログインを頼み込んできた。
 いつも心配してチャットやメールを頻繁にしてくれた彼女にはとても感謝しており、心配をかけているという後ろめたさからその時はOKしたのだが。
 いざログインしてみると、やはりどこか虚しさを禁じ得なかった。
 常に傍らを飛ぶ小竜の姿が無いだけで、酷く寂しい。相棒、と呼ぶにふさわしい《ピナ》はもういないのだ。
 そう思うとどうにもモチベーションが上がらなかった。
 リーファとの待ち合わせ時間が迫りつつあったが、シリカはどうしても気力が湧かずに夜空をふわふわと浮遊する。
 最初に飛んだ時は楽しかった。飛ぶことに苦労したこともあるが、ピナとより深く繋がったような気がしたから。
 リアルでの飼い猫、《ピナ》は相変わらず自分に甘えてくれる。そのピナはとても可愛らしくシリカの心を癒してくれる。
 だが、たまたまテレビで猫と飼い主のドキュメンタリー番組をやっているのを見て、リアルのピナはあとどれくらい生きられるのだろうとふと考え込んでしまった。
 猫の寿命は人間のそれよりも遙かに短い。
 そう思うとこの《ピナ》もあの《ピナ》と同じく自分の前からいなくなってしまう気がして怖くなった。
 何も知らない顔でニャーと鳴きながらすり寄ってくる《ピナ》。
 肩や頭の上に乗って丸くなることを好んでいた《ピナ》。

「ピナ……」

 空には満点の星と、大きな満月が昇っている。
 都心ではまず見る事の出来ない景色だろう。
 だが、そのような景色を見てもシリカの心が晴れることは無かった。
 こんな心境では、リーファに会ってもきっと楽しめないだろう。
 彼女には悪いが、後日謝るとして今日はやはりログアウトしようか……シリカがそう思った時、

「見つけた!」

 聞き覚えのある声が真上から聞こえてきた。
 え、と思う間もなく腕を掴まれる。

「リーファ……ちゃん?」

「待ってたよシリカちゃん!」

 薄いグリーンの長いポニーテールを揺らしながら、上空から勢いよく滑空してきたのは、今日ここに誘ってきた本人だった。
 どうしてここがわかったのだろうと思ったが、すぐにフレンド探索機能のことに思い当たる。
 それでも聞かずにはいられなかった。

「どうして……」

「えへへ、早く会いたくて来ちゃった」

 ニンマリと笑う彼女には、どことなくアインクラッドで助けてくれた彼の面影を感じた。
 本当の兄妹ではないと聞いているが、そんなことは関係ないのかもしれない。

「リーファちゃん、それ男子に言ったらきっとイチコロだよ……?」

「そうかなあ? でもシリカちゃんも凄い人気だったよ? 前に世界樹攻略を手伝ってくれた人たちはみんなシリカちゃんのファンみたいなものだって聞いたし」

「そんなことないよ……私は、ただ……広告塔にされていただけだから」

 そのことを、シリカは自覚している。
 それ故、一度ピナに無理をさせて失うという失態まで犯してしまっているのだから。
 《竜使いシリカ》などと呼ばれ始めて浮かれていたのだ。自分を誘いたいパーティなどいくらでもあると自負してさえいた。
 今思えばなんて愚かだったのだろうと言わざるを得ない。
 あの時、キリトに出会えなければ今頃どうなっていたことか。考えるだけで恐ろしい。

「ごめんねリーファちゃん、誘ってくれたのは嬉しいんだけど……やっぱり今日は落ちようと思うんだ」

「んー、ちょっとだけ時間をくれる? あともう少しだから」

「あともう少し?」

「うん。あ、その前に聞いておきたいことがあるんだけど、いいかな?」

「何?」

「もし答えたくなかったら答えなくても良いんだけど、シリカちゃんはさ、SAOのこと……その、憎んでる? やらなければ良かったって。そういう思いが一番強い?」

「……」

 難しい質問だ。
 SAO生還者にはよくされる質問で、同時にSAO生還者にとってはあまりされたくない質問だった。
 答えはとても一言では言い表せない程複雑なのだ。プレイヤーにもよるが多くの人は憎しみの感情を大なり小なり持っていることだろう。
 しかし、憎しみしか無いのかと問われれば、中位プレイヤーより上になればなるほど口を噤む者が多くなる。
 プレイヤーはあの中でいつも必死に生きていた。無論始まりの街から出ることを恐がり、ずっとただ解放の日を待っていたプレイヤーもたくさんいる。
 そんなプレイヤーは振り返っても恐怖と孤独、憎しみの心がとりわけ強いだろうことは想像に難くない。
 だが一方で、攻略組と呼ばれずとも毎日せっせとレベルを上げ、クエストをこなし、コルを溜めて生活していたプレイヤーは少なくない。
 デスゲームの中にいる、ということを忘れたことは殆どのプレイヤーが無いだろう。
 しかし生活サイクルに疑問を感じなくなる程に慣れる、あるいはその生活をそういうものとして受け入れていたプレイヤーは上にいけば行くほど多いのでは無いだろうか。
 現実では頑張っても報われない人は多い。しかしあの世界では頑張ればほぼ一定の見返りは約束されている。
 それは報酬だったりコルだったりと様々だったが、現実よりも《頑張ろう》と思った人が皆無では無かっただろう。
 シリカは自分もそうだった気がする、と思う。
 経緯はいろいろあるが、頑張って戦い、装備を調え、日々を生きていくことに充実を感じなかったと言えば嘘になる。
 《ピナ》に出会い、《キリト》に出会って益々それは強くなった。
 そこに、その世界に、憎しみしかなかったとは、シリカには言えなかった。
 同時に憎しみが皆無とも言えない。二年もの時間を奪われた代償は、人によっては一生かけても取り戻せない場合もある。
 シリカとて二年という月日が奪っていたものは膨大だ。そこに悔しい気持ちや悲しい気持ちは多々あった。
 ただそれらを全て天秤に乗せて考えた時、秤がどう動くか、というのは……わからなかった。
 あるいは、《ピナ》がいればその秤は傾いていたかも知れないが。

「……わからない」

「わからない?」

「うん。良いことも悪いことも一杯あったから」

 シリカの真面目な顔に、リーファは大きく微笑んだ。
 彼女の手を強く引いて急上昇する。

「わっ!?」

 突然の事にシリカは驚き体勢を崩した。ツーサイドアップの髪が宙を暴れる。
 その勢いのあまりあやうく舌を噛むところでさえあったが、噛んだところで痛みは無い。
 しかし、だからといってやって良いことと悪いことはある。
 リーファはそこまで強引な子では無かったはずだが……と日々のやり取りで得ていた彼女のキャラクター像に本日何度目かの疑問符をシリカが浮かべていると、リーファが遥か上空に浮かぶ黄金の円に向かって手を伸ばしながら口を開いた。

「じゃあさ、それを決めに行こう!」

「へ?」

 彼女の言っている事がわからない。
 決めるとは何を? 行くとは何処へ?
 そこには、大きな黄金の円……空想の満月しか無いのに。

 ──と、その時だった。



『ゴーン、ゴーン──────』



 聞き覚えのある鐘の音。
 忘れたくとも忘れられよう筈がない。
 全ては、この鐘の音から始まったのだ。

「来るよ、シリカちゃん」

「来るって、まさか……!」

 その瞳に驚愕が彩られながらも、心はそれを予想していた。
 鐘の音が、彼女に未来を報せている。
 それはかつて、二年という月日、数多の嘆きと悲しみ、そしてたくさんの出会いをくれた場所。


 浮遊城アインクラッド……!


 世界を震撼させたソードアート・オンライン、その舞台。
 絶望を知り、立ち上がって、出会いを得た場所。
 そこへの道が、今目の前に用意されている。
 空に浮かぶ満月の中心に、円錐型のそれが現れている。

「一緒に行こうよ、シリカちゃん。わからないことを決めに、大切なお友達を探しに!」

 リーファの手がキュッと強まる。
 何故だかシリカはその言葉に、その手に縋り付きたかった。
 いや、わかっていた。飢えていたのだ。
 シリカは飢えていた。大切な存在に。大切な場所に。
 そしてそれを失う事に怯えていたのだ。
 しかし、リーファのその手はそんな怯えを悉く溶かしてくれた。
 そうだ。簡単なことだったのだ。失ったのなら、取り戻せばいい。
 かつてプネウマの花を取りに行った時のように。
 自分が動かなければ、何も取り戻せない!

「……うん、うん!」

 手を引かれ、シリカはかつて過ごした事のある城へと近づいていく。
 最初は引かれるだけだった手は徐々に力を取り戻していき、最後にはリーファと競争するようにそこへと向かう。
 すると、そこには見知った顔が既にたくさんいた。
 影妖精族(スプリガン)のキリトや水妖精族(ウンディーネ)のアスナ、工匠妖精族(レプラコーン)のリズベットに土妖精族(ノーム)のエギル、火妖精族(サラマンダー)のクライン率いる風林火山の面々はもちろんのこと……世界樹攻略戦の折りにかけつけてくれたプレイヤー達。
 彼らが扇状になって待っていた。アインクラッドへの入り口の前で。

「シリカ、俺たちの最初の一歩はみんな君に譲るってさ」

「え……?」

 キリトの言葉にシリカは少しだけ戸惑う。
 自分がそんな大役を頂いても良いのだろうか。
 シリカは首を傾げながらも、リーファに優しく背中を押されてアインクラッドに入る為の大きな鉄門へ一歩を踏み出す。
 途端、彼女は懐かしいエフェクトを発光させて転移してしまった。
 シリカが目を開くとそこは始まりの街の大広場だった。それはどうやら仕様らしく、シリカの転移を合図に次々と多くのプレイヤーが転移されてくる。
 懐かしい。かつてもこの場所から始まったのだ……とそんな感傷に浸っていると、空に花火が大きく撃ち上がった。
 どーん、どどーん、といくつもの花火が綺麗に上がっていく。

「わぁ………!」

 綺麗だな、と思う間もなく、ぱらぱらとした火花が何やら文字を象り始めた。
 何だろう、と思っていると夜空を黒いスクリーンとして、光の文字が英語を作り上げていく。

【WELCOME TO AINCRAD!】

 機械音声による歓迎の言葉が終わるのと同時に、一際大きい花火が上がった。
 その花火は、破裂すると《フェザーリドラ》のような形の火花を散らした。
 シリカの目尻に涙が浮かぶ。

「ピナ……」

 寂寥の思いから小さく彼女が呟いた時、それは起こった。
 シリカの前に光の粒子が集まっていく。みるみるそれは実体を象っていき……小さい竜を形成した。
 ぱちくりと瞬きした小竜は、小さく羽ばたいて何事も無かったかのようにシリカの頭の上に乗る。
 まるでそこが定位置だと言わんばかりに。
 一瞬のことに、シリカは固まってしまった。
 何が起きたのかわからない。
 だが頭の上にあるのは確かに懐かしい忘れようのない重みだった。
 恐る恐る両手を頭の上に持って行き、そこにいる小竜をガッと掴む。

「……?」

 ぐいっと目の前に持ってくると、そこには不思議そうな顔をした《フェザ-リドラ》の《ピナ》がいた。
 シリカは瞳に一杯の涙を湛えてピナを抱きしめた。
 わけの分からないピナは苦しいとばかりに暴れたが、この時ばかりはシリカはピナを抱く手を緩めなかった。


 キリトはアスナの横でそんなシリカを眺めながらエギルから聞いた話を思いだしていた。
 アインクラッドを実装するに当たって、謎のプロテクトがあったことを。
 アインクラッド実装に当たって、運営体は一つの壁にぶち当たった。
 何故か、《安全圏》をフィールドに設定できなかったのだ。データにプロテクトがかかっていて、フィールドを使用する分には問題ないが安全圏の設定だけがアインクラッドには出来ないでいた。
 いっそのこと丸々プログラムを作り替えるか、アインクラッドは安全圏無しというハードなフィールドにするかで運営は相当迷ったのだそうだ。
 大体画面がおかしかった。管理者IDによるログインを求める、ならわかるがその細部を弄る為に必要なIDには《THE PRINCESS CODE》と書いてあった。
 それを聞いたエギルはキリトから聞いていたヒースクリフによる「姫」の話を思いだした。
 ダメもとで《シリカ》のIDを打ち込んでみてくれと頼んでみると、何と驚いたことにシステムログインに成功した。
 シリカのIDが、最終的にこのアインクラッド復活に一役買ったのだ。
 彼女はそれを知らない。報せる気もない。
 そんなことは知らなくてもいいんじゃないか。
 今の、ピナを抱きしめているシリカを見ると、キリトはそう思った。





 全てが良い方向へと動いている。
 アスナ/結城明日奈は日々の生活を通して最近そう思っていた。

 仮想世界の存続については安心できる程巻き返したし、友人と言っていい少女の相棒も戻ってきた。
 その際、こっそり彼とその相棒をしばらく睨んで《中の人》がいないか確認したが、今のところその兆しは無い。
 開校したばかりの新しい学校生活も大変ではあるが、中々に充実している。
 この学校はSAO被害者の子供達の為に、統廃合によって使われなくなった校舎を使えるよう急造したと聞いているが、とてもそうとは思えない立派なキャンパスだった。
 何より、一学年違う筈の彼と共に机を並べられる日があるのは嬉しかった。
 二人は自由選択教科を全て共通にした。おかげでいくつかの授業は一緒に受けることが可能だった。
 この学校は従来の学校とは一線を画し、新しい教育方針へのモデルケースにもなっていると明日奈は聞いている。
 個人にあったカリキュラムによって授業を選択し、必要な授業を受けていくというコマ割りスタイル。
 大学の講義のような形式だが、そもそも年齢がまちまちな生徒を一手に引き受けるので──SAOの性質上、年齢は統一ではないし、教育の遅れてしまった子供を少人数単位で受け入れる学校も少ない──仕方のない側面はあった。
 だが逆を言えば異なる年齢の少年少女が一斉に学べる場として、非常に重宝されてくるのではないだろうか。
 様々な理由で半年から一年単位での学校へ通えない期間、また勉強が遅れてしまっている子は例年必ず存在する。
 外国暮らしが長かった子供などは実年齢の学年より一つ二つ下の学年へ編入されることも珍しくない。
 この学校では今後そういう子供達の受け入れをしやすくなっていく可能性が込められてもいた。

 昼休みに入り、校舎の外にある小さな円形の庭園内にいくつか設置されたベンチで、明日奈は足をブラブラさせながら待ち人が来るのを今か今かと待っていた。
 時折黒光りするローファーの爪先で地面をトントンと叩く。
 ここで和人と待ち合わせをするのが、学校で会える日の二人の日課だった。
 週三日程しかないのが些か残念だが、一年学年が違うことを考えれば現状は十分恵まれていることを理解している。
 贅沢な悩みだな、と思いつつ明日奈は空を見上げた。
 そこにあるのは本物の太陽と青空。
 透けるような青色はクリアに広がっていて、ポリゴンらしさは欠片も無い。
 当然だ、これはリアルなのだから。
 本物の太陽、本物の空、本物の雲。
 アインクラッドで見るそれよりも本物はやはり何処か色濃かった。
 手触りも何もかも、ドット抜けなどすることのない本物を見ると感激してしまう。
 久しく忘れていたリアルの触感というものは、仮想世界のそれよりも遥かに敏感で多感だ。
 現在の技術力ではそこまで再現出来る能力がないということでもあるのだろうが、それをこれほどまでに実感出来るのはやはり長期間の仮想世界生活の賜物だろう。
 長いこと借り物の感覚器によって過ごした体感は、いざリアルに戻った時に戸惑いをもたらした。
 まるで二次元から三次元に出てきてしまったかのように、雑然とした読み取れる情報が多くなった。
 和人曰く、容量(キャパシティ)の性能差の問題だそうだが、明日奈にはよくわからない。
 ただこうやって座っているだけでも、あの世界より体感的に感じられる情報量が遥かに多いのは理解出来た。
 その度にここは現実なのだ、と思い直す。
 帰ってきたのだ、と。もっとも、そう本当に思えるようになったのは《彼》が囚われの籠から解放されてからのことだが。
 だが彼はその際精神に少なくないダメージを負っている。それは娘のユイの話からも間違いなかった。
 妹の直葉からも普段の彼の様子を聞いて、その深刻さを改めて認識している。
 それでも、日々良い方へと向かい始めている。
 明日奈は最近富にそれを感じ取れていた。
 この全てがリアルな世界で、時は確実に正しい時間を刻々と刻み始めている。
 これまでは何処かリアルとの間にズレを感じていた時間が、徐々にではあるが正され始めた。
 同時に、それは少しずつ自分たちが日常へと溶けこみ始めて──戻り始めて──いることを意味していると思う。
 デスゲームなどという非日常から日常へと向かうステップライン。
 それを踏み始めている。

「楽しいなあ……」

 自然とそう思える。
 ずっとこんな日が来るのを待っていた。
 あの世界に囚われた人の殆どは、きっとそう思っているはずだ。
 未来への不安が全くないと言えば嘘になる。考えるべき事は多いし、やらねばならないことも一杯ある。
 それでも、良い時の流れに緩やかに乗っていると実感出来る今日この頃を、明日奈はようやく楽しいと思えるようにまでなった。
 好きな人と学校に行って。おしゃべりして。一緒にでかけて。
 家族と他愛のない話をして。友達と楽しい時間を過ごして。
 求めていた世界が、時間が今手元にある。なんてことのないものだが、それが手の届かない場所になってしまった時、初めてその大切さを実感できる。

 ふと、視線を感じた。

 振り返ってみると、通路の壁影から、こっそりと和人がこちらを覗っていた。
 ようやく来た、と内心で嬉しさが膨れあがる。
 和人は明日奈の視線に、自らの存在が見つかったのだと気付き、いそいそと近づいて来た。

「お待たせ」

「遅いよー、何でいつもすぐに出てこないかなあ」

「いや、何て言うかぼうっとしてる自然体のアスナを見てると動けなくなるんだよな。見惚れるっていうか」

「も、もう……!」

 明日奈は恥ずかしさからぷいっと顔を背ける。
 彼はユニークスキル、《意図しない褒め殺し》を思わぬタイミングで使うので油断も隙もあったものではない。
 笑いながら彼は隣に腰掛けた。そのままうあー、と間延びした声を出して両腕をベンチの後ろに回し、首を反り返らせる。

「うう、疲れた……」

「行儀悪いよー」

 和人は怠そうにしていたが、やがてゆっくりとその身を正し、一度ピンと腕を空に伸ばしてから力を抜いた。
 どうにもお疲れのようだ。

「お疲れだね」

「ちょっとな」

「午後はあと何コマ?」

「んーと、二コマかな」

「二コマかー……っと、はいお弁当」

「お、サンキュ」

 明日奈は膝上にある籐のバスケットからキリトへと大きめのハンバーガーを手渡した。
 今日の作品はこの前味の再現を済ませた明日奈流「アインクラッドバーガー」ではなく、単純な明日奈オリジナルのバーガーだ。
 何となく明日奈の中のプライドが、和人にアインクラッドバーガーよりも美味いと感じさせたくて拵えたものだった。
 和人は何も気にせずに「いただきます」と手を合わせると、がぶりとバーガーへ囓りつく。
 人目を気にすることなく無邪気に大口を開けて楽しそうに食べる和人のその様は、見ているだけで胸の中がポカポカする。
 現実でも普段と変わらないそんな彼を見ていると、仮想世界や現実との垣根などどうでも良く思えてくるから不思議だ。
 現実も仮想世界もない。ただありのままの自分を生きる。簡単なようでいてそれは凄く難しい。

「どうかした?」

「ううん、なんでもない」

 食べている和人を眺めていると、彼は不思議そうに首を傾げた。
 その口には未だバーガーが張り付いているのがどうにも面白い。
 先程彼は見惚れると言ってくれたが、明日奈にとっても彼の一挙一動は飽きるものではなかった。
 今の彼の姿を見て、一体どれほどの人が彼に心の傷があると疑うだろう。
 明日奈の見る限りでは微塵も思えない。それも、明日奈が良い方向へ回っていると思える一要素ではある。
 もっとも、自分がいない場での彼はこうではないらしいが。

「ねえ、私午後は一コマだけど良ければ終わるの待ってようか?」

「んー? いや悪いし良いよ。気にしないでくれ」

「そう?」

「ああ」

 明日奈は少しばかり唇を尖らせる。
 ここ最近はめっきり一緒に帰る機会が無いのが唯一の不満だった。
 どうにか時間を作ろうと思っても、彼の気遣いによってそれはスルーされる。
 普段は察しが良い癖にこういうことになるとイマイチ彼の察しは悪くなるのがちょっと悔しかった。
 いつもの察しの良さを見せてくれてもいいのに、とはアインクラッドに居た時から何度思ったことだろう。
 オマケにその内容がこちらを気遣うものだから無理強いするのも気が引けてしまうという抜け道無しの構造がいかんともし難い。

「じゃあ明日は? 一緒に帰れそう?」

「あー明日は……ごめん。ちょっと用事があって」

「むー……そっかあ」

 明日は一週間のうち何も用事が無ければ学校のカリキュラム的には同じ時間に終わる。
 入学してからその日はほとんど一緒に下校することが当たり前になっていたのだが。
 勝手に明日は一緒に帰ることが出来る日だと思っていただけに残念だった。
 と言っても夜は二日と空けずに新生ALOで落ち合っているのだから、一日二日くらいの事で声を大にするほどのことでもない。

「あ、そうだキリト君、今度の日曜日の午後って空いてる?」

「日曜日? うーん、二時半過ぎくらいからなら空いてるよ。って、ここではキャラネームは厳禁だぞ」

「あ、ごめん。つい……でも二時半、かあ……ちょっと中途半端な時間だね、どうしようかな」

「何かあるのか?」

「えーと、んー……まだ秘密」

「?」

 和人の不思議そうな顔に、ニヤけそうになる頬を明日奈は必死に抑えた。
 実は明日奈には一つの計画があった。
 だが今回はどうにも時間が合いそうにない。
 残念ながら計画の発動は見送るしかないようだ。
 和人からの問いかけるような視線を受け、弛みそうになる頬を抑えているうちに、予鈴が聞こえ始める。
 この鐘の音はSAOの第一層、始まりの街で鳴るそれと酷似しているのは何かのブラックジョークだろうか。

「それじゃまたね」

 午後の授業の開始まであと僅か。同時に別れを告げる合図でもあるそれを受けて、和人のやや戸惑う視線から逃れるように明日奈は立ち上がった。
 彼の視線にこれ以上晒されているとつい口を滑らせてしまいそうになる。
 それではせっかくの《サプライズ》が台無しだ。そう思った明日奈はバスケットを片手に早足でこの場を去った。





「では少し早いが今日はここまで」

 翌日、教師の言葉によって午前最後の授業を終えた教室はがやがやと騒がしくなる。
 明日奈は手早く机の上を片付け──と言ってもノートではなくタブレットPCを使用している上、書類のほとんどは紙媒体ではなく無線LANを通して電子媒体で送られてくるので片付けるものは少ない──友人に声をかけた。

「リ……香、ちょっといい?」

「あんた今あっちの名前で呼びそうになったでしょ」

「う……」

 明日奈をからかうような目つきで見つめるのは、ピンク色の髪……ではなく黒髪を少しウェーブさせて耳の上あたりの髪を可愛らしいピンで留めたリズベットこと篠崎里香だった。
 現実でも以前のまま呼んでいいと言われていた明日奈は、彼女のことをつい「リズ」と呼んでしまいそうになる。
 これが学校外なら彼女も何も言わないのだが、校内でのSAOキャラネームによる呼び名は御法度になっていた。
 SAOという世界は決して綺麗事だけでは無い場所だった。オレンジギルドと称されるような罪を犯したプレイヤーもたくさんいる。
 SAOでのキャラネームを使ってしまえば、それだけでSAOの中に居た時の罪を暴きかねない。
 政府は建前上、SAO内での犯罪は立件しないことにしている。
 明らかな大犯罪者プレイヤーだとわかっている人間には監視やカウンセリングを行っているが、基本SAO内での出来事は現実で罪に問われない。
 デスゲームという過酷な世界に生きてきた彼らの行動に一つ一つの検証を重ねることは難しい。
 現行の法律では対処しきれない、というのが本音の一つかもしれないが、SAO内での出来事は《触れない》のが既に世の暗黙のルールとなっていた。
 国としてはSAO生還者へみだりにSAOの話をしないよう簡易の箝口令を敷いてもいるが、知りたがりや話したがりは皆無ではない。
 全ての人が解放された今、大手のSAO生還者を祝うウェブサイトの有り様についても世論を賑わせていたりする。

「学校では気をつけなさいよ?」

「昨日キ……和人君にも同じこと言われたよ」

 同じ歳の二人は授業も比較的被っているものが多い。
 こうして一緒になることは珍しくないが、週のうちの半分はこの二人が昼を共にすることはない。

「はいはいご馳走様」

「も、もうなんでそうなるの!?」

 まだ何も言ってないのにまるで惚気話でもしたかのような扱いだ。
 明日奈にはそんなつもりは無かったので面白くないことこの上ない。
 しかし里香にしてみれば彼女の口から彼の名前がでればそれはもう十分に惚気なのだった。

「いいから早く旦那のとこに行ってきなさいよ。いつもならイの一番に出て行くくせに」

「も、もう……あんまりからかうと怒るよ?」

 やや頬を紅く染めて睨む明日奈に里香は苦笑してそれ以上言うのを止める。
 どうにも里香には明日奈を見ると庇護欲がそそられるのと同時にからかい癖が出てしまう。
 ちょっとだけ虐めて、弱った姿を見て守ってやりたいと思うのが一サイクル。
 マッチポンプ的なサドっ気ともとられそうな彼女だが、その本質は一歩お姉さんという立ち位置が正しい。
 同年である明日奈はもとより、年下のシリカこと珪子、キリトこと和人のことを手のかかる弟や妹のように見てしまう節が彼女にはあった。
 周りには昔から「里香ちゃんは面倒見が良いわね」とよくよく言われて育っており、幾分それが影響しているのかもしれない。
 二人は教室を出て歩きながら続けた。

「ごめんごめん、で何か用? いつもならすぐに出て行っちゃうのは事実でしょ? だから珍しいなと思って」

「確かにそうだけど……えっとね、今日里香は帰り空いてる?」

「今日は和人と帰るんじゃないの? いつもそうだったじゃない」

「和人君用事があって今日一緒に帰れないそうだから」

「ふぅん、それで寂しくなって私に泣きついたと」

「そ、そういうわけじゃ……」

「あはは、冗談だよ冗談」

「もう……それで放課後は?」

「あ~……ごめん! 私も今日は用事があるのよ」

 里香は片目を瞑って右手を挙げた。
 掌を垂直にして片手の謝りポーズである。

「そっかあ、里香も用事かあ……」

「うん、実はさ、親の友達の息子が今年高校に無事進学してね。遅ればせながらお祝いの挨拶に行くのよ。親は忙しいから私に行けっていうし。まあ嫌じゃないから良いんだけど」

「へえ……高校生か。まあ私たちも似たようなものだけど」

「私たちは結構特異だからね。その子とは小さい頃に一緒の習い事もしててそこそこ付き合いがあるから……って言っても一緒に通ってたのは短い間だったけど。でも弱虫だったあの子ももう高校生かあって思うとなんだか感慨深いわけよ」

「そっか、ごめんね急に無理言って」

「んーん、こっちこそ付き合えなくて」

「良いよ良いよ。あ、珪子ちゃん来たね」

 廊下を歩きながら話しているうちに、シリカこと珪子が合流する。
 日にもよるが、珪子と里香は一緒に昼食を摂ることが多かった。

「あれ? 明日奈さんが一緒なんて珍しいですね」

「明日奈はこれから和人のとこ行くのよ」

「そうなんですか。あ、そういえば和人さんの教室はまだ授業やってるみたいでしたよ」

 いつものツーサイドアップに髪を留めているシリカは今自分が歩いて来た道を振り返る。
 通路の奥を曲がった先にあるのが和人が今授業を受けている教室だ。
 時と場合にもよるが、時間一杯まで授業をやる場合や早めに終わる場合、また必ずと言っていいほど五分程度オーバーする場合など、授業内容や教師によって終了時間は様々だ。
 お昼前の授業で五分オーバーする授業は嫌われるが、和人が受けている授業はまさに毎回そのパターンだった。
 なので教室の友人とはよく食堂などの席を一緒に取り合う約束をしたりする、と明日奈はよく遅れて来る和人から聞いていた。
 実はそれがわかっているからこうして里香とゆっくり歩きながら移動してきた、というのもあったりする。

「うん、ありがとうシ……珪子ちゃん。って、そういえば里香、今言ってた子が高校入学ってことは直葉ちゃんや珪子ちゃんと同学年ってこと?」

「ん? そういやそうなるのかな」

「何の話ですか?」

 珪子が首を傾げ、里香が改めて簡単に説明する。
 それに珪子は得心した様子で頷いた。

「はあ、確かにそうですねえ」

「いやー、こうしてみると同年代の知り合いって結構いるもんなのねー。ほとんど年下だけど」

「そうだねー、あ、私そろそろ行くね」

 明日奈が軽く手を振って歩き出すのを合図に珪子と里香もカフェテリアへと足を向ける。
 里香が今日は何を食べようかな、と考えていると隣を歩く珪子が不思議そうに尋ねた。

「でももう五月も半ばですよ? 挨拶なら普通四月中には行くんじゃ……?」

「んー? まあそうなんだけど、こっちも結構ゴタついてたし、詳しくは聞いてないけどその子の兄貴がなんかあったみたいでさ……」

「お兄さんもいるんですねー」

「あんまり兄貴の方には会ったことないけどね。あ、そうだ珪子! 今度その子紹介してあげよっか? 同じ年なら話も弾むんじゃない? なんと医者の息子だよ、将来有望……かも?」

「え? えええ? い、いいですよ! 遠慮します! っていうか《かも?》ってなんですか《かも?》って!」

「いや、どーもあの子には情けない印象しかなくて。悪い子じゃないんだけどね」

「そんな人を紹介しようとしないでくださいよ……」

 笑う里香に珪子は呆れつつ、カフェテリアへと入った。





 二人と別れた明日奈は、足を庭園のベンチへと一瞬向けて、やめた。
 普段はあそこで待っているのだが、たまには教室の前で待っていて驚かすのも面白そうだ。
 そんなただの思いつきから明日奈は和人が授業を受けている教室の前で待つことにした。
 なんとなく教室内から授業がもうすぐ終わるようなオーラを感じる。
 誰しもそうだろうが、授業の終わりが見えてくるとそういう空気をよくよく感じるのだ。
 時間的にもそろそろだろう。そう思っていると案の定、ガタタッという音がしてから教室の扉が開き、教師が出て行く。
 それを発端として次々に生徒が流れ出てきた。みんなカフェテリアにでも向かうのだろう。
 明日奈は廊下の壁に寄りかかりながら流れる生徒をぼんやりと見ていた。
 生徒の波の向こうで、和人が友人らしい人に呼び止められるのが見えた。

「おーいカズ、食堂行くなら俺の席もとっておいてくれ」

「ダメだってば。カズは今日も謁見の日だろ」

「あ、そうか」

「お前ら……いや、なんでもない」

 和人は何かを言い返そうとして、やめた。
 言っても無駄だと思ったのだろう。
 あながち間違いというわけでもない。
 そんな会話の流れを、こんな廊下からでも案外聞こえるものだな、と思いながら明日奈は眺めていた。
 もう彼も出てくるだろう。未だ自分には気付いていないようだが、いつ気付くかな……と期待していた時だった。

「あ、そうそうカズ」

「なんだ?」

「昨日の帰りに一緒にいた綺麗な女の人って誰なんだ? 街中を一緒に歩いてただろ? 最近よく一緒にいるのを見かけるよな」





 え?





 思わず、明日奈は驚きの声を上げそうになった。
 昨日綺麗な女の人と一緒に歩いていた?
 どういうことだろう?
 昨日は、だって一緒に帰るのを断られたはずだ。
 いやいや、それは彼が気を使ってくれたからで。
 じゃあ最近よく一緒にいるのを見かけるっていうのは?

 聞いていない。
 何も聞いていない。
 急に雑然としだした廊下は雑音が多すぎてもう彼らの会話も聞こえない。

 今ある情報はここのところ何かにつけて放課後会う機会が減っていたこと。
 その放課後に彼がどうやら綺麗な女の人と会っていたらしいこと。

 どういうこと?
 最近会えなかったことと関係あるの?
 今日一緒に帰れないこととも関係あるの?
 日曜日に中途半端な時間を言ったのもそのせい?

 その綺麗な女の人と会う為?

 声を上げて聞きたかった。
 人波の向こうにいる彼に。
 手を伸ばしたかった。
 ……そのはずなのに。


 一瞬だけ持ち上がった手は、教室内で《無表情の談笑》をする和人の顔を見て、力なく下がった。
 足は、勝手にその場を離れ始めていた。










 都内でも、文京区まで足を運ぶことはあまりない。
 昔は何度か来たことがあったが、だいぶ街並みは変わっているし、既に勝手知ったる場所、とは言いにくい。
 そんな中、薄い記憶を頼りに待ち合わせ場所として指定された裏通りの喫茶店へと入ると、先に来ていたらしい目当ての人物が熱心に雑誌を読んでいた。
 久しぶりの再会だが、あの後ろ姿は間違いあるまい。
 こちらに気付いていないのか、顔も上げないのでゆっくりと近づいてみると、《目当ての少年》は《拳銃》がびっしりと載っている雑誌を読んでいるようだった。
 ひょい、とそれを取り上げる。

「え? あ……」

 間抜けそうな顔をした少年は、それを行ったのが顔見知りの人物だとわかるとバツが悪そうな顔をした。
 少年は黒い学生服を身に纏い、学校帰りであることが窺える。
 当然だ。こちらも学校が終わってから直でここに来たのだから。

「アンタって銃マニアだったっけ? こんな趣味もあんの?」

「割と最近、かな」

 少年の声変わりしたらしいその声は、昔よりも可愛げが幾分減っているものの、相変わらずの弱弱しさを含んでいた。
 懐かしささえ感じさせるその喋りに内心で苦笑しながら、篠崎里香は少年に微笑む。

「やっほー恭二。久しぶりね、元気してた? あ、それと進学おめでと」

「久しぶり、里香姉さん。ありがとう」

 どこにでもいそうな少年、新川恭二は里香の笑顔に何処か照れながらそう応えた。



[35052] ALO13(終)
Name: YY◆90a32a80 ID:1a43ae77
Date: 2012/11/24 01:53


 普段通りでいられただろうか。
 動揺を悟られていないだろうか。
 明日奈/アスナはそんなことを思いながら、純白色という見た目と違い清楚な色をした四対八枚の翼を羽ばたかせる邪神系モンスター、《トンキー》の背中に座っていた。
 昼休みに和人/キリトと合流してからの自分の行動、言動を今イチきちんと思い出せない。
 何事も無く笑っていた気もするし、特に何も話さなかった気もする。
 覚えている事は結局彼の用事の内容や、一緒にいたという女の人のことを尋ねられなかったことだけだ。

「おーいアスナ?」

 一緒にトンキーの背中に乗っている黒衣の影妖精族(スプリガン)を使役アバターとしているキリトが、俯いたまま何も喋らないアスナの顔を心配そうに覗き込む。
 アスナは突然視界に入ってきた黒いアバター、キリトに驚いて飛び退き、そのまま遥か上空を飛ぶトンキーから落ちそうになったところでキリトに腕をグンと引っぱられた。
 現実とは違い、力強いその腕力は問題無くアスナをトンキーの中央、キリトの胸の中へと誘う。
 とくん、と鳴った胸の音は果たして一体どちらのものだったのか。
 数秒間はたっぷりと彼から得られる仮初の温もりにぼんやりしていると、「オホン」という小さい咳払いが偽物の聴覚を刺激してアスナに現状を思い出させた。
 リーファがわざと背中を向けながらチラチラとこちらを覗っている。
 直視するのが恥ずかしいのだろう。アスナにとっても、まじまじと見られているわけではないとはいえ、少しでも見られているという事実に羞恥の感情が呼び起こされる。
 笑いや羞恥は伝染する、などという話はよくあるが、アスナは今まさにそれを実感していた。
 彼女は慌ててキリトから一歩離れ、再びトンキーの背中で体勢を崩しかけたが、そんなアスナを今度はユイが小さい体で背中から押すことによって体勢を立て直した。
 今いるのは日の光の無い地下世界、ALO内の《ヨツンヘイム》と呼ばれる場所で、通常のプレイヤーは飛行をシステム的に認められていないが、プレイヤーのサポート役たるナビゲーションピクシーの身であるユイは、その限りではないらしい。
 アスナはユイに「ありがとう」と言ってその場に腰を下ろした。目的の場所まではもう少しだ。
 今夜は、かつてキリト救出の際に偶然発見した伝説武器(レジェンダリーウェポン)、《聖剣エクスキャリバー》の事をキリトに話し、大いに興味を持った彼を含めたアスナとリーファ、そしてユイという三人と一人のパーティで偵察に向かうことになっていた。
 当初はレコンも来る予定だったのだが、パーティにキリトがいると聞いた途端「用事を思いだした」と言って彼は不参加になった。
 これまでの彼からは考えられないことだ。リーファは首を傾げながらも気を取り直して一路《ヨツンヘイム》を目差すことにした。
 流石にいきなりブツを手に入れられるとは思っていないが、何かの手応えくらいは得たい。
 頑張ろう、と気合を入れたリーファだが、気付けばちょっと目を離した隙に体勢を崩して落ちそうになったアスナをキリトが抱き留めて二人の時間は現実どころか仮想世界からも切り離されている所だった。
 小さい咳払いで決して踏み入れることのできない領域への壁をどうにか突破したのだが、リーファは少しばかり腑に落ちなかった。
 アスナは比較的分別をわきまえている人だと直葉/リーファは思っていた。
 今のようなことがあっても、普段の彼女なら照れながらお礼を言ってすぐ離れるのではないだろうか。
 そもそも、彼女ほどのセンスがあればトンキーの上でそうそう体勢を崩すことなど無いと思われる。

「アスナさん、調子悪いんですか? 今日は止めときます?」

「ううん、大丈夫だよ。ごめんね心配かけて」

 アスナのはにかむような笑みからは全くその心情を読み取れない。
 言葉通り心配はいらないようにも思える。
 だがリーファ……いや直葉の中の《女の勘》が言葉通りではないのではないかと警鐘を鳴らしていた。

「無理しないでくださいね」

「うん、ありがとうリーファちゃん」

 リーファの気遣いに笑顔で答えるアスナを見て、一旦リーファは会話を切り上げた。
 これ以上は話しても意味が無い。アスナの事は少し心配ではあるが彼女がそう言う以上他にできることも無かった。
 となれば今は新しい冒険にワクワクしなければ損である。
 トンキーに目的の場所まで連れて来てもらった一行は、さっそく氷で出来た逆ピラミッド型空中ダンジョン、その最下層部にある《聖剣エクスキャリバー》を目指して進行を開始した……のだが。

「うわ!? 何これ!?」

 リーファはいきなり泣き言を上げた。といいより心が折れた。それはもうポッキリとあっけなく。
 中にはうじゃうじゃとトンキーを虐めていた四本腕の邪神系モンスター、その親玉らしい巨大人型邪神がわんさかといたのだ。
 一匹ですら手練れの大部隊で挑むのがセオリーの敵。それの親玉がうじゃうじゃといるこのダンジョンはまさにカオスだった。
 当然三人+一人では一匹の相手ですらまともには出来ない。
 ユージーン程の手練れですら一人では通常の邪神相手に十秒戦い抜くことさえ適わなかったという話があるくらいなのだ。
 これは偵察すらままならないと即座に判断したリーファは撤退しようと提案した。
 キリトはそれに応えた。上手いこと邪神の攻撃を受け流しつつ反動で退路へとバックステップする。
 しかし、アスナは状況的に撤退できそうになかった。退くに退けない……猛烈な攻撃を続ける邪神相手に張り付くことでクリティカルヒットを避けているが、徐々にHPは削られていくという悪循環。
 こと戦闘に置いては実は撤退の方が難しい場合も多々ある。背を向けた瞬間の恐怖。
 バックアタックほど怖いものはない。今のアスナは邪神から距離を取れば即HP全損という憂き目を見る可能性は高かった。
 普段の彼女ならそうなる前に比較的早い段階で退くことを選ぶだけに、この構図は非常に珍しかった。
 リーファが離れたところから自身がそのモンスターのタゲを取るべく遠距離魔法を打ち込んでヘイトを稼ぐが、あの邪神は一番近いプレイヤー、アスナを執拗に狙い続けていた。
 四本の腕から繰り出されるクワトロロンドはアスナの退却を決して許さない。
 一本の腕が振り下ろされればそれをステップでかわし、逆方向から薙ぐように振られる剛腕を飛んで避け、宙にいるアスナに振り下ろされる刃を上手く自身の細剣をぶつけることでパリィしてノックバックを生むも残る最後の一本から繰り出される一撃の回避が完全には間に合わない。
 これは決してアスナの動きが悪いのではない。
 確かに普段のアスナならそこまで追い込まれる前には退路の確保を考えるが、現在の動きという一点においてのみ言えば最高に近いスペックを発揮している。
 むしろユージーンの戦果を考えれば彼女は猛戦し過ぎているほどだ。
 だが当然この最難関ダンジョンのモンスター相手にいつまでもそんな僥倖は続かない。
 一撃をパリィしそこねてからは早かった。
 体勢を崩したアスナに雪崩のように四方向から攻撃の雨が降る。
 見る間に彼女のHPゲージが減って行った。この期に及んで尚クリティカルをもらわぬよう転がるように回避するその様は見事だが、既に仮想の死は時間の問題、そうリーファが思った時だった。
 隣にいるキリトが彼女のHPゲージが減るごとに小さい声を漏らし、震えはじめる。
 それが瞬く間に危険域にまで突入した時、彼はとうとう動いた。


「アスナァァァァァ!!」


 キリトが恐いくらいに鬼気迫る形相で飛び出した。
 その声は仮想とはいえ喉が焼けるんじゃないかと疑いたくなるような叫びで、一瞬身震いしてしまう程だった。
 それほどまでに緊迫感ある声でキリトはアスナの元へ駆けつける。
 今まさにアスナのHPを全て奪わんとした攻撃を払いのけ、残りの攻撃を自らの仮想体を盾として差し出す事で防ごうとした。
 キリトのHPが一瞬で赤く染まる。危険域だ。
 次の攻撃は掠っただけでもキリトのアバターはリメインライトと化してしまうだろう。
 この状況下で一分以内に蘇生できる可能性は限りなく低い。
 だが彼は構うことなく、アスナを抱き上げると脱出経路……リーファのいる方へと力一杯彼女を放り投げた。
 ワケもわからない一瞬のうちに翅を使って飛ぶのとは違う、やや不快な滞空感をアスナは得ながら無理矢理に戦場から離脱させられる。

「スグ! アスナを連れて早く逃げろ! 頼む!」

 兄、キリトの叫び声が聞こえる。
 先ほどアスナがやっていたように四つの無作為な攻撃をキリトはどうにか耐えていた。
 あまりの事に唖然としていたリーファだが、兄の異常さに逆に冷静さを取り戻した。
 兄であるキリトは比較的切り替えをキチンと出来る人物である。
 彼が仮想世界で本名をつい呼んでしまったことは少なくともこれまで無かったと記憶している。
 その彼が今、プレイヤーネームである《リーファ》ではなく、リアルネームである《直葉》を兄だけが使う愛称の《スグ》という呼び名で呼んだ。
 ネットゲームでのマナーについては意外にもそこそこ厳しい兄にしては珍しい、いや、ありえないと言っても過言ではない出来事だった。
 それだけ今の兄には余裕がないことが窺える。
 何をそんなに焦っているのだろう、という疑問は尽きなかったが、そうまでして助けられたアスナを放っておくわけにはいかない。
 一瞬のことに頭の整理がまだ追いついていないらしいアスナの手を取ってリーファは駆けだした。
 この世界の死はただのシステム的なゲームオーバーであってリアルの死とは直結しない。
 だがSAO経験者──本当のデスゲーム経験者──にとってはゲーム内の死であろうと軽くは無いのかもしれない。

(特にお兄ちゃんにとっては……そうなのかも)

 兄であるキリトが精神的疾患を患っていることは妹の直葉も理解している。
 深いところでの原因はわからないが、おそらく鍵はこの人……アスナなのだ、という予感は朧気ながらにあった。
 羨ましい、という思いが皆無ではない。
 ただ、それ以上に直葉にはアスナをいろんな意味で応援したい気持ちがあった。
 アスナとのデュエルで、彼女が言ってくれたことが未だにリーファの中には熱く灯っている。



『私、斬れないよ。リーファちゃんには一杯お世話になったもん。意味もなく斬れないよ』

『直葉ちゃんも、キリト君の事、大好きだったんだね』

『でも、直葉ちゃんがいないところでキリト君と仲良くなって……』

『私、ずるかったね……ごめんね……ごめんね……!』



 ずるかったのはどちらか、という応酬。
 あのやり取りで、直葉は救われた気がした。
 アスナという女性の事を本当の意味で知ることが出来た。

 ある程度走った所で、システムメニューからキリトの状態を確認してみると、どうやらあれから間もなくやられてしまったらしい。
 もう少ししたらイグドラシル・シティの家で復活するだろう。
 途中から我に返ったアスナは何度も後ろを振り返っていたが、リーファがそれを告げると途端に彼女はしょげてしまった。

「アスナさんのせいじゃないですよ。あそこは今の最難関、って言っても良い場所だし」

「……うん、分かってはいるんだけどね。でも……」

 アスナの顔は晴れない。
 リーファにも気持ちはわからなくもなかった。
 仲間がやられて気にしないパーティなんてそういない。
 突然の成り行きで組んだ野良パーティでさえそういうものなのだから。
 まして二人は恋人同士。気にするな、と言う方が無理だろう。
 たかがゲーム内の死。されど親しい相手のそれは心が痛んでしまうものだ。
 何処か陰鬱としたアスナを引き連れて、リーファは戦闘を避けつつ何とかダンジョンからの撤退に成功した。
 迎えに来てくれたトンキーの背に乗ってヨツンヘイムの天蓋……アルンへと向かう。
 アスナの落ち込みぶりから会話は殆ど無かった。
 何とか元気にしてあげたい、直葉はそう思って考え込み……ぱっと閃くものがあった。

「あの、アスナさん」

「なあに?」

「今度の土日空いていますか?」

「……? 今のところ予定はないよ」

「じゃあ、土曜日の晩、もし良ければお兄ちゃんの為に夕飯作りに来てもらえませんか?」

「え……?」

 アスナの不思議そうな顔に、直葉はイタズラを思いついた子供のような顔を浮かべた。
 この兄妹、いや親子は時々こんな顔をする。
 決まってそうなるとアスナに為す術は無かった。

「私、次の土曜日は部活の合宿でいないんです。お母さんも校了が近いから家には帰ってこないだろうし。そうなるとお兄ちゃん、きっと面倒くさがって御飯を疎かにするから」

「ああ、成る程」

 アスナは得心したように頷いた。
 彼女の提案はシンプルなドッキリ作戦だ。
 家族のいない日に突然アスナがお邪魔し、夕飯を用意するというもの。
 どことなく彼をイメージさせる茶目っ気の入ったイタズラ心満載の気遣いと言ったところだろう。
 思えば確かに彼は食べることにそこそこの楽しみを覚える人物ではあるが、そこに自分での一手間を加えることまではあまりしない。
 家族の当番としての食事作りは最低限こなすが、それが自分一人のためとなると急にやる気を無くしてしまうのだ。
 最悪カロリーメイトで済ませたり、食べないなんてこともあり得る。
 何かに夢中になっていれば尚更その傾向が強くて、SAOでもキリトはレベリングに夢中になりすぎて食事を抜いていたことがあるのをアスナは知っていた。

「お願いできますか?」

「ん、良いよ。任せておいて。しっかりと食べさせておくね」

 アスナは直葉に微笑んだ。
 その顔は言外に「ありがとう」と告げていた。
 アスナにもそれが彼女の気遣いだということは分かっていた。
 だから今はそれに甘えさせてもらうことにした。

 二人はトンキーに「くおーん!」と見送られ、出口の《アルン》から《イグドラシル・シティ》まで飛んだ。
 キリトが生き返っているとすればそこだからだ。案の定、キリトは《イグラシル・シティ》の入り口で待っていた。

「おつかれ」

「ただいまキリト君、ごめんね私のせいで」

「良いさ、俺が勝手にやったことだよ」

「そうだけど……もうあんなことはしなくても良いんだからね? ここは、SAOじゃないんだから」

「……わかってる」

(……本当に分かっているのかな、キリト君……)

 返事の遅かったキリトに、アスナは少しだけ不安そうな顔をした。





「じゃ、そうしようか」

「うん、そうだね」

 どことなく微妙な空気になり始めたのを感じ取ったリーファの提案で、アスナとキリトの共同で借りている家に戻った一行は反省会も兼ねた今後の話し合いをしていた。
 話し合いの結果、攻略はもっと強くなってからの再挑戦に賭けることで全員意見は一致した。
 今日の戦いで今はまだ無理だ、というのが共通認識だった。
 話が纏まったところで今日はお開きとなり、各々自由に落ちることにした。
 リーファは二人の家を出た後、すぐに落ちようか考え、そういえば大分手持ちの回復アイテムが尽きてきていたのを思い出した。
 今日ダンジョン内でもいくつか使用したことを考えると、買い足しておかなければ不安になってくる。
 リーファは手元のシステムメニューで粗方在庫を確認すると、道具屋で仕入れを済ませてから落ちることにした。
 そうと決まれば、と数歩踏み出したところで彼女に背後から声がかかる。

「リーファさーん!」

「あれ? ユイちゃん?」

 ユイがリーファの後を追うように家から出てきた。
 いつもキリトかアスナの傍をなかなか離れようとしない彼女にしては非常に珍しいことだ。

「どうしたの? 珍しいね」

「今日はパパとママぎこちなかったですからね。少し二人きりにしてあげようと思って」

 なんでできた娘だろうか。
 思わずそう思ってしまうほど親思いの良い子である。
 ユイの正体は既に聞き及んでいるリーファだが、本当に彼女はAIなのか疑いたくなってしまう。

「良い子だねえユイちゃん」

「ありがとうございます。それでもし良ければリーファさんについて行こうかなって」

「私は構わないけど……できるの? そんなこと」

「街の中であれば、パパが街にいる限りある程度は可能です」

「そっか。じゃあ一緒に買い物にいこう!」

「はい!」

 元気の良い声にリーファも気を良くしつつ数歩進んでから、彼女はふと今日思ったことを口にした。
 いや、前々から気にはなっていたのだ。今日はそれが特に顕著だっただけで。
 そのことについて、もしかしたらユイなら何か知っているのかもしれない。
 ユイの正体を聞かされているリーファには、そんな予感も何処かにあった。

「ねえユイちゃん」

「何ですか?」

「今日のお兄ちゃん、ちょっと変だったよね? あんなに必死になって……昔はいつもああだったの?」

「……」

 昔、というのがSAOでのことを意味しているのは明らかだった。
 言外に、そこで何かあったの? という意味も込めているつもりだった。
 その質問に、ユイは口を噤む。表情からはつい今し方までの愛らしさは消え、その目には哀しみさえ垣間見えた。

「……リーファさん」

「う、うん」

「そのことを、パパに聞いたりしましたか?」

「え? 聞いてない、けど……」

「そうですか。では」

 ユイは一瞬安堵の表情を見せてから、これまでにないほど怖い目でリーファを見つめた。
 その視線に、リーファはごくりと息を呑む。彼女の、これほど何かを強く訴えるような目は見たことは無い。
 怜悧、とは違う凄く機械的な瞳。

 ──ユイの纏う空気が、豹変する。



「パパには……いえ、パパとママには絶対にその質問をしないでください」



 どうして、とは聞けなかった。
 有無を言わせぬ迫力があった。
 これまでにない強い語調で告げられるユイの宣告に、どこかヒヤリとさせられる。
 まるで冷たい氷の刃を背中に突きつけられているかのような。
 だがそれも一瞬。ユイは次の瞬間には穏やかな表情を取り戻した。

 だからこそリーファは鳥肌が立つかのような恐怖に駆られた。
 ここまで、機械的に感情を切り替えられる人間など、そうはいない。
 ユイは人間ではないと頭ではわかっていても、これまではどこか懐疑的だった。
 それは良い意味で感情表現が人間的だと感じていたからだ。
 そのユイに、初めて畏怖の念を覚えた。
 何故そんなに簡単に、今の会話がまるで無かったかのような態度が取れるのか、と。

 同時に。
 これは、《決して触れてはいけない何か》なのだと、リーファは直感的に理解した。





 アスナは「うーん」と唸っていた。
 学校近くのスーパーで野菜やお肉と睨めっこしながら頭の中に浮かぶレシピを一つ一つ吟味していく。
 ここのところ二日間、放課後は全く同じ事を繰り返していた。
 せっかく彼の家で彼の為に夕飯を作るのだ。それなら何かこう驚かれるものを作りたい。
 最初はシチューにしようかとも思った。あの世界において二人で食べたS級食材、ラグー・ラビットの肉を使ったシチューはまさに絶品だった。
 しかしあれを再現しようと思うと食材の調達からして時間がかかりそうだ。あれほどの美味しいお肉はそう多くない。
 近い味を出すためにも研究は必須だろう。
 アレを現実で完成させるには圧倒的に時間が足りないことはわかっていた。
 その為今回はやむなくメニューからスルーする。しかしかといってあまりお手軽なものを作るのもアスナの中にある乙女心が許さなかった。
 せめてお弁当では出来ない類のものにしたい。それもアッと驚かせて尚且つ喜ばれるものが良い。
 そうなると一体メニューはどうしたら……とアスナは悩み、真剣に食材を吟味していく。
 しかし結局メニューは定まらずにアスナはスーパーの自動ドアをくぐって外に出た。
 五月も末になってくるとちょっと前まであった寒気が嘘のように暖かくなってくる。
 ランニングシャツにハーフパンツを穿いて走っている人もチラホラ見かけるようになったし、着実に夏に近づいてきていた。
 それがさらにアスナの頭を悩ませる。
 暖かいもので攻めるか冷たいもので攻めるか。
 一体彼が喜ぶものはなんだろうか。
 約束の日は明日にまで迫ってきていたが全然メニューが定まらなかった。
 アスナは満足のいく案の出ぬまま溜息を吐いて、帰路へ着こうとしたまさにその時だった。

 道路を挟んで向かいの歩道を、彼が歩いていた。

 彼の方が今日も遅い時間に学校が終わるから、それ自体は不思議なことではない。
 しいて言えばそんな時間まで夢中になってメニューを考えていた自分の行動の方が不思議だ。
 しかし偶然とはいえこれは運が良いとアスナは彼に近寄ろうとして、先日の事が頭をよぎった。



 ──昨日の帰りに一緒にいた綺麗な女の人って誰なんだ?



 足を止めて、彼の背中を見つめる。
 特段おかしい所はない。足取りや方向から見ても、帰宅するのだろうと予測できる。

 でも。

 それとはまったく別にアスナの頭の中にはまだ見ぬ女性との親しげなやり取りをするキリトのイメージが浮かんでしまい、胸が苦しくなる。
 彼の姿が通りの向こうに消えると、その想いは一層強くなった。
 自然と足が動き出す。
 彼が通り過ぎた道を辿って。彼が角を曲がれば同じ角を曲がって。

 ──何をやっているんだろう?

 唐突に自分の事をアスナはそう思った。
 私、何をしてるの? という自問。それに対する明確な答えは即座に用意できる。
 彼の背中を追いかけている、と。

 何をやっているの? 
 彼を追いかけている。

 何故そんなことをするの?
 彼の事を知るため。

 何故本人に聞かないの?
 それは……。

 それは……何故だろうか。
 決まっている。怖いからだ。
 彼が自分から離れていってしまうのが怖いからだ。
 自分の知らない彼が、遠い存在になってしまうかもしれないことが怖いからだ。

 だが同じように彼を信じたい気持ちも多分にある。
 彼がそんな人ではないという気持ちも多分にある。
 では信じていると思いつつ今やっていることはなんなのだ。
 酷い裏切り行為ではないのか。
 段々とそんなことを思い始めた時には、既に気付かれないように同じ列車に乗っていた。
 たまたま人が多かったからばれなかったが、もう少し人が少なければ気付かれていたかもしれない。
 そこまで思ってから自己嫌悪。見つかっていたかもしれない、ということは見つからなくて良かった、ということだ。
 先ほどまでの罪の意識とは別に、自分はまだこの追いかけっこを続けるつもりでいるのだろうか。
 いまいち自分のことがアスナはわからなくなりつつあった。 
 そんなことを考えつつアスナがキリトを見ていると、その表情に違和感を覚えた。
 いや、さんざん聞かされてきたことを初めてちゃんと実感した、というべきか。
 キリトの表情はまるで能面のように何も映していなかった。
 ただ静かに佇むその姿は、およそアスナの中にいる感情豊かなキリトには当てはまらない。
 何度か隠れて見たことはあったものの、すぐに自分に気付いて笑顔を見せてくれるので、これまでどうしても重要視できずにいた。
 ここにきて、やっぱり今の彼はそうなんだと思うと同時に、少しばかりの優越感が彼女を満たした。
 自分といるときは、安らげていてくれるのかもしれない、と。
 彼を支えてあげられるのは自分だけだ、と。

 ──また自己嫌悪。
 何だこの考えは。これでは今の彼の状態をまるで喜んでいるようではないか。
 それは違う、それだけは絶対に違う。
 彼の現状を憂いているのは紛れもないと言い切れる。
 それだけは自分の中でいろんなことがあやふやになりつつある今、数少ない確固たる思いだった。
 と、そんなアスナの心臓がドクンと跳ねる。
 彼が、家に帰るつもりなら降りる場所ではない駅で降りたのだ。
 アスナは慌てて自分も同じ駅で降りて彼の背中を追いかけた。
 一体どこへ向かうつもりなのか。そんなことを思いながらこそこそと後を追っていく。
 頭の中では自分以外の人と今の彼が笑顔を交わすイメージが浮かんでは消えていく。
 追いかけている自分に嫌悪し、これ以上追いかけることにも恐怖を感じ始める。
 キリトは淀みなく進み、その足に迷いは感じられない。
 やはり目的があるようだが、その目的がわからない。

 そうして十分。ようやくキリトは足を止めて一つの建物に入って行った。

 アスナはごくりと息を呑んで彼が入っていた建物に近寄る。
 道路側は全面ガラス張りになっていて中の様子が透けて見える三階建ての建物。
 上には大きくスポーツジムと書いてあった。
 スポーツジム?

「え……ジム? ええ!?」

 予想外な場所に流石にアスナは首を傾げた。
 何で彼がこんな場所に?
 言ってはなんだが彼とはあまり縁のなさそうな場所だった。
 アスナがポカンとしていると、ガラスの向こうでは着替えたらしいキリトが必死にトレーニングを行っている。
 近くには女のインストラクターさんらしき人がいて、細かい説明を受けてもいるようだ。
 彼女は女の人にしては背が高く、流石はインストラクターというべきなのか、遠目からでもスタイルが良いのがわかる。
 アスナは未だ信じられない思いでそれに見入ってしまっていた。
 理解が追いついていなかった。アスナの中にこんな可能性は全く考慮されていなかった。
 思考がフリーズしてしまったアスナはガラスの向こうのキリトを見つめ続けていた。だからだろう。
 その女のインストラクターさんらしき人と目が合ってしまった。
 同時に気付く。その人が、自分の顔見知りの相手だと。

「あ、安岐さん!?」

 キリトに説明をしていた女のインストラクターさんらしき人は、彼が入院していた病院のナースだった。










 僅かに鼻腔をくすぐる、天然木の芳しい香り。
 樹種すらわからない──実在するのかすら疑わしい──それによって建てられたログハウス。
 大きくはないが二人、いや三人で暮らすには十分とも思えるその家の一室。

「……あ、れ?」

 慣れ親しんだはずのその場所でゆっくりと目覚めたアスナは、自分がここにいることに酷く違和感を覚えた。
 いや、既視感と言うべきか。
 前にもこんなことがあった気がする。
 シンと静まり返った家の中。人気の欠片も感じられ無い木製のベッド。
 今し方自分はここで目覚めたというのにベッドには使われていた形跡さえ見込めない。
 仮想世界という場所を思えばおかしいと思うほどのことではないが、それでも拭えない違和感。
 ぼうっとした思考が視線を巡らせる。誰もいない閑静とした寝室。
 いるはずの存在がいないことが、ズキンと頭の奥で痛みを奔らせる。
 彼がいない。彼女もいない。
 ベッドから立ち上がり、寝室を出ても、そこは伽藍堂としていて、人気が無い。

 ──なんだか、嫌な予感がする。

 家の中に誰もいないなら外のはずだ。
 彼らが自分に黙ってどこかに行ってしまうなんて考えにくい。

 ──前にも、こんなことがあったような。

 外へ出てみれば案外駆け回っている二人にすぐ会えるかもしれない。
 そう思い、どこか焦燥気味な心を無理やり押さえつけて扉に手をかける。

 ──開いちゃダメだ。これを開いたら《ヤツ》が──

 一瞬、この扉を開くことにすごく抵抗を感じた。
 何度も開け閉めを繰り返したことのある何の変哲もない扉なのに。
 開けばそれだけで良くないことが起きるような。《思い出す》ような。
 でも開く以外の選択肢もない。アスナは力強く戸を開く。
 あっけなく、思ったよりも簡単にそれは開いた。杞憂だったのだろうか。
 燦々と降り注ぐ偽物の日差しに手で日傘を作りながらとぼとぼと歩いて辺りを見回す。

 ──やはり誰もいない──いや、いる。

 フッと影が差す。
 それまでアスナに降り注いでいた大きな日差しは《それ》によって遮られる。
 バッドラックの象徴、《The Hell Scorpion》。
 紅い金属のような肢体を持つ蠍型ボスモンスター。大きな特徴として尻尾が二つあることがあげられる。
 本来は最前線の迷宮区にしか湧出(ポップ)しないはずのモンスター。

 ああ、またか。

 ここでアスナは悟る。
 むしろ何故気付かなかったのか。
 それとも気付きたくなかったのか。
 あの場所で過ごしたあの時間へ帰りたいと、心のどこかで願っているのかもしれない。

【Immortal Object】

 相手の攻撃が命中するが、《相変わらず》不死属性によって全ては防がれる。
 もう何度も見てきた夢だ。嫌というほど見た夢。
 またか、と思うのと同時に……ハッと気づいた。
 今は、《いつ》だ?

 SAOが終わってすぐ?
 それともちゃんと彼を助けた後?
 まさかこれが本当は夢じゃない、なんてことは……。
 今までのことが全部夢だった、なんてことは……。

【Immortal Object】

 機械的なメッセージがむしろ懐かしい。
 懐かしいほど機械的に明滅を繰り返す。

(やめて。それを私に見せないで)

【Immortal Object】
【Immortal Object】
【Immortal Object】

 繰り返される攻撃に、律儀に立ち上がるシステムメッセージ。
 不快感しか与えてくれないこれは、アスナの精神を蝕む。
 いい加減にしてほしい。もうわかったから。これが夢だってわかったから。
 そろそろ覚めて。いつもならもう覚めても良いころのはず。

【Immortal Object】
【Immortal Object】
【Immortal Object】

 激しい攻撃を繰り返す不幸の象徴に、無感動で仁王立ちしたまま無機質メッセージを見つめる。
 火花が散ってチカチカと目が眩むが一切自分に影響はない。不死というシステム的属性がすべてを遮断する。
 ……おかしい。いつもならもうとっくに目覚めても良い頃なのに。
 そう思った時だった。

「アスナ!」

「え」


 忘れることなどできようはずもない彼の声。
 黒い、おなじみのコートを纏ってレアドロップの片手直剣、《エリュシデータ》を握り締め走り寄ってくるその姿。
 忘れようはずがない。

「キリト、くん……!」

 夢では、決して会うことの無かった彼。
 その彼が目の前に。目の前に!

「キリトくん!」

 手を伸ばす。彼へ届けと。
 彼も手を伸ばす。お互いの手が繋がれた時、嘘のように綺麗なポリゴン片となって不幸の象徴は消え去った。
 ああ、これで終わりだ。
 この夢ももう見ることは無い。

(すべては終わったんだ……そうだよね、キリト……く、ん……?)

 夢にしてはリアル。
 索敵スキルの視界も健在。
 視界にはキリト。《毒》状態のキリト。

「アスナ……」

 え?
 なにそれ?
 知らないこんなの知らない。
 こんなのこれまで見たことない。

「ありがとう」

 え?
 嘘?
 何?

「さよなら」

「ッッッッッ!!」

 消える。
 ガラスが割れるような音がして、フッと手の感触が消えて。
 《質量の消える》感覚。もう二度と味わいたくなかった感覚。
 あ、ああ、アアアア、アア、アア亜亜アアアあアアアア……ッ!!

「キリト、君……!」










「キリト、君……!」

「呼んだ?」

「……ふぇ?」

 唐突に聞こえた真横からの声。
 そこには黒のコートに片手直剣……ではなく黒のジーンズに黒いフリースを来たキリトこと桐ヶ谷和人がいた。
 途端に思い出す。今日は土曜日。
 アスナ/明日奈の記憶はついさっき公園のベンチに二人で座った所から途切れていた。
 どうやら自分は彼の肩を枕代わりにしばし夢のアインクラッドへ旅立っていたらしい。

「……私、眠ってた?」

「ああ、五分くらいかな。うなされ始めたみたいだから起こそうと思ったら丁度俺の名前を口にしたんだ」

 キリト/和人のこちらを見つめる黒曜石のような瞳を見て、つい先ほどの夢で見た映像を思い出す。
 思わず明日奈は怖くなって彼の首へと腕を回して引き寄せた。
 彼は驚きの声を上げたが、今だけは許してほしいと心の中で謝罪しながら力を抜くことはしない。
 彼は確かにここにいる。その実感が欲しかった。
 明日奈の突然の行動に和人は抵抗しなかった。
 なんとなく彼女の様子がおかしいことがわかったのかもしれない。
 明日奈はたっぷり時間をかけて彼の《質量》を確認してからゆっくりと腕を緩めた。
 和人の「もういいのか?」という問いかけるような瞳に照れたように頷いて口を開く。

「ごめんね、急に」

「いや、いいけどさ。あんまり寝てないって言ってたし」

「それとは関係……なくはない、けど」

 明日奈は昨晩からあまり寝ていなかった。
 理由はいろいろあるが、一番の理由は今日が彼からのお誘いデートだったからである。
 今まで、アインクラッドでのことも含めて、彼主導のデートというのはほぼ記憶にない。
 そもそもアインクラッドでデートらしいことなどほとんどないのだが。
 明日奈はそのつもりでも、彼にその気が全くなかったのだから。
 明日奈が嬉しさ余って興奮し、眠れなくなるのも仕方のないことだった。
 だいたい、翌日彼と会うことが決まっていた日は、アインクラッドの時でさえ緊張しあまり眠れなかったことがあると言うのに、その辺ことを彼はちゃんと理解してくれているのだろうか。

「……なんだよ?」

「ううん、なんでもない。きっとわからないだろうなあ、って」

「何がだよ?」

 和人の疑問符を浮かべた顔に笑いながら、彼は絶対わかっていないと明日奈の中で決断を下す。
 彼に乙女心のなんたるかがわかるわけがない。むしろ、わかってもらっては困るのだ。

「……ごめん、疲れちゃったかな?」

「え? ううん、そんなことないよ。ボートも楽しかった」

「そうか」

 今日の最大の目的、それがボートだった。
 それがそのまま、和人が明日奈に黙ってジムに通った理由でもある。
 明日奈は安岐の話を思い出した。





「いやー、何? 彼女さん桐ヶ谷君をつけてたの?」

「あ、いやそういうわけじゃ……」

 安岐に見つかった明日奈は中に呼びこまれ、あっという間に和人にも見つかってしまった。
 彼は目を丸くして驚き、バツの悪そうな顔をしていた。隠し事をしていたことに引け目を感じているんだろう。
 明日奈も何故自分がここにいるのか、という理由を言えずに気まずい空気が出来上がる。
 安岐はそれに気付いてか、聞いてもいないことを解説しだしてくれた。
 もともと明日奈も和人のリハビリ中に安岐がスポーツジムに通っている話は聞いていた。
 そもそもの始まりは、和人が退院後に通院でのリハビリをしている際、安岐にそのジムを紹介してほしいと頼んだことから始まっていた。
 明日奈はそこで首を傾げる。彼がジムに通ってまで体作りをしたいと思った理由が思い浮かばない。
 そんな明日奈の視線に和人は照れたように頭をかきながら答えた。

「どうにもゲームでの自分と現実の自分にギャップがあり過ぎてさ」

「あ、あぁ、それはなんとなくわかるかも」

 明日奈とて思い当たる節が無いわけではない。
 そう言われれば納得もできる、と頷こうとした時、面白そうに安岐が付け加えた。

「というのは建前でね」

「ちょ、安岐さん!?」

 和人の慌てようにどうやらそれが事実であることを明日奈は悟った。
 嘘ではないのだろうが、何か大事なことを隠しているのだろう。
 むぅ、と不満げな顔を和人に向けると、和人は困ったように視線を泳がせた。
 だがどうにも彼は語る気は無いらしく、その口元は真一文字に結ばれている。
 しかし和人にとっては残念なことに、安岐さんは口を噤む気は無いようだった。

「それがねえ、桐ヶ谷君ったらさあ」

「ふむふむ」

「ああっ! ちょっと安岐さん!」

「キリト君は黙ってて」

「むふふ♪ 桐ヶ谷君てば君に荷物を持たせたのを気にしてるみたいよ。男なのにーって」

「え……?」

「まあ今の桐ヶ谷君は貴方より腕っぷしが無いことがどうにも嫌だったらしくてね。彼も女の子みたいな顔して男の子ってことよね。貴方にいろいろ言われたのも気にしてるみたいだったけど」

「あ……」

 言われてみれば思い当たる節はいくつかあった。
 明日奈はこれまでにも何度か今は自分の方が力があるんだから、と和人に言い聞かせて彼を介護してきた。
 その方が彼の為だと思っていたのだが、男の子的にはなかなか辛い言葉だったのかもしれない。
 和人は諦めたように肩を落として一人トレーニングをしに行ってしまった。
 ペッグデックマシン──腕を開いては閉じて主に大胸筋・三角筋前部を鍛える機械──に座り、苦しそうな声を上げながら腕を開いては閉じる。
 肩甲骨をグッと寄せて座り、肘を伸ばして大胸筋を十分にストレッチさせる。
 大きく動いて同じペースで続けるのが望ましい、と明日奈は隣にいる安岐から説明を受けた。
 その真剣な姿を見て、知らないうちに彼を傷つけていたのかもしれない、と明日奈は思う。そんな明日奈の思考を見計らったかのように、安岐が続けた。

「彼ね、もう一つ本当の理由があるのよ」

「もう一つ?」

「うん、なんだと思う?」

「さ、さあ……」

「ボートだってさ」

「ボート?」

「彼が最初に私に言ったのがそれなの。人一人をボートに乗せて、問題なくオールを漕げるだけの筋力が欲しいって。どうも貴方を誘いたいみたいね」

「あ……!」

 それは、第二十二層の湖でのこと。
 ボートで水に揺られながらの遊覧は、本当に楽しかった。
 彼は、現実でもあれをやろうと思ってくれているのか。
 その為に、内緒でこんなに頑張っていてくれたのか。
 明日奈の胸に熱いものが込み上げてくる。
 同時に恥ずかしいと思った。彼の事を、結局信じ切れていなかったのだ。
 だから自分はここまで来た。来てしまった。
 もう二度とこんなことが無いよう、何があろうとも彼を信じようと改めて心の中で誓う。
 その日の帰りに、どうせばれちゃったから、と前置きしてキリトは土曜日に目的のデートにいかないか、と明日奈を誘い、明日奈は二つ返事で了承したのだった。





 手を繋いで、遊歩道を歩く。
 ただそれだけのことが、とても楽しかった。
 少し前につないだ時より、和人の手はだいぶ逞しくなっていた。
 無論仮想世界とは力強さにおいては比べるべくもないのだろうが、明日奈にとっては十分強いと思えるほどの逞しさに成長していた。

 彼の部屋のベッドに腰掛け、自分の掌を見つめて今日の事を思いだし、グッと握る。
 帰ってきてからは、直葉に頼まれていた通り明日奈が夕飯を用意した。
 あれほど悩んでいたメニューは驚くほど簡単に決まってしまった。
 アインクラッドでそうだったように、彼に一言聞くだけで良かったのだ。
 今日は何が食べたい? と。
 明日奈が夕飯を頼まれていることを知った和人はやや驚いたが──直葉の思いつきイタズラ作戦が成功した瞬間だったとも言える──すぐに微笑んでお決まりの台詞で答えた。

「シェフのおすすめで頼む」

 途端におかしくなって明日奈は笑ってしまった。
 肩肘張って見栄を張ろうと思ったのがそもそもの間違いだった。
 至ってシンプル。それでいいのだと気付かされた。
 作りたいものを作る。それだけでいいのだ。
 まるで、あの頃の二人の時間が帰ってきたかのよう。
 そう思っていると、コーヒーを二つ持ってキリトが部屋に戻ってきた。
 明日奈は「私がやろうか」と言ったのだが、和人の「ここでは明日奈は一応お客さんだぜ」という苦笑気味の返事にそれ以上手を出すのはやめた。
 和人にとって明日奈の料理とは何にも代えがたいものではあるが、わざわざ家にまで来てもらって作ってもらうとなると申し訳なさを禁じ得ない部分もある。
 故に和人としても自分の家ではせめてこれくらいはやらせてくれ、という意思表示をしておきたかった。
 それがわかる明日奈だから、《その件》については何も言わない。
 明日奈にカップを手渡し、隣に腰を下ろした和人は、黒い液体が中ほどまで入っているカップの中心を見つめながら考える。
 今日という日は、あとどれぐらい残されているだろうか、と。
 日は今し方沈んでしまったことだろう。
 そろそろ明日奈を送っていくことを考えなくてはいけない。
 それがあとどれほど先のことなのか。
 和人はいつも明日奈と会う時、それを考えてしまう。
 あとどれだけ一緒にいられるだろう、と。
 終わりの時間を見立てて、計算して、それまでは目一杯一緒にいたいと思う。
 和人にとって今日という日は、夜中の十二時、二十四時間という時間の枠組みではなく明日奈を送って行って一人になった時に終わるのだ。
 カップの中を見つめたまま黙っている和人を見て、明日奈はなんとなく彼が考えていることを察した。
 目が、置いて行かれる捨て犬のようなそれに近い気がするのだ。
 その姿を見て、今日一日いつ言おうか迷っていた《とある事》が頭をよぎる。
 しかしいざ、となると勇気が萎んでしまってなかなか言い出せない。
 その間にも刻々と時間は過ぎていく。いつの間にか、もらったカップの中身はからっぽだった。
 どうやら和人もそれは同じらしく、和人はカップを明日奈から受け取って、下に置きに行く。
 戻ってきた和人は少しだけ寂しそうな顔をしながら、コートを羽織っていた。

「そろそろ良い時間だ、あまり遅くならないうちに……送っていくよ」

 その言葉に、明日奈は顔を伏せた。
 ジッと膝の上に置いた自分の拳を見つめている。
 和人は明日奈の予想外の態度に訝しんだ。
 彼女の家は比較的門限等にも厳しい。
 その観点から彼女は帰り支度は早々に済ませると思っていたのだが。
 和人が明日奈に近づいていくと、明日奈の細い指が震えながら和人のコートを弱弱しく掴んだ。

「アスナ……?」

「あの、ね……今日、なんだけど」

「あ、ああ……」

「うち、お父さんもお母さんも出張で出かけてて、帰ってこないから。だからお手伝いさんにも今日は掃除が終わったら帰って良いですよって伝えて来たの」

「?……ああ」

「それで、それでね……」

 明日奈は決して顔を上げない。
 ただ弱弱しく彼のコートを掴んだまま視線は自身の膝に張り付いている。

「えっと、だから、その……」

「アスナ……?」

 和人はイマイチ明日奈が何を言おうとしているのか掴めずに首を傾げた。
 今日は少しくらい遅くなっても大丈夫と言いたいのだろうか。
 それは嬉しいがあまり遅くに出歩くのは明日奈の為にならないのでは、と和人が心配し始めた時、予想の遙か先を行くことを明日奈が言い出した。

「外泊しても、大丈夫……だと、思う」

 和人にとってある意味ヒースクリフが茅場晶彦だった時以上の驚きと緊張が奔る。
 それはつまり、今夜は桐ヶ谷家に泊まっていくということなのか。
 明日奈の顔は既に耳まで真っ赤に染まっていて、和人のその考えがあながち見当違いではないと思ったのは本当に閃光の一瞬。
 次の瞬間にはそれ以上の衝撃が和人を襲った。
 真っ赤な顔をようやく上げた明日奈は、若干の涙さえ瞳に湛えて、口を開く。

「私が、は、初めての晩に言った時のこと、お、覚えてる……?」

 瞬時に和人の脳裏に光速でシナプスが駆け巡る。
 初めての夜。それは、間違いなく第二十二層でのことだといくら鈍い和人でもすぐにわかった。
 とくれば、その言葉とは……、

『今度は、現実世界で、しようね』

 男女の関係が確定的になる行為。
 それ以外に思い当たる節は無く、明日奈を見る限り間違っていないことが和人には予想できた。

「~~~~~っ!」

 予想できたからといって、急にそんなことを言われても、和人の容量はオーバーフローである。
 むしろ一ヶ月程度前から約束していたとしても感情のオーバーフローを起こす自身が和人にはあった。
 明日奈としてもここまでが限界だったのか、真っ赤になった顔を再び伏せて黙ってしまった。

「えっと………………………………アスナ」

「……うん」

「ここで、ってことで、いいの、かな」

「……うん。前に初めてここに来たとき、こっちでの初めては、なんとなくキリト君の部屋がいいなって……」

「そ、そうか……」

 そろそろ和人の方も顔の火照りが限界だった。
 笑いや羞恥は伝染するという迷信は信じざるを得ないと和人は認識を新たにしつつ明日奈の頬に手を伸ばす。
 明日奈はゆっくりと顔を上げた。
 その瞳は迷いと羞恥で潤み切っていて、今にも大泣きしそうだった。
 今からやっぱり止めよう、と言うのは簡単だった。だがそれを言えばこの顔を酷く歪ませてしまうことくらい和人にも理解できていた。
 彼女にここまで言わせたのだ。そういった思いが和人に無いわけでもない。
 ゆるやかに和人は明日奈の唇へと近づいて行った。

「今日は呪いのせいじゃ、ないぞ」

 触れる程度の軽いそれから、啄むように。
 徐々に、長く長く。
 最終的に一分近く触れあっていた──などという生易しいものではなかったが──唇からは透明な糸の橋がつぅと出来上がる。
 もう、この後どうするかは決まっていた。
 和人はコートを脱ぎ捨て、部屋の明かりをリモコンで消す。
 月明かりだけが部屋を満たし、ベッドに腰掛ける明日奈がより幻想的に見える。
 彼女がここにいるというだけで、慣れ親しんだはずの自分の部屋が自分の部屋で無いような錯覚が起こる。
 和人は再び明日奈に近づいていき、今度は彼女の首筋へと唇を押し当てた。
 明日奈の甘い声が耳朶を撫でる。

 どうやら、危惧した今日の終わりはまだまだ先のようだった。




















 鈍い頭痛と共に、和人はうっすらと目を開いた。
 なんだか体が怠い。風邪、とは若干違うようだ。
 ボーッとした思考は纏まらないうちに視線を彷徨わせた。
 見飽きる程知っている自分の部屋。
 PCの小さい駆動音とファンの音。
 大きな机とディスプレイ。
 壁にある傷やシミ。
 そのどれもが本当にいつもと変わらない自室であると訴えてくる。

 だが。

 隣には、すやすやと寝息を立てて美しい少女が快眠遊ばされていることを忘れるほど和人も馬鹿ではない。
 部屋中に一通り視線を彷徨わせて時間稼ぎをした後、恐る恐る彼女を見てみれば、本当に優しい顔で彼女は眠っていた。
 思えば、彼女の寝ている時の姿を和人は見た記憶があまりなかった。
 一番記憶に根深いのはアインクラッドで最高の季節に外でついうっかり彼女が熟睡してしまった時だろうか。
 いや、二十二層のログハウスでもあったか、と和人は記憶を掘り起こす。
 長い睫を閉じてすやすや眠るその顔の造形は本当に美しく、いつまで見ていても飽きない。
 そういえば前にも同じことを思ったな、と和人は内心で苦笑する。
 結局のところ、ずっと彼女への思いは自分の中で変わっていないのだ。
 大好きな女性。その立ち位置が揺らぐことは無かった。
 むしろ強くなっているのかもしれない。そんなことを思いつつ、寝息に合わせて小さく口元が開いては閉じてを繰り返すのを見ていると、不思議と衝動的に唇を重ねたくなる。
 これが呪いの力か、などとふざけてみるが、一度沸き起こった衝動にどうも折り合いが付けられず、和人はせめて起こさぬようにと明日奈の額へ小さくキスをした……のだが。
 同時にぱちりと明日奈の瞼が開いてしまい、和人は慌てだす。
 明日奈は何も言わずに、ただ微笑んでいた。それが余計和人に「起きていたのか」という羞恥心を与えて、顔を紅くさせる。

「おはよう、キリト君」

「お、おはよう、アスナ」

 あまり長くこうしていると和人がグレてしまうことを明日奈はわかっている。
 彼は恥ずかしい感情などが一定以上を超えると途端に殻に閉じこもってしまうのだ。
 それがわかっている明日奈はここら辺が潮時と声をかけた。
 和人にしても、いつから起きていた、とは聞きにくく、まるで今の事を無かったことにするかのように返事をする。
 朝にお互い顔を合わせて挨拶。二十二層の時には当たり前だった出来事。
 それがとても懐かしく、嬉しい。

「さて……あ」

 明日奈が右手を宙で振った。
 当然何も起こらない。あまりの懐かしさに習慣が呼び起こされてしまったようだった。
 和人は苦笑しながら、一人だけベッドを出て手早く着替える。

「俺、部屋出てるから」

 その間に着替えなよ、と。
 和人の言いたいことに気付いた明日奈だったが、少し迷って彼を引き留める。

「待ってキリト君、ちょっとシャワー借りてもいいかな」

「あ、そうか……うん、そうだな。それじゃ……そのシーツで体を覆ってくれないか? アスナがシャワー浴びている間に纏めて洗濯するよ」

「あ……うん。ごめん」

 カア、と明日奈の頬に赤みが差す。
 昨晩はその……いろいろと凄く、確かにシーツは洗濯の必要があった。
 現実ではそういったところがシビアだな、と仮想世界との違いに改めて気づいたりする。
 明日奈は言われるがまま、シーツを体に巻いてシャワーを借りにいった。
 和人は自分の服などを洗濯機へと放り込み、最後に明日奈が置いていったシーツもぶち込む。
 ちょっと多めだが、何とかなるだろうと思い、洗剤を入れて蓋をし、スイッチを押す。

「ふぅ」

 洗濯機に背中を預けて軽く息を吐いた。
 現実世界でも「そういう関係」になる行為をしたという実感が遅ればせながら和人の胸に広がっていく。
 なんと表現していいのかわからない感覚。
 しいて言うなら一つ大きくなったような気がする、というところか。
 なんとなく大らかでいられるような気がする。
 そんなことを和人が思っていた時だった。

「あれ? お兄ちゃんこんな朝から洗濯? 珍しいね」

「ああ、ちょっと……な……? え、スグ!?」

「? どうしたの?」

「あれ、お前合宿は?」

「行ってきたよー。ってそっか、帰る時間は言ってなかったっけ。今日の早朝には帰ってくる予定だったから」

 な、なんだってー。
 間抜けっぽい自分の声が脳内に響く。
 というかそういうことはきちんと伝えておいて欲しかったと思う。
 聞かなかった方も悪いのかもしれないが。
 と、今はそんなことを思ったり言ったりしている場合ではない。
 和人は高速で現状を打破するための方法を考え始めた……のだが。
 一つ忘れていることがあった。
 彼女、明日奈/アスナの二つ名は……閃光である。
 光速ならぬ高速では、光を冠する閃光には敵わない。

「ねえキリト君、悪いんだけど………………………………」

 バスタオルを体に巻いただけの明日奈は和人が何かをする前に登場してしまう。
 直葉は、明日奈がこんな時間にこんな恰好で家にいることに驚き、兄である和人と明日奈を交互に見て最後に洗濯機を見つめ、顔を真っ赤にさせる。
 なんとなく察してしまったようだ。
 明日奈も予想外のことに固まってしまっている。
 何故ここに直葉がいるのか、と。
 彼女の記憶の中の直葉は確かに言ったのだ。

『私、次の土曜日は部活の合宿でいないんです。お母さんも校了が近いから家には帰ってこないだろうし。そうなるとお兄ちゃん、きっと面倒くさがって御飯を疎かにするから』

 なのに何故、と思ったところで気付いた。部活の合宿で《土曜日》はいないと言われたが、《日曜日》もいないとは彼女は言っていない。
 なんで気付かなかったのか。明日奈も和人と全く同じ気持ちになっていた。
 和人と明日奈は顔を真っ赤にした直葉と三竦みのようになって動けない。
 ただゴウンゴウンと洗濯機の音だけが鳴り響く。
 この硬直は実に三十分ほど続き、三十分後、明日奈がくしゃみをするまで動き出すことは無かった。
 動き出した後、二人はこれ以上のトラブルはごめんだ、と深く反省し《次》はもっと注意を払おうと各々心に固く誓うのだが、実はもう一つ、忘れていた事実、盲点があった。
 二人がそれに気付けるのは、さらに一時間以上後のことである。





 無人の和人の部屋で《いつも通り》PCの小さい駆動音とファンの音がする。
 これはPCの起動中を意味していることに外ならない。
 と、ディスプレイが勝手に発光し、画面上にテキストエディタが立ち上がる。
 誰が打ち込んでいるわけでもない。ここは無人である。
 だというのに、そのテキストエディタは一つの文面を勝手に自動で作り上げた。


【昨夜はお楽しみでしたね  ユイ】


(ALO編終わり)



[35052] 追憶のSAOP1-1
Name: YY◆90a32a80 ID:b9264a49
Date: 2013/08/26 00:20


 十月初旬。
 今年の春、ALO内に現れた新生アインクラッドの追加アップデートが先月九月に行われたが、その内容はアスナの満足のいくものではなかった。
 難易度にケチをつける気はない。むしろ当時よりも難易度は高めだろう。
 フロアボスに至っては「倒させる気を感じられない」と思う程無茶振りなステータスだったりする。
 さらに新生アインクラッドのフロアボスモンスターはHPゲージが見えない仕様が採用されている。
 これにはさしものSAO生還者(サバイバー)も調子、ペースを崩された。
 故に、ゲームの内容にアスナは一片たりとも不満はない。
 現実の死、という本来ありえないほどのリスキーさが無ければ、既に仮想世界に魅せられた一人としてはむしろ望むところとさえ言える。
 問題なのはゲームとしての仕様ではなく、新生アインクラッドの現在解放されている階層情報だった。

「……う~」

 アスナは呻きながらALO内部に流通する情報詩を穴が開くほどに見つめる。
 見出しには二十層まであと五層! と大きく書かれている。
 五月に大規模アップデートによって現れた伝説の城、浮遊城アインクラッド。
 たくさんの思い出が詰まるその場所が現れた時は、やはり嬉しさが大きかったのだが、問題が一つあった。
 五月のアップデートでは一層から十層までしか解放されなかったのだ。
 難易度が上がっているとは言え、かつてとは違いこれは純粋なゲームである。
 加えて蘇生という概念があるALOでは、いずれ十層にまで上りつめるのは当然の事ではあった。
 そこで運営は九月にさらなるアップデートとして上層を解放した。

 十一層から二十層。

 それが新規に解放された階層である。
 アスナは知らず少しばかり肩を落とした。
 何故、あと五層くらい頑張ってくれないのかと。
 もうちょっと多めにアップデートしてくれても良いじゃないかと。
 具体的に言って二十二層まではアップデートして欲しかった、という切なるアスナの願いは残念ながら運営には届かない。
 アスナは可能ならすぐにでも思い出の《ログハウス》を購入したかった。
 その為にキリトと二人、共同でユルドをそこそこ溜めてもいた。
 ゲーム内のお財布を上手く管理し、少々武器や防具の衝動買いに走りたがるキリトの手綱をしっかりと掴んで目を光らせていた。
 とうに目標額は超えているのでこれだけあれば恐らく購入は問題あるまい。
 だが肝心の家のある階層まで行けなければその願いは叶うことは無い。
 次のアップデートでは間違いなく行けるだろう。それはわかってはいるのだが、その時をただ待つだけ、というのがどうにももどかしかった。

「ねえキリト君……あ」

 少々の不満、思いの丈を彼に聞いてもらおうと、アスナは静かにしていた影妖精族(スプリガン)のアバターを操るキリトに声をかけた。
 しかし、すぐにその口は閉じてしまう。
 アスナの視線の先では、目を閉じて大き目の揺り椅子に腰かけ、すやすやと眠るキリトの姿があった。
 しょうがないなあ、と内心で思いつつアスナはキリトに近寄っていく。
 瞳を閉じた彼の顔はあどけなさを残している。
 アバターの姿だけはSAO生還者(サバイバー)の特権であるSAOからの引き継ぎを行わなかったキリト。
 それでも中にいる彼が一つばかり年下だとわかっているせいか彼の行動一つ一つが幼く見えてしまうことがある。
 かと思えば急に大人びた顔をしたりと、彼の表情は統一性に欠けミステリアスさで一杯だが、これも惚れた弱みというヤツだろうか。
 アスナはそんな二面性のあるキリトが愛しくてたまらなかった。
 つんつん、とキリトの頬をつつくと、キリトは「ううん」と小さく呻いてからまたすやすやと寝息を立てる。
 アスナはその場でしゃがみ、膝を抱えて斜め下からキリトの顔を見上げるようにしてジッと見つめた。

 仮想世界とは本来、眠ってしまうと強制自動ログアトが発生する。
 これは安全機構の一つだが、いくつか例外も存在した。
 それが、《ホームによる仮眠》である。
 プレイヤーホーム内において、オプションで設定しておけば二時間までは睡眠をとってもシステム検知の対象外となることが出来る。
 また、二時間以上の睡眠によって強制ログアウトになってしまっても、通常のログアウトとは異なリ《一時ログアウト》扱いとなる。
 きちんと設定さえしておけばプレイヤーホーム内に限り、いわゆる寝落ちを防いでVRワールドとの接続はサスペンド状態を保てるのだ。
 もっともそうまでしてホームで眠ることにこだわるプレイヤーがいるのかは疑問ではあるが、少なくともこの機能をキリトと、そしてアスナは重宝している。
 都合が合えば、夜は一緒にここ、世界樹上空の《イグドラシルシティ》にある共同出資のレンタルプレイヤーホームで過ごしていた。
 眠るときもあのログハウスでのようにユイを挟んで三人で眠る。
 二時間、という時間の縛りは一方が眠ってしまってもしばらく相手の温もりを得られる利点がある。
 そういった使い方をするユーザーが他にどれだけいるのか定かではないが、アスナとキリト、そしてユイにとっては既に無くてはならないものだった。
 惜しむらくは目覚めた時には現実で自分一人、という点だろうか。

「良く寝てるね」

 アスナはキリトの寝顔を見て小さく零す。
 彼が今使っている揺り椅子は知人による贈り物だ。
 クリスハイト、というALOでは新規のフレンドとの最初の狩りに出かけた時、追憶の洞窟なるダンジョンでクリスハイトがドロップしたアイテムだ。
 彼はまだゲームを始めて間もなく、プレイヤーホームなどもちろんない。
 そんな彼には家具系統のアイテムなど使い道が無かったので、お近づきの印にと贈られたものだ。
 アスナは、このクリスハイトなる人物のことを完全には信じていない。
 悪い人、と言うと些か誇張表現だが、底の見えない人ではある。
 そう思う一番の理由は、彼がリアルの知り合いでもあるからだった。
 クリスハイトの中の人、リアルユーザーは旧総務省SAO事件対策本部の役人だった。
 今はSAO被害者が一応全員解放されたので一部の名残を残して対策本部は解体されたが、この役人はそのまま仮想世界における問題についての監視をする部署に配属された……と聞いている。
 総務省総合通信基盤局高度通信網振興課第二別室、省内での名称は通信ネットワーク内仮想空間管理課、通称《仮想課》。
 それが現在の彼の所属する部署と肩書きだ。クリスハイトは「VRMMOをプレイすることでキリト君たちともっと仲良くなりたい」などと殊勝なことを言っていたが、キリトは「情報集活動の一環だろう」と推測している。
 そんなキリトに苦笑を零したアスナではあるが、同じように信じすぎて良い人ではないという予感がアスナの中にも燻っている。
 例えるならそう、クリスハイトからは時折ヒースクリフに似た何かを感じるのだ。
 とは言っても特段現在までに迷惑を被ったことがあるわけでもなく、さらに言えばSAO解放直後にキリトと引き合わせてくれた恩人でもあることから、今のところはその交友関係に無用な亀裂を作るつもりは無かった。
 キリトも同じ考えだろう、とアスナはなんとなく予測している。

「でも本当……良く似ているなあ」

 そのキリトが現在眠っている揺り椅子だが、既に彼は愛用の域に達している。
 理由の一つには恐らく、この揺り椅子がかつての愛用物によく似ている、ということが挙げられるだろう。
 その揺り椅子はデスゲームだった旧アインクラッド、その五十層主街区である《アルゲード》で営業していたエギルの店の二階にあったものとうり二つだった。
 結婚祝いだ、と間借りしていた二階を出るときにエギルが二人にそれを譲り、以降二十二層のログハウスでもキリトはエギルの揺り椅子を愛用していた。
 彼がこうやって眠ってしまった時は、誘われるようにアスナも彼の傍により、同じように甘い眠りを享受したものだ。
 そしてそれは、今もそう変わらない。
 この譲り受けた揺り椅子について唯一違う点はその大きさだ。
 見た目はほぼ同じだが、少しばかり大きいこの揺り椅子は前よりも楽にキリトの横に滑り込むことが出来る。
 アスナはかつてのように眠るキリトの横に滑り込んで、彼の肩に頭を預けた。
 クラリ、クラリとゆっくり揺れる感覚が心地よい。
 不思議なことに彼の眠る様を見ていると急激な眠気に襲われてしまう。
 アスナは、キリトの等間隔に息を吐くシステム的な音を偽物の聴覚で捉えながら、うとうとしだしている意識を完全に放棄した。
 経験からここまで来ると抗うことは非常に難しいことをアスナ知っていたので、どうせなら素直になるがままに任せよう、というのがアインクラッド時代からのスタイルである。
 やがて、揺り椅子からの寝息は一つから二つになり、時折ギィと木造の椅子のしなる音だけが部屋に木霊する。

「……」

 そんな二人を見つめる双眸が、ゆっくりと近づいた。
 長い黒髪はしなやかな純和風をイメージさせるが、未成熟な体は彼女がまだ幼いことを示している。
 と言ってもその彼女は人間ではないのでこれ以上の肉体的成長という概念は存在しない。
 姿を変えることは可能だろうが、それは生物の成長とは異なるものだ。
 アスナとキリトを親のように慕う彼女は今、ALO内における《ナビゲーション・ピクシー》としての姿ではなく、《メンタルヘルス・カウンセリングプログラム》として作られたかつての姿だ。
 彼女はその特異性から姿を自由に変えられるが、ALO内でこの姿になることは実はあまり多くない。
 精々三人で眠るときくらい、だろうか。
 それ以外は基本ナビゲーション・ピクシーの姿でいるのが常だった。
 だいたい、ピクシーの姿ではない本当の姿とも言えるこの姿をALOで見たのは、キリトとアスナの他にはあと一人くらいのものだ。
 その彼女が今、珍しくかつての姿で眠っている二人に近寄った。
 一メートルほど手前で止まると、ジッと二人を見つめた後にその綺麗な素足がフッと浮き上がる。
 今の彼女にALOアバター特有の翅は無い。しかしいかな機能を使っているのか、僅かに彼女は浮いていた。
 真っ白なワンピースのスカート部分はゆらゆらと揺れ、体は淡いブルーの光を放ち始める。

「……」

 言葉は無い。
 ただ、慈しむように二人を見つめるその瞳は、どこか哀しげだった。










 深い、深い海の底から浮き上がるような感覚。
 ぼやけていた感覚器が徐々に明細化していく。
 目を覚ますとき特有の通過儀礼。
 眠りが深ければ深いほどゆっくりと時間をかけて水上に浮上するかのように低速で意識が昇って行く。

「お目覚めかい?」

 聞きなれた声がその速度を一気に引き上げる。
 とてもとても大切な声。聞き間違えることなどありえない声。
 この声で目覚めることが出来るのは、それだけで至福。
 同時に少しばかりの落胆。
 彼の声が聞こえると言うことは彼が先に目覚めてしまったということだ。
 アスナは彼より少し先に起きて、彼が瞼を開く瞬間を眺めているのが好きだった。
 残念ながら今日はその願いは叶わないらしい。
 そんなことを思いながら、もうほとんど浮上している意識を覚醒へと導いていく。
 急速に感覚器は正常に作動していき、しかしその感覚器から伝わる《感覚》から自分が未だ仮想世界にいることを理解する。
 そもそも彼の声が聞こえたということはそういうことだろう、と覚めやらぬ頭に鞭打ってアスナは《ふかふかの原っぱ》に手を付いた。

「……あれ?」

 そこで初めておかしい、と気付いた。
 自分はALOのプレイヤーホームにある揺り椅子で眠っていたはずだ。
 目覚めるならそこでなければおかしい。
 しかし今自分の手が触れているのは紛れもなくフィールドの草である。
 ホーム、ましてや《安全圏》であるはずの街の中ですらない。
 これがベッドに、ということならば理解できる。
 眠ってしまった自分をキリトがベッドまで運んでくれたのだと思える。
 しかし街区圏外となると首を捻らざるを得ない。
 ──何だか頭の片隅がハッキリしない。もしかしたら夢を見ているのだろうか。
 それともまだ覚醒しきっていないのか。
 そんなことを朧げながら考えつつ視線は無意識に声のした方、キリトへと向けられる。
 一際立派な樹の根元で、ダークグレーの革コートを纏い、やや大ぶりな片手剣を抱くようにしながら彼はアスナを見つめている。

「キリト……くん?」

 また違和感。
 彼の姿に間違いはない。間違いはないのだが、彼のアバターは現実のそれとほとんど変わらない……いや、少しばかり幼い姿をしている。
 彼のALOでのアバターにはその特性の引き継ぎをしなかったはずだ。
 それに、彼にしてはやや見た目の装備が貧弱だ。
 これはそう……SAOがまだ第一層のフロアボスさえ攻略されていない頃の、初期の頃の彼の装備に良く似ている。
 アスナがキリトの姿にそう混乱していると、キリトもまた、驚いたようにアスナを見つめた。
 その目には些か猜疑心が宿っているように見えなくもない。

「……以前どこかでお会いしましたっけ?」

「……へ?」

 何を言っているの? という言葉はすぐに出てこなかった。
 何かのイタズラである可能性も考えなかった。
 キリトがやる類のイタズラではない。
 何より、彼の視線が本当に自分を知らないと告げているようだった。
 だがそんなことはありえない。
 ありえない、はずだ。
 そこで気付く。なぜか自分は全身を覆うようにウールケープを羽織り、顔も隠していた。
 もしかしたらこれのせいで気付いていないのかもしれない。そう思ったアスナは躊躇いなくフードを外してブラウンのロングヘアを偽物の外気へと晒した。

「私だよ」

「……えーと、ごめん。どちら様だっけ」

 しかし期待むなしく、目前のキリトはまるで初対面だとでも言うかのようにアスナに応えた。
 これには流石にアスナも胸の奥がズキンと痛む。
 何か彼の気に障ることでもしてしまっただろうか、と真剣にアスナは考え始める程だった。
 その時、丁度キリトは何かを思い出したように「あ、もしかして……!」と零す。
 一瞬期待が胸をよぎるアスナだったが、「いや、そんなはずないか」とキリトは結局自己完結してしまい、アスナはガックリと項垂れる。
 キリトはそんなアスナの落胆ぶりに戸惑いながらも「とりあえずこれだけは言わせてくれ」と改めて口を開いた。

「あんな無茶はもうしない方が良い」

「あんな、無茶?」

「ああ」

 いまいちキリトの言っていることがわからない。
 あんな無茶とは一体何のことだろうか。少なくともアスナには思い当たる節は無かった。
 そもそも自分は無茶とは無縁の絶対安全圏であるプレイヤーホームで眠ってしまったはずなのだ。
 だいたい自分が何故ここにいるのかすらわからない。というかそもそもここはどこだろうか。
 アスナはキョロキョロと周りを見渡し、自身の中の記憶と一致する場所を脳内検索する。
 これはすぐにヒットした。幸い知らない場所ではなかった。
 比較的最近も来たことのある場所、アインクラッド第一層、迷宮区への入り口付近。
 百メートルかそこらには天蓋まである迷宮区がそびえ立っているのが見える。
 ALOにアインクラッドが実装されてからすぐに駆け抜けた場所だ。
 しかし、現在位置がわかったところで疑問は解決されない。

「どうして私はここに……」

「……そうか、記憶が混乱してるのか。君は迷宮区で無茶な戦い方をして倒れたんだ」

「……はい?」

 なんだそれは。
 アスナの最後の記憶とは随分と食い違っている。
 ……だというのに記憶の微かな部分がチリチリと反応している。
 既視感、というのだろうか。似たような会話、シチュエーション。
 《覚えがある》という程度のものだが、どうにも霞がかったようにその全容を思い出せない。

「えっと、私が迷宮区で倒れたの?」

「そうだけど……」

「それでキリト君がここまで運んでくれた、と」

「…………」

「キリト君?」

「……一応、そういうことになる」

 一瞬、彼の警戒するような顔が強まった。
 アスナにはその意図がわからない。何か気に障る様なことを言ってしまっただろうか。
 しかしすぐにより大きな疑問によってその考えは一旦流される。
 キリトの態度は気になるが、アスナの中ではそれ以上に現状のことが気になっていた。
 迷宮区で倒れた、というのはどういうことだろうか。
 迷宮区に足を運んだ記憶はないし、そもそも第一層の迷宮区で自分が後れを取るとは思えなかった。

「何で私、倒れたの?」

「……無茶したからだろ」

「何で私達迷宮区に来たの? イグシティにいたよね?」

「……いぐしてぃ?」

 キリトの不思議そうな顔に、アスナはそれ以上言葉を続けるのを止めた。
 悪ふざけにしてはやはりおかしい。本当に彼は何も知らないと思うべきだ。
 これらの情報を改めて頭の中で整理し、早々にアスナは解答を導きだした。

(うん、夢だこれ。間違いない)

 そうとしか考えられない。
 アスナにとって明晰夢はさほど珍しいものではない。
 決して良い記憶ではないが、度々そういった夢をアスナは見ている。
 ただこれまではそのシチュエーションが殆ど変わらなかったのに対し、今回は初めてのパターンだというだけのこと。
 そう自分の中で折り合いを付ける。早めにこれが夢だと気付けるのは非常に稀だが経験が無いわけでもない。
 よくよく思えば意識の片隅にも靄がかかったような感覚がまだ僅かにあり、アスナはより一層夢だと確信する。いや、《確信したかった》。
 そんなアスナの僅かにほつれている思いの穴を、まるで狙っていたかのようにキリトは一つの提案を口にする。
 それは、アスナにとって間違いなく《覚えのある》ものだった。

「……えっと、これから初めて第一層のフロアボス攻略会議が始まるんだ。あんたも迷宮区にまで来てるプレイヤーなら一応クリアを目差しているんだろう? それなら無茶な戦いをするよりとりあえず参加してみても良いんじゃないか?」

「……え」

 初めての攻略会議。
 その一言に強く記憶が刺激される。
 アスナの中でSAO時代の古い記憶が呼び起こされる。
 あれはまだ、SAOでの戦い方もろくに理解していない頃。
 そのくせ全てを理解した気になって、見える景色がいつも曇天のように薄暗く、モノトーンに染まっていた時代。
 SAO正式サービス開始、同時に理不尽なデスゲームが開始されてからおよそ一月ほどが経過した頃だ。
 途端、ALOで雷撃の魔法でも受けたかのような衝撃がアスナの中を駆けめぐる。
 これまでの夢に、《今がいつ》だという要素は殆ど無かった。
 理解しようとしていなかったし、そんなことを《考えよう》と思わなかった。
 夢なのだから当然かもしれない。では、その当然がたった今無くなった《これ》は何だ?

 現実?

 いや、そんな馬鹿な。
 そんなことがあるわけがない。
 SAOは終わったのだ。

 本当に?

 さっき何を思った?
 何を考え考慮した?
 何故夢だと思った?



 ────《これまでの全てが夢》で、《今が現実》じゃないという保証が何処にある?










 迷宮区最寄りの街、トールバーナ。
 直径およそ二百メートルの谷あいの街で、巨大な風車塔が立ち並んでいる。

【INNER AREA】

 街に入った途端浮かぶシステムメッセージが圏内であるとプレイヤーに伝える。
 その何もかもがアスナの記憶通りだった。
 アスナはキリトの提案に従い、彼の後について来た。
 正直何処をどう歩いてきたのかなんて覚えていない。
 頭の中がぐちゃぐちゃで、訳が分からなかった。
 そんな現実を信じたくない気持ちで一杯だった。
 前にも同じようなことを考えた気がする。少なくとも初めてではない。
 ならば杞憂だと思うことは簡単だが《今度こそ現実》だったら、と思うと怖くなる。
 目の前にある背中が近くて何処か遠い、そんなことばかり考えていた。

「会議は四時からだ」

「……うん」

「……」

「……」

「……大丈夫か? 顔色が少し悪い気が、するんだけど。いや、SAOはフェイスエフェクトが過剰だから、さ。うん」

 彼の心配するような声が、少しだけ嬉しい。
 同時に、この上ないダメージとなる。
 彼の知らない人間に対するような気遣いを自分が受けている、というのはどうにもアスナの心を乱れさせた。

「珍しいナ」

 そんな時だ。
 これまたアスナにとっては覚えのある相手が現れる。
 この時点では面識などほぼ無かった……はずの相手だ。
 全身を麻布で覆い、隙間から見える防具は革製のもので、小型のクローを装備し、腰には投げ針が見え隠れしている。
 鼠のアルゴ。
 アインクラッドの情報屋として凄腕のプレイヤーだ。

「アルゴか」

「キー坊もついにソロを卒業カ」

「残念ながらそういうわけじゃない。で、何のようだ? もしかしてまた例の件か?」

「……話して良いのカ?」

 アルゴはちらりとアスナに視線を向けるが、キリトが「構わない」と頷くとアスナのことは気にせずにアルゴは話始めた。
 既に何度目かになるキリトの所有するメインウェポンを買い取りたいという交渉話。
 現在キリトの剣はクエスト報酬で手に入るアニールブレードを使用している。
 現在の剣のプロパティはアニールブレード+6(3S3D)。
 その話をぼんやりと聞きながら、アスナはこの当時は数字やアルファベットの意味がわからなかったな、などと思い出す。

《鋭さ(Sharpness)》《速さ(Quickness)》《正確さ(Accuracy)》《重さ(Heaviness)》《丈夫さ(Durability)》

 その意味を知ったのはもう少し後だったはずだ。
 ……じゃあなんで今の自分はその知識がある?

「二万九千八百コルまで出すそうダ」

「ニーキュッパ、ときたか」

「応じるカ?」

「……いや。……その依頼人の口止め料は1kコルだっけ?」

「上乗せするのカ?」

 1k。kとは千のこと。
 そんな常識さえ、この頃は知らなかった筈だ。
 では何故今その意味が理解出来る?
 夢で見たにしても、知らない知識を先に得ているというのは些かおかしくはないだろうか。
 いや、最初に熟読したSAOのマニュアルに説明があって記憶の片隅に引っかかっているという可能性もあるのだろうか。
 アスナはぼんやりと内向的な思考の渦に巻き込まれていた。
 そんなアスナを、一瞬現実に引き戻させる言葉がキリトから放たれる。

「いや、止めとくよ。何だか馬鹿らしいし。でもどっかの女性プレイヤーが俺のパーソナル情報をお買い求めになった時はその情報をくれ、相手の情報買うから」

「……え? えええええ?」

 ぼんやりしていたアスナの思考がキリトの言葉で一瞬クリアになる。
 彼の情報を女性プレイヤーが買ったらその情報を買う。
 買ってどうするの!? という疑問は尽きない。尽きないが、

(私、何回キリト君の情報買ったっけ……!?)

 過去の自分を顧みて、その回数や内容に唖然となる。
 それらが全て筒抜けだったのかと思うと羞恥心は天元突破してしまう勢いだ。
 どうしよう、と思っても後の祭りである。
 アスナが頭を抱えて悩んでいると、アルゴとキリトが奇異なものでも見るような視線を送ってきた。
 特にアルゴの目は「面白い情報を見つけたゾ」という怪しい輝きも混じっている。
 しまった、と気付いた時には再び時既に遅し。アルゴと話せばその倍の情報は持って行かれるとは良く噂になったものだが、まさにその通りだった。
 経験が無いわけでは無いのにうっかりしていた……と思ってから違和感。
 経験がある?
 そうだ、記憶の中にはこの情報屋アルゴとのたくさんのやり取りも残っている。
 だとするとこれはやはり現実ではない?
 これが現実なら彼女の事をアスナは殆ど知らない筈なのだ。
 もしそうならキリトは実際に女性の情報を買う、などとは言っておらず、また買ってもいないのかもしれない。
 僅かだが希望が見えてきた。
 よし、と片手で小さくガッツポーズを作って顔を上げると、そこには既にアルゴはいなかった。

「あいつならもう行っちまったけど」

「あ、そうなんだ……」

 何となく先の目つきが頭から離れないが今は気にしないことにする。
 これが夢ならいくら気にした所で関係のないことだ。
 ……多分。

「さて、と」

 キリトは《右手》を振ってシステムメニューを呼び出した。
 それを見てハッとする。念のためアスナも同じように右手を振ると、問題なくシステムウインドウはアスナの目前に呼び出された。
 それでここは、SAOなのだと実感する。例え、夢の中の世界だろうと《設定》はSAOなのだと。
 アスナは開いたウインドウから所持アイテムやステータスを確認した。
 当時の自分はこんなものだったかな、と既に霞の向こうにある自分のステータスを思いつつ、装備武器である《レイピア》とその在庫に苦笑した。
 そうだ、当時はレイピアを五本持って迷宮に篭もったりなどという無茶をしたものだ。
 そこで思いだした。
 キリトの言う無茶とはそのことだったのだと。
 言うなればこれは彼とのファーストコンタクト。
 それを思い出すかのように明晰夢として見ているかもしれない。

「アンタも食べるか?」

 キリトの誘うような声に振り向くと、懐かしいクリームの瓶がそこにはあった。
 あれは記憶にある。
 あれのおかげで久しぶりにまともなものを食べた、と思えたものだ。
 彼には断った手前内緒にしていたが、実はあの後こっそりクリーム欲しさにクエストをやりに行ったりもしたのだ。

「《逆襲の雌牛》……」

「なんだ、知ってるのか」

「……まあ、一応は」

 キリト君が教えてくれたんだけど、とは喉まででかかったが止めた。
 同時に今の会話でこれは九割九分九厘夢だと確信した。
 自分がこのクエストを知ったのは彼に教えてもらったからだ。
 でなければ知り得ない情報。それを知っていて尚かつ情報が正しいということは、かつて本当に彼に教えて貰ったという事に外ならない。
 その自信をアスナは強めた。
 アスナは目覚めてから初めてようやくホッと息を吐き、彼が座ったベンチの隣に腰掛けて自分も価格一コルという格安のパンを取り出した。
 キリトが置いたクリームを「もらうね」と一声かけて付けさせて貰う。
 それで使用回数を終えたクリームの瓶は星くずのようなライトエフェクトを散らして消えていき、アスナのパンにはべったりと美味しそうなクリームが塗りたくられた。
 迷うことなくそのパンを一口含むと、堅くてお世辞にも美味しいとは思えなかったあのパンが柔らかく甘いパンへと変貌しているのがわかった。
 初期の頃は主食にさえしていたこの懐かしい味に少しだけ感動する。
 いつの間にか食べなくなっていたこの味。しかし一度食べるとつい食事が捗ってしまう味だ。
 当時、美味しいモノを食べに来たわけじゃない、と意地を張った自分が酷く馬鹿らしい。
 あっという間にパンを平らげてしまい、空を掴む手を見つめる。
 それは間違いなく自分の手であり、同時に間違いなく本物ではない。
 仮想世界の構成物は全てデータによる再構成によってできた紛い物だ。
 いや、紛い物と言うには今回は少し語弊がある。
 これは現実ですらない自らの脳内世界。故にこれは現実ではないが偽物でもない。



 ────そう、これは非現実であっても偽物ではない。



 この夢は、本当にあったことの再現だ。
 記憶の片隅でちかちかと明滅するように既視感がちらついている。
 それを証明するかのように、彼について行った広場での攻略会議の流れはキバオウのことも含めて知っているものだった。
 今は亡きディアベルによる召集。もし彼が第一層で失われなければその後の攻略はどうなっていたであろうか。
 なんとなくそんなことを考える。
 彼が死ななければそのカリスマ性によって攻略組でも中枢を担うギルドを立ち上げていたかもしれない。
 何より、キリトが《ビーター》になることも無かったかもしれない。
 いつ覚めるかもわからない夢の中でいくら言おうと詮無いことだが、考え出すと吹き出す水のように止まらなくなる。
 だから、気が付かなかった。

「あのさ」

「うん」

「いつまでついて来るんだ?」

「うん……え?」

 会議が終わった後、アスナは知らずにキリトの背中を追いかけていた。
 そこに考えがあったわけではない。無意識の産物だった。
 考え事に集中しすぎて、勝手に自然な、慣れた行動をとってしまったのだ。
 キリトの少し困ったような顔にアスナは現状を思い出す。
 本来ならこの後はお互いそれぞれの宿に戻るのが常だ。
 最近はいつも一緒だから《別々の宿》という思考が無かった。
 そういえば昔はそうだったな、と思い出したようにアスナは内心で納得する。
 昔はそれが当たり前だったし、彼はとことん図太く、また鈍感だった。

 ……あれ?

 フッと《何か》が頭をよぎる。
 なんだかとても《大切なこと》のような気がした。
 一瞬思考に引っかかったそれ。それは、ここで《気付かねばならない何か》ではないかと予感が奔る。
 いや、もしかしたら今自分は《それに気付くために》この夢を見ているのではないだろうか。

「おーい?」

「あ……」

 またもキリトの訝しむ声に考えを霧散させる。
 とりあえず今は宿のことを考えねばならない。
 夢の中で寝床を考えるというのはなんとも馬鹿らしいが、まだ夢が続くなら必要なことではある。
 とは言ってもアスナは第一層に関してのみ宿屋事情には詳しくなかった。
 知らない、と言い換えてもいい。
 アスナはキリトに教えてもらうまで《INN》と表示のある宿屋にしか顔を出さず、その宿屋の部屋はどこも彼女の満足のいくものではなかった。
 第二層からはキリトに言われた通り《INN》と看板がついている所以外の上宿を探すようになったのだが……とそこで思い出した。
 確か彼にそのことを教わったのは丁度今時期である。
 この勘と記憶、そして夢の再現率が正しいのなら今の彼の宿泊先は《あそこ》のはずだ。

「キリト君はどこに泊まってるの?」

「俺は農家の二階をまるまる借りてるよ。結構広いし二部屋あってミルク飲み放題のおまけつき。ベッドもデカイし眺めもいいし風呂までついてるんだぜ」

 フフン、と自慢げに鼻を高くする彼に、再び頭の片隅を針で突かれるかのような《何か》を感じる。
 まるで《気付け》と心が警鐘を鳴らしているような気がしてならない。
 だが今はそれよりも記憶の正しさによる喜びが勝った。
 そう、彼の今借りている部屋は《広くて風呂付き》なのである。

「ねえ」

「なんだ?」

「良かったらそこに私を泊めてくれない?」

「……えっ」

 キリトはかなり驚いたような顔をし、次いで訝しむようにアスナを見つめた。
 そこで気付く。アスナにとっては何でもないことのような提案だが、《今のキリト》にとってはそうでもないだろう。
 彼にとって自分はまだほとんど知らない女性プレイヤーでしかないはずだ。
 夢の再現率が高いなら、断られてもおかしくない。
 これまでのお誘い断られ率や逃亡率を頭の中でざっと計算するとその可能性は著しく高いことが予想された。
 というか最初はよくよく断られていたなあ、という過去を思い出して少し暗くなる。
 避けられているのかも、と仮想の枕を濡らした日も──実際には濡れないが──両手の指では足りないだろう。
 彼の探るような視線に、アスナは胸の奥がズキズキと痛む。
 彼はこの世でもっとも信頼している人だと言ってもいい。その人にこうも疑いの視線を向けられることは夢の中と言えど悲しかった。
 これ以上その目を向けられるのは辛い。そう思ったアスナは早々に切り上げることにした。
 宿など適当に探せばいい。どうせ夢なのだ。それこそまた迷宮区の安全地帯で休んでしまおうか。
 アスナはそう心を決めた。だから、

「わかった、良いよ」

「……えっ?」

 続くキリトの言葉には、驚かされた。





 霞の中に埋もれつつある記憶群の中に、徐々に迷彩を取り戻すように景色が浮かび上がっていく。
 案内されたそこは、あっという間に色彩ある記憶の中そのままの場所だった。
 トールバーナの東の牧草地沿いにある農家の大きな家。
 敷地の脇には小川が流れ、水車がごとんごとんと音を鳴らして回っている。
 かなり大きめの母屋で、厩舎と合わせれば現実世界のアスナの家とそう変わらない大きさだった。
 家に入るとにっこり笑って出迎えてくれるNPCのおかみさんにアスナは軽く会釈しつつキリトに続いて階段を上る。
 突きあたりに一つしかない扉をキリトが開錠して開け、「どうぞ」と促されてアスナは懐かしい部屋に踏み込んだ。
 「適当に座っててくれ」と言われ、アスナは大き目のソファセットの一つにゆっくりと腰掛けつつ辺りを見回した。
 あの時はまじまじと見る心の余裕が無かったが、改めて見ると良い部屋だと実感する。
 およそ二十畳程度。東にある寝室も似たような広さのはずだ。
 そして極めつけはやっぱり何と言っても【Bathroom】のプレートが下がったドア。
 恐らくは第一層の宿のなかで一、二を争う上宿ではないだろうか。
 アスナがそんなことを考えているうちに、コトンと目の前にミルクの入ったグラスがテーブルに置かれる。
 対面のソファにキリトも腰掛け、彼は少しだけ言い難そうな顔をした。
 一度ごくり、と喉を鳴らしてから意を決したように口を開く。

「えっとさ、君に聞きたいことがあるんだけど」

「なあに?」

「……なんで俺の名前、知ってたのかな」

「……!?」

 ドクン、と心臓が跳ねる。
 果たして今のは仮想のものか、それとも現実のものかと考える暇は今の彼女にはない。
 そういえば、彼の名前を知ったのは第一層攻略時だったと今更ながらにアスナは思い出す。
 彼の疑問はもっともだ。よくよく考えれば今の自分たちはお互いの名前さえ知らないはずなのだ。

「……えっと」

「アスナ、私の名前」

「アスナ、さん?」

「さんはいらないよ」

「じゃあ、えっとアス、ナ」

「うん」

「なんで、なのかは言えない、かな」

「……」

 言っても良い。
 言ってしまっても構わない。
 それによって何が変わるわけでもない。
 でも。言ったことによって彼に「大丈夫だろうかこの人」といったような目で見られるのは嫌だった。
 「私は今夢を見てて、この先のことも全部わかってるんです」と言ったところで「ああそうだったんですか」となるわけもない。
 十中八九奇異な目で見られるだろう。
 例え夢の中でも、彼にこれ以上そういう目で見られるのは避けたかった。
 だから、せめて誠意は見せないと。
 夢の中でも、夢として割り切って彼相手にアスナは好き勝手なことはしたくなかった。

「言えない、か」

「……」

 アスナは再びの問いかけに時間がかかりながらもコクンと頷いた。
 キリトの顔は複雑そうだ。当然だとは思う。
 なので早速誠意を見せることにする。

「私、キリト君のことを騙そうとか思っている訳じゃない」

「……」

「信じられなかったら私のアイテムストレージの中身をコルも含めて全部渡してもいいよ」

「!? い、いやそこまでしなくても……」

 アイテムをコルも含めて全て渡す、というのはSAOでは自殺行為に等しい。
 そこまでやる人間はそうはいないだろう。
 流石にこれにはキリトも慌てて、首をぶんぶんと振る。
 そんなことまではしなくていい、と。
 そこでキリトは「あ!」と思い出したようにウインドウを開いてスクロールし、一つの武器をオブジェクト化させた。

「レイピアを何本も持つより、一、二本は予備にして一つ強いメインウェポンを持った方がいい。丁度ドロップした新品の良い細剣があるから、譲るよ」

「……これは」

 アスナの目が、キリトがオブジェクト化した剣に釘づけになる。
 その剣は、アスナがSAOでの相棒だと決めていた剣だった。
 最後の最後まで、その《魂》は共にあったと言える。
 アスナにとって人として相棒がキリトなら、物としての相棒はそれだと言っても良い。

「《ウインドフルーレ》。結構軽いことが特徴の細剣(レイピア)だよ。あとで強化しに行こう。四回くらいまでならほぼ間違いなく強化できると思う」

「……ありがとう」

 アスナは差し出された剣を受け取ってギュッと抱きしめる。
 キリトは意外な行動に慌てているようだが、今だけはそんなキリトの事を考えず腕の中の剣に意識を集中した。
 既に、失われてしまった剣。
 いつも一緒だった最高のパートナー。
 これがあったから最後まで戦い抜けた。
 今なら、そう言い切れる。
 しばらくアスナは剣を抱きしめていたが、やがてアイテムストレージに収納する。
 アスナが顔を上げると、キリトは既にからっぽのグラスをごくごく飲むふりをしていた。
 ぷっ、と吹き出してしまう。そういえば、彼はそんなユーモラスなところがあった。
 緊張に押しつぶされるとおかしくなったり逃げたりするのだ。
 以前「対人熟練度は激低なんだ」と言われて笑ってしまったほどだった。





 アスナの腰には、懐かしいウインドフルーレの四段階強化バージョンがあった。
 ウインドフルーレ+4(3A1D)。
 《正確さ(Accuracy)》を三段階、《丈夫さ(Durability)》を一段階強化している。
 クリティカル率にそこそこのボーナスがつく強化値だった。
 あの後、気まずい時間を僅かに過ごし、空気を変えるためにアスナは再びお風呂を借りた。
 しかしウインドフルーレの嬉しさの余りうっかり忘れていたことがあった。
 アルゴの訪問である。アスナは再び入浴中にアルゴに風呂場に侵入されるという珍事件に巻き込まれてしまった。
 今も耳に残る「わあア!?」という声とキリトの目を丸くした顔。
 ただ以前とは違って《そういう関係》になっていたせいか、彼に対しては前ほどの羞恥心ではなかった。
 と冷静に自己分析したところでリアルでの初体験のことを思いだしてしまった。
 まさか彼の妹と事後に鉢合わせるとは思っていなかった。
 それだけならばまだいい。いやよくはないが、まだ立ち直れた。
 しかし二人で彼の部屋に戻った時に立ち上がっているディスプレイを見た時には本当に動けなくなったものだ。
 彼を責める気にはならなかった。どういう状況になっているかは前もって聞いていたことがあったし、それは娘の為だったのだから。
 彼のPCが起動中はユイも自由なのだ。部屋にあるカメラで彼の部屋を見たり、PC備え付けの集音マイクから部屋の音や声を聴ける。
 だから彼が部屋で彼女に呼びかければいつでもユイは返事ができるようになっていた。
 カメラ作動中はモニターがスリープ状態から切り替わるが、集音マイクオンリーの場合は一定時間後スリープになっても稼働し続けている。
 あの日は、《空気を読む》という自己学習を既に会得してしまっているユイが息を殺して音だけ聞いていたというなんとも恥ずかしい結果になってしまった。
 あの日以降、《次》にやるときは《ホテル》に行くことになった。
 もっともホテルに入るには場所によって少々勇気が必要だったり学生の身では高かったりと問題はあったのだが……閑話休題。
 キリトは隣をやや距離を空けて歩く。
 そこまで離れなくても良いのだが、と思って近づくと彼はまた同じように距離を取る。
 当時の自分ならそれぐらい離れている方がきっと良かったのだろうが、今となってはその距離は遠く感じてしまう。
 手を繋いで歩ける距離。それが今のお互いの距離のはずなのだ。
 そう思うと、少しだけ切なくなる。手を伸ばして彼に触れようとしてみるが、気付いているのかいないのか、彼の速度はまた少し上がって手は空を切ってしまった。

 彼の部屋に戻ってくると、キリトはアスナにベッドを勧めた。
 自身はソファで寝るからと言われ、やはり距離感を感じてしまう。

「ベッド大きいし、一緒に寝ても良いよ」

 それによって思わずした提案は、キリトを固まらせ「ちょっと出かけてくる」と彼の部屋からの逃亡を許す結果になってしまった。
 ズダダダ! と凄い勢いでいなくなる彼の速度は第一層ではちょっと考えられないAGI(敏捷力)だったが、深くは考えないことにする。
 深く考えると余計なことを考え過ぎて暗くなりそうだからだ。
 アスナは苦笑してソファに座り、彼の帰りを待つことにした。
 もう良い時間のはずだが眠気はこない。夢の中なのだからそれは当然なのかもしれないが、夢の中で何もすることがないというのも暇なものだ。
 なので目を閉じてゆっくりと思考の海に埋没する。
 今できることといえばそれぐらいしかない。
 今自分が見ている夢の意味。それを考えてみる。
 必ず、とは言い切れないが、何か意味があるような気がしてならないのだ。
 先ほどから時々チクチクと記憶の片隅を突くように訴えられているような気もする。
 もう少し、もう少しでそれが何なのか掴めそうな気がする。

 ……キィ。

 そうしているうちにキリトが戻ってくる。
 それを気配で感じつつも、アスナは目を開けなかった。
 キリトの戸惑う気配が伝わってくる。
 こんな時、彼がどうするのかアスナは知り尽くしていた。
 スッと力強い腕に抱きあげられる浮遊感。
 案の定、キリトはアスナを抱き上げベッドに連れて行った。
 目を閉じているだけのアスナはそれを感覚だけで理解する。
 夢の中でも、初期の頃でも、やっぱりキリト君はキリト君だと思う。
 キリトはアスナを優しくベッドに寝かせると、寝室を出て行った。
 ここまで全て予想通り。しいて言えば願望はここでそのまま彼も眠って欲しかった、ということくらい。
 閉じられた戸をアスナはジッと見つめる。
 あの戸の向こう、先ほど自分が座っていたソファに恐らくキリトは身を横たえて眠るのだろう。
 夢の中の住人である彼が眠れるのかは知らないが、その姿を想像すると無性に可愛らしく思えてきた。
 本当なら近くにいって観察したいが、今の彼は恐らく自分がここから出たら気付いてしまうだろう。
 それはいけない。夢といえどこれ以上彼に迷惑をかけるような真似はしたくない。
 だからアスナはぱっちりと開いた瞳で戸を凝視し続ける。
 そこに彼がいると想像しながら。



 眠気は、まだ来ない。



[35052] 追憶のSAOP1-2
Name: YY◆90a32a80 ID:b9264a49
Date: 2012/12/19 19:10


「はっ!」

 細剣用ソードスキル、その基本技である《リニアー》の突き。
 鋭く身体を捻り、同時に仮想の肉体で物理的ブーストを加えることによって従来生み出されるシステム技よりも数段上の威力を叩き出す。
 第一層迷宮区に入って、この一撃から二撃で沈まないモンスターは殆どいなかった。
 キリトも驚いたようにアスナを見つめる。

「たいした威力だな。昨日よりキレが数段上がってるんじゃないか?」

「そうかな? だとしたらこの剣のおかげだよ」

 アスナはウインドフルーレを優しく撫でて惚けたように返すが、ある意味でそれは当然なことだった。
 アスナの戦闘におけるシステム外スキルは攻略組七十五層段階でもトップクラスに位置していた。
 それほどの戦闘経験は低層フロアにおいてこの上ないアドバンテージとなる。
 自分でも当時の自分より技のキレが上がっている実感はあった。
 昨夜から結局一睡もしなかったアスナだが、不思議と眠気は襲ってこない。
 そんな時、キリトは昨日の会議で決まったボスの情報収集について、可能なら自分の目でも出来るだけ確かめておきたいと言い出した。
 これから迷宮へ行くが君はどうする? と尋ねられたアスナの答えは決まっていた。
 共に迷宮へと赴き、戦う。それ以外の選択肢は考えられなかった。
 第一層迷宮区はアスナにとって既に攻略済みの場所だ。経験済みであるという事実はそれだけで戦闘においてかなり優位に立てる。

「もしかして君は、いや、君も……だとしたら……」

 アスナがウインドフルーレの刃を腰の鞘に戻していると、キリトが少しだけ考えるように呟いている言葉が聞こえた。
 だが、すぐに彼は首を振って口を閉じる。
 アスナにはなんとなく彼の言いたいことが想像できていた。
 恐らく、彼はこう言いたかったのだ。
 「君もベータテスターなのではないか」と。
 しかしそれにはかなりの抵抗があるはずだ。いや、あるいはアスナの中で彼は《抵抗があると思っている》のだ。
 ここが自身の夢の中なら、自身の知りえる情報からしか再現されないはずだ。
 つまり、自分は彼がベータテスターであるという事実を語ることに苦を感じていると認識していた事になる。
 そこまでまじまじと考えたことは無かったが、こうして夢と言う形でそれを見ると、案外強くそう思っていたのだなと知らない自分を自覚した。
 なので努めて明るい声を出す。

「さ、次へ行こうよ」

「ああそうだな」

 それに応えるようにキリトも背中の鞘に片手剣をチン、と小気味よい音を立てて戻した。
 かつても思ったことだが、彼は戦うのが上手い。
 今の彼は七十五層まで来た彼ではないはずだが、それでもこの第一層のプレイヤーとしてはやはり群を抜いているだろう。
 ベータテスターであることを差し引いてもその強さ、いや《上手さ》は驚嘆に値する。
 そもそも、ベータテスターが優位というのは本当に序盤だけの話だった。
 キバオウに対し、エギルが会議でも言っていたが、SAOにおいてはベータテスターが必ずしも優位とは言い切れない。
 むしろ知識があった分、最初の犠牲者の中にベータテスターは数多くいたことがしばらく後に公式的に情報屋が公表していた。
 知っている、わかっているという慢心から十分な安全マージンを取らない無理な行動を起こして結果最低最悪のしっぺ返しをもらうという悪循環。
 良くも悪くもそれに歯止めをかけたのはやはり彼、キリトだろう。
 彼のビーター宣言には恐らく多くの人が怒りを感じ、同時に心が一つになった。
 加えて、残りのベータテスターへの風当たりも弱くなる効果を孕んでいた。
 それを狙ってやったのだから、自称対人スキル激低の彼にしては頑張ったものだ。
 あるいは激低だからできたことなのかもしれないが、その代償は大きい。
 もし、《次》があるなら、そんなことはさせたくないと思う。

「……戦ってるな」

 キリトの声にハッとなる。
 視線の先では、ボス部屋の扉が開いていた。
 既に第一層迷宮区のボス部屋まで辿りついてしまったことに軽い驚きを覚える。
 彼と迷宮を一緒に駆け抜けた回数は実は然程多くない。
 しかし、そのどれもが不思議なことに普段より足が軽く感じるのだ。
 ボス部屋の中からは怒号が飛び交っている。
 しかし大きな緊迫感は感じられず、戦線は問題ないようだ。
 情報収集を買って出て担当しているのは会議を開催した張本人でもあるディアベル率いるパーティだ。
 彼らの偵察が済み次第、会議参加者によるチーム編成でボスを攻略する手筈になっていた。
 アスナは視線をキリトに向ける。キリトは首を小さく左右に振った。
 それにはアスナも納得する。と、そこで気付いた。
 意外なことにアスナのアイコンタクトは正確に伝わったようだった。
 遅まきながらそれについて気付いたアスナは少しばかり嬉しくなる。
 今のは「私たちも入る?」という質問に対し彼は「止めておこう」と言ったのだ。
 攻略戦前に無用な荒波を立てることはない。その件についてはアスナも賛成だった。
 ここで厚顔にもボス部屋へ侵入すれば間違いなく軋轢が生まれる。
 ここは黙って下がり、この後の会議で彼らの奮迅たる活躍を聞くことが望ましい。
 無論ディアベルのパーティが危機に瀕しているのならその限りではないが、どうやらその心配も無い。
 しかし、この夢と言うやつは再現率は気にするくせにアスナの意思や都合は無視するらしい。
 一通り偵察をし終えてしまったらしいディアベルチームが撤退もかねてボス部屋から出てきてしまい、バッタリと鉢合わせてしまった。
 キリトとアスナの二人に気付いた一人の茶色いサボテンのような頭をしたプレイヤーは険しい顔でこちらに近づいてくる。

「偵察は終わりや、さっさとここから離れろや」

 背中には大ぶりの片手剣が一つ。放たれる関西弁からは敵意さえ感じられる。
 アスナにはこの男に覚えがあった。昨日の攻略会議ではもちろんその後の攻略においても因縁の相手であったと言える。
 キバオウ。今後開かれる攻略会議でも彼とは幾度と無く衝突した。
 もっとも彼は途中からは殆ど攻略に参加しなくなり、軍と合流して組織強化に力を入れだして以降は直接の関わりはあまりなかった。
 最後の記憶では、その横暴さから軍にも居場所がなくなりつつあった、ということくらいだろうか。
 そう言えば、その決定打になったのは彼が罪をキリトに擦り付けようとしたことだったと思い出す。
 ……なんだかイライラしてきた。

「何処でレベリングしていようと自由でしょう」

「あんさんらが勝手にボス部屋に入ってまうかもしれないやろが。まあたった二人でどないできるとは思えんけどな」

 嫌味たっぷりに口端を釣り上げて言うキバオウに、アスナは益々内心のボルテージが上がった。
 思えば当時は血盟騎士団の代表として事を荒立てないよう最低限気を使っていた為、それが相手をどんどん付けあがらせてもいた。
 恐らく、こちらが女の身であることも理由の一つだったのだろう。
 一度「所詮おなごの言うことや」と会議中に言われた時は抜刀しかけたものだ。

「じゃあいちいち言う必要は無いでしょう」

「なんや、こっちは親切で言ってやってんのやで、ねえちゃん。こないな奴と一緒にいるとええことないで」

 キバオウの睨み付けるような視線がキリトを射抜く。
 キリトはキバオウの敵意剥き出しの視線に戸惑い、目を逸らした。
 この時点でキリトにキバオウとの面識はほぼ無い。
 昨日の攻略会議で見た程度、だと聞いている。
 しかし、彼の身の上──ベータテスターであるという事実──から どうやらベータテスター排斥組の急先鋒らしいキバオウにはあまり関わりたくないようだった。
 それは同時に、ベータテスターであり情報の独占に走った経緯のある自分を責め続けていることの証だろう。
 SAOがクリアされるまでそれは彼の中の楔としてあり続けていた。
 いや、恐らくは今もあり続けているのだろう。彼はそれを強く重い罪だと自覚している。
 もしかすると、月夜の黒猫団の件がより一層そうさせているのかもしれない。

「キバオウさん。それ以上は止めよう」

「……ケッ」

 ディアベルが間に入り、場を取りなす。
 やはり彼は上に立つ物の器ではあるのだろう。
 以前キリトに彼の事を聞いた時、彼がいればもっと早く攻略は進んでいたかも知れないと零したことがあるのをアスナは思いだした。
 その時のキリトの顔は何処か儚く哀しげだったのを印象深く覚えている。
 その目は故人を偲ぶ物とは、少し別な何かのような気がした。

「さて、君たちもボス部屋に入るのは出来れば遠慮してもらいたいかな。万一にも攻略戦に戦力が減っていては成功確率や士気が落ちてしまう。疑うワケじゃないけどいつ不運なアクシデントが起きるかなんて誰にもわからないんだ」

「今ボス部屋に入る気はないよ。心配ない」

 キリトがやんわりとディアベルに答え、ディアベルは満足そうに頷いた。
 それじゃあ後で会おう、とさわやかな笑顔と別れの言葉を残して彼らは離れていく。
 彼らを見送りながら、アスナはキバオウに苛立ちを覚えていた。
 思えば彼はいつもいつもキリトにつっかかってはいた。
 攻略層一桁台はまださほどでもなかった。
 彼の力、知識が突出していたせいもあるだろう。
 敵に回したくない、敵対勢力に取り込まれたくないという思いが強かったに違いない。
 だが二桁に入ってからはその均衡もかなり崩れた。
 今思えばあの辺りではすでにベータテスターであることの優位性は皆無だったと言える。

「アスナ、俺たちも戻ろう」

「え? あ、うん……そうだね」

 キリトの声にアスナは考えるのを止めた。
 考えても詮無いことだ。
 アスナはキリトの隣、その半歩後ろに定位置を取った。
 真横に立つとキリトが無駄に緊張してしまうのだ。
 初心とも取れる態度だが、アスナにとっては避けられているような錯覚が起こり少々心が痛むものがある。
 迷宮区で寄れる限界位置が試行錯誤の結果現在はここまで、という理由からアスナは今彼の半歩後ろを歩いている。
 戦闘に関しては問題なかった。アスナは元より、キリトもこの時点で十分な安全マージンを取っている。
 第一層迷宮区で遅れを取る二人ではなかった。
 ただ、それでも戦闘においてアスナは満足のいく戦いが出来なかった。
 彼と一緒に狩りをするときは、よくよく《接続》する感覚が得られるのが常だった。
 全てが一体になったかのような連結感。
 文字取り一つになっている錯覚さえ起こることがあり、それが強ければ強いほど《心地よい》と感じる事が出来る。
 しかし、これが夢の中のせいなのか、それとも付き合いの身近さ故なのか、《接続》は一度たりとも起こっていなかった。
 戦闘は効率的に無駄なく行えている。危険も殆ど無い。
 しかし《満たされる》と思える程の質の高い戦闘は経験出来なかった。

 トールバーナに戻ってきた所で、キリトは少しだけ申し訳なさそうに切り出した。
 これから人と会う約束がある、と。
 申し訳ないがしばらく宿には戻れないので、部屋には入れないから少し時間を潰してくれとのことだった。
 アスナが「アルゴさん?」と尋ねると彼は気まずそうに視線を泳がせる。
 正直すぎるキリトに苦笑しつつ、アスナは了解した。
 彼の背中が見えなくなるまで見送り、反対方面へアスナも足を向ける。
 正直に言って、アスナは嬉しかった。
 夢の中でも、彼がしてくれることは嬉しいと素直に思える。
 彼は今、今日も自分が彼の部屋に泊まることを自然に思ってくれた。
 それが嬉しかった。いや、夢なのだから自分の願望通りに彼が提案してくれているだけなのかもしれないが、妙に再現率の高いこの夢においてそれは喜んでも良いところだと思えた。
 だから、街の角でばったり《その男》と会ってしまったのは本当に不運だったと言わざるを得ない。
 先程のキリトの言葉が自分の願望なら、ここでこの男と会ったのも自分の願望ということだろうか。
 ……それだけはない、と言い切れる気がした。

「よう、ねえちゃん」

「……何か用?」

 自分でも驚くほど冷たく尖った声。
 当時の自分は須くこういった態度だった気もする。
 最近、いや、キリトと結ばれてからはめっきり出てくることの無かった氷のような自分。
 それが、キバオウという男の顔を見た途端、自然に溢れ出てきた。

「忠告したろう思てな」

「忠告?」

「せや、悪いことは言わんからあないな奴とは一緒にいるのを止めとき」

「……どういう意味かしら」

「ここだけの話やけど、あいつはベータテスターや。それも卑怯な手つこてボスのLA(ラストアタック)取りまくったな」

 キバオウの顔に苛立ちが混じる。
 だがアスナの苛立ちはその比では無かった。

「……何でそれを貴方が知ってるの?」

「とある人が教えてくれたんや。情報屋にえろう金払って仕入れた情報らしいで」

 本当にこれは自分の夢なのか、という疑問が起きる。
 夢とはよくよく記憶の整理や願望が現れやすいと聞いたことがあるが、これはそのどれにも当てはまらない気がする。
 我慢が、抑えがききそうにない。
 出来るなら、今すぐこの男をぶちのめしてやりたい衝動に駆られる。

「……何も知らないのね」

「何がや?」

「アルゴさんは絶対にベータテスターに関する情報だけは売らないのよ」

「な、なんやて!? そないな嘘……誰が信じるかい!」

 一瞬、表情が驚愕に彩られるも、すぐにキバオウは力強く否定する。
 そんなことはありえない、と。
 同時にアスナも心の底から意味は違えど同じ言葉を思う。
 そんなことはありえない、と。

「嘘じゃないわ。なんなら嘘かどうか聞いてみれば? お金なら私が用意してもいいわよ。いくらだって出してあげる。どうせ絶対に教えてくれないから」

「嘘や! さてはねえちゃんもベータテスターやな! だから……」

「じゃああなたもベータテスターね」

「ちゃうわ! ワイをあないな卑怯な輩と一緒にすなや!」

 彼の今後を知る身としては厚顔無恥も甚だしいと言いたいが、それはまだ起きる前のこと。
 今言っても信じられるわけもない。いや、そもそもこれは夢なのだから言ったところで意味はない。
 しかしただ黙っているのもアスナには耐えられなかった。

「どうやってそれを証明するの?」

「…………」

「もしかしたらあなたにそれを教えた人もベータテスターかもね。そうね、状況的にそれが一番ありえそう」

「そんなわけあるかい! あん人が!」

 これまで以上に強い否定の言葉をキバオウは上げる。
 それだけは絶対に無い、とキバオウは全幅の信頼をその人においているようだった。
 そういえば、記憶の中の彼や、今日の昼間の彼も、同じような目をある人物に向けていたな、とアスナは思い出す。
 その相手はディアベルで……と、そこでアスナは閃いた。

 当時、第一層フロアボスに最初に手を出し、やられたのは……ディアベルだった。
 何故彼はあの時一人で攻めたのだろうか。
 あそこは一人で攻めるべき時ではなかったようにも思う。
 あの時はそこまで深く考えなかったが、途端に疑念が湧く。
 彼のあの行動の意味。それは自身がボスのLAを、引いてはボスドロップのユニーク品を手中に収めるため。
 だとすると、ディアベルは物欲にまみれた人間だったということだろうか?
 あの……騎士(ナイト)ディアベルが? まさか、という思いはあるが……辻褄は合う。
 キバオウのバックにいるのは間違いなくディアベルだ。
 問題なのは、《本当にこの時点》でキバオウがキリトの過去を知っていたのかという一点。
 今のところ、夢の中の出来事において、齟齬はあっても偽りはない。
 最初に思った通り、これは夢──非現実なれど偽物ではない、と思っていいとアスナの勘が告げている。
 アスナの記憶から忠実に再現された過去夢。
 だと仮定すると、全ての事象はアスナが無意識的にせよ知っている、経験していることから構成されるはずだ。
 それらを全て正しいと踏まえると……アスナは思いもしなかった事実に思い当たった。

(え……本当にディアベルさんはベータテスターだった……?)

 キバオウにキリトの情報を教えた人物は十中八九ベータテスターであり、彼のバックはディアベルと見て間違いない。
 先の声の荒げようと心酔ぶりからも疑う余地はなかった。
 もしディアベルがベータテスターだったなら、キリトがベータテスターであった事実は知っている可能性はある。
 その情報をキバオウに流し、彼の動きを牽制して自身がフロアボスのLAを取る。
 しかしあの人はそんな狡猾な人には見えなかった。
 かといって、夢だから事実とは無関係だろうと思うこともできない。
 今の予想が事実なら、彼は自身のベータテスターとしての身分を隠しキバオウに接して唆していることにもなる。
 結果的に、それがその後のキリトを追い込むきっかけにもなった。
 彼、キリトはこの事実に気付いていたのだろうか。……彼のことだ、すぐに気付いていただろう。
 アスナは当時の彼を思い出して、確信する。あるいは、彼のビーター宣言はそのせいもあったのかもしれない。
 彼にそこまでさせるということは、やはりディアベルは悪い人間ではないのか。アスナには段々とわからなくなってきた。
 《あのキリト》にそこまでさせるディアベルというプレイヤーの人柄が。

「……っ!?」

 ズキッとこれまでで一際大きく頭の奥が刺激された気がした。
 今一瞬、《気付かなければならない何か》に限りなく近づいたような、そんな気がした。
 だが、相変わらずそれが何なのか掴めない。

「……チッ、交渉には応じへんか。まあええわ」

 キバオウはその時丁度突然届いたメッセージに舌打ちをし、悪態を吐きつつ軽く返信をしてからアスナに背を向ける。
 「忠告はしたで」と捨て台詞を吐いてみるみるその姿を闇夜に消していった。
 残されたアスナは、キリトが待っているであろう宿へと歩き出す。
 既に結構良い時間が経っていた。もう戻っていてもおかしくはない。
 なんだか、無性に彼に会いたかった。





 翌日。
 やっぱり眠気は来ず一睡もできなかったアスナは、ちゃっかり寝たふりをしてソファでキリトの腕を掴んだまま一夜を過ごした。
 彼は一晩中どぎまぎといろいろな抵抗──呼びかける、つつく、見つめる──を試みていたが、結局無理矢理振り払うことは無かった。
 その後はディアベルの招集で、過去の記憶通りボス攻略戦にキリトとペア……コンビを組み共に赴くこととなった。
 偵察戦は例によってアルゴの本により省略された。

 ──この時、アスナは少しだけ迷った。

 フロアボスにおいて、ベータ時代との変更点を自分は知っている。
 アルゴの本との相違点、それを言うべきか否か。
 これは夢だ。言ってしまえばいつ自分が目覚めてもおかしくはない。
 自然覚醒から始まり、キリトやユイ、果ては母親に現実で無理矢理起こされる可能性もある。
 言い訳をたくさん並べたが、結局アスナは言わなかった。
 理由は、これが夢ではあるが偽物ではないからだ。
 夢という事実を否定する気はない。しかし夢でありながら今見ているものは記憶の中にある過去そのものだ。
 全ては正しく再現されていると言ってもいい。ではここで自分がその知識を披露したところで信じる者がいるだろうか。
 答えは否だろう。外から見ていれば自分でも信じない。
 それどころか「おかしい奴」の烙印を押されてしまいかねないし、最悪ボス戦のメンバーから外される可能性もあった。
 さらに悪ければ何故知っていたのかの糾弾対象として吊し上げられる事も考えられる。
 ……この時初めて、アスナはベータテスターの気持ちがわかったような気がした。
 結局、攻略会議中に情報を開示出来なかったアスナは、戦闘中に行動でどうにかするしかないと決めていた。

 第一層、フロアボスは獣人の王(イルファング・ザ・コボルドロード)。
 青灰色の毛皮を纏った二メートルを超える逞しい体躯に血に飢えた赤金色に爛々と輝く隻眼、右手に骨を削って作った斧を持ち左手には革を貼り合わせたバックラーを装備している。
 腰の後ろには差し渡し一メートル半はあろうかという湾刀(タルワール)も携えていた。
 当初このボスはベータテスト時同様、四段あるライフゲージが四段目に入った途端腰の湾刀を抜き曲刀カテゴリのソードスキルを使うと思われていた。
 しかしアスナの記憶として鮮明に残っているのは、この層では強すぎるカタナスキルを駆使してくる最低最悪の初関門の象徴だ。
 取り巻きのルインコボルド・センチネルは三匹湧出(ポップ)し、以降HPゲージが一つ減る度に三匹再湧出(リポップ)する。
 四本目に入ると、常時四匹湧出(ポップ)するのはこの時点ではまだ誰も知らない。
 アスナは戦いながらどう上手く立ち回るかを考えていた。
 昨日からいろいろ考えたが、結局人間の人柄というものはいくら考えたところでわかるものではない。
 ましてや失われた相手なら尚更である。なのでディアベルの人柄については一旦置いておくことで決定していた。
 では今できることは何か。そう思った時に真っ先に思ったのはやはり彼、キリトのことだった。
 夢とはいえ、可能ならば彼に再び《ビーター》を名乗らせたなくは無かった。
 故に今為すべき事はディアベルの特攻を邪魔して、尚かつボスの変更点をみんなに知ってもらうこと。
 その為にはイルファングのHPが四段目に入る時、全員を一旦下がらせ、可能ならばカタナスキルの攻撃を止める必要がある。

「アスナ、スイッチ!」

 キリトがルインコボルド・センチネルの攻撃を弾いて隙を作る。
 当時、彼の動きには幾度も感心し、また一番の参考にしたものだ。
 夜、寝ている時でさえ復習には彼の動きをトレースし……あれ?

(よく考えれば私、当時からキリト君のことばかり考えていたんじゃない!?)

 思い返せば、彼の事を考えない夜に何をしていたか思い出せない。
 なんだそれは。いくらなんでもそれはないだろう。だが思い出そうとすればするほど記憶は霞どころか形さえ浮かんで来ない。
 
(~~~っ!)

 羞恥心から、放つ《リニアー》に力が入る。
 ソードスキルのシステムアシストのみに頼らない仮想肉体によるブーストが、昨日のそれよりも三割増で威力とスピードを嵩上げし、問題なくルインコボルド・センチネルを屠った。
 貫かれたルインコボルド・センチネルは宙へと押し上げられ、地面に着く前にはポリゴン片となって消える。
 それを見たキリトが苦笑する声が聞こえた。すぐに昔言われた「オーバーキル過ぎるよ」という言葉が思い出される。

「緊張しているのか? 無理もないけど冷静になれ。アスナは強い。そう簡単にはやられないからもう少し肩の力を抜いた方がいい」

 キリトの言葉にスッと羞恥に染まった顔……フェイスエフェクトの火照りが醒めていく。
 彼の言葉はいつもアスナに計り知れない恩恵をくれる。
 現状を再確認したアスナは、第一層という低層故に弛んでいた自己の感覚を再び研ぎ澄ますべく集中する。
 夢と言えど、手を抜くことは許されない。 
 ちらり、とイルファングを見れば、かつてのように危なげなく戦い、既に三本目のゲージが消えようとしているところだった。
 ここまでは予想、いや記憶通りだ。
 既定事項、とも言える。
 その時、近くでルインコボルド・センチネルを狩っていたはずのキバオウと一瞬目が合う。
 何やらキリトに耳打ちしていたようだが、その口元がニヤリと歪んだ。
 そうだ、前にもこの光景を見たことがある。あの時は何も思わなかったが、実はこの時、キバオウはキリトに対して「ベータテスターにLAは取らせない」というようなニュアンスの話をしたのではないだろうか。

「四本目!」

 ディアベルの叫び声が聞こえる。
 それを聞いたアスナはひとまずキバオウの事は忘れてイルファングに向かうことにした。
 「おい!?」というキリトの声もこの時ばかりは無視する。
 初撃を防いでカタナスキルを止めなければ記憶の中の二の舞だ。それを避けなければ彼──キリトがビーターとして名乗る未来が再び来てしまいかねない。
 アスナはかつてのように、出来る全速力を出すべく力一杯ボス部屋の床を蹴った。
 ドンッという音と共に勢いよくイルファングの前へ飛び出すアスナの様に、驚きの声が一様に上がる。
 我先にと飛び出しそうだったディアベルまでもが、その目を驚愕に彩られていた。

「武器が、おかしい!」

 力一杯叫びながら、アスナはレベル・スキル熟練度的に《まだ使用出来ないソードスキル》をイメージだけで再現する。
 ALOでキリトはシステムにないソードスキルの再現に成功している。
 ならば、自分にも出来ないはずはない。彼の背中を守ると誓った自分が、彼と大きく差を付けられては、意味がない!
 届け。
 届け届け。
 届け届け届け!
 ここで届かなければ、彼の傍にいる資格は自分にない。
 このカタナスキルの発動を止めなければ、再び彼にビーターを名乗らせてしまいかねない。
 なら止めないと。何が何でも止めないと!

「とど、けェ──────────────────────────ッ!」

 細剣突進技《シューティングスター》。
 システムアシストの無いそれは、一見してただの突進にしか見えない。
 だが、身体が覚えている。突進のスピード、威力。
 イルファングは既に湾刀(タルワール)だと思われていて、その実鍛えられ、研がれた鋼鉄の色合いの曲刀、野太刀を抜いている。
 知っている者なら一目見れば一目瞭然だ。輝きからして違う。あの《カタナ》を見て、粗雑な鋳鉄テクスチャの湾刀(タルワール)だとは思わない。
 しかし、抜かれてから気付いたのでは遅い。

 重範囲攻撃《旋車(ツムジグルマ)》。

 どうっと床を揺るがせ垂直に飛んだイルファングは、空中で脂肪たっぷりのような身体をぎりりと捻ってカタナ……野太刀の刀身に深紅の輝きをギラリと灯らせる。
 軌道──水平、攻撃角度──三百六十度のそれがもう間もなく繰り出される──その前に!
 アスナのウインドフルーレが左腰に見事にずっぷりと突き刺さる。
 紅いライトエフェクトが血飛沫のように上がり、イルファングは声を上げて苦しんだ。
 アスナの限界まで引き絞った突進突きは見事にクリティカルヒットしたのだ。
 強化によってクリティカル率を上げていたおかげもあるだろう。
 空中で体勢を崩したイルファングはそのまま真っ逆さまに床へと激突した。
 《転倒(タンブル)》状態だ。

「全員! 全力攻撃(フルアタック)!」

 素早く立ち直ったディアベルが指示を出す。
 ルインコボルド・センチネルはイルファングのHPが四本目に入った時新たに四匹湧出(ポップ)しているが、それらは一度皆無視した。
 一人を除いては。

「……っ!」

 キリトは唯一コボルドのヘイトを取り続けている。
 一人で二匹のコボルドを引き寄せ、戦っていた。
 その間にもイルファングのHPはみるみる減っていくが流石に消しきれない。
 ここにキリトの攻撃力が入ったとて消し飛ばすことは不可能だっただろう。
 ましてやキリトがコボルドの相手を止めれば四匹のコボルドが縦横無尽に動いてプレイヤーに無作為ダメージを与え、イルファングが復活した際に手痛いダメージのまま対面しなくてはいけなくなる。
 イルファングは転倒状態時間が終わったのか暴れるのを止め、すぐに立ち上がるモーションに移行した。
 アスナが「まずい」と思うより早く、ほとんどのプレイヤーは距離を取る。
 しかし、一人だけしつこく攻撃を続けるプレイヤーがいた。

「ディアベルはん!」

 キバオウの声が張り上がる。
 二撃程度は他のプレイヤーより多めに与えただろうか。
 だがその時間は退避マージンを使い切ってしまったことも意味する。

「いけない!」

 アスナはコボルド王、イルファングが構えるのを見て再び剣を構え突進した。
 あのモーションから繰り出される技をアスナは知っている。カタナ直線遠距離技、《辻風(ツジカゼ)》。
 居合系の技なので発動後に動いては対処が間に合わない。イルファングの構える野太刀が緑色の閃光を奔らせる。
 アスナは渾身のつもりの《リニアー》を軌道上に撃ち放つ……が、

「っ!?」

 緑の閃光は真一文字に解き放たれる。
 アスナのリニアーは少しだけ軌跡とずれていた。
 アスナの細剣(レイピア)は基本点の攻撃だ。それに対して野太刀は線の攻撃。
 点で線を捉えることは難しい。それでもアスナには自信がないわけではなかっただけにその驚愕は一入だった。
 夢だ、というのがかつての自分より判断力を鈍らせているのだろうか。緊張感が、足りていないのだろうか。

「ぐあああっ!?」

 ディアベルが吹き飛ばされる。
 アスナも少なくないダメージを受けるが、コボルド王はどうやら目標をディアベルに定めたらしい。
 再び構えるコボルド王に、ディアベルは体勢を立て直すのがやっとだった。
 ディアベルの瞳に、恐怖と驚愕が灯る。
 そこへ、

「お、おおお、オオオオオォォ────────!!!」

 キリトがまるで床すれすれを《飛翔》しているんじゃないかと思う程低く跳躍し、体を捻って渾身のソードスキルを放つ。
 片手剣基本突進技《レイジスパイク》。
 それによってコボルド王の放つ野太刀は弾かれ互いに二メートル近いノックバックを生み出した。
 アスナが素早く駆ける。かつても、この形で戦ったのだ。
 まさに閃光のような《リニアー》が突き刺さり、さらにぐいっとボスのHPが減る。
 あと二撃から三撃で決着がつくだろう。

「無茶するなアスナ!」

「了解! ごめん!」

「今はそれより先にあいつをやるそ! 手順は同じだ!」

「わかった!」

 キリトが再びボスの攻撃を相殺し、ボスをのけぞらせる。
 そこにアスナ……とディアベルの二人が攻撃すべく突っ込んだ。
 二人の刺突と斬撃を受けて尚、コボルド王のHPは僅かに残った。
 あと一撃。
 キリトの正確無比なソードスキルは見事に再び大きな野太刀をかち上げる。互いにノックバック。
 生まれる隙。そこを狙い澄ましたかのようにディアベルは飛び出した。
 彼の剣が振り下ろされる──より速く。

「セイッ!」

 アスナの、《閃光》という二つ名に相応しい光速の刺突がぶよぶよの丸い腹を貫いた。
 コボルドの王は動きを止め、僅かに振動してから大音響と共に幾千ものガラス片となって散らばる。
 アスナの目前には【You got the Last Attack!!】というシステムメッセージが立ち上がっていた。





 アスナは満足していた。
 夢と言えど、ボス攻略戦において死者を出さなかったこと。
 それはかつて攻略レイドのリーダーを任されたことのある身でもあるアスナにとっても大変喜ばしいことだ。
 次々に歓声や拍手が湧き起る。

「みんな、お疲れ様! やったな! 俺、みんなとなら絶対やれるって信じてたよ!」

 ディアベルの爽やかな声が、さらに全員の喜びを高めた。
 ピーピーと口笛を吹く者もいる。

「そして君が今日の立役者だ、ありがとう」

 ディアベルは片手をアスナに差し出した。
 握手をしようということなのだろう。
 アスナは少し迷いながらも自らも手を出してそれを受け入れた。

「強いな君は。どうだろう、良ければ今後一緒にパーティを組まないか? いや組もう絶対に! それがきっと今後の攻略に必要になってくるよ!」

 ディアベルの誘い。
 そこに、何故かアスナは良くないものを感じてしまった。
 視界の隅に、面白くない顔をしているキバオウが入る。
 そこで思い出した。ディアベル、彼への疑惑。
 今の戦闘でも最後までディアベルはLAを取りに来ていた。
 周りでは、いいぞー! 組め組め! 最高の最強コンビだー! と盛り上がっている。
 アスナはウインドウを呼び出して、たった今手に入ったものを選びオブジェクト化した。

 《コート・オブ・ミッドナイト》。

 艶のある漆黒のロングコート。
 それを見た途端、ディアベルがごくんと息を呑むのがわかった。
 アスナは内心で溜息を吐き、少しだけ彼の評価を下方修正した。
 彼の人間性に偽りは多くないのだろう。だが、やはり彼は理由はどうあれLAの為になりふり構わなかったのだ。
 途中から指揮らしい指揮をしなかった。目前の取れるかもしれないLAに目が眩んでしまったのだろう。
 その目的がどれだけ崇高であったとしても、人を蹴落として得た物には、きっとしっぺ返しが来る。
 そういった意味で、アスナは最初とは逆に、本来の攻略においてこの騎士がここでリタイアしていたのは実は良かったのかもしれないと思ってしまった。
 考え過ぎかもしれない。しかし彼は中心人物になれる素養があるのと同時に大きな問題を生みかねない危険な卵のような人だと思った。
 ディアベルの目は、物欲しそうに漆黒のロングコートを見つめている。僅かに期待もしているのかもしれない。
 これがかつての自分であったなら、恐らくこの場はレイドのリーダーであったディアベルこそがこれを持つべきだと譲っただろう。
 しかし、今のアスナにその気は無かった。何より、これが似合う人物は一人しかいない。
 アスナが辺りを見回すと、一人でぽつんと離れたところに立ってこちらを覗っているキリトを見つけた。
 全く持っていつもの彼らしい。勝手に転移門のアクティベートまでいかないあたりマダマシだろうか。

「キリト君」

 アスナはキリトに近寄り、首を傾げるキリトの肩に《コート・オブ・ミッドナイト》をかけた。
 キリトはきょとん、としているが、そんなキリトにアスナは微笑む。

「これは君に一番良く似合うよ」

 次々に文句がそこかしこで上がるが、アスナは気にしない。
 キリトは気まずそうにして辺りを見回し、肩にかけられた《コート・オブ・ミッドナイト》を脱ごうとするが、それをアスナは無理やり抑えた。
 ディアベルへ振り向くと、少しだけ昏い視線をこちらに向けていた。キバオウに至っては今にも怒り出しそうだった。
 だが、それでも構わない。
 この装備は、誰が何と言おうと彼、キリト以外には着て欲しくなかったのだ。
 アスナはキリトの手を取って駆け出した。目指すは第二層。
 ボス部屋にある扉を開けて、まだ小さい怒号が聞こえる中、狭い螺旋階段を勢いよく昇って行く。

「ア、アスナ、いいのかこれ?」

「良いよ。むしろキリト君にしか、使って欲しくない」

「……ありがとう」

 キリトの照れたようなお礼の言葉に、ピリッと頭の奥が刺激される。
 彼からは数限りなく心の籠ったお礼を言われたが、素直に言う事は実は珍しくもある。
 いや、珍しかった、だろうか。
 なんだか、凄く何かの核心に近づいたような気がして────急に意識が遠くなる。
 急速に視界はホワイトアウトし、頭の重みがもうすぐ現実で覚醒する事を予見させた。
 ああ、起きちゃうんだ……となんとなく理解する。
 できるならもう少しあのまま夢の中にいたかったような気もした。
 と、目覚める瞬間、聞き覚えのある声で何か話しかけられた。





 ────ママ、早く、早く気付いてあげて────────────










 目をバチッと覚ます。
 そこは現実ではなく仮想世界だった。
 揺り椅子の上。今度こそ記憶に違いなく最後に眠った場所である。
 キリトがまだ穏やかな寝息を立てているところを見ると眠ってしまってから時間はさほど経っていないのか。
 夢の中では数日経っていたような気がする、と思うと些か不思議な感覚だ。
 まるで夢の世界は《体感速度が違ったかのような》そんな気さえした。
 アスナはキリトの寝顔をしばし見つめて、彼の髪を優しく撫でる。
 そうだ、とアスナは思い立って辺りを見回すが、その視界に娘であるユイの姿は無い。
 目覚める瞬間、ユイの声を聞いた気がしたのだが。
 おかしいな、と思いつつアスナは揺り椅子から降りてユイを捜しに部屋を出る。

 一人揺り椅子に残されるキリト。
 彼は未だ定期的に寝息を立てている。
 と、そのうち小さく寝言を呟いた。


「第二層……? ビーター宣言を、していない……? 一体、どうなって……」



(SAOP2へ続く)



[35052] GGO1
Name: YY◆90a32a80 ID:b9264a49
Date: 2012/12/30 09:33


 十二月、東京都文京区。
 埼玉県川越市に在住のキリト/和人はめったに足を踏み入れる事の無かった地域へと来ていた。
 SAOに囚われ、解放されてからはいろいろな事情から東京自体には頻繁に通うようになっていたが、それでも一部地域のみの往復でしかない。
 そもそも和人は他人とのコミュニケーションを取るのが苦手だった。
 引きこもりと言うほどではないが、好んで人の多い場所へ行くほどアクティブな人間ではない。
 そういった意味でも、彼が単身未知の都心と言っても良い場所へ乗り込む図は非常に珍しかった。
 無論、彼は好き好んで自分からそのような場所へ来たのではない。
 可能ならば今すぐにでも回れ右をしてコンビニにでも寄り、暖かい缶コーヒーをカイロ代わりに買って電車に揺られながら自宅へ戻り、新品のアミュスフィアを装着してぬくぬくとした仮想世界のプレイヤーホームで仲間達と談笑していたい。
 それが許されるならどんなに良いことか。

「……やっぱ今からでも帰っちゃおうかな」
 
 白い息を吐きつつ、和人は折れそうになる心をなけなしの意志力によって無理矢理支え直した。
 今日、彼が未知の都心に赴いたのはある人物に呼ばれたからだ。
 和人は度々似たような呼び出しを受けては相談に乗ったり協力したりしている。
 無論頼まれれば断れないから、などという助け合いの精神がマキシマムなわけではない。
 では人付き合いが苦手で割と他人とはドライな接し方をしてきた和人が他人の頼みをこうも聞くのは何故か。
 答えは簡単だ。相手には借りがあるからである。
 菊岡誠二郎。元総務省SAO事件対策本部に所属していた役人で、一応は恩人と言っても良い相手だ。
 彼はSAOに監禁されたプレイヤー達のリアルを守る為に奔走した一人で、和人やアスナ/明日奈の担当でもあった。
 さらに言えば、本来はそう簡単に教えられないプレイヤーのリアル情報を、秘密裏にとはいえ一部開示してくれた人でもある。
 SAOで仲の良かったメンバーとリアルで連絡が取れたのは彼のおかげと言っても良かった。
 何より、明日奈が目覚めた時に駆けつけ、和人の病院を教えて連れて行ってくれたのも彼、となればこちらもそれなりにその恩に報いることには吝かではない。
 ……例え、胡散臭い人物だと思っていても。
 国家公務員だと言う菊岡誠二郎の現在の所属は、総務省総合通信基盤局高度通信網振興課第二別室と呼ばれる部署だ。
 省内での名称は通信ネットワーク内仮想空間管理課、通称《仮想課》だと聞いている。
 そこに偽りは無いだろう。
 だが、それだけではない何かを和人は感じていた。
 意図的に公表しない、あるいは出来ない裏がこの男にはある。
 証拠は無い。だが、簡単に全てを信じても良いと思えるほど和人は相手の事を知らないし、何よりSAOで培った人を見る感覚告げているのだ。
 この男の全てを信用してはならない、と。
 明日奈も似たような感覚を覚えていることから、付き合いを止めることこそしていないが心を許し過ぎぬよう警戒は厳にしていた。
 最近では仮想世界であるALOでもキャラクターを作成していて会う機会も増えている。
 クリスハイト──菊は英語でクリサンセマム、岡はハイトという安直な合成だが人の事を言えない和人はそこには突っ込まなかった──というプレイヤーネームで、みんなともっと仲良くなりたいと本人は言っていたがその裏では情報収集を謀っているのだろうと考えていた。
 どうにも彼の持ってくる協力依頼の問題がVRMMOの闇に触れるものが多いせいもあるのかもしれない。
 もっともそれについては《ザ・シード》の広まり以来仕事が増えたと泣き言を言ってもいるので、《ザ・シード》拡散者の隠れた筆頭である和人としては罪悪感が無いわけでもない。
 そういった経緯もあって直接何らかの迷惑を被らない限り和人はもうしばらく言いなりに甘んじるつもりではいた。
 少なくとも学生である──菊岡らが用意した学校へ通っている──間は。
 再び白い溜息を吐いて肩を震わせる。
 十二月ともなれば寒気も強くなってくる。
 上着のポケットに入れた手は出せそうに無い。
 どちらにしても話を聞いたら早く帰ろう、と決めながら待ち合わせ場所の高級喫茶へ足を急がせた時、《それ》が和人の目に留まった。
 壁一杯のショーウインドウ。よく磨かれたそれは展示物を曇り無く見せて、いや魅せてくれる。
 和人が目を惹かれたのはややアクセサリーに傾きすぎているお店のようで、ブティックと言うよりはアクセサリーショップ、それもブライダル関連に根深い店舗のようだ。
 普段ならそんな場所には目を向けることすらしない和人だが、どうしても目に入った《それ》が気になってしまった。
 和人は冷え切った空気にさらさぬようポケットに入れていた左手をおもむろに取り出し、ジッと薬指を凝視する。
 そこにうすぼんやりと《かつてあったシルバーリング》を幻視してからショーウインドウを再び見つめた。

「……似ている。あの指輪と」

 ショーウインドウの中にはいくつものアクセサリーが陳列されている。
 その中の一つに、この中ではあまりグレードが高くないらしく申し訳なさそうに薄く輝く指輪があった。
 それは、かつてアインクラッドで和人/キリトが用意した物とそっくりだった。
 鈍い光沢は存在の主張を控えめに。決して派手ではないそれはしかし、シンプルさ故に惹かれる物があった。
 アインクラッドの中でもマリッジリングは無数にデザインが存在するが、やはり現実同様凝った物になればなるほど要求されるコルも跳ね上がった。
 新居購入に当たって懐の厳しかったキリトはNPCショップにて迷いに迷った。財布と相談しつつ気に入る指輪を目を皿のようにしてシステムウインドウを眺めたものだ。
 場合によってはこっそり一人で迷宮に行って狩りを行い、予算を増やそうかと効率の良いコルの荒稼ぎポイントを脳内シミュレートまでしていた時、あの指輪を見つけた。
 思い出すといろいろと感慨深い。あの日、彼女は告白を受け入れてくれて……他人ではなくなった。
 仮想世界での《初体験》もあの日だった。
 思い出せばキリがない。それほど濃密な時間を彼女と過ごした。
 その為のトリガーだったと言っても良い指輪にそっくりなものが、今目の前にある。
 茅場晶彦がいかな天才だろうと全てのデザインを己一人で創出したわけではあるまい。
 オリジナルは無論多くあるだろうが既存のデザインを踏襲したものも少なくは無いはずだ。
 そう思うと、アインクラッドにあった指輪はこれがモデルだったのではないかと疑いたくなる。

「あの時、アスナは喜んでくれたよな……」

 決して忘れることのない彼女の涙。
 それは悲しいものではなく、喜びから来るもの。
 あの時は用意して良かったと心の底から思ったものだ。
 結婚の手続き自体は簡易的過ぎた為にそれは益々意味のあるものとなった。
 今となっては手続き前に指輪を嵌められなかったことも良い思い出である。
 そんな事を思い出しながら和人は値段を見てみた。
 学生の身でこのような高価なものは買えないだろうと思っていても、僅かに期待せずにはいられない。
 これを渡した時の彼女の顔が忘れられないのだから仕方がないとも言える。

「……えっと、ゼロが一、二、三、四……と十五……一、十、百、千、万、十万……いち、じゅう、ひゃく、せん、まん、じゅうまん………………」

 何度か数え直し、見間違いではない事を確認する。
 同時にガックリと肩を落とした。

「ジュウゴマン……十五万か……」

 金額──十五万円也。
 当然の金額ではある。
 むしろ相場としては安い方なのかも知れない。
 だが悲しいかな、学生の身には雲の上……天上のごとき金額である。
 手は残念ながら届かない。というかかすりもしない。
 和人は未練たらしく指輪を見つめながら、はぁ、と息を吐いてショーウインドウを白く曇らせ止めていた歩みを再開させる。
 わかっていたことだが、無理だ。悔しいが仕方のないことだ。
 いっそのことアルバイトでもしようか、と考えるが、学生アルバイトとなるとかなりの長期的なものでもやらないと目標額に届かせるのは難しい。
 アスナと会う時間も激減するだろうから、望ましくない。そもそもそんなことになれば彼女は悲しみ、理由を話せば一緒に働き出すと言いかねない。
 流石に自分の思いつきで彼女にそんなことまでさせたくはなかった。
 そもそも溜めている間に売れてしまってもう在庫はありません、なんて日には頑張る意味が無くなってしまう。
 こんな思いをするなら見つけない方が良かった、そもそも今日こんな所に来なければ……と和人は内心で今日自分を呼びつけた相手を罵りながら待ち合わせの店まで足を急がせた。

 カラン、と小さいベルが鳴り、「いらっしゃいませ、お一人様ですか?」とウエイターが静かに声をかけながら寄ってきた。
 室内が仄かに暗いのはエギルの店である《ダイシー・カフェ》とそう変わらないが、ここをあそこと同列に扱う事は出来ない。
 その一番の理由は店内にちりばめられた調度品の品位の高さだろう。
 どれをとっても高級感溢れるそれは見えないオーラを纏っているようでさえある。
 高級喫茶だとは聞いていたが和人の目から見ても「うわ、あれ高そう」と分かるほどにそれらは自己主張が激しかった。
 まさにセレブ御用達の場、といった所だろうか。こんな事でもなければ一生入る機会は無いだろう場所だと思える。
 店内に控えめな音で流れる上品なクラシックがその思いを一層加速させた。
 和人にとっては間違っても好み、進んで入る類の店ではない。

「おーい、こっちこっち!」

 和人がウエイターに待ち合わせなんです、と答えたのとその無遠慮極まりない声が上がったのは殆ど同時だった。
 途端、上流階級のマダム達から和人は冷ややかな視線を浴びせられる。
 意訳するなら「静かにして」だろう。
 和人は首を縮め、声の主に近寄りつつ内心でたっぷりと罵りの言葉を放った。

「やあ、待っていたよ」

「……」

 しかし残念ながら心の中の怨嗟の声はこの男、菊岡誠二郎に届くことはなかったらしい。
 黒いフレームの眼鏡に短めに刈り上げているしゃれっ気の無い頭、全体的にガリッと細い線の持ち主の菊岡は和人の前に店のメニューを広げた。

「ここは僕が持つから好きに頼んで良いよ」

「……」

 せめてこれまでの不満を──手に入らない指輪を発見してしまった件も含めて──ぶつけるべく無言を貫き通して和人はメニューを見つめ……息を呑んだ。
 素早くメニューの左上から目を順に走らせ、戦慄する。

(た、高い……!)

 何かの間違いだろう、という言葉は幸いグッと堪えた。
 流石にマダム達の射抜くような視線の雨をもう一度受けたくはない。
 ゆっくりと、冷静に、そうと気付かれないよう呼吸を整える。
 ……シュー・ア・ラ・クレーム、千二百円。
 これが、メニュー内で最も安い商品だ。名前から察して恐らくシュークリーム、もしくはその親戚か何かだろうが、千二百円は高くないだろうか。
 何気なく菊岡の方を見てみると、スプーンでプリンの山の一角を削っている所だった。
 あのプリンもこのメニューによると相当高い。あのスプーン一杯に何百円の価値が……という計算はもう恐ろしくて出来なかった。
 しかしプリンを美味そうにぱくつきながら不思議そうな顔している菊岡を見るとどうにも苛立ちを思い出してくる。
 和人は適当に三品ほど注文してからさっさと本題を切り出させるべく口を尖らせながら糾弾した。

「で、わざわざ俺をこんな場所まで呼んで今度は何をさせる気なんだよ」

「連れないねえ、わざわざご足労もらったのは悪かったけど。僕と君の仲じゃないか」

「……帰ろうかな」

「わあ! 待った待った! 悪かったよ。でもそんなに怒らなくても良いじゃないか。一緒にALOでも遊ぶ間柄ではあるんだから」

「……」

 残念ながらそれは事実である。
 菊岡──クリスハイト──とはALOでも交流はそれなりにある。
 かといって親密な仲と言われるのは少々心外だ。

「君はあれだね、リアルで会う時はいつも無愛想になるね。ALOではもう少し表情が軟らかいというか……フランクなのに」

「……」

 それはALO……仮想世界だからではなく、大抵傍にアスナがいるせいだろう、とは言わなかった。
 既に各所から耳にタコが出来るほど言われ続けている事だ。
 自覚もあるだけにこれ以上その件については聞きたくなかった。
 せめて勘違いしているのなら勘違いさせたままにしておこうと和人は決める。

「それで?」

「やれやれ、取り付く島もないな」

「世間話をしに来たわけじゃないからな」

「美人の彼女と待ち合わせでもしてるのかい?」

「……」

「そんなに睨まないでくれ。羨ましさから来る僻みだよ」

「……アスナは今日用事で夜まで会えない」

「そうなのか。あ、だから君はご機嫌ナナメなのかい?」

 和人は降ろしていた腰を浮かせた。
 これ以上話すことは無いとばかりに立ち上がり一歩進もうとしたところで、「お待たせ致しました」とウエイターが先に注文していた三品を持って来た。
 和人は溜息をついて腰を再び降ろした。
 以上でお揃いでしょうか、という言葉に菊岡が応え、和人に気まずそうに向き直る。

「俺はからかわれる為にここに呼ばれたのか?」

「ごめん、わかった。もうからかわない。だからこれ食べて機嫌直してよ」

 流石に菊岡もやり過ぎたと思ったのか軽口を閉じた。
 最初の頃こそ和人は目上でもある彼に対して敬語を使っていたのだが、こういったからかいじみた会話も多いので、そのうち彼とのやりとりはぶっきらぼうなものに形成されつつあった。
 菊岡は軽口を閉じた代わりにタブレットを取り出して一人の男性の写真とプロフィール情報を和人に見せる。

「……誰だこの人?」

「先日亡くなっていることが発覚した新保勇一氏、二十六歳。発見時彼はアミュスフィアを装着したままだった。死因は心不全、と診断されている」

 菊岡の説明を聞きながら、見たことも無い男の顔写真を液晶越しに眺める。
 彼が発見されたのは死後五日は経っていたということで、大家が異臭に気付いて鍵を開け発覚した。
 変死ということで司法解剖は一応行われたが、結果わかったのは死因が心不全だった、ということ。
 念のために調べた限りでは脳には異常は検出されなかった。そもそもナーヴギアではない安全機構を施されているアミュスフィアでは脳にダメージを与えられない構造になっている。

「彼は胃がからっぽで二日ほどほとんど何も食べていなかったらしいけど……」

「じゃあそれが原因じゃないのか?」

 二日程度の絶食をするVRMMOプレイヤーはこの昨今珍しくない。
 一種の社会現象にもなってしまっているが、仮想世界の飲食は空腹を紛らわせてくれる。
 味覚再生エンジンが可能な限り味も再現してくれるので、仮想世界で美味しいモノを食べていればお腹は空いていないと《錯覚》することは出来るのだ。
 それを利用して廃人プレイヤーなどは二、三日は飲まず食わずで仮想世界へダイブしている者は少なからずいたりする。
 結果、栄養失調で病院に運ばれたり発作を起こしたりして倒れ、そのまま帰らぬ人となってしまうような事件は、交通事故で人が亡くなりました、というくらいポピュラーな物になりつつあった。
 故に眉を顰めるような生活であることに違いは無いが、これといって取り上げる程のことでも無い。
 そもそもそういった仮想世界と現実の両立弊害はこれに限った事ではなく、多々存在し、大まかな点は菊岡がこれまで和人に相談してきたことのある内容でもある。
 亡くなられた方やその親族の方には気の毒だったとは思うが、それだけでは事件性は見えて来ない。

「う~ん……九割方そうだとは思うんだけどねえ……」

「煮え切らないな、十割じゃないならその理由は?」

「彼が死ぬ直前までプレイしていたゲーム、いや、正確にはゲームじゃないか」

「どういうことだ?」

「《MMOストリーム》という放送局の番組に出演していたんだそうだ。彼はとあるゲームのトッププレイヤーだった」

「ああ……Mステの《今週の勝ち組さん》か。そういえば《勝ち組コンビ》の時に一度ゲストが落ちて番組が中断したって話を聞いたような気もするな」

「恐らくそれだね。出演中に心臓発作を起こしたんだと思うよ。放送局のログによって秒単位での時間が割り出せている。死亡推定時刻から言っても間違い無い」

「なら何も問題無いじゃないか」

「問題があった……のかどうかはまだ定かじゃないんだけど、おかしな点は一つあったんだ」

「おかしな点?」

「彼がやっていたゲームの中でちょっとね」

「トッププレイヤーだって言ってたな、何て言うゲームだ?」

「《ガンンゲイル・オンライン》……通称GGOだそうだ」

「へえ……GGOか、凄いなそれは」

「……?」

 Gun Gale Online……通称GGOはいわゆる《プロ》がいることで有名なゲームだった。
 その理由はVRMMOでも数少ない──日本では唯一と言っても良い──ゲーム内マネーのリアルマネー化が可能なゲームだからだ。
 リアルマネーとは言っても電子マネーに換金できるというものだが、今の世の中電子マネーで買い物出来ないものは殆ど無いと言っても良い。
 運営本部が外国なこともあっていろんな意味で過激であり、日本の規制スレスレ──もしくは抵触──なゲームで、サポートは全て英文である。
 不思議そうな顔をした菊岡に和人は説明する。

「ゲームコイン現実還元システム?」

「ああ、ようするにゲームのお金を現実の電子マネーに換金出来るのさ。めったなことでは設けられないギャンブルみたいなものだけど、時折大当たりする人もいるらしい」

 プロ、というのはそんなゲームでコンスタントに稼ぐ人達のことだ。
 現実のお金に跳ね返ってくるとあらば通常のゲームより情熱を注いでいるプレイヤーは少なくない。
 もっとも、先も言ったとおり通常のゲームよりその競争率もとんでもなく高い事になっているが。
 それでもプロは月に二十万から三十万は稼ぐという。そんな過酷なゲームでトッププレイヤーだったとなれば、亡くなった新保勇一は相当に凄腕のプレイヤーだった事が窺える。

「それで、GGOで何があったんだ?」

「亡くなった彼のGGOでのプレイヤーネームは《ゼクシード》。そのゼクシードが発作を起こしたと思われる時に彼が映っているモニターの銃撃事件がGGO内であったらしいんだ」

「銃撃事件? それはつまりGGO内の酒場か何かで、っていうことか?」

「そう。仮想世界でも配信動画などは見られるだろう? MMO関係の放送局が流す番組はたいていの仮想世界では至る所で流れている。代表的な所で言えば君の言うように酒場だったりするね。で、GGOの首都、グロッケンという街のとある酒場でもそれが放送されていたんだ。その酒場で問題の時刻に銃撃事件が起こり、ゼクシードは発作を起こした」

「時間は秒単位でわかっているって言ってたな……ってなんで銃撃された時間がわかったんだ?」

「偶然音声ログを取っているプレイヤーがいてね、それによると誤差は十数秒しかない」

「……確かに気にはなるけど、偶然じゃないのか?」

 総じてゲームのトップに位置するプレイヤーは尊敬の眼差しを受ける側であるのと同時に妬みの対象でもある。
 SAO時代、和人/キリトもそんな輩に狙われたことが無いワケではなかった。
 なのでGGOほどの序列に厳しく変動激しいゲーム内ならそのような事件はあっても不思議ではない。
 もっともデスゲームだったSAOとは違い、たいていの場合は自身を抑えられない子供のやる無意味な発散程度にしか見られないが。

「これ一件なら僕もそう思うところなんだけどねえ、もう一件あるんだよ実は」

「……もう一件? 犯人は?」

「多分同じ……だと思われているよ。目撃者の証言と名乗った名前から、ね」

「名前を名乗ったのか……」

「もちろん本物のプレイヤーネームでは無いようだ。もしそうならとっくにそのプレイヤーは吊し上げられるだろうことくらいはVR世界に入って日も浅い僕にだってわかる」

 堂々と悪いこと──およそ現実世界では眉を顰める、法的に許されないなど──をして自らの名前を広告する輩は存外少なくない。
 それも一つの仮想世界のアミューズメントポイントではある。
 SAOとは違い、現実の死……及び肉体的に影響を及ぼさないまさに《ゲーム》であればそれは否定されるほどのことではない。
 だが、現実の死が連結されてくるとなれば話は別だ。といっても、そんなことは起こりえないはずなのだが。

「で、その犯人の名前とやらは?」

「ええと……自分の名前と武器の名前を言ったみたいだね。《シジュウ》……それに、《デス・ガン》……だそうだ。これが本当の力だ、裁きだ、などとも言っていたらしい」

 デス・ガン……シジュウ……死銃。
 頭の中で意味を把握する。恐らくは《死銃》と書いて、《シジュウ》と読み、同時に無理矢理英語にして《デス(DEATH 死)・ガン(GUN 銃)》としているのだろう。
 安易と言えば安易だが悪趣味でもある。

「そこで本題なんだけど」

「ああ」

「君にこの死銃氏に接触してもらいたいんだ」

「………………なんだって?」

 和人は返事に数秒を要した。
 何かの聞き間違いかもしれない。
 念のために聞き返す。

「いやあ、ハハハ。死銃氏に接触してもらえないかな~……なんて」

「……正直に言ったらどうだよ菊岡サン。それは実際に死銃に撃たれてこいってこと、だろう」

「いやあ、ハハハ」

「………………」

「い、いやあ、ハハハ……」

 徐々に菊岡の笑いが渇いたものになっていく。
 和人はそんな菊岡をギロリと睨み付けていた。
 最近、《悪意》に類する《感情の発露》だけはそれなりに出来るようになってきた。
 あまり嬉しくない改善──と言えるのかは定かではない──状態だが、今だけはそれに感謝しておく。
 アンタが自分で行け、と和人の目で訴えるような冷たい視線に高級官僚サマは珍しく汗をダラダラと流し始めて弁解しだした。

「し、しょうがないじゃないか。どうにもこの自称死銃なるプレイヤーはハイプレイヤーの男女カップルの男の方を狙う傾向にあるらしいんだ」

「……はあ?」

 呆れたような声を和人は出した。
 なんだそのコアなターゲットは。

「死銃氏の言葉にあるんだよ、カップルは死ね、みたいな言葉が。その話を聞く限りじゃ僕には逆立ちしたって無理だよ。モテないし強くもない」

「俺にだって無理だよ! プロにそう簡単に勝てたら苦労しないって」

「なんならそのプロの稼ぐ分と同じだけ……これだけ報酬として出すから!」

 菊岡は指を三本立てる。
 流石に和人も驚いた。こんなおかしな話にそこまでお金をかけて調査しようとするなんて。
 何か裏があるのではないかと勘ぐってしまいたくなる。

「三万円、ってオチか?」

「とんでもない! きちんと三十万、払うよ!」

「さんじゅうまん……」

 グラッと来てしまった。
 いろいろ勘ぐりつつもその魅力的な数字に心が動かされる。
 普段の和人なら断るだろう。お金は欲しいし魅力的ではあるがリスクなどを考えれば身を引くことを考える。
 だが。
 今日は《偶然にも》大金が入用……というより大金が欲しいという理由が出来てしまっている。
 あの指輪は十五万円。例え指輪を買っても半分、もう十五万は残る。
 それだけあればニューマシンとまでいかなくてもカスタマイズ用の大容量メモリなどは購入可能だ。
 だが益々怪しさが増して来たとも言える。

「なんでそこまでしてこの件にこだわるんだ?」

「上が気にしていてね。僕ら仮想課はVR世界の監視や事件処理がたいていの業務と化しているけど、本当は各分野において今後活躍するだろうVR世界を一つの産業ともとらえているよ。それ故に自由かつ大規模な発展を望み、安全が約束されるのはもちろんのことだがそれ以外のことでは不必要に規制を敷くべきではないと考えているんだ。でも規制は必要だって派閥もあってね。SAOの時にも規制一歩手前までは行ってたんだよ。故に僕らはそうならないようこの手の情報は可能な限り把握しておきたいのさ。さらに対処ができれば完璧だね……というあたりで理由付けとしてはどうだろうか?」

 上が気にしているんだ、という彼の話の全てを鵜呑みにすることはできない。
 しかしVR世界の今後を憂いているという点については善意的に解釈しておくことにする。
 主に三十万円の為に。

「……わかったよ。アンタの言う仮想世界への深い理解に免じて今回はやるだけやってみる」

「本当かい? いやあ助かるよ、正直さっきので断られたらどうしようかとヒヤヒヤしていたんだ」

「ただし何もできずに接触すら起きないかもしれないぞ」

「うんうん、それでも僕がやるよりは格段に確率は上がるからね」

 ほとんど報酬のバイト代に釣られたようなものだが、そこは安いプライドがそうだと認めさせたくなかったので飽くまでそういうことにしておく。
 対する菊岡は上機嫌でワイヤレスのイヤホンを取り出した。

「とりあえず参考までにこれを聞いてくれ。さっき言っただろう? 一件目については偶然ログを取っていたって。女性プレイヤーとコンビを組んでいたゼクシードが、彼女とのコンビネーションとリアルにおける関係を尋ねられたあたりに事は起こったそうだよ。今二件目の方も音声データをあたっているんだけど……」

 菊岡は言いながらタブレットを操作する。
 和人は言われた通りに耳にイヤホンを付け、そこから流れる録音内容に耳を澄ませた。

『これが本当の力、本当の強さだ!』

 聞こえてくる声はやや遠く、金属質の響きを帯びた声だった。
 恐らく録音していたプレイヤーは死銃の傍にはいなかったのだろう。
 死銃の為に録音していたわけではないだろうからそれも当然と言える。

『恐怖に怯えて死に狂え雑魚プレイヤー! 俺とこの銃の名は《死銃》……《デス・ガン》だ! カップル撲滅ゥ! ヒャハハ────』

「────な、に……?」

 思わず、喉の奥から声が漏れた。
 尻すぼみに小さくなっていく笑い声。録音はここまでらしい。 
 だがその声は和人、いや、キリトの脳髄の奥にこびり付くようにして、記憶を揺さぶる。
 この笑い方をする男を、自分は知っている。
 何か聞き覚えのある言葉もあったような気がする。
 チリチリと焦げるように脳の奥が突かれるが、答えが形成されない。
 何かを忘れている。重大な何かを。
 思い出さなければならない何かを、忘れている。
 そう言えば《つい最近も似たようなこと》を考えた気がするが、それとは近いようで遠い気がした。

「二件目の方は相方の女性と一緒にスコードロン──いわゆるギルドのことらしい──内で檄を飛ばしていた《薄塩たらこ》氏が銃撃され同じようなことを言われたらしい。現実の彼も遺体で発見されていて状況はゼクシードこと新保君と殆ど同じだね」

「……」

「相方はなかなかの美人らしくてね、ベストカップル賞なんてものをもらったこともあるらしくてその点については死ぬほど羨ましいと思わないでもないけど、実際死んでしまっているからね。そうまではなりたくない、と思うのは不謹慎かなやっぱり」

「……」

「そうそう、カップルが狙われるんだから君の彼女も一緒に参加すればより接触の可能性が……」



「──ダメだ!」



 和人は自然と大き目の声を上げていた。
 力強いその声は菊岡を驚かせる。
 周りのマダム達の視線が刺さるように向けられるが、今の和人は気にしない。
 それよりも重要なことがあった。
 この声の主と《アスナ》を会わせてはいけない。
 形さえ見えない記憶だが、菊岡が言った彼女と一緒に、という言葉からそれだけが掬い出される。

「この件はアスナには言わないでくれ。いや、関わらせないでくれ。もしその約束が守れないなら今回の件も含めて今後協力は一切できない」

「……君がリアルでそこまで感情を見せるのを初めて見た気がするよ」

「今は俺の事はいい。その条件を呑めるのか」

「う~ん、構わないけど一人ではカップル狙う相手に目を付けてもらうのは難しくないかい?」

「……もともと百パーセント接触出来る可能性があったわけじゃないんだ。それはアンタも了承しただろう」

「……わかったよ。僕から彼女への協力依頼はしない。これでいいかな」

「……ああ」

「まあ僕が行くよりは君の方が遥かに確率はあるし、リアルでは……いや別の仮想世界でもだけど恋人持ちなんだから存分にそんなオーラを撒き散らしてくれ」

「……アンタって奴は」

 菊岡の冗談じみた軽口が復活する。
 真面目な話は終わり、ということでもあるのだろう。
 何か言い返したい所ではあるがここはグッと堪えておく。
 十分な安全措置は取るし細かい日程などは追って連絡する、ということで話も固まったので、和人は今度こそ席を立ち、菊岡も止める素振りは見せなかった。
 そのまま和人は席を離れ、店を出ようとしてドアノブに手を触れようとした時、目前のドアが勝手に開いた。
 正面には女性の来店客。
 和人は邪魔にならないよう一歩下がってから右横に寄り、道を譲った。

「ありがとう」

 まだ妙齢と評しても差し支えないだろう女性は小さくそう言うと、きびきびとした歩きで和人の横を通り過ぎていく。
 仕事の出来る女性、そんな言葉が和人の頭に浮かんだ。
 眼光は鋭く、ワインレッドのレディスーツをピシッ着込んだその立ち振る舞いには一分の隙も見せない。
 なんとなく印象に残る人だな、と思いつつ和人は今度こそ店を出るべくドアに手をかけた。
 背後から近寄ってくる別の人の気配を感じたので、彼女も誰かと待ち合わせだったのだろう、などとぼんやり考えつつベルを鳴らして外へ出る。
 閉じる直前のドアの向こうから、

「お待ちしていました、京子先生」

 そんな会話が聞こえた。










「……偶然って恐いねえ」

 和人の背中を見送りながら、菊岡は結局一つも手を付けなかった和人のデザートを処理していた。
 フランボワズのミルフィーユを口へと運びつつその視線は和人と擦れ違った女性に向いている。
 そのうちテーブルの上の品物を粗方食べ尽くすと、菊岡は会計を済ませて店を出た。
 総計はギリギリ諭吉さんに届かない額だった。経費で落としているので彼の懐は痛まない。
 しかし国民の血税で美味しい思いばかりをしていると益々官僚の立場は悪くなりそうなので、そう何度もやるわけにはいかない。

「だから今度はちょっとグレードの落としたあそこにしようかなあ。最近行ってないし。美味しいんだよねえあそこのモンブラン」

 冗談交じりにそう呟きながら菊岡は携帯端末を取り出す。
 先に使ったタブレットとは別のものだ。タブレット端末でも通話をすることは可能だが、極力菊岡はタブレットでの通話はしない。
 タブレットでの通話はオーソドックスなネット回線経由で行われる。
 セキュリティが高いとは言えず、《盗聴》を警戒するなら使わない方が無難だ。

「もしもし? あ、僕だけど、うん……うん。いやあ、確かに君の言うことも一理あるけどねえ、僕としては《彼》がやはり適任だと思うよ、言いたいことは分かるけど《お姫様》の方はねえ」

 菊岡は苦笑しながら携帯を持つ手を持ち替え、念の為に背後を振り返る。
 そこには誰もいない。

「確かに父親は電子機器メーカーの人間だけど……うん、うん、わかったよ。彼の《精神状態》は確かに芳しくない。《お姫様》を使う事も視野に入れるさ。……というわけで、ちょっと頼みがあるんだけどさ──迎えに来てくれない?」

 菊岡の少々笑いの混じった迎えの要請に、電話の相手は残念ながら応える気は無かったらしい。
 ちゃんと自分で帰ってこい、というような旨の内容を叩きつけられ電話を切られる。
 電話の相手とは決して不仲ではない。しかし忙しさから言って電話相手の彼に頼むのは確かに酷だったか、と菊岡は納得する。

「さて、タクシーを拾うか自分で歩くかだけど……しょうがない。ここは自分で歩こう、国家予算の為に」

 タクシー代を経費で落とせるか考え、不可能ではないと計算しつつも菊岡は自重した。
 その代わりに、やっぱり次の外勤では経費でグレードの高い美味しいモノを食べようと決めながら。



[35052] GGO2
Name: YY◆90a32a80 ID:b9264a49
Date: 2012/12/24 15:32


「朝田ぁ」

 学校の帰りに、朝田詩乃はスーパーとゲームセンターの間にある細い路地裏からの声に呼び止められた。
 スーパーで買い物をしてさっさと帰ろうと思っていた詩乃にとっては面倒な事この上ない。
 さらに相手が《彼女達》とあっては尚更だった。
 詩乃は白いマフラーの中で溜息を吐くと、小さく「なに?」とだけ尋ねる。
 声を発するとマフラーの中で跳ね返る吐息が暖かい。
 そんなことを感じながら萎えそうになる心に喝を入れてセルフレームの眼鏡越しに相手を睨む。

「こっち来いよ」

 三人ほどの女子高生のグループは詩乃と同じ制服を身に纏っていた。
 もっとも彼女たちのスカート丈は詩乃それよりもだいぶ短かったが。
 彼女たちは詩乃のクラスメートだった。
 彼女たちの中のリーダー的存在である遠藤が、手を招く。
 無視して何処かへ行こうと思ったのだが、その前に一人の女生徒が詩乃の左手首を掴んで路地の奥まで引っ張ってきてしまった。

「わり、朝田。ちょっと電車賃貸してくれない? これだけ」

 指を一本立てる。
 百円でも千円でもない。
 無論一円であるはずもなく、一万円という意味だ。
 彼女達からあからさまな金銭要求はこれが二回目だった。前回は持ち合わせがないと断ったのだが。
 春に彼女達の本性を知らぬまま、マヌケにも友人として付き合い始めたのが運の尽き。
 いろいろな事情から彼女らについていけないと思った詩乃は付き合いを無理矢理やめたのだが、そんなに簡単な話なわけもなく。
 詩乃が見切りをつけたことを知った後も彼女たちは詩乃に寄生するようになかなか離れなかった。
 あるいは彼女たちの復讐でもあるのだろう。
 詩乃は彼女達に勝手に一人暮らしの自室を使われ、見知らぬ男性まで部屋に上げられていた事に恐怖し、警察に訴えた。
 それから、彼女たちの行動は酷くエスカレートしだしたのだ。

「そんなに持ってるわけない」

「じゃあ下ろしてきてよ、すぐ近くのコンビニにATMあるっしょ」

「……」

 今日は逃がさないとばかりに捕食昆虫じみた印象の遠藤はラメ色の唇をぺろりと舐めた。
 非常に面倒かつやっかいなこと極まりない。
 ここでお金を貸せば返ってくることなど考えられず、次も容赦なく集りにくるのは目に見えている。
 言いなりになってはいけない。弱い心はいらない。
 そう自分に言い聞かせて詩乃は小さく息を吸い込み、拒否の言葉をはっきりと告げる。

「嫌。貴方たちにお金を貸す気は無い」

「は? 舐めてんのか?」

 遠藤の顔つきが笑みから怒気へと様変わりする。
 だがどれだけ凄もうとたいしたことはできないと詩乃は踏んでいた。
 一度警察沙汰になった彼女たちだ。これ以上は大事の事件にしたくないだろう。
 しかし。

「あーさだぁ?」

「ッッッ!?」

 遠藤がニヤニヤと手を《銃》の形を真似る。
 それが詩乃に向けられた時、詩乃の心臓はドッと跳ねた。

「バーン!」

「ひっ……!?」

 弱い声が漏れる。
 これが自分だと思うと情けなくてイライラするが生理的嫌悪は意識的に制御できない。
 うっ、と胃から何かが込み上げ、その場に戻してしまう。
 理由はハッキリしていた。
 自身の《トラウマ》によるもので、彼女たちはそれを正確に突いたのだ。
 警察の件があって以降、どうやって調べたのか遠藤らは詩乃の過去を洗いざらい調べ、詩乃の弱点を見つけ出した。
 彼女の過去にまつわる黒い歴史を。

「おいおい汚いな、吐くなよ朝田ぁ」

 面白がるように笑う遠藤の声が酷く耳障りだが、今は激しくなった動悸でそれどころではない。
 弱い心をどうにかしたいと思っているのに、現実の彼女は《銃》を見るといつもこうだった。
 足から力が抜けそうになる。

(……誰か、助けて………………)










「……それで?」

「だ、だから里香姉さんに相談を……」

 喫茶店の中で、向かい合うようにして座っている男女が一組。
 そのうちの女性、篠崎里香は不満そうに頬杖をついて対面に座る男を睨む。
 対する男は気まずそうに汗をだらだら流しながらなんとか弁解を試みようとしているようだった。
 男は痩せた小柄な少年で、黒いベースボールキャップを被りジーンズにナイロンパーカー姿。席の隣には深緑色のデイパックを置いている。
 顔の輪郭は丸みを帯びていて幼さを醸しているが、両目のあたりに宿る濃い陰影が年相応さを表している。

「あのねえ恭二」

「う、うん……」

「相談ならもっと別の事を早くしなくちゃいけなかったんじゃないの?」

「う……」

 里香は言葉に詰まる恭二を尚睨む。
 目の前にいる少年、新川恭二は里香の幼馴染の少年だ。
 今日は彼に相談があると呼ばれて会ったのだが、彼の近況を聞いた里香は怒りを通り越して呆れてしまった。

「学校に行かなくなったのは……不登校し始めたのはいつ頃なのよ」

「二学期からは一度も……」

「はぁ!? じゃあアンタ進級に日数足りてんの!?」

「い、いや学校はもう自主退学しようかな、って……」

「あんたねえ! 同じ学生の身の私が言うのもなんだけどさ、せっかく高校に入れたんだしちゃんと卒業しておかないと後々困るわよ!」

「う、うんそれはわかってるんだけど……」

「で、理由は上級生のイジメ? バッカじゃないの? ガツンとやってやんなさいよガツンと!」

「うう……」

「……バカ。そういうことこそさっさと相談に来なさいよもう」

 里香は溜息を吐いて店員の置いていった伝票でコツンと恭二の頭を叩く。
 恭二は顔を伏せてしまった。
 里香はガシガシと自身の後頭部をかく。
 恭二は昔から押しが弱い。イジメに遭ったのも初めてではない。
 その都度彼女は相談しなさいと言ってきたが、臆病・弱虫・意気地無しの三拍子揃うこの男は里香にそういった類の弱さを漏らしたことは殆ど無い。
 それは恐らく、彼の中に残った僅かばかりの男としてのプライドなのだろう。
 それがわからないわけではない里香だが、取り返しがつかなくなる前にせめて話して欲しかったと思う。
 弟のように思っていた相手ならば尚更だった。

「それで今アンタはどうしてんの? 学校止めるなんて親父さんが許さないと思うけど」

「まあ……父さんとは結構揉めたけど、結局《高認》──高等学校卒業程度認定試験──を受けてノータイムロスで父さんの卒業した大学の医学部へ行くっていう約束で一応落ち着いたよ。今は予備校の高卒認定試験コースに通ってる」

「ふぅん、何か普通より大変そうねえ」

「そうでもないよ。本当に勉強するだけだから学校へ行くよりは気楽だし、カリキュラムも一年だからね」

「へ? じゃあ一年経ったらどうするの?」

「とりあえず年二回の高認受けて高等学校卒業程度認定をもらう、かな。一回ではダメでも合格ラインに達した科目は次の受験で免除になるから残った科目を集中的に勉強すればいいし」

「……ちょっと待って。それってすぐ受けられるものなの? 十八歳からとかじゃ……」

「えっと、《高認》は受験年度中に十六歳になっていれば受験可能だよ確か」

「……アンタ、それって普通に高校卒業するより早く大学に入学出来る可能性もあるんじゃないの?」

「いや、それは無いよ。例え早々と合格できても十八歳の誕生日までは大学受験資格はもらえないんだ。それに合格基準はそこまで高くないから大学受験用にまた別の予備校に通う必要もあるだろうし。そもそも大抵の大学は受験資格の一つに高卒で十八歳以上って決まりがあるよ。特例もあるらしいけど殆ど摘要事例は無いんじゃないかなあ」

「へえ、何だか車の運転免許みたい」

「く、車の免許って……」

 確かに制度に似通っている部分はあるが一緒にはしないで欲しい、というのは恭二の我が侭だろうか。
 しかしいつしか塞ぎ込むような態度だった恭二は里香に乗せられるように会話を続けている。
 里香はこうやって沈んでいる恭二を持ち上げるのが上手かった。長年の経験によるものでもあるのだが。
 恭二は自分の知っている知識を披露することを好む。知っている事を聞き、それを説明させ、こちらが感心すると得意げに饒舌になるのだ。
 ただしそこに態とらしさがあってはいけない。本当は知っているのに尋ねると、それだけで恭二は機嫌を損ねる……もとい自分の殻に篭もる。
 恭二を励ます為に意図的にこれが出来るのは、恐らく里香くらいのものだろう。

「しっかしねえ、こうなる前に私には一言欲しかったわやっぱり。そーんなに私が信用無い?」

「そ、そうじゃないけどさ……」

 里香の意地悪そうな視線に恭二は目を逸らした。
 初心な奴め、と里香は内心で笑う。
 恭二が里香に弱みを見せないのは男としてのなけなしのプライドだが、感情的にはやや異なる。
 恭二の初恋相手が里香だったからだ。

「あ~悲しいわ。あんなに私に一途だった恭二が私を頼ってくれないなんて!」

「む、昔の話だよ! それに今頼ってるじゃないか!」

「他のオンナのことで、なんて言われるからちょっとビックリしたわよ。アンタにそんな甲斐性があるとはね、でも姉さん悲しいッ」

「ひ、人のことをあんなに盛大にフッておいてそれはないよ……」

 顔を真っ赤にしながら恭二は自分の目の前にあるクリームソーダのストローを加えて一気に吸い込む。
 そんな恭二を見ながら、里香は微笑んだ。


 里香にとって恭二はどこまでいっても弟みたいなものだった。
 面倒見の良さから恭二のことを良く理解してあげていたが、恭二からしてみればその性格も相まって親しい女友達などいなかった為に心奪われるのは必然だった。
 それからというもの恭二は泣き言だけは里香に言わなくなった。
 急に自分を頼らなくなった恭二に当時は里香も少々混乱したがそれほど気には留めなかった。
 精々ようやく手がかからなくなったかな、程度の認識でしかなかった。
 それからしばらくたったある日、恭二は里香を近所の公園に呼び出した。
 精一杯のおしゃれをした恭二は緊張ながらに里香に言ったものだ。「将来結婚して下さい」と。
 それに対する里香の言葉は実に冷ややかだった。

「やだ。だってアンタ弱虫だもん」

 ずぅぅん、とその場に崩れ落ちる恭二。里香からもらう初めての拒絶の言葉だった。
 里香は「そういうところがだめなのよ」と言いつつも「言い過ぎたかな」と心配する。
 恭二が幼いながらに自分に好意をらしきものを寄せているのには気付いていた。
 しかし里香にその気は微塵も無かった。面倒をみなくてはいけないという責任感から来る姉のような心境しか恭二には抱いていなかったのだ。
 それでも面と向かって「結婚して」なんて言われるとは思っておらず、些か照れと混乱が入り交じった里香は普段以上にキツイ言葉で恭二を否定してしまった。
 だが珍しく恭二はめげなかった。立ち上がり、里香の肩を掴んで「どうすれば良いの!?」と揺さぶりながら尋ねてくる。
 あまりの必死さに初めて恭二に少しだけ恐怖を抱いた里香は一瞬萎縮してしまい、言葉に詰まった。
 しかし何を思ったのか恭二は、その時の里香を見て自分を認めた物と勘違いしてしまった。
 里香の潤む瞳が自分を待っていると思い込み、彼女と唇を重ねようとし……情け容赦の無い顔面パンチを頂戴したのである。
 そのまま怒った里香は帰ってしまい、恭二は自室に引き籠もった。
 だが次の日、里香は何事も無かったかのように一緒に習い事に向かうべく恭二の家を訪れた。
 恭二は部屋から出てこなかった。部屋で塞ぎ込んでいた。
 そんな恭二の部屋に里香は無理矢理侵入して恭二を部屋から叩き出した。
 ビシビシと背中を叩き「遅刻する!」と渇を入れて無理矢理に連れて行く。
 そのあまりにいつも通りの様子に恭二はワケがわからなくなった。
 そんな恭二に、里香は目を合わせずに言ったものだ。

「アンタは私の弟みたいなもんなの。それ以上にはなれないけどそれ以下にもなれない。覚えておきなさい」

 ギュッと掴まれた手の暖かみを恭二は今も覚えている。
 その時、何故かスッと納得したのだ。彼女とは結ばれない。だけど、距離が離れることもないと。
 だから、当時里香の耳が赤くなっていたのは里香だけの秘密だったりする。

 恭二が里香に頼る時、未だに自身のことについては弱音を吐かないのは当時のことが少なからずあるのだろう。
 それが里香にとっては少し寂しくもあり、嬉しくもある。
 見栄を張っていても、頑張れるという成長ぶりが見られるからだ。
 もっとも、溜め込み過ぎて今回のように相談される前にことが終わってしまっていては本末転倒だが。

「アンタはもう、それでいいって決めてるのね?」

「う、うん……そうなんだけど」

 煮え切らない。
 こう言う時は大抵「それでいい」わけではないと相場が決まっている。
 里香は内心で溜息を吐きつつ、とりあえずは追求の手を一旦緩めた。
 その事は後でたっぷり搾り出すとして、今はここに呼ばれた本当の目的について考えてやることにする。
 こちらも根掘り葉掘り聞かねばなるまい。主に里香が楽しむために。

「それで? アンタが知り合いの女性のことで相談したいことってのはナニ?」

「あ、うん。実はその子にはちょっとトラウマがあって、克服するにはどうしたら良いのかなって。ほら里香姉さんはそういうのに無縁そうだからさ、その図太さの秘訣を……」

「……ほう」

 里香の瞳がすぅっと細くなる。
 彼女は恭二にだけ視認できるんじゃないかと思うほどの禍々しいオーラを纏い、その右拳をテーブルから持ち上げた。
 失言に気付いた恭二は慌てて言い改める。

「じゃなくて! 美しい里香姉さんの素晴らしき女性としてのお考えをお聞かせ願いたく……」

「……敬語おかしいわよバカ。あんたも懲りないわねえ」

 持ち上げた拳を里香はゆっくりと降ろす。
 恭二はホッと一息吐きながら恐る恐る里香を見ると里香は不機嫌そうにストローでクリームソーダを飲み干したところだった。
 コロン、と氷がグラスに擦れて音を立てる。

「里香姉さん、同じ物でいい?」

「いいわよ、そんなに気を使わなくても」

「いいからいいから。お小遣いだけは一杯くれる親父だから。すいませーん、クリームソーダもう一つお願いします」

 恭二は店員にクリームソーダをもう一杯注文する。
 昔からこういう気の使い方だけは恭二は上手かった。
 ただそこには財力に物を言わせる部分が多少なりともある。
 女性がそれで喜ぶかどうかは一概には言えないが、奢られて嫌な気分になる子は少ないだろう。
 ただし、それも相手によりけりで、齢を重ねればズルイ考えを持つ奴はそれなりに多くなり、集ることを覚える者も少なくない。
 恐らく恭二が学校でイジメられたのもその辺りに原因の一端があったのだろうと里香は推測する。
 気前よく奢った後、それが当たり前になり、エスカレート。
 上級生からの命令、となれば断り難い部分もあるのだろう。
 里香は最初に恭二に対してガツンと言ってやれ、と己の情けなさを諭すようなことを言ったが、内心では恭二の苦しみに何もしてやれなかったことをそれなりに悔いていた。
 無論恭二自身にも悪い部分はあったのだろうが、そこにつけ込んだ上級生達はもっと悪いと里香は理解している。
 「お待たせしました」と追加のクリームソーダが届くと、恭二は再び語り始めた。

「その子、とても「銃」が苦手なんだ。昔、嫌なことがあったらして」

「嫌なこと、ねえ。苦手ってどれくらい?」

「モデルガンとか見たら発作が起きて、悪い時は戻しちゃうくらいに。写真ならなんとか耐えられるみたいだけど、手を銃の形にしているのを見るのも恐いみたいなんだ」

 恭二は右手の親指を立て、人差し指を伸ばして中指から小指までを握り、銃の形を作る。
 それを里香の顔に向けて「バン」と言って人差し指を天上へ向けた。

「こんな仕草でも凄いことになる。前にふざけてやった人がいて、そのあとが大変だった」

「そりゃ重傷ね。一体何があったっての?」

「……誰にも言わないでよね。本人はあまり知られたくないみたいでわざわざ遠くからこっちの方まで来たみたいだから」

 頷く里香に恭二は説明する。
 幼い頃、その子は郵便局で強盗に出くわしたのだと。
 父親は物心つく前に交通事故によって亡くなっており、彼女の知る親は母親だけだった。
 母親は夫、父親が亡くなったショックで精神を少しばかり患っており、その子は幼いながらに母親を守る気概を持っていた。
 その郵便局に母親と二人で出かけた際、強盗に巻き込まれ、その子は母親を護ろうと必死に戦った。
 強盗は銃を持っていたが、彼女が怯むことは無かった。
 その時、いかな詳細な事情があったのか、流石に恭二は聞かされていない。
 ただ事実だけを言うならば、結果的にその子は強盗の持っていた銃で強盗を殺してしまった、ということだ。
 名前も知らない男を、まだ小学生の女の子が。
 その後の経緯についても詳しい事を恭二は知らない。
 だがおおよその想像をすることはできる。恐らく、そう遠くはないだろう。
 人殺しのレッテルを貼られ、周囲からの視線が強かったに違いない。
 恭二からの話を聞いた里香はなんとなくそう思った。

「トラウマ、PTSD、とかいうヤツだっけ」

「正しくはPosttraumatic stress disorder……心的外傷後ストレス障害だよ」

「へえ、流石医者の子ね」

「う、うん……」

「……?」

 里香は褒めたつもりだったのだが、恭二の反応は鈍い。
 バツが悪そうに視線を逸らすその仕草は昔からあまり触れられたくないことについての話なのだとわかる。
 同時にそれについて深く悩んでいるであろうことも。
 その件についても後でたっぷり《取り調べ》をすることを頭の片隅にメモしておき話を続けた。

「それでその子は銃を見ただけで様々な症状に苛まれるようになった、と」

「うん、過呼吸からの全身硬直、見当識の喪失、嘔吐、酷い時は失神までするみたい。ショック症状としてはやっぱりそれなりに酷い方だよ」

「ふぅん、《月のもの》でもそういった子が偶にいるけど、それともちょっと違うみたいだし……」

「《月のもの》?」

「あら? 医者の息子ともあろう者がわからないの? オンナノコの月に一回は来るモノよ」

「え? あ、あ~~~!! せ……」

「ストップ! 私が何のためにボカして言ってると思ってるのよバカ! アンタは気が利くんだか利かないんだか頭が良いんだか悪いんだか本当にわからないわね」

「ご、ごめん……」

「もう……で、さっきの話だけど、オンナノコの中には似たような症状を月イチで経験している子はいるのよ。その子も女の子ならその苦しみはわかるはず。それでも尚辛いとなるとやっぱりキツさのレベルそのものが違うと見るべきね。そうなると……」

 里香は「う~ん」と思い悩む。
 相談されたのだから力にはなってやりたいが、正直どうアドバイスして良いものかわからない。
 だいたい、精神、トラウマに対する特効薬、治療があるのなら、《こちらが聞きたいくらい》の気持ちではあるのだ。
 SAOプレイヤー達が解放される為に尽力した英雄──本人はそう呼ばれるのを好まないが──キリトは、まさに今精神的病巣を抱えていると言っても良い。
 日常生活に支障をきたす程のものではない。
 だがアスナ/明日奈がいないときのキリト/和人は時折見ていられないことがある。
 人をくったかのような小憎たらしい雰囲気。周囲を和ます笑み。自然と微笑んでしまう子供っぽさ。
 それらの感情の表出が悉く今の彼は薄い。
 友人としてなんとかしてあげたいと思う一方、できることがほとんど何もないことが悔しかった。

「里香姉さん? どうかした?」

「え? あ、ううんなんでもない」

 恭二の心配そうな声に里香は我に返った。
 少し考え過ぎてしまったらしい。

「でもごめんね恭二。あんまり力にはなれないかも。そこまでいくと専門分野の方が良いだろうし」

「……やっぱり、里香姉さんもそう思うのか……うん、よし」

「……?」

 意味深な恭二の独り言に里香は首を傾げる。
 恭二はそんな里香には気付かず、ふと思いついたように口を開いた。

「そうだ里香姉さん、もし良かったら今度その子と会ってあげてくれないかな」

「へ? なんで?」

「僕より同性の方が話しやすいこともあるかもしれないし。それに里香姉さんなら信じられるから」

「……そっか、まあ恭二の頼みだしね。クリームソーダ二杯分くらいは働いてやるわよ」

「そんなつもりで奢ったんじゃないんだけど……」

「アンタねえ、そこは爽やかに笑っていればいいのよ」

「さ、爽やか?」

 意味がわからないと恭二は首を傾げ、里香はそんな恭二の顔を見て微笑んだ。
 先の予想は恐らく大きく外れていない。
 多分、その子はあまり友人もいないのだ。信用できる人すらも。
 だから恭二は自分に頼り、良ければ話し相手になって欲しいと頼んだ。
 もしかしたら今日の一番の目的はそれだったのかもしれないと里香は恭二の考えを予想する。
 話も纏まってそろそろ出ようか、という流れになり、伝票を取って会計に向かう恭二の背中を見ていた里香は、ふととあることを思い出した。

「ねえ恭二」

「うん?」

「同い年くらいの可愛い女の子紹介してあげよっか?」

「………………は? えっ、ちょ、なんで!?」

 恭二の戸惑いぶりにお腹を抱えつつ、里香は心の中で年下の友人に謝る。
 こりゃダメだ、と。

(ごめん珪子、こりゃどのみち紹介できそうになかったわ)





 「ありがとうございました」と店員の声を背中越しに聞きつつ、二人は喫茶店を出た。
 十二月の風は否応なく二人の体温を急激に奪う。
 喫茶店内は暖房が効いていたが一歩外へ出ればこうなることはわかっていた。

「う~さむさむ!」

「里香姉さんなんかおば……」

「何よ」

「……なんでもないです」

 ギロリと睨みつけられた恭二はそれ以上何も言わなかった。
 非常に賢明な判断だったと本人は自負していたのだが、残念なことに里香には看破されていた。
 OSHIOKIという名の容赦ない拳骨が恭二の後頭部に直撃する。

「あいたあ!?」

「ふん!」

 里香の不興を買ってしまったことに遅ればせながら気付いた恭二は頭をさすりながら先を歩いて行く里香を追う。
 その背中はプリプリとした怒りを体現しているようだが、傍から見ると可愛らしいことこの上ない。

(そういうところは、昔から乙女なのになあ里香姉さん)

 なんとなくまた失礼なことを考え始め、恭二はぶんぶんと頭を振った。
 これ以上の不興を買うと我が身がリアルで危ない。
 なんとかご機嫌取る方法を考えながら恭二は里香に追いつく。
 里香が向かっている方向は駅なので、帰るのだろう。
 別れる前に気の利いたことを一つでも言っておかないと後が怖い。
 そう思っていた時のことだ。
 駅に向かう途中にあるスーパーとゲームセンターの丁度間にある細い路地から、恭二は聞き知った声と名前を聞いた。



「────朝田ぁ」



 恭二は足を止めて暗い路地の奥に目を凝らした。
 うっすらと見えるそこにはやはり自分が通っている……否、通っていた学校の女生徒の制服姿が見えた。
 いつもの恭二ならそこで無関係を気取るところだが、その女生徒の姿を見るとそういうわけにはいかなくなった。

「……っ、朝田さん……!」

 恭二の様子がおかしいことにやや先行していた里香は気付いた。
 小走りで戻ってくると、恭二の見ている細い路地奥では何やら誰かがいるようだ。

「知り合い?」

「……さっき相談していた子だよ。多分今、絡まれてる。なんとかしないと…………!」

「しょうがないわね…………あ、おまわりさーん!!」

 里香の大きい声に、路地奥から戸惑いが伝わってくる。
 いける、と思った里香はさらに声を張り上げた。

「すいません、こっちこっち! 誰かが絡まれるみたいで……!」

 すぐに数人の女生徒が逃げ出していくのが気配でわかった。
 恭二は慌てて立ちすくむ少女の元へ駆け寄る。

「……大丈夫? 朝田さん」

「新川……君? あれ、警官は……?」

「出任せだよ、上手くいくもんだね」

「そっか、ありがとう……」

 力が抜けたみたいにその場に倒れ込みそうになった詩乃を恭二は咄嗟に支える。
 そこへ遅れて里香も近寄ってきた。

「どう?」

「なんとか」

 少しぐったりしている少女を見やって、里香は恭二が言っていたトラウマが相当に酷いことを再認識した。
 一目で憔悴ぶりが窺えるほどの少女を見ると、里香としては何故彼女たちがこんなことをするのかわからないとばかりに怒りが込み上げてくる。

「う……え? あ、と、どちら様……?」

 里香に気付いた詩乃は少し怯えた顔で里香に尋ねた。
 考えてみれば初対面なので当然だが、先の声を張り上げたのは恭二ではなく里香だ。
 その時点で女性もいる、と思ってもおかしくはないはずだが、そこに気付けないほどショック状態によって混乱していたのかもしれない。

「あ、えーっと……」

 恭二がなんて言おうか迷っているような声を出す。
 詩乃はそんな恭二の態度で、勝手に理解を示した。

「あ、そっか。ごめんねデートの邪魔して。綺麗な彼女さんだね、私はもう大丈夫だから新川君は彼女さんと……」

「なぁっ!? い、いや違ッ!?」

 恭二のとんでもない慌て振りに、里香は頭を抱える。
 本当にバカだよこの子は、と。そこまでオーバーに反応したら逆に怪しい。
 恭二としては力強く否定したいところなのだろう。特にこの子相手には。
 里香は先の相談の件からおおよその恭二の心境を推測している。

(全く色気づいちゃって……)

 若干の寂しさを覚えないではないが、応援したい気持ちの方が強い。
 しかしこの流れは良くないのも事実だった。
 さてどうしたものか、と里香が考えた時、

「あれ? リズ?」

 偶然とは続くものなのか、知り合いの声が聞こえた。
 里香は咄嗟に振り返り、そこに黒髪の少年の姿を見る。
 彼は無表情にこちらを眺めていた。
 恐らく実はあれでも不思議そうな顔をしているつもりなのだろう。
 そのギャップに少しばかり胸を痛めつつ、彼がこんなところにいる珍しさに里香も驚いた。
 しかしすぐに現状を打破する最高の案を思いつく。

「キ……和人! おっそいわよ! ほらほら!」

 里香はわざと大き目の声でそう言うと、無理矢理そこにいたキリト/和人の腕を掴んでまるで恋人のように歩いていってしまった。
 ちらり、と恭二にアイコンタクトを送る。

 ──上手くやんなさいよ。

 珍しく恭二はその意味を正しく把握する。
 心の中で「ありがとう」と告げつつ恭二は詩乃に勘違いであることを冷静に説明することが出来た。





「お、おい……? リズ?」

「ごめんごめん」

 里香は謝りながら手を離す。
 声のイントネーションには焦りや疑問が内包されているのにその顔には些かも表されていない。
 そこに僅かな哀しみを覚えながら里香は説明した。

「あの場に私の知り合いの男の子とその子が好きな女の子がいてね。私が彼女だと勘違いされそうだったからその子の為にちょっと一芝居うったのよ」

「なるほど」

 それで納得したらしい和人はそれ以上何も聞かなかった。
 代わりに里香が尋ねる。

「そういうキリ……和人はなんでここに?」

「外ではキリトでもいいよ。リズもそう言ってただろ?」

「あ、うん」

「俺はちょっと呼び出されて……」

「誰に? っていうかアスナはいないの? 珍しいね」

「ああ、まあ……今日の呼び出しは総務省の人だったから」

「あ、そうか……うんわかった。ごめん、何も聞かない」

 里香は察したようにそれ以上の追及を止めた。
 和人は今でも総務省の人とそれなりに繋がりがあるのは仲間うちならある程度知っている。
 里香はそれをSAO事件での中枢に近いプレイヤーだったから、と認識している。
 他のみんなも似たようなものだろう。
 それも無いわけではないが、実際にはそういうわけではない。
 SAOでの話はほとんどケリが付いている。和人が菊岡の用事に応じるのは借りの返済のためだ。
 しかし和人はそれを説明するつもりはなかった。
 勘違いしているなら、この件に限ってはそれでいいと和人は思っている。
 菊岡が百パーセント信じられない以上、和人はみんなに極力リアルでの接触の場は広げたくなかった。
 ゲーム内ではクリスハイトとしてそれなりに仲良くなってきている。
 繋がりとしてはそれだけで十分だと和人は考えていた。
 唯一、アスナだけはその辺の事情を理解している。

「それじゃ俺、こっちだから」

「あ、うん。またね」

「ああ、それじゃ」

 駅に着いたところで二人は別れた。
 和人の背中を見つめながら、里香は溜息を吐く。
 精神的ショックへの対処療法は、やっぱりこちらの方が知りたい、と。
 その時、里香の携帯端末が振動した。
 確認してみると恭二からで、いつ彼女と会えそうか連絡が欲しいという旨の内容だった。
 そこで閃く。
 和人はあんな調子だが、唯一アスナにだけはその限りではない。
 それは二人の関係もあってのことだろうが、アスナ自身も胸を痛め、同時になんとかしたいと思っているはずだ。
 彼女のことだからその為の努力も惜しんではいまい。
 それなら先の女の子と会うときにはアスナもいた方が良いのではないだろうか、と。
 早速その旨のメールを恭二に返信する。全てを説明するわけではない。
 心強い女友達を一人一緒に連れて行っても良いか、というだけのメール。
 恭二はすぐに返信してきた。
 その文面を見て、里香はアスナに電話をかける。

「あ、もしもしアスナ……? ちょっと頼みと言うか、今度でいいから付き合ってほしいことがあるんだけど……」



[35052] GGO3
Name: YY◆90a32a80 ID:b9264a49
Date: 2013/01/18 00:03


「アスナ、話があるんだ」

 互いにベッドで横になり、見つめ合うような体勢を取ってから彼、和人/キリトは珍しくそう切り出した。
 彼らが横たわる豪奢な天蓋付きの大きなベッドは現実ならゼロが五つ程ついてもおかしくないが、バーチャルワールドであるここ、ALO──アルヴヘイム・オンライン──では現実ほど手が出ないというものでもない。
 世界樹の上に位置する街、《イグドラシルシティ》。その街にある共同出資にて借りているプレイヤーホームの一室。
 寝室として使用しているこの部屋は今遮光カーテンによって外の光はほぼ遮られている。
 時間が合えば月明かりを楽しむが、生憎と今のALOは昼間だった。
 ALOは現実と時間の感覚が違う。一日二十四時間ではなく、十六時間で一日となる。
 恐らくは社会人など同じような時間にしかプレイできない人の為への配慮だろう。
 同じ時間にプレイしていてもいずれは昼間と夜の両方を楽しめる。
 夜、あるいは昼で無ければ発生しないイベントも多々あることから不思議な話ではない。
 なのでそのシステムに意を唱える気持ちはこれから眠ろうと思う二人にも全く無い。
 室内唯一の明かりであるランプの炎がゆらゆらと揺れる。
 リアルと違いVRワールドでは火事の心配がない。その心配さえ無ければこの明かりもなかなかに良いものだ。
 ましてSAOでは近代文明的なアイテムはほとんどなく、こういった物が主流だったので懐古の念と共に慣れてきている感覚も否めない。

「どうしたの?」

 明日奈/アスナはランプの灯りによって色濃く影が見える彼、リアルとは些か違う出で立ちのスプリガンアバターでいるキリトの頬を撫でながら尋ねた。
 彼が寝る前に改まって話題を振るのは珍しい。
 思い出したように何か話すか、そうでなければ比較的すぐに眠ってしまうのが常の彼だ。
 もっとも、アスナはそこに不満があるわけではない。
 眠った彼を見ているだけでどことなく落ち着けるし、かつて伝説の城で経験したような幸せな気持ちが溢れてくる。
 現実ではあらゆるしがらみがまだ一緒になることを赦してはくれない。
 こんな素敵な部屋と豪奢なベッドも用意できない。
 しかし《ここ》ならそのどれもが叶うのだ。
 その為アスナはそんなここ、ALOのことをとても愛していた。
 だから、

「俺、このALOの《キリト》をちょっと別の世界にコンバートさせる、かも」 

「え……」

 その言葉はアスナの愛してやまない世界を揺るがしかねない可能性を孕んでいるように聞こえた。
 コンバートとは《ザ・シード》によって作られた別のVR世界へ渡るとき、今あるキャラクターのステータスをその新たな世界の中で同列の物に変換してくれる機能だ。
 単純に言えば、筋力の強いキャラクターが別の世界に行けば、その世界にある筋力パラメータ、もしくは筋力が強いキャラクターで新しい世界を楽しむことが出来るというもの。
 レベルで言うならレベル五十のキャラクターが別世界へ行けばレベル五十相当の強さを持つキャラクターからスタートできるということだ。
 ただし持ち物やお金は様々な理由からコンバートは不可とされている。出来るのは飽くまでステータスのみだ。
 それ故通常コンバートは《観光目的》ではなく《移住》を意味することが多い。
 ちょっと別のゲームも体験してみよう、というよりは今やっているゲームを辞めて別のゲームで楽しもう、というニュアンスが強いのだ。
 それを知っているアスナとしても心境穏やかではいられなかった。

「キリト君、ALO辞めちゃうの……?」

 アスナは仮想の涙さえ滲ませた。
 彼女には夢があった。まだやりたいことがあった。
 いや、永住さえ考えていた。まだ二十層までしか解放されていない伝説の城、浮遊城アインクラッド。
 次のアップデートでは間違いなく二十二層に辿りつけるはずだ。
 そこであの時のログハウスを購入し、彼と一緒に住む。
 それはもうすぐ叶うはずだった。今年のクリスマスに次のアップデートがあることは既にALO中に知れ渡っている。
 それなのに彼は別世界へ行ってしまうのか、と。
 アスナの悲しそうな声にキリトは慌てて否定の声を上げた。

「ち、違う違う! ちゃんと再コンバートして戻ってくるよ! ただ今回はちょっと訳ありで別のVRMMOの様子を見てこなくちゃならなくて……」

「別のVRMMO……? それなら新規でこれまでも何度かあったじゃない……?」

「そ、そうなんだけどさ。今回は総務省の人に頼まれて……」

「クリスハイト、菊岡さん、か……」

 一瞬安堵しかけたアスナは、再び不安げな声を上げた。
 彼女もまた、彼と同じく菊岡という男を善意百パーセントの男とは感じていない。

「それならしょうがないのかもしれないけど……気をつけてね」

「う、うん」

 アスナはこつん、とキリトの額に額を重ねた。
 漆黒の瞳の中に映る自身の青い髪が見える。

「君が帰ってくるのは、ここなんだから、ね?」

「わかってる。ちょちょいと終わらせてすぐにアスナのとこに戻ってくるよ」

 いつもと変わらないアスナを安心させてくれる不敵な笑み。
 彼女と居る時だけはキリトも素の表情をさらけ出す。

「うん、よし。それじゃおやすみなさい」

「ああ、おやすみアスナ」

 キリトの胸にアスナは顔を埋める。
 キリトはそんなアスナの背に腕を回した。
 ユイはいない。彼女は時々彼らを二人きりにする。
 その意図としては「パパとママの好きなことをして下さい」とのことだが、言っている意味は明らかだ。
 思い出されるのはこの春にテキストエディタ越しで伝えられた言葉。
 出来れば思い出したくはない出来事だ。顔から火が出そうになるほど真っ赤になったのはあれが初めてかもしれない。
 そんなユイの真意に思い当たらない程鈍い二人ではなかったが、そのような気を使う必要はないと何度説明しても珍しく彼女はその件についてのみ強硬に意見を崩さなかった。
 現在マスター権を持っているキリトが名前を呼べばすぐさま現れるが、マスターのいる街区圏内は自由に動けるという仕様をフルに活用してユイは夜な夜ないなくなる。
 このことについてアスナとキリトは深く話し合い、結局ユイの好きにさせることにした。
 呼べばすぐに戻らせることは出来るのだ。なら彼女がどんな存在だろうと可能な限り自由を行使させてあげたいという親心にも似た気持ちからそういう結論に至った。
 かといってユイの真意通りになってあげるつもりもなく、二人きりにされたからといってALOでは文字通り大人しく一緒に寝るだけで済ませている。
 流石に二度同じ轍を踏む気はない。
 ユイにとっては善意からの行動なのだろうが、キリトとアスナは慎重すぎるほど慎重にもなっていた。
 やがてキリトから小さい寝息が聞こえ始める。
 彼の寝付きは凄く良いか酷く悪いかのどちらかしかない。
 オマケにアスナの知る限り彼の寝付きが悪くなる確率は本当に少なかった。
 結果、アスナはこうして至福の時間をほぼ毎夜手に入れることが出来る状態にあった。
 寝息を立てるキリトを眺め、撫でる。ただそれだけのことがこの上なく幸せだった。
 幸せなんて物は常に目の前にある、普段はそれに気付けないだけ。
 よくそんな言葉を耳にするが、まさにその通りだと思う。
 同時に、自分はそこに気が付くことが出来て本当に運が良かったとアスナは思っている。

 だから────先程のキリトの言葉から生まれた不安という名の見えない銃弾がアスナの胸の中で脈動していた。

 彼が全てを語っていないことにはすぐに気付いた。
 嘘は言っていないのだろうが意図的に全てを話していない。
 恐らくは何かそうせねばならない事情があるのだろうことは予想できた。
 だがアスナの中ではそのことが不安となってドクンドクンと脈打っている。
 キリトに《別の世界へコンバートする》と言われた事を引き金に胸の中に打ち込まれた不安は、不思議なことに彼と一緒にいても燻り続けていた。
 こういったことは初めてではない。大小差はあるが、《良くないことの前兆》として経験したことのあるものだ。
 必ずしも毎回その予兆が正しいわけではない。取り越し苦労であることだって珍しくはない。
 それでも。不安が膨らむのは止められそうになかった。
 こうなると少しばかりしまったな、と思わなくもない。
 ユイの配慮に初めて甘えてみるべきだったか、とそこまでアスナの心に弱さが表れ始めた時、それは聞こえた。

 ──コンコン。

 ノック音。
 ALOはSAOと……いや、《ザ・シード連結体(ネクサス)》によって稼働しているVRMMOはその基本構造システムがSAOと同一だと言って良い。
 通常建物の外……扉を隔てた先の音は聞こえない。
 基本閉じられた扉を透過するのはノック音と叫び声、戦闘の効果音に限られる。
 だが逆を言えば、現実とは違いノック音はほぼ聞き逃すことなく聞こえるのだ。
 それはアスナに夜更けの客が来たことを理解させた。
 こんな時間に? と訝しみつつ念のためにフレンドリストを見やる。
 来ているのが知り合いかどうかをまず確かめてみた。

(え……?)

 思わず驚く。今来ているのは少なくとも初対面の人間ではないことはわかった。
 フレンドリスト内にいる人物だ。だがその人物自身には些か問題があった。
 何故《彼》が《このタイミング》で現れるのか。
 アスナはやや作為的なものを感じながらちらりとキリトを見やる。
 彼は既に熟睡に入っている。そう起きることは無いだろうがあまりグズグズしているとこちらが眠る前に彼がこの世界からシステム的に強制ログアウトされかねない。
 オマケに彼の腕の中、という現実でもそうそう享受できない甘美的な空間にいる身としては、非常に動きたくはない。
 だが。
 それらを全て我慢してでも、今この相手とは会っておくべきだとアスナは判断した。
 ウインドウに表示されている名前の主、《クリスハイト》に。
 アスナは名残惜しみながらキリトの腕を優しく持ち上げてベッドを抜け出す。
 素早くタップして着替えを済ませ、ドアを開けた。

「こんばんは、菊岡さん」

「やあこんばんは。ってちょっとアスナ君、ここではその呼び方はマナー違反なんじゃないのかい?」

「そうね、ごめんなさい菊岡さん」

 アスナの容赦ない口調に菊岡/クリスハイトは少しばかり怯んだ。
 アスナと同じ水妖精族(ウンディーネ)のクリスハイトは、ひょろりとした長身を簡素なローブに包み、マリンブルーの長髪は飾り気のない片分けで、特徴の無いのっぺらとした顔には銀縁の丸眼鏡をかけている。
 クリスハイトはアスナの態度から状況が思わしくないことにはすぐに気付いた。
 それとなく注意したそばから同じことを言っている時点で明確な意図があるのは明らかである。
 覚えのないアスナからの重圧に少々焦りながら菊岡は用事を済ませるべく尋ねた。

「……ええと彼、キリト君はいるかな? ちょっと用事があったんだけど」

「彼なら今寝てるわ。もう少しで強制ログアウトしてしまうんじゃないかしら」

「……もしかしてお楽しみだったって奴かな? これは申し訳ない」

「勝手に妄想するのは自由だけど口に出した発言はVR世界でも取り消せないから注意した方が良いわよ」

 取りつく島もない。
 ぐうの音も出ないほどの正論で責められ菊岡は冗談を言う空気を完全に封殺された。
 同時に悟る。彼女の怒りのようなものが混じった態度、その理由に。

「彼から何かを聞いたのかい?」

「貴方の依頼で別のゲームにコンバートすることになった、ということくらいだけど……それだけじゃないわよね?」

「……彼がそう言ったのかい?」

「いいえ。でもその答えで十分理解できたわ」

「……君は敵に回したくないな」

「キリト君の敵に回らない限りそれは無いと言っておいてあげる」

 短いやり取りでアスナは確信を深めた。
 やはりこの件は何かある、と。
 ふぅ、と小さく息を吐くとクリスハイトが苦笑を漏らした。

「驚いたよ、君はそんな顔もできるんだね。それともそのキツイ感じが素なのかい?」

「あえて言うならどちらも素よ。これでも私、SAOじゃずっとああだったの」

「へえ」

 最近ではナリをひそめてしまっているが、それは事実だ。
 もっとも素、と言うには些か語弊がある。気を張ってああいう態度を取っていたら気の緩め所がわからなくなってあのままでいた、と言う方が正しい。
 それを型破りな方法で緩めてくれたのが他ならない彼、キリトであるのだが。
 今でも時折あの時のような態度を取る時はある。その時はよくキリトに「副団長モード」と呼ばれたりしていた。
 それをいちいちこの相手に説明する気にはなれないが。

「まあ僕もまだまだ君たちのことで知らないことはあるってことだね。やれやれ、キリト君が既に休んでいるんじゃ仕方がない。出直すことにするよ」

「待って」

 早々に離脱を試みようとするクリスハイトの腕を、アスナは掴んだ。
 このまま「はいさようなら」と帰すわけにはいかない。そのつもりならわざわざキリトの腕の中という至福から抜け出したりなどしてこない。
 クリスハイトは気まずそうにアスナを見やる。その顔はやっぱり、と物語っているように見えなくもない。

「……化かし合いは結構よ。キリト君に何を頼んだのか聞かせて」

「それは出来ない」

「どうして?」

「僕からは君を巻き込めないことになっているんだ。彼との約束でね。これを破ると二度と彼の協力を得られなくなってしまう」

「ふうん、じゃあなんであなたはここに来たの?」

「それはだから彼に話したいことがあって……」

「化かし合いは結構って言ったわよね? 私もいることがわかっているのに訪ねて来ている時点であなたにその気は無いんでしょう?」

「そんなことはないさ。こう見えも僕はキリト君が気に入っている。彼との約束を破るような真似はしない」

「約束は破らない。けど約束していないことはその限りではないってことね? そう、例えば私から彼と同じ件の協力について願い出る、とか。貴方言ってたわよね? 貴方からは巻き込めないって。それって多分キリト君が出した条件なんでしょう?」

「……本当に君はやりづらいなあ」

 困ったような顔をするクリスハイト。
 今日初めて、彼の素の顔を見た気がするとアスナは思った。

「悪いけどそれでもまだ弱いよ。僕としても君に協力依頼はしたかった。でも彼に『巻きこんだらもう協力しない』って言われちゃっているからね。そうなっては僕としても非常に困る」

「それじゃ私は泣いてキリト君に貴方の依頼を断るよう頼むことにするわ」

「……なんだって?」

「本気で頼めばキリト君ならきっとわかってくれると思うから」

「……」

 これにはさすがのクリスハイト/菊岡も閉口した。
 流石にそこまで言われることは予想していなかったのだろう。
 そしてもし彼女が本当にそれを実行すれば、キリトは依頼をキャンセルするだろうことはクリスハイト/菊岡にも予想が出来た。

「なるほど。僕がキリト君に協力してもらうためには君に協力を仰がないと不可能、ということだね」

「そういうことになるわ」

「……もちろん彼のフォローは頼めるんだろうね?」

「それは貴方次第よ」

「……ずるいなあ」

 やれやれ、とクリスハイトは頭をかいた。
 恐らく彼の中のシナリオでも最終的にはこれに似た形だったのだろう。
 だが、ここまで一方的に会話をリードされるとは思っていなかったらしい。

「前にクライン氏に言われてたんだよなあ。昔は凄かったんだぞ、って。今になって体験するとは……」

「……ごめんなさい。無理を言ったのは悪かったと思うわ。でも、どうしても引っかかってしまって」

「わかったよ。でもそのかわり今後も彼の協力が得られるよう手伝ってよ?」

「それは……やっぱり《クリスハイト》次第ね」

「……君、結構強かだったんだねえ」

 しみじみと初めて気付いたとばかりにクリスハイトは溜息を吐いた。
 ようやくキャラネームで呼ばれて緊張が解けたのかもしれない。
 そうしてクリスハイトは全てを語った。
 GGOでの事件、キリトに依頼した内容を。
 死銃と名乗るプレイヤーの銃撃事件から始まるリアルプレイヤーの不審死。
 昼間キリトにしたのと全く同じ説明が彼の口からアスナへと伝わる。

「ゲーム内の銃撃で本当に人を殺せるかどうか、か……」

「僕と彼の結論としては不可能、ということにはなっている」

「そうでしょうね。でも……」

 無関係とも思えない。
 理性的に不可能と思えるのとは全く裏腹に見えない糸が絡みついている予感がする。
 同時に彼がそんな危険なことを独断で受け、あまつさえ自分に知らせないようにしたことに少しばかり怒りも感じた。

「あ、そうそう。ここに来た本来の目的を忘れるところだった」

 アスナが考え込んでいると、思い出したかのようにクリスハイトはウインドウを呼び出した。
 何度かタップした後、アスナを見つめて尋ねる。

「その死銃氏の声がもう一件見つかってね。念の為に彼に聞かせようかと思って持ってきたんだ。君が代わりに聞くかい?」

 どうせそれは口実でしょ、と喉まで出かかった言葉をアスナは飲み込んだ。
 これ以上彼をやり込めるのは個人的な感情の爆発でしかない。つまるところ八つ当たりである。
 いろいろ思うところはあるが、既に彼を心配しているが故の発言・行動にしては度が過ぎ始めていることをアスナは理解していた。

「……一応聞かせてもらうわ」

 だから、それは本当に何気なく、何気なく言っただけだったのだが。
 まさかそれが、この件に強く引き込まれるきっかけになるとは思ってもみなかった。
 クリスハイトはいろいろ設定をタップしている。
 恐らく特定プレイヤーにしか聞こえないようにしているのだろう。
 設定が終わり、目で合図されてからアスナの聴覚システムはここではないどこか別の場所の音を再生し始めた。
 うっすらと聞こえ始める雑踏のノイズ。その奥から金属質な声が聞こえる。

『俺と、この銃の、真の名は、《死銃》……《デス・ガン》。俺は、いつか、貴様らの前にも、現れる。忘れるな、まだ終わっていない。何も、終わっていない』

 瞬間、アスナの中に何かが駆け巡る。
 激しいデジャヴ。



『──“カップル”は、撲滅する』



「ッッッ!?」

 声にならない声が漏れた。
 知っている。自分はこの相手を知っている……!



 ─────イッツ・ショウ・タイム……!



 そんなフレーズが脳裏にこびり付いて離れない。
 前にも、前にもこの相手のことを思い出そうとしたことがあったはずだ。
 あれはいつだったか。少なくとも最近ではない。
 現実でもない。ALOでもない。

 SAOだ。

 ソードアート・オンライン。
 デスゲームと化したあそこで、自分は確かにこの声の主と会っている。
 声質は違えども、話し方特有のブツ切り感がそれを思い起こさせる。
 さらにラストの言葉が記憶に深い。
 ここまでくれば逆にイッツ・ショウ・タイム、と聞こえなかった方が不思議なほどだ。
 いや、もしかしたら言っていたのかもしれない。丁度録音データはそこで切れていたから、入っていないだけでこの男は言っているのかもしれない。
 ……言っている気がする。それはもはや、確信にも近かった。
 だが相手の名前を思い出せない。《あの時》も思い出せなかった気がする。
 あれは、確かSAOでお祭りイベントがあった日。ふとしたきっかけでそれを思い出そうとして……できなかった日。
 ただ、アスナの記憶の底に、シュウシュウといった擦過音だけが印象深く残っていた。





 クリスハイトはオレンジ色の夕焼け空を飛んでいた。
 まるで《彼》の時のように死銃の生音声を聞いたアスナは黙ってしまった。
 訝しみつつもクリスハイトは声をかけると、意外なことを彼女は提案してきた。

「この件、私も手伝うけど……キリト君には私の事は伏せておいて。もしばれたら私が全力でフォローするって約束するから」

 それはキリトが提示した条件とよく似ていた。
 本当にこの二人は良く似ている、と思いつつクリスハイトは頷いた。
 本音を言えば協力し合ってもらうのがベストで、それを目的にここへ来たようなものだったが、こうなってしまっては仕方がない。
 クリスハイトは「彼らのことだから結局中で協力し合うことになるだろう」という希望的観測に縋ることにした。

(もともと百パーセント接触できる可能性があったわけではないし……有力プレイヤーの協力が増えた分良しとしておこう。……まあバイト代についてはさすがにあの金額を二人分は辛いから後で二人で分けてもらうよう伝えよう。うん、後で)

 頭の中で一通りの整理を済ませたところで翅を動かしセーブポイントまで一気に飛翔する。
 もう良い時間だし、そろそろ眠らないと明日からの業務にも響きかねない。

「あ」

 だがそこで思い出す。
 一つ伝え忘れたことがあることに。

「しまった……キリト君に聞かせたのとは少しばかり印象が違う気がするって話をし忘れた……」

 菊岡は後頭部をかきながら、「まあいいか」と自己完結した。
 これについては然程重要なことではないだろうとの思いもあった。
 VR世界のアバターは現実と姿が違うのもあってリアルとは全然違うスタイルになる人も少なくない。
 だがそういう人に限って時折リアルの自分をそのまま出してしまい、他人からは別人のように思われることがある。
 同性なら確かにアミュスフィアさえあれば成り変わることは可能なのだ。
 同性兄弟や友人同士の中には同じキャラクターを使いまわしている者もいると聞く。
 それ自体は様々な理由から推奨されていないが、歯止めもかかりそうに無いのが現状だった。
 クリスハイト/菊岡は仕事上そういった議題についても度々触れねばならないことがあり、これまで時折キリトの知恵も拝借していたりした。
 だから今回もそう深く重要視はしなかった。
 この時、彼がそれを伝えていればこの事件はもう少し楽に解決していたのかもしれない、などとは流石にわかるわけが無かった。










「ごめんねアスナ」

「ううん、構わないよ」

 あれから数日後、明日奈/アスナは里香/リズと二人、肩を並べて文京区内を歩いていた。
 アスナにとってはほとんど未知の街だがリズにとってはブランクこそあるものの勝手知ったる街みたいなものだ。
 今日は先日リズが電話にて頼んできた「会ってほしい子がいる」との頼みにアスナが応じ、面会することになっていた。

「この喫茶店が待ち合わせ場所なんだ。あ、今日は奢りだから安心して」

「良いのリズ?」

「良いの良いの。ちゃんとその分は預かってるから」

「……?」

 いまいちよくわからないことを言うリズにアスナは首を傾げながら誘われるがままリズの指定する喫茶店へと足を踏み入れた。
 ウエイトレスに禁煙席へ案内され、それぞれホットのブレンドコーヒーを注文して向かい合う。

「それで相手はどんな子なの? 銃に酷いトラウマがあるって話しかちゃんとは聞いてないけど」

「う~ん、私も会ったのは一度だけだしなあ。というか会ったって言っていいのかねあれは」

「え? それじゃどうして……」

「まあその子が私の知り合いの知り合い、みたいな子でね。ほら前に話したことあったじゃない? 今年高校に入学した男の子の話」

「ああ……」

 そういえばそんな話を春に聞いた気もする、とアスナは納得する。
 つまり今日来る相手はリズの直接の知り合いではなく、知り合いを通した相手なのだ。

「女の子だからさ、自分よりは同性の方が相談しやすいんじゃないか、って言われてね。まあ私もそう思うし、アスナそういうのに詳しそうだから」

「買いかぶりだよー。私だって知らないことは一杯あるし事実それでキリト君の症状改善が捗っているわけじゃないから……」

「……そっか。ごめんね、何か」

「リズが謝ることじゃないよー」

 アスナの屈託のない笑顔に、一瞬失言だったかと気を落としかけたリズはホッと胸を撫で下ろす。
 そこへ注文したコーヒーも届き、二人が同時に一口飲んだ時、リズの目に本日の主役が映った。

「あ、こっちこっち!」

 手招きしながら声をかけると、呼ばれた少女、朝田詩乃は訝しがりながら近づいてきた。
 詩乃は先日、恭二に助けられたとき彼の頼みでここへ来ていた。
 会ってほしい人がいる、きっと力になってくれるからと言われ、渋々ながら了承した。
 相手はあの時恭二と一緒にいた女性だと聞いていた。
 詩乃は彼に頼まれた時のことを思い出す。



「大丈夫朝田さん?」

「うん、もう大丈夫」

 仄かな湯気が立つティーカップ。
 その中に入っている紅茶を一飲みしてから詩乃は恭二へ答えた。
 安心した恭二は思い出したように「そういえば」と言い出す。

「大活躍だったらしいね。ミニガン使いの《ベヒモス》を殺ったんだって?」

「うん……そんなに有名な人だったの?」

「そりゃそうさ。あの人は集団戦で殺されたことが無いって言われてたんだから」

「へえ……でも《バレット・オブ・バレッツ》のランキングでは見たことが無かったよ?」

「いくらミニガンが強力だって言っても弾薬を五百発も持てば重量オーバーで走れないからね。《BoB》はソロの遭遇戦だから遠くから狙い撃たれたら終わりだよ。でもそのかわり集団戦でちゃんとした支援があれば無敵の強さを誇るんだ」

 いつものことながら恭二の知識は的確だ。
 詩乃は感心しつつ頷いた。そうだったのか、と。

「朝田さんは今度の《BoB》にも出るの?」

「そのつもり。ある程度上位プレイヤーの情報は集めたし、じゃじゃ馬な《あの子》の扱いにも慣れてきたから今度は持っていこうと思う」

「そっかぁ……置いてかれちゃったなあ」

「新川君はエントリーしないの?」

「う~ん、僕は結構ステ振りミスってるからなあ……」

 詩乃にとってこの町で唯一敵ではないと言える相手が恭二であり、様々な面から感謝さえ抱いている相手でもあるのだが、一つだけ彼の嫌いな所があった。
 それは自身がVRMMOで使用しているキャラクターの強さについて、《ステータスの振り分けミス》のせいで十分な強さが得られないという持論である。
 彼はゲーム運営開始当時、AGI(敏捷力)を上げれば強いという風潮から己の分身のステータスをほとんどAGIに振り分け、AGI一極型ビルドとして成長させていた。
 ところが最近ではそれはあまり良くないものとされ始め、彼は自身のキャラクターに自信を喪失し始めていた。
 詩乃に言わせればステータスの振り分けによる強さなど、後から付いてくる付加的なものでしかないと思っているが、こればかりは個人の感情だ。
 なのでその件についてこれまで詩乃は苦言を呈したことは今のところなかった。

「そっか……まあ勉強もあるしね。予備校の高卒認定試験コース通ってるんだっけ? 模試とかはどうなの?」

「ん、大丈夫。学校行ってた頃は維持してる。目標は来年中に高認合格してその後大学受験用に別の予備校、かな」

「へえ、凄いね。新川君結構ログイン時間長いからさ」

「メリハリが大事なんだよ。ちゃんと昼間は勉強してる」

「そっか。うんエライエライ……あ、でもこの前いなかったよね」

「この前?」

「うん、ほら前にゼクシードが《MMOストリーム》に出てた時。《BoB》で二位だったAGI一極型の闇風と一緒に招待されてたじゃない? 新川君闇風が結構好きみたいだったし《シュピーゲル》と一緒に見ようかなって少し思ったけどその日はフレンドリスト見たらインしていなかったから……」

「あ、あ~……うん、その日はちょっと、ね」

「……?」

 少し気まずそうな顔になる恭二に詩乃は首を傾げる。
 何かまずいことでも言っただろうか、と。
 恭二は視線を少しばかり泳がせ、しかしやがて意を決したように真っ直ぐ詩乃に向き直った。
 その彼が、言ったのだ。

「朝田さん、今度会ってほしい人がいるんだ」



 誰? と尋ねた詩乃に、恭二はさっきの人だよ、と軽く応じた。
 やっぱり彼女だったのではないか、という予感が少しよぎったが、恭二は詩乃がそれを口に出す前に否定した。
 ただ、信用できる人ではあるから朝田さんの事で相談してみるといいと思う、などと言われ詩乃は返答に窮した。
 誰かに相談するつもりなどは微塵も無かった。
 ただそのトラウマに負けないよう強くなりたかっただけなのだ。
 しかし世話になっている恭二からの厚意を無下にするわけにもいかず、詩乃は頷いた。
 当日は適当に話を切り上げて帰ろう、などと思いながら。
 そんな経緯を経て詩乃は今ここに来ていた。

「あの……朝田詩乃です。初めまして」

「篠崎里香よ、よろしく」

「結城明日奈です。よろしくね」

 簡単な自己紹介を済ませたところでリズ/里香が詩乃を先ほどまで自分が座っていたアスナ/明日奈の対面に座らせ、自身は明日奈の横へと滑り込んだ。
 詩乃も二人と同じコーヒーを注文し、それが届いたところで里香が切り出した。

「えっと、それでなんだけど……」

「はい」

「なんていうか、自分なりに克服できそうな光明は見えてきてるの?」

「まだなんとも……今そのために新川君に教えてもらったVRMMOをやってますけど」

「そういえば結構なハイプレイヤーらしいわね。恭二が言ってた」

「はあ……別にそこまでじゃ……」

 ぎこちない会話はお互いの緊張を中々ほぐしてはくれなかった。
 当然と言えば当然で、昨日今日会ったばかりの人にそう簡単に自分の深層をさらけ出すことは難しい。
 逆もまた然りで、会ったばかりの人のことをそう簡単に理解できれば苦労はしない。
 里香は今それを痛感していた。
 それは詩乃も同じで、何を言って良いかもわからず既に帰りたい気持ちが強く浮上していた。
 もともと乗り気ではなかったのだし、自身がやっているVRMMOの大規模イベント……《バレット・オブ・バレッツ》も近い。
 それに向けて最終調整をしたい気持ちも強かった。
 そんなちぐはぐなようで合っているともいえる空気を壊したのは明日奈だった。

「あの……私詳しいことはまだちゃんと聞いてないんだけど、どうしてそんなに銃が苦手になったの?」

 里香はしまった、と思った。
 もう少し、せめて最低限の情報は与えておくべきだったか、と。
 勝手に「人を殺してしまった過去がある」と言っていいものか迷い口にしなかったことをやや後悔した。
 そんな質問はされても困るだけだろうし答えたくはないだろう。
 だが里香の危惧とは裏腹に、詩乃は案外すんなりと答えた。

「幼い頃、母と一緒の時に強盗にあって……母を護ろうとその時強盗が持っていた銃で私が強盗を撃ってしまったから……だと思います」

 詩乃にしてみれば、思い出したくない過去ではある。
 正直口にしたくないものでもある。
 だが、どのような手を使ったのかは知らないがクラスメイトの女子がその情報を仕入れてきた時点で隠すことの意味を詩乃はあまり見出せなくなっていた。
 むしろ、上辺だけの付き合いしかない人には上辺だけ知ってもらって離れてもらった方がいろいろと楽なこともある。
 開き直りにも似た考えだが、それが詩乃が遠藤達に過去を知られた際に覚悟した処世術だった。
 この話を聞けば大抵相手は自分を《人殺し》として見るか、勝手に精神構造の推測を重ねた《可哀相な人》として見てくるかのどちらかになる。
 殺人犯を見る目と変わらない目か、あるいはこちらの心をわかっている風な言葉を吐く。
 そのどれもが詩乃には苦痛だった。
 殺人犯として見られるのはもちろんの事だが、「辛かったね、わかるよ」などと言われるのはもっと嫌だった。
 何度「じゃああなたは人を殺したことがあるの?」と問おうとしたことだろう。
 知った風な口をきかれるなら人殺しと罵られる方がマダマシとも思えた。
 だが今はそれに少しだけ感謝する。これで話は早々に切り上がり帰ることができるだろう。詩乃はそう踏んでいた……のだが。

「そっか。お母さんが大好きなんだね」

「……へ?」

 詩乃としては予想よりかなり斜め上方向な返答だった。
 間違いではないが、少なくともこれまでそのようなことを即座に返事として言ってくる輩はいなかった。
 大抵は目が忌避の色に染まるか「辛かったね」といった勝手な心の推測を押し付けられるものだったので、てっきり今回もそうなると思っていた。

「間違ってはいませんけど……私は人を撃ったんですよ?」

「うん」

「殺して……しまったんです」

「うん」

「あの……失礼ですけど本当にわかっていますか?」

 あまりの自然体に、詩乃は少しだけイラつきながら明日奈の顔を見た。
 彼女の態度があまりに普通過ぎて、肩すかしというか……真面目に話をしているように思えない。
 神妙な顔をしろとは言わないが、もう少し雰囲気にも気を使うべきではないかと詩乃は思った。

「わかってるよ」

 だが彼女の言葉は軽い。
 軽すぎて、また小さい針が突き刺さるようにイラッと来る。
 しかもその手の答えは詩乃のもっとも嫌う答えだ。
 「わかっている」などと軽々しく答えて欲しくない。
 どうせ本当にわかるわけがないのだから。
 その想いが、これまで決して言う事の無かった言葉を詩乃に吐かせた。

「じゃああなたは人を殺したことがあるんですか」

 これまでに溜まっていた鬱憤もあったのだろう。
 その声は酷く尖っていて、言った本人でさえ初対面の人に言うべきことではないとわかっていた。
 それでも口に出してしまった言葉は取り消せない。
 そこに僅かな罪悪感を覚えながらも、もう二度と会うこともないだろうという勝手な推測が彼女の精神的負担を軽くし始めた時、詩乃にとって再び驚くべき答えが返ってくる。

「殺したことはないけど、殺そうとしたことはあるよ。私も」

「……え」

 それに驚いたのは詩乃だけではなかった。
 里香もまた、ぎょっとした顔で明日奈を見つめた。
 里香は全く知らなかったわけではないが、その話をするとは思っていなかった。
 詩乃は必死に心を落ち着かせていた。
 殺したことがあるのと、殺そうと思った、では天と地ほどの差がある。
 口だけでは何とでも言えるが実際に手を下してしまったらそれほど平然となどしていられない。いられるわけがない。
 だというのに、彼女の纏う空気がそんな軽いものではないことが詩乃には理解できてしまった。
 言うなれば《同族》の匂いとでも言うのだろうか。
 詩乃が自身に感じている《それ》が、より濃密になったものを明日奈は纏っている。
 つい先ほどまでは感じなかったそれが、明日奈の発言の後何故か感じられるようになった。
 それは詩乃に《口だけではない》と強く思わせる何かを孕んでいた。
 遊びや冗談で「殺してやる」「殺す」といった言葉は日常的に使われている。
 だが、詩乃が認識し使うその言葉はより真実味が増す。
 今明日奈が発したそれも、同種のように感じられた。

「貴方だけ身の上を話すのは不公平だよね。私も話すよ、SAOプレイヤーなんだ私」

「っ!?」

 瞬間、詩乃は理解した。
 一時世間を騒がせた死のゲーム、ソードアート・オンライン。
 そのゲームの中での死は現実の死となる。だというのにそこでは実際に殺人を犯すプレイヤーがいた、という噂はまことしやかに流れている。
 目の前の彼女がそうだとは思わないが、相手を殺さねばならない状況に追い込まれたことがあるのだろうと予想は出来た。
 そこには詩乃が思いもしなかったさらに明確な差が存在する。
 それは、

 《殺す気があったか無かったか》

 当時の自分にはもちろんその気はなかった。
 ただ必死だった。どうにかしたかっただけだった。
 だが今の話を聞く限り彼女は間違いなく「殺す気」があった。
 それはある意味詩乃の領域を凌駕する。
 なのに彼女は先ほどまでそうだと感じさせないほど平然としていた。
 その在り方に、詩乃は興味を惹かれる。それこそ自分が追い求めた強さの一旦ではないか、と。
 同時に。少し嫌悪感を持ってしまった。
 人を殺したこと、いや正確には殺そうとしたことだが、そこに彼女は恐らく負い目を持っていない。
 その精神が、酷く歪んで見えた。
 強くはなりたい。だがそう歪みたくはない。そんな相反するかのような気持ちが詩乃の中で揺れ動く。

「大切な人を護りたいって思う気持ちは、そんなにおかしいものじゃないよ」

「明日奈……それくらいにしておきなよ」

「……うん。ごめんね変なこと言って」

「いえ……」

「まああれよ。明日奈も今でこそ落ち着いてるけど昔は結構ピリピリしてたからね。男でもできれば変わるもんよ?」

 場の空気を和まそうと、里香は詩乃にウインクを送る。さりげなく恭二の事をアピールしてあげているつもりもあった。
 もう! と少しだけ不満げな顔をする明日奈だが、それが照れからくるものであることは詩乃の目から見てもわかった。
 里香の意図を理解した詩乃は場の空気を変えるべくそのまま話に乗ることにした……のだが。

「それは里香さんも同じなんでしょう? えっと、《和人》さんでしたっけ?」

 先日の僅かな記憶を辿り、詩乃はその名前を出した。
 途端、この場の空気が再びカキーンと凍る。
 ギギギ、と明日奈が里香の顔を見つめて、冷たい空気を纏いながら尋ねた。

「ネエリズ、ドウイウコトカナ?」

「えっ、あ、いやっ、こ、これは違っ、っていうかとりあえず落ち着いて! ねえお願いだから落ち着いてアスナ!」

「オチツイテルヨ? ネエリズ」

 青白い炎が明日奈を纏っている姿を幻視しつつ、余計なことを……と恨めしそうに里香は詩乃を睨む。
 詩乃は最初、意味がわからないようだったが、やがてすべてを理解したかのように眉間に皺を寄せた。

「もしかして、二股なんですかあの人」

「……リズ?」

「やっ、だから違ッ!?」

 明日奈の突き刺さる氷の視線に脂汗を流す里香は、明日奈の説得及び説明に忙しくなる。
 実際に冷気を纏っているかのような言葉は時折リズの体感すらも奪い、室内だというのに外にいるかのように徐々に寒気さえ感じた。
 明日奈とてすべてを疑っているわけではなく、半ば先ほどの里香への意趣返し的な意味を込めて悪ふざけしているだけなのだが、そうだとわかっていても明日奈の声色に僅かに混じる《本気》を里香は感じ取り、慌てていた。
 そしてまだ二人との付き合いに日が浅い詩乃にはそのようなことがわかるわけも無く、彼女の中では《和人》という男は最低の二股男というレッテルが貼られてしまった。
 同時に、これ以上は邪魔になると思い、詩乃は腰を上げる。

「今日はありがとうございました。そろそろ私は失礼します」

「ええっ!? ちょ、ちょっと待って!? 今明日奈と二人きりにしないで!?」

「リズ? ウフフフフ……?」

 そんな二人に詩乃は苦笑を漏らす。
 益々自分に介入は不可と思い、早々に切り上げることにした。

「ごめんなさい。帰ってやりたいことがあるので」

「あ、そういえばVRMMOやってるんだっけ? 何だっけあの銃が一杯出てくる……」

「《ガンゲイル・オンライン》、略して《GGO》です。新川君に教わってトラウマ克服になればと思いプレイしています」

 その詩乃の言葉に、先ほどまでリズに絡みつくようにしていた明日奈が瞬時に素に戻る。
 驚きの表情で詩乃を見つめ、明日奈は念のために聞き返した。

「GGO、やってるの?」

「え? あ、はい」

「結構凄腕らしいわよー」

「そんなことはないですけど……」

 里香と詩乃のやり取りに、しばし明日奈は考える素振りを見せてから、意を決したように顔を上げた。
 その目は真っ直ぐに詩乃の瞳を見据えている。
 詩乃が少したじろぐのと明日奈が口を開くのはほぼ同時だった。

「私、今度そのゲームにちょっとコンバートするの。良かったらゲーム内でいろいろ教えてくれない?」










 翌々日、GGO世界の中央都市《SBCグロッケン》に、コンバートしたアスナは立っていた。
 空は一面曇天じみた不気味な黄色に染まっている。ところどころに薄い赤を帯びているその空は何処か世界の終わりをイメージさせた。
 菊岡からようやく準備が整ったと言われ、聞いていた詩乃の連絡先に連絡し、この世界に降り立って数分、《それ》を見たアスナはログインするまでのあれこれといった出来事を一瞬すっぽりと忘れた。
 GGOはこれまでアスナが体験してきたことのあるSAOやALOといったファンタジー世界よりもSF色が強く、メタリックな質感を持つ高層建築群が天を衝くように黒々とそびえていた。
 それとはやや毛色の異なる初期キャラクター出現位置に設定してあるらしいドーム状の建物。
 アスナはそこから出てきてそのままふと外壁を飾るミラーガラスに視線を向け、自らの出で立ち確認して固まってしまったのだ。

「な、な、なぁ………!?」

 そこに映っていたのは────明らかに背は低く、無駄な脂肪が一切感じられないほどに体は細く、胸は現実のそれよりはるかにボリュームが減り、整った綺麗な顔立ちに長い睫、鳶色の瞳をした……《チェリーピンクカラー》のロングヘアを持つ少女の姿だった。
 黒いニーソックスに白いブラウス、黒いマントにミニスカートというおよそ銃撃戦を想定したアクション系VRMMOには相応しくない初期服飾より、アスナは理不尽な《それ》について魂の叫びをあげた。



「なんでよりによって髪がこの色なのおおおおおおおっ!?」



 アスナの心の叫びは、その場に来た詩乃/シノンを含め居合わせたほとんどのプレイヤーを驚かせた。
 だが、つい先ほど同じようなことがあったことは、幸か不幸か彼女の耳には入らなかった。



[35052] GGO4
Name: YY◆90a32a80 ID:b9264a49
Date: 2013/01/18 00:04


 東京都千代田区お茶の水にある都立病院。
 クリスハイト/菊岡誠二郎からGGOへログインする環境が整ったと聞かされ訪れたその病院はアスナ/明日奈にとっても決して知らない場所ではなかった。
 ここはかつてキリト/和人が入院し、リハビリに勤しんだ病院だ。明日奈自身も幾度となく彼のお見舞いと称して足を運んだことがある。
 そういった意味では感慨深いと言えなくも無い。彼のリハビリ中によるまるで赤ん坊のような弱々しい手の感触は今でも明日奈の胸の奥にそっとしまわれている。
 同時にここでは何度も目覚めぬ彼の姿を目の当たりにしたという悲しい思い出も存在する。
 両方の意味でやはり感慨深いと言えるその病院を見つめ、連絡された入院病棟の病室へと足を運ぶと、そこで待っていたのは依頼主である菊岡誠二郎……ではなく顔見知りの看護師だった。

「やっほー明日奈ちゃん。お久しぶりー」

「安岐さん?」

 彼、和人の担当看護師であった彼女がどうやら《モニター》を担当するらしい。
 菊岡と和人の二人はアミュスフィアを使い、《ゲーム内でリアルの人間を殺すことは不可能》と既に結論付けており、その考えには明日奈も知識不足ながら全面的に同意している。
 だがどうしても《死銃》なるプレイヤーと撃たれたプレイヤーがリアルで死んでいる事実に《無関係》というピリオドを打ち切れなかった。
 その為、安全措置は十分に取った上でGGOへとダイブし調査をする運びとなったのだ。
 そこでその安全措置の一環として安岐は総務省の菊岡に依頼され、《二人》のモニターチェックを担当することになった、と説明された。
 もっとも彼女は『ただのゲーム内部の調査』としか聞かされていないようだが。
 安岐は同時に和人のモニターも担当している。
 明日奈は「隣の病室では彼氏が寝てるよ」と茶化されるように安岐から言われ、部屋の壁に位置する扉を見つめた。
 病室同士を繋ぐように位置しているその扉は普通の病室ではあまり見ることはない作りだろう。
 これはSAO患者を収容した時の名残だそうで、多くの部屋を看護師達や家族が行きき出来るよう取りはからったものなのだそうだ。
 今回は明日奈と和人が《互いにここにいることを知らない》必要があるため、菊岡の計らいでこの病室を使うことになった。
 和人は菊岡に《明日奈を関わらせるな》と条件を出し、逆に明日奈は《関わらせなければ泣いて彼を止める》と菊岡に脅迫まがいの交渉に出ている。
 そのどちらも満たさなければならない菊岡にしてみれば今回のやり方はまさに苦肉の策と言えるだろう。
 安岐にとっても一人で二人分モニターするのに同室にいないとなると負担が大きい。この計らいは彼女にとっても負担の軽減と言えた。
 また菊岡の力では看護師の確保は一人が精一杯だった。
 もっともこれは菊岡個人の力云々よりも病院側の意向が強い。ただでさえ看護する側の人間は不足しているのに飛び入りで付きっきりの看護となれば病院側の負担が大きいのは必至だ。
 その問題点についてもクリア出来る病院を選べば良かったと思わないではないが、元々和人一人、もしくは《協力》という形で何の憂いもなく調査が出来る予定だった菊岡にしてみればまさに寝耳に水のような事態だろうからこれ以上の我が侭は言えない。
 それら全てを理解し、明日奈が望んで《アスナ》をログインさせたGGO世界。
 その結果が、これである。

「……うぅ」

「あ、あの元気だして……?」

 シノンはバーのテーブルにぐったりと突っ伏している桃色の物体に困り果てていた。
 さらさらとしたペールブルーのショートヘア。額の両端に小さく房にして留めてワンアクセント作っているヘアスタイル。
 はっきりと大きい眉に藍色の瞳、それにどことなく猫をイメージさせる雰囲気を纏っているシノンはどうしたものかと頭を悩ませる。
 マフラーの中で溜息を吐き、中程まではチャックが開いているジャケットの胸元で腕を組んで動かない桃色の物体を見つめた。
 彼女からGGOの事を教えて欲しいと頼まれ、迷ったものの自分も知り合いによって助けられこの世界を知った経緯があったからやむなく了解した……のだが。
 早くもその決断を呪いたくなる。
 自分にGGOの事を教えてと頼んだ依頼主、リアルネーム結城明日奈こと《Asuna》はGGOの中央都市グロッケンにて奇声を上げ意気消沈するという変人ぶりを見せた。
 正直こんなことでも無ければ関わりたくない相手ですらある。
 周りからは「あのシノンの知り合いか?」などといったような視線さえ浴びせられ、居心地が悪いことこの上ない。
 既に面倒臭さと逃げだしたい衝動が八割から九割方シノンの中を占めているが、残りの一割程度の優しさが未だアスナを見捨てずにいた。

「よりにもよってなんでこの色なの……? ねえシノのん」

「し、しののん? なにそれ?」

「シノンだからシノのん。リアルでも使えそうだし」

「……」

 残り一割さえ音も無く砕けてしまいそうになる心を詩乃/シノンはグッと堪え考える。
 そもそも彼女の突然の豹変と落胆の原因はそのアバター容姿にあるようだが、シノンの私見ではさほど悪いものではないように見える。
 むしろ《アタリ》の部類に入る程可愛いはずだが一体何が不満なのだろう……と思った言葉は飲み込んだ。
 シノンにも思うところが無いわけではないのだ。このアバター容姿に釣られて男性プレイヤーがひょこひょこ寄ってくることはシノンにもある。
 そんな時、決まってこのアバターのことを呪いそうになるのはシノンとて同じことだった。
 シノン/詩乃はそんなことの為にこのオイルと硝煙の匂いが充満する世界へ飛び込んだのではない。
 その点については全く無駄な機能、とさえ考えてもいた。彼女をこの世界に引き込んだ少年は大層喜んでいたが、シノンにとってはあまり良い気持ちではない。
 だからシノンは最低限出来るアドバイスを模索して口を開いた。

「そんなにその姿が嫌ならお金かかるけど別アカウント取るって方法もありますよ」

「んー……これコンバートなの。ちょっとそうしないといけない理由があって。だからそういうわけにはいかないんだ」

「……そうなんですか。まあ髪の色を変えるアイテムも無いわけじゃないんですけど……」

「え? ホント!?」

「結構メンドイクエストの報酬だったりするからオススメできません。基本このゲームは容姿を求めるゲームじゃないですから」

「そっか……うん、わかった。ありがとうシノのん」 

「……そのシノのんって……まあいいや」

 シノンは止めて、と言いかけて口を噤んだ。
 どうせ長い付き合いにはならない。それなら好きに呼ばせておいてもいいやと思えた。
 さっさと最低限のレクチャーを済ませて別れよう。そう結論付けてシノンは本題に入る。

「それでまずは基本武装なんだけど……銃のことどれくらい知ってます?」

「あ、そうだ。そのことなんだけどさシノのん、メインウェポンって銃じゃなくちゃいけないのかな?」

「……は?」

 何を言っているのだろうかこの人は。
 僅かに残っていた優しささえ吹き飛びそうになる苛立ちがシノンの中に生まれる。
 GGO──ガンゲイル・オンライン──はその名の通り銃の撃ち合いをするゲームだ。
 それでメインウェポンを銃にしないなんて馬鹿げている。
 確かにナイフなどを巧みに使うプレイヤーはいるがあれは飽くまでサブ。
 下手をすれば趣味の領域だ。初心者(ニュービー)には荷が勝ちすぎている。

「あ、その顔は馬鹿にしてるでしょ? 酷いなあ。これでもちゃんとネットで簡単な下調べはしてきたんだよ」

 それなら私はいらないでしょ、というツッコミは流石に飲み込んだ。
 忘れがちだが相手は一応年上だ。リアルでの知り合いというのはこう言う時やり難いと痛感する。

「《ナイフ作成》スキルってのがあるじゃない?」

「まあ、ありますけど……」

「それの上位派生に《銃剣作成》スキルってのがあるみたいなの」

「あることはありますけど……そんなの作ってる人なんて稀ですよ。実戦にもメインウェポンで使うひとなんてそういないです」

「そうなの? これで剣を作れれば私でもそこそこ良いトコいけるかなーって思ったんだけど」

「はあ……」

 気のない返事をしながら、シノンの内心は業火で煮えたぎっていた。
 考え無しにも程がある、と。

(……相手は銃なんですよ? 速いんですよ! 剣なんて振ってる暇無いから! そりゃサブで持ってて近接戦で凄い戦いする人もいるにはいるけど……少なくともこれまでBoBで勝ち上がってる人にそんな人いないわよ!)
 
 どこまでもホワホワしたような《平和ボケ》ともとれるアスナの態度に業を煮やす。
 だがそんなシノンの内心を知ってか知らずかアスナはペースを崩すことなく続ける。

「私は今まで遠距離系のMMOをやったことがないの。基本近接の世界に長く居たから。それなら付け焼き刃よりは、って思ったの。三日後のバレット・オブ・バレッツまでに、出来ることはしておきたいかなって」

「………………」

 シノンは呼吸を整える。
 スタイルという点では基本自由なのだ。諫めることやアドバイスこそするが決めるのは当人。
 それが明らかにダメな方向でも。それ以上のことは知ったことではない。
 そう冷静に思い直し、シノンはとりあえずアスナの好きなようにやらせ見ることにした。

「それじゃなんとかして剣を手に入れるんですか?」

「んー、自分で作れれば一番良いんだけどねえ……え?」

 アスナは頬杖をついて自身のステータスを見つめ、固まった。
 ぷるぷると震えつつシノンを見やる。

「どうかしました?」

「シ、シノのん……どうしよう?」

「何かあったんですか?」

「あるの……」

「へ? 何が?」

「《銃剣作成》スキル……」

「え……」

 流石にシノンも言葉に詰まる。
 なんの巡り合わせだそれは。
 そもそも《ナイフ作成》ならともかく何故《銃剣作成》があるのだ……と思ってから気付いた。
 彼女は別世界からのコンバートアバターを使用している。
 それは元の世界のスキルがこの世界の物にある程度置き換えられることを意味していた。
 恐らくは彼女がもともと持っていた何らかのスキルが変換されスキル値を満たしており、上位派生の《銃剣作成》になったのだろう。
 こんな偶然もあるものなんだな、と思いつつシノンは軽い気持ちで提案した。

「せっかくだからとりあえず何か作ってみたらどうです?」





 安全圏外エリアの廃墟群。
 ビルやら家屋やらが半壊し、コンクリート剥き出しでごろごろしている地帯。
 グロッケンから東へ三キロメートルほど離れた場所にアスナとシノンは来ていた。
 理由は大きく分けて二つ。
 一つは《銃剣作成》による銃剣の作成及び試し斬り。
 もう一つは──シノンにとってはこちらが本命、というよりこれだけが目的──簡単な銃の操作と練習。
 結局アスナはシノンから一つ、使い勝手の良いハンドガンを譲り受けた。
 というより譲り受けるほか無かった。
 ゲームを始めて間もない彼女のアイテムストレージはゼロ。お金も千クレジットと初期手持ち感バリバリだった。
 それでもアスナはそこまでお世話になるわけにはいかないと何度も断ろうとしたのだが、面倒くさくなりつつあったシノンはこれを教えてさっさと別れようと思い半ば無理矢理持たせたのだ。
 そんなアスナだから当然《銃剣作成》用のアイテムの調達にも苦労するかとシノンは思ったのだが、簡単なものならその辺の廃墟から取れる素材でも作れるとアスナは言い出した。
 それもネットで調べた、と。シノンはここに来て初めて少しだけ感嘆する。
 もともとこのGGOはアメリカ発祥のゲームで運営会社であるザスカーもアメリカの会社らしい。らしい、というのは公式サイトにさえそれらのことが記載されていないからだ。
 しかもオフィシャルサイトは全て英語の為、その全てを理解しようと思ったら我々日本人には少々骨が折れることになる。
 翻訳サイトやエンジンも数多く存在するがどれも完全ではなく所々文法がおかしかったりするのが常だ。
 無論日本で稼働しているゲーム故日本人が作る日本語の攻略サイトも全く無いわけではないが、アメリカにあるものと比べるとその情報量は段違いで、コアな情報ならやはりそちらを見るべきというのが今のところの通説だ。
 そして《銃剣作成》などは間違いなくコアな部類に入るとシノンは思う。
 それはつまり、アスナがアメリカのサイトを巡回して自分で英訳するなり翻訳するなりして情報を得ていたということだ。
 その頑張りは素直に感心できた。

「武器の作成は本来リズの領分だけど巻き込むワケにはいかないもんね……よし!」

 アスナがブツブツと呟きながら《銃剣作成》に入る。
 《銃剣作成》に使用出来る素材はピンキリで、鉱物でも実際にあるナイフの類でも良い。
 だが現在GGOにおいては初心者(ニュービー)であるアスナの所持金は少ない。
 ただでさえ銃を一丁シノンに用立ててもらっている手前、これ以上お世話になるわけにはいかないアスナはその為に下調べしておいた材料の採取可能なフィールドポイント、すなわち《ここ》に来たのだ。
 その辺の瓦礫を集めて採取、ストレージの中を見て調べた使用可能な鉱物類かどうか確認する。
 《鉄クズ》や《スティール》などの鉱物アイテムなら使用可能だ。この辺がVRといってもやはり《ゲーム》というところだろう。
 アスナは採取したアイテムで《銃剣作成》を開始した。
 工程はさほど難しくない。そもそも実際に武器を作る為の《腕》が問われるわけではなく、スキル熟練度と素材のレア度、さらに言えばサブ要素としてLucK(幸運)が影響するのであって他に影響するものなどない。
 ただリズなどは武器を作る時いつも真剣な顔で真剣な思いを全身全霊を込めて武器に打ち付けている。
 設定上ではそうすることにメリットは無いとされているがキリトなどは「なんとなく影響はある気がする」と言っていた。
 アスナとしても不真面目にカナヅチを振るわれるより真剣に作ってもらった物の方が気分が良いのは確かだ。
 だからたとえその行為に意味などなくてもアスナは精一杯真剣に銃剣の作成に勤しんだ。
 その真剣ぶりは、アスナの心境を知らないシノンにしてみれば首を傾げる程だったが、やがて出来上がった物にはつい「ほう……」と漏らしてしまう。
 長さ約八十センチほどの細い金属針。
 鋭く尖った剣先よりも、その辺の鉄くずで作ったとは思えない綺麗な刀身に思わずシノンは見惚れてしまった。
 これまでオイル臭い拳銃の光沢ばかり目にしていたせいで金属の本来持つそのままの輝きを見る機会は逆に少なかった。
 アスナの剣はシノンにそれを教えてくれた。

「へえ、よく出来てるじゃ……っ!」

 剣の感想が口から漏れたその時、シノンの索敵に何かが引っかかった。
 ここは安全圏に比較的近いと言っても圏外フィールド。
 何が起きても不思議はない。
 耳を澄ませ、辺りを端から端まで見渡しつつ変化を捜す。
 と、瞬間目端で遠くの建物の傍の地面に砂埃が舞ったのを確認した。

「! 敵よ、それもプレイヤーだわ!」

 シノンは経験からそれだけで相手がMobモンスターではなく対人であると見抜いた。
 隠密行動を取るモンスターがいないわけではないが、ここまで街に近い場所でそうレベルの高いモンスターは出ない。
 それに砂埃の《舞い方》が人の歩いた後のそれに見えた。モンスター《らしさ》を感じさせない。
 それを見抜けるシノンはこのゲームにおいて相当に高い《システム外スキル》を会得していると言っても良い。
 だが────それはアスナにも言えた事だった。 
 アスナにもシノン同様相手の動きは見えていたらしい。相手が隠れた廃ビルへと真っ直ぐに走り出した。

「っ!? 馬鹿! 正面から突っ込んだら蜂の巣に……!」

 いくら素人だろうとそれはないだろう、という驚きと叱責の入り交じった声を上げつつシノンは呆れ半分で即座に有効な狙撃ポイントへ移動する。
 こうなれば彼女が死ぬ前に襲撃者を上手いこと殲滅するしかない。彼女が少しでも生き延びてくれることを祈るばかりだ。
 相手の数は恐らく三人。中流程度のプレイヤーだろう。
 シノンには長年の経験からおおよその状況を脳内シミュレートしていた。
 そもそも砂埃による情報を与えてしまうのはハイプレイヤーとしては致命的。
 街からそう遠くない場所での襲撃から鑑みても、波に乗り始めた中流階級といったところのはずだ。
 無論侮ることなどしない。シノンはどんな相手であれ《殺す》ことを厭わない。
 これはそういうゲームなのだ。
 だが、自らも身を隠し狙撃の準備を始めていると、信じられない光景がシノンの眼前に広がっていた。

「……はぁ!?」

 GGOには弾道予測線(バレットライン)と呼ばれる照準予測線が存在する。
 その線のように《飛んでくるだろう》弾を教えてくれるそれは、弾を回避する上で確認するのは必至だ。
 相手の技量にもよるが中流クラスのプレイヤーなら既に標的が弾道予測線(バレットライン)上に重なった瞬間には引き金を引いている。
 反射神経に優れ、高いAGIを持ち、度胸の据わったプレイヤーであれば五十メートルの距離から撃ち込まれる突撃銃の連射でさえ五割程の回避確率があると言われているが、それは飽くまで回避の話。
 近接戦においては事実上、見てからかわすのは不可能だと言われていた。
 シノンにこの世界を教えてくれたAGI一極型ビルドの新川恭二でさえ「TASでもないと無理」と笑って説明してくれたものだ。
 ちなみに当時、TASというのがGGOのプレイヤー名だと勘違いしたシノンはしばらくの間その存在しないプレイヤーを探し回り事実を知って顔を真っ赤に染めたことは恭二にも秘密だったりする。
 全てを理解し、ハイプレイヤーの一因として君臨する今となってはその時の恭二の言葉は偽り無かったと思っていた……のだが。

「き、斬ったの今!? 銃弾を!? 嘘でしょう!?」

 シノンの視線の先ではアスナが確かに金属針……鍔の無いエストックのような出来たての剣を横薙ぎに振って火花を散らせた。
 アスナの勢いは止まらない。ダメージを受けた様子もない。プレイヤーが驚愕に口をあんぐりと開けている間──シノンから言わせればあってはならない隙──にエストックもどきの鋭い矛先をプレイヤーの胸に突き立てた。
 驚愕の表情のままそのプレイヤーは無数のポリゴン片となって爆砕する。
 そのままアスナは足を止めることなく横に転がり跳んだ。コンマ数秒後にはうっすらと弾道予測線(バレットライン)が表示されるのと同時にけたたましい銃声が飛び散る。

「え……今弾道予測線(バレットライン)が出る前に避けた……? まさかね」

 アスナのとんでもない動きにシノンは動揺しつつ自分も仕事に取りかかる。
 中流プレイヤーの襲撃者相手で初心者(ニュービー)に遅れを取るなど上位プレイヤーに位置する身としては面目が立たない。
 素早くスコープを覗き込み、着弾予測円(バレットサークル)内にプレイヤーを合わせる。
 緑色に光る半透明の円。ゆらゆらとその直径を変化させる円がゲームシステムによって今シノンに見せている着弾予測円(バレットサークル)だ。
 銃弾はこの円の中のどこかに当たる。
 この円は目標との距離、銃の精度、天候、光量、スキル・ステータスといった様々な要素によって変動するが、一番影響が色濃いのは狙撃者(スナイパー)の精神状態だ。
 円の大きさは心臓の鼓動とリンクしている。心臓が脈打つたびに拡大縮小を繰り返しているのだ。
 その為狙撃者(スナイパー)はいかに平静でいられるかが問われる難しいポジションでGGO内でも数が少ないのが特徴だが、メリットもあった。
 狙撃は相手に自身が見つかっていない状態なら一射目に限り弾道予測線(バレットライン)が相手に見えないのだ。
 無論今は見ることが出来るだろうが、そんなことはシノンには関係ない。
 スコープ越しに目標を捕らえた。ならそれでチェックメイト。

「どんな時も後ろに注意(チェック・シックス)よ」

 シノンが引き金を引いた瞬間、雷鳴のような爆音を鳴らした彼女の愛銃、《PGM・ウルティマラティオ・ヘカートⅡ》から発射された銃弾は見事じりじりとアスナの背後ににじり寄っていたプレイヤーの側頭部を直撃した。
 相手が目前のアスナにばかり意識を集中していたのはスコープ越しからでも明白で、仮に相手が自身に弾道予測線(バレットライン)を向けられた事に気付いたとしても避けるより速く相手プレイヤーの体に銃弾を撃ち込む自信がシノンにはあった。
 シノンは一連の動作を終えるのと同時、振り返り様に腰から《MP7》短機関銃を抜き引き金を引き絞った。
 高い連射音を響かせて背後に迫っていた最後の襲撃プレイヤーが蜂の巣になっていく。

「くっ!」

 残り僅かだろうライフを削られる前に襲撃者はどうにかコンクリートの壁に身を隠した。
 しかしそれこそがシノンの狙い。
 シノンはポーチから手りゅう弾を取り出すとピンを抜いた。


 一。


 一拍置いてからぽいっとそれを上空へと放る。


 二。


 同時にシノンは逆方向へ走り出していた。


 三。


 手りゅう弾はきれいな彷彿線を描いてコンクリートの壁の向こうへと消えていく。


 四。


「────!?」

 意味不明な叫び声が上がるのと同時にシノンはヘッドスライディングの要領で前方へと跳んだ。


 五。


 シノンが小さな声で「アディオス」と呟いた途端、背後から爆音。もうもうと黒い煙を上げて周辺には燃えた金属片がばら撒かれる。
 間違いなく、先のプレイヤーはお亡くなりになっただろう。
 シノンはゆっくりと立ち上がると砂埃をパッパッと払う。
 仮想体だろうと汚れは些か気になるものだ。何より僅かでもAGIに影響するのが頂けない。
 とりあえずこれで当面の襲撃者は撃退した。そう思ってアスナの方を見やると彼女は丁度手を振りながら歩いてこちらに近寄ってくるところだった。
 その彼女を見て、シノンは尋ねずにはいられなかった。

「さっき、貴方銃弾を狙って斬ったの?」

「……? うん。一応ね」

「嘘……そんなことできるはずない」

「でもできたよ?」

 それは事実だ。彼女がこうして無事にここにいる以上、それが仮想の中の現実。
 しかしそれをシノンの中の理性が認めていなかった。
 ちゃんとこの目で確かめるまでは。

「じゃあ、さっきと変わらない距離から私が撃つからもう一回できる?」

「へ? う~ん多分できると思うけど……」

「やってみて」

 アスナは疑問符を浮かべつつ諒解し、距離を取る。
 シノンも僅かに後退して愛銃を構えた。
 《PGM・ウルティマラティオ・ヘカートⅡ》。
 アンチマテリアル・ライフル……すなわち対物ライフルの一種であるこの銃は全長百三十センチ、重量十三・八キロという図体を持ち、五十口径、つまり直径十二・七ミリもの巨大な弾丸を使用する。
 アンチマテリアル・ライフルはハーグ陸戦条約に抵触し、現実では対人に使うことを禁止、などという話があるが実はそんなことは全くない……というのは恭二の受け売りである。
 ただ対物ライフルの威力は凄まじく、種類によっては二キロメートル先の人を撃って上半身と下半身とが両断して吹き飛ぶ程の威力があるものも存在するらしいので、そんな話が持ち上がるのも無理からぬことだろう。
 シノンはヘカートⅡのボルトハンドルを引いた。
 対物ライフルはその威力や射程距離こそ目を見張るものがあるが、その重量と連射のできないボルトアクションが扱い難さのハードルを底上げしている。
 だがシノンは《じゃじゃ馬》とも呼べるそのヘカートⅡの扱いにももうだいぶ慣れてきていた。
 排出された薬きょうが地面に跳ね返り消えていく。ヘカートⅡには問題なく次弾が装填された。
 二人の距離はおおよそ十メートル。
 この距離なら通常、ヘカートⅡの弾は《絶対に当たる》。
 シノンのスキル熟練度とステータス補正、ヘカートⅡのスペックからシステム的には必中距離。
 先の展開と違う点があるとすれば、ヘカートⅡのスペックは敵プレイヤーの使用したものより高いだろうというアスナに対するデメリットと、撃つ相手が明日奈からははっきりと見えているというメリット。
 これらが展開的に丁度相殺されイーブンとなるかはシノンにもわからないが、アスナは問題ないと言った。
 ならば遠慮はしない、とシノンはヘカートⅡのグリップを握る手を僅かに力ませる。
 弾道予測線(バレットライン)が出ないよう、まだスコープは覗きこまない。
 シノンはふぅ、と息を一つ吐くと素早くスコープ越しにアスナを見つめた。
 ほぼ同時に引き金を引く。この距離なら照準にそこまでの時間を必要とはしない。

(さあ、マグレかどうか、見せてもらうわよ!)

 ヘカートⅡの銃口から轟音が轟き、オレンジ色のマズルフラッシュが一瞬閃光のように奔る。
 その時、シノンは確かに見た。閃光の向こうで、もう一つ、《閃光》のように動く何かを。
 カンッ! という高い金属音が鳴り響く。
 途端銃弾の軌跡がブレたのがシノンの視線でも見えた。
 ……ブレた?

「……っ!」

 アスナの苦しげな声がシノンの聴覚野に届く。
 瞬間、何が起こったのかをシノンは理解し、酷い罪悪感に苛まれた。
 それはアスナの現状を見て益々膨れ上がる。
 今のアスナは、仮想体とはいえ《片腕》が吹き飛んでいた。
 その理由は、アスナの足元に転がっている《折れた鉄棒》が物語っている。
 単純な話だったのだ。ヘカートⅡの威力が強すぎた。
 もともとあり合わせで作った武器なのだ。五十口径を相手にしてそうやすやすと無事でいられるわけがない。
 恐らくアスナは正確にヘカートⅡの弾めがけて寸分の狂いなくなんちゃってエストックで切り払ったのだろう。
 見事命中してみせた、までは良かったがあり合わせの武器では耐久値は望むべくもない。
 ヘカートⅡから発射された十二・七ミリもの弾丸はエストックの耐久血を一瞬で根こそぎ奪ってしまった。
 それでも弾道を僅かにずらすことに成功したのは流石と言わざるを得ない。
 だがここでさらなる誤算がアスナを襲う。
 ヘカートのような大口径銃には《インパクト・ダメージ》という追加効果が存在する。
 大口径の弾は命中した付近へインパクトによる範囲攻撃効果が起こり、普通ならライフ全損の憂いさえ少なくない。
 むしろ今、腕一本で済んで生きているのは不思議な程だ。これはもう、信じるしかなかった。

「あ、あはは……ちょっとダメだった、かな……」

「ううん、その武器がちゃんとしたのだったら上手く言ってたよ」

「そ、そうかな?」

「うん。凄いね、どうやったらそこまで強く……」

「あ、ようやくシノのんも言葉の角が取れてきたね」

「え? あ……」

 言われて気付く。いつの間にか敬語が薄れ始めていた。
 失敗したかな、という逡巡は一瞬。ここはゲーム世界だ。
 ゲームの世界でリアルを持ち出すのはご法度。ここではたとえリアルで年齢差があろうとタメで話す方が自然なのだ。
 なにより、それを咎めるどころかアスナは喜んでくれている。ならば何も問題ないとシノンは少しばかり自分をさらけ出すことにした。

「ダメだった?」

「そんなことないよー……っとと」

 片腕が無いせいか、バランスの取り方に苦労しているアスナにシノンは苦笑する。
 先日、戦闘で片足を無くした経験のあるシノンとしてはその気持ちはわからなくもない。

「まずはその腕、なんとかしなくちゃね」

「何か回復アイテムがあるの?」

「部位欠損まで行くと高価なリペアキットが必要になるんだけど……今回は幸い良い案があるわ」

「え? 何?」

 アスナが期待の眼差しでシノンを見つめると、シノンはイタズラっぽい笑みを口端に乗せた。
 瞬間、アスナは背中に嫌なものを感じる。

「今の戦闘で何かドロップした?」

「ええっと……得には」

「そう。じゃあ今のあなたは《初期そのもののまま》なのよね。ストレージ的には」

「えっと、そういうことになる……のかな」

「じゃあ話は簡単よ」

 最高の笑みでシノンはMP7の銃口をアスナへと向ける。
 アスナの顔がサアッと青くなった。

「ちょ、シノのん!?」

「死に戻り、って知ってる? 部位欠損のまま移動するのって大変なのよ。だから、ね?」

「じょ、冗談、だよね?」

「大丈夫、すぐに迎えに行ってあげるから。あ、生き返る場所はセーブしてないから多分最初に出てきた場所よ」

「え、え、ええ!?」

「それじゃ後で街で会いましょ。もし何かドロップしたら届けてあげるから」

「ええ────────────!?」

 アスナの悲鳴に似た叫び声は、途中の銃撃音にかき消された。
 シノンの目の前で桃色の髪をなびかせたアスナは涙目のまま爆散する。 
 その姿にクスリと笑みを零し、シノンは溜飲を僅かに下げた。
 これは八つ当たりの一種でもある。出来るわけなどないと疑った相手の力量、それを見誤った自分への。
 今、彼女が最初に言った「メインウェポン」の話をされれば、悩んでしまう自信がシノンにはあった。
 むしろ彼女のメインウェポンは剣の方が良いんじゃないかとさえ思えてくる。

「これは……とんでもない相手が出来たもんだわ」

 その声は軽く、どこか楽しそうだった。



[35052] GGO5
Name: YY◆90a32a80 ID:b9264a49
Date: 2013/02/22 21:18


「酷いよーシノのん」

「ごめんごめん」

 シノンがグロッケンのスタートポイントまで辿り着くと、頬を膨らませた桃色の少女がプンスカと立っていた。
 その腕は問題なく存在しており、先程までの痛々しい姿の見る影はない。
 あの腕のまま長くいることは危険だった。部位欠損はペイン・アブソーバによって《痛覚》こそ大幅に遮断されているが、部位欠損の感覚を長い間継続することは現実に戻った時に何らかの影響を与えかねなかった。
 肉体の一部を喪失した状態を長く経験することは通常あまりない。
 正確には喪失した後元に戻ることはあまりない。
 GGOにもその辺のリミッターはあるとの話だが、長くプレイしているとその手の悪い話の噂は度々耳に入ってくる。
 アスナがそうなってしまうことは望ましくないとの判断もあって──当てられた悔しさもあったが──シノンは彼女を《死に戻り》させたのだが。
 アスナの表情が言葉とは裏腹に少し暗いのを見て、もう少し説明しておくべきだったかと反省する。
 流石に味方と思っていた相手に殺されるのは良い気分では無い。
 実際、戦闘中のスコードロン内では、このまま相手に殺されるよりは味方に殺されて後々アイテムを返して貰う作戦も無いわけではない。
 対人プレイヤーに敗北し、ランダムドロップで手持ちをそれぞれ奪われるよりはずっと良い。
 時には「死んだ方が得策」なこともある。
 シノンはこと戦闘において《諦める》事は大嫌いだが《戦略的撤退》にも重きは置いている。
 慎重なのは良いことだ。強い相手ほど冷静さを最後まで失わず最後まで《勝つ》為に必要なことをする。
 それが《逃げ》であるならそれもいい。シノンとて出会った全てのプレイヤーやMobモンスターを殺してきたわけではない。
 時に無用な争いを避けるのは戦う為の知恵の一つだ。
 それに自身も数限りなく死に戻りは経験している。むしろ強さの裏にはそれらの敗北の数が必ず存在する物だ。
 そう思っていたシノンはつい軽い気持ちで口を滑らせた。

「でもゲーム内で死ぬなんてよくあるでしょ? それだけ強いならこれまでにだって何度も……」

「……」

 アスナの表情が歪む。
 瞬間、何か言ってはいけないことを言ったのだとシノンは理解した。
 人にもよるが、ゲーム内の死であれ快く思わない人はいる。
 そこで連鎖的にシノンは思いだした。そういえばアスナはSAO生還者なのだと。
 《本物の生命のやりとり》を経験したことのある彼女にとって、ゲーム内の死は現実のそれに近いほど恐い物なのかもしれない。

 ──違和感。

 もしそうなら、彼女は何故人を殺そうとしたことがあるのか。
 何故その時のことをそこまで引きずっているようには見えないのか。
 先程ためらいなく敵プレイヤーを刺し殺せたのか。
 シノンの胸に不快感じみたもやもやが生まれ始める。
 それは少しだけ形となって、《初対面》の時に感じた印象を呼び覚ました。

 この人は、何処か────オカシイ。

 何と表現して良いのかわからない。
 ただ、例えるならそう、昔の《母親》のそれに近い気がする。
 普段は気付かないが、ふとした瞬間現れる違和感。
 何かが《欠けている》という感覚。
 そこまで考えて思考を振り払った。これ以上は人の心に土足で踏み入ることに等しい。
 彼女の過去には《本当の殺し合い》を強要されるゲームがある。それだけで彼女が普通とは少しだけ違うかもしれないと思うのは十分だ。
 無用な詮索は不要だ。自分だって過去の詮索は余りされたくない。
 今の彼女は友人の伝手で知り合った知人。加えるならGGOで将来有望そうな相手。
 それ以上でもそれ以下でもない。
 だから早々にこの話は切り上げることにした。

「えっと、そう言えばさっきの私の銃弾は何故斬れたの?」

「え? 何故って……」

「いくらゲームの中でも実在する重火器の物理法則を無視しているわけじゃないわ。仮に弾道予測線(バレットライン)が見えていたとしても、あの距離と速度では人間の反応速度じゃ間に合いっこない」

 シノンは真っ直ぐ身体の真ん中を狙ったわけではなかった。
 彼女が狙ったのはアスナの《左足》だったのだ。
 しかし勘という言葉では説明し難い精密さでアスナは銃弾にエストックをぶつけている。
 ここから導かれる可能性は、信じがたいが弾道予測線(バレットライン)が出るより《速く》弾道がわかっているということ。
 そんなことはありえないはずだが、当てずっぽうで斬れる程シノンのヘカートⅡは安くない。
 それがわかっているからこその不可解だった。

「ああそういうこと。うんとね、スコープ越しにでもシノのんの眼が見えたから」

「…………はっ? 眼?」

「うん。眼を見るとね、大体は相手の行動を読めるの」

「……本当に?」

「うん」

「じゃあ、それだけで?」

「うん」

「………………」

 シノンは口を閉じてまじまじと桃髪の少女を見やる。
 返す言葉が見つからない。あっけらかんとして言う少女に嘘は見えなかった。
 相手の眼を見ればある程度次の攻撃がわかるという彼女の言に改めて驚愕しつつ、《好敵手》という言葉が思い浮かぶ。
 まだ荒削りだが、いつか自分を脅かす程のハイプレイヤーになる。そんな予感がシノンの背筋をゾクゾクさせた。
 もし、その相手を返り討ちに出来たなら、それはその時こそトラウマを克服し《強者》になった証では無いだろうか。
 右手が少しだけ震える。シノンの中に爆発的に生まれる希望的観測と欲求が溢れる。

 ────強くなった彼女を《殺したい》と。

「シノのん? どうかした?」

「っ? なんでもない……!」

 急に黙り込んだせいか、アスナが不思議そうに声をかける。
 シノンは小さく首を振って取り繕った。
 いけない、悪い癖だ、とも思う。
 シノンは自身の弱さを克服する為に強さを求める余り、GGO内では《相手を殺す》ことに執着している節がある。
 自覚はあるものの、時々明確に《殺す》という単語をイメージしたり口にしたりしている自分はどうにも好きになれなかった。
 そうしたい、そうすることで克服したいと思う自分がいる一方で効果の程の疑問やそんな自分に嫌気を感じるという二律背反。
 最近ではそれが不安となって押し寄せて来ることもある。そんな時は決まって《誰かを殺す》ことで自分を落ち着けてきた。
 シノンは決して殺人狂ではない。その自負もある。
 だがそれとは別にゲーム内で《殺す》ことが出来るという事実が今の彼女の唯一の心の支えにもなりつつあった。
 相手プレイヤーを殺し──プレイヤーは強ければ強いほど良い──自分は強いと思うことで、弱い自分を封殺し、《自分は大丈夫》と自己暗示のようなものをかける。
 そうでもしなければ弱い自分の心に押しつぶされて気が狂いそうになることがしばしばあった。
 なので気を紛らわせる為にも、シノンは努めて明るく振る舞い、再び話を変えた。

「それより今日はこれからどうする?」

「え? あ……」

 するとアスナの顔に再び影が差した。
 どうしたのだろう、と思ってから自分のしたことを思い出す。
 つい先程シノンはアスナを文字通り《殺した》ばかりだ。
 もしかすると一気に信用が失墜してしまったのかもしれない。

「あ~……その、ごめん。まだ気にしてる? さっきのこと」

「さっきのこと……? あ、あー……」

 アスナは一瞬目をキョトンとさせてから、顔を伏せた。
 その顔には相変わらず影が差し、心なしか弱々しくも見える。
 これは益々失敗したかと、シノンは俯くアスナに困り顔になった。
 幼い頃の事件のせいで、人付き合いが多かったとは言えないシノン/詩乃はこう言う時にどうすれば良いのかわからない。

「……ごめんね。もうあんなことは二度としないから」

「……」

「だから、えっと……その……」

「……」

「な、なんだったら私が持ってる使ってないレア銃プレゼントするよ! ね?」

「……」

「う、うう~……な、何か言ってよ、聞けることなら聞くから!」

「……私ね、信じてたんだよシノのんのこと」

「うっ」

「それなのに……」

「ご、ごめ……」

「これはもう、あそこのバーで美味しいモノでも奢って貰わないと」

「奢る奢る! 奢るから……へ?」

「やった! 約束だよシノのん!」

 暗い表情を携えていたアスナが急にパッと明るい顔になる。
 まるでしてやったり、というその表情は瞬時に状況をシノンに理解させた。

「……騙された?」

「最初にやったのはそっちだよ」

「くぅ……!」

 悔しさに歯噛みするシノンだが、ここはグッと堪える。
 確かに自業自得感は否めない。しかし納得も出来ない。
 シノンは些か不満気味に頬を膨らませると、ズンズンとアスナの指定した近場のバーに大股で入っていく。
 アスナはクスクスと笑い、チラリとシステムメニューのリアル時間を確認しながらその後についていった。





「おいしい!」

 テーブルに出された《びっくりバレットチョコサンデーすぺしゃる》なるパフェを頬張り、アスナは幸せそうにもぐもぐと口を動かした。
 アスナの目の前には、十五センチ程の大きな専用パフェグラスにビックリするくらい大きいなアイスがぶち込まれ、表面は生クリームでコーティングし、チョコレートソースをこれでもかとぶっかけてポッキーが二本刺さっているという、やや無骨ながらも食べ応えのありそうなパフェがあった。
 アイスが大きく楕円を描いているのは名前のバレットから銃弾の形をイメージしているのだろう。
 そのお値段実に千五百クレジット。この世界に降り立ったばかりの《初心者(ニュービー)》の所持金千クレジットを上回る料金だ。
 リアル換算するなら、電子マネー返還レートは百クレジットで一円の為、百分の一の十五円になる。
 その辺がVRゲームのお手軽さと人気の秘密の一つだろう。VRゲームでの飲食は実際に味があり、満腹感まで味わえる。
 その為仮想世界で飲食し、現実世界で飲食せずに身体を壊す者も急増していて社会現象の一つになってはいるが、節度を守ればこれほど素晴らしいシステムもない。
 実際問題十五円でこのパフェは食べられない。何より、《実際に太らない》この味覚エンジン再生システムは乙女の強力な味方だった。
 それを幸せ一杯の表情で頬張っているアスナを見て、シノンは溜息を吐く。
 先程までの罪悪感とシリアス感はなんだったんだ、と。
 アスナの変わり身の速さに毒気を抜かれたシノンは面を食らい、どっと疲れが仮想アバターにのし掛かってきていた。
 オマケに好きなものを頼んで、と言えばGGO内の食べ物としては馬鹿高いパフェを注文する始末。
 祖父母の仕送りで一人暮らし生活をしているシノン/詩乃は決して資金が潤沢ではなく、いろいろなところを切りつめている。
 それはGGOの接続料も例外ではなく、VRMMOとしてはかなり高い部類に入るこのゲームの接続料を払うのは当初相当に辛かった。
 最近ではようやくコンスタントに接続料をゲーム内で稼ぎきれるようになったところだったのだが、これはゲーム内でも節約の鬼と化す必要が出てくるかも知れない。
 そこでふと思う。仮想世界でも節約を考えているなんて馬鹿みたい、と。
 シノンは何だか急にしらけてしまい、つまらなさそうにバーの中をぐるりと見回した。
 バーにはたくさんの人ががやがやわいわいとひしめき合っている。
 バーとは言っても今アスナが食べているようにスイーツ類もあるのだが、この世界にはあまりそういったものを求める者はいないので今はアスナしかその類のものを口にしていないようだ。
 大抵は皆、コーヒーか酒をあおっている。仮想世界だからこそ許される全年齢への飲酒。
 ゲーム内でも未成年の飲酒の禁止を訴える団体をニュースで紹介していたな、などと益体も無いことを思い出しながらさらに視線を巡らす。
 すると奥の方で何処にでもあるギャンブルの類のゲームを大勢が挑戦しているのが見えた。
 馬鹿だなあ、とシノンは口に出さずに思う。何度か見ていればわかるがあの手のゲームで儲かることなど殆ど無い。
 中には無理ゲーも多く、この店のゲームだって確かその一つだったはずだ。
 NPCが操る西部劇に出てきそうなガンマンの銃撃を見事くぐり抜けガンマンにタッチ出来たらクリア。
 その時はこれまで挑戦者がプールするハメになった挑戦料を総取り出来るシステム。
 だがシノンは何度か見て気付いていた。あのガンマンにタッチするのは不可能、だと。
 幅およそ三メートル、長さは二十メートル程度の金属タイルを敷いた床を腰の高さぐらいの柵で囲いワンスペースとしている。
 左右に大きく動けるならともかく、幅が三メートルしかない中で二十メートルの距離を銃撃をかいくぐりながら進むなど到底不可能だ。
 十メートルを越えたあたりから卑怯じみた連射撃ちもしてくるので尚更である。
 なのに飽きもせず毎日挑戦するプレイヤーは後を絶たない。今日は特に多く感じられるほどだ。
 シノンは半ば呆れながらたんなる好奇心で現在のプール金額を確認した。
 前に見た時も相当な額になっていた筈だが、今はどれくらいなのか。

「……えっ」

 一瞬錯覚かと思った。だがそれはありえない。
 ここは仮想世界。視覚さえも直接脳に信号を送られて《視ている》のだ。
 それでもシノンは信じられないその金額に何度も目を擦った。

「……少なすぎる。誰かクリアしたってこと? そんな馬鹿な……ねえちょっと!」

 シノンはバーのカウンターからゲームの行く末を見ているプレイヤーに声をかけた。
 声をかけられたソンブレロを被ったメキシカン風な風貌の男性プレイヤーが振り向く。

「なんだい?」

「随分プール金額少なくない? まさか一回誰かクリアしたっての?」

「ああ、実はそうなんだよ。今日颯爽と現れた初見らしいプレイヤーがびゅーって凄い勢いでね。そりゃもうびっくりしたよ」

「そんなプレイヤーが初見……?」

「コンバートじゃないかな」

「ソイツはどんなヤツなの?」

「聞いて驚くなよ? 何と女の子だったんだ。結構幼さを残した可愛い子だったよ。まあリアルじゃどんな姿してるかわからないけどね」

「そう。ありがとう」

「どういたしまして」

 シノンは話を聞くとアスナの待つテーブルへと戻った。
 アスナはスプーンをくわえたまま首を傾げている。
 シノンは顎をしゃくって奥のゲームスペースを示した。
 アスナはシノンが示したガンマンのゲームを見やる。
 丁度挑戦者がプレイしているところだった。
 挑戦者はなかなか機敏な動きを見せ、六メートルほどを詰める。
 だがそこでガンマンのペースが変わった。
 これまでは三発ずつ同じ間隔で連射していたNPCガンマンは二発、一発、と緩急を付けた。
 遅れて来た一発に挑戦者は体勢を崩し、慌てて立ち直ろうとするものの、その時には既にガンマンが次の銃弾のトリガーを引いていた。
 挑戦者の肩にブルーの火花を散り、情けないファンファーレと共に失敗を告げる。
 ガンマンが何事か口汚く罵り、挑戦者はすごすごと去って行った。
 アスナはそれを見ながらさらに疑問符を浮かべる。

「あれがどうかしたの?」

「あれを今日《初心者(ニュービー)》っぽいプレイヤーがクリアしたって言うのよ

「ふぅん。あ、もしかしてそれって黒い男の子?」

 一瞬アスナの脳裏にキリトが思い浮かぶ。
 彼なら、恐らく初見でそんなとんでもないこともやってしまいそうな気がした。
 だが、

「ううん、女の子だったって話だけど。何? 心当たりあるの?」

「女の子……なら違うかな、たぶん」

 何か引っかかりを覚えつつも無理矢理納得する。
 彼以外にも凄い人はいるものだ。

「ふぅん。でもまさか貴方以外にそんなとんでもない《初心者(ニュービー)》がいるなんてね。今度のBoBは荒れるかも」

 シノンの呟きにアスナは苦笑しつつ先程から度々気にしていた時計を見やる。
 ……そろそろログアウトしないとまずい。
 今日は自宅からのインなわけではないのだ。帰る時間も考えると長くはいられない。
 そもそも今日のログインは三日後に開催されるBoB──バレット・オブ・バレッツ──なるソロ遭遇戦の大きい大会で《死銃》に接触するために無理矢理作った準備期間のようなものだった。
 本当なら大会当日からのログインになりそうだったのを、アスナ/明日奈が菊岡に無理を通させて今に至っている。
 シノン/詩乃に教えを乞う約束をした手前、あまり彼女を待たせるわけにはいかなかったし、前情報としてログイン当日にBoB参加なんてありえないと詩乃にリアルできつく忠告された明日奈はやむなく菊岡に働きかけた。
 当然それに引きずられる形で今日はこの世界の何処かに彼、キリトもログインしているはずだ。
 自分だけ先にコンバートしてしまってはALOから消えたAsunaを見て彼に察せられてしまう恐れもあったし、何より菊岡の立場からも一人だけ先にログインさせておくメリットはない。
 その為余計に場所等の確保に緊急を要してこのような形になっているのだが、明日奈の中に悪びれた気持ちはあまり無かった。
 あの《自称総務省職員》である菊岡誠二郎の匂わせる何か。
 それがあまり良いものでは無い気がして、彼には無理を言うくらいが丁度良いと何処かで思ってしまう。
 なので、あるとすれば彼、キリトへの不義理。だがこれも半分半分ほどの気持ちだ。
 何故なら彼もまた自分に黙ってこの世界へ来ているのだから。それもわざわざ口止めまでして。
 彼に黙っているという罪悪感と、彼が自分を危険から遠ざけ一人だけ危ない橋を渡ろうとしているという不安と怒り。
 その両方が明日奈/アスナの中ではせめぎ合っている。

「どうかした?」

「えっ? あ、ううんなんでもない。それよりごめん、私今日はもう落ちなくちゃいけないの」

「あ、そうなんだ。わかった。またね」

「うん。またねシノのん」

 アスナは微笑み、システムメニューからログアウトボタンを押す。
 かつて居たあの世界では存在し得なかったそのボタンはそこにあり、タップすることで問題なくその機能を実行する。
 未だにこの瞬間、戻れなかったらどうしよう、という不安は小さいながらも残っているアスナだが──彼と一緒の寝オチはその限りではない──彼女の身体は光の粒子となって消えていった。
 それを見届けたシノンは立ち上がりバーを出て行く。
 今日はまだ、《狩り》足りない。出費も嵩んだ。だから、

「……一狩り行こうかな……あ、そうだ」

 足が自然と街の外へ向いた時にふと思いだした。
 システムメニューからマップを呼び出し場所を確認する。

「ん、あそこならソロでもなんとかなるかな」

 GGOの世界背景設定は世界大戦が起きた後の地球、というややSFじみたものとなっている。
 近未来的な雰囲気を作ってもいるが、それ故世界観はファンタジーな世界より現実に近い。
 実在する重火器を使っている所もその感覚を後押ししているだろう。
 それ故、ファンタジックなものよりもあらゆる面で想像しやすい利点がある。現実的、と言ってもいい。
 例えるなら今日、アスナが金属を拾って《鉄》を集めたように、リアルでの考え方が割と通じるのだ。
 これが例えばALOならダンジョンに潜り、モンスターないし鉱山等に行って鉱石アイテムを見つけて来る、などといったような流れになる。
 入手アイテムもリアルには存在しないものが多いだろう。キリトがSAO時代にリズベットに作ってもらった剣の素材も、リアルでは聞かないような名前だった。
 その為、そういった《常識面》においてGGOはALOやSAOより現実に近いと言える。
 シノンが目を付けたのはそこだった。
 今日軽い気持ちでアスナに言った言葉がある。

『ううん、その武器がちゃんとしたものだったら上手くいってたよ』

 この言葉に嘘偽りは無い。
 だが、《初心者(ニュービー)》では《ちゃんとしたもの》をすぐに調達は出来まい。

 それがもし──自分だったなら?

 幸いな事に金属等から作れる事は分かっている。
 そこでとびきりの素材があることをシノンは思いだしていた。
 ここは言うなれば近未来。設定上だが、宇宙戦艦の残骸なんてものもある。
 シノンとてそこまで詳しいわけではないが、宇宙戦艦の素材ともなればそれはそれは良い素材になるのではないだろうか。
 実は前に偶然手に入れ、その時は必要なさそうだと捨てたことがあり、それがあればアスナの戦力は劇的に上がるのではないかと思ったのだ。
 普段、その生い立ちから他人にそう関心を寄せないシノンは《誰かの為に》行動することは少ない。
 だが今はやっても良い、という気になっていた。

「飽くまで自分が狩り足りないから。そのついでなんだから」

 誰が聞いているわけでも無いいいわけを口にしながらシノンは以前の記憶を頼りにそこへと向かい出す。
 その目は、獰猛な血に飢えた捕食者のようだった。





 バレット・オブ・バレッツ、通称BoB。
 その日はあっという間に訪れた。
 この三日間、アスナはシノンが調達してくれた素材、《宇宙戦艦の装甲板》を元に強力な細剣(エストック)を作成することに成功していた。
 この武器が完成してからは、シノンもアスナのメインウェポンは《剣》で、という考えを認めざるを得なかった。
 シノンのヘカートⅡの銃弾はこのエストックの前に等々敗北したからだ。
 アスナはそのエストックでヘカートⅡの銃弾を斬り伏せることに成功した。
 ただそれは決闘スタイルだったからで、実際の戦場での話とは違う。
 実際の戦場でのシノンは相手に気付かれることなく遠距離から撃ち抜く技術を持っている。
 そういった点ではやはりアスナはシノンの足下にも及ばない。
 BoBは実戦形式のソロ遭遇戦を主とした大会なので、一概に決闘スタイルのような銃弾を斬れるだけでは優位性を語れるものではない。
 そもそもアスナもその銃弾を切り伏せたことに完全な満足感を得てはいなかった。
 アスナが得意とするのは細剣(フェンサー)による刺突だ。今使用しているのはエストック。
 形状にそこまで大きな差はないがやはり刺突に特化したいと考えるアスナはなんと突きによる銃弾破壊を目標としていた。
 が、現在のところまだ一度も成功してはいない。
 恐ろしく速い《点》で迫る弾に《点》を突くやり方は寸分の狂いも許されない。
 それを狙ってやってのけるなどもはや離れ業も良い所なのだから無理もない。
 だがシノンの目から見てもアスナの技術、戦闘技能は高く予選の突破は可能かもしれないと思わせた。
 BoBは土曜日一日を使って予選を行い、翌日日曜日に本戦を行う。
 エントリープレイヤーがそれぞれ各ブロックで一対一の戦闘を繰り返し、ブロックごとに一位と二位が本戦への出場権を得る。
 シノンから簡単な説明を受けたアスナはGGO内にある総督府でエントリー作業をしていた。
 総督府にあるコンピュータパネルからエントリー手続きをすることが出来る。幸いこれは全て日本語仕様となっていた。
 現在では日本サーバとアメリカのサーバは別稼働になっており、そのせいか外国人プレイヤーは多くない。
 正確にはアメリカに居ながら日本の稼働サーバにてプレイしている者は殆ど居ない。
 シノンによれば別サーバになる前は街のあちこちでも頻繁にネイティブな英語が飛び交い、BoBの優勝者などは海の向こうのプレイヤーだったということだが、少なくともこの三日間アスナは街中などでネイティブイングリッシュを耳にした記憶は無かった。
 それだけこの日本で稼働しているサーバは日本国内のみの仕様環境に対応しているということで、アスナは今更そのことに実感する。
 とアスナは手を止めた。意外過ぎるそのフォーラムに戸惑ったのだ。

「え……これリアル情報も打ち込むの?」

 画面には実際の名前や住所を打ち込んでください、と書いてあった。
 だがよくよく見れば、上位入賞者への賞品付与のためであって、エントリーだけならその必要は無いらしい。
 ただ記入しなければ上位入賞者への賞品付与をもらえない可能性があるとの注意書きもある。
 アスナは賞品欲しさにここに来たわけではないので、そのまま何も記入せずにエントリーを済ませた。

「なんかキリト君だったら賞品に釣られてフラリと打ち込んじゃってそうだな、こういうの」

 そんなことを考えて苦笑しつつ、隣を見やると丁度シノンも登録が終わったところのようだった。
 一緒にパネルから離れる。

「予選ブロックどこになった?」

「私はFブロックだって。シノのんは?」

「Kブロック。お互い別々だね、会うとしたら本戦か」

「とりあえず良かった、のかな。予選でシノのんとやりあってどちらかが本戦いけなかったらイヤだもんね」

「……そうね。でもたとえ知り合いだろうと手は抜かないわよ私は」

「あ、あはは……」

 ギラリとした猫科をイメージさせる瞳にアスナはぎこちなく笑いながら彼女について行く。
 向かう先はこの総督府の地下二十階。上にも下にも長いらしいこの建物の地下がBoBの会場となっている。
 地下二十階に着くと、そこは今までアスナが経験してきた事のない空気に包まれていた。
 地下二十階は半球形状のドーム型で一階ホール並に広い。照明は申し訳程度しかなく床や壁、柱は無骨な金網で作られ中央には巨大なホロパネルウインドウが無数に浮かび予選開始までのカウントダウンをしている。
 そんな中、この場には少なくない数のプレイヤーがちらほらといるが、談笑している者達はほとんどおらず、皆静かに黙っているか少数でボソボソと呟きあって視線を巡らせているかといった張りつめたような緊迫感が漂っていた。
 奥に座るテンガロンハットのガンマンは一際大きいスナイパーライフルのようなものを抱くようにして周りを見ているし、サングラスをかけたスキンヘッドの男は指でくるくるとリボルバーを回している。
 かつての攻略会議でも似たような空気はあったが、微妙に違う空気にアスナがやや飲まれそうになった時、シノンの舌打ちが彼女の耳に入ってきた。

「……チッ、どいつもこいつもお調子者ばっかりなんだから」

「え、ええ!?」

 お調子者、というシノンにアスナは面食らう。
 どのプレイヤーも来る戦闘への集中を高めているのではないのだろうか。
 そんな不思議そうな顔に気付いたシノンは溜息を吐くと小声でアスナに囁いた。

「今から武器なんて見せたら対策してくれ、って言ってるようなものよ。見せびらかして馬鹿みたい。貴方も装備はギリギリにしないさいよ」

「あ、ああなるほど」

 アスナは正直、これまできちんとした対人戦という大会に出場したことは無かった。
 アスナ自身の強さはキリトも認めてくれているものだが、それは対モンスターが主流だ。
 対人戦闘経験が無いわけではないが、それは突発的なものがほとんどで、準備期間のあるルール上の決闘とは違うものだ。
 SAOに居た時もデュエルをした回数はそう多くない。
 そのせいか、ここに来て初めて対人戦闘への意識が低かったことをシノンに教えられた。
 アスナはシノンにレクチャーされたBoBのルールを思い出す。
 バトルは一対一で行われる。バトルフィールドは一キロ四方の正方形。
 場所や環境はランダムで相手とは最低五百メートルほど離れた位置からスタートする。
 敗北すれば一階のホールに転送され、勝利すればここに戻ってくる。それを繰り返し各ブロック上位二名が念願の本大会出場となる。
 尚この大会中の戦闘に限り負けても武器ドロップは発生しない。
 相手の武器を奪い使用することは可能だが、大会が終われば持ち主の元へちゃんと戻る仕様になっている。
 ルールを反芻し、アスナはホロパネルを見上げた。
 時間だ、と思った時にはアスナの体は転送されていた。





「ふぅ」

 シノンは予選会場に戻ってきて一息吐いた。危なげなく一回目の予選は勝ち抜いた。
 アスナはまだのようだが、彼女ならきっと大丈夫だろう。
 それより次の戦いに備えて集中しなければ……とそんなことを考えていると、声をかけられた。

「お疲れ様シノン」

「あ、お疲れしん……シュピーゲル」

 ダークグレーの中に明るめのグレーが混ざった直線的な迷彩柄の上下を身に纏い、アーマーは最低限。
 肩からはアサルトライフルを下げ、銀灰色の長髪を垂らした背の高いリアル共に顔見知りのプレイヤーがそこにはいた。
 その隣には珍しく見慣れないプレイヤーもいるようだった。

「迷惑かな、とも思ったけど応援に来たよ。一回戦は余裕だったみたいだね」

「まあね。そちらの人は?」

 シノンの視線にシュピーゲルはややバツが悪そうな顔になった。
 不思議に思いながら隣のプレイヤーをまじまじと見つめる。
 身長はシュピーゲルの隣にいるせいもあってかなり低い。
 漆黒の髪は頭頂部から肩の下あたりまで伸び、肌は現実なら羨ましくなるほど白い。
 かなり整った顔立ちだが、美人というより可愛いという言葉が似合いそうな外見の女性プレイヤーに見える。

「初めまして。シノンさん、でいいのかな?」

「ええ、よろしく」

 一瞬、シノンは警戒レベルを上げた。
 このプレイヤーの異質さに気付いたからだ。
 言葉では友好的だが、その目、その表情に一切の変化が感じられない。
 無愛想ともとれるが、果たしてそこまで表情を消せるものなのか。
 だがシノンは努めてそれを悟らせぬようシュピーゲルにからかいの声をかけた。

「やるわね、こんな可愛い子と知り合いなんて」

「!? ち、違うんだあさ……シノン! こ、これにはワケが……」

「ええ、彼にはたくさんお世話になりました」

「へえ……」

 シュピーゲルを見るシノンの目に剣呑なものが浮かぶ。
 シュピーゲルは慌てて声を荒げながら言った。

「ちょっ!? いい加減にしてよもう! だいたい君……男じゃないか!」

「……へ?」

「あーあ、簡単にばらしちゃ面白くないじゃないか」

 シノンはシュピーゲルの言葉に目を丸くした。
 このどうみても女にしか見えないプレイヤーが……男。
 にわかには信じられないことだがシュピーゲルが嘘を吐くとも思えない。

「本当に男、なの?」

「まあね。俺も好きでこんな女みたいな姿ではいないさ。よりにもよってこんな……あの時とうり二つなんて」

「あの時?」

「……いや、なんでもない」

 一瞬、とても悲しげな表情をした女顔の男性プレイヤー。
 なんだ、普通に表情変えられるんだとシノンは少しだけホッとしてしまった。

「僕は彼がコンバートしてきたばかりで困ってたからちょっと手助けしてあげただけだよ」

「本当にぃ? 本当は可愛い子とお近づきになろうとしたんじゃないの?」

「そ、そんなわけないって! 僕には……っ!」

「?」

 シノンのからかうような言葉に、何かを言い返そうとしてシュピーゲルは言葉に詰まった。
 シノンが首を傾げるとシュピーゲルは顔を背けてしまう。

「二人は仲がいいんだな」

「一応リアルでも知り合いだから」

「なるほど」

 黙ってしまったシュピーゲルに代わりシノンが答える。
 納得したらしい女顔の男性プレイヤーに今度はシノンが尋ねた。

「貴方もBoBに参加してるの? シュピーゲルは出ないって言ってたけど」

「ああ。さっき一回戦が終わって勝ち抜いたところ。Fブロックだよ」

「Fか……ふぅん」

「何か?」

「ううん、今私の知り合いもFブロックで戦ってるなあって思って」

「ああ、そういうことか」

「その知り合いもこのゲームに来たのは最近だけど強いわよ?」

「そりゃ楽しみだな……おいいつまで黙ってるんだよシュピーゲル」

 未だ会話に混ざって来ないシュピーゲルに業を煮やしたのか、女顔の男性プレイヤーはシュピーゲルに声をかける。
 シュピーゲルは恨みがましい声で呟いた。

「半分は君のせいじゃないか」

「はいはいわかった、悪かったよ。俺が悪かった。ええとシノンさん、俺と彼はなんでもありませんので。彼が君や俺で両手に花なんてことは……」

「わぁ────!? ちょっとちょっと!」

 突然の弁明をシュピーゲルは無理矢理やめさせた。
 彼がキッと睨みつけるとそれまで無表情に近かった女顔の男性プレイヤーはわかるかわからないかくらいの小さい苦笑を零す。
 それを見たシノンはクスクスと笑い、そういえば、と思い出したことを口にした。

「両手に花って言えば、今戦ってる私の知り合い、二股かけられてるみたいなのよね」

「へえ、そりゃ許せないな」

「でしょう? 私も最低ですねその人、って言ったんだけどさ」

「そ、そういえばそのシノンの知り合いって……女の子なの?」

「……? そうよ」

「そ、そっか」

 久しぶりに会話に戻ってきたシュピーゲルは何処か安心したように胸を撫で下ろした。
 どうにも今日のシュピーゲルがシノンにはわからない。

「しかし二股か……なんでその相手の男もそんなことするんだろうな」

「そうなのよね。その人、リアルではすっごく綺麗な人なのに……二股かけるなんて信じられないっていうか」

「男の風上にもおけないな。俺なら絶対そんな真似しないぞ……っと、そろそろ次の試合か。それじゃ」

「あ、それじゃ」

「がんばって」

 シノンは転送される女顔の男性プレイヤーを見送る。
 シュピーゲルも小さく応援の言葉をかけた。
 シノン自身もそろそろかな、と思ってるいると丁度アスナが戻ってきた。 

「ただいまシノのん」

「おかえり。ここに戻ってきたってことは勝ったんだね」

「うん。怖かったけどなんとかなったよ。みんなシノのんほど凄くなかったし」

「当然よ」

 フフン、と少しだけ気分を良くしたシノンはシュピーゲルのことを簡単に紹介する。
 リアルの知り合いであり、間接的ではあるがシノン/詩乃とアスナ/明日奈を引き合わせたのは彼、シュピーゲル/新川恭二なのだと。

「あ、そうなんだ。初めまして」

「う、うん……ところでそのアバターってもしかして……」

「?」

「あ、ああなんでもない。里香姉さんによろしく言っておいてください」

「うん、わかったよ。と、次の試合だ、行ってくるね」

 アスナが消えるのと同時に、シノンも消えていく。
 一人残されたシュピーゲルは戦闘をホロモニターで追うことにした。





 シノンは再び勝利して戻ってきた。
 彼女にとって予選は通過点に過ぎない。
 通って当たり前。もし負ければ引退してやる、との意気込みさえあった。
 そのシノンが辺りを見回していると、シュピーゲルがホロパネルを見上げているのを見つけた。
 近づいて何か話そうか、と思った時、目端で先ほどシュピーゲルと一緒に現れた女顔の男性プレイヤーを見つけた。
 彼も丁度勝利して戻ってきたのだろう。もしかすると本当に彼女と戦うかもしれないな、などと考えていると、その彼に近づく影があった。
 当たる可能性のある対戦相手か何かだろうか。それとも負けた友人のはらいせか。
 どちらにせよその影の纏う空気があまり良いものではなさそうだと思い、その旨をせめてシュピーゲルに伝えてやろうと先のシュピーゲルがいた場所に視線を戻すと、そこにはもうシュピーゲルはいなかった。
 あれ? と思い辺りを見回す。その時だった。

「どうしたのシノのん?」

「あ、アスナ。また勝ったんだね」

「うん。それよりどうかしたの? なんかキョロキョロしてたみたいだけど」

「あ、いやたいしたことじゃないんだけど……」

 ちらり、と視線をもう一度女顔の男性プレイヤーがいた方に向けると、そこにはもう彼はいなかった。
 そこで無駄に気を使いすぎたか、とシノンは自分のらしくなさに溜息を吐き「なんでもない」とアスナに首を振った。

「それより調子良さそうね」

「うん。次が私決勝だよ」

「へえ。じゃあもう本戦参戦は決まったんだ。おめでとう」

「ありがとう。シノのんもがんばってね」

「ええ。っとじゃあ行ってくるわ」

「うん」

 アスナはシノンを見送りホロパネルを見やる。
 あちこちで戦っている映像が映っては消えていく。
 アスナは大きな問題もなく勝ち進んでいた。
 やはり銃弾を斬られるという予想外な戦法は相手の度肝を抜きまくったらしく、その隙に切り伏せるのはたやすかった。
 次の試合も上手くいくと良いな、そんな軽い気持ちで転送を待っていたアスナだったのだが。
 いざ転送され、相手が来るのをジッと隠れて待っていると、予想もしない相手がゆっくりと歩いてきていた。
 まさか、という気持ちが強いがその姿を見紛うはずがない。
 そのプレイヤーのアバターは……かつてALOでキリトが囚われていた時のそれとうり二つだった。
 同時に、あの何をしても反応しなかった時の、キリトが《壊れて》しまった時と同じような表情をしていた。
 瞳からは生気が失われ、焦点も合わずにただ前へ前へと歩いて行く。
 その姿に、アスナは胸が締め付けられていてもたってもいられなくなり、隠れていたことも忘れて飛び出してしまった。

「キリト、君……? キリト君なの……?」

「え……? まさか、アスナ、なのか……? どうして、ここに……」

 驚く彼の言葉が、やはり彼はキリトなのだと物語っていた。
 だが、次の瞬間、生気を取り戻した彼の瞳が、珍しく怒りの感情に染まる。

「どうして、どうしてここに来たんだ!」

 その姿はまるで、哭いているようだった。



[35052] GGO6
Name: YY◆90a32a80 ID:b9264a49
Date: 2013/02/17 07:15


 彼の目が哭いている。
 アスナは彼、キリトに対峙してまずそう感じた。
 彼の責めるような言葉は、まっすぐに彼自身を傷つけている。
 それが分かるから────アスナは許せなかった。
 いつまでも、他人を危険から遠ざけて自分だけが危険な目に合おうとする彼の考えが。

「そういうキリト君こそ、どういうつもりなの?」

「っ!」

 言葉に詰まる。
 彼は普段何処か大人びた態度を取るが、その内面はとてもナイーブで子供っぽい。
 本当の彼は何処までも幼く無邪気。それを、彼はひた隠しにして生きている。
 アスナはキリトにそんな印象を受けていた。
 だから、核心を突かれた言葉に対してすぐに反論出来ない。

 ────もっとも、それはアスナ自身も同じだと自覚していた。

 どこか達観したような表面とは裏腹に、いつも悩みを内包している。
 失うことを恐れ、与えられることを求めている。
 なんて子供。わかっていてもどうしようもない程に根付いた根底は覆せない。
 そう、まだ二人は……子供なのだ。
 故に感情が、ぶつかり合う。

「どうしてキリト君はこの世界にいるのかな?」

「そ、それは……」

「私に黙って……《あの時》みたいに私だけ危険から切り離そうとするの?」

 あの時。
 アスナには今も克明に思い出せる彼の苦悩の表情がある。
 今ALOに存在している伝説の城、浮遊城アインクラッド……その最初の姿。
 忌まわしいデスゲームと化し、大人数の死者を実際に出した最低最悪のVRMMO……《ソードアート・オンライン》、その最終的な攻略戦となった第七十五層攻略において、彼は全く同じ事をしようとした。
 「攻略戦に参加しないでくれ」と懇願した彼の悲壮な表情は、決してアスナの中から消えることはない。
 嘘偽り無く言えば、彼の苦悩の理由が当時は嬉しかった。失いたくない存在として彼の中に自分がいると実感できることがくすぐったかった。
 だが、それは光明の見えないデスゲームの中での話。
 既にあのゲームから解放された今、彼の態度は酷い侮辱だった。
 故に、珍しくアスナもキリト相手に感情が爆発する。

「俺は……」

「キリト君、二つ忘れてる」

 キリトの言葉を封殺する。
 これ以上彼には話させない。 
 子供。全くもって子供。そうだと理解出来ていても、感情が昂ぶるのを止められない。
 彼が《その答え》に思い至らない事が許せなかった。
 アスナはエスクトックの切っ先をキリトに向ける。
 キリトは信じられない物でも見ているかのように悲しみの感情をその瞳に宿した。
 ズキンとアスナの胸が痛む。だがそれでもアスナは構わず、一歩を踏み出すのと同時にエストックをキリトに突き出した。
 ヒュン、という風切り音が耳に届いた時には、エストックの尖った切っ先はキリトの眉間数センチ前で止まっていた。
 キリトに抵抗は無かった。動こうとする素振りすら皆無。
 ただ、アスナが動いた時から真っ直ぐにアスナの《目》だけを見つめていた。

「……私が突き刺さないってわかっていたの?」

「いや」

 キリトもアスナと同じく、いやアスナ以上に相手の《目》を見るというシステム外スキルを磨いている。
 故にアスナの目を見ていたキリトはわかっていた。アスナは《本気で攻撃する気だ》と。
 それでもキリトは微動だにしなかった。避けるでもなく、防ぐでもなくただ立っているだけだった。

「じゃあどうして動かなかったの?」

「アスナになら、殺されてもいいからさ」

 彼の真っ直ぐな顔が────アスナの心を抉る。
 彼の偽りない本心が、やはり彼には《思いだしてもらわなくてはならない事がある》と確信した。
 アスナはエストックの切っ先をゆっくりと降ろす。

「キリト君、さっき言ったよね、忘れてるって」

「……ああ」

「何のことだかわかる?」

「……」

「わからないんだ?」

「……ごめん」

 本当に申し訳なさそうな顔でキリトは謝る。
 その顔は本当に何のことなのかわかっていないようだった。
 それは本来なら良いことだ。こんなことに巻き込まれていなければ。
 アスナはすぅっと胸の中を尖らせた。怒りからではない。悲しいというわけでもない。
 ただ、いつも《そのこと》を覚えていて欲しいと思う。

「キリト君、さっき私になら殺されてもいいって言ったよね」

「ああ」


 ─────パンッ!


 渇いた音が響く。
 閃光、と言うかつての名に偽りはない。
 アスナの速度は速く、キリトには身構える余裕すらなかった。
 故に、頬を叩かれたとキリトが気付いたのは、情けない事に突然発生したサウンドエフェクトと自分の視点が急に変わったせいだった。
 遅れて頬に薄められた痛みが不快感となって伝わってくる。
 これが現実なら今頃はジンジンと痛み出していることだろう。

「キリト君、私言ったよね? 《キリト君は簡単に命を諦められない》って」

「そ、それは……!」

「あの世界でのことだけだとでも思ってた? 私そこまで軽い女のつもりじゃないよ。今だって、もしキリト君が死んだりしたら────自殺するよ」

「ッッッッッッッ!」

 キリトの表情が一変する。
 焦りと恐怖の入り交じったような、怯えた表情。
 誤解の無いよう言うのなら、キリトはそのことを忘れてしまったことは無かった。
 だが、キリトにとってそれはSAOというデスゲームの世界限定の話だと勝手に決めつけていた。
 いつも死が隣り合わせのあの世界で無茶をするキリトを止める為の彼女の覚悟。
 だがアスナにとってその決意は、決してゲームの世界だけで留まらせるつもりのものではなかった。
 それがキリトを動揺させ、迷いを生ませる。

 ──もし、本当にこの世界で死んでしまったら、と。

「ね、戦おっかキリト君。せっかくの決勝戦なんだし」

「え……」

「久しぶりに勝負しよう、本気で」

「ちょ、ちょっと待ってくれアスナ。俺はアスナと戦う気なんて……」

「それで、負けた方は勝った方の言うことを一つ何でも聞くっていうのはどう?」

「……!」

「もしキリト君がこの決勝戦で勝ったら私をこの件から引き離しても良いよ。文句も言わない。でもキリト君が負けたら……その逆もありえるってことで」

「それはダメだ!」

 再びキリトの緊迫した叫びが上がる。
 それはダメだった。キリトの中でそれだけはあってはならないことだった。
 それほどまでに、既にこのゲームに安全性を感じられない理由を、キリトは得ていた。

「じゃあ……キリト君は私に勝つしか無いね!」

「っ!」

 アスナの素早い切り払いに、初めてキリトは応対した。
 持っていた金属の筒をアスナの切り払い線上に合わせて来る。

 瞬間、互いに驚愕が奔った。

 アスナの目から見て、金属の筒の長さはさほど無いことが見て取れていた。
 三十センチ定規よりも短い、と目算する。キリトがお手製エストックの切り払いを謎の金属筒で防ごうとしたのはわかるが、長さが足りない。
 そんなミスは彼らしくないが、アスナのエストックが通る軌跡にその金属筒は届いていない。
 そう思った時、金属筒から光が迸る。重低音を響かせて、筒の先からエネルギーの棒のようなもの……刃が生み出される。
 金属筒から伸びた光の刃は問題なくアスナの軌跡を捕らえていた。

 ──────しかし。

 アスナのエストックはキリトの光の刃……《光剣》をすり抜けてしまった。
 これには流石のキリトも予想外で、反応がコンマ半秒ほど遅れる。
 咄嗟に距離を取るも、ざっくりとHPは削られてしまった。
 お互いに開いた距離を見つめ、動きが止まる。
 今の攻防に予想以上の物が含まれすぎていた。
 ちらりとアスナはエストックの刀身を見やる。
 キリトの光剣──熱エネルギー等の剣だと思われる──と触れたエストックの部位は赤黒く焦げたように変色したが、すぐに色が元に戻っていく。
 リアル思考、ということなのだろう。金属の物体と熱エネルギーを収束させた剣のぶつかり合いでは本来鍔競り合うことなど出来ない。
 ずっと光剣をエストックに当て続けられれば破壊は可能だろう。耐久値を削れることは変色エフェクトがあったことからも明らかだ。
 だが、それを許してくれるほどアスナは甘くない。さらに素材がその耐久性を幾重にも強くしている。
 ちらりとキリトはアスナを見やった。彼女は今のやり取りを終えて尚、驚きこそあったもののその矛先を納める気がないと表情が物語っている。
 対等な決闘ではない。それでも止める気はない、と。
 アスナの目を見るだけで、彼女の声が聞こえてくる。

 ────キリト君にとっては丁度良いハンデでしょ?

 ────おいおい。いくら俺でもこれは苦しいぞ。

 ────じゃ、諦めるの?

 ────冗談!

 キリトの眉が動くのと同時に、彼はアスナに勝らずとも劣らない速度で肉薄する。
 その手は《体術スキル》使用時のように手刀と化していて、素早くアスナが握るエストックの手に吸い込まれていく。
 初動で出遅れたアスナだが、素早く思考を切り返して逃げるのではなくエストックを横薙ぎに振るう攻撃を繰り出すことでそれを防ごうとした。
 だが。

「っ!?」

「……捕まえた」

 アスナの動きを予想していたキリトはエストックを持つ彼女の腕ごとホールドしてみせた。
 グンッとお互いの距離が近くなる。
 アスナの目の前にはキリトの顔。
 それ以上に力強いホールド感。キリトはSAO時代から筋力値、STRを高める傾向が強かった。
 対してアスナはAGI、敏捷力でその差をカバーしてきている。
 一度捕まれば逃げることはパラメータの差から不可能に近かった。
 それだけキリトは《筋力》にパラメータの割り振りを傾けているということであり、そうでありながらアスナに迫らんとする速度をひねり出せる彼はやはり廃プレイヤーだと言わざるを得ない。

「アスナ、降参(リザイン)してくれ。これで俺の勝ちだろ?」

「……」

「頼む、アスナ。俺は君を攻撃したくない」

 キリトには最初からアスナを攻撃するつもりなど無かった。
 出来ない、と言う方が正しいのかもしれない。
 そもそも、ここはSAOではなくGGOだ。GGOには存在しないと思われるSAOの《体術スキル》を真似た時点でブラフだったとアスナは見透かさねばならなかった。
 
「キリト君、君が私を大切にしてくれるのは本当に嬉しいよ」

「だったら……!」

「でも────────私はNPCやお人形さんじゃないんだよ」

「っ!」

 少しだけ、キリトのアスナを拘束する力が弱まる。
 キリトに自覚が全くなかったわけではなかった。
 いや、自覚があるからこそ発覚を恐れていた。
 アスナを危険から遠ざけたいと思う行動。それが彼女の意志に反していても止めようとは思わない。
 だがそれはアスナの意志を阻害する行為だ。この先、そうやって彼女の意志を阻害し続けた時、果たして彼女は喜ぶだろうか?
 自分の思うとおりにのみ彼女の行く先を決め、危険を取り払って、果たしてそれが本当に彼女の為と言えるのか。

 答えは否。

 そんなものは最初からはわかっている。
 どれだけ格好を付けたところで結局彼女を護りたいのは《キリト自身》の為なのだ。
 彼女が大切だから護りたい。究極のエゴとも呼べるそれは、誰しもが持っているものでもある。
 だから、そこを問い詰める人間は少ない。
 だが、アスナ/結城明日奈はそうではなかった。
 ただ護られるのを良しとは出来ない。彼の隣に常に並び立っていたい。
 その思いが彼女をここまで駆り立てた。
 結城明日奈は護られる存在でいるより、護る存在でいたかったのだ。
 おとぎ話の中の王子様。そんなものに憧れなど無かったと言えば嘘になる。
 大切にされることに歓喜が無かったかと言われれば「あった」と言わざるを得ない。
 だが、彼女はSAOという《非現実の現実》を通して自身のあり方を既に決めていた。
 彼を収め護る鞘になり、彼の前に現れる敵を切り裂く剣になると。
 間違っても、護られるだけの存在ではいたくなかった。絶対にそれだけは嫌だった。

 脳裏に、紅い蠍が蘇える。
 HPバーが消え、目の前には爆散したデータのガラス片。

 明日奈/アスナにとって彼に《護られる》とは、《あの時の再来》を予感させるものとなっていた。
 だから彼女はただ護られるだけの関係を望まない。絶対に望まない。
 アスナには確信に似た予感があった。彼はいつかまた同じことをしてしまう、と。
 だから、それを止めるのは自分の役目なのだ。

「アスナ……」

 キリトの万感の思いを込めた声が耳に届く。
 ゆっくりと彼の拘束する力が緩められていった。
 突かれたくない所を突かれてしまったキリトに、これ以上の戦いは難しかった。
 戦意の喪失。こうなることがわかっていたからこそ、これだけは言いたくないとアスナは思ってはいたが、致し方なかった。
 徐々にキリトの拘束力は力を無くし、アスナはほぼ自由になる。
 そうなったアスナは逆に自由になった腕を彼の背へと回した。
 彼の肩に頭を預けて目を瞑る。さらり、と本当の自分のものではない髪を撫でられる感覚がシステムを通して伝わってくる。

「私は……私だってキリト君に危ないことはしてほしくない」

「ああ」

「私だって、キリト君を護りたい」

「ああ」

「だからね……」

 アスナの一つ一つの短い言葉に、キリトは丁寧に頷いて返す。
 アスナの肩が小刻み震えているのを感じて、キリトは優しく彼女の桃髪を撫でていた。
 と、アスナの震えがピタリと止まる。
 おや、とキリトが思った時には……アスナは弾かれたようにキリトから距離を取った。
 ポカン、とキリトは鳩が豆鉄砲をくらったように目を丸くして彼女を見やる。
 桃髪の少女の手には、キリトにとって見覚えのある一丁の銃と金属の筒があった。
 なんとなく、キリトは腰のあたりに手を伸ばしてみる。
 ……そこには何も無かった。

「えへへ、降参してくれる?」

 アスナは両手にキリトの全装備を掲げて満面の笑みを見せる。
 ウインクのオマケ付きのその表情を見て、遅ればせながらキリトは状況を察した。
 あまりの事に驚愕し、口をパクパクと開閉しつつアスナの手の中にあるものが自分の武器だと悟らされる。
 すなわち、今の自分は無防備状態だと。

「な、な、な……!?」

「確か約束はこの決勝戦で勝った方、だったよねキリト君」

「い、いや、だって……さっきのでもう勝負はついて……」

「ついてないよー、決勝戦はまだ終わって無いもん」

「なっ……!?」

 そんな馬鹿な、とキリトはずっと口をパクパクさせたままアスナとその手にある自分の武器を見つめ続けた。
 アスナはニッコリと微笑みながら口を開く。

「このゲームにもSAOの《クイックチェンジ》みたいなのがあれば良かったねキリト君。対人戦が主なこのゲームにその手のスキルは無いって下調べ済みだけど」

「……」

「まあ武器落とし(ディスアーム)属性攻撃みたいのは結構あるらしいよ」

「……」

「いやあ、キリト君にゲームシステムの事で上を取れる日が来るとは思わなかったよ」

「……はあ」

 本当に、本当に悔しそうにキリトは溜息を一つ吐いた。
 半ば諦めた、それでもようやくと彼らしい表情で「まいった」と宣言し、アスナにWINNER表示が上がる。
 試合時間がホログラムで現れ、予選ブロックごとの順位が宙に浮かび上がって行った。
 決勝戦だったからか、二人はすぐに転送されなかった。本戦には二人とも参加できる為、健闘を称えあう余裕時間でも設けているのだろうか。
 とにかくアスナはホッと胸を撫で下ろすとキリトに二つの武器を返した。
 キリトは無言で受け取ってそれらを腰に装備しなおしている。
 恐る恐る目で「怒ってる?」と尋ねると、キリトはじぃ、とアスナを見つめていつもの意地悪そうな顔になった。
 その顔は憑き物が落ちたような表情で、アスナをとても安心させてくれた。

「完敗だよアスナ、俺の負けだ。ごめん」

「ううん。私こそこんな卑怯な方法使って」

「確かに卑怯だったな、まさかかの副団長様がこんな盗人みたいな真似をするとは」

「う、うぅ……!」

 攻撃ならぬ口撃。この手の口のやり取りでは勝てた試しがないアスナは閉口するより無かった。
 そんな風にアスナをやり込めたことでやや溜飲を下げたのかキリトはふと思い出したように尋ねる。

「そういえばさ、アスナ」

「なあに?」

「俺が二つ忘れてるって言ってたけど」

「ああ、うん」

「一つはその……さっきのことだとして、もう一つってなんなんだ?」

「ああ、そのこと? それはね……」

 今度はアスナが少々悪戯っぽい笑みを浮かべて、自身の──飽くまで桃色の髪をした少女のアバターではあるが──唇を人差し指でなぞった。
 そのままその指をキリトの──飽くまで女性のような男性の姿をしたアバターではあるが──唇に押し付ける。

「《呪い》のこと、だよ。最近していないから」

「っ!」

 キリトの表情が紅く染まる。
 同時に時間が来たのか、二人のアバターはぐにゃりと歪んで転送された。



 Fブロック優勝者、アスナ。
 Fブロック準優勝者、キリト。

 Fブロック予選を通過したこの二人は、一つ失念していることがあった。
 それは、この戦いの一部始終がプレイヤー達に見られている、ということ。
 観客と化していたGGOプレイヤー、それもBoB参加者はその戦いを見て口々に言った。

 悪魔だ、と。

 人の純情を弄ぶかのような所行。
 まさに男性キラーと言うべき悪魔のようなプレイヤー。
 いつしかそれが彼女のアバターの特徴からこう囁かれることになる。
 桃色の髪をした悪魔。

 《Pink Devil(ピンクデビル)》──桃色の悪魔と。





「それで? どういうことなのかな?」

 桐ヶ谷家からそう遠くないファミリーレストラン。
 そこの一角を陣取り、宇治金時ラズベリークリームパフェ越しにニコニコと怖い笑顔で語りかけてくるのは、短めの黒髪を持ち引き締まった体には不釣り合いな程豊満な胸をぶら下げている少女だった。
 彼女は現実とは異なる世界、すなわちVRMMOでは《リーファ》としてその名を轟かせる剣士であり、現実世界ではキリト/桐ヶ谷和人の妹──血縁上は従妹──にして剣道でも指折りの選手、桐ヶ谷直葉その人である。
 対して、テーブルにある宇治金時ラズベリークリームパフェを境界線として対面に座る、もとい頭を下げて膝の上に置いた手を見つめながらどう返事をしたものかと頭を悩ませている影が二つ。
 テーブルで頭が隠れているのを良いことに、直葉の問いに対して二人はお互いが視線で「どうする?」と問い合っている。
 その原因を担っているのは直葉が宇治金時ラズベリークリームパフェの隣に置いているA4の印刷物だろう。
 その印刷物はどうやら国内最大級のVRMMOゲーム情報サイト、《MMOトゥモロー》略してMトモのニュースコーナーの一部らしかった。
 見出しはこうなっている。

【ガンゲイル・オンラインの最強者決定バトルロイヤル、第三回《バレット・オブ・バレッツ》本大会出場プレイヤー三十名決まる】
【Fブロック一位:Asuna(初)】
【Fブロック二位:Kirito(初)】

 直葉はとてもニコニコしながら宇治金時ラズベリークリームパフェを一口分スプーンで掬って口元へ運び、二人の回答を待っていた。
 影のうちの一人、彼女の兄──血縁上は従兄──であるキリト/桐ヶ谷和人は一先ず自分の作戦の成功を悟る。
 付き合いの長さから妹の好みを知り尽くしている和人はご機嫌アップの策を図り、それは見事に功を奏したかにみえた。
 だが、

「……二人とも、もうALOを辞めちゃうの?」

 一瞬にして悲しげな顔になった直葉に和人は胸を締め付けられる。
 もとより妹のことを大切にしてきた和人にとって直葉の傷つくような顔は見たくなかった。
 SAO及びALO生還後は一時の疎遠さを忘れるほどの仲の良ささえ見せ、外国出張中の父が一時帰国した際にはその仲良しぶりに嫉妬心さえ垣間見せた程なのだ。
 同時に。

「そ、そういうわけじゃないの直葉ちゃん!」

 もう一つの影、アスナ/結城明日奈は弾かれたように顔を上げて否定の声を上げる。
 明日奈にとっても直葉は大切な存在だった。もはやお互い本当の姉妹のような錯覚さえあると言ってもいい。
 和人が囚われの身となっていた時、お互いそうとは知らずに一緒に冒険した日々は二人の仲を急速に進展させていた。
 時折、和人が羨むほどの仲の良さを明日奈と直葉は見せる。
 ある意味で直葉は、和人よりも明日奈と親密でさえあった。
 そんな彼女の悲しげな表情や言葉を聞くことは明日奈にとっても本意ではなかった。

「そ、そうだ直葉、そもそもその記事のKiritoやAsunaが俺たちだっていう証拠は……」

「流石にその言い訳は厳しいと思うよキリト君……」

「そうだよお兄ちゃん、私がALOで二人の状況チェックしてないと思ってたの?」

「う」

 なんだか急に雲行きが怪しくなる。
 ついさっきまでは責められる側は明日奈と和人だったはずなのに、いつの間にか明日奈は直葉側へとシフトしつつあった。
 なんで俺ばっかり、とは思いつつも口には出せない。出さないのではなく出せない。
 自称対人スキル激低の和人は女性に対して未だに強気になれない。この二人であればまだ幾分マシではあるがそれでも今は強気になるべき時ではないということがわからぬほど空気の読めない和人では無かった。
 そもそもこの二人に責められては元々和人に謝る以外の選択肢は用意されていなかった。
 心情的な意味はもちろんのこと、現実ではジムに通っていると言ってももやしっ子の部類に入ってしまう程細い和人の体はさほど強靭に出来ていない。
 対して妹の直葉は幼い頃より剣道を続けてきた成果もあってその肉体は申し分なく鍛えられている。
 加えて直葉はもちろん明日奈も仮想世界ではかなりの力量を誇っている。
 決して油断して勝てる相手ではなく、時として本気で戦っても負ける可能性を孕んでいる相手ともなればめったなことでは戦闘をしたくはない。
 ましてタッグなど組まれた日には早々に土下座する以外為すすべなど和人に用意されていなかった。
 故に「さっきまでは明日奈も一緒に責められていたはずなのに」などとは間違っても口に出さない。
 そんなお子様な真似は二ヶ月ほど前に卒業している。

「ごめん直葉。実は菊岡……えっと総務省の役人からの依頼でさ……」

 和人はそこで下手な小細工──物(宇治金時ラズベリークリームパフェ)でご機嫌取りという古典的手段──に頼ることを止め、本当のことを話し始めた。
 明日奈と時折目配せしながら、飽くまでゲーム内の調査という表向きの名目だけではあるが。
 《死銃》については触れなかった。これには明日奈も何も言わない。異論はないということだろう。
 ログアウト後、和人はおおよその話を明日奈から聞いている。何故彼女もログインすることになったのか、その理由を。
 菊岡氏を脅したと聞いた時には一瞬ゲーム内での時のようにポカンとなったものだが、それが嬉しくもあった。

「それでねー、私が勝ったからキリト君にはなんでも一つだけ言うことを聞いてもらえるんだー」

「へえ、良かったですね。絶対やってくれないことを頼んだ方が良いですよ」

「……勘弁してくれ。あんまり変なことは言わないでくれよ? アスナ」

「えー? どうしようかなー」

 話はいつの間にか決勝戦での約束にまで飛び火した。
 これもログアウトしてからすぐにお互いで決めたことだが、今回の件についてお互い関わらないようにさせる類のことはしないようにしようと言うことになり、約束の《何でもお願い権》はこれに関してのみ無効となる。
 だが逆を言えばそれ以外なら何でもありなのだ。
 和人は明日奈のことだからあまり変なことは言わないだろうと思っているが、それでもどんな無茶難題を言われるかわからない為に怯えずにはいられない。
 そう和人がまだ来ぬその《お願い》に内心で身構えていると、明日奈は思い出したように口を開いた。

「あ、そうだキリト君。菊岡さんから連絡が来たんだけど」

「あいつから?」

「うん。なんか報酬は当初の額しか用意出来ないから二人で山分けよろしく、って」

「……な!?」

「私報酬のことなんて聞いてなくて。キリト君に聞こうと思ってたんだ」

 突然の事に和人は頭を抱えそうになる。
 おのれ菊岡め、と内心で罵りつつ素早く脳内計算を行った。
 彼、総務省総合通信基盤局高度通信網振興課第二別室、通信ネットワーク内仮想空間管理課、通称《仮想課》に籍を置いているという菊岡誠二郎が和人に最初に提示した報酬は、金三十万円也。
 これを山分けとなると単純に半分で一人当たり十五万円也。
 和人にとって必要な、それでいて目標金額ピッタリとなってしまうわけだ。
 既に和人の中では残りの金額で買いたいものリストを脳内構成してしまっていたために、その大幅な修正が必要となる。
 うぬぬ、と和人が唸っていると目ざとく、また耳ざとい妹様が尋ねてきた。

「へえ、バイト代出るんだね。いくらなのお兄ちゃん」

「う。そ、それは……」

 たらり、と背中に汗が流れる。
 予定がじゃらじゃらと音を立てて崩れていく。
 やはりおのれ菊岡ああああああ、と内心で呪いの言葉を呟きつつ嘘を言うのはやめた。
 この二人にこれ以上虚偽を語ることを和人はしたくなかった。
 なので、僅かばかりの淡い期待だけを持つことにする。

「こ、これだけ、かな……」

 和人はビッと指を三本立てた。
 あはは、と渇いた笑いで二人を見やる。

「三万円? 結構割の良いバイトなんだねお兄ちゃん」

「あ、いや……」

「え? 違うの? あ、まさか三千円?」

「い、いや……」

「まさか三百円なんてオチないよね?」

「流石にそれなら俺も断ってる」

「じゃあまさか、三十万円!?」

「ま、まあ……」

「「ええ─────────っ!?」」

 明日奈と直葉が声を揃えて驚愕する。
 思いもよらぬ高額な報酬額に流石に度肝を抜かれてしまったようだった。
 だがそれも束の間、急に猫撫で声となった直葉は和人の淡い期待を音もなく砕いていく。

「お兄ちゃん、実は私、前からナノカーボン竹刀が欲しかったんだー」

「う……」

 案の定、和人の予定が狂っていく。
 だが和人の苦笑に《困り》を感じ取った明日奈は手助けをすることにした。
 なんとなく、また隠していることがあるのが分かったが、今回のそれはさほど悪いものではなさそうだと当たりを付けて。

「じゃあ直葉ちゃんのそれは私の取り分で買ってよ。残りはキリト君のものでいいから」

「えっ」

 これには和人が一番驚いた。
 明日奈からしてみれば十五万円もの大金を山分けでもらえる権利があるのだ。
 それを、直葉の欲しいものを買って残りは和人のもので良いと言う。
 嬉しい申し出ではあるが、素直に喜びきれなくもあった。

「キリト君、もうなんか予定あるんでしょ? そのお金の使い道」

「あることはあるけど、でも……」

 やや歯切れの悪い和人に、明日奈は微笑んだ。
 好きに使っていいよ、と。もともと明日奈はその報酬の事は知らなかった。
 そんなものなど無くても首を突っ込んでいたし、報酬を望んでいたわけでもない。
 欲しい報酬があるとすれば、それは和人が無事でいること。一緒にいてくれること。それだけだ。

「ええ!? 本当にいいの明日奈さん?」

「うん。そのかわりキリト君にはもっと高いもの買ってもらうから」

「え」

「今度ALOでアインクラッドがアップデートされたら家を買ってもらうから。流石に私も手伝うけど」

「それは……」

 それはもともと買う予定のものだった。
 二人の、いや三人の思いが詰まるそこは既に一緒に買おうと決めていたことで今更言質を取り直す必要のあるものではない。
 だが明日奈はウインクを一つ和人に送る。それだけで和人は全てを察した。
 気にしないで、という明日奈の気遣いを。
 和人は同じく見つめるだけで「ありがとう。必ずお礼をするから」と声なき声で伝える。

「あのー? もしもーし?」

 その見つめ合いは直葉の「二人の世界から戻ってきてよー!」という声が上がるまでしばし続いた。
 我に返った二人は顔を紅くしながら最初のように俯く。
 やれやれ、と直葉は呆れつつ笑いながら残りの宇治金時ラズベリークリームパフェを平らげた。
 「せめて会計は俺が持つよ」という和人の言葉でファミレスの支払いは和人一人が行い、さあいざ帰宅しようというところで和人は一つ失念していたことがあることに気付いた。

「そういえばさアスナ」

「ん? どうしたのキリト君」

「ユイって今どうなってるんだ? 確か俺はアスナに説明した後ユイのマスター権をアスナに預けたはずだけど」

「え? あっと……それは……」

 尋ねられた明日奈はしどろもどろになる。
 実は明日奈にとってあまり和人に聞かれたくないことだった。
 話を聞いていた直葉も首を傾げる。「そういえばどうしたんだろう」と。

「じ、実はね」

「ああ」

「最初は直葉ちゃんに預かってもらおうと思ったんだけど、ユイちゃんが……」

「ユイがどうかしたのか?」

「マスター権は私かキリト君以外なら……クラインじゃないと嫌だって」










「クラインさーん、お酒入れましたよー」

「おお、ありがとうなユイちゃん」

「いえいえ」

「かぁーっ! ユイちゃんみたいに可愛い子にお酌してもらえるなんて最高だなあおい!」

 空中都市《イグドラシル・シティ》。ALOにあるその街のバーでかつてのSAOでそうだったようにバンダナを頭に巻いて野武士面をした侍のような風体の火妖精族(サラマンダー)であるクラインはグラスを煽っていた。
 数日前急にアスナから内緒でユイのマスター権を預かって欲しいと頼まれた時は驚いたが、クラインは深くは何も尋ねずにそれを了承した。
 キリトやアスナのことだ、何か理由があるに違いない。あの二人に対してはそれくらいの信頼はしていた。
 今バーにはクラインの他にはNPCの客数名とこれまたNPCのバーテンが一人いるだけだ。
 ここはクラインが見つけた穴場スポットの一つだった。まだあまりプレイヤーに発見されていないせいもあって静かに飲める。
 仮想世界のお酒は実際に酔わないことを除けば味は変わらないし体に害があるわけでもない。
 場合によってはとんでもなく美味いものもあり、現実でも飲酒を好むクラインはよくよくいろんなバーに足を運んでいた。
 クラインの隣にぴょんことユイが座る。その姿はここにはクライン以外のリアルプレイヤーがいないせいなのか、ナビゲーションピクシーのものではなくかつてのアインクラッドでクラインも見たことのある黒髪の少女のそれだった。
 薄い白のワンピースから伸びる健康的な白い素足が可愛らしい。いくつか着せ替えのようにアスナはユイを着替えさせていたが、ユイはベーシックなこの姿がお気に入りなのか、ピクシーの姿でいないときはこの服装でいることが多かった。

「クラインさん、ここでは良いですけど現実での飲み過ぎはメッですよ」

「いやあ、わかってるんだけどな、あはは」

 クラインは昨日ログインしなかった。いや正確にはログインできなかった。
 仕事の都合で帰りが遅くなったせいもあるが、会社仲間と夜通し飲み明かしていた。
 今日ログインして、昨日ログインできなかったことを詫びつつまだちょっと気分が悪いことをユイに告げるとそれはもうクラインはユイに怒られた。
 そんな不摂生はよくありません! と。
 延々と説教された後「昨夜は寂しかったです……」としょげた顔を見せられたクラインは罪悪感が募り、今夜は彼女にとことん付き合うことを決めた。
 だが流石にどうすれば良いかはわからず、結局注意されたばかりではあるがクラインが時間を潰すのに最適な穴場のバーへ行くことにした。
 ゲーム内なら大丈夫だからと再び説教を始めそうになったユイを宥めつつ今に至るのである。
 最初は乗り気でなかったユイも、ここがNPCばかりと知って、急に元の姿に戻りご機嫌でクラインにお酌をし始め、かれこれ一時間近く経つ。

「一人暮らしだそうですけど、注意やお世話をしてくれる人は身近にいないんですか?」

「そんな人がいたらいくら会社で遅くなったからって仲間と夜通し飲まねぇって!」

「そうなんですか」

「ユイちゃんが現実にもいたら世話してくれそうだなあ」

「良いですよ? あ、パパとママに許可をもらってクラインさんのお部屋に私を展開できるようにしてもらいましょうか?」

「え? いや……どうだろうな。あの二人がウンって言うかどうか……」

 半ば冗談のつもりだったのだが、思いの外ユイは乗り気だった。
 危ない危ない、とクラインは苦笑する。存外子煩悩のキリトとアスナはユイに悪い虫がつくことをあまり良しとはしない。
 それはクラインとて例外ではなく、かつてアインクラッドでキリトに「圏内戦闘で恐怖をたっぷり刻み込まれた」事は今も忘れていない。

「じゃあ聞いてみますね」

「お、おう? まあ無理しない程度にな」

「はい」

 にっこりと微笑むユイの表情に陰りはない。
 そこらへんにいる少女と本当になんら変わりはない。
 クラインは時々思う。この子と人間の違いとはなんだろうか、と。
 人工知能だという話は聞いている。生身のプレイヤー、人間ではない。
 だが、感情があるように見える人工知能を機械としてみることはクラインには出来なかった。

「クラインさんは現実でも誰かとお付き合いしたことないんですか?」

「酷いぜユイちゃんよお、それは聞かないでくれえ」

 これまでの人生を振り返り、一度も春など来ていないことに悲しくなってグラスを一気にあおる。
 続けざまに「マスターもう一杯」と注文して新しいボトルを受け取った。
 クラインの視点では同時にストレージのユルドが減ったのが確認できる。
 受け取ったボトルを今度はユイがクラインから受け取り、つたない手つきながら丁寧に氷の入ったグラスへと注いでいく。
 ボーッとそんな姿をクラインが見ていると、ふとユイの表情がおかしいことに気付いた。
 そのユイが不意に口を開く。

「クラインさんは……誰かを好きになったことがありますか?」

「へ?」

「お付き合いをしたことがないというクラインさんは誰かを好きになったことがありますか?」

「そりゃ……えっと……」

 一瞬言葉に詰まる。とても素面で出来る話ではない。飲んでいると言っても酔ってはいないのだ。
 だがよくよく考えてみれば本気で好きになった相手などこれまでいただろうかとクラインは思い悩む。
 彼女が欲しいとは漠然と思うが、ではどんな相手が良いのか。
 あの人と絶対に結ばれたいと強く思うような相手にこれまで出会ったことがあったか。

「どうだろうなァ」

 思わず思い追い悩んで、答えがわからないことに意外さを感じる。
 あれだけ恋人募集中、などと言っていながら相手のイメージさえ湧かないとは。

「そういうユイちゃんはどうなんだ?」

「私は……」

「ユイちゃん?」

 ユイの表情が少しだけ陰る。
 何か気に障ることを言っただろうか、とクラインは慌てた。

「私はパパとママが好きです。これは絶対です」

「お、おお」

「でもこの好き、というのは人間の言う異性などに対するものではありません」

「まあ、そうだな」

「私は……人間が持つ異性に対する好意がよくわからないんです」

「……へ?」

「もちろんどんなものなのかは擬似的に理解しているつもりです。でも、それは《そういうもの》としてプログラムになぞった答えをシミュレートしているにすぎません」

「ユイちゃん……」

「クラインさん、人を好きになるってどういうことなんでしょうか?」

「それは……」

「私はかつてクラインさんにキスしました」

「おおう……」

「当時の目的はただの善意でした。ママがパパにしているのを見て、そういうものだと自己学習していたんです」

 ユイの、哀しみが混じったような独白が続く。
 思いがけない感情の吐露。そんな気がして、クラインは黙ってユイの話を聞いていた。

「あの後、パパとママは私に学習させました。キスをしていいのは家族と大事な相手……恋人だけだと」

「まあ、そうだな……」

 なんつうことを教えてるんだあの二人はよう、とクラインはユイから飛び出る言葉にハラハラさせられる。
 恐らく、ユイがこの手の話をするのは初めてだ。キリトやアスナにもしたことはあるまい。クラインにはなんとなくそれがわかっていた。

「ですが当時の私はそれを曲解して登録しており、今もその名残があります」

「曲解……? 名残?」

「私は以前ママに確認を取りました。『大事な家族以外にキスをしたら相手は恋人さん』だと」

「ん? さっき言ってたのと同じじゃないか?」

「いいえ、これを私は曲解し、かつてクラインさんにキスをしたことがあるから、キスの相手は恋人、と登録されていたんです」

「はあ……なるほど……えええええっ!? それって……」

「はい。私の中にはクラインさんが恋人のような位置づけにされています。でも今の私ならこのエラーを正常に戻す……無かったことに出来ます」

 また少しだけ、ユイの表情の陰りが濃くなる。
 何故だかクラインの胸が締め付けられた。

「人を好きになるということがわからない私は、このままの方が異性への好意について学べるのではないかとそのままにしてきました。私が今回パパとママ以外ならマスター権の主としてクラインさん以外認めないと言ったのはそのせいもあります。でもこのままでいることが正しいのか私にはだんだんわからなくなってきました。今回、ママもだいぶ困っていました。私はママやパパを困らせたくはありません。ですからクラインさん」

「お、おう……?」

「クラインさんに決めてもらおうと思うんです。この登録をエラーとして処理してしまうかどうかを」

「俺に……?」

「これのせいでクラインさんにも少なからず迷惑をかけたと思います」

「いや、俺は迷惑だなんて思っていないぜ?」

 それは本心だった。
 だがそれだけではユイの考えが変わらないのも顔を見てクラインは悟る。
 この子はこの子なりに悩んでいるのだと。悩む、という行為自体が既に人間らしさを窺わせている。
 それすらもプログラムされた行動と言動だと言ってしまえば身も蓋もないが、クラインはそれだけとは思いたくなかった。
 だから、

「よォユイちゃん」

「はい」

「今度俺とデートしてくんねェかな」

「……はい? え? 私と、ですか?」

「俺はよう、これまで女の子とまともなデートなんざしたことないんだけどよう、ユイちゃんさえ良かったら、デート、いかねェか?」

「……良いんですか?」

「頼んでるのはこっちだって」

「私は………………っ!」

 ユイが何か言いかけた時、急に彼女がビクンと震え、宙に浮いて体を丸めた。
 ユイの体が発光していき、すぐに彼女はナビゲーションピクシーの姿となってクラインの肩に乗る。
 と、同時に二人のプレイヤーがバーに雪崩れ込んできた。

「あーいたいた」

「えっと、こんにちはクラインさん」

「リズにリーファちゃんか。どうした?」

 入ってきたのは顔なじみの鍛冶妖精族(レプラコーン)であるリズベットことリズとキリトの妹で風妖精族(シルフ)のリーファだった。
 恐らくはフレンド検索をかけてここに来たのだろうがそんな急な用事は無かったはずだ。

「う~んお兄ちゃんがユイちゃんを心配しててね」

「そうそう、あのバカキリトとアスナが様子を見てきてくれないかって」

「おいおい、そりゃどういう意味だ?」

「あんた前科あるじゃない」

 ここで言う前科とはユイのキスのことだが、今それを掘り返されるのは大変よろしくない。
 クラインは珍しく反論せずに黙ってしまう。
 それを訝しんだリズは冗談半分でユイに話しかけた。

「大丈夫ユイ? クラインに変なことされなかった?」

 尋ねながら「まあそんなわけないか」とリズもわかっていた。
 単にあの二人が少々過保護なだけなのだ。リーファもほとんど同じ気持ちだった。
 だが、

「大丈夫ですよ、口説かれてただけです」

「あーそう。そりゃ良かっ……はぁ?」

「えええええええ!?」

「ちょ!? ユイちゃん!?」

 三者三様、驚愕の声を上げる。
 途端ユイは両親譲りの悪戯っぽい笑みを浮かべながらクラインの肩の上で小さい体を立ち上がらせて尖ったクラインの耳に抱き着く。
 クラインが慌てる中、ユイはそっと囁いた。

「約束ですからね、クラインさん」



[35052] GGO7
Name: YY◆90a32a80 ID:b9264a49
Date: 2013/02/22 21:18


 アクセルが踏み込まれる度に、激しいエンジン音がかき鳴らされる。
 道行く人はその騒音にやや顔をしかめつつ、一度はその音源である一二五CC・2ストロークのタイ製おんぼろバイクに振り返っていた。
 だがそのおんぼろバイクにタンデムしている一人、運転手の腰にしっかりと掴まっているアスナ/結城明日奈は耳をつんざくような騒音も通行人が向ける不快そうな視線も気にならなかった。
 運転中の彼曰く、2ストロークエンジンは十数年も前に排出ガス規制によって廃止されたエンジンであり、現存していることさえ珍しい代物ではあるが、ここまで酷い騒音ならせめて4ストロークエンジンのものにすべきだったと語っている。
 もっとも相変わらず機械関連について全く詳しくない明日奈はそのことについて「ふ~ん」としか言いようが無かった。
 彼、キリト/桐ヶ谷和人の妹でもあるリーファ/桐ヶ谷直葉などは後ろに乗るたびに文句をぶつぶつと言うそうだが明日奈には不思議とそういった感覚は湧いてこない。
 どんな騒音も、通行人の送る視線も、目の前にある温かみの前では霞んでしまう。
 温もり、と言い換えても良い。ドクン、と定期的に静かな鼓動を伝えてくれるそれは明日奈にとって何よりも心地よいものだった。
 このままずっと、どこか遠くへ行きたい。後ろに乗るたびに思うのはいつもそんなことだったりする。
 ファミリーレストランで直葉と別れた二人は、彼女にユイの事を任せGGOへログインするお茶の水の病院へと向かうことにした。
 和人の乗るおんぼろバイクに二人で跨り、たいした会話も無いまま病院が近づいてくる。
 当初彼がバイクの免許を取った時は驚いたものだが、今となってみれば彼の後ろに乗ってどこかへ行くのは明日奈の楽しみの一つになっていた。

(いつかキリト君と二人で本当にどこか遠くまで旅行に行けたら素敵だろうなあ)

 長期休暇、冬休みや春休み、ゴールデンウィークや夏休みなどには、そんな提案をしてみるのもいいかも知れない。
 そんなことをアスナは考えつつ、和人の鼓動を感じていた。
 最初こそ彼に合わせて自分も免許を取ろうかと思ったのだが、一度彼の後ろに乗ってその気は完全に無くなってしまっていた。
 彼の運転する傍にいることが心地よすぎるのだ。故に明日奈は免許の取得をせずにいる。
 自分もなにがしかの免許を取ってしまえば、彼の後ろという甘美な席へのチケットを捨てるに等しい行為なのだから。
 スゥッと彼の運転するバイクの速度が落ちていく。気付けば目的地に到着していた。
 門から奥にある駐車場へと向かい、バイク置き場の端に和人はおんぼろの愛車を停める。

「はぁ、今時本物の鍵式のイグニションキーなんて見つける方が難しいよ。やっぱエギルには廃品掴まされたかな」

「良いじゃない。私は後ろに乗ってるの好きだよ?」

 明日奈の言葉に和人は少しだけ首を傾げた。おかしなことを言うなあ、と。
 和人にとってはそうなのだろう。持ち主というせいもあってか普段から周りの不快そうな視線を受けることが多く、内心運転する度に通行人に申し訳ない気持ちを抱いているのかもしれない。
 彼は思ったよりも精神的に脆いところがある。もっとも明日奈はそんなところも彼の《可愛さ》として受け止めているが。
 そんな取り留めもない思考を重ねながら二人は自動ドアをくぐって病院内へと入った。
 まずトイレに向かい用を済ませておく。これは長い時間フルダイブするにあたってかなり重要かつ必要なことだったりする。
 一応安全機構として排泄の類を催した時は即座にログアウトされるよう作られているが、場合によってはログアウトしたくない時や《出来ない》場合もある。
 VRMMOに限らずネットワークを介した生身のプレイヤー同士によるやり取りは、その公平さを期すために一方の都合による勝手な遮断を許さない仕様を採用していることが多いのだ。
 GGOで言うなら、今回行われるバレット・オブ・バレッツにおいて敗北者はすぐに転送されない。
 死体、としてアバターと意識はそこに残り続けることになっている。こういった戦闘の際、簡単に切断や再接続を許すと一部のプレイヤーは様々な穴を付いてルール外のチート行動を起こすことを考える。
 現にGGOでも過去にそういった経緯があるらしい、という話を明日奈はすでにシノン/朝田詩乃から聞いていた。
 トイレの入口でお互いに分かれ、数分もしないうちに合流。
 明日奈が戻ってくると、和人は壁に背を預けて大きなガラス壁から外を見ながら待っていた。
 その顔は何処か憂いを帯びていて、明日奈の胸を締め付ける。
 恐いのだろう。《死銃》なるプレイヤーの真意。本当にゲーム内で殺人を犯す力があるのかどうか。
 もし本当だったとき、自分たちは生きて戻って来られるのか。
 和人には何か思うことがあるのだろうと思う。それは予選の決勝戦で彼と会った時に確信した。
 彼には、何かがあったのだ。明日奈の知らぬ間に、何かが。
 それは直接、あるいは間接的に《死銃》の力を裏付けるかもしれないものなのだろう。
 なんとなく決勝戦の彼の様子から明日奈はそう考えていた。
 《死銃》について彼は何らかの核心に近い憶測を持っている、と。

「キリト君」

「ん?」

 和人が呼ばれて振り返る。自然な動作で壁から背中を離したまさにその瞬間のことだった。
 二つのシルエットが重なる。明日奈が仮想世界さながらのような瞬発力を生かして一歩を詰め、彼のぽっかりと開いた口を塞いだ。
 一拍遅れてその意味を悟った和人の瞳が驚愕に彩られる。あまりに突然のキスだった。

「呪い回収」

「う……」

 えへ、と可愛らしく笑う明日奈に和人は紅くなる。
 明日奈は時折今のように大胆になることがあった。そんな時は決まって和人は不意を突かれる。
 仮想世界ではいつも不測の事態に心の何処かを研ぎ澄ませている和人だが、現実の明日奈の突拍子もない行動には未だに驚かされてばかりだった。

「……絶対に帰ってこようね」

「……ああ」

 ギュッと握られた手を、和人は握り返した。
 この温もりだけは、二度と失わないと心に誓いながら。





「やっ、ほぉう?」

 途中から変なイントネーションで挨拶をしてきたのは、ここ数日毎日のように顔を付きあわせている看護師、安岐だった。
 あれえ? と不思議そうな顔で病室に一緒に入ってきた和人と明日奈を見やる。
 二人はすぐにその意味を悟った。

「結局、お互いゲーム内で出会っちゃいまして……バレたんで開き直りました」

「ああそうなの? てっきり私何かミスしたかなーと思って焦っちゃったよ。あー良かった」

 安岐は安心したように胸を撫で下ろした。
 次いでニヤリといやらしい笑みを浮かべる。和人の入院中に何度か見たことのあるタイプの顔だ。
 和人は既に本日何度目かの嫌な予感がビンビンとしていた。

「それで? 二人は産婦人科には行ってきたの?」

「……どうしてそういう発想になるんですか、安岐さん」

 和人はすぐに否定の意味も込めて切り返した。
 この人とのそういう会話は早々に話を切り上げないとどんどん深みに嵌っていってしまうのだ。
 いろんな意味で口では勝てないと思わされる相手だった。

「あははは、まあいいじゃない。ヤることヤってるんでしょ?」

「ノーコメントにさせて頂きます」

「桐ヶ谷くーん? そこは否定しないと肯定と取られるよー?」

「……ノーコメントにさせて頂きます」

「あはははは!」

 すっかり顔を紅くして黙ってしまった明日奈に代わり和人が応対するも分が悪い。
 和人はさっさと仮想世界へダイブして現実から逃げたくなってきていた。
 ベッドに腰掛けていた安岐は立ち上がると、機器の準備をしつつふと思い立ったように一つの提案を口にした。

「もう隠す必要無いんならさ、いっそのことここで一緒に仮想世界に入る?」

「……はい?」

「いや、いつもモニターで隣の部屋の桐ヶ谷君見ながら明日奈ちゃんを見たり、十分おきくらいに座ってる部屋変えたりしていたんだけどこれが結構面倒なのよね。もう隠す必要が無いんなら一緒に寝てくれると私としては楽なんだけど」

 安岐の言い分はわからなくもない。万一の事が無いようモニターをしているのだ。だが一人で二人を監視しているのに隣の部屋とはいえ別室に居られては百パーセントの安全保障に支障を来す恐れがあった。
 少しでもリスクを減らすならその提案は何ら不思議なものではない。
 和人は明日奈と目を合わせて頷いた。

「ええ、構いません」

「そっか。助かるわ~。それじゃ二人でこのベッドに横になって」

「はい」

「わかりました」

「…………あれ?」

 安岐が勧めたベッドに、何の疑問も浮かべず抗議の声も上げずに二人は座る。
 そのあまりの自然さに今度は安岐が驚かされてしまった。
 慌てふためく二人の姿を見る為のからかい文句だっただけに、こうも自然に返されてしまっては予想外と言うよりない。

「安岐さん?」

「え? ああごめんなさい。今準備するから」

 しばし我を忘れた安岐だったが、声をかけられてから気を引き締めた。
 飽くまで安全措置。だが《万一》を考慮するなら万全を期さなければいけない。
 安岐はプロナースの目となって機器を準備し、電極を手に持った。

「はい、じゃあいつも通り電極付けるから……えっと桐ヶ谷君は後ろ向いてようか」

 和人に背を向けさせて安岐は明日奈の身体にぺたぺたと電極貼っていく。
 靴下は脱いでもらい、足首にぺたり。シャツの中にもぺたり。
 和人にも同じように電極を付けていき、準備を終わらせる。ちなみに和人はシャツの着用を認められなかった。

「う~ん、シャツの中に電極付けてると、なんかむずむずする……」

「我慢してね。でも桐ヶ谷君に見られてもいいならシャツ脱いでも良いよ? あ、それとももう桐ヶ谷君は見慣れちゃってるのかな?」

「……ノーコメントにさせてイタダキマス」

 和人は相変わらずの黙秘権を行使し続けるが、明日奈の紅くなった頬が全てを物語っていると言えなくもない。
 ニンマリと笑いながら安岐は機器のチェックを行い正常運行を確認する。
 これでもういつでも安全にダイブすることが可能な環境となった。
 安岐が「もう良いよ」と告げると、和人と明日奈は一度お互いを見つめ合って手を繋ぎ、ゆっくりと目を閉じて一緒に口を開く。

「リンクスタート」

 すぐに二人の意識が現実から切り離されたのが見ていた安岐にはわかった。
 ここからがやや退屈な時間になる。モニターしていると言えば聞こえは良いが要するに異常が起きないかひたすら状況を見続けているだけなのだ。
 かといっていつ来るかもわからないその一瞬を見逃して彼らの危険信号を見抜けなければ、彼らは最悪帰らぬ人となりかねない。
 酷くやる気の出ない、それでいてリスクの高い仕事だった。普通の看護師ならばこんなことを望んでやりはしないだろう。《普通の看護師》ならば。
 安岐はしばし二人の顔を見つめて、問題なくダイブしていることを確認した上でスカートのポケットから携帯端末を取り出した。
 滑らかな動作で着信履歴から電話をかける。無論、病室の機器に影響はないことは最初からわかっている。
 そもそも、いつでも連絡を取れるようそういった配慮をすることも安岐の仕事だったのだから。
 電話の相手は二コール目にして気の抜けたような声で応答した。

『やあ』

「……何の用ですか?」

『ごめんごめん、彼らは?』

「今し方ダイブしたところです」

『そいつは良かった。彼らには聞かせたくないことだったからねえ』

 表面上は謝っているが、然程悪びれた様子は感じられない。もっともそれはいつものことで、電話の相手が神妙になっているところを安岐は見たことが無かった。
 そのせいか電話の相手と話していると彼が本気なのかそうでもないのかわからなくなってくることがある。
 オマケにゲテモノ趣味があるとくれば然程モテないのも頷けた。
 悪気の無い嫌な上司、そんな言葉が良く似合う相手だ。

「だったら電話するタイミングを少しズラしても良かったでしょう」

『う~んそうなんだけどね。これは念のために早めに伝えておかないといけないと思って』

「……何かあったんですか?」

 安岐の顔が再び引き締まる。
 もとより彼が電話してくるということはそういうことだった。
 冗談みたいなことをよく口にする彼だが、実際冗談みたいなことをしたことはほとんどない。
 飄々としているようでその実、良く磨かれたナイフのように鋭い思考を持つのが彼である。

『マークしていた《あの男》、動きがあったんだ』

「《あの男》というと……」

『うん。あの茅場晶彦と同じ研究チームにいて、さらには今年の初めに明らかになったALOでのプレイヤー監禁事件、その首謀者である須郷伸之氏だよ』

 安岐はあやうく携帯端末を取り落としそうになった。
 あの男に動きがあった、となれば《こちら》が警戒するのはむしろ必然とも言える。
 いや、ある意味では《それも含めて》ここに安岐がいるのだ。

「それで、どうなってるんです? まさか今回の件とも関わりが?」

『まだ大きくは目立っていないけど海外に逃げる算段をしているようだね。GGOとの関与は今の所見つかっていないし多分無関係だ。彼は恐らく保釈されたら即座に高跳びする気なんだと思うよ』

「止められないんですか?」

『こちらも動いてはいるけど何が起きるかはわからないからねえ。それに、あの須郷氏が出てきたらキリト君やアスナ君に危害を加えないとも限らない。だから君に連絡したわけだ』

 安岐は考える。既に海外逃亡の算段を立てているということは、須郷には外部との連絡手段があるということ。
 外部との連絡が取れるなら、須郷がキリトやアスナに対して何かしらのアクションを起こせる可能性が皆無ではないということだ。
 つい先ほどまであった安岐の鬱々とした気持ちが漂白される。

『彼を僕らの中では一番よく知っている《比嘉君》によれば、須郷氏の性格上何もしないのは考えにくいそうだ。もっとも誰かにやらせるよりは最終的に自分で手を下したいタイプ、だそうだから実際には保釈時期の方が危険らしいけど』

「安心する要素には足りない、というわけですね」

『うん、だからくれぐれも二人を頼むよ。必要なら応援を要請してくれ。近場に数人待機させておくから』

「諒解しました、《菊岡二等陸佐》」

『……う~ん、今は《出向中の身》だしそう呼ばれるのは本意じゃないなあ《安岐二等陸曹》』

「……失礼しました」

『まあ良いよ。あ、そうそう今度一緒に食事でもどうだい? おいしいお店見つけたんだけどさ』

「……業務に戻りますので、これで失礼します。それでは」

『あれ? そうかい? せっかく──────』

 彼の話が終わる前に電話を切る。上官に対してあるまじき行為ではあるが彼なら咎めまい。
 むしろこれ以上話を聞かされた日にはこちらが彼を訴えねばいけなくなる。
 彼の話、とりわけ食べ物の話は大抵クサイかキモイかのどちらかなのだから。

「しっかし、こりゃ益々気が抜けなくなったわね」

 張りつめた息を吐いて安岐ナース……もどきは似非ナースキャップを取った。
 本来、彼女はこれを付ける程綺麗な看護師ではなかった。

「《軍属》って辛いなあ……永久就職はいつになることやら。あー明日奈ちゃんが羨ましい」

 安岐は眠る明日奈の顔を眺めつつ小さくぼやき、念の為に部屋の戸締りを再確認した。
 こうなると今日は二人が同じ部屋にいたのは僥倖だった。
 恐らくはまだ何も起こるまい。あの上官の先見の目は確かだ。まだこちらはさほど危険ではないだろうしキリト達のダイブ先の事件とも関係はないだろう。
 しかしやっておいて損はない。《何か起きてから》では遅いのだから。





 ここ数日で、自分の生活……身近な環境は随分と大きく変わったと朝田詩乃は思う。
 何をするにも一人が当たり前だった詩乃にとって、ゲーム内でもそれは変わらない。
 BoBの為にランキング上位者のいるスコードロンに所属したことはあっても基本はソロプレイだった。
 一番一緒にプレイしたことがあるのは恭二/シュピーゲルだが、それも他の人と比べれば、という程度でしかない。
 だから、自分に悪意や害意の無い人間と長く一緒にいるのは、それだけでどことなく詩乃の世界が変わったように感じられる。

『おーい? 聞こえてるぅ?』

 今こうやって他人と電話で話しているのも、その一つだろう。
 少し前は電話する相手さえいなかったのだから。
 詩乃はベッドの上に座り、用意してあるアミュスフィアのランプが明滅を繰り返しているのを眺めながら、携帯端末を耳に当てる。
 ディスプレイの中で光っているのは《篠崎里香》という文字だった。

「すいません、聞こえてます」

『んー、電波悪いのかなあ』

「あ、いえ……ちょっとぼんやりしていて」

『そうなの? 大丈夫? 今日が本戦なんでしょ?』

「大丈夫です。よくあることですし、中に入ってしまえば気になりませんから」

『そっかそっか。それでどう? アスナの方は』

「かなり筋が良いです。本戦まで残りましたし……私から見ても強敵ですよ」

『へえ! 恭二曰くGGOでも有数のプレイヤーらしいシノンさんのお墨付きかあ! 流石だねえアスナは』

「……新川君、そんなこと言ったんですか? 大げさですよ」

 少し意外そうに詩乃は返した。決して自分はそこまでプレイの上手いユーザーではない。
 しいて言うなら自分の弱さを克服するため人一倍《殺すこと》に執着しているだけだ。
 それが大会などで強敵と戦い、実績として残っている部分もあるに過ぎない。

『そう? でも実際あなたも本戦に残ってるんだし相当なもんじゃない? 今日は友達と別のゲームの中から中継見て応援してるからねー』

「私は、そんなんじゃ、ないです……変に期待されても」

 少し声が震える。どうしても現実だと自分が酷く脆弱な人間だと感じてしまう。
 早くこの弱さから脱却したいと切に願う。
 その為にも、今日こそ《残らず殺さなければ》。

『……まだ自分に自信が持てない?』

「えっ」

 先ほどまでと違い、急に詩乃の内心に触れる質問。
 思わず詩乃は言葉に詰まってしまった。
 自分の事を話すのは得意ではない。

『私が言うのもなんだけどさ、恭二は人を見る目はある方だと思うよ? その恭二が言うんだし、大丈夫』

「あ、はい……どうも」

 一瞬のヒヤリとした感情が徐々にほぐされていく。
 この人はどうも話が上手い、というより気風の良いお姉さんのようなイメージがある。
 そういえば恭二も姉弟でもないのに「里香姉さん」と呼んでいたのを詩乃は思い出した。

『ん~まだ元気ないなあ』

「いえ、そんなことは……」

『恭二は信用できない?』

「え? いえそんなことないですよ。いつもお世話になっていますし」

 それは本音だ。詩乃にとって恭二は数少ない敵ではない相手と認識できる人だった。
 彼のおかげでGGOを知ることが出来たのも事実。そこに感謝はあっても嫌悪は無い。

『そっか。良かった良かった。こう見えて私も心配してたんだ。恭二ってほら、学校行ってないでしょ? だからさ……あまり良いイメージないんじゃないかって』

「あー……」

 言われてみればそれは理解出来る。
 客観的に見ればそう取るのはむしろおかしくないかもしれない。
 学校に通っていない人間に対する世間の風当たりはそこそこに厳しいことくらいは世の中の事に疎い詩乃にも理解できた。
 なのでそこは嘘偽りなく、自信を持って答える。
 学校には来てほしいけど、不登校であることを気にはしていません、と。
 そもそも今彼は学校を自主退学するつもりだという話も聞いている。
 そのまま《高認》──高等学校卒業程度認定試験──を経て医大に進むつもりだ、とも。

『……それって恭二から直接聞いたの?』

「え? ええまあ。それが何か?」

『……あのさ、恭二が医大で何を目指すつもりかって聞いてる?』

「いえ……でもきっとお父さんの跡を継ぐんでしょうからお父さんと同じ道に行くんじゃないんですか?」

『……』

「……? あの」

 急に黙り込んだ里香に、詩乃は首を傾げた。
 だが同時に現在時刻が目に入る。そろそろダイブしておかないといけない時間だ。

『あの子は、恭二はさ、アンタのために────「すいません、そろそろ時間なので!」────え? あ、ちょっ!?』

 まだ里香は何か言いたそうだったが、詩乃は電話を切った。
 申し訳ない気持ちはあったが今は自分の為に集中したい時だった。
 その為にここまでゲーム内での腕も上げてきたのだ。それがいざ最終戦で準備不足でした、などとは冗談にもならない。
 詩乃はすぐにアミュスフィアを装着して横になり目を閉じた。
 里香の話は少し気にはなるものの、今は忘れることにする。
 そのかわり、今朝送られてきた恭二からのメールを思い出していた。
 短い文面で、今日のBoB決勝戦頑張って、という淡泊なものだが詩乃にはそれぐらいの方が丁度良い。
 詩乃は少しずつ自分の中の心を凍てつかせて、研ぎ澄ませていく。
 今日は、今日だけは余分なことを考えない最強の自分になるための戦いをする。

「リンクスタート」

 呟きとともに、詩乃の意識はガンゲイル・オンラインへと吸い込まれていった。
 静かな詩乃の部屋で、アミュスフィアのランプが明滅していた。



「あ、おかえりなさい」

「おかえりなさい。お邪魔してます」

「ただいまー、シリカも来てたんだ?」

 篠崎里香/リズは先ほどまでダイブしていた仮想世界、アルヴヘイム・オンラインの中へと戻ってきた。
 詩乃に激励をしようと一旦一時ログアウトしていたのだ。どうやらその間に直葉/リーファが呼んだのか、この場には猫妖精族(ケットシー)である珪子/シリカも来ていた。
 場所は変わらずクライン一押しの隠れた酒場だ。本来は全プレイヤーに対してオープンな店だが、要求ユルドを満たせば貸し切りにすることもできる。
 お店の規模によってはかかるユルドは莫大だがここは幸いさほどでもなかった。
 この酒場でもGGOのBoB──バレット・オブ・バレッツ──はストリーム放送を視聴可能なのでこれ幸いにこの場で見る流れとなっていた。
 ちなみに酒場の貸切ユルドの支払いは全額クライン持ちとなっている。
 クラインは不満だったが、リズとリーファに「全てを報告しても良い?」と笑顔で尋ねられ、ユルドの支払いについて首を縦に振るよりなくなってしまった。
 アスナやキリトのユイへの溺愛振りはそれはもう凄いものがある。かつて恐怖を味合わされたことのあるクラインは、流石にもう一度それを経験したくは無かった。
 カウンターに突っ伏すクラインをユイは労わるようになでなでと小さい手でその頭を撫でる。
 その優しさがクラインには嬉しく、また同時に余計なネタを女性陣に与えてしまいそうで怯えてもいた。

「はい、キリトさん達が出ると聞いて」

「どうなるか見ものねー」

「お兄ちゃんとアスナさんだから……ポロッと優勝しちゃうかも」

 あははは、まさかあ、などと笑いながらアスナとキリトを知る各々のメンバーは酒場にある大きなディスプレイから流れるバレット・オブ・バレッツの開始を待っていた。





 和人/キリトと明日奈/アスナはガンゲイル・オンラインの総督府近くで手を繋いだままの状態でログインに成功した。
 これが現実で手を繋いでログインしたせいなのか、それとも前回のログアウト時もこうだったからなのかはわからない。
 どことなく興味を惹かれる気もするが、今はそれについて検証している暇は無かった。
 二人で近場のバーへと足を運び、そこで作戦会議という名の打合せを行う。
 そのバーは先日アスナがシノンにパフェを奢ってもらった場所でもあった。

「本大会ではまず合流を優先しよう」

「うん」

 本大会の舞台は直径十キロと広大だ。アインクラッドの低層がだいたいそれぐらいだったはずなので、キリトやアスナにしてみればアインクラッド一層分を丸々使ってバトルロイヤルを行うような感覚だった。
 そう考えるとプレイヤーと遭遇するのも大変そうなものだが、これが中々そういうわけでもない。
 一定時間……十五分ごとにプレイヤーには全プレイヤーの位置が送られてくる。衛生から受信される、という設定なので洞窟内などにいればその限りではないが洞窟に隠れていることを看破されグレネードでも投げ込まれようものならプレイヤー燻製の一丁上がりだ。
 なのでここは最初から協力し合う事が必要になってくることが予想された。

「幸い俺たちは互いのプレイヤー名も容姿もわかってる。近くに行ければ合流はしやすいだろうし簡単にやられはしないだろう」

「そうだね。ってそういえばキリト君、気になっていたんだけど……」

「何だ?」

「どうして私だってわかったの? このアバターは私の面影なんてそんなに無い気もするんだけど……」

 アスナは小首を傾げる。アスナの今の姿は桃色のロングヘアに現実よりも小柄な体躯で、服装も似ても似つかない。
 自分でさえ鏡でこの姿を見て、「これが私?」と思ってしまうほどだったのだが。
 しかしきょとん、としたキリトはすぐに「何を言ってるんだ?」と不思議そうな感情を孕んだ声で言った。

「俺がアスナのことをわからないわけないじゃないか」

「え……あ、う……うん」

 忘れていた。彼の持つ反則級なトンデモシステム外スキルのことを。
 彼はよくよくアスナの心に入り込む。簡単に一番深い所に入り込んで中々出て行かない。
 何て罪作りな人。今の疑問を予選の決勝戦時に尋ねなくて良かった。
 もし尋ねていたなら、今の台詞をあの時に言われていたなら、負けていたのはアスナの方だっただろう。

「とにかくまずは死銃の正体、そのアバターを突き止めることから始めよう」

「キリト君が昨日見たって言うのだけが唯一の目撃情報だしね」

「ああ。けど……多分間違いない。アイツが《死銃》だと思う」

「そっか」

 キリトはそれ以上を語らない。語ったのはその時に見た外見、アバターの容姿だけだ。
 ぼろぼろに千切れかかったダークグレーのマントを羽織り、目深にフードをかぶっていて顔全体を覆えるほどのゴーグルを装着。
 開示した情報はそれだけだ。
 本当は接触したその時に他にも何かあったのだろう。アスナには何となくそんな想像がついていた。
 《死銃》の正体が記憶の片隅に引っかかる《笑う棺桶(ラフィンコフィン)》の誰かなのであれば、その可能性は決して低くない。
 だがアスナは尋ねない。キリトも答えない。
 お互いを信じていないわけでは決して無い。しかし、二人にとっても《笑う棺桶(ラフィンコフィン)》とは苦い思い出でしかない。
 出来るならそっと蓋をして二度と思い出さなくて良い深い深い所へしまっておきたい。
 実は何かの勘違いで無関係であって欲しい。そんな僅かな希望的観測を二人とも……少なくともアスナは捨てきれないでいた。
 そのせいだろう。途端に二人の間には会話が消える。
 キリトは気まずそうに注文していたストロベリーシェイクをストローでチュウチュウ吸いながら奥でやっている弾避けゲームの成り行きを見ていた。
 アスナはそんなキリトを見て、ふと思い出す。
 そういえば先日あのゲームをクリアした者が現れたとか。なんでもそのプレイヤーは女性だったらしいが……。

「どうかしたか? アスナ」

「ううん、結構儲かったのかなあ……って」

「……? ああ、そういうことか。そうでもないよ、カツカツだ」

「ふうん」

 察したようにキリトは答える。
 なるほど、やはりクリアしたのは彼だったのだと今の会話からアスナは納得した。
 予選の決勝戦後に聞いた所によると、キリトの持つ光剣──その名を《カゲミツG4》と言う──は結構な高額商品なのだそうだ。

「さて、そろそろ行こうアスナ」

「そうだね。準備もあるし」

 立ち上がったキリトに続く形でアスナも席を立った。
 本戦に向けて行わなければならない準備がまだいくつかあるのだ。
 あまりゆっくりはしていられない。
 二人は西部劇に出てくるようなウエスタンドアを押してその場を後にする。
 最後にキリトがちらり、と弾避けゲームに振り返ったことには、アスナは気付かなかった。



 本大会一時間前。
 詩乃/シノンは自分の中の意識を切り替えながら最後の準備をするべく総督府地下にある待機ドームへと来ていた。
 ここで最後のチェックと精神調整を行い、一時間後には《試合》ならぬ《死合》が開始される。
 といってもシノンの視点からすれば本当に殺すわけではない。飽くまでゲーム内において相手のライフを蹴散らすという意味合いだ。
 それでも《殺す》ことに変わりはない。それを成し遂げることで、今度こそ自分の弱さを克服する。
 そう勢い込んで入った待機ドームで、すぐにシノンは見知った桃色のロングヘアを視界にとらえた。
 流石に挨拶も無し、というのは礼儀に欠ける。本戦で気兼ねなく《殺し合う》為にも簡単にけじめくらいはつけておこう。
 そう思ったシノンは彼女、アスナに近づいた。

「アスナ、準備はどう?」

「あ、シノのん。うんバッチリだよ」

「そっか。それは良かった。本大会じゃ真剣勝負だから容赦しないわよ」

「あ、うん……そうだね」

「何よ、浮かない顔して」

 シノンはやや歯切れの悪いアスナを訝しむ。
 彼女は言葉とは裏腹に万全ではないのだろうか。
 それではたとえBoBで勝ったとしても満足できない恐れがあるのだが。
 と、そこで気付く。そのアスナが誰か別のプレイヤーと一緒にいることに。

「アスナ、私の他にも知り合いがいたのね……ってあれ?」

「どうも……ん? 君は確か昨日シュピーゲルに紹介された……」

 瞬間相手が誰だか互いに気付く。
 キリトは自分に良くしてくれたプレイヤー、シュピーゲルのフレンドとして。
 シノンからはシュピーゲルの知り合いにしてアスナの予選決勝の相手であり、そして、

「アンタ……アスナを嵌めた集り男!」

「は、はぁ!?」

 敵として。
 シノンの発言にキリトはやや声を荒げる。
 キリトにとっては不名誉極まりない、オマケに《半分ほどは》身に覚えの無い言いがかりだ。

「知らないとは言わせないわよ。あの決勝の後アスナが何て呼ばれてるか。悪魔よ悪魔! 《Pink Devil(ピンクデビル)》なんて噂が立ってるんだから」

「ええ!?」

 これにはアスナ自身も驚いた。よく周りを見れば、存外アスナに敵意を向けてくるプレイヤーが多い気がしなくもない。
 一体自分は何をしただろうか、とふとアスナは考え込んでしまう。

「ま、待ってくれ! それと俺と何の関係があるんだ?」

「昨日の予選決勝で貴方に同情票が集まったのよ。騙された男プレイヤーに同情を、って。馬鹿みたい」

「……騙された? ああ、そういうことか! 昨日の試合……あれ中継されてたんだもんなあ」

 恐らく外野はこう思ったことだろう。
 最後の勝負について、相手が男性プレイヤーであることを逆手にとって女性プレイヤーは色仕掛けを使ったに違いない、と。
 確かに客観的に見れば、確実にキリトが優勢だったのにアスナの抱擁で骨抜きにされ武器まで盗まれた、と見えても不思議ではない。
 というか半分ほどは事実でもある。見ていた男性プレイヤーはそこに憤っているいのだろう。
 確かに騙された男性プレイヤー──キリトのことだ──は馬鹿だったが、しかし男の純情を弄ぶとは何たる悪魔の所業だ、と観客プレイヤー達は思ったわけだ。

「まああれは確かにアスナも悪かったと思うけど。でも変な気は起こさないことね。アスナにはリアルで恋人がいるんだから」

「あ、あのシノのん?」

 話を聞いていたアスナが恐る恐るといった様子で口を挟む。
 シノンは一つだけ誤解している。それを解かねばならない。

「そ、そのね? この人が、私の彼氏だったの」 

「………………は?」

 たっぷり三拍分は置いてシノンは間抜けな声を出した。
 理解がしばし追いつかない。キリトの苦笑を見てポツポツと点が線となって繋がれていき真実が見えてくる。
 つまり、アスナが決勝で戦ったここにいる女っぽい男アバターの彼はシュピーゲルの知り合いで、シュピーゲルに散々集りまくった──これはシュピーゲルからシノンに伝えられていた──集り男で、アスナのリアル恋人である、と。
 それなんて偶然? と思うより早く、シノンはもう一つの情報を思い出した。

「つまりこの男が二股男なの!? 二股集り男ってこと!? 最低!」

 その情報は里香による《彼氏発現》だ。
 キリトは弁解する余地も与えられずにシノンから二股最低男の烙印を押されてしまった。
 そうしたまま、BoB──バレット・オブ・バレッツ──の幕が上がる。



[35052] GGO8
Name: YY◆90a32a80 ID:b9264a49
Date: 2013/03/04 22:35


 走る。決して息の上がる事のない疾駆。
 仮想世界だからこそ出来る芸当。現実ならこの半分の距離を走っただけでも息が絶え絶えになるに違いない。
 シノンは相棒である銃《PGM・ウルティマラティオ・ヘカートⅡ》をアバターが持つ数値上筋力パラメータのゲインを最大まで引き上げて担ぎ、足を止めることなく駆け続けていた。

「やった……!」

 彼女の顔には獰猛な微笑みが張り付いている。右手で小さくガッツポーズを作りながら予め決めておいたルートを迷うことなく突き進んでいく。
 ちらりと背後を見れば、もうもうと立ち上っていた爆炎エフェクトがうっすらと消えていくところだった。
 都合三人目。シノンが総勢三十人ほど参加しているこのバレット・オブ・バレッツ本大会中に討ち取ったプレイヤー人数だ。
 開始二十分強でこのペース。自分以外にも当然ドンパチは各所で起こり、リタイアしていくプレイヤーは多々いるだろうから、既に大会は中盤に差し掛かっていることだろう。
 残りはおよそ半数。それがシノンの予想であり同時に自分の現在の順位だと彼女は予測する。
 加えて言うならその状況を作り出すのに一人で本戦出場プレイヤーを三人も討ち取った彼女は現在の所《撃墜王》候補と言えるだろう。
 一人目は間抜けにも警戒不足。二人目は駆け引き勝ちの勝利、といった所か。
 三人目は半分ほどは運だった。相手はかなりの重武装で、防御に重きを置いているプレイヤーらしく、一発命中させた所で殺しきれないのは目に見えていた。
 どうにかダメージの通りやすい場所への狙撃を試みたかったが隙がない。さらにはどんどん離れていくそのプレイヤーに半ば諦めようと思った時、そのプレイヤーの腰にある武装に気付いたのだ。
 プラズマグレネード。たいして重量も無くかさばることも無い上威力が高いことから最終的に持てるSTR(筋力)分だけ持つプレイヤーも多いスタンダードかつ心強い武装の一つだ。
 だが、当然デメリットも確かに存在する。
 シノンはヘカートⅡでプレイヤーではなくグレネードに狙いを定め、引き金を引いた。
 見事命中したグレネードは爆発を起こし、持ち主であるプレイヤーごと吹き飛んだ。あれは間違いなくHP全損は免れまい。
 未だ覚めやらぬ自身の快挙にほくそ笑みながらシノンは辺りを警戒しつつ足を止める。
 そろそろ十五分に一度の《サテライト・スキャン》が行われる時間だ。
 この情報を出来るだけ正確かつ多く頭に叩き込まねば不意打ちの憂き目にさえ合いかねない。
 先程倒したプレイヤーもまさか腰の小さなグレネードをスナイプされるとまでは考えていなかったが故の敗退だろう。
 明日どころか一瞬後は我が身なのだ。油断は僅かたりとも出来ない。

 と、思っていたその時だった。

 シノンは目端にプレイヤーを捉える。距離はかなり近い。狙撃を主とするシノンからすると許して良い接近距離を大きく超えている。
 しかも相手には見覚えがあった。本戦開始前、その正体が露見した《二股集り男》こと《Kirito》というプレイヤーだ。
 シノンは友人であるシュピーゲルからキリトにはさんざん貢がされたと聞いていた。
 決して無理矢理ではないが相当な額のクレジットをつい提供してしまったのだそうだ。
 もっとも「なんでそんなことになったの?」という問いに対して彼は「女の子だと思ってさ」と渇いた笑いを浮かべていたので完全にシュピーゲルの側につこうとは思わない。
 むしろその時はシュピーゲルを少しばかり睨んだ程だ。言ってみればシュピーゲルの恰好付けが招いた結果なのだから。
 自身もリアルで時々お世話になっている身としては強く出られないのが本音だが、無論シノン/詩乃も無理矢理奢ってもらっているわけではない。
 彼が自分から奢ってくれるのだ。だからその時はさしてキリトに対して《集り男》というイメージは持っていなかったのだが、使ったクレジット額を聞いてその考えは百八十度逆転する。
 会ったばかりの相手に使ってあげる額にしてはちょっと度が超えていた。シュピーゲルはその件については自分が勝手にやったこと、と言っていたがいくらなんでもそういう問題じゃない。
 シュピーゲルの話を断る事だってできたはずなのだ。そんなわけで彼女の中のキリトというプレイヤーへのイメージはマイナスに傾いた。
 それだけならまだ良かった。BoB本戦にて遭遇したら痛い目にあわせてやろう、程度の考えでしかなかった。
 だが事態はより悪くなる。総督府や待機ドームなどで予選決勝でのアスナとキリトの戦いが話題になっていたのだ。
 主にアスナが悪者として。
 既にアスナのことをこれまでにきちんとできたことのない同性の友人だと思っているシノンにとってこれは許せなかった。
 本当にアスナが悪いことをしたのならば仕方がない。だが、どういう流れがあったにしろ戦略的に勝利した彼女が悪者扱いされるのはどうにも看過できなかった。
 それでも、シノンの中でキリトの評価はまだ好ましくない相手、で留まっていた。そこに最後の追い打ちがかかるまでは。
 アスナと待機ドームで会った時に、偶然にもキリトはそこにいた。それだけでも驚きだがアスナの紹介がよりシノンを驚かせる。
 キリトというプレイヤーはリアルでのアスナの彼氏。
 それを聞いた途端、シノンはアスナとのファーストコンタクトを思い出していた。GGOではなくリアルでのことだ。
 シュピーゲル/恭二から紹介された女性と彼女の連れのアスナ、二人が同じ相手と付き合っているという情報。
 シノン/詩乃は確かに聞いたのだ。あの時に同席した女性、里香から和人という男性が彼氏だと。だがその話をアスナにすると彼女は《良い笑顔》で里香を問い詰めていた。
 里香は非常に気まずそうにしていたのが詩乃には印象的で、すぐに悟らされる。あの人はアスナとも付き合っているのだと。
 それはつまり……二股だ。
 それを知った時にあらゆる意味でキリトというプレイヤーの評価が詩乃/シノンの中で地の底に落ちた。最低男として。
 思い出されるのは彼から言われた台詞だ。

『しかし二股か……なんでその相手の男もそんなことするんだろうな』

『男の風上にもおけないな。俺なら絶対そんな真似しないぞ』

 今なら言える。どの口がほざく、と。
 メラメラとシノンの感情が燃え上がる。
 アスナの友人として。女性として。GGOプレイヤーとして。
 様々な観点からシノンの怒りが増幅され、もはやシノンにとってキリトというプレイヤーは《悪》以外の何者でもなかった。
 そのキリトが、今目の前にいる。
 引き金を引くのに、これ以上の理由はいらなかった。
 シノンの中で急速に溜まっていた汚泥。それらを弾けさせるかのようにシノンは愛銃であるヘカートⅡを突きつけた。
 この距離ならば構えるのには十分。同時にシノンのスキルレベルから必中の距離であると瞬時に推測できた。
 シノンに気付いたキリトは無謀にも銃を構えず突進してくる。彼のメインアームが光剣である事実は既に周知。
 ハンドガンも装備しているようだがアスナと同じならばログインして日が浅い彼はまだ銃撃戦に不慣れなのだろう。
 照準を合わせることに自信がない初心者(ニュービー)にはよくあることだ。
 照準を合わせない方法を取るか、必中の距離まで詰めるか。それが初心者(ニュービー)に多い選択。
 シノンは瞬時にそうと理解し、滑らかな動作でボルトアクション。ガシャンと音を立ててから半秒後には引き金を引いていた。
 この距離ならばスコープを覗くまでもない。裸眼目視で十分だ。彼女の銃には《インパクト・ダメージ》という追加効果がある。
 仮に彼へ命中せずともその甚大なるダメージはHPを根こそぎ奪うのに支障は些かもない。
 そう思った時には雷鳴のような轟音を立ててマズルフラッシュを放ち、一瞬シノンの視界を閃光が奪う。それだけで彼女は勝利を確信していた……のだが。
 視界が奪われていたのは本当に一瞬。だが、その一瞬だけでも視界を奪われたことがシノンにとって命とりとなってしまった。

「え」

 一瞬の視界不良。それが回復した時にシノンが目にしたものはキリトを中心として左右にVの字を描いて飛んでいく何かと、自身に肉薄するキリト本人だった。
 思考がスパークする。斬られた? 嘘。ありえない。でも彼は健在。攻撃しなければ。
 瞬時に左手でサイドアームの《MP7》を引き抜くが、その時にはキリトの光剣が目前まで迫っていた。
 経験からわかる。彼女は斬られると確信した。だから、その時点でシノンは負けが確定する……はずだった。



「はいそこまで」



 聞き知った声が、キリトの高速、いや光速とも呼べる光剣の動きを封殺する。
 光剣は慣性の法則など知らぬとばかりにシノンの左肩近くでピタリと止まった。
 光剣の速度はまさに光速と冠するに相応しいものだったのだが真に驚くべきは全くブレることなく光剣を止めたその技能の方こそだろう。
 バチッとエネルギーの奔流が音を立てるのをシノンの聴覚野が認識する。
 あまりに耳に近いせいか、その音はとても力強く感じられた。
 目の前の黒髪の少女、否、男と視線が交錯する。黒曜石のように黒いその瞳には若干の戸惑いが含まれているようだった。
 それに気付いたシノンはそこで初めて現状を悟り、沸々と《怒り》と呼べる感情が込みあがって来るのを感じた。

「ふざけないで! どういうつもりよ……アスナ!」

 シノンが振り向くと、そこには案の定長い桃色の髪に小柄な体躯という少女のアバターが佇んでいた。
 いつからそこにいたのだろうか。こんな状況下でも周囲への警戒はさほど怠っていなかったから隠れていたわけではないだろう。
 だがそんなことは関係なかった。今あるのは怒りだけだ。

「ごめんねシノのん。でも提案があるの」

「この状況で提案も妥協もありえない! どちらかが死ぬ! それだけよ!」

 加えて言うなら死ぬのは自分のはずだった、と。
 今ここで自分を助けたつもりでいるのならそれは大きな間違いだとばかりにシノンは怨嗟の籠った眼差しでアスナを睨む。
 彼女にとって今の瞬間は間違いなく《敗北》だった。それは、自身の弱さが露呈することの何よりの証明。
 だが自分は《生き延びてしまった》。これが単なる敗退という結果なら悔しさもあるが次のステップへのバネにすることを考えられる。
 しかし生かされたとなっては話は別だ。これより以降、このBoB本戦においてシノンは何をしようともう満たされることは無い。
 すでに敗退しているのだ。まだHPが全損していないだけで。実際に撃たれたわけでも斬られたわけでもないのだから《負け》ではないというプレイヤーもいるだろう。
 だがシノンに言わせればそんなものはプライドも何もない奴の言うことだ。
 自分はあの瞬間、確かに戦闘において負けを喫した。これは自身の中で決して揺らぐことのない事実だ。
 もとよりシノンの《目的》はBoB本戦において《死なない》ことではない。
 《殺し尽くす》ことにこそ《目的》があった。負けない為に戦っているのではない。強いことの証明が欲しくて戦っているのだ。
 シノンにとって勝利は当然のようについてくる副産物でしかない。
 キリトに接近を許し、ヘカートⅡの弾丸を斬られた──これは未だに信じられないことではあるが──時点でシノンの中での第三回BoBは終わりを告げている。
 負けて尚生き恥を晒すことはシノンにとって我慢できなかった。それがこのような大会でなかったのならばまだいい。
 儲けものだったと納得することもできる。だがこと大会においてのこの行為はシノンの思惑の全てを奪う侮辱に外ならない。

「シノのんが怒るのはもっともだと思う。でもこっちも凄く重要なことなの」

「ある意味日本中のVRユーザーが注目しているだろうBoB本大会において勝敗を分ける以上に大切なものって何よ!」

「……人の命がかかっているんだ。それもリアルでの」

「──────えっ」

 キリトの口から飛び出た言葉が、それまで激昂していたシノンの感情を急速に冷やしていった。
 つい口籠ってしまう。本当に人の命がかかっている。そう言われてシノンは戸惑ったものの、すぐに再び感情を燃え上がらせた。

「何馬鹿なこと言ってるのよ、これはゲームなのよ?」

「でも事実だ。俺とアスナは実は総務省の役人からの依頼でこの世界に来ている」

「……証拠は?」

「今提供できる証拠はないな。だが君も《死銃》の噂くらいは聞いたことがあるだろう?」

「《死銃》って……ああ、あれか。あんな馬鹿な噂を信じてるの? 嘘を吐くならもっとマシな……」

「嘘じゃないのシノのん。撃たれた二人はリアルで死亡していることが確認できているの」

「……あのゼクシードが、死んだ?」

 唐突に与えられた情報に、シノンの表情が変わる。
 おかしい、とは思わないでもなかった。あの《ゼクシード》が、今回のバレット・オブ・バレッツには予選段階から参加していない。
 それどころか目撃情報まで激減していた。相方と言われた女性プレイヤーの方も。
 ゼクシードというプレイヤーに強い思い入れがあるか、と聞かれればシノンは「ない」と即答できる。
 だが全く知らない仲ではない相手、それも前回のBoB優勝者だ。自身もこのゲームが稼働された初期からの古参プレイヤーだからわかることがある。
 ゼクシードは絶対にこのBoBに参加する。もし、どうしても何らかの理由で参加出来ないのならせめてその理由を目一杯流布するだろう。
 もっともシノンの知るゼクシードなら何があっても参加するだろうが。だからこそ、ここに来て二人の話の信憑性が増してきてしまう。
 ゼクシードが今回のBoBに不参加なのはリアルで死亡しているから、というのは一見荒唐無稽に見えて納得もできる理由だった。
 少しだけ、シノンの中に波紋が広がる。少なくとも話だけは聞いてやろうという気にはなってきた。

「それで? 提案っていうのは?」

「信じてくれるの? シノのん」

「話だけは聞いてあげるわよ。……負けた身としては」

「ありがとうシノのん!」

 アスナは感激したようにシノンに抱き着いた。
 リアルではややシノン/詩乃より背の高いアスナ/明日奈だが、ここでの彼女のアバターは小柄で背も低い。
 一見すると妹が姉に甘えているようにも見えるが、年上なのはアスナの方である。
 なんとなくそんなことを考えながら、キリトは「オホン」と一つ咳払いをしてウインドウを立ち上げた。

「教えて欲しいことがある」

 アスナの抱擁に満更でもなさそうだったシノンだが、キリトに声をかけられたことで再び目端が釣りあがる。
 その目は未だキリトへの敵愾心は消えていなかった。
 少しばかり戸惑いながらキリトはシノンにウインドウを見せる。
 そのウインドウはこのBoB本戦においてのプレイヤー名簿だった。

「この中で、見たことの無いプレイヤー名はいるか?」

「……これって重要なことなの?」

「お願いシノのん」

「まあ、BoBも三回目だしほとんどは顔見知りよ。この中だとそこのKiritoって奴を除けば知らないのは……三、いや四人いるわね」

「四人……それは何て名前なんだ?」

「えっと、《ペイルライダー》、と《銃士X》……これは読み方ジュウシエックスで良いのかしら? それに《Yuuki(ユウキ)》と《Sterben(スティーブン)》ね」

 シノンの上げた名前を聞いてキリトとアスナは視線を合わせた。
 お互いに悩む素振りを見せる。

「何なのよ? 二人の間だけで空間作っちゃって。これに何の意味があるの?」

「……恐らくだが、その四人の誰かが《死銃》だと思う。俺とアスナにはもう一つ別の世界でのソイツ……アバターの中の人が同じヤツに心当たりがあったんだが、どうやら名前を統一しているわけじゃないらしい」

「なんかイマイチ要領を得ないんだけど、そのもう一つの名前ってナニ?」

「……」

「何で黙るのよ」

 キリトは苦虫を噛み潰したような表情で口を閉じた。
 僅かに視線もずらし、口を開かない。その態度にシノンが眉をピクリと動かした時、アスナが口を開いた。

「私たちもね、ちゃんとは覚えていないんだ。だからその名前を思い出す為にもそのプレイヤーと会わなくちゃいけないの」

 アスナが少しだけ儚い笑顔を見せる。その瞬間、シノンは雷に打たれたかのように閃いた。
 二人の態度と別の世界での心当たり。
 シノンはアスナから彼女はSAO生還者(サバイバー)である事実を聞いている。
 ならば、今回追っているその相手もまたSAO生還者(サバイバー)なのではないかと。
 そう考えれば急にキリトの口が重くなったのにも頷けた。

「それってもしかして……ううん、やっぱりなんでもない」

 シノンは聞こうとして、止めた。それは踏み込んではいけない領域だと思ったからだ。
 実際のデスゲーム。それは体験した者にしかわからない悩みや苦しみがあるはずだ。知らない者がズケズケと踏み入って良い話ではない。
 だから思考は《次》へと移り変わる。

「それで? 私はどうすればいいのかしら? 言っておくけどここで別れてまた何処かで会ったら戦いましょってんならお断りよ。忌々しいけどあの瞬間私はソイツに負けたの。負けたのに未練がましく戦うのは性に合わないわ」

 クイッとシノンはキリトを睨む。キリトは困ったような顔をした。
 どうにも彼女からは敵意ばかりを向けられているように思える。

「う~ん、シノのんがそう言うなら……途中ログアウトなんてできないんだし私たちと一緒に来てくれる?」

「おいアスナ! 危険じゃ……」

「はいはいりょ~かい。それじゃ行きましょアスナ」

 シノンはアスナの手を引いて歩き出す。
 キリトはシノンの態度に益々顔を困らせた。
 その表情はアバターの女性っぽさも相まって思わず「あ、可愛い」と思ってしまえるほどのものだったが、シノンはすぐに頭を振ってそれを吹き飛ばした。
 やがて諦めたのか、キリトは少し距離を置いて追いかけてくる。
 それをちらりと横目で確認しながら、そう言えば、と気づいた事をシノンはアスナに尋ねた。

「さっき、いつの間に私の後ろにいたの?」

「え? ああ、いた、というか来た、というか。もともとキリト君と合流する予定を立てていて、《サテライト・スキャン》で位置を確認しながら来たら二人がいたの」

「え……あっ!」

 それを聞いたシノンはとんでもないミスをしたことを思い出した。
 《サテライト・スキャン》……それを見逃したことに。やむを得なかったとはいえ、また十分少々立たなければプレイヤーの位置は判明しない。
 と、そこで気付く。今更どうでも良いことだ、と。自分はもう敗退しているも同然なのだ。それを気にしたところで仕方がない。
 キリトとの戦いが無ければ間違いなく確認していたはずだが、もう負けたも同然──仮にこれから最後の一人になったとしても納得できない──なので考えることを止める。
 シノンは再びちらりと横目で離れて付いてくるキリトを見やる。
 彼女、ではなく彼は顎に手を当てて考え事をしていたが、シノンの一瞬の視線に気づき視線を合わせてきた。
 すぐにフイッとシノンは視線を正面に戻す。
 今のやり取りだけで、シノンはキリトというプレイヤーが底知れないことを感じ取っていた。
 狙撃を得意とするシノンは《視線》にちょっとした自信がある。目端はもちろん視力についてもそうだが、一番は気取られない視線の送り方だ。
 上位プレイヤーになってくると相手の殺気とも取れる《何か》を感じ取れる猛者が出てくる。
 その際、スナイパーなどは特に無心となってスコープを覗かなくてはならない。
 せっかく弾道予測線(バレットライン)が見えていない状況を作り出しても、気取られては意味が無い。
 だが、どんなに気配を殺そうとキリトは決してこちらを見逃さない。なんとなくこうして傍にいると彼のその鋭さを肌で感じられた。
 自身を負かせた相手なのだしそれぐらいなのはむしろ望むところなのだが、どうにも彼に気を許せない点が一つシノンにはあった。
 それは……表情。
 初めて会った時の彼はシュピーゲルの横で能面のような顔をしていた。
 だが今はどうだ? 非常に柔らかい顔をしている。感情表現も先ほどから実に豊かだ。
 以前と違うのはアスナがいること、だろう。そうなるとやはり《二股》という言葉が思い出される。
 連鎖してアスナはこの男に騙されているのでは、とまで勘ぐってしまうほどだ。
 しかし彼の強さを肌で感じ取り、負けた身としては是非リベンジの機会も欲しい。
 故にここであまりにも露骨な拒否をし続けるのはどうか、という葛藤はシノンにもあった。
 少なくとも、いずれ再戦はしたい相手。そう思えるほどキリトを《強者》と見る思いがシノンにはあった。

「ねえシノのん?」

「ん?」

「さっきから随分とちらちらキリト君の方を見てるけどどうしたの?」

「えっ、そんなこと無いけど……」

「そう?」

 何故だろうか。一瞬シノンは何かの地雷を踏んでしまったような錯覚を覚えた。
 だが所詮は錯覚。シノンはすぐにそれを忘れた。
 目の前にはとても良い笑顔のアスナがいる。ならそれで良いではないか、うん。
 と、シノンはふと思いつく。そういえばアスナもヘカートⅡの弾丸を斬ったことがある。
 予選決勝では紆余曲折あってキリトとアスナの戦いはアスナに軍配があがっているが、あれが純粋な勝負で無かったことについてはシノンも認めるところだ。
 技能的に言って、キリトとアスナ、実際にはどちらの方が強いのだろうか。
 またちらりとキリトに視線を送ってみる。その度にキリトは視線をシノンに合わせてくる。

「シノのん? もう五回目だよ?」

「え? 何が?」

「シノのんがキリト君を見たの」

「……うっそォ」

 その回数は心外だ、と思わないでもないが言われてみればだいたいそれぐらい見た気がしないでもない。
 急に気まずくなったシノンは先ほどの疑問をぶつけることにした。

「そ、そういえばさ、アスナとあの人って実際はどっちの方が強いの?」

「え? キリト君と私? そりゃあ……」

「アスナだろ」

 それまでただ後ろに付き従っていたキリトが突如として会話に参加してきた。
 彼曰く、実際に戦えばアスナが勝つ、と言う。
 しかし、

「そんなことないよ。実際私負けたじゃない」

「いやいや、それなら俺も負けたよ昨日」

「あ、あれは……その」

「負けは負けだしなあ」

「い、イジワル!」

「何のことやら」

 アスナが頬を染めながらキリトのおちょくるような言葉に必死に言い返す。
 その様は互いにとても子供っぽく微笑ましいものではあるが、何故かこう胸がムカムカするものがある。
 ああ、これがバカップルってヤツなのね、リア充ならぬVR充爆発しろ、という言葉をシノンはおぼろげながら理解した。

「じゃあまあ、実際問題油断さえなければアスナの方が上ってこと?」

 もしそうならば、アスナを倒せば間接的にスタイルの似ているキリトをも倒せたことになる……かもしれない。
 だが、アスナは首を振った。

「キリト君全然本気じゃないもん。その証拠に剣一本しか持ってないし」

「どういうこと?」

「キリト君の最強スタイルは二刀流なの。キリト君の二刀流は……別次元の強さだから」

 少しだけ、アスナの表情が暗くなる。
 その意味を、シノンは理解できないでいた。










「おしゃべりはここまでだな」

 キリトが小声で二人に告げる。二人も頷いた。
 あれから次の《サテライト・スキャン》まで、幸か不幸か三人は他プレイヤーと接触しなかった。
 本大会開始と同時に自動で配られる受信端末。それによると三人が合流したポイントは大会フィールド南東側の森林エリアだ。
 本大会の舞台はおよそ直径十キロメートル。だいたい中央に当たる位置に近未来的な廃墟都市……都市廃墟エリアと呼ばれる場所があり、北は砂地広がる砂漠エリア、西は草原、東が田舎の民家や畑が群がる田園エリアとなっている。
 南には山岳エリアもあり、山岳エリアと田園エリアの丁度中間あたりに今いる鬱蒼とした草木が生い茂る森林エリアが広がっていた。
 今回の舞台には北西、北東、南寄りに大き目の川が流れており、南側の川にのみ鉄橋も存在する。
 三人は《サテライト・スキャン》でプレイヤーの位置を確認して、とりあえずの方針を決めた。
 まずは近くにいるシノンも知らない先の四人のプレイヤーに接触を試みる。実際に会わなくても良い。近くまで行ってそのアバターを確認する。
 《サテライト・スキャン》によると、ここから北方向にある田園エリアにある輝点が先の四人の一人、《ペイルライダー》であり、今の自分たちの位置から見て例の四人の中でもっとも近い位置にいることが受信端末でわかった。
 そこで一先ずの目標は《ペイルライダー》というプレイヤーだと決める。
 同時に、その傍にはシノンの知るプレイヤー、《ダイン》と言うキャラネームの輝点もあり、恐らくはペイルライダーとダインの戦闘が起きることが予想された。
 そうしてたどり着いた古式ゆかしい民家の立ち並ぶ田園エリアでは案の定、ドンパチが始まっていた。
 田園エリアは民家等の人工的な遮蔽物が多く、砂漠ほどではないにしても畑などで足を取られやすいエリアだ。森林エリアなどとは別の意味で隠れる場所には事欠かなかった。
 一つの民家の屋根の上に登ってうつ伏せ状態になり、既に始まっている戦闘を窺う。
 ウッドランド迷彩の上下、ヘルメットの下に覗く四角い顎。そして両手で抱えたSIG SG550アサルトライフル。
 シノンが小声で「あれがダインよ」と話す。ダインはSG550アサルトライフルのマガジン全弾を撃ち尽くす勢いで引き金を引いて銃撃音を轟かせていた。
 対するのはひょろりとした長身を青白い迷彩スーツで包んでいるアバターだ。黒いシールド付きのヘルメットを被っている為顔までは見えなかった。
 武装は右手にぶら下げている《アーマライト・AR17》ショットガンのみ。恐らくこのアバターが《ペイルライダー》だろう。
 そのペイルライダーは驚いたことにダインの放つ無数の五・五六ミリ弾の雨を《避けて》いた。
 近くの木箱めがけて飛び、その勢いで民家の屋根に左手を伸ばし、左手一本で軽業師のように屋根の上に登ったかと思えば転がるようにまた屋根から降りる。
 突然のアクロバティックな動きにダインはついていけずにマガジン内の弾丸を空に打ち切ってしまう。
 その動きを見ていたシノンはペイルライダーの強さを肌で感じていた。名前も知らない相手だが、かなりの猛者だと。
 恐らく軽業(アクロバット)スキルをかなり鍛えているのだろう。加えてSTR……つまり筋力にパラメータを大きく振っておきながら装備重量を抑えることで機動力へとブーストしている。
 それによってAGI(敏捷力)とはまた違った意味での《速さ》が生み出され、身軽さを武器の一つとしているのだ。
 一瞬の攻防でシノンはそうペイルライダーの強さを分析する。
 マガジン内の弾を全弾撃ち尽くしてしまったダインは即座に予備の三十連マガジンを再装填するが、それよりも早くペイルライダーが持っていたアーマライトが火を噴いた。
 ダインの体には問題なく着弾エフェクトが瞬き、同時に大きく仰け反らされる。それがショットガンの利点の一つだ。
 アサルトライフルのような連射こそできないもののその威力の高さからダメージ量と相手への仰け反り効果(ディレイ)は非常に大きい。
 ダインは大きく体勢を崩される。が、ダインとて本大会に出場できる程の手練れ。仰け反りながらもマガジンの換装は見事終わらせていた。
 だがペイルライダーの猛攻も止まらない。再び放たれた轟音の元凶にダインは為すすべなく仰け反らされる。
 やむなくダインは仰け反ったままがむしゃらに引き金を引くものの、それらは全て明後日の方向へと飛んでいき、三発目のアーマライトの前にその身を沈めた。
 倒れた彼の上には赤い字で【Dead】と立体文字が表示され、ゆっくりと回転し始める。ダインはここで本戦リタイアだ。

「キリト君、どう思う?」

「……わからない。あいつがあのマントの中身なのかどうか」

 勝者であるペイルライダーの戦いを見ていたキリトは、一分の隙も見逃さないよう食い入るように戦い方を見ていた。
 だがわかったことと言えば手強いプレイヤーだという事実だけだ。
 キリトが一度だけ会ったという死銃らしいプレイヤーがペイルライダーなのかはまだ判断がつきそうになかった。
 判断材料としてはまだ足りない、そうキリトが思っていた時……それは起こった。

「あ、ペイルライダーが撃たれた……!」

「っ!?」

 シノンの声にキリトとアスナは声を殺して耳を澄ませた。
 撃たれたというペイルライダーは既に倒れているが、どうやら死んだわけではないようだ。
 ともかく今はペイルライダーを撃った発射音を確認しなければならない。
 音の発生先やその音色だけでもかなりの情報を得ることが出来る。三人は耳に神経を集中させた。
 だが、いくら耳を澄ませていても木霊する銃の炸裂音は聞こえてこなかった。

「聞き逃したか?」

「ううん、確かに音は鳴っていなかったと思う。……シノのん、どっちから撃ってきたかわかる?」

「急に肩のあたりに着弾エフェクトが出たから……だいたい向こう、西側、としか」

「西側、か。しかし音がしなかったのは一体どういう……」

「作動音が小さい光学ライフルか、もしくはサプレッサー付きライフルかもね」

「サ、サプ……なんだって?」

 キリトの疑問に珍しくシノンが答えるが、キリトは突如として出てきた専門用語に難しい顔をした。
 キリトの銃知識は著しく乏しい。せいぜいが銃にはリボルバーとオートマチックがある、という程度のものだったのだから。

「減音器のことだよキリト君。サイレンサーとか聞いたことない?」

「ああ、なるほど」

「……何にも知らないでよくこの世界にいられるものね、ホント。こんなヤツに負けたなんて……」

 シノンがブツブツと苛立ち混じりに呟き始める。
 キリトはそんなシノンの呟きに頬をひくつかせながら、たった今撃たれたペイルライダーの異変に気付いた。
 ペイルライダーが、立たない。

「妙、だな。倒れたまま動かないぞアイツ。ん? 何か、青い電気みたいなのが体に奔ってないか?」

「あれは……電磁スタン弾!? 普通対人戦ではめったに使わないんだけど……」

 電磁スタン弾はその名の通り命中した相手をしばし麻痺(スタン)させる特殊弾だ。しかしこの弾は大型のライフルでなければ使用できない。
 しかも一発一発がとんでもなく高価に設定されており、パーティプレイでボスクラスのMobを攻略する際に使われるのが一般的だった。
 それを使い、あまつさえ命中させるとは。
 その技術にシノンが心の中で感嘆していた時、そいつは現れた。
 ゆらり、と滲み出る黒いシルエット。微妙に輪郭がぼやけて見える。
 よく注視して見ればそいつは全身を灰色のぼろぼろフードマントで覆っているようだった。
 スナイパーが着る《ギリースーツ》ならぬ《ギリーマント》と言ったところか。
 あのマントは余程高い隠蔽効果が付与されているのだろう。
 徐々にぼろマントが倒れて動けないペイルライダーへと近づく。
 それを見たシノンはどうしようもない違和感に襲われた。
 あれほどの狙撃を成功させる腕のあるプレイヤーが、何故わざわざ姿を見せて近寄ってきたのか。
 動けぬ相手ならばあとは頭を吹き飛ばせばジ・エンドだ。時間をかけて姿を見せるメリットはどこにもない。

 この違和感は……なんだ?

 シノンの頬を、偽物の汗が伝ったような……気がした。
 同時に、隣にいるキリトが息を呑む音が聴覚野に届く。
 彼の声が喉奥でヒュウヒュウと震えているのがわかった。

「アイツ、まさか……?」

 絞り出すように出たキリトの震え声。
 何故か妙に焦るようなキリトのその声が、不思議と耳奥に残っていた。



[35052] GGO9
Name: YY◆90a32a80 ID:b9264a49
Date: 2013/04/09 22:47


 ──────ここではない何処か。




 ──────別の世界で、常に付きまとっていた、悪寒。




 それが、今再びキリトの身を襲った。
 なんと形容していいのかわからない。だが、彼の第六感が告げている。
 あのぼろマントに《撃たせてはならない》と。
 言うなればそれは……嗅覚。《死》という物に染まりすぎたが故に、《死》を敏感に感じ取ってしまうキリトの特殊な嗅覚から来る警告だった。
 
「──ッ! 《沈黙の暗殺者(サイレント・アサシン)》ッ……!」

 そうキリトが感じた時、今度はシノンが震えるような声で呟いた。
 いつの間に取り出したのか。彼女の瞳は愛銃であるヘカートⅡのスコープを通して現れたぼろマントを見ていた。
 正確にはぼろマントが持つ主武装(メインアーム)を。それはヘカートⅡに迫るほどの全長を持つ大型のライフルだった。
 シノンは感心すると共に一人内心で成程と納得する。
 《沈黙の暗殺者(サイレント・アサシン)》。正式名、《アキュラシー・インターナショナル・L115A3》。
 使用する弾は338ラプアマグナムで、シノンの持つヘカートⅡの50BMG弾と比べると絶対的な威力では劣る。
 しかしこれはヘカートⅡと違い、対物ライフルではなく対人ライフルだった。
 人を撃つことに特化している武装。ある意味こういった遭遇戦の《対人》バトルロワイヤルであるBOB──バレット・オブ・バレッツ──のような大会に限って言えば使い勝手としてはヘカートⅡを凌ぐだろう。
 無論使い手によっては宝の持ち腐れになるし、シノンとてヘカートⅡを使用しての撃ち合いで負けるとは思わない。
 だがそれだけの潜在能力を持つ武器なのは確かで、同時に遠距離からの狙撃を成功させ、またこの決勝に残っていることからも、その腕が伊達ではなく決して油断して良い相手ではないと窺える。

「シノン、あいつを撃てるか……?」

 シノンは返事をする代わりに愛銃を構えた。片目はずっとスコープ越しのぼろマントを覗いている。
 不思議とこの時ばかりは反発心は湧かなかった。心がザワついている、とでも言うのだろうか。
 撃たなければいけないような、そんな予感がシノンにもあった。
 ドクンドクン、と脈動する鼓動が静かに伝わってくる。
 やることはいつもと何も変わらない。ただ無心になって、鼓動とリンクする着弾予測円(バレットサークル)が小さくなったその時に、寸分違わずぼろマントを捉えて……鉄の引き金を引く。
 既にもう何十何百、何千何万と繰り返してきた動作。そこにミスはありえなく、狙いも完璧。

 ──轟音。

 大型マズルブレーキから炎が迸る。いつもならそれだけで命中する前に手応えさえ感じる……のだが。
 この時、シノンは手応えを感じられなかった。必中であると思い、幾百と繰り返した動作には些かのミスも無い。
 だがシノンの勘は《当たらない》と告げていた。何千発と目標を撃ち抜いてきたシノンだからこそわかる《撃ち抜く》感覚。
 それが、今のショットには感じられなかった。それを裏付けるように、シノンが引き金を引いた時にはぼろマントはゆっくりと上体を大きく傾けていた。
 それだけ。たったそれだけのことでシノンの狙撃はミスショットとなる。
 同時に、シノンは見た。ぼろマントを羽織るプレイヤーの顔部分……眼窩の奥に灯る仄かな赤い光を。
 いや、正確にはゴーグル越しだろう。だが重要なのはそこではない。問題なのは……闇に紛れたぼろマントの口元が、僅かに歪んだことだ。
 決して見えるはずの無いそれを、シノンは確かに視た。《見た》のではなく《視た》。
 嘲りとも取れるそれを、シノンは確かに感じたのだ。

「あいつ……気付いてた! 最初からこっちのことに気付いてたんだ!」

「馬鹿な、あいつは一度もこちらを見なかった!」

「でも、あの動きは弾道予測線(バレットライン)が見えてなければ絶対に不可能! どこかであいつは私を見ていて、それがシステムに認められていたってことだわ!」

 キッと睨みつけるようにシノンはキリトに顔を向けた。
 その瞳を、強張った顔でキリトが受け止めた時、アスナが小さく声を上げた。

「あっ」

 その声に反応した二人は、ばね仕掛けのようにぼろマントに向き直る。
 そこではぼろマントが自動拳銃らしきハンドガンをスタンし倒れているペイルライダーに構えている所だった。



 ──────どくん、とシノンの心臓が大きく跳ねた。



 遠目の為に詳しい判別まではすることができないハンドガン。
 だが、何故かその銃に胸騒ぎを覚えた。
 理由はわからない。しかしザワザワと胸の中に溜まる泥のような何かは徐々にその体積を増しているかのように思えた。
 だいたい今この瞬間にハンドガンを使うメリットは些かもない。もうすぐスタンも解けてペイルライダーは自由になってしまう。
 だというのに威力の低いハンドガンなどでトドメを刺そうと思うなら、明らかに威力が足りない。
 あれほどの長距離狙撃を成功させる熟練者がそのことに気付かないはずもない。
 一言で言って妙。スタンを成功させた時から思っていたことだが、それがここに来て爆発的に意味を深めていく。
 そしてその謎、違和感は次の瞬間最高潮に達した。
 ぼろマントは手をフードの額に当て、次いで胸、左肩、右肩へと動かした。
 そのままの意味で捉えるならいわゆる十字を切る、というような動作と取れる。
 だが、この瞬間、このタイミングで行われるそれには一体どんなメリットがあると言うのか。
 遠くから狙撃された直後である。無駄な動作をするのは自殺行為と言えるだろう。
 それとも、こちらの攻撃など絶対に避けられるという自信でもあるのだろうか。
 だと言うのなら、少しばかりシノンのプライドが刺激される事案ではある。

 その時だ。

 一発。たった一発だけぼろマントのプレイヤーはハンドガンの引き金(トリガー)を引いた。
 軽業師のようなアクロバティックスキルを会得しているペイルライダーだが、スタンしている以上避ける術は無く、ぼろマントの銃弾を甘んじて受けた。
 もっとも予想通りハンドガンの一発ではペイルライダーのHPを吹き飛ばすことなどできなかった。
 ペイルライダーのアバター中央を撃ち抜いたダメージはクリティカル判定ではあろうが、それでも彼、もしくは彼女のHPを一割削る程度が関の山だろう。
 だというのにぼろマントはそれ以上の追撃を行わない。
 シノンに撃たれた後だというのに逃げもしない。もう一発撃ってやろうかとシノンが思った時、とうとうペイルライダーの動きを封じていた電磁スタン弾の効果が切れた。
 ペイルライダーは体操選手のように跳ね起き、アーマライトをぼろマントの体の中央に押し付ける。
 自動拳銃などとはわけが違う。このまま文字通り零距離でショットガンをぶち込まれれば即死は免れない。
 だというのにぼろマントに慌てた様子は無かった。まるで、《この後起こることがわかっている》かのように。
 結論から言うと、ペイルライダーの持つAR17ショットガンが、その咆哮を上げることは無かった。
 ペイルライダーは突如として膝を付き、アーマライトを手放した。
 そのままペイルライダーはゆっくりと倒れこむ。その時、シノンからはヘルメットのシールドに隠れていたペイルライダーの口元が僅かに見えた。
 何かを叫ばんばかりに口を開き、喘いでいるかのような口元を。
 ペイルライダーは先ほどまでの素早い動きが嘘のように弱々しく自身の胸をギュッと掴むと、突如としてその姿を消失した。
 ペイルライダーというアバターを象るポリゴンが一ドット余すことなくこの世界から消去されたのだ。
 《大会中においてプレイヤーはログアウト不可》のはずのBoBで。
 最後に残った光が【DISCONNECTION】という文字を作ったが、それもすぐに消える。
 ただ、電子的な風に乗ってボイス・エフェクターを使用したような機械音声でぼろマントの声が聞こえた。

「俺と、この銃の、真の名は、《死銃》……《デス・ガン》。俺は、いつか、貴様らの前にも、現れる。そして、この銃で本物の死をもたらす。俺には、その、力がある」

 キリトの呼吸が荒くなる。目は剣呑なものを帯び始めていた。
 同様に、アスナにも何か感じるものがあった。チクチクと記憶の隅を突かれるような感覚。
 それが何かは未だ思い出しきれない。だが、霞みがかった記憶の奥で、シュウ、シュウと何かが擦れる音がしている。

「忘れるな。まだ、終わっていない。何も、終わって、いない。……“カップル”は、撲滅する」





 ─────イッツ・ショウ・タイム……!





 最後の言葉が聞こえた時、キリトとアスナは同時に飛び出していた。










 ガシャン、と音を立ててタンブラーが割れた。
 割れたタンブラーはすぐにポリゴン片となって霧散していてく。

「ちょっとなにやってるのよ?」

 リズベットは固まったまま動かないクラインに唇を尖らせた。
 今彼が床に落として割ったクリスタルのタンブラーは彼女の制作物の一つである。
 クラインに頼まれ、友人のよしみから渋々武器ではない物を手掛けたのだ。
 リズベットは、リズベット武具店というSAO時代の自分の店からもわかるとおり基本武具を主目的とした鍛冶師、工匠妖精族(レプラコーン)である。
 オーダーメイドで他の物も作れなくはないが基本的には武器以外の物を喜んで彼女が作ることは無い。
 それは彼女の中の武器職人としてのプライドとマナー精神の現れでもあった。
 彼女は武器を作ることにそれなりの誇りを持っているし自信もある。それ故に他の鍛冶仕事にまで大きく手は伸ばさない。
 何故なら手を伸ばせば伸ばしただけ本業が疎かになってしまう気がするからだ。
 加えて、自分のような考え方を持つ他のプレイヤーへの配慮でもある。同じような考えを持つプレイヤーというのは少なくない。
 その中にはリズベットとは対照的に武器の類ではない別な物の製造を専門にしているプレイヤーもいる。
 その人たちに比べていい加減な仕事になってしまうかもしれないし、何より顧客を奪うような真似はしたくない。
 やるなら堂々と、自分の分野でのぶつかり合いのみに徹したかった。
 だから、クラインがタンブラーを割ったことにリズベットは些か怒りを感じた。
 自分の中の矜持を友人の頼みということで曲げて制作したものなのだ。いくらゲーム内のことと言えどせめてもっと大事に扱ってほしかった、と。
 だがクラインはそんな不満げなリズベットの声を気にもかけずにモニターを凝視していた。
 彼にしては非常に珍しい態度だ。クラインはグループ内の男子の中ではキリトとは裏腹に非常に良く口が回る方だ。
 放っておいても話すのを止めないことだってあるほどで、こう言った時はとにかく謝罪やら自己弁護の羅列を捲し立てるのが常だった。
 リズベットはそんな様子のおかしいクラインに唇を尖らせながらモニターを見やる。モニターにはGGOにて開催中の大会イベント、BoB──バレット・オブ・バレッツ──のストリーム中継が流れていた。

「さっきの人、クラインさんの知り合いなんですか?」

 クラインがおかしくなったのは、たった今不思議な勝ち方をしたプレイヤーを見てからだったように思える。
 クラインの態度が気になった風妖精族(シルフ)であるリーファがそう尋ねると、クラインはやや怒気を孕む声で口を開いた。

「そういうことか……キリトにアスナちゃんよぉ……! くそっ、水くせぇ……!」

「ちょっと……何急にキレてんの? 意味わかんないんだけど」

 リズベットは未だ割られたタンブラーの事が頭から離れないのか、イライラしながら腰を手に当ててクラインの前に仁王立ちした。
 そこでようやくと我に返ったのか、クラインは苦笑いしながら一言「悪い」と口にする。

「それはいいから。一体なんだったのよ?」

「……さっき変な勝ち方をしたヤツ。奴ぁ《ラフコフ》だ」

「ッッッ!?」

 リズベットは息を呑み、それまで不思議そうに傍観していたシリカでさえ席を立ち上がっていた。
 一人、置いて行かれたようにリーファだけが首を傾げる。

「《ラフコフ》って何ですか?」

「そうか、そういえばリーファちゃんは知らないのか。《ラフコフ》ってのは……SAO時代、相手がどうなるか理解しながらPKを繰り返した最低最悪のレッドギルド、《笑う棺桶(ラフィンコフィン)》のことだ」

「そんな、それって……まさか!」

 リーファのまさか、というような驚愕の表情がわからないわけではない。
 死が実際に隣接している世界で、人を殺すような真似を進んで行う者が、《集団(ギルド)》で存在していたとは、信じたくない話だ。
 だが、デスゲーム時代のSAOを知る者にとっては周知の事実であると同時に恐怖の対象でもある。
 一体あのゲームで帰ってこなかった者のうち、何人が彼らの手にかかったのかはもう知る術が無い。

「さっき奴の吐いた言葉……《イッツショウタイム》……って言葉は奴等のリーダー、PoH(プー)って野郎の決め台詞だったんだ」

「じゃ、じゃああの人がその……!」

「いや、PoHの野郎じゃねぇ。話し方や態度が全然違う。だが奴に近かった幹部の誰かだろう。多分、キリトやアスナちゃんはそれがわかったから今回GGOにまで行ったんだ」

「そんな……」

 クラインの説明を聞いて、リズベットも同じように「水くさい」と思った。
 何故話してくれなかったのか、と。もしそれを聞いていたなら……こんな馬鹿げたこと止めたのに。
 いや、それがわかっていたからこそアスナは言ってくれなかったのだ。どうせ「巻き込むわけにはいかないもんね」などと言っていたに違いない。
 場が、暗い空気で静まりかけたその時、これまで黙って話を聞いていたユイが口を開いた。

「クラインさん」

「ああ」

「今すぐクリスハイトさんに連絡を取ってください」

「クリスハイトに? 何でまた?」

「非常時なので情報開示しますが、クリスハイトがパパとママに今回GGOへ行く依頼をした張本人です」

「なんですって!?」

 リズベットは声を荒げた。
 場合によっては今後の対応、いや今すぐにでも行動を起こさねばならないかもしれない。

「彼のリアルネームは菊岡誠二郎。皆さんも知っている元SAO対策本部所属の役人です。その伝手で彼からパパにGGOへの調査依頼が来ていたんです。最初パパは本来の依頼内容を隠していましたが、ママによるクリスハイトさんへの《交渉》により彼はパパが隠した内容について口を割りました。ゲーム内での銃撃で実際に死亡したプレイヤーがいるから調べて欲しい、と。銃撃したプレイヤーは《死銃》と名乗ったそうです」

「《死銃》って……!」

 《死銃》というのはつい今し方モニターに映ったプレイヤーが名乗った名前だ。
 もし愉快犯でなければ同一人物である可能性はグンとアップする。
 同時にリーファは思い出した。そういえば、兄──キリト──はやたらと高額なアルバイト料をもらう予定だったな、と。
 今にしてみればむしろ納得出来る。むしろ何故そこで何かきな臭いものを感じられなかったのかとあの時の自分の鈍ささえ苛立たしく思う。

「私の知っている情報では、SAOのレッドギルドがこの件に関わっているとの情報はありません。クリスハイトさんの真意を問い質しておく必要があると思います」

「でもよぅユイちゃん。今見てみたがクリスハイトはログインしてねェしリアルの連絡先なんて俺知らねェぞ?」

「エギルさんなら知っている筈です。パパとママの緊急事態だと言えば教えてくれるでしょう」

「お、おお……成る程。んじゃちょっくら行ってくる!」

 クラインは素早くウインドウをタップし、アバターをそこに残したまま落ちた。
 恐らくはすぐに戻ってくることだろう。彼が実行したのは完全なるログアウトではなく一時ログアウトと呼ばれるものだ。
 何らかの用事で一旦VRワールドから離れる時、接続をサスペンド状態のままにしておける機能である。
 これを行うことにより、再ログインの際にはログイン過程のセットアップステージをすっ飛ばしてログインが可能となるのだ。
 もっとも時間が経ちすぎると勝手に接続はカットされるので、長時間の離席には使えない。

「クリスハイトの真意、か。ユイはどう思ってるの?」

 リズベットはユイの言った事を反芻し、尋ねる。
 この場で最も冷静さを保っていると思われる彼女の意見が聞きたかった。
 ここで言う真意とは、クリスハイト──すなわち菊岡誠二郎が死銃とレッドギルド……SAO時代の負の遺産とも呼べる《笑う棺桶(ラフィンコフィン)》との繋がりについて知っていたか、どうかということだ。

「わかりません。ただ……」

「ただ?」

「………………」

「……ユイ?」

 黙ったユイを訝しむと同時に、一瞬ゾワリとした感覚が込み上げる。
 リズベットは反射的にユイの顔を見て、言葉を失った。
 一体どうして、何故彼女が最も冷静だなどと思ったのだろう?
 彼女がAIだから? 彼女が的確に今すべき指示を出したから?

 だとしたら……なんて間抜け。

 今一番冷静じゃないのは……彼女に外ならない。
 《変わってしまった》キリトを思わせる感情を感じさせない能面のような表情。
 なまじ普段から笑顔が絶えない少女なだけに、その違和感は……恐ろしくすらある。
 無理もないのかもしれない。彼女にとってキリトとアスナは親で、大好きな存在で、今危険の渦中にいるのだから。
 ユイの瞳は一切瞬かない。開き続けたままモニターを見据え、じっとしている。
 ユイの見つめるモニターの中では、飛び出した二人のプレイヤーが死銃と名乗ったプレイヤーに対峙している所だった。
 リズベットはその異様な姿のユイにしばし目を奪われる。だからだろう。



「……もし、あの人がそうだと知っていて送り出した、もしくは隠していたのなら……後悔させてやります。……必ず」



 ユイの発した小さな返答は、耳に入らなかった。










 仮想肉体と言えども、脳からの電気信号によって動くことに変わりはない。
 だから昨今のVRゲームにおけるハードウェアは軒並みヘッドセットタイプが多く採用されている。
 脳に干渉する機械ならばその方が都合が良いからだ。
 当初は人間の身体全体をボックスで覆うようなものからの開発だったそうだが、一般向けのナーヴギアの頃にはそれこそフルフェイス程度のヘルメットタイプまで軽量化されたし、ナーヴギアが危険だとされ安全措置をこれでもかという程施したアミュスフィアについてはさらに軽量・コンパクト化を成功させたゴーグルタイプにまでなっている。
 その分野の研究は今もって急ピッチに進み、今が過渡期と言っても差し支えない。そのうち誰もが常に携帯するような形で、簡単に身につけられる物に変わっていくだろうとキリト/和人は睨んでいる。
 その時はAR技術、拡張現実も進歩し、仮想と現実の境が良い意味でも悪い意味でもより曖昧になるはずだ。
 それは同時にいくつかの危険も孕むことにはなるが、和人にとっては望ましい進歩の一つだった。
 何故なら、ユイの干渉できる現実が増えるからだ。ユイを実の娘のように思うキリトにとって、それは願ってもないことだった。
 だが今の技術力は脳への直接干渉に留まっている。つまり、仮想世界においての行動は全てにおいて脳からの指令によって為されると言うことだ。
 一方で人間の《反射》と呼ばれる肉体的行動は、全てが脳からの指令というわけではない物もある。
 人体において緊急を要する際、脳を経由することなく人の身体は動くことがある。主に脊椎反射と呼ばれる事象だ。
 わかりやすい例題を上げるならば、人は熱いものに手を触れた時、即座に離す。
 これは脳が《熱いから危険》だと判断し、命令して動くという従来の動きでは無く、脊椎にある反応中枢を介して脳への伝達・命令を省いて即座に離れさせるというものである。
 咄嗟の反射的行動には多くの場合このケースが当てはまる。そのせいか、VRゲーム世界において無意識的な《反射的行動》は極端に少ない。
 それは安全機構の観点からペイン・アブソーバを介した痛覚などの薄弱化によるものでもあるが、一番の原因はやはりハードとシステムの問題だ。
 中には反射と取れる動きをする者もいるが、それは現実に置ける脊椎反射とは厳密には異なるものであり、その電気信号的スピードは現実とは比べるべくも無い……はずなのだ。
 しかしそうとは思えぬスピードを捻り出す者は皆無ではない。

 例えば、今のキリトやアスナのように。

 二人が飛び出したのは殆ど同時だった。二人に気付いたぼろマント、もとい死銃が向き直った時、互いに死銃の正面に立たぬよう左右に分かれて飛び跳ねる。
 死銃は構わず的を一人に絞ってきた。相手は……黒衣の少女、ではなく少年の……キリトだった。
 アスナは迷うことなく腰のホルスターからハンドガンを引き抜いてトリガーを引き絞った。
 オートマッチックとは言え連射には程遠い銃声が響き渡る。だが死銃の狙いは尚もキリトのままのようで、アスナのハンドガンをのらりくらりとは避けるものの、その存在に意識を向ける様子は無い。
 それが益々アスナを焦らせた。記憶の片隅をチクチクと突くような既視感。

(前にも、前にもこんなことがあったはず……!)

 必死に彼、キリトに追いすがろうとする凶刃。彼には届かなかったものの、酷く恐怖を感じた何か。
 記憶の中にあるそれがアスナの中で不安となって膨れあがっていく。
 先ほど見た光景がそれをさらに助長させていた。死銃による銃撃での、実際の死。
 疑う余地は無かった。先のプレイヤー、ペイルライダーは間違いなく死銃に《殺された》のだとアスナは直感した。
 そしてそれはキリトも同じだろう。だから二人は飛び出したのだ。
 これ以上犠牲者を増やすわけにはいかない、と。

「餌に、かかったな。それも、まさか、二人、とは」

 だがそれはむしろ相手の思うつぼだったらしい。
 ぼろぼろのフードの奥で、アバターを通したプレイヤーそのものが嗤ったような気がした。
 アスナの記憶の中で、再びシュウ、シュウとした擦過音がよぎる。

「まんまと乗せられたわけか」

「やはり、お前、キリト、だな」

「さあね」

「もう、隠しても、無駄だ。仮に、違った、としても、お前は、殺す…………っ!?」

 一際大きな銃声。
 それまで余裕を崩さなかった死銃が、初めて少しの焦りを見せた。
 理由は明白。遠距離からの狙撃に僅かに驚いたのだ。
 忘れていたわけではないのだろうが、目の前に二人いて狙撃まで気にしていては、流石に分が悪かったのだろう。
 先の回避よりも些かぎこちない避け方だった。それほどまでにシノンの援護射撃は今の死銃にとって厄介だったのだ。



 ──────それがいけなかった。



「……邪魔、だな」

「!?」

 死銃がそう呟くのと同時に、死銃のアバターはみるみる消えていった。
 突然の事にキリトとアスナは混乱する。テレポートの類は無いはずなので、完全に虚を突かれてしまった。
 お互いに視線を巡らせ、僅かな異変さえ見落とさないよう感覚を研ぎ澄ませる。
 右を見つつ左も意識し息を呑む。腰を低く落として全ての異変を取りこぼさぬよう鋭敏化させた神経を集中させて次なるアクションに備えた。

 一秒。

 五秒。

 十秒が過ぎた所でゴクリとキリトが息を呑んだ。
 その時だ。再びシノンがいる方から銃声が上がった。
 そこで悟る。どうやったのかはわからないが、死銃は透明化か何かする術を持っており、それを使用してキリトとアスナの二人をやり過ごし一番厄介だと感じたシノンの方に向かったのだと。
 次いで爆音。二人は一目散にシノンの居る方へと駆けだした。





 シノンはスコープ越しに見ていた死銃に軽く舌打ちする。
 今のは惜しかったと思う。完全に油断していた筈だ。こちらに意識を割いてもいなかった。
 それでも避けられたのはやはり弾道予測線(バレットライン)が見えているせいだろう。
 とはいえ今のを完全に避けられたことには驚かされた。
 しかしいつまでもミスショットに気を取られてはいられない。シノンは思考を切り替えてこれからどうするかスコープ越し死銃を睨みながら考える。
 と、一瞬スコープの中の死銃と目が合った、気がした。背筋に言いようのないヒヤリとした感覚が奔る。
 その時だった。スコープの中の死銃が消えた。思わず「えっ」と声を上げて高速移動によるターゲットロストを疑ったが、キリトとアスナの様子もおかしい。
 どうやら本当に消えたようだ。そんな馬鹿なと思いつつも頭の片隅に一つの可能性が浮かび、次の瞬間視界の隅に映ったものでそれはほぼ確信に変わった。

「まさか……メタマテリアル光歪曲迷彩(オプチカル・カモ)!?」

 一瞬目端の景色が揺らいだ。多分、ヤツはそこにいる。
 こちらに向かってきている。信じられない事だが、死銃なるプレイヤーはこれまで一部の超高レベルネームドMob(ボスモンスター)のみのアビリティだと思われていたメタマテリアル光歪曲迷彩(オプチカル・カモ)を可能とするアイテムか何かを持っているらしい。
 メタマテリアル光歪曲迷彩(オプチカル・カモ)は早い話が光を歪曲させて透明化するアビリティだ。
 素早過ぎる動きには時折揺らぎのようなものが見えるが、じっとしていれば他のプレイヤーにメタマテリアル光歪曲迷彩(オプチカル・カモ)を見破る術は今のところほぼ無いと言っていい。
 シノンは一瞬迷い、しかし決断したかのようにプラズマ・グレネードを腰のポーチから取り出した。
 相手が何処にいるのか分からなければ範囲攻撃であぶり出す。万が一にもクリティカルすれば御の字だ。
 そのつもりで構えたグレネードだが、次の瞬間には腕に奔る衝撃でグレネードを落としてしまった。

(撃たれた!?)

 すぐに現状を理解し、シノンは我を忘れたように一歩を踏み出すと頭を抱えて大きく跳んだ。
 その刹那に、爆発。シノンの落としたグレネードが作動し、シノンは背中に爆風を受けその衝撃でごろごろと地面を転がった。
 いくら仮想世界と言えど2Dのゲームと違ってリアルさを追求しているVRワールドは仮初の三半規管のようなものも存在する。
 ありていに言えば眩暈などの症状を起こし、平衡感覚を失うのだ。
 爆風にさらされ地面を転がればそれも無理もないことと言える。現実なら生きていたとしてもすぐに動けない程の怪我を負っていてもおかしくはないのだ。
 さすがにHPという点においてのダメージは最小限に留めたが、それでも眩暈等のバッドステータスとも取れる状態異常は避けられなかった。
 シノンが眩暈によって揺れる視界に頭を小さく振りながら起き上がった時、すでに煙の切れ目から《ソイツ》は見えていた。

「あ……」

 突きつけられる銃。
 それだけならこれまでにも幾度となくあったことだ。何度も経験し、その度に窮地を切り抜けても来た。

 だが。

「シノン、だな。お前も、殺す。いや、お前は、殺す。《朝田、詩乃》」

「ッッッッ!?」

 名前を呼ばれる。《リアルネーム》を。
 シノン/詩乃の目の前には死銃と名乗るアバター。
 それだけならば、まだシノンは戦えた。戦う意志力を失わずにいられた。

 だが。

 突きつけられる《黒い銃》。
 それには縦に滑り止めのセレーションが刻まれた全金属製のグリップとその中央に存在する小さな刻印があった。
 円の中に星。黒い星。
 それが今、詩乃の《シノン》を動けなくしていた。

 一九三三年、ソビエト陸軍が《トカレフ・TT33》という拳銃を正式採用した。
 やがてその銃を中国がコピー生産し《五四式・黒星(ヘイシン)》と称した。
 三十口径、つまり七・六二ミリ径の鋼芯弾を使用し、後発のハンドガンの主流である九ミリ径よりも小口径だが火薬量は多く、銃弾の初速は音速を超え拳銃の中でも最大級の貫通力を有する。
 故に反動は大きく、その後は小型化された九ミリ弾使用の《マカロフ》が正式採用となった経緯があった。
 その《五四式・黒星(ヘイシン)》が、今詩乃の目の前に突き付けられている。
 詩乃を一日して《人殺し》へと変えた《五四式・黒星(ヘイシン)》が。

 あの日、強盗が持っていた銃は、《五四式・黒星(ヘイシン)》だった。
 いつか、この銃を持つ敵と出会い、それを平然と倒すことでシノンは最終的に自分のトラウマを完全に乗り越えられると思っていた。
 乗り越えなくてはダメだと思っていた。
 しかし、

「う、あ、ああ……っ!」

 現実は仮想世界と言えど時として残酷だ。
 詩乃は力と言う力が一切入らなくなってしまった。
 腰が抜けたように動けなくなり、喉奥が仮初の酸素を無制限に取り込んでいる。
 現実なら過呼吸となっていてもおかしくない程だ。
 詩乃の脳裏には急速にあの時の事が蘇えってくる。幼き日のあの日のことが。
 やがてフラッシュバックのように視界をちらつく強盗と、目の前の死銃の姿が重なり始める。
 強盗の、死銃のその目が、アバターを通してプレイヤーの中の詩乃自身を見ていると彼女が思った時、彼女の中で何かが弾けた。
 無制限に溜まっていた胸の裡の泥が、決壊する。



「いやああああああああああっ!!!」



 あの幼き日にも上げなかった少女の……慟哭。
 かちっ、とハンマーが起こされる音は、彼女の耳に届かない。



[35052] GGO10
Name: YY◆90a32a80 ID:b9264a49
Date: 2013/04/23 19:43


 シノンのつんざくような悲鳴が、聴覚システムを刺激する。
 二人との距離は目と鼻の先ではあるが、このままでは間に合わない。死銃の持つ黒い自動拳銃のハンマーコックが既に起きあがっているのはアスナの目から見ても明らかだった。
 一瞬、僅かに死銃がこちらに視線を送る。いや、アスナにではない。

 キリトだ。

 死銃は間違いなくキリトに一瞬だけ視線を送った。
 その意味は、挑発と嘲り。
 お前には誰も守れないと、そう言うかのような微かな嗤い。
 このままでは間に合わない。どうやってシステムの裏を、もしくは超常的な能力を行使しているのかは未だ定かではないが、死銃には《実際に現実の人間を殺す力》があるのは最早疑いようはないのだ。
 このままではシノンは撃たれ、リアルにおいて自宅で横になり、アミュスフィアを装着してGGOにダイブしている高校生という未だ少女の域を出ていない朝田詩乃はその短い生涯を強制終了させられる。

 その時だった。

 アスナの手がギュッと握られる。その意味を、アスナは瞬時に理解した。
 データ上でしかない手の感触と温もり。しかしそれは確かな感覚となって掌に伝わっていく。
 否。今日このGGOにダイブしたその時から、ずっとこの温もりは片手に残り続けている。
 優しく暖かい温もり。何よりも安心できる柔らかな感触。決して手放したくないと思える大切な物。
 二度と失ってはならない、確かな質量を持ったそれが、ギュッと力強く握られる。
 途端キリトは大きく片足を踏み込ませた。ズンッと地面をやや揺るがすような踏み込み。
 それではスピードを殺してしまうのは必至。一秒でも早く前に進みたいキリトにはまさに悪手とも言えるべき一手。
 しかしキリトの目的は《自身の到達》ではなかった。

「う、お、らぁぁぁぁぁぁっ!」

 裂帛の気合いを込めた叫びを喉の奥から震わせ、握ったアスナの腕を力一杯に振り抜く。
 アスナはその力の動きに合わせて自身も地面を蹴り、引かれるまま力の流れに身を任せた。
 ビュン! と勢いよく水平にアスナが跳ぶ。いや飛ぶ。
 キリトは間に合わないと知るや否や強攻策に出た。すなわち《人間大砲》である。

「!」

 死銃に驚愕が生まれるのと、アスナ渾身の空中右ストレートが死銃の鳩尾に食い込んだのは殆ど同時だった。
 死銃は若干苦しそうな声を上げてたたらを踏む。実際の痛みはペイン・アブソーバによって何倍にも薄められ内蔵へのダメージはおろか呼吸困難にあえぐことも仮想アバター故にない。
 だが、それに準ずる負荷ダメージ効果というものは確かに存在する。
 例えばショットガンなどの強力な銃撃によるディレイなどはこれの代表例にあたる。
 たかがパンチといえど、ダメージをもらった方に全くの無反動ということはない。
 と、同時にシステムが脳を介している、というのも理由の一つに上げられる。
 人間の脳は本能によって危機回避能力を有している。それは度重なる経験の蓄積による一種のパブロフの犬状態と言っても良い。
 例えば、誰かに殴られそうになると人は無意識に殴られそうな場所に力を込めるし、威力を減殺するために防御の姿勢を取る。
 同時に、その威力を理解していればいるほど錯覚も起こりやすい。強い攻撃が当たる時、それが強い攻撃だとわかっていれば《当たっていなくとも》痛み感じたり「痛い」と口走ることがある。
 何かにぶつかったとき、たいして痛くもないのに「痛い」と言ってしまう人は多い。これはぶつかったことによって痛覚的ダメージが起こるという経験を脳がしているからに外ならない。
 それは決しておかしなことではなく、一種の防衛本能の一つとも取れる。より早く状況を理解し命令を下すことで人体への的確な処置を体内で行えるのだ。
 人間は痛覚やストレスを感じると脳内麻薬(エンドルフィン)を分泌し自らの鎮痛、鎮静を図る機能がある。
 この時の鎮痛作用は通常のモルヒネの約六・五倍もの効果があるとされる。この処置が早ければ早いほど、人は痛覚などのストレスから短い時間で解放される。
 その命令を下すのが脳であり、ナーヴギアやアミュスフィアは脳に干渉し、また命令系統を脳に一任している以上例え仮想世界と言えど脳の経験則による錯覚は免れない。
 死銃を襲ったHP損失ダメージや直接的な負荷ダメージ効果の程はさほど大きくない。
 しかし、彼も生身の人間の分身であり、脳を介してこのGGOにログインしている以上、いかな超常の力を行使できる特殊な存在だとしても《人間の持つキャパシティの壁》は越えられない。

「く……! 相変わらず、STR値は、馬鹿高い、ようだな。出鱈目な、ヤツだ」

「だったらどうした」

「ク、クク。いや、お前は、やはり、本物、だ……!」

「っ!」

 ゾクリ、とキリトの背中に悪寒が奔る。
 圧倒的な悪意。殺意と言い換えても良い。何度か味わったことのあるそれに猛烈な吐き気を催す。
 しかし仮想世界ではどれだけ気持ち悪くなろうと実際に吐くことはない。吐くことはないが、せり上がる気持ちの悪さが消えることもない。
 死銃のフードに隠れたゴーグル部分の奥で、紅い光が輝く。
 その真紅の輝きに、記憶がチリチリと焦がされるような錯覚を覚えながらキリトはシノンに駆け寄ったアスナの様子をちらりと窺った。

「シノのん? 大丈夫シノのん!?」

 アスナが呼びかけ、肩に手をかけるが、シノンはガタガタと震えて虚ろな目をしていた。
 自身の経験からあれは精神的に相当揺さぶられたのだとキリトは直感する。
 SAO──ソードアート・オンライン──からプレイヤーが解放された後も、ALO──アルヴヘイム・オンライン──に軟禁され、延々と精神を嬲られ続けたキリトだからこそ、その辛さと危険さは早々に理解出来た。

「何をした?」

「クク、ク。俺は、何も、していない。そいつが、勝手に、そうなった、だけだ。だが……!」

「っ!?」

 死銃はキラリとしたロッドのような何かを取り出した。
 瞬間、素早い刺突が突如としてキリトを襲う。あと一瞬回避が遅れていればその切っ先はキリトの女顔アバターの腹部を貫き猛烈にHPゲージを散らしていたことだろう。
 一度アスナの持つ《銃剣》を見ていたからこそ、《それ》が《剣》だと勘が働き出来た反応。
 初見だったなら貫かれていたのは間違いない。

「よく、避けたな」

「もっと疾い剣を何度も見ているんでね」

「そう、か。しかし、他の事に、気を取られたまま、勝てるほど、俺は、甘くない……!」

 死銃の、初めてと言っても良いほど感情を内包した声と共にその連撃は激しくなる。
 素早い連続の突き。中央を突く刺突から横薙ぎに振るい、上段から左斜め下へ袈裟切り。
 返す刀で再び銃剣は空に軌跡を描き、退いたキリトの隙を逃さぬよう再び力強い正面からの刺突が浴びせられる。
 キリトはその全てを紙一重でかわした。キリトの持つ光剣《カゲミツ》では鍔迫り合いなど出来ないことは既に予選決勝にてアスナ相手に経験済みだからである。

「っ! くそ!」

 苛立った声を上げながらジリジリとキリトは後退させられていった。
 このままでは為す術がない。しかも、さらに状況は最悪となっていく。
 トン、とキリトの背中には硬い感触があった。たらり、と流れない筈の汗が背中を伝う錯覚。
 田園エリアの民家か何かの建物にキリトは背中を預けていた。いや預けさせられていた。
 ここに来て自分が追い込まれていた事に気付かされる。先までの攻防はここに、この逃げ場の無い場所へ誘き出す為の布石だったのだと。

「……く」

「終わり、だ……!」

 死銃の被る暗いフードの奥でゴーグル越しに紅い輝きが灯る。
 同時に、ジェットエンジンのような金属質のサウンドを伴って死銃はキリト目掛けて渾身の突き攻撃をお見舞いした。
 その攻撃力の程はキリトが誰よりもわかっている。かつて何度も使用し、助けられた愛用の技の一つ、片手剣用ソードスキル《ヴォーパルストライク》。
 だが、だからこそキリトにはその軌跡が読めた。

「くぅぅっ!」

 キリトは剣先をギリギリまで引き寄せてから無理矢理に上体を反らした。
 ちりちりと何かを焦がすようなライトエフェクトが胸の上で踊る。
 死銃の放った強力な突き技は上体を反らしたキリトの胸部ギリギリを通過して壁に激突した。
 死銃の《ヴォーパルストライク》を受けた壁はその耐久値を散らしたらしく、ボロボロと崩れていく。

「チィ……ッ!」

 死銃の舌打ちする声が聞こえるが、キリトはそのまま転がるように壊れた建物内に後退して……《それ》に気付いた。
 ブルルルル、と鼻息を荒くしてそこに屹立している四本足の獣。
 馬、である。今のキリトに迷っている暇は無かった。

「よっ!」

「!」

 キリトが勢いよく馬に跨ると、途端に馬は暴れ出した。
 SAOでもそうだったが、総じて仮想世界の乗り物は動物、機械に限らず扱いが難しい。
 それなりの練習と騎乗スキルといったものをある程度習熟させなければ乗りこなすことは不可能と言っても良かった。
 だが、今はそんなことは言っていられない。
 暴れる馬に無理矢理前進の命を与えるべく両足で挟むようにして腹部を蹴る。
 馬は荒い鼻息を吐き「ヒヒン!」と鳴くのと同時に暴れながら前進し始めた。
 今度は死銃が踏みつぶされないよう転がるように避ける。
 キリトはそのまま無理矢理手綱を握りながらやや離れているアスナの元へ向かった。
 幸い馬は思った方に進んでくれる。過去、キリトはSAOで乗馬の経験があった。あの時も乗馬できていると言うにはお粗末なものだったが何とか用を果たすことが出来た。
 その時の経験が生きているのだろう。昔取った杵柄とは良く言ったものだ。

「アスナ! 掴まれ!」

 キリトはアスナへと手を伸ばし、がっちりと彼女を掴む。
 アスナはシノンを抱き抱えたままキリトに引かれるように持ち上げられ、馬の背に乗った。

「頼むぞ!」

 キリトが一際強く馬の腹部を蹴ると馬の暴走はより酷くなり、振り落とされそうになる。
 アスナはシノンを掴む腕に力を込めつつ、ギュッとキリトの腰に抱き着いた。
 馬の速度は暴れる強さに比例して上がっていく。振り切れるか……そう思った時だった。

「……ロボットホース……!」

 シノンの怯えるような声が二人の耳に届く。アスナがちらりと後ろを見やれば、そこには金属のフレームとギア類を剥き出しにした機械の馬に跨り追いかけてくる死神……死銃の姿があった。
 その姿を見た途端、シノンがガタガタと震えだす。

「逃げて……もっと速く!」

 シノンの泣きそうな声が届く。だが声を発しているシノンですら自分が無茶なことを言っていることには気付いていた。
 ロボットホースの速度は早い。生きた馬は重量に応じてスピードが比例するのに対し、ロボットホースは二人までと搭乗人数が限られている代わりにその速度はお墨付きだ。
 だがそのロボットホースは扱いが難しいことで有名で、まともに乗れる者のことなどこれまで聞いたことが無かった。
 しかし驚くべきことに死銃はロボットホースを乗りこなしているように見える。加えて乗馬しているのは死銃ただ一人。
 重量や速度から言っても追いつかれるのは時間の問題だった。そんなことは、GGO──ガンゲイル・オンライン──の古株であるシノンが一番よく理解していた。
 それでもシノンはあの恐怖の塊から逃げたかった。過去の《罪》が実体ある形となって自分の前に現れ、今か今かと手ぐすね引いているかのような錯覚。
 今度額を撃ち抜かれるのは自分だ、という強迫観念に苛まれ忍び寄る死銃の姿を視界に入れたくなかった。
 シノンが恐怖から目を閉じたその時、

 ──銃声。

 シノンの体がビクンと反応し、つい目を開いてしまう。それを見てしまう。
 あの銃を、《黒星(ヘイシン)》を構える死銃の姿を。その姿が、脳内でかつて見た強盗の姿と重なっていく。

「いやぁぁぁぁぁぁああああああああああっ!!!」

 シノンは声を荒げて叫び、暴れだす。
 必死に抱えているアスナはシノンを取り落とさないようにするので必死だった。
 そのアスナを見て、キリトが告げる。

「アスナ、シノンを連れて何処か安全なところまで逃げてくれ。今のシノンは、多分あの時の俺と同じなんだ」

「キリト君!?」

 突然のキリトの提案にアスナは目を見開いた。
 彼はこの状況下において、危険人物である死銃とたった一人で相対するつもりなのだ。
 とうてい看過できることではなかった。

「このままじゃ手の打ちようがない。せめて、シノンを安全な場所へ!」

「でも、それじゃ……!」

「大丈夫だ、アスナ。俺を信じてくれ」

「キリト君……」

「俺はもう、簡単に諦めたりしない。俺の命は俺一人のものじゃない。わかってる」

 キリトの瞳に、力強いものを感じる。漆黒の、黒曜石のような瞳は現実の彼を思わせる。
 彼の揺らぎの無い真っ直ぐな目を見て、アスナはやむなく頷いた。

「絶対だよ。シノのんを安全な場所へ連れて行ったらすぐに戻ってくるから!」

「ああ、頼む。さっきはああ言ったけど一人であいつと戦うのはすっげー怖いんだ」

 キリトはニカッと口端に笑みをのせる。なんとなく、いつもの彼がそこにいるようで不思議とアスナは安心できてしまった。
 今の彼なら大丈夫。なんとなくだが、そう思えてしまう。

「いいか? 俺がタイミングを見計らってシノンごとアスナを《投げる》。着地はそっちに任せることになるけど」

「大丈夫、君のパートナーならそれくらい朝飯前だよ」

「アスナの作る朝飯なら、十分豪華なご馳走だからなあ」

「も、もう……!」

 こんな時に何を言っているのだろうかこの人は。
 本当に切羽詰っているのか。進退窮まっているのか。
 何も知らない人が見たらそう思うだろう。事実、シノンは横目で睨んでさえいた。
 こんな時に何をイチャついているんだ、と。真面目に逃げてほしいと願い、体の芯から恐怖が迫り上がって来てさえいた。
 だが、アスナにはわかっていた。彼が、本当は誰よりも……《臆病》な人間であることを。
 軽口を言えるのが、余裕があるからとは限らない。そこには、イコールでは決して結び付けられない複雑なものがあるのだ。
 だから、アスナは離れるその瞬間までキリトに全身全霊でしがみつく。
 彼の体温を忘れないように。彼が自分を忘れないように。

「いいか……? 行くぞ!」

「うん!」

 アスナはシノンを掴む手により一層力を込めた。万が一にも離れてしまうわけにはいかない。
 最悪着地はミスしたっていいのだ。死ななければ、HPを全損しなければそれでいい。
 アスナは辺りを見回す。既にフィールドは田園エリアから西側、都市廃墟エリアの入口付近に入っていた。
 この先ではどのみち、馬では満足な高機動を期待出来ない。

「サン、ニィ、イチ……今!」

 キリトがぶんっ! と力強くアスナごとシノンを放り投げた。
 一体彼のSTR値はどうなっているのか、易々と二人を弾丸のように宙へと送りだし、近場のビルの割れた窓の奥に見事避難させた。
 それを見送った死銃はしかし、手綱を持つ手を緩めない。
 今からでは建物の中に行くのには時間がかかる。即座に建物の中に逃がされた時点で追い打ちは事実上難しかった。
 死銃にしてみればまたしてもキリトの奇行にしてやられた形ではあるが、そのキリト自身はまだ死銃の目の前にいる。

 いや。



「!?」



 目の前は目の前でも、先までのようにカーチェイスならぬホースチェイスの配置ではなかった。
 キリトはあろうことか、死銃に突進していた。
 しかも今にも振り落とされそうになりながら。どうやら片手で何か……ウインドウを操作しているようだった。

「クク、ク……! そうこなくては、な。お前と戦う、意味が、無い……!」

 死銃から喜びさえ感じられるような声が漏れる。
 キリトは後方宙返りの要領で馬から飛び降り、暴れ馬を死銃へと突進させた。
 死銃は器用にロボットホースの背中に立ち上がると、制御を離れたロボットホースが暴れ出す前にキリトに飛びかかる。
 その手には既に銃剣が装備されていた。だが、キリトはその少女のような顔をニヤリと歪ませる。

「!? なんだ、それは……!?」

 キィン、と高い金属音が鳴り響く。
 これまでは逃げ、避けるだけだったキリトは、初めて応戦した。
 死銃の《銃剣》を受け止めるように、キリトはあるものを装備していた。
 それは、赤と黒の二色によって色分けされたL字の……《名状しがたい何か》だった。
 ところどころポリゴンがドット抜けしているように見えなくもない雑なエフェクト。
 それはまるでモザイクがかかっているようにも見える。
 あえて形を何かで形容するなら《バールのようなもの》というべきか。

「文句ならアスナに言ってくれ。本戦開始前にありあわせの材料で《銃剣作成》してもらったら出来たのがこれだったんだ」

「ふざけて、いるのか……!」

「確かにこれ耐久値低いんだ。お前の強そうな細剣(フェンサー)とじゃそう何度もぶつかり合えそうにない」

 話しながらグググ、とキリトが死銃を押し返す。かねてから見るとおり、キリトのSTR値は異常だった。力だけなら、恐らくGGO内でも五本の指に入るに違いない。
 死銃は舌打ちをしながら後ろに飛び、一旦距離を取った。銃で撃つには近すぎて、剣で打ち合うには遠い微妙な距離。
 だがあんな《バールのようなもの》に自身が後退させられたことが死銃には許せなかった。
 苛立ちから死銃が再び間合いに踏み込もうとした時、キリトは胸元から一本の銀光を放つ。
 そこまでのスピードではないそれを、死銃は《銃剣》で打ち払った。キリトが放った物、それは……、

「……フォーク? 一体、こんなもの、どこで……」

「さっき拾った」

「……殺して、やる!」

「言っただろ、この《バールのようなもの》じゃお前の武器とは長く戦えない。だから……時間稼ぎさせてもらうぜ!」

 まるでおちょくるかのような態度のキリトに怒り狂った死銃が襲い掛かってくる。
 それこそがキリトの策略。冷静になられて、アスナの方へと向かわれたら作戦はパアだ。
 キリトは心の中でアスナの名を呼ぶ。

(早く戻ってきてくれ、アスナ。それまで俺、頑張るから!)

 言った通り、決してもう簡単には諦めない。
 だから今は出来る限り時間稼ぎをしようと、キリトは《名状しがたいバールのようなもの》を片手に奮闘する。
 戦力的に不利なのは変わらない。長くは持たないだろうことも想像がついた。死銃がちょっと冷静になれば、勝敗はあっという間に着きかねない。
 手は恐怖で震えているし、足は逃げたがってもいる。だが、ここで逃げればアスナが危ない。
 これが本当に普通のゲームで、ただの試合なら心の底から楽しめただろう。
 だが相手は実際に人を殺した殺人鬼で、どんな方法かもわからないやり方で生身の相手プレイヤー殺す術を持っているのだ。
 ある意味ではSAOよりもハード。条件は五分ではない。相手は例え負けても死ぬリスクはなく、こちらは負ければ現実からも永久ログアウトさせられる。
 逃げたい。だが逃げるわけにはいかない。《諦めない》というアスナとの約束を違えるわけにもいかない。
 キリトにとって、辛い戦いが始まっていた。





 ALO──アルヴヘイム・オンライン──にある空中都市《イグドラシル・シティ》。かつてはその存在が流布されるだけで実在しない場所だったのだが、現在ではALOの主要都市の一つとも言える街。
 その街の複雑な路地を越えた先にあるバー。誰かから招待されなければ迷いに迷ってたどり着けそうにないようなその場所に呼び出された菊岡誠二郎がたどり着いた時、彼を最初に歓迎したのはユイの張り手だった。
 痛みはない。ダメージも無い。そもそも圏内では圏内防止コードによって勝手にHPが減ることなどそうありえない。
 だがナビゲーション・ピクシーだからこそ、《攻撃》とみなされないそれに圏内防止コードは発動せず、攻撃力の無い張り手は菊岡誠二郎/クリスハイトの頬を小さく打つに至った。

「えっと……?」

 水妖精族(ウンディーネ)の魔法使いであるクリスハイトは、マリンブルーの長髪を飾り気のない片分けにし、ひょろりとした長身を簡素なローブで包んでいた。
 突然の《歓待》に銀縁の眼鏡をかけた毒気の無い細面は困ったような表情、フェイスエフェクトを表した。
 クリスハイトからしてみればまさに寝耳に水。リアルで急に呼び出され、来てみたら痛く無いとは言え張り手をされる。
 考えようによっては酷いイタズラとも取れるそれに説明を求めるべく視線を彷徨わせるが、どうやらこの場に彼の味方はいないらしい。
 皆一様にして睨むようにクリスハイトを見つめている。思わずタジタジになってしまうのは仕方の無いことと言えよう。
 しかしこのままただ睨まれているだけでは話が進まない。とりあえずクリスハイトは確認したいことから尋ね始めた。

「ク、クライン氏。君が僕を呼んだんだよね? どうにかしてリアルの情報まで特定して」

「それについては少しだけすまねぇとも思ってる。でもよぉクリスハイト、そうまでして聞かなきゃいけない用事がこっちにはあるんだ」

「聞かなければいけない用事? 何だかよくわからないけど僕に言えることなら教えよう。ただその前に僕のリアルをどうやって知ったのか教えてくれないかな。こればっかりはきちんと知っておかないと。僕だって仮想世界住人としての日は浅いけどリアルにまで干渉するのが本来タブーだっていう常識くらい知っているよ」

 クリスハイトの言葉に、睨むようにしていた視線が少し和らぎ始める。それは事実だ。
 例えどんな事態であろうと仮想世界で知り合っただけの間柄の相手のリアルを侵すことは究極のマナー違反に等しい。
 その質問に答えたのはユイだった。

「私が教えました」

 ユイはクリスハイトの前で浮遊しながら腰に手を当てて未だにクリスハイトを睨んでいる。
 クリスハイトは困り顔のまま尋ねた。

「どういうことだい? 君は確かキリト君のプライベートピクシーだったよね」

「ああそうだ。今はワケあって俺が預かってる。そのワケってのはアンタが一番詳しいよな?」

「ふむ」

 クラインが続くように答えた内容から、少しだけ得心がいったような声をクリスハイトは出した。
 どうやらここにいる人物は全てキリトとアスナがGGOへと赴き死銃の調査をしていることを既に知っている。
 確かに危険を伴う行為ではある。それについての糾弾、というところだろうとクリスハイトは当たりを付けた。
 だがそれでも一つだけ釈然としないものがある。

「そうか、キリト君やアスナ君といつも一緒にいるこの子なら僕のリアルの事や彼らへの依頼を知っていてもおかしくない。でも連絡先までは……」

「エギルって知り合いに聞いたのよ。緊急事態だったものだから」

「エギル……ああ、なるほど」

 クリスハイトはリズベットが挟んだ言葉に頷く。その名前は聞き覚えがあるものだった。
 比較的SAO被害者は若年層が多いが、その中では少しだけ若年から離れた年代のプレイヤーであり、キリトも信頼している人物だ。
 確か東京の下町にある店を経営していたはず、とクリスハイトは記憶を掘り起こした。

「アンタ何だってキリト達にこんな依頼を出したんだ」

「こんな、とは?」

「殺人事件が絡む、血生臭い事件にってことだよ」

「待ってくれ。殺人事件ではない……それが僕とキリト君の共通認識だ。だってそうだろう? どうやってゲームの中からリアルの人間を殺すんだい?」

「それは……」

「僕とキリト君もその件についてはしばらく議論を交わしたよ。結論はゲームの中から殺人は出来ないということだ。だから殺人事件ではないとしたところでこの件の調査依頼をしたんだ。SAOやALOのこともあって仮想世界については国でも結構危ういバランスの元で稼働しているからね、こういった事件は殺人などとは無関係だ、ということを証明しておく事で仮想世界肯定へのポイント稼ぎをしているわけさ」

 クリスハイトの説明はわからないわけでもなかった。
 確かに未だに仮想世界へダイブすることの危険性を唱える人は少なくない。
 SAO事件やALO事件ではそれを加速度的に大きくもしたはずだ。
 クリスハイトとしてはむしろ、日本情勢がそのままそちらに引きずられないよう全てのVR世界プレイヤーの味方として動いているのだ。
 自分たちが好きな世界を護ろうとして働いている人物。それがわかるだけにさらにリズベット達の口は重くなる。
 ましてやクリスハイト/菊岡誠二郎はSAO事件対策本部というSAO被害者の為に奔走した人物の一人なのだ。
 今自分たちSAO被害者がこうして無事なのは菊岡誠二郎を含めた彼らの頑張りがあったからと言ってもいい。
 そう思うと益々口が重くなっていく。まるで糾弾するかのような言葉を言えなくなっていく。

 だが。

「それでも、何か気になったから調査をパパに頼んだんですよね」

 小さいナビゲーション・ピクシーことユイはその攻撃ならぬ口撃を止めなかった。
 未だにユイからは敵意が混じった視線を向けられ、戸惑いながらもクリスハイトは頷く。
 あまりに出来過ぎている、とは思っている。だからこそ調査が必要だ、とも。
 しかし先にも話したように仮想世界内部でリアルの人間を殺すのは不可能だ。それは絶対のはず。
 それが絶対でなければ今すぐ世界中で稼働しているNERDLES──直接神経結合環境システム(NERve Direct Linkage Environment System)──はストップさせなければならない。
 念のための安全措置としてダイブ中の人体の状況も逐一チェックし、二人の傍には人も付けてもいるとクリスハイトは説明する。

 だが。

「もし死銃が人殺しだと既にわかっていたらどうします?」

 続くユイの言葉に、初めてクリスハイトは言葉を飲み込んだ。
 何を言っているのかわからない、という表情だ。
 その顔を見て、今度はクラインが説明を続ける。

「死銃、つったっけか? ありゃあ《笑う棺桶(ラフィン・コフィン)》っつうSAOでの人殺し集団、通称《レッドギルド》の生き残りに間違いねぇ」

「な……!? それは本当かい!?」

 ここに来て、初めてクリスハイトは驚愕する。
 その名前は職務上理解していた。SAOでの非情集団。
 今もSAO被害者を集めた学校で週一回程度のカウンセリングが行われ続けているのはそのギルドが存在していた事も原因の一つに上げられるほどなのだ。
 それが事実なら、理由は不明にしろ《殺人》という可能性はグンと飛躍する。

「クリスハイトさんの方で、死銃のプレイヤー情報の引き渡しとか命令出来ないんですか?」

 シリカが思いついたように口を挟んだ。
 それが可能なら事件は解決したも同然、なのだが。

「それが出来ないから今回調査をキリト君に頼んだんだよ」

「出来ないって……どうしてですか? 政府が協力を求めれば……」

「僕の手がどれだけ長くても、海の向こうまでは流石に届かないんだ。GGOの運営は《ザスカー》って言う外国の企業なんだよ」

「じゃ、じゃあSAOのプレイヤーデータは!? 確か残ってるって聞いた事があるわ!」

「確かに残ってはいるよ。でも残っていたのはプレイヤーの本名とプレイヤーネーム、最終レベルだけなんだ。所属ギルドや殺人回数などはわからないからどれが死銃氏なのかは……」

「そんなもの、手当たり次第に当たってアミュスフィアのデータ内部を調べていけば……!」

「ちょ、ちょっと待ってくれ! そこまで行ったら裁判所の令状が必要になるし時間もかかり過ぎる! 第一僕一人の判断では決められないよ! 死銃氏がSAOで使っていたプレイヤーネームはわからないのかい? クライン氏」

「多分、あいつらはそれを知る為に今回GGOにいるんだろうぜ」

 クラインが顎をしゃくった先のモニターでは丁度ホースチェイスが繰り広げられている所だった。
 死銃の正体がそうだとわかると、先程までとは違ってそのボロマントを羽織った姿が死神のそれに見えてさえ来る。
 死銃の一挙一動が恐い。一体何をどうすれば殺されてしまうのかなど想像もつかないのだから。
 モニター越しに見ているクライン達ですらそうなのだ。現在当事者となっているキリト達の恐怖は比べるべくもないだろう。
 せめて、相手の手の内が分かれば……そう誰もが思っていた時だ。

「クリスハイトさん」

「な、なんだい?」

「パパ達の身体は安全な所にあるんですよね?」

「あ、ああ。傍にはちゃんと人もいる。間違いなく信頼の置ける人間だ。そこは信じてくれていいよ」

「そうですか……」

 ユイはここで初めて安心したようにその表情を弛ませた。
 一番心配していた筈のユイがここで安堵するのは意外なことだった。
 まだ死銃がキリト達に追いすがっている以上、安全とは言い切れない筈なのだ。

「だが、本当に君たちの言うとおり死銃氏がオレンジ、いや《レッドプレイヤー》なら残念なことにまだ安心は出来ないかも……」

「大丈夫ですよ」

「な、何故そう言い切れるんだい? まだどうやって仮想空間から人を殺したかもわからないのに」

「その答えならもう出ています」

「!?」

 ユイの発言に全員の視線がユイに集中する。
 まさか、死銃の行う殺人の絡繰りがわかったというのだろうか。

「本当かい!? ど、どうやって死銃は仮想世界から現実に干渉を!?」

「ご自分で言っていたじゃないですか」

「……?」

「《そんなことは出来ない》んです。仮想世界からリアルの人体に他人が深い影響を与える事は不可能」

「な、なら……!」

 死銃はどうやって、とクリスハイトが尋ねる前にユイの素早い解説が続く。
 推測ではあるが、可能性は高いその解説を。

「だったら答えは一つ。死銃が銃撃するまさにその時、《現実で生身のプレイヤーを殺している誰かがいる》のでしょう」

「な……!」

「死銃が《単独犯》だなんて保証、何処にも無いんですから」

 まさか、というような盲点。
 ユイの推測、いや、的を射た説明に、全員衝撃が奔った。





「大丈夫? シノのん」

 憔悴しきったシノンを気遣いながらも、アスナは内心焦っていた。
 早く彼の元に戻りたい気持ちで一杯だった。だが、こんなに弱々しい友人を放っておくことは出来ない。
 キリトと別れてからはエリアを北上し、都市廃墟エリアを抜けて砂漠エリアにまで入った。
 そこで首尾良く洞窟を見つけたアスナは、辺りにプレイヤーがいないことを確認しつつ洞窟の中に逃げ込んだ。
 どうにかして早く彼の元へ戻らなければならないが、憔悴したシノンも放ってはおけない。
 このままでは堂々巡りである。迷っているだけで時間は刻々と過ぎていき、それだけ彼が危険にさらされる時間が長くなる。

(一体、どうしたら……!)

 焦りから、小さく人形のように整ったその顔が歪む。
 その時だ。シノンがフッと顔を上げた。
 その目はぐるぐると黒く渦を巻くようにして濁っているように見えた。

「アスナ……」

「なに? シノのん」

「私を、私を殺して……!」

「っ!」

 アスナはシノンの突然の申し出に一瞬言葉を詰まらせる。
 何て答えて良いのかわからない。

「今のうちに、ここで私を殺して! そうすれば私はもう《サテライト・スキャン》にもマークされない! そうなったらきっとあの死銃だって私を見つけられるわけない!」

「お、落ち着いてよシノのん……!」

「落ち着いてる、落ち着いてるわよ私は。アスナも言ってたじゃない、あいつに撃たれたら死ぬのよ!? だったら、時間いっぱい逃げ切るしかない! 逃げ切って、さっさとログアウトさえすれば……!」

 シノンは焦点の定まらない目でアスナに懇願する。
 なんだか、その様は何処かで見たことがあるような気がした。
 本人は冷静なつもりのようだが、とても正常には見えない。どうにか冷静になってもらおうとさらにアスナが宥めようとした時、

「貴方だって早く彼の元に戻りたいでしょう!?」

「ッッッ!」

 痛い所を突かれた。
 極力隠していたつもりだが、やはり誤魔化しきれる物ではなかったか。

「貴方は早く戻れる! 私は安全になる! 万々歳でしょ? ねえアスナ!」

 シノンの懇願する状況を打破するための一手。
 それは甘い果実のようにアスナを誘惑する。シノンの言うことには一理ある。
 死銃に発見されなければ確かに安全だろう。逆に言えば同じゲーム内にいる限りどこにいようと絶対に安全な場所など無いのだ。
 加えて、アスナはキリトが気がかりでならなかった。彼が約束を違えるとは思わない。だが戦いに絶対はない。
 いつ彼がやられてしまうかなど誰にも予想はつかないのだ。
 だから早く彼の元に戻れるという提案は、アスナにとってはまさに喉から手が出るほど好ましいものだった。
 たとえここで彼女を殺しても、現実で彼女が死ぬわけではない。たかがゲームの勝ち負けが決まるだけでしかない。
 むしろそれで護れるのだ。速く彼の元にも戻れるのだ。まさに一石二鳥。
 アスナはゆっくりと銃把を握る。



 ──本当に、良いの? これで。



 ──でも彼女も望んでること。



 ──これですぐにでもキリト君の元へと戻れる。



 銃口がシノンの顔に向けられる。この距離ならいくら素人だろうとそう外さない。
 紅いレーザーサイトのような弾道予測線(バレットライン)はシノンの額ど真ん中を示している。
 シノンはようやくこれで苦悩から解放されると言わんばかりのホッとした表情をしていた。
 それが益々アスナにこの行動を正当化させようとする。
 アスナの指が、カチャリ、と引き金にかけられた。ドクンドクンとうるさいくらいに心臓の鼓動が聞こえる。
 この引き金を引けば、当面の問題は解決される。彼女もそれを望み、待っている。
 だいたい前に自分も殺されたことがあったではないか。これはその時のお返しのようなものだと思え。

 撃て。撃ってしまえ。

 頭の中で誰かが──自分が──囁く。
 引き金にかけた指に、力が入って……、





 ──────渇いた、銃声。




















「……」

「……」

「……なん、で」

「……」

「なんで、私を撃たないのよ……アスナ!」

 アスナは、シノンを撃てなかった。
 ここで撃ってはいけない気がした。

「撃てるわけ、無いよ」

「どうして……!」

「だってシノのん、泣いてるもん」

「ッッ!」

「そんなシノのんを、放ってなんておけないよ」

「う、うぅ、うわぁああああああああっ!」

 シノンが声を上げて泣き出した。アスナは優しく彼女を抱きしめる。
 これまでシノン/詩乃は誰かに頼るということをしたことが無かった。いや正確には出来なかった。
 彼女の境遇がそれを許してくれなかったのだ。そんな彼女に初めてできた、本当の心の支え。
 まるで童心に返ったかのようにシノンは泣きじゃくった。

「怖い、怖いの……! だって、私人殺しで……!」

「うん」

「誰からも、助けてもらえなくて……!」

「うん」

「おか、お母さんも、私のこと……!」

「うん」

 シノンの支離滅裂な話を、アスナは一つ一つ頷きながら聞いていく。
 優しく背中を撫でながら。

「あの死銃が持っていた銃は、私が強盗を殺した時のものと同じだったの……だから」

「うん」

「あの死銃はきっとあの時の強盗の亡霊なんだって思って……」

「うん」

「そう思ったら怖くなって……強くなろうって決めたはずなのに……」

「大丈夫、そんなわけないよ。亡霊なんて、いるわけない。いるわけない……うん」

「でも! あの亡霊、私の名前知ってて……!」

「そりゃシノンは有名プレイヤーだし、この決勝にいるプレイヤーならみんな……」

「違うのよ! 私の、リアルネームを知ってて! だから、私、絶対そうだって……」

「リアル、ネーム……?」

 尻すぼみに小さくなるシノンの話を聞いた瞬間、アスナの脳裏に閃光のごとく閃きが迸った。
 死銃が、シノンのリアルを知っていた。
 《もし》、死銃が殺したターゲットの《リアル》を把握していたなら?
 死銃が仮想世界からではなく、現実の体に何かをしたのなら? 殺人は可能ではないだろうか。
 これまで死銃が仮想世界での銃撃によってなにかをしたものだとアスナやキリトは考えてきた。
 だがもし、死銃が仮想世界で銃撃をした時にリアルで当事者に直接手出しできるなら……リアルをわかっているなら……死銃が単独犯でないなら、それは可能だ。
 そもそも《笑う棺桶(ラフィン・コフィン)》は一人や二人ではないのだ。《複数》いても、なんらおかしくはない。
 何故これまでそんなことに気付かなかったのか。だが仮にそうだとすると、死銃はどうやってリアルを知ったというのか。

「アスナ?」

「シノのん、良く聞いて」

 急に黙りだしたアスナを心配げな表情で見つめるシノンに、アスナはたった今思いついた推測を知り得ている事実を混ぜて語った。
 死銃の正体がSAOでの人殺し集団の一人であり、死銃の仲間が複数いる可能性、殺しのターゲットにリアルで近寄っている可能性を。
 それは同時に、今のシノンの現実の部屋には何者かが侵入していて、シノンをいつでも殺せる状況になっている可能性をも孕んでいた。

「そん、な……!」

 震えだすシノンだが、アスナは逆に冷静だった。
 もしその推測が確かなら、不明瞭だった死銃の殺しの秘密を暴いたも同然になる。
 亡霊や超常現象などといった不可思議なものよりもよっぽど実体ある確かなものだ。
 そして、今アスナの元にある情報から導き出される考えこそが、もっともアスナ、いやシノンにとって恐ろしいものとなった。

「だから、死銃、もしくは死銃の仲間はシノのんの身近な人の可能性があるの。だってそうじゃないとシノのんのリアルを知りえないもの。誰か身近な人で、GGOをプレイしている人っていない?」

「え……」

 そう言われて思い浮かぶのはたった一人だった。
 もともと交友関係の少なかったシノン/詩乃には然程人と関わりあう機会は多くない。
 その数少ない中でGGOプレイヤーともなれば、思いつく人物はただ一人。

(新川、くん……?)

 新川恭二。
 彼以外にその可能性をシノンは見いだせなかった。
 まさか、という思いが強いが、今アスナの考えを否定できる要素をシノンは持ち合わせていなかった。
 今まで殺された人の事をリアルでも知っていたというような話は聞いたことが無い。
 だが絶対無いとは言い切れない。可能性の一つとして頭に入れておかなくてはいけない。

「さて、それじゃ私は行くよシノのん」

「えっ」

「もしこの推測が確かなら、多分死銃にあの銃で撃たれない限りリアルで殺される可能性も低いはずだし。シノのんはここにいて」

「あんまり言いたくないけど、もうあの男が死銃に負けちゃって……殺されてる可能性は?」

「それはないよ」

「なんでそう言い切れるの?」

 この洞窟内にいる限り衛生からという設定の《サテライト・スキャン》の干渉を受けることはない。
 それは同時にその恩恵をも受けられない事を意味する。今彼女がキリトの安否を知ることが出来る情報源は無い筈なのだ。

「まだ……手が温かいから」

「は……?」

 アスナはギュッと握り拳を作る。その手は、現実で今もキリトと繋がっているはずなのだ。
 その手に温かみを感じる以上、キリトは無事だとアスナは確信する。
 その様を見て、シノンは感心した。

「強いね、アスナは。どうしてそこまで……」

「強くなんか無いよ。ただ、私はキリト君を愛しているだけ」

 そう答えるアスナの横顔は、シノンにはとても美しく見えた。
 この顔を見ていると、本当に何とかなりそうな気になってくる。
 不思議と、いつの間にかあれ程荒れていた胸の中が穏やかになっていた。



 だから、アスナの小さい背中を見送った後、シノンはその腰を上げた。
 自分にもできることがあるはずだと、勇気をその胸に抱いて。



[35052] GGO11
Name: YY◆90a32a80 ID:b9264a49
Date: 2013/05/15 20:33


 東京都千代田区お茶の水にあるとある病院の一室。
 そこに、入院患者ではない二人組が揃って横になっている病室があった。
 病室内には一人のナース姿の女性がずっと付き添っている。
 横になっている少年少女の体にはいくつも電極が貼り付けられ、入院患者ではないのにすべてのバイタルサインをその生体情報モニタに映し出していた。
 少年少女はバイザーのようなものを付けたままピクリともしない。ただ、その手だけがお互い握られていた。
 彼女たちが付けているバイザーのようなものは、アミュスフィアと呼ばれる機械だ。
 フルダイブシステム……完全なる《仮想世界》が生み出されてから幾数年、コンシューマ機として生み出されたナーヴギア……その後継機。
 絶対安全を謳い文句にこれでもかと安全措置を施されたこの機器は文字通り《仮想世界》へとフルダイブするためのものだ。
 そう、彼女たちはアミュスフィアでここではない別の世界、人の作り出した《仮想世界》へとフルダイブしていた。

 手を繋いだ二人の少年少女が眠りに、正確にはここではない《仮想世界》へとダイブしてから数時間。
 その様を微笑ましく見つめていたナース姿の女性、安岐は意識の隅では常に集中して変化を見落とさぬよう神経をすり減らしていた。
 彼女たちは今、行政からの依頼という形で《仮想世界》で《殺人犯かもしれない相手》と相対している……かもしれないのだ。
 何かあってからでは遅い。一瞬の油断が彼女たちの命の明暗を分けかねなかった。
 だが、注意していたはずの彼女がその《異変》に気付いたのは、全くの偶然だった。

「えっ」

 それは取り立てて人体に《異常》が発生しているというわけでは無かった。
 生体情報モニタに映し出される脈拍、心拍、体温、血圧……全てのバイタルサインは正常値を示している。
 故に安岐は《それ》になかなか気付かなかった。はたして一体いつからそうだったのか。

「嘘……こんなことって、あり得るの……?」

 《異常》ではない《異変》。
 この数値に気付いた時、安岐はえも言われぬ感覚に襲われた。
 なんと表現していいのかわからない。疑問や驚愕とは少し違う。
 それらよりは何故か《恐怖》という感情の方が近い気がした。飽くまで比べるとではあるが。

 少年……桐ヶ谷和人の現在の体温、三十六度六分。
 少女……結城明日奈の現在の体温、三十六度六分。
 桐ヶ谷和人の現在の血圧124/82。
 結城明日奈の現在の血圧124/82。

 体温、血圧、心電図……全てのバイタルサインの数値が、二人は完全に一致していた。
 時折数値に変化は起きる。だが、どちらかが変わればそれを追うようにもう一人の数値が同じように変化していた。
 今、この二人の体は、体内で全く同じ運動をしていると言っても良い。
 しかし通常そんなことはそう起こりえない。世界中の何処かで偶然少しの間同じ数値になった人がいた、ということならまだ頷ける。
 だが、こうして隣同士にいる男女がこんな数値を叩きだすなど、聞いたことが無い。
 これは《異変》と呼ぶにふさわしい事態だ。自分だけの判断ではどうしようも無かった。
 今のところ数値におかしな点は見られない。健康そのものの、正常値だ。時折心拍などが上昇するがゲーム内で戦闘をしているのであれば十分許容範囲内と言える。
 安岐は迷いつつも上司に連絡を入れた。何かあってからでは遅い。情報の伝達は確実かつスピーディに。
 ところが、上司の携帯はコール音こそ鳴るものの一向に出る気配が無かった。
 こんな時に、と思うもこればかりは仕方がない。やむなく安岐が折り返しの連絡を待つこと五分ほど。
 上司である彼、菊岡誠二郎から電話がかかってきた。

『ごめんね遅くなって』

「何かあったのですか」

『いや、キリト君たちの知り合いから連絡が来ていてね。死銃の正体がわかったんだ』

「えっ、それでは……!」

『いや、それがちょっとややこしい事態になっていてね。簡潔に結論だけ言うけど、どういう人間かわかったってだけでそれが何処の誰でどうやって殺人をしているのかはまだちゃんとはハッキリしていないんだ。ただ恐らくは殺しに《第三者》が関わっている可能性が浮上してきた』

「! なるほど。そういうことですか……!」

『うん、僕も盲点だったよ。それで何かあったのかい?』

「はい、実は……」

 安岐は今目の前で起きている現象を伝えた。二人の生体データがほぼ一致している、と。
 身体的には《異常》とは呼べないが明らかに普通の状態とも呼べなかった。
 話を聞いていた菊岡がしばし黙る。何かを考えているのだろう……と思ったその時、受話器の向こうから何かのアラート音が聞こえてきた。
 安岐は身を固くする。

「どうしたんですか!?」

『いや、ちょっと待ってくれ……! これは……』

「もしもし!? もしもし!?」

『なんてことだ……一体いつの間に……いや、そもそも誰……まさか』

「もしもし!?」

『すまない。取り乱した』

「何があったんですか!?」

『やられた……いや、これは相手を褒めるべきかな』

「……?」

『僕はついさっきまでアミュスフィアでALO──アルヴヘイム・オンライン──にダイブしてキリト君の知り合い達と会っていたんだが……その際、《ウイルス》を仕込まれたようだ』

「!?」

『誰がやったのかはわからないし、今のところ被害が出る前になんとか対処は出来たと思う。問題はこれを僕に送り込んだのが誰なのか、なんだけど……』

「心当たりがあるのですか……?」

『う~ん、あるにはあるんだけどねえ、まさか、という気持ちが強いな。でもおよそ考えうる限りその可能性が今もっとも高いと思う。《接触》があったのはあの時くらいだし』

「それは一体……」

『いやあ、僕とんでも無く《ヤバイ相手》に目をつけられたかもしれないね。でも、ここまで《有能》なら、是非《こちら側》に引き込みたくもある……《目的が目的なだけに》ね』

 安岐には彼が何を言っているのかよくわからない。
 ただ菊岡の声は、困っていながらも何処か楽しそうだった。





 都市廃墟エリアの中央に位置する円形の建造物。
 まさにコロシアムといったようなその建物は外壁がビル三階ほどの高さまであり、東西南北に一つずつ入口が設けられている。
 キリトはそのコロシアムの中心で視線を激しく彷徨わせていた。
 片手には耐久値が残り三分の一ほどにまで減少した《バールのようなもの》。
 激しい戦闘の最中でこの中に迷い込み、戦いの場はいつしかこのコロシアム内部でさながら観客のいない決闘となっていた。
 だがそれもつい先ほどまでの話だ。死銃は痺れを切らせたのか、その身をギリーマント……シノンに言わせればメタマテリアル光歪曲迷彩(オプチカル・カモ)という反則級のアビリティが付与された光歪曲マントの効力を再び行使していた。
 その姿は周りの景色と同化していてキリトにはわからない。
 わずかな気配も見逃すまいと常に背後を気にしながら聴覚システムにも神経を研ぎ澄ませる。
 今はキリトが一番危惧していた状態だった。死銃が冷静になれば、いくらでもこちらを無力化する力はあるのだ。その最たる例がこの《透明化》だろう。
 先ほどから紙一重で攻撃をかわしてきたキリトではあるが、いつまでもその僥倖が続くはずもない。
 コンッ、という音にキリトの鋭敏な耳が反応しそちらへ振り向くとそこには転がる石ころ。
 やられた! と思った時には考えるよりも早く体を捻りつつ後方へと飛ぶ。
 だが、それは惜しくも目端で捉えた鋭い金属の切っ先がキリトの脇腹を容赦なく貫いた後だった。
 フェイクを混ぜられては現状キリトに為す術はない。徐々にキリトのHPバーは削られていく。
 即座に辺りを見回すが、相手は既に景色と同化していた。
 また硬直の時間。物音一つ立てずに、相手は悠々と次の攻撃の手筈に移っている。
 状況は最悪。唯一の救いは死銃なる元ラフコフプレイヤーが銃を使う気が無いようだ、ということだった。
 死銃が銃を使っていればキリトは為す術なく既にHPを全損しているのは疑いようがない。
 恐らくSAO──ソードアート・オンンライン──においての剣闘を意識しているのだろう。
 あの世界での戦いは全てが命をかけたものであり、尚且つ基本剣一本で──キリトは最終的に二本を使う術を得たが──戦いぬくことが前提だった。
 SAOには遠距離攻撃がほぼ皆無なのだ。投擲スキルこそあるが、致命的なダメージを与えられるようなものではない。
 ALOのように魔法がある世界ではなかった為、それはある意味で当然とも言える。
 死銃は、今の戦いをSAOでのそれと同等に扱っているのだろう。自身は《透明化》というチートまがいなアビリティを使用しているが、特段これは反則には当たらない。
 チートまがいではあるがチートではないのだ。そう思った時、何故だが少しキリトに笑みが零れた。
 彼はその行動から、SAO第一層の攻略時において《ビーター》と名乗っている。
 ベータテスターとチーターの造語ではあるが、なかなかに上手い名前だと思ったものだ。
 デスゲームと化したSAOにおいて、ベータテスターは嫌われていた。自身の命がかかっていたから、とはいえデスゲーム開始早々情報の独占に奔った経緯があるからだ。
 プレイヤーの中にはそのせいで亡くなった者も少なからずいることだろう。得られるアイテムを得られず、満足のいかない装備と知識で荒野を歩き、結果HPを全損して……死んだ。
 ベータテスターであったキリトもその例に漏れずに自身の知る限り割の良いクエストを率先してこなした。おかげで当初からキリトはそれなりの装備を揃えることもできた。
 それは同時に、他の誰かがそれらを入手できない可能性を孕んでいる。それを理解しながらも、当時のキリトはがむしゃらに突き進んでいた。
 第一層で使っていた《アニールブレード》などはその最たる例だろう。
 それこそなんてチート。自分でもそう思ってしまう。ゲームクリアをあの時から考えていたわけじゃない。ただ生き残りたかっただけだった。
 それを思えば人の事をとやかく言う気にはなれなかった。
 ただ言えるのは、ここはアインクラッドではなくともSAOと変わらないということ。
 負ければ、本当に死ぬ。この戦いは、SAOの延長線上にあるのだ。
 生き残る為に戦ったあの世界は、終わったと思っていたあの世界は、まだここにある。

 それは同時に。

 忘れていた《罪》を、否が応にも思い出させる。
 それは、目の前の死銃と自分に、たいした差など無いのではないかと思わせるほどの、自分の《罪》。
 生き残るために蹴落とした初心者(ニュービー)。
 死にたくないから殺した《ラフィン・コフィン》。
 そして。

 《ビーター》であることを隠したが故に失った、かつてのギルドメンバー。

 全てを忘れていたわけではない。だがずっと考えないようにしていたのは事実だ。
 その罪の重さが、今になってキリトの双肩に重くのしかかってくる。
 まるでそれを見越したかのように、死銃は何処からともなく口を開いた。

「お前は卑怯者だ、キリト」

 全く持ってその通りだ。
 反論する余地は無い。

「自分が、人殺しであることを、忘れていた、卑怯者だ」

 見事に正鵠を射ている言葉だ。
 実にほれぼれするほど……胸へと突き刺さる。

「仲間の仇討ちってことなのか?」

「俺は、お前とは、違う。そんなことに、興味は、ない。だが、お前は……殺す!」

 一瞬膨らんだ殺気。
 それをキリトは敏感に感じ取った。
 これがここまでキリトが戦闘を長引かせられた要因の一つでもある。
 キリトは再びギリギリのところで斬撃を回避する。といっても完全に、とはいかずまたHPバーが減っていく。
 バーは既に危険域に近かった。

「っ!」

「……何故、避ける?」

「……どういう意味だ」

 突然の質問に、キリトは応えられない。
 死銃が何を言いたいのか、理解できなかった。

「お前は、今、どうして、戦っている?」

「それ、は……」

「人殺しの、ビーター」

「……っ」

「《仲間殺し》の、ビーター」

「っ!?」

 揺さぶられている、という自覚はあった。
 だが、だめだ。これはダメだ。揺さぶりだとわかっていても、考えずにはいられない。
 何故知っているのか。それとも適当にカマをかけているだけなのか。
 知っているのならどうして? どうやって?
 グルグルと思考がキリトの中で巡り、正常な精神状態を保てない。
 同時に、死銃の言葉の意味を捉えてしまう。

 どうして戦っている?
 何故、避ける?

 それは……《他人を殺しておきながらお前はのうのうと生き続けるのか》という問いに聞こえてならない。
 そしてその問いは、予選の時に死銃と会ってからキリトの中で燻り続けていた事でもあった。
 自分は生きていても良いのだろうか。少なくとも、真っ当に、胸を張って生活していく権利があるのだろうか。
 フラッシュバックするのは、かつて在籍していたことのあるギルドのリーダーが残した言葉。

『ビーターのお前が、僕たちに関わる資格なんてなかったんだ』

 その言葉が、いつもキリトの胸の一番深い所に届いてくる。
 グサリグサリと不定期ではあるがまるで剣で突き刺すかのような痛みを与え続ける。
 だが、

「っ!」

「まだ、抗うのか」

 少し苛立ちを含んだ声が聞こえてくる。珍しく死銃が姿を見せていた。
 キリトは未だ抵抗を止めていなかった。
 止められなかった。だって、何故なら、

「俺は、死ねない」

「……何故だ」

「約束したからだ」

「約束……?」

「簡単には諦めない、って。俺の命は、俺だけのものじゃないから……!」

「くだら、ない。何を、言うのかと、思えば……。それは、結局、自己の、正当化、だ」

 本当につまらなさそうに、死銃はその声色を落とした。
 代わりに、より一層攻撃の速度と威力が増していく。
 それはまるで怒っているようでもあった。

「お前には、失望した……死ね、黒の剣士……!」

 それまでは、あえて使ってこなかった拳銃。
 その銃を始めて死銃は構えた。キリトにも緊張が奔る。
 あの銃で撃たれれば問答無用で死にかねない。それが予想されるだけに心拍数も跳ね上がった。
 じり、と片足に力を込めて腰を低くする。すべての挙動を見落とさぬよう感覚を研ぎ澄まし、そのおかげで……《それ》に気付く事が出来た。

「でええええええいっ!」

「!?」

 文字通り空から舞い降りてきた一人の女性プレイヤー。
 桃色の長い髪に小さい体躯という出で立ちのアバターではあるがそれは見まごうことなきキリトにとって唯一無二のパートナーの姿だった。

「アスナ!」

「お待たせ!」

 突然の空からの乱入者に死銃は音もなく間合いを外した。
 状況は何も変わっていない。少なくとも死銃が圧倒的有利であることに変わりは無い。
 むしろ一撃で相手を殺せる術を持つ死銃相手にアスナが来てしまった事は歓迎すべき事態では無かったかもしれない。
 少なくとも、死銃にはゲーム内から人を殺せる力があるのは確かなのだから……とキリトは思っていた。
 しかし、その心の焦りをアスナはすぐに払拭させる。

「大丈夫だよキリト君。私は死なない。もちろん君も」

「何故、そんなことが、言える……? 閃光」

「貴方の手品のタネはもうわかったからよ。だから言える、ここで私達が殺される心配は無いって」

「ほう……」

 アスナの自信たっぷりな言葉にキリトは目を丸くした。
 それは本当なのだろうか。だとしたらそれだけでキリトは大きな肩の荷が下りる思いだった。
 少なくとも、もう大事な人を失う心配が消えるのだから。

「本当か、アスナ」

「ええ。考えてみれば簡単なことだった」

「言って、みろ……」

「答えはわかってしまえば単純よ。貴方がゲーム内で人を殺しているんじゃない。《貴方の仲間が貴方の銃撃に合せてリアルのプレイヤーを殺している》のよ!」

 ガン! と頭を殴られたような衝撃がキリトにも奔る。何故そんな簡単なことに思い至らなかったのか。
 死銃は珍しく黙り込んだ。決して饒舌ではないが、緩慢でありながら有無を言わさぬ動きを続けていた死銃の体が、ピタリと動くことを止めている。
 もしそれが本当なら、確かにキリト達の心配は大幅に軽減される。何故なら、自分たちは盤石の環境下でここにダイブしているからだ。

「クク、クククク……! 流石は、閃光、だな……実に、面白い、推理だ」

「何がおかしいの?」

「一つ、聞こう。俺は、どうやって、リアルの情報を、知ったんだ……?」

「それは貴方がリアルでの知り合いだからでしょ?」

「俺が、偶然、リアルで知り合いだった、と? 知り合いしか、殺していない、と?」

「……何が言いたいのよ? 貴方はシノンのリアルを知っていた! 何も不思議はないわ!」

「クク……! ああ、そうだな、クク……! 確かに俺は、あの女の、リアルは、知っていた。だが……他は、知らないな」

「そんな嘘を……」

「だいたい、その推理が、当たっていたとして、俺の、リアルでの知り合いが、同じゲームで、何人も、死んでいて、俺に、捜査の手が、及ばないわけが、ない、だろう? だが、俺は、何の障害もなく、ここにいる。それが、答えだ……!」

 アスナの背筋に冷たい物が奔った。もしかしたら自分は何かとんでもない思い違いをしているのかもしれない。
 そう思わせられるほど、死銃の言葉は正論で的を射ていた。
 もしかすると、死銃の殺しの方法は全く別のもので、自分は間違った解を導き出したのでは……?
 一度不安がまとわりつくと、それを払うのは難しい。どんどんと嫌なイメージで予想が塗り替えられていく。
 だが、

「惑わされるなアスナ」

 力強い彼の声が、そのアスナの不安の霧を霧散させる。
 肩に手を置かれ、それだけで安心させられる。

「リアルを知る方法ならある。奴が使っている特殊なアビリティ使えば」

「えっ」

「……」

「確かこの大会の上位入賞者はリアルでモデルガンをもらうこともできたはずだ。もしエントリーの際にそれを求めてリアル情報を打ち込むところを目撃していたら、リアル情報の引き抜きは可能だ。なんせあいつは透明化できるんだ、透明化して、望遠アイテムでも使えばやれないはずはない」

 思ってもみなかった解答。
 いや、アスナの導き出した解答に付属するもう一つのピース、と言ったところか。
 それなら、アスナの推理とも矛盾しない。
 やはり、何か一つでもとっかかりが出来ればキリトは容易くアスナの上を行く思考を見せる。
 こと仮想世界やゲームについての事となるとやはり彼には一日の長があった。

「ネタは割れた、もう止めるんだ」

「……」

「お前は知らないかもしれないが、SAOのプレイヤーデータは総務省に残っている。そこから辿ればすぐにお前のことはわかるはずだ」

「……」

「この大会が終わったらすぐに最寄りの警察に自首するんだ。いつまでも殺人者(レッド)でいるなんて馬鹿なことは止めろ。デスゲームはもう、終わったんだから」

「……終わった、だと? やはり、お前は、何もわかって、いない……終わってなど、いない……!」

 キリトの諭すような言葉は、死銃には受け入れられなかった。
 それどころか、彼の琴線に触れ、その猛攻を再開し始める。
 だが。

「……!?」

 すぐに死銃は《異変》に気付いた。
 これまでならクリーンヒットといかなくても確実に削る事が出来た攻撃の数々。
 それが、全く《当たらない》のだ。
 人が増えたことは死銃にとってはむしろ好都合だと思っていた。
 それだけ標的が増えた、というただそれだけのことだと。
 しかし死銃の攻撃はその悉くがまるで見透かされているかのように防がれた。

 背中を預け合う二人。

 メタマテリアル光歪曲迷彩(オプチカル・カモ)は発動している。
 死角からの攻撃に一人はギリギリ対処できても、もう一人は対処できないはずだった。
 確実にどちらかにダメージは蓄積していくと読んでいた。それなのに……当たらない。
 アスナを狙って刺突を繰り出せば、気付かれた瞬間に体を捻られる。それはまだいい。
 だが、アスナが避けた分背後のキリトは背中から突き刺されるのは必定のはずなのだ。
 ところが、キリトはまるで背中に目でもついているのかと言うような正確さで死銃にカウンターをお見舞いする。
 その度に嫌な舌打ちをしながら死銃は体を引いた。既に一度や二度ではない。二桁を超える攻防で同じようなやり取りが続いていた。
 これはキリトを狙っても同じことだ。ギリギリで避けられた後にアスナに性格なカウンターをもらう。
 その鋭い突きはやはりそこに敵がいると確信しているもので、相手のHPを削るどころか何度か攻撃を受けてしまった死銃の方がHPを幾分消耗していた。
 それが死銃のプライドを傷つける。あってはならないことだと。こんな有利な状況で自分が追いつめられるなど。
 そのせいか死銃は近接攻撃に拘り、先ほどちらつかせた拳銃を使う様子は無かった。
 もう一度、死銃が攻めてくる。空間の揺らぎを敏感に目端で捉えたキリトはその攻撃ライン上から身を捻った。
 同時に、アスナはそれを《感じていた》。SAOで幾度となくあったキリトとの《接続》状態。
 その現象が今まさに完璧と言えるほどのレベルで再び起こっていた。
 キリトの見ている物、感じている物がまるで自分のもののように感じられる。
 まるで自分が背中を預ける相手と同化してしまったかのよう。だがもちろん本当に同化したわけではない。
 その証拠に相手の感覚とは別にきちんと自分自身の感覚も存在している。
 いわば今は《視点を同時に二つ持っているような状態》なのだ。常ならばそんなことが起こってもパニックにしかならない。
 もっともその心配は無かった。この《接続》はお互いが集中しあった時に比較的発生すると既に本能で理解している。
 本物の死がまとわりつくデスゲームの世界で培ったお互いを感じる感覚。
 これがなんなのかは未だハッキリしない。だが確かに言えることはこの瞬間、二人は確かに《繋がっている》ということだった。
 死銃の苛立ちが増していく。段々と攻撃が大振りになっていく。そうなると裁くのは難しくないが、時に《受ける》必要性が出てくる。

 ピシッ!

 嫌な音が二人の耳に届いた。同時にその意味を理解する。
 死銃の大きな横薙ぎの攻撃を受け止めたキリトの《バールのようなもの》にヒビが入ったのだ。
 耐久値はもうほとんど残っていない。あと一撃か二撃交われるかどうか。
 それを死銃も理解したらしい。標的をキリトに絞り、その攻撃の熾烈さを上げていく。
 キン! と甲高い音が鳴り響いてキリトの武器にさらなるダメージ蓄積を行う。持ってあと一撃。
 と、同時にアスナが弾かれたように死銃へと飛び出した。真っ直ぐに一点の曇りなく鋭い突きの一閃を死銃めがけて抜き穿つ。
 だが完全に見えていない死銃への命中は難しく、その攻撃は死銃の脇を霞める程度にしかならなかった。

「勝負を、急いだな……!」

 キリトの武器の耐久値の無さからアスナが焦ったのだろう。これまで決して陣形を崩すことのなかった二人が今初めてその形を崩してしまった。
 今耐久値がゼロに近い武器を持つキリトと死銃の間にアスナという盾はいない。この機を逃すことなく死銃はキリトへと再び斬りかかる。
 だがキリトも然る者。その時には既に武器を下に構えていた。切り上げ攻撃が来る、と死銃は即座に予想する。
 同時に。背後に通り抜けて行ったアスナがばね仕掛けのように戻ってくるのを死銃は感じ取っていた。瞬間、ニタァと微笑が零れる。
 決してマスクの外に漏れることの無い笑み。だが、確かに死銃は嗤った。このまま自分が《消えれば》、はたしてどうなるのか。
 すでにキリトの攻撃は始まる寸前である。背後のアスナも跳躍力を生かした突進をしてきている。
 ここで自分が消えたなら、その両者がぶつかり合うのは必至。
 死銃は突如横に転がるように間合いから逃れた。だがキリトの切り上げは止まらない。アスナの突進も……止まらない!

(終わった……!)

 そう死銃が確信した時だった。
 目前で、信じがたい光景を死銃は目の当たりにする。

「な……!」

 キリトの切り上げるような攻撃……SAOでいうソードスキル、片手用突進技《ソニックリープ》のような軌跡の攻撃。その軌跡を描く武器に、アスナはその両足を着地させていた。
 そのままキリトに持ち上げられるようにアスナは空へと投げ出される!
 と、同時にキリトは身を捻って一回転し、再び死銃へとその武器を切り上げるように振り抜いた。
 構えた死銃の銃剣とぶつかり合い、高い金属音を奏でてキリトの武器は霧散する……が!
 空からもう一本、武器が降ってくる!



 アスナは高く空に舞い上げられながら凄まじい既視感に襲われていた。
 前にも似たような事があった。あれはそう、まだデスゲームであるアインクラッドにいた頃のことだ。
 あの時もこうやって彼の剣を足場にして空へと舞い上がった。彼となら、阿吽の呼吸で《出来る》と信じていた。
 彼はそれに応えてくれた。それがただ嬉しい。

 同時に。

 その既視感は別の記憶をも呼び覚ます。
 この《剣舞》のようなやりとりをしたまさにその時、自分は何を考えていたのか。
 何を思い出そうとしていたのか。
 答えはすぐに出た。《ラフィン・コフィン討伐作戦》において起きた出来事だ。
 そうだ。あの時、自分は確かにこの死銃と相対していた。いつまでもキリトに拘り「シュウシュウ」と言う擦過音を撒き散らしていた殺人者(レッドプレイヤー)。
 あの討伐作戦で、彼は「忘れるな」とばかりに名乗った筈だ。その名を、思い出す。

 同時に。

 キリトとの《接続》が彼の求める物を瞬時にアスナへと伝えられる。
 彼女は迷いなく、自身が握りしめていたそれ、《銃剣》を彼へと送り込んだ。



 まるで見計らったかのようにもう一本がキリトの手の中に吸い込まれ、振り抜かれる!
 完全に虚を突かれた形。だが、半歩間合いが遠い。これならば致命傷にはなりえない。
 そう思い死銃が極力離れようとしたところで……彼に弾道予測線(バレットライン)が突き刺さった!

「!」

 一瞬の出来事に思わず死銃はラインの先を睨み見た。
 そこには、一人の女性プレイヤー。カタカタと震えながらも、愛銃である狙撃銃を構えたシノンが瓦礫の合間に立っていた。





 シノンは自分にも何かできないかとここに向かっていた。
 しかし体が震えて言うことをなかなか聞かない。そんな自分を何度も何度も鼓舞させてようやく戦場へ辿り着いた時、既にキリトとアスナは背中合わせで戦っていた。
 どうして、何故あんな戦い方が出来るのか。しばし恐怖も忘れシノンは二人の戦いぶりに魅入られた。
 まるでお互いがお互いをわかりきっているかのような舞。そう、これは戦いと言うより舞踏と呼んだ方が相応しかった。
 だが、その均衡は崩れる。キリトが死銃の攻撃を防いだ時に耐久値の減少エフェクトが発生していた。
 見るからに残りの耐久値は少なそうなことがGGOで経験を積んだシノンにも見て取れた。
 何とかしなければ。そう突き動かされるように愛銃であるヘカートⅡを構えようとするが、震えが止まらない。
 それでも闘争心だけはシノンの中から消えていなかった。彼女は今、引き金を引く勇気を持てない。
 撃てない。それがわかっていながらも出来ることをシノンの中に燻る闘争心は探した。
 そして唯一、出来ることを彼女は見つけた。撃てなくてもいい。一瞬の隙さえ作れれば、それで二人の助けになることが出来る筈だ。
 そう、《狙う》だけで良いのだ。死銃は遠距離からの弾道予測線(バレットライン)を見て銃弾を避ける程のハイプレイヤーだ。
 だからこそ、弾道予測線(バレットライン)には敏感に反応してしまうはず。
 シノンは仮想の歯をグッと食いしばり、無理矢理に銃を構えて、スコープで死銃の姿を捉えた。





 弾道予測線(バレットライン)によって一瞬の隙、僅かに生まれた動揺による合間で死銃は《離れる》という選択肢を失った。
 同時に。キリトに半歩を詰めさせる時間を与えてしまった。

「う、お、おおお──────ッ!!」

 吠えるようなキリトの声。時計回りに旋転する体の慣性と重量を余さず乗せた銃剣を左上から叩きつけるように振り下ろした。
 一本は途中で耐久値を散らしてしまったが、連続したその動きは二刀流重突進技、《ダブル・サーキュラー》そのものだった。
 死銃のアバターがバッサリと切り捨てられる。彼のHPゲージが急速に減少していった。

「ま、だ、終わらな……!」

「いいえ、終わりよXaXa(ザザ)。《赤眼のXaXa(ザザ)》。やっと思い出した」

 アスナは思い出す。かつてSAOでキリトと行った縁日イベントのことを。
 勢いでダンスイベントに参加し、剣舞を披露したが、剣舞は採点対象外のため脱落。
 あの時もアスナはキリトに執着していたXaXa(ザザ)のことを思い出そうとしていた。
 その記憶が、今の攻防──剣舞で鮮明に思い出され、記憶を構築し直した。あの忌まわしい討伐作戦の内容、それと共に。

「……」

 名前を言い当てられた死銃、いやザザはまだアスナに何かを言いたそうにしていたが、無情にもHPゲージが全て吹き飛び、【DEAD】のタグがアバターの上で回転し始めた。
 死人に口なし。実際に死んでいるわけではないが、大会中の彼はもう何かをすることは出来ない。大会が終わるまで参加者はログアウト出来ないのがこの大会の仕様なのだ。
 それを見て、ようやくとキリトは息を吐いた。

「終わったな」

「うん」

 万感の思いを込めたような声に、アスナは後ろで手を結びながら微笑んだ。
 これでとりあえず、当面の危険はなくなった。
 まだ片づけなければいけない問題はあるが、一先ず安心はしていいだろう。
 二人は微笑みあって、最後の最後で一役買ってくれた戦友とも呼ぶべき少女に手を上げる。
 向こうも力なく片手をあげて返答し、いよいよ気が緩んだところで……連続した銃声。
 同時にシノンは倒れ、【DEAD】のタグがアバター上で回りだした。
 キリトとアスナに一瞬緊張が奔る……が。

「よぉーし! これであとはお姉さんとお兄さんだけだよっ!」

 元気一杯という様子の紺色ロングヘアーをした少女が、瓦礫の上でアサルトライフルを片手にキリトとアスナを指差していた。
 キリトとアスナは互いに顔を合わせてクスリと笑う。
 と、同時にウインドウを呼び出して何やら操作し始めた。

「ん?」

 何をやっているんだろう? と少女プレイヤーが首を傾げるのと同時、二人から同時に「リザイン」の言葉がかけられる。
 即座に優勝者を称えるファンファーレが少女プレイヤーの頭上で鳴り響いた。

「ええっ!? 嘘ォ!?」

 突然の出来事に少女プレイヤーは驚いた。まさか決勝戦のそれもラストバトルだろう戦いで降参されるとは夢にも思わなかったのだ。
 だがキリトやアスナも、ここまで来て他のプレイヤーと争うつもりはなかった。
 自分たちの戦いは終わったのだ。もともと自分たちはこのゲームを楽しむために来たプレイヤーではない。
 そんな自分たちが優勝してしまっては真にこのゲームを楽しんでいる人たちに申し訳ないという気持ちがあった。
 同時に、早く現実に戻って話を纏めたくもあったのだ。
 しかし、そんな事情など知らない少女プレイヤーは納得がいかなかった。

「コラァ! ちゃんと勝負しろー!」

 しかし叫んでいる傍からアバターは消え去っていく。
 優勝者が決まった時点で決勝戦特設フィールドからの強制退場が敢行されているのだ。

「待てー! せめて名乗っていけえ! 今度絶対ちゃんと戦うんだからあ! 絶対、絶対見つけ出すぞお! ボクはユウキ! 忘れるなあ!」

 少女のわめくような叫びに笑みを漏らしつつ、キリトとアスナが参加したBoB──バレット・オブ・バレッツ──は終了した。
 リザルト──【Kirito】及び【Asuna】同時準優勝。【Yuuki】優勝。



 キリトとアスナは、最後に会ったプレイヤーがあまりに元気で愚直だったためにすっかり毒気を抜かれた。
 だからだろうか。自分たちが《あること》を失念していることに、最後まで気付けなかった。










 シノン/朝田詩乃はムクリとその身を起こした。大会が終わってからはキリトやアスナと挨拶もせずにログアウトしてしまった。
 少しだけ情けなかったのだ。気が緩んだとはいえ、あんな終わり方をしてしまうとは思わなかった。
 無論自分の今回のBoBはキリトにやられた時点で終了しているとは言え、あれは詩乃のプライドが許さなかった。
 加えて、アスナの推理しか聞いていない詩乃は一刻も早く自身の体を取り戻し自分の身の安全を確認したかった。
 見慣れた自分の部屋は日が落ちて薄暗くこそあるものの、とりわけ変化は感じられない。
 しかし、アスナの推理が確かなら自分は狙われている可能性がある。それも……新川恭二に。
 ゆっくりと部屋内を注意深く見回し、見落としが無いか探ってみる。だが自分の部屋は自分の知るいつものままそのものだった。
 ホッと一息吐くと念のために恐る恐るではあるがトイレや風呂場を確認してみる。
 そこにはやはりと言うべきか、他人の存在の痕跡は見あたらなかった。詩乃は一気に脱力する。

「馬ッ鹿みたい」

 そもそもあれはアスナの状況から見た推理でしかない。
 仮に当たっていたとしても施錠されている部屋に入るのは一般人には至難の業だ。
 気の弱い同級生の彼がそこまで出来るとはとうてい思えなかった。少しだけ「疑ってしまった」という罪悪感さえ胸に灯る。

 その時だった。

 キンコーンという古いチャイムの音が部屋に鳴り響く。
 疑うまでもなく自分の部屋の玄関チャイムだ。ごくり、と息を呑む。
 次いでインターホンから声が聞こえた。

「朝田さん? 僕だよ、朝田さん! 新川です!」

「ッ!?」

 心臓がビクンと跳ね上がった。
 たった今冤罪判決を心の中で下した相手に再度疑惑が持ち上がる。
 何故? どうして?
 大会が終わってからまだ十数分程度しか経っていないはずだ。彼が大会を見てからここに来たのでは速過ぎる。
 まるで近くで大会を観覧し、終わったと同時にここへ来たかのような。

 一体何の為に?

 心臓がどんどんと音を早めていく。
 彼は何の為にここに来た? どうしてこんなに速く来られた?
 何故、何故、何故……。

「新川、くん……?」

 ふと扉の鍵を確認してしまう。鍵は……掛かっている。そもそもつい先程確認したばかりだ。
 ご丁寧にチェーンロックまでかかっている。護りは、万全だ。
 何があっても、自分は何かされることは無い。震える身体に鞭を打ち、詩乃は恐る恐る扉に付いている魚眼レンズを覗いた。
 そこにはいつもの黒いベースボールキャップを被って、コンビニのレジ袋を片手に「はぁ~っ」と両手を擦っては息を吹きかけている同級生の少年が立っていた。

 あのコンビニ袋には何が入っているのだろう?
 ナイフ? それとも薬品?
 嫌な想像が浮かぶ。だが、その答えは他でもない恭二自身から告げられた。

「そこにいるの朝田さん? ほらこれ、ケーキ。本当はお祝いにって思ってたんだけど……あ、大会惜しかったね。でもまあお疲れ様って言うのと、前回よりも順位が上がったってことで」

「どうして……こんなに早く」

「えっと、どうしても話しておきたいことがあったんだ」

 話しておきたいこと? このタイミングで? ……怪しすぎる。
 アスナからの前情報もあって、詩乃は細心の注意を払っていた。
 警戒し過ぎて困ることはない。

「話しておきたいこと……?」

「……うん」

「それって今じゃなきゃダメなの? それも直接?」

「それは……」

 少し恭二の歯切れが悪くなる。気まずそうな、言いにくそうな声とレンズ越しの表情。
 益々詩乃は恭二への疑惑を深めた。

「悪いけど今日は疲れてるの。またにしてもらえないかな」

「……うん、わかったよ。急に、ごめん」

 恭二は少し奥歯に物が挟まったかのような、しゃんとしない口調で、しかし納得したとばかりに頷いた。
 フッとしゃがみ込んだ恭二の姿が一瞬レンズから見えなくなる。

「ここにケーキ置いておくから良かったら食べて。それと、ちゃんと戸締まりはして休んでね。それじゃ」

 恭二の姿がレンズ越しに遠のいていく。扉の向こうから聞こえる静寂の中の足音が徐々に離れていくのを感じて、詩乃は本日何度目かの脱力をした。
 知らずにまた随分と緊張していたらしい。ふと額に汗を感じて拭ってみると袖がびっしょりと濡れるほど汗を掻いていた。
 詩乃は自身の緊張ぶりに苦笑しながらまだしばらく扉を見つめていた。時折魚眼レンズを覗いてみるが、恭二が戻ってきている様子は無い。
 安堵の息を零すと、詩乃は念のために鍵を開けて扉を少し開いてみた。この際、念には念を入れて飽くまでチェーンは外さずに。
 すぐに何か柔らかい物に扉がぶつかった。一瞬身を強張らせるが、それは恭二が言っていたコンビニの袋だった。
 少し悩んだが、詩乃はドアの隙間からそれに手を伸ばした。中には一つ三百五十円のケーキが二つ、プラスチックのフォークと一緒に入っている。
 どうやら本当にただのケーキのようだ。と、下の方にメッセージカードが入っていることに詩乃は気付いた。

【優勝おめでとう、朝田さん!】

 息を呑む。自分は優勝などしていない。つまり彼は自分が優勝すると信じてこのメッセージカードを書いていたことになる。
 だがそれでは少々おかしい。死銃が恭二の仲間で、何らかの理由により自分を殺そうとしたのなら、優勝を祝うようなメッセージを用意しておくだろうか。
 答えは否。そんな必要などない。では彼は死銃とは無関係なのでは?
 そう思うとついさっきの自分の態度が酷く最低なものに感じられた。友人でもここまでしてくれる人はそうはいない。
 こうやってカードを取り除くのをうっかり忘れる所などいかにも彼らしい。
 そもそも、思えば恭二繋がりでアスナとも知り合ったのにアスナを信じて恭二を信じないとは何事か。
 詩乃は申し訳なさからチェーンを外し、つんのめるように一歩を踏み出すと駆けだした。
 疑心暗鬼になっていたとはいえ、数少ない心を許せる友人にしていい態度ではなかった。
 謝りたい。そんな思いが彼女を走らせた。現実の彼女はGGOのシノンと違い早々に息が上がってしまう。
 この寒い最中上着も羽織らずに出てきたせいかすぐに身体は冷え、白い息が視界を埋め尽くす。
 それでも次の角を曲がったところで目的の人物の背中を捉えた。

「新川くん!」

 恭二はビクッと肩を揺らして振り返った。
 驚いたような顔をしてボケッと突っ立っている。ああ、どうしてこんな彼を疑ったのだろう。
 そう詩乃が思った時だった。驚くような速度で恭二が詩乃に詰め寄ってくる。
 えっ、と思った時には彼女は────突き飛ばされていた。

 えっ。

 いくら恭二が細身といえど性別は男。その力は女性を吹き飛ばすには十分なもので、浮遊する感覚を詩乃はスローモーションで味わっていた。
 どうして? 何故? ぐるぐると疑問が詩乃に渦巻いた時、遅ればせながら聴覚が恭二の叫ぶような声をキャッチした。

「危ない朝田さん!」

 危ない? 何が?
 空に身を委ねる詩乃には何がなんだか分からない。
 と、その時視界の隅から黒い影が迫ってきている事に気付いた。
 酷く遅い。全ての時がスロウになってしまったかのように見える。
 先程まで詩乃が居た場所に、筒状の何かを持っている黒い影が近寄っていく。
 筒状の何かは全長二十センチほどで、艶のあるクリーム色をしたプラチック製のように見えた。
 先細りのテーパーがついていて、平均すれば太さ三センチ程度の円環から斜めにグリップ状の突起が伸びている。
 グリップと円環の接合部には緑色のボタンが突き出していて、そこに名前も知らない黒い影──恐らくは男──の人差し指が添えられていた。
 しかし突き飛ばされた詩乃はもうそこにはいない。いるのは……、

「うっ……!」

 ガンゲイル・オンラインで聞き知った、減音器を装着した銃声のような「ブシュッ!」という音だけが遠く聞こえる。 
 次にくぐもった声。同時に、膝を地面に着く音。
 彼の苦しむような声はやけに鮮明に聞こえるのに、動きだけがやたらとスローモーション。
 ゆっくり、ゆっくりと恭二の身体が揺れて冷たいアスファルトの上に転がる。

「ヒャ、ヒャ、ヒャアアアッハッハッハハァ────────────!」

 高い、男性の笑い声。まるで映画のワンシーンを見ているかのよう。
 今起きている事が信じられない。
 恭二が襲われた。自分を突き飛ばして襲われた。
 突き飛ばして? 違う。
 庇って襲われた。知らないとはいえ、あんなに恭二のことを疑っていた自分を庇って。
 そんな自分を庇って……倒れた。


「新川くん────!?」


 叫ぶ声は闇に消える。
 恭二の身体は……冷たかった。



[35052] GGO12(終)
Name: YY◆90a32a80 ID:b9264a49
Date: 2013/08/26 00:19


 第一霊安別室と書かれた扉が開いている。
 部屋の中を覗くと、意外にも思った程寒さなどは感じない。
 仮想世界の分身である《シノン》のようにマフラーをしているせいかもしれないとシノンこと朝田詩乃──逆かもしれないが──はぼんやり思いながら辺りを見回す。
 特筆すべきことは何もない。こういった部屋には許可が無ければ入れないと思っていたが、誰もいないのはこれまた意外だった。
 言うなれば思ったほど白一色の部屋ではない、ということくらいだろうか。もう少し、真っ白な部屋をイメージしていたのだが。
 壁には埋め込むようにしてびっしりとロッカーのようなものがあり、筺が納められているのが見て取れる。そこに何があるのかは、考えるまでも無かった。
 中央に焼香を乗せた台座があるが、使われた形跡は無い。詩乃は小さく溜息を吐くと霊安室を後にした。
 いくら開いていたとはいえ、ああいった場所に勝手に踏み入るのはやはり問題だろう。咎められても文句は言えない。
 詩乃は鬱々とした気持ちを抱えながら早足にエレベーターへと駆け込んだ。……僅かに動悸が速くなる。
 目的の階へのスイッチを押し、エレベーター特有の浮遊するような感覚を伴いながら、詩乃は里香から聞かされた話の内容を思い出していた。
 それは昨日、事件のあらましをアスナ/結城明日奈とキリト/桐ヶ谷和人同伴の席において、総務省の役人から聞いた後のことだ。



 事件のあらましは、平たく言えばかつて最低最悪のデスゲームとして恐れられたSAO─ソードアート・オンライン──におけるPK集団、その中でも一番猛威をふるっていたレッドギルドの異名を持つ《笑う棺桶(ラフィン・コフィン)》の生き残りが起こした殺人事件だった。
 その主犯の一人が新川恭二の兄、自称《死銃(デス・ガン)》を名乗った新川昌一その人である。
 彼がGGOで使っていたアバターの名前を当初シノンが見た時はスティーブンと読んでいたが、本来は《ステルベン》と読み、ドイツ語で《死》を意味する言葉だった。
 殺しの方法はほとんどキリトとアスナの推理が当たっていた。今は動機を確認中だが、昌一は素直に聞かれたことは全て話している、と役人……菊岡誠二郎から詩乃は伝え聞いている。
 話を聞いた詩乃は正直整理仕切れない部分もあった。だから、本来なら一人になって静かに物思いに耽りたかった。
 そんな時だ。恭二にとって姉のような存在であると聞かされた篠崎里香から呼び出しを受けたのは。

「ねぇ、恭二の進路の話をしたこと覚えてる?」

 直接会って話がしたいとリズベット/篠崎里香に言われた詩乃は《あんなことがあったばかり》ということもあって実際に会うことには少しの躊躇いもあったのだが、ここは逃げてはいけない所だと了承した。
 会って早々開口一番に里香は恭二の進路のことを口にし、詩乃は頷く。
 その話のことは記憶にまだ新しい。あの思い出すのも憚られる第三回BoB──バレット・オブ・バレッツ──の本戦開始前に電話越しではあるが話した覚えがある。
 今の恭二は不登校中で、既に進級への単位は足りていない。それならば、と両親との約束で《高認》──高等学校卒業程度認定試験──を受け、ノータイムロスで医大へ進む事を条件に学校の自主退学を考えていると聞いていた。
 そのことから、当然恭二は医者になるつもりなのだろう、というようなことを話した筈だ。

「うん、そうなんだけどさ。恭二の奴、医者は医者でも……精神科医を目指したいって言い出したらしいんだ」

「精神科医?」

 詩乃とて医師について詳しくはないが、精神科医がどういったものなのかは理解している。
 だが確か恭二の父親は内科医だったはず。後を継ぐことを考えるなら同じ分野に進むものだろうし、精神科専門病院でもない病院を継ぐのに当たって、精神科医であるメリットは詩乃には思い浮かばなかった。
 里香はクスリと笑い、詩乃をビシィ! と指差した。

「アンタのためよ」

「えっ」

「精神障害、主にトラウマ……PTSDについて学びたいってね」

「それって……」

「あいつはあいつなりにアンタの症状について向き合おうとしていたみたい」

 正直、ピンとは来ていなかった。どうしてそこまでしてくれるのか。何故そんなことで進路を決められるのか。
 ここにきて、益々新川恭二という人間が詩乃はわからなくなってきていた。いやむしろ重荷が増したというべきか。
 命を救われたばかりか、彼の将来までも縛ろうとしていると聞けば、それも仕方のないことなのかもしれない。
 そんな詩乃に里香は補足とばかりに付け加える。

「ま、精神科医になるにしても医大で普通の医者になるのと同じように六年間学ばなければいけないらしいんだけどね」

 恭二はその後の自分の進む道について親とぶつかり合ったのだ、と里香は言う。
 恐らくは、いざ六年後になった時、外堀が埋められ自分の進みたい道へ進めなくなる可能性を考慮してのことだろう。
 既に父親は各方面へいろいろ動き出しているというような話しも里香は聞いたと言う。
 結局その話は医大卒業後に気が変わっていなければ改めて、ということになったそうだが。
 しかし当の恭二は、気が変わっていなければその道へ進ませて貰うという言質をわざわざ録音までさせて欲しいと願う徹底ぶりで我を通そうとしていたらしい。
 そこまで恭二は本気なのだと、里香の口から詩乃は聞かされる。

「恭二にしては珍しく、結構反論して揉めたんだってさ。アイツ、親の言うことには逆らえないチキンだったのにね」

 聞けば、その話をした日はゼクシードが《MMOストリーム》に出ていた日のようだ。
 そういえばあの日は《シュピーゲル》がインしていなかったな、と記憶の隅から思い出す。
 そしてここまでくれば、彼が《何故そこまでしてくれるのか》という疑問に対しての回答とも言える。
 流石に気付けぬほど詩乃は馬鹿でも鈍感でもない。彼は、新川恭二は自分に好意を抱いていたのだろう、という予想は決して思い上がりではないはずだ。

「そんなこと、急に言われても……」

 だが、だからといってどうすれば良いというのだろうか。
 詩乃はこれまで恭二のことをそういった対象として見たことは無かった。
 仲が良い、というよりは《敵ではない》という認識の方が強かったかもしれない。
 好意を向けられていたというのが全く嬉しくないわけではないが、こんな気持ちのまま彼の思いを受け止める事は出来そうになかった。
 全くの予想外。何の心構えもなく聞かされる話にしては少々詩乃の容量(キャパシティ)を越えている。
 何より、返しきれない程の恩と重荷を背負ってしまった、背負わされてしまったという思いが強い。
 てっきり呼び出しの内容は今回の事件についての恭二のこととばかり詩乃は思っていたのだ。恭二が《こんなこと》になったのは自分のせいだと責められるものだと思っていた。
 だからそのつもりで、何を言われても仕方のないことだと、耐えようと心に決めていた。逆にその方が少しは《重荷》が軽くなるような気さえしていた。
 ところが蓋を開けてみれば糾弾されるどころか恭二の好意が自分に向けられていたという話では、詩乃にもどうしていいかわからない。

「ああ、良いの良いの。別にだからどうしろってことじゃないから。なんならスパッとフッってもいいわよ」

「ええっ?」

 里香はそんな詩乃の心を見透かしたようにカラカラと笑う。以前にも思ったことだが、里香という女性は非常に強い女性だと感じさせられた。
 姉のような存在、と言った恭二の気持ちがわかる気がする。
 詩乃は内心で安堵の息を吐きつつ「はて?」と首を傾げた。では何故今その話をしたのか、と。
 その疑問の答えは、詩乃が口にする前に里香の口から告げられる。

「……知っておいて欲しかったの。こんなことになっちゃったからこそ、さ。恭二のこと、恭二のやろうとしていたこと、恭二の……思いを」



 エレベーターの点灯する階層の数字を見ながら思う。
 あの時の里香は珍しく声に覇気がなく、何処か寂し気なものを孕んでいるように詩乃には感じられた。
 もしかしたら、里香は恭二の事を憎からず思っていたのでは、というような邪推が脳裏に浮かんだが、それをも里香は見透かしたように「そんなんじゃないけどさ」と首を横に振っていた。
 その里香の顔はやはり何処か儚げで、一体彼女が何を考えているのか詩乃はまるでわからなかった。
 ただ、彼女は今日、渦中の中心と言っても良い死銃、その《中の人の一人》と会うと言っていた。
 現在は警察に勾留中となっている新川恭二の兄、新川昌一……その人と。

 チン。

 僅かな機械音を漏らして、エレベーターが目的の階に到着したことを告げた。
 扉が開くのと同時に詩乃はエレベーターから一歩を踏み出す。廊下がてかてかと光っていた。何でも先週ワックスを塗り直したらしい。
 だが綺麗な廊下とは裏腹に詩乃の心は晴れない。鬱々とした気持ちのまま顔を俯け歩いていく。
 廊下に人は見えない。話し声も聞こえない。何処からか僅かに響く重低音の機械音が耳に届くのみだ。
 そうして、詩乃は一つの病室の前で足を止めた。これまで俯けていた顔を上げる。そこにはただ、四文字の漢字からなる言葉のプレートがかけられていた。

 【 面 会 謝 絶 】

 入ることを許されない、絶対の言葉。
 たった扉一枚を隔てた向こうへ行きたくとも、決して許してはくれない魔法の言葉。

「新川くん……」

 詩乃の口から恭二の名前が零れる。
 その病室のネームプレートには、新川恭二の名前が書かれていた。





 目の前には高さ八十センチ程から上は全面透明なガラス張りという《いかにも》な面会室があった。
 一部に丸い小さな穴を円状になるように開けていて、声が届くようにしてあるのが窺える。
 何となく刑事ドラマや何かで見たことのあるような部屋で、里香は備え付けのパイプイスに腰を降ろしガラス越しの男性を見やった。
 記憶の中の彼と比べると、少し痩せたかもしれない。彼女の性格故か、まずはその思ったことから口にした。

「少し痩せた?」

「……」

 里香の問いに、ちら、とこちらの顔を見たかと思えばすぐに彼は興味を無くしたように溜息を吐いた。
 少々以上に失礼な態度だが、彼のこういった態度は何も今に始まった事ではないのは短くない付き合いの中で把握済みだ。
 なので里香は努めて冷静に込み上がった溜飲を抑え、息を整え直す。
 彼が居る方の部屋は少し暗い。彼が持つ元々の陰鬱とした空気もあってかガラスの向こうは曇天じみた暗鬱なオーラさえ漂っているように見えた。
 奥の方には監視の為なのか、一人警察官がパイプイスに座って彼を鋭い目つきで見ている。ふとその警察官と目があったので里香は軽く会釈をした。
 警察官の方も小さく頭を下げる。その一連の動作が、これまで沈黙を保っていた彼に口を開かせた。

「警察と、会う為に、来たのなら、俺は、戻るぞ」

「違うわよ、ってか第一声がそれ?」

 里香は少しばかり頬を膨らませる。彼、新川昌一はそれを見て……不敵そうに嗤った。
 瞳の奥にあるギラリとした物言わぬ存在感は昔のままだ、と里香は何処か安心する。

「世間話を、する時間など、ない」

「わーってるわよ。社交辞令よ社交辞令」

 里香は「あーやだやだ」といったように首を振りつつ、うっすら横目で昌一を見やる。
 昌一は気にした様子も無く、ただこちらを見つめていた。目を逸らさないことから話すつもりはあるらしいと納得する。
 確かに彼の言うとおり、悠長に世間話をする暇は無い。面会可能時間は決して長くは無いのだ。

「何の、用だ? 里香」

 りか。リカ。里香。
 いつぶりだろうか、彼にそう呼ばれるのは。
 いくつからだったか、彼は全くと言って良いほど里香と話さなくなっていた。
 名前を呼ばれたこともここ数年はとんと記憶に無い。

「どうして、こんなことをしたの?」

「……俺の、知っている、事は、全て、警察に、話した、筈だが……?」

「……そういうことじゃない。でもちゃんと昌一の口から聞きたい。今回の、恭二のこと」

「……」

「……あれは、貴方のやろうとしたことなの?」

「……」

 昌一は表情を変えず、口も開かない。ただジッと里香を見つめる。
 里香も負けじとジッと昌一を見据えた。ここで目を逸らせば、彼はきっとこれ以上話をしてはくれないだろうから。
 付き合いが恭二と同じくそれなりにあった里香にはそれがわかっていた。
 元《笑う棺桶(ラフィン・コフィン)》の幹部、《赤眼のXaXa(ザザ)》こと新川昌一は、意外にも警察へ素直に一連の事件について供述している。
 自分がGGO──ガンゲイル・オンライン──を通じてしてきたこと、思ったこと。全てを隠そうともせずに聞かれればすんなりと話していた。
 キリトとアスナの推測はほぼ当たっていた。死銃というアバターにゲーム内で銃撃させ、リアルで生身の人間を殺す。
 リアル情報の取得はBoBにおける個人情報入力時のカンニング。元々はただの気紛れからやっていたことだが、後にこれは《仲間の一人の提案》によって使えると思い至ったのだと。
 その仲間は二人いて、一人は確保したがもう一人は未だ逃亡中とのことだった。
 昌一は殺人トリックについてなど事件に対して既に起こった出来事を隠す気は無い。だが、その《動機》がわからなかった。ましてや、今回の被害者は恭二なのだ。
 里香は知りたかった。昌一が、恭二を狙っていたのかどうかを。
 詩乃の証言や状況証拠から、今のところそうだとは里香は思えなかった。だが絶対とは言えない。
 だから、せめて里香は昌一が恭二を殺すつもりがなかったと聞きたかった。それだけでも証明してやりたかった。 

「恭二は、目を、覚ましたか?」

「いいえ、まだ……」

「そうか」

 里香は口を閉じる昌一をジッと見つめる。
 面会時間は十五分間。決して長いとは言えない。刻一刻と時間は過ぎていくが、それでも里香は捲し立てることも、急かすこともせずに昌一を見つめて彼が口を開くのを辛抱強く待っていた。
 そうして、少ない面会時間が残り僅かとなった時、里香の粘り勝ちだったのか、ようやくと昌一は口を開く。

「俺に、恭二を、傷つける、意志は、無かった」

「! そう、やっぱりね。そうだと思った」

 里香の声色が僅かに上がる。分かっていたことだ。昌一がそんなことをするはずがないことくらい。
 この《弟大好きブラコン兄貴》に限って、それは無いと頭ではわかっていたのだ。
 里香の目から見て、昔から昌一は恭二に甘かった。溺愛、という程ではない。
 だが、誰とも仲良くならないぶっきらぼうな態度を取る昌一は、恭二にだけは割合普通に接していた。
 当時里香は……それが羨ましかった。だからかもしれない。必要以上に恭二の面倒を見るようになったのは。

「……恭二が、目を覚ましたら、すまないと、伝えてくれ」

 昌一を知らない人間からすれば、まだ疑いの余地はあるだろう。
 だが、彼を知る里香の目からみれば、《恭二の件》に関してはシロだった。
 このやり取りは全て録画されている。最初に面会する際の注意事項でそう説明された。
 だから、この会話が少しでも昌一の為になることを里香は祈る。

「自分で言いなさいよ。そんなところからはさっさと出てね」

「……相変わらず、お前は、面倒な、やつだな」

 言葉尻に、何処か重みを持っていた昌一の声が、軽くなる。
 何年ぶりだろう。こんな彼の声を聞くのは。
 いつぶりだろう。彼の笑った顔を見るのは。

 残りの時間、昌一は里香に内心を吐露した。
 恭二は無関係であったこと。自分の共犯者はSAO時代からの《笑う棺桶(ラフィン・コフィン)》メンバーだったこと。
 それを静かに聞いていた里香だが、どうしてもわからないことがあった。

「ねえ」

「なんだ」

「どうして、こんなことをしたの?」

「……」

「SAOの時もそう。なんで、人殺しなんか……」

 赤眼のXaXa(ザザ)。その名前は、里香/リズベットも聞いたことくらいはあった。
 アインクラッドで情報屋が発行している情報誌にもオレンジプレイヤーの注意人物として頻繁に名前が挙がっていたのを覚えている。
 プレイヤー仲間では、攻略中のトラブルはもちろんオレンジプレイヤーに気をつけて、と挨拶をすることも珍しくなかった。
 だからこそ、オレンジプレイヤーの特徴や目撃情報はクエストの情報並に仕入れておくのが生き残っているプレイヤーの常だったと言える。
 赤眼のザザ。強力なエストック使いで、主に男女で組まれたプレイヤーが狙われやすかった。
 当時は自分には関係の無い話ね、と軽く流していたが今はそういうわけにはいかない。
 その真意を、里香は知っておきたかった。

「……別に、最初から、人殺しを、しようと、思ったわけじゃ、ない」

「……」

「男女の仲を壊せれば、それで良かった。殺しは、その結果伴ったに、過ぎない」

「それはどうして?」

「……恭二が、お前に振られたからだ」

「……っ!」

 呼吸が苦しくなる。
 全く予想していなかったわけではなかった。
 里香から見ても、昌一は恭二を大切にしていると思っていた。
 溺愛という程ではない。実際、本人に聞けば「溺愛はしていない」と答えるだろう。
 だが、仲が悪いわけではない。加えて、昌一は世間一般で言う良い兄貴であろうとしていた。
 周りには心を開かないが、弟だけには昌一は優しかった。

 昌一は生まれつき身体が弱かった。その為学校も休みがちで、父親は早々に昌一へ期待するのを止めていた。
 代わりに、その期待を一心に背負わされたのが次男の恭二だった。恭二は父親の期待が重苦しかった。
 その逃げ場はいつだって優しい兄だった。幼い頃は昌一が唯一の心の拠り所だった。
 そこに、不協和音を入れたのが、里香の存在だったのだ。
 里香に心を奪われ、振られたその日、恭二の落ち込みぶりは酷かった。
 部屋に閉じこもったまま、すすり泣くような声が昌一の耳にも届いていた。
 きっかけは些細なもの。ただ、弟を傷つけた相手が気にくわなかった。許せなかった。
 それから、恭二は振られた相手、里香と仲直りをしたものの、昌一の心は晴れなかった。

 それからも、恭二は女性に泣かされることがあった。
 ある時、その事について相談を受けた昌一は、恭二にまとわりつく女を追い払った事がある。
 その女はただ恭二の家がお金持ちだからという理由で恭二にまとわりついていた。
 恭二のお小遣いを私用の為にアテにして近づいてきていたのだ。その女に《お灸》を据えてやった。
 恭二は昌一に感謝した。本当にそれだけだった。それが事の始まりだった。

 《カップルは弟を不幸にする》

 そんな考えが昌一に根差していった。
 それを裏打ちするように、恭二の身近なカップルを壊せば、人知れず恭二に降りかかる火の粉が格段に減っていった。
 もともと感情が屈折してきていたこともあって、自分のやっていることへの罪の意識みたいなものは殆ど感じなかった。
 最初の動機はそんなものだった。いつの間にかそれはエスカレートし、カップルそのものを嫌悪し始め、見境が無くなっていたが、最初はただの弟思いから始まった行動だったのだ。

 ただ、この時《女》ではなく《カップル》と昌一の中で定義付けされた理由は、昌一本人にも理解できていなかった。

 面会時間を終えた里香は少しだけ重くなったような気がする足を引きずるようにして外へ出た。
 当初の目的は達した。だが、一つ重い荷物を背負ってしまったような感覚が胸を占める。

『……恭二が、お前に振られたからだ』

 昌一の言葉がリフレインしてズキリ、と胸が痛んだ。
 わかってはいた。予想はしていた。それでも、本人からそう聞くと、やはりダメージはある。
 断っておくと、今回の事件についての大元の責任を感じている、というわけではない。
 全くないわけではないが、それで《自分のせいだ》といじける程乙女チックな性格はしていないと里香は自負している。
 だから、それはもっと別なこと。

「あ~あ、キリトのこともあってとっくに忘れたつもりだったんだけどなあ……」

 里香は後頭部へ手を回して、態とらしく大股で歩く。手に持っていたトートバッグがぶらんと揺れた。
 十二月の冷たい風は、ニーハイソックスを穿いていてもふりふりのミニスカートには少し辛い。
 それでも、里香は可愛らしいこの服で昌一の元へ尋ねた。この時ばかりは、《可愛い》自分でありたかった。

「さよなら、私の初恋……」

 冬の匂いを感じさせる風に乗って、里香の独り言は静かに消えていった。










 十二月も下旬。年の瀬も迫ってきているとあって、人は師走のごとく忙しない様がよく見られる。
 街の外装は既にクリスマス一色。電飾やらなにやらで煌びやかに飾り付けられ、サンタクロースの赤い服を着て歩く人も珍しくない。
 それもそのはずで今日はクリスマスイヴだった。

「今夜は頑張ろうねキリト君」

「ああ、そうだな」

 いつもと変わらない、黒を基調としたトップスに水色のジーンズ。アスナ/明日奈は相も変わらずキリト/和人が黒を好んでいるなあとぼんやり思う。
 最初こそ黒いカラーばっかり、と思っていたが今では逆に黒を着ない和人を想像できないまでになってしまった。
 思えば初めてアインクラッドで会った時も黒くなかっただろうか。いや、第一層攻略時はまださほどでもなかったと思う。
 黒いイメージが固定したのは、第一層クリア後のラストアタックボーナスである《コート・オブ・ミッドナイト》を装備してからかもしれない。
 《黒の剣士》なんて呼ばれ始めたのもそのコートの色のせいだったはずだ。
 しかし、では白いコートだったらどうなのかと考えて思わずクスッと笑ってしまう。
 和人は不思議そうに明日奈の方を見やり、「なんでもない」と明日奈は右手を振って誤魔化した。
 その指には、光り輝くプラチナリングが嵌められている。
 これは和人が明日奈にプレゼントしたものだった。今回の死銃事件、その調査報酬として和人が菊岡誠二郎からもらったバイト代三十万円。
 福沢諭吉が三十枚。間違いなく《サンジュウマイ》。それの約半分が化けた姿である。

(それにしても、まさか《プラチナ》……だったとは)

 和人は目に入った明日奈の指輪を見て思い出す。
 自分が《似ている》と目を付けて買ったのは、甲丸型のプラチナリングだった。
 ブライダル関連に詳しくない和人は最初、てっきり《シルバーリング》だと勘違いしていた。
 見た目はほっそりとしていて特に凝った意匠や装飾も無く、宝石も付いていない。
 本物の結婚指輪とするなら少しだけ安価ではあるが、十分に使われる代物であり、一学生が彼女へのプレゼントにするにはかなり上等な部類に入るだろう。
 ちなみにペアの指輪だったので和人の分もあるのだが、和人は恥ずかしがって自分はチェーンを同時に購入し、首からかけるようにしている。
 明日奈はこれを和人から送られた時、思わず涙を流しながら喜んだ。明日奈にも一目見てそれが何かわかったのだ。
 ばっと口元に手を当てて、感極まったかのように身体を震わせながら受け取ってくれた姿は、和人の網膜に今も焼き付いている。
 「アルバイトは……この為だったんだね」と向日葵のように笑う明日奈の顔は、流石に照れくさくて直視出来なかった。

(それにしても……あの時は助かったな)

 和人は上機嫌で歩く明日奈の横顔を見ながら思い出す。
 この指輪を買った時のことを。



 目的のお店の前で、和人は固まっていた。
 本当に自慢では無いが、和人の対人スキルは激低だという自負があった。いざ指輪を買おうと思っても、ブライダル取扱店に一人で入るのには相当の躊躇があり、勇気が必要だった。
 実は《一人では》半ば諦めそうだったのは明日奈に言えない絶対の秘密である。
 そんな、店の前で悶々と悩んでいる和人を助けたのは一人のスーツを着た年配女性だった。
 和人に面識はない……と思っていたのだが、向こうにはどうやらあるらしく、背中を押されるようにして和人は店へと入店させられた。
 目的の品を告げると、店員とのやり取りは殆どその女性がやってくれた。和人は申し訳なさと何処であったか覚えていないという不安で潰れそうだった。
 許されるなら今すぐにでもここから逃げ出したい。ここがVRMMOだったなら一言「ごめん」と言って強制ログアウトさえ敢行しかねない。
 だが、悲しいかな。ここは現実で、良い意味でログアウトボタンなどというものは存在しない。
 結果、和人は逃げるに逃げられず、その女性のおかげで指輪を買えたのだ。

「あの、ありがとうございます」

「ただの気紛れよ、丁度時間に余裕があった物だから。この店にはよく来ているしね」

「はぁ……それでその、大変失礼ですけど、以前何処かで本当にお会いしていましたっけ……?」

 和人の緊張しきった声に、女性は訝しそうな顔を向ける。
 それは少しだけ、人を値踏みするような目でもあった。

「貴方、声のトーンと《表情》が全然合っていないのだけど」

「えっ?」

「……まぁいいわ。人のことをとやかく詮索なんてよっぽどの事でも無い限りするつもりはないし。でも女性と会ったら顔くらい覚えておきなさい。それがマナーよ」

「はぁ……えっと、その、すいません」



 結局、あの女性は何処で会ったのかも名前も教えてはくれなかった。
 だが、どこか仕事が出来る女性、というイメージがあった。

(そういえば、お店で「先生」って呼ばれていたような……あれ?)

 先生、という呼び方に少しだけ心当たりがあった気がするが、和人にはそれが何処だったのか今イチ思い出せない。
 う~ん、と和人が唸って思い出そうとした時、クリスマスイヴなこともあってか、耳にはクリスマスソングが入ってきた。

『真っ赤なお花の トナカイさんは いつもみんなの 笑いもの──』

 和人の足が止まる。
 明日奈は、急に足を止めた和人に首を傾げた。
 和人の顔を見ると、先程までとは打って変わって真っ青になっているように見えた。

「どうしたの? 大丈夫?」

「あ、ああ……」

 とても大丈夫そうでは無い。
 一体この一瞬で何が起こったと言うのか。明日奈にはわからなかった。
 明日奈は知らなかった。《録音結晶》の存在は知っていても、その《録音内容》を。

「なら良いけど、無理しないでね?」

「大丈夫、それに今夜は何が何でも頑張らないとな」

「ふふっ、そうだね」

 すぐに和人は小憎らしい笑みを浮かべる。
 明日奈は少しだけ不安の《しこり》を残しながらもそれ以上は突っ込まなかった。
 代わりに自身も楽しみにしていた《今夜》のイベントを思い出す。
 ALO──アルヴヘイム・オンライン──の中にあるアインクラッド、そのアップデート。
 二十層以降の攻略解放を。
 この日をどれだけ心待ちにしていたことか。
 すぐに二十一層に駆け込み、そのまま過去の知識を生かして真っ直ぐボス部屋へ直行しボス攻略を終わらせる。
 既に知己のメンバーとは打合せ済みで、解放直前には二十一層に駆け込む為に二十層ボス部屋にて集合しておく手筈になっていた。
 全ては、一刻も早く二十二層にある筈の、《思い出のログハウス》を購入する為。
 あそこは、明日奈と、和人と、ユイの帰るべき場所なのだ。
 今《イグドラシルシティ》でレンタルしているプレイヤーホームよりもかなり手狭ではあるが、構わない。
 一緒に過ごしたことのあるあの場所であることが、一番重要なのだ。

「キリト君、遅刻しちゃダメだよ?」

「わかってるよ」

「ほんとかなあ? 攻略デートの時は何回か……」

「あ、あれは偶然またS級食材Mob(モブ)見かけた気がしてって説明しただろ? 大体その後二人してその場所を探索して……」

「気付けば一日終わっちゃったこともあったね……本当、あんな世界に居ながら信じられないくらい楽しかったよ」

「……そうだな」

 その楽しかった時間の集大成。
 結婚した時に……いや、結婚する際に居場所と定めた場所を、今夜取り戻しに行く。
 久しぶりの、アインクラッド攻略。そこにかつての緊迫感や恐怖感は明日奈には無かった。
 もうデスゲームではない、ということだけはない。横に和人/キリトがいればなんでも出来る。
 そう思えたから。


 カウントダウンのデジタルカウントが一つずつ数字を下げていく。
 白い円を描くようにして、時計のようにカウントする様はアインクラッド時代から変わっていない。
 それが今、十を切ったところだった。
 九、八……と下がっていくのを見ながら明日奈/アスナは周りに目配せする。
 そこにはアインクラッド時代からの頼もしい仲間であるみんながいた。和人/キリトはもちろんのこと、里香/リズベット、珪子/シリカ。
 エギルにクライン、そしてアルヴヘイムを通して分かり合った友、直葉/リーファ。
 アスナの視線に皆一様に頷いた時、カウントが一からゼロへと刻まれ、ファンファーレが鳴った。
 それは二十一層解放の合図。しかしそれを最後まで聞いている者はいない。
 カウントがゼロを刻む瞬間にはアスナを始め全員が駆け出していた。上層へ続く階段を一気に駆け上がり、二十一層フィールドへと降り立つ。
 このまま街へ行けば美味しいクエストの一つや二つ独占できる。誰よりも早くレアアイテムの入手も可能だろう。
 ここで手に入るアイテムの数々がどう《補正》されているかもわからない今、それらの情報はこの仮想世界を愛する《ゲーマー》としては涎が出るほど貴重な物だ。

 しかし。

 アスナ達はそんなものには目もくれずに記憶にある迷宮区へと足を加速させた。昔と違って転移ゲートのアクティベートなど微塵も考えない。
 目的はそんなものではないのだ。目的はただ一つ、二十二層の一角にあるとある場所。とある《物件》なのだから。
 しかし旧アインクラッド経験者、通称《SAO生還者(サバイバー)》のALOプレイヤーはキリト達だけではない。
 また、《SAO生還者(サバイバー)》以外にも最速攻略を目指す者がいないわけではない。
 彼らは知ってか知らずかアスナ達のように共に迷宮区へと一緒に向かいだす。
 総勢五十人といったところだろうか。フロアボス攻略戦をやるにはそこそこ十分な頭数と言えた。
 勝手知ったるなんとやら。ここにトゲトゲ頭の某プレイヤーがいたならこう言うかもしれない。

「なんでや! こんなんチートや!」

 そう言われても仕方ないほど、他の物には一切目も手も触れずにボス部屋へと駆け抜けた。
 途中、キリトなどは一瞬目端に捉えた宝箱を見つめるが、すぐにアスナのジトッとした視線に気付いて頭を振っていた。
 そうまでして、実に最高速度で二十一層のボス部屋へ総勢五十人が到着する。
 その五十人の最終目的は異なれど、目先の目的……もとい障害は目の前のフロアボスである。
 即席のレイドを組んで戦う事に誰も異論は発しなかった。この間、ボス部屋についてからなんとわずか三十秒である。
 すべてを取り仕切ったアスナはまるでかつてのKoB──血盟騎士団──副団長の時のようだった。
 話が纏まるとすぐにアスナの叩き壊すような勢いの拳でボスへの扉が開かれる。
 ここに、かつて日本、いや世界中を震撼させたアインクラッドのフロアボス攻略が始まった……のだが。
 この戦いに参加した者は、口をそろえて言うだろう。
 「これは攻略戦だったのだろうか」と。
 普通、攻略戦は当然のごとく難易度が高い。それは旧アインクラッドにおいて結局《百層》まで辿りつけなかったことからも明らかだ。
 新アインクラッドさらにその難易度が上がっている。もはやプレイヤーにまともにクリアさせる気が無い、と言わしめるほどの難易度になっているのは既に有名な話だ。
 だからこそ連係プレーは必須で、尚且つ前線で戦い続けることは困難を極める。
 能力構成(ビルド)を戦闘用に割り振っていないアバターならば尚更のことだった。

 だというのに。

 アスナは誰よりも先頭で剣を振るっていた。
 一切下がらず、逃げず、攻めて攻めて攻めまくる。
 アスナは《水妖精族(ウンディーネ)》に属し、その性質から半分ほどは《治療師(ヒーラー)》の《能力構成(ビルド)》になっているはずなのだが。
 そのアスナがひたすら先頭で剣を振り続けていた。これにはさすがのキリトも驚く。
 なんていう無茶だ、と思うのと同時に彼女へ凶刃が向かうことを許容できないキリトは普段よりもアスナの護衛のような動きをすることが多かった。
 それでも彼は流石というべきか、この戦い一番の活躍、ダメージディーラーがアスナなら、その次に続くのは彼と言っていいほどボスへの攻撃は絶やさなかった。
 かつてフロアボスのラストアタックを取りまくった男として嫌われていたことがあるキリトの腕も、伊達では無かった。
 その様を見ていたクラインなどは「かつての攻略戦の時より凄い」と評したものだ。
 新生アインクラッドのフロアボスはこれまでと違いHPゲージが見えない仕様になっている。
 だから止むことのないアスナの攻撃に、いつの間にかボスのHPが全て散らされていたとしても、仕方の無かったことと言えよう。
 アスナはトドメを刺したことに気が付かず二、三度多めに剣を振るったが、やがてボスの動きが止まり、自らの手でラストアタックを加えてフロアボスを倒したことを悟ると、大音響を纏ってガラス片が爆散するようなエフェクトが出る……前にはもうそのボスを蹴り飛ばすようにして避け、二十二層へと続く扉に駆け寄り、解放と同時に後ろも振り向かず駆け抜けていった。
 狙うは第二十二層フィールドの端に位置するあの場所。あの《ログハウス》があるポイントただ一つ。転移ゲートのアクティベートはやりたいヤツがやればいい。ここはかつてのアインクラッドとは違うのだ。
 彼女の駆け抜ける速度はかつての二つ名、《閃光》を彷彿とさせる程に凄まじいものだった。
 かつての仲間ですら、まともには追いつけない。唯一追随していけたのはキリトくらいなものだろう。
 その彼をして、この時ばかりは「追いすがるのがやっとだった」と後に語っている。
 二十二層にある物件はそのログハウスだけではない。他にも良い物件は多々あるし、ましてや解放されたばかりでは競争相手などほぼ皆無に等しいと思われた。
 それでも、可能性がゼロでない限り安心は出来ない。そんな思いがアスナの背を押し続けた。
 そうして辿り着いたログハウスの、購入ボタンを押した時──予算は随分前にクリアしている──アスナはへなへなとその場に座り込んで声を出して泣いた。
 幸か不幸か、《面倒なクエスト》には今回巻き込まれなかった。茅場に代わるアインクラッドの神、《カーディナル》が気を利かせたのかはたまた《まだその時ではなかった》のか。
 その答えは誰にもわからないが、アスナは再び《帰るべき場所》を取り戻した。





「乾杯!」

「乾杯です!」

「カンパイ!」

 久しぶりの我が家。
 仮想空間であるとか、そんなことは関係がなかった。
 アスナにとって《ここ》は思い入れが深すぎる。
 初めて好きな男の子と一緒になった家。初めて子供と呼べる子と過ごした家。初めて好きな男の子と……結ばれた家。
 例を挙げればキリが無い。だからだろう。購入ウインドウに《購入しました》のダイアログを確認した瞬間、アスナは感極まってしまったのだ。
 クラインを始め、みんなは気を利かせて今日は解散の運びとなった。元々、今日の目的はここまでだったのだから問題は無い。
 アスナが泣きやむのを待って、キリト達《三人家族》は久しぶりに、家族水入らずで《我が家の食卓》についた。
 三人でグラスを優しくぶつけ合う。ユイはナビゲーション・ピクシーの姿ではなく本来の少女アバターに戻り、イスから立ち上がって背伸びをするようにしてグラスを傾けていた。

 帰ってきた。

 そう思わせる何かがあった。
 ここにキリト君がいて、ユイちゃんがいて、自分がいる。
 その当たり前に必要だった最後のピース。本当なら最初のピース。
 それが今、およそ一年と少しの時を経て、取り戻すことが出来た。

「ぐすっ……」

「アスナ」

 再び涙腺が崩壊して泣き出してしまったアスナをキリトは抱きしめる。
 ユイはそんな二人を優しい笑顔で見つめていた。
 それから少しして、さあ仕切り直そうというところで、ユイは先に休むと言い出した。
 アスナとキリトは少しだけ驚いた。仮想世界からログアウトする時にユイはいつも寂しそうな顔をする。
 その意味を理解出来ないほど二人は名前だけの親では無かった。
 そのユイが、一人で先に休むと言い出した。彼女に睡眠は人間ほど必要無いにも関わらず、だ。

「珍しいなユイ」

「パパ、今日はイヴですよ? だからパパとママには一杯一緒にいて欲しいんです」

「気にしなくていいのよユイちゃん。ユイちゃんとも一緒にいたいし」

「ダメです! 一年に一度しかないんですから。クラインさんが言っていました、愛し合う男女はイヴにイチャつくものだと」

 アスナの表情にピキッと亀裂が入る。なんて事を教えているのだあの人は、と。
 これにはキリトも苦笑いだった。今度どうしてもクラインと二人きりになりたいと頼まれていたが、それについても考え直さねばなるまい。
 二人は密かにクラインのユイに対する危険度を上方修正する。

「私なら大丈夫です! 《今度は》視覚情報だけじゃなく《音声情報》も全部カットして休眠しますから何をヤッてもわからないです!」

「いや、その気の使い方はやめてくれユイ」

「本当にごめんなさいユイちゃん。お願いだから忘れて」

 ユイの指摘する意味を理解して、キリトとアスナは閉口する。
 本当に消してしまいたい黒歴史だと言っても過言ではない。
 さらにイヴの晩とあっては尚更である。
 その後、結局ユイは一人でベッドに入ってしまった。
 恐らくは本当に気を使ったのだろう。それだけ、ここに戻ってきたことがユイも嬉しいのだ。
 娘からのクリスマスプレゼント、と言ったところだろう。
 ユイの居なくなった居間に取り残された二人は「どうしようか」と見つめ合った時……メニューが突然ポップアップする。
 どうやらアスナにメールが届いたようだった。
 アスナはボタンをタップしてメールを確認する。すると短いお祝い文がリズベットからメロディ付きで届いていた。
 流れるメロディは……《赤鼻のトナカイ》。

『メリークリスマス! 良かったねアスナ、今日はゆっくりイチャイチャしていなさい!』

「もう、リズったら」

 アスナが苦笑しながらメールを閉じると、同時にメロディも消える。
 照れたようにアスナがキリトに向き直ると、キリトは少しだけ表情が硬くなっていた。
 彼のこんな表情を、アスナは知っている。今日も街中で見たがそれよりも前に。
 GGOの中でも見た。あれはBoBの予選決勝でぶつかった時だっただろうか。
 だが、それよりもっと前にも見たことがある。あれは……彼の《過去》を覗き見た時。
 全てを失ってしまった時の、悲しみ、辛さ、怒り。それらが含まれた、寂しげな表情。
 アスナは決して忘れていたわけではない。だが、これまでは決して彼の《傷》に深く触ろうとはしなかった。
 彼の犯した罪。彼自身が罪と感じている過去。
 それは恐らく、一つではないだろう。GGOにおいて《笑う棺桶(ラフィン・コフィン)》と再び戦ったことで、強くそれを意識したはずだ。
 だから、アスナは今こそその傷に触れる。

「ねえキリト君」

「……なんだ?」

「……いいんだよもう、怖がらなくて」

「何を言って……」

「月夜の黒猫団のこと」

「っ!」

 キリトの表情が歪む。
 図星、ということだろうか。

「ラフコフ討伐戦でのこと」

「……!」

「キリト君はそれを罪だと思ってる。忘れることも罪だと思ってる。ずっとずっと引きずってる」

「……」

「だから、だからね? 私が赦してあげる」

「……え?」

 アスナの言葉に、キリトは一瞬我を忘れた。
 言っている意味が唐突すぎて分からなかった。
 いや、理解が追いつかなかった。心が、即座に理解してしまうことを拒否した。

「他の誰が赦さなくても、キリト君自身が赦せなくても、私が赦してあげる」

「あ……」

 赦す。
 たった一言。
 その一言が、これまで妙に重いと感じていたキリトの肩をフッと軽くしたような気がした。
 実際には、決して赦されることの無い罪。
 ギルドの仲間の命。レッドプレイヤーと言えど自ら奪った命。
 そのどれもが決して戻ってくることはない。
 それでも。
 他の誰でもないアスナに「赦す」と言われたら。
 決して無くなることの無い罪の重さから少しだけ解放されたような気がした。

「俺……いいのかな」

 か細い搾り出すようなキリトの声が、その苦悩を代弁していた。
 一体どれほど抱え込んでいたのだろうか。それはアスナにもわからない。
 ただ、受け止めるだけの《覚悟》はあった。

「俺は、忘れていたんだ。人を殺したこと」

 自分の手を見つめて、キリトは淡々と語る。
 それはきっと、ラフコフ討伐戦での出来事だろう。
 見つめる彼の手に、一体何を彼は想うのか。

「でも、そのおかげで助かった生命もあるよ。私も……そうだから。あの時、キリト君が頑張らなければ、きっと部隊は総崩れだった」

「俺はそんな高尚なこと考えてなかったよ。自分のことで必至だった」

「私もだよ。でもそれはきっとみんなそう。あの時一緒に戦った仲間も、ラフコフの人達も。みんな一緒なんだよ。キリト君一人が背負うことじゃないの。だから、私はキリト君が例え自分を赦せなくとも、貴方を赦します」

 貴方を赦します。
 その言葉で、とうとうキリトの瞳から、一筋の涙が零れた。
 罪の意識を背負い続けてきたキリトにとって、何よりも求めていたのは、赦されることだったのかもしれない。
 それを、アスナは本人よりも一番理解していたのかもしれない。
 クリスマスイヴの夜。取り戻したかつての思い出の家で、キリトは嗚咽を零しながら何度も「ありがとう」「ごめん」と繰り返す。
 アスナはそんな彼をずっと撫で続けていた。

 この日を境に、僅かばかりだがキリトの感情表現……表情が改善に向かい始める事になる。










 キラキラと煌びやかな電飾が夜の街を賑わせている。
 クリスマスイヴの晩とあってはそれも当然のことだが、それがこの男には面白くなかった。

「……ちぃ、くそっ!」

 顔は髭がぼうぼうに伸び、草臥れたスーツにネクタイ。
 目は真っ赤に充血しぎょろりと忙しなく動いていて、浅い呼吸を繰り返している。
 綺麗だった長髪はどこもちぢれ毛になっていた。

「捕まってたまるか……俺は、俺は……!」

 男は逃亡中の身だった。
 既に逃亡生活は長期化していて、最後に風呂に入ったのも随分前だ。
 擦れ違う通行人がその匂いに顔をしかめる。
 ギッと男は睨み付けて通行人を威嚇した。
 すぐに通行人は目を反らし、離れていく。クリスマスの夜にわざわざ自分からトラブルの渦中に駆け込むこともない。

「チッ、臆病者が……殺してやろうか? まだ《ブツ》は残ってるんだ、ヒャハハ────チッ!」

 ピカピカと賑やかな電飾が煌めく。
 擦れ違う人間全てが「幸福です」と言っているように感じて苛立つ。
 やはりいっそ殺そうかと思う。
 自分にはその手段がある。
 実際に殺したこともある。その辺のいざとなったら尻込みするようなチキン野郎とは違う。
 また通行人が顔をしかめた。殺すか。

「いや……我慢だ、我慢。ヒャハハ──チッ」

 苛立つ。イライラが止まらない。
 周りを注意深く見回して警察の巡回をやり過ごす。
 まだ捕まるわけにはいかない。
 ヒソヒソと周りがまるで自分を見てコソコソ話しているようだ。
 何をみていやがる。やっぱり殺すか。いやだめだ。くそっ。
 同じような思考のやりとりを幾度と無く繰り返し、悪態を吐き続ける。
 ポケットに偲ばせたブツの《グリップ部分》に手を伸ばしては離す。
 いつでもこれでここにいる奴等をあの世に送ってやれると思えば、少しは精神的にも落ち着ける。
 だがこの喧騒はだめだ。本当にだめだ。無茶苦茶に壊してやりたくなる。
 男は浅い呼吸を繰り返しながら苛立つ喧騒から離れるように路地裏へと足を伸ばした。
 しばし奥まで入り、人気が薄くなってくるとようやくじっくりと物事を考えられる。考えられるから、

「ああくそっ!」

 ガンッ! と道ばたにあるゴミ箱を蹴り飛ばした。
 静かになれば冷静になれる。しかし冷静になれば今の自分の状況を思い出して苛立つから無理矢理人混みに紛れてみたのだ。
 なのに戻ってきてしまったら何の意味も無い。
 いつまでこんなことを続けるつもりだ? と冷静な筈の自分が尋ねる。
 愚問だ。

「《あの女》をヤるまでだァ……ヒャハハ!」

 男にはどうしても殺したい相手がいた。
 自分をコケにしたその女を八つ裂きにし、奪い、惨めに汚してやりたい。
 何しろその女は容姿が良い。この手で汚すことを想像すればそれだけで興奮できる。
 でも殺す。だから殺す。

「あの屈辱はわすれねェ……!」

 ガンッ! ともう一度転がっているバケツタイプのゴミ箱を蹴り飛ばす。
 その飛んでいった先から、人の気配がした。

「……おいおい、汚いな」

「あァ!?」

 なんだコイツは? 誰に向かって口を訊いてるんだ? 死にたいのか?
 いやだめだ。まだだめだ。落ち着け。落ち着け。
 男は怨念たっぷりに睨み付ける。大抵の通行人はこれで逃げる。
 そうだ、お前等ザコは俺に怯えて逃げ回れ。

「やれやれ、ようやく探し当てたと思ったんだが」

「探しあてた? てめぇ、まさか……!」

 ギクリ、とする。自分が逃亡中の身であることを忘れたわけではない。
 つい先日も、人を襲い、指名手配真っ最中なのだ。だからこそ、隠れたように移動して息を潜める生活に苛立ちが募っていた。

「勘違いしないでくれよ? 私は警察じゃない。君と協力をしたいと思っただけだ、犯罪者クン」

「ンだとォ……?」

 相手はビシッと白いスーツを着こなした上流階級のような優男だった。
 クイッと眼鏡を直す。その眼鏡も高そうで、腕に付けている時計も高級そうだ。
 だが、レンズ越しに見えるその目が、顔全体を爬虫類のようなイメージにしてしまっている。
 男には分かった。自分に近い匂いがする、と。

「仮釈放中の身でね。イロイロと苦労も多いんだよこっちは。なのにウロウロしてくれちゃって……全く」

「知るかよそんなこと」

「チッ、これだからこんなヤツと話すのはイヤなんだ。馬鹿がうつる」

「は?」

 やはり殺すか。
 いやだめだ。まだだめだ。

「てめぇ死にたいのか? 俺が殺れないとでも思ってやがんのか? あぁ!?」

「やっと建設的な話が出来そうだな」

「は?」

「その声はやめろ、本当に馬鹿だな君は」

「てめぇ……!」

「《お互いに》警察に追われる身だ。手短に言う。こちらは《情報》を渡す。お前はターゲットを殺す。実にシンプルだ」

「何を勝手に話を進めてやがる。それに乗るメリットが俺にあるとでも?」

「ターゲットを聞けば悪くない話だと思うが。何せターゲットは────────」

 白いスーツの優男が口にした名前に、男は聞き覚えがあった。
 正確にはその《プレイヤーネーム》に。
 それだけで、男は優男の話を聞く価値があると踏んだ。
 優男は多くを語らず、メモを渡した。そこにターゲットの所在が書かれている、と。
 男はそれを見て、口端をニヤァと歪ませる。目的が、向こうから転がり込んできた。
 こんなに都合の良いことはそうはない。やはり俺は特別だ。

「それで? やってくれるんだろうな」

 答えなんざ決まっている。しかし、その前に。
 このふてぶてしい成金爬虫類優男には言ってやりたいことがあった。

「てめえ、その時計寄越せ」

「は?」

「馬鹿みてえな声出すな」

「く……どうする気だ?」

「こちとら金がねえんだよ。売って金にする。それが報酬代わりだ」

「……チッ!」

 優男が舌打ちする。男に見せる初めての苛立った感情の発露。
 そうこなくては。やられっぱなしなど自分のプライドが許さない。
 優男は時計を外し、男に投げつけた。珍しくその行為に男は苛立ちを覚えなかった。
 そうして、《契約》は互いの利害関係の一致という点で、成立した。










 電子の海。それは形容出来ない世界。
 見るという概念はあるようで無い。
 全てを脳内で処理しているようなもの。
 脳内でインターネットに接続し、検索結果を即座に知識として理解している……そんな感覚。
 やはり形容は難しい。視覚情報という意味でなら不可能に近い。
 その世界に、ユイは埋没していた。

「……第一プロテクト、クリア。……第二プロテクト、クリア」

 光の速さでプログラムの端から端を洗っていく。
 既に仕込んでおいた《バックドア》に再接続(アクセス)。
 流石に防壁は厳しいと思うが、それでも二つほどを瞬く間にクリア……したところで。

「……だめ、ですか。これ以上は危険ですね」 

 ユイはハッキングを諦めた。
 彼女に表情はない。ただボウッとした顔で淡々と事実の確認をひたすらに行う。
 もとより0と1の処理をひたすらに行う存在なのだ。そこに処理という行動を省けば、《何も起こらない》。
 生身の──と言ってもその姿さえ虚構だが──身体、アバターはALO内の浮遊城アインクラッド第二十二層に位置するログハウス内の一室に座標は固定されたままだ。
 微少を浮かべ、《人間がそうであるように》胸を上下させて瞼を閉じ横になっている。
 だが彼女の《意識》とも呼べるモノは別の場所にあった。
 回線を通して遥か遠くへと思考を伸ばす。

「でも収穫が無いわけでもない、ですね」

 侵入先の最奥へは入り込めなかった。流石に防壁は硬い。
 そもそも上手く仕込んだ《侵入経路(バックドア)》が無ければここまで入り込むのすら難しい。
 何せ相手は──────

「私は全てを納得してはいませんよ……クリスハイトさん。貴方は本当に──潔白ですか?」

 《国家権力》なのだから。
 それでも彼女はその持てる能力を余すことなく使うことを躊躇わない。
 その結果が、例え《自身の崩壊》を招く事に繋がろうとも。

「パパとママに手を出して、タダで済むと思っているのなら……大間違いです」

 これまでキリトやアスナが聞いたことの無いような、低いユイの声が、電子の海へと消える。
 このことを、キリトとアスナが知ることはない。


(GGO編終わり)



[35052] 追憶のSAOP2-1
Name: YY◆90a32a80 ID:b9264a49
Date: 2013/08/26 20:13


 わからないことだらけだ。
 最初にキリトが思ったことは疑問に次ぐ疑問だった。
 自分は確かALO──アルヴヘイム・オンライン──のプレイヤーホームにて、ついうっかりとうたた寝をしてしまったはずなのだが。
 それが何故、

「俺、どうしてアインクラッドにいるんだ……?」

 アインクラッドにいるのか。
 キリトが気付いた時、彼は急角度の断崖に突きだしたテラスに座っていた。
 記憶に新しいアインクラッド低層フィールド。ここは第二層のスタート地点ではないだろうか。
 狭いテラス状の下り階段が岩肌に沿って伸びている。第一層と異なり二層はテーブル状の岩山が端から端まで連なっているのだ。
 何故自分はここにいるのだろうか。キリトは全く思い出せなかった。
 アインクラッドがあること自体はさほど不思議ではない。先日のアップデートにてALOに伝説の城、浮遊城アインクラッドは復活を果たしている。
 問題なのはALOの《空中都市イグドラシル・シティ》にあるレンタルプレイヤーホームにいたはずの自分が何故アインクラッドフィールドにいるのか、ということだ。
 付け加えるならここは圏外フィールドでもある。
 しかしふと自分の格好を見て、得心する。「ああ、なんだそういうことか」と。
 今キリトが着ている、否、《装備》しているのは懐かしいと呼べる武具。
 第一層のフロアボスである《イルファング・ザ・コボルドロード》のラストアタックボーナス、《コート・オブ・ミッドナイト》。
 全身真っ黒と呼ぶに相応しい膝丈まである長いコートはこれを手に入れた時から彼の……《悪のビーター》のトレードマークとなっていたはずだ。
 さらに最初の相棒とも呼べる第一層のクエストリワード品だった片手直剣、《アニールブレード》。
 これをここで装備している意味は恐らく、

「夢だな、うん。間違いない」

 その一言に尽きる。
 明晰夢という言葉がある。夢の中でもハッキリと自分の意識を保ちよく内容を覚えている夢だ。
 キリトにとって明晰夢は何度か経験したことがあるものだ。それは決して良い物ではなかったけれど。
 そう意識してからはそれを裏付けるように頭の隅に少し靄がかかったような、ハッキリしない部分を知覚することも出来た。
 キリトは大きく息を吐き出すと、真っ直ぐに断崖の先を見つめた。この先には確かアインクラッド第二層の主街区、《ウルバス》があったはずだ。
 眼下のテーブルマウンテンを丸ごとひとつ掘り抜いた街。フィールドを一キロほど走破した先だったか。
 中央広場に転移門があり、そこまで行けば好きな層へ転移できるだろう。
 もし仮にまだアクティベートされていなかったとしても、ボス消滅から二時間後には自動的に開く仕組みになっているから、二層に自分がいる以上、遅くとも二時間後には転移門は解放される。
 というか転移したいのなら自分でアクティベートしてしまえば良い。
 とそこまで考えてキリトは苦笑する。夢の中で何をデスゲームの時のようなことを考えているんだ、と。

 その時だった。

 背後の螺旋階段を昇る音をキリトの仮初の聴覚システム──正確には夢によって再現されたシステムもどきだろう──が捉えた。
 何となく、振り返らずともそれが誰かはわかっていた。

「アスナ」

「……なんでわかったのよ」

 少しだけぎょっとしたような声。
 思ったよりも鋭い声色に「あれ?」と違和感を感じ振り返る。
 長いブラウンの髪をたなびかせ、細剣を腰に掲げてやや不機嫌そうな顔をする少女。
 そこにいたのはやはりアスナだが……彼女もまた随分と貧相な──ある意味ではこのフロアに適当な──佇まいだった。
 彼女の装備はかつてここ、第二層に初めて到達した時のそれと酷似している気がする。
 全てを記憶しているわけではないが、記憶が正しければそれは間違いなく《あの時の》姿だった。
 ここでようやくもう一つ合点がいく。《今》は第一層クリア直後なのだろう、と。
 この《夢》は、かつて自分が経験したあの日の記憶の再現なのではないだろうか。
 夢では過去の出来事を整理する為なのか、記憶のリピートが行われることがあると聞いたことがある。
 これは第一層クリア直後の過去夢、そんなところだろう。そうならアスナのやや鋭さを帯びた声色にも納得がいく。
 キリトは現状理解についてこれ以上深く考えることを止め、代わりにこの時自分は彼女にどんな話をしたのかということを思い出していた。
 今は自分が《ビーター》と名乗り、悪の象徴となったばかりの頃のはずだ。
 とにかく人と距離を置こうと思っていた気がする。

「来るなって言ったのに」

「言ってないわよ。貴方が勝手に一人で上って行っただけ」

「そうだったかな、ごめ……え?」

 なんだか、少し違和感があった。
 記憶の底をチリチリと焦がすような何か。
 今一瞬、何かが噛み合わなかった気がした。

「俺、何も言わなかった?」

「ええ、一人で寂しそうに上って行っちゃって」

 そんな筈はない。流石にそれはない。
 この時は、足りない対人スキルを目一杯稼働させて渾身の悪ぶった姿を見せた筈なのだから。
 なんだか違う。何かが違う。
 でも、じゃあ何が違うんだ?

「戻らないの?」

「戻れるわけないだろ?」

「なんで?」

「なんでって……」

 いよいよ違和感がそうだと感じられるほどに膨らむ。
 《ビーター》騒ぎを起こした自分があの場にノコノコと戻れるわけがない。
 そんなこと、アスナも十分に分かってくれているはずなのに。

「あのぉ、つかぬことをお伺いしますけど」

「何よ、白々しい喋り方して」

「《ビーター》宣言した俺ってみんないい顔しないよな?」

 SAOでの悪の代名詞。そう言っても過言ではない《ビーター》。
 その名を背負う覚悟など到底無かったが、事実ではあるとどこかでキリトは認めていた。
 何より、ディアベルを喪ったばかりの彼らとどう顔を突き合わせて良いのかもわからない。
 彼の副官のような位置にいたリンドや彼を慕っていたキバオウなどは自分を相当快く思っていなかった事は忘れたくとも忘れられないのだから。
 だというのに。

「《ビーター》? なあにそれ? 何かの隠語? 私まだゲームのそういうの詳しくないんだけど」

「え……」

 予想もしない言葉が返ってきた。《ビーター》がなんなのかわかっていない。
 流石に「あり得ない」と思わざるを得ない。あの場にいれば聞いたことが無くともニュアンスで大体理解は出来るはずだ。
 聞いたことがあれば。

「もう一つつかぬことをお伺いしますけど」

「だから何よ、その白々しい喋り方」

「《ビーター》って言葉を聞いたことは?」

「無いわよそんなもの。ゲームクリアに支障が出るなら意味を教えてよ」

 絶句する。
 ビーター宣言を、していない……? 一体、どうなっている?
 そんな馬鹿な、と口を開きかけてすんでの所で留まる。
 これは夢だ。その前提を忘れてはいけない。夢ならばなんでもありだ。そのはずだ。

「いや、なんでもない。知らないなら良いんだ。全く関係の無い言葉だよ」

「ふぅん。チョット気になるけど、まあいいわ。それで?」

「へ? それで、とは?」

「だから貴方が下に戻らない理由よ。勝手に一人で先へ行った理由、でもいいけど」

 そういえばそんな話だった、とキリトは納得してからしかし言葉を詰まらせる。
 そう言われてもここは夢の中で、気付けばここにいたわけで、そこに理由を求められても説明するのは難しい。
 そもそも夢なのだからアスナの質問に絶対答えなくてはならないわけでもない。
 しかしいかに夢と言えどキリトは彼女を蔑ろにするような真似はしたくなかった。
 それにこの初期の細剣使い(フェンサー)様はそういった誤魔化しや、なあなあな態度には冷ややかな視線をお送りになられるのである。
 既にジトッとした視線が横睨みのような目からキリトに突き刺さり、凄く気まずい空気になりつつあった。
 何だか少しキツい気もするが、最初の頃のアスナはこんな感じだったっけ、と思い返す。
 彼女は何処までも強く、気高く、その腰に下げている細剣のように尖った鋭さを孕んでいて……何よりも美しかった。

 ……あれ?

 フッと《何か》が頭をよぎる。
 なんだかとても《大切なこと》のような気がした。
 一瞬思考に引っかかったそれ。それは、ここで《気付かねばならない何か》ではないかと予感が奔る。
 いや、もしかしたら今自分は《それに気付くために》この夢を見ているのではないだろうか。
 しかし、そこで思考は中断させられる。彼女の口からもたらされたこの《世界》の事実によって。

「ディアベルさんに悪いと思っているの? 良いじゃない別に。彼でなく貴方がその装備を貰ったって」

「えっ」

 アスナの口から出たディアベルというプレイヤーネーム。
 それは決してキリトの中から消えることの無い名前だ。ある意味で、彼がいたからその後のゲームクリアへの感情が変わったと言っても良い。
 同時に、SAOに囚われた全プレイヤーに大なり小なり影響を与えたプレイヤーでもあるだろう。
 それほどまでに彼の功績は大きかった、とキリトは考えていた。
 いや、問題はそこではなく。
 問題なのは今のアスナ口ぶりだ。今のはまるで《ディアベル》がまだ《生きている》ともとれるような発言では無かったか。

「そもそもそれを貴方にあげたのは私なんだからウジウジしないでよね」

「はい!?」

 今度こそ声を抑えきれなかった。
 今アスナはこの《イルファング・ザ・コボルドロード》のラストアタックボーナス、《コート・オブ・ミッドナイト》を自分がキリトに贈ったと言った。
 それはあり得ない。何故ならこの装備は自身が第一層フロアボスのLA(ラストアタック)をもぎ取り、得たもののはずだったからだ。
 少なくともキリトの記憶ではそうなっていた。まただ。また、噛み合わない。
 これは夢だ。夢だからなんでもありだ。そう思っていた。
 だが同時にこれは自分の過去夢でもあると思っていた。しかし、過去夢と言うには食い違いがありすぎる。

「これを、俺がアスナからもらった……?」

「何よその顔」

「い、いや……うん、ありがとう……?」

「なんで疑問形なのよ。さっきはあんなに嬉しそうにしていたくせに」

「え? あ、うん。えっとその、じゃ、じゃあディアベルは……」

「ディアベルさんなら下でみんなを纏めてからここに来るんじゃない? ボス討伐の成功を讃え合ってもいたし」

「!」

 アスナの言葉に、キリトの心臓がドクン! と跳ねた。
 ドクッドクッドクッと《心臓らしきもの》が跳ねる度に、言葉の端々の単語が脳裏に羅列されていく。
 ボス討伐。ディアベル。ここに来る。
 それはつまり、ディアベルが生きているということだ。
 まさか! という思いが駆け巡る。彼が生きている。それはキリトの辿ってきた記憶と齟齬がありすぎる。
 だとすると、本当にこれを過去夢と呼んでいいものか。
 いや、そもそも……、

 ────本当にこれは《夢》なのか?

 もし、もしも。
 今自分の中にあるこれまでの出来事、それらの方が《夢》だったのなら?
 デスゲームのSAOは実は終わっていなくて、逆にこれまで長い《夢》を見ていただけなのだとしたら?
 ディアベルが死ぬという出来事も、月夜の黒猫団のことも、圏内事件も、アスナのことでさえ実は起きていないのだとしたら?

 この世界が《夢》で、これまでの出来事の方が《現実》だったという保証がどこにある?

 頭の隅にかかった靄。そんな曖昧な物では決められない。
 もし、もし……もしも。
 そう考えるとキリトは爆発しそうになった。
 仮に、これまでの事が全て夢で現実では無かったとしたら。
 月夜の黒猫団などいなかったことになる。悲しみも背負う物もそんなものは無かったことになる。
 その代わり、アスナとの関係も無かったことになる。

「……」

 それだけは、嫌だった。
 だがこの嫌という気持ちさえ自分で勝手に作ったものだったとしら、とても耐えられる気がしない。
 だから、確かめなくてはいけない。
 そう思ったキリトはディアベルを待たずにアスナと分かれると、単身とある場所へと向かいだした。
 それは《エクストラスキル》である《体術》の修得場所である。



 広大な──直径はほとんど第一層と変わらない──二層に林立するテーブルマウンテンの岩壁をよじ登り、小さな洞窟に潜り込み、ウォ-タースライダーのような地下水流に流されること数分。
 戦闘も数回こなしつつ移動開始から計三十分ほどして、二層東端の一際高くそびえる岩山の頂上近くに辿りつく。
 はたして《体術》の修得所は確かにあった。周囲をぐるりと岩壁に囲まれた小空間となった場所に泉と一本の樹、そして小屋。
 記憶通りに途轍もなく面倒くさい場所に《エクストラスキル》である《体術》は存在し、修得することが出来た。
 ……頬に線を入れられ《キリえもん》に再びされたのは嫌だったが。
 今回はコツを掴んでいたおかげか初日のうちに目的である岩破壊を成功させることが出来、誰に見られることもなくひっそりと修得に成功した。
 キリトはホッと安堵する。この《エクストラスキル》のことは間違いなくベータテスト時代の自分では知り得なかった情報だ。
 それを知っていたということは、間違いなく記憶の中の出来事は《事実》だったと言うことに外ならない。
 同時に、ここが過去のアインクラッドを再現された《夢のようなもの》であることも確信を得た。
 ここは間違いなくアインクラッドだが、ALOの中ではない。ログアウトボタンが無いし、メニューウインドウの出し方も《左手》ではなく《右手》だったからだ。
 記憶が正しい以上、SAO──ソードアート・オンライン──は既にクリアされている。自身とヒースクリフ……茅場晶彦との決着によって。
 だが《メニューウインドウが出る》というシステム的な物が当時のまま再現されていることから、やはりこれは《夢》か《夢のようなもの》と結論づけた。
 だからといって無闇にHPの全損を試してみる気にはなれないが。

「それにしても……アルゴには悪いことをしたかな」

 何も考えずに真っ直ぐ修得場所へ向かってしまったが、よく考えればここの場所を知ったのは情報屋、《鼠のアルゴ》から聞いたおかげだ。
 そのアルゴから情報を仕入れるきっかけとなったのは、確か忍者もどきのプレイヤー二人組が《素手スキル》を求めてアルゴに迫っているところに偶然居合わせたからだった。
 今回、その時間には既にスキル修得の修行場所へ向かってしまった為、アルゴと居合わせることは無かった。
 アルゴのことだから無事だとは思うが、わかっていながら助けにいかなかったことをつい後悔してしまう。
 後悔先に立たず、とはよく言った物だ。それが例え現実とは関係ない夢だという実感があったとしても。

「しかし……全然眠くならないな」

 丸一日大岩と向き合うというそれなりにハードな一日を送ったが、疲労感はあるものの不思議と睡魔は襲ってこない。
 SAO……仮想世界に体力的疲労はほとんど感じられないがそれでも精神的疲労という物は確かに存在する。
 かつてアスナなどは、迷宮区に単身潜り続け、意識を失ったことさえもある。あの時、偶然にも自分があそこに居合わせなかったらどうなってしまったのだろう……ということは考えたくはない。今となっては特に。
 SAOを含めVRゲーム、すなわちナーヴギアやアミュスフィアを使った完全フルダイブ型の仮想世界は、その多くを直接脳とのやりとりを行うことによって成り立っている。
 極論を言えば、仮想世界に潜っている間は脳をずっと使い続けているということになる。人間誰しも心臓と脳の活動は死ぬまで続くとは言われるが、事はそう単純ではない。
 実際に眠っている時とそうでない時の活動量には雲泥の差があるからだ。
 その為、疲労をそこまで感じていなくとも一日のサイクルを無視したプレイ……攻略は控えるのが安全策と言えるだろう。
 この夢からはいつ目覚められるのか検討もつかない。だがこのまま続くのならばせめてあの頃のように出来る万全を尽くすべきだ。
 なればこそ休む必要があるのだが、どうにも《長年の感覚的》にその必要性を感じられない。
 キリトはこれまでおおよその《感覚》によって休憩の必要性を感じ取っていた。絶対的に《感覚》などという曖昧な物を信じるのは危険だが、一つの指標としては信頼に足る物と自負していた。
 その《感覚》によると自分の疲労はさほどではないとの判断を下している。しかしながら相対的に流れる《事実》としては論理的に休憩をすべきとの解が得られる。
 どうにも《感覚》と《事実》が一致しない。これまでにこういった事が無かったかと聞かれれば無かったとは言わないがそこはかとない違和感を拭うことは出来なかった。
 この違和感の正体が《夢》だからなのか、それはわからない。ただキリトはこれが例え《夢》だったとしても《捨て鉢》になるような真似をするわけにはいかなかった。

「約束……だしな。やっぱりここは《ウルバス》で休んでおくべきかな」

 キリトには約束がある。決して破ってはいけない……否、忘れてはならない約束が。
 それはアスナとの《自分の命を簡単に諦めない》というもの。外ならない彼女との約束を、例え彼女が見ていなくともキリトに破るつもりは無かった。
 もし破ってしまったら、それは彼女を裏切った事になるも同然だからだ。ここが九割九分九厘《夢》だったとしても、《SAO》という世界観である限り彼女との約束を破るつもりはない。
 それが意味の無い安っぽいプライド、見栄だと言われようと構わなかった。決して自意識が強いとは言えないキリトの、数少ない曲げることの出来ないものなのだから。
 アスナとの約束には、《夢》かどうかなんて関係ない。現実であるか非現実であるかは問題ではないのだ。
 つまり、既にキリトにとって今いる世界、起こっている現象は《自分の命を簡単に諦めない》という点で本物のSAOとなんら変わらない。



 ────そう、これは非現実であっても偽物ではない。



 キリトが第二層の主街区《ウルバス》へと足を踏み入れると【INNER AREA】のシステムメッセージが目端にポップする。
 《夢》と言えどこの再現率はなかなかどうしてたいしたものだ。そんな我ながら馬鹿みたいな事に感心しながらキリトは宿を見繕う為に視線を彷徨わせた。
 ここの宿は第二層の中でも主街区というだけあって少なくはない。だが第一層のように良い場所を、と考えるならば候補は絞られてくる。
 これは《夢》でありながら何故だか随分とリアルに再現されているので、情報やサービスが大幅に変わっていることはないだろうが、逆に言えば《夢なのだから》というご都合主義は期待できない。
 そうなると思いつくめぼしいポイントは来るのが出遅れたキリトが入り込む余地は無いかもしれない。
 そもそも、ベータテスト時代ならともかくデスゲーム化したSAOでの第二層攻略時は自身が《ビーター》を名乗った経緯から主街区にはあまり近づかなかった。
 拠点もあえて人が多くなるここではなく人が少なさそうな《ウルバス》から南東に三キロほど離れた《マロメ》という小さな村に構えた。
 しかし《マロメ》は物資を調達するには品揃えが悪く、その為渾身の変装をしてから物資調達の為にこの街を歩いたものだ。
 だが今は幸か不幸か《ビーター》そのものが《無かったこと》にされている。それならばかつてよりもゆっくりじっくりこの街を歩けるかもしれない。
 そう思うとゲーマーの性なのかキリトは少しだけワクワクしてきた。だが待てよ、とここで一度冷静になる。
 だからと言って堂々とフロアボス攻略のLAボーナス品を装備して歩いては自己紹介するようなものだ。
 ここは一つ、やはり何らかの変装はすべきではないだろうか。

「うーん……」

「何を道の真ん中で悩んでいるのよ」

「いや、街を歩くのに変装すべきかどうかって………………へっ?」

 思わず声が裏返ってしまう。
 慣れ親しんだ声故に一瞬流してしまったが今の声はまさか、と思いギギギと油の切れたブリキの玩具宜しく声の方へ振り返る。
 そこにはやはりというか、記憶の片隅に眠っていたウールケープに身を包む《彼女》がいた。

「変装? 何の為に?」 

「あ、いや、それはえっと……」

 言葉に詰まる。どうにも昔からアスナには強く出られない。
 もともと対人、それもとりわけ女性に耐性が無かったせいもあるが、この頃のアスナには何というか、逆らえぬ無言の威圧感のようなものを感じていた。
 凛としたその声は、既にキリトをパブロフの犬のよろしく萎縮させる効果がある。
 リアルでもアスナにジロッと睨まれるとキリトに反撃の術はそう残されていないのだから。
 と言っても最近のアスナはこの頃のような《鋭さ》はナリを潜めて《ほわほわ》とした太陽のような暖かみで一杯なので、そんな目に合うことはキリトがよっぽど何か失態を犯さない限りは見ることはない。
 だから、割と体感的には久しぶりの《副団長サマモード》とも呼べるこの隙の伺えないアスナにたじろぐキリトは緊急避難行動……話題を変えることによる回避を試みてみた。

「そういうアスナこそどうしてここへ?」

「私は武器の強化に」

「へぇ、武器の強、化……?」

 アスナの言葉に既視感。これに似たやり取りは覚えがある。
 確かに過去、ここで強化を試みる為にお互いが顔を突き合わせた事があった。
 あの時何が起こったのかもよく覚えている。
 途端、耳にはカン、カン、カンというリズミカルな音が響いて来た。
 音源の方向……東広場へと視線を向けると、そこにはNPCではない鍛冶屋が一人《ベンダーズ・カーペット》という決してお安くないスミス御用達のアイテムを広げていた。
 あの鍛冶師のことはよく覚えている。関わりこそそう多くは無かったが、忘れるはずもない。

 アインクラッド初の《武具強化詐欺》。

 やっている彼も決して望むところでは無かっただろうが、それは事実として確かにあったことだ。
 そしてその犠牲者の一人にアスナはあやうくなりかけた。あの時、剣が失われたと思った時の彼女の憔悴振りは本当に見るに絶えないものだった。
 《夢》と言えどもう一度彼女をあんな目に合わせるわけには行かない。

「えっと、その、強化素材はどれぐらいあるんだ?」

「そんなにはないわよ。今でどれだけの確率か聞こうと思っていたのもあるし」

「じゃ、じゃあもっと素材を溜めてからの方がいいんじゃないかな」

「どうしてよ」

「確率は高い方がいいだろ?」

「そうだけど、別に今のままでもそんなに変わらないなら良いんじゃないの? 今の+4まで結構難なく上がったわよ」

 どうやらこのアスナはまだ強化について然程詳しくないらしい。
 以前はアルゴからいろいろ情報を買い、調べていたようなのだが。
 それはもう少し後のことだったのかもしれない。

「強化はそこまでは割と簡単なんだ。でもそこからは極端に確率が下がるから」

「下がったらやり直せばいいじゃない」

「ところが武器には《強化試行上限数》っていうのがあって強化できる回数は決まっているんだ。あんまりミスすると折角の業物……レア武器も宝の持ち腐れになっちゃうって寸法さ」

「でも一回や二回くらい……」

「そうやって失敗すると最後の方で結構困ることになる。だから今回はやめておいた方が……」

「なんだか随分私に強化をさせたくないみたいな言いぐさね」

「そ、そんなんじゃなくて……アスナの《ウインドフルーレ》ならちゃんと強化していけば三層中盤位までは十分に使える潜在能力を持っているから勿体ないと思ってだな」

「ふぅん」

 ジロォ~~~と目を細めて見つめられる……否、睨まれる。思わず掻かない筈の汗が背中にだらだらと流れているような錯覚をキリトは覚えた。
 随分と懐疑的な目を向けられ、気まずくなる。思った以上に反発、というか我の強さを押し出している。
 アスナってこんなにツンツンしていたっけ? と不思議に思う程だ。
 だがよくよく思い返してみれば最近……それこそシステム上の結婚をしてからは《ほわほわ》とした彼女がデフォルト化していたが最初のうちはこんなものだったのかもしれない。
 そもそもアスナと今のように距離がいろんな意味で近づいたのもクリア目前頃からだったと言える。
 彼女曰く、実際にはそれまでの間に何度か必死の──実際には決死の──ちょっかいを出していたそうなのだが、キリトがそうだと気付けたものは少ない。
 よって、キリトにとって初期の頃のアスナは《美しい》と思えるほどの美貌の持ち主ではあるが、少しばかり付き合い方に癖のある相手でもあった。
 この彼女があの《ほわほわ》した女性になるとこの時想像できただろうか。
 そう考えると、アスナも少しは変わったのだろうな、と思い……ズキッと鈍い痛みを頭の隅に感じた。
 なんだか今、気付かなければいけない何かに触れたような、そんな気がする。
 しかし残念ながらいつまでも思考に耽っているわけにはいかない。何故なら細剣使い(フェンサー)様がこちらを冷やかにお見つめになっておられるからである。
 キリトの性格上、女性の視線への耐性はほとんどない。心の防壁熟練度は良い所初期よりマシ程度だろう。
 見つめられれば見つめられるほど心の余裕、逃げ場がなくなっていく。
 どうにか、どうにか会話をしなければいけない。だが何を話せばいい?
 失敗すると──詐欺に会うとわかっている強化をさせるわけにはいかない。かといってまだ全容を説明するのも難しい。
 全容を説明してしまえば何故知っているのかということになるし、それを知ったアスナの行動もなかなかに予想しにくい。
 鍛冶師の彼を全面擁護するわけではないが《夢》と言えど彼にもまた救いはあっても良いと思うのだ。
 なので、どうにかアスナの意識を強化から逸らしつつこの場を収める方法、会話を考えなければならない。
 それはキリトにとって超高難度クエストに匹敵するほどの難易度だと言っても過言ではない。しかもクリア報酬はプライスレスと来ている。
 ここで割に合わない、などと思えるなら対人スキルが激低なままでなどいない。
 アスナのアブソリュートゼロもかくや、というほどの視線に耐えつつ目まぐるしく思考をスパークさせる。
 かつてあのヒースクリフと戦った時でも、ある意味ここまでスパークしなかったかもしれない。

 (考えろ、考えるんだオレ! うおおおおおおっ!)

 情けない理由だ、などとは思わないで頂きたい。それだけキリトは本気だった。
 この場を切り抜ける為に思考速度をどんどん加速させていく。速く、もっと速く。もっともっと速く!
 焼き切れてしまうならいっそのこと切れてしまえと半ばやけっぱちになりつつもふと目端に捉えた路地が「これだ!」とキリトに天啓を与えた。

「その、良ければすっごく美味しいケーキの店があるんだけど」

「…………ケーキ?」

「めちゃくちゃ高いんだけど、俺の知る限りではこれより美味いものはそうない! ってくらいにウマイ。一層で食べた例のクリーム乗せ黒パンが色褪せるくらいに」

「……」

 アスナの人を射抜けるんじゃないかと思えるほどの視線が徐々に弱まっていく。
 一瞬クリームの事が無かったことになっていたらどうしよう、とよぎったが、幸いその心配はなさそうだ。
 キリトは作戦の成功を胸の中で撫で下ろし、グッと心の中で拳を握った。

「も、もちろんご馳走させていただきますけど……はい」

「…………」

 黙るアスナにドキドキと仮初らしい心臓が煩いくらいに自己主張する。
 労働基準法を一から説きたくなるほどオーバーワークしている心臓に心の中で鎮まれ! と念じつつアスナの様子を窺う。
 黙ったアスナはぴくりとも動かない。表情は変わらないが、何やらものすごく煩悶遊ばされているご様子に見えた。
 そういえば最初の頃は「美味しいものを食べるためにここにいるわけじゃない」とも言っていた気がする。
 しまった、選択ミスか!? と不安が募るが時すでに遅し。待つは天命のみ。
 と、ようやく自分を再起動させたらしいアスナがプイッと視線を逸らして背を向けた。

「それって、遠いの?」

「いや、それほどでは。ただ結構な穴場スポットだから知らないと見つけにくい」

「……そう。そこまで言うなら────ご馳走になろうかしら」

 アスナは片足のロングブーツ──正式名称《ブーツ・オブ・ホーネット》を持ち上げ、つま先をトントンと地面の敷石につつく。
 背を向けたまま両手を後ろ手で繋ぎ、モジモジと肩を小刻みに左右に動かし、ロングブラウンの髪が綺麗に揺れる。
 が、彼女は急にくるりと振り返ってビシィ! と人差し指を突きつけ口を開いた。

「言っておきますけど、ケーキに釣られたわけじゃありませんからね!」





 東西のメインストリートから細い道を北に折れ、さらに右、左と曲がったところに目当てのレストランは存在する。
 麗しの細剣使い(フェンサー)様ことアスナは、特産である巨大牛のミルクから作ったクリームを「これでもか!」と言う程たっぷりと使った《トレンブル・ショートケーキ》を大層気に入られた。
 まぁ、実際かつてのアスナが舌鼓を打っていたのでそれは間違いあるまいと踏んでのことだったのだが……問題はやはりそのお値段である。
 高い。とにかくお高い。「冗談だろ?」と叫びたくなるほど高い。《夢》ならばせめて財布ストレージの中身を潤わせておいてくれてもいいじゃないかと心の中で神の采配を呪う。
 どこかから聞き覚えのある「ごめんなさい」という可愛らしい声が聞こえた気がしたが、多分気のせいだろう。
 そもそも《夢》の中でまでゲーム内通貨にMOTTAINAI精神を持ち出してしまうあたりキリトもすっぽりとフルダイブ型ゲーム、それもとりわけSAOに浸かりきっている。

「それで?」

「え?」

「なんで私をここに連れてきたのかってことよ」

 満足したらしいアスナは先ほどまでの険が削げ落ち、少しばかりキリトの知る《ほわほわ》アスナに近いオーラを醸してした。
 おかげで幾分キリトも緊張が解ける。

「と、言いますと?」

「惚けないで。話の途中だったでしょ」

 先のようなキツい口調や眼差しではないが、やはりというかただ誤魔化されてはくれないようだった。
 やむなくキリトは今話せるところだけに気を遣いながら話すことにする。

「実はまだプレイヤー鍛冶師はほとんどいないからその腕所の心配もあるけど、中にはあまり良くないことをする鍛冶師もいるらしいんだ」

「よくない、って?」

「え、えっと足元をみたりだとか」

「ふぅん」

 間違ってはいない。が、全てを話してもいない。
 なんとなく悪い気もするものの、今はしょうがないと割り切ることにする。
 幸いアスナはそれ以上突っ込まずに《トレンブル・ショートケーキ》の攻略を再開しだした。
 尚、キリトは今回ジェントルネスを大いに発揮し、泣く泣くブラックコーヒーのみの注文だったりする。
 その際、少しばかりのあてつけを込めた「いくら食べてもここじゃ太らないから気にせず食べなよ」という言葉が喉まで出かかったものの、実際に言語化はしなかったのは妹の教育による賜物だったりする。
 食事を終えると──と言ってもキリトはオリジナルブレンドのブラックコーヒーのみだったが──アスナとは別れた。
 今の二人は共に行動する理由が無い。それはとても寂しいことだが仕方のないことでもある。
 だがやはり自分はアスナがいないとダメらしい、と感じる。ほんの僅かな時間だが、一緒にアスナがいてくれたおかげで大分心は安らかだった。
 こうして別行動を取ると、どことなく胸にポッカリと穴が開いたような感覚に陥ってしまう。
 はぁ、とため息を吐き、とりあえず今日の宿を探すことにした。そもそも休むためにこのウルバスまで来たのだから。
 適当な宿屋にしよう、と【INN】の看板が付いた店を探し歩き、記憶通りの場所にそれを見つける。
 寂しくなった財布ストレージからやむなく宿代を支払うと部屋へと赴き、硬いベッドにバタリと横になる。
 疲労感はそれなりにある。だがやはりというか一向に眠気は襲ってこない。これはいよいよ妙だ、とそう思っていた時だった。
 目の前に《インスタントメッセージ》が到着した旨のシステムメッセージがポップする。
 キリトはよく考えずにそれを開き……飛び起きた。

「なっ!?」

 差出人はアスナ。
 メッセージの内容は、

【私の剣無くなっちゃった、ごめんなさい】

 キリトは慌てて宿を後にする。
 脳裏にはあの時のアスナの酷く傷ついた顔が思い出された。
 何故一人にしてしまったんだ! という深い後悔の念に苛まれるが今はそれよりも。
 街中を本気の速度で駆け抜ける。まだ遠くに行っていないといいのだが。
 走りながら考える。何故アスナは剣を失った……強化をしに行ってしまったのか。
 恐らくは納得したようでその実していなかったのだろう。説明の仕方が悪かったと言わざるを得ない。
 多分アスナは「その程度なら」という軽い気持ちだったのだ。よもや「消失」などという事態が起きるなど予想もしていなかったに違いない。
 だからこそ当時は一時あれほど落ち込んだ。くそっ、と内心で悪態を吐きつつキリトは東広場に急ぐ。
 しかしそこにアスナの姿は見当たらない。キリトは舌打ちする。一体アスナは何処にいる?
 こちらからメッセージを飛ばそうか迷うが、やめた。あの時のアスナを知っている人間なら彼女にそんなものを読んだり見たりする余裕が無いことくらいわかる。
 むしろ、メッセージを送ってきたことが僥倖と言えるほどだ。
 だから今やるべきことは考えること。アスナの行きそうな場所を。
 考えろ、考えろ、考えろ。一日でこうも頭を悩まされるのは久しぶりだがそんな悠長なことを言ってはいられない。
 《アレ》には時間制限がある。《条件》もある。既に記憶と違う展開になっている以上、あの時と同じようにいくとは限らない。
 そこで思い出す。あの時は宿屋までおしかけたのだった。あの時の宿屋確か……あっちだ!
 キリトは記憶の隅に埋もれていた位置情報を無理やり引っ張りだして一心不乱に駆け抜ける。
 今この瞬間もアスナがあの時のような顔をしているのかと思うと胸が張り裂けそうだった。
 記憶の中の宿屋に辿り着き、駆け足で部屋の前へ。207と書かれたプレートのある部屋を強めにドンドンとノックする。

「アスナ! 俺だ! 居たらここを開けてくれ!」

 ノック後に、中から人の気配が動くのがわかった。SAOでは施錠されたドアにノックすることで数十秒音が聞こえるようになる仕様がある。
 中の気配は徐々にこちらに近寄ってきている気はするが、どうにもその速度が遅く感じられる。
 実際には数秒のことなのだろうが、体感時間と言うものは一定ではない。その時々によって時間は短くも長くも感じられるものだ。

「……どうして」

 キィ、というやや軋むような音を立てて開いたドアの向こうにいるアスナはやはり憔悴していた。
 もしかしたら泣いていたのかもしれない。益々キリトの中の感情が沸騰していく。
 何故、何故、何故とあの時を後悔する感情が湧きだすが、今はそれよりもやることがある。

「アスナ! 武器は消えたんだな!? 強化を依頼して壊れたんだな!?」

「え……」

 彼女の顔が青ざめる。SAOはもともと感情フェイスエフェクトが過剰なこともあって、それは一層の悲壮感を醸し出していた。
 そんな顔をさせてしまったことにキリトは心を痛めるが今はそんなやり取りをしている暇はない。

「それから武器は何も装備してないか!?」

「へ……えっと、うん」

「よし! それじゃメニュー出して! 早く!」

 アスナは何がなんだかわからない、という顔をしつつも流されるようにメニューをポップさせ、指示された通りに操作していく。
 ストレージタブに移動させ、セッティングボタン、サーチボタン、マニュピレート・ストレージと順に操作。
 さらに三つか四つボタン操作を続け、ようやく《所有アイテム完全オブジェクト化(コンプリートリィ・オール・アイテム・オブジェクタイズ)》のコマンドを発見する。
 アスナが首を傾げているがキリトは「それだ!」と強く勧め、最後の確認の イエス/ノー ボタンに「イエ───ス!」とテンションたっぷりに告げた。

 ぽちっ。

 アスナの品の良い細く綺麗な指がボタンを押した途端、ストレージ内のアイテム名が一瞬にして全て消え失せる。
 アスナは恐る恐るキリトに尋ねた。

「ちょっと、オールって、どこまでなの?」

「コンプリートリィに全部、あらゆる、あまねく、なにもかも」

 その時だった。
 金属音やら布の擦れる音やら様々なサウンドを伴って大量のアイテムが部屋中にオブジェクト化されたのは。
 武器、防具、ポーション、食糧、衣服、下着。
 下着?

「あ」

「……ね、ねえ……きみ……もしかして死にたいの……? 殺されたいヒトなの……?」

 アスナの震えるような声。怒りを孕んでいることは疑いようがない。
 目前には下着の山、山、山。白、ピンク、薄いブルー。
 あ、あああああ!?

 し、しまったああああ!?



[35052] 追憶のSAOP2-2
Name: YY◆90a32a80 ID:b9264a49
Date: 2013/08/30 00:30


 どうしてこうなった。
 そう自分に深くツッコミを入れたくなるほど頭を抱えたい……が今は誠意を示す為に背筋をピンと伸ばして部屋に備え付けられている椅子に腰掛けている必要がある。
 こうなることはわかっていた……はずだ。前回の時もそうだが《所有アイテム完全オブジェクト化》は本当に全てのアイテムをオブジェクト化する……ので万一他人に見られたくない物がストレージにある場合はヤバイ。
 かつても同じように全てをオブジェクト化させ、彼女の不興を買ってしまったのだった。
 もっとも今回は前回と違い自ら下着の山々に手を触れるような真似をせず思いとどまったのは成長したと言える。たぶん。
 ちなみにキリトは結婚した時にストレージが共通化されていたので、見ようと思わなくても彼女がどんな物を持っているか目に入ってしまったことがある。
 さらには現実での《そういうこと》により彼女の下着の嗜好を少しばかり把握しているので、下着の山を見て何となく「ああアスナっぽい」と納得してしまえたのは仕方がないことだったりする。
 そのアスナは今、大量の装備品やアイテム、そして下着類を再度ストレージ内に放り込み、見つかった自身の愛剣である《ウインドフルーレ》を抱きしめてベッドに腰掛けている。
 アスナが下着をストレージに仕舞う際、「ストレージ内の同一アイテムは整頓してもランダム整理だから一杯持っていてもあまり意味は無いぞ」という台詞を飲み込んだのは間違いではないだろう。
 同一アイテムの差別化はほとんどされない。武具ならば耐久値によって幾分の差が発生するだろうがSAOでは一番外側の装備しか耐久値が減少しない為、下着が戦闘中に消えるというような最悪な事はまず発生しない。
 またSAOに限らずフルダイブ型のゲーム、仮想世界には実際の老廃物的発生は皆無な為衛生的においても問題は発生しない。
 よって形や色が違う物なら多少の差別化は可能だろうが全く同じ物の場合下着等に限ってはストレージを圧迫するだけでさほど利点は得られない……というのが男視点から見たゲーム攻略者の意見ではある。
 だがしかし待って欲しい。よくよく思い出してみれば同じ物があっただろうか。あれだけ多種多様に大量の下着を持っている意味は先の論から相変わらず無いわけではあるが《差別化》という点においては、同じ物が無い場合無意味と言えなくもないではないだろうか。
 つまり、当初は同じ下着を一杯持っていても、ストレージ内に収納してしまえばどれがどれだかわからなくなり、極論同じ物を再び装備、穿くことになってしまうわけだが、どれ一つとして同じ物が無かった場合はその限りではない。
 薄れゆく記憶の中で、あの下着の量はざっと二週間分はあると推測したはずだ。むむ。ではそれだけ別種の物が山になっていただろうか。
 ふと湧いた疑問にキリトが本気で悩みそうになった時、彼女から棘の含まれたような鋭い声が発され急遽思考を霧散させる。

「いろいろ考えたんだけど」

「は、はい」

「私の感じている怒りと剣が戻ってきた嬉しさを天秤に乗せると、一層の黒パン代くらい分だけ嬉しさが勝っているから、貴方にはタダで黒パンを貰った程度の感謝をしておくことにするわ」

「ど、どうも」

 あの一層ではひたすら安いパンを奢った程度の感謝。
 いや、まぁ食料をタダもらえたというのはそれなりに嬉しい物だ。恐らく。
 うん、そう思っておくことにしよう。これ以上考えるのはコワイ。

「ところで」

「は、はい!」

「そもそもなんで私の居場所わかったの?」

「え? あ、それは……」

 目を少し細めて、ジッと見つめられる。その目は信頼と懐疑で揺れているように見えた。
 考えてみれば当然かもしれない。しかし素直に話しても納得はしてもらえないだろう。
 ここはやむなく方便を使うことにする。

「《索敵スキル》のスキルModに《追跡》っていうのがあるんだ。これであまり時間が経っていなければ特定プレイヤーの足跡を追えるんだよ。あ、《Mod》ってのは《モデファイ》のことでようするに派生スキルのこと」

「……そう」

 嘘は言っていないが、実際にはまだ《追跡》は使えない。そこまで《索敵スキル》の熟練度は上がっていないのだ。当然と言えば当然で、今はまだ一層をクリアしたばかりでレベルもスキルもかつてほどの熟練度はない。
 この《夢》がいつまで続くかはわからないが、《追跡》を使ったという嘘をついた以上かつてアスナに「地味すぎて頑張りたくない」と言わしめた《索敵》スキルの熟練度を底上げしておく必要があるかもしれない。
 キリトの説明に少しだけホッとしたアスナは、ようやく警戒心を薄めてキリトに向き直った。

「一応、ありがとうと言って置くわ」

「ど、どうも」

「……ぷっ! 貴方「はい」か「どうも」しか言えないの?」

「え? あ、それは……」

「あははは! 壊れた玩具じゃないんだからそんな同じ台詞を何度も言わないでよ」

 アスナが笑った事にキリトは安堵する。どうやら彼女の精神は持ち直したらしい。
 こうやって笑うアスナを見られるのはこの時期では相当珍しい。ドロップ率コンマ一桁台のレアアイテムと同等の確率と言っても過言ではないだろう。
 空気が和やかになったところで、キリトは簡単に武器の強化詐欺について説明した。
 何故知っていたのか、ということについても言葉無き言及を視線で求められたがそこはなけなしの意志力で《ベータテスター》だからと答える。
 悪の《ビーター》だから、と言う事が出来れば少しは気も楽だったかもしれないが幸か不幸か《ビーター》という蔑称はここでは無かったことにされている。
 その為、《ベータテスター》だから詐欺の可能性を考えたと説明した。全容はまだわかっていないから鍛冶師の彼を捌ける材料も足りない、ともつけ加えて。
 アスナは若干不満そうだったが今度こそ納得してくれた。「そもそも忠告を聞かなかった私も悪いから」と己にも非があるとした上で。
 実際には詐欺に合った場合、九割方騙された方に非は無いと言ってもいい。どう考えたって騙す方が悪い。
 騙す側がよく言う「騙される方が悪いんだ」などという戯れ言を支持するほどキリトの心は《ビーター》色に染まってはいない。
 だが複雑な事情から鍛冶師の彼を絶対悪に出来ず、かといって非のないアスナに非があると認めるのもキリトにはしっくりこない。
 なので、しいて言えば今回悪かったのは自分だと思うことにした。

「それにしても、ちょっと勿体なかったなあ」

「何が?」

「少しは強化素材持っていたの。だから焼け石に水程度でも使っちゃえ! と思って全部投入したんだけど……結局全部なくなっちゃった」

「あぁ、そっか。そうだよな……」

 アスナの気持ちはよくわかる。
 今回は目的の為に狩りを長くしたわけではないのだろうが、それでも自分が稼いできたアイテムが無駄に消えることは悲しい物だ。
 これが《強化》を目的として散々素材集めをしたあげく、強化に失敗した日などは目も当てられない。その武器がレア物で《強化試行上限数》が残り少なかったりしたら何を言わんやである。
 なので、本当に軽い気持ちで、キリトはそれを口に出していた。

「なんなら素材集め手伝おうか?」





 どうしてこうなった。
 そう自分に深くツッコミを入れたくなるほど頭を抱えたい……が今はそんなことをしているといつ来るかわからない決定的チャンスを逃してしまう恐れがあるので集中する。
 目前には蜂型の飛行小型Mobである《ウインドワスプ》がブゥーンと音を立てて浮いている。
 《ウインドワスプ》は全長五十センチほどで、現実にいれば間違いなく撤退推奨の世界最大昆虫だろう。
 アスナに軽い気持ちで素材集めの手伝いを申し出たらすんなりと「ならお願い」と頼まれてしまった。
 申し出たのはこちらなのだから別にそこは驚くことではない筈なのだが、あまりにも軽い返事だった為に思いの外拍子抜けしてしまう。
 とりあえずそうと決まれば早速とばかりに狩り場へと一緒に向かい、素材狩りを始めたのは既に二時間以上ほど前のことだ。
 《ウインドワスプ》は毒針を持っていて、それに刺されると二、三秒はスタンする。その際はお互いにフォロー、さらにエリアを南下しすぎると面倒なMobの《ジャグド・ワーム》生息域に入ってしまうので気を付けること。
 そんな説明をしてアスナが頷き、いざ狩りスタート。RPGの醍醐味である苦しく長い、だが必須な時間が始まった。
 その狩りに暗雲が立ち込み始めたのは開始三分程度というかなり早い段階だった。
 二、三匹程狩った所でだいたいのコツを掴んだらしいアスナが懐かしい提案をしてきたのが事の始まりだ。

「ねえ、先に五十匹狩った方が食事を奢ってもらうことにしない?」

 思わずクスリ、ときたその提案を断る理由は無かった。
 何だかんだであの時もこうやって勝負をしたものだ。夕食後のデザートを賭けて。
 今回は既にケーキを食べた後なのでこれ以上の巨大出費はない────はずだ。そう思えばかなり気楽ではある……のだが。
 ここでキリトの負けず嫌い魂にも火がついてしまったのだから頂けなかった。
 かつて負けたという記憶が「次こそは」というハングリー精神を彼にも芽生えさせていた。
 五十匹を狩り終え冷静になった彼が最初に思ったことは「大人げないことをした」という感情だった。
 アスナはすっかりとご機嫌を斜めにしながら残りの《ウインドワスプ》を狩り続けている。
 その差なんと七匹。七匹もの大差をキリトはアスナ相手に付けてしまった。
 終わってから実感する。「しまった!」と。それもそのはずである。
 今回キリトは負けるわけにはいかぬと最初から《体術》スキルを惜しみなく使った。
 加えて、七十五層まで辿り着いた彼のゲームにおける数値化されない熟練度……戦闘経験による通常戦闘能力のレベルやシステム外スキルを遺憾なく発揮させ戦いを進めた。
 当時ではこのモンスター相手に急所を当て続けることは困難極まる力量だったが、今のキリトはそこまで労せずとも狙いを定め当てる事が出来た。
 おかげで武器のキャパシティ的にはクリティカル率にかなりのボーナスがついているアスナの剣よりもクリティカルを連発し、ほほ初手から二手の間にウインドワスプを仕留めていた。
 結果七匹という圧倒的差をつけての勝利。言ってみればキリトはこことは比べものにならないほど手強いモンスターと戦ってきた実績があるのだからある意味では当然とも言える。
 そうこう思っているうちにアスナも予定数をクリアした。キリトが五十匹ノルマを終えたところで手を休めた為、その分湧き出し(ポップ)が早まった結果、ペースが上がったのだ。
 だがやはりというか、美貌の細剣(フェンサー)様はご機嫌斜めなようで眉間に眉根を寄せて何やら考え込んでいる。

「……」

「え、えっと……アスナ?」

「……っかい」

「え?」

「もう一回! 勝負しなさい! あと五十匹!」

「え、ええええええ!?」

 キリトの驚愕を他所にアスナは再びポップした《ウインドワスプ》目掛けて渾身の細剣用ソードスキル《リニアー》を放つ。
 良いリニアーだ。細剣術でも基本技である《リニアー》はその敏捷値が高ければ高いほど威力も底上げされる。
 だがそれとは別個にスキルを放つ際、的確に自身の仮初めの肉体、アバターを動かしてブーストを加えるシステム外スキルを応用することによってその威力やキレは数段飛躍させることが出来る。
 キリトの知る今のアスナ程ではない。だが当時から彼女の戦闘センスは群を抜いていたと言っていい。
 その彼女は今めらめらと可視化できそうなほど燃え上がっていた。ここで先の話にようやく戻るのである。
 どうしてこうなった、と。
 実際には理由などハッキリしている。要約するならついうっかり「頑張り過ぎちゃった、てへ☆」ということだ。
 しかしよもやこれほどアスナが負けん気を発揮するとは想像も出来なかった。
 全力を最初に出したのはやはり失敗だったかもしれない。かといって手を抜こう物なら、

「本気でやってよね。本気じゃないってわかったらもうワンセット追加だから」

 と睨まれ、手を抜くことも難しい。
 だが本気でやれば先と似た結果になるであろうことは想像に難くなかった。
 むしろそうでなくてはキリトの立つ瀬がない。言わば彼は中身だけでも《七十五層プレイヤー》なのだ。
 二層にきたばかりの初心者(ニュービー)とは年季が違って当然なのである。
 だがそのまま本気でやれば負けをこじらせたアスナに「もう一回!」と言われエンドレスにもなりかねない。
 あれ? これどちらにせよ詰んでね?

「四匹目!」

 アスナの奮闘する声が聴覚システムを刺激し、既に四匹のアドバンテージを取られてしまっていると気付かされる。
 先よりもハイペースだ。まさかこの短時間でそこまでの効率化を身につけたというのだろうか。
 先の戦いでついた差は七匹だが、三匹差となると決して侮ってはいけない数字だ。
 そう考えるとジッとはしていられない。結局、キリトも負けることはそれなりに嫌いだった。
 手前五メートルほど先にポップした《ウインドワスプ》めがけてダッシュし、片手剣用ソードスキル《バーチカル・アーク》を繰り出す。
 このソードスキルはV字を描くように斬りつける二連撃攻撃のスキルで、基本技である《スラント》よりも威力がある。
 当初はじっくりと相手の攻撃を見極めていたが、今のキリトなら低層フロアのモンスター相手にそこまでする必要は無かった。
 ズバンズバン! と確かな手応えを得つつワスプを斬りつけ、六割程ワスプのHPを減らす。
 キリトはそのまま反動で少し下がったワスプへとさらに一歩を踏み出し、地を蹴り飛ばした。
 勢いに乗った身体に上半身の捻りを極限まで加え、再びキリトの《アニールブレード》はスキル特有のライトエフェクトを発する。
 片手剣用ソードスキル《レイジスパイク》。片手剣用ソードスキルの中でも基本技の一つで突進攻撃に分類されるこのソードスキルは空へと逃げようとするワスプの弱点を正確に突き刺し、その姿をポリゴンのガラス片へと変貌させた。

「一匹目!」

 叫ぶのと同時に右端にもう一匹ワスプがポップしたのを見やり、身体を無理矢理捻る。
 再び《バーチカル・アーク》をお見舞いしたところだが、ソードスキルには使用後の冷却(ク-リング)が必要であり、高位のスキルになればなるほどその時間は長くなる。
 《バーチカル・アーク》はしばし使えない。そこでキリトは一度拳を握り、スキル特有の仄かな赤いライトエフェクトを発生させた。
 そのまま一息でワスプまで距離を詰めると、鋭く左拳を突き出してワスプに放つ。《エクストラスキル》である《体術》の基本技《閃打》。
 《閃打》を受けたワスプはふらふら、と一秒程度ダメージにフラついたように停滞する。《体術》はその技の特製として僅かに相手の動きを止めることが出来るものがある。
 一瞬の硬直を見逃さぬよう、すかさずキリトは斜めにワスプを切り捨てた。ライトエフェクトが綺麗な光帯を作りだし、斬られたワスプがブブゥン……と弱々しい音を奏でる。
 今の片手剣用ソードスキル《スラント》による攻撃でワスプの残り体力はおよそ三割強といったところまで落ちる。それを僅かな間に確認しつつキリトはグッと足に力を込めて地を跳び、宙でワスプを蹴り飛ばした。
 蹴る前の足にはライトエフェクトが宿っており、蹴られたワスプは吹き飛びつつその姿をバリィンとガラスの割れるような音と共に砕け散らせる。《弦月》と呼ばれる《体術》の一つだった。
 キリトはそのまま空中で一回転してから着地を成功させ「二匹目!」と名乗りを上げる。
 その一瞬の攻撃に見入るようにして固まっていたアスナはハッと我に返ったようにきょろきょろと周りを探り、ポップしたワスプに向かっていく。
 四匹のアドバンテージが一瞬にして半分。油断や観戦をしている暇などアスナには無かった。





 狩りを終えてウルバスへと戻った二人は、早速と絶賛不機嫌絶頂時であるアスナの奢りによるディナーへと繰り出した。
 アスナの不機嫌さから最初キリトは「やっぱり奢りは良いよ」と断ったのだが麗しの細剣使い(フェンサー)様ことアスナは「負けは負けだから奢るわよ!」と半ばヤケッパチでキリトの申し出を蹴り飛ばした。
 帰ってくる途中もあの手この手でご機嫌を取ろうと思ったのだが、何をしていいのかもわからずキリト自身もやや途方にくれていた。
 果てには、あれ? なんで俺狩り手伝ったんだっけ? ああ、自分から言ったんだった……と自問自答までしてしまう始末。
 本気を出せと言ったのは彼女だ。しかしやはり手加減すべきだっただろうか。だがそんな真似をすれば余計に不興を買った気がする。
 結局二回戦も軍配はキリトに上がった。その差……僅か一匹。
 アスナの見違えるような怒濤の追い上げはキリトも舌を巻くほどだったが、悲しいかな。
 経験の差というものはいかんとも埋めがたい。やはりキリトの方が一枚上手だった。
 それでも一匹差まで追いすがったことは、一回戦が七匹差だったことを考えれば驚嘆に値する。先に四匹狩っていたのだとしても。
 当時ならそこまでの差は無かった。どっこいどっこいと言っても差し支えなかっただろう。
 そう思うとなんとなくキリトは自分が《チート》を使っているような錯覚に囚われる。何せ七十層以上もの戦闘記憶というアドバンテージを持っているのだから。
 ある意味ではLA取りまくりの《ビーター》よりも性質が悪いかもしれない。そう考えると益々悪いことをした気になってくる。
 しかしアスナはアスナで負けた事に悔しさからイライラしているものの、負けを認められない……ましてや自分から持ち出した賭けを無効にするというような理不尽な真似は彼女の中の性格が許さなかったらしい。
 故に、この悶々とした感情の吐き出し先が見あたらず、溜め込むことでキリトの不安を煽るという悪循環が成立していた。

「ごちそうさん」

「……どういたしまして」

 キリトは何の変哲もないNPCレストランでステーキを注文し、ぺろりと平らげる。味も値段もそれなりな、当たり障りのない物を選んだつもりだ。
 ここでわざと安い物を選んでもアスナのプライドが刺激されるだろうし、かといって《トレンブル・ショートケーキ》のような物を頼めば新たな波風を立てかねない。
 終始ぶすっと膨れっ面だったアスナの顔もようやく険が薄れてきたところにそんなことをすれば全てがパアである。
 NPCレストランを後にし、特にアテもなく広場へと歩く。空は既に夜の帳に包まれていてそこかしこでトーチの明かりが夜闇を照らしていた。

 いつまでこうしていればいいんだ?

 なんとなく気まずい空気からキリトが打開策を張り巡らせていると、アスナが溜息を吐いた。
 ちら、と振り返ると彼女は真っ直ぐにキリトを見つめている。
 何かしたかな、とふと自身の行動に失敗が無かったか省みていると、アスナに声をかけられた。
 ぎくり、と緊張する。

「ねえ」

「ん?」

「今日はありがとう。それと、悪かったわね」

「あ、いや別に……」

 アスナの殊勝とも取れる言葉にホッと胸を撫で下ろし緊張を解く。
 アスナの顔にはもう不機嫌さは残っていなかった。

「貴方が凄いってことはわかっていたつもりだけど、本当につもりだった」

「そんなことないさ、アスナもたいしたものだよ」

 これはおべんちゃらでもなんでもなく心からそう思う。逆にこっちは卑怯なほどの戦闘経験アドバンテージがあるのだ。
 むしろそれに迫りつつあったアスナこそ驚愕されるべき成長速度と言える。
 もっとも低層フロアのMob狩りだけで一概に語れるほどSAO……アインクラッドという世界は浅くはないが。

「でもキリト君とはかなり差があるわ」

「それは……」

 ここで謙遜することを、彼女は良しとしないだろう。
 彼女がもともとそういう性格だというのは久しぶりにこの頃の彼女と付き合ってみてよく思い出される。
 途端、米神にズキッと何か痛みのようなものが奔った。この《夢》の中で何度か経験したことのある、不可思議な現象。
 警告……ではない。ただ《正解》をもう少しで引き当てられそうな、そんな予感がある。
 キリトが一瞬自分の中に埋没していると、いつの間にかアスナは決意したような目になっていた。
 
「だからキリト君」

「え、えっと……?」

「しばらく貴方と行動を共にするから」

「……へ?」

「貴方の技術を学ばせてもらうの」

「え? あ、いや……へ?」

「何か問題ある?」

「無いけど……でも、え?」

「決まりね。しばらくよろしく」

 アスナに強引にそう押し切られる。なんだか既視感がある。
 前にもこんな事があったような気がする。ああ、そうだ。あれはクリア間近の最前線あたりだ。
 三日と空けずに彼女は現れ、半ば無理矢理にパーティを組み、一緒に行動した。
 活発な彼女に引かれるようにして日々を重ね、気付けば惹かれている自分を自覚した。
 きっと、本当はもっとずっと前から彼女には惹かれていた。それを自覚することが無かっただけで。
 当時は、彼女が自分に構うのは自分に対する哀れみのようなものだと思うことにしていた。トップギルドである《血盟騎士団》への勧誘の可能性も百パーセント捨ててはいなかった。
 けど、そんな打算……彼女には無かった。彼女の掠れ掠れの声は、とても小さく、嗚咽で途切れ途切れだったのに良く覚えている。

『私、キリト君といるのは……哀れみなんかじゃないから』

『情けでもないし、攻略会議で指揮を預かる身だからとか、そんな打算的なことでもない』

 彼女の告白は、キリトの中で決して褪せることなく宝石のように輝いていて残っている。
 この気持ちを形容するのは難しい。嬉しいと言えば嬉しいが、嬉しいとだけ表現するのはまた何か違う気がする。
 ポン、とサウンドエフェクトを立てて目前にメッセージがポップした。

【ASUNAよりパーティの誘いが届いています。参加しますか?】

 キリトはフッと表情を緩めてYESのボタンをタップし、パーティメンバーになることシステム的に了承する。
 どんな経緯にしろ、アスナと行動を共に出来る理由が出来たのは喜ばしいことだ。
 アスナは了承された旨のメッセージを自分のウインドウで確認すると、くるりと踵を返した。
 恐らく宿に戻るのだろう。振り返り様の彼女の頬が少し弛んでいたように見えたのは見間違いではないと思いたい。
 キリトは彼女の背中が見えなくなるまで見送ると、自分も先程取った宿へと戻ることにした。
 特に特徴もない小さな宿屋。【INN】が目印の低サービス店だけあってベッドも硬い。
 一応二層の美味しい拠点スポットを探しに行っても良いのだが、今日はもうそれなりに面倒なのと一度コルを払ってしまった為に「もったいない」という感情が湧き上がり、さっさと休むことにする。
 部屋へと戻り、ノブをタップして施錠を確認。圏内故にさほど警戒することもないがここではこうするのが癖になっていた。
 それに圏内だから百パーセント安全というわけではない。二層ではまだ無かったが、上層に上がっていくにつれ《睡眠PK》などの手口も発見され、犠牲者が出ている。
 こういった自衛はSAOでは当然とも言えた。
 キリトはベッドにどさりと腰掛け、装備を外していく。加えてアスナではないが下着を変更し、シャツにハーフパンツといったようなラフなスタイルになった。
 キリトも下着はアスナほどではないが戦闘用、就寝用、日常用と三種類程度揃えていて、就寝前にはこうして着替えるのが日課になっていた。
 相変わらず眠気は襲ってこないが、横になって目を瞑るだけでも違うだろう。キリトはギシッと音を立てて硬いベッドに横になり、目を閉じた……ところでドアがノックされる。
 誰だ……? と訝しむ間もなく《施錠》したはずのドアが開かれた。

「え……?」

 馬鹿な! と飛び起きたのも束の間、侵入者の姿を見てホッと安堵する。
 侵入者は……見覚えのあるウールケープでその身を隠していた。侵入者がバサッとそのケープを取ると、やはりというか、ケープの中身はロングブラウンの……アスナだった。

「不用心ね、鍵くらいかけときなさいよ」

「かけてあったよ。パーティメンバーは初期設定だと《ギルド・パーティメンバー解錠可》だから今アスナは開けられたんだ」

「あ、そうなの」

 ふぅん、と納得したような声を出して、きょろきょろと部屋を値踏みするように見渡す。
 一体何をしに来たのだろう。来る前にせめてインスタントメッセージでも送ってもらえれば出迎えるくらいはしたのだが。
 いやその前にこの設定を弄り忘れてる自分にも喝を入れ直して久々にシステムの総チェックをすべきか。
 いやいやそれよりも……とキリトが混乱していると、少し残念そうにアスナは呟いた。

「普通ね」

「へっ?」

「一層みたいに良い所に泊まっているのかと思ったわ」

「ああ、そういうことか」

 何となくアスナの考えをキリトは察した。何処まで一層での出来事が改変されているのかわからないが、一層で泊まっていた部屋にアスナを招待した事実は変わっていないらしい。
 恐らくは仄かな期待を寄せて部屋を尋ねに来たのだろう。居場所がわかったのもパーティメンバーだったからだと当たりをつける。

「ご期待に添えず申し訳ないな」

「別にそこまで期待していたわけじゃないわよ。そっちはついでみたいなもの」

 予想が外れたことに首を捻る。では一体彼女は何の為にここを尋ねに来たというのか。
 まるで想像もつかず、キリトは素直に尋ねることにした。

「じゃあどうしたんだ?」

「言ったでしょ、貴方としばらく行動を共にするって」

「言ったけど……」

「だから来たのよ」

「……?」

「ベッドは一つしかないみたいだし、当然女の子に譲ってくれるわよね?」

「え? あ、はぁぁぁぁああああ!? ちょ、こ、ココに泊まる気か!? アスナの宿は!?」

「さっき引き払って来たわよ」

「なんで!?」

「貴方からいろいろ学ぶ為。さっきも言ったでしょ」

 いや。
 いやいやいや。
 そのりくつはおかしい。
 思わず喉まででかかった言葉をグッと飲み込む。
 アスナの突然の来訪に始まる奇想天外な行動力には流石に驚きを禁じ得ない。
 当初のアスナにここまでの行動力があっただろうか。よしんば行動力を認めたとしても男の部屋に無理矢理泊まりに来るほど異性への……自分への警戒が薄かっただろうか。
 そこはかとない違和感を拭えない。

(《今の》アスナならそんなに不思議じゃないけどこの頃のアスナは……っ!)

 ズキン、と脳髄を刺激するような感覚。痛みが酷いというわけではないのに、やたらと大きく響く。
 視界も一瞬だけ歪んだ。今、何かとてつもなく《重要な事》に触れた気がする。この《夢》を左右するほどの何かに。
 さらにズキンとした痛み。今何を考えた? 何が《引っかかった》?
 この痛みのような不思議な《合図》とも取れる感覚は、何か決まった事柄に反応している。そんな気がする。
 もう少しで、何かを掴めそうな、そんな予感がある。

「うぅむ」

「何を悩んでいるのよ」

「……え?」

 アスナの声にふと我に返ると、そこにはムスッと少々お怒り気味の閃光様──と呼ばれるのはまだ先の事だが──が仁王立ちしていた。
 これはまずい。ここでお怒りを受けるのは非常によろしくない。もし本当にしばらく一緒に過ごすなら余計な波風は極力避けたい。
 相手がアスナなら特に。

「い、いやあなんでもないよ、ハハハ……あ、ベッドどうぞ」

 キリトは「ハハハ」と渇いた笑いを浮かべながらベッドから立ち上がり、アスナにベッドを譲る。
 アスナは少しだけ複雑そうな顔をしながら譲られたベッドに腰をかけて、今更ながら申し訳なさそうな顔で口を開いた。

「……迷惑なら隣の部屋を別に取るけど」

「と、とととんでもない!」

 キリトはブンブンと強く首を振った。これが現実なら一瞬で目眩を起こしそうなほどその勢いは強い。
 アスナは少しだけ気まずそうな顔をしながら「そう」と短く答えてメニューウインドウを弄り出す。
 アイテム整理をしているのだろう。拠点を変えるということは拠点に溜めておいた荷物の引っ越しも同時に意味する。
 それらを無作為にストレージに入れてしまうと、いざ必要なアイテムを探す時に苦労してしまうのはよくある話だ。
 自動整理機能はついているが、自分に合うよう個人カスタマイズするのは珍しくなく、むしろ普通とも言える。
 キリトはホッと内心で息を吐き、小さめのソファーに腰をかけた。同時に今日の寝床はここかな、と考える。
 このソファーはベッドよりかは幾分柔らかいが如何せん小さい。キリトは大柄な方ではないが、それでも横になれば身体全ては収まらない。
 備え付けのベッドは狭くて硬いと言ってもベッドはベッド。ソファーで寝るよりは幾分マシな睡眠を取れるだろう。
 かといってベッドで寝たいとダダをこねる気はキリトには無い。性格上女性相手に意見をしにくいというのもあるが、アスナを床なりソファーで寝かせるよりは良いと思えるからだ。
 安っぽい男のプライド、というよりは惚れた弱みと言うやつだろうか。
 もしここにいるのが今のアスナだったなら、誘われれば狭くとも一緒のベッドで寝ていたかもしれないな、とキリトは頬を弛ませる。

「何を考えているの?」

「え?」

 突然のアスナの言葉にヒヤリとする。
 声には棘があり、凍てつく視線が突き刺さるように感じる。

「随分とだらしない顔していたわよ」

「そ、そうかな? 気のせいじゃないか?」

「そうかしら? まるで女の子のこと考えているような……そんな顔だったけど」

 ぎくぎくっ! と心の中で擬音を奏でる。
 何故わかったのだろうか。そう言えば昔からアスナは変に鋭いところがあった。
 ジトォ~~~っとした探るようなアスナの冷たい視線が引きつったキリトの顔を貫通する。
 こういう時は素直に白状するのが一番なのだが、流石に「はい実はそうです」と言う度胸はない。
 ここで仮に「アスナのことを考えていたんだ」と言えばどうなるだろう?

 引かれる? 
 嫌われる? 
 流される? 

 それとも……頬を赤らめる?

 キリトにその自信は無かった。 
 だがこうして黙っていると何故か浮気を咎められているような錯覚に陥る。実際にはそんなことはないのだが。
 今日何度目かの気まずい空気が乾燥しないはずの喉奥をカラカラにし、キリトに再び高速度の思考を要求する。
 すでに本日の営業は終了しましたと休眠モードだった脳は今や昼間アスナに再会した時のようにフル回転し……一つの《策》を発見した。

「と、ところで今日は良いのか?」

「……何が?」

 ジトッとした視線は相も変わらずキリトの顔を貫通し、まるで奥の壁すら見えているんじゃないかと言うほど鋭い。
 怒らせるような真似は一切していないはずなのだが……とたじたじになりつつもキリトは捻り出した秘策を口にする。

「この街には確か、《隠れ銭湯》があったんだけど」

「………………」

「ひ、非常に見つけにくい場所だから、そんなに人も来ないんじゃないかな、ハ、ハハ」

「………………」

「ハハハハ……」

「………………………………………………行く」





 どうしてこうなった。
 これまた本日何度目かのこの問いをキリトは自分に投げかけた。
 ちら、と後ろを振り返ると大きく《湯》の字が描かれたのれんが一つ。標記のほとんどがアルファベットを用いられているこの世界では比較的珍しい漢字が用いられたオブジェクトだ。
 恐らくこれはこれ一つで背景オブジェクトとして認識されているのではないだろうか。そんな益体もないことを考えつつ視線を元に戻す。
 それ以上あちらへ視線・思考を向けることは許されない。何故ならそれが彼女の《絶対命令》だからだ。
 《ウルバス》の東広場から北へしばらくNPCの住宅街を抜け、無意味で閑静な路地を西へ東へと彷徨い歩いた先に、大きめの家の住宅街が広がる一画が存在する。
 ほとんどの家のNPCは何の情報もくれないただの《飾り》──世間話程度はしてくれるが役立つ情報は皆無──なのだがこのうち一軒だけは少し違う。
 珍しくもない灰色の屋根をしたその家には老婆が一人揺り椅子に座っているだけで、やたらと長ったらしい攻略や何らかのクエストとは一切関係ない世間話をしたがる。
 大抵はその話を途中で切り上げて出て行くのだが、このお婆さんの話を最後まで聞くと──時間にしておよそ六百秒、つまり十分はかかる──「暇なら息子夫婦のお店で休んでいくといい」と勧められるのだ。
 この話を聞くと、先程までは何も無かった奥の部屋に地下へと下る階段が出現する。階段を下りると、そこは古式ゆかしい日本の銭湯のような風景が広がっているというミスマッチな場所へ辿り着く。
 番台には気っ風の良さそうなお兄さんが首にタオルを巻いて座っている。恐らく彼がお婆さんの息子さんなのだろう。お婆さんの語る設定では息子夫婦だそうだが奥さんの姿は見られない。
 「こんなところにどんな客が来るんだよ!」というツッコミをベータテスト時代はしたものだがゲームには往々にしてよくあることでもある。突っ込んだり気にした方が負けなのだ。
 もっともここは、デスゲームと化す前のSAO……ベータテスト時代では入浴後になんらかの《支援効果(バフ)》があるわけでもなく、わざわざ風呂に入る意味など無かった──ナーヴギアでも水回り環境は苦手らしく仮想世界で入るなら現実で入浴した方が気持ちが良い──為に《無駄スポット》と呼ばれ注目されずさほど広まることは無かった場所だ。
 その無駄スポットがよもやこんなところで役に立とうとは。
 長い長い間の後に「行く」と言ったアスナを引き連れてキリトは十分ほどの苦行を耐え、アスナの視線が一段と厳しくなってきたところでようやく地下へと降りることが出来た。
 大きい煙突が無かったけど何処から蒸気やら煙が出ていくんだよ、とか地下なのに排水は大丈夫なのか、などといったツッコミどころはあるが、それもやはり《所詮はゲーム》としか言いようがない。
 それがゲームの良いところであり、悪いところでもあるだろう。リアルに近づけつつ、リアルではありえない事をやる。言わばそれはもう《お約束》なのだ。
 だが、降りて番台で料金を払った所で気付く。奥へ入るのれんが一つしかない。

「ねえ、これってもしかして」

 アスナの不安そうな声に、キリトも流石に冷や汗をかく。
 《無駄スポット》と思っていたせいで当時たいした情報の収集もしなかった。
 一度念のために確認には来たが、入浴まではせずに立ち去ったので深く気にしていなかった。
 しかしここはもしや公共浴場と呼ぶにはかなり致命的な欠陥があるのではなかろうか。それすなわち、

「まさか、風呂って男女分かれていないのか?」

 混浴という実にけしからんシステム。これは考えようによってはとても恐ろしいことだ。
 混浴と聞けば聞こえはいいかもしれないが、このSAOにはハラスメントコードが存在する。
 システムに行為がハラスメントと認識されれば、程度にもよるが相手の通報によって対象者は一層の黒鉄宮にある牢獄(ジエイル)へと送られる。
 一度牢獄に送られたプレイヤーは、そう簡単には牢獄から出る事が出来ない。犯罪者……オレンジプレイヤーは特に出ることは叶わないだろう。
 問題なのは、それだけハラスメント規制をしっかり設けているのに混浴があるということだ。
 もし、異性が入っているのを知らずに入ってしまったら、極論それだけで黒鉄宮行きになる恐れもある。
 何も知らずに入った方からすると事故のようなものだが、それで黒鉄宮に送られては割に合わないにも程があるではないか。
 ヒースクリフ、いや茅場晶彦……なんて、なんて恐ろしい物を作ったんだ!

「キリト君、もしかして混浴って知ってたの?」

 冷たい、氷の矢のような声がキリトに突き刺さる。
 今、アスナの中ではキリトの評価がだだ下がりになっているに違いない。
 キリトは身の潔白を必至に証明する必要があった。

「ないないない! そうだって知ってたら最初に言うよ! 《トレンブル・ショートケーキ》に誓って!」

「……そう。今キリト君の信用は凄く下がっているけど、《トレンブル・ショートケーキ》は信じられるから……信じておくことにするわ」

 今アスナの中では、キリト < トレンブル・ショートケーキ の序列になっているようだ。
 ケーキに負ける信頼度というのは悲しむべきか、相手があのケーキならやむなしと達観するべきか。
 キリトが引きつった笑みを浮かべていると、アスナはのれんをくぐってからキリトに口を開いた。

「それじゃ見張り頼むわね」

「へ? 見張り? 何の?」

「決まってるでしょ、私が入浴中に男の人が入ってこないように。女性だったら気にしないから」

 アスナはスタスタ奥へと進み、消えていく。
 こんな所にそうそう人が来るかなあ、とは思っていても口には出さないだけの対人スキルはキリトにも残っていた。
 それに万一、ということもある。ここに彼女を連れてきたのは自分な以上、やむを得ないだろう。
 だがしかし、やはりこう思わずにはいられない。どうしてこうなった、と。



 幸いにして、あるいはやはりと言うべきか、アスナの入浴中に他の客は来なかった。
 おかげでキリトはおよそ一時間近くをのれんの前で突っ立っていたことになる。何故女子はこうも風呂が長いのか、とは言わない。
 妹もそれなりに長いことを実体験としてキリトは経験している。
 それに、長く待っただけの甲斐がゼロだったとも言い切れない。
 宿屋への帰り道、今のアスナはウールケープを被らず外気にブラウンの美しいロングヘアをさらしていた。
 露出した肌には艶が宿り、ホクホクとした湯気エフェクトをうっすらとだけ立ち上らせている。
 どういう設定なのか、SAOでは水濡れによるエフェクトはハイスピードで乾燥されるはずなのに未だアスナの髪は湿っているようにも見えた。
 どうしてこう、お風呂上がりの女性は艶やかで色っぽいのだろう。現実での彼氏からの贔屓目を抜きにしても、やはりアスナは美しいと思える。

「なあに?」

「……いや。綺麗だなと思って」

「……っ!」

 アスナはスタスタとスピードを上げて先に進んでしまう。
 言ってから、キリトも少しばかり恥ずかしくなってきた。本当ならこんなこと言うつもりじゃなかったのだ。
 つい、口から本音が滑り出てしまった。かつての自分ならその言葉さえ出ない程他人とのコミュニケーションが苦手だったのに。
 相手がアスナだから、ということもあるだろう。彼女と過ごし、育んだ感情が彼を彼女に対してオープンにさせている。
 もっともそれは無意識下の話であって、意識して言おうとしても中々言える物ではない。先の宿屋でのように。
 キリトは照れつつも足を早めた。どんどん先に進むアスナにかなりの距離を離されてしまっている。
 せっかくだからせめて隣を歩きたい。それくらいの我が侭は許してもらえるだろう……たぶん。
 そう思い、キリトが早足でアスナに近づいたのは、丁度中央広場の当たりだった。
 その時、ふと見覚えのある青い髪のプレイヤーを目端に捉えた。ドクン、と心臓が一際大きく脈動する。
 立ち止まって振り返ると、そこには最早記憶の霞に消えかかっていたプレイヤーがいた。

 ディアベル。

 キリトは彼をある意味英雄だったと捉えている。それほどまでに、彼はこのゲームクリアに貢献した大きな存在だった、と。
 懐かしむ気持ちと、なんだか後ろめたい気持ちがぶつかり合って、どうしていいのかわからない。
 アスナから聞いてわかっていたつもりでも、いざ直面すると思考がフリーズしてしまう。
 幸い夜で暗いせいもあって向こうは気付いていないようだ。
 彼の向かう先では見覚えのあるメンバーが数人ディアベルを待っていた。
 ありえたかもしれない光景。そんな言葉が浮かんで来る。もし彼が生きていたなら、自分の生き方も何か違っていたのかもしれない。

「どうしたの」

 その時、横からアスナの声がした。
 思ったよりも呆けていたようで、先に行っていた彼女は心配し、もしくはシビレを切らせて戻ってきたのだろう。
 前者であって欲しいと思いつつ視線でディアベル達のことを伝え、アスナも「ああ」と納得する。

「そう言えば、あの人達は明日辺りフィールドボスに挑むんじゃないかしら」

「そうなのか?」

「ちょっとだけどそんな話を聞いたわ。情報屋さんから二層の情報は早めに出ていたからある程度知られているし、一層で足踏みした分安全マージンはそれなりにあるだろうから一気に駆け抜ける、って言っていたもの」

「なるほど」

「今朝貴方と会う前にちょっと話を聞いたけど、フィールドボスの場所もわかっているから、今日は精一杯レベリングとクエストこなして明日倒しに行くって意気込んでいたわよ」

 アスナの話を聞いてふむ、と考えだす。
 前回よりもやや性急ではあるが、問題はないだろう。
 問題があるとすれば最後にベータの時と違い、《キング》が出てくることだが、わかっていれば対処のしようはある。
 あとでアルゴにその可能性を示唆しておくべきか、それともそれを教えてくれるクエストを探しておくべきか。
 既にキリトの中では《夢》かどうかなど関係なく、思考はSAOに居た時の物になっていた。

「とりあえず、それなら明日は彼らの戦いを見に行こうか。流石に参加はさせてくれないだろうし」

「なんで?」

「なんでって……あ、そうか」

 一瞬アスナの疑問がわからなかったが、その意味を瞬時に理解する。
 そういえばこの世界では《ビーター》騒動が無かったのだった。
 だったら何も後ろめたいことはないんじゃないか? いきなり自分も参加させてくれ、というのはややぶしつけだが拒みはすまい。
 もう叶わないと思っていたディアベルと一緒の攻略。それに惹かれるものが無いと言えば嘘になる。

「じゃ、じゃあ参加してみようかな」

「そう。まぁ私は参加しないけど」

「え? なんでだ?」

「さっき言った朝に会った時、それとなくフィールドボスの話になって、ラストアタックボーナスについて少し揉めたの。それで私はじゃあ参加しない、って啖呵切っちゃったから」

 一体どんな会話が繰り広げられたことになっているんだ、と思いつつとりあえず納得しておく。
 しかしそうなると自分だけ参加するのもなんとなく後味が悪い。
 それにアスナが波風を立てるほどの何かがラストアタックボーナスであったのならどのみち自分も似たような事に巻き込まれそうだ。
 恐らくはキバオウ辺りがLAボーナスはこっちに回せ、などと言ってきたのだろう。
 そう思うとわざわざトラブルの種になりにいくのも馬鹿らしい。

「それじゃやっぱ俺もいいや」

「……ふぅん」

「なんだ?」

「別に」

 アスナは鼻で返事をすると「帰りましょ」と踵を返した。
 その声色は今日一番に優しくて。なんとなく急に機嫌が良くなったように感じられる。
 アスナは振り向かずにスタスタと宿に向かっていく。慌ててキリトはその後を追い始めた。
 アスナの歩みは銭湯を出た時のようにゆっくりだ。だがキリトには、その足取りがどことなく軽いように見えた。



[35052] 追憶のSAOP2-3
Name: YY◆90a32a80 ID:b9264a49
Date: 2013/09/07 20:25


 フィールドボスとはいわゆる名前付き(ネームド)Mobのことで、迷宮区への関門的役割を担っている。
 生息域は必ず絶壁や急流、その他の通行不能エリアに挟まれ、敵を倒さなければ塔……迷宮区にはいけない。
 これは全ての層に共通している事象で当然上層に行けば行くほどのその難易度も上がっていく。
 そういえば手強いフィールドボスがいる層で、指揮を任されたアスナとボス戦について衝突したこともあったな、とキリトは思い出す。
 あの時のことを思えば、彼女は随分と穏やかになったものだ。

「あれがフィールドボス?」

 隣から針のように鋭く、それでいて透き通った声がかけられる。
 キリトは埋没しかけた思考を放棄して、やや遠目にあるレイドを組んだパーティ達を見やった。
 青い髪のプレイヤー……ディアベル率いる彼らは丸く盛り上がった額にド迫力の重突進攻撃を繰り出す巨大牛、《ブルバス・バウ》と相対していた。
 角が四本あり、体高はおよそ四メートル、黒茶色の毛皮をした文字通りの化け物牛だ。
 キリトは声の主、現時点のパートナーであるアスナへ小さく「ああ」と答え、身を屈めつつ戦況を見守る。
 昨日の段階でフィールドボス戦に付き合わない事を決めていた二人は、しかし予定通り見物には来ていた。

「強いの?」

「それなりではあるけど、今の彼らならレベル的にも安全圏だろうし、ディアベルの指揮に従わないよっぽど自己中心的なヤツがいないかぎりは大丈夫さ」

 キリトは彼らの戦いぶりを見守りつつアスナに言ったことを自分にも言い聞かせる。
 彼らなら……ディアベルが率いているなら大丈夫だ。
 記憶の中にあるこのフィールドボス戦は、ディアベルを亡くし二分されたパーティが取り合うように戦っていた為危なっかしくて見ていられ無かったが、それでも誰一人欠けることなくクリアした。
 レベルマージン的に言っても今のディアベルパーティなら問題ないだろう。
 この低層攻略においてディアベルのカリスマ力ある指揮ではみ出し者が出るとは思えないし、キリトの当時の考えが正しければ《ベータテスター》としての知識もあるはずだ。

「ディアベルさんの指揮、ね。キリト君は随分とディアベルさんを買っているのね」

「えっ」

 アスナはまるでディアベルに何か含む物があるようなことを口にした。
 かつて彼の事を彼女と話したことがあるが、その時は彼女も彼について中々好意的に受け止めていたように記憶しているのだが。
 それとも無意識に自分自身がディアベルに何らかの暗い感情を抱いていて、《夢》の中のアスナにそれを言わせているのだろうか。
 そんな自覚はこれまで全然無かっただけに意外だと思わざるを得ない。

「私、あまりあの人のこと……信じられない」

 何故、とは彼女の纏う空気から聞けなかった。
 小さく呟くアスナは、ちら、と一瞬だけキリトを見つめ、すぐに視線を戦闘中の彼らに戻す。
 一瞬合ったその瞳には不思議な色が浮かんでいたように思えた。
 一体彼女は何を思い、何を伝えたかったのか。キリトにはわからなかった。
 ただ、彼女のディアベル達……否、ディアベルを見る目は険しかった。何となく理由を聞くのは気まずい。
 そもそも、これが《夢》ならば彼女の持つ感情は自分の持つ感情の可能性さえある。
 なのでキリトもそれ以上は追求せず、アスナのように《ブルバス・バウ》が倒されるのを見守る事にした。
 最後はディアベルの号令でフルアタック。危なげなく見事フィールドボスの討伐に成功する。
 それを見届けたキリトはホッと胸を撫で下ろした。こうなることを予想していたとは言え、仮にもボス相手の攻略戦。
 万一が無いとは言い切れない。MMOに限らずRPG系のゲームというのはどれだけ相手が格下であっても予期せぬクリティカルの連続などによるピンチに陥ることはちょくちょく起きてしまうものなのだ。
 遠目で見るディアベル達の顔は終始笑顔で、実に楽しそうだった。それを見ていると、SAOの攻略戦でああも和気藹々とした攻略戦がこれまで一体何度あったかとつい数えてしまう。
 キリトの知る限り、その数は……多くない。それはデスゲームなことを考えれば当然なのだが、彼……ディアベルが生きていたらもう少し多かったのかもしれないと思える。
 そして、それが本来あるべきMMORPGの姿だったはずなのだ。今思えば、SAO攻略は《ユーザー》としての在り方は失われていたのかもしれない。

「みんな、一度戻るみたいね」

「念のために補給に行くんじゃないかな。俺たちは……」

「先に行かせてもらいましょう」

 ディアベル達が戻るのを確認してから、つい先程まで関門の役割をこなしていたフィールドボスの居座っていた一本道を通り抜ける。
 この先は二層最後の村、《タラン》がある。《ウルバス》に比べるとそこまで大きくなく、一通り村のクエストをこなしても昼過ぎには迷宮へと挑めるだろう。
 それを聞いたアスナは頷き、ひとまず村をチェックしてクエストをこなしてから迷宮へと向かう事に決まった。





「アスナ、速く速く!」

「わかってるわよ!」

 タランで受けられるクエストの数はさほど多くない。うま味の薄い……必要の無いクエストを出来るだけバッサリ削るとその数はさらに少なくなる。
 その少ないクエストの中で、二人は報酬のレア度としては比較的重要度の低いクエストに何故か挑戦していた。
 いや、もっと言えば本来このクエストは《バッサリ削る》カテゴリに分類されてもおかしくないクエストだ。

「次その三軒向こうな!」

「了解!」

 キリトの指示にアスナは声を張り上げて三軒離れたNPC民家へと駆ける。
 キキィ! という音が鳴るんじゃないかと思うほどの急制動をかけて止まり、開きっぱなしにしていたシステムメニューのアイテムストレージ欄にある選択中のアイテムをタップ。
 すぐに手の中には光の粒子が収束し、アイテムが形成される。何も珍しいものなどない、ただのアイテムオブジェクト化である。
 オブジェクト化された物もまた珍しくはない……ミルク瓶。アスナはミルク瓶を郵便受けに入れると「次!」と声を上げてまた走り出した。
 キリトはその姿を視界の隅に納めつつ自身も郵便受けにミルク瓶を入れて次のお宅へ走り出す。
 これはスピード勝負なのだ。速くしないとミルクの鮮度が落ちて《凄く不味い別の何か》になってしまう。
 今やっているこのクエストは、制限時間以内に所定のお宅へ《美味しいミルク》を配達すること、という内容なのでトロトロとはしていられない。
 さらに言えば、《凄く不味い別の何か》は捨てる事が出来ない呪われたアイテムばりの面倒さがあって、ストレージから消す為には全て飲み干すしかなくなるという悪魔のような仕様なのだ。
 別に飲まなくても害は無いのだが、アイテムストレージをいつまでも圧迫してしまうのでそれは極力避けたいところである。
 そんなリスクを犯してまでこのクエストに挑戦しているのは無論クエスト報酬(リワード)の為だ。

「はぁ、はぁ、はぁ……っ!」

「仮想世界環境って、疲れない……筈よね……っ」

 お互いに息をゼィゼィと切らし、膝に手を置いて上半身をくの字に曲げる。
 仮想世界環境には現実で言う疲労感や痛覚はほとんど存在しない。ゼロではないが、それは極端に薄められた《今はそういう状態だよ》という認識を与えてくれる程度のものだ。
 よって実際には仮想世界……このSAOにおいて痛みでのたうち回ることや激しい運動による呼吸不全などは起こりえない仕様となっている。
 それでもこの二人に限らず、攻撃を受けた時や何かにぶつかった時、激しい運動をした後などは「痛い」と言ったり疲労を表す行動を取るプレイヤーは多い。
 それはシステムのミスや不具合ではなく、人が持つ本能の一つだと言える。これほどの衝撃を受ければ「痛い」「疲れる」「息が切れる」と言った《記憶》が彼らにそうさせているのだ。
 《夢》だとしても、そこに変わりはない。
 《仮初めの疲労》にふぅ、とキリトは一息つけて上半身を起こした。
 それに釣られるようにアスナも佇まいを直す。一瞬だけ髪を触り、安堵したように離した。
 彼女にとって、運動後に汗をかかないのは仮想世界に囚われている中で数少ない良い所と言える部分だ。

「これ、ソロではかなりキツイんだよな」

「っていうかクリア出来るの?」

「ソロだと今のより少しだけ軒数が減るからギリギリなんとかなる……こともある」

「ちなみに挑戦したことあるの?」

「……あんな不味い物はもう二度と飲みたくない」

「……ご愁傷様」

 キリトの言葉で全てを察したアスナはそれ以上聞かなかった。
 ちなみにこのクエスト、数に物を言わせて挑戦すれば実は凄く楽だったりする。
 実はクエスト参加人数制限は無く、村の民家の数も限られており、重複しない為、一定以上の人数が集まればさほど苦労はしないのだ。
 さりとて今の二人にメンバーを集める伝手はなく、結局二人でハードコースを敢行する羽目と相成ったのである。
 もっとも少人数でやるうま味が無いわけでもない。このクエストは参加人数が青天井な代わりに報酬の数は一定だ。
 分配したらほとんど手元に残らない……下手すると全員分に行き渡らない可能性もある。
 ではその報酬とは何なのか。

「まあ今回は無事一発クリア出来たからいいさ。早速使うか? この《ベルベルクリーム》」

「その前にちゃんと分けましょ」

 アスナに言われ、キリトは今回のクエスト報酬である《ベルベルクリーム》をアスナと半分に分ける。
 アイテムストレージから《ベルベルクリーム》を選択し、容量設定を五十パーセントに設定、アスナへと送る。
 アスナの目の前にはアイテム受信のメッセージがポップし、それを確認して頷いた。

「これが……二層特産のクリーム」

「そう。一層で俺が食べていたクリームの上位互換版さ。一層のは時間がかかるけど根気があればたいてい取れる。でも二層のは制限時間があるからちょっと苦労するんだ。けどその分美味い」

 そう、彼らが受けたクエストは言ってしまえば一層にあった《逆襲の雌牛》の上位互換とも呼べるクエスト。
 ただクエスト内容はミルク瓶配達で、報酬は一層のものより質の良いクリームという、攻略における重要度からはほど遠いクエストだ。
 しかしこのクエスト、冷却(クーリング)タイムが長く一度誰かが受けると──クエストを成功させると──次の組みが受けられるようになるまで半日かかる仕様になっており、ある意味でプレイヤー泣かせとも言える。
 キリトがこの村で受けられるクエストを覚えている限り話していた時、意外にもアスナが食いついたのはこのクエストだった。
 キリトにとってもここのクリームは大好きなオヤツの一つだ。クエストに挑戦するのに吝かではなかった。
 アスナがジッと自分のクリーム──が入った壺オブジェクトを眺めている間に、キリトは自分のクリームとパンをオブジェクト化して躊躇いなく頬張る。

「ん、美味い!」

「……」

「?……どうしたんだ」

「……それ、使わせてもらってもいい?」

「それ……って、これ?」

 キリトが自分の分のクリーム壺を指差すと、コクリとアスナは頷いた。
 つまり、彼女は自分のクリームが勿体なくて使えないのだろう。その気持ちはなんとなくわかる。
 ここで「ずるい」と思うほどキリトも狭量ではない。むしろ、現実ではよく一緒に食事してアスナの食べ残しを処理することもあるくらいなのだ。
 そんな時は決まって《アスナに食べさせられる》のがお約束になっているが……閑話休題。
 そんなわけでキリトに思うところはなく、快くアスナへクリームの使用を許可する。

「良いよ」

「……ありがとう」

 アスナはお礼を述べると控えめにクリームをパンに乗せ、「はむっ」と淑やかさを垣間見せながら口に含む。
 もぐもぐとパンを咀嚼し、ごくんと飲み込んだところで……ほうっとした蕩けるような顔をした。

「美味しい……」

「口にあって何より」

 キリトは微笑みながら自分のパンをムシャムシャと勢いで食べ尽くす。
 休憩は終わりだ。このクエストの他にもいくつかめぼしいクエストには手を出した。
 そろそろ迷宮区へ向かう頃合いだろう。アスナの可愛い喜ぶ顔も見られたし、これ以上のんびりしている理由もない。

「アスナ」

「了解」

 名前を呼んだだけで全てを察したらしい細剣使い(フェンサー)様は、蕩けた顔から一瞬でキリッと表情を引き締めた。
 ある意味で、最近は見なくなった顔だ。でも、この顔を見ないのはとても良い事だと思える。
 この顔は恐怖と表裏一体なのだから。キリトは思う。

(俺はやっぱり、笑いながらほわほわしてるアスナが好きかな……)

 平和ボケと呼ばれようと構わない。
 優しい世界で、一緒にいたい。





 二層迷宮区に出てくる牛頭人身のMob、《レッサートーラス・ストライカー》はこの層のフロアボスが使ってくる攻撃と同種の物を使用してくる。
 《ナミング・インパクト》と呼ばれるその技は数秒動けなくなるバッドステータス《行動不能(スタン)》を発生させるので中々に厄介だ。
 しかも《スタン》を連続でくらうと《麻痺(バラライズ)》状態にされてしまう。こうなってはほとんど打つ手が無い。
 ここよりも上層で手に入る高価な浄化クリスタルアイテムなら瞬時の回復も可能だが、この層ではまだ手に入らないだろう。
 SAOの治療ポーションアイテムはHPも含めて瞬時に回復する類ものではなく、徐々に効果が現れていく仕様になっている。
 だからこそフロアボス戦では《POT枠》として戦線を離脱し回復に徹する事の出来るよう計らう必要がある。
 上層ではヒールクリスタルなど瞬時にHPが全快するものもあるが高価な為、結局この体制はキリトの知る限り最後まで続けられていた。
 つまり、この層に限ったことではないが普段はもちろんのことフロアボス戦などでは特に《麻痺(バラライズ)》には注意しなければならない。
 この層のフロアボスが実際に使うのは《ナミング・インパクト》の上位版だが、規模が違うだけで基本は同じなのでここでしっかり身体に覚えこませておくことが重要……なのだが。

「い、いや、こないで……こないでって……言ってるでしょっ!」

 鋭いリニアーの突きが一閃され、Mobトーラスが倒される。
 つい今し方まで映画の中で襲われるヒロインよろしく涙目になっていたアスナは消えていく姿すら目視したくないのか、相手のHPゲージが吹き飛んだと知るや否や発光するモンスターからプイッと視線を逸らした。
 すぐにSAO特有のガラス爆散エフェクトによってトーラスは姿を消滅させるが、アスナの気持ちは晴れない。

「こんなの……牛じゃないでしょ!」

 恥ずかしそうに叫ぶ彼女にキリトは苦笑する。
 そういえば彼女はこういった露出の激しい人型Mobを嫌っていたな、と思い出す。
 《見えちゃいそう》で嫌、とかなんとか。言われてみると人型Mobは露出が激しかったり、着ている物がボロくて心もとないヤツは多い。
 《レッサートーラス・ストライカー》もその類に漏れないMobだろう。
 アスナの悲壮なる絶叫が耳奥に何度も木霊しながら、キリトはアスナとトーラス狩りを続けた。



 迷宮に潜っておよそ二時間。アスナもようやくMobトーラスの外見に慣れ、《スタン》への対処にも自信を深めたところで二人はタランへと戻ってきた。
 もともと、今回はアスナに《スタン》攻撃である《ナミング・インパクト》に慣れてもらう為に迷宮へ向かった公算が大きい。
 と言っても、見つけた──正確には覚えている限りの──宝箱の中身はしっかりと頂いたが。
 中にあるブツのランクや内容がわかっていても、それを手に入れる時は心躍る物だ。迷宮区で見つけた宝やモンスタードロップはフィールドのそれよりも良質な場合が多いので尚更である。
 頭の中でちーん! じゃらじゃらと清算してみると、儲けはなかなかのものだ。これなら自分用に《トレンブル・ショートケーキ》を買っていいかもしれないと心が揺れそうになる。
 その時だった。

「どう責任取るつもりや!」

 広場の方で聞き覚えのある関西弁が怒声を張り上げていた。
 声の発生源に目を向けてみると、何やら揉めているのがわかる。声の主は想像の通り、ツンツンとしたトンガリ頭が特徴の関西弁プレイヤー、キバオウだ。
 圏内故にシステムによってプレイヤー間のHPは護られているが、そのシステムに抵触しそうなほどキバオウは誰かに掴みかかっている。
 掴みかかられているのは……一人の小柄な鍛冶師のようだ。

(……ネズハ!)

 記憶の片隅にあるあの鍛冶師は、先日アスナのウインドフルーレを強化詐欺によって盗んだプレイヤーだ。
 名をネズハ。実際には《Nezha》と書いて《ナタク》と読む。《封神演義》に登場する人物の名前だ。
 予想はしてしかるべきだったのかもしれない。あの時もこうして彼はタランで商いを続けていたのだから。
 彼の事を知るキリトとしてはやはり同情的になってしまう部分もある。だがキバオウの怒りはある意味でもっともで、ここでネズハを庇うようにしゃしゃり出るのは難しい。
 かと言ってこのまま放っておくのも後味が悪い。頼みの綱はディアベルだが、

「ディアベルはんはワイ等の……SAOプレイヤーみんなの英雄やぞ! 誰の為に危ない橋渡って迷宮に行っとると思っとるんや! そのディアベルはんの武器を消滅させるっちゅうのはどういう了見や!」

 それは期待できそうにない。
 どうやら詐欺に合ったのは──彼らはまだそうだと気付いていないようだが──青い髪の騎士、ディアベル自身のようだ。
 流石の彼も呆然とし、顔色が悪い。SAOはフェイスエフェクトが過大すぎるきらいがあるため、より一層顔色を酷くさせている。
 彼の頭の中にあるのは剣を失った怒りか悲しみか、はたまた今後も続くであろう攻略という名の地獄で早々の足踏みに対する恐怖か。
 それとも攻略最前線に立つ者としての責任感からくる重圧か。
 キリトにはディアベルの心まではわからないが、今のディアベルにキバオウを諫めるだけの心的余裕は無いと見受けられた。

(……どうする?)

 詐欺を暴露するのは簡単だ。しかしその後ネズハがどうなるのかを考えれば躊躇いが生まれてしまう。
 ディアベルは依然として黙ったままだ。未だ自分に降りかかった事態を飲み込めていないのかもしれない。
 この時期にメイン武器を失ったのだと思えば無理は無いのかも知れない。ましてや彼はみんなを引っぱっていく立場にいるのだから。

(待てよ? メイン武器……か)

 一瞬思いついたアイディア。ポク、ポク、ポクと連鎖的にアイディアが閃いていく。
 ちらり、と背中にある片手直剣の重さを思い出した。かつてこの武器で二層を乗り切った実績があるからこそ言える。
 二層ボス戦でも、この武器なら申し分は無いだろう、と。
 この《アニールブレード》を《材料》にすれば《交渉》の席を設けられるかもしれない。
 記憶の奥底に眠っているこの武器……正確には《キリトのメインウェポン》を巡るイザコザ。
 ディアベルが謀ったと思われるキバオウからのメイン武器買収計画を思えば、悪くない話のはず。

(問題はいくつかあるけど……)

 キリトがそっとアスナに視線を向けると、やはりというか彼女の目つきは鋭く尖っていた。
 彼女もまたネズハによる強化詐欺の被害者なのだ。《詐欺》とわかっている分彼女の中の鬱憤はそれなりだろう。
 当時は一緒に解決しようとしていく中で、彼女も事実に触れ、ネズハに多少同情的な立ち位置になってくれていたが、今回は違う。
 通らなければいけない関門は多いが、やるしかない。キリトはざっと頭の中で計画を整理するとアスナに小さく告げた。

「……不満かもしれないけど、しばらく俺のすることを黙って見ていてくれないか」

「……うん」

 アスナは少しだけ不満そうに、しかし小さく頷いてくれた。
 キリトが何かをしようと思っている事がわかったのだろう。
 詐欺から助けられた経緯がある分、そこは任せてみようという気になったのかもしれない。
 キリトはアスナの返事を聞いてから未だ喧騒鳴りやまぬディアベル達の元へと足を向けた。

「……なあ、ちょっといいか」

「!」

 ディアベルがキリトの声に反応し、顔を上げる。
 その顔は何の表情も映していなかった。どうしていいのかわからない、そんなところだろう。
 彼のこんな顔を見ることがあるなど、想像もしていなかったキリトは最初からくじけそうになる。
 元来、人付き合いは苦手なのだ。だがここで尻込みするわけにもいかない。グッと拳を握りしめて勇気を奮い立たせる。

「武器が消滅したのか?」

「……」

 ディアベルは答えない。また顔を俯けてしまった。
 その行動が全てを物語っている。そこでキリトが近づいて来たことに気付いたらしいキバオウが矛先をネズハからキリトに切り替えた。
 キバオウはギラリと敵意の篭もった目でキリトを睨み付ける。

「何しにきたんや!」

「少し話がある」

「お前は信用できへん!」

「場合によっては俺の《この剣》を譲ってもいい」

「!」

 キリトが背負う自分の剣を親指で指し、ディアベルが再びハッと顔を上げた。
 その目には期待半分、疑い半分と言ったような色が見受けられる。
 離れた場所で見ているアスナも目を丸くしているのがわかった。

「……どういうつもりや」

「言葉通りの意味だ」

「ふざけるのも大概にせえや! ジブン、何考えとんのや!」

「待ってキバオウさん」

「ディアベルはん!?」

 ディアベルが制止の声を上げる。
 この日初めてディアベルの声を聞いた気がした。

「条件は何かな?」

「……話を聞いて欲しい。少し付き合ってくれないか」

「わかった、行くよ」

「アカン! アカンでディアベルはん! こないなヤツの言うこと聞いたら……! だってコイツは……!」

「大丈夫さ」

 ディアベルは精一杯の笑みを浮かべてキバオウを宥める。
 それでもキバオウは「それなら自分も同席する」と言い出した。
 どれだけ信用が無いんだ、とキリトは少し呆れつつも「それは認められない」と答えた。
 《あの話》をした時、キバオウがいればまともな交渉にならない恐れがあるからだ。
 しかしそれを聞いたキバオウは「それみたことか!」と散々声を大にして張り上げた。

「聞いたやろディアベルはん! こんな胡散臭い話に取り合う必要あらへん!」

「落ち着いてキバオウさん。キリトさん、圏内からは出ないんだろう?」

「ああ、もちろんだ。約束する」

 尚もキバオウは認めなかったが、ディアベルは既に決意を固めたらしい事を理解するとやむなく折れた。
 それでも彼は「せめていつでも踏み込める場所にはいさせてもらうで」と目を光らせていた。
 キリトは溜息を吐きながら近場の宿屋に部屋を取った。別に自分達が間借りしている宿屋でも良かったのだが、場所を知られて嫌がらせの類を受けるのも面白くない話だ。
 実際に彼らがそんなことまでするかはわからないが、こちらとしても安全を期しておくに越したことはない。
 ビーター時代からその辺は徹底していた。ただの臆病と言われればそれまでで、事実アスナには「気にし過ぎだよ」と笑われたものだ。
 ちなみにそのせいで「キリト君が神出鬼没過ぎて中々場所を特定できないよー」と当時のアスナが嘆いていたことをキリトは知らない。
 もっともそれもフレンド登録をするまでの話だったが。
 キリトは念のために扉のノブを施錠すると部屋にいる二人に向き直った………………二人?
 部屋には真剣な顔をしているディアベルと……アスナがいた。

「……いつの間に」

「貴方何も言わなかったでしょ、私が入った時」

 そうだったかもしれない。
 彼女が傍にいることはキリトにとってあまりに慣れ過ぎた日常で、その異常さに気が付かなかった。

「えっと、よくわからないけど君たちはコンビなんじゃないのか? てっきりそうだと思っていたんだけど」

「……まあ暫定というか、仮というか」

 キリトは言葉を濁すようにして答える。
 実際キリトにも今の関係をなんと表現していいのかわからないのだ。
 ただ当時から決まってこういうことを言うと、

「……フン」

 彼女は何故か大変ご立腹になる。
 かといってここで「はいそうです」と答えると「私たちはそんな関係じゃないでしょ」と斬られるのだ。
 乙女心というものは本当にわからない。クエストの謎解きの方がまだわかりやすいというものだ。

「ま、まぁいいや。とりあえず話を始めよう」

「そうしてくれると助かるかな」

 ディアベルも二人の微妙な関係を察して苦笑し、それ以上の追及を止めた。
 今すべきことはキリトとアスナの関係を正確に把握し表現することではなく、ディアベルの《消滅したと思っている剣》についてだ。

「キリトさんは僕にそのアニールブレードを売ってくれる、っていうことでいいのかな」

「いいや、期待させて悪いけどそういう事じゃないんだ」

「えっ」

 ディアベルは一瞬呆けた顔をした後、一段階警戒レベルを引き上げた顔つきになる。
 すぐにキリトは弁解した。

「騙すとか、そういうつもりじゃない。ようはアンタの剣が戻ればいいんだよな?」

「俺の剣は……強化に失敗して消滅してしまったんだ。もう戻らない」

「それが戻るとしたら?」

「そんなことが?」

「正確に言うとアンタの剣はまだ消滅していない」

「でも、確かに剣が消えるのを見たんだ」

「情報屋に確認をとってもらってもいい。SAOでは強化失敗による武器の消失は絶対に起きない」

「なっ!? でもそれじゃさっきのは一体……」

「先に結論からやってしまおう。《所有アイテム完全オブジェクト化》ってコマンド、わかるか?」

「……!」

 ディアベルはそれだけですぐに意味を理解したようだった。
 やはり彼は元ベータテスターなのだろう。そうでなくてはこのコマンドに辿り着く理由は現状でそうあるとは思えない。
 マニュアルをほぼ完璧に暗記したというアスナでさえわからなかったコマンド。
 必要に迫られ、それを知る機会が無いとその存在にはそうそう気付けない。
 実際にキリトも攻略が進むにつれて知った新しいコマンドがいくつかあったくらいだ。
 中には隠しコマンドなんかもあったりするため、その全容把握は製作者である茅場晶彦以外には難しかっただろう。
 ディアベルはメニューコマンドを躊躇なくタップしていき、しかし最後の最後で止まる。
 ちら、とキリトとアスナに視線を向けた。キリトが首を傾げているとアスナが口を挟む。

「別にあなたのアイテムを盗もうなんて思ってないわよ。そんなことしたら外にいる人たちが黙っていないでしょ」

 アスナの言葉に「ああなるほど」とキリトも納得する。
 思いつかなかったが、その疑いを持つのは仕方のないことかもしれない。
 キリトは両手を上げてその気はないことをアピールする。ディアベルはそれを見て、まだ少し躊躇いつつも最後のコマンドをタップした。
 アスナの時のように次々と現れるアイテム群。その中にはやはり、ディアベルの剣が混ざっていた。

「本当に……あった!」

 ディアベルの表情が明るくなる。それを見てキリトもホッと胸を撫で下ろした。
 彼にはこんなところでリタイアして欲しくないという思いもあるのだ。
 ディアベルは全てのアイテムを片付けるとお礼を述べ……改めて緊張した顔つきになる。

「ありがとう……と言ってもいいのかな。君は何故このことを?」

「そういった詮索はしないでもらえると助かる。けど俺自身は後ろめたいことはないし《詐欺》にかかわっていない」

 ディアベルは少し間をおいてから頷いた。
 もしキリトが関わっていたならここでバラすメリットは何もないからだ。

「元々その剣はアンタのものだ。だからそれを戻したからって交換条件付けるのは本当は好きじゃないんだけど」

「言ってみてくれ」

「……鍛冶師の彼をなんとかしてやって欲しい」

「……どういうことだい?」

「このままいけば彼は多くのプレイヤーから断罪という名の罰を受けることになると思う。最悪見せしめに殺す、なんてことも考えられる。そんな前例を作ってしまえばこの先、それが当たり前になりかねない。だから上手く取り計らってやってほしいんだ」

 キリトの出した条件、それはネズハを護る形での賠償を求めること。
 これにはディアベルも少し驚いたものの、納得してくれた。鍛冶師の彼と会ったことのある人間ならわかるが、彼は好んでこのような真似をする人間には見えない。
 何か事情があってのことだろう、ということはディアベルにも理解できたようだった。
 同時に、この話を血の気の多いキバオウ等のいる前でしたなら起こりうるプレイヤー間の軋轢の可能性も。
 キリトは情報提供を惜しまず《強化詐欺》について知っていることはほとんど話した。彼の属するギルド……ならぬ仲間パーティグループ、自称《レジェンド・ブレイブス》についても覚えている限りを伝える。
 《レジェンド・ブレイブス》についてはディアベルも知っていた。最近、レベルは低いものの良い装備で急に前線へと台頭してきたグループだ。
 ディアベルは少しだけ考える素振りを見せ、頷く。彼の中での算段がついたのだろう。
 これで自分の役割は終わった、とキリトはホッと息を吐く。
 話も終わったところでディアベルは部屋を出て行き、残されたのはキリトとアスナだけになった。
 そのアスナはジッとキリトを見つめている。なんだか少し居心地が悪い。

「……貴方って、人がいいのね。損するわよそういう性格」

「……あははは」

 笑うしかない。
 自覚が皆無なわけではない。聖人君子と呼ばれるような人柄になるつもりもない。
 そもそもキリトはもっと即物的で他人とのコミュニケーションが苦手なのだ。
 だがそれでも。彼の中にある《ビーター》という役割が、たとえ憎まれようとそれを《義務》と思っている部分があった。
 ベータテスターとして、自分の為に動いた過去は変えようがないのだから。
 アスナがずっとそのことについて胸を痛めていたことを、彼は知る由もない。





「それで、これからどうするの?」

 ディアベルとの話し合いも終わり、自分たちの取っている本来の宿屋に戻ってから開口一番、アスナが尋ねる。
 やること……というよりこれからやれることはそう多くない。基本は迷宮に潜ってのレベリング、ボス攻略と繋がっていくだろう。
 しかしそれぐらいのことは今のアスナでも十分に理解できるはずなので、彼女が聞きたいのはそういうことではない。

「ちょっとアルゴと会ってくるつもりだけど……」

「昼間の?」

「まあ……うん」

 昼間、アスナとクエスト漁りをしている中で思い出し、一つのクエストの確認をした。
 その情報をキリトは早い段階で情報屋《鼠のアルゴ》に伝えておきたかった。
 そのクエストとは、二層ボスの情報が得られるクエストである。
 迷宮区近くの密林に開始点のある連続おつかいクエストが存在し、それをクリアすると報酬として二層ボスの情報をくれるというものだ。
 これを知っておけば前回と違い最悪の状況は防げるだろう。キリトはそう目算する。
 そのことは一緒に行動していたアスナも理解している。

「じゃあ、それ終わったらちょっと付き合ってね」

「え? いいけど、何かあった?」

「銭湯、行くから」

「ああ」

 見張り役ですね、わかります。キリトは納得して頷いた。
 話が纏まったところで早速アルゴにインスタントメッセージを送ると、丁度近くにいるとのことで宿屋に尋ねてくることになった。
 待つこと数分でドアがノックされる。

 ──コン、コココン。

 昔の取り決め通りの小刻みなノックの仕方を懐かしみながら扉を開けると、そこにはやはりアルゴがいた。

「どういう風の吹き回しダ? キー坊。そっちからクエスト情報を売りたいとは珍しいナ」

「情報が情報だからな」

「ふゥーン、オレっちは《この情報》の方が価値がある気がするけどナ」

 少しだけ興味深そうに、アルゴはキリトと……アスナを交互に見やる。
 即座に彼女の言わんとすることを察し、たらりと冷や汗をかく。
 ……実際にはSAOで老廃物的な……汗などをかくことはないが。

「あのソロ一筋なキー坊が、狭い一人用の部屋で女と寝るとはナ」

「いや、これはだな……」

 からかうような声色に、しかしキリトは言い返せない。
 昔からアルゴにだけはどうにも手の上で踊らされている気分になる。

「まあ話を聞いてカラ判断するサ」

「……そうしてくれ」

 キリトは既に疲れた、というように肩を落としてクエストの話に移った。
 ボスに関するクエスト。それを聞いたアルゴは「確かに価値あるナ!」と少しばかり目を輝かせていた。

「これは良い情報ダ。代金を支払うヨ」

「いや……それなら口止め料ってことで」

「キー坊は欲がないナ。いっつもオレっちにタダで情報提供してくれるとは有難イ。でもそれじゃ何だか悪い気もするヨ」

「気にしないでくれ。いつも言ってるだろ? その情報を買えなくて死ぬ奴がいたら後味悪いって」

「それでもダ。普通、少なくとも代金は受け取るゾ。それとも、オネーサンへのポイント稼ぎカ? だとしたらキー坊はやり手だナ」

 瞬間、背後のアスナからめらっとした謎空気が発せられる。
 キリトはなんとなく身の危険を感じ首をブンブンと振った。

「違うっての!」

「なら偶には情報代を受け取レ。こっちもタダより怖いモノはないんダ。なんなら情報を提供するゾ? 何か知りたいことはないカ?」

 アルゴはどうやらいつも無料でマップデータやら情報を渡すキリトにそれなりに思うこともあったらしい。
 そういえば時々彼女はこうやって報酬を無理やりにでも取らせようとしてくるのだった。
 キリトは内心でヤレヤレと思いつつ、丁度良いので気になっていたことを尋ねてみた。

「んじゃ情報をくれ」

「何ダ?」

「知ってると思うけどこの層に銭湯があるだろ?」

「ああ、あるナ」

「あの銭湯浴室が一つしかないみたいでさ、つまり混浴だと思うんだけど知らずにプレイヤーが入ってきちゃったら最悪ハラスメントで監獄送りにならないか?」

「あア、なんだそんなことカ。それは無用な心配ダ」

「へ?」

「あの銭湯は最初に入った人と別の性別の人が入室しようとするとシステム警告が出る仕様なンダ。同時に中の人にも同じ警告がデル。そこで中の人が許可すれば中に入れるケド、許可しなかったら入れナイ」

「なんだ、じゃあつまり」

「不埒者の心配はナイ。ケドなんでそんなこと聞くんダ?」

「あ、いや……」

「ふゥ~ン、なるほどなるほど」

「おい違うぞ」

「何が違うんダ? まだオレっちは何も言ってないゾ?」

「う……」

「ニャハハハ! 墓穴を掘ったナ、キー坊」

 良いようにからかわれてあしらわれている。それが理解できつつ反撃できない。
 だがせめて一矢を報いねば。

「だいたいアルゴはどうやってこの事調べたんだ? 誰かと一緒に入ったのか?」

「おヤ? キー坊はオレっちの風呂事情が気になるのカ? 悪いけどそれは別料金ダ。百Kコルはもらわないとナ」

「い、いやつもりはそんな……っていうかそんなに払えるか!」

「なら払える金額なら払ったのカ?」

「払うか!」

「ニャーッハッハッハ! 冗談冗談。でもキー坊にならオネーサン特別に教えてもいいゾ?」

 何処か艶めかしいアルゴの態度に背後で再びめらっとした何かが膨れ上がるのを感じ、キリトはブンブンと首を振る。
 アルゴは笑いながら部屋を後にした。
 残されるキリトとアスナ。しばし無言の時間が続く。
 何となくキリトは振り返るのが怖かった。何故だかわからないが怖かった。

「……キリト君」

「は、はい!」

 やや低い声。
 なんとなく怒ってらっしゃると想像する。

「銭湯、行くわよ」

「はい! あ、でも……今の話だと俺行かなくてもいいんじゃ……」

「……バカ!」

 アスナは怒り心頭に部屋を出て行ってしまった。
 一体何が悪かったと言うのか。キリトにはわからない。
 ただ、やはり乙女心は複雑だと実感せざるを得ないのであった。





 二層ボス攻略戦。それは思っていた以上にスピーディに開催された。
 その理由はやはりディアベルの存在が大きいだろう。今やSAO中のカリスマと呼んでも良いほど彼の人気は高い。
 人柄がそう悪いわけでもない。実力と初めての一層突破という実績もそれを後押ししている。
 一層で足踏みした分平均レベルもそれなりに高い今、ここいらで勢いを増したいという考えはわからないでもない。
 だが、一番の理由はボスの情報公開だろう。アルゴはすぐにボスの情報クエストを公開し、その内容まで報せた。
 おかげで唯一の懸念と言っても良いフロアボスの特徴を知ることが出来た。一層のボス戦ではベータテストの時と違いがあり、あわや壊滅(ワイプ)の恐れさえあった事を思えば心強い情報である。
 前回も危なかったとはいえ犠牲者無しでクリア出来たボス戦だ。今回はレイドが崩れた理由である《トーラス王》のこともみんな頭に入っている。
 負けるはずがない。……だというのに。

(何だ? 何か……胸騒ぎがする)

 何かを見落としているような、そんな感覚。
 前回壊滅の危機に陥ったトーラス王の情報は既にある。
 大佐のライフが一定以下になると強力なトーラスの王が出現し、戦いを挑んでくる。それが直接の壊滅危機原因。
 トーラスの王は額の王冠に投擲武器をヒットさせることでディレイさせられることも既にわかっていて、ディアベルの方で投擲武器要員も用意していると聞いている。
 恐らくは仲間の誰かに《投剣》スキルを覚えている者がいたのだろう。あるいは頼み込んで覚えてもらったか。
 今回は詐欺の露出の件でネズハの参加が無い事が確定している以上戦闘中の援軍は期待できないのでその処置は正しい。
 トーラスの王さえ抑えられれば、二層ボス攻略戦はそこまで恐い相手ではないはずだ。

 だというのに。

 キリトは何かを見落としている気がしてならなかった。
 何かを忘れている……そんな感覚。
 こういった《なんとなく》というような予感はたいてい杞憂に終わる。
 極限状態前では《忘れているかも》という不安がそういった杞憂を生ませるのだ。
 キリトもこれまでそういう経験が無かったわけではない。だから、今回もそうなのだろうと割り切ることは出来る。
 現状、穴は見つけられない。思い浮かばない。漠然とした不安しかない。
 だが不安ならいつもボス戦の前には胸にあったものだ。何を今更、という思いもある。
 なのでキリトはいつまでももたげる不安を無理矢理に押し込めて、ボス戦前のディアベルの話に耳を傾けた。

「みんな! 久しぶりってほど時間も経ってないけど、また会えて嬉しいよ! これから二層のフロアボスと戦うわけだけど、ちゃんとボスの情報は目を通しているかな? 一応再確認も込めて話しておこうと思う!」

 ディアベルが声を張り上げ、今回レイドを組むことになったメンバーに声をかけていく。
 内容はただの確認。アルゴの発行したガイド本をかみ砕いて説明し、ボス戦での役割を改めて確認しあう。
 今回キリト達はG隊として隊を組むことになった。前回同様エギル達がいるパーティに組み入れてもらった形で役割も変わらない。

「相変わらずフルレイドには足りないけど、一層を攻略した俺たちならやれるさ! 今日ボスを攻略して勢いに乗ろうぜ!」

 オォーッ! とほとんど全員が拳を高々と突き上げる。こう言う時、キリトは大抵乗り遅れる……というか雰囲気に乗り切れない。
 自称対人スキル激低は伊達ではなく、かといって手を挙げないのも体裁が悪いので、遅ればせながら形だけ弱々しく片腕を上げる。
 しかしほとんどのプレイヤーが真っ直ぐピンと天を貫くように伸ばしているのに対し、キリトの腕は肘から情けなく曲がっている。
 誰かに見られれば「やる気があるのか」と問い詰められる可能性もあるだろう。なので誰にもバレていないと思いたい。
 そう思いながら周りを見渡すと全員が拳を突き上げている……と思いきや、アスナは腰に手を添えていて、このシュプレヒコールばりの拳の突き上げに参加していなかった。
 ただ、鋭い視線を中央……ディアベルに向けている。

(アスナ……?)

 彼女の向けるそれは控えめに言っても友好的な物には見えない。
 そういえば彼女がディアベルに何か含む物があるらしいことを思い出す。

 やはり、何かがおかしい。

 キリトの記憶ではアスナがディアベルに含む物など無かった……ハズだ。
 自身にもそんな物は無い。この《夢》は《知らない》事が多すぎる。《夢》だけでは片付けられない何かを感じる。
 さきほどから燻っている不安という名の篝火が、ドクンと大きくなったような気がした。

 何か言うべきか?
 だが何を?
 何を言えばいい?

「じゃあみんな、行くぞ!」

 キリトが躊躇っているうちに、ディアベルの号令がかかる。
 間もなくボス戦が始まる。既に時間的余裕は無かった。
 今はただ、杞憂で終わることを願って気持ちを切り替えるしかない。
 重々しい音を立てて開かれていくボス部屋の扉。その奥へ、一層の時と変わらぬメンバーで足を踏み入れていく。
 戦闘……開始だ!

「各隊、配置に付け!」

 ディアベルの号令の元、レイドパーティはそれぞれ当初の予定通りに分散する。
 レイドリーダーを務めるディアベル率いるA隊は、残るB隊からF隊の五隊を引き連れ、総勢六隊三十六人で部屋の中にいる二体のボスのうち、一体を取り囲んだ。
 その名を《バラン・ザ・ジェネラルトーラス》……通称、バラン将軍。
 トーラスの将軍たる彼──ボスに性別設定があればだが──は隆々たる筋肉を短い真紅の毛皮で包まれている。
 腰回りには豪華な金色の布を巻いていて、上半身はトーラス族同様何も身につけず、肩から黄金の鎖をぶら下げている。
 両手で握るバトルハンマーも眩いゴールドで装飾されていて、あれが全てゴールドによる鋳造ならばその金額は《コル》に換算しても《円》に換算してもとんでもない数字となることは間違いない。
 そんな見た目に似合わぬ豪勢な装備を手にしているのが、頭高5m超えはあろうかというバラン将軍である。
 一方キリト達G隊が一隊で取り囲んだのが、バラン将軍よりは小柄で身の丈もおおよそ半分程度の取り巻きMob、《ナト・ザ・カーネルトーラス》という全身真っ青な牛男モンスターだ。
 通称ナト大佐と呼ばれるこのMobは当然のことながらバラン将軍に比べると戦闘力は劣る。
 だが決して油断して良い相手ではなく、注意すべきはやはりトーラス族の使う《ナミング系》の攻撃だ。
 バッドステータスである《行動不能(スタン)》というデバフをかけられるこの攻撃は、連続で受けると《麻痺(バラライズ)》化してしまう。
 そうなると行動不能時間は数秒程度では済まなくなり、非常に不味い事態に追い込まれる事になる。
 なんとしてもそれだけは避けねばならない。キリトはアスナやエギル達にそれを徹底して伝え、与えられた役割……ナト大佐に全力を尽くす事にした。
 基本は円陣を組んでの順番攻撃。万一誰かが《スタン》したり、大ダメージを被った場合は即フォロー。
 これはバラン将軍攻略も同じだ。向こうの方が規模が大きいので一時戦闘離脱者はそれなりにでるだろうが、しっかりやればトーラス王登場まではさほど問題ない。

「B隊、C隊後退! D隊、E隊突撃!」

「了解!」

 ディアベルは自身も戦闘に加わりながら満遍なく戦況を見渡し、指示を出していく。
 良い判断力だと思う。キリトは横目でその指揮を垣間見ながらナト大佐に深く斬り込む。
 ぐおん! とその巨腕が振り回されるが、それをすんでの所でかわし離脱。キリトに目標を定めたナト大佐がユラリとキリトの正面に立つ。
 それを見計らって反対側にいるエギルがナト大佐の背中に「うおおお!」と気合いを入れつつアックスを振り下ろす。
 ズバン! と大きな音と派手なエフェクトを発生させながらナト大佐のHPゲージがまた少し減る。ナト大佐は苛立ったようにハンマーを持つ手を振り上げた。

「離れろ!」

 バチィ! とハンマーに雷が帯電する。勢いよくそのハンマーは床へと叩きつけられ、範囲一帯に白い閃光を奔らせる。
 雷がバチバチと床を放射状に迸り、程なくして消える。《ナミング・インパクト》だ。幸い、ナト大佐のナミング範囲は雑魚トーラスとさほど大差なく、インパクトの瞬間には全員距離を取っていた。
 雷が止んだ所でアスナが走り、渾身の《リニアー》をその横腹に突き刺す。

「グオオオオッ!!」

 ナト大佐がまるで痛みを感じているかのように怯み、二、三歩後退する。そこを逃さず別のメンバーが斬りかかった。
 良いペースだ。確実にHPを削っているし、コンビネーションも悪くない。攻撃も大ダメージと呼べる程のものを受けていないし、これならば何も心配することはない。
 キリトはナト大佐との戦いをそう分析した。
 だが、

「ねえキリト君」

「どうした、アスナ」

「あっち、少し麻痺の人数が多くないかしら」

「えっ」

 アスナに指摘され、周りを見渡してみると、あれほど打合せで注意があったのに《麻痺(バラライズ)》になっているプレイヤーが多数いる。
 経験の無いものは注意をしていても見切りには時間がかかるので、多少はやむを得ないが確かに少し人数が多い。

「B隊、C隊撤退! D隊は……くっ、E隊F隊はスイッチ! A隊はすぐフォローできるように援護!」

 次の交代要員であるD隊の回復がまだ追いついていない。
 このままでは最悪の場合に撤退する際、撤退がおぼつかない可能性もある。
 だが何故こんなにも《麻痺(バラライズ)》した者が多いのだろうか。

(……しまった、そういうことか! なんでそんな事に気が付かなかったんだ!)

 キリトは一瞬浮かんだ疑問の答えを即座に導き出した。
 考えてみれば、簡単なことだったのである。キリトの記憶の中の前回は。もう一つ隊があったのだ。
 《レジェンド・ブレイブズ》の面々が五人パーティで参加していた。彼らの戦闘スキルは最前線には少しばかり速かったが、装備が充実していた。
 その彼らも戦闘に参加することで前回はあの結果を生み出していたのだ。だが今回、ディアベルの采配により彼らはこのボス戦に参加していない。
 というより出来ない。彼らは詐欺行為の損失補填をディアベル主導の元行っていると聞いている。充実した装備は全てコルに変えられ、分かっている限りの被害者へ回ったそうだ。
 方法も出来るだけ穏便に事を進めてくれているようで、今のところネズハ達に制裁を! という声までは聞こえてきていない。
 だがそのおかげで減った一パーティ分、彼らの戦闘の回転率は上がる。もともと前回も麻痺する者はそれなりにいて危険ではあったが、今回は絶対数が少ないのでよりそれが目立ってしまった。
 さらに攻略戦を急いだせいでMobトーラスとの戦闘経験が浅く、多くの者がナミングのタイミングを見切れていないのだろう。
 これらの悪環境が重なり、バラン将軍の攻略はナト大佐ほど順調ではない。最初に感じた不安とは、恐らくこの事だったのだと今更のようにキリトは理解する。

「仕切り直すなら早い方がいいだろう。こっちは一人抜けても抑えられそうだし、お前が彼の所に行ってくれ」

 スキンヘッドの浅黒い大男……もといエギルがキリトを指名する。
 アスナもそれに頷き、キリトは一瞬だけ迷ってから「わかった」とナト大佐に背を向けた。
 キリトはバラン将軍相手に勇猛果敢に斬り込み、戻ってきたディアベルへと近づく。

「! キリトさんにはあっちをお願いしたはずだけど」

 一瞬ディアベルは何かを警戒したような目つきでキリトを睨む。
 理由のわからない敵意に近い視線にキリトは少々戸惑いながら、しかしそれを飲み込んで提案する。

「麻痺者が多い。このままだと撤退するには苦しくなる。一旦仕切り直さないか? この後もあるんだ」

 キリトの提案にディアベルは苦虫を噛みつぶしたような顔つきになった。
 彼にも迷いがあるようだった。その気持ちはわかる。このまま押しても絶対負けるということはない。
 キリトの勘でも、ごり押しで行ける可能性は五分五分くらいにはあった。だがこのゲームはHPが無くなると現実世界からの永久ログアウトを意味する。
 そういった点では無理はするべきではない。五分では勝負をかけるには少々分が悪い。

「じゃかあしい! お前の指図は受けへん! このレイドのリーダーはディアベルはんや、お前やない! ワイらはまだやれるで、そうやろディアベルはん!」

「……ああ、ここまで来たんだ! やろう! 大丈夫キリトさん、なんとかなる! そっちはナト大佐を倒したらこちらに合流してくれ。俺たちはその頃には多分トーラス王の相手をすることになる」

「……わかった、くれぐれも無茶はしないでくれ」

 キリトは頷き、ナト大佐の元へと走る。だが、戦闘前からの胸騒ぎがどんどんと膨らみを増している気がしてならなかった。
 嫌な予感がする。そこに、アスナが駆け寄ってくる。

「どうなったの?」

「続行だそうだ。なんとかなりそうだから、だとさ。ナト大佐を倒したら合流頼むって」

「……ふぅん、それがあのディアベルさんの判断なのね」

 アスナのキツイ眼差しが二割ほどプラスされる。
 自分に向けられた物ではないとわかっているが、つい背筋をピンと伸ばしてしまう。

「……キリト君の考えは?」

「俺? 俺は五分五分かな。従来のゲームなら勝負するけど、負ければ終わりなんだ。そういう意味では撤退でも良かったと思う」

「……そう」

 アスナはそれだけ聞くとすぐにナト大佐への攻撃に戻る。キリトも追いかけるように加わり、待っていたエギル達へ簡単にディアベルの決定を説明した。
 全員頷き、残り少ないナト大佐のHPを削る作業を再開する。こちらはもうすぐ片が付きそうだった。
 ナト大佐に関してはもはや問題はない。問題なのはバラン将軍、そして次に控える《王》だろう。
 その時だ。

「バラン将軍のHPが黄色になったぞ!」

 誰かが声を張り上げる。バラン将軍のHPバーが、五本あるうち残り一本へと差し掛かった。
 それの意味するところは一つである。キリトが部屋の中央に目を向けると、トーラスの王が半透明にポップし始めていた。
 あと数十秒後には実際に現界し、脅威となることだろう。こちらも急がねばなるまい。
 キリトはトーラス族の弱点である角の間をソードスキル《ホリゾンタル》で切り裂く。
 中々狙いにくいポイントだが、七十五層まで行き、システム外スキルであるプレイヤーやMobモンスターの持つ武器の破壊……《武器破壊(アームブラスト)》を会得したキリトにはそこまで難解なことでもなかった。
 さらに滞空中にぐっと体を丸め左足を前に蹴りだす。後方宙返りしながらの縦蹴りで最後にナト大佐へとサマーソルトキックをお見舞いした。
 アスナとのワスプ狩り勝負にも使った体術スキル《弦月》だ。
 弦月によってナト大佐のHPは最後の一ドットを残すことなく吹き飛び、大音響と共にガラス片を撒き散らした。

「加勢に行くぞ!」

 着地したキリトの声に全員がバラン将軍へと駆けだした。
 バラン将軍のHPもあとバーの残り三分の一程度だ。これなら王が動き出す前に決められる!
 キリトは脳内でざっと目算し、時間的余裕を計算する。だが……そこに思わぬ横やりが入った。

「誰がお前にLA取らせるかい!」

「な……!」

 キバオウがキリトの目の前に出てきて、邪魔するようにバラン将軍へと一太刀浴びせる。
 狙いを外されたキリトは体勢を崩し、横に転がった。慌ててすぐに立ち上がる。
 バラン将軍のHPは残り約五パーセント弱ほど残っている。そこへ青い髪の騎士が颯爽と剣を掲げて突進した。

「うおおおおおっ!」

 彼の手には先日手元に無事戻った剣がある。ソードスキル特有のライトエフェクトを纏い、真っ直ぐにバラン将軍へと吸い込まれていく。
 これは決まった、誰もがそう思った、これでトドメだと。キリトもそれを疑わなかった。その時だ。

 彼と一瞬目が合った……気がした。

 彼の目は、笑みを浮かべているように見える──それは不思議な事ではない。
 彼の目は、自信に満ち溢れているように見える──それは不思議な事ではない。
 彼の目は、己の勝利を確信しているように見える──それは不思議な事ではない。

 だというのに。

 何故こうも、釈然としないのだろう。
 キリトには彼のあの目が、キリトに向けられたものに見えてならない。
 言うなれば挑発ともとれるそれは、LAを取ったという自慢なのか、それとも──────。
 一瞬の交差にモヤモヤとした感情を抱いたキリトだが、それ以上思考を続ける余裕は無かった。
 いや、無くなったと言うべきか。誰もがディアベルのLAを疑わなかったその刹那。
 一瞬速くバラン将軍の腹を突き刺す鋭利なレイピアがレイドパーティ全員の目に映った。
 コンマ半秒ほど遅れてディアベルの剣がバラン将軍を切り裂く。だが、彼の顔には一瞬前までの笑顔は無かった。
 ディアベルが振りかぶった時に凄い速度でボスへと吸い込まれていったブラウンの流星。
 彼女のこれから付けられる二つ名に恥じないまさに一瞬の出来事だった。
 パァン、とバラン将軍が爆散する。ラストアタックボーナスを取ったのは誰の目から見ても明らかだった
 ディアベルは顔面を蒼白にして固まっている。そんなディアベルを見て、レイド全体が凍り付いたように動かない。
 唯一、ブラウンの流星……アスナだけがキリトの方へとゆっくり近づいてきていた。
 はたして、我に返ったのは誰が最初だったのか。キリトがボス戦がまだ終わっていない事を思いだしたのはカーソルに《アステリオス・ザ・トーラスキング》の名前を見た時だった。
 ゆっくり近寄って来るアスナ……の向こうに消沈気味のディアベル。
 そのディアベルの向こうには、実体化した漆黒のトーラス王……《アステリオス・ザ・トーラスキング》。
 身の丈はバラン将軍よりも高く、腰回りは黒光りするチェーンメイルを付け、頭には白金と思しき王冠を付けている。
 角はこれまでのトーラス族とは違い六本もあり、ねじくれた髭は腹近くまでだらりと垂れ下がっている。
 そのトーラス王は大きく息を吸い込み、獣じみた大胸筋を大樽のように膨らませた。
 キラリと瞳が光る。

(まずい!)

 ほとんど条件反射的にキリトは駆けだしていた。
 一直線に前へ。アスナの元へ。

「右へ跳べぇぇっ!」

 キリトの張り裂けるような声を聞いたアスナは、言われた通りに右へと跳躍した。
 彼女のブーツが青黒い敷石から離れはじめたところで追いつき、左腕で細い体を抱え同じ方向へとさらに踏み切る。
 先程までの速度が嘘のように世界がゆっくり回る。全てがスローモーション。床のアラベスク模様がゆっくりゆっくり流れて、視界右側が真っ白に染まる。
 次いでピシャアアアアン! という渇いた衝撃音が偽物の鼓膜を刺激する。まさしく雷鳴そのものだった。
 トーラス王が使う極大のブレス攻撃。属性は毒でも炎でもなく雷で、それの意味するところ……デバフは一つ。
 白い閃光に呑まれる二十人超えのプレイヤーは、視界が回復した時にはHPゲージの周囲に緑色の枠が点滅し、同色のデバフアイコンが点灯した。
 《麻痺(バラライズ)》である。周りのほとんどのプレイヤーも同様のようだ。《投剣》要員と紹介されたプレイヤーの姿もその中にはある。
 今の攻撃でHPも二割は持って行かれたが、より危険度が高いのはやはり麻痺状態になってしまったことだろう。
 アスナは震える手でポーチに手を伸ばすが、上手くいかない。麻痺状態はほとんど身体を動かせず慣れていないと物を持つことさえ難しい。
 さらに麻痺中は何か話そうにも囁き声(ウィスパーボイス)しか出せない。
 視界の端には吼えるトーラス王がいる。このままでは不味い。前回は絶妙なタイミングでネズハが来てくれたが、今回はそんな奇跡は起きない。
 いや、もともとそんな奇跡など、期待したことはほとんどない。頼れるのは……奇跡なんかじゃ決してない。だから、やることなど……最初から決まっている。
 キリトは震える手で自分のベルトポーチを探る。中には……ポーションが二つ。
 赤いHP回復ポーション一個と麻痺治療用の緑ポーションが一個。慣れ親しんだ感覚で緑のポーションを丁寧に落とさぬよう引き抜く。
 ぷるぷると震える手で緑ポーションの蓋を開けると、それを腕の中にいるアスナの口へと持っていった。
 アスナは目を丸くし、抗議しようとするが麻痺のせいで声は囁き声(ウィスパーボイス)。おかげで聞こえないフリも随分と楽だ。

「君は……生きろ」

 アスナを何がなんでも生かす。それがやるべきこと。
 これが《夢》だとか、《現実》だとかそんなことは関係がない。
 彼女は、彼女だけは……絶対に死なせない!

 死なせない。
 死なせない。
 死なせない!

 絶対に死なせない!

 アスナが何かを言っているようだが何も聞こえないフリ。
 これで彼女の麻痺は時期に回復する。それでいい。

(ごめんアスナ……俺、やっぱり君と自分じゃ、自分を選べないよ)

 心の中で謝罪する。
 彼女との約束。決して自分の命を簡単に諦めない。
 その約束を破るつもりはないが、天秤にかけた先がアスナの命なら、選択の余地は無かった。
 アスナがグググ、とゆっくり立ち上がる。麻痺が解けかかってきたのだろう。
 アスナはまだおぼつかない手で自分のポーチを漁り、緑色のポーションを掴むとキリトへと無理矢理飲ませる。
 はたして、キリトに押しつけているポーションを支えるアスナの手が未だ震えているのは麻痺の残滓なのか、それとも彼女の心の声を代弁しているのか。

 ズルズルズル。

 ふと気が付くと、僅かながら引っぱられる感覚があった。
 未だ麻痺が回復していない身体で無理矢理視線を動かすと、アスナが必至に引っぱっているのがわかる。

「いい……から……はやく……にげろ」

「聞こえません!」

 アスナはやや涙声になりながら亀のような速度で引っぱることを止めない。
 しかしこんなことをしていてはいつトーラス王に標的にされるかわかったものではない。
 先程聞こえぬフリをしたツケがこんなことで回ってくるとは。

 ズルズルズル。

 なんだか、前にもこうやってアスナに引かれたことがあった気がする。
 あれはいつのことだったか。今は何故か霞がかかったように記憶を掘り返せない。
 段々と意識が遠のきかけている。ただ、思い出せるのは同じようにアスナの悲痛な声を聞いた気がする、ということだけ。

「あ……」

 どうやら長く記憶を回帰する余裕はもともとないらしい。
 ズンッ! と一際大きな足踏みをして、トーラス王がこちらへと近づいてくる。
 アスナの襟を掴む握力が強まった気がした。

「ディアベルはん!」

 遠のきかけた意識の中で、キバオウがディアベルの名を呼ぶ。
 彼は未だ茫然自失としたまま立ち尽くしていた。このままでは……危ない。
 アステリオス王はディアベルの前で立ち止まると、そのバラン将軍のよりも巨大な黄金の鎚を振り上げた。
 声が出そうで、出ない。

 ズルズルズル。

 何かを叫びたいのに、声が、もう、出ない。
 意識をつなぎ止めたいのに、瞼が閉じるわけでも眠いわけでもないのに、段々と思考能力が霧散していく。
 ただ、強く握られている襟の暖かみだけが、感じられる感覚。
 アステリオス王は無慈悲に黄金の巨鎚を反応の無いディアベル目掛けて振り下ろした。

「──────ッ」

 言葉にならない。
 声が出ない。
 ただ、迸る真っ白な閃光が視界を埋め尽くして、キリトはそのまま意識を手放した。










「……!」

 ……声がする。よく知っている人の声。
 なんだか、とても暖かい。

「……リト君!」

 ゆさゆさと揺られている。
 ゆっくりと瞼を開く。

「キリト君!」

「アス、ナ……?」

「大丈夫? うなされていたみたいだったけど」

 目を開いて、ゆっくりと辺りを見回すと、そこはALOで借りているプレイヤーホームだった。
 HPバーにデバフアイコンもついていない。
 どうやら揺り椅子に座ったまま眠っていたらしい。
 ということはさほど時間は経っていないはずだが、数日ほど時間が経過しているような錯覚を覚える。
 視線を彷徨わせてからアスナに戻すと、アスナは心配そうにキリトを見つめていた。
 その顔は、キリトのよく知る険のとれた、美しい顔。
 思わず、彼女の事を強く抱き寄せた。触れている肌が、偽物の感覚なはずなのにとても心地よい。

「きゃっ? キリト君? どうしたの?」

「なんでもない、なんでもないんだ……ごめん」

 ぎゅっと強く彼女を抱き寄せて、しばし彼女の胸で顔を隠す。
 いやらしい気持ちなど微塵もない。ただ、こうしていたかった。

「泣いてるの? キリト君」

「えっ」

 言われてから、気付く。
 頬を伝う、冷たいそれの存在に。何故だろう。理由はわかる気がするけど、やっぱりわからない。
 アスナはそんなキリトに自分からも彼の頭を優しく抱き寄せた。
 髪を丁寧に撫でる。愛おしむように、慈しむように。

「大丈夫、何があったのかわからないけど、私はそばにいるから。いつでも頼っていいんだよ」

 アスナの優しい言葉に、つい声が漏れる。
 我慢していたつもりなどない。しかし現実ではない借り物の姿であるはずのアバターは、意志に反して嗚咽を漏らし涙を流そうとすることを止めない。
 アスナは、キリトが泣きやむまでずっと彼を撫で続けていた。





「……パパ」

 離れたところで、隠れるようにして二人を見つめる影が一つ。
 小さな体に大き目の白いワンピースを纏い、健康的な肌の手足がにゅっと伸びている。
 癖一つない黒のストレートロングヘアは発光し、フワフワと宙に浮いていた。
 自他共に認める彼女たちの娘であるところの彼女、ユイはとても辛そうな顔をしている。

「ごめんなさいパパ、ごめんなさい……!」

 ユイはひたすら謝罪の言葉を口にしていた。
 闇に消えゆく謝罪は、誰の耳にも届かない。
 彼女から放たれる光は、もう消えていた。



[35052] エクスキャリバー1
Name: YY◆90a32a80 ID:b9264a49
Date: 2013/10/09 19:49


「痛い?」

 少しだけ奥深くへと侵入する。出来るだけ周りを傷つけないよう慎重に慎重に。
 ここで乱暴なやり方をすると、最悪流血沙汰にもなりかねない。優しく、丁寧に、奥の方へと入っていく。
 焦ってはいけない。奥へ入れば入るほど先は狭くなり、敏感になる。
 僅かずつ力を入れながら、ゆっくりと周りを擦るように動かしていく。

「んっ、うんん……」

 少し強かっただろうか。小さく漏れた吐息に動きを止める。
 もし痛みを伴うようならもっと力を抜いて優しくしなければいけない。

「痛かった?」

「ん、大丈夫。もう少し奥に来ても……良いよ」

「そう?」

 その言葉に、少しばかり先よりも力を込めてみる。
 奥の方へ侵入し、カリッカリッと引っ掻くように動かす。じんわりと額に汗が滲んだ。
 瞬間、ビクッと跳ねるように身体が動く。少し強くし過ぎたかもしれない。

「今のはちょっと、深かった……かな」

「うん、ごめん」

 深くまで挿入していたソレを少しばかり控えめな位置まで戻し、入り口付近からまた丁寧に擦る。
 それによって、一瞬前に浮かべた苦悶の表情からすぐに和らいだようなそれへと変化していく。

「気持ち良い?」

「……うん」

 素直な返事に少しだけクスリと微笑む。
 これだけ素直すぎる反応は逆に珍しい気もする。
 そんな些細な感情の変化に胸を暖めながら、行為を再開する。
 丁寧に擦る作業から円を描くように動かしていく。狭く敏感なソコは非常に繊細で力加減が難しい。
 先っぽで奥を僅かに擦るようにして動かし、丁寧に引き抜く。

「はい、終わりだよ」

 そこでようやくアスナ/結城明日奈は彼、キリトこと桐ヶ谷和人の左耳から手を離した。
 明日奈の膝、フトモモの上に乗せていた黒い頭を、和人もゆっくりと持ち上げる。
 ギシッと僅かにベッドのスプリングが軋む。和人の耳は部屋内に木霊するブゥゥンという重低音のコンピュータが稼働する音を先程よりもやや鮮明に捉えている……気がした。

「じゃあ次は反対ね」

「わかった」

 明日奈がにこやかな笑みを浮かべ右手でくるくると回しているのは木造の小さなヘラ……耳かきだ。
 クリスマスも過ぎていよいよ年の瀬も本格的に迫り、今年もあと僅かとなった年末に明日奈は何度目かになる桐ヶ谷邸へと遊びに来ていた。
 会おうと思えば離れていても仮想世界──ALOでいつでも会えるのだが、やはり電子世界で会うのと現実で会うのではやや趣が違う。
 かといって何かしたいことや何処か行きたいところがあるのかと言われれば、パッとは思いつかない。
 詰まるところ、ただ一緒にいたいだけだった。もう少しで人が定めた一年という区切りが終わりを告げる。
 そうなると不思議なもので、何故かはわからないが古くから人はやり残した事をやっておきたくなる。少しでも時間を有効活用したくなる。
 そんな誰にでも経験のある今年のタイムリミットの使い方に、明日奈は彼、和人との時間を少しでも持ちたかった。
 SAO──ソードアート・オンラインから解放されて一年。和人にとってはまだ十ヶ月程度。それは同時に目覚めぬ彼を救出して現実世界で再会し、時間を共有することが出来た月日でもある。
 長いようで短い。出会いからはおよそ三年経ったが、まだその三分の一にも達していない。
 今だからこそ、いや、和人と知り合えたからこそ言えることがある。あの日、絶対的な《死》という物を身近に感じることとなった最低最悪のデスゲームに無理矢理参加させられることとなった原因、ナーヴギア。
 そのナーヴギアをかぶって良かったと。死ぬことは恐い。世間に置いて行かれ、親に見放されることも恐い。
 でも、彼と出会えたという財産を秤にかけたら、彼との出会いの方へ天秤は傾くだろう。あの日、ナーヴギアをかぶったのは、全てキリト/和人に会う為だったと思えば、それもまた大切な思い出となる。
 あの日本中、いや世界中を震撼させた大事件が無ければ、こうした今は無いのだ。
 明日奈は一度座っていたキリトのベッドから立ち上がると少し離れた所に座り直した。ぽんぽん、と自身のフトモモを叩く。
 キリトは照れたように後頭部を掻きながらゆっくりと再び頭を明日奈のフトモモへ預けた。
 天気予報では十二月なだけあって西高東低の冬真っ盛りな気圧配置模様を示しており、気温も一桁台前半という中々の冷え込み具合にも関わらず彼女の服装は少し短めのスカートだ。
 おかげで和人は必要以上に心臓へ重労働を強いるハメになり、視線の意志力セービングロールを成功させねばならなかった。
 そんな和人の葛藤などには気にも止めず、明日奈はフトモモに確かな重みがのし掛かるのを感じていた。この心地よい重量感はデジタルでは表せない現実を明日奈に教えてくれる。
 明日奈は彼の黒い髪を一撫ですると、左手を耳に当てて右手で耳かきを握った。ゆっくりと上半身を折り曲げて、キリトの耳の奥がよく見える位置まで近付く。
 ともすれば眠っている和人にキスでもしてしまいそうな距離……と思ってしまうのはSAOでの前科がそうさせるのだろう。

「じゅあ、いれるね?」

「ああ……」

 聞きようによってはとてつもない勘違いを招きそうな会話をしたまさにその時、まるで謀ったかのように和人の部屋の扉が開かれた。
 勢いよく一人の少女が部屋へと侵入してくる。

「大変! 大変大変タイヘン………………………………たいへんお邪魔しました」

 大胆に開かれた扉がパタリと閉じられる。
 和人と同じように漆黒の髪をショートで整えている少女、リーファこと桐ヶ谷直葉は大声で「大変」と連呼した後、部屋の状態……正しくは二人の状態を確認してから何事もなかったかのように退出、もとい逃げ出した。
 明日奈と和人は視線を絡み合わせること数秒。バッと立ち上がり彼女の後を追った。
 彼女に追いつくのに六十秒、明日奈達に連れられて和人の部屋に直葉が戻ってきたのはそれからさらに三百秒……五分後のことだった。

「なぁんだ、耳掃除をしてもらっていたんだ。そうならそうと言ってよ」

「スグが勝手に勘違いしたんじゃないか」

「そうだけど……びっくりしたんだもん」

 直葉の目はちらちらと和人と明日奈を行ったり来たりする。
 その目は暗に《前科もあるし》と言っていた。
 そうなると二人に反論する材料はあまりない。あの時は迂闊だったと言わざるを得ないからだ。
 しかしどうやらこの話は直葉としても長く続けるのは恥ずかしいらしく、空気を読んですぐに話題を戻した。

「でも良いなあ、耳掃除かあ」

「直葉ちゃんもしてあげようか?」

「え? いいの?」

「もちろん」

 明日奈が微笑むと直葉は少しだけ恥ずかしそうに頬を染めながら「じゃあお願いします」と頭を下げた。
 この二人は時折兄妹であるはずの──正確には従妹だが──和人自身がうらやむ程に仲の良さを見せつける。
 和人の知らない間に一緒に買い物に行っていたり、低カロリー押しの明日奈謹製スイーツを食べていたり。
 そうなると和人は一人置いてけぼりを食らうこともしばしばで、手持ちぶさたになることも珍しくない。
 だが彼の名誉の為に言っておくと、彼は決して嫉妬などしていない。むしろ喜ばしいとさえ思っている。
 だから一人で娘であるところの人工知能、ユイにしょっちゅう構って貰っているのはそのこととは全く関係の無い親子間の暖かな交流と言える。たぶん。
 直葉のお願いに「任されました」と明日奈が答えたところで、和人はそんな直葉の最初の発言について尋ねた。

「そういやスグ。さっきは何の用事だったんだ? 大変って言ってたけど」

「あ、そうだった! 大変なんだよ、とうとうあの剣、《エクスキャリバー》が見つかっちゃったみたいなの!」

「なぬ!?」

 これには和人も表情を変えた。生来ゲーマーとしての和人は自分が大いに関わっているゲームの超絶レア武器についてとなると、その好奇心はかなり刺激される。
 明日奈もまた、今回は興味を惹かれた。その剣はかつて和人にあげたいと思った剣でもあったからだ。以前一緒に挑戦し、あまりの高難易度に尻尾を巻いて帰ってきたのを良く覚えている。
 その際、多大な迷惑を彼にかけたことから、いつかは彼に……という思いがあったのだ。
 直葉としてもことALOについては明日奈や和人よりも思い入れが深く、ALOについての情報収集を常から怠っていない。
 まだやったことのないクエストや挑戦したことの無いダンジョンはいくつもあるし、どんどん強くなっていく周りに負けじとプレイヤーステータスはもちろん自身のスキルも磨かねばならない。
 だからと言って特段強迫観念に迫られているわけではない。何の気なしにMMO関連の新着情報でALO関連を漁っていて偶々見つけた情報なのだ。
 気になって詳しく調べてみると、既に大ギルドなどが動き出しているという情報もあり、猶予は残り少ない事が伺えた。
 かつてエクスキャリバーを狙いに行った一派として、そして恐らくは本当の第一発見者としてこれは一大事だと認識し兄の部屋へ少々興奮気味に突入してしまった……というのが事の顛末だった。

「そうか、とうとう……ううむ」

「どうするの? お兄ちゃん」

 和人は腕を組んで少しばかり悩む素振りをみせる。
 一瞬目のあった明日奈は彼の葛藤にいち早く気付いた。

「私は構わないよキリト君。この後予定が決まっていたわけでもないし」

「……良いのか?」

「もちろん」

 彼の葛藤は、わざわざ家にまで尋ねてきてくれた明日奈がいるのに、仮想世界へ行ってもいいものかというものだ。
 伝説武器は確かに欲しい。しかし大切なものの優先順位を間違えてはいけない。

「スグは今日ヒマか?」

「大丈夫」

 二人の同意を得て、和人はさらにふむ、と眉根を寄せた。
 指を一本ずつ折って人数を数える。

「確かトンキーに乗せてもらえるのはワンパーティ……七人までだったよな。俺、アスナ、リーファ、呼べば来るだろうクライン、リズ、シリカ……後一人はどうしよう」

 伝説武器を取りに行く最高級難度のクエストに挑むのだ。味方は限界まで率いていきたい。
 出来れば手練れで、後々の後腐れがないよう気の置けない仲の相手が望ましい。そう思うと最後の一人で和人が頭を悩ませることとなった。

「う~んと……そうだ、レコンは……」

「え~、レコンはねえ、ちょっと戦力が心許ないよ」

 和人の口から漏れたプレイヤーネームに直葉が不満そうな声を漏らす。
 決して彼に含むところがあるわけではないが、今回のクエストでは足手まといになる公算が大きいと直葉の中のリーファは評価する。
 それはレコンが悪いわけではない。彼は中流階級の上位クラスに位置するプレイヤーではあるだろう。しかしリーファ含めメンバーは皆上位ランカーと言って差し支えない人ばかりだ。
 ただ遊ぶのならそれもいいが今回のようなやり直しのきかない高難度クエストに彼は不向きと言えた。彼は元々戦闘職で異彩を放つようなプレイヤーではなく、虚を突いたり、種族の領土戦においてその能力を発揮したりするタイプだ。
 やるからにはもっと腕利きの知り合いを連れて行きたいと思うのがリーファの本音でもあった。
 それにどちらにしろ、彼はそれなりの功績を評価されて風妖精族(シルフ)領の首都、《スイルベーン》に常駐する幹部クラスのプレイヤーになっている。
 長い間自分の領を離れるのはそれなりに厳しい立場なのだ。

「じゃあ……ユージーン将軍とか?」

「それは……ちょっと」

 腕利き、と言われて出した名前に今度は明日奈が難色を示した。
 ユージーンとは火妖精族(サラマンダー)の最強と呼ばれるプレイヤーで、サーバー内にオンリーワンと言われる伝説級武器、《魔剣グラム》の所有者だ。
 もともと完全武闘派な能力構成(ビルド)に戦闘スタイル、そして伝説武器が相まってALO最強プレイヤーと揶揄されることもしばしばだが彼には一つ難点があった。

「ユージーン将軍って未だにお兄ちゃんに求婚してるの?」

「……」

 うげぇ、という顔をした和人の顔が全てを物語っている。
 彼は強者を好む性格で、彼が強者と認めた相手には《例外無く》求婚するという悪癖がある。
 かつては見事ユージーン将軍を足止めしたリーファ、そのリーファにしつこく迫るのを止める為戦ったエリカ/明日奈、エリカに求婚しに来て返り討ちにしたキリト、そしてそのキリトに求婚しにきた彼を追っ払ったアスナ。
 自分たちの知る中だけでも都合四度の熱烈な求愛を見せたユージーン将軍はアスナにとって少々苦手な相手だった。
 それは和人にとっても同様で、もしかすると誘えばクエストには付き合ってくれるかもしれないが、見返りはそれこそクエスト報酬の《聖剣エクスキャリバー》か《結婚》かの二択を迫られる可能性がある。
 最近の彼の求婚対象プレイヤーは専らキリト、エリカ、そしてアスナなので、三人の中──事実上二人──の誰になるかは想像がつかないが。
 ちなみに何故エリカとアスナに分けられるかと言えば、ユージーンはその二人が同一人物だと知らないからである。

「名前出しといて何だけど、ユージーン将軍は無いな」

「うん」

 確かにリーファの言う腕利きには分類される……というよりこれ以上無いほどの使い手だが、全会一致で不採用。
 それに、仮に誘ったとしても応じる可能性は五分といったところだ。さほど仲の良い繋がりがあるわけではない。
 ハイプレイヤーとして、顔見知りとしての付き合いが数回ある程度で、それ以外は会えば一方的な求婚タイム。
 とてもではないが気の置けない仲間、という条件はクリアできない。 

「それじゃあ……詩乃さんは?」

「シノのんは、バイトが忙しいって言ってたから……」

 直葉の思い出したような人選に、少しだけ明日奈の表情が曇る。
 先日GGO──ガンゲイル・オンラインにて知り合ったシノのんこと朝田詩乃──正確に言うと明日奈に関しては篠崎里香繋がりだが──は明日奈の勧めでGGOからALOへのコンバートアバターにより一緒に遊んだ事はある。
 彼女のプレイヤースキルは見事なもので、一番視力に補正が高いとの理由だけで自身の種族を猫妖精族(ケットシー)に選び、扱いの難しい弓矢系の武器を一日で難なく使いこなせるまでになり、もっと射程が欲しいと言い出すほどだった。
 だがその彼女は現在多忙極まる日常生活を送っていると聞いていた。
 いわゆるバイト三昧という生活を。

 GGOにて仮想世界で銃撃されたプレイヤーが現実世界でも亡くなっているという怪事件について、総務省の役人である菊岡誠二郎に調査協力を依頼された和人……を追いかけるように半ば恫喝じみた真似をして明日奈はこの件に無理矢理首を突っ込んだ。
 そのこと自体に後悔はない。新しい気の置けない仲間も出来たし、彼との絆もより深まった自覚が明日奈にはある。
 しかしこの事件では明日奈の親友と呼べる相手、リズベット/篠崎里香の知り合いである新川恭二少年がリアルで被害を受けるという最悪なものとなってしまった。
 犯人グループの主犯は恭二の兄であり、かつてSAOを震撼させたレッドギルド《笑う棺桶(ラフィンコフィン)》の生き残りだった。 
 唯一の救いは彼に弟を傷つける意志はなく、実行犯は別の人間だったということだろう。
 彼等は仮想世界での銃撃に合わせて現実の肉体に《サクシニルコリン》と呼ばれる筋弛緩剤を注射し殺害することによってあたかも仮想世界の銃撃が現実の身体に影響を与えたかのような演出を行っていた。
 その《サクシニルコリン》を恭二は朝田詩乃を庇って注射され、意識不明の重体となってしまった。
 犯人は未だ逃亡中とのことで、早期に逮捕されることを詩乃も明日奈も望んでいる。
 その恭二だが、実は面会謝絶のまま病院を移ることになってしまい、今は遥か海の向こうへと連れていかれてしまった。
 場所は詳しく聞いていないが、行き先はアメリカの大学病院で、特に脳科学の研究について非常に進んでいるという話だ。
 詩乃はあの晩以降恭二の顔を見ることなく彼がアメリカに連れて行かれたことに少なからずショックを受けた。
 どうしてもお礼が言いたかった。せめて顔を見たかった。そう思った詩乃の行動はこれまでの彼女の人生から考えると相当に大きなものとなった。
 どれだけお金に苦しくとも学費を工面してくれた祖父母のために勉強を優先していた詩乃だが、これを機にアメリカまでお見舞いに行く旅費を自分で稼ぐことを決めたのだ。
 もしかすると稼ぎ終わる前に彼は戻ってくるかも知れない。それでも詩乃は何かせずにはいられなかった。
 もちろん彼女は勉強も疎かにするつもりはない。最初こそGGOで自身の愛銃にして相棒である《PGM・ウルティマラティオ・ヘカートⅡ》のRMT(リアルマネートレード)も視野に入れたが、結局詩乃はそれをしなかった。
 勝手なことは重々承知だが、それでも詩乃にはヘカートⅡを売ることなど出来なかったのだ。売れば目標金額にはグーンと近づけると分かっていたがそれを無くしてしまえば詩乃は詩乃でなくなる……いや、シノンは詩乃でなくなる気がしたから。
 GGOの仮想アバターであるシノンはもう自分の一部だ。そう思える詩乃にとって相棒を切り離すことは出来なかった。
 加えて言うなら、詩乃は恭二と再会する時に自分がシノンでなくなっていたらきっと喜ばないという予感もあった。
 だから詩乃は一人でやれるところまでやってみたいと言い──明日奈や和人らの協力や援助はやんわりと断った──貧乏学生でありながら生活以外の為にバイトに勤しむ年末を過ごすと聞いている。
 余談だが詩乃は先に述べた予感と、どっぷり浸かってしまったGGOという世界への思い入れから《シノン》の弱体化を良しとせず、頻度こそ落ちているもののGGOへのログインは継続し、しっかり月の接続料分は稼いでいたりする。
 アメリカに行ったら一度は本場のGGOにログインしたいという思いもあるらしく、腕を鈍らせるワケにはいかないらしい。

 そんなわけで詩乃も誘うのは憚られた。誘っても断られる可能性の方が高いだろうし、仮に時間が空いていてもそんなに多忙なら休ませてあげたいと思う。
 しかしそうなると候補が中々定まらない。エギルは昼間はお店があるし風妖精族(シルフ)の領主であるサクヤや猫妖精族(ケットシー)の領主であるアリシャ・ルーといったプレイヤーも上げられたが何かしらの問題がついてまわる。
 いよいよメンバー選抜が行き詰まり始め、三人並んで「うーん」と頭を捻っていたところで和人のディスプレイから快活な少女の声が発せられた。

「クリスハイトさんはいかがですか?」

「クリスハイト、か……うぅむ」

 ディスプレイにはニコニコと笑みを浮かべている長い黒髪の少女アバターが映し出され、白い何も無い空間からこちらを見つめている。
 キュイン、とPCに付いている小型カメラが機械音を鳴らした。
 公私共に認める和人と明日奈の娘であるところのユイは、人工知能でありながら感情の模倣機能を有し、高いスペックと応答能力を有している。
 ユイはその性能の高さと模倣された感情によるものから、従来の受動的AIの枠に留まらず自発的──ともとれる──行動をしばしば起こす。
 それは既に珍しいことではなく、ありふれた日常の一コマとして認識されている。
 ユイの提案に少し唸る和人。クリスハイト……菊岡誠二郎とはやや盲点だったが、『無い』というほどの人選ではない。
 彼はまだVRMMOプレイヤーとしての日は浅いが各種族の領主陣に認められるほどの詠唱術師として一目置かれている。
 そして和人の友人関係パーティは総じてSAO関連が根深いせいか皆魔法スキル関係の熟練度が総じて低い傾向にある。
 唯一明日奈が半分ヒーラーの能力構成(ビルド)にしているが、一人では心許ない事は言うまでもなく強力なメイジ型プレイヤーは歓迎と言えた。
 しかし、どうにも今一歩積極的にあの男を誘う気に和人はなれない。
 いろいろお世話になっている相手ではあるのだが、計り知れない……というよりイマイチ信用ならない相手なだけに進んでお近づきにはなりたくないというのが和人の本音だ。

「あの人かぁ……まぁ、悪くはないけど」

 直葉はそう呟くと少しだけ難しい顔をする。
 実を言えば今この中で一番クリスハイトの中の人と付き合いが長いのは彼女だったりする。
 密度で言えば既に和人や明日奈の方が高いと言えるだろう。しかし、和人がSAOに囚われ、目を覚まさなくなってからしばらくして和人の担当となったのは何を隠そう彼、クリスハイト/菊岡誠二郎その人だ。
 彼と相対した時、直葉は藁にも縋る思いで気持ちを託したものだった。同時に先日、リアルでの殺人事件に和人と明日奈を巻き込んだ人でもある。
 本人にその気は無かったのだろうが、結果的に見ればそういった事実は無視できない。それを踏まえて直葉は可もなく不可もなく、という結論に至った。

「とりあえず連絡するだけしてみたらどうですか、パパ」

 娘からの更なる勧めに悩んでいた和人も背を押され、とりあえず確認だけでもしてみよう、という気になった。
 和人は一度明日奈と直葉の顔を見渡し、二人とも頷いたのを確認してから自身の携帯端末に登録してあるアドレスを呼び出した。
 少しだけ悩む素振りを見せてから短めに文章を打ち込み送信する。というか速過ぎる。
 和人のタイピングが脅威の速度だった、というわけではない。単純に驚くほど打ち込みをせずに送信したようだった。

「随分短めの文にしたんだね、なんて送ったの?」

「ん、これ」

 明日奈の疑問に答えるべく和人は端末のモニタを見せた。
 モニタに映っている文章は非常に短い。

【今日暇?】

 これは流石にちょっとどうかと思うと明日奈は苦笑する。
 いくらなんでもこれですぐに連絡をくれるだろうか。
 そもそも目的を書かないと相手も判断に困るだろう。
 明日奈がそう思っていると、

「パパ、ママにメール打つ時はあんなに悩むのにママ以外の人には基本そっけないメールしか打ちませんから」

 またもや和人のPCから少女の声が恥ずかしげもなく和人の恥ずかしい秘密を暴露する。対人スキルが激低だと自称して憚らない彼だがそれなりに気にはしているそれを。
 少女──ユイの言葉にピシッと和人が硬まり、次いで直葉による「お兄ちゃんてそう言えばお友達少ないもんね」という追加攻撃によってとうとう彼はくるりと背を向けた。
 あ、これはいじけた、と非常にわかりやすいその態度に明日奈はまた苦笑してから久しぶりに少しだけ彼をからかうことにした。
 ここのところ全敗気味なのでここいらで白星を掴んでおかないとバランスが取れない。

「ふぅん、キリト君は私へのメールだけは悩んでくれるんだ?」

「……そういうわけじゃ」

「違うの?」

「違わない、けど、でも、えっと……」

「ありがと」

「……」

 和人は背を向けたまま閉口する。
 久しぶりの完全勝利だった。彼は素直な気持ちをストレートにぶつけられる事にあまり耐性がない。
 というよりストレートな好意に、だろうか。そのせいか彼の好意の向け方もまた、少し捻くれているところがある。
 だが明日奈はそんな彼を好きになったことを後悔していない。好意を向けられる事に弱い彼のメンタルも《可愛いところ》と思えてしまうのは惚れた弱みなのかもしれないが。
 なんだか少しだけ甘ったるいような、そんな空気が漂い始めた時、和人の持つ端末が振動した。
 相手は考えるまでない。

「あ……も、もしもし」

『やぁ、おはようキリト君。あのメールなんだけど、どういう意味かな? この間の事件についてなら話した以上の進展はないけれど』

「あ、ああ今日はそういうことじゃない。ALOの仲間でちょっと難しいクエストに挑戦するんだけどパーティ人数に空きがあって、暇ならどうかなって」

『難しいクエスト? それって大変なのかい?』

「忙しいなら良いんだ、日曜の朝という貴重な時間を邪魔して申し訳ない。それじゃサヨウナラ」

 和人は早口で電話を切ろうと話を終わらせにかかる。
 直葉が指を差してくすくすと笑い出した。
 「お兄ちゃんテンパッてるとああなるんです」という彼女の言葉に明日奈もなんとなく心当たりを思い出す。
 そういえばSAO時代にも何度かああやって急に話を切り上げられ、そのあげく逃げられたことがあった。
 どうやら先の会話は予想以上に和人に動揺を与えるものだったらしい。

『わあ!? ちょ、ちょ、ちょっと待った! 待ってよ! 僕はまだ何も言ってないよ!?』

「え、来るのか?」

『誘っておいてそれはないだろう』

「いや、確かにそうだけど一応社会人でもあるし、迷惑なら」

『一応って……僕は歴とした社会人だよ。それに迷惑だなんてとんでもない。公務員ってヤツは週に一度の日曜日はしっかり休みなさいって昔から決まっているんだから喜んで参加させてもらうよ。いやぁ、僕も年が明ける前に君たちとはもう一度遊びたいと思っていたんだ』

「へぇ」

『なにせキリト君の周りには可愛い女の子が一杯いるからね』

「……俺は関係ないぞ。というか公務員がそういうこと口にしていいのか。そもそもみんな年下じゃないか」

『心外だなあ、公務員である前に人間の男だよ僕は。それに年の差カップルなんて珍しくないし、僕と君らでは言うほど離れていやしないよ。それでいつ頃どこに行けば良いんだい? 流石にこの前みたいなスピード違反まがいの飛行は遠慮したいんだけど』

「あ、それじゃあ、う~ん……三十分後? くらいに、えーと……」

 和人が明日奈に「どうしよう?」と目配せする。
 それに気付いた明日奈は「んー」と顎に手を数秒当ててから答えた。

「リズのお店で良いんじゃないかな」

「イグシティのリズベット武具店に集合ってことで」

『そこなら時間もあまりかからずに行けそうだ。わかったよ』

 和人が電話を終えるのと同時に今度は明日奈と直葉が電話をし始める。
 すぐに二人とも人差し指と親指で輪を作って笑顔のOKサインを出した。

「リズオッケーだって」

「シリカちゃんも大丈夫みたい」

「じゃああとはクライン、と」

 和人が今度は落ち着いたのか、気負いなくいつもと変わらぬ口調でクラインに誘いを入れ、年末の為に昨日から仕事がお休みらしい彼から二つ返事でオーケーをもらいメンバーが確定する。
 これであとはいよいよALOにログインしてクエストに望むのみとなった。
 既に空気はさっきまでと変わり、茶化すような雰囲気ではない。

「よし、これならなんとかなるかもしれないな」

「なら早く行こっか。一応私アミュスフィア持ってきてるし」

「あ、でもその前に」

 勢いづいたところで直葉が恥ずかしそうにモジモジと動いてからちらちらと明日奈の持つ耳かきを見つめる。
 明日奈がその意味する所を理解してクスリと微笑んだ。

「早く済ませちゃおうか、おいで直葉ちゃん」

「やたっ」

 軽くぴょん、と跳ねる直葉。綺麗な素足がその健康さを物語る。
 彼女は家では特に短めのパンツスタイルにシャツという服装を好んでいて、和人に「寒くないのか」と心配されたこともある程だ。
 本人曰く「そんなに寒くない」とのことで、時折寒さを感じるのだろうが、余程耐えられなくなるほどで無ければこのスタイルの方が性に合っているらしい。
 魅惑の生素足であるこの姿を同級生の男の子が見れば顔を赤くするのは間違いないのだが、幸か不幸かその姿を拝めるのは今のところ家族と家族予備軍である明日奈だけとなっている。
 そんな直葉の見た目以上に幼い一面に明日奈の顔が弛む。明日奈は彼女のそんな素直な所がとても気に入っていた。
 女子校のそれなりにレベルの高い進学校通いだった明日奈は、周りの友人とこうして気の置けない会話をすることなどほとんど無かった。
 あの頃はグループに弾かれぬよう窮屈な歩幅を合わせる事に神経をすり減らし、学力の向上にひたすら時間を費やすことに徹していた。
 それが普通だと思っていたし、鬱屈した精神は沈殿し続けていたが、そこから抜けだそうという気力が産まれることは──いつか爆発してしまう予感が燻りつつも──終ぞ無かった。
 そのせいか、彼女のさわやかな性格はとても心地よく、ついつい甘えられれば甘やかしてしまうのだ。友人、というよりはもう仲の良い妹に近い位置まで来ているのかもしれない。

「スグ」

 直葉が嬉々として明日奈に近寄り始めた時、和人が少しばかり重い声で口を開く。
 直葉は何か問題があっただろうかと思い、きょとんとしながら和人の顔を見やると、その顔は少しだけ意地悪そうだった。明日奈ならこう言うだろう──《悪魔キリト君》と。
 少しだけ嫌な予感を直葉も胸に覚える。これはあれだ。大事に取っておいたプリンを食べられてしまった時のようなそれに似ている。
 朝の稽古後、イタズラで冷たい水を背中にかけられてしまった時のような、そんな和人らしい──明日奈がいない時にはめっきり見られなくなった──お茶目の気配。
 まさかさっきの《お友達の件》を根に持って……? それともテンパっていることを指摘したから?
 この膨らんだ嫌な予感がどうか外れていますように、と願いつつ直葉は和人に応えた。

「なにお兄ちゃん?」

「……俺が先だぞ」

「えぇ────っ!」

 まだ片耳の途中だったんだ、という和人の主張はもっともで、明日奈も「そういえばそうだった」と思い出す。
 直葉はウルウルと明日奈を見つめるものの、流石にこればかりは明日奈も困り顔で「ごめんね」と言わざるを得なかった。
 順番は順番である。明日奈の中には直葉を大切に思うのと同時に、当然和人を思う心も胸一杯に占めている。
 どちらかを選ぶことは難しいが、やはり順番は大切だろう。加えるなら少し、本当にほんの少しだけ彼氏贔屓もあったかもしれないが。
 そんなわけで直葉は少しだけ頬を膨らませながら和人の耳掃除が終わるのを待つことになり、結局三人がALOにログインしたのはそれから九百秒……十五分後のことだった。



[35052] エクスキャリバー2
Name: YY◆90a32a80 ID:b9264a49
Date: 2013/11/17 22:06


 アルヴヘイム・オンラインに存在する天空都市、イグドラシルシティ。
 世界の中心に位置する世界樹、その樹上に存在するこの街はかつて存在しなかった。
 この世界の生みの親とも言える妖精王オベイロンこと須郷伸之は、その存在を仄めかしながらもシティマップを作成せず、長いことプレイヤーを騙し続けた。
 しかし彼の起こした事件が公になり、運営会社であるレクト子会社《レクトプログレス》も解体された今、この世界は新たに運営を名乗り出た《ユーミル》にタダ同然で委ねられ、実在しなかった天空都市を実現させた。
 さらに《ユーミル》の手によって生まれ変わったこの世界は様々なアップデートが行われた。
 そのうちの一つが《滞空制限》の撤廃であり、仮想の光の下であれば飛行時間の制限が無くなった。
 アルヴヘイム・オンラインの目玉はやはり何と言っても実際に自分の羽根で《飛べること》であり、現状唯一と言って良い天空都市イグドラシルシティは──アップデートによって追加されたアインクラッドフィールドを除けばではあるが──何処の種族領でもないこともあってアルヴヘイムの中で最も活気のある街となっていた。
 これまでは世界樹に最も近い《アルン》がその役目を担っていたのだが、こればかりはRPGの性というものだろう。新しい巨大都市に自然と人……プレイヤーは集まる物だ。
 そのイグドラシルシティ──通称イグイティのメインストリート、大通りの一画に白い飛竜(ワイバーン)のエンブレムが箔押しされた看板が上げられた店がある。
 アルヴヘイムの妖精語で《リズベット武具店》と書かれたその店は言わずもがな、我等の鍛冶師である鍛冶妖精族(レプラコーン)リズベットが切り盛りするプレイヤーショップだった。
 彼女は、いや彼女とエギルはSAO時代のステータスを引き継いでいるせいもあって、SAO時代同様職人系スキルを生かしたゲームプレイを貫いており、大きなクエストなどに挑戦する前はみんな彼女の店で武器の耐久値を最大まで戻しておくのが仲間内でお約束となっていた。

「よいしょお! 次ィ!」

 リズベットのピンクヘッドが勢い良く揺れ、研磨し終わった短剣(ダガー)をドン、とテーブルへ乗せる。
 鈍色の短剣はきらきらと刀身を輝かせていて、その耐久値がMAXまで底上げされたことがエフェクトからも見て取れた。
 そこへとてとてと近付くのは猫耳を生やした猫妖精族(ケットシー)であるプレイヤー、シリカだ。
 彼女の頭の上には白い小竜が身を丸めて鎮座している。SAO時代からの付き合いである使い魔《ピナ》は相変わらず彼女の頭の上がお気に入りだった。

「ありがとうございます」

「良いの良いの。次はクライン、出して」

「ン、じゃあ頼まァ」

 呼ばれたクラインは、これまたSAO時代から愛用している物……に大変よく似たバンダナを額に巻いた姿でガチャリと重そうなカタナをリズベットへと手渡す。
 モンスターレアドロップ品であるそれは、伝説武器に比べれば無論見劣りするもののヨツンヘイムでも十分に戦い抜けられる潜在能力を秘めている業物の一振りだ。
 リズベットは「任せなさい」と応えるとすぐにカタナの研磨に取りかかった。
 ゲーム内での武器作成や修復、研磨は言ってみれば鍛冶スキルのスキル使用に過ぎない。
 スキル熟練度はスキルの使用頻度によって上がっていくので、人によっては事務的・機械的にただ数をこなす者も決して珍しくない。
 だがリズベットはそれを良しとせず、必ず自分の仕事に心血を注いでいた。耐久値回復の研磨にしても、耐久値の全快という得られる結果が変わらないからといって手を抜かず、常に真剣に取り組んでいた。
 研削機のように高速回転する円盤状の砥石へゆっくりと刀身を近づけていき、バチバチッとオレンジの火花を散らしていく。
 現実世界と違い目が灼かれることは無いがその火花エフェクトは目を眩ませる効果はある。と言っても先も言ったとおり目が眩み手元が狂ったからと言って失敗にはならない。
 だがリズベットは慎重に刀身を研磨する。失敗しないことがイコール成功とは安易に彼女は捉えず、ゲームといえど仕事として持てる最高の腕を奮いたかった。
 そうして磨かれた武器は、使用者曰く「NPCの時と輝きが違う気がする」と述べている。
 ALOの武器はSAOのそれと同じく強化していくことが可能であり、強化量によってそのテクスチャカラーに深みが増していく。
 リズベットが研磨した武器は、不思議なことにどことなくワンランク上の強化をイメージさせるようなエフェクトを放つ。
 攻撃力等にボーナスはなく、実際の強化と違うので耐久値によってその輝きは失われてしまうが、それこそ仮想といえど《本物》である証とも取れる。
 だからリズベットは決して仕事に手を抜かない。また、リズベットに研磨してもらった武器の見栄えの良さと、耐久値減少のエフェクトがわかりやすいことから、彼女の店には仲間を含めたリピーターがそれなりにいた。
 本当はそれ以外の目的で来るプレイヤーもいるのだが、「またお願いしますね」と言う彼女の満面の笑顔を見ると、ほとんどのプレイヤーはただの常連客になってしまうことを彼女は知らない。

「どっこいしょお!」

 あまりに乙女らしからぬ声を上げてリズベットはクラインの愛剣を宙へと掲げた。
 そんな声を度々上げることを一般常連客が知らないことは幸いなのだろう。たぶん。
 リズベットは「んー」と小さく唸りながら片目で剣先を睨んだ。キラリと鈍色に光が反射して刀身の輝き、いや煌めきとも呼べるそれが透き通った刀から放たれている。

「うし! おっけ。一丁あがり!」

「おう、サンキュな」

 リズベットからカタナを受け取ったクラインは慣れた手つきでスラリと鞘に刃を仕舞い込んだ。
 その動作を見ていたリズベットの目がキラリと光る。彼女の琴線に何かが触れたのだ。

「クライン、その鞘だけど」

「あン? ああこれか?」

「それただの安い鞘じゃない? その辺の店で二束三文くらいの」

「おう、まぁな。鞘に関しちゃ特に気にしてねェし」

 意外なことかもしれないが、モンスタードロップの武器の類はその鞘などが付いていないことが多い。
 そのせいか人によっては鞘に仕舞わない人もいれば、適当なショップで安い鞘を見繕う人もいる。
 鞘自体に特別な効果があることは稀で、あっても現在ではまだたいした効能が発見されていない為、鞘に気を使うプレイヤーは少なめだった。
 だが、やはり《ステータス》としてはそれなりに良い物を持っていたいというのがプレイヤーの性でもあり、仕事になりそうな物に食いつくのが商売人、もとい商人系プレイヤーの性である。

「勿体ないわよ、せっかくそこそこの剣を持ってるんだから。なんなら私が作ってあげようか?」

「ン? そうかァ? う~ん、どうすっかなァ」

「そうだ、私の店のエンブレムを押させてもらえれば広告料ってことで今なら二割引にしてあげても良いわよ」

 リズベットはビッと白い手袋を着けた指を二本立てて見せる。
 それをクラインは「むぅ」と唸って首を振り、決断した。

「二割引……うし、わかった。頼むわ」

「まいど! 今日のクエスト終わったら取りかかるから」

 ニシシ、というズルそうな笑みを浮かべながらリズベットは予約票にクラインの名前を書き込んでおく。
 予約票の厚さは中々のもので、これまでの彼女の仕事量が窺えた。
 その様子を眺めていた、アスナとは似て非なるマリンブルーのロングヘアを飾り気のない片分けにし、簡素なローブを纏った細身で長身のプレイヤーが口を開く。

「いやぁ、商売上手だねえ」

「リズさんは時々エギルさんよりも商魂逞しいですよ」

 相槌を打つようにして金のポニーテールを揺らしたのは、風妖精族(シルフ)の直葉/リーファだ。
 彼女の腰に差している剣は既に研磨済みであり、彼女の鞘もリズベット謹製のものへと最近新調させられている。もちろんリズベット武具店のエンブレムが箔押しされたものだ。
 ちなみにリーファの時は半額だったのだがここでは言わない方が良いだろう。
 リーファの言葉を聞いた水妖精族(ウンディーネ)のクリスハイトは苦笑しながらぐるりと部屋にいるメンバーを見渡し、ダガーの出来を見てニコニコしているシリカと、その頭の上にいる小竜ピナを見つめてから丸テーブルで向かい合うようにして座っている彼女、リーファに向き直った。

「将来は良い奥さんになりそうだね、彼女」

「口説くなら今のうちじゃないですか?」

「あははは。負けると分かっている勝負をするのはちょっとねえ」

 いくら年の差を気にしなくとも、全く脈のない異性相手に何も考えずアプローチ出来るほどクリスハイトも女性慣れしているわけではない。
 ましてやそれが歪な形とはいえ知り合いと言えば尚更で、そういった関係に発展させるのはある意味では難易度が増している。

「男の人って負けると分かっていても引けないものじゃないんですか?」

 二人を挟むようにして置いてある丸テーブル。その上にちょこんと座って足をパタパタさせている小妖精……ナビゲーションピクシーであるところのユイが口を挟んだ。
 彼女の今の服装は小妖精サイズでありながらナビゲーションピクシー本来のものではなく、SAO時代に着ていた真っ白なワンピース姿だ。
 アスナは結局SAOの中ではあまり作って上げられなかった服をこのALOで完成させ、ユイにプレゼントしている。
 ちなみにサイズの関係から同じ物を小妖精用と少女アバター用と分けて作っており、種類こそまだ多くないがユイを大変喜ばせた。
 今日はヨツンヘイムに向かうと言うことで、かねてよりアスナが用意してくれていた小さめの紅いマフラーも持ってきており、ユイの膝の上に置かれている。

「誰が言ったんだいそれ?」

「クラインさんです」

 呼んだか? とこちらを向くクラインにユイは手を小さく振る。
 クラインは頭を掻きながらサムズアップで応えた。

「あ~、まあ彼は確かにそういう人種かもね」

 なんとなく察したクリスハイトは嘆息する。成る程、と。
 まあ、気持ちはわからなくもないのだ。男なだけに。
 だが全ての男がそうであるわけでもない。

「でもねえ、全ての男がそういうわけでも……」

「この前パパも言っていました。……モンスター格闘場で」

「……後でアスナさんに告げ口しておこう」

 今度はリーファが呆れたように溜息を吐いた。しかしその顔は笑っている。
 モンスター格闘場とはALOにいるモンスター同士が戦い誰が勝ち残るか賭ける賭場(カジノ)の一種だ。
 一日でとんでもない大儲けをする人もいれば当然スッカラカンになる人もいる。
 賭け事というものは現実でも同じく必ず負けが来る物だ。そう思えば手を出さない方が無難ではあるのだがゲームだからこそ手を出す人も少なくない。
 キリトもゲーム世界でのギャンブルはそれなりに楽しむ方であり、こことは別世界であるGGO──ガンゲイル・オンライン──の中で似て非なるゲームを見事クリアしている。
 だが残念なことに儲けは殆ど無かった。そのゲームはこれまでのチャレンジャーがプールした挑戦料の総取り、という物だったのだがキリトが挑戦する少し前にも初見の女性プレイヤーによってクリアされてしまい、溜まっていたクレジットを総取りされていたのだ。
 一応キリトも好奇心から挑戦し見事クリアしたが、間が短すぎたせいで利益は本当にたいしたことがなかった。
 リーファはその話を思い出したのだ。兄の兄らしい話を聞くと、自然と顔が綻んでしまう。

「キリト君の儲け具合が気になる所だけど……そのキリト君はまだだねえ」

「今アスナさんと買い物に行ってますからね、そろそろ戻ってくると思いますよ」

「今日行くのはそれだけ大変な場所なんだっけ? そんな凄いところに呼ばれるとは僕もキリト君の評価が上がってきたってことかな」

「え? あ、ははは……まぁ、そうですね」

 リーファはぎこちない笑いを浮かべる。
 彼を誘うその場にいた身としてはなんとも言い難い。
 だが、そんな空気を物ともせず小妖精は口を開いた。

「私が推薦したんですよー」

「君が? それは──光栄だなあ」

 一瞬、クリスハイトは目を丸くしてから……微笑んだ。ユイもニコニコと笑っている。
 リーファは何だかその二人の顔に違和感を覚えたが、それ以上何か感じる前にリズベット武具店の扉が大きく開かれた。

「ただいまー!」

 ブルートルマリンのような水妖精族(ウンディーネ)特有の碧い髪。だが姿形は現実世界そのままの姿であるアスナは元気よく店へと入ってきた。
 その後に続いて黒いコートを纏った現実とは違う影妖精族(スプリガン)アバター姿のキリトが続く。
 彼はメンバーの中では唯一SAO時代のアバター引き継ぎを行わなかった。ステータスこそ引き継いでいるが《ビーター》の姿を残したくないとの彼の考えから見た目はもう現実世界の彼のそれではない。
 それでもユイの強い要望により、もともとはツンツンと跳ねていた黒トンガリな頭をそれなりのユルドを支払うことによってサラッとした髪型へヘアチェンジし、現実の彼の雰囲気に近い物となっている。

「いやあ、キリト君の能力構成(ビルド)って力持ちだからさあ、いくら買っても上限来ないの! つい買い過ぎちゃった」

 てへっ、とはにかむ彼女にほっこりとされながらキリトはユイのいる丸テーブルの上に買ってきた大量のポーションをオブジェクト化する。
 SAO同様、ALOの所持アイテム容量はプレイヤーのSTR値に左右される。だがALOはSAOと違いその辺のステータスが目に見える形での数値化が為されない。
 その為にキリト自身も今自分のSTRがどれほどになっているのかはわからなかった。
 ユイは邪魔にならぬようキリトの肩にちょこんと腰掛けている。彼女は比較的キリトの身体の何処かに座ることを好むのだ。

「結構な数買い込んだからポーション切れは無いと思うけど、みんなもしっかり準備してくれ」

 キリトの言葉を皮切りにしてみんなポーションをストレージへと詰め込んでいく。
 何せこれから向かう先は最難関ダンジョンと言っても差し支えない程の難所である。
 準備をするに越したことはないのだ。

「お、戻ったのねキリト、アスナ。アンタ達の剣もちょうだい、直しちゃうから」

「うん、お願いね」

「頼んだ」

 二人はそれぞれ愛用の武器を預けるとソファに並んで座る。
 その姿にリズベットがツッコミを入れた。

「あんたらあんまり周りに遠慮しなくなってきたわね」

 リズベットの言い分に「ウンウン」とクラインも頷いている。二人はぴったりとくっついてソファに座っていた。
 言われてキリトは少し気にしだしたのか、うっすらとフェイスエフェクトをピンクに染め、僅かにアスナと距離を取る。
 アスナはそんなキリトにくすくすと笑いながら開いた隙間を埋めるようにキリトへと手を重ねた。
 キリトはギクリとするが、動けない。

「熱いねえ、羨ましいよほんと」

 クリスハイトの皮肉にキリトはもう何も言えなくなり、開いた手で必至にメニューを弄っている。
 いや正確には弄っているフリをしている、だろうか。今彼がメニュー画面にてやるべき整理など殆ど無いはずなのだから。
 やれやれ、と苦笑しながらリズベットは研磨の為に一度引っ込む。
 話が一度一段落したところでアスナがリーファに話しかけた。

「す……リーファちゃん、ちょっと街で聞いてきたんだけど」

「どうかしたんですか?」

「うん。今回エクスキャリバーが見つかった経緯なんだけど、どうもおかしいの」

 アスナは街で仕入れてきた話をリーファへと説明した。
 どうやらエクスキャリバーは見つかったのではなく、NPCによるクエスト報酬になっているらしい。
 このクエスト報酬というのがまた難物で、お使い系や護衛系ではなくスローター系……つまり虐殺系のものなのだ。
 ようするに《○○というモンスターを何匹倒せ》や、《アイテムを何個集めろ》と言った類のモンスター虐殺における条件クリアがクエストフラグとなっている。
 そのせいか今ヨツンヘイムではPOPの取り合いでギスギスした空気が蔓延しているらしい。
 どんなゲームでもモンスターPOPのリソース量という枷からは現状逃れられないので、VRMMOの仕方のない点とも言えるが。

「でもそれっておかしいですね。確かエクスキャリバーは……」

「そう。あの氷のダンジョンの中にあったでしょ? それがNPCからのクエスト報酬って変じゃないかなって。それでこれまでにもそういうことがあったのかリーファちゃんに聞いてみたかったんだけど……」

「う~ん、私の知る限りそんな話は聞いたことがなかったですね。ある場所がわかっているのに別のクエストフラグ……なんかどっちかが間違っているのかも」

 リーファも難しい顔をして眉根を寄せる。
 流石にこれだけの情報では真実を見極めることは難しい。
 そうして二人が「う~ん」と唸っていると、場にそぐわない「わあああ!?」という驚く声が上がった。
 一斉に視線がそちらへと集中する。そこにはピナに威嚇されるクリスハイトの姿があった。

「わあ! ごめんごめん! そんなに怒らないでくれ!」

「ピ、ピナ! すみませんクリスハイトさん」

 一体何をやらかしたのか、シリカの頭の上でピナは毛を逆立たせて臨戦態勢に入っていた。
 ピナは基本的には主以外懐かない。例外があるとすればキリトと……ユイだろうか。
 ピナはAI搭載型テイムモンスターだ。ただAIと言ってもユイほどのものではなくもっと単純な思考プログラムしか働いていない。
 いや、この場合ユイの方が規格外と言うべきで、ピナは平均よりも優秀過ぎるほどだ。
 SAOでもテイムするのは非常に難しい──実際にはオンリーワンだった──フェザーリドラであるピナはその稀少さから主以外にはめったに心を許さない。
 それでも主が認めればある程度の接触は可能なのだが、気難しいというのが実際のところだ。
 だが何故か例外的にピナはキリトからの接触は拒まない。時折自ら彼の傍に寄ることもあるほどで、こればかりは主人であるシリカ本人も首を傾げていた。
 ユイの場合はキリトのそれとは少しばかり違い、ある意味で《同族》と言う立場からくるものもあるだろう。
 それでも仲が良いことに変わりはなく、時折ユイはピナの背に乗って宙を飛び回ったり、フサフサの毛を布団代わりに丸まって一緒に眠っていたりする。

「いや、僕も悪かったよ。あんまりモンスターに触る機会なんてないからつい。現実でも動物に触れる機会なんてめったにないしね」

 フーッ! といきり立つピナから離れ、クリスハイトは高い位置にある頭をペコペコと下げる。
 ピナがああやってシリカ以外の人を威嚇するのは特筆して珍しいということはないが、それでもシリカが見ている前では良く起こることではない。
 大抵はシリカの意を汲んで少しくらい触られるのは我慢するのがピナの常で、よっぽどの悪意でも無い限りはそうそうピナは暴れたり威嚇したりはしないのだ。
 だからこそ、キリトは尋ねた。

「おいおい、何したんだよ」

「いやぁ、珍しかった物でね。触っても大丈夫って言うから、こう翼を撫でたら嫌われちゃったようで」

「そりゃアンタが悪いよ。ピナは特に翼が敏感なんだ」

 大抵触る人は頭を優しく撫でる程度で、ピナはそれについては比較的我慢してくれる。
 気に入っている相手に対してはむしろ喜びを表現するほどだ。
 だがピナは翼を触られることだけは強硬に拒む癖がある。
 今までまともに触ることを許されたのは先に挙げた三人、シリカ、キリト、ユイくらいのものだろう。
 アスナやリーファ、リズベットでさえ誤って翼に触れてしまうとピナの不興を買ってしまう。
 そこはいわゆる逆鱗のようなものなのかもしれない。

「そうかあ。それは悪いことをしたなあ。でもさ、何だか気になるじゃないか。実在しないドラゴンの翼ってどうなっているのかなって」

「まぁ、気持ちはわからなくもないけど」

「鳥類の物とも違うしコウモリみたいな飛膜とも違う。あ、そうそうコウモリと言えばね、パラオに行った時のことなんだがアッチではコウモリは食用とされていて食べられるんだよ。これが意外に美味しくてね、なんとスープに丸ごとコウモリを入れてあるんだ。ねっとりとした黒い翼がスープまみれで光っていてさ、頭がそのまま残っているから牙も見えるけど向こうの人に言わせるとそこが一番絶品らしい。内蔵がちょっと苦いけどスープは美味しくて……ってわあ!? なんだ!? ちょ、ごめんごめん!? よくわからないけどごめん!」

 クリスハイトの説明を途中で塞ぐように、再びピナは彼を攻撃しだした。
 何度も鼻先で突くように威嚇すると引っ掻くような攻撃でクリスハイトの頭を執拗に狙う。
 溜まらずクリスハイトは口を閉じて数歩後退った。
 ピナの後ろでは顔を青くして口を押さえているシリカがいる。……無理もない。

「アンタいい加減その悪趣味な話をするのは控えろよ……」

「失礼だな、僕はただ外国で食べた食べ物の説明を………………うん、わかった。この話はオシマイにしよう」

 ギロリ、と部屋中の女性プレイヤーに睨まれ、クリスハイトは口を閉じた。
 彼は自身が経験した日本の大衆向けとは言い難い料理を意気揚々と紹介する悪癖がある。
 これにはキリトも閉口するばかりなので、女性陣には尚のこと嫌だっただろう。
 クリスハイトが口を閉じたところでリズベットの最終仕上げが終わり、全員武器耐久値のフル回復が完了した。
 キリトとアスナはそれを受け取ると出来に満足してから装備する。これで準備は万端だ。
 するとアスナがにこやか~な笑みでキリトの背中を軽く叩き「はい、じゃあキリト君が挨拶」と彼を部屋の中央へ押しやった。
 えええ? と慌てるも、既に全員の視線が彼に集まっており、今更逃げられる雰囲気でもない。
 救いなのはみんなが気の置けない仲間だということくらいだろうが、人に頼られたり注目されたりするのが苦手なキリトとしては無用な緊張感も滲む。
 それでもふぅ、と息を小さく吐くと覚悟を決めたように口を開いた。

「何か始まる前にドッと疲れたけど……みんな、今日は集まってくれてありがとう。今日は大変な一日になると思うけど宜しく頼むよ。このお礼はいつかするから。精神的に」

 クスリ、と小さな笑みがアスナから零れる。「精神的に」と言うのは彼の口癖のようなものだ。
 正確には彼の母親譲り──実際には叔母だが──の言葉だが、彼らしさが全面に出ている。
 それはとても良いことだ。

「それじゃ……頑張ろう!」

 全員で「おおーっ!」と合わせて声を上げ、パーティはエクスキャリバー獲得の為に最難所と思われる地下世界ヨツンヘイムの氷塊ダンジョンへと向かい始めた。





 地下世界ヨツンヘイム。
 本来ならそこへ行くにはアルンから東西南北に何キロもある階段ダンジョンを踏破し、強力な守護ボスを倒すという工程を踏まえなければ辿り着くことが出来ない。
 だがそんなことをすれば最低でも二時間以上はかかるし、アイテムなどの消費もかなり激しい。
 そこで、ここではチート並の裏技を使うことにする事が決まっていた。
 マップに表示されないアルン裏通りの細い路地を左右に駆け、階段を上り下りして民家の庭を通り抜けた先に一つの扉がある。
 見た目は何の変哲もない円形の木戸で実際には開かない装飾的オブジェクトのようにも見えるそれは、案の定そのまま開こうとしてもピクリとも動かない。
 だが、リーファがベルトポーチから一つの小さな銅鍵を取り出し、鍵穴に嵌めて回すとガチャリと音が鳴って扉が嘘のように開く。

「おお……!」

 キリトは既にリーファやアスナと一緒に来たことがあるから知っているが、初めての面々は流石に驚く。
 まさに裏近道。隠しダンジョン。扉の中は薄暗い下り階段がひたすら伸びていて終わりが見えない。
 扉は全員が入った後自然に閉まっていき、ガチャリと自動で鍵がかかった。
 これは決して外側からは開けられない仕組みなのだ。あの鍵はいつの間にかリーファのポーチの中にあったと言うから、恐らくはそういう仕組みなのだろう。

「これ、どれくらい長いんだ?」

「アインクラッドの迷宮区タワー丸々一個分くらいはあったかな」

「げえ……」

 聞いておいて少しばかり嫌そうな顔をしたクラインだが、文句は言わずに着いていく。
 そこまで横には広くも無い暗い下り階段。モンスターが出れば戦いにくいことこの上ないが幸いここでモンスターがPOPしたことは今のところ一度も無い。

「なんかコウモリが出そうな場所だねえ」

「まだ引っぱる気かオイ」

「いや、そんなつもりじゃないんだけど」

 女性陣の目に見えない重圧にたじたじになりながらクリスハイトは弁解する。
 女性メンバー多めのパーティで女性を敵に回せば……考えるだに恐ろしいのでそれ以上は口を開かない。
 だが流石にいつまでたっても同じ暗い下り階段を下りているだけだとダレてくる。
 「まだかー?」というような声をクラインが三度も上げてしまうのは無理からぬことだ。
 しかしその三度目のクラインの声が上がった時、仮想の肌をひんやりと冷たい風が撫で、みんなの身を震わせ始めた。
 それによって出口が近いことを知り、些か全員が急ぎ足になる。一気に駆け抜け、階段を下りきると、そこは切り立った崖のような場所だった。
 高さはざっと千メートル以上はあるだろう。

「さっぶ!」

 まずリズベットが声を上げた。地下世界ヨツンヘイムは氷の世界なだけあってとにかく寒い。
 吐く息は白く、ぶるぶると身体が震える。ピナなどはシリカの為に首周りにギュッと抱きつきマフラー代わりになっている。
 だが寒い一方で一面氷の世界であるヨツンヘイムは神秘的でもあった。氷は本来透明なはずだが薄いブルーの光が反射してなんとも幻想的な世界を醸し出している。
 さらにこの広大な地下世界ヨツンヘイムの真ん中には差し渡し一・五キロはある底なしの大穴、通称《中央大空洞(グレートボイド)》があり、その穴の中心の上に薄青い氷塊によって出来た逆ピラミッド型のダンジョンがある。
 そこが件のエクスキャリバーが眠っている場所というわけだ。
 全員が一通り辺りを見渡したところで、アスナの滑らかなスペルワードが耳に入って来る。
 薄青い光が身を包み、それによって寒さが軽減された。凍結耐性上昇の支援魔法(バフ)をかけてくれたのだ。
 HPゲージの下にその旨を示すアイコンも表示される。

「ありがとうアスナ」

「ううん」

「キリトにはいらなかったんじゃないのー?」

 お礼を述べるキリトに、意地悪げなリズベットが口端を釣り上げた。
 どういう意味だよ、と視線を向けると、

「確か……鍛え方が違うんじゃなかったっけ? キリトは」

「げっ、まだ根に持ってたのかよ」

 アスナが何の話? と首を傾げるが、リズベットはニマニマとした顔をするだけで答えない。
 ……なんだか面白くなかった。

「キリトくん?」

「え?」

「どういうことなのかな?」

「え? あ、いや、えっと……たいしたことじゃないんだけど、SAO時代にちょっと」

「ふぅ~~~ん」

 キリトはじろ~~っとした目でアスナに見つめられ、最後に「後でしっかりお話聞かせてもらいますからね」と久しぶりの副団長モードのような声色でぴしゃりと決められた。
 別に隠すほどのことではないのだが、話せば少々長くなるので今はクエストに集中する為キリトは説明を後回しにした。だがそれがアスナには益々面白くなかった。
 つーん、と顔を逸らしてしまう。女心と秋の空。今はヨツンヘイムのように厳冬の季節が舞い降りているのかもしれない。
 それを見ていたリーファは苦笑しながら右手人差し指と親指で輪を作り、桜色の唇に含んで文字通り指笛を吹いた。
 二人のことについては心配などしていない。あんなことは実は日常茶飯事なのだ。
 それを一番間近で何度も見ているリーファからすれば「ああ、またか」という程度にしか感じない。
 言い換えれば二人にはそれだけ強固な絆があるということなのだとさえ思えてくる。
 その事に、最初の頃こそ少しだけ胸を痛めていたリーファ/直葉だが、今はそれさえも自然に受け止められるようになっていた。
 リーファの中ではアスナの存在がどんどん大きくなっているのだ。ともすれば、兄と同じくらい大切と言えるような程に。
 だから、時々今のように二人が喧嘩とも呼べないような仲違いをするとリーファはどうにもアスナ側に付くことが多くなってきた。
 そこに一抹の寂しさを感じてユイに慰めてもらっているキリトがいるのは秘密である。

 閑話休題。

 リーファの吹いた指笛に反応するように遠くから「くおぉぉぉー……ん」という鳴き声が聞こえる。
 遠くに見えるのは白い光点。それがみるみるこちらに近付いて来てその姿を露わにする。
 白く平べったい魚のような、あるいはシャモジのような胴体。その側面には四対八枚のヒレに似た白い翼付いている。
 身体の下には植物の蔓のような触手がたくさんウネウネと動き、頭部には片側三個ずつ計六個の黒い眼と象をイメージさせる長い鼻が伸びていた。
 それは象水母のような邪神モンスターから羽化した姿のトンキーだった。

「トンキー! ダンジョンの入口までお願い!」

 リーファの頼みに「くおーん!」と一鳴きしたトンキーはフワフワと身体を宙に浮かせたまま背中をこちらに向ける。
 リーファは一番乗り! とばかりに高くジャンプしてトンキーの上へと飛び乗った。
 ここヨツンヘイムは地下世界だけあって日が当たらず、妖精族はその羽根の輝きを失っている。
 ようするに設定上の問題でヨツンヘイムは飛行不可能エリアになっているのだが、リーファにはまるで恐怖などないような軽やかなジャンプを見せた。
 しかしその後が続かない。これまで高いところを散々飛んでいて何を、と思うかも知れないがそれは空を飛べる羽根が自由に使えるからこそであり、頼もしい空の移動手段が封じられると高いところは普通に……恐い。
 なにせ高所ダメージは普通に摘要されるので、万一落ちてしまえば一発死に戻り確定だ。
 スキル値にもよるが高所ダメージは十メートル程度から発生し、三十メートルを超えるとほぼ確実に死亡するので余裕でオーバーキルである。
 中々続かないメンバーにリーファが首を傾げて全員を見やる。その目は「早くおいでよ」と訴えていたが中々みんな一歩を踏み出せない。
 そんな中、キリトが「あ~っ、もう!」と声を上げると、アスナの手を掴んで引き寄せ、彼女を抱き上げる形のままトンキーへと飛び乗った。
 「え? ちょ、きゃっ!?」という可愛らしい声をアスナが上げた一瞬後にはもう二人はトンキーの背中に乗っており、アスナはキリトの腕の中にいた。

「ちょ、ちょっと危ないよキリト君」

「ごめんごめん」

「も、もう……仕方ないなあ」

 照れたようにもじもじと動きながらアスナはしっかりと抱き留められているキリトの腕に手を乗せるが離れる気配はない。
 リーファは「やれやれ」と苦笑を零した。仲直りまでの最速タイム更新である。
 それを見たメンバーは何だか急に馬鹿らしくなってそれぞれがトンキーへと飛び乗った。
 まるで「落ちて死んでもいーや」というような投げやりっぷりである。人、それをヤケクソと呼ぶ。

「よーし、それじゃトンキー、ゴー!!」

「くぉぉおおーーん!」

 リーファのかけ声にトンキーが反応し、バサリと四対八枚の白い翼を羽ばたかせてトンキーは動き出した。
 だが進み出して幾ばくか経った頃、トンキーは急にピタリと止まるとおよそ高度一千メートル付近である高さから突如として高度五十メートル付近まで急降下した。
 シリカなどは絶叫マシンが大の苦手のようで偶々近くにいたクリスハイトの服をギュッと掴んで目を瞑っていた程だ。
 もっとも、

「やっほ────────い! もう一回やってくれないかなあ」

 などとのたまう風妖精族(シルフ)の猛者もいて、一瞬浮上しかけたトンキーに全員で「やらんでいい!」と言ったのは仕方のないことだった。
 しかし、何故急にトンキーは急降下を敢行したのか。まさかリーファの好みを知っていて楽しませよう……としたわけではあるまい。
 その疑問はすぐに解けることになる。

「くるるぅぅーん」

 トンキーが悲しげに鳴き声を上げる。
 何事かと思い見て見れば、眼下では長い触手の上に饅頭型胴体があり、長い鼻と大きな耳をした象のようなクラゲ型モンスターが大人数のプレイヤーに攻撃されている。
 攻撃を受けているのは間違いなく羽化前のトンキーと同族だろう。
 しかも驚いたことに攻撃しているのは人間のプレイヤーだけではない。
 大柄なノームの六、七倍の上背があり、体型は人型だが腕は四本生えていて、顔は縦に三つ並び、肌の色は鋼鉄のように青白く、眼は鈍い赤色をしている邪神モンスターがトンキーの同族を攻撃している。
 あれはかつてトンキーを殺そうとしていた邪神と同じ種族だ。

「誰かのテイムモンスター、なのか?」

「まさか! 邪神級モンスターのテイム成功率は最大スキル値に専用装備でフルブーストしてもゼロですよ!」

 モンスターテイムに優れた猫妖精族(ケットシー)であるシリカがそう言うのであれば間違いあるまい。
 しかしそれならトンキーはどうなんだ、という話にもなるが、トンキーは恐らくテイムモンスターではなくクエスト報酬による解放NPCのようなものだろう。
 特別なクエストをクリアすると現れる、限定的に力を貸してくれるNPCというものはゲームにおいて割と存在する。
 恐らくだがトンキーはそこに大別されるのだろう。
 あの邪神がテイムモンスターでないのなら偶然狙いが一緒だったのか、はたまた今のトンキーのような存在なのか。
 息を殺して見ていると、残念なことにトンキーの同族が殺され、光の粒子となって消えていってしまった。
 そればかりか象水母邪神との戦闘後、人型巨人はプレイヤーのことを狙わなかった。これで可能性としては前者ではなく後者、つまりトンキーに近いポジションにあの人型巨人はいるのだと推測出来た。

「アスナ、街で聞いたクエスト内容は……」

「うん。多分このことなんだと思う。今騒ぎになっているクエストはきっとトンキーの仲間を一杯倒せっていうような物なんだよ。その間はあの人型巨人も協力者になっているんだと思う」

「調整、なのか。でもそれにしては……」

 トンキーの同族を倒したプレイヤー達は新たな標的を求めて人型邪神と移動を始める。
 それを見ていたキリトが一人ブツブツと呟いて考え込み出した時、突然《それ》は現れた。

「はぁい♪」

「おわっ!?」

 一体どこから現れたのか。
 クラインの背中に抱き着くようにして、見目麗しい褐色肌の女性がそこにはいた。
 真っ白な長い髪に豊満な体。だが何よりも目を引くのはその扇情的な服装と……背中にある羽根だろう。
 彼女の右肩には純白の羽根が生えており、左肩からは漆黒の羽根が生えている。
 また、彼女は胸元が縦にパックリとへその辺りまで割れている服……ローブを着込んでいて今にも膨らみが見えてしまいそうだ。
 さらにはそのローブの下半身部分をこれまた縦に大きく分けていて、スラリとした褐色肌の生足を惜しげもなく披露している。
 一瞬の間をおいて全員が剣の柄に手を伸ばし、止まった。
 その女性にはモンスター、つまりエネミーに該当するカラーカーソルが付いていなかったからだ。
 すなわち、少なくとも現時点では敵ではないということらしい。

「私の眷属と絆を結んでいる妖精達がいるなんてねえ」

 ぽんぽん、と謎の女性がトンキーを叩くと、トンキーは「くぉぉん!」と反応を示した。
 彼女は一体何者なのだろうか。その答えはすぐに彼女の口から発せられた。

「私はウルド、湖の女王よ。……今じゃその見る影も無いけれど」

 ふわり、と彼女はクラインから離れ、全員の正面、すなわちトンキーの前で滞空する。
 確か妖精は光が無いと飛べない仕様──設定なので、ウルドと名乗る彼女は妖精ではないのだろう。
 彼女の持つ羽根は妖精たちのそれよりもずっとリアル思考の鳥類のようなもので、どちらかと言えば天使のそれのようにも見える。

「でもここで会ったのも何かの縁。どうか私の頼みを聞いてくれないかしら? ね、オニーサン」

 ウルドがクス、と妖美に微笑んで再びクラインの前に近寄る。
 クラインはその美貌と……はだけた胸のあたりに視線が集中してしまって口を開けない。
 目はニヤけ、口元はだらしなく垂れ下がり、鼻の下が伸びている。
 代わりにキリトが気になることについて尋ねた。

「頼みというのは?」

「霜の巨人族の攻撃から救って欲しいの」

 ウルドは語る。
 このヨツンヘイムは元々世界樹イグドラシルの恩寵を受け、緑豊かな土地だった。
 しかしヨツンヘイムの下層にある氷の国、ニブルヘイムにいる巨人族の王《スリュム》によってこのような姿に変えられてしまった。
 スリュムはオオカミに化けてこの国に忍び込み、湖の乙女が持つ聖剣を言葉巧みに盗み出した。
 さらにスリュムは世界の中心たるウルドの泉に聖剣を投げ入れて、泉の中にあったイグドラシルの根を斬り、それによってヨツンヘイムはイグドラシルから与えられていた恩寵が失われ、ニブルヘイムの放つ冷気に当てられて氷の王国と化してしまった。
 分かりやすいようになのか、ホロ3Dグラフィックによってその映像が目の前に流されていく。
 世界樹の恩寵が失われてからヨツンヘイムが凍てつくのは本当にあっという間で、ウルドの湖さえも氷ついてしまう。
 さらに世界樹の根が氷塊と化したウルドの湖を包むように持ち上げていき、世界の中心に逆ピラミッドのダンジョンを作り上げた。
 そこでホログラフィックは音もなく消えていく。

「スリュムは私の湖で作った城をスリュムヘイムとして根城にし、さらに眷属を殺そうとしているわ。全て殺せば私の力が失われ、スリュムヘイムはアルヴヘイムへと上昇できるから。それがスリュムの狙いなのよ」

「……待ってくれ。あの氷のダンジョン……スリュムヘイムだっけ? が上昇なんかしたら上の街は……」

「崩壊するでしょうね」

 キリトは息を呑む。
 返答の仕方がそこいらのAIよりも《賢い》のはもちろんのことだが、今聞いた話は少々規模が大きすぎる。
 そもそもそんなことになれば上の街、アルンは大騒ぎだ。もしこれがアルンが壊れるかもしれないというような大規模のイベントクエストだと言うのなら、流石に前もって運営なり情報サイトなりで話題になるはずだがALOの情報通なリーファも驚いていることから前情報は一切ないと考えて良い。
 ほとんどのメンバーが事の大きさに戸惑っておる中、二人のプレイヤーが勝手に口を開いた。

「お任せあれってなァ! ウルドさんの為にチョチョイとスリュムの野郎をぶっとばしてやらァ!」

「男として困っている女性を方っておけないなあ。うん」

「お、おい……! 何を勝手に」

 キリトが慌てるも時すでに遅く。クラインとクリスハイトの了承の言葉を聞いたウルドはパーティが依頼を受けたと認識したのだろう。
 クラインの前にいたウルドは今度はクリスハイトに抱き着き、甘い感謝の言葉をかける。

「あ・り・が・と。上手くいけばたっぷりお礼して、ア・ゲ・ル」

 妖美な台詞とその艶やかな表情にシリカとリーファは何故か頬を紅くして顔を背けた。
 どことなくエロリズムを醸し出す彼女の挙動の一つ一つが年少組には少々刺激過多になりつつある。

「良い? 私の頼みはエクスキャリバーを要の台座より引き抜いてもらうこと。今ならスリュムの部下は甘言で動いてる他の妖精さん達に私の眷属を攻撃するのを手伝わせているみたいだから城の警備は手薄なハズよ。それじゃあお願いね、頼もしい妖精さん達」

 ウルドはそう言うと、スゥッとクリスハイトから離れて小さく投げキッスをした。
 同時に、投げキッスされたクラインとクリスハイトの丁度中間辺りに綺麗にカットされた巨大な宝石がはめ込まれたメダリオンが出現する。
 二人は取り合うようにしてそれを掴み、僅かな差でクラインがゲットに成功した。
 だが宝石の六割以上は漆黒の闇に染まっていて輝きを発していない。

「それが全て黒く染まってしまったら時間切れ。頑張ってね」

 最後にそれだけ伝えるとウルドはウインクしながら妖美に微笑み、小さく手を振ってその姿をゆっくりと消していった。
 ……なんだかすごいことになってきてしまった。しかも厄介なことにクラインとクリスハイトはもの凄くやる気に満ち溢れている。
 キリトは二人に呆れながら少し考え込み、ユイに話しかけた。

「ユイ、どう思う?」

「……」

「ユイ?」

「……あ、はいパパ、なんですか?」

「どうかしたのか?」

 ユイがキリトの言葉を聞き返すことは非常に珍しい。
 これまで彼女はどんな時でもアスナとキリトの声を聞き逃したことは無い。

「いえ、なんでもないですよ。それで、さっきのウルドさんのことですか?」

「あ、ああ……本当にアルンが壊れると思うか?」

 ユイは何でもないと微笑む。
 あまりにもいつも通りなその態度に、キリトは引っかかりながらも杞憂だったかと考えることを一時棚上げすることにする。

「可能性はあると思いますパパ。何故ならALOは他のザ・シード連結体(ネクサス)と違い、カーディナル・システムがSAOの複製だからです」

「どういうことだ?」

「ザ・シードによって普及したVRワールドにもカーディナルは存在しますが、それらは全てシュリンク版となっています。しかしALOはその成り立ちからシュリンク版ではなくSAO時代のカーディナルを複製して使用されています。なのでシュリンク版では削られている機能……例えばクエスト自動生成機能などが搭載されたままになっています」

「クエスト自動生成機能……それって」

「はいママ。カーディナルは人間の手の力を借りること無く無限にクエストをジェネレートしていくんです」

「通りでクエストが多すぎると思ったのよ……」

 SAOでは75層時点でも一万件を超えるクエスト数があり、とてもではないがフルコンプリートするのは骨だと思われていた。
 さらには時折変な内容のクエストも混じっていて、首を傾げるプレイヤーも決して少なくは無かった。
 ユイは続ける。

「さらにオリジナルのカーディナル・システムにはワールドマップを破壊し尽くす権限が与えられていたんです」

「なっ!」

「何せ、旧カーディナルの最後の任務はアインクラッドの崩壊だったのですから」

 シン、と静まりかえる。
 知らなかったSAOの真実を聞き、SAO生還者(サバイバー)達は複雑な気持ちになる。
 果たして、何故茅場晶彦はそんな設定にしていたのだろうか。今はもうそれを聞く術はない。
 そこで、その話を聞いていたリーファが思い出したように口を挟んだ。

「神々の黄昏(ラグナロク)」

 リーファの呟きに視線が集まる。
 その声はとても重たかった。

「ずっと引っかかっていたんだけど、スリュムとかウルドとか何処かで聞いたことあるなって。これ北欧神話だよ、だとするとこれから起こるのは……」

 リーファはキリト達と違いSAO生還者(サバイバー)ではない。
 そのせいかこの中では割と冷静で、気になったことをずっと考え続けていた。
 結果、自分の中の知識にヒットするものがあったのだ。もともとリーファ/直葉は神話関係のお話が好みで自室にもそれ関係の本を何冊か所持している。
 その中に今の状況に通ずる物があった。それが……神々の黄昏(ラグナロク)。
 ごくり、と皆息を呑む。その意味が大方わかったからだ。
 しかしそこで唯一間抜けな声をクラインが上げた。

「あのよぅ、オレあんまり神話とか詳しくねェンだけど……ラグナロクって最終戦争、なんだっけか? 神様が戦争でもすンのか?」

「間違っちゃいないけど……そうだね。わかりやすく説明するなら神々達の壮大な喧嘩さ。それによって天地は崩壊するってお話だよ」

 クリスハイトが苦笑して簡易的に説明する。
 多少語弊を招く言い方だが、詳しく話している時間も無さそうなので、ニュアンスを掴んで貰うという意味ではその説明でも問題ないだろう。

「……それが起こるかもってことか? ンでALOのカーディナルには実際にその権限があると……やべェじゃねェか!」

 そう。実際にこのクエストはアルンが破壊される可能性のある時限クエストと既になってしまっている。
 その意味では凄くヤバイ。
 当初は運営の意図するものではないフィールドの変更なら管理者による修正がされるのではないかと声が上がったが、それにはユイが首を横に振った。

「手動で物理的にカットされた外付け記憶媒体にデータをバックアップしているなら可能かも知れませんが、カーディナルのバックアップ機能を用いていたら修正は不可能です」

 望みは薄い。
 それでも確認はしてみようと思ったのだが……残念なことに運営、GM(ゲームマスター)には連絡が付かなかった。

「今日は年末の……それも日曜日だからねえ」

 国家公務員サマが仕方ないよと苦笑する。
 確かに年末の日曜日ともなれば誰だって休みたい。今日だって休みだからみんな午前中から集まれたのだ。
 そうなってくると八方塞がりで、自然とどうする? という視線を全員が全員へと向け始める。
 答えは……ほとんど決まっていた。

「私、自分が好きになったアルヴヘイムを護りたい」

 リーファが口を開く。それが全てだった。
 人一倍思い入れがあるのはリーファだが、みんなもそれは変わらない。

「よっしゃあ! ウルドさんのためにも一肌脱いでやるぜ! うお!? このメダリオンどんどん黒くなってくんぞ! 早く行こうぜ!」

 クラインが掲げるメダリオンは確かに黒ずんだ闇が蠢き僅かずつその領域を増やしている。
 それを見て心底悔しそうにクリスハイトが唇を尖らせた。

「それは僕に向けられた物だと思うんだけどなあ」

「なァに言ってやがる」

 バチバチッと火花でも散りそうな視線をクラインとクリスハイトは交わす。
 キリトはやれやれ、と思いつつこのクエストを頑張る事に決めた。
 どうやらメンバーも皆そのつもりのようだ。当初とは大分毛色が変わってきてしまったが、ゲームの真髄は楽しむことなので、流れに身を任せることにする。

「よし、じゃあ行くか! ユイ、今回はナビを頼むかもしれない……ユイ?」

「………………えっ? あ、はいパパ。わかりました!」

 キリトが気持ちを切り替えて音頭を取り、トンキーはダンジョンへと向かい始める。
 しかし話しかけたユイはまたしても反応が遅れた。これまでこんなことは無かった。
 二回目という事もあって、今度はアスナもその違和感に気付いた。
 ユイは人工知能でありながら非常に高度な知能を持ち合わせており、普通のAIならば言葉に困窮するような会話でも難なくこなしてしまう。
 一番凄いところはそこにタイムラグがほぼ発生しないところだ。いや、だった、というべきか。
 応答に困るような、もしくは難しい言葉の場合、簡易的な応答プログラムしか与えられていないNPCなどは応えに時間がかかったりフリーズしたりすることもままある。
 結果、意味不明な事を口走るか、聞かなかったことにするか、遅れてわかりませんと返答するのだが、ユイにはそれがほとんどない。
 これまでそうだっただけにキリトとアスナは心配になる。もしかするとシステム的な何か、もしくはおかしなプログラムでも働いていてユイに負担がかかっているのではないだろうか。
 それならばユイに許可される範囲でユイのプログラム洗浄……最適化などもキリトの手作業でやるにやぶさかではない。
 なんなら今すぐみんなに謝ってログアウトしても良いくらいだった。アスナはそんなキリトの心情を察する。

「本当に大丈夫なのユイちゃん? もし調子が悪いのなら……」

「いえ、大丈夫ですよパパ、ママ。大丈夫です」

 ナビゲーションピクシー姿のユイはキリトの肩に降り立つと、ギュっとキリトのとがった耳にくっ付いた。ユイが首に巻いているアスナお手製の紅いマフラーがキリトの頬を撫でる。
 ユイは「私がお手伝い出来るなんて嬉しいです!」と元気いっぱいにキリトの耳元ではしゃぎ、それを見たキリトはとりあえず自分の考えを引っ込める事にした。
 あまり詮索し過ぎるのはよくない。そもそもユイは不調なら不調だと素直に言う子のハズだ。考えすぎかもしれない。そう思いながら。
 キリトの考えに一応賛同したアスナは、自分もそれ以上ユイについて詮索するのを止めた。心配ではあるが彼女を縛りたくなかった。
 だって、もしそんなことをすればそれはまるで………………自分の母親みたいではないか。
 一瞬浮かんだ思考に、アスナ自身も暗くなる。



 だから気付かなかった。考えなかった。
 ユイが反応を示さなかった時、一体何処を見ていたのかということを。



[35052] エクスキャリバー3
Name: YY◆90a32a80 ID:b9264a49
Date: 2013/11/17 22:04


 湖の女王ウルドの言うとおり、以前は邪神モンスターで溢れかえっていた氷のダンジョン内にはほとんどモンスターが湧出(POP)しなかった。
 ダンジョン内のモンスターはALOプレイヤーと一緒にトンキーの仲間である象水母型邪神をせっせと狩る為出払っている……という設定なのだ。
 アスナ達としては以前来た時に尻尾を巻いて逃げた経緯があったので少々複雑な心境ではあったが今はこの状況に感謝する事にする。
 なにせ失敗すればやり直しの出来ない時限イベント。クリア出来なければ失われるのはALOのメインシティなのだ。
 青い光を薄ぼんやりと含む氷の回廊を進むと、少しばかりグラフィック……マップデータが《重く》なり始めてきた。
 これまでは何の光かもわからない氷が含む謎の光源によって視界が確保されていたのだが、何処からそうだったのか氷壁には銀の燭台がポツポツと埋め込まれていてチロチロとした炎を立ち上らせている。
 何故氷が溶けないのか、などというのは仮想世界に言っても無駄だろう。
 天井と一体化している氷柱には金属の装飾が施され、何を表しているのかもよくわからない紋章が刻み込まれている。
 ボス部屋が近付くとマップデータが重くなる、というのはSAOから引き継がれている特徴の一つだ。
 やがて想像通りに大きめの氷扉が目の前に現れた。
 キリトが全員を見渡し、みんなが頷くのを確認してからその重そうな扉を開く。
 ギギギ……という蝶番の金属が擦れる音が静かに響いた。氷製なのに何故金属音なのかという疑問は……してはいけないものだろう。
 扉が開かれると、中はやはりというべきか広い空間となっていて中央に屹立する大きな存在に目を引かれる。
 流石にフロアボスまで出払っているというダンジョン空っぽ状態では無かったらしい。もっともそれはアスナ達も予想していたことだ。

「みんな! 最初は冷静にね!」

 アスナの号令の後、アスナとクリスハイトを残して全員が散開しつつ前へと駆けだした。
 アスナとクリスハイトは即座に詠唱へと入り出す。
 近付く妖精達に気付いたのか、中央に立つ巨大なボスは大きな咆吼を上げてこちらへと振り向いた。
 その顔は……一つ眼。単眼で、さらに口端が耳まで裂けている巨大なサイクロプス型のボスだった。
 右手には粗暴な形ではあるが身体のサイズに見合った棍棒が握られている。
 身体は全身真っ青で、その身を覆うのは金色の中に黒い斑模様が混じった腰布のみ。
 咆吼によってビリビリと部屋中が震えるが、幸いアスナやクリスハイトまで《叫び声(ハウリング)》のバッドステータスは届かない。
 おかげで彼女たちは無事に詠唱を終える事が出来、その手に持つ杖を前衛へと向けた。
 ボスの正面に駆けだしたメンバーには青白い光が灯り、ゆっくりと全身を明滅させる。
 アスナが使ったのは攻撃力上昇の魔法で、クリスハイトが使用したのは防御力アップの魔法だ。

「サンキュ! いっちょいくぜえええええええッ!」

 クラインは魔法の補助を受けると一足先にとばかりに一番槍を自ら買って出た。
 彼のこういった辺りがかつてギルドを率いる立場でいられた要員だろう。誰よりも早く危ない橋を自ら進む。
 デスゲームと化していたSAOでこれが出来たプレイヤーは非常に少ない。キリトでさえ、知らない相手に挑む時は慎重になる。
 だがクラインは決して臆することなく自らにその役目を課し続けてきた。
 ギルドを率いている……つまりは仲間の命を預かっているという責任を常に肩に乗せていたからかもしれない。
 クラインの持つカタナにライトエフェクトが宿った。だが彼はまだボスから四メートルは離れた位置にいる。
 当然ながらその距離は彼の武器の射程範囲ではない……ハズだった。

「セイッ!」

 一声上げた瞬間、彼は瞬時に間合いを詰めきっていた。
 その間、時間に換算して僅か半秒も経過していない。まさに一瞬と呼ぶに相応しい刹那の時間消費でクラインは驚くべき事にその距離を詰め切っていた。
 そのまま大振りではあるが鋭い太刀筋でまず一太刀目を青い一つ眼の巨人へと浴びせることに成功する。
 紅い血飛沫に似たライトエフェクトが宙に舞い、フトモモに深く斬り込まれたサイクロプスは鬱陶しそうにクラインへと棍棒を振り払った。
 クラインは深入りせずに二、三度跳ねるようにバックステップして距離を取る。だが今の攻撃で嫌悪値(ヘイト)は完全にクラインへと向いた。
 それこそがクラインの狙い。クラインが放ったのは曲刀カテゴリのソードスキル、《フェル・クレセント》だ。
 曲刀ソードスキルはクラインが普段から使用し、得意とする《カタナ用ソードスキル》の下位スキルであり、この技は中距離を一瞬にして詰められるという利点がある。
 その分カタナ用ソードスキルに比べると威力は幾分下がるが、彼はアバター全身を使ったアシスト──システム外スキル──を加える事によってその威力をそこらのプレイヤーのカタナスキルの物と大差が無いほどまでに押し上げている。
 完全にクラインを標的(ターゲット)にしたサイクロプス型巨人は間合いを取ったクラインに近付こうとして……少女二人の攻撃に挟み込まれた。
 シリカの短剣によるソードスキルと、リズベットのメイスによるソードスキルが左足を挟撃し、体勢を崩した。《転倒(タンブル)》状態である。

「今だ!」

 キリトとリーファは一気に距離を詰めると持てる大味のソードスキルを連発する。
 クライン、リズベット、シリカもすぐに加わってみるみるボスのHPゲージを減らしていく。
 ボスが起きあがりかけた所で全員が一度ボスから距離を取った。
 その瞬間、ボス周辺に円を描くようにして雷がスパークする。

「暗記は得意なんだ」

 得意げに笑うクリスハイトの杖が光り、サイクロプス型巨人はその下半身を地面から迸る雷に埋め尽くされる。
 この瞬間の為に詠唱し、溜めておいたクリスハイトの雷魔法だ。
 ピシャァァァ! という轟音が鳴り、一瞬極大の閃光と「ドンッ!」という音を放ってスパークは消え失せた。
 この魔法は範囲がそれなりに広いが、エフェクトの割にそこまでのダメージは期待出来ない。だが、その代わりにこの魔法は敵へのバッドステータスを一つ含んでいる。

「……グ」

 小さく呻く声が漏れる。
 僅かながらサイクロプス巨人の動きが止まった。
 《行動不能(スタン)》したのだ。これこそ雷魔法系最大の利点である。
 それを見計らったように巨大な氷の塊がサイクロプスの顔面へと叩きつけられた。
 アスナの上位水魔法だ。これにより、弱点だったらしい眼を攻撃されたサイクロプス型巨人ボスは再び《転倒(タンブル)》状態に陥った。
 攻撃が上手くマッチする時は二度三度とボスを《転倒(タンブル)》状態に出来ることはある。
 今が攻撃チャンスだと前衛陣は持てる大味のソードスキルを再び連発し、一気にHPゲージを削り尽くしていく。
 新生アインクラッドのフロアボスはHPゲージが見えない仕様が採択されてしまっているが、今のところアルヴヘイム内ではそのバージョンアップは行われていない。
 相手のHPゲージが見えるのと見えないのではそのペースの掴み方もかなり変わってくるので出来ればこれからも可視化して欲しい、と思うのはヘビーユーザーでも仕方の無い事と言えよう。
 このまま一つ眼巨人……サイクロプスへの攻撃は上手く連携が続き、軽い反撃はもらったものの最初のフロアボスはそこまで苦労することなく押し切る事に成功した。
 最後はやはりというか、キリトの素早いソードスキルによってトドメを刺され、ボスはその姿をガラス片へと爆散させる。
 ラストアタックボーナスの概念はSAO同様に引き継いでいるので、彼のストレージにはまた一つレアアイテムが格納されたことだろう。

「お疲れ!」

 口々に互いを労う声をかける。ネットゲームでの最低限のマナーだが、ここにいるのは皆リアルの知り合いなので心からの言葉でもある。
 手を叩き合い、和気藹々と微笑み合う。今回、緒戦において良い形でスタートを切れたので、仲間達の間では「行ける」という思いが強まり、次のボスも楽に倒せるという空気さえ漂い始めていた。
 しかし、流石にそこまで甘くはなかったとすぐに悟らされる。



 ボス部屋の下層に広がる氷ダンジョン二層にも目立った湧出(POP)モンスターがなく、二層のボス部屋までは労せずしてたどり着けた。
 だが、この第二層ボスがなかなか厄介な相手だった。
 第二層のボスは牛の頭を持ち、人間のような肉体を持つミノタウロス型大型邪神が二体というスタイルだ。
 第一層のサイクロプス型巨大邪神もそれなりに大きかったが、この二体は第一層のボスを上回る巨躯の持ち主で、武器はこれまた巨大なバトルアックスなのでリーチはそこそこ、と言った所だろう。
 ボスのうち、右にいるミノタウロスが全身黒毛に覆われ真っ黒なのに対し、左にいるのは黄金の毛に覆われ全身から神々しいまでのオーラを放っている。
 中でもやっかいなのはその金ピカミノタウロスの性能で、何とこいつは物理耐性がかなり強力に設定されているらしく殆ど武器での攻撃が通らない。
 逆に黒ミノタウロスは魔法耐性がかなり強力に設定されており、魔法攻撃はほとんど受け付けない。
 そこで当初は、黒ミノタウロスを倒してから黄金ミノタウロスを抑える作戦に出たのだが、この二体は一方が弱るとこれまでの嫌悪値(ヘイト)を無視して相方をサポートするようプログラムされているらしい。
 さらに困ったことに、弱ったミノタウロスは相方に護られながら《瞑想》をし始め、短時間で体力を大幅に回復してしまう。
 唯一の救いはこのボスが魔法を一切使って来ないので、広範囲に急な攻撃を受けないことだ。
 と言っても、一番気をつけなければいけない不動タイプであるメイジの二人……アスナとクリスハイトはボスからかなりの距離を取っているので最初からその心配は無い。
 心配は無いが、光明もない。

「キリト君、このままじゃもうすぐMP切れちゃうよ!」

 クリスハイトが焦りの声を飛ばす。その声はかなりテンパっていて、ああそういえば彼はゲーム歴が低いんだったと無駄な記憶を呼び起こし……さっさと奥隅へと記憶をしまう。
 今は余分なことに思考を費やしている暇などない。
 回復に専念していたメイジの二人はガンガン魔法でサポートしてくれていたので、当然ながらMPの消費が激しい。
 なのでアスナの方もクリスハイトと似たような状況ではある。だがこのサポートが無ければ戦線維持は難しい。
 このままではいずれこちらが力尽きてしまう。
 かといってメイジ二人の魔法攻撃では黄金ミノタウロスのHPを吹き飛ばし切れない。火力が足りないのだ。
 そう、このパーティは当初キリトが危惧した通り魔法攻撃力が圧倒的に不足している。その為こういった物理耐性が高い敵にはいらぬ苦戦を強いられる事がしばしばあった。
 従来ならばここでゆっくりと時間をかけて攻略するか、出直すという手段ももちろん考えられるが、

「キリの字! 時間がやべェ!」

 クラインの飛ばす声にその選択肢を消す。今回ばかりはそうはいかないのだ。
 クラインの持つメダリオンはどんどん黒く染まっていく。これが全て黒く塗りつぶされた時、アルヴヘイムは今までの姿を失ってしまうのだ。

「キリト君! やってみようよ!」

「わかってる!」

 アスナの声にキリトは右手の剣を掲げて答え、素早く左手にも剣をシステムメニューから呼び出した。
 一瞬にしてもう一本の剣がキリトの左手の中にジェネレートされる。いや、これはただシステム的にアイテムストレージに格納されていた所持武器をオブジェクト化したにすぎない。
 だが彼が二刀を装備した意味は全員──クリスハイトを除いて──理解する。
 次の瞬間、一体が白い霧に包まれる。アスナが目くらまし用の水魔法を唱えていたのだ。

「一かバチか、全員ソードスキルによる総攻撃!」

「よっしゃあ!」

「了解!」

 アスナの提案は、そのままキリトの考えと直結していた。
 それは……全員の《ソードスキル》による連続攻撃だ。
 ソードスキルとは本来、アインクラッド……SAO時代の遺物だがこのALOにもアップデートとして実装されている。
 これは大いにSAO生還者(サバイバー)の人気を集めたが、この《ソードスキル》はただそのまま実装されたわけではない。
 いや、技のモーションや派生Mod、基本の物理攻撃力に関してはほぼ変わりないだろう。だが新たな運営者達はそこに一つ付け加えた物があったのだ。
 それが……《属性》である。
 ほぼ全てのソードスキルには魔法で言うところの属性が付与され、属性に応じたエフェクトが加味された。
 これによって魔法を得意としない種族でも属性値による十分な攻撃が可能とされ、これまでのALOのセオリーが一つひっくり返った瞬間でもあった。
 だが、このソードスキルの実装に当たり《ユニークスキル》だけは実装されなかった。
 アスナにとってそれは少しばかり残念なことだと思っていたが、思ったよりもキリトにショックは無いようだった。
 《二刀流》や《神聖剣》などの突出した強力過ぎる《ユニークスキル》はゲーマーとしては確かに魅力的な部分もあるが、《公平さ》という点では大きく外れてしまう。
 だから、それは当然のことだと理解していると説明を受けたアスナは一度だけキリトに尋ねたことがある。

『二刀流のスキルを、もう一度使いたいとは思わないの?』

 キリトは苦笑しつつ答えた。
 アスナは、恐らくその言葉を永遠に忘れない。

『未練が無いと言えば嘘になるけど、護る力が必要とされないのなら、その方が良い』

 そう言われてそっと繋がれた手は、とても暖かかった。
 確かにそうなのだ。あれほどの力を求めなければいけない時というのは、本当に鬼気迫った時だろう。
 そんな時など、もう来なくてもいい。繋がれた手は、護るべき存在。その存在が脅かされずに済むのなら、強力過ぎる力なんていらない。
 だから、キリトはシステムとしての《二刀流》を然程強く求めていない。そのことにアスナも理解を示した。

 しかし。

 それはそれとして、《出来ることを試したい》と思う欲求は子供が持つ好奇心のように溢れてくるものである。
 キリトはシステムとしての《二刀流》を求めはしなかったが、《二刀流》の再現には余念が無かった。
 当初は再現できたのは上位剣技までだったのだが、今や努力の結果により最上位剣技も再現可能になったほどの修練を積んだ。
 もともとソードスキルとは、プリセットされた動きをシステムのアシストを受けて発動させるものであり、ソードスキルを《使わずとも》動きを《真似る》ことはできるのだ。
 だがそこにはソードスキルに付与される威力ダメージは無いし、このALOに至っては当然ながら属性も付与されない。
 だからここでキリトがほぼ完璧にマスターした《なんちゃって二刀流スキル》を使うメリットはあまりない。

 しかし。

 二刀帯刀状態となったキリトはもう一つ《過去の記憶》から一つの技──システム外スキルを編み出すことに成功していた。
 皆がそれぞれソードスキルで突撃していく中、キリトの持つ剣にもオレンジ色のライトエフェクトが宿る。

「フッ!」

 キリトは息を吐く声と同時に、高速で五連続の突きを繰り出し、さらには上段斬り下ろしから素早く斬り上げの軌跡を描いて再び全力の上段斬りをお見舞いする。
 片手剣用ソードスキル《ハウリング・オクターブ》。ダメージとしては物理四割、火炎六割の高速八連撃だ。
 素早さが売りとも言える片手剣カテゴリの中では連撃数が多いダメージ重視の大技である。当然スキル使用後の硬直時間はそれなりに長い……のだが。

「……ッ」

 だがキリトは技を完全に出し終える前に……最後の上段斬りをシステムが生み出す仮想の慣性にのみ動きを任せ、右手の意識を切り離した。
 イメージ的には……この右手そのものを《自分の体の一部ではない》と思い込ませるような……そんな感覚。
 同時に、意識は左手にのみ集中させ、左手に持つ剣の柄を強く握り、ググッと後方に引き絞った。
 瞬間、左手で握っている剣に鮮やかなブルーのライトエフェクトが宿る。これは本来ならあり得ないことだ。

 スキルは二つ同時に使用出来ない。これはキリトを含めた一介のプレイヤーには与り知らぬことだが、一つのアバターには、そのアバターがスキルを使用中に他のスキルを発動できぬよう基本設定がなされている。
 いや、より正しく言うならばスキルの同時発動は製作者側の意図には無く《システム的には》存在しない。
 しかしゲームプレイヤー……とりわけネットプレイヤーとは業が深いもので、どんな物にも《抜け道》を見つけ出そうとする。
 製作者が意図したわけではない……あの手この手のいわばバグのような隙部分を突く方法で一部のプレイヤーは不可能を可能にする。
 仮想世界……VRMMOはアミュスフィアを介した《脳》による命令に活動を依存している。
 直接《頭の中からアクセス》し、脳の命令系統……思考力をネットを介してデジタルなゲーム世界にダイブさせている。
 つまり、VRワールドでの肉体運動の全ては脳内処理によって行われているのだ。
 これには小さくないメリットがあり、例えるならば五感や五体を失ってしまった人にも正常な脳運動……思考力があればVR世界ではそのハンデをゼロに出来る。
 逆に言えば、脳からの命令によってシステムも作動することになるので、その命令が狂うとシステム自体がエラーを起こす。
 キリトの左手で青く輝く剣が水平に軌跡を描いた。今キリトは凄まじい違和感に襲われている。
 右の体と左の体がどこかでズレているような気持ちの悪い感覚。だがここで意識を統合しようとするとスキルは中断されディレイが課されてしまうことをキリトは経験から知っている。
 キリトがこのシステムに許可されていない……存在しない連携技を初めて使ったのはSAO時代のことだ。
 ヒースクリフ、いや茅場晶彦とデュエルをすることになった際、最後の瞬間まで諦めずにあがこうとしたあの時、意図せずにキリトはこの連携技を偶然発動させている。
 あの後、SAOでは結局この技を完成させるには至らなかった。最後の最後で失敗までしている。
 今をもってしても完成と呼ぶには遠く、成功率は六割程度だがあの時よりも《発動条件》を理解しているだけ進化していると言えよう。
 ただ、あまりにイレギュラーな方法……条件の為にこれ以上の成功率上昇は難しいだろう。

 動き出したキリトの左手は続けざまに高速でブルーのラインを二本ほど描いた。
 物理五割に氷属性五割の重三連撃を繰り出す片手剣用ソードスキル《サベージ・フルクラム》である。
 さらにキリトは今回も最後の一撃を加える寸前に意識を左手から切り離し、右手のみに意識を戻す。
 剣技連携(スキルコネクト)と名付けたこのシステム外スキルは、一見すると無限にソードスキルを連携できるように思えるが、実はそう単純な話ではなく、連携前のソードスキルの終了モーションと連携後のソードスキルの初動モーションがほぼ一致していなければ発動出来ない。
 さらに意識の切り替えが求められるタイミングはかなりシビアで、おおよそ誤差コンマ一秒以下程度だと思われる。
 故にこの剣技連携(スキルコネクト)は何よりも《続ける》ことが難しい。
 成功率六割とは飽くまで《一度目》の話であり、二回目以降の連携となると確率はガクッと落ちる。
 二回続けばかなり良い方とキリトも自覚しているだけに、次は半ば祈るような気持ちで剣を握っている右手に命令を送り込むと、上手いこと右手の剣に青いライトエフェクトを帯びさせる事に成功した。
 身体がシステムのアシストによって動き出し始める。
 先の重攻撃によって黄金ミノタウロスは《のけぞり》状態になっているので反撃の心配はない。
 ここが攻め時とキリトはガンガン攻撃すべくソードスキルのシステムアシストに我が身を任せきった。
 キリトの剣は鋭い剣閃で青いラインを四度生みだし、黄金ミノタウロスの脹ら脛をざっくりと切り裂く。
 グググッと黄金ミノタウロスのHPゲージが大きく減少する。すでに計十五連撃という二刀流の上位剣技に迫る手数である。



 ──────と、ここまでがSAO時代のそれと《原理》は変わらぬキリト《単独》の連携技(コネクト)だ。



 キリトが四連撃──片手剣用ソードスキル《バーチカル・スクエア》を終える瞬間、ブルートルマリンのようなロングヘアが《閃光》のように奔った。
 そのまま彼女、メイジであったはずのアスナはキリトの浮き上がった右腕をくぐるようにして黄金ミノタウロスに肉薄し、既に持ち替えているリズベット謹製の細剣(レイピア)で高速四連撃を繰り出す。
 物理五割、雷属性五割の細剣用ソードスキル《カドラプル・ペイン》だ。
 最後の突きの反動でやや後ろに下がったアスナの左手付近にはキリトの剣を握っている右手があり、アスナは目を向けずにその剣の柄をキリトの右手ごと握る。
 と思った時にはまるで時間が巻き戻されたようにアスナの身体は黄金ミノタウロスへ近付きキリトの剣をミノタウロスへと突きだした。
 小さい五角形の頂点を描くように高速ならぬ光速の五連突き。物理二割に聖属性八割の細剣用ソードスキル《ニュートロン》。
 この攻撃が終わったところで……キリトの左手がジェットエンジンのような唸りを上げて黄金ミノタウロスに吸い込まれていく。
 ドォォォン! と轟音をかき鳴らし、そのまま深々と黄金ミノタウロスを突き刺さした。
 最後に放ったのは片手剣用ソードスキル、単発重攻撃《ヴォーパルストライク》だ。これは見事ボスのHPゲージの残りを全て吹き飛ばした。
 丁度その時、《瞑想》を終えた黒ミノタウロスが自信満々に振り向き……相方である黄金ミノタウロスの姿を探してつぶらな瞳を瞬かせる。
 その顔はまるで「あれ?」とでも言っているようだ。

「おーし牛野郎、そこに正座」

 それを見ていたクラインは、カタナの峰で自身の肩をトントンと叩きながらニヤリと嗤った。





「ンで、さっきのありゃ一体なンだ!?」

 物理耐性の低い黒ミノタウロスを難なく押し切り、戦闘が一段落したところでクラインはキリトに詰め寄った。
 当然である。SAO時代からソードスキルはプレイヤーにとって《一技必殺》のイメージが強い。
 連撃を加えるにしてもそこに《ワンクッション》何らかの動作、もしくは冷却(クーリング)が入らなければ次のソードスキルは放てないのが仕様であるとされている。
 そもそもソードスキルには使用後の硬直時間(スキルディレイ)が存在するはずなのだから。

「……言わなきゃダメか?」

「ったり前だろが!」

「……システム外スキルだよ。剣技連携(スキルコネクト)って呼んでる」

 キリトはやや面倒そうな顔をしつつ、大雑把に原理を説明する。
 話を聞いたクラインは頭をガシガシと掻いて「なンだそりゃ!」と声を上げた。
 キリトの剣を借りてその場で試してみるが、やはり上手くいかずスキルディレイにより硬直してしまう。
 誰でも最初は似たような反応である。あのリーファ/直葉をしてこの剣技連携(スキルコネクト)のことは不正軽量竹刀の百倍ひどいアドバンテージと評した。
 二、三回試したところでクラインは一旦切り上げ、剣を返しながらもう一度キリトに尋ねる。

「でもよぅ、ンじゃあ最後のアスナちゃんとお前のアレはなンだよ。聞いたことねェぞあンなの」

「あれは……まぁ応用版というか、俺たち以外に出来る保証は無いというか……俺たちでも普段はそうそう成功しないというか。だからアテにしないでくれると助かる」

「ンだよ煮え切らねェな」

「悪い、上手く説明出来ない。今は時間も無いし先を急ごう」

「……へいへい」

 キリトは言葉を濁し、クラインは黒く染まっていくメダリオンを確認して不承不承ながら頷いた。
 それを見ていたアスナは苦笑する。まぁ仕方ないか、と。
 実際、キリトにもアスナにも説明をしろと言われるとこればかりは上手く出来ないのだ。
 先のあれは一応剣技連携(スキルコネクト)ではある。だが、その原理はかなり特異という外はない。
 と言うのも、これを説明する為にはまず、お互いの《接続》について説明しなければいけなくなるのだ。
 アスナとキリトは、SAO時代からとある不思議な現象にその身を置く事が度々ある。
 得てしてそれは戦闘中に多いことだが、簡単に言うならばお互いがお互いのことを深く理解出来る、というものだ。
 相手が何を考え、何をしたいのかを感じ取り、《感度》が高まれば高まる程それは濃度を増して相手の思考を読み取らせてくれる。
 まさにお互いが一体化してしまったような《接続》状態。
 この時点で既に他人に話すにはかなり抵抗がある。説明したところでからかわれて終わる可能性も否めない。
 こうなった時の二人は軽く《ハイ》になっている状態に等しく、心地よささえ感じられる。
 さらに剣技連携(スキルコネクト)の原理から行くと、通常二つしかない手が四本あるものとして捉えられるのだ。
 あえて評するなら双技連携(ダブルコネクト)とでも言おうか。現状、これはアスナとキリトの間でしか成功したことが無く、成功率もかなり低めとなっている。
 実際今までで成功したことがあるのは片手の指で足りる程でしかないし、アスナとリーファ、リーファとキリトでは何度やっても成功しなかった。
 だが一度嵌ればこれほど強力な物はない。リーファ曰く、成功すれば不正軽量竹刀の千倍ひどいアドバンテージでも生温い審判と選手がグルみたいなもの、と述べている。
 とありあえずの追求を止めたクラインは先へと足を進めだし、それに続く形でゾロゾロとみんながボス部屋を後にする。
 その様子を眺めつつ追いかけるように最後尾へと足を進めながらキリトは呟いた。

「よくやる気になったなアレ」

「出来る気がしたから」

 アスナはクスリと微笑んでキリトの隣に並んで歩幅を合わせる。
 仮称双技連携(ダブルコネクト)は数字にして成功確率0.一パーセント以下という鬼成功率だ。
 土壇場でやるにはリスキー過ぎる。だが、

「まぁ、なんとなくわかるよ」

「でしょ?」

 キリトはアスナの言わんとしていることを理解した。
 これまではほとんど成功するのは奇跡に近かった双技連携(ダブルコネクト)だが、きっかけは掴んでいたのだ。
 それはここではない別の仮想世界、ガンゲイル・オンラインでのことだ。いや、より正確に言うならその仮想世界へログインした時の《状況》と言うべきか。
 ガンゲイル・オンライン──GGOに二人がログインしたのはとある事件……プレイヤーの変死についての調査だった。
 調査は考えられる限りでは安全なはずだが、それでも念のためにとかなりの安全策を取られ、二人は《一緒に》ログインした。
 《一緒に》とは文字通りの意味で、体中に心電図モニターなどの電極パッドを貼り付け、同じベッドに横になり、手を繋いだ状態でのダイブ。
 ちなみに手を繋ぐ必要性はこれっぽっちもなく、意図したわけではなかったのだが、それは本人達にとって意外な効果を仮想世界で生み出した。
 普段よりも《接続》の濃度が高まったのだ。現実で繋いでいる手が、仮想世界でも常に温かいと感じられるほどに。
 相手の存在を確かに感じられたことで、戦闘においてはお互いのコンビネーションが最高レベルにまで引き上げられる結果ともなった。
 リアルでの物理的接触による仮想世界への影響は《システム的には》存在しないはずだが、これがなかなかバカに出来ないものというのは古参のVRプレイヤーなら理解している。
 ゼロと一で構成されるデジタルなVRワールドには確かに《ロジック》だけではない何かがあった。
 今、アスナとキリトのリアルの肉体は、その時と同じように同じベッドで横になり手を繋いでいる。
 もっとも、場所はあの時のような病院の一室ではなく桐ヶ谷邸の和人の部屋のベッドの上だが。
 そしてこれは、やはり二人に《接続力の上昇》という恩恵を産み落としていた。
 その結果が、先の《確率0.一パーセント》の成功である。
 双技連携(ダブルコネクト)はよほど《接続》が高まっていなければ成功しない。
 いや、高まっている事がまず前提条件の一つ、という程に難しい。狙ってやれることではそうそうない。
 だが、そこに確率のブーストをかけるのが恐らくはリアルでの肉体的接触だったのだろう。
 それをGGOの時から二人は朧気に理解し、今回でそれは確信に変わった。

「ふふ」

 アスナはそっとキリトの手を握る。
 ビクッとキリトは肩を震わせるが、すぐに握り返した。
 突然の事に驚きはするが、キリトもアスナと触れることが厭ではない。
 無論羞恥心はあるが、今は最後尾。気付かれない内はこうしていてもいい。
 こうして、二人で手を繋いでいる時は、時間が穏やかに流れる。
 幸せな時と言うのはこういう時を言うのだと自覚できるほどに。



 ────だから、思いもしなかった。この穏やかな時間の崩壊が、目の前に迫っているなど。



 それは、突然に現れた。
 氷のダンジョン第三層。時間の関係からキリトは普段なら絶対にやらないユイのダンジョンナビゲート機能を駆使してフロア内の至る所に仕掛けられているトラップを全部回避した。
 本来ならば数多くのトラップやパズル、謎解きに時間がかかるのだろうが、今回ばかりは心の中で全身全霊の土下座をして前進する。
 おかげでたいした時間の浪費もせずに第三層のフロアボスまで到着する事が出来た……のだが。
 そこで待っていたのは……予想もしない相手だった。
 表皮は煌めくようなメタリックの碧。躯のあらゆる部位には《節足動物》特有の細かい節がある。

 ドクン──アスナの表情が一瞬で目の前の相手のように真っ青になった。

 前方には巨大な触肢が鉞状になって突き出されており、見るからに鋭い光沢を放っている。
 だがやはり一際目を奪われるのは背中から反り返るように伸びた二股の尻尾だろう。その先は鈍色に輝く太い針がその存在を主張している。

 一言で表すなら────二股の尻尾を持つ金属の蠍。

 カラーリングこそ当時と違うが、このフォルムは……いや、ポリゴンの細部に至るまでこのモンスターの姿形はかつてデスゲームと化したSAOで攻略組を恐怖で震え上がらせ《バッドラック》の象徴として君臨した《The Hell Scorpion》──地獄の蠍そのものだった。
 基本戦術……それは《逃げろ》。何故なら《HP全損イコール現実での死》となった世界で、最前線の一つ下のフロアボスと同等の力を持つと言われるコイツを少数で相手にするのは無理があるからだ。

 ドクン──アスナの身体が小刻みに震えだした。

 ゲームにはよくあることではある。モンスターのカラーリングと名前を変えて強力にする、などと言った手法は。
 だから、驚きはしたが、それだけでもある。彼女を除いては。

「あ、あ、ア────」

 か細いアスナの声が喉の奥から漏れる。
 仮想世界に喉の構造などという概念は無いはずだが、例えるならばカラカラの喉が必至に言葉を発しようとして出来ないような、そんな声。
 身体は時間を増す事にガタガタと震えだし、ガチャガチャとらしくない動作で腰のレイピアを引き抜く。
 その異様さに仲間達が気付いた時には、彼女は一人先行していた。


 コイツは、コイツが、キリト君を─────────

 
「だめええええええええええええっ!!!」

 劈くような叫びと精緻の欠片も感じられない特攻。全力で腕を引き絞り、渾身の一撃を蠍型ボスにアスナは与える。
 彼女は元来《正確さ(アキュラシー)》の高さと《速さ(クイックネス)》によってその戦闘力を底上げしていた。
 それが失われれば、彼女の戦闘力は半減すると言ってもいい。今のアスナの攻撃は明らかに《正確さ(アキュラシー)》を欠いていて普段の期待値よりもダメージを与えられていない。
 蠍型ボスが怯まなかったことからもそれは明らかで、アスナはすぐに反撃されてしまう。
 ブンッ! と力強い二本の尻尾が横薙ぎに振られ、アスナを襲う。アスナは一本目の尻尾を身を屈めて回避し、二本目の尻尾を跳躍で避けた。
 避けながら、アスナは攻撃の手を休めない。効果的とは言い難い、子供の反抗のような攻撃をがむしゃらに続ける。
 刺して、突いて、切り払って、また突き刺す。一突きする度に憎悪の感情が彼女の顔に染みだしていく。
 一回、二回、三回、四回……回を増す事に彼女が何事か呟いている声も大きくなっていった。

「殺させない殺させない殺させない殺させない殺させない殺させない殺させない殺させない殺させない殺させない殺させない殺させない……!」

 レイピアの切っ先を硬い金属の甲殻に何度も刺し込む度に、彼女は同じ言葉をうわ言のように繰り返す。
 怨嗟、と呼ぶに相応しいその声は止む気配を見せない。



[35052] エクスキャリバー4
Name: YY◆90a32a80 ID:b9264a49
Date: 2013/12/24 20:17


 アスナの豹変。
 最初に我に返ったのはやはりというべきかキリトだった。アスナを再び襲う尻尾攻撃をキリトが弾く。
 そこでようやくパーティの硬直が解けた。各々が為すべき位置へと足を急ぐ。
 だが、それは決して良い方向へは転ばなかった。アスナの視界には再びキリトと地獄の蠍が収まる。
 アスナを庇うようにして飛び出た漆黒の妖精騎士。彼がパリィしたのは尻尾一本のみだった。
 残ったもう一本は容赦なく彼を襲い、防御は間に合わず、火花を散らして吹き飛ばされる。
 ぐいっと彼のHPゲージが減った。……それだけなら、まだ良かった。

「あ──ア」

 キリトのHPゲージの横にはエフェクトが追加されていた。
 誰もが知っているポピュラーなバッドステータス。

 毒。

 キリトを徐々に蝕むそのバッドステータスは、彼女──アスナのトラウマを刺激するには十分だった。
 フラッシュバックするキリトの爆散エフェクト。

「いやぁあああああああっ!!!!」

 顔を覆ってアスナは座り込んでしまった。
 やめて、イヤ、助けて、と泣きながら呟く。
 およそボス戦のど真ん中でする行為ではないが、尋常ならざる彼女の姿を責める事の出来る者はいなかった。
 だがそれは飽くまで《人》に限った話である。与えられたアルゴリズムに従って動くボスモンスターには関係の無い話であって、空気を読むことも出来ない。
 故にその凶刃は容赦なく彼女にも降りかかる。

「アスナッ!」

 キリトが勢いよく飛びだし、彼女を担いで床スレスレを転がるように跳ねた。
 自身をクッション代わりにして滑るように距離を取る。そうして稼がれた距離の間にクラインとリーファが割って入り二人をフォローした。

「ここは抑えとくからよ!」

「今のうちに!」

「悪い!」

 キリトはアスナを抱き上げてフロアの端へと移動する。
 アスナは顔を覆って泣いたままだった。

「アスナ、落ち着けアスナ! 俺は大丈夫だから! ここはSAOじゃないんだ!」

「イヤァ……うぅ……あああああっ!」

 アスナはゆっくりと覆っていた手を取って、暴れ出した。
 視界に入ったキリトの毒エフェクトがイヤでもあの時のことを思い出させる。

「パパ! 早く解毒して下さい!」

 いつの間にそこに居たのか。
 突然現れたユイが叫ぶ。彼女にしては珍しい怒気を孕んだ声だった。
 だが真に驚くべき事は今の彼女の姿だ。今のユイはナビゲーションピクシーとしての小型妖精アバターではなくSAOで作られた元々の少女姿だった。
 ユイはアスナを抱きしめる。

「大丈夫です、ママ。パパはここにいます。私もいます、落ち着いて下さい」

 静かに、しかしよく頭に響く声で話すユイは、僅かに発光していた。
 薄いブルーのエフェクトを纏って座り込んで泣きじゃくるアスナを抱きしめている。
 すると徐々にアスナはいからせていた肩を止め、ゆっくりと顔を覆っていた手を落とした。
 そこには丁度解毒を終えたキリトの姿。彼のアスナを心配する顔があった。

「あ……」

「大丈夫か? アスナ」

「うん……ごめんなさい。ちょっと取り乱したみたい。ありがとう、ユイちゃん」

 アスナは目を真っ赤にしながら娘をギュウと抱きしめ、目を閉じた。ユイは微笑みながらされるがままに身を任せた。
 ユイの温かみが、アスナの荒ぶった心を凪いでくれる。静かにゆっくりゆっくりと落ち着かせてくれる。
 嫌なことがあった時、不安な時、悲しい時。こうしてユイと一緒にいるとアスナは不思議とそれらを忘れられた。
 キリトがALOに囚われていた時も、彼女と宿屋で眠った時は寂しさが和らいでいた。
 アスナにとってユイは、一種の《精神安定剤》とも言えた。それをユイは理解している。
 いや、正しくはその役目を《引き受けている》と言うべきなのかも知れない。

「良かった、ママ、落ち着きましたね」

「うん、もう大丈夫」

「じゃあパパ」

「うん?」

「アイツやっつけて来て下さい」

「おう任せろ」

「あ……」

 ユイのお願いにニカッと笑うキリト。アスナは一瞬何か言いかけて、止めた。冷静になった今、先程の自分がパニック状態だったのは理解している。
 だがそれがわかっていても尚、彼にあのボスの相手をして欲しくなかった。彼とあのボスが戦う所を見たくなかった。
 だから「行かないで」と言ってしまいそうだった。でもそれを言えばまだ自分がパニックから回復していないと心配を彼にかけてしまう。
 それは避けたい。でも行かせたくない。そんな相反する気持ちが胸に渦巻き、知らない内にユイを抱きしめる力を強めていた。

「ママ、ちょっと……苦しいです」

「え? あ……ごめんなさいユイちゃん」

「大丈夫です! ねえパパ」

「ん?」

 アスナが手を緩めるとはにかむようにユイは笑ってから彼女の腕の中でキリトに向き直る。
 くりっとした大きな丸い瞳が期待するようにキリトを見つめた。

「アイツはママを泣かせましたね?」

「そうだな」

「許せませんよね」

「そうだな」

「やっつけて下さい!」

「任せろ!」

 もう一度のお願いにキリトは快く答える。
 だが、今日の彼女は珍しく注文を付け加えた。

「無傷で」

「に、二割くらいの猶予は……」

「出来ますよね?」

「えっと……」

「出来ますよね?」

「………………任せろ」

 信じ切ったユイの瞳。
 それはこの程度のことはやってくれるだろうという期待……ではない。
 彼女が期待しているのは母親……アスナを安心させてくれる戦いを見せてくれること。
 それを汲み取ったキリトは長い黒髪の頭を一撫ですると口端に笑みを浮かべた。

「久しぶりに、ちょっと本気出すか」

 キリトの持つ空気が──変わる。
 チリリッと痛いような痺れさえ錯覚させる……気合い。

 ──表情から、優しさが抜け落ちる。

 これまでの彼が本気では無かったというわけではない。
 ただそれは《ゲーム》を楽しむという範囲内での話でもあった。
 彼の言う《本気》とは、かつてのデスゲームでHPがゼロになれば現実での死と同義という極限状態においての自分のことだ。
 ミスは即現実の死に直結する。失敗は許されないというプレッシャー。我が身の命がかかっているという恐怖。
 それらがかつてキリトをSAOでのトッププレイヤー集団、《攻略組》の中でも異彩を放つソロプレイヤーとして君臨し続けられた源泉でもある。
 この心の領域には、本来狙って入る事は出来ない。いや、もう二度と立ち入ることは無いはずだった。
 しかし、必要ならば覚悟をしよう。彼はアスナに「その時は来ない方が良い」と言ったが、必要ならば躊躇わない。
 彼女のために、命をかけろと言われれば、今のキリトに拒否はない。

「スイッチ」

 小さい言葉が漏れる。
 瞬間、クラインは背中から昔感じたことのある《空気》を読み取った。
 ゾクリとするような怜悧でいて、鋭いそれはまるで尖った氷柱を背中に突きつけられているかのようだ。
 クラインは上手く尻尾の攻撃を弾くと一足飛びで戦線を離脱する。

 瞬間──漆黒の旋風が巻き起こった。

 ゴウッ! という音さえ奏でてボスが振るう碧色の鉞の隙間を縫うように黒い帯が地獄の蠍に突き刺さる。
 キィン、と高い金属音を上げてキリトの剣はボスの前脚代わりの鉞、その付け根の節を見事右手の剣で貫いていた。
 だが彼は止まらない。そのまま自身を回転させて横に左手の剣を薙ぎ、反動で距離を取る。
 すぐに地獄の蠍……《The Hell Scorpion》の鉞……鎌脚がキリトを襲うが撫でるようにキリトはこれを回避しながら張り付き、ライトエフェクトを宿らせた剣で再びボスを貫く。
 そのライトエフェクトが消える前には、既に次の行動へと移っていた。目で追うのも困難なスピードでボスの体を脚から駆け上がり背中の節を伝ってボスの頭部へ渡り、斬りつける。
 そのまま空中で一回転ほどしてボスとは五メートル程距離を取った位置へキリトは滑るように退避した。

「……フゥ」

 息を吐く音。
 彼に笑みは無く、険しい表情でボスを睨み付ける。
 今の彼の攻撃で減ったHPゲージは一本のおよそ三割。
 一瞬で与えたダメージとして考えればたいしたダメージディーラーぶりだが、ボスのHPゲージは三本ある。
 クライン達の参戦によってすでに一本目の七割ほどは削られていたから、丁度これで一本目を消化したに過ぎない。
 残り、二本。

「……まだだ。まだ《足りない》な」

 普通のプレイヤーの観点から見れば出来過ぎた好プレーだったはずだが、キリトは満足していなかった。
 ユイの言いつけは守っている。ダメージは無い。だが、この速度では……《遅い》。
 もっと、もっと速く。まだギアを上げられるハズだ。これはかつての全力とは程遠い。
 こんな戦い方をしていたなら、あの戦い……《魔王ヒースクリフ》との一戦は十五秒と持つまい。
 まだ、あの時の感覚にまで勘が戻っていない。

 キリトはしばし──と言っても時間で言えば数秒程度だが──考えてからシステムメニューを呼び出した。
 二、三回タップを繰り返し、グイッと左手を横に振った。キリトの持つ剣が一本、消える。
 それは戦闘力を半分削ぐに等しい行為だ。

「二本あるから、余計な緩みが産まれる。やっぱ、二刀流はあの境地に達していて初めてまともに扱える物だな。今の俺には一本の方が丁度良い」

 二刀流は確かに強力だ。
 だがシステムブーストされたソードスキルとして存在しない今のALOにおいて、かつてよりも動きの悪いキリトには宝の持ち腐れと判断した。
 そもそも当時は一撃でさえもらうことを恐れて神経を研ぎ澄ませていた。しかし先ほどキリトはユイに「二割までは」と言い訳をしてしまった。
 まだ甘えがある。心に余裕があるのは結構なことだが、それは油断にも繋がる。ダメージを貰ってもいい、という心の甘さが、かつてよりも反応を鈍らせている。
 その油断が、彼女を不安にさせた。そういえば二刀流とはSAOで最速の反応速度の持ち主に与えられるものだと聞いていた。
 今の自分にはその資格はあるまい。

「……」

 キリトがちらりとアスナを見つめると、アスナは心配そうにキリトを見つめていた。
 ギュッと手は握り拳を作っていて、力が入っているのが窺える。当時は、そこまで不安にさせることは稀だったはずだ。
 皆無、とは言わないがそれは大きなフロアボス戦においてのことであって、イベント途中の《中ボス》程度で心配などさせたことはない。
 それは、それだけ信頼できる動きを見せてきたからだ。
 キリトは理解する。ユイの意図を。
 決して彼女からキリトへの信頼が弱くなったわけではない。むしろそれは強まっていると言っていい。
 だが、それはより相手を思いやることにもつながる。思いやる心が強くなれば当然些細なことでも心配になる。

 ならば。

 些細な心配さえさせないよう心がければいい。
 実に簡単な理屈だった。その為ならば、かつての心意気さえ復活させてみせよう。
 悪のビーター。孤高のソロプレイヤー。ラストアタックボーナス泥棒。
 呼びたければ好きなように呼ぶがいい。どれだけの泥を被ろうとも、彼女を護れるならば、喜んで受け入れる。
 手始めにコイツだ。いや、コイツで良かったと言うべきかもしれない。
 かつてコイツとは《相打ち》になった過去がある。そう言えば《引き分けではダメ》とは彼女の言だった。
 コイツくらいチョチョイと倒せなければ彼女の安心は勝ち取れない。ここでコイツと出会えたことにむしろ感謝しよう。

 リベンジマッチ、再開だ……!



 唖然、とはこういうことを言うのかもしれない。
 今はあのユイですら「ほえー」と口を開けて見入っていた。
 今ボスと戦っているのはキリト一人だ。何故か戦いに入っていける空気ではなく、クラインもリズベットもシリカも、クリスハイトでさえ空気を読んで観戦に徹していた。
 普通ならあり得ない光景だ。こういったMMOゲームのボスというのはパーティが一丸となって戦うものなのだから。
 クラインがフッと笑みを零す。確かに普通なら考えられない光景だが、それを何度も作り出してきたのが《キリト》という男なのだ。
 それをクラインはよく知っていた。あるいはアスナよりも。
 そうだ。これこそ、この無茶振りを通してみせてしまう姿こそ、キリトなのだ。
 そう思うとおかしくてたまらない。今、ようやくクラインはキリトと本当の意味で再会した気にさえなっていた。
 今のキリトは例えるなら……黒いスーパーボールだった。
 とにかく速い。速い上に……跳ねまくるのだ。止まると言うことを知らないとはこういうことなのか。
 回遊魚はよくよく泳いでいなければ呼吸ができないと言うが、まさしく今のキリトはそれを思わせた。
 いかに仮想世界では肉体的な疲労や呼吸の必要が無いとはいえ、動き続けるのは骨だ。
 だというのにキリトは止まらず高速で動き続ける。下へ上へと素早い跳躍と下降を繰り返し確実にボスのHPを削っていく。
 一体何度、攻略で彼のこの超人的な動きに助けられたのかわからない。
 初期の頃から攻略に携わっていたアスナなどは特にそれを感じている。
 彼は凄い。いつまでたっても勝てる気がしない。最初からそうだった。彼は……強くて……恰好良い。
 そうだ、彼はそういう人間だった。だから、少しでも彼に近づこうと頑張ってきたんだ。

 キリトが不敵に笑う。

 そう。今……彼は笑った。
 久しぶりに……いや、SAOをクリアしてからは見なかったように思う。戦闘中に笑みを浮かべることは。
 彼が笑顔になるのは……表情を見せるのは主にアスナとユイの前でだけだった。
 その彼が、まるでSAOでの時のように、今、笑った。
 最早勝敗は決した。ボスのHPゲージは残り三割程度。このまま削りきれる……そう思った時だった。

「!」

 これまでに無いアルゴリズムでボスが動いた。
 ズザザッ! と後退する。これまでこのボスは《退避》という概念が無いように感じたのだが。
 アスナの記憶の中のコイツも《逃げる》ということとは無縁に思えた。だからこそ、何か来るとは予想できた。
 ボスの尻尾が高く持ち上げられ、鋭い針の先端がキリトに向けられる。

 瞬間、針先が閃光のごとく輝いた。

 ピカッ! と光を発してレーザービームを放ったのだ。
 これはアスナの知る限りSAOでは無かった攻撃だ。恐らくALOにて追加された新モーションだろう。
 魔法攻撃。それも目で追うのが困難な詠唱無しの光線攻撃。通常見てから回避するのは不可能に近い。

 しかし。

 ズバン! と音を立てて信じられない物をアスナは……パーティメンバーは見た。
 目にも止まらぬ光線攻撃。それを、キリトは何と《斬った》のだ。

「終わりだ」

 トドメとばかりに連撃を与えた後、彼が好む技の一つ、軽めの片手剣用でありながら威力十分の単発重攻撃、ジェットエンジンのような音を唸らせるソードスキル《ヴォーパル・ストライク》──物理三割、炎三割、闇三割──によって大音響と共にボスは爆散した。
 キリトは舞い散るガラス片を確認してから左右に剣を振ると背中へと戻す。
 そこにいたのはかつてSAOでトッププレイヤーの中でも群を抜いていた時の彼そのものに近かった。

「パパー!」

 ユイがすぐにスタタタと近付いていってキリトに抱き着く。
 キリトは彼女を受け止めると軽く持ち上げ、キャッキャッとはしゃぐユイを肩車して見せた。

「どうだユイ? パパは強いだろう」

「流石ですパパ!」

「キリト君……」

 アスナもすぐに寄ってきて、キリトの服の端を掴む。
 顔は俯いたままだが、先程までの切迫した不安定さは感じられない。

「おうキリト」

 そこへクラインが片手を上げ、拳を向けて近寄ってきた。
 遅れてメンバー達も集まってくる。

「オメェ、《笑える》ようになってきたじゃねェか」

「……ああ!」

 ゴツン、と拳を合わせる。
 それは、かつてのSAOでの距離感。
 そう空気が和やかになった所で、

「ンでよ、さっきのアリャ一体なンだ!?」

 一つ前のボス戦と全く同じ事をクラインが口にした。
 もっとも今回は全員同じ気持ちだった。
 ALOにはSAOに無かった《魔法》があるのは既に周知の事実である。
 当然魔法のことはみんな最低限理解していた。魔法は《魔法でしか相殺できない》ことも。
 だからメイジにはメイジで、というのがALOのセオリーだった。
 メイジ、つまり魔法主体のプレイヤーは魔法が威力も高く範囲も広い一方で使用制限や詠唱によるリスクから近接戦闘には弱いのが通説だった。
 逆に言えば、剣の届かぬ位置にいればメイジは圧倒的に有利なのだ。剣士プレイヤーには魔法を防ぐ術などそう無いのだから。
 大抵の攻撃魔法には中々性能の良いホーミング機能も付いているので、余程広いフィールドで大きく逃げなければ魔法を振り切るのは難しい。

 だが。

 その常識をキリトはたった今覆した。
 魔法を、剣で斬ってみせたのだ。

「んー、何となくやってみたら出来たってだけなんだけど」

「な、な、何となくだァ!?」

「プッ!」

 アスナが急に笑い出す。
 これぞ、これぞキリトである。
 キリトはその思考や行動からして破天荒なのだが、その破天荒振りで一見無茶に思えることをポンポンやってのけてしまうのだ。
 卑怯、とは思わないが「チートや!」と叫びたくなる気持ちはわからないでもない。

「ンなこと言っても物理攻撃じゃ魔法にぶつけても意味ねェだろうが!」

 魔法属性の攻撃は純物理属性の攻撃では対消滅できない。
 魔法に対しては魔法属性による攻撃しか受け付けられないのだ。
 しかし、キリトは不敵に笑ってそれに答えた。

「ただの物理攻撃じゃないとしたら?」

「あン?」

「俺が使ったのはソードスキルだ」

「ソードスキル……そうか!」

「ああソードスキルには属性が付加されているからな」

「ンじゃあオメェ、ソードスキルなら魔法相手でも恐くないってか? そンなことならとっくに広まっててもおかしくねェだろ」

 ソードスキルで魔法を攻撃する、ということならこれまでにも考えたことのあるプレイヤーは少数ながらいるはずだ。
 だがそれによる魔法の対消滅の話などは聞いたことが無い。

「多分、正確に核を撃つ必要があると思うぞ」

「核ぅ!?」

 魔法攻撃は、ほとんどがソリッドな実体を持たないライトエフェクトの集合体だ。
 当たり判定があるのは恐らくスペルの中心一点のみ。魔法攻撃は、お互いがぶつかり合う時、幾分お互いを侵食するように混ざり合って中心点が重なった時に初めて対消滅が起こる。
 このエフェクトはぶつかり合う魔法が強力であればあるほど派手な演出になるので、それを楽しむプレイヤーもいるほどだ。
 この仕様について厄介なのがプレイヤーに対して中心点以外にも当たり判定が適用される点で、実体の無い魔法エフェクトには掠ったりしただけでダメージ判定が採用される。
 故に、キリトはこう推測した。

「ソードスキルで属性攻撃ダメージを魔法の中心点に当てられれば魔法攻撃は対消滅できる……まあ賭けではあったけど」

 クラインはポカン、と口を開けてキリトを見つめていた。
 あっけらかんと言っているがそれはかなり難しい話……のハズだ。
 しかし物は試しである。

「クリスハイトよぅ、ちぃっとばかし俺に炎弾とばしてみてくンねェ?」

「ええ? 良いのかい?」

「オウ」

 クリスハイトは水属性を得意とする水妖精族(ウンディーネ)だが、火属性の魔法が全く使えないわけではない。
 クリスハイトは距離を取ると、短く魔法を詠唱してクラインへと撃ち放った。

「うぉぉぉぉりやぁぁぁあああああああああちちちちちちちっ!? って、熱くはねェンだった」

 向かってくる炎弾を得意のカタナスキルで迎え撃ったクラインだが残念ながら魔法を対消滅させるには至らず、モロに魔法攻撃を受けてフロアの床を転げまわった。
 そもそもソードスキルを寸分たがわず狙った位置に当てるということが難し過ぎるのだ。
 クラインとて手練れではある。狙った位置にソードスキルを当てる技量が無いわけではない。
 だがそれは飽くまで《おおよそ》であって針の糸を通すような正確さではない。
 そもそもほとんどのボスの弱点は小さくともある程度の当たり判定面積が儲けられている。
 だがキリトの推測が事実なら魔法の中心点はそれこそ針の糸を通すような正確さが求められることになる。
 普通なら一朝一夕で出来ることではない。ソードスキルはシステムアシストによって体が勝手に動くので尚更なのだ。
 魔法自体も動いているのでむしろ思いついても成功させる方が難しい。
 恨みがましい目でクラインがキリトを睨むと、彼はまたあっけらかんとした口調で言い放った。

「どんな魔法攻撃も対物ライフルの弾丸よりは遅いよ」

 キリトの言に一同──アスナを除いてだが──口を開けて間抜け面をさらした。
 そもそも比較対象がおかしいのだが、彼には実際に別のゲームでそれをやってのけた実績があり、それをここにいるメンバーの大半は理解している。
 それでも、無茶ぶりなことに変わりは無い。

「……キリの字よぅ」

「なんだよ」

「一発殴らせろ」





 クラインの全員を代表したような言葉に「やだよ」と答え、パーティは当初の目的通り先に進むことにした。
 アスナもすっかり落ち着いたようだし、時間も無い。ここでアスナの様子がまだおかしければ中止もあり得たのだが、今のところその心配はなさそうだった。
 ボス部屋を後にし、いよいよダンジョンも佳境かと思われた。ユイによればあと一つボス部屋らしきものがあり、そこを超えればエクスキャリバーがある場所まで一直線で、戦闘を行いそうな場所は無いそうだ。
 あとボス戦は一回と見てまず間違いないだろう。全員やる気を再充填……したところでいきなり判断に迷うような事象に出くわした。
 通路の壁際に、細長いつららで出来た檻がある。中には一人の女性──NPCがいるようだった。
 肌は降り積もった粉雪のような白で、長く流れる髪は深いブラウン・ゴールド。
 身体を申し訳ばかりに覆う布から覗く胸はアスナやリーファ/直葉をもってしても敵わない程たわわに実っていて瞳も深い金色を宿している。
 両手両足には氷の枷が嵌められ、青い鎖に繋がれるようにして檻の中にいるが、西欧風の気品溢れる美貌は檻の外にいても十分に伝わってきていた。
 
「お願い……ここから……出して」

 透き通った弱々しい声が、アスナ達の耳に届く。
 媚びているのとは違う、しかし何処か引き寄せられそうになる女の声。
 否。実際にフラリと引き寄せられた男性が二名。
 クラインとクリスハイトは不用心に檻へと二、三歩進んだところで引き留められる。

「はいはい、罠、罠」

 クラインの腕を掴んで引っ張るようにたしなめるのはリズベット。
 隣では威嚇する様にピナがクリスハイトの前に立ちはだかっていた。
 ちなみに残る男性のキリトは動いていない。アスナとユイにガッチリホールドされているせいもあるが、例えそうでなくとも動かなかっただろう……たぶん。

「お、おう……罠、だよな」

「もちろん僕はわかっていたよ、でもさあ、ねえ?」

「なあ?」

 クリスハイトとクラインはお互い何かを分かり合ったように頷く。
 一応気持ちは分かるものの、無用なリスクは極力避けたい。

「パパ、あの人はHPがイネーブルになっています」

 イネーブル、とはつまりHPの概念があのNPCには有効化されているということだ。
 通常、NPCは破壊不能オブジェクトよろしくHPなどというステータスはそもそも持っていない。
 NPCとは壊れる、殺される事の無い与えられたアルゴリズムをひたすらに繰り返すだけの不老不死の存在なのだ。
 攻撃をすることは可能だがシステムに守られ傷つけることは叶わない。
 もちろん例外的にNPCにはHPが付与される場合もある。多くはクエストによる護衛イベントだが、時には護衛対象こそが討伐対象となるような話やそもそも最初から倒すべき相手であることもMMORPGでは珍しくない。
 この場合、助けたら後ろからブスッ! と刺される可能性は多分に孕んでいた。
 クラインとてそれはわかっている。社会人でありながら生粋のゲーマーである彼はそういったゲームのベターな展開など知り尽くしているのだ。

「お願い……誰か」

 耳奥に届く鈴を転がすような声は、心の底から助けを求めているように聞こえる。
 助けを求める眼差しはその美しい金茶の瞳と相まってとても魅惑的で、もしこれがプレイヤーアバターだったとしたならその持ち主はとんでもない強運か、莫大な課金をしたかのどちらかだっただろう。
 男性プレイヤーに媚びるだけで寄生プレイを悠々と送れることは間違いない。
 ジャラ……と鎖が床を擦る音がする。氷の檻に閉じこめられた女性は尚も懇願しながらこちらを見つめてくる。

「行くぞ」

「お、オウ」

 ここにこのまま留まっても意味はないし、相手がNPCと分かっていても辛くなるだけだ。
 時間も限られているので早く先に進むに越したことはない。

「お願い……」

 パーティは先へと足を進める。
 キリトを先頭に少女アバター姿のままキリトに背負われているユイ、キリトの服の裾を申し訳程度に掴み続けたまま付いていくアスナ。
 続く形でリーファ、リズベット、シリカと頭の上で丸まっているピナ。追うようにクライン、クリスハイト。

「誰か……」

 か細い声が少しばかり遠ざかった時、隊列の足音が二組分ほど消えた。
 振り返ると、クラインとクリスハイトが足を止めている。

「俺はよぅ、例え罠と分かっていても……」

「女性の助けを無視するなんて……」

 あ、これはダメなパターンだ。

 誰もがそう思った。わかりやす過ぎる。
 自然、次に起こるであろうことは誰もが予測できた。

「できねェ!」

「できないなあ!」

 各々「それが武士道」だの「漢の生き様」だの叫びながら競争するように踵を返して氷の牢へと駆け戻る。
 やっぱりか……と思いつつも何処か憎めないのは人の性なのかクラインの人徳故なのか。
 クリスハイトの魔法によって氷の牢は溶かされ、クラインのカタナスキルによって女性NPCの自由を奪う青い鎖は断ち切られた。
 自由になった女性は一瞬フラリとよろけて転びそうになり、慌ててクラインが肩を支える。

「大丈夫かい、姉さん」

「手をお貸ししましょうか」

 クリスハイトも手を出し、彼女はゆっくりとその手を掴んで体勢を立て直した。
 キリト達は諦めたように戻ってくる。

「ありがとうございます、妖精の剣士様、賢者様」

 深くお辞儀をしてお礼を述べる女性にクラインはニッと口端を釣り上げてサムズアップした。
 恐らく最大限の格好付けであろう。

「なァに乳繰り合うも多少の縁ってね、出口まで一人で戻れるかい?」

「……私はまだここから逃げるわけにはいかないのです。巨人の王スリュムに奪われた一族の秘宝を取り戻すまでは。宜しければ私をスリュムの部屋まで一緒に連れて行っては下さいませんか」

 今回のパーティリーダーを務めるキリトの正面にダイアログ窓がポップアップする。
 それはFreyja──フレイヤという名前らしいNPC女性のパーティ参加を許可するかどうかの確認画面。
 クラインとクリスハイトは困ったような顔つきで助けを求めるようにキリトに視線を投げかけた。
 キリトは溜息を吐いてアスナをチラリと見つめる。「どうしよう?」ということだろう。
 アスナは「しょうがないなあ」と小さく笑みを零した。決まりだ。いや、最初から決まっていたのかもしれない。
 キリトはクライン達に頷いてYESのボタンをタップする。
 視界左上から下に並ぶ仲間たちのミニHP/MPゲージの末尾に通常ではありえない八人目のゲージが追加される。
 当然ではあるが、現在のパーティは仕様上の最高数なのでインスタントメンバー扱いなのだろう。
 むしろそうでなくては困るのだが。
 フレイヤは相当にHPもMPも高く設定されていた。中でもMPはちょっと驚くような数値なので、メイジタイプだと思われる。
 メイジ不足のこのパーティにはありがたい戦力追加ではあるのだが、それは最後まで仲間だったなら、という注意書きが必要だろう。

「うっし! 姉さん、一緒にスリュムの野郎をぶちかましてやろうぜ!」

「ありがとうございます剣士様!」

 フレイヤはクラインの腕に抱き着き、その伝説(レジェンダリィ)級な胸をムギュウとクラインに押し付けた。
 とんでもない戦闘力を誇るソレの形がぐにゃりと潰れるほどフレイヤはクラインに抱きつき、確かな感触を彼に与えている。

「う、お、おおお……!」

「な……!? ずるいぞクライン氏! 何故君ばかり!」

 クリスハイトがクラインの受けた幸福に嫉妬する。何て羨ましい……けしからん、と。割合は彼のみぞ知る。
 ちなみにクラインが感じた感触は現実のそれと遜色なく、また大変良いものだということをこの場で理解できているのは《両方で実体験済》のキリトくらいなものだろう。
 察したような顔でウンウンと頷いているキリトにアスナは首を傾げた。なんとなくだが今の彼は少しエッチなことを考えている気がする。たぶん。

「……?」

 その時だ。
 アスナは偶然《それ》に気付いた。
 彼女は今キリトの装備している服の下の方を摘まんでいる。
 なんとなく地獄の蠍のことがあってから彼に触れていたくて、でも堂々とするには視線が多くて恥ずかしくて、出来る限界ギリギリのラインがこれだった。
 その彼女の手の上方、キリトの背中には目に入れても痛くないほどの娘がキリトに抱き着いている。
 キリトが背負っている、と言う方が正しいのかもしれない。彼女は先のことがあってから珍しく本当の姿のままでいる。
 つい先ほどこの姿の事を知らなかったクリスハイトやシリカは目を丸くしていたが、リズベットは懐かしんでいた。
 リズベットの口から「元々はこの姿だったのよ」と二人は説明を受け、シリカは納得したが、クリスハイトは少しだけ考える素振りを見せた。
 まあいきなり小型妖精アバターから等身大の少女アバターに変わられては驚くのも無理はない。
 アスナはまだ完全に自分の気持ちが落ち着ききっていなかったのもあってそのことについては深くは考えなかった。

 閑話休題。

 その本来の姿である少女姿のユイが、酷くつらそうな顔をしていた。
 今にも泣きそうな、苦しそうな顔。胸がギュウギュウ締め付けられるようなその顔に、アスナは何処か見覚えがある気がした。
 知っている。その顔を私は知っている。見たことがある。けれど、それは一体いつのことで、何処の誰だったのか思い出せない。

「……ユイ、ちゃん?」

「なんですかママ?」

 呼ばれたユイはパッといつも通りの可愛い笑顔を見せる。彼女はニコニコとしていて、ただ名前を呼ばれただけなのに嬉しそうだ。
 そこには先ほどまでの辛そうな顔は何処にも残っていないように見えた。

 ユイの見せる変わらぬ笑顔。

 それを見た時、締め付けられる胸の痛みが──────増した気がした。



[35052] エクスキャリバー5(終)
Name: YY◆90a32a80 ID:b9264a49
Date: 2014/08/25 23:07


 なんだろう──この漠然とした不安は。





 フレイヤを仲間に加えたブラック・ビーターズ……もといキリト一行は、ある意味、いやどんな観点から見てもチートと呼べるユイのナビにてラストエリアだろう下層へと続く階段を降り始めた。
 降り階段は途中から幅を増し、周囲の柱や彫像といった装飾オブジェクトも華美になっていく。
 上層でもそうだったが、ボス部屋に近づくとマップデータが重くなるのはアインクラッドからの伝統と呼べるだろう。
 突き当たりには二匹の狼が彫り込まれた分厚い氷の扉が現れる。いよいよ、というわけだ。
 扉まで五メートル、というところで扉は勝手に左右に開いていく。中からは白い靄がかった冷気がふわりと流れ込んできた。
 今寒い、と感じる──アスナの支援魔法(バフ)によって緩和されているが──のは仮想世界故に電子的なデータを脳に直接送り込まれているだけに過ぎない。
 端的に言えばそう感じるようプログラムされたコードを脳が正しく認識し、冷気を感じていると錯覚しているだけだ。
 しかし現実にあるキリトとアスナ二人の体は、暖房の効いた暖かい桐ヶ谷家の一角である、和人の部屋のベッドの上だ。
 お互い手を繋いで並ぶようにしてアスナ/明日奈もキリト/和人も仰向けになっているはずである。
 だから脳内でどれだけ寒いと感じていようと実際に凍傷になったりすることはない。
 もっとも脳の思い込み、勘違いとは馬鹿に出来ないもので、錯覚による火傷が絶対に起きないわけではない。
 脳科学の分野にも抵触するが、痛みとは皮膚で感じるものではなく大脳皮質によって判断される。
 痛覚とは《痛み》を大脳皮質に送って《痛い》と判断させるための触覚器官であって判断器官ではない。
 これは逆を言えば実際に何か物に触れていなくとも──痛覚(触覚)を介さずとも──《触れている》と脳(判断器官)に直接信号を送ることができれば《触れている》という認識を得られるということだ。
 仮想世界とはこのような人体の構造を利用してダイヴ環境を整えている。
 無論、錯覚による肉体への影響が起きないようこれでもか、という安全機構のオンパレードが施されていることは言うまでもない。
 もっとも、ナーヴギアの時代にはそれが不十分だったと言える。
 皮肉にも最低最悪のSAO事件によってそれが世界的に露出し、過度とも言える安全対策が考えられた。
 そうして産まれたのが第二世代型フルダイブ機、《アミュスフィア》である。
 専門家の中にはこの事件が無ければアミュスフィアが産まれるのは五年は遅れ、より酷い悪辣な事件が発生していた可能性も示唆された。
 現にALO事件では──一般への詳しい内容は情報規制によって隠蔽されているが──洗脳じみた実験が行われてしまっていた。
 そういった点で、事件の首謀者である茅場晶彦氏の本当の狙いはそこにあったのではないかとも囁かれている。

 閑話休題。

 決して実際の人体に肉体的影響を受けない冷気はしかし、判断基準としては無視できないものだ。
 目に見えるほどの冷気が立ち込めていることから、間違いなくこの部屋の中には今回のクエストポス、《霜の巨人の王スリュム》がいることだろう。
 全員が目配せし、頷く。アスナが念のために支援魔法を張り直し(リバフ)、万全の状態を整える。
 と、ここでアスナの魔法を見た途中参加プレイヤー……いや、途中参加ノンプレイヤーと呼ぶべきフレイヤが同じように見知らぬ支援魔法を唱え始めた。
 それは驚いた事に全員のHPゲージを大幅に増加させるものだった。NPC仕様の特別魔法なのだろうか。この魔法が常時使えればアインクラッドの攻略クエストでも大助かりなので興味は尽きない。
 これにはさしものキリトも目を見張り、ついフレイヤを凝視してしまう。
 一体何者だ? という思いと、今は記憶の霞みに同化しつつある女ダークエルフみたいにずっと仲間でいてくれないかな、という期待。
 あわよくばその魔法を教えてほしいという欲求もあったかもしれない。
 しかし彼女はNPCである。どれだけ高性能なAIを積んでいようとひたすらにイエス・ノーの演算を繰り返すだけの存在である彼女は人の機微を読むことが出来ない。
 ましてや人の考え、思考など何を言わんやである。人間同士ですら相手の考えを読むことは難しいのだから。
 その為キリトの視線を受けとめたフレイヤは不思議そうに首を傾げるだけだった。
 僅かな時間見つめ合う二人。まるで切り取られたような固まった時間。
 それが切り裂かれたのはキリトのHPゲージが少しばかり減少したからだ。

「え」

「キ~リ~ト~く~ん?」

 キリトの装備を摘まむに過ぎなかったアスナの手は今やガッシリとキリトの装備を捕まえていた。
 僅かとは言えHPが装備の耐久を貫通して削られてしまったのはご愛嬌と言えよう……たぶん。
 他の女性──と言ってもNPCだが──と見つめ合うキリトがアスナは少し面白くなかった。
 先ほどの事でまだ精神が落ち着ききっていないこともあるが、アスナには先の戦闘を終えてから自分でもよくわからない漠然とした不安が胸に渦巻いていた。
 彼、キリトの強さは申し分ない。そこには絶対の信頼をおける。まるで《かつてのように》。
 だが、そう思えば思う程、何かが胸の奥底をジクジクと苛む。それを隠したくて、でも他の女性と見つめ合うのを許せなくて、感情が勝手に彼女を行動に移させる。

「ち、違うって! 便利な魔法だなあと思って!」

「ふうん?」

「パパ?」

「ぐっ!」

 こういう時、得てして男性側は弱い。
 ユイは基本キリトの味方だが、こと相手がママ……アスナと他の女性に関することである場合、ほぼアスナの援護に回る。
 そうなるともうお手上げだ。キリトに対抗する術は無かった。言いなりになり、例え悪くなくとも悪者として謝らねばならない。
 これはキリトに限ったことではない様式美の一つだろう。知る者にしか理解できない苦労だ。なってみて初めてわかる。
 さらにキリトはこういうことに対抗するような我や意志の強い人間ではない。だが、全てを理解するほどの対人スキル持ちでもない。

「そ、そうだユイ! 寒くないかー? 」

 結果、彼はいつも秘技《話を逸らす》を使用する。
 スキル熟練度はかなりのレベルだと自負しているが、他者から見ればそうでもないことは公然の秘密である。
 しかし実際にユイの恰好は寒そうではあった。白いワンピースのみ、という出で立ちはこの極寒のフィールドでは装甲が薄すぎる。
 いくら彼女がプログラムによる存在で、ここはプログラムの世界で、実際に肉体を持たぬ身だとしても。

「あ、そうか。ユイちゃんごめんね。今ユイちゃんの防寒具出すからね」

 アスナもユイの姿にハッとして慌ててストレージを開く。
 だがユイはブンブンと首を振ってアスナを止めた。

「大丈夫ですよママ、パパ暖かいですし」

 ぎゅうう、とキリトの背中に強く抱き着き、頬を擦るようにしてユイは暖を取る。
 微笑むその姿は若干アスナに《羨ましい》と思わせた。
 キリトにそういうことをできるのが半分、ユイが自分では無くキリトにしていることが半分。
 そんなアスナの心を知ってか知らずか、ユイはそうしてキリトの背中からなけなしの温度ステータスを──実際にはそんなもの存在しないが──奪い取るとぴょんと跳ねるようにキリトから離れる。
 次の瞬間にはアスナが巻いてくれたマフラーを装備した小妖精……ナビゲーション・ピクシー姿のユイに戻っていた。
 これもアスナにとっては嬉しさ半分、哀しさ半分。
 どのユイであろうとユイはユイ……娘であることに変わりはないが、ユイの元々の姿はあの少女アバターだ。
 なんとなくだが、ユイ自身もナビゲーション・ピクシー姿より少女アバター姿の方が好んでいるとアスナは認識している。
 そのせいか、アスナの知る限り自分やキリトのみの場所では彼女は極力先ほどまでの少女アバターでいることが多かった。
 他人には頑なにその姿を見せようとはしなかったが。
 それが嬉しくもあり、寂しくもある。無理をさせているのではないか、という懸念が消えないのだ。
 こうやって大人数でパーティを組む時、彼女は本来の姿を偽りピクシーとして傍にいる。
 それが実は少しだけ重荷……と呼ぶには些か大げさだが嫌なのではないかとアスナは感じていた。
 彼女の今の立場がゲームの仕様上ナビゲーション・ピクシーなのでそれは仕方のないことではある。
 万が一にもカーディナル・システムに感知され、バグとして処理されてしまっては家族三人唯一の心の住処であるこの世界を追われる事になりかねない。
 だが。それでも思わずにはいられない。ユイを、娘を自然体でいさせてあげたいと。
 だからこそアスナはピクシー姿の時と、実際の少女姿の時とで別々に彼女の服を拵えたのだ。
 ちなみにこのことについてユイが大層喜んだのは言うまでもない。

 ユイの支度が整った所で、一行は扉の中へと足を踏み入れた。
 ボス部屋らしき内部は横方向にも縦方向にも広い空間で、壁や床はこれまでと同じ青い氷で出来ているようだった。
 氷の燭台に青紫色の炎が不気味に揺れる。燭台が溶けるかどうかの心配をする者は流石にいない。
 天井にも同色の豪奢なシャンデリアが鎮座している。だが一番驚いたのは左右の壁際から奥へと連なるオブジェクトの数だ。
 びっしりと転がっているそれは一見すれば邪魔なゴミとも思える。だがオブジェクトの持つカラーとオーラがすぐにその認識を塗り替えた。

 黄金。

 金貨や装飾品、剣、鎧、盾、彫像、家具といった様々な黄金製オブジェクトが所狭しと転がっている。
 総額をALO通貨であるユルドに換算したら一体どれほどの額になるのか。
 もしかするとアインクラッドの小さな街を買い占めることも出来るのでは無いだろうか。
 思わずボス戦前の緊張も忘れフラりとアイテム収拾したくなる。いや、

「ちょっとリズさん!」

「え? あ、いや、アハハハ……」

 リズベットはその商人魂から既に拾っていた。
 すぐに猫耳シリカによって諫められたが。
 その時だ。



「……小虫が飛んでおる」



 重低音の響く声が空間を揺らした。
 全員の視点……フォーカスは一瞬で声の発生元へと向けられる。
 そこには、やや暗い場所で巨大な黄金の椅子に腰掛ける巨人がいた。
 これまでのボスも通常で考えると随分以上に大きかったが、そんな彼等の倍はでかい図体だ。
 恐らく全力でジャンプしても巨木のような足の膝にも届かないだろう。飛べないことが恨めしい。
 肌の色は鉛のような鈍い青。足と腕には大きな獣から剥いだような黒褐色の毛皮を巻き、腰回りには板金鎧をぶら下げている。
 この寒い部屋の中上半身は裸体姿で隆々とした筋肉を隠そうともしない。
 頭は青く長い髭に、金色の冠を被り、青色の双眸が不気味に灯っている。
 これでは攻撃してもせいぜいが剣をスネに当てるのが関の山だろう。
 この手の人型ボスは頭部に弱点が集中することが多いので、魔法攻撃による遠隔攻撃が無難だろうか。
 出来れば物理とどちらが有効か比較してみたいところではあるが難しそうだ。
 即座にアスナはボスの出で立ちから戦闘指揮の為の作戦を捻り出す。

「半神半魔……ウルドに唆されたか。小さき妖精風情が」

 頭の上には既知となっているボスの名前が現れた。
 《スリュム》。やはりこれが今クエストのラストバトルだろう。
 途端スリュムの横にはあまりにも巨大なHPゲージが三段出現する。
 これは中々に骨が折れる戦いになりそうだ。
 何故ならばSAO、いやアインクラッド及びALOのモンスター……いわゆるエネミーNPCは例え同一のモンスターだとしても細やかなパラメータは一匹一匹違う。
 姿形やアルゴリズムは基本同じだがサイズによってモンスターのHPや攻撃力などは僅かな差異が発生する。
 これにより、同じモンスターでも同一のソードスキルで倒しきれる時と僅かにHPゲージが残ってしまう場合とがある。
 だからこそプレイヤーは日々腕を磨いてシステムにブーストできるシステム外スキルを磨く。
 少し話は逸れてしまったが、モンスターのサイズというのはそれだけで敵の力量を図る物差しでもあるのだ。
 モンスターは大きければ大きいほどしぶとく、強い。
 稀にフィールドでも《このモンスターでこのサイズはあり得ない》というレアモンスターが発生する場合がある。
 無論手強いが倒せばそのリターンもまた違う。そういうレアモンスターは得てしてレアアイテムを落としやすいのだ。
 その法則で行くとサイズだけでもこの相手は相当に手強いことが窺える。

「誰がテメェみたいなヤツのお嫁にいくかよ!」

 クラインがフレイヤの代わりとばかりにスリュムへと攻撃ならぬ口撃で反撃する。
 ゲーム故のストーリー上仕方のない台詞なのだろうが、こうやってその気になれた方が楽しいのも確かだ。

「よかろう、ならば小虫を叩き落としてその気にさせてやろう」

「来るぞ!」

「ふぅぅぅううううんんぬぅぅぅううううう!」

 ずもぉぉぉぉぉぉっと立ち上がったスリュムは野太い声と共に床を踏みつけ、ズシン……! とした強い揺れがフロアの床に伝わる。
 HPはもちろんだが攻撃力もやはり見た目相応にかなりのもののようだ。
 くらえばタダでは済まず、さらにスタンさせられていたことは想像に難くない。
 尚もスリュムの踏みつける攻撃は続く。連続二回、最初のを含め計三回。
 どうやらそれが攻撃パターンの一つのようだ。
 固まっていては損害を広げるだけなのですぐさま全員が散開する。
 スリュムはぐるりと散らばったメンバーを見渡し、空から鉄槌のように巨大な拳を叩きつけてきた。
 ズンッ、ズンッ! と叩かれるたびに床が揺れる。
 近距離で受けてはクリーンヒットしなくともスタンしかねない。
 それぞれが距離を取るように間合いを計っていると、プクッとその頬をスリュムは膨らませた。

「ブレスだ!」

 ズゴォォォォオオオオオオ!!! と轟音かき鳴らしてスリュムは遠くに散らばったメンバーへ直線軌道の氷ブレスを吐き出す。
 どうやら距離を取ったら安全、というワケではないらしい。さらに困ったことが一つ。
 パチン! とスリュムが指を鳴らすと、吐き出されて床に散らばった氷の残骸が集結して形を成していく。
 あっという間に氷の残骸からは氷製ドワーフが十二体ほど生み出され、氷斧を振り回すように突進してきた。

「前衛は取り巻き優先! メイジは遠距離攻撃でボスを削るわ!」

「了解!」

 すぐにアスナの檄が飛ぶ。
 いつの間にか司令塔がキリトからアスナに切り替わっていた。
 もっともこれは今に始まったことではない。血盟騎士団副団長として活動してきたアスナにはそれだけのカリスマと判断力、指導力が備わっている。
 対してソロ活動の長いはぐれビーターことキリトはその戦闘力こそ申し分ないが大勢との連携という点では今一歩力量が及ばない。
 これは彼の対人スキルが低いという事もさることながら一番の違いはその経験にある。
 ソロ故に戦闘において失敗を許されない世界で戦い続けた彼の戦闘技術は本物だが、それは飽くまで個としての話だ。
 対してアスナは何度もボスレイドを率いる司令塔として前線でも活躍してきた。
 今回チームリーダーをキリトが務めたのはこのチームの中心が良くも悪くも彼だからだ。
 それは今回に限らず多々あることでもある。人との繋がりという点では彼が一番みんなと接点が多い。
 だが司令塔として有能なのはアスナだった。だからこうして極限のバトルを求められるとそうと決めたわけでなくともその立ち位置が入れ替わる事は少なくない。
 キリトも特にそのことについて不満は無かった。むしろ戦闘中に個として動けることは彼の身を軽くして最高のポテンシャルを発揮する原動力ともなる。
 クラインのカタナスキルで二体氷兵を切り伏せ、ピナのブレスで一体が溶かされ、シリカの短剣スキルでさらに二体が破壊される。
 リズベットのメイスがくるくると回転しながらライトエフェクトを帯び、彼女はそのまま氷兵へとメイスを叩きつけて二体をバラバラにした。

「はっ!」

 その間、キリトはブルーの光る軌跡を真四角に残しながら直線上にいた四体の氷兵を切り伏せる。
 片手剣用水平四連撃ソードスキル《ホリゾンタル・スクエア》だ。さらに技後素早く床を蹴り飛ばし光の宿った剣で最後の一体を真っ二つにした。
 片手剣用ソードスキル《バーチカル》。基礎技だが今のキリトなら威力は十分だった。
 その時、丁度スリュムへは激しい紫の稲妻が降り注いでいた。
 アスナやクリスハイトに混じって、フレイヤもまた攻撃魔法をスリュムへと向けてくれていたのだ。
 これがまた主力と言っていいダメージ量を誇っている。彼女がいなければこの戦闘は三倍の労力を必要としていたに違いない。
 そういった意味では彼女を助ける為に動いたクリスハイトとクラインの行動はグッジョブとも言える。
 何とか戦闘が形になったところでキリト達もスリュムへの攻撃を開始した。
 リズベットは大きめのメイスでゴスゴスと足の小指を攻撃し、シリカも素早く短剣を何度も突き刺していた。
 クラインは可能な限り跳躍するとスネの辺りに当たる部位へと下から思い切りライトエフェクトの宿った刀で斬りつける。
 カタナスキル《浮舟》。本来は相手を浮かせることで僅かな時間行動不能にし、連続攻撃の起点とする技なのだが、やはりと言うべきかこのボスは大きすぎて持ち上がらない。
 もともとボスにはその手の状態異常系スキルは効きにくいのだ。
 上手く事が運べば転倒(タンブル)による攻撃チャンスが掴めたが流石にそこまで甘くない。今はダメージを蓄積させられれば上々だとクラインもスッパリ浮かせることは諦める。
 ここからは我慢の時間だ。ひたすらに攻撃を回避してダメージを蓄積していく反復攻撃。これがどんな攻略線に置いても肝となる部分であり、耐えどころでもあるのだが……。

「っは!」

 一閃。
 鈍色の剣戟が閃く。
 次いですぐにブルーのライトエフェクトが光帯を宙に結んだ。二閃。
 三閃。四閃。高い金属のぶつかり合う音が薄暗いフロアに広がる。
 黒い影が絶えず動き続けていた。およそ二回に一回から三回に一回はソードスキルを使い、連続攻撃を《止めず》に続けている。
 冷却時間(クーリング)が短く威力のある技を選びながら全てを次に繋げるようにと動き続ける。

 異常だ。

 彼、キリトの動きを見ていた妹であるところのリーファ/直葉は背筋に冷たい物が奔った。
 仮想世界の中では肉体的疲労限界は訪れない。そういった意味では何らおかしいわけではないが、それでも《疲れた》と感じないわけではない。
 前に連休中可能な限りダイヴを続けてみようと試みたことがあるが、丸一日経った所で限界が来た。
 脳の活動にも休息は必要だ。肉体的に疲労しなくとも思考力は間違いなく低下する。現に直葉/リーファは明らかに格下のモンスターにさえ手こずってしまうほど判断力が低下した。
 その限界は思考力を研ぎ澄まし、集中すればするほど速く訪れる。もっと言えば最高潮の全力全快を出していられる時間は継続時間に換算するとそう長くない。
 どこかで一息入れなければ必ず綻びが産まれる。それは人間として必然なのだ。安全機構と言っても良い。そうして枷を作ることによって過剰な脳内運動を抑え自己崩壊を防ぐ。
 それが出来ない人間は……何処か壊れている。

(お兄ちゃん……)

 キリトの動きは尚も衰えることはない。先の戦闘で何か枷が外れたように彼は異常と呼べる戦い方をしている。
 今までも凄いと思うことはあったが、これは異常だ。常人の域を超えてしまっている。
 それは決して良いことではない。これは飽くまで《ゲーム》なのだから。
 そしてもう一つ。彼女が抱く違和感。それは──────誰もキリトを止めない事。
 いや、正確に言えばそれを《異常》と認識出来ないコト。
 僅かな会話や表情から、それを当たり前とさえ認識している節がある。
 もちろん凄いとは思っているのだろう。だがそこに《異常性》というタグは付与されない。

(これが……SAO事件の傷痕なの?)

 一人だけ、孤立したような寂しさ。
 同時に不安。このまま誰も止める人がいなくなれば、限界のその先へ彼等……兄は行ってしまうのではないだろうか。
 ここにいるみんなは自分以外大なり小なりそこへ足を踏み込んでいる。その中でも一番深く踏み込んでいるのは兄、和人だろう。
 そこはきっと常人とは住むところの違う世界。自己崩壊を厭わない……省みない先にあるのは──破滅だけだ。




















「はぁ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~あ」

「はぁ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~あ」

「いい加減それ止めなさいよ」

「だってよぅ、まさかあのフレイヤさんが偽物とは……はぁ~~~」

「だからやめい! クリスハイトも!」

 苛立ったようなリズベットが檄を飛ばす。
 戦闘は無事に終了した。同行してくれたフレイヤ……もとい《トール》の活躍によって。
 戦闘の最中、ようやくHPゲージを一つ吹き飛ばした所でスリュムは特大の氷ブレスを吐き出してきた。
 あっという間に前衛は凍らされ、すぐに踏みつけの衝撃によって砕かれる。このダメージ量は半端無く、あわや壊滅(ワイプ)の危険さえあった。
 タイミングを見計らってアスナが高位全体回復スペルを用意し、使用していなければ壊滅(ワイプ)は免れなかったに違いない。
 このままではヤバイ。誰もがそう思った。ALOの大型回復呪文はSAO時代のそれと同じく《時間継続回復(ヒール・オーバー・タイム)》方式だ。
 すなわち回復アイテムや魔法を使用しても即座にHPが回復するわけではなく、何秒間に何ポイント回復していく、というスタイルである。
 これが回復途中だった場合、現在のHP以上の被ダメージを受けるとまだ回復が続いていても死んでしまう。
 SAOと違い実際には死亡しないし蘇生の方法もあるのだが、大人数のレイドならまだしもこの人数で挑むボスとの戦闘の最中でそれを行うのは少々難しい。
 万事休すか、と思った矢先、フレイヤが提案してきたのだ。私の宝を見つけられれば勝てる、と。
 それからはそれだけに望みをかけ、彼女の言う宝、黄金の金槌を探し出した。

 ところが。

 それを渡されたフレイヤはみるみる姿を変え──戻るといった方が正しい──お髭の似合う巨大なナイスミドルと化してしまった。
 もっともそうなった彼女……いや、彼は強く、みるみるスリュムのHPゲージを散らしていき、とうとうスリュムは、

「今は勝ち誇るがいい。だがアース神族に気を許すと痛い目を見るぞ。彼奴らこそが真の、しん……」

 と意味深な言葉を残して砕け散った。
 トールはお礼にと《雷鎚ミョルニル》をプレゼントしてくれたが、珍しくクラインとクリスハイトはそれを奪い合わなかった。
 ショックが大きかったのだろう。ガクリと肩を落とし、それはもう深い溜息を吐いている、というわけだ。

「でもこれでアルヴヘイムはだいじょ……ッッ!?」

 その時だ。
 グラグラと床、いやフロア全体が揺れ出した。
 ダンジョン全体が激しく振動している。クラインがすぐに異変に気が付いた。

「オイ!? メダリオン黒いマンマだぞ!? スリュムの野郎をぶっ倒したら終わりじゃねェのかよ!?」

「あ……そう言えばウルドさんが言ってたのって……」



『良い? 私の頼みはエクスキャリバーを要の台座より引き抜いてもらうこと』



 瞬間、皆思い出したようにハッとなる。
 つまり、今回のクエストは大方のボスを倒してハイ終了、ではなく剣を抜くところまでがクエストフラグなのだ。
 メダリオンはもう最後の光が点滅している。時間が無い!

「パパ! 玉座の後ろに降り階段が生成されています!」

「ッ! 行くぞ!」

 返事も聞かずにキリトが飛び出し、それを全員で追いかける。
 降り階段は人、いや妖精一人が通り抜けられる程度の幅しかないがそれなりに長い螺旋を描いていた。
 うおおおおお、と勢い込んで一段、二段、三段飛ばしでキリトは駆け下りていく。
 その後ろをピッタリアスナが追いかけ、やや離れてリーファ達が追いかけてきていた。
 だが、キリトは途中で足を踏み外した。

「あ」

「あ」

 後ろを走っていたアスナもまたつい声を漏らす。
 キリトはそのまま転がるように降り階段を落ちていった。

「わああああああああああああああああ!?」

 情けない叫びをあげて加速度的にキリトは下り階段を落ちていく。
 現実だったら重症だろう。ここが仮想世界で良かったと思わざるを得ない。

「わああああああ────あ!?」

 一旦階段が終わり、投げ出されてフロアに頭から激突しそうになった絶妙のタイミングでキリトはフワリと浮いた。
 アスナが風魔法を上手く使ったのだ。制作側もまさかそんなことに使われるとは思ってもいなかっただろうが。
 キリトはアスナに「サンキュ!」と目で送りながらさらに降って行く。すぐにみんなも追いついて来た。
 そこは氷の正八面体……ピラミッドを上下に重ねた形にくりぬいたような空間だった。
 《玄室》と言うのだろうか。壁は薄く透き通っていて、ヨツンヘイムを一望出来る。
 そんな神秘的な場所の最下層に《それ》はあった。氷の台座に深々と突き刺さるようにして。
 微細なルーン文字が刻み込まれた薄く鋭利な刃。同じく氷の中にある根を間違いなく切断している。
 精緻な形状のナックルガードと細い黒皮を編み込んだ握り(ヒルト)。
 柄頭(ボメル)には大きな虹色の宝石が埋め込まれている。

 エクスキャリバー。

 間違いなかった。リーファは外からこれを見たし、攻略サイト等でもその姿だけは晒されている。
 なによりそのヴィジュアルの重さが放つオーラが、本物だとプレイヤーに理解させた。

「っパパ! これ、とんでもない筋力要求値です! 簡単に抜けるかどうか……!」

「な、なにィ!?」

 ここまで来て、という思いが全員に広がる。
 かなりの苦労の連続だった。通常ここまで苦労するクエストはアインクラッドの攻略戦でも類を見ないかもしれない。
 そこまで労力を払った結果がこのままいけばアルヴヘイムの崩壊なのか。
 そもそもSAOやGGOと違いALOは敏捷力や筋力が数値化されない。隠しパラメータ扱いなのだ。
 レベルアップ時等にスキル割り振りは存在するが自身のパラメータ確認は出来ない。
 楽に扱える、やや手応えがある、体が振り回される、持ち上げるのも困難といった感覚に左右されてプレイヤーは武器を選ぶ。
 だからこういう場合必要な数値がどれほどかわからない。初心者がいきなり強力な武器を持てないようにしている仕様とも言えるが。
 だからといって諦めたくはない。

「そんなの! 納得できるか! ぬうりゃぁ……あ?」



 ──じゅぽんっ。



「え?」

「は?」

「へ?」

 半ば自棄になりながらキリトがエクスキャリバーの握り(ヒルト)を掴んで引っ張ると、それはジュポンッ! と妙な音を立てて抜けた。
 ユイの見立てでは筋力値はとんでもない数値を求められていたはずなのだが。
 珍しくユイも目を丸くする。「嘘!?」とその両目が物語っていた。
 だがすぐに得心する。

「そうか、パパはアインクラッド……SAOでの能力(ステータス)を引き継ぎしたから、もともと筋力値がおかしいんでした」

「お、おかしいってことは無いだろう」

「おかしいんです! ねえママ」

「う、うんそうだね。確かにキリト君の重い剣思考はちょっと行き過ぎだと思っていたけど……まあそのおかげで楽々抜けたんだし」

 納得いかない、とやや膨れ面になるキリトにアスナは苦笑を浮かべる。
 その時だった。

「わっ!?」

 突如世界樹の根が成長を開始し、ぬるぬると伸びていく。
 同時に床の揺れも一層激しくなって崩れ始めた。伸びた根は蔓のようにあたりに走り回り、降りてきた螺旋階段を粉砕してしまう。
 恐らくは世界樹の大切な根を傷つけていた聖剣が抜かれたことで世界樹が再生し始めているのだろう。
 これでアルヴヘイムは無事だろうが、この氷のダンジョンたる風雲スリュムヘイム城は無事では済まない。逃げ場も無い。
 主がいなくなったのも相まってその形はみるみる崩れていってしまう。
 なんとなくアスナはかつてSAOをクリアした時、アインクラッドが崩れていく様を見たことを思い出した。
 その時は何故だかその城が無くなっていくことにしんみりとした気持ちになっていたものだが、今は流石にそんな余裕はない。

「おわーっ! 崩れるぅ!」

「ひえええええっ! 僕高い所苦手なんだよねえ!」

「男でしょシャキッとしなさい!」

「そう言いながらお前人の事掴むンじゃねェ!」

「ピナァァ!」

「あわよくばクッション代わりに……」

「くるるるるぅ!」

「するな!」

 全員が全員、慌てふためき混乱は最高潮に達していた。
 と、その時だ。

 ポキッ。

「ポキッ?」

 上部でものすごぉく嫌な音がした。
 それは今いる場所、玄室の最下部たる角っこが見事に上部から切り離されてしまった音だった。
 瞬間、それはそれは凄まじい落下速度を伴ってフロアごと真下に引かれていく。

「うわああああああ!?」

 重力よ、仮想世界なのだからたまには仕事を休め! と言いたくなるが残念なことに勤勉な仮想重力さんはお休みを取られない。労働基準法なんて知らぬ存ぜぬ関係せぬ。
 標準重力加速度を考えれば今自分たちにかかっているGは一体どれほどのものになるのだろうか。
 ふとそんなことをアスナは考えてみる。現実逃避だ。しかし計算するにしても必要な値が足りていない。
 そもそも自分たちが落ちて行っている先はあの大穴……《中央大空洞(グレートボイド)》なのだ。
 スリュムヘイムはグレートボイドの直上にあったので必然とも言えるが、底なしと言われているだけあって、その高さ……深さは未知数だ。
 これでは実際にどれほどのGがかかるか計算できない。いやそもそも計算の仕方は現実のそれと同じように当てはめて良いのだろうか。
 尚もアスナが現実逃避を続けていると、瓦礫同士がぶつかり、弾ける音に混じって遠くから小さな鳴き声が聞こえ始めた。

 くぉぉぉ──……ん……。

「トンキ────!」

 最初にその正体に気付いたのはリーファだった。
 尚も落下を続けるフロアの上で器用に立ち上がり手を振る。
 まさに天の助け。今も落下中ではあるが、どうにか飛び移るだけの時間はありそうだ。
 トンキーは落下速度を合わせて横についてくれた。しかし落下中という非常に難しい速度も相まってピッタリと横づけするには至らず、五メートル程度離れた位置でホバリングする。
 もっともそれだけあれば十分だ。リーファは「ひゃっほーう!」と即座に崩れかけの床を蹴ってトンキーの背中に飛び乗った。
 クラインはしがみついたままのリズベットと、絶叫マシンが苦手らしいシリカの胸にギュウギュウと抱きしめられ息も出来ないと苦しそうなピナをシリカごと両脇に抱え込んで「トォリャ!」とジャンプする。
 後ろの方で「ああ! クライン氏! 僕も!」という声は彼に届いていないだろう、たぶん。
 ちなみに聞こえていたところでどうしようもなかったに違いない。何故ならクラインのジャンプはトンキーまで届かなかったからだ。
 僅かに届かないと判断したクラインは二人をぶんなげた。その勢いでリズベットはトンキーの背中にお尻から落ち、シリカは半泣きになりながら豊満なリーファの胸にキャッチされた。

「おわぁぁぁああああ!」

 と叫び声をあげて落ちるクラインはトンキーが気を利かせて長い鼻でキャッチしてくれた。
 それを見ていたクリスハイトは、失敗してもトンキーがキャッチしてくれると信じて床を蹴った。
 その安心が功を奏したのか、彼はきちんとトンキーの背中に乗ることができた。

「私たちもいこうキリト君」

「ああ……あ」

「?」

「俺、跳べないかも」

 キリトの言葉に思わず「えっ」となるがすぐにその意味を理解した。
 エクスキャリバーがかなり重いのだろう。
 彼の筋力値は確かに凄いが、重さによるステータス補正も半端ない。何人も飛ぶ姿を見てだいたいの飛距離の予想を組み立てたキリトは残念ながらエクスキャリバー所持状態ではトンキーに飛び移れそうにない──距離的に届かない──と判断した。

「おーい! 早く来いよ!」

 クラインの呼び声。時間は残り少ない。
 ここで跳ばねば間に合わなくなる。
 跳ぶためにはエクスキャリバーを諦めなくてはいけない。

「キリト君! ストレージには……」

「まだ入らなかったんだ、フラグ回収が終わってないんだと思う」

「そうなると……」

「ああ、ここで諦めると最悪誰か拾った人の物になるかも。折角ここまで来たのになあ」

 キリトの顔に苦悶の表情が浮かぶ。
 ここまで苦労して手に入れたレアアイテム。手放すのは惜しい。
 だが諦めなければ死んでしまう。諦めず心中したとしても自分の物になってくれているかは定かではないが。
 リーファ/直葉はそんな兄の葛藤をトンキーの背中から見ていた。

「お兄ちゃん早く!」

 兄を急かす。それは先ほどから灯っていた焦燥からだった。
 戦闘中の彼は既に人としての領域を踏み外しかけていた。そして今もその淵にいる。
 アイテムの為に命を投げ出していいのだろうか。確かにこれはゲームだ。死んでも良い。
 だが、プレイヤー同士の戦いで斬られるよりも、落下死というのは怖いのが通説だった。
 プレイヤー同士のHPの削り合いはエフェクトこそ派手だが実際に痛みや感触を伴わない。
 最初こそ人を斬ること、斬られることに抵抗があるが慣れれば「そんなもの」という程度だ。これは《ペイン・アブソーバ》による所も大きい。
 もっとも、それが若者の他者を簡単に傷つける温床となるのではないか、という危惧が一つの社会問題ともなっているのだが……それはクリスハイト/菊岡誠二郎が触れるべき分野である。
 対して落下などの自然死については些か事情が異なる。世界観をよりリアルにするために、この手の仮想世界はその自然体感を極限まで現実そのものに似せるよう作られている。
 仮想世界の先人たるこのALOも例外ではない。まして飛べる、というシステムが売りのこのゲームではその落下感覚にもかなり力が入っている。
 端的に言えば現実のそれと大差は無く非常に怖い。絶叫系マシンが得意な直葉でさえ、グレートボイドに何の準備も無く落ちることは躊躇われる。
 安全性が確保された中でのそれはいい。だがそうでないものに易々と踏み出せるのは、異常だ。人が感じるべき恐怖に《慣れ》から踏み出せるのは欠陥でもある。
 それにこのゲームでの高所落下はかなり重く設定されていて、かなり高い位置からの落下死は現実の体にも若干の影響を及ぼしかねない。
 アミュスフィアの普及によって安全機構はかなり盛り込まれているが百パーセントではないのだ。企業側としてはより現実に近い鋭利な感覚を求め日夜努力している。
 フィードバックという観点からこの危険性はゼロに出来ない。人はその日見た夢の内容によっても影響を受けるほど敏感極まりない神経を持っているからだ。
 役人であるクリスハイト/菊岡誠二郎はそのことの調査も含めてゲームに参加しているのだろう、とは前に直葉も和人から聞いていた。
 このまま兄が剣欲しさに悩み、落ちることとなれば、その異常さはさらに際立ったものとなってしまうだろう。
 大事になるほどではないだろうが、それを省みないという事実が問題なのだ。
 そして残念なことにそれを異常として捉えられるのはこの場では自分だけなのだ。だからこそ直葉は兄にこちらへ来て欲しかった。
 最近、少しずつ感情が戻ってきていると実感できるから特に。
 クリスマス以降、兄は初めて彼女、アスナ/明日奈のいない家族の前でも笑顔を見せたのだ。
 それが嬉しかった。治ってきていると確信した。だから、また《そちら側》へ行くようなことはしないで欲しい。

「キリト君、どうしてもそれ、持って帰りたい?」

「……全く、カーディナルって奴は」

 アスナの問いに、キリトはシステムへ溜息を吐いた。
 それは呆れ半分、怒り半分といったものだろう。散々カーディナル・システムには良いように踊らされているのだから。
 キリトはズブリ、と氷の床にエクスキャリバーを突き刺す。

「良いの?」

「しょうがないさ」

 キリトの憑き物が落ちたような顔に、トンキーの背中でヤキモキしていた直葉はホッと胸を撫で下ろす。
 いや、下ろせる……ハズだった。
 エクスキャリバーを刺した床がみるみる崩れ、グレートボイドめがけて落ちていく。
 キリトは無事だ。まだ床は崩れきっていない。だがここで誰も予想しないことが起きた。

「アスナさん!?」

 アスナだ。
 アスナが、エクスキャリバーめがけて、グレートボイドに《自ら》飛び込みにいってしまった。
 直葉は背筋がゾクリと凍る。それはいけない。やってはいけない領域。やって欲しくなかった、踏み外してしまった人の領域。

 そして。

「アスナッ!」

 先ほど、幾重にも躊躇いの顔を見せていたキリトは、《何も躊躇わず》床を蹴り飛ばした。
 彼の向う先はトンキーの背中、ではなくグレートボイドへ落ちていくアスナだ。

「ッッッ!」

 みるみる小さくなっていく二人。
 暗い穴に落ちていく二人は、まるで二人のこの先を暗示しているかのようだった。










「乾杯!」

「カンパイ!」

 いやあお疲れ様! と口々に言い合う。
 場所はダイシー・カフェ。我らが商人、エギルが現実で経営する店だ。
 今回は今日の打ち上げと忘年会も兼ねたパーティだ。
 仮想世界と現実のどちらでやるかは迷うところだった。仮想世界ならばユイは百パーセント参加できるが現実ではそうはいかない。
 しかしアスナ/明日奈が明日から一週間は父方の実家である京都へ行くことが決まっていたので、出来た娘であるユイは現実での開催を希望し、エギルの店に白羽の矢が立てられたというわけだった。
 もっともキリト/和人はユイのことを完全に諦めたわけではなかった。
 ハードケースにいくつかの機器を入れて店に持ち込み、設置していく。
 持ってきたのは四つのレンズ可動式カメラと制御用のノートパソコンだった。
 市販のマイク内臓ウェブカメラを大容量バッテリー駆動及び無線接続できるよう改造したもので、この程度の空間なら四つでほぼカバーできる。
 カメラをノートPCで認識し、川越の自宅にある自作のハイスペック機にインターネット経由で接続。
 小型ヘッドセット越しにユイに声をかけてみる。

「どうだユイ?」

『聞こえます、それに見えていますパパ!』

 これは和人がユイの為に学校でメカトロニクスコースを選択して作っているユイの現実世界用感覚器だった。
 今のユイはリアルタイム映像を疑似3D化した空間で小妖精のように飛翔していると認識しているはずだ。
 画質は低いし応答性も悪いが携帯端末のカメラから受動的に現実世界の映像を得るのに比べれば自由度は高い。
 似たようなシステムを和人は既に自分の部屋にも設置している。あれはこれのさらに骨子となるものだが理論は同じだ。
 と言ってもユイが現実世界を仮想世界と同様に認識するためにはカメラ・マイク端末の自律移動機能は必須でセンサーも全然足りていない。
 この仮称《視聴覚双方向通信プローブ》システムの完成はまだまだ先というわけだ。
 それでもユイは喜び、クラインも「たいしたモンだなオイ!」と笑顔で和人の頭を突いている。
 そんな姿を見ながら、直葉は先の仮想世界での出来事を思い返していた。



 キリト達が落ちてやや経ってから、二人は光に包まれた。
 何事だ、と思う間もなく、クエスト依頼主とも言える女神、ウルドが現れる。

「あっぶないことするわねぇ」

 やや呆れの混じったような、それでいて面白い玩具をみつけたような、そんな顔でウルドはいかなる魔法なのか、二人をトンキーの背中までフワフワと送り届けた。
 ちなみにアスナの胸にはしっかりとエクスキャリバーが抱かれたままだ。キリトはそんなアスナを抱きしめたままの姿なので、傍から見るとややみっともない。
 その後、彼女の妹だと名乗る美しい女性、ベルダンディが現れ、滝のような報酬アイテムをくれたり、さらに末の妹という一見すると小学生か中学生くらいの少女、スクルドが現れ、柄の長いハンマーを振って報酬をわんさかくれたりした。
 ベルダンディは長姉と違いおっとりとしていて服装も整っており、長い金砂の髪が軽くウェーブしているのに対し、スクルドは快活だがあどけなさが抜けない黒い長髪の少女だった。
 そろそろパーティの共有アイテムストレージは限界が近かったのだが、ウルドはまだ何も報酬をくれていない。
 もし二人と同じだけくれるとすると溢れたアイテムはトンキーの背中に顕現し、いくつもグレートボイドに不法投棄するハメになったのだが、その心配は杞憂だった。
 彼女からは「そんなに欲しかったの?」と指摘され、聖剣エクスキャリバーを泉に投げないよう注意されながら所有権をもらった。彼女のその言葉で剣はフッと消え、ストレージ内に格納される。
 ちなみに剣はアスナのマイストレージに格納されたので、満面の笑みでキリトに手渡し、その際、

「私だと思って大切にしてね」

 と言われ、キリトが顔を真っ赤にしたのは余談である。
 余談と言えば、

「ウ、ウルドさん、ベルダンディさん! 連絡先を!」

 などと一種無謀と言うか意味不明なお願いをこの時クラインはした。
 ベルダンディは微笑みながらうっすらと消えていき、スクルドに至ってはあっかんべーをしながらその姿を虚ろにさせていったが、ウルドだけはニンマリと笑い、クラインにキスを投げた。
 ピンクのハートマークがフラフラと宙を漂いクラインの前で一度止まると、ゆっくり彼の体に溶け込んでいった。
 しばしクラインは明滅し、光が消える。一斉に「マジ?」と声を出したのは言うまでもない。



 一連の流れを思い返して、しかし直葉は笑えなかった。
 本来ならクスリと来てもおかしくないところのはずなのだが、その前に起こった出来事が衝撃的過ぎた。
 二人に何も無かったのは結果論だ。何か起きていても不思議は無かった。
 明日奈はバーカウンターにいる和人の隣に座ってクラインにシステムの説明をしている彼の話に耳を傾けている。
 その姿は普段と変わらない、良くできた兄の彼女そのものだ。

 しかし。

 今日の事が漠然とした不安となって直葉の胸の中に刻み込まれる。
 何か、取り返しのつかないことが起こってしまうような、そんな予感が彼女の中に小さく灯った。



 明日奈は和人の話を聞きながら彼の頑張りに暖かいものを感じていた。
 彼の頑張りはユイの、自分達の娘の為だ。彼がそうまでして娘の為に頑張ってくれることが明日奈は嬉しかった。
 それは彼との絆の強さを示していると実感できるから。

「おーいキリトくーん」

「菊岡さん、ここでその名前は……まあいいか。今ここにいるのは知ってるメンバーだけだし」

「ゴメンゴメン、でさ、ちょっと話したいことがあるんだ」

 チョイチョイ、と手招きするヒョロッとした総務省の役人に和人は溜息を吐いて明日奈に声をかける。
 「すぐ戻ってくるから」「うん、ここで待ってる」と言葉を交わして和人は菊岡に歩み寄った。
 そんな姿をぼうっと眺めていると明日奈の聴覚野がキュインと動くカメラのレンズ音を捉えた。
 ふとカメラの方を向くと、ユイの感覚器たるカメラはその視線とも呼べる物を一方向に向けているように感じられた。
 その先は……、

「だからよぅ! お前人の事身代わりにしようとしただろ!」

「なぁにまだグチグチ言ってんのよ情けない。男でしょ?」

「あのなぁ! それが一緒に抱えて跳ンでやった奴に言う台詞かよ!?」

「いちいち煩いわね。ハイハイ、アリガトーゴザイマシタ。これでいい?」

「だいたいなンで俺にしがみついたンだよ?」

「たまたま傍にいたからよ」

「そうなのか、オリャてっきり……」

「てっきり?」

「い、いや……」

「何よ? 私がアンタに気があるとでも? ハッ、ないない二万パーセント無い」

「そこまでなのかよ……」

「何? アンタ私に気があったの?」

「いンや」

「……あんたねえ」

 里香……ではない。
 クラインだ。恐らく間違いない。ユイはクラインを見ているのだろう。
 思えば彼女は割とクラインに気を許している。
 ふと、明日奈は目の前に浮かぶユイを幻視した。小妖精姿でフラフラと浮きながら浮かない顔をしているその姿を。
 その顔は見覚えがある、と思ったのは今日のクエストの時だ。それは一体いつ何処でのことだったのか……と思い返して、バーカウンターの奥にある鏡にふと目を奪われた。
 何のことは無い自分が映っているだけの鏡。だがそれで思い出す。

「……そっか、あの顔、あれは──────私だ」

 何度も見てきた自分の顔。
 あの時のユイは自分と同じ顔をしていたのだ。
 旧アインクラッド時代、まだ和人/キリトと心が通い合う前、気持ちが一方通行だった頃の自分と。





「すまないね、熱が入っている所で」

「なんなんだよ? 言っとくけど今日はムズカシイ話は勘弁だぞ……ってシリカ?」

 やや不貞腐れたような顔で菊岡を責めると、予想に反して菊岡は一人ではなかった。
 傍にはシリカ/綾野珪子がいたのだ。

「ごめんごめん。この話はキリト君と《お姫様》……じゃない、珪子ちゃんの二人にしたいと思っていてね」

 菊岡はやや腰を低くしたしゃべりで含みのある笑いを張り付ける。
 珪子は苦笑しながら和人を見つめた。なんなんでしょう? と目で問いかける。
 流石に和人も思い当たる節が無いのか肩を竦めた。

「実は今日一緒にクエストに参加したのはこの話もあったからなんだ」

「……?」

「前置きはいいって」

 菊岡は要領を得ないとばかりの二人のやり取りを見て、単刀直入に用件だけを述べことにする。
 眼鏡をクイッと持ち上げた。

「今日のクエストを見ていてね。適任は君たち二人だと僕は感じたんだ」

「適任……?」

「なんのですか?」

「実は君たち二人……キリト君にはまた、ということにもなるけど……《アルバイト》をお願いしたいんだ」



 いくつもの意図が複雑に絡まっていく。
 伝うその先は、まだ見えない。



[35052] マザーズ・ロザリオ1
Name: YY◆90a32a80 ID:b9264a49
Date: 2014/02/21 22:56


 お正月と言えばもっとこう、晴れやかな気分になれるもの……と思っていたのは果たしていくつくらいまでだっただろうか。
 かつては年が明けると思えばワクワクしてその瞬間を待ち、明けた瞬間に何もかもが新しくなったかのような気持ちの良い錯覚に包まれたものだ。
 そう過去を思い返して、アスナ/結城明日奈は少なくともここ数年はそんな考えなど持ったことも無かった事に気付かされた。
 いつの頃からだったか受験戦争に意識を向け、言われるがままに勉強をこなし、成績を残す。充足感が皆無だったわけではない。
 努力したなりの結果はきちんと残せたし、それが求められていることだと理解も出来てはいたから、上からジリジリと押しつけられるような《期待》という二文字の重みに潰されそうになりながらも当時の自分はそれなりには満足していたように思う。
 今思えば半分諦め……というより考えることを放棄していたのかもしれない。自立とはほど遠い、見た目と知識だけがそれなりに豊富なだけの子供。
 あの時の自分を思えば、幼さを残す《ユイ》の方がまだしっかりとした自分を持っている分《大人》と言えるかも知れない。
 それでも今年は期待していたのだ。いつの間にか忘れていた新年への昂ぶるような気持ち。それが幼い頃のそれのように自身に舞い降りてくる事を。
 求められる《結果》という壁に背中を押されて前へ前へと休むことなく走り続け、楽しむという事を忘れていた中学生時代。
 生きることに必至で、長引けば長引くほど両親の期待に応えられない自分が増していく不安に押しつぶされそうになった最低最悪のデスゲーム時代。
 やっと解放されても現実で待っていたのは厳しいリハビリと、デスゲームで心の支えとなってくれた愛しい人が覚醒しないという不安時代。
 休む暇など無かった。楽しむという感情を持つことなど許されなかった。明日奈の人生においてここ数年のお正月に安寧は無かったと言っていい。

 だが。

 今年は違う。
 悪夢のようなSAOからは解放され、愛しい彼、キリト/桐ヶ谷和人も目覚めた。現実世界でも共にいられる時間が増えた。
 曇天のように暗い世界に太陽が差したように明日奈の見る世界は明るくなった。だから今年のお正月は子供の頃のようにきっと楽しい気持ちでいられると何処か期待していた。
 しかし、現実は彼女に重くのし掛かってくる。昨年末から既に明日奈は年末年始の予定が決められていた。
 彼女の父の実家、結城家への里帰り。仕方のないことだ。この時期に親の実家に挨拶に行くのは昔からの風習とも呼ぶべき通過儀礼。
 加えて自身がSAOに囚われていたことにより「親戚一同に心配と迷惑をかけたのだから」と言われれば元気な姿を見せに行かないわけにはいかないだろう。
 そこに不平不満を漏らすほどデスゲームを乗り越えてきた明日奈の精神は幼くない。そういうもの、との割り切りくらいは出来る。
 昨年はリハビリ中で解放されたのに行けなかったのだから尚更だ……と思っていたのだが。
 まさかこれほど鬱屈とした気持ちになるとは思いもしなかった。

 京都にある結城本家は古式ゆかしい……どちらかというと赴きだけは桐ヶ谷家に近い風体の広大な屋敷だった。
 結城家は数百年前から続く名家で、明日奈の父が一代で国内最大手とも言える電子機器メーカー、レクトを創設できたのも本家の資金援助があったことが大きい。
 無論親戚一同も何処かの社長、官僚、と言ったいわゆる上流階級……キャリア人が殆どだ。
 会話の大半は何処の誰が全国で何番になっただの、表彰を受けただのと言った成績自慢大会。
 明日奈はそれが嫌だった。まるで自分たちのランク付けをここでされているかのような錯覚に陥るからだ。
 いや、それは錯覚などでは無かっただろう。事実それはランク付けであり、成績発表会の会場と言っても差し支えない。
 そしてその結果が良い程親はその子を育てたという《キャリア》が上積みされていく。
 終わることの無い競争社会。まさにそれを体現したような空間は明日奈を一層不快にさせた。
 分かっていたことではある。それが嫌だったのは昔も今も変わらない。
 だから例え「それが全てじゃない」という価値観を確固たる物にした明日奈でも声を上げて否定するような真似はしない。
 ただ、この時から薄らと黒い感情が沈殿し始めたのは確かだった。

 明日奈は大人達の成績発表……いや品評会と化している会場を静かに後にする。最低限の儀礼は果たした。
 後は同年代のいとこ達との再会に華を咲かせよう。
 これは当時もそれなりに楽しんでいたことだ。年代が近いいとこ達はやはり似たような価値観を持っている。
 それだけが唯一心の休憩所とも言えた。大人達には大人達の、子供達には子供達の世界がある。
 久しぶりに再会したいとこ達はみんな我が事のようにSAOからの生還を喜んでくれた。
 口々に「また会えて良かった」「元気になったんだね」「助かって本当に安心したよ」と温かい言葉をかけてくれる。
 だが、明日奈はそんな彼等の瞳の中にチクリと胸に突き刺さる棘のような物を感じた。
 元来、人の目を気にして生きてきた明日奈はそういった視線に非常に敏感だと自負している。

(これは……)

 戸惑いは一瞬。SAOで培った……と言えば良いのか悪いのかわからない思考切り替えが明日奈の心を瞬時に落ち着かせ──凍てつかせ──、平静を装わせた。
 彼らの視線に含まれる感情、それは《憐憫》だったのだ。すぐにその意味や思考を悟る。
 彼等は将来への終わらないレース社会から早々に退場してしまった……せざるを得なくなった自分を哀れんでいた。
 二年という常人とは異なる時間の大幅なブランク。それは確かに非常に大きい物でもある。……キャリアを高く意識している者にとっては特に。
 その気持ちが全く理解出来ないわけではない。同じ立場だったなら自分も似たような感情を抱いただろう。
 悪かったのはそのことに思い至ったのが彼等の目を見てから、ということだった。前もって気持ちを切り替えられていればこの場でももう少しマシな心境でいられただろう。
 しかしこの場が心の波止場だと思っていただけに、明日奈は思ったよりもショックを受けた。
 理解が及ばないわけではない。でも哀れみを受ける謂われもない。なぜなら自分はもっと大切だと思えることに気付いたのだから。
 彼らにはそれがわからない。わかるわけがない。それは仕方のないこと。そう理解はできても、納得はできない。
 急にこの場にいることすら苦痛に感じ始めてしまう。だがそれを表に出すことはない。
 鉄面皮……とは違う笑顔の《仮面(ペルソナ)》は剥がれない。これもある意味、SAOで培った技能と言える。
 言うなれば《システム外スキル》。もともと本音を隠すのは上手い方だったが、SAOでの経験が──望むと望まざるとは別に──それをより強固なものへとレベルアップさせた。
 と言っても、飽くまでそれは表面には出さない事に特化した《仮面(ペルソナ)》であって内心の操作ではない。
 身の内に黒い感情が堆積していくのはどうしようもなかった。
 それでもまだ耐えられると思っていた。事実、そこで終わりなら明日奈は耐えられる自信があった。
 だが、それからも些細なことが重なって嫌な感情が積もり積もっていく。
 少しでも負の感情を発散したいとアミュスフィアを持ち込んでいたのだが、残念なことに明日奈に宛がわれていた母屋には今時にしては珍しい完全アナログ空間で、無線LANすらない環境だった。
 これには流石の明日奈も少しばかり堪えた。実際に会えずとも仮想世界でならみんなと会えるだろうと楽観していた。
 おかげで胸の内には消費されない黒い感情が堆く降り積もっていく。それは明日奈の思考をどんどん侵食し、暗い気分にさせていく。
 それでも、帰るまではなんとか耐えられると思っていた。表面的には繕いきれる自信がまだあった。

 全ては過去形。

 明日奈にとって耐えがたい苦痛の種。《彼》が言葉を発するたびに少しずつ《仮面(ペルソナ)》が罅割れていく。
 《この人》のせいだけではない。これまで蓄積された感情のせいもあるだろう。それでも、明日奈にとってこの人の言葉を理解すればするほど、その黒い感情が嫌というほど自分に溜め込まれ溢れていく。

「僕は今銀行の昇進クラスでも一番上にいるんだ。今後の年収もそこいらの実業家と遜色ない物になってくると思う。次に付くポストは二か月後の話ではあるんだけど──」

 自慢話、というよりは身の上話。自分がどこにいて、どのような立場にあり、今後どうなっていくのか。
 そのような話だけならば、明日奈はまだ《仮面(ペルソナ)》を張り付けて聞き流せた。

「──それでその半年後には都心大手、と言っても立地場所は郊外で規模は少し小さいんだけど……責任者になるんだ。そうしたら家を買うつもりでね。あ、明日奈さんは家には拘りとかある? クローゼットのメーカーとかはさすがに僕も詳しくなくてね。そういうのは女性に任せた方がいいのかなって」

「あ、あはは。私もあまり詳しくはないんです」

「そうなんだ。そうだよね、こんなことでもないと普段あまり知る機会なんてないし。家の大きさはある程度に抑えて、土地を広めに用意しようか。そうすれば庭も作れるし、菜園とかそういうの、明日奈さんは興味ないかな」

「庭は……あったらうれしい、かな?」

 笑顔を振りまいて誤魔化す。
 この空間には自分と《彼》しかいない。
 いつの間にか、周りから人の気配は消えていた。
 まるで《謀った》かのように。いや、事実これは《謀られた》のだろうけど。

「そういえば明日奈さんは修学旅行で外国にも行ったことがあるそうだけど、その、行きたい場所とかあるかな。ここに旅行したい、とか」

「……ごめんなさい裕也さん、私ちょっと席を外すわね。ちょっと気分が悪くて」

「え? あ、うん。こっちこそごめん。僕ばかり話してしまって。またね」

 気の弱そうな顔で申し訳なさそうに謝る彼──裕也に、少しだけ胸を痛めながら明日奈はやや速足でこの空間を後にする。
 彼が悪いわけではない。彼が悪い人なわけでもない。ただ彼の話のほとんどは《結婚》を前提としたような内容だった。
 それなりに聡い方だという自覚が明日奈にはあるが、これはそうでなくとも感付く。気を利かせた、などというような生易しい話ではない。
 確実に、縁談の話が自分の知らないところで出来上がっている。話を聞く限り、また相手の態度からこれは本決まりになったものではないだろう。
 だがそうなる前からこうやってお互いの関係を温めさせることくらいはやってもおかしくはない。

「……っ」

 息が詰まりそうだった。張り詰める胸に溜まった黒い泥が身の裡から溢れ出す。
 じわりじわりと限界を超えて明日奈を苛む。がんじがらめに茨で縛られているかのような束縛感。
 動けば棘で傷つき、動かなければそのまま締め付けられ取り込まれてしまうような恐怖。
 だれか、この茨を断ち切ってくれるお伽噺に出てくるような勇者はいないものだろうか。

『もしもし? アスナ? おーい?』

「……え?」

 全く唐突に、耳には慣れ親しんだ人の声が届く。
 何故、どうして? その答えは実に簡単だった。自分の手は携帯端末を握っていて耳に押し当てている。それが答え。
 自分の意志とは裏腹……いや、意志通りに、体は脳の発した命令通りの行動を実行している。
 明日奈の表面的な理性としては電話をかけるつもりなどなかった。ここで彼に弱い自分を晒す気はなかった。
 彼に心配はかけたくないし、そもそも彼が見ている自分は、きっと気高く強いものだろうから。
 だが体は勝手に理性とは異なる命令を実行していく。心と体が上手くリンクしない。
 やめて。これ以上勝手なことをしないで私。
 余計なことをしないで。
 言わないで。

「……会いたい」

『えっ?』

「ッ!」

『アス──』

 瞬間、通話終了ボタンを強くタップする。
 今、自分は何を口走った? 何を願った?
 言うべきことでは無かったのは事実だ。見せるべき弱さではなかった。弱さなど、見せてはいけなかった。
 言うつもりなどなかった。普段の自分なら絶対に口にしない弱音だった。

「……ぅ」

 携帯端末が振動する。確認するまでもなくコールしてきているのは彼。
 だが今は。今はそれを取ることが出来ない。これ以上、彼と話してしまったら何を口走ってしまうかわからない。
 一滴、涙が頬を伝う。尖った顎から透明な雫が滴って、跳ねる。
 それでも彼と繋がっている実感は欲しくて、しばらく振動し続ける端末を手放すことができなかった。










「……」

 埼玉県川越市桐ケ谷家の自室。手元の携帯端末は無機質なコール音を延々と流したまま応答しない。
 キリト/桐ケ谷和人はコールが二分を超えたところで一度電話で呼び出すことを諦めた。
 しかしコンタクトを取ること自体は諦めきれない。念のためにメールだけは打っておく。
 突然かかってきた電話と態度がおかしかった彼女。気にするなという方が難しい。
 頭の中では「会いたい」と言う儚げな彼女の声がずっとリフレインしている。
 何かが彼女の身に起こった。それは恐らく間違いない。自分に助けを求めたくなるほどの何かが。
 生命に関する身の危険、ということではないだろう。それなら電話でももっと切羽詰っていたはずだ。
 だからそういった意味では彼女が今すぐどうこうなるという不安は薄い。

 それでも。

 彼女に「会いたい」と言わせるほどの不安感情が生まれた原因があることに違いはない。
 今彼女は埼玉……東京からは離れた京都にいる。距離にしておよそ五百キロメートル弱といったところか。
 埼玉県の端から端までがだいたい百キロメートル強だからざっと五倍。二往復半。
 なかなかに遠い。ちょっとやそっとでどうこうなる距離ではない。そんなことは和人にもすぐに理解できていた。
 和人はデスクに座るとモニターの電源を入れる。PC本体の電源は《彼女》のために稼働しっぱなしなので改めて点ける必要はない。
 インターネットブラウザから地図を呼び出し、初期搭載されているOS電卓アプリにてカタカタと簡単な計算をしていく。
 数分そんなことをしてから、椅子の背もたれにギィと腰を預けた。天井にある染みを見つめてから今度は携帯端末を弄る。
 彼が確認していたのは預金残高だ。

「んー……入ってはいるんだよなあ、菊岡サンにしては珍しく仕事が速い」

 年末、年下の女の子と一緒に再びバイトに誘われた和人は、少し悩んでからバイト料は一定額を前払いで、というとんでもない条件を突きつけた。
 これは前回GGOについて携わる際、後払いにした後予算の関係から明日奈と山分けになった経験からの対策だった。
 もっとも、ここまで言えばさすがに諦めるだろうという予想もあったのだが、和人の考えとは反対に菊岡は少しだけ悩んでから了承した。
 入金されたのは翌日。年末は銀行も振込み手続きを休んでしまうので急いだのだろう。逆に言えばそうまでして手伝ってほしいことがあるということでもある。
 早まったかな、と思わなくもないが、収入があったことは素直に嬉しい。今回はバイト内容もまだ知らないので彼女……明日奈にも「またバイトをする」とだけしか伝えていない。
 額は流石にGGOの時のような額ではないが、一定以上の期間を超えれば残りは順次支払われる約束になっている。何が言いたいのかと言えばとりあえず《資金》についてはなんとかなるということだ。
 何についての《資金》かと言えば、説明するまでもない。和人は少しだけ天井の染みを睨みつけるが、すぐに身を起こした。

「ユイ」

『なんですかパパ?』

 すぐにレスポンスが返ってくる。
 和人の部屋には集音マイクと小型カメラが設置されていてここでの会話はマイクの音量を手動でミュートにでもしない限りPC──正確には繋がれているサーバー内──へと伝わっていく。
 それはすなわち、PC内を住居とする人工知能、娘の《ユイ》にいつでも話しかけられることを意味していた。同時にそれはちょっとしたことでも《聞かれる》可能性を孕んでいて、実際恥ずかしい事態に陥ったこともあるのだが、それはときめきメモリアルに一生仕舞い込んでおく。
 ユイは基本、PC内でも眠ることはない。だから声をかけられればほぼ間違いなくたいしたラグもなしに反応する。

「ちょっとパパとドライブにいかないか?」

『ドライブ……ですか?』

「そう」

『良いですけど……どこまで行くんですか?』

「そうだな、とりあえず首都高速に……あ、待てよ。まず近場のレンタカー屋かな」

『? パパ自分の持っているじゃないですか。あれ? でも高速……?』

「予定行程片道だいたい五百キロ弱。高速道路ではあのオンボロじゃちとキツイ。少しばかり長いドライブになるぞ」

 目的地は確かに遠い。文字で換算しても地図で見ても。
 しかし。決して辿り着けないほどの距離ではない。
 移動する術が無いわけでもない。それなら──迷う必要はなかった。





『パパって時々大胆ですよね』

「なんだよ藪から棒に」

 冷たい刺すような風が突き刺さる。
 厚めの革製ライダースジャケットは着ているがやはり時期的な物もあって不安は残る。
 片耳には無線のイヤホンセットを装着したままヘルメットをしているので、ユイとは無線で繋がった携帯端末を通じてリアルタイムで会話が可能だった。
 ヘルメットの脇に小型カメラも設置したがこちらはユイが「目が回ります~」と言うので切ってある。
 今ユイは携帯端末のGPS機能を使って現在位置を電子の海でマップを見ながら応答しているに過ぎない。
 ALOで高速の移動には慣れていると思ったが流石にレンタカー屋で借りた二百五十CCの自動二輪には耐えられなかったようだ。
 彼女自身には《酔う》という症状は無いに等しいが実際に見ているわけではなく、仮想世界と違いカメラという端末を通した画面越しの高速移動は、カメラ自体の性能もあってか正直処理に苦しむのだろう。
 これがもっと大型のハイスピードスローカメラならまだ良いのかもしれないが市販の小型カメラの性能では、徒歩はともかく高速移動には耐えきれない。

『急に京都のママのところに行く、だなんて』

「ユイもママに会いたいだろ?」

『それはそうですけど。あ、パパ。次のインターチェンジで一回降ります』

「了解」

 最先端のカーナビや地図アプリなど顔負けの超高性能ナビゲーターが付いている和人には、幸いにして長距離だろうと道に迷う心配はなかった。
 和人はスロットルを回してさらに加速させる。グングンスピードは伸びていくが、体感的にはALOで高速飛行する時よりも抵抗は少ない。
 それは当然の話でもある。ALOではほとんど生身の体で高速移動しているのだ。体にかかる負荷が全然違う。
 だが一定の速度を超えると、ふと自分は今バイクに乗っているのではなく空を飛んでいるように錯覚する瞬間がある。
 フワリと浮いて、重力を感じない。ALOで空を飛んでいるのとは違う別の何か。慣性に置いて行かれたまま浮いているだけとも思える不思議な感覚。
 体が軽い。まるで重さ、という縛りから解放されたような感覚。これはALOでの飛行では得られない別の感覚だ。
 速く、疾く。速度を上げているという自覚が薄れ、世界そのものとも断絶していき、完全なる個となる。
 更に速度を上げる。エンジンが悲鳴を上げる音が背中に遅れて流れていく気がした。
 先へ。もっと先へ。もっともっともっと……。

『パパ! ちょっと飛ばし過ぎですよ!』

「っ! あ、ああ」

 突如耳に入ってきた愛娘の声が和人の飛びそうになった意識を呼び戻す。
 慌ててスロットルを弱め、速度を落とした。

『事故なんて起こしたらママが悲しみます』

「ごめんごめん。いつも乗ってるのが百二十五のやつだから、ついその時の癖でスピード上げちゃって」

『気を付けてくださいね』

「ああ」

 危ない危ない、と自分にも言い聞かせる。
 つい速度を上げ過ぎてしまった、気をつけねば。
 彼の妹である直葉はALOでスピードホリックと呼べる程高速での飛行を好むが、兄妹だからなのか和人も高速移動をそれなりに好む。
 こと戦闘においてはパワーファイターの毛色が強く感じられるが、それは彼がより強力な──ダメージ量を稼げる──武器を好むからであって戦闘スタイルという観点だけで見れば彼はスピード型だった。
 故に、時折明日奈/アスナでさえ勘違いするのだが、彼はダメージディーラーでありながらよく動く。もっと言えば素早く動く。
 普通、ダメージ量を稼ぐ意味で強武器や強魔法を選べば鈍足になりがちだ。やむを得ない代償と言える。どう能力構成(ビルド)を振るかにも左右されるが、突出した力は対極位置にあるステータスを弱くさせる。
 だが彼の場合の速さとは、能力構成に左右されないものだ。生粋のスピードホリック故に速く動くことを体に強要する。
 現実では、実際にそのように命令したところで体が追い付いていかない。だが仮想世界ではそれが可能になる。それが、彼の強さの秘密の一つだろう。
 そしてそれは同時に、危うさをも内包している。
 既に社会現象の一つなってしまっているが、仮想現実と現実の区別を付けられない人が増えてきている。
 人を斬るという行為に躊躇わない、高いところから飛び降りられると錯覚する、など上げればキリはない。
 しかしそれは悪いことばかりではなく、リーファ/直葉などはゲームの中で培った戦いの勘と技術を見事現実にフィードバックさせ、剣道の試合で成績を残している。
 明日奈などは仮想世界の方が無数にタスクウィンドウを開けるので調べ物や勉強にも役立てている。もっとも、母は仮想世界を飽くまで《ゲーム》としか認識せず、快くは思っていないようだが。

『パパ』

「ん?」

『ママに何かあったんですか?』

 鋭い。ユイの的を射た指摘に少しだけ和人は黙る。
 彼女はその口調こそやや幼さを見せるものの、知識や物の考え方は和人や明日奈顔負けの大人そのものだ。
 見た目は子供、頭脳は大人を地で行くハイスペック幼女と言える。
 しばし迷ってから、和人は嘘を吐くことを諦めた。ユイに嘘はつけない、というより吐きたくない。
 特にユイは人の悪意に敏感で弱い一面がある。MHCP……メンタルヘルスカウンセリングプログラムとして生み出され、感情模倣機能を持ちながらSAOにて人の負の感情を延々と観測し続ける事になった彼女は人間でいう《精神崩壊》を一度起こしている。
 そのせいか、人の負の感情に関する事柄にはユイは酷く敏感だ。こと、自分や明日奈に関わることなら特に。
 だからこそ、彼女にはいつも誠実でぶつかりたい。自分に悪意があるわけではなくとも、嘘を吐くという行為が彼女の琴線に触れないとも限らない。

「……ああ、ちょっと様子が変だった」

『ママの様子が変だったから、パパは埼玉から京都までわざわざ行くんですか?』

「……まあ、そうなるな」

『………………パパ、少しお聞きしたことがあります』

「なんだ?」

 かなり溜めてから、やや神妙な声色でユイの声が通信機越しに届けられる。
 その声色から、なんとなく冗談ごとではないと和人も察しがついた。
 出来る限り真面目に話を聞こう、と和人自身も身構える。

『パパ、パパはママとのことをどこまで考えていますか?』

「なんだよ急に」

 だが発された質問は予想もしえないものであり、また大変答え難い内容だった。
 考えたことが全くないわけではないが、それを言葉として現実化するにはまだ速すぎるし曖昧も良いところだ。
 ましてやユイになど言えるはずもない。だがユイは追及する手を緩めなかった。

『パパ、真剣に答えて下さい』

 と言われても、どう答えていいのかわからない。答えられる範囲での答えなど持ち合わせていない。
 そもそも何故急にそんなことを聞き始めたのだろうか。少し狡いが、和人はユイの真意を図ることで質問の矛先を変えることにした。

「どうしてそんなことを聞くんだ?」

『今パパが、ママの為に大きな行動を起こそうとしているからです』

「……?」

 答えの意味がわからない。
 明日奈の為に行動したらおかしいのだろうか。
 それとも、ユイから見ても流石に京都まで会いに行くのは異常だと思われたのだろうか。

『勘違いしないでくださいねパパ、別にパパの行動を咎めたりしているわけじゃないんです。ただ私は《私本来の役割》として、今パパにも聞いておかなければならないと判断しました』

 ユイはすぐに和人の考えを察したようで、それを否定する。
 しかし彼女の問いが終わったわけではなかった。彼女は通信機越しにそのまま続ける。

『パパ、パパは今ママの為に長距離を移動しています』

「……ああ」

『それはパパがママのことを好きだからと解釈できます。違いますか?』

「……」

 違わない、が、言葉にするのはやはり気恥ずかしい。
 だが幸いにして、この辺の機微についてユイは察してくれたようだった。

『違いませんよね。そこで私が聞いておきたいのは、今のパパがどこまでの考え……想いなのか、ということです』

「……どこ、まで?」

 ユイにしては珍しく本題に中々入らない。
 もしかすると彼女も少しだけ本題を口にすることを躊躇っているのかもしれない。
 それは人工知能であるユイにとって素晴らしい成長であるのと同時に、よっぽどの話だということだ。

『今のパパとママは世間で言うお付き合いしている学生でしかありません。恋人、と呼ぶのが正しいでしょう。そこから上のステップを踏むにはかなりの覚悟が必要になると思います。……ゲームとは違って』

 一瞬、和人はユイがとても傷ついている顔を幻視した。
 ゲームとは違って、とは彼女にとって最も言いたくない言葉だっただろう。
 なぜならその《ゲーム》こそ彼女の生きる世界と言っても過言ではないのだから。
 しかし自分の生きる世界を否定してまで、ユイは和人に、父に尋ねなければならなかった。《今後のためにも》。





『パパに、ママを一生支える覚悟がありますか……?』



[35052] マザーズ・ロザリオ2
Name: YY◆90a32a80 ID:b9264a49
Date: 2014/08/27 00:00


 イヤホン越しに聞いた、電子音声とは思えない少女の声が頭の中でリフレインする。
 ぐるぐるぐるぐる、繰り返される言葉はたったワンセンテンス。
 たったそれだけの言葉なのに、まるで呪いのようにその言葉は彼、キリト──桐ケ谷和人を侵食していく。
 一瞬言葉に詰まった、即答できなかった和人に、《娘》である彼女としてではなく、《MHCP》……メンタルヘルス・カウンセング・プログラムとしてのユイは言ったのだ。



『……今、迷いましたね?』









「……寒い」

 一月の外気は容赦なく明日奈へと吹き付け、その体温を奪っていく。
 仮想世界のように片手一つのシステム操作、あるいはスペルの詠唱によって耐寒耐性を上げることは叶わない。
 わかっていたことではある。これが──現実なのだ。
 和人との電話を無理やり切断した後、アスナ/明日奈は行く宛も目的も無く屋敷外を徘徊していた。
 防寒に類するものなど何一つ羽織らず、着の身着のままの着物姿で多くの人が行きかう交差点をゆっくりと歩く。
 視線は前方など見ていない。暗く沈んだ気持ちに引っ張られるように足元をジッと見つめて視界に人の足が入るとフラリと避ける。
 もうそんなことを何時間繰り返しただろう。相変わらず視線を上げることこそしないが、強まる冷気と下方とは言え見えている視界が暗くなってきていることから、相応の時間が経過しているだろう事には気付いた。
 ふと、目に入った自分の履いている靴を見て、その靴がいつも使っているブラウンのローファーなことに思い至り、今の姿とは妙にアンバランスだな、と苦笑した。
 今頃結城家では戻らない自分の事を心配しているだろうか。どうやら長時間冷気にさらされることによってようやくと明日奈の思考回路は冷却(クーリング)を果たしたらしい。
 だが、それは同時にどうにもならない──目を背けることを許されない現実への回帰でもある。

「……ふぅ」

 吐き出される白い吐息はすぐに霧散し、闇へと熔けていく。それをぼうっと見つめて……肩を震わせた。
 少し体を冷やし過ぎたのかもしれない。ようやくと視線を上げてみれば街灯にはぽつりぽつりと明かりが灯り始めていた。
 夜の帳はもうすぐそこまで迫っている。心配をかけている可能性もある以上せめて一刻も早く戻らねばならない。
 それが肉体的にも論理的にも正しい選択であり、今取らねばならない最良の行動なのだが、不思議と明日奈の足は家路に向かおうとはしない。
 そもそも何も考えず彷徨った為に明日奈は現在地を理解していない。戻るためにはここは一体どのあたりなのか、という現状把握が必要なのだがそれさえもやる気が起きない。

「寒い……」

 肩を抱くようにして体を震わせる。
 流石に氷点下、とまではいかなくとも一桁前半代であろう外気温の中薄着の着物一つでいるのはそろそろ限界だ。
 ALO──アルヴヘイム・オンライン──の地下世界ヨツンヘイムも相当に寒かったが体感的にはこちらの方が寒い。
 明日奈はたまたま見つけた小さな公園……とは名ばかりな遊具の一つもない緑地公園へと足を踏み入れ、背もたれのない木製のベンチに腰掛ける。
 中央に噴水、周りには申し訳程度の木や花、街灯といくつかのベンチがあるだけの小さい公園だ。
 少し離れた道路ではお正月だと言うのに車が忙しなく行きかっている。時折「ブオン!」と煩いエンジン音が耳に響く。
 明日奈は「んっ」と声を出して足を伸ばした。冷えた体は節々にまでギシギシとした薄い痛みを明日奈に訴える。
 真っ白に震える手を口に当てて「はぁぁ……っ」と息を吹きかけると、やや痺れかけた指先にジンジンとした温かさが戻ってくる。
 もっともそれも一瞬、次の瞬間には再び冷気の刺すような棘によって痛みに似た寒気が指先を支配する。
 もう一度「はぁ」と白い息を吐いて空を見上げた。星は……然程見えない。
 東京でもそうだが、空を見上げても満点の星空など、そうそう見えない。別に曇っているわけではないのだが、やはり人工の光が強すぎて人の裸眼視力ではあまり確認できないのだろう。

「そういえば、アインクラッドの夜空は星で一杯だったな」

 SAO──ソードアート・オンライン──の舞台である浮遊城アインクラッド。
 空に浮かぶ城という設定だったからなのか、そこで見る星空はこれまで見たことも無い程綺麗だった。
 最初の頃は夜空を見ることなどしなかった。昼も夜も迷宮に潜り、ひたすらに倒れるまで走り続けようとしていたのだから。
 そんな時、いつだったか《彼》に言われたのだ。「そんなに下ばかり見ていないで偶には上も見てみろよ」と。
 当時の自分は元の世界へ戻ることで頭が一杯で他の事に意識を向ける余裕などほとんどなかった。
 だが、彼に言われて仰いだ夜空はそんな状態の自分でさえ声を失う程に美しかった。
 惜しむらくはあの星々の名前や配置がわからなかったことだろうか。そう思えるほど明日奈/アスナはその星空に心奪われたものだ。

 しかし。

 今見ている空はどうだろう。
 何の感慨も湧かない暗雲とし空には、感じ入るものなど何もない。
 あれほど現実への帰還を求めていたはずなのに、今はその現実が時々煩わしくさえある。
 わかってはいた。それが現実なのだと。でも、これが恋い焦がれた現実だと言うのなら《あの世界》に囚われていたままの方がよっぽど────

「……っ!」

 ぶんぶんと首を振る。
 今一瞬、考えてはいけないことを考えた。
 何より、それを《彼》に示したのは外でもない自分なのだ。その自分がこんな気持ちでいてどうする。
 また《彼》……桐ヶ谷和人こと《キリト》のことを思い出して携帯端末を見やる。そこにはあれからも数回連絡があった旨の履歴が表示されていた。
 心配させてしまった、という罪悪感はあるものの、こうやって何度も連絡を取ろうとしてくれるキリトの自分への思いに少しだけ顔がほころぶ。

「ありがと、キリト君」

「どういたしまして」

 バサッと肩に少しばかり厚めの黒い革製ライダースジャケットがかけられた。
 瞬間明日奈はビクッと肩をいからせ、立ち上がって振り返る。
 するとそこには、見覚えのある黒い髪の少年が立っていた。

「え……キリト君!?」

「おう」

「な……どうして……?」

 まるでいつもと同じように、待ち合わせに遅れて来たかのような軽さで片手をあげて立っているのは──会いたくてたまらなかった桐ヶ谷和人その人に外ならない。
 和人は明日奈の仰天した視線にポリポリと頬を掻きながら視線を逸らしていたが、やがてゆっくりと明日奈に近づき、その両肩に優しく手を置いた。
 夢などではない。その質量感が紛れも無く本当に彼がここにいることを明日奈に実感させる。しかし、一体何故……?

「あー……明日奈? ほら俺、なんていうかさ、呪われた身としては呪いの回収を果たさないとと思って」

 明日奈が突然の出来事に混乱していると、和人はそう言うが早いか顔……唇を明日奈へと近付けていく。
 え、まさか? と明日奈が思い身構えるより先に、和人は明日奈の冷え切った……《額》に唇を押し当てた。

「………………へ? おでこ?」

 一瞬ギュッと瞑った目を開き、薄く頬を桃色に染めながら、しかし些か不満そうに明日奈は和人を睨む。
 睨まれた和人はこれでもう精一杯ですと背中を向けてしまった。彼らしいと言えば彼らしい。
 そもそも呪いの回収を彼から行ってくれたことはこれまでそう無かったはずなので、今回はそれで良しとしておいてあげよう。飽くまでも《今回は》だが。
 和人の背中を見つめながら、冷えていた筈の体に熱が灯る。とりわけ口付けされた額はぽかぽかと暖かかった。
 体も和人がかけてくれた革ジャケットのおかげで殊の外暖かい。これはきっと直前まで和人が着ていたのだろう。彼の熱がまだ優しく籠っている。

「キリト君、どうして……ううん、どうやって私の場所がわかったの?」

 何故来たのか……などという馬鹿げた、それこそ失礼極まりない質問はしない。
 その答えはもう出ているからだ。自分がした──してしまった──電話以外、理由は考えられない。彼はあの電話で──嬉しいことに──いてもたってもいられなくなったのだろう。
 「会いたい」と零してしまった自分の願いを聞き入れるべく、彼は驚いたことにはるばる片道五百キロ程度の距離を移動してきてくれたのだ。
 それが明日奈は嬉しかった。だからWHATではなくHOWで尋ねる。自分でさえ現在地を正しく把握できていないのにどうやって居場所がわかったのか、と。

「超高性能ナビゲーター様の言う通りに来ただけさ」

「高性能ナビゲーターって……ユイちゃん!?」

「その通り」

 和人は微笑みながら左耳を指差した。
 そこには黒いワイヤレスイヤホンが装着されている。それでおおよその事態を明日奈は理解した。
 明日奈の持つ携帯電話のGPS位置情報をユイが探知し、和人をここまで連れてきてくれたのだ。

「そっか、ありがとうユイちゃん」

「どういたしまして、だとさ。明日奈の為ならこれぐらいなんでもないって言ってる」

 明日奈にはユイがえっへん! と胸を張って誇らしげな顔をしているのが目に浮かんだ。
 ユイは和人や明日奈の為に何かできることがあることを喜ぶ傾向にある。ユイのその身は人工知能……作られた感情なれど、その心は親に褒められたいという人間の子供のそれと何ら変わらない。
 そんな彼女が明日奈はとても愛おしかった。

「二人共ありがとう……! 」





『ママ、あのまま帰しちゃって良かったのですか? パパ』

「ああ、明日奈は大丈夫だよ」

 明日奈と再会を果たした和人は、あの後そう長く話もせずにお互い別れた。
 明日奈の服装が服装だったこともあるが一番の理由は時間だ。
 日暮れもだいぶ進み、そろそろとっぷりと日が暮れ夜の帳が完全に落ち切る頃合いだ。
 こんな時間に彼女を連れ回すのは良くないだろう。彼女の家は特に門限が厳しいのだから。
 それに、喜び安心しきった彼女の顔を見て、とりあえずは大丈夫という確信も得られた。それだけで十分。

『フフッ、パパ最高に恰好良いです』

「ははは……ところでユイ」

『何ですか?』

「もう一つ、いや二つ検索してほしいんだけどさ」

『お任せください!』

「この近くで安くて暖かいジャケット売ってる店ないかな」

 和人が着ていた物はそのまま明日奈が着て持って行ってしまった。
 おかげで今度は和人が寒さに震える側と相成ったのである。

『なんかイロイロ台無しですパパ』

「そう言わないでくれ、あと安宿を見つけてもらえると助かる」

『ママの所に泊めてもらえばタダで済みますよ? きっとママも喜びます』

「い、いや、それはちょっと、な、うん」

『パパ、変なところでヘタレです』

 ユイの打って変わってやや辛辣となった言葉に「う」と呻きつつもそれは流石に了承出来ない。
 そもそもまだ東京にある明日奈の家の敷居さえ跨いでいないと言うのに明日奈のご両親の実家……それも大財閥の屋敷へなどハードルが高すぎる。
 忘れてもらっては困るが和人は自他共に認める対人スキルが激低なのである。……全く誇れることではないが。
 ゲームの中のスキルと違い、こっちは経験を積めば積むほど高レベルになれる……と決まっているわけでは無いのがネックで、和人にもそれなりにいろんな人と接する機会はあるのだが、いかんせん苦手意識や性格はどうしようもない。

「ユイ、あまりからかわないでくれよ……」

 少しだけ弱気になったような声の和人にユイは「ごめんなさい」と謝ってから──どうやら今の間に検索していたらしい──頼まれた二件について説明しだす。
 和人は再びユイのナビゲーションによって夜の京都をおっかなびっくり徘徊し、ホテルのベッドに横になったのは実に夜の十一時を過ぎたあたりだった。
 バイクは既にこちら側にある同じ系列のレンタカー屋の支店に返却している。乗り捨て料を取られるかと危惧していたのだが、どうやら杞憂だったようでその必要は無かった。
 明日は流石に飛行機のチケットを取ってある。そもそも今日はチケットの関係と時間の関係で飛行機を使えなかったのであって、本来なら飛行機でも良かったのだ……懐は痛むが。

『お疲れ様でした、パパ』

「ああ、ユイも今日はありがとう」

『私は役に立ちましたか?』

「ん? ああ、もちろん。ユイがいなかったから俺は今頃埼玉を抜けたところで迷子になってたよ」

『それは大げさですよ』

 くすくす、と小さくユイが笑ってから……しばし場が沈黙する。
 話すことが全くないわけではないが、和人の頭の中には京都へ向かう途中でユイに言われた言葉……《内容》がリフレインしていた。
 そうしてお互い無言になってからしばらくして、先に口を開いたのはやはりというかユイだった。

『パパ』

「……ん」

 少しだけ、身構える。
 昼間の話の続きだとしたらなあなあな姿勢では聞きたくない。
 ベッドに横になっていた体を起こしてユイのカメラに向き直る。
 このカメラはヘルメットに付けていた物を携帯できる形にしたもので、バッテリーが続く限りは現実でのユイの目となってくれる。

『そんなに身構えなくても良いですよパパ』

「そう、なのか?」

『パパは《わかってくれている》みたいですし、今回の話はそのこととは別です』

「そう、か……」

 ホッとしたような残念なような。
 事が明日奈に関係あることとなると簡単に終わらせたくないのだが、かといって今あまり《あんな話》をされても少々心の準備が足りない。
 なんとなく和人の気持ちがどっちつかずで宙ぶらりんになったところで、ユイが珍しくしおらしいことを言い出した。

『そのぅ、パパ言いましたよね? 今日は私パパの役に立ったって』

「ああ」

『そのお返しに、ってわけじゃないんですけど……実は折り入ってお願いがあるんです』

「ん? なんだユイがおねだりなんて珍しいな。言ってみろよ」

 ユイが和人や明日奈に何かオネダリすることは、実は極端に少ない。
 ユイを現実で展開させるためのアイディアや技術的なことはガンガン注文するが、それを除けば彼女は非常に無欲なのだ。
 だからこそ、多少の駄々なら和人は喜んで聞いてやろう……そう思っていたのだが。

『一日で良いので、ALOでのマスター権をクラインさんに貸していただけませんか?』

「………………………………は? え、ちょ、なん、だって……?」

 一瞬我が耳に入った言葉を和人は疑った。
 聞き間違いであることを祈りつつ聞き返す。

『パパ? 聞こえませんでしたか? クラインさんに私を一日お貸しして欲しいんです』

 どうやら聞き間違いではないらしい。
 彼女は何故か自分や明日奈の元を──たった一日と言えど──離れクラインの元へ行きたいと言う。
 これには流石の和人も二つ返事での許可はできなかった。

「ど、どうして!?」

 ユイは両親である桐ヶ谷和人ことキリトと結城明日奈ことアスナのことが大好きだ。
 その自覚は和人にもあったし自意識過剰ではないことは本人や他人も多いにも認めているところだ。
 自慢ではないがこれほど良くできた娘はそういないとも自負している。
 その娘が自分たちの元を──重ね重ね言うがたった一日と言えど──離れたいと言い出した。

(まさか、これが反抗期ってやつなのか!?)

 ユイからの突然のお願いに和人は何も言えなくなった。
 少なくとも簡単にイエスと言える類のお願いではないし、自分の独断で決めるのにも些か抵抗がある。
 以前GGO──ガンゲイル・オンライン──にコンバート潜入しなくてはならない時、やむを得ずクラインにユイを預けたことはあった。
 しかしそれは飽くまで緊急避難であり、そんな必要が無ければユイを手放すことなど考えられなかった。
 そもそも和人は明日奈に預けたのであってクラインに預けたわけではないのだ。
 などといつまでも言い訳がましい思考をぐるぐると回転させつつこれが俗に言う親馬鹿の一種であることにも和人は気付いていた。
 自分がそうされるのを特に嫌う明日奈なら、しっかりとユイの目を見て了承するかもしれない。それなら自分だけが取り乱し、ノーと言うのは少々恰好悪い。
 なのでせめて理由だけでもきちんと把握しておこうとユイに尋ねる。まあ、ウチの子に限ってそんな変な理由ではないだろうと信じながら。
 しかし返ってきた言葉は、和人の想像を絶する……と言えば少々大げさだが予想もしえない──可能なら認めたくない──ものだった。



『クラインさんとデートをするんです!』



 ユイの言葉にたっぷり六十秒……一分は硬直してから、和人は言われた言葉を反芻し意味を理解していく。
 次の瞬間には迷惑と知りつつ──現在時刻夜の十一時半を回ろうとしている──明日奈に電話していた。
 まだ起きていたらしい明日奈に事の成り行きを説明すると、意外にも彼女は認めてあげてほしいと言ってきた。これには少しだけ和人も驚く。
 いや、もともと和人も認めるつもりではあったのだが、心の動揺は隠しきれない。明日奈もそうなるだろうと思っていたのだが、どうやら彼女には何か思い当たる節があるようだった。
 クラインとデート、と聞いても彼女はさほど驚かなかったのだから。

『そっか、ユイちゃんがそう決めたならユイちゃんの好きにさせてあげようよキリト君』

「……それは、わかっているんだけど」

『キリト君の気持ちもわかるけど、ね?』

「……ああ」

 明日奈の諭すような言葉に和人の心も徐々に落ち着きを取り戻していく。
 ごめんこんな時間に、と改めて謝ってから和人は電話を切ろうとし、

『キ……和人君』

「ん?」

『………………』

「明日奈?」

『──好きだよ。おやすみなさい』

「あ……」

 不意打ち的に愛の言葉を囁かれ、一方的に電話を切られてしまった。
 恐らく切った明日奈の方も今頃は顔を真っ赤にしているだろう。
 キリト、ではなく和人、と言った辺りにその辺のポイントが強く表れている。
 和人はコホン、と一つ咳払いしてからユイのカメラに向き直った。耳はまだ赤い。

「わかったよユイ、明日奈とも話したけどそれがユイの頼みなら俺たちは止めない。行っておいで」

『ありがとうございますパパ!』

「でも、何か変なことされたりしたらすぐに言うんだぞ?」

『大丈夫ですよパパ。それに──これで最後にするつもりですから』



 そう言うユイの言葉には、寂しさのような物が内包されていたことに、和人は気が付かなかった。





 少しだけ口端がニヤけてしまう。
 明日奈は布団をすっぽりと頭まで被って身体の奥から湧き出す名状しがたい感情に打ち震えていた。
 自分がやってしまったことではあるが、普段と違い自分の部屋でないことが彼女に不思議な緊張感と高揚感を与える。
 今日はあの後お互いすぐに別れた。彼が心配してくれているのがわかっていたし、早めに戻らなければまたいらぬ小言をもらいかねない。
 幸い心配などはさほどされていなかったが──常識の範囲内の外出とみなされた──やはりというべきか、母親はあまり良く思わないようだった。
 帰宅──と言っても結城本家の屋敷にだが──した際、小言こそ言われなかったものの、家族にだけわかるような鋭い視線が浴びせかけられ、少しばかり居心地が悪かった。
 それでも、負けずにまっすぐ視線を返すことが出来たのは、彼から借り受けたジャケットのおかげだろう。
 上着代わりにずっと肩からかけていたそれはまるでそこに彼がいてくれるかのように明日奈に暖かさと勇気をくれた。
 実を言えばそのジャケットを明日奈はパジャマ代わりに着たまま布団に潜っている。

「……えへへ」

 ここに来てからこんなに心穏やか……というよりは陰鬱ではないドキドキとした気持ちで迎えられるのは初めてだ。
 先の電話で少々大胆なことを言ってしまったせいもあってとてもすぐには眠れそうにないが、嫌な気分ではない。
 電話の内容であるユイの事を思えば全く心配がないわけではないが、ALOの《伝説武器(レジェンダリィウェポン)》である《エクスキャリバー》を取りに行った時から、いつかはこんな日が来るような予感はあった。
 ユイがその為に行動を起こすと言うのなら、それを止める権利など自分にも和人にもないのだ。出来ることはただ見守ってあげることだけ。
 まあ加えて言うならそれはクラインがユイを悲しませないことが前提の話であり、万が一そのようなことになった際には……和人と共謀して考え付く限りの《罰》を与えねばなるまいが。
 がんばってユイちゃん、と心の中でエールを送りつつ、ジャケットからふんわりと微かに漂う和人の匂いに気持ちをバタつかせる。
 現金なものだ、と思いつつ明日奈は何も知らずに久しぶりの穏やかな──ある意味ではという枕詞が付くが──夜を迎えた。

「……キリトくぅん」

 闇に溶ける甘い声は、幸い誰に聞かれることも無かった。










「ハアッ!」

 裂帛の気合いと共にブルーのライトエフェクトを纏って、漆黒の剣が闇を切り裂く。
 壹回、貳回、参回、肆回……剣の軌跡は正方形を描くようにブルーの光帯で闇を照らし、そこにいた人型アンデット系Mobモンスター二体のHPを削り切った。
 光のポリゴンが爆散するエフェクトと音響を伴ってパーティへの経験値へと変換される。

「今日のキリト、なんか気合い入ってるわねえ」

 ピンクのふんわりとウェーブがかった髪にシルバーの髪留めを小さくあしらい、プレストプレートと肩当てを付けた我らが専属鍛冶師(スミス)篠崎里香こと鍛冶妖精族(レプラコーン)のリズベット──逆かもしれないがここはゲーム内である──は感嘆の仮想息を漏らした。
 その手には鍛冶師(スミス)御用達のハンマーが握られているが彼女に言わせると戦闘用と鍛冶仕事用では補正値の関係もあって全くの別物なのだそうだ。
 そもそもリズは戦闘用武器として普段からハンマーよりはどちらかというとフレイルを好んで使う。さすがにそのあたりの情報は門外漢なため、明日奈/アスナにはよくわからない。

「あはは……まあ、気持ちはわかるよ、うん」

 言いながらアスナはあっちへフラフラ、こっちへフラフラと移動しながら激しく明滅するライトエフェクトを目で追い続ける。
 暗視スキルはさほど高くないのだが、水妖精族(ウンディーネ)お得意の補助魔法でステータスを底上げしているため今のアスナには問題なくキリトの動きを見ることが出来た。
 現在この三人パーティは一つのクエストを進行中だった。ちなみに直葉/リーファと珪子/シリカは久しぶりに都合のついた詩乃/シノンと共に別ルートから合流予定だ。
 現在地はALOの中心地にあたる世界樹、その周りを囲む尾根猛々しい山岳地帯の一角にある洞窟内部だった。
 各種族領から世界樹へ行こうと思ったら通る洞窟は限られているのだが、そうでないダンジョンの場合、その洞窟数はかなりの数に上る。
 ちなみに滞空制限が無くなったことで世界樹を囲む山岳地帯を飛んで行けるようになったかと思いきや、その上空一体は飛行不可能エリアとして設定されていて、相変わらず空から世界樹への侵入はできない。
 正確にはとある一角において例外的に飛行可能なエリアがあるのだが、現在のところそれを突破したという猛者の話は聞かない。
 実はその一角というのは決まった場所では無く、毎回ランダムに発生し現在のところその傾向は掴めていない。
 オマケにとんでもない強さを持つ《空駆ける馬》のボスがいるらしい。
 どうやらこのボスはALOにおけるグランドクエスト第二弾に関係しているようなのだが詳しいことはまだわかっておらず、各種族共に情報や勢力増強へシノギを削っているのが現状だ。

 閑話休題。

 そんなわけで今日のキリト達はその確認情報さえ乏しいボス攻略への情報収集……などという殊勝な目的では無く、単にある報酬目当ての未達成クエストに挑戦しに来ているという状況だった。
 なんでもこのクエストの報酬は《美味しいお茶が飲めるアイテム》らしいのだ。
 ALOはSAOと同じく、いや今や《ザ・シードパッケージ》により生まれたVR世界のほぼ全ては現実にかなり忠実な味覚再生エンジンを搭載採用している。
 ゲームの中での飲食は実際の体の栄養摂取こそできないものの、その美味さを感じることはもちろん満腹中枢を刺激することも可能だった。
 もっとも後者についてはあまり良いことばかりではない社会問題が発生してもいるのだが。
 とにかく、そんな話を聞いては料理スキルを上げているアスナはもちろん、友人の女性たちもやる気を出すと言うものだ。
 VR世界での飲食は決して太らないとなれば尚更である。乙女はいつだって美味しいものに弱いのだ。

「そーんなにユイのことが心配ならお得意の《隠蔽(ハイディング)》でストーキングでもすればいいのに」

「いや、それはちょっと……っていうかユイちゃん相手には意味ないよきっと」

「それもそうか」

「それに私もキリト君もユイちゃんには誠実でいたいから」

「それで心配だけど様子を見に行くわけにもいかないからああやって暴れてストレスを発散しているってワケ? 子供ねえ」

「そこがキリト君の可愛いところだよ~」

 リズがからかい半分で言った言葉にほわほわとした笑顔でアスナは答える。
 しまった、と思った時にはすでに遅し。アスナは難攻不落完全無欠のお惚気モードへと移行している。

(勘弁してよもお……! 今の私は色恋沙汰からちょっと遠ざかりたいんだけど!)

 リズは内心で「とほほ」とばかりに涙を流した。
 この万年色ボケお嬢様ときたら最近は本当にからかいがいの無い超プラス思考と化してしまって、ちょっとでも油断すると「わたしの恰好良いキリト君」または「私の可愛いキリト君」語りが始まってしまうのだ。
 あの頃の凛とした副団長様は一体どこに行ってしまわれたというのか。
 彼女の娘であるところのユイも今日は両親公認のデートだと言うし、本当リズにとっては四面楚歌そのものだった。
 こんなことなら《向こうのパーティ》に入りたかったと嘆くも今更遅い。
 洞窟の向こうでは未だに時折ライトエフェクトが明滅していて今も元気に彼女の旦那様はストレス発散進行中だ。
 こうなっては誰も彼女を止められるものなどいない。何もしなくてもユルドや経験値が増えていくのはありがたいがその代償が惚気話となれば話は別である。
 しかし天の助けとは存外あるものだ。

「あ、おーい! アスナさーん!」

 遠くから手を振りながら近づいてくるのは淡いグリーンのロングヘアを花びらのような髪留めで留めてポニーテールにし、濃い目の緑を基調とした風妖精族(シルフ)特有の装束に腰から剣を下げた女性だ。
 プレイヤーネームリーファ。速い話がキリトの妹であるところの桐ヶ谷直葉である。
 別の入口からお互いクエストフラグを立てる為に別行動を取っていたのだがどうやら無事に合流できたらしい。
 その後ろには獣耳を生やし、髪を現実同様ツーサイドアップに留めて頭の上に小竜を乗せている少女と、同じく獣……猫耳に水色の尻尾をふりふりと動かしながら弓を担いで近寄ってくる猫妖精族(ケットシー)コンビがいる。
 綾野珪子/シリカと朝田詩乃/シノンだ。シノンはALOにコンバートするにあたって種族を選択する際一番視力補正が付くという理由だけで猫妖精族(ケットシー)を選択している。
 彼女の使う弓系の武器は射程距離圏内までは魔法のようなシステムアシスト……追尾にも似た自動命中補正があるのだが、それを超えると仮想の風やら重力やらの影響を受けて命中させるのは一際困難になる。
 ところがGGOにてそのような補正を自己流で掴み、システム外スキルと呼んで良い程までに昇華させた能力を持つ彼女は一日弓を扱うだけでALOでのそれを掴み切った。
 そうなった彼女は遠くのMobモンスターをレンジ外からバンバン射抜くのでこれにはさすがのアスナやキリトも降参せざるを得なかった。
 剣士タイプの彼女たちはとりあえず間合いに入ってナンボ、なのだがシノンはその間合いに入ることを許さないのだ。

「何やってるのキリトのヤツ」

 シノンの呆れが入った声にリズベットは渇いた笑いを零す。
 まさについさっきまでの自分と変わらない……鏡を見ているかのような気分だ。
 シノンは未だ暗闇で戦闘を続けるキリトを見やると、ニヤッと獰猛な笑みを零して弓の弦へと矢をつがえた。
 次の瞬間には「ビュン!」と風を切る音と共に「うおっ!?」というキリトの焦った声が洞窟内に響く。
 それを見てシノンは小さく舌打ちした。「外したか」と。

「さっさと行くわよこの戦闘狂」

「俺、一応仲間ナンデスケド……」

 些か以上の不満をキリトは漏らすが、シノンは聞き入れず仲裁に入ろうとしたアスナの背を押すようにして洞窟の深部へと足を向ける。
 仲が悪い、とまでは言わないが彼女はアスナには甘い割にキリトにはなかなかどうしてキツく当たる。
 それはキリトがGGOで行った新川恭二/シュピーゲルへの行為と、BoB──バレット・オブ・バレッツ──予選決勝戦におけるアスナの不名誉から来るものがなんとなくそのまま彼女とキリトの関係を構築していた。
 加えて言うならBoB本戦におけるまさかの敗北──実際に殺されたわけではないが、シノンにとっては同じことだった──がシノンにとっては悔しく、一発キリトにぶちかましてやらないと気が治まらないと思っているせいもあるのかもしれない。
 キリトは冷や汗を流しつつシノンの背中を見やる。水色の尻尾がふりふりと左右に揺れ、その奥ではアスナが心配そうにキリトへ振り返ろうとし、その度にシノンに強く背中を前に押されてしまい動くに動けないでいる。
 その姿をみていたキリトは「ピーン!」と悪知恵を思いついた子供のような顔になり、二人の背中へと音も無く近付いた。
 近付いて、ふりふりと動いている水色の尻尾を、ギュッと掴む。

「フニャアアアアアッ!?」

 途端シノンは全身の毛を逆立てたかのように飛び上がり、ズザッと猫のようなバックステップで距離を取った。
 お返し成功、というわけである。

「シリカから聞いていたけど、猫妖精族(ケットシー)の尻尾はよっぽど変な感覚らしいな」

「こ、この……!」

 猫耳や尻尾などは人間には存在しない器官だが感覚が無いというわけでもなく、急に強く握られたりすると凄く変な感じになる……とはシリカの談だ。
 その感覚を味合わされたシノンがいきり立って弓へと手を伸ばしたところで……今度こそアスナが仲裁に入る。
 こんなことをしていてはいつまでたってもクエストが進みやしない。

「はいはいそこまで。キリト君もシノのんももうちょっと仲良くしようよ」

 アスナに窘められ、「くっ」と悔しそうな顔をしつつシノンは矛を収めた。
 「フンッ」とわざとらしく顔を背けて奥へと進む。あれでも別に然程怒っているわけではないのだ。
 ただ、キリトと彼女のコミュニケーションはなんとなくそういうものとして落ち着いてしまっただけで。
 アスナは苦笑しながら、しかし今の発言における《無視できない問題》について……キリトを問い質す。

「ところでキリト君?」

「うん?」

「なんでシリカちゃんの尻尾の感覚を知っていたのかな?」

 不思議だねえ~という軽さで発された質問だが、何故だろう。
 地雷を踏んだ気がするのは。

「後でしっかりお話を聞かせてもらいますからね」

 一瞬にして先ほどまで忘れ去られていたかつての副団長様モードが復活する。
 リズベットはそんな二人を見て声を殺して笑い、シリカは頬を染めてわたわたと落ち着きがなくなった。
 一先ず、ユイがいなくともこのパーティはそれなりにいつも通り、平和なようだった。



 飽くまで、こちらのパーティは。



[35052] マザーズ・ロザリオ3
Name: YY◆90a32a80 ID:b9264a49
Date: 2014/09/06 18:13


「ウォリャアァァッ!」

 気合いの入った声を上げながら、お気に入り兼トレードマークとなったバンダナを額に巻いた野武士面の武者プレイヤー……もといクラインは地を疾走した。
 現実なら額のバンダナはさぞ汗にまみれて滲んでいることだろうがこの仮想世界……VRワールドたるALO──アルヴヘイム・オンライン──ではその心配はない。
 肉体的疲労が蓄積しないというのは一つのVRワールドにおけるメリットであり、本来なら酸素を求めて胸が苦しくなる呼吸欲求も今は発生しない。
 だが、

「ゼェーーッ、ゼェーーッ……! ヒィ……!」

 クラインは両膝にそれぞれ手を乗せて腰を大きく曲げ、深く息を吐いていた。
 気分的な問題と、長年しみついた疲労への肉体的行動が彼をそうさせる。
 これは特段おかしなことではない。VR世界での出来事は全て脳内信号をプロセスとしている。
 そして意外に知られていないことだが、人間の脳という物は学習機能があるために錯覚を起こしやすいのだ。
 傷を負えば痛いと感じる、というのは小さい子供でもわかっている当たり前のことだ。故に、脳は過去の経験から傷を負った、もしくは負うとわかっている場合、脳がその際に必要な体内活動を無意識的に要求する。
 何かにぶつかった時、たいして痛みを感じないのに「痛い」と言ってしまうのはこれの典型だ。
 当のクラインも、実際には肉体的疲労は感じず、息が苦しいわけでもないが、全力疾走をこれでもかと続けた結果、脳の錯覚によって現実世界(リアル)よろしく疲労を色濃く表すポーズを取っていた。

「お疲れ様ですクラインさん」

 そんなクラインに笑顔を向けるのは、白いワンピースから健康的な素足をにゅっと生やし、長く艶のある黒髪に麦わら帽子を被ったまだあどけない少女、ユイだった。
 今日は先日クラインから口説かれ──もとい申し出のあったデートについて、ユイが必死に大好きな両親──和人/キリトと明日奈/アスナのことだ──を説得して敢行されていた。
 場所はALOの空に浮かぶ鋼鉄の城、浮遊城アインクラッド、その第二層である。
 アインクラッドはあの最低最悪なデスゲームとなったSAO──ソードアート・オンライン──のそれと基本的には同じものだ。
 昨年春頃に有志によってALOにアップデートという形で導入されて以来、難易度を当時よりも跳ね上げての再来という形でVRプレイヤーはもちろんSAO生還者(サバイバー)を沸かせている。
 当然、《これはゲームであり遊び》なので、かつての悲劇のような心配はない。そこは安全策が厳重に張り巡らされている。
 だからこそここアインクラッドにおける人口密度はそれなり……なのだが、さほどこの辺りの層にプレイヤーは多くない。
 理由の一つとして、ここはアインクラッドと呼ばれる新エリアではあるものの、低階層なことが上げられる。
 開放されたばかりの時期はまだこの辺りも相当な賑わいを見せていたのだが、《最前線》が何十層も上となった今ではプレイヤーの興味や求めるリターンはより上層へと傾いていた。
 上層へ行けば難易度が上がる代わりにその分リターンも多くを望めるからだ。
 これはMMORPG系ゲームにおける必然的なことでもある。新しいアップデートでも無い限り、自分のレベル帯──能力とも言い換えられる──を下回るエリアや一度踏破したエリアは再訪する旨みがガクンと下がる。
 もちろん全く旨みが無いわけではないし、新たなクエストが発行されていたり見落としの発見や、見知らぬ人への協力を楽しむなどプレイスタイルは人それぞれだ。
 今もってALOプレイヤーは──過渡期は過ぎたものの──ゆるやかな増加傾向にある。新参プレイヤーや未踏破プレイヤーも少なからずいる以上、いくら過疎化しているエリアと言えどプレイヤーが皆無ということは流石に無かった。
 ただ、今のアインクラッドは第一層から第四層程度までは現時点のALOにおいて特にプレイヤーが少ないエリアと呼されていた。

「お、おう……危なかったぜぃ……!」

 ぐいっと掻いてもいない顎下の汗を拭う仕草をしてから、ようやくクラインは姿勢を正した。
 クラインとユイがいるのは二層の中でも比較的大きくない町、《タラン》だった。迷宮区には一番近い町だが、取り立てるほど何かがあるというほどの場所でもない。
 クラインはそのまま牧場のゲートをくぐった。ゲートの上には大きな角を生やした牛の顔を象ったレリーフが飾られている。
 第二層には珍しくない場所だった。《タラン》を始め主街区の《ウルバス》にもこうした場所はいくつかある。
 アインクラッドの各階層はそれぞれ何らかのテーマを持っていて、キリトがかつて《モーモー天国》と評したこの第二層は動物……それもとりわけ《牛》にそのスポットが充てられていた。
 もっとも、この階層に湧出(ポップ)する牛型モンスターを始めフロアボスなどはどちらかというと《牛人間》と呼ぶ方が相応しく、アスナなどは「こんなの牛じゃないでしょ!」と嘆いていた過去があるのだが。
 そんなことを知る由もないクラインは何を思うこともなく牧場の主人の元へ向かう。第二層ではそのテーマ性もあってか牧場経営が盛んという設定があるらしく、特産品物もそれにちなんだものが多い。
 牧場主は白い前掛けエプロンに白いナプキンを頭に巻いたおばさんだった。頭の上にはクエスト受注中のアイコンが浮かび上がっている。

「無事終わったぜ、牛乳配達」

「ええ、本当にありがとう。これはお礼の気持ちです」

 クラインがおばさんに報告すると、おばさんは深々と頭を下げてから一つの壺を手渡した。
 クラインはそれを受け取るとユイに向かって高々と掲げる。

「ほれユイちゃん、ゲットしてやったぜ」

「わあ! ありがとうございます!」

 ユイは目をキラキラと輝かせている。
 このクエストの報酬(リワード)である《ベルベルクリーム》を所望したのは何を隠そう彼女だったのだ。



 二人は《タラン》中心部に戻ると、適当なベンチを見つけてから腰かけた。
 ユイは移動中ずっとクラインから渡されたクリームの入った壺を大切そうに抱えていた。

「ユイちゃんそンなにこのクリームが食べたかったのか?」

「はい!」

 元気よく答える少女の顔にクラインの顔も綻んだ。
 普段は外見年齢不相応に大人びているところを見せるユイだが、こういうところはまだまだ少女そのものだと思える。
 クラインは最初に頼まれ、一層にて購入しておいたパンをシステムウインドウから呼び出し、オブジェクト化してユイに手渡した。
 ユイはそれを受け取ると、左手で壺オブジェクトに触れてからぐいっとパンに塗りたくる。
 あっという間に仮想の鼻腔に甘い匂いが舞い込み、ユイはさらに目の輝きを増した。
 クラインも同じようにしてクリームを塗ると、二人は目を見合わせてからがぶりとパンへ食いついた。

「……やっぱりおいしい!」

 感激したようにユイは喜んだ。
 ニッコリと零れんばかりの笑みを張り付けてはしゃぎ、はぐはぐと残りを頬張っていく。
 小刻みにバタつかせる素足が何とも微笑ましい光景だった。
 クラインはその姿を見て、頑張った甲斐があったと思いながらふと引っかかった事について尋ねる。

「やっぱりってことは、ユイちゃんはコレ食べたことあンのか?」

「いいえ。知識としては《識って》いましたけど」

 ユイの言い回しに僅かに首を傾げながら、クラインはまあいいか、とそれ以上追及することをやめた。
 実際どうでもよかったのだ。ふと気になったから聞いただけで、彼女が喜んでいるなら質問の答えは気にしない。
 折角の《デート》なのだから、楽しめればそれでいいのだ。

「ありがとうございますクラインさん」

「ン? このクリームのことか? なァにどうってことねェって!」

 クラインはパンの残りをバクバクと食べつくすと、ドンと胸を叩いた。任せておけ、というポーズである。
 漢クライン、女の子のお願いは可能な限り叶えるのだった。ましてやデート相手となれば尚更である。

「それもありますけど……私は《ここ》で……《この場所》で、《クラインさんとこのクリームを乗せたパンを食べる》という《経験》を《自分でしておきたかった》んです」

「……?」

 ユイの言うシチュエーションの意味がよくわからない。
 一体この行為のどこが彼女の琴線に触れているのかクラインには知る由もなかった。
 いや、この世界の誰であろうと、恐らくその本当の意味……真意を知ることは出来ないに違いない。
 そういった意味では、クラインに理解が出来ないのは無理のない事であり、責めることはできなかった。

「しっかしユイちゃん、本当にこンなンで良かったのかい?」

「はい」

「そりゃユイちゃんが良いなら良いンだけどさァ」

 今日のデートコースはクライン想定の物、ではなくユイコーディネートによるものだった。
 クラインにもいくつかプランはあったのだが、ユイは最初に「今日のデートコースは私に決めさせてください」とお願いしてきたのだ。
 そのデートコースとは、《アインクラッドを第一層から第三層までクラインと歩くこと》だった。
 その為、途中でいくつかの寄り道はするものの、基本的にはユイが行きたいところにクラインは付いていくというスタンスで今日のデートは進んでいた。

「つまらない……ですか?」

「ン? いや全然そンなことはねェけど、逆にユイちゃんは楽しめてるかなって思ってさ」

 ユイは言いながら、麦わら帽子を脱いで、恐る恐ると言った様子でクラインを見上げた。
 少しだけ不安そうになってしまった少女に、クラインは安心させようとニカッとした笑みを向ける。
 加えてそのままゆっくりと艶のある黒髪に手を伸ばし、優しく髪を撫でながら続けた。

「こう見えても俺だっていろいろ考えていたンだぜ? キリトのヤツからカメラとか借りて現実世界でユイちゃんとどこかに行こう、とかな」

「それも……良かったかもしれませんね」

 ユイは小さく微笑んでから腰を上げた。
 枝毛の無い、スラッとしたサラサラのロングヘアがサラリとクラインの手によって梳かれ、靡く。

「さあ、第三層へそろそろ行きましょうか!」

「また迷宮区を通って行くのかい?」

「はい! 良いですか?」

「ソリャ構わねーけどよ」

 アインクラッドの迷宮区とは徒歩で次層へ至るための道程である。
 言わずもがなダンジョンフィールドであり、安全圏ではない。
 簡単な話、モンスターが普通に湧出(ポップ)し、戦闘になるのである。
 湧出(ポップ)モンスターはクラインの敵ではないし、ユイも《システム上》攻撃されることは無い。
 しかし折角のデート中に戦闘ばかりしているのはどうか、とは流石のクラインも感じていた。それならいつもみんなで集まって遊んでいるのとあまり変わらない。
 迷宮区など使わなくても、主街区の中心部にある転移門からなら解放されている層へと自由に行き来できるのだから、それを利用すれば良いのだ。
 だがユイはそんなクラインの疑問に少しだけ申し訳なさそうな顔をしながら、頼んできた。

「ごめんなさいクラインさん。どうしても《自分の目で見ておきたい》んです」

 ユイが一体何を思い、どんな思惑があるのかクラインには理解できない。
 だが、今日はデートである。それなら、オンナノコの願いは聞き届けるのが男というものだ。

「うっしわかった。まかしときなって!」





「しっかし……懐かしいなァ」

「クラインさんも昔ここを通ったんですか?」

 アインクラッド第二層迷宮区フロア。迷いなく進むクラインの隣を半歩遅れで付いてくるユイがピョコッと顔を覗き込むようにして尋ねてきた。いつの間にか麦和帽子は消えている。
 クラインは目端で捉えたモンスター湧出(ポップ)エフェクトに向かって得意の《カタナスキル》をお見舞いし、完全に電子のポリゴンガラス片へと変えてから──答えた。

「そりゃあな、当時は誰だってこうやって攻略された後の迷宮区をおっかなびっくり通ったモンさ。仲間たちと固まって歩いて、Mobトーラス相手に全員でがむしゃらにソードスキル振るったりしてな。まだまだSAOでの戦闘に慣れきっていなかったから今思えばアリャ随分とオーバーキルだったろうなあ」

 懐かしむようなクラインの顔を見て、しかしユイは「あれ?」と首を傾げる。
 何故そのクライン達は迷宮区を通ったのか、と。

「でも、転移門で上には行けたはずですよね?」

「そりゃあ行こうと思えば行けたさ。でもなユイちゃん、上に行けば行くほど強い敵がいるのに、弱いマンマの俺たちじゃあっという間に殺されちまうだろ?」

「あ……」

「だから俺たち……《風林火山》はゆっくり低層を攻略してレベルを上げて行ったのさ。《攻略組》に合流するまでには大分時間がかかっちまったけどおかげで良いこともあったンだぜ?」

「良いこと?」

「ああ。攻略組の連中は常にフロントラインで戦い続けているから通り過ぎた層のクエストには基本興味を示さねェ。取り零しがあってもドンドン先に行っちまう。まあ当然のことなンだけどよ」

 SAOのクリア……それすなわち全プレイヤーの解放。
 デスゲームと化した世界からの生還は当時誰もが望んでいたことだ。
 戻ってやりたいことがまだ一杯あったし、早く戻らなければならない理由もそれぞれ多々あった。
 時間がかかればかかるほど、社会復帰も《命》も危うくなっていく。
 解放を待つプレイヤーは始まりの街に五万といた。そんな人達のためにも、攻略は速度を求められていた。

「ンで、だ、そンなわけだから《クエストの効率化》なンてことには気を向ける余裕はないわけで。逆に先に進むのにビビリまくっていた俺たちは何度も似たようなクエ繰り返してな。結果、クエストの効率化が自然と身についていったンだよこれが。そうやって覚えた事をまだ未達成の奴らに協力して広げていく……それがなンていうか、こう言ったら変だけどよ、結構ジュージツしていたっていうか」

「あ、もしかしてそれでさっきあの《牛乳配達》のクエスト、クリア出来たのですか?」

「まァな」

「パパも一人じゃ相当キツイって言っていたのにクラインさんクリアしちゃうから実は結構ビックリしていました」

「キリトが? へえ、あいつがそンなことをねえ……これでようやく一コ勝ったぜ」

「あ……」

 瞬間、ユイはとてもバツが悪そうな顔になった。
 言ってはいけないことを言ってしまった……そんな顔だ。

「ユイちゃん?」

「……すいませんクラインさん。今言った事はパパとママには内緒にしてもらえますか?」

「別にいいケドさ、なンでだ?」

「……」

 ユイは口籠る。
 ずっと感じていたことだが、今日のユイは何か変だった。
 隠し事をしている……とはクラインも思うのだが、それが一体どんなものなのかまではわからない。
 ただ人の、ましてや女の子の秘密や隠し事を根堀り葉堀り聞く趣味はクラインには無いため、腑に落ちない点はあるものの快く了承する。

「まあユイちゃんがそう言うなら秘密にしておこうや。その代わり一層のアレはキリトやアスナさんには秘密にしておいてくれよ? ユイちゃん」

「一層のって……《クラインさんが私の裸を見た》ことですか?」

「しぃぃーッ! ユイちゃん声がでかいって!」

 クラインは周囲をぶんぶんと見渡し他にプレイヤーがいないことを確認し、安堵する。
 いかに人の少ないエリアのダンジョンとは言え、何処に目や耳があるかはわかったものではない。
 それに、その件は飽くまで不可抗力なのだ。不可抗力なのだが、本人に事実を言い回られては男としては立場的に非常に危うくなる。

「わかりました。パパとママには秘密にしておきます」

 フフッと小さく笑いながらユイは了承した。
 その返事にホッと胸を撫で下ろしながらクラインは第一層でのことを思い出す。



 第一層の迷宮区に最も近い町《トールバーナ》。ユイが一番最初に行きたがったのはその町の広場だった。
 この広場は当時、初めての攻略会議が行われた場所として、少しだけ有名だった。
 特に何があるわけでもない、石畳の小さい半径アリーナ状になっていて、向かいにはステージがある。
 ここで初めて音頭をとったプレイヤーは第一層攻略時に亡くなっているが、彼がいたからこそその後の攻略があるとされていた。
 ユイは薄らと目を細めてステージを見渡すと、次いで町の東へと足を向ける。どうやら目的地があるらしく、クラインは黙ってユイについていった。
 街を歩いているのはほとんどがNPCだが時折プレイヤーも見受けられる。何人かとすれ違った時、クラインは引っ張られるようにすれ違った相手へと振り返った。
 肩まである緑のセミロングヘアに露出が高めな和風をイメージさせる着物もどき装備の女性プレイヤー。
 股下からのぞかせる素足がなんともたまらない……と思ったところで慌ててクラインは視線を元に戻す。
 ユイはこう見えて鋭く結構嫉妬深い。デート中に他の女性に目を奪われたことなどがばれたら雷が落ちることになるのは必至だ。
 しかし、ユイは何の反応も示さなかった。ばれなかったのかもしれないとホッと胸を撫で下ろしクラインは何事も無かったかのようにユイについていく。
 《トールバーナ》の東部は牧草地帯が広がっていて、ぽつぽつと農家らしい家が散見される。
 その中でも小川沿いにある大きな家へとユイは足を踏み入れた。家の真横には小川を動力源とした水車が設置されており、ごとんごとんと風情ある音を醸し出している。
 実際に泊まるつもりは無かったのだが──そもそも今夜十二時までにはユイの所有権を返す約束である──ユイたっての希望によりクラインはこの家の部屋を借り入れた。
 クラインの所持ユルドはそれなりにある為、当時と同じ金額──一コル一ユルド換算──の支払いは彼にとって軽いものだった。
 借りた部屋は二階の一室で、これまたかなり広い。無料でミルクも飲めるとあって早速クラインはピッチャーからグラスにミルクを注いで一気飲みした時だった。

「クラインさん、私ちょっとお風呂に入りますね」

「おう……おう?」

 答えてからすぐに疑問符を浮かべる。
 確かにこの部屋には【Bathroom】と書かれたプレートがかかっている扉がある。
 だが何故このタイミングで? と深く考えている余裕はクラインには無かった。

「覗いちゃだめですよ?」

 茶目っ気たっぷりなユイの笑みにクラインは慌てだす。
 首をぶんぶんと振って行儀正しくソファーに腰掛け、ぐびぐびとミルクを飲んで精神を落ち着かせる。
 【Bathroom】のプレートがかかったドアを穴が開くほど見つめながらそろそろ飲んでいるミルクが二桁杯に届きそうとなったとき、ようやくその扉は開かれた。

「ぶふぅぅぅぅううっ!?」

 瞬間、クラインは白濁液を口から噴出した。
 幸いにも噴出された白濁液……ミルクは空中で霧散し床を濡らすことは無い。もっとも濡らしたところでたちどころに乾いてしまうのだが。
 しかしそんなことに配れる気などクラインは持ち合わせていなかった。噴出したミルクと一緒に放出してしまった。

「ユユユユユユ、ユイちゃん……!?」

「あっ!? 《ママ達》と一緒に入った時の癖でつい……」

 ユイの体はうっすらと煙る湯気エフェクトの中で一糸纏わぬ、綺麗な肌色一色だった。
 流石のユイも慌てて戻り、一瞬で着替えを済ませて再び出てくる。
 少しだけ顔を赤く染めて、おずおずと向けられる視線はクラインに少なくない衝撃を与えた。
 その気持ちを打ち消すために二人はそのままユイが希望した迷宮区へ向かい、敵をバッタバッタと切り倒しながら二層へと進んだのである。





「今日は楽しかったか? ユイちゃん」

「……はい」

 三層の探索を終えたところでクラインが尋ねると、少しだけ元気が無い声でユイが答えた。
 ユイは三層では何を求めるでもなく、ただクラインと街やフィールドを歩いて回るだけだった。
 時折、森の奥深くを睨みつけるようにしてジッと立ち止まったり、何かのオブジェクトに触れてはゆっくりと目を閉じて動かなくなるが、それを除けば三層は終始散策していただけだ。
 それでも会話は弾んだし、楽しいことも一杯あった。だから彼女の返事はとても気持ちの良いものを期待していたのだが……そんな思惑とは反対にユイは沈んだような顔をしている。
 クラインが「あれ? 俺何かやらかしたか?」と思うのも仕方のない事だった。

「クラインさん、今日は……いえ、これまでありがとうございました」

「なンだよユイちゃん、水くせえなあ。ユイちゃんさえ良ければこれくらいいつだって……」

「……もう……──め、なんです」

「えっ……」

 彼女が呟いた言葉をクラインは聞き取ることが出来なかった。
 ただ、

「ううん、なんでもありません……《さようなら》クラインさん」

 彼女が最後に浮かべた笑顔は、とても哀愁を帯びていて。
 徐々にその姿を透明化させ、消える瞬間に放たれた言葉は……まるで《今生の別れ》であるかのような……そんな根拠の無い不安をクラインに与えた。










 深い深い底の底。
 表現しがたい暗闇の中で、薄く発光するユイは膝を抱えて揺蕩っていた。
 ここは水中ではない。しかし彼女の体は水中にいるかのように揺蕩っている。
 ポロン、と小さい水泡が生まれて、溶けた。水泡は次から次へと生まれては……溶けていく──《無くなっていく》。
 水泡の発生源はユイだった。ユイから生み出され、無へと回帰される。
 ユイは尚一層膝へと自分の顔を埋めた。揺蕩う漆黒のロングヘアが、肩を撫でる。
 彼女の小さい体は、少しだけ振動していた。

「……ぅっ」

 初めて音らしい音が世界に発生する。
 嗚咽……と言う種類に分類されるデータ郡から選択されたそれは、やはりユイから発生したものだ。
 この世界にはユイ以外の物は存在しない。彼女だけのプライベート空間……ではなく人には認識できない電子の世界。
 
「……こんな気持ちになるのなら、あの時……」

 ユイが発した言葉は決して誰にも聞かれない。ログが保存されるわけでもない。
 これは単なるコンピュータ上にあるAI……人工知能内における演算過程に過ぎない。
 現実時間にして一秒にも満たない一間で、ひたすらなゼロとイチのイエスノー判断を高速処理しているだけだ。
 ユイは顔を膝に埋めたまま左手を宙に掲げる。
 そのまま手先で何か操作するような仕草をすると、何も無い空間にいくつものウインドウがぶわっと浮かび上がった。
 その中の一つ、顔を膝に埋めたユイの正面に浮かぶウインドウには……クラインの顔があった。
 そのクラインの頬に口付けをしているのは……ユイだ。クラインは驚いて固まってしまっている。
 そのウインドウにユイの手が触れ────────その手が、《ドット抜け》した。

「……ッ!」

 ユイは力を込めてウインドウに手を触れる。
 すぐに手は何の変化もないいつもの状態に戻ったが、先よりも体の震えは増していた。

「……《残り時間》はもう……長くない。《カウントダウン》は始まってしまった」

 ユイは撫でるようにしてウインドウ上のクラインの頬に触れる。
 顔は、まだ膝に埋めたままだ。

「《あの時》から、《こうなる》のはわかっていたのに……」

 ユイには、全てが《想定内》の事態だった。
 それを覚悟の上で彼女は今日まで過ごしてきた。
 ただ《想定外》だったものが一つ。

「痛いって……こういうこと、なんですね……ママ、パパ」

 大好きな両親に、現実世界あるいは仮想世界では決して口にしたことのない彼女の……弱音。
 本来AIである彼女に《痛覚》は存在しない。しかし、今ユイは確かに《痛み》を感じていた。

「でも……まだ、だめです。せめてもう少し……《私はどうなってもいいから》もう少しだけパパとママの為に……データは揃いました。《今度こそ気付いてくれる》…………そのためには」

 ユイは、初めて顔を上げた。
 その双眸からは雫が滴り落ち……無へと還元される。涙エフェクトという名前ではないそれは、機械的にはやはり水泡と呼ばざるを得ない。
 ユイが触れているウインドウに映っているのは……これまで《忘れたことのない》初めて会った時のクライン。
 ユイは口の中で「ごめんなさい」と呟いてから、目を閉じた。ウインドウに触れている手は、震えている。
 ゆっくりと、彼女の瞼から零れている雫が透明になっていき……消えていく。震えが、止まる。

「…………………………《感情制御リプログラム》、実行」

 音もなく、ウインドウが砕け散った。










 「ピッ」と向かっていたデスクトップから電子音が鳴る。
 キリト/和人は「おっ」とその発信音の原因に気付いた。
 ALOでは友人たちと目的のクエストを見事達成し、欲しいレアアイテムも手に入れたので今日のところは解散し、皆現実世界へと戻ってきていた。
 和人はその後、PCでいくつか作業をしながらユイの帰還を今か今かと待っていたというわけだ。

「帰ってきたか、ユイ」

 和人の少しだけホッとしたような声。
 別にクラインのことをそれほど疑っていたわけではないのだが、それとは別にやはり心配してしまうものだ。

『あ、パパ。お帰りなさい』

「それはこっちの台詞だぞユイ。それでどうだった?」

『何がです?』

「何って今日のことだよ」

『今日……? 何のことです?』

 ユイのとぼけている……のとは少し違う不思議そうな声に、和人は首を傾げた。
 《いつものユイなら》その日あった事をまくし立てるように話してくれるのだが。
 それとも彼女もやはり乙女。いくら父親と言えど初デートのことは話さず自分の胸の中に仕舞っておきたいのだろうか。

「言いたくないんなら無理に聞かないけど……クラインと出かけてきたんだろ?」

『………………ああ、《そういえばそうでした》。はい、とっても楽しかったですよ!』

 少しだけ間を空けた後、ユイはいつものようにはしゃでいでマシンガントークに花を咲かせ始めた。
 「聞いていますかパパ!」と嬉しそうに話をしたがるユイに、和人は一瞬よぎった先の違和感を「考えすぎか」と打ち消す。
 ただ──────気のせいだろうか。

 ユイの話は彼女自身の経験談のはずなのに、時々まるで《他人事》のように聞こえてしまうのは。



[35052] マザーズ・ロザリオ4
Name: YY◆90a32a80 ID:b9264a49
Date: 2014/09/20 23:06


「そう言えばユージーン将軍の話、聞いた?」

 そう切り出したリズベットの問いに、アスナは忙しなく動かしていた手を休め少しだけ顔を引き攣らせた。
 ユージーン将軍と言えば火妖精族(サラマンダー)のハイプレイヤーだ。火妖精族(サラマンダー)領主、モーティマーの弟にして種族部隊における地位も№2──戦闘力のみにおいてなら№1と言っても過言ではない──を誇っている。
 さらにゲームサーバー内に一本しか存在しないオンリーワンの伝説武器(レジェンダリィウェポン)《魔剣グラム》を所持していることを考えると間違いなくALO──アルヴヘイム・オンライン──最強プレイヤーの一角を担うだろう。
 あの武器に付加されているエクストラ効果、《エセリアルシフト》はそう易々とは攻略できない。ただ、彼は少々性格に難があった。

「そう嫌そうな顔しなさんなって」

「だって……」

 ユージーンは強いプレイヤーが好きなことで有名だった。
 バトルジャンキー……だというのならまだ可愛いもので、彼の目的を知った今となっては辟易するばかりでもある。
 彼の目的は自分が納得するほどの強い相手を己の属する種族領の領地へと呼び込み、結婚するということだった。
 他人に勝負を挑んでは自分の眼鏡に適う相手を見つけると娶るべく口説いてくる……という彼の有り方は最早ALOで知らぬ者のいないポピュラーな話だ。
 ただし前述したとおり彼自身も相当な腕前の為、彼を満足させられるプレイヤーはALO広しと言えど中々いない。
 必然的にユージーンは、これまでに見つけたことのある数少ない《強敵》と書いて《ヨメコウホ》と読む相手の元へ赴くことが多くなる。
 そこでは交渉とは名ばかりの求婚という体裁を借りたガチバトルを強いられ、何故か負けると結婚を了承したことにされてしまうという意味不明ルールが彼の中では採択されている。
 これが対岸の火事であったならアスナも「迷惑な人もいるねえ」と世間話程度に笑ってスルーできるのだが、我が身や《彼》にまでその毒牙が及ぶとなると無視することも出来ない。
 そう、ユージーン将軍と不本意ながらも戦った──それも眼鏡に適う戦いを見せてしまった──アスナや彼女に近しい何人かは全く持って嬉しくないことにユージーン将軍の嫁候補入りを果たしていた。
 無論全力でお断りしているのだが、彼はどうにもそれを聞き入れない。さらに良くない事に彼は強ければそれで良いらしく、《男性》であろうとその力量によっては求婚対象となる。
 アスナの周りでは自分を含め既に三人が目を付けられていた。
 アスナ、リーファ……そしてキリト。
 ユージーン将軍が来るたびにお断りするか叩きのめすかするのだが、彼は一切めげずにフラッと現れては求婚バトルを繰り返してくる。
 というより、自分の認めた相手は彼の中では既にほとんど嫁なのだ……傍迷惑な事に。
 悪い人、という程でもないのだが、いい加減そういった勧誘……もとい求婚は止めてほしいものである。
 アスナには既に心に決めた相手がいるのだ。彼以外と未来を歩む気はそれが例え《仮想世界》のことであろうとミジンコ一匹分たりとも考えられない。
 同時に、そろそろキリトに手を出すのもやめてもらいたい。いろいろな意味で。
 そもそもどうやったらそんなことが出来るのか、いつもいつも狙ったかのようなタイミングでユージーン将軍は現れるのである。
 この前などは、リーファに教わったスカイダンスを彼と踊り、ふと見つめあって良い空気になり、もうすぐ互いの距離が零になる……というところで現れた。
 流石に温厚──だと思っている──アスナもアレにはかなりの怒りを覚え、久しぶりに全力全開の最上位細剣技《フラッシング・ペネトレイター》をお見舞いし、一切の反撃を許されず赤い《リメインライト》となったユージーン将軍に対し蘇生可能時間である一分間をまるまる恨み辛みの籠った説教で責め続けたことはまだ記憶に新しい。
 ちなみにキリトはアスナの《フラッシング・ペネトレイター》を見て、

「あの技は結構な加速距離を必要とするんじゃなかったっけ?」

 などとアスナの攻撃スキルに対するややシステムを超えた無茶ぶりに──自分のことは棚に上げて──戦々恐々としていたことは余談である。

 閑話休題。

 ユージーンとはアスナにとってそういう相手であることから、あまり彼に関する話は期待できなかった。
 精々またぞろ何か厄介ごとに巻き込まれるかもしれない……などといったマイナスイメージがどうしても先行してしまう。

「まあまあ、その様子だと知らないみたいね。ユージーン将軍の連日求婚バトル」

「……へ?」

 リズベットの言葉に、アスナは素っ頓狂な声を上げた。
 意味が分からなかったわけではない。意味がわかったからこそ、驚いたのだ。
 手合せしたことのあるアスナだからこそ、良くわかる。ユージーン将軍の強さは本物だ。
 その彼に連日勝負を挑まれる……ということはその相手は相当な強さを持っていることは疑う余地もない。
 しかし最も驚くべきところは、どうやらそのバトルが現在進行形で続いている……という事実だった。
 それはすなわち、その対戦相手が勝利し続けているということなのだから。
 いくら空気の読めない、相手の都合をあまり省みないユージーン将軍と言えど相手の許可が無い限り日を置かずの挑戦はしてこない。
 それぐらいのマナーは彼にも存在する。
 しかしそんな彼が連日戦い続けているとなれば、相手プレイヤーは連日の挑戦を受け入れ、尚且つユージーン将軍に勝ち続けていることになる。
 それは一体どれほどの豪傑……強者なのか、自身もそれなりに強い自負があるアスナは初めてこの会話に少しばかりの興味を持ち始めた。
 アスナはテーブルに置いてある先日みんなで受けたクエストで入手した《九十九種のお茶がランダムで出るポット》をタップし、もくもくとした湯気を立ち上らせる味違いのお茶を三つ入れると、その一つをリズベットの前にコトンと置いた。
 話を聞きましょう、という合図だ。もう一つは今の話を黙って聞いていた風妖精族(シルフ)のリーファの前へと静かに置く。
 その瞬間、リーファの隣でテーブルに突っ伏していた猫耳アバター少女がピクリと反応した。
 カップから放たれる芳醇な香りに獣よろしく気づいたらしいシリカは、眠い目をこすりながら猫のように顔を数回洗い、獣耳をぴくんぴくんと揺らせてから突っ伏していた顔をのろのろと上げる。
 ぼんやりとした定まらない視線が徐々に実像を結び始め、現状を理解した。

「ふみゅ……良い香り、ですね~」

「あ、起きた? それじゃシリカちゃんの分も入れるね」

 シリカの様子に苦笑しながら、アスナはシリカにもアツアツのお茶を用意し、改めてリズベットの話を聞くべく向き直った。
 今日は残り僅かとなった冬休みの宿題をみんなで片付けるべく、アインクラッド二十二層にあるアスナとキリトのプレイヤーホームへと集まっていた。
 アスナとキリト、そしてユイの帰るべき場所とも言えるこの場所はいつからかみんなの溜まり場にもなっていて、何か集まるのなら大抵はリズベットのお店かこの家と相場が決まっていた。
 最も、比率的にはリズベット武具店よりもこちらの方が多い。その理由としては、誰もが言葉にできない居心地の良さを感じてしまうからだろう。
 アスナ自身、ここがとても気に入っていて、現実世界よりも安らぐことが多々ある。他の人にもそれが伝染するのは喜ばしい事ではあるのだが、どうにもこの場所を気に入ったリピーターが後を絶たず、知り合いがひっきりなしに訪ねてくるのは少々悩みどころでもあった。
 本当に偶には、彼と娘と《家族三人》の時間を持ちたいと思わないでもない。賑やかなことが嫌いではないのだが、やはりそれとこれとは別感情である。
 そのキリトは、と言えば赤々と燃えるペチカのそばで、揺り椅子をゆっくりと揺らしながら眠っていた。
 この揺り椅子はクリスハイトからの贈り物だが、使い心地は悪くなかった。キリトなどは時間が空くとこの椅子に座り、すやすやと眠りに落ちてしまう事は日常茶飯事で、寝室のベッドよりもこちらで眠ってしまう事の方が多いくらいだった。
 理由としては使い心地もさることながら、かつてデスゲーム時代のSAOにおいてこの家で使っていた揺り椅子に似ていることがあげられるだろう。
 その揺り椅子も、もともとはアインクラッド第五十層主街区《アルゲード》にてエギルが開いていた店の二階にあったものを当時結婚祝いだとして譲り受けた物だ。
 当時からキリトはその椅子を大層気に入っていて、揺り椅子に腰かけているとふとした拍子には眠りこけてしまう。アスナは何度もそんなキリトを見ては苦笑して、一緒に甘い眠りを共有したものだった。

「ありがとうございます……」

 シリカはアスナに礼を述べると、コクコクとカップに口を付け、眠気をさらに追い払っていく。
 そんなやり取りを見終えてからリズベットは会話を再開した。

「二十四層主街区のちょっと北にでっかい樹が生えた観光スポットの小島があるじゃない? あそこの樹の根元で午後三時に挑戦者求むって人がいるんだけど」

「それが相当の腕前、ってこと? スタイルは?」

「戦い方はちょっと違うけど属性的にはキリトに近いんじゃないかな。片手直剣使いの脳筋タイプで魔法は使わないみたい。その戦い方で毎日何十人と斬っているみたいよ」

「へぇ……」

 彼とほとんど同じスタイルの強者、というのはこれまたアスナの興味を大いに刺激した。
 しかしそこでふと疑問が残る。

「でもよくそんなに挑戦者が集まるね。その話しぶりだとまだ挑戦者募っていて、毎日コンスタントに挑戦者がいるんでしょ?」

 腕試しや物は試し……で挑戦する人はいるだろう。
 だが、挑戦者が居続けるとなると少々腑に落ちない。
 ユージーン将軍は別としても、目的もなしに戦い続けるだけのプレイヤーは実はそう多くもない。
 そもそもデュエルにおけるデスペナルティはなかなかに重く、取り戻すのには時間がかかる。
 となれば……。

「まぁ最初は無名の選手が対戦者求む、なんて生意気だってそれなりの古参プレイヤーが痛い目合わせる目的で行ったらしいんだけど……返り討ちにあったみたいでね。そこから強いって噂が流れに流れてってのもあるんだけど……お察しの通りBETがなかなか凄いのよ」

「高額ユルドとか? それともレア武器? まさか《伝説武器(レジェンダリィウェポン)》級ってことはないわよね?」

「違う違う。けど人によってはそれ以上の価値かもよ?」

「それ以上の……?」

「そう。勝者にはOSSの秘伝書がもらえるの。なんと十一連撃!」

「じゅーいち!?」

 思わずアスナも恐れ慄く。
 OSSとはオリジナル・ソードスキルのことだ。
 ALOにおいてアインクラッド実装に伴いアップデートされたソードスキルというSAOの遺産。
 運営はこれをただそのまま使用することを良しとせず、ほぼすべてのソードスキルに属性ダメージを付加した。
 さらに運営は新しく、自身で考えたオリジナルのソードスキルを生み出すことをシステム的に可能としたのだ。
 これには多くのプレイヤーが沸き、《ぼくのかんがえたさいきょうのわざ》を編み出すべく日々剣を振り続け……挫折したのだった。
 オリジナル・ソードスキルを登録する手段は非常に簡単で、システムメニューからOSSタブの《剣技記録》をスタートさせ、実際に技を記録するのだが、これがシステム的にソードスキルとして認められるには様々な規定があった。
 第一に既に登録済みの動きは採用されない。単発モーションは既にほぼ基本技として存在するため、必然的に登録するなら連続剣が求められてくる。
 この連続剣がなかなか厄介で、体に少しでも無理があるとシステムとしては認められず、また実際のソードスキルに迫るスピードでなくてはならない。
 つまり、本来システムアシストがあって初めて使えるソードスキルのモーションをアシストなしで再現することが求められているのだ。
 それだけ難易度が高い分リターンもそれなりで、対モンスター、対プレイヤーに対してOSSは相当な補正がかかり、威力は絶大となる。
 アスナ自身も五連撃のソードスキルを編み出すことには成功したものの──それでも中々凄いことなのだが──それで気力を使い果たし、さらなる上位剣技への挑戦は未だしていない。
 先のユージーン将軍でさえ生み出せたのは八連撃が最大とのことで、それを上回る十一連撃とはいかほど凄いのか、益々興味は深まるばかりだ。
 しかしこれで合点はいった。OSSは一代に限り伝承することが可能となっている。最強の一角を担うユージーン将軍でさえ勝てないプレイヤーの、それも十一連撃OSSとなれば皆喉から手が出るほど欲しいはずだ。
 挑戦者が後を絶たず、有名になるのも頷ける話だった。
 しかし、そこでさらなる疑問がアスナに湧いてきた。

「えっと、その人……」

「名前はわかんないんだよね、種族は闇妖精族(インプ)で通り名は《絶剣》って呼ばれてるけど……って、そうだ。リーファは分かるんじゃないの?」

「それを言うならリズさんだって」

 唐突に話を振られたリーファはバツが悪そうに苦笑しながらリズベットへ返す。
 リズベットも「やぶへびだった」と肩を竦めた。意味が分からないアスナとしては少々居心地が悪い。
 それに気付いたシリカがアスナに説明するべく口を開いた。

「実はリズさんとリーファは絶剣さんと戦ったんですよ。ものの見事にやられちゃいましたけど」

「うるさいわね、何事もやってみなけりゃわからないでしょーよ」

「経験だもん」

 二人は揃ってやや悔しそうに唇を尖らせた。
 リズベットとリーファの二人はデュエルの際相手プレイヤーの名前を見ているはずなのだが、目の前の戦闘に思考が集中してしまってプレイヤー名を覚えていないという少々お粗末な結果だった。
 余談だがシリカはリーファと同年代なこともあってリアル共に特に仲が良い。
 既にお互いほとんど呼び捨てで呼び合い、休日には一緒に出掛けたりするほどだ。
 あのウェブサイトで知り合って以来、二人の絆は強固になっていた。お互い、今はそのサイトの《とあるサービス》に期待して毎日チェックしていたりもする。

「へえ……」

 試合結果を聞いたアスナは改めて《絶剣》なるプレイヤーの実力に感嘆する。
 半分鍛冶師能力構成(ビルド)のリズベットはともかく風妖精族(シルフ)でもかなりの腕前を持つリーファがやられたとなると相手の実力は本物だろう。
 それはユージーン将軍を退けていることからも窺える。
 話を聞いたアスナは、少しだけ自信を無くした。リーファが勝てないのであれば自分も無理かもしれない、と。

「やってみなければわかりませんよ」

 リーファは少しだけ恐縮しながら答える。
 しかし世辞ではない。リーファ自身何度かアスナと腕試しバトルをした経験や一緒に戦った事のある経験から、彼女の強さの底が未だ見えないでいた。
 彼女ならあるいは、という思いがないわけではないのだ。

「ん……それならまあやるだけやってみてもいいかな……ってそういえば」

 そこでアスナはこういう話が好きそうな人の事を思い出す。
 ゆっくりと視線をペチカ傍で静かに動く揺り椅子に向けると、未だ黒い影妖精族(スプリガン)の少年は双眸を閉じたまま現実同様のあどけない寝顔を晒していた。
 彼のアバター容姿はSAO時代の物を引き継いでいない。つまり、現実世界の彼とは少々違った顔つきなのだが、どこかリアルの面影を匂わせるのはユイの要望によって変えられたヘアスタイルのせいだろう。
 小竜ピナが、獣使い(ビーストテイマー)である猫妖精族(ケットシー)のシリカの頭を定位置としているように、ユイの定位置はキリトの頭やら胸ポケットやらだったりする。
 そのユイが頭の上に居辛いとキリトに上申し、いかなやり取りがあったのかアスナには不明だが、比較的アバター容姿には不精なキリトがユイの提案を珍しく受け入れてヘアスタイルチェンジをわざわざ床屋ショップで行ったのである。
 おかげで、SAO時代のステータスしか引き継いでいない筈のキリトはしかし、ツンツンとした黒頭からリアルに少々似ているサラリと下ろした黒頭にジョブチェンジされていて、なんというか……アスナの好みを益々突く出で立ちになっていた。
 そのキリトの腹の上ではフワフワとした和毛を持ったピナが丸くなって眠っており、さらにピナを布団代わりにユイが小さくなって眠っている。
 ピナは基本シリカ意外になつくことはないが、何故かキリトには比較的心を許していて、本当に不思議なのだが普段シリカの傍から離れることのないピナはキリトが眠っている所に出くわすと自身もキリトの元へ飛んでいって眠りを共有せんと丸くなるのである。
 それを見るたびにアスナは何故か……妙な勘繰りを入れてしまう。
 脳裏によぎるのは思い出したくもない須郷伸之に囚われていたキリトを助け出した後のことだ。
 ピナ……フェザーリドラの姿を借りたヒースクリフ団長、いや茅場晶彦が助言とも取れる言葉を残した事はアスナも忘れていない。
 キリトの話も合算するとどうやら本物の──この表現が正しいのかは分からないが──茅場晶彦はその時既に亡くなっていたそうだ。
 アスナは電子的な分野には少々疎く、詳しくは分からないが自身の脳をスキャンして亡くなったという。スキャンの成功率はほんの僅かだったそうだが、ああして実際に相まみえたことから、キリトはそれに成功したのではないかと睨んでいた。
 速い話、茅場晶彦はその記憶と意識を電子データとして変換し、電子の世界を彷徨っている可能性があるとのことなのだ。
 かなり荒唐無稽な話ではあるが、実際に自分の目で見ている以上、お伽噺として切り捨てることも出来ない。
 キリト自身も実際ピナと茅場晶彦の繋がりがどれほどなのかは想像もつかないと言う。
 ただ、《箱舟》……と言っていたそうなので、単なるバックドアの一つでしかなく、めったなことではピナを経由して自分たちの前には姿を現さないだろう、というのが一応キリトの見解であった。
 アスナもまたその考えを支持しているのだが、こういう時には「……まさかね」と思ってしまう。

「おーい……熱い視線送ったまま止まるのいい加減止めてくんなーい?」

 リズベットの諌めるような声にハッとアスナは自身を取り戻した。
 いけないいけない。内容はどうあれ彼が関わるとつい思考がトリップしてしまう。 

「え、えと……キリト君とかそういう話好きそうじゃない?」

「あーまあ、ねえ……」

 リズベットの歯切れがやや悪くなる。
 アスナは首を傾げた。何かあったのだろうか。

「アスナさんはこの前帰ってきたばかりで、一緒にそのポットのクエストやった時にはお兄ちゃんも比較的いつも通りだったから気付かなかったでしょうけど……」

「絶剣の噂を聞き始めたのは年末年始あたりからだったから」

「それがどうかしたの?」

 いまいちアスナにはリーファとリズベットの話が飲み込めない。
 年末年始に噂がたった……つまり現れたからなんだと言うのだろう。
 別に然程不思議でも驚くことでもないような気はするのだが。

「あんたも大概ねえアスナ。キリトのヤツがアンタなしでモチベーション保てると思ってんの?」

「お兄ちゃん、アスナさんがいないからって年末年始は腑抜けそのものでしたから」

「キリトさん、その辺の雑魚Mobにも一回危ない目に合うくらいには集中できていませんでしたね」

「んな状態のキリトがそーんな強プレイヤーに挑みに行くと思う? 噂さえ右から左に抜けていってるかもよ」

「あう……」

 まさに予想外の切り返しにアスナは顔を赤く染めた。
 ALOアバターのフェイスエフェクトはSAO時代よりは幾分マシになったものの、それでも感情に過剰気味に反応する。
 アスナは思わず顔を上げていられず俯いてしまった。
 そんなアスナに、少しだけ真剣な声色でリーファは話しかける。

「今でこそ、家の中でも表情を見せるようになってくれましたけど……やっぱりまだお兄ちゃんの顔は硬いんです。アスナさんといる時みたいには……まだ無理みたいで」

「リーファちゃん……」

「だから、私が言うのも変かもしれないんですけど……お兄ちゃんを、よろしくお願いします」

 リーファがその長いポニーテールを揺らして頭を下げる。
 ふよん、とふくよかな胸がテーブルに押し付けられて形の良いお椀が潰れた。
 思わずシリカとリズベットは自身の胸に手を当てて溜息を吐く。
 そんな二人の行動を見て見ぬフリをして、アスナはリーファの手を握った。

「リーファちゃん、きっとキリト君には私だけじゃなくてリーファちゃんだって必要なはずだよ。だから、一緒に頑張っていこう、ね?」

「……はい!」

 リーファのはにかむような笑顔にアスナも心から温かくなりながら、しかし目端で捉えたデジタル時計に焦り出す。
 その時刻はもうじき午後六時になろうとしていた。

「いっけない! もうこんな時間だわ。そろそろ夕飯の時間になっちゃう」

「あ~、アスナのトコは結構厳しいからね。今日はこれでお開きにしよっか」

「うん、ごめんね?」

「いーっていーって。それで明日どうする? 絶剣……行くの?」

「うーん……」

 アスナは少しだけ迷う素振りを見せてから、しかし頷いた。
 もとより、この世界に浸かった時からそれらの好奇心を最早制御などできるはずもない。

「一応やるだけやってみる」

「そっか、じゃあ明日は応援だね。それじゃまた」

「お疲れ様でした~」

 リズベットとシリカがログアウトし、ログハウス内にはリーファとアスナ、キリトとユイが残される。
 ユイが布団代わりにしていたピナは主であるシリカのログアウトと同時に消滅したが、ユイは目覚めることなく、目を閉じたまま布団を探るようにして今度はキリトの衣類をギュッと掴み、すやすやと眠り続けていた。

「まるで家でのお兄ちゃんみたい」

 くすくすと笑うリーファにアスナも苦笑を零す。
 性格的にはアスナ似だとよく言われるユイだが、深い所では結構キリトの影響を受けている。
 無意識下に近い状況や、理性的判断が求められる時とは無縁なケースではキリトのような決定を下すことも珍しくないのだ。

「私、先に落ちて夕飯の準備をしているので、お兄ちゃん起こしておいてもらえますか?」

「うん、わかったよ」

「それじゃ、お疲れ様でした」

「またねリーファちゃん」

「はい、明日楽しみにしていますね」

 リーファ/直葉はそう言い残すと即時ログアウトし、その姿を光のポリゴンへと霧散させていった。
 アスナは少しだけ申し訳なく思いながら、心の中でお礼を言う。ありがとう、と。
 今のは直葉が気を回してくれたのだ。キリトと二人きりの時間──ユイはいるがそれを気にするキリトとアスナではない──を作らせるために。
 彼女はそういった気の使い方を時折してくれる。以前などは少しだけ彼とギクシャクしてしまった時にキリト/和人の夕飯を任されたこともあった。
 そのおかげもあってかこんな関係を続けていられるのだとアスナは自覚している。本当に彼女には頭が上がらない。
 ちなみにその翌日、ややいたたまれない空気になったのは……あえて自業自得と思うことにしている。
 今日は母親がいないから一緒に夕飯の用意をしなくてはならない……と直葉は言っていたはずなので、あまり時間をかけるのは悪い。
 すぐに起こすことを決めつつ、すやすやと仮想世界のそのまた仮想世界へと旅立つ彼の横に滑り込む。
 ギシッと揺り椅子が少しだけ軋んで、動きを止める。この程度では彼が目覚めないのは既に何度も経験済みなので、慌てることなく彼の鎖骨に頭を預けて目を閉じる。
 暖かな感触がアスナを優しく包み込み、スッと胸の奥の不安を鎮めてくれる。
 この感覚がペチカの赤々と燃える熱エフェクトの影響だとか、人の熱体感を電子的に再現した似非感覚だとロジック的な説明をすることは簡単だが、アスナそれだけではないと感じていた。
 仮想世界だろうと、そこに世界があることは事実で、そこに生きる物がいればそこは本物になりえるのだ。
 だからこのアスナを安心させてくれる温かみも、適温を感じることによる脳から肉体への弛緩作用感覚というロジックなどではなく、彼が傍にいてくれることへの嬉しさだと思っている。
 出来ることならばずっとこのまま椅子に揺られて眠ってしまいたい。しかしそれでは直葉に申し訳がない。
 アスナは何度か眠るキリトの胸元にのの字を書いてから重たそうに瞼を開いた。

「ん……《キリト君分》充電終わりっと。さ、キリト君起きて」

 ユサユサと肩を揺らして、キリトが「あう?」とか「ほへ?」などといった呂律の回らない言葉で覚醒していくのを苦笑交じりに見届ける。
 同時に、伝わる振動によってキリトのお腹の上で丸くなっていたユイも眠たげな眼を擦りながらフワフワと宙に浮きだした。

「ふぁ……おはようございます、ママ……」

「おはようユイちゃん。だめだよーあんまり居眠りしちゃ。風邪ひいちゃうかもしれないし」

 実際にはユイが風邪をひくことはありえない。
 人工知能であり、ゲームの中でもアシスト妖精扱いにあたる《ナビゲーション・ピクシー》たる彼女には人間で言うところの病気的概念はない。
 さらに言えばゲーム内……ALOに風邪などといった体調不良を引き起こすようなバッドステータスは存在しない。
 しかしアスナはユイのことを本当の娘のように思っており、現実と仮想世界での区別や差別をすることを良しとしていなかった。

「すみません。パパの傍ってなんだかとっても寝心地が良くって……ふぁ」

「気持ちはわかるけどね。私たち一度落ちなくちゃいけないから……また夜に会う?」

「はい!」

「ちゃんと眠れるの?」

「パパとママがいれば眠れます!」

 ユイは元気よく嬉しそうに答えた。
 SAOから解放され、キリトが目覚めず、手がかりを求めてこのALOに入って以来、アスナはユイと一緒に眠ることを好む。
 ユイもまた少しでも長くアスナやキリトと時間を共有できることを喜んだ。
 眠るために仮想世界に入る、というのは些か用法としては矛盾している気もするが、多様なニーズに応えんとNERDLES技術は日々日進月歩の発展を見せ、そういったことは珍しくなくなってきていた。
 ユイとアスナが眠ることを目的に仮想世界で会うのであれば、そこにキリトが来ない理由はない。
 特に何か予定ややりたいことでもない限り、キリトもそれに付き合い、親子三人で眠りに付くことはさほど珍しくもなかった。

「んにゅ……ふぁ」

 約束が纏まった所でキリトが大欠伸をしながら身を起こす。
 二、三度瞬きをしてからアスナ、ユイと順に視線を向けてぼんやりとシステムウォッチに目を向け、「げ!」と声を発した。

「やばい……スグ戻ってる?」

「キリト君起きないから怒って先に落ちちゃったよー」

「パパだめだめです」

「うわっちゃあ……やばいぞ。ごめん二人とも、俺も落ちるな。また夜に会おう」

 アスナと自分の事を棚に上げたユイの言葉に少しだけ焦りを感じながらキリトはシステムメニューを操作し始める。
 これ以上の遅刻は我が身がリアルで危ない。

「よーく直葉ちゃんの手伝いしてあげてね」

「了解」
 
 キリトは照れたようにはにかむと自身のアバターを即時ログアウトさせ、世界からその痕跡をポリゴン片に変えて消える。
 帰り際、当然のように夜の再開を口にしてくれたことが嬉しい。
 完全にキリトが消えるのを見届けてから、アスナも一度ユイにお別れを告げて現実世界へと戻ることにした。





 チチッ……というやや低温の機械音を耳に感じながらアスナはアミュスフィアを外した。
 先ほどのキリトのように目を二、三度瞬かせて身をゆっくりと起こす。
 部屋が暗い。月明りで見えぬほどではないが、一月ともなればもう照明を点灯しても良い時間ではある。
 アスナはベッド際にあるタッチパネル……統合環境コントローラに細い指をツンと触れさせた。それだけで部屋は天井のパネルによってオレンジの煌々とした明かりに包まれる。
 時刻は十八時二十五分。夕食まであと五分だ……と理解したところで身震い。暖房の設定を忘れていたようで、一月の寒気が容赦なくアスナを突き刺した。
 先ほどまで仮想世界で感じていた温かさと真逆のそれに、嫌でも現実と言うものを思い出させられる。
 だがジッとしているわけにはいかないし、悠長に温まっている時間もない。
 アスナは先と同じく部屋の暖房パネルに触れる。「ピッ」という電子音と共にファンが回り出す音が聞こえ、温風が部屋に流れていくのを肌で感じながらやや乱れた髪にブラシを入れる。
 それが終わるとスリッパに足を滑り込ませ、クローゼットの前に立つ。するとクローゼットは全自動で扉が開いた。
 アスナの意志とは関係なく、アスナが目覚めた時には部屋が父親の会社による最新テクノロジーで一新されていた。
 ボタン一つで室内環境を変更でき、余分な動きをせずとも必要な物が自動で広げられる。
 目の前の現象は仮想世界のそれとは大きく変わらない。だが、アスナはなぜかそれを好きになれなかった。
 上手く言葉にして説明はできないが、アスナの愛する世界を汚されているかのような、そんな感覚。
 アスナは内心で溜息を吐いて部屋を出る。するとちょうどハウスキーパーの佐田明代が帰宅するところだった。

「いつも遅くまでお疲れ様です」

「と、とんでもありませんお嬢様、仕事ですから」

 彼女は年下のアスナにも常に謙った態度を止めない。
 丁寧、なのとは少し違うそれにアスナはいつも申し訳なく思うが、何度言っても彼女はそれを改める気はないらしい。
 それは偏に母親によるもののせいだろう、とアスナは当たりを付ける。
 と、一瞬よぎった母親……という単語から恐らくは予想済みである返事をあえて確認する。

「母さんと兄さんはもう戻っています?」

「浩一郎様はお帰りが遅くなるそうです。奥様についてはつい先ほど外出なされました」

「そう……ありがとう」

 アスナが礼を言って頭を下げるとそれよりも深々とした礼を佐田は見せ、今度こそ結城邸を後にした。
 そこでアスナはふぅっと息を吐く。予想通りではあるが、それでも少し肩の力が抜けた。
 ここ数ヶ月、母親は家で一緒に食事を摂ろうとはしない。いや、それを言うなら《須郷を刺したあの日から》だろうか。
 会話が無いわけではない。母主導による日々の宿題が無いわけでもない。しかし、家族だからこそ分かる。
 避けられている、と。アスナにとってキリトとユイは誰が何と言おうと家族だ。
 それと全く同じで、母親と言うのも誰が何と言おうと家族である。だと言うのに、この違いはなんなのだろう。
 十八時半丁度。アスナは食卓に一人でついて食事を始める。この時間が母親の定めた食事の時間で、遅れるとこれまではどんな小言を言われるかわかったものではなかった。
 仮に遅れる場合や食卓に付けない場合は前もってかなり早い段階からの連絡を入れることになっており、その理由もまた母親を納得させるものでなくてはならない。

「……服、着替えなくても良かったな」

 さらに、母親は服装にも煩かった。
 例え家の中に居ようといい加減な格好は指摘対象に入る。
 まるで軍隊……とまでは言わないが心休まる、とは言い難い。兄の帰りが遅いのもつまりはそういうこともあるのだろう。
 それがアスナにとっての実家だった。それでも母の期待に応えられないことを怖がって、SAOにログインする前は大した反抗らしい反抗はしたことがなかった。
 それなりにヤンチャをして叱られたことは幾度もあるが、それでも母親の期待に応えたくないと思ったことは──今も無い。
 ただ、自分の進む道を決められることだけは、当時からイヤだった。
 それは今も変わっていない……が、

「あまり何も言われないのも、ね……」

 口煩くなくて良い、と言えばそれまでかもしれない。
 しかし、距離感が開けば開くほど、嫌悪とは別の感情が広がり育っていく。
 アスナは手早く食事を済ませるとキッチンのシンクに食器を片づけに向かう。
 ここにもいつの間にか全自動食器洗浄機なるものが設置されていて、ボタン一つで食器はピカピカの状態に戻される。
 手が荒れなくて良いと言えばそうなのだが、どうにもアスナは好きになれなかった。
 楽しいはずの食事でやや鬱屈とした感情を溜め込みながらアスナは自室へ戻ろうとして……《それ》に気付く。
 母親の書斎の扉が、僅かに開いている。
 母親は外出中とのことだから中には誰もいないはずなので、ただの閉め忘れなのだろうが、それは珍しいことだった。
 母親はアスナにも厳しいが自分自身にも厳しい。そういった小さなことは許せない性質なのだ。
 その母親が戸を僅かにと言えど開いたまま外出しているというのは、ここ数年の記憶を遡ってみても覚えがない。
 アスナはフラリと好奇心から母親の書斎の戸へと近寄る。僅かに開いているドアの隙間から中を覗くと、部屋の中は消灯されていてPCのものらしい赤い光が暗闇で明滅しているだけだった。
 ごくり、と息を呑んで思い切って扉を開けてみる。瞬間パッと天井のライトが点灯した。人を探知するとオートで点くようになっているのだろう。
 アスナは部屋を見渡す。数える程度しか入ったことのない母親の書斎は記憶の中そのままで、何の本かもわからない本がびっしりと詰まった天井まで届く本棚が所狭しと並んでいた。

「仮想世界で電子化すれば、もっとスッキリするのに」

 言ってから、自分が少しおかしなことを言った事に気付く。
 身の回りのハイテクノロジー化にややノスタルジックな気分を味わっていたのは自分なのだ。
 とは言っても、仮想世界でのそれと現実世界での生活水準とはまた別の話だとも思う。
 最近ではフルダイブシステムの発達で自分の欲しい書籍を集めた自分のプライベートルームを活用する研究者なども増えてきている。
 現実と違ってスペースも取らず、各文書やウインドウを宙にいくつも展開できるそれはあらゆる面で利便性が高いからだ。
 肉体疲労も感じないし、眼球疲労も発生しない。視力が下がることがないというのはかなりのメリットとしても捉えられている。
 しかし母親はそれらのダイブシステムをあまり使っていなかった。
 一度ダイブさせてみたことはあるのだが、「眩暈がする」といってすぐにログアウトしてしまったのだ。
 肌に合わないというヤツなのだろう。直接本に触れ、読み、考えることを良しとする究極の現実主義者(リアリスト)とも言える。
 アスナがそのシステムによって囚われていた過去がある──SAO事件のことだ──のも原因の一つには抵触しているのかもしれない。
 とにかく、母親は仮想世界のことをあまり良く思っていない。アスナがダイブすることにも良い顔はしていなかった。
 そんな母親だから部屋はいつも本で一杯であり、その全てを驚いたことに殆ど暗記していたりする。
 本棚の本も良く整理されていて、背表紙が一冊たりとも飛び出たり、引っ込んだりすることなくピッシリと収納されている。
 そのしっかりさに感嘆の息を漏らしながら──机の上にあるいくつものプリントに目を引かれた。
 理由はそれだけしっかりしている母親が、プリントと言えど机に置きっぱなしという事実に違和感を覚えたからだ。
 何気なく手に取って……息を呑む。

「え……これって」

 いくつもあるプリントのうちたまたま手に持った二枚のプリント。
 一枚目のプリントには《編入試験概要》、二枚目のプリントには《結婚指輪》の資料がそれぞれ印刷されていた。



[35052] マザーズ・ロザリオ5
Name: YY◆90a32a80 ID:b9264a49
Date: 2014/11/04 20:16


「……スナ、アスナ?」

 声をかけられてベンチに座っていた結城明日奈/アスナは我に返った。
 場所はALO──アルヴヘイム・オンライン──にアップデートされたアインクラッド、その第二十四層主街区《パナレーゼ》である。
 第二十四層はかつてアスナがプレイヤーホームを購入した第六十一層に良く似ていた。
 湖上都市《セルムブルグ》。湖に映る赤い夕焼けがとても幻想的で、観光地と呼べるフロアでありながらいかな環境設定なのか、静観さを全く損なわない仕様になっていた。
 その分何を買うにもボッタクリ、もとい観光地仕様なお値段になっており、プレイヤーホームなどと言えば当時の最前線で戦っていた攻略組ですら目も霞むほどの高額なコルが要求される。
 そんな中アスナは一切の妥協を許さず実にその日まで溜めに溜め込んだコルを一気に放出、一念奮起してのホーム購入に至った……のだが何故だろうか、その割にはあそこにあまり良い思い出は無い。
 どちらかと言えば摩訶不思議な……それこそ文字通り夢に見るお伽噺のようなクエストを経て購入に至った第二十二層のログハウスの方がアスナは気に入っていた。
 恐らく、あのセルムブルグの家をアスナがあまり良く思えないのは、当時の自分があまり好きではなかったからだろう。
 自分自身が散々嫌い、感じていた《人を導かなければならない》などという思い上がった思考。
 いつからだろうか。自分が《攻略組》としての力を持ち、戦える以上、前線で戦い続けるのは義務で、弱き者たちを護り、ゲームクリアを目指すことに囚われ始めたのは。
 いつの間にか、自分がずっと嫌いだった他人への《上から目線》に自分がなってしまっていたのは。
 たぶん、それはギルドに入ってからなのだろう。
 トップギルドと呼ばれるようになったKoB──血盟騎士団──の実質№2、副団長という肩書はアスナの仮想体に痛いほどの重みを与えた。
 感じないはずの重量をその華奢な双肩にズッシリと感じながら日々を過ごし、いつ破裂してもおかしくないパンパンの風船のように張り詰めていた。
 もし破裂してしまっていたなら、きっと彼女は現実世界への帰還は叶わなかっただろう。その自覚が彼女にはある。
 彼女がその重責を破裂させず、萎むようにして排出できたのは……やはりキリトのおかげだろう。
 そのことが彼女の彼に対する思いの強さの一因になっていることは否めない。
 しかし、それだけでは無いのも事実だった。だからこそ、昨夜見たペーパーが頭から離れない。
 嫌な鼓動を伴ってアスナの傍で近づいてくる足音のように鳴り響く。
 最低最悪と称されたデスゲーム……SAO──ソードアート・オンライン──の時とは別種の、未来に対する不安。
 それがアスナの心を曇らせる。
 それに気付いたらしいリズベットがいつも着ている紅白色のメイドエプロンに簡易アーマーを付けた軽装備で不思議そうな──いや、心配そうな顔をしていた。

「あ、ごめん……えっと、なんだっけ?」

「いや、なんだっけってことはないけど。随分ボーッとしているみたいだったから……大丈夫? 調子悪いなら今日は止めといたら?」

「……ううん、大丈夫」

 アスナはゆっくりとかぶりを振って微笑んだ。
 視線の先では珍しく──と言っても最近ではそうでもない──元の姿に戻ったユイが和人/キリトに肩車をしてもらいキャッキャッと楽しそうに微笑んでいる。
 キリトはユイが喜べば喜ぶほど「ようし!」と気合を入れて動くスピードを増していくので、ユイの楽しそうな声は止まらない。



 ──────何故かその光景が、凄く遠いところのように感じた。



 二人と自分の間に溝のようなものがある錯覚。
 ユイがこちらに気付いて両手を振る。キリトはそれに気付いて動くことを止め、同じようにこちらに視線を送る。アスナは微笑んで手を振り返す。
 それだけでそれは他愛のない思い過ごしだと言い聞かせられる一方、京都への家族帰省からずっと纏わりつく嫌な予感を拭いきることは出来ない。
 予想は昨日のペーパーという形で既に少しずつ現実へとオブジェクト化されてきている実感がある。
 それを思うと、胸の奥からゾワゾワと鬱屈した黒い感情が溢れだしそうで、それを抑えきれなくて、その感情の正体を二人に見破られそうで、少し怖い。
 二人に心配をかけるのが怖い。二人と離れ離れになることが怖い。

 そして何より。



 《何か》しでかしてしまって、二人が離れていくことが、怖い。



 自分から距離を感じてしまっていることは分かっているが、裡から湧き上がる不安と言うものはどうしようもない。
 アスナはすっくと立ち上がると、とりあえず今は考えないようにしようと自分に言い聞かせながら、もうすっかりと慣れた感覚である自らの背中に生えた仮想の翅に命令を送ってフワリと浮き上がる。
 そのまま二人へと飛んで近寄り、ユイをキリトから受け取って抱き上げるとユイはアスナに甘えるように胸へと顔を埋めた。
 ユイのその仕草が不思議とアスナの心を穏やかにしてくれる。ユイに甘えられることが、一種の精神安定剤とも言えるほどに。
 と、その様子をキリトが見つめていることに気付いた。……哀しそうな瞳で。

「どうかした? キリト君」

「あ、いや……なんでもない、ただユイがうらやましいなあ、と」

「も、もう! 何言ってるの!」

 キリトの言葉にドキッと胸を高鳴らせながら、しかし決して不快ではないそれに頬を染めて視線を逸らす。
 ユイがトントンと背中を叩いたので彼女を解放すると、ユイはニッコリ微笑んでから嬉しそうにアスナの腰へとしがみついた。
 ここのところ、ユイは急に甘えん坊になることがある。アスナとしては微笑ましい限りなので構わないのだが。
 アスナはしょうがないなあ、という態度を装いつつ笑顔でユイの髪を優しく梳いて微笑む。この時間が本当に今のアスナにとっての安らぎだった。

「うおーい……そろそろ時間ナンデスケドー」

 そこでようやく恨みがましい声色をしたリズベットが声をかけた。
 まるで存在など無いかのように親子の団欒の一部始終を見せつけられては、《自称傷心中乙女》として恨み言の一つくらい物申したくもなるのだろう。
 リズベットの声に押されるようにして、合流したシリカとリーファも含めた一行は慌てて目的地である小島を目指し、北側へと飛行を始める。
 さして遠くもなく、時間が迫っていると言ってもすぐにいなくなるわけではないので、遅刻の心配は流石にない。
 ましてやSAO時代の時と違って背中にある翅が尚のこと移動時間を短くしてくれる。
 アスナは、かつて駆け抜けた大地を眺め、思い出す。あそこで、Mob狩りをしたことがあるな、と。
 あそこではあのモンスターを倒してアレをドロップしたんだった。あそこでは……。
 空からアインクラッドを眺めると、記憶が溢れ、どことなく郷愁に似たような心持ちになってしまう。
 そうしているうちにすぐ巨大──と言っても当然世界樹(イグドラシル)よりは小さい──樹の生えた小島が見えてきた。
 中央に位置する大樹は四方へと長い枝を伸ばし、その存在を小島でアピールしている。大樹へと近寄っていくと、偽物の感覚器である仮想聴覚野が剣戟の音を捉える。どうやらすでに先客が対戦を始めているらしい。
 小島に降り立ってみると、意外にも観戦客と思しきプレイヤーがかなりの人数でいるようだった。
 中には各種族領の幹部クラスの姿まで見受けられる。こういった半公式的な辻試合では無名の思いがけない強プレイヤーが発掘されるので勧誘を兼ねた下見なのだろう。
 ユージーン将軍を下すほどの実力者となれば喉から手が出るほど引き抜きたいに違いない。

「ぬぅぅっ……はぁっ!」

 聞き知った裂帛の声が届く。
 剣のように鋭く刺々しいいくつもの逆立った赤い髪に浅黒い肌。
 歴戦を潜り抜け、強化をほぼ限界値までしているだろう精緻なディティールによって表現されている輝き著しい赤銅色の西洋鎧。
 一目で火妖精族(サラマンダー)のハイプレイヤーと分かる挑戦者はやはりというべきか、ユージーンその人だった。
 ユージーン程の手練れの、大振りながらそうと思えぬほど早く正確な連撃。このALOに一体どれだけのプレイヤーがあの猛攻を防げるだろうか。
 それほどまでに卓越で、完成された剣技はしかし、信じられないことにその全てを受け止めきられていた……黒紫色のストレートヘアを靡かせた《少女プレイヤー》によって。
 ゲーム内において体躯は特段強さに影響を及ぼさない。しかし、それを差し引いても彼女は小柄で華奢だった。
 彼女の種族は闇妖精族(インプ)らしく、肌が特徴的な薄紫がかった白で、装備はリズベットに近い型をした黒曜石の胸プレートに紫と紺色の中間のようなチュニックとロングスカート。
 彼女はユージーンの怒涛の攻撃に対し、それを避けるのではなく凌駕する速度で弾き、斬り伏せ、攻めている。
 ユージーンが袈裟斬りに剣を振るうと剣で受けつつ体を滑らせ肉薄し、胴に深々と細い片手直剣を斬り入れる。

「っちぃ!」

 しかしユージーンも然るもの、やられてばかりではなく、翻るように剣を回転させて受け止めた少女プレイヤーを弾き飛ばし、距離を取ってからの突進攻撃に移る。
 勇猛怒涛のスタイルを貫く彼の戦闘は、戦っている相手を怯ませる程の強力な覇気を感じさせるが、少女に怯んだ様子は見られない。

「ぬ、うああああああっ!」

 まだ宙にいる少女への猛烈な突進。空中で体勢を立て直した少女は、それに呼応して自身もユージーン将軍へと突進する。
 実に少女らしい「やああああっ!」という高い声を上げて二人のシルエットが交差した。

「!」

 驚愕は一体誰のものか。
 勝負はその一瞬によって決着を見た。
 ユージーンの大振りに見えて繊細な巨刀がブン! と振られる。狙うは少女プレイヤーの右肩部。
 その一振りを少女プレイヤーは高速飛行中で正確に見極め、体を僅かに逸らす事で見事回避しつつ、勢いを殺さぬまま渾身の一撃をすれ違いざまのユージーンに深々と斬り入れた。
 派手な血の色に似たレッドカラーのポリゴンエフェクトが舞い散り、人を真っ二つにせんとばかりの勢いと威力の一撃は、ユージーンのHPゲージを容赦なく全損させる。

「見事だユウキ……! しかし次こそ貴様を我が嫁……っ!」

 ユージーンが全て言い終える前に、その身は赤く燃え尽きるようなエンドフレイムエフェクトに包まれてリメインライトとなり、赤い魂の炎がチロチロと灯される。
 途端「ワアアアァア!!!」と歓声が上がった。次々に大きな拍手も湧き起こり、ユウキと呼ばれた少女プレイヤーは「にへへ」と恥ずかしそうに笑うと「ぶいっ!」と指二本を立てたピースサインをユージーンのリメインライトへと向けた。
 今の戦闘でも彼女が只者ではないということが分かる……のだが。

「今の……《速すぎないか?》」

 キリトの訝しむような声が、アスナに疑問を抱かせる。
 確かに彼女は速い。その動きも然ることながら反応速度が尋常ではないように見受けられた。
 しかし、それがなんだと言うのだろう。それは単に高いプレイヤースキル……これまでの積み重ねの結果ではないのだろうか。
 キリトという人間に限って、プレイヤースキルの高さによる嫉妬ということもあるまい。羨みこそすれ、それによる妬みなど彼の嫌いとするところのはずだ。
 だというのに彼の声色は単なる感心や羨みとは別種の、疑問という感情が内包されたようなものだった。

「どういうことキリト君? 何か気になることでもあるの?」

「今の攻撃……いや、反応速度は端末、アミュスフィア越しでの限界を超えているような……」

 いまいちキリトの言っている意味がアスナには理解できない。
 彼の疑問が自分にとっても疑問にならないことに、少しだけ怖くなる。
 彼との世界において一部でも隔絶した時間があることはアスナを不安にさせた。
 それは仕方のない事だと分かっている一方で、感情としてはやっぱり認めたくない。
 しかしアスナはそれ以上長く思考することが出来なかった。

「今キリトって言った?」

「うおっ!?」

「きゃっ!?」

 キリトとアスナの目の前に、先ほどまで華麗に戦っていた辻斬り少女プレイヤー……もとい挑戦者求めるチャンピオン少女が立っていた。
 少女のくりっとした丸い瞳はアメジストのようなクリアパープルに輝いていて、何かを期待するようにキリトの顔を覗き込んでいる。

「えっと……?」

「んー……おにーさんボクと会ったことない?」

 じぃぃぃっと眺めてから、さらに期待を増した眼差しで少女プレイヤーはキリトに尋ねる。
 距離がなんだか凄く近い。そのことに気付いたキリトがソソッと後ろに下がるが長い黒髪の少女はその分だけまたキリトに近づいて離れない。

 ……なんだか面白くない。

 突然現れた少女プレイヤーのキリトへの態度が、アスナには快く思えない。
 下らない、小さな嫉妬と知りつつも、感情の炎が波立つのを止められなかった。
 キリトはなんとか距離を取るようお願いしつつしどろもどろに尋ねる。
 見た目は年下だが相変わらず見知らぬ女性への接し方は彼の中では分からないらしく、その挙動はとてもぎこちない。

「え、ええととりあえず……あれ? なんだっけ、名前……えっと」

「ボクはユウキ! んでおにーさんはキリトでいいんだよね?」

「ユウキ、さん? 確かに俺はキリトだけど……ユウキなんて名前リアルくらいにしか知り合いなんて……あれ、待てよ? なんか最近聞いたような……」

 ユウキと言えば結城と書いてアスナの名字……が一番身近な名前だ。
 チラリとアスナを見たキリトだが、すぐに眉間にシワを寄せて考え込む。流石にこの件についてアスナは関係あるまい。
 それになんだか最近聞いたことがある名前な気がしたのだ。あれは何処だっただろうか。
 キリトは「確か……」と記憶を掘り起こす。
 ユウキユウキ結城ゆうき………………。
 何度も名前を頭の中で反芻していると、ふと頭の中に閃く記憶があった。
 あれは先日、調査と言う名目の元、別のMMOにコンバートした時のことだ。



『待てー! せめて名乗っていけえ! 今度絶対ちゃんと戦うんだからあ! 絶対、絶対見つけ出すぞお! ボクはユウキ! 忘れるなあ!』



「「あっ!」」

 アスナと同時にキリトは声を上げる。どうやら彼女もほぼ同時に思い当たったらしい。
 確かGGO──ガンゲイル・オンライン──のPvPバトルロワイヤル大会であるBoB──バレット・オブ・バレッツ──の本戦ラストバトルにおいて現れたプレイヤー、それがユウキという名前のプレイヤーだったはずだ。
 あの時は紺色のロングヘアだったが、それ以外は口調といいGGOでのユウキと雰囲気が似ていると言えば似ている気もする。
 ユウキ、と名乗ったチャンピオン少女は二人の反応を見て何かを確信したのかギュッとキリトの手を掴んだ。

「やっぱり! 一目見た時からそうじゃないかと思ったんだ! おにーさんがあの時のキリトじゃないかって!」

 ブンブン! と勢いよく手を上下に振ってユウキはその嬉しさを表現する。
 されるがままになるキリトは苦笑しながら、何故こうなっているのか身に覚えのない現状に内心疑問符を浮かべていた。

「よし! 行こう!」

「へ? どこへ……ってうわっぷ!?」

「ちょおおっと待ったぁ!」

「待ったです!」

 ユウキは有無を言わさずキリトの手を取って空へ羽ばたこうとした。
 しかしいち早く気付いたリズベットとユイがそれぞれ浮き上がったキリトの右足と左足を掴み、それを阻止する。
 結果上下に引っ張られる形となったキリトはみっともない声を上げて悶える羽目になった。地味にHPゲージも減少している。

「キリトを何処へ連れて行こうってのよ!?」

「ボクはこのおにーさんが欲しいんだ」

「……は?」

「……い?」

 とんでもない発言に口をポカンと空けるキリト。
 同時に、突然のことで頭が真っ白になり固まっていたアスナはようやく現状を理解して沸々とした怒りが込み上げてきた。

 キリト君が欲しい? なんだそれは。ふざけないで!

 アスナの胸の内に広がる感情の黒い染みがブワッと広がる。
 嫉妬と言い変えても良いそれはアスナをとうとう行動へと突き動かした。
 アスナはキリトの背中をグッと掴んで引っ張る。さすがに三対一は辛かったのか易々とキリトは地面に降ろされ……、

「わぷっ!?」

 ……どすん! と叩きつけられた。
 メラメラと黒い炎が背後から立ち上っている……ように見えなくもないアスナにこれは流石にマズイとリズベットも直感する。
 瞬間、この場をうまく収めるために破れかぶれの提案を彼女は思いついた。

「悪いけどね! キリトが欲しいならウチのアスナを倒してもらってからじゃないとやれないわよ!」

「それじゃあお姉さんを倒したらボクはおにーさんをもらっても良いってコト?」

 くりっとした瞳で浮かんだままのユウキはきょとんと尋ねる。
 意外にも話に乗ってきた彼女にリズベットは焦った。まさか本当に勝負に乗ってくるとは思っていなかったのだ。
 実際にデュエルしたこともある経験から言ってこの子は決して悪い子ではないと理解していた。
 だから無理やり他人の恋人を奪うような真似はしないと踏んでいたのだが、当てが外れたか。
 いや、というよりもしかすると自分は何かとんでもない勘違いをしているのかもしれない。
 よく見ると彼女……ユウキの瞳はどう見ても《恋する乙女》のそれとは思えないからだ。
 欲しいという言葉を使った為にとんでもない誤解を生んでいるんじゃ……という冷静さがリズベットにも戻ってきたところで。

「キリト君は渡さない!」

 じゃりぃぃん! と腰のレイピアを抜いたアスナが立ちはだかった。
 あ、ダメなパターンだこれ。またも直感が働いたリズベットだが、彼女が制止する前にそれは起こってしまった。

「ようし、じゃお姉さんを倒せばいいんだね!」

 チャリン、とアスナの前にはデュエル申請のシステムウインドウがポップアップし、迷うことなくアスナはデュエル了承とばかりに《全損決着モード》をタップする。
 こうなってはもう誰も彼女を止められない。リズベットは胡坐をかいてポカンと座っているキリトの肩に手を置いて諦めたように言った。

「逃げるんじゃないわよ、景品の色男」

「おいおい、散々煽っておいて……」

 キリトの困ったような顔に笑いを堪えながらリズベットはリーファを手招きする。
 それだけでリーファは意図を理解しリズベットとは反対側の肩に手を置いた……否、力をかけた。

「お兄ちゃん、アスナさんを信じよう?」

「そうですよキリトさん」

 最後にシリカがキリトの背中を押さえつけるように掴む。
 ……詰みである。

「お、お前ら……!」

 キリトは身動きが取れない。
 いかにSTR──筋力ステータス振りのキリトでも流石にプレイヤー三人分のSTRを跳ね除けるだけの力は持ち合わせていない。
 おかげでキリトの得意かつ困ったときのスタンダード選択肢《にげる》が使用不可となり、成り行きを見守ることになってしまった。
 目前では既にカウントがどんどん減っていき、開始のファンファーレが今まさに鳴らんとしているところだ。
 ユウキが剣を中断に構える。その剣もまた半透明の黒曜石のような黒い輝きを放っており、そのポリゴンテクスチャの《重み》から相当のランクの武器だと窺える。
 SAOやALOでは同じ武器でも強化を重ねるごとにその武器のディティールには少しずつ変化が見られる。
 慣れてくると一目見ただけで強化度がおおよそわかるようになってくるもので、アスナの勘が自身の垂直に構えたレイピアとほぼ同等のランクにある武器だと告げている。
 つまり、装備の上では状況はほぼイーブン。だが、アスナにとってはそんなことよりも……彼女の発言とその《恰好》が問題だった。
 キリトが欲しいという彼女の言は見過ごせない。黙っているわけにはいかない。
 そして何よりもアスナの心を掻き乱すのは、謀ったわけではないにしろ、彼女の服装カラーが……キリトに似ていることだった。
 それが何故かアスナの胸をザワつかせる。あるはずがないのに、まるで二人には何らかの繋がりがあるように感じてしまう。

(絶対に、負けたくない!)

 アスナは決意と共に《DUEL》の文字が輝いた瞬間、地を勢いよく蹴り飛ばした。
 最大速度で二連撃の刺突をお見舞いする。ソードスキルではない通常の剣技なため、速度はソードスキルほどではないしダメージは少ないが、その分より正確性(アキュラシー)は高い。
 左右に振るように放った刺突はどちらかに避ければどちらかに掠るだろう。運よく避けきれたとしても体勢を崩し、三撃目には耐えきれない。
 そう思っての攻撃だったが、絶剣ことユウキは思いもしない攻勢に打って出てきた。
 予想もしなかった高鳴る金属音。ユウキはアスナの刺突、その二撃目をなんとパリィしてのけたのだ。

「っ!?」

 揺れ動くように見えた剣線は揺らめく煙のようにしかアスナには捉えきれなかった。
 ただ彼女のこれまで培ってきた経験と《システム外スキル》が彼女の姿勢を低くさせた。
 チリチリと感じられる相手の殺気……狙いのポイント。一瞬僅かに合ったアメジストの瞳がアスナにうなじ部分、首の回避行動を余儀なくさせた。
 体を捻るようにしながら身を屈め、同時に全仮想体重を右足一本に集中し、爆発させる。
 黒曜石の剣が胸元を掠め、顎上をビュン! と通過して僅かにアスナのHPゲージを散らすも、飛び跳ねるようにしてアスナは距離を取ることに成功した。
 姿勢を低くし追撃に備えるが即座の追撃は無いようだ。分かってはいたことだが、彼女は強い。

(だからこそ、負けられない)

 アスナは必死に自分をクールダウンさせ、光速で思考を働かせる。
 今の攻防で分かったことがいくつかあった。一つは彼女が速いこと……正確には反応速度が尋常ではないこと。
 キリトも言っていたことだし、戦う前から分かってはいたことだが、実際に相対してみるとその凄さが肌で感じられる。
 彼女は自他共に認める猛者である。故に自分の強さにある程度の自信はあった。
 それは決して驕りではなく、実際問題レイピアでの突きの速度に関してはSAOやALOでも随一だったはずだ。
 キリトでさえアスナの全力の突き攻撃を正面からのパリィなどそうやってのけられるものではない。
 そもそも刺突攻撃の剣線は線ではなく点なのだ。正確にそれを狙って見切ることなど、人間の反応速度では不可能に近い。
 しかし、ユウキという少女は驚いたことにそれを実際にやってみせた。得意気になるでもなく、息を乱すでもなく、楽しそうに。
 彼女の自然体なその姿が、何処か昔アインクラッドで見た彼の姿に被って見える。
 ぎりり、と歯を噛みしめたその時だった。今度はユウキの方からアスナへと肉薄する。
 彼女の突進力、そのスピードはアスナがこれまで戦ってきたことのあるどの相手よりも速く感じられた。
 アスナは剣を構え、引き絞った。途端ユウキは急ブレーキをかけるようにピタリと止まる。《ソードスキル》を警戒したのだろう。
 見事な制動にこれが敵でなければ賛辞を送りたいくらいだ。アスナは息を二、三度整えるとそのまま通常剣技で再びユウキに攻撃した。
 一瞬ユウキは反応が遅れるも、先の攻防でその程度の遅れは取り戻してくると分かっているアスナは決して手を休めない……と同時にソードスキルは使わない。
 ソードスキルはその一撃こそ強力無比ではあるがその分隙も大きい。何より使用後の硬直時間は如何ともしがたいものがある。
 彼女の強さは本物だ。万一ソードスキルを防がれたら硬直した隙に手痛い反撃を受けることは目に見えていた。
 ソードスキルを使うならどうにか決定的な隙を作らねばならない。その為にはギリギリまで通常剣技でお互いのHPを少しずつ削り合い、隙を作る必要があった。
 アスナ渾身の右横薙ぎから返す刀の上段斬りは初撃を躱され二撃目を剣で弾かれる。
 そのまま黒曜石の剣線が斜めに疾ってくるのをアスナは体を逸らして回避し下から斬り上げる。
 ユウキは超反応でその攻撃を避けるが僅かにプレートに赤い剣線の跡が入り、僅かに耐久力を上回ったアスナのレイピアの攻撃力がユウキの緑ゲージを削る。
 右上上段から腹に向けての袈裟斬りを受け止め、斬り返し、左下斜め下段から斬り上げる剣閃をステップで回避して突き刺し、間を取って次の瞬間には激突して鍔迫り合う。
 迫り合った剣が斜めにズレて行き、下方に向かったところで一歩後退、追いかけるように入る刺突が僅かに肩に突き刺さりまたHPゲージが少しずつ削られていく。
 お互い一歩も引かぬ攻防を繰り返し、僅かずつHPゲージを減らして《その時》を見定めていた。
 互いに中々これといったダメージを与えられないまま、息つく暇もない数分が経ったところでそれは起きた。
 何度目かの鍔迫り合いで、アスナが踏みしめた地面には短い草が生えていてアスナ渾身の移動にブーツの摩擦が耐えきれなかった。
 ズルリと滑りガクンとその身を落とす。しまった! と思った時には遅く、この機を逃すまいとユウキは黒曜石の剣に青紫色のライトエフェクトを宿した。
 アスナが狙っていたようにユウキもまたアスナへとソードスキルを確実に当てられる隙を作ろうとしていた。
 アスナの苦し紛れに横薙いだ一撃はユウキのプレートを掠めるものの彼女のソードスキル発動を防ぐには威力が足りず、発動を許す。

「やあああっ!」

 気合いの入った彼女の声と共に左肩へ異物感。
 ペイン・アブソーバによって緩和されている痛覚は違和感としてそれを認識させる。
 そのまま斜め右下へと下がって行くように刺突が続き、ぐいっとHPゲージバーが減少する。さらに続く剣尖をどうにか躱すアスナだが四撃目がアスナの脇腹に突き刺さりまたもHPが減少。
 五撃目をその軌道から予測してなんとか剣の横っ腹に当てパリィしたところで……驚愕。
 ソードスキルのライトエフェクトがまだ消えていない。見たことの無いソードスキルだとは思ったがまさかこれはオリジナル・ソードスキルなのか。
 続く六撃目に慄きながら……瞬間的にアスナの脳裏には昨夜のペーパーがフラッシュバックした。
 このまま負ければ……キリトが連れていかれてしまう。そうなれば……嫌な想像が現実になってしまう気がした。

「っ! ああああああっ!」

 アスナも気合いの入った声を上げるとそのレイピアにライトエフェクトを宿した。
 ユウキの剣が今度は右肩を貫く……が、今度はアスナの剣も確かにユウキを捉えた。
 小さな星形の頂点を辿りながら渾身の突き技が黒いプレートへと吸い込まれていく。
 対してユウキのソードスキルも先とは真逆に右肩から左下へと五発の刺突が繰り出され、五撃全てをアスナはその身に受けた。
 アスナが繰り出したのは自身が生み出した五連撃のオリジナル・ソードスキル《スターリィ・ティアー》で、こちらもユウキに遅れることコンマ数秒でその五撃全てを彼女に叩きこんだ。
 HPゲージは……二人とも残っている。アスナは先に五連撃受けたせいもあってか危険域(レッドゾーン)、それも残量はポリゴン数ドット……数字にして多くても二桁台だろう。
 逆にユウキはギリギリ危険域前の注意域(イエローゾーン)で踏みとどまっていた。
 と、ユウキの剣が再び大きく引き戻される。なんとまだその剣のライトエフェクトは消えていなかった。
 アスナは直感する。これが彼女がBETしている噂の十一連撃OSS(オリジナル・ソードスキル)なのだと。

 このままでは……負ける?

 アスナの脳裏にはまたも昨夜のペーパーがフラッシュバック。
 最後の一突きをしてしまったアスナはこの後覆しようのない技後硬直が課せられ動けなくなる。
 最後の一撃をもらい、HPを全て散らして……彼を奪われる。

 嫌だ。

 嫌だ嫌だ嫌だ。

 嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ……!

 全身全霊をかけて、声を大にして、そんな未来は嫌だと叫びたい。
 アスナは左拳をギュッと握る。伸びきった自身の右腕を敵のように睨みつけた。
 この動かなくなる右腕が憎い。動いてくれないと困るのに。自分自身の体の一部なのに、嫌悪さえ感じてしまう。
 システム? そんなことは知らない。いいから動けと脳から命令──ERROR。その命令は受け付けられない。自分の体なのに言うことを聞かない。

 なら、オマエはイラナイ。

 アスナはそこで自身の右腕など無いものとして意識を《切り捨てた》。
 握った左拳に命令する。



 私の体。



 お願い動いて。



 ──いいえ、動きなさい!



「えっ」

 ユウキの驚愕した声が漏れる。
 ソードスキルを放った、いや放ち終わったはずのアスナが、グググッと動き出した。
 まるで腰だめに引き絞った左拳を突きだすように……否、信じられないことに技後硬直によって動けないはずのアスナは左拳を突きだしてきた。
 その手はソードスキル特有のライトエフェクトを伴っている。ALO……いや、SAOについての知識が浅いユウキは知る由もなかった。
 素手で発動できる《エクストラスキル》……《体術》スキルの存在を。いや、知っていたとしても予想はしえなかっただろう。
 何故なら、今の彼女は本来《システム的に動けない》はずなのだから。
 この《体術》スキルはノーム領首都の修練場で体得できる《拳術》スキルとは違い、素手でも対象へのダメージが発生する。
 しかしユウキはそれでも慌てていなかった。アスナの拳は真っ直ぐユウキの剣の頂点にぶつかり合うように向かってきている。
 このまま衝突すれば、いかにソードスキル同士のぶつかり合いと言えど素手であるがゆえにアスナにはダメージが通るはずだ。
 そうなればあと僅かになったアスナのHPは全損される。その時点で勝ちは確定……するはずだった。



 ──ガキンッ!



「んなっ!?」

 再びの驚愕がユウキを襲う。
 鳴らない筈の金属音が鳴り、鍔迫り合いのようにお互いの攻撃が拮抗し合っていた。
 一体何故……と思ったユウキは息を呑んだ。
 アスナの左拳……何も無い素手だと思っていたそこには一か所だけ金属があった。
 薬指の本当に僅かな部分。銀色に輝く指輪がそこには嵌められていて、寸分違わぬ正確さでユウキの十一撃目を迎え撃っていた。
 ユウキは知らない。それがアスナにとってどれだけ大切なものなのかを。いつも装備枠を一つ潰してまで付け続ける彼女の想いを。
 そして、彼女がかつてのデスゲームで最強ギルドと謳われたギルドの副団長を務め、その速さはもちろん……正確さ(アキュラシー)においても攻略組随一の存在だったことを。
 驚愕したせい、というわけでもないのだろうが、ユウキの最後の一撃はアスナ渾身の左ストレートと「はあああっ!」という裂帛の気合いに競り負けた。
 ユウキは強いノックバックにより尻餅を突く。

 瞬間、勝負は決着した。

「あ」

 尻餅を付いたユウキの前にはニッコリと微笑むブルートルマリンのロングヘアを靡かせるアスナが、一切ブレることのないレイピアの切っ先をユウキの首筋に当てていた。
 このゲームには部位欠損ダメージ判定というものがある。いくつかの部位は攻撃によって欠損し、しばらく使用不可になるというものだ。
 SAO時代からあったそれは時間経過で回復するものの、すぐに治療する為には高価なポーションを使うかハイレベルな治癒魔法を唱える必要があった。
 同時に、昔からのゲームには非常に多いことだが、頭部、もしくは首部に強力な攻撃を受けると場合にもよるものの、ダメージは何倍にも跳ね上げられ、結果ほとんどが一撃死と言えた。
 逆に言えばそれだけ狙うのが非常に難しい部位なのだが、如何せんこうなってしまうといかな超反応を持つユウキと言えど避けられるものではない。
 それはギャラリーだけではなく、ユウキ自身にも理解できていたが、ユウキの中に去来したものはそんな《事実》よりも別のことだった。

「姉、ちゃん……?」

 ふと漏れた言葉は、発したユウキ本人が誰よりも驚いているようだった。



[35052] マザーズ・ロザリオ6
Name: YY◆90a32a80 ID:b9264a49
Date: 2014/12/11 22:23


『パパに、ママを一生支える覚悟がありますか……?』

 和人はこの質問をされた時、咄嗟に何か口にすることが出来なかった。
 生来から口下手な方ではあるし、割とあがり症なところがあるのは自覚しているが、それでも何も言葉にできない、言葉を発せられないということは実はさほど多くない。
 何かしら場を切り抜けるための一言二言を苦し紛れに漏らすのが──それが良い結果を招くことはほとんどないと理解しながら──常だった。
 だから意外にも、この時何も言えなかった自分に、和人自身驚いていた。同時に心臓が早鐘を打ち始める。
 何故今の問いに即答できなかったのかと。間違いなく自分はユイや明日奈が大切なのだが、その気持ちが軽くみられるのではないかという不安。
 アスナやユイにそう勘違いされることは和人には嫌だった。

『……今、迷いましたね?』

 ユイの言葉にさらに心臓が跳ね上がる。咎められている、と思った。彼女にとって母親であり、大好きな明日奈に対しての気持ちが軽いのではないか、と。
 何故即答できなかったのか。一瞬前のことをいくら悔いても時間は元に戻らないしその答えも出てこない。
 だが理由は分かっている。漠然とした未来への不安……そんな取るに足らない、今考えても詮無い事だと分かり切っている恐怖が一瞬よぎったためだ。
 なんとなくだが、もしもアスナが今の問いを聞いたなら「はい」と即答してくれたと思う。
 そう考えるとますます和人の心に罪悪感が積もり積もっていく。
 アスナへの想いを軽く見られたくはない。しかし答えられなかった自分にはそれを否定する材料がない。
 いっそこの胸中……頭の中身を全部見てもらえれば話は早いのだがそういうわけにもいかない。
 科学はそこまで進歩していないし、進歩してはいけない気がする。しかしそれでは勘違いをされてしまう。堂々巡りである。
 和人の焦燥が益々増していった時、聴覚器官である耳へと付けている無線イヤホンから安堵したようなユイの声が漏れた。

『良かった……パパは大丈夫ですね。イジワルな質問をしてごめんなさい』

「え……」

 漏れ出た声は自分でも驚くほどか細く、安堵のそれを孕んでいた。薄らとヘルメットが曇る。
 まずは勘違いされなかったらしいことが嬉しい。しかし内容が内容だけに聞き流すにしては少々難しい。

「どういうことだ? ユイ」

『ごめんなさいパパ、どうしても聞いておきたかった……いいえ、聞いておかなければならなかったんです。パパの《状態》を確認しておくために』

「……?」

 ユイの言っている意味を和人は計りかねた。
 ユイが何を知りたかったのか、和人には伝わらない。
 ユイはそれも当然だろうと察し、説明……否、事実を付け加えた。

『ママにも同じ質問をしたことがあります』

「……アスナはなんて?」

『間髪入れずにママは答えました。パパを一生支える覚悟がある、と』

「……っ!」

 それは予想されていた答えだ。
 同時に胸が苦しくなる。彼女の想いに自分は応えきれていないという焦燥がキリキリと身を締め付ける。
 しかし続くユイの言葉は和人を糾弾するものではなかった。

『この時、私の中での《最優先事項》が書き換わりました。なんだか分かりますかパパ』

「いや……」

 アスナの答えを聞いたせいで頭が働かない、という理由もあるが、それが無かったとしても予想はつかなかっただろう。
 ユイが明かす《真実》はそれほどの答えだった。

『落ち着いて聞いてくださいパパ』

「……? ああ」










『──ママは、パパ以上に重症です』










「え……」

『……私の当時の最優先は今もって続いているパパの病んだ精神回復にありました』

 過去形となっていることに和人は安堵できなかった。
 それほどまでにユイにも心配や迷惑をかけているのかと思うと申し訳ない気持ちで一杯になるが、自分よりも重症という診断をされた明日奈のことが心配で堪らなかった。

『パパは《自覚》があるとおり、精神を病んでいます。回復には相当の長い時間を必要とするでしょう。パパも《重症》と言って良い状態には違いありません』

 娘のように思っている子から学校で時折受けるようなカウンセリング染みた回答に胸が詰まる。
 ユイは心の優しい子だと分かっているからこそ、そんなことを言わせてしまっている自分が情けなくもある。
 本来ユイはとても繊細で、悪意やそれに似た感情、言葉などに対する耐性は高いとは言えない。
 一度彼女はそれで自己崩壊を起こしているのだから尚更のことだろう。

『でも悲観しないでくださいパパ、パパは着実に快方へと向かっています。パパの瞬間的な判断力は常人のそれと大差はありません。ですが……ママの方は』

 ユイが言葉に詰まる。
 優しいユイのことだ。とても言いにくいのだろう。
 しかし和人とて聞きたい気持ちと聞きたくない気持ちとがぶつかりあってとてもユイを気遣う余裕は残っていなかった。

『ママ、は……その自覚がとても希薄です。ママは自分の未来……将来のことについて即答できました。……まだ、成人もしていない幼い心で』

 ユイが苦しそうに、途切れ途切れに話す言葉を和人は把握しきれなかった。
 理解はできるが理解できない。聞いているけど、聞いていない。そんなよくわからない自己矛盾に陥りつつあった。
 そんな和人に、ユイはさらなる見解……真実を告げる。

『ママはとても聡明です。ですから、未来に対する不安や障害などは理解できるはずなのです。でも、ママはそれらを感情だけで上塗りできる状態になっています。これは……異常です。ママくらいの年齢なら、ママくらい聡明なら決意は出来ても迷いがあるのは当たり前なんです』

 もう聞きたくなかった。
 知りたくなかった。しかし、聞かないわけにもいかなかった。
 これほどユイが苦しんでいたことにこれまで気付かなかったのだから。

『そして何よりも問題なのは……パパと違って自覚はもちろん、《他覚症状》がほとんど表れていないことなんです』

 和人は、他覚症状が顕著だ。みんな《無表情》というキリトの心的傷痕の表面症状を感じ取り理解することができる。
 だが、明日奈はそうではなかった。彼女は日常生活においてその《異常性》が表面化しない。
 それがどういうことなのか、和人はユイに説明された。

『症状が表面化しないということは、周囲からの理解を得られにくいんです。有体に言えば、症状を判断できずに他人の協力を求められないということです。よくテレビなどでも見たり聞いたりする言葉の中に《何故あの子が》といったような話があります。今のママがまさにそれに近い所にいます。周りや本人でさえ気付かないストレス……心の病巣が膨らみ、ある時ふとした瞬間に爆発して取り返しのつかないことへと発展する……私はママにそうなって欲しくありません』

 ユイの声は少しだけ涙声となっていた。
 どれだけ気丈なようでもユイはやはり精神的にも幼い。
 ユイの潰れそうな声を聴いて和人は逆に少しだけ冷静になれた。
 自分がしっかりしなければ、と。

「ごめんなユイ、今まで気付いてやれなくて……」

『パパが悪いんじゃありません。もちろんママが悪いわけでもありません。私が、もっとしっかりしていれば……!』

「そんなことはないぞ、ユイは精一杯やってくれた。だからこそ、俺も明日奈もこうして現実世界に帰還して一緒にいられるんだ」

『パパ……!』

 それから、ユイはしばしイヤホン越しに嗚咽を漏らしていた。
 和人はそれをしっかりと聞いた。深く深く胸に刻み込むように。
 しばらくして、やや落ち着いたユイはアスナの回答を聞いた時にアスナの治療こそを急ぐべきと判断したのだそうだ。
 つまるところ、今の彼女の最優先は《アスナの治療》だった。



 和人/キリトは絶剣ことユウキとアスナの戦闘を見て、ユイとの会話を思い出し、何処か納得した。
 人のことなど言えない。それでも、アスナが《領域》を踏み外し始めていることが感じられた。

 ズキン、と頭の中の一部に痛みが奔る。

 ここはALO──アルヴヘイム・オンライン──の中、つまり仮想世界なわけで、システム的に痛覚などといったものは緩和・遮断されている。
 しかし錯覚などではない頭痛と呼び換えて良い感覚が確かに今、キリトの脳に《直接》与えられたように感じた。
 これは前に何処かで感じたことがあるものだ。この痛みを感じると《何かに気付かなければいけない》といった強迫観念にも似た焦燥が胸に広がる。
 最早警鐘と呼んでもいいのかもしれない。もしくは、何かのヒントなのだ。この頭痛が《どんな時に発生するのか》は大体理解しつつある。
 その辺に、答えはきっとある。
 それよりも今は目の前の……アスナに僅差で敗れた少女のことだ。
 今のデュエルではアスナが勝利こそしたものの、《反応速度》という点においては自分もアスナもあの少女に及ばない。
 それはキリトの目から見て確固とした事実だと感じられた。もちろん今アスナが勝ったようにVRMMOにおける《プレイヤーの強さ》や勝敗の結果はそれだけに左右されないが、強いというのは傍から動きを見ていてよく理解できた。
 ただ彼女は些か《強すぎる》……否、《速すぎる》。
 VR世界における反応速度は当然個人差が存在する。しかしあらゆることに言えることだが、ある程度の個人差は練度によって覆すことが可能だ。
 練習は嘘をつかない、という言葉がある。特にスポーツ系の部活に参加しているわけでもないキリトだが、それについては同意せざるを得ない。
 VR世界での動きも、現実とは似て非なるものである。いくら現実でのプロスポーツ選手でも、VR世界初心者ならば同じようなスポーツをVR世界でやった時、スポーツ素人なVR世界経験者が勝利することは考えられないことではなくむしろ必然とも呼べるのだ。
 それだけ現実と仮想世界では体の動かし方や補正が似ているようで違う。
 アスナのVR経験はおよそ二年。これは自分から望んだ結果ではないとは言え、かなり長い部類に入る。
 SAOに囚われた二年間、ほぼ切断されることなくVR世界に身を置いた生還者(サバイバー)達のログイン時間は総ログイン時間世界選手権でもあれば上位ランキングを占める割合で存在するだろう。
 そんな中でも指折りと言って良いほどの速度をアスナは持っている。キリトの知る限りアスナの細剣のトップスピードを超えられるプレイヤーはSAOに存在しなかった。
 アスナがそう望んでいなくとも、彼女はその時点で《VR世界最速》と言っても過言では無かったのだ。
 その彼女を超える速度を見せるプレイヤー、ユウキ。
 キリトの直感が確かなら、彼女は《チート使用者》ではない。
 速度や自身を違法強化するプレイヤーを見たことがないわけではないし、かつてSAOで戦ったこともある。
 その時の経験から言って、ユウキの動きはシステムのオーバーアシストを受けているようには感じられない。
 むしろ、あれは彼女自身のスペック……プレイヤースキルによるものだと感じられた。
 しかしそれでは辻褄が合わない。アスナ以上の速度をプレイヤースキルで出そうと思ったら、アスナと同じかそれ以上長くフルダイヴし続けていないと難しい。
 咄嗟に思いついたのは同じSAO生還者(サバイバー)であることだったが、即座にその可能性は切り捨てる。
 あれほどの強さを持つ少女が攻略組に居ない筈がない。いくら人の顔と名前を覚えるのが苦手と自負するキリトでも攻略組のメンバーくらいは頭に入っている。
 それに……あれだけの反応速度を捻り出せるプレイヤーなら《二刀流》は彼女が獲得していてもおかしくなかった。
 彼女は恐らく、SAO生還者(サバイバー)ではない。しかし、SAO生還者(サバイバー)よりも総ダイヴタイムが長いのではないか……というのがキリトの直感から来る見解だった。
 そんなことは通常考えられないのだが、しかしそれ以外にしっくりくる結論も今は出せない。
 そうこうキリトが悩んでいるうちに、アスナがユウキへと声をかけた。

「私の勝ち、だね?」

「……あ、うん」

 ボケーッと信じられないものでも見ているかのようにユウキはアスナを見上げていた。
 アスナはユウキが敗北を認めた事を確認してからニッコリと微笑んで手を伸ばす。
 遅ればせながらその意味を理解したユウキは照れたように後頭部をかきながら手を掴んで起き上がる。

「あーあ、ボク負けちゃったなあ……どうしよう」

 ユウキのしょんぼりとした表情に少しだけ胸を痛める。
 しかしこれだけは譲れないのだ。

「ごめんね、キリト君だけはその……私の大切なひとだから」

「そうなの? あ、もしかして二人は恋人同士? うわあ! ボク恋人関係の人って初めて見たよ!」

 急にユウキは目を輝かせてアスナとキリトを交互に見やる。
 その目は乙女にありがちな他人の恋事情を楽しそうに聞きたがるそれで……ちょっと待ってほしい。
 ここに来てアスナもようやくと違和感に気付き始めてきた。

「え、あれ? えっと、ユウキもキリト君が好き、だった、んじゃ……」

「へ? ボク? なんで?」

「だってキリト君が欲しい、って言うから」

「……」

「……」

「……!?」

 ユウキはアスナと見つめ合うこと数秒、かぁっと頬を真っ赤に染めて首をぶぅんぶぅん! と勢いよく振った。
 うん、なんだか途中からそんな気はしていた。アスナも自分の勘違いに恥ずかしくなってくる。

「ち、ちちち、違うよ! ボ、ボク、そんなつもりじゃなくて、うひゃあ! あわわわわ!」

 ユウキは慌てふためき頬を両手で包みながら首が取れるんじゃないかと思うくらいブンブン振って弁解を続ける。
 そんなつもりじゃなかったんだ、と。

「GGOでBoBの後二人を探していたら、ボクがクリアした弾避けゲームをクリアしたのがキリトって人だって聞いて、益々これはその強さが期待できるって思って……!」

「弾避けゲーム?」

「そう! ホラ、あのガンマンの撃つ弾を避けてガンマンに触ればプール金が全額もらえるっていう……」

「ああ、そういえばそんなものもあったわね……って、あれ、もしかして、そういうこと!?」

 アスナは今日まで不思議に思っていることがあった。
 キリトはあの弾避けゲームで大金を手にしたはずで、そこまでクレジット……つまりGGO世界での通貨に困らないはずで、だからシノンの言う《集り》については何かの間違いかそうたいした金額ではなかったのだろう、と。
 しかしその割にはシノンの怒り方は酷いし、キリトもあまり否定しない。瞬間、アスナの中に閃光が奔る。
 もしかすると先にゲームをユウキにクリアされてしまった為にキリトはそこまでクレジットを手に入れることが出来ず、結果シノンの知り合いである男の子からゲーム内とはいえ少々用立ててもらうことになったのでは。
 そう言えば言っていたではないか、あのゲームをクリアしたのは《女の子》だったと。てっきり女の子みたいなキリトがクリアしたからそう言われていたのかと思ったのだが……違うのかもしれない。
 ジロリとアスナがキリトに視線を向けるとキリトは明後日の方向を向いて口笛を吹く素振りをしている。……図星のようだ。
 今日まであのゲームで大金を稼いだのは彼だと思っていたが、どうやらそれは間違いだったらしい。
 実際はここにいる彼女、ユウキこそがそうだったのだ。ゲーム内で一度それとなく聞いたことがあったのだが、あれは考えの行き違いになっていたのだと今更ながらにアスナは気付かされた。

「キ~リ~ト~く~ん……!」

 アスナが肩をいからせてキリトに近寄っていく。
 キリトは「やばい!」と脱出を試みるが……、哀しいかな、彼を押さえつける三人の少女は未だ健在であった。

「んふふ~」

「えへへ~」

「あはは……」

 三者三様それぞれ笑顔を浮かべながらしかし決してその手の力は緩めない。
 キリトが覚悟を決めた……その時。

「し、信じて! 本っ当にボクそこのキリトさんを好きとかそういう気持ちなんてないから! 本当に違うんだ! そもそもよく知らないし! 暗いし! ボクの好みじゃないし!」

 ユウキは必死にアスナの手を掴んでうっすらと涙さえ浮かべて自身の身の潔白を訴える。
 同時にキリトはガックリと頭を落とした。
 キリトにも気があったというわけではないが、しかしいくら知らない人とはいえ、好意を全否定されるのはガラスハート持ちのキリトとしてはブロークンするのも時間の問題だった。

「わ、わかったから落ち着いて、ユウキ、さん……」

「ユウキでいいよ!」

「わかったからユウキ」

「あ、姉ちゃ……っ」

 アスナは優しくユウキを撫でて宥める。一瞬また彼女の口から「姉」という単語が飛び出てきた。
 彼女には姉がいるのだろうか。まあ、それは置いておくとして。

(なんか、この子……誰かに似てる……)

 アスナはユウキを落ち着かせながら、ユウキがビクビクと怯えつつ辺りに視線を巡らせている事に気付いた。
 時折情けなさそうな表情で気まずそうにこちらの感情を窺おうとする。

(あ、わかった。この子……)

 アスナはキリトを見やる。
 キリトは自分に向けられた視線に気付いて辺りを見回し、それが間違いなく自分に向けられていることを理解すると気まずそうにアスナを見つめ返した。
 ……確定である。

(最初も思ったけど……この子、キリト君に似ているんだ……)

 アスナから見たユウキは何処かキリトに似ていた。
 最初こそ勘違いから彼女のその類似部分が自分の知らない二人だけの繋がりのようで胸の裡がムカムカとしていたが、そうでないとわかった今、アスナの脳裏には別の考えが浮かんでいた。

(女の子版キリトくん……! 可愛い! そういえばGGOの時着せ替えしたかったのにそんな暇なかったし)

「え、ちょ、ねえちゃっ……うわっぷ!?」

 いつの間にか恍惚とした笑みでアスナはユウキを抱きしめていた。
 もはやアスナの頭の中にはユウキ=女版キリトである。
 突然のことにジタバタと暴れるユウキだがアスナはがっしりとユウキを掴んで離さない。
 圏外な上に同性な為なのかハラスメント防止コードは発動しなかった。

「ふぇえええええ……たぁすけてぇ~……」

 ユウキの求める助けに応える者はいない。
 眼福眼福とばかりにギャラリーは頬を緩め、アスナの知り合いは皆、それがキリトを相手にしている時の彼女のそれだと気付いて一歩引き下がる。
 手に負えないからだ。つまりはああなったアスナは打つ手なしなのである……キリトも含めて。
 と、途端にアスナは抱擁からユウキを解放し、肩に手を乗せたまま真剣な眼差しで口を開いた。

「とりあえず、何から着よっか?」

「何の話なのさー!?」

 まったくアスナの意図を掴めないユウキは彼女の真意がわからない。
 ユウキのツッコミでギャラリーたちはドッと大笑いしたのだった。





「あの、ボクいつまでこうしていれば……」

「待って! あともうちょっと!」

「アスナ、こっちのコーデの方が可愛いんじゃない?」

「良いですねリズさん、あ、ここの設定はこうした方が……」

「いいねいいね、そうだここをこうすれば……!」

「おおぉ~!」

「あ、あの……」

「もうちょっと!」

 場所はALO内に浮かぶアインクラッド、その二十二層にあるログハウス……つまりはアスナとキリトのプレイヤーホームだった。
 アスナは問答無用でユウキを拉致……もといプレイヤーホームへと招待し、その意図を悟ったリズベット、シリカ、リーファが彼女を手伝いだした。
 一人が髪の設定を弄れば一人は着用する服を選び、ともすれば装備する可愛いアクセサリーをテーブルの上にごっちゃりとオブジェクト化。
 誰が持っていたのか大きな縦鏡まで出し始め女性陣はあーだこーだと楽しそうに騒いでいた。

「あのぉ~」

「もうちょっと!」

「……悪いな、諦めてくれ」

 既に何度目になるかわからないユウキの虚しい抵抗の声はこれまた何度目になるかわからない制止の声で掻き消される。
 キリトはソファーで縮こまっている彼女の隣に座って苦笑しながら代わりに謝罪を口にした。

「そう思うなら止めて欲しいんだけど」

「悪い、無理だ」

 キリトは即座に白旗を上げる。
 今のあの三人に逆らった日には、その矛先が自分に向きかねない。
 それだけは絶対に御免である。明日は我が身とはよく言ったものだ。
 ユウキは女性陣に着せ替え人形のごとく着替えさせられ既に何度お色直しを行ったのか記憶が定かではない。
 キリトはややウンザリ気味のユウキに同情しながら……迷っていた。聞くべきか聞かないべきか。
 先の戦いでの恐ろしいまでの反応速度。一体どれほどの総ログイン時間を彼女は誇っているのか。
 キリトにその質問を躊躇わせるワケはいくつかあった。
 一つはリアル情報の開示を求めるのは重大なマナー違反であることだ。
 些細なことではあるが、そういった物は聞かれて嫌がる人も少なくない。リアルを特定されるされないに関わらず、リアルに近しい情報は開示すべきではないし求めるべきでもない。
 会ったばかりのプレイヤーなら尚更である。
 もう一つは、本当にSAO被害者よりもログイン時間が長い場合……それは《一般人》としては考えにくい。
 ヘビーユーザーである可能性も捨てきることは出来ないが、彼女の立ち居振る舞いや考え方からその線はあまりないと思われる。
 よって、総ログイン時間が長い場合、可能性的にはなんらかの事情でログインを維持し続けなくてはならない状況下にあることが想定された。
 SAO事件が終わった今、似たような事件は報告されていないしシステム的にも難しい。
 となればその結果は事件に巻き込まれたわけではなく自身の意志によるものの方が可能性としては高い。
 しかしそこまでダイヴし続けるのは自分の意思だけでは不可能に近い。大抵は先に体が根を上げ、最悪の場合栄養不足などから死に至る。
 この問題は実際社会問題の一つになってしまっているほどポピュラーだ。
 そうならない為にはSAO被害者の時並の環境が求められる。はたして個人でそこまでするだろうか。よしんばしたとして、そこまでやる人間がこんなところで油を売ったりするだろうか。
 SAO並の環境、と考えてからふと以前調べたことのある知識が脳裏に浮かぶ。
 フルダイヴシステムを医療用に応用した機械が存在することを。ざっとしか覚えていないが、活用されれば寝たきり患者ともコミュニケーションを取れる画期的な夢マシンとの触れ込みだったはずだ。
 もしも、重篤患者にそれを使用したならダイヴ時間は長くなる事もあるのかもしれない。
 同時に、その患者は長くダイヴし続けなくてはならないほど大病という解が導き出されるが。
 もし仮に、もう起き上がることさえ出来ない人がその機械を使って仮想世界にいるのなら。
 その人にとっての《現実》は《仮想世界》ということになるのだろうか。

 なんとなく、脳をスキャニングしたという茅場晶彦のことを思い出す。

 彼にとっての現実は既に仮想……ネット世界なのかもしれない。
 だとしたらその機械を使っている人にとっては、その機械で見る世界こそが現在の住む世界、なのか。
 キリトは一瞬、声が出そうになる。

(もしかして君は、完全にこの世界の住人なのか?)

 幸か不幸か、キリトがそれを口にすることは無かった。
 何故なら女性陣の次なるコーディネイトが終了したからだ。

「よし! ユウキ、次はこれお願い!」

 アスナがストレージに次々とオブジェクト化した装飾品やら服やらを入れていく。
 二、三度タップしてそれぞれの装備品のプリセットを完了。ユウキはウインドウを受け取ると溜息を吐きながらそれをタップ。
 数瞬のうちにユウキの体は光の粒子に包まれ、その身は純白のノースリーブに包まれた。
 大胆に脇を露出させてはいるがあまりいやらしさは感じられない。ノースリーブの紐が首の下でクロスしているのもワンポイントである。
 さらには同色のフレアスカートを履いて、ほっそりとした白い足がにゅっと伸び、これまた白が基調となるパンプスを履いていて、足首には銀色のリボンが巻かれていた。
 頭にはユウキが付けていたヘアバンドの代わりに白いティアラが装着され、前髪から横に伸びる髪は大きく編み込まれている。
 髪の毛先はピンクのリボンで結ばれ、その余帯は三十センチ以上残されていた。

「可愛いよユウキ!」

「いやぁ、素材は良いと思っていたけど予想以上だったわねえ」

「素敵です!」

「うんうん!」

 女性陣のおおはしゃぎにキリトはついていけない。
 確かに今のユウキは可愛いと思うが……。

「どうかした? キリトくん」

 嬉しそうなアスナに「いや」と返して首を振る。
 まさかユウキよりも楽しそうな笑顔を浮かべるアスナに見惚れていた……などとは恥ずかしくて言えやしない。

「ボク何やってるんだろ……仲間を探していたはずなのに」

「仲間?」

「うん、少しの間一人だけ強い人に助けを借りたくて……」

「ならアスナ、協力してあげれば?」

「え? 私?」

「だってアンタ、勝っちゃったわけだし」

「協力してくれるの!?」

 ユウキがバッとアスナに近寄る。
 その目は若干潤んでいて、期待を内包した眼差しだ。
 なんだか助けを求めているキリトのようで放っておけない。
 つい、アスナは応えてしまった。

「う、うん、まあ少しなら、いいかな」

「ありがとう! じゃあ早速行こう!」

「へ? 何処に……ってきゃっ!?」

 ここに来る時とは逆に、アスナはユウキに引っ張られるようにしてあっという間にログハウスを後にした。
 残されたメンバーはポカン、と間を空けた後、同時にあることに思い当たる。
 代表するかのように、その思いをリズベットが口にした。

「あの子、着替えないで行っちゃったわね……」





『パパ? そろそろ眠らないと本当に体に障りますよ?』

「ああ、わかってる。あともうちょっとだけ」

『……』

 この回答はすでに都合三回目となる。
 現在時刻午前三時。暗い部屋の中、ディスプレイの光だけがキリト/和人の顔を映し出していた。
 素早く手元のキーボードを叩いては視線が左右上下に動いていく。
 アスナが連れて行かれた後、メンバーは解散となり、それぞれ現実世界へと帰還した。
 それ以降、和人は気になっていたユウキのことについて調べ始めていた。
 以前記憶にあった医療機器……今はコードネーム《メディキュボイド》と呼ぶらしい。
 もし和人の予感が正しければ、彼女はこれの被験者となっているのではないだろうか。

「日本では臨床試験をやっているのも一か所だけ……か」

 横浜港北総合病院。
 そこまで調べてから和人は首を軽く振った。
 こんなことを調べて一体どうするんだ、と。
 そもそも彼女がここにいる保証はないし、いたとしても突然会いにいく理由も無い。
 そして何より。

「終末期医療……」

 現在この機械の使用目的は《もう助かる見込みの少ない患者》への最終手段とされていた。
 その理由や考えは……想像に難くない。
 もし本当にそうなのだとしたら、これは会ったばかりの他人が踏み込んで良い領域ではない。
 和人は自身の携帯端末を手に取ってタップ、スライドさせる。
 すぐにアスナからのメッセージが呼び出された。

【ユウキって《スリーピング・ナイツ》って言うギルドのリーダーだったんだ。どうしても自分の仲間達だけでアインクラッドのフロア攻略、迷宮区のボスを突破したいんだって。これまでの何度か挑戦したけど負けちゃって、すぐ別のギルドにクリアされちゃったらしくて、協力者を探すことにしたみたい。少し迷ったけど、今回は私がお手伝いすることにしました! 明日早速ボス部屋に挑戦しに行ってくるね! それから仲間にシウネーさんって人がいて、彼女もユウキの可愛さをわかってくれて……】

 アスナがニコニコとした笑みでメッセージを打ち込んでいる姿が目に浮かぶ。
 そのことに若干頬が緩むが少しだけ、アスナが彼女と付き合う事に不安も覚える。
 もしかしたら、悲しい思いをすることになるかもしれない。
 和人はここで一度目を瞑って再び首を振り、思考を切り替えた。
 決めつけるのは早計だ。そんな保証や証拠、何処にもないのだから。
 だが、彼女のメッセージによるとユウキたちのギルド名は《スリーピング・ナイツ》と言うらしい。
 そう考えると妙に意味深に感じてしまう。和人はもう一度、首を振って思考を掻き消した。
 すぐにキーボードの打ち込みを再開し、現在のALOにおける最前線の情報について目を通す。
 当時とは攻略戦もガラリと様変わりしていてデスゲーム時代の知識は信頼度としては既に四十パーセントを下回るほどと言われている。
 現在の最前線は二十七層。キリト達はアップデートされたその日に向かった二十一層のボス攻略を最後にボス攻略戦には参加していない。
 目的は二十二層のログハウスだったし、そうと取り決めたわけではないが、経験者としてはボス部屋解放の栄誉は出来るだけ新しいプレイヤー達が成す方が良いだろうとの考えもあった。
 かといってこれまで情報を仕入れていなかったわけではない。

「……ん?」

 和人は何かに引っかかり、検索範囲を広げる。
 現在の最前線の一つ前ともう一つ前。すなわち二十五層と二十六層のボスを倒したレイドは現在攻略組として名を馳せている巨大ギルドのようだ。
 それ自体は珍しい話ではないのだが。

「随分期間が短いな」

 ここまでの大型ギルドだと動くのにも時間がかかりそうなものだが。
 ふと、先のアスナのメッセージが頭をよぎる。
 ユウキのギルドが挑戦したすぐ後にクリア、か。
 和人は最近のギルド情報について洗ってみた。

「……あんまり良い状態じゃなさそうだな」

 どうやらアインクラッドの迷宮区攻略は、ギルド間でのトラブルが増えているらしい。
 特に大ギルドの管理が横行しているようだ。そういった話を見ると当時を思い出す。
 人が実際に死ぬゲームの中でさえ、似たような事はあったのだ。今更そのことに驚きはしない……が。

「注意する必要はありそうだな。えっと……」

『パパ? もう四時ですよ?』

「もうそんな時間か。ごめんなユイ、もうちょっとだけ……」

『……』

 ユイの心配そうな声に、和人は空返事で答えつつ検索の手を休めない。
 忙しなくキーボードを叩き、調べ物に没頭する。
 ユイは、それ以上何も言わなかった。
 結局、キリトはこの日眠らなかった。朝の十一時まで調べ物を続け、アスナを見送るためにALOへとダイヴする。
 事情を聞いたリズベットやシリカ、リーファも集まり、アスナに協力するかのごとく手持ちのポーションアイテムを持てるだけ提供した。

「ありがとうみんな、行ってくるね!」

「あ……」

「どうかした? キリトくん」

「……いや、頑張れよ、アスナ」

「うん!」

 キリトはそれ以上何も言わず、手を振って転移門に消えるアスナを見送る。
 ユウキについての可能性を一瞬言うべきか迷ったが、やはり口は噤んだ。
 憶測で語る段階ではない。ましてやこれから攻略戦なのだ。
 アスナを見送ったキリトはログハウスの揺り椅子に座ってギィコギィコと椅子を揺らす。
 ユイはそんなキリトの膝の上で丸くなって眠っていた。
 そんなユイとは正反対に徹夜をしたはずの彼の頭は不思議な事に睡眠を要求しない。いつもなら五分と立たずに眠りの手が伸びてくるのだが。
 そうして、椅子を揺らしだけの時間が一時間ほど経過した頃だろうか。

 コンコン。

 プレイヤーホームの戸がノックされる。
 キリトの目の前には侵入を許可するかの確認ウインドウが立ち上がっていた。
 ウインドウにはフレンド登録者【クライン】と書かれている。キリトは許可のボタンをタップした。
 ガチャリ、と戸が開かれ見慣れた野武士面に赤いバンダナを巻いたいつもの出で立ちのクラインが入ってくる。

「よぉキリの字、邪魔するぜぃ」

「今日は仕事じゃないのか? クライン」

「あ~……まぁ休憩時間中なんだよ」

「おいおい、いいのか」

「サボリってワケじゃねェし、ここ数日インしてなかったからよ」

「そういえば数日間クラインのログインが確認できなかったな」

 いや、あれは確かユイとデートをした日から、だっただろうか。
 まあクラインはこれでも社会人である。なかなか頻繁にログインできない事は仕方のないことだろう。

「まァな……なあキリトよ、ユイちゃんの最近の様子はどうだ?」

「ユイ? 別におかしなところはないと思うけど……なんでだ?」

 クラインはキリトの膝で眠るユイを愛おしさと、心配さが織り混ざったような眼で見つめている。
 キリトはクラインの質問に首を傾げながらユイの艶のある黒髪を撫でた。
 んぅ、と可愛らしい寝息が聞こえ、猫のようにキリトの膝に頬を擦りつけて嬉しそうに微笑んだままユイは目覚めない。可愛い。

「いや、いつも通りならいいンだ」

「お前、もしかしてこの前何かしたのか?」

「い、いや! してねえって! ……と思う、たぶん」

「多分ってなんだ多分って。あともう少し声のトーン落とせ」

「……なんかこの前の最後のユイちゃんがよ、ちょっと様子がおかしかった気がしてな、俺の勘違いってンなら全然良いんだ」

「……ふぅん」

 キリトに思い当たる節は無かった
 しいて言うなら、ここの所ユイはシステムメンテナスと称して引き籠る時間が増えたことと自分やアスナに今まで以上に甘えるようになったことくらいだ。
 だがキリトの目から見てもそれは誤差の範囲内と思えた、特段気にするレベルではない、と。



 この時はそう思っていたのだ。



「しっかし俺が言うのも何だけどよ、平日のこんな時間に仮想世界でノビノビしていられるってのは学生サマの特権だなオイ」

「クラインにもはるか昔にそういう時代があったんだろ?」

「おうよ、ってそこまで昔でもねえよ! にしてもさっきギルドの大隊を見かけたがありゃこれから攻略にでも行くんかね? よくも平日の昼間にあれだけ人を集められるモンだ」

「……おいクライン、そいつらもしかして盾に横向きの馬がエンブレムのギルドじゃなかったか?」

「ン? おおよくわかったな、アリャここンとこ攻略成功を重ねて名を上げてるギルドチームだろ?」

「!」

 キリトはガタッと椅子から立ち上がった。
 いつから起きていたのか、ユイも危なげなくキリトの横に浮いている。

「なンだ? どうしたよキリの字」

「アスナの話、聞いてるか?」

「ワンレイドでのフロア攻略戦に行くンだってな、なンつーか無謀っつうか、昔なら考えられねー話だよな」

「その攻略戦でそいつらと揉めるかもしれない、俺は行く!」

「ちょ、おい待てって!」

 キリトが走り出し、クラインは慌てて黒い背中を追いかける。
 説明しろ、というクラインにキリトは手短に自身の持っている情報と推測を説明した。
 アスナが知り合ったメンバーはワンレイドでのフロア攻略を目的としていること。
 既に何度か挑戦したこと。《偶然》挑戦した数時間後にフロアが踏破されていること。
 踏破したギルドは毎回同じで、そのギルドによるフロア攻略管理が度を超し始めている噂があること。

「もしかしたら今回アスナちゃんが付き合うことにしたメンバーが知らないうちに偵察させられているってコトか?」

「百パーセントの確証があるわけじゃない、けど俺はそう思う。《盗み見(ピーピング)》でも使って攻略情報を得られれば自分たちは余計な時間やアイテム消費をせずにすむ」

「なンだそりゃ! ズリィじゃねえか! ヨッシャ、俺様も手伝うぜ!」

「頼む」

「任しとけ! って……」

 安請け合いしたクラインだが、気付けば、キリトの背中は先よりも遠い。
 ぐんぐん彼はスピードを上げてクラインを突き放していく。

「お、ちょ……」

 迷宮区に入って既に四つ目の角でキリトの背中を見失う。
 どちらへ向かっているかはなんとなく分かるが、恐るべきスピードだった。

(速く……速く!)

 目前にモンスターのポップエフェクトが立ち上る。
 キリトは迷うことなく背中の剣を抜き放ちソードスキルのライトエフェクト一閃。
 その勢いを殺さぬまま敵の姿も確認せずに突き進む。
 恐らく倒しきってはいないが、確認する暇も倒す暇も今はその一切合切の時間が惜しい。

(速く……速く!)

 速く、速く、速く!
 さっきよりも速く。今よりも速く。もっと速く。
 先へ。この先へ。もっと先へ。何処までも先へ。はるか先へ!
 ギアを上げろ。ロウからセカンド、サードからトップ、ハイトップへ。
 限界なんて知らない。そんなものはない。壁があるのなら超えろ。超えられない? なら壊せ。
 頭にチリチリとした不快感、痛み似た警告がアバターを刺激する。関係ない。
 視界が黒く狭窄していく。関係ない。赤い明滅がALEATアラーム信号を発している。関係ない!
 走れ。止まることなく走れ。止まる必要は無い、ただ、ただ……加速しろ、何よりも速く、加速し続けろ!

(見えた!)

 赤く明滅する視界。
 狭窄し半分以上闇に染まりつつある前面には多勢のプレイヤー。ギルドタグ……確認。全てがそうではないが、それだけで、十分。
 索敵スキル、発動。人の合間を縫うようにして……見慣れたトルマリンブルーのロングヘアを持つ彼女を確認。健在、それだけで十分。
 彼女が健在である、それ以上に十分な条件など、ない。最低条件のクリア。
 加速距離、十分。不十分でも十分。出来る出来ないではない。やる、ただそれだけ。
 キリトはプレイヤー数ざっと三十、その《人壁》を超えるべく走る対象を床から徐々に壁に寄り、そのまま壁を蹴り飛ばして《走り続ける》。
 《壁走り(ウォールラン)》と呼ばれる軽量級妖精の共通スキル。もっとも、キリトはSAO時代からこの手の《トンデモ技術》をシステム外スキルとして会得しているが。
 人混みを超えきったところで壁を力強く蹴り飛ばして滞空すること数秒、踵を床にこするようにして火花を散らしつつ制動。戦闘は始まっていない。間に合った事に安堵。
 ボス部屋の前におおよそ二十名程度、その後ろにワンレイドであるアスナ達七名。そのアスナ達を挟み込むようにして近付いて来ていた三十余名のプレイヤーの前に、キリトは躍り出た形となった。

「悪いな、ここは通行止めだ」

 背中の剣を床へと突き刺し、宣言する。ようやくと狭窄していた視界が解放されていき、明滅していたレッドスクリーンにカラーが戻ってくる。
 深呼吸を一つ。ここから先へ今彼らを行かせるわけにはいかない。
 一瞬だけトルマリンブルーのロングヘアを持つ彼女……アスナへと振り向き、頷いて見せる。
 それだけで彼女は察してくれた。アスナは他の六人へ檄を飛ばし、扉前の二十人余りのプレイヤーへと突貫を開始する。
 その時、増援だと思われる三十人余りのプレイヤー側の後方から、仲間の援護とも取れる炎属性魔法が撃ち放たれた。
 《単焦点追尾(シングルホーミング)》型の火球が七発。この魔法をアスナ達の元へ行かせるわけにはいかない。
 キリトは突き刺した剣を引き抜いて右肩に構えるとその刃に深紅色のライトエフェクトを宿させた。
 七連撃のソードスキル《デッドリー・シンズ》による《魔法破壊(スペルブラスト)》を成功させる。
 エクスキャリバークエスト以降、キリトはほぼ完全にこの技術を確立させていた。
 増援部隊が《魔法破壊(スペルブラスト)》にあっけにとられている隙に、後方ではソニックブームに似た大きい衝撃音と共に極大の光が放たれた。
 振り向くまでも無い。今のはアスナの最強技の一つ、細剣用最上位ソードスキル《フラッシング・ペネトレイター》だろう。
 これでアスナは彼らと無事にボス部屋へ入ることが出来るはずだ。クラインもいつの間にか合流して後方で戦ってくれているようだし自分の役目はここまでだ……と思っていたのだが。

「くそっ! あのオンナ共ぶっ殺してやる!」

 その声にキリトの動きがピクリと止まる。
 後方ではギギィ……とボスの部屋が閉まる音が聞こえた。ミッションはコンプリート。

「……」

 ALOに限らず《女性狩り》といった行為や《報復》といった行動は珍しくない。
 だから今の台詞は特段気にすることのない単なる八つ当たりや毒舌、感情の発露でしかない。
 取るに足らない、本気にする者さえほとんどいない……そんなストレス発散のための悪口。

 だが。

「っ! パパだめ──」



 ───スパン!



「え」

 プレイヤーの首筋に、赤いポリゴン裂傷が出来る。
 瞬間、プレイヤーは爆散してチロチロと燃えるリメインライトと化した。
 何が起こったのか、分かった者はごく少数。リメインライトとなった彼は自身に起こったことがわからなかったに違いない。
 ゆらり、とゆっくり動く黒い影の主は、キリト。
 ALOには部位欠損ダメージというものが存在する。欠損した部位は高価なポーションもしくは高位魔法でなくては瞬時の回復には至らない。
 時間経過によって欠損部は自動的に再生されるが、大抵はその前に壊滅(ワイプ)するか撤退するか、回復するかの三択だ。
 さらにその部位が首となれば、ダメージ量は何倍にも膨れ上がり、基本は一撃死と言われている。実際斬られた彼は即死だったようだ。
 ユウキがアスナとのデュエルで最後に動けなかったのもそのためである。
 しかし、Mobモンスターならともかくプレイヤーの首を狙うことは決して容易ではない。
 同時にそれだけはやる方もやられる方も忌避する傾向にある。
 首を斬られるという感覚は通常ありえるものではない。その恐怖は想像を絶するものがあるし、行う方も擬似的な人殺しに近い。
 無論システム的に許されているのだから違法行為ではない。単なる暗黙のマナーであって、それすら絶対というわけではない。
 中には《首切り(ネックショット)》を極めんとするプレイヤーも確かに存在する。しかし……それが好まれないのは事実だった。

「こ、こいつ《首切り(ネックショット)》しやがった!」

「この野郎!」

「やっちまえ!」

 三人に囲まれ、三方からキリトは斬りかかられる……より速く、キリトの背にはもう一本の剣が生成されていた。
 黄金色のロングソード、《エクスキャリバー》。その柄を掴んでクロスさせたところに三者からの攻撃が被せられる。
 ガキン! と鈍い金属音が奏でられキリトは膝を付く、がダメージはない。そのままキリトは……呟いた。



「STAR BURST STREAM」



 キリトの持つ《二刀》の剣に眩いライトエフェクトが宿る。
 キッとキリトの睨みつけるような瞳に、一人が怯んだ瞬間、右手の中断切り払いによって一人が吹き飛ぶ。
 間を開けずに左の剣を一人に突き入れ、右の剣がもう一人を切り払う。僅かな時間で三人に特大のダメージを与えたが、キリトの動きは……止まらない!
 四、五、六、七……!
 七回を超えたところで三人のHPゲージは吹き飛んだ。三人分の爆散エフェクトを伴ってキリトは未だライトエフェクトが宿る剣を残りのプレイヤーへと振り続ける。

「な、なんだよこれ……なんだよこれええええっ!」

 僅か数分。
 実に十七名のプレイヤーがチロチロと燃えるリメインライトと化していた。
 その数実に半数以上。流石に残りのメンバーも茫然自失としている。
 十七名のうちに何人かは首を一刀両断され、抗うすべなくリメインライトとなった。

「まさか、これが噂の《二刀流》……!? でもALOにそんなスキルなんて……!」

 ALOに二刀流スキルは《プリセットシステム》としては存在しない。
 故に、キリトが使用したのは純粋なかつての二刀流スキル、ではない。
 しかし、この世界にはOSS──オリジナル・ソードスキルシステムが実装されている。
 最初は興味本位だった。試してみる……それだけのつもりで完全再現に成功している二刀流のプリセットを試みた。
 結果は、現状が答えを物語っていた。考えてみれば必然なのかもしれない。
 無理のない動きであるならソードスキルとしての登録が可能なのがOSSである。
 実装されていなくとも、《存在したことのある剣技》なのだから、システムが認めることは十分に考えられたのだ。
 二刀流スキルのOSS化は。

『未練が無いと言えば嘘になるけど、護る力が必要とされないのなら、その方が良い』

 かつて、外でもないキリト自身がそう言った。
 その考えは今もって変わらない。しかし……それは《護る力が必要とされない時》の話だ。

「お前たちが、アスナを殺すって言うなら、俺がお前たちを……《殺す》」

 表情の無いキリトの顔が、残りのプレイヤー達に恐怖を与えた。
 殺す、とハッキリ口にされたその言葉は、デスゲームを生き抜いてきたもの故なのか、《本物の殺意》を孕んでいるかのようで、残りのプレイヤーの戦意を恐怖によって根こそぎ奪い去っていた。



 ユイはそんなキリトの事を今にも泣きそうな顔で見ていた。
 制止は間に合わなかった。こうなることを全く予想できなかったわけではなかった。
 キリトもまた精神的に重病なことに変わりは無い。外見的に症状が見られない《完治》に似た状態になったとしても、ふとした弾みで再発・爆発する可能性は消せはしない。
 ただユイでさえキリトへの禁句(タブー)を正確に把握していなかったのだ。
 《アスナの死》、という禁句(タブー)を。
 ここまで影響するとはユイでさえ予想していなかった。
 ユイは自身の小さな手を強く握る。自分の力が、足りなかった。痛いほどに、震えるほどに力が入る。
 無力感に苛まれながら、涙さえ零しながら、しかしユイはキリトが悪いとは思っていない。
 些かも父のことを好いている気持ちに揺れは無い。
 悪いのは自分なのだと戒め、キリトの肩に乗って必死にキリトを宥め、落ち着かせようと奮闘する。
 体の震えは、止まらない。彼女の流れる涙も、止まらない。



「ユイちゃん……」

 そんなユイの孤軍奮闘している姿に、クラインは初めてにして仲間内で唯一、気付かされたのだった。


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